蒼きウマ娘 〜ウマ娘朝モンゴル帝国について〜 (友爪)
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遠駆けの開始~ワールシュタットの戦い
モンゴル高原について


 あの草原へ遠駆に行こう。


 ウマ娘に遍く根源する心象風景がある。

 それは遥か平らかな青い草原。脚の運びを邪魔するものは何一つない。ひたすら真っ直ぐに走り続けて、されど途切れることの無い草原の道(・・・・)

 昼でも夜でも好きなだけ駆け抜け、何時でも疲れたら草へ横たわり、お日様を浴びて、風を胸一杯に吸う。

 息を整えたら満たされるまで存分に飯を食って、ぐっすり寝て、朝日が昇ると共にまた駆ける。

 ああウマ娘とは、その風景から生まれた生物なのだと心の底に信仰がある。この景色こそ、あのウマ娘(・・・・・)が目指し、見たものなのだと確信がある。

 目を閉じれば今にもまた蘇るのだ。

 

「駆けを愛する者は私に続け」

 

 かの人は言って、取り巻くウマ娘たちは跪き問うた。君よ、何処へ行くのですか。

 

遠くまで(・・・・)

 

 彼女は宣言し、皆の先頭を駆け出した。

 付いていきたい、付いて行かせて欲しい。君よ、共に走らせ給え──そうして彼女たちは史上空前の《遠駆け》を開始した。

 

 彼女らこそは広大無辺なる草原の覇者。

 ウマ娘朝モンゴル帝国。

 

 

 ◆

 

 

 如何にしてウマ娘朝モンゴル帝国が成立したか。それには一番に人口の要因があげられるだろう。

 

 モンゴル高原というのは厳しい土地である。雨に恵まれず大気は荒涼とし、夏は四十度に迫り、冬は零下三十度を下回った。とても農耕向きの土地とは言えず、古来、人々は羊を追い、獲物に弓を引いて暮らしていた。

 

 ウマ娘たちは、この厳しい土地で、しかし、のんびり平和に暮らしていた。

 疾駆すること──彼女らにとって、最も重要な事柄を、モンゴルの平野は存分に叶えてくれたからだ。

 一所に定住をしない遊牧生活は、ウマ娘の本能を十全に満たす、理想的な生活スタイルであった。

 厳しい土地に適応したモンゴルウマ娘たちは、小柄なものの長距離移動に適した頑強さと、過酷なまでの寒暖差をものともしない忍耐力を備えていた。また、第一の欲求が満たされているためか、穏やかな性格だったとされる。

 

 特筆すべき中世モンゴルの特徴として、ウマ娘の人口比率が高い事があげられる。

 本来ウマ娘というのは、人口的マイノリティに属するが、中世モンゴルは一つの例外だった。何故か。

 答えは移住者の多さにある。

 

 ウマ娘というのはニンジンが好きである。

 当時のウマ娘たちも、多分に漏れない。中華世界からニンジン伝来の中世初期以降、モンゴルウマ娘たちはニンジンに夢中になった。

 しかし、畑を持たないモンゴルウマ娘たちは、南方の行商人から買い付ける他、手に入れる手段が無かった。

 それ故、モンゴルウマ娘は訪れる商人たちを《喜びをもたらす者》として敬い歓迎し、ニンジンを最高級品として崇めたらしい。

 

 さて、行商人には荷運びの人材が要る。歴史上各地でそうだった様に、荷運びの職にはウマ娘が重用された。

 ニンジンを行商に来て、大変歓迎された荷運びのウマ娘は、そこでモンゴルの草原を目にした。

 

 彼方まで続く果てなき草原。好きに駆け回る幸福そうな同族。気ままな遊牧生活──その景色が本能に訴えかけるものがあった事は、想像に難くないだろう。

 遠く商いに来たものの、帰りたくないと言い出す荷ウマ娘が続出し、そんな我儘をモンゴルウマ娘たちは快く受け入れた。

 移民が増え、更に幸福度が高いため出生率が増える。ウマ娘が増えるからニンジンの需要が高まり、行商人が増える。行商人が増えれば移民が増える──かくしてモンゴルウマ娘の人口は、ニンジン伝来の中世初期以降、徐々に増えていったのである。

 

 移民の流入、同時に思想の流入はモンゴル高原の変質をもたらした。

 元々モンゴルウマ娘たちは穏やかで諍いを好まない性格だった。しかし人口増加がモンゴル高原の許容量を越し、彼女らの広い生活空間を互いに侵食する程になった時、事態は急変した。

 好きなだけのびのび暮らしていたウマ娘たちは、愛するそれが失われるかもしれないと恐れを抱き、激しい縄張り意識へと繋がったのである。

 

 ウマ娘の増えた当時のモンゴルは、数十の部族単位に別れていた。部族とは、毛並みであったり脚質や気性であったり、何とはなく気の合うウマ娘たちと(自由なウマ娘たちは血筋で結び付く事はむしろ少なかった)、少数の人間の共同体である。

 殆どの場合、ウマ娘が族長を務めており、部族の意志決定を担っていた。

 以前には、お互い助け合っていた諸部族であったが、以降は部族間抗争が繰り広げられた。モンゴルウマ娘たちの、ただ平野を愛する気持ちは凄まじいものがあり、抗争の激しさも尋常ではなかった。

 

 数十年に渡る流血の時代があり、永遠に混迷が続くと思われたモンゴル高原であったが──遂に全部族を平定するウマ娘族長が現れた。

 その名をテムジンと言う。

 



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テムジンというウマ娘について

 意外な事だが、テムジンというウマ娘は、昔ながらの温和で素朴な気性であったと伝わる。

 姿形は、背が低く、艶のある青毛で、モンゴルウマ娘らしくお日様を浴びて浅黒い肌をしていた。

 彼女は人一倍に平原を愛しており──いや、偏愛と言っても良いだろう。それこそ彼女の原動力となったものだ。

 

 部族抗争の収まらぬ中、テムジンは部族長の娘として生を受けた。しかしテムジンが産まれた直後に母親は、部族内の反乱により弑逆されてしまう。

 そうして、次期族長と目されたテムジンは、出生直後から軟禁下に置かれる悲運に見舞われたのである。

 幼少期のテムジンにとってモンゴルの草原とは、ゲルの天幕の隙間から覗き見る光景であり、全力疾走とは夢想のものであった。

 親の仇たちが、心地良さそうに草原を疾駆する光景を眺める事しか出来ない──モンゴルウマ娘にとって、それは一体どれだけの屈辱だったであろうか。

 

 それでもテムジンが屈折せず育ったのは、父親の影響があった。当然ながら人間のテムジンの父親は、幼い彼女によく走法の話をした。

 誰より平野を早く駆ける走法とは何か、逆に悪路をどう乗りきるか、長く続く呼吸法、狩猟時の歩法の違い、弓の引き方、等々──テムジンの父親は、優秀なウマ娘指導人、現代で言えば《トレーナー》に該当し、それ故に妻との連座を免れていたのだった。

 幼いテムジンは、他に娯楽が無く、走りへの強い憧れもあり、父の話を熱心に聞き入った。

 

 やがて転機が訪れる。

 母を暗殺し族長座を簒奪したウマ娘が、戦いに倒れたのである。指揮系統が失われ、部族は混乱に陥った。

 しかし、最もその機を待っていた人物こそ、テムジンの父であった。優秀な指導人(トレーナー)である彼は人望が篤く、そして妻の無念を決して忘れてはいなかった。

 混乱に乗じて同志を糾合し、先の逆臣らを駆逐してしまうと、吉日を選び、族長座を本来あるべきウマ娘へ──即ちテムジンへと返還したのである。

 

 奇しくも幼くして族長となったテムジンは、メキメキと才覚を発揮させた。

 生まれてこの方、走った事もなかったウマ娘に直ぐに誰も追い付けなくなった。彼女には天性の才能があった。そして父から学んだ理論があり、それを実行するだけの身体の素直さがあった。

 モンゴルウマ娘の尊敬を得るために、最も手っ取り早いのは『足の速さ』である。始めこそ、箱入り上がりの傀儡、くらいにしか思われていなかったテムジンだったが、直ぐに尊敬を向けられる事となった。

 

 狭いゲルから草原に飛び出した若き族長は、抑圧された野駆けへの愛を爆発させた。また、父譲りの人柄の良さを持ちながらも、裏切りにより軟禁された辛い経験から、何処か他人を信じない孤高の精神を持つに至ったのである。

 

 時は流れ、テムジンがウマ娘として成熟すると、本格的に部族間抗争に巻き込まれていく事となる。

 ここでも、テムジンは才覚を発揮した。戦闘の才能は勿論の事だが、持ち前の寛大と、冷酷の使い分けが見事であった。

 勢力を拡大する過程において、恭順した部族には極めて寛大であり、優秀な人材は忌憚なく取り立てた。しかし、寛大な心を示した上で、無礼を働く輩に対しては、徹底的に容赦をしなかった。

 

平らかにせよ(・・・・・・)

 

 テムジンが一言すれば、言葉通り、そこは平ら(・・)になり、何一つ残される事はなかった。

 平らにされる──という恐怖の世評は瞬く間に広まり、震え上がった族長らは次々と恭順を申し出た。

 しかし先述の通り、恭順を示した者に対してテムジンは寛大であった。どんな恐ろしい人物なのかと歯を鳴らしていた新参者が、実際にテムジンに面会して、穏やかさにまず驚き、次に器の大きさに忠誠を誓った──という記録が多く残っている。

 冷酷な側面も含めて、テムジンというウマ娘の魅力であったのだろう。

 

 恐怖と寛大の戦略により、次々と敵対部族を屈服させたテムジンは瞬く間にモンゴルを平定した。

 数十年ぶりに高原へ平穏をもたらした功績を称え、モンゴルの最高意思決定機関、部族長合議(クリルタイ)はテムジンを《大ハーン》に推戴する。

 

 時は十三世紀初頭、テムジンは長の中の長──チンギス・ハーンとなった。

 



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モンゴルダービーについて

 モンゴルを統一したテムジン改めチンギスが、皇帝(ハーン)として初めに行った事業は戦争……ではなく競バだった。

 これもチンギスの、戦より野駆けを愛する性格を如実に示していよう。

 以前には好き放題に野を駆け回っていたモンゴルウマ娘だったが、チンギスがモンゴルを統一した事により、野駆けを国家競技として整備する事を可能にした。

 

 このモンゴル競バの特徴は、なんと言っても距離にある。

 その距離何と一千キロ(・・・・)

 道中は常に平坦という話でもなく、山岳、谷合、河川、湿地、砂漠、平原──様々な自然の障害を走破しなければならない。

 流石に一千キロを独りで走る訳ではない。百キロ毎に、補給と選手交代が許された。

 チーム最大十人のウマ娘が鎬を削り合う、現在では《モンゴルダービー》と呼ばれる競技がここに開催されたのである。

 

 自然の要害を全力疾走しなければならない残酷なレースの道程は、酷い怪我で流血したり、疲労の余り吐血したりする、正に凄惨な血路と化した。

 そのために、優勝チームは幾多の苦難を乗り越えた勇者として認められ、更には多額の賞金と、精鋭部隊への入隊権利という、破格の待遇を受けた。また、優勝せずともレース中に勇気を示した者は、同様に称えられたのである。

 

 何よりウマ娘たちを盛り上げたのは、レース後の勇者を称える三日三晩の祭りであった。

 当時の様子はこのように伝えられる。

 

『高く組み上げられ、数多の松明で照らされた舞台は、地上に降った星の如くであった。

 舞台にレースの勇者たちが現れると、全モンゴルのウマ娘たちは歓声を挙げた。

 早い音頭の曲に合わせ、勇者たちが舞を始めると、観客は足を踏み鳴らし、声援を送り、浴びる様に酒を飲んだ。

 老いたウマ娘は若者の頼もしさに感涙を流し、幼いウマ娘は先達の勇士に憧れた』

 

 伝承に残された様に、モンゴルダービーはウマ娘たちを熱狂の渦に巻き込んだのである。

 

 モンゴルダービーが社会に寄与したのは、娯楽的側面ばかりではない。

 平定直後のモンゴル高原では、未だ部族間の遺恨が少なからず存在した。しかし、モンゴルダービーに勝利するためには様々な脚質の、即ち様々な部族から優れたウマ娘を集め、編成をする必要があった。

 ここで活躍したのが、指導人(トレーナー)の存在である。古くはチンギスの父に知られるトレーナーは、各部族を渡り歩き、駿メを勧誘(スカウト)して回った。これは名誉な事であったので、部族長は喜んで娘を送り出した──この各部族出身のウマ娘たちが、今にも残る血統の始祖になったとされる。

 トレーナーは、駿メを勧誘する傍ら、自然に部族間を取り持つ使者の属性を帯び始めた。モンゴルダービーが隆盛すると共にトレーナーは増え、部族間交流も盛んになる。人々が競バに熱中し、競争心が高まるほどに、むしろ関係は雪解けしていった。

 やがて、気が付けば部族間の遺恨など、完全に風化したものとなったのである。

 

 チンギスの発案したモンゴルダービーは、民衆への娯楽の提供、皇帝への支持を取り付けたのみならず、国内不和による内憂をも除く事になった。

 正にモンゴルダービーとは国家事業に相応しい施策であった。

 



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近衛兵団について

 国内の統一、またモンゴルダービーによって、チンギス・ハーンは名声の絶頂期を迎えた。また、ウマ娘としても完全に円熟し、モンゴル高原で最も俊足であると称された。

 自らダービーウマ娘として参加しては、何人も追い付けない結果を叩き出していた。

 

「もはや我が君の脚には風ですら及びますまい。勝るとすれば雷くらいのものでしょう」

 

 モンゴルダービー後、舞を披露したチンギスは、大宴会での側近らの世辞には浅く頷くだけで、さほど興味を示さなかったという。チンギスの関心は常に広大な草原に向いており、その場のおべっか等に興味は無かったのだ。

 一説には、帝国の統治にすら関心が無かったとされるが、モンゴルダービーの画期的成功に見られる計算高さをうかがえば、俗説であると言えよう。

 

 この頃、チンギスは政治からやや手を引いており、若いモンゴルウマ娘たちとの交流を温めていた。

 ゲル中での政治活動は、過去の辛い経験を想起するためだったかもしれない。

 モンゴルダービーを見事走り抜いた、優秀な若者たちを供回りに、日がな一日野を駆け回り、獲物を狩り、酒を飲んだ。

 時には未来ある後輩たちに、父から教わった理論と、先の戦争での経験を伝え、実演を混じえ教導してみせた。若者たちは、喜んでそれを吸収する。

 

 まるで、ただ遊んでいるかの様な振る舞いで、益々政治は疎かになるばかりだった。史上ままある様に、偉業を成した英雄が暗君になってしまうのか──と、周囲の凡愚は噂したが、間もなくチンギス・ハーンの英雄たる所以を思い知る事となる。

 

 どうやら大ハーンが若者を引き連れて野駆けしているらしい。

 名高いチンギスである、噂は直ぐに高原に知れ渡った。ならば寛大な大ハーンのこと、自分も加え入れて頂けるかもしれない──と徐々にチンギスの供回りは増えていった。チンギスは笑顔でそれを迎え入れる。

 ややもすると、チンギスと共にありたい、と主張する若者は後を絶たなくなった。

 部族長たちは思った。大ハーンの元にやるのに、生半可な者を送る訳にはいかない。どうせなら選りすぐりのウマ娘を──やがて、チンギスの『供回り』は、もはや規模的に『軍団』と呼べそうなまでに膨れ上がった。

 

 このままでは統制が取れなくなるため、供回り初期メンバーによって段階的に組織化された。何時しか、チンギスの遊びに付き合う『供回り』は、皇帝直属の『近衛兵団』に変態した。

 初期メンバーはそのまま将軍となり、チンギスから教導された理論を、今度は新兵たちに教えた。チンギスの思想、戦術は、軍団の隅々にまで行き渡った。

 モンゴル軍精鋭中の精鋭は、こうして生まれたのだった。

 

 高原の統一、モンゴルダービー、近衛兵団──チンギス・ハーンの偉業の下地は、全て整ったのである。



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遠駆けの開始について

 何時もの如く、古参八人の将軍(親しい友人でもある)を伴って、チンギスは野駆けをしていた。昔と異なるのは、背後に数万からなる近衛兵団が付いて来ている事だった。

「本日は日和も良いため、大規模な軍事演習を行いましょう」今朝ほど、将軍から聞いたチンギスが、浅く首肯したためである。

 

 確かに今日は日和が良かった。日は暖かく、風は爽やかだ。何時もより一層、モンゴルの平原が青々としている様だ。

 絶好の野駆け日和ではないか──艶やかな青毛の尾を揺らして、チンギスはにやりとした。まだテムジンと名乗っていた頃から、この丹田から湧き上がる感覚が色褪せた事は無い。

 

「四駿四狗よ、私に追い付けるか」

 

 言うが早いか、チンギスは独り駆け出した。《四駿四狗》と呼ばれた、全モンゴルウマ娘中でも特に優れた八人将軍は、応と勇んで追いかける。主君の唐突な駈け競べにも慣れたものだった。

 

『オーッ、ハイッ!』

 

 直後には将軍麾下の大隊長が、全隊に号令した。完全武装の数万の軍勢は、土煙を巻き上げ、恐るべき速さで行軍を開始した。加えて、その行軍は長かった。全速を維持したまま、二十キロを走破しつつあった。

 

 チンギスの背中を追っていた将軍は、不意に、主君が小高い丘で停止しているのを認めた。

 即座に全軍停止の命令が下され、近衛兵団は全軍同時に停止した。その秩序には目を見張るものがあった。

 将軍の一人が、チンギスの横に並ぶと、目下を商隊の一団が通過している様子が見えた。どうやら大量のニンジンを運んでいるようだ。

 それに目がないモンゴルウマ娘たちは、唾液が口内に噴出する感覚を覚えた。

 

「彼らに聞きたい事がある」

 

 皇帝が言うと、直ちに軍団から十人小隊が選ばれ、丘を駆け下った。

 突然現れて追いかけてくる兵隊に、異国の商人は恐れ慄いた。すわ盗賊かと勘違いしたのである。慌てて逃げようとする背中に、モンゴルウマ娘が一本矢を放った。矢は商隊の先頭をゆく人間の、目前の地面に突き立ち、逃げる気力を失わせた。

 

 ふん縛られてチンギスの眼前に突き出された商隊長は、明らかに戦慄していた。チンギスが縄を解くように言うと、将軍が剣を振り下ろして縄を切った。

 一瞬斬殺されると思った商人は青ざめ失禁して、まだ生きていると気が付くと命乞いを始めた。

 

「荷は全て差し上げます、どうか命ばかりは」

「ニンジンだな」

「はい、かの高名なチンギス・ハーンに献上するべく、遥々南方より旅して参りました。大ハーンのご尊顔に免じて、どうかお慈悲を」

「ならば遠慮なく貰い受けるぞ」

 

 チンギスが商人の目の前に放った皮袋は、地面に落ちると重い金属音を立てた。商人は困惑しながら、袋を開けると、中身は銀で満たされていた。

 

「大義である。野駆け中に思わぬ喜びをもたらしてくれた褒美だ」

 

 未だ事情を飲み込めないでいる商人は、取り敢えず命を奪われる事は無さそうな雰囲気に安堵した。

 数台の荷車が豪快にひっくり返され、すっかりあけられた大量のニンジンを平等に分配せよ、との命が下った。兵たちは、御馳走を独り占めしない大ハーンの厚恩に感謝しながらニンジンに舌鼓を打った。

 

「ところで、南方の商人。聞きたい事がある」

 

 自らもニンジンを齧り、ご機嫌そうに耳を跳ねさせながら、チンギスは問うた。

 商隊長は畏まって応じた。

 

「何なりと」

「そちの参った南方の果てに何かある」チンギスは南を指差した。

「都城と、その周りに住む人々がございます」商人は答えた。

「北方の果てに何かある」チンギスは北を指差した。

「凍った森があるばかりでございます」商人は答えた。

「東方の果てに何かある」チンギスは東を指差した。

「大海が広がります」商人は答えた。

「では、西方の果てに何かある」チンギスは西を指差した。

「西方……」商人は答えられなかった。

 

 四駿四狗が、一斉に剣に手を置いた。皇帝の質問に言い淀むとは、それだけで大罪である。商人は再び震え上がった。

「苦しゅうない、下がれ」チンギスが手を振ると、今度は逆に両肩を抱えられて退場させられた。空になった荷車を引き、一目散に元来た道を引き返す商団を眺めつつ、チンギスは再び八将軍に問うた。

 

「西方に何かある、知る者はおるか」

 

 将軍らは目を合わせてから「存じませぬ」と、はっきり答えた。

 皇帝は高らかに笑って言った。

 

「旅商人も、四駿四狗も知らぬと申すか。されば、この目で確かめる他あるまいな」

 

 丘の上で再び西方を指差した。

 

「私には願いがある。この『草原の道』を、ただ真っ直ぐにひた走った時、ウマ娘は何処まで行けるものか。モンゴルを東の端だとすれば、西の端まで、誰にも邪魔されず、真っ直ぐに。道々では好きに飯を食えれば、どれほど気分が良かろうか」

 

 チンギスは剣を抜き放ち、剣先を高々と掲げてから、勢い良く西方を示した。刀身が陽光を映し、玉を散らした。

 大英雄が軍勢を前に剣を掲げる姿は、神々しさを帯びて、モンゴルウマ娘たちの目に焼き付いた。

 

「私は覚ったぞ。今こそ、願いを叶える時である──駆けを愛する者は私に続け!」

 

 剣を掲げたまま駆け出す大ハーンを目の当たりにして、何時もは有無を言わず後に続く四駿四狗も、この時ばかりは思わず跪き、大声で問うた。

 

「我が君、我が君! 何処へ行くのですか!」

 

 青毛の皇帝は、たなびく髪と尾を引いて、振り向かず答えた。

 

遠くまで(・・・・)!」

 

 八将軍はハッと気が付いた。チンギスというウマ娘は、大ハーンだ、皇帝だという以前に、一人の生粋の競走バなのだと。

 彼女こそは、ウマ娘の中のウマ娘(・・・・・・・・・)なのだと。

 付いていきたい、付いていかせて欲しい──共に走らせ給え!

 

『オーッ、ハイッ!』

 

 将軍、いや、チンギスの親友たちは、大きく掛け声して、先頭を走る友人の足跡を追った。その後ろには、モンゴルの勇者たちに魅せられた近衛兵団が、一斉に続いた。

 

 史上空前の《遠駆け》は、こうして始まったのだ。



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遠駆けの内実について

 モンゴルウマ娘による空前の《遠駆け》は、先述の通りチンギス・ハーンという個人の驀進を契機に開始された、というのが一般伝承である。

 だが、モンゴル高原の社会背景を見た時、やむにやまれぬ事情が浮かび上がる。

 

 そも、先の内紛はウマ娘の人口増加を口火に燃え広がった、という話は前述の通りである。一部族長に過ぎなかったテムジンが台頭し、大ハーンとなったのも、内紛があったからこそである。

 苛烈な草原の縄張り争いは、ウマ娘の人口増加に一時歯止めをかけたが、チンギスが草原を統一した今、モンゴルダービーの成功も相まって、ウマ娘増加は以前にも増して右肩上がりとなってしまった。

 チンギス・ハーンの統一とは、その実、内紛の根本的な解決になっていないばかりか、むしろ真逆に作用したのである。

 

 国家統一の英雄が健在なうちは圧力も抑えられようが、いずれモンゴル高原はウマ娘で溢れ返り(それはそれで魅力的ではあるが)、元の木阿弥は必至であった。

 そういった背景事情があり、社会的矛盾を解消するためモンゴルウマ娘たちが領土拡張に走り出したのは、むしろ当然の帰結と言えるのではないか。

 つまり、ウマ娘朝モンゴル帝国の《遠駆け》とは個人の驀進のみには由来せず、人口増大による《民族移動》の側面が多大にあった事を忘れてはならない。

 

 兎にも角にも、一度走り出した精強なモンゴルウマ娘たちは、周辺諸国にとって天災そのものであった。

 先ず遠駆けの中継地(・・・)にされたのは、モンゴル高原の直ぐ西隣にある異民族国家である。異民族と言っても、同じモンゴル系であり、生活スタイルも大きく違わなかった。

 

 隣国は、唐突に驀進してきたモンゴルウマ娘に天地驚愕した。押っ取り刀で戦備えをしたものの、結果は全くの鎧袖一触であった。ただの一度の接敵で秩序崩壊し、散り散りとなる。

 この会戦の様子を、隣国側の記述では地獄の軍団が攻めてきたかの様な絶望感に満ちた長文で残しているが、対してモンゴル側の記述は簡素である。

 

『何か集団が居たので、近付いてみたら散り散りになってしまって、結局正体が分からなかった』

 

 上文の『近付いてみた』が、どの程度の勢いだったのか筆者には甚だ疑問であるが──この様な温度感の齟齬は、今回に終わるものではなく、以降の会戦の大概が類似した記述に終わる。そのため、当時の会戦の推移を後世に読み解くには、モンゴル側ではなく、もっぱら相手側の記録を頼る事となっている。

 ともかく、初めての対外戦争の圧勝により、チンギス自ら鍛えた近衛兵は、対外的に十分通用しうると自認を深めたのだった。

 

 会戦の大敗北を受け、隣国の宮廷は大混乱に陥った。土壇場で権力闘争が顕在化した挙句、すったもんだで王が暗殺されるという惨憺たる結果となる。

 亡国の大臣が、ボロボロになった軍(とは 最早呼べなさそうな)を引き連れて、チンギスの野営地へ投降しに来た時、モンゴルウマ娘たちは出立の準備を整えた所であった。

 王の生首を差し出して、大臣は額を地面に擦り付けた。謝罪だか弁明だか分からない長々とした言葉を、チンギスは耳を後ろに伏せて(・・・・・・・・)じっと聞いていたが、話が終わると言った。

 

「なるほど。スブタイ、此奴を袋詰めにせよ」

 

 スブタイと呼ばれた《四駿四狗》筆頭のウマ娘は、有無を言わせず大臣を担ぎ上げた。喚く所を二三発殴って大人しくさせてから、ずた袋に詰めて地面に放り投げた。

 それから百人隊に向け「駆けよ」と命じると、百のウマ娘が袋の上を駆け抜けた。暴れていた袋は、大人しく(・・・・)なった。

 

 部下の裏切りにより母を失っているチンギスは、裏切り行為を生理的に嫌っていた。隣国のいざこざなど欠片の興味も無かったが、裏切り者を生かしておく事が世の中の益にならない事を知っていた。

 

 一連のむごい光景を、大臣に付いてきた兵たちは、絶望を通り越して乾燥した目で眺めた。ふみふみ(・・・・)されて動かなくなったずた袋に、自分の未来を重ねていた。

 道草に一つの王朝を滅ぼした──という自覚の皆無なチンギスは、そんな亡国の兵たちに向け言った。

 

「そんな事よりも、これから西へ遠駆けに行くのだが、この中に付いて来たい者はおるか……でも疲れている様だから、先に飯だな」

 

 腹一杯まで飯を食わされ、潤いを取り戻した殆どのウマ娘たちは、涙を流して「付いて行かせて下さい」とチンギス・ハーンに跪いた。皇帝は尾を振って快諾した。

 

 近現代以前、ウマ娘というのは軍事、並びに社会生活で極めて重要な役割を果たしていた。重駆兵、軽駆兵、伝令、運搬、他様々な社会流通。加えて、ウマ娘の人的資源の回復は、出生率の問題から人間に比べ倍以上の時間を要する。

 軍隊は壊滅し、王は殺され、ウマ娘までも引き抜かれては、国家として立ち行かなくなる。

 そういう訳で、西の隣国は完全に滅亡し、モンゴル軍は労せず兵力を増強した。

 

 

 一方その頃、モンゴル高原には、皇帝が《遠駆け》を始めたという情報が伝わっていた。

 それを耳にしたウマ娘たちは、大急ぎで戦支度を始めたという──これは好戦性というより、どうやら《遠駆け》をチンギスの考案した新種の競バか何かだと勘違いしている節があった。

 

 以降も度々同様の疑念に突き当たるのだが、モンゴルウマ娘の、素朴というか、牧歌的というか──そういう気質が筆者にはなかなか理解し難いものがある。

 しかし、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者にして、世界的権威、加えて自らもウマ娘という女博士に曰く、

 

「わかる。」

 

 との事なので、深く考える事はよそう。

 閑話休題。

 チンギス・ハーンの《遠駆け》に合わせ変化した国家体制の強みとは、正にその兵站能力にある。

 古今東西、軍隊の進軍速度とは兵站能力に限定されるというのが常識である。しかし、元来遊牧民で移動生活のノウハウがあり、そこにウマ娘の運搬能力が加わった時、モンゴルの兵站能力は従来の常識を覆した。

 

 モンゴルの兵站部隊は、補給基地から兵糧を運ぶ、のではなく、補給基地ごと移動(・・・・・・・・)した。

 

《アウルク》と呼ばれる兵站部隊は、解説すれば単純明快で、通常の遊牧生活から軍事行動に必要なもの以外を省き(あるいは足して)巨大化させたもの、である。

 その移動の迅速たるや、人間軍隊の最高速度を遥かに上回った。モンゴルウマ娘特有の持久力、忍耐力がそれを可能にしたのだ。

 事実、アウルクへの奇襲を試みた敵軍が、あっさり行方を見失ってしまい、探しているうちに補給任務を終えたアウルクが引き返してきて、それを襲おうとして再び見失ったという。

 

 この二度見失う(・・・・・)という伝説を残した、モンゴルウマ娘の牽引するアウルクによりチンギスの《遠駆け》は支えられていた。

 周辺諸国が目論んだ『兵站線が伸びきった所を叩く』という淡い期待は、脆くも崩れ去ったのである。

 

 中世最強の兵団と、最速の兵站部隊を伴ったチンギス・ハーンの《遠駆け》は、最早留まる事を知らなかった。



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トレーナーの役割について

 留まる事を知らぬチンギス・ハーンの《遠駆け》は、中央アジアに跨るステップ地帯の遊牧民たちを次々と中継地(・・・)にした。その度に軍勢を吸収、増強し、正しく疾風怒濤の猛勢であった。

 

 モンゴルウマ娘たちは、走っても走っても西に大地が続く事に驚き、喜んだ。このまま何処まで真っ直ぐ行けるのか──情熱が冷めるどころか、燃え上がっていた。

 

《恐怖と寛大》の戦略は、遠駆けにおいても有効であった。

 チンギスが道草に粉砕した敗残兵が、散り散りになって諸国に逃げ込み、モンゴル帝国の恐ろしさを大声で言い触らす──これは往々にして誇張されており「額に角が生えている」だとか「人間を八つ裂きにして食べる」だとか「人を平気で踏み殺す(少し本当)」とかいう、荒唐無稽な内容だった。

 

 実際の所、モンゴルウマ娘は虐殺、略奪を好んで行わなかった(相手側の認識がどうにしろ)。

 干上がらない程度の租税と食料こそ要求したが、民草には従来通りの暮らしを続ける事を許しており、占領政策としては寛大と言えよう──単純に占領地への関心が薄かったのかもしれないが、それは分からない。

 

 詰まる所、周辺諸国を震え上がらせた噂は、一部を除き事実無根だったが、モンゴル軍は、むしろ恐怖の噂を煽った(・・・・・・・・)

 恐怖を煽るほど、先々の進路の制圧が容易になると考えたためだ。

 ここで活躍したのがウマ娘指導人──現代では《トレーナー》と呼ばれる人々である。

 

 実は、彼らはバ車に乗って遠駆けに付いてきていた。一部モンゴルウマ娘たちが、トレーナーと離れるのを嫌がって暴れ出したため、アウルクによって後から運ばれてきたのである。

 ウマ娘の専門家であるトレーナーは、彼女たちの体調管理に始まり、輜重の分配、遠駆けの日程調整、細々した身辺の世話など、大変重用された。

 しかし、チンギスの遠駆けが進むに連れ、別の役割が生じ始める。

 

 モンゴル統一以後、トレーナーは優れた駿メをスカウトするため諸部族を訪ね歩き、何時しか使者の様な属性を帯び始めた、というのは先に述べた。

 遠駆けの最中、その使者の属性が急拡大されていったのだ。以降、中継国との事前交渉をトレーナーは一手に担う存在となっていく。

 

 というのも、モンゴルウマ娘たちは事前交渉というものを、いまいち重視していなかった。進んで行けば自然に道が開ける(・・・・・)のだから、態々面倒をせずとも良いのではないかと考えていた。

 

『彼女たちが、こんなに無垢でなかったのなら、トレーナーなど無用の閑職であっただろう』

 

 とあるトレーナーの手記である。

 彼らが使者の役割を果たしたのは、同じ人間が蹂躙される姿が見るに耐えなかったとも、自由に野を駆けているべきウマ娘が戦をする姿を哀れんだとも言われるが、今となっては知る由もない。

 トレーナーたちは、明日にも得体の知れないウマ娘軍団に踏み潰されるかもしれない諸国に赴き、こう説き伏せた。

 

『決して悪い娘たちではないから、道を塞がない限り無事を保証する──』

 

 その説得を、周辺諸国は全く信じなかったが、裏を返せば超大国による最後通告とも受け取れるため、結局は折れるのだった。稀に折れない国もあったが、その末路は推し量って欲しい。

 いずれにせよ結果を見れば、トレーナーの活躍により、実体のない恐怖に捕らわれた中央アジア一帯は、ほぼ無血に近い形で恭順を申し出てくる事になった。

 

 



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ルーシの悲劇について

 中央アジア一帯を制覇し、今やカスピ海北岸に到達したモンゴルウマ娘たちは変わらず牧歌的であった。

 彼女らの寵愛するトレーナーたちの働きにより、思い切り走れて、飯の心配せずに済んでいるのだから、これ以上を望む事は全く無かった。

 

 その頃、丁度年明け(ツサガン・サル)を迎えたという事もあって、チンギスの軍営地は祝賀ムードに包まれていた。

 カスピ海の浜で、初日の出を拝むモンゴルウマ娘は、新年の訪れを喜んだ。

 

「オーハイ、オーハイ!」

 

 真冬だからといって、モンゴルウマ娘の活力が損なわれるという事は全くなかった。後世に、数多の名将を苦しめた冬将軍だったが、元々が過酷なモンゴル高原出身の彼女たちである。防寒対策は日常生活の内に含まれていたし、アウルクによって物資潤沢であった。

 モンゴルウマ娘は、冬将軍と友達だった。

 

 雪解け後、バ場状態の改善を待ってから、チンギス・ハーンは新年初めのレース開催を宣言した。

 遠征地であるため、簡易的なものにはなったが、盛り上がりに欠けるという事はなかった。

 世界最速の軍団の内で、まず千人隊(ミンガン)単位で予選が行われた後、選りすぐりの猛者による本戦が行われた。

 ウマ娘たちは思い思いに着飾り化粧をして、カスピ海のほとりを駆け抜けた。

 

 激戦を制したのは、ジェベだった。

 ゴールを駆け抜けた途端、ジェベは同輩のウマ娘に揉みくちゃにされた。新年初めのレースの勝者は《福ウマ》であり、身体に触れると一年の福を貰える、という民間信仰があるのだ。

 

 ジェベというウマ娘は《四駿四狗》にも数えられる将軍であった。長い栗毛で、きめ細やかな毛質をした、美しいウマ娘だった。

 モンゴル高原においては、チンギスの次に俊足と言われ、常にモンゴル軍の先鋒を務めてきた勇敢なウマ娘である。

 揉みくちゃにされた後、チンギス直々の賞賛を受けたジェベは、嬉しそうに尾を持ち上げて、

 

「全てトレーナーのお陰です」

 

 と言った。彼女がモンゴルダービーを制した時からの口癖だった。

 ジェベによる勝利の舞は実に流麗で、長い栗毛のなびきを見るウマ娘たちをうっとりさせたという。

 

 三日三晩の新年の宴の後に、チンギス一行は《遠駆け》再開の準備を始めた。

 一つ懸念があった。どうやら、これより西の《ルーシ》という地域では、排他的な異教が信奉されるらしい──チンギスが少々案じていると、一人のトレーナーが進言した。

 

「私が道先に赴いて、話をつけて参りましょう」

 

 チンギスが良く見知ったトレーナーであった。彼はジェベの専属であり、またモンゴル帝国の遣いとして大いに働いてくれた。

 その人柄の良さから、度々他のウマ娘に言い寄られては、ジェベが蹴散らしていた。

 チンギスは、これまでそうしてきた様に、彼の進言を聞き入れた。使者一行は早速出立していき、モンゴルウマ娘たちは手を振り見送った。

 

 これが後の《ルーシの悲劇》の始まりだった。

 

 チンギスが早ウマの報告を受けたのは、深夜の事だった。使者団が出立し、話がまとまって、そろそろ引き返してくる途上かという時期である。

 歴戦の大ハーンは、経験が無いほどの衝撃を受けた。

 

 

 ルーシ国家に、使者団が惨殺された(・・・・・・・・・)

 

 

 胸が潰れた皇帝は、暫し呆然とした後、咄嗟に箝口を命じると、早ウマ娘は泣きながら下がった。

 その夜、チンギスは眠れなかった──翌朝、大ハーンの宿営地(オルド)に、福ウマのジェベが訪ねてきた。

 

「我が君、そろそろ使者団が帰って参る頃でしょうか」

 

 チンギスは、無理に笑顔を作り「気が早いぞ」と言うと、ジェベは耳を垂れて引き下がった。

 翌日も、ジェベは訪ねてきた。

 

「我が君、何か音沙汰ありましたでしょうか」

 

 チンギスが「まだ無い」と答えると、ジェベは下がった。

 翌日も、その翌日もジェベは訪ねてきて、皇帝に問うた。使者団は帰って参りましたか、まだ今日も帰ってきませぬか、今日こそは──チンギスは、胸につかえた一物の重みに耐えきれなくなった。

 

 その日、チンギスの方からジェベ将軍を呼び出した。将軍は、遂に使節団が帰ってきたのだと思ったから、オルドに入ってきた時、耳を軽やかに弾ませていた。

 対してチンギスは、わざと耳を後ろに伏せ、尾を鞭のようにして空気を叩き、不機嫌この上ない仕草をした。

 常日頃温厚なる主君の、ただならぬ空気を感じたジェベは、さっと剣を鞘ごと引き抜き地面に置くと、自らも跪き、深々頭を垂れた。

 チンギスは重々しく口を開いた。

 

「ジェベよ、実は、汝の忠節を疑っておる」

「異な事にございます。私めが一度とてハーンの命に背いた事がありましょうや」

「口には何とでも言えよう。この上は行動で示さねばなるまいぞ」

「我が君、もし私に罪がありますれば、何なりと沙汰を下され」

「その言葉は真か、偽りは無いと申すのか」

「私はハーンに従います、背くのであれば死を選びます」

「では今から汝を試すぞ、異存あるまいな」

「もし、私が背いた時は袋詰めになさるがよろしい」

「ううむ……」

 

 チンギスは大きく一呼吸した後に言った。

 

「汝のトレーナーが死んだ、殺されたのだ」

 

 伏した顔を跳ね上げたジェベは、まるで雷火に打たれた様であった。チンギスは間を置かず続けた。

 

 「皆の前で嘆き悲しむ事を禁じる」

 

 ジェベは、皇帝の顔を穴が空くほど眺めてから、立ち上がり「出立の準備があります故」と理由を付けて退出した。

 

 悲報は、モンゴルウマ娘を悲しみに暮れさせた。誰もが泣き叫び、地面をのたうった。衝動のまま暴れ出したり、訳も分からず喧嘩を始めたりした。

 彼女らは人間を、取り分けトレーナーという人種を愛していた。中には本当に恋人関係だった者も居た。何故愛しいトレーナーが、こんな憂き目に遭わねばならぬのか、理解出来なかった。

 

 ジェベと専属トレーナーの絆は有名だった。彼女が《四駿四狗》と謳われる前、モンゴルダービーの挑戦者であった頃からの付き合いである。彼女は「全てトレーナーのお陰」と常日頃に口にしていた。

 共に明るい性格で民に慕われ、理想の恋人だと評判だった。

 

 そんなジェベは泣かなかった。どころか、泣き叫び暴れる部下を叱責し、励ましすらした。

 兵たちは怪訝に思い、それが大ハーンの下知によると知った。何とむごい事を命じなさるのか──モンゴルウマ娘たちは口々に言った。

 しかし、彼女に近しい者は知っていた。もしもチンギスがそう命じなかったならば、人目も憚らず泣き崩れ、将として醜態を晒し、更には魂が抜けた様になって戻らないだろう──主君の気遣いにより、ジェベは辛うじて現世に踏みとどまったのである。

 

 部下を力ずくでも立ち上がらせて、正体を取り戻させると、ジェベは人払いをして、自分のゲルに引きこもった。

 その晩、軍団に悲痛な鳴き声が響く。

 

「ああ、トレーナー、トレーナー! どうして私を追い抜いて逝ってしまったの──」

 

 ジェベ将軍のゲルから響く嘆きは、全軍に届く程だったという。その声を聞いて、皆もまるで我が身の事の様に思われて、しくしくと泣いた。

 この夜の嘆きは七晩の間続いた。

 

 八日目の朝、チンギスの前に姿を現した彼女は、全く平素通りの仕草であり、身を案じていた皆を驚かせたという。

 淡々と陣立の説明をする、余りにも健気な臣下の姿に、遂にチンギスは耐えられなくなり、涙を一筋流した。

 すると、将軍は言った。

 

「我が君。大ハーンたる者、臣下の前で涙を流してはなりませぬ」

 

 その言葉を聞いたチンギスは、転がる様に席を立つと《四駿四狗》将軍の両肩を掴み、強く揺らした。

 

「ジェベよ、真の勇士(バートル)よ! どうか私に約束させてはくれまいか。必ずや汝の忠節に報いん事を」

 

 臣下は、潤んだ主君の目を見つめ、深く頷いた。それから、チンギスはルーシ攻略の総指揮官にジェベを任命すると、最後に陣容に向けて言った。

 

「とこしえの天上(テングリ)の力にて。皆々の深い悲しみは、私の知る所である。我々はただ西進したい一心、邪心などある筈もない。なのに、ルーシの恥知らず共は、罪無きトレーナーを殺した!

 私は全モンゴルウマ娘の代理人なり。皆が恥知らず共を許さぬと言うのならば、私は尚許さぬ。奴等を憎むと言うならば、私は尚々憎むのだ。

 泣くな、同胞よ! 相応しい報いを与えねば、皆の涙が止まらぬ事も、私は知っておる。それが故に、チンギス・ハーンの名において、高原の戦士に号令するのである。

 目に見えるもの全てを平らかにせよ(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 弾かれた様に、モンゴルウマ娘は駆け出した。先頭を行くは勇士ジェベ。後続の者たちを何バ身も引き離し、その鬼気迫る様子は、さながら韋駄天であったという。

 この際、西へ走り出したモンゴル軍は、最高速度を更新した。

 

 前方に立ち塞がる、何か集団めいたもの(ルーシ周辺諸国の全軍と思われる、相手側の記録が現存しない)を木端微塵にしてしまうと、チンギス・ハーンの命令を忠実に実行した。

 

 宮殿、教会、図書館、病院、霊廟、家屋、その他ルーシ民族の遺産──その全てを平らか(・・・)にした。

 屋根という屋根を突き破り、柱という柱を引き倒し、壁という壁を叩き割り、残骸という残骸を燃やし尽くした。

 余りにも徹底した破壊ぶりは、モンゴルウマ娘が全ての立体構造物を憎悪しているかの様だった。

 この日を境に、ルーシ諸国は文化もろとも消滅(・・)したのである。

 

『自分の生家を一日中探して歩いたが見つからず、途方に暮れて切り株に腰掛けた時、それが家先の薪割り場である事に、初めて気がついた』

 

 たまたま旅に出ていて天災を免れた者の記録である。

 破壊された事すら分からない破壊──モンゴルウマ娘はルーシを、文字通り真っ平らにし、黒海北部地域を人類植民以前の姿に戻してしまった。

 この自然回帰により、以降ルーシ地域はヨーロッパ世界と明確に運命が別れたと言われる。

 

 目に見えるものが無くなった(・・・・・・・・・・・・・)ルーシ諸国では、徐々に地ならしが収束した。憎悪の対象を、この世から消滅させたモンゴルウマ娘は、元来の牧歌的穏やかさを取り戻したという。

 

 しかし、如何に報復を完遂しようとも、失われた者が戻る訳ではない。

 韋駄天の如く先鋒を駆け続けたジェベは、唐突に病に倒れた。その時まで病気らしい病気をした事のない大将軍の罹患である。

 皆は慌てふためいたが、看病のかいなく──ジェベは帰らぬウマ娘となった。

 

 モンゴルウマ娘は勇士の死を嘆き、ジェベの遺体をモンゴル高原に連れ帰ろうとしたが、今際の際に、

 

「お願い、トレーナーと一緒に居させて」

 

 と言い残された事を思い出し、ジェベはその地で葬られた。

《四駿四狗》初めての欠員であり、残された七将軍は大いに涙を流したが、チンギスは一滴の涙も流さなかった。

 必ずや汝の忠節に報いる──遂に約束を果たす事の叶わなかったチンギスが「大ハーンたる者、臣下の前で涙を流してはならない」というジェベの諌言に、せめて忠実であろうとしたからだと伝わる。

 

『韋駄天の勇士ジェベ、指導人と共に在り──』

 

 真の勇士を称えた石碑が黒海のほとりに建立された。以後、故人を慕った参拝者が絶える事はなく、現代においても石碑は献花に包まれている。

 

 これが《ルーシの悲劇》と呼ばれる事件である。

 

 一様に簡潔極まる中世モンゴル帝国の史録においても《ルーシの悲劇》は特異的であり、事細かに顛末が残されている。

 この事からも、当時のモンゴルウマ娘たちにとって、どれだけ衝撃の大きい事件だったか伺えよう。

 

 衝撃が大きかったのは帝国側だけではない。規模から言えばむしろヨーロッパ世界の方が激震したと言えよう。

 黒海北岸と言えば、もはや西ヨーロッパ世界の玄関口である。正体不明のウマ娘軍団が、玄関口を跡形も無くしてしまったという報告が流れ込んだ時、如何に欧州諸王の心胆を寒からしめただろうか。

 

《ルーシの悲劇》は欧州側で、また別の意味合いを持って史書に記録されたのである。



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中世ヨーロッパのウマ娘について

《ルーシの悲劇》以降、モンゴルウマ娘たちは明らかにトレーナーを使者に送るのを渋る様になった。

 ヨーロッパ世界への西進に当たって、事前交渉なら、自分たちでもやってやれない事はないだろうと考えた。

 

 早速、モンゴル皇帝の名の元に親書がしたためられた。筆記係のモンゴルウマ娘には、くれぐれも丁重な文面が求められた。

「何も使者を小出しにする必要も無かろう」とはチンギスの見解で、従って宛先には全ヨーロッパ諸国が選ばれた。

 心配するトレーナーたちの制止を振り払うと、選び抜かれた剽悍な早ウマは一斉に欧州各地へ散らばった。

 親書の内容は概ね以下の通りである。

 

『何もしないので、首都の真ん中を通らせて欲しいです。出来ればご飯も下さい。お願いします』

 

 モンゴルウマ娘渾身のへりくだり(・・・・・)は、しかし、欧州諸王を激怒させた。

 特に激高したのが、モンゴル軍が目と鼻の先にまで迫ったポーランド王である。チンギスの親書を細切れに破り捨てると、王は逆に欧州全土へ檄文を発した。

 

『ヨーロッパは空前の危機に瀕した。忠実なる神の信徒に告げる、今こそ過去の遺恨を捨てよ。我々は力を合わせ、異教の蛮族が、神の土地を踏み均す(・・・・)事に対抗しなければならない。ポーランド王国は、神の盾とならん──』

 

 欧州諸王は、ポーランド王に全く同調し、続々とポーランドに集結し始めた。

 また、バチカンの宗教指導者が、これを支持した事により、参集した欧州連合軍は正式に《十字軍》であると認められた。

 連合軍はポーランド西部のレグニツァに集結したため《レグニツァ十字軍》と呼ばれた。

 

 以上の通り、事前交渉に大失敗したモンゴルウマ娘たちは首を傾げた。渾身の親書に対する大量の絶縁状、宣戦布告状に埋もれて、チンギスはしょげ返ったという。

 この交渉決裂について、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘という女博士は、

 

「わからない。」

 

 と述べ、中世ヨーロッパ社会における排他性と宗教の関係、へと議論を展開させているが──研究の焦点が合っているのか疑問に思うのは筆者だけであろうか?

 ともかく、モンゴル帝国と欧州連合は完全に決裂し、対決が避けられないものとなったのは間違いない。

 

 

 中世ヨーロッパ世界におけるウマ娘について述べておこう。

 ご存知の通り、中世ヨーロッパとは、ウマ娘にとっての《暗黒時代》であった。

 理由は一つ、競バが存在しなかった(・・・・・・・・・・)のだ。

 

 ローマ帝国時代。オリンピック種目としても人気を博した《戦車競バ》は、大々的な催しとして行われていた。

 しかし、謎のウマ娘集団フン族の移動に発端する、ゲルマン民族大移動により帝国が崩壊すると、中世ヨーロッパ世界はその文化を継承する事が出来なかった(代わりにアラブ世界が継承した)。

 

 中世ヨーロッパ世界において、もっぱら人気を博したのは《バ間槍試合(ジョスト)》であった。

 重鎧で身を固めたウマ娘駆士(・・)二名が、互いに突撃、真正面から槍で突き合い、転ばせた方の勝利──という競技である。

 時に命すら落としかねず、模擬戦争の意味合いも強いジョストは、貴族階級を熱狂させた。

 封建社会の諸侯=貴族は、如何に優れた駆士を所有するか、が一種のステータスであった。そのため貴族は熱心にウマ娘たちを集め、指導し、ウマ娘たちもそれに応えた。

 彼らは常に血なまぐさい競技に飢えており、加えて自ら命を張らずとも良いのだから、尚更であった。

 

 中世ヨーロッパにおいて、ウマ娘の社会的地位は決して高かったとは言えない。

 当時は荘園を中心に、未だ閉鎖性の強い社会である。荘園内で産まれたウマ娘は、その中で生涯を終える事がほとんどであった。

 才覚に優れ、領主に見初められれば《駆士》として取り立てられるケースはあった。ジョストで活躍すれば、賞賛を受け、一定水準以上の生活が保証されたが、政治の担い手に食い込む事は極稀であった。

 

 ここで誤解しないで欲しいのは、特別ウマ娘が虐げられていた訳では無い、という点である。

 モンゴル高原や、一部の例外を除いて、人口的マイノリティである彼女たちだったが──それでも自然に人間に混じってのんき(・・・)に暮らしていた。

 そもそも、厳格な身分制度による権利格差は、ウマ娘に限らず人間にも同様であった。逆に活躍の可能性があるだけ、庶民より高待遇であったと言えよう。

 

 ウマ娘《駆士》は、しばしばロマンスの対象ともなる憧れの役職であったが、常に試合に明け暮れていた訳ではない。

 試合と訓練の合間には、荘園に戻って、農民たちと一緒に畑を耕していた。人間より遥かに力持ちの彼女らは、大変重宝されたという。

 

 実は、駆士という役職──ウマ娘側には、さほど人気が無かった(・・・・・・・)

 人々に囲まれて、一緒に汗水を垂らし、畑を耕していた方が、余程充実感を得られたという。

 

『私たちが麦の世話をしていると、領主様からジョストに呼ばれたわ。なんでも急な催しだと言うの。しょうがない事ね! もうすぐ刈り入れ時だっていうのに──』

 

 当時大変人気のあったジョスト選手の日記である。

 これは中世ヨーロッパの人間にとって、いや現代の我々ですら、大きな誤解をしているが──本質的にウマ娘は戦争を好まない種族なのだ。

 

 ウマ娘たちは、孤独を嫌い、和を好み、人間に寄り添ってくれる。悪意に敏感で、仁愛を尊ぶ、高潔な人類(・・)だ。

 国家や民族などというフィクションに囚われ続け、有史以来、互いに傷付け合っている人間(ホモ・サピエンス)とは明確に異なるウマ娘たちなのだ。

 彼女らが戦争に参加するとすれば、大概が我々人間に請願されたからであり、自ずから進んで、という事はまずなかった。

 この性質が、歴史上《ウマ娘王朝》が数少ない理由に合致している。

 

 しかし、モンゴル帝国に代表される様に、何らかの理由で《移動》をした時、強烈な結果を史書に残した。

 スキタイ、匈奴、パルティア、フン族、マジャール、トュルク──これらに代表される遊牧系ウマ娘が、歴史に及ぼした影響の多大さは、皆様の聞き及ぶ所であろう。

 

 人類史とは、大多数の人間が争う合間に、鮮烈なウマ娘の活躍が挟まれ、紡ぎ出される物語である。

 

 チンギス・ハーンがモンゴルウマ娘たちに敬愛される根本も、内紛を制したからではなかった。

 モンゴル高原に再び平和と幸福をもたらしたからである。

 事実、チンギスはモンゴルダービーの発案者である事を誇っても、人殺しを誇る事は生涯無かった。

 他人を傷付ける事は、彼女たちにとって自慢の種になり得なかったのだ。

 

 

 話は冒頭に戻る。

 身内同士ですら疑い、欺き、血みどろの争いを繰り広げる──そんな中世ヨーロッパの人間が、モンゴルウマ娘たちを受容する事は到底不可能であった。

 また、モンゴルウマ娘たちも彼らの薄暗く屈折した心情を理解するのは、本能的に不可能であったろう。

 そういった相互不理解が、結局は戦争に繋がってしまったのである。

 

 ここに、レグニツァ十字軍 VS ウマ娘朝モンゴル帝国の戦いが勃発した。

 中世最大の会戦と言われ、同時に最大の一方的勝負と言われた《レグニツァの戦い》。

 

 または《死体の山(ワールシュタット)の戦い》の開幕である。



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直前交渉について

 神聖ローマ皇帝は激怒した。

 必ずかの邪智暴虐の蛮族を除かねばならぬと決意した。

 

「痴れ者が、一度ならず二度までも、我を愚弄致すか!」

「陛下、その様なつもりは毛頭ございませぬ。どうか話をお聞き下され」

「もはや我慢なるものか、うぬらの主張は常軌を逸しておるわ」

 

 西の皇帝は、聞く耳持たぬと言わんばかりに席を立ち上がり、迎賓用テントを出た。モンゴル帝国の使者団は慌ててそれを繋ぎ止めようと、共に外へ出た。

 

 時の頃は正午、場所はポーランド西部、レグニツァ近くの平野であった。

 ヨーロッパ中の諸侯が参集した平野には、四万余りの兵で満たされていた。一度テントを出れば、そこには欧州各国の言語が飛び交っており、一瞬混乱してしまう様だった。

 此処レグニツァが瞬間的に最も国際色豊かな場所である事は疑いようがなかった。

 神聖ローマ皇帝はその間をずんずん歩き、使者団と、その護衛のモンゴルウマ娘は後を追った。

 

「陛下、お待ち下さい、どうか話を」

「話す事などあるものか。今更何もせず道を開けろ(・・・・・)だと? 正気で言っているのか、それとも寝ているのか」

「私は至って健常でございます、陛下」

「おぬし、チンギス何とかという者の下僕だか何だか知らぬが」

指導人(トレーナー)でございます」

「それよ、そもそも何故トレーナー風情が一国の代表面をしておるのか」

「それは、もう一朝一夕には語り尽くせぬ訳がございまして。とにかく、この親書をご覧下さい」

「親書、親書だと!? あの巫山戯た文章を再び読み直せと申すのか」

「それはごめんなさい」

「なんだァ……貴様……」

「あいや、しばらく、しばらく。此度は小生が書き直した親書にて、決して陛下をご不快になさる物ではないと存じます」

「結構。それではポーランド王に読ませるが良かろう」

「その御前を門前払いされました故、陛下に取り次ぎを願っているのです」

「全く順当な事だ。もう良い下がれ」

「陛下!」

 

 モンゴル帝国の使者代表──チンギス・ハーンのトレーナーが尚食い下がろうとすると、一人のウマ娘が横からさっと飛び出し、間に割って入った。

 

「トレ……皇帝陛下の御前であるぞ。何を無礼な、下がれ下がれ」

 

 銀に輝く甲冑に身を包んだ、金髪碧眼のウマ娘であった。トレーナーの一行は、人の丈以上もある(ランス)を手に威嚇するウマ娘駆士を前に立ち竦んだ。

 トレーナーの背後を付いてきたモンゴルウマ娘の護衛が、ぐっと身構える──しかし西の皇帝は、途端に声を晴れやかにして、そのウマ娘に声をかけた。

 

「おお、我が駆士ローランよ。ウマ揃えは済んだのか」

「はい、各国諸侯におかれましても万全にございます」

「重畳、良くやってくれたぞ。うむ、丁度良い。この無礼な使者めらに、我々の重駆士を見せてやろうではないか」

「はっ、良いお考えでございます」

 

 ローランと呼ばれたウマ娘は、ぱっと花が咲いた様な笑顔で応えた。神聖ローマ皇帝は、幾ばくか機嫌を直し、使者団に追従する様に言った。

 トレーナーは直感した、この二人には深い信頼関係があると。

 

 自称(・・)ローマ帝国の正当後継者、当時の神聖ローマ皇帝が、熱心な《バ間槍試合(ジョスト)》支持者であり、ウマ娘を多く抱えるトレーナーである事は有名な話であった。

 また個人としてウマ娘愛好家であり、度々自慢のウマ娘駆士を他人に見せたがる、という癖があった(その心情はモンゴル使者団も心底理解出来た)。

 

 その中でも《ローラン》は特に彼のお気に入りで、金髪碧眼の眉目は麗しく、ジョストで負け無しという才色兼備のウマ娘であった。

 チンギス専属のトレーナーをして、確かに彼女は美しく写った。しかし、それにしては──自称皇帝が足を止めた。

 

「刮目せよ、異国の使者。これが全ヨーロッパが誇る重駆士団ぞ」

 

 皇帝は高く息巻き、トレーナーたちは低く呻いた。

 ずらりと三重横列に並んだウマ娘重駆士は、真に圧巻の光景であった。

 分厚い金属板で喉から足首まで覆った鈍色の甲冑、右手には巨大なランスを持ち、左脇にはフルフェイスの兜を抱えている。それを被れば、正に全身鋼鉄の塊。

 繰り出される正面突撃は防ぎようのない衝撃力を生じさせるだろうと、容易に想像出来た。

 

 使者団は絶句しながら、それでも指導人の性であろうか、重駆士横隊を検分して歩いた。

 西の皇帝は、自慢のウマ娘を見て驚いている蛮族の使者の様子を、口元を歪めながら横目に眺めていた。

 やがて、トレーナーたちは、ひそひそと話を始めた。

 

「余り元気そうには見えないな」

「見ろ、あの傷んだ毛並みを。櫛がけ(ブラッシング)はどうした」

「肌艶も良くないぞ、一体何を食べさせているのか」

「どうして無用な荷重を強いているんだ?」

「皆同じ様な強ばった顔をして、可哀想に。それに比べうちの娘は──」

 

 モンゴル高原における、世界最強軍団のトレーナー──即ち世界最高峰の凄腕(S級)トレーナーたちは口々に言った。

 使者団代表が「止めないか」と言うと、皆は黙った。しかし実際の所、チンギスのトレーナーも全く同感であった。

 駆士筆頭らしいローランとかいうウマ娘よりも、遥かにチンギスの方が勝り、あらゆる点で美しいと確信していた。

 もっとも、他トレーナーも自分の担当についてそう思っていた。

 

 つまり、この場にいる人間全員が「自分の担当が一番美しい」と思っていたのだった。

 しかし、決して口にはしない。言って良い事と悪い事が存在するのは、時代を越えて共通である。

 

 使者団代表の内緒話(・・・)を見て、そうと知らない皇帝は胸を張った。

 

「どうだ、この陣容を見れば、先程の様な寝言も言えまい」

「はあ、陛下の仰る通りです」

「そうであろう、そうであろう。それに比べ……」

 

 すっかり気を良くした神聖ローマ皇帝は、東方──モンゴルウマ娘たちの陣営を眺め、嘲笑した。

 数百メートル先のモンゴル帝国陣地では、ウマ娘たちがごろごろ(・・・・)していた。

 西洋重駆士とは比べ物にならない様な小躯に、薄っぺらい皮の鎧を着て、武装は腰に引っ掛けた小型弓と粗末な剣のみ。

 

 秩序高さも雲泥の差だ。

 西洋駆士が一糸乱れぬ三重横隊なのに対し、モンゴルウマ娘は──何、何だろうか。あれは何をしているのだ。ごろごろしながら、タンポポを食んでいるのか?

 その後ろでは、ぐるぐる駆け回って、あれは鬼ごっこか?

 その脇では、歌を歌いながら舞の練習をして──神聖ローマ皇帝は困惑した。

 取り直した様に、咳払いして言う。

 

「蛮族は、ウマ娘との付き合い方も知らぬ様だな」

 

 さしもの使者団も、これにはむっとして、大ハーン専属トレーナーが代表して言った。

 

「我々には我々のやり方があります故」

「知りたくもない事だな」

 

 改めて嘲笑すると、皇帝は手の平を前後に振った。

 

「さあもう良いであろう。見せるべきは見せた。帰って主に伝えるが良い、到底太刀打ち出来るものではないとな。我々とて、心から戦を望む訳では無い。今退くならば、後を追わぬようにと、諸侯に口添え位はしようぞ」

「それが出来るのならば苦労致しませぬ。そもそも私は、最初から……いやこれは詮無き事ですな。皇帝陛下。伏して、どうか私の立場も察しては下さいませぬか」

「うぬの立場が、どうしたと言うのか。失敗すれば殺されるとでも?」

逆にございます(・・・・・・・)。私は交渉に来るにあたり、チンギス・ハーンを苦心して説き伏せて参りました。ハーンは始め、私の交渉を断固許しませんでしたが、そこをどうにか曲げて来たのです。皇帝陛下、これは真に最期の機会ですぞ」

「無礼者めが、小賢しい脅しに屈する我ではないわ」

 

 皇帝は再び激高し、剣を抜いた。

 

「蛮族のトレーナーごときが、度重なる無礼な言動。ここで手打ちにしてくれようか」

 

 使者団一行は顔面蒼白になった。

 あの平らか(・・・)になった光景が、ありありと想起されたのである。使者団は一斉に平伏した。

 

「陛下、陛下。どうかそれだけはおよしなさい。あのルーシの一件は、お聞き及びの筈」

「おのれ、まだ申すのか、もはや堪忍──」

 

 その時である、使者団の背後に控えていた護衛のウマ娘が、いきなり剣を抜き、神聖ローマ皇帝に斬りかかった。

 それは恐るべき、人間離れした速さと、鬼の様な形相であった。次の瞬間には、皇帝の脳天がザクロの様に爆ぜるものかと思われた──が、そうはならなかった。

 間一髪で駆士ローランが、稲妻の如き一刀を防いだのである。

 駆士は怒りを込めて、しかし余裕たっぷりに言ってみせた。

 

「気性の荒い不埒者が。何のつもりかは知らぬが、まあ、その忠節は見事だったぞ」

 

 刀を防がれたモンゴルウマ娘は言った。

 

「よもや、防がれるとは思わなんだ。汝、ローランといったか。お主こそ、見事な奴」

「名を聞こうか」

「私こそは《四駿四狗》が筆頭、スブタイなり」

「スブタイ、覚えておこう」

「その必要無し。この二の太刀を見切れるか──」

 

 火花を散らしながら、じりじりと鍔で迫り合う両名の剣戟が始まる前に、鋭い声が制止した。

 

「止めんかあっ!」

 

 平伏していた使者代表は起立して、スブタイの二の太刀を停止させた。斬りかかった者よりも、増して鬼神の形相である。

 鍔迫りの力は緩めず、将軍は述べる。

 

「ハーンは下知なされた。トレーナーを害する全てを排せ、と。背く訳には参らぬ」

「我が身は未だ息災なり。然ればよ。ハーンは私に、交渉の一切を名代せよと仰った。即ち、私の言葉はチンギス・ハーンの言葉に同じである。スブタイ将軍に命ず。剣を収め、非礼を詫びよ」

 

 スブタイは、トレーナーとローランの顔を交互に睨めつけてから、力を緩めた。

 剣を鞘に収めると、一歩下がり「ご無礼つかまつった」と不服そうに詫びの言葉を口にした。

 相手の刀身が収まったのを確認してから、駆士も刀を収めた。

 

「大変に失礼をば致した」

 

 チンギスの指導人は、再度頭を下げた。鬼神の如き顔は、福々とした笑顔に取って代わられていた。

 言葉も無かった神聖ローマ皇帝は、ようやく「うむむ」と、ただ呻く様な声を発した。

 

「陛下のご決心の、いと固き様、小生如きが覆す事叶わぬと覚りました。この上は、我が君に仔細報告申し上げ、判断を仰ぐ事に致します。ああ、もう会うことも無いでしょう。どうかご壮健で」

 

 使者団一行は、欧州陣営を抜け出すべく、自称皇帝が呆けている間に踵を返した。

 欧州陣地が恨めしそうにその背中を眺めていると、モンゴル第一の凄腕トレーナーは、ふと気が付いた様に振り返った。

 

「それから、ローラン殿には野菜を食べさせておやりなさい」

 

 今度こそ早足に去っていく、凄腕(S級)トレーナーの背中が見えなくなる前に、神聖ローマ皇帝は憤慨して言った。

 

「何なのだ、あれは。終始訳の分からぬ事をほざきおって。我が駆士ローランよ、大事無いか」

「はい、皇帝陛下。しかし、あのスブタイとやら。大した使い手であります」

「お主には及ぶまい」

「そう在りとうございます」

「流石、ジョストの王者は謙虚よの。お主の美徳だ」

 

 金髪を撫でられたローランが頬を紅潮させると、皇帝の声は柔らかくなった。

 

「さあローラン、勝利の宴は、さぞ豪勢なものとなろうぞ。何せヨーロッパ中の諸侯が集結しておるのだ。主役はお主じゃ、これだけは誰の文句も言わせん。さあ何が食べたい、遠慮無く申せ」

「ええと、ではニンジンを……」

「はっはっはっ。何じゃ、さっきの捨て台詞を気にしておるのか? 良い良い、気にするな。そんなものでは力が出まい。肉を用意するぞ、骨付きの、一抱えもあるやつをな。お主の好物であろう」

「はい、陛下」

 

 ご機嫌に宴の皮算用を始めた皇帝を他所に、ローランはまだ見ぬ肉塊に胃がもたれる様であった。あの麗しきニンジンを最後に口にしたのは、一体何時の事であったか。

 それにしても──駆士は東方の蛮族陣営をちらりと見た。

 やはり、モンゴルウマ娘が草の上でごろごろ(・・・・)している。何と情けなく、みっともない姿であろう。

 

 しかし、あんなに幸せそうなウマ娘の姿を、ローランは見た事が無かった。

 

 

 ◆

 

 

 使者団が皇帝の天幕(オルド)に帰ってきた時、チンギス・ハーンは満面の笑みで迎えた。

 

「我が半身よ、良くぞ戻った」

 

 落ち着きなく耳と尾を動かす青毛のウマ娘は、担当トレーナーの両肩を何度も叩いた。

 

「皆無事か、怪我は無いか、何か盗られた物は?」

「壮健にございます、我が君」

「おおそうだ、腹が減ったであろう。これは気が利かなかった。乾燥ニンジンが取ってあってな、これが絶品なのだ。これ誰かある、食膳を用意せい。大の男の飯だぞ、酒もしこたま」

「我が君、我が君。食事は後で一緒に頂きましょう。先ずは報告をさせて頂けませぬか」

「何、そうか、確かに食事は一緒の方が美味いからな。これはしたり」

 

 チンギスは呵呵と笑い、どんどんと足で地面を叩いた。トレーナーが、主君の二の腕辺りを何度か撫でると、チンギスは徐々に落ち着きを取り戻した。

 指導人は、担当ウマ娘の扱い方を熟知していた。

 そして何の準備もしていなかった食膳係はほっとした。

 

 チンギスは玉座に戻り、徐に肘を付いた。目を瞑り深呼吸すると、耳の動作がぴたりと止まる。

 瞼を開き、皇帝は言った。

 

「委細話せ」

『はっ』

 

 使者団、将軍、付き人──全ての者が平伏した。

 今やひりひりと張りと詰めた空気がオルドを満たし、主の許可無しには一挙一動も許されなくなった。

 もし隣人が首を刎られようとも──これが《チンギス・ハーン》というウマ娘だった。

 

「交渉は失敗しました。欧州の連中は、一歩たりとも前を退きませぬ」

「何、それでは戦うというのか。珍しい事(・・・・)だな」

 

 世界中の誰が何と言おうと、チンギスの認識ではそうであった。

 

「初め、総大将のポーランド王の元に赴きましたが、これは門前払い。次に神聖ローマ皇帝へ取り次ぎを申し出ましたが、取り付く島もございません」

「他の諸侯は」

「同じ事でしょう。彼らの神は頑迷です、我々を神の敵であると見なしております」

「我らは血を望まぬと、伝えてもか」

「彼らは信じません、本性からして疑り深いのです。和解の筋道は完全に途切れました。一重に私めの力量不足でございます、何なりと処罰を」

「良い、許す。元は私の失態である。一々謝るな、かえってむず痒い」

「我が君のご厚恩に感謝致します」

「他に要項はあるか」

「……ございません」

 

 チンギスは、トレーナーが僅かばかり言い淀んだ事を即座に看破した。目を細め、トレーナーの更に後方の将軍に問う。

 

「スブタイよ」

「此処に」

「お主から申す事はあるか」

「は。神聖ローマ皇帝、かの匹夫は、トレーナーを斬ろうとしました」

 

 大ハーンの瞳の底がぎらりと閃いた。肝を潰す様な圧がのしかかる。暫し呼吸を忘れた新米指導人が、顔を青くしている。

 しかし、スブタイは平然としていた。

 長い沈黙の後、チンギスは尋ねる。

 

「我が命を忘れたか、スブタイ」

「“指導人を害する全てを排せ”」

「その通りだ。だが、汝の革鎧は返り血を浴びた様には見えぬがな。どういった訳か」

「直ぐさま、奴めの頭をかち割って(・・・・・)くれようと剣を抜きましたが、阻まれ申した」

 

 チンギスは目を見張った。

 

「お主の剣を防ぐ者が居ったのか。かの如き迅雷の剣を、まさか……」

 

 専属指導人は無言で首肯し、スブタイの言葉に偽りの無い事を保証した。

 

「驚いた、壮士というのは西の世界にも居た様だ。名を聞いたか」

「ローランと申しました。黄金の毛並みに、澄んだ天上(テングリ)の目。匹夫の皇帝とは違い、大したウマ娘でございます」

「それで、どうした」

「二の太刀をくれようと思いましたが、代表殿に止められました」

 

 使者団代表は、また頷いた。

 チンギスは大方の事情を察し、怒りの矛を収めた。

 

「ならば、良い。交渉の件、委細分かった。スブタイ、太鼓を叩け。皆に戦備えをさせよ」

「諾」

 

 将軍が下がると、その他面々も、戦備えのため散っていった。

 オルドには、チンギスと専属人のみが残された。チンギスは肘をつき、声色低く己が指導人に聞いた。

 

「我が半身よ。お主から見てローランとやらは、どうであったか」

「率直に申し上げて、我が君の方が、あらゆる点で美しくあります」

「バ鹿者。そういう事を聞いているのではないっ」

 

 チンギス・ハーンは怒ったが、それ以上何も聞かなかったし、青毛の耳の動きは素直だった。

 指導人は主君に対して正直であり、やはり担当ウマ娘の扱い方を熟知していた。



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万バ不当のスブタイについて

我々は、その名をこそ知っておくべきであった──ワールシュタットの戦い後、とある欧州諸侯


 ヨーロッパ世界を最も震撼させた将軍は誰かと聞いた時、先ず挙がってくるのは、ハンニバルか、サラディンか、スブタイであるかと思われる。

 

 いずれも稀代の名将であるが、特に行動範囲に着目した時、スブタイは他者の追随を許さない。

 結果的にスブタイ将軍は、中央アジアからフランス西岸までという長大な距離を戦い、走り抜けた。

 その全ての地域に並々ならぬ衝撃を与え、社会構造を変化、或いは崩壊させながらである。

 

 西ヨーロッパ諸国においては、長きに渡り《Subutai》が悪鬼の代名詞として扱われる程、影響が大きかった。

 憶測で描かれた肖像画は如何にも恐ろしげで、目と耳はつり上がり、尾は逆立ち、歯を剥いた口は噛み付かんばかり。

 きかん坊に手を焼く親は言った。

 

「良い子にしないとスブタイが踏み潰しに来るよ!」

 

 カルタゴの雷光以来、泣く子も黙る恐怖の大将軍──とイメージされる方も多いだろう。

 

 

 しかし、モンゴル側の記録を紐解けば、全く違う実像が見えてくる。

 

 スブタイは、モンゴル高原のある部族の子弟として産まれた。何の変哲もない小さな部族で、族長の血筋という訳でもなく、一介の部族構成員に過ぎなかった。

 

 そんなスブタイの容姿は、モンゴルウマ娘にしては、ずんぐりとした大きな体躯と、これまたずんぐりとした表情をしていた。

 鹿毛の下地に白毛が混じるという(ぶち)毛は、多量にして癖もかかってもさもさ(・・・・)しており、前が見えているのか時折不安になる様だった。

 

 とても俊足そうに見えない容姿は、事実その通りで、部族の子供たちとの駆け比べでは何時でもどんじりであった。

 余りに勝てないため、周囲の子供に度々揶揄された。

 

「やあいやあい、走らずのウマ娘(・・・・・・・)やあい」

 

 駆けを何より愛するモンゴルウマ娘の感性からすると、かなりきつい悪口である。

 酷くからかわれたスブタイは、しかし決して涙を流さず、じっと唇を噛んで、拳を握るだけであったという。

 

 屈辱の幼少期を過ごしたスブタイが年頃になると、彼女をからかっていた部族の駿メたちは、次々にトレーナーに勧誘(スカウト)された。

 モンゴルダービー選手として巣立っていく同輩たちを、やはりスブタイはじっと眺めていた。

 ついぞスブタイに、トレーナーから声がかかる事は無く、何処かチームに所属する事も叶わなかった。

 

『モンゴル競バに独りで挑む様なもの』

 

 とは高原の慣用句で、無謀な行為、自殺行為を表す言葉である。

 確かに、山あり谷あり砂漠に川ありのモンゴル競バ一千キロの道程は、チーム最大十人をして凄惨な血路である。

 ましてや独力となると、比喩でも何でもなく自殺行為だった。

 

 だが、寡黙な駁毛のウマ娘は慣用句を断行した(・・・・・・・・)

 

 他人は後ろ指を指して笑った。

《走らずのウマ娘》が遂におかしくなってしまったと。

 スブタイは気にしなかった、笑われるのは慣れっこだったからだ。

 モンゴルダービーに参加する事は、スブタイにとって()ではなかった。

 単に確定事項(・・・・)であった。

 

 開始直後からドンケツを行くスブタイを見て、人々は直ぐに脱落するだろうと笑った。無力を思い知り、諦めるだろうと。

 しかし、第二地点(200キロ)第三地点(300キロ)を過ぎてもスブタイは駆け続けた。前を走る選手の背中が遥か遠く、見えなくなっても《走らずのウマ娘》は走り続けた。

 岩肌から転げ落ち、濁流に揉まれても、レースを続行した。

 彼女にとり、他人と比べどうだこうだという事は、さしたる問題ではなかった。一重に駆け続ける(・・・・・)と決意していたから、曲げないまでであった。

 

 そして、第七地点(700キロ)に到達した時、スブタイの肺は破れ、喀血した。

 

 ぼろきれの様なウマ娘が、口から血を吹いて転がり込んできた時、酒場の主人(第七地点はモンゴルに珍しい固定酒場)は仰天した。

 小心者の主人は、すわ暴力沙汰に巻き込まれたかと思ったが、ウマ娘が懐から木札を取り出して見せると、ようやくダービー選手だと気が付いた。

 

「飯と水を」

 

 息も絶え絶えに言うモンゴルウマ娘の足元には、今にもぽたりぽたりと血が落ちている。

 尋常ではない様子に、店主は青ざめて言った。

 

「およしなさい。今から前に追い付けるはずもありません。本当に死んでしまいますよ。何も駆けのために死ぬ必要は無いではありませんか」

 

 飯の包みと水筒をひったくる様に受け取ると、スブタイは毅然として言った。

 

「勇士は駆けの為に死すのだ」

 

 愕然とする小心の店主を背後に、スブタイは振り返らず駆け出した。

 その頃、既に先頭集団は最終地点を抜けており、優勝チームによる勝利の舞が披露されていた。

《走らずのウマ娘》に勝利の舞は無縁なりけり──スブタイは自らの血に溺れながらも走った。

 

 一方、スブタイの母親(ウマ娘)は、その舞に目もくれず、ゴール地点に立ち尽くしていた。娘の完走を信じていたのである。

 巷では、崖から落ちるのを見た、川に流されたのを見た、身の程知らずの事をして死んだ──等々の証言が流布していた。

 

 三日三晩の宴が終わり、それでもゴールで待ち続けている母に対し、陰口を通り越して哀れみが向けられ始める。

 遂に女は膝を折って、天を仰いだ。

 

「天上におわす天空神(テングリ)よ、草原を駆ける精霊よ! どうか娘をお戻し下さい。娘の意志は強固にして、出走を阻む事は出来ませなんだ。もしも、たった一人の娘を連れて行くと仰るならば、私も生きていかれる事は出来ないのです。この瞬間にも雷霆を遣わし、共に天に帰らせ給え──」

 

 祈りが通じたか通じまいか。母が顔を天から下げると、地平の向こうに影が一つ。

 あれは娘だ──母には直ぐ分かった。

 もさもさした駁毛は泥に塗れ、口から足までが鮮血に染まり、傷だらけの幽鬼の様な出で立ちで、尚も走り続けるスブタイだ。他にそんな者が居る訳が無い。

 ほとんど死人の様相で、ゴール板を通過したウマ娘は、その瞬間に倒れ伏す。母は、娘が地面に接する前に胸で受け止めた。

 

「ただいま」

 

 消える様なスブタイの声を母は確かに聞き、はらはらと涙を流したのだった。

 それから、二ヶ月の間スブタイは死線を彷徨う事となる。

 

 

 ◆

 

 

 事態が変わってきたのは、例の第七地点の酒場からだった。

 小心者の、しかしお喋りだった店主は物凄いウマ娘(・・・・・・)に出会った体験を、興奮しながら客に話した。

 曰く、口から血を吐いてでも、そのウマ娘はレースを続行したのだと──お喋りな店主の話に、客はすっかり感心した。

 その酒場から噂は広まり「凄い奴が居るものだ、天晴れ」という事になった。

 特に、モンゴルウマ娘の胸をうったのは、

 

『勇士は駆けの為に死す』

 

 という、そのウマ娘が去り際に残した言葉だった。

 喀血しながら走ったという威容も相まって、モンゴルウマ娘たちは、話中の人物に対し完全に参って(・・・)しまったのである。

 

 この《格言》が口伝えに伝わり、若者たちの間で大流行した頃、一命を取り留めたスブタイが、二ヶ月ぶりにゲルから顔を出した。

 当然この言葉を耳にするのだが──スブタイは自分の発言を全く覚えていなかった。

 というのも、血を吐く位なのだから、当時の意識は朦朧としており、ただ無我夢中の想いで一杯だったのである。

「偉い奴も居るんだなぁ」くらいの認識で、スブタイは気にも留めず、元の通り羊の世話をしていた。

 

 しかし、周囲のモンゴルウマ娘は違った。是非とも、噂の勇士をお目にかけたいと、真相を探り始めた。

 彼女らは、噂の根源である酒場の店主から、当時の状況や、そのウマ娘の人相を聞き出した。

 

 すると驚くべき事に《走らずのウマ娘》スブタイとしか考えられない、という結論に至る。

 そもそも、彼女が生きているとも思わなかったウマ娘たちだったが、直ぐにのんき(・・・)に羊を追っているスブタイを見付ける。

 

 捕まえて聞けば、確かにモンゴルダービーを独力で走り切ったと言う。

 それだけでも驚天動地のウマ娘らであるが、噂の人物はお前だろうと尋ねると、本人は覚えてないと言う。

 それならばと、スブタイを伴って件の酒場へ行くと、姿を見るなり店主は飛び跳ねて彼女の手を取り、

 

「またお会い出来るとは光栄の極み。あなたこそ、万バ不当のウマ娘です」

 

 と感激して言ったので、噂の人物は正しくスブタイであると決まった。

 本人は、終始不思議そうな顔をしていたという。

 

 

 噂はチンギス・ハーンの耳にも届いた。

 

「そんな勇士が居るのか、私見たい」

 

 と皇帝が呟いたので、スブタイは直ぐさま引っ張って来られた。

 何だか良く分からないが、大ハーンが自分を呼んでいると言うので、スブタイは素直にやって来て、頭を垂れた。

 チンギスは若者に問うた。

 

「ダービーを独力で走ったというのは汝であるか」

「はい、そうです」

「何故そんな事をしたのか、無謀にも程があろう」

「確かに、死にかけてございます」

「幼き頃から、鈍足を揶揄されたというではないか。そやつらを見返すためか」

「いいえ」

「然らば夢か憧れか」

「違います」

「ほう、では何だと申す」

「ずっと昔から決めていました故、そうしたまででございます。特別な理由はございませぬ」

 

 それを聞いたチンギスは、膝を打って高らかに笑った。

 皇帝を取り巻く側近らに言う。

 

「聞いたか皆の衆。この者は、自分で決めた事を一直線に成したのだ。偉い! モンゴルウマ娘たるもの、こうでなくてはならぬぞよ」

 

 気分を良くしたチンギスは、続けて問う。

 

「“勇士は駆けの為に死す”とな。感心したぞ。お主の言葉であろうが」

「真に申し訳なき事ながら、実は、言ったか否か覚えておりませぬ。その時は意識朦朧としており」

「正直な奴だ、むしろ感心が深まった」

「しかし、私は不思議に思うのです。僭越ながら、大ハーンにお尋ねしたく存じます」

「何か、問いを許す」

「この言葉が、それほど高尚なものでしょうか? モンゴルウマ娘なれば、至極当然の事と思われるのですが……」

 

 この接見で、チンギス・ハーンはスブタイの事がいたく気に入った──この会話が後に、チンギスに《遠駆け》を決心させた一因にもなったという。

 皇帝は、どうしてもこの若者を取り立てたいと言い出した。こうなった皇帝はどうしようもないと、臣下一同は知っていた。

 そうして、良く分からないまま連れてこられたスブタイは、やっぱり良く分からないまま大ハーンの臣下に収まったのだった。

 

 このスブタイの荒行以降『モンゴル競バに独りで挑む様なもの』という慣用表現は、従来の意では全く適当ではなくなってしまった。

 そのため、以後《無謀・自殺行為》という意味から《強い信念があれば困難な壁を乗り越えて成就させる事が出来る》という意味に変わったのである。

 

 

 ◆

 

 

 チンギスに取り立てられたスブタイは、みるみる頭角を現した。

 後世の大将軍としての評価から、軍法戦略によって、と思われるだろうが、実はスブタイ当初の活躍は文官的なものだったのだ。

 

 軍事訓練の諸準備であるとか、兵站部隊の編成であるとか──ウマ娘もトレーナーも、微妙に手が回らない位置に、すっぽりと収まったのである。

 黙々と仕事をこなすスブタイは、信頼を得て順当に出世し、大ハーン近衛兵団の教練を一任されるまでになった。

 

 スブタイは、チンギス・ハーンの意向を正確に汲み取り、集団・機動戦術を徹底させた。

 溢るる情熱に任せ好き勝手な方向に走っていきがちなモンゴルウマ娘たちを一から調教し、十人隊(アルバン)を最小単位として、百人隊(ジャウン)千人隊(ミンガン)万人隊(トュメン)と集団階層ごとの軍制を整備した。

 

 モンゴルウマ娘の機動力と忍耐力を活かし、高度な連絡網を作り上げ、変化する戦場に、より柔軟な対応を可能にした。

 軍団の連絡距離が伸びた事により、仮に軍団を分割しても、一つの巨大な生物の様に相関した行動が可能になった。

 モンゴル軍は最大行軍幅一千キロ(・・・・・・・・・・)という、中世の常識では有り得ない分進を可能したのだ。

 

 ここに至り、スブタイは《四駿四狗》筆頭であると自然に見なされ、チンギス・ハーンの最も信頼厚い大将軍にして、友人となった。

 

 モンゴルウマ娘というのは、人間同様の高等知性を持っているが──持ち前の牧歌的気質により、余計な事(・・・・)にその知性を使いたがらなかった。

 しかしスブタイは、モンゴルウマ娘が最も重視する俊足の才を得られなかったがため、仲間とは少し異なった知性の使い方をした、と言われている。

 

 また、彼女は楽器と歌の名手でもあった。

 特に《バ頭琴》に関しては、高原に並ぶ者無し、と評された。

 

 バ頭琴とは、モンゴルの民族楽器である。

 先端部にはモンゴルウマ娘の信仰する四本足の《草原の精霊》の顔が彫り込まれ、ウマ娘の尾毛を弦に張ったバ頭琴は、味のある独特の旋律を奏でるのだった。

 ウマ娘の身体の一部を使用した楽器のため、扱いは慎重にしなければならないとの戒めがあり、自分の尾毛を使ったバ頭琴を贈る事は、最大級の信頼(愛情)を示す行為であるとされた。

 

 スブタイのバ頭琴の弦は、親友ジェベの栗色の尾毛を張ったものであった。

 ジェベは舞の名人であり、この二人組による演奏演舞は、チンギス・ハーンを大いに喜ばせたという。

 それだけに《ルーシの悲劇》によってジェベが失われた時、積年の相棒を失ったスブタイは胸を潰した。

 ジェベの訃報を知らされた夜、そのバ頭琴に合わせた鎮魂歌は、一層もの悲しく陣に響き、皆を涙させたと伝わっている。

 

 

 ◆

 

 

《遠駆け》開始後のスブタイ将軍は、正に水を得た魚であった。

 彼女が主導して教練したモンゴル軍は、正に剽悍無比。破竹の勢いで西へ西へと駆け抜けた。

 

 モンゴル側の会戦の記録が簡潔極まる、と筆者は先述した。

 これは、モンゴルウマ娘の書記係が能天気だったから──というよりも(実際それもあるかもしれないが)、そう感じられても仕方がない程に簡単に勝てた、という可能性を示唆している。

 

 相手側の記述を読めば、当時の会戦の推移を知れるが、いずれも実に鮮やかなものである。

 最も有効な兵数、地形、タイミング、角度から、モンゴルウマ娘は相手に近付いて(・・・・)おり、敵は散々な敗走に追い込まれている。

 

 これは、ほぼ全ての場合、スブタイ将軍が総指揮官を務めていたのだ。

 

 モンゴルウマ娘たちは、そんなスブタイの凄まじさには余り気がいかなかったらしく、

 

『バ頭琴と歌の上手い人』

『演奏に合わせて踊るのが楽しい』

『大ハーンの一番の友達』

 

 とかいう記述ばかりが残っている。

 そんなスブタイ将軍は、人知れず激務であったと推察されるが、本人は壮健そのもの、疲労の色は全く見えなかったという。

 モンゴルダービーを独りで完走する程の無尽蔵の体力と精神力とが、彼女を支えていたのだった。

 

 かつて《走らずのウマ娘》と揶揄された鈍足の少女は、今や《四駿四狗》筆頭にして、無敗の大将軍へと成長した。

 

 そして、欧州連合軍との戦い以降《万バ不当のスブタイ(・・・・・・・・・)》として、ヨーロッパ世界に名を轟かせる事になるのである。



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戦の嚆矢について

 

 ポーランド西部に集結した《レグニツァ十字軍》は、モンゴル軍を侮っていた。

 彼らには数的有利があり、神のご加護があった。

 

 見よ、噂に聞く恐怖のモンゴルウマ娘とやらを。

 大軍勢を目の前にして、地面に寝転がり、草花を食みながらウトウトしている。

 あんなに可愛い連中が、ルーシを真っ平ら(・・・・)にした等と、にわかに信じ難い。

 きっと誇張された流言に過ぎぬのではないか──とある諸侯が半笑いで呟くと、周囲の同輩も頷いた。

 

 直前交渉が決裂したとの報告が流れて一刻程。ヨーロッパ人は、モンゴルウマ娘の牧歌的な姿を眺めて、微妙な空気になりつつあった。

 バチカンにおわす猊下が仰るのには、東方から《地獄の軍勢》が迫って来ており、遍く世界を焼き尽くすつもりなのだと。

 あれ(・・)がか?

 些かならず、大袈裟なのではないだろうか。ポーランド王の檄文に奮い立ち、世界を救うべく駆け付けたものの、全く拍子抜けである。

 

 それにつけても──欧州諸侯(貴族の嗜みとして、ウマ娘トレーナーを兼ねる)は、敵を睨め付けると言うよりも、品評する様な目付きでモンゴルウマ娘を眺めた。

 

 小柄で童顔の彼女らは、ヨーロッパウマ娘とは全く趣きが異なる。駆士道に生きる品行方正の臣下とは違い、野を走り回る彼女らの、何と天真爛漫な事か。

 一人一人が柔らかな笑顔で満ちており、毛並みは艶やか、日焼けした肌は健康そのもの。恐らく日頃、相当可愛がられているに違いない──モンゴルの凄腕トレーナー集団の面目躍如であった。

 

 諸侯らは、お互い目を合わせないようにほくそ笑む。

 どさくさ紛れで、一人くらい、持ち帰ってもバレないか──レグニツァ十字軍の宗教的情熱が、卑しい算段に代わった頃、戦場に変化が訪れた。

 

 

 史書は言う。

死体の山(ワールシュタット)の戦い》は太鼓の音から始まったと。

 

 

 モンゴル軍本陣、スブタイ将軍の発する轟きは、両軍の間隙も越して響いた。

 直後に異変は始まった。

 昼下がりのお日様を浴びてごろごろ(・・・・)していたモンゴルウマ娘たちは、耳をぴくりと動かして、音の鳴る方へ向けた。

 

「戦だって」

「やるよ」

「やるよやるよ」

「私たちはやるよ」

 

 弾かれた様に一斉に立ち上がると、思い思いに散らばっていたモンゴルウマ娘たちは、太鼓の音に指示された(・・・・・・・・・・)陣形へと駆け付けた。

 整然とした鶴翼陣形──僅か一分余りの整列だった。

 十字軍の驚愕もつかの間、モンゴルウマ娘たちは太鼓に合わせ、足を踏み鳴らし、掛け声した。

 

『オゥ、オゥ、オゥ、オゥ──』

 

 それは万の地響きとなって、レグニツァ平原全体を揺らした。太鼓の音が早くなると、合わせて掛け声も早くなった。

 

『オオオオオォォゥゥ──』

 

 更に太鼓の音が早くなると、モンゴルウマ娘の踏み込みもより早く、激しさを増した。

 それが最高速に達した瞬間、最後に一等大きく太鼓が叩かれた。

 

『ハィヤッ!!』

 

 その最後の踏み込みが、十字軍の芯を揺らした。

 その掛け声が、無形の雷霆となって全身を打った。

 その鬼迫が、モンゴル帝国(地獄の軍勢)の恐怖を思い出させた。

 

 今やモンゴル軍の一兵に至るまで弓を構え、同正面をぎらぎらと睨め付けて、太鼓一つで即座に矢を放つ事が可能なのは明白であった。

 あれがまさか、先刻の自由奔放なウマ娘と同じ生物なのか──十字軍諸侯の血の気は失せて、彼らの頼む重駆士の後ろに縮こまった。

 

 にわかに、モンゴル精鋭集団の中央に道が開いた。その真ん中を歩み寄ってくる影がある。

 十字軍の前に、一人のウマ娘が姿を見せた。闇夜をそのまま切り取った様な、黒よりもなお黒い、青毛のウマ娘である。

 相対する彼らには、そのモンゴルウマ娘が何者なのか、名乗らずとも分かった。

 静まり返った戦場に、ウマ娘朝モンゴル帝国皇帝──チンギス・ハーンの言葉が響く。

 

「私は慈悲を示したぞ。跳ね除けたのは、貴殿らである。あまつさえ、私の半身を殺そうとした。断じて許される所業にあらず」

 

 有無を言わせぬ声色であった。

 震え上がった十字軍を目の当たりにした大ハーンの脳裏に、専属トレーナーの懇願する顔がちらりと浮かんだ。振り払う様に尾を振ったが、掻き消えるものではなかった。

 仕方が無いので、一つ息をおいてから、言う。

 

「……いや、今からでも遅くはない。速やかに道を開き、兵糧を置いて行くが良い。本心から、それ以上を望まぬ。如何に」

 

 欧州一大の諸侯らは言葉も無い。

 チンギスが、敵陣の端から端までを見渡した時、朗々と響く声がある。

 

「笑止や、蛮族の王!」

 

 十字軍最正面に横列した、重駆兵からの声である。

 金色の髪が陽光にきらめき、それ以上の光を宿した空色の瞳で以て、駆士団長は返答した。

 

「態々出てきて何を言うかと思えば、先の交渉の焼き直しとはな。とんだ肩透かしよ」

「堂々とした奴め。名乗るがいい」

「神聖ローマ皇帝陛下の臣下にして、レグニツァ十字軍駆士団長、ローラン」

「ほう、お主が(・・・)。あくまで私の言葉を信じぬと」

「その悪魔も泣き出す所業、遥々欧州にも伝え聞く。口に上らぬ日は無い程だ」

「私、そんなに酷い事してないぞ」

「おのれー、まだ言うのか! 村の皆も怖がっているんだぞ、ならば私は守らねばならぬ。騙されるとでも思ったか」

「嘘を吐いた覚えも無いぞ」

「もはや問答無用。当方に迎撃の準備あり、神がそれを望まれる」

「さすれば血を欲す神を愛し、平和を愛さぬのか。不可思議な事だ。解せぬな」

「怖気付いたか、臆病者め」

「臆病者とは誰の事だ」

「お前以外に聞こえたか」

「私が?」

 

 チンギスはぽかんとして、続いて哄笑した。

 

「まさか、まさか。罵られること幾度なれども、臆病者と言われたのは初めてだ。これは可笑しい……うん、確かに往生際の悪い事であった。非礼を詫びるぞ、ごめん!」

 

 大ハーンが頭を下げると、主君のみに謝らせるのは忍びないと思ったのであろうか、周囲のモンゴルウマ娘たちも反省を口にした。

 

「ごめんなさーい」

「ごめーん」

「ごめんねー」

 

 口々の謝罪を受けて、ローランも言う。

 

「分かれば良し!」

 

 駆士は胸を張った。

 両者のやり取りを見て、両軍のウマ娘は「ほう」と感嘆のため息をついた──

 

 

 読者の皆様におかれては、このやり取りが奇妙に思えるかもしれない。

 だが、複数の一次資料に上記の会話が克明に残されているのである。

 この会話について、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘という女博士は、

 

「えらい。」

 

 と断言している。

 更に、後世様々なウマ娘文学者が、この説話を稀なる美談と絶賛しており、現代のウマ娘も同様に認識している。

 なので、人間である筆者からこれ以上を語る事は何も無い。

 因みに、この会話を聞いていた神聖ローマ皇帝とチンギスのトレーナーは、揃って顔を赤くした──というのは俗説の域を出ない。

 

 

 ともかく、チンギス・ハーンは最後に差し伸べた手を跳ね除けられた事で、方針を確定した。

 

「ならば私はこの様に言う他あるまい。敵に相対しては、万に一つの例外無く、私はこうしてきたのだから……高原の《走弓兵》よ!」

『オウッ!』

 

 モンゴルの戦士たちは高らかに返答した。

 

「とこしえの天上(テングリ)の力にて。チンギス・ハーンが命ずる。我々の目的地は西方なり、依然何の変わり無し。そこな横たわる障害を、尽く平らかにせよ(・・・・・・)

『御意!』

 

 チンギスは剣を抜いた。

 刀身を高々掲げ、ゆっくりと下ろし、真っ直ぐ眼前でぴたりと止めた。 

 

「放て」

 

 太鼓が鳴った。

 動作に寸分の狂いなく、モンゴル《走弓兵》は一斉に弓矢を放つ。

 ヨーロッパ人が粗末な(・・・)と侮った小型弓に放たれた矢の雨は──恐るべき距離を飛来し、尚且つ欧州諸侯の重鎧を貫通した。

 

 驚愕の悲鳴が上がった。

 彼らは、ただ知らなかった。

 剛力のモンゴルウマ娘が引く《複合弓(コンポジットボウ)》の威力を。

 あらゆる軍勢を粉砕した、スブタイ将軍率いる《走弓兵》の剽悍無比を。

 今やユーラシアの半分を席巻した《ウマ娘朝モンゴル帝国》の敵に対する無慈悲を。

 

 レグニツァ平原の、うららかな昼下がり。

 嚆矢は放たれた。

 無知が産んだ、史上最大の悲劇が始まる。

 

 

 

 



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モンゴルの走弓兵について

《ワールシュタットの戦い》におけるモンゴル軍の布陣は実に不可解なものであった。

 レグニツァは広い平原地帯であるが、態々河川を背に展開していたのである。

 

 モンゴル軍の布陣図を見たヨーロッパ人は失笑した。

 蛮人は戦の常道を知らぬ、これでは自分から逃げ道を塞いでいる様なものだ。

 十字軍の誇る重駆士団で、ちょいと小突いて(・・・・)やれば、川との挟み撃ちで楽に殲滅が出来るだろう──彼らは、後の恐怖の同義語《Subutai》の恐ろしさを未だ知らない。

 

「申し上げます。敵の重駆兵はなかなか、えいっえいっとは片付かぬ模様」

「六千か、やや多いな」

 

 スブタイという戦術家は、事前の情報収集を最も重視した。

 彼女は直轄の偵察部隊を擁し、全ての情報はスブタイまで集積され、必要とあらばチンギス・ハーンまで届けられるのだった。

 モンゴルウマ娘による伝令の速きこと、中世最高水準であり、スブタイの戦術眼を冴えさせたと言われている。

 

「申し上げます。敵全軍はひょっと、ばばんばーとしております」

「四万、すると我が軍の倍近くなる。どうしてやったものか」

 

 モンゴルウマ娘の報告は常に正確であった──が、それをトレーナーが読み取るのは困難を極めた。

 次々と伝令を受ける将軍に、トレーナーが「よく分かりますね」と尋ねると、スブタイは「普通に分かる」と答えたという。

 この事から、モンゴルウマ娘の伝令は同族のみに通じる符丁、または暗号の様なものを使っていたと考えられている。

 正確性に加え、秘匿性をも担保していたのである。

 

 集積された情報の読解は、スブタイによる翻訳(・・)が不可欠であったため、自然、将軍の周りには人集りが出来た。

 スブタイは特待の指導人を有さない珍しいウマ娘(曰く、別に寂しくないから)であったのだが、常に指導人に囲まれているという、不思議な立場だった。

 

『スブタイ将軍は可愛いので、何時も周りにトレーナーが一杯居た。羨ましい』

 

 とは、麾下のウマ娘の感想である。

 そんなトレーナーに囲まれた将軍が、想定以上の敵の多さに懊悩し、もさもさ(・・・・)した頭を掻きながらぐるぐる歩き回っていると、新しい伝令が入ってきた。

 

「申し上げます。敵全軍は、やあっとおっと片付く数にございます」

 

 駁毛の将軍は回る足を止めた。伝令を見れば、耳が得意げにぴょこぴょこしている。

 

「二万に届かぬとな。先の伝令は四万と申したぞ、随分と差があるではないか」

「確かに見てくれは四万にございます。が、気勢があるのはポーランド王、神聖ローマ皇帝、重駆士団くらいのもの。残りは士気も規律も低い、ただの寄せ集め。それ故に、数から引いたのでございます。我が軍の勝利、間違いなき事と存じまする」

「成程然り、良くぞ看破した!」

 

 スブタイは膝を叩き、傍らの袋に手を伸ばした。

 

「慧眼の褒美ぞ。乾燥でない、生のニンジンだ。食うが良い」

「はっ、有り難き幸せ」

 

 伝令は、本当に幸せそうに貴重な生ニンジンを齧りながら下がった。

《万バ不当》のスブタイはトレーナーの面々を見渡して言った。

 

「憂いは晴れた。太鼓を叩くぞ。諸君、戦だ」

 

 

 ◆

 

 

 太鼓と共に飛来する一斉射によって《ワールシュタットの戦い》の幕は切って落とされた。

 音は三度続けて鳴り響き、同じ数だけレグニツァ十字軍に矢の雨が降り、同じ数だけ悲鳴が上がった。

 

 彼らには分からなかった。

 何故、あんな粗末な弓(・・・・)から、こんな理不尽な射程が出るのか。

 分からないが、欧州に名だたる諸侯の、絢爛豪華な甲冑を無き物のように貫通し、鉄くずと肉塊にならしめている事だけが確かだった。

 遅れて盾が掲げられるも、矢雨の完全遮断は不可能で、矢じりが内側に飛び出してくる場合すらあった。

 

 モンゴルウマ娘が、一人一つ、必ず肩に引っ掛けている小型弓は、遊牧民族特有の《複合弓(コンポジットボウ)》と呼ばれるものである。

 これは、イングランドの長弓(ロングボウ)に代表される単一素材を巨大にして張力を確保──するのではなく、木材、動物の角や腱など複数素材を張り合わせ、膠でがちがち(・・・・)に固めた代物だ。

 

 一般的なモンゴルの複合弓は、屈強な男が拳一個分をやっと引けるか、という張力を有した。

 これをモンゴルウマ娘は胸一杯に分けてみせるのだ。その上で「まだいける」と余裕だったが、技術的制約により不可能なのであった。

 

 この弓は、矢を優に一キロ(・・・)飛ばした。

 しかし単純に命中率の問題があるため、射程は数百メートルにまで落ちるが、代わりに矢を重くして貫徹力の増強を図っていた。

 モンゴルウマ娘は、日常の狩りで戦と同じ弓矢を併用していたというが、矢が獲物の身体を貫通し、その向こう側の木に突き刺さる事がしばしばあったという。

 

 その様な強弓の一斉射は、正に死の豪雨と化した。

 

 死をもたらす雨は、しかし、三度までで終わる。

 四度目の太鼓が聞こえないので、十字軍が戦々恐々、盾と死体の隙間から頭を覗かせると、モンゴルウマ娘は舌をぺろぺろ(・・・・)させていた。

 少し和みながらも、やはり腹を立てた欧州諸侯はお返しとばかり、怒号と共に激しくクロスボウを射立てたが、それは届くというだけで全く威力を持たなかった。

 しかも、モンゴルウマ娘は矢を見てから(・・・・・・)軽くステップして避けるのだ。

 そしてまた舌をぺろぺろした。

 

 欧州連合軍は歯噛みして、遂に駆士団に突撃の号令をかけた。

 重駆兵突撃とは、特に中世ヨーロッパ世界においては必勝戦術であった。彼らの常識(・・)によると、戦争の勝敗とは即ち駆士の所有数に直結しており、つまりウマ娘育成に紐づいていた。

 欧州中の駆士が揃い踏みしている条件ならば、全く負ける道理が無い。ひとたび肉薄してしまえば、モンゴルウマ娘如き軽装兵など蹴散らせると盲信していたのである。

 

 よって作戦に変更は無かった。

 突撃によってモンゴル軍を河川際まで押し込み、自然と人力の挟み撃ちにする腹積もりである。

 そして肝心要の駆士団は、未だほぼ無傷であった。

 膂力のある彼女らは一層分厚い盾と、プレートアーマーを着込んでおり、先の矢勢に耐える事が出来たのだ。

 

 その駆士は大いに怒っていた。

 愛しい人たちが傷付けられ、自らの矜持すらも傷付いていた。

 ウマ娘はか弱い(・・・)人間を助けるために生まれたのだ──そんな《駆士道》を無垢に信じるヨーロッパウマ娘である。

 今か今かと待ちかねた突撃命令を聞いた駆士は口々に叫んだ。

 

神がそれを望まれる(デウス・ウルト)!』

 

 そういう事にされた神の名を叫びながら、欧州ウマ娘は身の丈以上もある大槍(ランス)を突き出して、突撃を開始した。

 この時に駆け出したのは、駆士団三列横隊のうち一列目である(後の二列は波状攻撃に備えている)。

 あからさまにかかって(・・・・)いる重駆兵突撃は、それでも重厚な威圧感で、モンゴルウマ娘たちを怯ませた。

 

 が、スブタイ将軍までも怯ませる事は全く叶わなかった。敵を鼻で笑う──事すらせず、淡々と言った。

 

「何だあれは、私より足が遅いぞ」

 

 かつて《走らずのウマ娘》と揶揄されたスブタイである。それを聞いた護衛のウマ娘は、冗談か否か判断しかねて、極めて微妙な愛想笑いをするに留まった。

 渾身の自虐ネタがウケなかったので、スブタイは耳を倒して落ち込んだ──なお、耳を倒した様子を見た護衛は「将軍は不機嫌であらせられる」と唾を飲み込んだという。

 

 重駆兵とモンゴル軍との距離は半分を切った。いよいよ怒り、地面を抉りながら一塊に突っ込んでくる欧州駆士の声が迫る。

 その鋼鉄の塊に、散発的に矢が射掛けられるも、分厚い盾に阻まれた。

 それを安全な(・・・)背後から見ていた欧州諸侯たちは考えた──やはり、重駆兵突撃に勝る戦術無し。蛮族の強弓には少し驚いたが、それさえ封じてしまえば、勝利あるのみだと。

 

 この期に及んで、ヨーロッパ人はモンゴル軍の真価を分かっていなかった。

 彼女らが何故軽装であるのか、何故弓が小型であるのか──答えは一つに集約する。

 

走弓兵(・・・)、駆けよ」

 

 将軍の命令により、鶴翼陣形に展開したモンゴル軍の両翼が一斉に駆け出した。

 何と、重駆兵突撃を真正面から受ける(・・・・・・・・)形に、である。軽装のモンゴルウマ娘は、風の様な速さで距離を詰めていった。

 駆士は面食らった。まるで自ら槍に突き刺さりに来た様に見えたからだ。

 

 遂に、槍先がモンゴルウマ娘の腹を貫くかと思われた瞬間──走弓兵は左右二又に分かれた(・・・・・・・・・)

 駆士には一瞬何が起きたか分からない。フルフェイスの兜越しに覗く狭い視界から、敵が消えた、とさえ感じられた。

 両者は接触するぎりぎりですれ違い、そして、

 

『オーッ! ハイッ!』

 

 両側面から、死の雨が叩き付けられた──モンゴルウマ娘が、駆けながら矢を放った(・・・・・・・・・・)のだ。

 ほぼ零距離からの矢勢は、重駆士の全身鎧(プレートアーマー)を貫通せしめた。駆士はバタバタと倒れ、突撃の勢いが殺されるまで全身で地面を抉りながら滑り、そして、動かなくなった。

 鎧の隙間からじわじわ流れ出す血液が、草原を赤く濡らした。

 

 必勝の確信を得ていたレグニツァ十字軍は、悪夢の様な光景に絶句した。

 

 

 ◆

 

 

 ウマ娘朝モンゴル帝国の《走弓兵》。

 

 近世以前の世界史上、無敵と言われる兵科である。所以は一つ、モンゴル走弓兵は、全力疾走しながら射撃した(・・・・・・・・・・・・)からだ。

 一見簡単な事に思われるかもしれない。だが想像してみて欲しい。貴方は走りながら、矢を番え、狙いを定め、尚且つ的に当てる事が出来るだろうか?

 恐らく、番えるまでは出来たとしても、身体がぶれてしまって狙う所ではないだろう。しかし、その点はモンゴルウマ娘とて同条件である。

 

 違いは、モンゴルウマ娘が跳ぶ(・・)事だ。

 

 それは《跳躍射法》と呼ばれた。

 走りながら矢を番え、射つ直前に地面を踏み切り、約十メートルを跳躍、その滑空中に射掛けた(・・・・・・・・)のである。

 この滞空時間中は、かなり身体の自由が利き、腰の回転によって、左側面に百八十度以上の照準が可能であった。

 また、跳躍の角度調整により、鉛直方向にもある程度の射角を確保出来るという。

 遥か十世紀前、かのローマ帝国を散々に痛めつけた、ウマ娘朝パルティアが編み出した事から、別名《パルティアンショット》とも呼ばれている。

 

 モンゴルウマ娘にとって跳躍射法とは、特別な技術ではなかった。

 幼い頃からモンゴル高原をぴょんぴょん飛び跳ね、獲物を狩る事は至極当然の日常であった。

 チンギス・ハーンが特異であったのは、この当然の技術を、一糸乱れぬ集団戦法にまで昇華させた事である。

 

「オーハイ」

 

 とは、モンゴルウマ娘が好んで使用する掛け声だ。元はモンゴルの祝詞の一種であったが、何時しか走弓兵の掛け声に用いられる様になった。

 モンゴル走弓兵は十人隊(アルバン)を一単位として編成されている。先頭を駆けるのが十人隊長で、後の九人が楔型に続く。

 隊長が「オー」という声と共に、手にした矢で標的・跳躍角度を後続に示し「ハイ」という声で、同時に地面を踏み切り射掛けるのである。

 

 大ハーンの意向を受けたスブタイ将軍は、この一連の動きを徹底的に調教した。

 初めこそ天衣無縫のモンゴルウマ娘は、行動を束縛されるのを嫌がったというが、最終的には、

 

「みんな狩りが上手くなった」

 

 と喜んだという。

 軽装の素早さ、複合弓、跳躍射法、集団戦法──これは足し算の解に過ぎなかったが、ヨーロッパ人にとっては地獄から湧き出てきた悪夢だった。

 

 

 ◆

 

 

 重駆兵の第一陣を叩き潰されたレグニツァ十字軍は、驚愕と恐怖の両方で静まり返っていた。

 だが、第二第三陣の駆士たちは、その限りではなかった。

 目の前で、仲間が、友達がやられている。中には即死を免れ、助けを求めている者がいる──例え悪魔が相手でも、座して見ている事など出来なかった。

 

 命令の無いまま、全駆士は突撃を開始した。

 駆士団長ローランは、死に向かう同胞を必死で止めようとしたが、叶うものではなかった。

 バ間槍試合(ジョスト)に慣れ親しんだヨーロッパウマ娘は、飛び道具は卑怯な道具だと教え込まれていた。あくまで肉弾戦への拘りを捨てられなかった。

 猛り狂い、無策に迫る重駆兵は、モンゴル走弓兵の格好の餌食だった。

 

「猪狩りだな」

 

 スブタイが呟くと、とある拍子で陣太鼓が叩かれた。モンゴルウマ娘たちは耳をぴくりと動かし、全てを承知した。

 走弓兵は、第一陣の焼き直しの様に、接敵するぎりぎりで矢を放ち、即座に離脱した。

 重駆兵は怒って追いかけようとするが、軽装のモンゴルウマ娘に追い付ける筈もない。すると別方向から矢が飛来してきて、一撃離脱で逃げていく。

 これが執拗に繰り返され、疲労困憊した重駆兵の足が止まった。

 すると今度は、一塊に立ち止まった敵の周囲を回りながら、雨あられの様にパルティアンショットが繰り返された。

 突破力も体力も失った重駆兵は、為す術なく外側から削り取られていった。

 

 

 倒れゆく駆士たちが、最期に思った事がある──それは「どうして、自分は向こう側ではないのか」という疑問であり、切望だった。

 

 生まれてこの方、思う存分まで草原を走った事がない。ウマ娘にとっては、余りに狭過ぎる貴族の荘園に縛り付けられ、特に好きでも無い競技をして、鬱陶しい鉄板を纏わなければならない。

 

 対して、モンゴルウマ娘はどうか。

 あの牧歌的な姿よ!

 今、次々に駆士を射ち抜いている格好でさえも、のびのびとして、何と自由な事か。

 主君(トレーナー)は、敵を地獄の軍勢だと言った。けれども、縦横無尽に草原を駆け、飛び跳ねる彼女らの姿は、地獄の軍勢と言うには、余りに美しい(・・・)

 

 嗚呼、きっとそれこそが《ウマ娘朝モンゴル帝国》だったのだ。

 願わくば、次に生まれ変われるなら、遥かなる草原へ──

 

 数多の名も無き駆士たちは、レグニツァの平原に散った。

 

 

 ◆

 

 

 ヨーロッパウマ娘たちの惨劇と同時並行して、スブタイ将軍は別働隊に命令を出していた。

 突出した駆士団と、十字軍本陣との間に煙幕(・・)を張らせたのである。

 油と薬品を染み込ませて火を付けた草束を、尾っぽに縛り付けたモンゴルウマ娘が、激しい煙を発生させながら重駆兵と十字軍の間を往復した。

 

 この煙には粘膜を痛め付ける効果があり、否応なく流れ出す涙と鼻水で、十字軍は何らの対抗手段を打ち出せなかった。

 悪い事に十字軍側が風下であって、早々の煙の解消は絶望的だった。

 

「魔術だ、蛮族が魔術を使いおった」

 

 とあるドイツ諸侯が、涙に塗れて叫んだ。これは全く的外れな見解であり、普遍的な化学反応と、スブタイが近隣住民に風向きの聞き取りをしていただけである。

 

 ようやく煙が晴れた時、彼らが目にしたのは──虎の子の重駆兵部隊が壊滅し、残党狩りをしながら此方に向かってくるモンゴル走弓兵の大軍だった。

 



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十字軍の反撃について

 

 駆士団を蹴散らし、煙幕の向こうから踊り込んできたモンゴルウマ娘軍団は、レグニツァ十字軍へ散々に矢を打ち込んだ。

 近距離では重駆士のプレートアーマーすら貫通する強弓である。欧州諸侯の鎖帷子など薄布も同然。盾を掲げようにも《走弓兵》は縦横無尽に駆け回るばかりか、ぴょんぴょん跳ねて上下角すら付いた射撃に即応する事は不可能であった。

 

「卑怯者、正々堂々と剣で戦え」

 

 そう叫んだ諸侯は、目立ってしまったためか、胸喉頭と、三箇所同時に矢を受けて永遠に沈黙した。

 その光景を隣で見ていた同輩は、声を上げる事すら出来なくなった。ばたばたと倒れていく神の軍(・・・)は、光景の凄惨さとは裏腹に、不気味なほど静寂に包まれていた。

 

 沈黙の最中、欧州人は思った。

 我々の如何な罪深さのせいで、この様な罰が与えられたのか──最も悲劇的なのは、彼らの考える罪とやらと、この大厄の間に、何らの相関関係が無い事だろう。

 

 しかし、未だ十字軍は秩序崩壊に至っていない。僅かに残った供回りのウマ娘駆士が、主人を守ろうと奮闘していたためであった。

 走弓兵に心臓をずきゅんされてしまった弩兵のクロスボウを拾って、怯える主人の前で壁を作り、何とか応射をしていたのである。

 

 さしものモンゴル側も全くの無傷では済まなかった。

 この応射を受けて倒れたモンゴルウマ娘は、隣を走っている十人隊(アルバン)の仲間が、即座に背中に抱えて戦場を離脱していくのだった。

 しかし、これは極少数例である。全体の損害比としては、目も当てられない段階に達しつつあった。

 

 

 小高くなった場所に陣を据えるモンゴル軍総指揮官──スブタイ将軍は、刻々と変化する戦場を、冷徹な瞳で眺めていた。

 左右の目耳をじっと正面に向けて動かさない。何かを測っている様子であった。

 

「やっているな」

 

 集中が解かれたのは、背後から主君の声がしたからである。「我が君」将軍は直ぐさま床几を降りて膝をついた。

 チンギス・ハーンは、軽く手を振って言う。

 

「苦しゅうない、皆の者楽にせよ」

 

 言ったのだが、スブタイは従わず、頭を下げたままであった。将軍の護衛、従者は、自分がどうして良いのか分からず、困ってしまった。

 チンギスは呵呵と一笑して、親友の肩を二度叩く。

 

「うん、今日もお前はスブタイであるな。好きにするのが良いぞ」

 

 気に止めた様子も無く、皇帝は前に進んで、戦場を臨んだ。それでようやくスブタイは立ち上がって、親友の少し後ろに並んだ。

 チンギスは青毛の尻尾を振り子の様に揺らして、縦横無尽の走弓兵を眺めた。

 

「そろそろだな」

「今暫くではありませぬか」

「いいや、頃合いぞ。見よ。前のウマ娘は奮闘しておるが、後の奴らめは逃げる算段をしておる。ああなっては、いかん」

「は……大ハーンのご慧眼、感じ入るばかりにて」

「世辞はよせ、自慢にもならぬ」

「陣太鼓を叩きましょう」

「止めておけ、悟られるとも限らぬぞよ。先鋒隊長はボオルチュであろ、なれば問題無い」

「しかし、ボオルチュの姐さんに、果たして機微が読み取れましょうや」

「何だ、奴も随分信用を無くしたな。まあ、見ておれ。矢玉飛び交う戦場に在って、ボオルチュの果断に勝る者無し」

「大ハーンの仰せのままに」

 

 チンギスは外套を翻して、後方へ戻っていった。友達が心配だったのだろう。

 直々の勧告を受けた将軍は、素直に有難く思い、その背中に拱手した。

 それから傍のトレーナーたちに、あれこれ指示を出す。やがて彼らを散らせてしまうと、再び戦場を俯瞰する。

 そして考えた。

 

 彼らが命を賭す西方の神とやらは、どれだけ偉大な顔をしているのだろうか──スブタイには全然想像もつかなかった。

 

 

 ◆

 

 

 本陣深くまでを押しに押されて、レグニツァ十字軍は壊乱の危機に瀕していた。

 ウマ娘駆士の顔に決死の覚悟が滲み出した頃である。

 

 無限に続くと思われた、降り注ぐ死の雨が、にわかに止んだ。

 常に最前線を掛けていた、小柄で芦毛のモンゴルウマ娘が、こう叫んだからである。

 

「なんてこった、矢が切れてしまった。これでは戦う事ままならん。逃げろ逃げろ」

 

 一目散に逃げ出した灰色の尻尾を見て、周囲のモンゴルウマ娘も呼応する様に叫んだ。

 

「わあ、ボオルチュ将軍が逃げてしまった」

「そんな、矢が無ければ戦えない」

「怖いよお」

「むりー」

 

 軍隊秩序の権化だったモンゴル走弓兵は、前線指揮官が逃げ出した事で、急速に士気を崩した。

 どたどた(・・・・)と逃げ出す敵軍を見て、血塗れの十字軍は呆気に取られたが、直ぐに熱狂に代わられた。

 

「やあ、蛮族が逃げ出したぞ。奴らは離れてしか戦えぬのだ。神は我々を救い給うた!」

 

 若い貴族が剣を掲げると、恐怖に縮こまっていた諸侯は、護衛のウマ娘の隙間から顔を出した。

 遁走する地獄の軍団を見るや、多くの者が、胸の前に十字を切って、手を合わせた。そして天に叫ぶ。

 

「恩寵に感謝致します。主は決して神の軍を見捨てなかった。今こそ反撃の時。神がそれを望まれる(デウス・ウルト)!」

 

 彼らは、信仰心と復讐心に滾った雄叫びを上げた。

 彼らの中で、神聖ローマ皇帝も、同じく雄叫びを上げていた。腕を振り上げ、その目は血走って、集団心理に泥酔していた。

 

神がそれを望まれる(デウス・ウルト)!』

 

 やはりそういう事にされた神の思し召しの大合唱が始まる中、駆士ローランは、畏まって主君に進言した。

 

「陛下、恐れながら申し上げます。我が駆士団は、もはや戦える状態にありませぬ。敵が退いたのなら重畳。ここは一度退いて、体勢を立て直すべきと存じます」

「何だ、そんな事を……」

 

 欧州屈指の指導人は、血走った目で寵愛するウマ娘の声を省みると、言葉に詰まった。

 ローランの美しかった金髪は泥と血に塗れ、頬は無数の細かい傷だらけで、あまつさえ肩に矢を受けて流血している。

 何故気が付かなかったのか──急速に血気の失せた目で、自慢の駆士団を眺めれば、顔ぶれの少なさに気が付いた。

 

「我が駆士ローランよ、オリヴィエは何処へ行った。リナルドは、テュルパンは」

「皆、討死しました」

 

 ローランは唇を噛んで、涙ながらに訴えた。

 

「正々堂々、立派な最期でございました。全ては陛下をお守りするため」

「おお、まさか、何と言う事だ」

 

 皇帝は、先程とは異なった意味で天を仰いだ。モンゴル走弓兵に対する恐怖よりも、愛するウマ娘の死が彼の胸を締め付けたのだ。一人のトレーナーは、がっくりと肩を落とした。

 

「分かった、お主の進言は尤もじゃ。これ以上の犠牲を出す訳にはゆかぬ、皆に言い聞かせようぞ」

 

 正気を取り戻した神聖ローマ皇帝は、急ぎレグニツァ十字軍の(名目上)盟主、ポーランド王の元に駆け付けた。

 年若いポーランド王は、彼自身の封臣に囲まれており、血に飢えた熱狂でぐらぐらと沸騰していた。

 そこに急に現れた冷静な人間とウマ娘、二名が撤退を勧めたのである。

 冷水をかけられた気がしたのであろう、ポーランド王は逆上した。話に耳を傾けるどころか、提案者をなじりすらした。

 

「これはこれは、敬虔な神聖ローマ皇帝とも思えぬお言葉。どうやら自尊心までも射抜かれ萎んでしまったと見えますな。主が与え給うた好機に背を向けるは、信仰に反するも同然ですぞ」

「うむ……しかし、既に我々は半壊しているのだ。追撃よりも、体勢を立て直すのが先決。今思えば、奴らはなぜ急に退いたのか。如何にも不自然ではないか」

「あの醜態が罠だとでも? あの蛮人共は、川を背にして逃げ場など無いというのに」

 

 年下の青年の無礼な物言いに、皇帝がぐっとこらえて食い下がると、ポーランド王は矛先を変えた。

 

「まさか、お付きの駆士に唆されたのですかな……おいそこの(・・・)、恥を知れよ。聖十字に仕える駆士なれば、命を賭して異教徒を打ち倒すのが当然であろうが。ふん、戦う事しか能の無いウマ娘如きめ。まさか蛮族に内通しているのではなかろ──」

 

 彼が最後まで言葉を繋ぐ事はなかった。

 神聖ローマ皇帝が、思い切り殴り飛ばした(・・・・・・)からである。

 地面を転がる一国の王の姿に、皆が驚き固まって言葉も無い中、欧州一のウマ娘愛好家は激昂した。

 

「貴様こそ恥を知れ、匹夫の小僧! 今の今まで駆士の背中に隠れておきながら、よくも抜かしたものだな。

 ウマ娘に戦うしか能が無いだと。では聞くが、広い麦畑を耕し、重い石材を運ぶのは誰のお陰だ。貴様はパンを食わぬのか、それとも城に住まぬのか。

 そこに感謝も無いのなら、貴様こそが蛮人だ。神に祈る前に、先ずウマ娘に謝れ。謝らんかあっ!」

 

 余りに凄まじい剣幕なので、敵軍より先に殺されかねないと思ったポーランド王は、鼻血を流しながらローランに非礼を詫びた。

 それでも怒気の収まりきらぬ皇帝を、ウマ娘が宥めると「ローランに免じて許す」と、ようやく気を静めたのだった。

 

 内輪で一悶着あった十字軍であったが、結局、追撃を中止する事にはならなかった。

 皇帝や王といった立場の者は既に乗り気でなくなっていたが、欧州各地の諸侯らは加熱しきっており、もはや止まらなかったのである。

 

 中世ヨーロッパ封建社会において、王や皇帝はあくまで並み居る諸侯の代表人に過ぎなかった。封臣に対する絶対権限を有さず、従って行動を極端に制限する事も出来なかった。

 その様な社会構造としての脆弱さが、戦場で露呈したのである。

 

 諸侯らは、思い思いのタイミングで、戦車(チャリオット)を走らせた。この追撃は全く疎らであって、相互協力など存在しなかった。

 神聖ローマ皇帝は深く失望し、しかし優しい声で、駆士ローランに言った。

 

「我が駆士ローランよ、ご苦労だった。残った団員を連れて、故郷に戻れ。この様な戦に付き合う義理は無いのだ」

「それでは、陛下はいかがなさるのですか」

「我は西方ローマの皇帝だ。即ち十字世界の守護者である。神に与えられた役目を放棄し、十字の軍を見捨てる事は出来ぬ。しかし、お主は違う。お前の帰りを待っている者が、村に沢山居るであろう。いや、いっそ敵に投降しても良い。同じウマ娘なのだ、命までを取られる事は──」

「陛下、それ以上情けない事を言われますな!」

 

 血と砂に汚れたローランは主君の言葉を遮り、跪いた。

 

「陛下は民の税を軽くして下さった。水路を拓き、村を潤して下さった。村の子供たちが、春を待たず飢え死にする事を無くして下さった。貴族が民を虐めるのを、戒めて下さった。まだまだ、言葉には並べられぬ程に」

 

 黄金の駆士は、詰め寄る様に、為政者としての皇帝の仕事を称えた。

 僅かに残った駆士たちも、同様に頷き、涙を流した。

 

「私は、心から嬉しかったのです。貴方の役に立ちたかった。取り立てられたあの日から、とうに陛下と身命を共にする覚悟。例え死して骸を晒し、骨拾う者なくしても、悔いはない。駆士は忠愛の為に死すのでございます」

 

 決死の訴えを聞き届けた皇帝は、やがて徐に自らの剣を引き抜いた。

 刀身に接吻し、その剣の腹を、未だ跪く駆使の肩に当てた。ローランの駆士叙任式以来の光景であった。

 

「そなたこそ、駆士道の鑑。ローマ皇帝の名において、汝ローランへ聖駆士(パラディン)の称号を授けるものなり」

「ははっ……」

 

 ローランは涙を流し、叙任を受けた。

 そして、神聖ローマ皇帝は戦車に飛び乗った。手を組み、祈りを捧げる。

 

「神よご照覧あれ! あなたの下僕は、自らの役目を果たすのです。神の軍とウマ娘に幸いあれ。下がって愚なる我が身に、あなたの祝福がありますように」

 

 ウマ娘を聖駆士に叙任した剣で、前方を指し示した。

 

「全軍突撃!」

 

 合図と共に、御者のウマ娘が勢い良く戦車を引いた。残った僅かの駆士たちが、高声を上げ主君の後に続き、草原を駆けた。

 

 神聖ローマ皇帝と、駆士団は既に死に溢れたレグニツァの平原を行く。

 彼らの命運は、ここに定まった。

 

 

 ◆

 

 

 モンゴルウマ娘は「わあ」や「きゃあ」等と叫びながら、尾っぽを振り振り、先とは比べ物にならない遅速で逃げ出している。

 そして間もなく、川岸に達した。追撃を仕掛ける十字軍は、遂に蛮族を追い詰めたと思った──が、モンゴル軍の遁走はそこで止まらなかったのである。

 

 モンゴルウマ娘は、川から所々突き出した岩肌を、ぴょんぴょん跳躍して渡り出した(・・・・・・・・・)のだ。

 それなりの幅がある河川であったが、彼女らは四五回足を着くだけで、向こう岸まで到達してしまった。

 

 諸侯はその身軽さに呆気にとられた。まるで軽業師の曲芸を見ているかの様だ──欧州人は知る由もなかったが、モンゴル軍は世界一過酷な障害物競走《モンゴルダービー》の走破者で構成されるのである。

 

 彼女たちは、高山を越え峡谷を跨ぎ、大河を泳いで砂漠すらも闊歩した。

 この程度の河川であれば、有って無いような障害であった。

 あっという間に全軍渡河してしまうと、再びのろのろ(・・・・)逃げ出した。

 

 しかし、十字軍はそうはいかない。

 重武装の駆士は、跳ねるどころか、岩の上でバランスを保つ事すら難しかった。それも人間であれば尚更である。

 追撃続行のためには、地道に川底を歩くしか術がなかった。

 

 絶妙であったのは、この川が、頑張れば渡れない事もなかった(・・・・・・・・・・・・・・)点にある。水かさは膝を超えるが、腰までは来ない位で、少なくとも溺れる心配は無かった。

 これがもし、鎧を着て転んだら間違いなく溺死する──そういう深さであったのなら、十字軍は渡河を諦めただろう。

 

 結果的に、十字軍は追撃を断念しなかった。

 駆士は水底をじゃぶじゃぶ歩いて、御者のウマ娘は戦車を担ぎながら、その後ろを、おっかなびっくり人間共は付いて行った。

 

 その間、モンゴルウマ娘は先に進んでいた。

 川の中から何とか様子が窺える──その様な距離間で、何やら仲間同士で取っ組み合いをしていた。

 ウマ娘二名が、お互いの腰辺りを両手で掴み、右へ左へよろよろしたかと思えば、片方が地面に投げ飛ばされる。

 時には平手で打ったり、足を引っ掛けたりしながら、相手を転ばそうとしているのだった。

 

 仲間割れをしている──レグニツァ十字軍は確信した。

 蛮族は天に背かれ、今、人に背かれた。正に逆転勝利は間違い無し。彼らは互いを励まし合いながら、渡河を急いだ。

 

 全軍が渡りきり、脱落者が居ないか点呼を始めた時も、モンゴルウマ娘は取っ組み合いを続けていた。

 一際大きな叫びが上がって、そちらを見れば、もさもさした駁毛の将軍が、青毛の蛮族王を投げ飛ばした所だった。

 遂に首脳までが争い始めたと合点し、諸侯は各々陣容を整えようとした。

 

 

 その時、あの陣太鼓(・・・・・)が再び鳴り響いたのである。

 

 

 現代の我々は、両軍の布陣図を俯瞰的に眺める特権がある。

 始めモンゴル軍は川を背にする、言わば《背水の陣》であった。

 これは、兵に決死の覚悟をさせ起死回生を目論む陣形であるが、スブタイ将軍の狙いは全く別だった。

 

 十字軍が渡河を完了した時点の布陣図を見てみよう。

 何時の間にか、立場が逆転しているのである。即ち、十字軍が川を背にして、それをモンゴル軍が挟み撃つ形である。

 

 スブタイの立案した陣形は、戦の常道を無視した訳でも、起死回生を狙った訳でもなかった。

 全てはこの時のために──敵に背水を強いる(・・・・・・・・)事に集約されていたのである。

 

 



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ワールシュタットの戦いの決着について

「うおおおスブタイ今日こそは勝ってみせるぞおおおあああスブタイ強いよおおお」

 

 飛び掛ってきた大ハーンを、駁毛将軍が軽く地面にのして(・・・)しまうと、歓声が上がる。

 

「また我が君の負け」

「天晴れ」

巨人(アヴァラガ)ッ」

 

 渡河後、あんまり敵の足が遅いため、むずむず(・・・・)し出したモンゴルウマ娘であったが《四駿四狗》のボオルチュがいきなり隣の部下を投げ飛ばしたのを発端に、軍団では総出の相撲(ブフ)が始まっていた。

 

 相変わらずの芦毛将軍、ボオルチュの奇行を面倒に思ったスブタイであったが、実は悪くないのではと思い直していた。

 作戦の肝は、十字軍に渡河を強いる所にある。確かに、ただじっと待っているだけでは疑われる可能性があろう。

 仮に『仲間割れしている』と思わせられるのならば悪くない、どころか全く良手ではなかろうか──ボオルチュが、それを狙ったのか、という問題は置いておくにしてもだ。

 

 スブタイは鷹の様な目で、川岸を睨み付けた。目論見通り、欧州勢のほとんどは渡河を完了している。

 大ハーンが「もいっかい、もいっかい」と耳を跳ねさせているのを突っぱねると、スブタイは陣太鼓を叩いた。

 取っ組み合っていたモンゴルウマ娘は、耳をぴくりとさせて、即座に軍事行動に移った。

 

 

 ◆

 

 

 大混乱の蛮族が急に息を吹き返した。

 レグニツァ十字軍には、その様に思われた。

「最後の抵抗だろう」という楽観が「謀られた」という絶望に置換されるのには、然程の呼吸を要さなかった。

 

 風の如き走弓兵が突撃してきて、掛け声と共に飛び跳ね射撃し、接敵する直前で引き返す──先とまるで同じ光景が再現された。

 異なるのは、布陣が逆転した事。自ら退路を断った(・・・・・・・・)という取り返しのつかない後悔であった。

 

 頼みのウマ娘駆士も、もう居ない。目の前が真っ暗になる有様であった。

 死の豪雨を命で受けながら、何も出来ないヨーロッパ人は僅かに期待していた。

 走弓兵の弾切れ(・・・)を、である。

 

 しかし、彼らの期待にモンゴル軍は全く応えなかった。

 渡河した先に、予め補給基地を設営していた(・・・・・・・・・・・・・)のである。展開を見越していたのだから、当然であった。

 矢玉を射ち尽くした走弓兵は、速やかに補給基地に引き返して補充を行い、ついでに水を飲んで、再び戦場に駆け戻った。

 実質弾数無限である。

 

 対して十字軍は、唯一の対抗手段であったクロスボウも、射ち尽くしてしまえばそれまでであった。

 暗い絶望の帳が、一様に十字軍を覆った。あれ程の熱狂も信仰も、走弓兵の大嵐を前にしては、遥か彼方まで吹き飛ばされて、世界の果ての滝から流れ落ちた。

 

 初めが誰だったのかは分からない。

 欧州諸侯は、雪崩を打って敗走を開始した。

 地獄の軍団から逃れる様に、悲鳴を上げて、我先にと川へ飛び込んだ。

 走弓兵は、そこへ容赦無く強弓を射ち込む。欧州に名だたる諸侯は、背中に不名誉の矢傷を受けて、川を真紅に染めるばかりであった。

 

 もはや、モンゴルの走弓兵は駆ける事すらせず、川岸に直立して複合弓を引くのみであった。真っ赤に流れる川を、不快そうに眺めたと言われている。

 

『戦にしては楽に過ぎ、狩りにしては実入りが無さ過ぎた』

 

 この時の様子を、走弓兵の一人が残している。

 モンゴルウマ娘は、敵を殺戮する事を感情的に嫌がっていた。だが、この場で攻撃を緩める事が、決して情け(・・)にはなり得ないと、合理的に熟知していた。

 モンゴルウマ娘に《妥協》の二文字は無いのである。

 その気性こそが、彼女らに内在する牧歌性と苛烈性を、矛盾なく両立させる支柱であった。

 

 今や巨大な血流と化したレグニツァ平原の河川であったが、それでも渡り切る諸侯が少数居た。

 有効に狙いを定められる射程を逃れた敵を、モンゴル走弓兵は追わなかった。

 それを後ろ目に眺めた十字軍の死に損ないは、神の名を思い出したか、号泣しながらその恵みに感謝した。

 

 ほうほうの体で離脱する敵を眺める、後の恐怖の代名詞、スブタイ将軍は、些か焦れた様に足を踏み鳴らした。

 

「遅い、何か起こったか。ジェベらしくもない(・・・・・・・・・)

 

 そのぼやきを聞いた側近のウマ娘が悲しそうな顔をしたのに気が付いて、スブタイは、はっとして訂正した。

 

「すまぬ、忘れてくれ」

 

 それきり将軍は、耳を畳んで黙って戦場を眺めた。

 愛用のバ頭琴に張られる、美しい栗色の弦を思い出していた。戦が一段落したら、手入れをしておこうか──

 

 

 ◆

 

 

 何故か追撃を掛けてこない地獄の軍団を、奇妙に思う事すら出来ない十字軍残党は、足を引きずりながら逃げている。

 初め四万を下らなかった神の軍は、今や千に満たない数まで減らされ、しかもほとんどが負傷していた。

 

 何故こんな事になったのか、彼らには分からなかった。否、戦が始まってから此方、何もかも分からなかった。

 ただ、彼らはモンゴルウマ娘の事を知らなさ過ぎた。

 

 後世の人々は言う。

 道を開ける(・・・・・)だけで平和裏に済む事を、何故そうしなかったのか。中世人は愚かだ──だが、彼らは実際、この時代に生活していた事を忘れてはならない。

 彼らには先祖代々の土地があって、愛する家族があった。心から信じるものがあり、譲れないものがあった。

 そこに東方から正体不明の、風説に拠れば凶悪な軍勢が唐突に現れたのだ。

 後世人がもし同じ立場に置かれた時、果たして『賢い』選択が出来ただろうか?

 これ以上を筆者からは何も言うまい。彼らが本当に愚かであったのかは、個人の判断に委ねる事にしよう。

 

 

 ともかく、彼らは必死に生きようと、力の限り足を動かしていた。

 その時である、重いバ蹄の音が鳴り響いた。背後からではない、正面から(・・・・)である。

 

 スブタイの軍略は辛辣を極めた。

 先んじて回り込ませていた重駆兵の別働隊二千が、敗走する敵を殲滅せんと殺到してきたのである──かつて《韋駄天》のジェベ将軍が率いたモンゴル重駆兵は、特に走力とバ力のあるウマ娘を厳選されていた。

 そして、チンギス・ハーンの高原統一を助けた百戦錬磨のウマ娘が多く属する、モンゴルの人的資源の精髄であった。

 

 重駆兵は、十字軍に殺到しながらも激しく弓を射掛けると、走弓兵とは異なり一撃離脱はせず、そのまま抜剣して敵軍にぶち当たった。

 先頭を逃げていた諸侯は、全身の骨を砕きながら宙を舞う。そこに空いた隙間から、モンゴル重駆兵が雪崩込む。

 一瞬の間に、前列を逃げる人間は木の葉の様に千切れ飛んだ。

 

 そして足が止まると、いよいよ肉弾戦が始まった。戦果を決定的にするには、避けられない過程である。

 既に満身創痍の十字軍だ、そのまま難なく引き裂かれてしまう──と思いきや、意外な事に、モンゴルウマ娘は苦戦した。

《神の軍勢》最後の意地だろうか、死兵と化した人間もウマ娘も、真正面から食って掛かったのである。

 そしてやはり、西洋駆士は強かった。

 特に最前列で戦う、黄金毛の駆士の大槍が横に薙ぎ払われると、百戦錬磨のモンゴル重駆兵が同時に三人吹き飛ばされた。

 

 モンゴルウマ娘が怯んだ所に、高貴な甲冑を着込んだ、壮年の男が斬り掛かる。

 重駆兵は面食らうも、所詮は人間とウマ娘。鍔迫り合いを突き返すと、人間は勢い良く地面を転がった。

 それを見た金髪の駆士が、怒号を上げて槍を突く──

 

 しかし、余りにも多勢に無勢であった。

 死闘を繰り広げる間にも、一人、また一人、永遠なる神の抱擁を受けていった。

 千人足らずであったレグニツァ十字軍が、三桁を割った頃である。

 モンゴル軍本隊は、再度ぴょんぴょんと渡河を始め、重駆兵隊と合流しようとしていた。

 

 

 ◆

 

 

 太陽の傾いたレグニツァ平原は静まり返っていた。

 数多の死体が浮かび、真紅に染まった川を飛び越えるのは、不愉快の極みであった。

 天真爛漫のモンゴルウマ娘も、この時ばかりは誰も彼も口を噤んで喋らなかったという。

 

 スブタイは、各千人隊(ミンガン)から損害報告を受けていた。

 いずれも損害軽微、歴史的圧勝を示していた。けれども何処か鬱々とした千人隊長を、代わる代わる見るにつけ、将軍の気分は沈んでいった。

 

「大勝ではありませんか」

 

 記録係のトレーナーが、将軍を気遣う様に話しかけた。他の側近たちも「おめでとうございます」と、努めて明るく続けた。

 だがスブタイは「うん」と頷いただけで、耳は畳んだまま、尾っぽを膝に置いて無意味に撫でていた。

 

 その時、重駆兵隊から伝令が届いた。

 いよいよ敵を殲滅したか、大ハーンの命令を完遂出来たかと、将軍は思ったが、何やら伝令の様子がおかしい。

 伝令のウマ娘は困惑した様に黒目が定まらず、耳の動きが忙しなかった。

 スブタイが理由を尋ねると、恐縮して答えた。

 

「手の付けられない駆士が残っております」

「射殺せ」

 

 将軍には慈悲も容赦も無かったが、同時に、それが出来ない理由があるのだと気が付いた。

 スブタイは重い腰を上げて、伝令に付いて行った。

 

 連れて行かれたのは、最後にモンゴル重駆兵突撃が行われた周辺であった。

 死屍累々である。ぱしゃりぱしゃりと、巨大な血溜まりに大切な靴を汚さねばならなかった。

 スブタイの辟易は頂点に達しつつあったが、ふと、折り畳んだ耳を開いた。

 声がするのだ。見れば、向こうでモンゴルウマ娘の人集りが出来ており、その中から聞こえるのだった。

 

「寄るな、寄るな無礼者。この方をどなたと心得る。恐れ多くも、神聖ローマ皇帝陛下であるぞ。くそう、誰だ、誰だ──」

 

 スブタイの胸は耐え難く締め付けられた。とある両名に心当たりがあった。

 足が止まりそうになった──が、自分を奮い立たせる。「将軍」「スブタイ将軍が来て下さった」震えるモンゴルウマ娘の、何処かほっとした声を聞きながら、人集りを分け入った。

 

 人集りを抜けると、そこには、囲まれに囲まれた駆士ローランが居た。

 黄金の毛並みは血煙に汚れきり、肩に腹に、ウマ娘の命である足にも矢を受け、今も血を垂れ流している。

 それでも、ローランは全身全霊で叫ぶのである。

 

「おのれ出てこい。誰が……誰が私のトレーナーさん(・・・・・・・・・)を殺した! 許さない、絶対に許さないわ。出てこないなら、貴様ら全員を地獄に送り返してやる」

 

 ローランは、横たわる一人の死体を守るようにして立っていた。

 高貴な甲冑を身にまとった、壮年男性の死体であった。腹に矢が突き立ち、袈裟懸けに胸を斬られた、無惨な遺体であった。

 

 血の滲む様な──実際口端から血を流し、錯乱した様に槍を振り回して、ローランは雲霞のモンゴルウマ娘を睨めつけた。

 激しい涙の奥に宿る、剥き出しの気迫に、モンゴルウマ娘は怯えきり、弓の一つも引くことが出来なかった。

 

 否、怯えた(・・・)というのは正確でなかろう。

 彼女たちは知っていた。『自分のトレーナーを亡くす』という事が、どういう事であるか、皆が知っていたのである。

《ルーシの悲劇》去来するのは、あの痛ましい記憶であった。

 

「私だ」

 

 ローランの瞳が、その声の主に向いた。

 

「私が、彼を殺した」

 

 駆士には、そのもさもさした駁毛に見覚えがあった。一度きりだが、剣を交えた相手である。

 

「スブタイか」

 

 仇を目の前にしたローランは、奇妙な事に、幾らか落ち着きを取り戻した様にも見えた。

 主君が雑兵ではなく、大将軍に殺されたと思えばこそ、駆士道的な慰めがあったのかもしれない。

 

「お前が陛下を、トレーナーさんを」

「そうだ、私が立案した作戦だ。全ては目論見通りだった。何が起こるのか、初めから分かっていた」

 

 将軍は、駆士の足元の遺体を見た。

 十字軍のほとんどが、背中の傷が致命傷になったであろう中、彼には正面の傷(・・・・)しか無かった。

 最期は、甲冑ごと袈裟懸けに斬られたに違いない。即ち、人間の身にありながら、モンゴル軍の精髄に斬りかかった事を示していた。

 

「私は、大ハーンに彼を匹夫だと言った。だが取り消すぞ。神聖ローマ皇帝は、勇士であった」

「私は初めから知っていた」

「そうか、悪かったな」

「スブタイよ」

「何か」

「剣を抜け、先の続きをするぞ」

 

 スブタイは直ぐに従わなかった。

 暫し沈黙してから、やっと声を押し出す様に応じる。

 

「ローランよ、お主を斬りたくはないのだ。お主の勇猛果敢なる事、我が君も、兵士すらも皆、承知しておる。どうだ、共に駆けるつもりはないか。駆士ローランが高原の軍に加わるのであれば、これ程に心強い事は無い。如何に」

 

 周囲のモンゴルウマ娘が「おお」と感嘆を漏らした。確かにその通りだと、深く首肯する。

 主人から聖駆士(パラディン)の称号を与えられたローランは、涙を拭い、一言で応えた。

 

「お前が同じ立場であったなら、そうするのか」

 

 その一言に、一切合切が詰まっていた。

 スブタイが何も言えないのを見ると、ローランは歪に曲がった槍を捨て、腰の直剣を抜いた。

 

「お前たちは分からないかもしれないし、分かってもらうつもりもない。だがな“駆士は忠愛の為に死す”のだ。私は駆士道を全うする」

 

 にわかにモンゴルウマ娘はざわめいた。似た言葉を聞いた事があったからだ。

『勇士は駆けの為に死す』

 正に《万バ不当》のスブタイの言葉である。まさか遥か遠く西方の駆士が、相似した言葉を言うとは──

 

 スブタイは目を瞑って、天を仰いだ。

 彼女は専属トレーナーを持たぬ。故に、今のローランの気持ちも真には分からぬ。

 代わりに思い出すのは、朋友ジェベであった。

 栗毛の友人は、何時でも愛するトレーナーの為に走り、戦い──そして死んだ。

 

「お願い、トレーナーと一緒に居させて」

 

 あの最期の言葉が、スブタイには理解出来なかった。どうしてそこまで、身も心も委ねてしまったのか。《四駿四狗》の友情は何でもなかったのか。

 どうしても受け入れられなかった。今でも偶に、生きているのではないかと、錯覚する事があった。

 だが、そうか。

 お主は忠愛の為に(・・・・・)──スブタイの目が、かっと開かれた。その中には迷いの消えた光が宿る。

 レグニツァ平原には、紅い夕日が射し込んで、駆士と将軍に当たっていた。

 

「そうか、そうだったのだ。お主は、己の死す理由を知っていた。ならば私は“駆けの為に死す”のみである。チンギス・ハーンの《遠駆け》の邪魔立ては、何人たりともまかりならぬ。我が君の行く道先は、我、スブタイが尽く開いてみせよう」

 

 大将軍は抜剣した。刀身が夕日を反射する。

 聖駆士が言った。

 

「ゆくぞ」

「こい」

 

 二人は同時に斬りかかった、剣がぶつかり火花を散らす。

 互いは互いの凄まじい膂力によろめいた。

 だが、二の太刀だ。直前交渉のあの時は、チンギスの指導人に止められた、あの太刀だ。

 足に傷を受けたローランは、直ぐに体勢を立て直す事が出来ない。

 だがスブタイは、血と夕日で真っ赤になった大地を踏みしめ、二の太刀に全身全霊を込めた。

 

 その太刀が、ローランの甲冑を叩き割り、肩にくい込み、脇腹へ抜けた。

 

 それは奇しくも、神聖ローマ皇帝と同じ傷であった。一瞬遅れて、甲冑の割れ目から鮮血が吹き出し、スブタイの顔に掛かった。

 

「天晴れ、見事」

 

 好敵を称えると、ローランはぐらりとよろめき、剣を取り落とした。間もなく膝から崩れ、深紅の地面に倒れ伏す。

 倒れる直前に、彼女はどうしようもなく不安な表情を浮かべた。

 そして、這うようにして彼女のトレーナーの元に赴き、手を重ねると──安心した様に笑い、事切れた。



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ローランの歌について

 モンゴルウマ娘たちは、西方で出会った尊ぶべき敵の遺体を、せめて整えてやろうと試みた。

 血を拭うために、駆士の鎧を外そうとして、その余りの重量に驚いた。一般モンゴルウマ娘では、着て戦うどころか、走る事すら難儀という重さである。

 こんな莫大な質量が、一塊となって突撃してきていたのか──そう思い直すと、今更ながら肝を冷やしたのだった。

 

 黄金の駆士と、そのトレーナーの身体を出来る限り綺麗に整え、隣に並べ、手を繋がせてから、モンゴル軍は更なる西へ移動した。

 既に日が暮れていたため、そう長くは移動せず野営する事となる。

 

 

 その夜、チンギスは眠る事が出来なかった。大きな戦の後は、昔から変わらずこうであった。

 何か頼りない心地がして、青毛のウマ娘は天幕(オルド)を出る。澄んだ夜空に、星が美しく見えた。

 すると、兵たちも眠れぬ様子で焚き火を囲み、尾っぽをぱたぱた(・・・・)させながら、酒などをやっていた。

 チンギスが寄っていくと、高原の兵は挨拶をした。

 

「あっ、我が君」

「我が君こんばんは」

「こんばんはー」

 

 大ハーンは微笑んで「混ぜてくれるか」と言うと、モンゴルウマ娘は喜んで酒盃を満たして渡した。

 チンギスは焚き火を囲む兵たちに混じって、酒を飲み、同郷の士と語り合った。

 遠い故郷の事、これからの旅路、指導人さんたちの事──他愛も無い話である。普段であれば、そのうちに目がとろとろとしてくる頃合であったが、何故か皆、目が冴え冴えしているのだった。

 自然、話題はその日の戦の事になった。

 

「何と手応えの無い戦だったろう」

「しかし、あの駆士と指導人の立派な事よ」

「勇士なり」

「願わくば、自分もあの様に死にたいものだ」

 

 酒が進み、段々と声が大きくなってきた臣下たちの話に、皇帝はじっと耳と盃を傾けていた。

 話は段々と盛り上がりを見せ、やがてモンゴルウマ娘は一つの話題に行き着いた。

 

「大ハーンの会う中で、勇士一番とは何者なりや」

 

 熱っぽい好奇の眼差しが、一斉にチンギスに向けられた。 数多の戦、出会いと別れを経た大ハーンである。

 四駿四狗の何れか、はたまた遠駆けの最中に出会った誰それか──モンゴル皇帝は、迷わず答えた。

 

ジャムカだ(・・・・・)。後にも先にも、奴ほど私を苦しめた者は居らぬ。彼奴こそ、真の高原の勇士に相応しい」

 

 想定外の回答に、兵は静かになってしまった。

 ジャムカというウマ娘──チンギス・ハーンが、未だテムジンと名乗っていた頃の人物である。

 彼女は高原統一戦争の折、愚かにもテムジンに逆らい、最期は処刑された悪バである、と世間に認知されていた。

 その逆賊を、何故皇帝自らが賞賛するのか、分からなかったのだ。

 

 しんとなった焚き火の一角で、誰かが哄笑した。

 怪訝な視線を集めたのは、大きい耳と豊かな尾毛、小柄で芦毛の、ボオルチュ将軍その人であった。

 

「いやいや我が君の謙虚なる事、感服仕る。しかしこれでは、全く旧臣の面目も無い様です。私は、チンギス・ハーンが第一の勇士であると信奉すればこそ、あなたに付いて来たのですから」

 

《四駿四狗》最古参であるボオルチュ将軍の言葉に、モンゴルウマ娘たちは、はっとして、改めて大ハーンに跪いた。

 

『御無礼をお許し下さい。チンギス・ハーンこそ、勇士一番で御座います!』

 

 モンゴル皇帝は、敢えて尊大な笑顔で「ありがとう」と応じながら、暗に旧臣から窘められた事を反省していた。

 そのボオルチュが、いきなり立ち上がるや、言った。

 

「さあ、皆様まだまだ眠れぬ御様子。こんな夜は、あの音(・・・)を聴くに限る」

 

 皆まで言わずとも分かった、スブタイ将軍のバ頭琴の旋律である。しかし、この夜更けに──と兵が思っていると、チンギスが代表した。

 

「よさぬかボオルチュ、今日ぐらい休ませてやれ」

「我が君は知らぬのですか、奴めに疲労の概念は存在しないのです」

「そういう意味じゃないんだよね」

 

 しかし、バ耳東風のボオルチュは、持ち前の瞬足ですっ飛んでいった。

 勢いそのまま大将軍のゲルに突っ込むと、もさもさ駁毛のスブタイは正にバ頭琴の手入れをしている所だった。

 彼女は彼女で思う所があり、眠れなかったのである。

 

「大ハーンがお前のバ頭琴を聞きたいと呼んでいるぞ」

 

 それはお前だという指摘はこの場に無かったので、スブタイは素直に「これは丁度良い、試し弾きをする所でした」と腰を上げた。

 スブタイは良い子だった。

 

 バ頭琴を片手にのこのこ(・・・・)やって来たスブタイは焚き火の一角に腰掛けた。差し出された酒を一口で飲み干す。

 何だか皆が申し訳なさそうに耳を折って居るので、本人は不思議に思った。

 

「然らば、お耳汚しを」

 

 スブタイ将軍は、徐に弓を弦に当てた。間もなく、モンゴルウマ娘たちはうっとり聞き惚れた。

 

 故郷を思わせる雄大な旋律であった。

 広々とした大地、吹き渡る風、時には激しい雷に、凍てつく冬、そして青々とした春の草原──その旋律は、モンゴルウマ娘に根源する心象風景を呼び起こした。

 

 その序曲に望郷の念に駆られていると、次には《遠駆け》の旅路を想起させ、冒険心を刺激する早拍子へと移った。

 まだ見ぬ景色がこれから待っているという期待に、モンゴルウマ娘は胸を高鳴らせた。

 

 単に演奏の腕だけではなく、演奏構成が実に巧みであった。

 我慢できなくなった兵たちが、焚き火を中心に、手を取り合って踊り始める。スブタイの演奏に合わせて踊る事ほど気持ちの良い事も無いのだった。

 そのうちに、愉快な音を聞き付けた周辺の兵たちも加わり、思い思いに踊り始めた。

 今まで臣下たちを眺めていたチンギスが、ふと立ち上がり軽やかな足踏み(ステップ)を披露すると、盛り上がりは最高潮に達した。

 

 やがて曲が終わると、わあっと星空に届く様な歓声が上がった。尾を振り耳を振り、足で地面を叩いて大ハーンと将軍を喝采した。

 チンギスがスブタイの肩を叩いて、今日の戦功と、演奏を労った。しかし、スブタイは浮かぬ顔である。

「最後に、もう一曲」そう言って、バ頭琴の栗色の弦を撫でる親友の様子に、並ならぬものを感じたチンギスは深く頷いた。

 

「朋友の為に」

 

 最後の演奏が始まる。

 興奮の最高潮であったモンゴルウマ娘たちは、一瞬耳を動かすと、直ぐに静まった。

 聞いた事の無い曲であった。

 まさかスブタイ将軍の新曲か──自然聞き入れば、それは激しく、気高い、しかし何処か悲しげな旋律であった。

 スブタイは異様な身の込めようで、バ頭琴を弾き続けた。聴衆は一層聞き入った。

 そして、夜空に歌声が響く。

 

 

 ローラン ローラン──

 遥か駆けた西の果て 真の勇士を見つけたり

 勇士の名はローラン 壮麗なる黄金の駆士よ

 金の御髪を靡かせて 命は惜しまぬ忠のため

 雲霞の敵を前にして 一歩も引かぬ愛のため

 

 ローラン ローラン──

 終ぞ心身朽ちるとも 金色が失せる筈も無し

 何故なら汝の輝きは 真なる御霊の光輝なり

 どうか草原の精霊よ 御魂を乗せていき給え

 どうか草原の精霊よ あの平原へ帰らせ給え

 

 ローラン ローラン──

 世にも稀代の優駿は 私を抜いて去ってゆく

 この鈍足を差し許せ 今に後から着いてゆく

 どうか草原の精霊よ 我が道筋に先立ち給え

 どうか草原の精霊よ 皆待つ平原へ誘い給え

 

 ローラン ローラン 朋友よ──

 

 

 (うた)が終われば、モンゴルウマ娘は、皆さめざめと涙を流していた。

 尊ぶべき黄金の駆士を、自ら斬り捨てたスブタイは、黙って一筋の涙を零していた。

 ただ俯いて詩を聞いていたチンギスは、顔を上げて、言った。

 

「そうか、お前は朋友を失った。いや違う、私も同じなのだ。此処に居る誰しもが、友を失うとも、今まで駆け続けてきた。きっとこれからも、失い続けるのだろうか。ともがらの命を背負い、駆け続けるのだろうか」

 

 ジャムカよ──チンギス・ハーンは、過去に自ら踏み殺した朋友の名を心中に呟いた。

 星空を仰ぐも、決して涙は零さない。「大ハーンたる者、臣下の前で涙を流してはならない」栗毛の朋友の言葉を覚えているからだ。

 自分は様々な想いを背負って走っている。これから、その重さに耐えきれなくなる日が来るのだろうか──チンギスは、親友が手にするバ頭琴の弦の色をしみじみ眺めた。

 

「その見事な音も、弦が切れてしまえば二度とは聞けぬ。何と惜しい事であろうか 」

 

 皇帝が嘆くと、スブタイは首を傾げて答えた。

 

「いえ、この弦の予備は一生分ありまする」

 

 チンギスはぎょっとして、青毛の尾っぽが一瞬逆立った。

 どういう話か分かりかねた。さては怖い話なのか──目をぱちぱちさせていると、もさもさ駁毛の将軍は説明を始めた。

 

 こういう事である。

 このバ頭琴はジェベに生前贈られた代物である。深い信頼の証であるので、スブタイは有難く受け取った。

 実際に弾いてみると、癖の無い栗毛の弦は非常に具合が良かった。それを伝えると、ジェベは殊の外、驚くくらい喜んだ。

 その翌日、ジェベは尻が禿げ上がる程に尾毛を引っこ抜き、結った弦を嬉しそうに渡してきた。

 スブタイは絶句したが、断るのも可哀想なので受け取った。それから、毛が生える早さに同期して、定期的に弦を渡してくる様になった。

 とうとうスブタイは断りそびれ、それが死ぬまで続いたので、一生分の予備が貯まったのだ──

 

 説明を聞いたチンギス含め、モンゴルウマ娘はぽかんとしてしまった。

 そのうち将軍は肩を揺らし、くつくつと笑い始めた。それを見た皇帝も、くすくす笑い出した。

 やがて、集まったウマ娘は皆で大笑いしたのである。

 

 そうであった。

 ジェベという栗毛のウマ娘は、他人に喜ばれると何でもかんでもあげてしまう、困った癖があったのだ。

 それ故、将軍にしては身なりが貧相だったのだが、本人は「この足は取られないから」と気にもしていなかった。

 

「ジェベめ。お前は色々残してくれたが、予想外のものまで残していきおった。けれど、お陰でスブタイのバ頭琴を一生聞く事が出来るぞ。ありがとう!」

『ありがとう!』

 

 モンゴルウマ娘たちは、夜空に向かって感謝した。

 少なくとも、彼女らが故人の想いに耐えかね走れなくなる、という事は無さそうだった。

 

 

 ◆

 

 

 ぐっすり眠ったモンゴルウマ娘たちは、滞りなく西進を開始した。 

《ワールシュタットの戦い》以後、邪魔らしい邪魔も無くなったので、比較的のんきな旅路であった。

 

 数日進んで、モンゴル軍はとある開拓村に辿り着いた。未だ小さいが、多くの建設途中の建物を見るに、活気のある村だと分かった。

「こんにちはー」と進み出るチンギス・ハーンを専属指導人が何とか留めると、先ず使者を立てた(無論護衛付きである)。

 

 暫くすると村から老人が出てきて、モンゴル皇帝の前に立った。村長だという。

 彼は顔面蒼白で震えていたので、病気なのだろうかと、モンゴルウマ娘たちは心配した。

 

「こんにちは、汝が村長であるな」

「ははははい、その通りで御座います。ううう美しい青毛の貴女様は、偉大なるチチチチ」

「ありがとう、私はチンギスという。遥々東方からやってきた。すまんが、野営するのに村の端っこを貸して欲しい。出来れば井戸と、少しでいい、食料を分けてくれぬか」

「それはもう、もう倉に有るだけを、もう持っていかれませ」

「気持ちは有難いが、それでは村の者が困るであろうが」

「天より高いご慈悲に感謝致します」

「ところで、この村は何という」

ベルリン(・・・・)と申します」

「良い村だ、きっと繁栄するであろう」

 

 そうしてモンゴル軍は、十三世紀初めのベルリン村に逗留する事となった。

 交渉通り村の端に野営地を築いたモンゴルウマ娘たちは、道々で分けてもらった食料をむしゃむしゃ食べた。

 大体、乾パン(ビスケット)五枚と塩漬け肉二切れ、野草の煮込みを食べると満足して、焚き火を囲んで歌い始めた。

 

「ローラン、ローラン──」

 

 スブタイの『朋友の為に』という曲は、非常に耳に残る旋律(キャッチー)であり、強敵を称え、友を想う内容であったので、モンゴルウマ娘が好んで歌う鉄板になっていた。

 上機嫌に歌っていると、いつの間にか幼いヨーロッパウマ娘が数人、焚き火に寄ってきていた。

 

「あの、ローランって誰の事ですか?」

 

 おずおずと尋ねる子ウマの後ろから、血相を変えた母親が飛んで来て、頭を擦り付けモンゴル兵に謝るのだったが「まあまあ良いではないか」と兵は宥めた。

 

「知りたいなら、教えてあげようね。立派な聖駆士ローランについて──」

 

 モンゴルウマ娘たちは、興奮気味に尊敬する駆士について口々に話した。

 これは既に主観混じりの、節々強調された話であったが、子ウマたちは熱心に聞き入った。

 

「それで、ローランってお姉ちゃんはどうなっちゃったの」

「黄金の駆士ローランは、我らがスブタイ大将軍と正々堂々戦った。そして死闘の末に、惜しくも敗れ、命を散らしたんだ。敵ながら見事、天晴れな死に様だったよ」

 

 それを聞くと、子ウマたちは一斉に泣き声を上げた。わんわん泣き叫ぶその後ろで、母親も泣き崩れていた。

 モンゴルウマ娘たちは戸惑いながらも、一生懸命に慰めた。

 

「泣かないで、教えてあげるから、ほら一緒に歌おう。ローラン、ローラン──」

 

 

 ベルリン村の子ウマたちは、この時モンゴルウマ娘から伝え聞いた物語と歌を生涯忘れなかったという──時は流れ、その中の一人は、旅の吟遊詩人となった。

 彼女は亡くなる寸前まで欧州中を渡り歩き、その物語を歌に乗せて語った。

 

 勇士の名はローラン 壮麗なる黄金の駆士よ──

 

 当時のヨーロッパ世界というのは、余りにも大きい敗北を喫し、完全に自信喪失していた。そのため、敗北の中にも何か慰めを欲していた。

 英雄(・・)を求めていたのである。

 その様な情勢下で、聖駆士ローランの物語は、絶好の題材であった。

 

 ヨーロッパ人は、この駆士道物語に飛び付いた。

 各国で修正されたり、肉付けされたりしつつ、駆士道物語は作り上げられた。

 そうして完成した《ローランの歌》は中世ヨーロッパを代表する叙事詩となって、現代まで伝えられたのである。

 

 

 ◆

 

 

 我々が《ローランの歌》と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、1986年ハリウッド版の映画であろうかと思われる。

 

 一村人からの出世物語、駆士仲間との友情物語、トレーナーとの恋物語、外敵と戦う駆士道物語、そしてレグニツァ平原に散る悲劇の物語──凡そ大衆が好む全要素を盛り込んだ本作は、当時人気絶頂であったウマ娘女優が主演した事も手伝い、世界中で大ヒットした。

 また、キャッチーなテーマソングから、映画を観た事は無くとも、曲は聞いた事があるという方も多いのではないだろうか。

 

 予算もふんだんに注がれており、実際のモンゴル高原で、多くの現地人の方々をエキストラに使った映像美は、多くのウマ娘の心に焼き付いた。

 一時、モンゴル行きの飛行機が連日満員、航空会社は増便を余儀なくされたという、ある意味伝説が残っている。

 

《ローランの歌》はシェイクスピアを初めとして、歴史上何度も作品化された題材であるが、この映画作品が画期的であったのはモンゴル軍の描き方であった。

 それまでの作品でのモンゴル軍は、正に地獄の軍団といった様相で、野蛮で道義など持たず、十字軍との対比による勧善懲悪の趣が強かった。

 

 しかし、この映画では『恐ろしくも尊敬すべき敵』として描写されたのである。

 それにより、敵将スブタイとの奇妙な友情が描かれるに至り、より物語に深みと悲劇性を与える事となった。

 クライマックスの夕陽を背にした最後の決闘は、映画史に残る名シーンとして我々に記憶されている(監督が日本映画に影響を受けたとも語っている)。

 

 現代でも幼い子ウマたちは聖駆士ローランごっこに興じて止まない。

 スブタイ将軍が、原曲《朋友の為に》で歌った様に、駆士ローランの黄金の魂は、永遠に失われる事はないのである。



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バチカンの動向について

 レグニツァ十字軍の受難というのは、戦術上稀に見る殲滅戦──に終わらず(終わって欲しいのは山々だが)、むしろ敗戦後にある様に思える。

 

 さて、欧州随一の連合軍を意気揚々と発動したバチカンであったが、完膚無きまで殲滅されたとの早ウマを受けると、にわかに恐慌に陥った。

 今やポーランドを通り抜け、ドイツ地域を悠々闊歩しているモンゴル軍が、何時南に方向転換するか、分かったものではなかったからだ。

 

『モンゴルウマ娘は異教を憎悪しており、その聖地たるバチカンを真っ平らにするつもりだ、ルーシの末路こそが動かぬ証拠である』

 

 とは有力説で、サン・ピエトロ大聖堂が喧々諤々とする異常事態となった。聖職者たちは、唐突に殉教(・・)の覚悟を問われた訳である。

 この際、とあるウマ娘シスターが「そういうんじゃないと思うので、放っておけばどうです?」と意見したが、一蹴されたと言われている。

 連日の合議で疲弊しきった宗教指導者が至ったのは、

 

 十字軍を破門する(・・・・・・・・)

 

 という決断であった。

 これは歴史上悪名高い《第四回十字軍》以来、数年ぶり二度目の大破門である。

 どうしてそうなった──かと言えば、レグニツァ十字軍を後追いで破門する事で、今回の戦とバチカンとは関わり無しとアピールしたかったらしい。

 つまりは命乞い(・・・)であった。

 

 そもそも十字軍を発動したのは貴方だろう──とは、当時の人々が一番思う所であった。

 得体の知れない侵略者に、結果はどうあれ対抗した十字軍を殉教者と見なしていた欧州諸国であるから、大いに動揺が広がった。

 余りの見苦しさに、バチカンは大いに宗教的権威を失墜させる事となる。

 

 レグニツァ十字軍の名誉回復は、後年《ローランの歌》の流行もあり、世間の批判が強まった事による破門撤回を待たなければならない。

 この仕打ちについて、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘、更には駆士ローランの熱烈なファンという女博士は、

 

「ひどい。」

 

 と遺憾の意を表明しており、概ね筆者も同意である。

 また同時に、バチカンの宗教指導者はモンゴルの王(チンギス・ハーン)宛に書状を送っている。

 尊厳と恐怖を秤にかけた結果、文面は婉曲に婉曲を重ねており、一読では良く分からなくなっているが、平たく言えば「こっち来ないで」という内容であった。

 手紙の添付品として金銀財宝を付けている辺り、思惑は一貫していた。

 

 しかし、手紙を届けるのもまた苦労であった。

 モンゴル軍の足が早過ぎたのである。

 昨日まで逗留していたという村を訪ねると、既にもぬけの殻であり、村人に行き先を尋ね追いかけても既にそこに居ない──これを何度か繰り返し、重い財宝(にもつ)を抱えた外交団は途方に暮れた。

 

 そこに、東から何やら大規模な荷バ車隊がやって来たと思うと、代表らしきウマ娘が声をかけてきた。どうやら、暗い顔をしていた外交官を心配したらしい。

 外交官が事情を話すと、荷バ車隊長は胸を叩いて言った。

 

「なら行き先は同じですね、乗って行かれるがよろしい」

 

 実は、この荷バ車隊というのは、モンゴルの高速輜重部隊《アウルク》であったのだ。

 言葉に甘えた外交団は、飛ぶ様に走るバ車を怖がりすらしたという。そして数日後、バチカン外交団は補給待ちをしていたモンゴル軍に追い付いたのである。

 アウルク隊長へのお礼もそこそこに、外交団は宝を携えてチンギス・ハーンに目通りを願った。

 急な訪問に渋られるかと思いきや、すんなり通されたので、外交官たちは首を傾げたという。

 

 皇帝の天幕に入ると、最奥には夜闇の如き青毛のモンゴルウマ娘がニンジンを齧っていた。

 笑顔であったらしい。そのウマ娘は「良く来た、良く来た」と上機嫌で、客人の肩を叩き歓迎した。

 困惑した使者団であったが、

 

「偉大なるチンギス・ハーンの御前である、頭が高い」

 

 側近らしき指導人が喝すると、彼らは慌てて跪いた。バチカンの命運は、この謁見に懸かっていると考えていたから、低頭深々であった。

 

「我が半身、楚材(サハリ)よ。まあ良いではないか。遥々来てくれたのであろうが」

 

 難しそうな顔をする指導人とは対照的に、ニンジンを齧りながら、にこにこしているチンギスの様子を見て、使者団はほっとした。

 そこで筆頭外交官が手を叩くと、天幕内に荷物が運び込まれた。金銀の延べ棒や、宝石をあしらった装飾品等々、目にも煌びやかな財宝の数々である。

 

「不躾ながら、先ずはお近付きの証として、偉大なる大ハーンに献上したく」

 

 これが並の欧州諸侯であったならば、財宝の眩しさと、神の威光に目がくらみ、話しやすくなる(・・・・・・・)というバチカンの必殺技であった。

 しかし、チンギスは一瞥して「ほー」と感心した様な、しない様な声を出したのみで、一向に態度を変えなかった。そしてニンジンを齧る。最後の一口だったので耳をしょんぼりさせた。

 まるで、この程度の財宝は見飽きた──とでも言いたげな表情に、外交官は揃って、胸に掛けた十字架(ロザリオ)を固く握った。

 

「贈り物だと言うから、てっきり私はニン──」

「くれるならば、貰っておこう。言っておくが大ハーンはお忙しい方なのだ、疾く本題に入るが良い」

 

 皇帝の言葉を遮って、指導人は外交団を急かした。

 二本目のニンジンを椅子の下から取り出す青毛のウマ娘は、とてもそんな風には見えなかったが、大人物の余裕というものだろうか。

 

 ともかく側近の言葉に従い、筆頭外交官は書状を読み上げた。

 婉曲に婉曲を重ねた、音読者からしても良く分からない文面である。それも聞き手であれば尚更であった。

 案の定、怪訝そうなウマ娘と指導人である。絶対に要項が伝わっていない。書状を掴む筆頭外交官の手は、冷や汗塗れであった。

 

 それでも、最後に送り主の名前──十字教の宗教指導者の名を高らかに読み上げた彼は、流石筆頭外交官を任されるだけあった。

 しかし、彼の努力は次のチンギスの一言で粉砕される。

 

「誰?」

 

 ──取り敢えず、返書を用意するという事で下がらされた外交団は、灰を思わせる真っ白な顔色であったという。

 

 最後のチンギスの言葉は、専属指導人サハリにとっても的外れではなかった。

 彼とて、これまで凄まじい速さで西進してきたのである。西方世界の宗教事情など、詳しく知るべくもなかった。

 贈り物もされた事だし、とにかく失礼の無い様に──と返書をしたため、外交団に渡すと、彼らは肩を落として帰って行った。

 

 

 そうして、バチカンに戻った外交団である。

 彼らは顔面蒼白で返書を提出すると、その足で何処かへ走り去ったという。

 宗教指導者は、それを怪しみながらも、侍従に返書を読み上げさせた。

 要約は以下の通りである。

 

『素晴らしい贈り物を有難うございます。チンギス・ハーンも殊の他お喜びになり、食欲旺盛であられます。

 このお礼(・・)をしたいと思いますが、残念ながら、私共は貴方の事を詳しく存じ上げませぬ。挨拶のため、いずれ折があれば、其方に伺いたい(・・・・・・・)と存じます。

 バチカンは美しい町と聞きますので、その日を楽しみにしております。かしこ』

 

 返書の内容を聞き終わると、怒りと恐怖の余りだろうか──宗教指導者は速やかに卒中(・・)を引き起こした。

 もんどり打って玉座から倒れると、高齢であった彼は、そのまま天の国に旅立ってしまった。

 

 この出来事が、史上初、宗教指導者の『憤死』として史書に記録される事となる。

 

 モンゴル側からすれば「こっち来ないで」というメッセージを読み取れず、社交辞令に徹したのみである。

 しかし「異教徒が聖地を真っ平らにしに来る」との噂が、まことしやかに語られるバチカンでは、全く別の意味に捉えられたらしい。

 

 この様な謂れの無い憤死をした宗教指導者の、後世の評価は『命乞いのために聖駆士ローランを破門した』との言い分で、散々な具合になっている(特にウマ娘からは)。

 

 彼の聖職者としての前半生は、汚職とは無縁で、身の潔癖を貫いていた。それだけに、晩節を汚したという事は非常に残念でならない。



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閑話:名作歴史ウマ娘映画《赤兎千里行》について

 人間とウマ娘の関係とは、ティグリス・ユーフラテス間の沖積平野に文明が発祥する以前、遥か古代まで遡る。

 自然、その関係の長さから、歴史上様々な場面が紡がれてきた。

 また、それらの鮮烈な一場面を切り取り、作品という形で今に復活させようとする試みは、時の大河と同時並行に行われてきたのである。

 

 今回は、その作品の一つについて語らせて頂こう──ご存知の通り、歴史ウマ娘映画の金字塔は三本あると言われている。

 

 駆士道物語《ローランの歌》。

 忠愛に生きた聖駆士ローランの波乱の生涯を、華麗な映像と楽曲で彩った名作である。

 大衆に好まれる様々な要素を盛り込んでいるため、老若男女を問わず、最も幅広い人気を得ているのは本作であろう。

 

 世界冒険譚《オケアノス》。

 ギリシャ世界の大英雄アレクサンドロスと、その愛バ、ブケファロスが、世界の果てを目指して東征する浪漫譚である。

 様々な文化圏を大王(トレーナー)と共に駆け抜ける明快なストーリーは、多くの子ウマが競走バを目指す契機となり、現在のスターウマ娘がこの映画の想い出を語る事も少なくない。

 

 そして今回語らせて頂くのが、

 戦国活劇《赤兎千里行》。

 三国志演義を忠実になぞりながら、目まぐるしい運命に揉まれながらも、力強く生き抜いた伝説的ウマ娘、赤兎バの生涯を描いた作品である。

 

 読者の皆様におかれては、1994年版《赤兎千里行》の説明は今更不要と思われるが、体裁上ストーリーを記しておこう。

 

 

 ◆

 

 

 中華世界の西隣、大宛(フェルガナ)(現ウズベキスタン)は、古くから駿メの生まれ出る土地として知られてきた。

 大宛のウマ娘は血の如き赤毛であるのが特徴であり、日に千里をも駆ける《毛血バ》と呼ばれていた。

 

 その中でも一際鮮やかな赤毛、紅玉を溶かした様な毛並みを持つウマ娘が居た。

 彼女の名を《赤兎》と言った。

 赤兎は、並み居る毛血バより増して俊足であり、誰も追い付く事は叶わないのだった。

 

 大宛は絹の道(シルクロード)の途上に位置する広大なオアシス地帯であり、古来旅人の往来が盛んであった。

 赤兎は、幼い頃から旅人から話を聞くのが好きだった。

 旅人に曰く、東方中華世界の大漢帝国は、数百年に渡り平和の続く素晴らしい国であり、競バも盛んである。その競バで勝利したウマ娘は、一生涯称えられるのだ──赤兎と仲間たちは、目を輝かせて話を聞き、何時の日か漢帝国に行ってみたいものだと、想いを募らせるのだった。

 

 とある日、憧れの中華世界から来たという男が訪ねてきて言った。

 

「もし自分に付いてくるなら、漢でデビューさせてあげよう。酒池肉林も思うがままだ」

 

 そう笑いかける男は《董卓》と名乗った。

 酒池肉林はともかく、憧れのデビューに惹かれた赤兎と仲間たちは、董卓の口車に乗ってしまう。

 

 しかし、董卓は大悪党であった。

 デビューというのは真っ赤な嘘で、ウマ娘たちは、今や地獄の釜と化した乱世中華の戦場に放り込まれた。

 ずたぼろになるまで酷使された挙句、動けなくなると放り出されるという劣悪な環境に、毛血バたちは一人また一人と命を落とす中、赤兎だけは生き延びていた。

 

 赤兎は董卓が大嫌いであった。

 顔を思い浮かべるだけで尾が逆立ち、唇が噛み切れる程だった。

 憧れていた中華世界も、もはや平和が失われたと知ると嫌いになった。

 夢破れた赤兎は誰にも心を開かず、不用意に近付いた者を蹴り飛ばし、怪我をさせる事もしばしばであった。

 

 余りの気性難に手を焼いた董卓は、厄介払いをする事にした。荒ぶる赤兎を、配下に押し付けたのである。

 その配下こそが《呂布》である。

 

 言わずと知れた猛将、呂布は苛烈な性格であったが、ウマ娘の扱いを心得ていた。

 赤兎は酷使される事が無くなり、まともな衣食住を与えられ、真っ当に世話をされた。

 また、戦で功を立てた褒美として、毛並みと同じ深紅の勝負服と、呂布とお揃いの方天画戟(・・・・)が下賜された。

 赤兎は大いに喜び、何時しか呂布に淡い恋心を抱く事になる。

 

 才能を開花させた赤兎は、戦場を縦横無尽に駆け巡り、方天画戟を振り回し、反董卓連合を散々に打ち負かした。

 しかし、幾ら戦功を立てても呂布が振り向く事は無い。

 彼には貂蝉という相思相愛の、しかも絶世の美女という恋人が居り、あくまで赤兎は配下の一人という扱いであった。

 戦場では果敢であっても、恋愛に関しては朴訥とした赤兎は、悶々とする日々を送った。

 

 だがある時、董卓と呂布の仲が悪化している事を知る。

 董卓が、呂布の恋人である貂蝉を強奪しようとしたのである。呂布は激怒して突っぱねたので、主従関係にヒビが入ったのだ。

 赤兎は、これは好機であると考えた。

 もしかしたならば、恋敵を追い払えるかもしれない──彼女は様々画策し、貂蝉を追い込むが、結局呂布が恋人を手放す事はなく、逆に呂布が董卓を弑逆するという事態になった。

 そして独立勢力と化した呂布は、更なる戦禍に巻き込まれていく。

 

 直接原因ではないにしろ、呂布に主君殺しをさせてしまい、更には恋路も叶わないと悟った赤兎は、完全に心を閉ざしてしまった。

 かつて夢見る少女であった赤兎は、何時しか無尽蔵に迫り来る敵を、ただただ斬り捨てるだけの無感情な殺戮機械に変貌していくのだった。

 (人形)の如き無表情で、大量の返り血を浴び、猛烈な速さで迫り来る赤兎を見た者は「赤兎来来(赤兎だあ)!」と叫び震え上がった。

 

『人中の呂布、バ中の赤兎』

 

 中華諸侯は両名をそう称し、義理も人情も無く人を殺し続ける姿を畏怖した。

 しかし、因果応報と言うべきか──その短慮と不義理により呂布は配下に裏切られた挙句、曹操に突き出され、処刑されてしまった。

 

 同時に赤兎も捕らえられた。

 彼女は、せめて主人と共に処刑される事を望んだが、貴重な戦利品(・・・)である赤兎を、むざむざ曹操が手放す筈もなかった。

 そうして、再び主人が変わる事となった赤兎は「義理無しにして尻軽」等と陰口され、ウマ娘としてこの上ない恥辱を味わうのである。

 全てに失望し、生きる気力を無くした赤兎は、やはり曹操にも全く懐かず、気性難の暴れウマとして手を焼かせるばかりであった。

 

 案の定、持て余した曹操は何度か赤兎を配下に与えようとするが、その度に彼女は主人を蹴飛ばしたり、物を破壊したりして、誰にも扱いきれなかった。

 赤兎は荒ぶりに荒ぶり、とうとう曹操の愛バ《絶影》とも喧嘩して怪我をさせてしまう。

 曹操は頭を抱え、最後の手段とばかり、とある男に赤兎を託す事となる。

 

 たらい回しにされてきた赤兎は、新しい主人、赤顔で髭の豊かな大男の前に引き出された。

 今度も同じ事だ。笑顔で近寄ってくる男を、問答無用で赤兎は蹴転がした──だが驚くべき事に、男は何でもない様に立ち上がったのである。

 

「何と元気の良いウマ娘か。これで長兄の元に早く駆けつけられる。曹丞相の御厚恩に感謝致します」

 

 むしろ喜んで言うと、男は笑って赤兎の赤髪を優しく撫でた。大きな手の温かさを感じながら、赤兎はじっと大男を見つめた。

 この人は何か違うのかもしれない──ウマ娘の予感は的中していた。

 彼こそ三国一の豪傑にして忠義の士《関羽》その人であった。

 

 敗戦の末、義兄弟と離れ離れになり、曹操の客将であった関羽は、どんな財宝や美女、官職にも靡かず、兄劉備への忠義を守っていた。

 しかし、戦場で目にした赤兎バには、武人として尊敬の念を抱いており、共に戦える事を非常に喜んだのだ。

 関羽に出会った赤兎は、彼の広い義侠心と、忠義に満ちた人柄に触れ、徐々に凍った心を溶かしていく。

 感情を閉ざしていた彼女は、再び本来の愛くるしい豊かな表情を取り戻すのだった。

 

 共に訓練に励み信頼を深める最中、関羽の元に、生死不明であった劉備の所在が伝わった。

 即離脱を求める関羽を、遂に引き止められないと悟った曹操は、渋々帰参を認める。

 関羽は、赤兎が牽引する戦車に乗って、一目散に劉備の元を目指すのだった。

 

 

 世に名高い忠節の旅《関羽・赤兎千里行》の始まりである。

 

 

 関羽と赤兎を逃すまいとした曹操は、通行手形を敢えて渡さなかった。結果、千里の道中に点在する五つの関門は、尽く二人を阻んだのである。

 しかし、関門を守る将兵は知らなかった──愛と忠義に目覚めた赤兎が、今や完全に覚醒していたという事を。

 

 固く閉ざされた関門に、赤兎と関羽は、そのまま戦車を突っ込ませた(・・・・・・・・・)

 まるで濡れた紙を破る様に門戸を突破すると、関羽は青龍偃月刀を、赤兎は方天画戟を携えて、大立ち回りを演じて見せたのだ。

 

 行く手には、それぞれ個性の強い六名の武将が、五つの関で待ち構えていた。

 時には力ずくで、時には謀略を使い、あの手この手で関羽と赤兎を留めようとしたが、三国志に名高い二武将は、正に破竹の勢いで関門を突破するのだった。

 

 そして、最後の関門を突破、最早阻む物が無くなった時、背後から敵の大軍が迫って来ていた。

 曹操配下の将軍、隻眼の夏侯惇であった。夏侯惇は、二人が道中で将兵を斬った事を咎め、投降を要求した。

 それを聞いた関羽と赤兎は高笑いした。

 左右に仁王立ちし、青龍偃月刀と方天画戟を交差させ、一喝する。

 

「では我々が五つの関を破った様に、この関門を押し通ってみせよ!」

 

 天下無双の豪傑二名が、得物を交差させるという関門(・・)を前にして、夏侯惇は怯み、大軍を翻して撤退してしまった。

 関羽と赤兎は顔を見合わせ、大軍を以てたった一つの関を破れぬ、敵の背中に哄笑を浴びせたのだった。

 

 これぞ、二人の豪胆と、装いの色調から取って、後に《紅緑之関》と呼ばれる「とても破れない難関」を示す故事の成立であった──

 

 

 ◆

 

 

 94年版《赤兎千里行》は、制作秘話を抜きにして語れないだろう。

 むしろファンの間からは、映画と制作秘話を合わせて一つの作品である、とすら言われている。

 

 この映画が封切りされた時、その番宣ポスターの格好良さを覚えている人も多いであろう。

 そびえ立つ関門を前にして、燃えるような真っ赤な髪と、同じ色の勝負服を纏ったウマ娘が、不敵な笑みで方天画戟を構える画は、如何にも様になっていた。

 そして思った。

 

「このウマ娘女優は誰だろう?」

 

 作中で赤兎バを演じる女優こそ、今や伝説と化した《ルビーイグニス》というウマ娘であった。

 86年版《ローランの歌》では、当時人気絶頂であったウマ娘女優を主演に起用したのとは対照的に、本作は素人歓迎のオーディション形式で主演を決めたのである。

 主演ルビーイグニスについて、監督は語る。

 

「一目見て、赤兎の生まれ変わりかと思った」

 

 彼女は、正にルビーを溶かした様な長い赤毛を蓄え、スラリとした体躯に勝気な瞳、そして中国棒術をも修めていた。

 オーディションのために田舎から出てきた、という人物背景も赤兎と重なって、監督はその場でオーディションを打ち切り、主演を決定したという。

 

 撮影が始まると、ルビーイグニスは、ついこの前まで素人だったとは思えない怪演を披露した。

 

 演出のため、当初ワイヤーアクションを使用する予定であったが、ルビーイグニスは自前の脚力だけでスタジオを飛び回った。

 赤兎の異名の一つに《飛将》というものがあるが、正にその通りであったという。

 監督は予定を変更し、ワイヤーアクションを使わないリアリティ重視の撮影をした結果が、本作の手に汗握る臨場感溢れた映像に仕上がったという事である。

 

 想いが呂布に届かず、冷酷な殺戮機械に堕ちてゆく場面。

 幾多の敵兵を斬り捨て、死体の山で独り俯く赤兎が顔を上げ、夥しい返り血の間から覗かせた、本当に光の失せた瞳は、撮影陣をゾッとさせた。

 

 本人の役作り具合も半端でなかった。

 ある朝、スタジオに入った撮影陣は、既に真っ赤な衣装に着替え、方天画戟の素振りをしているルビーイグニスを見付けた。

 感心して「稽古熱心ですね」と声をかけると、彼女は見向きもせずに、

 

「乱世の将たる者、日々鍛錬を欠かさぬものだ」

 

 汗だくで答えた姿を、撮影陣は滑稽に思うどころか、まるで自分が三国時代の一兵卒であるかの様な心地がして、自然に拱手をしていたという。

 

「あれは完全に降りて(・・・)来ていた」

 

 居合わせたカメラマンはそう語る。

 関羽役の俳優(ダンディな雰囲気で人気を博した)と共同撮影が始まると、ルビーイグニスは、本当に彼の元を片時も離れなかったという。

 彼はインタビューで言った。

 

「映画前半の撮影を見て怖そうなウマ娘だと思っていましたが、何時も後ろにくっついて来る可愛らしい様子を見て、印象が変わりました。

 耳をぴょこぴょこさせて擦り寄ってくるルビーちゃんを見ていると、役作りなのか本気なのか、時々分からなくなるくらいに。お恥ずかしい事です」

 

 なお、呂布役の俳優(端正なルックスで人気を博した)は、半ば本気でルビーイグニスを好きになりかけており、この様子を見てガックリ来た──と語る。

 そんな様子であったから、関羽と赤兎の息はぴったりで、物語の核である《千里行》の撮影は、よりダイナミックな迫力がある殺陣が撮れた。

 この殺陣シーンが、某三国志アクションゲームの着想になったというのは有名な話であろう。

 

 そして、無事撮影終了(クランクアップ)を迎えた本作は、世に打ち出されると同時に大ヒットとなった。

 ルビーイグニスは、田舎上がりの女優志望から、一躍時の人となった。

 その後、アカデミー主演ウマ娘女優賞を獲得した彼女は、テレビ出演に写真集と引っ張りだこであった。

 

 世界中の男子と子ウマの間では、関羽と赤兎ごっこ(・・・・・・・・)が大流行した。親にねだった緑や赤の服を着て、日々チャンバラに明け暮れるのだった。

 しかしこれは、怪我人が続出したため(ウマ娘の腕力を侮ってはならない)、学校側から禁止された。

 

 ともかく社会現象を起こした《赤兎千里行》は、早くも続編を望まれた。

 実際、企画も進んでいたのだが──悲劇が起きる。

 

 

 ルビーイグニスが交通事故で亡くなったのだ。

 

 

 突然過ぎる訃報に、世界中が悲嘆に暮れた。関羽役の俳優が、カメラの前で涙ながらに追悼を読み上げると、子供たちですら落涙が止まらなかった。

 当時を思い出せば、筆者も胸が痛む。

 

『赤兎の魂が冥府から抜け出している事に、映画を観て気が付いた冥府の王が、慌てて彼女を呼び戻したのだ』

 

 と、ファンの間でまことしやかに語られる程、稀代のハマり役であった。

 これもまた《ローランの歌》で主演を務めたウマ娘女優が、その後も次々と名演を披露したのとは対照的である。

 

 そして《赤兎千里行》という大名作を、生涯にただ一つ遺した、ルビーイグニスというウマ娘は伝説となった。

 

 

 ◆

 

 

 ルビーイグニスという伝説は、ある意味で功罪の深い存在であった。

 待ち望まれた《赤兎千里行》の続編は、彼女の死によりあえなく頓挫したが、数年後、代役を立てて撮影しようという企画が浮上した。

 だがしかし、世界中のファンが猛反対したのである。

 

『赤兎役はルビーイグニス以外に考えられない』

『代役は彼女に対する侮辱だ』

『どうしてもと言うなら、再び赤兎の魂を現世に呼び戻せ』

 

 等々、非難轟々であった。

 毎日大量に送られてくる脅迫じみた手紙に、心の折れた前作の監督は、赤兎役を永久欠番とする事でファンの溜飲を下ろしたのだった。

 

 この影響は続編映画に留まらず、他の三国志もの(・・・・・)にすら影響を及ぼした。

 そもそも《赤兎バ》というのは、三国志において重要キャラクターであるので、なかなか避けては制作できない。

 しかし、赤兎が端役としてドラマ作品に登場するだけで、ファンからは非難殺到、

 

『監督は何も分かっていない』

『作品に失望した』

『もう観るの止める』

 

 と、作品そのものの評判が落ちるのであった。

 半ば呪いの登場人物(・・・・・・・)の様相を呈してきたが、その現状を憂う映画監督が現れた。

 

 監督としてはまだ若い彼は、このままでは三国志作品自体が多様性を失い、衰退してしまうと危惧した。

 そして彼は、勇敢にも前作監督から撮影権を譲り受け、続編制作を発表したのである。

 これが04年《続・赤兎千里行》の始まりであった。前作公開から十年が経過していた。

 

 代役を立てる上に監督すら違う──という事で、世間に散々にこき下ろされ、監督の人格批判にまで及んだが、それも予想していた彼はめげなかった。

 圧倒的逆風の中、必死に撮影陣とキャストを集め、残るは赤兎役のみ、という状況まで漕ぎ着ける。

 

『赤兎役オーディション開催! 略歴不問、飛び入り歓迎、第二のルビーイグニスは君だ!』

 

 意気揚々と募集広告をばら撒き、当日オーディション会場に向かった監督であった。

 後に、彼はその日を振り返って語る。

 

「参加者は、誰一人、来ませんでした……」

 

 それもその筈である。

 当時の世相から考えれば、何をした所で大批判される事が目に見えていたし、女優生命が絶たれる可能性すらあったのだから。

 

 このオーディション0人(・・・・・・・・・)というエピソードは、今でこそ笑い話であるが、当時監督は相当凹んだという。

 遂に赤兎役が決まらなかった《続・赤兎千里行》であるが、何と制作は続行された。

 主演不在で一体どうしたのかというと、

 

 赤兎に扮するスタントマンに、往年のルビーイグニスの顔をCGで貼り付ける(・・・・・・・・・・)

 

 という、まさかの力技であった。

 オーディション0人のショックから立ち上がった新監督は、タダでは起き上がらず、当時最高水準のCG制作チームを結成したのである。

 また、どうせチームを結成したなら利用しなければ損、という考えの元、映像にもCGを多用した。

 

 結果、前作のリアリティ路線からは離れてしまったのだが「これはこれで面白い」と一定の評価を得ている。

 ルビーイグニスの顔の貼り付けに関しては、

 

『代役を立てなかったのは英断』

『CGだとしても、再びルビーイグニスの動く姿を見れて感動した』

『だが、やはり殺陣シーンが本人に劣るのが残念』

 

 等々、手放しで賞賛される事こそなかったものの、逆境を跳ね除けた新監督の勇気は認められた(それでもなお新作を批判するカルト的ファンが居たが、こういう連中の相手はするだけ無駄である)。

 三国志界隈に新風を呼んだ彼は、その後も歴史映画監督として順当に活躍する事となったのである。

 

 

 名作歴史ウマ娘映画《赤兎千里行》。

 史上に名高い駿メ《赤兎バ》と、その生まれ変わりとまで言われた伝説の女優《ルビーイグニス》──どちらを欠いても成立しなかった本作は、正に歴史の数奇な運命を象徴する作品として、人々に愛されている。




《赤兎千里行》は多彩な制作秘話に彩られた作品である。
 もし皆様が知っている話があれば、是非とも教えてほしい。
 筆者が喜びます。


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神聖ローマ帝国の動向について

《ワールシュタットの戦い》以後、ドイツ地域を横切るモンゴル軍は、ベルリン村を出立した後も、行く手の村に突き当たっては挨拶(・・)をしていた。

 

 十字軍を打ち破った地獄の軍団の噂は、既に広く蔓延しており、それを迎える村民は戦々恐々であった。

 中世において、敵地に入った兵団が行う事は決まっていた──略奪である。

 荘園領主によって過酷な税金を課され、差し出すべき財産など持たない一般民衆が、最低限生き伸びるための食料まで奪われるという略奪は、地獄絵図さながらであった。

 

 しかも、モンゴル軍は全ての異教徒を憎悪している(中世ヨーロッパ世界らしい誤解、悪魔の姿は自らの映し鏡である)ので、何もかも奪われ尽くした後で真っ平らにされるという、もっぱらの噂であった。

 そんな彼らが取った行動は、必然、バチカンと同じであった。

 命乞いである。

 

 結果、モンゴル皇帝が「こんにちはー」と言いながら、とある村に挨拶に訪れると、村民総出で地面に平伏して、彼らの持ち得る一番の宝(・・・・)を差し出したのである。

 即ち、食料と、若い男女であった。

 

「どうか命ばかりは」

 

 と、貢物(・・)を前に押し出し、頭を地面に擦り付け慈悲を請う村民らを見て、モンゴル皇帝は目をぱちぱちさせた。

 そして、村民に言った。

 

「食料は必要な分だけ貰う。後から荷バ車の団が来るから、そちらに渡すが良い。人足は要らんが、しかし有難い事だ。ここまで来る時、走り辛い道があった。また通る(・・・・)から、それまでに整えておいてくれると助かる」

 

 すると、横から皇帝専属の指導人が出てきて、村長に小袋を渡した。不思議に思って袋を開けると、中には大粒の宝石が輝いている。

 驚いて声も無い村長に、チンギスは言った。

 

「しこたま貰ったのだが、どうにも重い(・・)のでな。あげる」

 

 村民たちは飛び上がって、モンゴル軍のため復路の整地に励んだ。本物の宝を手にした喜びと、それ以上に、見合う働きをしなければならないという焦燥があった。

 地獄の軍団の到来後、道中の村はむしろ活気づいたという。

 モンゴル軍は、赴く先々で余計な荷物(・・・・・)を配ったので、彼女らの通った後の道は、急速に拓かれる事となった。

 

 後に《欧州の大動脈》と呼ばれる一大貿易路の始まりであった。

 

 こうしてバチカンの至宝は、公共のため有効活用されたのである。

 

 

 ◆

 

 

 モンゴル軍のドイツ地域横断は、平穏なものであった──平穏過ぎた。

 度々訪れる村では、武力抵抗どころか、守備兵すら在駐していなかった。

 争いを好まないモンゴルウマ娘たちは、安穏な旅路を素直に喜んでいたが、トレーナーたちは訝しんだ。

 

 実は、ドイツ地域──神聖ローマ帝国は政治的大混乱に陥っていたのである。

 

 混乱は《死体の山(ワールシュタット)の戦い》において、神聖ローマ皇帝が敗死した事に発端する。

 本来であれば、可及的速やかに後任を選定し、国内を纏め、大異教軍に立ち向かわなければならない。

 しかし、その後任選定が難儀であった。

 

 実は、故神聖ローマ皇帝──欧州一のトレーナーは、ウマ娘育成に耽溺する余り、貴人の責務(・・・・・)を全く果たしておらず、実子が無かったのだ。

 

 ならばと、縁戚の者を立てようとしたのだが、正当性に疑問を持つ諸侯が異議を唱えた。あれやこれやと揉めているうちに、件の縁戚者が謎の死(・・・)を遂げてしまう。

 他に有力な縁戚が無く──王朝が断絶した。

 すると「血統的に我こそ次の皇帝」と主張する者が次々に名乗りを上げ、各々が勝手に皇帝を僭称する。

 後はお馴染み、僭称者同士が血みどろに争い合う内乱状態と化した。

 

 いや冷静に考えて、そんな事で揉めている場合ではない──と思われるが、それが中世ヨーロッパという社会であった。

 その間、外敵(・・)が悠々自適にドイツ地域を闊歩する事になったのだが、その進路以外のドイツ諸侯らは知らん振りを決め込む(進路上の諸侯は逃亡した)。

 

『自分の荘園以外が荒らされる分には全く構わない、むしろ下手な刺激をして矛先を向けられた方が凶』

 

 と、自分勝手も甚だしい、事なかれ主義(・・・・・・)にドイツ諸侯全員が走った結果、帝国全体としてモンゴル軍の戦禍を逃れるという、皮肉極まりない事態になった。

 

 皇帝座を巡る争いはモンゴル軍に脇目も振らず、なおも数十年続く。

 国土は荒廃し、民は疲れ果て、挙句にどうなったかというと──皇帝不在のまま落ち着いてしまった。

 何と、神聖ローマ帝国(・・)は『皇帝不在でも運営出来る』という笑撃の事実が発覚する。

 

 この期間を指して、歴史学では《大空位時代》と言う。

 

 後世のフランス人学者から「かの国は如何なる点において、神聖でもローマでも帝国でもない」と嘲笑される元ネタとなる。

 事実、ドイツ諸侯の寄合い世帯(・・・・・)的側面が大きかった神聖ローマ帝国であり、内部からは「皇帝不在で平穏無事であれば、それでも良いのでは?」という楽観すらあったという。

 

 しかし、ドイツ人皇帝不在の隙を突き、フランス貴族が皇帝位を付け狙い始めると、流石に拙いと思ったドイツ諸侯である。

 皇帝不在は拙いが、強大な皇帝だと諸侯権限を圧迫する恐れがある──と、これもまた打算的な考えの下、選出されたのは、弱小貴族の《ハプスブルク家》であった。

 

 ほぼ皇帝位を押し付けられたに等しい、当時零細貴族のハプスブルク家であったが、ご存知の通り、巧みな婚姻政略により欧州を席巻する大貴族へとのし上がる事となった。

 

 ハプスブルク家の台頭も、チンギス・ハーンの《遠駆け》無くしては有り得なかったと思えば、その影響は計り知れない。

 



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ポーランド《有翼駆兵》の成立
ポーランドの改悛王について


 バチカンや、神聖ローマ帝国の様に、大きく国力を衰退させた勢力が在れば、反対に飛躍させた勢力もあった。

 ポーランド王国である。

 

 一見奇妙な話であろう。

 ポーランド王国は《ワールシュタットの戦い》の舞台であり、レグニツァ十字軍に参加するポーランド諸侯も非常に多かった。

 その尽くが殺害され、政治秩序は完全に崩壊。神聖ローマ帝国の様に、内乱が発生する余裕すら無かった。

 

 しかし、ただ一人、落ち延びた参加者が居た。

 それこそが、歳若きポーランド王である。

 

 戦い以前の王は、全く傲慢で、情けない男であった。

 彼は、チンギス・ハーンの巫山戯た手紙に激怒し、欧州全土に檄文を発したは良いものの、スブタイ将軍の偽装撤退にまんまと釣られ、諸侯を煽った末、駆士ローランを罵倒し、神聖ローマ皇帝に殴り倒され、鼻血を流して平謝りする──と、散々である。

 忠告を聞かず、偽装撤退するモンゴルウマ娘を、戦車(チャリオット)で真っ先に追撃したのも彼である。

 それが何故生き延び得たのだろうか?

 

 あの時、ぴょんぴょん跳躍して渡河するモンゴルウマ娘を、欧州諸侯は川底を歩いて追いかけた。

 けれども、ポーランド王だけは渡河出来なかったのだ。何故か──戦車の御者ウマ娘が水恐怖症(・・・・)だったのである。

 

 子ウマの頃、川で溺れかけたらしい彼女は「絶対むりぃ」と涙目で、梃子でも動こうとしなかった。

 御者ウマ娘と、ポーランド王がわちゃわちゃ(・・・・・・)押し合い圧し合いしているうちに、対岸で壊乱した十字軍の惨状を目にする。

 

 モンゴル《走弓兵》による正に屍山血河の光景を目にした彼は青ざめ、一転、尻に帆を掛け逃げ出したのであった。

 その結果、モンゴル重駆兵の挟撃からも間一髪で逃れ(ジェベ将軍が健在であれば有り得なかったと考えられる)、僅かな供回りと共に、レグニツァ十字軍唯一の敗残兵となったのだった。

 

 

 ◆

 

 

 命からがら逃げ帰った王は、暗澹として塞ぎ込んだ。

 十字軍の全滅は自分のせいではないかという自責と、独りのうのうと生き残ってしまった事を深く恥じたのである。

 彼は部屋に閉じ篭り、食事を取らなくなってしまう。幼少時から従っている近習(じいや)の呼び掛けにも一切応えない。

 

 そして遂には、胸に短剣を突き立てんと自刃未遂を起こしてしまう。

 これは、夜の中庭で王を偶然目撃した近習に取り押さえられたものの、短剣を落とした王は泣き叫んだという。

 

「死なせてくれ。こんな男に生きる資格などない。レグニツァに散った勇者たちが、それを許してはくれないのだ。おお、神よ、どうして私を生かしたのですか──」

 

 その後、妻の献身的な説得もあり、再びの自刃未遂は無くなったものの──彼は王冠を脱ぎ、出家(・・)する事を決めた。

 

 国内諸侯が死に絶え、この上、国王まで居なくなったらポーランドはどうなってしまうのか──家臣の制止も顧みず、ポーランド王は黒い質素な僧服に身を包み、十字架(ロザリオ)だけを荷物にして、僻地の修道院に出立した。

 バ車を引くのは、お付きの御者ウマ娘──レグニツァの戦いで戦車を引いていた彼女であった。

 

 この時点で、王は自決の意志を捨てていなかった。出家というのは、王宮での邪魔を振り払うための方便に過ぎなかったのだ。

 修道院に向かう道中、剣呑な雰囲気を感じ取ったのだろうか、御者ウマ娘は足を止めて、主人に話しかけた。

 

「王様は、これからどうなさるおつもりですか」

 

 何処か現世を見ていない視線で、王は答えた。

 

「本来なるべき様に、この身を処するだけである」

「それはどういう意味ですか」

「お前もレグニツァの地で見ただろう。王侯貴族も駆士も、勇敢に戦い果てた。しかし、私だけが違った。罪から逃れる事は、出来ぬ」

 

 するとウマ娘は泣き崩れて訴えた。

 

「いいえ、王様は悪くありません! 全ては私の臆病のせいで御座います。王様の罪は、同じく私のもの。私はお付きの御者であります、せめて何処までも陛下にお供させて下さい」

 

 余りに必死な様子である。自分のけじめに、無垢なウマ娘を巻き込みたくないと思ったポーランド王は、悩んだ末、王宮に引き返す様に言った。

 すると御者ウマ娘は大いに喜んで、尾っぽを激しく振りながら言った。

 

「実は、近くの村に生家が御座います。寄っていかれませんか」

 

 王が浅く首肯すると、御者ウマ娘は先と比べ物にならない位に軽やかな足取りでバ車を走らせた。

 着いた村は、何の変哲もない中世の村だったが、王宮から殆ど出たことの無かった王にとっては珍しく、しきりに辺りを見回した。

 御者が、一件の小屋の戸を叩くと、中から子ウマが飛び出してきた。

 

「おねえちゃん、おねえちゃん」

 

 御者が、喜んで腰に抱き着く妹の頭を撫でていると、奥から妙齢の母ウマ娘が嬉しそうな顔を出す。

 

「あらあら、急なお帰りだこと。そちらはええと……お坊さんかしら? よくいらっしゃいました、どうぞ中へ」

 

 修道僧の格好をしたポーランド王は、暖かい笑顔に招かれるまま小屋に入った。

 

「お腹が空いたでしょう。何日も食べていない様な顔をしていますよ。少し待って下さいね、麦粥を温めますから」

 

 痩せこけた王の頬を見て、心配した様子で鍋を温める母ウマ娘に、王は戸惑った。

 しかし、御者ウマ娘に椅子を勧められたので、大人しく待つ事にした。

 

「さあどうぞ」

 

 にこにこしながら差し出された、椀一杯に盛られた麦粥を、彼は一口食べた。

 そして驚く──この世の物とは思えない程に美味い。飢餓状態であった彼は、貪る様に麦粥を流し込んだ。

 その食べっぷりに、母ウマ娘は耳を弾ませて喜んだ。

 空になった椀を置いて、僧服の王は感謝した。

 

「何とも生き返った心地です」

「余程お腹が空いていたのですね。修行も良いけれど、全ては生きてこそ」

「はい……」

「この間、大きな戦いがあったでしょう。この娘は、名誉な事に王様の御者をしております。けれど、戦いの生き残りは居ないと聞いて、目の前が真っ暗になりました。王様を連れて生き残ったと聞いた時は、本当に嬉しかった」

「嬉しかった?」

「ええ、本当に。これぞ神の思し召し。あの酷く悲しい戦いで生き残ったのは、きっと神がそれを望まれる(・・・・・・・・・)という事でしょう」

 

 それは何処かで聞いた言葉であった。しかし今では意味合いが全く異なって、彼の心に染み入った。

 ポーランド王は、隣に座る御者ウマ娘を見た。彼女が涙目で深く頷く。

 王の頬を、涙が激しく伝った。十字架を握り締める様に手を組む。

 

「有難う、有難う。神よ、貴方がそれを望まれるなら、私は従います。生きる限り、残された者の責務を果たします」

 

 体力と、生きる気力を回復させた王は、急ぎ王宮へ戻る様に御者ウマ娘へ言った。

 別れ際「しっかり王様に仕えるのですよ!」という母ウマ娘の激励に赤面しながら、御者ウマ娘は飛ぶ様にバ車を走らせた。

 

 

 ◆

 

 

 出家を取り消し、再び王冠を被ったポーランド王は、まるで生まれ変わったかの様だった。

 自尊心が高く、傲慢で、非情な若者の姿は今や消え失せた。勤勉で、慎み深く、慈悲深い真人間になったのだ。

 一体何が起こったのか──暗愚な主君に、戦の大敗と、ポーランドの行く末を憂いていた家臣は驚愕したものの、ともかく深淵なる神の恩寵に感謝した。

 

 王が初めに行ったのは、猛勉強であった。

 というのも、レグニツァ十字軍の悲劇は、何より無知と相互不理解が原因である、と考えたからだ。

 古今東西のあらゆる書物を読み漁り、時にはギリシャやアラブからすら文献を取り寄せ、先進的な思想を学んだ。

 宗教や文化を問わず、ひとえに良きもの(・・・・)を吸収しようとする若者は、急速に為政の能力を開花させた。

 

 平行して、封建領主が討死した広大な荘園を直轄地として接収、王権を強め、混乱を鎮めた。

 労働力を大きく損なった国力を回復させるため、数年間の無税を布告する。

 その間には法外な税制を改めて民の負担を軽減、理不尽な裁判制度を廃止し正義を示した。

 

 バチカンが十字軍を破門した、という問題に対しては、彼は非常に憤慨した。

 自分はともかく、神の名の下に戦った死者に対して何たる仕打ちかと、バチカンに猛抗議する。

 あちら側でも、命乞いはしたいが、流石に後ろめたかったのだろうか、

 

『ポーランド王の破門は解くが、十字軍の破門は解かない』

 

 という、玉虫色の回答が返って来る。

 しかし、どうしても納得がいかないポーランド王は、生涯を賭してレグニツァ十字軍の名誉回復活動に邁進する事となった。

 

 また、ポーランド王は度々国内を行幸して回った──あの御者ウマ娘を伴って。

 実際に民の生活を見なければ本物の為政者とは呼べない、と考えたからだ。

 そして民衆生活を目にした彼は《ウマ娘》という存在が、農業、流通、建築、その他諸々の経済にどれだけ寄与しているかを知った。

 ウマ娘との接点と言えば、お付きの御者くらいしか無かった彼は、この時に至り、かつて神聖ローマ皇帝に殴られた本当の意味を悟ったのである。

 

 過去の自分を恥じ入った若者は、ウマ娘を優遇した。

 古代の記録を参考に、王宮近くの平野に競バ場を設営し《バ間槍試合(ジョスト)》に代わる平和的な娯楽を提供した。

 もちろん国内のウマ娘は大歓喜し、国王に感謝した。それどころか、国外にも噂が広がり、次々に各地の駿メが参集した。

 ポーランド競バは大いに盛り上がりを見せたと伝わる。

 

『駿メを欲さば、先ず競バ場を建てよ』

 

 とポーランドの諺にあるが(環境を整えれば才人が自然に集まるの意)、これが欧州競バの起源とするのが有力説である。

 競バが存在しない、ウマ娘にとっての暗黒時代──と呼ばれていた中世ヨーロッパであったが、ポーランド王によって打ち破られたのだった。

 

 上記一連の大胆な改革は、若き王に忠実で有能な家臣を選抜し、王宮の行政組織を整える事で、次々に押し進められた。

 皮肉な事に、異議を唱える古い諸侯が死滅(・・)していたため、改革は円滑に進んだという。

 

 疲弊したポーランド王国は、集まったウマ娘の力も借りて、みるみるうちに豊かになった。

 この稀なる善政に、国内外の名声が高まる中も、彼は勉強を続けていた──否、彼は生涯学び続けた。

 学び、分かり合う事こそが、唯一平和の道であると信じていたからだ。

 人民は、醜い自分を悔い改めた姿勢と、いつ何時でも人間とウマ娘の幸せを考える彼の美徳を指して、

 

《改悛王》

 

 と呼び習わし、賞賛するのであった。

 

 

 ◆

 

 

 ポーランド《改悛王》の王宮は、非常に質素なものであったと言われている。

 王が贅沢を好まなかったから、というのが一つ、しかし他に重大な理由があった。

 壮年期に差し掛かり、髭を蓄えたポーランド王は、それは威厳に満ちた姿であったが、王宮内はそうでは無かった。

 

 子ウマたちが、きゃっきゃと駆け回っていたのである。

 

 というのも、当時近隣の村で水害があって、身寄りを無くしてしまった子ウマたちを、臨時的に王宮で引き受けたからである。

 豊かな国庫を解放し、水害復興は順調に進んだ──が、王に懐いた子ウマたちは傍を離れようとせず、離そうとすると泣き喚いた。

 困り果てた家臣たちだったが、王は笑顔で受け入れたのだった。

 

 そうして、お墨付きを得た子ウマたちは、毎日元気一杯に王宮を駆け回るのであった。

 当初、家臣は止めようとしたらしいが、

 

「良いではないか」

 

 と、王は重要政治文書を片手に、満面の笑みだった。

 神聖ローマ皇帝から引き継いで、二代目《欧州一のウマ娘愛好家》の呼び声高い改悛王であった。

 その結果、王宮を駆け回る子ウマたちは、有り余る情熱で以て、数々の美術品を破壊(・・・・・・)した。

 これは流石に堪らないとして、使用人たちが急いで展示物を片付けたので、王宮内は一見して質実剛健、質素な趣になったという事である。

 

 この時期の王宮を訪れた他国の外交官は、非常に驚いたという(当然だ)。

 子ウマに髭を引っ張られながら政務を行う王の姿を目撃した外交官は、やはり《改悛王》は只者でなし──と本国に報告書を提出した。

 

 ある日、とある国の失敬な外交官は、この光景を見て嘲笑した。

 

「やはり、ウマ娘というのは獣に近きものですな」

 

 すると、髭を引かれて微笑んでいたポーランド王は、にわかに顔色を変えると立ち上がり──外交官を殴り倒した(・・・・・・・・・)

 

「恥を知れこの匹夫めが! ウマ娘に敬意も無いのなら、貴様こそが獣であろう!」

 

 余りの豹変に、外交官は鼻血を流して平謝りした。

 このやり取りを見た、王の近習(王の教育係、件の戦いにも参加した最古参)は、大口を開けて笑い、その後で感涙を流した。

 

「まさか坊ちゃんから、あの時(・・・)と同じ言葉を聞くとは。爺は感無量で御座います、何も思い残す事は御座いません」

 

 かつて殴られる側であった改悛王は、赤面しながら答えたという。

 

「ウマ娘に比ぶれば、人間はか弱い葦に過ぎぬ。しかし考える葦である。伸びもしよう」

 

 

 ──さて、王宮に訪れたのは、外交官ばかりではない。

 繁栄するポーランドの首都クラクフには、時に旅の吟遊詩人が訪れた。彼らの歌は、気苦労の絶えない為政者の心を慰めたと言われている。

 ある日、ドイツのベルリン村(・・・・・)出身であると自己紹介したウマ娘吟遊詩人が、ポーランド王のためにリュートを奏でた。

 

 

 ローラン ローラン──

 遥か駆けた西の果て 真の勇士を見つけたり

 勇士の名はローラン 壮麗なる黄金の駆士よ

 金の御髪を靡かせて 命は惜しまぬ忠のため

 雲霞の敵を前にして 一歩も引かぬ愛のため

 ローラン ローラン──

 

 

 気高く美しく、非常にキャッチーでありながらも、何処か物悲しい旋律であった。

 吟遊詩人の演奏に、王を初め、家臣や、子ウマたちですら聞き惚れたという。

 改悛王は、感じ入った様子で問うた。

 

「ローラン、懐かしき名前だ。身を以て忘れられぬ。あのレグニツァの戦いで、神聖ローマ皇帝に仕えた駆士であろう。何故お主が知っておる」

「聖駆士ローランとは、ベルリン村の同郷(・・・・・・・・)で御座います。血縁は有りませぬが、妹の様に可愛がってもらいました」

「何と、そうであったか。しかし見事な曲よ」

「実は私めの作曲ではありません」

「では誰の」

「かのスブタイ将軍で御座います」

スブタイ(・・・・)だと……っ」

 

 改悛王は、危うく王座から転がり落ちる所であった。顔面を蒼白にして、ぶるぶる震え出す。

 恐怖の代名詞《Subutai》の衝撃は、彼の根底にこびり付いていたのである。

 子ウマたちの心配する声に、何とか正気を取り戻した王は、咳払いをして旅の吟遊詩人に言った。

 

「ともかく見事な腕前よ。お主さえ良ければ、宮廷楽長として取り立てたいと思うが、どうか」

「身に余る光栄に御座いますが、私は旅人として、聖駆士ローランの歌を世界に広めたく思うのです」

「残念な事だ。それでは、せめて援助をさせてくれ」

「有り難き幸せ」

 

 そして、袋一杯の金貨を受け取ったウマ娘吟遊詩人は、再び旅立っていくのだった──その後《ローランの歌》は欧州全土に広がり、聖駆士の気高き生き様は、現代に至るまで残される事となるのである。

 

 

 

 

 



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レグニツァ駆士団について

 子ウマたちの屋内全力疾走から、代々の美術品を避難させたポーランド王宮であったが、その質素が気にならない位に、王宮は賑わっていた。

 内務官に外交官が絶え間無く往来しており、そこかしこで政論が行われている。王座の周囲には常に複数の大臣がたむろしていて、次々と新政策を打ち出していくのである。

 

 そして、忙しい大人の足元を縫う様に、子ウマが「わーい」と駆け抜ける──ポーランド人たちは何時の間にか、この不可思議空間に順応してしまった。

 慣れ(・・)とは、恐ろしくも慈悲深い。

 

 その様な環境下で、すくすく育つ子ウマたちは、駆け回ったり王の髭を引っ張ったりするのを止めて、他の遊びに興じ始めた。

 駆士ごっこ(・・・・・)である。

 

 先だって旅のウマ娘吟遊詩人から《ローランの歌》を聞いた子ウマたちは、黄金の聖駆士に強い憧れを抱いた。

 ちゃんばらごっこには飽き足らず(植木を軒並みへし折る手柄を立てた)、倉を漁って古い駆士鎧を引っ張り出してくると、ぶかぶかのそれを着込んで、王宮内を行進し始めた。

 

「王様はあたしたちが守る」

『まもるー』

「あたしたちはレグニツァ駆士団」

『レグニツァ駆士団ー』

 

 甲冑の重みで、ふらふら危うげな行進を目撃した一人の執事は、速やかに王へ報告したが、

 

「良いではないか」

 

 答えは何時もの(・・・・)であった。

 どころか、家臣と合議中であった王の執務室に行進が突入してきて、

 

「王様、私たちに駆士じょにんを」

 

 と駆士団長(仮)が跪くと、王はにっこり笑って、ごっこ遊びに付き合うのだった。

 呆気とする家臣団を他所に、改悛王は壁に掛けてあった長剣を引き抜くと、優しくウマ娘の肩に当てた。

 

「ポーランド王の名において、汝らを駆士に叙任するものなり」

 

 子ウマたちは大いに喜んで、以後正式に《レグニツァ駆士団》を名乗る事となる。

 

 実は《ワールシュタットの戦い》以後、ポーランド王は壊滅した駆兵隊を再編しようとはしなかった。

 モンゴル軍に一方的に蹂躙される駆士の惨状が忘れられなかったから、というのが定説である。

 故に、ポーランド軍は長らく駆兵不在であったのだが──

 

 しかし、ごっこ遊びに過ぎぬと思われた《レグニツァ駆士団》は、本気も本気、真剣そのものだった。

 

 子ウマらは、元は水害により天涯孤独の身であった。親兄弟を失って泣き暮らし、お腹を空かせていた彼女らの身を引き受けたのが改悛王であった。

 家と食事を賜り、何より無償の愛を注いでくれた。ウマ娘は、何時か大恩を返さねばならぬと、彼女らなりに誓っていたのだった。

 そして時は経つ。美しく健やかに成長し、ぶかぶかだった鎧がぴったりになっても、ウマ娘たちは行進(・・)を止めなかった。

 

「我々は王の剣なり」

『剣なり!』

「我々は王の盾なり」

『盾なり!』

「我々はレグニツァ駆士団」

『レグニツァ駆士団!』

 

 むしろ行進は、年を経る毎に洗練され、続々参加者が増えていった。

 長槍は天を突く様に高々と、進ませる足の一挙一動までぴたりと揃い、忠愛に満ちた双眸が爛々と輝く。

 王宮の露台(バルコニー)から、この壮観な行進は眺められた。他国の使節などは漏れなく感嘆し、王の人徳を讃えたが──当の国王は極めて微妙な表情をしたと伝わっている。

 

 初代《レグニツァ駆士団》団長は、改悛王自ら駆士叙任を受けた事を生涯の誇りにした。

 駆士叙任式の様子を宮廷画家に描かせ(色々酸っぱく注文を付けた)、その絵画を団長室に飾っている事からも度合いが伺えよう。

 

 満足ゆくまで幾度も描き直させて、遂に神々しく仕上がった絵を主君にお披露目すると、王は何も言わず、ただ団長の髪が滅茶苦茶になるまで撫で回した。

 いっぱい褒められた(・・・・・・・・・)と思った団長は、益々自信を付け、得意満面で客人という客人に見せつける。

 ここから評判が拡がり、絵画《改悛王の駆士叙任》を褒めそやす声が高まると、ウマ娘は胸を張ったものだったが、王自身は概ね黙して語らなかったという。

 この中世を代表する名画は、現在もクラクフ王宮跡の博物館で展示されている。

 

 レグニツァ駆士団のシンボルとしては、もちろん聖駆士ローラン、その人を象ったものを掲げており、各々鎧の胸に彫られていた。

 我々こそが駆士ローランの精神的後継である、と自認していたのである。

 

 因みに、ほぼ同時期にドイツ地域でも《ベルリン駆士団》が結成されており、シンボルも似たものであった。

 当然、何方が正当な後継なのか、と両者はいがみ合う。互いに主張を書き連ねた手紙を送り付け(団員自ら配達)、大論争を巻き起こす。

 

 しかし、片や聖駆士終焉の地であり、片や出生の地である──議論は平行線の堂々巡りで、とうとうレグニツァ駆士団長は、育ての親であるポーランド王に泣きついた。

 

「あの娘たちが真似っこするんですよっ」

 

 王は微笑み「君たちが本物だよ」と慰めると、団長は耳をぴょこぴょこさせて帰っていった。

 ここで、あくまで個人見解に留め、世間に向け正式に意思表明をしない辺り、王の政治的センスが光る。

 

 八百年を経た現代も、この議論の決着は付いていないのだが──駆士そのものが名誉職となったため、両団はそれなりに仲良くしている。

 互いの国の、出生と終焉の聖地(・・)を訪問、案内するという交流は、今でも続いている。

 

 

 ◆

 

 

 欧州屈指の名君と知られるポーランド《改悛王》であったが、国内が安定すると、王権に反発する勢力が現れた。

 かつて王に荘園を奪われた(と思い込んでいる)貴族の末裔である。

 

「王は戦後の混乱に乗じて不当に父祖の土地を没収した。この上は、速やかに正統の領主に返還されよ」

 

 と主張する彼らであったが──民からは完全に無視された。

 民にしてみれば、善政を敷く者こそが正当(・・)なのであり、それは《改悛王》に他ならなかった。

 そもそも、再び彼ら貴族が台頭出来たのも、国が豊かになった故であり、そうでなければ完全に没落していたのだが──流れの図式を、若い貴族の子弟らは理解していなかった。

 

 憤懣やるかたない貴族らは、勇んで傭兵を結集させる。

 反乱軍が集結地点に選んだのは、何とレグニツァ平原(・・・・・・・)であった。

 王に対する当てつけ、明らかな侮辱である。

 

「やい、出てこい。それとも臆病者の王は恐ろしくて戦えないか」

 

 そう言って嘲笑する貴族連合に、王は眉を顰め「捨ておけ」と言ったのみで、まともに取り合わなかった。

 王は、無益な流血を常に倦厭する人であった。

 

 実は、思う所もあったのだ。

 モンゴル軍による統治機構完全崩壊の後、領内の混乱を収拾させるためとはいえ、荘園接収をしたのは事実である。

 考え様によっては「不当に没収された」という彼らの主張も無理筋ではなかった。

 内政志向が強く、侵略的拡大戦争を生涯行わなかった改悛王である(同盟参戦、外交併合は多数)。彼らの身元を確認して、統治能力を測ってから、正式な手順で荘園返還を行う事もやぶさかではなかった。

 

 しかし、事は上手く進まなかった。

 地元の領民が大反対したためである。彼らは、何処の誰かも知れない領主様(・・・)よりも、賢く慈悲深い王に統治される事を望んだのだ。

 どうか考え直して欲しい──という旨の嘆願書が執政机に山積みになり、内務官は頭を抱えた。

 

 そして何より、レグニツァ駆士団が激怒していた。

 

 命の恩人にして育ての親を侮辱され、駆士団の聖地たるレグニツァ平原を汚されたのだ。

 特に駆士団長の怒りは凄まじかった。煮え滾るはらわたを抱えて、逆立つ尾毛と、自慢の長槍をりゅうりゅう振り回し、十数年ぶりに王宮の備品を破壊した。

 更には悔し涙を流し、奇怪な雄叫びを上げて、王宮近くの競バ場を十周回すると、ようやく理性を取り戻して、団員たちに号令した。

 

「おのれ、許しておくべきか! 憎き貴族のバ鹿息子、如何な外道の道理もて、我らが改悛王を侮辱せしめん。我が駆士団の面々に問う、君の心を団長に聞かせよ」

『許すまじ、許すまじ!』

「然ればその心は、改悛王を尊ぶか」

『いとも尊き改悛王、英智は遍く地上を照らしたもう!』

「然ればその心は、改悛王を愛するか」

『いとも優しき改悛王、慈愛は万民に注がれたもう!』

「然ればその心は、かの地レグニツァに居座る逆賊を如何に処す」

『不倶戴天の逆賊は、尽く討ち倒されるに定まれり!』

「聖駆士ローランも御照覧あれ。その駆士道こそ誇るべし──」

 

 王宮の中庭に集結したウマ娘を、露台(バルコニー)から様子窺いしていた改悛王は微妙な笑顔になって、

 

「是非も無し」

 

 傍の軍務大臣に漏らすと、急ぎ出陣の準備を整える様に命じた。

 王は、胸が苦しくなるのでレグニツァ平原に近付きたくもなかったが、事ここに至っては、一戦交える以外に是非も(しょうが)無かった。

 




 ポーランド王国については、あと少しだけ続きます。


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内乱の決着と結果について

 レグニツァ平原に親征するポーランド《改悛王》の進軍は、遅々としたものであった。

 既に初老に差し掛かっていた彼は、例の戦場へ近付くに応じて、冷や汗を流し息を詰まらせ、度々小休止しなければならなかったからである。

 

「どうかご無理をなさらず……お水をどうぞ」

 

 御者ウマ娘は、座り込む主君をしきりに気遣った。差し出された水筒を飲めば、ほのかに蜂蜜の甘みがあった。

 確か彼女の大好物だったはずだ。めっきり白髪混じりになった己だが、御者ウマ娘は相変わらず若々しく健気で愛らしい──王は、ようやく一息吐けた気がした。

 

「ありがとう、元気が出たよ。お前には助けられてばかりだ」

 

 笑いかけて御者の毛並みを撫でれば、彼女は頭をぐりぐりと王の脇腹に擦り付けた(御者ウマ娘の癖である)。

 

 進軍に先行するレグニツァ駆士団は、様々もどかしそうに二名を眺めていた。

 駆士の掲げた槍先には、吹き流しが悠々と風に靡いている。そこにはためく駆士団のシンボルを見るにつけ、改悛王の胸に複雑な想いが去来するのだった。

 

 願わくば、過ぎし日の子ウマには、戦と無縁でいて欲しかった。だが自由なる彼女らの幸せを、己が型に嵌める権利など、塵とも持たぬと知っていた。

 あの時、ごっこ遊び(・・・・・)に付き合ったばっかりに──甚だ人生とは、どうとも分からぬものなれや。

 

 遅々とした行軍の末、レグニツァ平原に至ったポーランド軍は、貴族子弟連合軍と対峙した。

 一見して、当初見込んだ数よりも多いと分かった。道中ぐずぐずしている間に増えたのだろう。その数、ポーランド軍に勝るとも劣らない。

 

 しかし、傭兵主体と聞き及んでいたが、それにしては格好が妙であった。どちらかといえば正規軍の様な、小綺麗な装備をしている。

 ドイツ風の。

 王は鼻を鳴らした。騒動の裏幕に、大方想像が付いたのだ。ポーランド王国の伸長を、快く思わない勢力も当然ある。この程度の奸計、もはや慣れたものである──ただ、心底不愉快だった。

 

 暫し睨み合う両軍であったが、その間、反乱軍はポーランド軍を指差し嘲笑して止まなかった。

 王直属にして最精鋭と音に聞くレグニツァ駆士団のウマ娘であるが、平原を思い思いに駆け出したり、仰向けにごろごろ(・・・・)したり、野花をむしゃむしゃしたりしていたからである。

 これではまるで勝負にならぬわ──とでも言いたげな貴族子弟の表情を眺めて、むしろ憐れむ様に改悛王は言ったという。

 

「まあ、そう思うだろうよ」

 

 彼はそれこそ、体調不良を引き起こす程に、その心情が身に染みて理解出来た。

 そして、開戦を合図する角笛が吹かれた──

 

 

 ◆

 

 

《第二次レグニツァの戦い》は、結果から言えばポーランド王の完勝であった。

 

 駆士団結成当初、ウマ娘たちは古いお下がり(・・・・)の重鎧を着ていた。しかし、彼女らが駆士道を諦めないと悟った改悛王は、新たな鎧を下賜していた。

 ウマ娘が大喜びで着替えたその鎧は、鉄と革とを混合させ、軽量化させた代物である。これは、駆兵突撃の衝撃を確保しながらも、機動力を殺さないという、均衡の取れた鎧に仕上がっていた。

 

 モンゴルウマ娘の《走弓兵》の様な機動力全張りの軽鎧は、欧州ウマ娘には適当でないとポーランド王は考えた。

 かの恐ろしき《跳躍射法(パルティアンショット)》は草原の民だからこその芸当である。ならば、突撃の長所を活かしつつも、戦術の幅を広げた方が良い──との判断であった。

 

 王の狙いは見事にはまった。

 従来、正面突撃一辺倒であった欧州駆兵である。比較して、ポーランド駆兵は状況に応じて戦場を駆け巡り、敵の急所を一気呵成に突き崩す、柔軟性と衝撃力を見せた。

 何時横腹を食い破られるかもしれないポーランド驃駆兵の恐怖に、周辺諸国は慄いたと言われる。

 

 忠愛に燃えるレグニツァ駆士団の勇猛果敢さを差し引いたとしても、しかし、貴族子弟が《改悛王》を破る事は不可能であったろう。

 開戦前に、王が「捨ておけ」と言ったのは、暗に戦えば絶対に勝つ(・・・・・・・・)という余裕の表れであった。

 

 稀代の勉強家である王の研究対象は、統治技術に留まらず、軍法戦術にまで及んでいたのである。

 彼の師はアレクサンドロス、ハンニバル、ベリサリウス、孫子──史上に燦然たる名将であった。特に、自ら苦渋を飲まされたスブタイ将軍の緒戦は、徹底的に分析していたのである。

 それこそ、モンゴル帝国側の文献に乏しい緒戦の推移が現代に伝わるのは、彼が収集編纂したお陰という程に。

 蘇るトラウマに嘔吐しかけながら、彼はスブタイ将軍の機動戦術に学び続けた──研究は実を結び、例の戦い以降、勇猛果敢の《レグニツァ駆士団》をも得た改悛王は正に常勝無敗であった。

 

 

 その例に漏れず急所から散々に突き崩された貴族子弟連合である。

 彼らはふん縛られた上で、怒ったウマ娘にぽかぽか殴られ、王の御前にぱんぱんに腫れた顔を晒した(中世ヨーロッパの戦では要人の生け捕りが通常、モンゴル軍の鏖殺が異常)。

 彼らは額を擦り付けて命乞いする──と思いきや、リーダー格の若者は、むしろ胸を張って臨んだ。

 

「負けだ、見事な負けだ。しかし、我々は道を違ったとは思わぬ。先祖代々の土地を不当に奪われたまま取り返そうとしないのは、それこそ父祖に顔向け出来ぬからだ。

 王よ、この首を切り落とすがよい! その悪行は必ずや、久遠に書き記されようぞ」

 

 意外にも気骨のある反応に、ポーランド軍は驚いた。駆士団長などは、感心した様に頷いている。

 しかし、よくよく見れば若者の膝は震えていた──この虚勢を、王は一笑に付すと、ごちんと一発拳骨をくれた。

 

「嘴の黄色い小僧がほざきよる。間者に何を吹き込まれたのか存ぜぬが、ものを知らぬから都合良く使われるのだ。小僧は小僧らしく、勉強せよ(・・・・)

 

 子弟らは後ろ手に縛られたまま、乱暴にウマ娘に担がれて、王宮まで運ばれた。

 まとめて一部屋に投げ込まれた彼らは、そこが牢獄かと思ったが、どうやら違った。人数分の文机が並べられている。首を傾げていると、眼鏡を掛けたウマ娘が一人入ってきて、彼らに言った。

 

「そこに座りなさい愚か者共。これから言う事を覚え聞かなければ、即刻斬り捨てます」

 

 極寒の声色である──震え上がった小僧らは素直に従った。

 

「机に本が入っているから、今すぐ表紙を開きなさい。開きましたね。では先ず、ポーランド王国の成立から──」

 

 そのウマ娘は何故かいきなり講釈を始めた。

 もはや訳が分からなかったが、従わなければ速やかに殺されると思ったから、必死になって聞き入るのだった。

 

 

 ◆

 

 

 講師を務める眼鏡のウマ娘──何者かと言えば、ポーランド内務副大臣(・・・・・)だった。

 正真正銘の知的エリートである。

 

 彼女は、レグニツァ駆士団長と同郷のウマ娘であった。

 即ち、水害により天涯孤独となった彼女は、改悛王に引き取られたのである。

 皆と同じく聖駆士ローランに憧れた彼女であったが──生まれつき足が遅く、目が悪かったがために、その道は諦めざるをえなかった。

 これでは恩返し出来ないと、思い詰めた彼女は、独りしくしくと泣いた。

 すると、その姿を見付けた王は、優しく子ウマを抱き寄せて、膝の上に乗せた。

 

「何がそれ程悲しいのか、教えてご覧なさい」

「王さま、私は足が遅く、目が悪いのです。力も弱くって、とても役に立てそうにありません。それが申し訳なくて、恥ずかしいのです」

 

 すると改悛王は明るく笑いかけた。

 

「私の御者のお姉さんは知っているね」

「うん、何時も優しくしてくれます」

「あの娘は昔、とある戦で私の戦車(チャリオット)を引いていた。でも途中で、川を渡る事が出来なかった……水が怖かったんだ。けれど、もし渡れていたら、私はとうの昔に死んでいた。あの娘の欠点に、私は救われたのだよ」

 

 子ウマの頭を撫でながら、王は続けた。

 

「欠点が人の命を救う事もある。本当に世の中は、何が幸いするか分からない。だから、他人と比べて得意でない事を悩んだり、或いは指を差す事に意味は無いのだよ。

 それよりも、自分に出来る事を一生懸命にやり遂げた駆士ローランや、その姿を称え歌に残したスブタイ将軍の様に、自分の役割を果たし、それを認められる人になりなさい」

「……うんっ。私は、私だけの方法で、きっと王様の役に立ってみせます」

 

 子ウマは、ごしごし涙を拭うと、その内に決意の焔を宿したのだった──心機一転、考えを改めた彼女は、王宮の図書館に入り浸る様になった。

 国内随一の学者である改悛王の図書館には、古今東西の貴重な文献が集積されていた。

 昼はお日様の下に出て、夜は蝋燭を灯し。友人らが駆士ごっこに傾倒する間、彼女は朝から晩まで羊皮紙を繰り続けた。

 王の足跡に付いて行く、絶対に付いて行く──その様な覚悟が窺い知れる様だった。

 そのせいで、視力は更に弱化したが、主君から眼鏡(当時最高級品)を下賜されると、ウマ娘は歓喜してますます勉学に打ち込んだ。

 

 図書館の書物をすっかり読破すると(その吸収力には王ですらたまげた)、今度は王宮の政務を手伝う様になった。

 手伝いは書類運びや、筆写から始めた。当初こそ、芸術品デストロイヤーの友人と比較して「大人しくて気が利く良い子」程度の認識であった。

 しかし、徐々に政務の要領を掴んだ彼女が、政治的な意見をする様になると事情は変わる。

 

 王宮政務官たちは、ウマ娘が政務を行う事に強い違和感を覚えたのである──これは中世ヨーロッパ世界の男尊女卑社会と、人間とウマ娘の役割分担に寄った価値観であり、彼らが特別差別主義者だった訳では無い。

 王宮内を堂々行進するミニ・レグニツァ駆士団を横に、一人の政務官がその事について具申すると、王は満面の笑みで、

 

「良いではないか」

 

 と、伝家の宝刀(・・・・・)で以て一刀両断した。

 改悛王の公認を得た彼女は、以降、友人らとは別方向で活躍する事となった。

 

 眼鏡のウマ娘は、辣腕をめきめきと発揮させた。

 老臣も形無しの知識量に担保された彼女の雄弁は、政務官たちを唸らせた。革新的政策を次々発案し、その内の幾つかは実際に採用された(他は革新的過ぎて不採用。貴族内閣制、憲法制定等々、時代を先取りし過ぎて理解されなかったもの多し)。

 微塵の妥協を許さないストイックな姿勢は、なかなか周囲をたじろがせたが──ふとした瞬間に見せる優しさや、王に甘える姿にやられる(・・・・)男も多かった。

 

 こうして実力を認められた彼女は、ポーランド競馬の開催責任者等、重要な役職を遍歴した後、内務副大臣にまで出世したのだった。

 

「私は改悛王に二度救って頂いた。一度は生命を、二度は人生を」

 

 眼鏡ウマ娘は、何時も周囲に言っていたという。

 実際、古代ローマ帝国以降、ウマ娘が政治の表舞台で活躍するのは、明確な記録に残される限りではポーランド王国が初であった。

 彼女の後を追う様にして、ポーランド王国では政務に参加するウマ娘も散見される様になる。

 眼鏡ウマ娘の存在が『ウマ娘はとにかく駆ける種族』という既成観念を崩す一助となった事は疑い無い。

 

 

 ◆

 

 

 さて《第二次レグニツァの戦い》の敗北から、丸二年間缶詰めで勉強させられた貴族子弟たちである。

 民族の成り立ちから、王国の成立、政治体制の推移等々──命懸けで叩き込まれ、彼らの考えは変化していた。

 

 学べば学ぶほど、自分らの行いが如何に愚かで世間知らずだったか、骨の髄まで思い知ったのである。

 改悛王は「勉強しろ」と言ったが、その意味を理解した彼らは、顔から火を噴く程に恥じ入るばかりであった。

 

 眼鏡ウマ娘による中世最高水準の教育指導の合間に、長い時間を割いて「改悛王が如何に偉大な存在であるか」という熱弁に、特に彼らは感じ入った。

 過去の愚かな自分を悔い改めた事、その後の猛勉強と、輝かしい業績について──貴族子弟らは、一人の男として王に憧れ、敬虔な十字教徒として賛美して止まなかった。

 何時しか自然に、眼鏡ウマ娘を「先生」と仰ぎ、勉学に熱中する若者の姿があった。

 

 丸二年の缶詰め生活の後、再びポーランド王の前に引き出された子弟らは、自ら王に跪いた。

 その顔付きは、以前とは比べ物にならぬ位に精悍であった。成長したリーダー格の若者が代表で言う。

 

「この二年間、己の愚劣さを思い知る日々でございました。我ら一同、心から畏まり、改めて王に謝罪致します。首を刎ねられ当然の我が身なれど、願わくば政務の末席に加えては頂けませぬでしょうか。せめても罪滅ぼしのため、粉骨砕身の覚悟に御座います」

 

 深々と頭を下げる彼らに対し、王は深く頷くと、各々に書簡を配った。

 不思議に思った貴族子弟らが、その封を解けば、

 

『接収した領地を、正当の所有者に返還するものなり』

 

 という内容であった。

 驚愕に目を見張る彼らだったが、王は何も言わず、ただ慈愛に満ちた笑みで見つめた。

 傍らに立つ先生──眼鏡ウマ娘が言った。

 

「今や、知識も正当性も、貴方がたに勝る領主は居ません。先祖代々の土地に戻り、上手く治めなさい。相談があれば、遠慮無く申し出る様に……二年間、よく頑張りましたね。もう私から教える事はありません、卒業です」

 

 ここに至り、子弟らは各々が号泣し、広大無辺なる《改悛王》の慈悲に感謝し、永遠の忠誠を誓ったのだった──

 

 

 その後、彼らは父祖の土地に戻り、領民に敬愛される統治者となった。

 老年に差し掛かった改悛王の治世を良く支え、何時しか《改悛王の賢人衆》と呼ばれる様になった。

 領内が発展するに伴い、必然、肥大し複雑化する政務であったが、後に宮宰(・・)にまで上り詰めた眼鏡ウマ娘(せんせい)と都度合議を開き、政治方針を決定、共有した。

 

 実際の所、広大な国土を治める程には、中世の()()()は未成熟であり、故に各地の領主に自治を任せざるを得ない──というのが中世封建社会である。

 諸侯は己が利益のみを追求し、しばしば相争う、というのが通常の所(例、神聖ローマ帝国)、ポーランド王国は諸侯同士の高度な連帯があったと言える。

 

 この封建領主と宮宰による合議に基づいた政治システムは、後の子孫にまで継承された。

 後世、ポーランドに特異な政治を指して《黄金の自由》と呼ばれる基礎となったのである。

 




 眼鏡ウマ娘のくだり、感想からパクりました。
 許して。


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ポーランドの有翼駆兵について

 国内反乱を抑え、後進らの活躍に伴って、ポーランド王はめっきり老け込んだ様に見えた。

 老境に達した彼の髪は真白く、豊かな顎髭も同じであった。

 体力の衰えから、盛んに行っていた国内行幸も徐々に減った。宮殿内に籠る事が多くなった王の足腰は益々弱り、段差の昇降に御者ウマ娘の手を借りる機会がしばしばであった。

 

「おうさまー」

「おうさまあそんでー」

「おじいちゃー」

 

 かつて、王宮内を駆け回っていたレグニツァ駆士団──そのまた子ウマたちに囲まれて、白髭を引っ張られる姿が見られたらしい。

 ウマ娘に対しては「ほっほっ」と笑い、常に寛大であったポーランド王であったが、自身の跡継ぎ(むすこ)に対しては非常に厳しかったという。

 眼鏡ウマ娘に「決して贔屓せぬ様に」ときつく厳命し、既に宮宰となっていた彼女は、王の言い付けを忠実に守った。

 左手に本を開き、右手に鞭を握り、そして腰に長剣を佩いて行われる《勉強会》は、古代スパルタさながらの厳しい教育訓練であった。

 鞭にしばかれ、ひいひい言いながら勉強する、若かりし王太子の姿があったという。

 

 ポーランド王は西の隣国、神聖ローマ帝国が、跡継ぎ不在のために内乱状態と化した歴史に学んでいた。

 王は貴人の責務(・・・・・)を十分に果たし、正妻との間に二男三女に恵まれ、王朝の継承問題は発生しなかった。

 

 なお、末子である三女はウマ娘として生を受けているのだが──

 

 三女が産声を上げたその日、欧州一のウマ娘愛好家である改悛王は、飛び上がって歓喜した(ヒト間からウマ娘が産まれるのは珍しいため)。

 一晩眠らず十字架に祈りを捧げた翌朝、神に感謝の意を伝えんがため、祝祭と記念レースの開催を大々的に宣言する──政治に私情を持ち込まなかった改悛王の、数少ない権力の私物化であった(結果的に国民は喜んだので、善政の一環とは言われる)。

 後年も三女の誕生日には、神に謝意を伝えるレース兼祭りを毎年開催した。

 そのため、現代ポーランドにおいても、この日は最も名誉とされるレースが開催され、ウマ娘が主役の祝祭日となっている。

 

 さて、宮宰の厳しくも優しみある教育の末、長男は立派な王太子へと成長した。

 稀代の名君である父王に対し《凡庸王》等と言われがちな次王であったが──そもそも、世界史に燦然たる《改悛王》と比較される事自体が残酷であろう。

 

 客観的事実に着目すれば、王権の引き継ぎはつつがなく行われているし、家臣の進言に耳を傾け、自発的に思考し発言の出来る賢王であった。

 二代に渡って仕える諸侯団《改悛王の賢人衆》からも堅実さを認められ、同じ先生(・・)を持つ同門としても関係良好で、国内政治は非常に安定していた。

 

 そしてウマ娘の事を愛し、また愛された。妹ウマ娘(改悛王の末子)の指導も直々に務め、目立った結果こそ出さなかったが「お兄様」と妹に慕われる良きトレーナーであったという。

 上記等々から、次王はポーランド王国黄金時代を立派に継承したと言えよう。

 

 概ねの権力移譲を済ませ、今や()()()と呼ばれる様になった《改悛王》は、安心故なのだろうか、病気がちになってゆく。

 しかし、病床にあったとしても、彼は勉学を止める事は無かった。むしろ晩年こそ、壮絶な人生経験を羊皮紙上に落とし込む、最も活発な時期であった。

 中世随一の学者は、自ら学び得た全てを、可能な限り文字に書き残そうとした。早朝から日暮れまで羽根ペンを走らせ、遂に腕が動かなくなれば、口述筆記で記録を残した。

 最晩年、改悛王はこう記した。

 

『運命とは全く数奇なものだ。

 もし、レグニツァ平原の悲劇が無かったとすれば、あの時の傲慢な若者は、暗君として史書に残されていた事だろう。

 もし、我が御者が水を恐れなければ、こうして天寿を全うする事は無かっただろう。

 もし、あの水害が起こらなければ、王国は精強な駆士団を得る事は無かっただろう。

 運命。それは何時も唐突に現れた。しかし何事が、これ幸福となり、不幸となり得たのだろうか。神の深謀遠慮なる事、暗愚たる我が身に測る事は終ぞ叶わぬ。

 ただ確かに、私は身に起こった全てに感謝して死んでゆく事が出来るのだ。これ程幸せな老人が居るだろうか──』

 

 とある春の日、遂に老王は危篤に陥る。家臣の面々、子孫の面々は彼の床の周りに集まり、激しく涙を零した。

 一番の忠臣であった御者ウマ娘と、特に可愛がられていた三女ウマ娘が、それぞれ左右の手を握った。四十年余の長い治世を全うした彼の腕は、全く疲れ果てていた。

 

 最期の会話が記録に残されている。

 王は深く目を瞑り、苦しみ、うわ言のように繰り返していた。

 

「分からないのだ、どうしても……」

 

 随一の賢者である彼に分からない事が、どうして周りに分かろうか。家臣と子孫たちは、おろおろと涙を流すばかりであった。

 しかし、王は不意に瞼をかっと見開くと、独り驚いた様に、左右の手を握るウマ娘に語りかけた。

 

「我が御者よ、我が娘よ。汝、駆けを愛するか」

「はい、何より愛します」

 

 ウマ娘たちは、素直に答えた。

 すると改悛王は、瀕死の病人であるとは思えない程、大笑いした(・・・・・)という。

 周囲が悲しみの涙を流す中、嬉し涙を流す王は満足そうに言った。

 

「わかる。」

 

 ポーランド《改悛王》崩御、享年六十六──黄金時代を一代で作り上げた彼は、正しく大王(・・)と呼ぶに相応しい人物であった。

 

 改悛王の最期の言葉は、己が運命を大きく転換させたウマ娘朝モンゴル帝国について述べたとするのが有力であるが──諸説あり、結論は出ていない。

 確かな事に、彼は研鑽の果てに、何か一生涯に渡る自問の答えを得たらしい。

 

 稀なる学者として残した彼の研究は大切に受け継がれた。 

 度重なる戦禍にも、子孫たちの懸命な努力により遺失する事無く、欧州史を紐解くための重要な一次資料となっている。

 

 また、欧州一のウマ娘愛好家として、欧州に競バを復興させた功績は、中世当時から文化人として尊敬された。

 旧都クラクフの宮殿跡博物館に立つ、戦車で駆ける姿を象った《改悛王と御者ウマ娘》の銅像の威容は、人間とウマ娘両者にとって、国民精神の拠り所として深く敬愛されている。

 

 

 ◆

 

 

 中世から近世に掛けての《レグニツァ駆士団》の発展は、非常に有名であろう。

 

 王に生命を救われ、駆士叙任を受け、戦場の苦楽を共にした初代駆士団長は、改悛王亡き後、すっかりしょんぼりしてしまった。

 全然覇気を失ってしまったのを、いち早く立ち直った眼鏡ウマ娘(曰く、人は何時か死ぬ。しかし、改悛王の説話を纏めた回顧録の執筆をライフワークにした辺り、深く想う所があった様だ)に激励されるも、とても槍を貫き通す心構えにはなれなかった。

 優秀な後進が育っていた事もあり「家族と静かに暮らすね」と言い残し(子沢山で有名。とても静かな家庭とは言い難かったらしい)、団長座を後輩に譲った。

 

 後を引き継いだ二代団長は、初代に倣い、ポーランド王直々に駆士団長叙任を受けた。

 以降、二代団長はレグニツァ駆士団の更なる精鋭の拡充に努める事となる。

 彼女は、戦で身寄りを無くした所を、初代の行軍中に拾われた子ウマだった。

 頭脳も身体能力も誰より秀でたウマ娘であったが、どうにも臆病な性格で、戦の折は何時も泣き喚き、部下に引き摺り出されていたという──しかし、いざ戦場に臨めば、幾百の戦いで生涯無敗を貫いた。

 歴代団長の中でも最強との呼び声高いが、本人は常に「辞めたい」とぼやいていたらしい。

 

 三代団長は、初代の娘であった。母の武勇伝に憧れて駆士を目指したと伝わる。

 彼女も同じく、時のポーランド王直々に駆士団長叙任を受けた。

 二代とは違い非常に勇猛果敢な性格であったが、理性より情熱が先行してしまう傾向があった。団長就任初期には、無謀な驀進の末、度々手痛い敗北を喫する。

 その代わりであるのか何なのか、団長の様子を心配した取り巻きの部下が非常に優秀に育つ。

 お陰で敗北も激減し、三代団長の時代にレグニツァ駆士団の組織構造は確立された。

 

 この様に、代々団長座が受け継がれていく過程で、レグニツァ駆士団の儀式的(・・・)な側面は徐々に拡大していった。

 その最たる例──駆士団長叙任式では、故事に倣い、全団員が装備を整え()殿()()()()()し、喇叭を吹き鳴らしながら王の間へ向かった。

 辿り着けば、王から問い掛けがある。

 

「そこな麗し、勇ましき君。汝、何者なりや」

 

 団長叙任を受ける者は、跪いて応じる。

 

「我、聖駆士ローランの末裔にして、レグニツァの名を戴く駆士の団、その長を志す者なり。然して、王の剣、王の盾を統べんと欲す者なり。願いの許し得たるが為、我が王の御前に参上仕らん」

 

 王は長剣を抜き、刀身に口付けすると、剣の腹を叙任者の肩に押し当てる。

 

「神の御名、また父祖改悛王の名に拠りて。汝、願う者へ、レグニツァ駆士団長位を授けたり──」

 

 と、団長叙任式を初め、時には国王をも巻き込んだ国事として、様々な駆士的儀礼が増えていったのである。

 

 武具武装にも変化が生じた。

 深紅の服の上から、艶やかな装飾が施された駆士甲冑を纏い、同じく深紅の毛皮の腰巻きを靡かせる──という格好が、揃いの勝負服として成立する。

 最も特徴的であったのが、一対の羽飾り(・・・・・・)を背負っている点であった。

 

 この大きな羽飾りこそが、ポーランド《有翼駆兵》と呼ばれる所以である。

 

 飾りの目的は、投げ縄対策とも、音を出して相手を威嚇するためとも言われているが──詳細は不明。

 単に「格好良いから」で済ませようとする研究者も居るが、まさかそれだけの理由の筈は無いと思われる。

 

 見た目が華やかになったとしても《有翼駆兵》の精強は健在であった。洗練化された訓練によって、より速い機動と、強い衝撃力を可能にさせた。

 非常に目立つ風情もあって、ポーランド軍の切り札にして、象徴的存在となっていくのである。

 

 

 ◆

 

 

 レグニツァ駆士団と対をなす存在にして永遠のライバル──《ベルリン駆士団》がある。

 

 艶やかな姿に変化した有翼駆兵とは対照的に、徹底的に無駄を削ぎ落とし、機能美(・・・)に優れたる銀の甲冑。それがずらりと横列する有様は、ナイフの切っ先を突き付けられた様な畏怖を抱かせた。

 

 レグニツァ駆士団が王直属の組織であるのに対し、ベルリン駆士団は結成当初から独立性の強い勢力であった(ドイツ地域の政治的混乱に拠る)。

 結成直後から、多数の人間と合流し東方植民(・・・・)に勤しむのが、平時の生業だった。純粋な戦闘組織としての枠を超え、一個のドイツ勢力としての性格を持っていたのだ。

 主として東プロイセン地域に進出した彼女らは、自然、ポーランド王国と隣接する事となる。

 

 ポーランド側からすれば、勝手に勢力圏に踏み込まれた感覚である。逆にドイツ側からすれば、これ以上の進出を阻む邪魔者であった。

 必然的に両者の関係は悪化──遂に十五世紀初頭、国境問題を契機として戦争が勃発した。

 両勢力とも、各々切り札である駆兵隊を前線に繰り出し、遂にタンネンベルク(またはグルンヴァルト、現在のポーランド北東部)の地で睨み合いに及ぶ。

 

《レグニツァ駆士団》と《ベルリン駆士団》正面から激突した場合、どちらが強いのか? 

 という命題は、しばしば歴史ファンの口の端に上るが──当時の人々にとっては、まこと現実的な深刻さを帯びた疑問であった。

 何せ、国家の盛衰に関わるのだ。そして、此処タンネンベルクの戦場で、雌雄が決するかに思われた。

 

 両軍は、数時間に渡り睨み合っていたが、中々自分から戦端を開こうとはしなかった。というのも、仕掛けたいのは山々だったのだが──肝心要の駆士団が先駆けを拒んだ(・・・・・・・)のである。

 

「産まれ出づ国に違いあれ、戴く主君に違いあれ。彼我は同じく聖駆士ローランの信奉者たり。彼らに槍打ち貫くは、即ち、己が胸に突き立てるも同然ぞ。かくの如き駆士の忠愛に悖る所業は断じて出来るものでなし」

 

 と、両団共に同じ主張であった。

 人間たちは、にわかに焦り「ではもし、向こうから攻めてきたらどうするのか」と尋ねた。

 駆士団長は問者をじろりと睨み、かかる不安を一笑に付した。

 

「その時こそ、志を喪った無頼の輩、まるで恐るるに足らじ。散々に打ち破って御覧に入れまする」

 

 と、おへそを曲げてしまった。

 頼みのウマ娘がその調子であったので、人間らは戦どころではなくなってしまったのである。

 ウマ娘の行きたくない所には行かない、という感情には強烈なものがある。人間たちは大いに焦った──明暗を分けたのは、その後の対応であった。

 

 ポーランド側は、髪を梳いてあげたり、蜂蜜を舐めさせたりして、何とかウマ娘のご機嫌を取ろうと悪戦苦闘した。

 対してドイツ側であるが、ウマ娘の言い分を聞かず、無理に敵にけしかけようとした──これが良くなかった。

 ベルリン駆士団のウマ娘は、完全に機嫌を損なってしまったのだ。

 

「そんな酷い事を言うなら、もうお家帰る!」

 

 と言い残し、耳と尾をぷんぷんさせながら戦線離脱してしまった。頼みの綱が帰宅(・・)してしまったので、残されたドイツ兵は混乱に陥る。

 一方その頃、懸命なご機嫌取りが一定の成果を上げたポーランド軍である。指揮官将軍は、絶好の好機を逃さなかった。

 

「見てごらん、あっちの駆士団は帰ってしまったよ」

 

 と語りかければ、蜂蜜をぺろぺろしていたレグニツァ駆士団は急激に士気を回復させた。

 

「私たちはやるよっ」

 

 そこからは、全くポーランド《有翼駆兵》の面目躍如であった。

 長槍を前に突き出し、咆哮を上げて集団突撃を敢行する。その縦横無尽の機動力と、突撃の衝撃にドイツ兵はこてんぱんにされた──こうして《タンネンベルクの戦い》は、ウマ娘の気持ちに寄り添ったポーランド軍の圧勝に終わった。

 

 以降も《レグニツァ駆士団》と《ベルリン駆士団》は永遠のライバルとしていがみ合ってはいても、互いの信念の下、頑として矛を交えようとはしなかった。

 故に「どちらが強いか」等という命題は、彼女らの高潔な魂の前には、虚しい空論でしかないのかもしれない。

 

 

 ◆

 

 

 ポーランド《有翼駆兵》の最も著名な戦いと言えば《第二次ウィーン包囲》であるに違いない。

 

 舞台は十七世紀後半。

 テュルク民族の勇、オスマン帝国がオーストリア=ハプスブルク家の本拠地ウィーンを、十五万の大軍を以て包囲した。

 当時のオスマン帝国は、ギリシャからアナトリア、果てはエジプトまでをも一呑みにした異教の大帝国である。

 対してウィーンに居たのは少数の守備兵のみであり、かつてのウマ娘朝モンゴル帝国侵攻を彷彿とさせる絶望感に包まれていた。

 

 オーストリア勢は籠城に徹し、城壁を頼みに何とか持ち堪えていたものの、陥落は時間の問題かと思われた。

 時のオーストリア大公にして、神聖ローマ皇帝は逼迫する戦況に窮し、欧州各国に援軍を要請した。

 そして真っ先に駆け付けたのが、当時のポーランド王と、付き従う《有翼駆兵》であった。

 

 欧州に精強無比で知られる《レグニツァ駆士団》の援軍に沸いたオーストリア勢であったが、しかし、この時駆け付けたのは総勢三千駆(・・・)であった。

 敵十五万の前には些かならず心許無い。正直、大国ポーランドには今少しの頭数を期待していたのだが──という、大公の雰囲気が伝わったのだろう。

 ポーランド王は微笑んで応じた。

 

「そう御心配なさらず。出し惜しみをした訳ではありません。ただ、この数で十分(・・・・・・)だと考えた故なのです」

 

 時のポーランド王は、如何にも文人めいた、物腰柔らかな優男であった。剣など抜いた事も無い様な顔立ちをしていたという。

 彼の言葉に、皆々が容易に頷けないのも無理からぬ事であったろう。

 柔和な笑みを浮かべて、傍らのウマ娘の毛並みを撫でている様子に、欧州各地から参集した諸侯は不安を抑えきれなかった。

 

 王は小高い丘に登り、ウィーン市街をぐるりと一円に取り囲むオスマン軍の様子を見聞した。見渡す限り一面の敵兵──肝が縮み上がる様な大軍勢である。

 すると、彼は細い顎を撫でつけ「これはしたり、多過ぎた(・・・・)」と呟いた。諸侯は、異教の大軍に気圧されたのだと、当然思った。

 

 しかし、言葉の対象は違っていた。

 ポーランド王は丘を下ると、即座に《有翼駆兵》三千に全軍突撃を号令する。

 驚愕している諸侯に、彼は言う。

 

「あれなら、半分でも良かったかな」

 

 主人の命を受けたウマ娘たちは、勇ましい雄叫びを上げた。長槍を突き出し、一気呵成に正面突撃を開始する。

 槍の切っ先が向けられたのは、何と、最も陣容分厚い敵本陣(・・・)であった。

 

 有翼駆兵、三千対の羽飾りが風を切り、唸りを上げる!

 紅緋の腰巻と、槍先に巻き付けられた純白の吹き流しが千切れんばかりに靡く。

 その紅白色は、正にポーランド王国の象徴なり。

 音に聞け、目にも見よ、そして身に刻むが良い。

 改悛王の御代より四百年、磨きに磨きしポーランド《有翼駆兵》の勇姿は此処にあり!

 

 先鋒を駆ける駆士団長が、敵の盾ごと槍で穿ち通したのを皮切りに、有翼駆兵は敵本陣に雪崩込んだ。

 盾隊を一枚破り、まだ止まらぬ。

 二枚破り、まだ止まらぬ。

 三枚破って、未だ止まらぬ。

 遂には包囲軍の大将居座る総本陣に到達せしめた。

 

 並み居る盾隊を尽く食い破り、総本陣で大暴れする有翼駆兵に、オスマン軍は大混乱に陥った。

 総大将をも含めた異教の民は、恐怖の絶叫を上げて、その長槍から逃げ惑った。

 後から遅れてきた欧州諸侯軍が、駆兵突撃の開口させた大穴から攻め寄せると、いよいよ統制が取れなくなった。

 

 いきなり頭部を失った十五万余の侵攻軍に大混乱が伝播する。

 オスマン軍は目撃した。最も守備が厚かった筈の本陣兵が、悲鳴を上げて逃げ惑う様子を。

 そして大多数の包囲軍は、訳も分からない混乱の内、散り散りに遁走を開始した──

 

 結果は、オーストリア・欧州諸侯連合軍の圧勝であった。

 その様子を丘から眺めていたポーランド王は、空いた口の塞がらない諸侯らに向けて、

 

「来た、見た、勝った」

 

 と、古代の英雄に倣い、にこにこして言った。

 

 

 ◆

 

 

 第二次ウィーン包囲の勝因は幾つか挙げられる。

 

 第一に、圧倒的大軍であったオスマン帝国軍は、長期の包囲戦で士気が大きく下がっていた事。

 また、拙速の侵攻であったために装備も十分でない上、数的有利に由来する慢心があった。

 

 第二に、それらのオスマン軍の内情を、ポーランド王が一目で看破した事。

 外見こそ優男である彼は、即位前の王太子時代、何と王国大元帥(ヘトマン)として幾多の戦場で戦果を上げた武人中の武人であった。

 その鋭い戦術眼と、見た目通りの優しい性格でウマ娘からの信頼も厚い、正に軍人国王であった。この戦いの後、欧州の英雄として持て囃される事となるが、にこにこしてウマ娘を愛でる王の姿は、やはりそんな大層な勇者には見えなかったという。

 

 第三に、何を置いても《有翼駆兵》が精強だった事である。

 改悛王に発端するレグニツァ駆士団の力量は、この時絶頂に達しており、その正面突撃に耐え得る軍集団など存在しなかった。

 その勇猛果敢さについて、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘、転じて駆兵の歴史にも詳しい女博士は、

 

「つよい。」

 

 と絶賛している。

 因みに、彼女はベルリン駆士号(・・・・・・・)を持っており、実際に当時の甲冑を纏った模擬戦にも参加経験があるというから、説得力もひとしおである。

 

 第二次ウィーン包囲にて絶頂を迎えた、ポーランドの《有翼駆兵》。

 以降の時代は、政治的混乱と、銃火器の更なる発展に伴って、徐々に活躍の場を失っていくが──戦闘集団としての性格は失っても、長い歴史の中に確立した儀式的作法は失われなかった。

 

 現在においても、レグニツァ駆士団長(名誉職)が交代する時には、甲冑を着込み、クラクフ宮殿跡を喇叭を吹いて行進し、改悛王の子孫から直々に叙任を受けるのが習わしである。

 このイベントの際には、世界中から歴史ファンが押し寄せ、ポーランドは大変に賑やかになる。

 一つの観光資源として、今も駆士団は国に貢献している。

 

 そして、人で溢れる国内の警備を務めるのが、ポーランド国軍のウマ娘部隊である。

 国防の一角を担う彼女らは、今でも《レグニツァ駆士団》と同じエンブレムを掲げて国を守護しているのである。

 




満足したので、次回からはモンゴルウマ娘フランス進入編です。
パリは可燃物。


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西欧への進入
モンゴルの厳罰について


 ウマ娘朝モンゴル帝国のヨーロッパ世界への侵入というのは、確かに侵入される側にとって大きな衝撃であったが、同時にモンゴル勢力にとっても驚きの連続であった。

 

 先ず、森林の豊かさである。

 中世ヨーロッパ世界は、未だ手付かずの森林が多く残っており、人々は自然の恵みを多く受けた。狩猟、豚の放牧、薪拾い、果物の収穫等々──中世人にとって、森林とは生活に欠かせない環境であった。

 母なる自然は、恩恵の受領者を選ばない。荒涼としたステップ地帯出身であるモンゴルウマ娘は「補給し放題」と目を輝かせた。

 美味しそうな草花を手折っては鍋に放り込み、湯掻いてむしゃむしゃ食べた。

 

 ご存知の通り、ウマ娘という人類は、野菜から糖質を摂取出来る(・・・・・・・・・・・・)

 植物の主成分(セルロース)とは、糖の重合体であり、れっきとした炭水化物であるが──これを糖質へと消化するためには、分解酵素(セルラーゼ)が必須となり、人間はこの酵素を有さない。

 しかし、ウマ娘は、この酵素を産生する微生物と消化管内で共生しているため、植物から糖質を摂取出来るという訳である(人間とウマ娘でカロリー表示が異なるのはこのため)。

 

 この消化のメカニズムは、他の草食動物と共通であるが──流石に羊や牛といった専門家(・・・)程に高効率ではない。

 糖質不足を補うための穀類、タンパク質のための肉類も食べる必要がある。要は、栄養バランスが大切な事に違いは無いのだった。

 

 しかし、モンゴルウマ娘は人種特性として、他の地域のウマ娘より例外的に消化効率が高かった(・・・・・・・・・)

 先祖代々、農業に適さない過酷な環境で生き延びてきた事による自然選択(・・・・)であると考えられる。

 モンゴルウマ娘は、茹でてしまえば大抵の野草を消化出来たし、後は数切れの乾パンと薄切り肉を食べれば満足出来た。

 移動生活に非常に適した体質だったのである(代わりに動物性タンパク質の消化が少々苦手、肉ばかり食べていると酷い胃もたれを起こす)。

 

 モンゴルの伝統的料理として《干し草の煮込み》というものがある。

 これは、刈り取って干しておいた草と、家畜の乾燥肉(ボルツ)を一緒に煮込んで、好き好きに味付けした一品である。

 各家族や部族毎に微妙に味付けが違う、所謂お袋の味(・・・・)であった。

 干し草と干し肉をメイン食材に据えているため長期保存が可能で、チンギス・ハーンの《遠駆け》の際にも故郷の味として好んで食されたらしい(当然人間は食べられない)。

 

 そういう事情で、自然豊かな欧州世界に入ったモンゴル軍は、殆ど補給の必要が無いくらい現地調達で賄えていたのである。

 

 

 ヨーロッパウマ娘との交流は、モンゴルウマ娘を特に驚かせた。

 モンゴル軍は、遠征途中の村落で度々野営させてもらっていた。その際、村ウマ娘と話しているうちに仲良くなって、戯れに複合弓(コンポジットボウ)を分けさせてみれば、簡単に弦を引き千切られてしまった。

 仕事を手伝ってくれると言うので、有難くお願いすれば、二人がかりで牽引するような荷バ車でも、一人で易々動かしてしまうのだ。

 

 モンゴルウマ娘が尾を立ててびっくりしていると、しかし、直ぐにヨーロッパウマ娘は「お腹が空きました」と頼りなさげに腹を鳴らして、全然動けなくなってしまうのだった。

 そして、いざ食卓を共にすれば、モンゴルウマ娘の三倍も四倍もぺろりと平らげるのだった。

 高原の勇士たちは、西方の同族の剛力と健啖に感心したという。

 

 容姿にも違いがあった。

 ヨーロッパウマ娘の毛並みは、暗色に寄りがちなモンゴルウマ娘と比較して、明るい色が多かった。瞳の色も同様である。

 また、上背が高く──出ている所が出ていた(・・・・・・・・・・)。これも、小柄なモンゴルウマ娘とは大きな違いであった。

 

 さて、高原の指導人たちは、そんなヨーロッパウマ娘への好奇心を抱かずには居られなかった。

 新しい村に訪れる度に、金髪碧眼豊満のヨーロッパウマ娘を取り囲み、様々な質問をしたり、太もも(トモ)を撫でて後ろ蹴りを食らったりしていた。

 担当そっちのけで異郷のウマ娘と親しげに話す指導人連中を眺めて、チンギス・ハーンは呟いた。

 

「うむ、西方のウマ娘も立派なものである。うむ、駆士ローランと同族と思えばこそ、指導人の興味も尽きぬだろう。うむ、見聞を広めるのは良い事だ。うむ、まあ同じウマ娘だがな、うむ」

 

 何かやたらに頷いている主君の横顔を、隣で眺めていた専属指導人の楚材(サハリ)は、一歩近寄って話しかけた。

 

「恐れながら我が君。今夜は一献、付き合っては頂けませぬか」

「どうした急に。誘うなら、あちら様にすれば良かろう」

「いえ、然程の興味を惹かれませぬ」

 

 青毛のウマ娘は、如何にも関心の無さげな横目で──耳だけを注意深く傾けていた。

 

「故郷より幾千里の長旅か、また昨今は、我が君と腰を据え語らう機会に恵まれず。些か、心細く思うのです」

「我が半身よ、お前程の男児が情けなし。斯様に小胆な、つまらぬ事を申すとは。下がれ、弁えるが良い」

「専属指導人が、テムジン様(・・・・・)に伏してお願い申し上げまする」

「……それ程押すなら仕方が無いぞっ」

 

 特段押した訳でもなかったが、自ずと全力で下がったチンギスである。その尾っぽは、根元から千切れんばかりの運動である。

 

「ハーンとして度量を示さねばならぬ故な」

 

 聞かれもしないのに繰り返し周囲に言いふらすと、その日の午後から一切の面会を謝絶した。

 そうして、トレーナーと差し向かいに酒杯を傾けるのだった。

 皇帝の天幕(オルド)内に在りては、固い政務の話題から始まった。しかし、酒が進むうち、最近あった滑稽話に笑い合ったり、思い出話にしんみりしたり、その他も色々──後半は指導人の手拍子に合わせて、皇帝が舞を披露したりした。

 どんちゃん騒いで、いよいよ夜が白めば、適当に折り重なって雑魚寝したのだった。

 

 昼前までひっくり返っていた両名が天幕が開くと、面会謝絶を食っていたモンゴルウマ娘が一斉に詰め寄せた。

 あれやこれやと報告を受ける皇帝は、眠たそうに目を擦る。尾っぽの先を弄りながら、唇を尖らせて言った。

 

「全く私は呆れ果ててしまった。我が半身の図々しさたるや。貴重な時間を割くに飽き足らず、私の舞を独り占め(・・・・・・)したいとは! おこがましい事この上無し。指導人たるもの、広い視野を持たねばならぬ。皆々の指導人が羨ましいくらいであるぞ」

 

 この言を聞いた伝令ウマ娘は、報告を終えた後、すっかり耳がしょぼくれてしまった──翌日から、モンゴルウマ娘たちの様子がおかしく(・・・・)なった。

 

 元気溌剌、何かにつけて一番になりたがる娘が、普段の半分も走らないのに「もう疲れちゃったもん」と膝を抱え込んでみたり。

 強弓使いで鳴らし、勇猛さを尊敬される娘が「弓が重くて引けないよお」と急に非力になってみたり。

 

 或いは、怠けがちの娘が、いきなりやる気を出して、明らかに過重な荷物を背負い「むぎゅうっ」と潰れてみたり。

 何時も少食で済ませるのに「何だかお腹が空いちゃったあ」と、平素の何倍ものご飯を掻き込んで、お腹を壊してみたり。

 

 とかく様々な症状で、モンゴル軍全体が絶不調(・・・)になってしまった。

 

 軍団士気はどん底を這い、行軍速度は通常の人間軍と同じ位にまで落ちてしまった。

 慌てた指導人たちがケアを試みても、モンゴルウマ娘たちは、ぷいとそっぽを向くばかりで効果無し──そして、士気の下がりきった軍団で、遂に事件が発生する。

 

 

 とある二名のモンゴルウマ娘が、村落の男を襲った(・・・・・)のだ。

 

 

 一貫して軍隊規律の権化であったモンゴル軍に、初体験の動揺が走った。

 幸か不幸か目撃者が居たため、事件の犯人は即刻ひっ捕らえられ、大ハーンの御前に転がされた。

 捕縛された二名を《四駿四狗》将軍を初めとした、錚々たるモンゴル首脳が取り囲む──息も詰まる剣呑な雰囲気の最奥に、チンギス・ハーンは玉座に肘をついていた。

 

「厳罰を避けられてか」

 

 口火を切ったのは、最古参の将軍《独走》のボオルチュである。

 芦毛の奇人で周知される彼女も、この時ばかりは深刻な面持ちだった。

 

「人間さんを力ずくにどうこう(・・・・)しようとは、ウマ娘の風上にも置けぬ腑抜けなり。性根の腐臭がするわ、反吐が出る」

 

 普段飄々とした彼女の言であればこそ、事の重大さが浮き彫りにされる様であった。「尤も、尤も」と周囲も賛同の気配である。

 下手人らは、青い顔でぶるぶる震えて何も言えない。

 

「ボオルチュ将軍の言い分、一々明白である」

 

 皇帝が低く言った。

 その言葉は強かな怒りに満ちて──おらず、平素の穏やかな響きであった。

 しかし、その声の調子こそが、臣下たちには何より恐ろしかったのだ。

 残酷な、ぞっとする様な決断を下す時、チンギス・ハーンは何時でも穏やかである事を、皆が知っていた。

 その平穏無事な調子で命じた。

 

「この者らを、切り取って捨てよ(・・・・・・・・)

 

 聞いた途端、下手人は短く悲鳴を上げた。周囲の臣下ウマ娘にさえ、恐怖のさざ波が広がる──まさか、何という苛烈な処罰をなさるのか。

 

「どうか、どうかお許しを……」

「他の罰は何でも受け入れます。ですから、そればかりは……」

 

 縛られたままに懇願する罪人に、皇帝は全く興味を失った様に、のびのびと欠伸をした。

 二名の顔に絶望の色が満ちた。縋る様に、横に並び立つ皇帝専属指導人の顔を見つめた。一度発せられた大ハーンの決定に申し立てられるのは、まず耶律楚材(ウルツ・サハリ)という側近であった。

 だが、指導人は視線に気付かない素振りである。となれば、最後の望みは──

 

「恐れながら、スブタイがチンギス・ハーンに申し上げます」

 

 大将軍が、ずいと一足歩み出た。

 縛られ転がされた両名の間隙を通り、一挙に最前まで進み出る。

 そして剣の鞘に手を掛けた──《四駿四狗》将軍以下、高原の戦士たちは、にわかに柄を握って全身を緊張させる。

 

「将軍、一体何のおつもりか。控えられい」

 

 血色を失した近衛ウマ娘が、むしろ懇願する様に言った。

 将軍は、ただ黙して眼光を閃かせた。それは彼女の迅雷の剣の如き鋭さである。

 南無三──近衛ウマ娘が肝を据えた、その時、スブタイは鞘ごと剣を引き抜いて膝を折った。

 その剣を、勢い良く地面に叩き置いた。空手となって深々跪きたるは、最敬礼の姿勢である。

 

「無礼である、下がられよ」

 

 我に返った指導人らから非難が轟々浴びせられる。だがスブタイは下がらない。それが叱責ではなく、自分を心配した言葉であると分かっているから、スブタイは下がらない。

《万バ不当》のスブタイは、我が身を労る事、些かも無し。

 

「おおスブタイ、言いたい事があるのだな。遠慮なく申せ」

 

 チンギス・ハーンは、耳をくりくり動かして、にこやかに親友を迎えた。

 懸命な非難の声が、水を打った様に静まった。唾を飲み込む音すら聞こえそうな静寂で、スブタイは暫し沈黙していた。

 周囲の者をして、耐え難い沈黙である──スブタイ将軍のもさもさ(・・・・)駁毛は、こうして深々跪いていると、まるで毛玉の様だった。和む。それだけが救いだった。

 

「然らば忌憚なく申し上げまする」

 

 漸く、駁毛のウマ娘は口を開いた。

 

「この二名は紛うことなき罪人なれど、幾多の戦場で武勲を立てた勇士に御座います。大ハーンへの忠孝篤くして、心胆剛直のウマ娘であります。

 此度の件は、魔が差した故の愚行に相違ありませぬ。一時の過ちで得難い勇士の尊厳を奪う事は、軍権を預かる身としても甚だ惜しき事。

 この上は、一兵卒への降格、向こう数年の競バ参加権の剥奪にて贖わせるが宜しいかと」

 

 言い終えると、スブタイは益々頭を垂れて、益々毛玉になった。

 下手人二名は、大将軍直々に庇われた事に感涙を流しつつ、共に額を擦り付けて再び懇願した。

 

私はそう思わぬ(・・・・・・・)

 

 しかし、終始穏やかに朋友を眺めていた皇帝に、慈悲の色は存在しなかった。

 

「スブタイよ。ウマ娘は、人間さん無しに生存出来ぬ生き物だ。だから仲良くしなければいけない。先祖代々の習わしぞ。

 が、そこな奸物は、事もあろうにウマ娘の腕力(・・・・・・)に任せて狼藉を働いた。これは、人間さんに、ウマ娘に、そして先祖に対する裏切りである。

 私は裏切り者を赦した事は、ただの一度も無い。一度もだ。これから変えるつもりも無い」

 

 話は終わりだと、軽く手の平を振った主君に、スブタイは食い下がる。

 

「さりとて、かの如き苛烈な処罰、軍の士気をも関わりましょう」

 

 チンギスの顔から笑みが抜け落ちた。

 瞬間、息も詰まる様な威圧感が、空間に満ちた──危惧した事が起こってしまったと、皆は思った。

 

「士気だと」

 

 チンギスは、一切の温かみを失った、真冬の氷河の様な冷たさで確認した。

 

「罪人を罰すれば、私の軍(・・・)の士気が下がるのか。そのために裏切り者を見逃せと申すのだな。そうか、皆もそう思うという訳だ」

 

 皆は硬直して何も答えられない。「成程」無機質な表情で、スブタイの前に置かれた剣をじっと見つめた。

 失言である。さしもの大将軍も冷や汗を一筋流した──そも、スブタイ含め全ての将軍というのは、チンギス・ハーン個人が所有する軍権を借りている(・・・・・)、という立場に過ぎない。

 言わば、借り物の軍である。それを弁論の盾とするのは、全く不遜の振る舞いであった。

 皇帝は目を細めて、低く言った。

 

「スブタイ、我が友よ。お主は切り取り捨てる(・・・・・・・)事をどう思う」

 

 周囲のウマ娘は震え上がった。

 本当におしっこをちびってしまった者もいた。

 特に青くなったのは下手人二名である。

 自分を庇ったばかりに、敬愛して止まぬ将軍が今にも連座されようとしている。ならば、黙って罰を受け入れた方が、まだしも面目が守れよう──その覚悟を口にしようとした時、スブタイは顔を上げて、刃にも似た鋭い眼光を閃かせた。

 

「然るべき理由があると、大ハーンが認められるのであれば、私は一向に構いませぬ」

 

 恐怖のかたまり(・・・・)に、彼女は真っ向から対峙した。

 チンギスはゆらりと立ち上がり、その青毛を揺らした。数歩前に出ると、跪くスブタイ将軍の両肩を掴む。

 氷河の様に底冷えする眼差しを、間近で将軍に注ぎ──不意に呵呵と笑った。

 

「うん、今日もお前はスブタイであるな!」

 

 心底愉快そうに、掴んだ親友の肩を叩き、揺さぶった。

 

「宜しい、その豪胆に免じよう。だが、全体を赦す事は出来ぬ。然らば、切り取り半分(・・・・・・)に減刑致す」

「は……大ハーンのご慈悲に、心より感謝致しまする」

「立て。何時までもそうしていては、高原一の将軍の沽券に関わろう」

 

 チンギス自ら手を取って、駁毛玉を立たせた。

 そして皇帝は微笑みながら、全く何気なく置かれていた剣を引き抜き、親友に手渡した。

 

「お前がやるのだ」

 

 ──モンゴル軍の刑の執行は非常に迅速であり、残酷なまでに効率化されていた。高い軍隊規律を保つ要因の一つと言えよう。

 例によって、罪人は即刻河原に引き出された。

 岸辺に座らされ、目隠しが付けられようとすると、彼女らは断固として拒否した。

 

「無粋な事をしてくれるな。首が軽くなる最期の時まで、この目で見ていたいのだ」

 

 高原の勇士らしき、毅然とした態度である。白刃を握って、苦々しげなスブタイを気遣って言う。

 

「むしろ名高きスブタイ将軍の手にかかれる事、誉れと致しまする。どうか、ご容赦のなきよう」

 

 駁毛の将軍は無言で頷く。

 二人の内心は、痛い程に想像出来た。遠征の道半ばで、一体どれだけ無念であろうか。魔が差したとはいえ、モンゴルウマ娘にとって禁忌を冒した己が、どれだけ情けなかろうか。

 スブタイは何も語りかけなかった。決意が鈍りそうであったからだ。

 故に無言で、遂に白刃を振り上げ、そして──

 

 

 髪と尾を半分切り取って(・・・・・)、川に投げ捨てた(・・・)

 

 

 余りにも非情に、さらさら流されてゆく自慢の毛並みを見て、強がっていた両名の涙の堰は決壊した。大粒の涙が、とめどなく頬を流れ落ちる。

 

「あああ……私のお毛々ぇ……」

「どうして……どうして……」

 

 二人の悲痛な泣き声は、何時までもライン川(・・・・)のほとりに響いていた──

 

 

 読者の皆様におかれては、首を傾げている事だろう。

 なので、ウマ娘の毛並みについての文化史を少々解説する。

 

 ご存知の通り、現代においてもウマ娘は生まれ持った毛並みを非常に大切に思っている。

 個人に頓着の差こそあれ、極めて重要なアイデンティティである事には変わらない。

 ウマ娘にとって、髪型を大きく変える行為が『大きな決意』であるとか『人生の岐路』とかを象徴するのは、周知の記号であろう。

 

 馴染み深い所では、映画《赤兎千里行》において、呂布への恋に破れた赤兎バが、紅玉を溶かした様な自慢の赤毛を、肩口でバッサリ切り落とす場面がある。

 このシーンは、呂布への深い想いと、もう戻る事は出来ないという強い失望を象徴しているのだな──と全世界のウマ娘は、感じ入ったらしい。

 

 記憶に新しいのは、数年前《驚愕! 半年に一度染毛するウマ娘》等と散々ワイドショーで騒がれたネタである。

 

「そんなの個人の自由でしょ、とやかく言われる筋合いはありません。私は好きな色が多いので」

 

 と主張する染毛ウマ娘に対し、歯に衣着せぬ辛口で知られるウマ娘コメンテーターは、耳をぴょこぴょこ憤慨させて言った。

 

「親から貰った毛並みをこんな風に、信じられません。第一ね、毛が痛みますよ。こういう事をする娘は、きっと辛い経験して、心が歪んでしまったのでしょうね。トレーナーさんに酷い振られ方をしたとか」

 

 大方こんな風なコメントで、世間一般のウマ娘に賛否両論の嵐を巻き起こした──筆者としては、そういう激論に巻き込まれた男性コメンテーターの困惑顔の方が印象深い。

 

「彼女の子供の頃の写真を見て下さい。艶のある鹿毛じゃあないですか。無理に染毛する必要なんて全然ありませんよ。どう思いますか?」

 

 ぽかんとしている所に、いきなり話を向けられた男性コメンテーターは、とにかく何か言わねばならないと思ったのだろう。

 

「本当にそうですね。個人の自由と言っても、限度があると思います。あなたの様に綺麗な毛並みであれば、きっと自信が持てるのでしょうが……」

 

 数ヶ月後、彼はウマ娘コメンテーターと電撃結婚を発表したので、実に目出度い事であった(発表会見で、同じ様にぽかんとしていたのが気になったが)。

 

 以上の通り、近現代の自由主義の台頭に伴い、価値観が緩和された現代においても毛並みについては重大事なのである。

 まして中世においては、想像に難くないだろう。

 ウマ娘朝モンゴル帝国に限らず、髪と尾を『切り取り捨てる』という刑罰は、死刑に匹敵する重罰という価値観が当時普遍的であった。

 本人が意図せぬ形で、毛並みを切り取り捨てられるのは、この上ない恥辱と、尊厳を奪われる事に他ならなかったのである。

 

 転じて、己の尾毛を使用した品(ミサンガ等が世界的に広い例、モンゴルではバ頭琴が代表)を贈る事が、如何に信頼を寄せた行為であるのか理解されよう。

 

 

 さて、厳罰によって軍規を粛清したチンギス・ハーンは、被害者の男性を訪問した。

 謝意を表すため、国家の重鎮をぞろぞろ引き連れ、かごに山盛りのニンジンを持参して、家の戸を叩いた。

 抱き着かれてチュウされる(・・・・・・・・・・・・)、という被害を受けた男は、

 

「あ、はい。どうもありがとうございます」

 

 と、モンゴルウマ娘たちを快く許したと伝わる。




 四駿四狗には、死ぬまで友人に尾毛を贈り続けたやべー将軍が居たらしい。


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指導人駆け競べ、それからパリ到着について

 西欧州ライン川のほとりにて、罪人が厳罰に処され、正義が示されたモンゴル軍である。

「結婚して半年まではチュウとかしたらいけないと思う」という貞操観念のモンゴルウマ娘であるから、見ず知らずの男に不埒な真似をする仲間が出てきたという事は、かなりの衝撃であった。

 まして力任せにとなれば、問答無用で『姦通』であり、厳罰もやむなしと考えていた。

 

 モンゴルウマ娘の貞操観念というのは非常に素朴なものであった。

 というのも、ウマ娘の人口比が高いモンゴル高原では、異性に激しいアプローチをするだけで揉め事の種になり得た。基本的に牧歌的で、諍いを好まないモンゴルウマ娘である。出来るだけ慎重に慎重にするうち、この様な文化が形成されたと考えられる。

 また、モンゴルに限らず、割にウマ娘の多い遊牧地帯では類似した文化を持つ事が指摘されている。

 

『都市のウマ娘は情熱的、草原のウマ娘は慎ましい』

 

 当時の旅人は語り『そしてどちらも良い』と締めくくっている。

 惚れた腫れたに関しては、奥手で純朴──敢えて言い換えるならば、遊牧ウマ娘は余りじめじめ(・・・・)しない質だったのである。

 

 チンギス・ハーンの断固とした処罰は、確かにモンゴルウマ娘たちを慄かせたが、同時に安心させる効果を産んだ。

 少なくとも、彼女らの皇帝はウマ娘の道義を知っている。その限りで、モンゴル軍が統制を失う事は有り得ない──彼女らが最も恐れたのは、モンゴルウマ娘が暴れん坊の不良集団(・・・・・・・・・)だと思われて、人間さんに嫌われる事であったのだ(人間側の認識はこの際である)。

 

 上記一連は、しかし、どん底を這う士気の根本的解決にはなり得なかった。

 絶不調は未だ継続である。

 大ハーンは原因が思い当たらず首を傾げた。そして困った事に──絶不調である所の本人ですら(・・・・・)原因を良く自覚していなかった。

『何だかとても気持ちが良くない』とだけ漠然と、どうしようもなく素直に感じていたのである。

 実際問題、からっ(・・・)としていて、細かい事を気にしないモンゴルウマ娘が、ここまで不調を引き摺るのは珍しかった。

 

 そんな状況下に、憤懣やるかたない人物が一人居た。

 皇帝専属指導人の耶律楚材(ウルツ・サハリ)である。

 モンゴル帝国における文官の長にして、高原第一のトレーナーである彼は、あたふたしている指導人らを自分の天幕(ゲル)に緊急招集した。

 そして一喝する。

 

「この甲斐性無しが!」

 

 先の罪人二名を担当していた指導人を、力一杯の拳で殴った。

 

「う……申し開きも御座いませぬ」

 

 顔面の真ん中を殴られた甲斐性無し(・・・・・)は、だくだくと鼻血を流して平伏した。

 次に楚材は、並み居る指導人らに向き直り、叱り飛ばす。

 

「己らは何故、今の場で、今の位に収まりたるを失念したか。須らくは偉大なる大ハーンと、麾下の勇士が、命も惜しまず高原に平穏を戻したが為であろう。さもなければ、我等の野垂れ死には必定。その恩を忘れ、目先(・・)に気を奪われるとは何事か」

 

 指導人らは、全く恐縮して反省しきった。

 ウマ娘指導人というのは、チンギス・ハーンによる高原統一の後《モンゴルダービー》を振興するに伴った職である。

 これは、大いに公共事業(・・・・)的な側面を持った施策であり、ウマ娘と人間の両者に求心と安定をもたらした。

 指導人の中には、財産を持たない裸一貫から、指導の実力で身を立てた者が多く居た。

 楚材自身、元来異民族の出身である。契丹族の政争に破れ、あてどもない流浪の身であった所を、テムジンに拾われた身の上であった。

 

「指導人一同、失った信頼を取り戻すべく、くれぐれも努め……」

「断じて、否。正道を施すのでは、余りに時が掛かり過ぎる。その間が平穏無事であるとも限らぬのだ。高原の勇士は精強無比なれど、それも規律と士気があればこそ」

「然らば、楚材殿に尋ねて如何」

「事は甚だ危急なり。かくなる上は、外道(・・)を施すべし」

 

 外道の方法──彼らが顔を見合わせた時、天幕の入口に人気を感じた。

 外から声が掛けられる。

 

「さはりー、楚材(サハリ)は居るか」

 

 ひょこりと青毛の頭を覗かせたのは、チンギス・ハーンその人であった。

「これは我が君」と皆々は仰天して跪いた。皇帝は専属指導人の天幕に身体を滑り込ませた。単身である。近衛兵も付けていない。

 

「我が半身よ、合議中であったか」

「我が君の言葉に勝る議題はありませぬ」

「左様か、うむ」

 

 チンギスは浅く頷くと、顎に指を当てた。ゆっくりと、天幕の隅に沿う様に、跪く彼らの周囲をぐるりと右巻きに回る。

 初めの位置に戻って来て、言う。

 

「今日は良いお日様だなっ」

「はい、本当に」

「うむ」

 

 ウマ娘は、今度は左巻きに、先と同じ道程を辿った。

 微妙な空気が指導人間に流れた。単身やって来た大ハーンは、某か伝えたいらしい──という事だけが周囲の指導人には伝わった。

 だが、楚材は既に得心した様な面持ちである。流石と言う他に無い。

 やがてチンギスは、再び元の位置に戻ってきて、言う。

 

「だが、こうも天空神(テングリ)の機嫌が宜しいと、私は喉が渇いて仕方が無いのだ」

「それでは、酒壺を幾つかお持ちしましょう。きっと皆も同じ気持ちである筈」

「うむっ、それは良い考えだ。それで、それでだな。何だか皆の元気が少ないのだ。私は励ましてやりたいと思う。然ればよ、皆の指導人さんも一緒であればだな……否。違うぞ、心得違いをするなっ」

「我が君は、純粋に皆様を励ましたいのですね。分かりますとも」

「分かれば良い」

 

 チンギスは、頬を染めて尾っぽを誤魔化す様にぱたぱた振った──当時モンゴルにおいて、ウマ娘の方から男を酒席に誘うのは上品で無いとされていた。まして、己の親族や夫、指導人以外を誘うのは、はしたない(・・・・・)と見なされたのである。

 それを押してでも、貞淑なる大ハーンは仲間たちを案じていた。

 

「指導人一同、願ってもなき事。是非ともご一緒させて頂きまする」

「皆も喜ぶであろう、皆がな」

「時に我が君、専属指導人からお願いしたき儀が御座います」

「許す」

「昨今、指導人の間に度し難き弛みが見られるのです。一つ締め直す要がありまする。そこで酒宴の前座に、あれ(・・)を催したいと存じますが」

「あれ、とは」

指導人対抗(・・・・・)の駆け競べです」

「……えっ!?」

 

 チンギスは自分の背の丈近くまで飛び上がった。着地した後は、動揺を隠しもせず激しく地面を両脚交互に踏み鳴らす。

 

「それは大事、一大事ぞ。バ鹿な、今日だと。我々は準備も何も。こうしてはおれん、皆に伝えてくるっ!」

 

 凄まじい俊足で走り去りながら、大声で《指導人駆け競べ》を喧伝する皇帝の背中を見て、楚材は呟く様に同僚へ言った。

 

「まあ、そういう事だ……」

 

 

 ◆

 

 

 ライン川沿いの急設レース会場は、モンゴルウマ娘による凄まじい熱狂で満たされていた。

 各々の手には、布に顔料で組紋章(チームシンボル)が描かれた、簡易的な応援旗が掲げられている。勝負服が完全装備され、化粧もバッチリである。

 狂乱めいて太鼓が叩かれ、それに合わせて足が踏まれる。興奮の余りだろうか、蒼穹に向けて大量の矢が弧を描いている。

 

 大気をつんざく黄色い声援の先には、指導人連中が横一列に並んでいる。

 彼らは薄着になり、腕と脚と、逞しく盛り上がる筋肉を露出させた格好だった。無論の事、ウマ娘の膂力に勝るものを、その筋肉は発生させない。

 しかし、そういう類の問題では無かったらしい。

 

 コースは、下流方向におよそ十キロメートル一直線というシンプルなものだった。凄惨極める《モンゴルダービー》とは比較にならない平易なレースである──しかし、何か別枠の、異様な盛り上がりがそこにあった。

 

 狂った様な太鼓の音が、暫し静まった。同じく、モンゴルウマ娘も押し黙る。

 そして、大きく太鼓が三度打ち鳴らされた──三つ目の音と共に、指導人は大地を蹴る。

 その進発に合わせて、一際大きい歓声が上がった。

 筋骨を隆々動かして、高原の男たちは駆け足する。彼らの横には、モンゴルウマ娘たちが応援旗をふりふり併走していた。

 

「きゃああ、頑張ってぇ!」

「私の指導人さんよ、あれは私の指導人さんよ!」

「そこだ、かわせぇ!」

「ちょっとどいてよ、指導人さんが見えないじゃないの!」

 

 大興奮であった。

 指導人らは、呼吸毎に唾を撒き散らしながら必死に駆けている。そうしなければ、この催しに意味が無いと熟知していたからだ。

 ただし、彼らの決死の有様も、ウマ娘にとっては小走り(・・・)もいいところだった。全く涼しく、それでいて他の意味で呼吸を荒げながら、彼女らは横に並んでいた。

 

 異様な興奮には理由がある。

 先述の通り、モンゴルウマ娘の貞操観念というのは非常に素朴であった。モンゴル高原のマジョリティたる彼女らの方から異性に言い寄る行為は、卑しい(・・・)と考えられていた。

 そんな社会観のモンゴルウマ娘が、殆ど唯一、抑圧されたリビドーを公共に解放して良いとされたのが《指導人駆け競べ》であった。

 基本的に情熱の徒であるウマ娘が、応援に熱が入る事は察するに余りある。

 

 現代においてもウマ娘の間で人間陸上の応援というのは、かなり熱心である。

 競技場の応援席で、信じられないアクロバットをしているウマ娘チアリーダーの姿を、皆様一度は見た事があるだろう。

 彼女たちは、自ら駆けるのと同じくらいに、駆けている人を応援するのを好むのである。

 

 

 全く余談であるが、筆者の学生時代「ウマ娘にモテたい」という理由で陸上部に入った男友達が居た。

 それでどうなったかといえば──勿論ウマ娘から大顰蹙を買った。

 彼女たちは《駆け》に対して不純を持ち込む事を心底嫌っている。《駆け》とは、何より不可侵であって然るべきと信じている。

 野望が打ち砕かれた友人は、不遜にも落ち込んでやがったが、以後は真摯に長距離走に打ち込んでいた様に思われる。

 彼はそれなりに才能があったらしく、一年もすると地区大会の良い所まで食い込む程度にはなった。

 その頃になると、同級生のウマ娘から「最近ちょっと良いよね」と熱っぽく噂される彼であったが、それから間もなく部のマネージャー(人間)と付き合う事と相成った。

 部活帰りに手を繋いで下校するカップルを見て、ハンカチを噛んでいたクラスのマドンナ(ウマ娘)の姿を、私は忘れられない。

 あらゆる意味で、奴はとんでもない悪党であったと、私は此処に告白する。

 

 

 閑話休題。

 高原の指導人の決死のレースは、もしかするとそれ以上に決死の応援を受けながら、約十キロメートルを走り切った。

 ペース配分度外視の、常に全力疾走のレースを制したのは、件の罪人二名のトレーナー(・・・・・・・・・・)であった。

 彼は、先頭を牽引していた大ハーン専属指導人を、凄まじい末脚で追い上げると、見事一着でゴールした──と、こういう点だけ詳細なモンゴル帝国の史書は興奮気味に綴っている(モンゴルウマ娘編纂の史書では、主要な戦が何月に起こったのかすら読み解けないが、偶のレースにおける着順と各人の名前は詳しく分かる。同時代人として、その辺りを穴埋めしてくれたポーランド《改悛王》には頭が上がらない)。

 

 更に史書によると、ゴール直後、疲労の極致で倒れ込んだ彼を、ほっかむり(・・・・・)のモンゴルウマ娘二名が、涙を流して介抱したという。これは《切り取り半分》の刑を受けた後、恥ずかしくて毛並みを隠した先の罪人であった。

 甲斐性無し(・・・・・)と痛罵された指導人は、見事面目を施したのである。

 最後の最後でかわされた皇帝専属指導人は、激しく悔しがりながらも、一着の指導人を肩車した。

 

『オーハイ! 天晴れ、見事!』

 

 担ぎ上げられた指導人に向けて、惜しげも無い最大級の賛辞が与えられた。

 

 

 ◆

 

 

 通例に沿い、レースの後は三日三晩の宴が開かれた。

 モンゴルウマ娘のレースであれば舞が披露されるのであるが、指導人の場合は演奏と唄であった。これは、先着三名という訳ではなくて、参加者全員による《演奏会》である。ある意味、順位は問題で無かったのである。

 普段は舞の裏方として演奏する彼らであるが、この時ばかりは主演となるのだった。

 興奮し過ぎたウマ娘が鼻血を流して昇天しかける。演奏を聞いてむずむず(・・・・)し出したスブタイ将軍が、飛び込み参加しようとするのを部下に止められる等々──ハプニングはあったものの、宴はこれ以上なく盛況であった。

 なお演奏会で用いられるバ頭琴に、誰の(尾毛)が張られるか、という問題についても高い関心があったとも伝わる。

 

 この問題には敢えて触れないでおくが──それ以上に宴で重要であったのが、通例以上(・・・・)に指導人と担当ウマ娘の触れ合いが盛んに行われた、という点である。

《指導人駆け競べ》で、すっかり御機嫌であったモンゴルウマ娘は、その絶好調が三日三晩の間に固定されていた。

 宴以後には、それ以前まで不調であった事すら忘れ去られていたのである。

『何だか知らない内に気分が悪くなって、何だか知らない内に良くなった』というのが、モンゴルウマ娘の実感であった。

 

 何だか良く分からないが、落ち込んでいた同胞たちが元気を取り戻した──というので、チンギス・ハーンも概ね(・・)満足気であった。

 三日三晩の宴の後片付けをする臣下たちを手伝いたそうに眺めながら、大ハーンは傍らに立つ専属指導人に言った。

 

「真剣勝負に手を抜く輩は好かん」

 

 最後の最後、後輩の凄まじい追い込み(・・・・)にかわされてしまった楚材は応えた。

 

「私は常に真剣で御座いましたよ」

 

 皇帝は、くつくつと肩と尾っぽを揺らした。

 

「お前はつくづく、私の半身だ」

「分かりますとも」

「分かれば良い」

 

 その日のうちに、モンゴル軍は出立した。人間単一編成軍程度にまで落ち込んでいた行軍速度は、完全に復活していた。むしろ、割増で速い様にも思われた。

 ライン川を渡河したモンゴル軍が情報収集した所に拠ると、次なる《遠駆け》の中継地と目されるのは《パリ》という都であるらしかった。

 近隣住民から聞けば、どうやらパリというのは欧州でも有数の都会であるらしい。

 

とかい(・・・)って何?」

 

 モンゴルウマ娘の率直な感想である。

 元来遊牧民たる彼女らは、定住生活というライフスタイルがいまいち理解出来なかった。当然、その発展形たる都会(・・)も分からない。

 これは、異文化の否定という話では無い。「そんな一箇所に皆が留まって、羊の餌はどうするんだろう?」というレベルの、素朴な疑問であった。

 

 これまでに小規模な村々の定住民と交流があっても、大規模の都市との交流は無かった。未だ高原に居た頃、中華世界よりの商人に都城の話をちらと聞いた事がある位である。

 

 つまり、全く初見の文化に触れるという訳で、モンゴルウマ娘の胸はわくわくで満たされていた。

 自然、行軍速度も上がった。ライン川以西の進軍は、欧州の常識では全然信じられない(信じたくもない)、放たれた矢の如き速度であった。

 こうして、心身共に絶好調たるモンゴル軍は《パリの都》近郊まで辿り着いた。

 丁度、夕暮れ時であったらしい。今日はもう野営するとして、その前にとかい(・・・)というものを一目見ようと、モンゴルウマ娘は小高い丘に登って、西方を臨んだ。

 

 

 燃えていた。

 

 

 時は十三世紀初頭、パリ炎上。

 

 

 



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パリ炎上について

『何もしてないのにパリが燃えた』

 

 とは、放埓なモンゴル帝国の歴史著述において最も有名になってしまった(・・・・・・・)一節である。

 大方「真っ赤な嘘、苦しい言い訳」の代名詞として我々に認知されている。しくじりの自己弁護を試みて「何もしてないのにパリが燃えるわけないだろ」と怒られた──という経験を持つ方も居るのではなかろうか。

 

 つまり「モンゴル軍がパリを襲撃、放火した」という故事は、慣用表現として成立する程に馴染み深い(・・・・・)事実とされてきた。一昔前の教科書には、実際その様に書かれていた。

 しかし、ここ十年程で定説(・・)は大きく覆った。歴史学という分野では、定説が大幅に塗り替えられる事がしばしばあるのだが、中でも最たる事例であろう。

 この、歴史学者として大いに面目躍如をさせたのが、何を隠そう──ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘という女博士なのである。

 彼女はパリ炎上について、主に以下の点を指摘した。

 

・モンゴル軍はルーシ地域を除き、目立った破壊行為を行っていない。

・むしろ金品をばら撒いており略奪欲が無い。

・モンゴルウマ娘の著述は極めて放埓でも、一つとして嘘が無い。

・肝心のパリ側に襲撃の記録が無い。

・襲撃の記述が最初に確認出来るのは、半世紀後のイングランドの史書。

 

 等々である。

 だが、これらは既に先達の歴史家によって指摘された事柄であり、定説を覆すには証拠不十分として、殆ど無視されてきた。

 博士の業績とは、これら状況証拠に、物的証拠を追記した事にある。

 

 博士が偉業を達成するまでには、並ならぬ苦労があった。

 論文発表前夜──自説を補強する証拠探しに行き詰まっていた博士は、その日突然、研究室に山と積み上がった資料を、一冊残らず窓から放り捨ててしまった。

 唖然とする助手を尻目に、博士は研究室を飛び出し、一目散に駆け出したという。

 

 向かった先は──ケルン、アーヘン、リエージュ、ランス等々──即ちモンゴル軍がライン川を渡河してから、パリに至るまでの道程をなぞる町である。

 それらの諸都市で、古い教会へ片端から押し入り、未開の古文書を読破(・・・・・・・・・)して回る。

 不審者が現れたと補導される事も複数回──恐るべき執念で収集した確固たる記録を元に、モンゴル軍の行軍速度を割り出し、パリ炎上の日付と突き合わせた。

 すると、モンゴル軍のパリ到着とは数日間のタイムラグがある事が分かったのだ。到着前に町を襲撃するのは、いくら何でも不可能である。

 

 天運も博士に味方した。

 当時、パリのノートルダム大聖堂の修復工事が行われていたのだが、その際、とある石材の裏側に、

 

『チンギス・ハーンとプラノ・カルピニに感謝を込めて』

 

 という彫り込みが発見されたのである。

 これは従来の「モンゴルウマ娘がパリ復興に協力した」というバ鹿げた俗説が、一挙に信憑性を増す、驚くべき発見であった。

 遂に博士は、これら新発見を引っ下げて、学会に殴り込んだ。その時、学会に電撃走る。非の打ち所が無いプレゼンを披露した後、未だ旧来の説にしがみつこうとしている質疑応答に対して、言った。

 

「ちがう。」

 

 博士は、たった一言、ただし強力な一言で歴史を塗り替えてしまった──筆者も、博士に敬意を表して、以下を新説に則って記そう。

 

 

 ◆

 

 

 博士の新説発表直後「では誰がパリを燃やしたのか?」という当然の疑問が湧き上がった。これは学会のみに留まらず、一般市民にも広まったミステリであった。

 様々な推論が世間に飛び交った。

 

『焦土作戦説』

『フランス王発狂説』

『イングランド陰謀説』

 

 それぞれ魅力的なストーリーテリングが付属されているが、いずれも信憑性があるとは言い難い。

 世界的権威の博士をして、この問題については口を噤んでいる。彼女は確証の無い事柄に関しては何も語らないのだ(かしこい)。

 総じて、突発的な失火(・・)、というのが今の所は最有力である──面白くない、と言われればそれまでだが。

 

 欧州世界において、モンゴル軍が迫る在地住民は漏れなく大混乱に陥った事は先述の通りである──中でも目も当てられない惨事になったのが、フランス王国はパリであった。

 

 先ず、フランス王が逃亡した。

 レグニツァ十字軍を殲滅せしめた《地獄の軍(タルタロス)》が、ライン川の渡河を試みているとの早ウマを受けたフランス王は、脱兎の如く本拠地パリを脱出したのだ。

 敵の姿を見る前に逃げ出すとは、何たる腰抜け──と仏王を非難する声が聞こえてきそうだが、彼にもやむにやまれぬ事情があった。

 発端は、やはり《ワールシュタットの戦い》である。

 

 当時のパリの都というのは堅牢な市壁(・・)で囲まれた、正しく城塞都市(・・・・)であった。

 王のお膝元であるだけに物資も豊富だった。仮に籠城戦を仕掛け、攻囲に不慣れなモンゴル軍が疲弊した所を叩く事は、決して不可能ではなかっただろう。

 しかし、それも援軍ありきの構想である──無論、仏王は国内諸侯に救援を要請するも、諸侯団は雁首揃えて出兵を拒否した(・・・・・・・)

 先の十字軍には少なからずフランス諸侯が参戦しており、その末路は皆の知る所であった。

 

《ワールシュタットの戦い》の政治的被害というのは、勃発地のレグニツァ平原(ポーランド西部)までの距離に概ね比例している。

 主戦場となったポーランド王国では、国内諸侯が死に絶え、政治機構は完全崩壊。だが後に、燃え尽きた灰の中から不死鳥が蘇るが如く《改悛王》という傑物が現れた。この奇妙な事例は、塞翁がウマとでも言うべきだろうか。

 西隣の神聖ローマ帝国では、ポーランド程の死傷者は出なかったが、皇帝と中核戦力たる重駆兵隊が尽く討死。以後長きに渡る内乱と、皇帝不在の大空位時代が訪れた。隣人に殺される危機が先に立って、モンゴル軍への対処どころではなかった。

 

 そして更に西方のフランス王国はというと──実は再建不可能なダメージを受けた訳ではなかった。王と諸侯とが一丸となれば、勝率はともかく、モンゴル軍に抗し得る兵力は温存されていた。

 しかし、距離に拠る影響の差に関係無く、欧州各地に平等に与えられたものがあった。

 

 ウマ娘朝モンゴル帝国への絶大な恐怖(・・・・・)である。

 

 フランス王国内では、なまじダメージが少なかった分、口伝えに恐怖のイメージが際限なく拡大した。

 今まさに東方から迫って来ているのは、神の威光すらものともせず、地上世界に地獄を運んでくる悪魔(ルシファー)という事になった。

 チンギス・ハーンと麾下モンゴルウマ娘は、十字軍の尊き血を啜り、益々以て力を増しているらしい、と囁かれた。

 諸侯団が援軍を出し渋るのは、ある意味当然だった。誰でも命は惜しい。

 

 援軍無しの籠城戦ほど、絶望的な戦は存在しない。

 抗戦の術を失ったフランス王には、その絶望的戦いに身を投じるか、パリを脱出するしか選択肢が残されていなかった。そして、やむなく後者を選んだのだった。

 彼は決して、初めから卑劣な選択をした訳ではなかったのだ──実は第三の術として、城門の一切を開放して悪魔を歓待する(・・・・・・・)というものがあったが、上記の流れを踏まえれば、全く埒外である事はお分かり頂けるであろう。

 

 そうして、あろう事か首都を逃げ出す(・・・・・・・)という汚辱に塗れた仏王は、深い失望に沈むと同時に、パリ奪回の執念にめらめら燃えていたという(まあ実際に燃えたのはパリの方だったが)。

 

 王の決断が卑劣であろうとなかろうと、残された市民はたまったものではなかった。見捨てられた事実には全く変わりがない。

 しかも脱出の際、守備兵すら根こそぎ引き抜かれてしまったので、頼もしかった市壁すらも一転無用の長物と化していた。

 近く《地獄の軍》に尊厳まで蹂躙される未来が容易に想像出来た。

 

 俗世に裏切られた市民たちが、我先に教会へ集い、神に救いを求めたのは至極自然の心理だったろう──しかし、救ってくれる筈の教会はもぬけの殻だった。

 身の危険を嗅ぎ付けた聖職者たちは、フランス王よりも先にパリを逃げ出していたのだ──市民から徴収した浄財によって。

 

 市民は聖俗両方に裏切られた。彼らの全てを支えていた土台が、音を立てて崩壊した。

 嘆き悲しむ暇もなく、町の何処からか火の手が上がった。恐らく、単純な火の不始末であった。

 市壁の内側は悲鳴と怒号で満ちた。

 大混乱の中、風に煽られ炎は瞬く間に広がった。ろくな消火活動も出来ぬまま、火事は市民のなけなしの財産を焼き尽くした。

 泣き面に蜂、弱り目に祟り目とは、正にこの事であった。

 

 パリの都は丸三日も燃え続け、鎮火したのは四日目の朝であった。

 王に捨てられ、神にそっぽを向かれ、財産は燃えた。

 そして、遂には《地獄の軍》がやって来た。先頭に立つのは、夜闇の様な青毛のウマ娘であった。

 今や、パリ市民は泣いたり笑ったり出来なくなっていた。彼らの精神的支柱は、完全にへし折られていた。もうどうとでもなれ──という投げやりの極致であった。

 

 

 しかし、チンギス・ハーン率いるモンゴルウマ娘は、彼らの想像とは全く異なる姿をしていたのである。

 

 



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後にいうタタール族について

 モンゴル軍がパリの都に入ったのは、大火が鎮火して更に三日間を置いた後だった。慎重である。

 見渡す限り何も無いという平原で育ったモンゴルウマ娘にとって、大都市を無秩序に焼き尽くす狂い火というものが、この世ならざるものに見えたのだろう。

 ルーシの残骸を燃やし尽くした時でさえ、几帳面に一箇所に掻き集めて燃やす、言わば統制された炎であった(それはそれで狂気染みている)。

 その様に、おずおずパリを訪れたモンゴルウマ娘たちであった。

 

 パリ市民はおずおずどころではなかった。絶望である。彼らの王は兵を連れて逃亡し、聖職者に見捨てられ(例外を除き)、財産諸共を失った直後に《地獄の軍(タルタロス)》を迎えなければならなかったのだ。

 

 モンゴル軍勢からは慣例に倣って、指導人の使者(護衛付き)が立てられた。

 使者団がパリの市壁の前に立って「開門されたし」と呼びかけると、徐に門が開き、一人の男が出てきた。

 黒い僧衣を着て、頭頂部を円形に剃り上げている。どうやら十字教の聖職者であるらしい。全身すす(・・)まみれで、顔は真っ黒であった。

 その小太りの中年男は『プラノ・カルピニ』と名乗った。

 

「燃えていましたね」とモンゴルの使者が言うと、カルピニは「燃えてしまいました」とにいっ(・・・)とはにかんだ──その笑みには、何処か不思議な、福々とした人間的魅力があった。

 話の出来る人物らしい。直感で理解した使者は「偉大なるモンゴル皇帝、チンギス・ハーンに目通り許す」と伝え、彼を大ハーンの天幕(オルド)まで連れて行った。

 前後を指導人、左右を護衛ウマ娘に固められて《地獄の軍》の中枢に導かれるプラノ・カルピニの心情は、如何ばかりのものであっただろうか──それを示す文献は残っていない。

 

 いよいよ西洋人が天幕に入れば、意外にも広々した空間の最奥に、青毛のウマ娘が肘をついて座っていた。

 ちょん(・・・)としたものだった──後に彼は語る。

 彼の知る欧州ウマ娘よりモンゴルウマ娘は小柄だった、という他に、肥大化した恐怖の虚像と対比しての意があるのだろう。

 

「こんにちは」

 

 そのちょん(・・・)としたウマ娘が初めに口に出した言葉は、余りにも普通だった。

 暫し呆然とした後、はっとして「こんにちは」と挨拶を返すと、ウマ娘はにこにこしたという。

 

「大ハーンの御前であるぞ」

 

 棒立ちのカルピニに、もはや定型句と化した注意喚起が傍の専属指導人から投げられた(チンギスと初対面の人間は大概こうなる)。

 そして、チンギスは大概次の様に言った。

 

「苦しゅうない、近う寄れ」

 

 人懐こい笑みを露わにして、モンゴルウマ娘の長者は手招きした。素直に従った神父を、皇帝は毛並みと同じ黒い瞳でじっと眺める。

 そのうちに、チンギスは上半身を右に左にゆらゆら揺らし始めた。お耳が、同じ方向に揺らめいた。

 

 天幕内のモンゴルウマ娘、並びに指導人は、ほうと感心した。交流好きな主君といっても、初対面でここまで機嫌を良くする事は稀有である。

 何か、この一見してさえない(・・・・)男から感じ取るものがあった様だ──ただしプラノ・カルピニにとって、いきなり左右に揺れだした蛮族王の姿は、怪しい儀式にしか見えなかった。

 不意に胸に十字を切るや、意を決した様に話し出す。

 

「これこの様に、パリはさっぱり燃えてしまって、何も差し出すべき物は残っておりません。すすの中で疲れ果てた民が残されているばかりです。皇帝陛下におかれましては大変御足労ですが、ここは一つ、引き返しては頂けないものでしょうか」

 

 神父は大変正直に「帰ってくれ」と頼んだ──さながら、西ローマ帝国が風前の灯火と化した五世紀半ば、謎のウマ娘集団《フン族》のアッティラ大王を説得の末に退却させた宗教指導者を連想させる勇気だった。

 事の顛末を考えれば、蛮勇とも言えるかもしれない。といっても、カルピニを代表としたパリ市民は他に何らの術も、望みも持たなかったのである。

 

 しかし、この物言いが功を奏した。

 少し前、チンギスは実際にバチカン使節団を迎えている。

 彼らの書簡は婉曲表現が過ぎて、心気素朴なモンゴルウマ娘には全く解読不能であった(バチカン公文書館に写しが残っている、現代の我々からしても殆ど意味不明)。

 今回の様に、率直で端的な表現の方が理解しやすかったし、何なら好感触だった。モンゴル人は吉事にしろ凶事にしろ、常に廉直を好む民であった。

 完全に理解した──という風に、チンギスは、ゆらゆらしながら言った。

 

「そちの言い分、成程あいわかった。とかい(・・・)の食べ物が何たるか、楽しみにしていたが是非も無し」

「え……いや、何とも、これは有り難き事」

 

 カルピニは目を丸くした。「ならば貴様らの血を啜ってくれるわ!」という類の返答があると思っていたのだ。

 更に、慮外の言葉は続いた。

 

「ならばそなたら、雨風も凌げぬのではないか。予備の幕屋(ゲル)なら些か、ある。狭かろうが、詰めれば寝れない事もなかろ。組み上げておく故、皆を呼んでくるが良い。ああそうだ、飯も煮ておこうか」

 

 早速あれこれ指示を出し始めるモンゴル皇帝に、神父は衝撃を受けた様に、思わず尋ねた。

 

「まさか、あなた方は《地獄の軍(タルタロス)》の筈なのに……」

「たるたる?」

 

 大ハーンはきょとんと首を傾げた。

 

タルタル族(・・・・・)ならば、お隣の部族だが……大昔から、それは強いウマ娘でな。大いに苦戦したわ。今では、私を一杯支えてくれている。

 かく言う私はモンゴル族(・・・・・)だ。まあ昨今成り上がった部族であるからな、知らぬのも無理からぬ」

 

 実の所、十三世紀初頭において《モンゴル族》という名は、それほど世間に通りが良くなかった。というのも、モンゴル族は元々弱小部族であり、チンギス・ハーンが爆速で高原を統一するまで全く無名と言って良かった。

 それよりも、八世紀の昔から高原に大勢力を築いた《タルタル族(韃靼)》の方が、遥かに著名であった。

 

 とはいっても、遥か西欧においては両者無名の集団であり、区別がつく筈もない。《地獄の軍(タルタロス)》と発音上の混同もあった。やがて、彼らにとって恐ろしい東方の遊牧民全般を、大雑把に一括りして《タタール族》と呼称する事となってゆく。

 

 ともかく重要であったのは、この時チンギス・ハーンが《地獄の軍》である事を否定し、素性の知れない東方の民《モンゴル族》を名乗った事であった。

 

 カルピニ神父は狐につままれた心地であったが、最終的には大ハーンに言われた通りにした。

 パリの都に残され、今も怯えているだろう人々を呼びに戻ったのである。

 無論、市民は疑心暗鬼であったが、消火活動の最大の功労者たる神父の言葉を一蹴する事も出来ない。何より、屋根と食物が無いのは目下切実であった。

 疑念と現実がせめぎ合った末、先ず様子見で少人数がモンゴル陣営に連れられてきた。

 さて、予備の幕屋を組み終わり準備万端だったモンゴルウマ娘たちは、嬉々として叫んだ。

 

「どうぞうちにいらっしゃい、甘いニンジンが御座います!」

「いいえうちにいらっしゃい、しこたま酒壺を積んでいます!」

「それよりこちらはいかがです、ご飯を山盛りにしてますよ!」

 

 モンゴルウマ娘たちは、それぞれ(チーム)に分かれて、お客人の腕が抜ける位に引っ張った。

 そうして引きずり込まれた幕屋の中には、嘘偽り無くご馳走の山と、温かい歓迎が待っていた。

 存分に歓待を受けたパリ市民の偵察隊(・・・)は、非常に感激して街に戻り、家族や友人を連れて来た。

 そして夕刻の頃にもなると、モンゴル陣営は二つの文化が大変賑やかに交流する場となったのである。

 

 モンゴルウマ娘、というより遊牧ウマ娘全体に共通するのだが、お客人を大歓迎する文化を持っていた。

 単純に交流好きであるのが一番に来るのだろう。しかし一方では、どれだけ客人をおもてなし(・・・・・)出来るかで人徳が示されるのだ、と強く意識していたのである──言わば、身内同士で見栄の張り合い、という側面を含んでいた。

 そのためモンゴルウマ娘の間では、何時でも来客の取り合いになるのだった。

 

 因みに。何故だかタルタル族の幕屋にはお客さんが一人も来てくれなかったので、タルタルウマ娘は物凄くしょんぼりしたという。



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聖カルピニについて

 

 はっきり言おう(アーメン)。今日あるだけの糧と、愛をウマ娘に分け与えなさい。そうすれば明日の貴方は多きを与えられるだろう。

 

 ──紀元一世紀、エルサレムにて。

 

 

 ◆

 

 

 プラノ・カルピニのジョバンニ。

 パリからカラコルムまで、遥か8500キロを往復し、実見に基づきウマ娘朝モンゴル帝国について著した人物が、当時のパリに居た事は大変有名である。

 

 中世欧州人から見たモンゴル帝国の実態──という史料上に多大な功績を残した人物であるが、また同時に十字教世界においても重要な人物であった。

 現在もウマ娘たちに広く信仰される十字教《カルピニ派》の開祖であり、後世には《聖カルピニ》と尊称され、レースを走るウマ娘の守護聖人ともなるのである。

 

『パリを焼き尽くした炎を鎮め、瞬く間に都を再生した』

『神の威光によってモンゴル軍を撤退させ、しかも十字教に改宗させた』

『骨折したウマ娘の足をたちどころに癒した』

 

 等々の奇跡(・・)がバチカンの認定を受け、逝去後は直ぐに列聖されたという聖カルピニであるが──本項では、ウマ娘女博士の最新の研究に基づきつつ、史実を沿う事に努めよう。

 

 

 プラノ・カルピニは、十二世紀末、中部イタリアに生を受けた。

 幼い頃から頭脳明晰で、十字教の教えを良く理解する神童であった。優しく社交的な性格であり、別段容姿に優れていた訳ではないものの、不思議と人好きのする笑顔は、周囲の人々の気持ちを朗らかにさせたという。

 

 特に際立っていたのは弁舌の才覚であった。

 少年時代ともなると、不意に井戸端で説法めいた事を始め出して「司祭様より話が分かりやすい」と村人、並びにウマ娘シスターをしきりに頷かせた。

 それを妬んだ地元司祭から宗教論議をふっかけられるも(大人気ない)、軽く言い負かしてしまう程であった。

 この子に家業を継がせるだけでは勿体ない──敬虔な両親たっての希望もあって、カルピニは本格的に聖職者としての道のりを歩き出す事となるのである。

 

 中世当時、殆ど唯一と言っていい知識の集積地であった修道院の蔵書を、少年は網羅していった。

 青年時代に差し掛かる頃には、清貧で、慈悲深く、賢い修道士としてバチカンにも知られる程であった。

 そして若くして、ドイツ地方──神聖ローマ帝国内での宣教責任者に任命される。

 中世当時と言えば、神聖ローマ帝国とバチカンは、叙任権闘争(聖職者の任命権を巡る争い)の真っ只中である。

 これは実際にドイツ・イタリア間で武力闘争にまで発展しており、ドイツ地方への任免は極めて大任であったと言えよう。

 

 皇帝派か、バチカン派か──ドイツ諸侯が激しく反目し合う最中に置かれるも、しかし、カルピニは何方の権力にも肩入れすること無く立ち回った。

 むしろ、両者の中間の立場から調停役(・・・)として尽力する事となったのである。

 

 カルピニは、互いに争って止まない諸侯らに、神の愛を説いて回った。

 旅人の杖をつきつき、北へ南へ、西へ東へ──争いの種がある所に出向いては、優れた弁舌を以て説き伏せ、軍を退かせた。その赴く所に、決して流血は起きなかった。

 

 彼は、一月として同じ場所に留まらなかった。それ程に神聖ローマ帝国は内輪揉めに溢れ返っていたのだ。

 また道中では、何処の路地にでも立って、民草に聖書を読み聞かせた。深い理解に基づきつつも、平易に噛み砕かれた説法は、何時でも有り難がられたという。

 

 閉鎖性の強い中世ヨーロッパにおいて、プラノ・カルピニ程に足を使って宣教を行った聖職者も稀であろう。

 丸一週間を移動に費やし、足を棒にする事もままあった。しかしそれでも、お付のシスターウマ娘より先に「くたびれた」と音を上げる事は無かったというから、彼の熱心さは驚くべきものである。

 

 

 十字教の黎明期について少々話そう。

救世主(メシア)》が磔刑に処された後、ローマ帝国内でウマ娘が布教活動に奔走したのは周知の事実である。

 彼女たちは、十字教が国教化されるまで約三百年の長きに渡り、地中海沿岸一帯を駆け回った。

 彼女たちは《救世主》がどれだけやさしい(・・・・)方であったか、懸命に言葉を尽くした。

 

「主は言われました。人間さんとウマ娘は、実は兄弟だったんだよっ」

 

 この布教?──の根拠となる福音書は以下を記す。

 

『主と使徒たちが町を歩いていると、とあるウマ娘が盗み食いの咎で激しく責められていた。

 主は間に割って入ると、怒る人々を丁寧に宥め、騒ぎを収められた。

 使徒は、その親身さを不思議に思って理由を尋ねた。すると、主は澱みなく応えられる。

「私はウマ屋に生を授かりし者。どうして、あなたは私の兄弟について尋ねるのか」

 庇われたウマ娘は、その言葉に感激して罪を悔い改め、一行に付き従った』

 

 太古の昔から、数少ないウマ娘は貴重な労働力・戦力として重宝され、神格化されることもしばしばあった。

 その様に人間と良好な関係を築きつつも──何処か違う人々(・・・・・・・)という無意識の隔たりが確かに存在していた。

 

 しかし《救世主》は、それを打破した。

 ウマ屋(今で言う運送屋)で産まれたという由来を持つ彼は、ウマ娘を兄弟であると断言した。我々は同じ神の下に産まれた子であり、隔たりは存在しないと説いた。

 それは相互認識の革命であった。

 彼の教えが広がるに連れて、ウマ娘はコミュニティの何処か違う人々(・・・・・・・)から、自然な一員(・・・・・)として、緩やかに転換していったのだ。

 

 この教えがウマ娘にとって、どれだけ喜ばしい事であったろうか。大好きな人間さんに寄り添うばかりでなく、寄り添われる存在になれたのだ。

 ウマ娘からして、正しく彼は《救世主》であった。

 

 

 さて、話は戻る。

 十字教の黎明期にウマ娘が活躍したという流れを受けて、宣教師はウマ娘とペアを組む、という習慣が何時しか生まれた。

 我々日本人にとっては、宣教師フランシスコ・ザビエルと、お供ウマ娘の肖像画が最も馴染み深いのではないだろうか。

 例に漏れず、プラノ・カルピニにもお付のウマ娘が居た。

 このシスターウマ娘が、神父を善く支えた。

 

 カルピニの宣教活動は上記の通り、並ならぬ熱意に突き動かされていたが、それでもウマ娘より先に疲れないというのは、とても現実には考えづらい。

 推測であるが──とかく無理しがちなカルピニの横顔を窺いながら、折を見てシスターウマ娘が「くたびれちゃいました」と休憩を願い出ていたのだろう。

 カルピニは相方のお願いを断る事は無かったというから、直ぐにその場で足を止めて、聖書を開き辻で説法をした──というのが現実に即した所ではなかろうか。

 

 この善き二人組が十年も活動を続けると、徐々にドイツ地域で名が知れてきた。

 戦の火種ある所に颯爽と現れては、無辺の神の愛を説き、調停しては歩き去ってゆく──そうしてカルピニらは《聖なる平和の使者》として、著名になってゆくのである。

 

 とりわけ、ご婦人方に人気が高かった。

 いざ戦ともなれば、夫の無事を祈るしかない彼女らである。それを未然に防いでくれるカルピニ神父は、正しく聖なる人に違いなかった。 

 そうして、カルピニが訪れる村や町では、貴族から農民まで、ご婦人が我が子を胸に抱いて殺到し「是非この子に祝福を」と長蛇の列を作る様になる。

 神父も可能な限りそれに応えたと言い、その祝福を受けた子供は無病息災のご利益がある──との噂が広まったから、高名は益々であった。

 

 反対に、男共の人気は微妙であった。

 彼らからすれば、戦支度を整え「いざ武名を立てん」と意気込んでいる所に、いきなり現れて弁舌巧みに丸め込まれてしまう──という、少々疎ましくもある存在であった。

 とはいっても、彼らとて進んで死に急ぎたい訳ではなかったし、妻の手前もあり(重点)、我が子に祝福を授けられたともなれば、そうそう邪険にする訳にもいかなかった。

 そして概ね「神父様が言うなら仕方ない」という風な所に落ち着いたのだった。

 

 ドイツ地域で、確固たる立ち位置を築き上げたプラノ・カルピニの存在は、やがて神聖ローマ皇帝の目にも留まった。

 神父とシスターウマ娘は宮廷に召し出され、バチカンとの折衝役を命じられた──これはつまり、叙任権闘争の最前線に立つ事と同義であった。

 

 この頃から、神父は二人立て(・・・・)の立派なバ車をあてがわれる様になった。

 徳を積めるというので、バ車の牽引役はその時々で大変な倍率であったというが、二人のうち片方はシスターウマ娘で固定であった。

 さて、今まで過酷とも言える徒歩移動をしていたのに、急にバ車移動になったものだから、カルピニ神父は太り気味になってしまう。

 しかし、多少ふくよかな方が「福者っぽい」と、もっぱらの評判で、彼の不思議と人好きのするにいっ(・・・)という笑い方も合わせて、所謂チャーミングポイントになる(プラノ・カルピニの肖像画は、この頃の姿で描かれるのが殆ど)。

 

 こうして頻繁に宮廷・バチカン間を往復する事になったカルピニは、ここでも平和の使者として大いに活躍した。

 叙任権闘争における互いの妥協点を弁舌巧みに探し出し、遂には(一時的にとはいえ)手を取り合わせる事に成功する。

 この功績から、カルピニは最高級の聖職者として認められる事となったのである。

 

 大仕事をやり遂げたカルピニは、二十年にも及ぶドイツ地域の宣教活動を終え、次はバチカンに召し出された。

 高名な聖職者がやって来る、というのでローマ市民はやはりこぞって彼の祝福を求めたという。

 

 

 ◆

 

 

 大物宣教師として、見事バチカン中枢入りを果たしたカルピニは、打って変わって存在感が無くなってしまった。

 まるで人が変わってしまったかの様に、淡々と公務をこなすのみであった。

 

 社会的名声とは裏腹に、神父の心は倦んでいた。

 挫折感で一杯であった。

 

 若き日の彼は、無償の神の愛を心から信じ、信仰の情熱に溢れていた。それが全ての原動力であった。

 だが、次第に名声が高まり、現世を治めるべき統治者の間を渡り歩くに連れ、どうしようもない世間の腐敗(・・)に気が付いてしまったのだ。

 

 幾ら自分が懸命に説いても、諸侯らは表面上矛を収めるだけで、諍いの火種は尽きなかった。まるで、人間が本能的に血を好む生物の様にも思えた。

 その裏では、厳しい課税に民は苦しみ、ウマ娘は腹を空かせている。そうして搾り取られた財から諸侯は賄賂を送り、ただ神に仕えるべき聖職者は平然とそれを取った。

 大仕事を果たす途中で、世界の歪みをまざまざと目撃してしまったのだ。

 

 バチカンの有様も彼を失望させた。

 西方教会の総本山にして、使徒の墳墓が存在する紛れもない聖地。さぞ清廉な空気であろうと想像していた場所は、全く堕落していた。

 道行く聖職者は、お付のウマ娘と、まるで恋人であるかのようにいちゃいちゃ(・・・・・・)しており、それを隠すどころか見せ付ける体たらくだった。

 

 失意に沈んだカルピニは、ちらと、疑ってしまった。

 本当は『無償の神の愛』等という代物は、存在し得ないのではないか──己の疑念に気が付いた時、神父は愕然とし、打ちのめされた。

 

 滾る情熱に突き動かされるまま歩き続けた過去の自分の行いは、全て虚しい偽善に過ぎなかったのではないか。

 主なる神に疑いを抱きながら、世間に愛を説いた者こそ、誰より許されざる咎人ではないのか。

 一体何の権利があって、自分は主の教えを語っていたのか──神父は独り悶え苦しんだ。

 

 

 カルピニ神父が自責の念に苛まれていた一方、シスターウマ娘も周囲に馴染めずにいた。

 バチカンには勿論彼女以外にも沢山のウマ娘が居て、度々井戸端に集まっては会話に花を咲かせていた。

 

「うちの神父様ったら、私の手にチュウしたのよ、困っちゃうわ」

「大胆ねえ。でもこの前うちの神父様も、ほっぺにチュウしようとするものだから、私慌てちゃったわ」

「でもでも、うちの神父様なんて」

 

 この様な会話が公になされている事自体、聖職者の腐敗を象徴しているのだが──既にこれが常態化していたため、彼女らはその異常さに気が付くことは無かった。

 唯一、カルピニ神父付きのシスターウマ娘だけが、居心地の悪さを感じていた。

 周りの娘たちが、さも当然かの様に堕落しているので、逆に「私がおかしいのかしら?」と不安に思ってしまった。

 彼女の相方は高潔な人であったので、チュウどころか指先ひとつ彼女に触れる事はなかったのである。

 それでも、必死に仲間に混じっていようとした、そんなある日。

 

「あなたの所は、さぞ仲がよろしいのでしょうねえ」

 

 と、試す様な口振りで聞かれてしまう。好奇の目が、一斉に向けられ、シスターウマ娘は焦った。皆が期待する様な話は、何一つ無かった。

 でも「何も無い」と言うのは、とても恥ずかしい様な気がして──つい言ってしまった。

 

「わ、私なんてうまぴょいなのよ」

 

 ウマ娘たちは、すごくびっくりした。

 

 

 ◆

 

 

 プラノ・カルピニはバチカン追放の通告を受けた。

 

 理由は神への背信行為であった。

 一応、宗教指導者の前で弁明の機会が与えられたものの、しかし彼は全面的に罪を認めた。

 

「間違いありません。全ては私が力ずくに及んだ事。しかし、最後は拒まれました。彼女は全く無垢のままなのです」

 

 それを聞いた聖職者たちは「けしからん、実にけしからん」と大変に憤慨して、バチカンの即日退去を要求した。

 この決定を遠巻きに聞いていたシスターウマ娘は、膝から泣き崩れた。それを見た周囲の者は、この無垢な被害者(・・・)を哀れみ、慰めたという。

 

 これは明らかに誉高いカルピニを妬んだ者の陰謀であった。そもそも、ウマ娘を力でどうこうするなど不可能ではないか。

 しかし、弁舌に優れる筈の神父は黙して何も語らず、身一つでバチカンを退去した。

 後には、泣き腫らしたシスターウマ娘が続いた。彼女の健気さを、誰もが認めた。

 

 プラノ・カルピニは、再び徒歩の人となった。

 理想的なバチカン入りの直後、不名誉な失脚という直滑降であったが──その表情には、むしろ清々しさすらあったという。

 彼は、地位や名誉、それに伴う腐敗といったものから距離を取りたかった。もう一度、己の信仰と向き合う環境を欲していたのである。

 

 そして、あの頃の生活に戻った。

 シスターウマ娘を伴って連日歩き詰め、何処の辻でも聖書を開き、説法をした。

 権威の鎖から解き放たれた神父の弁舌は、教義の独自解釈も交えて冴え渡っていた。

 バチカンを出て北上し、名の知れたドイツ地域を避けつつ、流れ流れるうちに──フランス王国はパリに辿り着いたのである。



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聖人への道程について

『さて《救世主(メシア)》に従うウマ娘たちは過越祭のためのレースに向け鍛錬を欠かさなかった。

 しかし、その土地の聖職者(ラビ)に疎まれていた一行は、当日になってレース会場に入れなくさせられた。

 善きウマ娘たちは、ガリラヤ湖のほとりで膝を抱え、大いにしょんぼりとした。

 

 そこに主がお越しになられて、桶に湖の水を汲むと、座り込んだウマ娘たちの足を順に洗うのである。

「先生、とても勿体無い事です」善きウマ娘たちは遠慮したが、主は黙っておられた。全員の足を洗い終えると、感激するウマ娘に主は仰る。

 

よくよく、はっきり言っておく(アーメン、アーメン)。主の命によって、その足は清められたと。善きウマ娘は幸いである。その足の運びが何人に阻まれる事も無い。見よ、前のバ場の広さを。風が吹き、波が打とうと、幸いな者は安らかに進むだろう」

 

 そして主は凪の湖に向けて進み、その水面を歩かれたのである。

 

「立ちなさい。その両足は既に清められたのです。私が初めと終わりの合図をしましょう。ただ力を尽くしなさい」

 

 善きウマ娘は主を信じて進んだ。どうであろう、皆が水面を歩き、そして全速に駆けた。誰一人、足首までも沈む事は無い。

 さあ、先頭はマルタと後尾はマリアの姉妹であった。ガリラヤ湖のレースを、人々はほとりで見ていた。

 その人々は《救世主》を敬って「確かにあなたは神の子です」と言った』

 

 

 ──マリアによる福音書より。

 

 

 ◆

 

 

 パリの都に辿り着いたカルピニ神父とシスターウマ娘は、ウマ屋(運送屋)に晩の屋根を借りた。

救世主(メシア)》はウマ屋で産まれた──という故事のため、巡礼者に親切だったのである(今でも同じ)。

 

 しかし歓迎を受けるのもつかの間、カルピニ神父は病を得た。旅の疲労心労が祟ったものと考えられる。

 病状からして風邪を拗らせたものであった様だが(とはいっても中世の医療技術では命に係わり得る)、お付のシスターウマ娘は大いに狼狽し、取り乱した。

 彼女が感じたであろう不安は、とても一口に書き表せない。であるので、行動のみを記そう。

 

 先ずシスターウマ娘は、布地を山盛りに借りてきて、神父の身体にこんもり被せた。

 ウマ屋娘に縋り付く様にして、くれぐれも神父の看病を頼むと、お椀一つを持って露店通りに飛び出し、店主に滋養の物を托鉢して回った。

 というのも、カルピニ一行は全く清貧(無一文)で、それらしきものは全てバチカンに置き去りにしてきたのだ。

 余りに必死なシスターの形相に、店主は「きっと彼女の相方は余命幾ばくも無い重病人なのだろう」と哀れに思ったので、品物を施してくれた。

 そうして滋養の物が集まった。シスターウマ娘は、果物を素手でごりごりすり潰して、牛の乳、蜂蜜をたっぷり混ぜたお手製ドリンクを作った。

 そして(布地の重みで)横たわるカルピニに飲ませてあげたのだった。

 

 こんな贅沢な物を口にするのは憚られた神父であったが、流石に相方の気持ちを汲んで飲み込んだ──丸十日の間これが続いた。

 元より体力のある人だったカルピニは快癒して、自分で布地を払い除け立ち上がった。

 自分の事の様に喜ぶウマ屋娘たちに感謝を伝えてから、次にシスターを伴って露天通りに向かった。

 毎日お布施をしてくれた店主らに、礼を言おうとしたのである。カルピニが恰幅の良い健康体を見せて口を開きかけると、先にシスターウマ娘が高らかに唱えた。

 

「ハレルヤ! 主は神父様を救って下さった、これぞ正に奇跡、奇跡です」

 

 耳をぴょこぴょこ跳ねさせて、瞳がきらきら輝いていた──店主たちも、神父が瀕死の重病人だと思っていたので、シスターの言葉に深い歓心を得たという。

 

『聖カルピニはバチカンを追放された失意の深さから、意識混濁の瀕死状態に陥り、十日間生死の境を彷徨った。しかし、お付のシスターウマ娘の献身的な看病と祈りは奇跡を起こし、遂に神父は癒された』

 

 後世の聖人列伝に書かれる元となる。

 

 

 ◆

 

 

 十三世紀中頃に著され、中世ヨーロッパに熱狂的聖人ブーム(・・・・・)を巻き起こした《黄金伝説(聖人列伝、聖マルタのドラゴン退治が有名)》に拠れば、プラノ・カルピニは死の淵から蘇った直後から聖人として覚醒したという。

 

 確かに、これまで一所に留まる事が無かったカルピニは、パリに長く在留している。自然、辻で説法をする機会も多かった。

 これはパリを安住の地に定めた証拠である──と《黄金伝説》は記すが、実際には違った様である。

 

 快癒してから二三度の説法をした神父は、これまで通り次の土地へ向かう算段をしていた。

 東進して旧赴任地のドイツ地域に入ると、あっという間に身元が発覚してしまうため、南進してイベリアに入るか、いっそ海を渡ってブリテンに入るか──と日記に逡巡の跡が見られる。

 しかし、この計画はシスターウマ娘が「暫く安静にしなきゃ駄目です」と暴れ出したため、取り止めにしたらしい。

 

 パリに滞在する事になった神父は、通称《プラノ・カルピニ(出身村の名前)》ではなく、本名である所の《ジョバンニ(ありふれた名前)》を名乗っていた。身バレを避けるためである。

 さてバチカン出奔後の一行は、旅の宣教師と言えば聞こえは良いものの、殆ど物乞い(・・・)も同然であった。

 辻で説法をして、聴衆に恵んでもらった食物で日々の糊口をしのいでいたのである。こう言うと食うや食わずの極貧生活を想像されるだろうが──それには、カルピニ神父の路上説法は余りにも堂に入った(・・・・・)ものであった。

 

 初めは数人の聴衆だったのが、日を経る毎に増えていき、そのうちにシスターウマ娘が食べ切れない程のパンが喜捨されたという。

 名を隠そうとも、プラノ・カルピニという人が如何に魅力的な語り手であったか窺えよう。また、神父が一所に留まりたがらない理由でもあったろう。

 

 

 こういう話がある。

 ある日曜日、ミサ帰りの町人は頭を悩ませていた。先程、教会で聞いた司教の有難い話が難解で、なかなか腹に落ちなかったのである。

 その時、たまたま乞食坊主が路肩に立っており、聖書の朗読をしていた。

 町人はからかい半分に尋ねた。

「司教様が仰るには、かくかくしかじかという話だか、一体どういう意味だい?」

 困り果てるだろうと思われた坊主は、間を置かずに答えた。

「それなら、これこれこういう意味です」

 町人は仰天した。その解釈が正確であるばかりか、子供すら頷かせる位に分かり易かった(・・・・・・・)のである。

 後に判明した事だが、その人こそ、名を伏せた聖カルピニであったのだ──

 

 

 上記の話が事実であるかは不明だが、断然有り得る(・・・・)話であるのは確かだった。

 一行は、滞在半年もすると《プロ乞食坊主のジョバンニ》と《何故か彼を慕う健気なシスター》として親しまれる様になった。

 

 パリ大司教の耳にも《プロ乞食坊主》の話は届いていた。

 何故かと言えば、ある日を境に信者の説法の理解度が格段に上がったからだった。司教が不思議に思って訳を尋ねると、質問に分かり易く答える妙な神父が居る、との事だった。

 話を聞いた大司教は、ただ納得したのみで特に何もしなかった──どうやら、妙な神父(・・・・)とやらを歯牙にもかけていなかった様だ。

「何だか分からないが、説法を補足してくれるのは便利だ」位に思っていたのかもしれない。

 

 後には《カルピニ派》の開祖となり、独特な教義で知られる聖カルピニであるが──パリ大司教の無反応具合から、この時点では特に教義に外れていた訳ではなく、むしろ従来的な解釈の説法をしていたらしい。

 

 

 ◆

 

 

 所謂《カルピニ派》開眼以前のプラノ・カルピニには、大いなる苦悩があった。

 彼は地位を捨てた、名誉を捨てた、財を捨てた。何もかもを捨てて、歩き続けた──しかし、どうしても神への疑いを捨てる事が出来なかった。

 

 無償の愛など、もしかすると、この世に存在し得ないのではないか。

 

 その疑念が、説法中にふと浮かんでは、振り払わなければならなかった。

 毎夜悪夢に苦しめられ「神よ、何故私をお見捨てになったのですか」と魘される神父の姿を、シスターウマ娘は見守る事しか出来なかった──そんな日々の事、パリの町に恐ろしい報せが舞い込んできた。

 

『十字軍を滅ぼした《地獄の軍(タルタロス)》が、もうじきパリまでやってくる』

 

 前節の通り、町は大混乱に陥った。

 騒ぎを収めるべきフランス王が、守備兵を根こそぎ引き抜いて逃亡すると、いよいよ混乱に収拾がつかなくなった。

 その時のカルピニはというと、まるで悟った様な表情で言った。

「遂に来た。神を疑っておきながら、神の愛を説いた罪人に裁きが下されるのだ」と、全て受け入れる構えであったという。

 

 残酷な命運を座して待つばかりの神父であったが、しかし、何処からか火の手が上がったのを見ると、みるみるうちに表情が変わった。

 居ても立ってもいられなくなり、その健脚は自然と駆け出していた。シスターウマ娘も後に続いた。

 

 既に火の手は、町の大部分を飲み込んでいた。市民は普段彼らが礼拝している教会に集まって、すすり泣いていた。

 神の加護を与えるべきパリ大司教は、王よりも先に逐電していたのだ。そして空っぽになった、炎が迫る教会で人々は悲嘆に暮れていたのである。

 そこに、パリで唯一逃げなかった聖職者──皆の親しむ《プロ乞食坊主》が飛び込んできて、呼びかけた。

 

「何をしているのですか。こんな所(・・・・)に居ないで、早く逃げなさい」

 

 市民は泣きながら応えた。

 

「もう駄目なのです。王様にも、神様にも見捨てられました。私たちに逃げる場所など残されていません」

「いいえ、神は決して羊を見捨てません! 良く聞きなさい、私こそはプラノ・カルピニのジョバンニ。私の庵の方まで逃げなさい、きっと火が回ってこないだろうから」

 

 パリ市民は、まさか冴えない小太りの中年乞食坊主が、あの《平和の使者》で著名な福者だった事に驚愕した。

 そうして些か勇気を回復した彼らは、シスターウマ娘の先導に続いて、町外れの庵に向かったのである。

 

 その後も、神父とシスターは炎上する町を駆けずり回って、聖俗に見捨てられた町人を彼らの住まいである庵に導いた。

 出来る限りの人々を導いた後、カルピニ神父は懐から聖書を取り出し、そして祈った。彼は聖職者であって火消しではなかったから、避難した後は祈るのみであった。

 丸四日の後、花の都を焼き尽くした炎は自然鎮火した。遂に、庵に火の手が回って来る事は無かったのである。

 

 これは、カルピニの庵が町外れの寂しい場所にあって、延焼する可能性が低かった──という現象に過ぎない。元より、神父もそのつもりであったろう。

 しかし、事実生命を救われたパリの人々にとっては、全く違う視点で現象を捉えた。

 

『カルピニ神父は我々を聖域に避難させ、祈りの力によって炎を退散させた』

 

 そういう事になった。

 ルネサンス期に《火炎を退ける聖カルピニ》という画題が流行ったので、読者の皆様におかれても、当時の人々の視点を想像するのは比較的容易いだろう(怯える人々の前に両手を広げたカルピニが立って火炎を跳ね返している──というのが概ね共通で、ダイナミックな構図が多い)。

 

 さて、火災が鎮火しても家財の全ては失われてしまって、途方に暮れていたパリ市民は、更に絶望のどん底に突き落とされた。

 町の直ぐ側に《地獄の軍(タルタロス)》が出現して、開門を求めてきたのである。

 今度こそおしまいだ──と嘆く市民に、神父はにいっ(・・・)と微笑んで、

 

「私が話して参りましょう」

 

 と使者を名乗り出た。

 和平交渉こそ、正に本領のプラノ・カルピニである。今や、命の恩人にして、奇跡の人だと思われていた神父は、絶大な信頼を得ていた。

 市民は落ち着きを取り戻して、その身を案じながらも、最後は神父を送り出す事に同意した。

 

 この時、シスターウマ娘も付いて行くと言ったが、カルピニは断固として許さなかった──彼は死の覚悟を固めていたのである。

 激しく泣き喚き暴れるシスターを、町ウマ娘が取り押さえている間に、開かれた門から神父は出立した。

《地獄の軍》に連行されてゆく背中に、誰もが手を合わせずには居られなかった。

 

 

 そして、後の顛末は前節の通りである。

 

 



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チンギス・ハーンとプレスター・ジョンについて

 先述の通り、パリにおけるモンゴル軍の善行は、ウマ娘女博士以前の八百年間、無かった事(・・・・・)にされてしまうのだが──原因は、誰か一人の歴史家の悪意によって、ではない(・・・・)

 そこには複数の虚妄、誤解、陰謀が折り重なっており、一筋縄に説明出来ない。

 故に博士による因果関係の読解は至難なのであり、センセーショナルだったのである。

 その功績を褒められたウマ娘女博士は言った。

 

「えへん。」

 

 まあ、ともかくも。彼女の功績に敬意を表しつつ、史上に奇なる東西交流を順に追ってゆこう。

 

 

 中世ヨーロッパの人々が、世界の形状をどの様に解釈していたかについて、今の我々に最も伝わり易いのは《TO地図》であろう。

 

 円盤型の大地が広がっていて、T字型の大河が大地を三大陸に隔てており、周囲には大洋(オケアノス)が広がるという図式である。

 上方を東と考え、上半分がアジア、左下がヨーロッパ、右下がアフリカ。

 T字の大河が交わる世界の中心には聖地エルサレムが鎮座し、天頂(極東)にはエデンの園が在る。

 

 無論TO図の実用性は皆無だが、そもそも産まれた村で一生を終えるのが殆どの中世封建社会である。

 人々に十字教世界観における納得(・・)を視覚的に与えるのが主目的であって、これを見て航海をする訳ではない事にはご留意頂きたい(実際に旅をする時には詳細な地図が使われた、当然である)。

 

 十三世紀初頭の欧州は、聖地エルサレム奪還(または強奪)運動──十字軍を通し、東方世界の様相が多少なりとも欧州に伝わってきた時代である。

 しかし、エルサレムよりも東方、アジアとなると全く未知の領域であった。

 その果てには楽園(エデン)があるらしい──とだけ分かっていて、他には何も分からない。

 それでどうしたかと言うと、彼らは豊かな想像力を駆使して、情報の欠損を補い始めたのである。

 

 ドラゴンやユニコーン等々の幻獣が住む、黄金で造られた都がある、人食い民族が蔓延る、まだまだ色々──誰も真実を知らないのを良い事に言いたい放題であった。

 他ならぬ極東人である著者には、何か微妙な心境である。

 現代の我々が宇宙人を空想するのと大差なく、中世欧州人はアジアへの空想で心を躍らせた事だろう。

 要するに、人々の関心は東へ傾いていた。

 

 さて、そこに霹靂めいて出現したのがチンギス・ハーン率いるウマ娘朝モンゴル帝国であったのだ。

 

 花の都パリに到着した《地獄の軍(タルタロス)》改め《謎の東方民族》は、焼け出されてしまったパリ市民を、自分たちの幕屋(ゲル)で大いに歓待した。

 初め疑心暗鬼だった人々も、モンゴルウマ娘が悪しき民でないことは直ぐに分かった。

 小柄なモンゴルウマ娘たちは、純朴で、心優しく、そして可愛らしかった。

 

 そうなると、欧州人は未知なる東方からやって来た謎の民について興味が尽きない。

 舞と演奏で盛り上がる酒宴の席にて、人々は大ハーン(普通に混じって飲み食いしてた)に様々質問した。

 

「王様は何処からいらしたのですか」

「東の高原からである」

「エルサレムより東方ですか」

「それが何処だか知らないが、ずっとずっと東である」

「では、楽園(エデン)の近くですか」

「それも何処だか知らないが、高原は我々からして正に楽園の様な場所である」

「悪しき《地獄の民(タルタロス)》を破ってきたのですか」

「確かに私は《タルタル族》を破り臣従させたけど、そんなに悪い娘たちじゃないよ」

 

 総括して『遥か東方の楽園付近から、悪しき者を蹴散らしながらやって来て、我々を救って下さる偉大な王』という評価になった。

 チンギスは、すっかり市民と打ち解けていた。青毛の皇帝には、望めば誰とでも自然に仲良く出来る魅力があった。その力こそ、高原を一統し、偉大なる大ハーンたらしめた源であった。

 いつの間にかパリ市民は、敬意を込めて、チンギスを《ジョン様》と呼び始めていた──

 

 ジョンとは誰か、解説をしよう。

 中世~大航海時代のヨーロッパでは《プレスター・ジョンの伝説》が一般に広く信じられていた。

 伝説の概要は次の通りである──遠く離れた東方アジアに、偉大な十字教の王《プレスター・ジョン》が治める国がある。彼は善き民を慈しみ、悪しき異教徒を打ち倒す。そして、十字教徒苦難の時には颯爽と救いに来てくれるのだ。

 

 ご察しの通り、伝説自体は事実無根の流言に過ぎない。

 しかし、パリ市民の主観に立ってみた時──チンギス・ハーンとプレスター・ジョンとは、余りにも酷似していた。誤認するのも無理は無い。

 

 相互呼称の差異について、勿論当人たちも気が付いてはいただろう。

 だが、モンゴル側は「西方ではそう呼ぶ事もあるんだろう」と訂正しなかった。モンゴル人は基本異文化に不干渉であった。

 欧州側も「東方では違う自称をするのだろう」と深掘りしなかった。欧州人はアジアの事を何も知らなかった。

 というより、東西両者の風俗習慣には色々と差異がありすぎて、一々気にしていたらキリがなかった。

 両者の交流というのは「腹一杯飲み食いしたら幸せ」だとか「歌って踊ったら楽しい」だとか、人類として違えようも無い、根源的な部分で繋がっていたのである。

 相変わらず欧州人はチンギスをジョンと呼んだし、チンギスは呼ばれて返事をした。

 そしてタルタルウマ娘だけが避けられて泣いていた。

 

 モンゴル軍は《地獄の軍(タルタロス)》から《謎の東方民族》となり《プレスター・ジョンの民》と、全く慌ただしく変態した。

 つまるところ、パリは虚妄によって炎上し、虚妄によって救われたのである。誰に意図された訳でも無い、奇怪なマッチポンプであった。

 ただ確かなのは、モンゴルウマ娘は常にありのまま(・・・・・)であった事だ。全ては、周囲の認識次第──いわば成り行き次第(・・・・・・)で転がっていった。

 

 この様な虚妄や誤解の上に、真実が誤って伝えられる事象が、所謂定説(・・)にどれだけ混入している事だろう?

 とても筆者には判断し難く、歴史学の永遠のジレンマであろう。

 上記パリの一件から半世紀後、イングランドの歴史家は以下を記した。

 

『タタール人の襲来によってフランスの都は炎上した。しかし、聖カルピニの奇跡によって大火は鎮められた。直後、遥か東方からプレスター・ジョンの民が現れて、パリの市民を救済した』

 

 ウマ娘女博士の大どんでん返しまで、八百年間モンゴル軍を悪者(・・)に仕立て上げていたこの史書は、後世の歴史解釈を混乱させた悪書として非難されがちである。

 しかし待って欲しい。著者にしてみれば、当時収集し得る限りの客観的事実を擦り合わせた結果、こうなってしまっただけである。

 控え目に言って因果関係が意味不明であるし、恐らく著者本人も筆を走らせながら狼狽えていたに違いない。

 

 八百年の長い誤解が生まれてしまった事について、誰それが悪いと責任を問うのは、全くナンセンスである。

 誰も彼もが各々の時代で生きており、正しいと思った事を認識していた。結果間違っていたとしても、真実は決して滅びず、もしかすると、ちょっとした拍子に真実が判明するかもしれない。

 歴史の大河に一喜一憂するのは、バ鹿げた事ではないか。

 

 だが敢えて、敢えて言わせて頂くならば──モンゴルウマ娘の書記係にはもう少し頑張って欲しかった。

 彼女は記す。

 

『久しぶりにお客さんが一杯でうれしい』

 

 



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十字教カルピニ派の夜明けについて

『それは断食行明けの、晩餐の時である。

 主と使徒、また従うウマ娘は大層腹を空かしていた。

 ベタニアのマルタは、皆のため腕によりをかけ料理を作った。卓には次々と芳しい皿が並べられた。

 主が、その日の糧を与えて下さった神に祈りを捧げようとした頃、ふと戸を叩く者があった。

 マルタが応じると、そこに丸々として豊満なウマ娘が居て、糧を分けてくれるように乞うた。

 

 このウマ娘を町で知らぬ者は無かった。地方レースで活躍した彼女は、この町の大商人に見初められ、連れて来られた途端、朝から晩までパクパクして止まらなくなった。

 商人の屋敷で出される食事に飽き足らず、こうして町の人々に乞うて回っては、追い払われているのだった。

 

「私たちは断食明けで、とても分けられる食べ物はありません。大方、先生のお優しい評判を聞いたのでしょうが、何でも聞き入れられると思ったのなら間違いですよ」

 

 マルタが、この図々しい同族を退けようとした時であった。奥で見ておられた主が語りかけられた。

 

「マルタよ。どうしてその人を入れてあげないのですか。今にも飢え死にしそうな、その人の姿が見えないのですか」

 

 皆は驚いた。主の言葉の意味が分からなかったからである。

 皆は、身体の形を見ていた。しかし、主は魂の形を見られたのである。

 

 急な客人を、主は自分の隣席に招かれた。そして、手ずからご自分のパンを半分に割き、またご自分の葡萄酒を差し出される。

 肥満したウマ娘は、分けられたパンを一口食べ、杯に一口付けた。それで手が止まった。

 

「先生、どうしてでしょうか。もう一杯で、食べられないのです。不思議な事です」

 

 そのウマ娘は酷く震えていた。

「安らぎなさい」主は、優しい眼差しで怯えた人を宥められる。

 

はっきり言いましょう(アーメン)。あなたは今を境に、飢えることも、また渇く事も無いのです。何故なら私が与える糧は、あなたを永遠に満たし、潤し続けるものであるからです。さあ、あなたが居るべき場所に走って戻りなさい」

 

 彼女は両目からそれぞれ一雫の涙を流した。ものも言わず立ち上がるや、直ぐに主の言葉通りにした。

 故郷まで走り帰ったのである。町の人や、かの商人ですら誰も後を追わなかった。

 

 翌年、エルサレムで行われたレースに、大差で勝利したウマ娘がいた。その細身が麗しいウマ娘が何処の誰であるか、初めは皆気が付かなかった。

 

「ただ私は満たされたのです」

 

 勝利の秘訣を答えたウマ娘の声で、皆はようやく正体に気が付いた。

 この様に《救世主(メシア)》は、たった一口のパンと葡萄酒によって、飢えたウマ娘を満たされたのである』

 

 ──マリアによる福音書より

 

 

 

 

 プレスター・ジョン、もといチンギス・ハーンの心尽くしの饗応によりパリ市民の空腹は満たされた。

 文化の違いこそあれ、モンゴルウマ娘の飾り気の無い純朴さは彼らの心を潤した。

 当面、生命の危機が去ったのだと気が付いた時、欧州人が次の将来を気に病み出したのは人間の性であろう。現実に街が軒並み焼けてしまって、家財を失ってしまった事に一向変わりは無いのである。

 今はモンゴルウマ娘の予備の幕屋(ゲル)に過密状態で寝泊まりしているものの、これからどうすればよいのだろうか。

 

 遊牧民族たるモンゴルウマ娘は固定の家財というものを持たない。農耕民族の不動産(・・・)逸失という大事を理解していたかは怪しい。

 それでも、お客人が落ち込んでいるのを見ていて、モンゴルウマ娘たちも悲しくなってしまった事は想像に難くない。

 彼女たちは歌ったり踊ったりして彼らを元気付けようとした。横に座って「何時までも泊まってて良いんだよ」と肩を叩き励ました(モンゴルウマ娘の決まり文句、社交辞令と本気が半々らしい。感激した中華ウマ娘がよく移住して来たりした)。

 モンゴルウマ娘の素直な健気さに、欧州人も慰められた事だろう。

 

 冬が近付いていた。日々迫る寒気は、住処無しの焦燥を掻き立てる様であった。

 もしも今、プレスター・ジョンが去ってしまったら凍死は免れ得ない──そんな時節に、ジョン(チンギス)はカルピニ神父を呼び出した。

 

「神父よ。我々は、ここらで冬営しようと思う。そちらの人間さんも一緒になるが、良いだろうか」

「それは……有難い事です。民の不安も晴れましょう」

 

 今やパリ市民代表と化した神父は快諾した。それは本来パリ側の方から懇願すべき内容であって、実は市民から内々に泣き付かれてもおり、どう切り出したものかと悩んでいた所だったのだ。

 つまり、ひと冬の間、住居と食料を全面負担しろと言うのだから──フランス諸侯であっても確実に渋る内容を、こうもあっさり提示されたので、神父はむしろ困惑してしまった。

 

「うむ、それよ。近頃度々相談されるのだ。お客さんが落ち込んでいる様だからどうにか(・・・・)してあげたい、とな。私は答えて言った、汝の大ハーンも同心であると。言ったからには、これを違える訳にゆかぬ」

 

 チンギスは一旦話を止めて、天幕内をじっくり回し見た。参集したモンゴル首脳、四駿四狗と指導人連中は、皇帝と目が合うと深く頷いた。

 その都度チンギスは耳をぴこぴこさせ、身体を左右にゆらゆらさせた。

「決まりだっ」皇帝は弾かれたように座を立ち天幕の外に躍り出た。

 

 出た所では千戸長(ミンガン)(千人隊長、軍制単位であり行政単位でもあった。千人に一人のウマ娘、みんなつよい)たちが集合して出待ち(・・・)していた。そわそわして落ち着かない様子の彼女らは、大ハーンが出てくるや一斉に詰め寄せた。

 

「我が君にお願い申し上げます」

「うちの皆のお願いなんです」

「私も」

「僕もー」

 

 千戸長のウマ耳の林が、激しくわちゃわちゃしている。後から出てきた指導人やカルピニは少々怯んだが、大ハーンは呵々と笑った。

 

「うん、うん。高原の同胞よ、皆まで言ってくれるな。汝の大ハーンから言葉させておくれ」

 

 すると、かかり気味だった千戸長らは直ぐに鎮まった──千のモンゴルウマ娘の鑑となるべき彼女らは、大ハーンに対して心底素直であった。

 心地良く澄んだ声で、命令は下された。

 

「とこしえの天上(テングリ)の力にて。これを良く聞き、疾く伝えよ。私はこの地で冬営する事を決めた。街の人間さんも一緒にである。そして次の春が来るまでの間、高原全ての手と足(・・・・・・・・)を預けようではないか。重ねて言おう、大ハーンは汝らと同心である」

 

 チンギス・ハーンの仰せに、臣下の顔にはみるみる花が咲く様であった。

 仰せの通り、千戸長たちは飛び跳ねる様に散らばって命令を伝えた。モンゴル軍の情報伝達は驚くべき早さであった。瞬く間に情報は全軍の隅々にまで共有された。

 

『オーハイ、オーハイ!』

 

 野営地のそこかしこで、嬉しそうな祝詞が叫ばれていた。

 パリ市民にとって、思ってもみない事態はまだ続く。

 

 

 ◆

 

 

 未だ太陽を臨まぬ薄暗闇の早朝である。

 見る影も無く焼け落ちた花の都では、薄暗闇を東方よりの異邦人が絶え間もなく行き来していた。

 その小柄なウマ娘たちは、焼けた瓦礫を退かし、建築資材を運び、柱を打ち込んでいる。

 数週間前まで無惨な廃墟であったパリは、まっさらな更地となり、次いで真新しい建築物が生えつつあった。

 

 既に冬入りをした中世欧州の曙は凍える寒さであった。

 上着すら大火に呑まれてしまったパリ市民はぶるぶる震えるばかりである。

 しかし、東方の楽園(エデン)からやってきたらしい異邦人──モンゴルウマ娘は、まるきり平気な顔をしていた。

 衣替えをして、もこもこ(・・・・)の毛皮を被ったモンゴルウマ娘は、むしろ「あったかい」と言って全く活動が鈍らなかった。

 それもそうである。冬は零下三十度を下回る過酷な高原出身の彼女たちなのだ。今年の冬将軍は何だか優しいな──位にしか思っていなかった。

 

 来年の春までという期限もあってか、モンゴル人はとにかく良く働いた。殆ど飲まず食わずで、未明から夕暮れまでくるくる駆け回るのである(モンゴルウマ娘特有のスタミナがそう見えた)。

 無論、パリ側も任せ切りだった訳では無い。大工組合(ギルド)の職人たちが、建築ノウハウなど皆無な遊牧民に逐一指示を出して補助した。

 そうした両勢力の協力により、町の復興は驚くべき早さで進んでいった。

 誰も彼もが《プレスター・ジョンの民》に感謝し崇め奉る──しかし、その中に怪訝な顔をしている人物が一人居た。

 

 プラノ・カルピニ神父である。

 勢力間の取り次ぎ役であった神父は、チンギス・ハーン=プレスター・ジョンで無い事に薄々勘づいていた。

 故に、分からなかった。縁もゆかりも無い東方よりの来訪者が、何故ここまで親身になるのだろうか。

 そこに打算が無い事は、ひと目で分かる。疑る方がバ鹿バ鹿しくなる程に、モンゴルウマ娘は一心不乱に働いていた。

 だから余計に分からない。

 一体、どうしてだろうか──この日の曙に、遂に神父は直接尋ねた。

 

 台車に建材を山盛り乗せて、よいしょよいしょと運ぶ一般モンゴルウマ娘を呼び止めて、聞く。

「どうして君たちは見ず知らずの人を、ここまで親身に助けるのか」ウマ娘は、神父の深刻な表情を見ると不思議そうに小首を傾げた。

 

「だって、かわいそうだったから」

 

 何の気無しに答えて、また仕事に戻っていってしまった。その姿は直ぐ他の仲間に混じってしまい、追えなくなった。

 目に映る全てのモンゴルウマ娘は、同じ様にせっせと働いていた。

 

 神父は雷に打たれた様であった。

 身動ぎ一つ叶わず、立ち尽くしていた。至極簡単な答えだった筈なのに、それが理解出来ず、何度も反芻した。

 かわいそう(・・・・・)。たったそれだけの理由、一切の打算抜きに、これ程の献身を施すというのか。

 人身に在って可能であるのか。否、そんな筈が無い。だが、現実にウマ娘は働いている。

 何故だ、わからない。

 

 懊悩する男の横顔に、何か暖かいものが当たった。見れば、地平の向こう側に太陽が昇って、光が差すのだった。

 カルピニは、一瞬全てを忘れて、払暁を眺めた。

 美しい──その景色に気が付いた時、神父は驚きに目を見開いた。喉から絞り出した幽かな声で、暖かいものに尋ねた。

 

「主よ、お戻りになったのですか」

 

 答えは無かった、ただ万物を照らすのみであった。

 瞬間に、生涯の記憶が神父の胸に去来した。

 

 決して裕福な家庭ではなかったのに、家業を継がせるだけでは勿体無いと、送り出してくれた両親。

 心から神を信じ、懸命に勉学するうち、ドイツ地方の宣教責任者に拝任された喜び。

 情熱に突き動かされ、諍いの絶えない神聖ローマ帝国を奔走するうち、調停役として認められた誇らしさ。

 布教に勤しむ傍らに、祝福を授けた子供と、その母親の感謝に満ちた顔。

 宮廷・バチカン間を取り持ち、叙任権闘争の調停、平和をもたらした一世一代の大仕事。

 

 世俗の矛盾に何度も突き当たり、自分にはどうする事も出来なかったという無力感。

 憧れのバチカンの腐敗を目の当たりにして全てに失望し、信じてやまなかった《神の愛》に疑いを抱いてしまった罪の意識。

 同僚の陰謀により聖地を追放された時の虚しさと、ある意味での清々しさ。

 

 そして、苦しい時も嬉しい時も、隣で支えてくれたシスターウマ娘。

 

 全く、それらは神父にとって至極当然の光景である筈だった。当然(・・)で、ある筈だった。

 カルピニは、熱く滾るものが腹の底から湧いてくるのを感じた。それは、とうの昔に枯渇したと思っていたものであった。

 その熱が腹を満たし、胸を満たし、そして両の眼から、とめどなく溢れ出した。頬の熱さに耐えかねて、神父はその場に膝を折り、大地に手をついた。

 当然(・・)の様な陽光が、彼を照らしていた。それに向けて、プラノ・カルピニは慚悔した。

 

「いいえ、違った。あなたは何処にも行っていなかったのですね。

 私はあなたに見捨てられたと思っていました。けれど、あなたを見えなくしていたのは私自身だったのですね。

 私はあなたを探し彷徨っていると思っていました。けれど、あなたから逃げていたのは私自身だったのですね。

 嗚呼、ようやく気が付いたのです。あなたは何時も傍に付いていて下さった。だというのに、私は……」

 

 彼は両腕を大きく開き、天を仰いだ。その方の恩寵を全身で受けるためであった。

 

「主よ! どうか愚かな私をお許し下さい。もう二度とは見失いません、背を向けません。

 そして心から感謝致します。此処にいらっしゃる、あなたの大いなる恵みを一身に受けられます事を。

 この夜明けに誓います。私はこの悟りを、一生涯を賭して伝道致しましょう」 

 

 プラノ・カルピニは、とある冬の夜明けに、遂に一つの気付きを得たのである。

 

 

 ◆

 

 

《プレスター・ジョンの民》が崇敬を集める最中、タルタル族のウマ娘は不遇の極致にあった。

 仲間と同じく、否それ以上に頑張って働いているのに、何故だか欧州人はタルタルウマ娘だけを避けていた。

 誤解を解こうと近寄ってみても、彼らは悲鳴を上げて逃げてしまうのである。

 タルタルウマ娘は寂しさの余り、人形をお客人に見立てたおもてなしごっこ(・・・・・・・・)を部族の幕屋で始めたりした(哀れに思った大ハーンが直々に訪問した)。

 

 その日も、部族で寄り集まって「救いは無いのですかぁ」と傷を舐めあっていると、

 

「救いはあるのですっ」

 

 思いがけず答えが返ってきた。

 偶然近くを通りかかった、カルピニ神父お付のシスターウマ娘であった。

 とかく何かに縋り付きたかったタルタルウマ娘が、導かれるままシスターの後を付いて行くと、とある教会に辿り着いた。

 教会と言っても建築途中(・・・・)であり、外壁は中程までしか組み上がっていない。屋根は無く、地面は野ざらし同然であった。

 

 晴天の光が直接差し込む教会には、既に人集りが出来ていた。一番奥の、少し高くなっている祭壇で、プラノ・カルピニは人々に説教をしていた。

 人々は熱心に話に聞き入っていたが、その時背後からやって来たタルタルウマ娘に気が付くと、やはり恐怖の悲鳴を上げて逃げ出そうとした。

 すると、神父は大声で言う。

 

「叫ばないで。主は仰られました『ウマ娘は兄弟である』と。我々の兄弟を何故恐れるのです」

 

 敬愛する神父に叱られて、人々は口を噤み、幾らか落ち着きを取り戻した。

 

「私たちも、お話を聞いて良いですか」

 

 一人のタルタルウマ娘が耳を伏せて、遠慮がちに尋ねた。神父はにっこり笑う。

 

「勿論です。神様は皆に平等なのですから」

 

 そうして、タルタルウマ娘はパリ市民に混じって説教を聞き始めた。

 タルタルウマ娘は、当初こそ「皆と仲良く出来たら良いな」位の心がけであったが、神父の話を聞くうちに、どんどん引き込まれて真剣になった。 

 プラノ・カルピニの弁舌力は、やはり人並外れていた。

 

 この日の説教の内容は《救世主(メシア)》が飢えたウマ娘を一口のパンと葡萄酒のみで満たした奇跡であった(冒頭参照)。

 神父が一通りを話し終えると、あるタルタルウマ娘が仲間を代表して、手と耳を真っ直ぐに上げた。

 

「神父さま。そのウマ娘ちゃんは、本当はお腹が空いていなかったのかな?」

 

 些か素直過ぎる質問で、欧州人の間には失笑が起こった。しかし、カルピニだけは笑わず真摯に応じた。

 

「そうですね。このウマ娘が本当に飢えていたのは、お腹ではなかった。

 心が飢えていた(・・・・・・・)のです。

 誰からも必要とされない事、愛されない事……それは食べ物に対する飢餓よりも、ずっと苦しい飢えなのです。

 このウマ娘は、それに気が付けず、ご飯で飢えを満たそうとした」

 

 タルタルウマ娘たちは、正に自分たちの境遇が重ねられて胸が締め付けられた。

 確かにパリに来てからというもの、ご飯は砂を噛む様な味で、全然満たされた心地がしなかったのである。

 

「しかし、主だけは分かっておられた。故に、このウマ娘を招かれた。自分の皿からパンを割き、自分の杯から葡萄酒を与えられた。町人に冷たくされてきた彼女は、どれだけ嬉しかった事でしょう。

 良いですか、人はパンのみで生きるにあらず。隣人に心の糧を分け与える事こそ本当の意味の施しであると、主は示されたのです」

 

 ウマ娘は言葉も無く神父を見つめて、先に挙手した者とは他の娘が、恐る恐る手を挙げた。

 

「じゃあ、その《救世主(メシア)》という人は、私たちにも無くならないご飯をくれますか」

 

 カルピニは、大きく深く頷いた。

 途端にタルタル族は一様に涙を流し、お互いに抱擁した。そして口々に言う。

 

「知らなかった。そんな、そんなに優しい人が居るなんて……っ」

 

 わんわん咽び泣くタルタルウマ娘を見て、欧州人たちは驚いていた。

 彼らがイメージする《地獄の民(タルタロス)》とは、血も涙も無い残忍な人々であった。この様に、十字教の教えに感激する筈もなかった。

 彼らは目を見開いて、壇上のプラノ・カルピニという人を見た。この一見して冴えない小太りの中年神父は、本当に《聖なる人》なのかもしれない──誤解を重ねられた哀れなウマ娘たちは、涙でくしゃくしゃになった顔で最後に尋ねた。

 

「神父さま、教えて下さい。どうすれば、その無くならないご飯を貰えるんですか。友達にも分けてあげる事が出来ますか」

 

 この問いに、神父は言葉に詰まった。

 回答に窮したからではない、反対である。

 昨日までの自分であれば返す事が出来なかったであろう問いに、今は目の前の迷えるウマ娘に答えられる、無上の喜びのためである。

 カルピニは胸の前に十字を切った。「はっきり言いましょう(アーメン)」と呟き、明朗な言葉を繋いだ。

 

 

「心に神殿を建てなさい、それは足に付いて来るから。

 神殿を隣人に開きなさい、その人は兄弟だから。

 兄弟と共に祈りなさい、神は何時もそこにいらっしゃるのだから」

 

 

 神殿は足に付いて来る──この教えは、宣教師として長年旅をしたカルピニの集大成にして、教義の骨子でもあった。

 そして後に、全世界の駆けを愛するウマ娘に信じられる《十字教カルピニ派》の夜明けでもあったのである。

 

 

 ◆

 

 

 聖遺物紹介《聖マルタのかわらけ》

 

 冒頭の場面で、マルタが料理を盛り付けた食器セット。

 この食器を用いた料理は、何でも絶品になる上、食べても食べても無くならないという伝説がある(曲解感が否めない)。

 この食器を巡ったウマ娘たちの熾烈な戦い(ホースファイト)を経て、尽く散逸。

 現代では、その一部と伝わる破片が世界各地に点在するが、殆ど真偽不明。

「破片を繋ぎ合わせて復元しよう」と、あるウマ娘女博士が熱心に主張したが、当然却下された。

 

 





 聖書や福音書には他にも色々とウマ娘に関するエピソードがあって、調べていて飽きないですよね皆さん。


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愛と許しの伝道について

 聖人列伝を編纂した十三世紀のベストセラー《黄金伝説》に拠れば、聖カルピニは建築途中の教会──後のノートルダム大聖堂(1250年完成)にて、悪しきタタール人を十字教に改宗させたという。

 これを指して《ノートルダムの奇跡》と言い、大聖堂の霊的根拠ともなっている。

 

 ただし、上記に史実性があるかと問われれば何とも言えない。

 少なくとも、プラノ・カルピニが積極的に洗礼(バプテスマ)をモンゴル人に施したという史料は残ってはいない。

 では全くデタラメかと言えば、そうとも限らない。

 チンギス・ハーンがモンゴル高原に帰還して以後、十字教めいた教えを持ち帰った形跡がある。何らかの交流があった事は確からしい。

 しかし、モンゴル軍の書記ウマ娘によって持ち帰られた内容というのも、

 

『西方の天空神(テングリ)は一人しかいなくて優しい』

『無くならないご飯で心が一杯になる』

『頬をぶたれて怒ったら喧嘩になるので良くない』

『ちゃんと謝る人が偉い、許してあげるのも偉い』

 

 等々、果たして布教(・・)と言えるのかどうか極めて怪しいレベルである。

 

 

 

 余談であるが、これらを書き残した書記係──それはタルタル族の《シギ・クトク》というウマ娘である。

 

『いとも尊きチンギス・ハーンはいとも尊い(チンギスの大ハーン就任時)』

 

『何か集団が居たので、近付いてみたら散り散りになってしまって、結局正体が分からなかった(中央アジア制圧時)』

 

『何もしないので、首都の真ん中を通らせて欲しいです。出来ればご飯も下さい(ポーランド王に送った書状)』

 

『何もしてないのにパリが燃えた(パリ炎上について)』

 

『久しぶりにお客さんが一杯でうれしい(東西交流に際して)』

 

 他にも色々──史料上に燦然たる名文の数々を後世に伝えたので、現代の歴史クラスタに妙に愛されているという、奇特な書記係である。

 

 シギ・クトクは、歳若きチンギス(当時はテムジン)がタルタル族を粉砕した折に、戦場で拾われた子ウマであった。

 当時の高原には、見所のありそうな孤児を拾って育てる、という風習が存在したのだ。

 チンギスが高原統一に奔走する間は、耶律楚材(ウルツ・サハリ)に育てられた。そのため、大ハーンとは親子とも兄弟も言えない歳関係だが、ともかく親族の一員として扱われるという、数奇なウマ娘であった。

 

 シギ・クトクが奇特なのは、モンゴルウマ娘に珍しく文字(ウイグル文字)が書けた事である。

 他ウマ娘に褒められる他、本人も誇りに思っていた様で、自ら率先して書記係を務めていた。

 チンギスの《遠駆け》以前は、モンゴルダービーの記録の他、仲間の名前を木片に筆記してあげて喜ばれる──というのが主な仕事だった。

 指導人らには「係を代わりましょう」と度々要請されていたが、断固固辞。大ハーンの親族特権を利用してまで、決して席を譲るつもりは無かったらしい──

 

 

 

 閑話休題。

 総括して、モンゴルウマ娘が十字教に改宗したのかという問いには、はっきり答えようが無い。

 新説を唱えたウマ娘女博士も、これに関しては口を噤んでいる。彼女は確証の無い事柄には一切言及しない学者である。

 一つ断っておく事には──全世界に居るカルピニ派のウマ娘にとって《ノートルダムの奇跡》は紛れも無い史実(・・)なのである。

 証拠も無しで安易に否定する事は、彼女らの純心を傷付ける行為であり、ぽかぽか叩かれたとしても何も文句が言えない──とだけ、筆者から言っておく。

 

 当時のモンゴル人の宗教観についても言及しておく必要があろう。

 彼女たちにあったのは、全く素朴な天上信仰、精霊信仰であった(お天道様と八百万の神、と例えれば我々に分かり易いだろう)。

 空の向こうには偉大な天空神(テングリ)がおわして、全てを見ている。草原には四足の精霊が駆け、力を貰える──それはモンゴルウマ娘の純朴さを表すかの如く、体系化された宗教観では全然なかった。

 

 モンゴルウマ娘は信仰(・・)というヨーロッパ世界の一大問題に関して、極めて寛容であった。

 モンゴルウマ娘に他文化に対する偏見や先入観は無く、ただ「良し」と思った教えをどんどん吸収した。

 その中には当然、新しい思想、技術といったものも含まれていた。

 この寛大な合理主義──言い換えれば無頓着な放任主義は、ウマ娘朝モンゴル帝国の最大の強みであり、弱みでもあった。

 

 その姿勢は、後の皇帝《フビライ・ハーン》が、東西ユーラシアのあらゆる文化・民族をひと繋ぎに併呑した《ウマ娘による平和(パクス・ウマリカ)》を作り出し、空前絶後の繁栄をもたらした。

 一方、巨大になり過ぎた帝国が、世代を経る毎にモンゴル民族としての連帯感を喪失し、一つの国としての実体を失ってしまう要因にもなった。

 モンゴルウマ娘の性格は、良くも悪くも素朴であった。

 

 さて、そんな彼女たちと十字教との初接触を更に追っていく。

 

 

 ◆

 

 

 ノートルダム大聖堂(予定地)におけるカルピニ神父の説法は、日毎に傾けられるウマ耳の数が増えていった。

 というのも、タルタルウマ娘が「すごく優しい人の話を聞いた」と仲間に触れ込んだためであった。

 町の復興作業が休みの日ともなれば、教会にはパリ市民とモンゴルウマ娘が一杯になった。そして、同じ教えを共有した両者の繋がりも更に深まってゆくのであった。

 

 ある時、この場にチンギス・ハーン(プレスター・ジョン)が現れて、教会は騒然となった。そしてカルピニの説教を聞くと「一理ある」と呟いて、聴衆を大いに沸かせた。

 チンギスの言葉に深い意図は無く、同胞らが集まっていると聞いて気になったのと、神父の顔を立てるためであったが──パリ市民らは、もっと深い意味に捉えた事だろう。

 

 また後には、耶律楚材を初めとした指導人も合流する様になった。カルピニ個人の話を聞くため、というよりも、これまで全く未知であった西方世界の法理を学ぶためであった。

 そして、十字軍を殲滅した(・・・・・・・・)事の重大さを初めて知って、顔面蒼白になったという(ウマ娘には良く分からなかった)。

 諸事情ありつつも、プラノ・カルピニの説教が盛況であった事は間違い無かった。

 

「主は仰いました、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい──」

 

 その日の説法を聞いたモンゴルウマ娘は、仲間内で視線を交わして、神父に質問した。

 

「神父さま。でもそれじゃあ、やられっぱなしになっちゃうと思います。それに、裏切りは絶対許さないって大ハーンは言っています。どっちが正しいんですか?」

 

 質問に対する首肯と同時に、大勢のウマ耳が一斉にぺこりと上下した。

 モンゴルウマ娘は無邪気な視線であったが、実は欧州人にとっては非常に肝の冷える質問であった。

 安易な答えは、チンギス・ハーンを侮辱する事にも、聖書を否定する事にもなり得たからである。

 市民はごくりと唾を飲んだが、カルピニ神父は恰幅の良い身体に似合の、にいっ(・・・)とした笑みで答えた。

 

「君たちは、喧嘩して友達を傷付けてしまった後に後悔した事はないかな」

「あります。そんなつもりじゃなかったのに、どうしてだろう……って」

「じゃあ、初めからそういう気持ちになる事が分かっていたら、同じ様にしただろうか」

「ううん、思いません」

「私たちは、人を傷付けてしまう時、本当は自分が何をしているのか忘れてしまう事があるんだよ。だから、その時はやり返すのではなくて、友達に思い出させてあげなさい。そして友達が悔いて謝ってきたら、必ず許して、仲直りしてあげるのですよ」

 

 モンゴルウマ娘たちは納得して「はあい、神父さま」と異口同音に言った──そして書記係のシギ・クトクは、何やら一生懸命書き記していた。

 十字教という、愛と許し(・・・・)の教えはモンゴルウマ娘に親和性をもって受け入れられたのである(正確に伝わったかはともかく)。

 だが、次の瞬間に和やかな雰囲気は吹き飛んだ。

 

「神父さま。その《救世主(メシア)》という人は最期はどうなったんですか?」

 

 異邦人以外の全員が凍り付いた。カルピニ神父さえ例外ではなかった。

 モンゴルウマ娘は対極である。

 

「おバ鹿だなあ。生きているうちに優しかった人は、家族の皆に看取られて、天上(テングリ)の草原でのんびり暮らせるんだよ」

「あっ、そっかあ」

「救世主さんは、絶対幸せな最期に決まってるよ」

「きっとマルタちゃんとマリアちゃんに看取られたんだね」

 

 考察に盛り上がっているモンゴルウマ娘たちを前に、神父は独り胸に十字を切った。

 千年前から変わらず、この話は宣教師の関門であった。経験豊富なカルピニと言えど、緊張せざるを得ない難関なのだ。

 無垢なる異邦人たちは、輝く眼差しで神父に回答を求めていた。そして、神父は静かに語り始めた。

 

 ──最後の晩餐の辺りで、モンゴルウマ娘から笑顔が無くなった

 ──ローマ総督ピラトによる裁判の辺りで、目が潤み始めた。

 ──十字架を担ぎゴルゴダの丘を登る辺りで、瞳から光が失せた。

 ──そして、マルタとマリアの目の前で磔刑に処された時、涙と慟哭に地面をのたうち回った。

 教会内は地獄絵図と化した。

 

「ああああっ、どうしてええぇぇ!」

「そんなのないよ、そんなのってないよ!」

「ユダッ、貴様ユダアァッ!」

「優しい先生が、どうしてよりにもよって!」

「ひどいよおっ、ひどすぎるぅ!」

 

 悲しみに暴れ回るモンゴルウマ娘を、神父は胸を潰す思いで見つめていた。

 昔、幼いシスターウマ娘も全く同じ様な反応をしていた事を思い出していた。

 十字教の宣教師とは、無垢なウマ娘に対して、この様な残酷な話をしなければならない過酷な職業であった。その胸の苦しみに耐えられる者のみ、布教活動を続ける事が出来る、名誉ある役目であった。

 

 この日はどうしようも無いので、説教は終わった。のたうち回るモンゴルウマ娘に神父はくれぐれも言い残す。

 

「明日は続きを話しますから、必ず来なさい」

 

 号泣しながら「むりぃ」と嘆く彼女らであったが、翌日になると結局集まっていた。泣き腫らした光の無い目元で、話を聞くことに怯えている。しかし、どうしても続きが気になるのだった。

 そしてプラノ・カルピニは、一層力を込めて語り出す。

 

 

救世主(メシア)》は三日の後に復活した。

 

 

 ウマ娘の喜びは半端でなかった。

 諸手を上げて、歓喜の奇声を上げながら教会を飛び出し、町中を駆け回った。

 今度は喜びの涙を流して、脇目も振らず全力で走るウマ娘集団に、教会に集まっていなかった人々は驚愕して道の端に退避する。

 そして、恐らく主が復活した話を聞いたのだろうと察した。こういうウマ娘は、千年前から度々見られたのである(何なら現代でも居る)。

 

 落ち着きを取り戻すまで走り回ったモンゴルウマ娘は、やがて教会に戻って来た。前日の絶望が嘘の様に、表情が澄み渡っている。

 大いに悲しみ、大いに喜んだウマ娘は、何にも増して美しい──これぞ宣教師の生き甲斐であると、カルピニ神父の胸は一杯になった。

 

 そんな時であった、明らかに異質な、怯えきった叫びが教会にこだました。

 ある町の男が転がり込んできて、皆に何か訴えようとするも、がちがちと歯の根が鳴って上手く声が出ない。

 心配した近くのモンゴルウマ娘が背中を撫でてあげると、ようやく男は声を出した。

 

「遂に来た、来てしまった。《地獄の軍(タルタロス)》が攻めて来たんだぁ!」

 

 今度は、パリ市民が叫ぶ番であった。忘れていた恐怖と、財産の全てを焼き尽くした大火がフラッシュバックした。

 神父の制止も効力を上げず、恐慌して散り散りになってゆく。

 

 しかし、モンゴルウマ娘は一切動じなかった。慌てる道理は一切存在しない。

 不意に、ぴくりと、ウマ耳を同じ方向に向ける。瞬間的に皆の表情が鋭いものに変化した。

 

 それは、高原の戦士を招集するスブタイ将軍の太鼓であった。

 

 



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モンゴルという人々について

 傭兵という生業に対して、我々は何とはなく漠然とした浪漫というものを感じている。

 その感情は恐らく、近世以降の組織化された傭兵団のイメージがあるからで、確かに格好が良い(・・・・・)傭兵を挙げてみたらきりがない。

 ドイツのランツクネヒト、イタリアのコンドッティエーレ、スイス傭兵などは驚くべき事に現代でもバチカンを警護している。

 権力に属さぬ自由気ままな無頼の戦闘集団──如何にも少年心を刺激する響きである。

 

 しかし、近世以前の傭兵というのは、また様相が違っていた。

 中世当時の傭兵団と言えば、偶に戦争の弾除け(・・・)に使われる以外は食い扶持が無く、有り体に言えば、盗賊団(・・・)とも同時に呼べそうな無法集団であった。

 社会の枠組みから爪弾きにされた食い詰め者の寄り集まりが暴力行為を生業にしている──というのが、割に正確であろう。

 

 この傭兵(盗賊)というものに、ウマ娘の姿を見付ける事は至極稀であったらしい。

 というのも、人類に農耕文化が根付いて幾星霜、ウマ娘が社会の除け者にされる事は殆ど有り得なかったからである。

 鍬を持たせれば瞬く間に大地をひっくり返し、台車を引かせれば山盛りの砂礫を運び、縄を握らせれば邪魔な切り株を一息に引っこ抜いた。

 彼女らが多少の栄養価(カロリー)を必要としたとしても、総計して全く黒字であった。ウマ娘を虐めるよりも囲い込む方が、あらゆる面で合理的だったのだ。

 あとそこに居るだけで可愛かった。

 

はっきり言おう(アーメン)。今日あるだけの糧と、愛をウマ娘に分け与えなさい。そうすれば明日の貴方は多きを与えられるだろう』

 

 この様に《救世主(メシア)》も言っている。

 それは実際的な生活の知恵であり、原始的な投資の概念に違いなかった。「糧と愛を返してくれる親愛なる隣人」として十字教圏の農村では、ウマ娘は大切に(ちやほや)されていた。

 しかし時代が下がってくると、反対に村の外──社会進出を遅らせる遠因にもなった。中々ままならぬものである。

 

 ただ、彼女らの主観的『しあわせ』という面のみを見るのであれば、そう悪い気分でもなかった様である。

「人間さんと畑を耕す喜び」をテーマにした詩作は、時代と場所とを貫いて、ありふれている事からも分かり得よう。

 反対に「不幸なウマ娘に自由と権利を」と声高に叫んでいるのは、常に人間側だった。全く皮肉である。何時まで経っても足るを知らない(・・・・・・・)ヒト仕草であった。

 

 上記の様に、凡そ人類の農耕文化がウマ娘と切っても切り離せぬ関係にある事は、数多の歴史学者の承認する所である。

 極論を言ってしまえば、ある村で爪弾きにされたとしても、隣村に走れば喜んで受け入れられた。なのにわざわざ身をやつす必要性が無かったのである。

 

 そして何より──これは筆者が何度でも主張するのだが──ウマ娘は暴力を嫌っている。

 人間と協力して開墾に勤しむ方が断然好みであって、不当な暴力でそれを奪うのはひどい(・・・)行為だと考えていた。 

 故に中世欧州において、一般村ウマ娘が人間傭兵をぼこぼこにする例に事欠かなくとも、その反対は考えにくい状況であった。

 傭兵が略奪を働くにも、その村のウマ娘の頭数というのが深刻な課題であったという。

 

 つまり、中世の傭兵稼業というのは全く採算が合わない仕事であって、だからこそ落伍者の受け皿となっていた訳である。

 これが近世の組織化された傭兵団になると事情が変わり、ウマ娘も参加する様になるのだが(ヴァレンシュタインの傭兵団等)──その解説は他の機会に譲る事にする。

 

 

 さて、ポーランド王国はレグニツァで十字軍壊滅の報を受け、欧州諸侯が大いに動揺した事は既述の通りである(神聖ローマ帝国の内乱に顕著)。

 政情の不安定化──犯罪を取り締まる公権力の弱体化に伴って、ここぞとばかりに悪党が跳梁跋扈し、治安が急激に悪化した。

 特に、ドイツ・フランスの国境付近で狼藉を働いたのが《地獄の軍(タルタロス)》を自称する武装集団であった。

 

『飢えた狼の様な連中だった。彼らは奪えるだけ奪い、殺せるだけ殺した。鮮血で以て、神の法の尽くを犯した。我々は、はなから恐怖に打ちのめされて狼狽し、ただただすくみ上がるばかりだった。願わくば、あの忌まわしい男共に禍あれ──』

 

 フランス寄りのとある町が略奪を受けた時の様子を、地元の神父が書き残している。

 これはチンギス・ハーン以下モンゴル軍の蛮行と見なされてきた記録であるが──しかし、男共(・・)なのだ。モンゴルウマ娘は女共(・・)である、ウマ息子では断じてない。

 これは流石に信憑性を疑われてきた史料だが、逆に言えば破却すべき確たる証拠も無いので、長らく判断を保留されてきた。

 

 それが近年ようやく、ウマ娘女博士の活躍により進捗を見せる形となった。

 即ち、冒頭にて述べた様な武装集団が、モンゴルの圧倒的恐怖を笠に着て火事場泥棒(・・・・・)をしていたのではないか──という仮説である。

 これを真とすれば、

 

『高きプレスター・ジョンは、悪しきタタール人を不退転の意志で一掃した』

 

 という、従来不可解であったパリの記録にも説明がつくため、目下有力視されている。

 

 

 ◆

 

 

 パリの町から少し東に離れたモンゴル軍冬営地には、夥しい数の幕屋(ゲル)が広げられていた。

 中心に大ハーンの天幕(オルド)が鎮座し、その周りに将軍たちの天幕、更に外縁を取り囲む様に兵卒とパリ市民のための幕屋が張られる形であった。

 

 幕屋の合間には大小様々な羊の囲いがあって、メエメエ鳴いている。羊さんはモンゴル人の大事な資産だった。必要に応じて潰しながら冬を越すのである。

 また囲いの中には、パリ炎上の際に逃げ出して、後に捕獲された欧州産の豚や鶏も一緒くたに放り込まれており、肩身を狭そうにしていた。

 他にも町の焦げ跡から引っ張ってきた、まだ使えそうな家具、その他細々した民需品が、そこら中に置かれて生活空間を彩っていた。

 更には即興に木組みされた演舞台すらも見えた。その上で踊ったり、楽器を弾いたりして楽しむためのものである。

 モンゴル軍の冬営地は、東西の文化を容赦なく折衷した、新しい聚落の有様であった。

 

 

 此処に、スブタイ将軍の陣太鼓を聞きつけて、町中に散らばっていたモンゴルウマ娘が集合、整列を完了させたのは、軍事上の常識からして目を見張る迅速さであった。

 けれども、彼女らにとってはさして感慨のある景色でもなく、平素通りの牧歌的表情であった。

 陣太鼓の隣では、既にチンギスとスブタイ両名と、モンゴル重鎮の面々が揃った。

 

 深い威厳を持って床机に腰掛けるチンギスは──上から下まで泥だらけで、頭には木の葉をくっ付けている。

 片やスブタイは、背中に二人、正面に一人、モンゴルウマ娘をくっ付けている。

 

 皆に怪訝な様子は無い。

 皇帝が大将軍に相撲(ブフ)を挑んで投げ飛ばされるのはしょっちゅうだったし、また、冬着になって尚更もこもこ(・・・・)になった駁毛の将軍が顔を埋められているのも冬の風物詩であった。

 そういう格好の二名は、されど神妙な顔をして、一人の青年が半狂乱で訴える言葉を聞いていた。

 

「ジョン様、どうか、どうか妹をお救い下さい──」

 

 その青年に拠れば、こういう話だった。

 数時間前。その兄妹は薪拾いのため、森に入っていった。しかし中々手頃な薪が集まらないので、どんどん人気の無い方へと歩いていった。

 すると、いきなり森の奥から武装した集団が一斉に襲ってきて、無理矢理に妹を攫ってしまったのである。

 薄汚い髭面の男は、捨て台詞にこう残した。

 

「俺が《地獄の軍(タルタロス)》の長だ! パリの片田舎の連中とて、我が威名は重々聞こう。かの十字軍の様な末路を迎えたくなくば、焼け残った財産をあるだけ持ってこい。この娘は、手付けに持っていく」

 

 兄は《地獄の軍》の名を聞いただけですくみ上がってしまって、泣き叫ぶ妹が攫われていくのを、見ている事しか出来なかった──

 

 話を聞き終わると、青年はその場に蹲って咽び泣いた。

 モンゴルウマ娘たちは一様に眉を顰めた。不愉快の極みであった。そんなひどい連中が、許されて良い訳がないと思った。

 独りチンギス・ハーンのみが、眉の一つも動かさず、じっと耳を傾けていた。

 その静かな眼差しで、大ハーンは《タルタル族》出自の書記係──シギ・クトクをちらと見る。心外そうに彼女は返した。

 

「姉上が先のタルタル族長を袋詰めになされて此の方、我が君とは、ただチンギス・ハーンのみで御座います」

 

 チンギスが「ごめん」と謝ると、シギ・クトクは「いいよ」と言った。

 

「恐れながら申し上げます」

 

 モンゴルウマ娘の整列の中より、一歩を踏み出す者が居た。チンギスが許すと、彼女は跪いて発言する。

 

「私は、正にその場に居合わせました。偶々、野駆けをしていた次第。奴らめが北西に逃れたのを、しかとこの目に焼き付けております」

 

 皇帝は目を細め、床机から身を乗り出し尋ねた。

 

「それで。現場に居合わせたお主は、ひとえに眺めておったか」

 

 兵卒は畏まって、しかし明朗に答えた。

 

「毛並みはわななき、尾は逆立ち、この両の目は煮え立たんばかり。余程に射掛けんと思いしも、寸で踏み止まり申す」

「何故か」

「我が弓弦を引かせる事叶うは、偉大なる大ハーンと、軍権を授けられし将軍のみにあり。不埒の賊などでは断じてありませぬ」

 

 この回答に、大ハーンは膝を叩き呵々と笑って喜んだ。大なり小なり、戦端は大ハーンの意志によって開かれるべきであった。

 

「えらいっ! 忠義者とはお主のための言葉よの。後で皆の前で踊って良いぞ」

「はっ、身に余る幸せ」

 

 耳を弾ませ列に戻った彼女を、周囲の同僚は「いいな〜」と指を咥えて羨んだ。

 公の場で舞えるのは、モンゴルダービーの勝利者か、大ハーンに勲功を認められたウマ娘のみであり、非常に名誉だったのである。

 

 早速、北西方面にスブタイ将軍直属の偵察ウマ娘が放たれた。程も無くして、見聞がもたらされる。

 

「ご注進。北西の丘に賊の根城を見付けたり。賊は、むんえいやっ、とやっつけられる数に御座います」

「千にも足らずと。それで駆兵は如何程か」

「ウマ娘の影は有りませなんだ。男の人間さんだけに御座います」

「何だと」

 

 スブタイは暫し思案した。「もふう」「もふもふ」「ふわあ」等々と、背に腹に密着する三人のウマ娘が呟いている。スブタイはもう一度偵察を命じた。報告内容は全く同じであった。

 

 モンゴル人は考え込んでしまった。

 仮にも《タルタル》を名乗る以上、高原のウマ娘に関係する連中かと思えばそうでない。

 大体、高原の不埒なウマ娘は尽くチンギスが粛清しており、残っている筈がない。そも、どういう訳で遠く離れた西方世界にタルタル族が居るのだろうか。

 

 モンゴル人は、指導人を含め、欧州人の卑劣なやり方に本気で思いもよらなかったのである。

 もしかして、偶然同名の部族が暴れているのだろうか──とまで考えた時、顎髭を撫でていた皇帝専属指導人、耶律楚材(ウルツ・サハリ)が、不意に凄まじい(・・・・)表情になった。

 伴侶は、それに気が付いた。

 

「我が半身よ、気付く事があったか」

「は……口に出すのも憚られる事にて」

「許す。皆々に聞こえるよう、大きく申せ」

 

 そこで楚材はざっと膝を突き、腹を据えて言う。

 

「我が君。これはもしや、騙り(・・)ではありませぬか」

 

 モンゴルウマ娘は、ぽかんとした顔を見合わせた。大ハーンでさえ、己が半身の顔を目をぱちぱちさせて眺めていた。

 

「お前の言わんとする事は分かる。分かるが、訳が分からん。どうしてそんな事をする必要があるのか」

 

 モンゴルウマ娘の素朴な天上信仰に拠れば──例えどんなに小さな隠し事で、誰も見ていなくとも、天空神(テングリ)だけは必ず見ている。そして何時かは白日の下に晒されてしまうのだ。

 だから嘘はいけない。

 

 案外これは迷信ではなかった。高原に於いて隠し事とは、事実、早速に暴かれてしまうのだ。

 モンゴルウマ娘は嘘がド下手くそ(・・・・・・・)で、直ぐにバレてしまうからである。ならば最初から正直でいる方が良かった。

 何より、やましい事を抱えたままでは、心地よく駆ける事が出来ない。

 正直こそ、モンゴルウマ娘の道徳であった。

 

 善行だろうが悪行だろうが、その責は須らく自分の下に帰するべきなのだ。胸を張って堂々としていれば宜しい──明文化されておらずとも、モンゴルウマ娘は固く信じており、犯し難い絶対の法理であった。

 

 そういうウマ娘たちに、楚材は一から説明せねばならず、あらゆる意味で苦労であった。

 曰く。自分の名で食っていけない無法者が、嘘を吐き、タルタル族の威名を盗み、それで無辜の民を脅かして、略奪を働いている──牧歌的で純朴であっても、高い知性を持ったモンゴルウマ娘は、一度聞いただけで理解した。

 

「その賊は、タルタル族の長と名乗ったそうな……つまり、私をだ。其奴は、自らを大ハーン(・・・・)だと、言った」

 

 高原における諸族の長、チンギス・ハーンは呟く様に言った。それが皆のウマ耳に充分届く静寂だった。 

 

「ふらあああぁぁぁっ!!」

 

 四駿四狗の最古参、奇行の芦毛《独走》のボオルチュ将軍が、その小柄な体躯からは想像し得ない様な絶叫を発した。

 モンゴルウマ娘たちは耳を絞り、姐さん(・・・)に倣って絶叫した。

「フラー」それは後に、ロシアの「Ура(ウラー)」や、イギリスの「hurray(フレー)」にも継承されるモンゴルの激励であった(モンゴルが欧州を蹂躙した折に伝来)。

 

『フラアアアァァァ──』

 

 東西折衷の聚落に、凄まじい、気の狂った様な絶叫が大音響した。しかし、内実は反対であった。それは正気を保っているための叫びであった。

 真なる大ハーンは、同胞たちに好きなだけ叫ばせておいた。そして、その喉が破れる頃になって、徐に手を上げた。

 大音響は、ぴたりと止んだ。

 シギ・クトクがタルタル族を代表する様に進み出る。

 

「姉上、我が君、いとも尊きチンギス・ハーンよ!」

 

 言葉の一々を皆々に、そして自分に言い聞かせるように義姉に訴える。皇帝は「此処に居るぞ」と静かに応えた。

 

「私は今こそ腑に落ち申した。我々タルタル族が、何故パリの人間さんに避けられていたか。これ全て嘘吐きの匹夫共が、西方の民を虐めたせいなのです。我が部族は罪を擦り付けられていた。嗚呼、悲しきかな、口惜しきかな!」

 

 シギ・クトクの握り締めた拳からは血が滴り落ち、そして滅茶苦茶に地団駄を踏んだ。

 いや、それでは因果が逆だろう──トレーナーたちは思ったが、誰しも黙っていた。

 

「我が君、どうか私に出陣をお命じ下され。我がタルタル族の名誉、存分に挽回してくれましょう」

「いや、シギは弱いから駄目だ」

「はい」

 

 しょぼんとして素直に引き下がる辺り、書記係には自覚があるらしかった。

 

「ムカリ国王」

 

 義理の家族の代わりに、大ハーンは腹心将軍の名を呼んだ。

 

「此処に」

 

 皇帝の前に、四駿四狗の一人が進み出た。赤みがかる栃栗毛に環星(円状の白毛)が入った毛並み、目尻の垂れた優しげなウマ娘である。

 

《国王》ムカリは、中華世界との連絡担当、兼ねてニンジン輸入担当(・・・・・・・・)という極めて重要な役を任された重臣である。

 連絡担当というだけあって、気性良しの社交的ウマ娘で、その篤実な性格はモンゴルウマ娘に広く好かれた。

 また、いざ戦となれば、これほど肝の据わった将軍は居なかった。苦境を耐え忍び、機を見るに敏。攻守を鮮やかに使いこなす名将であった。

 

 しかし、周りのモンゴルウマ娘にとって(本人でさえ)そんな事はどうでもよかった。

 それより彼女の二つ名《国王》がカッコよかった。

 何故ムカリが《国王》なのかと言えば、それはムカリが《国王》だから《国王》なのだった。

 そういう事である。

 

「ムカリよ、お主は特にタルタルのと仲が良い。さぞ悔しかろう」

「尾っぽをずたずたに裂かれるばかりの心地に」

「命ず。タルタル族の勇士を率いて、妄言吐きの賊を討伐すべし」

「諾」

 

 いまいち怒りの具合が伝わりにくい柔和な顔立ちのムカリは頭を下げた。

 それから、相撲に負けて泥だらけのチンギスは、隣の親友スブタイの方を見て、しかし別の名を呼んだ。

 

「トルイ」

 

 すると、大将軍の腹に抱き着き顔を埋めていたウマ娘が、ぴょこんと顔と耳を上げた。弾かれた様に大ハーンの前に飛び出して来て、頭を垂れた。

 

「お呼びですか、母上っ」

 

 敏捷な動きに見合う元気な声で、そのモンゴルウマ娘は言った。

 チンギスに良く似た青毛と眉目、そして一筋の流星が特徴的な若者──いや、子供の気配すら残す皇女であった。

 

「初陣だ」

 

 端的に皇帝が言うと、トルイの耳は激しく跳ねる。

 

「母上、本当ですか。私も戦に出て宜しいのですか」

「ああ、何時までも半端者にしておけぬからな。お前も大ハーンの子、そして蒼きウマ娘の末裔である事を見せてみよ」

「は、ははっ! 姉様たちにも恥じぬ戦いを、このトルイは施してみせます」

 

 大いに喜ぶ皇女であったが、そこに殊更苦い顔をした専属指導人が、皇帝に耳打ちした。

 

「恐れながら、トルイは未だ未熟のウマ娘。初陣には些か早いかと存じまする。次の機会を待つべきでありましょう」

「なあ、我が半身よ。私は、その進言を四度聞いた(・・・・・)ぞ。それだけ聞けば、もはや十分だと思うがな」

「しかし」

「ムカリ国王を付けたのだ。ジョチも、チャガタイも、オゴデイも、あれは良く見てくれたではないか」

「それでは……御意のままに」

 

 明らかに不服そうな楚材に、チンギスは薄く笑った。専属指導人の慧眼は、我が子の事となると、百分の一に減退するのであった。

 

 ムカリ将軍の陣立ては流石に迅速であった。

 闘志に燃え上がったタルタル族を統括し、武具を整え、皇女トルイに革鎧を着せてあげる。出陣準備は瞬く間に完成した。

 今や満ちた矢筒を携えた兵は、ぎらぎらした目で大ハーンの号令を待つばかりであった。

 皇帝は床机から立ち上がり、陣容に向けて言った。

 

「とこしえの天上(テングリ)の力にて。勇ましき同胞よ、正に汝らこそ我が誇りである。西方の大ハーンとやらは、これ程の勇士を従えるだろうか。その勇壮を思い知った時、どんな顔をしたものか。私は是非とも見てみたい。

 しかし《大ハーン》が並び立つ事は断じて有り得ぬ! 何れかが真で、何れかが偽なのだ。ならば同胞よ、私に示してくれ。汝の答えを、虚しき言葉ではなく、断固たる行動によって。

 チンギス・ハーンが号令す。偽り者は、おしなべて平らかにせよ(・・・・・・)

 

 ムカリとトルイ、そしてタルタル族は猛勢のままに冬枯れの大地を蹴った。

 

 

 娘の出陣を見届けてから、一息吐き出して、チンギスは妹を拐かされてしまったという青年を傍に寄せた。

 

「可哀想な事であった。だが、もう安心して待っていると良い。ムカリ国王と我が娘とが、必ずや無事に妹さんを連れ帰るだろう。そうだ、乾燥ニンジンを食べると良い」

 

 言うや懐をまさぐり出した、泥まみれのモンゴル皇帝──欧州人からは、どう見積もっても十代後半にしか見えないウマ娘に、青年は思わず尋ねた。

 

「ジョン様は御歳幾つなのですか?」

 

 すると四児の母である皇帝は、ちょっと難しい顔になった。暫く指をおりおりしていたが、やがて首を傾げて、隣の専属指導人に聞く。

 

「我が半身よ、お前は幾つになった」

「とうとう三十七になり申す」

「そうか、なら私は四十だ。どうだ三つも年上なんだぞっ」

 

 得意満面で指を三本立てて見せるモンゴル皇帝に、青年は呆気に取られ、そして専属指導人は伴侶の頭にくっ付いていた木の葉を摘んで取ってあげた。

 

 

 ◆

 

 

 ムカリ国王と皇女トルイの帰りを、モンゴルウマ娘たちはごろごろしながら待っていた。それを眺めるチンギスも、床机に座ってとろとろしていると──あっという間(と表現して良いだろう)に彼女らは戻って来た。

 

 帰還の先鋒はトルイであった。互いに視認出来る距離になると、彼女は隊列から独り飛び出して駆け寄ってきた。

 彼女の身体中は、紅色に濡れていた。対照的に耶律楚材の顔は青くなった。彼もまた、娘に駆け寄っていった。

 

「怪我をしたのか。ああトルイ、大変だ、見せてみなさい」

「や、父上。これは自分のものではありませぬ、うふふ、くすぐったいです」

 

 そう言っても、楚材トレーナーは暫く愛娘の身体を探るのを止めなかった。

 直ぐ後から、ムカリがタルタル族を引き連れて戻って来た。皆が皆、紅色で濡れていた。

 

 先ず、ムカリ国王は自らおぶってきた少女を、兄に引き合わせた。

 兄は号泣して喜んだ。繰り返し聖君、プレスター・ジョンに礼を言いながら、ひしと妹を抱き締めた。その光景に、モンゴルウマ娘たちの心も暖かくなった。

 

 しかし、少女当人だけが違った。

 悲惨な運命から救われたというのに、愛する肉親に抱き締められているというのに──顔面蒼白にして、がたがたと震えていた。

 まるで、未だ禍の中に取り残されている様であった。

 

「いやはや、殿下の勇猛果敢なる事。このムカリ、心より感服仕った。流石は大ハーンの御子、蒼きウマ娘の末裔。初陣に同行出来ますは、まこと光栄至極に御座いまする」

 

 頬に付着した紅色をごしごし拭いながら、目尻の垂れた柔和な顔でムカリは褒めた。チンギスが、同じ褒め言葉を聞くのも四度目(・・・)であった。

 この将軍は、誰に対しても頻繁に世辞を言った。チンギスは世辞というものを好まない。しかし、ムカリのそれは何処か爽やかで、嫌らしい含みが無く、耳に入れて心地の良いものがあるのだった。

 

「各々、大儀である」

 

 チンギスは、特に言葉を尽くした訳ではなかったが、尾っぽの動きは何より雄弁であった。

 ようやく父の安心を勝ち得たらしいトルイが、ずいと前に出て来た。未だ子供の気配を残すきらきらした瞳で、小脇に抱えていた物を得意気に披露した。

 

「母上の見たがった物です、どうぞ御覧じあれ」

 

 両手で差し出されたのは、確かにチンギスが見たがった、モンゴル軍の勇壮を思い知った男の顔(・・・・・・・・・・・・・・・・・)であった。男はその表情のまま、永遠に固まっていた。

 モンゴルウマ娘たちは、ほうと感心した。何と親孝行な娘であろうか──

 

 流石のチンギスも感じ入った様に、その髭面をじっくり見分したり、指でつついたりしていた。

 二つの《大ハーン》の顔と交互に睨めっこしていたトルイは素直に感想した。

 

「あんまり似てませんね……」

 

 それがチンギスには可笑しかったらしい。愉快そうにくつくつと肩を揺らした。

 続けて、やっと平静を取り戻した楚材指導人が、うやうやしく一礼して言う。

 

「いえ我が君、存外似ておりますぞ」

 

 チンギスは口を開けて呵々と笑った。周りのモンゴルウマ娘も笑った。

 皇帝は「こいつめこいつめ」と、肘で楚材を突いた。そして、娘の手の内から、むんずとそれを取り上げると、自分の顔の横に並べて見せた。

 

「そっくりか?」

 

 モンゴル陣営は爆笑になった。

 

「おや、我が君がお二人」

「全然見分けが付きませぬな」

「これは参った」

 

 モンゴルウマ娘は、手を叩き足を踏み、腹を抱えて笑った。指導人たちも、涙を流し膝を叩いていた。

 暫くして、ひいひい息を整えると、チンギスは己の生き写しを、娘に投げて返した。

 

「見分けが付かないのでは困るから、見えない様にしておけ」

 

 トルイが合点すると同時に、再びどっと笑いが起きた。

 

 

 その中に、笑わない者が二人居た。

 先の、欧州の兄妹であった。

 妹の方は、やはりものも言えず、ただ激しく震えていた。兄の方も、妹を抱き締めて、血の気を失っていた。

 東方の民は大いに笑っている。しかし、何がそんなに可笑しいのか、青年には理解出来なかった。

 

 分からなかった。何だか分からない、大きい、余りに巨大で全貌を掴めない様な影が心にのしかかっていた。

 なのにそれは、並の欧州人が《地獄の軍(タルタロス)》に感じる虚構だらけの恐怖などより、遥かに現実味を帯びたものであった。

 結局、十字軍に然り、一般の欧州人にはわからなかった(・・・・・・・)のである。

 

 つい先刻まで、モンゴル人たちは教会(予定地)に集合していて、心優しい人物の話に感動していた。

 そして今では、全身紅色に濡れたまま笑い合っている。

 彼らは、この双方の事に何ら違和感を感じず、平気で両立させていた。

 

《モンゴル》という人々は、そういう気性の民だった。

 

 



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閑話二:《赤兎千里行》鑑賞所感について

 前回の閑話が気に入ったのと、ゴールドシチーの育成ストーリーがぶっ刺さったので書いたものです。
 原作キャラは登場しないものだと思ってたのに、ウソでしょ。


 魂魄よ、今こそ千里を駆けよ。

 

 ──《続・赤兎千里行》宣伝ポスター。

 

 

 ◆

 

 

 トレーナーはその戸を叩くのに乗り気な訳ではなかった。

 戸の向こうに担当ウマ娘が居る。彼女は今日の敗者である。

 どうして過ごしているかは分からない。悲しんでいるだろうか、悔しがっているだろうか。

 ただ今すぐにでも声を掛けなくてはならない事だけが、はっきり分かっている。

 

 ゴールドシチー。

 彼の担当ウマ娘であった。

 

 先刻のレースを思い出す。如何にも惜しい内容であった。彼女の差し足は、今一歩、及ばなかった。

 クビ差での二着。

 コンディションは悪くなかった。むしろ過去最高の仕上がりと言って良い。ターフに立った彼女の肉体は絞り上げられており、鋭い精力に満ち満ちていた。

 

 しかし負けた、負けたのだ。

 

 何故だかは分からない。実力か、運か、それとも他の某の不足か──トレーナーは、急に担当ウマ娘と話したくて堪らなくなった。

 一時でも戸を叩くのを躊躇っていた自分をバ鹿バ鹿しく思った。

 口をぎゅっと結び、それから彼女に選んでもらった勝負用ネクタイを、きつく締め直す。

 戸を叩いた。

 

「はい、どうぞ」

 

 芸能人らしい、丁寧な返事である。男は勢い良く戸を開いた。

 そんなトレーナーを、尾花栗毛のウマ娘──ゴールドシチーはちらとも見なかった。座って何やら読みふけっている様子であった。

 トレーナーは意外に感じた。何にしろ、心乱れているだろうと踏んでいたからである。

 

「何を読んでるんだ?」

 

 隣の椅子に腰掛けつつ、単純に興味から聞いてみると「ん」と、シチーは冊子を少し横にずらした。見せてくれるらしい。モデル業の関連書籍だろうか。

 彼はずいと身を乗り出した。

 

「う、お……っ」

 

 不用意に覗き込んだ彼は、首を仰け反らせた。背もたれにぶつかって、椅子の足がガタンと音を立てる。

 

「ビビった」

 

 百年に一人と言われる美少女ウマ娘は、碧眼に悪戯っぽさを浮かべて笑った。

 後頭部から倒れそうになったトレーナーも、体勢を持ち直して「このやろ」と苦笑した。

 

「これ本人(・・)だよな」

「うん、本物のルビーイグニスさん」

 

 ゴールドシチーが見ていたのは写真集であった。そこに彼女は居た(・・)

 炎の様な赤毛に、同色の勝負服。スラリとした体躯と、勝気な瞳。そして腕には方天画戟を携えて、一直線に駆けて来る。

 鬼迫である。

 今にも飛び出して、一刀の下に切り伏せられる様な、凄まじい存在感を放っていた。

赤兎来来(赤兎が来た)

 それは、あらゆる創作物で『死』の婉曲表現として使われるモチーフであった。

 

 ルビーイグニス。

 

 94年に歴史ウマ娘映画の金字塔《赤兎千里行》への出演を最初にして最後に、事故で世を去った悲劇の鬼才。

 彼女以降《赤兎バ》のイメージは、完全に刷新、塗り潰されてしまうという、ただ一作で他の三国志作品にも多大なる影響を及ぼした伝説の女優であった。

 

 トレーナーは少し驚いた。歴史映画と、担当ウマ娘とが、中々結び付き難かった。

「好きなのか?」と聞いてみると「大ファン」と素直に答えたので、尚更に驚いた。

 

「女優業ばっかりで注目されてるけどさ、この人、モデルとしても一流だよ」

「そうなのか、全然知らなかった」

「これ絶版でさ、レア物なんだ」

「良く手に入ったな」

「まあちょっと、事務所の伝手で」

 

 シチーは少し罪悪感を感じている様な顔で、再び目線を冊子に落とし、そっとページを繰る(余程傷めたくないらしい)。

 ポーズを取るルビーイグニスが、新たに現れた。ぞっとする様な実在感が、それに伴う。

 

「やっぱり本物は全然違うな」

「どっちも見てる?」

「04年の二作目はドンピシャ世代だしな。そっちから入って、一作目を見た。全然毛色が違って驚いたよ。独特なポーズも多いだろ。よく真似したっけな……でも他人がやっても様にならないんだよなぁ」

「ルビーさんの動きは、全部さり気にやってるみたいだけど、実は手足の角度から目線の位置、尾っぽの置き方まで完璧なんだよ。どこを切り取っても隙が無い。だから独特のポーズでも映える。勉強になるよ」

「へえ、流石プロ目線」

 

《赤兎千里行》の撮影直後、主演のルビーイグニスが帰らぬウマ娘となってしまった事は有名である。

 そのため《続・赤兎千里行》では、代役の顔にCGで彼女の顔を貼り付ける、というまさかの力技で作成された。

 しかし、ルビーイグニス本人の圧倒的存在感までは再現出来なかった。その代わりCGを多用したド派手な演出が多用される事になる。

 

 二作目の殺陣では、赤兎の方天画戟の一振で何人も武将が吹き飛ばされる。それは確かに格好が良く映った。

 しかし初作の、名も無き一般兵が唐竹割り(・・・・)にされるという、壮絶な迫力は無いのだった。

 

「アンタは二作目のラスト、どうだった?」

「泣いた」

「あは、だと思った」

 

 赤兎と関羽の最期の戦《麦城の戦い》までを、二作目は描いている。

 子供の婚姻話を持ちかけた孫権に、紅緑の二人(赤兎と関羽)は「ウマの子を犬の子にはやれぬ」と言い放つ。

 余りの侮辱に激怒した呉は、奇襲攻撃によって紅緑を追い詰めるのであった。

 激戦の最中に、赤兎は息子関平を失ってしまう。ウマ娘は慟哭し、鬼神もかくやと荒れ狂った。

 しかし余りに多勢に無勢、二人は遂に進退窮まってしまう。そして互いの武器、方天画戟と青龍偃月刀を以て、最愛の人の首を切り裂き、共に果てるのであった──

 

「最期にさ、正面から向かい合って、涙を流しながら互いの首に武器を押し当てるシーンがあるだろ。あの悲壮感が凄くて……涙が枯れるまで泣くっていうのは、有り得るんだな。

 その時は中学生だったけど、思い返せばトレーナー職に憧れるきっかけになったかも」

 

 ウマ娘は、直情型トレーナーの話へ興味深げに耳を傾けていたが、ふと目線を外して、突き放す様に言った。

 

「でもアタシ、あれ嫌いなんだよね」

 

 それきり言葉を区切った。耳が垂れて、尾っぽがぴくぴく震えた。

 男は黙った。黙って、担当ウマ娘の端正な横顔をじいっと見詰めて逸らさなかった。

 ゴールドシチーは、無闇に相棒の感性を否定したい訳ではないだろうと分かっていた。他に何か、伝えたい事があるのだろうと思った。だから、彼女の次の言葉を待っていた。

 

 トレーナーが、自分の突き放す言葉に退かず、それどころか胸を広げて待っている様であったので、シチーは「うざ」と苦し紛れに呟いた。頬が少し赤かった。

 それから沈黙があって、やがて観念した様に、ぽつりと語り出した。

 

「アタシさ……トレーナーと会う前、結構しんどくなる事、あったんだよね」

 

 目線を合わせずに、ウマ娘は言う。

 

「夜に独りで居ると、自分が誰だか分からなくなって。このまま寝たら、誰にも見付けてもらえなくなるんじゃないかって。怖くて、怖くて、堪らなくなる時があった」

 

 世間では、百年に一人の美少女ウマ娘だ、トップモデルだと囃されるゴールドシチー。

 しかし、だからこそ。虚構に固められた空っぽな自分、お人形な自分に苦悩し──満たされた人生を掴み取りたいと願う、等身大の少女の姿がそこにあった。

 

「そういう時、気を紛らわすために、スマホで映画なんかを観てた。それで見付けたのが、赤兎バ……ルビーイグニスさん」

 

 シチーは慎重にページを捲った。

 新しい、目から光を失ったルビーイグニス(呂布への淡い恋が破れた時だろう)が、そこに出現した。

 

「ひと目で釘付けになった。最初は、超カッコイイって思ったから。こういう風になれたら良いなって純粋に憧れた。

 でも、その後、直ぐに亡くなったって、知った」

 

 覚えがあった。ルビーイグニスは、彼が物心付く前に亡くなった女優であるけれども、その非業の死を知った時のショックは世代を超えるものがあった。

 それ程に、生きている(・・・・・)活力を、スクリーンから感じさせる女優であった。

 

「きっとルビーさんは、生きている間ずっと《赤兎バ》として見られていたんだと思う。本人の意志はどうでも、映画が凄過ぎたから。現に私も、初めそう思ったし。

 けど、本人はそれで満足だったのかなって考えた。実は、自分が望まないまま、世間のイメージだけ先行して、悩んでたんじゃないかって。

 世間の大き過ぎる期待に、虚像に、苦しんでたかもしれないって。

 まあ、要するに自分を重ねたんだよ……うわあ、今思うと、マジでおこがましいわ」

 

 シチーは気恥ずかしそうに、手の平で顔を扇いだ。しかし、ここまで独白しておいて中断するというのは、逆に彼女の尊厳が許さない様であった。

 

「何度か初作を観て、それから二作目を見た。ちょっと違和感はあったけど、面白いと思ったよ。

 でも、あのラスト、あれだけが気に食わなかった。赤兎が、ルビーさんが、あれだけ生きて(・・・)。なのに、全部後悔したみたいに泣いて、死んで……そんな結末なのかよ!って、どうしても納得出来なかった。

 それからは、もう繰り返し。一ヶ月くらいだったかな。気が狂ったみたいに、繰り返し繰り返し観てた。そのせいで寝坊も酷くなったけど……最後の頃は、全編通しでコマ送りで観てたわ」

 

 (いにしえ)のオタクみたいな事をするな──とトレーナーは思ったが、無論黙っていた。

 

「でもやっぱり、どう考えてもおかしいじゃんって思った。具体的に何処が、とかは言葉に出来ねえし、解説とか調べても、何か違う気がした。

 とにかくモヤモヤして、イライラして……何より、怖くなった(・・・・・)。前より怖くて、辛くて。んで、もう観れなくなった」

 

 ウマ娘は、尾花栗毛をぐしゃぐしゃと混ぜた。

 

「それから少しして、マネジがルビーさんを特集した昔のインタビュー記事なんかを持ってきた。見え見えのご機嫌取りじゃん。その時はマジでムカついたから記事も読まなかった。

 でもさあ、距離をとったらとったで、どんどんしんどくなってきてさ……結局読んだんだよ、インタビュー。

《赤兎千里行》幻のエンディング、アンタ知ってる?」

 

 トレーナーは正直に知らないと答えた。

 

「マネジが持ってきたの、初作クランクアップ直後のインタビューだったんだけど。その時にはもう続編の構想があったみたいなんだよね。次回作についてルビーさんに尋ねてた。

 赤兎は最期の時、関羽と一緒に死ぬ時、どんな顔をしただろうってね」

 

 また、シチーは写真集のページを捲った。

 そこに居る彼女は、紅玉を溶かした赤毛を揺らして、方天画戟を肩に担ぎ、振り返った。そして花が咲く様な笑顔で答えた。

 

「赤兎は笑った。雲長(トレーナー)も笑った。生涯で一番楽しそうに、笑った──」

 

 

 

 月下の戦場。

 周囲には数多の死体が転がっている。流れる血は川となり、海ともなる。敵味方の区別は、もはや意味を成さぬ。

 その只中に、たった二人立つ武人が居た。

 鮮紅と深緑の装いは、血に塗れ泥に汚れ、疲れ果てていた。地に突き立てた長柄に寄りかかり、ようやく立っていた。

 

 力抜山兮気蓋世(力山を抜き気世を蓋ふ)

 時不利兮騅不逝(時利あらず騅逝かず)

 騅不逝兮可奈何(騅の逝かざる奈何すべき)

 虞兮虞兮奈若何(虞や虞や若を奈何せん)

 

 四面楚歌。

 紅緑、既に千を斬り、万をも斬った。その武勇、正に項王を哭かしむる。しかし、更なる呉軍の追撃は刻刻と迫り来る。

 守るべき土地を失い、戦友を失い、愛息子をも失った。主君劉備に合わす顔無くして、三国無双の名は地に落ちた。今や精根尽き果つる。この上、何を為すべきか。

 紅緑に言葉無く、互いの武器を持ち上げた。それは敵味方に畏怖された、方天画戟、青龍偃月刀。

 数多の敵を屠り去った得物を、最愛の人の首に押し当てる。これにて一切を断つ為に。月下の戦場に、二人は見つめ合った。

 最期の時、紅緑に何物が去来したか──

 

 

 

「笑ったんだよ、トレーナー」

 

 担当ウマ娘の言葉で、男は此処に戻された。

 

「泣いたんじゃない、後悔したんじゃない。赤兎は笑った(・・・・・・)。《ルビーイグニス》は、そう答えたんだよ」

 

 ゴールドシチーは冊子を閉じて、俯いた。相棒と反対側に顔を向けた。しかしトレーナーには、彼女の表情がありありと分かった。

 

「どんなに残酷な運命でも、最期は笑って逝ったんだ。赤兎は、ルビーさんは、苦しんでなんかなかった。

 周りにどう思われても、全部受け入れて、ありのままの自分(・・・・・・・・)を愛してた。

 そういうの、凄く、カッコイイよね。なのに、アタシは……っ」

 

 ゴールドシチーは──今日のレースに敗北したウマ娘は、振り向いた。

 泣いていた、熱い涙であった。

 彼女は立ち上がって、机を両拳で叩いた。美しい毛並みを振り乱し、何度も音高に叩いた。

 

「畜生、くそ、くそおっ! 笑えねえよ、アタシはまだ笑えない。まだ終われない、何にも受け入れられない。悔しい、悔しい。ああ、ダセェーッ!」

 

 泣き叫ぶシチーの肩を、トレーナーが抱き締めた。彼女の悔しさも、やり切れなさも、全部分かっていた。

 シチーは抵抗した。トレーナーの腕から逃げようとした。ウマ娘の平手がトレーナーの顎を直撃して、彼は横に吹っ飛んで倒れた。

 それでも尚、トレーナーは立ち上がった。頭を振って、意識を保った。そして、担当ウマ娘の肩を強く抱いた。ゴールドシチーは、大人しくなった。

 

「怖いよ、トレーナー」

 

 腕の中で、弱々しく涙を流してシチーは呟く。

 

「アタシは空っぽなまま、お人形なまま、終わっちゃうよ。ルビーさんみたいに、自分を好きになる事なんて出来ないまま、全部が。そうなったら、どうしよう。どうしよう、トレーナー……」

 

 トレーナーは、人間なりに、精一杯の力で抱き締めて答えた。

 

「シチーが泣くなら、俺も泣く。でも、最期に笑うなら、俺も一緒に笑うよ」

 

 ウマ娘の肩から、すっと力が抜けた様だった。暫し沈黙があってから「うっざ」と腕の中から聞こえた。尾花栗毛の尾っぽが、ふさふさと動いた。ぴこぴこ動くウマ耳が、トレーナーの鼻頭を叩いている。

 ゴールドシチーは、今度はそっとトレーナーの胸を押して、密着した身体を離した。

 

「アンタは笑う」

 

 目の下と、それ以上に紅い頬で、百年に一人の美少女ウマ娘は言った。

 

「だって、アタシが先に笑うから」

 

 ウマ娘は相棒に、何より自分に誓った。その身体には、今日、敗北する前にも増す闘志が漲っている。

 トレーナーは思った。これ以上に美しい《ゴールドシチー》の姿を、他の誰が見れるだろうか──

 

「今度、一緒に映画を観ようぜ。シチーと、一緒に観てみたいんだ」

 

 やはり彼は真っ直ぐ目を逸らさずに言った。ウマ娘は、ぷいと目線を逸らして答えた。

 

「ん、まあ、今度ね」

 

 シチーは、頑張って興味が無さそうな台詞を言ったが、他の全てが素直だった。そして、再び写真集を開き、ルビーイグニスを眺めた。

 その時、思い出した様に冊子の裏表紙に挟んだA4用紙の束を取り出し、トレーナーに差し出した。

 文字がビッシリ印刷されている。

 

「アタシなりに映画の見所と考察を纏めたやつだから、先に読んどいてよ」

 

 古のオタクみたいだな、とトレーナーは思った。

 

 




 まだまだ《赤兎千里行》の制作秘話は募集中です。


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東西異文化結婚について

 プラノ・カルピニ神父と、シスターウマ娘がその場に着いたのは、丁度モンゴル人たちがはしゃいでいる時であった。

 近寄ってみると、どうやらトルイ皇女の周りから笑いが起っているらしい。

 先にシスターウマ娘が興味津々で輪に混ざっていったが、直後に総毛立たせて、カルピニの背中にさっと隠れた。そして、神父の黒い外套(マント)に頭から潜って出てこなくなった(彼女の驚いた時の反応、イタリアの孤児院時代からの癖)。

 

 はたと、聖職者の接近に気が付いたトルイが嬉々として寄ってきた。初陣を果たしたのだと告げ、得意気に耳を動かしている。

 その全身がべっとり紅に濡れ、手中には凄惨な表情で永遠に時の止まった男が居た──神父は少しだけ瞼を見開いたが、怯むという事は一切なかった。むしろ落ち着き払って、礼節を尽くし、低頭して言う。

 

「偉大なる大ハーンの御子、トルイ殿下にお願い申し上げます。どうか、彼を譲ってはくれませんか」

 

 青毛に流星のウマ娘は、逡巡する様に尾っぽを振ってから「やだっ」と拒んだ。もの言わぬ彼を胸にぎゅうと抱き直して「うー」と歯を出して威嚇した(ウマ娘が狼みたいな顔をするのは宜しくない、と日頃から楚材(ちちおや)から言われているので後で叱られた)。

 すると神父は、ゆっくり丁寧に説得する。

 

 彼に代わって非礼を心からお詫びしたい。しかし西方には西方なりの弔いがあって、死後は平等に葬られるべきなのである。如何な悪者といえども、それを受けられないのはかわいそうだから──

 

 トルイは歯を唇にしまった。

 確かに、その通りであると思った。

 なので素直に考えを改めて、哀れな男を神父に譲り渡した。カルピニは、にいっと人好きのする朗らかな笑みを浮かべて十字を切った。

 

「心優しい姫君に、神の祝福がありますように」

 

 モンゴルの姫は、満更でもなさそうに耳の付け根を掻いていた。

 神父の申し出とは、モンゴルウマ娘にとって非の打ち所が見付からない完璧な理論であった。

 また正直な所、大罪人の余し物など、どうでも良かったのである。

 

 カルピニは徐に外套(マント)の留め紐を解いた。その恰幅の良い背中に抱き着いてぬくぬくしている姿が、不意に衆目に晒されたので、シスターウマ娘は慌てて飛びずさる。

 神父は哀れな男を慈しむ様に、丁寧に黒の布地で包んだ。それからモンゴル人たちに深々と頭を下げて、それを抱えて町外れの自分の庵にまで帰って行った。

 

 現代の我々にも《パリの聖カルピニ庵》の傍らにひっそりと遺る、謎のタタール人の墓石に祈る事が出来る。

 

 

 ◆

 

 

 悪しき《地獄の軍(タルタロス)》を打ち払った功績により、プレスター・ジョンの民の名声は頂点に達した。

 彼女ら東方の民は、王に見捨てられ一切合切を失った西方の民に、温かい食事を与え、焼けた家屋を再建し、侵略者を退治した。

 そして何より、絶望に暮れていた民に希望の灯火を宿したのだ。

 東西文化の交流は一層の活気を見せ、比例する様にパリの町は蘇っていった。

 予備のゲルに仮住まいしていた市民らは、取り敢えず屋根と壁がある自宅に帰ることが出来たのである。

 

 春が近付いていた。

 凡そ大地に根付く生命にとって、悦びの季節である。暖かな春光に草木は若芽を吹き、ウマ娘の毛並みは生え換わる。

 そして、春の暖かい日差しに芽吹くのは、草花のみに限らなかった。

 

 

 フランス王国はパリの町に、大異文化結婚ブーム(・・・・・・・・・)が到来した。

 

 

 これは必然と言えば必然であった。

 一つは単純に、見ず知らずの異国の民を助けようと一生懸命くるくる働くモンゴルウマ娘が、パリの男(パリジャン)の目には魅力的に映ったという事。

 彼らが見慣れたヨーロッパウマ娘とは一味違う、牧歌的な気性や、無垢な童顔に骨抜きになる野郎は多数居た。

 復興の共同作業を通して、自然と絆は深まっていったのだ。

 

 二つは、モンゴル軍には未婚の若者が多く居たという事──これは世界でも例外的に、ウマ娘の人口比が勝る遊牧民に特有の事情である。

 通常、人口マイノリティであるウマ娘が婚姻に困る事は殆ど有り得ない。心優しく力持ちで働き者の彼女らは、古代の御世から引く手数多である。

 あと、そこに居るだけで可愛い。

 

 しかし、これが高原となると話が逆転した。

 若い時分から伴侶を持てるのは一部の実力者に限られており、大概はそれなりの経験を重ねて社会的に認められたウマ娘から結婚出来るのだ。

 専属指導人兼伴侶、等という贅沢(・・)を出来る事自体が、大ハーンや将軍の権力の象徴でもあった。

 

 それでも男が不足する時には、隣国から連れてくる(・・・・・)場合もあったが──これを無秩序に任せてしまうと、あっという間に人口が爆発し、乏しい高原の生産力では賄いきれなくなる。

 やるにしても、それは計画された連行(・・・・・・・)でなくてはならず、昔から権力者の重大な懸念事項であった。

 それ故に、勝手に男を連れ込んだモンゴルウマ娘は、切り取り捨てられ(・・・・・・・・)た上、高原放逐という重罰が必至であった。

 その場合、夫の地元で暮らす例が多かった様である。

 

『やあ北風よ、お主は何処から駆けて来た。

 故郷の話を聞かせておくれ。

 やあ南風よ、お主は何処へと駆けて往く。

 今に私の魂を運んでおくれ。』

 

 中華世界で年老いた高原出身のウマ娘が、惜別の草原を懐かしみ、死後は魂だけでも帰りたい──と郷愁を詠った詩が宋代の詩集にある。

 

 

 さて、万年男不足にして心根純朴なモンゴルウマ娘は、男性に口説かれる経験すら無い娘が大多数であった(そも質実剛健のモンゴル男に軟派な習慣が無い)。

 

「そんなに綺麗な目と、愛くるしい耳を向けないで。僕は黙って此処を去るか、君を抱き締めるしかなくなってしまうから」

「あなたの毛並みの色艶を思うだけで、この胸が切なく高鳴って、僕は夜も眠れなくなってしまうよ」

「君の尾っぽの揺らめきときたら、柳の木ですら嫉妬するでしょう。何て罪深いウマ娘なんだ」

 

 等々。パリジャンの洗練された手練手管(世界最先端)で言い寄られた時、それを拒むのは鋼の意志ですら不可能であった。

 中にはモンゴルウマ娘の手の甲に、うっかりチュウをして、問答無用で『責任』を取らされた者も居たが──

 

 そうして、婚姻の許しを得んと、大ハーンの天幕(オルド)に同胞が大挙して押し寄せて来た時、チンギスは大変に困った。

 ただでさえ、チンギスがモンゴル皇帝に即位して以後、静謐を取り戻した高原では人口増が急勾配にあった。

 ウマ娘が好きに駆け回り、羊さんに草を食ませるために必要な草原が、いずれ不足するだろう事は目に見えていたのである。

 

 取り敢えず皇帝は、その場での回答を保留して、詰め寄る同胞たちを下がらせた。

 とても独力にては答えの出ない難題である様に思った。チンギスは直ぐに、帝国の頭脳にして半身、専属指導人の知恵を求めた。

「これは大変な事になりました」と耶律楚材(ウルツ・サハリ)は、深刻な面持ちで顎髭を撫でた。

 

「恐らく、トルイには百人からの不埒者が言い寄っているに相違ありませぬ」

 

 肝心な時に、専属指導人の慧眼は百分の一に減退していた。

 四六時中スブタイ将軍のお腹に引っ付いている甘えん坊、色恋の()の字も知らぬトルイの近衛兵を無駄に増員する間も、何ら解決策は出なかった。

 

 この僅かな期間に、若い恋人たちは燃え上がって(・・・・・・)いた。それは、先のパリ大火もかくや、という灼熱であった。

 見えざる恋の炎が遂に天を焼いた時、再び若きモンゴルウマ娘たちは皇帝の天幕に躍り込んで来た。

 

「我等伏して大ハーンの御意向に従いまする。もし我が君が今生の婚姻を許さぬと言う日には、先ず男の首を落とし、その剣で我が喉を突き、天上(テングリ)にて夫婦の契りを果たしましょう。

 何卒願い申す。残った身体は野辺に打ち捨て、獣に喰らわせ給え。形見の靴は余さず燃やし、灰燼を風に任せ給え。

 我等弱卒なれど、チンギス・ハーンの《遠駆け》の成就を、蒼天の彼方からひたすら祈るものなり──」

 

 大ハーンは観念した。

 モンゴルウマ娘が一度言った以上、必ずそうするだろう事がチンギスには分かっていた。もうどうしようもなかった。男女の分かち難き事、水魚の如しであった。

 結局の所、皇帝は折れた。そして一度折れてしまったからには迅速果断であった。

 

「とこしえの天上(テングリ)の力にて。むべなるかな。放たれた矢は、私の心を射ったのだ。ならばチンギス・ハーンが力を込めて、新しき夫婦を送り出そうではないか。

 さあ祝うぞ。釜を沸かせ、酒を持て。今日ばかりは皆が好きに踊るが良い。全ての男女に幸ある様に!」

 

 チンギスは高らかに笑い、同胞たちは天にも昇る位に喜んだ。

 そうして、慌ただしく集団婚礼が始まったのである。

 

 東西折衷の聚落の端から端までが、有るだけの物資をひっくり返してのお祭り騒ぎになった。

 酒壺という酒壺は繰り出され、飲むと言うよりは浴びる様であった。柵中の羊さんは粗方解体され、豪快に焚き火で炙られた。秘蔵のへそくりニンジンまでも、じゃんじゃん皿に並べられ、ウマ娘はリスの様にほうばった。

 流石に花嫁衣装までは持ってきてはいなかったので、各々がレースの勝負服を身に纏い、バ頭琴とリュートという不思議な合奏(セッション)に合わせて、婚礼の舞を披露した。

 

 急に始まったモンゴル式の婚礼に、初め新郎は困惑したが、新婦の幸せそうな笑顔と、とにかく晴れやかな雰囲気に「まあいいか」と今を楽しむ事にした。

 

 宴の中程に、カルピニ神父とシスターウマ娘が現れた時、皆は非常なる盛り上がりを見せた。

 奇跡を起こす聖人(・・)は、如何にも晴れの場に相応しい様に思われたのである。

 神父が差し出された葡萄酒(ワイン)をちびりちびり飲んでいると、新郎たちの間から、是非とも神に婚姻の誓いを立てさせて欲しいと請願された。

 神父はにいっと破顔して、快く引き受けた(元よりパリの聖職者はカルピニしか残っていなかったのだが)。

 カルピニは懐から聖書を取り出した。全ての新郎新婦が、腕を組み横一列に並ぶ前で、神父は問うた。

 

「パリの男たちよ。汝は、隣のウマ娘を妻とし、病める時も健やかなる時も共に歩み、二人を死が分かつまで妻のみに寄り添う事を、神聖なる婚姻の契約の下に、誓いますか──」

 

 誓います、とパリジャンは明朗に言った。次に問われたモンゴルウマ娘も、何だか良く分からないが、夫に倣って誓った。

 今や、東西の男女は正式に夫婦となったのである。

 

 とある石工を生業にする者が、今日という日の歓喜を忘れぬ様に、教会の石材に刻んだ。

 

『チンギス・ハーンとプラノ・カルピニに感謝を込めて』

 

 このノートルダム大聖堂の彫り込みが再発見され、ウマ娘女博士の新説によって世に知れ渡るまで、実に八百年を待つ事となる。

 

 東方式、西方式の双方を済ませた後も宴は二昼夜続いた。三日目の朝になって、ようやく婚礼の全行程が終わった。

 ほかほかに熱い新婚夫婦は、手を取り合って二人の愛の巣に帰る事にした。

 

 

 そしてモンゴルウマ娘は、新郎を自分の幕屋(ゲル)に連れて帰った。

 

 

 夫はたまげた。

 どうやら妻は、彼等を東の彼方に連れて帰る気満々であった。

 しかし、それはそうなのである。

 モンゴルの風習では、夫が妻の家に入る(・・・・・・・・)事が通例であった。耶律楚材がそうであり、他の男もそうだった。

 パリジャンは文化の違いを理解していなかった。何時の間にやら祖国を去る事になっていた。

 しかし、既に神に誓ってしまった手前がある。また妻が「これからは、ずうっと一緒ですね」と肩をすり寄せて微笑んでいるのを見るに、全体、異議の唱えようも無かった──

 

 こうして成った夫婦と、後に産まれる多くの子孫たちが、アジアから東欧までを股に掛ける《モンゴル帝国》を、人的資源の面で支えてゆく事になるのである。

 

 

 

 

 モンゴル帝国軍がフランス男を略奪した、という言説がしばしば語られる場合がある。

 それには概ね、同時代を生きた、とあるパリの女(パリジェンヌ)の記述が元になっている。

 

『突然現れた東方の人が、パリの男を根こそぎ攫ってしまったの。その中には、私の愛しいあの人も……何て嫌らしいウマ娘なんでしょう! 嗚呼きっと私は、一生あの人の影を想って、孤独に生きていくしかないのね──』

 

 という、片思いに破れた少女の誇張された恨み節が、何の因果か後世に残ってしまったため、その様な風説が生まれたと考えられる。

 

 しかし日記を読み進める限り、この少女は数年後、復興したパリで別の男性と熱烈な恋に落ち、円満結婚した様だ。

 これを見るに、日記から読み取れるのはモンゴルウマ娘の野蛮性と言うより、今も昔も変わらない「なるようになる」という人生の教訓であろう。

 

 

 



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雷霆のテムジンについて【挿絵】

あけましておめでとうございます。
ちょっとだけ新年らしいお話です。

そして『しゅ_shu』様より、チンギス・ハーン(ウマ娘)の支援絵を頂きました。
めでたい。


【挿絵表示】

https://www.pixiv.net/artworks/95242955


 うららの春が来た。

 侘しい寒色の景色は去り、色とりどりの風光が咲き揃う。

 お日様が今年も元気になった事をモンゴルウマ娘たちは喜び、蒼々とした天上(テングリ)を拝した。

 のびのび萌える若草を引きちぎっては口に放り込み「あまい」と舌鼓を打って止まない。

 モンゴルウマ娘の一年という感覚は、高原の厳しい冬将軍が去り、草原が青々とするのを見て一巡り(・・・)──というのが支配的であった(勿論、暦上の新年も存在するのだが、地勢に沿った感覚として)。

 

 春恒例のレースが開催される事になった。

 コース選定官(指導人の仕事、国家の重要役職)がパリ近郊を視察し、およそ100キロの進路を確定させると、早速に千人隊(ミンガン)単位で予選が行われた。

 そうして、本年の猛者が選ばれた。昨年の覇者《韋駄天》のジェベの姿は無かったが──

 

 この年は、若ウマ娘(これは往々にして新妻であった)が夫に良き姿を魅せようと特に意気軒昂としていた。勝負服の糊付けと、化粧の色がそれを物語っていた。

 チンギスが猛々しい同胞らを頼もしげに眺めていると、主将格の若者が進み出て言う。

 

「是非とも、大ハーンと並び走りたく」

 

 挑戦的な眼差しである。モンゴルウマ娘がどよめいた──それにつけても、並び走る(・・・・)とは!

《四駿四狗》将軍は大いに憤慨して「不遜なり、下がれ若造」と牽制するも、愛の力を味方に付けた若者は中々下がらない。

 若さ故の向こう見ずであった。

 

 大ハーンや将軍たちが参加を遠慮するのは、脚の衰えからではない。駆けを偏愛するモンゴルウマ娘なのだ。レースに飛び込んでいきたいのは、実に山々である。

 しかし、若人が権力相手に腰が引けて、本来の力が発揮出来ない事を慮り、真摯に努めていたのであった。

 因みに、生前ジェベ将軍は戦と駆けの事しか頭に無かったので度々参加していた。

 

 やはり、大ハーンも遠慮がちである。目を泳がせつつ「私も歳だから」等と、全然らしくもない言い訳を言っていたが、

 

「いえ、我が君。実を申さば、私も久方ぶりに《雷霆》のテムジン、その人の駆け足を見とうございます」

 

 皇帝専属指導人の一声で「何だか若返った気がする」と全く意見を翻した──この指導人は見かけ上に鷹揚であったが、その実、誰より腸を煮やしていたのだった。

 自身の担当ウマ娘が世界最強(・・・・・・・・・・)である事を確信している故である。

 

 かつて高原が戦乱に満ちていた時分──耶律楚材(ウルツ・サハリ)が専属指導人に就く以前の話である。

 とある戦傷から回復して後、長らくテムジンの調子が上がらない時期があった。彼女が苦しむ様子を、ある時、メルキト族(敵対部族、滅亡)の指導人から非常に嫌な言われ方をした。

 果たして、その男は前歯を四本失う(・・・・・・・)事になった。

 後で楚材は「一方的に拳を使った」と主張した。少しの自己弁護もせず、自ずから謹慎に入った。

 この一件はモンゴルウマ娘たちの胸を大いにときめかせ、テムジンが調子を回復させるきっかけにもなったと言う。

 その時から、彼は高原の指導人職の鑑と目される様になった。

 

 かくして、楚材が同僚から生暖かな畏敬の眼差しで見られる中──チンギス・ハーンは皇帝の天幕(オルド)から勝負服を纏って出てきた。

 皆々、はっとした。

 それは澄み渡る蒼天を降ろした様な青であった。

 両の腕には、真紅の双龍が巻き付くという、細やかな刺繍が施されている。

 そして背には金糸の象形を負う。

 炎、太陽、月。

 即ち、大いなる天上(テングリ)と繁栄を共にするモンゴル帝国そのものであり、ウマ娘が大ハーンたる所以である。

 

 大ハーンの鮮やかな勝負服に、若ウマ娘たちは目も眩むばかりであった。チンギスの勝負服自体、初見の者も少なからずだった。

 見ているだけで頬が熱くなり、胸が動悸してくる──モンゴルウマ娘の勝負服というのは、蒼穹の青や、草原の緑が人気である(これは現代でも同じ)。

 しかし当時は、身分毎に生地の発色具合が制限(・・・・・・・)されていた。必然、社会身分の低い若ウマ娘たちは、同じ青や緑でも、鈍い発色の勝負服しか着る事が許されなかった。

 もし背伸びして鮮色を着ようものなら「ずるい」と諸先輩方に嫉妬されてしまう。

 チンギスの如き、目が覚める様な青色は、それこそ大ハーンのみに許された色だったのである。

 

 チンギスも、久々に勝負服を着れて嬉しそうであった。夜の帳を切り取った様な漆黒の毛並みを、しきりに揺らしていた。

 目が眩み、ほうと嘆息している同胞たちに向けて言う。

 

「ほれ並べ。野駆けじゃ、野駆けじゃ」

 

 当初遠慮していたとも思えないはしゃぎぶりで、同胞たちの尻を叩いた。

 そうして横一列に、モンゴルウマ娘は大地を蹴った──

 

 

 

 ゴールを切ると同時、若ウマ娘の主将は頭から地面に倒れ込んだ。疲労の極による吐気に、暫し立ち上がる事が出来ない。

 何より、心が打ちのめされていた。

 

 同時、大ハーンは余裕綽々に酒杯を傾けていた。

 地面に敷いた絨毯にあぐらして、予選落ちした四女トルイ(未だ本格化前、晩成型な母の血脈もあるだろう)に髪を梳いてもらっていた。

 心地良さそうに親孝行を受けていたチンギスは、若者の到着に気が付くと、軽快に腰を上げた。倒れた若者の手を取り立たせる。

 

「目出度や! 今年の福ウマは汝ぞ。どれ、触らせておくれ」

 

 そう言って、若者の汗ばむ頬をぺたぺた触った。《雷霆》の影を拝む事すら出来なかった後着者は目を丸くした。

 

 高原のウマ娘には、年初めのレースに勝利した《福ウマ》には一年分の福が約束されるという伝承がある。

 その福にあやかろうと、皆は福ウマを触りたがった。

 更に福ウマは、見るだけでも縁起が良いと言われる。宴会に出れば大変にもてなされ、挨拶回りでもちやほやされ、指導人にはモテる(というか、これが彼女らの言う()の正体という気がする) 。

 生涯に一度でも──と福ウマを夢見るモンゴルウマ娘は古今に数多。高原の勇士を決する《モンゴルダービー》とも性質を異にする、格別のレースなのだ。

 

 しかし、チンギスは今年の《福ウマ》を惜しげも無く配下に譲るつもりらしい。

 当然、若者は皇帝に問う──自分はあなたの影も踏めなかった、否、勝負にすらなっていなかった。なのに何故、名誉を放棄なさるのか。

 するとチンギスは、全く生意気な若者の両頬をつねって、呵々と笑った。

 

「大ハーンに福は不要である」

 

 頬っぺをつねられながら、若者ははっとした。この鮮烈なウマ娘の気色を見て、彼女はようやく思い出した。

 今、目の前に立つモンゴルウマ娘は何者なりや?

 彼女こそ、戦乱の嵐吹き荒れる高原に平和をもたらした勇士の中の勇士にして、高原の覇者。

 伝説の祖先、蒼きウマ娘の生まれ変わり。

 この西方の果てまで同胞を導いた夢の先導者。

 

 大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)

 初代皇帝チンギス・ハーン。

 

 嗚呼、大いなるかな乾元!

 若者は改めて居住まいを正し、跪いた。

 

「度々の無礼千万、陳謝したとて謝りきれませぬ。私は、おしなべて大ハーンに従います」

 

 心底畏まり言った。

 するとチンギスは低頭した臣下に聞く。

 

「お主、私に負けて悔しいか」

 

 若者は、すっと顔を上げる。モンゴル皇帝は、柔和で、そして恐ろしい目で真っ直ぐに彼女を見つめていた。

 若者はモンゴルウマ娘らしく、あれこれ逡巡せず応えた。

 

「悔しゅう御座います!」

 

 正直だった。

 チンギスは蒼天に大口を開けて笑った。福ウマにして新婚の若者の毛並みをくしゃくしゃ撫でた。

 

「なら良し、なら良し」

 

 大ハーンは、自身の軍団に新進気鋭の若者が育っている事を、心から誇りに思ったのである。

 

 

 

 

 そうして決まった今年の《福ウマ》を一撫でしてやろうと、同胞らが揉みくちゃにしている景色を、チンギスは少し離れた所から眺めていた。

 右隣にトルイが寄って来て「でも私は母上が福ウマだと思います」と一寸悔しそうに言って、腕にくっついた。

 母が苦笑していると、左隣に専属指導人が寄って来た。

 

「お喜び申し上げます」

 

 柔らかく微笑んで、小さい黄色の花を一輪差し出した。

 チンギスは無言でそれを受け取った。眉を顰めようとして、やっぱり失敗した様な表情で、匂いを嗅いだり、花弁を撫でたりしていたが、最後に口に放り込んだ。

 むしゃむしゃ咀嚼して、ゆっくり嚥下し、

 

「あまい。」

 

 とだけ言った。

 



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中世という時代の行方について・前

 これは非常に教科書的な表現になるけれども、中世ヨーロッパの封建制崩壊には、主として三要因が関わると言われる。

 

 一つ、貨幣経済の復活。

 中世初期においては、古代ローマ帝国の滅亡、フランク王国の分裂──という混迷の時代(しばしば暗黒時代と呼ばれる)を経て、信頼に値する貨幣というものが無くなってしまった。

 そのため、経済活動は物々交換にまで後退。農民は収穫作物であったり、日々領主の畑を耕しに出向く賦役という形で、過酷な税金を払っていた。

 毎日の労働そのものが税金という訳だ。これでは村を出かける事すら出来ない。

 中世欧州の封建制とは、税金によって農民と領主とが固く結び付き、また人民が土地に縛り付けられて成り立つ制度であった。

 

 しかし、徐々に貨幣経済が復権してくると税制も変化した。農民たちは物々交換や賦役ではなく、貨幣で税金を払う様になったのだ。

 そこで中世人は考えた。

 

「自由は幾らで買えるだろう?」

 

 貨幣とは摩訶不思議なものだ。

 我々現代人は生来貨幣経済に浸っているから、特別な感覚でないけれども「これは幾らで買えるだろう?」と考えるのは、正に貨幣経済の恩恵なのである。

 

 貴族荘園に縛り付けられるしか無かった農民は、貨幣によって資産の保存(・・・・・)が可能になった時、自由を買い取るという発想に至った。

 余剰作物等を市場に売却して貨幣を溜め込んだ富農は、税金を一括先払いして『自由』を購入したのである。

 商売で成功した者から、どんどん荘園から流出してゆく。そういう者たちが連合したのが《自由都市》と呼ばれる町だった。

 農民と領主の関係希薄化は止まらず、封建貴族の没落もまた不可避であった。

 人民を土地に縛り付ける鎖は、今や錆び付き、緩んだのである。

 

 

 二つ、黒死病(ペスト)の大流行。

 中世暗黒時代と言うと、ともすれば何らの技術発展も無かったと思われがちであるが、それは誤解である。

 取り分け農業分野では《中世農業革命》と呼ばれる大きな進歩が見られた。

 農地に休閑地を挟みつつ、ローテーションで作物を植え付ける《三圃制》の導入。そして、より効率的に畑を耕す事を可能にした《重量有輪犂》の発明である。

 この前方から引っ張る車輪付きの新型農具はウマ娘の耕作意欲を刺激したらしく、彼女たちは一層開墾に励んだ。

 

 食料増産に比例する様に、中世ヨーロッパの人口は増加し続けた。そして人が増えれば、土地が足りなくなるのは必定である。

 欧州世界の膨張、土地の不足──それらを契機としたのが、聖地奪還を名目にした十字軍運動であり、ベルリン駆士団による東プロイセンへの東方入植であった(後にポーランド王国と衝突)。

 折しも、モンゴル帝国によってバチカンの財宝が豪快に再分配(ばらまき)され拓かれた一大交易路《欧州大動脈》によって、欧州各国間の商業活動は活性化していた。

 

 人口の肥大化、そして往来が活性化された中世世界──疫病(・・)という死神を手繰り寄せたのも、また必定であっただろうか。

 

 十四世紀中葉、チンギス・ハーンの《遠駆け》から百年余。人類は未曾有の黒死病(ペスト)大流行を経験した。

 推定死者数2500〜3000万人。実にヨーロッパ人口の三分の一を死に至らしめたのである。

 黒死病の理不尽に比すれば、モンゴル帝国の悪夢など可愛いものかもしれない。矢に貫かれるなら分かる、剣で切られたのなら分かる──しかし、疫病は全く因果不明なまま殺されねばならなかった。

 

 貨幣経済の復活により、既に没落しつつあった封建貴族は強烈な追撃を受けた。

 彼らの命綱である税金を納めるべき領民が、次から次へ倒れてゆくのだ。

 なら税金を高めれば良い──と、事はそんな単純な問題ではない。何もしていなくたってバタバタ死ぬのである。

 それより領主が最も恐るるべきは、疫病と苛税に耐えかねて、領民が逃散する事であった。

 領民が居なくなった領主など、それ領主に非ず──即ち、彼らは生き残った領民への待遇改善を迫られた。

 税金を下げるから逃げないでくれ、という訳だ。農民が大量に死んだ事により、相対的地位が上がったと言うのは、皮肉を通り過ぎて残酷ですらあった。

 そうして、益々貴族の没落は加速し、封建制度は根底から揺らいだ。

 

 

 余談になるが──ペストは人間に特有の疾患であって、ウマ娘が罹患しない事は常識の範囲であろう。

 これは単に免疫学上の都合であって、それ以上でもそれ以外でもない。反対にウマ娘特有の疾患も存在している(ウマインフルエンザ等)。

 しかし、近代以前の人々の認識角度は異なっていた。

 感染爆発(パンデミック)で人間がバタバタ死んでいく中、ウマ娘は全然ピンピンしているのである。

 それを見て、信仰篤い中世の人々が、

 

『ウマ娘は主に聖別された生き物であるからして、死の病を放免される』

 

 と信じたくなるのも、無理からぬ話ではあった。

 脆弱な人間さんを哀れみ、地域を問わず懸命に看病にあたるウマ娘看護師の姿も、この説を後押しする。

 そうした迷信のために、ペストが蔓延した地域では、付けウマ耳(・・・・・)付け尾っぽ(・・・・・)が飛ぶ様に売れた。

 ウマ娘が宿す神聖に縋ろうとする、一種のお守りである。最高級品ともなると実物のウマ毛が植えられており、疫病退散に霊験あらたかだと謳われた(無論の事、もっぱら可愛くなるばかりで、そんな効能は無い)。

 黒死病に罹患した中世人の多くは、可愛らしい付けウマ耳をしたまま、肌をどす黒く変色させて死んでいったのである。

 

 さて、同時並行で「人間さんを救いたい」という願いの下、欧州各地で看護ウマ娘の小集団がぽつぽつ形成されていた。

 彼女たちは、命の次に大切な毛並みをちょきちょきして、それを植えた付けウマ耳を工作し、病に苦しむ患者に無償で配った(その患者が死ぬと超高額で転売された、許せない)。

 この初期の看護団は西へ東へ駆け回り、絶望に暮れていた人間たちを励まし、微かな希望で照らしたのである。

 

 だがしかし。

 二十世紀に入り疫学が発展すると、

 

『看護団がヨーロッパ中を駆け回ったために、むしろ黒死病が拡散された可能性がある』

 

 という論文が発表される。

 世界中のウマ娘──特に医療従事者のウマ娘が受けたショックは筆舌に尽くし難い。

 先達の功業を誇りに思うからこそ、奮励努力する彼女たちなのだ。茫然自失として、何の仕事も手につかなくなってしまった。

 魂が抜けた様な表情で、知らずナイチンゲール女史の肖像の前に集まっては、膝を抱えはらはらと涙を流し動けなくなった。

 突然に多数の看護師が活動不能になったため、世界はにわかに医療崩壊(・・・・)の危機を迎えたのである。

 

 論文発表直後、その疫学博士は世界各地の言語で大バッシングされた。お前には人の血が通ってないのか、と非難されると、

 

「私に血が通っていようと、いなかろうと、地球は動いている(・・・・・・・・)。それが科学だ」

 

 と自説を断固曲げなかった。

 口下手な博士の名誉のために補足すると、中世看護ウマ娘の献身が死を待つばかりの患者の心を救済し、また後の近代的看護団の発展に繋がった事を彼は認めている。そもそも看護ウマ娘が居なかろうが、当時の世相から考えて感染爆発が起こった事は間違いないのだ。

 博士が本当に主張したかったのは「看護ウマ娘の活動は感染拡大の一助になったかもしれないが、それは微々たる影響である。それにも増して功績が多大であるのは間違いない」という真逆の旨であって、ウマ娘を非難したい訳では断じてなかった。

 しかしながら、論文のテキストは切り抜かれた(・・・・・・)。今も昔も変わらない、目先の話題沸騰を渇望する人々によって。

 

 マスコミの目論見通り、世界中のウマ娘愛好家は激怒した。論文本紙を読みもしない彼らは、博士の頑固頭を非難する記事を多言語で書き連ねた。

 あわや学会追放という所まで世論は紛糾し、博士は追い詰められた。

 

 そして、看護ウマ娘は博士の口下手のせいで更に深く傷付いた──と思いきや、実際は真逆であった。

 疫学博士の言論を新聞で読んだ看護ウマ娘は、

 

「たしかに。」

 

 と頷いて、一転立ち直った。

 この大旋回に、博士をバッシングしていた人間たちは困惑。

 実際、後世の人である筆者にも良く分からない──が、当時を生きた各地の看護ウマ娘の意見を纏めると、大体以下の通りである(我々人間にも分かりやすいよう、筆者による意訳あり、悪しからず)。

 

『よくよく考えれば、私たちが尊敬する近代看護学の祖、心のママ、超絶偉大な人間さん──フローレンス・ナイチンゲール女史も、看護行為から神秘(・・)を徹底的に排除し、統計学という科学(・・)を持ち込んだ事で、負傷兵の生命を救ったのではなかったか。

 もし、あの人が生きていたならば、目尻をきりりと吊り上げて「落ち込んでいる暇があるのですか。ただ冷静に現実を見て、患者と向き合いなさい」と叱咤激励する事だろう。

 過去を嘆いた所で、今現実に苦しんでいる患者が救われる訳は無い。ならば、私たちは新しい一歩を踏み出すべきだ』

 

 恐らく、こんな所で大きな齟齬は無いと思われる──ウマ娘が未来に臨む能力というのは、時として人間の想像を絶するものがあると、筆者は常々感じてしまう。

 

 ともかく、メンタルを大旋回させた看護ウマ娘である。次には、件の疫学研究者に「では疫病の感染拡大防止のためには、具体的にどうすれば良いのか」と熱心に意見を求める様になった。

 博士の論文の真意を見抜いたのは、他ならぬウマ娘たちであった。博士は学会追放を免れた。

 

 ウマ娘を傷付けたはずの自分が、何故ウマ娘に好かれるのか──と博士自身解せない様であったが、真意が伝わった事はやはり嬉しかった様である。

 看護ウマ娘たちの質問に誠心誠意の協力を惜しまなかった。

 

 その後の疫学博士は、社会の公衆衛生を大いに向上させ、コレラの感染防止(・・・・・・・・)という仕事を以て、疫学の歴史に名を残している。

 また、時間を経て世論が冷えてくると急速に名誉回復がなされた。

 少し前まで「全ウマ娘の敵」扱いされていた博士は、むしろ「世間の批判に折れず自説を貫いた科学者の鑑」とマスコミは称賛した(こんな勝手な話は無いが、博士は特に気にしなかった様だ)。

 この一連の悪影響と好影響を総括して、

 

《ペスト・ショック》

 

 と、二十世紀にあるまじき名前で呼ばれている。

 

 

 

 つい余談が長くなってしまった。

 さて最後の三つ、《十字教カルピニ派》の浸透。

 上記二点が物質的(・・・)な要因であるとするならば、精神的(・・・)な要因は、聖カルピニの教えに他ならない。

 幸いこの分野では先達の研究に事欠かないため、所謂新説(・・)ではなく、定説(・・)に沿って解説する事が可能である。

 

 

 次回に続く。

 



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中世という時代の行方について・後

 心に神殿を建てなさい、それは足に付いて来るから。

 

 ──聖プラノ・カルピニ

 

 

 ◆

 

 

 集団婚礼を済ませ、年始のレースも終わったモンゴル軍が、とうとうパリの都を離れる時が来た。

 東方の楽園(エデン)からやって来た、高き《プレスター・ジョンの民》の出立にパリ市民たちは心底名残惜しそうであった。

 しかし、モンゴルウマ娘たちの反応はさっぱりしたもので、てきぱきと幕屋(ゲル)を畳んだ。尾っぽを引かれる様子も無い。

 広大な高原の遊牧民である彼女たちにとって、出会いと別れというのは日常茶飯事であった。一度顔を合わせたきり、二度と会うことは無い、という事もしばしばである。

 だからこそ、一期一会の出会いを全力で大切にする──というのが、モンゴルの文化であった。

 

 だが、モンゴルウマ娘の婿になったパリ男(パリジャン)は別である。恐らく、二度と見る機会も無い故郷を目に焼き付けようとしても、景色が滲んでよく見えなかった。

 

 そうして、濃密な時間を過ごした割にモンゴル軍はあっさりと進発した。

 風の様に現れて、風の様に去っていった──東方の文化を、西方の民はそう認識した。

 結局、最後の最後までモンゴルウマ娘の正体を誤解したまま《プレスター・ジョン》の救世伝説のみが後世に語り継がれる事になるのだった。

 

 そして、もう二人、パリを去る者が居た。プラノ・カルピニ神父とシスターウマ娘である。

 此方は、パリ市民が引き留めようと試みた。

 

「是非とも新しい司教として留まってはくれませんか」

「私たちを見捨てて逃げ出した前の司教なんて、もう信じられません」

「ああいう人間は地獄に堕ちる、そうでしょう?」

 

 彼らは如何にカルピニ神父を慕っているか、どれ程に前司教が恨めしいかを力説した。すると、カルピニ神父は静かに微笑んで首を横に振る。

 

「迷える人を許しなさい。それは、あなた自身を許す事です」

 

 どこまでも敬虔な十字教徒として言い残し、巡礼杖をつきつき、シスターウマ娘と共に再び宣教の旅に出た。

 彼らには去り際の神父の言葉の意味が分からなかった。咀嚼するための時が必要であった。

 そして司教不在の期間を数年過ごした後、市民は心を決めた。我が身可愛さに逃げ出した前任の司教を呼び戻したのである(正確には解任されないままであった)。

 

 一番驚いたのは当の司教であった。

 その時、彼は郷里に逼塞していた。ただ悔やむばかりの毎日であった。世の人々に後ろ指を指され、一生蔑まれ続けるのも致し方ないと思っていた。

 如何に《地獄の軍(タルタロス)》の襲来に恐慌していたとはいえ、忠実な信徒たちを見捨ててしまった事に変わりは無い。

 あの時まで、彼は信仰に殉ずる覚悟があると思っていた。しかし、違った。どうしようもなく惜しい(・・・)という気持ちが、己が本性であると分かってしまった。

 どの口で神の御名を唱えたものか──人目を避け、ひっそり裁きの時を待つ、その咎人が再びパリ市民に呼ばれたのだ。

 初め、彼は再任の報を信じなかった。自分を恨む人々に殺されるのだろうと思った。

 そのために、彼は任命を辞退せずパリに向かったのである。

 

「あなたを許します」

 

 その市民が彼の手を取った。

 前より完成に近付いた大聖堂にて行われた再就任祝いのミサ──集まった市民たちは順々に彼の手を取って、同じ言葉を掛けた。

 奇妙な事に、市民の側が「嗚呼、本当に良かった」と感涙を浮かべていた。司教だけが、この現実を呑み込めずに立ち尽くしていた。

 

 ミサが終わり、日が暮れて、彼は自分の部屋に戻った。

 混乱のためか、疲れのためか、酷く目が霞んでいた。それでも身体に染み付いた日課、夜の祈りをするため燭台に火を灯す。

 寂寂たる夜闇の中、 祭壇の聖十字は燭台の光を受け、ぼんやり浮き上がる様に見えた。

 揺らめく蝋燭の火が霞んでいる──彼は自分が激しく涙を流している事に、初めて気が付いたのだった。

 

 後に、彼は遂に完成した《ノートルダム大聖堂》の初代大司教に就任する。

 そして聖職者として優れた才能を発揮した──という訳ではなかったが、人の弱さに寄り添い、過ちを許す事が出来る司教であった。

 特に中世ヨーロッパにあって、社会の落伍者、元犯罪者の社会復帰に心血を注いだ事は特筆すべきであろう。

 世間に言う救われぬ者(・・・・・)こそ、どれ程の苦悩を抱えているか彼自身が知っていた。また、そういう彼の言葉だからこそ他人の胸に響くものがあった。

 

「きっと大丈夫。人は何時からでも正しい人になれるから──」

 

 この、教会組織を媒介に落伍者を再度社会に結びつけようとする活動は後世にも影響を与え、フランスの治安向上に大きく貢献したとされる。

 聖職者として凡庸だった司教は、しかし、社会福祉者として非凡であった。終生、市民に敬愛されたと伝わる。

 

 また、パリにおける《聖カルピニの奇跡》が現代まで語り伝えられたのは、彼の口伝による所が大きいと諸々の歴史学者が認める通りである。

 

 

 ◆

 

 

 ともすれば誤解されがちなのであるが、プラノ・カルピニが自ずから新派立ち上げ(・・・・・・)を宣言した事実は無い。

 パリで大いなる悟りを得た神父は、ただ心救われぬ人々に神の無辺の愛を伝道する一心で足を棒にしていたのである。パリでの活動以前・以後で、目立って変化した活動も無い。

 

 カルピニは一貫して西方教会《普遍派》の聖職者であるつもりであった──十字教の祖である救世主(メシア)も、本人的には最期まで六芒教の信徒であるつもりであったから、その点は類似と言えるかもしれない。

 優れた教えというのは本人の意志に依らず、ただ周辺の人々に依って独立(・・)したものと区分けされてしまうのは歴史上の常らしい。

 

 パリ出立後、更に聖人(・・)として知れ渡ってしまったカルピニ神父は、相変わらずジョバンニとだけ名乗り(本名ジョバンニ・ダ・プラノ・カルピニ。プラノ・カルピニ村のジョバンニの意。イタリア人は出身地名を用いて通称とした。レオナルド・ダ・ヴィンチが、ヴィンチ村のレオナルドとなるのも同じ話)、シスターウマ娘と辻に立っては聖書を読み聞かせていた。

 

 そうして本人も知らぬ間に黎明を迎えた《十字教カルピニ派》が爆発的に広まったのは、やはりウマ娘への宣教(・・・・・・・)がきっかけであったろう。

 

 その時、一行はネーデルラント地方を一回りしてシャンパーニュに入っていた。

 この日は大市(シャンパーニュの大市。北の北海商業圏と南の地中海商業圏の中継地として栄えた)が開催されており大変な盛況であったという。

 貨幣経済復権(前話参照の事)の象徴でもあるこの大市は、毛織物、葡萄酒、香辛料──他にも様々な物品が諸国から持ち寄られ活気に満ち満ちていた。

 

 浮世の様相がどうあれ、カルピニ神父のやる事は変わらない。唯一の財産、聖書を懐から取り出して辻に立とうとする。

 けれどもシスターウマ娘がきょろきょろして仕方なかったので、市場を軽く一周した後、賑わう辻に説法を始めた。

 

「──主は澱みなく応えられる。私はウマ屋に生を授かりし者。どうして、あなたは私の兄弟について尋ねるのか」

 

 あっという間に黒山の人集りである。神父の弁舌はパリでの東西交流以後、更に際立っていた。

 道行く人々は商品を物色するのも忘れ、見知らぬ恰幅の良い神父の話に聞き入る。そして説法が終わる頃には、うんと沢山の喜捨が集まっていた。

 内容も商業市だけあって豪華である。真っ白なパン、瑞々しい果物、上等な葡萄酒──それらを腕一杯に抱えるシスターウマ娘が口元をだらしなくさせるのを「これ」とカルピニは叱った。

 シスターは一瞬きりっとして、やっぱりだらしなくなった。

 

 さて、二人が集まり過ぎた喜捨物は貧しい人々に施そうかと相談していると、人混みをかき分けかけ分け、一人のウマ娘が息を切らして現れた。

 

「あのっ、有難いお坊さんというのは、あなたですか?」

 

 追い詰められた様な青白い顔である。

 有難いかは分からないけれども、確かに自分は僧である──カルピニ神父が応じた途端、そのウマ娘は「おやかたああぁ」と叫び、おんおん泣き出した。

 号泣しながら紡がれる言葉と身振り手振りは、何だ何だと集まる野次馬はもちろん、神父にもちんぷんかんぷんであった。彼女の背中をなでなでして宥めながら、シスターの翻訳(・・)を頼りに事情を聞く。

 その翻訳に拠ればこの通りである。

 

「こんにちは、初めまして。会えて嬉しいです。いきなり押しかけてごめんなさい。

 私はシャンパーニュのウマ屋(運送屋)です。実は、この町のウマ屋を取り仕切る親方(・・)が不治の病に伏せって久しいのです。

 色んな偉いお医者さんに見せましたが治りません。もはや主なる神の慈悲に縋るしかなく……しかし、どんなお坊さんを誰を連れて行っても本人が頑として拒むのです。

 このままでは親方は助からない。そればかりか、天国に行けないかもしれない。

 途方に暮れていた所、有難いお坊さんが近くで説法をしていると聞いたのです。これぞ神のお導きと、やって来たという次第であります。

 どうか憐れと思うなら、お慈悲を──」

 

 ウマ屋は言い終わるが早いか、神父の腰に縋り付いて一層おんおん泣いた。目を開き耳を引き絞ったシスターに引き剥がされるのを見つつ、カルピニは「参りましょう」と快諾した。

 実の所、神父はウマ屋の親方(・・)を知っていた。というより、神父の様な巡礼者にとって、そのウマ娘と関わりを持たない方が難しかったのだ。

 

 此処、シャンパーニュに本拠を構えた大ウマ屋──その運送網はフランドルからジェノバまで、大陸を南北に貫通する主要交易路の流通を一手に担う巨頭であった。

 シャンパーニュの大市がこれ程の活況を呈す様になったのも、親方ウマ娘が商品の運送を請け負うようになって以後だと専らの評判である。

 

 その仕事ぶりは親切丁寧にして明朗元気。遠隔地まで確実に品物を届けられて、しかもかわいい──と、商人たちの絶大な信用を獲得していた(中世の商品輸送は常に略奪という危機に晒されていたが、組織化されたウマ娘の荷を襲うのは自殺行為であった)。

 シャンパーニュの大ウマ屋を活用したのは商人だけではない。王侯貴族でさえ貴重な税金の運搬に用いたと言うから、その信用高さは推して知るべしである。

 

 また、各地に点在する駅(替えウマの詰所、荷物の集積地)は巡礼者に非常に親切であった。これは《救世主》はウマ屋で産まれた、という伝承のためである(現在でも同じ)。

 十字教の巡礼者は、各地に点在する駅ウマ娘の親切によって、旅を続ける事が出来たのだ。

 カルピニ神父がパリ到着直後、病に倒れた折に屋根を借りた献身的な町ウマ屋も、かの親方の傘下であった。

 

 カルピニ神父の聞き知る所、パリの町ウマ屋でも、旅の道中に出会った様々な人々の話でも《シャンパーニュの親方》は素晴らしいウマ娘であると褒め称えられていた。

 曰く。元締めという身分に驕る事なく、寝る間も惜しんで働いている。

 戦で身寄りを無くしてしまった人達に仕事を紹介して自立させる。

 稼いだ金銭は懐に溜め込まず、定期的に貧しい人々へパンとスープの炊き出しを行う。

 明るく気さくな性格で数多の少年の初恋を奪う。

 等々、善行を挙げてゆけばきりがなかった。だからこそ、国境を越えた各地のウマ娘に慕われ、これ程の事業拡大が出来たのだろう。

 

 そして、その親方ウマ娘が死に瀕しているという──確かに、部下が大泣きするのも無理はない。

 しかし、その人格者と聞くウマ娘が聖職者を拒むというのは何故であろうか。

 

 大市から歩くこと数十分。町の喧騒から離れた一等地に、親方ウマ娘の屋敷が見えた。

 そのゴシック調の屋敷は確かに立派だったけれども、大商人にありがちな虚飾に彩られた構えではなかった。家主の性格が反映されているのだろう。

 市場を出てからずっと半べその部下ウマ娘は、神父とシスターを床の間に案内した。

 そして、二人が部屋の入口を潜ろうとするやいなや──部屋の奥から罵声が飛んで来た。

 

「また来たか生臭坊主めっ! 何人来ようが私は絶対に信じな……む、うう……」

 

 罵声は直ぐに苦痛が滲む呻きに代わられた。部下ウマ娘が血相を変えて、部屋に飛び込む。

 

「親方、有難いお坊さんが来てくれました。そんな乱暴な事を言っちゃ駄目ですよぅ」

「う、うるさい。余計な世話をするんじゃないわよ」

 

 揉めるやり取りを聞きながら、カルピニ神父は直ぐに部屋に入らず入口に立っていた。

 親方ウマ娘の荒い呼吸が落ち着くのを待ってから、ゆっくり、ゆっくりと中に入っていく。

 部屋の中程まで来ると、最奥に横たわる家主に声をかける。

 

「こんにちは」

 

 やや沈黙を挟んでから「こんにちは」と返ってきた。呼吸は幾分平静になっている。それからようやく、神父とシスターは寝台横の椅子に腰掛けた。

 薄暗い部屋である。それまで親方の顔を確認出来なかったが──見れば、痛ましい半死人の様子であった。

 肌は血色を失い、肌は水気を失って乾いている。目の下には濃い隈が浮かび上がり、瞳は白い膜が張った様に濁っていた。

 

 そして何より。かつて艶やかであったろう鹿毛の毛並みは、今や荒れに荒れていた。尾っぽは寝台の端から、だらりと力無く垂れ下がっている。

 病床にあり手入れもままならないと見え、総毛は埃が絡みぼさぼさである──余りの毛並みの痛ましさに、シスターが胸の十字架(ロザリオ)を握り締めた程であった。

 その視線に気が付いたか、親方ウマ娘は自嘲的に言った。

 

「この通り、悪人(・・)には相応しい末路でしょ……あ、ううぅ……」

 

 直後、胸を押さえ顔を歪ませる。

「おやかたあぁ」と部下ウマ娘が泣き叫ぶ。呻きながらも、しかし「静かになさいっ」と一喝する声は、確かにヨーロッパで一番の大ウマ屋を束ねる《シャンパーニュの親方》の威風が垣間見られた。

 

「胸が痛むのですか」

 

 親方が落ち着くのを待ってから、カルピニは穏やかな声で病状を尋ねた。

 警戒を解かない吊り上がった目で、病人は答える。

 

「そうよ、胸の真ん中が突き刺される様に痛むの。近頃は益々痛みが酷くなって、立ち上がる事もままならない……若い頃からの持病。随分と色々なお医者さんに見せたわ。でも、治らなかった、治らなかったのよ……! 今更どうにかなるもんですか」

 

 と、そっぽを向いた。

 神父は頷き、シスターに親方を触診する様に頼んだ。これは聖職者であるカルピニが、ウマ娘の身体をまさぐる訳にはいかなかったからである。

 当時、触診(・・)と称してウマ娘を撫で回したりする医者が多かった事を考えれば、紳士な対応であると言えよう。

 

「気安く触らないでよ」という抵抗も、病身では虚しく、シスターは親方の身体をじっくり検分する事が出来た。

 脈を測り、下まぶたの色を見て、尿瓶の匂いを嗅ぎ、(トモ)の筋肉を揉み、尾っぽの枝毛を数える──やがてシスターは耳をしょんぼりさせて、首を横に振った。

 神学のみならず医学にも通ずるプラノ・カルピニの薫陶篤いシスターウマ娘でさえ、分かったのは親方ウマ娘が死に瀕しているという事実だけで、病因は分からなかったのである。

 

「ふん、無駄だったでしょ」

 

 投げやりな風に親方は耳を伏せた。

 

「私はお坊さんなんか信じないの、早く帰って頂戴」

 

 カルピニ神父は帰らなかった。

 悪人(・・)には相応しい末路──という、彼女の言葉がどうにも引っ掛かっていたのである。

 

「何故、お坊さんを信じないのですか」

「嘘ばかり吐くから」

「例えば、どんな嘘を」

「かわいいとか」

「他にはどんな」

「それは、私が善人(・・)だっていう嘘よ……っ」

 

 言うと親方は、再び胸を押さえて苦しんだ。悶える様に、それでも喉の奥から声を絞り出す。

 

「アンタも巡礼者なら聞くでしょう。《シャンパーニュの親方》がどんなに悪いウマ娘(・・・・・)かって話を。

 なのに、町の生臭坊主ときたら『貴方は善いウマ娘だから天国に行ける』なんて言うのよ。私の財産の分け前欲しさに、おべっかを使おうと言うのかしら。嘘吐き、大嘘吐きだわ」

 

 カルピニは数回瞬きをした。彼の聞き知っている事と随分食い違ったからである。

 黙する神父に畳み掛ける様に、親方ウマ娘は病身を乗り出した。

 

「ふん、シラを切るなら、良いわ。私がどんな悪バか教えてあげる……何と私は、日曜日にも働いちゃうのよ(・・・・・・・・・・・・)!」

 

 衝撃の告白に、シスターウマ娘は、はっと驚いて口に手を当てた。

 

「本当は休んで教会でお祈りしなきゃいけない日に、私はお金稼ぎに忙しいという訳。驚いたかしら? ウマ屋で産まれた《救世主》さんは、ウマ娘(わたしたち)を兄弟だって言ってくれたのにね……そんな優しい人に、ウマ屋の長である私は祈りに行かないのよ」

 

 顔色を失ったシスターの横で、カルピニは黙っている。

 

「それだけじゃないわ。戦争で家を無くした人を拾って、無理矢理働かせるの。そういう人はね、もう帰る場所が無いから一生懸命働いてくれるんだから。

 そうやって稼いだお金で沢山用意した、貧しい人に配る用のパンだってね、お腹が空いてつまみ食いした事が一度や二度じゃないのよ。

 そうそう、荷物を運んでいる最中に、気に入った男の子が居たら片っ端から頬っぺにチュウして唾を付けておくの。

 ぱっと思い付くだけでもこれだけあるわ……どうだ、参ったか! ヨーロッパ中を探しても、私ほど悪いウマ娘は居ないでしょう」

 

 一息に言ってしまうと、身を乗り出していた親方は、ふらりと仰け反って枕に頭を付けた。

 瞳は益々虚ろになり、息も絶え絶え、疼痛に耐えていた。あくまで気丈に振舞おうとしていた親方ウマ娘は、気力を使い果たした様に弱々しく呟く。

 

「だから、私は地獄に落ちる。あなたが本当に偉い神父さまだと言うんなら、そのくらい分かるでしょう。もう嘘は聞きたくない。だから、教えてよ、本当の事を……」

 

 今まで黙って聞いていたプラノ・カルピニは、静かに答えた。

 

「良く分かりました、あなたは本当に悪いウマ娘ですね。確かに天国には行けません」

「そう、よね、分かっていた事よ……でも、死ぬ間際になって許しを乞う様な、みっともない真似は私には出来ない」

 

 むしろ満足した様に親方は寂しい微笑を浮かべた。

 

「ありがとう、会えて良かったわ」

 

 部下ウマ娘が膝から泣き崩れた。その涙の水溜まりが、薄暗い部屋の床に広がっていく。もはや親方は目を瞑り、部下の醜態を咎めなかった。シスターウマ娘が、縋る様な眼差しで神父の横顔を見ている。

 

はっきり言いましょう(アーメン)

 

 果たして、半死人の病床に神父の声が朗々と響いた。

 

「どんな悪バであろうと、決して主はあなたを見捨てません。例え他の人全てがあなたを見放したとしても、主はあなたに寄り添うのです。主は言われた『私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ』と。故に、あなたが罪を犯したその時、そして今この時にも、あなたの言葉を待っておられる」

 

 親方ウマ娘は虚ろな目を開いて神父を見た。瞳の奥に孤独の色が揺れている。

 カルピニ神父は、にいっと破顔して促した。

 

「さあ大丈夫、勇気を出して。あなたの胸の中に閉じ込めた言葉を、言っても良い(・・・・・・)のですよ」

 

 病人の乾いた瞳が見開いた。カルピニ神父がそっと手の平に差し出した十字架(ロザリオ)を、手を重ねる様に握った。

 そして勇気を振り絞って、震える唇で言う。

 

「ごめんなさい」

 

 悪いウマ娘(・・・・・)は、ずっと言いたくて、言えなかった事を言った。

 

「私は、ずっと悪い娘でした。地獄に落ちても後悔はありません。今更、許してもらおうとも思いません。ただ私は、あなたに謝りたかった。謝りたかった(・・・・・・)んです。けれどそれが、堪らなく恐ろしかった……」

 

 嗚呼、やっと言えた──親方ウマ娘は肩を震わせながら、大きな空気の塊を吐き出した。

 

「いっぱい悪い事をしました。けれど、信じて下さい。私は本当に皆の役に立ちたかったんです。皆の想いが籠った荷物が、何時でも何処でも、安心して届けられる様にしたかった。嘘じゃありません、心から──」

「伝わっていますよ。主は、あなたを待っていたのですから」

 

 神父が笑いかけると、彼女は澄んだ大粒の涙をぽろぽろと零した。

 

「その涙で、あなたは許されるのです」

「ああ、神さま、私がバ鹿でした。死ぬ前に一度でも、教会にお祈りに行けば良かった」

「大丈夫」

 

 カルピニ神父は己の十字架を首から外し、横たわる親方の首に掛けた。また、その額の前で十字を切る。

 

「心に神殿を建てなさい、それは足に付いて来るから──そうすれば何時でも、主はあなたの傍におられる。主は、あなたを愛しているから」

「私の、足に」

「安らぎなさい。もう大丈夫、何も心配は要りません。疲れたでしょう。ゆっくり、お休みなさい」 

 

 そうして《シャンパーニュの親方》は、プラノ・カルピニに髪を撫でられながら、心底安心した表情で、安らかな眠りにつき──

 

 

 翌朝、元気になって飛び起きた。

 

 

 驚くべき事に、十数年来に彼女を苦しめ続けた胸の痛み(・・・・)が、すっかり霧消していたのである。

「奇跡だ!」親方本人以上に、彼女を慕う部下ウマ娘が歓喜した。

 直情的で泣き虫な彼女以外にも、勿論シャンパーニュには大勢の部下が居て、皆一様に号泣して喜んだ。

 

 大恩人の前に、直ぐさま荷車が運ばれて来た。ぜひ謝礼に、と親方が耳を跳ねさせる──覗けば赤が瑞々しい林檎がぎっしり詰まっていて、その合間合間に重たそうな金貨袋が無造作に突っ込まれている。

 シスターウマ娘の口元が未曾有にだらしなくなった。だが神父は断って言う。

 

「あなたの信仰が治したのです。私が取る訳にはいきませんから、皆さんで分けて下さい」

 

 また、神父は直ぐにでもシャンパーニュを出立するつもりだと伝えた。

 ウマ屋の娘たちは大変に寂しがった。せめて一晩、御馳走を用意しますという誘いも、神父はやんわり遠慮した。

 快癒した親方ウマ娘が目尻に涙を一杯溜めて、

 

「どうか御尊名だけでも承りたく」

 

 と首に掛ける十字架を握りしめて聞くので、神父は誠実に答えた。

 

「ジョバンニ・ダ・プラノ・カルピニと申します」

 

 ウマ屋の娘たちはびっくりして尾っぽを逆立たせた。

 それは、パリの大火を鎮め、悪しき《地獄の軍(タルタロス)》を改心させた聖なる人の名であった──訪れた時と同じく、プラノ・カルピニ神父は巡礼杖をつきつき、シスターウマ娘を伴ってシャンパーニュを去って行く。

 親方ウマ娘とその部下たちは涙を流し、何時までも二人の背中に手を合わせていた。

 

 

 ◆

 

 

《シャンパーニュの親方》が快癒した知らせは、交易路を伝ってあっという間に広がった。

 彼女を慕う各地のウマ屋の喜び様は、降誕祭(クリスマス)復活祭(イースター)が一緒に来た様だったという。

 それまで親方の回復を祈って断食するウマ娘まで居たと言うから(彼女たちの断食は人間のそれより深刻な意味を持つ)、それは筋金入りの歓喜であった。

 

 そして、親方は《聖カルピニ》の霊験によって救われた、という話も同時に伝わった。

 歴史上に奇跡を起こした聖人は数知れず──しかし、他の聖人とカルピニが決定的に異なったのは、単に伝説上の話ではなくて、その霊験が実際に効いた(・・・・・・)点であろう。

 

 聖カルピニが活動していた時期は、商業活動が活発化したと言っても、まだまだ封建的閉鎖社会が支配的であった。

 人々は土地に縛り付けられていた(・・・・・・・・・)と筆者は前節に述べたが、少し視点を変えてみれば、生まれ故郷には絶対的安寧(・・・・・)があった。

 そこには産まれた時から面子の変わらぬ仲間が居て、領主と教会の話さえ聞けておけば自分の頭で何も考える必要が無い。村の外の事は何も知らないし、知る必要も無い──明け透けに言えば、故郷を出るのが怖かったのである。

 

 しかし、時代の流れは止められない。

 貨幣経済が復権し富が流動化する社会に、荷の運び手が求められたのは必然であった。

 そして、この需要を満たす運び手となったのがウマ屋であり、なり手のほとんどは地方の田舎出身であった。産まれた村の畑を耕し、村民さんと仲良く穏やかに暮らすウマ娘が大多数を占める中、その価値観に収まらぬ者である。

 外に出てみたい、広い世界をこの足で全力で走ってみたい──そういう、当時の封建的価値観では気性難(・・・)と呼ばれたウマ娘たちが、故郷を飛び出してウマ屋に就いたのである。

 

 そういう故郷を捨てた無頼なウマ娘ほど、若い頃は吹き上がる情熱で以てヨーロッパ中を元気に駆け回る。

 しかし、ある程度の見聞を重ね気性が落ち着いてくると、とある病をしばしば発症した──それは、耐え難い胸の痛み。

 

 シャンパーニュの親方と同種の病(・・・・)である。

 そう、この病はウマ屋特有の職業病(・・・)だったのだ。

 

 こんな話がある。

 親方ウマ娘が、昔から懇意にしている北イタリアの行商ウマ娘がいた。そのウマ娘も過去に故郷の村を飛び出した口で、そして、同じく胸の疼痛に苦しんでいた。

 そこに、病を快癒させた親方が訪れる。友人の元気溌剌な姿に行商ウマ娘は驚いた。二人はつい昨年まで「何方が先に死んでしまうか」等という、絶望的な手紙のやり取りをしていたからである。

 親方ウマ娘は、自分の身に起きた出来事を、寝台に横たわる友人に力説した。

 

「聖カルピニの教えに帰依すれば、あなたもきっと良くなるわ」

 

 と勧めたのである。

 そして夜の眠りにつく前、藁にもすがる思いで行商ウマ娘は自分の足を撫でて心に念じた。

 心の神殿は足に付いてくる──そして翌朝起きてみると、なんと、胸の疼痛はたちどころに癒されているではないか!

 

 この効能が発揮されたのは、行商ウマ娘だけではない。ヨーロッパ各地で、病が癒されたという声が続出した。

 お医者さんも匙を投げる不治の病と考えられていた疾患が、にわかに根絶されようとしていた──そして、これはウマ娘たちにとって本物の奇跡(・・)以外の何物でもなかったのである。

 

 こうなると交易路を網目状に伝って口から口へ、各地に点在するウマ屋の間で聖カルピニの教えは爆発的に広まった。

 長距離移動こそ生業とする彼女たちである。『神殿は足に付いてくる、例え何処に居ても主は愛してくれる』という教えは強固な心の支柱となり、駆ける足に底知れぬ力を与えてくれた。

 

 中世ヨーロッパに流通革命(・・・・)が起きた。

 各地のウマ屋が絶好調になったばかりではなく、従来村の外に出る事を怖がっていたウマ娘たちもが一斉に流通業に参画し始めたのである。

 国から国へ活き活きと駆け抜けるウマ屋の姿が、村子ウマの目に輝いて見えたであろう事は想像に難くない──ウマ娘を閉鎖された中世荘園に縛り付ける精神の鎖は、遂に千切られたのだ。

 そして、彼女たちが信仰する教えが徐々に《十字教カルピニ派》と呼ばれ出したのもこの頃であった。

 

 富の流動化は加速度的に進行した。富が流動すれば、貨幣の匂いを新興自由都市(・・・・・・)の商人たちが嗅ぎ付ける。必然、社会の富は自由都市に集約していく。

 すれば、時代の流れに適応出来ない旧来の封建貴族は益々没落していく。度重なる十字軍運動の失敗も重なって、首が回らなくなった貴族は国王の庇護を求める。貴族が没落すれば、対照的に王権が強まる。

 こうして《カルピニ派》浸透による上記《中世流通革命》は、連鎖的に中世封建社会の根底へ打撃を与えたのである。

 

 

 今一度まとめてみよう、

 

①貨幣経済の復権。

②黒死病の大流行。

③十字教カルピニ派の浸透。

 

 以上三点が中世ヨーロッパの封建制崩壊の主要因であると言われている。

 無論上記に付随して、ウマ娘朝モンゴル帝国の衝撃、バチカンの宗教的権威の低下、独立諸侯の踊り場(直喩)と化した神聖ローマ帝国、ポーランド王国の劇的な伸長、等々──実際には一概に括れず、複合要因が絡み合った末での社会変革であった事は、くれぐれもご留意頂きたい。

 

 

 ◆

 

 

《シャンパーニュの大ウマ屋》について、その後の顛末を少々述べておこう。 

 元々、北海〜地中海商業圏まで経線方向の交易路に展開していた組合であったが、モンゴル帝国がバチカンの財宝をばら撒きながら緯線方向の交易路をユーラシア大陸にぶち抜いたため、これ幸いとばかりにその方向にも手を伸ばした。

 

 そして、いよいよ経緯に販路を広げた大ウマ屋はヨーロッパ全土を網羅する勢いで事業を拡大させていった。

《カルピニ派》第一番の信徒であると見なされていた親方ウマ娘を慕って、デンマークからイタリア、カスティーリャからポーランドまで、多彩なウマ娘たちが参集したという。

 

 親方ウマ娘は、たった一人で多民族を統括していた類稀な女傑であった。

 彼女の胸には、聖カルピニから拝領した十字架(ロザリオ)の煌めきが、片時も離れなかったと伝わる。

 しかし、そんな親方が天寿を全うするとヨーロッパ中に拡大した大ウマ屋は分裂──のれん分け(・・・・・)と表現した方が正確かもしれない。親方の生前、各地方の担当者に割り当てられていた番頭らが、それぞれの地方で独立。一人一人が新たな親方(・・)として歩み始めたのである。

 これをフランク王国の分裂になぞらえて悲観する場合がしばしば見受けられるが、実は親方ウマ娘の晩年に合意されていた既定路線であった。肥大化し過ぎた組合が、各々の地域に根ざす方向へ移行したと考えれば、それは極自然な成り行きであろう(シャンパーニュ本家も無くなってしまった訳ではない)。

 

 かくして欧州各地に散らばったウマ屋は時代の波に揉まれ、分裂と合併を繰り返しつつも、人類が商業活動を続ける限り運送業が廃れる事は決してなかった。

 現在においても他の職業に比して、トラックの運送手さんにウマ娘が多いのは、かつて運送業と言えばウマ娘が独占していた頃の名残である(何か凄いデコトラが走っていたら大抵ウマ娘が得意顔で乗っていると思う)。

 

 記憶に新しい米国発デリバリーサービス《Umar Eats》。

 この企業の元を辿れば《シャンパーニュの大ウマ屋》の系譜である事は著名であろう(孫の孫の曾孫レベルであったとしても確かに間違い無い)。

 自宅蟄居を余儀なくされる情勢化で、彼女たちの輝く笑顔に心洗われた──という同士が、どれだけ居るだろうか?

 確かに言える事は、中世の閉鎖的社会にあって、

 

『皆の想いが籠った荷物を届けたい』

 

 という親方ウマ娘の理念は、脈々と受け継がれている事だ。

 そして今日も運送業のウマ娘たちは世界中を駆け回り、我々に荷物と、真心を届けてくれるのである。

 

 

 

 そう、その崇高な理念に比べれば、私が昼に《Umar Eats》に頼んでいた天丼がぐちゃぐちゃになっていた事など些細な問題であろう。

 おいしい。



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バトゥの西征、コンスタンティノープルの陥落
バトゥの征西について


 122X年、ウマ娘朝モンゴル帝国によってコンスタンティノープル陥落──

 

 

 迫り来る東方遊牧民族に欧州世界が再び激震したのは、チンギス・ハーンの《遠駆け》から二十年。

 即ち欧州諸国が主張する所の、中世ヨーロッパの天王山《ノルマンディーの戦い》にて、英仏連合軍がモンゴル帝国を撃退せしめて二十年後の事件である。

 

 千年の都コンスタンティノープル!

 アナトリア半島とバルカン半島の中間に位置するこの地は、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易の要衝であり、また黒海と地中海を繋げる唯一の出入口と、地政学的に大変魅力的な土地であった。この陸海二つの交差点は古代から中世にかけて、他の西欧都市の追従を許さない圧倒的な大都市として栄華を欲しいままにしてきた。

 そして何より由緒が正しい。コンスタンティノープルとは古代ローマ帝国の片割れ、東ローマ帝国こと《ビザンツ帝国》の首都である──はずだったのだが、実はこの時点では違う。

 千年の都コンスタンティノープルは西欧の侵略者(・・・)に占拠されていた。

 

 120X年、悪名高き第四回十字軍。

 そも十字軍運動とは、月星教徒から聖地エルサレムを奪還する大義名分を負っている。しかし、はっと気が付いた時には 同じ十字教国家(・・・・・・・)であるはずのビザンツ帝国の首都を占領・略奪していたという意味不明な結果に終わった。

 もはや大義も何も無い、ただの侵略であった。

 この暴挙に十字軍の発起人たるバチカンの宗教指導者は激怒する。神の軍団が一体何の真似だ──ところが大分裂(シスマ)して久しい東西教会を統一出来るのではないかという甘美な期待に負けて(105X年、東西教会は相互を破門(・・・・・)に処し、これにより東方教会"正統派"と西方教会"普遍派"の決裂が明白になった)、最終的にはこの侵略を追認してしまった。

 かくて千年帝国の都だった地には十字軍国家《ラテン帝国》が建国され、初代皇帝の座にはとあるフランス諸侯が座ったのである。

 

 当然ながら、侵略された側のビザンツ皇帝は血が滲む様な怒りにわなないた。こんな大理不尽があってたまるか、腹に据えかねるとはこの事だ。おお神よ、西方の悪魔共に神罰を!

 その悪魔と同じ神に祈りつつ、今や十字軍戦士(クルセイダース)が跳梁跋扈する帝都をビザンツ皇帝は命からがら脱出した。

 そしてボスポラス海峡を挟んで東隣(アナトリア半島西部)に亡命政権《ニカイア帝国》を築いたのだった。

 

 なお上記の侵略政権と亡命政権だが、両者とも正式国号は《ローマ帝国》という。

 因みに中東からアナトリア深くまで攻め寄せて来た月星教異民族が立てた国も《ルーム(ローマ)朝》を名乗っている。またドイツ地域には皇帝不在を良い事に独立諸侯の血みどろの舞踏会と化した《神聖ローマ帝国》がある。

 そして四カ国いずれも純粋な意味でのローマを含まない。正に名乗りたい放題だった。これには古代ローマの歴代アウグストゥスも草葉の陰で泣いている、或いは笑っている事だろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 図1.122X年《ローマ》の勢力図

 

 

 さて、こうして虎視眈々と帝都奪還の機会を窺うニカイア帝国である。

 しかしやはりと言うべきか、コンスタンティノープルという無二の財政基盤を失ったのが苦しかった。

 常に背後を脅かすローマ(ルーム)朝の存在もあった。異教徒の圧力は東ローマ帝国の宿命とも言って良いだろうが、ただでさえ弱っている所に矢面に立たされては堪らない。ラテン帝国などという意味不明な僭称国家が、世界で唯一正当な《ローマ帝国》を異教徒との緩衝地が如く見なしているのも神経を逆撫でした。

 正当性は十二分、かといって太刀打ちが難しいのが現実だった。雌伏を強いられたニカイア皇帝は三度三度に呪詛を唱えるのを日課にしていたというから、その恨み辛みは推して知るべしである。

 

 ところが二十年余を経ても日々熱心な呪詛は一向に効力を現してくれない。相変わらず西欧人共は帝都コンスタンティノープルを我が物顔で歩き回り、異教徒はちくちく背中を突いてくる。

 時は122X年、亡国の皇帝は既に老境に達していた。死の影は刻一刻と迫ってくる。全てに絶望した皇帝は、遂に禁断の力に手を伸ばした。

 彼の選択について後世の歴史家は述べる。

 

『悪魔憎しの余り魔王に魂を売った』

 

 某日、ニカイア帝国の港から親書を携えた一艘の船が出港した。船は黒海を縦断し、北対岸の国へ届けるべく帆を張った。

 親書の宛名にはこうあった。

 

《ジェベ・ウルス》第三代ハン。

 バトゥ・ハン。

 

 

 ◆

 

 

 黒海北岸から中央ユーラシアまで広がるキプチャク草原は、最古の遊牧民族と名高いスキタイ人の勃興からも読み取れる様に、モンゴル高原に匹敵する豊かな草原地帯である。

 

 ところで、キプチャク草原はチンギス・ハーンが《遠駆け》のついでに通りがかった事で権力的な空白地帯と化していた。

 大ハーンとモンゴルウマ娘たちは、西欧からの帰り道にも、必然この平らか(・・・)になった草原を通りがかる。すると部隊の中からこんな声が上がった。

 

「亡きジェベ将軍と共に在りたい」

 

 往路に命を落とした《韋駄天》のジェベは、戦場での剽悍さも然る事ながら、褒められた物を何でも贈与してしまうという太っ腹な気質もあり、大層部下の信望厚いウマ娘であった。黒海北岸に建立された彼女の墓前に、元部下たちが弔意を示したのも頷ける話であった。

 チンギスはこの申し出を許した。

 

 それとは別口で、キプチャク草原に一目惚れ(・・・・)したというウマ娘も居た。

 彼女たちの多くはパリで夫を得たばかりの、瑞々しい精力と柔軟性に富む若ウマだった。元来の遊牧的性格と、新天地で新婚生活を出発させたいという素朴な願いであった。

 これもまたチンギスは許した。将来有望な若者を手放す事を素直に喜んだ訳でもなかろうが、高原のウマ娘人口増大問題も同時に解決出来る干天の慈雨には違いなかった。

 お互いに「何時でも帰っておいで」とか「何時でもいらっしゃい」とか惜しみ合いながらも、遊牧民らしく最後はあっさりと、モンゴルウマ娘はキプチャク草原に別離した。

 

 以降、所謂タタール人(・・・・・)はキプチャク草原にまで勢力を拡大させた──これを『侵略』と見なすか否かは、時代や立場によってまちまちであるけれども、この場では政治的議論は控えておこう。

 

 一方、故郷の高原に帰ったモンゴルウマ娘は、何をおいても数年ぶりの家族との再会を喜んだ。モンゴル皇帝といえど例に漏れず、高原に残していた三人の愛娘と抱き合って再会を祝した。

 大ハーンの四皇女──このうち末子のトルイはチンギスに(物理的に)くっ付いて来ていたが、上の姉三人は大ハーンに代わって高原を治めていたのだった。

 寡黙だが決断実行力に優れる長女ジョチ、血気盛んだが立法に厳格な次女チャガタイ、何時もにこにこ温厚で優しい三女オゴタイ。

 概ねジョチとチャガタイが喧嘩を始めるのをオゴタイが宥めるという形で、何だかんだバランスが取れた善政が出来ていたと言う。

 

 数年ぶりの再会を祝うのもそこそこに、チンギスは長女を皇帝の天幕(オルド)に呼び出した。うやうやしく跪くジョチに、チンギスは告げた。

 

「大いなる天上(テングリ)の力にて。《韋駄天》ジェベの功に報い、同人へ西の草原を授けるものなり。然れば汝ジョチ、将軍の忘れ形見を婿に取り、早くに行って善く治めるべし」

 

 ジェベ将軍とその指導人には一人息子が居た。遠征先で両親をいっぺんに失ってしまった不幸な忘れ形見である。

 ジョチより幾つか年下のこの青年を婿に取らせ、亡き将軍に代わってキプチャク草原を治めよ──との命令であった。

 これは一介の将軍に対する待遇としては破格と言えよう。チンギス・ハーンが如何にジェベという将軍に信任を置いていたか窺い知れる。

 片や一方的に結婚を決められた長女ジョチは、その表情が見えない程に深く俯き黙していたが、やがて低く応えた。

 

「大ハーンの御下知とあらば、是非もありませぬ」

 

 短く言うや、この無口なモンゴルウマ娘は、すっと立ち上がり天幕を後にした。

 そして命令通り、数日かけて家をまとめる(・・・・・・)と、婿を伴って西へ旅立つのだった。

 

 皇帝専属指導人の耶律楚材(ウルツ・サハリ)は、愛娘が高原を去った事を後になって知った。実は高原に帰還してこの方、各部族への挨拶回りに忙殺されていたのである。

 彼は大いに嘆き悲しみ、今や一切手遅れになった猛反対の言葉をチンギスに投げかけた。しかし青毛の担当ウマ娘は知らんぷりのバ耳東風で、全然受け合わない。

 彼は暫くの間、好きでもない男と無理矢理結婚させられ高原を追い出されたジョチが可哀想だ可哀想だと、うわ言の様に繰り返していた──が、七ヶ月後。

 西の草原から早ウマが駆けて来た。その浮ついた様子の早ウマが言うのには、

 

「ジョチ様、ご出産! 元気一杯のウマっ子です。我が君、偉大なる大ハーンにお慶び申し上げます」

 

 初孫の報告に大ハーンは殊の他大喜びする──が、しかし、七ヶ月後(・・・・)の事だった。正に青天の霹靂。楚材は呆然として、次いで激怒した。

「小僧が、悪党が。あの不敬者の身体を八つに切り刻み狼に喰らわせてやる!」叫び散らしてみたものの、依然一切手遅れであった。

 怒り狂う楚材指導人にチンギスは知らんぷりを貫いていたが、あんまりうるさいので、玉座に肘を突きつつ言った。

 

「我が半身よ、時々不思議でならぬ。お前は私が孕んだ時には、私より早く気付いたくせに、我が娘の事は何も見えないのか」

 

 母にしてみれば、あの寡黙な娘が結婚を命じられた時、吊り上がる口角を深く顔を伏してまで隠さなければならなかった──それ程傍目にあからさまな事が分からない方が不思議だった。

 以降、指導人は静かになったという。

 

 いずれにせよ、キプチャク草原は新しい主と後継を得た。《韋駄天》のジェベ将軍を精神的な初代ハン、実質的な二代ハンをジョチとした広大なキプチャク草原の領域を、

 

ジェベの国(ジェベ・ウルス)

 

 と呼ぶ。そして、ジェベ・ウルス成立と同時に産まれたウマ娘──それが第三代ハン、バトゥである。

 ユーラシア大陸に遍く恐怖をもたらした恐怖の大王、モンゴルウマ娘が尊敬する人物八百年連続第一位、チンギス・ハーン。

 そしてルーシ地域を人類植民以前の姿に回帰させ、死してなおヨーロッパ諸国を絶望のどん底に叩き落とした将軍ジェベを、それぞれ祖母に持つモンゴルウマ娘である。

 

 つまりバトゥ・ハンとは、そんな二人の血脈を我が身一杯に受けたプリンセス中のプリンセスであった。

 そしてキプチャク草原ですくすく成長したこのモンゴルウマ娘が、宿老スブタイを伴って、千年の都コンスタンティノープルを陥落させる事となる。

 モンゴルウマ娘にとって正真のプリンセス、それは欧州人にとって悪夢の血統以外の何物でもなかったのである。

 

《魔王》バトゥ──恐れ戦く欧州人は彼女をそう呼んだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 図2.122X年 ジェベ・ウルスの領域

 

 

 ◆

 

 

『親書を受け取ったバトゥ・ハンは「ならば助けようではないか」と冷たい目の奥を妖しく閃かせた。その微笑みは、世のどんな魔物よりも禍々しいものだった。私は途轍もない過ちを今更に悟ったのである』

 

 122X年、ニカイア皇帝は、禁断の力──モンゴル帝国にコンスタンティノープル奪還のための援軍を求める親書を送った。

 上記は、黒海を渡り親書を届けた大使の手記である。

 

 ジェベ・ウルス(別名キプチャク・ハン国)の首都は、キプチャク草原を丁度中央から見渡せるヴォルガ川下流の草原に在った。サライ、と言う。

 馴染み深い所では、ドイツとソ連が死闘を繰り広げたスターリングラードに程近い土地である。

 

 親書を携える大使がサライに到達した時、バトゥは不在であった──それもそのはず、季節は夏の遊牧期真っ盛りである。

 遊牧期のモンゴルウマ娘は、一度出掛けると、何日も帰らない事がざらである。昼は羊さんを追って一日中走り、夜はふわもこの羊に抱き着いて野宿する。たまに夫の待つ(ゲル)に戻って来て、一晩色々と補給したら再び出掛けるのである。そして、その家自体も頻繁に移動する。

 遊牧期のモンゴルウマ娘を訪ねて行く程、無為な仕事は無い。首都とは言うものの、現代的な政治の中枢といった役割は持たず、冬季を快適に暮らす越冬所、位の意味合いしか無いのだ。

 

 しかし、その辺りの感覚がギリシャの都会人には分からない。「バトゥ・ハンはちょっと(・・・・)出掛けているのでお待ちあれ」と説明されて何ヶ月も待たされる意味が分からない。

 たまたまサライに居たモンゴルウマ娘に異様なレベルの歓待を受けたのにも、最初は気を良くしていたが段々不気味になってきた。

 もしかすると我々を肥え太らせておいて、煮て食うか焼いて食うかの相談をしているのではないか──との疑念に駆られる。冗談の様に聞こえるが、当時は未知の大帝国に対する一般的な見解だったのだ。

 そして親善大使らが本気で体重を気にし始めた頃、バトゥ・ハンはふらりと帰ってきた(というより近くに来たので立ち寄った)。

 

 一度戻って来たとなればモンゴルウマ娘の話は早い。早速バトゥは客人の面会を許した。ニカイア亡命政権の使者は、面会叶った事と、どうやら喰われずに済みそうな事に安心した。

 ハンの天幕に通されて使者はまず驚く。天幕の内装は、隅々まで黄金色の装飾に輝いていたからである。「皆からの貰い物を折角だから飾ってる」とバトゥの説明を真に受けた者は当然居ない。

 言うなればモンゴル地方政権に過ぎぬ国が、これ程の富を積む事に底知れぬ寒さを感じた親善大使一行であった──これがジェベ・ウルスを我が国の言葉で《金帳ハン国》と別称する由来になる。

 

 さて散々待たされた大使は、それも忘れて親書を読み上げた。

 ラテン帝国を僭称する者の不義を非難し、唯一正当な《ローマ帝国》の正統性を訴え、その窮状に自発的(・・・)支援を呼びかける内容である。

 帝都奪還の暁には、キプチャク草原における覇権の正式な承認、モンゴルウマ娘の自由通行権、毎年これだけの貢納金──等々、全く皮算用的な特権の数々を授けると言う(なおこの親書だが、貰い物を大切するバトゥ・ハンの性格のお陰か現代まで原本が伝わっており、中世ビザンツ文化の貴重な史料として保管されている)。

 

 ニカイア大使の記述を参照する限り(ハン)は、これら見返りの乱発を冷徹な瞳で聞いていたらしい。

 しかしモンゴル側の記録では異なる。バトゥは傍らの記録係ウマ娘を指で寄せて、ひそひそ耳打ちしたという。

 

「確か、駆士ローランもローマ何とかの臣下だった様に思う。どうもそれとは違うみたいだけれど、親戚か?」

「さあ……」

 

 古代ローマ帝国の威光も何も知らないモンゴルウマ娘独特の感想だった──とはいえローマが四つに分裂している方が異常事態なのであり、彼女を責めるのは筋違いかもしれない。

 ともかくローマ何とか(・・・・・・)の親戚と言う事で、第一印象は悪くなかったらしい(ニカイア皇帝は聖駆士ローランに感謝すべきである)。そして最も肝要な部分は伝わった。要は『助けて下さい』という懇願なのである。

 困っている人は助けるべし、と母方の祖母に教えられた。

 

「ならば助けようではないか」

 

 父方の祖母譲りの栗毛を揺らしてバトゥはにっこり快諾したが、先方へどの様に伝わったのかは先述の通りである。

 

 その時バトゥは二十前の若ウマだったが、同年代の忠臣が多く居た。多くはモンゴルとフランスの混血である。青い瞳や、尾花栗毛(きんぱつ)を携えたモンゴルウマ娘がキプチャク軍の中核であった。

 豊かな草原で良く訓練されたキプチャク軍は、モンゴル本軍に負けず劣らずの精兵である。若い活力は十分──しかし如何せん経験が不足していた。それはバトゥ当人が最も自覚する所であった。

 その弱点を補うべく、戦の妙を知り尽くした将軍が高原から派遣された。

 

《万バ不当》のスブタイである。

 チンギス・ハーンの遠駆けから二十年を経て、もさもさ駁毛(ぶちげ)はすっかり白くなり、過去の激戦で片目が潰れていたが、未だ足腰の頑健は衰えないモンゴル帝国の宿老である。

 バトゥはスブタイの到着に喜び、その腹に四肢を使って抱き着いたらしい。

 

《大ハーン》チンギス。

《韋駄天》ジェベ。

《万バ不当》スブタイ。

 

 ヨーロッパのトラウマ三点盛りが、更に《魔王》バトゥの統率の下、再び現界したと言えよう。

 キプチャク草原の主は救援(・・)の兵を集結させた。集結地は首都サライより東の黒海北岸──初代ジェベとその指導人、また病で早世した二代ジョチの霊廟である。

 草原各地に散らばるモンゴルウマ娘は、そうなると驚くべき早さで集まった。集まった無数のウマ耳が揺れる前で、バトゥは出陣の儀式を執り行う。

 椀になみなみ満たされた酒の、三分の一を天に振り撒き、三分の一を地に注ぎ、最後の三分の一を自ら飲み干す。大いなる天上(テングリ)、四本足の草原の精霊、己に宿る先祖の御魂に祈りを捧げたのだった。

 そしていよいよ、キプチャク軍は進発した。

 

 世に言う《バトゥの西征》の始まりである。

 

 キプチャク軍の選んだ進路は、黒海北岸に軍を発して反時計回りに旋回するというものだった。二十年ぶりに中世ヨーロッパの大地を無数のバ蹄が打ち鳴らす。

 そして、初めにバトゥの進路に立ち塞がったのがハンガリー王国である。噂に聞くモンゴル帝国が突然侵攻して来た事に、目を剥いて仰天したハンガリー国王は堪らず助けを求める。

 神聖ローマ帝国は、相変わらず内乱に明け暮れており頼りにならない。業腹だが、近頃急に膨張してきて関係が微妙になり始めたポーランド王国の《改悛王》に援軍を求める書簡を送る。

 果たして帰って来たのは、

 

『絶対に行かない』

 

 という建て前も何も無い断固拒絶と『悪い事は言わないから早く道を開けて逃げなさい』という親身なアドバイスが入り混じるという、奇天烈な返書であった。

 何だか分からないが精強と名高い《レグニツァ駆士団》の助けを得られないと知ったハンガリー王は失望し、また憤慨した。それならばと彼は他のバルカン諸国を糾合して、モンゴル軍に立ち向かう。

 

 そして起こったのが《モヒの戦い》である──結果は《ワールシュタットの戦い》の全く再演(リバイバル)であった。

 ハンガリー王国及びバルカン連合軍は、バトゥとスブタイによって完全粉砕されたのである。

 

 例によって守り手の戦記は阿鼻叫喚の様相だが、攻め手の方は『たくさんの人がそのうち居なくなった』程度のものであり、歴史家はもっぱら前者を頼る事になっている──チンギス養子の迷文家シギ・クトクと言い、やはりモンゴル流のびのび(・・・・)記述体制が、ウマ娘朝モンゴル帝国を公平な視点で見る仕事を難しくしている気がしてならない。

 

 コンスタンティノープル攻略のついでに壊滅的被害を被ったハンガリー王国は、以後、改悛王統治下で繁栄著しいポーランド王国に手厚い復興支援を受ける事になる。

 致命傷を負いながらも九死に一生を得たハンガリー王は、不思議な位に親切なポーランド王に感謝する。個人的な手紙のやり取りの中で「あなたを兄と呼ばせて欲しい」という具合であった。

 ついこの間までぎくしゃくしていた関係は雪解けし、これをきっかけに関係を深めた両国が、後世《ポーランド・ハンガリー同君連合》を形成するに至るのだから、歴史の潮流というのは分からない。

 

 




 聖カルピニについての話を締めくくるにあたって、どうしても《バトゥの征西》を書かなければなりませんでした。まあ、どうも、モンゴル帝国史でも面白い所なので遅かれ早かれ書いていたのですけれども……


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注釈:第一皇女ジョチの成婚について

前話でちらりと触れたジョチの結婚と、裏で色々動いていたオゴタイのお話です。
本編とは直接関係無いため読み飛ばしてもらっても構いません。
恋愛話です、珍しい。


《遠駆け》から戻って直ぐ、チンギスは三女オゴタイを内々に呼び寄せた。

 自身が不在の間、高原の諸族の様子はどうであったか、羊さんの肥え具合はどうであるか、冬に備えて干し草(ごはん)の貯蓄は順調か──チンギスは己の手が届かない部分の政治についてオゴタイに尋ねるのが常々であった。

 何時もにこにこ、のんびり調子のオゴタイは、しかし一つ一つ明白な言葉を使って応えた。チンギスは都度頷きながら高原の平穏を喜び、そして最後に姉妹仲について尋ねた。

 

「ジョチ姉とチャガタイ姉は、顔を合わせれば取っ組み合いの相撲(ブフ)をしております」

 

 オゴタイは答える。

 ジョチとオゴタイがウマ耳を寄せ合い、羊さんの毛の触り心地について真剣に話し合っていると、尾っぽをいきらせたチャガタイがやって来て言う。

「ジョチ。相も変わらず辛気臭い面をぶら下げおって、それだから駄目だ。とにかく貴様は駄目だ、駄目だ」

 長女は仏頂面で耳を跳ねさせて応じる。

「チャガタイ。この粗雑者めが、今日こそ姉への口の利き方を覚えさせてやるぞ」

 それから二人はがっぷり組み合って、転がしたり転がされたりを繰り返す。にこにこ眺めていたオゴタイが、きりの良い所で仲裁に入る。オゴタイが言うなら仕方ないぞ、と二人は素直に離れる。毎度その反復だ──

 

「姉妹仲が良い事は果報である」

 

 チンギスは座ったまま身体を右に左にゆらゆらさせた。満足するまで揺れてから、肘を突いて、出し抜けに聞く。

 

「時に、ジョチの孕み腹は如何なる事か」

「お気付きで」

「分からいでか、匂いが違わい。仔細、話せ」

「御意。まあまあ、大した話にも御座いませぬ」

 

 オゴタイはにこにこしたまま、やはりのんびり調子で語り出した。

 

 

 ◆

 

 

 蒼穹に弧を描く鷹さんを眺めて、今の今まで寡黙を貫いていたジョチがぽつりと言った。

 

「オゴタイよ、私はあの方が不憫でならぬ。父母を一度に亡くされて、さぞや心細くあろう。誰ぞ名士が一緒になって、後見を務めてやれぬものだろうか」

 

 オゴタイは酒杯を傾ける手を止めて「そうですなあ」と曖昧な返事をした。咄嗟に、姉の真意を掴み損ねたからである。

 姉が誰について言い及んでいるのかは聞くまでもない。第一皇女ジョチともあろうウマ娘が、あの方(・・・)等と呼ぶのは元より二人しか居ない。即ち偉大なる母チンギス・ハーンと、ジェベ将軍の子息の事である。この場合、後者で間違いない。

 長女の深刻気な横顔を見つつ、オゴタイは考えを巡らせた。

 

《韋駄天》ジェベ将軍とその指導人が、遠駆けの最中に落命した事は高原に伝わっていた。皆肩を落として、勇士(バートル)の早すぎる死を惜しんだ。

 将軍には親類縁者が無い、より正確を期するのならば無くなった(・・・・・)。未だ高原一統ならぬ折、チンギス(当時テムジン)に一族郎党皆殺しにされたからである。ジェベ将軍は部族最後の生き残りだった。

 高原ではさして珍しくない身上である──しかし将軍も亡くなった事で、その忘れ形見の子息は天涯孤独となってしまった。

 

 オゴタイが野駆けに誘われたのは、今朝ほど不意にであった。珍しい事だ。無論、ジョチとてモンゴルウマ娘として駆けを愛している。ただ、この無口な姉は独りで黙々と走る事を好んでいた。

 この珍しい誘いを傍で聞いていたチャガタイは「雨が降るな」と言った。そして尾っぽを揺らして付いてこようとするのを「お前は来るな」と拒まれ怒っていた。

 これは腹に一物あるに違いない──オゴタイはチャガタイを宥めながら、にこにこ顔で誘いに乗ったのだった。

 

「誰ぞ名士と言いますと、姉上には心当たりがおありかな」

 

 オゴタイは探る。

 

「いや、無い」

 

 自分で仕掛けた話の腰を、ジョチは自分でへし折った。それきり無言で酒を飲む。その様子で、オゴタイには万事得心がいったのである。

 翌日もオゴタイは野駆けに誘われた。またチャガタイは省かれたので怒っていた。「あの方と釣り合いの取れるウマ娘となると、並々ではいかん」と相談とも独り言とも分からない調子でジョチは呟いた。

 その翌日はチャガタイに誘われた。「でもジョチは来ちゃ駄目だ」次女は聞こえよがしに言ったが、当人は素知らぬ顔色であったので、やはりチャガタイは怒った。

 そのまた翌日は、再びジョチに誘われた。チャガタイは怒らず、恨めしげな目で見ていた。「何処ぞに良きウマ娘は居ないだろうか」難しい顔でジョチはぶつぶつ言っていた。

 オゴタイは笑顔で居るのが辛くなってきた。とにかく全身がむず痒くて堪らなかった。独りで走れよ、と思った。そこで、蒼穹を眺めて煮え切らぬ事をぶつぶつ言っている姉に言葉を挟む。

 

「そう気を揉まれますな、姉上のご心配も今暫くの事でありましょう」

 

 ジョチは沈黙した、瞳で続きを促している。

 

「将軍のご子息は指導人として才気煥発、目は鷹さんの様に煌々と鋭く、左右の肩はブルカン岳の猛々しさ、背中は若草が萌える如き精気に満ちておりまする。高原広しと言えど、これに並ぶ男子を中々見かけましょうや。これは私が申し上げるより、幼き頃より共に過ごされた姉上の方が良くお分かりでしょう」

「うん、一々その通り」

「然ればで御座います。この様な不世出の強者、世のウマ娘が捨て置くとは思いませぬ。皆々男子少なきに飢えておりますれば、遠くなきうちに良縁が見付かりましょう」

「うん、そうだ、そうかな、あんまりそう思わないが」

「そうですよ」

「そうかな……」

 

 ジョチのウマ耳はぺたんと頭蓋にくっ付た。構わずオゴタイは続ける。

 

「ですが今は確かに心細くありましょう。馴染みの深い姉上が行って励ましてやるのが重畳」

「しかしお前はそう言うが、昨今あの方とは疎遠になった。挨拶もろくに交わさない。なのに急に行っては妙に思われるだろう」

「あの人は近々元服なさるでしょう」

「うん、めでたいぞ」

「その祝いで訪ねて行くのは顔馴染みの義理というもの」

「言われてみればそうである、むしろ行かねば失礼だ」

 

 そういう事になった。

 さて、彼の元服祝いには様々な高原中から様々な部族から代表が来た。古い名門タルタル族からも来た。勿論オゴタイとチャガタイも行って、何かあれば頼って欲しいと励ました。

 すると主役の新成人は「ジョチ様はご一緒でないのですか」と言った。長女がまだ来てないらしい事に妹二人は驚いた。チャガタイは「薄情者だ」と姉を非難した、次女は義理に厳しいウマ娘だった。

 遂に三女は笑顔を忘れて駆け出した。

 

 そうして第一皇女の天幕に飛び込んだ時、既に夕方だった。ジョチは天幕内で旋回していた。どれ程そうしていたのか、絨毯にくっきり足跡が付いている。

 一方で身なりは整っている。どちらかといえば格好に無頓着なジョチだったが、毛並みは油を塗ってつやつやしており、皇族だけに許される目の覚める様な蒼い勝負服(せいそう)を纏い、靴の泥は綺麗に払われている。

 何をしているのか、オゴタイが大声で聞くと、一心不乱に回っていたジョチは初めて妹の存在に気が付いたらしい。普段以上に細い声で言う。

 

「朝にさいころ(シャガイ)を振ったら凶が出た。だから、今日の所は行かない方が良い様に思う」

「私が昨晩星を読む所は大吉です」

 

 すかさずオゴタイは反駁した。

 

「私は先程行ってきました、あの人は姉上を待っておられた」

「でも、何と言って励まして良いか分からない」

 

 オゴタイは大らかなにこにこ顔を取り戻した。一周回って戻ってきたのである。

 

「こう言いなされ。『あなたは素晴らしき男子であります故、直ぐに良縁が見付かる事でしょう。私は陰ながら応援しております』と」

「あなたは素晴らしき男子であります故、直ぐに良えん、わたし、おうえん……チャガタイの言う通りだった。私は駄目だ、とにかく駄目だ」

 

 ジョチは自分の天幕を追い出された。

 

 

 ──さて、元服祝いの日からふた月ばかり経った。

 オゴタイは次女チャガタイに酒宴に誘われた。どうやら他にも色々な所から大勢来るらしい。モンゴルウマ娘は宴会が大好きであるから断った者は一人も居ない。

 

「無礼講だ、飲め、大いに飲め」

 

 言ってチャガタイは豪快に酒杯を干した。また珍しい事だった。(家族以外で)礼節に厳しい姉が、こういう類の宴会を開く事は滅多に無い。

 ともかく客人ウマ娘たちは、言われた通り喜んで飲んだ。歌って踊ったりもした。そうして皆が強かに酩酊した時、しかしオゴタイは全然酔っていなかった。多少上気した頬でにこにこしていた。飲んでいなかった訳ではない、単純に酒に強かったのである。

 ところが主催者チャガタイは既に前後不覚だった。それを見計らってオゴタイはのんびり尋ねる。

 

「姉上、本日は随分と上機嫌な様子。さては何か吉事が有りましたか」

「おう、そうそれよ。よくぞ聞いた、おっおっおっ」

「オゴタイです」

「おごたい」

 

 妹は水瓶から一杯すくって姉に飲ませた。すると幾らか正体を取り戻した様にチャガタイは答えた。

 

「近頃、ジョチの奴めは相撲から逃げるのだ。一昨日で三度連続。遂に観念したと見える、私の勝ちだ」

 

 何の勝負だろうか、とオゴタイは思った。

 

「ところが執念深い奴の事、観念した様に見せかけて何ぞ企んでいるのやもしれぬ。だがもしや、もしかするとだな」

「体調を崩しているのやも」

「おごたい」

 

 名前を呼ばれたので、オゴタイはもう一杯水をすくってきた。 

 

「だとすれば奴めが哀れだ、ちょっとな。そう思わんか」

「思います」

「お前は優しいからな、そうだろうとも」

 

 チャガタイはおぼつかない足取りで天幕の端まで歩いて行って、そこに掛けられていた布を退かした。出てきたのは、かご一杯のニンジンである。

 

「見舞いに持って行け。だが、しぶとく壮健であったなら、構わないからお前で食ってしまえ」

「これは見事な、甘そうです」

「もし渡す時でも出処を言う必要は無いからな」

 

 言いたい事を言ってしまうとチャガタイは気絶する様に寝た。ニンジンに掛けられていた布を、今度は姉の腹に掛け直してからオゴタイも寝た。

 翌朝、青白い顔で白湯を啜る主催者以下客人を残して、見舞いの品を抱えたオゴタイは早くにジョチの天幕を訪ねた。ジョチは弓と矢の手入れをしていた。全く健康である。

 

「ご壮健で何より。もしや身体が優れぬのではと、チャガタイ姉が心配しておりましたよ。どうぞ、お見舞にと持たされて御座います」

「これは何とも甘そうだ。あいつめ、偶には妹らしき真似も出来るらしい。ほれ、一本やろう」

「ありがとうございます」

 

 二人はそれぞれニンジンを齧った。本当に甘かった。これを中華から取り寄せるとして幾らかかるやら。

 ジョチの態度はふた月前とは打って変わって清々しい。寡黙だがものをきっぱり言い、懐が深い──つまりは元の気性に戻っていた。

 そして何だか匂いが違う。初めオゴタイには、その何とも言えぬ円やかな匂いの示す所が分からなかった。

 

「早ウマが届きましたな。大ハーンのご帰還です」

「うん、三年振りだ。トルイも大きくなったろう。ついこの間までスブタイの腹に掴まってばかりだと思ったが」

「初陣を済ませたと聞きます、聞く所では戦働き大なりと。まだ元服前の子ウマだと思い通しておりましたが、いやはやどうして」

「併せはムカリ国王だそうな。あれには世話になる、四姉妹が全員か」

「礼を言うべきなのでしょうが、ずばり申さば羨ましい。私もトルイが敵の首を掻き切る場面が見たかった。順序があべこべですが、帰還の暁には、せめて盛大に元服を祝ってやりましょうぞ」

「然り」

 

 長女と三女とは共にトルイの姿を想った。青毛に一筋の流星が愛らしい末妹である。帰った時は、立派だ、流石は蒼きウマ娘の末裔よと、うんと撫でてやろう。

 両名は暫しほこほこしていたが、オゴタイは如何にも思い出した様に問うた。

 

「時に姉上。元服と言えば、あの後、ジェベ将軍の御子息の家には行きましたか」

 

 問われた方は、ぐっと黙った後に答えた。

 

「行った。あの寒空に家を締め出されて、他に何処へ行けというのか」

「これはしたり、お詫びを重ね重ねて」

「良い」

「行って、それで」

「喧嘩になった」

 

 ジョチはぷいとあっちを向いて、そのまま細々語り出した。

 時間は元服式に遡る──大ハーンに次いで高原第二位の地位にあるウマ娘が、あろう事か住処を締め出され、とぼとぼ歩いて将軍の忘れ形見の(ゲル)に辿り着く頃にはとっぷり日が暮れていた。

 既に客人の姿も無い、祝辞を言うには場違いだ。それと寒い。随分と逡巡してから「もしもし」と草原の静寂にすら掻き消されそうな声で言うと、しかし、直ぐに家主は顔を出した。

 彼は途端にぱっと顔を明るくして、客人を招き入れてくれた。その顔がジョチには太陽の様に暖かく思われた。

 時外れの客人は長く沈黙していた。その後に、ようやく言った。頼れる妹に教えて貰った、至る道中何度も口の中で反芻した励まし(・・・)の言葉である。

 

「あなたは素晴らしき男子であります故、直ぐに良縁が見付かる事でしょう。私は陰ながら応援しております」

 

 一言一句違えない。胸が裂けそうだった。他には何も言えそうにない。これにて義理を尽くしたのだから、さっさと帰ろうと思った。

 しかしこれを聞いた男は、お日様の様に明るかった表情を一転させた。肩を前に出し、眉を吊り上げ、語気を荒らげて言う。

 

「落胆致しました。そんな話をするために来たのですか。あなたの口からだけは聞きたくなかった」

 

 ジョチはかっとなった。腹の底からぼこぼこ怒りが湧いてきた。それは目の前の男に対する怒りに非ず、何かとても様々な事に対しての感情が怒りに転化されたのだ。

 

「私がわざわざ出向いてやったのに、何という言い草か」

「それはこっちの言い分です。久々に顔を合わせて言葉をかけて頂いたかと思えば、つまらない事を言う。これでは何のために、こんな夜分まで火を守っていたのか分からない」

「誰が待っててくれと頼んだ」

「でもあなたは、こうして来たではありませんか」

「揚げ足を取るな。不愉快だ、帰るっ」

「ええ帰りなさい。私の心が、まして己の心が分からない人に用など無い!」

 

 遂にジョチは怒り心頭に発し、溜まりに溜まった心の内をぶちまけた。

 

「たわけが! お前の心も、私の心も、そんな事は初めから全部分かっていたぞ!」

 

 

 ◆

 

 

「……それで、どうなった」

 

 悠々肘を肘をついて話を聞いていたチンギスは、何時の間にか身を乗り出していた。オゴタイはにこにこして返す。

 

「後は何でもないそうです」

「そんな訳があるか」

 

 母親は肘を元の位置に戻し大きく嘆息した。「委細分かった」と告げる。オゴタイが初めに前置いた通り、確かに大した話でもなかった。その割にチンギスは疲れた気がした。

 

「日ならずして腹が膨らもう。それでなお何も入ってないと言い張るつもりだろうか」

「食い過ぎたと言うつもりやも」

「偶に区別のつかん奴が歩いておるが、ご飯は腹の内を蹴飛ばしたりせん。あの小僧め、昔から目を付けておったが、いよいよやってくれおったわ」

「殺しますか」

 

 オゴタイはちょっと首を傾げた。

「異存あるまい」チンギスは、むん、と口をへの字に険しくした。こわい顔をしているつもりらしい。

 

「成婚半年チュウひとつ。私は守ったのだぞ、つらかった。だと言うのに我が愛娘を、あまつさえ婚姻前のウマ娘を孕ませるとは言語道断。不敬極まる、破廉恥この上無し。例え八つに刻もうが文句は言わせん」

 

 再び、むん、とする──大ハーンは人を殺す時、こんなにこわい顔(・・・・)も、つらつら責め立てる事もしない。蝶々を目で追いかけるついでな風に、ただ「殺せ」と言うだけだ。

 その方が明解で良いとオゴタイは思うのだが、余り同意は得られない。

 

「が、ジョチを敵に回すつもりは無い。チャガタイとて姉に与すだろう、あれは母より姉が好きなのだ。高原の平穏を乱すは我が本意に非ず。然らば、亡き将軍の忠孝に免じて、許す」

「ご英断、私は大ハーンに従います」

「しかしだな、私が許したとて我が半身が許すとは限らぬ。今は方々歩いておるが、戻ったらどうなる。確実に奴めを八つ裂きにして狼に喰らわせるぞ。我が半身は高原で一番つよいし、足がはやい。小僧に抗うべくもあるまい」

「そうですなあ」

 

 オゴタイは曖昧な返事をした──そうして議論は、いっそ二人を正式な夫婦にしてしまい亡きジェベ将軍の名代としてキプチャク草原を治めさせる、という形に帰着したのである。

 

 早速、身重のジョチが皇帝の天幕に呼び出され命が下った。第一皇女は表情が窺えない程に深く俯きながら了承した。彼女はすっと立ち上がり、天幕の出口付近に控えていた第三皇女へ、すれ違いざま「ありがとう」と言った。対しては「はてな」と返った。

 ジョチは家を纏め、夫ともう一人、三名でキプチャク草原に旅立って行った。

 その後直ぐ。皇帝専属指導人の猛反発と、チャガタイが暴れているのを適当にいなしつつ、チンギスは興味深げにオゴタイへ尋ねた。

 

「あの夜、二人が喧嘩せなんだら、どうする腹積もりであったのか」

「その時はその時、それまでだったという事でしょう。それに……」

「何だ」

「あんな台詞をぬけぬけ言われて怒らん男に、大切な姉をくれてやる了見は御座いませぬ」

 

 大ハーンは大口を開けて哄笑した。オゴタイの両肩を何度も叩く。

 

「全く感心した。お主は姉妹で一番柔らかそうに見えて、その実、一番図太いわ! 良い、それでこそ大ハーンの娘である」

 

 第三皇女オゴタイは、やはりにこにこ顔でぺこりと頭を下げた。

 この娘が、ウマ娘朝モンゴル帝国第二代大ハーン──オゴタイ・ハーンとなるのは、これから二十年を待つ。

 

 



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コンスタンティノープル奪還戦について

《ジェベ・ウルス》第三代バトゥ・ハンには母親と呼べる人が二人居る。

 一人は産みの親ジョチ──そして、チャガタイ・ハンである。

 

 生母ジョチはバトゥが十を数えぬうちに流行り病で他界した。母を深く愛していた父はバトゥを大切にしてくれたけれども、翌年、妻と同じ病に倒れた。

 バトゥは(ウルス)(ハン)を継承したと同時に孤独になってしまった。未だ幼い子ウマに政治を行う事も、軍を統括する事も出来ようはずがない。

 

 いち早く後見を名乗り出たのが、南東に隣接する《チャガタイ・ウルス》の主、大ハーンの第二皇女チャガタイであった。バトゥの叔母にあたるウマ娘である。

 チャガタイは姉ジョチと激しく諍ったと噂に高かった。バトゥが孤立無援になって直ぐ後見を名乗り出たのは、憎き姉の土地を乗っ取る野心があるからだ──と、口さがない指導人連中は噂した。

 チャガタイ本人もそれを否定しない。それどころか公然と野心を認める様な態度を取っていたから、益々噂は信憑性を増した。

 この悪い噂は大ハーンのウマ耳にも届いたが「チャガタイの好きにさせよ」と取り合わなかったという。

 

 巡視(・・)と称して、チャガタイは度々領土に侵入してはバトゥの顔を見に来た。幼いバトゥは叔母が恐ろしかった。噂の内容が怖かったからではない、何時も怒っている様な吊り目が怖かったのである。

 ジョチ・ハンが亡くなって直後、バトゥの天幕(オルド)にチャガタイがずかずか踏み入ってきた時、バトゥは全く身の丈に合わない玉座に収まって震えていた。

 叔母は鋭い目元でバトゥの小躯を上から下までじろじろ見て口を開いた。

 

「お前は鼻たれのチビだけども、間抜けのジョチよりはかしこそうな面をしている」

 

 貶しているのか褒めているのか分からない事を言って、筆と(すずり)を投げる様に寄越した。そして来た時同様、尾っぽをいきらせて、ずかずか去っていった。

 バトゥには叔母の行動の意味が分からなかった。はてなと首を傾げていると、深刻な顔をした側近が進言する。

 曰く。チャガタイ・ハンは法律にめっぽう厳格で、中華世界から書物を取り寄せて立法を学ぶ程である。そんな知恵者の彼女が筆と硯を寄越したという事は、暗に我が国の法の乱れを指摘し、法律を学べと叱っているのではなかろうか──びっくりしたバトゥは貰った筆と硯を取って、先ずは必死に文字を覚える努力をした。

 そしてふた月経った頃、再びチャガタイがずかずかと入ってきて、

 

「あれはお前の様な鼻たれに与える様な物ではなかった、返せ」

 

 尾っぽで空気をばしばし叩き、不機嫌そうに言う。バトゥは玉座の上でぷるぷる震えた。

 

「もういっぱい使っちゃったけど、それでも良いですか」

「まさか、チビにあれが使えるものか」

「文字は覚えたけど、よく繋げて書けません。ごめんなさい」

「……なら、もういらん。お前に、やる」

 

 言うだけ言うと叔母は何だか軽やかな足取りで帰っていくのだった──その後も叔母は度々顔を出して、様々なものを寄越してきた。

 ある時は「お前は痩せっぽちで弱そうだ、腑抜けのジョチにすら相撲で負けてしまうぞ」と言い、かご一杯のニンジンを置いていった。

 またある時は「そんなみすぼらしい靴では、野良ウマ娘に競り勝つどころかジョチにすら勝てないな」と、ぴかぴかの靴を姪子に履かせた。

 はたまたある時は「その手入れがまずい毛並みがまだしも見れるのは、父方に似たからだ。ジョチのぼさぼさ頭に似なくて良かったと思え」と良い香りの油をくれた。

 

 何だかバトゥは申し訳なくなってきた。贈り物の一つ一つはとても嬉しかったけれども、感謝の言葉以外で何もお返し出来ていない。

 バトゥは最初に貰った筆と硯を用い『叔母上に申し訳ないから、もう贈り物は要りません』と、さらさら書簡をしたため、早ウマ係に持たせた。すると早速返書が返ってくる、少し驚く早さだった。

 聞けば、とんぼ返りしてきたらしい早ウマ係は怯えた様子で報告する。

 

「書簡を受け取ったチャガタイ・ハンは大変にお怒りで、その場で返書を記すや、持たされて御座います。でも出る前にお水とニンジンはくれました」

 

 返書を読むと、怒りにわなないた文字でこうある。

 

『我が姪バトゥ、または不義理のウマ娘よ。お前がこんなに上手な文字を書ける様になったは誰のお陰か、よくよく胸に手を当てて考えてみるが良い。この恩知らずめが、お手紙をありがとう』

 

 貶しているのか褒めているのか喜んでいるのか分からない文面だった──バトゥは叔母の真意を判断するのに、見てくれや言葉について考慮するのをやめて、単に行動のみを材料とする事にした。すると、具体的な言葉にはならなかったけれども、様々な事が腑に落ちる気がした。

 あんなにおっかなかったチャガタイ・ハンが一切怖くなくなった。

 

 そうして、ある天上(テングリ)のご機嫌が良い日。バトゥはチャガタイの膝の上に収まって、まどろんでいた。玉座なんかより余程居心地が良かった。

 記憶に懐かしい母に似た匂いに包まれ、晩春のぽかぽか陽気にあてられて、遥かなる蒼天を仰ぎ見る。

 嗚呼、大いなるかな乾元(お空は広いなあ)

 手ぐしに毛並みを梳かれながら、バトゥは瞼の重みに抗う事をしなかった。まだ意識の欠片が残っている時、声が聞こえた。

 

「バトゥ。お前は貧弱なジョチなんかより、ずっと長生きせねばならんぞ」

 

 バトゥは頬に雨を感じて、やはり春の雨は暖かいのだなと思った。

 

 

 ◆

 

 

 黒海北岸に発したキプチャク軍は、そして誰も居なくった前の道を通ってバルカン半島を左旋回し、いざ本命に取り掛かった。

 世に言う《コンスタンティノープル奪還戦》である。ニカイア皇帝の親書(現存)によれば作戦はこうだ。

 

①ニカイア軍は東側から攻め上り、軍船を駆使して海から攻める。キプチャク軍は西側から攻め上り陸から攻める。これにて挟み撃ちとなる。

②コンスタンティノープルは海に突出した地形であるから、一度包囲してしまえば逃げ場は無くなる。

③こうして敵の士気を挫き城内の裏切りを待つ。この内応者は元ビザンツ帝国の旧臣であり、既に話は通じている。

④内応者の合図と共に城門が開いた所で一気呵成に制圧する。

⑤万歳。

 

 というものである。親書の最後には「完璧な作戦であり、労少なく実り多し」との太鼓判まであった。

 出陣前、この貰ったお手紙をバトゥは喜んでスブタイに読ませたそうだが、将軍は内容に触れないまま「私はバトゥ・ハンに従います」と言ったきり二度と読み返そうとはしなかった。

 それ以後、何か大将軍は鬼気迫る雰囲気を醸し出していたという。

 

 そして恐るべき速さでバルカン半島を打通したキプチャク軍は、作戦通りコンスタンティノープル西側の城壁を取り囲んだ。

 俄に西から出現したモンゴルウマ娘を見て、東に先着していたニカイア皇帝は驚愕した──何故作戦の立案者が驚くのか?

 端的に言って、本当に来るとは思ってなかった(・・・・・・・・・・・・・・)のである。

 

 彼が親書に説いた挟み撃ち作戦はあたかも共同作戦の様に読めるけれども、その実、両軍の負担には多大な差がある。

 大体、移動距離からして違う。ニカイア帝国はコンスタンティノープルの右隣、目と鼻の先である。また進軍先は己の古巣であり、言わば勝手知ったる土地なのだ。

 これがキプチャク軍では全く異なる。黒海北岸から遥々回ってこなければならない。全く知らない土地、しかも道中にはハンガリー王国を初め強大な敵対勢力が行く手を阻む。

 言わずもがなこの時代、運搬車両など無く、道路整備も碌に整っていない。兵站線の確保は全軍の生死に直結する。下手をすれば出征先で野垂れ死に必定である。

 

 数多の困難を切り抜け目的地に辿り着いたとしても、今度は城攻めに取り掛からなければならない。

 城攻めとは最も根気が必要な戦争形態だ。じっと囲んでいるだけでも莫大な兵糧を消費するし、兵の士気の維持は至難の技だ。

 そして世界屈指の堅牢さを誇るコンスタンティノープルの城壁は、ちょっとやそっとの攻城ではビクともしない。先の第四回十字軍の際は、防衛側の内部抗争により自壊してしまったのであって、決して帝都が誇る三重城壁が敗北した訳では無いのだ。

 

 加えて、ニカイア帝国とて《ローマ帝国》の都を不当に奪われた屈辱の二十年間、何もしてこなかった訳では無い。必死で食糧増産に励み、兵卒を訓練し、軍船を組み上げ、後背の異教徒とは政治的妥協を目指した。

 帝都奪還のための牙を研ぎに研ぎ澄ませていたのである。バルカン半島で動乱が起こり、意味不明な僭称国家ラテン帝国の注意が西に奪われている隙を突いて、己の力だけで帝都を奪還する自信は十分にあった。

 否、そうでなければならない、己の手で成し遂げなければ意味が無い! という唯一正統な《ローマ帝国》を自負する意地の様なものもあっただろう。

 

 総括して『キプチャク草原の蛮人はコンスタンティノープル西側で動乱を起こしてくれれば十分だ。あわよくば目障りな国家群もろとも共倒れしてくれれば良い』という所か。

 仮にキプチャク軍が来たとしても既に満身創痍であり、為す術なく引き返すしかないだろう──とニカイア皇帝はたかを括っていた。

 

 しかし、キプチャク軍は見参した。

 ほぼ無傷、補給十分の状態で──理由は単純明快。

 キプチャク軍は強過ぎた(・・・・)

 

 事実は先の、対ハンガリー王国・バルカン連合である《モヒの戦い》に明らかである。

 この戦いで隻眼の宿老スブタイ将軍と、若き皇女(プリンセス)バトゥ・ハンが用いた戦術は、三方同時分進合撃(・・・・・・・・)であった。

 軍団を三つに分け、三方向から一斉にかかる──というものだ。

 

 取り分け卓越した戦術には思えないだろう。が、それは我々が現代人だからである。

 考えてもみて欲しい。無線もGPSも無く、互いに離れた軍集団が連携するという事が、果たして容易だったろうか。

 第一、中世欧州世界に軍団を分けて進める(・・・・・・・・・)という発想自体が無い。というか、不可能だったのだ。

 

 筆者は《ワールシュタットの戦い》の折りにも触れたが、中世欧州の軍団というのは諸侯の私兵の寄り集まりに過ぎない。私兵なのだから、当然指揮権は各々諸侯が持っている。

 総指揮官なる者が居たとしても、あくまで名目上でしかない。「何の筋合いか貴殿に従わねばならぬのか?」と尋ねられればそれまでである。

 

 指揮系統がばらばらで一塊になっているのがやっとなのに、更に分かれて連携するなど出来ようはずも無い。

 道が狭いといって各々分かれて進もうとしたら、そのまま皆帰宅して軍団そのものが解体した──なんて話が残っている位なのだ(これは極端な例だが)。

 であるからして『一ヶ所に駆士を出来るだけ沢山集めて真正面からぶちかます』という戦の形に帰着するのは必然だった。

 呉越同舟(・・・・)などという耳触りの良い諺を信じていると、仲間に笑顔で毒を盛られる──良いか悪いかは別問題として、それが中世ヨーロッパという社会なのだ。

 

 しかし、モンゴル帝国軍では違った。

 大ハーンを頂上として、指揮系統は明確に一本化されている。

 この場合、大ハーンより派遣されたスブタイ将軍に、バトゥ・ハンがキプチャク軍の軍権を貸し与える、というシンプルな形である。

 そしてこれはキプチャク軍に限らないが、モンゴルの地方軍というのは、須らく大将軍の考案した練兵方式に則って一律訓練されていた。

 そのため、指揮者が誰であっても直ぐに地方の軍団を手足の様に動かす事が出来たのだ。

 

 指揮系統の一本化、加えてスブタイ将軍が最も重視した情報戦──モンゴルウマ娘のスタミナを存分に活かした綿密な外線網(・・・)の権能により、常時互いの分隊の情報を把握出来て初めて、三隊同時分進合撃が可能になるのである。

 

『分進合撃』の概念が欧州で芽生えたのは、十三世紀以後、貴族階級が次第に自前で戦費を賄えなくなった事で、軍といえば傭兵主体へと移り、それから徐々に王権が強まり、傭兵から常備軍へと過渡する──という流れの末にである。

 

 そしてウマ娘朝モンゴル帝国以降、その戦術を継承、完成させたのが、かのフランス皇帝《ナポレオン・ボナパルト》。そして芦毛の愛バ、駆兵戦術の天才《マレンゴ元帥》なのである。

 このフランスの無敵コンビは、分進合撃によって欧州各国による対仏大同盟を粉々に粉砕(文字通り)。

 そしてまた、分進合撃の弱点をも熟知しており《アウステルリッツ三帝会戦》では逆に分進中の敵を各個撃破の餌食にしている。

 ヨーロッパ中で暴れ回った、という点では共通なのかもしれないが、ウマ娘朝モンゴル帝国の衝撃から実に約六百年(・・・・)の時間差がある。 

 かなり大袈裟な言い方になるけれども、つまりハンガリー・バルカン連合軍は、六百年分先取り(・・・・・・・)した戦術をぶつけられた訳である。

 

 悪夢以外の何物でもない。

 此方がやっと一つに纏まっている所を、モンゴルの走弓兵は三方向から猛烈に迫って来るのだから──

 

 このキプチャク軍による《モヒの戦い》の推移を示した戦場俯瞰図を見れば、実に鮮やかに包囲を完成させている事が分かる。

 それはカルタゴのハンニバル・バルカの戦術を見た時と同じ類の感動を後世人にもたらす。

 戦争芸術。人命が大量に失われる悲惨な結果にも、美しさを見出してしまうのは人の業であろうか。

 このモヒの戦いについて、ウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者、世界的権威にして自らもウマ娘という女博士は、

 

「きれい。」

 

 とコメントしている、が、ここでは皇帝ナポレオンのコメントも併記しておこう。

 

「私の心に浮かんだ感覚に従うならば、バトゥとスブタイは優れた戦術家というより、美的に鋭敏な芸術家である」

 

 そして後日「マレンゴ元帥の次に」と付け加えた。何か理由があったのだろうと言われる。

 

 

 ◆

 

 

 コンスタンティノープルの正当な所有権を主張するニカイア皇帝の計略に拠れば、帝都を東西から包囲して士気を挫けば、間もなく内通者により開門される手筈であった。

 しかし一週間経っても指一本分も門が動く様子がない。焦れたニカイア皇帝は密書を遣わす。果たして返ってきた返書は、

 

『話と違う』

 

 というものだった。

 全く正鵠を射ていた。元々、モンゴル軍が参陣する予定ではなかったのだ。内通者からすれば、正当な《ローマ皇帝》が大義名分を下げて堂々と帰参する──そういう筋書きだったから、裏切りという罪について折り合いもつけられたのである。

 更に返書は語る。

 

 嗚呼それなのに、皇帝よ、げに恐ろしきタルタル人を引き連れて来るとは何事だ。

 総大将バトゥ・ハンは、あの(・・)チンギス・ハーンとジェベ将軍の孫である。しかも陣頭には泣く子も黙る恐怖の代名詞《SUBUTAI》が立っているという。

 二十年前《ワールシュタットの戦い》でレグニツァ十字軍が(みなごろし)されたのを忘れたのか(ポーランド王を除く)。そして現在、コンスタンティノープルを占拠しているのも、同じ十字軍(第四回)戦士である。

 この事からも、悪しき異民族の狙いは明らかではないか。いま開門するのは、それは地獄の門を自ら開け放つのと同義である。

 こうなった以上、死ぬ気で交戦する他に我々に生きる術は無い。嘆かわしや、あなたは悪魔に魂を売り渡したのだ──

 

 ぐうの音も出ないとはこの事だった。

 ニカイア皇帝の思い描いた奪還作戦は灰燼と帰した。いや、それで完結すればまだ良かった。内通が望まれないとして、今度は意気揚々と参陣したキプチャク軍の扱いに困った。

 キプチャク草原における覇権の正式な承認、モンゴルウマ娘の自由通行権、毎年の貢納金、その他諸々の特権──その見返りに、援軍を要請しているのである。

 今更「御礼は出来ません、帰って下さい」では通らないし、ただでは済まない。頭から尻まで串を貫き通され火で炙られ腸を喰いちぎられる(当時の一般的なモンゴル人のイメージ)。

 

 皮算用のツケが回ってきたニカイア皇帝は後に退けなくなった。こうなった以上、是が非でもコンスタンティノープルを奪還しなければ《ローマ帝国》の明日は無い。

 

 即刻、ボスポラス海峡に陣するニカイア軍船に攻撃準備が下った。海軍は驚く。話が違う、攻撃はしない計画のはずでは──そして事情が話される。否も応も無い。こうなれば全軍が運命共同体である。

 

 ニカイア軍で一番揉めたのは、誰が総攻撃の連絡をキプチャク軍に説明するか、であった。そんなの誰だって行きたくない。筆者も行きたくない。

 揉めに揉めた結果、最後に役目を押し付けられたのが外務大臣──の下っ端の下っ端、一昨年赴任したばかりの若い役人であった。

 彼は「神よ」と泣き叫んだが、同僚たちに慈悲は無い。格好だけベテランらしく見える様に飾られて、西対岸行きのボートに押し込められた。

 そして、たった独りと一隻のボートがボスポラス海峡を渡った(漕ぎ手に職務拒否されたため本当に独りだったらしい、哀れだ)。

 

 さして広い海峡でもなし、間もなくボートは対岸に着いた。木っ端役人が独りがたがた震えていると、迎えにやって来たのは尾花栗毛(きんぱつ)のウマ娘であった。何となく、西洋人に馴染む顔立ちをしている。

 彼女に悪魔の角が生えていなかったので、ほっとしたのも束の間「お客さん。いらっしゃい、いらっしゃい」と何故か嬉しそうなウマ娘に、ぐいぐい腕を引っ張られる。バ(りき)に人間は敵わない。ボートから引きずり出される。

 押し込められたり、引きずり出されたり、彼の心中は推して知るべしである。

 

 果たして連行されたのは、キプチャク軍本陣であった。

 数多のウマ耳がくるくる動いている。やはり尾花栗毛が割に多く、観察すれば碧眼の娘も居る。だが皆に共通するのは、ポニーちゃんの様な幼い顔立ちである事だ(西洋人基準)。

 ごろごろしているウマ娘たちの「お客さん?」という好奇の視線を全身に受けながら更に進み、遂に奥の天幕まで連れて行かれる。

 

 天幕に入った途端、思わず彼は目を細めた。眩しかったのだ。眩い光の奥には、明るい栗毛のウマ娘が座っていた。

 キプチャク(ハン)の住処は目も眩む黄金で彩られている──その事を思い出し、哀れな使者は慌てて平伏した。

 

「いらっしゃい」

 

 キプチャク王──バトゥ・ハンは朗らかな笑顔で使者を迎えた。恐る恐る男が顔を上げて顔を見ると、やはり西洋人の基準でポニーちゃんだった。

 彼は意を決して、一言一句偽り無く事情を話した。

 

「予定が狂ってしまい急遽総攻撃を行う事になりました。キプチャク軍におかれましても、願わくば助力を──」

 

 喉につっかえつっかえ言葉を紡ぐと、バトゥは耳をぴくりと動かし「ふーん」と言った。

 彼女の言葉は、それ以上の意味でも以下の意味でも無かったが、下っ端役人の肝を無形の槍で貫く位の威力があった。

 

「スブタイ」

 

 外から「応」と返事があり、白毛玉の怪物みたいなウマ娘が天幕に入って来て、跪いた。

 

「お主の言う通りになったぞ」

「……攻撃ですか」

 

 ずんぐりした白いもさもさの合間に、片方しか無い目玉が鋭く閃いた。

 男は、どうっと冷や汗をかく。この真綿の親分みたいな隻眼のウマ娘が《SUBUTAI》──十字教の敵、欧州人の恐怖そのものか。

 無論モンゴルウマ娘は知った事ではない。

 

「あまり的中して欲しくはなかったですが」

「その慧眼に感心したわ」

「バトゥ・ハンに申し上げます」

「許す」

「我々は万という敵を破り、海を迂回し、遥々やって参りました。この上、当初の約定を違え、攻勢に加われとは虫の良過ぎる話」

「仕方あるまいよ、人助け(・・・)だもの」

「モンゴルを軽んじております」

「んん、それは駄目だな」

 

 バトゥ・ハンはニカイア帝国の代表者を見て、小首を傾げた。天幕の煌びやかな黄金宝飾以上に、煌々と目が光っている。

 

「お主ら、モンゴルを軽んじておるのか?」

 

 彼は首が千切れる程に横に振った。

 バトゥの方は安心した様に笑う。

 

「ほらね、こう申しておる」

「私はバトゥ・ハンに従います」

「攻撃準備は済んでいるな」

「既に」

「やれ」

「諾」

 

 踵を返した大将軍は、歩みを緩めて、すれ違いざま男を横目で睨んだ。二十年前《ノルマンディーの戦い》で潰された片目を眼帯の上から撫でる。

 

 彼の正体が、ローマなんとか(・・・・・・・)の下っ端も下っ端に過ぎない事はとっくに承知であった。その時点で既に無礼である。だがバトゥ・ハンが敢えて目を瞑ると言うのなら、素直に従おう。

 しかし、これ以上バトゥが異国に無礼(なめ)られるのは我慢出来そうにないし、する必要も感じなかった。よもや御身のもしもの事あらば、例え大ハーンが許しても、鬼の形相のチャガタイ・ハンが地の果てまでも駆けて来て断罪するだろう。

 そして何より──チンギスとジェベ、二人の朋友の血脈を一杯に受けたバトゥを、スブタイは愛おしく思っていたのである。

 

 大将軍が天幕を出るまで、異国の使者を睨んでいたのは僅か数秒に過ぎなかったが、彼の顔色を見るに意図は十分に伝わっている様だった。

 実際、彼は自陣に戻って正確に報告したのである。

 



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攻城兵器と色目人の活躍について

 

 

 歴史上、呼びつけられた上で放ったらかしをくった軍集団というものは大抵ろくな事をしない。

 悲しきかな現代においてもそうなのである。国際法の概念が生まれる以前では尚更であった。士気を維持するためという名目で、民間人への非人道的行為が公然と容認される場合がままあった。

 

 ニカイア帝国に呼びつけられたキプチャク軍は、その点において稀な部類であったろう。

 ほぼウマ娘駆兵のみで構成される伝統的なモンゴル帝国軍は現地徴発、という名の略奪を行わなかった。特段厳しく禁止されていたという訳ではない。

 単純にモンゴルウマ娘は、補給十分なのに他から奪う、という発想に至らなかった様である。

 

 ではモンゴルウマ娘は全く善玉なのか、かというとそうではない。いざ補給不足に直面したならば、彼女らは一片の容赦も慈悲も無く──恐らく生活活動(・・・・)の一環として、無辜の民から収奪を開始しただろう。

 モンゴルウマ娘にとって、生きるために必要な分だけ奪う事は悪ではない。分不相応に奪うのが悪なのである。

 

 しかし食物繊維(くさ)を炭水化物にまで分解消化出来る微生物と、仲良く体内で共生しているモンゴルウマ娘である。文字通り道草を食っていればそうそう飢える事はない。

 にも関わらず飢えるという事は、ひどい、誰が悪い、それは大将が悪い──という事で、補給不足を現実に起こした大将は無能者の烙印を押されて、部下たちにくびり殺される(草原に血を流さないやり方、袋詰めにして踏み殺すなどバリエーション様々)。

 

 戦争の勝敗は天上(テングリ)のご意志に依るものがあるから負けても仕方無い。だが飯が無い(・・・・)というのは言い訳し難い地上の罪悪である──という理屈である。

 モンゴルウマ娘にとっては、敗戦よりも補給不足の方が罪が重いのだった。

 尤も、そういう分不相応者はチンギス・ハーンによる高原統一の折に一人残らず抹殺されたので、モンゴル帝国軍の補給事情は小綺麗なものであった。皆を飢えさせる大バ鹿者を粛清する事は敬服に値する善政と見なされた。

 

 補給に関する軍規も峻厳である。横流しなどしようものなら即刻厳罰、毛並みを切り取り捨てられる(一方で、味見(・・)くらいなら良いよね、という奇妙な緩さがあった。モンゴル的)。この補給に関する明朗さは、ウマ娘朝モンゴル帝国の興亡に一貫していた。

 そういう道徳観念の中に、モンゴルウマ娘は暮らしていた。

 

 

 さて、今の所は補給十分なキプチャク軍はコンスタンティノープル西側の城壁を包囲したまま、ニカイア帝国におあずけをくっている。

 士気が乱れる事はなかったが、モンゴルウマ娘はただじっと待っている事が大苦手である。遥々長旅をしてきて、今更何もするなと言われても遊牧民の血が騒ぐ。

 筆記係ウマ娘も退屈だったのか、モンゴルの常時まばらなのびのび歴史記録が、待機期間中だけ妙に多い(もっと他の記録を頑張って欲しい)。

 ごろごろしたり、相撲(ブフ)をしたり、さいころ(シャガイ)を振ったり。潮水でも魚が釣れる事を初めて知ったとか、他には犬の記録もある。

 

 犬である。河原毛(ベージュ)を巻いた。

 どうやらキプチャク草原では見られない、もの珍しい犬種だったらしい。これは元々、先のハンガリーにおける《モヒの戦い》がキプチャク軍の完勝で終わった際、屍肉を漁りに這い出てきた犬だった。

 死体のはらわたに鼻を突っ込んでいる所を、さるモンゴルウマ娘が背後から持ち上げて「ひろったひろったひろった」と連呼しながら、バトゥ・ハンの下に持っていった。鼻頭を朱に染めたまま、くんくん鳴いている犬を掲げて「飼っても良いですか?」と聞いた所「いいよ!」と許しが出たため仲間に加わったという。

 そしてモンゴルウマ娘に撫でられたり、(ホニ)肉のおこぼれに与ったりしながら、故郷ハンガリーを遠く離れてコンスタンティノープルまでやって来た犬である。

 

 モンゴル人は犬好きである。羊さんを追う時の心強い友だ。例に漏れずバトゥ・ハンも犬が好きだった。愛犬も沢山いた。

 しかし、どうやら偉大なるチンギス・ハーンは犬を嫌っていたらしいのだ。

 こんな話がある──幼いバトゥが祖母に顔を見せに行った際、飼い犬を連れて行った。モンゴルウマ娘としては真っ当の事である。

 しかし、可愛い孫の横で舌を垂らしている犬を見て、大ハーンは未だかつて見た事が無い深刻な顔をして言った。

 

「バトゥよ。わんころというのは、尾っぽを振っておきながら、腹に飢えたケダモノの本性を隠している姑息な生き物だ。気高い蒼きウマ娘の裔が関わり合いになるものではない」

「そうですか? ほら、こんなにかわいいのに」

「ぴゃ。」

「ぴゃ?」

「下がれ、誰が近付けて良いと言った。であえ衛兵! 何を突っ立っておるか。そのケダモノを他所にやれ」

 

 モンゴルには犬を贈り物として渡す、という風習があった。プレゼントとして外れ(・・)がないからである。

 だが偉大なる大ハーンに限っては好まないという事、これは失礼があってはならない、皆に教えなきゃ──という義務感の下、大ハーンが犬嫌いという情報は瞬く間に帝国影響下の土地に拡散。

 モンゴル帝国影響下の土地という事は、つまりほとんどユーラシア全土である。大陸をぶち抜く様に発達した駅伝(ジャムチ)も拡散を加速させた。

 果てはヨーロッパ人の耳まで伝わり、何をどう曲解されたのか「今度モンゴルが攻めてきたら盾に犬を括り付けて戦おう」という議論が真剣に行われたという記録もある。まるで滑稽話だが、当人たちの藁にも縋る思いがひしひしと伝わってくるので微妙な気持ちになる(モンゴルウマ娘に攻撃を躊躇わせるには案外有効かもしれない。しかし激怒は免れ得ないだろうから、やはり止めておいた方が吉だろう)。

 

 さて、ともかく、ハンガリーの拾われ犬は待機中のモンゴルウマ娘を大いに慰撫したらしいのだが──犬の話をしても仕様が無い。モンゴルの記録に拠っていては、何を書いているのか分からなくなってくる。

 

 

 閑話休題。

 ニカイア帝国と協議の末、《魔王》バトゥ・ハンによるコンスタンティノープル総攻撃は決定された。

 指針の決まったモンゴル人の行動は常に迅速である。黄金の天幕(ゴールデン・オルド)から《万バ不当》スブタイの白いもさもさ頭がのっそり出てきた時、モンゴルウマ娘たちは、また閑暇の慰みにバ頭琴を奏でてくれるのかな、と思った。うきうきして歌と踊りの身構えをする。

 

 違った。大将軍は天幕横に備えられた巨大な陣太鼓を叩いた。皆々はぴくりとウマ耳を音に向けた。告、全軍整列──犬を撫でる手は止まり、即座に軍事行動は開始される。

 モンゴルウマ娘が一斉に動き出す様子は、無秩序に、蜘蛛の子を散らす様にも見えた。但し最終的には、まるで反対の結果をもたらした。

 間もなく、彼女たちは然るべき位置に然るべき装備で、ぞっとする程に秩序立って集合していた。

 

 天幕内からキプチャク草原の主が姿を現した。

《大ハーン》チンギスの孫にして《韋駄天》ジェベの孫。良血中の良血──皇女(プリンセス)バトゥは、父系の祖母譲りの明るく細やかな栗毛を掻き上げ、母系の祖母譲りの凛々とした視線を以て同胞らに臨んだ。

 スブタイ将軍が深々低頭し毛玉になる。幾何学模様めいて整列したキプチャク軍が後に倣った。黒、茶、金のウマ耳林は一斉にぺこりとした。

 若い精気に満ちたバトゥは満足気に頷き、同胞に告げた。

 

「大いなる天上(テングリ)の力にて。我々は遠く駆け、障害を破り、海を回って参った。苦労と思う同胞は、まさかこの中におるまい。それ全て人助け(・・・)のためである。即ち私の意志であり、聚会(クリルタイ)の意志であり、大ハーンの意志である。ウマ娘たるもの、重荷を負い、困り果てた人間さんを捨て置いて何の報いがあろう。果たして、地を行く人が許したとて──」

 美しい栗毛に黄金の耳飾りを揺らして、今日は機嫌の良い蒼穹を指す。

「久遠なる天上(テングリ)が許したもうか。重荷を肩代わりするのは、真にウマ娘の冥利なり」

 

 うんうん。得心しているキプチャク草原の同胞たちへ、最後にバトゥ・ハンは最も彼女らしい言葉で締めた。

 

吝嗇(けち)は嫌いだ。盛大に、やれ」

 

『フラアァァァ──』モンゴルの鬨の声が上がった。それは異邦の大地を揺るがす雄叫びであった。

 バトゥは毛玉になっているスブタイを見やると、もさもさの合間に隻眼が頷くのを感じた。皇女は徐ろに佩剣を抜き、前方、コンスタンティノープルの三重城壁へ切っ先を向けた。

 

「放て」

 

 号令一下。キプチャク軍中に屹立していた数多の木造機械装置が一斉に唸りを上げた。分厚い十字教の砦に石弾の豪雨(・・・・・)が降り注いだ。

 

 

 ◆

 

 

 

【挿絵表示】

 

図1.一般的なトレビュシェット

 

 

 遠投投石機(トレビュシェット)

 ペルシア語でマンジャニーク、漢語では回回砲と呼ばれる攻城兵器である。中世当時、火薬が実用化される以前では最先端兵器であった。

 てこを用いて物を放り投げるその威力とは? 果たして、モンゴルウマ娘二人分(具体的に追求はしない)と同じ重さの石弾を三百(メートル)以上も飛翔させる事が出来たという。

 キプチャク軍は、コンスタンティノープル攻略にあたって遠投投石機を二百基(・・・)揃えていた。とてつもない数である。一つ所にこれだけの数を集結させるケースは世界史上に類を見ない。

 しかもキプチャク軍は遠征軍(・・・)である。つまり、野戦でハンガリー王国をこてんぱんにするのと同時並列で、この巨大な機械を遥々運んで来たという事になる。

 

 ジェベ・ウルス(キプチャク・ハン国)の用兵リソース振り分けはどうなっているのかと頭を抱えたくなる──幸い、物資的発展から見たウマ娘朝モンゴル帝国研究の先駆者には事欠かぬので有難く参考にさせて頂く。

 

 長距離運搬に不自由な筈の攻城兵器には、モンゴル式の改良が施されていた。彼女らの徹底的に合理化された遊牧生活のノウハウが惜しみなく詰め込まれ、分解組立に最適化されていたのだ。

 しかし改良なさしめると言っても容易な事ではない、そのためには自然科学への深い造詣が必要になってくる。お世辞にも、文字も知らない素朴なお天道様(テングリ)信仰のモンゴルウマ娘たちに科学知識は無い。

 そこで役を担ったのが、色目人──モンゴルで大雑把に西方の人(・・・・)を指して呼ばれる人々であった(トルコ人もアラブ人も欧州人もアフリカ人も、モンゴル人に言わせれば一緒くたに『色目人』になってしまった。そこに差別的な意図は感じられない。そも人種という概念を細かく気にしていなかった様だ。モンゴル的)。

 

 そして格別モンゴル帝国内で活躍したのはペルシア人である。件の攻城兵器の改良を理論面で支えたのは、ペルシア人の物理、数学、工学者らに他ならない。

 時にペルシアは太古の昔から文明が花開いた土地であり(古代ローマをぼこぼこにした遊牧国家パルティアもペルシアの国)、中世当時の国際語(リングワ・フランカ)といえばペルシア語だった。

 当時の市場調査を紐解けば、チンギス・ハーンの遠駆け以来、ペルシア商人がモンゴル帝国の交易路に続々と入って来ているのが分かる。欧州から中華まで豪快にぶち抜かれた草原の道(ステップロード)が、絹の道(シルクロード)に匹敵する大交易路として栄えた証左であろう。

 

 月星教徒の商人は元々陸上交易を生業としていた背景があり、またウマ娘朝モンゴル帝国には憎き十字軍を殲滅したという事実がある。そして敵の敵は味方理論で武装した恐れ知らずなペルシア商人が、先進的な文化を携えやって来たのだった(なお後にその論理武装はバトゥの従姉妹、フレグのペルシア遠征で粉砕される)。

 基本的に来る者拒まずのモンゴルではあるが、ペルシア人の流入が更に加速したのは、やはりバトゥ・ハンの婿取り(・・・)が分水嶺であろうと諸研究者は見なしている。

 それは以下の様な話だ。

 

 

 とある若きペルシア商人が、故郷エスファハーンで一財産を築いた。それなりの貯金額を眺めた時、人が考える事は古今同じ様で、つまり彼は人生の区切りと思い旅行がしたくなった。

 何はさておき先ずはメッカ、エルサレムと、月星教徒としての聖地巡礼を果たした後、次にアジア世界に興味を持つ。

 どうやらアジアでは新興のモンゴルというウマ娘国家が栄えているらしい、ひとつ見てみたいものだ──その若さ故の冒険心か、或いは無鉄砲がペルシア青年の運命を変えた。

 

 彼はラクダに乗ってシリアを北上し、アナトリア半島の付け根を縦断し、黒海に漕ぎ出した。着岸したるはクリミア半島のヤルタ港(ヤルタ会談の舞台で著名)、そこからまたラクダに跨り陸路で北上、キプチャク草原に入る。

 かつてルーシと呼ばれた見渡す限りなんにも無い原生草原に思いを馳せ、そして果てなき東方アジアへと愛駝の鼻を向けたのだった。

 東進するに従って野生のモンゴルウマ娘と出会う事が増えてゆき、とうとうジェベ・ウルスの首都サライへ至る。モンゴル西翼の都の有様を、彼は、

 

「何処を見渡してもウマ娘と羊だらけだ、ここが天国かもしれない」

 

 と率直な感嘆を著している。

 長居したい気持ちは山々だったものの、青年は旅の途上にある事を自分に言い聞かす。数日間休憩をして、再び出発しようとした、その時であった。

 ラクダの鞍上に在る彼の瞳に、きらりと光が射し込んだ。おや何の光だろう──首を動かして辺りを探ると、向こうの方でモンゴルウマ娘集団が野駆けをしている。

 その先頭を走るウマ娘の黄金の耳飾り(・・・・・・)が、日光をぴかぴか弾いているのである。

 嗚呼のびやかで綺麗だなと和み、その娘を眺めていると、ウマ娘たちは鞍上の視線に気が付いた様だった。ウマ耳を寄せ合って、何やらひそひそしている。邪魔したら悪いと思い、旅人は立ち去ろうとした──が、しかしモンゴルウマ娘集団は、いきなり旅人を猛追して来たのだ。

 

 たまげたのはペルシア青年である。愛駝の手綱をしばく間も無く、恐るべき連携でたちまち包囲されてしまった。

 彼の脳裏にはモンゴル帝国の黒い噂が走マ灯の様に駆け巡る。そうして浅黒い肌を青くさせたペルシア青年の前に、あの黄金の耳飾りを付けたウマ娘が、ずいと進み出た。耳飾り以上に、目がぎらぎらしている。

 たまたま友達と野駆けをしていたウマ娘──バトゥ・ハンの言葉は、果たして、

 

「いま私の走りを見たな? お前も今日からモンゴルだ」

 

 青年の旅は終わった。

 

 

 年頃になったというのに結婚へ関心を示さず、叔母にして後見人チャガタイ・ハンにも小言を言われていたバトゥの婿取りは、周囲に大変祝福される所であった。

 本人曰く「しびれた。」との事で、要は一目惚れだったらしい──不思議とモンゴル皇族は異民族を伴侶にしたがる傾向がある。太宗チンギスの半身こと耶律楚材も契丹族の出身である。すると大ハーンの血脈が子孫を駆り立てるのかもしれない。

 

 そして、これは何度でも強調しておきたいが──モンゴルウマ娘が旅人を強引に伴侶にしてしまうのは社会秩序と天上(テングリ)に対する重罪であった。

 貞操観念の極めて堅固なモンゴルウマ娘であるから、例え良さげな男を持って来ても、きちんと手順を踏み結婚を周知させて、天と地とに祝福されなければ正式な夫婦にはなれなかった。

 もし「返してきなさい」と言われれば、素直に従う他には、追放されるしかない。況や、婚前交渉などもってのほかである。 

 その原則に皇族も野良も関係無い。バトゥも一族に知らせた上で婚姻を結んでいる(チャガタイ・ハンはちょっとだけごねた、姪子に結婚して欲しいのかそうじゃないのかどっちだ)。

 なおこの時、夫側の意志は全く問題にされない。当然である、中世の結婚に娶られる側の意志など尊重される筈がないのだ。そこに愛があるかは、また別問題として扱うべきであろう。

 

 さて、青年の旅がいきなり終了しましたと言っても人生まで終わる訳では無い。ひょっとバトゥ・ハンの婿になってしまったペルシア人であったが、境遇は人生の墓場(・・・・・)とは程遠く、意外にも自由を束縛される事はなかった。

 妻は日頃羊を追って外に出て、ついでに政治をしていて全然家に帰って来ない。その間は全くの自由時間である。

 始まりがショッキングだっただけに肩透かしをされた心地の青年であったが、それがモンゴル流だった。元は欧州フランス出身という先輩方も彼の肩をそっと叩く。

 新郎は自由時間を本業に充てる事にした。つまり商売である。彼は故郷ペルシアに向かってこう宣伝した。

 

「モンゴルは商いのしやすい素晴らしい国です。道中は安全、関税は安く、しかも信教は自由です。ですから皆さんいらっしゃい」

 

 まるで本当の事しか言っていない誠実なコマーシャルである。効果は抜群だった。謎の新興超大国への商売に二の足を踏んでいたペルシア人たちは、同郷の士の声を頼りに、こぞってやって来た。

 そして色々な理由から永住するに至る──どんな理由があるにせよ、第一に、やはりモンゴルは平和で暮らしやすかったのである(因みに、弾力性に富んだ月星教徒とは裏腹に、十字教徒は全然来てくれなかった。モンゴルウマ娘は訝しんだ)。

 

 新天地に移り住んだペルシア人たちは、先進的な自然科学をモンゴルに伝えた。そうして受け止めた知識を、モンゴルウマ娘たちは瞬く間に帝国全土で共有する。それは大ハーンの犬嫌いがあっという間に拡散された経路と完全に同じであった。

 モンゴルの吸収力には凄まじいものがあった。新しい知識に対する拒否反応というものがなかったのだ。西方人を全部まとめて『色目人』にしてしまう、ある意味での懐の深さは、知識に関しても同様であった。

 

 そうしてペルシアから導入された最新科学の、ほんの一端が《コンスタンティノープル奪還戦》における、キプチャク軍の総勢二百基という途方もない攻城兵器の群れとして結実したと言えるだろう。

 

 

 ◆

 

 

 さてもコンスタンティノープル西方に陣取るキプチャク軍に号令が下ると、遠投投石機(トレビュシェット)から射出された二百の石弾が、一斉に帝都の城壁に降り注いだ。

 それら一発一発が、堅固な石壁を抉り取る猛威を振るう。破壊の豪雨が去った後には、もうもう立ち昇る土煙の中に、ほとんど原形を保たない防御塔と、不自然な沈黙だけが残った。

 壁上の衛兵らは、隣の塔の有様に愕然とする暇も無い。信じ難い、信じたくない早さで再装填を済ませたキプチャク軍に、例の号令が下る──全くの波状であった。

 

 コンスタンティノープルに籠る《ラテン帝国》軍にとって、キプチャク軍の鬨の声は地獄の叫喚であり、降り注ぐ巨石は魔王の憤怒であった。

 帝都の城壁は、この千年間、夷狄(いてき)を阻み続けてきた。屈強なアラブウマ娘を山の如く従えた《ウマイヤ朝》ですら、遂に陥落させる事は出来なかったのである。

 これは十字教徒にとって論議無用の事であった。古来コンスタンティノープルは神の加護を受けた都市だった。第四回十字軍がこれを落とす事が出来たのは、十字軍が神の加護を上回ったためであった。正しい信仰を持たない異教徒共に、この神聖都市が落とせる法理が無かった。

 

 しかし、事実、そのコンスタンティノープルがモンゴル帝国によって脅かされている! 轟音と共に崩れる城壁以上に、彼らの心の深層を固める壁が、がらがら音を立てて崩れ去っていった。

 有り得てはならない現実を直視した彼らは、これが十字教の同胞たる東ローマ帝国の都を劫掠した報いか、と思った。罪悪感を喚起させるには少々遅い様だった。

「神よ!」ウマ娘朝モンゴル帝国に対面して、十字教徒は毎度同じ言葉を叫んだ。やはり大体の場合が手遅れであった。

 

 

 変わってキプチャク軍団である。

 遠投投石機の腕が大きく弧を描く度、高い城壁がぼこぼこ崩れて行く様子に、モンゴルウマ娘は大ウケだった。

 笑っていた。上手い冗談を聞いた時と同じ様に振舞った。特に防衛塔の崩れる轟音が鳴ると、わっと足を踏み鳴らして興奮していた。向こうの城壁と同じ位に地面がぼこぼこになった。

 

 弁明という訳でもないが、彼女らには彼女らなりの文化がある。

 歴史上の遊牧ウマ娘は地球上のあらゆる地域で超破壊を行ったが、それは彼女らが固定資産(・・・・)の概念をいまいち理解していない事に原因がある。それは仕方が無いだろう、生まれ育った環境の違いである。

 遊牧ウマ娘は、何なら「土地が平らになった方が牧地が増えて羊さんが喜ぶ」位な前向きな捉え方をしているのだ。

 そんな彼女らの目には、そびえ立つ堅牢な建物、というのは如何にも不自然に映った。不愉快まではゆかずとも、とても不思議であった。そして、それが派手に崩壊する時──遊牧ウマ娘の中に抗い難いおかしみが生じる、らしい。

 

 なお余談であるが、筆者がモンゴル高原にフィールドワークをしに飛んだ折、現代のモンゴルウマ娘は『ジェンガが崩れる様子』を大いに笑っていた。その弾ける様な笑顔を見るに、決して意地の悪さから笑っている訳ではないという事を、私は保証する(非電源かつ直感的ゲームという事でたまたま筆者が持ち込んだものだが、あんまりウケるので置いて帰ってきた)。

 

 そしてまた一つ、自然科学に裏付けられた投石機が作動し、防御塔が崩落した。

 巨大な投石機の根元に付けられた装填車(中にウマ娘が入って走ると弦を巻き取る仕組み、ハムスターが回しているあれの親分)から、モンゴルウマ娘がひょっこり顔を出す。

 

「当たった? 当たった?」

「大当たりぃ」

「ねえ、次は私にやらせて」

「ちょっと、私が先よ」

「あなたはさっきやったでしょっ」

「私も私も」

「こらぁ! 喧嘩しない、順番です」

「はーい」

 

 百戸隊長へ素直に従い、装填車前に行列を作るモンゴルウマ娘たちである。上官に逆らうと問答無用で尾っぽを切り落とされるからだった。

 その後方で、バトゥ・ハンも遊牧ウマ娘の感性に漏れず石壁が崩れるのを愉快気に見ていた。

 ほんのり頬が紅潮している。牛の角をくり抜いた盃で《魔王》バトゥは、捕虜から搾り取った真っ赤な生き血──ではなく、真っ赤なグルジアワインを嗜んでいた。

 コーカサス山脈の向こう側より、黒海海運を経て舶来した葡萄酒はバトゥ・ハンの好物であった。フランスの血を引く尾花栗毛(きんぱつ)や碧眼を持つ近習ウマ娘たちも、大きな(かめ)から好き好きにワインを掬って飲んでいた。たちまち中身が空いてしまうと、ラクダさんがおかわりの甕を運んできた。

 そしてバトゥに付いて酌をしているのは、ペルシア出身のハン専属指導人である──この文化のごった煮(・・・)感が、端的にジェベ・ウルスという国を表している様であった。

 

「そんなに面白いものですか」

 

 モンゴルウマ娘に言わせる《ラクダの王子様》こと、ハン専属指導人が聞いた。率直な疑問という風だった。バトゥは「うん」と首肯して、反対に聞いた。

 

「そちは面白くないのか」

「ええ、はい」

「ふうん、勿体無いな」

 

 感想を押し付ける訳でもなければ、気分を害したという雰囲気でもなく、バトゥは盃を傾けた。彼女は世界に様々異なる知見が満ちているという事を知っていたし、その事が好きであった。

 バトゥは、皆に装填車の順番が巡るだろうかと案じた──しかし、その行列が解消されるためには、コンスタンティノープルの城壁が三枚だけで足りないのは、もはや誰の目にも明らかであった。

 



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帝都陥落、そして時代の変遷について

 

 

【挿絵表示】

 

図1.122X年 コンスタンティノープル奪還線 布陣図

 

 

 千年の都コンスタンティノープルの三重城壁が、蛮族の嗤いと共に灰燼と帰しつつある。

 金角湾に陣取る軍船団──その旗艦の上で、唯一正当なる《東ローマ帝国》、今は亡命政権《ニカイア帝国》に甘んじている老人皇帝は歯軋りした。

 彼は今、愛しき故郷の面影が失われつつある報告を聞いているしかなかった。

 

 攻城戦とは、決してその場で勝って終わりなのではない。為政者にとっては、むしろ勝った後(・・・・)の処し方こそ主戦と言って良い。例え帝都奪還を果たしたとして、瓦礫の山に佇んでどうしろと言うのか。

 だがモンゴルは、そこを全く慮っていない。遠投投石機(トレビュシェット)が二百基という想像するだけで目眩のしそうな飽和弾撃で、見る間に都を平ら(・・)にしている。

 やりたい放題だ。まさか戦後処理と再建の重みが分からぬ筈はあるまい。これでは援軍の見返りとして提示した貢納金の徴収さえ不可能になってしまうではないか──

 

 定住民たる者にとって、実に遊牧民は破壊するために破壊しているとしか考えられなかった。かなしい価値観の相違である。

 ただ間違いない事は、異民族を招いたのは皇帝自身であるという事だった。予定を曲げて総攻撃を申し入れたのも然り。口上で無茶を言っているのは此方側で、モンゴルウマ娘は素直に約束を守っているだけだ(常に想像を上回ってはいたが)。

 

 キプチャクの《魔王》めが! それにつけてもラテン人(十字軍)が憎い──老皇帝は日課の呪詛を吐いた。

 確かに歴史上、内輪揉めに異民族を呼び込んでろくな事になった試しがない。中華世界において三国時代が終焉後の、五胡十六国時代が良い例である。げに歴史は繰り返す。

 

 不意に老ニカイア皇帝は、船団をもっと岸壁に寄せろ、と命じた。船は命令通りに動く。

 そして、全身くまなく武装した皇帝は旗艦のガレー船の船首に立った。手には栄えある東ローマ(ビザンツ)帝国の大国旗を固く握っている。

 旗艦の乗組員は仰天した。既に敵の防御塔から矢が届く距離である。「危険です、お戻り下さい」と臣下の声に耳を貸さず、仁王立ちした男一匹が咆哮した。

 

「奮い立て、名誉あるローマ市民よ! 帝国の興廃この一戦にあり!」

 

 あくまで前方を見据え、男は両手にした大国旗を全船団に見える様に大きく振った。

 正しく言葉通りであった。こうなったらコンスタンティノープルが平らか(・・・)になる前に、自らで攻略せしめるしかローマの未来はなかった。

 老いて丸まったその背中は、後世《魔王に魂を売った皇帝》と呼ばれる、祖国滅亡の辛酸を舐め尽くし、後半生の全てを祖国復興に捧げた男の執念の背中であった。

 果たして、その執念はローマ市民に伝わった。次々に船上で鬨の声が上がる。故郷を奪われた悔しさは皆とて同じ想いであった。

 

 船団が着岸すると同時、真っ先に皇帝が旗艦を飛び降りた。城壁から矢が降りしきる最中を、全身全霊で旗を振りながら、雄叫びを上げて城門へ突っ込む。自暴自棄ではない。ここで退いては生きる意味を喪失してしまうからだった。

 この姿に心打たれたのがギリシャウマ娘である。彼女らは主に軍船の漕ぎ手として従軍していたのであるが、老体に鞭打ってひた駆ける皇帝の背中を見て、じっとしていられなくなった。

 

皇帝(バシレウス)に続け、お爺様を死なせるな!」

 

 一斉に掛け声するや、(オール)の代わりに破城槌を担いだギリシャウマ娘が突撃する。まごついていた兵士たちは、誰もが自分の勇気の足りなさを恥じ、先を争って上陸し始めた。

 金角湾側の防備は手薄であった。西側城壁の圧倒的破壊の暴風雨に注意を割かれていたのだ。そこへ気が触れた様に大国旗を振り回す老人を先頭に、ギリシャウマ娘を含むニカイア軍が殺到して来たのである。

 見事な挟み撃ちであった。ようやくまともな形で皇帝の策略が生きてきた。或いは、未だ《ローマ帝国》が神に見放されていなかったという事か。

 

 意外な程に人的損失は少なく、ニカイア軍は金角湾に面した城門に取り付いた。矢を防ぐ大盾によって作られた細い回廊を、破城槌を抱えたウマ娘が猛烈に突っ込んだ。

 何度も何度も突っ込んだ。

 遂にはコンスタンティノープルの堅城門がひび割れる──時を同じくして、西側では三重城壁の一枚目が完全に崩壊していた。

 

 

 ◆

 

 

 最初の城壁を完全に破った後、キプチャク軍の投石は一時中断した。急に十字教的な神の愛に目覚めた訳ではない。単純に弾が切れた(・・・・・)のである。

 二百もの投石機で絶え間なく打っていれば当然だった。またコンスタンティノープルの世界屈指の堅固さは、キプチャク軍の想定を遥かに上回っていたのである。

 弾が切れたなら補充しなければ仕方がない。そこで弾を何処から持ってきたのかというと──何と瓦礫の山と化した城壁から拾ってきた。

 

 即席で弾拾い隊(・・・・)が組織されると、モンゴルウマ娘は甘味に群がる蟻んこめいて、手頃な城壁の残骸を持ち去っていった。しかも器用に矢の雨をひょいひょい避けながら、である。

 再び遠投投石機の装填車がもの凄い勢いで回転し、城壁の残骸がセットされた直後、てこの勢いで放り投げられた。そして容赦無く二枚目の城壁を抉る。

 モンゴルウマ娘の間には高く笑い声が起こった──コンスタンティノープルの城壁が、コンスタンティノープルの城壁で破壊されるのである。こんな合理的で無情な仕打ちも中々ない。

 しかしバトゥ以下、モンゴルウマ娘は平気でそれが出来たのである。あるギリシャの年代記は、

 

『蛇に無理矢理自分の尻尾を呑み込ませる様なものだ』

 

 と述べた、上手いものだ。しかし僭越ながら、もっと簡単に『文化が違う』と言った方が芯を食っている様な気がするのである。

 

 モンゴル帝国の隻眼の宿老《万バ不当》スブタイは、キプチャク軍中央本陣に腰を据えていた。

 向こうの建物が崩れる様子に、キプチャク軍では笑顔が絶えない。だがスブタイは頬の肉を僅かも動かさなかった。それどころかウマ耳をぴょこりともさせず、尾っぽをふさりともさせない。

 装填車の順番を我も我もと、わちゃわちゃ争う若ウマを見て「仲良くしろ」と低く呟いて後、唇も噤んである。

 

 キプチャク草原の若ウマたちにとって、スブタイ大将軍は半分くらい伝説上の人だった。

 四駿四狗筆頭、大ハーンの《遠駆け》の立役者、毎夜寝物語に聞く勇士(バートル)──当初この白毛玉のお化けみたいなウマ娘が、のそのそ動いている姿と(イメージ)が結び付かず、行軍の慰みに奏でる『ローランの歌』を聞いて、やっと信じたくらいである。

 そんな彼女が、全く身動ぎせず陣営後方にどっしりもさもさ構えているのは、兵卒にとって畏ろしい事ではあったが、頼もしい限りでもあった。

 

 スブタイは聚会(クリルタイ)の意志決定を拝領し、高原を出立して後、コンスタンティノープル攻略のための軍略を幾重にも練り込んできた。

 随一の堅城を如何に処すべきや? 導出したのは、いずれも緻密かつ老練な策であった。スブタイは文筆に暗かったため、書記官に口述筆記を行わせ、まとめた書簡四本を以て献策した。

 恐らくは、四本どれを取っても陥落させる事が出来たであろう。だが、しかし、ジェベ・ウルスの主バトゥ・ハンは書簡に目を通した上で、いずれも選び取らなかったのだ。

 そしてバトゥが造出した眼前の景色は、老将の発想した如何なる景色とも異なっていた。

 

 遠投投石機(トレビュシェット)二百基による釣瓶打ち──大将軍の頭の片隅にも思い浮かばぬ、豪快無比な攻略法であった。それでいて、いざ現実になってみれば確かに「これしかない」という様な、問答無用の説得力を叩き付ける方策であった。

 朋友二人の実孫バトゥは、スブタイの軍略をいとも簡単に追い抜いていったのである。

 

 石弾が宙を飛び壁を打ち壊す様子を、大将軍は誰よりつぶさに見つめながら、早々に(ジョチ)を亡くし、幼少のみぎりにハンに就いたバトゥの頼りなさげな姿を想起した。

 スブタイは、ほぼ無意識に潰れた片目を眼帯の上から撫でた。それは二十年前、大ハーンの《遠駆け》の終着点《ノルマンディーの戦い》において、英仏連合軍の陣地防御戦術に敗退した屈辱の印であった。

 

 大将軍は、己が草原の指揮官(・・・・・・)であると思っていた。これまでもそうだし、これからもそうであろうと努め、願ってきた。

 しかし、それも、もう──

 

「ウリヤンカダイよ」

「はい、母上」

 

 大将軍をそのまま小粒にした様なウマ娘が、隣で応じた。

 

「私は此度の戦で一線を退く、後は任せた」

「はい……は、ええっ!?」

「不服か」

「これはっ、全く存外の事にて。将軍は生涯現役とばかり思っておりましたので」

「言ってない」

「む、む、ご無体な」

 

 大将軍の愛娘ウリヤンカダイは、しどろもどろであった。「先のパンノニア(ハンガリー)の戦いでは」スブタイは断然意に介さず続ける。

 

「お前の指揮は冴えていた。千戸(ミンガン)であれば率いるに足ろう」

「ですが将軍は全軍を率います、私には土台むりぃです」

「私の後を追おうとするな。真似して出来るものではない。ウマそれぞれに分というものがあって、お前にはそれが分かっている。十分だ」

「……初めて母上に褒められた気がします」

「そんな事はなかろう」

 

 母が少し心外そうに言うと、子は子なりに答えた。

 

「母上が何時も私を褒めてくれたのは存じておりますよ。しかし、こうして言われたのは初めてです」

 

 スブタイは石弾飛び交う前方へ臨んでいた片目を動かして、ウリヤンカダイを真っ直ぐ見た。もさもさしている。我が子は正直で、嘘を言わないのを知っていた。

 それから「後は任せた」と繰り返し言った。娘が居住まいを整えて「諾」と承知したのを聞いて、ゆっくり片目を前に戻した。

 この瞬間にも堅牢な城壁がぼこぼこ崩されている。

 

「ふは」

 

 耳じろぎ一つしなかったスブタイ将軍は、俄然大口を開けて笑った。その大音声は轟き渡って、装填車に夢中になっていたモンゴルウマ娘さえ目を丸くして一瞬足を止めた。

 満面の笑みという大将軍を、誰も、偉大なるチンギス・ハーンでさえ見た事がなかった。

 

「明日はきっと良い事があるぞ」

 

 葡萄酒に上気した頬で、バトゥ・ハンは前向きに言った。

 

 

 ◆

 

 

 それが良い事なのかは不明だが、コンスタンティノープル奪還戦は呆気ない結末を迎えた。

 歪な十字軍国家《ラテン帝国》から降伏の使者が送られてきたためである──それはニカイア軍が金角湾側城門から怒涛の如くなだれ込み、キプチャク軍が二枚目の城壁を六割方破壊したのと時を同じくした。

 降伏の使者は、合計三名(・・・・)ばらばらに攻撃側陣営を訪れた。一人はニカイア陣営、二人はキプチャク陣営に──それぞれラテン帝国皇帝の首を持参して(・・・・・・)である。

 

 断っておく必要もなかろうが、もちろんラテン皇帝は一名しかいない。全くコンスタンティノープル内部の大混乱ぶりが伺い知れる。

 そして、ほぼ同着にキプチャク陣営を訪れた使者二名は激しい口論を始めた。各々「我がものこそ本物の皇帝だ!」と主張するのである。自分の生命がかかっているものだから、双方一歩も譲らない。モンゴルウマ娘は訝しんだ。

 もう顔を覆いたくなる所を、バトゥ・ハンは端的かつ的確な言葉で一刀両断した。

 

「いらん。」

 

 にべもなく使者二名は追い返される──否、首がもう二つ増えなかっただけ幸運であろう。

 主君に対する裏切りとは、モンゴルでは重罪である以前に、最も忌むべき、おぞましい行為だった。チンギス・ハーンが、あらゆる裏切り行為を容認せず、実力で根絶やしにした流れがモンゴルウマ娘の中に今なお生きていた。

 バトゥが使者にモンゴルの法理を適用しなかったのは、自らが他国の救援者であるという自覚と、何より彼女自身の自制心の賜物だった。

 追い返された使者は、仕方が無いので二人揃ってニカイア陣営に向かった。

 

 さてコンスタンティノープル東側からなだれ込み、後は掃討戦に移っていたニカイア軍は、粛々と主要な建物を抑えにかかっていた。

《ローマ皇帝》の名の下に略奪は固く禁じてある。今後の政治拠点を自分で荒らすは愚行であるし、何より民心が大切であった。

 正当な理由があるとは言え、とんでもない武力を行使をしたのは間違い無い。アピールしなければ

 

 晴れて《東ローマ(ビザンツ)皇帝》に返り咲いた老人皇帝は、何はともあれコンスタンティノープル大宮殿の玉座に腰を下ろした。

 伝統ある戦車競バ場(キルクス)と、ハギア・ソフィア大聖堂を背後に臨む、正当な東ローマ皇帝のみが着席を許された至尊の玉座である。

 両肩に金の鳥が意匠されたその玉座に、かつては西欧(ラテン)人娼婦の尻が置かれ下品な歌が歌われた。栄えある戦車競バ場から、金のウマ娘像四体(ヴェネツィアのサン・マルコ寺院に現存)を盗まれた恨み辛みは忘れられない。

 

 そして屈辱の雌伏を強いられて二十年──遂に、遂にコンスタンティノープルを奪還したのだ!

 執念実った男の全身は、頭から爪先に至るまで大いなる達成感で満たされ、感動に打ち震えた。そして、その勇姿を見た旧臣たちは感激で咽び泣く。

 

 そんな矢先に、降伏の使者が訪れたのである。

 届けられた僭称者の首を前にして、帝都の奪還者は玉座の上で黒い笑みを浮かべた。

 この恨みはらさでおくべきか、どんなに辱めて衆目に晒してくれよう──と企んでいた時、後から運良く(・・・)バトゥに追い返された二人がやって来た。

 そして使者三名は、それぞれ持参した三個の(しるし)を前にして大喧嘩を始めた。喧々諤々、醜い命乞いの始まりだ。当然ながら、どこまで行っても主張は堂々巡りである。

 

 三個の真偽を巡って遂に引っ掻き合いに及ぶのを眺めて、ニカイア皇帝は急に虚しくなってきた。

 そういえば自分は憎々しき仇の顔も知らない。こうして集まってはきたものの、人相の判定すら出来ない。しかも、うち少なくとも二個は贖罪の山羊(スケープゴート)なのだ。彼らを哀れみこそすれ、恨むいわれはない。

 既に帝都奪還という目的は果たされた。この上、何を求める事があろう──そうして老皇帝の凝り固まった憎悪の念は霧散してしまったのである。

 そして老人は落ち着いた声で告げる。

 

「もう良い、分かった。これ以上は詮無き事で血を流すのは止めにしよう。生者には慈しみを、死者には弔いを。必要なのはそれだけではないか。のう、十字教の同胞(・・・・・・)よ」

 

 予想外に暖かい言葉と、重たい事この上ない意趣返しであった。互いに引っ掻き傷だらけになった官僚らは、苦しげに呻いて平伏する事しか出来なかったという。

 

 西暦122X年《ラテン帝国》の約二十年という短い歴史は幕を下ろした。三つの首の真偽は今なお不明のままである。

 

 

 ◆

 

 

 さて、後に残されたのはキプチャク軍である。

 旧勢力が帝位を回復したのは重畳。しかし、次は破壊の権化(モンゴル)に直面する事となった。

 三個の首が丁重に葬られた後、ギリシャ人は無用の長物と化したキプチャク軍の扱いに頭を悩めた──自分で呼んでおいて勝手な話があるものだが、改めて彼らが帝都西側城壁の惨状を見た時の心情も慮っても欲しい。

 大体モンゴルウマ娘たちが遠投投石機の装填車を前にして「もっとやりたい」とか「私まだやってない」とか駄々をこねている様子からして素直に帰るとは思えなかった。

 

 事前の約定があった。

《魔王》バトゥ・ハンに送った親書にはこうあった。キプチャク草原における覇権の正式な承認、モンゴルウマ娘の自由通行権、毎年これだけの貢納金──前の二つはともかく、最後の貢納金がきつかった。

 少なくとも今直ぐには無理だった。灰燼一歩手前の町の復興をしなければならない。そもそも軍備を整えるために費やした借款がうずたかく残っている。コンスタンティノープルの地勢に由来する、莫大な貿易利権から徴収するにも暫く時が必要だ。

 仮に「今直ぐ寄越せ、さもなくば打つ」と要求されれば、再度コンスタンティノープルの主が更新されてしまう。

 とかく、時間が必要であった。

 

 そして彼らにとって最悪な事に、このタイミングで皇帝が崩御(・・・・・)した。

 

 享年七十八──余りのタイミングなため、まことしやかに暗殺説が囁かれるも、その最期の姿は『至尊の玉座の上で柔らかな微笑みをたたえ……』というもので、精根を真っ白に燃やし尽くした大往生という見方が一般的である。

 ぽっくり逝った先帝の跡を継いだのは一人息子である。先帝が歳を重ねてから授かった念願の男児であり(姉は沢山居た)、未だ歳若い。この若帝は、

 

《育ち過ぎたニンジン》 

 

 という渾名が付けられる程、身の丈が大きく、酷く無骨な容姿の男であった(今の様に品種改良されている訳もないから中世のニンジンといったら凸凹だった。今で言うカボチャ野郎(・・・・・・)と同じくらいの意味合い)。

 この彫りが深く、正にギリシャ彫刻の如く体格のごつごつした若者は──しかし、見た目に反して気の弱い優男であった。

 執念の塊だった父とは違い、幼い頃から大勢の姉に囲まれて育ったからだと言われる。彼は剣より花が好きだった。

 しかし先帝亡き今、げに恐ろしきモンゴル人との交渉は彼の務めである。彼は岩の様な顔面を、更に岩の様に固くさせた。

 戦後の交渉は《魔王》バトゥ・ハンから持ちかけられた。

 

「戦が終わったばかりで政情不安であろうから、先ずその支えにタマ(・・)を派遣するものなり」

 

 タマ。とは、別名タンマチとも呼ばれるモンゴル特有の辺境鎮戍軍、また先鋒軍の事である。多くは本拠モンゴル高原ではなく、征服地から現地徴発されたウマ娘で編成されており、この時代頃から活躍し始めていた。

 タマはつよかった。

 膨張したモンゴル帝国は、やがて現地色の強くなったタマに逆に飲み込まれていく運命を辿るが──ともかくこの時、コンスタンティノープルに派遣されてきたタマは、西アジア訛りの言葉で、

 

「ウチらに任しとき!」

 

 と意気軒昂であった。

 ギリシャ人は狼狽した。タマとは、とどのつまり体のいい占領軍(・・・)ではないか!

 タマの長が挨拶のため謁見に出てきた時、家臣団は新帝の対応を固唾を飲んで見守っていた。拒絶する、という選択は立場上不可能のため、如何に毅然とモンゴルに伯仲するかが問題であった。及び腰で蛮族に見下される様では、ローマ帝国の名折れになる。

 

「よろしゅう申しますわ」

 

 ぺこりと挨拶するタマの長に、果たして、新帝は玉座に座し「うむ」と言葉少なに堂々と対面した──その実、緊張で硬直していただけだったのだが、生まれついての恵体により家臣団には威風堂々としている様に見えた。

 

 醜態を晒したのは逆にタマの長の方であった。

《育ち過ぎたニンジン》の顔を見た途端、落ち着きを無くし「あふ、うん」とか「うにゃ、はあ」とか、弱々しい返事しか出来なかったのである。最後には、

 

「……そちは体調が優れない様であるが、大事ないか」

 

 と太い声の新帝に尋ねられる始末で、タマの長は「ひえぇ」と頬を紅潮させて、交渉を詰める間もなく退散した。

 これは大変な王子だ、否、正に皇帝に相応しい威光である──と家臣団は感激した。あくまで謙遜する若者に十字教徒としての美徳をも見出して、偉大なる先帝の魂に鎮魂の祈りを捧げるのだった。

 

 それから以後も、普段ぴんとして元気の良いタマたちは、新帝が近付く途端にぐにゃぐにゃの骨抜きになってしまい、まともに接する事が出来なかった。

 故に、コンスタンティノープルが実質的に占領されたとはいえ、完全にモンゴル支配下に置かれなかったのは彼の勇気の賜物だと言われている。

 

 このまま貢納金の話もうやむやにしてしまおうか──そうは問屋が卸さない。

 タマ(つよい)が骨抜きにされてしまっても、ジェベ・ウルスの背後に控える金銭感覚に鋭いペルシア人が看過するはずがなかった。

 元々、草原のウマ娘は国際感覚も金銭感覚も極めて放埓であったから、その辺りの細々した条約は全部色目人に丸投げする手筈だったのだ(そういう細々したのに囚われない事こそモンゴルウマ娘の誇りである、と考えている節がある)。

 

 流石に復興ビザンツ帝国も悪足掻きしなかった。

 実力行使による差し押さえ(・・・・・)さえ回避出来れば丸儲けであった。必要なのは時間、それのみだった。コンスタンティノープルは豊かな都市なのだ。何もしなくたって、時間さえあれば関税収入は入ってくる。

 考えようによっては、タマの駐屯も防衛費を節約出来るため有難い話であった。

 

 そうして、条約締結が前向きな方向に進もうとした──その矢先であった。

 キプチャク陣営に、モンゴル高原から早ウマが届いた。曰く、

 

 

聚会(クリルタイ)の総意により、第三皇女オゴタイ様の大ハーン就任が決定された』

 

 

 という事であった。

 時を置かずして、二人の皇帝の代替わり──それは《バトゥの西征》に生じた奇妙な共時性(シンクロニシティ)であった。

 時代が変わっている。



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幕間:フィールドワークと草原の気質について

 

 モンゴルウマ娘が果断を好み、逡巡を嫌うというのは昔から変わらぬ気質であるらしい。

 

 いきなり自分語りで申し訳ないのだが、モンゴルウマ娘の気質を良く示すエピソードであるので、一筆取らせて頂く。

 数年前、モンゴル高原にフィールドワークのため飛んだ時、筆者は冒頭の事を実感したのだ。

 季節は夏であった。中世モンゴル風に言えば「天上(テングリ)の機嫌が良い」絶好の遊牧日和に、筆者は草原の草を踏んだ。

 見渡す限り青々とした真っ平ら、頭上には久遠なる蒼穹が広がっている。

 筆者には事前の約束も何も無かった。先に首都ウランバートルのインフォメーションで尋ねたところ、

 

「遊牧体験をしたいなら、その辺のウマ娘(・・・・・・・)に頼めば良いよ」

 

 との事、他には何も寄る辺ない。一応、第一遊牧民に出会うまでガイドさんのバイクの後ろに乗せてもらう事になった。

 筆者は不安この上なかった。日本で調べた所に拠れば『現地にさえ行けば何とかなる』との事だったが(あのるるぶは無責任だ)、まさかこんな行き当たりばったりだとは想定していなかった。

「大丈夫ですか?」と何度も聞いてしまった。その度にガイドさんは「大丈夫大丈夫」と、無表情な割にまったりした調子で返事をしてくれた。神経の細い日本人には、その調子こそ不安であった。

 

 第一遊牧民が案外早く見付かったのは幸運であったろう(出会えない時は何日も出会えないらしい)。バイクを降りて、羊を追っていたモンゴルウマ娘に話しかけると、途端に耳をぴんと立てて、

 

「お客さん? いらっしゃいっ!」

 

 筆者が自己紹介をする前にぐいぐい腕を引っ張られ、一家の幕屋(ゲル)に連れて行ってくれた。肩が抜けそうだった。

 ガイドさんは「帰りたくなったら電話くれ」と相変わらずまったりした無表情で言い残して去った。

 

 その第一遊牧民は五人家族であった。父、母ウマ、ウマ娘二人、息子一人という内訳である。筆者の手を引いて案内してくれたのは、姉のウマ娘さんだった。

 彼女らは大変に純朴で、親切であった──否、モンゴルの家族は皆そうなのであろう。

 

 ようやく筆者が自己紹介出来たのは、有無を言わせぬもてなしの晩餐時、強かにアルヒ(ウォッカ)の酔いが回った頃の事であった。しかし客人の身の上などモンゴル人はどうでも良さげだった(そういうものなのだろう)。

 

 自己紹介もそこそこに、本題へ入る。

 私はモンゴルの歴史を調べておりチンギス・ハーンの《遠駆け》について是非聞かせて欲しい──頼んだ途端、俄然彼女らは目を輝かせた。

 その喜びようと言ったら、ちょっと書き表す事が出来ないくらいの興奮であった。

 

 長く苦しい戦いの末、高原を統一した《雷霆》テムジンと四駿四狗の勇士(バートル)たち。

 遥か西の果てを夢見て走り出した大ハーンの大志。

 草原を自由自在に駆け抜けてゆくモンゴル駆兵の剽悍な事。

 スブタイ将軍と聖駆士ローランの激突。

 異郷の地での激戦に次ぐ激戦──まるで今見てきた光景の様な臨場感で、彼女たちは大きく身振り手振りをして語ってくれた。

 

 聞き手である筆者も同じく昂った。

 その時、筆者は確かに、匂い立つ大草原の香りと共に《ウマ娘朝モンゴル帝国》の残り香を嗅いだのだ。八百年前の、もはや文献上に覗き見るしかなかったモンゴルウマ娘たちから、逆に覗かれたのだ。

 現代のモンゴルウマ娘の中で、チンギス・ハーンは生きている!

 そして自身も、ダイナミックな歴史の大河に生きている実感に浸り、感動に震え、そして酔い潰れた。

 

 

 遊牧民の生活は実に刺激に満ちたものであった(彼女らにとっては日常なのだろうが)。

 徒歩で羊を追う次女ウマ娘さんの後を付いていこうと試みて疲労に倒れた日があった。一番下の弟さんに相撲(ブフ)で投げ飛ばされて気絶した日があった。大ウケのジェンガで丸一日潰す日もあった。チンギス・ハーンの全高四十(メートル)の白銀立像を鑑賞した日があった。

 一々書くときりがなくなってしまうのでこの辺りにしておく。

 

 取り分け、長女ウマ娘さんは親切にしてくれた。

 見ず知らずの異邦人の手を引っ張ってもてなしてくれた日から、色々世話をしてくれた。楽しくも厳しい遊牧生活に、筆者が音を上げる毎に親しみをもって接してくれた。

 筆者は初め、彼女が中学生くらいのポニーちゃんだと思っていたのだが、聞けばもう十八歳だという。本当にモンゴルウマ娘の年齢は見た目では判断が難しい(母ウマさんも姉妹と大して歳が違わなく見えた)。

 

 滞在して二週間が経とうかという日、ブラシで家族の靴を磨いていた筆者に(それ位しか役に立てなかったのである)、長女ウマ娘さんが寄ってきて言った。

 

「良かったら、ずっと此処に居ても良いんですよ?」

 

 またぞろ筆者は感激した。

 その文句を知っていた。帝国時代から変わらぬ異邦人への社交辞令(・・・・)である。かつての巨大なモンゴル共同体は、その寛容性を以てあらゆる文化を併呑し、やがて現地色に染まり分解していった。

 それがまさか現在でも用いられているとは意外であった。これでこそフィールドワークに来たかいがあったというものだ。

 

「ありがとう、嬉しいよ。でも気持ちだけ受け取っておく」

 

 と謝意を伝えると、長女ウマ娘さんは怪訝そうに首を傾げて離れていった。

 その夜、筆者は彼女の父親にアルヒ(ウォッカ)をしこたま飲まされ潰された。母ウマ娘さんは男二人を眺めて微笑んでいた。

 

 それからというもの、長女ウマ娘さんは度々「此処に住みませんか?」とか「ずっと泊まってて良いんですよ」とか言ってくれた。旅人に心労をかけまいとする温かい心遣いに、筆者は都度に謝意を述べた。

 だが、同様のやり取りを交わしたある日──にわかに彼女は烈火の如く怒り出したのである。

 筆者はいきなり胸ぐらを掴まれて激しく揺さぶられた。

 

「私が何回も誘っているのに、はっきり答えないのは卑怯だ。ああ情けない。ぐずぐずせず言いなさい!」

 

 まるで火山噴火の様な剣幕だった。筆者がウマ娘に手をあげられたのは小学生以来──まして分別のついた年齢のウマ娘としては尋常な事でない。

 筆者は考えた。どうやら日本人的な遠慮の文句(・・・・・)がモンゴル人には伝わらなかったらしい。

 モンゴルウマ娘は果断を好み、逡巡を嫌う──その文化を承知していたのに、こうまで怒らせてしまったのは全く筆者の落ち度だった。彼女の言う通り、本当に情けない事であったと思う。

 此処に至り、筆者ははっきり言葉にして返答した。

 

「ごめん。自分は国に帰らなければならないから一緒に住むことは出来ない。本当にごめん!」

 

 脳みそをぐらぐらさせながら、それでも大声で言った。

 長女ウマ娘さんは、すっと沈静化した。そして胸を掴まれ宙に浮いていた筆者の足を地面に下ろした。

 

「……それなら良いんです。もっと早く言って下さい」

 

 そして咳き込む筆者の背中を撫でつつ「ごめんね」と謝ってくれた。こちらこそ、と言いたかったが、むせ返ってしまってそれどころではなかった。とことん情けない。

 

 それから彼女は以前程にはコミュニケーションを図ってこなくなった。蒼穹をぼうっと眺めている所に近付くと、眉をしかめて小走りで去っていく──という風な事が頻繁にあった。

 筆者が落ち込んでいると、妹ウマ娘さんや弟さんが慰めてくれた。

 

「姉さんは怒ってないよ」

「嫌いになったんじゃないと思う」

「……でも元はと言えば自分が悪いんだ」

『それはそう』

 

 遊牧民の妹弟は容赦無かった。

 

 そうこうしているうちにフィールドワークの成果がある程度形になった(決して遊んでばかりいた訳ではない)。一月以上お世話になった家族と別れの日が訪れたのである。

 実に楽しい毎日であった。家族と抱擁し別れを惜しんでいると、最後に母に背中を押された長女ウマ娘さんが前に出てきた。険しく眉をしかめている。

 筆者としても、このまま喧嘩別れでは辛かった。果たして何を言ったものか。迷っていると、不意に彼女は筆者の手を取った。

 

「また会えるでしょうか?」

 

 その目には薄ら涙をたたえて──筆者は思わず手を握り返して答えた。今度は、はっきり目を見て。

 

「次は是非日本にいらっしゃい。自分は何時でも歓迎します」

「本当ですか」

「本当ですとも」

「きっと、きっと行きますっ」

 

 最後は彼女に似合う太陽の様に明るい表情で、筆者の手をぎゅっと握ってくれた。手が潰れそうであった。

 間もなく、来た時と同じガイドさんがバイクで迎えに来た。後部に乗り、暫く走った後で顧みると、長女ウマ娘さんはまだ手を振ってくれていた。

 手を離す訳にもゆかず、筆者は心の中で手を振り返した。

 

「楽しかったかい」

 

 空港での別れ際に、ガイドさんが尋ねてきた。短く端的に「はい」と答えると、

 

「そりゃよかったね。また来なよ」

 

 相変わらず無表情のまったり調子でガイドさんは言った。

 

 

 あれから数年経った。

 筆者はフィールドワークの経験も元手に、ウマ娘朝モンゴル帝国について歴史をまとめている。

 この時節柄、長女ウマ娘さんと再会を果たせてはいない。だが時々パソコンにメールが届く。曰く、再会の日を待ち焦がれているとの事だ。その熱っぽい文面を読む度、筆者は元気を貰っている。

 

 当時十八歳であった彼女は立派な成人になっている事であろう(見た目には分からないかもしれないが)。

 来日が叶った際には、筆者の好物である天丼を、贔屓にしているUmarEATSで頼んで食べさせてあげようかと思っている。

 そして、あの社交辞令を投げ返そう。

 

「君さえ良ければ、ずっと此処に居ても良いんだよ」

 

 迅速果断の草原のウマ娘は筆者の様にぐずぐず逡巡したりせず、次の瞬間ぱっと気持ち良く「否」と答えるであろう。

 今日も果てなき大草原を駆けている事だろうモンゴルウマ娘を思い描きつつ、筆者は再会の日を夢想している。

 

 



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タタールのくびきについて

 

 第三皇女オゴタイの大ハーン即位の報を受け、コンスタンティノープルの城壁を景気良くぼんぼこ崩していたキプチャク軍は、二百基の遠投投石器(トレビュシェット)を手際良く畳んでしまった。

 

『こんな事してる場合じゃない、帰らなきゃ』

 

 と残る。この急旋回について一説によれば、帝国内の最有力皇女バトゥ・ハンは、かねてより大ハーンの跡目を虎視眈々と狙っており、その野心のバ脚を露わしたのだ──と言われる。

 しかしウマ娘朝モンゴル帝国研究の第一人者にして、世界的権威、加えて自らもウマ娘という女博士に曰く、

 

「めでたい。」

 

 との事で、恐らく純粋に誰より早く祝いたかったのだろうと推察している。が、今の所は定説を覆すまでに至っていない。

 筆者としても容易に賛同しかねる。バトゥの器量は次期大ハーンを十分窺えるものだった様に思えるからだ──その真意は判然としない。

 

 いずれにせよバトゥは、鎮戍のための『タマ(タンマチ、探マ赤とも)』だけをコンスタンティノープルに残し、草原の世界に帰っていった。

 竜巻の如く襲来し竜巻の如く去ってゆく──つまり何時ものモンゴルウマ娘の様子であった。

 

『タタールのくびき』という言葉がある。

 くびき(・・・)、とは牛を御するため頸部に嵌める拘束具である。

 

 ジェベ・ウルスの跨るルーシ地域から、バトゥの西征先であるバルカン半島──ダキア(ルーマニア)、ブルガリア、ギリシア、コンスタンティノープル等々、先進的な文明国(・・・)モンゴル(タタール)人の手に落ちた悲劇を指して言うものだ。

 野蛮なモンゴルの支配下で無辜の十字教の民は塗炭の苦しみを味わう事となり、正に屈辱の時代であった──という旧来の歴史観は実態から程遠かったと、ウマ娘女博士の活躍もあって昨今では知られつつある。

 その正体は巨大なモンゴル共同体の中にあった国々が、後にそこから独立する際に創作された物語、建国神話(・・・・)のための方便であった。

 

 確かに、モンゴル統治下の人々は何時吹き荒ぶとも知れない竜巻の様なモンゴルウマ娘に、常に怯えていたのは否めない事実ではある。

 しかし既に筆者が度々述べた様に、モンゴル帝国下の統治は寛容なものだった。改宗を強制する事も、政治を抑圧する事も、文化を押し付ける事も無い。ごく常識的な額の税金を徴収するのみで、後はお好きにどうぞ、である。

 それ以上の注意も関心も遊牧ウマ娘には無かった。むしろモンゴル統治下の方が税金が下がって生活が楽になったケースも多かった位だ。

 

 モンゴルウマ娘は、隣の異文化民に「お前と私は違う」等とのたまって、わざわざ虐める程に精神的な暇を弄んではいなかったし、そもそも他者を民族という狭い括り(・・・・)で分類する習慣が無かった。

 モンゴルウマ娘の頭を占めたのは、羊さん、駆け、お客さんで大体全部だった。これらを侵害されると火炎の様に怒る。

 戦争の事はあまり考えない。遊牧ウマ娘は素で強いからである。また、考えようが考えまいが死ぬ時は死ぬ天上(テングリ)の定めと思っていた。

 

 

 さて、バトゥ・ハンが去り『タタールのくびき』を嵌められた(敢えてこう表現する)コンスタンティノープルでは、若き新ビザンツ皇帝の下にタマ軍が属する形となった。

 だが、これはあくまで名目上の形式である。実質はモンゴルに支配されてしまうのではないか──という危惧がギリシア人に重くのしかかっていた。

 ところが想定外の、ギリシア人にとっては僥倖であろう事が起こる。元気一杯のタマが、果たしてどういう訳か新皇帝の前ではへなへなの腰砕け(・・・・・・・・)になってしまったのである。

 

皇帝(バシレウス)、凛々と目線を真っ直ぐに射れば、タマ、赤面伏し「あかん」と呟くばかり。かくの如し巨岩の身体、また同様の勇気の立ちたるは、真に威風堂々たり。蛮民に為す術、更に無し。アリルイヤ(ハレルヤ)、ローマ帝国に栄えあれ!』

 

 と、ビザンツ帝国の史料に著される。

 大いに疑義が残る記述だ。帝国は何かタマの弱みを握っていたとも囁かれるが、真相は歴史の闇の中である。

 

 ともかく復活のビザンツ帝国の官僚らは、この僥倖を最大限に活かす道を選んだ。

 即ち、モンゴルの威を借りた(・・・・・)。劇的に復活したものの、帝国には信用に足る同盟国が居なかった。

 元より東方教会《正統派》は西方教会《普遍派》と対立していた。それが件の第四回十字軍を契機に、元々抱いていた憤懣を深い忿恨にまで悪化させたのは無理からぬ人心であったろう。

 また同じ《正統派》のバルカン諸国にも再三の救援要請を出していたが、ろくに取り合っては貰えず無視されたに等しい。

 オリエントから攻め上ってくる月星教徒は埒外である。

 

 モンゴルだけが違った。

 助けを求めた途端、バトゥ・ハンは正しく速攻で応じてくれたのだ(帝都自体を軽く吹き飛ばしそうな過剰戦力ではあったが)。確かに恐ろしくはあったが、発想を転ずればこの上ない強力な後ろ盾になりうる。

 ビザンツ帝国には長い歴史に伴う威信こそ余りあるものの、実際の武力が欠落していた。その欠落部分に不意にすっぽり収まったのが、不思議な西アジア訛りの言葉を話すタマだったのだ。

 

 そのタマたちは、一般的なギリシア人の視点からすれば粗野で文化的に遅れた蛮民に見えた。だが一方、共に暮らすうちに明るく正直で親切である事も見えてくる。

 そういう気質は遊牧民では別段珍しくなかったが、定住民にとっては新鮮だった。荒々しくも温かい、一種の任侠(・・)の様なものをタマに見出したのである。

 

 

 玉座に就いたまま昇天した父、その跡を襲った《育ち過ぎたニンジン》こと若きビザンツ皇帝もまたタマの懐柔に努めた。

 思えばビザンツ帝国は、遥々北海スウェーデンから船でやってきたヴァリャーグ(ヴァイキング)を親衛隊に組み込んだ過去がある。他文化の民を軍事力に組み込む事には実績があり、それ自体には心理的抵抗が少なかった。

 異民族の力を駆使してこそ真の《帝国》と言えた(西ローマ帝国はゲルマン人を駆使して滅んでしまったが)。

 

 帝国の官僚はヴァリャーグの先例を踏襲した。即ち、懐柔のためタマに多量の金銀を与えた。

 しかしタマたちは「おおきに」と元気良く礼を言うものの、どうもウマ耳や尾っぽの動きから察するに、それほど喜んでいる様に見えなかった。布地や糸といった物品は金銀よりか反応があったが、いまいち手応えが少ない。

 これは一筋縄でいかない──プレゼント作戦に頭を悩ます官僚に、岩の様な巨躯の皇帝が野太い声で提案した。

 

「花園を作ろう」

 

 官僚は困惑した。

 この武人然とした皇帝の口から、まるで似つかわしくない単語が発せられたのもそうだったが、第一に意図が掴めなかった。

 しかし新皇帝たっての希望という事で腕の立つ職人が招集され、東西交易の中心地コンスタンティノープルに立派な花園が造園された。

 伝承によれば、素朴な花から遠い異国の珍しい花まで咲き誇り、また意匠を凝らした庭園が付随された真に見事な花園であったという。

 完成したチューリップ畑を眺めた皇帝は僅かに頬の表情筋を動かして満足した。

 

 そしてタマは物凄く喜んだ。

 荒涼たる高原に住まう遊牧ウマ娘は、花園はおろか、ちょっとした花壇すら見た事がなかったのだ。

 折々の花に尾っぽをうきうきさせながらタマはお花畑を練り歩いた。そして偶に皇帝が姿を見せると、びっくりしてその場を離れ、そして遠くからうっとりした顔で鮮やかな花と無骨な彼の顔を眺めていた。

 そして若き皇帝が趣味で作った押し花は、どんな財宝よりもタマを歓喜させ、むしゃむしゃ食べたと言われる。

 

 この花という真逆を以て武力を獲得した功績から、彼は後世《華武帝》と呼ばれビザンツ帝国中興の祖として名を残している。

 

 モンゴル駐屯軍タマと良好な関係を築いて以後、ビザンツ帝国は西方世界に対してはローマ帝国の後継国家として威光を笠に、そして何かとモンゴルの超武力をちらつかせながら外交を展開する事となった。

 そして、肝心の大モンゴル本国に対しては徹底的に腰を低くして、まるで第一の子分であるかのように振舞った。

 従来悲劇と言われた『タタールのくびき』とは、それを嵌められる側も存外強かに、それ自体己の処世術に組み込んでいたのである。

 

 情けないと言えば情けないのかもしれない。だがしかし命運尽きかけていたビザンツ帝国が、これにより二百年余も延命したのは事実なのだ。

 この歴史から得られる教訓は、どんなに泥臭くても出来うる限りもがいてみれば思わぬ方面で道が開ける──といった所ではないだろうか。

 何時の時代も生き残ろうと頑張る人間は逞しい。また、そういう人間さんにこそウマ娘は寄り添いたがる。

 

 

 

 なお二百年後、モンゴルが衰えたと踏んでビザンツ帝国にちょっかいを出していた《オスマン侯国》が、モンゴルの後裔者《ティムール》にとんでもない目に遭わされるのは、また別の話。



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ノルマンディーの戦い
西の果ての海について


 あけましておめでとうございます。
 今年もモンゴルウマ娘をよろしくお願いします。

 ごりぱん様(@gori_p96)に『モンゴル帝国時代の遊牧ウマ娘』を描いて頂きました。
 片手に羊さん、片手に超暴力……正にモンゴルウマ娘! 本当に素晴らしいです、ありがとうございました。

【挿絵表示】

図. モンゴル帝国時代の遊牧ウマ娘



 

 春先にパリを進発したモンゴル軍は、久々の長距離移動にうきうき気分で足を動かしていた。

 花の都で多くの新婚夫婦も誕生し、ただ暦の上での春というだけではない瑞々しい快速の行軍である。

 

 チンギス・ハーンが西の果ての景色を求めた《遠駆け》も終点に近付いていた。

 西の果ての景色──実はモンゴルウマ娘たちはそこに何が在るのか、パリに滞在していた時に地元人から聞いていた。

 果たして、()があるという。

 

「母上は、あんなつまらんものが見たいのですか?」

 

 第四皇女トルイが率直にチンギスへ尋ねた。大ハーンは、小首を傾げる娘の額に愛らしく揺れる流星をちらと見て「ううん」と、肯定とも否定とも取れない様な低い声を出した。

 ボルジギン氏族の親子は大軍の先頭を自らの足で並び走っている──背後には数万からの精鋭が続く。彼女たちの靴が大地を打ち、土煙を巻き上げ、何もかも薙ぎ倒して往く音は雷霆の如くであった。

 ぼんやりした回答に、トルイは「ふぅん」と母の横顔を奇異の目で見詰めてから、興味を失った様にまた前方に臨んだ、が、それも長続きせず辺りをちょろちょろ動いて種々の将軍たちに構ってもらおうとしていた。チンギスは苦笑する。

 

 草原に住むモンゴルウマ娘は意外にも『海』というものを知っていた。高原からちょっくら(・・・・・)南東に走って行けば見る事が出来たのである。

 そして大洋を眼前したモンゴルウマ娘の胸中に興るのは大いなる感動、では全然ない。

 

『臭い水たまりにちゃちな砂漠がくっ付いている』

『草も生えない不毛の土地』

『ざぶざぶうるさい』

『しょっぱい』

 

 というのが遊牧ウマ娘の海洋に関する一般見解だった。

 彼女たちにとって「だだっ広くて何にもない」というのは、なんて事もない普通の眺めである。船で漕ぎ出すなんて事は発想すら出てこない(モンゴルウマ娘は乗船を大変怖がった)。

 走る事は出来ないし、羊さんを放す事も出来なければ、わんころと遊ぶ事も出来ない。その上、乾燥した爽やかな風に親しむモンゴルウマ娘にとって、湿って生臭くて潮っぽい海風は気持ちの良くないものだった。

 そんなつまらない領域に用など無かったのである。トルイの娘──フビライより前の草創期モンゴル帝国は全く草原の国だった。

 

 チンギスの左斜め後方から「わっせわっせ」という掛け声と共に、四人担ぎの輿(こし)が近付いて来た。輿の上には白茶のもさもさ駁毛玉──未だ冬毛から換毛の済まないスブタイ将軍があぐらをかいている。

 

「御頭上から無礼仕る」

 

 輿の分だけ高い視点からスブタイは大ハーンに語りかけた。通常ならば無礼千万、毛並みと四肢を引き裂かれて当然の所──《万バ不当》の大将軍は足が遅くて皆に置いていかれてしまうので、やむなく基本輿移動なのだった。

 己より高い位置から畏まる冬毛のスブタイを、チンギスはじろりと睨んだ。鋭い眼光で殊更ぐりぐり睨め付ける。輿の担ぎ手は息を呑んだ。

 

 チンギスは親友のもさもさ毛並みを撫でたいなと思った。刈り取り前の羊さんみたいだった。ちょっと位なら良いかな。頼んだら断らないだろうな。わたし大ハーンだし。でもスブタイは恥ずかしくて赤くなっちゃうだろうから、やっぱり止めておこう──

 

 チンギスは、人生の苦渋を舐め尽くした過去に裏打ちされた堅牢な忍耐力を用いて、ぐっと我慢した。

 そして担ぎ手が張り詰めた沈黙に耐え切れなくなった頃、ようやく大ハーンは「許す」と応じた。その草原の覇者然とした重々しい許諾を拝して、大将軍は報告を始めた。

 

「先程の川を越えまして後、別部族の領域に踏み入って御座います」

「確か、何といったか」

「ノルマンディー部族長(・・・)との由」

「飲まんで良い?」

「ノルマンディー」

「のるまんでぃ……」

「そはフランス国の大部族長と申します」

「障碍のあらんや」

「先遣にチラウン殿を遣っておりますれば、もう間もなくかと」

「うん」

 

 チンギスが短く頷いた丁度その時「きいきいっ」という鳴き声と共に、一匹の鷹さんが前方の空から飛来した。頭上に弧を描くのは惚れ惚れする位に青々とした見事な翼である。

 あれは《鷹眼》チラウンの頼れる相棒に間違いない。

 隊伍を組んで走るモンゴルウマ娘たちは一同空を仰いで、飛翔の軌跡を注視した。一度、二度、三度──鷹さんは旋回して「きいっ」と鳴き、元来た方向へ飛び去っていった。

 それを見送ったウマ耳の林が一挙にきゅうっと絞られた。モンゴル軍の快速が急激に落ちた。みるみるうちに隊伍の型が変形していく。長蛇陣から、魚鱗陣へ──数万からのモンゴル軍は恐ろしい程の整然さで警戒態勢へ移行した。

 

「障碍を認む」

 

 輿上の冬毛大将軍が今見たままを言い、大ハーンは無言の首肯で以て返答した。どうやらノルマンディー部族長とやらは、己の領地を易々と通すつもりはない様であった。

 

「お手紙を出しますか」

「止そう。私がお手紙を出すと色目人は怒り出す」

「そこが解せぬ所。普通は貰ったら嬉しいものですのに」

「うん……」

 

 皇帝は《ワールシュタットの戦い》前に送られてきた絶縁状の山を思い出してしょんぼりした。

 モンゴルウマ娘の常識(・・)では、素性の知れぬ旅団を相手にする時、先ずは丁寧に挨拶をして、客人ならばもてなし、敵ならば殺す──というのが基本的礼節であった。しかし草原地帯を出てこの方、この作法が通じず戸惑う機会も多い。

 ただ移動してるだけなのに、何がそんなに定住民の怒りを掻き立てるのか遊牧ウマ娘には理解出来ない。西方色目人の戦を好む()()()は、モンゴルウマ娘を恐れさせる所すらあった。

 

「チラウンが戻ったら委細聞こう。お主は我が軍を統括すべし、注意を怠るべからず」

「諾」

 

 スブタイは輿上に畏まって、再び「わっせわっせ」と掛け声する担ぎ手四名と一緒に下がった。

 速やかに矢の伝駆が飛び交い、大将軍の令が下される。モンゴル軍の行軍速度は更に低下し、一兵卒まで軍装が整えられた──モンゴル軍は移動しながら(・・・・・・)万端整える事が可能であった。

 そうして小走り程度(とはいってもウマ娘ペースで)の完全な臨戦態勢となった頃、スブタイはようやく輿を降りて、大きな身体をもそもそ動かし始めた。その腹にトルイがぴょんと飛び付いて顔を埋めた。

 

 

 一人になって、チンギスは先のトルイの質問を思い返していた──母上は海なんてつまらんものが見たいのかと。

 

 見たいとも。

 

 チンギスは胸の中で明朗に回答した。

 彼女にとっては、地の果てに待っているのが海だろうが陸だろうが、或いは壁だろうが崖だろうが、全然関係の無い話であった。

 真っ直ぐ往く(・・・・・・)

 その一点のみ重要だった、ずっと昔から決めていた。

 

 この《遠駆け》を開始した時から。

 モンゴルダービーを開催した時から。

 高原を統一した時から。

 諸族を滅亡させた時から。

 義姉妹(アンダ)に裏切られ、そして殺した時から。

 我が半身に出会った時から。

 ウマ娘の同胞に慕われ出した時から。

 奴婢(どれい)に落とされた時から。

 ボルジギン氏族に見捨てられた時から。

 幕屋に幽閉された時から。

 母を殺された時から。

 駆けが好きだと気付いた時から。

 ウマ娘として産まれた時から。

 

 某の切っ掛けがあってとか、途中から想う様になったとかではない。ただ昔から決めていただけだ。微塵もぶれてはいない。

 言うなれば、魂の形なのである。

 こうと決心した場所に向けて驀進する──モンゴルウマ娘一匹として一抹の疑念を抱いた事もない。そう生きる事が好きだった。そのために全身全霊を振り向け、あらゆる妨げを粉砕するのは至極当然の営みだと思っていた。

 その様に当前である所の理由をちまちま聞かれるのが昔から面倒くさかった。正確に言葉にする自信も少なかったし、伝わるものとも思われなかった。

 

 敵を皆殺して大ハーンに登極した。

 説明は以上である。

 

 第一、固い決心であればあるほど言霊を外に出してしまうと、胸の内で薄らぐものだとモンゴルウマ娘は信じていた。

 故にチンギスは己が半身である耶律楚材に「だいすき」とか、腹を痛めた四皇女たちに「かわいい」とか言った事すら、あんまりない。

 その位であるから、心の根っこ部分について他人に尋ねられた時には極力ぼやかす様にしていた。どうしても応じなければならない場面には、

 

「モンゴルだから。」

 

 と仕方無しに言った。

 この常套句は特に意味は無いのだが、不思議と質問者は得心した様に平服するので、ともかく便利ではあった。

 

 ノルマンディー部族長(・・・)

 その西の果ての名士も、チンギス・ハーンに駆ける意味を尋ねるであろうか。



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ノルマンディー公爵について

 ヴァイキングウマ娘が書きたかっただけとも言う。


 モンゴル人の言う所のノルマンディー部族長(・・・)領──正しくはノルマンディー公爵(・・)領は、歴史上に数奇な足跡を残している。

 近くには史上最大の作戦こと《ノルマンディー上陸作戦》によって、第二次世界大戦の趨勢が決された土地である。そして、その七百年以上前、欧州世界の天王山《ノルマンディーの戦い》にて、英仏連合軍がウマ娘朝モンゴル帝国を撃退した土地なのだ。

 かの会戦は、フランク王国とウマイヤ朝に繰り広げられた《トゥール・ポワティエ間の戦い》に並び、中世時代の欧州世界対外世界という文脈で意義深い戦いである。

 

 泣く子も黙る恐怖の代名詞SUBUTAI──スブタイ将軍が片目を失う程の大激戦は、長く吟遊詩人の間で語り草となった。

 そんなノルマンディーという因縁の土地について、中世十三世紀に至るまでを著す。

 

 

 ◆

 

 

 フン族のアッティラ女王に発端するゲルマン民族大移動、その余波をもろに被った西ローマ帝国崩壊の後、ノルマンディー(当時は異なる地名だったが便宜上)はカール大帝に著名なフランク王国の傘下に入る運びとなった。

 カールの戴冠によって、すわ西ローマ帝国復興か? と思いきや大帝の死後、侵略拡大したフランク王国は子孫の間で東・中部・西と、三つのセクションに分割されてしまう(分割相続はゲルマン人の風習だった)。

 

 それぞれ東フランクが神聖ローマ帝国(ドイツ)、中部フランクがイタリア、西フランクがフランスの前身となったのである。ノルマンディーは、西フランクに属した。

 三つのフランク王国は親戚間で骨肉の継承争いをしたり、合体したり、やっぱり分裂したり、マジャールウマ娘にぼこされたりしながら過ごしていが──しかし、今度は北から異民族が侵入して来る。

 

 スカンジナビアの険しい北風を船の帆に張った、むちゃつよ民族ノルマン人──ヴァイキング(・・・・・・)の襲来だ!

 ノルマンウマ娘が漕ぐロングシップ(所謂ヴァイキング船)はセーヌ川を爆速で遡り、しばしばパリまで脅かす。クソデカアックスを小枝みたいにぶん回し、岩をも木っ端微塵にしてしまうノルマンウマ娘はフランク人の絶望であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 図.絵画に描かれたヴァイキング船

 

 西フランク王国──改めフランス王国は、当初は北方異民族に抵抗したものの、余りの侵入の激しさに対処不能に陥り、まさかのウルトラC。

 フランス北岸で暴れ回っていた、さる有力なヴァイキング首領へ正式にフランス北岸地帯を割譲する事を決断したのだ。その主たる対価が『フランス王への臣下の礼を取る事』『後に襲来したヴァイキングの暴虐を止める事』であった。

 交渉をもちかけられた、ロロという巨体のヴァイキングは条件を承諾。フランス王とヴァイキングは正式な封建契約を結んだのである。無頼のヴァイキングとしては異例の大出世だった。

 そしてロロが統治するフランス北岸地帯は『ノルマン人の土地』という意味で、以降『ノルマンディー』と改称されたのである。

 

 ノルマンディーに住み着いたヴァイキングたちはフランス王との封建契約を守った──少し解釈を変えて。

 確かにノルマンウマ娘の漕ぐ爆速ロングシップは、その後も頻繁にやって来た。ただしノルマンディー公ロロは撃退するどころか、むしろ彼らに土地を与え家臣に取り立てた。

 そもそも、ヴァイキングが船で襲来する根本的原因はスカンジナビアの耕作地の不足(・・・・・・)にあって略奪そのものが目的ではなかったのだ(北欧は耕作可能地帯が少なかった)。

 

 時には実力行使で調伏する場合もあったが──いずれにせよ、ノルマンウマ娘は喜んで(かい)(くわ)に持ち替え開墾に精を出した。極寒のスカンジナビアで食いっぱぐれた彼女たちにとって、豊かで暖かいノルマンディーは正に新天地だったのである。

 さてもヴァイキングを撃退するどころか、逆にどんどん増えていく状況に仏王は「契約違反だ!」と抗議したが、

 

暴虐(・・)は止めているが、何か?」

 

 とロロは巨躯の胸を張って応じた。

 確かに、先に結んだ封建契約書にあるのは『後に襲来したヴァイキングの暴虐を止める事』であって『撃退しろ』とは書いていない。仏王は歯噛みするしかなかった。

 

 またノルマンディーの民は元が海の民族であるから高い航海技術を保有しており、海運貿易で巨額の富をも産出した。近くはブリテン島、故郷スカンジナビア、そして驚く事にはイタリアまで船を漕いで行ったという記録が残っている(というか現地イタリアで国を作ってしまったヴァイキングまで居た)。

 

 面白くないのはカール大帝以来の古参の諸侯だ。

 異民族の新参者、また「儲かってそう」という妬みから、ノルマンディーへ略奪しに来る事があった。これ自体は珍しくもない中世ヨーロッパの日常である。

 しかしその日常をノルマンウマ娘に文字通り木っ端微塵にされてからは、すっかりなりを潜める。

 逆に貢物を送って味方に引き込もうとする方が主流になった。中世領主は強かである。ノルマンディー公爵はフランス諸侯の中でも存在感を増していった。

 

 そうして「所詮は蛮族よ、海の番犬よ」位に思われていたノルマンディー公爵領は、麦の実り豊かで、海港の賑やかな封建領主(・・・・)として急速に発展。しかもヴァイキングをルーツに持つというだけあって、むちゃつよい──という大公爵に成長したのである。

 フランス王がノルマンディー公爵にのっぴきならぬ危機感を覚え始めた時、事件は起こる。

 

 時は十一世紀中葉。

 溢れるヴァイキング魂が抑えきれなかったのだろうか──初代ロロから数えて七代目ノルマンディー公爵は、フランス北岸からお向かいのブリテン島へ侵攻。

 ロングシップでテムズ川を爆速で遡り、そしてクソデカアックスをぶん回すウマ娘を伴に付けた公爵は、瞬く間にロンドンを制圧。

 何とそのままイングランド王に即位(・・・・・・・・・・)してしまったのである。

 

 このノルマン人による征服《ノルマン・コンクエスト》により《ノルマン朝イングランド王国》が成立した。

 

 状況を整理しよう。

 イングランドを征服したノルマンディー公爵は、されど元々の称号を放棄した訳では無い。肩書は『ノルマンディー公爵にしてイングランド国王』となる。

 つまり『ノルマンディー公爵としてはフランス王の臣下であるが、イングランド王としては対等の国王』という、奇妙なねじれ関係(・・・・・)が現出してしまった。

 言うにや及ばず、この状況に最も危機感を覚えたのはフランス王であった。

 

 拗れたノルマンディー公(兼イングランド王)とフランス王の両者の関係──それを決定的にぶち壊したウマ娘がいる。

 彼女の名前はアリエノール。フランス南部の大部分を占める大貴族、アキテーヌ公爵の一人娘。

 そして元祖ウマドルである。

 



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