【完結】暁美ほむらは悪魔みたいないい子でした (曇天紫苑)
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うたかたの夢

 

「はっ……!? はぁっ……! はぁ……! いだっ……!」

 

 ベッドから飛び起きようとして、壁に額をぶつけてしまった。それが今日の目覚めとなった。

 時間はまだ三時過ぎ、窓から見える空は暗く、星の光は微かなものだ。今日は月もほとんど姿を見せず、ただ空の上に存在感だけがあった。

 フローリングの床の上には一人用のベッドがあって、隣には勉強机、その上には電子機器が少し。狭い部屋の中にあるのはそれが全てだ。今現在の私に不必要なものを持たないようにしていたら、ひどく殺風景な部屋が出来上がってしまった。

 

「うっ……」

 

 寒々しさのあまり、気づけば自分の身を抱きしめていた。ネグリジェから露出した肩は特に寒くて、そろそろ長袖を出すべきかと思わせる。

 隙間風だろうか、窓は全て締めているのに熱が抜けていったかの様に全身は冷たく、部屋の中に居ながらにして凍えを体験させられる。

 こんな状況に陥るのもこれが初では無い。むしろ、ここのところは芯から凍り付くような寒気か、汗でぐっしょりと濡れる気持ち悪さのどちらかで目が覚める。それが日常だった。どちらにしても何かひどい夢を見ていたような気がするものの、記憶には残っていない。ただ、辛くて心の痛む、目を覚ました時に安堵さえ覚える悪夢だという一点に間違いはないだろう。

 そんなだから、飛び起きた後に何をするのかも決まり切っていた。顔をお湯で軽く洗って、重い足取りでお風呂場に足を踏み入れシャワーを顔から一気に浴びる。髪を纏めるのも億劫で、最近は魔法で乾かしていた。

 この長い髪とは魔法少女になる前からの付き合いだけれど、相手にするのが億劫になる日くらいある。親しき仲でもたまには距離を置く日があっていいだろうと、そういう日には決まって魔法でほとんどを解決させていた。

 温かなシャワーをしばらく浴びれば身体は勝手に温まってくるもので、やっと落ち着きを取り戻した頃には寒気もすっかり抜けていた。

 机の引き出しから一冊の薄い日記帳を取り出して開くも、そこには日付と、飛び起きた時間だけが記されているだけで、解決できそうな手がかりなど何一つとしてない。私にできるのは、ただ甘んじてこの悪夢を受け止めるだけだった。

 壁にかけた時計はまだ深夜を指しているが、睡眠欲はあまりない。

 少しの手足の運動で力を抜いても、やはり眠くはならなかった。それどころか凄い顔になっている。

 

「……はぁ」

 

 まどかをこの世に引きずり込んでから、物事はただ何事もなく過ぎていった。

 少なくとも、最初は夢を見て飛び起きたりはしなかった。私は今の結果に満足していて何一つ後悔していなかったし、今も悔いなんて覚えがない。自分の意思で決め、己の意思を押し通すのだと決めたのだから、何も迷う理由などない筈だ。

 まどかは確かにそこに居て、人に囲まれて笑ってる。それは私のあらゆる全てに優先されるのだから。彼女が泣いたり苦しんだりせず、穏やかな幸せの中で生きているだけで、私も十分に幸せだと言い切れるから。

 あの戦いも、悲しみも、まるで何もかも幻だったかのように穏やかな日常が繰り返し、絶望や希望などを想うよりも、明日の天気とまどかの幸せにばかり気が向くようになった頃、寝起きの悪さが私に襲いかかってきた。

 

 こうも何度も何度もおかしな目覚めを経験すれば、己の精神と肉体が何かしら悲鳴をあげているのではないかと邪推してしまう。

 学校には通っている。まどかともクラスメイトにはなった。誰も私の邪魔をしないし、まどかには何も気づかせない。けど、まどかを無理矢理現世に連れ戻した事を少しも気にしている節がないのかと考えると、完璧とは言い難かった。

 ああ、その通り。もっと気楽に気兼ねなく、何の壁もなく彼女と友達で居られるのなら、それはとても幸せな事だろう。全てを忘れて彼女達の輪に紛れ込めたらどれほど毎日が輝くのだろうか。しかし、自分の目的の為に何をしたのかも忘れられるなんて、絶対に有り得なかった。

 我慢できる程度の誘惑と耐えられる程度の寂寥感には、今の私を揺るがすほどの強さがない。私は悪魔だから、己の行いに胸を張っていいのだ。

 

 そうしてぼんやりと起きたまま数時間以上が経ち、朝のシャワーを済ませて登校した私が真っ先にするのが、まどかの姿を確認する事だ。

 こうやって直に姿を見なくても、安全には気を配っている。万が一にも彼女の身に危険があってはいけないから。過保護だとか心配しすぎだとか、まどかは私の子供じゃない、だとか。そういう考えも多少はよぎった。しかし、今の私はそういう心配を誤魔化すつもりなんて欠片もなかった。

 だから直接姿を見る必要はなく、だけど、今の自分が何のために、どういう意図で存在しているのかを焼き付けておきたくて、こうして学校のある日はまどかの姿を目で追っている。彼女の席は私から四つ斜め上にあり、今は数人の友達に囲まれながら朗らかに話していた。

 

「それでね、昨日はなんだか変わった夢を見て……」

 

 話の内容を聞くつもりはなくても、耳に入ってくる情報は防げない。どんな夢を見たのかが気になって思わず聞き耳を立てると、近づいてきていた美樹さやかが私の前に立って視界を遮った。

 

「ちょっと、あんたどうしたの?」

「美樹さやか」

「はいはーい、美樹さやかちゃんですよー。で、その顔色はどうしたの?」

 

 明るく真っ直ぐな目つきと高めの身長で私を見下ろして、彼女はその健康な頭を傾けていた。眉を下げ、心配そうに近付けられる顔からは敵意を一欠片も感じない。

 

「顔色? 私の顔色に、何か問題があるのかしら?」

「あるから言ってるの。最近調子悪そうだったし、特に今日は一段と青ざめてるでしょ、寝不足?」

「……」

 

 思わず押し黙ってしまった。

 こんな風に、彼女が私に何の隔意も見せずに打ち解けた様子で話しかけてくるのも、私が今のような存在になってからだった。彼女に記憶がなく、私にも対立する理由がなく、結果として学校では空いた時間になんでもない話をして、ごく稀に下校に付き合うくらいの仲にはなった。

 その指にソウルジェムがあっても彼女は私に立ち向かってはこない。向けられるのは敵意でも剣でも正義感でもなくて、体調不良の友達を気遣う優しく真っ直ぐな善意だった。

 思わず笑みが漏れる。悪人らしい笑いが。

 

「ふふ、ありがとう……でも本当に、特に何も無いわよ?」

「分かりやすい嘘を言わないでよ。顔に出てるんだから分かるってば」

「……仮に少し顔色が悪くなっているとしても、あなたが気にする程ではないでしょう?」

「あたしの目には死にそうに見えるよ。きっと疲れてるんだって、少し休みなよ。ほら、行くよ」

 

 伸びてきた手を、その気になれば拒める。けれど妙に抵抗できず、肩を掴まれてやっと声を出せた。

 

「いえ、私は別に体調不良なんて」

「いーからいーから。そんな顔で平気とか言われても見てられないって」

「ちょっと。第一、あなたは保健委員じゃないでしょう?」

「別にそんな事は関係ない。それに、なんだかほっとけないっていうか」

「……大きなお世話よ」

「む、人が心配してるのに、何よそれ」

 

 不満げな彼女のキュッと閉じられた口に向かって、わざと小馬鹿にした笑みを一度だけ。実際に体調は悪くないのだから、私の事なんて放っておけばいい。

 だというのに、次の瞬間には美樹さやかは不敵に微笑んでいた。

 

「なーんてね、そんな顔色で強がられちゃ腹も立たないって」

「だから、あなたには関係ないことでしょうって、ちょ、ちょっとっ……」

「調子が悪くて気が立ってるんでしょ? 無理しないでよ、あたしが保健室まで連れて行くからさ」

 

 強めに手を引かれて思わず立ち上がってしまうと、美樹さやかが横から支えるように寄り添ってきた。制服越しの彼女の二の腕は柔らかく、しかし、頼もしいくらい力強い。

 その横顔には頼もしさがあり、彼女が生来持つであろう、善良で素直で、不器用なくらい真っ直ぐな感性の美点がうまく出ている。誰かを助けようと、あるいは守ろうとしている時の彼女はひどく格好良かった。

 彼女からそんな表情を引き出すほど、私の顔は惨状を晒しているのだろうか。もう少しお化粧で誤魔化せば良かったと悔いている内に、美樹さやかは私を教室のドアまで運び出している。

 

「あ……ほむらちゃん」

 

 通り過ぎざまにまどかは私を見ていた。私と美樹さやか、二人の組み合わせが意外だったわけでもないだろうに。

 何か言いたそうに手を前に出した彼女は、しかし結局は口を閉ざす。彼女の気配が遠ざかっていくのを背中で感じ、ほんのりとした寂しさを誤魔化し続けているとガラスに映った自分の顔が視界に入る。

 目の下の隈がひどくなり、退屈そうな無表情で固まった顔を見てしまう。なるほど、美樹さやかが保健室に連れ出そうとするのも納得させられる。

 思っていたよりも酷い顔色の悪さは、自分の不調を嫌でも突きつけてくるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大切な事は二つだけ、まどかの幸せとその未来。そのためならば他のモノを踏みにじっても構わない。

 私の身勝手な意思がそう呟いた。それは、何かに答えるような心地だった。

 目を開けてみると見覚えのある保健室が視界に入る。そして、覚醒した意識と一緒に息苦しさがやってきた。

 

「ぐっ……ふぅ、はぁっ……!」

 

 胸をかきむしるように服を握り、荒い息を徐々に落ちつかせていると、やはり、何かひどい夢を見たような後味の悪さがよぎる。

 具体的な夢の中身は分からない。しかし、背中に冷たい汗が流れるような気持ちの悪さが雄弁に語ってくれている。

 そんな時、横から伸びてきたハンカチが私の額を拭ってくれた。視界に入れなくたって誰の手かくらいは分かった。

 

「ほむらちゃん」

 

 まどかがベッドの傍に座っている事は起きた瞬間に把握していて、驚かなかったと言えば嘘になる。顔には出さない程度に嬉しくて、瞳に溜まりかけた涙を堪えるのは相応の労力が要求された。

 彼女はベッドの横にある椅子にかわいらしく腰掛け、いつもの優しくてたおやかな顔を気遣いで一杯にしていた。

 

「大丈夫?」

「まどか……」

 

 時計を確認すると、私がここに連れられてきてからは少々の時間が過ぎており窓の外からはクラスメイトが下校している姿が遠目に見えた。

 まどかの足下には彼女の鞄がある。美樹さやかは一緒ではないのだろうか。

 

「どうして来たの?」

「すごく苦しそうだったから心配になっちゃって」

「……そう。ありがとう」

 

 受け答えの間もまどかは私の額に浮かんだ汗を拭い取ってくれた。見覚えのある白いカーテンで囲まれた中にいるのは、まどかと私の二人だけ。病院にも似た薬品らしい臭いの染みついた室内で寝ていると自分が入院している気分にさせられる。

 まどかは不思議と何も言わなかった。心配そうに私を見つめ、時折口を開くものの、意味の無い吐息を漏らすだけで黙ってしまう。彼女ほどのいい子が何か言いたそうにするのだから、それはもう気になった。どうしたんだろう?

 無言で待っていると、まどかは目を逸らして、何でもない事のように語り出した。

 

「ほむらちゃんは、どうして……えと、なんでもない」

「気になるから、言ってみて。変なことでも怒ったりはしないと約束するわ」

「……じゃあ……その」

 

 なんだろうか、不安などが顔に出ないようにと努力している内に、まどかはおずおずと口を開いた。

 

「どうして、わたしを見てるの?」

「それは……どういう意味かしら」

「あの……気のせいだったらごめんね。前から、よく目が合うと思ってて」

 

 嫌な汗が流れている気がする。私がまどかの姿を目で追っているのは正真正銘の事実だった。「そう」くらいの相槌を打ったけれど、心の中ではあたふたと言い訳めいたものが浮かんでは消えていく。

 「お友達になりたかったからよ」とか「貴女が魅力的だからじゃないかしら」とか、他の人になら幾らでも言えるはずの妄言が、まどかに向かっては喉すら超えてくれなかった。そして、気のせいだと誤魔化す為の言葉すら少しも出てこなかった。

 やっぱり、いつも見られているというのは嫌だろう。少なくとも私なら嫌だし、優しいまどかだって理由は聞きたいに違いない。しかし、私がまどかに何をしたとか、悪魔だとか、そんな事を聞かせるのは無理だ。

 いっそ白いシーツを被って隠れてしまいたい。それでも、まどかの視線を無視はできなかった。

 

「……貴女は、見滝原も久しぶりだろうから戸惑う事も多いんじゃないかと思って」

「心配、してくれてたんだ」

「私も見滝原には転校で来たから、気になっていたの」

「え、そうだったの?」

「誰かに聞かなかった?」

「えっと……聞いたことはない、かな。でもそっか、ほむらちゃんもなんだね」

 

 一番の理由ではなくても、本音だった。彼女の来歴を改変したのは私で、それによってまどかが被ったあらゆる苦労の責任は私にある。身体的な安全とは別な所で、彼女の心が健やかである事は決して欠いてはいけない。

 まどかが困っていないか、まどかは辛い思いをしていないか、鈍い私だからこそ気になって仕方がない。

 

「気にしすぎていたようね、迷惑をかけてごめんなさい。貴女が平気ならやめるわ」

「やめるっていうか、あのね」

「……何?」

「わたしは、ほむらちゃんともっと仲良くなりたいな」

 

 脈を取るように私の手首へと指先をあて、それからゆっくりと両手で私の手を握り包み込んだ。

 てっきり距離を置かれると思っていただけに、まどかの優しい指先の感触は意外さを伴っている。

 

「嫌われてたんじゃなくて、わたしを気にかけてくれたんだよね? なら、もっと仲良くなりたい」

「……そんな風に簡単に心を許してはいけないわ。ちゃんと相手は選びなさい」

「えっ? 選んでるよ? ほむらちゃんと仲良くなりたいか、きちんと考えたもん」

「……」

 

 嬉しい。飛び上がってしまいそうなくらいに嬉しい言葉だった。真心のこもった視線が嘘ではないと教えてくれるのも気分がいい。

 

「鹿目まどか」

「え? あ、うん、どうしたの?」

「貴女がそう思ってくれたのなら……いいわ、よろしくお願いね」

「……うん!」

 

 両手の平を合わせあい、うんうんと頷き合って私達はくすくす笑った。

 まどかの好意を受け入れるにはほんの少しの覚悟を必要としたけれど、いざ言ってしまえばこんなに落ちつくものはない。

 顔と名前を知っているクラスメイトから友達に、その移ろいはまどかと私の間に漂っていた空気を一息で書き換え、まどかの笑みが友達相手へのそれに変わっていくのも分かる。

 屈託のない和やかで柔らかな笑顔があまりにもかわいらしくて、彼女の身の全てから溢れた明るさは私の肌をふんわりと撫で、くすぐったくも気持ちの良い温かさをくれる。

 愛らしい華やかさでいっぱいのお顔が私へと真っ直ぐに向けられれば、その彩りが私の心を遮るあらゆる防壁をすり抜け、通り抜け、奥深くまで広がって私を舞い上がらせてくれた。

 

「まどか、私……」

 

 何かを言いかけた私の声が途中で止まった。まどかが首を傾げているけれど、説明している暇はない。

 嫌な感覚が心の中で光って、警告が響いた。

 

「ごめんなさいっ!」

「ふわっ、ほむらちゃん!?」

 

 とっさに思い切り引き寄せ、その肩を抱いて腕の中に収める。

 油断なんて一切しないように気を張って周囲を観察すると、すぐ傍のまどかが身じろぎした。

 

「ど、どうしたの、急に」

「少し……じっとしていて」

「え、え? あの、ほむらちゃん」

 

 まどかは私の肩にしがみついた。想定していたよりは驚かれていない。嫌がられてもいないのは救いだった。

 そんな彼女に何も言えないのは心苦しいけれど、言うわけにはいかなかった。その場の空気は重々しくなっていき、息苦しさと重々しい気配が強まっていた。

 

「あ、あれ? ご、ごめんね。からだが凄く寒くって」

「……」

 

 顔色が悪くなっていくまどかの身をしっかり抱いて、誰にも手を出せないように力を入れた。よりにもよって、まどかが傍に居る時に発生するなんて。

 

「ううっ……」

「まどかっ!」

 

 意識を失った彼女をとっさに受け止め、抱きしめながら様子を確かめた。

 大丈夫、息はしている。魂に何かされたわけでもない。ただ、気絶しただけ。

 確認すると同時にベッドを囲うカーテンがめくれ上がって、人の形をしていないモノ達が姿を見せた。それは魔法少女達から魔獣と呼ばれ、倒すべき敵として日夜争いを繰り広げている相手だった。

 この、おどろおどろしい気配が色づいたような不定形の魔獣達の視線がこちらを、まどかを見ている。明らかにまどかは狙われていた。

 

「っ……!」

 

 決して触れさせないように、まどかを抱きしめながら睨み付けた。

 それらは脅威という程の存在でもなく、今の私なら戦うまでもない相手だ。

 しかし、まどかに見られるわけにも行かず、息を整えながら目線を下げて彼女の様子を窺ったけれど、気を失ったままだった。

 彼女の目がなければ遠慮はいらない。ベッドから身を起こした今の姿勢のままで対処可能だから、静かに片付けようと力を入れる。

 すると魔獣の動きが完全に止まり、すぐに砕けて散った。想定した通りの結末。ただし、その力を使ったのは私ではなかった。

 

「失礼していいかな。いいよね?」

 

 その人間は何事か歌いながら保健室の窓を開けて入り込んできた。

 魔獣の残した気配をかき分けるようにしてこちらへ向かってくると、目が合った時点で足を止める。

 私の寝ていたベッドから二歩手前、そこでピタリと止まった彼女は、視線を私に這わせてきた。私の頭の先から顔へ向かい、続いて肩から足下までじっくりと移ってくる。

 数秒もすると、彼女はその場でひれ伏した。

 

「え?」

「ぁぁっ……」

 

 その人はぶるぶる震えて感嘆の声を漏らし、床に頭を何度も擦り付けた。明らかに異様だった。

 

「ぁっっ……暁美さんだ……きれいなひと……」

 

 全くの理解不能で、なおかつ不気味な独り言が嫌でも耳に入ってくる。

 

「……え?」

「あ、いえなんでも。その、頭を上げても?」

「確認しなくていいから、早く頭を上げて、いえ、立ち上がりなさい」

 

 平伏した頭を少しだけ上げ、彼女はゆっくりと腰を上げた。

 とりたてて目立つところのない顔をしている。髪は美樹さやかより少し短く、雑に乱れている。細く少年めいた起伏の少ない身体に見滝原の制服を着込んでいるが、どれほど顔を注視してもこんな生徒を見た覚えはなかった。

 スカートの端をひらりとつまみ、一礼する姿には気品などはなく、稚気と隠しきれない薄暗さが漏れている。薄らと濁った瞳に暗い悦びを浮かべ、その口元が漏れる喜悦を描く姿は不気味だった。

 気取った風だけれど、どこか根暗そう。自分の中で思い浮かんだ印象に、人の事を言えた身かと思い直す。

 

「はじめまして、暁美ほむらさん。僕の名前はどうでもいいから、気にせず流して欲しいな」

「魔法少女?」

「うんまあ、そういう感じ」

「……あなたは、見滝原の魔法少女ではないようだけれど」

「さて? 確かにずいぶんと遠くから来たけれど」

「なら、どこで私の名前を聞いたの?」

「あ、気になる? まあ、気になるよね。実は円環の理から降りてき……たぁっ!?」

 

 出現した私の使い魔が、槍をその子の喉元に向けた。

 私自身は眠るまどかを抱きしめて、決して渡すまいと腕の中で閉じ込める。

 突然の敵の出現だった。今まで見たことのない、明確に私の邪魔をする為に存在するであろう敵。その姿をしっかりと睨み付け、胸の中の困惑も脇へと追いやった。速やかに倒さなければ。

 

「ちょ、ちょっと! 僕はそういうのじゃなくって!」

 

 青ざめた顔から笑顔が吹き飛び、必死で首を横に振っている。両手は顔の前でおろおろと揺れ、瞳と一緒に動いていた。槍と私に視線を行ったり来たりするばかりで、私の隙を突こうとはしない。

 

「円環の理から来たのでしょう?」

「いやそうだけど! 待って! 僕は味方だ! 味方だよ! 僕は貴女の手伝いがしたくて来たんだ、本当だよ」

「それを信じるほどの馬鹿だと思われているなら、協力を申し出られても困るわ」

 

 敵意を込めて見つめると、向こうから視線を合わせてきた。慌てた態度で咳払いをして妙に落ち着き払った顔を見せ、半笑いで頷いてくる。

 

「いんにゃ、まあ信じない。無理だろうね。僕も信じないと思う。でも、暁美さんが信じなくても僕は勝手に手伝うから気にしなくていいよ」

 

 口にする言葉とは裏腹に、その視線は単純に気持ちが悪かった。今は私の輪郭をなぞるように視線が這う。感極まったように頬へ手を当て、うっとりと顔色をとろけさせる姿に思わず身が下がった。気づけばまどかを腕で隠すように抱きしめており、彼女の寝息が間近で感じられた。

 

「いや、ある程度は警戒されると思っていたけれど、暁美さんがここまで追い詰められているなんて……なんて美しい、じゃなかった、悩ましい」

 

 ぞわぞわとしたモノが走るのが止められない。

 手が伸びてくる。うっとりとした顔に貼り付いた二つの目には異様な光が宿り、その中に映る私の顔はただ困惑していた。

 

「……顔が。顔が、近い。あまり近づかないで」

「おっと、ごめんなさい」

 

 こちらの言うままに引き下がり、距離を取ったまま依然として私を見つめてくる。

 人にじっと見られて、ここまで悪寒がするのは初めてだった。

 まどかの姿があちらの視界に極力入らないようにシーツで隠しながら、努めて無表情を維持していると、何故か感嘆の吐息を漏らされた。

 

「実物は想像の数倍美しいものだなあと思って」

 

 じっと、動かずに。その視線は私の胸に集中していた。

 思わず手で己の身体を隠そうとしてしまう。

 

「どこを見ているの」

「心臓を」彼女は何一つためらわずそう答えた。「一度病を抱えて、それから回復して、だけど、か弱いまま傷付いて、その果てに苦しみの中でも美しく鼓動する心臓を。あ、それから綺麗な体も見ていたけどね、ふふん」

 

 聞くに堪えない発言を頭の中で素通りさせていると、彼女はうっとりと続けた。

 

「耳を澄ませば貴女の心臓の音が聞こえそう。聞かせて貰えもらえたら嬉しいんだけど、胸に耳を当ててもいい?」

「そう言われて聞かせると思うのなら、あなたは自分を見つめ直した方がいいわ」

「だよねー」

 

 あっけらかんと言い返し、両手を頭の上に置いている。とぼけた様でいながらも瞳は爛々と濁っており、決して油断ならない色彩を放っていた。

 

「それで、味方というのはどういう意味?」

「もちろんそのままの理由だよ? 例えば、魔獣が円環の……違うか、貴女達を襲った理由も分かってる」

「……説明を聞いてもいいかしら」

「もちろん! 暁美さんの頼みなら断れないね」

 

 腰に手を当てて「まかせて」と言いたそうに得意げな顔となり、私の求めた説明を口にしようと女が口を開けた時、まどかが小さな声をあげた。

 眠たげな、同時に目覚めを予感させる吐息の漏れに私と女は同時に顔を見合わせ、女が首を横に振る。

 

「ああ残念、まどかちゃんが起きるかな。詳しい話はまた今度でいい?」

 

 入ってきた時と同じように窓枠へと手をかけて飛び乗り、振り返りながら小さく手を振ってくる。

 

「それじゃ僕はこの辺で。まどかちゃんへの説明はよろしくね。僕は面識がないから誤魔化せないんだ」

「待ちなさい、先に日取りを決めておくべきよ。場所と時間は……」

 

 まどかが起きるより早くにと早口気味に、一方的に決めた集合場所と時間を告げたが、女は一切嫌な顔もせずに頷きながら聞き入れた。それどころか、目に見えて幸せそうに両頬へ手を置いて、感極まったように震えている。

 

「勝手に決めさせて貰ったわ。問題ないかしら」

「もちろんないよ。ああっ、まどかちゃんが起きちゃうね。僕、急ぐからこれで!」

 

 窓から女が去っていくと、その存在の痕跡はどこにも残らなかった。漂う臭いもシーツの白さも知っている通りの保健室のまま、直前に魔獣と戦っていたなんて恐らくは誰も気づかない。

 同時に、まどかの目が開く。ぼんやりした目が私を捉え、明瞭ではない声が私の名前を呼んでいる。

 

「ほむらちゃん……あ、あれ? ここ、わたし、どうして?」

「覚えていないの?」

「えっと……確か急に寒くなって、なんだか意識が遠くなって……」

 

 声音がはっきりとしてくると、まどかは一息をついた。息遣いに乱れはなく、目つきに疲労は見らず、いつも通りのほんわかとした、和やかさに満ち満ちた優しい瞳と顔色をしている。

 ひとまず、この場で何が起きていたのかを知覚している様子はない。

 

「貴女は疲れていたの。だから少しの間、休憩時間を取っていたのよ」

「ずっと見ててくれたの?」

「……ええ」

「そう、なんだ? ……えと、ありがとう、ほむらちゃん。大変だったよね」

「いえ……時間はあるから、お構いなく」

 

 淡々と答えたその時、まどかの目が僅かにきらりと輝いた。それが彼女の優しさの発露とも呼べる明るい光が溢れたのだと気づいた時には、既に両手が握られていた。 

 

「あの、さ」

 

 温かな手に包まれて、手の甲から指先がゆっくりと撫でられる。振り払おうと思いはしても実践はできず、無愛想な顔で答えるのが精一杯だった。

 そんな私の中途半端な対応に気を悪くする気配は一切なく、まどかが瞳を遠慮がちに覗き込んでくる。

 

「ほむらちゃんは、あの、勘違いだったらごめんね。ひょっとして、わたしと昔、どこかで」

「そんな事はないわ。勘違いよ」

「そ、そっか、ごめんね」

「いえ、別に構わない。それより身体はもう大丈夫かしら」

「う、うん! なんだかちょっとの間だけ調子が悪かっただけみたい」

 

 魔獣は幸いな事に彼女の心と体に影響を残さなかったらしく、すっかり元気そうだった。

 

「ほむらちゃんこそ少し元気になってくれたね。良かった」

 

 自分の事のように安心してくれるのが嬉しくて、目を逸らす。

 

「……まどかは、まだ帰らなくても大丈夫?」

「あっ、もうこんな時間。ほむらちゃんはどう? 帰れそう?」

「もう平気よ。体調も良いし、一人で帰れるわ」

 

 だからまどかは早く帰って家族と過ごす時間を大切にすればいい。私なんかに構う時間より、そちらの方が遙かに重要で忘れてはいけない筈だから。

 それでもまどかは私の瞳をじっくり見つめ、透明なまでに清い声を向けてくる。

 

「あのね、今日はこの後、予定とかある?」

「特にないわ」

「じゃあその、一緒に帰っていい、かな」

「え、ええ……ええ」

 

 しっかり繋がれた手を引かれ、まどかに導かれるように腰を上げた。

 保健室の中にある救急箱や薬剤の臭いも、綺麗に洗濯されたシーツも、それから窓の外から聞こえる運動部のかけ声も、どれ一つとして変わっていない。魔獣が現れたコトも、それを倒した女の存在すらも、まるで幻のようだった。

 しかし、幻などではない。まどかと並んで保健室の扉を開けて外へ出ながら、横を見れば彼女の顔があって微笑んでくれる事実にどうしようもなく心を浮き立たせつつも、その身を狙う何かの接近を見逃さないように身体へ力を入れた。




本作は十万字ほどで完結し、それを既に書き終えています。
これを書き始めた頃は半年以上前だったので、これを書いた時点ではまだ続編が出るとは知りませんでした。
幾つかのパロディがあるのは私に余裕があった証です。そちらについての話は色々と、本当に色々と思うところがありすぎたので、ここでは書きません。


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わたしたちが幸せだった頃

 玄関を開けると、まどかの生きている気配が詰まった空間が私を迎え入れてくれた。窓から差し込む和やかな光がお庭の草木と家族の団らんの場を照らし出し、外で家庭菜園をしているまどかのお父様の背中が目に入る。

 ほんの少しだけコーヒーの香りがする中、綺麗に掃除された床に足を踏み入れると、そこは私の身体が映り込んでいそうなほどに光っていた。

 

「たっだいまー」

「お邪魔します……」

 

 努めて柔らかい笑みを作ってまどかのお父様に挨拶を済ませ、洗面所で手指などを綺麗にするのを済ませてから、まどかの部屋へ向かう。勝手知ったるほどではないけれど、内装は知っていたから迷わない。案内してくれるより先に動かないように気をつけながら、その中へ。

 かわいらしい色合いの模様が入ったカーテンで外の景色は見えなくても、麗らかな日差しの優しさが部屋の中を撫でている。ベッドの上に乗ったぬいぐるみの数はずっと前の世界で見た時より増えているものの、記憶の中の彼女の部屋とは少し違って荷物は僅かに少なく、引っ越してきてからまだ開けられていない箱が二つほど積まれていた。

 まどかは私の背を押すようにベッドへ座らせると、ぱたぱたと嬉しそうに部屋を出て、お茶とお菓子を手に戻ってきた。

 

「マカロンは食べられる?」

「ええ、好きよ」

 

 紫と桃色のマカロンが二つずつあって、私達は示し合わせたように片方の色を手に取った。恐らく味は同じだろうけど、色が違うだけで何となくの印象はずいぶんと異なる。

 口当たりのよい甘さと柔らかな食感の重なり合う演奏の見事さよりも、隣にいるまどかと一緒に美味しいものを食べているのが遙かに重い事実として胸に落ちてきた。

 ただ友達の家に遊びに来ただけ。それだけ。でも、まどかの部屋が存在する事にすら何かしらの感慨があった。彼女の存在が消えていた時はこの部屋に誰も居なかった筈だから。

 

「このマカロンおいしいね」

「ええ……あの、ありがとう」

 

 甘みを心地良く味わっている間の私達は言葉をほとんど交わさなかったけれど、それで良い気がした。なぜって私は幸せだったし、まどかも笑顔だったからだ。

 空気と一緒に甘みを味わい、口の中から滑らかなクリームのような後味すらすっかりと消えた時、まどかが私の横顔を見つめた。洗い立てのような純白のシーツを掴んで切なげな息を吐く姿がどうしても気になってしまう。

 

「何、かしら」

「んー……やっぱり、ほむらちゃんは美人さんだなあって」

「そんな事はない。あったとしても、まどかの方がずっと魅力的で間違いないわ」

「ほ、ほむらちゃんはわたしを持ち上げすぎじゃないかな……?」

 

 やはり、今ひとつ信じられていないような顔をされてしまった。どちらかと言えば困っている風でもあり、あまり熱心に語りすぎてもいけないだろうと口を噤む。

 まどかは可愛らしくも凜々しい時があり、非凡な勇気と強さを兼ね備え、他者に優しく手を差し伸べられるだけの慈悲深さすら持っている。例えどこの誰が彼女を普通の女の子だと言ったとしても、私にとっては何より大切な人だと考えるのに迷いはなかった。

 そのようなまどかの良い所を幾らか掻い摘まんで伝えたつもりだけれど、言えば言うほどまどかを困らせてしまって、彼女は自分の頬をかく。

 

「え、えっと、ほむらちゃんは好きなお菓子とかある?」

「そうね……」

 

 わざとらしく話を逸らしにきたまどかの意思は都合がよく、ここまでの会話をひとまず無かった事にして、私達はとりとめも無い世間話を始めた。

 

 純粋に楽しいお喋りが続くと、あっという間に時間が過ぎていく。お菓子もすっかり食べきってお茶のお代わりまで貰い、まどかが何回か座り方を変えた頃になると、窓の外から窺える光が少しずつ落ちていくのが分かった。

 時計はまだ夜を示さず、しかし漂う空気はすでに暗く、小さな欠伸すら耳に届く。

 

「ふぁぁ……ふぅぅ、ごめんね、なんだか眠くなってきちゃった」

「そう。なら私はこの辺りで失礼しましょうか」

 

 この時間からまどかが眠そうにしているというのは珍しかった。話し続けて疲れをためてしまったのかもしれない。

 私が居れば落ちついて睡眠に入れないだろうと立ち去ろうとするも、まどかの腕が私の掴んで離さなかった。

 

「ほむらちゃんっ」

「あうっ」

 

 横から抱きつかれ、私達はごく自然にベッドの上に寝転がった。そのまま一気に布団が肩まで被さってくると、まどかは横向きで私と目を合わせてくる。

 眠そうだけど、それ以上に澄んだ慈悲深い瞳の在りようは、彼女の存在をより一段と高次元に引き上げている感覚がある。思わず彼女に干渉する何かの存在を疑ったけれど、そのような気配は微塵もない。

 お布団から起き上がろうと身じろぎしても解放してはくれなかった。逆に背中へ手を回されて、なだめるように胸の裏側を撫で回される。

 

「ほむらちゃんにも、一緒にお昼寝してほしいな」

「……なぜ、かしら?」

「うーん、あのね、ほむらちゃんもまだ眠り足りない気がして」

「別に体調が悪いわけじゃないわ。十分に休んで回復したわよ」

「でも疲れてるんだろうなって、そう見える事が多いから。心配になっちゃって」

 

 今の私が享受するにはあまりにも贅沢な優しさばかりを与えてくれて、屈託のない笑顔で向き合ってくれる姿勢に、思わず声が出る。

 

「鹿目まどか」

「う、うん」

「……お気遣いには感謝するわ。けれど……友達みんなにここまで手厚い優しさを振りまくと、貴女が疲れてしまうわよ。だから……」

「でも、ほむらちゃんに辛そうな顔なんてして欲しくないもん」

「ありがとう、その気持ちだけで嬉しいわ。でも」

「一緒に寝るのって、わたしは好きなの。ほむらちゃんは、嫌?」

 

 無駄な抵抗を試みた私の口が、半開きのまま固まった。眼前に現れたのは大人びた顔で、憂いの秘められた静かな表情だった。

 

「……それは」

「えいっ」

「きゃっ……!」

 

 ベッドの中に潜り込まれて、被せられた布団の中でまどかと目が合った。

 

「だ、だから、まどか、少しは警戒をっ……」

「いいの」

 

 頭が彼女の腕の中にすっかりと収まり、額がまどかのみぞおちの辺りに触れた。

 彼女の存在感がいっぱいになって、そのまま頭を撫でられるのが本当に心地良い。逃れようと身をよじってみたけれど本気にはなれず、動こうとする度にひと撫でされて力が抜けた。 たちまち抵抗する気構えがなくなった。それどころか自然と眠気まで湧き上がり、まどかの垂れた瞳に見守られながら眠るのだと思うと、いつもより気分良く眠れる気がした。

 

「大丈夫、心配要らないよ」

 

 まどかは何度かそう繰り返した。何に対して言っているのかはよく分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すぅ……すぅ……」

 

 規則正しいまどかの寝息は、それだけで良質な睡眠を感じさせるほどに良いリズムを刻んでいる。

 

 結局、夕食まで一緒にいただいてしまった。まどかのお父様もお母様も私を歓迎してくれて、タツヤくんを含めた五人での夕食には遠く昔に置いてきてしまったような味わいがあった。もちろんとても美味しかった。

 こうしてまどかと眠っていたからか、少しだけ肩の力が抜ける。このまま、今日だけはまどかと二人で深い眠りに包まれていたいと素直に思えるくらいには。

 

 静かに、静かに身を起こす。まどかを起こしてしまってはいけない。

 お布団を足回りにかけたまま髪を撫でると、指先にまどかの髪が一本絡みついていた。密着して眠っていれば自然とお互いの髪が混ざり合っていたので、その中の一つなのだろう。

 感謝したくて、感謝したくてたまらない。まどかが私のために使ってくれた時間は本当に過ぎるのが早く、あまりにもったいなさすぎて時間に止まって欲しくもあった。

 

「ありがとう……ちゃんと、休めたわ」

 

 少し、自分が思い詰めすぎていたような。そのような覚えがある。

 寝起きが悪かったからか、それとも考える事が多かったからか。今の自分になってからというものの、遮二無二で必死になって戦い続けていたあの頃に比べると多くの余分な時間があった。

 そうなってくると、空いた時間で未来を思い描き、そこで産まれた予測と不安に対して自分に何が出来るのかと考え込む時間も増えてくる。

 人格面で自分が優れているとは思えないので、まどかの幸せは彼女を大切にしてくれる沢山の人に任せた。現にご家族はまどかを愛していたし、幸せな家庭なのはただ一日の夕食を共に過ごすだけでも察せられる。学校に居る時もそうだ、クラスメイトでまどかと仲の悪い人間なんて一人もいない。あんな優しい子を嫌う人が居たら許さない。どれほど確認してみても、まどかに悪感情を抱いている人間の存在は見られなかった。

 私が手をつける余地なんてどこにもなくて、あるのはただまどかの屈託のない笑顔と、ただ平穏に過ぎゆく日常だけ。それがどんな宝石より貴重で高価な奇跡なのは、よくよく知っている。

 そんな何より尊い日常を、誰かが傷つけるのではないかと目を光らせ続けた。いつ、どんな瞬間であっても敵の存在には気を配り続けた。円環の理からの干渉、インキュベーターの暗躍、魔獣の発生、魔法少女の接近、まどかに危害を加えようとする人間の活動、それから、まどかの生活を害するすべて。あらゆる可能性を想像して、やれる限りの精一杯は尽くしてきた。

 ただ、思えば少しだけ、無理をしすぎたような気もする。

 一ヶ月間の繰り返しという明確な区切りがあった時と同じ調子で自分を鼓舞し続けていると、そう遠くないうちに私は疲れ切って崩れ落ちてしまったかもしれない。私は、まどかが生きている限りずっとずっと警戒を続けなければいけないのに。

 まどかがくれた優しい時間のお陰で、一つ二つ深呼吸ができた。けれど、それは私が戦わない事を意味しない。

 

「まどか」

 

 眠る彼女に小さな小さな声をかけ、艶やかな髪をひっそりと撫でた。その何もかもが私にはもったいなさ過ぎる幸福に他ならない。

 人に沢山優しくして、大切にして、己の身すら他者の為に捧げてしまえる魂は常に輝いて。こういった善意を振る舞える子だからこそ何としてでも助けたいと真摯になれる。

 

「んむぅ……」

「あっ……」

 

 頬をゆっくりと撫でていたら、まどかの目が覚めそうになっていた。慌てて手を引っ込めようとしたけれど、まどかは私の指を掴まえて、そのまま己の頬に当てさせる。

 私は導かれるように布団の中へ戻り、もう一度彼女を抱きしめて、同じように抱きしめ返された。本当に幸せな眠りが、私を包み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の眩しい日差しから逃れるように木々の影を歩いていると、合流してきた美樹さやかがこちらの顔をまじまじと観察してきた。影のすぐ外側を歩くまどかが、私達に向かって小首を傾げているのが見えた。

 

「うーん」

 

 一歩こちらに距離を詰めると、美樹さやかは唸った。もう少し顔を前に出せば鼻先が触れ合うほど近い。

 あまり距離が近いのは得意ではなかった。それなり以上に仲良くなると、彼女は心だけでなく身体の距離感も一気に詰めてくるのだ。

 

「顔色は、うん、ちょっと良くなったね」

 

 すぐ目の前にある美樹さやかの顔がより明るくなって、明瞭な快活さは見ているこちらの気分を軽くしてくれる。

 

「昨日はまどかの家でお泊まりだっけ?」

「そうそう、ほむらちゃんと二人で寝たんだよ」

 

 心なしか、昨日よりもまどかとの間隔が狭い。

 

「へぇ……ね、ほむら、まどかの家のご飯はどうだった?」

「とても美味しかったわ。まどかのお父様は料理上手で、ええ、見習いたいくらいよ」

「だよね。うぁー、なんか久しぶりにまどかの家に泊まりたくなってきちゃったかも」

「来たい時はいつ言ってくれてもいいよ? さやかちゃんなら大歓迎!」

「ん、ありがと!」

 

 丸一日まどかに世話を焼いて貰い、ここしばらく続いていた嫌な夢を見ずに済んでうなされて飛び起きる事も無くなり、身体が軽くなっているような気がする。

 だから心というのは本当に厄介だった。どれほど定めた目的があっても軋む心の痛みと疲れは迫り、誤魔化しても誤魔化しても湧き出てくる。

 

「うんうん、まどかの家でしっかり休めたってわけだね」

 

 訳知り顔の美樹さやかの言葉に思わず頷いてしまった。

 

「ほむらは我慢しちゃう方だから心配なんだよね」

「あなただって我慢する方だと思うけれど」

 

 辛い気持ちを溜め込みがちなのはよく知っている。追い詰められるまで我慢した挙げ句、ひどく傷付き苦しんでいく姿を何度見てきたことだろう。

 そうとは知らない美樹さやかは両手を冗談めかして振っている。

 

「いやいや、あたしは我慢なんてできないって、すぐに顔に出るし」

「顔に出やすいのは、そうね。前のテストの結果も分かりやすかったわ」

「あー! そういう事言っちゃうー? 憎たらしい事言っちゃって。そんなあんたにはー……」

 

 私の歩く先に回り込むと、美樹さやかの髪は背後にある噴水のしぶきで艶やかな光を宿した。何やら両手の平を見せつけるように突き出し、おどけた顔をしている。

 嫌な予感を覚えてまどかの顔色を窺うと、彼女は私達の事を嬉しそうに眺めていた。

 

「回復祝いだー!」

 

 そう言うなり美樹さやかが飛びついてくる。非常に直線的で避けやすい筈なのに、肩を掴まれるまで何一つ動けず、彼女は私の後ろに回り込んで背中から私の脇腹に手を伸ばし、身体の柔らかい箇所を撫で始めた。

 

「相変わらず、羨ましいくらい細い腰してるよねっ!」

「え、ちょっとっ……! こ、こらっ、やめなさ、ふっ、ひゃっ」

「おおぅ、いいスタイルしてんねぇ、しってんねぇっ、ほらほら、腕を挙げてよっと」

「ひゃわっ!?」

 

 腋に手を突っ込まれてくすぐられると変な声が出てしまい、それを聞いたまどかの意外そうに目を見開く様があまりにも気恥ずかしくて顔が熱くなる。

 だというのに美樹さやかは止まらず、私の体の弱い部分を撫で回す事に余念がない。

 

「やめ、やめて、だめだって、言ってるでしょうっ。く、くすぐったいってっ」

 

 服の上からでもくすぐったさに身が震えた。

 何とか回るように美樹さやかから逃れて離れると、彼女の愉快そうな笑い声がやけに耳へ響く。嫌な気はしなかった。

 

「ごめんごめん、つい」

「つい、じゃないわ」

 

 嫌ではなかったけれど驚かされた。そう抗議しても彼女はニッコリとした顔を崩さない。

 まったく、と私が呆れている間に、背中越しのまどかの気配が今までより大きくなる。どうしたのだろうと振り返る前に、美樹さやかに肩を叩かれた。

 

「あはは、こういうスキンシップもたまには良いでしょ?」

「……そうね」

「うんうん。というわけで、まどかも、やっちゃって!」

「う、うん! えいっ!」

 

 かけ声に合わせてまどかが私に飛びつき、重みと体温が共にやってきた。

 

「ひゃあっ!?」

「んっ、ほむらちゃんっ」

 

 一瞬の衝撃から、まどかの確かな存在感が一杯に広がった。人を抱きしめる為にある両腕と、大切な人と手を繋ぐ為の指先が私の身を服の上から撫でて、私を捕まえてくれている。

 背中にくっついたまどかの体を支えられる自分の魔力に、今だけは感謝した。まどかの指先は私の腹回りを撫でるが、くすぐったさは感じなかった。

 

「すっごい声を出しちゃってまあ……」

 

 美樹さやかが胸元で腕を組んだ。私達を眺めて脱力したように息を吐き、小さく首を振っている。

 

「ほむらちゃんって、やっぱりかわいいっ」

「ん……びっくりしたわ」

「えへへ。ごめんね」

「……ふふ、構わないわ。こういう風に貴女と触れ合えるのは嬉しいから」

「まどかとあたしで露骨に態度が違うなあ……」

「でも、わたしはさやかちゃんとほむらちゃんみたいな仲の良さがちょっと羨ましいかも。気安いっていうか、遠慮がないっていうか」

「そう? ま、ないものねだりはよくないよね、っと」

 

 小さな水たまりを蹴って、美樹さやかが手を叩く。思いのほか良い音がして周囲の人が一瞬だけ足を止め、それに気づいた美樹さやかは笑って誤魔化した。

 

「話は変わるんだけどさ」

「ええ」

「ちょっと先の話だけど、今度、まどかと水族館に行こうと思うんだ。割引券があるから、あと一人は一緒に行けるんだけど」

「ほむらちゃんさえ良かったら、一緒に、どうかな? 三人で遊びに行きたいの」

 

 迷うまでもなかった。誘ってくれるなら、喜んで受ける。

 

「……ええ、行きましょう」

「うん! 一緒にペンギンさんを見ようね。あの水族館には沢山居るって評判なの」

「あと、イルカとかアザラシね。さあ、そうと決まれば、予定を決めないと!」

 

 美樹さやかの弾んだ声と軽い足取りに引っぱられながらも、何日に集合するのか、どこで集合するかを軽快に決め、予定はあっさりと定まった。

 水族館で何が見たいかをまどかに問われて答えられず、まどかに合わせてペンギンと言ったが、見抜かれてしまったかもしれない。のんきにそんな事を考えながら、ふと時間を意識してみると、三人で話している間にすっかり学校が始まりかけている。

 ちょっと急がないと遅刻気味になってしまうかもしれない。美樹さやかに無言で時計を指すと、彼女は声をあげた。

 

「あっ、やば、時間がないかも!」

「う、うんっ! さ、ほむらちゃんも急ご!」

「ええ……分かったわ」

 

 美樹さやかは、私とまどかの手を握って駆けだした。

 遅刻間際で焦り気味な二人とは違い、私の中にあるのはひたすら幸せな心地だけだった。これほど素晴らしい時間の中で遅刻がなんだというのだろう。

 二人は明らかに私を気遣ってくれている。その意に気づけないほど恩知らずにはなれない。真実を知れば敵になるかもしれなくても、まどかも、美樹さやかですらも私を迎え入れていた。

 水たまりに踏み込んだ靴がしぶきをあげ、私達の足まで跳ねる。ほのかに濡れた感触に顔を見合わせて笑い出した二人と一緒で、私の口元も自然と笑みを描いていた。

 ああ、だというのに、こんな時間からまどかを狙って現れる魔獣達の邪魔なことときたらない。

 カラスに啄まれて消えていく気配に、ついつい眉をひそめてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓ガラスを通り抜けるようにして屋根に登り、現出した翼をはためかせて飛び上がった。今日の夜空は雲一つなく、半月の輝きも鮮やかだ。この時間でも見滝原市には活気が残り、人通りの多い所ではまだ起きている人達の灯りが明々としていた。そのせいか、星はあまり見えない。

 今日は魔獣の気配もなく、ほとんどの人が平穏な一夜を過ごすのだろう。紛れ込むように現れた何体かは、事前に私の使い魔が打ち倒した。

 しかし、目的地に向かう私の心は平穏とは行かなかった。

 円環の理から来たものの気配が、確かに約束の場である丘の上にある。周囲に人気はなく、それ以外の獣の気配すら感じられない。

 小高い丘に着地し、素早く悪魔へ変身しながら翼を畳むと、一歩一歩に力を込めて地を踏み進める。花を踏まないように舗装された道を曲がって迂回してまた進み続けると、気配の主がそこにいた。手すりに背を預けている女の身から溢れる存在感の中では、神聖さとおぞましさが同居していた。

 彼女もまたこちらに気づき、ぱたぱたと大きく手を振ってきた。

 

「やぁっ、暁美さん!」

 

 声を上げながらもこちらに駆けてくる。魔法少女の脚力ですぐに目の前まで来ると、彼女の濁ったままの瞳が光を灯した。

 こうして見ると、背が一回り大きい為か幾らか年上に見える。見滝原の制服姿だけれど、あまり似合っていない。スカートの下は私と同じくタイツで覆われており、素肌の見える箇所はかなり少なかった。手首や顔はほんのりと日焼けを残しているが、それだけでは何も推測できない。

 私でもひと目で察せる程にはしゃいでおり、機嫌は非常に良さそうだ。

 しかし、私は身構えたままで気を抜いたりはしない。できない。その身から微かに感じられる円環の理の気配は懐かしく、愛おしく、そして同じ程度に忌々しかった。

 

「あなたは」

 

 言いかけた時、女が硬直して声を響かせた。

 

「わっ……!!」

「え」

 

 頭一つ揺らさないまま、目線だけが異常な速さで右往左往している。私の瞳、肩、指先から腕、脇腹から腋、胸を貫いて背中、太股から足の先を一周、腰回り、口元、髪へ来てまた瞳へ。痛みを錯覚するほど強い視線が刺さってくる。

 自然と、露出した肩や腰回りを隠そうとしてしまった。そう思えば足回りも落ちつかず、背中を向けようにも大部分が素肌なのだから見せたくない。

 最初にこの姿を取った時は、それはもう、感情の高ぶりと決意のままにひた走ったものだから気にならなかったけれど、例え戦う為の姿としてもこんなに派手な格好をするのは気恥ずかしくなるものだった。

 この姿を取ったのがまずかった。ただでさえ……制服を着ている時でさえ! 泥のような目を黒く輝かせていた彼女に、この姿なんて見せるべきではなかった。

 

「……黙り込まないで貰えるかしら」

「はっ……! あ、ああ、はい、ん、だよね、ごめんなさい」

 

 何とか正気の見られる声に戻ったものの、この姿のままでは明らかに会話すらままならない。昔の魔法少女としての服に戻すと、何やら残念そうな「ああっ」という呻き声が聞こえてきた。が、聞かなかった事にした。

 良い物見たな、と言いたそうに何度も頷いているのが、あまりにも不可解だった。あの格好のどの辺りが素晴らしかったのだろう。深掘りすると底なし沼から伸びた手に足を引きずられるような心地にさせられそうだった。

 

「ちょっと意外かな。たぶん、今日は来ないと思ってた」

「なぜ?」

「今日も鹿目さんの家に泊まるのかなって」

 

 なら、何故それを知っているのか。問い詰める気にはなれない。一面に広がる草原の中で、舗装された道だけは一つの緑もなく石が敷き詰められ、彼女はその道だけをくるくるふわふわ時にはステップを踏んで踊るようにして愉快そうに歩く。

 

「それでも、僕に会いに来てくれたんだね。本当に嬉しいよ。もちろん君が情報を求めて僕を利用しようって考えているのも凄く嬉しいんだ」

 

 変わっている。素直に、それだけが彼女への印象だった。ほとんど初対面同然の私に対して、円環の理から来た筈の魔法少女がここまで友好的に振る舞う理由は微塵もない。

 そこまで考えて、あるいは、と思う所が一つある。かつての私もまた、まどかと幾度も初対面を繰り返していた。

 

「あなたは昔、どこかで私と会っているの?」

「いいや? あいにく、僕の魔法は暁美さんみたいに凄くないからさ」

 

 あっさりと否定してくるが、本当だろうか。私が知らないどこかの時間で、私と出会った魔法少女ならまだ少しは好意も理解できるというのに。

 

「気にしないでよ。僕は暁美さんに手を貸したい。本当にそれだけなんだ、暁美さんが凄く魅力的で大好きだから……待ちなよ、恋愛感情とかじゃないよ?」

 

 おどけたように肩を竦めて言葉を付け加えつつも、熱っぽい視線は分かりやすい重みを秘めている。

 

「心から溢れるモノが、貴女をより綺麗にしているんだね」

 

 この、気のせいでは決して片付けられない強烈な好意を露わにして、私の頭から足までのあらゆる全てを目に焼き付けているのが明らかな振る舞いに、どうすればいいのかが分からなくなる。敵には敵意を、感情を隠すべき相手には無感動をみせれば良いけれど、このような明け透けな好意に何を返せばよいのか。

 ひとまず小さく相槌を打っておくと、そんな私の一挙動にすら感動的に身を震わせている。

 

「それにしても、ああ! 真正面から僕に会いに来る必要なんてなかったのに」

「細かい話をすると言ったのは、あなたよ」

「もっと敵意で一杯かと思っていたからね。いやいや! 嬉しくないわけではないよ?」

 

 腰に片手を当てながらの、ひどく享楽的な声が響く。

 

「まったく、まったく、暁美さんは素直な良い子だね。そんな風じゃ、僕も口が緩んじゃう」

 

 その場で私から背を向けて伸びをすると、彼女は愉快そうにくるりと回って私と目をあわせに来た。小首を傾げながらの視線が突き刺さるようだ。

 

「僕がなんなのかは前にも言った通り。円環の理から送り込まれてきたものさ」

「そこは聞いたわ。目的は、私の邪魔ではないようだけれど」

「送り込まれた理由は暁美さんの邪魔をする事で間違ってないけどね、僕自身はあなたを手助けしに来ただけだよ」

 

 いかにも頼もしげに腕を挙げて力こぶを見せる仕草を取るも、力強い様にはとても見えない。素直にその感想を伝えると、分かっていると言いたげに頷かれた。

 

「ところで、鹿目さん達の護衛は大丈夫?」

「そこは心配しなくていいわ」

「そう? なら信じるとしよう。そうそう本題だね、魔獣だったか」

 

 どこから持ってきたのか単純な木製の椅子が一つだけあり、彼女が背もたれを掴んで私を手招きし、椅子を差し向けてくる。

 白く塗られた椅子はどこでも見かけるような簡素な作りをしており、座り心地は最高とは呼べそうもなかった。

 

「これに座らない?」

「結構よ」

「そう遠慮しないで、どうぞどうぞ。嫌なら僕を椅子にしてもいいけれど」

「もっと必要ないから。それより、魔獣はなぜまどかを狙っているの? 知っている事を聞かせて」

 

 私の拒否にも全く動じず、椅子を脇へと寄せた彼女はその場へと座り込んだ。正座をしてこちらを見上げる瞳には変わらず何か不定形の忌避感がある。

 そうでなくても直球の好感を伝えてくる表情の明るさときたらない。

 

「……暁美さんだって、もう察しはついているんじゃないかな?」

「何を」

「そうでしょ。だって貴女は、鹿目まどかを救おうと必死に戦い続けた結果として、自分が何を起こしてしまったのかを知っている。自分のした事が裏目に出て、何も成し遂げられずに終わる事を知っている。円環の理はあなたが作ったも同然だ」

「ずいぶんと、好きに言ってくれるわね」

「でも、今までだって沢山の失敗を重ねてきたんだから、今回だけは万事が上手く行くなんて楽観視はできない……僕としては、上手く行って欲しいんだけど。まどかちゃんはいい子だしね」

 

 嫌に確信のこもった声音で、私の思っている事は全て理解しているとでも言いたげだった。不思議と腹は立たなかった。

 きっと、彼女からその時だけは笑みが消えていたからだろう。忌々しげに顔を歪め、失敗の可能性などあってはならないと言いたげな顔色からは、嘲りも茶化しも何も見当たらない。しばらくすれば笑みが戻ってきたが、不本意という姿がありありと出ていた。

 

「現状が私の失敗によって起こされた出来事なら……魔獣はやっぱり、円環の理を狙っているのね」

「正しくは、円環の理を正常な物に戻そうとしている作用の一つが魔獣の異常行動に繋がってるんだ」

 

 先ほどまでは明々とした星が輝いていた筈の空に雲がかかり、隙間から差し込む月の明かりはどこか遠くを照らしていた。外灯は変わらず私達を照らしていたが、彼女は光の差さない影の中へ踊るように飛び込み、私だけが光を浴びる位置で立ち尽くした。

 肩の上に鳥が乗ってきたが、それは私の使い魔だ。私の頭を啄むように叩くので片手で払ってやると、今度は人形達が私を取り囲む。外灯の丸い光の外側から投げ込まれた赤い何かが肩や頭に当たって、真っ赤な液体が垂れてきた。

 

「……そう」

 

 俯きがちで声を漏らしていると、彼女が近づいてくる。

 私の袖口からぽたぽたと垂れ流れた赤を這うように指ですくい取ると、彼女は何の躊躇いもなく、私の姿を見つめながら指に残る赤い物を口に運び、口腔内で感じ入るように転がして一言。

 

「…………うん、きれいだ……」

 

 意味が分からない。

 幻覚のようだった使い魔達も赤い液体も消えて無くなり、空は再び明るみを取り戻す。

 何の事かと首を傾けていれば、それに気づいた彼女が恥ずかしげに目を逸らした。

 

「たぶん、分かりやすいと思うんだけど……僕は君が好き。憧れてるんだよね」

 

 恐れ入るように一歩二歩と私から距離を置き、両手を祈る様に合わせている。

 いや、本当に祈っているのかもしれない。誰に、かと言えば私に向かって祈っているのだろう。理解しがたく困惑しか存在しない結論が、今は間違いないように思える。

 

「僕は、貴女の使い魔になりたくて。だからその……持ち逃げしてきたんだよね。分け与えられた、円環の理を」

 

 

 彼女の背後で、私の人形達が「処置無し」と首を振っていた。

 

 



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ねらわれた少女

 目を瞑る事を求められたので素直に応じると、唇の先に何かが当てられる。視力を介さなくても少しくらいは見えるもので、まどかが指先にチョコレートを挟んで私の口元に運んできていた。

 良い香りが鼻先にあって、幸せな甘みを演出している。

 

「はーい、ほむらちゃん、口を開けて」

「ん……」

 

 言われるがままに口腔内を見せていると、舌の上に固いものが乗ってくる。ほんのりと溶けたチョコレートの味わいの癒やしと気恥ずかしさに口を閉じたくなるものだが、まどかの指先がまだ歯の間にあって、挟むわけにもいかない。

 まどかの爪が唇にあたるが、気にしたような事も言わずに彼女はそっと手を引いた。

 やっとの事で口を閉じて舌の上で転がすと、ミルクチョコレートの柔らかな後味が踊る。溶けるのを待っていては時間がかかりすぎるので、歯を立てて二つに割ってみると、中からドロドロとしたクリームが広がってきた。

 果実に近い爽やかな舌触りだった。もう一度噛んでみればもっと沢山のクリームが舌と歯を愛でに現れ、口の中にある全てを撫で回っている。

 

「これ、何味だと思う?」

「……イチゴ?」

「正解っ! 口の中で溶けていく感じで、おいしいよねー」

 

 幸福感に満ちたまどかはチョコレートを一つ取って食べ、かわいらしい声をあげながら頬に手を当てた。

 二人でノートを広げて机に向かっていたが、今は休憩中である。思いのほか長めの休憩時間になったが、まどかもずいぶんと頑張っていたのだから大丈夫だろう。合間合間に休息を挟んだ方が良い。あまり熱心に教えすぎても疲れさせてしまう。

 勉強の事でまどかが私を頼ってくるのはこれが初めてではない。あの一緒に眠った日以降は積極的になり、テスト前だからと一緒に勉強をする事にしたのだが、気づいた時にはまどかに教える立場となっていた。

 なお、美樹さやかは集まりが勉強会だと知ると逃げたそうな顔をするので、参加頻度は高くなかった。気持ちは分かる。

 

 実際のところ、私はそんなに頭が良くない。元々は大した学力を持っていなかったし、勉強に励んだのも一部は必要に駆られてのことだ。どの教科も満遍なくできるという印象を持たれている様だけれど、何であれ弱味を見せないように振る舞っていた時期の名残に過ぎない。

 そんな張り子の虎である学力でも、私を信じて頼ってくれるまどかを裏切るわけにはいかず、最近は空いた時間のかなりの部分を勉強にあてていた。幸い、無駄な時間は沢山あった為に、張り子であっても虎を生きているように見せかける事はできた。彼女に教える時の言葉につっかえたりはせず、淀みなく分かりやすい言い回しを心がけられたように思う。

 予習と復習を主体とした頻繁な勉強会は、まどかの学力に如実な功績を現している。このペースでは、いずれ追い抜いてくる筈だ。

 

「まどかは本当に真面目なのね」

「真面目? そんな事はないと思うよ」

「教えた事がきちんと身についているでしょう。真面目な姿勢で取り組めている証拠よ」

「それはね、ほむらちゃんの教え方がすごく分かりやすいからだよ」

「ありがとう。でも、貴女に凄くやる気があるのは事実よ。私の教え方より、受け取る貴女自身が真摯だから学べているの」

 

 謙遜しながらも嬉しそうなのがとっても可愛らしい。何のお世辞でもなく、正面から勉強を頑張っているまどかの姿には感銘を受けるほどだった。

 私の知っている彼女は、多くの人間がそうであるように勉強が苦手で、テスト前であってもこんなに張り切ってはいなかった。

 何故なのかという私の視線を浴びた彼女は頬を掻いた。

 

「実はね、ほむらちゃんに教えて貰うのが楽しいのもあるの。勉強するのはおまけで、一緒に居るのが嬉しいからなんだ」

「そう。なら貴女がもっと楽しく学べるように頑張るわ」

 

 胸のどこかに熱がこもって体を満たし、漏れる吐息に混ざりそうだ。

 

「勉強に戻りましょう」

「うん。じゃあ次のページから……」

 

 勉強の時間を再開してすぐに、聞こえてくるのはペンが走る音だけになる。まどかが躓くまでは自分の勉強も忘れない。現代文に英語、テストとは全く関係のない数学や化学と学ぶべきものは数多く、必要から学んだ幾つかを除けば私もまた、何かを修めたとは言えなかった。

 

 しかし、外から近づいてくる魔獣の気配にはまったく辟易させられる。

 まどかを狙って現れる奴らの脅威は無視できる種類のものではないので、使い魔を可及的速やかに送り込んで決着をつけた。どうしてまたこのような時にまで邪魔をするのか腹立たしくも、彼女の前で苛立ったりすれば不安を煽りかねない。そのように嫌な態度を取るのは、本当に必要な時だけにしておきたい。

 窓から姿を覗かせた空は徐々に赤みを増しており、そこから産まれる温かみはこの部屋を心地良く彩っているけれど、問題は眠くなってしまう所だ。まどかだって授業中はたまに眠そうにしているのに、こうして一緒の机を囲むと不思議なほど元気にしている。

 熱心に教科書を見つめる横顔を見ていると、全てが私の幻想ではないのかと思われた。とてもじゃないけれど、彼女がかつては精強なる超越存在であったなんて、誰が信じてくれるだろう。まどかは神聖な存在とは呼べない。呼びたくもない。

 

 そんな彼女を、魔獣達が狙っている。あの陰気な女が語る姿と、こちらに向けられたおかしな目つきが否応にでも思い出される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 腰に片手をあて首を傾けた女の声は、かわいげも落ち着きも、それから頼もしさもなかったが、声のトーンは真剣だった。

 半身を乗り出して視線だけを持ち上げ、私を見上げながらも口元は笑っている。祈られたかと思えば一気に距離を詰めてくるのだが、流れが読めない。

 ひたすら慣れない類の相手だ。私が黙ったままでも一切めげる様子もなく、小声で「詳しい説明が必要かな」と呟いている。

 

「魔獣は、あれは、なんというか、魔女が居なくなった事でそれを埋め合わせる為に発生した世界の防衛機構というか……うーん、まあ、そういう感じのモノらしくってさ、貴女が連れて行ったまどかちゃんを取り返そうとしているんだね」

「……ええ」

「暁美さんの頑張りはどう足掻いても正道じゃないからさ。ひずみも歪みも出るというものでね、まあ、間違いなく万事丸く収まるのはまどかちゃんを円環の理に返すことだけど」

 

 私に背を向け、肩から上だけで振り返ると、彼女は下手なウインクを飛ばしてきた。

 

「もちろん、大人しくまどかちゃんを明け渡す気なんて欠片もないよね?」

「……」

「僕にだって、貴女が引き下がる気が少しもないのはわかる」

「……」

「さっきから黙っているけど、大丈夫?」

「ええ。あなたからの情報について考えていただけよ」

 

 膝から崩れ落ちて頭を抱えても良い情報の筈なのに、ほとんど衝撃はなく、驚きも少なかった。自分の行動がまどかを危機に陥らせてしまったのが分かっても、ああ、やっぱり、と思えてしまうくらいに。

 同時に、スカートを掴んで震える拳を大人しくさせるのに労力が必要だったのも確かだった。人前でなければ拳を地面に叩き付け、痛みで動かなくなるまで続けていたかもしれない。

 

「あれらがまどかを狙っているとしても、彼女の安全は確保できる。全ての魔獣を滅ぼさなくても、今の私ならまどかを守り続けるくらいの力はあるから問題はないわ」

「でも、僕がここにいる」

 

 私と正面から向き合って、彼女の瞳がしっかりと見つめてくる。

 

「それは、円環の理と君が敵対する明らかな根拠になるとは思えない?」

「……」

 

 無言で続きを促すと、女の声は少しだけ遠のいた。

 

「魔獣からの干渉も問題だけど、もっと問題なのは円環の理だ。欠けた部分を取り戻そうと、君の作ったこの庭に手を出してくるだろう。いや、実際に手を出そうとしているんだ。僕が送り込まれたのがその証拠」

「それも、今の私ならまどかに接触される前に解決できるわ」

「とは言っても、貴女だってどう戦えばいいのかは分からない筈だよ。円環の理は欠けた状態にあるんだから、取り戻そうとする動きは予想していただろうけど……」

 

 再び私から背を向けた彼女は話しながら幾らかを進み、足下の花々を避けて舗装された道にまで辿り着いた頃にこちらへ振り返った。

 やけに嬉しげな面持ちで己の胸に拳を当て、首を傾けている。

 

「そこで、僕だ」

「……」

「円環の理は貴女の敵だけど、僕は貴女の味方だ。さっきも言ったけど持ち逃げしてきた力もある」

「どうやって持ち逃げしたのかしら。それに、円環の理から送られてきたのはあなたの他にも存在しないの?」

「それなら心配しなくていい。僕の知る限り、他にはいないよ。持ち逃げできたのは、単に僕がそういう使命を持って送り込まれてきただけで、強制力があるわけじゃないからね。使命なんか気にせず、暁美さんの側に着いたって問題ないというわけ」

 

 どうかな、などと口にしながら差し出された手に応じられなかった。

 その身から流れる力は円環の理で、力を貸すというのも嘘には見えない。見えないが、自分の目はあまり信頼できないものだった。

 

「僕の事は信頼できない?」

「……」

 

 答えられずにいると、女は感じ入るように頷いた。

 

「ああ、確かに当然だ。僕を信じるわけがない。貴女からの信頼はそんなに格安で手に入ったりはしないだろうし、こういう事で付け入ってくるのはキュゥべえって前例もあるわけだしね。信頼しなくていいよ、僕を利用してくれればそれでいい。まずはお友達からー、って奴」

 

 言葉の落ち着きとは裏腹に視線は私の両手に向かっており、突き刺さるような視線は痛みを幻視するほどだ。

 目的を疑うだとか、言葉の真偽を見極めようだとか、そういった思考が働かなかったわけではない。けれど、それ以上に放たれる視線や熱っぽい顔色、全身で私への好意とも呼べる何らかの感情を表現しているのはあまりに近寄りがたかった。

 

「なら……行動で示して。そうした後でなら検討するわ」

「おおっ、いいの? 嬉しいな、本当に。なら手伝わせて貰うから、よろしくね?」

 

 握手くらいなら、と思っていても、妙に興奮している姿を見ていると、応じるのに躊躇が産まれてしまう。

 結局は指一本触れずに、女を通り過ぎて丘の端まで歩いたが、向こうも気にした素振りはなく、素通りした私の背に熱を帯びた視線が突き刺さってくる。

 小高い丘から見下ろす景色は相変わらず人の営みで輝いており、起きている人も眠っている人もまとめて生命の鼓動を感じさせる。ここもまた、まどかが大切にし、守りたいと願った景色だった。

 

「……綺麗な景色だけど、暁美さんの方がずっと綺麗だよ」

「やめて」

 

 荒唐無稽なお世辞を言われても嬉しいと思えるような神経はしていない。

 

「なぜ、私に力を貸そうとするの?」

「好きだから、って言ったよね」

「……なぜ、好きなの。あなたと私に接点はないわ」

「有り体に言えば、君ほど神様みたいないい子なら、ただ頑張っているだけで誰かの目に留まるってことだね」

「そう」

 

 私のどこにも当てはまらないような褒め言葉には反応できず、髪をかき上げるだけでまともな答えは何も用意できなかった。

 

「必要になったら、言うわ」

 

 女が頷いた。そういう気配は感じ取れた。

 空気を読んだのか、満足したのか、彼女の気配が徐々に遠ざかっていき、私が振り向いた時にはもう姿は消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まどかは狙われている。他でもない、この世界に。

 開いた教科書、置かれたペン。まどかの文字が並ぶノート。彼女の部屋にあるぬいぐるみ。学生服。これらの存在を否定しようとする働きがある。

 

「ほむらちゃん?」

「……なんでもないわ」

 

 ごく自然に手を握ってくれた。その指を気づいた時には握り返していたのだが、一本一本がどれも私に絡みつき、包み込むような慈悲によって私を掴んで離さない。

 柔らかそうな頬や綺麗な唇には微笑みがほんわかと現れている。

 本当に、ああ、本当にかわいらしい。この甘やかでいつまでも一緒に居たくなる状況の中で微睡むような心地になっていると、自分を強く持てと意識付けなければそのまま溶け消えてしまいそうだった。

 

「……今日のところは、おしまいにしましょうか」

「あれ? もう帰っちゃうの?」

 

 ゆるやかに絡んだ私達の指をそっと解いて手を引くと、ひどく名残惜しく口の中には苦みが走る。私の幻覚でないのなら、まどかも同じように惜しむ顔を見せてくれたように思う。

 

「そろそろ夕食も近いでしょう。ご家族との時間は大切にしないと」

「だったら一緒にどう? きっと楽しいよ!」

「でも、作らなきゃいけない料理が急に一人分増えるのは大変よ。誘ってくれたのはありがとう、改めて、きちんと予定を立ててからにしましょう」

「そっか。うん、そうだよね……」

「それに」

「?」

「なんでもないわ」

 

 残念そうに肩を落とされてしまうのは心苦しいが、やはりまどかには私などより家族との時間を過ごして欲しいと切に思う。これがかつて失われた団らんだったと知っているのは私だけで、彼女がそういう時間を楽しんでいると思うだけで何か大切なものを得たように感じられるのだ。

 彼女の部屋から出ると、下の階からほのかな料理の香りが登ってくる。トマトソースらしき良い香りと一緒に届くリズミカルな包丁の音。今日のメニューはなんなのだろう。まどかのお父様ならきっと何でも美味しく料理して、素敵な夕食に出来るのだろう。

 満足感にも似た感傷と共に一歩一歩と階段を下りて、素敵な家庭菜園の見える窓を通り過ぎ、その先に居るまどかのお母様に会釈と挨拶をする。

 

「お邪魔しました」

「ああっ、ほむらちゃん。もう帰るの?」

「はい、そろそろ帰らなきゃいけない時間なので」

 

 結構な頻度で家にお邪魔している私を、まどかのご家族はいつだって歓迎してくれた。

 まどかのお母様も仕事はお休みで、タツヤくんを膝に乗せている。

 かなり長く飾られていたであろう少し色あせた写真立てを握り、懐かしそうに中を見つめていたが、私達が近づいてくるのに気づいて写真からは目を離していた。タツヤくんが写真を指し、「ママ!」と声をあげていた。

 タツヤくんに向かって手を振ると、真似をして返してくれた。ごく自然な微笑みを作ったつもりだけど、できただろうか。

 最初にまどかのご家族に自己紹介をした時、他のご家族の前では何とか耐えたけれど、タツヤくんには涙を見られてしまった。小さな男の子の心配する声に、大丈夫だよって言えたかどうかはもう覚えていない。

 

「いつもまどかがお世話になってるね、ありがとう」

「いいえ、苦ではありませんから。凄く楽しいです」

「もうっ、ママ、恥ずかしいからやめてよぉ」

「はははっ、お陰でまどかの勉強が捗るからね。お礼くらい言うって」

 

 娘の頭を力強く撫で回しながら、まどかのお母様の眼差しに真剣なものが宿る。微笑みに深みが加わったのがよく分かる。

 

「大切にしなよ」

「うん……ほむらちゃんは大切な友達だもん」

「それならいいんだ」

 

 あっけらかんとした態度と落ち着きには大人の魅力があり、私はこんなに魅力的な女性にはなれそうもない。

 

「……では、失礼します」

「ん、またね、ほむらちゃん」

 

 自分の未来へ思いをはせながらも、ご家族とまどかにそれぞれ挨拶をして、見知った玄関へと向かうと、まどかのお父様も含めた四人で私を見送ってくれた。

 玄関先に出てからも扉の前でしばらく動かずに居ると、「ママが学生だった頃の写真だよね?」なんて声が聞こえてくる。

 やっぱり、まどかにはこの家が似合う。こみ上げてくる笑みを堪える必要は感じなかった。 

 

 

 




次回以降の更新は毎日21時半ごろです。


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その友情さえ嘘だとしても

 

 ショッピングモールの中で美樹さやかが私に迫ってくる。勢いに押されて一歩下がった私の前には二つの服があった。

 

「こっちとこっち、どっちが似合うかな!?」

「……そっち、じゃないかしら」

「そっか、ありがとう。よし……買ってくる!」

 

 そう言うと、美樹さやかは小走りでレジへ向かっていった。

 美樹さやかの服選びに付き合っていると、だんだんと彼女の服の好みに詳しくなって、普段は動きやすさを優先したスポーティな格好が多いのだが、たまに、体を派手に動かせなくても可愛らしさに突き抜けたがるきらいがある。

 今日は何故かまどかを抜きに、二人きりで買い物に出かけていた。佐倉杏子も来る筈だったが、彼女はあいにく地元に戻っている。

 私が美樹さやかと一緒に遊ぶ時は常にまどかが傍におり、私達双方の大切な友人として関係を結びつけてくれていたので、何か重要な歯車を損失しているとしか思えないほどの違和感があった。

 しかしながら、モールのソファに腰掛けて休んでいれば不思議と気にならなかった。美樹さやかと良好な関係を築いたのは打算と嘘に満ちていたが、それによる据わりの悪さは日に日に薄れてきている。

 それどころか、どうだろう。集合からランチに音楽にスイーツに衣服とお昼前から夕食の手前まで振り回されるのが楽しく思えてきている自分がいた。

 買い物を済ませた美樹さやかが姿を見せ、紙袋を握りしめて駆け寄ってきた。人の通りを流れるように抜けて私に近づいてくるのだが、その姿の明るいこと。絶望に身を浸していない彼女からは、雲ひとつない洗濯日和の陽気が漂っている。

 

「お待たせっ」

「無事に買えたのね」

「うん。やっぱり人に言われると踏ん切りがつくよ。あたし一人だったらもう何時間か迷ってたかも」

「そこまで悩まなくたって、似合わないという事は無いと思うけれど」

「あー! あんたそれ、自分が美人で何でも似合うからでしょ。あたしはあんたほど美人じゃないの」

「……そんな風に思った事はないわ。第一、あなたこそ十分に魅力的な容姿でしょう?」

「む……い、いや、あたしの外見は今はいいっ。それより、ほむらの見た目の話だよ……」

 

 私の容姿の話題なんて持ち込まれても困る。

 客観的に考えて私より美樹さやかの方がずっと容姿と性格を兼ね備えているのだ。

 だというのに、美樹さやかの視線は私の頭の上から靴の先までを動き回っている。

 

「やっぱり、そういう格好だと大人っぽくて、すごく美人! って感じだよね」

「……そうかしら」

 

 褒められた今のこの恰好は、私が自分で選んだものではない。

 少しばかり前にまどかが私の手を引き、美樹さやかと一緒になって私の服装をああでもない、こうでもないと話し合い、お金を出し合ってプレゼントしてくれたのがこの服と髪形だった。 

 白のフリルブラウスに、淡い紫と白の点で構成されたチェック柄のロングスカートは腰に黒のリボンを巻いて留めた。髪は三つ編みだが、以前とは違い全てを一房に纏めており、自分の髪が肩を超えて胸元に流れている。

 髪留めとして収まっている赤いリボンもまた、その時に貰った品物だ。まどかは予備だから気にしないでと言っていたけど、だからこそ、私にとっては贅沢すぎる贈り物だった。服装として最近では一番のお気に入りだ。

 

「そうそう。いつもより落ちついてる、いや、明るく落ちついてるって言えばいいのかな。本当によく似合ってるよ、本当にね」

「それは……ありがとう。気に入っていたから嬉しいわ」

「言っておくけど、お世辞とかじゃないからね。このブラウスのフリルとか、あたしだったら子供っぽくなっちゃうけど、あんたなら品があってかわいいし」

「……いえ、別に……」

「ん? ははあ、ひょっとして、照れてる?」

「そういう事では……ないけれど」

 

 図星だった。なんの悪感情もからかいもなく叩き付けられる褒め言葉を正面から受けると、聞けば聞くほど顔を逸らしたくなる。

 こうした形で褒められても昔は大抵聞き流していたが、一対一の場では聞かなかった事にするのは困難だった。適当に笑って流そうにも、意識してみるとこれが中々、作っていない笑顔というのは難しい。

 何度か試してみたものの、やはり無理だと無表情を貫いていると、美樹さやかが不意に両頬を掴んできた。

 

「もっと柔らかい表情にすればいいんだって。こう、むにむにーっと」 

「やめへ」

「おおっ、最高品質の柔らかさ」

「ひみが、わかはないわ」

「うんうん、こういう感じの方がいいよ。怖い顔とか、悪そうな顔とか、冷たそうな顔とか、そういうのは似合わないの」

「わらひが、いふ、ひょんなかおを、ひたと?」

「自覚があるかは知らないけど、結構そういう顔になってるんだって」

 

 ようやっと頬を解放されて、つままれた感触が色濃く残った肌に思わず手をやった。痛みはないが、不思議な気恥ずかしさとくすぐったさが残っている。きっと赤くなっているだろう。

 

「なんか、意外かも。こういう風に触ったら怒る方かと思ってた」

「特に気にはしないわ。歓迎もしないけれど」

「ふふ、あたし達、ようやく打ち解けてきたって感じ? あんたも杏子も前は結構気難しかったっけなぁ」

「……」

 

 思い返せば確かにひどいぎこちなさだったが、美樹さやかの調子に乗せられてからは勢い任せに距離が詰まっていった。 

 私が何者であるかさえ無視すれば、ようやっと私達は普通の友人というものになれていた。

 

「今日は付き合わせちゃって悪いね。ありがと」

「いえ……帰りましょうか」

 

 すぐ隣の美樹さやかと並んで、私達は帰路についた。

 美樹さやかの帰宅を見届けた時に、彼女の親御さんを改めて見る機会があった。ご両親とも彼女にどこか似ており、自分達の娘を大事そうに受け取っていた。

 どこをどう見ても遊び疲れた美樹さやかの、今にも閉じかけた瞳が私達を写し、ゆっくりと手を振って告げられた。「また明日」と。

 親御さんが半ばあきれ顔で彼女を支えて家の中へ連れて行った。扉の向こうからはいつも美樹さやかが漂わせている明快さ、眩しさがあって、彼女がどんな風に生きてきたのかをそれとなく伝えてくる。

 振り返った親御さんにお礼を言われて、頷きを返した時、私の心にはこの家庭が突然に暗い絶望に放り込まれた時の事を思い出した。

 

 

 かつて、美樹さやかの葬儀に参加した事があった。あれは悲惨な苦しみに満ちていた。

 振り返りたい思い出でなくても、当事者だった人達の顔を見てしまえば過去の光景が姿を見せる。

 誰も彼も揃って俯いており、身を震わせ、涙すら流せないほど絶望したご両親の姿を今も覚えている。事情を知る私とまどかだけが本当の死因を知っているのに、誰にも言えず、彼女の魔女を討った自分達に対する気分の悪さに吐いてしまいそうで、二人で手を握って相手の存在を確かめた。そうしなければ正気を保てなかった。

 葬儀の最後、崩れ落ちた志筑仁美が何度も何度も、誰かに謝っている声も思い出せてしまう。彼女は何も悪くないのに、それを教えられないのがひたすらに歯がゆかった。

 けれど、今は違う。今の美樹さやかは当たり前に帰宅して、家族に迎えられ、明日にはまた志筑仁美を含めたクラスメイトに向かって手を振り、当たり前の事として教室に足を踏み入れる。笑う事もあれば、泣くこともある。まどかと同じように。

 私は別に美樹さやかを救っていない。私が我儘を押し通した時に、偶然そこにいた彼女が巻き込まれただけだ。ただ、私が諦めてまどかを円環の理に戻せば、彼女もまた、家に帰れなくなる。その事実から目を逸らせなかった。

 

 かつての悲嘆を顔には出さずに帰路へつこうと歩いていると、私が一人になるタイミングを見計らっていたかのように、それは後ろから近づいてきた。気配の察知はさほど得意ではないけれど、慣れない熱を帯びた視線を浴びせられる居心地の悪さは相手の存在を察する材料として有効に機能する。

 誰かに注目されるような存在になると、こんな気分を毎日味わうんだろうか。あまりの濃厚さにすぐお腹を壊してしまいそうだ。相手が自分とそう接点のない人物ならなおさら健康に悪い。

 

「暁美さん!」

 

 私の振り返る瞬間を予測していたように、彼女は手を振り、うっとりと私へ呼びかけた。

 以前に会った時とは異なり、私服に身を包んでいる。ショートパンツから伸びるほっそりした足をタイツで覆い、あまりお洒落というわけでもない上着を身に着けており、街中で出会っても記憶に残らないであろう存在感を保っていた。

 

「いやー、あは、あははっ、服装にこだわりがなくって恥ずかしい限り。それに比べて暁美さんの美人なことときたら」

「……私達の事を見ていたの?」

「いや、通りがかっただけだよ。でも、まあ信じられないか」

 

 わざとらしく肩を竦めてその場でくるりと一回転し、こちらに向き直ると同時に一歩踏み込んで距離を詰めてくる。

 思わず一歩後退してしまった。

 

「で、さっきの彼女は美樹さやかさん? 仲が良いの?」

「いいえ。ただ、険悪になる必要もないでしょう」

「そっか、大切なお友だちってわけだ。でも、平気? 殺そうとした事もあるよね?」

「問題ないわ。それは別の世界の話で、今は関係ないもの」

 

 返答している間中、満面の笑顔から送られてくる視線は痛いほどだった。見抜かれてしまったかもしれない。

 しかし、彼女はそれ以上何も追求してこなかった。

 所々で私を非難しているように聞こえる一方で、むせかえるほど強烈な好意をほとんどの言葉の数々で浴びせられる。すでに私はこの場を去りたい気持ちでいっぱいだったが、相手の出自と、一応は味方であるという事実が感情的撤退を許してはくれない。

 私の顔に何を見いだしたのか、やたらと目を輝かせている。何が言いたいのかと尋ねるより早く、彼女は話題を変えてきた。

 

「そうそう。まどかちゃんのことなんだけど」

「……ええ、何かしら」

 

 このひどく怪しげな女に、まどかの何を問われるのか。

 身構えていた私の前で、それまでやけに気分が良さそうだった彼女の態度が唐突に落ち着きを伴い、眉を寄せ、声の調子を落としてくる。

 真摯さすら覚えさせるほど真面目な心配を顔色に乗せ、私の答えを待つ姿には浮ついた所が見られない。

 

「いつも接している貴女から見て、どう? まどかちゃんは、家族と上手く行ってるのかな。幸せなのかな」

「まどかのご家族なら問題ないでしょう。良い空気で、本当に幸せそうな家庭だもの。でなければ、まどかはあんなに笑ったりはしない」

「なら、いいんだけど」

「大丈夫よ、まどかは家族に愛されているんだから」

「貴女もね」

 

 とっさの言葉が出なかった。

 

「……それは」

「見ていれば分かる。貴女はちゃんと愛されてきた女の子だよ」

「……」

「ふっふっふっふ、ね、愛されている貴女だから、凄くいい人に育ったんだよ。まどかちゃんと同じだ」

 

 はっきりと見て取れた真摯さが雲散霧消する。

 散々に好意を投げつけ、答えに困る事を言われてしまうと、返答する言葉が上手く出せなかった。ひょっとすると、女はそんな私の様子を見て楽しんでいるのだろうか。

 そう思うとあまり良い気はしないが、私からの感情に女はまるで気づいた素振りもなく、飼い主を愛する犬のように私の周りを歩き回っている。問題は私が人間を飼うような悪趣味を持っていない事だ。

 

「どこかへ遊びにいかない? そこでお喋りでもしよう」

「……私と?」

「そう、貴女と。ワルプルギスの夜と戦う準備も今は必要がないんだし、これから誰かと会う約束もしていないよね? だったら、その貴重な空き時間をちょっとだけ、情報料代わりに僕へ使ってくれないかな?」

 

 急な誘いだったが、言われた通り時間に余裕はあった。

 これは今を維持する為の戦いである、その為に、どうしても倒さなければならない敵はなく、まどかを取り巻く環境の平穏無事を保つ方法は万が一にもまどか自身の目についてはならない。端的に言えば、昔に比べれば圧倒的に暇だった。

 武装を整える時間も、手を借りられる魔法少女を選定する必要も今はない。そういう事情を見透かされているのも、何やらスケジュールを把握されている気がするのも背中に寒いモノがある。意識しすぎているのだろうか。 

 

「ねえ、どう? ちょっとの間でいいんだ。これから協力しようって関係なんだから、ダメ?」

「どうして」

「うん? 尊敬する人と話がしたいのはそんなにおかしな事かな? いや、本当に話がしたいだけなんだ。どこか落ち着ける場所でね」

 

 明らかに、期待に目を輝かせている。

 落ちつこうと息を整えているが、前のめりで興奮気味に、何度も落ちつきなく「どう?」と尋ねてくる。

 変質者だった。かつて同じ時間を繰り返した時、何も知らないまどかに奇異の目で見られた経験はあるが、彼女も今の私と似たような気分だったのかもしれない。かねてから色々と困らせた自覚はあったものの、今さら余計に申し訳ないと思った。

 しかし、信頼性はどうあれ、相手は協力者なのだ。

 そして確かに時間はあった。困ったことに。

 

「……行きましょう」

「え、いいの!? よしっ、時間は今から、場所は僕の案内。特に気負う事なく平服でお越しください、ってね……やった!」

 

 慇懃な一礼を済ませてから手を伸ばしてくるが、私がそれに答えないのも理解しているのだろう。すぐに手を引っ込め、私の少し前を、ちらちらと背後を気にしながら歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 徒歩で三十分ほど移動し、車の通りが多い大通りから小道に流れ、更にしばらく歩いたところへ案内されると、そこには二部屋分ほどの面積の建物が何軒か並んでおり、目的の場所は一番端にあった。

 彼女の薦めた場所は、看板に赤い飲み物の入ったグラスと黒猫の並んだ店舗で、入り口の周りには猫についての情報が沢山並べられている。保護された猫の里親について、猫に関する募金といった紙やパンフレットの間を通ってドアノブを引けば、鈴の音が鳴って歓迎を示す。鈴の音に反応したのか猫の鳴き声が続いた。

 まさしく、絵に描いたような猫カフェの風景だ。

 スリッパを履いて中に入ってみると、隣の部屋との壁が半分ほどガラス張りになっており、つぶらな瞳が私達を捉える。しかし、数秒もすれば飽きたのか部屋の中を自由に飛び回り、すやすやと眠り始める子も現れた。

 カフェスペースと猫と触れ合えるスペースが両立された店舗は扉一枚で両者を隔てており、ガラスの向こうの猫が思い思いに過ごしている部屋にはキャットタワーや箱状の小物入れが並べられていた。

 沢山の猫たちが隣の部屋で悠然と歩き、眠り、他の客に体を撫でさせている。にゃあにゃあと良い声で鳴いてとてもかわいらしく、ついつい嬉しくなってしまう。

 カフェスペースの壁には写真や猫を題材にした手芸が飾られ、今にも一斉に鳴き出しそうな圧迫感さえもある。猫たちが仔猫だった頃の写真も一緒に貼られており、間には健やかな成長への喜びが綴られていた。

 

「ここ、昔は喫茶店だったなぁ。向こうは厨房で、従業員の人が忙しなく働いていてね」

 

 私達のいるカフェスペース側は非常に簡素で、猫を見ることができるカウンター席が幾らかと、正方形のテーブル席が二つ。壁際の棚には猫に関係する本が幾らか納まっていたが、あまり読まれている様子がなく新品同然の真新しさを保っている。

 お店の従業員に案内されて近場のカウンター席に腰掛け、女の隣に座り込むと、背中に妙な寒気が走った。

 

「背筋がいいんだね」

「……」

 

 すぐ目の前にあるガラスの向こうで猫がこちらを見ていた。白と茶色のまだらな模様の毛並みはふんわりと柔らかそうに整えられていて、食べ物に困ってはいないのが分かる体型をしている。ややふてぶてしい面持ちで見下ろしてくる様もかわいげがあった。

 私と少しの間だけ目を合わせた猫はふっと顔を逸らし、すぐに私の隣へと目をやった。女もまた張り合うようにして視線を合わせ、じっと見つめ合っている。

 何をやっているのか分からないまま放っておくと、従業員の人がメニュー表を持ってやってきた。受け取って横に居る女の目前にかざしてみせると、やっと猫と目を合わせるのをやめ、どこか恭しくメニューを受け取った。

 

「意外とドリンクも種類があるんだ。どれにする?」

 

 手元にあるのは写真やイラストもなく、猫の肉球のマークをあしらっただけの紙一枚だ。

 並ぶ文字を眺めてみると、確かに思ったよりも種類があった。地元の特産品を使ったジュースも載っていたが、金額が少し高くてあまり手を出す気になれない。

 

「ひょっとして、代金が心配? 僕が出すから気にしないで。一応、お酒もあるけど頼む?」

「……? 私は未成年よ。頼めるわけないでしょう」

「ああ、聞いてみただけ。ふふ、そっか、なるほどねえ」

 

 何か含む物がありそうだがそこには触れず、グレープフルーツジュースと紅茶を注文して私達は猫の姿に癒やしを求めた。ガラスは薄らと私達の姿を映して少し邪魔だったものの、白猫がキャットタワーに飛び上がり、クッションの上で寝転がる姿が素敵だった。この瞬間だけは背中に乗った何かが軽くなっていくようで、身体の力が抜けていく。

 私達以外の客がいない為に聞こえてくるのは猫が歩いたり、走ったり、鳴いたりする音と水道や飲み物が注がれる音といった些細な生活音くらいのものだった。

 

「かわいい」

「……そうね。それで、あなたは何故私を見ているのかしら」

「ごめんごめん。今、暁美さんがいつもよりかわいくなったから、つい」

 

 猫の愛らしさを堪能する私の姿を、女が楽しんでいた。

 思わず溜息が出そうになった所でドリンクが運ばれてきて、二つのカップが私の前に並ぶ。グレープフルーツジュースを手に取って、残る方は女に渡す。濃く深い紫の中で凍りが泳いでおり、香りは私のよく知るものと変わりない。

 隣の女は紅茶のカップに触れて熱そうにしていた。一口飲んで砂糖をたっぷり加えてもう一度飲み直しており、満足そうに頷くとカップを置いて顔を近付けてくる。

 

「聞いてみたかったんだけど、いい?」

 

 内緒話のように寄り添って、肩に手を触れてきた。

 声は潜められていた。そんな事をしなくても私達は言葉を交わせるのに。

 ふと、ガラスの向こうで猫に食事を出していた従業員が唐突にうとうとと眠そうにしているのが目に入る。私達より二回りほど年上の女性で、その場で座り込んだかと思うと不自然なまでの速さで眠り始めた。おまけに、その周辺にいた猫も寝始めている。

 これはひょっとしてと女に尋ねようとすると、彼女はウインクを投げて答えた。

 

「人に聞かれる心配はなさそうね……一体、何を聞きたいの」

「貴女は、まどかちゃんのどこが好き?」

「……」

 

 最初から答えにくい質問を飛ばして、言葉に詰まった私の反応を堪能するように見つめてくる。

 

「全部? いや、簡単には答えられないかな? それとも、答えたくない?」

「答えたくないわ」

 

 見つめ返さずにグラスに両手で触れ、視界に入った猫が走り回る様を楽しんだ。頭から背中だけが真っ黒で他は真っ白な体毛と、いかにも人慣れした愛くるしい顔は見ていて飽きさせない。

 グラスの表面に映る自分の顔は妖しく揺れていた。ストローで少々飲んでみたけれど、味よりもすぐ傍から聞こえる感嘆とも興奮とも取れる吐息が先に来る。

 

「私の想いも、心も、私のものよ。必要もないのに誰かに言いふらして見せびらかそうとは思わない。まどかは……ええ、大事な人。それだけ」

「そっか。うん、つまり暁美さんにとって、まどかちゃんは同じ質量の宝石より価値があって、その命はほかの全ての人より重いんだ」

「何も言ってないけれど」

「すごく大切そうに言うんだもの。分かりやすすぎる。でも、そうか、うん、うん。やっぱりまどかちゃんが大事なんだ」

 

 ジュースの味は非常に分かりやすく、いかにもよくある風味だった。

 値段なりの味わいを感じていると、猫が私達の前で寝転がり、ごろごろと回転してから顔を掻いた。お腹を見せてにゃあと一つ鳴いており、どうすれば人間が喜ぶのかを理解しているような素振りだった。

 かわいい、という呟きが隣から聞こえてくるが、これには全くの同意見だ。なんて可愛らしいんだろう。

 

「暁美さんはさ、これからどうするの?」

 

 猫のお腹に見とれていた女の口調は気安い質問といった体だったが、嫌でも分かってしまうほど重みのある声音で発せられていた。

 明日、明後日の予定を尋ねられている訳ではないのは問う声からも明らかで、私自身が今のようになった時からずっと頭の中にあった答えが思い浮かぶ。

 

「私は……まどかと離れた人生を送るつもりはないわ」

「じゃあ、まどかちゃんが生きている限りは一緒にいるの? 高校も同じ?」

「かもしれない。少なくとも、彼女から離れる事はないと思うわ」

「……そっか。自分の人生を送る気はないってわけだ。僕が暁美さんの友達なら止める所だろうし、家族なら怒るんだろうけど……羨ましいな」

 

 こんな事を羨ましく思うのはどうかしている。

 遊びか何かだと思っているのか、という疑いが女にも伝わったらしく、「ああ」という呟きを漏らすと、女はどこか遠くを見るようにガラスの向こうの猫へ視線を傾けた。眠っている筈の一匹が夢を見るような足取りで女の前まで歩いてくると、一つ鳴いてその場で丸まっていた。

 

「いやね、僕も人付き合いくらいしてはいたけど、自分が頑張らないといけない相手が見つけられなくて」

「それは、無理をして見つけなくてはならないこと?」

「見つけた方がいいとは思う。僕ら魔法少女は生きる為に戦うけど、ただ生きていく為だけの戦いは苦しいだけだよ。目標なり、生きて成し遂げたい事なり、何かしら欲しくてね。真っ先に思いついたのが大切な人をこの力で守ってあげたいって、事だったんだけど」

 

 一息つき、奥に居る猫に合わせて彼女が深く伸びをする。とてもかわいらしい。

 隣の女がにゃあんと声を発した。ハッと目を見開いて気まずそうに私を窺って僅かばかりの間だけ沈黙し、すぐに元の遠くを見るような様子へと戻る。

 

「幸いというか、なんというか、僕の人生は割と平穏無事でさ。魔法少女なんて大それた力が必要な苦境なんて訪れなかった。僕に幾ら戦う力があったとしても、戦う相手が居なきゃ不必要で、無価値だった」

「大切な人が追い込まれる事を望むなんて、あってはならないことよ」

「……だろうね」

 

 語り続けていた彼女の声がふいに止み、頭を傾けてこちらを見つめた。

 

「だから、貴女をずっと待ってた」

「どこで」

「円環の理の中で」

 

 端的すぎる答えに理解が及ばずにいると「分かりにくかったかな」と補足が加えられる。

 

「円環の理にいるとね、見えるんだ。そう、世界がね」

「まどかも、そんな事を言っていたわ」

「でしょ。だから僕には暁美さんを知る機会があった。自分の命を使っても良いと思えるくらい大切な友達の為に尽くす、暁美さんはそれに対してどこまでも真摯に取り組んできたよね。僕は知ってるよ、ずっと見ていた」

「見ていた? 私が生きてきた過程を、ずっと?」

「うん」

「私が、何をしたのかも?」

「うん。だから、好きになった。一生懸命で、真っ直ぐで、本当は気弱なのに頑張ってて。あと、顔がいいのも、髪が綺麗なのも、細身でカッコいいのも好きかな」

「……」

「あっ、ひょっとして、そんなお世辞を言っても心に響かないぞ、って思ってる? そんなに綺麗なお顔をしているのに。自己評価がひくーい」

 

 彼女にそう言われずとも、お世辞ではないのは伝わってきた。常に送られるドロドロとした粘性の視線が全身に絡みつく幻視すら覚えるほど強い感情を送られてきては、本心から言われていると信じざるを得なかった。

 

「だから、僕は暁美さんを誇りに思ってる。貴女自身は、今の自分を誇れる?」

「……」

 

 その答えを返すのに、しばらく考えなければいけなかった。私があまりよくない存在なのは分かっていて、しかし、己の行動に悔いはない。どうあれ成すべき事は決まっているのだから、私は私が成すべきだと思った事に突き進んだだけだ。

 余りの過大評価にめまいがする。

 なるほど私はまどかを助けたくて何度も繰り返してきたし、今もまどかを在るべき場所から連れ出して世界を書き換えている。言葉だけ聞けば何やら立派に聞こえるが、その最中に私が必要に任せてやってきた罪の数々は決して無くならないし、円環の理から私を見ていたのなら、その全てを理解している筈なのだ。

 私は、他人に誇れるような事はしていない。尊敬を含む様々な好意をぶつけられるような人間ではない。誇れるような自分でもない。だけど、誇るべきかどうかで言えば、答えはただ一つ。

 

「ええ、誇れる。私は私が望む通りに動いて、己の望み通りに成し遂げた。誇ってもいいと思っているわ」

「そう思うなら悪そうな顔なんてやめて、堂々と胸を張ればいいのに」

「……私からも一ついいかしら」

「うん、聞いて聞いて。僕で役に立てるならなんなりと」

「あなたは、世界がまどかを元いた場所に戻そうとしていると言ったわね」

「その理解で合ってるよ」

「それは、その欠落は、同じ力を持った存在なら……代用できるもの?」

「……多分、可能だね。何故分かるかって? 僕が元々あそこに居た存在だからさ」

「そう。なら、例えば……」

 

 私がまどかの代わりを務める事はできないだろうか。人間性も魔法の力も彼女に遠く及ばなくても、私が間を埋める事で、少なくともまどかの人間性は現世に留め置ける。

 そうすれば私の存在は消え、後には何も知らない世界が残るだろう。けれど。

 私が居なくなったらインキュベーターは再び円環の理へ干渉しようと働き出すのだろうか。いや、間違いなくそうなる。それはとてつもなく恐ろしい事態を招く筈だ。私と、私が作り上げた力がどこまで正常性を維持できるものか、世界に溶けた私がどれくらい自分でいられるのかも全く不明で、不安要素は決して絶えない。

 でも、どんな問題点もまどかの命には、彼女の人生には代えられない。この決断で多くの命を奪う事になると分かっていても、それはまどかよりも優先されるべきではなかった。

 つまり、円環の理の欠落を埋めつつ、まどかの安全を確保する方法がどこかにあれば、迷う理由はどこにもない。

 

「暁美さん?」

「……いいえ、何でもないわ。気にしないで」

「そっか。なら内緒話はこの辺で、っと」

 

 彼女が指をパチリと鳴らすと、従業員が目を覚まし、辺りを見回して首を傾けていた。

 

「そうそう、水族館に行く約束をしたんだってね。こっそり着いていっていい?」

「止めはしないわ。でも、一緒に連れて行ったりはしない」

「いいよ。許可してくれて良かった。来るなと言われたら、それを無視しなきゃいけなくなるからね」

 

 立ち上がった彼女は不意に私の腰掛けたカウンターの前へお金を置いた。二人分のドリンク料金というには高い。彼女は壁に貼られた料金表を軽く叩き、そこに書いている「1時間1000円」の文字を指している。

 

「良かったら撫でていきなよ。気分がよくなる」

 

 撫でないのなら、このままお金は好きに使ってくれていいから。

 そう言い残し、彼女は私に背を向けて立ち去った。そして、店舗の扉から抜け出すように外に向かうと、その姿は窓越しにも見えなくなっていた。

 



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私が大切にしなかったすべての友達へ

 目的の水族館は見滝原からそう離れていないが、徒歩でおもむくにはやや遠く、私達は移動手段にバスを選んだ。それが一番安かったからだ。見滝原のバスの一部は屋根にも座席が設けられており、風を感じながら景色が流れていく様は何とも涼やかで、この選択にはまどかも美樹さやかも揃って合意した。

 約束の場所で集合した私達はバスに乗り込んで座り、宿題の話やクラスメイトの話題といった日常的な話題を交わし、それから今日の計画を立てた。目的地に到着するアナウンスが耳に入ったのは、外の景色がほとんど見覚えのなくなってからだった。

 降り立ってみると、停留所のある道路沿いに大きく開けた道があり、そこを真っ直ぐ進んだ先には大きな水族館と看板が見て取れた。休日だけあってやはり大きく賑わっており、子供連れの家族やカップルらしき人物が私達と同じバスから下り、同じ方向へと歩き出している。

 期待感でいっぱいになったんだろうか、私達に遅れて停留所から出た小さな女の子が駆けだして私にぶつかりかけたので、寸前で受け止めた。

 顔を上げた女の子と視線が合う。しかし、私の顔つきが怖かったのか、女の子は不安そうに顔を強ばらせた。

 あやすような笑顔を作ろうとしたが上手く行かず、今にも泣かせてしまいそうだった所で、横からさりげなくまどかが割って入り、同じ目線にまでしゃがんで頭を撫で、優しく声をかけると、女の子は何度か頷いて、心配する家族の元へと戻っていった。

 

「やっぱりまどかは慣れてるねぇ」

「うん、弟がいるからかな、どうすればいいのか何となく分かるの」

 

 あまり見慣れない表情。お姉ちゃんの顔、とでも言うべきか。

 慈悲深い面持ちや、戦いに出向く時の勇気ある優しさとも違う。人の不安や恐怖を和らげ、他者の甘えを許容する広い心が姿を見せていた。

 

「んー? ほむら? ……あっ、ひょっとして子供に怖がられたのがショックだったとか?」

「いいえ、いいえ。ただ、そうね。まどかは凄いなって、そう思っただけよ」

「え、ええー? ちょっと慣れてるだけだよ」

「慣れているだけじゃなくて、貴女は人を安心させるのが上手いの。私にはできない事だもの。それは誇ってもいい事だと思うわ」

「分かるかも。まどかって、こう、普段は守ってあげなきゃーってタイプなんだけど、時々ビックリするくらい心強かったりするんだよね。一緒に居るとなんだか気分が楽になるんだ」

「そ、そうなのかな……それを言うなら、ほむらちゃんもさやかちゃんも、二人とも凄く頼りになるし、カッコいいし……」

「けど、まどかみたいにはなれないんだ。そこは自信持ちなって」

「ええ。彼女の言う通りよ、貴女は、自分で思っているよりもずっとちゃんと特別な存在なのだから」

「う、うー。ほ、ほら! 二人とも水族館、行こ!」

 

 私達の手を握って駆け出すまどかに連れられて、水族館が近づいてきた。水色のラインに魚のペイントが描かれた大きな建物だ。

 入り口で料金を支払って入場券を三人分貰い、知らない人達の流れに合わせて中へ進むと、通路両面の大きな大きな水槽が出迎えてくれた。明かりの中で大きな魚が私達のことなんて知ったことではないとばかりに悠々と泳ぎ、過ごす姿には不思議な愛らしさを思わせた。通路は大きく取られており、私達三人が横並びで歩んだくらいでは何ら邪魔にならないだろう。

 まどかがガラスに顔を近付け、柔らかな歓声をあげた。中にいる小さな甲殻類が僅かに腕を動かして、何か手招きでもしている様だ。どうやらまどかはこれにかわいらしさを覚えた様で、美樹さやかと二人揃って興味津々とガラスの向こうを覗き込んでいた。

 私はといえば、ガラスの向こうの海の生き物より、隣でカニを指さすまどかの面持ちを見ていた。

 ふと、猫カフェで私を見ていた女の視線を思い出す。もしかすると、猫を眺める私を見ていた彼女も、今の私に近い心地だったのかもしれない。

 しかし、まどかの幸せそうな顔を見て、声を聞くと、注意を逸らす事はできなくなった。

 

「ほむらちゃん、あっちも行ってみようよ!」

「あっ、まどか待って……うん、行きましょう」

 

 次へ行こうというまどかに手を引かれ、美樹さやかと顔を見合わせた。

 思った以上に、まどかが高まっている。水族館の雰囲気がそうさせるのか、海の生き物が好きなのか、友達と遊びに行くのが楽しいのか、どれであろうと、こうやって彼女が喜んでくれている事実には変わりはない。

 視線の交差は美樹さやかが機嫌良く頷いて終わり、彼女はまどかへ抱きついて次の水槽へと歩きだした。一緒に楽しもうと決めたらしい。

 館内は広く、三人で単に見て回るだけでも十分に時間を取る規模がある。らせん状の通路を取り囲む大きな水槽は人に矮小さを教え込むような大きさをしており、中には生きている内にこの場以外では目にする事の無いであろう、名前も知らない大きな海の生き物が泳いでいた。それらが動くだけで水が波を打つ音が聞こえるような錯覚があり、目を丸くしているまどかの姿に共感できた。

 どこからか入る光が水槽を青く照らす一方で、通路はほんのりと薄暗い。まどかの顔はよく見えたが、魔法少女でなければ他の客までは目が行かなかっただろう。

 多少の警戒をもって周囲に気を配っていると、家族連れや友達同士、あるいは一人で来ている客達の中に、微かに引っかかりを覚える存在感が紛れているのが気にかかった。気配の先を辿ってみれば、そこには予想通りの女が立って柱に背を預け、こちらに視線を送ってきている。私と目が合うと、彼女は何も言わずに親指を立てた。気にせず楽しんで欲しいと言いたげだった。

 

「ほむらちゃん?」

「あ、いいえ、なんでもないわ」

 

 今度はまどかを見つめてきているのが分かる。その顔色は私に対するものよりも幾分か以上に穏やかだった。美樹さやかには目を向けず、そのまま彼女はウインクを一つ飛ばして魚を観察し始めた。

 片手に持っている手鏡でこちらの姿を確認しているのは、いっそわざとらしいくらいで、気づかないふりをしてくれと言いたげだ。

 まどかに付きまとっていると思うと良い気はしないが、今となってはまどかの様子を常に窺っている私にも跳ね返ってくる。

 そこからは彼女の要望通りに視界へ入れないようにして、まどかの手を握ってゆっくりと歩いた。気づけば美樹さやかは私と腕を組んでおり、たまに頬をつついてくる。

 誰かと水族館に行くのも、懐かしい記憶だった。前に来た時よりも心地良さを覚えるのは、やはり、隣に居るのが彼女達で、良い友達になれているからだろうか。

 うるさくない程度にはしゃぐまどかに寄り添っているうちに、私達はペンギンの像が設置された区画にやってきた。

 目当ての生き物とあってまどかの吐息にはすでに期待と喜びが漏れている。それが耳に入ってくる度、私も彼女の幸せを分けて貰っていた。

 

「見て、ペンギンさん!」

「……これで等身大なら、思ったより大きいわね」

「うーん、触り心地は普通の像かあ」美樹さやかがペンギンの像を撫でた。

「?」

「いや、ほら気になるじゃん。ペンギンの羽毛の手触りってさ」

「普通の鳥さんみたいなのかな?」

「海で泳ぐのだから、水着みたいに固いかもしれないわ」

 

 ペンギンのコーナーは広く取られていた。やはり人気があるのか、真っ直ぐな広い通路は壁の片側のほとんどが頑丈そうなガラス張りになっている。向こう側は冷たそうな白みがかった崖が段になっていて、ペンギン達は水と岩の境界線をぺたぺたと歩き回っていた。

 私達のいる位置よりペンギンの歩いている床の方が高く、自然と見上げる形で観察していると、愛嬌のある顔で意外に低い鳴き声を放つのが聞こえた。

 

「あ、ペンギンって鳴くんだ。なんか、ちょっと意外かも」

「……仲間を呼ぶ時や、求愛に使うらしいわね。声を聞き分けられるそうよ」

「へぇぇ、じゃあ家族とかお友だちとか、やっぱり分かるんだね。ペンギンさん、かわいい……」

「ええ、かわいいわね……」

 

 室内からは分からないがペンギンたちの居る場所は温度を低く調整しているようで、なんとはなしにガラス越しで冷たさが伝わってくる。

 綺麗に別れた白と黒の羽毛の塊が床をよちよちとバランスを取りながら歩いており、丸みのある卵形のフォルムが移動する姿にまどかの瞳が輝く。まだ灰色がかって頭だけが白黒になった子供のペンギンもいて、これがまたとてもかわいらしい。

 

 一羽のペンギンが背を押されるように水の中へ飛び込んだ。野生の世界では、最初に海へ飛び込むペンギンは外敵に襲われやすく、だからこそ安全かどうかを確認する為に海へ飛び込む勇敢さを持つのだとか、あるいは生け贄なのではないかという話を、どこかで聞いた事を思い出した。

 水中が見え、ペンギンの泳ぐ様がよく観察できる。

 何やら仲間意識を感じたようで、私の使い魔の鳥がペンギンに近づいて見事に無視されていた。単に見えていないのだろう。

 説明文に目を通すと、ここにいるペンギンは全員がここで産まれたと書かれていた。当然、一羽一羽に名前があり、どのような性格かもきちんと記載されている。

 今まで意識していなかったが、このペンギンたちも、他の生き物も、水族館で一生を過ごす事になるのだろう。

 ペンギンの説明をしているパネルには、やはり野生での厳しい生活も記されている。ヒナが大人にまで成長出来る確率はさほど高くなく、食べられてしまう事も多いそうだ。

 広い氷と冷たい海の中で、外敵や自然環境に脅かされながら生きるのか、狭い部屋で調整された水に囲まれ、人に観察されながら、しかし身を脅かされず穏やかに生きるのか。

 私としては後者の方が幸せだと言い張りたく、実際に水の中を飛ぶ姿からは満足が見て取れた。

 

「あの子と、あの子。産まれてからずっと仲が良いんだって」

 

 二羽のペンギンが向かい合い、声をあげていた。それはどうやら縄張りを争っているわけではないようで、人間の目から見ても平和的な関係が窺える。

 一緒になって水の中へ入っていき、水中を飛ぶように泳いでいる。彼らには争いも敵もなく、ただただこの水槽の中で仲間と集まり、何か目的があるわけでもないままに水を楽しんでいた。そう

 

「わたし達も、そういう風になれたらいいな」

 

 ぽつりと、まどかの声が聞こえてくる。

 美樹さやかの微笑みに何かとても優しいものが宿って、すぐにまどかを後ろから抱きしめた。

 

「はうっ、さやかちゃん?」

「かわいい事言っちゃって、もう、最初からあたしはまどかと一生友達のつもりだよっ」

 

 こちらへ振り返った美樹さやかの顔色は凪いでおり、青みがかった髪は泳ぐペンギンを背にしてより水を思わせ、水槽の中へ溶けてしまいそうな静けさが彼女を唐突に覆っていた。

 

「あんたもだよね、ほむら」

「……ええ、そうなりたいわね」

「違うって。もうなってるの。あたし達はずっと友達、おっけー?」

 

 静けさは一瞬で消え去って、後には私の肩を掴んで自分の元に引き寄せるいつもの美樹さやかがあった。

 ペンギンが目の前を泳いで通り、「あっ」とまどかの弾んだ声に誘導されて水槽に意識を傾けると、私の前でペンギンは陸へ上がっていった。水中での鳥らしい姿とは違い、地面ではやはりぺたぺたと頑張って歩いている。

 水をよく弾くであろう羽はなんとも触ってみたくなる滑らかさを見せつけ、人々の視線を浴びながらも意にも介さず堂々としていた。

 そんなペンギン達の丸々とした見た目と振る舞いに私達は小さな声をあげて喜んだ。何の裏も嘘もなく、かわいいものはかわいかった。

 満足そうに頷くまどかの振る舞いに、すでに何度目かも分からない、一緒に来て良かったという確信が宿った。

 

 

「次はアザラシだってさ」

「いいよね、丸くてすごくかわいいの!」

「……私も好きよ。見てみましょうか」

 

 水の中を飛ぶペンギンと並んで歩いていると、広く大きいように見える通路もすぐに終わり、足下の矢印に従って進んだ先に居たのはアザラシである。

 ガラスの向こうで丸々とした身体をのんびりと寝そべらせて、つぶらな瞳で人間を見渡す姿はなぜか昂然としているとも取れる。ややぼんやりした、眠そうな顔つきは見ているだけで抱きつきたくなる誘惑があり、思わず感嘆の息を吐いてしまった。ペンギンも愛らしかったが、アザラシもとても愛らしい。

 

「かわいい……!」

「まどか、あっち見て、赤ちゃんがいるよ」

「え、どこどこ? ……あ、本当だ! ほむらちゃん、アザラシの赤ちゃんだよ!」

「ええ。白くって……凄く良い顔をしているのね」

 

 まどかの指す先にいる真っ白い塊には目や鼻があり、まごう事なきアザラシの子供がそこにいる。大人のアザラシより更に丸形の白い身体で満面の笑顔のようなものを浮かべていて、尾を床につけては離している。

 まるまるでふわふわ、そんな表現が非常に似合う。まさに抱き上げたくなる姿だが重みはずしりとくるものであるらしいが、魔法少女なら何の問題もない。しかし、残念ながら抱き上げさせてくれる場はないようで、さもありなんと納得するしかなかった。

 

「抱っこしてみたいなー……」

「流石に無理かなあ」

「残念ね」

 

 気を楽にして眺めているだけで、何か温かな感情がこみ上げてくる。それは癒やしであったり、穏やかさであったりするものだった。私が魔法少女になってからほとんど縁が無くなっていたものが再び現れて、さっそうと心の中を明るく塗り替えていった。

 ざぱん、とアザラシが落ちるように水へ潜った。私の目の前だった。前足を器用に前後へと動かして進み、その毛が水を流すように波打っている。水槽を隔てたすぐ傍で泳ぐ姿に、私達は黙り込んで見入った。

 手すりを握ってガラスに顔を近付けていると、水中のアザラシが近づいてきて私を見つめた。

 手を振ってみると、前足をふりふりと振り返してくれた、ような気がした。実際には違うのだろうが、何か通じ合うものがあったような錯覚に吐息が踊る。

 

「ふふっ、かわいいわね」

「こんなに目がキラキラしてるほむらを見たの、はじめてかも」

「確かに! ほむらちゃん、アザラシが好きなの?」

「いえ……特別そういうわけではないけれど……でもそうね、うん……かわいいものは、好きかな」

 

 胸元に置いていた手がほんのりと温かみを帯び、頭がゆるやかに崩れるような脱力で今まで堅固に保っていた何かが剥がれ落ちていく。拾い集めようとする前にまどかの指す方向にいるアザラシと目が合い、そのつぶらな瞳に見つめられていると、今はあまり気を張る必要もないかと思い直した。

 前足、と呼ぶべきか分らないヒレのようなもので己の丸々したお腹を叩いてぺちぺちと音を立てている。説明を読んでみるとそれは威嚇の一種らしく、しかし、人間の目では単純に愛らしさを振りまいている風にしか見えなかった。

 

「……かわいいね」

 

 自分でも驚くほどに子供っぽい声が出た。

 

「ほむらちゃんが夢中になってる……」

「本当に珍しい表情するねえ」

「ほら、まどか。あの泳いでる子、逆さになってるわ」

「あ、ほんとだ。泳ぎにくくないのかな?」

「なんか、大丈夫らしいよ。人間とは違うからねー」

 

 その時、アザラシが鳴き声をあげた。大型犬をやや低くした風だった。

 

 

 

 

 海の生き物もたっぷり観察し、時には愛らしさに、時には迫力に魅せられた。何よりまどかが楽しそうで、しっかりと握られた手に引かれると周囲にあるもの全ての価値が一段も二段も上に見えた。

 気づいた時には時間が経ち、何階もある館内をすっかり見て回ると、私達はお土産の売っているコーナーに足を踏み入れていた。

 

 お土産の数は充実しており、水槽をイメージさせる青みがかった壁に囲まれた店内はちょっとしたスーパーマーケットよりも広いのではないかという規模感だった。今日は祝日なのもあって来客は多く、ぬいぐるみにお菓子にシールやタペストリーに写真に本と、多数の選択肢を前に人々が迷っている。

 無駄遣いできるほどの金銭はなく、イルカの付いたペンを元の場所に戻し、壁際に纏められている魅力的な写真の数々から目を逸らす。こういった場所にしては意外に買いやすい価格の商品が多いのも迷わせる理由の一つで、二つ三つくらいなら購入しても問題を感じない金額で抑えられているのが心憎い。

 無駄遣い禁止、と口の中で唱えるようにして、視界に入った深海魚のストラップを手に取らないように後ろ手で組んでまどかの背中に近づく。

 美樹さやかは限定品のお菓子を手に取って選んでおり、財布の中身と相談しながら家族や友達用にと頭を悩ませ、今は片手に饅頭、片手にチョコレートを持って考え込んでいた。だから、まどかは一人でぬいぐるみのコーナーに立っていた。

 丸い柱を囲むように棚が作られており、円上に並んだぬいぐるみの数々はそれだけで愛らしい空気をかもしだしている。シロクマ、ペンギン、アザラシ、サメやマンボウ、そのほかにも多くの魚が同じ棚の上で客の姿を写していた。

 

「まどかはどう?」

「あっ、ほむらちゃん! ちょうどよかった、あのね、どっちの子もかわいくって…ペンギンさんがいいかな、アザラシさんがいいかなぁ」 

 

 まどかはデフォルメされたペンギンのぬいぐるみを抱いていた。

 部屋のベッドに置くぬいぐるみを選定しており、灰色のペンギンか、それとも真っ白いアザラシにするか、何度も迷っている。どちらも抱き枕にも使える程度の大きさで、まどかの上半身ほどはあった。

 まどかは寝る時にぬいぐるみを抱いており、枕元には毎日好みのぬいぐるみが置かれているのは知っていた。ここで買うものをその中の一つに加えたいようで、ぬいぐるみを押しては弾力を確かめていた。

 

「ほむらちゃんはどっちが好き?」

「私? えっと、私は……」

 

 どちらもデフォルメが効いており、もこもことした触り心地の良い生地は撫でてみるとふわりと揺れる。

 同じくらいに愛らしいが、強いて言えばアザラシの幸せそうな笑顔と下がった眉が心に留まる。尻尾に巻かれた薄桃色のリボンもかわいらしく、プラスチック製の黒いつぶらな瞳に見つめられると腕の中で抱いて眠りたくなるものだった。

 まどかの顔と、アザラシの顔。まったく似つかない二つが並ぶが、それはペンギンの顔より似合っていた。

 

「アザラシ、かな」

「こっちだね。うん、決めた! アザラシさんにしよう」

 

 ちょっと惜しそうにペンギンを棚に戻し、まどかはアザラシを抱き込んだ。もう離さないとしっかり掴まえ、きょろきょろと辺りを見回している。

 

「あれ? さやかちゃんは?」

「彼女なら食べ物の方で……」

 

 美樹さやかはさっきまで売り場で悩んでいた筈だが、その位置にはもう居なかった。

 お土産を買ったのだろうか。しかし、離れるのならまどかには絶対に声をかける筈だ。ひょっとすると、誰か知り合いでも見つけて話し込んでいるのかもしれない。友達の多い彼女ならそういった事もある。

 

「居ないね。探しましょうか」

「うん。あ、でも持って歩くから先に買ってきていい?」

「ええ、待ってるね」

「じゃあ、行ってくるねー」

 

 ぬいぐるみコーナーは店内の中央にあり、周りの棚は背が高めの為にレジは見えない。足下と壁に書かれたレジを示す矢印が方向を教えており、まどかはその先へと向かっていった。

 彼女の背を見送りながら、ぬいぐるみコーナーへと目をやった。まどかが棚に戻したペンギンが心なしか寂しそうにして何かを要求している。

 思わず手が伸び、気づけばペンギンのぬいぐるみは腕の中にあった。タグに書かれた価格は所持金の範囲内であり、購入できる範囲の金額だった。私が買って、まどかにプレゼントすればいい。

 作り物の毛で癒やしの感触を楽しみながらレジに向かった。矢印に沿って歩くと三つレジがあり、なぜか従業員が一人もいなかった。

 休憩中なのだろうか。沢山の客が来ている時間帯だというのに、誰もレジの周りに居ないものなのだろうか。だとしても、他の客の姿すら見当たらないのは不自然だろう。何より、ここに居る筈のまどかの姿もなく、彼女の存在感が唐突に消え失せていた。

 

「……まどか?」

 

 小走りでレジ前まで向かって周りを見渡すも、まどかの髪色や彼女の声は全く感覚に捉えられない。

 見失った。即座に全力で周囲を探るが、居場所は特定できなかった。

 数秒前まですぐ傍で存在を感じ取っていたのだから、幾ら他の客が多いからといって見失う筈もない。そもそも、他の客も姿を消しているではないか。

 

 私の使い魔達がまどかの位置と無事を伝えてくるも、耳に入ってきた位置は今、私がいる目の前だ。そこに人の姿はなく、私の視界には妙に歪んで持ちにくそうなお土産のペンが売られているだけだった。

 人の気配はない。この空間が最初から私しかいなかったと主張している。だけど、決して夢ではない。よく見れば先ほどまでは存在しなかったお土産が増え、山積みにされている。ケーキや饅頭といったお菓子と思わしき写真の貼られた箱には魔女の結界でよく見かけた文字がびっしりと並んでおり、それが「かえせ」という意味の文字列だと何故か理解できた。

 ここは現実の水族館ではない。かなり似せられているが、実際には裏側とでも言うべき結界の中だった。

 結界の起点となる魔女、あるいは、そういった力を扱える存在がいる。あの円環の理から来た女の顔が想起された。

 

 魔獣がいる。そんな報告が人形達から送られてきた。水族館から近い位置に発生し、徐々に近づいてきている様だった。あるいは私達に引き寄せられているのだろうか。

 人形達はまどかの周囲にいる個体を残し、後は魔獣を倒すように指示を出した。

 

 今の私なら力業で突破できる。全身に魔力を漂わせ、強引にこの空間を突き破ろうと力を入れた。が、寸前で止めた。すぐ近くにまどかが居るのだ。力を行使する気配を感じさせたくはない。

 お土産が売られているコーナーから一度離れて大きな水槽のある通路へ戻ると、その中にいた筈の魚は一匹たりとも残っていない。ただ、青く暗い水が私を照らしている。

 結界外のまどかは、お土産を買っている最中だ。どうやらレジで並んでいて、私のいる位置からは十分な距離がある。

 結界から出る瞬間をまどかに見られる心配はない。そう確信できる位置まで距離を取り、己の中に存在する魔力を一気に練り上げた。

 渦を巻いて魔力が高まり、空間が軋む音を立てて今にも爆発するかどうかという時、途端に、水槽のガラス越しに水が泡立った。

 

「っ……!?」

 

 反射的にその場から飛び退くと、水中からたちまち楽譜の鎖が飛び出して私の両腕に絡みついた。即座に溶かして飛び立ち、更なる拘束を避けたが、今後は着地した床が沼のように飲み込もうとする。

 翼によって飛び上がり、それを追って床から染み出した水の追撃は身をひねってかわした。背後からも同じく楽譜が、そして水が迫り来るが、避けきれないものだけは魔力で弾いて通路を真っ直ぐ飛び、水槽のない狭い通路へ降り立った。

 途端に、暗雲を引き裂くような閃光が迸って私の頬を掠め、壁に突き刺さった。それは剣の形をしており、美樹さやかの得意とする武器と同じ形状をしていた。

 

「……」

 

 真っ直ぐ先を見つめたまま腕で頬を拭ったが、幸い傷はついていない。だがそれはどうでもよく、今はただ待ち構えるように魔法少女の姿を取り、通路の向こう側で仁王立ちしている彼女の姿から目が離せなかった。

 振り返った美樹さやかの顔色からは感情が抜け落ちており、ただ私の顔を見つめている。

 その腹にあるソウルジェムの輝きがこれまでと違うものを含んでいると、ひと目見てすぐに理解できる。彼女の中にある力は少し前とは異なって、より強壮なものに包まれていた。だというのに彼女の顔は今ひとつ冴えない。うんざりした様に髪をぐしゃぐしゃと乱して溜息を吐き、彼女は剣を床に突き刺した。

 

「美樹さやか。なぜこんな事をするの」

「……悪魔でしょ、あんたは」

 

 自分の呼吸が勝手に止まった。それは僅かな間だけで、すぐに気を取り直して余裕を取り繕う。

 

「ふぅん……へぇ? そんな呼び方をするという事は、記憶が戻ったのね、美樹さやか」

「まあ、ね。それで? あんたは悪魔らしく、あたし達の気持ちを弄んでたってわけ」

「ふふっ、そうよ」

 

 努めて笑う事にした。その方が、きっとそれらしい。

 アザラシやペンギンなどによってもたらされた穏やかな心地をひとまず捨て、思考を努めて冷たく保ってみると、美樹さやかがひどくバカげた冗談を聞いたとでも言う風に肩を竦めている。

 彼女がもたれかかったガラスが、水槽の中に波紋を生みながらギシリと音を立てた。

 

「はっ……この嘘つき」

「……どういう意味かしら」

「そんな事、本当は思ってない癖に。自分の中で気持ちを閉じ込めておくの、ほんっ……とうに、あんたの悪い癖だよ」

「嘘なんてついていないわ」

「いーや、嘘つきだね。ペンギンで癒やされてアザラシで癒やされて、まどかと買い物してお土産の誘惑と戦うくらい舞い上がってた女が弄ぶも何もないでしょ」

「……」

 

 それとこれとは話が別だ。そう答えたかったが、口を開けるだけで何も言えなかった。どう答えても間の抜けた言葉として響いてしまうような気がした。

 視界にいる美樹さやかは腕を組み、周囲で円を描くように突き刺さっている剣をいつでも取り出せるようにしていた。見知った魔法少女姿で、白いマントに身を包む様は頼もしい。かつての不器用な在りようがどこに行ったのかと思わせるほど隙が少ない。

 

「ずっとあんたを見ていたけど……やっぱり、あんたは何にも変わってない。昔から、今も、ただの暁美ほむらってわけだよね」

「……なぜ、思い出せたの」

「そりゃあ、あんたを見ていたから。あんたと仲良くなっていく度に、知らない暁美ほむらがあたしの記憶に流れ込んできて、何度も夢にまで見て、晴れて復活したってわけ」

 

 水族館を模した結界内は美樹さやかの要素がほとんど見られない。だが、水槽内部に彼女の魔女が姿を現しては消している。

 油断など出来るはずもなく、目の前に居るのはまごうことなき私の敵だった。

 

「あなた、結界まで張れるのね」

「まあね。ステージなんかは無いけど、結構な自信作のつもり。水族館の中から水族館の中へご案内ってね、気づかなかったでしょ?」

「ええ、見事だったわ。すぐには気づけなかった。それで? こんな事で私を捕まえたつもり?」

 

 己の中の魔力を発するどこかに力を入れれば、空間が軋む。澄ませた五感が美樹さやかの妙に凪いだ声を捉えた。

 

「本当にここから抜け出していいの? あたし達が戦ってる所をまどかに見られるかもよ?」

「……なら、あなたを倒して解除するわ」

「そっか。やっぱり止まってはくれないか」

 

 ライトアップが青から赤に切り替わり、美樹さやかの困り顔が明々と照らされた。見るからに戦う気が薄い。

 あまり、戦いたくはない。それでも、やるしかないならやるのだ。

 小手調べにと私の使い魔が飛来して美樹さやかに降り注ぐも、彼女は一つの跳躍で私の使い魔を鎧袖一触で振り払い、力強く瑞々しい瞳の輝きで空に線を描いた。

 簡単に制圧できた頃の彼女とは違って私の挙動を観察しており、油断できない存在感を放ちながらもまだ仕掛けては来ない。それどころか彼女はこちらと目をしっかりと合わせ、ゆっくりと語りかけてきた。

 よくよく見れば、目に、激情が燃えている。

 

「分からなくもないよ、あんたの気持ち」

「……!」

「まさか、まどかの友達は自分だけだったと思ってる? 分からないはずないでしょ」

「なら……!」

 

 なら、私の味方につくのか。胸のどこかに沸いた仄かな期待を否定できず、状況と理性も忘れて何か言いそうになってしまったが、美樹さやかは首を振った。

 

「わかるけど、だからこそ、こんな方法でまどかを縛り付けるのは許さない」

「……でしょうね」

「あたしはまどかの友達だから。まどかの決意と望みを、叶えてあげたいから」

「そう……貴女とはいつまでも平行線のままだわ」

 

 何もしないまま見つめ合って、おそらく一分もしないうちに美樹さやかは肩を竦めた。

 美樹さやかも私に説得を仕掛けたわけではないだろう。これはあくまで確認で、やる事はただ一つだと決まっていた。

 それでも、剣を構える彼女に激情はない。私もまた戦意を抱こうとしては、この日までの思い出の数々に邪魔をされる。

 戦いはまだ始まらない。隙を窺っているようでいて、お互いに戦わずに済む理由を探している風でもあった。

 

「正直、戦いたくないんだけど」

「私だって、別に戦いが好きなわけではないわ」

「……だよね」

 

 「元のあんたに戻してあげる」と余計なお世話を口にして、美樹さやかは構えた。力強い魔力がほとばしり、彼女の魔女が水槽から飛び出してきた。

 私の目には、かつての彼女とは比べ物にならないほどの力がよく見える。円環の理としての力だ。それが上乗せされて、元は単なる魔法少女だった魂はより大きな存在へと昇華されていた。

 しかし、まどかの記録と一緒にその力を取り込んだ私には及ばない。背中に翼を生み出しながらも考えた。どれほど私が強くても、きっと美樹さやかは諦めないだろう。

 活発化した魔獣がこちらに近づいてきており、人形達の大半はそちらに向かわせた。残る数体でまどかの周囲を警戒させ続け、

 

「あたしが勝つよ」

「……やってみなさい」

 

 お互いに、殺気も敵意もないままぶつかりあった。

 



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ものすごくか弱くてありえないほど強い

 余波で粉々になった水槽からは、しかし水が溢れたりはしない。それらは現実のものではなく、水は一瞬にして散弾めいた魔力の塊となって私に撃ち込まれた。

 最後のあがきとも呼ぶべき抵抗は私の翼で受け止め、羽の残骸が舞う。空中の黒い羽を押しのけて美樹さやかが飛び込んできた。目を光らせ、体中からなりふり構わず溢れる魔力が青く光った。

 へし折れた剣は床に放り捨てられ、鞘を握りしめて真っ直ぐ襲いかかってきた彼女を正面から迎え撃ち、上段から振り下ろされた鞘を腕で受け止めた。腕の重要な部分が折れるような音がした。

 二人と二つの魔力が衝突した事による衝撃が結界を軋ませ、床に流れ込んできた水は私達の姿を写す。美樹さやかの身についたかすり傷は瞬時に治されるが、体力までは回復できずに息が上がっていた。

 何事もなく立っているのは私で、魔力に吹き飛ばされて壁に背中を叩き付けたのが美樹さやかだ。

 

「……分かったでしょう。今のあなたじゃ、今の私には勝てないわ。勝てると思っていたの?」

 

 蓋を開けてみれば、私達の力の差は歴然だった。美樹さやかがどんなに必死でも、今の私の方がずっと強かった。だけど、戦いが始まると美樹さやかの気迫は膨れ、どれほどの魔力の差で圧倒しようと食い下がってきた。

 執念の追撃が私の脇腹に当たって鈍く痛みを発しているが、我慢できないほどではない。笑顔を作れるだけの余力は残っているのが幸いだった。

 

「っ……あんたは……いつまでこんな事を続けるつもり?」

「まどかが生きている限りは」

「本当にそんな事が出来るって思ってるの?」

 

 ふらつきながらも立ち上がり、鋭い眼光が睨み付けてくる。ふらつく身体は隙だらけで、行動を封じるのは簡単に見えるものだが、どんなに仕掛けても立ち上がる頑丈さは厄介だった。

 

「まどかは目を覚まそうとしてるのに、あんたは無理矢理寝かせようとするんだ」

「そうね」

「あんたが無理矢理作ったこの世界がどんなに不安定か、あんた自身が一番に分かってる筈だよ。これは、まどかが目を覚ませば終わってしまう夢みたいなもので、いずれ、綻びが産まれて……あんたが苦しむだけなのに」

「でも、私が終わらせない。決して、決して……」

 

 問答の中で考えた。勝つだけならば、私が美樹さやかに勝つだけならば簡単だった。技量に大差がないのだから、魔力の差で圧倒できてしまうのだ。しかし、意思だけで立ち上がってくる彼女を完全に制圧するのは難しかった。

 この戦いを終えるには、記憶か、命か、どちらかは奪わなければならない。命は論外だ。美樹さやかが居なくなれば、まどかは確実に探そうとしてしまう。

 

「うっ……こ、のぉ……」

 

 上手く動けなくなった彼女がついに壁際へ倒れ込んだ。座り込んで手をだらりと垂らし、顔だけは私をしっかりと見つめている。取り落とした剣が床にぶつかって音を立て、足下を流れる水に濡れていく。

 立ち上がろうと動いた太股を踏みつけ、剣呑な瞳と視線を交わした。ついさっき、かわいらしい動物の前で微笑み合った瞳がそこにある。

 

「足、退けてよ……痛いんだけど」

「イヤよ」

 

 立ち上がれなくなった美樹さやかの顔からは血の気が引いていた。だが、力強さはまだ残っている。

 

「……あなたとは一生分かり合えないわね。もう二度と記憶が戻らないように、今度こそ忘れさせるわ」

「そうやって思い詰めて出来た世界が、まどかを幸せにできるわけないでしょ。あんたのワガママにまどかを巻き込んで、それで満足なの。それで本当に幸せなの」

「ええ、満足よ? 安心しなさい、忘れてしまえばあなたも楽になれるわ」

「ああ、そう。じゃあ、あんた自身は何も忘れるつもりはないし、楽になるつもりもないって事?」

「……わかったような事を言わないで」

「いーや、何度でも言ってやるね。で? どうなのよ。本当に、これで、満足? 幸せ? 違うよね。あんたは、あんたの願いは自分に言い聞かせるような幸せなの?」

「知ってはいたけど、うるさい子ね、あなた。説教でもしているつもり?」

「ほら……そうやって逃げる」

 

 いっそ憐れむような目ですらあった。私は何か、何かしらの反論をしようと口を開いたが、結局は何も言えずに息だけが漏れた。

 私は幸せだ。幸せな暁美ほむらでなければならない。何故なら私は己の成したい欲望を叶え、やると決めた事を成し遂げたのだから。しかし、そう答えても彼女は納得しないという確信もあった。

 何も答えないまま彼女の頭に手を乗せた。やっぱり逃げるんだ、と顔が言っている。

 

「じゃあ、目が覚めたらもう少しお土産を見て帰りましょうか」

「……まどかの気持ちは、どうなるの」

「今更ね。それを踏みにじるから、私は悪魔なのよ?」

 

 手に力を入れた時、私達に近づいてくる足音と気配があった。魔法少女だろうか。

 構わず記憶を奪おうとして、気配の主に思い至った瞬間に息が止まる。

 

「さやかちゃん!」

 

 来ると身構えるより早くにまどかが結界の中へ飛び込んできて、すぐに美樹さやかをかき抱いた。

 力の抜けた美樹さやかが押し倒されかけ、まどかに抱き支えられて目を見開いた。

 

「大丈夫!? さやかちゃん!?」

「ま、まどか!? なんで!? い、いや、ここは危ないから離れて!」

「いいの! それより、怪我はない!?」

「だ、大丈夫だよ。じゃなくて、あんたは早くここを離れて……」

 

 美樹さやかが連れ込んだのだと思ったが、彼女も自分の状態などすっかり忘れ、ひどく慌てている。

 まどかは、結果の中にいるという事にもまるで頓着していない。ただただ美樹さやかを気遣い、心配し、大切に腕の中で守ろうとしている。結界内の水に足を濡らしてもまったく気にしなかった。

 美樹さやかの無事を一応は確認したところで、まどかはやっと顔を上げた。魔法少女の知識は忘れている筈なのに、結界内に対する疑問は一切浮かばない。代わりに私の顔を見て、彼女は口をぽかんと開けた。

 

「ほ、ほむらちゃん? なんで……?」

「どいて、まどか。貴女には関係のないことよ」

「か、関係なくないよ! だって、こんな、さやかちゃんとほむらちゃんは、仲良しだったのに、なんで」

「いいから」

「い、いいからって、よくないよ!」

 

 まどかは美樹さやかを抱きしめ、大事そうに、誰にも害されないようにその身を盾にして守っていた。これでは干渉できない。

 なぜ、まどかはここに侵入できたのか。私の人形達は何をやっていたのか。答えは返ってこない。

 

「どいて、まどか」

「……やだ!」

 

 凄んだくらいではまどかの心を揺るがせはせず、むしろ私という脅威から美樹さやかを守る為により一層腕の力を強めていた。

 こういう時のまどかが如何に手に負えないか。底知れない優しさは意思の強さに代わるのだ。この強さにかつて私はどれほど救われて、どれほど悩み苦しんだか!

 頑なな声に、これはもう力尽くで退けるしかないと理解できてしまった。自分の感情は一時無視し、まどかの記憶に干渉する意思を定め、行動に移そうとした所で感情のこもった視線が私を捉えた。

 怒りや憎しみじゃない。もっと強くて、優しい目をしていた。

 気づけば後ずさっていた。彼女の視線に貫かれている方が、美樹さやかのどの攻撃よりも重かった。ただ、逃げるわけにはいかなかった。まどかの威嚇とも慈悲とも理解とも取れる視線を受け入れ、一歩踏み込む。嫌われるのも仕方ない。

 

「美樹さやかに怪我をさせたりはしないって約束するわ。だから離れて」

「……だめ。今は絶対にだめ」

「どかないというのなら……怖い思いをしたくなければ早く離れなさい。でなければ、貴女にひどいことをする」

「やだ」

 

 呼吸を深めて何度か目を瞑り、まどかは落ち着きを得ている。美樹さやかを背に回して自分の身を盾にしているが、やはり私を見る目に敵意や嫌悪は見当たらなかった。

 一歩一歩近づくと、まどかは身を強ばらせた。その頬に触れると、まどかの身が小さく震える。だけど顔色に怯えは一つもなくて、透明な視線に圧倒された。

 

「分かってる」

「何を、言っているの?」

「分かってるんだよ。ほむらちゃんは優しい子だから……さやかちゃんを虐めるような人じゃないって。何か理由があるのならちゃんと聞くし、一緒に話そうよ。二人が仲直りできるなら、わたしも頑張る」

「う……」

 

 真心と誠意と好意が流し込まれた。まどかは疑いようもなく本気で、私に寄り添おうとしてくれていた。その身からは見知った気配が漏れはじめている。

 頬の上で手を重ね合って、あくまで慈愛を注いでくれる。真剣な思いやりに、感情の凍り付かせた部分まで溶かされてしまいそうだった。

 だからこそ、まどかの腕を掴んで、無理矢理に引っ張った。

 

「……ぇっ……?」

「まどか」

 

 結界も、私達の姿も見られたのだ。何より彼女の雰囲気が円環の理に近づいたのは看過できるものじゃない。美樹さやかをどうするにせよ、まどかの記憶は消すしかない。できれば彼女に危害を加えるのは最後の手段にしておきたかった。

 

「それは、貴女には必要ないものよ」

「えっ。あっ……」

 

 記憶を消す魔法を、まどかに向けた。まだ状況を理解していない表情は抵抗を示さず、防ぐ手立てもありはしない。

 だが、飛び起きた美樹さやかが両足で床を踏みしめる音と同時に、私の腕を蹴り上げて魔法を妨害した。

 私からまどかを強引に奪って抱きしめ距離を取ると、今までは見せなかった怒りに燃えた双眸が真っ直ぐに立ち向かってきた。

 

「さっ、さやかちゃん」

「これ以上、こんな事は続けさせないって……言ってんのよ!」

 

 身の奥まで響く衝撃で腕が痺れるが、それは大した問題ではない。ぶんと腕を一振りして痛みを逃がし、痛覚を誤魔化して睨み返した。

 美樹さやかは当然のようにまどかを背にして、疲労した心身をねじ伏せながら剣を構えていた。どんなに敵が強くとも、決して背後にいる者には手を出させないと意地を張り、歯を食いしばって戦意を現す。私も、ああいう風に出来たらどんなに清々しいだろう。

 

「ふ、ふたりとも……もうやめて……」

「これ以上、まどかを悲しませるような事は……あたしが許さない!」

「……許さないから……あなたが許さないから、どうしたというの!」

 

 前傾姿勢になった美樹さやかが、腰を低くして息を深く吸った。こちらに突撃してくる前触れだ。

 今取れる迎撃の選択肢の中で使い慣れたものをと考えた時に銃が思い浮かぶが、これはまずい。まどかを巻き込む。次点として選択できるのは弓と矢で、それらを取り出して全力で魔力を込めた。

 絶対にまどかを巻き込まないように大きさを絞り、攻撃範囲を狭め、ただ美樹さやかを返り討ちにする為だけの大きさに割り切ったが、それでも黒い魔力が渦を巻いた。撃ち抜くのはソウルジェム以外であればどこでも良かった。

 

「ほ、ほむらちゃん……やめて……」

「貴女は関係ないわ。黙って見ていなさい」

 

 ほのかにこちらを恐れる視線へわざと醜悪な笑みで答えると、まどかは辛そうに俯いた。最初からこうするべきだったんだ。

 そんな光景にも美樹さやかは何も言及することはなく、己を一本の剣とするように打ち出そうと身構えている。私が隙を見せれば彼女はたちまち突撃し、的確に私を貫くだろう。けれど私も同じく、矢を射る準備はできている。

 私達はどちらも口を噤んで隙を窺い、一瞬を待った。どちらが先に動くか、まどかがオロオロと私と美樹さやかを交互に見つめ、もうやめるように言ってくれたが、どちらも聞き入れなかった。

 まどかの頼みでもこれだけは聞けない。恐らく、美樹さやかも同じ様に思っただろう。

 

「……一つ、聞くけど」

 

 見つめ合ってどれほど経過したのか、美樹さやかが声をかけてきた。そこに怒りはなかった。

 

「どうぞ?」

「あたしの事、友達だと思ってる?」

「……多分ね」

 

 素直な感想で答えたが、彼女はどう受け取ったのかは読み取れない。ただ、噛み締めるように目を伏せ、

 

「そ……っか!!」

 

 目を開くと同時に、美樹さやかは前に飛んだ。それはまさに突進、あるいは砲撃と表現するほどの勢いと衝撃をもたらし、足下の水は噴水のように跳ね、荒ぶる風と巨大な震えによって水槽が砕け散り、瞬く間に距離が狭まる。

 思ったより早かった。思ったよりは。準備していた通りに矢を構え、もう少しだけ引き絞る。

 流れ弾の危険が一切なく、確実に一撃で仕留められる距離まで、もうほんの僅か。美樹さやかは避けようとする素振りすらも見せない。こちらが何をしようと、ひたすら真っ直ぐ、私の元へ。

 命は取らないようにしよう。そう感じるのと、弦から指が同時に離れるのは同時だった。

 

「だめっ!」

 

 まどかの身が一瞬だけ光ったかと思うと、私の前へ現れた。

 

「っ!?」

「もうやめて!!」

 

 彼女の身から常識を遙かに超えた魔力が漏れてムチのようにしなり、私の腕を弾いた。

 射線が逸れ、矢が無関係な方向へと放たれる。同時に、まどかの身から溢れ出た光り輝く羽が鎖となって私の身体に巻き付き、全ての行動を封じ込めた。

 

 だが、己を弾丸とした美樹さやかは止まれなかった。切っ先を逸らす間はなく、このままではまどかの身を貫く。

 せめてまどかを突き飛ばそうとしたが、その程度の身動きすら封じ込められている。あくまで目的は私と美樹さやかの戦いをやめさせる事なのだろう。彼女の柔らかな背は、鋭利な刃物が刺さればひとたまりもないというのに。視界に広がるまどかの顔にあるのは、心配そうな、それでいて安堵したような安らかな物だけだった。

 

「まどっ」

 

 そして人に刃が刺さった音と、それから衝撃が伝わった。

 

「ぐっ、あ、っ……!」

 

 

 うめき声。

 しかし、まどかの身には傷一つない。突然に結界の中へ入り込んで来た女が、まどかと剣の間に身を滑らせていた。

 

「ッ……ああぁっ! このぉ!」

「え……!? なんであなたがっ!?」

 

 女が苦悶の叫びを吐き出すのと、美樹さやかの困惑の声が重なる。

 

「いっ……たいなぁもう!」

 

 その場の全員が見ている中、女はだらりと下がった腕を美樹さやかのソウルジェムに向け、顔を歪めて叫んだ。

 

「美樹さやかっ!」その声は狂っていた。「よこせ、その力を!」

 

 触れられるなり美樹さやかのソウルジェムから何か神々しい光が現れ、女の指に吸い込まれていった。それが円環の理の力だとひと目見て理解できた。

 失神した美樹さやかの身が崩れ落ち、床に倒れる前にまどかが走って抱きとめる。力を奪い取られるのは相当な負荷がかかったのか、美樹さやかの顔はひどく青ざめていた。

 

「さやかちゃん! ……さやかちゃん!」

 

 完全に気を失ってしまったらしく、美樹さやかは目を閉じて何も応えなかった。見た限りでは呼吸は止まっていない。意識を、あるいは円環の理を失ったからか、先ほどまでの驚異的な存在感は霧散している。

 

「う……ぐぅ!! ううぅ……その人はしばらく寝てるよ、まどかちゃん……」

 

 その場でへたり込んだ女が、自分の胸に突き刺さった剣を引き抜いて床に放り捨てた。落ちた刃はガラス製だったかのように音を立てて砕け散り、後には剣が使われたという痕跡すら残らない。

 剣は彼女の胸を貫いて、なのに不思議と血は飛び散らない。その背中は弱くても、同時に放たれる妙な気配がぐつぐつと煮立っている。

 女はふらつきながらも立ち上がっていた。今にも吐きそうな青い顔をしてこそいたが、瞳の奥にある泥がグルグルと蠢きながら輝くのは変わりない。

 

「はぁー、はは……やってやったよ、まったく……」

「え……?」

「なんでもないよ、まどかちゃん」

 

 ぎらりとした瞳が私に向けられたかと思えば、彼女は無理矢理に片目を瞑ってみせた。それがウインクを意味するのだと理解したのは少し遅れてからだ。

 

「まどかちゃんは、あんなものになる為に、産まれてきたんじゃない。鹿目さんの幸せは……そういうものじゃ、ないんだ……」

 

 よろよろと近づいてくる彼女の傷口からはなぜか一滴も血が漏れず、肉体など最初から持っていなかったように身体を魔力が構成していた。

 彼女は私の目の前で膝をつき、左の手の甲へうやうやしく触れてきた。そして、そこにあったダークオーブをひと撫ですると、己の唇をゆっくりとあてた。

 突然のキスを介して何かが私に流れ込んでくる。それは、美樹さやかが持っていた円環の理の力だった。同時に、目の前の女が溶けるようにして消えていく。

 

「な、なにを」

「ごめん、きれいな手だから思わず……」

 

 悪びれもせず、消滅していく身体に頓着する素振りもまるでなく、ぐるぐるとした重苦しい感情をたたえた瞳が目に入る。

 女がほとんど半透明になったまま私に握手を求めてきた。迷わず応じると一瞬驚かれたものの、すぐに深く頭を下げてきた。

 

「おねがい。鹿目さんを……助けて……」

 

 言いたいことは全て伝えたと満足そうに彼女は消えた。

 まどかは目を見開いていた。美樹さやかを抱きしめ、何からも守ろうとしていたが、それでも目の前で起きた出来事をひどく苦しげに見つめていた。たった今消えた女の名前や経歴を、恐らくまどかは知っているのだろう。

 私が円環の理の力を手にしているからか、美樹さやかの張った結界はまだ生きていた。

 近づいてきていた魔獣達の討伐も終わっており、今回の戦いを全て無かった事にする為にも手早くこの状況を片付けなければならない。まどかには忘れて貰わなければ、と踏み込んだ時、美樹さやかを寝かせたまどかが両足でしっかりと床を踏みしめて立った。

 

「……ほむらちゃん」

 

 哀しみを滲ませながらも、真っ直ぐに目を合わせてきている。

 まどかの音色とも呼ぶべき声。私の名前を呼ぶ時の微妙な音の違いが、ついさっきまでとは全く異なった。

 私の中に在る魔力が蠢いた。まどかの声に反応していた。

 

 まどかの中に在るものが、私の中に在るものと共鳴している。 

 それは、己がかつて何者であったのかという記憶と力が一体化したものであって、まどかの中で不可分なものとして存在していた。

 残っていた。まどかには力が、何かを成す力がある。そんなモノは彼女を何一つ幸せにしてくれないというのに。

 

「まどかっ……!」

「ダメ……わたしの記憶を、取らないで……」

 

 はっきりとした拒絶だ。

 自分の心が砕ける音が聞こえた気がした。

 ごめんねって、口に出そうになる甘えた言葉を噛み殺し、まどかの腕を掴んで引っぱった。だが、抱きしめようとするとまどかの手が私の肩を押し、彼女は首を横に振った。

 

「……覚えている必要はないわ。記憶はとても残酷だもの」

「ほむらちゃん」

「まどか」

「ほむらちゃん、お願い。わたしの話を聞いて」

「……ダメよ」

 

 私の中に存在する、円環の理の力がざわついた。それは水が上から下へ流れるようにまどかを主としており、彼女に使われるのを待ちわびていた。

 まどかこそ、これほど強大で慈悲深い力を扱うのにふさわしい。そう思わせるのに十分な神聖さだった。

 でも私を待ってくれている。この想いに応えれば間違いなく今までの全てが許され、まどかと共にこの世から消えるのだろうと確信できるほど、まどかの目には慈悲がある。

 しかし、水が下から上へ流れるように抗うのが今の私だった。

 

「言ったはずよ。もう、ためらったりしないって」

 

 まどかの肩を掴んで腕の中に引くと、少し抵抗されたが、強引に距離を詰めた。

 もう諦めない。立ち止まらないって決めたから。

 

「だからあなたは、幾らでも私を責めていい。私の敵になっていいわ」

 

 投げかけた答えに対して、まどかの反応は予想していた通りに進む。声を荒げたりはせず、目線を下げた顔には曇りがあった。

 

「じゃあ、せめて答えて」

「……ええ、忘れる前に、一つくらいは」

「なら聞くね。ほむらちゃんは……どうしてこんな事をしたの?」

「どういう意味かしら」

「だって、あのまま来てくれればずっと一緒に居られたのに……わたしが迎えに来たの、迷惑だった……?」

 

 本当に不思議そうで、困惑すら見えた。

 やっぱり、まどかには伝わっていなかった。彼女には何も伝えていなかったから当然だけど。

 まどかにとって、円環の理である事は寂しいことでも辛いことでもないんだろう。

 ただそういうものとして胸を張って存在し続け、全ての魔法少女を見守り、その末路に慈悲をふりまくのは苦でもなんでもなく、家族と会えないとか、魔法少女以外の人達には存在を知られすらもしないとか、誰にも名前を呼んで貰えないとか、そんな事はきっと、円環の理にとっては無くて当たり前で、困りもしないんだろう。

 私がやっている事は単に迷惑なお節介で、一方的な意思の押しつけにすぎない。分かっていることだ。わかっていたのに、胸が痛んだ。

 

「嬉しかったわ。迷惑なんて少しも考えてない」

「なら、どうして?」

「……貴女の優しさを、誰も彼もに渡したくなかったから、かもね」

 この答えなら本心が伝わりはしない筈だ。嘘ではないのだから。

「貴女が魔法少女みんなのために存在するなんて、私が嫌だったんだもの」

 

 まどかの目が見開かれた。思い切り開かれた丸い瞳に明らかな哀しみが宿る。

 今の自分がどのような顔でこんな話をしているのかは分からなくても、まどかが好意的に捉えてくれるような表情ではないのは解りきっていた。別に構わない。まどかの反応が例え嫌悪や敵意だったとしても、平然と笑って返すつもりだった。

 

「ほむらちゃん」

 

 だから、まどかの面持ちが見る見るうちに曇っていったのは予想していなくて、抱きしめられるのを拒絶する間もなかった。

 いつかと同じく頭を撫でられ、髪に指が絡められる。背中をさする手つきには僅かな悪感情もない。いつも通りのそれが分かってしまうと身体が固まって何も出来なくなった。

 

「ごめんね」

「え」

「わたしが、あなたを追い詰めたのかな」

 

 きゅぅ、と腕の力が強まって、少し痛いくらい締め付けられる。背中から心臓の裏側をさすりながらの、甘えるようなまどかの頬ずり。僅かに踵を浮かせて背の高さを合わせ、そのまま私に体重を預けている。

 一体何が起きているんだろう。身体の動きを制限され、まどかの身を支えるだけの柱と化していると、よく知っていたぬくもりに加えて、ぐすぐすという嗚咽が身体に浸透して離れようにも離れられない。

 

「わたしが……ほむらちゃんを取り残して、ひとりぼっちにした、からなのかな……忘れてほしくないって思ったから、ほむらちゃんを苦しめたのかな……」

 

 抱きしめる力を弱めた彼女が顔を引いて、やっと表情が見えた。覚悟していた一切は訪れず、代わりに、悲痛が流れ出した泣き顔がそこにあった。

 

「私は、そんな、まどか……っ!」

「迎えに行くのが遅くなって、ごめんね……」

 

 見る見るうちに、まどかの背へと目映い翼が現出していく。頬を伝う涙の一滴一滴が光って彼女の顔に人間を超越した存在の輝きを照らしていった。

 もう泣き顔ではない。何か、自分が成すべき所を見いだしてしまった時の表情をしている。だがその瞳は金色で、立ち上る気配は私の知っているまどかに比べて、大きすぎた。

 本当に、まどかはもう人間ではなかった。魔法少女を通り越して、その遙か先にある景色の中で生きていた彼女の存在の格と言うべきだろうか、その力強さに比べれば、悪魔だとか名乗ったとしても私はそんな大仰なものではないと教え込まれているようだった。

 しかし、まどかは、まどか。どんな存在になろうと、やっぱり私の大事な友達なのだ。

 

 

「……忘れなさい……忘れてっ!」

 

 叫びをきっかけにして身に力を入れ、拘束と意思の間で痙攣する腕が引きちぎれても構わないくらい強引に持ち上げ、まどかの頭を抱き返した。

 抵抗されるより早く記憶を改変する魔法を起こし、直接触れた箇所から干渉をしかけた。

 普通なら一瞬で効果を発揮する筈の魔法でも円環の理は頑強で、ほんの少しの記憶の改変ですらかなりの抵抗を受けた。虚ろな瞳をしたまどかが、それでも私から一瞬たりとも目を逸らさずにいてくれて、思わず手を緩めてしまいそうな自分を叱責し続けた。

 

「ほ、むら、ちゃん……」

 

 何とかこの結界に入る前後の記憶だけを何事もなかったと改ざんし、まどかが眠って倒れ込んで、その身を繊細なガラス細工に触れるより丁寧に気をつけながら受け止めた。

 その場で座り込んで膝の間にまどかの顔を挟むようにして寝かせ、やっと呼吸が再開される。

 

「まどか」

「ん……みて、このこ、かわいい……」

「……寝ているのね。ああ……」

 

 こんな状況だというのに、彼女の寝顔は驚くほど落ちついていた。寝言でアザラシさんだとか、ペンギンさんだとかの名前が漏れ、夢の中では幸せを全身で享受しているのが目に見えて分かる。

 その背にあった翼は消えて無くなり、いつもの彼女が眠っている。髪を撫でても、そこに神聖なものは現れない。

 きちんと元のまどかに戻り、悲痛な顔色も消え去っていた。彼女を追い詰めたのは魔法少女の真実でも、希望や絶望でもない、私の行いなのだ。

 身体が息を求めてひどく乱れ、思わず服の胸元をかきむしり、気づけば拳を握りしめ、力をこめて空間を殴りつけていた。

 

「っ! ぅっ……!」

 

 何も無い空間に亀裂が走る。硬い壁を殴りつける衝撃が拳に伝わるが、構わず、もう一度、そしてもう一度。音はなく、私の息だけが残る。

 亀裂が穴にまでなりかけ、痺れる手で顔を覆った。そうしなければどうにかなってしまいそうだった。

 結局、まどかは私を責めなかった。それどころか、変わらず私を助けようと手を伸ばしてくれていたと思う。責任感と優しさを一体化して大切に取り込み、自分のものとしていた。

 

「どうしてっ……」

 

 まどかは決して、何か私に悪い事をしたわけではない。

 

「どうしてよっ……! どうして、あなたがそんな顔をするの……!」

「……あなたがっ! 苦しむひつようなんて……ない! のに……!」

 

 両手で覆った瞳が濡れて気持ち悪い。

 ここが結界の中なのが本当に幸いだった。感情が堪えきれずに漏れ出してしまう姿を誰かに見られはせずに済んだ。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 情けない己の涙を拭って、まどかを抱き上げた。乱れた思考は今もまとまりがなく、倒れた美樹さやか、何も残さず消えた女の存在が浮かんでは消えながら、まどかの苦しそうな表情は記憶の中で固定されて一切薄れない。

 女が最後に居た位置を見下ろしても、やはり痕跡の一つすら残っていなかった。遺体すら残らなかったのは、彼女が円環の理から来たからなのか。

 人の命が失われる所は何度も見てきた。誰かの手によって失われる命だけではなく、私自身もまた、両手の指よりずっと多くの人生を踏みにじってきた。

 中でも最も痛ましい記憶は今も頭の引き出しから飛び出しており、決して忘れる事を許されない。だから、今回だって激しく感情を乱されたりはしなかった。

 薄情だと思う。まどかの命を奪った時の苦しみに比べると、すんなりと飲み込めてしまった。

 

「……まどか」

 

 口から赤いものが垂れた。食いしばりすぎた歯が痛んだ。

 手落ちがあったと言わざるを得なかった。自分のした事がほころびを生むのは慣れていたのに、美樹さやかの記憶がとっくに戻っているとは気づきもしなかった。

 結果的に私の失敗で一人の魔法少女が傷を負い、美樹さやかに怪我をさせ、まどかに散々怖い思いをさせ、全く無関係な責任を背負わせた。全ての責任は私にあった。

 まどかを、それから美樹さやかを手近な椅子に座らせて、その足下に座り込む。外で行われていた魔獣との戦いは終わっており、使い魔達が結界の外の同じ位置で私達を囲んでいた。

 結界外の水族館内にある休憩用のソファと、まどか達を座らせた椅子は同じ位置にある。結界が解けても問題はない。

 戦いが終わっても今日という日は終わっていない。だから、二人を起こしてから何をするかを決めておかなければならない。予算を何とか捻出し、お土産を買って、夕食を一緒に楽しんで、このまま帰るのも良い。けれど、まどかと美樹さやかに頼んでもう一回水族館の中を回っても良いかもしれない。時間はまだ少し余裕があり、もう一度アザラシを眺めていれば気分転換にもなるだろう。とりとめもなく今日の予定を組み立てている間にも、美樹さやかに告げられた言葉が反芻されていく。

 俯きながら、床に残る水滴が引いていく様を視界に入れていると、視線を感じた。もう居ないはずの女の視線だった。

 

「勝った貴女の方がずっと悲壮な顔をしているのが、本当に……もう、本当に、素敵な人なんだからさ」

「……」

 

 これが罪悪感の見せる幻なのか、私のダークオーブに流し込まれた力なのかは分からない。分からなくとも、女はしゃがみ込んで私の顔を覗き込んでいた。

 受けた傷も痛みを堪える様子もなく、全くの無傷で佇んでいる。さっきまでの出来事を忘れたかのように浮ついた声で喜びをこぼし、こちらをじっくりと観察してくる。

 

「……助かったわ。まどかの盾になってくれて」

「いいって。そっちも僕がやるべき事だったし」

「それでもよ。あの時、まどかは私を拘束して円環の理に戻ろうとしていた。あなたが間に入らなければ危険だったわ」

「いや、僕が行かなくても貴女なら問題なかったって。現に、まどかちゃんの記憶操作も上手くやったわけだしね」

「……押し通しただけよ。上手くはない」

 

 何を思ったのか、女は黙って私の髪をいじりはじめた。

 後頭部から、ヘアバンドをなぞるように頭頂部、指の一本一本で髪を撫でながらもみあげをさらりと流し、うなじから後ろの髪を乱していく。私はされるがままだった。これくらいは、いい。

 左右で分かれた髪を一本に纏めてポニーテールに仕上げられた時、女が背後から囁いた。

 

「まどかちゃんにはひどい事をしちゃったねえ」

「……ええ」

「本当に、ひどい事をしちゃったね」

 

 嫌味なのか皮肉なのか、繰り返す言葉は深く感じ入る風だった。

 

「ああ、結界がそろそろ消えるか。僕は姿を消すから、何とか二人を誤魔化してね」

 

 言いたい事だけ言い終えて女は唐突に消えた。髪に触られている感触が消え去り、振り返った時には女はそこに居なかった。それまでと何も変わらない態度だった。

 幻にしてはやけにリアリティがあり、髪がポニーテールに変えられたのも気のせいではなかった。

 あるいは、とダークオーブに触れて眺める。

 いつも通りの紫色があるだけだ。持ち逃げしてきたという円環の理の力が流し込まれても、それだけでは大きな変化を感じない。ただ、私の魂とは別に、何か、まどかが傍にあるような気がするのだ。

 証拠はないが、きっと間違っていないだろう。ダークオーブを耳飾りに戻し、装束を元に戻すと、足下に感じていた水の感触が濡れた痕跡ごと消えていく。

 水滴すら残らず消え去った時には元の水族館に戻っており、他の客が私の前を通り過ぎた。周囲の人々からは私達は最初からここにいたように見えるのか、誰も結界から戻ってきた私達に反応していない。

 人形の使い魔達が二人の荷物を運んできたので、受け取ってからすぐに姿を隠すように指示を出し、見えなくなったのを見計らってやっとまどかと美樹さやかの肩をゆすった。

 

「起きて、二人とも」

「ふぁぁ……あれー?」

「んー……? あたし、なんで寝てるんだろ……」

 

 ソファで眠っていた二人が目をこする。まどかがきょろきょろと辺りを見回し、美樹さやかがあくびを一つ。

 

「二人とも、おはよう」

「ほむらちゃん? あれ?」

「休んでいる間に寝てしまったようね」

「そうだっけ? あ、でもお土産を買って、それで……」

「ここで一端休憩していたのよ」

「うわ、あたしは覚えてない。よっぽど疲れてたのかなあ」

 

 しきりに困惑しているが、幸い先ほどまでの記憶は綺麗に消えているらしい。二人が私を見る目は元通りで、痛いくらいの友好が注がれている。

 努めて今まで通りの雰囲気を取り繕った。何事も起きていなかったのだから、私も顔色を変えてはいけないだろう。慣れたもので、涙の跡は綺麗に消して張り詰めた空気を霧散させるのは難しくない。

 

「疲れたのなら、そろそろ帰りましょうか」

 

 しかし、笑えているのかの自信が、ほとんど持てなかった。

 

「ん……えっと」

「あー……よし」

 

 二人がほんの少しだけ顔を見合わせ、すぐに爛漫な様子で私の手を握る。

 

「ほむらちゃん」

「ほむら」

 

 揃って息をピッタリ合わせ、私を間に挟んで視線を交わし合い、同時に私の手を引いた。

 美樹さやかの気分の良い面持ちの中に、何やら優しい気遣いが漏れている。

 

「もう一回り行こうよ。あたしもまだまだ遊ぶ体力くらい残ってるし。まどかはどう?」

「うん! ほむらちゃんは平気?」

 

 こちらを見つめる視線を浴びるとそれだけで霧散させた筈のものが現れてしまいそうになる。やっぱり、私は笑顔が作れていなかったらしい。

 明らかに元気付けようとしてくれている二人に、素直な感謝の念を抱けた。おかしな態度を取らないように気をつけて、微笑むように努めた。

 

「……ええ」

「じゃ、決まりだね!」

 

 手を引かれながら考えた。まどかを助けようとすればするほど、私は沢山の人を傷つける。まどかを助けようとしていない時はそんな事もなく、ただ私が寂しい思いをするだけで済んでいた。とかく、私はまどかを守るのに向いていない。

 だからといって、やめるわけではないけれど。 

 



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暁美ほむら最初にして最後の人生

 水族館の中でかなりの時間を費やした私達は、そのまま近場のカフェでケーキを食べて、それから普段は行かない距離にある雑貨店を回って、美樹さやかがかわいらしいハンカチを買った頃には日がやや落ちはじめ、最後に夕食をファミリーレストランで食べた頃にはかなり暗くなっていた。半日以上遊び続けた計算になり、流石に体力が尽きたのか二人は帰りのバスに乗るなり寝息を立てた。

 今度は私が何かしたわけではない。はしゃいで笑って明るい時間を過ごして疲れ切っているだけだ。私も、かなり心を軽くして貰った。

 バスの窓から外には少し前までほとんど馴染みの無い景色が広がっていた。道路上に並ぶ店舗も立ち寄った覚えの無い店構えばかりだったが、二人が眠ってからは少しずつ見知ったものに変わっていき、今はほとんど新鮮味の無い道路を通っている。

 たった今くぐり抜けた高架は、いつだったかまどかと二人で渡った経験があった。それを過ぎた位置にあるバス停でずっと前に魔女を倒した事もあったが、それらしき危険な予兆は見られないまま、バスはその場を通過した。

 知っている施設や利用した経験のある店舗が過ぎ、窓の先の景色は視界の中でぼんやりと流れ、外から差し込む光を背景にしたまどかの寝顔がくっきりと視界にあった。

 お土産の入った紙袋、まどかの膝の上で大きさを示している。まどかの体の半分にも届く大きさの袋は抱えて歩かなければ運びにくく、私が持とうかと提案したが、まどかには遠慮されてしまった。

 バスに揺れられ、まどかの身が小さく動いている。目を柔らかに瞑って気持ちの良さそうな寝顔を露わにしており、その姿は穏やか極まりなく見ていて安心を覚えるものだった。こうしていると、超越的な存在だとは誰も思わない。

 柔らかそうな頬はほのかに紅潮し、唇はかわいらしい桜色で笑みを描いている。目は閉じているのに優しげな形を保っており、その顔立ちは太っているわけではなくても全体的にふんわりした印象を受ける。

 じっと眺めていると、まどかの身が寄りかかってきた。寝返りのようなものだったらしく、私の肩を枕代わりに使ってきた。だが、やはり骨張った肩では寝心地がよくなかったのだろう。いまいち不満そうに寝息を乱し、顔を上げる。

 

「……あれ?」

「まどか、起きたのね」

「ほむらちゃん? あ、ごめん、寝ちゃってた……」

「いいえ。あれだけ遊んだんだもの」

「確かに今日はちょっとはしゃぎすぎたかな……あ、さやかちゃんも寝ちゃってる……」

「ええ。彼女も動き回っていたから、流石に体力が残っていないようね」

「ほむらちゃんは大丈夫?」

「私は、そうね。帰って眠れば大丈夫じゃないかしら」

 

 美樹さやかの眠りはかなり深く、隣で会話をしていても、バスが揺れても彼女は私の肩を枕にし続けた。よだれを服に垂らされたが、腹は立たなかった。ここまで疲れさせている一因が私にもあるのだから、多少服を汚されたくらいで何だというのだろう。

 記憶に無くとも私と戦っていて、忘れていても体力の消耗は消えていない。幸運にも彼女自身が治癒に長けていたが為に傷一つ残らなかったが、そうでなければ危うく身に覚えの無い怪我を誤魔化さなければならなかった。

 

「楽しかったね……なんだか、今日が終わっちゃうと思うと、ちょっと寂しくなっちゃうかも」

「……そうね」

 

 透明な微笑みと瞳がきらめいて、まどかのそんな横顔はどこか大人びていた。バスが停まって知らない人が出入りし、エンジンの音が大きくなって人の会話に割り込んでくるが、私達の邪魔にはならなかった。

 忘れさせたからこそ今のまどかは幸せそうだ。が、だからと言って無用な記憶を思い出させ、傷つけてしまった事実は無くならない。あんな顔をさせたくて現世に連れ戻したわけではなかった。

 まどかを二度と苦しめないためには、どうしたらいいのか。物思いにふけっていると、手をぎゅっと握られた。

 

「まどか、何かあったの?」

「なんだか、ほむらちゃんが辛そうだったから」

 

 軽く柔らかな楽しさを顔に貼っていたつもりでも、あっさりと見破られてしまった。

 

「あの、何か悩みがあるとか? わたしにできることがあれば……」

「いいえ、別に何か辛いことがあったわけではないわ」

「本当? ほむらちゃん、なんだかさっきから塞ぎ込んでるように見えるの。頼りないかもしれないけど、もし教えて貰えるのなら……」

「……」

「わたしね、大切な友達には笑顔でいて欲しいの。だから……ね?」

 

 手を握る力が強くなって、言葉を重ねる度にまどかの面持ちに宿る柔らかさが増していった。

 手つきも声も言葉も、全てが的確に私の心の壁を通りぬけて突き刺さる。ぐ、と言葉に詰まって溢れかけた涙を魔力でコントロールして押さえ付けた。今までで一番無駄な魔力の使い方だった。

 バスは見滝原に入り、停留所の名前でもう十分くらいあれば美樹さやかの家の近所に到着すると分かる。このまま黙っていれば、何も答えずに済むかもしれない。だけど、この場で不誠実を押し通すにはまどかの視線が真摯すぎた。

 目を逸らそうとしても、はっきりと送られてくる真心の塊からは逃げられない。ならばいっそ本当に話しても良いのでは無いだろうか。

 

「……実は、その」

 

 慎重に言葉を選んだ。まんざら嘘でもなく、しかしまどかの記憶を刺激しない範囲の語彙を探って。

 

「転校する、かもしれなくて」

「えっ!? ほむらちゃんが!? ……あ、ごめんバスの中だったね……」

 

 ショックを受けてくれるとは思っていたけれど、まどかの反応は想像よりも大きかった。響きすぎた声でバスの乗客が何人か振り返り、ひどく恥ずかしそうに無意識に浮かせていた腰を下ろし、周りを気にしながら座り直していた。

 

「まだ決まったわけじゃないけれど……結構、離れた所で。もう、会えなくなるかもしれなくて」

「決まってないの? じゃあ、中止になるかもしれない、とか?」

「ええ、その可能性もないわけではないわね」

「……」

 

 どう受け止めたのか、まどかは口を噤み、ただ手を握る力だけを強めた。私が本当とは言い難い物言いをしていると気づく素振りは見られず、少し俯き気味な表情をさせてしまった。想像していたよりも

 次の停留所にバスが止まり、まどかは「そう、なんだ」とだけ呟いて、バスが次の信号で止まった時にふと顔を上げ、私と手に持った紙袋を見比べた。

 

「どうしたの?」

 

 一度深く頷いたまどかが、そのまま紙袋を私に差し出した。大きなぬいぐるみが入っており、中から二つのつぶらな瞳が私を見つめていた。

 

「アザラシさんのぬいぐるみ、貰ってくれる?」

「……なぜ?」

「ほむらちゃん、悪い夢をよく見るみたいだから。これを抱きしめて寝たら、ちょっとは楽だと思うの」

「でも、これはまどかのお金で買ったのに」

「いいの。でも大事にしてあげて欲しいな」

「……ありがとう。なら……使わせて貰うわね」

 

 ぬいぐるみを貰い受けると、まどかに横からそっと抱き寄せられた。

 眠る美樹さやかの頬が私の肩からずり落ち、膝枕の格好になる。寝心地は最悪の筈だけれど、まだ起きてくる気配はない。

 

「もし、ほむらちゃんが他のところに行っても……忘れないからね」

「まどか……」

「絶対に忘れないから、ほむらちゃんもわたしを覚えていてくれる?」

「ええ。忘れないわ、約束する。うん……そう言って貰えるだけで、私は本当に幸せ者ね」

「私だって、そんな風に言ってくれる友達ができて、凄く幸せだよ」

 

 真心のある面持ちで答えてくれたその声に、思わず反応してしまった。

 

「……本当に幸せ?」

「うん」

「そう……それなら、よかった」

 

 幸せを口にした彼女は、実際には何も知らない。知られては幸せでいられない物事を見てしまう前に目を覆って隠しているからだ。

 だとしても、まどかが幸せと言ってくれるような状況を作れたのなら、私にとってはそれだけで十分だった。

 

「うう……ペンギン……」

 

 私の膝では安眠も長く続かず、美樹さやかは妙な寝言を漏らしながらもゆっくりと身を起こした。目をこすって大あくびを無防備に晒し、まるで自分の部屋に居るようなくつろぎぶりで伸びをすると、ぼんやりした目つきで私達を視界に入れた。

 

「おはよう、さやかちゃん」

「さやか。これで涎を拭きなさい」

「ふぁぁぁ……あー……うん、ありがと……」

 

 手渡したティッシュを使って口元を散漫な手つきで拭いて綺麗に整えると、かなり眠たげに大きな欠伸をして、もう一度私に寄りかかろうとしてくる。なんとか肩を掴んで姿勢を直させたが、手を放すとすぐに私の肩を使おうとしてきた。

 

「……ものすごく眠そうだね」

「うぅ、まどかぁー……もうちょっと寝たい……」

「ほら、もうすぐ家だよ。さ、立とう?」

「うーん……もうちょっとだけ、だめ……?」

「今から寝ちゃったら帰れなくなっちゃうよ。帰ってベッドで寝た方がいいと思う」

「ええー……このクッション使いたいー……」

「そこは私の二の腕よ……それから涎を押しつけるのはやめて」

 

 顔を押しつけてくる美樹さやかを引き剥がす。服に染みがついただろうか。

 

「さやかちゃんを家まで送ってあげなきゃ」

「私も一緒に行くわ」

「うん、さやかちゃん、もう到着だよ」

「うう……わかった……」

 

 バスのアナウンスが鳴り、渋々立ち上がった美樹さやかを連れて私達は出口へ足を向けた。腕にはまどかから貰ったぬいぐるみがあり、気分の良くなる手触りと本物より全体的にかわいらしく調整されたデザインは確かに癒やしの効果を持っている。

 二人の背を追って歩きながら、思わずぬいぐるみを腕の中で抱きしめた。小さい子供のようだと思いながらも顔を押しつけ、少し息を吸ったが、無味無臭で何も感じる事はなかった。

 

 

 

 

 美樹さやかを送り届けた私達は今日の始まりとはうって変わって静かに帰路へとついた。

 彼女のご両親に眠そうな美樹さやかを引き渡しておいたので、今頃は早めにベッドの上か、それともお風呂に入っているか。一日の終わりを静かに、穏やかに迎えられればそれでいい。今日は私にとっても彼女にとっても色々とありすぎた。

 言葉にも乗せず、態度にも示さなかったが、まどかは隣で何かを感じ取ったのか、美樹さやかの家から離れると同時に肩を寄せて、「一緒に帰ろうっ」と誘ってくれて、私は灯りに近づく虫のように傍で付き従った。

 

 まどかの家はそう遠くもなく、幾分かの時間を並んで歩けば辿り着ける距離だったが、水族館で遊びすぎて遅れてしまった。空はほぼ完全に暗くなり、辛うじて雲が見えなくもないが、その上には綺麗な半月が存在感を露わにしていた。

 幸い門限には何とか間に合っており、そう慌てる必要はなかった。

 バスで話した内容が気になったのか、それともまどかも眠いのか、隣を歩いていても時折こちらを窺う視線を覚える程度で何も話しかけては来ない。

 そうして言葉数の少ないまままどかの家に到着し、玄関の扉を開けるまどかの背中を見つめた。

 

「……じゃあ、おやすみなさい」

「ほむらちゃん」

 

 私も帰ろうと身を翻したところ、まどかに呼び止められて勝手に体が聞き入れた。

 

「もう暗いから、よかったら今日は泊まっていかない?」

「いえ、ご家族に悪いわ」

「平気だよ。実はね、お泊まりして貰うかもって先に言ってあるから」

「……」

 

 断る口実は幾らでもあった。直線に届く厚意を無碍にしても今更何か問題がある筈もなく、しかし、断る理由も特にはない。あるとすれば私の我儘だ。

 気づけばまどかに手を握られており、彼女は輝かんばかりの真心がこめられた面持ちで答えを待っている。この顔を見てしまうと、断るという選択は自ずと消え去った。

 

「……まどかが構わないのなら……」

 

 結局は折れて頷くと、まどかに迎え入れられて家の中に足を踏み入れた。

 見知った内装に、照明の柔らかな白色と人の声の音色が迎え入れてくる。穏やかな野菜の香りと、ほのかな生活音、それから耳に入る笑い声。

 思わず目を細め、この場に漂う幸せな家庭の空気を味わった。自分の家に帰ってきた時は当然明かりなど点いていないし、人の気配もない。こうして明るく人の気配に溢れ、おかえり、という言葉が聞こえてくる空間に居るのはいつも気分が良かった。

 

「ただいまー!」

「お邪魔します」

 

 玄関からすぐのリビングにはまどかのお母様とお父様、それから弟のタツヤくんがいて、まどか、それから私に顔を見せている。

 まどかのお母様は部屋着の格好で落ち着きをもって椅子に腰掛け、深みのある微笑みでこちらを迎える様は格好良く、頼もしさを覚えるくらいに力強い。まどかも、稀にあんな顔をしている。

 

「こんばんは、ほむらちゃん」

「遅くにすいません」

「いいっていいって!」

「うん、まどかから聞いてるからね。大丈夫だよ」

「あい!」

 

 タツヤくんが手を挙げた。

 ご両親に同意しているのだろうか。こちらから手を振って返すと、嬉しそうにはしゃいでくれた。

 

「ほむらちゃん、今日は泊まっていくのか?」

「はい。ごめんなさい、急に来てしまって」

 

 気にしなくていいから、とまどかのお母様が鷹揚に手を振ってくれた。お父様も頷いてくれる。素敵なご家族だ。

 挨拶を済ませてから綺麗な洗面台で手を洗い、一度荷物を片付けるからとまどかは小走りで自室に向かっていった。私が貰ったぬいぐるみも一旦はまどかに預けたが、やはり私よりまどかの方が似合った。

 手を洗って戻ってくると、まどかのお父様はタツヤくんと一緒に遊んでいる。邪魔にならないように椅子へ座ると、まどかのお母様がこちらを覗き込んできた。

 

「その感じだと、今日はかなり楽しかったんだね」

「まどかと一緒に色々と回って……良い一日でした」

「そっか。ならどんな事をしたか、色々聞かせてくれるかな?」

「はい。何でも聞いてください」

「うん。それにしても、水族館……私も学生の頃は友達と行ったなあ」

 

 大きく頷きながら、まどかのお母様は写真立てを手に取った。

 白枠の、恐らくは前に来た時と同じであろう写真立てで、今度は誰が写っているのかが分かる位置にある。

 恐らく何かの記念で撮ったのだろう。体操服で肩を組み合った写真だ。目に付くのは、まどかのお母様、それから早乙女先生、そして、もう一人。

 

「……この写真」

「ああ、それ? 私の若い頃の写真なんだ」

 

 背景にあるのは学校で、ややデザインは変わっているものの私の通っている見滝原中学のそれだった。

 まどかのお母様がすぐ隣で教えてくれた。これは今から二十年くらい前の写真らしい。

 二十年前もまどかのお母様は堂々と背筋を伸ばした立ち姿だった。目元には強気な力強さがあり、今と比べると流石に荒々しさが目立つ。隣で寄り添うようにピースサインでポーズを取っているのも見覚えのある女性で、昔も今も変わらない穏やかそうな瞳がカメラを見つめている。

 

「あはは、子供の頃の写真を見られるのは、ちょっと恥ずかしいものだねえ」

「でも、まどかのお母様はこの頃から格好良かったんですね」

「いやいや。そんなことないって。ほむらちゃんの方がずっとカッコいいよ」

「そんな……こちらは、ひょっとして早乙女先生ですか?」

「あ、やっぱり分かる? あいつ、昔から全然変わらなくってね……」

「和子先生、昔からかわいいもんね」

 

 自室からまどかが顔を出した。彼女はもう写真を見たのか、あまり深い興味は無さそうに通り過ぎ、冷蔵庫から取り出したお水を私に入れてくれた。

 淡い紫のかわいらしいカップに注がれた水に、自分の顔が写る。困惑したような面持ちの自分が。

 

「ちょっと照れるなあ。この頃は、自分が今の歳になった頃の事なんて想像もできなかった。なってみるとあっけない物だけどね」

「……そうですか」

「ん、ほむらちゃん?」

「あ、いえ……なんでもないです」

 

 この写真と現在の間には確かな年月が見えた。まだ、まどかのお母様が私達とそう変わらない年齢だった頃の写真なのだから印象が異なるのは当然だ。大人の顔をしているお二人と、写真の中の二人には大きな壁があった。

 しかし、一番端に写っている人は全く変わっていなかった。違う点を挙げるなら、せいぜい、その目が今ほど濁っていないというだけで。

 

「じゃあ、この人」

「ああ、そいつは……」

 

 今までとは違う反応だった。

 水に口をつけて一気に飲み干すと、まどかのお母様はことんと小さな音を立ててコップを置き、そして写真を覗き込むと、懐かしさと、もう少し寂しげな何かが横顔に現れた。

 

「古い友達なんだ。君くらいの歳の頃に、この写真を撮った頃かな。その辺りで知り合って、それから何年かは一緒だったんだよ」

「じゃあ、今はどこに?」

「うーん……まあ、色々あってね」

 

 あの女がそこにいた。

 まどかのお母様に手を引かれ、おずおずと写真に残る姿は間違いない。私の知る姿より幾分か幼く、面持ちも弱々しかったけれど、写真越しにも分かる雰囲気は何一つ誤魔化しようもなかった。

 

「今、どこで何をしてるんだろうなあ」

「仲、良かったんですね」

「ん? そうだね……うん、友達だった。ちょっと変わってたけどね」

 

 出会いも別れも沢山の過去を積み重ねてきた微笑みだった。

 家庭菜園のある方向の窓にささやかな気配があり、ちらりと目を向けるとそこにあの女がいた。背を向けており、表情は窺えなかった。だが、肩が震えている。

 その姿は私以外の誰の目にも見えていない。いや、タツヤくんには見えたのかも知れない。あの子が小首を傾げて窓際に歩いて行くと、女は逃げるように立ち去っていった。

 

「……きっと、この人もまどかのお母様を大切にしていたと思います」

「そうだね。ありがとう……よし! 私の話はこの辺にして、まどか、今日はどういう感じだった?」

「え? あ、水族館ならペンギンさんとアザラシさんがかわいくって……特にアザラシの赤ちゃんが……」

 

 意気揚々と同じ机を囲んだ家族の会話に参加させて貰いながらも、写真の中にいる女の薄暗くも幸せそうな面持ちが目に入る。

 あの女がなぜ私の元に来たのか、理解できた気がした。

 

 

 

 

 

 

 真夜中にこっそりと、借りたパジャマを着たまま窓を開けて屋根に出た。振り向くと窓の向こうでぬいぐるみを抱いて眠るまどかの姿があり、楽しい夢でも見ているような微笑ましい顔をしている。安心しきった睡眠を妨げないように、極力音は立てなかった。

 まどかの家は向かい側に木が立ち並んでおり、それが揺れると草の音が聞こえる。雲はなかったが空に見える星の数は少なく、半月はこちらを見下ろしていた。

 周辺に住む人々もとっくに眠っているのか、草木を除けば静まりかえっている。こうしていると、私だけが誰も居ない世界に取り残されたような心地だった。

 考えてみる。例えば、いつかまどかが誰かと結ばれて、その二人の間に子供ができたら私はどうするだろう。

 そんな時、まどかの子供を守ろうとしている魔法少女がいたら、私は手を貸すだろうか。いや、相手がもっと大がかりな力を用いる事ができるのだとすれば、私は頭を下げて共闘を願っただろうか。

 まどかの子供。想像してみると、思いのほか幸福感のある将来図が浮かんだ。確かに、そんな時がくるとしたら誰かに手を貸すくらい何もためらう理由などはない。

 

「……下手なお世辞はやめたほうがいいわ。わざとらしかった」

 

 せめて理由を言ってくれればもう少しくらい信用できた。少しそう思ったけれど、人を頼る選択肢を今まで何度も捨ててきた私もまた、どうこうとは言えない身だった。

 

「お世辞じゃないのに」

 

 肩に手を置く重みがあった。私の幻覚とは思えない。そこにはやはり、あの女が立っていた。まどかを起こさない為か、それともこの家にいる他の誰かに見られたくないのか、人差し指を立てて静かにして欲しいと頼み込んでくる。

 

「……間違えないでね。僕は本当に、暁美さんが凄いと思ってる。嘘じゃない」

「そう思う理由は特にないんじゃないかしら」

「あるさ。僕にはどうあったって君みたいにはなれないし、僕の理想のような人なんだから、お世辞でもなんでもない」

「でも、あなたが私に協力を提案した理由は」

「……まどかちゃんは、まだ、親元にいるべきだ」

 

 不意に、女の声が陰る。

 

「確かに凄い子だよ。でも……あの子はまだ、鹿目さん……詢子に守られているべきだ。凄いとか凄くないとか、関係はない」

「そう。ところで、まどかと同い年の私はいいのかしら」

「貴女はいいんだよ。少なくとも貴女のご両親と僕に接点はない。だから構わない」

 

 ずいぶんと最低な事を言われている。ただ、否定する理由も見つからなかった。

 

「例えまどかちゃんが誰かの為に命を捧げるとしても、それは今じゃないし、今じゃダメだ。何より、詢子から娘を奪うなんて……まどかちゃんは、望まれて、愛されて産まれた子なんだ。僕には、わかる。ずっと見ていたんだから」

「……」

「暁美さんも分かる筈だよ。僕達が魔女にならずともこの世の呪いは消えないし、悲しみも苦しみも消えない。何も解決しないんだ。ただ私達が苦しまずに死ねる、それだけの為にあの家族を壊していい訳がない……ああ、そうだね。本当はまどかちゃんの事に大して興味はない。詢子の娘だから、まどかちゃんにはまどかちゃんで居て欲しいんだよ」

 

 かわいい子だけどね、と女は付け足した。

 

「鹿目まどかが去り、暁美ほむらが残る。そうじゃない。暁美ほむらが去り、鹿目まどかが残る。そうあるべきだと思うし、そうでなきゃ、いけない……僕がやるんだ。どんなにろくでもない魔法少女でも、生きている間にはできなかったなら、なおさら、やる」

 

 自分の中で思いを煮詰めている人間の顔というのは、傍から見ていると危険以外の何者でもない。心なしか声にも濁りが増しているようにすら聞こえる。

 この調子では、ソウルジェムを限界まで濁らせるのもそう長くはなかったのだろう。思い詰めて絶望的な顔をしたままで行動している姿は魔女を彷彿とさせた。

 まどかのお母様がこの女の事を言い及んだのも、彼女が命を落としたからだろう。

 しかし、こんな有様であっても彼女は一応、味方なのだ。

 

「幾つか質問するから、答えて貰えるかしら」

「もちろんいいよ。僕が知っている範囲の話なら何だって喜んで」

「じゃあ、あなたはまどかのお母様が学生だった頃に亡くなった魔法少女?」

「そうだね。いやあ、世の中の色々から解脱できたと思ったら、それが友達の娘だよ? どういう顔をすればいいのか分からなかった」

「……あなたは、体を持っていないのかしら」

「正解。この時代の魔法少女じゃないから帰る家も体もなかったってことで、僕は正式にはここに居ない。そもそも体が無い方が便利なんだよね」

「つまり、肉体がなくても、魂だけでこの世に留まれるのね?」

「そうなる。元々円環の理はこの世にあまねく存在する法則のようなもので、その一部である僕もその気になればかくあれるというわけ」

 

 口ぶりからは、その気になれば肉体を手に入れる事も可能だというのが窺える。では、なぜ肉体がないのか。どういった理由があるにしても私にとってそこは重要ではなかった。

 

「つまり、円環の理の力があれば、身体が無くても、ソウルジェムすらなくてもこの世に存在し続けられる」

 

 女は黙って神妙に頷いた。

 

「……そう」

 

 屋根に座り込み、息を一つ。それだけで意思が固まっていく。あたかも熱せられた鉄が冷えて固まるように。

 

「昔……私は、とっくに人間をやめていると思っていたけれど」

 

 胸に手を当てると、確かに鼓動があった。情けなくも足掻く己の体を生かしている根拠の一つは、意識してみると驚くほどにか弱く些細な動きを続けていた。

 止まれ、と命じると、あっさりと止まった。意識に影響はない、肉体は魔力で動く。何の問題も起きなかった。肉体は入れ物で、私の魂は別にあるのだから。肉体すらも本当は必要ないのだ。

 

「本当にやめようと思うわ。私は、まどかを守るには脆弱すぎる」

 

 風に当たったためか、徐々に冷たくなっていく指先で女の肩を掴み、こちらに向かせた。

 濁った目の輝きが増していた。

 

「手を貸しなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに飛び起きて、己の頭を抱える。

 また、ひどい悪夢を見た。いや、過去の記憶の反芻と表現するべきだろうか。私の記憶の中でも最悪のラベルが貼られた部屋、すでに開かずの間として存在していた筈のそれを、無理矢理にこじ開けられたような不快感だった。

 見た夢の中身は不快どころの騒ぎではない。私が、人の命を奪った初めての経験、降っていた雨の冷たさ、引き金の重さ、己の口から漏れる押し殺した絶叫、絶望的な銃声、彼女のソウルジェムが割れて、彼女の身体から力が抜ける瞬間の恐怖までをまざまざと見せつけられ、逃げる事は許さないとばかりに何度も何度も、何度も何度も叩き付けられた。

 目が覚める直前には、まどかの事切れる瞬間がコマ送りにできるほど記憶に焼き付けられていた。今も、その光景が離れてくれない。

 

「う……」

 

 思わず口元を押さえた。そうする必要など欠片もないというのに。

 追い打ちとばかりにまどかの目から光が消えたまさにその時がまざまざと浮かび上がり、とっさに洗面台へ駆け込んだ。しかし、何も吐き出せるものがない。

 食事は変わらず取っているものの、それは今、自分の身体の中に入っていない。人間的な生理機能を削っていく過程ですっかり消えていた。あとは睡眠を取らなくなればいいのだが、今はまだ上手くいっていない。

 ベッドに転がって、再び立ち上がると、傍らには私の体が取り残された。ぬいぐるみを抱いて寝顔を晒している。

 不思議なもので、こうして肉体を捨てても違和感は何もなかった。今のこの、魔力と魂でできた体と呼べる何か、その両足で確かに歩き、手でモノを掴み、必要のない呼吸も癖のように続けていた。

 魔法少女にとって肉体は外付けの端末にすぎない。インキュベーターがそのような事を言っていたのを思い出す。こうして実感してみると、確かに自分が魂で動いているのだと理解できた。

 カーテンを開けてみると外は穏やかだった。魔獣も現れず、空気は清い。しかし、肉体という重荷を捨てたにしては妙に気分が重かった。

 

「ストレス発散でもする? 大丈夫? 生きてる?」

「もう死んでいるわ」

「なら良かった。二度は死なないね」

 

 軽口混じりに女が座り込み、ぬいぐるみと私を見比べている。その体は、今の私と同じ状態にあった。

 肉体が魔力によって修復できるなら、魔力で身体を編み上げることもできるはずだ。それを成した先例は今、私の隣に座っている。同じ事をするのは決して難しくなかった。

 思えば、私が魔女になっていた時、そこにやってきたまどかや美樹さやか、それからお菓子の魔女は三人ともこの世に居なかった。魂はそこにあっても、身体はとっくに失われていた。しかし、彼女達は結界の中で存在しており、当たり前のように生活していたのだ。

 

「気分はよくなさそうだけど、上手く行ったかな?」

「ええ、十分に動かせているわ。これなら問題はなさそうね」

 

 心なしかいつもより身軽で、床に足がついていないような非現実の感覚だ。精神体としてここにいる影響か、室内の体感温度は幾分低い。

 

「それにしても、かわいいパジャマなんだね」

「……普通よ?」

「暁美さんが着たらそれは普通じゃなくなるんだ」

 

 上に薄手のノースリーブ、下にショートパンツを履いただけの簡素な格好だ。誰に見せるわけでもない為に、どちらも着け心地の良さ以外の拘りはない。

 ただの地味な部屋着だ。ベッドの上にはそれを身に着けた私の体があり、女はベッドの上の肉体をひたすら凝視している。

 

「やっぱり……美人だね、暁美さん」

 

 スイッチが入ったように声が濁り、目にあまり心地良くない感情が溢れ出した。

 

「ああぁ、暁美さんは羨ましいなぁ。こんなに綺麗なのに、その気になればどこへでも行けそうなのに。頑張り屋さんで、綺麗で、格好良くて、こんな人になれたらって、何度も思ったからね」

「変なことを言わないで」

「うん、ごめん。でもやっぱりいいな、いいな。羨ましい。本当に」

「……なぜそこまで気にするの」

「ほら、すごい筋肉を見たら触りたくなるでしょ? それと同じ」

 

 返答を聞いて理解を諦めた。眠っている体に近寄った女はその腕を取って持ち上げ、ぷらぷらと揺らせて手首を握り「ほそーい」と呟いた。

 本人の言とは異なり女の腕の方が幾分細いように見える。やつれた腕は私よりも健康を損ねているようであり、ここ数日で一気にそうなった事を思えば肉体が無くとも魂は素直に感情を示すものだった。

 

「その辺にしておきなさい。その体がどうあってもあなたには関係ないわ」

「関係はないけど気にはなるんだよね。人類の宝だよこれは。この華奢な肩の綺麗なことといったら。ほら、この髪も一本一本の質感って言えばいいのかな。それが心地良くて、ああ更にこの唇だね、唇。それから、ああ、この……柔らかそうなほっぺ」 

「やめてと言っているの」

「ん……ごめん。調子に乗りすぎた」

 

 強く、力をこめて声を出すと、私の頬に触れようとしていた女はおずおずと手を引っ込めた。

 もはや自分の抜け殻に等しい体でも、無遠慮に触られれば不快なものを幻視する。ここ数日の間、女の物言いは加速的に遠慮がなくなっていた。詰め寄って、目的や行動の指針を吐かせたからかもしれない。

 

「……この体、役目が終わったら貰っていい? その、勝手な話だけど私への成功報酬として」

「そんなものを使って何をするつもり?」

「まあ……色々と?」

「却下よ」

「えー……こんなに綺麗なのに」

 

 大事そうに、愛おしそうに私の身体を見つめている。

 理解しがたい物言いで私を好ましいと告げてくる、そんな、姿さえも判然としない彼女だけが味方と数えていい存在なのは笑えるくらいに馬鹿らしい事実だった。そう、味方だ。

 私の今後の行動と、その為に必要な手を借りる事を約束した。私達は友達ではなく、仲間でもない。友好関係と呼ぶのかすら怪しい。が、同じ目的の元に行動する味方ではあった。

 すっ、と。女の表情から感情が唐突に消えた。

 

「で……覚悟は?」

「もちろんできているわ」

「本当に?」

「……」

「怖くても当たり前だよ、貴女の体なんだから」

「……そうね、少し、怖いかもしれない」

「でも、その恐怖も胸にしたって、暁美さんは止まらない」

「止まる方がずっと恐ろしいわ」

 

 そうでなくっちゃ、とクスクス笑う女とは目を合わせないようにしながら、部屋の椅子に腰掛けて天井を見上げた。飾り気のない白い天井も、今日で見納めと思えば心に留まる。

 まず、肉体を捨てて、より自由な行動を可能にする。そして、まどかの中に残っている円環の理の残滓も完全に奪い取って、以降は現世の関係を全て絶ち、私の全存在をまどかの維持に集中する。

 全て、今までしていた事の延長線上だ。まどかと一緒に居るための生活を放棄するだけで何も変わらないと言っても良いだろう。そして、まどかに忘れられるのも悲しいほどに慣れているのだから平気だ。しかし、肉体を廃棄するのは胸からこみ上げてくる恐怖があった。

 

「あなたが確認しなくても、私はもう揺れない。そう決めたんだもの」

「……そっかあ。やっぱり素敵だね、暁美さん」

 

 天井の僅かな汚れまで覚えたところで肉体へと戻る。

 目を開いて身を起こすが、肉体が心なしか重かった。腐ってはいないかと手首の匂いをかいでみたが、特に問題はなかった。

 

「あれ、起きるの?」

「いいえ。また寝るわ……朝になったら、行きましょう」

「うん、お別れを言いに行くんだよね」

「……そうね、まどかには特に忘れて貰わないと」

 

 人間としての私は消えるのだ。まどかに覚えていて貰ったら、彼女が私を探しはじめかねない。

 きっかけがあれば、いずれ彼女は戻ってしまうだろう。私の存在はそのきっかけとして働きかねない以上、覚えていて貰えば破滅を招く。そして、まどかは元の存在へ戻る事をためらわないだろう。その時には、美樹さやかもまた元の存在へと戻り、二人して消えていってしまう。そうはさせない。

 ずっとまどかと一緒に居たかった。まどかが傍に居てくれれば何だってできる、どこへだって行ける気がした。

 だけど、まどかはかつての己を振り返らずに真っ直ぐ前を向いて生きいくには、足を引っぱって振り向かせてしまう私の存在など必要ない。何も迷う理由はないだろう。朝になればすぐにでも行動できる。

 

 あまり、朝になって欲しくはなかったけれど。

 



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ある少女の死まで

 学校帰りの夕方に、まどかに行きたい所があると誘うと、彼女は何ら疑いなく笑顔で着いてきてくれた。本当に良い子で、私の手を握りながら楽しそうに話しかけてくれて、人気のない公園に到着するまで一瞬たりともその柔和な顔色が陰ることはない。

 夕焼けの下で訪れた公園はフェンスで覆われていた。遊具はかなり少ないが広場や園路が大きく取られ、ジョギングやキャッチボールなどで体を動かすにはちょうど良い広さだった。私の家からは近くないが、休日に通りがかった際は親子連れや子供達の集団で盛り上がり、子供の歓声が頻繁に聞こえてくるのが思い出せる。

 今は人間の子供はいなかった。代わりに、私の使い魔が砂場で山を作り、風船を飛ばし、トマトを投げ合って遊んでいる。猫を追い回している者もいた。投げつけられたトマトはまどかの方には向けられず、私に飛んでくる。

 

「ここ、懐かしいなあ」

「そうなの?」

「うん。小さい頃はよくここでパパと遊んで貰ったんだ」

 

 まどかは公園内を一度見渡し、砂場にできた山の上を指でつつくと、傍にある滑り台の柱に触れて当時の自分と今の自分の背丈を比べている。指し示す高さを見るに、半分と少しくらいだろうか。

 

「昔はね、この滑り台も凄く大きく見えて……ちょっとこわかったけど、楽しかったんだ」

「まどかの背がこれくらいだった頃ね。今のタツヤくんよりちょっと上?」

「だったかも? 流石にいくつだったかまでは分からないかな」

「ふふ、会ってみたかったわね。その頃のまどか」

「えー。会うのは無理だから、写真でいい?」

「ええ。いいわ」

「じゃあ、わたしもほむらちゃんの小さい頃を見てみたいなぁ。どんな感じだったの?」

「それは……よく覚えていないけれど……写真くらいは残っているかしら」

「だったら、今度見せてくれる?」

「……そうね」

「ふふ、約束だよ。ほむらちゃんが転校する前には、だよ」

 

 果たす気のない約束をする不誠実を飲み込みながら、まどかと私が相対する。ごく自然に微笑むまどかとは違い、私のそれは穏やかそうに見えるだけで作り笑いにしかなっていなかった。

 演技にも限界と無理がある。まどかから不審に思われれるのも時間の問題だろう。早めに済ませてしまおうと、改めて両手でまどかの肩を掴んだ。

 僅かな間だけ驚いたまどかだったが、あくまで私と目を合わせていた。

 

「それで、えっと、ここで何かするの?」

「貴女にお願いがあるの」

「わたしに?」

「ええ。もう少ししたら転校するかもしれないから、その前に、やっておかなきゃいけない事があるの。貴女にしかお願いできない事よ」

 

 ぱっと明るく、キラキラした顔で頷いてくれた。

 

「うん。わたしに出来る事なら、言ってみて?」

 

 想定していた以上に快く受け入れてくれる。

 大切にしてくれて本当に嬉しかった。まどかが優しくしてくれた全ての思い出が何にも勝る宝物で、今もまた、かけがえのないものが増えていく。

 だからこそ、これを言葉にするのは覚悟が要る。

 それでも、言え、と己の口に命じた。

 

「私の事を、ぜんぶ忘れっ」

 

 言い切るより前に、私の口をまどかが防いだ。

 驚くほど強引に私の体を引き寄せ、自らも近づいてくる。

 

「……それは、だめ」

 

 俯いて、聞いたこともない重みのある声音が返ってくる。その拳を握りしめすぎて、まどかは震えていた。

 怒っている、それも今までにないくらい途方もなく。どんなに私が不実な振る舞いをしても、ここまで怒ったまどかを見るには初めてだった。

 

「どうして、そんな悲しい事を言うの」

「っ……悲しくないわ。だから、わすれっ、っむぐ……」

 

 再び口を塞がれた。

 その身から飲まれるような気配を漂わせ、まどかは明瞭な怒りと寂しさを露わにしている。

 どれだけまどかが怒ろうと無視して忘れさせる事はできる筈だが、魂に響くほどの重圧が身動きを抑え込んできた。

 

「ほむらちゃんは生きてるんだよ……そんな寂しい事を言わないで」

「いいえ、私は死んでいるわ」

 

 やっとの事でまどかの腕を掴み返し、自分の心臓の位置に当てさせる。

 

「ほら」

 

 同時に、胸の鼓動を一時的に止める。それを理解したまどかはゆっくりと顔を上げ、悲壮な瞳を見開いた。

 円環の理の事を忘れているにしては、理解が早すぎた。

 それに、人間の心臓の鼓動が止まったらもっと驚くはずだ。しかし、まどかはさもありなんと受け入れている。悲しんでいても、驚愕はしていない。

 

「……覚えているの?」

「忘れたくないって強く願ったら……ちゃんと覚えてたよ、ほむらちゃん」

 

 神々しい気配と共に、公園がまどかの雰囲気で書き換えられた。滑り台も砂場もまどかの一部として取り込まれ、彼女の瞳が黄金の輝きをたたえている。

 全速力でまどかを抱きしめて、それ以上の顕現を防ごうとしているが、まどかの防御は恐ろしく固かった。以前に円環の理から切り離された時の事を覚えているのだろう、あの時のようには行かず、強壮なる力に阻まれて干渉ができていない。

 人としてのまどかにある力なんて残り香でしかない筈なのに、その真っ直ぐで清い力が強硬手段を通さなかった。

 私が扱うより、他の誰かが扱うより、遙かに強烈だった。やはりまどかのものはまどかのものなのだ。

 だが、まどかは己の身から溢れかえる全てで私の身を抱きしめ返すと、その特別な力を収め、ただただ悲しげに問いかけた。

 

「ほむらちゃん……どうして、こんな事をするの?」

「それは、前に言った通りよ」

「嘘だよ。だってそうだとしたら、忘れて欲しいなんて言う理由がないもん」

 

 じっと、私の身から一瞬も目を離さなかった。

 何が彼女の心の中を駆け抜けているのだろう。神々しさをとめどなく放出しながらもしばらくは何も言わず、私の背中をあやすように何度も撫でている。

 努めて目を逸らし続ける私をどれほど見つめ続けてからだろうか、まどかはゆっくり話し出した。

 

「ほむらちゃん……ほむらちゃんは、騙されてるのかもしれない」

「急に何を」

「思い出して、今、ほむらちゃんがやろうとした事は、本当に、ほむらちゃん自身が願った事なの? 誰かにそそのかされたりは、していない?」

 

 まどからしくない物言いだった。

 聖なる存在というにはあまりにも人間的で、ほんの少し後ろめたそうですらあった。

 

「そ、そうだ! ……最近、変な夢を見なかった? わたしは見たよ。きっと魔法で見せられたんだと思う」

「……まどか」

「あの人はね、人の眠りを操るの。ママの友達だけど、ほむらちゃんの事はずっと怖い目で見ていて……一緒に来ていいよって言ったのはわたしだから……だから……」

 

 言葉を探してくれている。私を説得するために、人を悪者扱いするなんて不慣れな事までしてくれた。

 大切にしてくれた。よくない事だけれど、他の誰かより自分を大切にしてくれたまどかの選択が素直に嬉しくて、浅ましい満足感すらあった。

 まどかはまた、私に幸せをくれた。

 

「……まどか」

 

 両腕がまどかの肩を掴み、ゆっくりと押して身を離す。人が間に入れないくらいの距離を空けて、私の顔が困ったように歪んだ。

 

「知ってる」

「えっ」

「あの女が私を殺そうと、いえ、死なせようとしていた事くらい、知ってるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まどかの家の屋根の上で、女に問いかけた。

 

「それで、あなたは私の命を使って何を企んでいるの?」

「え?」

「協力する前にはっきりさせておきたいの。それとも、私の被害妄想かしら」

 

 背後に居る女の表情は見えないが、上機嫌そうな気配が崩れたのは伝わってくる。

 口を噤んで誤魔化そうとしているが、それが逆に怪しかった。

 私の背中に視線を送り、幸せそうに声を濁らせていたにも関わらず、今は不自然なほど何も答えようとしない。

 

「気づかないと思われていたのなら、心外ね。あなたは眠りを操る魔法少女で、そんなあなたが私に接触してくる前に私が見始めた悪夢と、あなたと会う直前に襲ってきた魔獣。あなたの魔法は眠りを操り、眠らせた者を操る」

「……」

「私の検討外れならそれでも構わない。謝りましょう。でも、美樹さやかも夢を見たと言っていた。関係性がないと考える方が難しいんじゃないかしら」

「……あー」

 

 聞き終わるなり女は溜息を吐き、顔を覆う気配があった。

 

「あなたは最初から、まどかの傍から私を引き剥がすつもりだったんでしょう?」

「……それはその、気のせいかもしれないよ」

「そこまで間は抜けていないわ」

 

 「察したのはついこの間だけれど」と付け加えた。

 この女が眠りに関する魔法を使えると知った時から、まさか、とは考えていた。幾ら私が貧弱な精神の持ち主でも、今更になって連日の悪夢に悩まされるほど不慣れではない筈だった。

 

「別に怒っていないから」

「……え? こんな事をやったのに?」

「どの道、まどかの中にまだかつての彼女が残っているのは本当でしょう。なら、どちらにせよやらなければならない事だもの」

 

 動機だって、理解できてしまう。

 私は、円環の理の力を持っている。そんな私が傍に居れば、どんな形にせよ本来の主であるまどかは巻き込まれる可能性がある。ならばどうにかして遠ざけようと考えるのは自然な流れだ。

 さらに、あの女ではどうあっても今の私に勝てる見込みはないのだから、搦め手を使って追い込むのも悪い手ではない。私は苦手なやり方だが納得はできる。

 

「だとしても、許されるわけがない事をしたと思うんだけどな」

「……それは」

「自分で言うのも変な話だけどね。気づかれた時点で暁美さんに殺されてもしかたないと思っていたし」

「でも、私は許すわ」

「なぜ?」

「まどかが、私の……大好きな、友達だから」

 

 だから、私に危害を加えようとか、追い詰めようとか、そういう相手を快く受け入れられたりはしないけれど。

 それがまどかの為であるなら、許すも許さないもないんだ。

 

「だからいい。私を騙した事も、嘘を吐いたことも構わない。私は、いいの」

 

 誤魔化した所で納得しないだろう。だから端的に、本音を返した。

 ぴたり、と。声がやんだ。あれほど騒がしく、付きまとうように話しかけてきたというのに、ただ少し喋っただけで息を飲み込んだかと思うと、そのまま黙り込んでしまった。

 何か、妙な事を言っただろうか。振り返ると、女はぼろぼろと泣き出していた。

 

「その……ごめん」

 

 目を拭いながら何故か頭を下げ始め、その場で土下座を始める勢いだった。

 

「ごめんなさい……貴女は、本当は弱い子だって分かってたのにっ……! ごめんなさい……! わかっていたのに……! そういう貴女だから尊敬しているのに……!」

 

 うずくまってぐすぐすと泣き続ける女は、見下ろしているとまるで私が泣かせたかの様だった。

 彼女は勝手に泣いたのだから、慰めたり、寄り添ったりはしない。その必要もないだろう。なんとなくだけれど、そうされる事を彼女自身が望んでいないとも思える。

 代わりに上から声をかけた。

 

「……私の企みに、乗って貰うわ」

 

 女は小さく頷いていた。

 この女の中で私は一体どれほどの存在となっているのだろうか。凄まじい期待を向けられているのは明らかで、他人に慕われるというのはかなりの重荷になるのだと思い知らされる。

 今から立てる企てに巻き込んでしまう事への謝罪は、決してしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あの人は、本当にほむらちゃんを殺そうとしていたの?」

 

 「貴女がそう言ったんでしょう」と言葉にしかけたが、そんな事を言ってもまどかを傷つけるだけだからやめた。

 目を丸くして、信じ難いものを聞いたという顔をしており、やっぱり私を説得する為の方便だったのだろう。よくない事なのに嬉しさで胸が熱くなる。

 

「彼女もまさか、貴女に気づかれているとは思わないでしょうね……神様になるのって、そういう事もわかるものなの?」

「ううん。ほむらちゃんを見る目がおかしかったのは知ってた。どうしてほむらちゃんを死なせようとするのかは分からないよ……」

 

 悲しそうに下を見て、まどかの声が小さくなった。それでもとめどなく溢れる力が干渉を阻んでいる。

 どうして、と呟くまどかには分からない話だろう。しかし、本当に残念だけど私には概ね理解できてしまう。いっそあの好意的な一方で奇妙でもあった態度も演技なら良かったが、しかし、そちらは本心だと言い切られてしまった。

 

「確かに、私の判断に誘導された物が無かったとは言わない。ええ、認めるわ。まどかの言う通り私は罠にかけられたのかもしれない」

「なら、ほむらちゃん……戻ってきて!」

「でも私の行動は、変わらないわ」

「どうして!?」

「私に利益があるのなら、罠でも嘘でも気にしないもの」

 

 まどかは泣きそうになって、しかし、きりりとした頼りがいのある双眸を思い切り近付けた。私の肩を掴んで決して逃がさず、一筋の視線が私の身を貫いた。

 

「ほむらちゃん。忘れるのはもう嫌……そんなのって辛すぎる。あなたが、何度もほむらちゃんを知らないわたしと出会って辛かったのだって知ってるんだよ?」

「……そういえば、貴女はかつての私が何をしてきたのか、全部分かっているんだったわね」

「うん。だからもう、こんな事はやめて一緒に帰ろう? そこでならずっと一緒にいられる。ほむらちゃんが望んでくれる限りは一緒に居続ける。信じて? ほむらちゃんを一人にはしないから」

 

 誠意と厚意の塊のような叩き付けられる優しさと、まどかの指先が私の髪を撫でる。背中の分け目から髪を三つ編みに仕上げると、にこやかに頷いて私の返事を待っていた。

 やっぱり、私の目的はまるで伝わっていない。ただただ私を大切にしてくれて、孤独から私を救い出そうと正面から真心を込めてくれた。

 私の本心など知ってもらおうという意思は全くなかった。まどかにそんな重みを背負わせるくらいなら自分の罪は自分で背負うつもりだった。

 

「貴女は」

 

 だのに、私の口は勝手に喋り出していた。

 

「貴女は、貴女はっ……どうしてそうなの! どうしていつも、人のことを心配してばっかりで……もっと自分を大事にしてって、あっ……わたしがあんなに言ったのに!」

 

 感情を吐き出しながら、私はまどかを抱きすくめてしまった

 止まれ、私の体。と念じるが僅かな効果もなく。驚きながらも真剣に聞いてくれるまどかを前にして、喉を枯らせる勢いで叫んでしまう。

 

「貴女はただ大切な人と一緒に迷ったり、悩んだり、笑ったりしていればいい……家族が居るでしょ! 貴女にはっ! ……けほっ……うっ……あ、貴女は、貴女はっ! 暁美ほむらの事とか、魔法少女の事とか、そんな事は考えなくていいよ!」

 

 ほとんど出さない大声に喉が驚いてむせ込んだ。

 

「……」

 

 まどかは、私の吐いた言葉をしっかりと口に入れて咀嚼するように噤む。その間も、私の干渉を阻むように身からは神々しさが漏れ続けている。

 隙を窺っていると、言葉を飲み込みきったまどかは今までよりも更に真摯な好意を花開かせた。そこには理解の光が宿っていた。

 

「ありがとう。わたしの事を沢山思ってくれて。大事にしてくれて。わたしの為に、こんな事までしてくれたんだね」

 

 私と密着して顔を僅かに上げる。ほんのりと見上げる形となったまどかは強い意思を秘めており、膨大な存在感を巧みに操って私の身を包んでいた。

 

「ほむらちゃんこそ、もっと幸せになっていいんだよ」

「……私は十分に幸せよ。十分すぎるくらいに」

「でも、そんな幸せはわたしが嫌」

「っ……まどか?」

「一人でずっと頑張り続けるなんて、そんなのがほむらちゃんの幸せだなんて、わたしは絶対に嫌。ほむらちゃんも、わたしの選んだ事が嫌だったからこうしたんだよね?」

 

 まどかの声は弾んでいるが、同時に深い決心を思わせる。

 

「わたしね、ママを起こして、パパの作った朝ご飯を食べて、学校へ通って、そんな毎日がすごく幸せだった。でもね、でも……これは、違うと思う」

「分かってる。貴女の願いは、貴女がありたい姿は今のものじゃなくて」

「違う。ほむらちゃん、そうじゃないの。ただ、この幸せは悲しすぎるから、違うと思うの」

 

 何度も首を振ったまどかの頬が私の顔に触れ、そのまますりすりと擦り付けられた。

 

「だって……ほむらちゃんが、一人で支えてるんだもん。そんな辛いことほむらちゃんにさせたくない。だからお願い。わたしと一緒に来て」

「それは、っ……」

「仲良くしたいの。ほむらちゃんは敵なんかじゃないって絶対にそう思い続けるから、だから、ほむらちゃんも……わたしの敵になるって、そんな悲しい事は言わないで」

 

 まどかの目に溜まった涙が一筋流れ、私の頬が濡れていく。

 

「わたしが幸せになりたいの。ほむらちゃんもその中の一人だから、絶対に欠けて欲しくないから……だから、ごめんね」

 

 謝罪が聞こえると同時に、まどかは凄まじくも清廉な意思の力でもって私の身を包み込んだ。

 とっさに肩を押さえてまどかとの距離を取っても、その背から産まれた翼が抱擁しようと迫り来る。

 分かる。そのまま行けば、かつて私がまどかに対して行ったように、人としての暁美ほむらが切り離されてしまうと。

 

 まどかから存在の仕方を奪ったのは私だ。まどかの神々しさを貶めたのは私だ。

 人から奪っておいて、まどかに奪われるのは嫌だなんて言えない。次は私が失う番だとしても、不平不満など言えるわけもない。

 ただ、それでも、まどかに私を背負わせるのだけは嫌だった。

 

「まどかっ……! そんなのダメよっ!」

「ほむらちゃん……わたしが、一緒にいるから……!」

 

 抵抗しようと身じろぎし、「やめて」とまどかに向かって叫んでいるが、私の体は拒否するのが精一杯で何も出来ていない。

 私は、まどかにやってはいけない事をした。それを許すのも、許さないのも、まどかの権利なのだ。しかし、勝ち負けはこの際どうでもいい。重要なのは、このまま連れて行かれるわけにはいかないという事だ。

 だから念話で名前を呼んだ。女の名前を。

 

「うっ……本当に、本当にするのね! っ、このっ……!」

「ほむらちゃん? きゃっ……!」

 

 私の身がまどかを突き飛ばし、隠し持っていた拳銃を取り出した。

 計画していた通りになってしまった、と私の顔がしかめられる。本当なら、こうなる前にまどかの記憶と力を奪ってしまうつもりだったのだ。まどかの優しさでここまで追い詰められてしまった。

 それでも想定内は想定内だ。追い詰められた場合の逆転の準備もできている。

 

 幾分か、私が念話で伝えた内容よりも多めに喋っているのは気になったが。

 

「……これを、暁美さんが望むならっ!」

 

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 そして、女は困惑するまどかに見えるように己の米神へ、私の米神へ銃口を突きつけた。

 

「……だ、だめだよっ! やめてっ!」

「さよなら、まどか」

 

 ぱぁん。と、爆発したような耳慣れた音。

 それから赤いモノが顔にかかり、呆然とするまどか。倒れていく私の肉体。

 

「だめっ! ほむらちゃん!」

 

 私の体が地面に落ちると同時に、まどかが叫んだ。その身から溢れていた力は四散して、翼は溶け落ち、瞳の輝きが消えた。そこは単なる公園へ戻り、さっきまで私の体だったものから流れる汁が砂場を、まどかの膝の上を汚す。

 

「だ、だめ! こんな形でお別れなんてダメだよ! ほむらちゃん! ……だ、大丈夫! 弾は外れたよ! しっかりして!」

 

 傷口を手で押さえて耳元で呼びかけ、助けようとしてくれる。私の期待通りに。

 水族館でまどかが目を覚ました時、彼女と相対すれば私の勝ち目が薄いのは容易に想像がついた。だからこそ、このような手を使わざるを得なかった。

 

「ほむらちゃ……えっ?」

「汚しちゃって、ごめんね」

 

 苦しみと悲しみを与えてしまった申し訳なさには蓋をして、魔力で編んだ肉体で、まどかの無防備になった背中へ触れた。

 

 

 己の頭を撃ち抜く演技で動揺を誘う。巴マミ相手には見破られた。

 しかし、まどかが相手なら。

 冷静さは欠いてくれた。

 思うところはもちろんある。それでも、体はもはや私にとって抜け殻でしかなかった。

 



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鹿目まどかは暁美ほむらに夢を見せるか

【帰依】
すぐれた者 (特に人格者) に対して、全身全霊をもって依存すること。仏教では特に、信仰をいだくことに用いられる。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より


 暁美ほむらは美しい存在である。それを証明する手段は特に思いつかないが、ともかく彼女は美しい存在である。私の目に映る彼女の凜とした、それでいて他者を魅せる可愛らしさは髪をかき上げる所作にすら現れる。本当に美しいモノとは、黙っているだけでも十分な雄弁さで自らを見せつけるのだと声高に主張したい。主張する相手が居ないが、そこは些細な問題だ。

 木目の壁に背を預け、物憂げに目を瞑る姿はまさに黒髪の乙女といった風情だった。その胸中にある決意のほどを感じれば感じるほどに、同じ空間に存在できた己の幸運への感謝を、信じてもいない高次存在に、あるいは円環の理に捧げてしまいたくなるものである。そのような思いをあまり口に出しすぎないようにと抑えてはいるものの、気づけば漏れている。その度に本人からの冷ややかな、もとい、私から距離を置きたそうな反応を浴びてしまうのだが、すでに死人である私の痛手にはならなかった。

 

 語るべきところのない人生だった。私の生涯を表現するにあたって、その評価は畢竟、妥当なものだと言わざるを得ない。願いの内容? 気にする必要はない。何一つ意味の無い願いだから。

 大して価値のない事で魔法少女となり、その力で何もせず、ついには命も落とした。大切な友達がいたのだが、魔法があってもなくても何の役にも立てなかったのはまさに私の無能ぶりの証明である。

 生来のものか、私のソウルジェムは非常に濁りやすく、魔獣を相手にしてもただ倒すだけで何も成さないまま、戦う理由も見いだせないうちに円環の理が私を迎えに来てくれた。

 あれは正しく輝きであり、目が潰れるほどの尊さを持っている。この世の苦悩から私を救うまさに救世主だった。

 でも、その慈悲に感謝を捧げて手に触れた時、それが一体、どのような犠牲のもとで成り立っているのかを理解した時、少なくとも私は円環の理を認めてはならないのだと理解してしまった。

 鹿目まどかは、そんな事をする為に産まれてきたわけではない。彼女は母親に望まれ、父親に望まれて、幸せになる為に産まれてきた。鹿目さんを、詢子を幸せにする為に産まれてきたのだから。

 しかし私には何もできない。世界そのものとなったまどかちゃんの力は絶大で、私はしょせん、親の知り合いというだけの他人だ。それをきっかけに少しだけ親しくさせて貰いはしたものの、遙かに遠い関係性でしかない。

 仕方ないのだ。そう言い聞かせるしかなかった。

 

 無力な己が何も出来ない言い訳を重ねている中、暁美さんは違った。ずっとずっとまどかちゃんを助けようと奔走し、苦しみ悲しみ泣き出して、挙げ句に全てを失っても、まだ、まどかちゃんに殉じたいと生き足掻くあらゆる全てが、鮮烈だった。

 だから、まどかちゃんが暁美さんを円環の理に連れてくると知った時、頼み込んでこっそりと同行させて貰った。会って話してみたかった、会って、尊敬していると言いたかった。

 私の魔法は眠りを操る。眠っている暁美さんを操作する事もできる。この魔法しか使えない私だからこそ出来る事がある。この案件ならば私の魔法は有用だ。目立たないように隠れて、予定外があれば修正する。そういった物言いで説得し、着いていった。

 実のところ私が来ても何ら影響はなかったと言えるだろう。それほどまでに彼女達の間にある繋がりは強かった。あんな風に生きてみたかったけれど、私はあれほど人と一緒に居たいと思わない。

 

 詢子の結婚相手と、タツヤくん。三人を見ていると本来はそこに居なければならない人が、暁美さんを迎えに行っている事にひたすら胸が痛んだ。

 だから、暁美さんが強く艶やかに笑った時、何を成そうとしているのかはすぐに理解でき、まさにその瞬間、彼女こそが私にとっての救世主なのだという事実が眼前に現れた。

 情けは人のためならず、という言葉があるように、鹿目まどかには、その慈悲を知る暁美ほむらがいた。

 暁美さんの笑顔、そして濁った瞳と美しい声、あざ笑っているようでその実は真摯でひたむきなままの口調。

 見納めだと思っていた現世の、さらにその先があった。そして私は死人として現世に戻る事ができた。

 

 全てを見てきた。彼女の苦悩も、繰り返す時間も、涙も、悲しみも、叫びも希望も絶望も。彼女が自分を鼓舞して、冷たく振る舞って、でも、冷たくなりきれずに涙するその瞬間瞬間は私が今まで見てきたあらゆるものより美しかった。

 そして、丘の上でただ一人になり、孤独に踊って疲れたように微笑む彼女を見た時に、私のその後の行動は完全に決まった。

 

 私も、自分に出来る限りの全てでまどかちゃんを現世に繋ぎ止める。暁美さんのした事を誰にも否定させはしない。

 その為には、暁美さんに動いて貰うのが一番だった。

 だから悪夢を見せた。暁美さんが焦るように。

 まどかちゃんが魔獣に襲われている事にした。暁美さんが己を捨てるように。

 美樹さやかに夢を見せて、円環の理に目覚めさせた。暁美さんが、友達を失うように。

 自分がいれば鹿目まどかの人生に余計な影響を与えてしまうと、暁美さん自身が思い詰めるように。友達も己も失った暁美さんが、ついにまどかちゃんと一緒に居られる幸せを手放すように。

 

 だから、こういう結末でいいと思っていたけれど、自分で手を汚したかったのではない。暁美さん自身に手を汚して貰うとはいえ、それを誘導するなど、ふざけ尽くして愚かに振る舞っていなければやっていられなかった。我ながら実にクズである。廃品に出すべきだと確信するが、私の廃品回収を担当したのは円環の理であり、つまりまどかちゃんだ。いかんせん、素直に回収して貰うのは恥ずかしすぎる。

 途中で暁美さんに気づかれてしまったのは却って良かったのかもしれなかった。

 いや、大変良くなかった。全部知った上で彼女は私を許してくれた。あの時の声と顔は忘れられない。この瞬間も、心の中に浮かび続けている。

 

 『まどかが、私の……大好きな、友達だから』

 『だからいい。私を騙した事も、嘘を吐いたことも、構わない。私は、いいの』

 

 まどかちゃんを大切な友達だと呼ぶ姿は、親のようであり、親を求める子供のようであり、恋人を想う乙女のようであり、何より、親友を尊び愛する真摯な少女だった。

 密やかで温厚な面持ちからは何の毒気も見て取れず、満ちる弱さと優しさ、甘くかわいらしい態度。毒でも飲み込むように苦しみを受け容れる姿。これこそが暁美さんの奥底なのだとつまびらかになった時、罪悪感に蹂躙された私の魂はそのまま砕け散るかとすら思われた。

 こんなに弱い子を、追い詰めて自殺させようと思っていた私は廃品どころの騒ぎではない。汚物も良いところだ。だが、それすら飲み込んだ上で、暁美さんは私の手を借りるとすら言ってくれた。

 これほどまでに優しい人を私は、と余計に胸が痛んだものの、それが結果的に私に逃げ場を奪い、暁美さんの頼み事を完全に受け容れる余裕ができた。

 

 

 しかし暁美さんが伝えてくる内容をそのまま、出来るだけ違和感がないように演じるのは骨が折れた。

 いつ、まどかちゃんに気づかれるのかと気が気でなかったが、最終的には無事に、あるいは最悪な事に、暁美さんの体を操り人形のように弄び、無残にもまどかちゃんの前で死ぬ所を見せつけてしまえた。

 結果的に、私は暁美さんを撃てなかった。まどかちゃんの前で自殺するような惨い真似はできず、結果的には掠っただけで終わってしまった。

 しかしそれでも、暁美さんの覚悟を形にするには十分だったらしい。

 

 

 ……ここからは暁美さんの勇姿がよく見える。

 暁美さんがまどかちゃんの背に触れて干渉し、その深い想いを巧みに使いこなして見事に円環の理の要素を抜き出す事に成功する。

 大いに頷き、大いに胸をなで下ろした。文字通り、暁美さんの命を捧げての献身だ。上手く行ってくれなければ困る。

 もはや抵抗する手段を失ったまどかちゃんは力なく俯き倒れかけており、後は暁美さんが彼女の記憶を奪ってこの場から去れば、全てが完成する。

 まどかちゃんとの永遠の別れになると、暁美さんは間違いなく解っている。もう二度と笑って貰う事も、話す事もできなくなるのに彼女はあくまで嬉しそうだった。少なくとも、自分は幸せだと思い込んでいる顔をしていた。

 

「……ほむらちゃん」

 

 何を思ったのか、まどかちゃんが顔を上げた。暁美さんと目線が重なって、そして、カッと目を見開いて勢いよく身を起こした。

 暁美さんが戸惑いの声をあげ、僅かに生まれた空白の一瞬を埋めるようにまどかちゃんが手を伸ばす。

 私が妨害する暇もなく、暁美さんの魂と、暁美さんの死体は両方共にまどかちゃんの胸の中へ抱き込まれた。

 

 

 まどかの温かな両腕が、私の魂を掴まえた。

 

「だめだよっ……一人にならないで……!」

 

 ゆるまない瞳に力が入り、魔力の体が掴まれる。肉体のない私の身には触れられない筈なのに、その指先はいとも容易く条理を無視していた。

 全ての力は彼女の身から去り、もはやまどかの目は金に輝いたりはしない。だというのに、彼女の魂は大いなる感情を発露させて私の魂を掴まえ、何とか繋ぎ止めようとしている。それが純粋なまどかの意思によって成される奇跡なのだと理解できてしまう。私も前に、した事だから。

 私なんかの為にこんな真似をして、嬉しいと思うわけにはいかない。こんな奇跡よりずっと大切なあらゆるものが彼女にはあるはずだというのに、この優しさを私に向けて消費して欲しくない。

 

「どっ、どうして!? どうして貴女は、そこまで優しいの……!?」

「優しくなんかないよ!」

「優しくない人はっ……他人の為に己を捧げたりなんてしない……! 貴女のその優しさは、貴女自身を幸せにはしてくれない!」

 

 私の魂から円環の理の、あるいはまどかの力が漏れ出した。口から、瞳から溢れ出した純粋な力はまどかの言うことを素直に聞き入れ、彼女が生み出す奇跡の後押しを始めてしまった。その瞳が再び金色を取り戻し、私の魂を引き裂きにかかってくる。

 ダメだ。それを許すわけにはいかない。まどかの意思を覆せるくらい強く、強く彼女の幸せを思った。彼女の居場所は天国じゃなくて、笑い声と美味しい食べ物の香りと、優しい家族のいる家なんだ。だから許してはいけない。絶対に絶対に許さない。全ての力を振り絞ってまどかの足止めにかかる。

 

「っ……! 私の手を取ってくれるくらいなら、他の、もっと大切な人の手を取ってあげて……! その方がずっといい筈だから!」

「でも、わたしが決めたの!」

 

 一言で、私の放ったあらゆる力が吹き飛んだ。

 衝撃で公園の砂がまくれあがり、草木が荒れ狂う。その中心点で、まどかの心が叫んだ。

 

「わたしが、ほむらちゃんの幸せを決める! 押しつけてるって思われても、いい!」

 

 完全に固まりきった極大の意思が私を裂きにかかる。

 まどかは、私の中にある力を利用している。理解した瞬間、全てを成し遂げられる前に己の魂を砕こうと手の甲のダークオーブに拳を振り落とした。

 間髪入れずにまどかの手が滑り込み、潰れるような音を立てた。

 魔法少女の膂力で振り下ろした拳は鈍器のように重く響き、まどかの手をひどく傷つけていて、しかし、まどかは呻き声一つ漏らさず目を瞑って私を抱きしめた。

 人間の暁美ほむらと、円環の理の力を得た悪魔は別たれ、半分は神様のまどかに、残り半分は人間のまどかに抱き留められて。

 

「やばい!」

 

 どこからか声がする。

 女は衝撃で吹き飛びかけた身を強引に抑え込んでいた。

 両手をこちらに向けて、必死の形相で何かを叫んでいる。

 

「負けないで! 持って行かれちゃダメだ! それは、貴女が貴女でいるための全てだ!」

 

 眠りを操る魔法がまどかに襲いかかった。

 

「ほむらちゃんに触らないで!」

「ぐ、っ……うぁっ!?」

 

 その魔法はまどかに届くより早く、ただ一声で跳ね返された。

 

「ほむらちゃん……もう大丈夫だから! わたしが、ずっと守るからっ……!」

 

 私に沢山のものをくれた声が、耳元でめいっぱいの優しさを注いでくれる。それだけで体の力が全部抜けて、後はまどかの情け深い腕の中で眠るように意識が遠のいていく。

 これじゃ、また、まどかに助けられてばかりの私になってしまう。それは凄く嫌で、あんな役立たずの私になんて戻りたくはない。

 ああ、でも。

 暁美ほむらにできることが、鹿目まどかにできないはずがないんだ。

 

 

 

 

 静まりかえった公園の中、何事もなかったように元通りになった砂場の中でまどかちゃんが座り込んでいた。

 砂で足が汚れようと気にもせず、その膝には暁美さんが眠っている。

 彼女の頭に怪我はなく、穏やかな寝息を立てている。そんな暁美さんの身を少しだけ起こすと、その髪をまどかちゃんは尊ぶように撫で、ゆっくりと編み込んで左右に一つずつ三つ編みを作っていった。髪の一本一本までを尊重するように指を絡めて、大事そうに、繊細な硝子細工を扱うような手つきで。

 丁寧に結われた髪の仕上げに、まどかちゃんは己の髪を纏めていた赤いリボンをほどき、三つ編みの髪を留めた。

 

「うん……ほむらちゃんの方が似合うよ」

 

 膝の上で暁美さんを撫で、慈しむ様は彼女の母親が浮かべるものとよく似ている。

 

「わたしの事、覚えていてくれたよね。ありがとう……すごく嬉しかった」

「大丈夫だよ、もうお別れなんかしない。これからは、わたしがほむらちゃんを守るから」

 

 その目に涙はもう浮かばず、むしろ全てを受け止めるだけの包容力を纏っていた。果てしない輝きを永遠に失っても、秘められていた熱のある意思は欠片も損なわれておらず、まどかちゃんは今こそまさに神様みたいないい子だった。

 口から湧き出す慈悲と愛情深い言葉の数々が、どれも暁美さんが聞けば首を横に振るものであったとしても、きっと今のまどかちゃんは言葉を訂正したりはしないだろう。

 

「ん……」

「ほむらちゃん?」

 

 暁美さんの安らかな寝顔が揺らめき、まぶたが震えてゆっくりと開いていく。

 ぼんやりとした寝起きの顔で、目をこする様はかわいらしく、愛らしさすら現れた。

 眼鏡がなくとも何とか見えるようで、自分を抱き支えるまどかちゃんをほわりと視界に入れて小首を傾げた。

 

「かなめ、さん?」

 

 まどかちゃんを見つめ、それから辺りを見回し、暁美さんの顔には今の状況に対する強い困惑が浮かんでいた。

 

「おはよう、ほむらちゃん」

「はっ、か、鹿目さん? あれ……?」

「もう大丈夫だよ。ほむらちゃんはね、ずっと悪い夢を見てたんだ」

「え? 夢? ……鹿目さん? なんで泣いてるの……?」

「なんでかな、ふふ、涙が出てきちゃって」

 

 暁美さんの第一声は心配の言葉で、それを聞いたまどかちゃんはなめらかに口元をゆるませ、穏やかな手つきで暁美さんを抱き寄せ、強く抱擁した。これまでに失ってきたものの全てを取り戻すように、長く、深く。

 

「かっ、鹿目さん?」

「まどかでいいよ。ほむらちゃんには、そう呼ばれたいな」

 

 困惑したのは暁美さんの方だ。やはり、これまでの魔法少女として戦ってきた記憶と力を全て失っているのだろう。

 目を丸くして、息を吐く度に戸惑いと驚きを交互に漏らしており、それでも、泣いているまどかちゃんを抱き返すのだけは早かった。

 

「かなめさ……ま、まどか」

「うん、うんっ。そう、そう呼んで貰えると、すごく嬉しいの」

 

 しばらくの抱擁を終えて、寄り添い合った暁美さんがポケットからハンカチを取り出し、まどかちゃんの頬を濡らす涙を拭う。

 くすぐったそうな声をこぼしたまどかちゃんが、暁美さんのハンカチごと手を撫でた。

 

「ありがとう、ほむらちゃん」

「ううん。あれ、その手……!」

「ん? どうしたの?」

「そ、その怪我……!? まどか、痛くない!? どこかでぶつけたの!?」

 

 ソウルジェムを砕けるほどの一撃を何の強化も施されていない生身の手で受けたのだから無事では済まず、彼女の手の甲にはひどい痣が出来ていた。

 きっと、暁美さんがとっさに力を抑えたのだろう。でなければ手がひしゃげて使い物にならなくなっている。

 

「ちがうよ。これはその……証、かな……?」

「え……そ、それより早く手当しないと!」

「んー、うん、そうだね。この辺りで応急手当できそうな場所って知ってる?」

「それなら私の家が近いよ。まどか、大丈夫? 歩ける? 辛いなら私が支えるから」

「あはは、足は怪我してないから平気だよ。心配しないで? 見た目より痛くないから、慌てなくても平気だもん」

「でも、痛くないからって甘く見たら危ないかもしれないよ」

 

 心の底からまどかちゃんを案ずる面持ちに、あの冷たく熱い色合いは一切含まれていなかった。

 暁美ほむらは、完全に過去の姿を取り戻していた。それはもはや冗談のような現象であって、理屈の及ばない鹿目まどかの献身と愛が成せるわざ、端的に表現すれば奇跡だった。

 あるいは、暁美さんが成した事を一番近くで見たのは他の誰でもないまどかちゃん自身だ。なら、やり方を理解していても不思議ではない。

 どちらにせよ、暁美さんの敗北ではない。まどかちゃんをこの世に繋ぎ止めた。もう戻る為の要素すら持たない彼女が、そこへ行く事はないだろう。

 が、勝ちきれなかった。

 円環の理は、今ここにいる私を除けば完全に元の場所へと戻った。ついでに暁美さんの、暁美さんたる所以も連れて行かれてしまった。

 

 命を落とし、目的を達する。なるほど、暁美さんの思惑は概ね上手く行った。が、まどかちゃんは意思が固く、それでいて困難に立ち向かえる女の子だというのを忘れていた。いやさ覚えてはいたのだろう、しかし、予想を遙かに超えていたと言わざるを得ない。

 現に、ここにいる暁美ほむらは魔法少女の何も知らない顔をしていた。目を強化していた魔力が消えて、ぼやけた視界で何とかまどかちゃんを捉えているのだろう、何度も目をまばたかせている。

 

「……ああ……まったく……本当に良い娘だなあ……」

 

 二人の後を追いかけていても、暁美さんの後ろ姿にかつての確固とした生き様が見て取れないのは絶望的だった。

 

 暁美さんごと、円環の理は元に戻った。まどかちゃんの記憶と、私を残して。

 もはや、円環の理を原因とする問題は起きようもない。そもそも魔獣が円環の理の修復を狙うなど嘘だ。仮に何かが起きるとしても、それはもはや暁美ほむらの責任ではない。全てをまどかちゃんが受け入れ、そして自分の責任として持って行ってしまった。

 あるいは、暁美さんを狙う存在がいたとしても無意味な事である。何故なら、狙うに値する暁美ほむらは消滅した。

 これはまさに暁美ほむらの勝利である。そこに彼女がいないのも含めて、計画通りに事が進んだ。全く問題はない。しかし何故だろうか、この、受け入れるしかない敗北感は。

 彼女の頭に銃弾を撃ち込んでも、結局はまどかちゃんの方が上だった。

 

 

 

 今、私は姿を見せるつもりはない。だから普通の人間であるまどかちゃんでは捉えられない筈なのだ。しかしどう考えても目が合っている。円環の理では完全になくなり、魔法少女にもなっていない彼女が、なぜ。

 本当に見えているのだろうか。信号待ちで足を止めたまどかちゃんに片手を挙げて見せると、彼女はそれを目で追った。

 

「……やっほ、まどかちゃん」

「……」

 

 とても、色々な事を言いたそうだった。友達をそそのかして死なせようとした相手だ、いくらまどかちゃんでも心穏やかな表情にはなれていない。

 悲しくなるほど嫌われているのが理解できてしまうが、不思議なほど怖くない。昔は人に嫌われるのが怖かったのに。

 状況も忘れて何故だろうと考えて、そうだ、暁美さんの傍に居たからだ、と気づく。生きている間は何者にもなれなかった私を、別の何かにしてくれた彼女。私に全てをくれた彼女が、消え去ってなおも私に勇気をくれた。

 だから、まどかちゃんに向かって胸を張る。こんな私でも少しだけ暁美さんの力になれたのだと。結果的にはまどかちゃんの想いが上回ったとしても、暁美さんは己の成すべきを成したのだから。

 こんな態度を取ればまどかちゃんを怒らせるかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。そのような懸念も今は何一つ問題とは考えなかった。むしろ、まどかちゃんがそうやって感情を動かしているのが暁美さんの願いの総体である以上、どのような怒りでも嫌悪でも喜んで受け止める覚悟は出来ていた。

 だが、まどかちゃんは深呼吸をして顔に表れていた複雑そうな感情を消し去り、後にはほのかな慈しみだけを残した。

 

「ほむらちゃんを、見守っていてくれますか?」

 

 そこで友達の心配ができるまどかちゃんが、暁美さんの大切な人でいてくれて本当に良かった。

 暁美ほむらは、まどかちゃんを大切にするからこそ美しかったのだ。

 二人ともこうして見るとただの普通の人達なのに、蓋を開けてみると良い人達すぎて。善良なる彼女達の姿は私には眩しすぎた。

 

「……あなたの勝ちだよ、まどかちゃん」

「こんなの勝ち負けの話じゃないよ」

「まどか? 誰と話しているの?」

「あっ。えっと……うん、なんでもない。空耳かもね」

「そ、そう? 痛みが辛かったらすぐに言ってね?」

「うん。でも平気だよ? ほむらちゃんの家に行くのが楽しみだから、辛いなんてちっとも思わないよ」

「ま、まどか……」

 

 信号が変わって、お喋りしながら仲良く交差点を歩いて行く二人の背を、ただただ黙って見つめ続けた。

 そうだ、これは勝ち負けの話じゃない。

 暁美さんも同じ事を言っていた。勝ち負けの問題じゃないのだ、これは。ただ、誰かが誰かを大切に思い、尊び、その人生に幸あれと願う、そんな純粋なる二つの願いがぶつかりあっただけの問題なんだ。

 暁美さんの気持ちと鹿目さんの気持ち、二つが重なり合ってぶつかり合って、そして最後に鹿目さんが残った。それだけの事だった。

 




次回でエピローグです。


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なめらかな幸せと、その敵

 気づいた時には、学校の通学路の上に立っていた。

 天気もよく空は明るいというのに、そこには誰も歩いていない。いつもなら一緒に居てくれるまどかの姿もなく、私一人だけがぽつりと存在している。

 

 誰か居ないかと学校へ向かって足を進めたけど、やっぱり、人の気配はない。

 眼鏡越しに見える綺麗に舗装された道の傍には小さくて浅い川が流れ、植えられた木々が道を守っていて、水と木の清涼な空気が登下校中の気分を明るくしてくれて、とても好きだった。

 まどかと一緒に学校へ通うようになって、この学校まで続く真っ直ぐな道が日に日に魅力を帯びて、この道を歩くのが毎日の楽しみの一つだ。

 なのに、友達がいない通学路は寂しくて、だんだんとこの世界に一人だけ取り残されたような恐怖が首をもたげてきた。

 

「だ、誰かいませんかー……」

「いるよ」

「え、うひゃあ!」

 

 慌てて振り返ってみると、そこには一人の女の人が立っており、喜びとも悲しみの綱引きでもしているような面持ちをしていた。

 見滝原の制服を着込んでいるが、知らない人だ。別の学年なのかもしれない。

 

「驚かせたかな。心配しなくても、これは夢だよ。僕が見せてるただの夢」

「は、はあ。そうなんですか……これ、夢なんですね」

「うん。だから僕の事も気にしなくていいの」

 

 どうやら、ここは夢の中らしい。

 疑ってもおかしくないのに素直に受け容れられる。

 

「あなたとお喋りがしてみたくてね。お茶は用意があるし、椅子と机も準備しておいたんだ」

 

 彼女が少し横へ避けると、そこにはパラソル付きの丸いテーブルがあり、空になったグラスだけが置かれていた。さっきまではなかった筈のものだ。

 椅子は二つ用意されているのに彼女は何故か使わず、椅子を引いて後ろで立っている。

 

「まあ、座って」

 

 彼女は椅子を引いて手招きしてきた。目が濁っているのがどことなく不安をかき立てるが、ここで逃げると何をされるか解らない恐怖感があり、恐る恐ると椅子へ近づいた。

 腰掛けると、彼女は黙ってティースタンドとスコーンを持ちだしてくる。ジャムもセットで付けられていた。カボチャのケーキも乗せられており、どれも綺麗に整えられている。

 私の前にお菓子の数々を並べ終えると、女はしゃがみ込んでテーブルに肘をつき、両頬に手を当てて覗き込んできた。視界に入ってくる顔は嫌に期待感に満ちており、不気味なまでに好意的な視線を浴びていて、ケーキやスコーンに手を付けるのが怖くなった。

 

「食べる?」

「いえ……大丈夫です」

「ふふ、美味しいのに」

 

 彼女がパチリと指を鳴らすと、お菓子は全部消えてなくなった。一瞬、顔から感情が消えたのは気のせいだったと思いたい。もしも食べてしまったら私はどうなってしまったのだろう。

 なぜか私の服装も変わっており、さっきまでは学生服だったのに今は白のワンピースに包まれていた。まどかと一緒に着た覚えのあるこの純白は、彼女の方が遙かに似合っていた。

 

「で、どうかな。まどかちゃんとは上手く行ってる?」

「……まどかと? えっと、どうしてですか?」

「前からずっと見ていたからね」

 

 やはり、彼女は座ろうとしない。空いている椅子に座る人がもう決まっているかのように振る舞って、自分は地面に膝をついている。

 嫌ににやけて語る様は見るからに怪しく、聞かれたからって素直に答えたら、まどかに迷惑をかけてしまうかもしれない。

 夢の中であっても、不用意に答えると何かが起きてしまうような悪寒があった。

 

「……」

「不審だから言えないかな?」

 

 こちらに手が伸びてきて顔を叩かれるんじゃないかと思い、とっさに顔を引いたが、彼女は何もしてこなかった。

 

「……おめでとう、とか言うべきかな。まどかちゃんと上手く行ってるようだしね」

「は、はあ……ありがとうございます……」

「うんうん、幸せそうでなによりだ」

 

 そう言って微笑んでいる筈なのに、僅かな喜びすら伝わらない。

 壊れて二度と直らない芸術品を見るように、ひどく残念そうに顔を覆って溜息まで吐いている。

 

「やっぱり何も覚えていないかあ」

「な、何を言ってるんですか?」

「ああ、大丈夫。こんな夢はすぐ終わるから気にしないでいいよ」

 

 手をひらひら振って立ち上がると、女は私からやや距離を取る。数歩分だけ離れた頃に振り返った顔には、やはり無感情な微笑みが浮かんでいる。

 夢の中の人なのだから当然といえば当然だけれど、どこから見ても面識のない人だった。姿形も声も初対面のそれで、相手の物言いだけが知り合いなのだと伝えてくる。

 投げつけられるような好意の暴力に顔を合わせているのが辛くなって、そっと首を傾け視線を外す。すると、眼鏡がなぜかずり落ちて地面に転がり、広う間もなく溶けていった。眼鏡なしでは上手く見えない筈の視界は逆に鮮明となって、テーブルの上にあったグラスのドリンクが溢れて足下に流れ落ちる瞬間すらも見逃せなくなっていた。

 夢の中だから、そういう事だってある。あったって不思議じゃない。だから気にしない方がいい。

 言い聞かせながら胸に手を置き、嫌に激しい鼓動を感じた。まるで、何か自分の中の開けてはいけない引き出しをこじ開けられようとしているような。

 

「や、やめてくださいっ……」

「いっそ、無理矢理にでも戻せないかな……」

 

 胸が苦しいのではなく、魂が苦痛を覚えているのだ。胸元を激しく握りしめてその場で俯いて何とか息を吐いた。それがどれほど続いたか、不意に全ての苦痛が止んだ。

 すっかりと止んだ苦しみに顔を上げると、私の手を、誰かが握ってくれていた。やけに神々しくて、でも、よく私に触れてくれる指だった。

 その指が誰のものなのか、私がわからないわけがない。

 

「まどか?」

 

 姿は見えない。でも、確かに存在を感じる。私の手を握って、目の前の彼女を見つめている。そして、ゆっくりと静かに言い放つんだ「ほむらちゃんを、虐めないで」と。

 女にもその声は聞こえたのだろうか。痺れるようにビクリと震え、大きな息を吐いて髪をかき乱すと、頭を押さえたまま地面に座り込んだ。

 

「……ごめん、君の内側に暁美さんが眠っているのを期待したんだ。無理矢理引きずり出そうとしたけど、やっぱり、君の中にはもう無いんだね」

「な、何を言ってるんですか?」

「私が貴女の助けになりたかった理由はね、友達の大切な娘に消えて欲しくないからだった。少なくとも、最初は。でも、貴女を尊敬していたのは本当だよ。何の嘘もない」

 

 恐らく、私に話しかけているわけじゃないんだろう。遙か彼方、あるいは過去に向かって声をかけ続けている。

 

「でも、ああ……もはやあなたは暁美ほむらじゃない。あの、世界の何より尊い暁美さんは、もうそこにいない……できることなら、君を元の暁美さんに戻したかったけど……無理か」

 

 女は立ち上がり、私から離れていった。

 四歩、五歩、六歩と歩いた頃だろうか、彼女は急に首を傾けて振り返り、それまでで一番に明るい顔になった。

 

「でも、魔法少女でなくても悪魔でなくても、貴女はきっとあの暁美さんになれる」

「え……?」

「それまでは心配しなくていい。少なくとも君とまどかちゃんと、その家族くらいは私……僕の目が届く範囲だから。コレでも一応は人間を卒業した身だから、視界は広いんだ。例のあいつらにだって手出しはさせないよ……ああ、これは独り言。貴女はわからなくていいんだ。わかったら僕がまどかちゃんに怒られちゃう」

 

 私の反応を一切待たず、女はまた歩き出した。その道の先には学校がある筈だけど、目的地はそこじゃないんだろう。

 口からこぼれるような、調子のあまり合わない歌声がこちらまで流れてくる。

 

「忘れない」

「自分のためだけに、生きられなかった、淋しい人」

 

「私が」「あなたと」「知り合えたことを」

「私が」「あなたを」「愛してたことを」

「死ぬまで」「死ぬまで」「誇りにしたいから」

 

 

 歌い終えた女は、振り返らずに足を止めた。

 

「ああ、そうだ」

 

 背中が遠ざかり、もう声も届かないくらいの距離だというのに、近くで話しかけられているように声がよく響く。

 

「……今度こそ、まどかちゃんと一緒に……幸せにね。しばらく、私と会わずに済むように願ってるから」

 

 そう言われた瞬間、空に、周囲に、地面に、テーブルに、小川に、グラスに、思い出が浮かんだ。

 まどかの涙と悲しみに、それから死に顔と、まどかの嘆く声が響く。まどかと約束を交わす私の声や、まどかを助けられずに慟哭する私の姿も。目を覚ませと、自分の中にすでにないはずの物が叫んでいる。

 でも、それが鮮明に見えるより早く、誰かが「大丈夫だよ、ほむらちゃん」とささやいて、私の目を覆ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たまに悪夢を見る。

 でも、その苦痛は朝から届くまどかやさやかのメッセージでかき消されて、後には残らなかった。寝起きは辛いけれど、それが過ぎれば友達と過ごす楽しい日々が待っているから、寝るのが苦だとは思わない。病院のベッドで不安に包まれながら目を閉じるよりも、ずっとずっと幸せだった。

 それでも今日の夢はひどかった。どんな内容だったかは、ぼんやりと思い出せる。

 あの、恐ろしい目をした女の子。気になる所は沢山あったのに、身に着けていた指輪の宝石がひどく濁っていたのが嫌に記憶に残った。

 

「円環の理?」

 

 妙に耳に慣れた単語だった。だけれど、どこで聞いたのかは全く思い出せず、どんなに記憶をひっくり返してもそれらしい意味合いが現れない。

 漏れた欠伸を噛み殺し、眼鏡をかけて歯を磨き、朝の準備をしながらも夢の中で感じた恐怖は残り続けた。自分が自分である事を否定されるような、足下から自分が崩れてしまう怖気だった。何かを見せられた気がするのに、それは思い出せない。思い出さない方がいいんだろう。

 ふと、髪を編んでいる時に怖気が強くなり、誰かに見られているような気がした。夢の中で向けられた視線とよく似ていて、でも、この家には他に誰も住んでいない。

 心なし程度に急いで髪を整え、制服を着たら朝ご飯のパンがちょうど焼け、口にくわえたまま駆け足気味に誰も居ない家を出て通学路へと向かう。

 しばらく走ると、合流場所でまどかとさやかが待ってくれていた。

 前には志筑さんも居たけれど、彼女は恋人と一緒だから合流するのはもっと学校に近づいてからだ。私にもそんな相手が出来る日が来るんだろうか。思い描こうとしてみたけれど、どう頑張っても上手くいかなかった。

 

「ほむらー!」

「あ、ごめんなさいっ、遅くなっちゃって!」

 

 後ろから抱きつかれるのも最近は慣れてきて、さやかの声が少し上から聞こえるのが心地良かった。

 

「今日はまた疲れてるんじゃない?」

「えっと、疲れる夢を見たからからもしれない、かな」

「ん? どんな?」

「なんだか声をかけられて……なんだろう、よく分からない事を言われて、気づいたら起きてたの」

 

 昔ほどまどかに頼り切りじゃない。平気だよって笑いかける事だってできる。

 ただ、上手く笑えなかった。

 

「起きた後も視線を感じたっていうか、なんだろう……」

「ほむらちゃん、ひょっとしてその視線、よく感じるの?」

「う、うーん……そう、かも」

「ほむら、あんたまさか不審者に付きまとわれてるんじゃ」

「え、ええっ……? そんな、まさか」

「いやいや、油断しちゃダメだよ。ほむらってかわいいし、狙ってる奴が居ても不思議じゃないって」

 

 そんなわけない、と答えてはみたけれど、考えていく内にひょっとしたらそうなのかもしれないという恐怖感がこみ上げてきた。

 言われてみれば一人で居る時に視線を向けられている事が多い。家で髪を解いている間や、眼鏡を外した瞬間は特に誰かが見ている様な気がして、家に居ても心が休まらない時間が増えていた。

 まどかやさやかの心配が本当に当たっているなら、一体誰が私なんかを見ているのだろう。想像するだけでも怖くて、それが表情に出たのかさやかが私を横から抱きしめてくれた。

 

「ひとまず今は大丈夫、ここにはあたしも、まどかも居るからね。不審者だって狙ってこないよ。もし居たとしても、あたしが守ってあげるって。あたしは強いんだぞー?」

「ふぁっ……」

 

 ウインクを飛ばして密着し、守るように腕の中へ入れてくれる。人が傍に居てくれて、怖がっていた自分が薄れていく。

 ホッと息をつくと、脇腹をさやかの指先がなぞってきた。

 

「ふふ、あははっ、くすぐったい、もう、さやかっ」

「それにしても、ほむらはズルいくらい良い匂いだよねー」

「そんな、さやかの方が」

「いやいや、そこまで謙遜しなくても。毎日気合いを入れてお手入れするの大変でしょ? あたしはその辺りあんまりだしさ。この髪も、好きなんだよねー」

 

 頭を少し乱暴に撫でられた。私を安心させる為に、いつもより更に明るく楽しそうに振る舞ってくれている。

 さやかのそういう優しさに触れると好きにならずにはいられなかった。その指に何か指輪めいたものを着けている気がしたけれど、よく分からない。

 

「さやかちゃんは、頼りになるもんね」

 

 私達を横からニコニコ眺めていたまどかだけれど、声音には寂しさがこめられている。

 慌てて首を横に振った。

 

「そ、そうじゃないの。まどかが頼りないとかじゃなくて……でも、なんでだろう、まどかには、その、頼って貰える自分になりたいの!」

「……えへへ。なら、わたしも頑張らないと。ほむらちゃんに頼って貰わなきゃね」

 

 まどかは嬉しそうに手を握ってくれた。ごく当たり前に絡められる指先は絶妙に加減されていて、心地よさだけを与えてくれる。

 

「じゃあ、今日の放課後はほむらちゃんの家で本当に誰かが見てるのか確かめよっか」

「う、うん。でも、いいの? 怖くない?」

「平気っ。ほむらちゃんが怖い思いをする方がずっと嫌だもん」

「なら、あたしも一緒に行って良い? 三人居た方がいいかもしれないしね」

 

 まどかに抱きしめて貰ったり、手を握ったりして貰うのが好きだった。そこに彼女が居て、私に優しくしてくれるのが何より雄弁に伝わってくるからだ。指から伝わる思いやりがいつだって私を幸せにして、助けてくれた。

 

「心配要らないよー。あんた達はあたしが守ってあげるからっ」

「わうっ、さやかちゃんっ」

 

 さやかが後ろから私達の肩に手を回した。私達の真ん中で、大事な物を守るように抱き込んでくれて、そんな扱いに私とまどかは思わず目を見合わせた。

 そして、同じタイミングで私達は小さな声を上げて笑い、三人で一緒にいるという今を噛み締めるようにくっついた。

 

「ありがとう……」

 

 私は、すごく幸せものだった。壁なんてなくて、わたしを大切な友達として迎え入れてくれた。

 どこかで「私にそんな幸せが許されていい筈がない」「あの子の守った全てを否定するのか」「思い出して」と囁く声が聞こえるような気がする。

 まどかはわたしを受け入れてくれた。私の望みを叶えてくれた。そして一緒に学校へ行ける。それなのに。それなのに。どこかで声が聞こえるような、視線を覚えるような。

 でも、まどかの手がわたしの耳を塞いで、声は聞こえなくなった。

 

「ま、まどかっ?」

「ふふ、ほむらちゃん。大丈夫?」

「う、うん。大丈夫……」

「そっか。良かったぁ……」

 

 まどかは小さくつぶやいた。

 

「ほむらちゃんを怖がらせちゃダメだよ」

 

 遠くて近いどこかに向かって話しかけているような、ここではないどこかを見ているような顔だった。

 まどかが見せる顔としてはあまりにも寂しくて、思わず声をかけた。そうしなければ、まどかがどこかへ遠くへ行ってしまいそうだった。

 

「まどか?」

「なんでもないよ。ほら、学校へ行かなきゃ」

「ん、そうだねー」

 

 こちらを向いたまどかの顔はいつになく大人びた精悍さすら漂わせていた。その口から出る言葉も優しさも何も変わらないのに、見惚れるくらいに力強くて。

 私もこんな風になれたらいいなって、そう思ってしまった。

 やっぱり私は、二人に比べてずっと見劣りする。二人と並んで励まされて手を引かれるように学校へ向かっていると、余計に自分がダメな子なんだと実感してしまう。

 それでも、まどかは、さやかは私を大事な友達だと言ってくれた。

 だからこそ、いつかは、と思う。いつかは私が、まどかを助けられるような強い子になりたいんだ。

 その為にも、視線を感じるくらいで湧き上がる恐怖に屈するのはやめる。

 夢の中で見た光景はほとんど覚えていないけど、切れ端くらいは残っていた。私と同じ姿をした人が、周りの人に全く物怖じせず、冷静な立ち振る舞いで堂々と髪をかき上げている様。

 ああいう風に強くなるのが、今の私の目標なんだ。

 

「まどか、さやか」

「うん」

「何?」

「……二人とも、大好き」

 

 今は頼ってばかりのダメな私でも、頑張って強くなって、まどかにカッコいいって言って貰える、名前負けしない燃え上がるような自分になるんだ。

 まだ一人じゃ無理だけど、まどかとさやかが一緒なら勇気を持っていられる筈だから。




死ぬまで誇りにしたいから


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