異世界から帰ってきたら、窓から入ってきた魔女と青春ラブコメが始まった。 (さちはら一紗)
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第一章 アイツは窓からやってくる。
第一話 午前三時、魔女は窓からやってくる。


 

 

 窓が好きだ。

 吹き抜ける涼風や、部屋に差し込む日差しの心地良さは言わずもがな。住処においてもっとも大事なのは、大きな窓があるか否かだ。

 そんな基準で選んだ築ウン十年の、住人もろくにいないボロアパートが俺の城であり、静かな夜中に窓辺で勉強をする時間は悪くないものだ。

 たとえ二年遅れ(・・・・)で進級した高校二年の五月。早々に追試を食らい、これっぽっちもわからない問題の数々に頭を抱えていたとしても。

 けっして、悪くない時間だったのだ。

 ──ベランダに彼女の気配がするまでは。

 

 風がぶわりと薄いカーテンを膨らませる。開け放った窓から風と共に入り込んだ赤い光の粒子が、弾けて消えた。

 俺は窓の向こうに目をやる。カーテンは強風で開ききっていた。

 トンと踵を鳴らす、着地音。

 今にも崩れそうな錆びたベランダに、軽やかに降り立つ一人の少女。

 纏うのは真っ黒なワンピース。深いスリットから、すらりと長い脚が伸びている。華奢な肩に似つかわしくない胸元が、着地の衝撃に上下に揺れて存在を主張する。たなびく長い亜麻色の髪の隙間から覗くのは十代の幼顔だ。

 女と少女の両方の魅力を奇跡的なバランスで兼ね備えた、よくできたマネキンのようないっそ作り物めいた美少女が、窓の向こうにいた。

 

 ただでさえ現実感がない容姿のその少女には、ひとつだけ決定的な違和感がある。

 こちらを真っ直ぐに見つめる──片方だけが真紅の、虹彩異色(オッドアイ)

 ほのかに色づいた唇を吊り上げて、彼女は会釈のように小首を傾げる。

 

「ご機嫌よう、飛鳥(あすか)。いい夜ね」 

 綻んだ花も顔を背けるような完璧な笑顔で。透明な鐘のようなしっとりと響く声で。

 

「いい夜だから、あなたの顔を見たくなって。……会いに来ちゃった」

 

 甘く囁くその言葉を聞いて。途端。

 卓袱台の上のノートに突き立てていた俺の鉛筆の芯が、バキリと折れた。

 

 

 

 俺こと、陽南(ひなみ)飛鳥は清く正しいごく普通の貧乏学生だ。少なくとも今はそれを自負しそうあらんと努めている。

 そしてこの、浮世離れした女の名は文月咲耶(ふみづきさくや)。同級生であり、しかし〝ただの〟というには少々複雑な因縁のある相手だった。

 

 折れた、というか力一杯折ってしまった鉛筆の芯をゴミ箱に投げ捨て、俺は彼女に聞く。

 

「なぁ咲耶。今、何時か知ってるか?」

「午前三時」

 

 時刻は夜更けを通り越した夜明け前だった。俺は眉間を押さえる。

 窓は好きだ。大きな窓がある部屋ならばどんなところだって都だと思う。ボロでも冷房がなくても構わない。

 だが窓から入ってくる人間がいるなら話は別だ。そういう場合、物件価値というのは著しく下がると俺は思うわけだ。

 なぜなら窓から入ってくる人間を俺は二種類しか知らない。それは泥棒か──或いは「魔女」かの二択。

 要するに、深夜に窓から入ってくるやつは最悪だということだ。

 

 俺はベランダに近付く。そして笑顔で佇む彼女に、きっちりと笑い返して言う。

 

「帰れ」

 

 ピシャリと窓を閉めた。

 そのまま鍵をかけてカーテンを閉める。なんだか慌てたような女の子が窓を叩くのは無視した。

 今夜はもう駄目だ。朝まで勉強する気だったが、今ので完全にやる気をなくした。

 寝よう。深夜にやることなんて勉強か寝るかの二択だ。学業に励む以上に大事なことなど学生にはないし「窓の外になんか変なのがいたな」なんてことは寝たら忘れられる些事だ。

 俺は窓に背を向け、布団を敷くために卓袱台をガタガタと動かす。

 

「待って待って……待っててば!」

 

 きっちり鍵をかけたはずの窓がガラリと開いた。ご丁寧に靴を脱いで、畳の上へ侵入する文月咲耶。育ちの良さと行儀の悪さが奇跡的に両立していた。

 

「いきなり締め出さなくてもいいじゃない! 仮にもお隣さんなのに!」

 

  形のいい眉を釣り上げて、理不尽に俺を非難する。

「それは窓から侵入していい理由にはならないし、俺は夜更けに窓から入ってくる不審者をお隣さんには持ちたくなかった」

 

 建物としては隣、部屋としては向かい。彼女は、俺の部屋の正面にあるマンションの三階の住人だった。アパートとマンションにはそれなりに距離があり、しかも俺の部屋は二階で、彼女の階とは一階分の高低差がある。推定間隔、約七歩。この二つの部屋をベランダ越しに渡ることは普通のヤツにはできない。──つまり、この女は普通ではない。

 彼女は腕を組んで、つんと澄ました顔で言う。

 

「しょうがないでしょ! だって、魔女は(・・・)窓から(・・・)入ってくる(・・・・・)もの(・・)なんだから」

 

 窓の鍵を見る。こじ開けられた鍵に付着したキラキラと光る赤い粒子。

 それは〝魔法〟の残り香だった。

 

「……だからイヤなんだよ」

 

 そう、傍迷惑な隣人である彼女は──あろうことか、本物の〝魔女〟だった。

 

 

 

 

 こうなるまでの経緯を簡単に、初めから説明しよう。

「異世界召喚」という概念(モノ)がある。ある日突然こことは異なる世界に喚び出されるというファンタジー小説ではよくある話だ。

 そしてそういった場合の異世界というのは、世界の滅亡を企む悪の魔王に脅かされ人類が生存を懸けて戦っている、というのがお約束(セオリー)らしい。

 二年前、俺と彼女はその「異世界召喚」に巻き込まれた、いわば同期だった。

 ただし召喚された陣営は逆だ。

 思い出すのもなんとなく恥ずかしい話だが。

 ──俺、陽南飛鳥は人類側に「勇者」として。

 ──彼女、文月咲耶は魔王側に「魔女」として。

 それぞれ召喚され、そしてお互い正義や悪のために勤しんでいたわけだ。

 

 お互いの正体に気付いた時は酷かった。

 『こんなところで何やってんだよ‼︎』

 『それはこっちの台詞なんだけど⁉︎』

 みたいな、ものすごく気まずいやりとりがあったりなかったりした。

 

 で、なんやかんやとあった末、無事にこうして現代に帰ってきたというのが、ここまでの話だ。

 その辺りの詳しい話は、今はいいとして。

 問題は、目の前のコレだ。未だに厚顔に「魔女」を自称するこの女だ。

 折角念願叶って現世に帰ってきたと言うのに、コイツは常識とか倫理とかを異世界(むこう)に置いてきてしまったらしい。

 「魔女」としての振る舞い以外をきれいさっぱり忘れてしまったらしく、こうして夜な夜な俺に喧嘩を売りに来るのだ。

 

 ──ひらたく言うと、異世界ボケである。

 

 

 

 

 

 俺は午前三時の侵入者に告げる。

 

「いいか、何度でも言うぞ。窓から入ってくるな、窓から」

「じゃあどうすればいいのよ」

「普通に正面の扉から、常識的な時間に尋ねてこいよ」

「なんで、わたしがあなたの家を訪ねないといけないの?」

 

 何故か、話が、通じない。

 

「は? じゃあなんで来てんだよ。来んなよなんだおまえ。なんで舌の根乾かないうちに矛盾したこと言えんだよ」

「矛盾してないわよ。考えたらわかるでしょ。ていうか日常会話で『舌の根』とか使う人に常識語られたくないのだわ」

「翻訳文学の女みたいな喋り方するやつに言われたくねえわ」

 

 だがそこまで言うなら、と彼女の言っていることの意味を考える。この側迷惑な隣人はことあるごとに自分が「魔女」であることを誇示しようとする癖がある。そこから答えを推測しようとするが……。

 

「わからん。はよ吐け」

 

『これだから剣しか知らないやつは……』みたいな顔で大袈裟に肩を竦める文月咲耶。口調は翻訳文学、仕草は洋画、中身は電波、哀れな生き物。

 魔女は哀れまれているとも知らず、得意げに指を立てる。

 

「いい? 窓から入ってくるのは〝侵入〟だからいいのよ。なぜなら『魔女とは侵入するもの』だから」

 

 俺は曖昧に頷く。魔女は泥棒と同じ系統の悪人だ。窓から侵入するというロジックはギリギリ理解できる。

 

「でもドアから入るのは〝訪問〟だから駄目なの。『魔女(わたし)勇者(あなた)と馴れ合う関係じゃない』から」

 

 俺は、もう一度頷こうとして。

 

「……は? なんだその謎理論は。全然わからん」

「これだから鉄の塊振るしか能のない奴は……」

「そうだな。聞いた俺が悪かった」

 

 これ以上付き合ってると頭が痛くなる。やはり追い返すか。

 ハエ叩きどこにしまったっけな、と背を向ける。

 と、咲耶は突然神妙な声で言い出した。

 

「ねえ……あんた。全然関係ない話するけどさ。部屋着ダサくない? そのTシャツ、死ぬほどダサくない?」

「今度は真っ向から失礼だなおまえ」

「いや真面目に。鏡見てきなさいよ、ヤバイって。右腕にぐるぐる巻きの包帯と相まってなんかもう最悪って感じだから」

 

 片目だけが赤いヤツに外見がどうこうと言われたくない。絶対に。

 

「そっちこそ。夜中に洒落込んで何するつもりだったんだ?」

 

 咲耶の着ている黒いワンピースは上等で、とても部屋着などと呼べる代物ではない。そういや咲耶は良家のお嬢様だったか、と彼女の服をまじまじと見る。咲耶は何故か視線を彷徨わせた。

 

「えっ。べ、別に、わたしが何を着ていたってどうだっていいでしょ」

「そうだね。マジでどうでもいいね。自分で聞いといて全然興味なかったわ」

「……それはそれでムカつく」

 

 別にただ……めちゃくちゃ似合っているなと見てしまっただけだ。ざっくりと胸元が開いた大胆なデザインなのに、何故か上品でいやらしさがない。……少し、目のやり場には困るが。こいつの見てくれだけはいいことを思い知らされて、ちょっと腹が立つ。

 

「で、結局。何しにきたんだよ」

 

 まあ、心当たりなんてひとつしかないのだが。

 

 

 

 ──さて、俺と彼女の関係の、前提の話の続きをしよう。

「異世界召喚」なんて言葉こそファンタジーな響きだが、それを正しい日本語に訳すると拉致である。

『異世界召喚=拉致』

『世界をお救い下さい勇者様=強制労働年中無休二十四時』

 これが当事者からすると正しい認識だ。つまり、割とイヤイヤやっていた。

 

 現世(こっち)に帰ってきてからいくつか参考文献(ライトノベル)を読んでわかったのは、どうやら俺たちの異世界は福利厚生が最悪だったらしい、ということだ。

 休みも給料も何もない。なんか、楽しいこと、何もなかった。クソブラック異世界め。俺も辺境でスローライフとかしたかった。現世に帰ったら家が更地になってたからボロアパートでバイト生活(ハードライフ)なんだが。意味がわからない。現世もカス。

 ……話が脱線した。

 

 そんなわけだから、俺たちが現世に帰りたいと思うのは自然なことだった。俺たちはたまたま敵陣営にいただけで、意思は概ね一致していた。

 知らない世界で強制労働をさせられ続けるのはごめんだ。勇者(オレ)はとっとと異世界を救いたかったし、魔女(アイツ)はとっとと世界を滅ぼしたかった。さっさとこんな仕事から解放されるために。

 だから、根本的に同じ境遇にも関わらず。お互いの正体を知らないまま、全力で敵対してしまったのだ。

 

 結果。俺は一度、全力で魔女(アイツ)をボコボコに負かした、というわけである。代理戦争の勝ち負けなんてどうだっていい話だと、俺は思うのだが。彼女は勇者(オレ)に惨敗したことが、それはもう気に食わなかったらしく、このラスボス後遺症に侵された高飛車中二病お嬢様は負け戦の私怨を持ち越して、未だに「喧嘩を売ってくる(つっかかってくる)」のだ。おかげでかつてのいざこざが終わり、現世に帰ってきた今でさえ。俺たちは未だに、犬猿の仲だった。

 

 まったく往生際の悪い。因縁だの禍根だの、犬にでも猿にでもキジにでも食わせておけ。敗者は敗者らしく大人しくしてろよ。俺は負けたら潔ぎよく腹を切ろう。これだから魔女は駄目。

 ──そんなわけだから、文月咲耶がわざわざ俺のところにやってくる理由なんてひとつしかないのだ。

 

「目的? ええ、それはもちろん! こんな時間まで起きて勉学に勤しんでいる、可哀想な誰かさんを笑いに来たのよ!」

 

 ほらな。

 とてもいい笑顔だった。ああ本当に、顔だけは綺麗だ。もう黙っててくれないかな。

 そうか、と俺は作り笑いを浮かべて頷く。

 

「よかったな隣に住人いなくて。得意の高笑いし放題だぞ。おまえの肺活量と腹筋に敬意を払うよ。ほら笑えよ。点数つけてやる」

「喧嘩売ってんの?」

「買ったんだが?」

 

 ふふふ。ははは。

 

「死ねバカ」

「うるせえナスビ。はよ本題入れ」

 

 咲耶はむすとしたが、このまま口論し続けるのも不毛だと理解したのだろう。大人しく膝を畳んで卓袱台の前に座り込み、そのまま無断で閉じておいた俺のノートを覗き見する。

 

「ねえ。この前の試験ではわたしが圧勝したでしょ」

 

 喧嘩を売ってくるとは言っても現代でできる争いは限られている。気も話も合わないが「暴力沙汰は避ける」という一点はお互いに守っていた。だから俺たちにできる勝負は限られており、成績という実に高校生らしい項目もその対象だった。

 

「わたしはぎりぎり上位者一覧に滑り込んで、あなたは理数系赤点で惨敗の追試。どう見てもわたしの勝ちよね?」

「そうだね。俺はそんな程度の低い争い、醜いと思うけどね」

「めちゃくちゃ低い声で『覚えてろよ……』って言ってた癖に」

「俺は覚えてないから言ってないが」

「は? 舌引っこ抜くわよ」

 

 売られた喧嘩、全部買う。往生際とか知らん。最後に勝ったやつが勝ちだ。

 咲耶はさらりとした髪を弄びながら、俺のノートをめくり続ける。

 

「ふぅん。どうやら追試の勉強もてんでダメみたいじゃないの」

 

 とても嬉しそうに言いやがる。

 

「異世界の勇者サマも高校数学の前にはカタナシなんてざまあないわ!」

 

 俺はもう一度ハエ叩きを探しに行く。

 

「ええ。そんなことだろうと思った。だろうと思ったのよ。ふふっ」

 

 見つからない。殺虫剤じゃ駄目だろうか。

 

 

「──ねえ、いいものを上げましょうか」

 

 

 彼女の囁き声に、振り向く。

 肘をついて甘やかに笑みを浮かべる彼女の、細めた真紅の左目が、長い前髪の隙間で妖しく輝いていた。

 

 その笑い方を、知っている。

 ──それは〝魔女〟としての笑い方だ。

 

「……おまえ、何するつもりだ?」

 

 異世界(あちら)で持っていた力には及ばないとは言え、彼女は今でも魔法が使える。例えば鍵を開けるとか、人の記憶を操作するとか、そういう物騒なものだ。

 魔女なんてだいたい泥棒と近似である。彼女に残されたのは所謂、悪人の才能だ。こいつなら、たとえば追試の試験を盗み出して対価を要求するとかやりかねない、と身構える。

 ……もしそういうことを考えているならば。異世界同期のよしみとして、俺が引導を渡してやらなければと思う。

 と、後ろ手に隠したハエ叩き(やっと見つけた)を握りしめる。

 

 俺の問いかけを了承と受け取ったらしい咲耶は、にこりと微笑んで何かを手渡してくる。

 

「はい」

 

 どこからか魔法で取り出したのだろうそれは、見覚えのないノートだった。

 ……は?

 

「わたしのノート。貸したげる」

「なんで?」

「勝負する敵の歯応えがなさすぎるんじゃつまらないもの。ええ、敵に塩を送るのも魔女の嗜みです!」

「それは義の逸話だからおまえとは一番遠い。おまえは嬉々として傷口に塩を擦り込む方」

「……お望みならば今度やってあげるわよ」

 

 受け取ったノートをめくる。それはわかりやすくて綺麗な、いわば手書きの参考書とでも言うべき代物だった。

 

「手取り足取り教えてあげる、なんて義理はないけど。あんたならそれで十分でしょ。あと一応、他の科目のやつも色々持ってきたから」

 

 追加でどさどさと卓袱台に乗るノートや使い古しの参考書など。

 

「勘違いしないで欲しいのだけど、これはただの気まぐれだから。あんたが……あまりに見てられないんだもの。ふふん、せいぜいわたしに、感謝することね?」

 

 俺は黙って目の前の光景を眺め、ようやく理解した。

 ……なるほどな。つまり、用件というのはこれだったらしい。

 

『目的? こんな時間まで起きて勉学に勤しんでいる可哀想な誰かさんを笑いに来たのよ』 

 という文月咲耶語を正しく人語に翻訳すると、以下。

『困っているようなのでささやかながら力を貸しましょう』

『あんまり遅くまで起きていると心配です』

 

 わかるかんなもん。はよ言え。

 はぁ、と溜息を吐く。

 

「おまえさぁ」

「なによ」

 

 

「実は俺のこと、結構好きだろ」

 

 

「……ハァ?」

 

 

 顔を、おそらく怒りで紅潮させた咲耶はノート一冊取って俺に投げつける。

 ベシャ、と顔面に直撃したが甘んじて受けた。

 

「何言ってんの? バカじゃないの? アホ! 自意識過剰! Tシャツにわかめって書いてるくせに! 死ね!」

「いやTシャツがわかめは関係ないだろ。わかめに謝れよ。あいつらすごいぞ。増える」

「わかめ喉に詰まらせて死ね!」

「お、今の呪詛はよかった。七十点くらいある」

「殺す。いつか殺す」

 

 言いながら、咲耶は窓を開け放つ。

 

「帰る!」

 

 その前に。「咲耶」と、軋む欄干をよじ登って帰ろうとする彼女の後ろ姿を呼び止める。

 

「何よ」

 

 

「ありがとな」

 

 

 振り返った彼女は、毛を逆立てた猫のような顔をして。

 

 

「別に、あんたのためじゃ、ないんだから‼︎」

 

 

 捨て台詞を残し、七歩分の距離をひとっ飛びに部屋へと帰っていった。

 

 いや俺のためじゃなかったら誰のためだ。流石にわかるわ。やっぱアイツ、バカだな。

 

 

 

 

 

 

 ──二年前。つまり、俺たちが異世界なんかに飛ばされる前の話だ。

 文月咲耶という少女は、正真正銘の高嶺の花だった。容姿端麗、品行方正で、成績もそれなりに良く、人に優しく親切で……本当に、お淑やかでいい子だったのだ。それが、異世界で再会したらあのざまである。

 ──だがあの文月咲耶も確かに同一人物なのだ。どんなに中二病を拗らせても悪ぶっても、根が世話焼きで真面目で良いやつには変わりない。ちょっと異世界ボケしてるだけで。

 それをわかってるのは俺だけだ。だから、俺は彼女と縁を切れない。

 

 やるべきことはひとつ。同じ異世界転移経験者のよしみというやつだ。

 あいつがちゃんと異世界ボケを直して、普通に真っ当に、元の彼女に戻れる日が来るまで、温かく見守ってやろうと思う。それが俺の、現世での当面の目標というやつだった。

 それはそうと売られた喧嘩は全部買って俺が勝つ。腹立つから。

 

 

 俺と彼女の関係というのは、それだけ。それだけだ。

 ──だから。二年前、あいつが俺のことを「好きだった」らしい、なんて過去は。

 今はまだ、あまり関係のない話だった。

 

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 

 ──思えばわたしたちの確執の始まりは、あの台詞だった。 

 

『おまえ……本気で「世界を滅ぼそう」なんて、頭沸いてんのか‼︎』

『そっちこそ、本気で「世界を救おう」なんて、脳味噌おかしいんじゃないの⁉︎』

 

 敵対していた相手が召喚されただけの、同じ境遇の、しかも同級生だったと気付いたら、普通は和解できそうなものだろう。けれどわたしたちはそれができなかったのだ。それは何故か。思うにきっと、わたしたちはお互いに真面目すぎたのだ。

 異世界での二年は長かった。だからわたしたちは二人とも、嫌々と異世界の事情に付き合わされていたくせして「勇者」と「魔女」の役割を全うすることに、本気になってしまっていたのだ。

 同じ境遇で真反対の立場と、真反対の主義主張。似ているからこそ、断絶は決定的。

 わたしたちは同時に、悟った。

 

 ──ああ。こいつとは、絶対に分かり合えない。と。

 

 

 

 

 現世(こちら)に帰ってきて、わたしは実家を出ることにした。いくつかあった候補地のひとつが、今住んでいるこのマンションの一室だ。周りには街灯が少なく、わざわざそこに住む理由はなかった。そのマンションが丁度、飛鳥の住むボロアパートの隣だと知るまでは。

 選択に躊躇はなかった。わたしは迷いなく飛鳥の部屋の対面を選び、そこに引っ越した。同じ二階ではなく三階にしたのは、完全に悪あがきの誤魔化しだと自覚している。

 ……それにしても。初めて入った日、飛鳥が「俺の窓がぁぁ!」とか喚いてたけどあれはなんだったのだろう? 

 ええと、ともかく。そういった経緯で、わたしはあいつのお隣さんになったのだった。 

 ──すべては陽南飛鳥に、会いに行くために。

 

 

 

 そして今日。時は、飛鳥の部屋に侵入するより少し遡る。

 五月も半ばの涼しい夜半、時刻はもうすぐ午前三時になろうとしていた。

 現世(こちら)に帰ってきてからわたしがやることと言えば、もっぱら二年の間に出ていた本を消化することだった。その夜読んでいたのは、好きだったファンタジーの続きの巻。けれどわたしはそれを、うまく楽しめずにいた。

 原因はわかっている。自分が異世界(ファンタジー)を経験してしまったせいだ。

 

「……さいあく」

 

 ふてくされて寝てしまおうかと思ったけど、眠気すらまったくなかった。わたしは分厚いカーテンをめくり、窓の外をぼんやりと眺める。向かいの二階だ。

 

「電気、まだついてるし」

 

 カーテンが薄いせいで、卓袱台に向かうシルエットまで筒抜けだ。

 

「……あいつ、追試食らってたな」

 

 わたしはしばらく考え込んで、立ち上がる。わざわざ服を着替え、ノート類を急いで取りまとめる。仕上げに、鏡を覗き込む──毒々しい赤色をした瞳が映り込んで、辟易した。

 節操なしに読書を嗜むわたしが、いわゆる〝中二病〟なんて概念を知らないわけがない。オッドアイなんて最悪に痛いと思う。それに、深夜三時に窓から入ることが不躾だってことも当たり前にわかっている。

 わたしは、完璧に、わかって(・・・・)いて(・・)やっている(・・・・・)

 

 すぅ、と静かに息を吐いて。わたしはさっきまで無表情だった顔に、笑みを実装した。計算された完璧な、異世界(むこう)用の「魔女」の顔を。

 

「完璧」

 

 そうして深夜。わたしは、意気揚々とアイツのベランダへと乗り込んだのだった。

 

 

 ──そう。その夜もわたしは〝完璧〟なはずだった。

 着地のタイミングも、挨拶の声色も、作った笑顔も、仕草さえ!

 なのに。

 結局いつも通りあいつのペースにぐだぐだにされて、用意していた台詞も全部すっぽ抜けて、表情筋なんてもうめちゃくちゃになって、挙句の果てにどうだっていいような口論で負けて、これ以上は分が悪すぎると逃げ帰る羽目になったわけだ。

 本当に、いつも通り!

 

「ああもう、最悪‼︎」

 

 帰ってきた自分の部屋の窓の前で膝をつく。

 あいつ、あの目! 絶対にバカにしてた! 絶対わたしのことを「バカだな」って思って見てた! ちがうのに、ちゃんと考えてやってるのに! 考えて、ちゃんと用意して、そのすべてを……しくじっているだけで……。

 

「いえ、それは、それはむしろ何も考えてないよりひどいわ。ひどい無様だわ」

 

 ぐるぐるとさっきのやりとりが頭の中を回る。ノートを差し入れる言い訳ももっとちゃんと綺麗に、隙がないものを用意していたはずなのに。……最初、窓から締め出されるまではいい感じじゃなかった? いい感じにミステリアスな魔女を演出できていた気がするのだけど。……逆に言うとそこだけじゃなかった? わたし、今日、いいところ、あった?

 口走った台詞を思い返してひとつひとつ吟味して、ついでに飛鳥の反応・返答・表情と照らし合わせる。あれはあれで常に「はぁ?」って顔をしてるからよくわからないのだけど、あいつの「はぁ?」にも実は結構種類があるのだ。わたしは詳しい。

 

 ──評定結果、魔女として五十点。人間として三十点。極めて低い。わたし、今日、いいところ、ない。

 

「なんでよぉ……」

 

 カーテンにくるまりながら呻く。

 ……いや。本当は。わたしがこうなってしまう原因を、ちゃんとわかってる。全部、昔のわたしが残した厄介な病のせいだ。

 

 ──二年前、こうなる前のわたしは陽南飛鳥のことを好きだった。恋という一過性の病の、好きな人を相手にしてうまく喋れなくなってしまうという症状。これはその、名残だ。

 あくまで名残で、初恋は過去形でしかない。わたしは今のあいつを、これっぽっちも好きじゃない。だからこんな症状には、爪の先ほども意味はないのだ。ないのに。

 

「うぅ……条件反射で喧嘩を売るのはできるくせに……」

 

 因縁というものが明白にあるおかげでわたしの無意識が、ふさわしい言葉を弾き出して自動的に喧嘩を売ってくれる。別にそれはいいのだ。十全に理性が機能していたとしてもわたしは飛鳥に喧嘩を売る。それは決定事項だ。それは、わたしの目的に即している。

 わたしの目的は、なんなのか。確執を由来とするそれは、あいつが何ひとつとして問題にしておらず、わたしひとりだけが未だに拘っていることだ。

 かつて異世界で。勇者(あいつ)魔女(わたし)をこっぴどく打ち負かした。

『本気で「世界を滅ぼそう」なんて、頭沸いてんのか?』

 そう言って、わたしの異世界での二年を〝全否定〟して。

 

 

「なによ。わたしが──どうして、世界を滅ぼしたかったかも、知らないくせに」

 

 

 わたしの目的は、あいつに「同じ気持ちを味わせてやること」だ。『いつまで魔女やってんの? 普通に生きろよ』とか小馬鹿にして言うのは、自分は勝ち逃げしておいて、とてもとても性格が悪いと思う。

 ……というかあいつ、自分が普通なつもりなの? どのへんが? 一体どのへんを普通だと思ってるの? 絶対鏡見た方がいいと思う。わかめがよ。

 

 だから。わたしはことあるごとに、あいつに喧嘩を売りに行く。

 ただそれだけの関係で。わたしがあいつの隣にいるのは、ただそれだけの理由だ。

 

『実は俺のこと、結構好きだろ』

 

 あいつのまるで棒読みの台詞を思い出す。棒読みだ。そういうところが、最低だと思う。

 

「別に……そんなのじゃ、ないんだから」

 

 呟く唇が熱いのは、気のせいだ。

 

 

 絶対に。

 



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第二話 一緒に通学してもまだ友達じゃない。

 翌朝アパートを出ると、丁度隣のマンションから咲耶が出てきたところだった。

 

「あら。おはよう」

「おはようっていうか、さっきぶりだけどな」

 

 つんと澄まして、ここで会ったのはさも偶然です、みたいな顔をしているが。鉢合わせるのはよくあることだ。多分わざとだろう。

 制服姿の咲耶は、夜とは真逆の雰囲気だった。上品ながらもどこか刺々しさのある、黒のワンピースから一転。白い糊のきいたブラウスに、左右対称に結ばれた赤いリボン。そしてふわりと広がる紺のスカートは膝丈の清楚な長さだ。几帳面に制服を着こなした姿はお嬢様然としている。ただし、左眼を隠す眼帯だけは浮いていたが。

 

「そういやおまえ、夜あの後、カーテンにぐるぐる巻きになってなかった? 窓から見えてたんだけど」

「…………そんなことしてない」

 

 バレバレの嘘だが追求する気はなかった。朝から喧嘩腰になれるほど若くはない。

 

 駐輪場へ自転車を出しに行くと、当たり前のように咲耶が付いてくる。ついでに無言で、まじまじと俺を見ていた。

 

「なんか変なモノでもついてるか?」

 

 制服はいつも通りネクタイがないだけで、顔もちゃんと洗ったし、髪も一応整えてはある。前髪が少々長いのはお互いに同じだ。俺も異世界(むこう)の名残で両目が青い。隠すほどではないがあまり短くすると目立つ。あとは変、といえば。右手の包帯ぐらいだが、眼帯女にそれを言われる筋合いはない。

 

「いえ。ただ……」

 

 咲耶は真顔で、ぽつりと。

 

「一生制服着てればいいのに」

「一生留年しろって意味かよ」

 

 朝から喧嘩売りやがって。これだから最近の若者は。

 

 

 

 朝の咲耶は静かでテンションがとにかく低い。笑顔もなければ挨拶だってまともにしてくる。曰く『朝は魔女の時間じゃないから』とかなんとか。絶対朝に弱いだけだと思う。

 俺は自転車を引いて歩く。俺たちの住む町は山際で、坂や階段が多い。学校は急勾配の上に建っているため通学に自転車はほとんど使い物にならない。わざわざ持って行くのは、放課後にバイトを梯子するためだ。つまり実質の徒歩通学。朝にこうして会った以上、咲耶と並んで歩いて学校に行くことになるのは必然の展開だった。

 

 互いの間隔は触れそうなほどに狭かった。俺が自転車を引いているせいだ。あまり距離を開けると道が塞がる。だからこれは意味のない近さだとわかっているのだが……気にしてしまうのは性(さが)というものだ。いかに態度の悪い文月咲耶とはいえ、女子には変わりない。それもとびきりにスタイルのいい美人だ。

 ちらりと横を見る。ぴんと伸びた背筋と細い腰を締め付けるスカートが、張りのある胸を強調している。咲耶は女子にしては少し高めの身長だから、目に毒な大きさが……近い。

 人の身体的特徴を凝視するのは礼儀に反しているなと、と思い直し、微妙に視線を上へ逸らす。俺の左側を歩く彼女の、眼帯に覆われていない方の瞳は憂鬱そうで、唇はきゅっと引き結ばれている。

 ──咲耶は絶対に俺の右側を歩かない。

 

「おまえさ、学校行く時いつも不機嫌だよな」

 

 こちらを振り向いた咲耶は、眼帯をぐいと引っ張る。

 

「こ、れ」

 

 隙間から鮮やかすぎる赤色の目がこちらを睨む。確かカラーコンタクトでもごまかせなかったと言っていた。中二病のくせに眼帯は嫌いとは、どういう了見なのか。

 

「って、おい。そんなに引っ張ったら、」

 

 忠告も虚しく咲耶は手を離す。眼帯が、バチンッといい音を立て戻った。

 

「痛っった!」

「嘘だろ……」

 

 苦痛に歪む形相で、片手で顔を覆う。

 

「こ、こんなもののせいでっ……美少女が台無しよっ」

 

「今の自滅がなにより一番台無しだよ」

 

 わなわなと震えて目を押さえるその様子は、いかにも闇に呑まれてそうなのだが、経緯が経緯なのでただ哀れ。

 

「つか流石に、美少女を自称するのは……きつくないか?」

 

 両方早生まれだからかろうじて十八だが、本来ならば大学生か社会人かという年齢だ。

 

「わ、わたしの外見は十六の頃から変わっていないし」

「そうだけど。おまえは可愛いっていうか綺麗寄りだし、美人って言うならまだしも……」

「うぁ、」

 

 咲耶は髪をくるくると指で弄び、視線を彷徨わせる。

 

「あ、あなたに褒められても! ……いえ、わるい気はしないわ。その……ありが、」

「いや褒めてない。おまえが綺麗なのも美人なのもただの事実だ。事実を並べた以上の意味はない。そこに石ころがあるな〜、くらい」

「死ぬほどむかついた」

 

 

 

 

 寝ぼけた頭で不毛なやりとりをしているうちに、別れ道が見えてくる。片方は近道の階段でもう片方は回り道の坂道だ。その岐路で咲耶は立ち止まり、つられて俺も足を止める。

 

「ねえ、飛鳥。覚えているかしら。四月からずっと続けている勝負のこと」

「うげ……あれまだ有効だったのか」

 

 その勝負とは何か。それについてはまず「俺たちが現世に帰ってきたこと」が周りにどう扱われたか、という話をしなければならない。

 戻ってきたら「召喚された二年前のあの瞬間に戻る」などという都合のいいことは起こらず、約二年しっかりと時が進んでいた。浦島太郎にならなかっただけマシだろう。

 そのため現世では、俺たちは行方不明者として扱われていた。それが、突然帰ってきたのだから騒ぎにもなる。魔女が魔法で誤魔化したおかげで、そこまで大ごとにはならなかったが。一回、事情を聞かれた俺がうっかり「異世界」などと口走ったら、病院にぶち込まれそうになったりした。危なかった。

 そんなこんなの一悶着をなんとか片付け、学校に戻ったわけだが……俺たちの高校は、立地が悪いため地元の生徒が多く──その頃には、失踪事件の噂は見事に広まっていた。

 要は、新学期早々好き勝手に言われていたのだ。神隠しにあったとかどうとか。駆け落ちに失敗したとかどうとか。ヤクザに誘拐されたとかどうとか。異世界に転移していたとかどうとか。いや、誰だよ正解引いてるヤツ。

 まあ面白おかしいのは半分くらいで、残りは「なんだか厄いから関わらない方がいい」という悪評だ。噂に辟易した咲耶が「全員洗脳しとく?」などと、瞳孔かっ開いた目で言っていたのを覚えている。全力で止めた。倫理観の異世界ボケは洒落にならない。

 

 つまるところ、だ。俺たちは学校で浮いた。それはもう見事に。

 そんなこんなで人間関係に苦戦していた四月、どちらともなく言い出したのだ。

『いっそどっちが友達を先に作れるか、勝負しない?』『乗った』

 さてそれが現世(こちら)で一番初めにふっかけられた勝負であり──それは五月の半ばになっても、決着がついていなかった。

 

「それで、調子はどう? ……なーんて。あんたが相変わらず孤立してるのは同じクラスだから知ってるけど」

 

 ぐ、と声を詰まらせる。

 

「おかしい……こんなはずじゃなかったのに……。何故だ!」

「それ本気で言ってる?」

「いやだって、たかが友達くらいなんか普通にやってたら、できるはずだろうが……」

「……ほんとにわかってない?」

「これっぽっちも」

 

 咲耶はわざとらしく溜息を吐いた。

 

「じゃあ教えてあげるわ。こういうのはね、第一印象で決まるのよ。新学期初日の自己紹介、あんた何言ったか覚えてる?」

「普通にやった」

「鮮明に思い出して」

「ええ? 確か、名乗った後に『何も言うことがないな』と思ったから。そのまま『よろしく』って言った、気がする」

「さては自己紹介の前に何も用意しないタイプ?」

「そういうもんだろ、自己紹介なんて」

 

 いやぁ、紹介できる自己がなかったことに気付かなかったのは不覚だった。

 はぁーーあ、と咲耶は大きな溜息を吐く。

 

「なるほどね。つまりあなたは前評判と外見でデバフ……じゃなかった、失点を背負ってるにも関わらず、無愛想に名を名乗って、しばらくの間重く沈黙して。結局やる気なんて微塵も感じられない、投げやりな言葉だけ寄越して席に着いた、ってことよね?」

「うん。うん……? なんかそう聞くと……」

 

 咲耶の言った通りに、客観的に想像してみる。

 

 ──無言で椅子を立つ自分。

『陽南飛鳥。………………。よろしく』

 シンと静まり返る教室──。

 

「……うわ! 関わりたくねえ! え、俺、そんなんだった⁉︎」

「そうよ。そこであなたという人間への裁定は下ったの。噂の真偽がどうであろうとね。しかも、『ヒナミ』と『フミヅキ』で出席番号が連続のせいで、わたしの番、あんたが空気ぶっ壊したその直後よ。完っ全に割りを食わされたわ。いえ、あなたのせいじゃないわやっぱり。わたしの落ち度ね。あんたがやらかすことまで読んで、完璧な自己紹介を用意できなかった、わたしのね!」

 

 青筋を立てて微笑みながら、捲し立てる咲耶にたじろぐ。

 

「え……ごめん……」

「ふふっ。ようやく自分の醜態を思い知った? 無様っ。あんたが顔を青くしてると嬉しいわ。ちなみに今もあんまり変わってないから」

「嘘だろ⁉︎」

「だから鏡見ろって言ってんのよ」

「いや、でも! おまえも同じ(・・)ようなもんだろ!」

 

 俺がその、客観的にちょっとアレらしいことは認めるとして。人間関係を構築できてないのはお互い様だ。散々魔女を自称している電波な彼女に言われる筋合いは無い、無いんじゃないか、ギリギリ無い気がする!

 我ながら苦しまぎれの反論に。

 彼女の片目が、すっと細まる。

 

「──同じだったら、どれだけよかったか」

 

「……どういう意味だ?」

 

 彼女は、黙って俯いて。一拍の間の(のち)

 

 顔を、上げる。

 

 

「なんでもないわ。陽南君(・・・)

 

 

 彼女の表情を見て、俺は固まった。

 柔らかな声と笑み。そこには先までの低血圧めいた唸るような声音や、こちらを睨みつけるような視線は、跡形もなかった。それはまるで春の日差しのような──二年前(かつて)の〝文月咲耶〟と、まったく同じ微笑みだと。記憶が言う。

 

 軽やかに笑いながら小首を傾げる彼女は、親しみとけれど触れ難い不可思議な魅力を漂わせて。

 

「わたしのことを思って言ってくれたのよね。ありがとう。でも、ご心配には及びません。わたしこれでも結構……やるときはやるんだから、ね?」

 

 何ひとつまるで当たり障りのない台詞を、滑らかに吐いてみせる。

 髪型も、化粧も、眼帯も、全部、二年前の彼女とは違う。今の咲耶は真夜中に窓から踏み込んでくる、どうしようもない魔女のはず。

 視界が、世界が塗り変わるように錯覚する。赤い粒子は飛んでいない、魔法にかけられたわけではない、だというのに。

 

 ──そこには、完璧に。

 ──かつてと同じ優等生の〝文月咲耶〟が居た。

 

 

「それじゃあ、お先に失礼させてもらいます。……お互い、頑張りましょうね!」

 

 そう言って、彼女は俺を置いて先へ行く。ここは別れ道だ。自転車を引いては登れない階段を彼女はひとり、軽快な足取りで登っていく。

 

「あ、おい。文月(・・)!」

 

 つられて昔の呼び方で、後ろ姿を呼び止めた。彼女は、くるりと段上で振り返って。

 

「……ばーか!」

 

 それはもう見事な、あっかんべーをしてみせた。そうして、ようやくかつての〝文月〟の幻覚は、掻き消えたのだった。

 置いて行かれた俺は、唖然と立ち尽くす。

 

 

「……あいつ。ちゃんとした顔、やればできるのかよ」

 

 

 まじかよ。なんで俺の前でだけああなんだよ。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 咲耶が通学路で「友達作り」なんて古い勝負を蒸し返してから──翌日。

 あれから咲耶は、まるで昔の文月に戻ったように、急激にクラスメイトと距離を詰めていた。いや、急というのは正確ではない。勝負を忘れていなかったということは、今までもこつこつとアプローチを続けていたのだろう。俺がただ見ていなかっただけだ。

 今日なんか「昼食にお呼ばれした」と得意げにマウントを取ってきた。お呼ばれってなんだよ。あいつ、語彙が絶妙にお嬢様なんだよな。お嬢様なんだけども。

 

 さて、その「お嬢様」という記号は二年前まで、彼女を高嶺の花たらしめていた要因だった。だが俺が思うに。かつての文月咲耶の美点というのは、もっと内面的なものだった。

 ──彼女は、敵がいなかったのだ。人目を引く存在であるにも関わらず、おそらく誰にも嫌われていなかった。美人であることや家柄が良いことに、やっかみを受けたりもしていなかった。咲耶はけっしてそれを鼻にかけたりはしなかったから。

 意外と成績なんかは普通だったりして、皆を牽引するよりはどこか一歩引いて相手を立てる立ち振る舞いで、だけど行事なんかの頼み事や面倒事を決して断らず、素朴に慕われている……そんな優等生だった。

 文武両道とか眉目秀麗とか生徒会長とか、そういう絢爛な四字熟語が肩書きにあったわけではない。たがその「完璧に標準的な優等生」とでも言うべきそつのない在り方は、どことなく踏み込みがたさを感じさせ、彼女を「特別」に、「高嶺の花」にしていたのだと思う。人間が出来過ぎていると作り物っぽくて逆に近寄りがたい、という話だ。

 ……いや、今とは大違いだけど。逐一俺にマウントを取ろうとするようなやつじゃなかったんだ、本当に。

 

 そんなことを考えながら、昼休み。俺は屋上でひとり弁当を食べていた。

 俺は、というか俺たちは昼休みには大体屋上にいた。屋上はいい。自室で一番趣きに浸れるのが窓なら、学校で一番は屋上だ。なぜなら高いし、高いところは風が心地よく空が近く、あと何よりも人がいない。屋上には風情しかない。

 ……と思ったら、同じことを考えて屋上に来た咲耶に遭遇したのが、四月。当然のように、お互い「屋上」を譲らなかった。

『あ? ここは俺の場所なんだが?』

『は? あんたが出て行きなさいよ』

 などと言い合ってるうちに、その日の昼休みが消えた。当然昼飯は抜きだ。以来、「屋上の占有権を主張することは不毛」ということで合意が成って、なんだかんだと昼休みは一緒に飯食うようになっていた。

 

 本当は、屋上は立ち入り禁止で鍵かかっているのだが。いつもは咲耶が魔法で鍵を開けて、そのおこぼれに預かる形で屋上に入っていた。──だが、今日は俺ひとりだ。

 別に、ちょっと壁を登れば楽に侵入できるので、咲耶がいなくても何も問題はない。念願の屋上を独り占めだ。早々に弁当箱を空にし、パックの牛乳を啜りながら、ひとりきりの屋上に浸る。

 

「……いや、別にそんな気分よくねえな」

 

 なんか日差し、暑くなってきたし。なんか足元は埃っぽいし。そんなに屋上っていい場所か? 教室の方がいいよ。冷静に考えればなんだよ風情って。風情で飯が食えるのかよ。風情をおかずに飯は……いや食えるな。俺はできるけども。

 などと鬱屈していると、昼休みも残り十分というところで屋上の扉が勢いよく開いた。

 

「ひとり侘しくご飯食べてるあなたを笑いにきたわ」

「はいはい。ご丁寧に説明どうも」

 

 つかつかとこちらにやってくる咲耶は、得意げな表情で、手にはブラックコーヒーの缶を持っている。チープな銘柄の、無糖のブラックコーヒーだ。フェンスに身を預けながら、咲耶は絶妙に似合わないそれを随分と美味しそうに飲む。

 

「それで、昼食会はどうだったんです? 咲耶さん」

「上々。今のところ友好的な関係を結ぶまであと一歩ってところ。あの勝負は、わたしの勝ちで揺るがなさそうね?」

 

 ふふ、と。上機嫌に両手で缶コーヒーを抱えながら咲耶は言う。

 

「そうか、」と俺は相槌を打ち、

 

 

「──ちゃんと演じきったみたいでよかったよ」

 

 

 咲耶の表情が、一瞬にして強張った。

 

「どうして」

「流石にあれだけヒント出されたらわかるわ。おまえが『演技をしてる』ことくらい」

 

 咲耶はまるで覚えがない、という顔をする。「あなたの前では見せてないのに」とでも思っているのだろうか?  意外と隙だらけな自覚がないらしい。

 まずはひとつ。

 

「おまえさ、疲れるとわざわざ美味くもない缶コーヒー飲む癖があるよな」

 

 そしてふたつめ。

 

「あと、なんか上手くいかないことがあるとカーテンに包まる癖もある」

「んなっ」

 

 指摘された咲耶は耳を赤くし素っ頓狂な声を上げたが、一瞬でむっとした顔を作り、

 

「なにそれ。それがどうしたっていうの。わたしが美味しくないコーヒーを飲もうと、自分の部屋で何をしようと勝手でしょ。それがどうしてさっきの指摘に繋がるのよ」

 

 なるほど、もっともな言い分だ。だから、俺はもっと昔の話を蒸し返すことにした。

 

「覚えてないか?」

 

 ──俺たちがまだ、正真正銘に普通の高校生だった頃の話だ。

 

「三年前、高一の時の文化祭でさ。当日ちょっとしたトラブルがあった」

「ええ、実行委員だったからよく覚えているわ……」

「結果的に上手く行ったのは、あの時おまえが必死で対応してくれたおかげだな」

 

 咲耶はばつが悪そうに黙り込む。

 

「でも、その後。おまえはどこにも見あたらなくなって。探しに行った俺が、教室でひとりカーテンに包まって缶コーヒー飲んでる咲耶を見つけた」

 

 今となってはもう、随分と昔の話だが。咲耶は溜息を吐いた。

 

「……なんでそんなディテールまで覚えているのよ」

「記憶力はいいんだよ」

「試験散々の癖に」

「うるせ。でも合ってるだろ。おまえの癖」

 

 真顔で小さく頷く。

 

「まあ、確かにそうよ。わたしは時々、缶コーヒーを飲んだり、カーテンに……その、埋もれたり、したくなることは否定しない。でも飛鳥。それを〝演技〟と結びつけるのは無理がない? 肝心の繋がりはどこ?」

 

 飄々と、顔色ひとつ変えずに言ってのける。口調に揺るぎはなく、論理に隙らしい隙はない。たしかに昔のことを持ち出して癖を確定させても、根拠にはまだ弱い。

 ……昨日の通学路で、俺は昔のように名前を呼ばれて。一瞬、彼女が昔の〝文月〟に戻ったと思った。でも、そうではない。戻ったのではなくて、あいつが昔の文月を()っていたんだ。そう考えると、しっくりくるのだが……。

 やっぱり駄目か。咲耶なら、ノリで問い詰めたらテンパって聞いてないことまで吐くかと思ったんだが。流石に舐めすぎだったらしい。

 しかし。

 

「……飛鳥、か」

 

 昔の彼女には「陽南」と苗字で呼ばれていた。何せ、かつての文月は男友達を作らない生徒だったから。が、同級生としてはそれなりの仲ではあったと自負している。

 それが何故、昔よりずっと険悪な仲になった今、俺たちは下の名前で呼び合っているのか。その理由は、明確だ。

 ──異世界で再会したその後に、「名前で呼ぶこと」を要求されたのだ。

 俺は了承した。片方だけでは公正ではないから、お互い呼び合うのは必然だ。向こうの世界では、俺たちは肩書きばかりで呼ばれていて、正しく俺たちの名前を呼んでくれるのはお互いしかいない。それは敵だった過去を差し置いても、名前を呼ぶ理由に足りた。

 だが今になって引っかかる。理由はそれだけじゃない気がする。

 

 ──そう、確か。

 

『文月って、呼ばないで。それは「わたしが呼ばれている」って、感じがしないの』

 

 ──彼女はそう、言っていたのだ。

 

 

「なあ、咲耶ってさ。……元々は、お嬢様じゃなかった?」

 

 彼女が動かしたのは眉だけだったが、それだけで核心をついたのは分かる。咲耶は諦めたように答える。

 

「……そうよ。養子」

 

 それは確かに、二年ぶりに苗字で呼ばれても呼ばれた気がしないわけだ。

 

「知らなかったよ」

「言ったことないもの。誰にも」

「そうか。見抜かれたこと、ないんだな」

 

 ──生粋(ほんもの)のお嬢様ではないことを。

 

「やっぱ咲耶、演技上手いんじゃん」

 

 反論はなかった。

 

「て、ことはさ」

 

 彼女には反動のサインがあることを俺は知っている。それは今日、二年ぶりに猫を被った状態で同級生たちと昼食を共にした後のこと。あるいは先日、夜中の俺の部屋で自爆としか言えない振る舞いをした後のこと。そこから導き出せる可能性がひとつある。

 

 

「──もしかして〝魔女〟すら、演技だった?」

 

 

 沈黙は雄弁だ。……なるほど。

 

「おまえはそもそも、異世界ボケなんて、はじめからしてなかったんだな」

 

 同級生たちに向けて被る猫に比べ、普段魔女ぶっているのがどうして絶妙に下手なのかは知らないが。まあ、年季の違いとかそういうものだろう。

 俺は咲耶が異世界ボケを直し〝昔の文月〟のように戻るのを見守るつもりでいたが。そもそも〝昔の姿〟すら嘘であるなら、俺の目標というやつは見当違いだったことになる。

 

「いやぁ、気付けてよかった! なんだ、そうだったのか。ああスッキリした」

 

 これで致命的なミスをする前に目的の軌道修正ができる。ついでに話の通じない電波な魔女なんて本当はいなかったし、咲耶はただのバカじゃなかった。

 うむ、ひと安心だ。というかほぼ全部解決した。いや、空が広いな!

 と、ひとしきり満足して頷いていると。隣で咲耶が顔を引きつらせていた。

 

「い、異世界ボケ? わたし、そう思われてたの?」

「それ以外に何を思うんだよ」

「………………」

 

 なんか白い目で見ている。なんだよ。

 

「あ〜〜、もう!」

 

 咲耶は髪を、崩れない程度にくしゃくしゃとやって、

 

「ええそうよ! あなたに会う前からずっと、異世界(むこう)に行く前からずっと、わたしは『わたし』を演じて生きてるし、令嬢も魔女も全部ロールプレイよ!」

 

 勢いよく、仮面をひっぺがした。

 

「けどそれが何? それを知って、どうするのよ!」

 

 悪くない往生際だ。六十点。

 

「いや。別に、何をするってわけでもないけど……」

 

 思考を巡らして、思い付く。

 

「ああそうだ。提案がある。とびっきりに冴えた、名案だ」

 

 訝しむ彼女へ、俺は左手を差し出した。

 

「咲耶」

 

 

 

「俺と、友達にならないか」

 

 

 



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第三話 午前七時、俺は部屋へと招き入れる。

 

 飛鳥のその言葉を聞いて。わたしは、

 

「……は?」

 

 耳がおかしくなったかと思った。けれどすぐ思い直す。わたしの耳がおかしくなるわけがない。おかしいのはアイツの頭だ。わたしは息を大きく吸いこんだ。

 

「いや、意味がわからない。どうしてそうなるの⁉︎」

「え、普通に考えて」

「あんたは全然普通じゃないし、論理が結構飛躍してるわ⁉︎」

「そんなことないだろ」

 

 あるのよ! 飛鳥は全然ぴんと来ていない顔をしていた。こいつ……。

 

「あのね、飛鳥。わたしはあんまり冴えてないの。それでもって結構、頭が固いの。自分でわかっているのかって? ええ、わかっています。わたしはわたしのことを完璧に理解しているのが売りの女なので」

 

 いや、なんで売り込んでいるんだわたしは。

 

「だからあなたの考えていることなんて! 一から十まで説明されないとわからないの!」

 

 正しい台詞が、表情が、役柄がわからなくなっている。まるでらしくないことを話してしまっている。本当は叶うならば今すぐ口を噤みたい。でもわたしが言わなければ話が進まないことは確信できた。飛鳥は合点がいったように頷く。

 

「ああ、そうだよな。俺も、おまえが考えていることなんてわからないし」

 

 それはそうだ。多分、わたしたちは根本的に分かり合えないようにできている。そうでなくとも人は、簡単に分かり合えたりしないのだから。でも自分で言っておいて……なんだか。思っていたよりも歯痒かった。だって今の言葉はまるで──不理解を「仕方ない」と受け入れてしまうみたいだったから。

 差し出したもののとりあえず保留になった左手を、飛鳥は何かを考えるように顎にやる。

 

「あー……説明する前にこれだけ確認しとくか。咲耶、さ。なんでわざわざ面倒くさい『演技』なんてしてるんだ?」

 

「それは、」言葉に詰まる。彼の疑問は至極当然。わたしは自分がそれなりに不可解な振る舞いをしていることを自覚している。多分、人間というのは普通は。「被った猫の脱ぎ方がわからない」なんてことにはならないのだと、思う。わたしみたいに。

 ──だってわかんないんだもの。〝役柄〟を演じる以外に生き方の正解がわからない。令嬢も魔女も、本当の自分から遠すぎる役柄で、それらをずっと演じ続けて生きてきたから。──そういう生き方しか……わたしは、知らない。

 そんなことを赤裸々に言えるほど、まだわたしは開き直れていなかった。

 言い淀んでいると、飛鳥はひらりと手を振った。

 

「ま、いいや別に」

 

 別にいいんだ、そっちから聞いたくせに。なんなの。いえ、言えないのだけど。それはそうとしてなんだかうっすらと腹が立つ。……腹が立つのは、彼のすまし顔にだ。その顔はまるで「大体わかるからいいや」と言っているみたいだった。

 ついさっき、わたしのことなどわからないと言ったくせに。群青の空みたいな両目に、まるで。いつも見透かされているような気がする。

 というか、本当に見透かされているのだろうか? たしかに飛鳥の前では演技(ロール)がうまくいかないことが多いけれど。それでも五十点の出力は出ている計算なのだ。取り繕ったその向こう側を覗かれる振る舞いなんて、

 

「ていうか割と素、出てるしな」

 

 見せたことないはず……え?

 

「朝のひっくいテンションとか素だろ」

「………………え?」

「あ、そこは無意識なんだ?」

 

 わたし、もしかして、思ってたより……もっと、だめ? 人間として三十点もない? そんな…………。

 

「器用にやってんのかと思ってたけど。意外と不器用なんだな」

 

 その言葉がぐさりと刺さった。かなり、クリティカルに効いた。ふらっと倒れないように、わたしは足元に力を入れ、涙目にならないようにキッと彼を睨み返して。

 

 ──飛鳥が、半分きまり悪そうに苦笑したのを、直視した。

 

「なんだ。じゃあ、何も遠慮することなかったか」

 

 その途端。わたしは反論の手札をすべて失う。

 ……ずるい。ずるいと、思う。だって今の、ちょっと困ったような優しい笑い方は──昔の〝陽南君〟に似ていた。「むかしむかし」のカテゴリに放り込んで閉まっていたはずの、冷えた彼への好意が、じわりと熱を持ち始める。

 ああいけない。このままじゃわたしは詰んでしまう。

 ──わたしは、その顔には、弱い。

 

「と、ともかく! さっきのは……友達に、なんて、どういう理由で言い出したのよ」

 

 慌てて気持ちに蓋をして、話の続きを促す。というか戻す。

 

「ああ。まず、例の勝負の話に遡るけどさ。あれ、俺は早々に放棄してたんだよな」

「そうでしょうね。あんた忘れてたし。行動を起こしてもいないもの」

「訂正。一応、やろうとはしたんだ。けど、『あ、ヤバイなこれ。どっかでしくじる』って思ったんだよ。俺はおまえほど器用じゃないから、親しくなると絶対にボロが出る。なんせ、うっかり異世界って口走って病院送りにされそうになるくらいだ。……程よく孤立した方が、理屈に合ってた」

 

 たとえどれほど取り繕っても、今さら現世(こちら)に馴染みきることはできない。異世界(むこう)のことを、理解できる人なんていやしない。それは、わかる。それはわたしも感じているから。

 

「それで勝負の風化狙いっていうか」

「ノーゲーム狙い?」

「そうそう。俺にできないのにおまえに友達ができるとも思ってなかったし」

「死ぬほど失礼」

「それに、たとえこのままでも。──おまえがいるから、別に寂しくなかったし」

「そう…………ぇ?」

 

 わたしはまたも、耳を疑う。え、今。こいつ、何を言った……?

 

『おまえがいるから寂しくない』(リフレイン)

 

 …………いや、何言ってるの!?!?

 

 聞いてるこっちが恥ずかしさで叫び出しそうになって、代わりに思い切り舌を噛んだ。大丈夫、舌を噛めばポーカーフェイスは保てる。いざというときの処世術だ。あ、だめ。膝が震え出した。

 

「今日さー、おまえいなかったじゃん、昼休み。寂しかったんだよなー」

 

 追い討ち。膝から崩れ落ちそうになった。……な、なんでそんなこと言うの⁉︎ わたしは直視しないように飛鳥の方を見やる。へらへらしていた。あ、こいつ! 絶対何も考えてない! 絶対何も考えてないで言ってる!

 ギリギリギリと舌を噛み締める。すごく、血の味がする。

 

「ていうかそもそも、既に咲耶とは友達のつもりでいたんだよな」

 

 何それ知らない、と目線だけで言う。なにせまだ舌を噛んでるので。

 

「俺は友達になるのに合意とか取らないんだよ。文化の違いだな。だからおまえがそのところきっちり線を引くタイプで、役割とか肩書きとか何者かを気にするやつだってこと、知らなかったんだよ。……いや、ていうかわかるか。はよ言え。めちゃくちゃ考えてようやく気付いたんだぞ。おまえがことあるごとに自分が『魔女』だって言う理由が、まさか『線引き』だとは思わなかったわ」

 

 わかりにくいのは、紛れもなくわたしが悪いけれど。 伝えるつもりがなかったことを、早く言えなどと言われても。

 飛鳥は「あ〜」と、言葉を探すようにフィラーを伸ばして。

 

「そんなわけだから、悪いがこういった作法を知らないんだ。……全部、そのまま言うぞ」

 

 真っ直ぐに、わたしを見る。

 

 

「俺が、素でいられるのはおまえだけだし、分かり合えるのも結局、君だけだって思ったんだ。それは多分、咲耶も同じだと思う」

 

 かつて分かり合えないと思っていた彼が、よりにもよって理解を語る。

 ひとつだけ混じった「君」という呼び方。それに、本気を感じてしまう。

 

「それに。こっちで一番初めに友達になるなら、咲耶がいい。向こうで敵だったおまえが。……それでようやく、『終わった』って感じがする」

 

 そして彼はもう一度、手を差し出す。

 

「友達になろうぜ、咲耶。俺は、〝文月〟でも〝魔女〟でもない、〝ただの咲耶〟とそうなりたい」

 

 なんのてらいのない、こちらが聞いていて恥ずかしくなるような台詞を、微塵も恥じずに。飛鳥は、続ける。

 

 

「それで、今度は(・・・)ちゃんと(・・・・)ドアから(・・・・)訪ねて(・・・)こいよ(・・・)

 ──〝友達〟なら、おまえもわざわざ窓からじゃなくて、普通に入って来れるだろ?」

 

 

「……あ」

 

 その言葉は、わたしの〝制約〟を完璧に理解したものだった。

 「名案」と言った意味をようやく把握する。彼は、ちょっと前には「さっぱりわからん」と一蹴したわたしの論理を理解してしまったのだ。

 以前、『魔女は窓から入ってくるもの』だとわたしは言った。

 ──正確には、魔女だから窓から入ってくるしかできなかったのだ。

 わたしは、演じる生き方しか知らない。それは「役以外の振る舞いを、自分に許さない」ということだった。

 だから、かつての文月(わたし)でもなくなって、彼にとっての魔女(てき)でしかなくなったわたしは、ただ彼の部屋を訪ねるだけのことに、あの演出を要した。わたしの役は魔女だから、魔女としての制約に乗っ取った行動以外を許されない。

 つまりは。飛鳥はわたしに、新しい「役」を与えようとしているのだ。〝普通の友達〟という役を。

 ──そうすれば、わたしは〝友達〟のロールに則って、正しく自分の前に現れると踏んで。

 

 舌の代わりに苦虫を噛む。自分が意味不明な論理を掲げている自覚はあるのだ。なのに。

 

「なんで、わかっちゃうのよ」

「半分は勘だ」

「半分考えてるじゃないの」

 

 ……わたしには、あなたが何を考えているのかさっぱりわからないのに。

 

 差し出された掌をじっと見る。わたしに取られるのを待っている手だ。骨張った長い指に、短い爪。広い手のひらには目を凝らせば、いくつもの小さな傷跡が見てとれる。

 溜息を飲み込む。あなたはなんて、わたしに都合の良い提案をしたのだろう。でもきっと、そんなうまくはいかないのだ。

 だって今更、ただのわたしとあなたに戻るには──重ねた傷が、多すぎる。

 『本気で世界を滅ぼすつもりか』と詰る声が、脳裏で亡霊のように蘇る。あなたはかつて魔女(わたし)を否定した。『分かり合えやしない』と、境界線を引いたのだ。

 わたしは俯く。

 

「……ひとつだけ聞かせて。あの時の、もしもの話」

 

 異世界(あそこ)で雌雄を決した、あの時。

 元はただの高校生だったわたしたちが、敵同士、嘘みたいに世界の命運を賭けた時のことだ。

 

「もしも魔女(わたし)が、勝っていたら。──あなたはどうしていた?」

 

 顔を上げる。彼は、

 

「そんなの決まってる」

 

 即答、だった。

 

 

「その時は。おまえがあの世界を滅ぼすのを、隣で大人しく見ていたよ」

 

 

 感情の読めない瞳に、けれど迷いはなく。

 飛鳥は静かにそう、言い切った。

 

「え」

「なんだよ。俺は、往生際はいいんだよ」

「あなたはそういうのを、絶対許さないと思ってたのに」

 

 飛鳥はしかめ顔をする。不本意だとでも言いたげに、言い訳のように語る。

 

「確かに主張は真逆だったし。おまえのやろうとしてることはおかしいとは、思ってたけど。正しいとか間違ってるとかは別に、どうだっていい」

「考えてもみろよ。世界だのなんだの、普通の高校生には重すぎるわ。しかも現世とは違う異世界だぞ。世界が違えば価値観が違うんだ。根本的に部外者の俺たちの倫理観で、善悪が測れるもんか。どっちが正しいかなんて、意味がない」

「なら、勝った方が正しいってことでいいだろ。俺が勝ったから、俺が正しかっただけだ。だから──おまえが勝ったら、おまえが正しかったってことに、していたよ」

 

 それを聞いて。わたしは──、

 

 あきれた。

 

「え、意味わかんない。ばかじゃないの? 脳筋だわ。いえ、むしろ野蛮? 今すっごい倫理の点数悪そうなこと言わなかった?」

「おまえはめちゃくちゃ倫理の点数良さそうだよな。倫理観ないくせに」

 

 ……聞いたら納得するかと思ったけど。なんだか、かえってよくわからなくなってしまった。やっぱりわたしには、こいつの考えていることがよくわからない。

 

 でも。ひとつだけ、確かに理解(わか)ってしまった。

 

 ──なんだ。彼は、最初から。魔女(わたし)を「否定」なんてしていなかったのだ。

 

 そう、思い至ってしまったから。

 途端ガチャリと。わたしの心にかかっていた鍵が、開く音がした。

 

 我ながら、あっけなく。

 

 

 

 

 

 

 ──これは、わたしが異世界(セカイ)を滅ぼそうとした理由の話だ。

 

 二年前まで、わたしの人生は「完璧」だった。

 根暗な自分を取り繕って、それなりの人気者を演じて。わたしは考えうる限り最善の高校生活を享受していたし、その先の未来のことも何ひとつ疑っていなかった。

 普通ではなく、普通よりも恵まれた高校生だっただろう。

 なのに。ある日突然「異世界」なんかに飛ばされて、わたしの人生全部だいなしになってしまったのだから!

 あんまりの理不尽に、人生の酸いも甘いも知らない小娘(わたし)は、あっという間にやさぐれた。

 そしてそのまま異世界で、わたしは「魔女」になったのだ。

 

『どうせ、誰もわたしを助けになんて来ないのだから』

 

 と、信仰する(しんじる)ように絶望して。

〝元の世界に帰る〟なんて夢物語を、完璧に諦めて。

 

 ──そうして悪に堕ちた魔女(わたし)は勇者と対立し、あっけなく敗北した。

 

 けれど。向こうの世界で、あとは勇者(あなた)魔女(わたし)を殺せば、すべてが終わるというところで。

 飛鳥(あなた)は、わたしに言ったのだ。

 

『ったく、これ以上クソッタレな異世界に付き合ってられるか! おい咲耶、帰るぞ!』

 

 ──どうやって。

 

『知らねえよ。今から考えるんだよ。は、できるわけがない? ハッ、おまえにできなくても。俺は、おまえに勝ったから、できるんだよ‼︎』

 

 ──どうして。

 

『ガタガタうるせぇな……いいから、さっさと望め! 帰りたいって、言え‼︎』

 

 

『俺が、叶えてやる』

 

 

 なんの根拠もない、意味がわからない理屈。

 どうして助けてくれるの、とその問いの答えは聞けないまま。

 わたしは、恩を売られてしまった。無茶苦茶な理屈を振り回したまま、完膚なきまでに救われてしまった。

 

 ──だから、あなたへの感情は。

 恋なんていうくだらない気持ちで──そんなもので、片付けていいものじゃない。

「好き」なんて……そんな言葉で言い表せるものでは、ないのだ。

 

 

 ただ。現世に帰ってきたのに「めでたしめでたし」というわけにもいかなかったのは、ちょっと笑える。アイツの家は何故か更地になっていたし。わたしはというと、家に持て余されたし。学校だってあのざまだ。

 わたしは、悟って、想って、考えた。

 ──ばかみたいね。結局、帰る場所なんてなかったのよ。帰りたいと望んだけど、帰る場所もなかったから……居たい場所なんて、あなたの隣しかないの。けれどあなたはわたしを見ていない。わたしにはあなたしかいないのに、あなたはまるで、別にそうじゃないみたいな顔をする──。

 

 だから。

 わたしは飛鳥に会いに行く口実に「魔女」を要した。かつての敵対を引きずることを選んだ。そして〝同じ気持ち〟を味わわせてやろうと思っていたのだ。否定や敗北を、思い知らせてやる以上に。わたしが彼を必要としているように、魔女(わたし)を必要として欲しかった。

 

 ──素のわたしは、根暗で、不器用で、面倒くさくて、浅ましい。

 

 そんなどうしようもないわたしの陰謀はあっけなく、正攻法で真正面から壊されてしまった。否定されたと思っていたのは勘違いで、初めから気持ちは同じ。おまけに隣にいるための言い訳まで与えられて。望まれたのは、誰にも晒したことのない本当の〝咲耶(わたし)〟。

 

 ──思えば、昔から。陽南飛鳥という生き物は、肝心なところで正解を引く天才だった。

 

 ああ、本当にばかみたい。なんて無様だろう。わたしは、ひとりで何をやっていたのか。

 

 

 ──望んだのは、こんなに簡単なことだったのに。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 屋上。昼休みが終わるまで、あとわずか。

 俺は提案への返事を待つ。合意の握手を求め、手を差し出したまま。

 とりあえず俺は速攻で、自分の発言を忘却した。一部始終が勢い任せだった。多分結構、恥ずかしいことを言っただろう。もう全部忘れた。何も覚えてない。都合の悪いことは忘れるのが人生のコツだ。自分で言うが、俺は結構人生が上手い。

 

 咲耶は無言無表情のまま、じっと俺の手を見ながら──、

 

「……なぁ咲耶。なんか口から血が出てんだけど。なんで? 大丈夫か?」

 

 薄紅色の唇の端からたらりと赤いのが、流れていた。咲耶はこくりと喉を鳴らして、口元を隠しながら声を発する。

 

「なんでもないわ。ちょっと口内炎が爆発しただけだから」

「こっわ」

 

 口内炎、爆発するのか。気を付けよう……。

 咲耶は残っているコーヒーに口をつける。……え、コーヒーで血を洗い流してないかそれ? こっわ…………。いや、まあ、うん。いいや。

 腕を差し出しっぱなしも格好がつかないし、いい加減疲れてきた。

 

「それで、返事は?」

 

 咲耶は、鷹揚に頷いて。

 

「いいわ。あなたの提案、受け入れましょう」

 

 俺の左手を握り返そうとして──、

 一寸先でぴたりと止まった。

 

「……ねぇ、今気づいたのだけど。これでわたしとあなたが友達になったらあの勝負はどうなるの?」

 

 どちらが先に友人を作れるか、というアレだ。

 

「そうだな。そりゃ言い出しっぺの法則で俺の勝ちだろ」

「んなわけあるか! というかそういう法則じゃないわ」

「それが通らないってんなら、じゃあ。『引き分け』だな」

「……まぁ。それならいいかしら?」

 

 咲耶は釈然としなさそうに、視線を彷徨わせ、はたと気付いたように俺の目を見る。

 

「あんた、『名案がある』って言ってたけど……まさか」

 

 おっと、気付かれたか。

 

「そう、これは。俺が(・・)おまえに(・・・・)絶対に(・・・)負けない(・・・・)名案だ(・・・)

 

 咲耶は、うんざりとした顔をした。

 俺の左手を握り返すのをやめて、代わりにぺしりと叩く。

 

「あんたって、やっぱり性格悪い!」

 

 失礼な。ちょっと意地でも負けたくないだけだ。

 

「でも……ありがと」

 

 そう言いながら、咲耶は気の抜けた笑顔を浮かべる。

 ああ、そっちの方が。露悪的な〝魔女〟の笑みよりも、欠点のない〝文月〟の微笑みよりも──ずっといい。

 

「別に。おまえのためじゃないさ」

 

 

 そうして。俺たちは三年と一ヶ月をかけてようやく、友達になったのだった。

 いや、遅すぎるわ。

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 翌日、朝七時。天気は良好、気温は上向きに初夏の前触れ。今年は随分と気象がよく、五月は比較的に涼しめだ。まぎれもなくいい朝だった。 

 上機嫌のまま俺はコンロで味噌汁を沸かす。

 

「……やべ、米炊くの忘れた」

 

 弁当分はあるのだが、朝食分がない。

 

「しまったな。抜くか」

 

 と、その時。コンコンと音が聞こえた。

 ──ノック音は、窓からしていた。

 眉間にしわが寄っていく。盛大に溜息を吐いて、コンロの火を止める。

 薄いカーテンを開けると、ガラス一枚隔てたすぐその先に、制服を着た文月咲耶が微笑みながら立っていた。何故か両手に、バカ長いフランスパンを抱えて。

 俺はやけくそ気味に窓を開けた。

 

「……なぁ。おまえ、『朝は魔女やる気がない』って言ってたよな」

「言ったわ」

「『友達ならドアから入って来れる』って理屈は合ってるよな」

「その通りね」

「咲耶、今、素だよな?」

「ええもちろん」

「…………なんで窓から入ってきてんの?」

 

 咲耶はしたり顔で言う。

 

「合理的だから」

「合理」

「窓から入ると直線距離、つまり早くて近い。完璧に効率的だわ」

「ああ、うん……うん? 合理と常識、どっちが大事だ?」

「大丈夫よ。あんたにだけは常識語られたくないから」

「おまえ、素でも喧嘩売るじゃん」

 

 表情がわずかに乏しく、声色は少し低い。素であることは確かなんだが。

 

「どうやらそうみたいね?」

 

 自分で自分の言っていることに、今気付いたように咲耶は小首を傾げる。マネキンのような綺麗な顔に、あどけなさが滲んでいた。

 

「みたいね、って。自我初心者かよ」

 

 まあ、ノックするようになっただけ成長か。

 

「それで、何しに来た? 友達ができたのに浮かれて朝っぱらから突撃とか?」

「んなっ……勘違いしないで。別に、パンを買いすぎたからお裾分けしに来ただけ。このバゲット、大きすぎてひとりじゃ食べきれないから仕方なくよ」

「そうか。俺も今、味噌汁を作りすぎたところだ。丁度よかったな」

 

 嘘だけど。わかめ増やすか、今から。

 

「まあ入れよ」

「言われなくとも。……おじゃまするわ」

「ん。いらっしゃい」

 

 そうしてしばらくの(のち)、パンに味噌汁というちぐはぐな朝食が二人分、卓袱台に並んだ。

 

「頂いておいてなんだけど。この組み合わせって、どうなのかしら」

「別にいいだろ」

「そうね──合わなくたって、いいわ」

 

 やけにしみじみと言って、正座した咲耶はお椀に手をつける。

 

「そう、意外と合うんだよ。パンと味噌汁」

 

 白い目で見られた。なんだよ。

 

 と、俺も小さく切ったパンに手を伸ばして、ふと気付く。

 買いすぎたって言ってたけど。これ、そもそも近所のパン屋のだ。夜明け前に開き、朝にはもう売り切れる、この辺じゃちょっと人気の店のものだった。

 ……こいつ確か、朝弱いよな?

 

 咲耶はすまし顔のまま、綺麗に味噌汁を飲んでいた。

 

「なぁ咲耶、やっぱさ」

 

 

「俺のこと、実は結構好きだろ」

 

 

 咲耶は静かにお椀を戻し、

 

 

「そうね。嫌いじゃあ、ないわ」

 

 

「え」

「なんで驚くのよ」

「いや。知らなかったなぁって」

「なんでよ」

 

 咲耶がそれなりに好意的なのは、どうあがいても伝わっていた。でも。

 たとえアイツが、俺のことを実は結構好きだとしても。それ以上にアイツは今の俺のことを、嫌っていると思っていたのだ。

 実は『友達になろう』と言った時、断られたらどうしようと内心ビビっていた。絶対言わないけど。死ぬまで言わない。

 咲耶はふいっと顔を背け、わずかに上目でこちらを伺う。

 

「……別に、好きでも嫌いでもないわ。普通よ普通」

 

『普通』それは、いい言葉だと思う。何よりも。

 

「そうか。よかったよ」

 

 

 

 

 ──こちらに帰ってきてわかったことがある。

 俺たちの異世界(かこ)は人に自慢できるようなものじゃないし、結局現世(いま)も地続きでしかない。

 それなりに面倒で、それなりに厄介で、それなりに世知辛い。

 でも、こいつが側にいるならそれも悪くないと思える気がした。異世界ボケしてない彼女に、俺は必要ないかもしれないけど。

 まあ、なんだ。ほら、色々と変なままかもしれないけどさ。それも普通の日常として。なんかいい感じにやっていけたらいいよな。

 

 と、ぼんやりとした頭でぼんやりとしたことを考えながら。

 大きな窓だけが取り柄の部屋で、日差しの中ふたり、ちぐはぐな朝食を終える。

 

「ごちそうさま。美味しかったわ。それじゃ、わたしは一旦自室に帰るわね」

「別にわざわざ戻らなくても。おまえ、魔法で荷物こっちに呼び出せるだろ。うちの洗面台使っていいぞ」

「え?」

「効率的だろ。どうせ、一緒に学校行くんだから」

 

 白状しよう。咲耶がどちらにせよ、友達という肩書きに俺は浮かれていた。完全に。

 いや、だって。なりたかったよ友達。俺は三年前からずっと。その上、朝から家に来るとかなんだよ。普通に嬉しいし、浮かれるに決まってるだろうが。

 

「あと、多分」

 

 だから、浮かれたまま口走る。

 

「俺は明日も味噌汁を作りすぎるし」

 

 ひらたく言えば『これからも朝飯食おうぜ』ってことなんだけど。

 咲耶は、ゆっくりとその意味を考えて。

 

 

「あんたってもしかして……友達には、甘い?」

 

「さぁな」

 

 

 俺は笑って、誤魔化した。

 

 

 

 

 さて。

 あいも変わらず、彼女は窓からやってくるけど。

 俺たちは一緒に、ドアから部屋を出る。

 ささやかな変化を積み重ねていく。

 これはそういう、これからの、少し変わった日常の話だ。

 

 



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第四話 清く正しい高校生活への果てしない道程。

 

 

「『友達の定義』を詰めるべきだと思う」

 

 あれから一日が経った金曜日のことだ。俺は放課後の教室で咲耶にそう言った。

 念願叶い、というかかつての負債を今更清算するように、俺と文月咲耶は『友達』の関係性を手に入れたのが一昨日のこと。

 そして昨日今日と、俺たちは一緒に朝飯を食べ、一緒に登校し、一緒に昼休みを過ごし、関係の名前を友人に書き換えている最中だ。そう表現すると常に一緒にいる感じがするが、教室や人前ではほとんど話さないのでそうでもない。ないはずだ。

 ……今思うと浮かれすぎていた気がする。なんだよ『明日も味噌汁作りすぎるけど』って。そんな誘い方があるかよ。恥ずかしいな。普通は友達と毎朝飯を食べないことくらい、俺は知っている。なんで誘ったんだ俺は。うっかり。つい。流れで。全方面恥ずかしい。くそっ、完全に生来の人恋しさが荒ぶった。

 

 ともあれ、放課後の教室である。

 残っているのは俺たちだけだ。なぜ残っているかというと、共に仲良く今日は日直だったからだ。日誌を書いていた咲耶は、教壇の上に立つ俺を見て、「友達の定義?」とおうむ返しする。

 俺はチョークを手に取る。黒板に書く文字列は『今回の教訓』だ。

 

「教訓……」

「そうだ。今回、俺たちはなんやかんやでうまく着地したような気はするが、それでも反省点は多大にある」

「なんかすごく理屈っぽくて面倒くさいこと言い出した」

「得た教訓はシンプルだ。『言わなければわからない』そして『認識のすり合わせは大事』ということ」

「しかも無視して話を進めるし」

「俺たちは子供じゃないので、同じ間違いを繰り返すのはダサい。その点、反省を次に活かしていきたいわけだが」

「今更だけどわたしは十八って子供だと思う」

「それは甘えだな。そう、問題は『甘え』だ。定義を詰めずに『友達』の関係に甘んじるとどうなるか」

「わたしの指摘は聞く気ないのね。いいけど。……まぁ関係は、なぁなぁのぐだぐだになる気がするわね」

「そうなると、何が待っているかわかりますか咲耶さん」

「飛鳥って敬語話すと教師っぽいわよねー。昔みたいに眼鏡かけたら完璧じゃない?」

 

 咲耶は書き終わった日誌を閉じて。

 

「甘えの先に何が待っているのか、ね……」

 

 やる気なさげな目で、しかしちゃんと答える。

 

「──すれ違い、勘違い、破滅、爆死。甘えは破綻の前段階だわ」

「はい正解。それはダサいので避けるべきだと俺は思う。てか後半やけに語彙が物騒だな」

「魔女なので」

「そこはこだわるんだ」

「よく考えてみたのだけど、わたしは割と魔女であることに自負を持っていたわ」

「俺はおまえの『魔女』の定義もわかんねえよ」

「そっちも定義詰める?」

「逆立ちしても興味ない」

 

 咲耶が頬を引きつらせた。

 

「……まぁ、言ってることは正しいから付き合ってあげるけど。要は『定義を確認して、認識を擦り合わせて、余計な摩擦を回避しましょう』って言ってるのよね。でもそんな面倒なこと、普通はするかしら?」

「普通の友達はしません。しないね。しないけど。でも俺たちはします。何故か」

 

 咲耶は少し考えた後、溜息を吐いて降参と手を上げた。

 

「わたしが友達初心者だからです。ついでに、ロールのための枠がないと困る人種だからです。面倒なのはわたしの方でした……」

「はい百点」

 

 流石に物分かりがいい。これが十八の理解力だ。

 

「でも友達の定義なんて古今東西の大問題よ。どうやって定めるの?」

「そんな哲学的なことは考えない。やりたいのは、方向性の確認だ」

 

 俺は黒板に、『目標』と書く。

 

「方向性、すなわち目標の確認だ。──そもそも、俺たちの目標は何か!」

「えっ、えっ? 目標? 急に何?」

「なんのためにわざわざ現世に帰ってきたか、だ」

「美味しいご飯」

「大事だな」

 

 頷く。

 

「ご飯のためには?」

「お金が必要」

「大事だな」

 

 頷く。

 

「かいつまむと、概ね現世に戻ってきた目的は『二年前に中断された続きの人生』をやることなわけだ」

 

 現世では世界より、就職とか進学とか通帳の残高とか明日の飯の方が、圧倒的に大事だ。

 

「すなわち目標とは『将来を見据えて、現代社会で清く正しく生きていくこと』だ!」

 

 黒板を叩いた。

 

「ここまでは問題ない、よな?」

 

 この辺の合意を、異世界ボケしていると推定していた時の咲耶からは取れていなかったが、実は理性で魔女ロールをしていただけと判明した今の彼女相手ならば。

 

「ええ、うん、完全に同意しましょう」

 

 よし。

 

「『ねぇこれなんの話してるの?』って文句つけたいのに、何言ってるのかわかっちゃう自分がイヤなこと以外、何も問題ないわ」

 

 なんでそんな不本意そうな顔するんだよ。

 

「さて、目標の確認をしたところで関係性の定義に戻ろう。俺たちは同じような背景を持って、同じものを見て、同じものを目指しているわけだが。──いかがだろうか?」

 

 あえて返答を待つ。

 咲耶はすっと目を細めた。

 

「…………なるほど、あなたの言ってること。完璧に理解したわ」

 

 咲耶は立ち上がり、俺のいる教壇の方へ。

 

「つまり、同じビジョンを持つ『良き理解者』として」

「そう、そこらへんを『協力』していこうって話だ」

 

 視線を合わせて頷き合う。

 完全な相互理解がここに成った。

 

「社会復帰のための共同戦線、以上が『友達の定義』。つまり関係性の名は『元敵あらため戦友』ということでよろしいか!」

「よろしいわ!」

 

 お互い最高のタイミングで、パァンッと手を合わせる。

 

「完璧ね」

「まったくだ」

 

 と、その時。ガラッと、教室の扉が開いた。

 ほうけた顔をした同級生の男子が一人、気まずそうに教室に入って来る。

 

「えと、忘れ物取りに来たんだけど……なんか、ごめんね。その、大事な話? っていうか盛り上がってた? みたいなところ、邪魔して。うん、おれは何も見てないから気にしないで……」

 

 と、そそくさと荷物を取って出ていく。

 同級生のその背中を黙って見送った後。俺は咲耶に聞いた。

 

「……もしかして俺、今結構恥ずかしいこと言ってた?」

「言ってたわぁ。わたしも悪ふざけで乗ったけど。男の子みたいなノリやるの、憧れてたのよね〜!」

 

 何故か咲耶はほくほくと満足げな笑顔をしていた。

 待て。俺は悪ふざけをした自覚がない。

 

「……あともしや、俺、話すときに見得を切る癖ついてる?」

「ああ、歌舞伎の『見得』ね。ついてるわね〜。一挙一動いちいち大袈裟!」

 

 血の気が完全に引いた。顔を覆う。

 

「 ……俺も大概、異世界ボケしてたね」

「ようやく認めたわね。えらーい!」

 

「……とりあえず。社会復帰、その第一歩として……まず友達を増やしたいよな。普通の」

 

 そろそろつらいので話はこれで終わりでいいか? と咲耶を伺う。満面の笑みだった。

 

「すごい! 話が完全に四月(ふりだし)に戻ってる上、完璧に前途多難だわ!」

 

 めちゃくちゃ煽られた。ちくしょう!

 

 

 咲耶の問題は解決したと思いきや、どうやら今度は俺の方にも問題があるらしかった。

 ……これからどうしようか。

 

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 このところ、わたしはとびきりに機嫌がよかった。理由は全部、飛鳥のおかげだ。

 

 ──なんでもない普通の友達として会いに行けるって、なんて素晴らしいのだろう!

 

 そんな浮かれ心地のまま、わたしは週末を迎えていた。

 週末、飛鳥に会う予定はなかった。土日は大抵、飛鳥は労働に勤しんでいるし、わたしも程々に忙しい。せいぜい窓から部屋の様子を確認するくらいだ。

 わたしは意外と気を遣うので労働終わりに突撃とかはしない。わたしはひとりの時間の大切さを知っている。時には部屋の隅で膝を抱えてじめっとMPを回復することも大事だ。休息を邪魔してはいけないと思うし、飛鳥だっていくらわたしが友達でも四六時中顔を合わせたくはないだろうな、と思う。

 ……でもあいつ、この前の昼休みに『寂しい』って言ってたな。わたしは根が引っ込み思案なので、正直人恋しさとは無縁なのだけど。彼は多分そうじゃない。少なくとも昔の『陽南君』は、そうだったと思う。

 ……ちょっとくらい、会いに行った方がいいのかな。いえ別に、わたしが会いたいとかじゃなくて。あいつが寂しがってないかってだけだから……って誰に言い訳してるのか。

 

 ソファの上でうんうんと唸りながら、わたしは口実を探す。訪ねる言い訳があればいいのだけど。ちらりとキッチンの方を見て気付く。この週末の成果である料理(カレー)が、大鍋の中にある。

 口実、あった。

 よし行っちゃおう。

 

 すくっと立ち上がる。

 ああでも疲れてるかもしれないし、その前に一報入れるくらいはして……と、とても常識に乗っ取った手順を踏もうとして。

 わたしは、飛鳥の連絡先を知らなかったことに気付いた。

 お隣さんだから。

 今まで、連絡する前に会いに行っていたから。今の今まで、連絡先を交換するのを忘れていた。

 頭を抱える。そういえば帰還したばかりの時、一方的に電話番号を教えたきりだった。

 

 ……何が『友達の定義』だ! 先にもっとやることがあったでしょう!

 友達なのに連絡先も知らないなんて、どうかしてる!

 

 

 そんなこんなでキレつつ開き直り、完全に勢いづいた午後七時前(なんて常識的な時間!)

 わたしは隣のアパート、二階のベランダに飛び降りる。

 日が暮れたにも関わらず電気はついていなかった。けれど窓には鍵がかかってなかったし、開けっぱなしになっていた。不思議に思いながら、網戸とカーテン越しに声をかける。

 

「飛鳥〜。カレー、作りすぎちゃったんだけど〜……」

 

 返事がない。

 もしかして寝てるのかしら。

 わたしはいつものように網戸を開けて六畳間の中へ入り、そして。

 

 飛鳥が倒れているのを、発見した。

 

 

 

 

「きゃーっ⁉︎ し、死んでる…………‼︎」

 

 うつ伏せになった飛鳥の指がぴくりと動く。よく見たらちゃんと生きてた。

 ちゃんと? これ、ちゃんと生きてるって言う?

 

「何があったの⁉︎  寝てただけ? 寝相が死体みたいだっただけ⁉︎」

 

 あわあわと狼狽えながら、ぺちぺちと手の甲を叩いてみたり、ゆさゆさと背中を揺すってみたりしていると、飛鳥の屍……じゃなかった。

 屍っぽい人体から、お腹の音がした。

 

「…………え?」

 

 冷静になる。

 まずは状況確認が事件捜査の基本だ。部屋をぐるりと見回す。綺麗すぎる流し台に料理の形跡はない。壁には今時珍しい日めくりのカレンダー。日付を見て一般的に給料日前だと思い当たる。

 わたしは概ねを理解した。

 飛鳥の前にしゃがみ込む。

 

「ねぇ、飛鳥……この週末、ちゃんとご飯、食べてた?」

 

 かろうじて意識を取り戻したらしく、顔を上げる。かすれた返答。

 

「食べた」

「何を」

 

「…………おまえんちのカレー、の匂いをおかずに霞を」

 

 それは、何も、食べてない。

 

「もしや現世は初めて?」

 

 霞というのは満更嘘ではない。わたしたちの召喚された異世界は滅びかけでろくな食べ物とかなかったし、勇者ともなれば魔力(かすみ)を啜っても生きていられたのだから。

 いや、やっぱり異世界ボケしてんのはあんたの方よこれ。どの口でわたしに異世界ボケとか言ったの? どつき回すわよボケ。

 

 おそらく、倒れた原因は昨日今日の話ではない。思えば朝の味噌汁の具はさもしかったし、昼の弁当は小さかったし、夜に至ってはいつも何を食べているのか知らない。

 目に見えるような変化がなかったから気付かなかった。考えていることもそうだけど、飛鳥はあまり表に出ないのだ。

 深々と溜息を吐いた。

 

「も〜〜……困ってるなら素直に助けてって言えばいいのに」

 

「…………なんで?」

 

「は?」

 

 ぶちっと何かがキレる音がした。

 異世界ボケなら仕方ないか、わたしも時々ご飯食べるの忘れそうになるものね、と考えていた。でも今の『なんで?』は、ない。ありえない。

 

「『協力する』って言ったでしょう! なんのために友達の定義擦り合わせたのよ‼︎」

「そんな面倒くさい話は全部忘れた」

「自分で言っておいて⁉︎」

 

 だめだ。こいつ今、頭が回ってないんだろう。ろくに話が成り立たない。

 

「…………今から、うちに来なさい。わたしカレーを作りすぎたの。拒否権はないわ!」

 

 返事は待たない。引きずって窓に行く。

 

「待って。俺は窓からは入らない。おまえではないので」

「あっそう! 元気そうでよかったわ!」

 

 なんなのこいつ‼︎

 

 

 

 

 実のところ『初めて家に友達を呼んで手料理を振る舞う』ことにわたしは、人並みに期待をしていたのだ。だからこそわたしは葛藤して、あいつを呼びに行ったというのに。もう雰囲気も何もあったものではなかった。最悪ですね、本当に。

 意味わかんないでしょ。どうしてたかが二日、目を離しただけで野垂れ死にしかけてるの。なんなの。生きるの下手なの?

 アレを連れて(もうあいつなんか「アレ」で充分)家に戻った後。『これでも食べてなさい!』と隠し味用のチョコレートをアレに押し付けて、台所に戻る。

 カレーを作りすぎたとは言ったけど、どちらかというとそれはスープが多いという意味で、かき混ぜてみるとどうにも具が少なかった。

 

 よし、具を足そう。なんかトマトとかナスとか野菜を入れまくろう。わたしはまな板にトマトを並べる。

 なんと、野菜食べないと人間は死ぬのだ。人類は雑魚なので。

 ……本当に、なんて弱くて愚かな生き物なのだろう。ご飯を食べないと死んじゃうなんて。それもちゃんとバランスよく食べないと破滅しちゃうなんて繊細にも程がある。逆にちょっと愛おしい。

 そう、許可なくぶっ倒れるアレは愚かで愛しい人類の一部……と思うとまぁ、そんなに怒るほどのことでもない。わたしは異世界滅亡は企んでも、地球人類は愛せるタイプの魔女だ。大丈夫、慈悲深い。

 

 それに、経緯はこんなになってしまったけれど。手料理を振る舞うということは予定通りに運んだわけだし?

 そう、今からわたしの作ったご飯があいつの血肉になるわけだ。

 そう考えると。なんだかとても、とても…………うん。

 悪くは、ないかな。なんて……。

 

 ──包丁に、自分のにやけ顔が写っていた。

 

「何考えてるんだわたし!」

 

 包丁を、ダンッと振り下ろす。

 トマトが弾けた。

 ついでに。

 わたしの指もザックリと逝った。

 

「〜〜っ‼︎」

 

 すんでのところで悲鳴を堪える。ありえない。あまりのどんくささに自己嫌悪した。

 

 骨に届きそうな深い切り口から、どくどくと血が溢れて、まな板のトマトの上に流れ出す。

 びちゃりとまな板に染み出すトマトの汁と混ざり合って、青臭い匂いと赤い血の匂いが鼻腔を刺した。嫌な臭いだ。

 

「…………」

 

 わたしは傷を押さえもせず、その様子をぼんやりと眺めていた。

 

 ──傷は、もう塞がり始めている。

 

 数秒後。照明に手をかざしたわたしの白い指には、傷痕すら残っていなかった。

 まるで何事もなかったみたいに。

 ……まな板の惨状は、それを否定しているのだけど。

 

 わたしはすっと目を細め、血のついたトマトをゴミ箱に放る。

 ぐちゃり、と嫌な音が、底で鳴った。

 

 

 

 あーあ。もったいない。

 

 



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第五話 現実はカレーよりも辛い。

誤字修正助かりました。
ルビミスってて申し訳ない。


 

 気がつけば俺は咲耶の家にいた。

 漂い始めた香ばしい匂いと、摂取した甘味(チョコレート)のおかげではっきりと意識を取り戻す。

 入ったこともないのにここが「咲耶の家」だと認識しているあたり、記憶には残っているんだろう。俺はソファの上でこれまでの経緯を遡り、

 

「………………」

 

 割とすぐ、全部思い出した。

 

「腹切って詫びるか……」

 

 ものすごい醜態を晒した。死ぬしかない。ここが往生際だ、とソファの上で姿勢を正し、

 

「いや、剣がないわ」

 

 そうだよ。もうないよ。聖剣とか。

 やべえ。今完全に異世界ボケしてた。

 

 俺の独り言を聞きつけたのか、台所の方からぱたぱたと足音がする。

 

「その様子だとようやく頭にカロリー回ったみたいね。人語、解せる?」

 

 咲耶がこちらへとやって来る。

 家で見る彼女はいつもとはまったく違う雰囲気だった。飾りげはないが自然体な休日の私服には、赤いエプロンを重ねている。長い髪は後ろでひとつに束ねられいた。咲耶のポニーテールは初めて見る。細い首筋が惜しげもなく晒されており──端的に言って、どきりとした。

 ほとんど起き抜けみたいな頭には強すぎる刺激で、動揺しながら彼女をまじまじと見る。

 咲耶は仁王立ちし、冷ややかな眼差しで微笑んだ。

 

「──何か、言うことは?」

 

 言うこと。その髪型とエプロン、めちゃくちゃいいと思──ではない。

 正気に返った。それどころではなかった。俺はソファの上で正座したまま頭を下げる。

 

「人体の脆さを完全に忘れていました」

 

 咲耶は腕を組んで、こくこくと頷いていた。

 

「そうね。あなたの言うこともわかるわ。この二年、土手っ腹に穴が空いても死なない世界で生きてたもの。ファンタジー補正よね、幻想の濃度が高い異世界ってすごーい! ……でも、現世はそんなことないから。タマひとつ腹に食らったら死にますからね、うつし世は。飯抜いても死ぬのよ」

 

 語彙が咲耶にしては上品じゃない。タマとか飯とか普段の咲耶は言わないのだ。これは、相当に怒っている。

 

「その……この借りは必ずや」

 

 くい、と顎を上げたままこちらを見下ろす視線。

 

「別に、返さなくていいわ。借りならわたしのほうがあるし」

 

 そうだろうか。

 ──借りがあるのは、こちらの方だ。

 

「ま、これ以上責めるつもりはないから。あなたにはあなたの事情があるのは考慮します。わたしがそれに対し、どうこう言えることはない。けど」

 

 咲耶は、眉を下げて、か細く言う。

 

「……助けのひとつも求めてくれないのは、寂しいわ。友達なのに」

 

 ぐさりと胸に刺さる。

 

「すまん」

「まったく。二度目はないんだからね!」

 

 

 

「それで、その。話があるのだけど」

 

 正座したまま俺は頷く。

 

「ええと。カレーに、具を追加したんだけど、ね?」

 

 咲耶はしどろもどろに、視線を彷徨わせ。

 

 

「……なんか、入れすぎて味がボケた。水っぽいし酸っぱい……助けてぇ……」

 

 

 仁王立ちから一転、表情がふにゃふにゃになる。

 

「おまえ……」

 

 なんでそんな一気に崩れるんだよ。

 

「何よぅ。あなたに『助けを求めろ』と言った手前ですからね、わたしは実践するわ。あなたとは違うので。あなたとは違うので! 文句ある⁉︎」

「いや、えらい」

「舐めてんの?」

「感動している」

「棒読みなのよ」

 

 本心なのに。

 

「正直、とっても情けないけどね! でも美味しくないものを出すよりマシなのよ‼︎」

「俺は、おまえのそういうところが割と好きだ」

「……⁉︎ いや、褒めてないでしょ! 褒めてないわよね今の、っていうかあんた、さてはまだ頭回ってないな⁉︎」

 

 ……いや。やけくそとはいえ、包み隠さず正直に言える強さは、俺にはない彼女の美徳だと思う。本気で。

 

 

 

 さて、彼女について台所に向かい、鍋の中身を覗き見る。ちょっと赤みがかった普通のカレーに見える。

 

「……これ、なんとかできる?」

 

 言われるがまま味見をする。正直、俺は味とかよくわからないのだが。

 

「十分美味いよ」

「お世辞はいいから」

 

 本心なのに。

 とりあえず調味料をいくつか使い、咲耶に味見をしてもらいながら整える。

 

「……美味しい!」

「よかった」

「飛鳥って、料理上手よね」

「別に上手くはないけど。ばあちゃんに最低限は仕込まれてるから」

「へぇ〜。そうなんだ」

 

 相槌の声音がなんだか嬉しそうだった。不思議に思って咲耶を見る。

 

「飛鳥っておばあちゃん子だったんだな〜って。あなた、全然自分のこと教えてくれないじゃない? わたし、あなたがどんな人でどんなふうに育ったかなんて知らないもの。それがちょっと知れてうれしい」

「それはお互い様だと思うけど。……まぁ、友達だし」

「そっかー。友達かー。ふふ」

 

 咲耶はにこーっと笑う。身体もわずかに跳ねて、束ねた髪が揺れた。

 ……あ、もしかしてこいつ。今日はすごく機嫌がいいな。というか元々機嫌がよかったから、「カレー食べる?」しに来たのか。俺が機嫌を損ねていただけで。

 よくわからないけど機嫌直ってくれてよかった。ありがとうばあちゃん。今度好きだったまんじゅうと激辛のカップ麺を供えに行こう。

 と思いながら調味料を戻すため、冷蔵庫を開けて気付く。

 

「なぁ咲耶。なんで焼肉のタレだけ何種類もあるんだ?」

 

 咲耶が顔を背けた。

 

「…………おまえ」

「お、美味しいじゃない!」

「舌が庶民なんだな、エセお嬢様」

「さよなら、わたしのイメージ……」

「おまえのことを知れてうれしいよ」

「知らなくていいこともあるのよ、この世には」

 

 そうか、世界の真理を知ってしまったな。

 

 

 

 

 そして大皿が二人分、テーブルに並ぶ。

 ごろごろと具の入ったカレーなんて本当に何年振りだな、と思いながら相伴に預かる。カレーは美味いし、人の作ったご飯というものは美味い。「わたし料理下手だから」とか、咲耶は卑下してたけれど、全然そんなことはないと思う。

 ……と言っても「空腹の人間の言うことなんて信じません」と一蹴された。

 今日は何を言っても信じてもらえない。俺のせいだな。

 日頃の行いを改めなければと心底思った。信頼は欠かしていいことがない。

 

 食事の最中に、咲耶がふと言い出す。

 

「さっきから、あなたの金銭事情を考えていたのだけど埒が明かないからもう聞くわね。……そもそもあんたの家、なんで更地になってたの?」

 

 ごもっともな疑問だった。

 

「正直、笑いを取りにくいから言いたくないんだけど」

「そういう基準なの? ていうか笑いを取りたいの?」

「いや別に」

「? ええと、言いたくないならいいのだけど……」

「いや、黙ってた方が深刻に思われるから、言う」

 

 別にそんなたいした話ではないのだ。

 

「俺さ、そもそも親がいないんだけど。でもその辺で特に苦労はなく、俺はばあちゃんに育てられたということだけが重要で」

「ああ、それで料理を」

「ただ高校入る直前に、ばあちゃんも死んで──あっこれは綺麗にぽっくり逝ったのでまじで気にしないで欲しくて」

「随分と予防線張るわね」

 

「何も苦労してないのに『苦労したんだね……』って目で見られるのは、嫌だろ」

「本人が気にしてないのに『そうなんだ……』って言われるほど気まずいことないわね」

 

 咲耶が淡々と頷く。

 

「それに、昔のことはよく覚えてないし」

「そ。じゃあわたしも気にしないわ。……それで、結局更地はなんだったの?」

「掻い摘んで言うと、俺が異世界に飛んだ直後に家の持ち主になってた伯父が会社ぶっ潰してな。売っ払う羽目になったんだとさ」

 

「……え、なに? 純粋に現世が世知辛いって話?」

「そう、だから言いたくなかった」

 

 異世界、微塵も関係がない。召喚されなくても更地になっていただろう。世は無常だ。

 伯父との仲も悪くない。俺が生きてたことを手放しで喜んでくれるくらいにはいい人だ。だから本当に、たいした話ではないのだが。

 

「これ、笑い取れると思うか?」

「取れない。無理」

「やっぱり? だよなー」

「まず取ろうとしないで」

「鉄板ネタになるかと思ったんだけどな。異世界から帰ったら家が更地になってたって」

「ウケないウケない、不謹慎」

「俺は家帰った時爆笑したのに」

「わたしはそれ見たとき、隣で引いてたからね」

「どうせ更地になるなら原因は隕石がよかった……」

「⁇」

 

 隕石は良いものだ。あの圧倒的な暴力の前では人類は無力だ。そういうところがとても良いと思う。理不尽が極まった桁違いの脅威にはいっそ見惚れるというもので、あれこそがまさに最強だ。生まれ変わったら隕石になりたい。

 などと物思いにふけっている間に、咲耶はすごく微妙な顔をしていた。

 

「あのね。確信したけど。あんた感性おかしくなってるわ」

 

 俺の服をガン見する。

 

「なんだよ」

 

 今日はわかめじゃないのにまだ文句あるのかよ。

 

 

 

 

 ごちそうさま、の後。食後の紅茶と共に咲耶が言う。

 

「とにかく、当面の目標の修正をしましょう。まずは生存、いいわね? それなしで社会復帰も何もありません」

「ごもっともです」

「その第一歩として! 提案があります」

 

 びしりと指を突きつける。

 

「わたしに料理教えて。対価として、その分の食費はわたし持ちね」

 

 それは、なんというか。都合が良すぎて受け入れがたい。

 

「咲耶、金は? それ、親御さんのお金で俺が飯を食うことにならないか?」

 

 それはちょっと筋が通らないだろう。

 

「いえ、仕送りは受け取っているけど。手をつけずに生活費はほとんど自分で出してるわ」

「……どこから?」

 

 バイトしてるとしても足りないだろう。

 咲耶は、目を泳がせた。

 

「えと、その、マネーゲームのビギナーズラックで少々……」

「うわっ上流階級の遊び」

「ち、ちがうの。婚約破棄の慰謝料が入って、ヤケで触ったらなんか、増えちゃって……」

「えっ」

「えっ?」

 

 今、さらっと言ったが。彼女に付随していた「婚約」というもの。これが、文月咲耶を「高嶺の花」として名高かくしていたのが、かつての話だ。そのため、彼女には男友達というものが一人もいなかったのだが。

 

「……婚約破棄されたのか?」

「されたわよ。わたしがこっちに帰ってきた後、即」

 

 さらりと言う。「まじか……」と俺が反応に困ると、咲耶は軽く笑いを零した。

 

元婚約者(むこう)も嫌だったんでしょうね、別に好きでもなんでもない上、二年も謎に失踪してた女と結婚するのは。そんなわけでお家からも放り出されて、『学校までは面倒見るけど後は自由にしなさい』って感じ。要は不干渉だから、ま、気にしないで」

 

 と軽く言っているけど実際はどうなのか。咲耶の表情を読もうとするが、飄々としてまったく読めない。くそっ、今演技入ってるな。

 

「ということなので。環境のおかげではありますが、一応、自分が自由に使えるだけの資金はあるの。問題はないわ」

 

 逃げ道が一個塞がれた。苦し紛れにもう一手。

 

「……友達って、三食共にするものか?」

 

 咲耶はゆっくりと瞬きをした。

 

「確かに、普通はしないのでしょうね。でもわたしたちはします。なぜなら友達の定義には、友達の数だけ正解があるのだから。以上! これが完璧な論理よ!」

 

 『その反論は既に想定済み』というように、得意げに胸を張った。

 

「勘違いしないことね。これはあくまで利害の一致。引目を感じる必要はないわ。……ていうか倒れられる方が困る! 怖い! だからあなたのためなんかじゃないのよ。本当に」

 

 俺は両手を上げた。

 

「全面的にそっちが正しい。完敗だ」

「…………よしっ」

 

 咲耶は小さくガッツポーズした。

 

「でも全額そっち持ち、っていうのは勘弁してくれ。来月以降は懐も大丈夫だと思うんだ。新しくバイトに受かったし」

「あらおめでとう。面接、苦労してそうだったものね。ちなみにどこ?」

「駅前の喫茶店。ほら、ドアが真緑の」

 

「ああ、あのなんかレトロな店ね」と相槌を打ち、咲耶は両手にカップを抱える。

 

「へえ、ふーん……」

「なんだよ」

 

「なーんでもない」

 

 そう言って、意味深に微笑んだ。

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

「……そういえば。ここ数日、ずっとカレーの匂いがしてたけど。なんでだ?」

「う、それは」

 

 カップの縁を指でなぞって、上目にこちらを見る咲耶。

 

 

「あなたのお味噌汁が、美味しかったから……負けたくないなって思って。とりあえず絶対に作れる料理を、ひとつ覚えようとずっと練習してたの……」

 

 

 まじかよ。めっちゃカレーが好きな人かと思ってた。

 

「咲耶……」

 

 赤面する彼女に、伝える。

 

 

「俺は、出汁を取るのが上手いぞ」

 

「…………なんで今ドヤ顔した? なんで今マウント取った?」

 

 

 いやだって。

 

「そこに隙があったから」

「あんた性格悪いわ、ほんと」

 



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第六話 窓で繋がる仲もある。

 

 話は金曜日、飛鳥たちが『友達の定義』を詰めていた時に遡る。

 放課後の教室で、二人のやりとりを目撃したひとりの男子生徒がいた。

 

 彼の名前は笹木慎(ささきまこと)。自他ともに認める正真正銘「普通」の高校生だ。そんな同級生からの「例の二人」への印象は「近寄りがたい生徒」である。

 妙な噂については笹木はそこまで気にしておらず、挨拶や世間話は交わすのだが。どことなく雰囲気が浮世離れしており、周りにあまり興味がなさそうで、妙に話しかけにくい。

 そんな、笹木慎の抱いていた印象を覆すのが、あの放課後の一幕だった。

 年上で、意味ありげで、関わりにくい──それを厄いと言う者もいるが、笹木はひっそりとミステリアスでクールだと思っていた──二人が。

『友達の定義』、そんなことを馬鹿真面目に語っている。

 

 笹木は盛大に困惑した。

 ──なんで? 高校生がやることじゃなくない? おかしいよ。

 

 教室を遠ざかりながら、笹木は思った。

 ──やばい、逆になんかちょっと面白くなってきた。

 

 

 笹木慎は普通の高校生だ。ただ少し、少しだけ。

 好奇心に正直だった。

 

 

     ◇

 

 

 喫茶木蓮(もくれん)。駅前の商店通りにある、鮮やかな緑の扉が印象的な小さな店。そこが俺の新しいバイト先だった。

 店の前に着き次第、とりあえず俺は扉を拝んだ。面接に落ちまくった末に辿り着いた店なので拝みもする。まあ、俺が入るのは裏口からなのだが。

 

 などと考えながら、従業員用のスペースに裏口から入ったら。

 

「あれ、新しく入ったバイトって陽南だったんだ」

 

 休憩室の前から、喫茶店の制服を着て現れたそいつは。この前の放課後の教室で咲耶とのやりとりを目撃された同級生、その人だった。

 笹木慎。明るく染めた短髪に控えめなピアスという、一見軽そうだが表情と物腰が穏やかな、とっつきやすい同級生だ。

 友達と言える程ではないが、それなりに話す仲ではある。だから、よりにもよってこいつにあの一件を見られた、というのがめちゃくちゃ気不味かったりするのだが──それは、一旦保留にして会話をする。

 

「なんだ。笹木もここで働いてたのか」

「うちの親戚の店なんだよ、ここ」

「へえ、世間は狭いな」

 

 よろしく、と言い合う。

 

「陽南が同僚になってくれて丁度よかった。ちゃんと話してみたいって思ってたんだ」

 

 ……予想外に、好意的な言葉が続いた。

 

「そんな急に。なんで?」

「ほら、この前のこと。教室入る前に話、結構聞こえてたんだけど……あ、ごめんね。忘れるって言ったのにきっちり覚えててさ」

「ああ、別に全然、構わないけど」

 

 いや、めちゃくちゃ構うけど! 今、『結構聞こえてた』って言ったよな。一体、どこからどこまで聞いてたんだ……。

 笹木は人の良い笑みを浮かべながら、

 

「あの件で、陽南ってとっつきにくいかと思ったけどさ、意外と……うん、意外と面白い人なんだな〜って思ったんだよ。それが理由」

 

 察する。

 ──その「面白い」は、かなり婉曲化した「アホ」って意味では?

 こいつ、さては大分最初から聞いてただろ。

 

 こんなことなら教室で話すんじゃなかった。

 教室の周りの人の気配とか読めなかったのか、というと、そういうのは相当気合や緊張感がないと読めない。というより、俺は普段意識的にスイッチを落として、そういうことはわからないようにしている。だってもう、いらないし。常在戦場みたいな技術を維持していると、異世界ボケの原因にしかならない。(だから、ぽんぽんと魔法を使う咲耶に苦い顔をしているのだが)

 

 にしても、そうか。アホって思われたのか……。

 無言で打ちひしがれる。別に咲耶にアホって言われても響かないけど。他の人に言われると、めちゃくちゃ、クる。

 

「でさ、文月さんとはどういう関係?」

 

 笹木は好奇心を隠さずに、聞いてくる。率直な態度だから不愉快ではない。

 

「ただの友達、っていうには、ただならないように見えたけど」

 

 前言撤回。当然本質を突くな。

 

「えーと、アイツは、なんていうか……」

 

 困る。アイツのことを、なんて言えと? 元宿敵だった友達、戦友のようなもの、いわば共犯者でもあるような──どれも物騒、有り得ない。

 朝飯を共にする仲で、これからは夕飯も一緒に作る約束をしている──流石にそれを、何も知らない他人に「友達」と説明しないだけの良識はある。正しく通じないだろう。

 俺たちにとっては、それが紛れもなく友達の範疇でも、だ!

 

 ぽんぽんといくつかの答えが湧いては消えていくが、いつまでも言い淀んでいられない。限られた時間で思考し、ええいままよ、と脊髄で答えを選ぶ。

 そう、アイツは。

 

 

「窓から入ってくるタイプの、友達」

 

「…………」

 

 

 笹木、硬直。俺は、沈黙。

 わかっている。明らかに選択をミスった。俺はもう、俺の脊髄を信じない。人間、思考を捨ててろくなことがない。

 

 ──なんでよりにもよって一番共感されなさそうな、それを選んだ?

 

 というか俺、結構口軽いよな。割と失言するというか。余計なことを口走るというか。

 冷や汗を流しながら、どう誤魔化そうかと考えているうちに、笹木の表情が変わる。

 

「陽南」

 

 ずいっと詰め寄った笹木は、神妙な声音で俺に言った。

 

 

「……おれも、幼馴染が窓から入ってくる」

 

「まじでか」

 

 

 目を合わせ、一拍。互いに間合いを測り、笹木が口火を切った。

 

「あれさぁ、おれは危ないと思うんだよね!」 

「そうだよな、他の人に見られたら危ないやつになるよな!」 

「うん? や、怪我しそうって意味だけど、それもわかるよ。ぱっと見泥棒みたいだし」

「それ。でも合理的だからって、やめないんだアイツは!」

「わかる。そういう問題じゃないんだ。合理的で許されちゃいけないこともある」

「常識だよな。窓から入ってくるのは常識を省みてない」

「でも正直、遊びに来てくれるのは嬉しいからあまり怒れないんだよね」

「妥協しそうになるよな。ちゃんとノックされただけで喜んでしまった……」

「だけどこう、別の意味で冷や冷やしない?」

「タイミング悪い時に入ってきたらどうしようってな」

「そう、変な時間に入ってくるんだよね」

「午前三時」

「それはマジでひどいね」

「迂闊に服も脱げん」

「部屋に変なものも置けない」

「……ああ」

「……うん」

 

 語るべき言葉はもういらなかった。

 

「これ、誰にも言えなかったんだよ」

「俺もだ」

 

 お互い無言で拳をぶつける。

 いや、一時はどうにもならないだろと思ったが。どうにかなったな!

 脊髄、責めて悪かった。おまえの選択は正解だった。これからも俺の脳と一緒に頑張ってくれ。

 

 相互理解はすなわち友情の第一歩だ。初手で同僚、兼、同級生と良い関係を築いた労働環境には、もう勝ちが約束されている。前途は明るかった。

 

「あとなんか、入ってこられると窓を盗られたような気がするよな。俺の窓なのに」 

「えっ、それはちょっと何言ってるかよくわかんない。何言ってんの? おかしいよ」

 

 前途、ちょっと暗くなった。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 ともあれ、バイト初日からいい滑り出しだった。

 業務自体も、飲食店は久々だったが、身体が覚えていたので特に支障もなく覚えていく。

 と、日が暮れ丁度客足が少なくなった頃のことだ。店内に残る客はたった一人。

 それは、鮮やかなオレンジ色の髪をした、背の小さい女の子だ。

 カウンター席に座るその子は、俺に向けて手を上げる。

 

「ヘイ、そこの新入りぃ」

 

 呼ばれてぎょっとした。なんだその変な喋り方は。

 そいつはメロンソーダを啜りながら悠々とカウンター席で膝を組み、俺に管を巻く。

 

「貴方。一体全体、誰に断って、ここでバイトなどやってやがるのです?」

 

 はんっと見下したような態度で、少女は言った。

 

「……は?」

 

 なんだこいつ。迷惑客か? 

 中学生だろうか。そいつは分厚い眼鏡をかけていて、髪は両サイドで三つ編みのお団子にしていた。童顔で目が大きく、どことなく人形のような印象を受ける。多分、海の向こうの血が入っているのだろう。瞳はうっすらと緑がかっているし、髪もオレンジ色に見えるが言い換えれば「赤みがかった金髪」だ。まつげまで同じだから、地毛らしい。

 端的に言って見た目は随分と可愛いのではないだろうか。少なくともひと目見たら忘れないくらいには。大分可愛いなそれ。

 だが見た目が良くても、中身が駄目だと全部駄目だと思うのだ。

 とりあえず仮称はみかん女にしようと決め、俺は問いに答える。

 

「別に、『誰に断って』って聞かれても。普通に面接受けて雇われただけですが」

 

 みかん女は鼻を鳴らした。

 

「嘘ですね」

「なんで」

「この店はバイト募集を長らくしていません。募集していないはずなのに、知らない間に雇われていた貴方は不審です」

 

 みかんは理路整然と、落ち着きのある語りで根拠を言う。

 

「あ、敬語はいらないです。年上に慣れない敬語使われるとむずっとします」

 

 ……ただの厄介な客かと思ったが。そうでもないらしい。

 

「わかった、白状する。実は──」

 

 

 この店に雇われた経緯は正直、運だ。丁度マスターがバイト募集の張り紙を出してるところに遭遇したのだ。面接連敗だった俺は、そのまま速攻で勝負をしかけたのだが、マスターのお爺さんが、俺を見て言ったのだ。

 

『あれ、きみ。昔、ウチに通ってませんでした?』

 

 ……正直な話、俺は覚えていなかったのだが。適当に話を合わせているうちに、そのままあっさりと採用された。

 完全に幸運の為せる経緯だった。捨てる神あれば、というやつだ。ありがたい話である。だから俺は喫茶店の扉を拝むし、なんならマスターの爺さんも拝む。

 多分、そろそろ人生何もかも上手くいく気がする。バランス的にそろそろ運が回って来ないとおかしい。なんか次のジャンケンとか絶対に勝てる気がする。

 

 

「──というわけだ。だから、君が募集の張り紙を見ていなかっただけで、俺は正当に採用されている」

「いや今の話、ちっとも正当じゃないでしょ。ノリじゃねーですか」

 

 ばれたか。

 

マスター(おじいちゃん)、そういうテキトーなところありますからね〜」と、溜息混じり、おでこを押さえるみかん。うーん、と唸って腕を組んで。俺を見上げて偉そうに言う。

「結局信用がおけないことには変わりないので。芽々(めめ)が、貴方に試験を課すことにします」

 

 めめ。みかんは、名前が一人称の子なのだろうか。

 

「いや、試験て。何者なんだよ」

 

 オレンジ髪の少女は冷ややかに俺を見て、真緑のメロンソーダを啜り、

 

「別に、ただのミステリアスでサブカルチャーな普通の女の子ですよ」

 

 即座に矛盾する、胡乱な自称をした。

 

「あと、この店の……身内、ですかね〜。裏の支配者的な?」

 

 ……こいつも中二病か?

 みかんはグラスを一旦置いて、隣の椅子にかけていた自分の上着を羽織る。そして上着のポケットから、名刺のような何かをスッと差し出す。それはうちの高校の生徒証だった。

 

寧々坂(ねねざか)芽々です。こんな見た目ですけど、れっきとした高校生なので。よしなに」

 

 よく見たら、彼女はうちの制服を着ていた。さっき羽織ったぶかぶかの上着(ブレザー)と、棒切れのような脚が覗く短すぎるスカートの色に見覚えがある。

 ブラウスが指定じゃないものだったせいで、今まで気付かなかった。校則がゆるいから皆好き勝手に着崩すのだ。制服を指定通り着ているのなんて、咲耶くらいじゃないだろうか。

 差し出された生徒証を読む。

 

「なんだ、同学年じゃん。隣のクラスか。ビビって損した」

「流石に同輩とわかってなきゃ、あんな難癖付けませんよ。ただの失礼じゃないですか」

「……いや、同輩でも初対面相手にやることじゃないだろ」

 

 同輩、と自分で言ってふと思う。そういや、本当だったら後輩だったやつらが同学年なんだよな。笹木に対してはあまり意識しなかったけど。目の前の少女は、だいぶ「後輩らしい」気がした。童顔と慇懃無礼のせいだろうか?

 

「えー。芽々、そんな変なことやりました?」

 

 俺の指摘にきょとん、と首を傾げるご同輩。

 

「不審がっていたのは本当ですけど。『新入り』呼ばわりは半分威嚇で、残り半分は小粋なジョークだったのですが? ほら、フィクションでよくある、酒場でチンピラが絡むお約束。あれのパロディを芽々は演出しようと思って」

「一体何を言っているんだ?」

 

「そっか、通じないんですね……」と残念そうな表情を返された。

 いや、なんとなくそんなシーンがあるのはわかるけど。それを演出って、何?

 

 みかん女、あらため寧々坂芽々に向き直る。

 

「なぁ寧々坂、」

「ネネザカって言いにくいので、『芽々』でいいですよ」

「試験って何だ?」

「芽々が貴方を気に入るかどうかの試験ですけど?」

「それ、合格しなかったらどうなるんだ」

「そうですね。芽々の気に入らない人間が店にいる、ということなので……」

 

 店の身内なら機嫌を損ねてどうなるのか。

 ──もしかして、クビ。戦々恐々とする。

 彼女は、眼鏡をくい、と持ち上げる。

 

「シフトを教えてもらって、その時間は芽々があまり店に来ないようにします」

「……それだけ?」

「それだけですが? なんですか。芽々が貴方の労働の権利を妨げるとでも?」

「うん」

「まさか。そんな横暴するわけないじゃないですか」

 

 理不尽な難癖をつけてきたくせに、言ってることがすごいまともだった。

 なるほど。こういうタイプか。寧々坂芽々──彼女は一見わけのわからないことを言っているように見えて、しっかりと理屈が通っていた。眼鏡の奥の両目からは、理知的な印象を受ける。喋り方はちょっと変だし、第一印象はげんなりしたが。

 

「俺、多分おまえのこと好きな気がする」

「そですか。惚れちゃだめですよ、飛鳥さん」

 

 顔色ひとつ変えず、芽々は平然と返した。

 

「あれ、なんで俺の名前知ってるんだ?」

 

 まだ言ってないのに。

 

「はぁ。そんなの、知ってて当たり前じゃないですか」

 

 まあそうか。同学年なら、そうだな。

 

 

 

「それで、試験って何をするんだ?」

 

「そうですね」と芽々はカウンターテーブルに立てられたメニューを開く。

 

「飛鳥さん、好きなコーヒーは?」

「俺はコーヒーわからん」

「そんな堂々と喫茶店の店員が言います⁇」

「小豆入れると美味いよね」

「ゲロ甘じゃねーですか」

 

『なんで雇われた?』という目で見てくる。早速失点したらしい。

 

「まぁ、いいですけど。じゃあ代わりに何か好きなメニュー、言ってくださいよ」

 

 芽々は細っこい脚を組んだまま、気怠げにグラスの中身を啜る。ふと、芽々の手元のグラスに目が惹かれた。透明なガラスと氷の合間に、透き通った緑の液体が通る。淡い照明の光が反射して、綺麗だと思った。

 

「メロンソーダかな。アイスが乗っていると、なお良い」

 

 俺の答えを聞いて、芽々はストローを唇から離す。グラスの中身は空になって、氷がカラコロと鳴った。

 

「なるほど。良い選択です。では、とりあえずメロンクリームソーダを追加注文で。それで試験を行いましょう」

「出来を試験するって意味か?」

 

 バイト初日だぞ。クリームソーダくらい作れるけど。

 

「いえ、違います」

 

 芽々は首を横に振る。

 

「試験の内容は……後でお教えしましょう」

 

 そう言って、年下の後輩っぽい同輩は、にっこりと胡散臭く微笑んだ。

 



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第七話 メロンソーダを論じる。

 

 そして。作ってきたクリームソーダを前にして、寧々坂芽々は言う。

 

「それでは〝試験〟を始めましょう」

 

 喫茶木蓮のクリームソーダは、古式ゆかしい、ひねりのない一品だ。白い皿の上に、乗った緩やかなカーブを描くグラス。中はたっぷりと氷と透き通った緑の液体で満たされ、半円のバニラアイスで蓋をされている。てっぺんには、シロップ漬けの赤いサクランボだ。

 芽々は長いスプーンでサクランボを指し示し、試験内容を告げる。

 

「このチェリーを、食べるタイミング。それは、最初でしょうか、それとも最後でしょうか? それを、答えてください」

「なんだそれ。それは試験っていうより……」

「ええ、心理テストみたいなものです。芽々が知りたいのは、『貴方と気が合うかどうか』なので。飛鳥さんが何をどう見て、考え、感じるのかということを知りたいのです」

 

 それはまた不思議というか、面倒なことを言う。だが、深く狭い人間関係を求めるには利に叶っているのかもしれない。

 

「ま、軽く決めていいですよ。──でも、しっかり考えてくださいね」

 

 俺は芽々の意図を数秒、考えて。

 

「最初だな」

「ほほう。その心は?」

 

 品定めするように、芽々は眼鏡の奥で翠眼を細めた。やはり『考えて』というからには理由が肝らしい。そこはもう、想定通り。理由はちゃんと用意してある。

 

 

「まず、前提として。『このサクランボに自我がある』とする」

 

「待って」

 

 

 慌てたように話を遮る芽々。

 

「ま、え? いや、いきなり何言ってんだてめーですよ」

「なんだよ。聞いたのはそっちだろ。最後まで聞けよ」

「おかしいでしょ」

 

 芽々は絶望的な表情をした。

 

「いやだから、サクランボに自我があるとするじゃん?」

「如何様にも論を曲げない、とおっしゃる?」

 

 一寸の虫にも五分の魂、サクランボにも一分の自我だ。

 芽々は眉間を揉んだ。

 

「……お題を選んだ芽々が悪かったですね。諦めます。続きをどうぞ」

 

 促されたので、弁論再開。俺はサクランボを指差す。

 

サクランボ(こいつ)はクリームソーダの一部であり、構成要素、即ち大事なパーツだ。それに異論はないと思う」

「そうですね。無いとなんとなく物足りないですよね、わかります」

 

 芽々はこくこくと頷く。

 

「俺は来世がサクランボなら、将来はクリームソーダの上に乗りたい」

「は?」

「シロップ漬けサクランボ界ではクリームソーダの上は人気の就職先だ」

「頭メルヘンか?」

 

 丁寧語が消えた。何故。

 

「つまり、クリームソーダの要を担うこいつ(サクランボ)の自我、自認、自己同一性(アイデンディティ)、そして誇り(プライド)は『己がサクランボであること』よりも『己が〝クリームソーダ〟であること』にあると仮定できる。はずだ」

 

 ──と、ここまでが序論である。

 

「うううん?」

 

 首を折れそうなほどに曲げて唸る芽々。

 

「前提も仮定もおかしいんですよ。なんなの〜?」

「もしや通じてない、のか?」

「いや、わかります論理は。わからないのはおまえです」

 

「貴方」が「おまえ」になった。ごりごり失点を重ねている気がする。おかしいな。俺はただ、求められたことを求められたようにやっただけなのに。

 まぁ、通じているなら問題ないだろう。気を取り直し、続きだ。

 

「これまでの前提、仮定を踏まえて。もしサクランボを『最後に食べる』とすると、まずはどうする?」

「そうですね。まずは落っこちないように。敷かれたお皿の上にチェリーを置きます」

 

 そう言って芽々は実際にやってみせて、サクランボ抜きのクリームソーダを手に取った。グラスにはシンプルな緑と白のみが残っている。

 

「じゃあここで前提の見直しだ。俺は、サクランボがクリームソーダの大事な構成要素だと言ったが。実のところ、なくても『クリームソーダという存在』は成り立つんだよな」

「たしかに。上にチェリー乗せない店もたくさんありますよね」

 

 芽々は頷き、アイスの部分を掬ってひと口食べる。サクランボは受け皿の上にぽつんと置かれてたまま。主成分は、あくまでアイスクリームとソーダだ。

 

「そう、皿の上に除けられる。その時点でもう、サクランボはクリームソーダから除外されているわけだ。そしてこいつが、ようやく食べられる最後のときには。──グラスの中は空っぽになっている」

 

 芽々が手を止めた。

 

「クリームソーダの『存在をたらしめる主成分』はもうどこにもない。そうなると。皿の上に残されたこいつは、クリームソーダの要素なんかじゃなくて。

 ──もはや〝ただのサクランボ〟じゃないか?」

 

 かちゃり、とスプーンを置いて、芽々は視線で俺の言葉を促す。

 

 

「つまり、『己が〝クリームソーダ〟の一部である』という、自我の崩壊だ」

 

 

 店内のジャズ曲だけが流れるシン、とした空気の中で。

 

「あのですね」

 

 芽々が、深々と息を吐いた。

 

「人間は、チェリーの自我に共感できるようにできてないんですよ? 飛鳥さん」

「ただの仮定だよ。サクランボに自我があるわけないだろ。何言ってんの?」

「は? マジでどの口で言ってやがるですか。おまえの来世梅干しの種な。今呪ったんで覚悟しとけよ」

「くそっ、白米の上に乗るしかない」

 

 芽々はざくざくとアイスとソーダの間の凍った部分を食べながら、流し目を俺に向ける。

 

「でも、言ってることはギリギリわかります。芽々たちが好きなのはあくまでクリームソーダで、チェリー単体ではない。だから最後にぽつんと残されたチェリーに『意味はない』ってことですよね」

「そう。紆余曲折を経て、念願叶いクリームソーダとなったこのサクランボは、その結末を良しとするのか? いいや、しないだろう」

「そうですね。そうかなぁ……」

 

 結論。

 

「だから『一番初め』に食べる。そいつがクリームソーダの上に乗っているうちに。それが紛れもなく一部であると証明できるうちに。そいつが、そいつであるうちに」

 

 そして。芽々はゆっくりと瞬きをしながら、俺の答えを吟味する。

 

「──いいでしょう。『合格』です」

 

 ソーダをくるりとひと混ぜする。

 

「認めるのは癪ですが貴方の答えはエモーショナルだと思います。正直芽々はちょっとかなり好き。……文脈依存(ハイコンテクスト)すぎて、初対面だと思ってる相手にする会話ではないですけどね!」

「それは君が言うか?」

 

 先に妙な会話を仕掛けたのはそっちだろ。俺はむしろ芽々に合わせただけだ。

 

「いや釈然としねー」と芽々は頬を引きつらせた後。「ですが」と、指を小さな顎に当てた。

 

「その論理で考えると、芽々の答えは飛鳥さんとは真逆になりますね」

 

 真逆。それでも『最後に残す』ということか。

 

「なるほど?」

 

 理由はなんだ、と相槌を打つ。芽々はグラスに付いた結露をつつ、となぞりながら語る。

 皿の上のサクランボをつついて、芽々はいたずらっぽく俺を仰ぎ見た。

 

 

「たとえ器の中身が空っぽになっても、ソーダ一滴残らずとも。乗せられたその時からこのチェリーは〝クリームソーダ〟の一部です。それは揺るがない事実だと、芽々は知っている。──そう考える方が、エモいでしょ?」

 

 

「だから芽々は、最後に食べることにします」

 

 俺はその答えに、なるほど、と頷いて。

 

「さては、情趣のわかるやつだな」

「なんでもないことに『素敵』を見出すのが、楽しく生きるコツですからね」

 

「俺、やっぱり芽々のこと好きだわ」

「それはどうも。両思いですね、飛鳥さん」

 

 眼鏡の奥で目を細めたまま。顔色ひとつ変えず、芽々はしれっと返すのだった。

 

 

「あと芽々、シンプルに、好きなものは最後に取っておくタイプなので」

「あれ……もしかして、聞かれてたのってそんな単純なことだったか?」

「そうですよ。言ったでしょ『心理テストみたいなの』って。誰がいきなり『自我を論じろ』と言いましたか。誰だよ。おまえだよ。おまえが勝手に始めたんですよ。まじ意味わかんねー反省しろですこのアニミズム野郎」

 

 めちゃくちゃ早口で詰られた。

 

「ごめん」

 

 現世、難しいな。

 

 

 

「ま、それはともかくとして。どうぞこれからもよろしくお願いしますね、飛鳥さん」

 

 そう言って芽々は握手を求め、小さな右手を差し出した。

「ああ」と、俺は自然と握り返そうとして手を止める。右手には、今は薄い手袋を嵌めているが。その下は、いつも通りだ。

 

「……いや、今どき握手なんてしないだろ」

「そうですか? ま、いいですけど」

 

 芽々は気にした様子もなく手を下げた。

 

「あ、そうだ。今スマホ持ってます? 業務中だから持ってない、ですか。では後で友達登録しましょう。ふふ……死蔵のスタンプ、送りまくってやりますよ……!」

「秘蔵じゃなくて死蔵なのかよ」

「飛鳥さんのトーク欄なんか、使い道のないスタンプの墓場で十分です」

 

 あ、そういや咲耶と連絡先の交換、まだしてなかったな。ケータイをあまり使わないから忘れていた。アイツの電話番号は一方的に知っているんだが。

 などと話していると、ようやく奥から笹木が用を終えて出てくる。

 

「あ、芽々じゃん。来てたんだ、って……」

 

 笹木は俺と芽々を見比べた後。穏やかな顔立ちに、険しい表情を浮かべた。

 

「……芽々、さては陽南を困らせてただろ。ごめんな陽南。こいつ、気難しくて」

 

「うわっ(マコ)にバレた。って、ちがいますよ! 困らされてたのは芽々の方ですってば!」

 

 マコ……? あ、笹木の下の名前、(まこと)か。

 芽々の反論に、笹木は短い眉をひそめた。

 

「いや、陽南がそんなことするわけないだろ。多分。……しないよね?」

 

 笹木はいいやつだな。俺は力強く頷く。

 

「ああ、しない」

「は? なんですかこいつ。覚えとけよ」

 

 

 

「それにしても。二人の関係はなんなんだ? なんか、兄妹みたいに見えるけど」

 

 ああ、と頷いて、笹木と芽々は同時に互いを指を差した。

 

「こいつは、幼馴染で」

「ついでに、親戚です」

 

 合点がいった。というか、笹木の『幼馴染』って。

 

「そうか、芽々……おまえ、ひとんちに窓から入ってくる人種だったのか」

「なんですかそれ」

「いや、納得した」

 

 おまえも大変だな、笹木。

 

 

 

 と、その時。

 カランカランと音がした。しばらく客足が途絶えていた喫茶店の扉が開く。午後八時半。そろそろまた、波が来るか。

 客を迎えようと頭を切り替え、振り返る。

 

「……げ」

 

 扉を開けたのは、咲耶だった。制服ではなく黒のワンピース姿である。彼女は俺の姿を見た後、笹木たちの存在に気付き、よそ行き用の微笑みを見せる。

 そして唇だけを動かした。

 

 

 

「(来ちゃった)」

 



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第八話 わたしはあなたを目で追う。

「なんで来た?」

 

 喫茶店の扉を開けるなり、わたしを出迎えたのは飛鳥の渋面だった。

 なんで来たのか、ってそれはもう。

 

「あなたがちゃんとできてるか……というのは、実はそんなに心配してなくて。友達のバイト先に行くって、憧れてたの。えへへ」

 

 飛鳥は無言で面食らったような反応をした。

 

「あ、もしかして嫌だった?」

「いや。驚いたけど、平気だな」

「そうよね。あなた、昔はお客が同級生だらけのファミレスでバイトしてたし」

「……」

「どうしたの?」

「……いや、そんなこともあったなって」

 

 その頃、わたしは令嬢ロールに全力だったので「ファミレスなんて全然行きません」という顔をしていた。ので、結局陽南君が働いている時には一度も行けなかったのだ。今思うと惜しいことをした、本当に。だから今度は同じ失敗はしない……! と、心に決めた。

 今のわたしはただの文月咲耶。陽南飛鳥の友人なのだから、バイト先に突撃するくらいわけない。『友達』の肩書き、それは結構免罪符。

 

「でもなんで来ちゃうかなぁ……」

「えっ」

 

 なんだか反応がおかしい。バイト先に来られたのが嫌なんじゃなくて、本当に何かよくない理由があるかのような。

「おまえ、夕飯食いに来たんだろ」

 

「ええ」と頷く。わたしは平日は、夜ご飯が遅くなりがちだった。なにせ、ひとり暮らしは五月から始めたばかりでまだ慣れていない。今日も全然、片付けが終わらなくて午後八時半(こんなじかん)。結局諦めて途中で放り出してきた。

 昨日、飛鳥を家に連れ込んだ時は綺麗だったのだ。でも、その後諸事情あって散らかしてしまった。ほら、一緒に夕飯を作る約束をしたということは……その度に衣装が必要じゃない? それは料理ができるほどにラフな格好でなければならないし。けれどちゃんとしていない格好を見せるなんて、わたしはごめんだ(たとえ、あいつの私服のセンスは破綻していたとしても!)

 かといって、気合を入れすぎているとは思われたくないし……と、悩んで深夜まで、ああでもないこうでもないと服を取っ替え引っ替えしていたら。当然のように散らかった。

 ふふ。浮かれ過ぎてて恥ずかしいわ、わたし。存在が。

 

 と、数秒意識を飛ばしていたら。

 

「あのな咲耶。この店にはな」

 

 飛鳥が神妙な顔でわたしに言う。

 

「カレーしかないんだ」

「……はい?」

 

「この喫茶店はカレー好きのマスターのこだわりで、飯のメニューはそれしかない。飯時は、完全にカレー屋として周りから扱われている」

 

 ……なるほど。どうりでコーヒーの香りと一緒に、スパイスのいい匂いがすると思った。

 

「え、わたし今日もカレー? 土日にあんなに作ったのに?」

「そうだよ。だから『なんで来た』って言ったんだよ」

 

 事前に言ってくれれば教えたのに……と飛鳥が哀れみの目で見た。連絡、相談は大事だと身を以て知る。

 ご飯がカレーしかないだけで、デザートの類はきっちりとあるらしい。それを夕飯代わりにする、という手もあるけれど。それはいけない。

 なぜなら人間は(・・・)ちゃんと(・・・・)ご飯を(・・・)食べなければ(・・・・・・)ならないから(・・・・・・・)

 

 わたしは覚悟を決める。

 

「大丈夫。心をインドにすれば何も問題はないわ」

 

 この前見たインド映画を思い起こして、合掌。わたしはカレーが大好き(自己暗示)

 

「よし」

 

 ととのった。

 

「よしじゃねぇよ。今おまえの後ろに一瞬インド見えたわ。才能の無駄遣いだなおい」

 

 

 

 わたしはカウンターの席に着く。

 隣の席には赤みがかった金髪(ストロベリーブロンド)の女の子がクリームソーダをつついていた。同じ学校の生徒だ、と気付く。つられてわたしも彼女と同じクリームソーダを飛鳥に注文する。

 店内で目が合った笹木君に会釈する。彼は遠距離から愛想よくお辞儀を返した。笹木君には放課後の一幕を見られたけれど。わたしはあまり気にしていなかった。元々、彼にはわたしが飛鳥と昼休みに屋上に行っているのがバレている。偶然見られてしまったのだけど『黙っておくよ』と言われて、本当に秘密にしてくれていた。口の堅い、いい子だ。

 

 注文が届くのを待ちながら、わたしは頬杖をついて飛鳥をそっと目で追う。わたしの後からぽつぽつと客が増えてきたので、彼がわたしに構うことはないだろう。

 友達が働いている姿は、日常の範疇の非日常って感じでいいなと思った。こういうのでいい、と思う。こういうのがせいぜいの範疇の非日常でいい。窓の向こうで倒れてるとかそんな非日常はいらないです。

 ……それにしても。飛鳥は喫茶店の制服が似合うなと思う。後ろ姿を見ているだけで飽きなかった。

 彼はあまり人に印象を残さない。多少は目立つ外見になった今でも結構、存在感が薄い。陽南飛鳥はどこでも自然と馴染んで記憶にさして残らない人間だった。多分、教室でひとりポツンと居るのはその特性のせいが三割くらいあると思う。地味、なのかもしれない。

 特に昔の陽南君は、眼鏡をかけていたし背も低かったから周りに紛れがちだった。それは実のところ「何の印象や違和感も残さないほどに見た目が整っている」という意味だとわたしは昔から密かに気付いていた。

 ──いや、恋愛感情特有の盲目かもしれないけれど!

 

 そのことに気付いているのはわたしだけ……だといいなぁ……でも多分そんなこともないんだろうなぁ……よく見れば気づくもんなぁ……と悶々とする。今は眼鏡もやめて、身長もとうにわたしを追い越してしまっている。異世界ボケさえ治ったら、それなりに女の子に相手にされるのではないだろうか。知らないけれど。別に、未来のことなんてわたしには関係ないけれど。……想像すると少し、腹が立つかもしれない。嫉妬とかでは、ない。

 

 ああでも。やっぱり似合っている、と溜息を吐く。

 

「一生制服着てればいいのに……」

 

 変な私服着るのやめろほんと。

 

 と、思った時。丁度飛鳥がカウンターの近くへと来ていた。

 わたしは気が付けば、スマホを取り出してカメラを起動していた。

 ……静かに気付かれないように、立ち姿にピントを合わせる。

 ふと、飛鳥がこちらを振り返る。わたしはびくりと、肩を震わせる。

 飛鳥はカメラ越しに「ハァ?」という表情をした後。

 ちょっと考えるように一瞬真顔になって、にかっと笑ってみせた。

 

 ──わたしは反射的にシャッターボタンを押した。

 

「いや、なんで今笑ったの⁉︎」

「カメラ向けられたら笑うのは常識だろ」

「それだけ⁉︎」

「それだけだけど?」

 

 ごく当たり前のことを言うように、そう答えて。何も気にしていないように、飛鳥はそのままカウンターを離れる。

 わたしは唖然としてスマホを握りしめたまま──ようやく、我に返った。

 

 ……いや、そもそもなんで撮ってるんだわたしは⁉︎

 

 完全に魔が刺した。未遂だけど「隠し撮り」だった。

 わたしはカウンターに突っ伏す。

 あぁぁ……やっちゃった……やっちゃった‼︎ こんな、こんなはずでは、こんなことをするはずじゃなかったのに!

 ぐるぐると渦巻く感情を抑え込む。だって、今のは言い訳がつかない。今のは「友情」なんて範疇じゃない。悪質な恋愛感情の「名残」が、先走っていた。

 わたしは罪悪感に苛まれる。昔はどんなに欲しくても、正攻法で撮られた陽南君の写真しか入手したことがなかったのに。

 ……いや手に入れてるじゃん。気持ち悪いなわたし。そういうところよ。まあ昔のスマホとか、異世界で木っ端微塵なのだけど! あれ、でもバックアップとか残ってる気がする。残ってるかな。そういや確かめてなかった、残ってたらいいな……じゃなくて!

 

 ああ、もう。認めるしかない。あるのだ、わたしにはどうしようもない悪癖が。ストーカー気質とでも呼ぶべきものが。わたしは所詮、わざわざ隣に越してくるし無意識で隠し撮りをしようとするような痛い女だった。監視だ心配だ友達だと理由をつけても。

 

 ──陰湿(これ)文月咲耶(わたし)の本性だった。

 

 自己嫌悪でスマホを抱えたままがくりと、首を落とす。

 写真は……消せない。でも、直視も怖い。

 はーー、と息を吐いて吸って、覚悟を決めて、確認する。

 けれど。

 画面の中、切り取られた彼の笑顔を見た時、自分でも驚くくらい、すっと脳が冷えた。

 

 ほんのりと暗い店内の中でも鮮やかな、彼の両眼。

 絵の具をぶちまけたような瞳の青色を、写真は現実よりも強調していた。

 その青を。指でなぞり、画面を爪でガリと引っ掻く。

 

 ──なんだ。昔と、全然似てないじゃない。

 

 浮かされていた熱が冷めていくことに、少しほっとして。

 けれど、それ以上に真っ黒な気持ちが湧いて、唇を噛んだ。

 口紅と血の味がする。けれどやはり、わたしの唇に傷が残ることはないのだ。

 彼が二度と、眼鏡をかけることがないのと同じように。

 

 

 

 

 わたしがひとりでじたばたとしていると。

 さっきまでスマホをいじっていた隣の女の子がこちらをまじまじと見ていることに気が付いた。

 ……もしかして、一部始終見られてた?

 わたしは先程までの醜態を誤魔化すようにこほん、と咳払いをして、素知らぬ顔をする。

 

「なにかしら」

 

 いや。なにかしら、じゃないのよ。

 赤い金髪の女の子は、ぱちぱちと瞬きをして、淡白に返す。

 

「いえ、知ってる人が隣にいるな、と思いまして」

 

 そう言って、彼女は自己紹介を始めた。寧々坂──その名前には、見覚えがあった。

 

「あなた、成績上位者にいなかった?」

「ご存知でしたか。照れますね。はい、勉強はそこそこ得意な方なのです」

 

 うちの学校はそれほど勉強に熱心でないのだけど、上位の成績は張り出されるようになっている。わたしは毎回必死で上位者に滑り込んでいるので、毎回きっちり確認するのだ。

 ……今回、飛鳥の名前がないと思ったらズタボロになってたのは記憶に新しい。

 寧々坂芽々、と名乗った同学年の少女は言う。

 

「咲耶さんですよね。よく駅前の本屋でお見かけしてました。それで、もしや気が合うのでは、と思っていたのです」

 

 そう言って、寧々坂さんはさっきまでいじってたスマホを見せる。画面に表示されていたのは電子書籍の一覧だった。

 本棚の開示。それは読書家にとって何よりも雄弁で赤裸々な自己紹介だと思う。寧々坂芽々の本棚は、漫画、ライトノベル、サブカル、文芸、古典に至るまで、ひしひしとセンスを感じさせるものだった。というか端的に、趣味が合う。

 うっ、と内心でたじろいだ。

 ──これは、あからさますぎる餌だ。わたしはわかっている。今更、「趣味が合いそうだから」という理由で、わたしに近づいてくる人間なんているものか。そうでなきゃ、五月になるまで友人を作ることに苦戦していない。

 だから、目の前の少女には目的があるはずで──、…………。

 

「……お話、してもいい?」

 

 気付けばわたしは、ほとんど素で答えていた。

 友達は、別にいなくても平気。それは虚勢じゃない、けど。趣味の合う誰かと好きなものの話をできるかもしれないという欲に逆らえなかった。

 

「ええ、是非。お近付きになりましょう」

 

 寧々坂さんはニコリ、と微笑んだ。

 ……ああ、うん。気付いてしまった。わたしは、多分。

 ──根本的に、ちょろいのだ。

 

 

 

 そうこうしているうちに、注文が届く。寧々坂さんはわたしの注文を見て、

「そういやクリームソーダのチェリーは、先か後かどっち派ですか?」と聞いた。

 

「え、最後……かしら? 大事に取っておきたいかな」

 

 わたしはアイスをソーダの中に沈めた。

 

「あ、ドロドロに溶かす派。そっちですか」

「……も、もしかして、飲み方間違ってた? わたし、こういうの初めてで」

 

 所詮は元庶民なので、素で生きてしまうと品性が抜け落ちてしまう。せめてコーヒーにしておけばよかった!

 

「ああいや。違うんですよ。単に芽々が、人の食べ方に興味あるだけなんです。ほら、ものの食べ方って、性格が出ません? 叙情的な食べ物ほど」

 

『叙情的な食べ物』とはまた、なんというか。変わった表現をする子だな、と思った。

 

「食べ物に叙情性なんて、ある?」

「んー、 そですね。わかりやすく言えば。食べ物に付随した〝文脈〟を食べるって意味です。斜に構えた言い方ですけどね」

 

「ほら、料理の写真を撮って、SNSに上げるでしょ?」と芽々は続ける。

 

「ご飯を食べてるんじゃなくて、結構みんな、文脈を食べてるんだな〜、って思うこと、ありません? たとえば。カワイイものは美味しいし、エモいものは美味しいし、人と食べるご飯は美味しいし、推しが食べてたのと同じものは美味しい、とか。お腹がちっとも空いてなくても食べたくなるのが〝意味〟だと思うのです」

 

 わたしは相槌を打つ。通じると踏んで話しているのだろうけど、初対面に話す内容にしては突飛じゃないか、とも思う。まあ、わかるのだけど。

 文脈とは何か。この場合、コンテクストが意味するのは共通認識、説明せずとも伝わる前提のことだろう。

 

「クリームソーダだと、『レトロかわいい』とか『ハイカラ』とか『あえて古いものに惹かれるのがカッコいいと思ってそう』とか、『エモいしか言えなさそう』とか、『逆にクソサブカル』とかが文脈ですかねー」

 

 寧々坂芽々は美味しそうにクリームソーダを飲みながら、嬉しそうに罵倒する。

 

「どうしてそんなこと言うの……?」

「当然、クリームソーダを愛してるからですが?」

「その愛、歪んでるわ」

「え、でも別にめちゃくちゃ美味しいってわけではなくないです? 人工甘味料味だし」

「え? 美味しいじゃない。メロン味」

「……ですね!」

 

 とにもかくにも。文脈とは『これってこういうものだよね』という、共有される認識のことだ。この場合は。

 わたしにはそれが理解できた。それには魔女として馴染みがある。──わたしの魔法は〝文脈〟を利用するものだから。

 

「もちろん、美味しいものは美味しいという大前提で。雰囲気にも味があるよねって話ですけどね」

 

 そしてやはり、彼女はどこか『似ている』と思った。口調はしっかりとしているくせに、どこか地に足のついていない話をするところ。寧々坂芽々は、飛鳥に少し似ているのだ。

 だから馴染むのかもしれない、とまで考えて。いや、わたしは別にあいつが変なこと言うの好きじゃないからな、と思った。

 ……昔の彼は、変なこと言わなかったはずなのだけど。

 

 

 

 

 

 隣の寧々坂さんと話に花を咲かせるうちに、夜も更けていく。何せ来た時間が遅かった。

 そろそろ帰らなければ、と立ち上がったところで。飛鳥がわたしに声をかけた。

 

「ちょっと待ってろ。もうすぐ上がるから、送っていく」

「いいけど……別に、ひとりで帰れるわよ?」

「ひとりで帰るなよ。夜道だぞ。あの辺の道、真っ暗なんだから」

 

 飛鳥はしかめ面で言う。心配されているのだろうか? わたし、普通の女の子じゃないのだけど。まあ、突っぱねるほど狭量でもない。

 

「わかった。じゃあ、裏口のあたりで待ってるわ」

「そうしてくれ。すぐに行く」

 

 鞄を取りに行くと、寧々坂さんがじっとこちらを見ていた。

 

「あの、不躾な質問いいですか」

「なに?」

「咲耶さんは、飛鳥さんと付き合ってるんですか?」

 

 その、問いに。わたしは、

 

「まさか。そんなわけないじゃない」

 

 寧々坂さんはかくん、と首を傾げて。「そうですか」と答え、それ以上は聞かなかった。

 

 

 ──聞かれた質問に、少しは動揺するかと思ったけど。

 微塵も照れる感情もなく。平然と答えられたことに安心した。

 

 わたしは片手で写真の入った端末、真っ暗な画面を握りしめる。

 

 ……そう。たとえ、わたしがどれほど彼に心を寄せようとも。

 

 ──そんな関係は、ありえないのだから。

 

 

 絶対に。

 



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第九話 誤魔化すにも無理がある。

『送っていく』とは言ったが、その言い回しは間違っていたかもしれない。と考えながら、バイト上がり、俺は急いで帰り支度をする。送るも何も方向が同じなんだから、『一緒に帰ろう』と誘えばよかったのだ。その方が友人としては正しかった。

 

 ……最近、俺たちの関係がおかしい気がする。こんなはずじゃなかった。友達、というのはもっと健全な関係のはずで。だからこそ、こうなるのが「最も冴えた解決」だと、少し前の俺は判断したのだ。

 しかし正式に友達になってから、まだ五日しか経ってないというのに。あまりにも──壁が、崩れるのが早い。

 

 ……アイツ、好意がだだ漏れじゃないか? なんだよ「来ちゃった。えへへ」って。もう態度がフワッフワだろうが。食パンか? 先週まで全力で煽り散らしていた相手にする顔じゃないだろ。

 まじで何考えてるんだアイツ。

 ……いや、何を考えているのか。まったくわからない、というわけではない。

 

 ──何せ二年前、あいつが俺のことを「好きだった」というのを、知っているのだから。

 

 何故、それを知っているのかというのは簡単で。本人の口から聞いたからだ。

 

『わたし、ね。昔……あなたのこと、好きだったのよ』

 

 と。現世(こちら)に帰ってきた、その時に。

 あの時は、現世に帰ろうとしてることがバレて異世界の奴らに追われるわ、なんとか逆転移が成功したはいいものの空から墜落するわでわりとズタボロになっていたし、お互い意識が朦朧としていたからか。彼女は、言ったことを覚えていなかった。俺も、正直本当にそれを聞いたのかは、確証がない。

 もちろん事実だとしても、それは今は関係のない話で、あくまで過去形の告白だと重々に認識している。

 だから、聞かなかったことにして素知らぬ顔をしているが──別に俺は、鈍感ではない、はずだ。勘は、いい方だと思う。

 だから直感である程度は、わかる。

 

 ──彼女が、どうあがいたって俺に好意的であることも。

 ──それ以上に、何か〝好意ではない感情〟を抱かれていることも。

 

 だが。それに向き合うには、まだ。

 俺たちには、問題が(・・・)あり過ぎる(・・・・・)

 

 そんなことを考えながら、裏口の戸を押し開いたせいか。よく磨かれた金属製の扉が、重いように感じた。

 

 

 

 裏路地。閉店間際のこの時間は、表の通りも閑散としている。

 俺が裏口の扉を開けると、咲耶が路地でしゃがみ込んでいるのが目に入った。

 黒いワンピースの裾が地面につかないように、器用に屈んでいる。何をしているのかと、目を凝らすと、どうやら野良猫と戯れているらしい。

 

「んー、おまえ、わたしを怖がらないのね。黒猫だからかしら? 魔女は黒猫を連れるものだものね。ほんとは犬派なんだけど……ふふ、悪くないかも」

 

 ふわふわとした声で、猫を愛でる咲耶。

 

「おまえ、うちの子になる? ……んん、流石に意思疎通はできないか……。いいなぁ、わたしも、どうせなら箒で空を飛ぶタイプの魔女になりたかったわ」

 

 いや、めっちゃひとりごと言うじゃん。あたま食パンか? 

 

 俺はしばらく、その様子を眺め……とりあえず、写真を撮ることにした。

 カシャリ、とシャッター音。咲耶が勢いよく振り返る。

 

「な、な…………!?」

 

 驚愕と羞恥の表情になっていく咲耶を尻目に、写真を確認。

 

「おお。最近の携帯電話ってすごいな、綺麗に撮れる」

「未だにケータイ呼びなの⁉︎」

 

 そうか。携帯電話ってもう言わないのか。語彙が古いのは祖母の影響だな。

 

「ていうか、なんで撮ったの⁉︎」

「友達の写真撮るのは普通だろ」

「理由聞いてるんだけど!」

「いや、かわいかったから」

「…………っ⁉︎?」

「猫が」

「…………そうね!」

「ちなみに俺は猫派だ」

「いつから聞いてたのよ!」

 

 などとうるさくしていたら、猫が逃げた。すまん。

 

 咲耶は、ずい、と俺に近付く。

 

「あのね、飛鳥。いいこと?」 

 

 うわ、顔近い。

 真剣な表情で、彼女は片目に俺を大きく写して、言う。

 

「──この世にはね。急に写真撮られると魂が抜ける人種が、いるのよ」

「は?」

 

 目尻が綺麗な形をしているな、とか考えていたから、何言っているのかわからなかった。

 

「どゆこと?」

「猫被ってる時は撮られてもいいけど、わたしの素は、撮られてもいいようにできてないんです! ので、その、急に撮られると……困る!」 

 

 なるほど、力強く情けないことを言っている、というのは理解した。

 

「大丈夫、おまえは美人だよ」

「えっありがとう……じゃなくてぇ!!!」

 

 なんだ、情緒の忙しいやつだな。

 

「消して!」

「やだ」

「やだ⁉︎」

「ちゃんと咲耶にも写真送るからさ。連絡先交換しようぜ」

「あっようやく言った! する! けど‼︎ 写真は消してくれないのね⁉︎」

「だって、それは公正じゃないだろ。俺は撮られたのに」

「あんたは自分から撮られに来たじゃない!」

「はぁ? おまえがカメラ向けたからだろ」

「それは、その……」

 

 頬を両手で覆う咲耶。暗い中でも、赤くなっているのが見えていた。

 

「ごめんなさい……わ、わたしも……写真消す、から……」

「? わざわざ撮ったものをなんで消す必要が?」

「価値観の相違だわ!」

 

 どうやら、根本的に写真というものへの向き合い方が違うらしい。

 

「とにかく消しなさいってば!」

 

 とうとう俺の携帯を、咲耶がひったくろうとしてきたので、とりあえず避ける。

 

「わかった。こういう時は、アレで決めよう」

 

 友達の定義を詰めた時に、揉め事に対してのルールも定めてある。大抵は話し合いで解決する。というか、話し合いで勝ち負けを決める。つまり、納得した方が勝ちを譲る、ということにしてある。

 だが、それができない今回のような場合の時は。

 

 ──厳正なるジャンケンで決める、と。

 

 頷き合う。

 

「いくぞ、覚悟はいいか」

「ええ、どこからでもかかってきなさい」

 

 そして。特に納得できる理由もなく写真を消して欲しい咲耶と、特に正当な理由もなく写真を残したい俺の、戦いの火蓋が、今、切って落とされようと──、

 

「いや、待て」

「ちょっと待って」

 

 ジャンケンを始めようとして。お互い、最初のグーで固まった。

 

「……おまえ今、魔法で俺の出す手を変えようとした?」

「……あんた今、動体視力と反射神経で、後出ししようとした?」

 

 …………。

 

「チッ卑怯者め」

「お互い様でしょーが!」

 

 ふしゃーーっとする咲耶。でかい猫だな、と思った。

 

「でも、お互い妨害しあって条件は同じっていうか? 逆に公正なジャンケンになってる、のかしら……」

「あ」

「えっ何、なんか思いついたみたいな声出して」

 

 さっきまで出していたのは、何もない左手の方だった。それをわざわざ包帯の巻かれた右に変える。

 

「右手だと、おまえの魔法が効かないこと思い出した」

「…………」

 

 咲耶は、無言で、俺を見て。

 

「ずっるい‼︎」

 

 くわっと目を見開いた。

 

「公正な勝負はどうしたのよ!」

「ハッ、知らないのか。人間は……負けたら死ぬんだぞ」

「いつジャンケンに命を賭けたの⁉︎」

「人生は常に命懸けだからなー」

「あたま異世界か⁉︎ いや、正々堂々って大事だと思うのよわたし!」

 

 魔女が『正々堂々』とかお笑いぐさだな。フッと小馬鹿にして笑う。

 

「悪いが、俺は勝ちを選ばない!」

「ふざけんなぁ!」

 

 咲耶は眼帯を外す。

「そっちがその気なら、わたしだって!」と光る左眼、赤い粒子が飛び散った。

 

 いやもう、これなんの争い?

 いいか。なんか楽しくなってきたし。

 

 ──そう考えたのが間違いだったと、数秒後に思い知る。

 

 無駄に熱くなったせいで。

 それぞれが一歩を踏み出し、腕を伸ばし、物理的な距離感と勢いを見誤った。

 

 その結果は、互いに出した手の接触。

 俺の右手と、赤い粒子を纏った咲耶の肌が、僅かにほんの少しだけ、掠めた。

 

 ──しまった、と思ったのも束の間。

 

「……え」

 

 バチッと、赤と青の閃光が弾けた。

 瞬間──目が、眩んだ。

 

 秒にしてコンマ一秒もなかっただろう。

 けれど不意打ちの衝撃に、一瞬、意識が断絶した。

 視界が晴れて、まず、彼女を見て──愕然とした。

 

「いったぁ……、何、今の……」

 

 路地に尻餅をついた彼女は、おもむろに頭に手を当てて、さっと青ざめる。

 それも、そのはず。

 

 ──彼女の頭部には、捻れた〝角〟が生えていたのだから。

 

 現世に帰って消えたはずの〝魔女〟の証であるそれ。服装は現代のままなのが、恐ろしいまでの違和感を伴っていた。

 だが、彼女はすぐにこちらを見て声を震わせた。

 

「あんた、それ……」

 

 ああ、わかっている。こちらも、気付いている。

 握り締めた拳の包帯が解けている。露出しているのが肌色ではなく、金属の鈍色なのは、今はいい。今、気にするべきことじゃない。

 

 問題は──何故か、今、俺が〝剣〟を握りしめているということ。

 ──現世ではとっくに呼び出せなくなったはずの、異世界の〝聖剣〟が、手の中にあるということだった。

 

 立ち上がった咲耶が、一歩、後ずさる。

 

「……どういうこと、なの」

 

 そして、間が悪いことに。

 丁度そのタイミングで、裏口のドアがガチャリと開く。

 出てきたのは、例の幼馴染二人だった。

 

「えっ」

「あら」

「うぇっ」

「げ」

 

 丁度帰るところだった笹木と芽々と、裏路地で鉢合わせる。

 異世界の証拠をばっちり目の当たりにして。

 

 ……誰だよ、人生そろそろ全部上手くいく、とか舐めたこと考えたのは。   

 

 

 

 ◇

 

 

 

「……え、これは、何?」

 

 笹木が困惑した顔で聞く。

 

「あらまあって感じ、ですねー?」

 

 芽々が無表情で首を傾げた。

 

「マコは二人の失踪原因、神隠し説支持者でしたよね」

「うん、それが一番面白そうだから」

「まー、大体その方向性で合ってたってことでしょうか」

「えっほんとに! じゃあ、あれ全部本物?」

 

 何故か嬉しそうな顔の笹木。

 芽々はこちらにスマホを向け、パシャパシャと写真を撮る。

 

「あー……剣も角も写真に映りませんね。これはガチです」

 

 確かめ方に隙がない。理解力が高すぎる。というか写真に映らないのか。初めて知った。

 

 咲耶がゆらりと立ち上がる。

 

「──記憶、消すわ」

 

 いつのまにか、据わった目をしていた。姿を変えた時から漏れ出していた、ぴり、と肌がひりつくような嫌な気配。それが、隣で増していく。

 

「待て咲耶」

「なに?」

 

 返答は剣呑だ。〝魔女〟としての低い声音と、鋭い目付き。

 ──それが、嫌だと思った。

 だから、こちらに引き摺り戻す。

 

「〝友達〟の記憶を弄るのは、人間としてやっていいことじゃないだろ」

 

 さっきまで、彼女が芽々と親しくしていたのは見ている。基本的に壁の厚い彼女にとって、友達、と言えるかはわからないが。一か八かで、魔女を引っ剥がし、別の皮を被せる。

 

 ──今のおまえは、ただの、文月咲耶だろ。

 

 彼女は鼻白んで、たたらを踏んだ。

 

「なによ、甘いこと言っちゃって……」

 

 

 不穏な様子を感じとった笹木が、おそるおそると手を上げる。

 

「……あの。おれたち、今見たことは黙ってるよ?」

「はいはい誓います。契約しまーす」

 

 芽々もまた軽いノリで、同上した。

 

「えっ」

「なんで」

「なんでって、言われてもですね」

「だってこんな面白そうなこと、忘れるのは勿体ないじゃないか」

 

 口調こそ穏やかだが、表情には隠せない好奇心のようなものが滲み出ている。というか、なんか、あからさまにわくわくしている。

 毒気を抜かれる。

 

「あと純粋に、脳味噌弄られたくないですし」

 

 異常に早い飲み込みに、唖然とする。

 

「てゆーか、記憶が弄れるなら、口止めくらい魔法でちょちょいとなりません?」

 

 芽々は、物騒な言葉を口にするには能天気すぎる声で、提案する。

 

「え、うん、できるけど…………え?」

 

 咲耶が完全に素で動揺していた。

 

 ……どうやら。こいつらも大概、変な奴らだったらしい。

 

 

 

 

 その後。『じゃあお疲れ様でーす』『また明日ー』と言って二人は普通に帰って行った。

 

「いや、なんでだよ」 

 

 変だろアイツら。そんなに滑らかにスルーできるか普通? どういう神経してるんだよ。

 

「……最近の若者は怖いな」

 

 しかし解決したのだろうか、これは。もう何もわからない。帰って寝たい。

 

 ……眠れるだろうか、今夜。

 

 

 ひとまず(これ)をどうにかしないといけない。

 装飾らしい装飾もない、無駄に大きい両手剣。嫌というほど見た異世界(むこう)の聖剣は、どちらかというとファンタジー的というよりは近未来的な見た目をしていて、心底趣味が合わない。

 

 絶対に切腹しにくいと思う。刀しか格好良いと思わない。異世界のセンスは最悪。

 

 渋々と、異世界の言葉──もう二度と使うことはないと思っていた言語で、『戻れ』と命じると。剣は、右腕の中に収まるようにして消えた。

 

 右腕は、生身のそれではなかった。ブリキのような、よくわからない金属で出来ていて、それは剣とまったく同じ質のもの──というか。単純に。

 

 右腕は(・・・)剣だった(・・・・)

 

 聖剣は使用者に合わせて形を変えるのだという。だから、向こうで腕を失くした時からこうだった。 

 ……いや、剣そのものというより、中に仕舞われているという点では、『鞘』とでもいうのが正しいだろうか。その辺は深く考えたことはないし、今となってはどうでもいい話だ。

 

 大事なのは、聖剣(ほんたい)は、現世(こっち)に帰ってから今まで、出そうと思っても出せなかったということで。

 それが何故か今になって起動したということだ。

 

 起動の衝撃か、彼女と触れた時の火花のせいか、巻いてあった包帯は解けている。仕方なくバイト中に使っていた手袋を嵌める。

 だが、手袋と袖の隙間からちらちらと光に反射する鈍色が見えている。

 顔をしかめて、袖をぐっと伸ばす。制服のシャツに伸縮性はないので、行いには特に意味がなかった。

 

 

 振り返ると咲耶の方も始末を終えていた。

 角は消えているし、魔女特有の嫌な気配も、もうない。だが彼女はこちらと距離を取ったまま。近付こうとはしなかった。

 

「咲耶」

 

 呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせる。

 ああ、うん。今、声低かったな。間違えた。

 眉間を揉んでしわを消す。取り繕って明るい声を出す。

 

「さっきのやばかったな。いや、何がやばいって一番は笹木と芽々の反応だけど。明日どんな顔して会えばいいんだよコレ。あいつらすげえな。素面で帰っていったぞ」

 

「でもまさか、こんなことになるとは。ほら、アレ。なんだっけ。現世(こっち)に帰った時にさ、おまえ言ってたじゃん。現世は魔力だか幻想だかの、濃度が低い、だっけ? 世界のルールが違うから、たいした魔法は使えない、とかなんとか。仮説立てたのにな」

 

「あれかな、やっぱり。おまえが魔法使ってる最中に(うで)に触れたのがまずかったのか? 例外的な防衛反応というか、天敵に反応して、というか……」

 

 ──そうか。こうしてお互いの身体が反応した以上。自分たちがどう認識しようと、関係の実態は『敵』のまま、ということか。

 

「あー、なんだ、その……」

 

 咲耶は青ざめたまま、黙りこくっていた。

 溜息を飲み込む。本来、俺も彼女もよく喋る方ではない。こんな状況では何を言っても滑り落ちるだけ。糠に釘だ。どんな言葉も刺さらない。

 

「……ごめん。俺ひとりで喋って」

 

 返答は、不揃いの瞳が揺れるだけ。

 

 ──まずい。どこにも『正解』が見当たらなかった。時間はたっぷりとあるのに、脳も脊髄もろくな答えを寄越さない。

『もう全部終わった』と思っていたのに。そうじゃなかったと突然ひっくり返されてしまったせいか。

『何者』として言葉を発すればいいのか、わからなくなっている。見失いそうになる。

 

 ──いや、大丈夫だ。迷う余地はない。そのために定義したのだ。関係の名を。今の立ち位置を。それを今更見誤ることは、ない。

 だから。

 

「帰ろうぜ」

 

 なんでもないように背を向けて。自然な程度に距離を取って。先に歩き出そうとして。

 

 彼女の手が、俺の左袖を、力なく引いた。

 

「お願い……」

 

 か細い声。足を、止める。

 

「──今夜は、一緒にいて」

 

 振り返らない。彼女の顔を見る自信がない。

 明日も学校があるだろ、とか。そんなこと男友達に言うなよ、とか。

 正論はいくらでもあって、けれど正しいだけのすべてになんの価値もないから。

 

 間違えないように、ただひと言。

 

「わかった」

 

 と答える。

 

 

 それが正解かどうかは、わからなかった。

 



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第十話 ふたり並んで帰路に就く。

 明るい夜だった。

 雲間の月は大きく、ほんの少しだけ満月に届かない。

 今朝は雨だったから自転車は持ってきていない。だから間隔を寄せる必要もなく、俺たちは人ひとり分の間を開けて無言で歩く。

 夜だからもういいかと諦めたのか、咲耶は眼帯を付け直さなかった。おかげで今夜は横顔がよく見えた。視線は、合わない。

 

 こうして夜道を並んで歩いていると、現世に戻ったばかりの時のことを思い出す。俺がうっかり周囲に異世界のことを口走ってしまった時のことだ。病院に監禁されそうになったから仕方なく脱走し、咲耶に電話をかけたことがある。『何かあるといけないから』と電話番号をあらかじめ教えられていたのだ。不機嫌そうに、けれど速攻で飛んできた彼女は、

『ありえないわ。まったく! どうしてそんな初歩的なミスをできるのかしら? あなたひとりが自滅する分にには構わないけど、わたしに迷惑はかけないでよね! ……この貸しは、高くつくわよ!』などと、散々罵倒しながら魔法で事態収集をしてくれた。その借りはまだ、返せていない。

 その一件の際も二人で延々と夜道を歩いたのだが。あの時はまだ彼女も刺々しく、道行きは無言でも耐えられた。それで十分な関係だったから。

 でも、今は違う。

 

「咲耶、あのさ」

 

 俺は、意を決して呼び止める。

 

「……そろそろ喋っていいか?」

 

 無言に耐えられなかった。限界、無理、クソ気不味い。

 咲耶は、目を丸くして。弾けるように笑い出した。

 

「ふふ、あはは。何かと思えば、そんなこと! ……はー、おかしい」

「何が」

「だって真面目な顔して、そんな情けない声出すんだもの。あなたって顔には出ないけど、声には出るのね」

 

 ぐ、と言葉を詰まらせる。目元を擦りながら、咲耶はからかうように言う。

 

「ふふ、そんなに気まずかった?」

「いやもう、手汗がすごい」

 

 片手だけでよかった。

 隣を歩く彼女は、俺の顔を覗き込むようにして、嬉しそうに微笑んだ。

 

「ええ、ええ。お喋りしましょう。わたしも、丁度……そうしたい気分だったの」

 

 

 たわいもない話をした。

 今日あったなんでもないようなことを。

 大半は善良な同級生の話であり、不思議な同輩の話だった。バイトを見つけた経緯とか、二人と親しくなった経緯とかだ。

 それで結論は「あの子たち、やっぱり変よね?」で落ち着いて。丁度その時、俺の携帯に芽々から大量の無意味なスタンプメッセージが届いてことに気付いて、顔を見合わせて笑った。

 確かに『死蔵スタンプ送りまくってやりますよ』とは言ってたけど、本当にやるのかよ。あんなもん見せた後だっていうのに。逆にめちゃくちゃいいやつだと思った。

 

 そして今度は明日の話をする。

「明日の味噌汁の具は何がいいか」と訊けば、咲耶は「お味噌汁に何を入れるのかよくわからない」と答えて、俺もそもそも冷蔵庫の中が空だったことを思い出したので「とりあえず明日の放課後は買い物に行こう」と約束をした。

 返すように「明日のお夕飯は何にしましょう」と訊かれたから、カレーの次に覚える料理は何がいいだろうと考えていたら「あ、唐揚げ食べたい」と咲耶が言い出して「いきなり揚げ物は無茶じゃないか?」と返せば「唐揚げを嫌がるなんて男子高校生の自覚が足りない」と怒られた。

 

 そうやって。

 ひとつひとつ足元を確認するように。意識的に『普通の会話』を重ねていく。現世だけで話題は十分事欠かない。だから余計なことを思い出す暇はないのだ。

 暗い道を街灯が少しずつ照らしている。咲耶のワンピースの裾がすぐ横でひらひらと揺れる。いつの間にか俺たちの間合いは縮んでいた。隣を歩く彼女の背筋はぴんと伸びて、足取りは軽く表情は柔らかく声は弾んでいる。そのことに、安堵する。

 そうして緩やかな坂の登りながら。なんでもない会話の延長戦を続けていく。

 

「そういえば飛鳥、もうすぐ追試じゃなかった?」

 

 うわ、現世もイヤなことあった。

 

「ノート、貸してくれたおかげでなんとかなりそうだ。助かってる」

「別に、もう直接教えるくらいはしてあげるわよ」

 

 咲耶は苦笑する。ほんの数日前に『教えてあげる義理はないけど』と言ったことを思い出したのだろう。咲耶から渡されたノート類は本来、自分のために作られたものだと思う。要は、相当な労力を費やした自習の跡だった。

 

「咲耶ってさ、昔は完璧な優等生って印象だったけど。本当は努力家だよな」

「努力というか。わたし、単に要領が悪いのよ。真面目にコツコツやってようやく中の上なんだもの。やんなっちゃう」

 

 明るく自嘲する。

 

「昔は正直、高嶺の花なんて噂される度に胃痛がしてたわ。なんでもそつなくできますって顔だけしてたの。雰囲気だけのはったりよ」

 

 器用すぎて不器用なんだよな。

 

「ほら、わたしって。見た目しか取り柄がないから?」

「おまえは性格もいいよ」

「うぁ……急に、褒めるな! ていうか、性格がよかったら……」

「よかったら、何?」

「……初めから、あんたに嘘なんて。つかずに済んでたわ」

 

 面倒なロールを演じてばかりの彼女は確かに、言い換えれば『嘘吐き』かもしれない。

 

「その辺はまぁ。俺がどうこう言うことじゃないな」

「そうね。あなたもいい性格してるもの」

 

 いい性格。言葉は同じなのに意味が逆だった。おかしいな。

 

「それにしても。試験の科目の話、わたしは英語が一番苦戦したんだけど」

 

 確かに普通、言葉は二年も使わないと忘れるものだろう。

 

「なんなら国語もだめになってたもの。でもあんたはその辺、割と点数取ってなかった? あれ、どうやったの?」

 

「ああ、うん……」と言葉を濁す。

 

「これ、異世界(むこう)の話になるけど」

 

 咲耶は、沈痛に額を押さえた。

 

「あー、ごめん。今のなし。間違えたわ……」

 

 その反応に、なんだかおかしくなって笑いが漏れる。

 

「なによう」

「いや、なんでも」

 

 ……そうか、彼女も。『正解』を探しながら喋っていたのか。

 

「咲耶が気にしないなら別にいいんだ。話すよ」

「……そ」

 

 何か納得いかなさそうに、唇を尖らせた。

 

「ん、ほら。召還されて異世界(むこう)の言葉が分かるようになったじゃないか。俺はなんか、目が覚めたら急に使えるようになってたって感じなんだけど」

 

 咲耶はそれを聞いて、眉を顰めた。

 

「待遇が違うわ。わたしはあっちの言葉、自力で覚えたんだけど。それ……脳味噌弄られてない? 大丈夫?」

「うわ、魔女の発想だ。こわ……」

「で、それがどうしたのよ」

「それが、わかるのは異世界語だけだと思ったらさ、現世(こっち)の他の言語もフワッと分かるようになってたんだよな。いや、流石に喋れたりはしないけど」

 

 咲耶は天を仰いだ。

 

「チート引き継ぎじゃない! ずるいわ、わたしも欲しかった! つまり、アレとかコレとか原書で読めるってことよね、いーーなーー」

「チートって。ま、このくらいの土産はあっていいだろ」

「そうね! あーあ、わたしも何か貰っておけばよかったなぁ」

 

 その言葉で、ふと。今が聞き時だと思う。

 

「……そういやおまえ、あの体質は直ったか」

「ええ」

 

 さらりと答えた咲耶は腕を伸ばして、形の良い手を広げて俺に見せる。

 

現世(こっち)に帰ってきてから、ちゃんと髪も爪も伸びるようになったわ。成長期は終わってるから、あんたの身長を越せないのが残念ね」

「はは、身長で張り合うとか小学生かよ。……昔は咲耶より少しだけ低かったんだっけ」

「そうよ。知らない間に大きくなっちゃって、生意気」

 

 多分そのことを昔の俺は気にしていたと思うけど。目線の高さが同じじゃなくなったのは少し、残念かもしれない。

 

「というか、そもそも。あなたどうして学校に戻ったの? いえ他意はなくて。ただ……高校生活に未練があるようには、見えないし」

 

 確かに別の選択肢ならいくらでもあった。というよりは、そもそも学校に戻っている場合じゃなかったというのが正しい。家更地になってるし。でもそうしなかったのは、何故かというと。

 

「咲耶、こっちに帰ってきた時に『学校に戻ろうかな』みたいなこと、言ってただろ」

「……それだけ?」

「それ以外にも色々あるけど」

 

『じゃあ俺も戻るか』で、他の選択を全部消したのは本当だ。

 咲耶は、両目を瞬いて。

 

 

「あなたって、もしかして……わたしに甘いの?」

 

 

「そうだよ。ようやく気付いたか。おまえ以外が窓から入って来たら問答無用で殺虫剤かけてるわ」

「あはは。野蛮だ!」

 

 髪をなびかせて、彼女は高らかに笑う。ああ、今の表情。写真に残せたらよかったのに、と自然に考えて。俺もアイツも両方バカだな、と思った。

 

 

 

 

 そして咲耶は、神妙に。

 

「ねぇ。飛鳥は、この先どうするの。高校を卒業したら」

 

 将来の話を。明日よりも、ずっと先の話を切り出した。

 

「そうだな。とりあえず働いて、余裕ができたら進学する。堅実にやっていけたら、あとはなんでもいいや」

 

 現世は割合ちゃんとしているので、野垂れ死ぬことはそうないだろう。

 

「咲耶は?」

「わたしは……大学には行くかな。向いてそうな学問って、何があるかしら?」

「哲学」

「あは、難しそう」

 

 彼女は、二、三歩。先を行く。

 

「あーあ、わたし。頭よくないからなぁ。どうしよう。全然思いつかないのよね」

「昔は何になりたかったとか、ないのか」

 

 地に足つかない不安定な足取りで、黒のワンピースを翻し、くるりと振り返る。

 

「素敵なお嫁さん」

 

 幼げに、彼女は笑って。

 

「今どき、甘い考えで笑えるでしょ」

「笑わねーよ」

 

 ──だってそれは、多分。潰えた夢の話だ。

 

「別に、なんでもいいんじゃないか。やりたいことをやればいい」

「そうね。全部やれば、いいか」

「そうだよ。これからの人生は……長いし」

 

 自分で言って自分で驚いた。そうか、あと半世紀も続くのか人生。気が遠くなるな。

 

 ひと気のない静かな道を、彼女は後ろ向きのまま四、五歩と進む。

 

「ねえ、あなたは昔、何をやりたかったの?」

 

 咲耶の問いにほんの数秒、思い出そうと試みて。

 

「忘れた」

「……そっか」

 

 後ろ歩きで、俺の目の前を歩いていた彼女は立ち止まる。

 

「ね」

 

 後ろの街灯が彼女に逆光を浴びせる。

 表情が、暗くて、よく見えない。

 

「もしも。わたしがまた──」

 

 真っ暗な顔で、彼女は低く、問いかける。

 

 

「──悪い魔女になったら、どうする?」

 

 

 ……これは、さっきまでと地続きの将来の話だ。そしてその答えを決して、間違えてはいけない。

 迷わずに、答える。

 

「その時は、」

 

 

「──ちゃんと、倒しに行ってやる」

 

 六、七歩と。小さく遠ざかっていく。

 街灯の真下へと入った、彼女は。光に照らされてしっとりと微笑んだ。

 

「わたし。あなたの、そういうところが……嫌いよ」

 

 それは『嫌い』なんて言うには、あまりにも柔らかすぎる表情で。

 

「知ってる」

 

 多分、俺も似たような顔をしていると思った。

 

 

 

 ──大丈夫。これはいつもの、ただの軽口の延長線上だ。たとえ、大丈夫じゃなかったとしても、今ここに積み上げた日常を壊さないことだけが果たすべきことで、そのための力はまだここにある。

 だから。恐れることなど何もない。

 拳を握りしめて、アスファルトを踏みしめる。咲耶との間に空いた距離を一息に詰める。

 

「ほら、さっさと帰ろうぜ」

 

 咲耶は、少し驚いたような顔をして。ふっと表情を緩めた。

 

 

 

「あ、待って。遠回りしてコンビニ寄ってもいい?」

「いいけど。何買うんだ」

「決まってるでしょ。今夜は、長くなるんだから」

 

 咲耶はにんまりと赤い唇を歪める。

 

「わたしはなにせ極悪なので、深夜にポテチとか買っちゃうのです。ついでに、言い訳が効かないほど庶民舌なので、コーラだって買っちゃうの」

 

 なるほど、それは確かに。

 

「世が世なら大罪だな」

「でしょ?」

 

 やはり。

 今夜は、眠れないらしかった。

 



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第十一話 うるさい心臓。

 わたしたちが家に帰り着く頃には、それまで抱いていた躊躇いや怯えというものはすっかりと箱に仕舞われていた。

 飛鳥は切り替えるのが上手で呼吸の仕方をよく知っている人だと思う。何を考えているのかわからないし、というか多分あまり何も考えてないんだろうけど。わたしは今のあなたのそういうところが、好き、かもしれない。 

 好意、それはもちろん適切な友愛の範疇で。

 

 ただし例の一件で、お互い目が冴えきってしまっていることには変わりなかった。それがいつのまにか、「どうせ眠れないんだから、遊ぶか」という空気に変わっていたのだけど。

 その気になった後で二人とも、明日の課題が終わっていなかったことに気が付いた。

 身分を明確に思い出す。遊んでばかりいられないのが学生のつらいところだ。終わるまで平日深夜の宴はお預けだった。悲しい。

 

 

 そして今、そろそろ日付も変わろうという頃。場所はわたしの家のリビング。テーブルで、向かい合って課題をやっていたわけだけど。

 きりよく終わったところでわたしはペンを置き、顔を上げる。

 先に課題を終えていた飛鳥が目の前で寝落ちしていた。

 目、冴えてるんじゃなかったの。

 

 彼はわたしの部屋に来る前に一旦自室に戻ってから来ているので、私服に着替えてるし、多分もうシャワーも浴びている。

 静かな部屋、響く寝息に耳を澄ませる。眠れそうになくても眠ってしまうほど疲れてるのかしら、とか考えて。いやそもそもこいつ、隙あらば寝る癖があるだけだった、と思い出した。休み時間、大体寝ている。友達ができないのも当然だ。

 物音を立てないようにそっと椅子を引いて立ち上がる。わたしの身体能力はほとんど人間並みだけど、足音を立てないくらいのことはできる。毛布をかけたいけれど、少しでも触れると起こしてしまうだろう。そうっと彼に近付き、顔を覗き込む。

 お行儀が悪い振る舞いだけど、これについては、わたしの領域(いえ)で眠ってしまった飛鳥が悪い。ので『寝顔を覗き見る』なんてはしたない行為も今夜に限っては許される、と思う。

 けれど、やはりというか。寝顔はあまり穏やかではなかった。

 うっすらと気が重くなる。

 飛鳥は夜が遅くて朝が早い。長時間眠るということに、身体がまだ慣れていないのだろう。食事を取るのも下手なら眠るのも下手なんて、人間としてどうかしている。

 ……眠らなくても平気なはずなのに、一度眠ってしまうと朝に弱すぎるわたしも、大概だけど。

 

 ちらりと彼の腕を見やる。五月も終わりの部屋の中だというのに、上着を着たままだった。その不自然は、わたしに腕のことを意識させまいとしているような気がして、逆に少し腹が立った。

 異世界(むこう)で再会した時には既に義手だったので、詳しい経緯は知らない。聞かなくても大体わかる。生身で竜なんかと戦っていたのだ、腕の一本や二本は千切れもするだろう。

 お互いが向こうで経験したことについては「知らないままでいよう」と合意が取れていた。

 軽口以上には触れないし、探らない。あいつは笑えない話に価値はないと思っているし、わたしもすべてを知ることが正しいとは思わない。

 見て見ぬ振りと素知らぬ顔と鈍感さ。それは、上手に生きるための最低限のスキルだ。特にわたしのような、面倒な女にとっては。

 自分が面倒くさいことをわかっていて直せないのが心底面倒くさいと思う。自己嫌悪で夜が明けそう。

 

 それに──本当にすべてを知ってしまえば。わたしは、何をしでかすかわからなかった。

 だから聞かない。絶対に。

 

 記憶の中、差し出された彼の手のひらに残る、細やかな傷の数を思い出す。

 ──本当はあなたを脅かすものすべてを許したくはないのだ。

 わたしは、あなたにそれほどの恩がある。

 たとえばの話。もしも、あなたの家がなくなっていた原因が、理不尽な悪意による放火だったとしたら。わたしは迷いなく、それを行った人間に火を放ちに行っただろう。

 わたしの倫理は所詮その程度でしかない。

 もちろんこれはただの喩え話。更地の真相はごくありふれた金銭事情だと聞いている。現実はうっすらと世知辛いだけで、明確な悪意や敵意が突き刺さる、なんてことはない。

 なんだかんだで現世は治安が良すぎるのだ。目の前の敵を倒して全部終わりだったら話は簡単で、わたし好みなのに──という、一連の物騒な考えを振り払う。

 

 わたしは、わたしの自制心や理性というものが弱いことを重々承知しているし、自分の陰湿さや浅はかさに身を委ねたくはなかった。

 ……たとえ。わたしの性質がどうしようもなく〝悪〟だとしても。

 わたしが本当に望むままに振舞えば。何もかもを今すぐに解決できるとしても。

 それをしないことが、恩と友誼に報いるということだと思うから。

 

 そしてわたしは、わざと彼の右腕側に立つ。

 その結果何が起こるかを、自分自身に突きつけるように。自らの立ち位置と自分が何者であるのかを確かめるように。

 

 その意味は、効果は、すぐに現れた。

 じわりと肌が粟立つ。背に寒気が走る。喉元に刃物を突きつけられているような、ひりついた錯覚。憎悪と、恐怖と、嫌悪感。

 その理由は、単純なことだ。異世界(むこう)の聖剣には、『魔女殺し』の文脈(いみ)が乗っている。

 ──わたしが、彼を嫌悪してしまう理由だ。

 

 つい先程、中の剣が起動したせいか。いつもなら、うっすらとした威圧感のみで耐えられるのに。今夜はずっと強くそれらを感じる。これ以上は近寄れない、と頭の中で警笛が鳴る。「殺される」と血が騒ぐ。心臓が、うるさい。 

 

 ──今のあなたは、どうしたって魔女(わたし)の〝天敵〟だった。

 

 唇を噛む。心臓を握り潰すように、胸を押さえる。天敵、相性──だから、なんだというの。

 それでも引き留めた。今はまだ、側にいてと。選んだのだ。

 

 ──わたしの選択が、魔女(おまえ)の本能より安いだなんてこと。あってたまるものか。

 わたしは。一歩を詰める。触れそうなほどに彼に近付く。うるさく鳴る心臓に『黙れ』と。唇だけを動かして、呪詛を吐く。そうすれば。

 わたしの心臓は、ぴたりと。鳴るのを止め。完璧に静寂が訪れた。

 

 これでもう、わたしの心音が、あなたを起こす心配はなく。

 怖いものは、ひとつもないのだ。

 

 

 

 もぞり、と飛鳥が微動したのを見て。ふと我に帰る。

 

 ──いや、何をやっているんだ、わたしは。

 

 自分が無意識に大きく笑みを浮かべていたことに気が付いて。わたしは苦々しく唇を引き結んだ。

 ……今のは、ない。いくらうるさいからって心臓を止めるのは正気じゃない。溜息を深々と吐きたいのを堪え、頭を押さえる。

 頭蓋に突き刺さるような異物(つの)が、もうないことを確かめる。

 いまだ起きない彼を横目に、リビングを出て、少し重い扉をゆっくりと閉める。

 

「……お風呂入ってこよ」

 

 そう、実のところわたしは入りそびれてたのだ。ぎりぎりまで昨晩散らかした部屋の片付けをしていたら時間がなくなっていた。

 わたしは魔女なので、普通の人間と同じくらいに汗をかいたりとか、化粧が崩れたりとかはない、ないはずだけど。……飛鳥に近付いた時に石鹸の匂いがして、わたしだけまだだったのが急に恥ずかしくなってしまった。

 

 顔を覆う。心臓、うるさかった理由の半分は、そっちだと思う。

 あ、なんか。懐かしいようないい匂いがするな……って無意識に、必要以上に吸い込んでしまった。

 いや、その、か、嗅いでない。嗅いでないから、それは、踏み止まったから。

 でも心臓を止めて危機感を消しとばした途端に、鮮明に蘇ってくる、石鹸の匂いが、なんかもう、なんか! うわ、うわー……って……!

  いや別に、それが何ってわけじゃないのだけど! 何ってなに⁉︎

 

 廊下の冷たい空気を吸って吐いて吐いて、さっきまでの何かを振り払う。

 大丈夫、全然、別に動揺なんてしていない。あくまで石鹸が好ましいものだっただけで、彼がどうとかは、その、小指の爪の端っこのささくれほども関係がないのだから。

 

 ……ないのだから!

 

 

 

     ◇

 

 

 

 目を覚ますと、向かいの椅子に咲耶がいなかった。

 二十分ほどの記憶の空白を確認して、どうやら自分が眠っていたらしいと理解する。そしてしばらく待っていたのだが……咲耶はいつまでも戻ってくる気配がなかった。

 

 居間はシンとしていて、人の気配というものをうまく感じ取れない。

 この家は全体的に静かすぎるのだ。多分、壁や扉やガラスがどれも分厚い。咲耶の住むマンションはどうやら、防音性が非常に高いようだった。静かすぎると落ち着かない気持ちにさせられる。それには、今夜の「経緯」も関係していると思う。

 

『今夜、一緒にいて』と彼女は言った。その理由を俺はしっかりと理解している。

 端的に言ってしまえば、互いの身を案じているのだ。

 異世界(むこう)聖剣(モノ)を起こしてしまったせいか、少し調子がおかしかった。

 脳の回路が切り替わったような、血流が乱れたような、存在がズレたような……なんというか「異世界酔い」とでもいうべき違和感があった。

 目が冴えてしまった原因だ。いや、それはそれとしてさっき寝てたけどあれはまた別。寝れる時に寝ておく癖が抜けないだけだ。

 

 とにかく、「揺れ戻し」を食らったような感覚があって、それについては多分、彼女も同じだと思う。

 だから側で様子見したほうがいい。何かあるかもしれないから、目を離さないほうがいい。

 ──その警戒心が、互いに備わる〝機能〟や〝本能〟に由来するものだとしても。それを〝心配〟と言い換えるくらいの欺瞞は、許されていいはずだ。

 

 以上が、彼女が自分を引き留めた理由であることを重々に承知している。そしてそれは「理解者として協力し合う」という友人の定義には反していない。論理的な判断だ。

 ……だから、つまり。「深夜のど真ん中に女友達の家にいる」という、状況の不健全さとか考えてはいけないのである。

 いや、まあ……俺ん家に呼ぶよりマシだろ……っていうか、狭いし……テレビもないし……。

 健全な関係でいたい。絶対に。

 

 あの気不味い帰り道の状況から、一応は取り繕って調子を戻し、「たかだか夜通し遊ぶだけ」みたいな空気を作ることに成功したが。

 経緯の事情が事情であることに変わりはない。

 だから──こうして急にいなくなられると不安にもなるというもので。落ち着かなくて部屋をうろついていると、居間(リビング)から見える台所に、エプロンが不自然な置かれ方をしているのを見つける。

 トマトのように赤いエプロンは、昨日、カレーを作る時に彼女が身に付けていたものだ。

 

 ──よく見ると赤い布地には、昨日はなかった黒い染みが浮かび上がっていた。

 

「あいつ……」

 

 溜息を吐いた。

 

「……探すか」

 

 一応、「どの部屋も好きに入っていい」とは事前に言われているのだ。

 ……いや、なんで? 心許しすぎじゃない? 無防備か? あれだろうか。アイツが窓から俺の部屋に不躾に入ってくる分、自分も部屋を明け渡すことで「公平性」を作ろうとしているのだろうか。 

 なるほど、バランスを取るのは大事だ、と一応は納得しておく。

 

 

 

 居間を出て廊下に出ると扉の数に目眩がした。家賃を考えて少しクラッとする。うちの何倍だろうか。にしても扉が全部同じ見た目なのは視認性が悪すぎるだろ、と思う。廊下が一本だから迷う余地はないが、まったく部屋がわからない。

 とりあえず、居間を出て真正面の扉を開けることにする。コンコンと叩くが返事はない。ノック音からしてやはり扉は分厚かった。

 ガチャリと開けると狭い部屋には本棚がいくつも並んでいた。

 すごい、書庫だ。あいつセンスいいな。

 

 一番近くの本棚の背表紙を流し見する。分厚い本が棚を占めており、ファンタジーっぽいものが多いような気がした。

 俺も昔はそれなりに本を読む方だったはずだがファンタジーには明るくない。昨今の「異世界」の概念を把握したのは、こっちに帰ってきてからのことだった。

 元々知っていたら、もう少し向こうでうまく立ち回れただろうか、とか考えないこともないが。現代知識が役に立つ文明レベルではなかったから無理な気もする。……聖剣の見た目、近未来だし。

 この部屋に咲耶はいないようなので、入らずに扉を閉めた。

 

 そのまま隣の部屋の扉を叩く。やはり返事はない。なんとなく、人がいるような気はするのだが。

 

「咲耶? 開けるぞ」

 

 ガチャリ。とドアを開けた瞬間。

 ブォォォ……と機械音が溢れ出す。

 その部屋は洗面室だった。大きな音の正体はドライヤーだ。随分と出力が強い。

 鏡の前で、咲耶が濡れた長い髪を乾かしていた。

 

 ──下着姿で。

 

 ピシリ、と固まる。

 ……なるほど。扉の防音性が高すぎて俺はドライヤーの音が聞こえず、咲耶は大きすぎるドライヤー音でノックが聞こえなかったのか。と一周回って冷静に分析を弾き出す勝手な脳味噌。

 その一瞬の間に、咲耶が驚きの表情を鏡に写す。

 

「……ふぇぁっ⁉︎」

 

 ドライヤーを止め、ばっと勢いよく彼女は振り向く。

 回転によってかかる遠心力。濡れた髪から飛び散る滴。下から上に重力に逆らい、揺れる大きな胸。揺れの衝撃に、ぱつんと弾けるようにして。

 

 下着の、留め金(ホック)が外れた。

 繊細なレースの布地がずり落ちる。

 

「〜〜っっ‼︎⁉︎」

 

 驚愕の表情が一瞬にして赤面に転じた。

 弛んで溢れ出す中身を彼女が両手で押さえたのと──俺が壊れそうな勢いでドアを閉めたのは、同時だった。

 

 ドアを閉める音が静かな廊下に割れそうなほど響く。その向こうで微かにドライヤーが床に落ちる音がした。

 状況のみを把握していた脳味噌に遅れて、「やらかした」という感情と、「やばい」という感想が追いついてくる。

 

「…………腹切る前に土下座するか」

 

 

 

 廊下で待つことしばらく。恐る恐ると、再度ドアが開く。

 

「……見た?」

 

 か細い咲耶の声に、平身低頭の姿勢で返答。

 

「弁解のしようもなく」

「ああ、うん。目、いいものね……」

 

 沈黙の隙に先程の傷ひとつない綺麗な肢体が脳裏で蘇ったので、廊下に額をめり込ませる。死ね俺。

 

「とりあえず、その綺麗すぎる土下座はやめて。顔、上げて……?」

 

 指示に従い、正座で彼女を見上げた。咲耶は扉の隙間から顔を見せている。しっとりと濡れた髪がまだ肌に張り付いていた。

 

「その、ノック音、微妙に聞こえた気がしたし……事故、だし……怒ってないから……全然、謝らなくていいから……」

 

 ぷしゅぷしゅと赤く茹で上がりながら、彼女はそう言っているが。

 俺は目を逸らして、問いかける。

 

「あの、咲耶さん。……なんで、まだ、下着姿のままなんですかね」

 

 扉の隙間から身体が半分見えてんだけど。咲耶はばつが悪そうに、言った。

 

「いつものくせで……服、用意するの忘れたわ」

「ばっっっかじゃねえの⁉︎」

 

 いやおまえ魔法でモノ持ってこれるだろ思い付けバカ‼︎

 

 

 

 

 ひとまず居間に戻り、咲耶が服を着てくるのを待つ。

 戻ってきた彼女は、柔らかい布地の薄手のワンピースを着ていた。ネグリジェとでも言うのだろうか。問題なのは、薄手の白い布地が彼女の身体のシルエットを柔らかく浮かび上がらせているということ。一見すると清純そうなデザインだからこそ、布地越しに透けて見える手足が、生身よりも心臓に悪いということだった。

 

 普段、咲耶の制服の着こなしは堅い。私服も、彼女が好んで着る服は綺麗さを引き立てるような、大人っぽい硬さを感じさせるものが多い。だから、余計に。部屋着の白いワンピースの装甲の薄さというか、ちょっと刃物が刺さったら全部破けてしまいそうな柔らかさが、あまりにも無防備に感じてしまう。

 

 もっとなんかアホみたいなTシャツとか着てこいよ。蛍光色のジャージとか着ろ。そんな可愛い服を着るな。クソが。

 いっそ下着の方が防御力が高かったんじゃないか? 服着た方がむしろアレって──アレとは何かは言わないが──本当にどうかしているし、どうかしているのは多分、柔らかなワンピースの向こう側というか中身が焼き付いて離れない自分の脳味噌だ。

 

「ねえ飛鳥。……距離、おかしくない?」

「おかしくないですね」

 

 薄着の咲耶から距離を取る。なんだか空気が甘いというか、謎の息苦しさがあって、風呂上りの火照った彼女の顔がどことなく艶めかしい。絶対に近付きたくない。

 だが咲耶は俺に構わず、距離を詰めようとする。

 

「あの、今から謝罪会見するんで、ちょっと近づかな……近づくなつってんだろ! なんでにじり寄ってくるんだよ⁉︎ なんだてめえ⁉︎ 帰れよ‼︎」

「ここわたしの家なんだけど⁉︎」

「ほんとだ、クソが! 俺が帰ります‼︎」

 

 咲耶は慌てたように、縋り付く目をする。

 

「か、帰らないでよ……今夜一緒にいてくれるって、言ったじゃない……」

「う、ぐっ……!」

 

 しおらしく言われて動揺してしまったから、後ろの壁に背中がぶつかった。しまった。もう逃げられない。

 するりと衣擦れの音を立てて彼女が、至近距離に。

 

「……別に、気にしなくてもいいのに」

 花のような、甘い匂いがして──呼吸を止めた。

 咲耶は潤んだ瞳で、こちらを見上げる。

 

「自分で言うのもなんだけど……結構いい身体していると思うの。人様に見せて恥ずかしいようなものでは、ないつもり」

 

 確かにそれには、異論がない。雪のように白い肌はよく手入れされていただろうことが想像できる。背が高く安定した骨格が伺い知れるにも関わらず、華奢と形容するほど細い印象。けれど胸部(むね)や大腿部(ふともも)の肉付きはよく、適切な筋肉量がそれらを保っていることが見て取れた。あそこまでくると一種、芸術品のようだった。

 ……くそ、一瞬しか見てないのにめちゃくちゃしっかり覚えているんだが。どうしようこれ。上記の感想の六割は「戦闘経験に由来する人体観察の話」ということで容赦されないだろうか。されない。咲耶が許しても俺自身が許さない。

 

 すすす、と、咲耶の指先が、布越しに自らの腹部を撫でる。

 

 

「それにあなたになら……見せても、いいわよ?」

 

 

 変な声が出るかと思った。チリチリとひりつくような緊張と、視界が明滅するような動揺。ガチガチと頭の中のブレーカーを落として、理性の出力を上げる。

 熱を帯びた唇が、甘やかに囁いた。

 

「だって。あなたには、もっと奥まで……」

 

 

「──内臓(なか)まで、見られているんだもの」

 

 

 そして咲耶は、花も恥じらうように頬を押さえ、顔を背けた。

 

 ……もっと奥。ああ、うん……。物理的に、か。

 急速に脳が冷える。

 確かに、なんか見たことある気がする。異世界でね。つやつやとしたピンク色の、ね。おまえの腹にあいた穴から、ぽろりと──。

 

「いや最っっ悪だなおまえ‼︎」

 

 全力で叫んだ。

 

「えっ」

「なんでそっちの方が裸見られたより恥ずかしい、みたいな顔してるんだよ! おかしいだろ‼︎」

 

 咲耶は心外、というように声を上げる。

 

「はぁ? あんただって、裸見られるより傷見られる方が恥ずかしくない⁈ それと同じじゃない! だから今更……は、裸見られたくらいでとやかく言ったりは、しませんから!」

「それはそうかもしれない確かに……じゃねぇ! 全然違う! 急にグロいこと言うなって話だろうが‼︎ めちゃくちゃ怖いわ! あととやかくは言え‼︎」

「怖い……? え、なんで? 治ったのに? はらわた、ちゃんと収まってるわよ?」

 

 小首を傾げて純粋に疑問を口にする咲耶に、頭を抱えた。

 あああ……酷い異世界ボケだ。久々に目の当たりにした。倫理観おかしいんだよこいつ。

 壁際でしゃがみ込む。

 

「咲耶……」

「えと、はい」

「俺は、おまえの、そういうところがちょっと嫌いだ」

「ご、ごめんなさい……⁇」

 

 恨めしさはまったく伝わっている気がしなかった。

 

 

 

 ひとまず包囲から抜け出して、ひと通りの各式ばった謝罪を一方的に捲し立てた後。

 

「とりあえず、俺は責任を取ります」

「え、うん……えっ、責任⁉︎」

「……記憶、消してくれないか」

「あ、そういう意味……ね。びっくりした」

 

 脳味噌弄らせるのは心底嫌だけどな。咲耶はなんだか呆れたように、へらりと笑う。

 

「別に、いいって言ってるのに。もう、生真面目なんだから」

「いや、してくれ。してくれなかったら、俺は記憶が飛ぶまで自分の頭を殴る」

「……え? なんで?」

「なんでも」

 

 咲耶は黙り込んで、俯く。

 

「…………そう、そんなに? そんなに見苦しかった?」

「いや、論点はそこじゃないから」

 

 おまえが美人なのは絶対的真理だから。

 

「そういう話ではないのでつべこべ言わず、消してくれ。っていうか、消せ、マジで」

 

 顔を上げた咲耶は、ゆっくりと右目に手を当てて、

 

「ああ……うん、冗談でもなんでもないのね。そう、本気……そうなの……」

 

 

「じゃあどこが問題だったって言うのよばっっかやろぉぉ‼︎」

「死んでも言わねえよボケェェ‼︎」

 

 

 キッとこちらを睨みつける赤い右眼が光ったのを直視して、意識はそこで飛んだ。

 

 

 

 

 ──数分後。

 

「はーあ。これでいいんでしょ。これで満足なんでしょ」

 

 俺はきっちり、洗面室の扉を開けて以降の映像記憶が思い出せなくなっている、というか、記憶に『鍵』がかかっていることを確認。

 

「ありがとう。本当に。感謝してもし尽くせない」

「いやなんでそこで本気の謝意示してるのよ。意味わかんないわ。ひとりだけなんかすっきりした顔しやがってこのやろ……」

 

 けっ、と今にも悪態を吐きそうな荒んだ顔で、咲耶はソファの上で膝を組む。

 

「咲耶、話があるんだけど」

「なに? まだなんかあるの」

 

 じっとりと俺を見上げる咲耶に、言う。

 

「正座」

「え?」

「正座しろやァ‼︎」

「なんでわたしが怒られてるのー⁉︎」

 

 言いたいことなら山ほどある。

 

「まず、どこの馬の骨ともしれない男を家に上げてる間に風呂とかどういう了見で⁉︎」

「あんたは馬の骨じゃないわよ! 友達じゃん!」

「だとしてもだよ! 社会常識の話をしてるんだ!」

「だからあんたが常識語っても意味ないんだってばー! ていうかこれ逆ギレじゃない⁉︎」

「俺は謝ったし反省したからいいんだよ! 次こんなことがあったら俺は腹を切るからなマジで! 油断するなよ‼︎」

「自分を人質にするほど⁉︎ え、わたし⁉︎ これ本当にわたしが悪いの⁉︎」

「そうだよ‼︎」

「そ、そうなんだ⁉ あれぇ⁉︎」

 

 俺がやらかしたのと別の問題だ。それはそれ、これはこれとして。咲耶が根本的に無防備で隙だらけなのは致命的に悪い。さっきのあの挙動が、本当に悪い。……という話をしたいのだが、直接的な言葉を使うわけにもいかず。どうやら、咲耶には一切響いていないようだった。

 なんでこいつはこうなんだ……と頭を抱えていると。いつの間にか咲耶は俺の視界から消えていて、いそいそとポテトチップスとコーラを用意していた。

 

「何してんの」

「え、だって。この話はもう終わりでしょう?」

 

 言いたいことはまだあるが。

 

「まだ、寝ないわよね?」

 

 渋々と頷く。寝れないね。見たものは忘れたけど完全に目が冴えたからね。

 

 咲耶は棚から取り出したゲーム機のコントローラーを持ち、こちらを上目遣いで見る。

 

 

「……しよ?」

 

 

 共に取り出したゲームソフトのパッケージは、開いていなかった。複数人用のゲームは一緒に遊ぶ友達がおらず開封されることがなかったのだろう。うわっ、いたわしい。

 あまりのいたわしさに返事ができずにいると、彼女は不安そうに小首を傾げた。

 

「あそばないの……?」

 

 ……そういや、彼女の素顔を見るのは初めてだった。いつもよりも幼げで、部屋着のせいでふんわりとした印象で、忌憚なく言ってしまうと──かわいい。

 ……心臓、ちょっと黙れ。

 

「ああもう! するよ! クソッ、絶対にボコボコにしてやる」

 

 咲耶はぱっと目を輝かせた。

 

「勝負ね! ええ、負けないわ!」

 

 もう何もわかってない。本当に、この女は。なんにもわかっていないのだが……まあ、咲耶が楽しそうだからいいか、と思った。

 

 やはり、俺は結構、こいつに甘いと思う。

 



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第十二話 わたしの初恋。

 いつか飛鳥と遊ぶこともあるだろうと思って、取り寄せたばかりのゲームの封を切る。

 この手の対戦ゲームは、かつて健全な交友関係を持っていた飛鳥の方が経験値があるはずで、むしろわたしには不利な勝負を挑んだつもりだったのだけど。 

 

「ボコボコにするって、啖呵切ったくせに……」

「みなまで言うな。わかっている。これは多分昔からだ」

「……ド下手じゃない‼︎」

「みなまで言いやがったな⁉︎」

 

 画面の中で、飛鳥はあっけなく連敗していた。

 

「あっはは、意外だわ!」

「うるせぇ、俺はテーブルゲームなら結構やるんだよ!」

「あは、そんな感じするかも。多分そっちだと勝負にならないわよ、わたしが弱くて。チェスとかポーカーとか、一応ひと通りできるけどね。お嬢様の嗜みだから」

「……いや、悪い、調子に乗った。俺も別に強くないと思う」

「ふふふ。今度試してみる?」

「は? 負けねえ」

「手のひら返すの早すぎるわ。何その血の気」

「人間は負けたら、」

「はいはい死ぬ死ぬ。というわけで、はい。死ねー?」

「うわまた負けた! チクショウ‼︎」

 

 夜が、更けていく。

 

 

 

 ──これは、昔の話だ。

 

 三年前。わたしたちがまだ、正真正銘に普通の高校生だった頃。かつて、陽南飛鳥に恋をしていた頃の話だ。その初恋のきっかけを、わたしは確かに覚えている。

 当時、誰にも嫌われない優等生を演じて生きていたわたしは、あまり目立たない同級生だった彼を、気が付けば、いつも目で追っていた。その理由は何故なのか。

 確かに彼は、地味で目立たなくて比較的に大人しい少年だった。けれどそれは自ら矢面に立つことがないというだけで、いつだって和の中にいた。

 別に人気者というわけじゃない。けれど気付けば当たり前のようにそこにいる。

 善良で、親切で、けれど取り立てて評価されることもないような普通の子。特筆して印象を残さないくせにどこにでもよく馴染んで、本当に誰とでも分け隔てなく仲が良い……そういう子、クラスにひとりはいるでしょう?

 

 言うなれば背景に溶け込む名脇役。例えるなら通学路の街路樹。気にも留めないけれど、いなくなると寂しいもの。そういう普遍的な親しさを感じさせる同級生が、陽南君だった。

 わたしが「誰にも嫌われない」ことを計算して動いているならば。彼は「誰彼からもうっすらと好かれる」ことを天然でやっていたのだ。

 ──それは、今の飛鳥にはすっかりと、できなくなったことだけど。

 

 だから。昔のわたしは、思ってしまったのだ。

 ……ああいいな。あの人はきっと人生を上手くこなしていく側だ。呼吸すらも下手なわたしとは、違う人間だ。

 根暗で陰湿で自分に自信がないわたしは、わたしにはできないことをできる人が好きだった。わたしは、不器用なはりぼてで出来ていたから。わざと壁を作って高嶺の花を装うことでしか処世ができないわたしなんかより、ずっと器用な彼が……羨ましくて、憧れて。気付けば、いつだって目で追っていた。

 それだけの、仄暗い憧れの感情を抱いているだけだった。

 わたしたちは、ただの同級生として終わるはずの関係だった。

 

 ──それが変わったのは、夏の終わりの文化祭。

 わたしはその頃、文化祭準備の仕事に追われていた。周りにいい顔をするということは普段の積み重ねが大事になる。大きな行事の時なんて最たるもので、頼み事を断れやしない。そしてわたしは、実行委員に祭り上げられた。『文月さんなら任せられる』と。

 確かに、そうだろう。わたしが作り上げた「文月咲耶」なら完璧に、そつなくこなしただろう。問題は、中身のわたしのことなんて誰も知らないということで。実際のわたしには人を纏める器なんてなかったし……実際、最後にはボロを出して当日にとある失敗を犯してしまった。さいわい周りは皆優しくて、起きたトラブルを責めもせず、むしろわたしの努力を肯定してくれた。

 だけど。本当は根暗で陰湿で人と関わるのが苦手で、嫌われること、間違えること、完璧ではないことを何よりも恐れて生きてきた当時のわたしの心は、すっかりと限界を迎えてしまったのだ。

 文化祭の最終日。もう、自分がいなくても状況が回ると判断できたその時に、ぷつりと糸が切れた。華々しい祭りのすべてから背を向けて、わたしはひとりで逃げ出して。がらんどうの教室でひとり、カーテンにくるまって息を潜めていたのだ。甘い(・・)缶コーヒー(・・・・・)を両手に抱えて。

 

 ──そのわたしを探しに来たのが、陽南君(あなた)だった。

 

『文月、ここにいたんだ』

 

 あの頃、今よりもずっと柔らかく喋る人だったあなたは、わたしを見つけて。わたしのいつもと違う様子には何も触れずにいてくれた。そして祭りの喧騒から遠く離れた教室でふたりきり。たわいもない会話に付き合ってくれた。陽南君には一緒に文化祭を回る友達なんていくらでもいたはずなのに。もっと楽しいことなんてあったはずなのに、わたしを案じてくれたのだ。

 

 ──それはかつて唯一、わたしが何も演じずに、誰かと話をした時間。纏う皮が破れてしまった今とは違って、完璧に取り繕えていた〝昔のわたし〟が、本当に誰にも素顔を見せられなかった時代の〝文月咲耶〟が、限りなく素でいられた僅かな時間──それが、あなたの前だった。

 

 それだけの話だ。

 それだけの話、だけど。

 

 ──恋に落ちるには、十分でしょう?

 

 その時彼に差し出された、さして美味しくもない缶コーヒーの味をずっと覚えている。彼に貰った二本目(・・・)の缶コーヒーは、苦かった。

 ブラックなんて飲んだことなかったけれど。わたしはその日から、コーヒーに砂糖もミルクも入れることはなくなったのだ。まるで、あの日の思い出に縋り付くような振る舞いだ。自分の浅ましさに笑えてくる。

 

 ──そしてそれは、綺麗な初恋の思い出であると同時に失恋の記憶でもあった。

 

 当時のわたしには定められた婚約者というものがいて、わたしには恋よりも優先すべき生き方があった。それだけではなく、彼がわたしをなんとも思っていないのも知っていた。好意も、敵意も、特別な感情は何も、あなたからはずっと読み取れなかった。

 陽南飛鳥は誰にでも親切な人だったから、その親切がたまたまわたしに向いただけ。誰にでも優しいあなたが、わたしにだけ優しかった都合のいい時間はあの一日だけ。

 わたしはそれだけで、ささやかに救われた。だから。

 叶うはずのない恋は心の箱に仕舞われて、ただの綺麗な思い出になる──はずだった。

 

 はずだったのだ。

 

 ──最悪な異世界に落っこちて、最低な出会いを、果たすまでは。

 

 

 遠い遠い向こう側で。再会の時には誰だかわからなかったほどに、背丈も顔つきも目の色も何もかも変わってしまった勇者(あなた)は、それでもわたしを助けてくれた。

 あの頃の魔女(わたし)というのは、本当にどうしようもない女で。異世界なんてわたしの人生ぶち壊しにしてくれた報復に滅ぼしてやろうと本気で思っていた。

 

 ──どうせ逃げられないのだから。

 ──どうせ帰れないのだから。

 ──どうせ、誰も助けてくれないのだから。

 

 本当に、それだけの絶望で。

 けれどあなたはあっけなく、わたしが諦めていた願いをすべて叶えてくれた。

 それにどれほど救われたか、語り尽くせるはずもない。

 だから。わたしは、その恩に報いなければならない。

 

 絶対に──何をもってしても。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 連敗を繰り返した飛鳥は、わたしの隣で大の字になる。

 

「力加減がわからん。コントローラー壊しそう」

「だろうと思って、丈夫なのを買っておいたわ」

「マジ? 助かる。今から本気出すわ」

「あら。わたし、あなたがいつも本気なの知ってるのよ」

「そんな都合の悪いことは忘れろ。俺は忘れた」

「本当になんなのよあんた」

 

 起き上がって再戦。

 

「ていうかやっぱり、人数が足りないわよね」

「まあ、な」

「……ちゃんと、あの子たちと友達になれるといいな」

「大丈夫だろ、多分」

「あんたって楽観主義者ね」

「悲観は飽きが来るからなー」

 

 カチカチとコントローラーの音が響く。けたたましい効果音が画面から鳴る。

 

「……あ、あーー! うそ⁉︎ 負けたんだけど⁉︎」

「うわはは。どうだ見たか! よし、概ね理解した。次も余裕で勝つ」

「は? 調子こいてんじゃないわよ」

 

 ──ゲームの画面を見つめ直し、コントローラーを握り直す。

 本番は、ここから。あなたに勝つ方法をよく考える。

 

 考えるということ、思考には依存性があると思う。わたしは頭の出来が良くないから、それを補うためにいつだって何かを考え続けている。

 それは地上で鰓呼吸をするような所業だけど、それ以外の方法を知らないし、わたしずっとそうして生きてきた。

 それでも結局わたしの目は節穴で。この世界はわからないことばかりだ。

 

 だから、いざとなれば。考えた上で小賢しいだけの思考(それ)を投げ捨てる。何も考えていない無神経な顔を繕って、踏み込んでいく。理屈じゃない無謀を振りかざす。

 それが、昔の文月咲耶(わたし)にはできなかったことで。悪い魔女になって、少し自由になったわたしにはできることだ。

 ……実はわたしは、今の自分のことがそんなに嫌いではなかったり、する。

 

 そうやって。無茶苦茶な理由をつけて、あなたの部屋に窓から飛び込んでまで。

 強引にでもわたしは今、あなたの隣にいることを選んだのだ。

 

 ──画面の中で彼を蹴倒して。

 

「わたしの勝ち、ね?」

 

 隣を振り向く。

 心底悔しそうな顔をしてくれるあなたの顔が、好きだと思った。

 今あなたの視界の真ん中にいることを、幸福だと思った。

「もう一戦!」と子供のようにいつまでも言って欲しかった。だから。

 

 朝なんて、もう、来なくてもいいと思った。

 

 

 

 

 向こうで再会した時の彼は、本当に酷い目をしていた。澱んだ泥水に青の絵の具をぶちまけたような、死んだ目だ。

 今の飛鳥はちゃんと笑うようになったし軽口も叩くようになった。わたしが失敗したら呆れてくれるしわたしに負けたら悔しがってくれる。昔の陽南君とは違うけれど。態度も口も性格も悪くてちっとも穏やかな顔なんてしてくれないけれど。それで、十分だと思う。

 

 どうせ初めから、わたしの立つ場所(ここ)は酷い地雷原だ。過去に見て見ぬ振りをする関係は綱渡りのように不確かだけど。多分その危ういバランスの上にいることが唯一の〝正解〟だから。

 踏み外したって死にはしない。今更失うことなど何も怖くない。あなたと昔のように、たわいもない話が出来さえすれば、それでいい。

 わたしは自分で認めざるを得ないほどの馬鹿だけど、まだ愚か者にはなりたくなくて。いつだって、欠けたることもない〝完璧〟な正解が欲しかった。

 でも。願いを叶えるには。

 正しいことを、正しいようにやっているだけではいけないことを、爪先から天辺まで〝間違い〟に染まった今の魔女(わたし)は知っている。

 

 ──この時間がいつまでも続かないことを、わたしはよく理解していた。

 わたしとあなたは同じではないから。

 わたしは、あなたとは違って──もう、人間の身体ではないから。

 

 異世界の後遺症だ。わたしの身体は、時を止めたまま歳を取らなくなっていた。

 友達の定義をすり合わせた時彼は言った。『言わなければわからない』と。言わなければわからないのだから、言わないのは当然のことだ。爪も髪も、わざと少しずつ伸ばして自然な代謝を装っているだけだ。

 

 ──わたしは、嘘を吐いている。

 

『二年前に中断された続きの人生』を『将来を見据えて、現代社会で清く正しく生きていく』を、と。彼は共通の目標を掲げたけれど。

 実のところ、わたしはこれっぽっちも興味がなかった。

 

 だって無理だ、とっくに人でなしのわたしには。

 初めからわたしたちの目標は一致などしていない。けれどわたしは嘘を吐いてまで、同じものを見ているフリをした。

 わたしは魔女だから。魔女は「願いを叶える存在(もの)」だから。

 

 ──わたしの願いは、あなたの願いを叶えることだから。

 

 わたしは「人間」の演技(ロール)をし続ける。

 必要のないご飯を食べて、必要のない眠りについて、正しく生きていける振りをする。

 けして彼に「手遅れ」を悟らせないように嘘を貫き通す。

 その嘘が、わたしなりの最大限の誠意。

 

 わたしは救われた。だから、今度はわたしが、恩と友誼に報いる番だ。

 それはけして、浅ましい恋のためなんかであってはならない。

 

 わたしたちは友達以上になってはいけない。

 だって深すぎる関係になれば、あなたの前からわたしがいなくなった時に傷になる。

 わたしはあなたになんの呪いも遺したくない。

 

 文月咲耶(わたし)はもう、勇者(かれ)に恋をしていない。

 けれど、魔女(わたし)は。陽南飛鳥(あなた)を今でも深く、愛している。

 

 だから。

 間違ったわたしは、正しいあなたの未来には、いらないのだ。

 

 あなたがちゃんと、しあわせになるのを見届けて。魔女(わたし)はあなたの前から姿を消す。

 

 

 ──それが、わたしの「目的」だった。

 

 

 

   ◆

 

 

 

 時計は午前三時を回る。

「寝よう」と言い出したのは、どちらともなくだった。「帰らないで」と願った通りに彼はわたしの家に留まって、ソファの上で眠ってくれた。わたしは眠らずにこっそりと彼の側で、朝を待っていた。

 ……実のところ。

 割合早い段階で、わたしは彼が異世界(むこう)を引き摺りすぎていることに気付いていた。

 それを「どうにかしないと」と思って。会いに行く口実に「敵対の継続」を選ぶしかなかったのが少し前までのわたしの真相だ。

 飛鳥はそんなわたしを受け入れ「友人」にしてくれた。

 それでもわたしの企ては、何も変わらないはずだった。

 

 ……誤算は、わたし自身の浅ましさだった。「友達」という、あまりにもわたしに都合が良い役を与えられてしまった途端に、「隣に居たい」という欲に逆らえなくなってしまったのだ。みっともなくて恥ずかしいことに、わたしは魔女になってからどうにも理性が弱くて。欲の方が強くなるとどうしようもなくなってしまう。

 

 わたしは彼の寝顔を覗く。こっそりと魔法をかけて深い眠りを(いざな)ったから、身じろぎひとつしない。

 普段の彼には(うで)のせいであまり魔法が効かないのだけど。今夜は記憶を消すために一度自らわたしの魔法を受け入れてくれたから、あっけなく無許可の二度目もかかってくれた。

 多分、今ならば触れても起きることはないだろう。

 ……たとえばキスを落とすことだって、今ならばれやしない。

 

 額に親愛、目蓋に憧憬のキスくらいは許されるだろうか、と。悩みに悩んで。歯止めが効く気がしなかったからやめた。

 ……願いを、見失ってはいけないから。

 

 ──わたしの願いは、「正しく生きたい」というあなたの願いを、叶えることだ。

 

 でも、その対価に。ひとつだけ我儘を、言わせて欲しい。

 どうか。

 

 

 ──あなたの青春を、ください。

 

 

 卑しくて浅ましいわたしに思い出だけを。あの日失ったままもう二度と手に入らないはずだった、かつて手を伸ばすことすらしなかった輝かしい日常だけが欲しい。

 あなたが現世(ここ)でちゃんと生きていけるようになるまでの僅かな時間。

 隣で、友達で、いさせて欲しい。

 

 

 ──そしてわたしの青春はすべて、あなたのために。

 

 

 面倒くさいわたしは不器用なやり方しかできないだろう。

 人に頼るのが苦手なあなたに悟らせないように遠回りにはなるだろう。

 それでも。あなたに愛を捧げる覚悟は二度救われたその時から。とっくにできていた。

 

 

 わたしは、初めから知っている。

 あの異世界での記憶が真っ暗闇だったことを。そして現世にいる今ですら未だ薄明が遠いことを。

 人間に戻れない魔女(わたし)はきっと、ずっと夜の中にいるまま、あなたと同じ道を歩めないということを。

 

 だからせめて、あなただけは「正しい人」のまま、この先を生きてくれますように。

 その隣から、「間違ったわたし」はいつか消えるとしても。

 

 ──この長い長い夜が明けるまでは、あなたの側に。

 

 そう祈ろうと、手を組みかけて。

 天に中指を突き立てた「魔女」にはとっくに、祈る先がないことを思い出した。

 

 

 

 

    ◆

 

 

 

 

 次の日は特筆すべきことなど何ひとつない、最高の一日だった。

 昨日の帰り道で約束したことをすべて完璧にこなして。くだらない軽口を絶え間なく応酬して。「おはよう」から「おやすみ」までを、正しく口にして。

 夕飯の後。

 彼がわたしの部屋を、扉から出ていくのを見送った。

 

 

 着信に気が付いたのは、その後だった。メッセージの送り主は、寧々坂芽々。

 

『明日、時間はおありですか』

『大事なお話があります』

 

 

『飛鳥さんについて、です』

 

 

 嫌な、予感がした。

 



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第十三話 わたしはひとり、岐路に立つ。

「人生なんて全部、演劇みたいなものだ」と思うようになったのは多分。

「ある日突然お金持ちの家の養子になる」なんて劇的な経験をしてしまったせいだ。

 

 それ以来、わたしは物語を真似るようにして生きてきた。その最たる例が口調だ。わたしが翻訳小説に出てくる古めかしい女の子みたいな話し方をしてしまうのはそのせいだ。

 愚鈍なわたしには無理がある「お嬢様」なんて役柄も「魔女」なんて似合わない悪役のやり方も、わたしは物語を真似ることでなんとか演じ続けていた。

 

「魔女は窓から入る」という制約(ルール)も、由来は物語だ。

 わたしの記憶の中の強固なイメージ。幼い頃に読んだ絵本の一幕──屋根裏部屋に窓からやってきて、素敵な魔法をかけるおとぎ話の魔女。それに倣ったのだ。

〝制約〟とは何か。たとえば吸血鬼は「招かれなければ家に入れない」という制約を持つ。それは吸血鬼があまりに強すぎる怪物(そんざい)であるが故に課せられた制約だ。

 逆に、魔法においては、制約を課せばその存在を強化できる。

 

 わたしは「魔女は窓から入るもの」だと定義し、魔女(わたし)という存在を強化した。

「敵である魔女(わたし)は彼の部屋に窓からしか入れない」という制約を自分に課した。

 その制約は、その行いは、ジンクスであり願掛けでありおまじないだ。

 

 

 ……本当は悪役なんかじゃなくて、おとぎ話のように窓から現れる魔女になりたかった。

 願いを叶える魔女になりたかった。

 そしてあなたの願いを叶えて、あなたをしあわせにしたかった。

 

 ──わたしは。

 

 あなたのハッピーエンドに、なりたかった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

『明日、時間はおありですか』

 

 水曜日の放課後。寧々坂芽々に呼び出されたのは例の喫茶店だった。飛鳥は別のバイトで笹木君は部活、話を二人に聞かれる心配はない。

 店の中へ入ると、一度見たら忘れない、明るい髪色のシニヨンに、分厚い眼鏡の女の子をすぐに見つけた。窓際のテーブル席で曇りガラスの光を浴びながらスマホをいじっている。

 

「寧々坂さん」

 

 近寄って呼びかけると、顔を上げて「お待ちしていました」と返事が返ってきた。

 

「ところで、名前で呼んでいただけませんか?」

「苗字で呼ばれるのが苦手なの?」

「長ったらしい呼び名が苦手、ですね。親しき仲なら短くて簡潔なあだ名がいいと思いません?」

 

 テーブルに肘をつき、組んだ手の上に小さな顎を乗せて、寧々坂芽々は言う。だけど。

 

「わたしたちは親しい仲かしら?」

「では、今はまだ『咲耶さん』で。いずれ呼ばせてくれると嬉しいです」

「……わかったわ。芽々」

 

 にこにこと食えない笑顔を人懐っこく浮かべる芽々は「とりあえず、注文しちゃいましょうか」と、言う。

 愛嬌のいい子は好きだ。でも……それを素直に受け取れる気分じゃなかった。

 

 注文が届くのは早かった。わたしは浅煎りを、砂糖もミルクも無しで。芽々は小豆入りのコーヒーなるものを頼んでいた。

 芽々は澄ました顔でカップを口に運んで、微妙な顔でぼやいた。

 

「甘ぁ……こんなの、ほとんどおしるこじゃねーですか」

「なんで頼んだのよ」

「好奇心です。ま、でも意外と悪くないですね。飛鳥さんの言ってた通り」

 

 ……そう、話は飛鳥のことだ。わたしもコーヒーを啜る。

 店内を流れる静かな音楽。カチャリとカップを置く音。さらりとした苦味で頭を切り替える。

 

「それで、話って? ……いえ、その前に聞くべきことがあるわね」

 

 底の小豆をスプーンで掬って食べている芽々に問いを投げる。

 

「あなたって、何者? 一昨日の路地での件、流石にあの反応はおかしいわ。元々わたしに近付いた理由だって不可解だし、飛鳥にも聞いたけど、彼への絡み方も不自然よ」

 

 友人になれたら、という願いはある。けれどわたしは彼と違って楽観なんてしない。

 

「……わたしは、あなたを少しも信頼していないわ」

 

 口が堅い笹木君は保留としても。目の前の、寧々坂芽々という女の子からは怪しい匂いがしてならなかった。けれど芽々は、少し困ったように眉を下げてスプーンを回して言う。

 

「あ〜、その辺の理由は、気にしないでください」

「どういうこと?」

「えっとですね。要は芽々『オカ研』の人間なんです」

 

 オカルト研究部の略称。

 

「だから、近付いたのは概ね好奇心ですね。元々気になってたんですよ謎の失踪事件」

 

 その辺はあまり興味を抱かれないように、ある程度の魔法は使ってあったのだけど。『まあいいか』となりやすい、くらいの暗示なので好奇心が強い子には効かなかったのかもしれない。

 

「路地のアレをあっさりと受け入れたのはオカ研の性質だとでも思ってください。ファンタジーを鼻から吸うのが生きがいなので、幻覚めいた現実にも、冷静に対処できるのです」

「それだけ?」

「大体それだけですよ?」

「……にしてはあなた、胡散くさくない?」

「その辺はま〜、アレです」

 

 にっこりと微笑む芽々。

 

「クセになってるんですよね、意味深な言動するの。楽しくないですかー?」

「……変な子」

 

 どうやらこの分だと変わった喋り方も自覚的にやっているんだろう。……喋り方についてはわたしもとやかく言えない方だけど。

 

「ですが……『何者か』という問いについては。此度の用件では、こう答えるべきなのでしょうね」

 

 一転。

 芽々は真面目なトーンで、わたしの目を見つめ返す。

 

「──中学が、同じだったんですよ」

 

 誰と、なんて言わなくてもわかる。

 話題の中心はひとりだけ。

 

「飛鳥さんの元後輩なんです、芽々。たまに勉強とか教えてもらっていました」

 

 さらりとそう言って、甘ったるいコーヒーを啜る芽々。

 わたしは口の中の苦さから逃げるように、掠れた声で返す。

 

「……アイツはそんなこと、言ってなかったわ」

「ええ」

 

 中身の減ったカップをことり、と置く。

 芽々はレンズの向こうの大きな瞳を、冷ややかに細めて言った。

 

 

「──覚えてなかったんですよ、先輩は。芽々のことを」

 

 

 

     ◇◆

 

 

 

 これまで。

 彼と彼女の日常は、僅かに軋みを上げながらもつつがなく回っていた。

 

 ──日常はゆるやかに過ぎ去った。

 

 どれほど定義の防壁を築いても。どれだけ論理で武装しようとも。

 きっと初めから『普通の友人』でい続けるには、無理があった。

 

 ──天秤は既に反対側へと傾いていた。

 

 

 

 その日の夜は丁度満月で。雲ひとつない晴れの夜空に煌々と輝く月が、夜道を冷たく照らしていた。

 陽南飛鳥は帰路についていた。自転車を走らせながら、脳裏に思い浮かべるのは僅かな違和感。昨日今日と、彼女の様子がおかしかったことだ。たとえば口数が少なかった。たとえば朝に眠たげな様子がなかった。たとえばいつもよりも表情が完璧だった。

 それは気のせいで片付けても構わないほどの些細な引っ掛かり。だが、それを無視するほどに飛鳥は思考を軽んじてはいなかった。

 

 行く自転車は分かれ道に差し掛かる。

 そしていっとうに暗く、ひと気のない道の真ん中に、彼女が立っているのを見つけた時。総毛立ったのは、この先に何が起こるのかを予感したせいだった。

 

「……こんなところで何してんだよ」

 

 問う。まるでいつかと同じように。

 自転車の照明に照らされた彼女が、顔を上げる。

 夜の闇の中、月明かりと照灯の光を受けて。

 

「決まってるでしょ」

 

 ぞっとするほど美しい笑みを、魔女は浮かべていた。

 紅の引かれた唇がいつもより赤かった。制服に似合わない、普段の彼女ならば絶対につけない濃い口紅は、鮮やかな血のようだった。

 

「わたし、ね。あなたを待っていたのよ。あなたに会いたくてあなたの顔が見たくて……」

 

 嫌な予感がずっと肌を焼いていた。聖剣(みぎうで)の接続部を起点にして脳髄へ流し込まれるような危機感が、警笛を鳴らし続ける。

 

「……なんてね。別に、ただ。あなたに聞きたいことがあるだけよ」

 

 彼女は仮面を剥がすように、先程まで浮かべていた〝魔女〟の笑みを落とす。

 残るのはこの数日ですっかりと見慣れた綺麗な無表情。文月咲耶の素顔。けれども唇だけが、ずっと赤いまま。

 

「そうか」

 

 自転車を降りて黒い地面に立ち、彼女に向かい合う。距離は遠く保ったまま。

 

「話は、なんだ」

 

 我ながらひどく冷淡な声が出たな、と。なんの感慨もなく、そう思った。

 

 

 

 

 彼女は知っている。

 彼は誤魔化しやふざけたことは言っても、本当の虚言や真っ赤な嘘は言わないことを。

 ──思えば兆候、手掛かりはあったのだ。

 

『昔のことはあまり、覚えていない』

『……そんなこともあったな』

『忘れた』

 

 昔の話を振ると妙に歯切れの悪い返事をすることが、多々とあった。

 

『記憶力はいいんだよ』

 

 話が、矛盾していた。

 

 寧々坂芽々の話を思い出す。

 

『たまに勉強とか教えてもらっていました』

 

 寧々坂芽々は成績上位者だ。一方、今の彼は下から数えた方が早い。けれどその矛盾に、咲耶は疑問を抱かなかった。彼女は知っている。昔の彼は器用な人だった。それは勉学についても例外ではなかった。好きな人のことを知りたがる陰湿な気質の咲耶が、昔の彼の成績を把握しているのは当たり前だ。

 当時の陽南飛鳥ならば確かに、年下の芽々に教えるくらいはできてもおかしくない。

 

 ──そう。本来、わたしなんかの助けを必要としないはずだったのよ。

 

 二年のブランクがあるのは同じだ。同じなら、どうして。勉強が苦手で仕方ない咲耶が取り戻せた遅れを彼は取り返せていなかったのか。

 答えは、想像が付く。

 

『あの人、芽々のことを覚えてないんですよ』

 

 もしも空白(ブランク)が二年以上だったとしたら。

 

「……あなた、本当は現世のこと。ほとんど忘れていたんでしょう」

 

 彼女は知っている。彼は滅多に嘘を吐かない。でも、隠し事はするのだということを。

 

「だったら、どうした?」

 

 飛鳥はなんでもないことのように答える。 

 

「わざわざ話すようなことでもないだろ」

「そうね、笑えないもの」

 

 咲耶は頷く。予想通りの返答だった。飛鳥は薄く笑って、軽く言う。

 

「それに、忘れていたって言っても。支障がないくらいに最近は思い出してもいるし……ほんと、気にするようなことじゃねえよ。だけど、まあ。気付かせたってことはおまえに心配かけたんだろうな。悪かったよ。でも、黙っていたことを悪かったとは思わない」

「ええ。それについて謝る必要はないわ。わたしたちは嘘も隠し事も咎めない。そういう関係、でしょう?」

「そうだな、俺もそう認識していたし。そう、定義したつもりだ」

 

『言わなければわからない』それが、重々に認識しなければならない教訓だとかつて言った。けれど、その言葉には二つの意味がある。

『言わなければ分かり合えない。だから、必要なことは共有しなければならない』という表の意味。

『言わなければわからない。だから知られたくないことは、お互いが言わない限りわからないままでいよう』という裏の意味。その両方の意味を、言外のままに、どちらもが把握していた。

 

 どちらもが、すべてを話せるような生き方をしてこなかったから。

 どちらもが、すべてを詳らかに明かすことを望まなかったから。

 かつては敵だった彼と彼女が「良き理解者」でいるためには。互いの瑕疵に手を触れないように、互いに踏み込みすぎない一線がどうしたって必要だった。

 

 ──だからわたしは、あなたの隠し事を咎められない。

 ──わたしもまた、あなたに嘘を吐き続けていたのだから。

 

「それに、おまえのことはちゃんと覚えている」

 

 そう、だから咲耶は気付けなかったのだ。自分のことを忘れていなかったから、彼の記憶の不確かを疑うことがなかった。

 

「だから、何も問題はない」

 

 淡白すぎる声色。彼はきっと、本気で言っているのだと思った。

 拳を握りしめる。

 

「問題ない、ですって……?」

 

 拳の中で、握り締めた口紅のケースがみしりと音を立てた。

 

「……ふざけるな」

 

 感情も表情も取り繕わず、咲耶は激昂する。

 

 

「問題、ないわけがないでしょう!」

 

 

 

     ◆◆

 

 

 

 水曜日の放課後。喫茶店の、壁に囲まれた奥の席で。寧々坂芽々はこう語る。

 

「後輩、とは言っても。芽々はそんなに親しくありませんでした。ですので、忘れられることもあるでしょう」

 

「でも芽々、人に忘れられること、滅多にないんですよ。見た目も言動も記憶に残る方だと自覚しています」

 

「忘れていたにしても。『まったく初対面のような反応をする』なんてのは、ありえない」

 

「二年前、あなた方に何があったかは知りません……というか、あだ名で呼べない関係なうちは聞きませんが。でもひとつだけ。咲耶さんの耳に入れておいた方がいいだろうと、芽々は判断しました」

 

「昔のセンパイはどんな人だったか、です。ええ、咲耶さんの言う通り。昔の陽南先輩は誰にでも優しくて、人当たりが良くて、友達が多い人でした。常識的で、普通で。間違っても、初対面だと思い込んでいる相手に対して『自我を論じる』なんておかしなことを、やったりはしなかった」

 

 ひとつのカップはとっくに空で、もうひとつの中身はとっくに冷えている。

 文月咲耶は、マネキンのように硬直して、ドールのような愛嬌を滲ませたまま寧々坂芽々は喋り続ける。

 

「芽々が飛鳥さんに近付いた理由は、実は他にもあるんです」

 

「好奇心だけが理由なら、芽々は普通に声をかけるだけでよかった。咲耶さんにやったように。それを、わざわざ『初対面では絶対にしない挨拶』をしてまで、飛鳥さんに絡んだのは、確かめるためでした」

 

 何を、確かめるというのか。

 

「昔の飛鳥さんと仲の良かった子が……変なこと言ってたんですよ」

 

 

「『アレは(・・・)陽南センパイ(・・・・・・)じゃない(・・・・)』って」

 

 

 

「──咲耶さんも、気付いているんじゃないですか?」

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

「答えろ飛鳥! あなたが失くしたのは、本当に記憶だけか⁉︎」

 

 わたしは問い詰める。春の終わりの空気はぬるく、山際の風は冷たく、夜の静寂は耳に痛い。飛鳥はその場に立ち止まったまま、彼我の距離は手を伸ばしても届かない。

 街灯の下で表情ははっきりと見えた。見るだけでこちらが顔を掻き毟りたくなるような、薄ら笑いを彼は浮かべたまま、答える。

 

「腕がないな」

「あと家もない」

「綺麗な経歴もなくなったし」

「通帳の残高もないな」

 

『それだけだ』というような軽々しい返答。呆気に取られそうになったのを堪える。

 

「……ふざけるなと言ったでしょう」

「俺はいつでも本気だよ」

「わからないわ」

 

 目眩と吐き気を錯覚した。表情が見えたってなんの意味もなかった。

 

「あなたの考えていることなんて、ちっともわからない」

 

 どれほど目を凝らしても、目の前に横たわる不理解の溝がどうしようもなく深い。

 彼は仕方なく、と言ったように笑みを消す。ひどく冷たい顔で、温度のない声で答える。

 

「ぎりぎり笑えるのはここまでだろ。それ以上を聞いてどうする、って言ってるんだよ」

 

『言いたくない』の意だ。それを受け入れることが休戦協定の中身で、守るべき境界線だと理解している。

 けれど、わたしはもう。踏み込むべき時を見誤らない。

 

「どうするかなんて、決まっているわ」

 

 

 

 ──あの続きに、芽々は言った。

 

『咲耶さん。「哲学的ゾンビ」って知ってます?』

 

 わたしは『聞いたことはある』と返した。思考実験だ。人間とまったく同じ見た目と中身で、けれど『意識』だけがない人間がいたら、という仮定の話だっただろうか。

 

『「人間のフリをしているだけの生き物」……これはクソクソ雑で本質とはまったくズレた、赤点レベルの要約ですが。今の話の文脈ではそんな感じです』

『……まあ、それがなんだって話ですけど。ふと思い出したので、言っただけです』

 

 そうだ、わたしは分かっている。気付いている。

 頭を異世界に置いてきてしまっただとか。現世で生きるのが難しいとか。もはやそういう問題ではないのだ。

 ──おかしいのは、アイツだ。

 アイツが、普通の人間のやり方を、忘れすぎているのだ。魔女のままでいるわたしにすらわかる『普通』を、致命的に分かっていない。

 ──それが、何よりもおかしい。

 

 だって。わたしにできて、アイツにできないことなんて。

 かつてのわたしが惹かれたあの人に。憧れ、羨んだ『陽南飛鳥』にそんなもの。

 

 ──あるわけがないのだから!

 

 

 

 夜道。月明かり。涼風。真っ黒な足元(アスファルト)

 わたしは彼を問い詰める。

 遠い昔のようなたったの一週間前。彼がわたしを屋上で、答え合わせをしたように。

 ──まずはひとつ目。

 

「その義手(みぎうで)、外せないって言ってたわよね」

「そうだな。完全に接続しているよ」

「……外せないなんて、まるで『呪われた装備』ね?」

「『呪い』とか、『聖剣』に使う言葉じゃねえな」

 

 ──そして二つ目。

 

「その目、聖剣を使うほどに青くなったって、言ってたわよね」

「ああ」

「おかしいわ。わたしの目が赤いのはただの魔眼だけど……」

「ただの魔眼って言い方がもうおかしいけどな」

 

 今、それは関係がない。

 

「でも。あなたの目は変な色をしているのに、たかだか視力がちょっといいだけじゃない」

「大事だろうが。ドンパチやったら眼鏡割れるだろ。もうバッキバキに」

「今更、あなたが何を言っても笑わないわよ、わたしは」

 

 誤魔化そうなんて、その手には乗らない。今、主導権を握って(はなしをして)いるのは、わたしだ。

 

「そもそも。剣を使うと目の色が変わるなんて、因果関係がおかしいわ」

「……おまえ、今更それを言うか」

「そうね。違和感は、異世界はなんでもありだと思って流していたわ」

 

 あまりにもあっさりと。

 

「……ねえ、知っているでしょう。『見る』という行為は、半分は目で、半分は脳でするものだって」

「……それがなんだ」

「ええ、これはただの連想よ。ただ、脳と眼球が繋がっていることを、なんとはなしに思い出しただけ」

 

 ──最後に、三つ目。

 

「異世界の言語について」

 

 返答は、沈黙。わたしは追及を続ける。

 

「いちから学んだわたしと、起きたら使えるようになっていたあなたの違い。言語の翻訳が魔術に拠るものだとしたら、魔女(わたし)が存在すら知らないのはおかしい。それが人類の技術だとしても──地球の他言語まで、分かってしまうのはあまりにもおかしいわ」

 

「ここは異世界じゃない。だから異世界(むこう)の魔術も技術も、十全に使えない。言語翻訳(チート)なんてモノが、現世で機能するはずがない」

「けれど。わたしの眼球が抉りとれないように、あなたの義手が外せないように。『機能が肉体に紐づいている』としたら、それは消えないのだと、知っている」

 

 彼はもう、相槌を打たなかった。

 

 ──あの日の帰路の会話を、よく思い出す。

 わたしの問いかけに、彼は『魔女の発想だな』と答えた。否定を(・・・)しなかった(・・・・・)

 こみ上げる怒りに、目の前が真っ赤に染まる。

 

 

「おまえ、本当に(・・・)脳味噌(・・・)弄られて(・・・・)いたん(・・・)だろう(・・・)‼︎」

 

 

 飛鳥は、否。陽南飛鳥だったはずの何かは、答える。

 

だから(・・・)どうした(・・・・)

 

 

 ──最悪な、肯定を。

 

 

 ばきり、と拳の中に握り締めていた口紅が割れた。破片が手のひらに食い込むのも構わずに、わたしは痛みを握り続けた。

 ようやく、気付いた。

 今更。

 今更。

 今更。

 手遅れに。

 

 

 あいつが、本当に、異世界(むこう)で失ったものは。

 

 

 ──自分自身だ。

 

 

 

 

     ◆◇

 

 

 

 

 異世界召喚、という概念(モノ)がある。

 

 二年前、彼と彼女が巻き込まれたものは概ね正道の物語のような筋道を辿っていた。

 

 ──その異世界は、滅びに瀕していて。

 ──悪の魔王が君臨し、世界の破滅を推し進めていて。

 ──脅かされた人類は、救われることを願っている。

 

 その果てに、双方が切り札として別世界の少年少女を喚び出した。

 そしてヒトは願ったのだ。

 

『どうか異世界(このセカイ)をお救いください、勇者様』と。

 

 けれども、その願いは不合理だ。何故ならば、別世界の人間には知らぬ異世界を救う「理由」がない。そして召喚できたのは、正真正銘に〝普通の人間〟でしかなかった。

 何かを救うにはそれなりの理由が必要だ。それは例えば、愛であったり、信仰であったり、名誉だったり、報酬であったり──守るべきものや得るべきものが、その世界にあってしかるべきで。命の危険も知らずのうのうと生きてきた少年ごときに、世界の命運を背負わせるのは不合理だ。

 それでも別世界の人間を呼び出すしかないのなら。それでも、彼を勇者に祭り上げるしかないのなら。どうすれば合理的なのか。

 

 答えは決まっている、と異世界(かれら)は言った。

 

 ──脳味噌を書き換えて。記憶を封じて中身を空にしてしまえばいい。

 そして器を『世界を救え』と使命で満たせば。「機能」は十全に発揮される。どんな人間を材料にしようとも、正しく〝勇者〟は出来上がる。

 合理的で効率的で──それだけの、結論。

 

 その真相に、彼女の推測はようやく辿り着いて。魔女は完璧に、理解した。

 

 

 

 

 ──今、目の前にいる(アレ)は。陽南飛鳥の〝成れの果て〟だ。

 と。

 



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第十四話 魔女は祈らない。

 わたしたちが現世に戻ってきたのは、まだ寒い二月のことだった。

 

 すべてを振り切る逃避行は、無傷で帰るというわけにはいかなかった。

 その上、現世に転移が叶ったと思ったら空から落ちたものだから。魔法やらなんやらで受け身は取ったものの飛鳥は裂傷、擦過傷、打撲やら、とにかく軽傷のオンパレードで、けれど治癒魔術なんてものは持っていないからそのまま病院送りになっていた。

 それで入院中にうっかり異世界のことを口走ってしまったというのだからお話にならない。閉鎖病棟に入れられそうだ、と公衆電話で泣きつかれたので、わたしが魔法で関係者の記憶とカルテを書き換え事態の収拾をする羽目になったのだ。

 本当に、ありえない。

 

 その頃わたしたちの仲はまだ険悪で──というのも互いの正体に気付かない内はわたしたちは普通に殺し合っていたので、今更友好的な態度など分からなくて──飛鳥の『たすかる』『悪い』『ありがとう』という言葉すら濁って聞こえたし、わたしも刺々しい返答しか持ち合わせていなかった。

 そうして事態の収拾を終えたのだけど。彼は何故かそのまま、外へ向かおうとしていた。

 

「とっとと病院、戻んなさいよ。肋骨とか折れてんでしょ。貧弱勇者」

「戻る時誰がおまえのこと庇ったと思ってんだ。ありがとうございますも言えねえのか」

「あらあらあら。失言かまして無様に泣きついてきたのはどちら様だったかしらぁ」

「はいはいありがとうございます。ありがたすぎて涙出そう」

「顔面鏡に突っ込め半笑い野郎」

「うっせぇ脳味噌治安最悪女」

 

 中身のない薄っぺらな罵倒の応酬、条件反射のように悪態を吐くだけの虚しい関係。

 患者衣のまま、目の下に深い隈を作った彼は溜息を吐いて言う。

 

「……せっかく病院抜け出してきたから、一回、家に帰ろうと思ったんだよ」

「あんた、家族……」

「いないけど。いないからさ、家、ほったらかしなんだよ」

 

 この人には、現世にすら、「おかえり」と言ってくれる人もいないのか。わたしが最初からしかめ面をしていて良かったと思った。飛鳥はぼんやりと虚空を見て、呟く。

 

「家、アライグマにめちゃくちゃにされてたらどうしよう」

「……はい?」

「舐めんなよアライグマ被害。あいつら可愛い顔してえげつねぇんだぞ」

 

 気が、抜ける。

 

「そういうこと、なら? ええ、帰るといいんじゃないかしら。よくわからないけど」

「……で、なんでおまえはついてきてんの」

「別に、いいでしょ。暇なのよ」

「あそ」

 

 ついてくるな、とは言われなかった。

 

 

 

 深夜、冷え冷えとした夜の道を無言で歩き続ける。

 わたしの格好は上等なワンピースにガラの悪いスカジャンなんて、おかしな組み合わせで、二月にはまだ寒すぎる服装だった。わたしもまだ、現世のやり方を思い出せないでいたのだ。けれど飛鳥が患者衣のまま、わたしよりもずっと寒そうな格好で、顔色ひとつ変えずに歩いているのを見て。じくじくと心臓が痛んだ。

 ──寒いとか、多分、彼は忘れてしまったのだ。

 袖から見える右腕は、痛々しく包帯に覆われている。その中身が何であるかをわたしは知っているけれど、現世の人たちが気付くことはない。あの包帯は異世界(むこう)の特別製だから、巻いているかぎり中身がバレることはない。ちょっとやそっと触れられるのだって平気なのだという。それでも流石に病院相手には誤魔化すのが厳しかった。

 外すことができないから、きっと面倒はこの先ずっと付き纏うのだろう。

 

「……この装備は呪われていて、外すことができません」

「なにそれ」

「ゲームであるでしょ」

「あー……あった気がする」

「はぁ? あんた、その程度の知識で異世界勇者やってたの?」

「逆になんで知ってんだよお嬢様のくせに」

「基礎教養だし」

「……そうなの?」

「多分だけど」

「でもなんか、あんまりファンタジーっぽくなかったぞ。人類」

「……そうね。ディストピア小説みたいだった」

「はは。もう二度とSF読めねえ」

「代わりに異世界モノを読むといいわ。『本物』は、素敵なんだから」

「本物って……物語は虚構だろ」

「嘘が偽物って、誰が決めたの? ……あんなのが実在の『異世界』なんてわたし、認めないから」

「そうなの?」

「そうよ」

 

「すべての異世界は、『完璧な夢物語』であるべきだわ」

 

 

「だから、あんな異世界(セカイ)は要らなかった」

 

 

「……それで滅ぼそうとするのはマジで狂ってる」

 

 救おうとする方が正気じゃない、と思った。

 

「……なら。なんで、わたしなんかを助けたのよ」

「ハッ、理由なんているかよ」

「そう。お優しいことね、勇者様」

「俺はそういうふうに呼ばれるのが嫌いだよ」

「飛鳥」

「ん。それで、いい」

 

 吐いた息が白かった。

 電車もバスも走っていない時間。半端に田舎っぽい町のひと気のない道を歩き続けて、ふと。彼は、足を止めた。

 

「……どうしたの?」

 

 目の前は空き地だった。ぽっかりと空いた空間に売地の看板。飛鳥はずっと、その空白を見つめて。

 

「家、ここ」

「は?」

「なんか、なくなってんだけど……」

 

 言葉を失う。

 帰ってきたはずだったのに。おかえりどころか、帰る家すら、ない、現実。

 

 

「……く、あはははは!」

 

 

 つんざくように、笑った。ぞっと寒気がしたのは、冬のせいなんかじゃなかった。『壊れてしまった』と思った。

 

「ハハッ……こんなことってあるかよ、すげえな人生‼︎ まだ落ちるか⁉︎」

 

 ──かつてあなたは穏やかに笑う人だった。

 そんな土砂崩れのように嗤ったりはしない。

 

「ふっ、くく……やっべ、骨に響く……痛、死ぬ、死ぬ無理、クソッ痛ってぇな死ね‼︎」

 

 ──かつてあなたは柔らかに話す人だった。

 そんな錆びたナイフのように喋ったりはしない。

 

「あーあ、もう笑うしかねえだろこんなの。いっそこのまま隕石でも降ってきたら、最っ高だ‼︎」

 

 ──かつてあなたは綺麗に目を輝かせる人だった。

 

 そんな、死んだような、腐った目を──陽南飛鳥はしなかった‼︎

 

 肺が重たく息苦しい、そんな錯覚に襲われる。

 ぐるぐる目眩と吐き気が渦巻いて、けれどわたしの身体は嘔吐のやり方すら忘れていて。

 ただ、ただ、顔を掻き毟らないように耐えるのが精一杯だった。

 

 空は真っ黒で、星ばかりが嫌に綺麗で。

 嘲笑うような細い月が、彼の背で、わたしを見下ろしていた。

 

「なぁ、咲耶」

 

 ──笑えるだろ、と。同意を求めるように、死んだ目で笑うあなたに。

 

 わたしは舌を噛み切って、すべてを取り繕って『そうね』と綺麗に微笑み返した。血を飲み込んで、持てる全霊を尽くして、泣き出したいのを堪えたのだ。

 あの夜が一番暗かった。どこか遠い世界の真っ暗闇よりも、あの夜が。

 けれど、どんなに暗い夜よりも──あなたのことが、怖かった。

 

 

 

 こうなる前からわたしは、『人生なんて演劇みたいなものだ』とずっと思っていた。

 あの異世界で、望まぬ役を与えられ舞台の上に引き摺り出された二年。

 魔女(わたし)は、舞台(セカイ)を壊すことだけを考えて生きていた。

 けれどあなたは、舞台を降りる選択肢を与えてくれて。わたしたちは目を焼く照明(ひかり)から逃げ出した、はずだったのに。

 ……過去から、逃げられはしないのだと思い知らされる。

 逃げ出したはずのここは深く暗い舞台下で。真夜中より深い奈落の底なのだと。ようやく、気付く。

 

 

 ──ああ、やっぱり。あんな世界、滅ぼしておけばよかった!

 

 

 後悔。後悔しかない。

 向こうの世界で、最後の戦いのその時に。

 勇者(あなた)に負けなければよかった。

 あなたの手を取らなければよかった。

 あの時、ちゃんと勇者(あなた)に勝って!

 

 ──綺麗にすべてを、滅ぼしておけばよかったんだ‼︎

 

 ……でも。今更そんなことを考えても手遅れだ。

 わたしは、わたしひとりだけが……あなたに、救われてしまったのだ。

 あの世界に、飛鳥(あなた)ひとりを取り残して。

 

 なんて浅ましいのだろう。救われたいなどと願った自分自身を、呪う。

 わたしは、わたしのために世界を滅ぼしたがっていた。

 わたし自身の怨念と復讐のために。そのために、わたしは魔女になることを選んだ。それは嘘じゃない。

 けれど、あなたと再会したその時に、あなたの目を見た時に、世界を滅ぼす理由は変わっていたのだ。深く暗い……腐った青色。

 

 ──あなたの瞳を曇らせる世界なんて、滅んでしまえばいい。

 

 その憎悪は、今でもわたしの中に燻っている。

 冷たい夜の中、わたしは思考を回す。

 想いが軋みを上げて、答えのない問いの答えを探して、目が回る。

 

 ──かつて恋した人が壊れてしまったら、どうすればいいのだろう。

 わたし自身の存在すら、もう、歪んでいるというのに。

 できるのはひとつだけ。いつか普通に戻れることを祈って、人として生きていけることを願って、すべてを笑い飛ばして、隣にいる。それだけができること。

 ──それだけが、終わった恋の行き着く先。残された愛の証明。

 

 だからわたしは、隣にいることを決めた。

 隣で、いつかあなたが、正しく笑えるようになるのを見届けようと思った。

 隣にいる理由がそれで手に入るならば、それで願いが叶うのならば。

 わたしは魔女だって道化だって演じてみせる。

 

 だから。

 なんでもいいから。

 もう、なんだって構わないから。

 

 わたしに怒って。

 わたしに笑って。

 

 

 わたしを見てよ。

 

 

 

 ──ねえ、飛鳥。

 

 

 

 

   ◆◇

 

 

 

 そして、現在(いま)

 夜風は正常な空気で、初夏の匂いだけが満ちていた。

 温度の涼やかさと相反するように、彼女と彼の間の距離は、不穏の塊で満ちていた。

 

「あなた、わたしを助けた理由なんて『ない』って言ったわよね」

 

 本来、勇者(かれ)魔女(かのじょ)の関係は、殺し合って終わりのはずだった。

 それを打ち止めた理由はなんなのか。

 

「わかっているわ。『あなたはわたしのことは覚えていた』、いえ……あの世界で、わたしのことを思い出したからでしょう?」

 

 互いが同じ境遇だったのならば、争う理由がないからだ。

 ──ただし、勇者(かれ)は『救う』という機能に支配されていたが。

 

「思えば、戦っている時のあなたはまるで機械のようだったわ。自我なんて、なかった。でも、わたしに再会したことで現世を思い出して、ほんの少し自我を取り戻した。記憶の中に文月咲耶(わたし)しかなかったから、あなたのわずかな自我は選択した。

 それしか覚えてないから! それを、優先した。それだけでしょ。たまたまわたしに会って正気を取り戻したから! わたしを助けてくれたんでしょう! あるいは、それすらもなく。ただ、目の前にいた女の子(わたし)を、勇者(おまえ)の機能は救おうとした! 『理由がない』ってそういうことだろう!!」

 

 彼女は口調を荒らげる。らしくなく、低く、囁くように憎悪を吐く。

 

「ふざけるなよ」

 

 右目が赤く、飛鳥を睨めつけて、一切の反駁を許さない。

 

 

 

   ◆

 

 

 

 ──わたしは思う。

 

 異世界なんて本当はなくて、全部、わたしたちの頭がおかしくなっただけで。

 それで全部片付くなら、そういうことでいいとすら思っていた。それで元に戻れるなら。

 でも、あいつの腕はおかしなままで。わたしは死なない身体のまま。わたしたちの現実は、どこまでも空想のまま。

 異世界に、呪われ続けている。だから願った。

 あなただけはせめて、正しく生きていけますようにと。

 ……けれど、それが根本的に間違っていたとしたら? 最初からわたしたちは同じで、とっくに『正しくないもの』に成り果てていたとしたら? 『正しく生きる』なんて願いが、滑稽なままごとでしかなかったとしたら?

 ──今更、何を我慢することがあるのだろう。

 

 愛した人の心が奈落から帰ってこなかったら、どうすればいいのか。その答えは簡単だ。奈落よりももっと深く、愛してしまえばいい。

 わたしの願いはあなたの幸福だった。そのために、すべてをひとっ飛びに解決する方法を、わたしは初めから知っていた。

 ──幸せなんて所詮、脳の働きの結果にすぎないのだ。

 中身を弄った、異世界の人間の不道徳を責められはしない。だって、それは魔女(わたし)にはとてもしっくりとくる発想だ。……とても、効率的で、冴えたやり方だと思えてしまう。

 だからこそ、あなたを救う方法なんて最初からわかっていた。

 魔法で脳味噌を弄くり回して幸福を書き込んでしまえばいい。それだけで、すべての憂いは解決する。そうすれば、地雷原を怯えながら歩くような綱渡りの会話もしなくていい。

 ……それをしないことが、わたしの果たすべき義理だと信じていた。だけど。あなたがとっくに壊れていたというのなら、あなたがとっくにわたしと同じ間違った生き物になっていたのなら、そんな義理に意味はない。

 

 ──初めから。わたしは、魔女(わたし)のやり方で、あなたを愛してしまえばよかったのだ!

 

 倫理も正しさも要らない。そんなものでは救われない。必要なのは愛と庇護。あなたを守るという、強い意志。今度こそ。あなたの目を塞いで、籠の中に閉じ込めて、もう何にも傷付けさせやしない。

 論理が破綻している? 別に、かまうものか。

 だってわたしは魔女だから。

『悪い魔女はどれだけ間違ってもいい存在だ』と、「定義」で、「制約」で、「文脈」で決まっている。わたしは、わたしの決めたルールに沿っていれば〝何をやってもいい〟そういうことになっている。

 それが「魔女」の正体──それが、あの異世界で最強の呪術師だったわたしの〝魔法〟の実態だ。

 どれだけ間違っていても、最終的にわたしが願いを叶えられればそれでいい。

 

 たとえあなたが〝成れの果て〟に過ぎないとしても。

 愛する覚悟は、とうにできている。

 

 

 わたしは祈らない。

 

 ──魔女は、自らで願いを叶える生き物だ。

 



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第十五話 願うはあなたの幸福ただそれだけ。

 ──拳から滴る血一滴、地面に落ちる。

 赤い粒子が煌めいた。

 

「『明かせ』」

 

 異界の言語での詠唱、それを皮切りに。

 岐路の一帯、何もなかった黒い地面の上に、赤い紋様が現れる。

 ──否、先程まで、魔法で隠されていた紋様が姿を現した。

 複雑なようで単純な、幾何学のようで絵画のような、意味の読み解けない魔法陣。

 

「……っ」

 

 足元一帯を埋め尽くすそれに、飛鳥は動揺を浮かべる。

 ──何故。

 それは、魔法で隠されていたとはいえ、紋様に気付かなかったことへの動揺。

 魔女の使う大掛かりな魔法には血肉が必要だ。魔法陣は『血で描かれていなければならない』。そして天敵である勇者(かれ)は、魔女の血の匂いには敏感だった。

 だが、先も、今も──血の匂いはしなかった!

 

 紋様は血のように赤い。

 が、その赤に見覚えがある。

 

「……口紅か!」

「正解よ」

 

 拳に握りしめていた割れた口紅のケース──傷から滴る〝血〟に染まったそれを、魔女は地面に落とす。

 カシャン、と。地面に破片が飛び散ると同時。

 詠唱の宣言。

 

 

「『定義する』!」

 

 ──まずい。彼女に喋らせてはいけない。

 

 飛鳥は地を蹴って、

 

「『動くな』」

 

 その前に、彼女の〝魔眼〟が光った。

 

 逃げ──間に合わない!

 

 かつて彼の窓の鍵を開け、記憶に鍵をかけた、その目の権能は『鍵』だ。

 動きに(ロック)を。飛鳥の身体が停止する。

 現世では一日に何度も使えない手札を、魔女は早々に、惜しげもなく費やした。

 そして。誰にも邪魔をされることなく悠々と、魔女は定義(ことば)を綴る。

 

「血は赤く、口紅もまた同様に赤い。口紅はわたしの唇を形作るモノであり、類似するものはすなわち同じモノだ。薄皮一枚の上に塗った口紅は、もはや『わたしの唇そのもの』と言えるでしょう。──ゆえに『口紅は魔女の血肉である』」

 

 その言葉で、『口紅』は『血』に改変される。口紅による紋様は、魔女の血肉で描かれたことになる。

 条件は満たされた。魔法が発動し──世界の色が変わった。

 街灯、塀、アスファルト、大地は現代のまま。空だけが真っ赤に染まる。それはまるで、あの異世界の真昼のような空だった。

 

「……なんの結界だ、これは」

 

 動けないまま彼は問う。

 

「擬似的な異世界よ。わたしにだけ恩恵があるようにできている」

 

 魔女はあっさりと明かす。言葉で語れば語るほど、魔法の強度は上がるからだ。

 

「異世界のモノは『カメラには写らない』」

 

 肉体に紐づいている義手や、大層な代物ではない包帯については別だが。

 

「それをヒントに、わたしたちの『存在の座標』をずらしたの。ここら一帯を『現世ではない』と定義して、わたしたちがどこにいるのか、という『世界の認識』を塗り替えた」

 

 説明しても理解の及ばないことを説明する。正直なところ、彼女自身にすらよくわかっていない。けれど深く考えないまま、そういうものだと飲み込んで、無理矢理な理屈を通すのが彼女の魔法だった。

 十全に力を振るえない現世ではここまで面倒な手順を踏まねば、こんな簡単な魔法すら使えないが。それでも十分。

 

 ──だって、わたしに魔法は使えるけれど、彼には使えない。

 

 剣が出せなければ、腕は多少魔法に耐性があるだけのもの。彼の身体能力は人間並みだ。

 

 ──現世(ここ)では、魔女(わたし)の方が強い。

 

「これで魔法が解けるまでは……そうね、強度を高めるために『制約』を設けましょうか」

 

 スマホを取り出して、アラームを設定する。

 

「十二時──すなわちおとぎ話の文脈において『魔法が解ける時間』。鐘の音(アラーム)が鳴るまでこの結界は続く。残る一時間、現世の誰もわたしたちを観測することはないわ」

 

 冷や汗を彼は額に浮かべる。目の前の彼女が本気なのだと、気付いたからだ。

 

「何を、」

 

 しようとしているのか。

 

「決まってるでしょう?」

 

 魔女の魔法は呪いだ。呪いは認識に作用する。あらゆる言葉は呪いになるが故に、魔女の言葉はすべてが呪文だ。故に、躊躇うことなく目的を言葉にする。

 

「あなたは言ったわ。勝った方が、正しいんだって。わたしの目的は、あなたに勝つこと。たとえこれが間違った選択だとしても。勝って、わたしが正しかったことにする」

 

 そして彼女の服装が変わる。堅苦しい制服から、黒と赤の、毒花のようなドレスへ。豊かな胸元、白い腹、長い脚を大きく露出するその装束は、艶めかしさよりも鮮烈の印象を与えるものだった。

 象徴的な、捻じ曲がった角は無いが。まるで〝あの頃〟のような衣装を纏って。

 彼女は、再び『魔女』を演じる。

 

 ──あなたはわたしを救ってくれた。だから今度は、わたしの番。

 

 そのためには──魔女(わたし)を阻むその聖剣(うで)が、邪魔だ。

 

「わたしは今度こそ、勇者(おまえ)に勝つ」

 

 真正面から指を突きつける。

 宣戦布告、それこそが、最高の呪文。

 魔女は悪辣に、心底の笑みを浮かべた。

 

「勝って、あんたの右腕(のろい)──ぶち壊してあげる!」

 

 

 恩を仇で返す、愉悦と覚悟の笑みを。

 

 

 

   ◆

 

 

 

 聖剣は使うほどに目が青くなる──そこから導き出した仮説が、『聖剣は使い手の肉体と精神に作用する』だ。

 頭を弄られて勇者にされたのか、勇者になって頭がおかしくなったのか。どちらが先か、あるいは両方か。それを確かめる術はないけれど。

 どちらだって同じことだ。結果、結果さえあれば過程なんてどうだっていい。

『鍵の魔眼』の効果は継続中。一度限りの全霊を込めて『施錠』したから、飛鳥はまだ動けない。

 

 ──勝利条件を、思考する。

 

 まずは前提。彼の聖剣は『魔女殺し』の文脈(いみ)を持つ。

 現世での性能はわたしの方が上、とはいえ、その武器との相性は最悪だ。

 だが、それさえなければ怖くない。聖剣の『起動』が、魔法そのものに反応してのことではないことは、彼に魔法をかけた時に確認済み。

 起動は、宿敵(わたし)との接触による例外的な攻撃反応。魔法を使っている時のわたしに右手が触れることで起動する、という飛鳥の仮説を採用。つまり──触れられなければいい。

 だから距離を保ち、近寄らせず、起動される前に、(うで)ごと壊す。

 

 ──では、どうやって壊すのか?

 聖剣は腐っても異世界最強の武器だ。ここは幻想の濃度が低い現世だから、多少脆くなっているとはいえ。真っ当に壊せるようにはできていない。

 だから。わたしは彼を見据え、言葉を吐く。詠唱を始める。

 

「そもそも『聖剣』なんて、ご大層な名前がよくないわ」

 

 ──壊せるようにできていないならば。

 

「『定義する』」

 

 ──壊せるものに変えてしまえばいいだけだ。

 

「何が〝聖なる剣〟だ。精神汚染付きの『ろくでもない武器』のくせに。聖剣なんて美しい肩書き、『おこがましい』と思わなくて?」

 

 呪文(ことば)で、聖剣の文脈(いみ)を零落させる。概念の強度を下げる。

 つまり──最強の武器を〝錆びた剣(くだらないモノ)〟に変える。

 

「〝この装備は外せません〟なんて、どこが聖剣だ。わたしはそんなの『認めない』。おまえなんか、ただの『呪いの武器』だ!」

 

 詭弁、連想ゲーム、自己暗示、文脈の引用、論理武装、現状否定、認識の改変──思い込みを真実に。

 

「そして同じ呪いなら、〝呪いで出来た魔女(わたし)〟が勝てないわけがない‼︎」

 

 つまり。

 

 

「呪いには呪いをぶつけんのよ!」

 

 

「それ何の文脈(ネタ)⁉︎」

「教えない‼︎」

 

 言いたかっただけ!

 

 

 

 

 

 ──詠唱の完了と、飛鳥の身体のロックが解けるのは同時だった。

 彼は真っ直ぐにこちらへと走る。わたしに触れ、聖剣を起こすために。

 けれどここは既にわたしの舞台。地面の赤い紋様に指を向け、次の詠唱を。

 

「『おまえは蛇だ』」

 

 ──紋様が、生物のようにうねり出す。

 その外見は本来、蛇というよりは、紐や縄と形容するのが正しいだろう。けれどわたしが『蛇』と言えばそれは蛇であり、『使い魔』となる。

 ソレらは彼の手足を絡めとり、わたしとの距離を縮めることを阻む。

 飛鳥は無表情のまま舌打ちした。紋様の蛇には先の詠唱の効果を付与してある。

 ──剣の価値を零落させる呪いを。

 

 締め付けられた右腕が、ぎしぎしと軋みを上げる。肘の関節、逆方向に折り曲げて引きちぎろうと、魔力を込める。だが。

 ──利きめが、悪い。

 

『右腕には魔女(わたし)の魔法が効かない』と彼は言った。飛鳥当人に魔法をかけるならまだしも、(うで)そのものに対しては効きが悪すぎる。起動していないとはいえ、中身はやはり『魔女殺し』だ。

 

 ──まだ『零落』が足りない。

 

 強く呪いを込める。

 詠唱を重ねる。

 

「……おまえなんかっ、所詮は『呪いの武器』のくせにっ‼︎」

 

 けれど、口から吐きこぼれたのは言葉だけでなく。

 赤、──血、液。

 

 こふ、と咳き込んだ。

 遅れて、激痛。

 わたしの腹が、べこりと凹んでいた。

 

 ──強い呪いの代償は血肉だ。事前に、使った口紅と同量の血液を支払っていたのだが、今ので足りなくなったのだろう。

 対価の徴収──内臓(なかみ)が、消し飛んだ。

 

「──ッ……!」

 

 叫ぶこともできない、本物の痛みの中。

 滲んだ視界で、飛鳥が鬼の形相を浮かべていた。

 

「やっぱテメェ、身体戻ってねえじゃねえか! この嘘吐きが‼︎」

「げほっ……うるさい、この、秘密主義者……‼︎」

 

 血を拭う。涙を拭う。

 痛い、のは、嫌いだ。でも。痛い目なんて死ぬ程見た。

 

 今更泣き言を言うものか。どうせ治るのだ。死なない魔女の身体なんて、引き落とし日が来ないクレジットカードのようなものだ。内臓のひとつやふたつ、タダも同然で…………あ、焼肉食べたい。今、すごく。

 と、いうか。

   な、んだか。  

      思考が、とっ散らかる。

 

 ──意識が朦朧とし始めた。

 血が足りない、なんてことはないはずなのに、まるで酸素が足りないような錯覚。現世はどうにも異世界とは違って、魔法を使うには息苦しい。必死で意識を保ち、出力を維持し続ける。縛り上げた彼の右腕から、みしり、と音が聞こえる。

 

 あと少し。あと、少しなのだ。

 

 ──だから。

 

 

 

「とっとと壊れろ、クソ異世界……!」

 

 

 

   ◇◆

 

 

 

 

 魔女の術式。赤い紋様の蛇たちは彼の手足を固め、動くことを許さない。付与された呪いは彼の身体を傷付けず、ただ右腕のみを蝕み、捻じ折ろうとしていた。

 袖の下、包帯の下で、金属の肌の上に毒のような錆が広がっていく。最強の武器に対するは最強の呪い。『聖剣』がじわじわと『錆びた剣』に零落していく。

 

 ──戦闘の速度は、かつてと比べものにならないほど遅い。詠唱は回りくどく、攻撃は弱く、動きに冴えはない。所詮、ここは幻想とは縁遠い現世(うつしよ)だ。だが、今。この結界(セカイ)に二人しかいないのだから。彼と彼女が〝最強〟であることに、揺るぎはない。

 現状を正しく見つめ、術式を把握、彼は口を開いた。

 

「……なるほどな。『聖剣は最強の武器である』という真実を、『解除不可能性』を以ってして、フィクションの『呪いの武器』の文脈で上書き。『最強の呪いを使う魔女』ならば『呪いの武器』に勝てる、という詭弁を押し通そうとしているのか」 

 

 呪いの構成要素を解体。そして、

 

「『くだらない』。そんな『戯言で勝てるわけがない』だろ」

 

 ──対抗詠唱(せいろん)を、口にする。

 

 彼に魔法は使えない。けれど呪文に意味がないかといえば──あるのだ。

 何故ならば〝呪術〟とは、人類史上『誰もが使ってきたもの』だからだ。

 約束に指切りをすることも。てるてる坊主に晴れを願うことも。そんな些細なおまじないやありふれた儀式はすべて呪術だ。

 ──そしてあの異世界は、現世よりもずっと『言葉が呪いになりやすい世界』だった。

 

 この結界は『擬似的な異世界』だ。たとえ『恩恵は魔女にしかかからない』と制限をつけても、『外界からは不可視』という恩恵を与えるため、最低限の影響は彼にも及んでいる。

 だから、呪文(ことば)に効果は、出てしまう。

 ──真実を補強する、という効果が。

 

 詠唱の内容はどこまでも正論だった。けれど、真実は、真実というだけで嘘よりも強い。

 ──呪いが打ち消され、蛇の拘束が緩む。

 魔女は焦るように反論、

 

「『勝てる』! わたしがそうと決めたから、そうなんだ‼︎」

「うるせぇ! ガタガタ抜かすな! 『俺の方が強い』‼︎」

 

 魔女は唸る。

 ──そんな身も蓋もないことを言うなんて! 呆れるべきか怒るべきかもわからない!

 

 赤く歪んだ瞳を見つめ返して、彼は言う。

 

「咲耶。おまえには言ってなかったが──俺は自分で、自分の脳味噌を、少しは弄れる」

「……は?」

 

 真実による虚言(のろい)の打ち消しによって拘束は緩んだ。手足はかろうじて動く。

 ──ガチリ、と頭の中の撃鉄を起こす。

 右腕に絡みつく『蛇』を引っ掴み、呪いを引き千切った。

 生身(・・)()腕力で(・・・)

 

「嘘ッ! 魔法を素手で千切るなんて、どうしてそんな芸当ができるのよ‼︎」

 

 魔女の使い魔だ。人間の力でどうにかなるような、生易しい強度はしていない。

 

「代償ならあるさ」

 

 真剣な表情に、ぞくり、と寒気が走る。

 一体何を、支払って──

 

 

「明日めちゃくちゃ筋肉痛になる」

 

 

 身体の出力を無理矢理上げただけだった。

 

「……そうでしょうね⁉︎ いや、違くない⁉︎ 代償ってもっと、こう……!」

 

 ……だ、だめだ、と首を横に振る。うっかり突っ込んでしまった。ペースに飲まれてはいけない。彼女の魔法において、『場の空気の掌握』は必須。なのに。

 ──主導権を、奪われる。

 

 いや、そんな。こんなことで? 

 ふざけやがって!

 

「最悪、この、チート野郎‼︎」

「ちげぇよ」

 

 飛鳥は、深々と溜息を吐いた。

 

「──おまえが、甘くなってんだよ。現世ボケか?」

 

 口調はふざけているのに、眼には冗談の色がない。

 

 絡みつく蛇を引きちぎりながら、歩を進める。

 

「せめて呪詛に触れれば焼けるようにしろ」

 

 一歩。

 

「『腕だけ壊す』なんて甘いことを考えるな」

 

 二歩。

 

「肉を断て。四肢を落とせ。ちゃんと、不意を突け」

 

 三歩。

 

「──本気なら、勝ち方を選ぶな」

 

 四歩。

 

「そんなだからおまえは俺に、負けたんだ」

 

 彼我の距離は、あと七歩。

 眼差しが、深く鋭い青色が、魔女を刺し、

 

「忘れたのか文月咲耶」

 

 彼は、宣言する(となえる)

 

 

 

「『おまえは俺に勝てない』。絶対に」

 



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第十六話 愛の証明を。

 飛鳥の理性と感情の出力のある程度は制御下にあった。鋭敏になりすぎた感覚は、意識的にスイッチを落としてあるだけだ。身体機能は常人並み。剣が出せなければ高々、リミッターを外すことしかできない。

 けれど、それだけですべてが事足りる。

 魔法を振り切って進む──あと七歩。

 たったそれだけを埋めれば、勝負は決する。

 彼の勝ちで。

 

 

「喧嘩はこれで売り切れか?」

 

 魔女は唇を噛む。『甘い』と彼は言った。だが、目的が愛ゆえの庇護である以上『傷付けない』その制約は必然で。殺傷力を付与することはそれに反する。己に貸した制約を破ると、魔法の強度は下がる。だから、できない。

 ──本当に、ギリギリなのだ。不壊の聖剣を『壊す』という試みは。

 

 だが。

 甘い、など、なりふり構うな、などと──好き勝手言ってくれる!

 

「次の手くらい、考えているわよ‼︎」

 

 彼女は唇を噛み切って、指で伸ばす。引いた紅を血で上塗りし、発する言葉の強度を上げる。

 本命、第二陣。残りの使い魔に全霊を注いで、一気に畳み掛ける。

 これ以上は──後戻りができない。覚悟はここに。無い腹を括れ。怯えはいらない。彼女は胸に手を、心臓に手を当てて。

 そして──、心臓が、弾け。

 

 一度、死んだ。

 

 彼女の魔法は呪いだった。

 呪いには代償が必要。支払う代償はその身。死なずの肉体。

 人が全霊(いのち)を賭して、ようやく一度だけ使える怨念(のろい)を、彼女は何度だって行使する──それが理外の〝魔法〟の正体。

 ──故に、彼女は、異世界で最強の魔女だった。

 

 口から血が溢れる。目から光が消える。

 ──飛鳥が一歩を詰める。

「このッ馬鹿がッ‼︎‼︎」と詰る彼の声が聞こえた気がする、気のせい? 気のせいだ。だって死んでるから聞こえない。

 

 ──二歩。

 最優先で再生される心臓が、一度死んだ身体に血を叩き込んで、魔女は、息を、吹き返す。だが──その目に光が、戻らない。

『聖剣』を壊すための呪い。〝角〟も出ていない状態でそんな無茶な魔法を、本来ろくに魔法を使えない現世で行使し続けてどうなるのか。

 

 平気なはずがない。濫用、代償の払い過ぎ──閾値を超えた。

 グラスに注がれすぎた炭酸の、泡が溢れるように。

 

 

「──あはッ(・・・)

 

 

 理性が、思考が、正気が、溢れ落ちる。

 光の消えた瞳を、ぐるりと回す。

 

「ええ、ええ! どうしてもっと早くこうしなかったのかしら?」 

 

 魔女は、唇を赤く赤く歪めて、嗤う。

 

「ソレが『邪魔』なの。ソレが阻むの。……そんなこと、最初からわかってたのに‼︎」

 

 思考が氾濫する。

 

「異世界なんて思い出したくもないでしょう? 『ならばいらない』そんな腕、『奪って壊して失くしてしまえばいいのでしょう』⁉︎」

 

 異世界の言葉と現世の言葉がぐちゃぐちゃに混在した、呪文のような会話のような何か。

 

「……手足の一、二本、なくたってかまわない。あなたの目を塞いでしまいたいだけなの」

 

 吐瀉物のような、歪んだ思考の逆流。

 

「一緒にお料理もゲームもできなくなっちゃうか。悲しい、悲しいわ、残念ね? でも『かまわない』わよね? 『それがどうしたっていうのかしら』、別にかまわないでしょ?」

 

 最早会話の体裁は為さず、独り言ですらない。

 

「『かまわないようにしてあげる』から『何も問題ないわよね』?」

 

 だというのに、むせ返るような呪力が、溢れる言葉を〝魔法〟に仕立て上げていた。

 

 ──結界が罅割れて、より一層に空が赤くなる。

 彼女からびりびりと迸る圧力が、嵐のように叩きつけられ、彼は停止を余儀なくされる。

 残り五歩の壁が、あまりにも高くなる。

 ──結界の概念が、満たされた空気が、更に『異世界』へと近付いていく。

 

 彼女はふと喋るのを止め。ことん、と落っことすように、首を傾げた。

 

「……あれ、わたし、おかしいこと言っている?」

 

 威圧感で「そうだ」と、返すことすらもままならなかった。

 

 ──認識を塗り替える。

 ──目の前の現実を変える。

 彼女の魔法は、思い込みで、自己暗示で妄想だ。自分で自分に嘘を吐き、騙すという行いだ。そんなものが、精神にいいわけがない。

 不死身とはいえ〝角〟の出ていない今、彼女の存在は〝人間〟と定義されている。今、精神の強度は人並みでしかなかった。だから、自らの魔法への耐性すら低いのだ。

 ──反動に、耐えられない。呪いは彼女自身を蝕む。重ね過ぎた自己暗示と誇大妄想は、当たり前のように正気を削る。

 外れていく歯車。

 溶けていく意識。

 

「──嫌っ……」

 

 それを一瞬、手繰り寄せるように歯噛みして。

 けれどやはり、彼女は狂気の淵に落っこちる。

 ──とぷん、と。

 

「……大丈夫よ別にそんなことも『忘れれば何も問題はない』のだから」

 

 語調は、冷ややかになった。

 

「大丈夫わたし、あなたがどんなに変わっても愛せるわ『愛してる』。魔女の『愛は永遠』なのよ」

 

 狂気は冷徹に、固まった。

 

「たとえあなたに自我が残っていないとしても。わたしの、愛で、『どろどろに溶かしてあげる』から、溺れるように愛してあげるから……ね?」

 

 溺愛を唱え、彼女は毒花のように微笑んで、両手を広げる。

 

「『怖いものなんてひとつもないの』」

 

 妖艶な黒と赤のドレスが彼女を飾り立て、一層に〝魔女〟の気配を強めていく。

 純粋無垢の少女性──〝文月咲耶〟の成分が、欠落していく。

 

 

 

 ──魔法による結界の強化が終わり、嵐のような威圧感が、ようやく鳴りを潜めた。

 

 呼吸ができるようになった。

 

「……くそっ、もう何言っても届かないかよ」

 

 息を継ぎ、悪態を吐く。

 相性こそあれ、双方の実力差はほぼ対等だ。──それは、彼とて、彼女の為すことを止められないという意味だ。

 武器がなければ対応は後手に回る。なにせ彼女は待ち伏せて、罠を仕掛け、準備を事前に終えているのだ。魔法を力尽くで打ち破ることはできても、魔法の発動前の自傷を止めることまではできない。

 ──そのことがひどく腹立たしい。

 彼女は腕を、ゆらりと持ち上げる。緋色の魔女の、足元の紋様が七つ。『赤い蛇』に変化(へんげ)する。

 

「──あなたを『傷付けさえしなければいい』」

 

 左目からどろりと、血が流れ落ちた。

 魔眼の臨界を超えた使用。正気を捧げ、蛇に『魔眼』の効果を上乗せする。

 

「『食らい付け』!」

 

 命令。ずるりと地を這う七本の蛇が、順次に襲い来る。

 一体目。避ける暇は無く、咄嗟に腕で庇う。が、──触れた生身の左腕に硬直(ロック)がかかる。

 だらりと垂れ下がった腕。飛鳥は鬱陶しそうに一瞥し、身体の出力を更に上げる。……明日、起きた時が怖いなと思った。

 

 残る攻撃、その全てを回避。けれど結果二歩分の後退を強いられる。

 阻むは、あまりにも遠い七歩だった。

 

 七歩──彼女の部屋と自分の窓までの距離が、そのくらいだっただろうか。

 あんなにも普段、彼女が軽々しく越えていた距離の遠さを今、思い知る。

 

 ──会いに行く、ただそれだけが、こんなにも難しかったのか。

 

 と。

 

 ──本当に、はらわたが煮えくり返る。

 

 「……いい加減、起きろよ。これだけ魔法を食らって、まだ寝ぼけてんじゃねぇよ。目の前にいるのが誰か、オマエはわかっているはずだ」

 

 呟くように、語りかける先は自らの『機能』。

 

 ずっと感じている、嫌な気配。〝魔女〟の気配だ。それを飛鳥が分かっていて、ソレが感知していないわけがない。

 結界は初めよりもずっと、『異世界』に近づいている。

 ──だから聞こえるはずだ。

 

「オマエに頼るのは癪だ。もう見たくもない。でも寄越せ。今必要だ。

 ──とっとと『起きろ』! 『聖剣(Lapisgram)』‼︎」

 

 (つるぎ)の、真名を呼ぶ。

 ……聖剣は、現れない。

 けれど。

 ──ガチリ、と励起の感触がした。

 

 右腕。包帯の隙間から青光が漏れる。

 眼前。向かってきた『蛇』の(あぎと)

 反射。全力で拳を叩き込む。

 衝撃。魔女の魔法は、砕け散った。

 ──聖剣の文脈は『魔女殺し』。

 

 その効果は、シンプルだ。〝あらゆる魔法を叩き斬る〟ただ、それだけ。

 それだけで事足りる。

 粉々になった魔法。赤い粒子が、宙を舞う。

 

「……やればできんじゃん。ツンデレか?」

 

 当然、剣が返事をするはずもないのだが。

 拳を、握りしめる。

 

「あと六歩。あと六匹だ。──その喧嘩、全部買い占めてやる」

 

 

 

 一歩一歩、地面を踏み締め、立ち塞がるモノを砕いて、その距離を埋めていく。

 

「……なんで。なんでよ!」

 

 彼女には、わからなかった。目の前の光景が。何故、自分は負け始めているのか。

 ──勝利条件は揃っていた、はずなのに。

 理性が飛んでるので答えが出せない。思考をとっくにやめてしまったので行き止まり。

 

 返答は、彼が代わりに。

 

「なんでってそりゃ、テメェ」

 

 ──あの異世界で。魔王の呼び出した『魔女』に対抗する形で召喚されるのが『勇者』だった。彼は初めから、『魔女』に勝つために造られている。

 ──何より、一度、既にあの世界で。彼は彼女に、勝っている。

 

『一度勝ったのなら、二度勝てないわけがない』

 

 彼自身の存在にすら、既に『魔女を討つ』という文脈(いみ)が乗っているのだ。

 

「……『いやだ』」

 

 駄々のように、呪詛を吐く。

 ──いやだ。

 誰も助けてくれなかったからわたしは魔女になるしかなかった。でも、あなたが助けてくれた。じゃあ、誰が。あなたを、助けてあげられるの? わたししかいない。わたししかいないじゃない。

 ──いないのに。

 剣を起こした勇者との間には、問答無用の相性がある。魔女が、どれほど強くても無意味な、絶望的なまでの差がそこにはある。 

 

 そして。立ち塞がるは〝文月咲耶〟にとって『絶対のヒーロー』でもあった。

 頭をよぎるのは『惚れた方が負け』という文脈。

 それを思いついてしまったその途端、『自縄自縛の呪い』になる。

 

 ──文月咲耶は、陽南飛鳥の存在を貶める呪詛を持たないのだ。たとえ、どれほど罵倒を重ね、自己暗示で上書きしたとしても。思慕(おもい)を消せないから、魔法(うそ)は意味をなさない。

 

 ──いやだ。負けない。負けたくない。

 ──もう二度と、あなたになんか、負けたくないのに!

 

 最後の一体(まほう)が、砕かれる。

 

「どうして‼︎」

 

 どうして、なんて。

 

「決まってる」

 

 

「──俺が、『勇者』だからだよ」

 

 

 最後の一歩が、埋まって。ここで、詰み。

 彼女の腕に、彼の手が触れて。青い、聖剣の光が目を焼いた。

 

 

 ──ああ、やっぱり。

 

 ──わたしじゃ、あなたには勝てない。

 

 

 

 

     ◆◇

 

 

 

 

 気付いた時には、咲耶は組み伏せられていた。

 飛鳥の右手に握られるは、青色の刀身を持つ機械的な剣。喉元に、刃を突きつけられている。

 

「くそ、もう絶対名乗りたくなかったのに! マジで意味わかんねぇ。名乗らないとバフかからないシステム本当に嫌いだ! 十八にもなってノリノリで魔女とか勇者とか言ってんじゃねえよ恥ずかしいな本当に! あぁ死にたい!」

 

 巻いた袖から覗く鈍色の腕。包帯はとうに解けて、呪いの錆は跡形もなく消えている。

 咲耶は、虚空を見つめて。

 

「どうして」

 

 焦点の合わない目で、吐くのは呪詛の残り滓だ。

 

「あなたが真っ当に生きていけるのならば、普通の人間のままならば、わたしは身を引くつもりだった。青春だけを取り戻して、わたしは隣からいなくなるつもりだった! でも、そうじゃなかったのなら! あなたも、わたしと同じだったなら、とっくに変わってしまっていたのなら! 一体何を、我慢することがあるの!」

「とっくに脳味噌弄られてるなら、わたしが上書きして何がいけないの⁉︎」

 

 飛鳥は、それを聞いて。二、三度。瞬きをし、

 

「…………え、何? おまえ腕捥いで俺を洗脳しようとしてたの? こっわ‼︎ なんで⁉︎」

 

 本気で引いた。

 

「ていうか普通に腕千切れそうで痛かったんだけど⁉︎ うわっ継ぎ目から血ぃ出てるし……染み抜き大変なんだぞ、最悪だ……」

 

 ありえない情けなさで泣き言を言うが、それはそれとして剣は突きつけたままである。

 隙はない。警戒も、解いていない。

 

「いや確かに、『本気なら』って言ったけどさぁ。あんなの売り文句に買い文句だろ。本当に本気出すと思うかよ、なんだったんだよ〜……」

 

 だが、どれだけ話しかけても反応はないし、会話が成り立つ気配もなかった。咲耶はただ、ぶつぶつと胡乱な瞳で何かを唱えているだけ。最早、力尽きているのか呪詛にもならない。ただ、正気の側にいないだけだ。

 

 飛鳥は溜息を吐く。

 ──まったく、誰が「壊れてる」だよ、誰が。

 

 むしろそれは魔女の方だ、飛鳥は思う。世界を救う使命を無理矢理刷り込まれるよりも。「世界を滅ぼす」と自らの意志だけで決意した彼女の方がヤバいに決まってる。世界を救う理由は──それをやりたいかはともかく──ごまんとあるとして。世界を滅ぼしていい理由なんて、三千世界を探したってあるものか。

 

 ──本当に壊れているのは、魔女(かのじょ)の方だ。

 

 呼びかける。

 

「咲耶。咲耶。戻ってこい。咲耶。おまえまでそっちに行くな。……なぁ、頼むよ文月(・・)

「陽南、くん……?」

「おっ」

「違う、違う違うわ。飛鳥(・・)、ねぇ、どうして?」

「……駄目かー」

 

 咲耶は倒れ伏したまま、手を伸ばす。地面から、飛鳥の頬を掴む。

 

「ねぇどうして? とっくに終わってるんだから、いいでしょ?わたしの全部をあげるから、あなたの全部をちょうだいよ。わたしに、残りの人生全部ちょうだいよ!」

「つらいのも悲しいのも全部忘れさせてあげる。わたしがしあわせにしてあげる。あなたのためなら、どの世界だって滅ぼしてあげるから!」

「だから。ゆだねてよ。おぼれてよ。お願いだから。──わたしに、負けてよ‼︎」

 

 目は、ぐるぐると狂気の渦を巻いていて。けれど、憂いと悲しみに溢れていた。 

 

「……もう、わたしを救わないで。わたしに、救わせてよ……」

 

 飛鳥は、そのすべてを黙って聞いていた。

 ようやく、この喧嘩がなんだったのかに思い至る。

 

「あー……あー? なるほど……そういうこと、か。いやどういうことだよわっかんねぇよ、なんでこうなってんだよ……」

 

 ガシガシと頭を掻こうとして、『鍵』がかかった左腕が、まだ上がらないことに気付いた。締まらない。

 

「……まあ、でも。大体理解(わか)った」

 

 合わない視線を、それでも合わせる。

 

「咲耶」

 

 ──俺は、おまえのことを魔女なんて()わない。

 

「おまえは間違っている」

 

 ぶつけるのは正論。

 

「知ってるわ、そんなこと……」

「違う」

 

 不意の否定に、彼女の瞳の焦点が少し合う。

 

「おまえは、まず、大きな勘違いをしている」

 

 正気が僅かに灯る。

 

「おまえを助けた理由について。『理由はない』じゃない。いらない、だ」

「……思い出したから、助けた、でしょ」

「そうだな。でも、なんで思い出したのかが、間違っている」

 

 たまたま偶然、再会したから思い出した──そんなわけがない。

 

 ──そんなに簡単に、擦り切れていた自我が、思い出すわけないだろう。

 

 組み伏せたまま、剣を引く。顔面一杯に苦々しさを浮かべて。彼は、

 

「……好きだったから、思い出したんだよ」

 

 細く、静かに、

 

 

()の、ことが」

 

 

 かつてのように、彼女を呼んだ。

 

 

 

「…………え?」

 



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第十七話 それは恋の成れの果て、だとしても。

 これは、昔の話──昔の俺が、どういう人間だったのか、という話であり。

 文月咲耶をどう思っていたのかという、かつての話だ。

 ……そして今の俺が〝何〟なのかという話であり。

 彼女が俺にとって〝何だったのか〟という答えだ。

 

 

 思うに、かつての俺というのは、随分と恵まれたやつだった。

 人生に何ひとつ躓いた覚えがない。本当に覚えていないだけかもしれないが、挫折の感覚すらも残っていないから、実際に経験がなかったのだと思う。

 両親が亡くなったのは物心つかない内だったから、あまり感じるところはなく。育ててくれた祖母も、あまり長生きはしなかったが。破天荒な祖母は死に様がアホだったので、悲しむどころではなかった。なんだよ、海水浴で崖から勢いよくダイブしてうっかり溺死って。無理すんなよババア。泣くに泣けねえ。

 

 ともかくとして。劣等感や渇望とは無縁の十六年。不自由は何ひとつなく、望みの大半は叶ってきた。

 だから、本当に。陽南飛鳥は普通のやつで、普通に、幸せなやつだったのだ。

 

 一方で、同級生だった文月という少女については。真逆とはいかないまでも、俺とは違う人間だと思っていた。

 普通ではなく「特別」の側。皆が振り向くほどの美人で、資産家のご令嬢で、婚約者がいて、人気者。雲の上の噂話ばかりを持っていた彼女は、誰も彼もに好かれていた。

 でも俺は正直文月のことが苦手だった。なんだか嘘くさい笑い方をする子だったからだ。

 

 ──当時の文月には隙なんてなく、彼女の演技は完璧だった。ただ、その完璧さに、俺が違和感を覚えていたというだけの話だが──気にかかって。いつの間にか彼女を目で追うようになっていた。

 

 だから文化祭の当日。文月が忽然といなくなったことに気付けたのだ。探している途中で、文月が誰もいない教室に入っていくのを見つけて。俺は大体を理解した。察しがいいのが唯一の取り柄だった。「ココアでも差し入れるか」と考えたのは自然な流れだった。

 それは気遣いというより、正直下心だ。昔の俺は人好きで、同時に少し打算的だった。誰にでも、なんとなくぼんやりと「いいやつ」だと思われたかったのだ。

 けれど。自販機でココアとコーヒーを買って戻り、教室の扉を開けた時。ひとりぼっちの、文月を見つけて。いつも周りの好意を受けて微笑んでいるはずの彼女がとても寂しそうに見えて──心臓が、軋んだ。

 

 だからその時にはもう、この行いは打算の善意ではなく、俺がそうしたいからそうするのだという話になっていたのだと思う。

 

 

 

 ほの明るくて薄暗い、空っぽの教室。祭りの喧騒は遠く、空気はしっとりと重い。

 その窓際で、文月はカーテンに埋もれるようにして座っていた。

 

「……陽南君?」

 

 入ってきた俺を驚いた顔で見た文月に、缶を二つ見せる。ココアと、ブラックコーヒー。

 

「文月は、どっちがいい」

 

 窓辺にカフェオレの缶が置いてあることに気付いたのは、その時になってからだ。二杯目を差し入れてどうする、と自分の明後日の気遣いに苦虫を噛んだ。

 文月は、少し迷って、

 

「コーヒーを、いただいても?」

「実はコーヒー飲めなかったから、助かる」

「飲めないのにどうして買ったの?」

「間違えたんだよ。ココアを押そうとして、隣のブラックを押したんだ」

 

 その日の俺はたまたま、度が少し合っていない眼鏡をかけていたのだ。

 

「それじゃあ、陽南君は。わたしがココアを選んでいたら、どうしてたのよ」

 

「…………がんばって、飲もうと思ってた」

 

 文月は、ぱちぱちと目を瞬いて、

 

「あはっ、なにそれ。そんな思い詰めた顔で言うこと?」

 

 くすくすと軽やかに笑ったのだ。嘘の気配などカケラもない、綻ぶような、笑い方。

 

「ふふっ、おかしいの」

 

 眼鏡の度が合っていなくて、彼女の顔をくっきりと見ることはできなかったけど。それでも、その日の笑顔が。

 今まで見た彼女の表情の中で、一番綺麗だと思った。

 

「ありがと。陽南君て……いいひとね」

 

〝いい人〟なんて。誰に言われても同じだと思っていた、なのに。彼女に言われるのは、違ったのだ。

 

 ──心臓がまた、妙な軋み方をした

 

 察しは、良い方だった。だから初めての体験の正体にも当然のように気付いた。

 

 ──ああ、なるほど。もしかしてこれが、いわゆる。恋、というやつか。と。

 そして……困った。だって、叶うはずがない。文月咲耶には婚約者がいる。好意を伝えたとしても困らせてしまうだけだ。

 この問いの正答(こたえ)は何か。

 正解を、探して。程なく結論に辿り着く。

 ──この感情を、隠し通すことだと。

 

 昔から、要領がいい方だった。というか、昔はそうだった。場の雰囲気を読むことは苦ではなく、いつだってうっすらと正解を引ける。人間関係に苦心したことはない。普通なりに小器用なヤツが、陽南飛鳥という人間だった。……今の俺にはちっともできなくなってしまったが。

 だから、自分が文月咲耶に惚れてしまったと気付いた時に「正解」もわかってしまった。

「何も言わない」が正解だ、と。

 

 微塵も好意をお首に出さず、ただの同級生として関係を終える。それがかつての俺がした選択だった。

 ──文月を、困らせないために。

 

 別に、平気だ。初恋が即時に失恋になったことくらい。夕暮れの教室でたわいもない話をして、たった一度、嘘のない笑みを見た。それだけの関係だ。だから、そんなことは綺麗に忘れられる──はずだった。

 

 はずだったのだ。

 

 異世界で──あの、天上よりも遠い場所で。

 両の瞳に暗い闇を湛えた彼女と、再会するまでは。

 

 

 

 異世界の人間がまず俺にしたことは精神に干渉することだった。悪意を以って頭を弄ったわけじゃない。

 そうするしか、なかったのだ。

 

 何故ならばあの世界で敵が行使していた〝呪い〟というのは直に精神に効く。今さっき、咲耶が自らの呪いの反動で狂気に落ちたように。認識の改変とはそういうものだ。

 だから脳味噌を弄ったのは必然。壊されないためには、事前に壊しておくしかなかったというだけの話だ。

 

 ──剥離した自我と、意識の断絶の二年。脳裏に刻まれているのは血と刃、戦うことを強いる声。

 頼れる仲間もいなければ、守る価値を感じるものもなく、異世界の記憶はすべて戦場のそれ。

 そこに悲しみはなく。そこに苦しみはなく。ただ、過ぎ去った情景が朧げにあるだけだ。

 

 心に傷など残していない。

 異世界の人類を恨んでいないし恨みたくはない。彼らは彼らで、世界を救うために到底考えも及ばないほどの犠牲を払い続けてきたし、俺はその〝なりふり構わなさ〟に敬意を払ってすらいる。

 勝ち残るために手段を選ぶのは馬鹿のすることだ。あいつらはすごい。

 

 時折思い出したように自分を取り戻すこともあったから、異世界での記憶はそれなりに残っている。

 だからその時に、俺は何も恨まないと決めていた。

 

 ──聖剣を使えば使うほど、記憶も自我も曖昧になって。二年も経てば、自分の名前すら思い出せなくなっていた。それでも、かつて俺だった勇者(なにか)は、何も恨みたくはないと思っていた。

 

 その、はずだったのだ。

 

 ──最後の戦場で、彼女と、再会を果たすまでは。

 

 

『……陽南、君?』

 

 目の前にいるのが文月だと理解したその時に。

 ──昔の感情が、吹き上がった。

 解除される現世の「記憶」のロック、それは紛れもなく強い光のようで。

 次に取り戻したのは、言いようの知れない怒りの「感情」だった。

 

『……こんなところで、なにしてんだよ』

 

 おまえは、現世でしあわせに生きてるはずじゃなかったのかよ。

 ──ふざけるな。

 

 怒り方を、思い出した。

 思い出したままに、感情(いかり)の出力を上げる。

 既に勇者(うつわ)の中身は空で「世界を救う」という使命だけが満ちていた。

 それを「文月咲耶についての記憶」から逆算して再構成した「自我」で上書きする。

 

 使命に「機能」に全力で逆らって、叫んだのだ。

 

『帰ろう。帰りたいって言え。帰るんだよ!』

 

『俺と、おまえで!』

 

 

『──今からすべて、終わらせて‼︎』

 

 

 そして俺たちは手を組んで、ついでのように魔王をぶった斬って、こちらを逃すまいとする人類を振り切って、現世に帰ってきたのだ。

 ……当時の俺はまだ、ほとんど怒り以外の感情を取り戻せていなかったけれど。意外と、人間のフリはなんとかなるものだった。ちょっと変なキレ癖がついてしまった上に向こうでの彼女との会話がすべて険悪になってしまったことは、悪かったと思っている。

 でも、勝ったのだ。ちゃんと勝って、自我を押し通したのだ。

 

 だから俺はあの世界に憂いも未練も、ひとつだって残しちゃいない。

 確かに終わった。終わらせた。その認識が、自覚がある。

 今更「普通に生きる」なんて厚顔な目標を掲げることに、なんの躊躇も恥じらいもなかった。

 

 だって、ほら。結構がんばっただろ、俺。ついでとは言えちゃんと魔王倒したんだぜ?

 なんだかんだと言って、クソ異世界に義理は果たしてやったんだから。その上で咲耶まで助けたんだ。絶対褒められていい、誰かに。誰も褒めなくても俺が自分で褒めるからいい。空から三百万降ってこないかな。学費にする。

 

 ……いや、義理っていうか。聖剣はパクったのは悪いと思ってるけど。外せないし。

 こっそり帰ろうとしたら、めちゃくちゃ異世界人に追いかけられたの、絶対に聖剣パクったせいだよな。

 あとは魔女生かすのもいけなかったらしい。

 知らんわ。知るかボケ。勝手に呼び出したのはテメェらだ。今度はこっちが好き勝手にやって、何が悪い。

 

 ──ここが、この場所こそが、完全無欠のハッピーエンドだ。そうだろう?

 

 ……そう思って、現世に帰ってきたのだ。

 だというのに、待ち受けていたのは「帰る家すらない」という現実だった。

 

 いや、もう。噴飯。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 深夜。病院を抜け出して、辿り着いた先の更地。

 その時の俺は二年の間にすっかりと錆び付いた感情を無理矢理に駆動させている状態で。感情の出力がわかっていなかった。

 俺は、ひとしきり笑って、笑った後に、途方に暮れた。

 

 だって、そうだろ。かろうじて覚えていた故郷(いえ)すらなくなってたんだ。

 ならば。

 ……何を持って、自分の存在を証明すればいいのやら。

 

 一度、異世界で自我がゼロになっていたことに変わりはなかった。取り戻した彼女への感情と、僅かな記憶。それを由来に再生した「自分」が不確かな存在であることは、わかっていた。その「記憶」すら、じくじくと自分を責める。

 

 ──誰だよテメェ。

 ──知らねぇよ。

 ──とっくに終わってんだよ、陽南飛鳥(むかしのオレ)は。

 

 まっさらになった地面が、そう言っているように聞こえた。

 ……もう、笑うしかないのに、笑い疲れてしまった。

 

 

「飛鳥」

 

 呼びかけに、ゆっくりと振り返る。いつの間にか、咲耶は近くの自販機で飲み物を買っていたらしい。差し出された二本の缶。

 

「どっちがいいか、選びなさい」

「ココアと……何、おしるこ? なんだその組み合わせ」

 

 咲耶はしかめっ面のまま、目を逸らした。

 

「…………見間違えたのよ」

「いやおまえ視力いいじゃん」

 

 咲耶は時々、絶望的にどんくさかった。

 

「るっさい! あんただって、ココアとコーヒー間違えたことあるくせに‼︎」

 

 ──それは、あの日の教室での出来事だった。

 

「…………覚えていたのか」

「な、何よ。忘れるわけないじゃない」

 

 うろたえる彼女を前に、立ち尽くす。

 

 ──ああ、アレは本当に、あったことだったんだ。

 

 俺を知っているのが、自分(オレ)だけじゃないということが。

 記憶の真実性が保証されたことが。

 それをよすがにする不安定な自我が、少しだけ地に足ついたことが。

 何よりも、彼女が、覚えていてくれたことが。

 

 ──どれだけ、救いだったか、なんて。

 きっと、俺以外の誰にもわかりはしない。

 

 

 

「……いや、でも汁粉はねーわ。どうやったら見間違うんだよ。全然ちがうだろ。節穴か?」

「うぅ……!」

 

 節穴の自覚はあるらしく、悔しそうに呻きながら俺にココアを渡そうとする。

 

「いいよ。寄越せよそっち。おまえは、甘すぎるのは苦手そうだから」

 

 咲耶から小豆色の缶を奪い取る。意地っ張りな彼女はそれを奪い返そうとするから。さっさと開けて口をつけてしまう。そのまま、道端にしゃがみ込んだ。

 

「はは……なんだこれ。バカの甘さだろ」

「どうしたのよ」

「いや……味がするなって」

「当たり前でしょ」

 

 違うよ咲耶。そんなこともずっと、当たり前じゃなかったんだ。

 

「…………寒いな、今日」

 

「今まで気付かなかったの? 本当、ばかね」

 

 違うんだ。おまえがくれたものが、あまりに温かかったから。今、気付けたんだ。

 

 ──あの時は、まだ。それを伝えるための言葉も。そう伝えることが許される関係も。俺たちの間には、なかったのだ。

 

 

 

 

 本当に。こちらに戻ってきてから、与えられてばかりだった。それに報いる方法に、悩み続けるくらいには。

 とっくに、救われていたのだ。そして救われた後に、恐ろしくなった。

 俺は所詮、陽南飛鳥の〝成れの果て〟だ。「正しくない人間」だ。

 

 ──たとえ彼女が昔の俺を、好きだったとしても。こんな自分(モノ)に、あまり。付き合わせるわけにはいかない。そう思っていた。……思って、いたのだが。

 

 窓から入ってくるんだよ、なんか。こっちの気も知らず。わけがわからん。

 

 そんなのだからこっちの葛藤とか全部なし崩しになってしまった。

 なし崩しになってキレてるうちに、なんか大丈夫な気がしてきた。

 

 意外と大丈夫じゃないか? 自我。俺は結構人生が上手いし、なんとかなるだろ。そんな気がする。

 いちいち悩んで考えて、というのは性に合わなかったのだ。往生際は、見極めなければならない。

 

 突き放しても──それでも、咲耶は俺に会いに来てくれたのだから。こちらも、誠意を返すべきだ。

 

 いい加減に向き合う覚悟を決めて。

 俺は、彼女に手を差し出して。

 

 ここからもう一度。

 初恋も敵対も全部、まっさらにして友達から、正しい関係を積み上げていこうと決めたのが。

 

 

 ほんの八日前の屋上での、出来事だった。

 

 



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第十八話 自己の証明を。

 咲耶は狂気の淵からほんの少しだけ戻ってきた。聖剣が起動したおかげで彼女にも角が生えており、その角が「理性」を補い始めていた。……人外の理性なのだが、まぁ、そこはそれ。今は関係のない話だ。

 組み伏せるのをやめ咲耶の身体を起こす。赤い空の下、アスファルトの上に膝をついて。

 すぅっと息を吸う。

 

「……で? 誰が、『自我がない』って?」

 

 そろそろ我慢の限界だった。──いや、もう、ほんっと。

 

「俺が、どれほどの思いで、魔女を殺すのを止めたと思ってんだ⁉︎ どれほどの意思で、聖剣の機能に逆らったと思ってる‼︎ おまえ見てただろ、隣で! 節穴か⁉︎」

 

 貫き通したのは自我だ。──それを、今更疑うなどあるか!

 

「こちとら証明は、とっくに終えてるんだ‼︎ 今更、ガタガタ抜かすなアホタレが!」

 

 自我、意識、思考、感情、全部。それを他者に証明する手段はない。頭の中を覗けでもしない限り。けれど自分さえ確信できたなら、他に誰の存在証明もいらないのだ。

 

「それでも信じないって言うなら、おまえ、思考垂れ流してやろうか。これからずっと、何考えてるか話してやる。聞くか全部? 普段何考えているか。考えてるからなマジで。おまえ胸でかいよなとか全部口に出してやろうか、ええ⁉︎」

「も、もう言ってるからそれ……!」

 

 咲耶は、露出の高い衣装の胸元を隠した。正気で着れるわけがない服だと思う。痴女だろもう。どこをどう隠してるんだよ。露出が高過ぎて逆に全然エロくないから助かるとか考え──思考を打ち切る。品性がなかった。許されない。死ね俺。

 

 息を深く吐いて、落ち着ける。

 

「……いや、うん。節穴呼ばわりは、悪かった。『言わなきゃわからない』って言ったのは俺だったのにな」

 

 くそ、同じ失敗ばかり繰り返している。

 

 

「……死んでも言わないつもりだったんだ」

 

 嘘と隠し事はお互い様だ。それがなんのためなのか。自分のためで──互いのためだ。

 横たわるのは『言ってどうにもならないことは言わない』という、暗黙のルール。だってそれは、泣き言だ。笑えない話は全部、無価値だ。だからどうした、言うほどのことでもない、と受け流していくのが〝正解〟だと思っていた。だが、そのせいで咲耶が傷付くならば。それは〝間違い〟だ。

 

「言わなくて……いや、言えなくて、悪かった」

 

 ──ずっと、それを言って受け入れられないことが恐ろしかった。

 どうして言える。彼女に自分を否定されたら。『あなたは陽南君じゃない』と言われたら。立っていられる自信がなかった。咲耶をここまで追い詰めたのは、俺に意気地がなかったせいだ。

 

「確かに、今の俺には君の記憶(こと)しか残っていなかった。一度死んだようなものだったのは、その通りだ」

 

 ここにあるのは、初恋の記憶と感情を核に、かつての陽南飛鳥を参照し、再生した人格だ。それは、本物(かつて)とはどこか決定的にズレているのだろう。だが。

 

「それでも、俺は俺だ」

 

 答えは出ている。たとえ中身が空になったとしても。最後にたったひとつ彼女さえ残っていれば。俺がかつて陽南飛鳥であったことは変わらない。今は紛れもなく『続き』だ。

 

「俺は感情を動かして、思考を回して、ちゃんとここに生きている。そのことを、誰よりも俺自身が分かっている! ……だから何も問題なんて、ないんだよ」

 

 今更、自我の在処に迷う必要なんてない。この感情は全部、正真正銘に、俺のものだ。

 

「……だから本当に。たいしたことはないんだ、全部。たいしたことは、なくなったんだ。──君のおかげで」

 

 ようやく動くようになった左手を剣の柄に添える。彼女は黙り込んで、返事はなく、けれど俺を止めようともしなかった。

 アスファルトに刃を突き立てる。先程まで、彼女が動かずに立っていた場所に。結界を作る魔法の、核を破壊する。

 

 ──言っただろ、ちゃんと倒しに行ってやるって。

 

 

 十二時(タイムリミット)よりも早く。

 鐘の音(アラーム)が鳴ることはなく。

 赤い空は、粉々に砕けて消えた。

 

 

 

 

 結界が解けた先の景色はいつもの夜だった。地面に傷はなく紋様も残っていない。正しく現世に、戻ってきた。

 咲耶の目には僅かに正気の光が灯っていたが、まだ天秤が狂気の側に傾いているらしく。ゆらゆらとした瞳で、俺の言葉を反芻しているようだった。

 

「……どうして? あなたの言葉は、強がりだわ。そんなこと、もう言わなくていいの。ここに、簡単な結末があるのよ。あなたが受け入れてくれるだけで、すべての虚勢は要らなくなる……」

 

 しゃがみ込んだまま、彼女は俺に縋り付く。

 

「あなたの中に、わたししかないなら尚更に! わたしのすべてを、あげるのに‼︎」

 

 瞳は潤んで今にも溢れ落ちそうだった。

 

「わたしだけ見てわたしのことだけ考えてずっとわたしの側にいてよ‼︎ ねぇ、飛鳥……」

 

 狂気の淵の駄々。彼女がずっと嘘で覆い隠していた本音。俺は、胸倉を掴む彼女の手に、左手を重ねる。

 

 

 

「やるよ。人生。──俺なんかの人生でいいなら、全部やる」

 

 

 

「……え、ぁ……えっ?」 

 

 

 咲耶は、眼を瞬く。ぽろりと、鱗が落ちるように、目尻に溜まった涙が剥がれて零れる。

 

 

「──えっ⁉︎ い、今、あなた何を……っていうか、わたし、今まで何を言ってたの⁉︎?」

 

「ようやく正気に返ったか。おかえり」

「えと、ただいま……じゃ、なくて! ……わたし、あなたに、その……‼︎」

 

 咲耶は無意識に溺れている間に何を口走ったのか思い出すのに忙しいらしく、まったく言葉が出ていなかった。困惑と混乱に表情をころころと変えるものだから、少し可笑しい。

 だが今は構わずに話を続ける。彼女の手を握って、大事な話を。

 

「俺もさ、ずっと考えてたんだ。……おまえの身体のこと、気付いてたよ。角、見た時からそうじゃないかと思ってた」

 

 エプロンにも何故か血痕が残っていた。どうせ包丁で指でも切ったのだろう。だが、咲耶に傷は残っていなかった。

 嘘は上手いけど根本的に隙だらけだし詰めが甘い。まったく隠すなら隠し通せ。……とは、バレた俺が言えることでもないか。

 

 咲耶の眼を、覗き込む。決意を口にするために。『わたしに負けてよ』と彼女は言った。その返答が、まだだった。

 

咲耶(きみ)を元に戻す。そのために力が、まだ聖剣(これ)が必要だ。──だから、魔女(おまえ)には負けられない」

 

 人生なんざくれてやる。でも。

 

「俺は、おまえのことも、俺自身のことも、何もかも。まだ諦めちゃいないんだ」

 

 だから魔女の論理で用意された簡単な結末なんて欲しくない。破綻が約束された関係なんて、いるものか。

 

「みくびるなよ。俺は結構やるヤツだって、おまえが一番知っているはずだ」

 

 

「それに……」

 

 今更。今更だ、と。──今更、昔は両思いだったなんて知って何になる。ずっと、そう思っていた。全部手遅れで変わってしまった後なのだからと。

 でも咲耶が。強引に窓をこじ開けてくれたから。今更なんかじゃなくなったのだ。

 

「この一週間、楽しかった。……楽しかったんだよ、本当に」

 

 とっくに俺は、救われてたんだ。それは紛れもなく咲耶のおかげだ。でも。

 

「『おまえだけ見ておまえのことだけ考える』……正直、キツい誘惑だ。それもいいか、とちょっと思った。でも、そういう自分になることを俺は許さない。だって、それは。人間として正しくない」

 

 陽南飛鳥(むかしのオレ)ならば、そんなことは望まない。

 

「だけど、今の俺は。咲耶がいない人生も、嫌なんだ。だから、頼むよ……『いなくなる』なんて、言わないでくれ」

 

 咲耶は、俯いて。俺の手を両手で握り返す。

 

「……ずるいわ、そんなの」

 

 静かに滴を手の甲に落としながら。正気の声音で。

 

「そんなこと、言われたら。わたしもう……勝てないじゃない」

 

 

 

     ◇

 

 

 

 そして、俯いていた彼女は残りの魔法を解いた。魔女のドレスはいつもの制服に戻る。捻じ曲がった角もゆっくりと頭蓋の中に収まっていく。

 顔を上げる。咲耶は微塵も表情を変えないまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めていた。

 

「迷惑かけた。ごめんなさい」

 

 声と感情を震わせずに、ただ滴だけを零す、不器用な泣き方だった。

 

「どこまで正気で、どこまでが正気じゃなかったのかわからない。でも正気のまま、『あの結論』に至ったところまでは覚えているの。……わたし、やっぱり悪いやつで、人でなしの魔女なんだ」

 

「ばっかじゃねーの」

 

 自罰なんて何の得にもならない、と思った。

 

「おまえ、人間味しかないよ。俺の三倍くらい『人間』だわ」

「……それ、あんまりじゃない? わたし、人間として三十点くらいよ? 逆算すると、あなたは人間として十点って意味だからね?」

「はは。合ってる」

「笑うな!」

 

「いや、でも。昔の俺とは違うって言ったけど。根本はあんまり変わってないと思うぞ? 多分」

 

 思い出した限りだけど。それはちょっと言っておかないと、と思った。多分、咲耶は実際より深刻に受け取りすぎているから。

 

「? でもあんた、感性おかしく……」

「あー、あー…… ? それか、暴走の根拠は。……げ、まさか『更地』の件?」

「え、うん。察しいいわね……」

 

 取り柄、それだけだからな。というかマジかよ。笑い過ぎて引かれた自覚と感情の出力をミスった認識はあったが。やっぱりあれ根本的に笑えないのかよ。現世、難しいな。

 ……いや、これ現世関係ないか。俺のせいだ。

 溜息を吐く。

 

「あのな。隕石が好きなのは、元々。服の趣味も、元々。あと、不謹慎なのも元々だよ」

「………………はい?」

「俺、昔から、ばあちゃんの通夜で爆笑するようなヤツだった」

「は?」

「身内が犬神家死してたら、笑うだろ」

「何の話してるの⁉︎」

 

 俺もわからないんだよ。うちの家系、俺以外バカだから。

 

「待って、聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえず……なら、どうしてもっと早くそう言わなかったの⁉︎」

「おまえが弁解の隙もくれずに、喧嘩売ったからだよ!」

 

 早く言えとか、どの口で言うか!

 

「脳味噌の治安が悪いんだよ、おまえは!」

「あんたが言うと洒落にならないわ⁉︎」

「俺は弄られてるから逆に治安が良いんだよ‼︎」

「死ぬほど不謹慎‼︎」

 

 涙も引っ込んだ。

 

「……え? 陽南君て結構、変な子だったの? 普通の、いい子じゃなかったの?」

「だから。おまえ、昔の俺のこと知らねぇじゃん。友達じゃなかったからさぁ〜……。なんか外面よかっただけだよ昔の俺は」

 

 咲耶はあからさまにショックを受けていた。

 

「わたし何を、思い詰めて……?」

「だから言ってるじゃん。割と記憶思い出してるし、結構自我あるって」

 

 ところで記憶といえば。芽々って俺の後輩だった気がするんだけど。あいつなんで初対面みたいな態度とってたんだろう? 俺のこと忘れてるんだろうか? 薄情なやつだなー。

 

「とにかく、対話させろ対話。おまえは喧嘩っ早すぎる」

「あ、あんただって!」

「俺は、売られた喧嘩は全部買う。そういう主義だ」

 

 そうだった、みたいな顔する咲耶。

 

「……な?」

 

 反省した? やっぱり俺、あんまり悪くないだろこれ。とばっちりだ。

 

「わ、わたしの方が悪いのには異論ないのだけど、なんか、釈然としない……!」

 

 それはまぁ。

 

「俺の態度が悪いからだね」

「わかっててやってんの⁉︎」

 

 いやだって。今更、いい人願望とかないし。

 

 

 

 

 ひとしきり言い合って落ち着いて、俺たちはようやく『いつも通り』になる。

 咲耶はすんっと鼻を鳴らして、はっきりとした声で俺に言う。

 

「ねぇ、わかってる? すっきりした顔してるけど……問題は何も、解決してないのよ」

 

 ばれたか。

 そう結局『仲直り』をしたというだけで、喧嘩の原因はすべてそのまま残っている。俺の問題も、彼女の問題も、だ。

 やはり、彼女は真面目だ。だから、俺は少しだけ不真面目でいるべきだと思うのだ。

 

「なんとかするさ」

「どうやって」

「知らね」

「適当な……!」

「でも、俺はおまえに勝てるから。そのくらいはできるんだよ」

 

 大丈夫、ここから先は長い。死に急ぐ必要も生き急ぐ必要ももうない。

 世界の存亡を懸けるよりも難しいことなんてこの世にあるものか。だから、人生なんざ楽勝に決まってる。

 

「忘れたのかよ。俺は、おまえと帰るって決めたから。最短で魔王を倒して、転移術式もパクって、生きて帰ってきたんだぜ。やり残したそのくらい、朝飯前に決まってるだろ?」

 

 俺は自信をかき集めて精々不敵に笑ってみせる。

 咲耶は、唖然として。

 

「実績がある分、たち悪いわ……!」

 

 俺は取り繕った表情を崩して苦笑する。自分で言っておいてちょっと気恥ずかしかった。

 

「でもま、流石に、ひとりじゃきついから」

 

 格好を付けるのも、ここで仕舞いだ。

 

 

助けて(・・・)くれよ(・・・)。──友達、だろ」

 

 ほら、約束通り。今度は、ちゃんと言った。

 

 咲耶は目を丸くして、濡れたままの目尻を下げて。

 

「ばかじゃないの、もう」

 

 まるで、いつかの教室でのように。綻ぶように笑った。

 

 

「仕方ないから……死ぬまで、手伝ってあげる」

 

 

 

 

     ◇◆

 

 

 

 

 静かな町の真夜中の岐路で。膝をつき、手を握ったまま、彼と彼女は話を続ける。

 

「ねぇ……わたしのこと、好きだったの?」

 

 確かめるように、彼女は言って。彼は躊躇なく答える。

 

「好きだった」

「今は?」

 

 彼は、恋に連なる〝あの言葉〟を言おうとして。喉から出かけた言葉を飲み込んだ。

 ──頭の中で警笛が鳴る。言ったら終わりだ。

 

「……ごめん。まだ、言えない」

 

 苦渋の表情。彼女はすべてを理解して、頷いた。

 

「……そっか。言ったら(・・・・)呪われる(・・・・)のね」

 

 ──かつて、あの異世界において『言葉はすべて呪い』だった。なんだかんだといって、彼と彼女の〝中身〟は異世界製になっている。そのせいか。『自己暗示という名の呪い』が、効きやすい身だった。

 

 ──他者からの呪いの耐性は備わっていても、自身の吐いた言葉が、そのまま自らに刺さる呪詛になることは、止められない。それは、『思い込みこそを魔法にする』彼女にとっては〝恩恵〟とも言えるけれど。彼にとっては、洒落にならない。

 

 呪いとは、精神の隙間に入るものだ。──だから異世界の人類は、かつて彼の精神を切り離した。けれど今。彼の自我はかつての名残から再構成したばかりのもの。急造の精神は、隙間だらけだった。

 

  ──だから、もし今。恋心を核に成り立つ自我が、(あい)を語れば。それは呪いになりかねない。空白だらけの器の中身は、すべてそれで満ちるだろう。

 そうすれば。彼女しか見えなくなる人間の出来上がりだ。至るのは溺愛を受け入れて、盲目になる〝簡単な結末(バッドエンド)〟。

 どれほど言葉を尽くしても思いを伝えても──今は、肝心の告白すら許されない。

 

 ──文月咲耶の愛は未だに狂気の一歩手前にあり。

 ──陽南飛鳥の自我の証明はまだ確固たりえない。

 

 ここが、彼らの立っている場所が、踏み外せば終わりの崖であることに変わりはない。落ちてしまえば、あとは、溺れるだけだ。

 

 だから。アイ(それ)を口にするには。

 

 ──彼は欠けた中身を埋めなければならなかった。

 ──彼女にかけられた呪いをすべて、解かねばならなかった。

 

 今はまだ、彼女を抱き締めることすらまともにできない。それでも、彼は。

 

「言うよ。ちゃんと人間に戻れた時に。普通に生きていけるようになったその時に」

 

 彼女の、手を引いた。立ち上がるために。

 

「誓うよ。必ず……伝えるって。近い未来のうちに。そう、待たせはしないさ」

 

 それで十分、伝わるだろうか。

 

「……っ」

 

 暗がりでもわかるほどに、彼女は顔を真っ赤にした。

 

「ばか、ばかっ、格好つけ!」

「うるせぇ嘘吐き。ちょっとは素直になれ」

「……ありがと」

「…………素直すぎると、心臓に悪いからやっぱりいいや」

「死ぬほどむかついた」

 

 立ち上がった彼女は手を振り解き、彼の胸元に小さく頭突きをする。

 

「あんたのそういうところが。わたしの、思い通りになってくれないところが……嫌いよ」

 

 彼は、少しだけ迷って。左手を彼女の背に回す。抱きしめるというにはあまりに弱すぎる、壊れ物を触る手で。『嫌い』というにはあまりにも甘すぎた声に、返事をする。

 

「知ってる」

 

 

 

 これが精一杯だ。今は、まだ。

 けれど、「いつかは」と思う。

 それは祈りではなく、願いでもなく、ただの決意で。

 

 ──それを果たせなかったことなど、一度足りともない。

 

 だから。

「いつか」の意味は、「必ず」だ。

 

 

 

 

 空は、黒くて。

 月が、綺麗だった。

 



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エピローグa 俺は窓から会いに行く。

 

 次の日の朝。俺は窓から咲耶の部屋に入る。窓は開けっぱなしで、なんならカーテンすら半分開いていた。無用心なやつだな。

 咲耶は居間のソファの上で、力尽きるようにして眠っていた。呼びかける。

 

「咲耶。起きろ」

「ん、ううん……? あすか……?」

 

 寝癖のつかないさらさらの髪の隙間から、寝ぼけ眼がこちらを見る。寝巻きは肩からずり落ちていて、白い肌が半分ほど見えていた。ぽう、とした顔で咲耶は俺を見て。

 

「……へぁあ⁉︎」

 

 朝が弱い割りには意外と早い覚醒だった。咲耶はわたわたと髪を整え、居住まいを正す。ロールで生きている彼女は、人にだらしない格好を見せたくないのだろう。

 

「な、なんで窓から⁉︎」

「昨日の反省だ。相互理解は大事だと考え直してな。おまえのやり方を、俺も一度は試してみるべきだと思ったんだ」

「魔女じゃないのに窓から入るなんて、頭イカれてる……!」

「は? 何言ってんだおまえ。誰が好き好んでやるかよ。緊急時しかやらねえよ」

 

「緊急?」と咲耶が眉をひそめる。

 

「え、何……何が、あったの」

「遅刻だ」

 

 咲耶はおそるおそる、と時計を見る。

 

「……それだけ⁉︎」

「それだけだけど。緊急事態以外のなんだって言うんだよ」

 

 ただでさえ成績が壊滅しているのだ。余計な失点は欲しくない。仕方がないので大抵の無法は許されるし、窓から入ることも容赦される。当たり前の話である。

 

「てかおまえソファで寝てんのな。部屋たくさんあるのに……」

「い、いや昨日は寝落ちしただけだし」

「ちゃんと寝ろよ〜」

「あんたには言われたくないんですけど!? うっ……めちゃくちゃ湿布臭い」

「おまえのせいでな!」

「ごめん、でも近付かないで。や、にじり寄って来ないで」

 

 遊んでいる場合ではなかった。

 

「四十秒!」

「ま、待って〜‼︎」

 

 

 

 驚異的な速度で身支度を終えた咲耶と、部屋を出る。自転車のカゴに自分の荷物を投げ入れ、咲耶に促す。

 

「ん。後ろ乗れよ」

「……えっ、自転車で行く気? 上り坂よ」

「気合入れればいける」

「ふ、二人乗りは危ないわ」

「いや、おまえ落ちても死なないじゃん」

「そうだけどぉ!」

 

 異世界(むこう)で竜に乗ってたやつが現世(こっち)じゃ自転車の二人乗りを渋るの、ウケる。

 咲耶は諦めた顔で、綺麗にスカートを折りたたみ、荷台に腰掛ける。そして鞄を持っていない方の手を俺の背に回した。

 日常だと鈍臭いとはいえ異常な騎乗経験を持っている女が今更自転車の荷台ごときでバランスを崩すわけがない。だから、咲耶が俺の背中にしがみつく必要なんてない。……なんなら近付くほど匂うと思うんだが。無言でシャツを掴んでいる、咲耶の手を見る。

 

「……なによ」

「いや? 別に……おまえ実は結構、俺のこと好きだよなって」

 

 そう、しみじみと思っただけだ。

 

「ハァ?」と咲耶は、呆れたようにそう言って。

 

「……知ってるくせに」

 

 か細く、拗ねるように返した。

 

「ああ、忘れない」

 

 どことなく空気は妙になる。軽口のようには流せなかった。多分、昨日までの関係にはもう戻れないのだと思った。それもいいか、と頷いてみる。それもまた、選択と積み重ねの結果ならば、きっと悪くはない。

 俺は揚々とペダルを踏み込んで──、

 

 めちゃくちゃ足が痛くて悶えた。

 

 ペダル、重っ。咲耶、重っ……。

 

「だから無理すんなって言ったじゃない!」

「無理じゃねえし! ぜんっぜん余裕だ! 超軽い‼︎」

「ぜったい嘘‼︎」

 

 

 

 一番の急勾配をなんとか上り切った後。信号前で一時停止する。ママチャリで坂道二人乗りは純粋に腹が減ることに気付いた。

 

「あ〜〜、くそ。朝飯、食う暇なかったのが痛い」

「一応……朝ごはん、あるけど」

 

 振り返る。咲耶は抱えていた鞄を開けて、食パンを取り出した。

 

 袋ごと。

 

「ははは嘘だろ? 食パン一欣、鞄の中に入れるやつがいるか⁉︎」

「いやっ、魔法で出したし⁉︎ 鞄からに見せただけで入れてはないし!」

「だからって、食パンって……っ」

「ジャムもあるのに⁉︎」

「っ、やめろ出すな、笑かすな。バカだろおまえ。バカじゃん、はは」

「はー⁉︎ じゃああげないから! ひとりで食べてやる‼︎」

 

 器用に自転車の荷台で食パンを食べ始める。いや信号待ちだからってジャムを塗るな。無駄に所作だけ優雅になるな。なんだこいつ。

 しばらく眺める。信号は、まだ赤だ。

 

「咲耶」

「ふぁい?」

 

 

「俺、おまえのこと、めちゃくちゃ好きだ」

 

 

 咲耶は、けほっえほっと咽せた。食パン、喉に詰まったか。可哀想に。

 信号が青に変わったので自転車を走らせる。そのまま、ごつんと背中を小突かれた。

 

「わたし、あんたのそういうところ、ちょっと嫌いかもだわ‼︎」

 

 咲耶はそう言って、怒って。多分、笑った。

 

 

 くだらない、本当に。だからこそ、この朝が愛おしいと思ったし、明日もまたこうであることを願った。そのためならなんだってするし、なにも恐くない。

 

 嘘じゃなく、そう思えた。

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 すべては遠く過ぎ去って、変わっていったものばかり。でも、取り返しがつかないと諦めるにはまだ人生は長すぎる。

 何よりもまだ、青春は終わっちゃいない。

 だから。これは、あの日終わったはずの初恋を、失われたはずの日常を。すべてを笑い飛ばして、全力で取り戻していく、俺たちの〝これから〟の話だ。

 

 





一章終了、ありがとうございました。


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エピローグb 寧々坂芽々と普通の幼馴染。

 彼と彼女が岐路で対峙した満月の夜から、時は少し遡る。

 

 

 

 ──月曜日。

 まだ月が満ちていない夜のことだった。

 

 これは喫茶店の裏路地からの、もうひとつの帰り道での出来事──正真正銘ごく普通の高校生と、窓から出入りする彼の幼馴染の、一部始終だ。

 

 

 ◇◆

 

 

 笹木慎──飛鳥の同級生であり、バイトの同僚でもある生徒。

 中肉中背で穏やかな顔立ちをしており、染めた髪と小さなピアスを差し引けば、取り立てて特徴がない少年だ。

 

 寧々坂芽々──オレンジ色に近い金髪を両サイドでお団子(シニヨン)にしたお人形のような風貌。そして、あまり似合わない分厚い眼鏡をかけた少女。

 飛鳥の元後輩であり(飛鳥はそれをまだ思い出していないが)、隣のクラスの生徒だ。

 

 そんな幼馴染二人が、同級生たち(飛鳥と咲耶)の不審な一幕を目撃した後。

 突然目の前に現れた「ファンタジー的な何か」を、あっさりと受け入れ、何事もないようにさよならした後のこと。

 

 

 慎と芽々は、シャッターの降りた静かな商店通りを無言で歩いていた。

 二人の歩調は速くもなく遅くもない、自然なものだ。

 

 通りを抜け、角を曲がったところで、芽々から歩調を緩める。

 喫茶店はもう見えない。

 年上の同輩たちの帰路は逆方向だ。

 

 

「マコ、もう我慢しなくていいですよ」

 

 

 その呼びかけに、慎は足を止め。

 すぅっと深く息を吸い、目を見開いた。

 

 

「……う、わーーー! 芽々、見た!? さっきの!!」

 

 

「バッチリ見てますよー」

 

 慎の上げた声に、芽々は苦笑する。

 

 

 ……何事もないように?

 

 ……普通のテンションでさよならを?

 

 そんなわけない。

 そんなわけがなかった。

 

 すごくがんばって堪えていただけだ。

 

 

 慎は、全力で動揺していた。

 

 

「な、何あれ! え、さっきのは夢じゃない? あれ、本物……?」

 

「ええ、本物のファンタジーなんじゃないですかー? 多分ですけど」

 

「芽々は相変わらず、全然びっくりしてないように見えるね……!?」

 

 芽々はいつも通りニコニコと、愛嬌に満ちた笑顔で相槌を打っていた。

 

「ま、日頃からウキウキを顔に出さない訓練を積んでいますからねー」

 

 本当にはしゃいでいる時ほど、逆に落ち着いた態度を取るのが寧々坂芽々の癖だった。

 

 それは外でスマホを見てニヤつく不審者にならないため、現代人には必須のスキルである。

 芽々は大爆笑すら余裕で堪えることのできる、鋼鉄の面の皮の持ち主だった。

 

 ──のちにそれを知った咲耶は「笑っちゃいけないもので笑う不謹慎な誰かさんに見習ってほしい」とコメントを残したというが、今は特に関係のない話である。

 

 

 一方慎の方も、芽々ほどではないが素知らぬ顔をするのには長けている。

 なぜならポーカーフェイスガチ勢たる芽々と、幼い頃からババ抜きで鍛えているからだ。

 かつての度重なる敗戦が、慎の表情筋を強くした。

 

 ──のちに色々を知った飛鳥は「舌噛み切って顔面維持するアイツは駄目」とコメントを残したというが、今はまったく関係のない話である。

 

 

 

「さて、マコ。……これからどうするべきか、わかっていますか?」

「うん、大丈夫だ」

 

 二人は顔を見合わせて、口を開く。

 

 

「着実に、堅実に外堀を埋めて! 非日常の住人と仲良くなる!!」

 

「親しい友人となり、あわよくば、ナマモノのお話を聞く、です!!」

 

 

 頷き合う。

 

 ──幼馴染たちは、ある日突然ファンタジーに遭遇する時に備えてのシミュレーションが万全だった。

 

 シンプルに中二病である。

 

 だが、この程度は〝普通〟だ。

 誰しも心に秘めている曖昧な妄想、空想の範疇だろう。

 

 わざわざオカルト研究部を作った幼馴染の芽々は言わずもがな。

 慎もまた、相当にアレだった。

 アレなので、慎の所属する部は合気道部である。

 

 中二病に罹患した人間は、大抵一度は武道に傾倒する。

 普通のことなので、全然恥ずかしくない。

 みんな通ってきた道だ。

 

 

 ──でも、武道(それ)が活きる日が来るとはこれっぽっちも思っていない。

 

 オリジナルの特殊能力を考えるだとか、自分が活躍する妄想だとかは、中学と同時に卒業した。

 そういう体験をしたいという願望は、今の慎にはなかった。

 

 けれど……何か〝特別〟に、遭遇する夢まではまだ、捨て切れていなかった。

 

 

 ──ある日突然、非日常の中に。

 

 と、までは望まない。

 ただ少し、少しだけ。

 昨日とは違う明日が。

 退屈を変えるような『何か』が欲しい。

 

 いつも薄ぼんやりと、そう思っていた。

 

 

 そして『ある日突然』は本当に起こり、なんの脈絡もなく慎の願いは叶った。

 

 叶った……?

 

「冷静に考えると……非日常っぽい人たち、あんまりカッコ良くなかったね?」

「状況がぜんっぜん駄目でしたね。なんかうっかりバレた、みたいな雰囲気でした」

 

 拍子抜けである。

 叶わない願いが叶ったというのに、感慨もへったくれもない。

 

「……でも、いいや」

 

 慎はずっと、フィクションみたいなことが現実にないのが、ほんの少し寂しかった。

 

 好きなゲームができる度に、その世界に行けないことがうっすらと悲しかった。

 

 好きな漫画の話で盛り上がる度に、自分の現実(せかい)は退屈だと考えてしまうのが、ちょっとだけ嫌だった。

 

 だから。

 

 

「この世界がファンタジーと地続きだって知れただけで、満足だよ」

 

 

「……そうですね。夢がある話です」

 

 

 笹木慎は普通の少年だ。

 

 だから。

 ほんの少しだけ〝普通〟じゃなくなることを、いつも夢に見ている。

 

 

 

 

 

 夜道は明るかった。

 ──満月の夜まで、あと数日。

 

 

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 

 

 再び歩き出した幼馴染の隣で、寧々坂芽々は黙り込む。

 

 中学生に間違われてばかりの幼い容姿をしているが、芽々は黙るとむしろ大人びて見える。そのことを知る者は少ない。

 

 

 ──思い出すのは、今日の一件。

 陽南飛鳥に対する所感だ。

 

 クリームソーダで屈辱を覚えさせられたのは人生で初めての経験だった。

 この先クリームソーダを見るたびに飛鳥の顔がちらついてげんなりする気がした。

 

 ぜったいゆるさない。

 

 さて、それはともかく。

 

 

(……あれは陽南先輩ではない、ですか)

 

 正直。

 

 その真偽は、どうだっていい(・・・・・・・)と芽々は思っている。

 

 知ったことではない(・・・・・・・・・)

 かつての陽南先輩と多少の関わりはあったが、さして思い入れはないのだ。

 

(ですが、あれは……)

 

 これまで得た情報と、今日得た確証。

 それらを、頭の中でパズルのように当てはめていく。

 

 ぱちりぱちりとピースを嵌めて、余った空欄は適当に描き込んで。

 

 寧々坂芽々は、「陽南飛鳥と文月咲耶が〝何〟であるか」を、おおまかに理解した。

 

 

 ──寧々坂芽々は、理解できる側(・・・・・・)の人間だった。

 

 

 

 薄い唇を指でなぞる。

 

(さて……)

 

 

 手札は揃った。

 あとは、『何』を吹き込めば(・・・・・)

 

 

 

 ──この盤面《じょうきょう》は動くだろう?

 

 

 

 目を細める。

 

 寧々坂芽々の、分厚い眼鏡。

 反射するレンズ、その向こう側。

 

 緑がかった瞳の中で、〝星〟が、きらきらと瞬いていた。

 

 比喩(・・)ではなく(・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

「ねえマコ。咲耶さんは、思考実験とかゾンビとかって好きだと思います?」

 

 隣で幼馴染が、不思議そうな顔をする。

 

「どしたのさ、急に」

 

 正真正銘、〝普通〟である幼馴染は、〝瞳の星〟に気がつかない。 

 だが、やはり何か様子がおかしいように感じて、問う。

 

 

「芽々?」

 

 

 呼びかけに「いえ、気にしないでください」と(かぶり)を振って。

 

 

 

「……これから、楽しくなりそうですね」

 

 

 

 何ひとつ悟らせない微笑みを浮かべて言う芽々に。

 幼馴染は「そうだね」と、何も知らず穏やかに頷いた。

 

 

 

 

 

 

 ──月が、綺麗だった。

 

 数日後にはもっと綺麗になることを、寧々坂芽々は知っていた。



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幕間1 校外学習での一幕。

※一章補完の幕間です。飛ばしても本編を読み進めるのに問題はありません。



 これは特に何事もない、学校生活での一幕。

 あるいは、午前三時に魔女が窓から入ってくるようになるまでの、裏事情である。

 

 ◆◇

 

 

 四月某日。

 新年度早々の学校行事(イベント)が起ころうとしていた。

 すなわち、校外学習(えんそく)であった。

 

 

 まだ学校に戻ったばかりでどこか地に足がついていなかった咲耶は、班決めの直前になって慌てた。

 そういや、普通の高校生……というか、普通科の高校生は、勉強だけしてればいいというわけではない。

 浮かれたイベントがたくさんあるのだ。

 

(……え? つらくないかしら?)

 

 今の感性でちゃんとはしゃげるだろうか。

 はしゃいでいいのだろうか。

 というか、班決めってもうつらくない?

 吐きそう……。

 

 と、クソザコな泣き言を内心で垂れつつも。

 咲耶はしれっと難なく所属班を確定させていた。

 あたりさわりなく、同級生の女の子たちの班に紛れ込むことに成功。

 

 全然余裕だった。

 なんだかんだと社交スキルは死んでいなかった。

 愛想でゴリ押せば人生の多少はなんとかなる。

 ……眼帯のせいでマイナス補正かかってるけど。

 

 文月咲耶は基本的に顔面の良さをぶん回す棍棒外交(誤用)だけで生きていた。

 顔が良くて胸が大きい以外の取り柄とか、自分には、ない。

 そう思い込んでいる節があった。

 

 ──根暗、自己評価が壊滅しがちである。

 人間として三十点(ほぼ顔だけ)

 

 

 ちなみに飛鳥は班決めであっさり余りモノと化していた。

 寝ていてまったく話を聞いてなかったので。

 あの男は隙あらば寝る。

 

 ありえない。

 咲耶はめまいがした。

 

 何が悲しくて、自分の恩人の無様を見なくちゃいけない?

 なんかもう、百年の恋も冷める。元々冷めているけど。

 

 もはや「哀れだこと!」とか煽り散らして、この悲しみを紛らわすしかない。

 そうしなければ虚しさを感じている自分が哀れになるので。

 

 

 ──せめて五月であれば二人は同じ班を組んでいたかもしれないが、詮のない話である。

 

 

 この頃、咲耶はまだあまり飛鳥に関わる気がなかった。

 一応、学校ではクラスが同じになるように選択科目を揃えるなどの仕込みはしたが。

 

 確かに、あれやそれやの心配事はある。あの夜のことを忘れたわけではない。

 だがそれを差し引いても、自分と関わらずに彼が生きていけるに越したことはないだろう。

 

(それなりの距離から眺めていられれば、別に、それでいいし……)

 

 二年前と同じ距離感に戻る。

 できるのならそれが一番、正しいに決まっている。

 

 ──この時の咲耶はそう思っていたし、飛鳥も大体同じことを考えていた。

 状況や判断材料によって、ひとの考えはころころと変わるものである。

 なにせまだ、友達ですらない時分のことだから。

 

 ……とはいえ、顔を突き合わせればいがみ合うのだが。

 学校で口論などして余計な噂を増やすわけにはいかないので、この時期の会話はほぼゼロだ。

 

 その辺を飛鳥もわかっているので態度は他人行儀だったし、咲耶もこの辺はきちんと魔女ロールも封印していたので窓から入ってくるはずもなかった。

 というか、まだ実家通学なので、隣に住んでさえいない。

 

 友達どころかもはや宿敵(ライバル)ですらなく、実質他人。

 

 話が何も始まっていなかった。

 

 そこには無だけがある。

 

 

 

 ──そして虚しい四月の校外学習が、幕を開けた。

 

 

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 

 校外学習は「神社仏閣を延々と回ってレポートを提出する」という名目の観光だった。

 

 

 そして咲耶はひとつめの神社の前で、ものすごい魔女的葛藤をしていた。

 

 咲耶にとって「魔女」の定義は概ね、ファッキンゴッドする存在である。

 というのも、異世界に吹っ飛ばされた時に「神も仏もいないじゃない!! あ、異世界だから管轄外か!? どっちにしろクソッタレだわ!!」とギャン泣きしたからである。

 

 そして、魔女堕ちした結果、「神に祈らない」という制約に縛られるようになってしまったのだ。

 吐いた唾は飲み込めないし、あの異世界では言葉即呪いだ。

 

 なので、未だ現役魔女の咲耶にとっては、神社仏閣ついでに教会は鬼門だった。

 吸血鬼が十字架を後ろめたく思うのと同じようなものである。

 

 そのため、キャッキャする班員を差し置いて、賽銭箱の前で葛藤していたのだが。

 

 ……ふと、思い出した。

 確か、ここの神様は元々人間で、ついでに祀られる前は怨霊だったはず。

 

 

 ──つまり、魔女的には、先輩みたいなモノなのでは?

 

 ──祟りのプロフェッショナルとして、純粋に敬意を表していいのでは?

 

 いい、ということにした。

 西洋には魔女の女神とかいるし、ワラワラいる系の神様については、深く考えないことにした。

 

 ……でも、流石に寺はヤバい気がする。

 仏は明確に罵倒した覚えがあった。

 

 神社はセーフとさっき考えたが。

 神仏習合とかなんとか、倫理で習ったし……神社と寺が一体化していたりするし……もう、何がなんだかさっぱりわからない。

 わからないので、諦めた。

 

 祈らなきゃセーフだ。

 

 チャリンチャリン。

 お賽銭は、イコール「魔女が敷居を跨いですみません」のみかじめ料である。

 

 もういい。もう知らない。

 クリスマスもバレンタインも普通に楽しんでやる。

 あんなのはどうせ現代日本じゃ、ただの恋愛イベントだ。

 

(…………いや、相手なんていないけど)

 

 いない。いません。いないってば。

 チラついた誰かの名前を全力で追い払う。

 

 恋愛なんて浮かれたことを、するつもりはない。

 

(そうよ……恋なんて、くだらない)

 

 この先永遠、恋人なんていらないのだ。

 

 

 

「文月さーん、次行くよー」

 

 班長の、ポニーテールの同級生の呼ぶ声に返事をして、神社を出る。

 

 

 

 別に、さっきのとは関係がないけれど。

「あいつ、今どうしてるかな」と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──今どうしているか、の答えは、割合すぐに手に入った。

 

 次に訪れた寺院にて。

 咲耶は、見知った顔を発見した。

 

 植え込みの石垣に座り込んでいる飛鳥は、ぼけーと虚空を見ていた。

 頭痛がした。

 

「……あんた、何してんの?」

 

 「なんだ咲耶か」とワンテンポ遅れて反応をして。

 

「何って、寺を見てた。見ればわかるだろ?」

「見た通りしかわからないのよ」

 

 ……いや、暇な爺さんか?

 

 飛鳥は、特にこちらを見ていないような目で言う。

 

「寺ってなんか、よくないか?」

「どういう意味で?」

「でけーし古い。ので、すごい」

 

 馬鹿の語彙。

 

「あ、そうだ」

 

 抑揚がない声で何かを思いついたように、飛鳥は寺を見る。

 

 

 

「出家するか」

 

 

 

 まさに名案、という調子。

 

 

「待って、ねえ待って」

 

 立ち上がった飛鳥を全力で引き止める。

 

 いや、なんで今立ち上がった?

 もしかして今、出家?

 即断即決?

 決意がインスタント?

 

「なんでよ!」

 

 飛鳥は真面目な顔をしたまま、答える。

 

「寺、でかいじゃん」

「うん」

「窓からの風通し良さそうだし」

「うん?」

「寺に住みたい」

「……は?」

 

「それだけ?」

「それだけだけど?」

 

 

 ぽくぽくぽく、と脳内で木魚が鳴る。

 咲耶は、おそるおそる口を開いた。

 

 

「…………それは、煩悩じゃない?」

 

 

 その理由は、多分、俗だ。

 ハッと目を見開く飛鳥。

 

「ほんとだ。出家やめよ」

「なんなのよ!!」

 

 いや、勇者が僧侶にジョブチェンジしようとするな。

 

 増していく頭痛を追い払う。

 

「というか……なんで一人でこんなところにいるのよ」

 

 よく見れば、周りに飛鳥の班員はいない。

 

「逸れた」

「嘘でしょ」

 

 園児か?

 

「……スマホは?」

「まだ契約してない」

「嘘でしょ」

「大丈夫だ。事前に逸れたらほっといてくれって言ってある」

「…………だめだわ」

 

 さいわい、笹木慎が飛鳥と同じ班だったので、咲耶から回収の連絡を入れた。

 なんと、彼の班はそもそも飛鳥がいなくなったことにも気付いていなかったらしい。

 

 気付けばそこにいるタイプの生徒だった陽南は、気付けばそこからいなくなっているタイプの飛鳥にジョブチェンジしていた。

 

 咲耶の目は完全に死んでいた。

 ……これは、懇切丁寧に説教をするべきではないだろうか?

 

「あ、スズメ」

「園児か?」

 

 説教タイミング、失くした。

 

 だが、気を取られるのも理解はできる。

 すぐ足元。スズメは警戒心がなく、その気になれば手が届きそうなほど近くにいる。

 

 なるほど、これは確かに、

 

「かわいいわね」

「美味そうだよな」

 

 

「…………今なんて?」

 

 

 美味そう???

 

 

「え?」

 

 飛鳥は「なんか変なこと言ったか?」みたいな顔をしていた。

 

 ……ひどい頭痛がした。

 なんかもう、何も言えなかった。

 いい年して迷子になるな、とかそういう次元ではなかった。

 

 咲耶は深く、溜息を吐く。

 

「いえ、いいわ……。わたし、そろそろ戻るから……じゃあね……」

 

 通夜よりも沈痛な表情で、寺に背を向ける。

 

 

 ……やはり、ダメだ。

 どう考えてもダメだった。

 

 

 ────アレは、重症だ。

 

 

(アイツ、かんっぜんに頭が戻ってきてない!!)

 

 

 懸念が、何も解決していなかったことを思い知る。

 

 ひっそり見守っているだけで済むならそれでいいと思っていた。

 だが、そうすると……アイツはうっかり出家しかねないということが判明した。

 意味がわからない。

 

(早く、なんとかしないと……)

 

 自分以外にアレをなんとかできるのは、いないだろう。

 いるわけがない。無理だ。

 正直、自分の手にも負えるだろうか?

 

 

 咲耶は必死で考えた。

 こうなってはもうなりふり構ってはいられない。

 

 ……思えば、飛鳥はかろうじて「魔女」に対する時だけ心なしかシャキッとしている気がする。

 それを、逆手に取るしかない。

 

 

 ──つまり、魔女ロールの解禁である。

 

 

 アイツの異世界ボケにあえて合わせて喧嘩を売る。

 そして、じわじわと現世(こちら)に引き戻していく作戦だ。

 

 役柄が「魔女」ならば飛鳥と関わる正当な立場と口実が手に入るし。

 勝負の内容を「交友」や「成績」などのリアリティある物事にすれば、飛鳥はシャキッとしたまま現世(こちら)に適応してくるはずだ。

 

 ……多分。

 そうかな。

 本当に?

 本当にこれでうまくいくと思う?

 でも他になくない?

 

 多少の穴に目をつぶれば、完璧な理論である。

 穴がある時点で「完璧」ではない、などという正論は無視だ。

 

 なぜなら、正論を蹴っ飛ばすのが「魔女」の定義だからだ。

 

 

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 

 

 そうして、校外学習以降。

 

 咲耶は友達を作れと勝負を仕掛けたり、わざわざ隣に引っ越してきたり、窓から夜な夜な入ってきたりと、ノルマをこなすように喧嘩を押し売りする日々が始まるのだが。

 

 ──誤算は、咲耶の生来の恋愛脳(スイーツ)だった。

 

 とっくに終わったとはいえ、昔好きだった相手と毎日のように顔を合わせていると、どうなるか。

 

 単純接触効果、というやつである。

 好意の名残が振り返し──咲耶は、色ボケた。

 

 色ボケると何が起こるのか。

 「行動の成功率」と「発言の知能指数」が異様に低下する、というデバフが常時かかる。

 

 そうして、咲耶の完璧な作戦(初めから完璧ではない)は、早々にぐだぐだになったのである。

 

 

 

 しかし、あまりに哀れな生き物の様相に「なんだこいつ……」した飛鳥が、バランスを取るようにシャキッとし始めたので、当初の目的は果たされたという。

 

 結果オーライ。

 人間は、自分よりアレな人間を見ると、ボケている場合ではなくなるらしい。

 

 咲耶の七転八倒の無様は、なんだかんだと功を奏したのである。

 

 めちゃくちゃがんばった。



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幕間2 昼休みの屋上での一幕。

 関係の名前が友人になってから、初めての昼休みのことだ。

 

 昼食と何気ない雑談はセットである。

 だから、屋上の僅かな日陰で、いそいそと昼食を広げながら、咲耶がこれを言い出したのも特に他意のない話の流れだった。

 

「明日世界が滅ぶとしたら何する?」

 

 即答。

 

「救う」

「は? 死ね」

 

 反射で返した後に咲耶は顔を覆った。

 

 ──友達相手に死ねとか殺すとか、言わない。

 

 そんなことしたら人間性ポイントが下がる。

 友達に死ねとか言っていいのはゲームの時だけだ。

 

(いやでも仕方ないでしょ、救うとか言われたら……)

 

 ──こっちの悪態スイッチが入る!

 

 

 

 咲耶の自己嫌悪と逆ギレの煩悶などいざ知らず。

 弁当箱の風呂敷を解こうとしつつ、飛鳥は続ける。

 

「真面目に答えるなら滅亡の種類に寄るけど……いや、ギリギリ救える急な滅亡のパターン、魔王か隕石の二つしかよく知らねーわ」

 

 氷河期は急に来ないし、世界が急に海に沈むこともないだろう。パンデミックはじわじわ系の滅亡だ。

 氷河期には勝てないし、海にも勝てないし、ゾンビには勝てるが病原菌は滅殺できない。

 

(……俺、意外と弱いな?)

 

 現世、物理でなんとかなることが少なすぎる。

 

 海、せめて海くらいには勝ちたかった。

 海とは即ち生命の象徴なので。

 そして生命はおしなべて偉大である。

 偉大なものに勝てるとうれしい。

 論理的な帰結である。

 

 海を割ったら勝ったことにならないだろうか?と考える。

 だが割ったとして勝利!という感じはするだろうか?

 いや、しない。

 

(……深海に潜れたら勝ちだな)

 

 死ななければ勝ちなので。

 生存不可領域で死なないことは、とてもすごい。

 飛鳥は昔から、宇宙とか南極とか深海とか、遠くてヤバい場所のことが好きだった。

 

 つまり、深海に耐え得る潜水艇を作り出した地球人類全体の大勝利である。

 人間は既に海に勝利していた。よし。

 

 

「滅ぶなら隕石がいいよなー。魔王飽きた」

「……あんた、隕石は最強だって言ってなかった? それ、勝算あるの?」

「負けるだろうなぁ」

 

 なにせ隕石は恐竜を滅ぼした偉大なヤツだ。

 恐竜は竜なので勝てる(聖剣は魔女殺しであると同時に竜殺しなので)が、手並の鮮やかさが自分とは段違いだ。

 隕石は格上の最強。尊敬する。

 

「でも、他にやることないし」

 

 

 ──そう、明日終わりが来るというのなら、全力でそれに抗うだけだ。

 

 たとえ相手が、何であろうとも。

 

 

 飛鳥は弁当の風呂敷の固すぎる結び目と格闘していたので、咲耶が隣で「うっわぁ……」という顔をしていたのに気付かなかった。

 

 

 

「ごめん……わたしの質問が悪かったわ」

 

 もっと雑な談をするつもりだったのに。

 異世界ボケを悪化させてしまった、と咲耶は反省した。

 

 そんなわけなので、話の方向性をちょっと変える。

 

「もし明日死ぬとしたら、何を食べたい?」

 

 元々そういうベクトルの、あたりさわりのない話題を振りたかったのだが。

 

(……あれ? 明日世界が滅ぶより物騒な例え話じゃないかしら)

 

 生々しさが違うというか。

 明日世界が滅ぶ可能性より明日ぽっくり死ぬ可能性の方が普通は高いので。

 

「なんだ、そういう話だったのか」

 

 だが、飛鳥はあっさり納得してくれた。

 リアリティの感覚がバグっている。

 

 

 飛鳥の風呂敷の結び目がようやく解けたのを見て、咲耶はサンドイッチの箱を開ける。

 近所のパン屋で、今朝のバゲットと一緒に買ってきたものだ。

 

 飛鳥は弁当を開く。

 おかずはもやしと卵焼きだ。なんと二種類もある。

 

 最近めきめきと体重が減っている気がするのだが、現世ではお役御免となった筋肉が去って行ってるんだろうな〜とのんびり構えていた。

 危機感がなければ、家に体重計もなかった。

 ──断食失敗で倒れるのはこの二日後のことである。

 

 

 

 そんな未来のことなど知るはずもなく。

 

「そうだな。食べるなら卵焼きかな」

 

 咲耶の質問に答える。

 

「明日が最後になるなら、特別なことは何もしたくない。普通の日にしたい。だから多分いつも通り、朝に卵焼きを作る」

 

 最初にされた質問の再回答を兼ねて、そう答えた。

 

「最後の食事に朝ご飯の内容を答えるんだ……」

「大事だろ、朝飯。一日の初めなんだから。もしも卵が綺麗に焼けたら、その日はきっといい日になる」

 

 人生最後の日だろうとなんだろうと、日常の価値は変わらない。

 

 咲耶は、眉をひそめて。

 

「あんたって時々……ナイーブよね?」

「そんなことないだろ」

「じゃあ、朝に卵焼き焦がしたら?」

「もう何やっても駄目な日だな」

「繊細じゃない」

「でも五分くらい寝たら忘れるし。次の寝起きが良ければ勝ちだ」

「やっぱり図太いかも……」

 

 切り替えは大事だ。

 くよくよしてると死ぬので。

 

「ま、得意なことをジンクスにしてるからな。大体毎日縁起がいいよ」

「おめでたい脳味噌ね?」

「生きるのが上手いって言え」

 

 細かいことに気付いてしまう性分と、細かいことは考えない性癖(正用)は両立する。

 

 

 

「ていうか卵焼き、得意なんだ」

「ああ。今日は特に綺麗に焼けたんだ。全部弁当に入れたから、朝飯には出せなかったけど」

 

 じっと弁当の中を覗き込む咲耶。

 

「食うか?」

「いいの?」

「まだ箸使ってないし」

 

 咲耶はサンドイッチなので自分の箸がない。

 なので、飛鳥は卵焼きを摘んで、咲耶の方へと差し向け──、

 

 

「えっ、ちょっと……!?」

 

 

 ──弁当の蓋に卵焼きを乗せて、箸ごと渡した。

 

「あ、そういう……」

「? どうかしたか」

「いえっ、なんでもないわ」

 

(あーんされるのかと思った……びっくりした……)

 

 そんなわけなかった。

 咲耶の脳味噌の設定がデフォルトでお花畑なだけだった。

 

 

「じゃあちっちゃいサンドイッチ一個と交換ね」

「ありがたく頂くよ」

 

「なに笑ってるの?」

「いや、なんか……友達っぽいやりとりだなと思ってさ」

 

 随分と嬉しそうにそんなことを言うから。

 咲耶は動揺を隠して顔を背ける。

 

「…………急にそういうこと、言わないで」

「なんでだよ」

 

 そんな笑い方されると負けた気がする、なんて言えるはずもなかった。

 

 

 

 

 

 穏やかな時間だ。

 喧嘩せずに過ごせる一日とは、こんなにも良いものだったのか、と飛鳥はじわじわと感動に浸っていた。

 こういうのでいい。

 こういう、健全な友人関係を続けていけるのが一番いいと思う。

 

 咲耶は箸に口をつけないように、慎重に卵焼きをかじっていた。

 その様子を飛鳥は横目に眺める。

 

 こうして見ると、口が小さいというか。

 随分ちみちみとした食べ方をする。

 

 小動物か?

 と一瞬思ったが。

 小さい、という形容詞は咲耶にはあまり似合わなかった。

 背も高いし。どことは言わないが、小さくもない。

 

 喩えるならば、でかい猫だと思う。

 猫ならば窓から入ってくるのも仕方がない。

 

 品種で言えば、すらりとした短い赤毛のアビシニアンとか。

 ツンとすました顔をしているくせに人懐っこくて、ちょっと雰囲気にヤマネコの面影が強いやつだ。

 

 つまり何かというと。

 彼女はあまりお嬢様っぽくもなければ、魔女っぽくもないのだ。

 

 咲耶は咲耶でいいと思う。

 

 

 

 

 

「味、どうだ」

 

 エセではあるがお嬢様なりに育ちがいいので、食べながら喋らないらしい。

 咲耶はこくこくと頷いてみせる。

 

 それを聞いて、内心ほっとする。

 料理はできる、といっても実は飛鳥は結構雑な人間だった。

 あくまで家庭料理、というか、安くて早くて美味くて死なない飯さえ作れればいいと思っている。

 

 人目がなければうどんは鍋から食うし、卵の殻が入っていても自分用ならば平気で食べる。

 片手で卵を割れるとかっこいいので、思い立っては挑戦して、その度にしくじっているため、殻の混入率は割と高かった。

 

 今朝は綺麗に割れたし、綺麗に焼けて本当によかった。

 紛うことなき「いい日」である。

 

 

 などと思いながら、咲耶から貰ったサンドイッチを食べていたら。

 

「あっ」

 

「……あ」

 

 咲耶が最後のひと口をぱくついた弾みで、うっかり箸を咥えてしまっていた。

 唇に触れた黒い箸の先は、唾液に濡れている。

 

「口つけてしまったかー」

「ご、ごめんなさい……!」

 

 咲耶はめちゃくちゃ慌てていた。

 

「俺は別に気にしないけど、そんな反応されると、なんか」

 

 なんだろう、気まずい。

 

「いや、ちがっ、その……」

 

 赤らんだ顔で咲耶は叫ぶ。

 

「わ、わたしだって。間接キスとかそんな中学生じゃあるまいし気にするわけないでしょ!?」

 

 でかい声で間接キスとか言わないでほしい、と飛鳥は思った。

 

「そうじゃなくて……! 衛生の話を、しているのよ」

 

 衛生?

 風邪気味とかだろうか。

 

 

「……その、わたし、魔女なわけじゃない?」

 

 風邪とかの話ではなさそうだ。

 

「魔女の体液って魔法に使うものだったじゃない? だから多分、呪い的に、ばっちいわ……」

「あー、まあ。現世だし、気にしなくても大丈夫じゃないか?」

 

 と、飛鳥は軽く受け取ったが。

 

 ──咲耶は自分の肉体が魔女のままであることを、まだ隠している。

 これはかなり真面目な話だ。

 

 たとえばもし、食べ物に自分の血が混入したとする。

 それを食べさせることは、毒を盛ることと同義だ。

 自分の血を摂取させれば、体内から呪いをかけることが容易くできるのだから。

 

 唾液だから血液ほど気にする影響がないのはわかっているが、それでも嫌だった。

 

 

 ──もし、もしもだ。

 

 彼にもう一度敵対することが、あるとすれば。

 この手だけは使わないでおこうと咲耶は思う。

 (どく)を盛れば、どれほど楽に勝てるとしても、だ。

 

 

 彼は、こんな面倒くさい魔女を友達にしてくれたのだから。

 せめてその時が来たら。

 どれほど相性が悪いとしても、真正面からぶつかろうと思う。

 

 正々堂々と。

 向き合って。 

 

 恩を仇で返すのだから、咲耶はせめて勝ち方くらいは選びたかった。

 

 

 

「……とにかく、『禊ぎ』をしなければということよ」

 

 禊ぎ、つまり洗い清めるということだ。

 

 どうしようかとうろたえて、はっと気が付く。

 そういや、パンを買った時のおしぼりがもう一つ余っていた。

 

 新しいおしぼりでキュッと箸を拭き、飛鳥に返す。

 

「失礼しました」

「いやいや丁寧にどうも」

 

 そうして、間接キスと衛生的・呪術的不健全を見事同時に回避したのだった──。

 

(完璧な解決だわ)

 

 満足げにランチを再開した咲耶は、隣で飛鳥が微妙な顔で箸を見つめていたことに気付かない。

 

 

 

(大袈裟に騒いだせいで、むしろ逆に意識してしまうとか……言えるわけないな)

 

 何も完璧じゃなかった。

 

 

 

 

 ──そんなこんなで、放課後にちゃんと友達の定義を詰めよう、と飛鳥は思ったのだった。

 

 

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 

 

 昼休みももうすぐ終わり。

 

「あ、文月さん」

 

 教室に戻る途中の廊下で、二人は同級生とすれ違う。

 

 明るい髪をポニーテールにまとめた、快活そうな女子生徒。

 演劇部の麻野(あさの)紗良《さら》だ。

 

 咲耶を校外学習の班に入れてくれた子であり、先日は昼食を共にした相手だった。

 つまり、咲耶にとって友達一歩手前の親しいクラスメイトだった。

 

 

 ……一緒にいるところを見られた。 

 

 同級生とのエンカウントに、飛鳥は咲耶に目配せだけをして、ひとり先に教室に戻っていく。

 

「(じゃあな)」

「(ええ、また後で)」

 

 そんな感じだ。

 無言なのは、さっきまでずっと一緒にいたことを同級生に悟らさないためだった。

 

(あれ? でも、友達になったのだから、見られても問題はないんじゃないかしら)

 

 よく考えて見ればやましいことなど何もなかった、と麻野に向き直る。

 

 だが、麻野はにやりと目を細めて言った。

 

「ははーん。文月さんが今日のお昼の誘いを断ったのは、そういうこと(・・・・・・)だったんだね?」

 

「……え?」

 

 ──目配せだけで意思疎通したのを見せてしまったのが、逆にアレだった。

 

 

 状況証拠というやつである。

 

 そもそも昼休みになるたびに教室から二人が消えていることをクラスメイトは大抵知っていた。

 勿論、四月に目撃した笹木はきちんと黙っていたが。

 

 教室にいつもいない二人が共にいる可能性について、思い当たるのは難しくない。

 

 そしてこの日、先程の一件を目撃した麻野紗良は思った。

 

 ──視線だけで以心伝心とかそれ、もう結婚してるじゃん、と。

 

 

「そういうことって、あの」

「あ、早とちり? ごめんね。まだ(・・)だった?」

「ち、ちが」

「いいのいいの、みなまで言うない。麻野さんは恋する乙女の味方ですから!」

 

 ──だから、恋とかじゃない!!

 

 だが強く反論すると良くない気がする!!

 

 ぐっと黙り込んだ咲耶に、ぐっと拳を握って麻野は笑顔で言った。

 

 

 

「応援してるからね、文月ちゃん(・・・・・)!」

 

 

 

 ……ちゃん??

 

 呼び方が、急に変わった。

 

 

 ──まさか今、友達認定された? こんなことで??

 

 

 咲耶が愕然としている間に予鈴が鳴る。

 

「やっば。授業始まっちゃう」

 

 麻野はポニーテールを揺らしながら慌てて教室に戻っていく。

 

「ま、待って! 違うの、違うんだってば……!!」

 

 

 

 

 

 なお、同級生の誤解を解くのには随分と時間がかかったというが。

 そもそも「誤解」と言えるのかどうかすら、怪しいところである。



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幕間3 体育祭での一幕。

 これは嘘も秘密も筒抜けになった、その後の話だ。

 

 

 春も終わり、ようよう夏めいていく五月の末日。

 天候は雲ひとつない快晴無風。

 坂の上に立つ高校の広い校庭は、朝から騒がしさに溢れかえっていた。

 

 

 ──体育祭である。

 

 

 ◆◇

 

 

 

 祭りは良いものだ。

 あらゆる祝い事やハレの日を、飛鳥は問答無用で好んでいる。

 

 はしゃぐのが、というよりは浮かれた空気が好きだ。

 飛鳥はちょっと離れたところで祭りの様子をニヤニヤ眺めていることに愉悦を感じる人間なため、友人が少なくなった今も、昔と変わらず祭りが好きだった。

 

 好きなの、だが。

 

 

「…………暑い」

 

 

 校庭の隅で飛鳥は死んだ目をしていた。

 

 

 

 なにせ異世界(むこう)には季節の変化がなく、常に薄ら寒い気候だった。

 身体が完全に夏を忘れており、暑くて死ぬ。

 

 一応、記憶にある限りでは夏は好きだったはずだ。

 だが「五月」というのが、とにかくいただけない。

 

 飛鳥は割と暦を重んじる。

 暦は宇宙なのですごいからだ。

(訳:暦はその製作過程に想いを馳せると、天体とそれに伴う人類の営みを感じられ、非常に趣深い)

 あと日めくりカレンダー破るのが好き。

 

 つまり何かというと、カレンダーが五月のうちは気持ちがまだ春なので、照りつける日差しとか普通に腹が立つ。

 

 飛鳥は空を睨む。

 

 帰れ太陽。

 夏じゃないのに暑くなるな。

 空気読め。

 

 いや、空気を読んだから快晴なのか。

 祭りが晴れであるという状況は、情趣的には正しいのだが。

 それでも今日ばかりはどんよりと重たく曇って欲しかった。

 

 空気より暦を守れ。

 

 などと、空にガンを飛ばしてたら目が痛くなった。

 流石に天気には勝てない。

 現世、勝てないものばかりである。

 

「……笹木、ちょっとサボってくるわ」

「はいはい、いってらっしゃい」

 

 昼休憩の後なので皆集中が切れていて、他の生徒もまばらになっている。

 担当の競技もとうに終わった。

 ので、少しくらいサボっても支障もお咎めもないのだった。

 

(流石に長袖は、暑い……)

 

 気温なんかに敗北し、祭りの空気を間近で吸うのを諦めるなどとは。

 はなはだ遺憾だった。

 

 

 

 

 

 

 給水機を経由してから、校舎の影の自販機の方へ向かう。

 こっちの方の自販機には、生徒はほとんど寄り付かない。

 なにせ品揃えが悪い。

 ……その自販機にわざわざ買いに行く人間もいるのだが。

 

「やっぱりここにいたか」

 

 高い位置で髪をポニーテールにまとめた、咲耶を見つける。

 校内ではここでしか売ってないいつもの缶コーヒーを手に、死ぬほど不機嫌そうな顔をしていた。

 が、飛鳥を見た途端に表情が緩んでいく。

 めちゃくちゃちょろい。

 

「探しに来たの?」

「涼むついでにな」

 

 ちょっと前までなら「いや別に」とか言っていたが、最早隠す必要もないので正直に答える。

 

「ふーん?」

 

 咲耶は嬉しそうだった。

 隙を見せすぎだろ、と飛鳥はしかめ面をする羽目になる。

 

 他に人目がないのでジャージの上を一枚脱ぐ。

 臭いを気にしてあまり咲耶には近付かない。

 

「……あれ、おまえ暑いの駄目だっけ?」

「全然平気。正直、汗もかかないわ」

 

 体質のおかげで、咲耶の方は涼しい顔をしていられた。

 その辺、体質についてはもう大体聞き出している。

 洗いざらい……とはいかないが。

 不必要な隠し事は、お互いの間にはもうなかった。

 

 

 じゃあなんで不機嫌そうな顔してたんだ、という疑問に、咲耶は。

 

「…………紫外線に、負けたの」

 

 眼帯を外す。

 その下にはうっすらと、四角い日焼け跡ができていた。

 

「わはは!!」

 

 流石に頭を(はた)かれた。

 手加減されていたのでまったく痛くない。

 

「あんたほんと性格がカス!」

「だってわざわざ見せるって。それ、『笑え』って意味だろ。笑うのが礼儀だ」

「だとしても笑いすぎ!!」

 

 咲耶は怪我(ダメージ)が自動で治る体質とは言え、出血しない類のダメージは判定がゆるく、日焼けは普通にするのだった。

 ……といっても、一晩で元通りなのだが。

 

 

 

 

 そのまま校庭の様子を眺めながらだらだらと雑談をする。

 

 ──異世界帰りだからといって体育ではちゃめちゃをやる、などということはない。その辺はきっちり弁えている。

 

 せいぜい飛鳥の体育の成績は中の上程度でしかなかった。

 常に人体にブレーキはかけていたし、ちゃんと飯を食ってないのでそもそも体力が余ってないし、ちゃんと寝てないのでやる気もなかった。

 

 咲耶はというと、身体機能は高いはずなのに鈍臭いので、差し引きゼロである。

 

 ──総じて、こういった行事で目立つことはないのだった。

 

 

「にしても。あんた今日、いつもより足遅くなかった?」

「あー……筋肉痛まだ治ってないんだよな」

「まだ!?」

 

 金曜の朝、二人乗りで坂道を爆走するまでは良かったとして(良くない)、その後の週末はタイミングが悪いことに力仕事のバイトが入っていたため悪化の一途を辿り、週明けに体育祭である。

 完全に追い討ちだった。

 死ぬ。

 

 祭りだというのに妙にテンションが低いままなのは、そういうわけだった。

 

「う……ごめ……」

 

 謝罪を遮る。

 

「昨日、肉食ったから平気だ」

 

 とっくに禊は済ませているので、これ以上を受け取る気はない。

 

 

 

 例の夜の一件は、とりあえず奢りで水に流すという話に着地した。

 というか無理矢理、流れで落着させた。

 

 そんなわけで、週末は焼肉だった。

 ……人に飯をたかるのは苦手なのだが。

 

 正直、飛鳥は大分自分が悪かったな、と理解している。

 罪の認識はできているのだ。

 あまり反省も後悔もしていないだけで。

 だから、一方的に謝罪を受け取るような道理はない。

 

 だが「おまえの吹っかけた喧嘩なんざこの程度の価値しかねぇよ」の意を示さないと延々と咲耶は自分の失敗を引き摺る、ということが予想できた。

 

「俺も悪かったし気にするな」と言うよりも、「おまえが悪いから誠意示せよ」と言って、飯を奢れと揺すった方がすっきり仲直りできる。

 咲耶はそういう性格だった。

 本当にどうかしている。

 

(……めんどくせぇ女)

 

 ──その面倒くささと対処法を大体理解しているあたり、飛鳥も大概な野郎だった。

 

 

 

 ともかく、七輪で焼いた肉は美味かったので満足である。

 禍根は完全にもうない。

 

 途中、油を滴らせすぎて網から火柱が上がったり、咲耶が髪を焦がしそうになったり、肉が消し炭になったりなどのアクシデントはあったのだが。

 肉より氷を焼いていた記憶の方が残っているのだが、そこはそれ。

 

 

(つか七輪、家にも欲しいよな)

 

 延々とおにぎりを焼きたい。

 今にも消えそうな炭火を眺めて一日を終えたい。

 侘び寂びである。

 

 ……というか、本気で検討していいのでは?

 自分ひとりが風情を楽しむために金を使う気はさらさらないが。

 

(多分、呼べば咲耶は来るし)

 

 呼ばなくても来る気がするし。

 もう卓袱台の対面に咲耶がいる絵面しか思い浮かばなかった。

 

 窓から醤油の焼ける匂いを垂れ流せば、庶民舌の咲耶は簡単に釣れるだろう。

 さらに鰹節を乗せればイチコロだ。

 

 飛鳥は隣の女のことを、割と本気で猫か何かだと思っている節があった。

 

 

「なあ咲耶、炭って好きか?」

「炭……? 敵を消し炭にするのは好きよ。灰にするのも好き」

「そっかー」

 

 俺はあんまり戦闘とか好きじゃないよ、と思った。

 

 どうせ斬るなら豚バラブロックとかがいい。

 聖剣よりもちょっと良い包丁の方が欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 だらだらと休憩をしているうちに、咲耶のコーヒーもなくなったが。

 もう一競技だけ日陰で眺めてから戻ろう、という話になった。

 

「次の競技ってなんだっけ」

「例年通りなら……そろそろ三年の騎馬戦じゃなかった? ほら」

 

 丁度、騎馬戦の前の号令のため、校庭のお立ち台に三年代表──金髪七三の生徒会長が立ったところだった。

 

 ──生徒会長は、体操服の上に法被(はっぴ)を着ていた。青くて背中に祭と書いたアレである。

 

「……なんで?」

 

 生徒会長はメガホンを構え、口上を述べる。

 

 

『諸君。今日この日は待ちに待った体育祭、即ち祭りである。

 そして祭りと言えば──〝神輿〟である!!』

 

 

「あいつ呪術キメてる?」

「え、わかんない」

 

 

『例年ならばここで騎馬戦を行い、大いに祭りを盛り上げるところだが──果たして諸君は! それで、本当にいいのか!? いいや、よくない!!』

 

 

「いや、いいよ」

「いいでしょ」

 

 

『真剣に祭に向き合い、我々三年は考えた──そう、この祭に足りないものは〝神輿〟であると。

 

 つまり。

 

 騎馬戦なぞ古い!! 時代は!! 神輿戦(・・・)だ!!!』

 

 

 パンパンと撃ち鳴らされるピストル。

 ドコドコと打ち鳴らされる太鼓の音。

 そして入場する片や金ピカ、片や真っ赤の、御輿。

 

 どでかいダンボール製である。

 そのてっぺんのシャチホコには鉢巻が巻かれており、それを防衛するように騎馬が取り囲んでいた。

 

 

「いや、結局騎馬戦じゃん」

 

 

 飛鳥の脳内で昔の自分が『あれはない』と首を振っていた。

『俺もそう思う』と昔の自分に返す。

 

 いくら祭り好きと言っても限度というものが、ある。

 体育祭にふさわしい情趣と神輿にふさわしい祭はまったく別物だ。

 無節操に祭ればいいというわけではない。

 流石に引く。

 

 だが、何故か校庭は沸いていた。

 ワーワーと歓声が上がり、神輿と神輿が睨み合っているし、吹奏楽部が無駄に壮大なBGMを演奏するものだから、もうめちゃくちゃだった。

 雰囲気十割で盛り上がっている。

 あまりにも無節操。

 

 

 

 校舎の影で二人はひっそり戦慄する。

 

「もしかしてこの学校……変、なのか?」

「そんな気がするわ」

 

 ここはちょっと自由な校風なだけのごく普通の公立校、の、はず、なのだが。

 三年前の記憶と、ここ二ヶ月の記憶を漁る。

 

「……そういやさ、俺、包帯のこと突っ込まれたことないんだよね」

「そういえば、わたしもない」

 

 腫れ物扱いか、友達がいなさすぎるだけかと思っていたが。

 よく思い出してみれば、笹木ですらひと言も触れなかった。

 

「よく思い返せば校内に、包帯ぐるぐる巻きのミイラみたいな生徒、いたね」

「えっ意味わかんない。何部?」

「演劇部」

「あぁ、演劇部ならしょうがないわ。演劇部は役作りのために外見の全てを許されているもの」

「あれなぁ。流石に特殊メイクで授業受けるのは怖いからやめてほしいよ」

 

 

 ──あれ?

 

 

「…………おかしいわね?」

「…………おかしいな?」

 

 

 ──何故今まで気付かなかった?

 

 人生が、それどころではなかったからである。

 

「……ちょっと現実逃避で今から寝るわ」

「外で寝ると熱中症になるわよ」

 

 寝て切り替えることも許されなかった。

 痛む頭を押さえる。

 

 

 もしかして、異世界帰りとか──あまり、大した問題ではない?

 

 

「なあ、咲耶。……俺は常識あるよな?」

「多分、わたしの次くらいには……」

 

 

 

 

 なお、ダンボール神輿による騎馬戦は大いに盛り上がり、最終的に神輿は盛大に木っ端微塵になったという。

 

 当然、生徒会の完璧な指揮と采配により、怪我人等はゼロだった。

 祭りは安全に事を成してこそ、というのが生徒会の理念である。

 

 

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 

 茫然と騎馬戦(だったもの)を眺めた後。

 咲耶と真剣に常識の定義を議論しながら、クラスの陣地に戻った頃には次の競技が始まっていた。

 

「あ、陽南君。丁度良かった!」

 

 ポニーテールの女子生徒が駆け寄ってくる。

 演劇部の麻野だ。

 なお、飛鳥は同級生の名前をほとんど覚えていないので、「誰だっけこいつ」と思っている。

 

「いま私、着ぐるみ仮装借り物競走やってるんだけどさ」

「なんて?」

 

「だから、着ぐるみ仮装借り物競走。協賛は演劇部だよ」

 

 ……魔改造の犠牲になった競技は騎馬戦の他にもあったらしい。

 

 鉢巻きを巻いた麻野は、借り物のメモを見せる。

 

「『三月生まれの人』探してたんだ。笹木に、陽南君がそうだって聞いたけど」

「なるほど。そういうことなら」

 

 と、ついて行こうとしたのだが。

 

 ──いつのまにか、ぱしりと掴まれている左腕。

 

 振り返る。

 クラスメイトについて行こうとする飛鳥を、咲耶が引き止めていた。

 

「……ハッ!? わたしは何を?」

 

「アッ……ごめんね文月ちゃん!!」

 

 麻野は全てを察してとても申し訳なさそうにしていたが、肝心の咲耶が自分の行動を理解していなかった。

 

 飛鳥はちょっと哀れみの目で咲耶を見た。

 人様の気遣いを無駄にしてはならないと思う。

 名前もおぼろげな同級生に気を遣わせるとか、あまりに情けない。

 

「てか咲耶、おまえも三月生まれじゃん」

「えっ、あっ、ほんとだ!」

 

「……えーと、麻野だっけか。こいつ連れてっていいよ」

 

 引き止められるならば、代わりに咲耶を引き渡すしかない。

 

「ありがと!」

 

 麻野はすかさず、咲耶と腕を組んだ。

 

「それじゃ、カノジョ(・・・・)。お借りしますね、陽南君!」

 

 ばちこっとウインクをして、咲耶を連れて去っていく。

 演劇部は全員、ウインクが上手いのである。

 

 

 

 

「……お借り?」

 

 というか今、彼女(・・)のイントネーションがおかしくなかったか?

 

(あっ、俺から咲耶を借りるって意味か)

 

 と、ようやく思い至って。

 

 

 

(……いや、そもそも俺のではないな)

 

 ない。

 

 

 

 

 …………まだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、待って麻野さん、えっわたし今から着ぐるみ着せられるの!?」

 

 引き摺られていく途中でようやく我に返る咲耶。

 

「大丈夫、頭だけだから、そんなに暑くないよ!」

「余計にイヤよ滑稽じゃない!!」

 

「あ、飛鳥、飛鳥ーーっ!! たすけて!!!」

「はは。がんばれー」

「手、振ってないで!!」

「安心しろ。写真もバッチリ撮ってやるから」

 

「……まさか、わたしを生贄にした!?」

「バレたか」

 

 

 

「このっ性格最悪クソ野郎ーー!!!」

 

 

 

 咲耶はそのままドナドナされていった。

 

 

 

 なお、「あの罵倒は確かにまだ付き合ってないな?」と、クラスメイトの誤解は無事に解けたという。

 

 めでたし。



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イラスト/第一章登場人物紹介

依頼したイラストや頂いたファンアートのまとめ。
https://twitter.com/i/moments/1358616339213025281

描いたもののまとめ。
https://www.pixiv.net/artworks/87912789


次話から二章、友達以上恋人未満と言い張るのにも無理がある編です。



【第一章登場人物紹介(以下ネタバレ)】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陽南飛鳥(ひなみあすか)

[外見:黒髪、藍色目、175cm、右腕包帯、(2年前162cm、黒目、眼鏡)]

 

主人公。

紹介する自己がない。

息をするのが得意。

一人で自己完結して大事なことは全然言わない。そのくせ思い付いたことはぽろっと喋る。

聖剣が使用者に合わせて形を変えるならなんで刀型じゃないのか、まだ納得してない。これからも納得しない。

 

 

文月咲耶(ふみづきさくや)

[外見:濃い亜麻色髪(地毛)ロングストレート、左のみ赤目(本来は茶色目)、165cm、G]

 

主人公(ヒロイン)

ツンデレのヤンデレ気味のエセお嬢様のアホの魔女のロールプレイ人間の根暗。胸がでかい。

めちゃくちゃ考えて生きてるけど、正直全部パワーで解決したいと思っている。思慮が深いのに短絡的。

分厚くてでかい本を読んでると文学少女っぽいと思っていた。そして新文芸にハマる。「あまり文学少女っぽくないな?」と気付いた時には遅かった。

焼肉はホルモンが好き。あの後の週末、飛鳥を焼肉屋に連れ込んで目の前でモツ沢山食べた。「おまえのそういうところが嫌いだよ」って青い顔で言われた。何故。奢りなのに。

 

 

寧々坂芽々(ねねざかめめ)

[外見:オレンジ髪(地毛)の三つ編みお団子(シニヨン)、緑目(目の中に星)、眼鏡、萌え袖、ニーハイソックス、149cm、B]

 

サブヒロイン(友人枠)、隣のクラス。

一人称も口調も全部わざと。クセ強い割に意外と普通に友達がいる。なぜならクセ強いヤツが多い学校だから。

昔の飛鳥のことは「うわっいい人面するのが上手い先輩だ。苦手〜」と思っていた。今はウケるので好き。

 

 

笹木慎(ささきまこと)

[外見:緑寄りの短い茶髪(染め)、ピアス、169cm]

 

脇役(友人枠)、同級生、バイト先の同僚。

普通で平凡。美術の成績だけちょっとおかしい。

 

 

●喫茶木蓮のマスター

寧々坂芽々の父方の祖父で、笹木慎の親戚。

カレーを極めにインドに旅立ったことがある。だが彼の地にて、自分が好きなカレーは欧風だと気付いただけだった。うっかり。

 

 

●飛鳥の祖母

ファンキー。好きなものは激辛カレーとデカいバイクだった。

ファンキーすぎて崖から海にダイブして死んだ。

 

 

●飛鳥の伯父

独身。甥(飛鳥)と仲は良い。本編には出ない。

うっかり会社爆破して死にかけた。

 

 

麻野紗良(あさのさら)

 

[外見:明るい色のポニーテール]

幕間用モブ女子生徒。

演劇部の学級委員長。

いい子。

 



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第二章 アンコール、世界で一番悪い魔女。
第一話 友達以上恋人未満という関係。


 

 これは、むかしむかしの話だ。

 

 わたしはいつも本を読んでいた。

 図書室の片隅、人目を忍んだ本棚の影で。

 畳の上にカップ麺の抜け殻が転がる、狭いアパートの窓際で。

 いつもひとり、俯いて。

 

 少女(わたし)が愛したのはおとぎ話。空想的で非現実的な、夢物語だ。

 まだ「文月」でなかった頃のわたしは本だけが、唯一の友達だったから。

 

 夜毎、夢に見ていたのだ。

 いつか窓から素敵な「魔法使い」がやってきて、わたしに魔法をかけて。

ここではないどこかへ連れ出してくれる日が、来ることを。

 

 

 ──それなのにまさか、自分が「魔女」になってしまうなんて。

 あの頃は思ってもみなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「俺たちの関係の、『再定義』をするべきだと思う」

 

 掃除当番の後、俺と咲耶の二人だけが残る放課後の教室で、俺は教壇の上に立ち咲耶に言う。咲耶は箒を手にしたまま、首を傾げる。

 

「既視感のあるシチュエーションね?」

 

 五月、かつて『友達の定義』を詰めた時のことを思い出しているのだろう。俺は「わかっている」と強く頷く。

 

「大丈夫だ。同じ轍は踏まない。教室のドアには鍵を掛けた。目撃されることは、ない!」

 

 

 ──あの夜の大喧嘩から、十日ほどが経った。

 

 今の咲耶は、箒を持っていても魔女らしさを感じられない。それは、学校の箒の見た目が「らしくない」からだけではないだろう。

 あれ以来、咲耶は格段に、魔女らしい──いわば非常識的で喧嘩腰の振る舞いをすることが減った。友達になった時点でそうだった、といえばそうなのだが。

 なんと最近の咲耶は、俺の家に時々ちゃんとドアから訪ねてくるのだ。友達の肩書きを得ても頑なに窓から入り続けていた咲耶が、だ。

 

『あなたの主張もたまには聞いてみようと思って』

『これはこれでお客様って感じがして、悪くないわね』

『それにもう……窓から入る必要は、ないし』

 

 なんて言ったりする態度の柔らかさである。人は話せば分かり合えるという希望の光。呼び鈴を鳴らして玄関から咲耶が入ってくる光景を見て、ちょっと感動した。

 ……いや相変わらず、文月咲耶はちょっと非道徳的なのだが。

 

 呼び鈴は鳴らすとはいえ、鍵は魔法で勝手に開けて入ってくるし。喧嘩で自分の内臓を吹っ飛ばした後、かつて(はらわた)を見せた相手を焼肉屋に連れ込んで、目の前でしこたまホルモン食ったりするし。

 同物同治かよ。モツ無くした分はモツ食って治しますってか。引くわ。

 

 不死身の彼女は時々その辺、神経がどうかしている。こっちは膝を擦りむこうが腕が捥げようがいちいち再生したりしない常人なので、そういうグロいのは勘弁して欲しかった。

 

 ──ともあれ。

 多少のすれ違いはあったが仲の修復もすんなりと済み、暦は六月。梅雨入り前だ。

 どんどん夏らしくなる気候に合わせて咲耶の制服も夏服に変わっている。

 白いブラウスの素材が変わって、肩の華奢さを強調していたり。

 今までは一番上まで留めていたボタンがひとつ分開いて、ちらりと鎖骨が見えていたり。

 起伏ある胸元の上、乗るリボンの色合いが心なし鮮やかになっていたり。

 スカート丈と靴下が短くなって、すらりと長い脚が一層際立っていたり。

 薄着ゆえ、防御が甘そうになったのが気にかかる、もとい、目に毒だが。

 端的に言って、よく似合っていた。

 何より咲耶は静かに黙っていたので、普段より清楚さに一層の磨きがかかっており……というか。

 

「おまえ、なんで黙ってんの?」

 

 黙ってじっと見られると、なんだその。気まずい。

 

「別に? あなたってやっぱり、ばかなんだなー、と思って」

「心外な」

 

 咲耶は箒の柄の上に手を組んで、だるそうに顎を乗せる。清楚は死んだ。

 

 完璧な優等生の振りも刺々しい魔女の演技もしなくなった彼女は、いつも通りの低いテンションのまま、こちらを上目でじとりと見る。

 

「関係の定義は確かに、わたしたちには大事だけど。そんなことよりも、もっと話すべきことがあるでしょ? 今後(・・)についてとか」

 

 今後の課題──かつて俺たちが経験した異世界召喚の名残について、だ。それは異世界ボケとでも呼ぶべき生活のズレや倫理観のズレであり、脳味噌や肉体についての問題でもあったりする。

 

 俺の方の問題は、どうせ時間が解決するから放置でいいとして。

 咲耶の方はそうも言っていられない。

 魔女としての体質──不老不死。

 現世で普通に生きていくためには、それをどうにかしないといけなかった。

 

「あれだけ啖呵を切っておいて。まさか、何も考えてないわけじゃないでしょう?」

 

 口調こそ煽りのようだが、咲耶の表情は柔らかく信頼が滲んでいる。

 随分と買いかぶってくれるものだ、と笑いたくなる。

 俺は咲耶から目を逸らさず、しかし頷きもせずに言った。

 

「まあ、なんとかなるんじゃね?」

 

 咲耶は、手の上に顎を乗せるのをやめて、眼帯に覆われてない片目を見開いた。

 

「え、本当に何も考えてない……?」

 

「ない!!!」

 

 開き直って断言。

 

「嘘でしょ!? 楽観も過ぎれば破滅嗜好よ!?」

「……俺が隕石を好きなのはそれか!?」

「このバカ〜〜!!」

 

 冗談はさておき。

 

「悪い。最近は追試のことしか考えてなかった」

「それは、優先順位が正しくて何よりだわ」

 

 頷き合った。

 優先すべきは、異世界の問題よりも現世の問題だ。

 なにせ今は普通の高校生(二年遅れ)だ。

 まずは留年しないことの方が大事である。

 

 勉学と生活──学生の本分と生存の両立は、現世への適応の第一目標だ。

 だが、それも無事に乗り越えた。

 

 いける気がする。最近、調子いいんじゃないか?

 評価をつけるなら、人間として四十点。赤点回避だ。もはや天才と言っても過言ではない。俺は人間をやるのが上手い。よし。

 

「それに異世界(むこう)の問題についても。あまり、重く考える必要ないと思うんだよな」

「どうして?」

 

 咲耶は、綺麗な眉をひそめる。

 

「だってさ」

 

 ──かつて。異世界で悪の魔女だった彼女は、絶対に分かり合えないはずの宿敵で。

 負けることこそないが、それでも苦戦を強いられる相手だった。

 けれどその因縁も、禍根も既に失くなっている。今の彼女は、とっくに俺の敵ではない。

 敵ではない、どころか。この世でただ一人の、良き理解者にして何より大事な隣人だ。

 それに咲耶は言ったのだ。これからを手伝ってくれる、と。

 

 だから。

 

 

「──俺とおまえが手を組んで、勝てないものなんて。ないだろ?」

 

 

 今更、何を恐れることがあるだろう。

 

「〜〜っ!!」

 

 咲耶は赤い顔で、目を吊り上げる。

 

「あんた、そういうこと恥ずかしげもなく言うわよね! 羞恥心つよいくせに!」

「自分を疑ったら死ぬ異世界(ところ)にいたからなー」

 

 あの世界では、精神の脆弱性を突かれると呪われてうっかり死ぬ。おかげで、柄にもなく自信過剰になってしまった。

 

「とはいえ。咲耶の危機感もわかる。『何も考えてない』というよりは『考えようがなかった』というのが正確だ」

「そう、よね。現世(こっち)でなんとかできるとは思えないもの」

「……やっぱり一度、異世界(むこう)に戻らないといけないのかこれ? だとしたら、面倒だな……」

 

 沈黙。空気が少し重くなってしまったので、切り替える。

 

「とりあえず、先にすべきはこっちの話だ」

 

 折角、現世に戻ってきたのだから、やることなんて決まっている。

 すなわち二年前に中断された高校生活を再開することであり、青春を十全に取り戻すことだ。

 青春を謳歌する上で重要となるのは円滑な人間関係だと思う。

 友達は多いに越したことない、というのが昔の俺の考えだったが、今の俺はあまりそう考えていない。

 二年の失踪で縁が切れたり、新しい関係の構築が難しくなってしまったからだ。

 ──その分、今ある関係のひとつひとつを大事にしたいと思う。

 その中でも一番大事なのは、切っても切れない縁である、俺と彼女の関係だが、ひと口には言い表せない。

 けれどそれも面倒だ。

 俺たちの関係は複雑に絡まってしまったものだから、時々それを解いて、きっちりと名称(ラベル)の確認をしなければならなかった。

 名称くらいは単純な方が、やりやすい。

 

「というわけで、気を取り直して『関係の再定義』といこう」

「あ、結局やるのね。いいけど」

 

 俺は箒を片手に、黒板を叩く。

 

「さて、これまで俺たちは友達だったわけだが……流石に、今も『ただの友達』と言い張るには無理があるだろ」

 

 暫定、仮称、『友人』だが。

 現状を正しく認識するとこうだ。

 

 朝起きて、一緒に飯を食って。

 昼休みも、一緒に飯を食って。

 夜帰って、一緒に飯を食っている。

 

 要するに現状は一日の大半を共有しており、決定的なことに互いの感情を確認済みとまできた。

 どっかの誰かさんがうっかり暴走した時に、思いの丈を全部ぶちまけてくれやがって、売り文句に買い文句でこっちも正直に言わざるを得なくなってしまったものだから。

 

「これで『ただの友達』って言い張るのはもう、常識的じゃねえよ……」

 

 現実から目を背けられるほど、俺は器用ではない。

 

「それは……まぁ」

 

 咲耶は目を泳がせ、言葉を濁す。

 

「じゃあどうするか、って話なんだが」

 

 ──関係を、わかりやすく『先』に進めることは、できない。

 なにせお互い、異世界の後遺症で理性が少々フワフワとしている状態だ。

 こんな状態で本気で恋愛をするわけにはいかないのだ。

 古今東西、色恋にうつつを抜かした輩は馬鹿になると相場が決まっている。

 異世界のスペックで正気を失くす(バカになる)と、洒落にならない。

 彼女は肉体に引き摺られて人外の論理を掲げてしまうし、俺は俺で急造の自我が色恋なんぞの過負荷には耐えられない。

 お互いがちゃんと真っ当に人間に戻れるまでは、現状維持のお預けだ。

 ──だが、現状維持なんてそんな生温いことを、今更できるだろうか?

 いや、無理だ。無理っていうか、俺が嫌。

 

 有り体に、正直に思考しよう。

 今更無駄な隠し事も自分を誤魔化すこともしないと決めてある。

 

 なんか、面倒な問題が足元にゴロゴロ転がっているけど。

 正直、単純に──好きな子といちゃつきたい。

 

 それだけだ。マジでそれだけ。

 というかそれ以外にある? ないだろ。

 

 たとえ、健全な関係の範疇でなければならないとしても。

 これ真っ当な人心であり、道理だ。何もおかしくは、ない!

 

 だから屁理屈を捏ね、抜け道を探す。

 どうにかこうにかして、安全圏のまま『先』に進むための。

 困った時は先人の知恵や世の中の先例、つまり常識を参考にするのがいい。

 つまり、丁度いい定義の引用だ。

 

「鑑みるに。現状は『友達以上、恋人未満』と定義できるんじゃないだろうか」

 

 黒板に『友達以上』と書く。

 左手で書いたから歪んだ。まあいい。が、その先は書かない。

 なぜならば、『恋人』とか書くと照れるからである。照れると死ぬ。

 

 咲耶は胡乱な目で俺と黒板を見比べて、問う。

 

 

「……あなた、もしかして。

 死ぬほど(・・・・)浮かれてる(・・・・・)?」

 

 

 ──白状しよう。

 

 

その通りだ(・・・・・)

 

 

 だってそうだろ。諸事情あって付き合うことはできないとはいえ……両想い、なわけだし。

 その上現状は、三年前引きずりに引きずった失恋が報われたわけなんだから。

 

 正直、めちゃくちゃ嬉しい。

 もう人生何もかも上手くいく気がする。

 無敵だ。

 

 

「恋人じゃなくても友達以上としてなら、やっていいことがひとつあるんだ」

 

 どうやら世間では、友人関係にある人間が遊びに行くことを、何故か『デート』と称する文化があるらしい

 ──つまり、言いたいことはただひとつ。

 

 

「咲耶。俺と、デートしようぜ」

 

 

 そう。この面倒な問答はすべて、遊びの誘いをするためにあった。

 

 

 咲耶は数秒、呆気にとられ。

 

 

「……いや、普通に誘え!?」

 

 だって普通に誘うとか、照れるだろ。

 

 

 

 

 と、その時。ガラッと、教室の廊下側にある窓が開いた。

 うちの学校の教室と廊下の仕切りは、壁ではなく曇りガラスの窓だった。

 

「あ、やべ」

 

 ドアに鍵は掛けたのだが、廊下の窓に鍵をかけるのをすっかりと忘れてた。

 

「おっひさしぶりですね、飛鳥さん」

 

 廊下の窓を開け、ひらひらと手を振るオレンジ髪の少女。隣のクラスの同輩であり、中学時代の元後輩、そしてバイト先の喫茶店の孫娘である寧々坂(ねねざか)芽々だ。

 

 廊下から窓枠に肘をついて、ニコニコとこちらに笑いかけながら、芽々は言う。

 

「飛鳥さんってー、よく通るいい声していますよねー!」

 

 その笑顔には含みしかなく、視線は俺ではなくて黒板……『友達以上』という文字に向けられていた。

 つまり、芽々の発言を意訳すると、こうだ。

 

『全部丸聞こえですよ、バカ』

 

 

 俺は、なるほどと頷く。

 

「咲耶」

「なに?」

「……俺、浮かれすぎてたね」

「そうね、本当に。水を差すのもどうかと思って止めはしなかったけど」

 

「ちょっと死んでくるわ」

「え?」

 

 

「介錯は頼んだ」

「待って!!?」

 

 

 

 

 ◆

 

 

「介錯は頼んだ」

 

 芽々にすべてを聞かれていたことを理解した飛鳥は、わたしにそう言った。 

 それはもう、すっごく爽やかに。

 

「なに言ってるの!? あ、ちょっと、窓から飛び降りようとしないで! ていうか飛び降りに介錯とかないから!!」

 

 窓枠に乗り出した飛鳥のシャツを必死で引っ張る。

 

「あ、ヤベえ。二階だから死ねないわ」

「ヤバいのはあんたよ!!」

 

 ぺしりと頭を(はた)く。できるだけ加減はした。

 乱暴は、はしたないのでイヤなのだけど(この前の反省でもある)、なんと飛鳥は叩けば直るタイプの故障品(ポンコツ)なのでこうするのが一番早い。

 衝撃で我に返って、飛鳥はすんっとおとなしくなった。

 いやおかしいでしょ。

 

「ねえ、気付いたけど……あんた、まだ感情の出力がバグってるわ」

「かもしれん」

「かもじゃないのよ」

 

 溜息を吐く。羞恥心が強いとか以前に、時々──喜怒哀楽が、極端なのだ。

 奇行の原因はおそらくそれだ。

 それは、異世界(むこう)で感情を忘れていた反動で。

 ──要するに。

 

 陽南飛鳥は相変わらず、人間が下手だった。

 

「え。なにやってるんですか? こわぁ……」

 

 廊下の窓から様子を見ていた芽々がとても引いていた。

 

 

 

 そのまま芽々は廊下の窓から「よいしょ」と入ってくる。

 夕焼けみたいな赤毛の金髪にくりくりとした大きな瞳。緑がかった瞳はわたしたちとそれとは違い、自然な生まれついての色彩だ。

 肉付きのない細い足が覗く短い改造スカート、上に羽織るのはぶかぶかのカーディガン。それは肩からずり落ちていて、中の黒ブラウスがノースリーブのせいで生白い肩が見えていた。

 ニコリとこちらに笑いかける、芽々。

 分厚すぎる眼鏡が印象から浮いているけれど。やっぱり、寧々坂芽々はとびっきりに愛らしい女の子だった。

 

 ちなみに飛鳥の制服も半袖に変わっているのだけど。ワイシャツの下に長袖の黒を着ているから、あまり夏服の印象はない。

 邪魔くさい前髪も、隈のせいで少々悪い目付きも、うざったい右腕も、いつも通り。

 変わったといえば。最近少しだけ顔色が良くなった気がする。

 餌付け……もとい食卓共有計画の成果だ。

 それは、いいことだけど。

 

「ねえ飛鳥。いいこと? そもそも、こういう話を教室でやるのが間違いだったんだわ」

「くっ……!」

「なんで悔しそうなのよ」

 

 わたし今、常識的なこと言ったでしょ。

 

「でもわかりますよ飛鳥さん。わざわざ教室でそういうことやる理由」

 

 何故か隣でうんうんと頷く芽々。

 

「……ずばり〝黒板〟でしょう?」

 

「わかるのか」

「わかりますとも」

 

「……えと、どういうこと?」

「黒板はエモいアイテムですから。大事な話をする時には黒板を使いたい。そういう普遍的な心理があるのです」

 

 全然わからない。それは普遍的じゃないと思う。

 

「俺、芽々のことめっちゃ好きだわ」

「なんでよ」

 

 ねえ、なんでそんなところで軽々と『好き』って使うの。わたしには?

 わたしには一度しか言ってくれなかったのに? ねえってば。

 

「えっなんか異様に好感度高いんですけど。芽々、なんかイイコトしましたっけ?」

「ああ。俺が自分を見失わずに済んだのは芽々のおかげだ」

「???」

「俺が迷わずにいられたのは、あの時芽々がサクランボを最後に食べると言ってくれたおかげだからな。つまり、君は恩人というわけだ」

 

「は? 何言ってるんです? えっそんな真っ直ぐな目で見ないで。身に覚えがない恩! 意味のわからない好意! めっちゃこわいです。コワ!!」

 

 芽々はわたしの方へ逃げてくる。

 

「たすけて咲耶さん。こいつなんとかしてください」

「はいはい。うちの自我初心者がごめんなさいね……」

「たすけて〜〜」

 

 飛鳥から隠れるように、わたしの背中に隠れる芽々。その怯える姿はまるで小動物。

 こちらを見上げる潤んだ瞳、しがみつく小さな手の感触に、胸がきゅうっとなる。

 ……か、かわいい!

 

「ところで。咲耶さんのこと、そろそろあだ名で呼んでいいですか?」

「? ええ、いいけど」

「わーい。じゃあこれから、サァヤって呼びますね!」

 

 そう、呼ばれて。微妙な顔になる。

 

「あれ、お気に召しませんでした?」

「いえ違うの。わたし、その……」

 

「あだ名で呼ばれるのは、初めてで」

 

 一昔のわたしの振る舞いは親しみとは少し遠かったから。そんなふうに呼ぶ相手はいなかった。

 これは、なんだか。

 

「くすぐったい……いえ、嬉しいわ」

 

 誰かさんを見習ってちょっぴり素直に言ってみる。

 芽々は少し、驚いて。

 

「んふふ。サァヤって……かわいいひとですね?」

 

 小さな唇を緩め、半目でわたしを見つめて言った。

 どきりとする。

 

 どうしよう。

 年下の女の子に手玉に取られている……!!

 

 

 

「俺の分のあだ名は?」

 

 飛鳥がなんかすごく羨ましそうにこちらを見ていた。年上の威厳がない。

 

「欲しいんです?」

「欲しい」

「はーー?? なんだこいつぅ?」

「そうか、いやいいんだ……俺と芽々は、所詮その程度の仲だったんだな……」

「蹴っていいです? めっちゃ腹立つ」

 

 芽々はげしげしと飛鳥を蹴ろうとしたけれど、残念ながら全部避けられていた。

 

「まあいいですけどぉ。……さん付けするのもバカらしいですし」

「おい」

「間違えた。てめぇはさん付けする価値もない……」

 

 ゴミを見る目だった。

 

「んーとですねー。ヒナ、飛、ひー、墜落飛行機、センパイモドキ、くそがよ……」

「なんで今罵倒した?」

「じゃあ、ひーくんで」

「やったぜ」 

 

 いいんだそれで……。

 

「お返しに」

「あ、やだ。芽々のことは芽々以外で呼ばないで。虫唾が走る」

「……俺、マジで嫌われてる?」

「好きですよ。芽々のクリームソーダを汚した恨みだが?」

「そうかよかった」

「よくねぇんですよこのやろ」

 

「……あなたたち、なんの話してるの?」

 

 

 芽々は飛鳥と戯れ合うのをやめて、真顔になる。

 

「そーですね。いい加減、本題に入りましょうか」

 

 愛想も愛嬌もないその言い方に、僅かな違和感。

 

「実は、芽々は盗み聞きしに来たわけじゃなくて。お二人をご招待に来たのです」

「招待?」

 

「ええ。我がオカルト研究部の部室へ!」

 

 

 大袈裟な身振りと、広げられた両手に。

 飛鳥と顔を見合わせる。

 

「悪いのだけど、入部の誘いなら」

「バイトあるし普通に嫌だけど」

 

 わたしたちは今、だいたい似たような顔をしていると思う。微妙に苦々しい顔だ。

 

「つかなんだよオカ研って。おまえ、さては研究対象として俺たちを収集するつもりだろ」

「ありゃ、バレました?」

「バレるわ。おまえとは気が合うみたいだからな。何考えてんのか、なんとなくわかんだよ。……いや、誰がオカルトだ誰が。相変わらず失礼なやつだなおまえ」

「おっと、さては芽々のこと思い出してますね? かわいい後輩のこと忘れてたとかクソやろーですね! 今更先輩ヅラしてもおせーですよ、ひーくん!」

 

 わたしにさえ勇者と呼ばれるのを飛鳥は嫌がるくらいだ。流石に存在がオカルト扱いは許せないらしい。

 

「でも入ったらウチの部室の黒板、使い放題ですよ?」

「………………」

「あんたまさか、揺らいでる?」

 

 そんなに? そんなに黒板が好き?

 

「冗談です」

 

 

「実のところ、部活のお誘いではないのですよ。ただ、聞きたい(・・・・)のです」

 

 芽々はニコニコと、愛想笑いを浮かべたまま。

 その含みのある言い方に、わたしは思い出す。

 

 確か裏路地で秘密を目撃された一件の後。呼び出された喫茶店で、芽々は言った。

『事情は、あだ名で呼べないうちは聞きませんけど』と。

 

 つまり。

『あだ名で呼んでいいなら、事情を聞いてもいいってことですよね?』と。

 芽々は主張していたのだ。

 

 急にあだ名でわたしを呼んだのはそのためか。

 ……なんて、たちの悪い。

 けれど「その理屈は通らないわ」と返す前に、芽々はおもむろに眼鏡を外した。

 

 ぱちぱちと二、三度の瞬きをして、顔を上げる。

 わたしたちを見据える、大きな瞳の中には〝星〟が、瞬いていた。

 比喩ではなく。

 

 

 ──ぞわり、と鳥肌が立つ。

 

 普通の人間の虹彩に、そんなものはない。

 そして、その〝星〟は。わたしたちの異常な目を持ってしても、芽々が眼鏡を外す今まで気付けなかった。

 

 ──目の前の光景は正真正銘の『異常』だと、理解する。

 

 

「説得の必要は、なさそうですね?」

 

 星の瞬く瞳を、芽々はゆるりと細めて。花弁のような小さな唇を、歪める。

 

「どうぞ、話をお聞かせくださいな? 異世界の(・・・・)魔女サマがた」

 

 

 ──やはりあの時、記憶を消しておくべきだった。

 

 身を乗り出す。けれど、その前にわたしの腕は掴まれ、引き止められる。飛鳥だ。さっきまで浮かれていたのが嘘みたいに冷静な目で、彼は首を横に振る。

 

「話を聞いてからでも、いいだろ」

「……あなたが、そう言うなら」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 芽々の案内に従って、校舎の旧棟へ移る。日の当たらない廊下に軋む階段、空気は少しかびている。

 オカルト研究部の部室は、突き当たりにあった。

 古い引き戸には木製の看板がかかっている。看板にはどろどろと絵具を塗りたくられていて、一種の世紀末芸術っぽさを感じさせる。

 

「いいでしょ。この看板、マコが作ってくれたんですよ」

「笹木君……」

「あいつセンスが普通じゃねぇな」

 

 飛鳥がふと、扉を睨んで言う。

 

「つか、ここは天文部の部室じゃなかったか?」

「無くなりましたね」

「……そうか」

 

 それは他人事の呟きではなかった。

 

「あなた、帰宅部だったんじゃないの?」

「一応、籍だけ置いてたんだ。バイトで忙しかったからな」

「知らなかった」

 

「……中学の頃から、俺は天文部だったんだよ」

 

 その感傷も、一瞬だけ。

 さっさと部室へ入ってしまった飛鳥を追って中へと入る。

 

 視界に入るのは資料の溢れかえった本棚、歪んだ黒板、古びたソファに、場違いな望遠鏡と天球儀。そういうものが雑多に並んだ、部屋の中。

 

 わたしは、寧々坂芽々に向き直る。

 

 

 一度認識して(きづいて)しまったせいか。眼鏡をかけなおした後でも、注視すると瞳の星を見ることができた。

 

 ──ここから先は、誰に聞かれるわけにもいかない話だ。

 

 

「あなた、何者なの」

 

 芽々は、黄色がかった日射し差し込む窓の前。スポンジの見えたボロのソファの上で、折れそうな脚を組む。

 

「あらためて、自己紹介を。どこにでもいるサブカルな女子高生。オカ研ただひとりの実働部員。すべて、嘘ではないですが。此度(こたび)は、こう、答えましょう」

 

 

「──私、寧々坂芽々は。地球の魔女(・・・・・)の末裔、ですっ」

 



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第二話 現実はそこまでファンタジーじゃない。

 

 いぇいいぇいと顔の横でふざけきったピースサインをふたつ作って、ふざけたことを言い出す芽々に、俺は「ハァ?」と聞き返す。

 

「おまえ、何言ってんの?」

「あらやだ塩対応。ひーくんったら激しいキャラ変ですね。後輩にゲロ甘な陽南先輩はどこ行ったんですか?」

「あいつは死んだよ」

「ご冗談」

 

 だが、芽々の目はふざけていないし、緑眼の中には星の瞬きがあるままだ。

 ふと隣を見ると、咲耶は片手で顔を覆っていた。

 

「ああ〜……そうきたか〜……」

「どゆこと?」

「つまり、『現世もファンタジー』ってことよ」

「んなわけあるか。常識考えろ、常識」

 

「んー、その反応はどっちも正解って感じですね」

 

 芽々は曖昧な返事をして、ボロのソファから跳ねるように立ち上がる。

 

「?」

「正確には、かつて地球にも魔法使いがいたそうです。今は、滅亡してるも同然ですが」

 

 かつて、か。魔女だのなんだのは世界史の教科書にも出てくる。

 そういうのが、本物だったということか。だとしても今はいないってどういうことだ?

 

「科学文明と魔法って、クソクソ相性悪いんですって」

「そういうもの、なのか?」

 

 まあ、なんとなく理解する。咲耶が度々口にする、『幻想と神秘の濃度が低い』だの『ファンタジー補正が少ない』だの。それと同じか。

 

「だから芽々も末裔とはいえ、魔女になる可能性が当に絶えた血です。いちお、魔術は現代でも残っていますが。カビの生えた伝統芸能みたいなものですね。ちょっとよく当たる占い程度のモノ。夢も希望もへったくれもありません」

「まあファンタジーが現世にもあるとして。存在するのはもう、ただの現実だからな」

「現実には夢がないと決まっているものね」

 

 そこまでは言い過ぎだと思うぞ咲耶。現実にも夢はある。隕石とか。

 

「つまりです。ひーくんを害する力は、芽々にはありませんっ。その点はご安心を」

 

 と言われても。常日頃から胡散臭いので信頼性がなかった。

 

「じゃあおまえはなんなんだよ」

「何をどこまで、いつから知っていたの」

 

 ……そう、芽々は確かに『異世界』と口にした。『魔女』というのは路地裏の時点でバレているからまだしも、だ。

 寧々坂芽々は、確実に知りすぎている。その理由を、聞かねばならない。

 

 眼鏡の奥の眼差しを、細めて。芽々は答える。

 

「──生まれつき、目がおかしかったんですよ。魔女だったご先祖サマの隔世遺伝ってやつですね」

 

 目。咲耶と同じような魔眼、ということだろうか。

 

「にしては、らしい威圧感がないな」

 

 ……それに瞳の輝きからは、ほんの僅かだが異世界の気配がする。

「あ、疑ってますね?」と芽々。

 

「確かに魔眼とか大層なものではなくて。『魔術的乱視』……生まれついて、見えないものが見えてしまうんです。といっても、ただ視界が歪んでるってだけなんですけどね。ちょっと幻覚見がちというか? ドラッグキメたみたいなサイケな視界が常時展開みたいな?」

「わかんねぇよ。なんでドラッグの視界知ってんだよ」

「ネットですけど」と芽々。よかった非合法じゃなかった。

 

「じゃあアレです、アリス症候群みたいな? 大きいものが小さく見えたり、人が変な色に見えたりするやつ」

「それもわかんねぇけど……風邪の日に見る夢みたいな感じか?」

「ですです。だから眼鏡が手放せないんですよね。純粋な視力はめっちゃいいんですけど!」

 

 言われて気付く。

 

「本当だ。おまえの眼鏡、分厚いのに度が入ってないな」

「魔術アイテムです。その包帯みたいなものですね」

「現世すげー」

 

 隣で咲耶がめちゃくちゃ頭を抱えていた。「なにが『すげー』よ『やべー』でしょこのばか……」とかぶつぶつ言っている。

 

 

「話を戻しますね。何をどこまで、何故知っているのか……原因はこの目です。二月の末、満月の夜、遅めの雪が降った午前二時頃。当然、覚えておいででしょう?」

 

 顔が強張る。その日、その時間は──俺たちが、異世界から現世に帰ってきたタイミングだ。

 

「まさか」

「ええ。その日、芽々は雪を食べようと、丁度外に出ていたのですが──」

 

「ねえ待って。雪食べることある?」

「え、食べないのか。流石お嬢様は違うな」

「普通の高校生は食べないわよ!!」

 

 俺は芽々と顔を見合わせる。

 

「食べるだろ」

「食べますよ」

「腹下せ!!」

 

「咲耶、話が進まないからちょっと黙ってろ」

「わたしのせいじゃないでしょ!?」

 

 続きを促す。芽々は頷いた。

 

「結論、言っちゃいますね。……その日、見た(・・)んですよ。帰ってきた瞬間のお二人を。バグった目のチャンネルが、その日たまたま異世界(そちら)と一致してしまったせいで」

 

「雪を食べるために夜空を見上げていた芽々は唖然としました。だって、空をブチ割って、人が落っこちていくんですもの。この世界がちょっとファンタジーだとしても、そんな光景ありえない(・・・・・)

 

「といっても、芽々のバグ眼球は見えるものが常にランダムですし、大体いつもただの幻覚ですし。本気(マジ)にはしてなかったんですけどね……? ──上を見ていたせいで、割れた(・・・)空の(・・)破片が(・・・)目の中(・・・)()入って(・・・)きた(・・)()です(・・)

 

 割れた空の破片。それは、

 

異世界(むこう)の転移術式の破片か」

 

 確かめるように咲耶を見ると、彼女も「だと思う」と同意。魔法については俺はからっきしだ。

 

「解説は任せた」

「さっき黙ってろって言ったのに」

「そんなことは忘れた」

 

 まあいいけど、と咲耶は言って。

 

「あの日散らばった異世界の残滓は、本来ならばそのまま消えてしまうはずだったわ。偽装の魔法をかけていたから現世(こちら)の人間には見えないはずで。『見えないものは存在しないもの』として、現世(せかい)には扱われるはずだった──だけど。観測してしまった途端、それは『実在』になってしまう」

 

「ええ。芽々が、観てしまったので。『実在』の質感を得た、異世界の魔法の残滓が、眼球にぶっ刺さったというわけですね」

 

 つまり、元々異常だった芽々の眼球は術式の破片を取り込んでしまったせいで、異世界にチューニングされてしまったらしい。

 

「めっちゃ痛かったぁマジ最悪です」

 

 ニコニコとご機嫌な笑顔のまま言う。

 

「それで。以来、芽々にはずーーっと、見えてるんですよ。異世界の(・・・・)アレソレが(・・・・・)。隠しているものすら……サァヤがその頭ん中に仕舞ってる角とか、ひーくんが包帯で隠してる腕の中身とか、常時うっすら透けて見えてます」

 

「……は?」

 

 今までずっと、何も誤魔化せてなかったってことか?

 こいつ、喫茶店でわかってて握手求めたのか。どういう神経してるんだ。

 というか。

 

「……ヤバくね?」

「それ……わたしたち以上に見えてるじゃない」

「はい、めっちゃヤバイですよ?」

 

 くわっと目を見開く。

 

「だから! 困ってたんですよ!! ちょっと齧ってるからこそわかるんですよ、ガチのファンタジーとかクソクソ厄い! なのに先輩は芽々のこと忘れてるし、先輩と同じ天文部だった子からきなくせー話は聞くし、魔女サマは脳味噌ゆるふわで危機感がゼロだし! もう、ぜんっぜん頼れない! 正直に『芽々、全部見えてます。たすけてー』とか言えるわけねーでしょ!」

 

 めちゃくちゃ怒られていた。

 

「だって異世界とかもう関係ないと思ってたし……」

「現世ボケしててごめんなさい……」

 

 まったくもう、と肩を(いか)らせる年下を前に、縮こまる年上二人。

 

「そんなわけで、測ろうとしたんです。貴方たちが、信用していい存在なのか。だから情報共有のつもりで、先輩がなーんかおかしいってこと、サァヤに言ったんですけど……その結果、ああなったことについては。芽々が、すみません」

 

 反省会の時に聞いている。咲耶が急に喧嘩を売ってきた、間接的な原因は芽々だったということは。が、『ああなった』と説明していないのに、芽々が結果を知っているということは。

 

「まさか、あの喧嘩も見てたのか?」

「はい、バッチリこの目で」

 

 きらりと輝く両目(異世界魔法の破片入り)。

 

「流石に話は聞こえてないですけど……」

 

 そして走馬灯のように蘇る、先日の諸々の醜態。羞恥の回路が、焼き切れる。

 

「よし死のう」

「落ち着きなさい」

 

 ぺし、と頭を叩かれた。加減されているので全然痛くない。

 

「まー、そんなこんなでっ。ヒミツにするのも限界ですし、芽々は芽々の現状をなんとかしたい。これはもう正体を明かすしかないなー、と腹を括ったわけです。以上、芽々の招待の理由でした! 正体だけにっ」

 

 こいつセンスちょっと寒いな。

 

 

 

「つまるところ、芽々は巻き込まれた被害者です」

 

 俺たちは言葉を詰まらせる。それについては、もう何も言えない。

 何を要求されるのか。戦々恐々とする俺たちに、寧々坂芽々は悪戯っぽく微笑んだ。

 

 

「なので……責任とって、いっそ巻き込んでくれません?」

 

 

 ──つまり、芽々の主張を要約すると。

『協力するので、ついでに話を聞かせて、自分の目を直してください』

 ということらしかった。

 

 

 

「…………それだけ?」

「それだけですよ。どうですか? 芽々は結構、都合が良い協力者になれると思うのですが」

 

 隣で考え込んでいた咲耶が、ふと俺の方を見る。

 

「耳、貸して」

「ん」

 

「(あの子の目を使えば、異世界(むこう)と再接触できるかも)」

 

「まじかよ」

「ただ、話の都合が良すぎるわ」

「そうだな。動機がわからない」

 

『巻き込んでくれません?』と芽々は言った。その要求は『目を直せ』という切実な問題解決よりも、こちらと関わることを優先としている。それがとても、変だと思う。

 

 自分で言うのもなんだが、俺が芽々の立場だったら俺たちには関わりたくない。絶対。

 やだよ。咲耶は吐血しながら魔法使うようなヤツだし、俺は俺で…………やめよう、あまり自分を客観視すると死にたくなる。

 とにかく、厄ネタだと知りながら何故俺たちに協力したがるのかが謎だ。

 

「動機ですか? それはもちろん」

 

 その理由を聞かれた芽々は、にっこりと口角を上げる。

 

 

「──愛、ですよっ?」

 

 

 笑った目が輝いていた。嘘偽りのない、心底からの言葉だと示すように。

 

「そう、すべてはオカルトへの愛ゆえに! 既にファンタジーとかろくに感じないこの現代、初めて出会ったホンモノのソレを前にして、どうして浮かれずいられましょうか! 問答無用で巻き込まれたのはちょっと腹立ちますけど、それでも、お釣りが来るほど運命的な出会いです!!」

 

 早口で興奮したようにまくしたて、こちらに詰め寄る芽々。

 

「お、おう」

「オタクだぁ……」

「オタクじゃなくてサブカルって呼んでください。音がかわいくないので」

「あ、うん。そういう年頃ね 」

「クソサブカルでも可です」

「わたしお淑やかだからクソとか言わない」

「言ってるよ。おまえ結構クソって言ってる。俺のことクソ野郎って言ってる」

「それは全部あんたがクソなせいだから」

「俺はクソでもいいんだけど咲耶がクソって言うのはなんかなー」

「解釈違いってやつですねっ」

「というかクソクソ連呼するのやめなさいよいい加減」

「言い過ぎるとクソ汚ねえですからね」

「もうほんと黙って。いえ黙んないで話が途中だから。早く吐いて」

「ゲロ!?」

「もうやだこの子きたない!」

 

 咲耶が根を上げた。

 

 俺以外の前では猫を被っているはずの咲耶が、芽々の前でも素なことにちょっと驚く。

 いや、秘密もバレてるし、俺もいるからかもしれないが。

 

 話を戻すように、芽々はパンっと手を鳴らす。

 

「とにかく、です。魔女の末裔だからこそ、芽々はひと一倍ファンタジーを愛しているのですよ。関わりたい理由なんて、それで十分でしょう?」

 

 合わせた手を頬に寄せて、芽々は夢見がちに続ける。

 

「特に異世界や魔法の国なんて、素敵の極み。アリスにナルニア、エンデにオズ……垂涎モノですよね。剣と魔法の別世界、心躍る旅と冒険……憧れない人間なんていませんよ!」

 

 何を言っているかわからないが、心ここに在らずな浮かれ顔を見ていると裏とかないように思えてくる。

 隣で咲耶が何故か、表情を取り繕うこともせずに渋い顔していた。

 

「オズの魔法使いってどんな話だっけか」

「竜巻で家が吹っ飛ぶ話です」

「うわ」

 

 竜巻は隕石より生々しい破壊力の分、嫌だな。家が吹っ飛ぶのは嫌だ。

 

「で、タイトルの魔法使いは詐欺師オチ」

「……わたし、その端折り方はどうかと思うの」

 

 本好きの咲耶としては、何か不満な要約だったらしい。

 

「そういえば。あなた、好きなものを罵倒する癖があったわね?」

「はい!」

「……歪んでるわ」

「世界はイコール愛ですから。ラブアンドピースならぬ愛と揶揄(ラブアンドティース)的な」

「?? わたしこの子、苦手かも……」

 

 二人が仲良くなったようで何よりだった。

 

 

 

 

 

「というわけで、あたらめてよろしくお願いしますね」

 

 ひとまず話もまとまり、バイトの時間も迫るので解散ということになった。

 ……まとまったか、これ?

 

「あ、ついでにオカ研入ります? 入っちゃいます?」

 

 いそいそと芽々が取り出した部員のリストは、空欄だらけだった。実働部員がひとりだけ、と言っていたのでさもありなん。

 

「だから入らねえって」

 

 と言いつつリストに目をやる。その中に、知っている名前を見つける。

 

 ──鈴堂(りんどう)瑠璃(るり)

 それは、中学時代の、天文部の後輩の名前だった。

 

「ここ、瑠璃がいるのか?」

「いますよー」

 

「………………下の名前で呼んだ」

 

 ギリギリ聞こえた小声の呟きに、ちらりと横を見る。

 咲耶の目から光が消えていた。こわ。

 

「……っ例の後輩!?」

「なんだよ例のって」

 

 咲耶は「なんでもない」と首をぶんぶん振ったので、芽々が質問に答える。

 

「オカ研は潰れた天文部を吸収してできた形ですからね。るりさんは忙しいので、こっちの部活には来ませんが」

 

 鈴堂瑠璃は、昔の俺が一番仲の良かった後輩だった。そのせいか。こちらでの再会早々、見抜かれたのだ。俺がほとんど何も覚えていなかったこととか……諸々を。

 ──それ以来、後輩だったアイツとは絶縁状態にある。

 

「入るのは無理だな。……俺は、瑠璃に嫌われているから」

「ですか」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 部室を退出した後、軋む階段を降りながら話を整理する。

 なんだかんだと話し込んでいたので、窓からは夕日が差していた。

 

「ひとまず、目先の方針は決まったな」

 

 呪いを解く手段を知るために、『異世界(むこう)に再接触』する。

 それは、転移術式の破片を取り込んだ芽々に協力を願えば、可能だと咲耶は言う。

 そしてついでに、巻き込んでしまった芽々の目を綺麗さっぱり元に戻せば、完了だ。

 全面的に完璧な解決、なのだが。

 

「再接触って、戻るってことか?」

「わからない。そもそも、そこまで強い魔法を作れるかどうか」 

「電話みたいなヤツで全部済めばいいんだけどな。解呪方法教えろ、って」

 

 ……しかし、向こうに連絡を取ると言っても。

 

「具体的にどうするか……一番色々知ってそうな魔王(ヤツ)は既に死んでるし」

魔王(わたし)側、他はみんな知性ないし……」

「となると、人類(オレ)の方に連絡を取るしかないけど」

 

 聖剣パクったことを、めちゃくちゃ怒ってそうな元同僚のことを思い出す。

 あいつ元気してるかな……。

 と、懐かしさに浸ってる場合ではない。

 

「交渉が決裂したら実力行使で向こうにカチコミの線が有力?」

「妥当ね。わたしたち、どうせ腕力しか取り柄がないし」

「めんどくせぇ……」

 

 丸二年、勉強してなかったのでその手の政治力がゼロだ。

 

「あるいは、地球(こっち)のオカルトに期待するか? 現代でも一応、魔術(そういうの)があるって言ってたし」

 

 はた、と咲耶が踊り場で立ち止まる。

 

「……それ、絶対やばいと思うの」

 

 ものすごく、深刻な表情だった。

 

「冷静に考えて……既に廃れてるとはいえ、現世がアレなのはヤバいわ! だってわたしたちホンモノだし。ていうか既に、芽々にたれこまれたりしたら人生終わりじゃない!?」

「野に放たれた外来種だから、見つかったら駆除されかねんってことか」

 

 異世界帰還者、実質のアライグマ。

 

「なんかこう、結社的なのに捕まって、檻の中で一生を終えたりするんだわ!」

「すごい妄想。中二病か?」

「わたし、もう何が常識なのかわからない……」

 

 突然現世がファンタジーだと聞かされたせいで咲耶がバグっていた。

 嬉々として魔女ロールをやっていた割に、根が常識人なのかなんなのか。

 自分以外に非常識をぶつけられると、途端に弱いようだった。

 

「いや、芽々には口止めしてるんだろ。魔法で」

「あっ本当だ。……問題、なかったわね?」

 

 こいつ、さては忘れてたな。

 

「咲耶、あのな。おまえはアホで、俺は考えなし。──終わりだな?」

「なんでいい笑顔でそんなこと言うの!?」

「そういやなんか最近、視線を感じるんだよなー」

「ぎゃー!」

 

 お淑やかのカケラもない悲鳴。ウケる。

 

「ま、大丈夫だって」

「あんたの楽観は破滅的なのよ!」

「じゃあ、そうだな。どうしようもなくなったら、その時は……」

 

 

「──駆け落ちでもするか?」

 

 

「っっ……!!?」

 

 言葉にならない声を上げる咲耶の顔は赤い。窓から差し込む夕陽のせい、ということにしておいた。

 

「さては、あんた楽しんでるでしょ!? わたしのことからかって!!」

「ばれたか。咲耶が困ると面白い」

 

 まあでも。いいだろ。そのくらいは、言って許される関係のはずだ。

 

 言い逃げのように、階段を先に一段降りたところで。

 

「……ねえ、飛鳥? 言っておきますけどね」

 

 呼び止められた。丁寧語は珍しい。自然とこちらも少し畏まって、振り返る。

 

「なんだよ」

 

 一段上、夕日の逆光の中、咲耶は静かな無表情で。

 

「わたし、あなたのことは死ぬほど愛してるけど」

 

 さらっと言うなぁと、苦笑して。

 

 

 

「──あなたに恋は、していないのよ」

 

 

 

 続く言葉に、耳を疑った。

 

「…………えっ」

 

 咲耶は、深々と溜息を吐く。

 

「『定義』の話が、途中だったわね。返事は、ごめんなさい。あの定義にわたしは合意できない。『友達以上』は嬉しいわ。遊びに誘ってくれたことも」

 

 

「……でも、わたしは。あなたの『恋人』にはなれない」

 

 

 こちらを真っ直ぐに見て、告げる瞳は冷ややかで。嘘や誤魔化し、あるいは照れ隠しのような何かは、少しもない。淡々とした平静と本気の声音。

 

「それじゃ、わたし。まだ学校に用が残ってるから……また、明日ね。バイト、がんばって」

 

 こちらを置いて、階段を降りていく咲耶を。引き止めるのも忘れて、俺は茫然と見送って。

 残されて一人、先の台詞をよく咀嚼する。

 

 まさか。

 

 

「…………フラれ、た?」

 

 

 いや、この期に及んで!?

 



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第三話 君と食べる飯のことしか考えてない。

日間1位ありがとうございます。びっくりした。








 

 

 文月咲耶という人間(わたし)を語る時に、賛辞はすべて無意味だ。

 だって、人目に映るわたしは全部、演技(ウソ)でできているんだから。

 自分の『本当』を演技で包み隠して生きてきた人間が、わたし。

 自分自身をロールプレイする演劇体質。それは決して、褒められた生き方ではない。要はただの嘘吐きだ。

 

 ──飛鳥の前では素顔でいられるようになった今も、わたしの本質は同じだった。

 

 こちらの返答を叩きつけて、飛鳥を置き去りにした後。夕暮れの廊下でひとり、溜息を吐く。

 

『駆け落ちでもするか?』

 

 ふと。

 彼の冗談を思い出し……

 

「〜〜〜っ!!」

 

 勢いのまま、壁を殴った。

 

「……痛っった!?」

 

 関節バキッて言った! バキッて!

 

「はぁー……ばかっばかっ、もうばか!!」

 

 廊下に誰もいないのをいいことに、ひとりで呻く。

 飛鳥が急にあんなことを言い出した理由は、わかっている。

 わたしたちは、あからさまに喧嘩を売らなくなった今も勝ち負けにはこだわっていて、普段の会話もその延長線上にある。

 勝敗の判定は単純、言い返せなくなった方が負け。

 だから、『勝てればなんでもいい』と思ってる飛鳥は、なんの恥ずかしげもなく爆弾を放り込む。

 それでこっちの反応を楽しんでるのだ。

 

 あいつは時々、すごく意地悪だ。

 そしてわたしは、口喧嘩(レスバ)に弱すぎる!

 

「……て、いうか」

 

 わたしは駆け落ちの定義を思い出す。駆け落ち、すなわち『許されない関係の二人が、追手を振り切り、逃げて共に暮らすこと』

 ……なんだか、見に覚えがあった。

 

 わたしたちの現状を思い浮かべる。

 許されない敵同士の関係なのに手を組んで。

 裏切った異世界の追手から逃れて現世に落ち延びて。

 お隣でほとんど一緒に暮らしている。

 

 これ……実質の駆け落ちじゃない!?

 

 

「う、うわぁぁ…………わ、わ、わーー…………!」

 

 気付いてしまった。気付いてしまった!なんてことに!!

 

 熱い頬を押さえて、廊下の冷たいガラス窓に熱の出た額を押し付ける。

 頭からぷしゅぷしゅと蒸気が出そう。

 

 ──だけど。

 

 窓に映った火照った顔、情けないその表情を客観視して。わたしの理性の部分は、スッと冷えていく。

 

 大丈夫。これはただの動揺。驚きで平静さを失っているだけだ。

 こんなもの……こんな感情に、なんの価値もない。

 恋なんて──恋人、なんて。

 

「わたしには……許されていないわ」

 

 

 額に触れる窓ガラスが、とても、冷たかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ねえ陽南。『なんか落ち込んでるみたいだから相談に乗る』って言ったのは、確かにおれだけどさ」

 

 

 気もそぞろに、バイトを終えた後。喫茶店の休憩室のテーブルで、笹木が言った。

 バイト中ミスこそしなかったものの、俺の様子がいつもと違うことに気付き、親切にもこれまでの経緯(いきさつ)を聞いてくれた、同僚兼同級生の笹木は。

 

「……何言ってんの?」

 

 はてしなくしょっぱい相槌を打った。

 

「だから、喧嘩の流れで『人生くれ』って言われたから、俺は『いいよ』って言った」

 

 これまでのいきさつ、以上である。ちなみに笹木は現世のファンタジー事情について一切知らない、と芽々から確認をとっているので、その辺は伏せてある。

 

 笹木は「??」と目を細めた。

 

「プロポーズじゃん」

「だよな?」

 

 そして、今日の放課後。咲耶に言われたことを要約すると『あんたと恋人とかムリだから』だ。

 

「……なんで今更、フラれてんの?」

「知らないよ。おれに聞かれても困るよ」

 

 いや、確かにあの時、咲耶は正気ではなかったけれど。あれは酔っ払って出る本音のようなもののはずだ。反省会での様子を見るに、咲耶の記憶もばっちり残っていた。

 おかしい。なんでこんなことに。

 

「俺の純情を弄ばれている……」

「自分で純情とか言うのキモいと思うよ」

 

 笹木が辛辣だった。

 

「もしかして。文月さんって、相当……」

「相当ヤバくてアホで面倒なヤツだよ」

「好きな子の悪口言うのもどうかと思うよ」

 

 これでも悪態を吐かなくなった方なのだが。

 笹木が半目でこちらを見る。

 

「おれさ、正直路地裏でのあの時からずっと、剣のこととか聞きたかったんだけど? それがなんで意味不明な痴話喧嘩の話を聞かされてるんだよ。わかんないよ」

「俺も女心がわからん……」

「そういう話じゃないよ。聞けよ」

 

 遠慮がなくなってきた。

 

「はーあ……まさか正体がこんなやつだとは思わなかった」

「え、ごめん。……なんだと思ってたの?」

「浮世離れしたカッケー非日常の住人」

「そっか、普通の人でごめんな」

「陽南は変だよ」

 

 んなことないだろ。

 

 

 

「相談には乗るとは言った手前、力にはなりたいけど……」

 

 お手上げ、という無常感を漂わせて、首を横に振る笹木。

 

「いや、大丈夫だ。とっとと本人に聞くことにする」

 

 同じ轍は踏まない。推測を巡らせる前に、わからないことは直接確かめる。

 つもり、だが。

 おそらく。これは異世界とか魔女とか関係のない問題だと思う。

 咲耶自身の……文月であった頃からの、何かだ。

 魔女だのなんだのを抜きにしたって、あいつは根本的に面倒なのだ。

 演じて生きていたのが昔からだと言っていた。普通の人間は、そんな生き方をしない。

 

 異世界(むこう)の問題ならば、こちらも当事者だ。前回の反省もあるし、聞くことに躊躇はない。

 だが現世における彼女の問題に踏み入るのは……果たして、俺に資格があるのかどうか。

 とか、一応考えはするものの。

 

「いややっぱり、どう考えてもプロポーズだったろ!! 俺結構緊張して返事したんだけど!? もう話はあれで終わりだろうが! 言っただろ、好きって! 確かめただろ!! なんで振り出しに戻ってんだよクソが!!!」

 

「……うん、同情するよ」

「あいつ、ほんっと面倒くせぇ!!」

 

 ああ、クソ! 本人に対してでなければ恥じらいがないから、プロポーズだのなんだのも言い放題なのに! 冗談でもなく真面目に、咲耶に直接『そういうこと』を確認しようとすると脳味噌がバグる。

 だから明確な合意を取らずにここまで来たのだが。それが完全に、仇になっている。

 あいつも面倒くさければ俺も面倒くさい。

 もっとシンプルでいいのに。

 人生なんざ、生きてさえいれば全部上手くいくくらいの難易度でいい。

 

「まー、喧嘩の仲裁には呼んでよ」

 

 テーブルに頬杖をついて、笹木はさらっと言った。大分厄介な話を聞かせたにも関わらず、だ。

 ……こいつ、いいやつだな。

 と思ったのも束の間。 ニコニコと、いい笑顔で。

 

「あれでしょ? 喧嘩って、バチバチやり合うんでしょ?」

「笹木おまえ……」

 

「見たいだけだろ」

「あはは、そんなこと……」

 

「あるよ」

「あるんだ」

 

 まともと見せかけてこいつ、やっぱり芽々の幼馴染だな。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 次の日の夜、いつも通り咲耶の家に行く。手の中には、ついこの間渡されたばかりの「合鍵」があった。

『はい、鍵。毎日来るんだから、ないと不便でしょ?』と、当たり前のように渡されたのだ。

 いや、意味がわからん。

 

『合鍵は「わたしはもう二度とあなたの敵にならない」って示すためのものだから』

 

 などと言われて丸め込まれてしまった。

 ……いやでも、おかしいだろ。合鍵を渡される関係って、諸事情を抜きしにしても、それはもう「友達」じゃないだろ。

 

 

 一応、インターホンは鳴らしてから鍵を開ける。

 

「いらっしゃい」

 

 扉の向こうには咲耶がいて、当たり前のように出迎える。

 

「お邪魔します、って。迎えに来るなら、鍵渡した意味あるか?」

「あら。客人を迎えるのは当然の礼だわ」

 

 澄まし顔で礼儀を語るけれども。咲耶に正論を言われると釈然としなかった。

 

 

 夏めいてきたせいか、咲耶は随分と薄着だった。

 ざっくりと胸元のあいたブラウスに、ショートパンツといういでたち。傷ひとつない白い柔肌が、無防備に晒されている。

 最近、気付いたが。どうやら咲耶は露出に対して無頓着だ。

 向こうでえげつないデザインの服ばかり着ていたせいだろう。その辺が、麻痺しているというかなんというか……。

 

 ……まあ、人の部屋着にとやかく口を出す権利はないのだが。

 

「ふふ。なんだか『いらっしゃい』って言うのもなんだか変な感じね」

 

 こっちの葛藤だの動揺だのは知らず、こちらを出迎えた咲耶はわかりやすく上機嫌だった。

 そう、何事もなかったかのように。

 これがいつも通りであるかのように、だ。

 溜息のひとつでも吐きたくなる。

 おまえ、昨日俺をフッてんだけど。本当にわかってる? わかってないんじゃないか、これ。

 念を込めてじっと見つめてみる。

 

「どうしたの? こわい顔して」

 

 あっ、これはわかってないな。確実に。

 

「なんでもな……いわけじゃないけど。今はいいや。先に飯作ろうぜ」

 

 靴を揃え玄関を上がって、もうすっかり見慣れた廊下を抜ける。

 

「あ、そうだ。これ買っておいたから。ありがたく使うといいわ」

 

 先にキッチンに入った咲耶が、何やら手に持ってこちらに戻ってくる。その手には、いつか見た咲耶のエプロンの色違いが。

 

 いや、色違いって。

 つまるところ。

 

「お揃いじゃん……」

「……は、ハァ!?」

 

 咲耶は急に顔を赤くして、新品のエプロンを投げてきた。

 避けずに受け止める、けど。なんで顔面に投げるんだよいつも。

 顔? 顔がムカつくのか?

 

「ち、違うから! 機能性とか、なんかそういう基準で選んだだけなんだから!! ほんとに!!」

 

 上擦った声で言い訳する咲耶。

 ……この反応、さては本気でお揃いだとか今まで気付かなかったな。

 咲耶はまだ自分のエプロンを握り締めたまま、葛藤するようにチラチラとこちらを見ている。意識しすぎだろ。なんだかばからしくなってきた。

 最近ずっと、この調子だったのだ。そんなの浮かれるし、勘違いだってするだろうが。

 

 なんでこれでフラれてんだよ。本当に。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 いつまでもうだうだとやっていると夜が更けるので、程々に。しばらくもすれば夕飯の用意も終わる。

 

 咲耶に「料理を教えてほしい」と言われてから半月だが、咲耶は生真面目なので、多少不器用だとか鈍臭いだとかは問題にならなかった。つまり着々と上手くなっている。

 そりゃ、俺がバイトでいない時もひとりで黙々と自炊しているのだから、上達もする。

 努力家で偉いよな。千切りすら面倒くさいからキャベツめくってそのまま食う、とか、俺みたいなことはやらないらしい。

 

 料理ができるからといって、実際やるかどうかは別の話。一人分の飯なら、俺は正直なんだっていいのだが、二人分なら流石に気を使う。

 だって、延々とキャベツの千切りを食ってる咲耶なんて見たくは…………いや、それはそれで愉快かもしれない。 

 咲耶は、困らせると良い反応をするのだ。山盛りの千切りの皿を抱えて、『え、なんで? 今日キャベツだけ……?』とうろたえる咲耶をたっぷりと堪能した後、惣菜屋で買ってきたコロッケを出すとどんな反応をするだろう。わくわくする。

 ──などと考えながら、生姜焼きのタレが染みたキャベツに箸をつけたところで。咲耶が俺を見て、不思議そうに言った。

 

「あれ、あなた左利きだった?」

「刃物は元々両利き。箸は左に矯正している途中」

「なんで今更……?」

「いや、問答無用で右腕引っこ抜こうとしたやつが言うかそれ?」

 

 喧嘩の原因がコレだったことくらい、重々理解している。

 

「別に『今はまだ必要だ』って言っただけで、いつかは捨てるよ。そりゃ」

「ぶっ壊していいの!? やったー!」

 

 うわ、物騒なのにいい笑顔。なんだこいつ。いいけどさ。

 

「全部終わったら好きにしろよ。粉々にして燃やして焼き芋でもしよう」

「可燃ゴミじゃないのよ!?」

「芋食いてぇな。次はめちゃくちゃポテトサラダ作ろうぜ」

「……あんたもしかして、ご飯のことしか考えてない?」

「最近はな」

 

 咲耶は、にまーっと満足そうにこちらを見ていた。……なるほど。そもそも料理を教えるだのなんだのは、こっちを心配しての口実だったな。

 

「人間として何点?」

「六十点あげる!」

「採点が甘すぎる」

 

 自己評価より二十点も高いとか、どうかしている。

 

 

 

 物騒な話題もくだらない話も全部、同じように消費して、共有する時間。日に日に、どちらかの家にいる時間が長くなってきた今日この頃。隣の居心地はぬるま湯のようで、まあいいか、と少し思ってしまう。まあ、こんな日常が続けば。それでもいいか……と。

 そんなことを考えて。ふと、思い至る。

 

「なあ、咲耶。もしかしておまえは、『このまま』がいいのか?」

「ええ、その通りよ。相変わらず察しがいいわね?」

 

 ……残念ながら、咲耶が昨日、俺をフッたことは揺るぎない事実らしい。

 あーあー。もしかしたらアレ、夢かもしれないと期待したのに。上手くいかねーなー、現実。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 『このまま』がいいわけを聞こうと思ったのだが。のらりくらりと雑談に躱されたまま、食事どころか後片付けまで終わってしまった。

 忘れていた。ある程度の論拠がなければ、延々としらばっくれられる、ということを。

 すれ違いそうになったら嘘も隠し事も無しだ、と前回の反省で約束はしたが。そもそも『話したくないことは話さない』というルールも健在だった。

 自分の事情(こと)をあまり話したくないのは、どちらかというと俺の方だったりする。人間、墓まで持っていきたい秘密のひとつやふたつ……いくつだっけ? まあ、あるものだ。だから俺も、咲耶に「ヤダ」と突っぱねられたらそれ以上は聞けない。その一線は、今も絶対だ。

 

 なので、どうしても真意を吐かせたいのなら。事前に外堀を埋めておかなければならなかった。なにせ人間は、図星を指されたら真相を吐かざるを得なくなるものだ。推理ドラマで見た。犯人を追い詰めるシーンとかで。

 

 しかし、どう埋めるべきか。外堀。

 考える。

 ……そういや芽々が『本棚は人を筒抜けにします』とかなんとか言ってたな。試してみるか。と、咲耶に「また本貸してくれ」と言ってみる。「お好きにどうぞー」と言われたので、そのまま書庫部屋に入った。

 

 部屋の本棚にはぎっしりと分厚い本が詰まっており、ついでのように映画のディスクも並べられていた。本の種類は、新しそうなライトノベルから古い海外文学、大人っぽい実用書まで幅広い。それに比べると漫画は随分と少なかった。

 ……なるほど、うん。

 

「全然わからん」

 

 駄目だ。分析しようにもやり方が不明だし、雑多すぎる。

 強いて言うなら、咲耶が好きそうだと予想していた少女漫画の類がまったく見当たらないのが、気にかかるが……それよりもB級ホラー映画のDVDが視界にちらついて仕方ない。

 そうして、本棚の部屋で三十分ほど粘っていたのだが。わかったのは、俺は探偵にはなれないということだけだった。

 

「あら。まだ本探していたの?」

 

 いつの間にか咲耶は、白いワンピースのような寝巻き姿になっていて、髪が少しだけ湿り気を帯びている。風呂上がりだった。俺がこの部屋にいる間に入ってきたらしい。髪からほのかに柑橘の匂いが漂ってくるものだから、避けるように距離を取る。

 

「だからおまえ、俺がいるときに風呂入るのやめろよ」

「大丈夫。今度は鉢合わせないように、扉に看板かけといたわ」

「なるほど頭いいな……って、そういう問題じゃないんだよ」

 

 相変わらず危機感がゆるっゆるだこいつ……。

 

「あなたがいるから下着でうろつくのもやめてるのに?」

「俺がいないとやってるのかよ」

「……あっ、ごめんね。わたしが窓から急に入るせいで、あなたは部屋で服脱げないのに……わたしだけ不公平だったわね」

「違う。公平とかそういう話じゃない」

 

「わたしは別に、あなたが部屋でパンツ一枚でいるのを見ても気にしないからね!」

「俺が気にすんだよドアホ!!」

 

 貞操観念どうなってんだよ。

 

 

 

 

 

 

 方便として本を貸してくれ、と言ったので。何か適当に見繕ってもらう。

 ろくな分析こそできなかったものの、本棚を眺めたおかげで、気になっていたことを思い出した。

 

「そういや咲耶ってさ、翻訳文学の女みたいな喋り方をするよな。お嬢様だからか、と思ってたけど。元々庶民ってことは、その口調も演技なのか?」

「ううん。これは昔から」

「なんで」

 

 咲耶はほんの少し黙り、「まぁ、あなたにならいいか」と、答える。

 

「──友達がいなかったの。『文月』になる前の、昔のわたしって。それで、本ばかり読んでいたから。気付いたら喋り方がこうなってたわ」

 

 昔の咲耶、というのはおそらく、俺の知るどの彼女とも違うのだろう。本当は根暗なのだ、というがあまりぴんとこない。

 

「おかげで養子に取られた後も、言葉遣いに苦労はしなかったから。人生、どこで何が役に立つかわからないものねー」

 

 なんて笑いながら言う。あまり軽い話題には思えなかったが、意外とすんなり教えてくれた。……そのくらいの信頼はある、ということだろうか。

 

 ならば。

 

「そろそろ聞いてもいいか。前、聞けなかったこと」

「なぁに?」

 

 五月の屋上で、話をした時のこと。

 友達になろうなんて小っ恥ずかしい提案を大真面目にした時のことだ。

 

「咲耶はさ、なんでわざわざ面倒くさい『演技』なんてしてたんだ?」

 

 あの時の咲耶は、返答に沈黙を選んだが。今の咲耶は、へらりと笑って、なんでもないことのように言った。

 

「ああそれは。ほら、わたしって庶民だったのに、ある日突然お嬢様になってしまったわけじゃない? ボロが出ないように常に演じてたら……素の出し方を忘れちゃったの」

 

「あなたのおかげで、素を思い出したけどね」と咲耶は肩を竦める。素も時々、芝居がかっていた。

 

「くだらないでしょ?」

「そうだな。よくもまあ、そのグダグダの素を隠し通せてたなと思う」

「うっ……」

「あの頃はみんな、文月に騙されてたってわけだ」

 

 俺ですら、最近まで気付かなかった。 

 

「それって、結構すごいんじゃないか?」

 

 俺の返しが予想通りではなかったのだろう。咲耶はぱちぱちと目を瞬く。

 

「なんだよ。俺は『くだらない』とか言わねぇよ」

 

 だって。咲耶は、俺のためにわざわざ魔女を演じていたくらいだ。

 なんでそうなる、思考が明後日だ、とは思う。けれどそれに助けられたのも事実で、咲耶自身は大真面目だったことくらい、わかっている。

 

「それにおまえ、アホなことさえ言わなければ今でも結構、ホンモノのお嬢様っぽいし」

 

 たとえば、ぴんと伸びた背筋だとか。食器の使い方が綺麗なことだとか。そういう些細な所作の端々に育ちの良さを錯覚するのだ。……実際の育ちが、何にせよ。

 

「嘘も貫き通せば本物って言うだろ」

 

 というか素を知っているのが俺だけなら、俺以外の誰が咲耶のこれまでを認められる、という話だ。

 ──だから、俺くらいは。どんなにくだらなくても、彼女の努力のすべてを肯定してもいい、と思った。

 

「やるじゃん、エセお嬢様」

 

 咲耶は目を丸くして。

 

「……わたし、今、褒められた?」

「褒めた褒めた」

「全然褒められた気がしないのだけど」

 

「えー? おかしいわ」とかなんとか微妙な反応。

 

「でも……褒めてくれたのは、あなたが初めてかも」

 

 咲耶はふっと頬を緩めた。

 

「ありがと」

 

 いい顔をするようになったな、と思ったのも束の間。

 

 

「ちなみにだけど。お嬢様学校だった中学じゃ速攻でエセがバレたわ!」

「まさかウチの高校に来た理由って」

「公立ならお嬢様ロールもチョロいと思ったからよ!!」

「褒めたのが台無しだな!?」

 

 

 

 咲耶自身のことについては聞けたものの。本題に踏み込むにはまだ足りなかった。

 本棚を見て、もうひとつだけ気付いたことがある。──恋愛小説の類が、見当たらないのだ。本の種類は広範だ。古典から流行まで。なのに恋愛が主題と分かる本が、一冊もない。

 

「咲耶って、恋愛モノは読まないのか?」

「……苦手なのよね」

「なんで」

 

 咲耶は冷ややかな目と声で、言う。

 

 

「わたし、恋って感情、嫌いなの」

「……は?」

 

 

 今、何言った?

 

「おまえ、俺のこと」

 

 好きって言ったのに!?

 

「ええ、好きだったわ。初恋だった」

 

 さらりと言う。なんでもないことのように。あのいちいちとわかりやすい反応をする咲耶が。不自然なまでに平然と!

 

「どういうことだよ……」

 

 咲耶が長い前髪を弄る。赤目は手元に隠れて、見えるのは元の彼女自身の暗い瞳だけ。

 

「だって。終わった恋は思い出だもの。──思い出は、綺麗なものでしょう? 終わった(・・・・)恋は(・・)嫌う(・・)理由が(・・・)ない(・・)

 

 何故か、奇妙な定義を聞かされていた。

 

「恋を追うことは、汚くて破滅的だわ。綺麗なのは終わった恋だけ。許されるのは愛だけよ。──わたしは、文月咲耶(わたし)をそう定義している」

 

 頭が混乱してくる。これは一体、何の呪文だ?

 だが、彼女がなんの魔法も使ってないのは自明だった。

 ……いっそ、これが何かの詠唱ならば対処のしようもあった。おかしなことに、これは『ただの会話』だった。

 理解できない、納得できない、だから反論の仕方もわからない。

 柔らかな白いワンピース姿の今夜の彼女には、魔女らしさなんて感じない。

 年相応、むしろ……二年、時が止まっている分、幼くさえ見えた。

 

「……俺とは『そうなれない』って言った意味も、それか?」

「そうよ」

 

 十六のままの少女の顔で。文月咲耶は、理由(わけ)を語る。

 

 

「わたしはあなたを愛しているから──あなたに、恋をしたりしないわ」

 

 

 彼女の顔は。演技や嘘偽りのない、無表情だった。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 あのまま「そろそろ寝る時間だから」と別れて自室に戻る。というか、戻らされた。

 

 俺たちの間における会話は口論の派生だから、勝ち負けが不文律で存在する。

 言い返せなくなった方が負けだ。負ければ従うしかない。

 だからといって、大人しく寝付けるわけがなく。戻った六畳間に座り込んで、考える。

 

『直接聞く』って、決めたからな。ちゃんと聞いた。聞いたけども……。

 卓袱台に頭を打ち付ける。ゴン、といい音がした。いい感じに頭が冷え、いや、冷えるか!

 

「意味わかんねえ!!」

 

 あいつ何言ってんの!? 宇宙語喋ってんの?? 魔女じゃなくて宇宙人か!?

 

 かろうじて。彼女にとって「愛」と「恋」は、決定的に違うということだけがわかって。

 だが、まったく。これっぽっちも飲み込めない。

 

 だって。同じだろ、それ! ほぼ同じじゃないのかおまえのそれは!!

 

 もしかして……俺が調子に乗ってただけなのか? 

 もうだめだ人生。何もわからない。死ぬか。

 

 

 たかが恋愛がこんなに難しいとは思わなかった。……いや、割合器用だった昔の俺でも匙を投げるくらいには難しいものだったか。

 まあ、でも。

 

「……世界を救うより難しいわけ、ないだろ」

 

 物事を単純化する。

 要は、これはいつもの勝負なのだ。

 「友達(このまま)」を維持したい咲耶と、「恋人(このさき)」の確約をしたい俺の。

「関係の定義」を何にするかという。

 

 曖昧に、あやふやになんかはしない。わかりやすく言葉にして定義にして約束にする。そうして面倒事の全部を片付けて、今を作ると決めたのだ。

 

 ──だから、やることはいつも通り。

 アイツに勝つ方法を、考える。

 



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第四話 お茶会で恋話。

 

 これはずっと昔の話。わたしがまだ『文月』ではなかった頃の話だ。

 昔から将来の夢は『素敵なお嫁さん』だった。そんな夢を見た原因は、たった一人の肉親──実母(はは)にあった。

 母親は、嵐のような女だった。自由で奔放、言い換えれば身勝手。そして、とびっきりの『恋愛体質』。 

 いつだって恋を優先し、ろくに家に帰ってくることも……家族(わたし)を省みることもない。わたしはそんな母のことを軽蔑していたし、そんな女のことが嫌いだった。

 

 そしてある時、母は勝手に病を患って、勝手に死んだ。わたしを置いて。病室には最後まで、母の恋人だった人間は、誰ひとりとして訪れることはなかった。

 それを見て、わたしは思ったのだ。──なんて無様な最期だろう、と。

 

 恋なんてもののために、身勝手に生きて。死ぬ間際に手を握ってくれる人もいないなんて。

 そう、ただひとりの娘であるわたしすら。蔑ろにされたこれまでを恨んで、手を握ってやることもしなかった。

 

『ねぇ、ママ』

 

 わたしは、一言一句覚えている。死にゆく病床の母親に放った言葉を。

 

『わたしは、無様に恋を追ったりしないわ。あなたと同じ道は辿らない』

 

 もうすぐ死ぬ母親に。自分と同じ顔をした女に。 

 かつてのわたしは、吐き捨てたのだ。

 

『ざまみろ』

 

 

『わたしは、間違えない』

 

 

 ──紛れもない呪いの言葉を。

 

 その言葉(のろい)が、わたし自身に跳ね返ってくるものだとも知らないで。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ふんふんふんふふーーん」

 

 背中の方から、芽々の鼻歌が聞こえる。わたしはクッションの上で正座したまま、身動ぎひとつできないでいた。というのも。

 

「サァヤの髪、とってもさらさらですね! いじりがいあります……うふふ!」

 

 ここは放課後に招かれた芽々の家で。わたしは部屋に座らされ、芽々に髪を三つ編みにされている最中だったからだ。

 

 ──芽々が協力を申し出たのがつい先日のこと。 転移術式の破片が入ってしまった彼女の瞳を鍵にして、異世界(むこう)と繋がるための魔法を作る。それが当面の方針で、こうして芽々の家にいるのも諸々の調べごとや打ち合わせのためだった。

 ちなみに飛鳥はバイトがあるので欠席だ。『魔術だの魔法だのはわかんねぇからおまえに任せた』と言われている。

 そこまでは、いいのだけど。

 

「どうして、芽々に髪を弄られているの?」

 

 あれ。わたし何しに来たんだっけ……真面目な話をしに来たんじゃなかったっけ……。

 

「え? かわいい女の子を部屋に連れ込んでやることなんて、くんずほぐれずと決まってるじゃないですか」

「その言い方はやめなさい」

「女の子だってかわいい女の子とイチャつきたい、それが宇宙の真理です。具体的には綺麗な髪を見るとムラッときます。サァヤを部屋に連れ込むなり『芽々、我慢できない。今すぐ編ませて〜!』と襲うのも致し方ないことだったのです」

「だからその言い方やめなさいって」

 

 後ろは見えないけど、声の調子はしれっと平坦。絶対に真顔で言ってる。

 

「サァヤってば押しに激よわ! そんなだから芽々の毒牙にかかっちゃうんですね。うふふっ、大丈夫、かわいがってあげますからね……」

「殺すわよ」

「よし、三つ編みかーんせい!」

「無視なの?」

 

 手鏡を押し付けるように渡される。

 

「めっちゃ似合いますよ! 全人類が褒めちぎること間違いナシ!」

「清々しいまでのお世辞ね。……まあ、悪い気はしないけど」

「ちょっろ」 

「…………帰っていいかしら」

 

 そういえば。現世(こちら)に帰ってきてからというもの、自分で髪をいじることはあまりなくなっていた。あまり凝った髪型をしたところで、どうせ眼帯で台無しだ。

 ……でも。いつもとちょっとちがう髪型にしたら、飛鳥は何か言ってくれたりするのだろうか、なんて。編み込まれた髪を見ながら考える。

 

 あいつは結構、無神経なところがあるし。いちいち余計な一言が多いし。察しがいいのか鈍感なのか、時々よくわからないし。でももしかして、もしかしたら『よく似合ってるよ』とか優しく笑って言ってくれたり……しないな。絶対しない。

 あいつは、そう。わたしの三つ編みを見て、せいぜい『おっ今日はしめ縄か? 縁起がいいな』とか言うのが関の山だ。むかつく。想像だけで百年の恋も冷める。元々冷めてるけど。

 なんてくだらないことを考えていたら、芽々が悩ましげにこちらを見ていた。

 

「うーん、せっかくですから着せ替えもしたいですね」

「わたし、人形じゃないんだけど。そもそも服のサイズが合わないでしょ」

「サァヤはおっぱいでけぇ以外は細いからイケます!」

「胸って言いなさいよ!」

 

 

 ちなみに、芽々の部屋は全体的にメルヘンな雰囲気だった。色合いこそ茶色や緑を基調としているものの。恥ずかしげもなく並べられたぬいぐるみや猫足の家具など、細部に少女趣味が宿っていた。珍しいと言えば、高価そうなミシンや洋裁店のようなトルソーが隅に置かれていることだろうか。

 立ち上がった芽々が、大きな木製のクローゼットを開く。

 

「こーゆーのはどうですか?」

 

 クローゼットの中にはレースとフリルがたっぷりとあしらわれた、デコレーションケーキみたいな甘ったるい服が並んでいた。

 

「ヒッ……! そんな恥ずかしい服、着れるわけないじゃない!」

「え、マジ言ってるんですか?」

「なにが」

「サァヤこの前、ヤバ恥ずかしいドレス着てたじゃないですか」

「そこまでじゃないでしょ!」

「今日びソシャゲのキャラでもそんな脱がんてー。芽々、ドン引きでした」

「……そんなに!?」

「その点、こっちは露出ゼロですよ。恥ずかしがる理由とかナイナイ。ちなみに、芽々の手作りなんです」

「えっ。それは、すごいわね」

 

 ハッしまった! 人の作ったものを罵倒するのは魔女でも許されない悪逆だ!! 恥ずかしい服だから、という拒絶理由は封じられてしまった。だが。

 

「ほら、このドレスとかアリスみたいでかわいくないですかー?」

 

 ニコニコとクローゼットから服を引っ張り出す芽々に、わたしは頭を押さえながら、話を逸らすことにした。

 

「……あなた。その手の話が好きよね」

「大好きですね!」

 

 少女趣味で空想趣味でサブカル趣味でオカルト趣味な芽々は、夢見るように目を輝かせる。

 

「砂糖菓子みたいな話が好きなんです。現実には、何の役にも立たないような」

 

 ……どうやら話を逸らすことには成功したが、わたしにはあまり望ましくない方向に逸れてしまったようだ。

 芽々は服を放り出し、隣の本棚へ。一冊、本を抜き取る。その手にあるのはかの〝不思議の国〟の物語だ。

 

「正しさとか教訓とか『くそくらえ!』って感じに描かれた物語は、素敵だと思いません?」

「少なくとも、それは有名な話に言うようなことじゃないと思うけど」

「アリスって教訓的でないことが評価されたお話らしいですよ」

「……それは知らなかったわ」

 

 益体も無い相槌を打ちながら、わたしは頭を回す。

 協力したいと言った芽々の事情は聞いている。でも、本当にそれだけなのだろうか? 

 正直ずっと、この子が何を考えてるのかわからない。飛鳥と同じくらいか、もしくはそれ以上に──いや、あいつは何も考えていなかったか。

 わたしはもう知っている。あいつが、真面目な顔して意外と何も考えてないということを。あれはただの馬鹿です。

 ──だから、あいつに『任せる』と言われたわたしが。この子の真意を見定めなければならない、と思った。

 

 

「教訓のない話が好き、ね」

 

 わたしは立ち上がって芽々の隣に。本棚に並んだ続編の一冊に、鏡の国の物語の背表紙に触れる。本棚は人を表すものだと芽々が言うのなら、その流儀に乗ろう。

 

「なら、そんな物語から教訓めいた意味を見出したりするのは。あなたとしては、いただけない?」

 

 話を深掘りする。この子が何を感じて何を考えるような子なのか、知るために。

 

「アリスの教訓って、『赤の女王仮説』のことですか?」

 

 わたしは頷いた。続編には有名な一節がある。

 

「〝その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない〟」

「エモい一節(フレーズ)ですよね。生存競争の仮説に引用したくなるのもわかります。実際は、ほんの一瞬出てくるだけの脇役の台詞ですけど」

 

 予想通り、芽々はにんまりと笑って。

 

「まじナンセンスですね! ただの言葉遊びにいちいち深い意味を見出すなんて、説教くさくていけません! 芽々、現代文の授業とか超きらい!」

 

 嬉しそうに罵倒する。

 

「それでは折角の砂糖菓子も『ハッカ飴』です」

「お説教ってミント味なの?」

「歯磨き粉味です。大人は歯磨きしろってお説教するでしょ」

 

 理屈はわからないこともないけれど。

 

「……真逆だわ」

「何がです?」

 

「わたし、教訓とか実用性とか、見出すのは結構好きなのよ。……気が合わないわね?」

 

 わたしの探るような挑発に。

 

「そですか? 芽々はサァヤのこと好きですよ」

 

 芽々は、いつもの食えない調子で返すだけだった。

 ……やっぱりこの子、苦手だ。

 

 

 

「くだらない話もここまでにして、そろそろ本題に入りましょうか」

「そうですね」

 

 散々遊んだ芽々は満足したのか、素直にローテーブルの対面に座り直した。わたしは飲みかけのアイスティーに口をつける。

 

「では、早速ですが……」

 

 

 

恋話(コイバナ)から、始めましょっか!」

 

 紅茶咽せた。

 

 

 

「げほっ……本題に入るんじゃなかったの!?」

「本題て『本気の話題』の略ですよ? 恋は真剣勝負つまり本気、コイバナこそ本気話題(ホンダイ)……知らないんですか?」

「違うわよ!!」

 

「まあまあ。いいじゃないですかぁ。ほらどうなんです?」

 

 ずい、と身を乗り出す芽々の目力に怯む。

 

「ち、違うから! あいつとはそういうのじゃ、ないから!」

「まだ誰とか言ってねーですよ? 語るに落ちたな」

 

 ……しまった!

 

「芽々、昔の先輩より今の飛鳥さんの方が好きなんですよねー」

 

 さらりと言う。あだ名はつけたものの、使い分けはするみたいだ。

 そういえばこの前も芽々は飛鳥に「好き」と言っていた。あまりにも自然体すぎて、違和感を覚えなかったけれど。

 

「あなた、まさか……」

「やだなーそんな怖い顔で見ないでくださいよ。芽々はヒトのもの取る趣味ないですから」

「別にわたしのものじゃ、」

「ないんですか?」

 

 ……ない、のだろうか。よくわからない。

 今でもはっきりと思い出せる。あの夜、わたしを正気に引き戻した時の言葉を。

『やるよ、人生。俺なんかのでいいなら』

 あの言葉は状況から見て、わたしを正気に戻す平手打ちのようなもの。レスバは度肝を抜けば勝ちで、わたしは正直レスバに弱いので、特に口説き文句っぽいのはよく効く。勝ち方を選ばない飛鳥が、冷静に考えればヤバい台詞を恥ずかしげもなく言うのは理屈に合っているし、言い放った当の本人が平然としていたから、そういう意味(・・・・・・)でないと思っていたのだけれど。

 ……飛鳥はもしかして、本気だったりしたのだろうか?

 いえ、まさか。人生なんてそうやすやすと他人に渡すわけないじゃない。わたし、冷静だからわかるわ。

 

 黙り込んでしまったわたしを見て、芽々が「なるほど?」と首を傾げた。

 

「もしかしてサァヤ、コイバナが苦手です?」

「そうね。無縁だったものだから」

「それは失礼。コイバナなんて言ったのは半分おふざけです。飛鳥さんのこと、そーゆー意味で好きじゃないし。てゆか芽々、誰のことも好きにならないし……他人(ヒト)の色恋はウケるから好きですけどね! 単に、共通の友達の話をしたかっただけですよ。遊びに行くことをデートと称するようなものですね」

 

 比較的真面目なトーンで撤回する芽々。この子は無神経なようで、聡いし気が回る。癖が強いけれど、悪い子ではないのだ。きっと。

 

「気を遣わせてしまったわね」

「いーえー」

「でも部屋に連れ込んで襲うのは礼儀に反してないかしら」

「のこのこ入ってくる方が悪くね?」

「なんでよ」

 

 

 

「それで、サァヤってば昔の陽南先輩の話とか、聞きたくないですかー?」

 

 それは正直すごく聞きたい、けど。

 

「……やっぱり昔とは違って見える?」

「もう、ぜーんぜん! 先輩ってば、芽々が何言ってもニコニコ親切、年上の余裕を崩さないって感じでしたもの」

 

 ああ、やっぱり──

 

「でも芽々は今のひーくんの方が、意味不明で好き!」

 

 芽々は屈託のない笑顔で言った。

 その言葉に、わたしは正直、どうかと思った。気分を害されたと言ってもいい。

 ──今の方が好き、なんて。何も知らないから言えるのだ。

 でも、そんな負の感情以上に、心底から『よかった』とも思ってしまった。飛鳥の友達にそう思ってくれる子がいてよかったと。

 苦笑が漏れる。

 

「意味不明……そうね、ふふっ。あいつ、断食しようとして死にかけるしノリで出家しようとするし」

「何それ、こわっ。こわ!」

「まだあるわよ」

「ヤバ。じゃあ芽々も色々チクっちゃお!」

 

 話に花を咲かせる。甘ったるい話はできないけれど。

 飛鳥(ともだち)のことを好きなだけ話せるし、聞けるというのは、結構楽し…………楽しかったのだけど、芽々から聞いた一部始終に、痛むこめかみを押さえる。

 

「あいつ……わたしがいないと駄目だわ」

「ほんまな。ちゃんと手綱握ってろください」

 

 しっかりしよう、と思った。

 わたしが……わたしがなんとかしなきゃ……。

 

 

 

「で、咲耶さん。ここから本当に本題なんですけど」

 

 芽々がすっと真顔になる。真剣なトーン、証拠にわたしをあだ名で呼ばなかった。

 

「ぶっちゃけ、芽々のこと信用してないでしょ」

 

「そうでもないわ」

「いや、わかりますって。めっちゃぴりぴりしてましたもん」

 

 もしかして、最近のわたしは演技が下手になっているのだろうか?

 

「だから芽々はサァヤのあんなところやこんなところを揉みほぐそうとしたわけですし?」

「緊張を解きほぐす、ね。確かに肩の力は抜けたわ」

「ならぶっちゃけな話もできそうですね」

 

 芽々は眼鏡を外す。レンズに阻まれることなく、くっきりと見えるようになった瞳の輝きが、こちらを真っ直ぐに射る。

 

「サァヤは『この世界にファンタジーが存在する』と知っているのと、まったく知らないの、どっちがしあわせだと思います?」

「……知らない方、かしら」

 

 余計なことは知らないでいられる方が幸福だ。

 

「ええ、芽々もそう思います。知っちゃったせいで、芽々は本気で夢見ちゃいましたから。──ある日突然、本当の魔女に出会えるんじゃないかって。でも、現実は現実なので。『魔術師』はいても、本物の『魔女』はいないのです」

 

 地球(こちら)では、魔術は理屈で魔法は理外、魔法を使うのが魔女/魔法使いらしい。異世界(むこう)の定義はどうなのかというと、あまり違いはない。わたしたちは適当に日本語に翻訳して話しているだけだ。

 

 つまり芽々曰く、おとぎ話のような魔女というのは。現代では滅んでいるのだという。

 

「だから、空から魔女が降ってくることはない。……ないと思ってたのに」

 

「──貴女たちが落ちてきた」

 

「その時の芽々の感動がわかりますか? 芽々はずっと、魔女に憧れ続けて生きてきた。貴女は存在するだけで、芽々の夢を叶えているのです。だから知りたい、近付きたい、憧れて(・・・)いる(・・)。それが芽々の、嘘偽りのない本音です。芽々が貴女がたに協力したい理由です」

 

 わかっていたことだ。この子は多分、勘違いしている。 わたしたちのいたあの世界が、空想のように素敵なモノだったと。

 何も(・・)知らない(・・・・)から(・・)

 

「どうしてそれをこの前、言わなかったの?」

「多分ひーくんには言っても伝わらなさそうなので。あの人ファンタジーに疎いででしょ。でもサァヤなら、わかってくれると思ったんです」

 

 確かに──わたしは、わかってしまう(・・・・・・・)

 

 それは幼い頃のわたしが、芽々と同じような夢を見ていたから。ある日突然、魔法使いが願いを叶えてくれるような人生を、夢に見ていたから。そして、芽々があまりにも熱っぽく『憧れ』と口にしたからだった。

 わたしはどうにも、その感情を理由に持ち出されると弱かった。それはわたしが……かつて、陽南君に惹かれた理由が憧れ(そう)だったせい。

 

 理性は疑うべきだと言っているのに。心がすとんと、納得してしまう。

 ──この子は本気で言っている、と。

 

「どうか芽々の気持ちを、受け取ってください。……といっても、気持ちにはなんの値札もつかないのでー」

 

 芽々は立ち上がって、机の引き出しから綺麗な箱を取り出した。

 

「はいどうぞ。お気持ち、という名の賄賂です」

「何、これ」

「芽々の眼鏡と同じ仕様のコンタクトです。これでサァヤのオッドアイも隠せるかと」

「…………そういうのって、どこで手に入れるの?」

「フツーに、ちょっとオカルトに詳しい眼鏡屋さんに行けば買えますけど?」

 

 さらっと言った。

 

「それ……やっぱりこの世界、結構ファンタジーじゃない? 大丈夫? わたし、滅んでるはずの魔女なんだけど。バレたら終わりじゃない??」

「大丈夫ですってー。どーせサァヤたちは見つかりませんから!」

「見つかるとヤバいって意味よね、それ!?」

 

 まあまあ、と芽々はわたしを宥めて言う。

 

「ともかく。これでデートの用意はばっちり、でしょ?」

 

 そういえば、芽々は教室での話を聞いていたのだ。わたしは返事に詰まって、かろうじてお礼を返す。

 

『賄賂』と言うなら、突き返すのが正しいのだろう。けれど受け取ってしまった。正直に言って、喉から手が出るほど欲しかった。

 

 ……本当は、ずっと気にしていたのだ。隠さないといけない目ことを。飛鳥に野暮ったい眼帯を見られることを。 

 だから素直に……喜んでしまって。喜んでしまったから、自覚してしまった。

 

 深夜に会いに行くだけなのに、わざわざ化粧を直していたのも。

 あいつの右を歩けない代わりに、眼帯の方を見られずに済むと考えたことも。

 一緒に夕飯を食べるだけなのに、いつも私服に悩んでいるのも。

 髪型を変えた時のあいつの言葉に期待をしたのも、全部。

 ──いつだって彼には、一番綺麗なわたしを見て欲しかったからだ、と。

 

 論理的に考えれば、気付いてしまう。言い訳も逃げ道も思い付かない。結論に辿り着いてしまえば、目を背けられない。

 どう考えたってそれは……そういうこと(・・・・・・)だ。

 

 ……でも、わたしが本当に見て欲しかったのは──。

 

 苦虫を噛む。終わらされた恋が、まだ、終わっていなかったことを理解する。

 

 

 ああ、やっぱり。

 ──わたしはまだ、陽南君(かれ)のことが、好きなんだ。

 



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第五話 もはや公認と言っていい。

 これはすこし昔の話だ。

 まだ『文月』でなかった頃のわたしは、うっすらと毎日が憂鬱だった。

 母親のろくに帰ってこない家。友達のひとりもいない学校。それが世界のすべて。

 何も持っていない昔のわたしは、伸び過ぎた背を縮めて地面ばかりを見て、息を殺して生きてきた。

 だから夜毎、夢に見ていたのだ。いつか、窓から素敵な魔法使いがやってきて。わたしに魔法をかけて。ここではないどこかへ。連れ出してくれる日が来ることを。ただ祈っていた。憂鬱な毎日が終わり、劇的に世界が変わる日が来ることを。

 そして十二の頃──祈りは聞き届けられ、夢は叶えられた。

「ある日突然お金持ちの家の養子になる」なんてことで、安っぽいほど劇的に世界は変わった。わたしは文句の付けようもなく幸せになった。

 けれど。たとえ世界が変わっても、中身は変わらない。十二年かけて培われた人格は、そのままだ。臆病で卑屈で陰気で頭が悪くて鈍臭い根暗女、どうしようもないわたしのまま。そんなわたしを、誰が愛するというのだろう? 

 

 わたしの境遇はいわば、念願かなって魔法使いに舞踏会に送り出されたようなもの。けれど、めでたしめでたしで終わらないのが人生で、幸せになったそこからが本番で。魔法が解けないように、踊り続けなければならなかった。

 だからわたしは『完璧』になろうと思った。本当のわたしを包み隠して、嘘とはりぼてで、優等生を演じる道を選んだ。そうして誰に嫌われることもない「文月咲耶」を作ったのだ。

『わたしは間違えない』と(のろ)った日からずっと。作り上げた「文月咲耶」の価値を示し続けることが人生の意味だった。

 

 そのためならば家の決めた婚約だって喜んで受け入れる。

 恋なんていらない。本当のわたしなんて愛されなくてかまわない。一生、嘘吐きのままでいいから。『完璧』だけが欲しい。完璧でさえいればきっと幸福でいられるのだと、曇りなく信じていた。

 ──それが、文月咲耶(かつてのわたし)のすべてだった。

 

 

 だけど。ある日突然別世界に落っこちて、現実の世界に帰ってきたあとにはもう、積み上げたものの価値は全部なくなっていたのだから。笑えない話だ。

 ……まあでも。あいつの家が更地になっていたことよりはましだろう。わたしは一応、『おかえりなさい』くらいは言ってもらえたのだし。

 そう、別に昔のことなんて大した話ではないのだ。十八のわたしは今紛れもなくしあわせで、大事なのは今だけだ。

 

 だから──今が、ずっと続けばいいのに。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 咲耶が芽々の家に行っている頃。俺は何をしているかというと、普通にバイトである。

 バイトはいくつも掛け持ちしているが、今日は例の喫茶店だった。喫茶木蓮。店内はコーヒーよりもカレーの匂いがすることが多い、駅前のレトロな店だ。

 夕方、仕込みのために入り口には『準備中』の札がかかっているため客はいない。今日シフトに入っているのは俺だけだ。

 ホールでひとり、掃除をしながら考える。当然咲耶についてのことだ。

 あの珍妙な恋愛定義に対して反論が思いつかないわけではない。でも、わからないのだ。咲耶があんな、どう考えてもおかしい理屈を言い放った理由を俺は知らない。向こうも話す気はないのだろう。思考の深いところやそれに関わる生い立ちは絶対に話したくないものだ。

 

 …………いや、面倒くせぇ!!

 まず対話しろ、と言ったのは俺だけども。今ならこの前、咲耶がいきなり喧嘩を売ってきた理由がわかる。

 もう面倒くさいから全部ジャンケンで決めようぜ。俺が絶対に勝つから。

 

 などと、上の空で延々と同じところを掃除し続けていたら。喫茶店のマスターがいつの間にか厨房からひょっこりと顔を覗かせていた。

「何か悩みでも?」

 

「ええ、まあ」と曖昧に返事をすると。マスターは髭を撫でながら言う。

 

「なるほど……では、カレー食べますか? それとも作りますか?」

「なんでそうなるんです」

「いや、なに。無心でスパイスを練る工程は瞑想や座禅に通ずるものがありますから。ついでに香辛料の刺激が脳によく作用し、閃きを得られるやもしれません」

「なるほど……?」

 

 一理ある、のか?

 

「まあ僕は君の悩みなどどうでもよく、いたいけなバイトをカレーの深淵に引き摺り込みたいだけなのですが……」

 

 好々爺然とした笑顔のまま、本音をバラした。身も蓋もない。心配されていたわけではないらしい。

 

「マスターって芽々に似てますよね」

「逆ですがね。よく言われます。祖父ですから」

 

 というか祖父って……今思うと、色々あやしくないだろうか? 自分は魔女の家系だのなんだの、ヤバいことを芽々は言っていた。

 じっと見つめてみる。カタギじゃないなら、なんかヤバいオーラとか漂ってないかと思ったのだが。

 

「なんです? 髭にカレーでも付いてますか?」

「いや、なんでもないです」

 

 やめとこ。触らぬ神に祟りなし。怪しいものには近付かないのが長生きのコツだ。

 

 

 

 などと無駄話をしている内に、喫茶店のドアが開く。

 

「では、お願いしますね」

「あれ、今は準備中じゃ?」

「ええ、事前にこの時間に来ると聞いていたので。特別に」

「なるほど?」

 

 わざわざ準備中に来るということは、マスターと仲の良い常連客だろうか?

 と思ったが、客は見覚えのない女の人だった。和服を着た妙齢の美人だ。妙齢は誤用の方で、若くはないが綺麗に歳を重ねている。茶道とか花道とかの先生をやってそうな雰囲気、とでもいうだろうか。所作がやけに上品だった。

 普段まじまじと客を見たりはしないのだが。なんだろう。何故か気になる。既視感とでもいうか。会ったことがあるような、ないような……。

 俺が忘れている誰かだろうか? ザルになってる記憶をさらうが、思い当たらない。思い出せないまま「ご注文は」と伺う。

 和服の婦人は目尻を下げて俺を見た。値踏みされているような視線に、少し肌が寒くなる。どこか色香のある微笑みを浮かべて。

 

「注文はそうねぇ。まずは、あなたを頼めるかしら」

 

 は? 店員に絡む迷惑客か?

 固まった俺に構わず、微笑む女は言う。

 

「あなたが、陽南君ね」

「なんで名前を」

 

 その確かめ方は初対面のそれ。

 ……いや、怖い怖い怖い。ストーカーか? さては最近、視線を感じた理由はこれか!?

 返答次第でそのまま通報しようと、身構える。だが、女は〝当然〟といった態度のまま。

 

「あらぁ。『娘が下宿先に男を連れ込んでいる』と知ったら、相手の素性を探偵でもなんでも使って調べるに決まってるでしょう?」

 

 ──娘。その言葉で既視感の正体を理解する。……ああ、似ているのだ。顔ではなく雰囲気が

 そして和服の女は名乗る。

 

「はじめまして。文月(こと)と申します」

 

 その物腰はしっとりと柔らかで、けれど今すぐ逃げ出したいような威圧感を放つ。

 

「──咲耶(むすめ)がお世話になっているらしいわね?」

 

『あらいけない。お世話になってるんじゃなくて、お世話(・・・)されてる(・・・・)の間違いだったかしらぁ?』と副音声で皮肉が聞こえる。

 気のせいだろうか。

 というか世話されてない。ちょっと毎日ちゃんと飯食ってるか確認されているだけで……あれ? それは、『されている』の範疇に入るのではないだろうか。これ以上考えるのをやめよう。

 

「……とりあえず、俺以外の注文を伺います」

 

 文月母は当たり障りのなくコーヒーを注文した後に、流麗な声で「プリンアラモードを二つ」と言った。

 ……二つ?

 

「あなたは何にする?」

 

 あっ、一人で二つとも食べんの!?

 

 

 

 

 

 文月母が何故か俺に会いにきた──その目的が何かはまだわからないが、状況は理解した。

 つまりこれは〝敵襲〟だということ。そして、突然の二者面談が始まろうとしているということ。あと、咲耶の継母(ははおや)は怖いということだ。

 

 どちらかというと俺は奇襲を仕掛ける側だ。実は正面から正々堂々とか好きじゃない。確実に勝ちたい。

 つまり、なんの前触れもない襲撃と倒し方のわからない敵は苦手だった。

 

 厨房に戻りマスターには事情を話すとあっさり休憩を貰えた。

 いや「いってらっしゃーい」じゃねえんだよな。さては知ってただろ、襲撃。事前に言ってくれても良くないか、俺の客だって。チクショウ……。

 自分用のコーヒーに小豆と蜂蜜と生クリーム全部入れないとやってられない。

 

 

 

 

 文月母の待つテーブルに注文を届けて、対面の椅子に座る。二つのでかいプリンアラモードを前にした和服の妙齢の美女、という絵面は珍妙で、なのに神妙な態度で構えているものだから頭が混乱してくる。

 が、気を引き締める。

 ──咲耶は確か「家に厄介払いされた」というようなことを言っていた。穏やかに話せる相手ではないだろう。

 不意の襲撃こそ許したが。先制、切り出すのはこちらから。単刀直入に聞く。

 

「咲耶を連れ戻しに来たんですか」

「どうしてそう思うのかしら」

 

 文月琴は山ような生クリームを崩しながら静かに返す。

 

「常識的に考えて──」

 

 原因不明の事件で二年失踪していた子が帰ってきた時。果たして親は真っ当に受け入れるだろうか?

 俺の家はそもそもそれどころではなかったので、気が回らなかったが。正直、まともに考えたらあり得ない。

 いくらこっちが事件については記憶喪失を装っているとはいえ。他人が事情を深く気にしないよう魔法で認識を誤魔化しているとはいえ。流石に家族ともなれば他人事ではないのだ。気にするに決まっている。

 ましてや、文月の家は今時婚約をとりなすほどの厳格な旧家らしいのだから。

 

「……一緒にいなくなっていた男なんて、近付けたくないことぐらい俺でもわかります」

 

 その辺も考えて帰ってきたばかりの頃には、これ以上咲耶に関わるまいと思っていたのだが。なし崩しになったからと現状に甘えていたツケがここで来たな。

 文月琴は鷹揚に頷く。

 

「ええ、まともに考えたらそうでしょうね」

 

 はっきりとしない物言いに違和感を覚える。楚々とした雰囲気の和服美人は、デパートの屋上みたいに賑やかなアラモードを突つきながら。

 

「でも知っているのよねぇ、ウチは旧家だから。神隠しが本当に起こることくらい」

 

 そう、ふわふわとした調子で言った。

 

「……はい?」

 

 いや待て。さらっと言ったけど。え、現世……神隠し起こるの? こわっ!?

 

「だから、そういう問題ではないわ」

「なら……婚約関係で連れ戻しに?」

 

 破談になったとは聞いているが、新しい相手を用意したから身を引けとかいうアレだ。多分きっと、古い家はそういうのがあるんだろう! 俺は庶民だからわからないが!

 

「いいえ。元々、娘が嫌がったら辞めるのが前提の婚約だったし、望まれない限り新しい縁談を用意するつもりはありません。今西暦何年だと思ってるの? いやだわぁ」

 

 ……あれ? 肩透かしだ。

 

「じゃあ、何の話をしに?」

「だぁって、大事な娘がダメ男に引っかかっているかもしれないなんて嫌だわ。そう思わない?」

「俺も嫌ですね。咲耶が変な男に引っかかっていたら」

「あらぁ、気が合うわねー」

 

 うふふと笑う文月琴。

 

「だから、確かめに来たのよー」

 

 ……あっ、俺、ダメだと思われてる?

 まあ思うか。金ないし……金以外も色々ないし……。

 逆に何があるんだ取り柄。ちょっと魔王倒せますね。あとお宅の娘さんにマウントをとって勝てます。

 どう考えてもダメだった。俺はダメです。

 

「やっぱり連れ戻しに来たのでは」

「あなたの答え次第かしら」

 

 微笑んでいるが、目が笑っていなかった。

 

 

「──お付き合い、なさってるの?」

 

 

 ……なんと答えるべきか。 

 俺は知っている。こういう時、嘘は有用ではないのだ。

 姿勢を正す。

 

 

「咲耶さんとは、健全な友人関係を結ばせていただいています。──生涯を前提に」

 

 

 文月母は豆鉄砲を食らった鳩のように目を瞬き、そのまま吹き出した。

 

「……あっはは! ほら、やっぱり変な子だった!」

 

 それは淑やかな外見に反して、割合プリンだのなんだのが似合う、とっつきやすい笑い方だった。

 

「やっぱり、って?」

「娘はきっと男の趣味が悪いだろうなと思っていたのよ。当たったわぁ」

 

 俺にも咲耶にも失礼だ。悲しくなってくる。

 そっか……咲耶は趣味が悪いから俺のこと好きだったんだ……そっかー……。

 

「でも悪い子じゃないみたいね。調べ通り、生真面目で実直だこと。安心したわ」

 

 くすくすと笑うのをようやくやめた文月母は、穏やかな目でこちらを真っ直ぐに見た。

 

「あの子を、よろしくね」

 

 返事は迷わない。

 

「はい」

 

 文月母は満足したように頷き、会話は途切れた。

 

 

 ……あれ? これで終わり?

 まだ何かあるんじゃないかと身構えていたが、特に何も言われないままだ。敵襲はどうやら乗り越えたらしい。 

 

 ……なんか、なんとかなったなこれ! 完!!

 これはもはや、親公認の仲と言っても過言ではないのでは!?

 

 頭の中、全力でガッツポーズをかました後。急激に冷静になる。

 いや、そもそも付き合ってなかったわ。一番大事なことを忘れていた。

 

 

 先の質問から考えて、文月母はどうやら勘違いしているようなので、とりあえずその辺の誤解を解くことにする。

 

「あら、恋人ではないの? 友人関係というのはただの建前ではなくって? ……え、本当に? 生涯を誓ってるのに??」

 

「その辺はまあ、学業とか諸々を優先して。あと現状、何故か咲耶にはフラれてますしね」

「どうして??」

 

 おい咲耶。母親すら困惑しているぞ。流石にこれは俺のせいじゃないだろ。

 あとなんか親と不仲っぽい雰囲気出してたけど、多分誤解だと思うぞ。話した方がいいよこれ。ちゃんと。

 空になったアラモードのガラス皿(ひとつ目)を脇に除けて、文月琴は僅かに身を乗り出した。

 

「ちょっと詳しく聞いてもいいかしら」

「むしろ聞いてください、お義母さん」

「あなたにお義母さんと呼ばれる筋合いはありません! なんてね。ウフフ」

「小芝居、お好きだと思いました。……琴さん」

 

 仲良くなった。

 

 

 

 ことのあらましをぼんやりと説明する。そして気付いたのは、文月母あらため琴さんと俺の間でそもそも「咲耶」への認識がズレていることだった。

 咲耶の猫被りはどうやら筋金入りで、家族すら完璧な優等生の顔しか知らなかったようだ。嘘だろ。

 なので、まずその辺をバラす。

 許せ咲耶。おまえが面倒くさいのが悪いんだ。

 

「まず、俺の知る咲耶は思い込みが激しくて、極論を唱えがちで、最終手段に踏み切るまでが異様に早い、危ないやつなんですが」

「…………ええ?」

「努力家で根性があって、それは美点なんですが、発揮する方向性が大体明後日なんで。結果、人を巻き込んで盛大によく転けます」

「…………えぇ」

 

 琴さんは沈痛に額を押さえた。同じような反応、普段の咲耶でもめちゃくちゃ見るなと思った。

 血が繋がっていないので当然顔は似てないのだが、喋り方や所作がよく似ている。咲耶も将来こんなふうになるんだろうか。いいな。……と思って、このままだとそんな未来がないことに気付いて少しイラッとする。

 

 俺の話した散々な咲耶の評価に、琴さんは眉を寄せて聞いた。

 

「本当に、うちの娘のことが好きなの……? 大丈夫なの?」

 

 おい咲耶。言われてんぞ咲耶。反省しろ咲耶。

 なんで俺が引かれてるみたいになってるんだよ。

 

「呉越同舟の乗り掛かった泥舟って感じですかね」

「出来れば別れることをお勧めするわぁ」

「はは。心配されているのが咲耶じゃなくて俺になりましたね!」

 

 娘がダメ男に引っかかってないか心配した親が、自分の娘のダメ加減を知ってしまう……まったくひどい話である。

 

「陽南君、悪い女に騙されちゃダメよ」

 

 まあ、泥舟だろうが船頭が誰だろうが、俺は山の頂上まで登りきるのだが。

 

「ところで。なんでいきなり俺に会いに来たんです?」

「娘に恋人について聞くのはデリカシーがないとは思わなくて? 嫌われちゃうわ」

「だからって直接相手に会いに行くのはもっとどうなんですかね!」

「……?」

 

「?」じゃないんだが。

 素行調査とかいう最終手段をいきなり使うな。聞けよ、咲耶に直接。まず対話しろよ!

 もしやズレてんなこの人。ズレ方が親子そっくりかよ。

 

 

 

 さて、ここまでぶっちゃけた理由はシンプルだ。娘の演技に気付かなかったとはいえ、琴さんは俺なんかよりも咲耶をずっと知っているはずだ。だから例の理由もわかるかもしれない。

 

「恋を嫌う原因に、心当たりがあるわ」

 

 琴さんは、俺を品定めするように目尻を下げた。

 

「──あの子の呪いを、解いて欲しいの。頼めるかしら」

 



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第六話 わたしの初恋、再想。

 

 わたしの矛盾(のろい)は、恋を嫌いながら恋に憧れたことだった。

 

 

 ◆

 

 

 ──ほんの少しだけ、昔の話だ。

 それは未だ色褪せない初恋の記憶。向こうの世界に落ちた後も反芻し続けた、文化祭の喧騒遠い二人きりの教室での思い出。その、続きの話だ。

 

 夕陽の射す教室で、たわいもない話をした。

 かつての陽南君にわたしは元々淡い憧れを抱いていたけれど。その時交わした話の内容こそが、わたしが明確に彼に恋をしたきっかけだった。

 あたり触りのない世間話の途中。話の種になったのは彼がわたしにくれたコーヒー、それについていた懸賞の応募券のことだった。──懸賞の一等は、行き先を選べる旅行券だという。

 

「いいよな、こういうの。夢がある」

 

 彼がそう言ったからわたしは訊ねたのだ。何気なく。

 ──もしも、どこにでも行けるチケットがこの手にあるのなら。

 

「陽南君は、どこに行きたい?」

「どこにでも、かぁ……」

 

 彼は分厚い眼鏡の奥で両の黒目を輝かせて、迷わず言ったのだ。

 

「なら、一番遠いところがいいな!」

 

 飛行機で何十時間もかかるような、はてしなく遠い場所に行きたい、と。

 

「世界の果てって感じで、なんかいいだろ?」

 

 好奇心と憧れだけで、屈託なくそう語る彼の目が眩しくて。わたしは二、三度瞬きをした。

 

「俺さ、いつかすげえ遠いところに行くのが夢なんだよね。未来の懸賞には宇宙旅行があったりするんだろうなー」

 

 けれど眩しいのは窓の夕陽のせいではないと示すように、心臓がとくとくと早鐘を打っていた。

 別にこれは、なんでもないたとえばの話だ。ただの雑談のはずだったのに。

 ……何かとてつもない、秘密を聞いてしまったような気がした。

 後に相槌と返答。雑談を広げて、いくつ言葉を重ねても、鼓動の速度が緩まなくて。多分これが恋なのかもしれない、と思った。けれど。

 

「文月は、どこに行く?」

 

 と、彼が聞き返した時に、心臓がぴたりと止まった気がした。

 

「わたしは…………」

 

 わたしは、うまく答えられなかった。自分から話を振ったくせに。いつもなら上手に話せたはずなのに。

 当たり障りもない、いかにも『文月咲耶』が答えそうな旅行先すら、でっち上げることができなかった。気付けばわたしは、何も取り繕わずに話してしまっていた。

 

「どこにでも行けることになったとして……わたし、どこにも行かないかもしれない。きっと選べない」

 

 零れてしまった場違いな返答に、陽南君は気を悪くもせず。

 

「いいんじゃないか? 行きたいところが沢山あるってことじゃん」

 

 わたしの本音(ことば)を、否定しなかった。

 

 わたしがわたし自身の言葉を肯定されるということ、それは猫を被るようになってからはすっかりと覚えがなく、なんなら幼い頃だってろくに経験がない。だからきっと、嬉しかったんだと思う。けれど、それ以上に。

 つきり、と心が痛んだ。

 ──ああ、この人は。わたしと本質的に真逆なんだ、と。

 

 ……ちがう。ちがうのよ陽南君。わたし、行きたいところが沢山あるのではなくて。

 わたしはどこにも(・・・・)行きたくない(・・・・・・)だけなの。

 

〝その場に留まるためには、全力で走り続けなければならない〟

 それがかつてのわたしの教訓で、規範(ルール)だった。

『文月咲耶』を演じたわたしの努力はすべて、(ここ)にとどまるためのもの。ある日突然与えられた十分な幸福が、手のひらから零れ落ちてしまわないように、必死で留めるためのものだった。

 

 確かに、幼い頃には願っていた。いつか誰かに「ここではないどこか」へ連れ出してほしいと。魔法使いを、白馬の王子様を、ヒーローを、馬鹿みたいに信じていた。

 けれどその願いはとうに叶っている。わたしは「文月咲耶」になった。だから、そんなものはもういらない。

 「一番遠くまで」なんて夢物語を。わたしには語れないのだ。

 『完璧』を演じて生きる道を選んだわたしは、たとえどこにでも行ける自由と力があるとしても、この場所に留まり続けることを選ぶ臆病者だから。

 ──同じ夢を、同じ願いを、同じ景色を見ることができない。

 

 わたしは、わたしにできないことができる人が好きで。だからわたしは、彼のことを好きになってしまって。

 でも──釣り合わないな。わたしなんかじゃ、あなたには。

 そう思ってしまったから。わたしの初恋は一瞬で、失恋になった。

 

 ──叶わなかった恋の名前はきっと、〝憧憬〟なのだと思う。

 

 

 ◆

 

 

 

 

 芽々の家から、わたしはひとり帰り道を行く。

 日は丁度沈みきったところで、空は薄らと明るい夜の色だった。けれど空に月は見当たらず、もうすぐ新月だったことを思い出す。

 ひと気のない、どこか寂しい道を歩きながら。わたしは自覚してしまったことについて考える。

 

 ──わかっている。

 今更、『完璧』にこだわる必要はない。何故なら、それは既に落としたものだから。今のわたしがたとえ思いのままに振る舞っても、失うものは何もない。

 

 ──わかっている。

 今更、どの口で「恋なんてしていない」と言い張っているのだと。死ぬほど往生際が悪いわたしでも、いい加減認めなければならない。わたしは今でも、彼への想いを捨て切れていない。

 

 ──でも。

 恋を追うことはみっともなくて汚いと、今でも思う。

 だってそれは「思いのままに振る舞う」ということだ。

 根暗で浅ましいわたしの恋心(それ)は嫉妬と独占欲でできている。

 わたしは所詮、わざわざ彼の隣に引っ越して、暇さえあれば彼の部屋の窓を眺めて、半無意識で盗撮未遂し、理由をつけては彼のことをつけ回し、あまつさえ……閉じこめて自分だけのものにしようとするような女だ。

 暴走の末に反省を重ねた今ですら、彼がわたしの知らない女の名前を呼ぶだけで嫌だと思ってしまう。「これは恋ではない」と最大限にブレーキをかけてなお、この有様だ。わたしは、わたしの理性が弱いことをわかっている。

 

 ──だからもし、わたしが本当に欲望(のぞみ)のままに振る舞えば、どうなってしまうのだろう。きっとろくなことにはならない。……それが怖い。

 許されるのは好意と誠意、恩義と憧れ、そして少しの感傷と悟られない量の後悔だけ。それを「愛」と定義して正当化したのだ。

 

 恋、なんかより、そういう真っ当な感情だけを捧げたい。汚い欲をぶつけて(けが)すことなどしたくない。醜い執着なんかには、従いたくなかった。

 ──わたしは彼を愛しているからこそ、恋に身を委ねたりはしないのだ。

 

 それに。昔の陽南君と今の飛鳥の違い。あいつは「大丈夫だ」と言ったけれど。戻れない変質があることは、彼自身もわかっているはずだ。

 ──わたしは、わたしが好きだったあなたがもういないことくらい、ちゃんとわかっている。

 

 それでも愛すると決めたけど。わたしがまだ、昔の彼を好きであることは認めるけれど。

 今の飛鳥に恋は……きっとできない。

 

 だってそれは、どうしたって昔の陽南君への感情が混ざるだろう。

 昔の彼への感情を今の彼にぶつけることは、とてもエゴイスティックでグロテスクだと思う。

 ──寧々坂芽々のように、わたしは今の彼を喜んで肯定することはしない。できない。

 ──わたしの知らない彼の後輩のように、今の彼を否定することもしたくはない。してはならない。

 

 過去(うしろ)には手遅れの失恋。未来(まえ)に進めば醜いエゴでしかない感情。

 例えるならば、わたしたちの関係は結婚する(むすばれる)前に離婚(はたん)してしまったようなもので。

 だから、わからないのだ。いずれ恋人に至る友達以上の関係の、やり方が。

 

 何せ、今のわたしには指針がない。

 祈るだけだった幼い咲耶(わたし)はもう死んで。

 完璧に縋るばかりの文月(わたし)はもう死んで。

 我儘を唱えるための魔女の役すら、すっかりと休業中だ。

 彼だけの幸せを願ったことも、真っ向からあいつに砕かれて。

 今のわたしは、わたし自身が「何」なのかすらわからない。

 

 はたして一体、わたしの今の願いはなんなのかすら。自分ではわからなかった。

 

 ……それが、わたしが彼の言葉を受け入れられなかった理由のすべて。

 ずっとこのままでいたいと言った、理由だった。

 

 

 

 

 

 

 ふと、携帯端末(スマートフォン)が震えて、立ち止まる。

 画面の通知を見れば、飛鳥からのメッセージだった。

 

『咲耶、明日の夜空いてるか』

 

 淡白で簡潔で顔の見えない文言に、すぐさま返事をする。

『当然』、わたしの予定はいつだってあなたのことが最優先だ。

 

『ちょっと付き合ってくれ』

 

「…………どこに?」

 

 

 

   ◇

 

 

 

「こんなところに呼び出して、一体何?」

 

 次の日。日没後の学校の屋上に、約束通り咲耶は来た。

 今日の咲耶は、料理の際でもないのに珍しく髪型を変えていた。両側に結んだ長い三つ編み。髪型自体は古風なのに、咲耶がすると不思議と垢抜けている。

 その上いつもの白い眼帯は無く、咲耶の両目は揃いの自然な茶色だった。芽々に譲ってもらったという例のコンタクトのおかげだ。少し意識を集中すれば左目は赤く見えるのだが、こうして見るとまるで昔に戻ったような、妙な気分になる。

 妙、を言い換えるとなんだろう。懐かしさともうひとつ何かの感情が混ざっている。焦り、だろうか?

 ……ああ、そうか。早くこれを現実にしなくちゃな。

 そう思いながら、返事を返す。

 

「何って、天体観測に誘ったんだけど?」

「……はい?」

「いや、芽々に誘われて部室に入った時から思ってたんだよ。天文部だった時の望遠鏡とかが部屋に残ってただろ? それで久々にやりたくなって、借りてきたんだ」

 

 なお、今日は屋上に進入していない。使用許可はあっさりと取れた。

 しかし咲耶は微妙な顔をしている。

 

「あれ。もしかして伝わってなかった?」

「聞いてない。『夜の屋上に集合な』って言われただけ」

「でも夜の屋上でやることなんて、決まってるだろ?」

 

 咲耶は首を傾げる。三つ編みが振り子のように揺れる。目で追う。

 

「ねえ飛鳥。わたしとあなたの常識は違うのよ?」

「……そうだったな。うっかりしてた」

 

 早朝と昼休みに補習の予定があったため、今日は咲耶とあまり話せていなかった。そのため、昨日メッセージで伝えたきりだったのだが。どうやら俺たちは文字でやりとりをすると伝達率が下がるらしかった。次からはせめて通話にしよう。

 

「ああそう、言いそびれてたけど。今日の髪型めちゃくちゃいいな。新鮮だ」

「……ふぇっ!?」

「いい編みだな。綱引きしたくなる」

「……いや、褒めるならちゃんと褒めなさいよっ!」

 

「かわいい」

 

「……ッ!!!!」

 

「あっおまえ今、舌噛み切っただろ!? なんで!!?」

「こふっ……」

「あーあー、口から血出てるし! もう褒めない! その癖直さない限り二度と褒めないからな!!」

 

 最悪だクソッ!

 

 

 ◇

 

 

 気を取り直して、天体観測である。

 

 正直なところ、話をするにはまずそれなりのシチュエーションが欲しかったのだ。経験上、普段通りだと誤魔化してしまうのはお互い様だった。その点屋上は文句なしにいい。逃げ場がない。

 まあ、久々に観測をやりたかったのは本当だ。

 

「そういえばわたし、望遠鏡覗いたの初めてだわ!」 

「でかくてカッケーよな、望遠鏡」

「え、それはわかんないけど」

「?」

 

 ちなみに、思っていたよりも俺はこの手の知識を忘れていて困った。……自分で誘っておいたくせに駄目だな。だが山間の町の夜空は雲もなく、丁度いいことに新月で、星がよく見えた。まあ、十分だろう。

 

「どうせなら都合よく星でも降ってくれたらよかったんだけどな」

「流れ星を雨みたいに軽く求められても……」

「意外と降るぞ。意外と」

「ていうか思ってたのだけど。飛鳥ってそもそそもなんで宇宙が好きなの?」

「え、人はみんな好きだろ?」

「別に」

「そんな」

「あんたいい加減自分を人類代表だと思うのやめなさいよ」

 

 俺以外全員、人類の自覚がないな。

 しかしあらためて聞かれると……

 

「なんだろ。好きに理由とかいらないと思っていたからな。理由……遠いから?」

 

 空を見上げる。日没の空はまだうっすらと明るく、夜というには浅い色だ。けれど浅く見える宵の空も、手を伸ばしても届かないほど遠いことに変わりはない。

 

「多分……絶対的なものが好きなんだよ俺。人ひとりじゃどうしようもないような、絶対的な何かが」

 

「『絶対的』ってつまり『最強』ってことだ。最強はカッコいい。だから、深海とか南極とか宇宙とか。絶対的に遠くて、過酷で、手が届かなさそうな場所に惹かれる」

 

「そんで、人間の足じゃ辿り着けないはずの場所に行けてしまった人類が好きだ。それってほら──最強にカッコいいだろ?」

 

 咲耶の方を見れば、彼女は「馬鹿の語彙ね。いい笑顔で何言ってんだか」と呆れたように笑って言っていた。

 

「でも、ちょっぴり理解できるかも。共感はしないけど」

「はは。あんまり合わないよな、俺たち」

「今更ね。だから天文部だったの?」

「ああ。なんせ天文部は、隕石が部費で買える」

 

 咲耶の表情が渋くなる。

 

「……あんたのその、隕石への執着は、何?」

 

 何、と言われても。

 

 

「だって。絶対的に届かないはずの宇宙が、向こうから来てくれるんだぜ? ──それは最早、()だろ」

 

 

 あーあ。この言葉も、咲耶に向けてじゃなければ言えるんだけどなあ。

 

 咲耶がぱちくりと目を瞬いて、渋柿三個を一気に食った時みたいな顔をした。

 

「うっそ……こいつ宇宙人なの? 意味わかんないんだけど」

「あ? おまえに宇宙人呼ばわりされる筋合いねえよ」

「は? わたしのどこが宇宙人だっていうのよ」

「うるせえ脳味噌ミステリーサークル」

「なにその悪口!?」

 

 肩をガクガク揺すられた。うざい。

 ひとしきり揺すって諦めた咲耶は、屋上に座り込む。

 

「はーあ、あんたがこんな奴だとは、ほんっと思ってなかったわ……」

「それ、この前から聞いてるけどさ。おまえ、俺のことなんだと思ってんの?」

 

 三角に立てた膝の上、組んだ腕に、咲耶は頭を乗せて横の俺を見た。伸びた首、編んだ髪の隙間から白いうなじが見えて、どきりとする。

「そうね」と少し考えて、咲耶は、

 

「あなたは。何考えてるかわかんないし、すっごくばかで時々無神経で、ありえないくらいに楽観的だけど……世界で一番信じられる、」

 

 ふわり、と柔らかく微笑んだ。

 

 

「──わたしの、絶対のヒーロー」

 

 

 その、答えに。

 絶句する。

 

「…………お、まえ」

 

 いや、(おっも)っ…………!!?

 

「なんでそんな、開けっ広げに言えんだよ!!? 正気か!? 恥がないのか!?」

 

 この前までの澄ました猫はどこやった!?

 だが咲耶は顔色を変えるでもなく、拗ねるように唇を尖らせる。

 

「なによ。秘密は無しでしょ?」

「だからって、言っていいことが……!」

「悪いの?」

「悪くは、ない、けど」

 

 ……こっちが恥ずかしくなる。

 

 なんだか、咲耶の様子がいつもと違っていた。髪型とか、見た目の話だけではない。何か心境の変化でもあったのだろうか?

 

「ま、安心して。今はそれ以上に飛鳥のこと、変な子だと思ってるから」

「……子? 子供扱いされてる? 失礼な」

「たまには自分を振り返ってみたら?」

「は? しっかりしてるだろうが。十八だぞ」

「そういうところが子供なのよ」

 

 なんでだよ。

 くすくす、と楽しそうに笑う咲耶には言い返せない。

 

 

「……ねえ、もしもの話をしてもいい? もしも二年前、異世界転移(あんなこと)がなかったら……あなたのことを、こんなに知ることもなかったのかしら」

 

 もしも、何も起きなかったら。まともに話したのは一度きりで、そのまま何事もなく同級生ではなくなっているはずだった。でも。

 

「どうだろうな。俺は結構、未練がましいやつだったから。あのまま普通に進級できていたとしても、なんだかんだと理由をつけて文月に会いにいったかもしれない」

「……そんなに好きだったの? わたしのこと」

「まあ。終業式の日に、フラれるとわかっていて告白しようかと考えるくらいには」

 

 咲耶は驚いて固まっていた。照れすらしなかった。多分、あまりにも想定外だったんだろう。

 ……俺も正直、昔の俺(じぶん)の発想に引くけどさ。

 フラれるってわかってて告白するって、どう考えてもエゴだよなぁ。

 ──結局、あの時は実行できないまま時間が過ぎて。別々に教室を出た後、転移に巻き込まれたのだが。

 

 もしも。あの時それを実行していたら、どうなっていたのだろう。未来は変わっていたのだろうか、なんてことを考える。

 バタフライ効果、というやつだ。蝶の羽ばたきが竜巻を引き起こすかもしれないように、ほんの些細な違いひとつで因果が変わることも考え得る。

 だから、もしかしたらたったひとつの行動で──たったひとつ告白さえしていたら、あの時、二人で教室を出てそのまま召喚なんて起こらない、都合のいい未来に分岐したんじゃないか。そんなくだらないことを考えてしまうこともある。

 

 ──あの時の俺は、何も言わずに終わらせるのが『正解』だと信じていた。

 文月が自分以外の誰かと幸せになるなら、それでいいと思っていた。

 でも今は、絶対に嫌だ。めちゃくちゃ嫌だ。

 それが、ただの執着(エゴ)だとしても。分別と物分かりがいいフリは、絶対に違う。

『正解』にこだわること、それが『間違い』だったかもしれないのだ。

 

 ──だから、今度の俺は〝正しい間違い〟すら選んでみせる。

 昔の俺(アイツ)と同じ轍は踏まない。そう、あの夜に決めている。

 

「なあ、咲耶」

 

 ──そう、やることは同じなのだ。

 咲耶があの夜、俺に喧嘩を売ったように。場を整えて、罠を仕掛けて、宣戦布告、主導権を手放さない。

 今度は俺が、おまえの呪いに勝ちに行く。

 

 それじゃあ。彼女に合わせて、真正面からぶつかろう。

 

 

 

恋の(・・)定義を(・・・)決めようか(・・・・・)

 



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第七話 わたしはあなたにもう一度。

 夜の屋上で、飛鳥は言う。

 

「恋の定義を、決めようか」

 

 わたしは耳を疑わなかった。

 

「おまえは言ったよな。恋は汚いから嫌いだって」

 

 頷く。飛鳥がわたしを呼び出した理由を悟る。これは、わたしに対する反論だ。

 想定しなかったわけではない。わたしはわたしの定義が一般的でない、つまり脆弱であることをわかっている。『わたしがそう思うからそうである』以上の理由がない。

 ……だからこそ、信じるわたしにとっては強固な定義で、正論ごときで否定できるとは思えないのだけど。

 飛鳥はどう否定する気なのだろう?

 訝しんで見つめ返す。飛鳥はへら、と気の抜けた顔で言う。

 

「汚いって言うけどさ。……元々、そういうもんじゃね?」

「えっ。否定、しないの?」

 

 

「ぶっちゃけ恋愛って五割以上、下心だろ?」

 

 

 ピシッと空気が固まった。

 

「し、下心ってつまり……」

 

 下心って、下の心って、つまり……!? わたしをそういう目(・・・・・)で見てるってこと!?

 

「そう。つまりは、好きな子の前で格好つけたいだけってことだ」

 

 …………あれ? 言葉への認識が違っていた。というかそもそも、下心自体にそういう(・・・・)意味(・・)はなかった。

 いえ別にそんなことに狼狽えるような年でもないし別に裸を見られても構わないと思ってはいるのだからたとえ下心がそういう意味だとしても引いたり幻滅したりしないしむしろ食と睡眠が破滅してるんだからその手の欲求も死んでるんじゃないかと心配……してない! 下世話! 流石にダメ、いくら親しい仲でもその憶測は失礼の一線を越えてる! でも、その、たとえそういう目で見られていたとしてあなたにだったら別に嫌じゃないかなあとか思うけどそれはそれとして、勘違いしなくて、よかったぁ……。

 

「おい咲耶。すごい顔で頭抱えてどうした? 頭痛? 痛み止め飲むか?」

「な、なんでもないわ! その、ごめんね……」

「??」

 

 

 無垢な目でこっちを心配してくる。ころしてください……。

 気を取り直す。何もなかった、何もなかったのです。

 

「ええと、それがあなたの反論ってこと?」

「ああ。少なくとも俺にとってはそういうものだよ」

 

 しょうもねーだろ、と自嘲するように言う。

 

「いいか。つまり異世界(むこう)で、俺は自分の下心でおまえのこと思い出して、駄々捏ねて現世(こっち)に帰ってきたも同然なわけ。あまつさえそれを『俺は強いからな』とか言ってカッコつけてんの。これ全部下心な。今までの全部、マジでそれだけだから」

 

 勿体ぶって、真剣な表情で、身も蓋もないことを飛鳥は言う。

 

「そ、そういうとなんかすごく……台無し?」

「そうだよ。ちょっと幻滅しろ。軽くなれ。おまえはさ、色々美化しすぎなんだって。俺のこと絶対だのなんだのって言ったけどさ、そんな大層なやつじゃねえよ」

 

 飛鳥が一言一言喋るたびに、いろんなものが陳腐になっていく。

 ……頭が混乱してくる。

 

「わたしたちの過去って、そんな適当に語っていいものだった?」

「今更大袈裟にしてどうするんだよ。状況がおかしかっただけで、俺は普通のやつだから、そりゃ動機だって普通だよ」

「あんたは変よ」

「うるせえな」

 

 いい加減認めなさいよ。

 

 

「あーあー、すっごい恥だ。これバラしたせいで、この先ずっと『それカッコいいと思ってやってんの?』って煽られるんだろ最悪だ。もう二度と何やっても格好つかん。てかなんだよ恋の定義って。自分で言っといて馬鹿じゃねえの? ねえだろ違い、恋だの愛だの全部一緒だろ。好きに理由とかそもそもいるかよ……」

 

 ぶつくさと文句を言う。本気で不本意そうだった。意地っ張りで格好つけなのは、本人も多少認めているらしい。それでもなお、こんなことを言った理由を考える。

 

「あんたが何をしようとしてるのかは、わかるわ。……わたしの定義を否定せず、『くだらないもの』に落とそうとしているのね」

「そうだ。『恋が汚いもの』だとして。そもそも恋自体が『くだらないもの』ならば、汚い(・・)こと(・・)()()じゃない(・・・・)。だろ?」

 

 ──そのために、あいつは自分の感情と行動まで、自虐に貶めているのだ。

 それはちょっと。意味が、わからない。

 

 ……正直、わたしは全然納得してない。だってわたしが汚いと思っているのは「恋を追うこと」で、恋自体はむしろ綺麗だとすら思っている。

 だから、触れて壊したくない。今このままで──。

 

「わかるよ、このままでいたいのは。俺も、今が楽しいと思う」

 

 

 見透かしたのか。それとも偶然の一致か。飛鳥は言う。

 

「でも『今』はいつか『昔』になる。今この瞬間以外は全部過ぎて、過去になる」

「それは、そうね」

 

 ──だからかつてのわたしは、今を留めようと必死になっていた。

 

「咲耶とは合わないのかもしれないけどさ。俺は、過去に囚われていたくないんだ。上書きがしたい。今が楽しいのは分かる。でも『このまま』よりも、もっといい未来が欲しい。

 だから、その先を普通に望んでるし、咲耶とは…………付き合いたい(・・・・・・)と思って、  る」

 

 最後。飛鳥の言葉の調子がおかしくなって、ぐらっと黒い頭が揺れた。

 慌てて肩を押さえる。

 

「ちょっと、今めちゃくちゃ無理して言ったでしょ!?」

 

 初めて明確にどうなりたいのか(・・・・・・・・)、言った。だが──飛鳥には、それを言ってはならない〝制約〟があるはずだった。

 異世界(むこう)で脳味噌を弄られた後遺症で、飛鳥の自我は少し脆い。特に愛だの恋だの言葉は相性が悪く、明確に我事として口にすると、正気(あたま)削れ(バグ)る。

 少なくとも、ちゃんと『人間らしくなる』までそれを言ってはいけない。具体的には、わたしが角なしの状態で大きな魔法を使うくらいには危ないのだ。

 ……それなのに今、一般名詞や婉曲表現ではなく、はっきりと『告白』してしまった。

 

「大丈夫だ。ちょっとクラッときただけだから」

「あんたの大丈夫、信用しないからね!?」

 

 ちょっとクラッと、じゃなくて、正気がごっそり削れた、でしょ!?

『好き』までは言えるのは、あいつにとっての『好き』の価値がそもそも安いから。元々、誰にでも何にでも好きって言うから平気なだけだ。

 

「大丈夫だって。おまえが『六十点』をくれたから。一度くらいは、ちゃんと告白できる」

 

 人間として六十点、確かにそう言ったけど。

 

「六十点って、低いでしょ……」

「赤点越えたら全部高い!」

「ああばか! 昔はそんなこと言わなかったのに!!」

「うるせえ! はっきり言わないと伝わらないおまえが悪い! 黙って聞け! ……いや、聞いてくれ」

 

 浮いた汗。浅い呼吸をひとつ。

 

 

「──好きだ、咲耶。今は無理だけど、いつかは付き合ってほしい。俺と、恋人になってくれ」

 

 

 なんの飾り気もない、明確な告白に。

 

「わ、わかった、わかったから!」

 

 口を塞ぐ。手のひらに触れた肌がゾッとするほど冷たくなっていた。腕を掴まれ、口元から手を剥がされる。

 

「だから、大丈夫だってこのくらい。心配症め」

「青い顔で言うなばか!」

「おまえの顔は赤いけど?」

「う、うぅうるさいっ!!」

 

 はるか昔に直したはずの(ども)り癖が出る。恥ずかしい。余裕がないわたしよりも、もっと余裕がないはずなのに面だけは余裕を取り繕っている飛鳥のことが本当にむかつく。

 

「それにさ、おまえの定義を否定はしないけど。まるっきりそのまんまだと、ちょっと困るんだよな。ほら、それだと──俺が、存在(まる)ごと間違ってることになるから」

「あ……」

 

 わたしを好きだったから現世のことを思い出したのだと、彼は言った。だからわたしを助けてくれたのだと。 動機がすべて下心(こい)だとすると、飛鳥のやったことが、汚い(まちがった)ことになる……?

 これはつまり、自分を人質に取る所業だった。わたしは今の彼のことを否定したくないと思ったばかりだ。多分飛鳥は、わたしがそれをされるとどうしようもないことをわかってる。この手が有効であることを確信している。

 なんだかんだと言って、あいつはわたしのことを疑わない。だから……わたしの想いも一切、疑っていないのだ。──ずるい。

 

 

「綺麗だの汚いだの言う気がなくなったか? ならよし。おまえが幻滅したら俺の勝ちだ」

「……え? 告白の、返事は求めないの?」

「言えないだろ。言えないって感じの顔してる」

「…………」

 

 ただの告白すら、危険。それを押して彼は言った。なのに報いる言葉が出てこなかった。

 

「おまえがうだうだ理屈を捏ねるのが気に食わなかった。だからおまえの真似をして、『くだらないもの』にしてやろうと思った。それだけだよ。というか正直、返事は聞きたくないな! 幻滅させすぎてもう一回フラれそうだ!」

 

 わははと笑う。この男、さてはヤケだ。

 

「せめて最後まで格好付けなさいよ」

「俺は緊張とか気まずいのは駄目」

「もうぐだぐだよぉ……」

 

「ま、なんだ。前提として、俺はおまえが好きだ。その正当性を証明することも関係を進めることもまだできないけど、咲耶が好きじゃなかったら、今の俺はここにいない。それは忘れないで欲しい」

「うん……」

 

「あと、何をうだうだ言っても、おまえが俺のことを好きなのは知ってるから。……その上で、よく考えて。それでもやっぱり恋人にはなれないって言うなら、それでいい。いやよくない。ぜんっぜんよくないけど。一生このままっていうのもそれはそれで、アリだしな」

「ねえ、あんたも大概……重くない?」

「!? 気のせいだ気のせい。んなわけあるか」

「そうかしら……」

 

 手は掴まれたままで。体温は、少しだけ戻ってきた。

 

「話は終わり! あー、恥かいた! さっさと忘れるか! 飯食って帰ろうぜ」

 

 飛鳥としては勝利条件はクリアしたようで。わたしだけが「え、それでいいの?」と思っている。

 

「というか、この話、わざわざ夜の屋上(こんなところ)でする必要あったのかしら? 家じゃダメだったの?」

「だっておまえ、大事な話をするならシチュエーションが大事だろ。告白は屋上だと相場が決まっている」

「あなたって……すっごい浪漫主義者よね?」

「当然!」

 

 飛鳥は断言した。

 

「おまえはいつも大事な話を微妙な場所でする! なんなら話どころか殴りかかってくる! ずっとどうかと思ってた!」

 

 すごく真剣な形相で詰め寄る。

 

「道端で喧嘩売るな! どうせならもっと決闘っぽい場所を選べ! バイト終わりに普通に帰ってたら急に喧嘩売られた時の俺の気持ちを考えろ! もうテンションだだ下がりだ! あれならいっそ闇討ち奇襲の方がマシだ!」

「ええ……? 何に文句言われてるの?」

「ちゃんと果たし状とか出せ!」

「い、意味わかんないんだけどぉ……ふ、ふふ」

「何笑ってんだよ、くくっ」

 

 そっちこそ。シチュエーションを整えたからって肝心の告白の前後がこうもぐだぐだじゃ、飛鳥の言葉を借りると『情趣もへったくれもない』だ。

 

 でも……汚くても、それでいい。そう言われて少し、ほんの少しだけだけど。軽くなった気がする。

 少なくともあなたの感情を否定することはないだろう。そう思えた。

 だからわたしは──。

 

 

 

 話は終わったからと飛鳥は帰り支度をしていて、望遠鏡を片付けていた。

「あ」と突然、何かを思い出したように飛鳥が声を上げる。 

 

「どうしたの?」

「昔の夢、っていうか。何をやりたかったのか思い出した」

 

 ──いつかの帰り道で聞いた。『あなたは昔、何をやりたかったの?』と。けれどその時、飛鳥は『忘れた』と言っていたのだ。

 ……そう、やっぱり。本当(・・)()忘れて(・・・・)いたんだ(・・・・)

 

「……一番遠くまで、でしょ」

「そうか。そういや昔、文月に言ってたな」

 

 わたしが先回りして答えると、飛鳥はちょっと驚いたように言う。

 

「よく覚えていたな」

「何度も思い出したもの……異世界(むこう)で。暇だったから」 

「暇て」

「ほとんどお城に引き篭もってたからね。あんたと違って」

「そりゃお互い、正体に気付かないよなぁ」

 

 二人して空を仰ぎ見る。いつのまにか随分と暗くなっていた。月のない空は深い。足元の明るい懐中電灯が、彼の横顔を照らす。

 

「でも……」

 

 飛鳥は、ぽつりと言う。

 

「──たいしたことなかったな。一番遠いところ」

 

 あの世界は、地球の裏よりも宇宙よりもずっと遠い。

 胸を押さえる。

 ──ああ、そうか。あなたの夢は叶ってしまったのだ。最低な形で。

 

 

「もういいや」

 

 

 振り向いたその笑みは。苦笑にしては思い切りが良くて、無邪気というには錆びていて。その眼は。腐ってはいないけれど、輝いてもいない。

 ……ああ。わたしは気付いてしまった。

 ──これは『昔』と『今』が半々の笑い方だ、と。

 

 ずっと思っていた。わたしが好きだった『昔』の陽南君の構成成分は、すっかり彼の中からなくなってしまったのだと。

 でも本当は、そうじゃなかったのだ。

 あいつは今でも遠いところが好きで……同じものを愛したまま、ただ、夢に見なくなっただけ。どれほど変わっても『今』と『昔』は地続きなのだと理解してしまった、その途端。

 

 わたしは、多分──『今』の飛鳥にも、恋してしまえるのだと思った。

 

 心臓をぎゅっと、握り潰す。

 

「もう、どこにも行かないでくれるの……?」

 

 漏れ出た言葉。飛鳥は不思議そうな目でこちらを見る。

 わたしの言葉の意図が、わからないのだろう。……わからない、はずなのに。

 わたしの声が、震えていたからか。飛鳥は安心させるように、静かに笑って、

 

「大丈夫だ。俺は、どこにもいかない。ちゃんとここにいる」

 

 ──わたしの欲しい言葉をくれる。

 くら、と目眩がして、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 ──かつて。わたしは、あなたのことが好きだった。けれど同じ夢を見れないことに、引け目があった。縛ってはいけないのだと、身を引いた。陽南君にはもっと相応わしい誰かが、いるに違いないと信じていた。

 でも、彼は。もう昔と同じ夢を見ない。それは──かつての引け目すら、存在しないということだ。

 

 心臓がうるさくなる。

 ──どうしよう。天秤が、釣り合ってしまう。

 

 昔のあなたはどこにでも行ける人だった。好奇心と憧れを屈託なく追える人だった。だからこそ、好きだったのに。

 わたしはあなたがもう、遠いどこかに憧れたりしないことが悲しくて。でも、『もういい』と言ってくれることが。わたしの側にいてくれるということが……浅ましいほど嬉しかった。

 

 ──ありえない。だってこれは、好きな人の不幸を喜ぶことと同義だ。

 あなたの(・・・・)夢が(・・)潰えて(・・・)よかった(・・・・)なんて。どこまでも自分勝手(エゴイスティック)歪んでる(グロテスク)

 喉の奥まで迫り上がる気持ちは絶望的に甘くて、吐き気がした。

 この感情の名は、どうあがいたって〝恋〟だった。

 

 ほら、やっぱり。恋なんて、汚らしい。嫌いだ。嫌い、でも……本当に嫌いだったのは恋ではなく、恋心に身を任せると醜いことを考えてしまうわたし(・・・)自身(・・・)

 でも、どうしたって切り離せないから。わたしはどうしようもなく、あなたのことを好きになってしまうから。

 わたしはわたしの醜いところに、向き合い続けなければならないのだ。

 きっと、ずっと……死ぬまで。

 

 

 

 

「あ、でも。咲耶と一緒なら、どこに行くのも悪くないな」

 

 明るく上げたその声に、吐き気を隠し通して顔を上げる。

 飛鳥はあっさりとさっきの言葉を撤回した。自分の夢が終わっていることをまるで気にしていないみたいに。

 唖然とする。相変わらず失ったものに無頓着だ。そういうところ、人間としてどうかと思う。減点だ。

 

「咲耶だって行きたいところ、沢山あっただろ? 折角地球に戻ってきたんだ。一個一個制覇していくのもいいな!」

 

 ……駆け落ちって言ったのは、あながち冗談じゃなかったのかもしれない。

「……あれ? もしかして俺、空港の金属探知でひっかかんじゃね?」とくだらないことで悩み始めた飛鳥に。

 わたしは「そもそも行きたいところがあるなんて勘違いだ」と正そうとして──やめた。

 

 ────簡単な選択肢が、ここにある。

 この恋に目を背けて逃げ出せば、わたしはわたしの醜さに向き合わなくていい。

 でも、わかっている。わかっているのだ。

 たとえこの感情が、綺麗じゃないとしても。わたしが受け取ったあいつの覚悟の重さを知っている。だから。

 

 ──逃げたくないな、と思った。

 

 わたしは、こうなったあなたも、紛れもなく陽南飛鳥(あなた)なのだと認めてしまった。

 どうやら過去は取り返しがつかないものではなくて、未来は悲観するほどのものではないらしい。

 だから……あと、足りないのは──わたしの覚悟だけ。

 

「ねえ」

 

 唇が震える。声が上擦る。それでも、わたしは口に出す。

 

 

「──いつか、恋人にしてくれる?」

 

 

 問いの形をした、告白の答えを。

 

 薄ら暗い夜空を後ろに、青い両眼がこちらを見返す。その青は真昼の空にしては暗すぎて、夜にしては鮮やかすぎる。

 綺麗、などとは思わない。昔の黒の方が好きだった。

 でも、嫌うには真っ直ぐすぎる目で、言う。

 

 

「君が望んでくれるのならその先まで」

 

 

 恋人のその先、って、つまり。

 

「……愛人?」

「このアホ」

 

 デコピン。

 

「あう」

 

 仰け反って額を押さえた後で、少しも痛くないことに気付く。ありえないほど手加減されていた。なんなら仰け反った時にべち、と身体に当たった自分の三つ編みの方が痛かった。

 見上げた飛鳥は、今にも文句を百個並べそうなしかめ面で。

 

「言わせんな。言えねえけど」

「……うん」

 

 

 その先、そのさき、かぁ……。  

 四音を、ゆっくりと噛み締める。

 つまり、そういうこと(・・・・・・)だよね。

 

 じわりじんわりと、血が上るのを感じた。 

 

 

 

 

「というわけで」

 

 重たいような気不味いような、あるいは甘ったるいような、妙な空気を打ち切るように、飛鳥は手を叩く。

 

「デートしようぜ! 遊びに行こう。ほら、例の件の具合次第で、もしかしたら速攻で異世界(むこう)に戻らなきゃ行けなくなるかもしれないし。その前に」

 

 言われて、はたと気付いた。

 

「……あなた、もしかして」

 

 

「わたしと遊びたかっただけ?」

「そうだよ!!!」

 

 

 びくっとする。

 飛鳥はくわっと目を見開いた。

 

「だから、初めから言ってんじゃん『デートしよう』って! 俺は最初っからそのためだけに話してたよ! 今までの話全部、マジでそれだけだ!!」

 

 ……あっ、下心ってそういう!?

 

「なんで、遊びに誘うだけでこんなに面倒くさくなるんだよおまえは〜〜!!」

 

 身振り手振りまで付いた心底の呻きに、おろおろとする。

 

「ご、ごめんね? えーと、ラーメン奢るから許して?」

「……おまえ、ジャンクなの好きだよね」

 

 顔をあげた飛鳥はぶすっと不機嫌そうなままだった。

 ラーメンでも、機嫌が取れない……!? 

 

「餃子もつけるのに!?」

「そういう話じゃないんだよこのアホ」

 

 怒られた。チャーハンもつけるのに……。

 

「おまえ、わかってる? あっこれわかってないな? ……いや、説教はあの人がするだろうから、いいか」と飛鳥は言っているけど。……あの人って、誰?

 わたしがそれを聞く間もなく。飛鳥がこちらを横目に見て言う。

 

「ま、このくらいは。せいぜい煮卵半個分が妥当だな」

「……それ、わたしの悩みなんて五十円くらいの価値しかない、ってこと?」

 

 飛鳥は片付けた荷物を担いで、

 

「さぁな」

 

 そう、笑って。そのままさっさと先に、屋上の扉へと向かってしまった。

 ……多分、さっきの『さぁな』の意味は『正解』なんだろう。

 わたしはもう、飛鳥が笑って誤魔化す癖があることを、知っている。

 

「ま、待って!」

「はいはい、いくらでも待つから。はよしろ」

「厳しいわ……」

「は? 何言ってんだよ甘いだろ」

 

「行こうぜ、ラーメン屋。美味いところ思い出したんだ」

 

 

 ああこれは確かに。あなたは甘いな、と思って。わたしの負けだと思った。──でも、この先は。負けたくないな、と思う。

 

 ここからだ。わたしは、わたしの弱さとちゃんと向き合って。胸を張って、真っ直ぐに見て。──もう一度、あなたに恋をしたい。

 

 そう、願って。わたしは彼を追いかける。

 



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第八話 初デートの待ち合わせをするだけ。

 そしてようやく週末の日曜が訪れた。約束のデートの日だ。

 普段、休日はカツカツにバイトを詰めているのだが、随分と前からこのために予定を開けていた。当然、咲耶を遊びに誘うためである。なお断られた時のことはまったく考えていなくてあのざまだったのだから、今となっては笑い話だ。我ながら浮かれすぎだろう。

 もし再告白が上手くいかなかったら俺はこの日曜、泣きながら一人で出かけることになっていた。泣かないけど。よかったね。本当に。

 

 そして予定時刻の一時間前。待ち合わせの場所に早く来すぎてしまい、駅前の時計広場にて立ち往生しているというわけだった。

 

 家が隣なのに何故、駅前で待ち合わせているのか。簡単な理由だ。

 ──デートとは、待ち合わせから始まるものだからだ。

 作法は大事だ。形式は守らねばならない。というか、家から始まるとか普段の登校と一緒じゃん。と提案すると、

『あんたって……細かい?』

 と咲耶には呆れられたが、合意の上、駅前で待ち合わせとなった。

 よっしゃデートっぽい。めっちゃテンション上がる。

 

 学校のない休日は朝食を共にしないので、咲耶とはまだ顔も合わせていなかった。

 俺は夜明けと共にいそいそと起き出して、手持ち無沙汰に家を出て、ちょっと山を一周歩いた後、待ち合わせ場所に辿り着いている有様だ。──明らかに浮かれすぎである。

 あらためて表情筋を引き締めた。

 

 さて、日曜の駅前は程々に人がいない。緊張して早く来すぎてしまったが。咲耶も時間にはきっちりしているので、そう待つことはないかもしれない。

 ベンチで鳩の羽のささくれを数えながら、時間をやり過ごすことしばらく。手前左のコーヒーショップから、アイスコーヒーを片手に凛とした美人が出てくるのが見えた。

 どちらかというと実は俺は、綺麗めより溌剌とした子が好みなので、あまりあの系統の美人には目を惹かれないのだが。何故か見てしまうな……と思ったら咲耶だった。

 ……節穴になったかな、俺。視力、下がったんだろうか?

 いや、ひと目で気付けないくらいにいつもと雰囲気が違っていたせいだ。ストレートの髪が、毛先のくるりと巻かれたお嬢様結び(ハーフアップ)になっていて印象が様変わりしている。

 咲耶はベンチにいる俺を見つけるなり、ぱっと表情を変えてこちらへ駆けてくる。

 

「うわっ鈍臭いのにヒールで走るな! あぶねえ!」

「転けないわよ!?」

 

 コーヒー溢さないかヒヤヒヤした。

 最近、あいつが妙に鈍臭い理由がわかってきた。治るから怪我への危機感がすっぽ抜けているのと、成長が止まっているせいで本人の望む動きに時々身体がついていかないのだ。

 

「というか第一声がお説教って、どうなのよ」

「悪い。えーと、おはよう?」

「おはよう。待たせたわね」

「今来たところだ」

「……おかしいわね? 一時間前よ。わたしが起きた時には、あんたもう家にいなかったし」

「窓覗いてんじゃねえよ。おまえこそ、俺より先に待ち合わせ場所に来てたくせに」

 

 ついいつもの調子で言い合いになって、どちらともなく口を緩める。

 

「不毛な言い合いね」

「ああ、どちらが先かなんて無意味だな」

 

 確かにこれは、待ち合わせなどいらなかったかもしれない。

 

 

 

 ひとまず、咲耶が買ったばかりのコーヒー一杯(いっぱい)分、ベンチで小休止となった。隣に座った、いつもと様子の違う咲耶をまじまじと見る。

 雰囲気が違う、と思ったのは彼女の服がいつもの黒ではなかったからだ。少し前までの咲耶は『魔女は黒い服を着るものだから』と、俺に会いに来る時はそればかり身につけていた。それはそれで大人っぽくてよく似合っていたのだが、勝負服(マジで喧嘩を売りにくる)という感じは否めない。スタイルがいいせいか、露出が高いほど咲耶の印象は棘が出るのだ。

 今日の肩出し(オフショルダー)の白いブラウスは、首から胸元かけてはレースで覆われているから、肌色は普段よりもずっと少ない。その分、ほんの少し見える肩先の華奢さが強調されていて、どきっとする。

 足元はカーテンのようなふわふわしたスカート。爪先の見える涼しげなハイヒールに、六月が夏であることを思い知る。全体的に淡くて柔らかい、そういう装いだった。

 アイスコーヒーを傾ける咲耶の横顔。雲間の日差しに、長い睫毛が顔に影を作っている。 魔女の時は毒々しく赤い口紅も、今日はほんのりと淡い桜色だ。ストローから離された唇は、ふるりと甘そうにつやめいていた。

 見られていることに気付いた咲耶は、ぱっちりとした目でこちらを見返し、挑発的に小首を傾げる。

 

「何か言うことは?」

 

 小さな花のイヤリングが僅かに揺れるのを目で追う。

 

「あー……すっげえ綺麗だ」

 

 やっとのことで感想を絞り出した。

 

「ふふ、ありがと。今日はあなたの好きそうな格好をしたかったの。喜んでくれたら何よりだわ」

 

 余裕の微笑みだった。……どうやら、余裕がないのは俺だけらしい。

 余計な見栄を張って怪我をする前に白状する。

 

「こういうの初めてだから、お手柔らかに頼む」

 

 咲耶は不思議そうにこちらを見た。

 

「? そんなの、わたしも初めてだわ」

 

 咲耶のマネキンのように整ったすまし顔に僅かに違和感を感じる。

 

「……もしかして咲耶も、緊張してる?」

「緊張してないように見えていたら、わたしの演技力もまだ捨てたものじゃないわね」

 

 咲耶は笑って、白い肩を竦める。

 

 

「わたし今、すごくがんばって舌噛むの耐えてるもの」

 

「なんだそれ」

 

 

 ……なるほど、理解した。要はデートというのは〝ハレの日〟だ。そして咲耶は──昔の文化祭でもそうだったのだが──ハレの行事に対して妙な腹の括り方をするやつだった。

 つまり緊張が一周回るとかえって隙がなくなる、本番に強いタイプというわけだ。一方、俺が泰然自若(たいぜんじじゃく)を気取るには、まだ年功が足りないらしい。

 

「ま、緊張するほどのことでもないわ。今日はあくまで『友達以上』としての健全なデートだし。それに……」

 

 咲耶はベンチから立ち上がり、こちらを不敵に見つめ、

 

 

「──このデートは勝負なのだから!」

 

「……ん?」

 

 

 つられて俺も立ち上がったが、意味がわからない。

 

「今日はお互いそれぞれ、連れて行く場所を決めるって話になったでしょ?」

「そうだね」

 

 どうせなら前半と後半に分けてお互いがプランを用意した方が面白いし公正だという話になったのだ。

 

「そう、このデートは前半戦(・・・)()後半戦(・・・)()分かれた(・・・・)勝負(・・)だということ」

 

 違うよ。

 

 

「つまり──今度こそ、勝つのはわたし!」

 

 

 むんと胸を張る咲耶。

 …………アホなのか?

 おい咲耶。なんだその血の気は。辞書引け。デートの意味を確認しろ。どうしてそうなる。絶句して言葉も出ない。

 立ったまま硬直する俺に構わず、咲耶は軽やかにステップを踏む。間近で胸が揺れる。目で追う。……はっ。

 いや違う、揺れるものを目で追う癖があるだけで、この間の三つ編みとか今日のイヤリングとかを目で追ってしまうのと同列で、やましい気持ちは……なきにしもあらず……。

 視線に気付かず、彼女は無防備に近付く。

 

「ふふ。わたしがどうして高いヒールを履いているのか、まだ気付いていないようね」

「……靴がどうした?」

 

 咲耶はきらきらと輝く笑顔で答えを言う。

 

「あなたに身長、並んだわ!」

 

 俺たちの身長差はだいたい10センチだ。確かにその差が、高くなった踵の分でほとんど埋まっていた。

 ……いや。

 

「だからなんで身長で張り合うんだよ。小学生か?」

「飛鳥が上から目線だとムカつくの。態度的にも物理的にも」

「は? そんなことばっかやってるからじゃね? おまえがアホなのが悪いよ」

「何よ。あんただって昨日、遠足前の寝れない小学生みたいだったくせに。何時に寝たのか知ってるんだからね! 窓見てたから!」

「いやそれ、おまえも寝てないじゃん」

「あっ!?」

 

 墓穴掘りやがって。てか窓覗くな。ストーカーか?

 

 

 

「いや……でも。なんて言うか……」

 

 身長が並んだ咲耶をまじまじと見て、口元を押さえる。

 

「何? 言いなさいよ」

 

 訝しげにこちらをすぐ近くで覗き込む咲耶に。自然と、目が細まる。

 

「──目線が同じだと嬉しいな。咲耶の顔がよく見える」

 

 昔は彼女の方が背が高かったものだから。懐かしくなってしまった。

 

「はぅぁ」

 

 妙な声を上げて、咲耶は二、三歩よろりと後退る。化粧がいつもより丁寧なので赤面はしないが、耳が真っ赤だった。 

 

「ま、負け……負けないから!!」

 

 なんだこいつ。今のどこに判定があったんだよ。勝敗に拘泥(こうでい)する哀れな生き物め……。

 だがこっちもとっくに浮かれきっているので、「アホだな〜」と思いつつ、咲耶の頭をぐしゃぐしゃにしたくなる。

 思い出すこの気持ち──そう、実家(無い)の縁側に居ついた三毛猫に抱く感情とよく似ている。咲耶は事実上、猫みたいなものだ。構われたそうにこっちをじっと見ているくせに、威嚇気味なあたりとか。窓から入ってくるし。

 手を伸ばしかけたが、かつてなく綺麗にセットされた髪に触れるのはためらわれた。くそっ。

 

 などと葛藤している間、咲耶は恨めしそうに俺の頭上を見ていた。

 

「にしても、あんた伸びたわよね……あの二年が成長期だったの?」

「いや、成長は止まってたんだけどさ。ドンパチやるには身長が足りなさすぎてキツかったから、伸ばしてもらったんだよね」

「伸ばしてもら……え?」

 

 外なので異世界ワードは禁止である。咲耶が身振り手振りで聞く。

 

「グイッと? ザクッと? それともプチッと?」

「……どうだっけ? 覚えてねえや」

 

 咲耶は天を仰いだ。本日は若干曇りである。

 

「………マッドなのよアイツら!!!」

 

 いや、おまえを不老不死にしてしまう方がマッドだと思うよ。俺は自分から身長くれって言ったし。人体改造も合意ならセーフだ。

 

 ……ああ、そうか。今日の咲耶が妙に懐かしい雰囲気なのは。目線が昔に近くなって、髪型が昔とよく似ているからか。

 見た目は「文月」の頃に近いのに、振る舞いが俺のよく知る咲耶で、そのギャップが時の流れを感じさせる。だが、咲耶の見た目は十六のままなのだ。そのことが少し侘しい。

 

「なんか俺ひとり老けてしまったな……」

「老けって……」

「いやいい、わかってるんだ。俺制服似合わないよなぁって毎朝思ってるよ」

「えっ、似合うのに!?」

「えっ?」

 

『一生制服着てろ』っていつか煽ったのに?

 

「そういや、あんた誕生日……は、三月だったわね」

「おまえと一日違いな」

「知ってる。あんたの方が早いの、むかつくわ」

 

 そこでも張り合うのかよ。

 

「すっかり祝いそびれていたわね」

「いや……こっちに戻ってきたばかりで、お互い忙しかったし」

 

 まだ、友達ですらなかった時の話だ。今更誕生日ごときではしゃぐ年でもない。

 

 

「…………おめでとう」

 

 

 咲耶はめでたさの欠片もないしかめ面で言う。

 

「はは、ありがと。もう終わったけどな」

「ばか。あなたがちゃんと(・・・・)十八に(・・・)なった(・・・)こと(・・)を、正しく祝えるのはこの世でわたしだけでしょ」

 

 その言葉が『向こうで死なずに』という意味だと気付く。

 

「ほんとだ。俺めちゃくちゃえらいな」

 

 よく考えたら割とすごい、気がする。異世界(むこう)じゃ暦が壊れていたのでいつ十七になったのかもわからない。

 

「咲耶も……」

「いいのよ、わたしは」

 

 祝おうとしたところで、遮られた。続く言葉は言わないが、わかる。『わたしは年を取らないし死なないんだから』だ。

 

「……来年は、ちゃんと祝えるといいな」

「気が早くない?」

「早いに越したことないだろ」

「そうね」

 

 俺は拳を突き出した。

 

「誕生日はともかく。お互い無事でえらいってことで」

「〝無事〟の判定が大きいの、どうかと思うけどね」

 

 咲耶は苦笑しながら、小さな拳を突き合わせる。コン、といい音が鳴った。

 ……やってから気付いたが。

 

「デートって空気じゃなくなったな?」

「ふふ、いつも通りって感じ」

「あーあ折角、待ち合わせからいい感じにやろうとしたのに……ま、いいか」

「ええ。緊張するよりよっぽどいいわ」

 

 八割の曇り空の下、咲耶は晴れやかに笑って。突き出した手を開き、差し出した。

 

「それじゃあ、今日はよろしくね」

「ああ、楽しい一日にしよう」

 

 握り返した手は柔らかかったのだが、やっていることは硬い握手でしかない。

 

 ほらもう。初デートだっていうのに、戦友の空気感になってしまった。やっぱり情趣がないんだよ俺たちは。

 

 ……まあでも。既に楽しいから、いいや。

 

 

   ◇

 

 

 待ち合わせの後。電車で一時間かけて街に出る。都会というほど華やかではないが、買い物には困らない程に賑やかな港町だ。

 駅から降りた後、咲耶が言う。

 

「……ねえ、ずっと気になってたんだけど。あんたのそのTシャツ、何? なんで無人駅って書いてんの?」

「無人駅は夏の季語だ」

「忘れてたわ。あなたのセンスがアレってこと……」

「季語なのに!?」

「脳味噌平安時代か?」

 

 辞世の句とか憧れるよな。

 咲耶は無言で考え込む。俺はその隙に辞世の句を考えるが、文学的センスがゼロなことを思い出してやめた。

 

「ねえ、今日の先攻はわたしよね? 予定を変更して、ちょっとあなたで遊んでもいいかしら」

「? 別にいいけど……」

 

 にんまりと微笑んだ。

 

「よし。それじゃあ、買い物に行きましょうか!」

 



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第九話 君の好きな格好くらいはしてもいい。

 行き先はごくありふれた商業施設(ショッピングモール)だった。

「折角だから、わたしだって余所行きっぽい服装の飛鳥が見たいじゃない?」とのことで、真っ先に洒落た服屋に連れ込まれた。目を白黒させているうちに「はいこれ着てみて」と試着室に放り込まれる。

 俺で「遊ぶ」と言った意味を理解し、了承したからには言われるがままに付き合う。真っ向から素直に頼まれたならば、断る理由はないのだ。

 すごい。咲耶がちゃんと会話をしてくれる。最近の咲耶は素直でいい。

 ずっとこうならいい、と思ったし、多分ずっとこうだとも思う。お互い、喧嘩をする理由はもうないのだ。

 

 

「うん、完璧! 思った通りの仕上がりだわ。やっぱり素材は悪くないのよね。ちょっと顔色と目付きが悪いだけで」

 

 試着室から出ると、咲耶は満足そうに頷く。

 

「褒めてんのか貶されてんのか微妙だな」

「褒めてるわ。それとこれとは別に『ちゃんと寝ろ』って言ってる」

 

 なんで説教されてるんだろう……。

 咲耶は「食事はともかく睡眠は管理できないものね……あ、一緒に寝る?」とか怖いことを言っている。怖いので無視した。あれは独り言、そうに違いない。

 ……最近、咲耶は妙に大胆というか極端というか、恥じらいなく考えたことをぽろっと口に出すようになった気がする。素直で嬉しいとは思ったが、流石に振れ幅がおかしいだろこれは。おまえ実はそんなこと考えてたの? 怖い……。

 

「あ、もう元の服に着替えていいわよ。付き合ってくれてありがと。雰囲気を味わって満足したわ」

 

 あっさり咲耶は妥協した。どうやら趣味を押し付ける気はないらしい。俺も「露出高い服を着るな」とは言わないので、その辺はお互い様だ。

 ようやく鏡を自分でも確認する。似合っているのかどうかはよくわからないが、抵抗や違和感はない。咲耶の選んだ服はなんとなく、学校や喫茶店の制服に雰囲気が近かった。堅苦しすぎず、きちんとしているというか。

 

「こういうのが、おまえの好みなのか?」

「……そうだけど?」

 

 ……ああ、『一生制服着てればいいのに』ってそういうことか。

 

「わかった。覚えておく」

 

 驚いたように俺を見る咲耶。

 

「なんだよ。たまにはおまえの好きな格好くらいするよ」

 

 そういうことにまったく興味がないわけではない。今は鏡を見るのが好きじゃないので、あまりやる気がないだけだ。でも咲耶が喜んでくれるなら、まあ真面目にやってもいい。

 咲耶は頬を緩ませる。

 

「え、えー? そんな贅沢なことあっていいのかしら」

「贅沢って何が」

 と試着した服の値札を確認し、硬直する。

「……悪い。予算オーバーだ」

「わたしが買ってくるわね!」

「待て待て!」

「なんで止めるの?」

「止めるだろ! 正当性がない」

「あるわよ?」

「? 言ってみ」

 

「──好きな人に貢ぐのは、常識でしょう!?」

 

「違うよ」

 

 違うよ。

 

「百歩譲っても『貢ぐ』とか言っちゃいけないと俺は思う」

 

 目をかっ開いたまま首を傾げる咲耶。怖い。

 

「……? 貢いではいけない……? 推し(こいびと)衣装(ふく)に課金してはいけない……?」

「未満だからな。課金って言うな。なんか今、変なこと言わなかった? あと咲耶、目が怖い」

 

 焦点が合ってないんだよ。助けてくれ芽々。

 

「おまえ、今日……ちょっとおかしいな……?」

「そんなこと、ない、わよ?」

 

 言動が地に足付いていなかった。どうやら申告どおり、本当に余裕ぶっているだけだったらしい。

 いや、判明の仕方が微妙すぎる。もっとかわいい隙の出し方しろよ。突然バグるな。怖いから。

 

「……あー、ほら。別に見るだけでも面白いし。折角だから、色々教えてくれよ。来月買いに来るからさ」

 

 と言えば、渋々と頷いた咲耶だったのだが。

 店内にて品物を物色したその数分後──少し目を離した隙に、隣からいなくなっていた。

 

「……あいつ!?」

 

 気付いた時には既にレジの前、「お買い上げありがとうございます」と、店員から大きな紙袋を受け取っている最中だった。

 げ、やられた。咲耶も足音を消すくらいはできるんだった。

 くるりと振り返る犯行後の咲耶は、開き直ったようにつかつかとヒールの音を立てて、こちらに戻ってくる。

 

「はい、これ。誕生日プレゼントの代わりだから。三ヶ月遅れたけど!」

 

 紙袋をぐい、と押し付ける。中身はさっきのひと揃いであることは、見なくてもわかる。

 

「まさか祝われておいてモノだけ突き返す、なんてことはしないわよね?」

 

 確かにそれは、失礼だけども。俺を出し抜いたからか満面の笑みだ。

 

「勘違いしないで、あなたのためじゃないわ。わたしが贈りたかっただけなんだから!」

 

 嘘つけ……いや、嘘ではないのか? 贈り物ってちょっとエゴだしな。

 

「わたしのために、好きな格好……してくれるんでしょう?」

 

 じっと期待するような眼差しで、咲耶は取ったばかりの言質を振りかざす。

 ……それは、ずるだろ。

 

「あー、もうしょうがねーなー!」

 

 

 

 もう一回着替えてきた。

 

「ふふ、勝った……!」

「いや、なんの勝負だよ」

「受け取らせたら勝ちだから。勝利条件はこっちが決めるもの、でしょう?」

「なるほど負けを認めよう」

「あら殊勝」

「俺は往生際がいい」

「自分で言うな」

「そういや礼は言ったっけ?」

「言った言った。三回ぐらい」

「ありがとう」

「どーいたしましてー」

 

 妙に機嫌の良い咲耶と気の抜けた会話をして、そのままモールを冷やかす。

 

「あ」

 

 咲耶が何やら店の前で立ち止まる。視線の先を確認して、俺は全力で目を背けた。下着屋だった。

 

「……どうした?」

 

 どうしてこんなところで立ち止まった?

 

「この前、お風呂上がりに鉢合わせちゃったでしょ?」

「……そうだね」

 

 記憶を消したあれのことだ。光景こそ覚えていないが、事実として何があったかは記憶している。……咲耶の下着が弾けたこととか。

 

「あの時、ホックが壊れちゃって」

「……うん」

「わたし、サイズが大きいから近所じゃかわいいのが買えな……」

「あーあーもういい! もうわかったから! はよ行ってこい!」

 

 みなまで言わせずに背中を押すと、咲耶はきょとんとこちらを見ていた。

 

「……まさか俺を店まで連れて行くつもりだったのか?」

 

 拷問だろそれは。気不味い、いたたまれない、赤っ恥。三拍子揃った精神的拷問だ。効率的とすら言える。

 

「え? ああ、なるほどね」

 

 咲耶は平然と、そして合点がいったように頷く。思えば、彼女は裸を見られてさえ『構わない』と豪語していた。

 

「……あなたってもしや」

 

 こいつ、まさか……。

 

 

「──初心(うぶ)?」 

 

 ──黙れ痴女!!

 

 ……とは、衆目の前で叫べない。クソが!

 

「あはは、なんだ。わたしのが見苦しかったわけじゃないのね」

 

 いやちょっと覚えてないから何もわからないな。

 

「うん、わたし一人で行ってくるから。待ってて、すぐ戻るわ」

 

 と、一歩踏み出した後に。首だけでこちらを振り向き、咲耶は口元を意地悪く吊り上げた。

 

 

「……何色がいーい?」

 

 

「ばっっ、おまっっ、恥を知れ!!!」

 

 けらけら笑いながら背中を向けて、目に毒毒しい店の中に入っていく。

 頭痛がした。

 ……今の何? おかしいだろ。やっていいことと悪いことがある。品性がないのは悪だ。……あ、でもあいつは悪いやつだから品性がなくて合ってるのか。覚えてろよ……。

 

 頭の中で文句と説教を延々と並べ立てながら、逃げるように階下に向かう。あの店の前で待つとか無理だ。いたたまれなくて死ぬ。

 

 階下、休日のモールはそれなりに人がいる。さてどこで咲耶を待とうか、と辺りを見回して。ふとある店に目が止まった。

 その店の前で、考える。

 

 ……さっきからやられっぱなしは、癪だよな。

 今度はこっちが不意打ちを返すくらいは、許されるだろう。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 これはわかりきった結論だけど。

 今日、わたしはものすごく幸せだった。

 

 眠れないほど楽しみにしたデートの始まりは、結局いつもの調子になってしまったし、飛鳥の私服のセンスがやっぱり変だった。でも、そんなことで今更へこたれるわたしではない。

 意気揚々と飛鳥をいい感じのお店に連れ込んで、選んだ服はごくありふれたシャツにスラックス、それからリネン地の夏用チェスターコート。寒色を基調にした、シンプルな装いだ。

  靴だけは元々妙にしっかりしたものを履いていたので、合わせるのは楽だった。

 多分今でも、足元が(おろそ)かだと不安なのだろう。戦えない。わたしもヒールが低い靴を履くのは落ち着かないからわかる。魔女は踵の高い靴を履くものだ。

 

 買った服に着替えてもらった後の飛鳥は、少しそわそわとしていた。

 

「なんだか落ち着かないな。こう……背伸びをしている気がする」

「大学生が着る服みたい?」

「それだ」

「似合っているわ。見れて嬉しい」

 

 わたしに褒められて居心地が悪いのか、照れくさそうに眉を下げる。かわいい。

 ──大学生みたい、なんて。わたしたちは本来の年ならばなっているはずのそれ(・・)に、なれなかったけど。たとえ見た目だけでも、かつて諦めた未来がここにある気がして、嬉しかった。

 それに『よく似合っているわ』なんて余裕ぶって褒めてみたけれど、実は三秒しか直視できないので瞬きばかりしている。はぁ、と溜息を吐きすぎて酸欠になってしまいそうだった。

 正直、とっても……格好いいと思う。

 

 それが客観的評価として正しいのかどうかは、わからない。恋愛感情に支配された人間の主観は信頼できない。わたしには盲目の自覚がある。もしかしたらわたし以外の目には、飛鳥は冴えないやつとして映っているのかもしれない。

 ……でも。彼が格好いいことを知っているのが世界でわたし一人だけ、というのも悪くないんじゃないかしら。

 なんて。わたしはちょっと、気持ち悪いくらいに浮かれていた。

 

 だからまさか、あんなふうにとどめを刺されるとは、思っていなかったのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ランジェリーショップで買い物を終えて、合流のため指定された場所へ。

 ショッピングモール一階の広間には、まだ六月の半ばだというのに七夕の笹が飾られていた。まばらに結びつけられた願い事の短冊が、冷房の風に吹かれて揺れる。あいつは短冊に『世界平和』とか書きそうね、と辟易しながら飛鳥の姿を探す。

『今どこ?』とメッセージを打ち、既読が付いたその瞬間。

「後ろ」と、返事の声に驚く。

 

「……さては気配、消したわね?」

「さっきの仕返しな」

 

 にやりと笑う。 

 

「咲耶、手を出してくれ」

 

 飛鳥の声は少し硬く、後ろ手に何かを隠していることに気付く。

「?」

 言われるがまま、両手を差し出す。そして。

 ぽん、と軽々しく乗せられたのは、淡い色の小さな花束(ブーケ)だった。

 重なる薄いピンクの花弁たちがリボンで綺麗にラッピングされて、わたしの手のひらの上で満開になっている。

 

「どういうこと?」

「祝われたら祝い返すのが礼儀だろ。こっちも、誕生日プレゼントってことで。……いや、値段は釣り合ってないんだけど」

 

 飛鳥は視線を逸らしながら言い訳を並べ立てる。

 

「趣味に合うかはわからないが、一応、咲耶のイヤリングと似てるやつを選んでみたんだ。消えものだから重たくもないはず……重くないよな? ──つまりその、軽く受け取ってくれると、嬉しい」

 

 語調が段々しどろもどろになっていく。慣れないことをしているのだろう。

 

「ずるいわ……」

 

 ようやくのことでわたしが絞り出したのは、そんな言葉だった。

 

「……わたしは、誕生日を言い訳に使ったのに。飛鳥はわたしを喜ばせようとした。ずるい」

 

 ああ、ちがう。言うべきは、そうじゃなくて。

 

 

「…………ありがと。嬉しい。大事にする」

 

 

 (うず)めるように花束で顔を隠す。甘い匂いにくらくらとした。

 わたしの答えに、ほっとしたような顔も一瞬。平静の調子に戻って飛鳥は言う。

 

「喜んでくれたならよかった」

 

 何を言っているのだろう。好きな人がくれたものを、喜ばないわけがないでしょう?

 枯れないように、加工しようと思った。水にわたしの血を混ぜて呪えば長く持つだろう。

 

「大事にする、絶対」

「はは大袈裟。一週間くらいかな、飾れるのは」

 

 一生飾る。一生。

 

 

 

「ところで、これは何の花? 薔薇に似てるけど……」

「いや確か、ピオニー? つってた」

「ああ、芍薬(しゃくやく)ね」

「〝立てば芍薬〟のアレか。へえ、こんな花だったのか」

 

 立てば芍薬、座れば牡丹──美人の喩えの慣用句だ。

 飛鳥は「なるほど」と、わたしと花を見比べて頷く。

 

「似合うよ」

 

 さらっと。本当に、ただ思っただけのことを言ったのだろう。

 わたしはすっと呼吸を止める。ふわりと意識が遠のく。

 

「──こふっ」

 

 気付けば舌を噛みちぎっていた。

 

「あ、おい咲耶!?」

 

 ……今のは、効いた。朝から頑張っていたのだけど、ちょっと耐えられなかった。

 完全にオーバーキルだ。不意打ちのサプライズからの、ダメ押し、追い討ち、死体蹴り。わたしのステータスは攻撃一辺倒なので、防御がからっきしである。花束の時点でわたしのMP(メンタルポイント)はゼロだったのだ。

 

「うふ、ふふふ……ごめん……しあわせすぎて死にそうっていうか一回死んだわ……」

 

 よろめくわたしを前に、飛鳥は心底の恐怖を表情に浮かべて呻く。

 

「こ、壊れた……俺、何もしてないのに……!」

 

 いえ、あなたのせいです。

 



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第十話 今更間接キスとか。

 

 

 結論──原因はあいつだけど、根本的にわたしが弱いのが悪い。

 復活までの小休止中。モールの隅っこ、ひと気の少ないソファで顔を覆う。

 あの後、口直しのコーヒーまで買ってもらう有様だ。だめすぎる……。

 

 わたしはなんというか、幸福に耐性がなかった。悲観主義者の弊害だろうか。……むしろ少し不幸なくらいが落ち着く、なんて。最悪な性根を拗らせている。

 ──その辺の歪みを自覚させられたのがこの前で。それを直したいとも思っているのだ、今は。

 自制、自制、深呼吸。

 

「落ち着いたか?」

「ええ大丈夫。デートを再開しましょう。次こそ、がんばるわ……!!」

「……何を?」

 

 心を強く、保つことを……です……。

 

 そして明るいモールのメインストリートに戻る。大丈夫、わたしたちは普通のデートができるはずだ。

 でも紙袋の中から溢れるブーケに目をやるたびに、にへらと頬が緩んで駄目になってしまいそうになる。こんなにしあわせでいいのだろうか、と不安になる。

 隣を歩く飛鳥を見上げる。ヒールの分で目線が同じ高さになったはずなのに、彼の方が高かった。そうして初めてわたしが肩を縮こめていたことに気付く。

 原因は気後れだ。なんだか、情けなくて胸を張れない。

 だって勝負なんて言ったくせに、わたしが一人で勝手に負けてるんだもの。こんなの全然ちっとも、対等じゃない。

 対等じゃないということは──もしかして。今、しあわせなのはわたしだけだったりしないだろうか?

 

「ねえ、飛鳥。今……」

「なんだよ急に黙って」

「えと。ううん、なんでもないの」

 

 けれど、飛鳥は無駄に察しがいいものだから。なるほど? としばらく考えたのちに。

 

「今、めちゃくちゃ楽しいよ」

 

 なんて、くしゃっと笑って答えてしまう。

 無邪気な笑みだ。心底の言葉だ。

 嬉しい。だけどそうじゃないのだ。

 このパーフェクトコミュニケーション野郎、わたしに都合のいい言葉ばかり言わないで、と理不尽にも思ってしまう。

 わたしが問いたいのは、そうじゃない。

 たとえ飛鳥がいくら察しが良いとしても、完璧な以心伝心は不可能だ。聞きたいことがあるのならば、ちゃんと言葉にしなければならないと、わかっている。でも──。

 わたしは今、しあわせだけど。

 どうしたら。何をしたら。あなたをしあわせにできるのだろう?

 ──なんて。聞けやしなくて、わたしは困る。

 

 

 

 並んで歩いているうちに、ショーウィンドウに自分たちの姿が映った。揃って照らし出されたそのガラスに、わたしは嫌な気付きをする。

 飛鳥は今朝、自分のことを『老けた』と冗談めかして言ったけど、あれは間違いではない。制服でなければ高校生どころか……十八よりももっと年上に見えるかもしれない。

 一方、デートに合わせて少し甘い格好をした今日のわたしは肉体年齢そのまま、十六歳に見えるだろう。普段、露出が高いのはわたしなりの背伸びだった。そうでもしなければ、幼く見えてしまうから。

 ──飛鳥は大きくなってしまったんだ。わたしひとりを、置いて。

 そんな当たり前のことに今更気付いて、からからに喉が渇く。

 わたしは肉体どころか、おそらく精神まで十六で止まっている。わたしの(・・・・)不死は(・・・)そういうもの(・・・・・・)だから(・・・)

 

 わたしの考えなんて知らず「後で写真撮ろうぜ」とこちらに笑いかける彼に、頷くのが精一杯だった。

 ──写真には、わたしたちの差が写ってしまうのだろうか。十センチのヒール、必死の背伸びですら埋められない差が。

 置いていかないで欲しくなって、隣を歩く彼に手を伸ばしかけて、やめた。今はまだ友達だから、多分……手を繋いで歩くことはしないのだ。

 じっと彼の手を見つめる。握手ならできるのに。拳を合わせることもできるのに。繋ぎ方がわからないなんて、ばかみたい。

 自分の手をそっと握りしめて、視線を落とす。髪色もそうだけどわたしは生まれつき少し色素が薄い。すぐに顔が赤くなってしまうのもそのせいだ。

 細くて生白くて不器用なわたしの手は貧弱で、彼の手に比べると、どうにも頼りなかった。

 

 わたしの願いは一貫している。あなたをしあわせにしたい。それを見失うことはない。

 でも……今のわたしに、何ができるのだろう?

 ──わたしには、あなたと手を繋ぐ勇気すらないのに。

 

 

 

 

 なんて裏ではうじうじ考えていても、表に出すのはそれこそ礼儀知らずだ。

 『楽しい一日にしよう』と誓った。その合意を破るなんてあってはならない。わたしは飛鳥と違って切り替えは上手くないけど、感情の分離くらいはできるので、哀と楽を並列させることはわけない。だから、完璧な笑顔でお店を冷やかしながら、いつも通りに軽口を叩き合っていたのだけど。

 今更、あることに気付いてしまった。

 

「聞きそびれていたけれど……飛鳥ってそもそも、わたしと遊ぶ余裕あるの?」

 

 先月まで餓え死にしかけてなかった? この前も平然とラーメン食べに行ったけど。流石に懐事情が心配になる。

 

「大丈夫だよ。こっちも少し余裕ができたんだ。親戚に『高校くらい出してやるしたまには気にせず遊んでこい』って言われてる」

「……そう、よかったぁ」

「おまえの方こそ、仲直りできたか?」

「昨日実家に帰ったら、義母(かあ)様にしこたま叱られちゃった」

「琴さんは怒ると怖そうだよな」

「『あらあらうふふ』って笑いながらガン詰めしてくるし、足が痺れても正座を解くのを許してくれないわ……」

「こわっ」

「でも今まで叱られることすらなかったから……少し、嬉しかったかも」

 

 お互い少し気まずいやら気恥ずかしいやらで、小声で近況を報告し合う。飛鳥がへら、と曖昧に笑った。

 

「なんかさ、思ったより周りが子供扱いしてくるんだよな」

 

 ……気まずい理由は、多分それだ。まさか今更、子供扱いされるとは思っていなかった。

 

「厚意に甘えろって言われた分は、素直に甘えるんだけども……こそばゆいというか」

「〝普通〟になったみたい?」

「そう、だな」

 

 休日のモールのありふれた人波の中で、誰もすれ違うわたしたちに気を止めたりしない。〝普通〟の中に、埋もれている。

 周りの賑やかな光景に、飛鳥は目を細める。

 

「こっちに戻ってきた時さ。これから一人で生きていかなくちゃいけない、って思ってたんだ」

「そうね。わたしも……何も残らなかったと思ってた」

 

 現世もろくなものじゃない、なんて悲観していた。だけど。

 

「別に、そんなことなかったな」

 

 頷く。

 

「最近、学校で普通に仲の良い奴らもできてさ」

「うん」

「毎日咲耶に会えるし、こうして遊びにも行ける」

「うん」

 

 飛鳥がわたしを見る。目尻を下げて、眉を上げて、歯を見せて。満面に笑った。

 

「大したことなかったな、全部!」

「……うん!」

 

 そうだ。あんなに難しいと思っていた現世のこと全部! 蓋を開けてみれば、あっさりと喉元を通り過ぎていった。

 これまでの努力は、思い返せば方向性が明後日だったけれど。明後日なりに報われているし、欲しかった日常は今ちゃんとここにある。

 もしかしたら──難しく考える必要は、何もないのかもしれない。

 

 少なくとも今は同じ気持ちだし。同じ歩幅で隣を歩くことだってできるのだから。

 それだけで全部、平気な気がした。

 

 ──あなたをしあわせにする方法が意外と簡単だといいな、と思う。

 きっと叶えるのだ、わたしが。この手で。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 さて、デートもまだ前半戦である。……いや、デートに〝戦〟って付くのはやっぱおかしいだろ。なんだと思ってんだよデートをよ。

 

 あれから、雑貨屋で揃いのマグカップを調達したり。

「わたしの家にあなたのマグがないのは不便よね。これとか対になっていて素敵じゃない? ……いやっ、デザインが気に入っただけなんだからね!?」

 

 ゲームセンターで取れる景品の数を競い合ったり。

「数ではわたしの勝ちね! って、あー! 飛鳥がわたしの狙ってたのを取ってる! ……くれるの? あ、ありがと……えっ、これわたしの負けってこと!?」

 

 と、時間も忘れて遊びほうけているうちに、いつの間にか昼飯時をゆうに過ぎていた。飯を食い損ねるなどあるまじき失態だ。人間として減点。

 

「ね、飛鳥。わたし食べたいものがあるのだけど……」

 

 もちもちとしたぬいぐるみを抱えた咲耶が、妙に歯切れ悪く切り出す。

 

「……ハンバーガー。あの、沢山重なってて大きなやつ」

「おまえほんとジャンクなの好きだよね」

「ち、ちがうの。食べたことないの!」

 

 そんな今更お嬢様みたいなこと言われてもな。ちょっと笑える。咲耶は顔を赤くした。

 

「ラーメンは恥ずかしがらないくせになぁ」

「それはあるもの。十二歳まで、ラーメンって誕生日だけの特別な食べ物だったのよね。だから好き」

「…………」

 

 ちょっと笑えん。庶民舌の正体これかよ。

 

「いいよ行こう。俺も丁度、芋が食いたかった」

 

 

 

 暗めの店内にネオンの照明が光る隠れ家的なダイナーにようやく入り、ボックス席にて。

 注文が届いたその後のことだ。

 俺と向かい合って座った咲耶の目の前。テーブルの上、金属のプレート皿には──さっきまでハンバーガーだったものが辺り一面に散らばっていた。

 食べる前に『刺さったピックを抜く』なんて初歩的なミスをやらかしたせいだ。

 パンズの間から雪崩のようにトマトやらアボカドやらがまろび出て、見るも無残な有様である。……本当に、ちょっと前までは美味しそうなバーガーだったんだよ。

 光の消えた目で咲耶は首を横に振る。

 

「……わたし、お嬢様だからジャンクなお料理は上手く食べられないの」

「無理だよ。今更、猫被っても」

「ううっ」

「ごめんな、食べ方教えれば良かったな。まさか、俺が飯の写真を撮ってる隙にこうなるとは思わなかったよ……」

 

 とりあえずスマホのカメラを起動したまま、茫然としている咲耶をパシャリ。

 

「なんで今撮った?」

「そりゃもちろん。あとで見返して笑うためだ」

「は?」

「俺だって人の失敗を目の前で笑わない良識くらいはある。だから、後で写真を見返してこっそり笑う」

「言ってる時点でこっそりじゃないし余計に性格悪いからね!?」

 

 じっとりと上目で俺を睨む。

 

「……あなたって時々。すっごく、意地悪よね?」

「ははは」

「否定しなさいよ!!」

 

 いや、だって咲耶が困ってるとウケるし。

 まあ、からかうのもその辺にして。「とりあえず、ナイフとフォーク貰ってくる」と俺は立ち上がる。

 

「あ、ありがと。優しい……あれ、わたし騙されてない?」

「いやー、俺優しいなー、すっげえ優しー」

「やっぱり騙されてるっ!?」

 

 咲耶はちょっとアホだと思う。心配だから俺以外には騙されないでほしい。

 

 

「美味しいけど……思ってたのと違うわ……」

 

 咲耶は貰ってきたカトラリーで、ハンバーガーを小さく解体して口に運ぶ。 バーガーひとつまともに食べられないくせに、食器の使い方は上手いのだから、咲耶は人生経験が偏っていると思う。記憶喪失気味の俺に言われるんだから相当だ。

 仕方がないので、俺は口をつける前のハンバーガーを回し、向かいの咲耶に突き出す。

 

「ん」

「?」

「ひと口やるよ」

 

 咲耶は目を泳がせる。

 

「それってその、間接キス……じゃない?」

 

 その気後れの理由は、半分は恥じらいなのだろうが。もう半分はそうじゃないことを知っている。屋上で弁当を交換した時にも話したことだ。

 ぼそぼそと小声で咲耶は言う。 

 

魔女(わたし)の体液って、魔法の触媒だし……交換すると、あなたの呪術抵抗を下げちゃうし……いざって時に、わたしに呪われるかもしれないわ……」

 

 うーん。何度聞いても魔女、やばい。

 

「でも唾液くらいは正直、『気分的な問題』だろ?」

「まあ、血ほどの効果はないけど。……血液(そっち)異世界(むこう)のモノには毒だし」

「あれ、現世(こっち)の生き物には効かないんだ?」

「ええ。病院の血液検査でも正常なの。不思議」

 

「ま、もちろん呪いには使えるんですけども」と言うが。異世界の魔女も現世では大したことはないようだ。

 話を戻そう。つまり、咲耶は俺に遠慮をしているということなのだが。

 

「別に今更気にしない。だってもう、俺に喧嘩売る気ないだろ、おまえ」

「ないけど……信用できるの?」

「信じてるよ。多分、おまえが俺のことを信じてくれてるのと同じくらいには」

「……じゃあ、それなら」

 

 そうっとナイフを置き、髪をするりと耳にかけ、咲耶はソファから身を乗り出す。

 

「せっかくだ。思いっきりいけ」

 

 目を瞑って、えいと俺の掴むハンバーガーに被りついた。ソースに濡れた唇を手で隠し、咀嚼。白い喉が上下し終わるのを待って、聞く。

 

「今度こそ『思ってた通り』だったか?」

 

 咲耶はこくこくと嬉しそうに頷いた。

 

「パイン入りなのね? 甘いのにソースが辛い!」

「美味いだろ」

「ええ、『味がする』って感じ!」

「それ、俺の真似?」

「そう!」

 

 苦笑する。変な真似はしなくていいんだけどな。

 バーガーを自分の方に戻すと、咲耶の噛み跡が小さく残っていた。思い切りいけ、って言ったのに全然食えてないじゃないか。……口ちっちぇな。

 ちらりと彼女の方を見やる。そこにある小さな唇は、さっきまで同じソースに濡れていたのだ。そんなことを考えながら食べたせいか、久々の味もよくわからなかった。

 体液交換の危険性ついては、気にしないと言ったけど。間接キス自体を気にしない、とは言っていないのだ。

 なお、さっきの会話で誤魔化された咲耶は間接だのなんだのはすっかりと忘れ、ニコニコとバーガーを切り刻んでいる。ちょっと腹が立った。

 

 ……簡単に騙されやがって。危機感がない、危機感が。

 

 

 ◇

 

 

 

 遅めの昼食をだらだらと。デザートまで注文して店に居座る。

 ただ、問題は。

 

「時間、遅くなってしまったな」

 

 ボックス席の窓からは夕日が射し始めていた。

 

「一日で二計画は、無理があったわね……」

「結局、ぐだぐだになってしまったな」

「ほんと。……こうして、延々と話しているだけでも楽しいけど。困っちゃうわ」

「何に?」

 

 咲耶は頬杖をついて。窓辺、夕日のオレンジで頬を染めながら、ふわりと困り顔で笑う。

 

「わたしたち、ちゃんとしたデートができるようになるかしら……なんて」

 

 俺は息を、止めた。

 

「えっ、なんで顔覆ってるの!?」

「……いや、今のは卑怯だ」

「何が!?」

「だってそれ、『いつかはちゃんとしたデートがしたい』ってことだろ」

 

 恋人らしいデートが、っていう……。

 う、わーー。駄目だ、考えると恥ずかしくなってきた。咲耶の顔が見れない。

 

「やっ、やめてよね! あんたが恥ずかしがると、こっちまで恥ずかしくなるでしょう!?」

 

 あわあわと慌て出す咲耶。

 かわいい。好きだ。

 ……じゃねえ!

 ナチュラルに惚気るな俺の脳味噌!

 

 ──もしかして、『恋人未満』の関係は、ものすごく大変なのではないだろうか?

 今日のことを初めから思い出す。初っ端から、今まで見た中で一番の咲耶だな、と思った時点で俺は負けていた。

 その上、ずっと好意があけすけなのだ。素直すぎると心臓に悪いと言ったのに、咲耶はきっと忘れている。

 あいつ、妙なことは覚えている癖に肝心なところで記憶力がない。もうちょっとツンケンしろ。我ながら理不尽なこと言ってるけど。

 このままだと、多分──めちゃくちゃ好きになってしまう。

 

 ……耐えられるだろうか? 一年だな、持って。それ以上はちょっと、この関係に我慢できる自信がなかった。

 まあ、一年もあれば。俺も人間をやるのが上手くなるだろう。

 そうすれば先に進むことも、きっとできるはずだ。

 

 

 ◇

 

 

 

 店を出る。伝票の争奪戦は俺の勝ちだった。

「わたしが払おうと思ってたのに……!」と悔しがる咲耶に、ようやく奢ることができたので満足だ。

 

「次、俺の番だよな」

「ええ。エスコートしてくれる?」

「その言い方は……いや、いいけどさ」

 

 しかし時間も時間だ。事前に考えていた予定は変更せざるを得ない。どうするか、としばらく悩んで。思い出す。そういや港町だったな、ここ。

 

「海でも行くか?」

 

 思いつきでしかない雑な提案に。咲耶は、ぱっと笑顔を輝かせた。

 

「うん!」

 

 かわいい。くそっ。

 



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第十一話 手を繋ぐ、ただそれだけのこと。

 並んで歩きながら海へと向かう。

 天気は八割の曇り。時刻は夕方。水平線の西ではどろっとした灰色の雲を、夕陽の橙や茜が鮮やかに染めている。〝逢魔が時〟という言葉が脳裏に浮かぶような、まだらの空だった。

 海岸には俺たちの他には誰もいない。まだ梅雨入り前だし、時間も時間だ。

 砂浜に降りた咲耶はハイヒールを脱いで、裸足で六月の海に飛び込んだ。

 

「冷たい!」

「そりゃあな」

「飛鳥は?」

「俺はいいや。寒そうだし」

 

 ぱしゃぱしゃと波を踏む咲耶の隣。俺は砂浜の波打ち際ギリギリを歩く。頑丈が取り柄の靴は多少波を踏んでも濡れない。 

 咲耶は片手では靴をストラップから吊り下げ、片手ではスカートを摘み上げている。裸足になった咲耶は急に背が低くなって、視線の高さがもう合わない。隔てる波の先の彼女が、ずっと遠くになったような気がする。

 

「海がちゃんと青いわ! 帰ってきたって感じする」

 

「そうだな」と相槌を打つ。あの異世界は、空も赤ければ海も赤かった。

 俺はスマホを取り出した。カメラのスクロールには今日撮った写真が馬鹿みたいに溜まっている。

 

「咲耶、こっち向いてくれ」

 

 画面越し、カメラの枠の中央で彼女は振り返る。強い潮風が吹いてスカートが膨らむ。カーテンのような幾重の薄い布地が、夕陽を透かす。風に流れる髪の隙間から覗く、無邪気な笑顔。瞬間、シャッターを切る。

 

「撮れた?」

「……ああ、うん」

 

 最近のカメラが高性能でよかった。でもどんなカメラでも、この景色を切り取れはしないだろう。写真は一枚だけで諦めて、しかと両目に焼き付ける。

 

「やっぱり海はいいな。来てよかった」

 

 咲耶は、ぱしゃりと波を踏む。

 

「わたしも。こっちの海はまだ好きで安心したわ。見飽きていたのよね、赤い海」

「魔王城、海の上だったもんな。カリオストロ城みたいに」

「……? ああ、わたしはモン・サン・ミッシェルだなって思ってた」

「修道院じゃんそれ」

「あは、悪の巣窟になぞらえるのは失礼か」

 

 俺は、ざくりと砂浜を歩く。

 

「城砦に堀は大事だけどさ、周りが海じゃ堀が深いどころの話じゃないんだよなー」

「ええ、籠城(ひきこもる)には絶好だったわ」

「でも魔王側(おまえら)は飛べるから、空から攻め放題じゃん?」

「そりゃあ。魔王(こっち)の陣営は皆、竜ですもの」

魔女(おまえ)が竜の背から爆撃してくるの、マジでずるかったな……」

勇者(そっち)こそ水面走ってぶった斬ってたじゃない。このチート野郎……」

「はは。我ながらどうやったんだか。多分今は無理だ」

「ほんと、無茶やってたわねわたしたち」

 

 なんとなく昔話の最中は、お互い顔を見れない。隣にいるのが、半年前(すこしまえ)魔女(かのじょ)のような気がしてくるが、錯覚だ。

 

「今思うとわたしが負けたのって必然よね。……あんたと違って、実戦経験なんてほとんどなかったもの」

「ああ魔女の役目って本来、後方支援だっけ?」

「そう、お城に引き籠もって竜に強化魔法をかけ続けるだけの、簡単なお仕事」

「数度とはいえ、よく前線に出てこれたな」

 

 本来、〝魔女〟は戦う力を持たないと聞いていたので、俺も驚いたものだ。

 彼女はどこか、自嘲するように言う。

 

「……わたし、あの世界で一番悪い魔女だったのに。人殺しの経験すらないんだわ」

「……誰も殺さなかったなら、別におまえは悪くないだろ」

「は? 何それ。わたしにだって悪役(ヒール)の矜恃くらいあったんだけど?」

「その矜恃はよくわかんねえよ」

「あんただって勇者のプライドとか……」

「無いね!」

「無いの!?」

 

 たまに俺と彼女は思考や価値観が噛み合わないと感じる。

 特に敵だった頃の話をする時は、強く。

 

 

「ねえ! もしも戻ることになったら、あの世界! 滅ぼしても、いーい?」

 

 

 潮風と波音にかき消されないように、彼女が声を張り上げる。

 夕陽を流れる雲が覆い隠す。彼女の頬に暗い影が落ちる。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。片目が、赤く瞬いた。

 

「駄目」

「なんで?」

「世界を滅ぼせるような存在(ヤツ)はもう人間じゃない。絶対に戻れなくなる。だから、駄目だ」

「……そっか。ならしょうがない。言うことを聞いてあげます」

 

 あっさりと引き下がった。多分冗談だったんだろう。

 だが──もしかして。彼女はまだ、あの世界を滅ぼしたいと思っているのだろうか?

 

「なぁ。おまえはさ、──なんで魔女になったんだ?」

 

 振り返った彼女はあきれたように笑った。

 

「それ、聞く? あまり気持ちのいい話じゃないわよ」

「……いや。言いたくないなら、いいや」

「うん、ごめんね。……でもひとつだけ、あなたに言っておくわ」

 

 海の向こう、ライトアップし始めた橋の明かりが瞬く。輝きを背負って、真っ直ぐに、凛とした声で。彼女は宣言する。

 

「──たとえ魔女になっても、わたしはわたしよ。あなたが文月って呼んでくれていた時から、その名前になるずっと前から。わたしはきっと、何も変わっていないわ」

 

 俺は頷く。

「ああ、わかってるよ」

 

「──おまえが、昔からバカだってことは」

 

「…………は?」

 

 咲耶はひくり、と頬を引き攣らせた。

 

「バカって言った?」

「言った」

「このっ、風邪引けクソ野郎っ!!」

「うわっ水飛ばすな! つめたっ!?」

 

 水面を蹴る白い脚が弾く水滴を避ける。

 

「そういうところが! バカなんだよ! バーーカ!!」

「意味わかんない!! わたし今、結構大事なこと言ったでしょ!?」

 

 いや、なんか真面目な話しててムカついたから。つい。

 

 咲耶がやけくそのようにもう一度、水を蹴ろうと足を振りかぶる。

 ──その時。

 少し、大きな波が来た。

 

「わっ、きゃ……!」

 

 咲耶は押し寄せた波と不安定な砂に足をとられて、ぐらりとバランスを崩す。

 

「危ない!」

 

 俺は濡れるも構わず海に踏み入り、手を伸ばし──けれど。彼女は、俺の手を取るのを躊躇した。反射的に差し出してしまったのが右──剣で出来た手の方だったからだ。

 彼女は俺の右側を絶対に歩かない。たとえ包帯越しでも近付けばひりつき、直に触れれば肌が焼ける代物だ。今日だってずっと、互いの距離には気を遣っていた。

 躊躇は当たり前。──聖剣(みぎうで)魔女(かのじょ)を殺すための武器なのだから。 

 わずか一瞬。伸ばした手が届くことはなく、すり抜ける。

 時間が止まったような錯覚の後。盛大に、水飛沫が上がって。

 咲耶は波間に落っこちた。

 

 

 

 慌てて砂浜に引っ張り上げる。今度はちゃんと左手で。

 

「……その、悪い!」

「だ、大丈夫。わたしが勝手に転けただけだし」

 

 違う。どう考えたって、今のは。助けられなかった(・・・・・・・・)俺が悪い(・・・・)

 ずぶ濡れの咲耶は「くちっ」と小さくくしゃみをする。スカートは透けて足に張り付き、いやに艶めかしい。あられもなく濡れた胸元には、下着がくっきりと浮かび上がっていた。

 まずいまずい、とりあえず俺の上着を着せるか、ああでも買ってもらったものをいきなり海水で濡らしては駄目だ、と朝に着てきた方のパーカーを紙袋から引っ張り出して、咲耶にぶん投げる。

 しかしどうする。このまま帰るわけにはいかない。

 

 丁度携帯が震える。通知は芽々からだった。あいつはよく、くだらない写真を送ってくる。『見て見てひーくん! カエルの死体! もずのはやにえ!』とか。小学生男子か?

 だが、丁度いい。俺はそのまま、芽々に電話をかける。自分で知恵が足りないなら、誰かに相談すればいいだけの話だ。

 

『わっびっくりしました。今日デートじゃないんです?』

「なんで知ってんだよ」

『サァヤのデート服、選ぶの付き合ったので』

「ありがとう芽々」

 

 めちゃくちゃかわいかったです。さっき俺が台無しにしたけどなぁ! クソッ!

 

『それで、何かあったんです?』

 

 話が早くて助かる。かくかくしかじかを説明し、知恵を仰ぐ。芽々は『なるほど』と電波越しに相槌を打って。

 

『確かお二人って、十八歳ですよね?』

「そうだけど?」

 

 沈黙。

 

『…………ラブホ行けば?』

 

 …………。

 

「ふ、ざっけんなよ寧々坂ァ! 高校生だっつってんだろ!?」

『いや留年じゃん。てかバレな……』

 

 ブチッと通話を切る。最悪だ、俺の周りの女はどいつもこいつも品性がない! 

 

「クソが!!」

「……え、何? どしたの。何キレてるの?」

 

 だが、咲耶をびしょ濡れのままにしておけないのも確かである。……仕方がない。

 

「おい咲耶。風呂、行くぞ」

 

「…………へっ!?」

 

 

 

  ◇

 

 

 

 さいわい目的地はすぐだった。建物の明かりの前で、咲耶は言う。

 

「ねえ、ここって……」

 

「──銭湯だよ」

 

「なんで??」

「は? 風呂つったら銭湯だろ何言ってんの?」

「でも電話口でホテルって聞こえて……」

「は? ホテ、何? そんな日本語ねえよ。辞書引いた?」

「すっごい無理がある誤魔化しね? ……いや、あんた銭湯入れないじゃん」

「だからおまえひとりで入れよ」

「じゃあホテルで良くない?」

 

「うるせえ!! いいから銭湯(フロ)行ってこい! せいぜい肩までゆっくり浸かってくるんだなァ!!」

「あんたテンションおかしいんですけど!?」

 

 こっちはもうヤケなんだよ!!

 

 

 

 そして俺は銭湯の外で、咲耶が風呂を上がってくるのを待っていた。

 何故わざわざ外かというと頭を冷やすためだ。

 なんか火照ってるし。あー、くそ。絶対寧々坂のせいだ。(しばらく芽々って呼んでやらない)

 

 日はもうすっかりと暮れていた。海辺なので潮風が強い。近くの水道で洗った足元が冷えて、くしゃみが出る。

 

「お待たせ」

 

 思ったよりもずっと早く咲耶は戻ってきた。急いで乾かしたのだろう髪はほのかに濡れたまま、くるりと団子に纏められている。晒された首筋に、余った髪が張り付いている。

 ちなみに、濡れた服はどうしたかというと。下着は丁度買ったのがあったが、着替えは魔法でも持ってこれなかった。実は俺たちの住む町を出ると、何故か咲耶はあまり魔法が使えなくなるのだ。

 だから着替えには、俺が今朝着てきたTシャツを貸したわけだが。

 

「その……変じゃない……?」

 

 咲耶は素顔を恥じらうように手で隠し、こちらを伺う。

 どう見たってサイズはぶかぶかだった。なだらかに身体のラインを覆い隠しているのが、かえって肢体の華奢さを強調する。背丈は十センチしか変わらないのに、体格は、差がこんなにも出るのかと驚く。

 ……女の子なんだな。

 いや、知ってたけど。下手に露出が高いよりも、なんだか意識してしまう。

 

「……いえ、確実に変よ。あんたの服が変だから」

「そんなことはないさ。無人駅は変じゃない。おまえもよく似合ってる」

「褒められて屈辱なんだけど??」

 

 咲耶は「うぅ」とか細く呻いて、覆った手の隙間からこちらを見る。

 

 

「……あなたには一番出来のいいわたしだけを見てほしいのに」

 

 ……こいつ。

 溜息を飲み込んだ。

 

「いや、おまえは何着ても似合うし」

「ええ?」

「普段からジャージとか着てろ」

「喧嘩売ってんの!?」

「は? ジャージめっちゃいいだろうが」

「わからないわ!」

 

 わかれ。もう少し心臓に優しそうな、露出の低いラフな格好をしろ。

今みたいな。

 ……と思ったら、脚が丸見えなことに今気づいた。 Tシャツをワンピースみたいに被っているせいで、裾からはすらりと長い足が伸びている。

 建物の明かりにの元、湯上りの太腿(あし)は火照っていた。白い肌が、ほのかに色づいて、夜の街灯に照らされているのは──なんだかとても悪いものを見ている気がした。

 丈にゆとりはあるし、俺がさっきまで着てた薄手のコートも貸しているから、別に中身は見えないのだが。それはそれとして、大丈夫か……? 下履いてないの、本当に大丈夫かこれ……。

 

「あ、買った下着見る?」

「見ない!!」

 

 シャツめくるな!

 

「……すんっ」

「嗅ぐなコラ!!」

 

 なんで嗅いだ!?

 

「ふふ、飛鳥の匂いがする」

「ハァ??」

 

 クソッ、こんなことなら朝に山とか行くんじゃなかった!

 

 

 

 ◇

 

 

 

「にしても。デートの終着点が銭湯とは世話ないな」

 

 苦笑する。

 

「ふふ、本当に。ごめんなさいね。……でも、わたしは楽しかったわ」

「ん。俺もだ」

 

 夜空には雨雲が立ち込めている。

 

「雨が降る前に帰るか」

「ええ、駅まで歩きましょう」

 

「そういや、デートは勝負だなんだって言ったけどさ。勝利条件はなんだったんだ?」

「ええと、相手を楽しませたら勝ちで、楽しんだら……あれ? 勝ち?」

「決めてなかったのかよ。おまえ、時々すげー適当だよね」

「ま、まあ。両方勝ちってことで、ね?」

「はいはい。……いや、おまえ本当に勝つ気あった?」

 

 咲耶はぎくっとした。

 ……なるほど? 勝負だのなんだのは照れ隠しだったらしい。

 咲耶は実はそこまでアホじゃない。嘘と演技が時々、明後日なだけだ。

 

 ……なんだよ、ったく。面倒くさいやつだよな。

 まあでも。その面倒くささに気付いている俺が、先回りすればいいだけの話だ。

 道には他に、誰もいなかった。海にかかる橋と街灯と車のライトが照る、ほの明かるい道で立ち止まる。

 隣の咲耶がつられて止まり、こちらを不思議そうに見る。

 

「ほら」

 

 左手を、差し出した。今日、ずっと俺の手を見られていたのには気付いている。

 

「おまえが嫌じゃなければ、だけど」

 

 物理的距離をはかりかねた一日だったから、予防線を張らずにはいられなかった。……格好悪いな、俺。

 咲耶は、ふっと微笑んで俺の目を見て。

 

「嫌なわけ、ないじゃない。……あなたに触れたいとずっと思ってる」

 

 囁くように答えて。おそるおそる、と細い右手を重ね合わせる。崩れそうに柔らかい彼女の手を握り返した。

 

「体温、高いわね」

「おまえはひんやりしてる」

 

 別に、触れたことくらい何度もあるはずなのに。ただ普通に、手を繋ぐ。それだけのことが……とても特別な気がした。

 同じ歩幅で歩き出す。

 

「次のデートはもっと上手くやるよ」

「わたしも、あなたをもっと楽しませてみせるわ。でも……」

 

 言い淀む。多分、同じことを考えている。

 ──次は、一体いつになるんだろう。

 思い出す。そもそも、このデートの主旨が〝前哨戦〟であることを。

 異世界(むこう)のゴタゴタを片付ける〝本番〟の前に遊びに行こう、と誘ったのだ。つまり、今日が終わるとそろそろ真面目に頑張らないといけないということで。

 

 あーあ、戻りたくねーなー異世界。

 ……いっそ向こうから、来てくれないだろうか?

 早く全部、上手くいけばいいのに。

 ……いや。上手くやるんだったな。俺が。

 

 握った手の感触を、確かめる。

 

「次はさ! 多分もっと夏だから。もう一度、海行こうぜ。リベンジだ」

「飛鳥、泳げるの? 腕、沈まない?」

「カナヅチになろうとも俺は海が好きだ。問題ない」

「ええー?」

「知っているか、咲耶。海の家で食べるカップ麺は世界一美味い」

 

 咲耶は軽く、鼻で笑う。

 

「あんたも大概、ジャンクじゃない」

「ちげえよ。俺は情趣を大事にしてんの」

「それはわかんないけど」

「笹木や芽々も誘ってさ、行こうぜ。浜辺で水鉄砲とかいいじゃないか。風情がある」

「え、そう?」

「銃火器は刀の次くらいに浪漫だ」

「あんたって……時々、男の子よねなんか。なんかばか」

「は? カッコいいだろ。何故わからん……」

 

「いいわ。その約束、してあげる」

 

 化粧(せのび)を落とした素顔と、風に解けた湿り気を帯びた髪。悪戯っぽく幼い笑みに、約束をする。

 

「海行こう」

「うん」

「夏になったら」

「うん」

「絶対だ」

「うん」

 

 指切りよりも硬く、手を繋いで。

 

 

「ね、飛鳥」

 

 囁くように名前を呼ばれる。街灯の下、視線はすぐ近く。

 

「もし、向こうに戻ることになったとしても……ひとりで行っちゃダメだからね」

 

 真っ直ぐにこちらを見つめる両目。きゅ、と強く握り返された手は、離さない、と言われているような気がした。

 ふっ、と笑いが漏れる。

 

「バレたか」

「バレたか!?」

「冗談だよ」

 

「……本当に?」

「何故、信用がない?」

 

 

 

「──約束。置いていかないでね」

 

「──ああ、約束だ」

 

 

 

 空は暗雲立ち込め、夜の海は真っ黒。

 でも、悪くない。

 

 どうせ、すぐに夏は来る。

 



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第十二話 最強だって風邪くらいは引く。

 

 昨日のデートは夢のような一日だった。

 なんてことを思う、翌日。わたしは憂鬱に溜息を吐いた。

 だって月曜日の朝だ。その上、しとどに雨が降っている。こんな日はまったく学校行きたくないけれど、そうも言っていられない。

『優先すべきは異世界よりも現世、普通の高校生をやることだ』と、飛鳥は言うので、わたしもきっちり優等生をやっている。わたしの願いはアイツの願いをいい感じに尊重することだ。……異世界のあれそれを片付けるにも、まだ準備の時間がいるしね。(そういうことは裏で進めている)

 だから、今日も制服に着替えて朝、アイツの部屋の窓へと跳ぶわけだ。(傘を差しながらジャンプするのはメリー・ポピンズみたいでちょっと楽しい)

 

 ……デート後だから、なんかちょっと甘い雰囲気になったりして。えへへ。顔を合わせるのがなんだか照れくさいかも。なんて浮かれ調子を引きずりながら、ベランダで傘を閉じ、飛鳥の部屋の窓をノックし開く。

 

「おはよう、なんだかすっかり梅雨ね。滅入っちゃうわ。……あれ? まだ起きてないの?」

 

 いつもわたしが部屋に行く頃には、飛鳥は制服に着替えて、髪まできっちり整えて、味噌汁を作りながら『おはよう』とすぐに返してくれるのに。

 ……朝ご飯の匂いもしない。

 閉じたままのカーテンをそろりと開く。

 雨の日の部屋は暗く、飛鳥はうつ伏せにまだ寝て──ちがう! 畳の上に倒れてる!

 

 

「う、嘘……死んでる……!」

 

 

 ──あれ、これ前もやったな?

 

 

 

 

 わたしの声で、うつ伏せになっていた飛鳥ががばりと首を起こす。生きてた。

 

「……ハッ、二度寝してた」

「いやそれ、多分気絶って言うのよ?」

 

 ……いや、二度も倒れるな。二度も。百年の恋も冷めるから。

 蛍光灯の紐を引っ張って、明かりをつけて飛鳥の顔を見る。らしくなく紅潮し、目の焦点が合っておらず、極め付けに「けほ」と軽い咳の音。

 ……なるほど。

 

「──風邪ね?」

 

 飛鳥はなぜか愕然とした。

 

「……え、俺風邪引くの!?」

「あんた人体をなんだと思ってる?」

 

 普段から寝不足と不摂生に過労気味、よく考えたら風邪を引かないわけがない。その上今は季節の変わり目で、昨日は冷たい海に入って……。

 って──どう考えてもわたしのせいじゃない!

 

「まさか。わたしが昨日『風邪引け』なんて呪詛(わるぐち)言っちゃったのがいけなかった……!?」

「いや流石にそれはないだろ。それで効くなら口喧嘩の度に俺死んでるから」

 

 顔を覆う。自分の言葉に責任を持たなければ……。

 

「大丈夫大丈夫。ちょっと熱っぽくて身体中がミシミシ言ってるだけだし。休むほどじゃない」

「それは結構重症でしょ!?」

 

 立ち上がろうとする飛鳥を引っ張って、座らせる。

 

「ほら、大人しくしてる! 体温計は……ないの? えぇ、わたしも持ってないんだけど!」 

 

 仕方がないから、わたしは飛鳥に覆いかぶさり手を伸ばす。

 

「まっ、(さく)……!」

 

 額を合わせて熱を測ろうと、飛鳥の長い前髪をかき上げて──、

 

「っ……」

 

 声を詰まらせる。

 

 

 長い前髪の奥、あらわになった額には。

 ──ざっくりと裂かれた大きな傷が、残っていた。

 

 飛鳥の表情が変わっていく。目を逸らし、ぐしゃりと髪を戻した。

 

「あー……その、な」

 

 その反応に、見てはいけないものを見たのだと思い知る。

 

「……ごめんなさい」

「いや……気にしないでくれ」

 

 困る。気にしている本人にそんなこと言われても。

 ──雨音がうるさかった。

 

「……身体が軋むって、もしかして古傷のせい?」

 

「そう、かも」と、曖昧な返答。溜息を吐く。思い返してみれば、もう夏なのに飛鳥は頑なに長袖のままだ。わたしですら、彼の傷の数を知らない。

 ──距離感、間違えたな。近付きすぎた身体を離す。

 

「……朝ごはん食べれる?」

「微妙。昼には、食えるかも」

「わかった。お粥作っておいてあげる」

「別にそこまで……」

「なに? 気に病まないでよね。あんたが味噌汁作るのと、変わんないわ」

「……ん、助かる」

「あまり美味しくはできないかもだけど」

「咲耶が作るならなんだって美味い」

「ばか」

 

 

 制服のまま、髪だけ高く結えて台所に立つ。ガスコンロは慣れてなくて火を付けるのにさえ苦戦した。

 ここはわたしの部屋と違って壁が薄いのか、外の音が突き抜けてくる。粥が煮立つ音が、苛む雨音を掻き消すくらい大きくなればいいのに。

 出来上がりを待つ間。わたしは六畳間の台所に立って、あいつは卓袱台の前に座って、顔を合わせないまま。

 

「ねえ、わたしのつけたのっていくつだっけ」

「いちいち覚えてないけど……二つぐらいじゃないか? 残ってるのは」

 

 唇を噛む。

 

「謝るなよ」

「謝らないわよ」

「ていうか怒ってないし」

「わたしもあんたに殺されかけたしね」

「お互い様だ」

 

 背を向けたまま、聞く。

 

「……傷、見られるの。やっぱり嫌?」

「嫌っていうか、恥ずい」

 

 飛鳥は言う。

 

「見られるのが、っていうかさ。『こいつ、無傷で勝てないのかよ』ってばれるのが恥ずかしいんだ」

「よくわからない」

「おまえ自爆前提だもんね」

「だって治るし」

「そういう話ではない。俺は正直、いつもどうかと思ってる」

「……それは、ごめん。よくわからないけど、気を付ける」

 

 続ける。

 

「ほら、俺は……勇者だったわけじゃん? つまり、あの世界で最強だったってことなんだけど」

「そうね。ほとんどあなた一人で、わたしたち全員を敵に回して勝っていたもの」

「同僚はいたけどな」

 

 それでも剣を振るうのはただひとり。他の誰も並び立つ者はなく、あの世界で彼こそが紛れもなく最強だった。

 

「でも、あんまり自分が強かった気はしないんだよな。正面突破とか苦手でさ、奇襲ばっかやってたし」

 

 それはそうだ。人と竜では大きさが違う。物理的にも、存在の格としても。だから彼は勝ち方を選ばなかった。それは別に、悪いことじゃないと思うのだけど。

 

「闇討ちとか格好悪い。仁義がない。無傷で勝てもしないくせに『最強』名乗るとか……もう、ダサすぎる」

 

 あいつはそう、思わないらしい。

 

最強(・・)ならば(・・・)真正面(・・・)から(・・)圧勝(・・)すべき(・・・)だ。──全部を余裕で、無傷で救えるような〝絶対〟であるべきだった」

 

 それが、あいつにとっての勇者(ヒーロー)の定義なのだろうか。あるいは〝理想〟だったのだろうか。

 

 

「まあ、それってつまり隕石なんだけど」

 

 

 首を回す。卓袱台に突っ伏した飛鳥は「俺、来世は隕石になって恐竜を滅亡させるんだ……」と妄言(たわごと)を吐いていた。

 ……こいつ、まさか。『勇者』と『最強』と『隕石』を等号(イコール)で結んでいる?

 

「えっ……あんた隕石目指してたの?」

 

 ばかなの?

 

「ていうか。隕石って破壊と滅亡の象徴だから、どっちかというと……魔女(わたし)側じゃない?」

 

 飛鳥は、ハッとしたように息を飲んだ。

 

「おまえが、隕石だったのか……」

「さては熱高いな?」

 

 鍋に向き直り、お粥の具合を確かめる。完成まではもう少し。

 

「え? 気にしてる理由ってそれだけ?」

 本当に?

「あと銭湯に入れなくなった」

 そっち? 

「俺のコーヒー牛乳……」

 そっちなの? 悲しいのはそっち?

 

「それに──咲耶だって、見たくはないだろ」

 

 ……ようやく本音だ。

 わたしは少し考える。気にしない、と答えるのは簡単だ。でも──それは嘘。だから。

 

「それ聞いてどうするのよ。あんた、わたしが何言っても気にするでしょ?」

 

 それくらいは、わかるわよ。

 わたし、あなたの言葉に一喜一憂しているから。褒められると耐えられないほどに嬉しいし……否定されると、耐え難く悲しい。

 好きな人の(・・・・・)言葉は(・・・)それだけで(・・・・・)呪いだ(・・・)

 ──わたしもう知ってるんだから。あなたが、わたしのことを好きだってこと。

 

「わたし、あんたの傷に塩を擦り込むようなこと、しないわよ。望まれたってしてやらない」

 

 (かこ)を肯定することはできない。だからといって、否定(のろい)だって吐くものか。

 

「あなたが自分の傷を呪うなら、わたしは呪わないでいてあげる。何を見ても素知らぬ顔をしてあげるわ。……意味なんて、あげないから」

 

 向けられる好意を背負う自覚を。渡す言葉に責任を持つということ。

『友達以上、〝両想い〟の恋人未満』って多分、そういうことだ。

 今のわたしにとって〝恋の定義〟はなんなのか、まだよくわからないけれど。〝愛〟は、責任(・・)だと思う。

 

 火を弱める。鍋の蓋を開ける。

 

「そうか」

「うん」

「安心した」

「よかった」

「咲耶、あのさ」

「なに?」

 

 掬った粥を味見する。

 

 

「俺、実は乳首片方もげてんだけど」

 

「ゲホッ」

 

 

 お粥咽せた。

 流し台に突っ伏す。……な、なに言ってんの!?

 

「向こうで胴体ザックリいったときにポロッと取れてさぁ、そのまま生えてこなかったんだよねー」

 

 ……えっ、うん、えっ!?

 

「いやこれ、マジで恥ずかしくて誰にも言えなくて。不謹慎なのはいいけどさぁ、ダサいのはよくないよなー。品性がない」

 

 ……不謹慎もダメでしょ!?

 

「でもこっちは深刻なんだから下品かと言われると微妙に納得がいかないしさー、じゃあそもそもなんで生えてんだよテメェはよぉ……」

 

 知らないわよ!!

 

 ようやく咳き込むのをやめて、畳を振り返る。飛鳥は卓袱台に頬杖をついて、こっちを見ていた。

 表情はスイッチを落としたみたいに無だ。飛鳥は調子が悪いと表情が消える。でも今のわたしは結構、あいつのことを知っているわけで。無表情でもわかることくらいはあるのだ。

 

「あんた、もしかして……わたしを困らせて楽しんでる?」

 

「うん」

「性格!!」

「これからしばらく『こいつ乳首一個しかないんだよな』と思う呪いをかけた」

「最悪! 最悪っ! バカ言ってないで寝ろ病人ッ!!」

 

 わはは、と棒読みで笑うアイツを半ば蹴っ飛ばすように布団に押し込む。

 なに? なんなの? 真面目な話をし続けるのに耐えられない病気なの!?

 

「いや、でも……うん」

 

 呟く。

 

「今、一番恥ずかしいこと言ったから──もう、咲耶に何見られても平気だ」

 

 わたしは、黙り込んで考える。

 

「……もしかして、今の全部『気にするな』って意味?」

 

 曖昧に肯定が返ってくる。

 溜息を吐いた。確かに気にするのが馬鹿みたいだと思ってしまった。だからといって今のはない。ないでしょ。脳味噌宇宙人め……。

 

「まぁ、見てもいいって言うなら……熱、測るけど」

「ん」

 

 今度こそ、座るあいつの隣に膝を下ろして。前髪をそうっと掻き上げる。額の傷はよく見ると二重(・・)になっていた。けれど、その謂れを聞くことはしない。

 無言で額を合わせ──熱さと同時に、はたと気付いた。

 

 この近さ……すっごく恥ずかしいかも。

 まるで、キスしようとしてるみたいじゃない……?

 今のわたしはとびきり冷静だし、ここで浮かれるほど不謹慎でもないのだけど。

 ……顔が、赤くなっていたらどうしよう。人が弱っている時に喜ぶような、はしたない女だと思われてしまう!

 

 ぱっと頭を離す。

 

「は、八度! ええ、そのくらいじゃないかしら!」

 

 必死で何気ないふうを装って「保冷剤とってくるから!」と冷蔵庫に向かった。

 恥ずかしい恥ずかしい。なにが恥ずかしいって、こんな場合で、しかもあんな馬鹿みたいな話の後ですら、熱を上げられるわたしの恋愛脳(スイーツ)具合が恥ずかしい!

 いくらなんでも、それは、ない!!ちょっとくらい冷めろ! 幻滅しろ! でも好……好き? かなぁ……。

 もうよくわからない。恋ってなんですか、地獄(てんごく)のお母様……。

 

「……あ」

「どうしたの?」

 

 保冷剤を両手に握りしめ、振り向く。飛鳥は額の傷をなぞりながら言った。

 

「今思い出したんだけどさ。これ……子供の頃にガラスで切ったやつだったわ」

 

 …………は?

 

「異世界関係ないじゃない!!」

 

 じゃあ、なんだったのよさっきの気まずさも暴露も!

 

「マジごめん。いやー、俺そういや記憶喪失だったね。ははは」

「ばか!!」

 

 保冷剤ぶん投げた。

 

 

 



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第十三話 恋人未満にキスは許されるだろうか。

   ◆

 

 

 

 『おとなしく寝てなさいよ!』と言い残し、ひとりで学校に行った、その放課後。

 わたしは自分の家には帰らず、そのままあいつの部屋に行く。鍵は貰ってないので不法侵入だけど、それも慣れたことだ。

 ──いっそもう、わたしと一緒に住めばいいんじゃない? どうかしら、名案だと思うのだけど。

 

「寝てる、か……」

 

 部屋の様子をうかがってほっと息を吐き、適当に買い込んだ差し入れを置く。わたしが入ってきても起きないなんて、珍しい。

 わたしは枕元に座り、あいつの顔を覗き込む。髪を整えていないせいか、珍しく深く眠っているせいか、いつもより幼く見えた。昨日ずっと年上に思えたのが嘘みたいだ。

 きゅう、と心臓が鳴いた。唇が熱を持ち出す。

 前にも似たようなことがあったけど、どうやらわたしは彼の寝顔を見るとキスをしたくなるらしい。……本当に、はしたない性分だ。

 

 頭蓋が(・・・)キリキリと(・・・・・)軋んで(・・・)我儘を(・・・)囁く(・・)

 ──今ならバレない。バレないわ。バレないかなぁ。

 でも、たとえバレたとしても。怒られたりしないでしょう?

 ……ならいいんじゃない? 我慢しなくても──ええ、そうよね。

 

 規則正しい寝息は、犯行が完璧に済むことを保証する。ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

 ──どこにキスを落とそうか?

 額は駄目だ。傷がある。瞳は駄目だ。澱んでる。唇は駄目だ。それは『恋人』の領分だ。わたしは(・・・・)まだ(・・)それを(・・・)許可されて(・・・・・)いない(・・・)

 ならば頬? でもそれは……唇よりも恥ずかしい気がする。

 

 わたしは唇へのキスは幼い頃から見慣れている。趣味の映画や恋人の多かった母親で、だ。そのせいか、そこまで羞恥することのほどでもない気がする。所詮キスなんてお芝居みたいなものじゃない?

 でも頬へのそれは、なんだか他の場所とは違うように思う。外国では挨拶程度、親愛の意味だとしても。逆に特別、わたしにとっては〝純粋な愛情表現〟という感じがするのだ。

 それは必要や欲望の介在しない、親しみと、慈しみ、混じり気のない愛情の印。

 それを……唇よりも殊更に、無警戒な場所になんて……。

 

 ──そんなはしたないこと、できっこない!

 

 はっと我に返る。いつの間に顔を寄せたのか、間近にあいつの寝顔があって、勢いよくのけぞった。

 ……いや、そもそもなんでキスしようとしてるんだわたしは!

 しません。しないったら。するわけがないでしょ。

 顔を覆って溜息を吐く。息で唇の熱を冷ます。

 

 

 ──あれ? もしかしてわたし今……ちょっと正気(・・)じゃなかった(・・・・・・)

 

 

 

 ◇

 

 

 

 目が覚めると、視界一杯に咲耶の顔があった。

 

「うわっ!?」

 

 近い!!

 

「あ、起きた?」

「……おまえ、何してんの?」

 

 襲われるところだったのだろうか? なにせ人が寝ている時にやることなんて、寝首を掻く一択である。怖い。

 

「安心して。何もしてないから。ちょっと寝顔を一時間くらい見てただけよ」

「それはそれで怖いな!?」

 

 おかしい。いつもならあまり近くに咲耶がいると、目が覚めるはずなのだが。……そんなに深く眠っていたのだろうか?

 

「熱下がったみたいね」

「え? ああ、うん」

 

 そう言われてようやく思い出す。風邪引いてたなそういや。

 半端に寝ぼけたまま、おぼろげな今朝の記憶をひとつひとつ確かめ──。

 …………。

 

「……俺、すごいこと口走ってたね?」

「うん。反省しなさいね」

 

 やばい、顔が見れん。体調が傾くと理性がどっかに飛んでいくらしい。

 逃げるように立ち上がる。

 

「ありがとう! もう大丈夫だって! だからほら、帰れ! うつるぞ!」

「わたし風邪ひかないし」

「バカだから?」

「あらぁ、吠えるわね! 元気そうで何よりだわ!」

 

 口が滑った。

 咲耶はむすっと不貞腐れる。

 

「ちょっと心配した」

「ごめん」

「お茶でも淹れるわ。待ってて」

 

 そう言って、当たり前のように咲耶はウチの台所に立った。その光景に、なんだか不思議な気分になる。……咲耶が俺の家に、いる。

 別に珍しいものでもない。毎朝来ている。だが、何かいつもとは違うのだ。

 そう、逆だった。いつもは咲耶は客として俺の部屋にくるわけだ。当然俺が茶を淹れる側。だけど今は、俺が目が覚めたときからから部屋に咲耶がいて、当たり前のように薬缶に火をかけている。その光景はなんだか……嫁っぽいというか──いや、これまだ頭茹ってるな!?

 ものすごく馬鹿なことを考えてしまった。顔でも洗ってくるか。

 と考えて気付く。

 一時間もだらしのない寝顔を見られていた……それは、ものすごい恥ではないだろうか?

 

 慌てて身支度を整えた。着替えも死角で済ます。

 あまりその、どうしようもない姿は見られたくないのだ。特に咲耶には。

 いやもう晒したけど。これ以上は流石に意地というものがあった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

「復調に半日もかかるなんて不覚だ……」

「ま、風邪を引くなんて最近人間らしくなったんじゃない? 五点加点ってことで」

 

 想像を絶する採点の甘さだった。風邪引いて加点なんてあり得ないだろ。

 ……まあ異世界(むこう)では、風邪どころか出血多量でも死なない有様だったから、それに比べると確かに普通の人間らしくなったのかもしれない。あの世界の法則では精神の方が大事なので、肉体ダメージは現世ほど重くなかったのだ。

 

 雨は穏やかに降り続いている。この部屋は窓が大きいので、雨でも部屋は充分明るかった。電気を点けるまでもない。咲耶は卓袱台に頬杖をついて、ふふ、と笑う。

 

「それに、たまには弱るのも悪くないわ。今なら勝てそう」

「だからなんだよその血の気」

 

 にしても、ただの風邪にしてはおかしかったような気がする。あそこまでぼんやりとするものだっただろうか?

 考えごとをしながら湯呑みの茶を啜る。

 

「ま、わたしのせいで風邪を引かせたようなものだから。責任は取るわ」

「責任?」

 

 咲耶は正座してぽんぽんと膝を叩く。

 

「どうぞ?」

「……何が??」

「膝枕だけど。見たらわかるでしょ?」

 

「なにを言ってるの?」と首を傾げる咲耶。

 なるほど、と頷いて。俺は空になった湯呑みを卓袱台に打ち付けた。

 

「わっかんねえよ!! 『何言ってんの』はこっちのセリフだ! 脈絡がなさすぎる!」

 

 咲耶はきょとんとして、「つまりね」と説明を始める。

 

「あなたが弱っている今が勝ち時でしょ?」

「そうだね」

「でも病み上がりに喧嘩を売るのははしたないわ」

「確かにな」

「だから、精神的優位を取ることで勝つべきよね」

「何言ってんの?」

 

 咲耶は大真面目な顔で言う。

 

「つまり。お詫びを兼ねつつ精神的優位(マウント)を取るために──あなたを甘やかそうと思ったの!」

 

 完璧な論理だと主張する満面。瞳は得意げに輝いていた。

 ……なるほどな。甘やかす、はちっともわからないが。膝枕というのは精神的優位を取るのに合理的だ。無防備に首を晒すわけだから、その体勢を取らせた時点で『いつでも寝首を掻ける』(イコール)『勝ち』と解釈できる。筋は通って……

 

「いやおかしいだろ!」

 

 筋が通ってるわけないだろ!

 

「膝枕はイヤ?」

「違う!!」

 

 立ち上がった俺を、咲耶は見上げて首を傾げる。……まさかこの女、本気でわからないのか? 

説教(はなし)が長くなりそうだ。とりあえず正座をさせようと思ったが、咲耶は既に正座している。──しまった。俺は「正座しろ」以外の説教の始め方がわからない。

 咲耶は座り込んだまま、何かを考えるように俯いて。

 厚い胸部装甲を、ふに、と自らの手のひらで持ち上げた。

 

「……やっぱり、胸の方がいい?」

 

 白いブラウスの山は、装甲などと言って誤魔化せないほど柔らかにたわんだ。

 

「は?」

 

 マジでなに言ってんのこいつ? 

 

「だってあなた、見てるじゃない。普段から、わたしの胸」

 

 沈黙する。眉間を揉んだ。

 

「いやっ、それは……好きな子の胸は、見るだろうが!!!」

 

 六畳間がシンとした。嘘だ。雨音はなんかいい感じに窓を打っている。侘び寂びだなぁと現実逃避するが、長くは持たない。

 

「…………すみません」

 

 正座した。

 駄目だ、今日。病み上がりで理性が効いてないから口が滑る。あんな最低な告白あるかよ。言い訳としても見苦しい。死ね俺。

 

「い、いいの! わたしも……その……似たようなもの、だから!」

 

 なにが? 咲耶も俺の胸を見ているということか? 怖。男の胸を見て何が楽しいんだ……。いや、妙な暴露したからそれは見るか。俺でも見るわ。

 ……死ぬか〜!

 

「ちょっと恥ずかしいけど、別にそういう目で見られても……」

 

 妙な気まずさに支配された空気の中。咲耶は少し目を背けて、か細い声を出す。

 うっすら頬を染めて、見上げる。

 (はしばみ)色の瞳が、薄暗い部屋の中で潤んで輝く。

 

 

「──あなたになら……いいわよ?」

 

 

 一から十まで何を言ってるのかわからなかった。

 困惑している間に、咲耶はするりと制服のリボンを解き、ぷちぷちとボタンを開け始める。白い、餅のような肌が柔らかに晒される。目の前の光景の意味がわからなすぎてガン見した。

 

「いや、よくねえよ!!」

 

 我に返る。

 

「嫁入り前の娘が肌を晒すなこの、バカ!!」

「どうして? いずれあなたに嫁入りするのに?」

「急に何言ってんだ!!?」

「あ、婿の方が良かった?」

「ちげえよ! 全部違う! ……な、なんでおまえ! そんなことを! こんな状況で言うんだよ大馬鹿が!!」

 

 最低だ! 咲耶には情趣がわからない。こいつはいっつも大事な話を微妙なところでする! 論理も頭も品性も貞操観念も全部おかしい!

 

 ボタンを全部外そうとしていた咲耶の腕を咄嗟に掴む。

 

「とりあえず、脱ぐな!!」

「きゃっ」

 

 そのまま勢い余って、重心は彼女の後ろへ。畳の上にもつれるように倒れ込む。身体の接触だけはぎりぎりで回避した。だがその距離はほとんどゼロと言ってよく、重なり合う視線と無言の間がじっとりと重かった。

 雨脚が強くなる。日が暮れて、部屋の中が暗くなる。

 探り合うように見つめる。

 

「……いつかもあったなこの構図」

 

 ずっと物騒で余裕のない喧嘩ばかりしてきたから、組み伏せるくらいは別に、初めてではない。

だが、見える景色が違う。潤んだ瞳に、ブラウスの合間から溢れるレースと、ほのかに赤い張り詰めた柔肌は、けして彼女の戦装束たるドレスの時とは、大気越しに伝わる温度が違う。

 そして──普段の言い合いで済ますにも、少し喧嘩を売られすぎていた。

 

「……退かないの?」

 

 頬を赤らめながらも、彼女は挑発的に口角を上げる。精神的優位を取ると宣言した通り、ここで引くつもりはないらしい。買い文句で返す。

 

「退いて欲しいなら退けって言えよ」

 

 咲耶は何も言わなかった。

 ……こいつ。

 危機感がないのか。舐められているのか。わかっていないのか。それともわかっていてやっているのか。

 正解が、わからない。

 頭が(・・)うまく(・・・)回らない(・・・・)

 

 ……難しく考えるのはやめだ。あえて勝ち負けだけを考える。

 ここで挑発に乗ってまんまと胸を揉んでみろ。それは確実に負けだ。据え膳を食わないことより、大人しく食うと舐められている方が恥なのだ。俺は痴女には屈しない。

 勝負の勝ち方はシンプルだ。相手の思惑通りに運ばせないこと。不意を打ち、意表を突くこと、予想を裏切ること。たかが恋愛だって、やるべきことは同じだ。

 

 理性の(・・・)出力が(・・・)下がって(・・・・)いく(・・)

 

 ──恋人未満で、どこまでが許される?

 ──どうせ将来的に付き合うならば、いいんじゃないか?

 膝に、胸に、触れていいと彼女は言う。感情の確認、合意はとっくに済んでいるのだ。

 ──最終的に責任を取るならば、今、唇に触れて何がいけない?

 いけない理由なんて、ないだろう。

 

 掴んだ手を離す。咲耶は逃げなかった。

 顔を近づける。咲耶は目蓋を閉じた。

 合意の返答と解釈。

 だから、彼女の唇に、触れようとしたその手前で。

 

「…………あっ」

 

 数ミリ先の唇から小さな吐息が漏れた。

 訝しんだその瞬間。

 咲耶は目を見開いて。

 

 

「──ごめんなさいっ!!」

 

 

 ゴンッ! と強い衝撃が脳を揺らした。

 触れたのは唇ではなく額同士、つまり。

 

 

 ──全力で、頭突きされた。

 

 

 

 

 

「痛っっで!!?」

「っぅ〜〜!」

 

 全力の頭突きに二人して畳で悶絶する。

 今、絶対割れた! 絶対脳味噌真っ二つに割れた!

 

「おまえ、いきなり何を……!!」

 

 ていうかこの威力、咲耶の方は額割れてないか!? 大丈夫かよ……。

 チカチカする視界の中で、隣を伺う。咲耶は酸欠の真っ赤な金魚みたいな顔で、血の滲む額そっちのけに両頬を押さえていた。

 

「あ、あああ、あ……、わ、わた、わたし、なんてことを……っ」

 

 その様子に、ようやく冷静になる。よく考えてみれば──さっきの自分は、最低だったのでは?

 

「悪い、その、さっきのは!」

「違うのっ!!」

 

 謝罪を振り切って、咲耶は立ち上がる。

 

 

「……ごめんなさい!! 近付かないで!!」

 

 

 そう叫んで、彼女はそのまま窓から逃げ帰った。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 流石に追えない。俺は保冷剤を取りに行って、そのまま冷凍庫に頭を突っ込んだ。頭がよく冷える。 

 ──冷静に考えて、付き合ってもいないのに接吻なんぞ許されるわけがなかろうに。

 

 

 

「……よし。切腹するか」



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第十四話 不純異性交遊はまだ許されない。

 

 

 咲耶とはあれから目を合わせてもいない。丸一日、見事に避けられていた。

 翌日の放課後、学校の近くに通ってる川──現世(こっち)に帰って来た時に俺たちが落下した場所だ──そこで、ひと用事を終えた後。

 橋の欄干に肘を預け、真下、俺は川のせせらぎをガン見していた。

 

「ばぁん!」

 

 振り返る。丁度、橋を通りかかった下校中の芽々が手を銃の形にして、俺を撃ち抜いていた。

 

「ハッ……死んだフリもしないとは、さてはひーくん元気ないですね!?」

「いや、元々しないけど」

「そうでした。ひーくん結構塩対応だからな〜」

 

 俺は演技派じゃないからな。咲耶はあれで意外とノリがいいから、こふっと血糊(本物)を吐いてくれるかもしれない。するな。

 

「で、こんなところで何してたんです?」

「入水を検討していた」

「文豪??」

 

 芽々は「えぇ〜?」と呻きながら、片足立ちで身体ごとコトンと首を傾げる。

 

「ちなみに何が……」

「フラれた」

「あーはいはい。またか。もういいです」

「クソ!」

 

 前回の話は芽々にもしていたのだ、裏で。芽々はやれやれと手を上げる。

 

「しょーがないですね。芽々が仲直りのセッティングしてあげますっ」

「ありがたいけど……なんで?」

「人の恋路に首を突っ込むのが趣味って言ったでしょ。……それに、お二人には負い目もありますしね」

 

 負い目? それはむしろこっちの話じゃないだろうか。

 

「てゆか。この前もフラれた時に『それとなく探りを入れといて』って買収(おねがい)してきたくせに、なに水臭いこと言ってるんです?」

 

 前回。俺が喫茶店で文月母から襲撃を食らう直前のことだ。芽々が咲耶を家に呼ぶというから『なんかいい感じに俺のこと聞いておいてくれ』と頼んだのだ。(対価として少々異世界話を求められたが、本当にどうでもいい話しかしていない)

 

「姑息なんですよね〜、ひーくん先輩は。裏で手回しするタイプと言うかぁ……」

「んだよ。外堀埋めるのは大事だろうが」

 

 こっちは無傷で完勝できる戦しかしたくないんだよ……。

 芽々はにんまりと笑って、手を口元に当てる。

 

「やーい姑息!」

「うっ」

「へったれー!」

「ぐっ」

「ひーくんのひは卑怯者のひー!」

「うぐっ」

 

 ぐうの音しか出ない。

 

「まぁまぁ。いつまでも黄昏れてんじゃねーですよっ、()!」

「やめろ。誰が贅沢な名だ」

 

 と、そのまま芽々はスマホを取り出しタプタプとメッセージを打つ。そしてしばらく。

 

「ほい、セッティング完了です。サァヤ今日、用が終わったらウチ来ますってさ」

「早い」

「感謝感激雨あられましたー?」

「ああ、礼をしなくちゃな」

 

「なら、時間までちょっと芽々を手伝ってくださいなっ」

「いいけど、何の?」

 

 芽々はにっこりとこちらを見上げる。

 

 

「ひーくん、家庭科得意系?」

 

 

 ◇

 

 

「いや、これ『家庭科得意』とかそういう次元じゃないだろ」

 

 招かれた芽々の部屋には、服屋にあるようなトルソーが置かれていた。トルソーには布が張り付き、服のような形を取っている。芽々の言う「手伝い」とは、裁縫(これ)だった。

 

「何これ?」

「コスプレ衣装」

 

 芽々はスマホのアルバムを開き、俺に見せる。アニメやゲームに出てきそうな衣装を纏った芽々の写真がいくつも入っていた。そういうイベントがあるらしい。なんというか、寧々坂芽々はものすごい趣味人である。服を自作ってやべえな。

 

「俺、せいぜいボタンを付けれるくらいなんだけど?」

「じゅーぶん! この前、サァヤに頼んだら指を血だらけにしましたから……」

 

 ああ、目に浮かぶようだ。

 

「ちな、武器もあるんですよ!」

 

 と、芽々は戸棚からメルヘンなデザインのマスケット銃を取り出し「じゃきーん」と構える。

 

「へえ、すごいな。本物みたいだ」

「でしょー」

 

 マスケットを構えたまま、芽々は言う。

 

「そいや、あっちの世界って竜ばっかなんでしたっけ?」

「ああ、うん」

「飛んでるやつ相手に剣で戦うとかまじつらそうですよねー」

「言われてみればおかしいよなぁ」

 

 魔王陣営は城も古めかしくファンタジーの代名詞のような竜がうじゃうじゃといたが。人類の陣営は都も機械的で、魔法──人類は〝魔〟という敵への蔑称を名乗らないのだが、わかりにくいので俺はこの場では〝魔法〟と翻訳する──はあったが、文明レベル自体は現世より上だ。つまり、あの世界に銃は存在していたのだ。何故か俺は使わせて貰えなかっただけで。

 芽々は窓の方にじゃきんと銃口を向ける。夜の黒い窓には芽々と俺の姿が鏡のように写っていた。

 

「やっぱ飛行ユニットには狙撃武器じゃないですか? ばーんって!」

 

 ちなみに、窓から見える向かいの一軒家は笹木の家だ。

 

「浪漫だよな。俺も指にマシンガン仕込んでもらえばよかった」

「あは、渋いですね!」

 

 

 雑談もそこそこ、対価の労働に勤しむ。器用にミシンをカタカタ言わせる芽々の対面で、簡単な作業を振ってもらう。

 

「ところで、これなんの衣装だ?」

「魔法少女、です!」

「ああ、なんか変身するやつ」

「芽々の憧れなんです」

 

 ボタンを縫い付けながら考える。芽々の答えがどうにもしっくりこなかった。

 

 

「てっきりおまえは、魔女になりたいのかと思ってたよ」

 

 

 芽々は眉を潜めた。

 

「どしてそう思ったんです?」

「『憧れ』って『なりたい』もののことだろ。おまえ、魔女に憧れている(・・・・・・・・)と言ったらしいじゃないか」

「……それ、サァヤにした話なんですけど?」

「情報共有はするだろ普通に」

 

 それに、芽々は最初に俺たちのこと『異世界の魔女サマ方』と呼んだ。咲耶の方を立てている上、敬称付きだ。

 

「確かに芽々の憧憬は『魔女』ですけど、なりたい憧れは『魔法少女』なんですよね」

「ふうん。なんで?」

 

 芽々は人差し指を顎に当てて、ニコリと微笑む。

 

「知ってますか、先輩(・・)

 

 

「──魔法少女には、夢も、希望も、あるんですよっ」

 

 

 意味深に何らかの文脈(ネタ)を引用して、「なんちゃって」と嘯く。

 

「ま、あれです。実は芽々は悪役(ヒール)より正義(ヒロイン)の方が好きなタイプってことです」

「……意外だよなー」

「芽々をなんだと思ってるんです?」

「捻くれ者」

「否定はしませんけどっ」

 

 芽々曰く「捻くれも一周回ると素直になるんですよぅ……」らしい。よくわからん。

 

 

 

 無駄話をしている内に、そろそろ咲耶が来る約束の時間が近付いてくる。作業もひと段落、ミシンやら何やらを片付けながら芽々は卓袱台の俺に聞く。

 

「で、結局サァヤと何で喧嘩したんです?」

 

 相談した手前、明かさないのは不義理だ。渋々と自白する。

 喧嘩っていうか、過失なのだが。

 

 

「……押し倒して、キスしようとして、頭突きされて、逃げられた」

 

 

 戸棚をパタンと閉じて振り返った芽々は、ニチャッとろくでもない笑みを浮かべていた。

 

「え、まじ? 昨日あの後、そんなことになってたんですか? くふふウケるんですけど」

「ウケるなよ」

 

 待て、『あの後』と言ったか今。まるで『その前』のことを知っているかのような……まさか。

 

「なあ芽々、おまえ昨日……俺のいない学校で咲耶に何か吹き込んだ?」

「おっぱいは万病に効くっつった」

「寧々坂ァ!!!!」

 

 立ち上がる。

 

「おまえ、おまえか! おまえのせいか!!」

「なんで!? 真理でしょ!?」

「うるせぇ俺は硬派なんだよ!!」

「自分で言うのは軟派じゃん!!」

「確かにな!?」

 

「ていうか何芽々に逆ギレしてるんですか? 自分のやったことには責任を持てなんですけど〜!?」

「ムカついた。絶対に正座させてやる。死ぬほど足痺れさせてやる」

「ぎゃーっ芽々は後輩ですよ!? パワハラ! てか姑息!!」

「うるせぇもう同輩だろうが!! 平等だ! そこに直れ!!」

「いやー! けだものー! たすけてぇーー!!」

 

 ふざけながら悲鳴を上げる芽々を確保しようと追い詰めた、その時。バァン!!! と勢いよく、芽々の部屋の窓が開いた。

 振り返る。窓からぬるりと入ってきたのは、笹木だった。……そういや、こいつら窓から入ってくるタイプの幼馴染だったな。

 部活から帰ってきたばかりらしい笹木は何故か、その手に木刀を持っている。合気道の部活で使うやつ、なのだが。何か異様な気迫というものを、その身に纏っていた。

 

「さ、笹木?」

「……芽々の悲鳴が、聞こえたんだけどさ」

 

 笹木は首を回してこちらを見る。普段は人畜無害な顔が、今やまるで般若の面である。

 

 

「──陽南。何、してんの?」

 

 

「違う! 誤解だ!!」

 

 

 

 ◇

 

 

「……なるほどね。そういうことだったのか」

 

 芽々と二人して笹木の前で正座する。

 笹木は染めた短髪にピアスという一見チャラい要素に反して、レッサーパンダのように平和的なのだが。そういうやつほど、怒ると普段との落差で怖い。

 俺たちの釈明を聞いて木刀を置いた笹木は、ずばりと判決を下す。

 

「芽々が悪いよ」

「だよな!?」

「なんでぇ!?」

「いや大人気ない陽南もどうかと思うけどさ。もう仕方ないよ、陽南だし」

「俺、なんだと思われてる?」

「それより、芽々がおしとやかな(ふみ)さんに変なこと教える方が悪いよ。あと紛らわしい悲鳴も!」

 

 どうやら咲耶は笹木にまであだ名を付けられていたらしい。仲良くなったようで何よりだ。……いや、おしとやか?

 

「芽々はただ、さっさと二人を進展させてやろうと思っただけなのに……」

 

 余計な下世話だ。

 

「おまえさぁ、なんでそんなに首突っ込むわけ?」

 

 人の色恋が『趣味』とは聞いたが趣味の理由がわからない。芽々は「んー」と考えて、答える。

 

「まず芽々、恋愛とかあんまよくわかんない系なんですよね」

 

 なんか咲耶みたいなこと言い出したな。

 

「でも、わからないものってウケるでしょ? なんで皆あんなに右往左往するんだろ〜、って! わからないから興味津々、間近で観察したいし、つい茶々を入れたくなっちゃうんです」

 

 いや、咲耶とは逆だ。寧々坂芽々は『恋愛モノはわからないけど好き』ということか。

 

「……ちょっとやりすぎちゃいましたかね。ごめんなさい? 自重しますね」

 

 よくわかってなさそうな謝罪だった。

 

「芽々、リビドーはわかるんですけど、ロマンスがさっぱりなんですよねー。さっさと抱けば良くない?」

「うん、芽々。ちょっと黙ろうか……」

 

 笹木のストップが入った。眉間にシワが寄っている。

 品性のない幼馴染を持つと大変だな、笹木……。

 

 

 説教の途中で、ピンポンと玄関のチャイムが鳴る。

 

「あ、サァヤ来た」

 

 これさいわいと芽々が立ち上がって迎えに行こうとする。その前に、俺の方を振り返り。

 

「大丈夫、どーせキス拒否ったのもくだらない理由ですって! 歯に青のりついてたとか。がんばれよっ飛!」

「ちゃんと呼べ名前」

 

 もうあだ名じゃなくて蔑称の響きなんだよ。

 

 そのまま、トントンと階段を降りていく音を聞く。なお、芽々の家族は共働きで不在らしい。

 

「お節介がズレてるけど、いいやつなんだよな……。なぁ笹木」

 

 正座を解いて笹木の方を仰ぎ見ると、何やら随分と渋い顔で、芽々の去っていった廊下の方を見ていた。

 そのただならない様子に、さっきのことを思い出す。

 俺たち常識人側が窓から入ってくるのは緊急時のみだ。悲鳴即突撃、あれほど深刻な顔をした笹木を見たことがない。

 

「笹木、まさかおまえ……」

 

 笹木は溜息を吐く。

 

「そうだよ。十年、おれの片想い」

 

「うわ」

「幼馴染ってさぁ、迂闊に関係変えられないんだよね……」

「その上、『恋愛がわからない』とか言われちゃあな」

 

 ……笹木、俺より大変かもしれない。

 

「なんか……がんばれよ」

「あはは。陽南には言われたくないかな」

 

 

 最近、年下の同輩たちが辛辣だ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「え、飛鳥がいるの!? 聞いてない!!」と引き摺られるようにして連れてきた咲耶を部屋に放り込み、芽々は「あとは若いお二人でごゆっくり〜」と退出する。おまえの方が若い。

 笹木は「飲み物持ってくるね」と階下に降りて行った。芽々の家だと言うのに立ち振る舞いが慣れたものだ。なるほど、これが幼馴染。

 そして部屋に残された俺たちは、微妙に距離を取って立ち尽くしている。

 

「えーと」

「待って」

 

 咲耶はすーはー、と深呼吸をして「逃げちゃダメよね、そうよ逃げちゃダメ……」と「ぶつぶつと呪文のように唱えたあと、俺に向き直ってお辞儀をする。

 

「避けてごめんなさい……その、心の準備とか頭の整理とか、必要で。なんならまだ踏ん切りがついてないけど、言うわ」

 

 顔を上げた咲耶はきり、と真っ直ぐにこちらを見ていた。

 

「だってここまでお膳立てされて逃げるとか女がすたるもの……!」

 

 御膳立てっていうか騙し討ちだけど。こいつ、覚悟決めると強いんだよな。

 

 

 

 

「結論から言うわね。昨日の風邪──原因はやっぱり、間接キスだわ。おそらく、あれは呪いに抵抗した結果の知恵熱みたいなものね。元々風邪気味っていうのもあったんでしょうけど……」

 

 なるほど、風邪にしては何かおかしいと思ったが。軽く呪われていたのか。

 

「それから……あの時、あなたがわたしにキスしようとしたのも……きっとそのせい……」

「は? 俺の過失じゃなくて?」

 

 理路整然と話していた咲耶が、しどろもどろになっていく。

 

「多分、洗脳してました……洗脳っていうか、軽い思考の誘導……? わたしがずっと『キスしたい』って考えてたせいで、思念(それ)があなたに流れ込んでいた、かも……」

 

「…………嘘だろ」

 

 最悪だ。自我の保証どころか選択の責任すらないのかよ。

 ──だが待て、今さらっとすごい惚気(こと)を言わなかったか? 

 いや、そんな場合ではないな。もう少ししっかりしろ俺の理性。

 

「だが待て、血を媒介とするならともかく。唾液の交換(かんせつキス)ごときで呪われるはずがない。その程度で呪われるなら、普段大皿で一緒の飯を食ってる時点で詰んでいる。……おかしくないか?」

「それは、えと。わたしが、これは『キス』だって強く意識したせい、だと思う……」

 

 あんなに涼しい顔してたのに裏でおまえも意識してたのかよ……。

 

「それだけで?」

 

 頷く。

 

「したことないから知らなかったのだけど、『恋愛感情の付随するキス』も、魔女の呪いのトリガーだったんだわ、うぅ……」

 

 それ、遠回しに『好き』って言われてないか? 今のは実質告白じゃないか? 状況が状況だから喜べないのが悲しいな。

 羞恥が臨界点に近付きつつあるのか、咲耶は目を回し始めている。

 

「……だけどそれもおかしくないか」

 

 現状を整理しよう。まずは俺の方の脆弱性の話だ。

 確かに色ボケるのは問題だ。愛なんぞ語ればアウト、言葉は自己洗脳の呪いになる。

 だが俺が制限されているのは直接的な発言くらいだ。婉曲表現ならば回避可能、心の中で考えるには問題がなく、デートや手を繋ぐなどの行為にも一切の支障はない。

 名付けも即ち呪いになるので、関係を明確に恋人にするのもまずいが「付き合ってない」と言い張れば、自己暗示でセーフになる。

 まだ付き合えないだのなんだのと大げさに言ったが、意外とたいしたことではないのだ。抜け道はいくらでも作れる。……そうしてチキンレースをした結果が、昨日の惨状と言ってしまえばそうなのだが。

 ──要するに『間接キスだろうが直接キスだろうが大した問題はない』というのがお互いの共通認識だった。それが、今更ひっくり返った意味がわからない。

 

「仮におまえのソレ(・・)が魔法になるものだとして。普通、逆じゃないか? 俺は詳しくないけどさ、ファンタジー的にソレと言ったら〝呪いを解く魔法〟だろ」

 

 思い浮かべるのはオーソドックスな童話だ。

 

「なんでそれが〝呪い〟になるんだよ」

 

 咲耶はぴしりと固まって、背を縮こめた後。「隠しごとはなし、よね。言いたくないけど、流石にこれは、無関係じゃないし……」と目を潤ませた赤い顔で、俺を見上げる。

 

「その、わたしは極めて純潔の処女(・・・・・・・・)なんだけど」

 

急に何をを言い出してるんだこいつ……。

 

「でも魔女──つまり悪性の魔性を意味する存在には〝性的不道徳〟っていう文脈があったのよ。……今日、異世界(むこう)の記憶に潜って確かめたわ」 

 

 確かに、向こうの同僚なんかは魔女のことを『竜を誑かした毒婦』みたいに散々な蔑称で呼んでいた気がする。

 ──汚い言葉をあえて使うと、異世界において『魔女』と『阿婆擦れ』は同義語なのだ。

 

「つまり、当代魔女(わたし)の肉体にも、いつの間にか〝そういう文脈〟が付与されていたっていう、ことで……」

 

 ……まずい。話の雲行きが怪しくなってきた。

 

「なんかっ、処女とか関係無しに、いつの間にか魔女(わたし)は不埒って定義されててっ、だから、そ、そのっ」

 

 

「──そういうこと(・・・・・・)をしたら、あなたの脳味噌めちゃくちゃに壊しちゃうわ」

 

 

「……って、昨日……寸前で気付き……ました……」

 

 死んだ目と消え入る声。

 なるほど、要するに。俺には『言葉の制限』が、一方で咲耶には『行動の制限』がかかっていたということか。貞操観念がどことなくおかしいのも、その影響が入っていたのかもしれない。

 

 いや。

 

「……何やってんのクソ異世界?」

 

 一から十まで最低じゃねえか今の話。最低すぎて凪ぐわ。

 

 と、廊下からドシャっと物音がした。ドアを開けると、廊下では菓子盆をひっくり返した芽々があからさまにうろたえている。こいつ盗み聞きしてたな。後で絞める。

 

「は? え?」 

 

 芽々は口をパクパクさせて、一言叫んだ。

 

 

「──エロゲじゃん!?」

 

 

 黙れ寧々坂……。

 

「え、ヤったら精神崩壊エンド……? CERO(セロ)Z(ゼット)じゃねーですか!?」

 

 こいつ殴っていいかな……。

 あんまりにデリカシーのない発言に、とうとう咲耶が決壊した。

 

 

「ふえーん」

 

 

 ガチの泣き方だった。溜め込んだ涙がぼろっぼろと溢れる。

 

「魔女になんかなるんじゃなかったぁ〜……」

「あーあー、泣くなって。いや、合意無しでえげつない人体改造されたら泣くか。やっぱ泣いていいぞ」

「合意したらいいわけないでしょばかぁ〜……」

 

 なんでどさくさに紛れて俺が怒られてるんだ? おかしい。

 とりあえずハンカチでぐすべそする咲耶の顔を拭く。

 ……しかしこいつ、前まで声も上げない変な泣き方しかしなかったのに。いつの間にこんな、ちゃんとした泣き方ができるようになったんだろう?

 

 遅れて、茶淹れてきた笹木が開けっ放しのドアの前でぎょっとする。

 

「うわっ陽南が泣かせた!?」

「芽々だよ」

「……オーケー、土下座させるね」

「あ、ちがっ違うんです事故なんですっ、盗み聞きしてたわけじゃなくてっ、声が漏れ、あー! おでこ減る! おでこ減っちゃうから!! ゆるしてぇ……」

 

 ちらりと様子を伺う。咲耶は長い睫毛をしとどに濡らしながら「ひくっ」としゃっくりをひとつ上げて。

 くす、と吹き出した。

 

「ふ、ふふ、あは」

 

 指で涙を拭う。

 

 

「……もう、なんか、笑えてきちゃった。みーんなばかなんだもの」

 

 

 ようやく顔を上げることを許された芽々が、地べたに伏しながら俺を見上げる。

 

「……大丈夫そうですね?」

「どうやら無様な土下座がウケたぞ」

 

 咲耶、変なところで立ち直りがいいよな。

 

「え、何? どうなってるのこれ? おれ何もわかんないんだけど」

 

 笹木が芽々の首根っこを掴みながらひとり困惑していた。

 

「いや、ただの痴話喧嘩」

「あと芽々がうっかりセクハラしただけですね」

「そうね、それだけの話だわ。……すんっ、大したことじゃないの」

「そうなの? そうなんだ?」

 

 悪いな笹木。

 

「まいいや、仲直りできたみたいなら」

 

 いいやつだな笹木。おまえが芽々の頭を廊下に擦り付けてくれたおかげだよ全部。

 

 

 

 

「てか芽々、文さんのこと遊びに誘って連れてきたんだろう?」

「そういう口実で釣りましたね」

「騙されたわ……」

「すまん」

 

「騙すのはよくないよ」と笹木の正論。ごもっともだ。ちょっと騙し討ちが癖になってるよな俺たち……。

 笹木は少し、空気を探るように見回して。

 

「じゃあ……皆でゲームでもする?」

 

 提案に、俺は咲耶の方を盗み見る。反応は……悪くなさそうだ。

 

「よし! 芽々をボコボコにするか」

「こいつめっちゃ強いよ」

「ですよ」

「大丈夫だ。二人がかりなら勝てる」

「大人気ないな?」

「ふふ、任せて。飛鳥の雑魚プレイを完璧にフォローしてみせるわ」

「雑魚なのに啖呵切ったんです!?」

「いや勝つし。見てろよ俺は実戦で成長するタイプだ」

「はぁ〜? 芽々のこと舐めやがって返り討ちにしてやりますよしゃーおらっ」

 

 

 めちゃくちゃゲームした。

 

 

 

 ◇

 

 

 散々っぱら遊んだ後、夜の帰り道。笹木たちのおかげで関係を修復したはいいものの、二人きりに戻るとまた空気が妙になる。なんかこんなのばっかりだな、と思いながらそれなりの距離を開けて並んで歩いている最中。

 ひと気も信号機もない横断歩道の前で、ぴたりと咲耶は止まった。

 

「どうした?」

 

 おそるおそる、というふうに。咲耶はこちらを仰ぎ見る。

 

「さっきの……はしたない女って思わなかった? 嫌わない?」

「安心しろ、元々思ってる」

「どういう意味よそれ……」

「嫌うわけないだろ」

 

 へにゃ、と咲耶は崩れるように笑って。

 こちらも、ようやく緊張が解ける。

 

「まだちゃんと謝ってなかったな、昨日のこと」

 

「ううん、謝らないで」と首を横に振る。

 

「……嫌だったわけじゃないから」

「……そうか」

 

 半ば不可抗力だったとはいえ、最近少し浮かれすぎていたし調子に乗っていたのは、よくなかったな。初心に戻ろう。大事なのは清く正しく健全に、だ。

 

「まあなんだ、悪いとは思ってるんだ。埋め合わせはさせてくれ」

 

「じゃあ……」と咲耶は、少し恥ずかしそうにはにかんで言う。

 

 

「いつかわたしが風邪を引けるようになったら、たっぷり甘やかしてね?」

 

 

 ふ、と笑みが溢れる。

 

「任せろ。俺は粥を炊くのが上手い」

「ばか」

「冗談だよ」

 

 本当は雑炊の方が得意だ。

 

 

   ◇

 

 

 さて、そろそろ切り替えよう。

 駅前からも遠ざかり、夜道は暗く、見慣れたいつかの岐路に差し掛かる。

 

ここから(・・・・)どうするか(・・・・・)の話だが」

 

 咲耶の望みを叶えるためにも、色ボケている場合ではない。本題だ。

 

「こっちは順調よ。そっちは?」

「ああ、なんとかなりそうだ」

 

 すったもんだは別にして、やるべきこと(・・・・・・)は裏できっちりと進めているのだ。

 

「仕掛けは上々、あとは場を整えて、決行するだけ、か。日付はどうする?」

「満月がいいわ。来週」

「時間は」

「丑三つ時と逢魔時で迷ったのだけど、目的を考えると後者が最適ね。これはあの子も同意見」

「日没か、ちょっと面倒だな。相性が悪い」

「月が丁度昇るくらいね。雨が降らないといいのだけど」

 

 手を繋ぐのは棚に上げて、拳を合わせる。

 今はまだ、こっちの『いつも通り』でいい。

 

「あと少し、だな」

「ええ、がんばりましょう」

 

 

 待ってろよクソ異世界。

 ここからが、反撃だ。

 



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第十五話 魔法使いは窓からやってくる。

 これは、少しだけ昔の話だ。

 

 異世界のおぼろげな記憶の中でも、いっとう鮮烈な記憶がある。それは彼女(・・)の姿を初めて目にした時のことだった。

 眼前には赤い海の上に建つ堅牢な魔王城。茜に焼けた空を埋め尽くすのは、夥しい数の竜。

 その天元(ちゅうしん)に。彼女はいた。

 顔はヴェールで隠れて見えなかったが。その立ち姿だけを見て、既に薄れていたはずの意識の片隅で──綺麗だ、とかすかに思った。

 かの世界での竜は、狂った目をした薄気味の悪いバケモノだ。だというのに、それらを従える彼女は〝魔女〟というよりも姫や巫女のように清廉に見えた。

 

 同僚である〝聖女〟は言った。

 

『あり得えません……歴代のどの魔女にも、戦う力などないはずです』

 

 人類(こちら)側の勝利条件は、人喰いの邪竜共を退けること。最強の竜にして魔法使いたる〝魔王〟を倒すことは、『たとえ勇者でも不可能でしょう』と聖女は言う。

 だが魔王とて、たった一騎で世界を滅ぼせない。勇者の使命はあくまで、数多の竜を孵化(きょうか)する〝魔女〟を暗殺することだった。

 

 ──つまるところ、魔王城とは魔女を守るための鳥籠で。魔女とは大切に守られるべき〝最弱の駒〟だ。

 だから。

 

『前線に出るなど、あり得ない』

 

 はずなのに。現に、彼女はここにいる。

 

 空を見上げた。遠く高く互いの顔など見えやしない。けれど彼女が恐れ知らずに真っ直ぐに、こちらを見据えているのは理解した。

 号令。姫巫女のごとき魔女が手をかざす。彼女の命に従って、星が堕ちるように竜が降ってくる。

 

 ──ああ、なるほど。彼女は例外のイレギュラー。歴代最弱のはずの魔女の中で〝最強〟というわけだ。

 その姿は〝絶対的〟で。見惚れるほどだった。

 

 だから。きっと、彼女こそが隕石(ほし)だったのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「いや、変身シーンが雑なんですよ」

 

 異世界カチコミ作戦決行当日。天気予報では夜から雨だ。今はまだ空の色が見える晴れ具合だが、まばらな雲は西日に色付きながらもどんよりと重い。

 場所はかつて異世界から帰ってきたときに落ちた川、そこにかかった橋の上。人払いは魔法で済ませて、俺たちは支度──つまり、聖剣と角を出し終えたところなのだが。

 寧々坂芽々はめちゃくちゃ不満そうな顔で文句を付けてきた。

 

「『やるかー』『はいはい』ってだるそうに指チョンして変身シーン終わりとか。ありえんでしょ……!」

 

 芽々の理不尽な抗議に。隣、お馴染み破廉恥ドレスに衣装変えした咲耶と顔を見合わせる。

 

「やだよいい歳してポーズとるとか」

「そんな余裕ないわ。触るとバチってなるし」

「静電気かよ」

 

「じゃあそこは譲っても、ひーくんが制服のままなのは大問題だと思います!」

 

 確かに異世界の魔法事情にとって、装いは大事である。それは魔法使いではない俺とて例外ではない、が。

 

「問題ない。制服は冠婚葬祭こなせる最強装備だ」

「マジで言ってます?」

「芽々こそ、その格好はなんなんだよ。無人島でも行くのか?」

 

 芽々はポンチョ型の黄色いレインコートという重装備で、ついでに横長のトランクという大荷物だった。ちなみに、いつもの伊達眼鏡は魔法のために外してある。

 俺の質問に、芽々はこてんと首を傾げた。

 

 

「だって今から異世界行くんでしょ?」

 

 

 確かに今回の目的は『異世界と繋がる扉を作ること』だと芽々には説明してある。その後状況によってはカチコミだとも。だが。

 

 

「…………ついてくんの?」

 

 

 むふん、と胸を張る芽々の態度が返答だった。

 

「あのなぁ、芽々? 向こうには鞄とか持ち込めないぞ」

「転移術式に弾かれるわ。着ている服くらいで精一杯よ」

「だからお二人手ぶらだったんですか!?」

 

 ……まあいいか。芽々が「ついてく」などと言おうが、どうせ(・・・)やることは(・・・・・)変わらない(・・・・・)

 

 

 

 

「それじゃあ、情趣もへったくれもないが始めるか。咲耶」

「ええ、任されたわ」

 

 彼女は魔法を準備する。橋の上、既に描いてある赤い血文字の魔法陣の中心に彼女は立ち、

 

「定義するわ。ここは橋の上。そして橋とは古来、あの世とこの世を繋ぐモノよ。現世(この世)に相対する異世界(あの世)に、ここから扉を繋げるわ」

 

 詠唱の後、赤い光の粒子が瞬いて、そこには大仰な扉が出現する。きゃあきゃあと黄色い歓声をあげる芽々。少し離れた場所で俺は「いや、それってつまりどこでもドアじゃん」と思ったが、台無しになるので黙る。俺は空気が読めるので。

 

 芽々はうきうきと扉に駆け寄り、手をかけて、不思議そうに言った。

 

「……あれ、開きませんよ?」

「ええ、まだ鍵をかけているもの」

 

 彼女は淡々と答え、おもむろに魔法で虚空から水鉄砲を取り出した。プラスチックの透明な玩具の銃、その銃口は芽々に向けられていた。

 

「はい?」

 

 ひと気の消えた逢魔時の橋は静まりかえり、分厚い雲が奇妙な茜に染まって、沈んだばかりの陽の反対に月が登り始めていた。

 

「動かないでね。ただの玩具でも中身はわたしの血だから。いつでも本物に変えられるわ」

「……なんのおふざけですか、これは」

 

 引きつった笑みで芽々は訊く。

 

「悪いな。これも魔法の手順に必要なんだ。ちっとばかし茶番に付き合ってくれ」

 

 芽々は瞳の星を輝かせ、皮肉げにハッと笑う。

 

「頭に銃口突きつけて、それが人に頼みごとをする態度ですか? まあいいですけど。友達なので」

 

 寛容で助かる。今度プリン奢ってやろう。

 

 

「それじゃあ、腹を割って話そうか。お互いの、本当の狙い(・・・・・)ってやつを」

 

 

 俺は魔法陣の縁まで近付き、左右を魔女と扉に挟まれた寧々坂芽々に向き合う。

 さて、真相の追及(・・・・・)を始めよう。

 ──寧々坂芽々が何であるのか、その答えを。

 

「第一に、おまえは初めからおかしかったよな。こちとらそんなことは一言も言ってないのに、俺たちを『異世界の』と呼んだだろう」

「想像ですよひーくん。ファンタジー好きとして当然の思考でしょう?」

 

「でもおまえは、この世界がファンタジーだと知っている。なら、俺たちも現世に由来していると考えるはずだ。なのに、迷いなく『異世界』と言った。不自然じゃないか」

「偶然です。人間は意外と理屈で行動しないんですよ、飛鳥さん」

 

「おまえはふざけたやつだけど理由のないことはしない。今も昔もそうだろう?」

「あはっ記憶が戻ってるようで何よりですね、先輩?」

 

 寧々坂芽々はころころと呼び名を変えて、愛嬌を顔面に張り付かせたまま、冷淡な声音で受け答えをする。その様は、人形か何かのようで不気味だった。

 

「それから──極め付けは先月のことだ。咲耶が俺を襲ったあの事件。その前に、おまえが咲耶に妙なことを吹き込んだ」

 

 『あれは俺ではない』と間違いではないが重大な誤解を導く発言を、寧々坂芽々に吹き込まれさえしなければ、あんな過度な実力行使は起こらなかっただろう。

 

「おまえのせいにするつもりはないが、随分とタイミングがいい話だな? その上喧嘩の場面まで見ていたってのは、ただの偶然と片付けるには噛み合い(・・・・)すぎて(・・・)いる(・・)

 

 寧々坂芽々の言動は、『最初から異世界を知っていた』と考えれば理屈に合う。

 そして。寧々坂芽々の『行動が合理的すぎる』という不合理の正体には──身に(・・)覚え(・・)()ある(・・)

 

 

おまえ(・・・)洗脳(・・)された(・・・)だろう(・・・)

 

 

 芽々は、目を細めた。

 

「やですね。めっちゃ正気ですよ芽々は」

「洗脳と言っても『思考の誘導』程度の軽いものだろうな」

 

 術者の望む方向に、無意識に動いてしまうだけの。勇者時代の俺が特に思い入れのない世界を「とりあえず真面目に救っておくか」と考えるようになる程度の。軽度の洗脳だと勘を巡らせる。

 芽々の返答は無反応。

 

「では誰がおまえを洗脳したか。簡単だな、動機があるのはアイツら(・・・・)だけだ」

 

 ──思うと先月のあの喧嘩は、咲耶をけしかけて狂気に陥らせることで、『俺が魔女を倒さざるを得ないような状況』を作り上げるのが、狙いだったのかもしれない。

 

 アイツらは俺が魔女を連れて逃げたことと、聖剣をパクったことにブチ切れて、向こうで散々追いかけてきたのだから。

 だが、異世界のモノが地球(こっち)に来るってのは原則不可能だ。地球から異世界に人間を召喚するのだって随分と例外的なことなのだ。

 第一原則として、奴らは現世までは追いかけて来られない。だから、俺たちから自発的に戻らせようとしたのだろう。転移術式の破片で異世界と繋がってしまった寧々坂芽々を使って──聖剣を取り返すために。

 

 妥当性から導き出した推論はあくまで想像。証拠はない、が。証拠がなければ実力行使で引き摺り出せばいいだけだ。

 

「悪いなつまり。『これから異世界に行く』っていうのは、嘘だ」

 

 だって必要がない。向こうから(・・・・・)来て(・・)くれる(・・・)()だから(・・・)

  そして、彼女がもう一度呪文を唱える。

 

「再定義する。『其は異界を繋ぐ扉にあらず。繋がり、異界の真実を写す鏡である』」

 

 ──異世界の言語で、本当の呪文を。

 

 寧々坂芽々の前にそびえ立つ大きな扉が輝き、姿形を変える。彼女が真に組んでいたのは、寧々坂芽々に繋がってる何かを、引き摺り出すための術式(かがみ)だ。

 

 わざわざ素知らぬ顔で、相手の思惑に乗った目的は二つ。巻き込まれた寧々坂芽々という人質の解放。そして相手を確実に、この場に引き摺り出すためだ。

 

 そう、やることは変わらないのだ。場を整えて、罠を仕掛けて、宣戦布告。主導権を手放さない。

 相対するは、魔法の鏡に映る寧々坂芽々の〝虚像〟。

 

 

「それじゃあ、交渉といこうじゃないか。異世界人」

 

 

 

 

 

 鏡と咲耶に挟まれた、本物の寧々坂芽々は、人形のように無表情にこちらを見つめ──否。眉を下げて、僅かに微笑んだ。悲しそうに。

 

「……待って。違うかも」

 

 咲耶が芽々のこめかみに銃口を突きつけたまま、震える声で言う。

 

「ねえ。人類側(あちら)が好む洗脳って、自我を殺す方よね。芽々って、勇者(あなた)と同じにしては自我がちょっと強すぎない?」

 

 答えの撤回、その根拠を。

 

「異世界のことを誤魔化したり気を逸らしたり、他のものに注意を向けたり、そういう誘導とか暗示とかが得意なのはどちらかというと……魔女(わたし)の方」

 

 ──彼女が、何を言おうとしているのかに気付く。

 

「それに。先月のあの事態は……途中まで、魔女(わたし)に有利にことが進んでいたわ」

 

 敵を想定する選択肢は、初めから二つしかないのだ。人類側(こちら)か、それとも──、

 

「馬鹿な。アイツ(・・・)は死んだだろ!? 一片残らず灰にした、おまえだって見たはずだ!」

 

 

 ──くす、くすと。鏡に映った〝虚像〟の唇が歪む。鏡の中、寧々坂芽々の自我の裏に巣食っていた〝何か〟が、異界の言語で嗤う。

 

 

『正解だ。ボクの(・・・)魔女(・・)

 

 

 

 

   ◆◆

 

 

 

 それは雪の降る二月の夜のことだった。

 空から落ちてくる人間の幻覚と、目の中に何かが刺さったような錯覚を体験した寧々坂芽々は、その不可思議に困惑した。

 

「一体、なんだったんですか……?」

 

 その正体をまだ知る由はない。瞳は既に異世界と繋がり始めていたが──まだ、はっきりと見える(・・・)ほどではなかったのだ。

 

 だがその後。五月のある夜に至って。寧々坂芽々の瞳は完全に異界と接続する。

 二度目の不可思議が、寧々坂芽々の前に現れる。それは、自室の窓に映る〝蛇〟の影だった。

 

『なぁキミ。そう、そこのキミだ。見えているのだろう? 聞こえているのだろう?』

 

 ──見えてはいけないものが見えるというのは危険なことだ。

 

『目を背けてはならない。耳を塞いではならない。ボクはキミを見つけ、キミはボクを見た。それだけで(えにし)は結ばれた』

 

 ──深淵(あな)を覗く時、深淵(あな)に棲まう者もまた、こちらを覗いているのだから。

 

『さぁ、契約をしようじゃあないか』

 

 蛇は囁く。

 

『君の願いを、なんでも叶えてやろう』

 

 人を惑わす甘言を。

 

『代わりにキミの名を、キミの存在を、少しばかりこのボクに分けておくれ』

 

「……何者、ですか」

 

 しゅるしゅると、奇妙な笑い声を立てて。影は答える。

 

 

 

『とある世界で一番の、魔法使いさ』

 

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 くすくす、ころころ、かんらから、ゲラゲラと。魔術で作り出した鏡の中。寧々坂芽々と瓜二つの虚像は、同じ声で嗤う。

 

「死んだはずだって? ああ、確かに死んださ。見事な奇襲に、念入りな(とど)め! まさかこの身で切る煮る焼くのフルコースを味わうことになるとは、まったく長生きはしてみるものだ!!」

 

 しゅるりと二股に分かれた舌で、唇を舐める。

 

「だがね、キミ」

 

 緑の瞳は赤く染まり、爬虫類の瞳孔が開いた。

 

「──この魔王(ボク)が、たかが(・・・)一度(・・)殺した(・・・)くらいで(・・・・)、死ぬと思ったのか?」

 

 鏡の中、実像の少女(寧々坂芽々)に似ても似つかぬ邪悪な笑みを浮かべる。

 

「そう、ボクこそが星喰いの竜にして世界で(・・・)一番(・・)悪い(・・)魔法使い(・・・・)。つまるところの〝魔王〟というわけさ!」

 

 名乗りを上げる。

 

(とき)逢魔(おうま)──『逢いに来たぜ。愛しの魔女(弟子)に、裏切りの勇者殿?』」

 

 

 そして、ふらりと本物の芽々は倒れる。魔王との接続を急に断たれ前後不覚に陥ったのだろう。咄嗟に受け止めた咲耶の腕の中、芽々は苦しげに目を瞬き、

 

「ハッ……魔王が時!?」

「言ってる場合!?」

 

 いやこいつ余裕じゃん、と飛鳥は思った。

 

 

 

 

 考える。寧々坂芽々に取り憑いていたのは、想定していた相手ではなく、殺したはずの魔王だった──なるほど、少々面食らいはしたが。

 だからなんだ(・・・・・・)。どうせやることは変わらない。むしろ。

 

「都合がいいな」

「ええ、僥倖だわ」

 

 魔女は抱きとめた少女を降ろし、向き直る。

 

「お久しぶりね、クソ師匠(せんせい)魔女(わたし)を造った魔王(あなた)なら、この身体の治し方も知っているでしょう?」

「どうだったかな? 最近物忘れが酷くてね。年だから」

「知ってる。こいつ絶対知ってる」

 

「御託はいい。(おり)の中で洗いざらい吐いてもらおうか」

 

 魔王はふむ、と小さな顎を撫で、自らを閉じ込める鏡面を吟味する。

 

「なるほど。『真実を映し出す術式、本物と分離させる術式、寧々坂芽々の瞳から欠片を移し異世界と接続、その上で厳重に鍵を掛け、檻としての強度を保っている』……地球(こちら)でよくここまでの術式を組んだものだ。九十八点、中々いい出来だね」

 

「──だが、あと二点足りない」

 

 手をかざす、それだけで。術式が上書き(・・・・・・)される(・・・)。鏡面が(ひび)割れた。

 

「……ッ!」

「師匠越えにはまだ早かったようだね?」

 

 ずるり、と。中の少女(魔王)は、割れた鏡面から抜け出して。橋の上に降り立った。

 純正の異世界の者は現世に渡れないという第一原則を破り捨てて。

 

(……そういうことかよ)

 

 ──寧々坂芽々を通して異世界に繋がる門を作らせようとした、その目的は自分たちを向こうに呼び戻すことではない。

 ──魔王(かれ)自身が、現世に来ることだったのだ。

 

 

 

 

「どれ、折角ヒトの形を得たんだ。少し遊ぶとしよう」

 

 細い指を鳴らすと、灼金(やきがね)色の纏め髪はばらりと解け蛇のようにのたうち、纏う服は陰鬱なゴシックドレスに様変わる。其処にいるのはもう、寧々坂芽々とは似ても似つかない少女の姿形だ。

 

 速攻、勇者(かれ)は地を蹴る。判断に躊躇はなかった。狙うは()っ首。斬りかかる。

 しかし。魔王は聖剣の刃を、少女のか弱い指先のみで受け止める。ジュッと刃に触れた指が焼き焦げるのも厭わない。

 

「『魔女殺しにして竜殺しの聖剣』……地球(ここ)でも威力は健在か。まったく、こっちは魂だけ飛ばすのがせいぜいだというのに。ずるいとは思わないかね、勇者君」

 

 あっさり受肉しておいて何を言うこのバケモノめ、と吐き捨てる。友人と同じ顔を斬る羽目になるとは、本当に人生ツイていない。

 

 後退。問う。

 

「テメェの狙いはなんだ」

「当然、あの星を滅ぼすことだ。そのために、最高傑作たる魔女(でし)を連れ戻しに来たのさ」

 

「ふざけんな!」

「お断りよ!」

 

 彼が低く剣を薙ぐ。その背後、魔女は構えた銃から血の弾丸を撃つ。けれど魔王は軽やかに刃を避け、弾丸の術式を上書き(のっとり)、彼女に打ち返す。

 

 不死身の特性上、魔女は回避が不得手である。跳ね返った弾は赤い左眼を撃ち抜いて、脳髄に入った。

 

「ッ……」

 

 悲鳴も上げずに硬直。一回死んだ。いつものことだ。

 即座に損傷を再生──、その途中で。

 ぐるりと世界が回った。

 

 

「……あ、れ?」

 

 

 ──脳の中に撃ち込まれた弾丸(術式)が起動する。

 魔女は、目を押さえ、膝から崩れ落ちた。

 

「──言っただろう。師匠越え(・・・・)には(・・)まだ(・・)早い(・・)、と」

 

 膝をついた魔女の前に、ゴシックドレスと金の髪を揺らしてトン、と降り立つ魔王。

 聖剣に焦げたその指先に触れられる前に、魔女は咄嗟に魔眼を発動する。

 左眼、〝鍵〟の権能(いみ)を持つ魔眼。その効力は『行動の停止』。しかし再生したばかりの魔眼(ソレ)は制御を失い、その場の全員に硬直(かぎ)をかけた。──丁度、背後から魔王を切り捨てようとした勇者も同様に、だ。

 

 

 

 

 ──とうに陽は沈み、夕は夜へと塗り変わっていた。流れる暗雲もまた停止し、東の空の隙間には黄金の月が覗く。

 硬直した世界で、魔王は口だけを滑らかに動かす。

 

「覚えているだろうか。キミが弟子となった時、契約としてボクに名を捧げたことを」

 

 ──寧々坂芽々が持ちかけられた契約と同様だ。

『名を捧げる』というのは存在を分け与えるということ。対価として力を与えるが、代わりに相手の精神に穴を空ける。魔法使いの弾丸が撃ち抜いたのは、魔女のその『穴』だ。

 

 魔法使いは、詠唱する。

 

「『名付けは存在の定義であり呪いだ』。キミが地球で魔術を十全に使うには満月を待つ必要がある。だが『この地球において満月は狂気の象徴でもある』

 ──つまり、キミの力は月が満ちるほどに高まるが『満ちるほどに狂い(・・)やすく(・・・)なる(・・)』」

 

 蜥蜴の瞳を輝かせ、少女の形をした竜は、二又に割れた舌で囁く。

 

 

「さて、思い出させてあげよう文月咲耶。『──キミが、かつて世界を滅ぼしたいと願ったことを』」

 

 

 唱えるは過去への再生。精神の退行。狂気の最盛へと誘う、揺れ戻し。

 

 

「あ、……あぁ、」

 

(──(まず)い)

 

 眼前、角のある頭を抱えた彼女を見て。飛鳥はいくつかの筋繊維を代償に、硬直を振り切って動く。

 

「咲耶!!」

 

 名を呼ぶ。それが彼女を正気(こちら)へ引き戻すと信じて。

 だが。既に彼女の眼に、現在(いま)は映っていなかった。

 惑う瞳を見開いて、叫びがつんざく。

 

「嫌っ……! 来ないで……」

 

 

 

喰べないで(・・・・)ッ!!!」

 

 

 

「────は?」

 

 

(一体、何を言っている?)

 

 脳裏を過ぎる疑問は一瞬。察しがいいことだけが取り柄だ。

 

(……まさか)

 

 解けきらない硬直の魔法の中。鉛のように重い腕で、剣を悪竜に突きつける。

 

「なぁ魔王。アイツに、何をした?」

 

 振り向きざま、悪竜は「知らなかったのか?」と少女の顔を白けさせる。

 言うまでもない(・・・・・・・)、と。

 

 

 

 

 冷たい汗が背筋を流れる。

 

 ──ひとつ。〝魔女の役割は竜に強化の魔法をかけることである〟

 

 心臓が嫌に鳴って、頭に血が昇る。

 

 ──ふたつ。〝魔女の魔法には捧げる血肉が必要である〟

 

 迫り上がる吐き気を、唸るように捻じ伏せる。

 

 ──みっつ。〝魔女はいくら血を流し肉を削ろうと再生する、不死身である〟

 

「……まさか、テメェら」

 

 

 

喰わせたのか(・・・・・・)……!!!」

 

 

 

 悪食の竜は嗤う。

 

「ご名答」

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 ──かつて〝竜〟とは最も恐ろしく、最も強靭な怪物の名であった。

 その爪はどんな剣よりも鋭く、その瞳はどんな宝石よりも力を秘め、その翼は嵐を引き起こし、その頭蓋は千年の叡智を湛える、かの異世界で最強だった種族だ。

 ──それがどうして、世界を滅ぼすために〝魔女〟を召喚する? 

 弱い人間の少女なぞ。必要がない。使い道がない。その筈だ。

 

 ──だが、彼らは気付いてしまった。

 別世界の少女に竜の因子を植えつければ、人ならざる〝魔女〟となることに。魔女の血肉が、どんな美酒も敵わない〝至上の甘露〟となることに。そして何度でも死ねる魔女は、怨念という最上級の魔法(のろい)を生み出す〝永久機関〟となることに。

 

 歴代の魔女に戦う力などない。

 必要が(・・・)なかった(・・・・)のだ(・・)

 

 ──魔女とはすなわち、竜に捧げられる〝生贄〟の名なのだから。

 

 

 

 

 

 

(……何が勇者だ)

 

 すべてを、手遅れになる前に救えずして。

 

(何が……やるべきことはすべてやった、だ)

 

 彼女の落ちた無間地獄を知りもしないで。

 その元凶を、人を喰い星を喰う怪物(バケモノ)を、鏖殺(みなごろ)すこともできないで。

 

 

(──俺は何も、救えてなどいないじゃないか!!)

 

 



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第十六話 ガラスの靴も履けやしない。

 ──夢を、見ているのだと思った。

 

 気付けば知らないお城のような場所にいて、足元には光輝く魔法陣。まるで、異世界に召喚されたみたい。

 確か、さっきまで学校にいて。明日から春休みで。最後に、好きな男の子と話をしていた気がする。……あれも夢だったのだろうか?

 ふと制服のポケットに手を入れると、かさりと丸い感触がした。さっき彼に貰ったばかりの飴をかざす。

 

「……夢じゃない?」

 

 

 頭上に物音がする。高く吹き抜けた天井を見上げる。立ち尽くすわたしのことを、翼の生えた大きな黒い蛇が、見下ろしていた。御伽話のような竜は不思議と怖くなかった。

 

「ようこそ地球の少女」

 

 優しく穏やかな声音で、わたしにもわかる言葉で、竜は告げる。

 

「そして悪いが──ボクらのために死んでくれ」

 

 

「え……?」

 

 次の瞬間。左眼を撃ち抜かれた。

 ──あ、死んだな、と思った。

 痛いとも怖いとも思わずに、わたしは気を失う。

 だって夢なら、死んだら目が覚める。現実なら、死ねばおしまいだ。

 ならば、悲しいことは何もない。

 ただ。あの日の放課後、最後に彼に貰った飴玉が、手から転がり落ちてどこかへと消えてしまった。そのことが──とても、とても悲しかった。

 

 

 ◆

 

 

 ある日突然ここではない異世界へ。ずっと、そんな物語が好きだった。

 だけどそんなもの、ちっとも欲しくはない。

 屋根裏部屋のような幼少期は過ぎ去り願いは報われ、わたしのしあわせは今現実(ここ)にある。その現実に、留まり続けることだけが為すべきことで。何ひとつ間違えない〝完璧な人生〟だけが欲しいもの。

 だから。

 時計ウサギ(ワンダーランド)も、クローゼット(ナルニア国)も、あかがね色の本(ファンタージエン)も、家を飛ばす竜巻(エメラルドの都)もいらない。

 異世界なんて。〝ここではないどこか〟なんて、要らなかった。

 わたしは臆病だから、たとえどこに行けたとしても兎を追って穴へ飛び込むことはしないのだ。

 

 なのに──ある日突然、足元に大穴が空いた。

 

 

 ◆

 

 

 夢でもなければ、死んで終わりでもなかった。

 目が覚めた時、わたしは人の形をしていなかった。

 夥しく流れる自分の血。聞くに耐えない咀嚼音。大きな部屋の大きな寝台に寝かされて、半分だけの視界を埋めるのは蜥蜴や蛇に似た、竜の仔ら。わたしの身体は(・・・・・・・)喰べられていた(・・・・・・・)

 絶叫、現実を認識した途端に痛みで気絶して、再度意識を失う。繰り返し、繰り返し、ただずっとその繰り返しが世界のすべて。

 ──わたしは生贄なのだという。死んで、食われて、魔法を生み出すのが役目なのだという。

 

 抵抗したのは初めのうちだけだった。すぐに無駄だと悟った。わたしの身体に群がる小さな蜥蜴たちは、どれだけ「やだ」と泣いても聞いてはくれない。叫ぶのにも疲れ果てて、泣くだけになるのに時間はかからなかった。最初に撃ち抜かれた左眼だけは何故か戻らなくて、眼窩に涙が溜まって気持ち悪い。

 どうせなら、右眼も潰してくれればよかったのに。そうしたら、何も見ずに済んだのに。

 

「なぜ」

 

 痛みで朧げな意識の中で、虚空に何度となく尋ねた。

 ──何故、こんな目に合わなきゃいけないの? わたし、いい子にしてたでしょ? してたかな。死にゆく実母を呪うような悪い子だった。ずっと嘘吐きで人にいい顔ばかりして、誰にも本当を見せないで……そんな生き方は悪だったかも。でも、少なくとも、こんな、地獄に堕ちる理由は、無いでしょう?

 

 

「何故、と訊いたね。確かに、意味を知らずに死ぬのは不幸なことだ。教えてあげよう」

 

 翼のある蛇は言う。自ら奈落に突き落としておいて、哀れむ人でなし。その竜は魔法使いで、王なのだという。

 ──曰く、この世界は滅びかけていて。人と竜が千年の戦を繰り広げていて。互いが勝つために、別世界から切り札を呼び出した。

 

「けれど。千年前、我らは勝利のために〝魔女の血を啜る〟という過ちを犯した。美酒も過ぎれば毒、酔いは狂気に転じ、その血を口にしたすべての竜が狂った。新しく生まれる仔らも、同様に。そうして今や、正気の竜はボク一人というわけだ」

 

 狂った竜には意思もなく、魔女の血無しには制御できない。

 

「……本当に、反吐が出る。知性も矜恃も尊厳も全て失くし、獣に堕ちた。こんな種族は()く滅ぶべきだ。この星は、とうの昔に詰んでいる」

 

 赤い瞳には哀れみと怒り。

 

「『だが、我らが滅ぶよりも先に。あの醜悪な人類を、退廃の都をこそ、滅さねばならない。この星に引導を渡せるのは最早私しかいないのだ』」

 

 異世界(そちら)の言葉で何事かを呟いて。

 

「ボクにできるのはキミを最後の贄にすると誓うことだけだ。必ずや悲願を果たし、この星を滅ぼそう。繰り返された千年の召喚はここで終わらせる。

 ──キミの死は、ひとつたりとも無駄にしない」

 

 蛇は、竜は、魔王は、魔法使いは、そう告げた。その言葉は悪人にしては情け深く、綺麗事めいていて、その誓いには懺悔の響きがあった。本当はこんなことしたくないのだと、世界を呪うかのようだった。

 

 けれど。

 しらない。よくわからない。どうでもいい。謝られたって誓われたってわたしの地獄は終わらない。なら意味ない。自己満足の懺悔は偽善よりも悍ましく、憐憫こそを憎悪した。

 柔らかな寝台の上で、こふ、と血の塊を吐いた。

 窓は鉄格子で、手を伸ばしても届かない。そして伸ばした指先からまた、齧られて消える。魔法使いはとびきりに悪いやつで、十二時の鐘が何度なっても悪夢が覚めない。

 ──逃げなくちゃ。

 でも逃げるための足すら喰われ続けてもう爪の形も思い出せない!

 

 わたしはここで、死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで。

 

 仕方がないから、〝夢〟を見ることにした。

 

 

 

 

 ──気絶と睡眠の違いは、もうわからなくなっていた。

 死ぬ(・・)ほどに(・・・)魔力が(・・・)溜まる(・・・)。それらはすべて、竜に使われてしまうのだけど。おこぼれで、自分の夢を弄るくらいはできるようになっていたのだ。

 

 ──見る夢の演目は、わたしが一番しあわせだった時。好きだった男の子と、夕暮れの教室でお喋りをする素敵な夢。 

 何度も思い出したのだ。それしかすることが、できることがなかったから。

 

 ──でもふと、我に帰って虚しくなる。

 夢の中の彼は、記憶の通りにしか喋らない。わたしの空想で、妄想にすぎないのだから。

 

「あなたって、本当はどんな子だったのかしら」

 

 夕暮れの教室で、彼に問いかける。

 

「甘いものが好きなのは知ってるの。辛いものはどうかしら? 食べられないとかわいいな」

 

 わたしの初恋、わたしの憧れ、わたしの愛したごくごく普通の男の子。

 

「知りたいことも聞きたいことも沢山あるのに……もう二度と聞けやしないのね」

 

 過去の幸福な一瞬を繰り返し、初恋の感情を再生産し続ける日々。

 

「こんなことなら、もっと、話しておけばよかったな……」

 

 本当は、お話だけじゃなくて。一緒にお昼ご飯を食べてたり、同じ道を歩いて帰ったり、お休みの日に待ち合わせて遊んでみたり、そういう、なんでもないことをしてみたかった。本当は文化祭だって一緒に回りたかったし、次も一緒のクラスになりたかった。

 ──恋は、叶わなくてもいいから、せめて。

 

 

「……友達に、なってみたかったなぁ」

 

 

 夢の中、彼は答えない。これは一人遊びで、わたしには、彼がなんて言うのかわからないから。

 ──きちんと狂ってしまえたら見られるのだろうか。わたしにとびきり都合のいい、甘い夢を。

 歴代の魔女は、すべてが狂い果てて終わる。その結末は、星ごと滅びるか、勇者に殺されるかの二択。

 ひどい話だ。勇者すら助けてはくれないのだ。この世界に正義の味方(ヒーロー)なんていない。

 救いは死のみ。わたしにできるのは、その救いを待つだけ。

 

「……でも、そうしたら。わたしが狂ってしまったら。その果てに、殺されてしまったら」

 

 

 ──わたしはもう、夢を見れないじゃない。

 

 

「それは、嫌……思い出せなくなるのは、嫌だわ」

 

 教室の机に突っ伏して涙ぐむ。

 

「死んでも、忘れたくないの。おかしくなっちゃうなんて、いや……」

 

 あなたに貰ったものは飴玉ひとつでも大事にしたかったのに。

 

「わたしには、もう、思い出(これ)しかないのに……!」

 

 狂っちゃだめだ。正気でいなくちゃ。どんなに苦しくても楽になっては意味がない。

 誰も助けてくれないなら。

 

 

「──この初恋(ゆめ)だけは絶対に、誰にもあげない。殺させない」

 

 

 その執着(あい)だけが。死ねないわたしの、ただひとつのよすがだった。

 

 

 

 ──そして一年。わたしは死に続けて、夢見て、待ち続けた。

 死ぬ度に生産される魔力は、溜め込んだ怨念は、すべて竜へと使われる。──けれど、僅かな余剰はわたしのものだ。その余剰で作り出した幸福な夢が鉄壁となり、わたしの正気を守り続ける。

 だから。死に続けたわたしの怨念が溜まりきって、溢れた時。──本来ならば、とっくに狂気に落ちているはずのその時。

 わたしはまだ、正気でいられた。

 

 

 

 もしかしたら、もう、正気と思い込んでいるだけかもしれない。

 

「もう行かなきゃ」

 

 夕暮れの教室の夢の中、立ち上がって別れを告げる。

 

「復讐を、しにいくの」

 

 空想の中の彼は穏やかな笑顔でわたしの話を聞き続ける。

 

「誰も助けてくれないから。わたしが、わたしを助けなきゃ」

 

 せめてこの思い出だけは失いたくないから、わたしは現実に帰らなきゃ。

 

「ありがとう、わたしの初恋の人。どうか、わたしの知らないところでしあわせにね」

 

 わたしはこれから、とびきり汚いものになって、許されないことをするけれど。

 

「どうかずっと、あなただけは、綺麗な思い出でいてね」

 

 初恋に、背を向ける。

 

 

 

「──さよなら、陽南君」

 

 ──夢から醒める時が来た。

 ガラスの靴なんていらない。わたしは裸足でも踊ってみせる。

 

 

 さぁ、憎んで恨んで呪って、世界を滅ぼそう。

 もう、それ以外に、救われる方法はないのだから。

 

 

 

 

 ◆◆

 

 

 

 

 生贄の少女は部屋を出る。蠅のように(たか)る蜥蜴を殺して、殺して、廊下を進んで探しものをする。あの日落とした飴は、どこにもない。けれどもうひとつの探し物は、すぐに見つかった。

 

「……この世界の言葉も知らない小娘が、よくもやってくれた!」

 

 城を出ていた魔王が、帰ってきたのだ。

 

 

 

 ──召喚から一年。戦の只中であり、既に勇者は城へと迫っていた。

 その中でまさか牢獄(へや)から逃げ出した生贄が、留守にした城で兵を削るなど。そんな事態はあってはならない。

 

 少女の粗相の前に、魔王は悩む。

 自力で逃げ出したとなれば、大人しく生贄には戻らないだろう。洗脳をするにしても、自我を消すと怨念が生み出せない。自ら生み出した狂気でなければ呪いは不出来なものとなる。

 ──さて如何。

 

 竜は城の天井、裸身の少女を見下ろして、気付く。

 その頭蓋には覚えのない()が生えていた。不意か故意かは解らぬが、少女の呪いによるものだろう。少女の身は、竜を殺すために自らを竜に転じさせようとしていた。──その段に至った魔女は、もう千年といなかった。

 

 少女は片目で真っ直ぐに蛇を見る。

 

「ああ、その眼……まさか、ボクを殺そうとでも言うのかい? 残念ながら、それは不可能だ。ボクを殺したければ、世界を滅ぼせるほど強くなければならない」

 

「そう、なら」

 

 少女は、息を吐く。

 

 

「──わたしが滅ぼしてあげる」

 

 

「それがあなたの願いなのでしょう? 手伝ってあげる、叶えてあげるわ。わたしだって、こんな世界大嫌いだもの。邪魔な勇者も殺してあげる」

 

「だから。言葉を教えて、魔術を教えて、呪い方を教えて。わたしを弟子にしてよ、魔法使い」

 

 無邪気に幼気に軽やかに、両手を伸ばし、囀って。裸足で詰め寄り、真っ暗な目を見開く。

 

「おまえを殺すのに、世界を滅ぼすだけの力が必要だと言うのなら。滅ぼしたその後で!」

 

 

「──最後におまえを殺してやる!!」

 

 

 

 

「…………ク、ハハハハ!」

 

 蛇は笑って、笑って、お城が壊れてしまうほどに笑い声を上げて。

 

「『その言、決して飲み込むこと能わぬぞ』」

 

 異界の言葉に眉をひそめた少女に。しゅるりと囁く。

 

「いいだろう。その目が世界を呪うのを、見届けようじゃないか!!!」

 

 

 

 ──そうして、生贄の少女は魔女になった。

 

 そこに正義も論理もさしたる思想もなく。それはただ、失われた未来に対する八つ当たりで。思い出に縋り付いた、少女の成れの果ての〝我儘〟だった。

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 

 俺はただ、目の前の光景を見ていることしかできなかった。

 

 逢魔時の橋の上。錯乱の悲鳴を上げた彼女は(ぶき)を取り落とす。そのまま橋の上に落ちて、砕けて消えた。元が玩具のそれは、一発切りの代物(まほう)だ。

 

「……いや、やだ。いやよ。やだ、死にたくない。こないで死んでおまえが死んでよ呪ってやる滅ぼしてやる死んで死んで死んで、死んでよ……!!」

 

 いつかの海で咲耶は言った。──どうして魔女になったのか

『ごめんね。あなたには言いたくない』

 当たり前だ。こんなもの……言えるわけがない。

 

 歯を砕けるほどに噛み締める。硬直はまだ解けない。虚な目で頭を押さえる咲耶に駆け寄ることもできず、間近、魔王に剣を突き付けたまま睨み合う。

 奴は、自らの造り出した魔女を前に哀れむように目を細め、揶揄するように嘯く。

 

「なあ勇者。君はあの子を人と扱っているがね、そんなものではないんだよ。──魔女(あれ)は文月咲耶の怨霊だ。その精神は過去の亡霊に過ぎず、脳細胞の一片までもはや元の人間だった頃のものはない。それでもキミは──、

 

「うるせぇ! その問答は(・・・・・)もうやった(・・・・・)!!」 

 

 俺は俺が何であるかを彼女に信じさせた。ならばこちらとて、同じこと。

 

「あいつがなんだろうと信じる、それだけだ!!」

 

 奴は、拍子抜けしたように赤い両眼を見開いて。

 

「なんだ、つまらない。つまらないが……昔はろくに返事もしなかった木偶人形が、よくも感情を露わに激昂するようになったじゃないか」

 

 その手の中に光り輝く魔法陣を展開、

 

「──少し、面白くなってきたよ」

 

 立ち尽くす咲耶に、言う。

 

「魔女。『彼を殺せ』と言いたいところだが、それで我に返られても困る。生かさず殺さず慈悲深く、せめて前回の本願だけは果たすといい。『──右腕を破壊しろ』」

 

 聖剣本体が砕けずとも、引きちぎればそれで接続は切れる。聖剣を使えなくなる。

 舐め腐った話だ。命は見逃す、生身の俺など脅威ではない、と言われているのだ。腹立つな。死ね。

 

 魔女は手を翳す。魔法の予備動作。俺一人ならばどうとでも避けられる、が。

 背後には、人がいる。トランクを背負ったままへたり込んでいる寧々坂芽々が。

 洗脳解除の反動。魔眼の硬直。おそらく恐怖もあるだろう。あれは一般人だ。動けないのも当然だ。

 

 ──彼女の詠唱が聞こえる。唱えられるのはシンプルな〝破壊〟の文言。

 

 判断は一瞬、今は魔王も魔女も諦める。

 芽々はこちらが巻き込んだ人間だ。何をおいても守らなければならない。だが、ここでは狭すぎる。

 

 ──魔法が放たれる。何かが横をすり抜け、橋の欄干を壊す。

 

 次弾が放たれる、その前に。

 俺は小柄な芽々を担ぎ、

 

「舌噛むなよ!!」

 

 橋から川へと飛び降りた。

 

「……へ? う、わわわわわぁ!?」

 

 バシャァァン!! と盛大に水音がする。水面に対し受け身を取った、衝撃は問題ない。ずぶ濡れになって「ひぃん」と鳴いている芽々も問題ない。

 

 

 

 

 雨が、降り始めていた。

 空は現世そのままの色彩、だが水面の色がいつの間にか変わっていた。あの異世界の海のような、真っ赤に。

 ──いつの間にか、この空間が擬似異世界に塗り変わっている。おそらく魔王の仕業だ。魔女の張った結界は既に乗っ取られていた。

 

 俺たちは陸に上がる。壊れた橋の欄干から見下ろす敵が二人。そして魔女は、いつかのように七つの蛇の使い魔を繰り出す。ただし、前回とは段違いの出力で、だ。彼女の頭から生えた角が、魔法の出力の限界を押し上げていた。

 

「うげ、本気かよ」

 

 ヤバい。咲耶が敵に回るとかなり困る。あいつが本気だと俺が加減できない。加減できないとまずい。なにせ聖剣で付けた傷は不死身といえど再生しないのだ。

 魔王は動かない。依然、指先には光り輝く魔法陣が展開している。あれが咲耶の頭の中に入った術式と連動し、正気を削り続けているのだろう。

 ──あまり長引かせたくはない。長くなるほど、彼女は地獄を夢に見ることになる。

 飛んでくる使い魔の蛇を斬り落とす。

 

「クソッ危ねえな! 俺はいいけどさ、芽々ごと巻き添えはやめろよ咲耶、嫌われるぞ!?」

「論点そこです??」

 

 ようやく芽々が動けるようになったらしい。横目に見る。

 

「大丈夫か」

 

 こくりと頷く芽々。レインコートの裾からしとどに水が滴っていた。両手には相変わらずのトランクケース。

 

「ちょっと待ってろ。今逃す」

 

 (アレ)をなんとかするのはそれからだ。

 だが芽々は首を横に振り、口を開く。

 

「──飛鳥さん」

「なんだ」

 

「芽々は、ずっと(・・・)正気でした(・・・・・)

 

「……は?」

 

 

 ガタン。と、芽々は頑なに手放さなかったトランクを、砂利の上に降ろす。

 

「──知ってたんですよ。なんでも願いを叶えてくれる魔法使いなんて、〝詐欺師〟と相場が決まってるってコト」

 

 トランクを開ける。その中にあったのはいつか芽々の部屋で見た、バラバラに分解された、作り物の(・・・・)マスケット銃(・・・・・・)だった。

 

『飛行ユニットには狙撃武器じゃないですか?』

 

 まさか。

 

「……冗談だろ?」

 

 瞳の中に、輝きの弱くなった星が灯る。

 芽々は、ちっとも笑っていなかった。

 

 

「本気ですよ」

 



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第十七話 それでも少女らは夢物語を愛している。

 寧々坂芽々はファンタジーを愛している。

 

 遠いご先祖様は魔女だと寝物語に聞かされて育った。幼い頃の将来の夢は魔法少女だった。普通の高校生として育った今もオカルト好きで、異世界に行けるなら本気で行きたい。

 寧々坂芽々はそんな、浪漫主義者(ロマンチスト)で。そして同時に、そんなロマンに幻滅し続けてきたのだ。

 

 だって、現代じゃ魔女は滅んでるし。自分の目は変な幻覚ばかり見るし。オカ研に部員は増えないし。当然、魔法少女にもなれやしない。

 現実も現実のファンタジーも、しょっぱい上に結構しょぼい。

 

 だからこそ、虚構のファンタジーが好きで。ありもしない異世界の物語が好きだった。

 ──虚構(ウソ)は絶対に裏切らず、夢を見せてくれるから。

 

 

 だからあの二人が空から落ちてきた時も、本当はさして興味を持たなかったのだ。

 

(え、何? どっかで魔術師が抗争でもしてるんです? げきこわ……)

 

 寧々坂芽々はカタギなので、「ひえー」と思って見なかったフリをした。

 

(関わらんどこ……)

 

 そのまま、普通に寝た。目になんか刺さったから明日眼科に行こうと思った。そして「異常ナシ」というか、いつも通りの「異常アリ」とお墨付きをもらい、芽々はすっかりあの夜のことを忘れたのだ。

 なべて世はこともなし。気にしたら負け。人一倍好奇心はあるけれど、好奇心に殺される猫にはなりたくない。そういうもの(・・・・・・)に好かれるとろくなことにはならないのがお約束(セオリー)だ。

 仮にも末裔であるが故に、そう教わって育った。

 

(首を突っ込むのは他人(ひと)の色恋くらいで十分です)

 

 ──だから、徹底して近付かないでいたのに。

 

 五月。突然、目の中に星が現れて。突然、窓に現れた魔法使いに魅入られた。

 

『契約をしようじゃないか』

 

 それが危うい甘言だと知って、飲み込む以外の選択肢がなかった。提案ではなく脅迫──断れば、何をされるかわからないと、本能的に理解した。

 そうして寧々坂芽々の、そこそこ平凡で穏やかな日常はズレたのだ。

 

(……さいっあくです)

 

 

 ──現実の異世界(ファンタジー)には、夢も希望もへったくれもないじゃないですか。

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

「だって先輩は頭おかしくなってるし。魔女サマには人間じゃねー角ぶっ刺さってるし。芽々は詐欺のカモにされてるし。どー考えても激ヤバですよ。てか腕ないし。げきこわ。ガン萎え。もう最悪!」

 

 トランクの中身を組み立てながら捲し立てる芽々に「あっうん、そうだな」と飛鳥は頷く。魔女が撃ってくる魔法を斬りながら、だ。

 

 ──魔法使いの誤算は、寧々坂芽々が誘導されながらもそれを〝自覚〟していたことだった。

 幻覚を見やすいという生まれつきの体質。そのせいで異世界と繋がる羽目にもなったのだが、そのおかげで寧々坂芽々には狂気や洗脳、暗示に対する〝耐性〟があった。

 眼鏡無しに道を歩けばその辺に巨大な毒キノコを見たし、空を見上げればサイケデリックなマーブル模様、今日は同級生が宇宙人に見えるなと思ったら、同級生が宇宙人のコスプレをして授業を受けているだけだった。(これは体質と何も関係ない)

 

 ──要するに。

 異世界と現世という光年よりも離れた場所から、魔術を行使するのだけでも不可能に近いというのに。普段から頭のおかしいものを見慣れている人間の頭をおかしくするのは、流石の魔王でも一筋縄ではいかなかった。

 そんなわけで、芽々は現状を認識できていたのだが。

 

「なんですかっ脳味噌だの身体だのいじくり回すって! おかしいでしょ!?」

 

 すっげえまともなことを言うなこいつ、と飛鳥はちょっと感動した。

 

「あー! これずっと言いたかったんですよ!!!」

 

 やけくそ気味に叫んだ。なにせ魔法で口止めされてるから『たすけて〜』も言えない。口止めの魔法の範囲は厳密で、色々試してみたが暗号すら送れない始末である。なんのための正気ですか、と頭を抱えた。腹立ったからもずのはやにえの写真送った。

 

 ならば大人しく助けを待つ? 無理だ。先輩たちはなんかイチャつくのに忙しい。意味がわからない。なんで? こうなったらもう、全力で茶々を入れるしかない。自分の命運がこの人たちにかかっていることを考えると苛立ちでラブホ行けとしか言えない。

 

 そうして、寧々坂芽々は悟った。

 ──あっこれ、自分でなんとかしなきゃいけないやつだ、と。

 

 

 

 だから、準備していたのだ。この手で一矢を報いる方法を。

 

「これでも魔女の末裔ですからね。魔術とか、使えないだけで勉強だけはしてきたんです」

 

 ずぶ濡れのレインコートを脱ぎ捨てる。その下はついこの間自作した、たっぷりのフリルとレースの衣装だった。〝魔法少女〟の衣装。

 

 ──魔法の行使において、装いは重要である。

 装いは、己が何者であるかを定義するものだ。自他の精神へ影響を及ぼし、魔法の出来すら左右する。では何故、寧々坂芽々は魔法少女を纏うのか。

 

 ──契約の対価に『なんでも願いを叶えてやろう』と魔法使いは言った。

 その言葉自体が願いを強要する暗示だったため、否とも言えない芽々は咄嗟に答えたのだ。

『魔法少女にしてください』と。

 幼い頃からの、ささやかな夢を。

 

『ふむ。不可解な願いだが……要は魔法の才が欲しいってことだろう? 少しだけ引き上げてやるとしよう』

 

 そして芽々は、ほんの少しの力を手に入れた。相手もまさか自分が与えた力に手を噛まれるとは、思ってもないだろう。

 

 

「だいたいさー、最強とか世界一とか自称するヤツは舐めプなんですよ」

「俺の悪口かそれ?」

「舐めプじゃなかったら芽々ほっぽってデートとか行かんでしょ!」

「じゃあ何のために生きてんだよ!!!」

「急に哲学!!?」

 

 喚きながら。作り物の銃の最後のパーツをガチャンを押し込んだ。

 

「まったく、ひーくん先輩は仕方のない人ですねっ」

 

 弾もなければ中の仕組みは何もない、完全にハリボテの代物だ。けれどそれこそが彼女にとっての魔法の杖だ。

 ──濡れた衣装を翻し、銃の形に仕立てた杖を掲げて。

 

「しょーがないので、ちょっぴし手伝ってあげます」

 

 寧々坂芽々は悪戯っぽく瞳を輝かせて笑うのだ。

 

 

「──超絶カワイイ魔法少女な後輩が!!」

 

 

 

 (つえ)を構える。使う魔術は最もシンプルな魔弾だ。

 異世界の話は彼と彼女から聞いていた。(てき)の情報も、向こうの魔法の流儀(ルール)も。そして五月の夜の彼らの痴話喧嘩の内容も、見た。

 

「『定義します』」

 

 やるのは真似事。契約に基づいて、瞳の星を代償に、人生で一発きり。

 今、この瞬間。寧々坂芽々には魔法が使える。

 

「魔法少女は空想の存在です。夢で、虚構(ウソ)で、砂糖菓子。竜もまた空想の存在、この世界には存在してはならないものです。同じ(・・)空想(・・)ならば(・・・)空想を(・・・)撃ち抜ける(・・・・・)

 

 ファンタジーが好きだ。メルヘンが好きだ。描かれるのは全部嘘で、なんの役にも立たない、砂糖菓子みたいな話がいい。

 教訓なんてくそくらえ。楽しいコトだけが正義だ。そう思っている。

 なのに。ある日クソッタレな教訓が、空から降ってきた。 

 

 本物の異世界は──現実は、そんなに甘くない?

 ならば、そんな現実(もの)はいらない。

 

 ──だって憧れた本物が、そんな虚しいものであっていいはずがない。

 ──そんな虚しいものに、つまらなくも楽しい日常を、脅かされていいはずがない。

 

「よくも芽々の夢をぶち壊しにしてくれましたね、魔法使い」

 

 それが寧々坂芽々の行動原理。空想を愛する魔女の末裔、現代に生きる普通の少女の願いであり、

 

「芽々を舐めたこと、後悔させてあげます!」

 

 

 ささやかに張る、意地だった。

 

 

 

   ◇◆

 

 

 

 弾丸が放たれる。地から天に向かって。

 白く光り輝くそれは流れ星のように尾を引いて。黒い、少女の形をした竜の胸の中へと飛び込んでいく。

 光に貫かれ、少女の形をした竜は。服の上に血すら滲ませずその手に魔法陣を展開したまま、慈しむように嘆息した。

 

「……素晴らしい。たった一度の魔術を、こうも正確無比に放つとは」

 

 敵に悟られまいと用意したことも、只人の少女がそれを為したことも。皮肉ではなく、(かれ)は良しとした。だが。

 

「残念だ。キミはあまりに未熟すぎる。そして少々、本物の幻想を舐めているようだ」

 

 考えてみればわかることだ。魔女の撃つ魔法すら、その師たる竜には易々と止められたのだ。──どうして付け焼き刃が通るだろう?

 

 そもそもの話、銃という武器や魔弾という術自体が竜に対し効果的でない。

 何せかの異世界の竜は〝失血〟の概念を持たない。傷つけるには、その肉を削るしかないのだ。それが異世界にも銃は存在したにも関わらず、勇者は聖剣のみを与えられた理由だった。

 

「傷つきたくなくば、そこで大人しくしているといい」

 

 作り物の銃も壊れた。

 寧々坂芽々にできることはもう、ひとつもない。

 

「『キミの抵抗は無意味だ』」

 

 

 ──いや。

 

 

「意味ならあるさ。俺が(・・)作る(・・)

 

 

 竜が背後の声に振り返った、時既に。剣は振り下ろされていた。

 (かれ)が見たのは閃く刃の残像、鋭く射る青の双眸。いつの間にと思う暇すらもなく。仮初の肉体が斬撃に切り裂かれ、千切れたその細腕が宙を飛ぶ。指先に展開された、魔女を操る魔法陣ごと。

 聖剣はあらゆる魔術を斬る。腕と共に切り飛ばされた魔法陣は、砕けて消えた。

 血の出ない少女の肉体で竜はよろめく。続く勇者(かれ)の追撃を、しかし未だ虚な目をした魔女の魔法が阻む。

 クハッ、と血を吐くように笑みが溢れた。──魔女を操る術式は壊された。だが。

 

「『それで正気に、返るとでも? 過去からは逃れられないというのに』」

 

 彼女は未だ勇者を敵と見定めたまま。勇者(かれ)の目の前で、銃を喚び出した。

 召喚したのは寧々坂芽々に突きつけたのと同じもの。用意していた予備(スペア)だ。

 一撃で砕けて消える玩具に過ぎず、竜を殺すには足りないそれも、人を殺すには充分だ。

 だが、勇者(かれ)は。

 

「ハッ、舐めてんのはテメェだろうが」

 

 笑い飛ばし、魔女に対峙する。彼がその両眼に映すのは敵ではない(・・・・・)

 

「今の魔女は……いや。咲耶は(・・・)俺の味方だ(・・・・・)

 

 ──この空間では、発する言葉が呪文となる。相手を貶める罵倒は呪詛となり、賛辞は強化の魔法となる。

 なればこそ。

 

 

「あえて言おうか! 『アイツは強い(・・・・・・)』と!!」

 

 

 かつて敵だった勇者(飛鳥)はそれを、誰よりも知っている。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──とぷんと、意識が落ちて、落ちた先の夢の中。

 気が付けば、わたしは鏡張りの回廊にいた。

 

 ここはどこだろうと考えて。鏡に映る自分の姿を見る。

 似合わない、と思った。見る者を威嚇するような毒々しいドレスも、止まった時を無理矢理動かすように塗り重ねたお化粧も。なにより、赤い角と左眼が、本当に似合っていなかった。

 頭から生える捻じ曲がった竜の角は身体に呪いを溜め込みすぎたせいで。嵌ったまま外せない魔眼は、魔王と師弟の契約をした時に与えられたもの。

 

 ──ああ、そうだ、思い出した。

 ここはまるで神に祈るためにあるが如き、海上の要塞で。けれど清廉とは程遠い、魔女(わたし)監獄(バスティーユ)

 

『そうよ。だから……早く世界を、滅ぼさなくちゃ』

 

 背後から聞こえたその声に振り返る。

 

『そうじゃなきゃ……死んだ咲耶(わたし)が救われないもの』

 

 鏡張りの回廊で振り返っても、見えるのは鏡に映る自分だけ。そこにいるのは、声を発したのは制服姿の、人間だった頃の文月(わたし)だった。

 

『わたし、なんにも悪くないわ。だって仕方ないじゃない、誰も助けてくれないんだもの。世界で一番可哀想なわたしは、世界で一番悪いやつになっても構わない! そうでしょう!?』

 

 その顔には、取り繕っても隠せない卑屈さを滲ませて、文月(わたし)魔女(わたし)に縋る。

 ──ああなんて、浅ましくて幼い理由だろう。

 

「そうね」

 

 でも(わか)る。同じわたしだから。

 

『なら!』

「だけど!」

 

 

「わたしはあいつに、救われて(・・・・)しまった(・・・・)!!」

 

 

 ──忘れるものか。あの異世界での再会を。

 

(……どうして)

 

 ──あなたがそこにいるの。

 

 奈落のさらに底。最悪の、向こう側。どれだけ死んでも絶望しなかったわたしの、唯一の真っ暗闇。何を犠牲にしても守りたかったはずの思い出が、わたしの初恋が、目の前で砕け散ったあの時を。

 

(助けてなんて、言ってない)

 

 ──そんなことしなくたって、あなたは初めから、わたしだけの憧れ(ヒーロー)だったのに!

 

 まっさらになってしまった現世であなたの腐り落ちた笑みを見て。わたしひとりだけが……あなたに、救われてしまったのだと。気付いてしまったあの日のことを。

 

 

「それを死ぬほど後悔した五月のあの夜を、その果てに交わした約束を! ──忘れるわけがないでしょう!!」

 

 

 誓いを、重ねたのだ。共にいると。もう間違えないと。

 

「……だから、ごめんなさい。わたし(あなた)の願いは聞けないわ」

 

 過去のわたしは静かに目を伏せて。苦く微笑む。

『ずるいわ、わたし(あなた)。……羨ましい』

 ガラスの回廊は闇に呑まれ、幻影は、弾けて消えた。

 

 

 

 暗く、夜に染まった城の中。

 背後から、朧な声が聞こえる。低いようで高い、少年とも少女とも付かぬ声。かつて憎んだ悪の魔法使いであり、魔女(わたし)を造り上げた師の声だ。

 

『何故逆らう。あれがキミの本心だ。あれがキミの根幹だ。だというのに──何故、私と共に行くことを拒む』

 

 振り返る。わたしを見下ろす大きな蛇の影に、答えを返す。

 

 

「いや、滅ぼすならあいつと行くし。世界を滅ぼす終末旅行って実質ハネムーンよね。それで結婚する」

 

 

『…………なんて?』

 

 

 ……はっ、しまった。あんな世界二人でめちゃくちゃにしてついでに結婚したいという欲が漏れてしまった。ついでに結婚したい。

 

 影は沈黙していた。長い、とても長い沈黙だった。

 ちがうちがう、今のなし。内面世界(あたまのなか)だからつい本音が。

 

 わたしはこほん、と咳払いする。

 

「ええそうね。わたしは今でも世界を滅ぼしたいと願っているわ。でも仕方ないじゃない。飛鳥がダメって言うんだもの。戻れなくなると言うんだもの。──愛する人の願いも叶えられないようじゃ、魔女の名折れでしょう?」

 

 

 影は、やはり不可解そうだった。

 

『世界を滅ぼす願いの再生、魔術は確かに成ったはずだ……どうして抵抗できる?』

 

 ええ確かに。狂気と薄壁一枚を隔てる魔女の性質上、わたしは少し欲に弱い。過去に、世界を滅ぼす願いの起点に精神を引き戻されたなら、溺れてもおかしくない。──否、本来ならば確実に溺れているはずだった。

 でも。

 三つの要因が、わたしの正気を瀬戸際で生かしていた。

 

「おまえ、わたしの本名、知らないじゃない」

 

 名を奪い精神の隙間(あな)を作る、契約の副産物。かけられたのはそれを利用した魔術だ。

 ──けれどわたしの本当の名は文月咲耶ではない。術は不完全なまま、行使された。

 

「それに、外で二人が頑張ってくれているし」

 

 術は初めから不完全だった上。術式の片方を破壊してくれたおかげで、外の様子は見えているし聞こえているのだ。

 ──あの子の無茶も……あいつの信頼も。

 

「だいいち、わたしはたったひとつの思い出に縋り付いて正気でいた女よ? でも、もう素敵な思い出なら──抱えきれないほどあるんだから」

 

 今のわたしは知っている。どうせ叶わないと諦めて、願うこともしなかった未来の形を。

 消えた過去の幻影(わたし)が最後に、羨ましいと言った意味を噛み締める。わたしの隣にずっと彼がいた、この一ヶ月と半分が……どれほど幸福だったことか。

 くだらない話をして、喧嘩をして、デートをして、ただそれだけをかつてのわたしは、夢見ることすらできなかった。そのすべてがここにある。 今、この手にあるくだらない日常、そのすべてを愛している。

 それだけで。どれほど痛々しい過去の記憶も置き去りにできるのだ。

 

 

 

「つまりね。わたし、今。

 

 しあわせすぎて無敵なの(・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 わたしは満面に笑ってみせて。

 竜は、『滅茶苦茶だ』と呻いた。

 

「そう、わたしはめちゃくちゃな恋愛脳で。恋に狂うのに忙しくて、今更他のことに狂うほど暇じゃないのよ」

 

 魔法。この手に現実(かこ)を撃ち抜くための銃を呼び出す。

 

「さぁ、いい加減にこの呪いを終わらせましょう」

 

 ──あなたのやったことに意味ならあるわ、芽々。あなたの乗せた文脈(いみ)魔女(わたし)が貰うのだから。

 

 宣言する(となえる)

 

 

 

「『わたしは、とっくに救われている』」

 

 だから。

 

「『今更、過去の絶望ごときがしゃしゃり出てくるな!!』」

 

 

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 

 そして彼女は、飛鳥(かれ)の目の前で。

 自らの頭を撃ち抜いた。

 

 ──夢を、見ているというのなら。

 一度(・・)死ねば(・・・)目が覚める(・・・・・)

 

 頭の中に埋め込まれた術式を脳漿ごと吹き飛ばし、再生。

 身体の主導権を取り戻す。

 自我の連続性を自らに問う。

 

 ──大丈夫、死んでも忘れない。わたしが誰で、わたしが誰を愛しているのか。

 ならば、何度(・・)死んでも(・・・・)変わらない(・・・・・)

 

 

 

 顔を上げる。

 

「待たせたわね」

 

 彼女は華やかに微笑んで。

 

「遅かったな」

 

 彼は不敵に笑い飛ばした。

 

 

 

  ◆

 

 

 

 夜雨の降る、壊れかけた橋の上。わたしは彼に答える。

 

「『遅かった』って、ひどいわ。これでも急いだのよ?」

「そうか。ヒヤヒヤしたよ、もう戻って来ないかと思った」

 

 心配というには、口調は飄々としていて疑わしいけど。多分本気で言っているのだろうと思って、少し笑う。

 

「……戻ってこない、か」

 

 

 ──昔の夢を見て、思い知ったことがある。

 いつか、『誰も殺さなかったのならば悪くない』と彼は言った。

 けれど未遂だって立派な罪だ。そのことに目を背けないのがせめてもの矜恃で。そのことに、微塵も後悔も反省もしていないのが何よりの罪。

 世界を滅ぼすと決意した、その瞬間から。わたしはどうしようもなく魔女(あく)だった。

魔女(わたし)という存在は爪先から頭の天辺まで間違いに染まっていて。そうなることを、わたしは自ら選んだのだ。

 わたしはわたしの正気を証明することが叶わない。だから。

 

 間違えずに済む、保証が欲しかった。

 

「ねえ、飛鳥。もしもわたしが、戻って来れなくなったら」

 

 ──いつかわたしが、致命的に踏み外してしまったら。

 

 

「あなたが、殺してくれる?」

 

 

 わたしは彼の、目を見つめる。

 お互いに口にはしなかった。けれど〝不老不死をどうにかする方法〟なんて、最初からひとつ確実にあるのだ。

 竜殺しにして魔女殺しの剣。世界でただ一人、彼だけはわたしを殺せる。

 

 ──わたしは、自分が誰であるかも忘れて、大切だったものを踏み躙るくらいなら。死んだ方がましだ。

 

 

 わたしの問いに。飛鳥は笑わず、目を逸らさず。

 

「心配するな。その前に止めてやる」

 

 いつかのように『倒しに行く』とは言ってくれなかった。

 

「一番悪い未来を想像するのはおまえの悪癖だな。今言うべきはそうじゃない。だろ?」

「そう、ね。そうだわ」

 

 深く息を吸う。眼前には、かつてわたしを奈落に落とした魔王(てき)の姿。

 ──わたしたちはもう、敵じゃない。

 言うべきことを、言う。

 

 

「助けて。あなたの、手を貸して」

 

 正解、とあなたは笑った。

 

「俺は君の味方だ。君のために剣を振るおう」

 

 

 日の落ちた、灰色の雨の景色の中。その目は、その横顔は揺るぎなく。いつだってあなたはわたしの欲しい言葉をくれる。

 ずるい、と思った。釣り合わない、といつもの卑屈が首をもたげそうになって。わたしはそれを振り払う。

 

 ──それでも、側にいることを許してくれた。

 ──それでも、側にいたいのだと願った。

 

 ならば。走り続けなければならない、とわたしの教訓が囁く。

 ひとつところ(あなたのとなり)に留まりたいと願うのならば、相応しくならねばならない(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 ──わたしの全霊は、あなたに並び立つために捧げよう。

 

 愛が責任ならば。きっと恋の定義は、憧れを追うこと。『あなたにはとびっきり素敵なわたしを見せたい』と願うことだ。

 

 その願いを以って。わたしは、わたしの恋を証明しよう。

 

 

 

 ──あなたの隣で。

 



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第十八話 戦闘中にイチャつくべきではない。

 雨が降る、壊れた橋の下。壊れた玩具の銃を抱え、寧々坂芽々はただ景色を見上げていた。

 橋の上、我を取り戻した魔女を前にして。

 魔王は雨風にも折れてしまいそうな少女の体躯を折り曲げて笑う。

 

「く、ハハハハ……ああ、なるほどようやく分かったよ。つまりボクは、キミたちの恋路のだし(・・)に倒されたのか!!」

 

 芽々に取り憑いていた、とはいえ。現世に顕現していない以上、竜にできたのは芽々と話をすることだけだ。芽々は彼らの関係を決して言わなかったし、竜は人の子の色恋には疎かった。

 

「まいったな。師として弟子の恋路(ゆめ)は応援したいものなんだが……引き裂かねばならないとは。ままならないものだね、人生は」

 

 人でなしが人生を語り、心底悲しそうに溢す。

 

「ああ本当に、悲しい。──おふざけもここまでだ、なんて」

 

 声が低く変調する。

 

『名を明かそう。我が銘は星喰い(aegister)──七つの命を持つ最後の古竜、千年を生きる魔法使い、魔女の主にして従者。背負う業こそ魔王だが、統べる国も民もとうに無くした死に損ないの老いぼれだ』

 

 自虐めいた呪文(ていぎ)を唱える。

 

 

『だが。私は(・・)竜殺しにも(・・・・・・)殺せない(・・・・)

 

 

 姿形が変化する。小さな頭に大きな角が。片腕の欠けた身体に翼が。白皙には黒鱗が。

 さながら人と竜が混ざり合ったかのような、その姿は化物のそれだった。それがよりにもよって、自分と同じ顔をしている。

 

『さぁ、最終決戦を始めようか。何度でも』

 

 この世にあってはならない幻想(そんざい)の放つ威圧感(プレッシャー)に、橋の下から見上げる少女の足が震え出す。

 ──動悸が激しい、息切れがする。瞳の星はか細く消えかけていて、もう異界との繋がりは断たれようとしていた。結界(このば)にいることすら耐えられない。

 

「芽々」

 

 雨音にもかき消えない、通る声が頭上から聞こえた。

 はっと声の方を仰ぐ。二人の目がこちらを見ていた。

 

「先に帰ってろ。俺が落とし前を付けておく」

「ごめんなさいね、気負わせて。後は任せて」

 

 どうしようもなく、絶望的なまでに理解した。

 ──芽々(わたし)にできることは、もう何もない。

 だから芽々はこくりと頷いて、砂利の地面を駆け出した。

 

 

 

「定義しよう。『俺たちが最強だ。二人ならば、恐れるものなどひとつもない』

 ──勝ちに行くぞ!」

 

「ええ!」

 

 

 結界の(ふち)で、足を止める。芽々はくるりと振り返る。

 眼鏡がないせいで視界はグニャグニャに歪みきっている。目の前に広がる赤い海が、自分の幻覚なのか結界の影響なのかもわからない。

 けれど。崩壊した砦のように上書きされた橋の上。

 剣を掲げる、揺るぎない背中を見た。

 その隣に凛と立つ、魔女を見た。

 灰色の雨の中、宙に浮かぶ怪物に立ち向かう二人の姿が。

 歪んだ視界の中で鮮やかにくっきりと、見えたのだ。

 

 

 ──ああ。これこそが。憧れた〝本物〟なのですね。

 

 

 最後に目に焼き付いたその景色を。寧々坂芽々はきっと、一生忘れない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 芽々は結界の外に出ていった。そろそろ異世界との接続も切れたはずだ。もう結界の中を覗き見ることも、巻き込まれることもないだろう。

 あいつ、ずぶ濡れだし風邪引かないといいのだが。なにせ六月の川はめっちゃ冷たい。俺も「早く帰って風呂入りたい」の気持ちが六割だ。

 

 向き直る。

 

「随分とあっさり見逃すんだな、竜」

『本来、竜は人好きなのさ。こちらの世界の人間に手をかける気は無いよ』

 

 ……悪逆非道の魔王が何を言ってるんだ?

 

『世界にはそれぞれその世界のルールがある。半分異世界(こっち)のモノになっているおまえたちはともかく、純正の地球(そちら)の人間に手をかけるなんてしたら、地球(せかい)から弾かれかねない』

 

 どちらにせよ。世界の平和を守る必要はないっていうのは軽くていい。

 世界の命運なんざ背負うのは二度とごめんだ。

 

『存在の強度が高い世界ほど、寿命が長く滅びにくく魔術による改変がし難い。……この世界に生きるキミたちは滅びの危機なんて考えたこともないんだろう。まったく羨ましい限りだ。憎たらしくて──』

 

 半人半竜の姿で。魔王は指を天に掲げる。

 雨が、ピタリと止んだ。

 

 

『──星でも降らせてやりたくなる!』

 

 

 それは願いであり呪文であり宣言だった。

 暗雲を、燦然と輝く巨大な星が食い破り、落ちてくる(・・・・・)

 雨粒の代わりに降り迫る熱量の塊。それは圧倒的な破壊の呪詛が込められた禍々しい流星だった。

 

 

 

「……あっ、ヤベ」

 

 空を見上げて呟く。

 

 

「──俺、隕石には勝てん」

 

 

 最近、隕石への愛を語りすぎたな。

 愛を語るのは即ち自己暗示の呪いである。つまり、しこたまに暗示が効いて戦う前から心が隕石に敗北していた。

 ……なるほど、好き嫌いは弱点になるから勇者に自我とか感情とか要らないわけだ。納得した。

 

「……あんた」

 

 隣で咲耶が、ものすごい目でこちらを睨んでいた。

 

 

「ばっっかじゃないの!!?」

 

 

 俺もそう思う。

 

 

 

   

  ◇

 

 

 

 魔術による隕石。熱を帯びて輝くそれは灰色の空に尾を引いて、橋を砕く。

 直撃を避け、威力こそ剣と魔法で相殺したが。俺たちは呆気なく衝撃及び崩落に巻き込まれた。

 落ちた先の川縁。瓦礫を退けて互いの無事を確認する。被害は土埃と泥に塗れた程度だ。

 既にどこかの骨がミシミシと逝った気がするが、気のせいだろう。俺は毎日牛乳を飲んでいるのでこの程度で骨が折れたりしない(自己暗示)

 焼き焦げたドレスを引き摺って、咲耶が瓦礫の中から出て来る。あいつは鈍臭いので、既に一回死んだかもしれない。

 戦闘については互いが互いに不干渉だ。やり方に口を出さず庇いもしない。自分の身は自分で守れが鉄則だ。それは元敵同士という経歴の名残でもあり──その程度はできて当然、負傷は単なる必要経費、その責を問うことは互いに無し、という不文律だ。

 

 して、追い討ちのように再び魔術(いんせき)が降るのだが。

 

「よく考えたら一撃で俺を殺せない時点であれは隕石じゃないな?」

「知らないわよ! 好きに定義しなさいよ!」

「よし勝てる」

「ばか!」

 

 隕石は浪漫なので絶対の最強であってほしいし、一撃で俺も世界も消滅させて欲しい。それができない時点でアレは単なる空から降る岩である。落石。

 暗示により集中を高める。魔女が後方より合わせて魔術の脆弱性を暴き、衝突の直前、こちらが斬撃を飛ばし魔術を壊す。再びの塊は真っ二つに瓦解した。

「やるじゃん」

「おまえもな」

 連携は苦手だ、と思っていたが。いがみ合うのをやめたおかげか、異世界(かつて)よりもスムーズだった。

 

 

『もう少々盛大に降ると思ったのだが。あまり楽しくない絵面だな。安直な繰り返しは芸がない』

 

 どんな魔術も冴えない威力しか出ない地球仕様に幻滅したように、魔王が呟く。

 隕石(偽)衝突の隙に結界が強化も為されたのだろう、辺り一面の風景は様変わりしていた。

 壊れた橋の残骸は形を新たに形成し、黒く高い尖塔を作り上げていた。阻む赤の水面はいつの間にやら足のつかない深い海へと改変されている。

 眼前の光景はまるでいつかの魔王城を前にしているかの様。つまり──(ヤツ)に有利な陣地である。

 

『遊び心を忘れた生き物は獣だ。どうせ見上げるならば世を破壊できない隕石よりも。ささやかに流れる星々の方が楽しいだろう』

 

 暗雲の空高く。静止した雨粒のひとつひとつが瞬き──否、雨粒ではない。

 そのすべてが光り輝く隕石(ほし)に改変されていた。

 

 

『──貫け、流星雨』

 

 

 星の(あめ)が、降り注ぐ。

 

 

「っ、上書きする!」

 

 だが、魔女でも相殺できたのは半分まで。元が推定降雨量一ミリの弱い雨といえ、防ぎ斬るにもキリがない。一歩踏み出せば容赦なく肉体に風穴が開くだろう。それを防ぐための装備も今や失くした後。掠めた雨の矢はただのシャツの布地を容赦無く破く。そして踏み出そうにも眼前は深い海。翼ある敵に(やいば)は届かず、斬撃を飛ばせる程度では高度が足りない。

 

 ──(あめ)外堀(うみ)に阻まれて、敵はあまりに遠かった。

 距離が、詰められない。

 

『もう終わりかい?』

 

 まったく認めがたいが、魔王(ヤツ)は強かった。現世で弱体化しているはずなのに……いや、違う。

 これは──俺が(・・)弱く(・・)なってる(・・・・)のか(・・)

 

 身体が鈍っている、ということはないはずだ。戦闘は見据えてあった。勘が鈍らないよう鍛錬も咲耶との手合わせもこなしてあった。なんなら事態を把握してより二週間も放置していたのは、鍛え直すためだ。

 だが──そもそもの出力が下がっていた。俺は精神以外は純正に人間だったとはいえ、異世界(むこう)にいる間は異世界の法則に最適化していたのだ。即ち、飲まず食わずで稼働でき、手足が千切れようが致命にはならず、敵が空を飛んでいようが殺せるような。勇者(やくわり)を果たすに十分な人間として。

 

 しかし現世に帰って早四ヶ月。今や少し飯を食ってないだけで倒れ、風邪を引きかけ、怪我の治りすら遅い始末。どれほど鍛え直そうとも身体のリミッターを外そうとも──全盛(かつて)には届かない。

 

 ──いつの間にか〝普通の人間〟に戻っていた。

  

  その事実を嘲笑うかのように、避けきれない矢が頬を掠めた。

  血を拭う。

 

「──ああクソッ! 大見得切ってこれかよ! ダッセェな!!」

 

『戻るに越したことはない』と確かに言った。だが、()じゃ(・・)ない(・・)

 

 隣、事態の不利を理解した魔女が口を開く。

 

「ひとつ手があるわ」

「飲もう」

「即答?」

「信頼だ」

 

 溜息が聞こえる。

 

「わかった」

 

 がり、と唇を噛み切って。血の滲んだ唇が言葉を発する。

 

 

「どうなっても……責任は、取るから」

 

 

 どういう意味だ、と言おうとした。言えなかった。

 彼女の手が、裂けた頬を包み込む。ひりつく痛みに気を取られた、その一瞬の間に。

 

 

 ──口が、柔らかな感触で塞がれる。

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 その、(やわ)い感触の正体を理解するのを脳が拒んだ。口が塞がれている。見開いたままの視界には彼女の閉じた目蓋があり、睫毛が雨に濡れ重く垂れ下がっている。両手には未だ頬を掴まれ、逃げ場がなく、そして思考はようやく結論を出した。口は、口によって塞がれていた。

 彼女の濡れた唇は冷たく、けれどすぐ、熱が中へとねじ込まれる。熱い口内は甘く、ほんの僅かに鉄の味がした。彼女の血だ。

 

 

「……っ、はぁ」

 

 彼女は唇を離し。息を、継ぐ。

 

 彼女が赤い舌で唇を舐めたのを見て。得体の知れない痺れと甘さが口内をまだ焼いているのを認識して。

 ようやく、この行為(・・・・)()なんと(・・・)言うのか(・・・・)を理解し、絶句する。 

 

 

「な……、──なんで今キスした!?」

 

 想定外への動揺、不意打ちへの怒り、疑問が滅茶苦茶になって完全に思考が渋滞のち停止。

 ──あり得ない、不健全すぎて死ぬ、人類にキスは早すぎる! というか──舌は、駄目だろ!!

 こんな行為(もの)が許されていいわけがない!!!

 

 

「咲耶、ふざけっ……!!」

「静かにして。まだ動かないで」

 

 上気した頬。潤んだ瞳。震える声。頬を離さぬ指先。

 

「『定義する』」

 

 真っ直ぐにこちらを見据え、彼女は唱える。

 

「一滴、あなたはわたしの血を飲んだ。一滴分、あなたはわたしに(かしず)き従わねばならない」

 

 ──祝福の、(まじな)いを。

 

「今これより、あなた(・・・)()竜よ(・・)。あれが星喰いの竜ならば、おまえは竜すら喰らうわたしの剣だ。ならば、『同じ竜に喰らいつけぬ道理がない』」

 

 ──口付けこそは、もっとも強い魔法(のろい)だ。

 

「竜殺しの竜たる剣に。願いの果て世(かのセカイ)すべての悪竜の母にして娘である、緋海の魔女(このわたし)が命じましょう」

 

 魔女の血はそれを飲んだ者に、力を与える。脳を焼くほどの、力を。

 

 

「『──喰らいつけ』」

 

 

 その(めい)に、脳の中で火花が弾けた。四肢が煮えるのを錯覚する。力が漲る、なんてものじゃない。全細胞が別物に作り変わるような強化の感覚と──獰猛な高揚感。全盛期の縁に手がかかる。しかして代償に、思考が、理性が、どろりと溶けかかる。溶けたのは、自制心(ブレーキ)だと直感する。

 

 

「……加減できないぞ」

「合わせるわ」

 

 

 信頼に、言葉を尽くす必要はない。

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 空中より、彼らの様子を見下ろしていた魔王は。魔術を行使しながら『なるほど』と小さな顎を撫でて──

 

『……なんだ今の!? ボクは教えてないぞそんな呪い方!!』

 

 耐えきれずに叫んだ。

 

 魔女の口付けの意味を当然、魔王は知っている。だが特定の感情が付随しなければ意味のない代物であり、異種族たる竜の城では使い道もなく、教える必要はないと判断した。

 何よりも──破廉恥な物事を弟子に仕込むのは、師として最低。

 

 悪逆非道、人畜有害、世界を良心の呵責なく滅ぼさんとし、魔女を生贄とする魔王だが。師匠心(おやごころ)だけは有ったのだ。

 

 そんなささやかな気遣いは目の前で無に帰した。完全に動揺したため、勢い余って魔術の威力が倍になった。動揺するとうっかり力むし、うっかり流れ星を増やしてしまう。うっかり。

 飛んでくる魔術(ほし)を斬りながらも食ってかかる被害者、もとい勇者。

 

「うるせぇ! こっちだってこんな、こんな……!!」

 

 

 

「──初めてだったんだよクソが!!!!」

 

 

 

『いや、知らないよ!!!』

 

 

 

 この時、勇者と魔王の感情は奇妙に一致した。

 ──何が悲しくて敵前で口吸いをされなければ、しかも初物を奪われなければならない?

 ──何が悲しくて弟子(むすめ)の非常に破廉恥で秘すべき(プライベートな)行為を見せつけられなければならない?

 おのれ魔女。いくらなんでもやっていいことと悪いことがある。 

 

 一方、彼らの怨念を一身に受ける魔女だけがけろりとしていた。

「そういうのいいから。さっさと()ろ?」とか言う始末だ。

 なにせ彼女は覚悟などとうに決めていた。恋と愛のためならば手段を選ばぬ乙女はもはや、無敵である。

 ──無敵とはつまり、何を(・・)しでかすか(・・・・・)分からず(・・・・)恐ろしい(・・・・)、ということである。

 

 

 魔王は萎えた。

 

 

 

『………………帰っていいかい?』

 

「帰れ!! ひとりで!!!」

 



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第十九話/エピローグa いつかは君の絶対に。

更新遅れました。昨日の分です。






 とは言うが。さて。

 

『本気で帰るつもりは毛頭なく、』

 

「当然、帰すつもりもないな」

 

 

 俺の目的は奴に不死の解呪方法を聞き出すことであり、吐くまで決して帰すわけにはいかない。

 奴の目的はかの異世界を滅ぼすことであり、弟子たる最高傑作の魔女を連れ戻すまでは帰れない。

 

 どれほど状況がおかしかろうと、命と命運を懸けていることには変わりなく。

 互いにふざけている場合ではないことは重々に承知していた。

 先の軽口はすべて虚勢だ。呪術への対抗に精神の強度を求められる異世界の理では、余裕を取り繕えない者から死ぬ。

 

 それに今は。ふざけでもしなければ──授かった呪いに呑まれてしまいそうだった。

 

 魔女の口付けのせいで、身体中が焼けるように熱かった。得体の知れない高揚が精神を侵して、思考は加速し感情は膨れ上がる。

 本来、勇者の剣は感情を削ぎ落とすものだ。人為的作りだす明鏡止水の境地、無我の剣でなければ天の竜には届かない。その哲学に基づくもの。

 しかし魔女の呪い(それ)は真逆。彼女の魔法は情念を薪に燃やすもの。強い感情を暴走させ、狂気の淵に足をかけることで力に変える。

 性質はまったくの真逆だ。過ぎた熱は氷にも似る。火傷と凍傷が似るように。真逆ということは、ある意味で似ているということなのだ。

 

 つまりは──呪いの効果は似て絶大。心身は異世界時代の全盛へと巻き戻っていく。

 

 ──長くは持たない。

 強化とはいえ呪いであり、それは確実に心身を蝕む。思考が散らばり始めている。思考の裏で感情が荒れ狂っている。かろうじて、聖剣の精神制御でねじ伏せる、が。

 ──あいつはいつもこんな状態で戦っていたのか、と嘆息する。

 

 

 

 

 上空、こちらを射抜こうとする魔術(ほし)の雨は今も降り続けていた。

背後では、咲耶が奴の降らせる魔術を書き換え続けている。

 為すのは魔術の乗っ取り、主導権の取り合い──魔王がこちらへ転移した時に咲耶に仕掛けたのと同じことだ。

 放たれる(ほし)を撃ち返し、相殺する。

 だが『師匠越えには早い』という言葉に嘘はなく、敵は魔術において格上。すべてを防ぐことはできない。一手でも間違えれば総崩れとなる危うい消耗戦だ。

 それでも魔女は術の威力が強められた今も同じレベルの防衛を維持し、相手のリソースを削り続けている。行使する呪いの性質上、代償を支払い平静とは程遠い精神状態の中、彼女の為せる限りの『完璧』を差し出している。

 ──俺が、必ず勝ちに繋げると信じて。

 

 

 

 俺は上を見上げる。敵の位置を、高度を、彼我の距離を読む。

 眼前を海が阻み、いまだ空には星の矢が飛び交うが──道は、見えた。

 

 

 一歩《いっぽ》──地を蹴る。降る(あめ)の隙間に自らを射出する。眼前は緋海。人の歩みを拒む無慈悲な水面が待ち構える。

 正確無比に動く身体に反し、精神は過去と今の狭間に囚われ現実を置いて加速する。

 脳の内側で声が、反響した。

 

 

 ──かつて俺は、彼女に言った。

 

『おまえは俺に絶対に勝てない』

 

 ──否定しよう。君は強い。

 彼女は、自らの意志で世界を滅ぼすと決めた。ただ使命に従うだけだった俺とは違う。地の底でただひとり、立つことを決めたのだ。

 だからその主張がどれほど歪んでいても、その覚悟には価値がある。その強さに、俺は敬意を払い続けている。

 

 

 二歩──水面に頭を覗く僅かな岩を踏み締める。バキリと音がし、足場は砕けた。

 

 ──かつて俺は彼女に言った。

 

『俺は最強だった』

 

 ──否定しよう。真に最強であるならば、すべてを手遅れになる前に救えて然るべきだ。でなければ名乗る資格はない。

 どれほど君が強かったとしても。どれほど君の覚悟に価値があったとしても。俺が勇者(最強)であるならば。そんな覚悟を決めてしまう前に救えなければならなかった。

 

 

 三歩──足場はもうない。水面を蹴る。昔はできた。なら今もできる。

 

『俺は何も救えてなどいなかった』

 

 ただの事実だ。──だがあえて否定しよう。

 たとえ救えない過去があるとして。絶望や後悔は常人(ただびと)にのみ許される贅沢品だ。この手に力がある限り、そんなものは許されない。

 君が、俺の願いを叶えようとしたように。俺だって君の我儘くらいは聞いてやる。世界を滅ぼす願いは聞けない代わりに、仇討ちくらいはやってやる。君の剣くらいには、なってやる。

 

 ──四歩。目指すはただ上空。天より見下ろす悪鬼羅刹。この剣先を届かせなければならない。飛ぶ矢すらをも踏み抜いた。だがまだ足りない。まだ届かない。

 それでも。

 

 

『──わたしの、絶対のヒーロー』

 

 

 彼女は言ったのだ。間に合わなかった俺のことを、そう呼んだのだ。

 ──否定など、するものか! 

 それがどれほど事実とかけ離れた空言だとしても。

 好いた女の〝絶対〟の信頼に。

 

 

 

「応えられないようじゃ、格好がつかないだろう!!」

 

 

 

 ──五歩。思考が焼けつくその前に。身体が動かなくなるその前に。何もない宙を蹴り飛ばし、(くう)を跳ぶ。

 余裕はない。限界を超えた運用に肉体が悲鳴を上げる。無理に無理を重ねてようやく手にしたこの一歩に、先はない。

 

 だが、余裕がないのは敵も同じだ。

 魔王は既に第一原則に反した転移に受肉という大魔術を成した後。斬り飛ばした腕が癒える様子もなく。変化(へんげ)半人半竜で留まっている。

 限界だ。どれほど傲岸不遜を取り繕っても、それは醜い虚勢でしかない。

 

 ──奴が命ひとつ分を賭け金に為せるのはここまでだ。

 

 剣を、振りかざす。

 一度殺した相手を、二度殺せないわけがない。

 

「ここで詰みだ、クソ魔王」

 

 迫る眼前。秒を切り刻んだ時間の中で。

 奴の、少女の顔が嗤うように歪んだ。

 

詰むのは(・・・・)キミだよ(・・・・)

 

 少女(魔王)は指を、拳銃のように差し向ける。

 その先に装填される、光の矢。その輝きはこれまでのどの矢よりも強い。必殺の一撃と理解する。

 詠唱。

 

 

『──墜ちろ。「流星(La-sta)」』

 

 

 至近距離より、心臓目掛け魔術が放たれる。

 避けられない。

 否。俺は、避け(・・)なかった(・・・・)

 

 

「──喰え! 『竜殺し(Rapisgram)』!!」

 

 

 矢が肌を裂き、肉を抉り、血管を引き千切る。

 だが。

 その矢が刺さったのは心の臓ではなく、生身の左腕。

 狙いは外れた。外させた(・・・・)

 

『…………』

 

 ──ずるりと、少女の首が落ちる。

 

 矢が届くよりもこちらの斬撃が僅かに速かった。ただそれだけだ。

 ただそれだけで、勝負は決する。

 

 

 

 

 

 

『……ク、ハハハ、これが勇者か! 滅私の傀儡(くぐつ)が! 今やエゴで駆動し、情念を剥き出して、だのに躊躇もなく友と同じ首を刎ねるか! 矛盾している……恋に狂う魔女といい──まったく、キミたちは度し難いバケモノだ!』

 

 見知った少女と同じ首は、落ちながら嗤う。

 喋り過ぎる生首に言われたくはなかった。

 

 

 ──誰がバケモノだ、誰が。

 

 

「人間だよクソ魔王」

 

 

 

『──いいやバケモノだよ(・・・・・・)。キミは』

 

 

 

 自らの死を薪に。落ちる首は、最期に呪う。

 だが。そんな呪いを聞く耳は必要ない。そんな言葉に動かす心は必要ない。勝者が死者の戯言(ざれごと)を聞く義理はない。

 

 

 そして俺もまた、墜ちた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 落ちた先は浅かった。いつの間にか此処の景色は海から川に戻っていた。両手に固く握りしめた剣を川底に突き立てて、ようやく身を起こす。

 

 

 気は昂っていた。目が冴えて、夜の雨の中とは思えないほどくっきりと見えた。

 痛みはなかった。まったく、これっぽっちも。

 手には確かな、首を落とした感触が残っている。

 生理的なその忌避感を塗り潰すかのように脳内麻薬が止まらない。

 気分が、良かった。酩酊に、どこか似ていた。

 高揚が溢れかえる。

 

 

「……あっ、は、ははハハッ!! やればできんじゃん!!」

 

 自分の声が遠い。果たして俺はこんな甲高い声で笑う人間だったろうか。わからない、わからないが、ひどく心地が良かった。

 

「……そうだ、まだやれる」

 

 ──まだ(・・)殺ら(・・)なければ(・・・・)ならない(・・・・)

 

 水を押し除けて陸へと上がる。落ちた魔王の亡骸の場所へと向かう。

 首のなく血の出ない肉体は、砂利の上でマネキンのように横たわっている。が、奴はかつて灰からも蘇ったのだ。まだ生きているに違いない。

 奴は命が七つあると言った。ならばあと五つ分……五つ? 五つであっているのだろうか? 頭が回らない。数が数えられない。呪いの反動だろうか。イカれてきたな、と理性が言う。……まあいいか。大したことじゃないだろう。

 

 ──どんなバケモノも死ぬまで殺せば死ぬ。

 ──何度だって殺せばいい。

 

 そして、そうしたら、今度こそ──俺はすべてを(・・・・)救える(・・・)!!

 

 

 思考が溶けて壊れていく。理性が乖離していく。

 

「もう無理よ!」

 

 聞こえない。聞こえた言葉の意味を認識できない。

 

 

「っ……置いていかないで、って言ったじゃない!!」

 

 

 ガクン、と引っ張られるように、足が止まる。振り向けば、右腕が掴まれていた。剣の一部分であるそれを、掴む彼女の手が、じり、と焼けていく。

 

「つ、……ぅ」

 

 苦悶に歪むその顔に、いくとどなく繰り返す自傷でも聞かぬその声に、愕然として我に返る。掴まれた腕を振り払う。

 

「おまえ、何を……」

 

 ──そこで初めて、視界に彼女が入る。いつの間にか、彼女は魔女から人間の姿に戻っていた。

 頬を雨に濡らして、咲耶は言う。

 

 

「二戦目は、無理よ。あなたの身体が持たないわ。……お願い。たとえ、ここでアイツを完璧に殺せるとしても。あなたが無事じゃなきゃ意味がないの!!」

 

 

 何を言われているのだろう? と、訝しんで。

 ようやく、自らの身を顧みる。左腕の傷から夥しい量の血が、流れ出していた。

 別にこのくらい──ああ、そうか。

 ──ここは現世だから。血が足りないだけで、死ねるのか。

 

 

 

 理解した途端に、身体が重くなる。強化は解けたらしい。

 思考がおそらく正常になる。正気と共に痛みが帰ってくる。無理矢理に動かした肉体が盛大に軋みを上げていた。乱れた息を、吐き出す。

 

「おまえ、いつもよく、ここから戻って来れるな……」

「……慣れたわ」

「慣れるなよ、んなもん」

 

 ──ああ、クソッ、あと少しだったのに。

 

「……勝ちきれなかった」

「いいえ。わたしたちの勝ちよ。──『閉じろ』」

 

 突如。辺り一帯を覆う結界が、ばつんと弾ける。否、弾けたと錯覚するほど急激に収縮する。死体を起点に(・・・・・・)

 そして死体は消え、代わりに残されていたのは小さな籠だ。

 籠の中には貧相な黒蜥蜴が収まっている。籠が封印の術式であり、黒い蜥蜴は竜だった。

 

「あなたが戦っている間に、結界を乗っ取って……封印の術式に書き換えておいたの。悪い魔法使いは捕まえたわ。これで、あとは聞き出すだけ。──完璧ね? 大勝利」

 

 咲耶は、多分泣きっ面で微笑んでみせた。雨のせいでよくわからなかった。視界が霞んでいた。

 

 

「……はは。やっぱおまえ、すごいよ」

 

 

 緊張の糸がぶつりと切れる。

 途端に限界が来て、「あ、駄目だこれ」ということだけ理解する。

 

「ごめん、咲耶……ちょっと寝るわ」

 

 傾く身体が受け止められる。

 

 

「……ばか。それは気絶っていうのよ」

 

 

 落ちていく意識の中、遠くから戻ってきた芽々の声が聞こえた。

 雨は、まだ降り止まない。消えかける意識の中で微かに問う。

 

 

 

 ──俺は君の絶対に、足るだろうか。

 

 

 女々しい問いだ。答えなどわかりきっている。

 

 

 まだ遠い。

 理想が、まだ。

 

 

 

 

 

 

 

  ◇

 

 

 

 

 

 

 ──決着の、その後のことだ。

 

「ねえ飛鳥。わたしには病室に窓から入ってこないだけの良識があるのよ」

 

 扉から入ってきた咲耶はベッドの前で腕を組む。

 

「それなのに。どうしてあなたは、窓から身を乗り出しているのかしら?」

 

 

「……逃げるためだが?」

 

 

「なにから?」

「おまえから」

 

 

 ──あの後。一度起きて病院まで行ったことまでは覚えている。自力で歩けるくらいには軽傷だったのだが、そのまま呪いの反動でぶっ倒れてしまったらしい。気絶すると問答無用で入院させられるからやめた方がいい。失態だ。俺はそのまま家に帰るつもりだったのに。

 つまるところの現状、俺は入院患者で、咲耶は見舞客というわけだった。

 

 

「いや、なんで逃げる必要があるのよ」

「……合わせる顔がないだろうが」

 

 咲耶は「ああ」と合点がいったように頷いて。ひらりと手を振る。

 

「別に、気にしなくていいのに」

 

 怪我とは無縁のはずの、咲耶の両手には包帯が巻かれていた。

 

 

 ──呪いの影響で思考が溶けていたあの時の、記憶は曖昧だが。

 それでも、彼女が俺の剥き出しの右腕を掴んだことは覚えている。そうして掴んだ咲耶の手が焼けたことも、はっきりと。

 再生は発動しない。俺がつけた傷に限って、咲耶の治りは常人並みになるようにできていた。

 何故そんなことをしたのかを問うほど馬鹿ではない。あの時あの瞬間、そうでもされなければ、多分。俺は我に返ることがなかっただろう。

 

 ……暴走しかけて怪我をさせるなど、切腹ものだ。負傷について謝るのはルール違反としたせいで土下座もできない。逃げたくもなる。

 しかし往生際が悪いのはもっとダサいので、逃亡は断念し大人しくベッドに戻った。

 

「それからその、だな……あんなことがあった後で、素面で会えるわけがないっていうか……」

「あんなことって、どれ?」

 

 咲耶は、ずいとベッドに身を乗り出す。不可解そうに潜めた形のいい眉。

「声小さくてよく聞こえないの」と大きな目がこちらを見つめ、綺麗な顔がこちらに迫り──いや、だから!

 

 

 

「なんでおまえ、人の口吸っといて平然としてるんだよ!!」

 

 

 

 おかしいだろ!! それが一番!!

 ……いや、本当にそうだろうか。問題の優先順位はそれでいいのだろうか?

 駄目だ、理性が鈍い。キスの後遺症で頭がボケてるかもしれない。いや、なんだよキスに後遺症って……おかしいだろいい加減にしろよ……。

 

 間近の咲耶は、ぱちくりと目を瞬いて。自らの指を唇に当て、呟く。

 

「……ああ、そっか。あなたは恥ずかしかったのね」

「は?」

「わたし、口にキスってあまり、恥ずかしくないのよ」

「は??」

「あ、勘違いしないでね。正真正銘あなたが初めてよ?」

「は???」

 

 こちらが困惑している間、咲耶は「それは良くない、対等じゃないわ……うん、さいわい個室だし……」などとぶつぶつと呟いて。

 

「ねえ」

 

 じっと彼女の目が、俺を覗き込む。包帯の巻かれた彼女の指が、俺の頬を撫でた。絆創膏の下でちり、と焼ける痛みが走る。

 確か──あの時も、こうして頬に触れられた。既視感で身が竦んだ。

 硬直したこちらに、咲耶は口早に唱える。

 

「これは文脈として親愛を意味するし接触も最低限つまり呪術的効力はまったくこれっぽっちもないイコール平気という意味なのだけど」

 

 呪文のごとく捲し立てられた言葉の意図を理解するよりも、早く。

 

 咲耶の顔が、近付いて。

 空いている左頬に僅かな、くすぐったく触れる感触と。

「ちぅ」と躊躇いがちな、

 音が、

 

 

 

「………………は?」

 

 

 

 怪我のことも忘れて、反射的に頬を押さえた。

 ぱっと距離を取った咲耶は、背けた顔を真っ赤に染めて。

 

「その……わたしには、唇よりもこっちの方が恥ずかしい、わけだから……」

 

 唇を隠したまま、潤んだ目でこちらを見上げ。

 

 

 

「……これで、おあいこね?」

 

 

 

「は、はぁ〜〜〜!?」

 

 

 なんでそうなる、論理がおかしい、こればかりは対等とか公正とか関係ない話だろう!

 正座させられたいのか?? だが床に正座させるのは如何なものか……と考えて。

 

 

 

 ──そこで、ようやく大変なこと(・・・・・)を思い出した。

 

 

 

 

「…………ごめん、芽々。おまえのこと忘れてた……」

 

「え?」

 

 ニョキ、っと。

 芽々がベッドの下から(・・・・・・・)生えた。

 

「な、な……!?」

 

 咲耶は目を瞬いて。ぼっと肌を炎上させた。

 上半身だけを隙間から出して、芽々は床に転がったまま、げんなりとぼやく。

 

「えぇ〜気まず〜……。芽々、色恋沙汰は好きですけど、人の情事を覗き見る趣味はないんですよ……」

 

 いや、情事って言うな。

 

「…………なんで芽々がいるのよ!!」

「先にお見舞い来てたんですけど、『ヤベェ、咲耶の気配がする! 隠れろ! 俺は逃げる!』って、ひーくんが言うから」

「なんで言ったのよ」

「流れだ」

「なんで従ったのよ」

「ノリです」

「揃ってばかなの?」

「かもしれん」

「かもじゃなくてばかよ」

 

「いや、ごめんな。ほんと」

「芽々も逆土下座で謝ります」

「それ寝っ転がってるだけだろ」

「ばれましたー?」

「…………反省してない!!」

 

 芽々はようやくベッドの下から這い出す。

「それじゃあ芽々はご退散しますね」と膝を払い、部屋を出て行こうとする。

 だが、その前に。

「あ、言い忘れてましたけど」とくるりと振り向く寧々坂芽々。

 

 

 

「──助けてくれて、ありがとうございます」

 

 

 

 眼鏡の奥のその瞳に星はもうない。

 

 

 

「このご恩は必ずや、です」

 

 

 

 芽々は一切のおふざけがない調子で、礼を言った。

 拍子抜けして曖昧な返事を返す。

 ……あいつも意外と真面目な奴だな。

 

 

 

「あと、サァヤは紐でした。さっき見た」

 

 ……ヒモ?

 咲耶がばっとスカートを押さえた。

 ああ、なるほど…………。

 

 

「帰れ!!!」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ぴゅうっと嵐、もとい寧々坂は去った。きっと寧々坂芽々の辞書に反省という文字はない。あいつ……。

 まあ、それを差し引いても、芽々には礼を言わなくちゃいけないのだが。

 

 ──あの後、逃した芽々は戻ってきたのだ。タクシーを呼んで。そのまま病院に叩き込まれたわけだが、正直ありがたい話だった。流石にあのまま徒歩で病院まで行くのはつらかった。

 

 

 しかし芽々がいなくなり、二人きりになった途端、お互い無言になる。

 

 ──実はあれから、丸一日が経っていた。

 怪我の方は体感的に大したことはないのだが。原因不明の高熱で意識が戻らなかったらしい。いや、不明というか原因はアレなのだが。

 

 

「目が覚めなかったら、どうしようって……思ってた」

 

 口付けによる強化──即ち『最大の精神攻撃になる呪いを無理矢理に強化魔法に組み替える』なんてことがリスクなしで済むはずがない。『どうなっても責任は取る』なんて不穏なことを言うわけだ。

 

 すとん、と椅子にかけて。咲耶は声を絞り出す。

 

 

「……無事で、よかった」

 

 

 苦笑する。

 

「無事というにはお互いボロボロだけどな」

「そうね、本当に」

「無事の基準がバグってんだよ。無傷以外無事じゃないだろ常識で考えて」

「あなたがそれを言うの?」

「反省だよ」

 

 分かってはいるのだ。咲耶のことを鈍臭いなどと笑えない。

 奇襲と一撃必殺が専門なので、正面からかち合うと防御がどうにも甘かった。 

 ……もしかして俺、実は勇者じゃないんじゃないか? 異世界語の翻訳ニュアンスと日本語の語義が噛み合っていない気がする。

 多分忍者とかの方が向いている。俺は影が薄いしな。きっと天職だ。次は忍者になりたい。

 

 などと反省文を脳内でしたためていると。

 咲耶が、ふっと静かに笑った。

 

「……わたしも、ようやくわかったわ。あなたが無傷で勝たないと意味がないって言ったこと。完璧に勝たないといけない意味が」

 

 そうだ、何故ならば──

 

 

「──入院費(コスト)が、嵩む」

 

 

「それなのよ」

 

 

 顔を見合わせて、頷いた。

 

「期末試験も追試が確定なんだよこれで……」

「だめね。勝負に勝って社会に負けてるわ……」 

 

 ずぅん、と空気が重くなる。

 果てしなく大問題だった。学生の本分こそは学業であり、異世界なんざ所詮『その他』に分類される雑事であるべきだ。だから余裕綽綽でクリアしないとならないというのに、本業に影響が出るようでは片腹痛いし物理的にも痛い。

 

「……二度と怪我しない。二度と」

 

 鍛え直すか、山で。

 

「わたしも、二度とあなたに呪いなんてかけないわ」

 

「…………」

「…………」

 

 決着はついたのに何故か祝いのムードにならない。

 完全勝利(100点)を取る気で望んだら辛勝(60点)が返ってきた試験返却日のような有様だから、そうもなる。

 

 何よりも──お互い『これであっさり終わるわけがない』という予感があった。

 

「……ま、でも。六十点あれば合格だろ」

 

 異世界(むこう)じゃ手を組んだ後も散々な仲だったので、連携なんてこれっぽっちも取れなかったことを思えば。

 

「次はきっと、もっとうまくやれるさ。俺は伸び代しかないからな。身長だってまだ伸びる」

「まだ欲しいの?」

「でかいと強い」

 

「?? わたし、ヒール履くのやめようかな……キスしやすくてよかったのだけど」

 

 …………鍛え直すか、滝で。

 

 

 

 

 

 

 

「あ」

 

 咲耶が何か思いついたように声を上げた。

 

「思ったのだけど、キス、二回ともわたしからじゃない?」

「……だから?」

 

 ものすごく嫌な予感がした。

 咲耶はものすごく真剣な顔で言う。

 

「…………不公平じゃない?」

 

「何言ってんの?」

 

 何言ってんの?

 

「わたしたちの関係は対等であるべきよね」

「そうだな」

 

 

 

「つまり──飛鳥もわたしにキスするべきじゃない?」

 

 

「頭お湯か?」

 

 

 

 きりりと目を輝かせる咲耶(アホ)

 

「今なら何を言っても『呪いの後遺症だから仕方ない』で片付くことに気付いたわ!」

「言ってんだよ腹の内全部」

「ほっぺたでいいのに?」

「おまえそれさっき一番恥ずかしいって言っただろうが!」

「細かいことはどうでもいいと思わない!?」

「よくねえよ!! 恥を知れ、時と場合を弁えろ!!」

「わたしにキスしてよ!!!」

「い・や・だ!!!」

 

 

 咲耶はしゅん、と縮んだ。やばい、強く言い過ぎたか。

 傾げた首が、不安げな瞳が、こちらを見る。

 

 

「……イヤ?」

 

 

 顔を背けた。

 

「今は、格好悪いから、嫌だ」

 

 時と場合を弁えてほしい。

 病院は嫌いだ。ここじゃ何をやっても格好が付かない。

 

 

 

「…………いつか、そのうち。な」

 

 

 

 横目に見る。

 咲耶はあきれたようにくすくすと笑った。

 

「意地っ張り。格好つけ」

「うるせ」

 

 

 

「でも好き」

 

 

 

 そう言った彼女は、とびきりの、笑顔で。

 

 

 

 返事に詰まったのは多分。

 世界のせいなんかじゃなかった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 わたしは思う。

 ──ほらね、思った通り。簡単じゃあなかったわ。

 

 現実は中々思うようにはいかなくて。時々軽口ひとつ叩くのにも不自由して。触れ合うことすらままならない。普通に恋をすること、ただそれだけがどうにも難しい。

 

 それがわたしたちの現実で。もう少し、それが続くのだろう。

 

 

 でも、きっと大丈夫だ。あなたが「なんとかするさ」と言って、わたしが「そうね」と答える限り。

 今のわたしには、あなたの無茶を止めることすらできないけれど。あなたと一緒に無茶をすることくらいは、できるのだから。

 

 二人ならば。こわいものなんてひとつもない。──そうでしょう?

 

 

 

 そうして走り続けて、変わり続けて、助けられた分を助けて。

 あなたの隣にいられればいい。

 

 あなたが、わたしの絶対であるように。

 いつか。

 わたしが、あなたの〝絶対〟になれたらいい。

 

 

 

 

 ──そう願って。

 わたしはあなたに恋を、し続ける。

 

 

 



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エピローグb 笹木慎と普通じゃない幼馴染。

二章終了です。ありがとうございました。





 病室から出て、寧々坂芽々はぐんっと大きく伸びをした。

 

「あーー、肩凝った! 病院って辛気臭くてボケ倒さないとやってらんねーです」

 

 

 ……と、叫べるなら叫んでいただろう。

 だが芽々は時と場合を弁える人間なので、病院で大きな声を出したりしない。

 ところ構わずイチャつきだす年上二人とは違うのである。

 

 日曜昼間の病院はどこか異界の空気だ。

 物怖じしない芽々とて、馴染みのない場所に遠慮も気後れもする。

 

 ──非日常の真っ最中だったあの金曜日よりも。芽々にとってはこの日曜日の方が、ずっと息苦しい。

 

 

 そのまま逃げるようにスタスタと歩いて、売店に向かう。

 

「マコ、帰りますよー」

「え、おれまだ会ってないんだけど」

 

 幼馴染の慎には売店で待ってもらっていた。

 なにせ経緯が経緯なので、何も知らない幼馴染には飛鳥との話を聞かせるわけにはいかなかったのだ。

 

 魔王の洗脳こそ生まれもった耐性により回避したが、芽々がその意図に従ったことに変わりない。

 嘘と誤魔化しと演技のこの一ヶ月分の精算をしなければならなかった。

 

 ──感じる友誼は本物だったから。

 

 そのために面会に一番乗りをし、付き合わせた慎は諸々の話(というか反省会)が終わってから呼ぼうと思っていたのだが。

 

「咲耶さんが来てしまいましたからね。こーゆーのは二人きりにした方がいいのです。噛まれますよ」

「噛まれ……? わかった」

 

 

 

 

 病院から出ると異様な日差しが目を刺した。

 芽々は「ひぇー」と目を瞬いた。

 色素の薄い目には少し眩ぎる青空だった。

 

 梅雨も明けた。六月ももう終わる。

 

 

(一ヶ月、あっという間でしたね……)

 

 病院の前を行き交うタクシーが止むのを待ちながら、芽々は眼鏡を外す。

 裸眼になった途端、黒いタクシーは道路をゴロゴロと転がるダンゴムシに変わった。

 いつも通りの幻覚だ。相変わらず自分に見える世界はイカれてる。

 

(……でももう、本物のファンタジーは見えない)

 

 普段は出ていない咲耶の角が見えることも、包帯を透かして飛鳥の義手が見えることも、窓の向こうに遠い世界の魔法使いの姿を認めることもない。

 

 眼鏡をかけ直す。正しい現実を見直す。

 ダンゴムシはタクシーに戻り、緑地に白のナンバープレートにはメルヘンのかけらもない地名と番号が並んでいる。

 それでいい。所詮現実は、そんなものだ。

 

 

 道路は空いた。

 けれど横断歩道を渡ることもなく、芽々は立ち止まったまま呟く。

 

 

「……もうちょっとやれると思ったんですよ、芽々は」

 

 

 不本意な危うい状況に置かれたことに辟易としたのは嘘ではない。

 けれどそれ以上に、正直、ワクワクしていたのだ。

 

 ──だって、自分だけが世界の真実を知っていて。

 ──自分だけがその敵を欺こうと裏で画策している。

 

 ひとりきりの戦争に、浮き立つ気持ちがなかったといえば、嘘だ。

 

「うわ厄、マジ無理」とか言いながらも心のどこかで、寧々坂芽々はずっとそんな日を待ち焦がれていた。

 

 ──これから楽しくなるのかもしれないと、本気で思った。

 理性と相反して心は強く、降って湧いた非日常に期待した。

 

 だから。

 

「もっとうまく、全部、ちゃんとやれると思ってたんです」

 

 

 眩しい空にピストル型の指を突き上げる。

 眼鏡をずらせば、空には竜の幻覚なんていくらでも見れるだろう。寧々坂芽々の眼球はそういうふうにできている。

 

 

 ──けれど芽々に、それを撃ち落とすことは叶わない。

 

 

 わかっていたつもりなのだ、頭では。

〝ろくな話じゃない〟なんてことは。

 芽々はずっと本気だったし、ずっと真剣だった。

 

 だけど。

 

 

(咲耶さん、化粧(コンシーラー)ばちばちでした。……あれは、裏で相当泣きましたね)

 

 

 芽々は何も、わかっていなかったのだろう。

 

 

「いやになる」

 

 

 

 

 隣の幼馴染は何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 

 

 

 横断歩道が渡れるようになるのを待ちながら、慎は陽南にメッセージを打つ。

 

『来たけど会わずに帰るね』

『ウケる』

 

 返信は即、ただし雑。別にウケないけどな、と思った。

 

 まあやりとりはいつもこんなものだ。お互いただの友人に過ぎない。

 だから慎は『橋から落ちた』と聞いた時も「大変だな」と他人事のように思った。

 

 いや、絶対何かあったんだろうけど。具体的に何があったのかは知らないし、聞いていない。友人関係に必要なのは適度な距離感だと思う。

 

 

 とはいえそれなりに仲が良いので、普段、陽南はぽつぽつと嘘か本当かわからないような話を聞かせてくれる。

「カレー粉って見た目土なのに美味いからすごいよな。知ってるか、土って不味いんだぞ」とか。馬鹿じゃないの? 

 いや武勇伝を聞かせろよ、と言うと「えぇ……」と渋りながらも、クソデカい蜥蜴がクソデカい、という話をしてくれる。

 陽南飛鳥はとにかく話が雑である。

 

 でも。それだけで慎は充分「隣に非日常の住人がいる」という非日常感を味わっていたし、普通のやつである自分にはその程度が妥当だろう、と思っていた。

 

 だから深く踏み込むことは、絶対にない。

 

 ないのだけど。

 

 ──今回の件は、その中心に幼馴染がいたことにだけは、気付いている。

 

 

 

「……もうちょっとやれると思ったんですよ、芽々は」

 

 呟く芽々の横顔を見る。

 

 隣同士で幼馴染で再従姉弟(はとこ)である慎は、芽々とは生まれた時からの付き合いだ。

 昔から妙に聡くて、どこを見ているのかわからなくて、ふわふわとしていて、けれど年を経るごとに地に足ついて、人と関わるようになった幼馴染。その変遷をずっと慎は兄や弟であるように見てきたし、当たり前のように同じ時間を過ごしてきた。

 

 ──特別な感情を、言葉にする機会もないまま。

 

「もっとうまく、全部、ちゃんとやれると思ってたんです」

 

 肩の高さにある、真剣な横顔を上から覗き見る。

 背の低く、幼い顔立ちは昔と何も変わらない。けれど。

 自分にできることを、何をすべきだったのかを、どうすれば正解だったのかを、考え続けている芽々の憂鬱な横顔を見て。

 

 

「いやになる」

 

 

 慎はかける言葉が見つからなかった。

 じり、と日差しが、染めて痛んだ頭のてっぺんを焼く。

 

 慎の日常と壁一枚を隔てて存在する非日常は、どこまで行っても他人事だ。

 あの路地裏での夜、芽々と共に彼らの秘密を目の当たりにした時から理解していた。

 それが、自分とはなんら関わりのない、遠い世界の出来事であることを。憧れようとも自分にできるのは精々、普通の友人の顔だけだと。

 それは芽々も同じであるはずだった。同じだと……思っていたのだ。

 

 なのに。

 

 

 ──もしかして幼馴染は、自分と(・・・)同じ(・・)じゃないんだろうか?

 

 ──見ている世界が、違うんじゃないだろうか。

 

 

 そんな不安に襲われた。

 隣にいる存在を、ひどく不確かに感じ始める。

 

(……いつまで、このままでいられるんだろう)

 

 

 ──このままで、いいのだろうか?

 

 

 

 

 

 

「あ」と芽々は、メッセージの届いたスマホを取り出す。

 先までの憂鬱げな表情はどこへやら、瞳をきらきらと輝かせてこちらを仰ぎ見る。

 

「マコ、おじいちゃんが今年のかき氷試作するって! これは帰って試食会ですね!」

 

 とん、と芽々は一歩先に踏み出した。

 

 

「はやく帰りましょー!」

 

 振り返って、大きく手を振る幼馴染に。

 

「うん、そうだね」と生返事をひとつ。

 慎は追いかける。

 

 

『待って』とは、言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 ──そして夏は来る。来てしまう。



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幕間1 ラーメン食べるだけ。

 夜の屋上で小っ恥ずかしい告白をした後のことである。

 

 流れでラーメンを食べに行くことになったので、ついさっき存在を思い出した店──中学時代の飛鳥が部活仲間と通い詰めた店に、彼らは向かったのだが。

 

 

 そこは空きテナントと化していた。

 

「俺の人生こんなのばっかかよ!」

「二年の月日って残酷ね……」

 

 だが切り替えが早いのが売りの男である。

 飛鳥の脳味噌はだいたい「まあいいか」でできている。

 感傷はツケにして後で払えばいい。

 

 

 というわけで最近できたらしい別のラーメン屋に行く。

 一応市内の端っこに大学のキャンパスがあるので、繁華街にはラーメン屋が割とあるのだ。

 

 小さな店なので、席はカウンターしか空いていなかった。

 壁に激辛ラーメンのチラシが貼ってあったを見て、これでいいやと即決する。

 

「咲耶は何にする?」

「こってりとんこつ。一番お嬢様っぽくないやつ!」

「なんだその理屈」

「折角だから解放感を堪能しようと思って」

 

 逆に一番お嬢様っぽいラーメンって何味?

 あっさり塩ですわ?

 

「ああそうそう。昨日琴さんが俺に会いに来てさぁ、」

「……!?」

 

 

 

 継母に醜態がバレていたことにずどーんと沈んだり、彼氏(彼氏ではない)が知らない間に親と顔合わせ(顔合わせではない)を済ませていたことにはわわわと赤面したりする咲耶を「なんだこいつ」と眺めているうちに注文が届く。

 ヘイ二丁お待ちっ。

 

「いただきます」

 

 飛鳥は今時珍しく、外でもきっちり手を合わせるタイプだった。

 ハッとして咲耶も真似するように手を合わせた。仮にもお嬢様なので行儀面で負けたくはないのである。

 

「いただきます……?」

 

 だが、咲耶は気付いてしまった。

 育ちはおそらく飛鳥の方がいい。育ちが良くなきゃ出汁の取り方なぞ知らないだろう。

 そしてどちらにせよ咲耶の目の前にあるのは豚骨である。

 激辛と豚骨、どっちが品のある食べ物なのだろうか?

 

(そもそも……ラーメンの行儀の良い食べ方って何なのかしら?)

 

 咲耶はバグってフリーズした。

 

 

 気を取り直して割り箸をそれぞれ割り──咲耶は無様に割ったし、飛鳥は口で雑に割った──いざ食さんとしたところで。

 

 ゴンッと互いの肘をぶつけた。

 箸を持つ手がそれぞれ逆な上に、カウンターは狭かった。

 

「…………っ」

「〜〜っ!」

 

 二人して悶絶する。

 せめて逆に座るべきだった。

 

「わ、わたしも左に持ち変えるわ……」

「ああ、うん……?」

「だってわたしも両利きだし」

「……おまえ不器用なのに!?」

「失礼な。元々左利きだったのよ。でもお嬢様が左利きはよろしくなさそうじゃない? だから直したの」

「なるほど」

「でもね、不器用な人間がそんなことをするとどうなると思う?」

「……どうなったんだ?」

 

「両手の熟練度が微妙になる」

「熟練度」

 

「右利きにも左利きにもなれない悲しきモンスターよ」

「おまえ時々語彙がおかしいな?」

 

 結局、飛鳥も箸から麺が滑ったので、諦めて右手に持ち変えたのだが。

 両利きへの道程は結構険しい。

 まあ、どちらにしろ食えればいいのである。

 

 

 

 隣で咲耶がちゅるっとひと口麺を啜った後、「はぁ……」と悩ましげな溜息を吐いた。

 

「何年振りかしら……!」

「二年じゃなくて?」

「お嬢様はラーメンなんて食べない」

「なるほどな」

 

 人生縛りプレイである。

 何せ文月咲耶はファミレスにも入らなかったレベルだ。

 

「でも後悔したのよねぇ。異世界(むこう)で『あっ、死んだ』ってなった時……『こんなことなら好きなだけ食べておくんだった!』って!!」

 

 かつて魔王に左目ブチ抜かれた時にラーメンのこと考えていた女である。

 内臓ふっ飛ばした時も焼肉のこと考えていた女なので、一貫性はある。

 仕方ない。人間、死際にはなんかすごい脳内物質が出るので思考がラリるのだ。知らないけど。

 

 飛鳥は隣で微妙な顔をしていた。

「こいつ食い意地おかしいな?」と思った。

 だが戦闘前に「家帰って飯食って風呂入って寝たい」の一心になる人間なので、咲耶をとやかく言う筋合いはない。

 

「てかこっち帰ってきた時に行きゃよかったじゃん」

「……ラーメン屋にひとりで入れない」

「めんどくさ」

 

 変なところで奥ゆかしかった。

 実はコンビニでコーラ買うのにも葛藤するレベルである。

 

「ま、俺でよければいつでも付き合うけど」

 

 咲耶は横をじっと見つめ、

 

「え……わたしに付き合って毎日ラーメン食べる気? 死ぬわよ?」

「食わねえよ!」

 

 本気で心配する顔をしていた。

 

「……毎日?」

「許されるならば毎日食べたいわ」

「…………」

「しないけど。はしたないから」

「……??」

 

 何を食べても健康には影響しない体質なので、節制は最早咲耶の美意識のみで成り立っていた。

 好物は耐えに耐えるからこそ美味しくなる、本来の咲耶はそういう嗜好だった。

 今は欲に弱い魔女なので耐え切れずに深夜にカップ麺を食べたりするのだが。背徳であった。

 

 

「にしても。あなたのスープ、すっごい色よねぇ……」

「咲耶、辛いもの駄目だっけ」

「平気だけどそこまで好きじゃない。痛いけど耐えられる、みたいな?」

「なるほど。家で作る時は抑えめにしておこう」

 

 実のところ、飛鳥もそこまで熱烈に辛いものが好き、というわけではないのだが。

 極端な甘味や辛味ははっきりと味を感じられるので好ましいだけだ。

 

 異世界の人類陣営の食事はいわゆるディストピア飯というやつで、ろくに味がしなかった。土でも食った方がマシである。おかげで今でもカロリーメイトを見ると食欲が失せるし、錠剤はいちいち噛まないと飲み込めない。

 まあ、そのうち自我も溶けたし味覚も死んだので特に問題はなかったのだが。

 

 問題は現世に帰ってきてからも中々味覚が戻らなかったということだ。

 味のしない飯よりは霞の方が旨い。適当に飯を抜く生活になるのも道理である。

 教わった料理まで忘れると墓の下の祖母に申し訳が立たないので、意地で出汁は取り続けてきたが。

 

 

(でも、不思議と咲耶と飯食う時はちゃんと味がしたんだよな)

 

 そのせいでずるずると三食共にするようになってしまったのだから、我ながら現金なものである。

 

 

 飛鳥はぴたり、と箸を止めた。

 

「どしたの、固まって」

 

「いや……。激辛って、辛いんだなって……」

 

 涼しい顔で汗ダラッダラだった。

 

「ばかなの?」

「くあ……」

 

 味覚、めちゃくちゃ戻ってた。

 最近は人間なので。

 

 

 

 

 

 

 まあ、なんだかんだと完食するのだが。

 

 飛鳥は食べるのが相当早い方で、咲耶は随分と遅い方だ。

 そのため一緒に食事を取ると、後半の方は手持ち無沙汰になる。

 そんなわけだから、飛鳥がじっと咲耶のことを見るのも暇ゆえに仕方のないことだった。嘘。咲耶が飯食ってるのを見るのが妙に好き。無限にキャベツとか食んで欲しい。

 この男は自分の彼女(彼女ではない)のことをウサギか何かだと思っている節がある。

 

 その、咲耶はというと。

 行儀よく麺を啜ろうと真剣な表情で、今日は髪を二つに編んでいることも忘れて、癖で耳に髪をかけようとしては空振りしていた。

 その様子を微笑ましく眺めながら、飛鳥は思う。

 

「……三つ編み解いたら縮れ麺みたいになるんじゃね?」

「人の髪の毛をラーメンに例えるな」

「縮れ麺も似合うと思う」

 

 飛鳥は巻き髪のことをそう呼ぶことに決めたらしい。

 咲耶はイラッとした。女の敵である。

 

「お望みなら今度見せてあげるわよ……くるくるに巻いてやるわ……」

「それデートの時?」

「……そうだけど?」

「楽しみだな」

「ん、ぅ」

「巻いてると美味そう。おまえの髪、こんがりきつね色だし」

「そろそろ麺から離れろ?」

 

 咲耶は思った。

 

(……いや、こいつに恋するの無理じゃない?)

 

 無理な気がしてきた。

 

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 

 味は大分わかるようになったけど、やっぱり昔のラーメン屋の方が旨かった。

 そう思ってしまうのは思い出の補正というものだろうか。

 

 店を出るとふっと昔の記憶が蘇る。

 

『ねえセンパイ! 今からゲームをしようよ。勝ったら煮卵奢ってね! ちなみに僕が勝つけどっ』

『させるかよ瑠璃! 妹だろうと手加減はしないぜ。陽南の金で卵を食うのは、オレだ!!』

『勝手に決めんな。おまえら兄妹はいつもいつも……まあやるけど』

 

 一番の後輩には嫌われて、一番の親友とは疎遠になって、天文部も、通い詰めたラーメン屋も潰れている。

 湿っぽい気分になってしまうのは梅雨前のせいにし切れない。

 なんだかな、と思ってレシートを握り潰した。

 

 

 少し前を歩いた咲耶の背中が、ぐんっと伸びをする。

 

「あー、美味しかった!」

「また行こうぜ」

 

 迷わずに返す。

 あまり旨くなかったなんて錯覚したのは不相応な激辛なんて頼んだせいに決まってる。

 

 三つ編みを揺らして、咲耶がくるりと振り返る。

 目を細めて微笑まれたことに、少し罪悪感を覚えた。

 ……内心を勘づかれていないといい、と思った。

 

 彼女は、穏やかに言う。

 

 

「……ありがと。今日は、連れ出してくれて。それから……わたしのこと、好きだと言ってくれて」

「別におまえのためじゃないさ」

「そんなわけないわ」

「いや、俺が将来的にかわいい彼女が欲しかっただけだし。五割以上どころか十割下心だし。もうぜんっぜん、咲耶のためなんかじゃない」

 

 軽口に咲耶は苦笑いした。

 

「仕方ないから、そういうことにしてあげる。将来的には彼氏にも」

「やったぜ」

 

 棒読みで返して、そのままいつものように並んで帰る。

 もう二人で夜道を歩くのも慣れたものだった。

 

 

 

 

(……まあ、いいか)

 

 潰れた店は戻らないけど。

 

 

 これでいい。

 今がいい。

 



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幕間2 放課後デートするだけ。

「そういや今日は午前授業か。忘れてた」

 

 デートの翌週のことである。HRが終わった後の教室でようやく飛鳥は気付いた。

 飛鳥は予定を隙間なく埋めると安心する体質だ。しかし同時に割とぼんやりもしているので、こうして急に予定が空くこともある。さて何かやること──というかできることはないだろうか。と考えたところで。

 斜め後ろの方の席から、咲耶が駆け寄って来るのが見えた。

 

「わ、わたしも丁度、予定が空いたのだけど!」

「あー、遊ぶ?」

「……うん!」

 

 その辺で話を聞いていたクラスメイトAは「こいつらやっぱり付き合ってたんだなぁ」と思った。

 

 

 ◇◆

 

 

「えへへ、放課後デート……」

 

 完全にデレが脳にキてる咲耶は目をハートにしてにまにまと頬を押さえていた。

 こいつ最近よく正気飛ぶな、と飛鳥はちょっと引いた。付き合ってないぞ。まだ。

 

 まあしかし。流石にデートを知り合いに見られるのはちょっとな、と思う。

(よく近所のスーパーに一緒に出没しているのを見られているので今更である。今更)

 軽く遠出するか、と電車に乗ってこの前遊びに行った町まで向かう。

 

 

 

 ふらふらとモールを物色しているうちに、咲耶の足が自然と本屋に吸い込まれていった。本読みは特に用がなくても本屋を見ると足が吸い寄せられてしまう生き物なのだ。

 飛鳥は図書館派なので意外と本屋に縁がない。なんとなくついていく。

 降って湧いた放課後のデートというのは、全体的に行き当たりばったりなものなのだ。

 

 でかい本屋の中で話をする。

 

「そういやこの前のデート……予定変更したって言ってたけど。本当はなんだったんだ?」

「映画。何見るかは決めてなかったけど。どんなのが好き?」

「隕石降るやつ」

「知ってた」

「あ、スプラッタとかホラーは苦手だな。飯が食えなくなる」

 

 昔は平気だったのだが。

 

「……勇者がおばけを怖がるの?」

「フッ……おまえわかってないな……異世界(むこう)現世(こっち)もファンタジーだったってことはアレだぜ。霊も祟りも実在ってことだろ」

「たしかにそうね」

 

 魔女だって実質おばけみたいなものだ。ちょっと生身の肉体があるだけの怨霊である。

 

 

「あとな、咲耶……人を怖がらせようと思って作ってる映画は、現実より怖い」

 

 

 なお、その辺は意地を張らずに普通に怖いと言う。なぜなら感情があるからだ。ちゃんと怖いって感じる! すごい! 

 

 咲耶はなるほど、と頷く。

 

「覚えておくわ。わたしは好きだけど」

 

 そういえばDVDがあったな、棚に。

 

「よく見れるよな……俺ら現実がホラーじゃん。嫌にならない?」

「全然? それとこれは別だもの」

 

 咲耶は本屋の分厚いラノベ棚の前で何気なく一冊抜き取り、ピンと来なかったような顔をして棚に戻す。

 

「あんたこそ、わたしが『読めば』と言ったとはいえ、よく異世界モノ読めるわよね」

 

 咲耶の本棚にあるものをいくつか借りたのだ。

 

「全然。新鮮で面白い」

「あんた図太いわ。元々ファンタジーは読まない人だっけ」

「そうだな。ミステリかSFが好きだった」

「わたしそっちは全然だわ。映画ならたまに見るけど」

 

 咲耶は現実から遠いファンタジーが一番好きだ。

 

「そういえば飛鳥が読書する理由って……」

「暇つぶしと、あと読むと国語の点が安定するから」

「よね」

 

 本好きかと言われると微妙なラインである。

 

「だからこだわりとかないと思ってた」

 

 まあ、コンスタントに何かを読んでる時点で世間的には十分趣味に該当するのだろうが。

 

 飛鳥はふむ、と理由を考える。

 

「なんていうか。『答え合わせ』が好きなんだよ。最後に正解が分かる話はすっきりする」

 

 明確な答えがある話はいいと思う。すっきりしないオチも多々あるが。

 飛鳥は「なるほどな」と思えたら「面白かった」と認識するたちだった。

 

「ふぅん。今度おすすめ教えてよ」

「いや、俺は読んだ本のこと覚えてないから」

「それは記憶喪失的な意味?」

「いや? 読み終わった後にすぐ忘れる」

「…………」

 

 素の記憶力はいいはずなので本当に頓着しないだけだろう。

 

(気が合わない……)

 

 咲耶はテンションが下がった。

 

「まあ、おまえが好きそうなの見つけたら覚えておくよ」

「好き」

「……なんで!?」

 

 本読みとしての咲耶はちょろい。

 訂正、咲耶は万事ちょろかった。

 

 

 

「そういうわけだから、おまえの趣味教えろよ。ホラー以外で」

 

 そう言われて、咲耶は考える。

 

「…………谷が、長いのが好き?」

「ハ???」

 

 咲耶は一番目にファンタジー、二番目にパニック・ホラー、三番目にジメジメした話が好きだった。根暗だから共感できる。

 

(趣味が合わん……)

 

 飛鳥は引いた。

 

 

 などと話しながら本屋を物色していると、翻訳小説の棚の前で咲耶は「あ」と声を上げた。

 

「そういえば、この前。『なんで演技してたのか』って聞かれたけど……理由、もうひとつあったわ」

 

 咲耶は棚から、本を一冊抜き取る。

 

『小公女』

 

「簡単にいうと、『いびられるパートがものすごく長いシンデレラ』なんだけど」

「やな話だな」

 

 谷が長い。

 

「この本に出てくるのよ、『つもりごっこ』っていう遊びが」

 

 親を亡くして屋根裏部屋に追いやられた少女が公女様(プリンセス)の〝つもり〟で生きる、そういう話だ。

 

 薄っぺらな毛布は柔らかいベッドのつもりで。ちっぽけな蝋燭の火は暖かい暖炉のつもりで。暗い屋根裏は革命を待つ監獄(バスティーユ)のつもりで。

 

 空想のごっこ遊び。

 つまりは現実逃避で、自己暗示で、ロールプレイだ。

 

「……あ、おまえの演技癖、そこから?」

「子供って物語の影響、受けやすいわよねー」

 

 意外と単純な理由だった。

 

「で、オチは? おまえの原点ってことは、窓から魔女でも入ってくんのか」

「惜しいわ。猿が入ってくるの、窓から」

 

 猿。

 

「ホラーか?」

「……あんた今、何思い浮かべてる?」

「コタツのみかんを奪いに窓をぶち割って入ってくるニホンザル」

「おかしいわ」

「サルは怖いぞ。人を襲う」

「そういう話じゃないのよ」

 

 名作も台無しである。

 

「いやだろ。窓から猿が入ってくるのは。魔女よりも嫌だよ……」

 

 飛鳥の脳内で猿と魔女が同列になった。

 

「いいのよ! それでハッピーエンドになるんだから!」

 

 咲耶は指を立てる。

『定義』を語る。

 

「つまりね、『ハッピーエンドは窓から入ってくるもの』なのよ」

 

 飛鳥はそれを微妙な顔で聞いた。

 

 それは、暴論じゃないだろうか? 

 窓からなんかが入って来てハッピーエンドになる話って、そんなにあるか? 

 ないだろ。

 

 と、しばらく考えて。

 ひとつだけ思い当たった。

 

「……まあ、ラフメイカーだって窓からやってくるしな」

 

 そういうことで納得をした。が。

 咲耶は訝しげに眉をひそめた。

 

「……何それ? 映画?」

「知らない!?」

「知らない」

 

 その場で検索した。

 

「なんだ、生まれる前の曲じゃないの」

「生まれる前の本は読むくせに……」

 

 釈然としなかった。

 

「というかわたし、そもそもあまり曲を知らないのよね」

「おまえってもしかして、カラオケ……」

「行ったことないわ、ええ」

「…………」

「なによ。言っときますけど、音楽の成績はよかったんだからね、わたし」

 

 エセでもお嬢様だからぎりぎりピアノは弾けるのだ。

 猫ふんじゃったとか。

 

「あー、今度行くか?」

「ほんと? 楽しみ! ……あれ、今日じゃないの?」

「今日はその、アレだ。気分じゃない」

 

 飛鳥は選択科目に音楽を取ったことがない。その時点で察して欲しい。

 割と苦手である。壊滅的ならまだしも、可も不可もないのでネタにもならない。

 だからそんな、「え〜、すごく楽しみ。飛鳥って歌上手そうよね。カラオケって点数が出るんでしょう? 初めてだけど負けないわ!」とか期待に満ちた目で見られると、詰む。詰んだなこれ。終わった。

 

 だが誘わないという選択肢はないのだ。自分が誘わねばおそらく咲耶は他の誰かと初カラオケに行く。それはなんか嫌。どうせなら初めては自分がよかった。

 

 こっそり一人で行って練習しておこう、と思った。

 あと芽々とか笹木とかも誘おう。人数が増えればあまり上手くなくても雰囲気で誤魔化せるものである。多分。

 

「……映画でも行くか、この前のリベンジってことで」

「やった」

 

 

 

 

 

 ごく当たり前のように並んで歩きながら。

 咲耶は先の会話を思い出す。

 

(……あなたのハッピーエンドになりたい、なんて)

 

 そんな大袈裟なことを考えていたのが、遠い昔のような気がした。

 

(ばかみたいよね、大真面目にそんなこと思っていたなんて)

 

 ずっと秘密、絶対に秘密だ。

 だって、恥ずかしい。

 

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 

「ねえ、デートと言ったら見るのはアレじゃないかしら」

 

 映画館に着いたところで、咲耶はポスターを指差す。

 ベタベタの恋愛ものだ。

 

「おまえ、恋愛モノは苦手じゃなかったっけ?」

 

 咲耶はか細い声で、けれど真っ直ぐに目を見て言う。

 

「その……ちゃんとしたデートを、できるようになりたいって、言ったから。苦手を克服したいっていうか……あなたと、〝らしい〟ことをやってみたいなって……だめ?」

 

 努力の方向性は明後日だが、明後日なりにいじらしい。「デートって言っても二回目だしもののついでだし緊張も何もないだろ」と油断をぶちかましていた飛鳥の柔らかいところに刺さった。額を押さえる。

 

「いいよ、見よう」

「いいの? 興味なかったら無理しないでも……」

 

「俺だってなあ! おまえの望みを聞くくらいの〝らしさ〟はやりたいんだよ!」

 

 券売機をやけくそに押した。

 

 

 

 

 なお、意気揚々と恋愛映画に乗り込んだものの、苦手と公言するだけあって咲耶は映画に対し共感性羞恥で泡吹いたり歯を食いしばったりで忙しかったし、飛鳥は飛鳥で映画に濡れ場がめちゃくちゃあったので死んだ。なんかずっとキスしてる。大画面で知らん人のキス見せつけられている。怖い。なんの拷問? 

 

 二時間の映画がようやく終わった時には、二人とも座席でぐったりしていた。

 恋愛? なにそれ……ちょっとよくわからなかったですね……。

 

「……話は面白かったわ」

「……話は面白かったな」

「でも」

「うん」

 

 顔を見合わせた。

 

「ビデオ屋寄って帰るか……」

「ビデオ屋ってまだ言う人いるんだ。でも賛成」

 

「爆発炎上するやつ借りようぜ」

「チープで笑えるのがいいわ」

 

 

 やはり自分たちに普通のデートはまだ無理らしい。

 



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幕間3 合気道部での一幕。

追記。ここからの幕間三話、本編に関係ないやつです。







 六月のどこかでの出来事である。

(辻褄から言えば告白とデートの間くらいのことだ)

 

 

 すっかり忘れていたのだが文月咲耶はモテる。

 正確に言えば、文月咲耶の被った猫が結構モテる。

 飛鳥の前ではロールがガバガバだが、それ以外の前では結構完璧なのである。

 

 だから、まあ。

 

「文月サン! 一目惚れしました! 俺と付きおうてください!!」

 

 こういうことも、あるわけで。

 

 放課後、自販機の前で咲耶と話していたら突然割り込んできた男子生徒の発言に、飛鳥は缶を握り潰した。

 ちなみに缶はおしるこ(つめた〜い)である。

 

「ごめんなさい」

 

 にこやかにばっさりあっさり断る。

 対飛鳥以外には鉄壁である。

 全然ちょろくない。

 

「そこをなんとか!」

 

 追い縋る訛りの強い眼鏡の男子生徒。

 なお道着姿であることから、所属は合気道部であることが推察される。

 

 飛鳥は缶をベキバキにした。

 何故なら話していたところに割り込まれたからである。

 人が話している時に割り込んで当然告白をかますヤツは人間のカスだ。

 咲耶の前から引っぺがす。

 

「帰れ不審者」

「は? 不審者ってなんや。舐めとんのかワリャ……」

 

 当然チンピラと化し、ガンを飛ばす生徒A。

 

「文句があんなら拳で語らんかい! 初めっからなぁ、スカした態度しよって俺はお前が気に食わんかったんじゃ!!」

「つかおまえ誰?」

「ハァァン?? 六月になっても同級生を覚えてないんは鳥頭やろがい!!」

「拳で語るか……」

 

 そこにぬるっと割り込んだのは笹木である。

 合気道部なので割り込みは得意なのだ。

 

「ストップストップ。ごめんねウチの猿……じゃなかった、ウチの部員が。でもこんなところで喧嘩しちゃダメだよ」

 

 少し辛辣だが、笹木慎は合気道部の良心である。

 

 

()るなら道場でやろうよ」

 

 

 クイッ、と親指で道場(リング)を指し示す笹木。

 良心は死んだ。

 

 

 

 

 

 

 さて、状況を見れば男二人が女一人を取り合っているように見えなくもないが、その実態はすぐ喧嘩を売るバカと売られた喧嘩全部買うバカが衝突しただけである。

 

 咲耶はその状況を正しく認識していたし、なんなら告白されたにも関わらず両者の視界に既に自分が映っていないことも理解していた。

 

 よくあることだ。

 文月咲耶はよく一目惚れをされるし、よく雑な告白をされる。

 これは魔女とか関係なく、実母の色気が異常だったのを遺伝で引き継いでいるだけだ。

 

 いわば生来の魅了スキル持ちである。

 

 令嬢ロールによる清楚パワーか素の根暗ムーブによって打ち消せる程度の色気なので、生活にそこまで実害はない。

 

 ……いや、被告白後の政治的対処を間違えると人間関係が崩壊するのだが。

 トイレで水をぶっかけられたりとかするのだが。

 おかげで根暗ぼっちだった時代が長いのだが。

 恋ってほんときらい。

 ま、それも遠い昔の話だ。

 

 そもそもこの生徒A(名前は寺戸(てらど)と言う)はいろんな女子にノリで告白することで有名なので、今回はサクッと断った後ぼーっと突っ立ってるだけで問題ないのだった。

 

 笹木が「猿」呼ばわりするのも道理である。

 十年幼馴染に片想いしている笹木は高速告白できる人間のことを同じ人間だとは思っていなかった。

 

 だから咲耶はぼんやり「男の子ってばかだな〜」と思いながら見ていたのだが。(ちなみに喧嘩を止めるという発想はない)

 

 ハッと気付く。

 

「ね、ね、笹木君」

 

 と耳打ち。

 

「(飛鳥に袴を着せることって、できない……?)」

「(なんで?)」

「(だって……その……)」

 

 

「推しのSSRは! 欲しいじゃない!!」

 

 

 咲耶は制服とかカッチリキッチリした服装に弱かった。

 その点、道着の袴という装いにおけるカッチリキッチリ度は世の衣服の中でも上位にある。

 そして何よりシチュエーションの特殊性、部活に所属でもしていなければ絶対に見られないというレア度、文句なしにSSR。

 あと和服ってカッコいい。絶対似合う。見たい。見たい!!

 

 

「……ハッ!?」

 

 

 欲望がダダ漏れだった。

 

「ち、ちがうの。わたしはソシャゲよりもコンシューマ派なの……!」

「そこじゃないと思うよ文月さん。っていうか長いから文さんでいい?」

 

 だが笹木慎は辛辣なだけで底抜けにいいヤツなので、神妙に頷いた。

 

「わかるよ。おれも好きな子の浴衣姿とか見たいし」

「笹木君……!」

「まあ任せて。いい感じに言いくるめてくるよ」

 

 颯爽。

 

「陽南。道場は神聖な場だからね。正装じゃないと入っちゃいけないんだよ」

「そうなのか?」

 

 嘘である。だが衣装バフの理が存在する異世界魔法の常識に慣れた飛鳥はあっさり騙された。

 違和感に気付いた時にはもう袴を着せられていたので「まあいいか」でスルーしたし、死角で咲耶が「こふっ」してたのにも気付かなかった。

 

 

 

 ◇◇

 

 

 

 さて。

 場所は変わり、道場である。

 

 拳と言いつつ何故か木刀を貸し出されていたが、細かいことを気にしてはならない。売られた喧嘩は言われるがままに買うのである。

 

 メンチを切り続ける眼鏡のチンピラ生徒こと寺戸と向き合い、だが向かい合ったところで、審判を買って出た笹木が言う。

 

「しまった。合気道に勝敗とかないや」

「もっと早く気付けよ」

「じゃあ芸術点で競おうか」

「笹木???」

「大丈夫、おれの審美眼に任せて」

「いや、確かおまえ美的感覚おかしくなかった?」

「わかった。じゃあ審査員を増やそう」

「そうじゃない」

 

 そして「なになに? 喧嘩? 祭り?」とぞろぞろ集まってくる部員たち。

 一方、咲耶は特等席にしれっと正座していた。

 咲耶も昔所属していた茶道部では薙刀部と日々抗争を繰り広げていたので「そういうもの」と疑問にも思わない。校風である。

 

 かつてどこともバトらない平和な弱小天文部所属であった飛鳥には預かり知らぬことであったが、この学校で決闘は日常茶飯事である。

 決闘は罪だが「部活動」と言い換えれば罪ではないのだ。

 

「……おかしくないか?」

 

 飛鳥は宇宙猫になった。

 

「隙ありぃぃ!!!」

 

 そこへ寺戸の飛び蹴りがかまされる!

 

「合気道関係ないだろその攻撃!!」

 

 反射的に木刀で迎撃、クリーンヒット!

 寺戸は「ごっはァッ」と回転して吹っ飛んだ。

 

 

「……あっ、ヤベッ」

 

 

 やり過ぎた。

 

 

 ざわめく観衆。

 

「見たか今の……!」

「空中で回転することで衝撃を分散した……伝説の三回転半受け身だ!!」

「合気道は受け身に始まり受け身に終わる武道だからね」

「勝負は決したな……」

「ああ、文句なしに寺戸の勝ちだ!!」

 

 湧く観衆。

 

「……俺負けたの? 何に??」

 

 ちなみに咲耶はずっと飛鳥だけを連写していた。

 道場にはパシャシャシャシャという音が響き渡っている。最初から最後まで、ずっと。

 

「今日は徹夜で厳選ね」

 

 つやつやとした良い笑顔だった。

『友達だし写真くらい好きに撮ればいい』とは言ったが、限度がある、と思った。

 

 

 三回転半ののち畳の上に着地、大の字になった寺戸。

 完全なる受け身を取ったのでなんと眼鏡も無傷である。

 そしてスマホを抱えてご満悦の咲耶をチラ見する。

 

「試合は俺の勝ちやが……フッ。あの笑顔は俺には出せん……キサマの勝ちじゃ……」

 

 爽やかな笑みで健闘を称えられた。

 飛鳥のやる気が下がった。

 わっかんねえな、もう何も。

 数秒、眉間を押さえる。

 

 そして悟る。

 

 

「やっぱりな、俺は常識があると思ったんだよ」

 

 常識、大事。

 

 

 

 

 ちなみにそれ以来、合気道部の寺戸(チンピラ)が友達面してくるようになったのだが、マジで意味がわから──友情というのはかくも簡単に築けるものである。



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幕間4 水泳の授業での一幕。

 

 六月中旬。

 梅雨真っ盛りでまだ肌寒いが、プール開きの季節である。

 

 当然、入るわけがないのだが。

 

 水泳の授業は受けたくなければ受けなくていい、というふうにこの学校はなっているのだが、しこたまレポート課題が出るのでわざわざそうする人間は少ない。

 

 そんなわけで体育の授業中、二人は教室で机を合わせて課題をこなしていた。

 ちなみに教室は二階で、真下にはプールがある。窓際の席から水音はよく聞こえる。風流だな、と向かい合わせた咲耶の方をちらりと見て。

 

「……いや、おまえは泳げるんじゃ?」

 

 なんで一緒にサボった?

 咲耶は手を止め、曖昧に笑う。

 

「流石に目がばれそうだし」

 

 眼帯はとうに辞めたとはいえ、コンタクトを付けたままでは水に入れないし、前髪で隠せもしない。

 

 それに。

 

 咲耶は赤くなった顔を背け、絞り出すように言った。

 

 

「……スクール水着を、着たくなくて」

 

 

 正確にはスク水着て「でもこの人十八歳(数え年で十九)なんだよな」と思われるのが、嫌。

 留年組に付き纏う年齢コンプレックスであった。たまに制服も恥ずかしい。

 いや、多分クラスメイトもそろそろ忘れてきた頃合いだけど。

 なお自分のことは棚に上げて飛鳥には一生制服着て欲しいと思っている。似合うから。

 

 飛鳥は飛鳥でこの学校の制服が一番似合うのは咲耶だとなんの疑いもなく思っているため、その辺の機微が微妙に分からず「水着のデザインが嫌なのか?」と考える。

 

 論理的に考えてスクール水着にいやらしい要素はない。

 地味だし布面積も多い。

 学校指定という時点で健全なのである。

 

 ──だが、そこに強い恥じらいを加えると、ものすごく駄目なもののような気がしてくる。

 

 うっかり想像した。

 紺の布地にぴったり覆われたお腹とか。

 食い込んだ太腿とか。

 明らかに容量をオーバーしそうな胸元とか。

 その上で、恥じらいながら身体を抱く彼女の上目遣いを──、

 

 バキリとシャーペンの芯を折った。

 

 ……速攻、廃止すべきでは? 破廉恥だ。

 

 

 うう、と火照った顔で咲耶は溢す。

 

「スク水着るくらいなら、紐みたいな水着の方がマシだわ……」

 

 うっかり想像──しない。理性の生き物なので。

 

「頭おかしいのか?」

 

 ……こいつもしかして普通に馬鹿っていうか痴女なんじゃないか?

 

 まあしかし。

 確かに咲耶の水着姿が衆目に晒されない、というのは自分にとっても利である。

 見学しろ。水着着るな。

 

 だが、そこで気付いてしまった。

 

「海行く時どうするんだ……」

 

 そういや、誘ってしまった。

 夏、海に。

 

 その時は「水着が見たい」とかいう下心なしに誘ったため、考えるに至らなかった。

 いや、見たいか見たくないかで言ったら見たいけれど。あの状況と雰囲気で、水着見たさで海に誘う男は嫌だろ……の深層心理が、今この瞬間まで飛鳥の理性を強化し「水着」という発想をロックしていた。

 

 ロック解除。

 想像──海水浴場で衆目を集める水着姿の咲耶。

 キレそう。

 シャーペンの芯がバッキバキになった。

 

 誰だ海に誘ったの。馬鹿じゃないのか?

 

 そんな内心などは知らず、咲耶は「そうね、海に行くなら新しく水着買わないと」と呟く。

 

「どんなのがいい? あなたの好きなのを着たいわ」

「ウェットスーツ」

「却下よ」

 

 露出が高いのは駄目だ。

 ウェットスーツにフィンをつけてペンギンみたいにベチベチ歩く咲耶を想像する。至極健全である。

 よし、それで良い。そのままいけ。ビキニなんて着るな。海の幸でも取ってろ。酸素ボンベもあるぞ。

 

「なんなのよ」とむくれる現実の咲耶は放置。

 海でビタンビタンするナマコに情けない悲鳴を上げる咲耶を想像しながら高速でレポートを片付けた、その後だ。

 

 ガラリと教室の扉が開いた。

「やほ」と手を振るのは芽々だ。

 隣のクラスは前の時間がプールだったので、髪がしっとりと濡れている。

 

「どうした芽々。授業中だろ?」

「自習だから抜け出してきたんですけど?」

「自習しろよ」

 

 フリーダム。

 

「ひーくんはい、お土産」

「何?」

「塩素玉」

「なんでだよ」

 

 芽々はふふんっと笑い、

 

 

「芽々は! 潜水が得意です!!」

 

 

 ドヤァとキメッキメのポーズを取った。

 

「仲間だな」

「おそろです」

 

 キャッキャした。

 

「いや、あんたの場合は沈んでるだけよそれ」

 

 聖剣は結構重い。

 実はめちゃくちゃ肩が凝る。

 

 貰った塩素玉は後でプールに返却しよう、と思った。

 勝手にとっちゃダメ。

 

 

 

「てか学校でイチャつくのやめた方がいいですよ」

 

 突然真顔で芽々が言い出す。

 

「別にイチャついてないけど……なんでだ?」

「え、知らないんですか? ひーくんとサァヤがいつ付き合うか、一部ではもう賭けが始まってますよ」

「何それ!?」

 

 咲耶が叫んだ。

 

「この高校のやつら、祭り好きなんですよね……」

「ああ……」

 

 自由な校風に惹かれてわざわざ辺鄙なところに進学するだけあって、生徒は地元の人間or変人というラインナップだ。

 飛鳥はただの地元民である。変人の側ではない。

 

「ま、せいぜい儲けさせてもらいますけどねー」

「……え、おまえ賭けたの?」

「胴元にいっちょ噛み」

「なんなんだおまえ」

 

 賭博は犯罪だが金をかけずになんか上手いことやれば健全な「遊び」である。

 世の中にはいろんな抜け道があるし、特に学校というのはひとつの独立した世界なので、なんだかんだでお目溢しが効くのだ。

 人の色事で稼いだ焼きそばパンは美味い。

 

 二人して頭を抱えた。

 

「わ、わたしは何もしてないわよ! 学校ではお淑やかにしてるんだからっ!」

 

 ちょっと前に我を忘れて飛鳥を連写した女が言う。

 

「俺だって暇な時しか咲耶に話しかけてないだろ!」

 

 咲耶が辻斬りならぬ辻告白を受けて以来、イヤ過ぎて無意識に暇さえあれば咲耶に話しかけるようになった男が言う。

 

「……まじ言ってます?」

 

 隣のクラスの芽々がそれを知っている時点で完全にアウトである。

 

 どこでミスったのかわからず真剣に検証(笑)と議論(笑)を始める窓際の二人を、芽々が生温かく見守りながら「この情報はオッズにどう影響を及ぼしますかね……」と脳内電卓を弾く。

 寧々坂芽々は人の恋愛を食い物にする女である。

 

 

 そして、授業終了のチャイムが鳴った──その時だった。

 突如窓から塩素玉が飛んできて、防御ガラ空きの状態の飛鳥の頭部に激突した。

 

()っ……誰だ今の!?」

 

 なお、塩素玉は水でぐずぐずになっていたため、衝突時のダメージは四捨五入してゼロと換算する。

 

 飛んできたのは教室の真下のプールからである。

 プールサイドで一部始終を見ていた笹木が犯人に問う。

 

「……寺戸、何やってんの?」

 

 辻告白の下手人、眼鏡のチンピラ猿こと、合気道部の寺戸である。

 水泳なので眼鏡の代わりにゴーグルだが。

 供述。

 

「人がクソ寒い中泳いどるのに教室でイチャつきおってからに、腹が立った」

 

 合気を極めれば人の後頭部にノーダメージで塩素ぶち当てるくらい余裕なのである。古武術はすごい。

 

「俺は俺の視界でイチャつく男女の存在を絶対に許さん。俺にカワイイ巨乳の彼女ができるまではすべてのアベックを滅ぼす。そういう生き方をな、すると決めたんじゃ……」

 

 控えめに言ってテロリストである。

 が、チャイムが鳴り授業が終わった今、生徒が何をしようと教師は咎めないのがこの学校の理だ。

 自由時間とは何をするのも自由である。テロ行為も自由。

 

「あ゛??」

 

 ちなみに飛鳥はキレていた。

 人間一年目なので沸点が低い。

 

 こんなこともあろうかと、芽々は懐に忍ばせていたものを差し出す。

 

「ひーくん、はい」

「何?」

「くそつよ水鉄砲。水圧やばくて当たるとめっちゃ痛い」

「なんで?」

「夏の乙女の標準装備ですよ」

「そうか」

「ちがうわよ」

「ちょっと()ってくるわ……」

 

 飛鳥は出て行った。

 窓から。

 

「???」

 

 あいつ、窓から出る癖ついてきたな? と咲耶は思った。

 

 

「……わたしのせい?」

 

 

 その後飛鳥はプールに落とされて上がってこなかった、などがあるが、まあ些事である。些事なんじゃないかな。

 ついでに塩素玉も返した。えらい。



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幕間5 病室での一幕。

「お見舞いといえば林檎よね」

 

 なんだかんだで魔女の傷の治りは早い。

 火傷はしれっと治って、咲耶の手にはいくつか絆創膏が残るだけだ。

 

 三つ編みに清楚なワンピースという装いで平日の放課後に見舞いに訪れた咲耶は、缶切りでガリガリと林檎缶の蓋を開けていく。

 

 飛鳥はその様子を微妙な顔で眺めていた。

 病院嫌いなのでテンションが低かった。家帰りたい。

 

「いや、なんで缶詰?」

 

 というか、林檎の缶詰なんてあるのか。

 

「ふふっわたしは林檎の皮、剥けないわ」

 

 さもありなん。

 

「手を血だらけにして毒林檎と化すわ」

 

 洒落にならない。

 

「やっと開いた!」

 

 見て見て、と開いた缶を見せられる。

 途中、缶切りがすっ飛んでいくなどのアクシデントはあったが、無事に達成できたようで何よりだった。

 正直、飛鳥は世話されるのは苦手だ。だが目の前で缶と奮闘している咲耶を目の前にして口を出せるだろうか? いや出せない。

「ありがとうな」と缶を受け取ろうとして。

 

 

「はい、あーん」

 

 

 フォークで差し出された林檎の水煮を前に、硬直した。

 ニコニコと笑顔の咲耶。

 

「いや、するわけないだろ!?」

 

 逃亡。即、服を掴まれて失敗。

 

「ウフフおとなしくしてるがいいわこの怪我人がよ……」

 

 よく見ると咲耶は据わった目をしていた。

 

「……あれっもしかして怒ってる!? 何に!?」

 

「ええ! あなたの無茶に怒ってます! わたしがけしかけたから怒る筋合いはないなぁ……って思っていたのだけどね? あんたさっき『思ってたより軽傷で済んだな』って言ったでしょ。もう許しておけません」

 

 肉を切らせて骨を断つのは悪癖だ。

 

「いや待て、よく考えてくれ。俺は一貫して無傷で勝ちたいと思っている。が、現実的ではないからどこまで食らっても動けるかは計算する。その上で、計算結果よりマシな決着になるように努力して、達成した。さっきのはその上で出た言葉だ。つまり、俺は褒められていい!」

 

 全力の言い訳に、咲耶は真顔になった。

 

「…………そうかも?」

 

「あとそれを言うと、俺もおまえが何回死んだのか追及していいってことになるぞ」

 

「…………数えてない」

 

 小言を言いたいのを堪えた。

 

「そっちの方がヤバイだろ」

 

 死ぬなと言えない時点でもう情けないのだが、せめて数えよう。頓着はしてくれ。

 

「……??」

 

 咲耶は指折り自分の消費したライフ数を数えて、やはり思い出せずに首を傾げた。

 駄目だ、両方異世界ズレしているからまともな判断ができない。平行線になる。

 飛鳥が生きるのが下手なら咲耶は死ぬのが雑だ。どんぐりの背比べと言うのもどんぐりに失礼。

 

 

「ところではい、あーん」

 

 しれっと再度フォークを向ける咲耶。

 

「なんでそうなる……」

「話題を変えて誤魔化そうとしても無駄ってことよ」

 

 ばれたか。家帰りたい。

 

「ふふ、観念なさい。今のあなたは実質両手が塞がっている……」

 

 右は聖剣なので咲耶に触れないし、左は絶対安静だ。

 

「つまりわたしを止めることは不可能よ!」

「止まれよ……」

 

 怪我したらしたで心配はするが、それはそれとして弱みを握るチャンスは逃さない、元敵として染み付いた咲耶の(さが)だった。

 

 あーんとか駄目だと飛鳥は思う。

 どのくらい駄目かと言うと、駄目すぎて「あーんとか駄目だろ」とも言えない。

 なんだこの恥ずかしい擬音。餌付けって言え。もう音が果てしなく子供扱いだ。

 子供扱いじゃないにしても。

 

「恋人じゃないんだぞ!」

「キスまでしておいて今更何を恥じらうことがあるの?」

「俺がおかしいのか!?」

 

 無敵モードが継続中だった。

 じっと大きな目でこちらを見つめる咲耶に、反論を突きつける。

 

「せ、正当性がない!」

「ないわ!」

「えっ」

「ないわよ?」

 

 あっさり認められて反論の矛先を失った。

 

 すっと手を胸元へ、開き直りというにはとても穏やかな微笑で、彼女は言う。

 

 

「ええ、これはわたしの我儘です。わたしがあなたを甘やかしたいだけ。

 ……でも飛鳥は優しいから、わたしの我儘、聞いてくれるでしょ?」

 

 

 その囁きに、

 

「……え、うん?」

 

 飛鳥は混乱した。

 いや、ちがくないか? あれ?

 ちょっと今、何言われたのかわからない。

 

「はい、あーん」

 

 混乱のまま、うっかり言われるがまま口を開きかけ──

 

 

「病院でイチャつくなクソボケェ!!」

 

 突然、扉が開く。

 罵声と共に高水圧水鉄砲が放たれ、顔面がビシャビシャになる。

 

 下手人こと寺戸は「チッッッ」と盛大な舌打ちをしてそのまま病室から出て行った。

 

「……何今の?」

 

 野生の寺戸?

 

「タイミング悪くてごめんねー」

 

 苦笑しながらポニーテールを揺らして入ってきたのは、クラスメイトで学級委員長で演劇部の女子生徒、麻野だった。

 

「あ、私は提出物届けに来ただけ。先生が文月ちゃんに渡し忘れてたから。寺戸はイチャつきの波動を感じとってついてきた。邪魔し終わったから帰るってさ……」

 

「妖怪か?」

 

 とりあえず顔を拭いて、「わざわざ悪いな」と書類を受け取る。

 

「いいのいいの。私は学級委員長という名の担任のパシリだから」

 

 憂いを帯びた横顔で麻野は言った。

 

「あの人には私がいなくちゃ、ね……」

 

 遠い目だった。

 沈黙。

 

「淫行教師じゃねーですか!!」

 

 窓から芽々が生えた。

 ちなみにここは一階だ。

 

「おまえどこからでも出てくるよな」

「芽々ですからね」

「芽々ならしょうがないな」

 

(魔女はダメなのに?)

 

 と置いてけぼりになった咲耶は訝しんだ。

 とりあえずあーんは諦めて林檎は缶ごと飛鳥に渡す。

 

「でも悪い教師じゃないよな。本当はダメなのに夜の屋上に入る許可くれたし」

「それは悪くないですか?」

 

 告白の時の話である。『何をするんだ?』って聞かれたから『女子を口説きます』つったら担任はめちゃくちゃウケてた。『フラれたら酒奢ってやるぞ!』と言っていたので、まあクズではある。

 

「賄賂におはぎ持ってかれたけどな」

「収賄教師じゃねーですか」

「そもそもなんで学校におはぎ持ってるのよ」

 

 説明する。

 

「朝早く起きるじゃん」

「うん」

 

「山行くじゃん」

「うん?」

 

「帰りに商店街通るじゃん」

「うん……」

 

「おはぎもらう」

「??」

 

 解説の芽々。

 

「あ〜、ひーくん妙に年上ウケいいんですよね。うちのおじいちゃんも『あれはうっかりカレーを極めにインドに行く器ですね。将来有望ですよ』と褒めまくってました」

 

 何を褒められているのか。

 

「ちなみに『見舞いにはカレーですよ』って持たされてるんですけど」

 

 道理で匂うと思った。

 

 

 話を聞いていた麻野が言う。

 

「にしても。陽南君は橋から落ちて、文月ちゃんはグラタン皿で火傷するなんて。二人ともツイてないねー」

「……グラタン皿?」

 

 咲耶が目を背けた。

 

 あ、言い訳?

 こいつ聖剣のことグラタン皿と同列視してる?? マジで??

 

 非難の視線を送り続けていると麻野がふと不思議そうに零した。

 

「…………あれ? というか。二人って一緒に失踪してたよね? あれなんだったの?」

 

 もう六月なので「あんまりその辺気にしないように」という暗示も解けかけているのだ。今更猜疑心が湧いたらしい。

 

 やべえ! と無言で顔を見合わせた。

 咲耶がスッと目元に手をやり、瞳がこっそり光る。

 魔法発動。

 

「多分ヤクザ」

「うん、多分ヤクザ」

 

 採用、ヤクザ誘拐説。

 まあ異世界人なんてヤクザみたいなもんだからね。

 

「記憶喪失だからわからないけど」

「ほら、わたしお嬢様だから。誘拐くらいされるし。こっちはとばっちりで巻き込まれた人っぽい」

「犯人捕まってないの怖いよなー」

「ねー、こわい」

 

 言い訳が雑である。

 

 だが無事に再洗脳がかかり、麻野は「そうなんだー」とあっさりスルーした。

 

 

 病院も警察も面倒ごとは全部、魔女の雑洗脳でクリアしていた。

 現世なのでめちゃくちゃな無法ができるわけではないのだが、異世界に関係があることについては魔法に補正がかかるのだ。 

 要するにご都合異世界パワーだ。

 

 

 洗脳耐性持ちの芽々だけがしらけた目で見ていた。

 

「倫理観どうなってるんですか二人とも……」

「俺もか?」

 

 共犯である。

 

 

 そして無事に咲耶のあーんは有耶無耶のまま阻まれたのであった。

 林檎は自分で食べた。



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イラスト/二章登場人物紹介

頂いたイラストをモーメントに追加しました。
(リンクは前回同じです)
https://twitter.com/i/events/1358616339213025281?s=20

描いた絵。
https://www.pixiv.net/artworks/90653371

三章はカクヨム版で初稿を全部書いた後、推敲版をハーメルンでやります。夏休み同棲編。
一、二ヶ月後くらいに。

初稿でいいわ、って人用のリンク。
https://kakuyomu.jp/works/1177354055332284993

一ヶ月ちょいお付き合いいただきありがとうございました。
微妙に30万字足りてなかった。申し訳ない。
早めに更新再開できるようにします。



 

 

●陽南飛鳥

主人公(ヒーロー)

好きな女とデートすることしか考えてない勇者。

よく山で迷子になる。山で修行中、熊に遭遇して普通に逃げた。竜より熊の方が怖いと思ってる。

狩猟とか採集とかはしない。スーパーとかコンビニとかインスタントラーメンとかの方が現世っぽくて好きだから。

たまに山で不審者が出るという噂を聞いて「怖いな〜」と思ってる。自分のことだとは思ってない。

カラオケ採点機に感情がないと煽られてキレた。めちゃくちゃ感情がある。

 

 

●文月咲耶

主人公(ヒロイン)

竜サーの姫。

魔王城では一年生贄やってて、次の一年はひたすら修行してたのでほぼ実戦経験がない。箱入り弟子。

けど実戦投入した途端戦局がめちゃくちゃになったので異世界ではめっちゃ強かったんだと思う。でも一対一だと勇者に負けるスペック。

恋愛は苦手だが歌詞に頓着しないためラブソングは平気で歌える。失恋ソングが上手すぎて何故か飛鳥にダメージが入る。

 

 

●寧々坂芽々

準主人公(サブヒロイン)

サブカル魔法少女。

一章序盤「全員きな臭くて信用できない……洗脳されてないけど逆らうとヤバそうだし魔法使いの言うこと聞いてさっさと解放してもらお……」

一章中盤「飛鳥さんたちと普通に友達になりたいんですけど。ヤバ、ちょっと楽しくなってきた。でもこっから唆さないといけないんですよね……」

一章終盤「……(一部始終を見る)……よし、魔法使いぶっ倒そ」

みたいな流れが芽々視点であった。

電波ソングがめちゃくちゃ上手いし踊れる。

 

 

●笹木慎

脇役(モブ)

好きな漫画がよく打ち切られる。

ヘビメタが好きだけど歌えない。

 

 

●文月琴

[黒髪、和服]

咲耶の継母。死んだ友人の娘を引き取った。

多分家系を辿ると現代ファンタジー時空の人間が出てくるので神隠しに理解があるし、若い時に色々あったので恋愛にも理解がある。

でも娘との距離がわからない。

 

 

●喫茶木蓮のマスター

[伊達眼鏡]

名前は寧々坂志郎。カレーをやたら推す多分普通の人。

 

 

●魔王

[赤目]

異世界の竜で魔法使いで師匠で魔王。

外見は蛇だったり蜥蜴だったり寧々坂芽々のそっくりさんだったりする。

異世界絶対滅ぼすマン。

 

 

●聖女

異世界での勇者の同僚。

銀髪碧眼ロリ。

未出。

 

 

●麻野

クラスメイトA。委員長。演劇部。幕間しか出ない。

 

 

●寺戸

クラスメイトB。スケベ眼鏡。合気道部。幕間しか出ない。

 

 

鈴堂(りんどう)瑠璃(るり)

飛鳥の中学時代の天文部の後輩。

異世界から帰還した飛鳥の変質をひと目で見抜いたらしい、直属或いは本物後輩。

未出。



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第三章 夏は夜、月はすべてを破壊する。
第一話 一緒に暮らす、夏だから。


大変長らくお待たせしました。
今日から三章夏休み編を更新します。

前回までのあらすじ:魔女と一緒に魔王ボコった後キスされた。



「情趣もクソッタレもない最終決戦だったな」

 

 其処は遠き異界の魔王城。竜の王にして魔法使い、翼持つ大蛇である魔王の死体を前にして、聖剣に纏わりつく遺骸の灰を振り払い、勇者は呟いた。背後、あきれたように口を開くのは魔女だ。

 

「情趣って……あるわけないでしょ。裏切者(わたし)の手引きでこっそりお城に入り込んで名乗りもせず口上も聞かず、後ろから暗殺ブチかましたら、そりゃそうなるわよ。最終決戦をなんだと思ってんの舐めてんの?」

「いやーめちゃくちゃ油断してたな魔王。何あれ過労? 駄目だぞちゃんと寝ないと」

「目の下真っ黒なあんたにだけは言われたくなかったでしょうよ魔王(せんせい)も!」

 

 魔女は瞳を大きく歪めて呻く。忌々しげに足を踏み鳴らし、ハイヒールがひび割れた床を抉った。

 

「ああもう! 最悪! 勇者も魔王も世界も全部このわたしの手で滅ぼしてやるつもりだったのに!! こんな、こんっな……ふざけた男に負けるなんて!!」

「うはは面白。マジで地団駄踏むやつ初めて見た。ガキじゃん」

「その煽り方がクソガキなのよこのボンクラ勇者ーッ!!!」

 

 亜麻色髪を振り乱し苛立ち紛れに魔法を放つ魔女。勇者はそれを笑いながら軽くあしらう。つい先日まで殺し合っていたにしては随分と安っぽい罵倒と攻撃の応酬だった。

 そのうち殺し(じゃれ)合いにも飽きて、魔女はすんと真顔になる。

 

「ま、いいけど。死体蹴りするから」

「クソ倫理女め。念入りにとどめ刺しとけよ」

「言われずともよ。──『爆ぜろ』」

 

 術に巻き込まれないよう、勇者は遠巻きにそれを眺める。さいわい身は土埃以外、綺麗なものだった。出血の概念を持たない竜を相手に返り血を浴びることはなく、珍しく自らの血に汚れることもなかった。闇討ち様々だ。だが、こうもあっさり片付くと感慨も何もないのも確かである。

 急造の自我で、思い出せるだけの記憶を脳裏に並べる。魔王を倒すための旅路を思う。

 

「……俺の二年、なんだったんだろうな」

 

 魔女は甲高く哄笑しながら魔王の死体を消し炭にしていく。爆炎が上がるたび肉片が散り、燃えて、火花と共に弾けていく。城の天井は魔術の余波に破られ、伽藍堂の城に星の灯りが降り注いだ。汚い花火だ、と思った。それが何の文脈だったかは思い出せなかった。

 花火にしては風情がないが酒の肴くらいにはなるだろう。城で見つけた酒瓶を取り出し、けれど自分が何歳(いくつ)だったかを思い出してやめた。燃え盛る遺骸の中に酒瓶を放り込む。ガシャン、と音を立て割れて、炎は一瞬勢いを増した。

 

「あははッッ、フランベだ! 食べられないけど!!」

「師匠をステーキにする弟子がいてたまるか」

 

 熱に浮かされる彼女とは対照的に、静かに溜息を吐いた。その手に剣がある限り彼は凪でいられた。だから、つとめて平静に。目の前の冒涜的な惨状を眺めて。

 

「おい魔女」

「なに。その呼び方やめなさいよ」

 

 

「おまえ──泣いてるぞ」

 

 指摘する。彼女はきょとんと濡れた目を丸くして、煤に汚れた頬に手を触れる。

 

「……え? あれ。本当だ。おかしいな。全然そんなつもりないのに」

 

 ぼろぼろと鱗のように落ちるその滴を不可解そうに何度も拭って、けれど涙は(とど)まるところを知らない。見るに耐えなかった。

 

「別に、泣いてもいいんじゃね」

 

 ぶっきらぼうに言って、目を背けようとした。だが彼女は頬を濡らしたまま、引き攣るように笑う。

 

 

「あはっ……声を上げて泣くって、どうやるんだっけ」

 

 

 涙は出るのに嗚咽の出し方がわからないのだと、気付いて。目を背け損なった。いたましさに顔をしかめる。

 

「なぁに。あんたこそひどい顔。泣くなら胸、貸してあげるけど? 柔らかいわよ」

 

 魔女は、素面の声で晒け出された柔らかな双丘をわざとらしく持ち上げて。泣き濡れた童顔に不釣り合いな笑みを(あで)やかに浮かべてみせる。

 鼻で笑った。

 

 

「ハッ。俺は強くて格好いいから泣かねえんだよ」

「なにそれ。むかつく」

 

 

 ──それは今からたった、半年前のことであり。今となっては、あまりに遠い昔の記憶(こと)だ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 六月末の雨の日、橋での決戦の後。芽々を通じ現世にやってきた魔王を封印してから、一週間程が経った。無傷で完勝とはいかなかったため病院にブチ込まれたのち、俺が退院できた頃には七月。外はすっかりと夏になっていた。

 

「ね、飛鳥。帰ってきたところ悪いけど、先にわたしの家に来てくれる?」

 

 と、頼んでもないのに当たり前に退院の付き添いに来た咲耶に言われたのだ。

 わざわざ手間をかけさせたのだから頼みを断る気はないし、何か用があるのだろう。荷物もそのまま、彼女の家に向かったのだが。

 

「お邪魔します」

 

 と玄関に上がるなり。一足先に玄関に上がった咲耶はくるりと振り返る。夏らしく一本にまとめた三つ編みと淡い色のワンピースの裾が揺れ、涼やかな笑顔がこちらを迎える。

 

「あら、もう『お邪魔します』じゃないわ」

 

 その言葉の意味を理解する前に、咲耶は答えを突きつける。

 

 

「今日からここはあなたの家(・・・・・)なんだから」

 

 

「……何言ってんだ?」

「今日から一緒に住むってこと」

 

 さらりと涼しい顔で咲耶が言う。なるほど、と俺は頷いて。

 

「聞いてないぞ!?」

「言ってないもの!!」

 

 即座、赤く閃く左眼の魔眼。後ろでガチャンと玄関の戸に魔法で鍵がかかる音がした。クソッ内側なのに何故か扉が開けられない!

 

「ふふふっ、かかったわね。退院早々問答無用で連れ込んだのはこのためよ……」

 

 悪の女幹部のような不穏な笑い声を溢し、彼女は俺にびしりと指を突きつける。

 

 

「観念なさい、逃げ道はないわ! 選択肢はわたしと一緒に住む・オア・デッドよ!」

「おかしいだろ」

 

 

 

 悲しいかな、咲耶に襲われるのも慣れてしまった。まあ魔女なら何も言わず閉じ込めるくらいやるな、とか、正面突破ばかりのくせにちゃんと不意打ちできてえらいな、とかそういうことを考える。現実逃避かもしれない。

 

「せめて理由ぐらいは教えろよ……」

「だってあんたの家、エアコンないじゃん。夏なのに」

「窓がある」

「窓がないのは独房だわ。死ぬわよ」

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

「普通の人間には無理よ。死ぬわよ」

 

 解せない。俺は強いので死なないが……。

 

「だから一緒に住むしかないじゃない。さもなくば死(オア・ダイ)よ」

 

 真顔で答える咲耶の目は据わっていた。そこに狂気の色は微塵もない。完全に正気。

 

「もうね、あんたのパターンが分かってるのよ。お腹空いて倒れる、風邪引いて倒れる、次は熱中症よわかるわ。わかっていることを回避しないのは馬鹿よ。──三度目は、ない」

 

 そして咲耶はその辺から(魔法で)取り出した数枚の紙をパァンッと俺の胸板に叩きつける。

 

「ここに金銭・家事分担・設備使用における厳密なルール設定を用意したわ! これはあくまで健全な共同生活(ルームシェア)! さぁ、異論があるなら言ってみなさい! あと義母(かあ)様にも許可取ってるし! あなたに逃げ道はないわ!!(二回目)」

「なんで許可出すんだよあの人! 仲直りしたようで何よりだよ!!」

 

 外堀を埋められている。退路がない。だが、諦めるのはまだ早い。──常識的に考えて恋人未満の男女がひとつ屋根の下で暮らしていいわけがないのだ。

 

「……なあ咲耶。一緒に住むってどういうことかわかってるのか?」

「何を?」

「間違いが、起こるかもしれない……」

「なんで? あんた理性鋼鉄じゃない」

 

 そこまでではない。そこまでではないぞ咲耶!! アマゾンで除夜の鐘買うか……。

 

「大丈夫よ。間違いなんて洗脳(キス)でもしない限り起こんないわ」

 

 咲耶は微塵もこちらを疑わず、ふふんと胸に手を当てる。

 

「まかせて、わたしがんばる」

 

 嘘だろ……こいつ、自分が襲う可能性(・・・・・・・・)しか想定してねぇ!! 痴女か!? 

 

 これ以上の追求は分が悪い。別の切り口で反論を探す。

 

「えー、あとあれだほら! 居住空間に聖剣があるの、嫌だろ!」

 

 魔女である咲耶にとっては聖剣は存在するだけで不愉快なもの。いわば蚊と蚊取り線香の関係だ。そんなものを腕にひっさげてる俺は本来彼女にとって『生理的に無理。近付かないで』のはずなのだ。……いや、自分で言って悲しくなってきたな。なんで仲良くできてるんだ?

 咲耶は神妙に頷く。

 

「そうね。呪いの人形と暮らすくらいにイヤね」

「めちゃくちゃイヤじゃん!!」

「慣れよ!!!!」

「慣れ!??」

 

「近付くと死を感じてちょっとゾワってなるだけだし。全然平気よ。今更だわ」と咲耶。聖剣、蚊取り線香より弱い。

 

「それに左腕、まだ動かせないのは不便でしょ?」

 

 確かに前回の怪我はまだ治っていないが。

 

「別に片手あれば事足りるだろ」

「すぐに利き手変えられる異常器用人間め……」

「はは、おまえ不器用だもんなー」

「煽ってんの? 久々に喧嘩する???」

 

 むっとして臨戦態勢を取る咲耶だったが。

 

「……いや、今更喧嘩になるかよ俺たち」

「……ふふ、そうね。実は全然腹立たない」

 

 彼女はすぐに柔らかく表情を崩した。

 

 

「不思議! ちょっと前まではあなたが何を言ってもむかついたのに!」

 

 

 そういや、あまり「あんた」って呼ばれなくなったな。この半年で、順調に馴れ合っている。

 

 

 

「それに、何よりも。わたしと一緒に住むと毎日『おかえり』が聞けるわ」

 

 ──それはもう、何年も聞いていない言葉だ。

 

「……魅力的で逆らえないな」

「でしょう?」

 

 わかってるんだ。多分、俺たちはずっと『おかえり』が欲しかった。

 

「ほら、わたしに言うべきことは?」

 

 降参、と右腕を上げる。

 

「わかったよ。俺の負けだ。──ただいま」

「ふふ……おかえりなさい。飛鳥」

 

 

 

 そして七月、なし崩しに同居生活が始まったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ようやく居間に入り、ふと花を飾ってあるのを見つける。その花は色こそピンクから紫に変わっているが、先月のデートで俺があげたものと同じだと勘付く。切花など持っても一週間だろう。だが、それは一ヶ月弱が過ぎた今も花瓶の中で咲き誇っていた。──恐ろしいほど瑞々しく。

 長持ち、というレベルではない。それにこの、血を吸ったかのような色と妙な気配は……。冷や汗と共に彼女を見る。

 

「おまえ、まさか……呪った?」

「一生飾るの。ウフフ」

 

 頬に手を当て、恍惚と微笑む。ゾッとした。ものすごい納涼感である。やべえ女を好きになっちまったな……。今からでも逃げた方がいいんじゃないか、と退路を確認したのだが。

 

「ね、ね。お寿司とる!?」

 

 棚から取り出したチラシをテーブルに広げ、こちらを呼ぶ咲耶に毒気を抜かれる。

 ……ま、いいか。咲耶の言動がワサビ入りなのは今に始まったことではない。毒を食らわば皿まで。多少呪われてやるのも甲斐性だろう。

 

「……怖いなー、惚れた弱みって」

「?」

「いや、なんでも」

 



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第二話 魔王と一緒におにぎりを焼く。

 一応、同居の理由にはもうひとつ真面目なものがあった。

 

「今、あなたのアパートの部屋……魔王の封印に使ってるのよね」

「なんで??」

「部屋に聖剣の匂いが染み付いてて、うってつけだったの」

「蚊取り線香かよ」

 

 つまり咲耶オア魔王で同居選択肢を迫られていたということで、俺に選択の余地などなかったのだ。仕方ないな、うん。仕方ない。

 ……白状しよう。正直ちょっと浮かれていた。前回の戦闘でキスなんかした後遺症で色ボケている、というのも多少あるが。実のところ誰かと一緒に住む、ということに俺は強い憧れを持っていたのだ。何せ物心ついた頃から祖母としか暮らしたことがなく、その先はずっと一人暮らし、間二年の異世界生活は家に住むどころか野営である。「ただいま」と言ってもそこに返事が帰ってこないのが俺の世界の常識だったのだ。

 念願である誰かと一緒に暮らすこと、その『誰か』がよりにもよって好きな女となったわけだ。浮かれないはずもない。無理だ。

 何につけても「おかえりなさい」の威力。あれは、本当にすごい。「ただいま」に返事が返ってくる……すごい……。もう両方自分で言わなくていいんだ……すげー……。

 

 だがしかし──俺はわかっていなかったのだ。隣に魔王が封印されているということの意味を。

 

 

 ◇

 

 

 風呂時に鉢合わせたり洗濯物で揉めたり等、多少の問題こそあれど同居生活にも慣れてきた、ある日の夜のことだ。

 咲耶は俺の部屋で、魔王を焼きながら、おにぎりを焼いていた。

 

「…………おまえ、何してんの?」

 

 畳の上、卓袱台の上の七輪を団扇で仰ぐ咲耶に、こめかみを痛めながら問う。網の上では小さい蜥蜴の姿に封印された魔王がこんがりと焼かれていた。そしてその隣には醤油の塗られた三角のおにぎりもまたこんがりと、である。咲耶は片手に団扇、片手に火箸のスタイルで答える。

 

「何って魔王焼いてる」

「見ればわかる」

「尋問……」

「拷問だろ」

 

 いや、百歩譲って拷問は理解しよう。何せ俺たちの目的は魔王から『魔女の体質の解呪方法を聞き出すこと』だ。奴を捕らえたからにはどんな手でも使って吐かせることになる。竜相手に人道というものはないし、ジュネーヴ条約も異世界にはない。

 

「だからって俺の七輪を勝手にグロい使い方するな!! なんでついでに焼きおにぎり作ってんだよ!!」

 

 咲耶はおにぎりをひっくり返しながら答える。

 

「あなたの作る焼きおにぎりが美味しかったから負けたくないなと思って。練習しようと」

「違う。どうしてそうなる」

「そこにスペースが余ってたから。食べる?」

「食べん」

 

 倫理観があまりにもカス。

 

「……なあ勇者」

 

 聞き覚えのある中性的な声は、七輪の上で丸焼きになっている魔王(トカゲ)のものだった。

 

「何故ボクがこの子を弟子にしたかわかるかい?」

「なんだ」

 

「──莫迦だからだよ」

 

 そんなことある?

 

「いやぁ、ボクに復讐するという目的のため、強くなる手段としてついでに世界を滅ぼすとか言われた時、思わず笑ってしまったよね。腹が(よじ)れてつい弟子にしてしまった……」

 

 目的のためには手段を選ばないのはいいことだ。だが、咲耶には何故か本末転倒のばかげた手段を選ぶ悪癖があった。基本は常識的なのにな。俺は時々あいつがよくわからないよ。

 魔王としては、そういうところが弟子として気に入っていたらしい。

 

「だがね、これは流石のボクもつらい。何がつらいってね、身体が焼けていく感覚よりもおにぎりと同等にされる尊厳がつらいよ」

 

 心中察する。同情した。尊厳は大事だ。葬式で爆笑する不謹慎に定評がある俺でも流石にこれはやらない。

 ぷすぷすと煙を上げながら魔王もとい黒焦げ蜥蜴は魔女を見る。咲耶は焼きたてのおにぎりに鰹節をかけ齧っていた。はふ、となんとも美味しそうな息が聞こえる。

 

「師匠を焼きながら食べるおにぎりは美味いかい?」

「とっても!」

「破門だよこの莫迦弟子」

 

 俺は食欲が失せた。夏バテかもしれない。

 

「……おまえらもしかして、割と仲良かった?」

 

 魔女と蜥蜴は目を見合わせる。

 

「まあ、それなりに?」

「世界を滅ぼすというビジョンが一致していたからね」

「それはそれとして殺すけどー」

「ハハハいいとも。師匠殺しは免許皆伝の証だからねー」

 

 魔王陣営、ぬるい。言ってることはおかしいのに温度がぬる過ぎる。血の池地獄(三十八度)。アットホームなブラックか? 同じ異世界でも、人類陣営(オレのところ)の方が殺伐としてたらしい。というか。

 

「……おまえ、妙に人臭いな?」

「ふむ。人間臭さを〝感情〟に見出すのなら、ボクはキミよりよっぽど人間らしいだろうね。魔法使い(ボクたち)は感情を薪に魔法を使う。一方の人類(キミたち)は精神を守るため感情を失くす道を選んだのだから、非人間的にもなるだろう」

 

 人間としての駄目出しを竜にされている。解せない。

 身を黒焦げにしながら、魔王はぶつくさと文句を言う。

 

「やれやれ、感情を大事にしないとは人間にあるまじきことだ。情動なき戦場なんて叙事詩にも語れやしない。その上人類といったら自分たちは戦わず機械人形の兵ばかりを出してくる! 本当にふざけているよ!!」

 

 そう、人間の兵は勇者だけだ。残りはすべて機械人形の兵で肝心の人類は都に引き篭もって出てこない、というのがこちらの事情だった。

 だが人が死なないのはいいことだ。おかげで魔女も人殺しにならずに済んだのだから。引き篭りの人類さまさまだ。魔王は一体何に文句をつけているのだろう? 感情のある相手と戦いたかった、ってことか?

 蜥蜴は突然網の上で立ち上がり、腕を人間のように掲げて俺の方を見る。

 

「その点、ボクはキミを買っているわけさ! 今のキミの行動原理は実に感情的だ! 惚れた腫れたを最優先にするその在り方は愚かで好ましいよ! やはり人間はこうでなくては! いいよね人間! 人間最高!! こうでなくっちゃ、ヒュー!!」

「キッショ。死ねよ……」

 

 どうにもテンションがおかしい。拷問の効果だろうか、正気と共に知能が下がっている。語彙から威厳というものが抜け落ちていた。こうなっては竜の王も形無しだ。いっそのことずっと黙っていて欲しい。だってこんなのが人類の敵なんて、人類代表として恥ずかしくなる。

 咲耶が熱した箸で蜥蜴をつついた。

 

「そういうのいいから。早く吐こ?」

 

 業火(すみび)に当てられながらも、蜥蜴は悲鳴ひとつ上げることなく。

 

「悪いが、吐くようなものはおにぎりしかないよ」

「つまみ食いしてんじゃないわよ」

「オマエ負けたの自覚しろよ」

 

 余裕に満ちた中性的な声で、教え諭すように言う。

 

「いいかい、キミたちは確かにボクを捕らえたけどね。勝っちゃいないのさ。なにせこのまま百年だんまりを決め込むだけで勇者は寿命で死ぬ。その後で魔女を異世界に連れ帰ればいいだけだ」

 

 人外の寿命を持つ者にとって時間は味方だ。延長戦に持ち込まれると定命の人間には分が悪い。

 

「つまり、だ──何もしなくてもボクの勝ちは揺るがないのさ」

 

「むかついた」

「うわっ! ボクの隣でニンニクを焼くのやめたまえ! 香ばしくなるだろう!!」

「ニンニク醤油炭焼きおにぎりよ。絶対おいしいわ、うふふ……」

 

 頭おかしいな俺の彼女。いや彼女じゃないんだわ。

 どうやら魔王陣営は、感情は人間味があっても精神構造が人外らしい。

 しかし、魔王のそれがハッタリや負け惜しみなどではないのもまた事実。人間の精神を持たない竜には拷問も効かないのか、解呪の手段もまったく聞き出せる気配がない。

 

「まどろっこしいから一回殺そうぜ」

 

 こいつの余裕の正体はわかりきっている。魔王が持っている命の数だ。残りの命が六個だか五個だかあるから余裕をぶっこいているのだ。立場というものを分からせてやらねばならない。

 包帯を解いて腕から聖剣を出そうとする……のだが。途端、ズキ、と嫌な痛みが腕の付け根から走る。なんだ? 不具合か?

 

「殺すの、おすすめしないわ。聖剣だと多分、封印の魔法ごと斬れるから」

「やめとくか。封印解けて野ばなしになっても困るしな。現世に迷惑がかかる」

「確かに一回死ねば自由の身となるのはそうだけどね、そう言われるのは心外だな。言ったろう? この世界を滅ぼす気はない、と」

 

 そもそも異世界の存在が地球で無法はできない。自浄作用のようなものがあるらしい。本来この世界に存在するはずのない者が暴れると弾き出されてしまうのだとか。それで異世界に強制送還されるというわけでもなく、下手をすると世界の修正力に殺される──云々と、理屈を述べた後で。「本当はもっと感情的な理由だがね」と竜は言う。

 

「ボクがこちらの言葉を自在に操る理由を考えてみたまえ。言葉とはそのものが魔法であるがゆえに、ボクら魔法使いは術による言語の理解を嫌う」

 

 俺は脳味噌に翻訳機能植え付けられたが。咲耶は自力で──というか、こいつに教わって異世界語を覚えたはずだ。

 

「……あら? そういえば師匠(せんせい)って、初めから日本語ペラペラだったわよね?」

 

 言われてみればおかしかった。

 

「そりゃあ。千年、この国の人間を呼び出していたんだぜ? 他の竜が血に狂う前はまともな契約を結び、賓客と扱っていたんだ。話を聞けば……遠いこの世界や国に憧れもするだろう?」

 

 咲耶と顔を見合わせる。

 

「……つまり、オマエ」

日本(こっち)来たかっただけ??」

 

「いやぁ、マンガとかアニメとか楽しみにしていたんだよね」

 

 理屈が観光気分の外人じゃねえか。

 

師匠(せんせい)の莫迦! ゆるふわ! こっちは真面目な話してんのよ!」

「焼け!! 炭追加だ!! コイツを許すな!! ボケ老人に殺されかけたとか末代までの恥だ!」

 

 こんなのに千年勝てなかった異世界人類、どうなってんだよマジで!!

 

「いや、敵前でイチャつくバカップルに殺されたボクの方が生き恥だよ。こんなの神話にも語れないぜ……」

 

「カップルじゃねえよ!」

「バカじゃないわよ!!」

 

 

「…………熱い」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 一悶着があった後。飛鳥は頭を痛めた様子で「俺、先に寝るわ……」と言ってマンションの方へ帰っていった。

 わたしは七輪の前で安堵の溜息を吐いた。

 

「あぁ〜、驚いた……急にこっちに飛鳥が入ってくるんだもの」

「だからといって、カモフラージュのためにここまでする必要あるのかい? わざわざ(・・・・)馴れ合う(・・・・)演技まで(・・・・)させて(・・・)

「あるわよ」

 

 蜥蜴に答える。

 

「だってあいつ、グロいの苦手って言ってたもの」

 

 そしてわたしはぱちりと指を鳴らす。七輪は消えた。衣装はいつものドレスに変わる。部屋の景色は(・・・)塗り変わる(・・・・・)

 結界の魔法だ。元は飛鳥の部屋だったそこは、今や城の牢獄を模した空間だった。そこに、鎖で繋がれた少女がいる。少女の姿をした魔王が。

 

 ──本物の拷問部屋はこちらだ。

 六畳一間を魔法の結界で改造した。〝鍵〟を持つわたししか入れない、秘密の空間。

 

 先までの生温い光景はすべて、急に用があって自室(こちら)に戻ってきた飛鳥を誤魔化すためのカモフラージュに過ぎない。R指定待ったなしの拷問をしていることを、悟られないための苦肉の策だった。

 だってグロいの見せたくないし、こういうことをしているシーンは好きな人に見られたくない。だったら「こいつ馬鹿か?」と思われた方がマシだ。だからおにぎりを焼きました。

 飛鳥は部屋に仕込まれた結界に気付いてないだろう。ただでさえこの部屋は封印のために魔法の気配が強まっている。

 魔王との一戦より以来、わたしの魔女としての力は強まっていた。奴を捕まえたことで力を多少取り込んだのか、レベルアップしたような実感がある。一方で彼の方はまだ本調子ではない。欺くくらいはどうとでもなった、のだけど。

 深々と溜息を吐いた。

 

「わたしは、魔王を殺すためだけに世界を滅ぼすと決めた女よ。まさか何事もなかったように馴れ合っているわけがないでしょ。……なんであっさり騙されるのよ飛鳥ってば。あいつどれだけわたしのことをばかだと思ってるの? ありえないでしょ!!」

「騙したのはキミだろう……」

「そうだけど!!」

 

 だからといって、なんか、こう……複雑なの、乙女心が!!

 

「騙し方におにぎりを選ぶ時点でキミはバカのフリをするバカだよ。真性だ」

 

 うるさいな。

 

「それより。おまえ、なんでまだ芽々の顔のままなのよ」

「敗者なりのささやかな嫌がらせさ。友と同じ顔をいたぶるのは嫌だろう?」

「……同一視なんてするわけないでしょ。莫迦げてる」

 

 吐き捨てた。

 わたしは過去に囚われているつもりはないけど恨みも忘れてはいない。はらわたが煮えるような怒りは、何度竜を肉片にしても晴れることはないだろう。でも、あいつの目がある限りわたしは平気だというふりをする。

 わかっているのだ。けして口には出さないけどあいつが、わたしが異世界でされたことを知ったその日から……罪悪感の滲む目でこちらを見ていることは。

 別に、今がよければそれでいいとわたしは思う。魔女なので特にトラウマとか残ってないし。

 けれど真面目すぎるあいつはそうじゃない。どうしようもなく変えられない過去を、知ってしまえば気にしないことなんてできない。

 ……だから絶対に教えたくなかったのに。よくも、ばらしてくれた。それが何よりも許せない。

 

「だけどわたしは倫理的だから。まずは同害報復(・・・・)で済ましてあげる」

 

 結界の中、わたしは自らの血で使い魔を作りだす。──小さな竜を模した、使い魔の群れを。

 

「目には目を、歯に歯を、竜には竜を──わたしが喰われたのと同じ分だけ、おまえも喰われろ。出血演出もオプションでつけてあげる。失血の感覚をたんと味わうといいわ」

 

 魔王はげんなりと零す。

 

「これ、本当にキツいから嫌なんだけどなぁ……」

「死ね。百遍死ね」

 

 使い魔が魔王に(たか)る。ばきごきと音を立てて派手に血飛沫が飛び散る。やっぱり血糊は大事だな、と思った。血糊をケチっては見栄えがしない。映画で学んだことだ。

 ──けれどそんな光景を見たところで別段、気は晴れない。

 復讐は意外と退屈だ。悲鳴も上げなければ情報を吐くわけでもなし。ただ血と肉片が飛び散るだけ。汚い。

 仕方がないからそのまま明日の献立を考える。冷蔵庫には何が残っていただろうか……と考えて、気付く。スプラッタ映画もかくやという惨状を自らで作り出しておきながら、そんなことを考えるのは正気じゃない(・・・・・・)

 頭の横に手を触れた。

 

「……やっぱり角なしじゃダメかしら?」

 

 角が生えている時のわたしは精神の耐久値が竜に近くなる。そうすればどんなに呪いを行使しても理性的でいられるのだけど。変身には聖剣の力を借りなければならない。……飛鳥にどう嘘を吐こうかと考えて。

 

「嘘だらけね、わたし。嫌な女」

 

 自嘲する。だからせめて、これから共に暮らす時間くらいは正直であろうと思った。文月咲耶としての顔くらいは、素直であろうと思った。

 

 びちゃり、微笑みに血糊が跳ね返る。

 

 

 ──こんな魔女(わたし)のことなど知らなくていい。わたしの汚い部分なんて絶対に見せない。

 あいつは綺麗なものだけを見て、楽しいことだけ考えて、そして日常を謳歌すればいい。それがわたしのしあわせだから。

 

 あいつは、わたしのことを馬鹿だと思ってるくらいで丁度いいのだ。

 



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第三話 結婚しちゃえばいいんだ。

 

 異世界事情の方は膠着していたが、同居生活の方は極めて順調だった。始めた時には喧嘩のひとつふたつやみっつはするものだと覚悟していたが、今のところ穏やかなものだった。

 健全を心がけ、適切な距離感を保ち、几帳面に生活を運営していく。そもそも元から三食一緒に飯を食ってたんだ。大抵はどちらかの家にいたわけで、違和感なく馴染みもするし、八割はこれまで通りだ。どうやら生活に関しては俺たちは相性がいいらしい。

 そうして穏やかな七月を──主に学業の面で悲鳴を上げつつも──過ごし。あっという間に夏休みになった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 燦々と降り注ぐ日差しに蝉の声。空も草木も青々と色濃く、一年で最も趣深い季節である。

 

「夏休みですよ! というわけで、芽々と山に行きましょう!!」

 

 寧々坂芽々は麦わら帽子に網に虫取り籠という、今時小学生でも見ないような見事な装備一式を携えて、マンション前にやってきた。ついでに首からごついカメラを提げて。

 今時直で誘いに来るとは剛の者である。「芽々は現代っ子ですが『いそのやきゅうしようぜ』の心を忘れない古き良き文化の愛好者なのです」とのことだ。何言ってんだろうね。

 芽々に呼ばれてマンション下に降りてきた俺たちは答える。

 

「行きたいけど俺は補習」

「えー!」

 

 元は笹木と行く予定だったらしいがあいつは用事が入ってしまったらしい。

 

「芽々、山は好きなんですけど蛇とか毒ある生き物がちょい苦手で……一人だと行けないんですよね〜……」

「おまえ……何をまともなこと言ってるんだ?」

「芽々をなんだと思ってるんですか!?」

 

 ともあれ道連れが欲しいということか。隣の咲耶を見る。

 

「ああそうね。蛇は平気ねわたし。虫は苦手だけど殺せるかな」

 

 あの過去でなんで蛇がトラウマになってないんだろうな。俺はスプラッタ映画とか見れなくなったのに。

 

「あれ、蛇苦手って……芽々おまえ、魔王は平気だったのか?」

 

 今は蜥蜴の姿をしているが、芽々の前に出てきた時は蛇の姿だったと聞いた。

 

「実は『毒あったらどうしよう』ってビビってました。まあ洗脳しかけてくるやつに毒もクソもないんですけどぉ!」

「めちゃくちゃ頑張ったな、おまえすごいよ」

「わたしは全身毒なんだけど。現世の生き物には効かないから大丈夫よねあはは」

「ひん……」

「咲耶??」

 

 さては芽々にエロゲ呼ばわりされたこと、まだ根に持ってる? まあセクハラは駄目だからな。俺たちが面白体質なのが悪いのだが……いや誰が面白体質だ、面白くねえよクソが。

 ということで咲耶が芽々の引率を引き受けることになったのだが。

 

「あ。わたし、山に行ける服ない」

「俺のジャージ着るか?」

「借りる〜」

「勝手に箪笥からとっていいぞ」

 

 芽々が困惑げに俺を見上げた。

 

「え……結婚したんですか??」

 

 

 なんでだよ。洗濯物は完全に分けてるぞ。

 咲耶は、はっと何かを閃いたように呟く。

 

 

「あっそうか。結婚(・・)しちゃえば(・・・・・)いいんだ(・・・・)

 

 

「…………ハァ!?!!? 頭沸いてんのか!!?」

 

 だが咲耶は至極真面目な顔で。

 

「違うの。よく聞いて? 婚姻って逆に健全じゃない? 恋人はアウトでも逆に夫婦まで行ったら──セーフじゃない?」

「そうか? そうかも……」

 

 結婚の定義は社会的な契約関係だ。恋人関係などというものはほとんど不純異性交遊だが、結婚は不純ではない。役所に書類を提出し、公に誓っているのだから──と、考えて。

 

「いや、駄目だな。俺は言えん」

 

 試しに『結婚』と口に出そうとしてみたが、とても嫌な予感した。多分かなり正気にクる。

 

「そっかぁ、残念……いい解決法だと思ったんだけどなー」

 

 目に見えて気落ちした咲耶の隣で、芽々が頬を引きつらせていた。

 

「うへぇぁ……芽々、なに見せられてるんですかぁ?」

「最近の咲耶はバグってるよな」

「違いますよ。サラッと同意しかけたひーくんが一番ヤバいよ」

 

 …………。

 

「本当だ!?」

 

 クソッこっちもまだバグってる!!

 芽々はこの世の終わりみたいな顔で首を横に振った。

 

 

 

 ◆

 

 

 飛鳥にジャージを借りて、芽々と一緒に山に向かう。

 

「とりあえず。サァヤ、一緒に来てくれてありがとうございます!」

 

 ちんまりとした芽々は麦わら帽子がよく似合う。眼鏡の奥の瞳にはもう〝星〟は見えないけれど、あどけなくきらきらと輝いている。出会ったばかりの頃の胡散臭さはどこへやら。こうして見ると普通の女の子だ。いえ、すっごくかわいいという点で普通じゃないのだけど。

「ま、仕方ないから付いていってあげる」と言いつつ、わたしはかわいい女の子に弱いので、芽々に誘われたら山でも谷でもほいほいと行ってしまうのだった。……わたし、根本的にちょろいな。

 

「山って、何しにいくの?」

「めっちゃ生き物の写真をとります。夏!って感じでしょ」

 

 へへん、と芽々は首から下げた一眼レフを見せた。相変わらずサブカルで多趣味だ。

 

「いちお、捕まえる用意も持ってきましたけどね」

 

 わたしの周りはどうも写真好きが多い。飛鳥もまめに撮るし、わたしも趣味は飛鳥の盗撮(公認)だ。

 芽々のSNSにはキラキラのスイーツと田んぼのザリガニが違和感なく混在していた。「ザリガニも撮り方次第で()えなのです」と言うが、よくわからない。

 

 けど、山道を歩きながら「たまにはこういうのもいいか」と思う。一応わたしの身体は人間ではないので、夏の暑さは苦ではない。とはいえ涼しいに越したことはなく、山の中のしっとりと冷えた空気は好ましかった。

 それに、だ。わたしはぶかぶかのジャージの袖を口元に寄せる。馴染みの柔軟剤の匂いの奥──微かに持ち主の気配がする。

 えへへ……。飛鳥のジャージを着ていると、なんだか抱きしめられてるみたい。洗い立てだから気配を感じるのは九割気のせいなのだけど、それでもいい。

 ──実はまだ、わたしはちゃんと抱きしめたことも抱きしめられたこともなかった。

  多少身体が接触することはあっても、両腕で力一杯抱きしめるという経験がない。そもそも誰かに抱きしめられた経験自体あまりないのだけど、想像する限り恥ずかしさはあまり感じない。ハグって多分、挨拶みたいなものだと思う。ついでに全身で相手の存在を感じられるというだけの! いいなぁ……憧れる……。

 けれど聖剣なんてものがある限り、身の危険という本能的な憂いなく抱きしめることはできないし、抱きしめられることもないのだろう。忌々しい……はやくぶっ壊したい……ばきばきにしてやるの……。

 などと浮かれ心地と呪詛を織り交ぜながら坂道を登っていると、いつの間にか上流の澄んだ川辺に辿り着いていた。岩場で小休止しながら、嬉々とカメラを弄る芽々と話をする。

 

「それにしても、元気そうでよかったわ」

「芽々がですか?」

「だって落ち込んでたじゃない。この前から」

「あ〜……」

 

 ばつの悪そうな顔をした。芽々の様子がおかしかったのは前回の戦闘の後からだ。

 

「ほら芽々、魔法使いに大人しく従ってるフリして一矢報いてやろうとしてたわけじゃないですか。でも、そのせいで事態をややこしくしちゃったんじゃないかーって、反省したんです。何もしないほうが……お二人も、芽々を助けやすかったんじゃないかって」

 

「切り札も効きませんでしたしね」と苦笑する。

 

「別に気にしなくていいのに」

 

 一矢報いたかった気持ちはわかる。わたしも報復は絶対に自分の手でしたいタイプだし。

 それに芽々は巻き込まれた側なんだから好き勝手に文句でもなんでも言えばいいのだ。魔王はわたしがバキゴキにしとくし。

 

「それにあの後、夢見が悪くてですね……」

「夢?」

「飛鳥さんの両腕がもげる夢です」

「両腕」

「両腕をハサミにして帰ってきました」

「聖剣が、ハサミに……」

 

 芽々は頭を抱えて呻く。 

 

「それはもう、勇者じゃなくて蟹なんですよ……!!」

 

 

 ──想像する。

 両腕をチャキチャキ言わす飛鳥。

『蟹はすごいぞ。挟める』

 ──目眩がした。

 

「蟹はダメですひーくん、蟹キャラは……弱いんですよ……!!!」と、川辺に蹲りうごうごする芽々の背中をさする。

 

「ま、まあ。腕って結構千切れやすいものだから。気にしちゃだめよ。わたしも竜によく齧られたし」

「なんのフォローにもなってねーですよ!?」

 

 ……危なくない戦闘なんてないからなー。せめてわたしが前衛をできればよかったのだけど。いっそ危ないことは全部わたしに任せるっていうのもアリじゃない? 不死身だし……。なんて提案を、あいつが聞くわけもないか。

 

 どちらにせよ、だ。すべてを知る敵はもう捕まえたのだから。しばらくは無茶をする必要もないだろう。

 ──ええそうよ、ここからすべてうまくいくんだから!

 計画通り(・・・・)、一緒に暮らすのにも成功した。もはやあいつはわたしの手の内にある。

 ……そう、わたしの狙いは決して表向きの『健康的で文化的な共同生活』などではない。

 ──真の目的は『退廃的で甘々な同棲生活』だ!

 

 

 ──話は退院前に遡る。その日、飛鳥は退院後から夏休みにかけての予定を埋めていた。それはもう、バイトやらなんやらでギチギチに。

『そんなにお金に困ってるの……?』

『いや? でもあるに越したことはないし、暇だし』

 怪我人が忙しくしていいはずがないし、そもそも手帳が真っ黒なのはどう考えたって暇じゃない。けれど飛鳥は予定に空欄があることを「暇」と認識し、隙あらばと用事を入れる。

 勤勉? そんな可愛いものじゃない。あれは「暇=悪」という一種の固定観念(すりこみ)だ。

 ──そう、あいつはまだ異世界時代の365日強制労働ブラック体制が、身に染み付いているのだ!!

 

 わたしは思った。多分次は過労で倒れる。──このままじゃいけない。絶対。

 夏休みだぞ!! もっとだらだらしろ!! 退廃的に夜更かしして遅起きとかしろ!! あとわたしと遊べ!! わたしと!! わたしと遊びなさいよ!!

 

 ──なんて甘えは、表には出さないのだけど! わたしは物分かりの良い、都合の良い女でいたいので。だから本音は内側に隠し、ゆっくりと沼に引き摺り込むのだ。

 

 ふふふ……精々そのまま油断していることね。そのうち絶対に甘やかしてやるわ。ずぶずぶにして堕落させて負かしてあげる。深夜に油っこいもの食べたり、夜明けまで映画を見ちゃったり、クーラーのガンガンに効いた部屋で惰眠を貪る幸福というものを、その身に刻み込んでやるんだから……!!

 

「……サァヤ、何ひとりで悪い顔してるんですか?」

「はっ……!?」

 

 意識飛んでた。

 

 

 

 

 

 

 芽々をそっちのけで、わたしが自らの企みに溺れていたところ。「あ、サワガニ!」と立ち直って芽々は写真を撮りに行った。けれどそのすぐ「うきゃっ!?」と悲鳴を上げて芽々がわたしに抱きついてくる。

 

「や、すみませんその……ムカデが……」

 

 見ると、芽々が先ほどまで撮っていたサワガニの集まりの中に大きなムカデが乱入していた。ムカデは蟹の一匹に噛み付いている。食事中らしい。

 罪のない虫には悪いけれど今のわたしは芽々の味方だ。枝でムカデを引き剥がしてその辺にぽいと投げる。

 

「終わった」

「サァヤ〜〜!! めちゃ好き」

「まあこの程度? お安い御用だわ。ふふっ」

 

 騒ぎでサワガニは散り散りになってしまったけど。

 と、足元を見て気付く。一匹のサワガニがまだ逃げずにいた。おそらくさっきのムカデに食われたのだろう、片方のハサミがなくなっている。それはなんだか弱っていて、死にそうに見えた。

 

「…………。ねえ芽々」

「なんですか?」

「……サワガニって、飼える?」

「サァヤってー、庇護欲に弱いですよね」

 

 うるさい。自覚はあるの。

 

 

 

 芽々に虫籠を借り、サワガニをそっと中へいれる。

 

「名前どうしましょう。わたし、生き物を飼ったことないの」

「なんでもいいんじゃないですか? 一号とか二号とか」

「じゃああすかで」

「え、マジでいんの? ペットに好きなやつの名前つける人」

 

 そう? 割と一般的だと思うけどな。わたしの母親とか、浮気相手(すきなひと)の名前を(わたし)に付けたし。

 籠の中の蟹に囁く。

 

「あすか、強く生きるのよ……」

「えぇ……流石の芽々もドン引きです」

 

 なんでよ。

 

「ま、まぁ人の趣味はそれぞれですよね! 折角なので、もっと捕まえて帰りましょうか!」

「そうね。一匹じゃ寂しいし」

 

 網を持って前を行く芽々を追いかけようとして。ふと、下を見る。

 籠を大事に抱えたわたしの足元で、さっき投げたはずの毒虫(むかで)が千切れた腕を喰っていた。その光景をじっと見つめて。

 わたしは無言で、それを踏み潰す。

 

「? どうかしましたか」

「ううん。なんでもない」

 



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第四話 初めての夫婦喧嘩。

 

 夕方、飛鳥はまだ家に帰っていないようだった。

 帰宅したわたしはサワガニがたくさん入ったケージ(芽々に借りた)をテーブルに置く。

 ペットを飼うのは初めてだ。これからいい感じの水槽とか用意しなくちゃ。けれど家にそんな気の利いたものはない。ひとまず、タッパーで代用?

 

 と、その時。スマホの通知に気付く。義母(はは)からだ。

『咲耶さん。ケーキ焼きすぎちゃったから引き取りにきてくれるかしら』

 義母とは長らく距離感を測りかねていたのだけど、最近はこうして些細な連絡が来るようになっていた。色々と我儘を聞いてもらっている手前、わたしは義母に頭が上がらない。

 

 ──異世界に失踪していた二年間については一応、先々で『気にしないように』と魔法で暗示をかけている。おかげで家の者にも深堀りされることはない。

 同居についても暗示を使えば簡単に許可は下りる……と、考えたのだけど。飛鳥のおかげで義母(はは)と和解した今、魔法でどうこうというのは不誠実で気が引けた。

 というわけで、真っ当に許可を貰いに行った。ある程度は正直に話し、彼がわたしの恩人であると説明した。

 同居の許可はあっさりと降りた。なんなら義母は「まだお付き合いしてないの?」とか言うし、いつの間にか飛鳥とお茶友達になっている。なんでよ。

 

 それはともかく。ここから実家は少し遠い。着替えて今から行かないと夕飯の時間に間に合わなくなるだろう。

 問題はサワガニたちだ。涼しい山を降りて暑い下界に連れ出したせいか、皆ぐったりとして見えた。どうしよう……。

 

『飼うなら冷暗所ですよ冷暗所。暑いと死にますからね』

 

 芽々のアドバイスを思い出す。冷暗所といえば……。

 

「……はっ。冷蔵庫!」 

 

 わたしはサワガニをタッパーにお引越しさせ、冷蔵庫に入れた。

 

「よし、完璧ね」

 

 実家で水槽貰って帰ろ。

 

 

 

 

 

 二時間後。ケーキと水槽をお土産に戻ってきた頃には、夏の長い陽も落ちていた。家に帰ると明かりがついていて、玄関の向こうからはお味噌汁のいい匂いが漂ってきていた。

 部屋の扉を開けると、丁度飛鳥がテーブルに料理を並べているところだった。

 

「おかえり、晩飯もうできてるぞ」

 

 こちらを振り向いた、飛鳥。学校帰りのきっちりとした服装の上から、お揃いのエプロンを付け、ゆるい笑顔で出迎えたその姿を見た途端。

 頭にピシャリと電撃が走る。

 

「けっ」

「け?」

 

 

 ──結婚!!!!!!!

 

 

 ……じゃなくて! 麻痺しかけた頭を慌てて回す。

 

「け、結構なお手前ね」

「どうも?」

 

 危ない。衝動的に叫ぶところだった。あまりにも飛鳥がご飯作って「おかえり」って言ってくれるシチュエーションの破壊力が高過ぎて。

 だってこんなのって、こんなのってもう……〝結婚〟じゃない? それ以外の語彙って……要る??

 えー、結婚しよ? もういいじゃん。なんか難しいことおいといてさー、わたしと結婚しない? どうかしら。いい考えだと思うんだけど。

 えへへへ結婚して……好き……。

 

「こほん」

 

 全力で駆動し始める恋愛脳はそのままに、わたしはいつも通りの涼しい顔をして支度を済まし、テーブルについた。

 ちなみに日々のご飯は当番制だ。少し前までは鍋を焦がし指を切っていたわたしも、飛鳥に教わったおかげでもう一人で料理ができるのです。

 揃って「いただきます」と手を合わせる。

 それにしても、今日のお味噌汁はいつもより香ばしくていい匂いがするような……。

 

「いやー、蟹なんて何年振りだろうな。いい出汁だ」

 

 向かいの飛鳥が上機嫌に言う。

 ……蟹?

 わたしはおそるおそると味噌汁のお椀を覗き込んだ。お味噌の海に浮かぶのは──からりと揚がった沢蟹だった。片方だけのはさみを投げ出して、さっきまで生きていたはずの、名前を付けたあの子の死体が、かぷかぷと浮かんでいた。

 茫然と、お椀を見つめる。

 

「あすか……」

 

「ん?」

 

 そっと箸を置き、自分が呼ばれたつもりで返事をした飛鳥(人間)を見る。

 

 

「離婚よ」

 

 

「…………いや、結婚してねぇ!!?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「うわーーん飛鳥のばか!! あすかが死んじゃった!!」

 

 ──どうしてこんなことになっているのでしょうか。

 夜中、いきなり家まで泣きつきにやってきた咲耶さんを前に、私──寧々坂芽々の目はおそらく瀕死でした。

 これまでのあらすじというものを、ぐちぐちの愚痴状態になった咲耶さんから聞き出すに曰く。

 

『沢蟹は……食うだろ!!』

『なんで蟹に俺の名前付けてんだよ、嫌がらせか!?』

 

 とまあ、ひどい大喧嘩になったそうな。

 

「いや、そんな喧嘩の理由あります???」

 

 天井を見上げました。電球が目にチカチカとして頭がクラクラしてきます。

 何せ今日、芽々の一日は密度がヤバいのです。

 朝、目の前でサラッと結婚しようとする異常な惚気を聞かされ。昼、蟹に好きな人の名前を付けようとする奇妙な惚気を聞かされ。夜、痴話喧嘩という名の実質の惚気を聞かされているので。胃もたれです。

 色恋沙汰は好きですが、それはあくまで過程への知的好奇心。夫婦喧嘩は犬も食べない。蟹は食われました。

 

「まあ冷蔵庫に入れたら食材ですよね」

「でも謝ってくれなかった! 謝ってくれなかった!!」

 

 あっ、はい。

 心を無にして部屋のローテーブルに突っ伏す咲耶さんを宥めます。けれど心を無にしきれず、呆れが口からだだ漏れになりました。

 

「なんていうか、よくやりますよねぇ」

 

 咲耶さんは恨みがましそうに芽々を見上げます。

 

「わ、わかってるわよくだらないことくらい……最近はご無沙汰だったけど、ちょっと前までは天気がいいか悪いかだけでも喧嘩してたんだから……」

 

 そもそも咲耶さんは虫を殺すのになんの躊躇もない人です。魔女だからか愛は深い割に生き物への情に欠け、死生観がズレている──ということを飛鳥さんが言ってました。「あいつ精神が人外なんだよな」と。

 実は私はそこまで異世界時代のことについて詳しくありません。魔王と戦ってた時のやりとりも、肝心なところは異世界語だったので聞き取れませんでした。

 ですが、あの人たちが躊躇なく自害できたり芽々と同じ顔した魔王を殺せたりする人間だってことは知っています。

 だから、蟹のあすかさん(なんですかこのワード)への悲しみは長持ちしていないのでしょうし、どうやら怒りも鎮火していて、反省も済んでいるのでしょう。咲耶さんはたまに年下みたいに大人気ないですが、おばかさんではないのです。たぶん。

 

「要するに、久々のガチ喧嘩に引っ込みがつかなくなってるんですね?」

「うぅ……」

 

 はぁ、と溜息。

 

「──茶番ですね」

 

 ずんばらりと断じます。

 

「茶番って……」

「それ以外のなんだというんですか?」

 

 たじろぐ咲耶さん。

 言いたいだけ愚痴を言わせてあげたのですから、私も少し好きに言わせて貰いましょう。

 

「そもそも芽々、恋愛って茶番だと思うんですよね。クソ真面目に告白とかデートとか駆け引きとかして。さっさとヤりゃ終わる話を甘っちょろい砂糖菓子にする茶番」

 

「でも茶番は好きです」

 

「ひーくんもサァヤも、本気で茶番をやるじゃないですか。……本気で『好き』をやってる。それって結構、努力じゃないです? いや、愛なのかもしれませんけど。がんばっててすごいなーって思う。芽々には一生できませんもん、そゆこと」

 

 咲耶さんは潤んだ目でこちらを見ます。この人はたまに捨て猫のような目をするな、と思いました。その目を私じゃなくて飛鳥さんに向ければいいのに、と思います。多分あの人はすごい形相をしながら拾ってしまうのでしょう。

 まったく恋って意味不明です。けれど芽々はよくわからないものが好きなので、恋に全力なこの人たちが好きなのです。応援する理由はそれだけで十分。

 頬杖をついて、ニコリと笑いかけます。

 

 

「──というわけで、仲直りしてもらいますね。早急に」

 

 

 丁度、ピンポンと呼び鈴の音が鳴りました。

 

「あ、ひーくん来た」

「なんで!?」

「芽々は仲直りセッティングガチ勢ですから。サァヤが逃げ込んできたらチクるに決まってるでしょ。なに言ってんの?」

「……そんな!? まだ心の準備ができてないのに!?」

 

 慈悲はなし。そのまま家からぺいっと放り出しました。なおこれは比喩表現であり、実際はうだつく咲耶さんを子猫を引きずるようにして飛鳥さんが強引に回収していきました。

 

「うちのアホが迷惑かけたな」

「ちゃんと首輪つけてろください」

「飼い主かよ俺」

 

 そうだよ。

 まったく幼馴染でもあるまいし、夜中に人の家に惚気吐きに来ないで欲しいものです。

 

 

 

 

 

 咲耶さんを引き渡した後。部屋の窓から私は外を見下ろします。二人が夜道で何事か話した後、手を繋いで並んで帰っていくのが見えました。どうやら無事に仲直りはできたようです。いや、手ぇ繋ぐんかい。

 

「……ほんと、仕方ない人たちですね」

 

 こういうのが見たくて、恋愛に茶々を入れているのだったな、と思い。

 我に返りました。

 

 

(……本当に見たいですか? これ)

 

 

 やめよかな、この趣味。コスパ悪いです。

 



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第五話 かつての後輩、かつての親友。

 

 ──共同生活もつつがなく、この一ヶ月が過ぎ去った。稀にくだらないことで喧嘩することこそあったが、反省と改善の第一原則に乗っ取れば和解できないことはない。俺たちは仲直りのプロだ。

 一方、魔王の尋問は順調ではなかった。奴はどうやら本当に俺が寿命で死ぬまでしらばっくれるつもりのようだ。咲耶も流石に七輪で焼くのはやめたようだ。代わりに何をやっているのかは想像が付くが、触れられたくなさそうなので黙る。俺に手伝えることは精々咲耶の変身(角アリ)状態を引き出すことだけだった。

 

「なんか悪いな。俺が変われたらよかったんだが……」

 

 聖剣があるのでうっかり封印を解除しかねない。

 

「いいのいいの。正義の味方が汚れ仕事しちゃ世話ないでしょ」

 

 六月以来、自分が魔女であることに開き直ったらしい咲耶は軽く笑ってそう言ったが。その言葉に違和感を抱く。

 

「……俺、正義とか掲げたことないけど」

「あら?」

「咲耶さぁ、時々俺のことすごく美化してるよね」

 

 苦笑する。咲耶はどうやらピンと来ていないようだった。まあいいか。買いかぶられるのは実はそんなに嫌いじゃない。格好はつけられる時につけておくものだ。

 ──そういう、少々アレな非日常と壁一枚を隔ててはいたが。概ね、穏やかな夏休みだった。大抵は課題やバイトに明け暮れていたが、そういった諸々をまとめて片付けたおかげで夏休みの後半には遊びの予定を詰め込むことが出来そうだった。

 という話をしていると、彼女は頬を引きつらせた。

 

「あんた『休み』の意味知ってる?」

「休んでるだろ? この前も芽々ん家でしこたまかき氷作ったし、クラスのやつらと遊びにも行ったし、親戚に挨拶回りもやって、いい感じの滝も見つけた」

「それ全部用事よ。『休む』の定義は家でだらだらする、よ」

「……ああ! この前は咲耶と家で夜通しゲームしたな! あれは熱かった」

「そうじゃないわ、そうじゃないのよワーカホリック」

 

 おかしい。俺はちゃんと休んでいるのに……。

 

「……ま、楽しめてるなら問題はないのかもね」

「楽しいよ。夏休みは有限だ。一日たりとも無駄にしたくない」

 

 俺は夏が好きだ。窓よりも好きだ。一年で最高の季節だと思う。夜が短く、鮮やかで、世界が綺麗に見える。

 なにせあの異世界に季節なんてものはなかった。俺はもう二度と夏を迎えられないと思っていたし、戻ってきた時でさえ現世に期待をしていなかった。──隣に彼女がいる夏なんて、夢に見ることもしなかったのだ。

 さて今を〝最高〟と呼ばずして、何と呼ぶ。

 ──ああ。

 

「この夏がずっと続けばいいのにな!」

 

 彼女は、二、三度。耳を疑うように瞬きをして。

 

「……飛鳥、ねえ飛鳥、あんたテンションおかしいわ。夏酔いしてる? 大丈夫?」

「ははは」

「感情バグってない!? わたし心配になってきたんだけど!?」

 

 

 

 夏休みだからと言って学校がないわけではない。たとえば補習だったり文化祭の準備があったりする。今日は後者の用で、久々に二人揃って学校に行く日だった。

 八月も残り半分だ。夏休みが明けたら文化祭か、感慨深いな。

 

「そういや今日の帰りは遅くなる。盆だから文化祭準備の後、墓参りに行かないと」

 

 朝は日々の連絡事項を告げる場だ。食卓の上にはいつも通りのトーストと味噌汁が並んでいる。

 咲耶はトーストにバターを塗りながら、目を丸くして呟いた。

 

「……えらい」

「うん?」

「わたし、実母(ははおや)のお墓参りしたことないから。えらいなーって」

「ああ、仲悪かったんだっけ」

「あなたは、仲良かったのよね」

「祖母とはな。両親は……何も覚えてないけど、恩がある」

 

 咲耶は無言でトーストを齧りながら、視線で相槌を打った。

 時期のせいだろう。なんとなく話しておきたい気分だった。いわゆる生い立ちというものを。

 

「事故なんだけどさ、俺だけ生き残ったらしいんだ。庇われて」

 

 頭の傷は子供の頃ガラスで切ったと言ったが、正確にはひしゃげた車のフロントガラスで切った傷だった。記憶としては元々無いとはいえ、ついこの間までその事実すら忘れていたというのは笑えない話だ。

 

「いい人たちだったはずだよ。写真をたくさん残してくれたし、親戚から話もよく聞いた。蔵書はひとつ残らず読んだ、けど。まあ……正直、遠い憧れの人たちって感じだな」

 

 亡くなったのは物心つく前のことだ。俺にとっては初めから居なかったようなもので、悲しいという感覚は残っていない。仲の良し悪しを断言することはできず、好き嫌いを論じることすらできない。

 ──だから咲耶の持つ親への愛憎のような生々しさや実感が、少し羨ましい気もする。その感情は、もういない誰かが生きていたことを確かに覚えているという証なのだから。

 黙って話を聞いてくれた咲耶は、ぽつりと呟く。

 

「愛されていたのね。……いえ、こんな言葉聞き飽きたでしょうけど」

「そうだな。……いや、聞き飽きないよ俺は」

 

 咲耶のその声に僅かに羨望が滲んだことに気が付く。羨むべきでないところが羨ましいのは同じらしい。

 ……まったく。お互い、隣の芝生が青いにも程があるな。俺は味噌汁を一気に飲み干した。

 

「実は俺は、愛されて生きてきた自信がそれなりにある」

 

 咲耶はあきれて笑った。

 

「あんたのその意味わかんない自己肯定感! わたし、好きだわ!」

 

 ……まあ、俺っていうか正確には昔の自分なのだが。それを言うのは流石に野暮というものだろう。

 

 

 

 朝食を終えた後、家を出る前にカレンダーをもう一度確認する。今日から盆入りとはいえ、お互い家の事情や立場が特殊なので法事に縁がない。つまりはただの休みだ。

 

「咲耶、明日の約束は覚えてるよな?」

「当然よ。海、でしょう?」

 

『夏になったらもう一度海に行こう』と約束をした。明日がその日だった。

 

「──せいぜいわたしの水着、楽しみにしてなさい?」

 

 挑発的に微笑む咲耶を、白い目で見る。

 

「……いやそれ目当てじゃねえから」

 

 断じて。

 咲耶は愕然とした。

 

「うそ……見たくないの? 健全な男子高校生が?! 彼女(予定)の水着を見たくないなんてそんなッ……嘘よね??」

 

 無視した。

 

「Gカップよ!? み、見たいって言いなさいよ!! 見たいって!!! わたしの水着、見たいって言え、言えーーっ!!!!」

 

 無視して先に家を出る。

 

 

「うわーーん飛鳥のばか!!! もう知らない!!!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 なんだったんだ今朝の。最近の咲耶は脳味噌と口が直結している。正気でも下がってんのか?

 と思いながら、つつがなくその日の文化祭準備を終えた後の、夕方。俺は隣のクラスに顔を出す。少し芽々に頼み事があったのだ。

 だが、扉の前で芽々を呼ぼうとしたその時。

 

「やあ、センパイ(・・・・)。何か用かな?」

 

 後ろから聞き覚えのある声がした。驚いて反射的に振り返る。背後に人を立たせるとは不覚──じゃねえわ。俺は結構背後ガラ空きで生きてるわ。

 だから驚いたのは、その相手(・・)が問題だった。

 

「……瑠璃(るり)

 

 鈴堂(りんどう)瑠璃(るり)。中学時代同じ天文部だった二歳下の元後輩であり、そして今は芽々と同じ隣のクラスの生徒だ。

まだ(・・)名前で(・・・)呼んでくれるんだ(・・・・・・・・)。嬉しいようで悲しいような、フフッ、奇妙な感情だね?」

 

 瑠璃は真っ黒な瞳で俺を見上げ、ゆっくりと微笑む。切れ長の目の下には泣き黒子がある。横でひとつ結びにした黒髪が、僅かに首を傾けた時にゆらりと揺れた。弾むように言葉を発しながらもその笑みはどこか冷ややかだった。

 溌剌とミステリアスの同居、纏う雰囲気が中性的で、その声は凛と澄んでいるようでしっとりと耳に残る……鈴堂瑠璃は雨が降りそうで降らない乾いた曇天のような少女だった。

 そして何よりこの元後輩の特徴は、病的に勘が鋭い(・・・・・・・)ことだった。

 

 現世に帰って来てすぐのことだ。鈴堂瑠璃は俺の目を見て、怯えるように呟いた。

 

『──君は、センパイじゃ、ない』

 

 あいつは一眼見ただけで、俺の自我の連続が曖昧であることを看破していたのだ。もはや霊感の域である。

 あれ凹んだ。めっちゃ凹んだ。家が更地になる並みにキツかった。いいけどさ、俺が昔と微妙に別人なのは事実だし。だが、昔親しかった人間にきっぱりと拒絶されるのはクるものがある。

 ──だからもう二度と、瑠璃に話しかけられることはないと思っていたのだが。

 

 廊下に立つ鈴堂瑠璃は制服のループタイを弄びながら、あの件など忘れたかのように軽やかな調子で言う。

 

「ああ、わかってる。僕に用ってわけじゃないんだろう? ──芽々、君に用だよ」

 

 教室の中へ呼びかけた。よく通る彼女の声に気付いて、人だかりの中で芽々が手を振った。「ちょっと待っててください!」

 俺は戸の前で待ちぼうける。何故か瑠璃が側から動かないのだ。こちらを見上げる、品定めする流し目。

 

「最近調子はどうだい?」

「あ、ああ。すこぶるいいけど」

「ふぅん? ……そうは見えないけどね」

 

 瑠璃は僅かに背伸びをして、目を覗き込む。二年前とは色の変わった目の奥を、見透かすように。

 

「気をつけなよ、センパイ。調子がいいと思い込んでいる時ほど、病には気がつかないものだ」

 

 声に嫌悪感の滲む、意味深な忠告を残して。黒髪の尾を揺らして瑠璃は教室へと戻っていった。

 

「…………」

 

 今のあいつ、なんか怖いんだよな。昔は子犬みたいに懐いてくる可愛げのある後輩だったのだが。──彼女もまた、俺のいない二年の間に変わってしまったのだろう。異世界などなくても月日は人を変えるのだ。

「お待たせしました!」とようやくこちらへぱたぱたと駆け寄ってきた芽々は、入れ違いになった瑠璃を横目に、不思議そうに俺に訊く。

 

「るりさんに嫌われてるんじゃなかったんですか?」

「どう見ても嫌われてるだろあれ」

 

 俺はちゃんとわかってるぞ。

 

「ん、んんん……いえ、やめときます。それで、ご用件はなんでしょーか?」

「ああ、オカ研の部室に入りたいんだ。昔置きっ放しにした本があることを思い出してな」

「それなら、今丁度空いてますよ。先客がいるので」

「先客?」

「実際に確かめてみてはいかがです?」

 

 

 

 離れの旧棟にあるその部室は、今は芽々が取り仕切るオカルト研究部の部室で、二年前は俺が所属していた天文部の部室だった。備品をそのまま引き継いているため、部屋には望遠鏡やら本やらがそのままになっている……当時の俺の私物もそのままに。

 用件というのは、その私物を取りに行くことだった。今朝、咲耶と話していた時に思い出したのだ。親の蔵書の一冊が部室に置きっ放しになっていたことを。

 部室の戸を開けると、先客(・・)は椅子から顔を上げ、こちらを認める。

 

「……お、陽南じゃないか!」

 

 派手に染めた赤髪の男が、屈托なく俺を呼ぶ。鈴堂(りんどう)蘇芳(すおう)。そいつは後輩・鈴堂瑠璃の兄であり、かつての俺の一番の友人だった男だった。

 

 

「なんだ、鈴堂(りんどう)か」

 

 俺が後輩である鈴堂妹を「瑠璃」と名前で呼ぶのは、兄であり同級生だった鈴堂蘇芳(すおう)こそが、俺にとっては「鈴堂」だったからだ。兄妹揃っている時は、ややこしいから名前で呼ぶけどな。

 派手に染めた髪がなんの違和感もなく似合う、十人中八人が認める好青年であり、言動もさっぱりとした爽やかな男なのだが──俺は実はこいつが、妹同様少し苦手である。

 鈴堂の切れ長で少し冷たい印象の目はミステリアスな妹によく似ていて、けれど兄のそれには曇りがない。

 

「まだオレのこと思い出せないか」

「いや、少し前に思い出したよ」

 

 俺は棚から、取りにきた本を引き出す。

 

 ──出会いはそう、確か。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 中学時代のことだった。当時の陽南(オレ)がどんなやつだったかというと、中学生らしく斜に構えていただろう。

 クラスの半分は小学校からの知り合いだ。何もしなくとも友達なんぞは初めからいるし、適当にやればいい。だから新学期早々に余裕をぶちかまして机で本を眺めていたのは、多分「中学ではインテリを目指そう。眼鏡買ったし」みたいな気分の問題だった。

 が、その時の本が鈴堂と知り合うきっかけとなる。その日たまたま親の蔵書から引っ張り出してきた本が天文の──主に隕石に関する本だったからだ。

 

「陽南! オレと一緒に天文部に入らないか!」

「うわっ」

 

 唐突に机を叩いた、当時黒髪だった鈴堂に驚く。

 

「星とかあまり詳しくないぞ」

 

 だが鈴堂は、ニヤリと笑い言ったのだ。

 

 

「天文部は、隕石が(・・・)部費で買えるぞ(・・・・・・・)

 

 

 本を閉じ、眼鏡を押し上げる。

 

 

「入ろう」

 

 

 そして俺たちは友達になった。

 

 

 

 

 なんとなく知り合った俺たちはなんとなく気が合った。そしてなんとなく二年が過ぎ、何事もなく付き合いは中学三年になっても続いた。

 ある日部室で鈴堂は漫画雑誌を読みながら言う。

 

「なあ陽南。オマエってよく勉強するよな」

「そうか? 別に普通だろ。まあ嫌いじゃないよ勉強は。何せはっきり答えが出る」

 

 答えがあるのはいいことだ。『正しい』のは気分がいい。

 

「俺からすれば『将来は教師になる』って言ってるくせに勉強しないおまえの方が不思議だよ」

「オレは勉強嫌いの生徒に親身になれる教師を目指してるんだ。バカだけがバカの味方になれる」

 

 実際、鈴堂は教えるのが上手かった。

 

「陽南は何になるんだよ」

 

 ペンを置く。やりたいことも特になし、堅実な職なら何でもいいと思っていたが。

 

「……教師、いいな。俺もなるか。黒板、好きだし」

「おっ、科目は? 理科か? オレと同じ理科か!?」

「社会科」

「なんでだ……! 天文部なのに」

 

 と言ってもな。成績は文系優位だし。

 どちらかというと、星そのものより星を頼りに旅をしたり地図を作ったりする話が好きなんだよな。あと隕石で滅びた都市の話とかそそる。

 理科は勿論好きだが、向いているのは社会科だろう。

 と言うと、鈴堂は雑誌を閉じて眉間にしわを寄せた。

 

「向いてないと思うけどなあ、社会」

「なんでだよ」

 

「──だっておまえ、人間、好きじゃないだろ」

 

「…………」

 

 別にそんなことはない、と思う。むしろ人好きな方なのだが。

 

「それに、同じ教師でも理科には理科にしかない浪漫があるぜ」

「なんだよ」

 

 鈴堂はキリッ、と無駄に整った決め顔を作る。

 

 

「理科の教師は、白衣が(・・・)着れるぞ(・・・・)

 

 

 俺は眼鏡を押し上げた。

 

 

「なろう」

 

 

 白衣はなんかマッドサイエンティストみたいでカッコいい。白衣に眼鏡はなんか最高にインテリジェンスだ。そのためだけに理科教師を目指す意味は──ある!

 同じ大志を胸に抱き、拳をぶつけ合う。

 

 俺たちは、親友になった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 そうそう、この本だったんだよなきっかけは。と例の本を取り出したところで、溢れ出した確実に存在している記憶に頭が痛くなる。

 ──中学生ってアホか???

 はっっっず。マッドサイエンティスト志望だったのは一生忘れていたかった……。

 鈴堂に向き直る。

 

「悪かったな、半年前に会った時は思い出せなくて」

「いや構わないさ。陽南が生きてただけでオレはいいんだ、親友」

 

 その言葉に裏表は一切ないのが伝わる。そう、鈴堂蘇芳はめちゃくちゃいいやつなのだ。

「ま、思い出してくれて嬉しいのもマジだけどな!」と背中を叩かれる。

 ──苦手、と言っても嫌いという意味ではない。その逆だ。いい奴だからこそ今の俺が親友面するのは気が引けた。何せこいつの妹には勘付かれているのだから。

 

「そういや、瑠璃(いもうと)とはまだギクシャクしてるのか?」

「ああ、まあ……」

「あいつもな〜、なんなんだろうな〜? 何が気不味いのかオレにはわからん」

 

 鈴堂兄妹は、妹の異常な勘とは対照的に兄の方は鈍かった。

 ……俺が気にしたって仕方がないな、と思い直す。厚意を無下にはするまい。

 

「というか、なんでここにいるんだよ大学生」

「今朝、妹が日課の水晶玉磨きをしている時に『今日は天文部に行くといいことがある』って言うから。来た」

「は?」

「瑠璃の言うことは大体当たるからな」

 

 理由になってないように聞こえるが、鈴堂としては筋が通った話だ。要はこの男、妹バカ(シスコン)なのだ。妹の言うことは大体聞く。いいやつだから昔から彼女が絶えないのだが、シスコンすぎてすぐに振られている。

 

「待て、水晶玉って何だよ。おまえの妹、魔女か?」

 

 咲耶でもしないぞそんなこと。あいつは多分水晶玉投げるタイプの魔女だ。

 

「あ、オマエ知らないのか。アイツ今、占い師(・・・)だぞ」

 

 そういえば、オカ研の部員名簿に瑠璃の名があったが……。

 

「──二年前。オマエが失踪した後、錯乱したアイツはスピリチュアルに傾倒してな……」

「俺か? 俺のせいなのか?」

「──だがアイツは天才だった。百発百中とは言わないが八十中はあった。天才中学生占い師となった瑠璃は『ちょっと天下取ってくる』と宣言し、恋占いで同級生たちから金を巻き上げ──結果、校則で占いが禁止された」

「なんて??」

「ちなみに天文部に入り浸ってた寧々坂って子も共犯だ」

 

 なるほどな、天文部の部室がオカ研に変わったのはその縁か……じゃねえよ。何やってんだあいつら。人の恋愛に茶々を入れるのが趣味の後輩(芽々)と人の恋愛で荒稼ぎする天才の後輩(瑠璃)、混ぜるな危険の組み合わせだった。

 鈴堂は得意げに顎に手をやる。

 

「いやぁ、我が妹ながら才気に溢れすぎてて怖いな! 流石だぜ」

 

 どうしようもないシスコンである。

 

「でも金を巻き上げるのはダメだよな! 我が妹、普通に怖いぜ……」

 

 訂正しよう。シスコンではあるが倫理観は真っ当な、いいやつである。

 

 

「まさか瑠璃が俺のせいでグレるとは……」

「まあオレも陽南がいなくなったショックで受験勉強に身が入らなかったが……」

「ごめんて」

「受験の直前にオマエが帰ってきたからなんか気合で受かったが……」

「なんなんだよ」

 

 こいつ俺のことめちゃくちゃ好きじゃん。親友かよ。いや、親友だったんだよな。思い出してなお実感はないのだが。

 

 俺が異世界に行ってる間になんか知らん歴史を紡いだ旧友と、思い出話で盛り上がる。気まずかったのは話しているうちに忘れた。二年の月日が空いても、鈴堂蘇芳の気の良さは変わっていなかった。

 鈴堂は昔語った通り、今も天文をやりながら教師を目指してるのだという。

 

「ま、折角先に大学生になったんだ。進路相談ならいくらでも乗るぜ。なんせ進路は同じだ」

「同じって……」

 

「オマエもなるんだろ? 教師」

 

 何気なく言われた曇りない信頼のそれに。

 目を逸らした。

 

「いや、俺もう白衣着たいと思わないし」

「なん、だと……」

 



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第六話 キャットファイトには向かない職業。

すみません、しばらく更新が不安定になります。


 

 文化祭準備の都合で、わたしが飛鳥よりも後に教室を出た時のことだった。わたしは隣のクラスの前の廊下で芽々に呼び止められる。

 

「すみません、その……この後、お時間ありますか?」

 

 いつもハイテンションに人を誘う芽々が、遠慮がちにわたしに言う。

 

「何かあったの?」

「えーと、脅されてます」

「!?」

 

 

 

 

「咲耶さんを連れてこい、と鈴堂瑠璃(るりさん)に脅されていまして」

 

 学校を出て。わたしたちの向かう先はファミレスだった。行き道、どこかくたびれた様子で芽々は言う。どうやら弱みを握られているらしい。

 

「正直〜、サァヤとめっちゃ相性悪そうなので会わせたくないんですけど〜」

「どんな子なの?」

 

 彼女と長い付き合いだという芽々は、彼女を表す言葉を「むむむ」と頭を悩ませ探す。

 

「……常温放置のハーゲンダッツバニラみたいな女?」

「わからないわそれ」

 

 芽々は言葉を選び直した。

 

 

「なんていうか、飛鳥さんにちょっぴし似てますね」

「どういう?」

 

「飛鳥さん、たまにすっごく見透かしてる時、あるでしょ」

「ああ……たまにね」

 

 基本ぼんやりしている癖に、時々妙に察しがいいのよね。そういう時、勝てないから困る。

 

 

「るりさんは常時(・・)です」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 鈴堂瑠璃という女には、唯人とは思えない噂が付き纏っていた。曰く、入試以来試験で一位を譲ったことがないだとか。曰く、あらゆる部活に顔が効き、次期生徒会長と目されているとか。曰く、放課後は占い師のバイトで荒稼ぎしているとか。

 昔のわたしが努力の末に手に入れた肩書が品行方正の優等生(偽)なら、彼女は文武両道、才気煥発、完璧超人(真)だ。……いや、最後のはわからない。急にオカルト?

 

「肩書きはただの箔です。るりさんの真髄はそこにありません」

「一種の霊感、といいますか……生まれ持った観察眼と直感と、共感覚。あのひとは人の感情が読めるんです」

 

 

「──鈴堂瑠璃は、〝天才〟ですから」

 

 

 芽々の前評判に戦々恐々としながらファミレスの自動ドアを潜った。呼び出した当の本人は、黒髪のサイドテールを揺らしながら席から大きく手を振っていた。立ち上がるなり、わたしの手をぎゅっと握って笑いかける。

 

「はじめまして、文月ちゃん! ずっとお話ししたいなって思ってたんだ!()のことは気軽に瑠璃さんって呼んでね」

 

 身構えに反して、出迎えたのは快活な笑みに友好的な態度の女の子だった。

 わたしは愛想笑いを返しながら、彼女を品定めする。

 少年めいた溌剌とした印象に対し、大人びた泣き黒子が対照的で目を引く。長い睫毛が影を作る切れ長の目は黒曜石のようにしっとりと、吸い込まれるようだった。大人と子供、少女と少年、陽と陰、それらすべての印象を混ぜ合わせて凍り固めたら、きっと〝鈴堂瑠璃〟は出来上がる。なるほどアイスクリームの喩えは的外れではない。

 

「芽っちも、連れてきてくれてありがとう」

「やだなー。芽々がるりさんに逆らえるわけないじゃないですかぁ……くそがよ」

 

 芽々の毒づきをさらりと回避して、茶目っ気たっぷりに鈴堂瑠璃は言う。

 

「それじゃ。堅苦しい挨拶は無しにして、まずは乾杯でもしよっか。ファミレスのドリンクバーだけどね!」

 

 ……わたし、この子のテンション苦手かも。

 

 

 不穏な芽々の言葉に反し、鈴堂瑠璃の態度はまるでただの「友達の友達を引き合わせる会」であるかのようだった。当たり障りのない世間話をしながらコーヒーを飲む。何が目的なのだろう? と社交用の笑みの裏で訝しく思う。

 アイスクリームをひと口掬い、鈴堂瑠璃は不意に目をじっ……と見つめて。わたしの心を読んだように、にこりと微笑んだ。

 

「ここ、センパイが昔バイトしてたファミレスなんだよね」

 

 ──その微笑みに、本能が警笛が鳴らした。世間話の延長線を装って、差し向けられた言葉には粘つく挑発の響きがあった。

 

「知ってるわ。来るのは初めてだけど」

 

 わたしは綺麗に外面を整えて、微笑み返す。

 

()はしょっちゅう行ってたけどね」

 

 一人称が切り変わる。同時に、冷房の強すぎる店内でじっとりと湿度が上がっていくのを錯覚する。

 

「何せ僕はセンパイの親友の妹で、一番の後輩だったわけだから」

 

 ……〝一番の後輩〟って何?? なに!?

 

 隣で芽々が死んだ目をしたのを見て、はたと我に返る。

鈴堂瑠璃相手には何を取り繕っても無意味、だったか。上等だ、向けられるのはわかりやすい敵意の方がやりやすい。わたしは他所行きの仮面を投げ捨てる。売られた喧嘩に札束を叩きつける。

 

「そう。でもわたし、今の飛鳥のバイト先は全部把握してるし?」

「そんなこと、僕も知っているよ。センパイの情報は余すことなく入手している。あらゆる伝手を使ってね」

「へぇ、ふぅん。シカトしてるくせに情報収集……へぇ〜。あなたって昔のわたしみたいね」

「ハハハ、そうだねぇ。ご同類というわけさ。……感情においても(・・・・・・・)、ね」

 

 それは涼しげな声音と裏腹に、どろりと耳に纏わりつくような声だった。舌にへばりついて取れないバニラアイスのような、いやらしい女の味。なるほど『僕』(こちら)が素か。

 わたしはコーヒーを啜り、慣れ親しんだ苦味で動揺を上書きする。

 

「わたしと同じ感情、ね。『あれはセンパイじゃない』と突き放しておいて。あいつが好きだとでも言うのかしら? 流行らないわよ、今時ツンデレなんて」

 

「え、サァヤが言います?」と隣で芽々が言う。うるさい。誰がツンデレだ。勘違いしないで欲しい。わたしはもう、あらゆる好意を全面的に出していく覚悟を決めた後だ!

 瑠璃は片眉を上げて、けれど微笑みを崩さなかった。

 

「そうだね。僕はセンパイを突き放した。……はっきり言って、恐怖している。怖くて近付けない。だってそうだろう? 僕はそっくり中身が別物になっているように見えるんだから」

 

 あの人はかつての『日南君』ではない。

 わたしがかつて長い時間をかけて理解したことを一瞬で看破した、病的な観察眼と直感。確かにそれは霊感としか喩えようがない。

 

 

「──でも愛している(・・・・・)。七年ずっと」

 

 

 甘く濡れた唇が、どろりと囁いた。ひやり、走る寒気の正体から目を背けられない。

 ──一番の後輩。その意味が『昔の女』であることをわたしは理解した。わたしへの敵意の正体は、彼への執着。

 

「だからセンパイのために悪い噂もこの手で収束させたしね。……君の評判は即ちセンパイの評判だから、そちらも纏めて処理しなければならなかったのは、甚だ不愉快だったけど」

 

 まともな学校生活など手に入らないと覚悟して復学したはずだった。片っ端から洗脳して黙らせるのにも無理があり、わたしたちは事態を放置した。なのに気付けば、悪意を向けられた覚えもなく、いつの間にか悪評は上書きされていた。……主に、安い色恋のゴシップに。

 そこに自分の作為があるのだと、彼女は言う。まるで世界を思い通りにできると思い込んでいるかのような、傲慢な目で。献身を武器として(・・・・・)振りかざす。

 ──ああなるほど。鈴堂瑠璃は、極めて性格が悪い。

 

 

 

「さて本題に入ろうか。今をときめく天才占い師が占った未来を、今だけタダでお出ししよう」

 

 目蓋を痙攣させたわたしを前にして。彼女は制服の懐からカードを一組取り出して、おもむろにクロスを広げたテーブルへと広げる。

 

「──センパイから身を引きたまえ、文月咲耶」

 

 縦長のそれは、占いに使うタロットだと思い当たる。

 かつて恋を忌避していたわたしは占いに疎い。けれどその種類や逆位置(さかさま)の不穏さくらいは理解している。

 

 カードを一枚、表に捲る。

 

「君、男をたぶらかす存在(モノ)だろう」

 

『恋人』の逆位置──さかさまになった恋人たちの絵が、責めるように差し向けられる。

 

「愛し方が一方的で重たい女だろう。わかるよ。見ればわかる」

 

『悪魔』正位置──捻じ曲がった角がやけに赤く、目に焼き付く。

 

「駄目にして依存させてすべてを手に入れてしまいたい性質(たち)だろう」

 

『節制』の逆位置──我儘を糾弾する声だけが耳に入る。

 

 

「──身を引いた方が、きっと愛だぜ?」

 

 

 最後の一枚は、『太陽』の逆位置──落ちる陽の意味など聞きたくもなかった。

 

 

 まるで正体を見透かすような図星を刺されて。テーブルの下、わたしはスカートを握って。笑った。

 

 

「あんたが、わたしの(・・・・)何を知っているのよ?」

 

 

 タロットの意味を思い出そうとするのはやめだ。わたしは魔女でも占いは信じない。そんなものに運命を預けたりしない。

 どうせこれはハッタリだ。多少の霊感があろうとわたしが魔女であることなど、芽々のように異世界に接続していなければわかるものか。

 これは魔女ではなく『文月咲耶』への追及。わたしの出自がろくでもないことは知っている人は知っている。少し漁れば出てくることだ。二年の失踪を抜きにしても、わたしは探られることに慣れている。

 名門旧家の養子など好奇の視線で見られる以外にない。そういうものをねじ伏せるために、

『完璧』の演技をし続けたのだから。

 

 けれど、わたしの強気に。

 鈴堂瑠璃は冷ややかな、すべてを見透かすような視線を差し向ける。

 

 

「君こそ……本当のセンパイを(・・・・・)知らないくせに」

 

 

 ──その言葉は、深く心の隙間に突き刺さる。

 心臓がずきりと痛みを主張する。

 

(……なによ。わたしだって飛鳥のことくらい知ってるもの)

 

 あいつは。

 隕石が好きで、スプラッタ映画が苦手で、朝は味噌汁派で、コーヒーには砂糖を四つ、納豆には絶対に辛子を入れて、朝がとびきり早くて、夏が好きで、わたしのことが好きで、一ヶ月半、もう一緒に暮らしている。今更、知らないことなんて。

 

 ……生い立ちすら、今朝初めて聞いたのに?

 

 ひやりと、心臓を撫でるような懸念が囁く。

 ──本当に、わたしは、あいつのことを知っているの?

 

 本当に?

 

 ぞくりと寒気がする。鈴堂瑠璃から向けられる視線の温度は敵意ではあったが、悪意ではなかった。彼女には言葉とは裏腹に、文月咲耶を貶める意図は少しもない。ただ、彼のために言っているのだと、気付いて。

 

 怯えた。

 

 ──一瞬前まで、なんでも知っているつもりになっていた、自分自身の傲慢に。

 

 

 

 追い討ちを仕掛けるように淡々と瑠璃は続ける。

 

「ここ最近、特にセンパイの様子がおかしい」

「いや、ひーくんはいつもおかしくない?」

 

「感情の色が異様に不安定で……」

「それ浮かれてるだけでは? ひーくんアホですよ」

 

「……芽っち、ちょっと黙ってくれる?」

「やだ」

 

 ニコニコと、瑠璃の向かいで芽々は言う。

 

「るりさんがサァヤをガン詰めするのはフェアじゃないでしょ。芽々、流石にもう我慢できません。てゆかるりさんなんでひーくんに会ってないのに様子知ってんの? キモ」

 

 笑顔の罵倒にピシリと瑠璃は固まり、食ってかかった。

 

「君は誰の味方なんだよぉ!! 僕の親友だろ!?」

「親友だったんです? マジ? 知らんかった〜」

 

 ……なんだか、わたしを置きざりにして急に雲行きがおかしくなってきた。

 

「るりさんさぁ。感情読めるって言うけど自分に向けられる感情は全然読めてませんよね」

 

 ばっさりと切り捨てる。先程から不満げに一部始終を見ていた芽々は、ちっとも笑っていない目で。

 後方射撃(フレンドリファイア)に瑠璃は撃ち抜かれてぽかんとしていた。先程までの恐ろしいほどの冷淡さは影も形もない。

「ちなみに」と芽々はメロンソーダのストローをくるくる回す。

 

 

「──芽々はひーくんの味方ですよ。この場では、ね」

 

 

「えっ」

「え?」

 

「言ったでしょ。芽々は、昔の陽南先輩は苦手だけど今の飛鳥さんは好きって」

 

 そしてにこやかに。追撃をかました。

 

「当の本人がいないところで相手のためとかちゃんちゃらおかしいですねっ。ウケる。ツンデレっていうか二人ともヤンデレストーカーじゃん。芽々ドン引きなんですけど。争いは同レベルでしか起こらないんですね〜?」

 

 わたしたちは二人とも絶句する。

 

「ヤンデレストーカーって……失礼だな! センパイが今どこで何をしてるかなんて知らないよ僕は!」

「わたしだってまだ位置情報とか把握してないわ!」

「……把握したいと思ってるんですか?」

「うっ」

「ぐっ」

 

 芽々の言葉を否定できずに二人してテーブルに沈没した。

 ……正直したいです。あいつがどこにいるのかを手に取るように知りたい。きちんとこの世界に存在していることを一分一秒違わず確認したい。今日もちゃんと生きてる〜! って感動に浸りたい! 多分、そういうところが気持ち悪いんだと思います……。

 

 しらけた顔の芽々がスマホをタプタプと打った。

 

「『ひーくんへ。今日もサァヤがあほです』と。……既読つきませんねー」

 

 ──あれ? でも。もしかして、頼めばいけるんじゃないかしら。「ああ、友達の位置情報を知ってるくらい今時普通だよな」とか甘いことを言ってくれるような気がしないでもないというか。いけるわ。盗撮許可(常識的な内容に限り)もくれたし。

 

 

「ふ、ふふふ……そうよ。同レベルでもあんたに負けないわ!」

 

 わたしは瑠璃より僅かに早く、復活する。

 たとえおまえが昔の女でも、こっちはストーカー(公認)なのだから!!

 あと、胸の大きさとか。とか!!

 よろめきながら起き上がる瑠璃(どうるい)に、びしりと指を突きつける。

 今更、わたしたちの関係を外野に何言われたって、構うものですか。

 

「ええ、そうよ。あなたの言う通り、わたしは正直悪い女よ。あいつのためなら手段を選ばないわ。その結果、間違えることも傷付けることもあるでしょう。いいえ、あったわ。……きっとこれからもある。だとしても」

 

 間違えたその時は、止めてくれる。

 

「あいつは、わたしなんかに、絶対に負けない(・・・・・・・)のよ」

 

 

 鈴堂瑠璃は目を閉じて。

 

「それが、君の答えか」

 

 ──黒々と、深く、人を見透かす眼を開いた。

 

「……信仰、盲目、偶像視。よくないね。君の感情は、歪だ」

 

 常人には見えない何かを見て、他人に詳らかにされてはならない感情の深部に、易々とナイフを入れる。

 

 

 

「──君たちのやっているそれは、本当に恋愛なのかい(・・・・・・・・・)?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 気が付けばわたしは伝票を奪って、全員分の会計を支払い、外へ出ていた。

 はっと我に帰っても頭の熱は冷めない。

 やらかしたと思う。思うけれど、何に怒ってしまったのかも思い出したくなくて、わたしは反省をしないことにした。

 

 ──人を信じることの何がいけないというのだろう?

 

 確かに、わたしはあいつの「本当」を知らない。だとしても少しずつゆっくりと知っていけばいいだけの話だ。時間ならばあるのだから。

 そう、理屈ではわかっているのに。何故か彼女の言葉の破片が胸に突き刺さったまま、胸騒ぎがして仕方がない。

 彼に送ったメッセージに既読がつかないことに一抹の不安を覚えながら、わたしは足早に家に帰る。

 

(……そうよ。こんなのは杞憂だわ)

 

 空が落ちてくるのを心配するかのような、愚かな危惧だ。そうでしょう? と確かめるように空を見上げる。

 けれど月は雲間に隠れて見えず、天はわたしに味方しない。

 

 

 

 

 電話がなる。

 

「飛鳥?」

 

 返事が、ない。

 

 

 

 ──その日の夜、わたしたちの夏休みは終わりを告げた。

 



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第七話 ずっとこうしたかったの。

再開します。

【前回までのあらすじ】
夏休みに同棲してイチャついてたら、昔の親友に遭遇したり、昔の女に圧かけられたりしてなんか不穏になった。




 

 俺が鈴堂(あに)と別れた頃には夕方になりかけていた。予定があったというのにすっかりと話し込んでしまった。

 予定こと墓参りに向かう。今日から盆入りだ。季節の行事は暦通りこなしたい。そういうことがきっと、現世の暮らしを思い出すということだからだ。……まあ、こんな時間に行くのは作法がなってないのだが、その辺は雑でいいだろう。

 墓地は元実家の近くにあった。更地の前を寂寥と共に通り過ぎ、向かう。

 軽く掃除を終えた後、墓前に激辛のカップ麺と共に近況を供える。

 

「そういや今日、鈴堂に会ってさ」

 

 かつての親友である鈴堂はよく家にも遊びに来ていたのだ。

 ──現世(こちら)に帰ってきて昔の友人とは縁が切れた中、今でも変わらず接してくるのはただ一人、鈴堂蘇芳だけだ。芽々? あいつは逆に昔より懐いた。変な奴だ。

 ふと、鈴堂の言葉を思い出す。

 

『おまえもなるんだろ? 教師』

 

 あの時は曖昧に返答したが。正直──今の俺は少しもなりたいと思えなかったのだ。かつての夢だったというそれに対し、なんの興味も湧かない。

 二年の月日が経っても、旧友は昔と何も変わっていなかったが。

 

「……やっぱり、変わってしまったんだな。俺が」

 

 いや、辛気臭い話を墓に供えても仕方があるまい。湧き上がった感傷を(・・・)切り捨てる(・・・・・)。こういうのは問答無用で「元気でやっている」と伝えるのが孝行というものだ。

 

 

 そうして、二年と半年分の近況報告を済ませた頃には、日が沈んでいた。薄暗くひと気のない夜の墓場は空気が冷ややかで、いかにも何かが出そうだ。ホラーは苦手とはいえ盆に死者の霊が帰ってくることは普通なので、まあ怖くない。

 が、長居する理由もないだろう。

 

「……帰るか」

 

 立ちっぱなしで固まった身体を伸ばして、微妙に治りきっていない前回の怪我が目に入る。腕の絆創膏が剥がれかかっていた。面倒になって剥がすと、血が滲んだ。

 左腕の傷は一ヶ月経ったというのに、やたらと治りが遅かった。魔王のことだ、攻撃に不治の呪詛でも混ぜていたんだろう。異世界(むこう)では同僚がすぐに治してくれるから、傷口に聖剣突っ込んで強引に解呪できたんだが。今それやると腕千切れるからな。本末転倒だ。

 まあさして痛むわけでもなし。それより気がかりなのは異世界製の右腕の方だ。最近調子が少しおかしい。もしや故障だろうか? それは困る。捕えた魔王から手がかりを何も引き出せていないのに、最大戦力を失うわけにはいかない。

 

 ……まあ、正直。理屈を抜きにすれば、「壊れてもいいか」と思ってしまうのだが。

 ぶっちゃけ聖剣は普通に生きるには邪魔だ。それに、彼女にとっても。

 前回の戦闘で、聖剣に触れた咲耶の手が焼けたのをよく覚えている。今は綺麗に治っており、当人もちっとも気にしていない。

 ……だが、手を繋いだ時に気付いてしまったのだ。見た目は変わらない彼女の手のひらは、今、怖いくらいに薄く柔らかくなっていて、けして元通りになったわけではないということに。

 ──俺が彼女を傷付けられる、という当たり前の事実に。

 罪悪感で死ぬかと思った。

 咲耶も聖剣のことを口では「慣れた」と言い、平然とした顔で日常生活を送ってみせるが。

 あいつは演技がうまいことを俺は忘れたわけではない。

 魔女としての本能が触れることを忌避しているのだろう。咲耶は俺に過度に近付くことはなく、手を繋いだのさえこの一ヶ月で一度だけ(・・・・)。──言葉だけやけにじゃれついてくるのは、その反動か。

 精神的な距離はともかくとして、物理的な距離は以前よりも開いてしまった。

 一緒に暮らすようになったからこそ『これ以上は近付けない間合い』というものが可視化される。並んで座るソファの、ぽっかりと空いた間が。半メートル──一歩(いっぽ)分の距離は意外と遠いのだ。

 せめて取り外せれば良かったのだが。その権限は(・・・・・)持ってない(・・・・・)

 ……仕方がない、よな。

 咲耶に『今から帰る』と連絡しようとし、携帯端末(スマートフォン)を取り出して。

 ──指先が軋み、それを取り落とした。

 

 落下した先、画面が墓石にぶつかりバキリと音を立てて割れる。右腕は油の差していない機械のようにうまく動かない。

 

「やっぱ壊れてるだろこれ……」

 

 懸念が増えたことに頭を痛めながら、割れた端末を拾い上げ。

 直後、思い出す。

 ──かつて魔女が、右腕(これ)を壊すために大仰な呪いを編んだことを。そしてその呪いさえも、聖剣はあっけなく修復したことを。

 聖剣は(・・・)そもそもが(・・・・)不壊である(・・・・・)ことを(・・・)

 何故今まで気付かなかった。いや、気付かぬように刷り込まれていたのだ。精神操作の機能で。

 

(動作不良は、壊れてるんじゃない……)

 

 使用権限に(・・・・・)干渉されている(・・・・・・・)外部(いせかい)から。そのことに思い至ったのは、決定的な変化を感じ取ったからだ。

 仮説が証明されるのは僅か一秒後。異世界の言語と鈴の音の声が脳に、響く。

『管理者権限承認。転移座標固定完了。霊子変換術式起動。祈りの詠唱を開始します。──しばし其処にてお待ち下さい。動かずに(・・・・)

 聖剣からの精神干渉。抵抗も虚しく、久々に味わう洗脳の不快さに視界が眩む。景色は墓場のまま、辺りは異界のように静まりかえり、空間の座標がずれるのを肌で感じる。魔術による結界だ。

 

『──我らが亡き主よ、(ことわり)の改変をお許しください。これより(うた)うは彼岸と此岸の橋渡し。霊たる我が身の道行を照らしませ』

 

 聞こえる詠唱は魔女のそれとは文脈が異なる。詠唱──人類側は〝(あく)の法〟とは呼ばず祈りによる神の奇跡と区別するそれ。だが実情は同じ、クソ忌々しい魔術(のろい)でしかない。

 ──そして、墓石の上に。透ける幽霊のような童女が降り立った。

 肩口までの短い銀髪の、幼い少女の姿形。その装束は巫女のようであり修道女のようであり従僕のようでもある。齢十つ程に見える、少女の指先と裾の下からあらわになった両脚は、すべて白銀に輝いていた。銀の指先で服の裾を持ち上げその小さな頭を下げる。

 

 

「再び相見えることができて光栄です。祈りの(さかずき)(あがな)いの柱。器の中のただおひとり──我らが救いの勇者様」

 

 生気のない青の瞳がこちらを空虚に捉える。

 

「蒼眼式十三号・生体人形兵【聖女】。使命を果たしに参りました」

 

 ──人類とは即ち、『人に類いするモノ』である。

奇跡(まほう)によって作られた機械人形に守られ運営されている人類最後の都にて、人間(ひと)人形(キカイ)の主従は逆。

 心ない人形たちこそがかの世界の〝人類代表〟であり、勇者を造り出した奴らであり。眼前に立つ少女こそがかつてのただ一人の同僚──〝聖女〟の人形だった。ただし、顕れたその姿は幽霊のように半分透けていた。

 かつての同僚を前にして問う。

 

「……なんで来れる」

 

 第一原則として異世界のモノは現世に来られない。触媒となり得た芽々の瞳も、今は正常に戻っている。こちらには異世界の何かを呼び出すモノはないはずだ。

 

「聖剣です」

 

 銀の少女は感情のない声音で答える。

 

「ご存知ありませんでしたか? 『聖女』は聖剣の使用権限を有する個体。聖剣を媒介に霊体のみならば転移が可能です。……接続に一六八日かかりましたが」

 

 

 ……あったわ触媒。俺のせいだわ。

 異世界から逃げるために聖剣をパクったというのに、聖剣がある限り異世界からは逃げられないとは。ハメ技か?

 

「……目的、は聞くまでもないな」

「はい。果たすべき使命はただひとつ。──聖剣の返還を」

 

 その言葉を聞き終える前に。俺は逃げ出した。

 

 会話の間に『動くな』という指令(せんのう)はレジストした。人類の精神操作は魔女ほど強くはない。自我さえしっかり保てば抵抗できる。

 だが、聖女に対抗することはできない。勇者は人類に危害を加えないよう、聖剣を通して強い制限(・・)が課されている。つまり──俺は元同僚に攻撃ができない。

 取るべき手段は結界外への逃亡しかなかった。異世界の住人は現世の秩序(ルール)に反しすぎると強制排除されかねない。聖女とて、人目あるところでは何もしかけてこないはずだ。

 そして彼女(・・)の援軍を待つしかない。「はいはい汝は竜、わたしの味方。ちょっと人類裏切って」という魔女の雑な支援魔法(エンチャント)さえあれば、同士討ちの制限も取っ払える。

 割れた画面をなんとか操作して電話をかける。ワンコールで繋がった。

『──飛鳥?』

 だが事情を説明する間もなく。

 聖女は杖を取り出し、その先に光が収束し始める。

 

「……げっ」

 

 その杖は魔術(奇跡)を増幅し高出力で発射するための装置──すなわちビーム兵器である。

 ──ビームはズルだろ! 俺だって欲しかった!!

 避けられない。迫りくる光の束に飲み込まれ後ろへと吹き飛ぶ。意識が一瞬途切れた。とはいえ所詮は魔術であり、聖剣は起動しないが右腕である程度相殺できる。

 それでも吹き飛ばされるとダメージは受ける、はずなのだが。

 まったく痛くないどころが……見れば、元々の怪我まで治癒していた。

 放たれたのは攻撃ではなかった。

 

「回復術……?」

 

 何故、(オレ)にそんなものを?

 聖女は答えない。少女の両腕には、いつの間にか、見覚えのある剣が抱えられていた。

 遅れて気付く。右腕がない(・・・・・)

 

 聖女はこちらに背を向ける。半透明の身体が更に透け始める。

 

「使命は果たしました。貴方の裏切りは不問と致し、以上をもって任を解きます。

 ──さようなら、勇者」

 

 その言葉を最後に、墓場から少女の姿は消失した。

 唖然とする。

 

「……まじかよ」

 

 握り締めた通話中の端末から咲耶の声がする。

 

『ねえ飛鳥、ねえ、何も聞こえないんだけど!? 何があったの!?』

「聖剣取られた」

『……ハァ!!?』

 

 冷や汗がものすごい勢いで流れ始める。

 ……いや、どうするんだこれ。

 

 

 ◇

 

 

 聖女は一切余計なことはせず、やるべきことだけやって消えた。早業だった。無駄がなかった。

 流石は元同僚。異世界人類、合理的だ。いちいち無駄なことを喋りすぎる魔王も見習った方がいい。

 しかしサッと来てサッと奪ってサッと帰るとは……。奇襲はやるのはいいが受けると本当に困ることがわかる。大仰に宣戦布告をする魔王側は親切だったんだな……。

 などと、動揺する頭で考えるが。

 ──ひとつ確かなのは。俺が、負けたということだ。

 

 事態を把握するなり、咲耶は魔法でこちらへと飛んでくる。代償(コスト)は高いが市内かつ夜であるならば転移できた。

 

「……っ」

 

 墓場の側の曲がり角。咲耶はこちらを目視し、無言でつかつかと詰め寄る。

「ごめんしくじった」と言おうとして。どん、と胸を叩く衝撃が来る。飛び込んできたのだ。

 あまりの勢いに、急に軽くなった身体では受け止めきれず、後ろに倒れ込む。アスファルトに腰をつく。

 ──ああこれは怒られるな。何油断ぶっかまして負けてやがる、って。

 けれど彼女は無言で、俺の身体にしがみついたまま。

 

「……咲耶?」

 

 息遣いが、服の上から伝わる。

 

「わたし……」

 

 両腕は力一杯、こちらを抱きしめていた。

 

 

「──ずっと、こうしたかったの!」

 

 

 その声は予想外に甘く、半泣きの火照った表情に目を見開く。

 あまりに場違いな反応に、苦笑いしか出なかった。

 

「……なんだよそれ。はは……」

 

 ああ、うん。ろくに抱きしめることもできなかったもんな。今までずっと。

 

 抱き締め返した。馬鹿みたいだった。

 何をやっているんだ、と思った。

 怪我の功名を喜べるほど頭が沸いてはいないが、無下にできるほど賢くもなかった。

 彼女の目を見る。ひどく冷めていた。ふざけてなどいなかった。「謝る必要なんてない」とその目が言っていた。それよりも言うべきことがある、と。

 

 腕が離れる。腕を離す。

 

「状況は悪いな」

「舐められたものね」

「でも」

「ええ」

 

「たいしたことじゃないな」

「たいしたことじゃないわ」

 

 ──そう、これは少し早く、休暇が終わっただけのこと。やるべきことができたというだけの話だ。

 

 ただ。

 

「悪い。海、行けそうにないな」

 

 明日の約束が果たせなくなったこと、それだけが心残りだった。

 



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第八話 抱きしめるには少し足りない。

 

 ──これは昔の話だ。

 

 両親は事故で、俺を守って死んだらしい。

 

『ウチは早逝の家系だからね。うっかりしてると死ぬよおまえ』

 

 早逝と言っても身体が弱い、というわけではない。一族郎党親譲りの無鉄砲で気付けば怪我ばかりしている。おかげで妙に親戚が少ないのが陽南家だった。どんな家系だ。

 育て親である祖母は蓮っ葉で、自分じゃでかいバイクを乗り回すくせに『おまえは絶対に乗っちゃいけないよ。ボサッとして落ちるからね、崖から』と口を酸っぱくして言った。

 幼い俺は頷きはしたものの『大きくなったら絶対に乗ろう』と思っていた。だって格好いいし。子供は親の言うことを聞かないものだ。

 しかし年の功とは言うもので、予言通り俺もうっかり死にかけてばかりいる。免許はもう諦めた。せめてもの親孝行だろう。俺は徒歩で生きていく。

 

 とはいえ、親がいないという生い立ちに鬱屈した覚えはないのだ。それなりに不自由なく育った自覚がある。恥ずかしげもなく自己言及をするなら、愛されて育ったはずだ。

 だが「一人だけ生き残った」ということには、思うところがあった。

 

 ──守られて生き残ったからには、庇われて生かされたからには。その分の価値(・・)を示さなければならないのではないか。

 

 ──俺は、俺の人生をちゃんと使わねばならないのではないか、と。

 

 分別と同時に得たその疑問に、祖母は答えた。

 

『そうさね、なら。おまえは精々正しく生きなさい』

 

 ──正しく生きるとはどういうことか。

 

『死ぬ時に「良い人生だった」と笑えることさ』

 

 ──ならば両親も、死ぬときに笑ったのだろうか。

 

『笑ったさ! 大事な子を守れた親が、笑わないわけないだろう!』

 

 そう言って、祖母は大きく笑った。

 

 きっとそれは綺麗事で欺瞞だったろう。可愛げのない子供だった俺は、自分で言わせておきながらその気休めを信じちゃいなかった。

 けれど気休めに価値がないかといえばそうではなく。おかげで十六年(・・・)、自分一人生き残ったことに疑問を抱いたことはない。

 

 その祖母も、中学の卒業前に他界した。無鉄砲に崖から飛び降りて。

 海で溺れた知らない子供を救うために。

 やはり陽南の人間はそういう星の(もと)に生まれているらしい。どうしようもねえ。そのうち絶える。

 だがきっと、祖母も笑って死んだのだと思う。だから俺は不謹慎だとしても、葬式で笑い転げることにした。

 

 それがきっと「正しい」ことだから。

 

 

 ◇

 

 

 

 聖女の襲撃の後。元同僚は既に去り、夜の墓地には当然のようにひと気がない。

 計画的犯行による鮮やかな聖剣奪取は逃亡まで鮮やかだった。

 家に帰るまでが遠足だからな。現世(いえ)に帰っても俺たちの異世界召喚(えんそく)が終わらないのはなんなんだろうな。

 

「咲耶、」

 

 俺は地面に腰をついたまま呼びかける。

 

「そろそろ離してくれるか」

 

 咲耶は再びしがみついたまま離れようとせず、そのまま数分が経過。俺の胴に顔を埋れさせたまま「いや」と首を振る。

 

「暑い……」

 

 気持ちはわかるが、流石に汗ばむというかなんというか。咲耶は俺の胸元で「すんっ」と鼻を鳴らした。

 

「嗅ぐな!!」

 

 頭を鷲掴んで引き剥がす。「いやぁぁ」と情けない悲鳴。

 

「おまえ、恥の概念を知らないのか!?」

 

 引き剥がされた咲耶は、不満げにむっとして。

 

「好きな人の匂いは、嗅ぐでしょう? 常識よ。何も恥ずかしくないわ」

「開き直り方がおかしい」

 

 

 

 そちらが常識を騙るならばこちらも常識を問おう。

 

「いいか咲耶。墓場で睦み合うのは、不謹慎だ」

「……それはそうね」

「あとここ俺ん家の墓の前なんだけど。今、盆なんだけど。多分見られてんだけど、親に」

 

 咲耶はサッと青ざめて俺から離れる。うっかり魔法の実在する異世界なんかに行ってしまったので、俺たちは霊的なアレソレに対して割と信心深い。

 慌てて墓にしどろもどろの挨拶を始めた咲耶を横目に、本当になんなんだこいつ……と思いながら立ち上がろうとして。

 

「っ、と」

 

 足元がふらついた。遅れて原因を理解する。

 そういや腕、なかったな。

 上着の右袖が目に入る。二の腕から先の中身がない。今更愕然とはしないが、まあちょっと凹む。

 気付けば咲耶がこちらを見ていた。何か言いたげに口を開いて、躊躇うような間を挟んだあと。

 

「いい加減、責任の所在を明らかにしたいと思うのよ」

「責任? なんの?」

「その、腕の」

 

 そういや経緯を聞かれたこともなければ言ったこともない。

 

「回復魔法ってたしか、千切れたくらいは治せるのでしょう?」

 

 そうだな、と同意する。同僚であった聖女は優れた回復術の使い手だった。俺が人間の身で竜と渡り合って死なずにいたのは、彼女の功績が大きい。

『絶え間なくヒールかけてたら実質不死身ってほんとチートよね。わたしの再生より早いっておかしいでしょ……』とかつて魔女は散々ぼやいたものだ。おかげで俺は無傷で勝つのが不得手なままなのだが。

 実のところ俺は、咲耶の死に癖のことをとやかく言えない。彼女が自爆しか知らない魔女なら、俺は特攻しか知らない勇者だ。どっこいどっこいで最悪である。

 ──だが、その優れた回復術も無いものを生やすまでは不可能だ。

 

「治らなかったってことは……竜に、食われたんでしょう」

 

 咲耶は、暗い表情で確信的に問う。その様子にようやく「責任の所在」という言葉の意味を理解する。

 

「おまえ……まさか自分のせいだ(・・・・・・)と思ってる?」

 

 咲耶は図星という顔を取り繕わなかった。

 なるほど。あの世界の竜は魔王以外皆、魔女の血を飲んでいる。つまり使い魔だ。指揮権は魔王に奪われていたが、定義的には竜は皆、魔女のしもべである。真面目すぎるきらいのある彼女のことだ、配下のやったことは自分の責任だとでも思っているのだろう。

 俺は深々と溜息を吐く。

 

 

「その上で今まで一切触れずにいたのか!? バカだな〜!!?」

「……ハァ!? なんでバカ呼ばわりされなきゃいけないの!?」

「いや、事情も知らないのに思い詰めるのはバカだろ! 聞けよ直接!」

「聞けるわけないじゃない!」

 

 咲耶は自分の三つ編みを不安げに弄ぶ。

 ……当たり前だ。気安く話をできるようになったのはここ二、三ヶ月の話だ。隠し事はしないと約束した今でも、お互い言いたくないことには踏み込まない暗黙の了解がある。馬鹿は俺の方だった。

 

「あー、うん。心配かけてごめんな。実はさ──」

 

 

「忘れた」

 

「嘘でしょ」

 

 

「いや、ごめんマジ。マジで覚えてない」

「…………」

「言ったじゃん、元々異世界(むこう)のことはあまり覚えてないって……」

 

 認識としてはある日目が覚めたら右腕が聖剣だったという感じだ。いつから、というのは流石に認識しているのだが。腕無くしたからって勝手に変なものくっつけるのやめてほしいよな。普通に怖い。

 咲耶は額を押さえる。 

 

「だから何も言わなかったのね……」

「ぶっちゃけ言うのも忘れてたよな」

 

 なにせ二年も前の話である。その辺の割り切りはとっくに済ませたつもりだ。

 だから、まさか彼女がそんなことを考えていたとは、つゆほども思わなかった。

 

「大丈夫、おまえは関係ないよ」

「それって、どういう……」

 

 話を遮る。

 

「それよりだ。いつまでも墓にいるのはやめようぜ」

 

 地面に放り出された荷物を拾う。これからの話は帰ってからだ。

 

「ねえ。……肩とか、貸すけど」

 

 遠慮がちに声が聞こえる。咲耶の表情はまだ硬い。さっきふらついたことを心配しているのだろう。重心を取り損なっただけなのだが。

 鞄を背負い直す。地面を蹴り、足元を確かめる。身体の調子自体は回復魔法を食らったせいか、むしろいい。

 

「いやぁ身体が軽いな! 物理的に」

「……不謹慎なのよあんたは!」

 

「あー、もう! 心配したわたしがばかでした!!」と、咲耶はやけのように言って、ようやく肩の力を抜く。

 まあしかし。心配というものも無碍にするには安くはない。折角だ。肩を貸してくれるというのなら少しだけ。

 咲耶の肩を抱きよせ、そのまま頭をわしわしと撫で回す。

 

「わっ急に撫でるな! もうっ」

「いいだろ。ずっとこうしたかったんだよ俺も」

 

 手を離す。

 咲耶は髪をぼさぼさにしたまま、ようやく、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。

 

 

 

 

 帰り道。夏の夜は少し濃い。彼女の隣で平静を装ったまま、重く湿った空気を肺の奥まで吸い込む。

 

 ──割り切りは、済ませたつもりだった。

 

 身体には熱が残っている。先程まで彼女が抱きしめていた熱が。

 念願はようやく叶った。けれど、両腕で抱きしめることは叶わないのだと今更気付く。

 あまり笑えないな、と思った。

 

 心臓はずっと煩い。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日午前。場所は咲耶の部屋。

 咲耶のセンスは服以外は大人しく、部屋の内装に尖ったところはない。小綺麗で空間が余り気味、しいて特徴を言うならベッドが大きめなことくらいだ。

 だが今。その部屋には明らかな異物──即ち、ホワイトボードがあった。

 

「作戦会議を始めるわ」

 

 咲耶はホワイトボードの前で腕を組む。

 

「いや、なんであるんだよ白板」

「あんたがもう学校で変な話をしたがらないように買っといた。通販で」

「天才じゃん」

 いいよなホワイトボード。なんか捜査本部みたいで。

 しかして咲耶が白板にちまっとした綺麗な字で「作戦会議」と書くのだが。俺の隣にはちょこんと正座した芽々が、冷たい麦茶を啜っている。

 

「……なんで芽々がいるんだ?」

「手伝いに来たんですけどぉ!?」

 

 咲耶が言うには、電話で一部始終を話したら「また厄ネタ異世界!? 海中止!? クソ現実!!」と叫んだ後、そのままやって来たという。

 

「ありがたがってください」

「芽々最高。寧々坂大明神」

「ありがとう。大好きよ」

 

 ふふん、と芽々は眼鏡を押し上げた。

 咲耶って女にはすぐ好きって言うよな。いいけどさ。

 

「芽々的にはホワイトボードよりも、サァヤの格好の方が気になるのですが……」

 

 咲耶の格好を見る。髪型はここ最近お決まりの、長い一本の三つ編みだ。以前褒めて以来、咲耶は三つ編みにすることが多くなったような気がする。いや、自意識過剰だな。単に夏だからだろう。

 しかしいつもと違うのは服装だ。露出度が高いのは夏仕様で諦めるとしても。

 何故か、上に白衣を羽織っていた。

 

「なんでだよ。格好いいけどさ」

 

 清廉潔白なおかつ知的な雰囲気を漂わせ、きりりと咲耶は答える。

 

「衣装は精神、ひいては魔法の出来に影響を及ぼすわ。この格好は魔法のために必要だからよ」

「でも白衣て、オカルト感減りません? 魔法の出来良くなります?」

 

 真顔で腕を組んだまま、咲耶は。

 

「わたし実はオカルトそんなに好きじゃない」

 

 根本をひっくり返した。

 

「魔女なのにです!?」

「別になりたくてなったわけじゃないし。むしろちょっと苦手なのよね、占いとか占いとか占いとか」

「あー、昨日のトラウマですか」

 

 何かあったのだろうか。……もしや瑠璃か?

 

「わたしは正直、魔女よりもマッ……」

「咲耶、それ以上はいけない」

 

 止めにかかる。マッドサイエンティストになりたかったとか俺の古傷を抉るようなことを、言ってはいけない!

 だが間に合わなかった。

 

 

「マッドサイエンティストの方が──推せない?」

 

 

 ……うん? 

 咲耶は真剣な顔で、思案げに呟く。

 

「ていうか単に、白衣と眼鏡が似合う人が、好き?」

 

 こちらをじっと見つめてくる芽々。

 

「ちょっと失礼します」

 

 芽々は咲耶の白衣をスルスルと脱がせた後、自分の大きめの伊達眼鏡を外した。そして、その眼鏡をスッと俺にかける。

 

「コラ」

 

 そのまま奪った白衣をふぁさ……と肩にかけてくる。

 

「遊ぶな」

 

 芽々と咲耶は顔を見合わせ、パァンと手を打ち鳴らした。

 

「Tシャツがエビじゃなければ舌噛んでたわ」

「ひーくん一生変な服着てろです」

「なんなんだよ」

 

 

 

 装備返却。無駄話もそこそこに。真面目に、今後の方針を協議する。

 

「聖女はもう異世界(むこう)に帰ったと思うか?」

「いいえ。霊体だけの転移とはいえ、簡単に世界間の行き来はできないわ。痕跡も確認したし、まだ現世(こちら)にいるのは確定」

 

 まだ取り返せる、か。挽回はここからだな。

 

「くっ、わたしがストーカーであれば襲撃に間に合ったのに……!! こんなことなら飛鳥の位置情報盗んでおくんだった……!」

 

 こいつ何言ってんの? 

 

「やっぱり時代はストーカーじゃない?」

「世紀末か?」

 

 明後日の苦悩に走る咲耶は横に置いておく。白衣を着ても知性は上がらないことが証明された。

 要は聖剣の再奪取がしたいのだ。いずれ捨てるとはいえ、あれはまだ必要だ。

 魔女の呪いを解く方法──まだ魔王に吐かせられていないが──解呪方法に魔法(のろい)を断つ剣である聖剣が無関係とは考えられない。

 戦力的にも勿論、本当に全部が終わるまでは、手放すわけにはいかないのだ。

 

「てゆか。そんなあっさり外れるものだったんですね(ソレ)

「無理矢理ぶっ壊そうとしたわたしって一体……」

「おまえ魔女っていうか時々蛮族だよ」

 

 つまるところの方針は『異世界に帰られる前に聖女をとっ捕まえる』なのだが。

 

「魔法案件なのよね、これ」

「だろうと思って芽々、助っ人に来ました」

 

 なるほど、魔法については俺よりも芽々の方が、使えないとはいえ詳しい。

 はた、と気付いた。

 

「……俺、やることは?」

「ない」

「ない!?」

「だって今、正真正銘に普通の人間じゃない。念願叶って。おめでとー」

「全然めでたくねえ!」

 

 実は俺は荒事にしか能がなく、その能も取られているのが現状だった。聖剣がなければただの人間。念願叶うにも適切なタイミングというものがあり、その辺を読まない異世界はクソ。

 落ち込んできたな。

 

「まあまあ気にしないの。大丈夫よ。その時になったら頼るから、ねっ」

 

 フォローまでさせた。ダサすぎて死にたい。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 戦力外通告の後、電話がかかってきた飛鳥は部屋から離脱する。

 途端、芽々が急に真面目な顔でわたしに耳打ちした。

 

「……大丈夫なんですかあれ? あの人、寝てません(・・・・・)よね(・・)?」

 

 目敏いな、と思う。確かに今日は隈が濃い。芽々はぶつぶつと呟く。

 

「飛鳥さん、結構メンタル弱いですよね。なんかあったら窓から飛び降りようとするし川に入水しようとするし切腹未遂(ミス)るし……」

「ええと。それは『弱い』じゃなくて『変』だと思うのよわたし」

 

 困るよね、人間初心者の奇行と情緒バグ。

 

「寝てないのは『聖女と生身でやり合うシミュレーションを脳内でやりながら筋トレしてたら夜が明けた』って言ってたわ」

「…………バカなんですか!!?」

「そうよ」

 

 あいつ、脳筋だからね。「筋肉はすぐ裏切るから嫌いだ」って認めようとしないけど。 

 

 ……芽々の言う通り、様子がおかしいのは確かだ。

 昨晩、長く抱きしめていた時に鼓動を聞いていた。やけに早かった心音が、浮かれた理由でないことくらい察している。

 強さに拘るあいつは無力感に弱い。そうでなくても、人間は突然腕を奪われて平然としていられるものじゃない。たとえ取り繕ってもお見通しだ。

 でも。

 

「大丈夫よ。この程度で揺らいでいたらわたしたち、とっくに死んでるわ。むしろよかった(・・・・・・・)と思ってるの。あいつが真っ当に動揺していて」

 

 なにせあいつはちょっと前まで実家が更地になったことにすら大爆笑していたやつだ。

 あの頃に比べれば落ち込むくらい、随分人間らしくなったと言っていいだろう。それについては、わたしは本気で祝う気でいる。

 だからこそ。

 

「最短で解決してみせるわ。それで夏休みの続きをしましょう。わたし、諦めてないから」

 

 芽々は、ぱちぱちと目を瞬いて。

 

「咲耶さんは、開き直るといい女ですね」

「なにそれ」

 

 

 

「ではここでひとつ、残念なお知らせがあります」

「な、何?」

 

 姿勢を正し、芽々は神妙に挙手した。

 

「芽々、明後日から旅行なのでいません」

「…………そうね?」

 

 家族旅行でハワイと聞いた。大事よね、楽しんできて欲しい。

 

「すみませんなんかっ、あんま手伝えないっぽくてっ……! 肝心な時に『※一方その頃芽々はハワイにいる』しててっ!!」

 

 低予算映画に唐突に差し込まれるトロピカルなイメージ映像が脳をよぎる。急に何?

 芽々は顔をくしゃっくしゃにした。慌てて答える。

 

「いいのいいの、今回は巻き込むつもりなかったし! 気持ちだけで十分よ?」

「うぅ……」

 

 え、なんでこの子こんなに思い詰めてるの? 深刻な事態みたいに捉えてるの!?

 いえ、これは……もしかして前回の魔王戦のこと、ものすごーく引き摺ってる??

 別に人様のトラウマになるようなことは何も見せてなかったと思うのだけど──いや、目の前で自分の頭吹っ飛ばしたりしてたなわたし。あと芽々(じぶん)と同じ顔した魔王が異形化したり、それを飛鳥(ともだち)が殺そうとしたりするのを見ているわけで……。

 ハッとする。

 

「……まさか、トラウマになってる!?」

「心配なんですよお二人がっ!!」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 調子を取り戻して「ひーくんにハワイのお土産何がいいか聞いてきますね!」と一旦部屋を出ていった芽々を見送り。わたしはひとり、息を吐いた。

 ホワイトボードに向き合って考える。ペンを取り、頭の中を整理する。

 

「敵の目的は何か」

 

 聖剣の奪取。聖女におそらくそれ以外の目的はない。まだ現世に残っているのは、帰還のための魔術的条件が揃ってないからだ。

 

「異世界転移は原則不可能……ならばどうやって現世(ここ)に? 場所、日程、時刻の制限……取り戻す方法の前に帰さないための策が必要、それから……」

 

「──わたしの目的は何か」

 

 手を、止める。こればかりは書くわけにはいかなかった。

 

「……隠し事するなって後で怒られるわね」

 

 だけど、許せない一線はあるのだ。

 たとえ飛鳥に怒られることになるとしても。

 



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第九話 君とクソ映画と膝枕。

 ──真っ白な部屋で目を覚ます。

 

「どうか世界をお救いください勇者様」

 

 立ち尽くす自分の目の前には銀色の少女がいた。幼い容貌に鈴の声、しかし無表情で無感動な、人形のような少女だ。

 少女は修道服や巫女服のような清廉な衣装を纏い、祈りを捧げるように跪いている。その祈りの先が自分であることに気付く。

 

 ようやく自らを顧みた。知らないはずの言語(ことば)が何故か解る。身に付けているのは軍服めいた奇妙な服で、視界はくっきりと見えるのに眼鏡はどこにもない。

 生身の両手には剣があった。どこか近未来的で、かつ古臭い、大仰な両手剣だ。

 体格に恵まれていない自分には重すぎるはずなのに、不思議としっくりと手に馴染む。

 磨かれた剣身を覗き込む。映った自分の目は他人のような青色をしていた。

 空のそれとも、海のそれとも違う。薄気味の悪い──冷めた、青。

 息を飲んだ。

 

「どうしたのですか」

 

 少女はこちらを見つめる。まったく(・・・・)同じ色の瞳(・・・・・)が。

 

「世界を、救っていただけないのですか」

 

 返事に詰まる。冷たい汗が背を流れる。声が、出ない。

 後ずさろうとした、その瞬間。少女の姿は(・・・・・)どろりと(・・・・)溶けた(・・・)

 

 ──真っ白な部屋が、真っ黒に染まる。

 

 暗転。少女のいた場所にはいつの間にか、黒い影が立っていた。

 大きな、亡霊のようなその何かは蠢きながらこちらへと手を伸ばす。

 

『世界を救え』

 

 振り払おうにも縋り付く。亡霊が、囁く。

 

 

さもなくば(・・・・・)死ね(・・)

 

 

 そして意識はぷつりと途絶えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──真っ暗な部屋で目を覚ます。

 

 

「……ッ、は」

 

 跳ね起きる。布団を蹴飛ばす感覚に我に返った。

 

「…………夢、か」

 

 ちらりと自室の時計を見やる。

 そう、自室だ。元は咲耶のマンションの空き部屋である、一番小さな和室。俺のアパートを所用で占拠する代わりとして、居候させてもらっているこの部屋も、もう一ヶ月もすれば見慣れたものだった。

 日付は変わり、十五日。事件より二晩。昼間に作戦会議をしたことは記憶に新しい。深夜を指し示す時計の針は、布団に入ってから数十分しか動いていなかった。

 溜息を吐く。

 

 今夜もか(・・・・)

 

 

 眠るのはずっと苦手だった。

 野営ばかりしていた頃の癖だ。どこでも寝れる代わりに、物音、気配、そういうものですぐ目を覚ましてしまう。そもそも身体に金属の腕がくっついていると寝苦しくて敵わなかった。

 その、呪いの装備がなくなった今、むしろよく眠れるようになってもおかしくないのだが。まさか二日連続で(・・・・・)悪夢に跳ね起きることになるとは思わなかった。

 原因はやはり、聖剣がないだろう。

 夢は記憶の整理だという。だがこれまで、異世界のことを夢に見ることはほとんどなかった。記憶に蓋がされていたからだ。その蓋が聖剣だった。

 精神操作の機能付きとはいえ、自我さえきっちり保っていれば洗脳は抵抗できる呪いだ。ここが現世ということもあって、昔の自分の記憶は比較的容易に取り戻せているのだが。異世界時代の、自我を取り戻す前の記憶は靄が深くかかっていた。

 なんか、くだらないことしか覚えていないのだ。飯がすごく不味いとか。

 だが今は聖剣(ふた)が外れたおかげで、異世界(むこう)の記憶が戻りつつある。

 夢に見るのはそのせいだ。

 その夢が、ただでさえ浅い眠りを削っている。

 

 窓を閉じ切った部屋は静まり返っていて、自分の息の根が嫌に煩い。

 

「痛ぇ……」

 

 身を屈めた。無い右腕が馬鹿みたいに疼く。袖の上から爪を立てる。息を、止める。

 ──自分は一体、何を忘れているのだろう。

 何か(・・)を思い出そうとして。やめた。どうせろくでもないに決まってる。

 

 ようやく息ができるようになった頃には眠る気などさらさらになくなっていた。

 

「……顔でも洗ってくるか」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 部屋から廊下に出て気付く。なにやら異臭がする。深夜だというのに台所の扉の隙間から光が漏れていた。

 咲耶しかいないだろう。だが何をやっているのか。疑問に思って扉を開けると、異様に香ばしい匂いが溢れ出した。

 

 ──咲耶は台所で、餃子をしこたま食っていた。

 

「は?」

 

 こちらに気付いてびくっと肩を震わせる咲耶。その光景を二度見三度見。

 

「……今、何時だっけな」

 

 咲耶は箸を置き、屈辱的な表情で答えた。

 

「午前三時、です…………」

 

 昔、人の家に窓から入って来た時よりもよっぽど畏っていた。こいつ、不法侵入より夜中の立ち食いを見られる方が恥なのか。

 

「こ、これには正当な理由があるのよ。最初からお聞きになって?」

 

 謎の羞恥心で中途半端にお嬢様口調になった咲耶の供述によると。

 

例の準備(・・・・)がひと段落したから休もうと思ったのだけど、お腹が空いて……」

 

 魔女の身体は人間のような栄養補給を必要としない。だが魔法を使った後は、眠気や空腹感を錯覚するらしい。異世界(むこう)では食事は『意味の摂取』だ。魔力の回復にもなる。

 

「ついでに魔法使ってるうちにちょっと正気が削れてきて……このままじゃうっかりキスしてしまう! と思ったの」

 

 …………。

 

「だから餃子を焼きました」

 

 ……わっかんねぇ。どういう理屈?

 咲耶は唇を(油で)艶めかせて、真っ直ぐな瞳をこちらに向ける。

 

「大丈夫。にんにく臭を滾らせた今のわたしは完璧に安全。絶対にキスできない」

 

 なるほどたしかにその対処法は正気じゃないな。頭痛が増した。

 いや、色気がなくてありがたいと思うべきか。長い脚が無防備に晒された部屋着姿も、もう見慣れて何も感じない。ここにいるのは隠れて夜食をかっ食らおうとした、ただの同居人である。色気は食い気で相殺された。にんにくはすごい。

 俺は考えるのをやめた。

 

 視線を逸らすと台所から見える、付けっぱなしになったテレビに気が付く。映画が流れていた。見ながら休むつもりだったのだろう。ゾンビ映画を見ながら飯を食うのはどうかと思うが……。

 

「あ、ごめんなさい。ホラー苦手だったわよね」

「いや、平気だなアレは。血糊が嘘くさい」

「あはっ、そういうのだから」

 

 あまり血の出るものは苦手だった。昔は平気だったのだが。いつから不得手になったのだろう、と遠巻きに画面を凝視する。

 餃子の大皿を抱えて、咲耶は小さく問う。

 

「……眠れないなら、一緒に見る?」

「ん」

 

 頷いて、冷凍庫からアイスを一本取る。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ソファの端と端の定位置に座る。 咲耶は綺麗な姿勢で皿をかかえ、俺は口でアイスの袋を開ける。

 沈黙がどことなく重い。映画でも誤魔化せない。なんとなく気を遣われているような気がして、いつもなら冗談くらいは言えるのだが、今は何も思い付かない。

 気不味いまま、無言。アイスを半分食べ進めたところで。

 

「あ」

 

 棒の印字に気が付く。『当たり』だった。

 

またか(・・・)

 

 この頃妙に引きがよかった。

 

「喜ばないんだ」

「この年で引き換えに行くのはなんか、な。幸運も持て余しちゃ意味がない」

「わかるかも。それに、いいことって起こりすぎると不安よね。乱数調整っていうか。あとで悪いもの引きそう」

「……ああ、でもその理屈なら心配いらないな」

「なんで?」

 

「俺たちは異世界転移なんていう天文学的確率の貧乏くじを引いた後だ。もう(ハズレ)はない。つまり、この先俺たちは──最高にくじ運がいい」

 

 咲耶は目を丸くして。

 

「あは、ふふふ」

「く、ひひひっ」

 

 吹き出した。

 

「わたし、最近やたらとガチャのSSRが引けるの!」

「俺なんかこの前福引でめちゃくちゃいい醤油当たった!」

「そんなところで釣り合いを取られても!!」

「嬉しいけどさ、いらねー!!」

 

 二人してげらげらと笑う。何がおかしいのかもよくわからなかった。

 

「ね、ひと口ちょうだい。その幸運」

 

 視線は当たりのアイス。残る半分は話す間にも溶けかけている。

 

「間接キス」

「気にしなかったらセーフだし?」

「いやおまえ餃子食ってんじゃん……いいけど」

「いいんだ」

 

 棒アイスを手に持ったまま差し出す。「はむ」と齧り付いた。溶けたアイスが唇について、ぺろ、と舌で舐めとるのを見る。食い気は色気を打ち消すはずだが、何故か艶めかしい。

 

「お返し。あーん」

 

 無言で見ているうちに、餃子を差し向けられていた。

 

「……箸とってくる」

 

 立ち上がり、逃亡を図る。が、服を引っ張られた。腰を落とす。

 諦めて口に入れた。美味いけどさ。しかし餃子って。よりにもよって初めての「あーん」が餃子って……。

 複雑な感情ごと飲み込む。

 

「……ふふ」

「なんだよ」

「なんでもないわ」

 

 いつの間にか間の距離は詰まっていた。ソファの端と端に戻ることはしなかった。

 そのまま、すっかり見逃した映画を巻き戻す。

 

 

 

 だが、見ている内に気付くのだ。

 

「なあ咲耶。この映画……メチャクチャつまらなくないか?」

 

 しかし咲耶は気を悪くするでもなく、したりと言う。

 

「お気付きになった? レビューが散々なのを選んだの」

「苦行か?」

 

 画面の中では蠢くチープなゾンビが暴れている。映像の出来には目を瞑るとしても(出来がいいとグロいので困るが)、話が支離滅裂でありえないほどつまらない。

 天井を仰いだ。

 

「ご、ごめん。飛鳥ってクソ映画ダメな人だったのね。無理、しなくていいからね?」

 

 そもそも文月咲耶に「クソ」とか汚い言葉使って欲しくないんだな俺は。

 いいけどさ。咲耶の趣味がちょっとアレとか……いいけどさ。

 好きな相手の好きなものに付き合うくらいの甲斐性は持ち合わせている、つもりなのだが。

 エンドロールまで耐えられる気がしなかった。

 

「もういっそ突然隕石が降って終わった方がマシだろ……」

「サプライズニンジャ理論ね」

「なにそれ」

「突然ニンジャを出した方が面白くなる脚本はクソって話。逆説的に突然ニンジャを出せばどんなクソ映画も破壊できる」

「忍者に失礼だ」

 

 まあ隕石が降ってきたら嬉しいからな。……いや、クソはクソだわ。

 

「疑問なんだが。なんで面白くないのに見るんだ?」

 

 咲耶は少し、迷うように口を開いて。ぽつりと言った。

 

「……好きだったのよ、実母(はは)が。あの人、映画の趣味だけは最高だったの。よく言ってたわ。『眠れない時は映画を見ろ』って。『つまらなくて低俗な映画ほどいい。どんなにつまらない映画でも絶対に、眠れない夜よりはマシだから』」

 

 咲耶は誰かを真似る口振りでその教訓を唱え、自嘲げに笑う。

「なぞるつもりはなかったのだけど」

 彼女はソファの上で長い足を折り畳み、膝を抱える。

 

「なんだかんだで似るし、教えからは逃げられないのよね」

「……そうだな」

 

 教えが死んだ人間のものであるほど重いことを知っている。いなくなった後では、些細な思い出が遺言のように思えてくる。

 言葉少なでも彼女の言いたいことが理解できたのは、多分。俺たちが異世界だけでなく現世でも似た境遇だからなのだろう。そんなところは似なくてよかったのに、と思う。

 

「あ、でも本当に好きなのよ。駄目なところも愛せるの」

 

 横を向く、悪戯めいた笑み。

 

「なにより──つまらなくて絶妙に眠くなるのが、夜更かしには最高」

 

 咲耶はふっと、眉を下げる。

 

「……訂正。最高っていうほどたいしたものじゃないけどね」

 

 ──ああ、そうだな。本当に。

 

「さっきのさ、俺には逆な気がするよ」

「逆?」

 

『どんな映画も現実より』ではなく。

 

 

「どんな現実も、クソ映画よりはマシ」

「……あっは、相容れない!」

 

 

 ──本当に。たかが眠れない夜など、たいしたことなかった。

 

 

 

「それはそうとして。口直しに次はいい映画が見たいわ」

「やっぱ苦行じゃねえか」

 

 とまあ、言い出した咲耶は置いといて。

 映画が見終わった頃には既に時刻は早朝。鳥の声まで聞こえる。

 途中で寝落ちするかと思ったのだが、結局最後まで見てしまった。寝支度は一応済ませたが、自室には戻らず居間に戻る。ソファの背から、咲耶がこちらを仰ぎ見る。 

 

「今から寝る?」

「寝てもどうせ、な」

 

『もう朝だ』という意味で言ったのだが。咲耶は目を細め、囁くように訊く。

 

「……悪い夢でも、見た?」

 

 ……そういうふうに聞こえたか。

 

「なんでわかる」

「わたしもずっとそうだから」

 

 さらりと答える。

 

「うっかり世界を滅ぼす夢を、よく見るわ。そしてあなたにすっごく怒られる」

 

 なんとなく、彼女が嘘を吐いている気がした。「すごく怒る」なんて言葉では済まされない夢なのだろう、本当は。けれどそれを聞くことはしない。

 

「手、出して。いいものあげる」

 

 咲耶が魔法で虚空(そのへん)から何かを取り出し、俺の手のひらに落とす。白い錠剤だ。

 

「よく眠れる薬」

 

 ……怪しい。が、とりあえず口に放り込んだ。噛み砕いて気付く。

 

「いや、ラムネじゃん」

「チッ」

 

 なんで嘘吐いた。

 

「あんた錠剤噛むのやめなさいよ」

「味がしないもんは食いたくない」

 

 というか、俺が無防備にもらったものを食うと思っているのだろうか? 食うけどさ。咲耶になら毒を盛られても構わないが。

 もらった錠剤(ラムネ)を水で流し込んでいると、咲耶は悩ましげに呟いた。

 

「……こうなったら膝枕しかないかしら」

 

 水むせた。

 

「何が!?」

「あなたを寝かせる方法だけど?」

「??」

「寝落ちするまで映画見る作戦もラムネを睡眠薬と言ってプラシーボ催眠する作戦も失敗。だからもう、膝枕しかない(・・・・・・)でしょ(・・・)?」

「色ボケ宇宙人か?」

 

 ……こいつやっぱ最近正気がどっか行ってない?

 

「冗談はさておき。ここで寝てくれないとこの先の計画に支障が出るの。わるいけど、何がなんでも寝てもらうから」

「二徹くらい余裕。俺は強い」

「おだまり人間」

 

 咲耶は立ち上がり、じっとりとした眼差しで俺に顔を近づける。まるで聞き分けのない子供を見る目だ。

 

「違うだろその目は。なあ」

「顔面からデバフが滲み出てんのよ寝不足(パンダ)顔」

「顔の悪口は言ったら駄目だろうが!」

「寝ろって言ってんのよ!!」

 

 そのまま彼女はスチャリと魔眼を光らせた。赤い光を浴びた途端、身体が硬直する。クソッ久々に食らったなこれ!

 

「ふふっ。聖剣がない今のあなたは魔法耐性がゼロだもの。観念することね?」

 

 咲耶はにんまりと微笑み、こちらに顔を寄せる。卑怯だろそれは! と言いたいが、実際やたらと魔法が効いていて、指一本動かせない。口も動かない。

 耳元、囁きが落とされる。

 

「『──おやすみなさい』」

 

 さてそれは呪文だった。蕩ける声は蛇のように耳朶から脳髄に入り込み、意思の主導権を奪い去る。

 ──いや、結局魔法で眠らせるのかよ。というかこれ洗脳!!

 

 

 身体が、膝の上に倒れ込む。その感触をよく認識する間もない。否応なく目蓋が、落ちて、いく。

 最後に声を振り絞った。

 

「覚えてろよ……」

 

 そこから先の記憶はない。

 

 

 ◆

 

 

「『覚えてろ』って捨て台詞吐きながら寝落ちする?」

 

 膝の上でスヤ、と寝た飛鳥を前にわたしはちょっと引いていた。そんなに嫌? わたしの膝。

 

 魔法で部屋の電灯を消す。部屋は早朝の薄明かり。乗せた頭は意外と重たくて、伝わる熱は生きもので、それ以上に人間なのだなと思う。

 頭をそうっと撫でた。前髪の隙間から、普段は見えない傷痕が二つ(・・)。見なかったことにして、元通りに隠す。

 

「……まったく、どの口で余裕だとか吐くんだか」

 

 眠れない夜の恐ろしさは、わたしだって知っている。人並みの眠りを必要としない不死の身体では、眠れる日が少ない。眠れたとしても、悪夢は隣人を通り越して同居人のようなもの。見ない日の方が珍しい。おかげですっかり寝起きが悪くなってしまった。

 けれどわたしは魔女なので、その気になれば魔法で好きな夢くらいは見れる。悪い夢を見た後は、口直しにちょっと良い夢を見直せばいいだけだ。

 でも。それは魔女(わたし)の場合の話。人間はそんな便利な精神構造をしていない。

 

 普通に戻るということは、弱くなるということだと思う。でも多分、飛鳥はそれがわかっていない。

『最強ならば全部を余裕で、無傷で救えるような〝絶対的な最強〟であるべきだ』

 いつかそう言ったことを思い出す。

 あの時からずっと思っていた。自分のことを「普通だ」って言いながら、最強であろうとするのは、矛盾だ。歪だと思う。その歪みを、多分、本人がわかってない。

 にわかに苛立ちがつのる。

 わかんないんだろうな。わかんないんでしょうね。

 わたしには、あなたの弱さを受け入れる用意があることを。

 ──別に、わたしには。甘えたっていいのに。

 

『──願いさえすれば、いつだって甘やかしてどろどろに溶かしてあげるのに』

 脳味噌の底の方で、幻聴が響いた。

 

『気付いてるのでしょう? 今なら呪いもかけ放題。今なら勝てるわ。あいつを思い通りにできるわ』

 

 耳障りなそれは、自分の声をしていた。そう認識した途端、隣に魔女(わたし)幻覚(すがた)まで見え出すのだから始末に負えない。

 

『閉じ込めて、どこにも行かせないで、わたしのものにしてしまえばいい。かつてわたしの望んだことが、今なら簡単にできる』

 

 角が出せないのに魔法を使いすぎただろうか? 聖女の対抗策だけでなく、魔王の封印と尋問の方も並行していたのは流石に、無理があったかもしれない。

 

『はやく、キスのひとつでもしてしまえ』

 

 幻聴が囁く。くらり、と意識が溶けていく。

 普通に戻るということが弱くなるということなら、都合が(・・・)いい(・・)

 ──弱くなれ。弱くなってしまえ。そうしたらわたしが、あなたを思い通りにできる。わたしに守られるくらいに弱くなってしまえ。

 そういう醜い欲望が心の中で渦巻いていて、本当にどうしようもない。

 

『弱くなれ』

「うるさい」

 

 頭の中の声を黙らせる。

 確かにかつてはそれを望んだ。無理矢理わたしのものにして、脳味噌をくちゅくちゅしてしあわせにしようと本気で考えた。それしか解決法がないと思った。

 だけど今は違う。

 

(わたしは、わたしに負けないあなたが好き)

 

 だからすべてをひとっ飛びに解決する手段(くちづけ)なんて、使うものか。わたしは、魔女(わたし)には従わない。わたしはもう、自分の願いを見失ったりはしない。

 

 ──眠れない夜の恐ろしさを知っている。

 かつて異世界から帰ってきたばかりの頃は、何をしても夜が長くて仕方なかった。好きだったはずの本も、くだらない映画も、わたしを救いはしなかった。そんな時に窓から見えるあなたの部屋に明かりが灯っていることだけが、仄暗い悦びだった。

 だけどもう、わたしは一人で長い夜を怖がることはなく。それが誰のおかげかなんて考えるまでもない。

 あなたがわたしの夜の救いだった。

 ──願わくばわたしが、あなたのそれであればいい。

 

 

(だからって、常時にんにく臭い女でいるのはちょっと無理……)

 

 

 ……がんばれ、わたしの理性。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──明るい部屋で目を覚ます。

 

 カーテンの隙間から差し込む日差しは既に真昼の気配がする。起き上がろうと枕に手を触れて、ひやりと冷たく柔らかな感触に、それが枕でないことを思い知る。

 

「ヒッッッ」

 

 悲鳴をぎりぎりで飲み込んだ。ついでにソファから転がり落ち、しこたま身体を床に打った。

 

 昨晩──というか今日の早朝のことを思い出す。

 枕の正体は膝であり、膝という呼称は欺瞞であり、その本質は太腿にすぎない。して、太腿とは制服のスカート丈の標準的な長さからしてもご理解いただけるように、女体において無防備に晒されるべきではない部位だ。ましてやその上にどこの馬の骨ともしれない男の頭を乗せて眠らせるなど豪語同断である。俺が咲耶の母親ならそいつの息の根を止めている。殺してくれ……。

 

 そもそも咲耶の継母である琴さんが同居の許可を出してくれたのは俺が何もしないと信頼していたからだろう。

(咲耶は「え、『既成事実作っておしまいなさい』って意味だと思った」とアホを抜かしていたがそんなわけないだろエセ清楚エセ令嬢この痴女)

 

 酷い目覚めである。何が酷いって、よく(・・)眠れて(・・・)しまった(・・・・)ことが(・・・)酷い(・・)

 論理的に考えて人間の膝の寝心地が枕よりいいわけがないのに、起きた瞬間からわかるほど調子が良くて、自分が現金すぎて死にたくなった。

 

「最悪だ……こんな寝方、身体が覚えてしまったらどうしてくれる……」

 

 いや、アホ。咲耶がアホ。

 百歩譲らなくても寝ろというのはわかる。入眠時に魔法を使うのも、まあこの際妥協しよう。だからって膝枕をする理由はひとつもないだろ!! ダアホ!!

 床を叩いた後、彼女の方を見上げて。

 

「……すぅ」

 

 咲耶はソファに座ったまま眠っていた。

 ……人間ひとり膝に乗せたまま寝落ちした? 嘘だろ…………。

 

 冷静に考えて、六時間の膝枕とかアレだ。膝の上に石を乗せる拷問的なアレ。そのまま寝るとか正気じゃない。

 小言を飲み込む。

 ベッドに運ぶべきだろうか、と考えるが流石に片手で運ぶのは無理があった。仕方がないので咲耶の部屋に、仕方なく勝手に入り、枕と毛布を持ってきてそのままソファに寝かせておく。

 

「ん、むぅ……」

 もぞ、と寝言を言って、けれど起きる気配はなかった。

 深夜に奇行に走るくらいだ、相当に疲れていたのだろう。咲耶は割と常識があるので、変なことをする時は演技か疲れているか色ボケているかの三択だ。

 そのまま大人しく寝ていればいいと思う。とはいえ無防備な寝顔を晒されていると妙に腹が立ってくる。  

 

 ……こいつ、さては我慢してるのが自分だけだと思ってないか?

 

 腹が立ったので寝顔をおかずに飯を食うことにした。米がなかった。食パンで妥協する。まあ咲耶を見ながら食ったらなんでも美味い。

 そうして、砂糖だけ溶かしたコーヒーを飲み干した頃には、冷静になっていた。

 

 昨日協議した〝計画〟の内容を思い起こす。ソファの前の低いテーブルには、メモ用紙と試験管の瓶が置かれている。その瓶の中身が昨晩完成した魔法であることを知っていて、そのために彼女が夜遅くまで起きていたことを知っている。

 紙に書かれた文字を読む。

 

『わたしの準備はここまで。後は任せたから』

 

 手法に文句はあるが、休ませてもらった手前はきっちりと働かねばならない。呟く。

 

「ありがとう、行ってくる」

 咲耶はソファの上で、ぱち、と目を開けて。

 ふにゃりと微笑んだ。

 

「……いってらっしゃい」

 

 そのまま寝た。

 

 

 いや、起きたならベッド行けよ。

 ちゃんと寝ろおまえが。

 



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第十話 笹木慎と多分普通の友達。

更新ガタガタですみませんでした。
現実を倒しました。
三章ラストまで毎日更新します。



 

「海行こうぜ、笹木」

 

 笹木慎が飛鳥からその誘いを受けたのは、まだ夏が来る前のことだった。バイト終わりの喫茶店の休憩室で、夏休みの予定を話していた最中の発言だ。笹木は目を瞬いて。

 すげない返事をした。

 

「なんで?」

「…………」

 

 断られたと判断し、笑顔で一時停止(フリーズ)する飛鳥。

 

「ああいや、そうじゃなくて」

 

 この世には二種類の人間がいる。夏に海に行く人種と行かない人種だ。そして笹木は後者の山派だった。

 ちなみに幼馴染は毎年南国に行ってしまうため、笹木は芽々と一緒に海に行ったことがない。

 

(海ってなんか……相当仲良くないと誘えない気がしない?)

 

 これを後日文月に言うと、「わかる! 海とか、ジョックがサメに食べられるイメージしかなくて怖い……!」と綺麗な顔でサメ映画の話をしていた。もしかしてあの人は結構変なのだろうか?

 要は「海」とかいうインドア文化系山派笹木の基準でめちゃくちゃ仲が良くないと誘えない場所に、サラッと誘われてビビったわけなのだが。

 

「おれって、そんなに陽南と仲良かったっけ?」

「友達じゃなかったのかよ……」

 

 飛鳥は明らかにショックを受けていた。

 確かに笹木は、飛鳥に対してかなり友好的な感情を抱いている。ぶっちゃけ飛鳥が学校で浮きまくっていた時期からずっと格好いいと思っていた。浮いているのに意に介さず飄々としていたところとか。あとよく見るとちょっと顔が格好いい。

 それを文月に言うと「やっぱり!? わたしの幻覚とかじゃなくて!!?」と血迷っていた。人はそんなに簡単に幻覚を見ない。あの人は変。

 しかし彼が人を寄せ付けない年上の同級生であったのは最初の一ヶ月ほどだけで、何故か(・・・)妙な噂も(・・・・)収束した(・・・・)。その後は、処世を思い出してきたようで普通に教室に馴染んだ。意外と付き合いもいいし馬鹿もやる。『スカしてるのがちょっとムカつく』という評価こそポツポツあるが、馴染めば当たり障りない同級生だ。『昔の先輩はあんな感じですよ』と芽々は言うので、多分そうなんだろう。

 でも非日常の住人が普段は普通の高校生面してるのも、それはそれで格好いいよね。

 だけどそれは自分の、一方的な好意だ。そしてその好意の内訳が、趣味の悪い好奇心や野次馬的な憧れであることを笹木は自覚していた。

 ──果たして自分は、そもそも友人なのだろうか?

 

「不思議なんだよ。浮いてた頃はともかく、陽南が今、おれと親しくする理由は特にないだろ。おれは(・・・)普通の(・・・)やつだから(・・・・・)

 

 陽南は、何か苦いものを食ったような顔をして。「おまえも何か拗らせてる?」と呟く。そのままさらりと、耳を疑う返答をした。

 

「俺は、笹木のことカッコいいと思ってるけどな」

「はぁ?」

「ほら、この前。芽々が俺に襲われると勘違いして、おまえ窓から乗り込んできたろ」

 

 文月とのキス未遂の騒動があって、その原因が芽々の下世話だと判明し、飛鳥がキレた時のことだ。

 

「あの時、笹木は窓から部屋は見えていたから、敵が俺だってわかっていたはずだ。その上でおまえは殴り込みにきた。正直言って、正気(・・)じゃない(・・・・)

 

 たかが普通の高校生が、多少武道を齧ったところで異世界帰りに勝てるわけがない。 笹木だってそれはわかっていた。

 

「だけど笹木は、芽々を助けに来た。すごいやつだよ。もし俺が同じ立場だったら、そうはできない」

 

「俺は勝てる戦しかできないからな」とうそぶく飛鳥に、「それはないだろ」と返す。

 

「そう? 俺は肝心な時に足が竦む奴だよ」

 

 なんの気負いもなく自虐めいたことを言う。本気で言っているのかどうかわからなかった。異世界の話と矛盾してるだろ、と内心で突っ込んで。

 ……でも、認められるのは悪い気がしなかった。笹木は答える。

 

「いいよ、行こう。海でもどこでも」

 

 どうせ今年の夏も暇だ。友達(・・)の誘いを断る理由はない。

 

 ──飛鳥が病院に叩き込まれたのはその一週間後のことだった。

 幼馴染の芽々は、どうやら初めから事情を知っていたらしい。その事情を笹木はまったく知らない。まあ、それは、いいとして。

 ──さらに一ヶ月後の、夏休み真っ只中。

 

「海中止!? また厄ネタ異世界ですか! なんなの〜!?」

 

 海に行く約束の前日に入った連絡。それもまあ、いいとして。

 

「芽々、手伝いに行ってきます!」

 

 と、深刻な顔で家を飛び出していった芽々を見送り。自分が事情を何ひとつ知らされていないことに気付いて。

 

「……は?」

 

 笹木はキレた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「おれだけ蚊帳の外かよ!!」

 

 翌日、キレた笹木は木刀をぶん回していた。

 部活帰りだった。虫の居所がおさまらなかったため、一人で部活の延長戦をやろうとして、学校裏手の神社に来ていた。

 昼間でも薄暗く、人が寄り付かず、出る(・・)と噂の神社だ。誰にも見られず没頭するには丁度いい。道場に残って、邪念に基づくヤケを熱心さと解釈されるよりは。

 うだる熱の充満する山中の神社で、頭が割れそうなほどうるさい蝉の声を聞きながら、笹木は馬鹿みたいに木刀を振るっていた。

 別に強くなりたいわけではない。人と戦うような武道ではないから、強くなる実感も特にない。だがこれが、冷静になるには丁度いいことを笹木は知っていた。

 

(……いや、蚊帳の外でいいんだ。向こうの事情に踏み込む気はない。なかった、けど)

 

 自分だけ(・・・・)何も知らされない。それは自分を置いて知らない世界に行く幼馴染への焦りで、肝心なことは何も言わない友達へのわだかまりで、その程度のことで苛立っている自分自身への嫌悪だった。

 

「格好わる……」

 

 腕を下ろした。我に帰ると木刀も重いし道着も汗で重い。馬鹿を馬鹿真面目にやるには、笹木は少し冷笑的過ぎた。

 帰ろうと、神社の境内を出て階段を降り始めたところで。

 

「あ」 

「……陽南?」

 

 まさか、通りがかった当の飛鳥とばったり出くわすことになるとは。 

 

 

 立ち止まって、そのままぎょっとする。ジャージの袖の中身がないことに気付いたからだ。

 数秒、硬直したままガン見して。

 なるほどそれは海も中止になるなと納得し、だらだらと冷や汗を流して目を逸らした飛鳥を見て。笹木は、冷静に考えることをやめた。

 

「言えよバカ野郎! 友達じゃなかったのかよ!!」

「い、言ったら引くだろ普通のやつは!」

「そんなの、おれは最初からずっとおまえに引いてるよ!!」

「え。ごめんね」

 

 真面目な話をしようにもTシャツがてんぷらなのが腹立ってくる。くそっどこで買ったんだおれもちょっと欲しい。

 

「……ちなみに、どの辺に引いてる?」

 

 今それ気にすること?

 

「人目はばからず文さんとイチャついたり、女の水着見たさに海に誘うところかな」

「人目はばかってるし水着見たさじゃねえわ」

「じゃあ見たくないのかよ!」

「超見たいけど!?」

「見たいんだ……」

 

 飛鳥は「口が滑った」と沈痛な面持ちをした。掃除したての廊下ぐらいに滑っている。

 

「そういや文さんは『飛鳥の浴衣が見たい』って言ってたよ」

「なんでおまえが知ってんだよ」

 

 文月から聞いたからである。

 この手の惚気話は、本来ならば女友達である芽々に言うのが相場だろう。しかし恋愛感情がわからない芽々は相談の相手には向いていても、惚気の相手には向かない。人が恋愛で右往左往していると面白がる愉快犯だし、すぐ品性のない方向に持っていこうとするし。(最近は食傷気味でやつれてきたが、自業自得だ)

 その点、片想い歴十年の笹木は、性差こそあれど割といい感じに文月の話を聞けてしまえた。

 

「ねえ笹木君聞いてくれる? 最近飛鳥のことが眩しくて。主に毛艶が」

「うん。犬かな?」

(※栄養状態の改善の惚気)

 

 といった具合に。人の話を聞くのが上手いのが笹木のささやかな長所だった。そんな惚気より異世界の話を聞きたいな〜、と笹木はずっと思っていた。

 ──だから、異世界事情に引いたりはしない。今まで、他人事として面白がって聞いていたそれを。たとえその笑えなさを目の当たりにして嫌な汗が出ていようが、掌を返したりするものか。 

 僅かな間があり、その間に飛鳥は粗方を察したらしい。

 

「そうだよな。悪い、説明するのが義理だった」

 

 拍子抜けするほどあっさりと、わだかまりは消える。

 

「また、終わった後で話すよ」

 

 物事がすべて片付いた後の話を他人事として聞く、確かに笹木はそれが好きだった。

 だが──聞きたいのはそんな話ではないのだ、もう。

 何か用があるのだろう、階段を上がってそのまま神社に向かおうとする飛鳥を引き止める。

 

 

また(・・)っていうかさ。おれ、()、すっごく暇なんだけど」

 

 飛鳥は上の段から、振り返る。

 

「あー…………」

 

 顔は苦笑いで、けれど喜色が隠せていない。

 

 

「来る?」

 

 

 笹木は階段を一段飛ばしで追いかける。

 

 

「どこでも付き合うよ、飛鳥(・・)

 

「ついでに明後日のバイト代わってくれ」

「それはもっと早く言えもっと」

 

 

 

 ◇◇

 

 

 

 神社の境内を進む。

 ざっくばらんに事情説明(これまでのあらすじ)──アンドロイド聖女に聖剣パクられた件──は聞いたのだが。

 

「その聖女って人? を、探してるのは分かったけど……こんなところで、今から何すんの?」

 

 飛鳥は大真面目な顔で答える。

 

肝試しだ(・・・・)

 

「なんでさ」

 

 

 

 

「この神社、昔から幽霊が出るって噂なのは知ってるだろ?」

「でも眉唾だろ。神社に霊がいても祓われるだけじゃん」

「事実かはともかく、噂があるっていうのが大事なんだよ。『幽霊が出る』っていう」

「それが、なんの関係あるわけよ」

 

 飛鳥は神社の裏手の方へ、「立ち入り禁止」の立札を無視して進む。いざという時に規則を破ることには躊躇がなくなってしまった。後ろをついて来る笹木が少し立札の方を気にしたのを見て、飛鳥は自分の失った正しさに哀愁を馳せる。

 それはともかく、笹木の疑問への返答である。

 

「端的にいうと、聖女の正体は『幽霊』だからだ」

 

「さっきアンドロイドって言ってなかった?」

「それは一旦忘れて」

 

 異世界事情ややこしいよな、なんなら俺もよくわからん。と思いながら「話が長くなるが」と前置く。

 内容は魔女(咲耶)の受け売りだ。

 

「まず、原則として異世界人は現世に来られないわけだが……」

「来てんじゃん。二体(ふたり)も」

「例外中の例外が連続で来てんだよ」

 

 原則がなかったら地球はとっくに異世界に侵略されていてもおかしくはない。

 あいつらはそのくらいやりそうだ。

 

「例外をやるにも特別な条件が要るんだ。たとえば転移のための触媒、適切な日時がそうだな」

 

 魔王が現世(こちら)に来たときは芽々が触媒になっていた。加えて、魔女の力が一番強くなる満月の日まで待つ必要があった。

 なお、魔王が来ていて芽々が巻き込まれたことまでは話したが、「芽々がアレコレやってたことはマコには秘密にしといてください」と言われていたので詳しくは伏せたままだ。

 

(魔法少女やってたのはバレると恥ずかしいんだろうな……)

 

 笹木に言いたくないのもわかる。勇者やるのも恥ずかしいので。

 

 

 話を戻そう。

 

「じゃあ、聖女(アイツ)はどうやって現世(こちら)にやって来たかってことなんだが。必要条件の触媒は『聖剣』で、日時は『盆』だ」

「?」

「自分を『霊』と定義して、現世を此岸(このよ)、異世界を彼岸(あのよ)と書き換える。『幽霊ならばこの時期は現世にやってこれる』って風習(ルール)奇跡(まほう)でねじ曲げているわけだ」

「??」

「ただし、強引な奇跡(まほう)を起こしたせいで制約がついた」

 

 盆の文脈を利用してこちらに来ている以上、帰りも同様。聖剣回収して即帰還、というわけにはいかず最終日(あした)まで現世に留まらざるを得ない、ということがひとつ。

 もうひとつは。

 

「アイツは幽霊として、墓場や〝その手の噂がある場所〟にしか出現できない」

 

 魔王も同じように最初は霊体での降臨だった。そのままでは自由には動けず、実体の無い存在では人を殺せない。だから魔王はあの時、わざわざ命ひとつ分を賭け金にしてまで受肉の魔術を使ったわけだが。

 そんな芸当ができるのは魔王ひいては魔女くらいだ。人類側である聖女は、『幽霊』のままでいるしかない。

 

「──というわけで、今から肝試しをする。ご理解いただけただろうか」

「いや、あんまりわからない。そもそもなんで異世界人が日本の風習知ってんの?」

 

 飛鳥は痛恨の表情をした。

 

「……俺が昔、話した……」

「ああ、異世界ラノベで転生者が日本の風習伝えるお約束。実際やるもんなんだね」

「……まあ、うん、まあ……」

 

 とはいえ本当に話しただけだが。

 腐っても二年、共にいた同僚だ。断片的には自我もあったため、聖女に身の上話のひとつやふたつ、いや百ぐらいはした。──家族のことも、墓参りをすることも。

 まさかそれを利用されるとは思ってなかったが。

 

 聖女は盆の初日、霊体で、墓場に現れた。その時期、飛鳥が必ず(・・)その場所に(・・・・・)現れる(・・・)ことを知っていて。

 まあ、恨み言を言う筋合いは自分にもないだろう。好意で(・・・)話した(・・・)わけでは(・・・・)ないの(・・・)だから(・・・)

 

 

 そのまま神社の裏手の方に回り、細い、山道を見つけたところで飛鳥は足を止める。この道の奥に、今は誰も参拝しなくなった古い祠があるという。

 

 懐から紙を取り出す。オカ研寧々坂芽々提供のそれは、坂白市(このまち)の心霊スポットリストだ。ここが最後の一箇所だった。

 ちなみに、候補地がこの町に限定される理由はある。少し前に魔王に問い詰めた。

「そもそも勇者と魔女が顔見知りで異世界に召喚されてるのはどういう確率なんだよ」と。

 魔王は『座標の都合だね』とあっさり答えた。

 

『この町だけなんだよ、ボクらの異世界と繋がったのは』

 

 ランダムで異世界召喚される町だった。地元最悪。

 

『だからボクもキミもこの町でならそこそこ異世界の力が使えるけど、町の外に出たらからっきしだ』

 

 ちょっと遠出しただけで咲耶が魔眼を使えなくなっていたことを思い出す。おそらく聖剣も同じだ。わかってはいたが、チートで無双のセカンドライフなどない。悲しい。

 

『まあ、町の外に出ても魔女の体質は変わらないけどね。ハハハ!』

 

 アイツいつか百遍殺す。

 飛鳥を芽々に貰ったリスト見ながら深々と溜息を吐いた。

 

「本当なんなんだよこの町、伝奇かよ。やたら心霊スポットあるしさぁ、最悪だ……」

 

 いかにも肝が縮んだ声の愚痴に、笹木は疑念を口にする。

 

「もしかして、飛鳥。本気で(・・・)ビビってる(・・・・・・)?」

「…………」

「えっダサい」

 

 率直で傷付く。

 

「いや墓とかはいいんだ。別に怖くない。盆の墓に出る霊はちゃんと供養されてる正規の手順を踏んで出てる幽霊だ。地獄の釜の蓋が開いた後ちゃんとビザ取って現世に来てるってわけだ。でも謎の心霊スポットに出るタイプの霊は違うだろ。つまり正規の手続きを踏んでいない。いわば現世への密入国不法滞在だ。悪霊じゃん。故に──めちゃくちゃ恐い」

 

「ごめん、ちっともわからない。一ミリも共感できない」

「俺は肝試しでは先陣を切り、そして全員を置いて逃げるタイプだ」

「なんでそれで勇者できたんだよ……」

「感情失くせばいける」

「厨二病じゃん。……え、ほんとに?」

「はは。冗談に決まってるだろ?」

「聞こえないんだよ冗談に」

 

 

 ◇◇

 

 

 などと無駄話をしている内に、日暮れの山道の先。朽ちた鳥居の前に辿り着く。

 それを潜る前に足を止め、飛鳥はその奥の何か(・・)を見ていた。

 

「当たり?」

「ああ」

 

 笹木には何も見えないし何も感じない。

 そういや芽々に「マコは霊感がからっきしですね。悲しいほど」と言われたことがあった。昔からオカルトが好きだった芽々は、もしかして何か見えていたのかもしれない。

 

(見てる世界が違う、か……)

 

 同じことを思ったのはいつだったろう。病院からの帰り道、芽々の漏らした憂鬱の正体を問いただせなかったあの時か。あの時の芽々と今の飛鳥はよく似ている、ような気がした。

 雰囲気が。あの、遠い目が。

 

(問いただしたところで、おれが見えるわけじゃないんだよな)

 

 この辺りが引き際だ。この先には踏み越えられない境界線がある。向こう側へ行こうとする飛鳥を見送ろうとして、彼ははたと振り返る。

 

「そうだ。笹木、来週開いてるか」

「なんで?」

「いや、海の予定潰してしまったからな。普段の礼に笹木と芽々の仲を取り持とうと思ってたのに……」

「そんなこと考えてたのかよ。ありがたいけどちょっと前までフラれてたやつに言われるのはむかつくな。てかこの流れでいう話?」

「大事だろ?」

 

 大真面目に飛鳥は言う。自分の腕を取り戻すこととその後に遊びの予定を入れることを、本気で、同列だと思っているかのようだった。

 

「言っておくが、俺はいい感じの日常を回すことしか考えてない。そのために必要な全部を仕方なくやってるだけだ」

 

 同列じゃなかった。こいつ、遊びの方が大事だと思っていやがる。

 

「めちゃくちゃバイトして金貯めて予定入れたのに、こんなくだらないことで邪魔されるとか、ないだろ!」

 

 くだらなくはないだろ。異世界も腕も。価値観どうなってんの?

 笹木はあきれた。

 

「飛鳥ってさあ……思ってたより普通だよね!」

「!」

「いや、嬉しそうな顔したところ悪いけど褒めてはない。変なところで普通って意味。自分が普通の高校生みたいなこと言うとすっげえ変って自覚した方がいいよ」

「嘘だろ…………」

 

 飛鳥はあからさまにショックを受けていた。ああ、なるほど。普通じゃないこいつにとっては『普通』がむしろ褒め言葉になるのか。

 バカだな、と思う。

 ──まったく予定が開いてるか、なんて聞かれても。返答は決まっているじゃないか。

 

「……開けとくよ。ずっと暇してる。ほら、さっさと終わらせてきなよ」

 

 笹木は木刀を投げて寄越す。危なげなくそれを受け取ったのを、見て。何も気負わない悪どい笑みを浮かべたのを、見た。

 

「──ああ、さっさと終わらせてくる」

 

 見送る背中はすぐに見えなくなった。木刀はもしかして返ってこないかもしれない、と思った。そのくらいはいいか、と思った。

 

 

 

 ──笹木慎には多分普通の友達がいる。

 とりたてて親しいわけではなく、けれどその仲を疑う余地もない。

 非日常に半身を突っ込んであるそいつのことを初めの頃、格好いいと思い込んでいたのは今覚えば錯覚で、何せ本当に格好いいところなどあったとしても、日常にのみ生きる笹木の目に映ることはないのだ。

 どこにでもいる、少しだけ変なやつにすぎない。

 

 

(……ま、でも。飛鳥の、全部を『普通』にしてしまうところとか)

 

「おれは格好いいと思ってるけどね」

 

 言ってやらないけど。あいつには。

 



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第十一話 怖いのは幽霊、饅頭、そしてストーカー。

 

 山の中の、朽ちた鳥居を潜る。そこは今は社を移した神社の跡だ。

 建物はかろうじて健在。だがそこに訪れる者はもういない。

 ましてや、こんな日暮れには。

 

 神の不在の社、その屋根の上に。枝葉の向こうに開けた空を仰ぐ、銀色の少女の姿はあった。纏う巫女のような装束が夜風に揺れている。

 

「いい夜だな。星がよく見える」

 

 呼びかける。そいつは青い目でこちらを見下ろした。

 

「何をしにきたのですか、勇者」

「その呼び方やめてくれ。もう勇者じゃない」

 

 俺は用件を伝える。

 

「話をしにきた」

 

 何の話をしにきたのか、聖女が察せられないわけがない。

 

「対話など不必要です。私は使命を果たすのみ。聖剣を渡すことはできません」

「つれないな。仮にも元同僚だろ? 話くらいは聞いてくれよ。俺はおまえに結構、情があるんだぜ」

「私に情はありません」

 

 人形兵は与えられた使命を果たすためだけに作られている存在だ。感情なんて脆弱性でしかないものは実装されていない。

 だが。

 

「おまえ、実は(・・)感情(・・)あるだろ(・・・・)

 

 

 はっきり言って、人類側の「感情がない」とか「自我がない」とか誇大広告である。ソースは俺。

 結構感情あったし自我あったからね、異世界時代。うっすらだけど。最底でもミジンコくらいはあった。

 でなければ、魔女の正体を知って我を取り戻すなど都合の良い奇跡が起こるものか。

 

 感情がどこに宿るかと言ったら脳だ。所詮心なんて脳の機能に過ぎない。ならば人工知能(アンドロイド)だって感情くらい、生えるだろ。猫型ロボットにだってあるんだぞ。

 

「ありません」

「いいやあるね」

「ありません」

「あるって」

「ありません」

「ちょっとムキになってるだろ」

「…………」

 

 聖女は冷ややかな目で抗議してくる。その、氷より冷たい目を見ていると「やっぱりないのでは?」とも思えてくるが。

 

「なら、あの時(・・)なんで俺を治した?」

 

 左腕を見せる。そこには真新しい傷痕がある。それは前回の魔王戦の時にできたものであり、墓場で遭遇した聖女の回復術によって(・・・・・・・)塞がった傷だ。

 

「……使命だからです」

「嘘だな」

 

 確かに、かつての聖女の使命は勇者の負傷を治癒することだった。だがその使命はとっくに終わっている。俺が人類を裏切り異世界から逃亡したその時に。

 

『聖剣の返還を』

『以上をもって任を解きます』

 

 そして勇者の定義は「聖剣の担い手」であり、聖剣を外された今、俺は本当に勇者ではない。

 ならば聖女が俺を治す理由など、どこにもないのだ。

 聖剣の回収に際しまったく必要がない回復術をかけたのは、こいつの自我でこいつの感情以外に何がある。

 

「それにおまえ、昔から傷治す時にめっちゃ小言言ってたじゃん」

 

『突撃しないでください』

『前見てください』

『ふざけてないでください』

『死なないでください』

『いい加減にしてください』

 

 といった具合に。

 いや怒られすぎだろ俺。そんなにバーサーカーだった?

 

「……思い出して、いるのですか」

「夢のおかげでな」

 

 夢見が悪いのは困りものだが、断片的に大事なことを思い出せたのは僥倖だった。

 それは聖女との旅の記憶だ。

 俺は聖女のことを『同僚』と認識している。確かに勇者の役割は鉄砲玉だったが、聖女もまた鉄砲玉に付き合わされて前線くんだりに放り込まれていたのだ。つまりは同じブラック労働に従事した戦友であり、命を預けた相手には違いない。

 そして今も聖女は使命に従っているだけ。別に予告なくやってきて聖剣を奪うのだって、やりたくてやっているものではないのだ。シンプルに上司(じんるい)がクソなだけ。

 情は互いにある。だから、交渉の余地はあるはずだ。

 

 笹木に借りた木刀を地面に置く。

 

「降りてこいよ、聖女。──積もる話でもしようぜ」

 

 聖女は、じっと心の読めない瞳で俺を見て。ふわりと地面に降り立った。

 

 

 ◇

 

 

 立ち話もなんだ。目の前には神社の元本殿、その階段に腰を下ろし支度をする。

 

「何をしているんです?」

「何って……茶の用意をしているだけだが?」

「わかりません」

 

 持参した水筒からキンキンの麦茶を注ぐ。板張りの床に置かれている湯飲みを、聖女は無表情で見つめていた。

 

「話をするのに茶のひとつも出さないのは失礼だろ」

「そういう文化なのですね。覚えました」

 

 うちの聖女は異文化交流に理解がある。盆に合わせて化けて出るくらいだからな。

 

「まあ他に理由があるけどな」

 

 異世界の飯は不味かった。なにせ生態系は崩壊済みだ。竜以外の生き物などろくにおらず、竜を食おうにも魔女の血で汚染された毒だ。

 あの世界の竜、飯にもならないとか本当にいいところがない。強いて言うならば竜は斬っても血が出ないことくらいだ。返り血で汚れずに済む。

 いや、毎回自分の血でドロドロになってその度に聖女に治して貰ってたんだけどさ。

 ──そう、聖女に対してあるのは情だけではない。

 

「散々世話になった礼だ。同僚に、美味いものくらいは教えてやりたかった」

 

 湯飲みの隣に饅頭を置く。お供物だ。

 

 

『──ようこそお越しくださいました、勇者様』

 

「現世にようこそ聖女サマ、ってな」

 

 

 聖女は、置かれたそれをじっと見つめて。呟く。

 

「……おまんじゅう」

「知ってるのか?」

「貴方が話しましたから」

「覚えてないな」

 

「──私はすべて記憶しています。貴方の話したことは」

 

 聖女は器を間に挟んで俺の隣にちょこんと座る。

 肩口で銀色の髪を切り揃えた、齢十ほどの少女の姿はあいかわらず透けている。なお、霊体でも(人形でも)飯は食える。咲耶が言っていたように、飯は魔力に変換できるからだ。

 もちろん物も持てる。現に聖女の腕の中には、俺から回収した聖剣が大事そうに抱えられている。

 このまま木刀で殴りかかって聖剣を強引に奪い返す、というのもひとつの手だがそれはナシだ。俺は蛮族ではないので。文化的にいこう。

 聖女はそうっと銀色の手を伸ばし、おそるおそると饅頭に口をつけた。

 咀嚼、というよりは消滅。饅頭は齧った先から魔力に変換され、光の粒子になって消えていく。表情はやはり完全に無。少しも動かない。

 ……もしや味がわからない、なんてことはないよな?

 様子を伺う。聖女は、微かに吐息を吐いた。

 

「甘い、です」

 

 丸くなった瞳が驚きを物語っていた。

 

「そうだろ」

 

 おまえはきっとこんな味は初めて知ったんだろう。

 食べきるのが惜しいかのように少しずつ齧り始める。こうして見ると、見た目相応の少女にしか見えない。

 笑いが漏れる。

 ──そのざまで「感情がない」とか、どう考えても無理あるな。

 

 

「なあ、聖女。俺がいなくなった後、向こうの世界はどうなった?」

 

 小さな喉をこくりと動かした後。淡々と答えた。

 

「残る竜は私たちで掃討しました。人を脅かすものはもうありません」

「それはよかった」

「貴方が魔王を倒したおかげです」

 

 薄々察していたが。

 異世界人(こいつら)──魔王が生きてること、知らないな?

 

「魔女と手を組んで離反した時は、まさかそうなるとは予想しませんでした」

「どうなると思ったんだ?」

 

「──貴方が魔王に与し、世界を滅ぼすと」

 

「はははっ! そりゃ必死で追うわけだ!!」

 

 腹抱えて笑った。

 俺が世界を滅ぼす、か。それはまた不謹慎な冗談だ。最高に笑える。

 

「というか、魔女はいいのか? 殺さなくて」

 

『魔女は絶対に生かしてはならない』というのが人類の方針だったはずだが。

 

「諦めました」

「諦めたのか」

「無理なので」

 

 まあ勇者以外に魔女は殺せないからな。

 聖女は一応聖剣を使えるとはいえ、なんだかんだと咲耶はめちゃくちゃ強い。

 俺(現役時代)>魔王(慢心)>咲耶(角アリ)>聖女(聖剣装備)くらいの図式。

 ……いや諦めたってなんだよ。そこ融通効くのかよ。おい人類。ガバガバか?

 

「……それにしても不可解です」

 

 聖女はじぃ、っと俺の左腕を。というか、さっき見せた傷痕を見ていた。

 

「アスカは、何故魔女をまだ殺していないのですか?」

 

 あ?

 

 ……あっぶね。今ちょっとキレそうになった。

 なるほど、聖女はそもそも異世界時代のガチで敵対していた俺たちのことしか知らない。聖女は未だ、俺たちが「現世に帰るために仕方なく手を組んだだけ」だと思っているのだ。

 感じる視線と魔王の生存を知らないことから察するに、傷のことも「魔女がやった」と思ってるのだろう。聖女の認識の中では俺たちはまだ犬猿の仲というわけだ。まさかとっくに友人を通り越しているなどとは思うまい。

 感情らしきものがあるとはいえ……こいつ、本当に人間の機微がわからないんだな。

 

「何故、一度殺し合った相手と和解することが可能なのですか?」

 

 ……あれ? おかしいのは俺らか?

 

 確かにこっちに帰ってきたばかりの頃はそれなりに揉めた。だがそもそも魔女に恨み辛みがあるわけではない。

 確かにお互いは正体を知らない間は殺し合ったが。俺が殺したのは竜だけで、彼女が殺したのは人形だけ。

 戦というのは味方を手にかけられることで、相手が許せない敵になり憎悪が膨らむものだ。俺たちに限っていえば味方が味方ではなかったのだから、禍根がそもそもない。

 そういう機微も聖女にはわからないのだろう。

 ──否、知ることもなかったのだ。与えられた使命のためだけに動く人形は。

 

 ──それはかつての勇者(じぶん)と何が違うのだろう。

 

 そう、気付いて。目の前の少女のことを哀れに思った。

 あの時俺は咲耶を助けると決めて人類を裏切った。聖女を置いて魔女の手を取った。

 その選択に一切の後悔はない。

 だが、「本当に正しい選択」があったとすれば。

 ──俺は、聖女(このこ)にも手を差し伸べるべきだったのではないだろうか?

 

 などと。それは流石に欲張りすぎか。手が足りない。物理的に。

 

 人形は『使命』を果たすために作られているという。

 刷り込まれた使命(それ)が、どういった性質のモノであるかは想像がつく。呪いであり洗脳。要は勇者に世界を救えと刷り込むのと同じそれ。

 たとえ人形(アンドロイド)だとしても、今の俺には、聖女がただの女の子にしか見えなくなってしまっていた。

 ……甘くなったものだな、俺も。

 

「なあ、」

 

 呼びかける。

 

「おまえが使命最優先で作られているのは知ってるよ。だけどここは現世だ。『使命』の強制力も強くはない。おまえも……少しくらい好きにしたって、いいんじゃないか」

「好きに……?」

「やりたいことやれば、ってことだよ」

 

 先の話が本当ならば。異世界を脅かすモノはもうなく。ならば彼女が、『聖女』という使命に終始する必要もない。

 

「私の、やりたいこと」

 

 少女は、空っぽになった包み紙を見つめる。

 

「人間じゃないおまえに言ってもわからないか……」

 

 見つめる指先は銀。冷たい、機械の手だ。

 

「そういえば、貴方に言ったことはありませんでした」

「何を?」

 

「私は半分人間です」

「…………マジで!?」

 

「フラスコで培養され、身体の約半分は機械化し人形兵としての型番を拝していますが。定義上は一応『人間』です。名前だってありますよ?」

 

 アンドロイドじゃなくてサイボーグだったのか……。

 いや、人工知能じゃねえじゃん。生身の脳じゃん。感情ないわけないだろそれ!

 

「…………待て、おまえ、年はいくつだ?」

「十四ですが。それが何か?」

 

 聖女は、見た目より少しだけ上の年を答えた。

 顔を覆った。つまり二年前は、十二だ。

 ──恐ろしいことに気付いてしまう。

 まったく育ってない外見に機械の手足。聖女は勇者には劣るとはいえ、聖剣を使うことができる。ならば俺が召喚される前。

 

 彼女は(・・・)何を(・・)させられて(・・・・・)いたのか(・・・・)

 

 難しい想像ではない。

 

「どうなってんだクソ異世界!!!! マジでいい加減にしろよ……!!」

「何を怒っているのですか?」

 

「ああ、クソッ、なんで今知ってしまったんだ」

 

 髪を掻き毟る。

 

 

「──罪悪感が湧く」

 

「……え?」

 

 

 たとえ俺が甘くなったとして。勝つために手段を選ぶ気は未だ、さらさらない。

 そして聖女は。こふ、と口から血を吐いた。

 

 

 咳き込み、口から赤いモノを吐く聖女は、信じられないという目でこちらを見る。

 

「何を、したんですか」

「怪しい奴に貰ったものを食べてはいけない。現世の常識だ」

 

 淡々と答える。

 

「毒を盛った」

 

 魔女の呪いという名の毒を。

 その効果は何か。

 

「死にはしない。ただ、楔を(・・)打った(・・・)だけ(・・)だ」

 

 聖女と交渉するにはタイムリミットがあった。盆の文脈を利用した以上、四日目(つぎのひ)には聖女は異世界(むこう)に帰還する。問答無用に勝ち逃げというわけだ。

 ならばまず、帰れない(・・・・)ように(・・・)すればいい(・・・・・)。 

 

『定義するわ。聖女にとってはここが異世界(あのよ)。この世界こそが、常世ならざる黄泉の国』

 

『──引用する文脈は黄泉竈食ひ(よもつへぐい)。ひとたびこの世界のものを口にすれば、元の世界(・・・・)()戻れない(・・・・)

 

 それが朝に受け取った小瓶の中身。毒薬に込められた呪いの正体だ。

 

 

 聖女の吐きこぼしたものは一見血のようでその実、赤い光の粒子だった。

 魔女の呪いが聖女の霊体に楔を打ち込む。この世界に存在を固定する。

 その姿に掻き消えそうな儚さと透明感は最早ない。聖女の霊は常人の目には見えないまま、殆ど実体に近くなる。

 これで物理攻撃が(・・・・・)通る(・・)

 

「悪いな。ただ返せと言っても聞けないだろう」

 

 聖女にとって使命は絶対だ。そういうふうに造られている。

 たとえ情と交渉の余地があるとしても、それは揺るがすことは不可能だ。勇者(オレ)がかつてそうであったように。

 だが、これで互いに弱みは握り合った。

 聖女が帰るには魔女の呪いを解かなければならない。聖剣でさえ、既にかけられた呪いを断ち切ることは難しい。聖女の実力で魔女を倒すこともだ。

 

 ──力関係は対等であって初めて、交渉のテーブルに着くことができる。

 

「それじゃあ話の続きをしようか、聖女サマ」

 

 少女は、聖剣を機械の両腕で強く抱いて。

 俯き、鈴の声をか細く漏らす。

 

「いえ。その必要はありません。──私のやりたいこと……ひとつだけ、ありました」

 

 風に切り揃えた銀髪が靡く。法衣の裾が霊気に浮き上がる。

 青く、光る瞳がこちらを見据える。凛と揺るぎない声で告げる。

 

 

 

「──貴方を殺すことです」

 

 

 

 

 ◇◇

 

 

 無感動に告げられた殺害予告。聖女は剣を抜き放つ。

 人形は冗談を言わない。それを示すように、間髪と入れず剣は振るわれる。

 少女の身の丈に合わないそれは狙いを過ち、飛鳥の横を擦り抜けた。

 飛び散る木片、バキリと古い社がダメージを引き受けた音を聞き、飛鳥は頬を引きつらせる。

 

「待て待て、なんで!? 毒盛ったから怒ってる!?」

「怒ってません」

「ガチギレじゃん!!」

「怒ってません」

「ごめんって!!」

「怒ってません」

「じゃあ襲うなよ!!」

 

 ──こうなる想定をしていないわけではない。

 初めから聖女が剣呑で、毒を盛る余地すらないパターンも考えていた。

 だが、先まであまりに無警戒だったのだ。ここまで来て急に掌を返した理由がわからない。

 

「アスカ、貴方は。まだ思い出していないのですね。勇者に(・・・)なる前の(・・・・)ことを(・・・)

「……前、って何だ?」

 

 意味を理解しようとする。鈍い頭痛がして、顔を顰めた。

 

 ──正しく生きなさい。

 

 何故今、思い出すのが祖母の言葉なのだろう。

 

 聖女は、ほんの一瞬。躊躇うように瞳を揺らし、口を開く。

 

「『勇者の名代、聖女の()に於いて命じます。──応えなさい、聖剣(lapisgram)』」

 

 声に応じ、剣は形を変える。少女にとって一番相応しい形へと。

 その手に収まったのは蒼く光る、細い剣(レイピア)竜を殺す(・・・・)には(・・)頼りない(・・・・)()

 

 トン、と少女の爪先が地面を蹴る。

 飛び込んでくる、細い切っ先に込められたのは鋭い殺意でありそれ以外の何物でもない。

 

(ああクソ! 交渉の余地なしか!)

 

 飛鳥は借り物の木刀を拾う。迎え撃った。

 刀には向けられた殺意に応えるように殺意を乗せた。どこを狙うかなど考えなかった。考えるまでもなく身体は動き、身体が動いた後で思い出す。

 

 

『私は人間です』

 

殺しては(・・・・)いけない(・・・・)

 

 

 その躊躇は『人間(ひと)』として正しく、けれど無慈悲に結果を分ける。

 手元が僅かに狂う。純粋な殺意を躊躇うまま防ぐには、その武器は脆かった。

 飛び込む聖剣の刺突を受け止めた、木刀が割れる。

 刺突は額を掠めて、背後、社の壊れた柱に刺ささった。

 いつのか(・・・・)わからない(・・・・・)古傷(・・)が開く。

 酷い、頭痛がして、視界が眩んだ。

 

 目と目が交差する。

 聖女の瞳からは何も読み取れない。

 

「何故だ」

「それが私の願いだからです」

 

 少女が柱から剣を抜く。

 刃が再び向けられる。

 その前に。

 

 甘ったるい毒のような囁きが聞こえた。

 

 

「奇遇ね。──わたしの願いも、あなたを殺すことなの」

 

 

 聖女が振り向いた、その瞬間。

 赤い光の斬撃が閃き、銀の腕が宙を飛んだ。

 

 

 

 ◆◆

 

 

 

「腕ってよく飛ぶわよね〜! やっぱり武器持ってるし? ええ、斬り飛ばしたくなるのが人情というものです!!」

 

 血色の直剣。何の飾り気もなく、だというのにいやに禍々しい剣を携えて。

 アンバランスな普段使いの黒いワンピースのまま、彼女は地に降り立った。

 頭上には転移の魔法陣。彼女が今この瞬間、ここに現れたという証だ。

 

人形(あんたたち)は魔女の血への耐性があるし、流石に殺すような毒は作れなかったのだけど! 剣も悪くはないわね」

 

「……魔女」

 

 剣閃が通ったのは腕のうち、機械化されていない生身の部分だった。二の腕から血を滴らせた聖女は、切り飛ばされた腕を拾ってそのまま肩に付け直す。

 チート級の回復術だ。魔女はそれを妬ましげに見つめる。

 

「どうして貴女がここに」

「当然、ストーカーしてたからだけど?」

 

 前回の反省だ。飛鳥の位置情報はもはや常に咲耶の手の内にある。

 勿論合意の上だ。これで公認ストーカーですようふふとか考えてない。実質いつでも一緒じゃない? とか浮かれてない。

 ──そして、このような状況になれば合図が来るようにもなっていたのだ。

 

 咲耶は三つ編みにまとめた髪を払う。

 

「あなたにも事情があるのでしょう。でも『何故』なんてわたしは聞かないわ」

 

 何故ならばそんなことは差し置いて、かれらには揺るがない罪(・・・・・・)がある。

 剣を突きつける。

 

「ねえ、聖女。ずっと聞きたかったことがあるの」

 

 ──あの墓場の夜からずっと考えていたのだ。飛鳥が『忘れた』と言ったあの時から。

 

あいつの(・・・・)腕は(・・)誰がやった(・・・・・)? 同僚のおまえなら、忘れることを知らない人形のおまえなら、知っているだろう」

 

 真実を。

 聖女は、眉ひとつ動かさなかった。

 

「彼の敵はすべて貴方の血を飲んだ仔です。彼の傷はすべて貴方が付けたと言っていい」

「いいえわたしじゃないわ。ありえない」

 

 論理に異議はなく、しかしはっきりと否定する。

 

「あいつはね、わたしのせいならばむしろ笑って軽口に貶める。『いやぁ、めっちゃ痛かったな! 最悪だ!』とか言って。わたしが気に病まないようにって、そうするの。ばかでしょ。愛されてるのよ。……自覚があるの」

 

 でもそんなことはしなかった。今まで一度たりとも口にしなかった。

 それどころか『おまえのせいじゃない』と言う。

 気休めだろうか? いいえ、そんな無意味な嘘をつくはずがない。

 ならば本当。

 『忘れた』と言ったが、魔女の(・・・)せいでない(・・・・・)こと(・・)だけは覚えているということだ。

 

 ならば真実は何か?

 ならば、誰がやった?

 

「──おまえらだろう。やったのは」

 

 

 聖女は、答えなかった。

 

「おまえらのせいで……」

 

 ぎり、と歯を噛み締める。

 

 

「わたし、お姫様抱っこしてもらえないじゃない! 一生!!」

 

 

 ──夢だったのに!!!

 

 

 あたりはシンと静まり返る。

 夜の森の鳥の声さえ消えた。

 声音に冗談の色はなく、見開かれた瞳に光はない。

 

 

「だから殺すわ」

 

 

 聖女は、ちょっと何言ってるかわからなかった。

 



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第十二話 人殺しの分水嶺。

 

「聖女と交渉がしたい」と飛鳥が言い出した時、わたしは甘すぎると思った。

 あれをどうして同僚扱い仲間扱いできるのか。分かり合えるだなんてちっとも思えない。

 

 だってどう考えたっておかしいもの。

 聖女の回復術は死者蘇生の一歩手前に達する。飛鳥が妙に捨て身の戦法ばかりを取るのはそのせいだ。

 あれだけの回復術があれば、たかが腕がちぎれたくらいは治せるはず。現に今そうしてみせた。

 ならば、あえて治さなかったことには何が意図があるはずだ。

 ……どうせ聖剣と繋げたほうが強くなるとか、そういうくだらない理由でしょ。あの世界の人類なんて所詮そんなものだもの。

 そう思い至った瞬間に決めたのだ。

 

 ──あの聖女(にんぎょう)、殺そう。

 

 それが、わたしの本当の目的だ。

 

 だから交渉が決裂したなら願ったり叶ったり。

 勇者(あいつ)の辞書に復讐の二文字はない。復讐は魔女の専売特許だ。

 あいつが怒らないのならばわたしが代わりに(いか)ろう。報復はわたしが代わりに為そう。

 たとえ飛鳥に怒られても。

 

 ──そのくらいの愛情(わがまま)は、許されるでしょう?

 

 

 

 一方その頃──六畳一間の古城(ボロアパート)

 表の表札に『陽南』と書かれたその中は、異空間と化していた。

 

 魔女の結界によって作られた監獄。冷たく薄暗い、かつての魔王城を模した結界(へや)の中。鎖に繋がれた魔王は、少女の姿で呟きを溢す。

 

「どうやら始まったようだね」

 

 ()の様子を知覚して、彼は蜥蜴の瞳を細める。

 かつては寧々坂芽々の眼を通しても、得られる現世の情報は非常に断片的だった。だが現世で受肉した今、たとえ封印されていても、この町で()が起こっているかくらいはわかる。

 聖女の襲来も、聖剣が今ここに無いことも。

 そして今、聖女が現世に繋ぎ止められたことも。

 魔女が、聖女を殺さんとしていることも。

 

「とはいえ、ボクは何もしないのだけど」

 

 流石に封印されているので手も足も出ない。

 ──出す必要もない。

 

 

 牢獄の床は血で濡れていた。それは拷問の跡ではあるが、魔王の血ではない。

 何せ竜の身体に血は流れていない。あくまで、魔女の魔法による血糊に過ぎなかった。

 無意味な小道具、というわけではない。視覚的に拷問という呪い(・・)の効果が増すため、効果的ではある。咲耶のB級映画趣味が災いし、どうにも血糊がチープなことを除けばだが。

 

 そう、拷問もまた呪いである。痛みと血を持ってその精神に作用するのだから。

 だがその精神が擦り減るのは受ける側だけではない。

 人を呪わば穴二つ、呪いを行使する側もまた呪いに蝕まれるのが世の理だ。

 

「……まったく仕方のない弟子だ。(ボク)の口をこじ開けようとして、自分が擦り減っているのだから」

 

 他者の命を削るというのは、その行為自体が自らに跳ね返る呪いだ。そして日常と非日常を行き来することもまた、人間の精神を擦り減らす。 

 

 この一ヶ月と半分。ただ拷問をさせただけで、文月咲耶の正気は着実に削れている。

 言動がおかしくなっていることからもその効果は明らかだ。

 

 …………ほんとかな? 素でおかしいだけじゃなくて?

 

 いや、本来の理性と常識ある彼女ならば公衆の面前で「結婚!」とか口走らないだろう。

 

 ……でも正気が削れた結果惚気るのはおかしくない? そういう仕様じゃなくない? 

 

 魔王は訝しんだ。

 

 

 

 何はともあれ。

 極め付けは聖剣がないということだ。即ち魔女が角なしであることだ。

 あれは自らの狂気に耐え得るための人外の器官。ただでさえ仕込みが効いている今、文月咲耶の精神は脆い。

 あと、一線を(・・・)越えれば(・・・・)、狂気は容易く溢れるだろう。

 再び魔女に堕ちる。愛と我欲(わがまま)の区別のつかない、悪性へと。

 

 魔王は目を細めて、笑う。

 

「言っただろう? ──何もしなくとも、どうせボクが勝つ、と」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 額から流れる血を拭って、俺は両眼を開く。

 聖女に殺されかけた後、死ぬかと思う頭痛で意識が飛びかけていたので、咲耶が何か言っていた気がするけど聞こえなかった。

 

 なんだったんだあの頭痛チクショウ。

 頭ん中にドライバーをねじ込まれてゴリゴリ回されているような不快感。まるで呪術を食らったかのような──いや、不調の理由など考えている場合ではない。

 現状をようやく把握する。

 

 夜の境内跡に響く、硬質な刃の打ち合いの音。細い銀色の剣と、禍々しい赤の剣。

 片や形を変えた聖剣であり、片や魔術で出来た血の魔剣。それを振るうのは本来剣とは無縁の聖女と、魔女。

 目の前では二人の、物騒なやり取りが繰り広げられていた。

 

『私の願いは貴方を殺すことです』

 

 ──交渉は不可解に決裂した。

 それはいい、今はいいとして。

 まずいのは目の前の光景だ。思いっきり聖女に斬りかかっている咲耶だ。

 

『わたしの願いもあなたを殺すことなの』

 

 ──あいつ! そんなこと一言も言ってなかった! 一人で黙って決めやがったなあんのアホ!!!

 

 

 剣の腕は悪い意味で互角。相性は聖剣持ちの聖女有利。

 だというのに戦況は明らかに魔女が押していた。

 聖剣本来の使い手ではない聖女では、魔女の魔剣(のろい)を壊せない。

 

「……アハッ、大したことないわね聖女サマ!」

 

 剣戟の音に彼女の哄笑が混じる。

 赤い瞳は暗闇の中で爛々と輝いていた。

 

「いつもいつもいつも、目障りだったの。あいつの後ろで、相棒面して──それなのに、傷ひとつ綺麗に治せないで」

 

 瞳は輝いているのに、その声は虚だった。

 会話ではなく呪詛めいた独り言、あの様子には覚えがある。いつか俺と戦った時もああなった。多分あれは、既に一回死んでいる(くるいはじめている)

 聖女は表情ひとつ変えず、息ひとつ上げず、そのほとんどを機械化した身体は血を流さない。

 けれど着実に追い詰められていた。

 

「……っ」

 

 細い銀剣を握る腕が弾かれる。その瞬間、魔眼が光り聖女の動きを止める。

 

「──『死ね』」

 

 避けられない、呪詛と共に赤い刃が聖女の頭上へ振り下ろされる。

 その前に(・・・・)

 

 俺は、魔女の剣を左手で受け止めた。

 

「……は?」

 

 

 

 要は、タイミングを見て間に割って入っただけなのだが。

 眼前には剣を止められ目を丸くした咲耶。背後には聖女が、魔眼の硬直を解き一瞬の隙に姿を消した。

 どこかに転移したのだろう。ここで俺を殺すのを取りやめて一旦撤退できるのが聖女のいいところだよな。

 あいつは逃げ時をよくわかっている。俺も昔よく聖女に前線から引っぺがされた。

 

 咲耶が激昂する。

 

「なんで止めるの!?」

 

 止めるだろ。だって。

 

「あいつは人間だ」

 

 俺すら先まで知らなかった──おそらく忘れていた──が。

 聖女を殺せば文月咲耶が人殺しになってしまう。

 それだけは、絶対に、いけない。

 

「…………だから何!?」

「人を殺すのは駄目だ」

「今更ッ、綺麗事なんて!」

戻れなくなるぞ(・・・・・・・)

 

「…………え?」

 

 ──魔王め。師匠のくせに肝心なことは教えなかったんだな。

 

「おまえ言ってただろ、人を殺したことがないって」

 

『人を殺していないから、咲耶(おまえ)は悪くない』とかつて俺は言った。

 あの境遇を聞くに、魔女は本来世界を滅ぼすと決めた時点で正気を完全に失っていてもおかしくなかった。

 彼女の精神(なかみ)は人間のものではなく、怨霊のそれに近いと魔王は言った。

 だけど彼女はこうして、かろうじて正気で、人らしい精神性を保って、今もここにいる。

 後戻りできる存在であったのは、取り返しのつく存在であれたのは、彼女が『人を殺す』という絶対的な一線を越えてないからだ。

 

「あのな咲耶。知ってるか。殺人は脳に悪い」

「……その言い方、魔女(わたし)でもちょっとどうかと思うわ」

 

 咲耶が急に我に帰って突っ込んだ。おかえり理性。帰ってくるの早くて安心したよ。

 

 殺人は脳に悪い、と言ったが要は精神に悪いという話だ。

 人を殺すという行為はそれそのものが自らに跳ね返る呪いだ。

 命を用いる呪いが最も強く、人を殺せば呪われる。

 即ち精神に多大な負荷がかかる。

 

 

 でもそれを知らないのだ。

 何故なら、文月咲耶は(・・・・・)人を(・・)殺したこと(・・・・・)がない(・・・)

 

 だから。

 

「なーに勝手に手ぇ汚そうとしてんだよ! おまえの正気カッスカスのスポンジだろうが! あのまま殺ってたらマジで危なかったぞ!?」

「だ、だからってこんな止め方しなくてもいいでしょ!! 剣を、素手で握るなんてことっ……!!」

 

 咲耶の叫びと表情が妙に悲痛で、首を捻った。

 視線を、手で受け止めたままの剣に向ける。

 ……ああ、なるほど。刃が食い込んでると思ってるのか。

 

「普通に白刃取りだけど?」

 

 手をパッと離した。もう聖女もいないしな。

 当然手には傷ひとつない。(元々の以外は)

 咲耶は、安心か苛立ちかよくわからない苦い顔をした。

 

「あんた、変」

 

「いやぁ成功してよかった。失敗したら左手落っこちてるところだった。五分五分だったんだよなぁ〜」

「ば、ばかっ! バカバカ!」

 

 咲耶は半泣きになる。

 ……こいつ涙腺脆いよなぁ。映画見る時全然泣かない癖に。

 あえて慰めないし反省もしない。そこまでしてでも止めなければならなかった。

 咲耶がこれからも同じことをしようとするなら、俺も同じことをする。

 自分を人質に取ってばかりなのはどうにも情けないが。

 

「それはそうと。──助かった」

「……ん。今度は間に合ってよかったわ」

 

 交渉は最悪に決裂したが、きっちり毒は盛った。これで聖女は帰れないんだ。焦らずゆっくり追い詰めればいい。

 

「つかおまえ剣の振り方めちゃくちゃだったぞ。今度教えてやろうか?」

「は〜? ムカつく! 通販で木刀買っとくし!!」

 

 あっ、笹木に木刀弁償しないと。

 痛い出費だ。あと頭も痛い。まだ治らないのかよ。何これ。

 

 

 

 咲耶はぐすっ、と鼻を啜って。

 

「止血するから、こっちきて」

 

 と言う。

 ああ、そういや額切れてたか。

 手をやると、ぬるりと温かく嫌な感触がした。

 うへえ、と声が出る。俺は一体いつになったら前髪を短くできるんだ。

 

 血だらけになった手を見る。

 辺りに外灯はひとつもない。夜目が効くとはいえ限度がある。

 だというのに、手を染める色がはっきりと見えた(・・・・・・・・)

 

 赤い(・・)血の色が(・・・・)

 

 

「──づッ」

 

 

 頭の螺子を締め直されるような、頭痛。

 視界が明滅する。

 頭の中で声が反響する。

 

 

『世界を救え』

 

『さもなくば』

 

 

 その声の正体を知っている。

 手が、震え出す。

 無い右腕が捻じ切れる錯覚がする。

 

 

おまえが(・・・・)死ね(・・)

 

 

 ──思い出した。全部(・・)

 

 

「飛鳥……?」

 

 喉を、胃液が、迫り上がる。

 返事は、出来なかった。

 

 

 吐いた。

 

 

 

「飛鳥……!?」

 

 

 

 ◇◇

 

 

 

「ああ──こうなる前に、殺すべきだったのです」

 

 



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第十三話 それがあなたの奈落と今更知って。

 

 ──何かを守り、救うために命を使うことは正しいことだろうか?

 

 正直に言おう。

 自己犠牲なんてクソ食らえだ。他人のために身を差し出すなんて正気じゃない。

 慎重に堅実に、生きて、長生きして、畳の上で死ぬ。それ以上にいい人生なんてあるだろうか? いいや、ない。

 それが陽南飛鳥(かつてのオレ)の信条だった。

「陽南」という致命的に無鉄砲な家系に生まれ育った反動だ。人が呆気なく死ぬことを知っていて、自分がそうはなりたくなかった。

 平穏凡庸安定志向。器用にそれなりに上手く立ち回って、そこそこの幸せさえ手に入れられればいい。

 俺は、「普通の人生」が欲しかった。

 

 けれどやはり。

 

 ──何かを守り、救うために命を使うことは絶対に(・・・)正しい(・・・)のだ。

 

 そうでなければ俺を守って死んだ両親が間違っていることになる。

 そうでなければ見知らぬ子供を救って死んだ祖母が間違っていることになる。

 死者の冒涜は、絶対に許されない。

 

 だから。

 

『どうか世界をお救いください』

 

 異世界に召喚され、そう()われた時。

 答えた。

 

『俺でいいのなら』

 

 迷いは、少しもなかった。

 たとえそれが自分の願いと相反するものだとしても。

 それが「正しい」と信じたから。

 

 

 

『正しく生きなさい』と祖母は言った。

 

『正しく生きるってのはね、死ぬ時に笑えることさ』

 

 俺は、笑えない人生を選ぶのはごめんだった。

 

 

 

 ──教えは死んだ人間のものであるほど重い。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 一夜が明けて、わたしが目を覚ましたのは良い匂いがしたからだ。

 こんがりと焼けるトーストとお味噌汁。この半年に身に染みた、朝の匂い。異世界にはない、この世界で最も素晴らしいものの一つ。

 

「ん、んぅ……」

 

ソファの上でのたうつように寝返りを打った。

 

「おまえさあ、ソファで寝るなよ」

 

 飛んでくるのはあきれたおはようの代わりのお小言。

 

「そろそろ起きると思ったよ。おはよう」

 

 半分身を起こす。ふわふわと寝ぼけ眼で曖昧な返事と挨拶を返して、わたしは二度三度と目を擦った。

 飛鳥がテーブルで頬杖をついてこちらを見ていた。少しやつれていて、絆創膏が目立っているけれど、あいかわらずTシャツはくそばかで、わたしに意地の悪い顔で笑いかけている。

 いつもどおりに(・・・・・・・)

 

 ──まるで昨日、何もなかったかのように。

 

 跳ね起きた。

 わたし今昨日のこと全部思い出した。

 寝惚けている場合じゃない。

 ずり落ちた毛布を蹴っ飛ばして飛鳥に詰め寄る。

 

「大丈夫なの!? ていうか大丈夫じゃないでしょ!?」

 

 テーブルに並んでいるのはいつもどおり(・・・・・・)の、朝ご飯。

 

 ──な、何、呑気に朝ご飯作ってるのこいつ!!? 

 

「昨日、自分がどうなったか覚えてないの!?」

「覚えてる覚えてる。おもくそゲロ吐いて、帰ってきてそのままぶっ倒れた」

「合ってる! けど!」

 

 言い方ッ!!

 

「まじごめんね」

「軽すぎる……!」

 

 目に焼き付いているのは、そんな、軽い光景じゃない。

 ──血と吐瀉物の臭い。真っ暗の中、芋虫みたいに縮まる背中。嘔吐(えず)く声。

 思い出すだけで背筋が寒くなる。頭が真っ白になって、涙が溢れそうになる。わたしは何もできず立ち尽くしているだけだった。何かとても、悪いことが起こっているのだと思った。

 なのに。なのに!

 

「いやぁ今世紀で一番ダサかったな昨日の俺」

 

 なのに穏やかな朝の光景が、朝食のいい匂いが、あまりにへらへらと笑う目の前のこいつが!  わたしを強引に日常に引き戻して──力が抜けそうになる。

 

「心配かけて悪かった。急に昔のこと思い出してさ、情報量で悪酔しただけだ」

 

 ──それだけなものか。

 

「俺さぁ、めっちゃ酔いやすいんだよね。船とか酒とか人混みとか」

 

 ──それだけな気がしてきた。

 

「大丈夫だよ。飯さえ食ったら治る」

 

 目を見る。

 ──やっぱり、そんなわけない。

 

 ひりつくような違和感があった。違和感は、テーブルから発せられていた。

 規則正しく並べられたお皿。こんがりと焼き上がったトースト。お気に入りのジャムに、湯気の立つお味噌汁。そして飲み物の用意だけがまだ。

 完璧な朝の用意だ。このまま学校に行けてしまう。夏休みだけど。

 ……そう、夏休みなのだ。几帳面を基本とするわたしたちでも休日は堕落を極める。変な時間に起きて適当に朝ご飯なのか昼ご飯なのかわからないものを食べたりする。

 まして今は非常事態で、規則正しい生活なんてものにかかずらっている場合ではない。

 目の前の光景は完璧すぎた(・・・・・)

 

 このやり口はよく知っている。

 完璧を(・・・)装って(・・・)取り繕う(・・・・)

 それは、かつてのわたしと同じ手口じゃない?

 

 ねえ飛鳥。うまいこと平気なフリをしたつもりでしょうけど。

 年季が違うわ。わたしにそれを仕掛けるのは無謀というものよ。

 

 でも。

 追求は吐き出さず、飲み込んだ。

 

「……コーヒー淹れてくる」

 

 

 

 身支度をして、使い慣れた揃いのマグカップを下ろして、インスタントのコーヒーを作る。

 追求をしようと思えばできたけど、やめた。

 何事もなかったことにしたいなら、取り繕ったそれを無理矢理剥がすことはしない。

 ──できない。

 

 いつか、わたしたちの関係を定義したことがある。

 友達になり、それ以上になり、それでもわたしたちの関係の本質は何も変わってはいない。

 良き隣人、良き理解者。定義とルールと気遣いと不文律で成り立つ、唯一無二の(つごうのいい)関係。

 

 傷に触れてはいけない、だけど目を背けてもいけない。予防線を蜘蛛の巣のように張り巡らして、許される範囲で冗談を言い合う。今更隠し事はしないと表向きは言い張るけれど、聞かれなければ答えないし、本当に言いたくないことは言わない。

 友達であっても、恋人ではない。

 

 ──わたしたちの関係はその実、五月のあの夜から一歩も踏み出せてはいなかった。

 

 キスはしても付き合ってない。

 一緒に住んでも結婚してない。

 抱きしめたって愛してるなんて言えない。

 どれだけわたしが好意をぶつけても、あいつが応えることはない。

 つまるところ今のわたしの定義は「都合のいい女」なのだ。実際、わたしはそれでいいと思っているし、自ら都合のいい女でいたいと願っている。

 都合がいいっていうのはつまり、嘘に騙されてあげる甲斐性くらいはあるということだ。

 

 ……なんか、癖で難しいことを考えてしまったけど。

 要は信じたってこと。

 八割強がりっぽい雰囲気がするけど。飛鳥が大丈夫だと言うのなら本当に大丈夫ということにしてあげなくもない。

 ま、実際軽口を叩く元気はあるようだし? わたしに気を回す余裕だってあって、何よりちゃんとご飯を食べる気がある。

 えらい。もう人間として百点あげちゃう。満点は千点です。

 あいかわらず素直に弱みを見せないのはどうかと思うけど!

 

 煩悶と葛藤はコーヒーをぐるぐる回していたら溶けて消えた。

 

「お待たせ」

 

 食卓に戻り、マグカップを渡す。

 朝ご飯にしよう。物騒な話はそれからだ。

 

「あれ。わたし、飛鳥の分に砂糖入れたかしら?」

 

 考えごとをしながら作っていたせいで、いまいち記憶があやふやだった。

 わたしは砂糖なしのブラック派、飛鳥は砂糖多めのブラック派、両方ミルクは入れない主義だ。見た目に違いはわからない。

 飛鳥は半笑いでマグカップを置く。

 

「どうりで変だと思ったよ」

 

 そのままテーブルの砂糖瓶から四つ、真っ黒な液体の中へ。

 ぽちゃん、と連続で落ちる音を聞く。

 

「相変わらず歯が溶けそう」

「美味いぞ」

 

 そして溶かしたコーヒーに、飛鳥が再び口をつけるのを見て。

 その時。

 わたしは──思い出してしまった。

 

 

 立ち上がる。椅子が倒れる音がした。

 

「あんた、大丈夫じゃないでしょ」

「何が?」

 

「そのコーヒー、砂糖(・・)八つ分よ(・・・・)

 

 思い出したのだ。

 ──わたしはちゃんと、キッチンで砂糖を入れていたことを。

 飛鳥は無感動に、ごとりとマグカップを置いた。

 

「大丈夫だ」

 

 ──そんなわけない!!

 叫ぼうとした。

 

「……そういうことにしてくれ。頼む」

 

 

 立ち上がったままでは俯いた顔が見えない。

 だけど掠れた声が、もう全部、言ってる。

 

 

「〜〜〜〜っ!!!」

 

 

 わたしは何も言えなくなった。

 ……下手くそ。もっとうまく、演じなさいよ。

 

 胃の底がくるくる唸っているのはお腹が空いたせいなんかじゃなくて、今すぐすべてをめちゃくちゃにしてしまいたくなった。

 その衝動のまま、飛鳥のコーヒーを奪う。

 

「あ、おい!」

 

 口をつける。じゃりとした感覚が喉を刺す。

 砂糖八つ分の甘さは溶けきってさえいない。

 まるで毒みたいだと思った。

 

 ──甘い、甘ったるくて、反吐が出る!

 

 ……本当に、最悪な味。

 

 飲み干した。

 唖然とした飛鳥の眼前に、空っぽのマグカップを静かに叩きつける。

 

「あなたがそのつもりなら、いいわ」

 

 わたしは都合のいい女なので。頼みを断ることなどできやしない。

 わたしはあなたの魔女なので。願いを聞くことしかできないのだ。

 

 

いつもどおり(・・・・・・)を続けましょう」

 

 

 大丈夫。こんなものはただのいつもどおりの奈落だ。

 

 

 ──だから、お願い。

 壊れるな世界。

 

 

 ◆

 

 

 

「ひどい顔だね」

 

 ──数日後。

 夜明け前。かつて飛鳥の部屋だった牢獄で。いつも通りに尋問に来たわたしを見て、魔王(せんせい)は言った。

 

「その様子だと戦果は芳しくないようだ」

 

 どうやらこちらの状況は割れているらしい。

 その通り、あれから数日が経過した今も聖女を捕まえられないでいる。

わたしの呪いで存在を現世に固定化されたから、異世界に帰れない代わりに現世で自由に動けるようになったのだ。

 この数日、吸血鬼みたいな昼夜逆転で聖女を探していた。人目のこともあるが、幽霊としてこちらに居る聖女も魔女であるわたしも夜が領分だ。

 聖女は逃げに徹してる。勝てない戦はそもそもしない、奇襲にしか興味がない。聖女の戦い方は彼に似ている。

 多少の魔法は聖剣で無効化されるし、やりにくいったらありはしない。しかもこちらは殺しては駄目とくる! 向こうはこっちを殺す気なのに!

 

 時間経過で不利になるのはこちら側だ。『いつも通り』を演じる限界は刻一刻と刻まれている。

 

 ──早く終わらせないと。

 終わらせて、それで……何を(・・)するん(・・・)だっけ(・・・)

 

 こちらの旗色を見破って、魔王は嘯く。

 

「どうだい? やっぱりボクと契約して世界を滅ぼそうよ……」

「うるさい」

 

 剣でざっくりと殺ると魔王は取れた首で「うわー」と棒読みの断末魔を上げた。聖剣以外では殺せないとはいえ痛覚はきちんとあるはずなのに、けろりとしている。役立つ情報を吐く気配もない。

 何よりも忌々しいのは。魔王が未だに芽々の顔をしているということだ。

 感性が人外に寄ってしまっているわたしでも、流石に良心の呵責はある。

 友達と同じ顔の相手を傷つけるなんて、ほんといや。人を殺すんじゃないから脳に悪くないとしても、心臓にすごく悪い。

 痛む胸をしかめ面で押さえる。

 

「六十点。殺し方に遠慮があるね。斬り口が汚いよ」

「採点するなクソ師匠」

 

 殺し方とかどうでもいいじゃない殺せたら。

 魔王は鎖に繋がれたまま器用に落ちた首を拾い、不満げに戻した。

 

()は綺麗に首を刎ねてくれたけどね」

 

 斜めにずれた首でにっこりと微笑む、その目を見て。

 思い出す。

 

 ──一月(ひとつき)前。飛鳥は一切(・・)躊躇わ(・・・)なかった(・・・・)。友達を同じ顔の相手を殺すことを。

 

 ──違和感がくっきりと輪郭を帯び始める。

 

 いえ、そもそも。

 

「あいつ、なんで殺しちゃダメって知ってるの……?」

 

 呪いに詳しくないはずの勇者が。魔女ですら知らなかったことを。

 

 ──嫌な連想が繋がる。

 

 

「……帰る」

 

 踵を返した。

 聞かなくちゃいけないことが出来た。

 背後から甘言が聞こえる。

 

「いってらっしゃい魔女。手遅れにならないように足掻くといい。──次にここに来るときは、教えてあげよう。君の知りたいことを」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 急いで窓を開ける。

 部屋に入ると朝焼けの薄明るいキッチンの中に、ぼんやりと壁にもたれかかる飛鳥がいた。

 開いた窓から戻ってきたわたしを見て、飛鳥はくつくつと笑った。

 

「変な感じだな。今更おまえが窓から入ってくるのを見るのは」

「……まだ起きてたの」

 

 先に休んで、って言ったのに。

 目の下の隈が絶望的に濃くなっていることと、笑いの沸点がおかしくなっていること以外はいつも通りの様相で、いつも通りに(・・・・・・)眠れないのだろうと察する。

 魔法で眠らせてあげられたらよかったけど、あれは呪いなので乱用すると脳に悪い。使ったのはこの前の一度きりだ。

 

「また膝枕でもしましょうか」

「あれ割と寝にくいぞ」

「じゃあ抱き枕」

「何を?」

「わたしを」

「それで寝れるやつはもう勇者だろ」

「あんたじゃん」

「俺だわ……」

 

 中身のない、脳が回ってない会話を淡々と回す。このまま軽口で全部うやむやにしてしまえたらいいのにな、と。さっき決めたばかりの覚悟が鈍る。

 躊躇っている間にポットから電子音がした。お湯が沸いて、マグカップに注がれる。コーヒーの香りがし出す。安っぽいインスタントの、馴染んだ朝の匂いにわたしの心は落ち着いて。

 落ち着いたから気付けた。

 

 ──これは眠りを殺す匂いだと。

 

 今、昼夜は逆転している。朝という眠るべき時間に、コーヒーを飲む理由は眠ってはいけないから。

 眠りたく(・・・・)ないから(・・・・)

 

 

 わたしは切り出す。軽口を装って、声が震えないように。

 

「ねえ、覚えてる? いつか、『もしも魔女(わたし)が勝っていたら、どうしてた?』って聞いたこと」

 

 それはわたしたちがようやく友人になった五月の屋上でのことだった。

 

「あったなそんなこと」

 

 甘くも苦くもないだろうコーヒーを啜って、飛鳥は相槌を打つ。

 いつか、彼は言ったのだ。

 

『その時は。おまえがあの世界をめちゃくちゃにするのを隣で大人しく見ていたよ』

 

「意外だったわ。あなたって正しさに厳しいと思ってた」

「そこまでじゃない。俺がほんとに正しかったらおまえと一緒に住んでない」

「そうね。あんた意外と誘惑に弱い」

「分かっててやってるのかよ」

 

 ? あっさり『おかえり』に釣られたことだけど。

 

 

「そういえばあの時も……あなたの答えは似ていたわ」

 

 六月の夕方の海でのことだ。

『もしも異世界に戻ることになったら滅ぼしてもいいか』とわたしは聞いた。

 彼は言った。

 

『戻れなくなる。だから、駄目だ』

 

「あなたは一度もわたしに間違っているとは言わなかった。……間違っているから駄目とは、言わなかったわ」

 

 魔女(わたし)を否定しなかった。

 だから。かつて『分かり合えない』と思い込んでいたわたしたちは、互いに歩み寄れたのだ。

 あの時、頭ごなしに『間違っている』と言われなかったから、わたしは言うことを聞こうと思えたのだ。

 そういうところが多分好きだった。

 そういう中庸の取り方に、わたしは「陽南飛鳥」らしさを感じていた。

 

 でも、もしも。否定しなかったのではなく。

 否定(・・)できなかった(・・・・・・)のだと(・・・)したら(・・・)

『おまえは間違ってる』って、『それは駄目だ』って、言えなかったのだとしたら?

 

 

「あなた、本当は。世界に(・・・)滅んで(・・・)欲しかった(・・・・・)んじゃ(・・・)ないの(・・・)?」

 

 

 ──わたしたちは最初から、分かり合っていたんじゃないの?

 

 

 ガシャン、と耳をつんざく音がした。

 床にはコーヒーが溢れている。揃いで買ったマグカップが無残に割れていた。

 手を滑らせた、飛鳥の顔を見る。

 

「まさか。そんなわけないじゃないか」

 

 ……嘘吐き。

 笑って誤魔化そうとするのは悪い癖だ。

 本当に悪い。

 だって、笑えてない。

 ──歪んだその顔は、泣き顔にしか見えない。

 

 頭の血管が弾けた。

 

「なんて顔をしてるの」 

 

 マグカップの破片を裸足で踏みつける。黒い水溜りに血が混じる。 止める声は無視した。

 ちっとも痛くなかった。でも目尻に滲んだ熱いものは痛みのせいだということにして欲しかった。

 

 胸ぐらを掴む。

 ずっと、言いたかった。

 わたしたちの関係が最悪に拗れていた、情趣もクソッタレもない最終決戦の時からずっと。

『泣くなら胸くらいは、貸してあげる』って。

 抱きしめて、背をさするくらいはやってあげるって。

 あの時! あの世界で! そう、言ったじゃない!

 

 ──いつまで強がっているつもりなの!?

 

 

「泣くなら、ちゃんと泣きなさいよ!!」

 

 

 だけど彼は、胸ぐらを掴まれたまま。

 ひどい顔のまま、ぽつりと零す。

 

 

「……どうやるんだっけ」

 

 

 ああそっか。

 こいつは泣かないんじゃなくて。

 

 ──とっくに、泣けないんだ。

 

 

 

 

 

『もう、いいか。全部』

 

 頭の中で悪い魔女が囁く。

 うるさい。黙って。 

 けれど頭の中の声は止まらない。

 

『全部終わりにしてしまいましょうよ、この手で』

 

 だってわたしはもう。

 世界が壊れる音を聞いている。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 わたしはひとりで牢に戻る。朝でも真っ暗な部屋の中で、待ち構えていた魔王は言う。

 

「おかえり魔女」

「おまえにおかえりなんて死んでも言われたくない」

「彼はどうした?」

「眠らせて置いてきたわ。寝不足引き摺り回して聖女の捜索とかやってらんないもの。うっかり殺されるでしょ。正直足手纏い。

 ──ここから先はわたしひとりでいい」

 

 

 問いかける。

 

「ねえ魔王(せんせい)。約束通り、教えて」

 

 目の前にはすべてを知るだろう千年を生きる魔法使い。

 すべてを知っていて黙っていただろう、人でなしの師。

 囚われの身であるにもかかわらず、傲岸不遜に笑みを浮かべる魔王。

 

 

勇者の(・・・)作り方(・・・)を」

 

 

 わたしは覚悟を決めた。

 土足で過去に踏み入る、覚悟を。

 



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第十四話 世界をお救いください、さもなくば。

 ──これは遠い昔、遠い世界の昔話だ。

 

 その世界には竜がいた。

 竜は世界を愛し、人を愛していた。

 理由などはない。星より生まれた彼らは皆が皆、人の願いを叶える魔法使いであり、地に満ちる人を愛するようにできていた。

 

 ある時、人と竜との間で戦が始まる。

 戦の理由を覚えている者はもう、誰もいない。

 大事なのは、それはどちらかが絶えるまでは終われない絶滅戦争であったことだけだ。

 

 さて。

 その時代に、一体(ひとり)の若き竜がいた。

 名を星喰いのアージスタ。

 けして強くはなく、聡明ですらなく、けれど魔術にだけは長けていた彼の役割は異世界から魔女を召喚することであり。魔女をもてなす従者となることだった。

 

 喚び出された魔女の役割は初め、ただ数滴の血を竜に捧げることのみだった。

 けれど同朋は次第に血に狂い、不死の少女を喰い散らかすようになる。

 従者たるアージスタはその制約により、ただ一体(ひとり)だけ血を捧げられずにいた。

 ただひとり正気で、生贄の魔女の悲鳴を聞き続けた。

 狂っていく竜たちを眺め続けた。

 そして。

 ──遅すぎる数百年目にようやく悟る。

 

『我らは疾く滅ぶべきだ』

 

 かつて誇り高い魔法使いであった竜は皆、言葉すら忘れ獣に堕ちた。

 世界にはもはや神話にも語れぬ惨状しか残ってはいない。

 狂いきった同朋を一匹残らず地に落とし、根絶やしにしなければならない。

 人の子を喰い物にするふざけた呪いなど、早く終わらせなければならない。

 ──わかっていた。そう思うのならば今すぐに皆の首を落とせばいいと。

 

 だが。だがその前に。

 この世界を(・・・・)終わらせ(・・・・)なければ(・・・・)ならない(・・・・)

 我らが滅ぶその前に。

 あの醜悪な人類を、なんとしてでも滅ぼさねばならない。

 

 その誓いだけが、若く、さして強くもなかった竜を魔王にした。

 神話にも語れず、(うた)にも(うた)えず、寝物語にすることもできない。これは最後にひとり残された魔法使いが世界一の悪となっただけの、つまらない昔話だ。

 

 ──だから。

 千年の過ちの果て。

 生贄の身でたったひとりで立った魔女のことを。人も竜も世界も全て滅ぼすと啖呵を切った弟子のことを。本当に愛していたなどということも。

 だから余計なことは知らなくていいと、どうせ滅ぼす世界の醜悪さなど知らないでいいと、師心(おやごころ)に思っていたことも。

 

『所詮邪悪な竜には、無価値な話だ』

 

 

 

 ◆

 

 

 

 わたしは問う。

 

「考えたのよ。『魔女』も『勇者』も本質的には同じだと。わたしたちは所詮、別世界から召喚しただけの『人間』。多少適性があるだけの器に過ぎない。そうでしょう?」

 

 別世界から呼び出されても特別な力が目覚めたりはしない。

 そのままでは世界を滅ぼすことも救うこともできやしない。

 だからわたしは竜の因子を埋め込まれ、あいつは脳を弄られた。

 ……でも。それだけでは、まだ足りない。

 

 RPGに喩えれば、あの異世界は始めからラストダンジョンみたいなものだ。

 経験値稼ぎのスライムをすっ飛ばしていきなり狂ったドラゴンが出てくる、Lv99でないと旅立つことすらままならない、ゲームバランスのイカれた世界。

 ──そしてわたしの役割は本来、永遠にLv1の生贄だった。

 

 だからわたしは裏技を使った。死に続けながら正気を保つことで、自身の怨念を経験値に変換して。ようやく魔女として世界を滅ぼせるだけの力を得た。

 ──ならば、あいつは?

 

 あいつだって初めはLv1だったはずだ。それがただで勇者(Lv99)になれるわけがない。あの世界は、真っ当なやり方で強くなれるほど優しくない。

 

 魔王はらしくなく勿体ぶることもせず、淡々と頷いた。

 

「そうだ。キミも彼も本質的には同じモノ。召喚された者の役割は、等しく生贄(・・)だ」

 

 彼は言う。勇者の定義はあくまで『聖剣の使用者』であり、魔女とは違って『別世界の人間』である必要はないのだと。

 

「あれは『聖剣』とは名ばかりの呪いの武器だ。血と怨念を媒介に、命を力に変換し、(われら)を殺す」

 

 意外には思わなかった。

 呪いは呪いでしか打ち勝てない。呪いを断つ剣が、別種の呪いそのものであるのは納得がいく。

 

「その剣の担い手を選ぶ儀式に、生贄として捧げられるのがキミたちだ」

 

 ──殺される、ただそのためだけに喚び出される。

 その身勝手に対する怒りは、今はどうでもいい。

 眉を潜める。話が繋がらない。

 

「わからないわ。生贄だというのなら……あいつは、なんで生きてるの」

 

 ──殺しても死なない魔女(わたし)とは違うのに。

 

 

生き残った(・・・・・)からさ(・・・)

 

 

 呼吸を止める。嫌な予感が確かな輪郭を持ち始める。

 

「魔女も勇者も本質的には同じだ。キミたちは等しく呪われている」

 

 瞬きを止める。「何に」と問う。

 

「……ああ、確かこの世界にもよく似た呪術があったね。壺の中に毒虫を入れて、最後の一匹になるまで殺し合わせる、古代の大陸の呪術だ」

 

 心臓が止まる。いつか踏み潰した百足が、脳裏を這う。

 

「もし壺の中で最弱の金の蚕(いけにえ)が生き残れば、それは極上の呪いに化ける……そういう呪いが、あったろう」

 

 呪いの名は『金蚕蠱(きんさんこ)』。

 忌々しさを隠しもせずに、師は吐き捨てる。

 

 

「勇者の造り方は蠱毒だよ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──夢を見ている。

 

 これが夢だとわかったのは、視界のど真ん中に過去の自分の姿があったからだ。

 俺は『今』の姿をしていて、一歩引いて『過去』を眺めている。他人事のように。

 

 場所は円形に囲まれた祭壇。吹き抜けた天井から覗く空は朝夕を問わず焼けている。異世界の空だ。

 いつの夢かを理解して、俺は溜息を吐きその辺の瓦礫に腰を下ろす。思い通りにならない類の明晰夢だと察したからだ。

 

『世界をお救いください』と聖女は言った。

 滅びゆく世界を救うことは正しいことだと思っていた。

 その方法に正しさが微塵もないとは聞いていなかった。

 ああ、まったく。馬鹿げた話だ。頭が悪いにも程がある。

 

 ──勇者になりたい奴らが殺し合って最後に生き残った奴だけが勇者、だなんて。

 

 

 

 そして──とっくに事は終わった後だった。

 

 祭壇は血に濡れていた。

 自分(そいつ)はひとり立っていた。

 額は裂け、腕は千切れ、死ぬほど血が出ていて、死んではいなかった。

 生き残っているのは自分(そいつ)の一人だけで、周りは皆死んでいた。

 

 

 目の前には少女の死体がある。

 高潔な少女だった。

 『こんなところで人を殺すために勇者になろうとしたんじゃない』と真っ先に異を唱えた。

 けれど儀式を止めることは叶わず、自分(そいつ)を庇って死んだ。

 

 目の前には少年の死体がある。

 苛烈な少年だった。

『こんなところで死ぬために勇者になろうとしたんじゃない』と真っ先に剣を抜いた。

 けれど最後の最後に僅かに躊躇を見せ、自分(そいつ)に殺され死んだ。

 

 他にも、自分が手にかけたわけではない、けれど俺が生き残る代わりに死んだ誰かの死体が幾つも転がっている。

 きっと地獄の方が穏やかな景色をしていると思った。

 その地獄に似合わぬ聖女が降り立つ。

 

「選定は成りました。すべての祈りは一振りの剣に。すべての命は御身の糧に」

 

 唱える祝詞は目の前の女こそがこの地獄の取り計らっているのだと示していた。

 聖女は血に濡れた祭壇に傅く。人形のごとき表情に、なんの感情も浮かべずに、祈り手を組む。

 

 

「──どうか世界をお救いください、勇者様」

 

 

 自分(そいつ)が何と答えるかはよく知っていた。

 死にかけの、引きつれた声で。

 割れた眼鏡の奥で、青く濁りった目で、呪詛を吐く。

 

 

「滅んじまえよクソ異世界」

 

 

 ──ああ、そうだな。

 そしてそのまま死んじまえ自分(おまえ)

 

 

 

 遠巻きに自分(かこ)を眺める。

 とっくに過ぎ去ったことだからだろうか。或いは他人事(・・・)だからだろうか。ひどく冷淡な気分で、怒りも悲しみも湧かない。

 ただそれでも、目の前の光景のすべてが肯定できない「間違い」であることだけは痛切に理解した。

 

 足元には千切れた自分(そいつ)の腕が無様に転がっている。

 あの後、何故か(・・・)聖女の術でも繋がらなかったのだったか。

 だが惜しいとは微塵も思わなかった。

 

 あれは人殺しの手だ。

 あんなものは(・・・・・・)失って(・・・)当然だ(・・・)

 

 

 

 ──夢はまだ、醒めない。

 

 

 

 ◆◆

 

 

 

「あれこそが退廃と悪逆の都。

 人類は命を焼べ、祈りを焼べ、意思も心も焼き尽くして、ただ生きながらえるだけために生贄を捧げ続ける。

 そこに罪悪の念も良心の呵責もありはしないよ。

 儀式を執り行う心なき人形に感情はない。人は何食わぬ顔で堕落と安寧を享受するだけ。

 ──我らが獣に堕ちたならば、あれは家畜に堕ちたのだ」

 

「救いはないよ。どこにもない。だから滅ぼさねばならない。

 かつて人を愛した我ら竜が、最後の知恵ある者が、あれに引導を渡してやらねばならない」

 

「我が愛弟子よ。勇者を愛した愚かな魔女よ。思うだろう? 

 ──あんな世界は、滅んでしかるべきだ、と」

 

 

 人を愛し、人を憎んだ竜は囁く。

 



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第十五話 祈りに報いはなく、言葉に力はなく。

 

 ──勇者選定の儀から数日が経った。

 ()の身体の回復と改造は済んだと聞いた。魔王城へと出立する、そのために聖女は部屋を訪れる。

 白い部屋は病室に似て無機質で冷たい。

 

「時間です。お加減はいかがですか。準備はできましたか」

「ああ」

 

 聖女は彼を目にし、僅かに驚く。

 召喚した時とはまるで別人だった。

 背丈が数日で随分と伸びている。実年齢よりも二、三ほど年を重ねたように見えた。

 服装は旧時代の軍服を転用したそれだ。鎧の類はないに等しい。竜の前では鉄の硬さなど無意味だ。ならば軽い、守護を織り込んだ布でいい。

 目の色には青が混じり始めていた。元の黒色と混ざり合って色彩は濁っているが、聖女と同じ目だ。

 聖剣の使い手はもう彼なのだと思い知る。

 ──自分ではなく。

 

 聖剣を見る。

 青味ががった刃の色。使用者によって形を変えるその剣は、無骨な大剣に変わっていた。

 

「その腕は……」

「ああ、聖剣の一部が腕になっているらしいな。ちゃんと動くぞ」

 

 そのまま真剣な顔で腕を弄り始める。

 

「何してるのですか?」

「クソッ仕込み銃ないのかよ」

「ないんですか。私はありますけど」

「は、サイコガンじゃん!? 羨ましい……」

 

 羨ましいんだ。

 異文化わからない。

 

 ──千切れた腕を繋げようとはした。

 だが如何な回復術をかけても腐り落ちてしまったのだ。

 原因は呪いだ。

 あの儀式の際に、自分で(・・・)自分を(・・・)呪った(・・・)せいだ。

 この世界では、莫大な感情はすぐに呪いに転じる。それを自在に操ることは人には難しく、大抵は自滅する。彼もまたその例に漏れなかっただけの話だ。

 

 ……それにしてはあまりに、陽気すぎやしないだろうか?

 まるで別人のようだと思った。

 

 ───あの時『滅んでしまえ』と呪った、その声を聖女は覚えている。

 

 訝しみながら問う。

 

「貴方の使命を理解していますか」

「『魔女』ってのを殺せばいいんだろ。サクッと終わらせる」

 

 聖女は思い出す。召喚したばかりの頃、彼が言ったことを。

 

『やるよ勇者。終わったら家に帰してくれるんだろ?』

 

「……終わらせても貴方を元の世界へ帰すことはできません」

 

 帰還の術式を組むには人類の技術では足りない。竜の魔術系統を合わせれば可能だろうが、魔王を倒さなければ手に入れることはできない。魔王を倒すことは勇者でも不可能だ。

 

「……別に、もう帰る気はないけどな」

 

 ごくあっさりと彼は言った。

 

「ま、ついでだ。終わったら魔王もぶっ飛ばすか!」

 

 なんの、憂いもなく。笑って。

 ──その様子に、恐怖のような何かを覚えた。

 感情はないけど。

 

「ごめんなさい……」

 

 謝罪は口をついて出た。

 

 ──私が失敗作でさえなければ。

 

「私に、勇者の資格があれば。あんな儀式を取る必要はなかった」

 

 彼は無感動に視線を聖女にやり、不可解そうに問う。

 

 

「……おまえは何を謝っているんだ?」

 

 

 覚えて(・・・)いなかった(・・・・・)

 

 

(……そういうことですか)

 

 聖剣の精神汚染は既に始まっていた。真っ先に削られたのは勇者になる直前(・・・・・・・)の記憶だった。

 その記憶があれば、自分で自分を呪ってしまう。それでは回復術が効かない。それでは死ぬ。

 聖剣の精神制御は確かに機能していた。──使い手をこれ以上壊さないために。

 

「行こうぜ。時間がないんだろ。……準備はとっくにできてるさ」

 

 彼の目を見る。その青は濁っている。

 たとえ笑っていたとしても。その目に光は、ずっと無い。

 

(私が、失敗作でさえなければ)

 

 ──始めから壊れている勇者など造らずに済んだのに。

 

 その不完全を、口惜しいと思った。

 聖女は人間だ。けれど人形として造られ、育てられた。使命だけが絶対だった。

 だからわからない。論理で理解しても、感情で理解することはない。

 善も悪も、心も。

 

 

 

 

 旅立ちは、空にまだ星が残る夜明け前だった。

 都を出た彼らを見送る者は誰一人としていない。

 この世界の人間は、そも知らない。世界が滅びかかっていることなど。生まれてから死ぬまで機械の都から一歩も出ることはないのだから。

 

 人形(キカイ)たちは真実を隠し続けている。

 人間は世界が滅びるという絶望に耐えられず、絶望すれば自らを呪って破滅する。あまりにも弱過ぎる彼らの目と耳を塞ぐ以外に、守る方法はないからだ。

 

 その都には安寧だけがあった。

 人は何も知らない。魔王のことも。勇者のことも。

 ──世界が滅びることを知り、勇者候補に志願し、死んだ彼ら以外は。

 

 聖女は振り返る。

 生まれ育った場所を最後に目に収める。

 中心には白亜の塔。その塔から空に巡らされた結界が、かろうじて人を守り続けている。いつか苦しまずに死ぬその日まで。

 真っ白な都は墓標そのものだった。それでもこの墓標を守ることだけが少女の生まれた意味で、存在する意味だった。

 

(生きて帰ることは、ないのでしょう)

 

 前に向き直る。

 

「そういやおまえ、名前はなんていうんだ」

 

 こちらを見下ろして問う視線に、かしずくように答える。

 

「聖女とお呼びください。或いは十三号と」

「それ、名前じゃないだろ」

「……冥花(nemophilia)。死者に手向ける花の名です」

「へえ。どんな」

 

 聖女は勇者から目を逸らした。

 

 

「とうに滅びました」

 

 

 目の前に広がるのは枯れた大地だ。草木の影も形もなく、ひび割れた灰色だけが続く。

 夜明けの空には竜の影。鳥も虫もそこにはなく、瞬く星の神話すら失われて久しい。

 

 世界は滅びに瀕していた。どうしようもなく。

 

 だから、世界を救う、そのために払う犠牲に痛める心など──。

 心など、ない。

 

 

 

 ◇◇

 

 

 

 そして今。聖女は知らない世界の夜の町を彷徨っていた。

 

(──寒い)

 

 悪寒の理由は自らが霊体となっているせいだろうか。それとも魔女にかけられた呪いのせいだろうか。

 わからないまま勇者の、いや、今はもう勇者ではない彼の居場所を探す。痕跡は魔術で巧妙に隠されておりどこにいるのかわからない。

 心までは彷徨わないよう、己の使命を確かめる。

 

『聖剣を取り返せ』

 

 使命の意味を解体すると、それは「可能ならば魔女も殺せ」ということであり、「帰還を優先せよ」ということであり、「帰還ができない状況ならば奪い返されないよう逃亡せよ」ということだ。

 ──『勇者を殺せ』などとは、一度足りとも命じられていなかった。

 

(それでも、私は……)

 

 

 

 時刻は午後九時。熱帯夜の町はまだ眠らない。

 現世に縛られる代わりに〝居場所の制約〟が解除された今、少女が彷徨い辿り着いたのは明るい繁華街だった。

 道端には星々よりも明るく灯る光。店頭からは絶え間なく流れ出る音楽。人々は行き交い、言葉を交わし、笑みを交わしている。

 その光景が、あまりにも……寒くて。蹲る。

 目に映る光景はすべて、聖女の知らないものだった。

 ──それであって、ずっと昔から知っていたような気を起こさせるものだった。

 未だに口に残る、甘さ(・・)も。

 

「キミ、そんなところで彷徨ってどうしたの?」

 

 不意に声をかけられて、聖女は顔を上げた。

 黒髪のサイドテールに泣き黒子、中性的かつ蠱惑的な少女が、屈んでこちらを見下ろしている。

 実体の存在する聖剣も術で隠しているのに、どうして。

 

「僕は見える(・・・)人だからね。見えるなりに、困っている(ひと)はほっとけないのさ」

 

 黒髪の少女は片目をつぶって、懐から塩の瓶を取り出す。

 

「──とりあえず一発除霊いっとく?」

 

 聖女は慌てて転移した。

 

「あっ逃げた」

 

「瑠璃! 待たせて悪かったな。……どうした?」

「ん〜ん。なんでもないよ兄貴」

 

 

 

 

 

 光から逃れるように暗い道へ、聖女は逃げていく。

 ──この景色を昔から知っていた気がする、そんなわけがない。

 知らない。あんなに眩しい景色も。まさか人間が自分に助けを差し伸べようとする、なんてことも。

 この世界のことを知っていたつもりで。何もわかっていなかった。

 

 聖女は足を止める。

 涙などは流れない。そんな機能はとうの昔に削った。

 なのに。

 

 ──寒いのだ。

 

 あの頃からずっと。

 

 

 

 ◇◇

 

 

 

 ──出立から一ヶ月が経った。

 

 始まりの使命は『世界を救うこと』だった。

 それは自分にはできないと、上書きされた。

 次の使命は『勇者を救う(たすける)こと』だった。

 彼が決して道半ばで死ぬことがないように、生かし続ける。そうして世界を救う勇者を救えば、この手で成し遂げられなかった使命もまた果たせる。

 それが聖女の行動原理であり、そこになんの疑問も抱いていない。

 抱いていない、はずだったのに。

 

 ──どうしてこんなことになっているのだろう。

 

 聖女は地面を見ていた。正確には、地面に這いつくばる勇者をだ。

 

「何をしているのですか」

「土食ってる」

「はい?」

「いや、飯不味いじゃん。味しないし。でも竜は食えない、鳥も虫もいない。となったら──土、食うだろ」

「わかりません」

 

 聖女は、気が遠くなるのを感じた。

 

「とりあえず、吐いて下さい。土」

 

 お腹殴った。

 

「オエ……」

 

 

 土は再び大地に還った。

 

(わかりません……)

 

 初めから壊れていることは、わかっていたのだが。

 勇者はよくわからない壊れ方をしていた。

 

 

 

 ──三ヶ月が経った。

 

「勇者。貴方の戦い方は目に余ります。零れた内臓集めるのも大変なんですよ」

「待てグロい話はするな。聞きたくない」

「貴方の話です。貴方の。聞いているのですか勇者」

「あー聞かん! なんも覚えてない!!」

 

「あと肩書きで呼ぶのやめてくれ。嫌いだ」

「わかりません。それ以外に貴方の役割はありません」

「名前で呼べよー……」

「敵陣で真名を呼ぶことは推奨されません」

 

「ていうかさ。俺の名前──なんだっけ?」

 

 記憶と自我の消去は止まらなかった。

 

 

 

 ──半年が経った。

 

「アスカ、アスカ……勇者」

「なんだよ」

「いえ。今日は随分と表情筋が動いていますね」

「そうか? 鏡見てないからわからん」

「それに……随分と、よく。喋ります」

「ああ、意識がはっきりしているんだ。こう(・・)なるのはいつ振りだ?」

「……三日振りです」

「どうりで知らない傷が増えてると思った」

 

 回復術は問題なく機能しているはずなのに、傷跡はどうしても消えなかった。

 

「よし、今日は土食べるか」

「食べないでください」

 

 

 

 ──一年が経った。

 

「なぁ聖女! とうとう土の味もしなくなった! どうしような。俺は『不味い』も忘れるわけだ! クソッタレ!」

 

 聖女は無言で瓶を取り出す。

 

「何これ」

「旧時代の醸造酒です。申請しました。味がしなくとも酔うことはできます。土よりマシです」

「いや、俺の世界では二十になるまで飲めないんだけど。……まあいいか。俺、いくつだったか覚えてないし!」

「一気飲みやめて下さい」

「オエ……」

「ずっと吐いてますね、貴方。ずっと吐いてる」

 

 

 

 それからの夜のことを聖女はよく覚えている。

 酒精に任せ夜が明けるまで、彼が話をしたことを。

 それは元の世界での話だった。

 亡くなった家族、大切だった友人、好きだった少女の話。

 ──彼らの名前は既に抜け落ちていたが。

 故郷の暮らし、傾倒した趣味、夢だった将来の話。

 ──つまりは彼のすべてだった。

 

「何故、教えてくれるのですか」

「覚えてるうちに話そうと思ったんだよ。俺は忘れるからさ。代わりにおまえが覚えてろ」

 

 彼は、陽気に笑って、言う。

 

 

「一生覚えてろ、一生。俺が好きだった世界のことを」

 

 

 それは呪詛だとわかっていた。

 それが恨み言だと知っていた。

 だから聖女は忘れなかった。

 何ひとつ。

 

 

 

 ──一年と半年が経った。

 

 記憶は消えた。

 自我は消えた。

 彼はもう、語りかけることも笑うこともなくなった。

 

 

 

 ──一年と半年と、十二日。

 

 魔王城に辿り着く。

 その天に、魔女を見る。

 

「あり得ません……魔女に、戦う力などないはずです」

 

 顔も見えない彼女を前に彼が笑ったのを、その目に光が灯るのを、聖女は見た。

 

 その理由は今も、わからない。

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 ──記憶を再生するほどに寒さは増す。

 その寒さの正体を、本当はもう知っている。

 

(だから私は……)

 

 空には月がぽっかりと穴のように浮かんでいる。

 星の名はいくつも知っていて、けれどどれがそうであるのか、聖女にはわからない。

 

 

「見つけた」

 

 顔を上げる。道の向こうから、やってくる影がある。

 魔女だけが、一人そこにいた。

 暗く、静まりかえった道にコツリ、と足音が響いた。

 丈を短くしたドレスの裾、編んだ髪の一束が揺れる。

 

「あんたたちが何をやったのかなんて。知ったところで今更どうでもいいわ。要はあいつが壊れたのは記憶のせいで、都合よく記憶を封じる聖剣(ソレ)さえあれば、あいつは壊れずに済むってことなのでしょう? 取り返せばいいだけ。おまえを倒せばいいだけだ」

 

 爛々と赤く光る目が。赤く染まる剣の切っ先が。

 

「……なんだ、やるべきことは変わってないじゃない。初めから」

 

 鋭く、向けられる。

 

 

「聖剣返せ。クソ聖女」

 

 



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第十六話 願えど魔女に人は救えない。

 

 

「最強なんてくだらないものさ。

 千年前にはいくらでもいた。ボクより強い竜も、ボクより強い人間も。

 ボクが一番の魔法使いである由縁は、ボクだけしかあの世界に残らなかったからだ。

 キミたちが最強であったのも他にいなかったからだ。

 キミは最初からひとりしかおらず、彼は最後にひとり残った。ただそれだけだ。

 

 はてさて実際のところ──キミたちはどれほど強かったのだろうね?」

 

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 

 魔女は一人、聖女を前にする。

 

(見つけた……いいえ、待っていたと言うべきか)

 

 飛鳥の居場所を探し求める聖女は、聖剣の力を使って魔女の居場所を探すしかない。

 聖女は魔女の残した痕跡を辿って、この道に入り込んだ。そこは咲耶にとって馴染み深い三叉路であり、いつか飛鳥を待ち構えた場所だった。

 この先には帰るべき家がある。この先へ、行かせるわけにはいかない。

 

 ──咲耶が真実を問い詰めてから、半日が過ぎた。

 無理矢理に意識を奪った飛鳥はまだ目を覚まさない。

 元よりことがすべて終わるまで、眠らせるつもりだ。

 誤算は、魔法をもってしても悪夢を止められなかったことだ。

 師は弟子の思い違いを指摘した。

 

『当たり前だね。ただの悪夢ではない、その夢は呪いそのものなのだから』

 

 飛鳥がこの数日、頑なに眠らなかったのは夢を見たくないからだ。

 眠れば過去の記憶(のろい)に飲み込まれ、自失することを、直感的に理解していたのだろう。

 散々ツケにした感情は利息付きで取り立てにやってくる。認識を後回しにし続けた罪悪からはもう逃げられない。

 

(……ばかげてる。今更とっくに終わった昔のことに足を取られるなんて)

 

 過去を知っても咲耶は冷静だった。

 最悪の想像はとっくについていた。あるのは諦めに似た納得だけだった。

 

 ──彼女は、あの世界の人形(じんるい)の論理を理解してしまったのだ。

 

 恐ろしいことなど何も知らなくていい。目と耳を塞いで閉じ込めて、どろどろに溶かしてしまえばいい。何も思い出すことなく幸福に堕ちて、世界には甘さだけがあればいい。そんな〝完璧〟な世界を維持するためならば如何なる犠牲も惜しくはない。

 退廃と堕落の何がいけないというのだろう?  それこそが(・・・・・)幸福だ(・・・)

 

 ──彼女が滅ぼそうとしたあの世界の思考は、まるでかつての魔女そのものだった。

 

 ならばそれは、紛れもなく悪だ。

 

(そうね、滅びるべきだわ。人間(あなた)も、世界も──竜達(わたしたち)も)

 

 踵の低い靴で地面に立ち、正面の聖女(てき)を見据える。

 宣戦布告は済んだ。

 誰にも見られないよう、夜の路地を結界で塞ぐ。

 今宵はいつかと同じ、丁度の満月。決着をつけるにはいい夜だ。

 

 間合いを探るような、無言。

 対峙した少女もまた、剣を抜く。

 少女の肩は小さかった。細い聖剣を握る腕すら頼りなく思える。だが袖の先から覗く銀色の指先が、その身をただの少女ではないと示している。

 こちらを見上げた、透き通った青い目は、彼によく似て非なるものだった。腐ってはいない。輝いてもいない。ただの、ガラス玉のような瞳は何の感情も写さない。

 聖女の呟きのような問いかけが静寂を打つ。

 

「私を殺すのですか。魔女」

 

 ──飛鳥を無理矢理に眠りに落とす直前のことを思い出す。

 既に不意打ちに対応できる体力など彼には残っておらず、けれど咲耶の意図を察する気力はまだ残っていたのだろう。

 ソファに沈められるその前、僅かに術に抗って、彼は言った。

 

『駄目だ』

 

 ──ころすな。

 

『大丈夫よ。戻れなくなる心配はいらないわ』

 

 確かに、魔王に妙な呪いを仕込まれてはいた。だが、知ってしまえばどうとでも対処できる。

 たとえ初体験(はじめて)は痛いのが鉄則だとしても、とっくに魔女は不道徳(よごれてる)。世界を滅ぼすと決めた時点で覚悟も業も背負っているのだ。今更その程度の罪悪で狂うほど、やわじゃない。

 なのに。

 

 悪夢に落ちるその直前。

 縋り付くように、言った。

 

『……頼む。綺麗でいてくれ。汚れるな』

 

 ──それが、本音か。

『戻れなくなるから』なんて欺瞞だった。

 彼女への心配さえ抜け落ちてしまえばそこにあるのは文月咲耶への執着であり、エゴだった。

 好いた女に清らかでいて欲しいという我儘だけだった。

 

(……本当に、ばか)

 

 剣を、強く握りしめる。

 

(ごめんなさい。あなたの願いを、今は聞けない)

 

 刃を、答えを、聖女に突きつける。

 

「ええ。憎んで恨んで呪って頂戴。

 ──あなたを、殺すわ」

 

 

 

 

 

 戦闘が始まる。動き出したのは魔女が先。

 地を蹴る、というには余りに軽い一歩だった。脚力ではなく魔術で身体を浮かせ、剣を振るう。

 剣である理由は魔術の消費を抑えるためだ。

 角なしでは魔術を満足に打てない。正気でいるには最低限の魔術で勝つ必要がある。

 回復術を持つ聖女が相手では長期戦になりやすい。遠距離で魔法を放つほど相手に回復の余地を与える。故に近接が最善手。

 だが攻撃は、キィン、と冷たい音色に弾かれた。

 聖女の細剣に弾かれ、血の魔剣に僅かに罅が入る。

 

 ──やはり駄目か。

 

 落胆する。

 魔術の剣が、聖剣を前に脆いことにではない。魔術と聖剣が接触しても、角は出なかったことにだ。

 あれはあくまで『魔女殺し』に相対した例外的危機反応。使い手が聖女では聖剣は寝起き同然の性能しか発揮せず、魔女の身体も不感のままだ。

 

 ぶつけられる刃を、聖女は細剣で淡々と受け流す。半分が機械である聖女の身体は、小柄ではあっても重さは人間のそれではない。

 

 ──魔女の剣は軽すぎた。

 

 押し切るには体格が足りない、筋力が足りない、重さが足りない。

 十六歳のまま一切の成長が止まっている、マネキンのような身体には細さと柔らかさしかなく、剣を振るうための何もかもが足りていない。

 所詮は付け焼き刃の真似事だ。

 だが。

 足りないことを悲観するにはまだ早い。

 

 攻勢の合間を縫い、聖女の反撃が放たれる。刺突は的確に首筋を狙い、避けきれない細剣は喉を僅かに切り裂いた。

 魔女の首から血が吹き出す。覚えのある焼ける痛みに顔を歪める。致命傷とはいかずとも無視できない深傷だ。

 ──だが、既に再生は始まっている。

 聖剣によって受けた傷にも関わらず。

 再生は瞬時ではない。致命傷を受ければ存在維持に関わるだろう。

 だが。やはり。

 

 ──効かない!

 聖剣は今、魔女殺しというほどの力は発揮できない!

 

 ふ、と吐息が笑みの形に零れる。

 

「軽すぎるのはおまえも同じね」

 

 青い、ガラスの瞳が僅かに揺れる。

 魔女は最早一切の躊躇なく踏み込んだ。

 こんな攻撃、勇者に比べれば恐るに足りない。

 そして自分の剣が所詮の真似事だとしても。

 真似る先は勇者だ。

 

 ──わたしに絶対に負けない男の剣だ。

 

『本気なら勝ち方を選ぶな』

 

 ──そんなこと、分かっている!

 

 捨身で飛び込んだ。

 迎え撃つ、聖女は隙を見逃さない。

 無防備の胴体を狙う刺突。それを無視し、更に(・・)踏み込む(・・・・)

 

 ──細剣は魔女の腹を貫いた。

 

 驚愕の表情を浮かべたのは聖女の方だ。

 

「っ、……!」

 

 魔女は自ら(・・)刺されに(・・・・)来た(・・)

 致命傷を避け、内臓の隙間に刃を通し、さらに距離を詰める。

 手を伸ばせば触れ合うほどに──吐息が肌にかかるほどに。

 唇から血を垂らしながら、魔女は笑みを釣り上げた。

 

「逃さないわ」

 

 足元、自身の流した血を呼水に。呪術が(・・・)発動する(・・・・)

 聖女をこの道に誘い込んだのは狙い通りだ。仕込みはとっくに終えていた。

 

 ──足元に隠されていた魔法陣が、血を吸い浮かび上がる。

 

「『定義するわ』

 ──聖女の末路はね、火刑と決まっているのよこの世界じゃ!」

 

 火花が散る。血が爆ぜる。

 聖女は目の色を変えた。

 自らを焼く炎を、映して。

 

「────っ、あ、ぁぁぁ!!!」

 

 

 火柱が少女を焼き尽くす。

 自分ごと。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──わたしは息を吹き返す。

 

 焼き尽くされた皮膚を再構成。わたし自身から生み出された灰を払い、炭を落とす。

 生まれたままの姿で呟いた。

 

「やっぱり自爆は楽でいいわ。コスパ最悪だけど」

 

 燃え尽きたドレスを再構成するのは面倒だった。

 とはいえ裸体で人を殺す趣味はない。変身を解く。着慣れたワンピースが身体を覆い、炎に解けた髪も元通りに編まれていく。

 

 今日までのこの数日、聖女には逃げられ続けていた。二人がかりであったのに、だ。

 原因はわかっている。聖女はこちらを殺す気でいるのに、こちらは捕らえようとした甘さが悪かったのだ。

 悔しいけど魔王の言うとおり、わたしたちはそんなに強くない。

 自分の死を前提に押し切ることしか知らない自爆特攻前提のわたしたちは、手加減などという繊細を強いられると絶望的に弱かった。

 

 だが。加減をしなくていいのなら。勝ち方に拘らなくていいのなら。全力を出して構わないのなら。

 ──負ける理由がない。

 

 ……まあ、一回死んだけど。

 一回だけだし。実質0.9死くらいだし。

 飛鳥も多めに見てくれるだろう、うん。

 

 足元に転がる()を見る。

 聖女は魔女の呪いを受け、現世に存在を固定化されている。霊であっても常人に見えないこと以外、実体と何も変わらない。ここでのダメージは異世界に置いてきた肉体の生死に直結する。

 0.1死分の火力をケチったので、聖女はまだ生きていた。

 咄嗟の回復術で魔術を打ち消し、焼失を免れたのだろう。

 焼き加減はウェルダンではなくミディアムレア。わたしはもしかして手加減が上手いかもしれない。

 

「まだ死んでないでしょう? まだ死んじゃ駄目よ」

 

 回復術の仄青い光が、炭を人の形に戻していく。

 わたしは剣のストックを異空間から取り出して、倒れ伏す聖女の首筋に突きつける。

 焼き焦げた人形を見下ろす。

 

「おまえに聞きたいことがあるんだから」

 

 止めを刺す、その前に知らなくては。飛鳥を殺そうとした理由を。

 もしそれが異世界の意志ならば、この先第二第三の聖女が来るだろう。

 

 返答によっては。

 

 

 ──世界を滅ぼす(ハネムーン)

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 身体を焼き尽くされてなお、寒さが消えることはなかった。

  燃えることのない法衣の下、火傷は呪いに阻害され、半死半生以上に回復が出来ない。

 半分機械化した脳は今際でもきちんと回る。銀の指先を僅かに動かす。

 大丈夫だ。機能は生きている。異世界の(・・・・)実体と(・・・)全く(・・)同じに(・・・)

 首に冷たい剣を突きつけて、魔女は「あの人を殺す理由はなんだ」と問う。

 

「それ、は……」

 

 掠れた声。焼けてなお凍える身を、ふるりと震わす。

 

 ──ずっと寒かった。

 あの世界から彼がいなくなっても。世界が救われて、自分の使命が上書きされても。

 

 

 ──その寒さの名は、〝後悔〟と呼ぶ。

 

 

 

 あの頃のことをひとつ残らず覚えている。あの頃少女にとって大事なのは使命だけで、為すべきことを為すだけの人形だった。

 聖女の使命は勇者を(たす)くことであり、それは世界を救うためでしかない。自らの所業に一切の疑問を抱かず、罪悪感も、良心の呵責も知らない。

 感情なんてない。

 ないはずだったのに。

 

『一生覚えてろ』

 

 彼の語る言葉を、落とすものをひとつひとつ拾い上げて覚えていようとしたがために。少女は人間性を得てしまった。

 彼が二年で人間性を擦り減らした代わりに。

 ──心を知ってしまった。

 

 だから気付いてしまったのだ。

 たとえ(・・・)世界が(・・・)救われても(・・・・・)この人は(・・・・)救われない(・・・・・)

 自分は使命を果たすことが、できないと。

 

 問うたのだ。

 一年と半年が過ぎて、()が消えてしまうその前に。

 

 ──どうしたら貴方を救えるのですか。

 

 彼は答えた。

 軽く、冗談を言うように笑って。

 

『じゃあ殺してくれよ』

 

 ──できません。それは、できません……貴方の役割が勇者である限り

 それは許されていません。

 

『知ってる』

 

 その笑みが憎悪であることを、聖女はわかっていた。

 

 それは、たった一度だけの本音だ。本当ならば、誰に明かすこともないはずのそれ。

 そして次の日から、彼は二度と、聖女に笑いかけることはなかった。

 

 ──聖女の心は、そこで時を止めた。

 

 だからこの現世で『やりたいことはないのか』と問われた時に。

 思い出したのだ。

 

(私のやりたいこと)

 

 あの日の祈りを、あの日の言葉を。

 たとえ終わっても消えない使命のことを。

 たった一人の同僚の、願いを聞いたことを。

 

 ──私は、あの日の貴方を救いたかった。

 

「……救わなければなりません」

 

 倒れ伏したまま、焼けた喉から絞り出す。

 

「あの人はもう勇者ではない。

 ならば殺せる。

 殺さなければ、殺して、救わなければ。

 

 ────救われ(・・・)ない(・・)!!」

 

 

 魔女は、両目を見開いた。

 

「何よ、それ……」

 

 端正な顔立ちは怒りに醜く歪む。

 

「それは、その感情は」

 

 

 

()じゃないの……」

 

 

 

 何を(・・)言っている(・・・・・)のか(・・)わからない(・・・・・)

 

 首筋に突きつけられた刃が、揺らいだ。その揺らぎは隙だった。

 聖女は指先を動かし──銀の腕を励起する。

 即座、腕が形を変える。組み上がるのは切り札、否。切り札になり損なった兵器。

 少女がかつて勇者の代用品として改造された時代の名残。

『聖剣以外の手段を』『あの竜を撃墜する武器を』と願われ作られ、それでも至らなかった武器が。仕込まれた光線銃(・・・)が。

 

「──貫きなさい、『極光』」

 

 二発。

 編んだ髪を焼きちぎり、魔女の心臓を貫いた。

 

 ぐらりと身体が傾いた、魔女が死んでいる僅かなその間。

 少女は全霊を振り絞り、極光の反動すらも振り切って──逃げ出した。

 

 ──死ねない。まだ死ねない。

 世界は救われた。

 私はもういらない。

 でも。

 

 

(──貴方を殺す(すくう)まで死ねない)

 

 

 たった一人を救いたいと願うこと。その執着を〝愛〟と呼ぶのだと。

 清廉潔白の人形の少女に教える者は、あの世界に誰一人としていなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 再び、ようやく、わたしが息を吹き返した時にはもう、聖女の姿はなかった。

 二回死んだ。正気が惜しければ、これ以上はもう魔法を使えない。

 撃ち抜かれた心臓は修復した。けれど肩口で千切れてしまった髪は戻す気が起きなかった。

 からん、と剣を取り落とす。地面にぶつかり、粒子になって弾けて消えた。

 傷は跡形もないのに胸が痛くて敵わない。

 ただ殺すべき相手だったはずの聖女の声が、耳に焼き付いて離れない。

 呻る。

 

 ──ばかじゃないの? 

 

 救うために殺す、だなんて。論理が破綻している。矛盾している。壊れている。

 それでもわかってしまった。

 それしか(・・・・)ない(・・)と。思い詰めるその執着の正体を。

 わたしだって、かつてあいつ倒してまで救おうとしたのだから。

 

 ──あの子は、わたしと同じ(・・)なのだ。

 

「ふざけないでよ…………」

 

 聖女はもういない。叫んでも意味ない。わかっているのに抑えきれない。

 

「この後に及んでおまえらが愛を語るな。救うなんてわたしと同じこと言うな。傷つけた分際でそんなこと言うな。救い方の間違え方まで被るな。

 昔の女が今更しゃしゃり出てきて! わたしの知らないあいつのことを知ってますって顔をして! 理解者面なんてするな! わたしのだ、わたしのなんだから……わたしが一番愛してるんだ! 愛してるのに!!!」

 

 ──救い方がわからないのはわたしも同じだ。

 

 

 いつか彼は言った。

『誰も殺さなかったならおまえは悪くない』と。

 

「ふざけんな。それは、自分を呪う言葉だっただろうが! わたしを救って代わりに自傷してちゃ、意味ないのよクソバカ!!」

 

『綺麗でいてくれ。汚れるな』

 

「…………意味がわからない!! わたしはそもそも綺麗じゃない! 性格なんてよくないし、暗いし陰湿だし、思い込みが激しいし、脳味噌だって足りてない! 知ってるでしょう!?

 だからっ、別に……あんたと同じ地獄に堕ちることくらい、ちっとも怖くないのよ!? ねえ!!! ねえ、なんで……分からず屋!!!」

 

 魔法使いじゃないくせに、あいつの言葉はあいつ自身を綺麗に呪って。

 わたしは言葉を操る魔女のくせに、救うための言葉がわからない。

 

 ……違う。

 言葉じゃ人は救えないのだ。

 魔女には、人を救えない。

 

「……ばかみたい」

 

 眠れない夜を分かち合って、分かったつもりで。

 理解者面してあなたの隣にいることで悦に浸ってたの。それで平気だと思っていたの。

 あなたを信頼(しん)じていたつもりで、あなたの強さを信仰(しん)じていて、絶対が揺らぐことはないんだと思い込んでいたの。独りよがりに。

 ──あなたの本当なんて何ひとつ知らなかったのに。

 

 膝を付いた。ボロボロと涙が溢れた。

 涙腺はもうずっと壊れていた。嗚咽のひとつも出てこない。

 一人だと声を上げて泣けなかった。

 ……そう、一人だ。

 

 たった一人、救えればそれでいいのに。

 そんなことも簡単にできないほど。

 

 ──わたしたちは、弱い。

 

「…………っ、」

 

 俯けば、ずたずたに引きちぎれた髪が濡れてしまうから上を見上げるしかなかった。

 空は綺麗で、月は煌々と輝いていた。

 一人きりの夜は恐ろしいほど明るくて、目の前がどうしようもないほどに暗い。

 

 でも、まだ諦めたくないのだ。

 何ひとつ。

 

 

 涙を拭う。

 



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第十七話 ある日人生に隕石が落ちてきて。

 

 窓が好きだ。

 窓はいい。外が見える。たとえ狭苦しい部屋の中であっても、この場所が異世界などではないことを確かに教えてくれる。

 

 五月の深夜だった。

 この頃の俺は『陽南飛鳥』をやることにようやく慣れてきた頃で──いや、今思えば相当に人間ができていなかった頃だ。戻る記憶もまだ僅か、自分が自分である確信すらもなく、漫然と日々をやり過ごしていた。

 

 午前零時。開け放った窓のもと、卓袱台にノートを広げる。

 眠れない夜はいつも限界まで勉強する。現世の知識は散々に抜け落ちているが、昔の自分はそれなりに勉強が好きだったらしい。趣味嗜好は変わっていないので、勉強は苦ではない。

 特に数学はいい。理解できないところがいい。感情が介在しないところがいい。明確な答えがあるところがいい。解いている間は意識が沈んでいくのもいい。余計なことを考えずに済むことが、最高にいい。

 だから。たとえ現世に帰ってそうそうに追試を食らったがため、これっぽっちもわからない問題の数々に頭を抱えていたとしても。それはけっして、悪くない時間で……。

 

 嘘だ(・・)

 

『二年前に中断された続きの人生』をやると言った。『現代社会で清く正しく生きていく』と言った。

 

 嘘ではない。

 嘘ではないが、本心でもなかった。

 どう考えたってそうするのが正しいだろう? それ以外にやるべきことなんてないじゃないか。

 だが所詮は正しいだけの理屈であり、人間に戻るとは「理屈では動けなくなること」だった。

 

 ──なんのためにこんなことをしている?

 

 夜更の魔力が脳の隙間に入り込み、鬱屈を囁く。

 

 ──今更、やりたいこともないのに?

 

 畳の上に積まれた、社会科の教科書を見やる。かつてはあれが好きだった。そんな記憶がおぼろげにある。

 将来の夢は思い出せないが、もしかしたら社会科の教師だったのかもしれないと思って。無いな、と目を閉じる。

 趣味嗜好は変わっていないと言った。少し(・・)嘘だ(・・)

 昔は平気だったはずのものが苦手になった。味の薄い料理。血の出る映画。それから人間(・・)

 歴史は嫌いだ。人が死ぬ。倫理も駄目だ。人の善悪を論じすぎる。

 人の紡いだ歴史なんてろくでもないものばかりだ。善悪の価値なんて最早どうだって構わない。

 真に善いものなんて天体や自然の法則、人の意の介在しない絶対真理くらいだろう。

 もう一つ、好きだった教科の本を手に取る。地球科学。絶滅した生物の名前を叩き込んでると安心した。

 

 どうせ滅ぶ。

 どうせいつか、皆滅ぶ。

 

 

 

 ……いつの間にか意識が飛んでいた。

 問題集は少しも進まないまま、時間だけが無為に過ぎた午前三時。風が、ぶわりと薄いカーテンを膨らませる。

 赤い光の粒子が、弾けて消えた。踵を鳴らす、着地音。

 ベランダに彼女(・・)の気配がする。

 

「ご機嫌よう、飛鳥(あすか)。いい夜ね」

 

 文月咲耶が、綻んだ花のように微笑みを浮かべて。俺の窓を侵略する。

 ノートに鉛筆を力一杯突き立てて、芯をばきりと折った。

 彼女は最悪な魔女で宿敵で、深夜に喧嘩を売りにくる傍迷惑な隣人で、だから俺はおまえに会いたくなどないのだという顔をして、立ち上がる。

 

「帰れ」

 

 全部嘘だ(・・・・)

 君が好きだ。

 

 本当は。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──夢を見ている。

 

 ある日突然俺の人生に隕石が落ちてきて。けれどその隕石は隕石にしては小さすぎて、大事なものを全部めちゃくちゃに壊してなお、俺の人生そのものを終わらせてはくれなかった。

 

 異世界で出会った少女がいた。

 儀式の起こるそのずっと前。そいつは召喚されたばかりの俺の部屋に、突然忍び込んできた勇者候補だった。

 勇者選定の儀式のその日、これから何が起こるのかを知って。この世界を守るため、昨日と変わらぬ明日を手に入れるために志願した、高潔な少女は俺に言った。

 

『あたしは世界のために死ねる。でもキミは、違うでしょう?』

 

『──だから守るよ』

 

 そう言って。少女(そいつ)は俺を庇って死んだ。呆気なく。

 彼女を貫いた刃が俺の額を掠めた。かつて両親に守られて出来た傷を上書きするように。

 赤く染まった視界の中で。

 

 ──人は、本当に笑って死ぬのだな。

 

 と他人事のように思った。

 

 

 異世界で出会った少年がいた。

 俺の部屋に忍び込む際に少女に踏み台にされていたそいつは、世界の真実を知るため、救われた先の世界で夢を叶えるために勇者に志願した。

 勇者選定の儀式のその日。苛烈な少年だった、そいつは言った。

 

『世界を救うのは俺だ。それを、他の誰にも渡してたまるものか』

 

『──だからおまえが死ね』

 

 そう言って、少女から剣を引き抜き、最後に俺に剣を向けた。

 俺はというと、この後に及んで理解が及んでいなかった。けれども額を押さえていた手が、血に濡れているのを見たその時。強烈に思った。

 死にたく(・・・・)ない(・・)。と。

 

 殺されそうになったその瞬間、無我夢中に剣を振るったことだけは覚えている。

 気が付いた時にはすべてが終わっていた。

 少年(そいつ)の剣は俺の腕を切り飛ばし、けれど切り飛ばされるその前に俺の剣は届いていた。千切れた腕は剣を握ったまま、少年(そいつ)の首の半ばに刺さっていた。

 足元に倒れる身体と、転がる自分の腕を茫然と眺める。

 死顔は笑ってなどいなかった。それを見てようやく、理解した。

 

 ──もう、笑って死ねないのだと。

 

 血と、死と、すえた胃液の臭いの中で。人生が滅茶苦茶に壊れる音を聞いた、気がした。

 

 

 だが。そのまま黙って壊れることなど許されるはずもなく。

 

『どうか世界をお救いください。勇者様』

 

 生きたかったはずの誰かを殺してまで、死にたくなかった。その強欲には責がある。

 彼らの祈りを踏みにじってまで、生き残ったのならば。

 俺が(・・)世界を(・・・)救わねば(・・・・)ならない(・・・・)

 

「知らねえよ。勝手に巻き込んだのはてめえらだ。

 おかしいだろ。こんなの。俺だって昨日と変わらない明日が欲しかったよ。俺だってちゃんと夢があったよ。

 何故それが、踏み躙られなければならない。謂れはないはずだ。

 なあ! 勝手にやってろ、巻き込むな、とっとと滅んじまえよ!!」

 

 俺は勇者だから、滅べなんて言っちゃいけない。世界を救う以外の機能は勇者にはいらない。そんなことを言う自我は要らないんだ。

 だから(・・・)忘れた(・・・)

 

 

 けれど罪の意識は、忘れたとして根底に染み付いて消えなかった。

 たとえ何を忘れても人間の根幹は揺らがない。根幹に食い込んだ教えは、けして消えることがないのだ。

 

『正しく生きろ。笑って死ね』

 

 ──教えは呪いに転じる。

 

『正しく生きろ。さもなくば死ね』

 

 ──正しく生きたいのならば。あの時に死ぬべきだった。

 

『死んではいけません。世界を救うまで』

 

 ──けれどもう死ぬことも叶わない。

 

 日に日に自分が消えていく中で、いつしかひとつの願いを抱くようになった。

 忘れたい、ではない。死にたい、でもない。何を忘れても消えない、正真正銘の願いを。

 更地にもなりきれなかった俺の人生の上に、いつか抱いた恨み言が結実する。

 

 ひとつ願いが叶うのならば、どうか。

 明日(・・)隕石が(・・・)降って(・・・)くれ(・・)と。

 

 人生におけるどんな幸運も不運も、可能性が低いという意味では同じだ。因果は応報されず、天秤は釣り合わず、神仏はけして人に微笑まない。

 わかってはいた。だけど、次こそは幸運(・・)が訪れたっていいじゃないか。異世界召喚なんて天文学的確率の最悪に見合う何かが、落ちてきたって。

 

 ──だから。

 

 どうか明日こそ隕石降ってくれ。このまま人生の全部を木っ端微塵にしてくれ。

 今度こそ更地に()して、世界を壊して、何もかもをなかったことにして、無慈悲にすべてを終わらせる。そんな圧倒的で、絶対的な、破壊の象徴が。

 そんな最悪(こううん)が、あの頃の俺は欲しくてたまらなかった。

 

 

 ──そして旅の果て、魔女に出会う。

 眼前には赤い海の上に建つ堅牢な魔王城。茜に焼けた空を埋め尽くすのは、夥しい数の竜。その天元(ちゅうしん)に。彼女はいた。

 魔女が手をかざす。彼女の命に従って、星が堕ちるように竜が降ってくる。

 恐れ知らずに真っ直ぐに、こちらを見据えて圧倒的で、絶対的な破壊を、世界にもたらすために。

 もうとっくに何も感じなくなっていたはずなのに、その姿に、歓喜した。

 

 ──ああ、彼女こそが。待ち望んだ隕石(ほし)なのだ、と。

 

 願いは(・・・)天に(・・)聞き届け(・・・・)られた(・・・)

 

 

 勇者(じぶん)の機能を忘れたわけではない。使命の放棄はできない。

 戦いに手は抜かない。けれどいずれこの剣が届く魔女が、自分より強いことを願ったし、そして自分が負けることを祈った。

 ──そうすれば。義理は果たした上で、別に何かを裏切ったわけでもなくて、かろうじての正しさを守ったままで。

『ああ仕方ないよな。負けたら死ぬからしょうがない』って諸共に滅べるじゃないか。

 

 ──その希望に満足して、今度こそ陽南飛鳥の自我は綺麗に掻き消えた。

 はずだった。

 

 けれどまさか。

 隕石の正体は文月咲耶で、負けることも終わることも許されず、あろうことか新しい自我で上塗りされて、都合の悪いことだけを綺麗さっぱりと忘れたままに、いつの間にか現世に帰ってくることになるとは夢にも思わなかった。

 

「夢だけどさ、ここ」

 

 自嘲混じりに呟く。

 夢の中に時間の感覚はない。走馬灯のように異世界での二年の記憶を追体験し、その終着点に辿り着く。

 瓦礫だらけの魔王城。天井はぶち壊され、竜の死体は炭と消えた、空っぽの玉座の間。

見覚えがあるようで無いようなこの光景を、俺は割れた眼鏡(・・)越し(・・)に眺める。

 

「どれだけ生き汚いんだよ俺。往生際が悪過ぎて死にたくなる……」

 

 答える者はいないはずの夢の中。声が聞こえた。

 

「そうね、あなたって。不死身のわたしよりよっぽどだわ」

 

 振り返ると魔女が──いや、文月咲耶がいた。

 角はなく、ドレスではなく、魔女の姿ではない。

 この場は異世界の夢だというのに彼女は現世のようなワンピース姿で。彼女の亜麻色の髪は、何故か短く切り揃えられていた。

 直感する。目の前の(・・・・)彼女は(・・・)本物だと(・・・・)

 

「なんで、君が」

 

 ──文月(・・)がここにいる?

 

 彼女は得意げに胸に手を当てて言う。

 

「あら、言ってなかった? わたし、魔女だから夢くらい弄れるのよ。気合いで」

 

 そして彼女は、静かに微笑んだ。

 

「遅くなってごめんなさい。

 ──救いに来たわ。陽南君(・・・)

 

 

 

 ◇

 

 

 

 崩れた魔王城の玉座の間。壊れた天井から夜空が覗く。城の高さも相まって、天は近かった。空も海も赤い異世界でも、星の輝きだけはよく似ていた。

 彼女はこちらを見て、哀れむように眉を下げる。

 

「その姿……やっぱりあなたの時も止まっていたのね」

 

 この自分の見た目は、おそらく選定の儀の頃のものだろう。おそらくと言うのは、姿がちぐはぐでもあるからだ。

 背は低いままなのに、服は勇者時代のそれ。儀式の後のように眼鏡は割れているのに、何事もなく両腕がある。視力は悪いままなのに、磨かれた床に映る自分の目は青い。

 後退る。彼女に見られたくはなかった。こんな自分も、こんな過去も。

 

「安心して、あなたの記憶は見てないから。思考も読んでない。わたしはただ、話をしに来たの」

 

 情けなくも安堵した。彼女は穏やかに告げる。

 

「いつかと同じ話を。今度は正気のわたし(・・・・・・)と、本当のあなた(・・・・・・)で」

 

 彼女の言う『いつか』が、何のことなのか察しがつかなかった。

 外見の時系列の混線に現れているように、俺自身の中身(・・)は現世で生きた十六年と、おぼろげな異世界の二年で出来ていた。

 ──文月咲耶と再会して以降、現世に帰ってきての半年間の記憶はあるが実感がない(・・・・・)

 だから彼女の言葉の意味を直ぐには察せず、けれどその、狂気的なまでに真っ直ぐな瞳と。

 

 

「──ここに簡単な結末があるの」

 

 

 いつかと同じ問いに、ようやく思い出した。 

 今の俺にはあまりに遠い五月のこと。彼女に差し伸べられた手を『そんなものはいらない』と、あの時の自分(あいつ)は跳ね除けたことを。

 

「あなたを救いに来たわ。もう異世界なんて思い出さなくてもいい。呪われた腕なんて取り返さなくていい。わたしが、あなたを脅かす何もかもから守ってあげる。あなたを苛む何もかもを滅ぼしてあげる」

 

 彼女は俺の手を柔らかく取って、吐息がかかるほど近く囁く。

 

「だから安心して、弱くなって、駄目になっていいよ。わたしがなんだってしてあげる」

 

 

「──あなたの願いを、叶えてあげるから」

 

 

 手を握られているはずなのに、夢の中だからだろうか、感覚は伝わらなかった。

 甘やかな彼女の微笑みは、どろりと包み込むように重たい。温かな沼に沈められていくように抗えない。

 ──委ねてしまえば楽になれると、理解(わか)ってしまった。

 

 本当は、もう何も考えたくないんだずっと。人生とか善悪とか、もう何も。

 袋小路から抜け出す気力なんて本当は、二年前のあの日に尽きていた。

 ……もう、いいか。

 ぐらぐらと脳が揺れるまま、頷こうとした。

 その、瞬間。

 

「──何やってんだテメェァア!!!!」

 

 突然横から爆走してきた何者かに思いっきり蹴り飛ばされ、俺は死んだ。

 ──享年十六と二年の人生だった。

 

 

 ……いや、夢の中だから死ぬもクソもねえわ。

 瓦礫に頭から突っ込んだが痛くも痒くもなく、夢なので都合良く瓦礫ごと消えていた。

だが蹴られた際の死ぬかと思った衝撃だけはあるもので、目を回しながら見上げると、そこには。

 

 

「──そのままおっ死ねクソがッッ!!!」

 

 

 親指で首掻き切って悪態を吐く、ブチギレた()が居た。

 場違いのジャージ姿──完全に現在(いま)の姿の俺だ。

 何故か俺(でかい方)が俺(主観)にメンチを切っている。

 困惑した。

 文月もまた隣で目をぱちくりと瞬いている。おろおろと俺×2を交互に見やる彼女に、自分(そいつ)は言う。

 

咲耶(・・)、ちょっと向こう行っててくれるか」

 

 彼女は、はっと何かに気付いて。「あーはいはい、そゆことね」と肩を竦め、光になって消えた。

 

 

「よし」

 

 いや、何もよくないんだけど。

 立ち上がる。

 

「なんで俺がもう一人いるんだよ……」

「あ? そりゃ、俺とおまえで人格別だからに決まってるだろうが」

 

 そうか、こいつは『文月咲耶を認識した後に再構成された自我』で、この半年をやっていた俺か。

 だが半年間の記憶はこちらにもある。現世に戻ってからは次第に『陽南飛鳥(こちらのオレ)』の記憶も蘇りつつあったはず。おそらく完全に別人格ではなく、実際は混ざり合っていたんだろう。

 何故か今は、キッパリ分かれているようだが。

 

「こっちの俺は過去の記憶に呑まれずに済んだからな。さっきまでどうにか目を覚ませないかと出口を探してたんだ」

 

 そいつは「いや寝てる場合じゃねえんだよ、咲耶を一人にすると何しでかすか分からないんだぞ……」と呻く。

 

「そしたら案の定、咲耶が昔の俺(おまえ)を誑かし始めて、ダッシュで戻ってきたわけだが……」

 

 そして俺は、俺に掴みかかる。

 

「なーに勝手に洗脳許可して堕落しようとしてんだよ!?! うだうだ腐って寝こけやがって、まだやらかすつもりか!! ええ!?」

 

 ……どこからでもキレるなこの俺。納豆のタレか?

 

「あとおまえの心の声聞こえてるからな、俺には!」

 

 クソッ、同一存在不便。でも聞こえてるなら声出さなくていいか、同一存在便利……。

 内心で悪態を吐く気力はあれど、胸倉を掴まれて抵抗する気力はなかった。その様子を、そいつは更に不愉快そうに舐めつける。

 

「今更、昔のこと思い出したくらいで何折れてやがる……たかが(・・・)この程度(・・・・)の過去で!!!」

 

 だが。その物言いに。

 脳味噌が沸いた。

 ──たかが、だと……? これが、たかが?

 これまで生きてきた過去も、これから手にするはずだった未来も壊されて、自分の存在定義に必要だった『正しさ』も、取り返しのつかない『間違い』の上に塗りつぶされて、

 失ったものを数えるには片手では足りなくて、数えるための指すら足りないのに、たかが(・・・)

 それを、誰よりも分かってるはずの自分(おまえ)に言われたくはない!!

 だが、そいつは。

 

知る(・・)かよ(・・)

 

 俺の胸倉を離し、自分事をまるでゴミのように切って捨てた。

 そいつは言う。

 

「この俺の自我は『勇者』としての使命と文月咲耶への感情で出来ている。世界を救う義理は果たした今、優先事項は咲耶のことだけだ」

 

 ──つまり。

 

 

「『()』は咲耶と(・・・・)イチャつく(・・・・・)ことしか(・・・・)考えてない(・・・・・)

 

 

 そいつは、なんのてらいもなく、言い切った。

 

 俺は奥歯を噛み締める。

 ──ああ、それだ。『陽南飛鳥』はそれが一番許せない。

 この半年間の記憶を、まるで他人事のように思い返す。

 友達も朝食も、デートもキスも、おかえりも抱きしめることも眠れない夜に隣にいることも、おまえごときには許されない贅沢だ。

 呻きが漏れる。

 

「……何を、のうのうと生きてやがる。何、普通に青春なんて謳歌してやがる。俺は、間違えたんだ……今更忘れて幸せになろうだなんて許されるわけないだろう……!!」

 

 激昂を、しかし。そいつは冷淡に見つめ返す。

 

「だぁれが、てめぇが幸せになれっつった。俺は咲耶さえ幸せならいいんだよ。おまえが今ここで腐ると確率が下がる。咲耶が幸せになる確率が」

 

 ──それは……。

 そしてそいつは、急に相好を崩した。

 

「ていうかさ、咲耶のショートカットめっちゃ可愛くないか?」

 

 ……急に何?

 

「いいよな健康的で。らしくはないけどあえて良い。わかるだろ俺。俺ならわかるはずだ。後で褒めといて」

 

 …………この、色ボケイキリクソ野郎!

 叫んだ。

 

「今この流れでする話かよ!! なんなんだよ! 自分で褒めろよ!!!」

 

 認めたくねえ、こんなのが俺の別人格などと!

 だがそいつは眉を下げ、微苦笑する。

 

 

「それは無理だ。

 ──俺は多分、いなくなるからさ」

 

 

 あまりに軽々しく、消失を予言した。

 

「いなくなるってのは正確には違うか? 別に消えるわけじゃない、俺とおまえは既に現実じゃ混ざってるからな。

 だが割合の問題だ。『勇者(オレ)』の自我よりも、『陽南飛鳥(そっちのオレ)』の自我の方が重い。おまえが記憶を完全に思い出したのなら──こっちはもう要らない、だろ?」

 

 そうだ、目の前の俺は文月咲耶に再会した時、空っぽを埋めて無理矢理動くために作られた、仮の人格だった。

 だが記憶は決定的に戻った。本来の俺が、ここにいる。となればもう──目の前の俺は、溶けて混ざって消えて、もう戻れない。

 

 

「だから後は、おまえが(・・・・)やるしか(・・・・)ないんだ(・・・・)

 

 

 憂いなどひとつもないように。その両目は強く俺を見ていた。

 

「どう答えるべきか、なんて。本当はわかってるだろ? この人格はおまえが望んだ『都合のいい俺』だ。勇者だろうが、咲耶(あいつ)の何だろうが、おまえと俺は本質的に変わらない」

 

 揺るがないそいつは。

 

「大丈夫だよ。(おまえ)は強い」

 

 嘘吐きなほどに場当たりで。

 

「とりあえず格好つけておけ。後は、未来の(おまえ)がなんとかするさ」

 

 破滅的なほどに楽観主義で。

 

 ──ああ、そうだ。

 俺は、(おまえ)のことが心底嫌いで。だけどどうしようもなく、おまえは俺自身なんだ。

 

 

 

 瞬きをすると、目の前にいたはずのそいつはもう消えていた。

 度が合わない(・・・・・・)眼鏡越しに、自分の姿を見下ろす。服は勇者時代のそれ、右腕の感覚は消えていた。

 

「──答えは用意できた?」

 

 いつの間にか隣には咲耶(・・)が戻ってきている。背が低くなった、と印象を受け、俺の背が伸びただけだと気がついた。

 

「……ああ」

 

 割れた眼鏡を外して、握り潰した。破片は掌に刺さることなく、灰になって消えた。

『願いを叶えてあげる』と彼女は言った。甘美な誘いだ。望めば本当になんだってしてくれるだろう。俺は彼女の甘さをとっくに骨身に思い知っている。実はいつも結構、抵抗するのもギリギリだ。

 だけど。どんなに救いを提示されたって、初めから選ぶ余地なんてないんだ。

『そんなものはいらない』とかつての俺が言った。たとえそれが違う自我の言葉だったとしても、それは紛れもなく俺の選択で、その誓いをなかったことにはできない。

 だから。

 

まだ(・・)やるよ(・・・)

 

『──そうだ、それでいい』

 

 どこかから声が、聞こえた気がした。

 

「……うん」

 

 彼女は、目を閉じ静かに頷き。

 

 

あなた(・・・)ならそう言ってくれるって、信じてた」

 

 

 ぞっとするほど綺麗な笑みを、浮かべて言った。

 

 

 瞳が赤く輝き、赤い唇が弧に歪む。花弁のように光の粒子が舞い、彼女の姿を塗り替える。

 気付けば衣装は鮮烈なドレスに切り替わり、ここに聖剣はないはずなのに、頭には捻じ曲がった赤い角が生えていた。

 肩口の上、短くなった髪が風にたなびく。

 そして魔女は、高らかに宣言した(となえた)

 

 

「それじゃあ、全部(・・)更地に(・・・)しましょうか(・・・・・・)!」

 

 

 人差し指を高く天上に突き上げる。

 夜空には名も失った星々が燦然と輝く。

 その、空に。燃える炎のように鮮やかに尾を引いて。いくつもの星が、降ってくる。

 

 この世界を粉々に打ち砕くほどに大きな、隕石(ほし)が。

 頭上に、迫る。

 

 唖然とする俺に、彼女は不適に無敵に悪戯に、嘲笑うように慈しんで笑って。

 

サプライズ(・・・・・)隕石理論よ(・・・・・)。あんたの悪夢を終わらせるには、いい演出じゃない?」

 

 びしりと指を突きつける。

 

 

零落(おと)してあげるわ、何もかも!!」

 

 

 

 ──そしてようやく、夢は醒める。

 



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第十八話 魔女は窓からやってくる。

 長い夢を見ていた。

 降り注ぐ灼熱と閃光、意識が粉々になる衝撃で目を覚ました。頬をつねるどころではない。

 跳ね起きたのはソファの上。醒めた先は最早見慣れた居間の真ん中。だが夢にまで見た隕石の余韻に浸る暇もなく。

 ──部屋は魔力に満ちていた。

 

 床には赤い魔法陣(らくがき)が描かれている。

 静寂に微かに響く秒針の音、文字盤は深夜三時。窓は硬く締め切られて、けれどカーテンは開け放たれていた。

 硝子の向こうには黒い夜空、煌々と照らす真円の月が微笑んでいる。──異常な大きさで。

 この空間は既に現世と切り離された結界の中と、理解したその瞬間。

 

 窓が(・・)ブチ(・・)割れた(・・・)

 

 割れた窓ガラスは嵐のように、部屋の中を吹き荒らす。咄嗟に腕で目を覆った。

 だが輝くガラス片は、そのひとつひとつが光のように溶けていく。

 ──夢から醒めてもここは既に現実ではなかった。

 いや、夢から醒めた先はかつてあれほど憎んだ、俺たちの異世界(げんじつ)だ。

 

 ブチ抜かれた窓の向こうで、大きすぎる月が赤く染まっていく。

 彼女(・・)は、月を背負ってそこにいた。

 翼持つ蛇、魔法使いにして竜、魔王のその背に傲岸不遜に乗って立ち。

 

 魔女は窓からやってくる。

 

「ねえ飛鳥! いい夜ね」

 

 風に棚引く短い亜麻色の髪には悪魔めいた角。纏う毒々しい黒の夜会服が、柔らかな肌を惜しげもなく晒している。

 魔性の瞳を赤く輝かせ、赤い唇を釣り上げて。彼女は笑って、告げるのだ。

 

 

「いい夜だから──あなたに喧嘩を売りに来たわ!」

 

 

 いい笑顔だった。

 とびきりの。

 花も怖気付いて枯れるほどの。

 

 目の前の光景の異常は明白。彼女の頭には今はないはずの角があり、何より──魔王の封印が解かれている。

 

「……おまえ、何を」

 

 その問いの答えを聞く、その前に。部屋の扉が開く音がした。

 背後には、聖剣を携えた聖女が居る。

 

 

 

 ◆◆

 

 

 

 話は魔女と聖女の交戦の後に遡る。

 深夜零時。魔女は竜の牢を訪れ、告げた。

 

「アージスタ。わたしと『契約』を結びましょう」

 

 

 ──話は更に、聖剣を奪われた翌日の作戦会議に遡る。

 如何に聖女を倒し聖剣を奪い返すかの話し合いの最中に、飛鳥(かれ)は言った。

 

聖女(あいつ)をこちらに引き入れたい」

「それ本気で言ってる?」

「ああ。この先(・・・)を考えるとそれが一番いい。……魔王への対処が膠着している。封印したはいいものの、尋問は成果ナシ。魔王(あいつ)魔女(おまえ)の呪いを解く方法を吐く気がない。となれば力尽く──吐くまで殺すしかないわけだが」

 

 魔王には命が七つある。あと五つ残っている。聖剣を取り返したところで、あと五回は戦う必要がある。

 必然、あと五回死にかける可能性があるわけだが。 それは回復手段無しではあまりにリスクが高すぎる。死なないにしても五回も入院したら人は留年するので。

 だが、

 

「聖女の回復術があるなら楽ができる」

 

 敵と協力するにはより強大な『共通の敵』がいればいい。

 聖女は魔王が生きていることを知らない。人形にとって使命は絶対であり聖剣回収が最優先だとしても、「魔王を倒す」という大義の前には交渉の余地がある。

 ──もっとも、毒を盛り退路を断ってからの交渉(・・)だが。

 

 だが結局、話を持ちかける前に聖女とは決裂した。

 あまりにも高い殺意の前に手を組むどころではなく。咲耶は交渉が決裂した場合の極秘プラン「聖女殺す」を発令した。

 聖女の目的が飛鳥を殺すことなら協力は見込めない。そして魔王の封印を解いたところで聖剣無しでは対処不可能。彼は弱体化したこちらへ牙を向くだろう。

 聖女の想定外の完全敵対により、共通の敵を放つという計画は御破産になった。

 

 ──そもそも魔女は聖女を引き込むなど死んでも嫌だったのだが。

 

 彼を好き勝手に利用した相手とどうして手を組まなければならない? 

 合理であっても感情で納得できない。わかりやすく敵でいてくれるならそれが一番良いと思っていた。

 だが。今夜の一戦を期に、咲耶はもう知っていた。聖女の殺意の理由を、彼女の想いの正体を。

 同類(・・)だというのならば、許しはしなくとも理解はしよう。

 ──ならばこの手に、賭ける価値はある。

 

 

 そして魔女は竜に契約を持ちかけた。

 

「おまえの封印を解くから、わたしに力を貸しなさい」

 

 魔法使いは、気怠げに目を細め一蹴する。

 

「何のためにだい? 時間の限り沈黙すればボクが勝つようにできている。キミの契約とやらに乗る意味がない」

 

 だが魔女は、揺るぎなく答える。

 

「意味ならあるわ。これは最高の形で世界を滅ぼすための賭けよ。契約内容くらい確認してもいいんじゃない?」

 

 魔王は目を細めたまま、否定を口にしない。それを肯定と受け取り、魔女は口を再び開く。

 

「勇者の造り方を聞いた時にわかってしまったのよ、おまえの真意。難儀よね魔法使いは。魔法のためには感情的にならざるを得ないから、時々本音が筒抜けになる」

 

 感情を押し隠して駆け引きをしようにも、それができる相手はもう何百年とあの世界にはいなかった。

 

「この現世(せかい)にわたしを連れ戻しに来たと言ったけど。おまえが本当に執心なのは魔女じゃないでしょう」

 

 あの薄暗い魔王城の奈落で、魔女は彼の懺悔を聞いた。

『必ずや悲願を果たし、この星を滅ぼそう。繰り返された千年の召喚はここで終わらせる』

 邪悪の分際が口にするにはあまりにおこがましい、綺麗事めいた誓いを。

 

「勇者の造り方を話した時、あまりに自分たちのことを棚に上げて人類を扱き下ろすんだもの。変だと思ったのよ」

 

 勇者も魔女もその造り方に本質的な違いはない。

 生贄のための異世界召喚。その醜悪さの優劣を語るなど無為だ。

 なのに竜は、人類の所業を本気で(・・・)許せないように語る。

 

「もしかして、異世界召喚は人類が最初に始めたのではない? 勇者に追い詰められたおまえたちは、対抗して異世界召喚に手を染めざるを得なかったのではない?

 ……初めは魔女を丁重に扱っていたのだったか。でも、おまえたちは異世界召喚の罪を異世界召喚でもって贖わせようとして、しくじった。同朋は皆狂い、けれど著しく強化され、人類を追い詰め返すに至った……。

 全部想像だけど。そう間違ってはないんじゃないかしら。わたし、勘は悪いけど。悪い想像(・・・・)には自信があるの」

 

 竜は人類を憎んでいる。あの都を憎んでいる。異世界召喚そのものを憎んでいる。

 

 

「──おまえが執心なのは魔女ではなく、わたしたち(・・・・・)だ」

 

 

 この竜を、いつか殺すとずっと思っていた。

 けれど一度二度と、勇者に倒されるのを見て気が付いた。

 ──こいつには悪の大魔王らしさが足りていない。

 甘いのだ。自分を殺した勇者にも気持ちが悪いほど好意的で、現世にやってきた時も飛鳥を殺そうとはしなかった。

 甘さの理由はなんだ?

 魔女は考える。

 

「『世界の半分を勇者にやろう』この世界で最も有名な魔王の台詞よ。……あいつは最終決戦を会話すらせず、背後から不意打ちで魔王を倒してしまった。だから、知らないの。あの時──魔王(せんせい)は勇者に何を言おうとしたのか。

『答えて』」

 

 この会話は『契約』の手続きにあるものだった。

 彼らにとって契約は強力な魔術だ。真名(まな)と共に結ぶ契約は、その過程ですら嘘を許されない。

 だから。彼は、真意を答えた。

 

「『よく来た勇者よ。私は待っていたのだ、ずっと。キミのような勇者を。──ボクと共に、この世界を滅ぼさないか』」

 

 ──あの時、告げられないままに死んだ言葉を。

 

 

「ええ、ええ! きっとそうだと思っていたの! 契約の意味ならあるわとびきりのが。──もし勝てば、最高の結末をおまえにあげる。

 ねえ師匠(せんせい)。自業自得の破滅の結末はお好きでないかしら? わたし実は、クソみたいなバッドエンドが好きなのよ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そして現在(いま)

 わたしは再び敵として、あいつに会いに行く。

 

 あいつが死ぬまで待つなんて悠長なことを魔王にはさせない。聖女が黙って聖剣を持ち逃げすることも。あいつが過去の記憶に呪われ続けることも、だ。

 わたしが魔王も聖女も勇者も、全員、ここに引き摺り出してやる。

 

 ここは結界に切り離された異世界空間。ここではいかなる破壊も現実には作用しない。

 叩き割った窓の向こうに飛鳥はいた。背後には聖女が沈黙して置物のように立ち尽くしていた。

 飛鳥が目覚めるその前のことだ。魔王の封印を解いた後、気配を察知して彼女はやってきた。それまで聖女を阻んでいた結界も排除してここへと誘い込み、わたしは言った。

『これがあいつを救う方法だ』と。

 その理由を確かめるまで、聖女は自らの『救い』を行使することはない。

 

 飛鳥は、唖然と警戒がないまぜになった目で「何をした」と問いかける。

 わたしはそれを空から見下ろして答える。

 

「契約を結んだの! 魔王と正統な手順(・・・・・)を踏んで(・・・・)決着を付けるための契約を。勇者が勝てば、死ぬ前に魔女(わたし)の呪いを解く方法を教える」

 

 その条件のひとつが、再び魔女(わたし)が勇者の敵になることであり魔王の味方として戦うことだ。

 聖剣に触れずともわたしが竜の因子を発露した姿であるのは、契約のおまけに過ぎない。魔王に力を分けてもらい、聖剣なしで変身できるようになったのだ。

 ……不死の呪いは少しばかり濃くなったけど、誤差のようなものでしょう。どうせ(・・・)勝てば(・・・)呪いは(・・・)解けるの(・・・・)だから(・・・)

 嫌な予感を感じたのだろう。飛鳥は苦々しく頬を引きつらせ、問う。

 

「負けたら、どうなる」

 

 わたしが賭け金にしたのは『最高の結末』だ。

 口の端を釣り上げた。

 

 

「もし負ければ──世界を滅ぼしに行くの。

 勇者(あなた)が、その手で」

 

 

 魔王は望んでいた。『異世界召喚の罪は異世界召喚でもって贖われるべきだ』と。

 

魔女(わたし)がただ滅ぼすだけじゃ足りないわ。悪いことをしたらそれ相応の報いがなければならない、そうでしょう? 

 ──人は、人が自ら作り出した業によって滅ぶべきだわ。勇者を(・・・)造り出した(・・・・・)人類は(・・・)勇者の手(・・・・)で滅びる(・・・・)べきだ(・・・)

 

 それこそが因果応報。自業自得の破滅の結末(バッドエンド)。魔王に提示した、わたしが考える最高(さいあく)の結末。

 ──要するに。

 

「勝てば約束を果たすハッピーエンド、負けても世界を滅ぼすハネムーン。──悪くない賭けでしょう?」

 

 どちらに転んでも、願い通り(・・・・)

 

 

 契約の内容を聞き、飛鳥は。唖然を通り越して血相を青から赤に変えた。

 

「……本っ当に! おまえは一人だとろくなことをしないな!!」

 

 ……ああ、その怒り慣れてない声色は懐かしい陽南君(あなた)のものだ。けれどその叱り方は馴染みきった飛鳥(あなた)のものだ。ここにいるのは紛れもない、『陽南飛鳥』だ。

 頬が緩んで仕方なかった。

 

「それほどでも──あるわ!」

「ねえよ! 褒めてねえ!!」

 

 

 ──わかってる。本当は。無理矢理引き摺り出して追い詰めて立ち上がらせる。こんなもの、冷静に考えれば毒でしかない。

 ようやく『人間』に戻ったあなたに、再び『勇者』を強いろうというのだから! 

 でも。

 

「『まだやる(・・・・)』とあなたが言った!」

 

 たとえ毒をもって毒を制すやり方でも。これが、わたしなりの救い方。

 

 

「さぁ、御膳立ては済んだわ! 魔女の据え膳、毒まで食らってちょうだいな!!」

 

 

 ──結末(すくい)は、あなたの手の中に。

 

 

 ◇

 

 

 目の前に広がるのは冗談みたいな光景で、聞かされたのは冗談みたいな話だった。

 どいつもこいつも正気じゃないな、と俺が言って。いつものことだろ、ともう一人の俺が言う。

 頭の中は煩いが、思考はすっきりと晴れていた。統合されたばかりの自我にはまだ違和感があるが……じきに慣れるだろう。

 もう慣れた。

 

「魔王、ひとつ聞きたい。おまえはこれで(・・・)いいのか(・・・・)

 

 契約内容の是非を問う。あれは少々魔女に都合が良すぎる内容だ。

 魔女を背に乗せた竜は答える。

 

『嗚呼、勿論だとも。私は元の存在定義を言えば、魔王でなく魔女に仕える竜でね。こうして足蹴にされるのも懐かしいと思えば悪くない』

 

 いや、そっちじゃない。蹴られたいとか聞いてない。

 背の上でイラッとした咲耶がメリメリと竜の鱗を剥がし始めている。やめてやれ。

 気にも止めずに竜は答え直す。

 

『──そしていずれの結末も肯定しよう。結果として己が殺されても構わないさ。私の願いは、世界の正当な滅び(・・・・・)ただそれだけだ。君には世界を滅ぼす正当な資格(・・・・・)がある』

 

 そして竜は魔法使いらしく、甘言を囁く。

 

『キミは、この戦いにわざと負けることを選んだっていいんだぜ?』

 

 負ければ(・・・・)世界を(・・・)滅ぼせる(・・・・)、と。こちらの本心を蛇の目で見透かして言う。

 

 俺は答えなかった。

 目が覚めた今、ツケにし続けてきた感情は全部蘇っている。はっきりと自分の中身が理解(わか)る。

 拳を固く握りしめる。

  ──ああそうだ。俺は、あの世界が、心底から嫌いだ。

 だが。

 

魔女(・・)。ひとつ言いたい」

「そう呼ばれるのは久しぶりね! ええ、何かしら!」

 

 ぱっと無邪気な笑顔でこちらを見下ろした彼女に、問う。

 

 

ハネムーン(・・・・・)って(・・)()?」

 

 

 ──いや、何? ほんと。全然わかんねえ。

 

 これまでの割合咲耶に甘かった俺は鳴りを潜めている。多分、今の俺は魔女のことをゴミを見る目で見ていた。綺麗なゴミだな……。

 彼女は曇りない眼でこちらを見返す。

 

「終末旅行の英訳よ。常識でしょう?」

 

 得意満面。

 

『違うよバカ弟子』

「英語赤点か?」

 

 旅行どころかもたらしてんだよ、終末をよ。

 

 奴らの理屈はこうだ。

 俺には復讐の権利があるから負けてもいい、負けてもハネムーンだから悪くない。

 なるほど──、

 

 いや。

 いいわけがないだろう!!

 

「……なんでッ、俺が直接滅ぼすって話になってるんだよ!!」

 

 言ってねえよ! 滅ぼしたいとは!! 滅べとは願ったけど!!

 

「え? だって復讐は自分の手で為したくない? 絶対」

「絶対嫌だ。嫌いな奴は俺の知らないところで勝手にどうにでもなって欲しい」

「あっは、宗派違いね!」

「倫理性の違いだな」

 

 解散。とは言えないのがこの状況。

 後ろをチラリと見やる。魔王をダシに引き摺り出されただろう聖女は、状況の推移を沈黙して見守っている。前門の宿敵、後門の元同僚。退路はない。

 

 顔を覆う。溜息を吐く。

 

 

「……わっかんねえよ、おまえらのこと。

 ──なんで異世界のことだけ(・・)滅べって思えるんだよ」

 

 

「えっ」

『うん?』

 

 

 あの世界が嫌いだ。あの世界の人類はクソだ。それは正しい。けれど間違っている。

 

「そもそも、人類はクソで世界はクソだ。そんなこと──ただの常識(・・・・・)だろうが。異世界だろうと、現世(・・)だろうと(・・・・)!!」

 

 今なら夢で、俺の言ったことがわかる。

 ああ確かに『この程度の過去』だ。勇者の造り方は最悪だが、人類にしては(・・・・・・)まだマシだ(・・・・・)

 あの世界は、あの時代は、最小限の犠牲を徹底していた。勇者を作るための犠牲と、魔女以外の犠牲は存在しない世界だ。文句は巻き込まれたのが俺たちだったということだけだ。

 人が、世界が、最悪なんてこと。俺は異世界なんかに行く前からずっと知っていたじゃないか。

 悪意は標準、因果は応報せず、ある日突然伏線もなく隕石は降ってくる。俺の両親も、祖母も、家も、そうして破壊されていった。

 陽南飛鳥の人生は初めからずっとそうだった。

 そんなことは悲劇ですらない。ただの『普通』だ。

 

 ──世界は押し並べてクソだ。例外は、ない。

 

 もしも、人類の愚かさを理由に世界の滅びを導くというのなら。人類すべて(・・・・・)に罪を弾劾しなければ道理に合わない。

 

 

「だから、中途半端なんだよテメエらは!! それでも魔王か、それでも魔女か!! 滅ぼすならキッチリ滅ぼせ、全宇宙をよ……!!!」

 

 

 世界を滅ぼす巨悪二人は、神妙に呟く。

 

 ──いや、別に、そこまでじゃない。

 ──うん、そこまでじゃないかな……。

 

『君は大魔王か??』

「わたしより闇堕ちしてる……」

 

 ……ふむ。

 

「今のは冗談だ」

「笑えない!!!」

 

 別におかしなことは言ってないと思うんだが。

 人生なんて二千年以上前からずっと一切皆苦だし。世界なんてどうせ五十億年後には滅んでるし。

 俺は来世があるならブラックホールになりたい。隕石より強いし、自我ないし。最高じゃん。何故わからない……?

 閑話休題(それはともかく)

 

「ああ、そうだ。確かに俺は『滅んじまえ』と呪った。それでも(・・・・)、だ」

 

 知っている。それでも世界が捨てたものじゃないということを。

 知っている。それでも人が捨てたものじゃないことを。

 

 

「俺は、世界を救うことの正しさを、疑った事は一度もない!!」

 

 

 それは感情ではない。安い絶望でも自分本位の恨みでもない。そんなものでは揺らがない、意志だ(・・・)

 すべてを思い出した今だからこそ断言できる(・・・・・)

 世界は押し並べてクソだ。だがそれは、けして滅ぼす理由に足りはしないのだと。

 

 

 彼女は、あきれたように笑みを溢した。

 

「まったくもってわからないわ。あなたって、人間に戻っても変なんだ」

「おまえにだけは変と言われたくない。俺が人類のスタンダードだ」

『いやそれはない』

 

 俺は、諦めたように笑い返す。

 

「分かり合えないわねわたしたち」

「相入れないな俺たちは」

 

「ええ」

「だが」

 

「それでもいいわ」

「それでいい」

 

 どちらが正しいかなんて無意味だ。善悪を論じることに果てなんてない。

 だから、勝ち負けで決めればいい。

 ずっとそうしてきたのだ。これからも、そうすればいいだけだ。

 足を止めるのは戦えなくなってからでいい。

 売られた喧嘩(・・・・・・)は全部買う(・・・・・)

 

「ならば。どうかわたしを屈服させて、叱って、完膚なきまでに負かして頂戴」

 

 夜天。赤い月を背負って、魔女は宣戦布告(となえる)

 

「今宵は旧暦文月の満月、わたしが一年で一番強い時。手は抜かない。全力で行くわ。……その上で、勝ってくれると信じてる(・・・・)

 

 世界で一番、悪い笑みで。

 

 

「──さぁ、始めましょうか。最終決戦を何度でも!!」

 

 

 

 ◇◇

 

 

 

 苦笑と共に彼は窓辺に立つ。

 

「ひどい茶番だな。今から痴話喧嘩で世界の存亡を決めようってんだから」

 

 纏うのは聖女の術によって再現された異世界時代の装備。右腕には聖剣が再び収まっている。紛れもない、あの頃の『勇者』の姿だ。

 聖女はそれを──無表情のまま──不納得の目で見ていた。

 ここまで状況を整えられては、聖剣を彼に渡さない理由はなかった。

 だが納得がいかない。わからなかった。魔女がどうしてこんなことをしているのか。これがどうして、彼を救うことになるのか。

 魔女は彼に『世界を救え』と強いている。それは自分たち人形の罪深い行いとどう違うのだろう。

 ──それこそが、彼を追い詰めたのではなかったか?

 

 聖女は俯く。聖剣の代わりに錫杖を握り締め、葛藤を口にする。

 

「これで、いいのですか……。本当に、これで貴方は(・・・)救われる(・・・・)のですか(・・・・)

 

 彼は、その問いには答えず。窓の向こうを、彼女を見上げて呟く。

 

「……あいつはどこまでわかっててやってるんだろうな」

 

 察するに足る事実がここにある。

 おそらく今、文月咲耶は(・・・・・)悪い魔女を(・・・・・)演じている(・・・・・)。それが何のためか──自分のためと気付けないほど、彼は愚鈍ではない。

 

 異世界で自我を取り戻──いや、再構成した時のことだ。魔女の正体が文月咲耶だと気付いた後、別に魔王を倒す必要は必ずしもなかった。最終決戦なぞ容赦無く無視して、とっとと現世に帰ればよかったのだ。

 だがそうしなかった。できなかった(・・・・・・)

 理由にあったのは「帰還の為の術式を手に入れるついで」などという建前ではない。

 

 ──寒々しい罪悪感と、灼けるような使命感。記憶を失くしても自我を上書きしても消えなかったそれ。

 自分が世界を救おうとしたのは、正義感からなどではない。それが(・・・)唯一の(・・・)贖罪だった(・・・・・)からだ(・・・)

 

 彼女は夢に入り込んでも、記憶や思考は読んでないと言った。けれどもう、浅い付き合いではない。弱さすらとっくに見透かされた関係だ。

 ──きっと彼女は、暗にすべてを理解している。

 世界を救って尚、彼が自分を許すことができなかったことも。

 

 だから彼女は『負ければ世界は滅ぶ』と脅しをかけたのだ。

 自身を絶対悪(ヒール)の側に置いて。──彼を、絶対のヒーローに仕立て上げるために。勝てば(・・・)世界を救える(・・・・・・)ように(・・・)

 それだけがきっと勇者(かれ)救う(ゆるす)のだと、理解して。

 

 まったくどうしようもない据え膳だ。こんなもの、食わずにいられるわけがない。

 滅茶苦茶にも程がある。見透かされているのが情け無くて死にそうだ。

 だが。

 ──笑わずにはいられなかった。

 

 

「聖女。ひとつ、聞いてくれ。──これが最後の恨み言だ」

 

 世界を滅ぼすに足る理由など、彼の哲学ではひとつも導き出せない。

 だが、どんなに理屈で飲み込んでも、それしか最善がなかったと理解しても、あの世界の所業が、陽南飛鳥の人生における最悪(・・)であることに変わりはない。

 

 ──よくも俺の人生滅茶苦茶にしてくれた。

 たとえ意志で捻じ伏せても、恨み言が消えることはない。

 

 ──よくも取り返しの付かない道に追い込んでくれた。

 この先何を許してもきっと、本当に自分を許せる時など来ない。

 

 

「おまえらのことが正直憎い。一生恨む。でも許す」

 

 

 だとしても人類の『滅びたくない』という祈りは正しかった。

 だとしても『明日が欲しい』という祈りは美しかった。

 ならばいい。

 もう、いい。

 

 ──そのために、俺の二年と少しくらいはくれてやる。

 

 

ネモフィリア(・・・・・・)

 

 

 生まれて初めて、人に名前を呼ばれた少女は。 顔を上げた。彼を、見た。

 

 

「俺たちはまだ、世界を救えるらしい」

 

 

 その笑みは。恨み憎しみ、卑屈と自己嫌悪が根付き。なのに清々しく、歓喜すら滲ませ。諦めにも似た穏やかさと誰もを裏切らない自信を浮かべた、人間(・・)の表情だった。

 喜怒哀楽のすべてがない混ぜになったその笑顔を、少女は両の目に焼き付ける。

 もしも自分に涙を流す機能が残っていたら、と詮無いことを願った。そうでさえあれば、きっと。

 

 ──自分には感情があるのだと、認めてしまえたのに。

 

「使命の、優先順位を変更。『聖女の権限において、聖剣の使用を全面的に再承認します』

 ──貴方が、『勇者』です……!」

 

 その手に握られた青い剣の輝きに、目を細めて。少女は、

 

「どうか」

 

 ──世界を。そして、貴方を含むすべての未来を。

 

「……お救いください」

 

 祈りを口にした。

 

 

「ああ、任された」

 

 

 そして彼は、背を向ける。

 

 

「後ろは、おまえに任せる」

「……はい」

 

 夜風に外套が棚引いた。

 靴を踏み鳴らす、力強い音を聞く。けして広くはない背が、窓から出て行く。

 聖女はその背から、けして目を離さない。

 

 ──聖女ネモフィリアは知っている。

 彼が世界を呪ったことも、死を願ったことも。けれども彼が、決して負けなかったことを。

 最後の最後まで、為すべきことを為そうとし続けたことを。それを二年、少女は後ろで見続けていて、だからこの人を救いたいと思った。

 

 救いたいと思うことは愛なのだと魔女は言う。ネモフィリアには魔女の破綻した論理を理解することはできず、彼女の強すぎる感情には共感できない。

 

(ああ、でも──、)

 

 使命を強いた自分たちに、こんなことを思う資格はないとしても。どうか想うことだけを、許されますよう。

 

(私は、貴方を。この背中を)

 

 

(──愛したのです)

 

 

 ◇◆

 

 

 彼と彼女の戦いのその過程、その結末は──、

 

「大体おまえサプライズ隕石理論ってなんだよ! 人の人生クソ映画扱いしやがって! よく考えたらメチャクチャ罵倒じゃねえか!!」

「はぁ〜? わたしたちの人生より映画の方が高尚じゃない! よく考えなくてもアレ祝福なんですけど! 愛なんですけど!!」

 

「わっかんねえよ、この物語脳がッ!!!」

「わかれッ、このっ隕石馬鹿!!!」

 

 

 ──最早、語るまでもないだろう。

 



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第十九話 おやすみなさい。

 

 決着が着いたのは夜明けだった。 

 異世界の風景と現世の建物が混在した、目の前に広がる光景は酷い有様である。概ね更地に還っていた。当然、俺たちの家も廃墟同然に破壊されている。

 魔女がバカスカ魔法を撃ったためだ。結界内の破壊は現世に影響しないとはいえ、やりすぎだ。全力でやるとは言ったが、本当に全力でやるかバカ。

 俺の目の前で家を破壊するな。ストレスで吐く。

 とはいえ、トラウマが刺激された精神ダメージ以外こちらに損害はなく。一方、眼前には魔力を使い果たして「きゅう」とへたり込んだ魔女と、両断された竜の死骸があった。

 これは、紛れもなく。

 

「──勝った!!!」

 

 夜明けの光の中、俺は勝鬨を上げた。

 魔女が敵に回っていたとはいえ、今回は聖剣があるし聖女もいる。回復役がいる今、ちょっと無茶な動きをしてどっかの筋が切れたとして問題はなく、負傷ごときで戦闘の中断を迫られることもない。当時の装備まで術で再現してくれたしな。

 となれば、異世界(むこう)でできた無茶も大抵は再現可能。万全の状態では負ける理由がない。俺が(・・)そう(・・)望まない(・・・・)限り(・・)

 

「いやあ、攻撃いくら食らってもいいって最高だな!」

「最高じゃないです……」

 

 上機嫌の俺に対し、聖女は抗議する。魔女たち同様、聖女の奇跡(まほう)も、神秘が薄い現世で行使するには燃費が悪い。聖女は一眼にも疲労困憊といったふうだった。

 

「貴方の戦い方、本当にきらいです……」

 

 ついギリギリを攻めてしまうんだよな。うっかり死ねたらいいな〜と考えてた時代の名残で。

 駄目人間すぎる。こんな駄目な俺が生き残れたのはひとえに聖女のおかげですね。

 聖女の頭に、ぽんと撫でるように軽く手を置く。

 

「助かった。ありがとう」

 

 ぱち、と瞬きをして目を逸らした。

 

「いえ」

 

 無表情に僅かに困惑が滲んでいるような気がする。頭は流石に気安かっただろうか?

 聖女は、透き通った青い瞳を揺らし、呟くように答える。

 

「お礼を言われるのは、初めてです……」

 

 ……そういやそうだったか。我ながらあの頃は腐りすぎだな。

 恨みも言い尽くしたことだ、ツケにしていた分の礼は後でまとめて伝えるとしよう。

 俺は屈んで、聖女に視線を合わせた。満面に笑みを作る。

 

 

「──というわけで、あと四セット続行だ。いけるな?」

 

 

 魔王の命は七つある。これまで俺が殺したのは三回だ。異世界で一回、六月の前回で一回、そして今。残り四回殺すまで魔王を倒したことにはならない。

 ──当然、最後まで徹底的にやるに決まってるよな?

 俺の戦闘続行残業宣言に、聖女はサッと青ざめ、ふるふると首を横に振った。

 

 

「ま、待って。わたしもう無理! 」

 

 へたり込む魔女が根を上げる。彼女も彼女で万全なのでいくら魔法を使っても正気のままのはずだが。

 

「流石に夜通し全力で魔法撃つのはキツかったっていうか、死に過ぎてもう、眠い……」

 

 

 ────は?

 

 

「何言ってんだおまえ」

 

 さっきまでノリノリで悪役ロールやってた女がこのざまかよ。おまえが俺を焚き付けたんじゃねえのかよ。

 

「喧嘩売っといて『疲れたからやめ』はないだろ! なあ! オラッ、立て。最後までちゃんとやれ。望み通り完膚なきまでに負かしてやる……」

 

 魔女は呻いた。

 

「わ、忘れてた……勇者(あんた)、厭戦気質のくせに一旦()ると止まらないんだった……! なんで呪ってもないのにバーサクしてるのよぉ……」

 

 今多分いい感じの脳内物質が出ている。アドレナリン酔いかもしれない。俺は酒などに酔いやすく、雰囲気にも酔いやすい。

 

 隣で死んでる最中(・・・・・・)の魔王が肩を竦める。

 

『やる気なのは結構だがね。戦闘続行は不可能というものだよ』

 

 竜の死体の上に霊体が浮き出ている状態だ。こいつなんで霊体でも芽々の顔なんだよ。肖像権で訴えられろ。

 

『ボクは魔女とは違って蘇生に時間がかかる。逆に蘇生中はどうやっても殺せない仕様でね。お互い手も足も出ないというわけさ』

「知らん。早く蘇生しろ。一切合切ここで片付けてやる」

 

 というか、だ。無敵状態だとしてもその浮き出てる霊体を斬れば死ぬのでは?

 

「確か『魔女』って本質的に悪霊みたいなものだろ。聖剣が『魔女殺し』なら、霊体も斬れるんじゃないのか? なあ聖剣! そうだよなあ! おまえは殺ればできるやつだ!」

 

 聖剣(うで)はミシミシと鳴った。

 

「いい返事だ! よし殺ろう!」

 

 魔王は『脳筋め……』と嘆いた。

 

「駄目です」

 

 背後から杖でボコられた。

 現世に固定化されたので斬れるタイプの幽霊少女(生きてる)はキレていた。こいつ、自分で回復できるから容赦なく暴力振るうんだよなぁ……。

 じっとりした目で恨みがましく俺を見上げる。

 

「聖剣の冷却期間なしの連続使用は推奨されません」

 

 ……? そういやミシミシ言ってるな。やたら熱を発してるし。

 

「壊れますよ。貴方が(・・・)

「俺が!?」

「現世で動かすのは相当無理をしているので。元々使用者に対して負担が重い武器ですが……」

「そういうことは、早く言え」

 

 呪いの武器め。いやうん、終わらせたらどうぞ持って帰ってくれ……。いらねえよマジで。

 

 

『というわけで、続きはお預けだ! 封印も解けたことだし、ボクは次回まで現世観光と洒落込もう。キミたちも精々青春(モラトリアム)を享受したまえ』

 

 魔王は目を逸らしたその一瞬の隙に。霊体を光に散らし転移──もとい、逃亡した。

 

『ついでに──最後に笑うのは(ボク)だということを、覚えておくといい』

 

 ……ご丁寧に捨て台詞を残して。

 

 なるほどな。最終決戦(五回分割払い)ということか。なるほどなるほど『最終決戦を何度でも』ってそういう意味だったわけね。あと四回あるのか、そっか〜。

 俺は足元の魔女を見やる。

 

 

「──全っ然最終決戦じゃねえじゃんコレ!!」

 

 

 魔女は地面に溶けたまま、人を煽る笑みを浮かべる。

 

「フフッ、言葉の綾よ」

 

 ロールプレイに全力なだけの魔女、曰く。

 

 

「──雰囲気出すためだけに言ったわ」

 

 

 このッ……ぬか喜びさせやがって……! 

 

 戦意が急速に萎えていく。脳味噌を弄るまでもなく冷静に返った。

 まあ、自滅のリスクを背負ってまで今すぐ取り立てることもない。分割払いだろうと魔法使いにとって契約は『絶対』だ。魔王が破ることはないだろう。

 

「つかアイツ逃げたよ。どうするんだよ」

「私が監視しておきます。どうせこの町からは出られません。封印はなくとも問題ないでしょう」

 

 魔王の後を追って転移しようとする聖女を引き止める。

 

「悪いな。アイツ倒して魔女解呪したら、聖剣(コレ)もすぐに返せると思ったんだが……」

 

 聖女には俺たちの関係も目的も伝えてある。戦闘中にアレコレとお互いの認識とか考えとか全部すり合わせておいた。もう味方だ。

 聖女は感情の機微には疎く、自ら何かを考えることはないに等しかったが、知識はそれなりに豊富だ。諸事情を知り『そういうことだったのですね』と聖女は合点がいったように頷いたあと、元々白い顔を更に顔面蒼白にしていた。

 そうだよ、おまえら俺に好きな女殺させようとしたんだよ。無いわ本当。世界がどれほどクソでも救うと決めてはいたが、それは流石に裏切って当然だよなあ!

 とはいえ、咲耶を召喚したのは聖女ではないので。そこは魔王に責任を取らせるとして、話を戻そう。

 

「おまえの使命が果たせるのは、大分先になりそうだ」

「構いません。聖剣の回収は確かに最優先事項ですが……半年は白都(うえ)をごまかしてみせます」

 

 その答えに驚いて、彼女を見る。細めた目を、見る。

 

 

「──それが、私の『やりたいこと』ですから」

 

 

 その口端にほんのわずかに微笑みを宿す、聖女はもう人形には見えなかった。

 

 ……ああ、俺はこいつをみくびっていたんだな。

 もしも異世界にいたあの頃、この同僚と分かり合うことを放り投げてなかったら。初めから手を組んで、もっといい現在(いま)を手に入れられたのかもしれない。

 だが、過ぎたことを言っても仕方ない話だ。

 ──だから今は、未来の話をしよう。

 

「なあネモフィリア」

「はい」

「おまえ、名前長いな」

「……」

「フィーでいい?」

「略しすぎでは?」

 

 呼べるのは四音が限度だ。それ以上は舌噛む。

 

 さて、ここにいる彼女は人間だ。つまるところ、あの世界の人類の代表(・・・・・)だ。

 だから話をしよう。

 

「なあフィー。滅べとか言ったけどさ、言うほど人類はクソじゃなかったと思うんだよ、俺は」

 

 知っているのだ。あの世界に、何かを守るために死ねる『正しい人たち』がいたことを。

 彼らは、自分が死にたくないだけで生き残って、挙げ句の果てに身勝手に死にたがるような俺よりもずっと、正しかった(・・・・・)

 

 考えていたんだ。もしも勇者候補だった彼らが全員生きていれば、人類も世界もマシだったんじゃないかって。ただ、それが叶わないほどにあの異世界は詰んでいた。それだけの話にしか、俺には思えないのだ。

 

「俺は魔王が世界を滅ぼす理由とか、おまえらの戦いの始まりとか、知ったことじゃない」

 

 所詮は異世界に召喚された部外者だ。俺たちの基準じゃ別世界の善悪なんて判別はできないし、その裁定を下せるほど傲慢じゃない。ただ、終末世界では勝ち負けだけが正しさを決めるのだ。

 だから。俺は望まれた役割を果たすことだけ考える義務感でも使命感でも罪悪感でもなく、役割を託して死んでいった奴らの遺志を尊ぶからだ。

 ──欺瞞だ。建前だ。だが綺麗事くらい支えにさせてくれ。

 

「俺は勇者だから、どうあがいても人類の肩を持ってやる。おまえらがクソだったのは世界が滅びかけていたからだろ? 全部終わった後なら、少しは上手く、やれるだろ」

 

 そんな綺麗事信じられるか、と性根が捻くれている俺は心の底では言ってるけど。それくらいは信じたいんだよ。

 ──それを信じるに足る根拠は、もう、思い出した。

 

 

「だからそこまでは、俺がやる。あとの世界のことは、おまえらが勝手にやれ」

 

「──はい」

 

 聖女は真っ直ぐに一礼をし、顔を上げた。

 

「それでは追います。ご用とあらば聖剣を通じていつでもお呼びください、勇者。……いえ、アスカ」

 

 

 ◇

 

 

 魔王も聖女も去り、結界は崩壊を始めた。

 竜の死骸も灰になって崩れ落ちる。現世では死体も維持できず、かつてのように爆散させる必要もないらしい。あの汚い花火、一周回って好きだったんだが。まあ花火撃てる魔女がもうへばってるからな。

 

 気付いた時には部屋の中(・・・・)に戻っていた。

 こちらの服装も現代のものに戻る。血や泥の跡もない。違いは右腕があることと、あとは──破壊はないにも関わらず、部屋の中が荒廃していることか。

 シンプルに、部屋が散らかってて汚い。

 しばらくの非常事態で生活が完全に破綻していた。

 異世界だのなんだのがなくても、普通に生きるだけで人生は割と大変だ。だがこの先の、楽じゃない日常回帰に思いを馳せるのは後でいいだろう。

 今は──目の前でスライムのようにぐにゃんぐにゃんに溶けてる咲耶のことだ。

 

「立てるか?」

「むり……」

 

 ……まあ、ちょっとやり過ぎたな俺も。右腕で触れないように、精神力の尽きた咲耶を米俵のように抱えた。

 

「これはこれでアリかも……!」

 

 肩の上で何やら嬉しげな声を上げているが、無視してそのまま咲耶の部屋に直行する。

 整理整頓されていると評するには、少々殺風景な部屋だ。だが棚には可愛らしいぬいぐるみが並んでいる。いつかゲームセンターで張り合って取ったそれを一瞥し、俺は咲耶を一人用にしては大きすぎるベッドに放り投げた。

 いい加減咲耶がソファで寝落ちするのは看過できない。クソ重かったけど。

 

「じゃあな。おやすみ」

 

 俺も自室に戻ろうと背を向けた、その時。くい、と裾を引っ張られた。

 ベッドに倒れ込んだまま、ぼんやりとした声で咲耶は言う。

 

「飛鳥も、ね?」

 

 何が…………?

 遅れて、咲耶が俺をベッドに引き摺り込もうとしているのだと気付く。

 

「隣で寝ればいいじゃない」

「!? いやっ、俺は聖剣あるから」

 

 蚊取り線香の隣で蚊が寝るようなものだぞおまえにとっては! うっかり死ぬぞ!?

 

「包帯巻いたら……我慢できるし」

 

 そんなもん巻いたところで触わると痛いことに変わりはないだろ──じゃない! 

 論点をミスった。そもそもなんで俺と寝ようとしてるんだ……!

 逃げの一手を打とうと、服の裾を掴む咲耶の手を解こうとして。

 じ、と不揃いの瞳が俺を見つめるのを、直視する。

 

「それでも。……一緒に寝よ?」

 

 傾げた小首。とろんと溶けた瞳。微笑む唇。甘い声。そのすべてが、引き留めにかかっていた。

 

「それは……」

 

 ずるだろ。

 

「大丈夫。襲ったりしないから」

「……台詞が逆なんだよアホ」

 

 咲耶は目尻を下げて囁いた。

 

「んー、ふふ。待ってる」

 

 そのまま二、三度瞬きをして、結局裾から手を離さないまま、咲耶はうとうととし始めた。

 

 

 しばし、突っ立って。

 寝顔を眺めて。

 大きく溜息を吐く。

 

「フィー」

「なんですか」

 

 青い粒子と共に現れる聖女。

 

「聖剣、いつでも外せるようにしてくれない?」

 

 ごめんな、くだらないことですぐ呼び出して。

 聖女は少し躊躇うように間を置いて、答えた。

 

「……いいのですか? 常時繋いでいないと精神制御は機能しませんが」

 

 それはつまり、都合の悪い記憶を忘れられなくなるということで。それなしで眠れば悪夢を見る、ということだろう。

 答える。

 

「いいんだ。もう忘れない」

 

 咲耶に掴まれたままの裾を見る。

 

「それに、このままじゃ一緒に寝れないしな」

 

 フィーの視線が、ゆっくりと寝台に向かい、吟味するような沈黙があった後。

 ぼっ、と生身の肌を真っ赤に染めた。

 

 

「………………はれんち、です」

 

 

 じっとりとした非難の目を向けながら、後ずさるフィー。

 

「違う!! そういうことじゃない!!」

 

 いや、何も違わないか!? あれ!!? 

 弁明の目処が立つ前に、彼女は姿を消す。部屋に声だけを残して。

 

「『権限の譲渡、完了しました』。……良き夢を祈ります」

 

 

 途端、ごくあっさりと腕は外れて、鞘に収まったただの剣に戻ったのだが。俺もさっきので我に返ってしまった。

 ……やっぱ自分の部屋で寝るか。

 誘惑に負けるのはよくないな、うん。堕落はよくない。

 鋼鉄の意思で掴まれたままの裾を振り払おうとした、その時。

 咲耶がぱちりと目を開ける。そのまま腕を強く引かれる。

 

「う、わ」

 

 抵抗する間もなく。ベッドの上に引きずり込まれて、抱きしめられる。

 鋼鉄はプラスチックになった。

 

 ……いいか、もう。そういうこと(・・・・・・)で。

 

 

 

 力を抜いた。

 

「おやすみなさい、飛鳥」

 

 ベッドに沈んで、浅い眠りに落ちていく。

 

「……ありがと。わたしに勝ってくれて」

 

 薄れていく意識の奥で、彼女の柔らかな感触と熱だけはずっと伝わっていた。

 



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第二十話 夏はまだ終わらない。

 

 ──夢を見ている。

 

 気付けば白い祭壇の前に立っていた。磨かれた石に反射する自分は十六の姿だ。

 振り向けば、地には黒々とした死者の亡霊たちが泥のように吹き溜り、嘆きを口にしている。

 

『何故おまえだけが生き残った』

『何故おまえが死ななかった』

 

 泥の中から伸ばされた黒い腕が、こちらを引く。自分は縋り付く亡霊を振り払うことも逃げることもせず。目を閉じ、しばらく黙ってその怨嗟を聞いていた。

 

「……ああ、わかってるよ」

 

 ──『陽南飛鳥』はあの日あの場所で、彼らと共に死んだはずだった。人間としての自分を土に埋めて、『勇者』になったはずだった。

 目を開ける。

 いつのまにか自分の姿は『今』に変わっていた。

 正面、闇に覆われ見えない亡霊の目を見据える。喉の奥につかえた石を吐き出すように、口を開く。

 

 ──わかっている。死者は、何も言わないと。

 

 だからこれは懺悔ではなく懇願でもなく。どこまでも一方的で身勝手な、独白だ。

 

「償うなんて言わない。許してくれなんて言わない。俺のことを呪ってくれていい。何をのうのうと生きてやがるって、何度夢に出てきてもいい」

 

「ちゃんと果たす。俺が終わらせる。最期は、地獄に堕ちるから。

 おまえらと一緒に死んだ俺を生き返らせることを、見逃してくれ」

 

 

 

「俺に『人間』を、やらせてくれ」

 

 

 たとえ何を言ったとして、亡霊がその手を離すことは決してなく。

 けれど目の前の亡霊を置き去りにした、遠い向こうで。

 死んだ少女が『いいよ』と笑って、殺した少年は『駄目だ』と言った。

 不意に現れたその姿に驚いて、彼らが夢から消え去るのを見送って。延々と未だに耳元で怨嗟を吐く、黒く蠢く何かをもう一度見る。

 亡霊だと思っていたこの泥の中に、どうやら死んだ彼ら(・・・・・)はいない(・・・・)らしい。

 

 

「──は? じゃあ……これ、何?」

 

 

 亡霊のような形をした泥は特に何も答えず、朽ちていく。乾いてボロボロと崩れ落ちていった呪い(それ)を、唖然と眺めて。

 理解した(・・・・)

 

「……そんなことあるかよ、ははっ……!」

 

 笑う。きっと、苦笑を通り過ぎて露悪的な笑みになっただろう。ひとしきり笑って、顔を覆って、悪態を吐いた。 

 

 

「都合の良い夢だ」

 

 

 こんな夢を見るくらいなら。いっそ悪夢の方がましだと思った。

 

 ──呪いは解けきらず、泥は未だに足を掴んでいる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 明るい部屋で目を覚ます。

 上はいつもと違う天井、下は慣れないベッドの感触。横には動けば触れそうなほどに近く、彼女が穏やかに微笑んでいた。

 

「おはよう。遅かったわね」

「……らしいな」

 

 寝起きの悪い咲耶が先に起きているなど初めてだ。

 どうにも現実味がない現実だな、と昨夜のことを思い出して思う。冷静に考えて、なんで一緒に寝てるんだ? わからない。何も。宇宙の真理くらいに深遠だ……。

 横目に彼女の様子を見る。寝転がっているにも関わらず髪は整えられており、服も休日のラフな格好だが着替えてある。随分と前に起きていたのだろう。

 

「……おまえ、どのくらいこうしていた?」

「一時間くらい?」

 

 まあ、一時間だけならまだまともか。まと……も……? 一時間も俺の顔面眺めて何が楽しいんですか? わからない……深淵な謎だ……。

 

 起き上がる。意識の覚醒と共に見ていた夢の内容が雲を掴むように消えていく。

 咲耶もまたベッドの端から足を下ろした。

 

「なんか、変な夢見た気がするな」

「悪い夢?」

「いや。都合良すぎて腹を切りたくなる夢」

「それは悪夢よね??」

 

 切腹したくなるのはいつものことなので問題ない。

 夢の詳細を思い出せず、眉間にしわを寄せていると。咲耶は立ち上がり、目の前で両手を広げた。

 

「どうぞ」

「?」

 

 意図はわかるが理由がわからない。訝しげに見上げると、そのままふわりと抱きしめられる。

 細腕に引き寄せられた頭は、彼女の胸元に押し付けられ、驚きで息を止めた。

 ──急に、何を!?

 

「そろそろ泣けるんじゃないかと思って。貸したげる」

 

 ……ああ、なるほど。ずっと冗談だと思っていた例の話は本気だったらしい。

 納得と共に驚きは消え去る。息を吸うのも憚られるほのかに甘い芳香と、薄手の布地の向こうに生身に紛うほどの肌の感触、名状し難い柔らかさに押し潰されているというのに、不思議と冷静だった。

 別に脳味噌弄ってないんだけどな。この状況で劣情が湧かないあたり、まだ本調子じゃないのだろう。

 

 ……いや待て、本当に、微塵も湧かない。

 なんだこの、凪。絶望的なまでの、無風。

 

 異様だった。まさか彼女に触れて心臓が軋むことも頭に血が上ることもなく、酩酊の様な熱もないなど──この半年の自分を鑑みるとあり得ない事態だ。

 にわかに慌てる。あえてなすがままにされて、いつもの熱が戻るのを待った。

 だが特に、甲斐はなく。近すぎる距離に彼女の胸の鼓動を感じるだけだった。

 少し速い、音を聴く。

 ……ああなんだ、ちゃんと彼女も生きてるんだな。そう思い知って、少し目頭が熱くなったような気がした。

 気のせいだった。別に何も出ない。

 諦めて肩を離すと、咲耶は心配そうな顔をしていた。

 

「まだ、無理そう?」

「いいんだ。泣くのは全部終わってからでいい」

「そっか」

 

 ……というか、泣けないより厄介な事態になってる気がするんだよなあコレ。

 

 咲耶はそのまま、部屋の扉に向かう。

 

「コーヒー淹れてくる。いる?」

「貰うよ」

「お砂糖は?」

「四つ……いや、無しでいいや」

 

 どうせ味などわからないし。

 

 

 

 さて、こちらもいつまでも寝ぼけているわけにはいかない。

 右腕を繋げる。

 元の腕が治らなかった理由はもう聞いた。まったく馬鹿げた話だ。治そうと思えば治せたのに、深層意識が望まなかったせい、なんて真相は。

 

 ──きっとあの時の俺は、分かりやすい罰でも欲しかったんだろう。

 ならねえよ別に罰には。クソ不便なだけだよ。勿体ねえ。ついでに三本くらい生やしとけばよかった。腕が増えると多分強い。

 真面目な話、これで一番割を食ったのは俺じゃなくて咲耶だ。自分のせいだと誤解させたし。アホか本当。あとで土下座だ。

 ……などと、思えるのも今になったからだろう。今度聖女に生やす方法無いか聞いておくか……。

 ともあれ、この件については自業自得だ。これ以上文句は言うまい。

 

 繋げた右腕は相変わらず重く、その鈍色を目にすれば夢に見た彼らの顔がちらついた。

 別に呪いの剣でいい。呪いであった方が、いい。そう考えてしまうあたり、自分を救えない奴だと思う。

 肩にのしかかる重みを確かめ、拳を握り締めては開く。

 

「もうしばらくの付き合いだな、おまえとも」

 

 

 身支度を終えて居間に出ると、いつものソファで咲耶が待っていた。

 少し離れて座り、コーヒーを受け取る。マグカップにはひび割れた跡が残っていた。

 

「これ、俺が割ったやつじゃ?」

「直した。魔法で」

「……」

「安心して。呪いじゃないの使ったから」

「疑って悪かった。ありがとう」

 

 お互い、言葉もなくコーヒーを啜り──

 

 

 ──死ぬほど咽せた。

 

「苦ッッッ!? なんだこれ……!!」

 

 咲耶は目を丸くして、吹き出した。

 

「ふ、あははっ、砂糖要らないって言ったのあんたじゃん!」

「だからってこんな苦いことあるかよ!」

「仕様よ。由緒正しくコーヒーは五百年前からずっとこう」

「……なんか変なの入れた?」

「何も入れてないからだってば!」

 

 黒い液体を凝視する。

 砂糖を足しに行くのは何か負けたような気がした。

 腹を括って全部飲もうとして。 途端、咲耶にマグカップを奪われる。

 

「意地っ張り」

 

 そして渡されたのはひび割れのない、咲耶のマグカップだった。

 恐る恐ると啜る。ブラック派のはずの彼女のコーヒーは、甘いような苦いような、砂糖二つ分の味がちゃんとした。

 彼女は悪戯っぽく微笑んで、言う。

 

「こうなるかなって、思ってたの」

 

 ……俺が彼女に勝てるのはもしかして、もう異世界事だけなのかもしれない。

 

 

 

 

 ソファの端と端で、言葉少なに今日の予定を確かめ合う。

 ここ数日、生活が崩壊していた。それを再建しなければならない。

 ごくごく当たり前の日常を建設する会話をコーヒーの一杯文、交わす。

 ひと段落して、咲耶が聞いた。

 

「話しておくべきことは、もうない?」

 

「ない」と答えようとして、真っ黒なコーヒーの泥のような水面に映る、自分の目を見る。相変わらず酷い顔だなと思った。

 

「……いや、ひとつだけ」

 

 彼女に打ち明けることがあった。

 喉につかえる石のような何かは、もうなかった。

 ゆっくりと、息を吐く。

 

「咲耶。俺さ」

 

 

「人を、殺したんだ」

 

 

 彼女は静かに瞬きをして、ただ、頷いた。

 

「うん」

 

 

「知ってる」

 

 

 無言で啜ったコーヒーは、苦いままだった。

 

 

 ◇

 

 

 話は終わりだ。それ以上はお互い何も言わなかった。

 沈黙は穏やかに横たわり、窓からは明る過ぎる真昼日が差し込む。

 しばらくして話はまた再開された。家に残っていたなけなしの食糧を腹に詰めながら、ああでもないこうでもないと戦闘の振り返りや今後のことを議論する。恒例だ。

 それもひと段落し、二杯目のコーヒーが空になった後。

 スマホを手にして、咲耶は言った。

 

「それじゃあ、残りの夏休みの話をしましょうか」

「残り?」

 

 とは言っても休暇は残り少なく、予定は全部潰れた後だ。今更『普通の夏』をやり直す余裕など……。

 と、後ろ向きな考えが頭を過ぎったその時、手元の端末の割れた画面に、メッセージ通知が連続で鳴る。

 笹木たちからだ。

 

『来週開けてろって言ったのに音沙汰ないのはどういうことだよ』

『とっくに帰国してるんでいつでも遊びに行けますよ!』

 

「まじで……?」

 

 今からでも取り返せる夏休みが? あるんですか?

 

 咲耶は、端末を片手に得意げに笑う。

 

「あら。わたしたち(・・・・・)、実は何も諦めてなかったのよ?」

 

 

 ……俺の友達、全員最高かもしれない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 約束の日の早朝。

 待ち合わせ場所の駅前には、仁王立ちする寧々坂芽々がいた。麦わら帽子に花柄のアロハシャツ。隣には笹木が幼馴染の分の荷物も持って待っている。  

 

 

「──っそい!!!!」

 

 

 開口一番、元気の良すぎる芽々の声に鳩の群れがバサバサと飛び立った。

 

「なんだ今の掛け声」

「『遅い!』と『今から海行くぞ!』の叫びです。というわけで、お久しぶりですね先輩(・・)。ご壮健で何よりです」

 

 ペコリと頭を下げる芽々。この支離滅裂な無礼&慇懃、懐かしい。

 なお、待ち合わせは時間通りだ。『遅い』は今日のことではなく、予定の延期を指しているのだろう。返す言葉もない。

 

 ハワイ帰りでこんがりと小麦色に日焼けした芽々は、咲耶を見て「か、髪……もう編めないんですか……」とよろめいた後、「あ、ひーくん」とこちらを振り返る。

 

「芽々とお揃いのアロハ着よ」

「いいぞ」

 

 土産のシャツを渡された。寿司柄だった。その場で着た。

 

「なんでよ」

「なんでだよ」

 

 咲耶と笹木がしらけた目をした。

 

「さっすがひーくんです。変な服着せたら天下一ですね!」

「それほどでもない。咲耶の方が似合うぞ」

「着ないわよ!」

 

「はいはい。電車そろそろ来るから行くよー」

 

 引率の笹木に引き摺られ、俺たちは改札に向かった。

 

 

 

 さて、笹木たちは『いつでも暇してる』と言ってくれたものの。十日程も現世を放ったらかしにした負債が溜まりに溜まっていて、結局俺たちが都合をつけられたのは一日だけだった。

 

「なので今日一日、朝から晩まで遊び尽くしますよ!!」

 

 芽々は我先にと改札の向こうへ消えていく。咲耶はカラコロとスーツケースを引いてその後を追った。大荷物の理由は、今日は海だけではないからだ。

 芽々たちが先に行った後、笹木が言う。

 

「初めてだ。芽々と海なんて行くの」

「意外だな」

 

 親戚で幼馴染だ。家族ぐるみの付き合いは当たり前かと思っていたのだが。

 

「……ま、ね。あいつ、外国にいた時期あるし。結構離れてたんだよ、おれたち実は」

 

「物理的な距離と心理的な距離は別ってことか」

「そうだね。もしかしたら飛鳥の方が芽々とは仲良いよ」

 

 微妙に申し訳ない気持ちになるな、それ。

 Tシャツの上に羽織った芽々と揃いのシャツを見る。

 

「……アロハ、おまえが着る?」

「それは嫌」

 

 ばっさり言った。何故だ。笹木だってペンキみたいな蛍光色とか平気で着てる癖に。アロハの何がいけないんだ、なぁ芽々!

 

「芽々は顔が天才だから何着ても似合うだけだよ。飛鳥は何着ても、変」

「そこまでは言ってねぇだろ芽々も……!!」

 

 笹木はゆるく笑う。

 

「ま、要は。誘ってくれて感謝してるってこと」

「いや、礼を言うのはこっちだ」

 

 誘い直してくれたことには感謝が尽きない。

 

「そこは素直に受け取れよ。木刀も新品にしてくれたしね」

 

 笹木はそう言って、リュックに刺さっている返した(弁償)ばかりの木刀を指差した。

 ……本当、頭上がらなくなってきたな。こいつらに。

 

 

 この駅は終点で、電車は既に止まっている。話しながらホームを歩いていると、先に電車に乗り込んでいた芽々がドアから首を出して「はーやーくー」とこちらを呼ぶ。

 その様子に、笹木は目を細める。

 

「おれも今日は頑張りますか」

 

 その横顔には決意めいたものがあった。

 ああ、そうだな。

 笹木を誘った理由はこれ(・・)だった。

 肩を叩く。

 

「草葉の陰から応援してるからな」

「死んでんじゃんおまえ」

 

 涼しそうでいいよな、草葉の陰(はかのした)

 

 

 ◇

 

 

 空は雲混じりの晴天。今年の暑さはなりを潜めるのが早く、晩夏の海は心地よい日差しに輝いている。

 アロハシャツを脱ぎ捨て、日焼けした肌を惜しげもなく晒した水着姿の芽々はご機嫌に波打ち際へと飛び出した。

 

「青い空! 白い雲! ビーチ、です! そしてクラゲの死骸……」

 

 浜辺にぼとぼと落ちている透明な物体を前に、芽々はスンッと真顔になる。

 

「盆過ぎたからな」

「芽々はハワイに帰ります」

 

 海水浴場はかろうじて空いていたものの閑散としている。波も高く、泳ぐには向かない。俺はどうせ泳がないのだが。

 

「クラゲは毒あるので怖いです……」

「大丈夫よ、芽々。わたしが守ってみせるわ」

 

 怯える芽々に、颯爽と咲耶が微笑みかける。

 髪が短くなった彼女はすらりと高い背丈も相まって、格好良く見えた。妙に輝いて見えるというか、なんというか。俗にいうとイケメンだった。

 

「サァヤ……きゅん!」

 

 きゅんって棒読みで口に出すやつ初めて見た。

 

「なんか、変な仲良くなり方してるなあいつら……」

 

 最近の女子高生は虫取りで友情を育むのか??

 ふと思い出す。

 

 ──そういや文月って、猫被っていた昔は女にも人気がなかったか?

 

 笹木が引きつった顔でこちらを見る。

 

「もしかして、おれのライバルって文さんだったりする?」

「そんなわけないだろ」

 

 ……ないよな?

 

 

 ぱっと咲耶がこちらを向く。俺を見た途端、一瞬にしてさっきまでの輝きが霧散した。

 イケメンの咲耶は目の錯覚だ。よかった。

 

「ねえ飛鳥、どう? わたしの水着!」

 

 散々「楽しみにしてなさい」だのなんだのと言っていた水着は、清楚な白のワンピースのようなものだった。思っていたよりも露出が低い。

 

「褒めてくれてもいいのよ?」

 

 こちらに来て、ふふんと得意げに見せつける残念美人の様相に安心する。これだよこれ。

 

「よく似合っているよ」

「むっ、なんか淡白だわ。ちゃんと見てる?」

 

 ばっちりと見ている。水着とはいえ、胸もへそも隠れている。いつもの魔女服よりよっぽど目に優しい。

 よく似合っている、のだが……少々違和感を持つ。

 

「咲耶、ちょっと一周してみろ」

「?」

 

 咲耶はその場でくるりと回った。ふわりとスカートの裾が広がってかわいい、それはいいとして。

 問題は後ろ。背中が(・・・)がらあき(・・・・)だった。

 白い布地に覆われていない、真っ白な肌。短い髪の下、うなじから背骨のラインが無防備に晒されている。布地と布地を繋ぐ紐が肌に食い込んで、薄い背中の肉感を否応なく強調させていた。

 …………まあ、そんなことだろうと思ったよ。

 

 俺はアロハを脱ぎ、咲耶の肩にふぁさりとかける。

 

「よし、これで完璧だ」

「………ッ」

 

 咲耶は無言で綺麗な足払いを俺にしかけた。

 水面に転かされた俺を、ナマコでも見るように蔑む咲耶。

 

「クソ野郎だわ、あんたやっぱり」

 

 つんっ、と顔を背ける。

 

「文さん……」

「笹木くん、あっちでかき氷食べましょうか」

 

 行ってしまった。上着は(・・・)しっかりと(・・・・・)羽織った(・・・・)まま(・・)

 

 

 高波に打ち付けられずぶ濡れになった俺を前に、咲耶たちを追わず残った芽々は泥団子を捏ねながら聞く。

 

「ひーくん今、わざと(・・・)攻撃くらいましたよね?」

「まあ、今のは俺が悪いからな」

 

 政治的判断で食らっておいた方がいい攻撃は食らうようにしているのだ。

 泳ぐつもりはないが濡れる覚悟はしていたし。魔法に比べれば足払いなどかわいいものだ。

 

「にしても、おかしいですね。ひーくんなら絶対うろたえると思ってあの水着選んだのに……」

 

 戦犯おまえかやっぱり。

 

 芽々のチェック柄の水着をちらりと見やる。単純な露出度なら芽々の方が高い。なにせビキニだ。

 芽々は童顔だが幼児体型ではない。流石に水着姿にまでなると女の子らしさが際立つのだが。特に『健康的だな』意外には何も思わない。

 では咲耶はどうか。

 正直に言おう。あいつは露出が低かろうが清楚な装いをしようが色気は消えない。凶器的な美人だ。

 咲耶の魅力に勝てるのはダサい服だけだ。嘘。変な服着ても咲耶はかわいい。最強。

 そのはずなのだが。

 

「なんか、平気なんだよな。ぐっとこない」

 

 ──水着姿を見ても、平常心だった。

 

 この前同衾した際の凪が今もずっと継続している。

 芽々は泥団子に砂をまぶしながら、愕然とこちらを見た。

 

「……え、なんですか。腕取り戻す時に恋心でも対価に支払ったんですか?」

 

 こいつ大概勘がいいよな。

 

「まあ記憶とか、色々。取り戻したんだけど」

 

 芽々はすっと目を細めた。

 

 

「ああ、どうりで──今の先輩、なぁんか違って見えると思ったんです」

 

 

 海に入るため、今は伊達眼鏡をしていない。その目には星こそないが、透き通る緑は妖しい光を讃えていた。

 元々目の作りが少し人と違う芽々に、どう見えているのかはわからないが。今朝、芽々が二年振りに俺を『先輩』と呼んだことが、何よりの証拠に思えた。

 

「別に咲耶を好きじゃなくなったわけじゃないんだが」

 

 ただ、以前ほどの熱はないのは確かだ。記憶をすべて取り戻した影響がまさかこう出てくるとは。

 文月咲耶に関する記憶を核にする、この半年の俺はいなくなった。原液の感情は水で薄まり、落ち着きを得てしまった。

 

「今の俺は咲耶を見ても『めちゃくちゃ綺麗だな』としか思わないんだ。困った……」

 

 泥団子を山積みにしながら芽々が眉を潜める。

 

 

「あの、恋愛素人質問で恐縮なのですが──何が問題なんですか?」

「大問題だろ?」

「はたから聞いたらバカップルですけど?」

 

 バカは認めるけど後半はまだ違う。

 

 

 ──単純に「感情が薄まった」というだけの話ではないのだ。

 記憶を取り戻して、我を取り戻してしまったからわかることがある。文月咲耶に対する感情の正体を、正しく理解してしまった。

 現世において、陽南(オレ)は文月を好きになった。

 文化祭の日の教室で惚れた。確かにそうだ。だがあの時点では至極淡いものだったのだ。所詮(・・)諦められる(・・・・・)ほどの(・・・)

 異世界において、勇者(オレ)は魔女に惹かれた。彼女が隕石(ほし)に見えた。間違いない。

 だが焦がれた理由は決して褒められたものではない。焦がれたのは、彼女ならばすべてを終わらせてくれるという希望故だ。

  結局のところ俺が再会の際、欠片でも自我を取り戻したのは「文月咲耶=魔女」という真相に対する怒りによるものだ。「そんなことがまかり通っていいのか」という世界の理不尽に対する激情が引き金に過ぎず、それはきっと、愛が引き起こす奇跡などではなかった。

 そして、現世に帰ってからの半年も……。冷静に考えると、あまりに歪な関係だったろう。

 

 ──果たして俺たちの関係は、「恋愛」と呼ぶに相応しいものだったのだろうか。

 

「うーん? 先輩が今更なところで躓いてる予感はしますが」

 

 芽々は悩ましげに泥団子を積み上げつつ、

 

「まあ、先輩の性癖。年下黒髪スレンダー低身長でしたもんねえ」

 

 俺は頷こうとして。

 

 

「──待て、なんで知ってる」

 

 

 にちゃあと悪い笑みを芽々は浮かべた。

 

 ──この女ッ!! どこで知った!!?

 

「……寧々坂。吐け」

「やーだ」

 

 腹立った。クラゲ投げた。

 

「ハ!? クラゲはいかんでしょ!! 毒ムリってゆったじゃん!」

「知ってるか。セクハラされたらクラゲ投げていいんだぞ」

「どこの法律!?」

「異世界」

「絶対嘘じゃん! ひーくん先輩のカス!! 末法!!!」

「ウワッッ泥団子投げんな!!」

 

 

 

 向こうでは笹木と咲耶がかき氷も食い終わって、暇を持てあましていた。 

 竹刀とスイカ柄のビーチボールを取り出しスイカ割りをし始める。目を瞑った咲耶が竹刀を構えてふらふらと歩き、笹木が誘導するが、如何せん二人だけなので的確に指示が通ってしまう。

 スイカ割り、本来は大人数でめちゃくちゃな指示を出して惨事を起こす遊びだからな。

 

「えい!」

 

 ぱこん、と安っぽい音を立ててビニールのスイカに竹刀が当たり、その瞬間。

 ブシャーーッッ!!! と赤い汁が飛び散る幻覚が見えた。

 

「うっっわ!?」

 

 ドン引きする笹木に、ドヤ顔の咲耶。

 

「血糊魔法よ。偽スイカでも映えるようにエフェクト仕込んでみたわ」

 

 市外なので大した魔法は使えないはずなのだが……そういうくだらない魔法は使えるのか。海水浴場に人がいないからって、好き勝手やりやがる。

 

「うーん……」

 

 言ってやれ笹木。

 

 

「色、もうちょっと果汁に寄せた方がいいんじゃない?」

 

 

 そこじゃないだろ笹木。

 

 

 一部始終を目撃し、芽々と顔を見合わせる。丁度転がってきたスイカ(ビーチボール)を芽々が拾う。

 

「ま、悩み事なら後でいくらでも聞いてあげますから。今を楽しまないと損ですよ?」

 

 ボールを手渡してくる。

 

「ああ、そうだな」

 

 懸念は尽きないが遊ぶ以上に大事なことなんて存在しないし、投げるのはクラゲでも泥団子でもないよな。

 

「咲耶!」

 

 俺はボールを投げ返す。それなりに勢いをつけ、とはいえ加減はして。

 

「なぁに、ビーチバレーでもする?」

 

 木刀を笹木に返した咲耶が受け取ったのを見て。言った。

 

「ああ。勝負しようぜ。なんでもアリ(・・・・・・)一対三で(・・・・)

 

 咲耶は、いや──三人は目の色を変えた。

 

「魔法は?」

「アリだ」

「木刀は?」

「アリだ」

「泥団子は?」

「アリだ!」

 

「聖剣は?」

「ナシだ!!!!」

 

 ボールを両手に持った咲耶が、ぴきっと青筋の立った笑顔を見せる。

 

「へえ〜。それで勝つ気でいるんだぁ……」

「やっと来たじゃん、異世界帰りのイキリムーブ」

「お約束ですけどやられると結構ムカつきますね〜!」

 

 俺も実はやってみたかったんだ。こういうの。

 

 

 

 なんのかんのと言って血の気が多いのは全員だ。

 芽々は一人で魔王に喧嘩を売ろうとするやつだし、笹木も穏やかそうな顔して容赦がない。咲耶は、言わずもがなだ。

 

「負けた奴がなんでも言うことを聞く、でどうだ」

「上等っ、だわ!」

 

 先手必勝、とゲーム開始の合図も待たず咲耶はボールを空に打ち上げた。

 アロハシャツは脱ぎ捨てられ、上体は再び露わになった。

 助走を付け、宙を跳ねる。弾む胸元に気を取られている暇はない。

 太陽の光が反射して、彼女の髪を、肌を、金色に輝かせた。

 眩しさに目を細める。攻撃的なサーブを打たんと、手を掲げる彼女を。

 

 隕石より綺麗だと思った。

 

 

 

 ──夏はまだ終わらない。

 

 



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第二十一話 わたしたちはきっとこれから。

 

 ──夕方。

 場所は閑散とした海水浴場から離れ、場所は海と山に挟まれた港町だ。行き交う人の向かう先を見れば屋台通りの光景が広がっている。

 

(流石にこっちは人が多いな)

 

 と、歩道の車止めにもたれかかって笹木慎は思う。

 

 祭りだ。花火大会だった。

 同日に海のち祭りとは、完全に体力バカの考える強行軍である。とはいえ夏休みの気力が有り余っている高校生にはそう難しいことではない。祭りは別腹だ。

 海水浴の後、一旦休憩を挟んで男女に分かれた。着替えなど諸々の準備があるためだ。再度の待ち合わせ場所で、スマホを弄りながら笹木は一人女性陣の到着を待っていたわけだが。

 カラコロと下駄を鳴らす音と馴染みある幼げな声が聞こえる。

 

「あ、いたいた! お待たせしました」

 

 芽々が人波からこちらを見つけ向かってきていた。それを少し後ろから追って文月もまた歩いてくる。浴衣姿で。

 

「マコのおよふくがビビッドカラーなおかげですぐ見つかりました!」

 

 笹木は私服のままだ。散々部活で和装をしているので今更浴衣など着る気がしなかった。だが見る分にはいいものだと思う。

 

 浴衣、いいよね。水着よりも好き。水着も好きだけど好きだということがバレたら社会的に危ういので、水着よりも浴衣の方が好きだという建前が必要なのだ男には──という説もあるが、『着込んでいる方がかわいい』というのもまた世の真理である。そういうことにしておこう。

 「いやスク水なら十年見てるし?」とか余裕ぶっこいてたら初めて見た幼馴染のビキニ姿が後からボディーブローのようにじわじわと効いている、とかではない。笹木は断固として浴衣派だ。

 

 まじまじと芽々の浴衣姿を見る。明るいレモン柄の浴衣だ。お団子は高い位置で左右に結われ、いつもより愛らしさを増してる。

 周りからくっきりと浮き出るような華やかな色彩が、幼馴染に非現実感を伴う不思議な存在感を纏わせていた。つまるところ、『画面から出てきたような錯覚』だ。

 似合う似合わないの次元ではない。十年一緒にいるのに、笹木は未だ幼馴染を見慣れることができていなかった。

 そんなどこか二次元的な雰囲気の幼馴染を、地に足つけた存在にするアイテムが〝分厚い眼鏡〟なのだが。

 

「あれ、裸眼で大丈夫なの?」

「はい! 今日はちゃんと(・・・・)見える寄りなので」

 

 笹木は幼馴染の眼鏡が伊達であることを知っている。だが、それがなければ人の顔を(・・・・)見失いやすい(・・・・・・)ことも。

 目立つ色の服を笹木が着るようになったのは、初めは幼馴染のためだったけど。それも昔の話で今は単なる笹木の好みだ。

 

 さて、笹木は芽々の浴衣姿を褒めることはなかったし、芽々もまたそれを慎に求めることはなかった。芽々は自分の満足のために洒落込むたちだったし、幼馴染としての距離感と笹木の性格からしても、ない。

 しかし今日は珍しく、芽々はくるりと浴衣を見せつけてくる。

 

「見てください帯! すごくないですか? サァヤがやってくれたんです」

 

 言われてみれば結び方が凝っている、ような……? わからない。いつもと何が違うわけ?

 そこで初めて浴衣姿の文月を観察する。

 芽々とは一転、淑やかな雰囲気を纏っていた。着なれているのだろう品のある佇まい、芽々とは別種の綺麗さがあり静かに人目を引く。その髪は短いながらも流麗に編み上げられ、簪でまとめられていた。

 芽々よりお褒めに預かった咲耶は恥ずかしそうにはにかむ。腐っても旧家の養女である。着付けは昔取った杵柄だ。

 

「芽々こそ本当にすごいわ。こんなに綺麗にわたしの髪、編んでくれるなんて」

「ふふーん。やりゃできないことはないのですよ。とってもお綺麗ですよサァヤ……」

 

 自分そっちのけで女子二人がきゃいきゃいし始めるのを、笹木は微妙な面持ちで眺めていた。

 正直美少女二人が仲良くしている様子は絵になる、と笹木は思う。だがその対象が自分の片思い相手なので心中穏やかではない。

 飛鳥、早く来てくれ。

 

 丁度、文月も奴の不在が気にかかっていたのだろう。きょろきょろと辺りを見渡す。

 

「あいつは?」

「飲み物買いに行ってる……あ、話をすれば」

「ひーくん、こっちこっちです!」

 

 見つけた芽々が手を振る方向に後ろを振り向く咲耶。コンマ数秒飛鳥の姿を探し、すぐ前に彼を見つけて目を見開いた。

 

 ──浴衣姿だった。

 

「な、なんで」

「見たいって言ってたんだろ?」

 

 様になっている、以上に言うことはない。

 陽南飛鳥は基本的に地味だ。整っているが印象の薄い顔立ち、辛気臭い雰囲気と気配を殺して歩く悪癖のせいで、変な格好でもしてやっと常人並みの存在感が出る。

 よく見ると格好いいがよく見ないとモブだ。浴衣など着れば逆に、似合いすぎて風景と化し誰の目にも止まらないだろう。

 

 ──ただ一人、この場で彼しか見えていない生態の彼女を除いて。

 

「き」

 

 咲耶は悲鳴を押し殺して叫ぶ。

 

「聞いてないのだけど!?」

「別にわざわざ言わないだろ」

 

 笹木は頼んでいたドリンクを受け取る。お淑やかを投げ捨て顔面を炎上させている文月に対し、この男は飄々としている。

 すかしよって腹立つな、と思った。ストローに口をつけながらぼそりと笹木は、隣の芽々に呟く。

 

「……浴衣選んでくれって頼み込んできたくせに」

「ね!」

 

 ──経緯はこうだ。

 ひょんな雑談から文月が浴衣好きだと知ったので飛鳥に横流しした。そしたら相談された。「話は聞きました!」と芽々が嬉々として浴衣を用意し、押し付けた。なお、その裏ではやはり芽々が咲耶に水着を選んでけしかけている。

 以上。芽々のやりたい放題。

 

「いや、水着も浴衣も二人で選びに行けばいいじゃん。どうせ付き合ってるようなもんなんだから」

 

 一部始終を把握して笹木は正論のツッコミを零した。二人きりで完結させないから芽々に玩具にされるんだよ。

 だが、解説の戦犯曰く。

 

「付き合ってないからですよ。どれだけイチャついても距離感バグってても、あの人たちは大真面目に『恋人未満』のつもりなんです」

 

 にたりと悪い顔で幼馴染は言う。

 

 

「だから好きあっているのを知ってなお──駆け引きしやがるのですよ」

 

 

 意味が、わからない。

 芽々はご満悦だった。

 

「あ〜楽し! これですよこれ! 人の恋路に首突っ込んで甘酸っぱい汁だけ啜ることこそ醍醐味です! こういうのでいいんですよカニとかいらん!」

 

 ──という背景があったりする。

 

 水着を着ると元々宣戦布告している咲耶に対し、しれっと不意打ちを仕掛ける飛鳥の方が圧倒的に姑息である。黙って好きな女の好きな格好をしてくるのは姑息。しかも「全然狙ってないが?」みたいな顔をしているのがもう卑劣。

 笹木は「全部バラしてやろうかな」とちょっと思った。笹木は普通に友達なので、奴が好きな女の前で格好つけたいだけの阿呆だということを知っている。

 

 ──だが、彼らは失念していた。

 文月咲耶が異様にサプライズに弱い女であることを。

 

 はわわわと小刻みに震えていた咲耶は、俯きがちに言った。

 

「ねえ飛鳥、ちょっとわたしの顎を持っててくれる?」

「なんつった? 顎?」

 

 ぷるぷると、涙目で顔を上げる。

 

 

「舌を、噛まないために。わたしの顎持ってて……」

 

 

「…………努力しててえらいな」

 

 

 ──そういやこいつ、ときめくと舌噛み切る女だった。

 

 と、飛鳥が諦めたように手を伸ばし。顎の裏に、指先が触れた途端。

 

「ひゃわぁああ!?」

「ウワッ変な声出すな!!? 猫か!?」

 

 敏感なところを触れられ取り乱した咲耶は反射的に舌を噛みそうになったが、悲鳴を上げたおかげで噛まずに済んだ。

 

「……ふぅ、耐えたわ!」

「もうさ〜、もうさ〜……バカだろ〜〜」

 

 目の前で繰り広げられる奇行に笹木は真顔になる。

 なにこれ。

 唖然としている間に、芽々は慎のドリンクをしれっと奪う。アイスティーを頼んだのが悪かった。紅茶系はよく芽々に奪われる。そのまま「は〜〜あ」と溜息を吐く芽々。

 

「折角愉悦しようと思ったのに。ひーくんは水着に反応しないし、サァヤはバグってるし。なーんもおもんな」

「人の恋愛を笑うとバチが当たるよ」

「甘んじて受けましょう。これが、罪の味……」

 

 ちゅーとアイスティーを吸われる。人の飲み物を勝手に奪うのも罪だ。

「ごちそうさまです」とドリンクを返される。まあ吸われた量は許容範囲だ。だが、ストローは少し、まずい気がした。

 ……数年前までは何も気にせずそのまま口をつけていたのだが。

 笹木はストローを抜いて蓋を開け、カップから直に飲み干した。氷を噛み砕くと頭が冷える。

 

 いつまでも惚けているわけにはいかない、と浴衣ショックから立ち直った咲耶は少し身を引いて、スマホを取り出し一心不乱に写真を撮り始めていた。好きな男の写真はいくらでも欲しい。ましてや、自分の好きな格好をしている時など。

 

「最高…………」

 

 歓喜に打ち震えていた。基本独占欲丸出しの咲耶だが、ときめきが一定以上高まると自分が彼女(予定)だということを忘れてはたからストーカーするのが悪癖だった。友達以上恋人未満=公認ストーカー。

 悪癖のひとつに盗撮があったが、許可済みかつ真正面からの盗撮は果たして盗撮と言えるのだろうか?

 

「だからさー、おまえはなんで一方的に撮るんだよ」

 

 撮られることに異論はないが何かが不納得らしい。飛鳥は自分のスマホを取り出して、ぐっと彼女の身を寄せ二人で映るようにシャッターを押す。

 折角の写真は複数人で撮る方がいいだろう。というか、そういう写真が欲しい。

 

 しかし彼は失念していた。

 ──文月咲耶が急に写真を撮られるとバグる女であることを。

 

 

「ひぁ、」

 

 

 ──あと、急に推しとツーショットとか、ときめいて、死ぬ。

 

 今にも舌を噛み切ろうとした、その瞬間。無言でガッと顎を掴まれた。

 

「やさしい……」

 

 咲耶はきらきらとした目で見上げる。

 

「ああ、うん……どうも」

 

 飛鳥の目が死んだ。

 一連の不可解な情事に芽々は顔を覆ったし、笹木は素直に哀れんだ。

 そうだよな。こんなことで好感度稼ぐために浴衣着てきたわけじゃないもんな。スカしてて腹立つとか思ってごめんな。

 

 

 死屍累々(約一名)の惨状から今度こそ立ち直り、屋台通りに向かう。

 日は暮れかけ、あたりはほのかに明るく、花火が打ち上がるにはまだ早い。始まるまでたっぷりと屋台を冷やかそうというわけだ。

 活気ある人波を抜いながら歩いていると、飛鳥が金魚すくいの前で立ち止まる。

 

「お、金魚すくい。懐かしいな」

「風流だものね。あんた好きそう」

「芽々、飼ってますよ。ひーくんも?」

「ああ、金魚鉢で空気を飼ってたことがある」

「何言ってんの?」

 

 今年もやりますか、と芽々が腕まくりしたところで。桶を見ながら何やら考え込んでいた飛鳥が、はっと閃いたように呟く。

 

「……天ぷら食いたくない?」

 

「最悪だ」

「あんた小動物は全部食べれると思ってる?」

「次は仲裁しませんからね」

 

 金魚を救うため、屋台から飛鳥を引き剥がした。

 

 

 気を取り直して射的屋台に向かう。

 

「ハワイ仕込みを見せてやりますよ!」

 

 芽々はじゃきんと(コルク弾なので音はしないが)構え、意気揚々と引き金を引くが。

 

「当たったのに落ちないんですけど!? しょぼ威力!」

 

 全弾命中、しかし目当て景品のレトロゲームはびくともしない。コルク弾がやわいのか、それとも銃の作りがゆるいのか。

 後ろから二人が野次を飛ばす。

 

「力が足りないなら拳で投げればいいんじゃないか?」

「無理だよ」

魔法(バフ)かけてあげましょうか? ぶち抜けるわよ」

「駄目だよ」

 

 笹木は追加課金し、芽々を手伝って真っ当に景品を落とした。

 

 笹木と芽々が縁日を遊び、飛鳥と咲耶は後ろから茶々入れるだけというのが続く。

 

「お二人はやらないんです?」

 

 芽々の疑問を前に、彼らは至極真面目な顔をして答えた。

 

「やってもいいが加減ができない」

「浮かれてはしゃぎ過ぎてしまうわ」

 

 彼らはそこそこ異世界ボケを自覚していたし、ほどほどに客観視もできていた。仮にも年上であり、十八歳相当の落ち着きは持ち合わせている。

 自分たちのスペックがおかしいのはわかっているのだ。──それを現世で発揮するとどうなるか、ということも。

 ついでに異世界モノのラノベも大分読んでるし、お約束(セオリー)も把握している。

 

 ──そう、ここで縁日など遊んだら自制が吹っ飛んでやりすぎて、出禁になるのがお約束……!

 

「『なんかやっちゃいました?』とか言ったらヤバいのは知ってるぜ!」

「ええ、『目立ちたくない』って言いながら目立つことはしないわ!」

 

 力強く自重を宣言する。なんだかんだで初心が「現世で正しく生きていく」であることは忘れていなかった。最近ずっと色ボケてたけど。

 笹木は白い目で見た。

 

「いや、結構やってるよ。そういうこと」

「えっ」

 

「えっ……」

 

 互いに顔を見合わせる。

 

(確かにこいつはするよな。俺はしないが)

(確かにこいつはしてるわね。わたしはしないけど)

 

「諦めたらどうです?」

 

「そうだな」

「そうする」

 

 そして二人は大はしゃぎで縁日に向かった。「苦手なものならセーフじゃないか?」ということで幼児に混じって型抜きを始め、散々に砂糖菓子の型を破壊していた。

 十八歳児共め。

 

 

 慎は遠巻きにその様子を眺めながら、あきれたように半笑いで隣の芽々に声をかける。

 

「よくやるよね」

 

 祭り程度であそこまではしゃげるのは才能だ。

 芽々は型抜きには参戦せず、眠たげに目を細めて頷いた。様子を見るに少し疲れているのだろう。文化系にはハードなスケジュールだった。

 

「でもわかりますよ」

「ああまではしゃぐ理由が?」

「駆け込みでも夏休みやりきろうとする理由も、です」

 

 空はもう暗くなっていた。夕方は夜に変わり始め、提灯の明かりが屋台通りを眩しく照らす。

 明かりに染まった横顔。一音一句噛み締めるように、芽々は言う。

 

「あの人たちは同じ夏が一回きりしか来ないことをわかってるんです」

 

 季節などない異世界で生きてきた彼らにとって夏は二年振りだ。そして異世界帰りはこの先も必ず続く平穏を簡単に信じたりしない。

 慎もまた、漠然とそれを理解する。今年は駄目だったならまた来年行けばいい、とはならないのだ。

 ──自分みたいに。

 

「ま、だから無茶なハードスケジュールにも付き合ったりしちゃうわけですね」

「友達だしね。そのくらいの特別扱いは……」

「違いますよ?」

 

 透き通る緑の両眼でこちらを見つめて。

 

「芽々は、『友達』は特別扱いしません。あの人たちは友達だから、じゃなくて『特別』だからです」

 

 らしくなく、落ち着いた声音で言った。 こちらを向いているはずなのに、何を見ているのかわからない遠い目だった。

 息を飲む。

 

 ──ああ、まただ。

 

 夏の始まりに感じた焦燥が錯覚ではなかったというようにぶり返す。

 いつから芽々はこんな目をするようになったのだろう。一緒に育ってきた幼馴染の考えることが理解できなくなったのはいつからだったろう。七年目からか、八年目からか──分水嶺はとうにすぎていたのかもしれない。

 

「……十回目」

 

 ようやく慎が絞り出したのは意味をなさない呟きだった。

 

「? ああ、マコと夏を過ごすのは丁度十回目ですね!」

 

 聡い幼馴染はそれだけで意図を拾う。

 慎と芽々は生まれた時からの付き合いだ。だけど幼い頃芽々は海外にいたから、顔を合わせるのは親戚の集まりだけ。こちらに越してきたのは小学生の頃だった。

 

 ──好きになったのは、芽々が隣にやってきた一年目の夏だった。

 

 屋台ではしゃぐ年上の友人たちを見やる。くだらないことに全身全霊をかけて、夏をしゃぶり尽くそうとする彼らを。

 

(そうだよな。来年も再来年も同じ夏がある保証なんてないんだ)

 

 たとえ『幼馴染』だとしても。そんな関係は、ずっと隣にいることを保証しない。

 

「あのさ」

 

 幼馴染を呼ぶ。呼びかけられた、背の低い幼馴染は自分を見上げる。自分は幼馴染の目を、見れないまま。

 

「芽々はおれの『特別』なんだけど」

 

 口をついて出たのは告白の前座でしかない言葉だった。

 自分が何を言ったのか遅れて、はっとする。

 

『なんだけど』ってなんなんだよ。違う、こんなところで言うつもりじゃなかった。

 それなりの状況を整えて、少しだけ関係を前に進めようとしただけなのに。今話すことじゃないだろう。

 ──だけど、そう思い続けて十年が経った。今言わずしてどうするのだ。

 心臓が早鐘を打ち始める。後戻りはもうできない。こんな、中途半端な告白ではなくちゃんと言い直そうと、芽々の瞳をようやく見て。

 

 にぱ、と無邪気すぎる笑顔に迎えられる。

 

 

「はい! 『幼馴染』ですもんね」

 

 

 迷いのないその返答に、慎は言葉を失った。

 そうじゃなくて、と訂正を入れられなかった。他に解釈の余地のない決定的な告白を畳み掛けられなかった。

 

「当然、マコは特別扱いさせていただきますとも」

 

 その笑顔に。嬉しそうに続ける、その言葉に。

 ──わかってしまった。芽々の『特別』は、自分の『特別』とは別物なのだと。

 

「……そっか。よかった」

 

 かろうじて当たり障りのない返事をし、薄く作り笑いをする。眼鏡をかけていない今の芽々は人の微細な表情の変化までは読みきれないだろう。

 

(……ああ、そうだった)

 

 寧々坂芽々が人の恋愛に首を突っ込む趣味はそもそも、知らないことを知りたいという好奇心からだ。

 彼女は恋愛をパターンと理屈で概要的に理解しているに過ぎない。他者の恋愛を分析することはできても、自分が感情を向けられる可能性を加味していない。聡いはずの彼女は、幼馴染から向けられる感情の正体を解することができない。

 

 寧々坂芽々には(・・・・・・・)恋がわからない(・・・・・・・)

 

 

「あ、綿飴! 買ってきますね」

 

 そのまま風のように目当ての屋台めがけて去ってしまう。その様子を慎は、ぐっと奥歯を噛んで見送った。

 

 

「……それで。二人とも何見てんのさ」

 

 いつの間にか戻ってきていた飛鳥たちが、物陰からこちらを見ていた。悪戦苦闘の末型抜きに成功したらしい。そんなドラマは知ったことじゃないが。

 

「いやなんだ」

 

 感嘆を込めて飛鳥は言う。

 

 

「人が恋愛に右往左往してるのめちゃくちゃおもしれ〜……」

 

 

 イラッとした。

 

「この世で飛鳥にだけは言われたくないよ」

「気付いてしまったんだ。他人事だとウケるって」

 

 根本的に芽々側の人間だった。性格くそやろう。

 笹木はキレた。

 

 おまえだろ散々右往左往やってるのは! 左右どころか上下にびたんびたん跳ねてるくせに! 『はねる』ばっか繰り出すギャラ○スみたいなもんだろおまえなんか……!

 

 流石の笹木も性格:おだやかを返上し噛みつこうとしたが。一方はらはらと見守っていたらしい、人の恋愛事情を見ると共感性羞恥で舌を噛み切る体質の咲耶が、口から血を垂らしながらぐっと拳を握りしめる。

 

「ま、まだ負けてないわ。脈はあるはず……!」

「慰めが痛いよ文さん。口の端に血がついてるから目にも痛いよ」

 

 

 溜息を吐いた。まったく騒がしい二人のせいで落ち込む気分じゃなくなってしまった。

 でも。

 ──人の恋愛を笑うヤツにはバチが当たれ。

 

「そういや『負けたらなんでも聞く』って海で賭けたよね。あれだけ啖呵切って飛鳥の負けだったけど」

「!? いや、アレは同点のまま俺がボール割って試合終わったろ!」

「おれのボール割ったから飛鳥の負けだよ」

「ぐっ……ごめん!」

 

「というわけで今度、ホラー映画鑑賞会しようか」

「いッ……」

 

 ()だ、と言いかけて飲み込んだ。敗者に文句を言う権利はない。

 飛鳥が青ざめる隣で、咲耶はぱぁっと顔を輝かせる。

 

「大丈夫よ、血が出なくてもこわーいのは沢山あるわ!」

「大丈夫じゃないだろそれ……!!」

 

 そこに丁度、綿飴を手に戻ってきた芽々が乱入。

 

「え、何なに? ひーくんの情けない鳴き声聞き放題の会!?」

「俺は鳴かねえ!」

 

「そういえば、全員分の言うこと聞いてくれるのよね?」

 

 と思い出した咲耶が聞く。

 

「芽々はどうするの?」

「ん〜……ウケること思いつかないんで、とっときます」

 

 んふふっ、と怪しげに目を細めて。

 

「飛鳥さんになんでも言うこと聞かせられる権利、なんておいしいもの。つまんないことに使えるわけないでしょ?」

 

 飛鳥は真顔になった。

 

「いや、芽々のは聞かないが」

「ええっ、なんで!?」

「ろくなこと考えてなかったろ、今」

「心外ですっ」

「つか綿飴旨そうだな。くれ」

「は〜〜?? いいですよ!!」

 

 騒ぎ始める三人を、少し引いて眺めて。

 慎は思う。

 

(悪くないな、うん。悪くない)

 

 今日この日を手に入れるために、彼らに何があったかは知らないが。彼らが費やした時間と自分が待っていた時間は知っていて、一度きりの夏の終わりの思い出としては悪くないものを作れた気がした。

 皆が楽しいなら十分だ。

 

「……マコ? 黙り込んでどうしました?」

「いや、なんでもない」

 

 肝心の、芽々との関係は一歩進んで二歩下がってしまったが。幼馴染との距離はここから詰めていけばいい。ずっとの保証はないけど、焦ることもないだろう。

 

「行こうか、そろそろ花火が上がる」

「前いきましょ、前!」

「わたしたちはいいわ」

「人混み苦手だしな。高台行くか」

 

 また後で合流しようと言って、飛鳥たちとは別れる。

 予定通りだ。事前に聞いてなかった芽々は少し不思議そうに、彼らを見送ったが。

 

「じゃあ、行っちゃいます? 二人で」

 

 はにかんで、芽々は何の逡巡もなく、子供の時と同じように手を差し出した。

 その手の大きさが変わっているのに、何も変わらずに。

 

「手ぇ繋ぎましょ。芽々が迷子になるので」

「やっぱ眼鏡しなよ。よく見えなくなってきたんだろ」

「うぇ〜、芽々実はあの眼鏡好きじゃないんですよぅ」

 

 慎はその手を今は幼馴染として握り返して。

 

「そういや、いいものがあるんだ」

 

 もう一方の手で鞄から二枚のチケットを取り出した。

 

 ──花火大会の特等席のチケットを。

 

「どうしてそれを!?」

 

 高校生が手に入れるには難しいそれを、芽々は驚いて見る。

 本当は、これの力を借りて告白のための下準備を整えようと思っていたのだが。中々実際には上手くいかないものだ。

 苦笑して、慎は答える。

 

「夏休みだからね」

 

(おれもそれなりにさ、頑張ってみたんだよ)

 

 ──普通なりに、少しだけ『特別』な夏になるように。

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 幼馴染組と別れて、彼らは高台に向かう。海と山の間にある町は、少し坂を登れば見晴らしの良い景色が広がるだろう。

 

「いい場所知ってるんだ。昔よく来た」

 

 足取りは履き慣れない下駄にも関わらず軽い。むしろ地に足つかない浮遊感。祭りの気に当てられたまま飛鳥は、危なげなくついてくる隣の彼女を見やる。

 

 こうして二人きりになったのは、同じ(とこ)で目を覚まし共にコーヒーを飲んだあの朝以来だった。咲耶は所用で数日実家に戻っていたし、飛鳥もまた後始末で数日を費やして、あれからまともに話す時間を取れてはいない。

 二人きりの会話をどうやるのだったか、と僅かに逡巡して。当たり障りないことを言う。

 

「楽しかったな、今日は」

「ふふっ」

 

 咲耶は軽やかに、相槌がわりに笑みをこぼして。足止めた。

 すうっと夜に溶けるように笑みを消す。何も取り繕わない無表情になる。

 

 

「──本当に?」

 

 

 (はしばみ)色の両眼がこちらを見つめる。飛鳥もまた、上げた口角を下げる。

 

「俺はそこまで嘘が上手くないよ」

「そうね。そうだったわ」

 

 再び歩き出した、二人の足取りは軽いとは言えなかった。 

 互いに気を遣い合いながら、腹の底を探り合うような微妙な距離感。

 気不味さはない。しかし気安さもまた、ない。

 

 ──日常は未だ修復が叶っていないまま、今日を迎えていた。

 

 お互い「いつも通り」の維持には一家言ある。夏を取り戻すのだというお題目を掲げた手前、友人たちの前ではそんな素振りを見せず年甲斐もなくはしゃぎ倒すことなど朝飯前だ。切り替えがよくなければ異世界帰りで人生などまともにやってられない。

 

 だが、こうして二人きりになった今。

 憂いなく楽しむために必要な仮面もまた剥がれ落ちる。

 そして思い出す。

 ──何食わぬ顔をして日常に戻るには、入った(ひび)が大きすぎることを。

 

 

 沈黙のまま足を進め、高台に辿り着く。

 周りの建物の影になって、知らなければ気がつかない穴場だ。下は軽く崖のようになっており、開けた視界からは町が一望できる。他に人の気配はない。

 

 花火はまだ始まらず、海と繋がった広く暗い夜空もまた、幕が降りたように沈黙していた。眼下には無数の街明かりが、星のように瞬いていた。

 その光景を前に彼女は思い出す。遠い過去にも思える夏の始まりに、夜の屋上で共に星を見たことを。『文月咲耶』が抱え続けた恋の呪いを解いて、好きだと言ってくれた日のことを。

 夏の終わりの夜の、ぬるく湿った空気を深く吸い込んで。

 彼女は口を開く。

 

「本当に良い場所。ここならできそう」

「何を?」

「大事な話を」

 

 振り向いた、彼女は丁寧に作られた微笑を浮かべて。

 

 

「忘れた? 『大事な話をするなら場所を選べ』って言ったの、あなたじゃない」

 

 

 かつて夜の屋上で彼が言った言葉の意味を、咲耶は今なら完璧に理解できる。

「そうだな」と彼は頷く。

 確かに、大事な話をするのは半端な道端では駄目だ。それなりの雰囲気に酔えて、崖のように逃げられないほど高いところがいい。

「そうでしょ」と彼女も微笑む。

 家は駄目だ。大事な話をするのに向かない。

 

 ──だって守るべき安息の地では日常を破壊する言葉を告げられない。

 

 だから、ここで。

 二人きりになったのは向き合うためだ。

 過去と感情と、今に。

 

 彼女は目を、閉じて。開く。昂る心に呼応して溢れ出した魔力が、眼球に張り付くレンズを突き抜けて片の瞳を赤く染めた。

 

 ──あの夜の屋上で好きだと言ってくれたことは、大事な思い出だ。忘れてない。

 

 だけど。

 

 

「ひとつ確かめさせて」

 

 

 晩夏の風が彼女の前髪を吹き上げる。硬く結われた後髪の先で、揺れる簪が寂しげに鳴った。

 

 

今のあなた(・・・・・)は、わたしのこと、本当に好き?」

 

 

 彼は答えない。

 表情は、恐ろしいほどに凪いだ無だった。その顔をされては感情を読み解けない。

 いつも(・・・)ならば(・・・)

 彼女は構わず畳みかける。

 

「あなたは『好きに理由はいらない』と言ったわ。潔いと思う。けれど、その潔さは『理由を考えてはならない』という意味ではなかった?」

 

 まるで彼の「理由」を知っているかのような物言いに、彼は目を尖らせ彼女は目を伏せた。

 

「ごめんなさい。ひとつ謝らなければいけない。あなたの夢に入った時に言ったわ、思考も記憶も読んでないって。それは本当。でも、感情(・・)は同化して伝わってしまったの」

 

 ……痛いほど。

 だから気付いてしまった。

 ──彼を呪う彼自身の怨念にも、魔女(じぶん)に抱いた感情の正体にも。

 

 痛みに胸を押さえた。それでもはっきりと声を上げる。

 

 

「ねえ本当に、わたしたちの関係は正しかった? 傷の舐め合いじゃなかった? 雛の刷り込みではなかった? ただの共依存ではなかった?

 

 ──あなたの感情は本当に、恋だった?」

 

 

 その問いかけに躊躇いは少しもなく。瞳は濡れながらも、真正面を見据えていた。

 彼は、口の端に諦めを浮かべる。

 

「それ、言ってしまうのか」

 

 それは薄々察していて、互いに口にしないようにしてきたことだ。

 

「わたしたち、今までずっと上部でやり過ぎたでしょ。表面上だけ取り繕っていい感じでいようとした。知るのが怖かったから。

 でも、もう。知らないのも怖いの」

 

 彼と彼女の関係はその時必要な隣にいる理由に合わせて何度も名を変えた。けれど〝因縁の元宿敵〟も〝友達〟も〝恋人未満〟も本質は何も変わらない。

 

 都合の(・・・)良い関係(・・・・)

 

 だが都合のいい関係でいるには戻れないところまで来てしまった。もう抜け出せないほど深くて、見て見ぬ振りにも限界がある。

 

 互いの過去も感情も。

 

(わたしたちはもう、知ってしまった)

 

 

 

 ◇

 

 

 

 彼女の糾問を聞いて。深々と溜息を吐きたいのを堪えた。

 ──人の恋愛を笑っている場合ではなかった。

 なにせこちとらそれ以前の話だ。

 

 まさか知られたくない感情が筒抜けになっていたとは思わなかった。今すぐ墓穴を掘って埋まりたい心地だが、それを責める気はない。

 故意ではなく事故だったのもある。

 それに。あの時俺を救おうとした彼女には、知る権利が当然にあったろう。

 問題は、そのせいで彼女が同じ迷路(・・・・)に入り込んでいたということ。俺の悩みが、とうに自分一人のものでなくなっていたということだ。

 ……そういうことは場所なんてどうでもいいから早く言ってくれればいいのに、とは自分が要求した手前文句を言えない。

 

 彼女の問いを整理しよう。何を(ただ)しているのか。

 複雑な話ではない。一連の問いかけは、要は「この関係はなんなのか」という『関係の再定義』であり「この関係でいいのか」という『契約内容の確認』であり。

「これからどうするのか」という、シンプルな話だ。

 

 まるで別れ話だな、と苦笑する。はぐらかす気は元よりないが、こんな崖っ淵に追い詰められては本音を言うしかないだろう。

 ──何から答えようか。

 そう逡巡して目を逸らした。未だ花火の上がらない、伽藍とした黒い空を眺める。

 

 

「──俺は、本当はたいしたことないんだ」

 

 口をついて出たのは弱音だった。墓の下まで持って行きたかった感情を「知っている」と言われては、もう。本音しか言えなかった。

 

「うん、知ってる」

 

 彼女は淡々と相槌を打つ。

 

「俺は君が思うような『絶対』なんかじゃなくて」

「うん」

「普通の、いや……普通にすら戻れないんだろうな」

「……うん」

「どうしようもない奴だ。君がいなければ今頃その辺で野垂れ死んでる」

「最悪ね。否定できない」

 

 単純に、彼女の存在は生命線だったのだ。

 断てばおそらく使い物にならないだろう。彼女と共にする食事はちゃんと味がして、隣にいれば生きている心地がした。なんでもないことを楽しいと思うことができて、過去も未来も考えずにいられた。だから離れられなかった。

 それだけを恋と呼ぶには、あまりにも情けない。

 

「だから君が言うように、正しい感情でも正しい関係でもなかったんだろう」

 

 だが。

 

 

「それでも好きだ」

 

 たとえこの関係の始まりも過程も間違っていたとしても、救われたという結果(じじつ)だけは何を差し置いても正しく存在しているのだ。

 

 今日一日考えて、思い知った。

 感情は確かに冷えている。だが論理的に考えて、俺が彼女を好きでないはずがない。

 少し客観視をしてみればわかることだ。

 ならば感情が(・・・)冷えている(・・・・・)理由は(・・・)また別だ(・・・・)

 

「今の俺はまだ真っ当な理由を言えるほど人間ができていない。それでも、君の全部に惚れ直すだろう」

 

 だからどれほど道に迷っても戻れるように標を、揺るぎない金科玉条を、『定義』を決めたのだ。

 恋など初めからくだらないものだと。それでもいい(・・・・・・)と。

 ならば。このくだらない感情もどうしようもない執着も全部。

 そういうことでいい。

 

「俺は咲耶のことをかっこいいと思ってるし、咲耶が俺のことをそう思ってくれるのなら、まだ格好付けたいよ」

 

 手放したくない。

 

 

「実は俺は、君の気を引くのに必死だ」

 

 

 彼女の目を見返す。糾弾し、告発する瞳に、答えを叩きつける。

 

 遠くで弾ける音と閃光。黒い空に花火が上がり始める。

 無言、見つめあう。花火なんて見ていなかった。彼女の潤んだ目に、光が灯っては散る。

 花火二発分が散る長い、長い沈黙の後。咲耶は小さな唇を震わせた。

 

 

「待って。もう一回言って。今の良かった。録音する」

 

「……なんて?」

 

 

 夜の中爛々と輝く目は、完全に据わっていた。

 

 

「録音してアラームに設定する」

 

「外道か?」

 

 

 天を仰いだ。なんでも言うことを聞くとは言ったけど、それは無い。

 

 ──冷静に考えて。俺の感情が冷めてるの、咲耶が変なせいでは?

 ちょっとこの女に正気で熱を上げるの無理じゃないか?

 普通の人間には荷が重いだろう。いや、俺は普通じゃないからいいのか。よくねえよ。

 

「ふふ、冗談よ。嬉しくて永久保存したくなっただけ。毎朝聞いて目覚めたいと思っただけ」

「そう、か。よかっ……いやよくねえ」

 

 言ってること何も変わってないじゃないか、おい。 

 だが彼女の穏やかな表情を見ていると、どうにも毒気が抜かれて。何も言えなくなってしまう。

 

 空に打ち上がる音の中でさえ、彼女の穏やかな声は確かに耳に届く。

 

「あなたの気持ち、伝わったわ。ありがとう。……何度もわたしに告白してくれて。だからわたしも返事をしなくてはね」

 

 花火の明かりに照らされて彼女は、静かに微笑んだ。

 

 

 ◆

 

 

 わたしは思い返す。

 これまでのことを。

 ──この夏のことを。

 

 

『それは、本当に恋愛なのかい?』

 

 鈴堂瑠璃の軽蔑に、口を引き結ぶ。

 人を見透かす天才の言葉は一足飛びに答えを当てた。

 ええ、その通り。わたしたちは本当から目を背けていた。

 

 

『恋愛って茶番だと思うんです』

 

 寧々坂芽々の愛ある罵倒に、胸の内で頷く。

 不可解な色恋を面白がる友人の言葉はしっくりと馴染んだ。

 ええ、本当に。わたしたちは茶番ばかり繰り返してどうしようもない。

 

 

『殺して、救わなければ、救われない』

 

 聖女ネモフィリアの極論を、分かりたくないと思いながら反芻して。

 けれど愛を知ってしまった人形の論理を、分かってしまうことを確かめる。

 言葉に力はなく、祈りに報いはない。わたしたちは人なんか救えるようにできていない。

 

 

 目の前の彼を見る。

 陽南飛鳥を。

 相も変わらず、その目は輝くことも腐ることもない。

 

『人を殺したんだ』

 

 知っている。

 彼の背負うものを、取り憑かれた影を、それはきっと隕石なんかで簡単に破壊されてくれないものだと。それがどうあがいても解けない呪いであることを。

 分かっている、つもりだ。

 

 

 文月咲耶(わたし)の信条を確かめる。

 

『人生なんて演劇みたいなものだ』

 

 現実から逃避するための支えでしかなかったそれは、いつしかわたしを現実に立たせるためのものになった。

 もうわたしは演技(うそ)に縋りつくことはない。けれど少しの強がりや、意地が、嘘が、誰かを生かすのに必要なのだと知っている。

 あなたが、本当は強くなどなかったのだとしても。

 ──わたしは、あなたの強がりに救われてきたのだ。

 

 だから今度はわたしの番だ。

 

 

 息を深く吸い込んで。心の中で、呪文を唱える。

 

『定義する』

 

 ──恋愛とは茶番劇である。

 あなたが好きだと態度で示し続け、自らの持てる力を尽くし、互いに合わせて己すら作り替える。浮いた愛の台詞を吐き続け、ときめきを再生産し続けて。あるいは隣で、この世で最も安らぐ沈黙を演出し続ける。

 それが嘘でも欺瞞でも貫き通せば本物に相違ない。

 

 たとえ言葉に何の力がないのだとしても。わたしはそれでも、想いを口にしよう。

 たとえ魔女が人を救えない生き物だとしても。文月咲耶(わたし)は陽南飛鳥を、人を、完膚なきまでに救うのだ。

 

 

「あなたの人生全部を頂戴。

 あなたは報われないし救われないし許されない。

 でも生きて。だとしてもしあわせになって。わたしと。

 誓うわ。人生かけてしあわせにする」

 

 

 ──それは祈りではなく願いで、そしてわたしにとって願いとはただの約束だ。

 

 

 

 花火の音は止んでいた。空は暗く、静寂が満ちている。

 崖下の星灯りを背に、彼は。夜の逆光の中でくしゃりと、眉を下げる。

 

「そうか、じゃあ」

 

 

 

「君を幸せにするまで死ねないな」

 

 

 

 わたしは──。

 冷ややかに見つめ返した。

 

「……いや、わたしより先に死んだら殺すから」

「ひでえ」

「わかってる? あんた本当にわかってる? ねえ」

「ははは」

「笑うな!」

 

 わかってない! こいつ、絶対わかってない! わたしがどのくらいの覚悟だったかとかなんかもう全部、伝わってる気がしない!!!

 

 頭が急速に沸騰した。怒りなのか悔しさなのか羞恥なのかよくわからないまま、びしりと指を突きつける。

 

 

「い、一生かけてわからせてやるわ! 覚えてなさいよ。最後にはわたしが勝つんだから!!」

 

 

 その瞬間。

 背後で盛大な爆発音がして、空が真昼のように明らんだ。

 音と光にびくりとして振り返る。

 どんどんぱらぱらと続く花火は、爆発炎上もかくやという勢いで夜空を金色に染め上げていた。

 

 ぽかんとする。これ、人死にが出る火薬の量じゃないの? 

 最近の花火って、すごい……。わたしの魔法でもここまで派手じゃない……。

 いや、うーん。頑張ればできるのかしら?でも見た目だけ綺麗でも肝心の威力がなければ爆発四散はさせられないし……。見た目イマイチでも破壊できればすべて良しだし……。

 などと、つい魔女の性で考え込んでしまって。隣でくつくつと笑い出した彼に、遅れて気付く。

 

「おまえは血の気が多すぎる」

 

 失礼な! 

 

 だけど飛鳥が、あまりに楽しそうに笑うから。気が抜ける。

 

「話の続きは後にしましょうか」

「そうだな。折角の」

 

 穏やかに目を細めて。

 

 

「綺麗な花火だ」

 

 

 その笑みを、瞬きの間に消えていく光を、目に焼き付けて。

 願う。

 

 一生笑ってて。一生。そのためならわたし、どんな魔法だって使える気がするから。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──きっとわたしたちの戦いはこれからで。

 わたしたちの恋愛(こい)はまだ、始まったばかりだ。

 



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エピローグa 君といつかの約束を。

 

 花火が終わった後、再び笹木たちと合流する。

 線香花火で花火の二次会を勝手に開催したり、そのまま公園で延々とどうでもいい話をしているうちに夜も更けた。  

 夜遊びとは悪くなったものだ。とはいえ祭りは無礼講、今日くらいはいいだろう。

 しかし真っ先に体力が尽きた芽々が公園のベンチで船を漕ぎ始め、お開きとなった。

 

「じいさんが車で迎えに来るってさ」

 

 笹木は芽々を手慣れたように背負う。

 

「これからだな」

「十一年目に突入」

 

 笹木は自虐気味に笑う。その物言いは何かを吹っ切ったようでもあった。

 面白がった分の責任は持って、手伝えるだけ手伝おうと思う。それはそれとして笑うけど。

 寝ぼけたまま大人しく背負われていた芽々だが。笹木の首にしがみついてむにゃむにゃと何かを言った後、バチッと目を開けた。

 

「……あれ? な、なんで芽々おんぶされてるんですか!? おろしてください! もう子供じゃないんですけど〜!?」

 

 じたばたと激しく抵抗する芽々。見た目幼いから違和感がなかったが。そういや芽々も立派に十七だったな。

 隣の咲耶に話しかける。

 

「確かに十七でおんぶはないな」

「えっ、されたい」

「あ? しません」

 

 なんだこいつ。

 

「なんでもお願い聞くって言ったのに!」 

「おまえもろくなこと考えないからなんでもは無しだよやっぱり」

 

 笹木を見習え笹木を。遊びの罰ゲームは遊びだと古今東西決まってるだろうが。純粋な私利私欲出してどうすんだよ。

 

「肩車ならしてやる」

「どういう基準??」

 

 肩車は高いので強い。一緒に三メートルになろうぜ。

 笹木が釈然としなさそうに芽々を下ろすと、芽々は不満げにぷいと笹木から顔を背けた。

 

「なんでさ。昔はよくやったじゃん」

「昔とは違うんですー! マコのにぶちんさん!」

 

 ……こいつらはこいつらで何かがズレてるよなあ。そのズレがおそらく進展しない原因な気がするが。確証がないままに口出しすることでもない。

 兄弟姉妹のような喧嘩とも呼べないじゃれ合いを始める幼馴染たちに肩をすくめる。隣で咲耶もまた苦笑していた。

 ま、どうにかなるだろう。そのうちな。

 

 

 ◇

 

 

 笹木たちとは別れ、駅に戻る。

 祭りの後だが、俺たちの使う路線は閑散としている。電車に乗り込むと終電近いのもあり車内は空いていた。いくつかの駅を過ぎる内、車両には俺たち以外には誰もいなくなった。

 

「わたしも眠くなってきちゃった」

「寝てもいいぞ」

「ん、そうする」

 

 咲耶が隣で静かに目を瞑ったのを見て、長椅子に背を預ける。

 窓の外を見やる。暗い夜空と町の光。写り込む自分の顔からは目を逸らし、流れる景色だけをぼんやりと眺める。

 車窓の景色には忍者でも走らすのが定番だろう。だが、自分の頭は走り去る景色に星が降るのをイメージした。

 夜空を引き裂いて隕石(ほし)が落ち、地表を捲り爆炎を巻き上げ町を砕く、終末映画のような光景を。

 ひとしきり想像の中ですべてを爆破して、はっと我に帰る。

 どうやら癖になっているらしい。不意に今、隕石が落ちてきやしないかと考えるのが。

 

 コツンと肩に触れる感触がして、窓から目を離した。左肩を見ると隣で眠ってしまった彼女の頭が乗っていた。

 少し近付きすぎではないか、と懸念するが。肩の上で彼女は安らかに寝息を立てていた。神経が太いのか耐性がついたのか。こいつ、聖剣気にしなくなってきたな。

 寝顔を眺める。すぐそばにある胸が規則正しく上下しているのを、触れた身体が布越しに確かな熱を伝えているのを確かめる。

 湿った長い睫毛が、流れる鼻梁が、わずかに火照った頬が、柔げな唇が、無防備に肩の上に預けられていた。簪の緩んだ髪からは、花のような香りに紛れて海の残り香がした。

 

「………………」

 

 この破壊力に比べれば隕石なんて。

 

(いらないな、そんなもの)

 

 窓の外で隕石が降り止んだ。くだらない妄想は掻き消えた。

 なんの変哲もない夜の町を置き去りにして車両は揺れる。

 だが。胸の内の()は、一瞬の錯覚であったかのように引いていった。

 溜息を吐く。彼女にこれほど近くに触れてさえ、波風が立たない理由を本当はわかっている。

 

 今の俺の自我は陽南飛鳥(むかしのじぶん)のものだと自認している。だが言動はこれまでの半年と同じように振る舞う方が馴染んだし、あの半年の自分も確かに俺自身だと認識している。

 人はそんなに変わらないものだ。というか、一度変わったら元には戻りきらないものだ。

 それでも、今の自分(・・・・)には許せないことがあるらしい。

 夢の中でもう一人の自分(・・・・・・・)が言ったことを思い出す。

 

『俺は咲耶とイチャつくことしか考えてない』

 

 ──それが一番に許せない。

 

 そう、強く思った。強い感情は呪いに変わる。たとえ魔法使いでなくとも、だ。

 消えた熱の原因はそれだった。

 要するに俺の深層意識は恋愛などにうつつを抜かす自分を許したくないのだ。のうのうと人を好きになる自分を。

『そんな資格があるものか』と、足下に張り付く黒い影が見えた。

 眠気のせいだ。夢現の幻覚だ。睡魔に朦朧と揺れる視界の中、自分の影を睨みつける。

 頭の中で吐き捨てる。

 

(──くだらない)

 

 自罰なんてなんの意味もない。そんなもので何かが救えるほど世界は易くないし、そんなもので自分のやるべきことは左右されないのだから。

 俺はもうただの人間だが、まだ勇者を辞める気はない。義理は果たすと誓った。魔女を救うために魔王を殺す。即ち最後まで世界を救いきる。その結果を手に入れることは絶対(・・)だ。

 ──ならば動機が下心だとして、一体何の問題があるだろうか?

 

 その理屈は正しくはないかもしれない。だが、少なくとも自分を慰めるために彼女への感情を殺すことが『正しい』とは思わない。

 ……なんて理屈では理解ってるのに熱が戻らないあたり俺の深層意識は軟弱だ。クソが。六道輪廻から出直せ。向き合え煩悩に。

 

 

 沈みかける意識の中。肩に乗る重みを確かめ、足元の影に答える。

 

「悪いな」

 

 これは開き直りだ。どうしようもない恥知らずだ。

 だけど俺は知っている。過去よりもよっぽど今の方が大事で、今は直ぐに過ぎ去ってしまうことを。

 ──どうせいつかは皆滅ぶことを。

 

 だから。青春ぐらい、謳歌したっていいだろ。季節のひとつにすら妥協してたまるかよ。

 

 

「俺は不謹慎だから、勝手に幸せになるよ」

 

 

『いいよ』とも『駄目だ』とも、もう聞こえない。

 目を、瞑る。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「寝過ごした!!」

 

 目が覚めたら知らない駅に着いていた。

 咲耶は手元のスマホで青褪めた顔を照らしていた。

 

「終電、完全に終わってるわ……」

 

 改札を出た、暗い駅前で二人頭を抱える。周りに何もない。店もない。山だ。

 どこだよここ……! というかなんで俺まで寝た……!

 ひとしきり謝ってはどうしようかと考えていると、咲耶がくすくすと笑い出す。

 

「ふふっ、揃ってよく寝ちゃうなんて。健康的ね? 背が伸びちゃうかも」

 

 魔女ジョーク。

 

「わたし、電車降り忘れるのも終電逃すのも初めて」

 

 咲耶はまったく気にしてないようで、それどころか、楽しんですらいた。

 

「タクシー呼ぶ? それとも……」

 

 そう言って彼女は視線を向こうへとやる。

 頭上、山中で星は眩しいほどだった。眼下、少し坂を下った先には町が負けじと光を瞬いている。

 どうやら俺たちの帰る家は、そう遠く離れてないらしい。

 

 

「──いい夜だから、歩いて帰っちゃう?」

 

 

 悪戯っぽい笑みで彼女は言う。ああ、そうだな。確かにいい夜道だ。

 行きの大荷物は芽々たちと別れる際に車に預けてあった。歩くに支障はなく身軽だが。

 

「足、大丈夫か。下駄だろ」

「靴擦れとは無縁よ。裸足だって平気」

「そうか。なら」

 

「──走るか」

 

「なんでよ!」

「冗談だよ」

 

 そのまま、くだらない話をしながら二人きり、夜道を歩いた。

 明日の話をして、明後日の話をして、来週と来月の未来の話をした。

 

「ね、もうすぐ文化祭じゃない?」

「そういや俺たち、高校生だったな。忘れてた」

「あっは! 異世界ボケ悪化してる!」

 

「そろそろ真面目に学生やるか」

「ええ、そうね。きっと忙しくなるわ」

 

 問題は山積みで、一寸先の未来がどうなっているかなんてわからないけど。

 大丈夫だきっと全部。今度こそうまくいく。

 すべての楽観は気休めだけど、思い悩むのは今じゃなくていいんだ。

 

 話しながら歩くうちにどちらともなく歩調は早まる。夜の坂道を笑いながら駆け下りる。

 かこんと鳴らした下駄がずれて、咲耶がよろめいた。

 

「きゃ」

「っと」

 

 想像はできたことだ。腕を取り受け止める。今度はちゃんと支えられたな、と六月の海を思い出す。

 

「ありがと。相変わらず鈍臭いわね、わたし」

「お互い様だ。俺も大概だからな」

 

 寝過ごしたし。

 

 咲耶を見る。夜目が効くおかげで彼女の姿ははっきりと見えた。

 

「簪、緩んでるぞ。落ちそうだ」

「ほんとだ」

 

 咲耶はしゃらりと簪を引き抜いた。浴衣の襟から覗くうなじの上に、ゆるく癖の付いた柔らかい髪が解けて広がった。

 引き抜いた簪と短くなってしまった髪をまじまじと見る。

 

「?」

 

 俺の視線に咲耶はしばし首を傾げた後。短くなった髪の先を摘み「えい」と赤い粒子を飛び散らせた。

 途端、宙に浮いた髪が淡く光りながら伸び始める。そういや魔女だから髪の長さは好きに変えられるのか。

 

「やっぱり長い方が好きかなって」

「どっちも似合ってたよ」

「そう? じゃあ間を取っちゃおうかな」

 

 胸のあたりのセミロングで止めた。

 

「……ああ、いいなそれ。すごくいい」

 

 以前の長髪よりも軽やかで、快活さと大人っぽさの中間の雰囲気がある。胸元で切り揃えられた毛先が光に透けて輝いて見えた。

 見惚れていると、またも上機嫌に咲耶は笑い出す。今日は箸が転がっても面白い気分らしい。

 

「あなたって、わたしのこと好きよねえ!」

「知ってるだろ」

 

 ……相変わらず心臓が高鳴ることはないが。そのうち、どうにかなるのだろう。

 

 こちらの気を知ってか知らずかにこにこと微笑む彼女を前にして、ふと考える。

 

 そういや。結局──俺たちの今の関係は何なのだろう?

 

 花火の際の彼女の告白は控えめに言ってプロポーズと解釈できるものだ。だが、多分咲耶にはそのつもりがない。というか、絶対ない。

 だって日常の延長線上で結婚とか言ってしまう奴だぞ。こいつは本当に、軽々しく一生を口にする。どうかと思う。

 俺が実質プロポーズの覚悟で受け取ったのにプロポーズどころか「恋してない」とか言って振って来やがった前科は記憶に新しい。

 

 ──咲耶は多分、これまで通りでいるつもりなのだろう。

 関係の再契約とはそういうことだった。

 だが、俺は。

 流石にこのまま現状維持というのは据わりが悪い。あれだけの言葉を貰っておいて、現状維持(このまま)などあり得るだろうか?

 などと考え込んでいたら。

 

「……付き合うか」

「え? ……えっ!?」

 

 口が滑った。

 

「い、いいの!?」

 

 咲耶は目を丸くし、動揺よりも心配の色濃い顔でおろおろとこちらを伺う。

 確かに俺たちは付き合えないはずだった。関係の定義とは呪いであり、「恋人」という甘ったるい関係は、不完全な自我を侵食する呪いに成りかねず、「付き合おう」という言葉すら危ういはず、だったのだが。

 口にしても特に何も異変がない。今まで告白した際のように、脳に爪を立てられるような錯覚がやってこない。

 ──ああそうか。俺の自我はもう不完全(・・・)ではないのだ。

 

 

「もう言えるんだよ、俺も。君が好きだってことくらいはさ」

 

 

 これまでみたいに冗談まじりでも反動覚悟でもなくて普通に、当然のように、言えるようになったのだ。もらったものを少しずつ返していけるように。

 眉を下げる。目を細める。彼女の手を、取った。

 

「だから、なんでもは聞けないが。いつかの約束くらいは聞ける」

「い、いつかって……?」

 

 まさか、忘れたとでも言うつもりだろうか。

 いつかの約束を口にしようかと迷って、流石に言葉には出せなかった。それに、言葉より行動の方がわかりやすい。

 

 浴衣の袖から覗く彼女の細い手を、取ったまま。

 その白い手の甲に。

 口付けを落とす。

 

 

「っ…………!!?」

 

 

 暗闇でもわかるほど、彼女は頬を赤く染め上げた。

 

「な、な、な……」

 

 震える声と潤んだ目で、「なんで」と問う。

 いつかって言ったろ。約束通りだ。満足したか?

 ……などと、軽口を叩こうとしたのだが。

 顔が上げられなかった。

 

「あのさ、咲耶。情けないこと言ってもいいか」

「……どうぞ?」

 

 

「…………めちゃくちゃ恥ずかしい」

 

 

 顔を覆った。

 いや、唇にキスは論外として手なら頬より難しくないと思ったんだ。そんなことなかった。全然恥。もう死にそう。なんだ今の。くそっ格好つけすぎた。

 俺ちょっとここ最近ずっと格好悪かったからな……。一度しくじったら格好がつかないんだぞ……。

 羞恥心に打ちのめされながら、指の隙間から彼女を覗くと。咲耶は頬を紅潮させたまま、静かに微笑んでいた。

 人が動揺しているのを見ていると逆に冷静になるのだろう。あるいは──キスは彼女の領分か。唇に浮かぶのは、余裕の笑みだった。

 

「……ふふ、真っ赤」

 

 潤んだ瞳を猫のように細めて。慈しむように揶揄う。

 ぐ、と息を飲んだ。

 

 咲耶はそのまま、キスされた手を口元に持っていき。

 こちらにはっきりとみえるように。柔らかな唇が、彼女の白い手の甲に。俺が触れた場所とまったく同じ位置に、ゆっくりと落とされる。

 

 

「間接キス……なんてね?」

 

 

 恥じらいと意趣返し。照れ隠すように意地悪く、彼女は言った。

 俺は顔を、覆ったまま。自分の胸倉を掴んだ。

 口付けは呪いだ。だが耐性はある。今更間接キス(このていど)、何の呪いにもならない。

 わかっている。なのに。

 目の前に火花が散った。火花は心臓に飛び火する。頭の血管に血が回り、ぐらりと煮えるような錯覚がする。

 それは呪いに似て、けれどそんなものとは別種の、もっと強くて鮮やかな、感情(・・)だった。

 

「は、ははは……」

 

 破裂しそうに鳴る心臓を押さえつけながら、羞恥と呆れがこみ上げてくる。乾いた喉で呻くように笑った。

 本当に、どうしようもない。

 

 ──ああ、こんなことで。

 

 

「どうにかなってしまった」

 

 







三章終了です。ありがとうございました。


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