僕のおしごと (駒木)
しおりを挟む

1 始まり

 将棋。九×九マスで行われる漢字の駒を用いたボードゲーム。

 

 

 時期は九月。とある大きな会場を貸し切って、そこではアマチュアによる将棋大会が開かれていた。

 将棋アマ名人戦。各都道府県から代表を選出して、アマ名人になるために鎬を削る年一回の大会。優勝者はプロの名人と角落ちで戦えるというのが魅惑の大会だ。

 その決勝。テレビ撮影もされているその決勝で戦っているのは杖をつくような七十過ぎの老人と、三十代になったばかりの男性。

 

 七十過ぎの老人は道楽で将棋を続けていたが、それでも決勝まで勝ち上がってくる猛者。それもそのはず、彼は去年のアマ名人だ。今回と次に勝てば通称永世アマ名人の称号も得られる。アマには永世がないので仮になるが、それはそれで偉業だ。

 一方若い男性はこれが初のタイトル戦。だというのに老人の果敢な攻めを防いでいた。

 老人は攻めの将棋を。若い男性は受け将棋を。お互いがお互いの持ち味を出し切ったその棋戦は127手にも及んだ。最後には、老人の年齢を感じさせる皺だらけの手が、ゆっくりと駒から指を離して嗄れた声で呟いた。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

 

 老人の攻めを耐え切った男の勝利。これによって男はアマ名人となった。アマ名人ともなればプロの世界でも通用するということでかなりの数の記者が新アマ名人を写真に収めていく。

 大会としてはこれで終わりだ。この後はお互い感想戦をして表彰式をやっておしまい。その前に持ち込んだ飲み物を口に含んでから、感想戦に移る。

 

「いやいや、夜叉神君。完敗だよ。老後の楽しみの老いぼれが将棋界を引っ張るのではなく、君のような若者が盛り上げてくれるなら嬉しいものだ。名人との記念対局、頑張ってくれ」

「はい。でも本当に、ギリギリでした……。見た目に似合わず若々しい将棋をなさる」

「これしか知らんからの」

 

 二人が雑談をしている間に、老人に近寄る少年がいた。まだ小学校低学年といったところか。その少年は片手に杖を持っていた。

 老人が歩行に使うためのものだ。

 

「これこれ、暁人(あきと)。まだ終わっておらん。観客席に戻れ」

「じいちゃん。何で銀打ちなんてしたの?ここ、角で逃げ道塞げば勝てたのに」

 

 暁人と呼ばれた少年は終着から数手だけ戻して、言った通りに角を置く。それが何だと二人とも思ったが、夜叉神が次の手を指し、暁人が次の手を指す。そうして都合十七手。

 詰んでいたのは夜叉神の王だった。

 

「ほっほっほ。いやあ、これは引退じゃの。暁人がわかる手をわからんかったのは、儂の時代は終わりじゃ」

「そんなこと言わないで来年も出てよ。僕もここに来るの楽しいし」

「いーや。終わりじゃ。夜叉神君。これが儂の孫じゃ。ええじゃろ?」

「……さすがご老公のお孫さんだ。僕の名前は夜叉神天祐(やしゃじんたかひろ)。君の名前は?」

碓氷暁人(うすいあきと)。小学一年生、です」

「そうか、小学校に入ったばかりか……。ご老公、彼を奨励会に入れるつもりですか?」

「まあの。年齢制限もあるし、暁人も興味があるという。大槌さんのところへ弟子入りさせたばかりじゃよ」

 

 大槌九段。振り飛車で猛威を振るったプロだ。既に現役を退いており、今は後進の育成に当たっている。その一人が暁人だ。

 

「ご老公。僕も暁人君と研究会をしたいんですが、いいですか?」

「まあ、京都と神戸なら近いからの。構わんよ。暁人が強くなるのも、君がアマ名人として躍進するのも楽しみじゃ」

 

 それから時間が合えば天祐は暁人と研究会という名の家族交流を行った。もちろん将棋も指したが、主に天祐の娘、天衣(あい)の自慢だった。

 まだ三歳になる前の天衣と暁人では将棋にならなかったが、それでも暁人も楽しそうに彼女と遊んでいた。彼らは将棋で繋がっていた。

 暁人の将棋は、祖父に似ず重厚な将棋を指していた。大駒をしっかり置いて、強烈な一撃をかます将棋。しかも大局観まであるので、その一撃はほぼほぼ間違えない。

 そんな暁人と将棋をした結果、天祐は月光名人との記念対局で二十三手詰を読み切り勝利。その勝利の様子はほどなくした研究会の日に告げられた。

 

「暁人君、君のおかげで勝てたと思う。ありがとう」

「そんなことないです。ね、天衣ちゃん」

「そうよ!お父様はサイキョーなの!暁人なんてボコボコにしちゃうんだから!」

 

 暁人のあぐらをした膝の上でそうはしゃぐ天衣。今日も黒のゴスロリ服が似合っていた。天祐はそこまで慕ってくれるなら自分の膝の上に来て欲しいと思っていたが、これは暁人が来た時の特別だった。

 そのままの体勢で暁人と天祐は将棋を指す。天衣ははしゃぎながらも、二人の将棋の邪魔だけはしない。

 天祐はそんな状態で盤面に集中し切っている暁人に感心していた。

 

(末恐ろしい。一度将棋を指せばもう盤面しか見ていない。月光会長に匹敵する静けさだ。……おっと。こんなことを考えている時点で失礼か)

 

 暁人は時期的な問題でまだ研修会にも入っていない。だが、それも時間の問題だ。師匠である大槌もしばらくしたら研修会に入れるという話をしているようで、そもそもアマチュア六段の天祐と平手で指せている時点でそのレベルは伺える。

 アマチュアの上位層は将棋に出会うのが遅かった天才たちと呼ばれる。年齢制限の問題でプロへの入り口である奨励会に入れず、それでも将棋を指したくてアマチュアの大会やネット将棋で戦う猛者たち。

 

 実力で言えば三段のレベルがあるとさえ言われている。プロ一歩手前、人によってはプロの下層であれば捲れるほどの実力であると。

 そんな天祐と平手で五分に指せる暁人はまさしく、天才としか言いようがない。

 そして驚くのが。振り飛車党である暁人は一撃のためにその飛車を捨てることもある。その先に勝利があるとわかれば、容赦無く飛車を切る。小学生故か、それとも。

 

 暁人は年齢の割に定跡を知っている。戦法も詳しい。そこは祖父と師匠が教えているらしい。だが、終盤は彼自身の才覚だ。そこに二人は手を加えていないらしい。

 その終盤力が発揮される前に、天祐は急いで暁人の王を囲んだ。とんでもないカウンターを受ける前に。天祐の本質は受け将棋だが、全部受けていては勝てないとわかって速攻を仕掛けることもある。

 それが天祐の躍進にも繋がった。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

「やっぱりお父様が勝ったわ!暁人はわたしと指すくらいでちょうどいいのよ!」

 

 天衣はそう言うと、今度は天祐の膝の上に乗って暁人と指すつもりなのだろう。それに待ったをかけるのは天祐だ。

 

「天衣。棋譜を残してから。その後暁人君と指すといい」

「はーい」

 

 聞き分けのいい子だった。そして暁人も祖父や師匠に恵まれたからか、年齢の割に大人びた子だった。天衣と指す時はきちんと天衣に合わせて勝ったり負けたりしている。

 こうして碓氷家と夜叉神家の交流は続いた。暁人が師匠の所で研究会をしたり、研修会に入会してからも月に一度ほどは交流を続けた。天祐の仕事や暁人の状況に合わせたが、基本は日曜日に会うことになっていた。

 開催は両家どちらかのことが多かったが、たまには暁人の師匠繋がりで生石プロが営む将棋道場「ゴキゲンの湯」に顔を出してそこでお客と一緒に指したり、将棋を指さずにご飯を食べに行くだけの時もあった。

 

 そうして天祐は仕事と両立しながらアマ名人戦を五連覇。アマ七段に昇格し、通称永世アマ名人と世間では言われ始めるが、その時点でアマチュアの大会に出るのを辞めて仕事と家族のことに専念することとした。

 それと同年。とある記録が奨励会で生まれた。史上最年少である二段昇格。この少年、入品も史上最年少だったが、二段昇格すらも最年少だった。

 そしてなぜこの少年が注目されたかと言われれば。

 

「今後注目の棋士はいますか?」

「アマチュアの大会には出られませんが……。奨励会に素晴らしい少年がいます。その彼の躍進を心待ちにしています」

 

 そう、アマ名人の引退宣言の際に言われていたからだ。

 

 

 碓氷暁人は中学一年生になっていた。夜叉神天祐と出会って五年強。

 彼は三段リーグに挑んでいた。しかも今の所二勝という最高の滑り出し。十八戦する中で最初の二連戦を勝ち星で納めたのは幸先がいい。

 そんな彼は小学校高学年の頃に与えられた自室でパソコンを操作していた。パソコンには様々な棋譜を纏めたファイルとネット将棋ができるサイトが使えるだけのもの。それで彼にとっては十分だった。

 

 暁人は学校から帰ってくると予定がなければ学校の宿題を終わらせてすぐ将棋に打ち込む。三段リーグは半年にも渡る長期戦だ。その幸先が良いとはいえずっと集中し続けたら体力がもたない。

 そう言うわけでこの日は過去の天祐との将棋を並べていた。昔からすぐに思い起こせるようにと夜叉神家との将棋は全て棋譜に残していた。そんな五年以上の積み重ねが奨励会でも役に立っている。

 だからたまには原点に帰るために、暁人は懐かしの棋譜を広げていた。

 

 どれだけ棋譜を並べていたか。時計も気にせず将棋の内容を振り返っていた時、ドアをノックする音が聞こえた。夕飯の時間だろうと暁人は意識を復活させると、ドアの先にいたのは祖父だった。

 暁人の部屋は二階だ。一層足腰の弱くなった祖父が夕食を告げるためにわざわざ上がってくるとは思えなかった。今も杖を使って歩いている状態だ。

 

「爺ちゃん?どうかした?」

「暁人。制服を着なさい。神戸に行くぞ」

「神戸?今から?」

 

 神戸と言われて思い浮かぶのは夜叉神家だ。むしろそれくらいしか思い浮かばなかった。師匠の家は大阪、将棋会館も大阪。

 その上制服と言われて嫌な予感がした。思わず机に広がった棋譜に目が向く。

 

「天祐君と奥さんが亡くなった。交通事故だそうだ」

 

 ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。そうとしか、言いようがなかった。

 ただ、それが事実なのだろうと祖父の様子から察した。すぐに制服に着替えて、両親と一緒に家族全員で車に乗り込む。

 運転は父。助手席に母が乗り、母がカーナビを操作しながら父は高速道路へ進む。

 

「天衣君を迎えに行く際に、トラックが突っ込んできたようじゃ。それが昨日の話。送別式や通夜はなしですぐに葬式を行うと」

「……天衣ちゃんは無事なの?」

「幸いなことに。ただ、あの家は引き払ってお祖父さんのところで暮らすことになるらしい」

 

 天衣は七歳になったばかりだ。まだまだこれからの少女。これまで親しくしていた妹のような子がいきなりそんなことになって、今どうしているか。それが不安で不安で仕方がなかった。

 携帯電話に彼女の家の電話番号は入っていた。だが、それではきっと繋がらない。天祐の番号も入っていたが、それだって通じるかどうか。

 もし昨日の内に知れたら。何が何でも彼女の元へ駆けつけただろうに。そんな後悔ばかりが募る。

 

 斎場に着くと、礼儀的なことは全て両親がしてくれた。暁人は祖父を伴って会場に入って行く。

 関係者席。棺に一番近い席。そこに黒く小さな影があった。とても小さく、誰も寄り添っていなかった。そこへ辿り着く前に大きな二つの棺を見て。黒縁で囲まれた笑顔の二人を見て。

 締め付けられる胸を押さえながらも、暁人は進む。大切な少女を孤独にしないために。

 暁人は彼女の前へ行って、膝を着いた。椅子に座りながら伏せている彼女と目線を合わせるために。ここにいることを伝えるために。

 

「天衣ちゃん。遅くなってごめん」

「あき、と。お兄ちゃん……」

 

 濡羽色の髪をした、愛らしい少女。その愛らしさを損なうほどの悲痛な表情をした、たった一人の子どもがそこにいた。

 その少女はゆっくりと、目の前の少年に手を伸ばす。少年もしっかりとその手を取った。ここにいるよと、教えるために。

 それがわかったからか、少女は少年の胸に飛び込む。嗚咽交じりに、今まで我慢してきたものを吐き出すように。

 

「お父様が……!お母様がぁ……!」

「うん。早すぎた。僕は結局、約束を守れなかった……」

「あぁ……。あああああああああああっ!」

「天衣ちゃん、将棋を指そう。僕じゃきっと二人の代わりにはなれない。けど、僕は君に将棋から離れて欲しくない」

 

 その言葉に対する返事はなかった。それでも彼女は必死に、首を縦に振る。

 暁人は代わりにはなれなくても。彼女のことを守っていくことをここに誓った。

 

「僕は棋士になる。だから天衣ちゃんも、女王になろう。二人で最高の棋譜を作ろう」

 

 二人とした約束を守るために。暁人と天衣はそれを実現するために。

 ここに二人だけの誓いを立てた。

 




感想とかもらえると嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2 昇段

 その日、将棋界も含めて日本が揺れた。

 中学生プロ棋士の爆誕。実に数十年ぶりの快挙だった。

 しかも、二人(・・)いたために、お茶の間の話題はそのことが全てを掻っ攫った。

 一人はおそらくなるだろうと世間的にも言われていた九頭竜八一新四段。将棋界では将来有望な少年で、小学生名人の最年少記録保持者だった男の子。その勢いのまま研修会と奨励会を異様なスピードで駆け上がっていった天才。

 十五歳二ヶ月という史上四人目となった。

 

 そしてもう一人。こちらは世間的にはあまり有名ではなかった。熱心な将棋ファンなら知っているだろうという程度。今年になって若干有名になったが、それでもプロ入りはまだ早いと思われていた。

 なにせ十二歳十ヶ月。中学一年生という史上最年少での四段昇格を成したのだから。

 その人物の名は碓氷暁人。彼も奨励会を抜ける速度は尋常じゃなかったが、それでも今回が三段リーグ一期目。まさか魔の三段リーグを一期抜けするとは思われていなかったのだ。

 九頭竜ですら二期かけている。だというのに、暁人はたったの一期、十六勝二敗という成績で二位抜けをしてみせた。

 

 今期の昇段はこの二人のみ。昇段に合わせた記者会見が行われたが、その時に事件が起こった。将棋連盟としても格好の広報になるため、記者会見を生中継でお茶の間に流したからこその事件だったと言える。

 記者のなんてことのない質問。当たり障りのない質問のはずだった。最初に答えた九頭竜はしっかりと受け答えをして、続いて暁人の番になった。

 質問の内容は「プロになったことを誰に伝えましたか?」という一番初めの質問だった。九頭竜は家族や師匠、同門の皆に伝えましたという真っ当なもの。

 一方暁人は。

 

「家族に師匠。それに……大切な友人に、伝えたかったです……!」

 

 そう答えた途端大号泣。これには一緒にいた九頭竜も連盟の職員たちも驚いた。暁人が泣く姿を初めて見たからだ。

 九頭竜は暁人のことを大人顔負けの将棋を指すことから、対局したこともあったために嬉し泣きをするような子じゃないと思っていたため。連盟の職員も暁人は受け答えなども中学生とは思えないほどしっかりしていたので、最初の質問で泣き崩れるとは思わなかったのだ。

 しかも泣き方が嬉し涙ではなく、まさしく泣き崩れているという様相なのだ。プロになれて嬉しくて泣き出してしまう子どもらしさに記者たちは微笑ましく見守っていたが、特に彼を知っていた職員がおかしいと思い会見の場に入ってきた。

 

 暁人はずっと泣いたまま、まともに喋れなかった。やはり表情も嬉しそうじゃなかったために、会見は暁人抜きで九頭竜のみのワンマンショーとなった。

 暁人は控え室でずっと涙を流しており、困った職員がどうしようと考えていた時にやってきたのは月光会長だった。秘書である男鹿ささりもいた。

 

「皆さん、すみません。碓氷くんとは私だけで話をさせていただけますか?」

 

 会見を設定したのは月光会長だ。今回責任を負うべきなのも会長ということになる。そんな人物の言葉なので職員たちは全員退室した。男鹿だけは目の見えない月光会長の補佐として残っていたが。

 

「か、いちょう……。ご、ごめんなさい……」

「いえ。あなたのことを思いやれなかった私のミスです。……夜叉神夫妻のことですか?」

 

 月光会長の言葉に、暁人は肩を大きく揺らした。言葉はなくとも、それだけで返事をしているようなものだ。

 月光会長は天祐と記念対局をした名人であり、将棋界の発展に寄与してきた夜叉神家のことは会長として把握していた。そして暁人が夜叉神家と親しいことも。

 

「夜叉神家の意向で事故については公表していませんから。あの場で名前を出しても困惑されるでしょう。……まだ、半年ですからね」

「……大丈夫だと、思ってたんです。吹っ切れてなんていないですけど、ちゃんと我慢して答えられるって。……そう、思ってました」

「あなたはそれこそ、中学生ですから。それに我慢なんてしてはダメです。感情を押し殺すのは人間としてダメですよ。泣きたい時は泣いていいのです」

 

 暁人は真正面からそう言われて、涙を止める努力をした。そう言われても迷惑をかけたことには変わりないのだ。

 

「記者会見は、無理ですけど。雑誌の取材とかだったら受けます……」

「それらも無理をしなくて大丈夫ですよ。九頭龍くんもいますから。一般の記者ではなく、将棋世界を出している雑誌のみで取材という手もあります。あなたは記録を更新したために情報をある程度流さなければいけませんが、中学生ということを配慮して取材などを断ることはしてもいいんです。私達に遠慮はしなくて構いません」

 

 月光会長がそう言うと、男鹿のポケットから着信音が聞こえてきた。電話かと思っていたが、男鹿が出したのは暁人のスマホ。

 記者会見をするからと、彼女に預けていた物が震えていた。

 

「すみません。相手が見えてしまいました。碓氷くん、出るべきだと思いますよ?」

 

 男鹿から受け取ったスマホに出ていた相手の名前は夜叉神天衣。お祖父さんの家に移ってから買ってもらったもので連絡をしているのだろう。

 月光会長も頷いたことで、暁人は通話ボタンを押す。息を少しだけ吸って、暁人は伝えたかった言葉を口にする。

 

「──天衣ちゃん。棋士になったよ」

「知ってるわよ!?大丈夫なの!途中でいなくなっちゃうから、電話したのだけれど……」

「天衣ちゃんの声聞いたら大丈夫になった。……うん、もう大丈夫」

 

 そんな世間を騒がせた出来事の裏で。最年少棋士は穏やかに笑っていた。

 彼本来の笑顔がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら。九頭竜四段、また竜王戦の予選勝ったわね」

「そうなの?調子良いんだね」

「と言うか、竜王戦しか勝ってないわよ?玉将戦は負けてるし、棋帝戦も負けて、新人戦の予選も負けてるわ」

「僕と真逆だなあ」

 

 夜叉神邸宅。そこで僕と天衣ちゃんは指導対局をしていた。今は休憩中で天衣ちゃんはタブレットで将棋界の情報を集めている。

 十月に棋士になってからはや三ヶ月。色々な棋戦が始まっているけど、この時期はタイトル戦が多いために新人の僕はあまり対局がなかった。予選も数が少ないし、順位戦もまだ先。出られる棋戦は出るようにしていたけど。

 竜王戦の予選は負けて、それ以外の玉将、棋帝、新人戦は今の所勝ち進んでいる。僕も九頭竜さんも中学生棋士だからすごく注目されているけど、勝ったり負けたりで熱も収まってきた頃だ。

 まあ、余裕がある方が学校の宿題とか天衣ちゃんの指導とかできるから良いけど。

 

「お兄ちゃんは今の所六連勝ね。また騒ぎ出すんじゃない?」

「竜王戦の予選であっけなく負けたからどうだろ。名人との記念対局もギリギリ100手いっただけだし。……天衣ちゃん、僕の呼び方の使い分けって何か意味があるの?」

「あるわよ。だから指導を受けてる時はちゃんと師匠って呼んでるじゃない」

 

 将棋界は礼節がとても大事だ。年長者や段位が上の方はすごく尊重する。だから天衣ちゃんも指導中は僕のことを師匠と呼び、お兄ちゃんとは一切呼ばない。休憩中や食事の時はお兄ちゃんって呼ぶけど。

 名人との記念対局なんだけど、最初は僕と九頭竜さんどちらとも対局をしようとしたらしいけど、名人は対局が詰まっていたために一局だけとなり、僕が指した。九頭竜さんは同門の月光会長と記念対局をしたようだ。

 二人とも吹っ飛ばされたけど。A級在位のトッププロだ。プロになったばかりの僕たちじゃ敵わなかった。

 

 天衣ちゃんは正式に僕の弟子になっている。これに大槌師匠は最初反対した。僕はプロになったばかりで、しかも学生だ。二足の草鞋の時点で大変なのに、その上神戸まで出張って指導をするというのは大変じゃないかと。

 だけど天衣ちゃんの状況を知っていたからか、反対は最初だけだった。僕が奨励会を駆け上がれたのは夜叉神家のことが大きいとわかっているからだろう。

 今では土日のどちらか、対局がない日に指導をしている。月光会長は僕に色々配慮してくれているようで大盤解説や記録係の仕事は基本的に入れないでくれた。対局以外の仕事が増えると天衣ちゃんに会う時間を作れないからだ。

 

 天衣ちゃんが京都に来るって話もあったけど、どうせこれからこっちに来ることの方が多くなるから大丈夫と伝えたら顔を真っ赤にして枕で叩かれた。何でって思いながら年度が上がったら大阪に引っ越して一人暮らしをするという話をしたらすぐに謝ってきたけど。

 何だったんだろう。女の子の気持ちはわからない。

 指導の回数が変わるのが嫌だったんだろうか。

 天衣ちゃんへの指導は主に中盤から終盤にかけて。天衣ちゃんは天祐さんに似て素晴らしい受け将棋をするけど、だからって中盤で相手に手番を渡す意味もない。

 終盤も鍛えつつ、定跡から有効な中盤の指し方を教えている。

 

「……空女王、また勝ってるわね。女流は一強状態だわ」

「空さん女性では一番強いのも当然でしょ。奨励会に入ってる時点で他の女流じゃ相手にならないよ」

 

 これは女流棋士の棋力の問題。プロ棋士になった女性は今の所おらず、女流でタイトルを獲っている人たちは奨励会に入れなかった人たちがほとんどだ。研修会を途中で辞めた人がタイトルホルダーとして名前を連ねる。

 そんな中で現在一段となって奨励会に挑んでいる空さんと戦える人がいるかと言われたら、思いつくのは二人だけ。その二人だって調子の波が激しすぎて戦いと呼べるかもわからないけど。

 

「お兄ちゃんに勝てるようになれば、わたしだって女王になれるわよね?」

「まあ、将棋に絶対はないからそんな単純なことでもないけど。相性もある。僕が空さんと戦ったら全部負けるかもしれない」

「お兄ちゃんは女王と戦ったことないの?」

「研修会で一回だけ。向こうが上の級だったから香落ちで指したよ。その時は勝った。それ以降巡り合わせもなかったし、研究会とかも開いてないからそれ以降は一回も。それに空さん振り飛車嫌いらしいから、僕嫌われてるんだよねえ」

「はぁ?なにそれ」

 

 天衣ちゃんの表情が歪む。派閥や得意戦法というのはどの棋士にもあって、それが苦手とする戦法やそれを使う棋士を嫌うことなんてザラだったりする。僕の兄弟子なんて「振り飛車党総裁」なんて渾名があるほど人の個性が出る。

 

「振り飛車と居飛車は仲が悪いからね。よくあることだよ。それに同い年の下の級に負けたのが悔しかったんだろうね。僕に負けた後九頭竜さんに泣きついて?うん、泣きついてた。それ以降敬遠されてるかな」

「見る目ないわね。女王は。棋力に年齢も級も関係ないじゃない。戦法だって人それぞれだわ。……というか、何?その二人って公衆の面前でそんな風にイチャついてるの?」

「そうだよ?大阪の将棋会館じゃ有名なんだから。二人のこと夫婦って呼んでる人もいる。同門で四六時中一緒にいて、空さんは九頭竜さんを好きなことを隠していないから」

 

 天衣ちゃんを将棋会館に連れていったことなかったから知らないのか。あの二人は昔から来る時も帰る時もずっと手を繋いでいた。小さい子供だったからだろうけど、それが恋愛の好きに変わるのは自然なことだったんだろう。

 空さんが九頭竜さんを心配したり、彼だけに見せる態度を見れば誰だってわかる。

 

「連盟の職員さん達はいつ二人がくっつくのか賭けをしてるらしいよ?世間でも割と有名だったはず。ネットにそんなこと書かれてなかった?」

「わたし、勝敗は調べてもそれ以上は調べてないわ」

「掲示板とか、見るだけで時間がかかるからね。世の中にはそういうのを面白おかしく話している場がある。そんなところ見たって女王に勝てるわけもないけど」

「でしょうね。相手の個人情報を知って勝てるほど、将棋は甘くないわ」

「番外戦術なんて今やする人はほぼいないからね。戦術とか棋譜を集めておけばいいよ」

 

 別に九頭竜さんが空さんとくっつこうが、師匠の娘さんである清滝桂香さんとくっつこうが、他にも色々と交流のある女流棋士の人とくっつこうが、関係ない。それで弱くなったらそこまでの人だったというだけ。

 僕たちは棋士だ。全ては盤面で語ればいい。

 ……ちょっと女の人にだらしがないなと思うけど、竜王戦を勝ち上がってるのは本当なんだから、そんなところでケチをつけたらダメだろう。うん。

 

「天衣ちゃん。まずは女王になるんでしょ?そうしたらそろそろ反則手とか、アマチュアがやりそうな騙し手を教えようか」

「それって何が何でも勝とうって思ってやっちゃう将棋ってこと?」

「年齢制限とか、何勝とか求められる世界だから、棋士じゃなければ結構あるみたい。勝つために何でもやってくる人は一定数いるよ。僕も女流はあまり調べてなかったんだけど、女流の試合でも何回かそういうのはあったから。研修会や奨励会でも何人かそういう人いたし、対処法だけ知っておけばいいよ」

 

 必死になりすぎて空回った結果、棋力以外の手段に頼るという本末転倒なことをする。そんなことをしてプロになったって勝てないのに、やる人はどうしたっている。

 そんな人たちのせいで足踏みするのは嫌だろう。だから今の内に教えておく。

 

「簡単なのは指したフリかな。ちょっと目を離した内に駒音だけさせて指したフリをする。それに引っかかってこっちが指したら二手指したことになって反則になる」

「え?そんなことする人いるの?」

「いた。研究会で一回喰らったよ。盤面覚えてたから引っかからなかったけど、年齢制限に近い人ほどやる。後は降級や残留が決まっているから道連れにしようとする人も。トイレで立ち上がっている間に指したフリをして堂々としていて、相手に指させるって方法をとった人もいたみたい」

「……必死すぎるわね」

 

 でもそういう場所なんだ。あの将棋会館というのは。プロでそれをやったら顰蹙を買うからそういう盤外戦術を取る人はいない。そんな人はプロでも何でもないからだ。

 

「後はいきなり定跡から外す手を指してくる人。もちろんそんなのは棋士でもやる人はいるけど、棋士の場合はその手をこれでもかと研究して打ってくる本気の一手だ。けど全く研究もしていないけど、定跡からさっさとズレて相手を困惑させようとする人もいる」

「それで行き当たりばったりな将棋を指すわけ?」

「そう。読み合いに自信があるとか、逆に定跡をあまり学んでいないからこそ、そういうことをする。定跡は定跡だからこそ残ってるのに、それをワザと崩そうとする人はいるよ。自分が強くならなくても、相手が実力を発揮できなければ勝てるのが将棋だから」

 

 真剣師というお金をやり取りする人たちだと特にそういう傾向がある。僕もプロになってしまったのでそういう場所に近付けない。それに対局料以外でのお金のやり取りをする将棋なんて天衣ちゃんに教えたくない。

 彼女にとって将棋とは、両親との絆だから。その将棋を汚そうとする人には修羅のごとく怒るだろう。

 でも研修会や女流ではやってくる手なので、一応教えておく。本番で困らないように。

 

「わたしは、わたしの将棋を指すだけよ」

「そういう人が一番強いんだよ。将棋は」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3 調べ物

「そう言えばお嬢様は小学生名人には出られないのですか?」

「出ないわよ、ちびっ子の大会なんて。お兄ちゃんがいれば研修会に入れるのに、研修会にも入っていない奴らと戦ってどうするの?」

 

 ある日。夜叉神宅でご飯をいただいている時に天衣ちゃんのお付きの女性、池田晶さんがそんなことを天衣ちゃんに尋ねていた。それまで将棋に明るくなかったらしいが、天衣ちゃんのお付きになってからかなり調べたらしい。

 夜叉神家ってどこからどう見てもヤクz……いや、実業家か。晶さんもどう見てもそういう女の人だもんなあ。仕草と言葉が。黙って立っているだけならただの美人な女性なのに。

 研修会は師匠の推薦状があれば編入試験を受けられる。他の学生大会で優勝すれば一部試験の免除だったり、推薦がなくても受けられたりする。天衣ちゃんの場合僕か、最悪大槌師匠に推薦状を書いてもらえば入れる。

 でも、一応口にしよう。

 

「小学生名人は師匠がいる子も出るよ?それに九頭竜さんや空さんも優勝者だ」

「でもお兄ちゃんは出てないじゃない。いくら小学生名人が将来の名人と呼ばれたって、プロになった人はいても実際に名人になったのはどれだけいるの?お兄ちゃん以下の相手と戦う意味なんてないわ」

「僕以外との対戦経験も大事だと思うよ?」

「ゴキゲンの湯でいいじゃない」

「あそこは振り飛車で固まってるからなあ。女流は振り飛車多いけど」

 

 意思は固いらしい。指導の時と本番は違うものだから経験するのも大事だと思うけど、天衣ちゃんの価値観のベースが僕か天祐さんになっている。

 どっちも奨励会三段に匹敵して、幼稚園の頃から僕達の棋譜を読んで並べて理解してきた天衣ちゃんからしたらただの小学生なんて戦う価値もないのだろう。

 同年代の子との真剣勝負って大事だと思うけど。大会や公式戦ってまた別の緊張感があるし。

 

「将棋会館にも道場があるんでしょ?そこで戦えば十分じゃない」

「一理ある。結局西日本の強い子供は大阪に集まるし。研究会で揉まれるのも一つの手か……」

 

 実際今の天衣ちゃんの実力なら早々に降級点をもらわないだろう。僕が本気で指したって負ける時は負ける。曲がりなりにも棋士の僕に勝てる天衣ちゃんが弱いわけがない。

 

「出るならせめてマイナビでしょ。学生の大会はいいわ」

「じゃあその方向で行こうか。でもマイナビに出るには研修会に入らないといけないから、編入試験受ける?」

「お兄ちゃんの都合がいい時がいいんだけど」

「そこは僕に合わせなくていいよ。天衣ちゃんの都合優先。マイナビの受付期限が七月前半だから、最悪でも五月には研修会に入っておかないと今年のマイナビは出場できないかな」

「そう。なら四月に入って、研修会に三ヶ月で慣れる。これでどう?お兄ちゃん」

「いいと思うよ」

 

 研修会で実戦に慣れて、その上でマイナビを受ける。合理的だと思う。ギリギリだと慌てるかもしれないし、早すぎたら降級点がつくかもしれない。いい塩梅だと思う。

 実戦経験ばかりは実際に大会などに出てみないと養えない。指導だけじゃ限界があるのも事実。天衣ちゃんはとても向上心があるから指導については問題ないけど、空気感とか本番の時間感覚は経験してこそ。

 

「この後女王の棋譜並べたいんだけど、いい?」

「いいよ。誰との棋譜?」

祭神雷(さいのかみいか)

 

 

「八一。これ何の棋譜?」

「姉弟子……。チャイム鳴らしました?」

「返事はなかったわ」

 

 ということは鳴らしたのか。それに気付かないほど俺が集中していたんだろう。

 姉弟子──空銀子が俺の部屋にやってくる。プロになったために一人暮らしを始めて、暇があればこうして姉弟子はやってくる。

 合鍵を渡していないけど、玄関の鍵を閉めていないので勝手に入ってくる。姉弟子に関しては今更だからどうでもいいけど。

 

「記念対局ですよ。名人と碓氷の」

「何で今?結構時間が経ってるわよ?」

 

 そう。この対局はもう半年近く前のものだ。旬の対局ではないけど俺はこれを見なくちゃいけなくなった。

 今日連盟から来た茶封筒を見たために。

 

「順位戦の二戦目。碓氷と戦うんです」

「そう。奨励会の時は何回戦った?」

「研修会合わせて二回だけ。一勝一敗です。一回は研修会の頃の小さい時ですし、直近の三段リーグでは負けてますからね……」

 

 俺は碓氷と同じく十六勝二敗で昇段したが、一位抜けしたのは昨年の次点があったから。直接対決では負けたのに一位だったために、ネットでは叩かれた。

 いや、叩かれた理由は今も竜王戦以外まともに勝ってないからなんだろうけど……。

 

「……あいつも別格よ。同い年だなんて思えない」

「姉弟子はあの一回だけですか?」

「ええ。感想戦をしてわかったわ。あの子も将棋星人よ」

「……その将棋星人ってなんです?」

 

 姉弟子は時たま訳のわからないことを言う。姉弟子が碓氷に負けたのは香落ちだったんだけど、香落ちってハンデと言えないからなあ。むしろ落とした方がセオリーを知っていれば勝ててしまう。

 攻める時に香車がないと言うのは受け手側も困るからだ。

 

「私、記念対局までは手を出してなかったんだけど、名人が勝ったのよね?」

「スルーかよ……。ええ、はい。ニコニコで生中継されてたのでその映像も見ましたけど、名人の指は震えていましたよ」

「……記念対局よね?」

「もちろん。舌打ちもなく、名人と新人の対局とは思えなかったって、ネットでは大反響でしたよ」

 

 俺はパソコンを操作してニコニコ動画を表示する。再生数百五十万オーバー。コメントなんて二万もついている。

 名人はその対局が難しく、勝ちが確定すると指が震え、盤上真理を追求するが故に相手が悪手をすると目に見えて態度が悪くなるという。

 それを鑑みると、碓氷は名人のお眼鏡に適ったと言えるだろう。

 

「名人は相手に合わせるような将棋をするけど……。碓氷がゴキ中で名人が矢倉ね」

「奨励会の棋譜なんて調べなかったんでしょう。記念対局でしたから。ゴキ中封じの急戦を名人が仕掛けるかと思ったんですけど、碓氷の攻撃を受け潰していますね。……というか、ここの金打ちとか見ると、本当に中学生の将棋かなって思いますよ。一撃が重過ぎる」

「角で牽制しつつ、竜と金、それにと金の攻めね。これを受け潰している名人が凄過ぎるというか……」

 

 そう。これを事前に名人と新人の記念対局と言われていなければA級の順位戦かタイトル挑決の棋戦かなと思う。それほどに一手一手が重く、それでいて活き活きとした戦いなのだから。

 金による攻めもそうだが、銀で守ったのかと思った時もよく考えればその後の名人の桂馬による攻撃を防ぐ準備だったりと、三段リーグを一期で抜けた実力者だというのが伺えるばかりか、その読みの深さは相当だ。

 棋士たるもの複数の読みを頭に浮かべ、十何手、数十手先を読むこともある。

 その中でも名人は神と呼ばれるほど別格な強さを誇る。その名人相手に虐殺になっていないだけでその実力も読みの深さも伺える。

 一緒に動画を見て状況の推移などを見る。記念対局ということで持ち時間は一時間という早指し。だがその早指しも苦手な様子はなく、二人の将棋は高次元だったと言える。

 碓氷が長考した場面と名人の指が震えた場面を確認して、映像は感想戦に移る。

 

「……え?何?この感想戦」

「俺も最初見た時開いた顎が塞がらなかったですよ。二人とも、一言も言葉を発しないんです」

 

 終わった途端、負けた碓氷がばあっと駒を動かして終盤の場面に戻す。そこで一手、銀打ちではなく歩だったらどうかという検討をすると、名人は深く頷いた後に続く手を指す。

 それを数手した後、今度はさらに別の場面に名人が変える。攻め手を変えたらどうだったかと促せば、そこを聞かれるとわかっていたかのように鉄を打つごとくすぐさま応えた。

 その手に納得したのか、もう数手進める。それを見ていた解説の山刀伐八段──この頃はまだ七段──は大興奮。

「こんな名人見たことがないよ〜♡」とのこと。この人、俺のデビュー戦の相手で情けない負け方をしたから正直苦手だ。

 名人の研究相手ということで有名だし、なんというか「両刀使い」として狙われている悪寒を感じた。後ろ守らなきゃ。

 

 とにもかくにも。

 名人が今まで見せたことのない感想戦をしているために再生数はうなぎ登り。碓氷はこれをもって華々しいデビューを飾った。

 実際竜王戦以外ほとんど負けていない。この前棋帝戦で歩夢に負けてようやく連勝記録が止まった。その連勝記録も二十二。世間の扱いは「神の子」「振り飛車界の貴公子(プリンス)」だ。中学二年生だけど童顔だから世間受けが非常に良い。

 それに昇段の際の泣き崩れで「とても良い子」という評判になっている。あの後直接謝られたし、泣いてしまった本当の理由をぼかしながら聞きもしたけど。世間が思ってるような奴じゃない。あれは嬉し泣きじゃなかったんだから。

 

「……異次元ね」

「ですよねえ。これとどう戦うかって話ですよ」

「でもやるしかないわ」

「やりますよ。負けたままじゃいられませんから」

 

 年上としての矜持もある。よく比較されるが、順位戦は一回でも負けると昇級の芽をなくす。C級2組なんて全勝して昇級するものなんて風潮がある。特に中学生棋士や高校生棋士と呼ばれる人間は。

 こんな早々にぶつかるとは思わなかったけど。次は俺が勝ってやる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4 中学生棋士対決

 春。無事に引っ越しと転入も済んだ土曜日。

 今日は対局もなかったためにお昼から天衣ちゃんと晶さんが来ることになっている。研修会の試験も受かったのでこれから例会がある日には僕の家に寄るそうだ。

 僕の家はまだ建てられてから三年ほどしか経っていない綺麗な場所。将棋会館まで歩いて二十分というのは中々に好立地。対局の前に歩いて気分を整えたいからこれくらい離れている方が都合が良かった。

 部屋は1LDKロフト付きの三階の部屋。エレベーターも建物の中にあるので登り降りも楽チン。

 

「迷わなかった?」

「晶に住所伝えておけば問題ないわ」

 

 うーん。すっかりお嬢様が板についている。前まではお姫様だったんだけど、あの大きな屋敷で暮らすようになってから晶さんに頼ることが多い。

 一人で塞ぎ込むよりよっぽど良いけどね。

 

「暁人先生。こちら旦那様から引っ越し祝いだ」

「え?わざわざすみません。弘天さんによろしくお伝えください」

 

 晶さんからそんなことを伝えられて、その後ろにはガタイの良い黒服の男の人が二人掛かりで大きなものを運んでいた。

 え、何それ。

 その巨大なものはリビングに運ばれる。1LDKという構造だからか、リビングにその大きなものが運ばれる。リビングなんて食卓とテレビくらいしか置いてないけど。

 

「あの。アレなんです?」

「最近話題のソファーだ。ちょっと組み替えるだけでベッドになる」

「ああ。CMで見た覚えがあります。ソファはなかったので良いですけど、僕ってあのロフトの上で布団で眠ってますよ?」

 

 ロフト付きの部屋だからそこに敷布団を敷いて寝ている。唯一の部屋は研究部屋にしているためパソコンと将棋盤に本でスペースはいっぱい。布団とかベッドに拘りがなかったから寝る場所なんてどこでも良かったんだけど。

 

「アレはわたし用よ」

「……ん?天衣ちゃん、なんだって?」

「だから、わたしが例会とかで遅くなってどうしても泊まらなくちゃいけなくなった時用のベッド代わりってこと。もちろん掛け布団も持ってこさせたわ」

 

 夜叉神家に僕の住処が侵食されている。いや僕も天衣ちゃんの指導のためにあちらの邸宅で泊まることもあるし、僕用の布団も用意してもらってるけど。

 あんなお屋敷と僕の部屋は違うんだぞ……?

 

「……迷惑だった?」

「ああ、いや。大丈夫だよ。そうだよね、もしも急に体調が悪くなったりしたら神戸まで戻るのも大変だし、ホテルを取るのも非効率だ。そういう時のための備えってことでしょ?」

「……まあ、それで良いわ」

「一応私の寝袋も置かせてもらうぞ。先生の親御さんからも生活チェックを言いつけられているからな」

「え?晶さんも敷布団を用意したら良いのに。あの食卓ズラせばスペースありますよ。ベッドはこれ以上置けないでしょうけど、敷布団くらいなら良いのに。クローゼットも余裕ありますよ?」

 

 寝袋なんて使ったことがないけど、絶対寝づらいはずだ。晶さんは天衣ちゃんの護衛兼ドライバーなんだから疲れを残さないようにして欲しいのに。

 というか、お客さんを寝袋で寝させるのは僕が忍びない。良い大人の女性だし。

 

 

「……お嬢様」

「良いのよ。これからじっくり追い詰めていけば良いんだから」

 

 

 二人が小声で話してるけどなんだろう?敷布団を追加で持ってくる話だろうか。

 黒服の男の人たちがテキパキとソファを組み立てて、包装に使っていたダンボールなどを全部回収していった。仕事が早い。

 

「そういえばお兄ちゃん。編入した学校って空女王と一緒の場所?」

「へ?いや、違う場所にしたよ。あっちは嫌ってるだろうし、空さんは有名だからね。これで将棋関係者が増えたら学校生活大変になっちゃうよ。だからその理由言って空さんの学校を職員さんに聞いて別にした」

「そ。……順位戦の対戦表発表されてたけど、九頭竜四段と戦うのね」

「そうだね。研究は始めてるけど、僕はいつも通り戦うだけだよ」

 

 それから一緒にお昼を外へ食べに行って、部屋で将棋を指した。次の日に道場に行くことを決めて、夜には本当に二人は泊まっていった。晶さん用の敷布団も急いで買ってきたようで、二人が下で、僕がロフトで眠った。

 

 

 四月下旬。順位戦の二戦目が大阪の将棋会館で行われた。例年であれば順位戦はもうしばらく後になってから始まるのだが、今将棋界は中学生棋士が産まれたことでブームになっている。そのためスケジュールが前倒しになっていた。

 今日注目の対戦カードは中学生棋士となった二人。九頭竜と碓氷が戦うのはプロになってからの公式戦では初だ。

 これを嗅ぎつけた記者団が会館の外に待っている。二人が会館に入ってくる時でさえ写真や質問が飛び交った。

 今二人は静かに座席に座っているが、闘争心は剥き出しだ。棋士番号から九頭竜が上座に座っている。

 

 既に順位戦の一戦目を終えたが、そこで既に明暗が別れている。

 九頭竜は次の碓氷を意識しすぎたのか、大失着をして初戦を黒星スタート。碓氷は逆に普段通りに指して勝利していた。

 次世代のスターとして注目される二人。振り駒の結果、碓氷が先手となった。

 いつも通り碓氷は振り飛車をしようとしたが、まずは角道は開ける。そんな定跡通りのスタート。

 数手進んだ時点で九頭龍が早速仕掛けた。後手番一手損角換わり。九頭竜の得意戦法だ。これができるために九頭竜は後手で喜んだ。本来不利になるはずの手で勝てる魔法のような戦法。これは地力があってこそだ。

 前回三段リーグでは九頭竜が先手だったためにできなかった戦法だ。

 碓氷が振り飛車派なことはわかっている。一手損角換わりは相居飛車を強いる戦法だ。使える振り飛車は限られてくる。

 

(さあ、どう来る?)

 

 九頭竜はそう身構えたが、目の前の少年は全く意に返さず淡々と自陣を整えた。相手が後手になった時点でこうなると予測していたのだろう。

 それもそのはず。奨励会の頃から九頭竜はこの後手番一手損角換わりの代名詞として知られている。得意戦法で来るなんて順当の一言だろう。

 そして碓氷は一手損角換わりに対する振り飛車としてダイレクト向かい飛車を選択。いくつか棋譜が残っている戦型になった。

 二人とも最初は定跡通りに進め、動いたのは中盤に差し掛かってから。

 それはいきなり来た。

 ビシッと駒音が響く。開戦の合図だった。だがそれはあまりにも突然すぎた。

 

(は……?五6歩?その歩になんの意味がある?)

 

 何かを咎める手でもなく、大駒の進路を止める手でもない。ただ捨てにしか思えない一手。とはいえ歩だから捨てるにしても安いだろう。

 だからってまるで一手手番を寄越すような一手を仕掛けてくるとは九頭竜も思わなかった。

 

(俺の戦法を乱すため?それとも何か手があるのか?……定跡からは確実に逸れたが、この一手は予想してなかっ──!?)

 

 気付いた瞬間、九頭竜は自分の持ち駒を見る。まだまともにぶつかっていないので持っているのは歩ぐらい。そして状況を見て、歩では対処できないと知る。

 

(これ、飛車が上がって来るための橋頭堡か!一手損角換わりで戻した俺のリードを強引に取り返して来た!これに対処すれば手番があっちに戻る。対処しなければこれを皮切りに突っ込んで来る……。そんな唐突に、こんな中盤の一手で手番が変わるのか!?)

 

 九頭竜は月光会長と指したために高速の寄せを味わったことがあった。それと同じことを今された気分だ。

 これを回避するために少し考え、歩を無視して攻めることにした。もう少し陣形を整えてから攻めたかった。まだ碓氷の守りも完成していない。そう思っていたのが甘かったのだと九頭竜は痛感していた。

 だが無理な攻めはこの場面を想定していた碓氷に対処され、逆に仕返しとばかりに飛車による猛攻を受けた。九頭竜の完成していない守りが飛車と銀によって攻められる。

 九頭竜もプロだ。困惑こそすれど、対処もするし果敢に攻めていく。お互い防御を薄く攻めていく将棋を指したために、持ち駒が増えて急戦が加速した。

 

(一見薄そうなのに、崩せない!角の守りに角で攻めきれないなんてあるか!?肉を切らせて骨を断つなんて言葉があるけど、碓氷の場合は極氷で守ってるのに何故か崩せない!──いや、こっちが攻めるのと同時に向こうも攻めるから、結果としてあれで防御が間に合ってしまう!)

 

 碓氷の攻めが的確すぎるからこそだった。九頭竜はお昼に何を食べたのかも忘れて全てのリソースを注ぎ込んでいった。

 だが。

 

「負けました……」

「ありがとうございました」

 

 結局一手分のリードを守り切られて、九頭竜は負けた。お互いに失着などなく、純粋な勝負の結果だろう。

 感想戦で、九頭竜はどうしてもあの歩について聞いてみたかった。

 

「あの歩は、相当研究してきたのか?」

「あー……。実は、最近女流の棋譜を並べることが多くて。それで振り飛車側が定跡を外す時に面白いのを思い付いて。それを弟子と一緒に確認してみたらいけるんじゃないかってなりまして」

「へえ……って、弟子ぃ!?おま、もう弟子がいるのか!?プロになったばかりだろ!」

 

 女流の棋譜を並べていることだけでも驚きなのに、更なる爆弾発言で九頭竜は思わず叫んでしまった。他の対局が終わっていて助かった点だろう。

 まだ十三歳。中学生。だというのに弟子がいるという。

 弟子なんてそれこそ三十後半、四十辺りで持つ人が大半だ。子育てなどに一段落が済んでようやく他の子を、というのが真っ当な弟子の取り方。

 

「僕がプロになったらその子を弟子にすることを決めてたんですよ。ほら、アレです。記者会見の時に泣いちゃった件の」

「ああ、そうなのか……。歳下、だよな?」

「小学三年生ですね。凄く強いですよ。本人の意向で学生の大会には出ていませんけど、今月研修会に入りました」

「え。女流の棋譜を並べてるって、その子女の子なのか?」

「はい。僕もたまに負けるくらい強いですよ」

 

 将棋なのだから実力に差があってもたまには負けることもある。それでも今負けた存在が強いと言うのだから、それだけで九頭竜は背中に冷たいものが流れた。それは誰の心配だったのか。

 同門のお姉さんか、姉弟子か。それとも。

 それとは別に、どうしても聞きたくなってしまった。

 

「その子、可愛い?」

「可愛いですね」

「姉弟子とどっちが?」

「……その辺りは人それぞれでは?僕はお姫様みたいだと思ってますけど」

「写真とかないの?」

「……研修会で黒服のお嬢様のような子がいたら、多分その子が僕の弟子です。保護者の方がどの子よりも可愛かったと豪語してましたので」

「そっかー。いいなー、可愛いJS」

「……JSってなんです?」

「おまっ!俺だけ汚れてるような無害アピールいらないから!」

「……僕の弟子をいかがわしい目で見るんですね。九頭竜さんは」

 

 ジトッとした目で見られた九頭竜は「誤解だー!」と叫ぶことになる。

 これが後々のJS研なる派閥を作ってしまう男の姿であった。

 




この頃の八一くんには全然勝てると思うの。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5 研究会

 わたしの師匠、もといお兄ちゃんは凄い。なにせ史上最年少棋士だ。三段リーグ突破に十六勝二敗なんて好成績の上に一期抜け。普通は十三勝くらいで昇段するのに、それよりも勝ち星を稼ぐ上に一期抜けした棋士はお兄ちゃんを除けば片手で収まる人数しかいない。とても十二歳の所業じゃなかった。今は十三歳になったけど。

 お兄ちゃんと言えど、血の繋がりはない。わたしからすれば物心ついた頃からずっと側にいた人だ。家族と一緒に過ごしてきて、一緒に将棋を指してきた。どんな時でも頼りにしてきた大切な人。

 わたしの師匠になるために三段リーグを一期抜けした天才。顔も可愛らしいし、今も絶賛連勝記録を作っている時の人。

 

 お父様とお母様が認めた人。もう、わたしの一部になっている人。

 最近一人暮らしを始めたために、何かと理由をつけて家にお邪魔していた。合鍵も受け取っていて、好きに入っていいと言われていたので九頭竜四段との対局の日もお邪魔していた。

 将棋自体はタブレットで確認していた。本来順位戦、しかもC級2組というフリークラスを除いた最底辺のクラスの棋戦なんてネットで状況報告などされない。けどこの一戦は四段同時昇段者による、しかも中学生棋士二人による一戦だ。

 

 連盟も大事な対局だと思ったのか、この対局は速報で棋譜を調べることができた。

 三段リーグの最終日のように今日も将棋会館前にはたくさんの記者たちが詰めかけている。一度様子見に行ったけど、昼食──勝負飯は何だったかを大々的に報道していた。

 馬鹿馬鹿しい。食べた物で戦局なんて変わらないわよ。モチベーションを保っているだけで、何かを食べていたら勝率が良いとかは迷信だと思っている。

 まあ、将棋界でも結構おやつにアイスだの何だの、食事ブームがあるのは事実なのだけど。

 

 それでも見るなら将棋を見なさい。内容が理解できないなら棋士の方を解説で雇いなさい。

 

 

 

 

 わたし達が愛した碓氷暁人の将棋を刮目なさい。

 

 

 

 

 将棋自体は九頭竜四段の得意戦法「後手番一手損角換わり」をお兄ちゃんが真っ向から潰した形だ。相手の思考外からの一撃。気付いたら状況が一変しているお兄ちゃんの進軍。それに九頭竜四段が対処できなかった形。

 それでも一手差。かなりギリギリの将棋だったと思う。正直わたしじゃ思いつかない応酬もあった。もっともっと勉強しなくちゃ、とは思える良い将棋だった。

 朝の十時から始まって、終わったのは夜に差し掛かる頃。でもお兄ちゃんが帰ってきたのは二十時を過ぎていた。この家から将棋会館なんて二十分くらいなのに。

 

「……ただいま。電気が点いてるからもしかしてって思ったけど」

「おかえりなさい、お兄ちゃん。おめでとう」

「先生おかえり。お邪魔しているぞ」

 

 晶と一緒にお兄ちゃんを迎える。学校でもなかったのに正装で将棋を指すために学校の制服で帰ってきた。相手の九頭竜四段は進学しなかったためにスーツだったけど。

 

「お兄ちゃん、ご飯は?」

「え?適当にコンビニで買ってきたけど。ご飯は行く前にセットしておいたから炊けてるよね?」

「ええ、炊けてるわ。じゃあ晶。適当におかず買ってきて」

「わかりました」

 

 晶がすぐ出ていく。わたし達もご飯を食べていなかったから、お兄ちゃんには悪いけどご飯を追加で炊かせてもらった。

 ……本当は何か作ろうと思ったけど、料理にまだ自信がない。だから手料理を振る舞う機会が延びて良かったと思ってる。

 晶はすぐにおかずを買ってきて三人で食卓を囲む。その際、お兄ちゃんが質問をしてきた。

 

「そうだ。天衣ちゃん、GWって何か用事ある?最初の三日間なんだけど」

「特にないわ。例会もないし。指導してくれるの?」

「ん〜……。ちょっと違うかな?ほら、マイナビに出るなら現地調査じゃないけど、会場の場所とか見に行った方がいいと思って。女流棋士になってタイトル予選とかだったら連盟の人が会場まで案内してくれるけど、天衣ちゃんは今回一般参加枠。案内もないから会場の下見が必要かなって」

「ふうん?いいわ、予定もないし」

「じゃあ二泊三日ね。晶さん弘天さんによろしくお伝えください」

「はぁ!?二泊!?」

 

 いきなりの発言に立ってしまった。はしたないとわかってすぐ座ったけど、お兄ちゃんを睨んだままだ。三日間のどれかの間に行くつもりなのかと思ってたら、日程全部なんて。

 と、泊まり込みって。いくら晶を連れていくからって、そんな……!

 

「え?あれ?ダメだった?」

「……三日も何をするの?」

「東京の将棋会館に顔を出して道場で将棋指したり、知り合いの棋士に会ったりとか。研究会のようなこともする予定」

 

 ……だと思った。頭の中将棋しかない。甘い夢を見ようとしたって無駄ってわけね。

 知ってたわよ。

 結局了承して当日。新幹線に乗って東京に行って、東京駅からマイナビの会場までの行き方を確認して、その後は近くでお昼を食べた。ふわっふわのオムレツが美味しいお店だった。

 何でこうも女心を燻るチョイスができるのかしら?この女たらし。

 

 それからまた電車に乗って移動。でも向かったのは千駄ヶ谷じゃなく、八王子の一般住宅街。どこに向かっているのか聞いても一向に答えてくれない。

 そして着いたのは結構大きな一軒家。誰かの家だと思うけど、誰かしら。

 お兄ちゃんがインターホンを押すと、出てきたのは高校生くらいの女性。

 

「いらっしゃいませ〜。あら、もしかして碓氷先生?」

「はい。碓氷暁人です。本日はお邪魔いたします。こちら、母から京土産です」

「あら、ご丁寧にどうも〜。そちらがお弟子さん?」

「はい。天衣ちゃん、挨拶」

「夜叉神天衣です。……申し訳ありません。女流棋士の方ですか?」

 

 わたしの知らない人だった。それでも将棋関係者で女性となったらそれくらいしか思い付かない。わざわざ連盟職員の方を訪れないだろうし。

 女流棋士で知っているのはタイトルホルダーだけ。他の人はニコ生の聞き手で見たことがある人だけで、目の前の人は見覚えがなかった。

 

「ああ、違いますよ。私はただここの住人ってだけで。お父さんみたいに将棋をやろうとは思いませんでしたし」

 

 お父さん。つまり父親が棋士なのかしら。表札見るのを忘れてたけど、関東の棋士にお兄ちゃんのツテがあるなんて。研究会をするほど親しい方となると誰かしら?

 わからないまま案内された先。一階でも大きな和室。

 そこにいたのは、山刀伐八段に鹿路庭女流二段。そして──。

 

 

 

 

「め、名人ッ──!」

 

 

 

 

 

 そこには、将棋の神様がいた。

 

「やあ、碓氷君。迷わなかったかい?」

「はい。本日はお招きくださり、ありがとうございます」

「かまわないとも。そちらが弟子の?」

「はい。夜叉神天衣です。天祐さんの一人娘です」

「……惜しい人を亡くしたな」

 

 お兄ちゃんは平然と話しているけど。わたしも晶も困惑している。晶も流石に名人の顔は知っていたようで、突然のことに驚きを隠せないようだった。

 いや、わたしもだけど。何で研究会の相手が名人なのよー!?

 名人が一つの将棋盤の前に座る。その前は空いている。山刀伐八段かお兄ちゃんが座るのかと思っていたが、お兄ちゃんに背中を押されてそこに座らされる。

 え?──え?

 

「さて、夜叉神君。指そうか。そちらの先手で始めよう」

「わ、わたしが……?」

 

 駒はすでに置かれている。平手だ。角落ちでも二枚落ちでも、四枚落ちでも六枚落ちでもない。平手。

 わたしみたいな小娘が、名人と平手で指す……?

 

「碓氷くんは僕と指そうか」

「胸をお借りします。山刀伐八段」

「研究会なんだからもっと肩の力抜こうよ。鹿路庭くんは最初記録係していてくれるかい?彼らは関西からのゲストだからね」

「はい。というか私も場違い感がハンパないというか……」

「時間もないし早指しでいこう。持ち時間はそれぞれ三十分。じゃあ始め」

「「「「お願いします」」」」

 

 そこからは怒涛の展開だった。

 わたしの棋風は受け将棋。だからって序盤や中盤で手を抜いていいわけじゃない。名人は居飛車寄りのオールラウンダー。相掛かりは相手の土俵だと思って、わたしが選択したのは中飛車。

 早指しもあって、急戦だ。

 そのままわたしはできるだけの力を見せる。けど名人から濁流のように流れ込んでくる思考の海について行くのが精一杯だった。相手の読みがどれだけ深く鋭いのか、たった一手指されるだけでわかる。

 

 その濁流に飲み込まれないようにしっかりと息を吸う。

 この感覚を知っている。お兄ちゃんが本気の時に繰り出す重い一撃を出すまでの思考の波だ。この濁流でさえ、その一撃の前哨戦に過ぎない。

 わたしが平手で名人に勝てるわけがない。だからって無様な将棋を指せるわけがない。

 

 

 この方はお父様のことを惜しい人だと言ってくださった。そしてわたしは碓氷暁人の弟子だ。

 

 

 わたしはわたしを証明するために、ただただ盤面に喰らい付いた。

 わたしは夜叉神天祐の娘だと。お父様の残した受けを証明するように名人の攻めを受ける。そしてお兄ちゃんのような一撃を繰り出す。それが、わたしの将棋だから。

 途中誰かの叫び声があった気もするし、鼻が痛い気もしたけど、とにかく指す。思考が分裂するのが邪魔だ。

 いらないものは削ぎ落とせばいい。

 

「違う。違う……。違う!違う……。これも。違う。違う。……まだ。違う。違う」

 

 そんな軟弱な手を思い付くな。これじゃあ名人どころかお兄ちゃんにも吹っ飛ばされる。もっと違う手を。勝てる道筋を。

 

「違う。違う。ちが……。いや。……ここ!」

 

 指す。飛車の援護に香車を。でもこれだけじゃ繋げない。まだ、ここで手を緩めちゃダメだ。すぐに攻めを増やさないと。

 わたしが指してもすぐに名人は新たな手を打ち込む。その攻防に少しでも食い込みたくて。

 飛車に手を伸ばす。触れる瞬間、気付いた。

 

「……あ。負けました……」

「ありがとうございました」

 

 二十五手詰。嵐のような攻防に隠された妙手。それが複雑に絡み合った先の一棍。

 夢のような時間が過ぎ去った後、わたしは横に倒れていた。

 

「お嬢様ッ!」

 

 晶、うるさい。ここ人様の家よ。お兄ちゃん達もまだ指してる。

 だけど暗くなっていく意識を、わたしは止められなかった。

 

 

「な、何ですか、この子……!」

「僕の自慢の弟子ですよ」

 

 途中で鼻血を出したことは驚いたけど。拭うこともなく将棋を続けちゃうんだからなあ。それだけ集中してたんだけど。畳を汚さなかったのは良かった。

 晶さんが近くの部屋を借りて着替えさせるようだ。血が付いちゃった服をいつまでも着させておくわけにはいかない。晶さんが一緒で良かった。

 鹿路庭さんが棋譜を取っていたために驚いてるけど、僕も驚いてる。天衣ちゃんがあそこまで指せるなんて。

 しかも僕のような攻め方と天祐さんのような受けを融合させたような、凄くバランスの良い将棋を。

 さて、こっちも終わりだ。

 

「負けました」

「ありがとうございました。……珍しいね。碓氷くんらしからぬ大ポカだ」

「いやあ。さすがに天衣ちゃんが鼻血を出したのには驚いて。僕の声も聞こえていませんでしたし。名人もすみません。あんな状態になったのに将棋を続けていただいて」

「いや、面白い将棋だった。ふふ、最近の女性は活気があって素晴らしい。釈迦堂君が矢面に立ってくれたおかげだな」

 

 僕は隣の将棋が気になってしまって大ポカをしてしまった。そこから巻き返しを狙ったけどダメ。山刀伐さんはそれをきっちりと咎めて負けた。

 釈迦堂さんは女流棋士として将棋の普及に躍進されてきた方だ。この人がいたから女流棋士は続いていると言われるほど。名人も認める女性で、彼女を認める棋士は多い。

 

 というか、僕達の将棋酷いな。名人の将棋が気になって途中で形作りに入っている。天衣ちゃんの集中を切らさないためにやっているフリをしていたに過ぎない。

 全部を見ていたわけじゃないので、棋譜を鹿路庭さんに見せてもらう。力戦だ。これまでで一番の将棋だったんじゃないだろうか。

 最後の盤面も見て、僕は頷く。

 

「ああ、良かった。ちゃんと気付いてたんですね」

「ここからどこに詰みがあるんですか……?」

「二十五手詰だね。駒が集中している陣形の外側。ここの桂馬から夜叉神ちゃんの陣形が崩されていく。ちょっと指そうか」

 

 山刀伐さんが天衣ちゃん側になって指していく。山刀伐さんの説明通りきっかり二十五手詰だ。それを知ってもう一度震える鹿路庭さん。

 

「中盤もしっかり陣形を整えつつ攻められていますね。先手の有利を活かしている」

「五十七手目を角で守らずに銀で守ったらもう少し攻められたかな。いやでも、どっちもそこまで悪い手じゃない」

「攻め方は碓氷君にそっくりだ。弟子というだけはある」

 

 もっぱら研究は名人と天衣ちゃんの棋譜になった。僕達の棋譜は検討する余地なし。僕の大ポカが原因だ。

 

「あの、碓氷先生。あの子にはどんな指導を?二十五手詰は、詰将棋でも解かせているんですか?将棋図巧とか……」

「先生って呼ばなくていいですよ。それに天衣ちゃんには詰将棋を一切やらせていません。指導は過去の棋譜を並べて検討するか、僕とひたすら指していますよ」

「つ、詰将棋を一切やらせていない?それでさっきのを読んだんですか?」

 

 僕も詰将棋なんてまともにやってないからなあ。詰将棋をやったから最後の詰が読めるとは限らないし。

 

「だって詰将棋って答えがわかってるじゃないですか。詰むって。詰まない詰将棋なんてないので、それよりは過去の棋譜を見て実戦形式にした方がまだ流れとかを追えますから。……ああ、研修会入会前に詰将棋の問題が出るので、十問くらい解かせました。詰将棋はそれくらいです」

「人それぞれだな。月光会長は詰将棋の第一人者だ。詰将棋を重ねることで強くなる人間もいるだろう。だが、夜叉神君は碓氷君の教えでここまで強くなった。将来が楽しみだ」

 

 嬉しそうに名人が笑う。僕も天衣ちゃんが強くなってくれると嬉しい。今日ここに連れてきて良かった。彼女にとって大きな財産になったと思う。

 それから僕は名人と指したり、鹿路庭さんと指したりした。それと僕と名人の記念対局の検討をしたり。

 天衣ちゃんが目を覚ましたのは夜遅く。そのまま名人宅にお泊まりすることになった。夜遅くまで名人は研究ができると大喜び。僕と山刀伐さんが付き合わされて、鹿路庭さんも棋譜を書いたりと付き合わされていた。

 天衣ちゃんは眠気に勝てずダウン。結局僕達は朝まで検討をしていて、朝日を見たのと同時に全員倒れこむように寝ていた。結局起きたのはお昼すぎ。全員名人の娘さんに怒られた。

 

 結局二日目も研究会を続けて、この日はさすがにそこそこの時間でお開き。結局名人の家にお泊まりしたけど。

 三日目に軽く東京の将棋会館に顔を出して、GWの旅行は終了。観光なんてほとんどしなかったけど。でも天衣ちゃんは今将棋を指すのが楽しくて仕方がないようだ。

 だから帰りの新幹線でずっと指していた。晶さんがいて良かった。大阪から乗り過ごすところだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6 お祝い

「新人王おめでとう、お兄ちゃん」

「先生おめでとう」

「ありがとうございます、二人とも」

 

 六月末。僕達はとある焼き肉店に来ていた。来た理由は二人が言ってくれたけど僕が新人戦で優勝して初タイトルを獲ったから。お祝いと言ったらなんとなく高級なお肉というイメージがある。

 家族にも伝えたけど、何故か天衣ちゃんと一緒に行きなさいと言われた。褒めてくれたけど、何でだろうか。言われた通りに連れてきたけど。

 個室がある、来たこともない高級店。タブレットで注文して他のお客さんどころか店員さんとも極力顔を合わせない作りになっている。

 乾杯をしてから晶さんがずっとお肉を焼いてくれて、僕達はそれの恩恵に預かっている。好きに注文していいと言ってあるので天衣ちゃんが食べたい物を複数注文して分け合っている形だ。

 

 でも、新人王なあ。今回参加資格がある新人が少なかったからあまり対局数も多くなかった。それで勝ち上がって優勝となると、いささか実感が薄い。決勝の神鍋五段との対局は楽しかったし難しかったけど。

 前に負けてたから、今回はリベンジできて良かった。

 お、ハラミ美味しい。柔らかくてすぐに嚙み切れる。

 

「天衣ちゃんも調子良いね。研修会で今の所負けなしなんだって?」

「いいえ。今日負けたわ。ホント、みっともない」

「え?そうなの?大ポカしちゃった?」

「……反則負けしたの。頭の中の盤面と現実の盤面が噛み合わなくて、二歩をしちゃったの……」

「ああ、僕もそれあるなあ。二歩じゃなくてと金にしていない歩を横に動かしちゃってね。となると研修会とマイナビが不安だなあ」

 

 純粋に棋力が上がって、対戦相手との読み合いが合わなくなっちゃったんだろう。相手が天衣ちゃんの読みについてこられず、最適解を進んだ天衣ちゃんがそのまま盤面を進めて搗ち合わず反則負け。

 将棋界でたまに見られる光景だ。棋力が全く違う人達の戦いだったり、空気感でそうなってしまう。

 

「それはもう、実力者と数をこなして脳の動きと現実を合わせるしかないんだよね。僕も研修会の頃は生石玉将に手伝ってもらったよ」

「ずいぶん豪華な対戦相手ね。その玉将と今度記念対局するんでしょう?また名人とすると思ってたのに」

「名人とは昇段してすぐ指してもらったから、今度は別の相手とした方が広告になると思ったんだろうね。それに兄弟弟子だから話題性はあるよ。タイトルホルダー相手だし」

 

 よくよく考えると生石さんにはずいぶんとお世話になってるな。幼少期からの指導に、ゴキゲンの湯での天衣ちゃんの指導。それに今回の記念対局。

 今度菓子折りでも持っていこうか。

 

「でも、対戦相手のレベルを上げると逆にマイナビでポカをするかも……?うーん、僕とするか、会館の道場で指すくらいにしておこうか」

「それで良いの?わたし、弱くなってない?名人と指した時の様な将棋を指せていないと思うんだけど……」

 

 ああ、不安にしちゃったか。でもそれはしょうがない。

 名人や山刀伐さんと指して、トッププロを経験した。将棋の奥深さを身をもって経験した。だから天衣ちゃんも目指す場所を知ったんだろうけど、周りがそのレベルを知らない。

 将棋は二人で指すものだ。そして相手ありきのもの。相手とのレベルが離れていたらそれは棋譜にならない。

 美しい棋譜ではなく、今回みたいな反則負けや虐殺と呼ばれる棋譜になる。コンピューターの指す将棋に似てるっていうのかな。相手なんていないような面白みのないものになる。

 天衣ちゃんが強すぎるためになる現象。まだプロどころか奨励会にも入っていない人が相手じゃ、余裕すぎるんだろう。

 

「天衣ちゃん。弱くなんてなってないよ。その証拠に、指導で僕が負ける回数が増えてきたでしょう?僕があえて自分と違う指し回しをしているからって、僕の読みについてきてるのは事実。ただその読みの深さが暴走してるだけなんだよ」

「暴走……。制御できなかったら、今日みたいに反則負けしちゃうのよね?」

「そうなるね。僕はひたすら生石さんと多面指しをして脳内と目の前を分離させたけど、これは僕の対処法だ。生石さんも同じようなことになったら護摩行をして落ち着かせたって言うし、やり方は人それぞれだよ」

 

 結局何がきっかけで落ち着けたかわからないし、それこそ棋士の数だけその方法があるだろう。名人や山刀伐さんにも聞いてみようかな。

 

「お父様の棋譜を読み返してみるわ。わたしの原点はそこだもの」

「ああ、それは良い。原点を見つめ直すっていうのは棋士に限らず多くの競技者がやることだよ」

「方針が決まったらスッキリしたわ。お兄ちゃん、デザート食べて良い?」

「どうぞ。My Fair Lady」

「マイ、ふぇ……?」

「ああ、気にしないで。この前ボーッと見てた映画でそんなセリフがあっただけだから」

 

 訝しみながらも天衣ちゃんはタブレットを使って注文していく。晶さんはなんか驚いてるけどどうしたんだろう。

 ちゃんとアイスを三つ……違うな、四つ頼んでる。糖分は大事だから好きに食べると良いと思うけど、お腹冷やさないかだけ心配。

 美味しそうに頬張ってる姿が可愛いから、なんでも良いけどね。

 

「お兄ちゃんの新人王も驚いたけど、九頭竜四段も驚きよね。竜王の挑戦者になったんだもの」

「もう昇段して七段だよ。五段をすっ飛ばして六段も一瞬で終わらせた史上最年少の」

「お兄ちゃんだって史上最年少の新人王でしょ?あと一年くらいはやることなすこと全部史上最年少ってつくわよ」

「それはそうだけど、七段と挑決の記録は九頭竜さんのものじゃないかな。玉将戦も棋帝戦も負けちゃったし」

 

 七大タイトル関係はこれからまた予選を勝ち上がらないといけない。他にも色々な大会が始まるから忙しいんだよね。だからどれかに集中してっていうのも難しいし、学校もあるから出る大会を絞らないと。

 棋戦もそうだけど、解説の仕事とかもあるからなあ。うーん、早く学校を卒業したい。

 

「ある意味九頭竜さんって賢い選択してるんだよね。一つの棋戦に集中すればあそこまでいけるって証明になっただろうし。それでもあの人の才覚があってこそだけど」

「むしろ集中しすぎてネットではボロクソに言われてるわよ?ヤフーのコメント欄酷かったわ」

「他の棋戦ほぼ全敗だし、順位戦もまだ二回しか勝ってないからね……。竜王戦はどの棋戦よりも高額だから、賞金目当てって言われても仕方がないよ」

 

 あれは才能への嫉妬みたいなものだけどなあ。実際格上の棋士を多数屠ってるからそれ自体は凄い事。なのに同格との将棋に負け続けたら物申したくなるんだろう。

 僕は今の所目立つような負け方をしていないためにそこまで叩かれていない。将棋界の発展のためにもそういう風評は減らすに限る。

 それを言ったら弟子と関係者とはいえ女の人と一緒に食事はまずいのかもしれない。そこまでは気を張らなくて良いと思うけど。プライベートだって必要だ。……それにしては九頭竜さんは誰々と出歩いていたって話題になるけど。それが女性ばかりなのはどうなんだろう。

 そうだ、九頭竜さんで思い出した。

 

「天衣ちゃん、将棋会館に行った時に不審者に写真撮られたりしてない?」

「はぁ?そんな変態がうろついてるの?」

「先生。それが本当なら護衛の数を増やさなくちゃいけなくなる。特徴は?」

「ああ、いや。僕も半信半疑で。可愛い女子小学生を探してるとかって噂で聞いただけで」

「間違いなく変質者だな。お嬢様の護衛を増やそう」

 

 晶さんが携帯を取り出して連絡を始める。あれからも九頭竜さんに会うと写真を求められる。正直うっとおしく思ってきた頃だ。

 この前本当に研修会に顔を出して子供達に囲まれたらしい。たくさんの女の子に囲まれちゃったぜって自慢してきた。けど天衣ちゃんは顔をチラリと見ただけで近寄りもしなかったせいか、正面から見てみたいと言われた。ちゃんと見れなかったとか嘆いてたのがしょうもないなと思ったっけ。

 写真は確かに持ってるけど、見せるつもりはない。というか、あの人って小さい子が好きなのか。でも師匠である清滝九段の娘さんが好みって言ってたような。大人のお姉さんとどっちが好きなんだろう。

 

「天衣ちゃん。たとえ知っている人でも写真とか撮らせちゃダメだからね?」

「わかってるわよ。そういうのはちゃんとした取材の時だけでしょ?」

「そうそう。まあ、同門の先輩棋士とかなら良いかな……」

「何?棋士って写真好きなの?」

「というより弟子とか身内に甘いんだよ。年配の棋士からしたら孫みたいなものだから可愛がられる。……同門と記者以外だったら変質者だから」

「了解よ」

 

 これで大丈夫かな?九頭竜さんは将棋に関しては尊敬してるけど、女性関係がちょっとなあ。何で将棋会館に行くたびにまた女の子と歩いてただの、それで空さんが機嫌悪いだのって話を聞かなくちゃいけないんだか。

 九頭竜さんが天衣ちゃんの写真撮ってたら空さんがまた機嫌悪くするし。空さんは夏にかけて体調よろしくないからあまり負担になるようなことしてほしくないんだけど。

 何で同門でもない僕が心配しなくちゃいけないんだか。

 

「……お兄ちゃん?別の女のこと考えてない?」

 

 鋭い。女の人ってこういう直感凄いよね。真実も含みながら全体はボカして伝えよう。

 

「あー。空さんが最近機嫌悪くてさ。九頭竜さんに伝えるか悩んでた。これからタイトル戦も始まるしどうしようと思って」

「そうなの?九頭竜七段ならたまに研修会に顔を出してるわよ。暇なんじゃない?」

「あんまり棋戦で勝ち進んでないからって、タイトル挑戦者が暇なわけ……。ほら、関西の研究会って棋士室でやるのが通例だから、その前に立ち寄ってるんだと思う。同門の清滝桂香さんがいるから、その様子見、かなあ」

 

 いや、これも理由としては弱い気が。空さんも奨励会に進んだから例会に出るけど、研修会の時間にかち合うとも思えないし。

 ……本当に天衣ちゃん目当てじゃないよね?それくらいは信じさせてくださいよ、先輩……。

 おや、清滝桂香さんの名前を出したら天衣ちゃんの顔が曇った。何かあったんだろうか。

 

「先生、その。今日お嬢様が負けた相手がその清滝桂香さんなのだ……」

「ああ、なるほど。平手?」

「平手よ。定跡がしっかりしてて中盤までは普通の将棋だったんだけど。定跡から外れてわたしから攻めたらどんどん頭の中に道筋が溢れてきて……。どれが良いだろう、相手は何を指すだろうって思ってたらやっちゃったのよ……」

 

 エンジンがかかっちゃったんだろう。桂香さんは清滝一門というだけあって将棋はしっかりしているし、研究量は群を抜いてるって九頭竜さんが自慢してた。居飛車も振り飛車もできるオールラウンダーだってわかったから天衣ちゃんも気合いが入っちゃったのかな。

 難しいものだ。さっき言ったように、自力でどうにかするしかない。なんとかできないのは師匠として歯痒いな。

 

「うん。やっぱり僕と指すか、会館の道場で指すくらいにしておこうか。名人との研究会もゴキゲンの湯もしばらく無しにしよう。連絡しておくね」

「お兄ちゃんだけでも行ってきて。名人たちも楽しみにしているんでしょう?」

「まあ、聞いてみるよ」

 

 そんなこんなで食事自体は楽しめた。晶さんがお会計で払おうとしたけど、弟子の関係者からお金を貰う師匠はいない。それに呼んだのは僕だったから会計も全部持った。

 新人戦で結構お金貰ったからこれくらいの出費はなんてことない。それに夜叉神家からは結構な貰い物をしているのでこれ以上何かをされるのは忍びない。

 気付いたら僕の家に高級そうな急須や茶葉とか揃ってるし、空気清浄機とかいつの間にか置かれていた。ありがたいけど夜叉神家に侵食されている気がする。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7 掲示板回

【兄弟弟子対決】振り飛車党総裁生石玉将と新人王碓氷四段の対局を語るスレpart3【記念対局】

 

167:名無し観る将

始まった!

 

168:名無し観る将

まさか始まる前に2つもスレ消費するとは…

 

169:名無し観る将

当たり前やろ。「振り飛車界の貴公子(プリンス)」と「振り飛車党総裁」の一戦やぞ

 

170:名無し観る将

予想通り、相振り飛車。順当やな

 

171:名無し観る将

記念対局だし、俺たちもこれを望んでた。わざわざ外すわけないやろ。これを望まれてるってわかってんだろうし

 

172:名無し観る将

最初は定跡通りだろうし、昨日の前夜祭なんかあった?

 

173:名無し観る将

普通のタイトル戦みたいな前夜祭って言っていいのかな。景品の抽選とかあったよ

 

174:名無し観る将

へえ。やっぱり先生達の扇子とか当たったわけ?

 

175:名無し観る将

そうそう。二人の直筆扇子とか、サイン入りの大駒もあった

 

176:名無し観る将

暁人きゅんって文字可愛い?

 

177:名無し観る将

結構達筆よ。質問の際に答えてたけど、おじいちゃんが書道を教えてくれたとかで

 

178:名無し観る将

ほっこりエピソードやね

 

179:名無し観る将

一等賞の扇子セットが二つあって、片方をスーツのお姉さんが当ててた。めっちゃ美人だった

 

180:名無し観る将

女の人も観る将増えたよなー。というか美人とか裏山

 

181:名無し観る将

でもその人、一緒に来てた妹に扇子あげてたよ。妹も小学生でめっちゃ可愛かった

 

182:名無し観る将

美人姉妹かー。さすがに一般人の写真なんてないんやろ?

 

183:名無し観る将

いや、どっかの記者が二人と握手してるところと扇子を贈呈してるとこ撮ってたから近々どっかに載るんじゃない?

 

184:名無し観る将

暁人きゅんと握手とか裏山

 

185:名無し観る将

さっきから暁人君にきゅんって付けてる人、女性だよね?女性だと言ってくれ…

 

186:名無し観る将

ヒント:こんな掲示板にいる人間

 

187:名無し観る将

ワイらのような人…あっ(察し)

 

188:名無し観る将

碓氷は四間飛車か。さもありなん

 

189:名無し観る将

というか相振り飛車なんて久しぶりじゃね?居飛車が台頭して、振り飛車指すのなんて総裁か名人、山刀伐さんに碓氷くらいだし。後は大槌門下とごく一部

 

190:名無し観る将

玉将は……ダイレクト向かい飛車!?

 

191:名無し観る将

真っ向から潰す気満々やん。弟弟子になんと大人気ない…

 

192:名無し観る将

あのー、これ暁人きゅんが新人王獲った記念の対局なんですよ?玉将…

 

193:名無し観る将

ファ!?

 

194:名無し観る将

何で碓氷は筋違い角にしてんの!?お互い角道開けてるからって!?

 

195:名無し観る将

もうメチャクチャダァ……

 

196:名無し観る将

もうどうなるかわからん。これ、定跡なんて無視した殴り合いだよな

 

197:名無し観る将

でも二人とも笑ってるんだよなあ。過去に筋違い角四間飛車とダイレクト向かい飛車の対局なんていくつ残ってるんだよ…

 

198:名無し観る将

【速報】こんな序盤で定跡崩壊【知ってた】

 

199:名無し観る将

いや予測できねーよ!?相振り飛車は予測できても、記念対局でガチンコの力戦やるとかさ!しかもこんな戦術とも呼べないようなぶつかり合いなんて!セオリー無視どころじゃねえよ…

 

200:名無し観る将

ま、見てるワイらは面白い。碓氷はエンターテイナーやなぁ。ワイらにこんな餌くれるなんて

 

201:名無し観る将

禿げ同

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

877:名無し観る将

終局!

 

878:名無し観る将

ひゃー。やっぱり振り飛車は玉将に一日の長があるなあ

 

879:名無し観る将

記念対局、一分将棋になるまでのマジの殴り合い。157手で終着。玉将の粘り勝ちな模様。というかマジで何で筋違い角にしたし。四間飛車じゃあかんかったのか。相振り飛車だったら玉将には勝てないから意表を突いて…?

 

880:名無し観る将

でも将棋としては成立してた。飛車がぶつかり合ってたし。いや、ダイレクト向かい飛車で相振り飛車ならそりゃあ棋力勝負になるだろうけど…。序盤で定跡崩壊したくせに盤面めっちゃ整ってるのなんなの?

 

881:名無し観る将

でもちゃんと二人の「捌き」見られて満足よ、俺

 

882:名無し観る将

何であんなぶつかり合って捌きまくってるのに、自陣だけは綺麗に纏まってるんですかねえ

 

883:名無し観る将

二人の棋力が近しいところにおるんやろ

 

884:名無し観る将

タイトルホルダーとガチンコでやりあえる新人王って何なんですかね…?

 

885:名無し観る将

それが暁人きゅんや

 

886:名無し観る将

名人と無言感想戦やるヤツやぞ

 

887:名無し観る将

そうやった。思考が名人に近いんやった

 

888:名無し観る将

今日は普通に感想戦やっててありがたい

 

889:名無し観る将

えー。そこの銀下げたのが失着なの?玉将の捌きに耐えられる良い手だと思ったのに

 

890:名無し観る将

代わりが角のタダ捨て?どういうこと?

 

891:名無し観る将

玉将めっちゃ焦ってるけど…

 

892:名無し観る将

あー!そっか、龍が一段下がるから、そのおかげで金の守りで足りて、その間に碓氷は攻められるのか!角なら牽制にもなってて取らざるを得ない!

 

893:名無し観る将

いや、にしたって大駒のタダ捨てなんてすぐに思いつかねーよ。それを終わった直後に思い付く碓氷って…

 

894:名無し観る将

大盤解説してる久留野七段呆然としてるじゃん……

 

895:名無し観る将

なお対局者二人大爆笑。「一分将棋に入ってたからって、見逃す手じゃねーな!」じゃねーですよ玉将…

 

896:名無し観る将

「いやあ、僕もまだまだですね。今度また検討しましょうよ」じゃないよ、暁人きゅん。というかちょくちょく研究会やってるの!?

 

897:名無し観る将

大阪って将棋会館の棋士室で検討してるのが多いんじゃなかった?個人の家に集まって研究会やってるのって関東の風習じゃなかったっけ?

 

898:名無し観る将

ワイ「ゴキゲンの湯」の常連。この二人よく研究会やってるよ。月二回くらい

 

899:名無し観る将

めっちゃ仲良しやんけ!

 

900:名無し観る将

まあ、兄弟弟子だし、将棋道場あればそうもなるか。碓氷も将棋会館の近くに住んでるなら行きやすいだろうし

 

901:名無し観る将

玉将って他にも研究会やってる相手いるけど、別々の研究会なんやろな。鉢合わせとかしてないし

 

902:名無し観る将

玉将ってそんなに研究会やってるんや。イメージないわ

 

903:名無し観る将

ワイも「ゴキゲンの湯」の常連やけど、碓氷すっごい可愛い女の子と美人のお姉さん連れてくるから目の保養になるでー。ワイらとも女の子は指してくれるし

 

904:名無し観る将

可愛い女の子と美人のお姉さん!?

 

905:名無し観る将

あ、バカ!

 

906:名無し観る将

kwsk!

 

907:名無し観る将

あれ、言っちゃいけないんやったっけ…?

 

908:名無し観る将

研究会やってる相手とか連れてくる相手を漏らすのはルール違反だっての!

 

909:名無し観る将

あーあ。やっちゃいましたなあ

 

910:名無し観る将

それはそれとして、暁人きゅんが連れてる女狐二人は何者なの!?

 

911:名無し観る将

落ちるわ。バイナラ!

 

912:名無し観る将

まあ、逃げるよな

 

913:名無し観る将

キィー!せめて相手の情報置いてから去りなさいよ!

 

914:名無し観る将

暁人ガチ勢だ。怖っ。とづまりしとこ

 

915:名無し観る将

まあ、将棋そのものは面白かった。それと大盤であまり解説できてなかった久留野七段も

 

916:名無し観る将

しゃーない。振り飛車ガチ勢二人の定跡無視の捌き合いだったんだから。聞き手のたまよんもずっとアワアワしてるのが可愛かった

 

917:名無し観る将

途中からあくまで一般の振り飛車、四間飛車、ダイレクト向かい飛車の解説になったの笑ったw将棋教室だったぞ、あれ

 

918:名無し観る将

今回の将棋、マジで解説できんの名人くらいやったやろ

 

919:名無し観る将

この将棋見たら新人戦って虐殺だったんじゃないかって思う。玉将とやりあえる奴が新人戦に出てくるとか聞いてないよー

 

920:名無し観る将

でもまだ四段で資格あったし

 

921:名無し観る将

その子、名人と指せちゃう神の子なんですよ…

 

922:名無し観る将

今回の新人戦参加者御愁傷様。いや、来年もか?

 

923:名無し観る将

暁人きゅんが挑決に勝つか、五段に上がってから全棋士参加の一般大会で優勝すれば六段になって新人戦に出られないけど

 

924:名無し観る将

順位戦はこのまますぐC1に上がるやろし。なんか中学生の内に六段になっても驚かなそう

 

925:名無し観る将

中学生で新人戦参加資格失うとか、新人戦とは

 

926:名無し観る将

ま、可能性の話であって確定じゃないから

 

927:名無し観る将

新人戦決勝で負けたゴッドコルドレンが順位戦勝ってB2に上がれば六段で新人戦参加資格なくすし…。ありえない話じゃ無い

 

928:名無し観る将

あのマント君。俺好きよ?あいつの掛け声面白い

 

929:名無し観る将

暁人きゅんもストレートで順位戦上がったらすぐに新人戦出られなくなるんだよね…

 

930:名無し観る将

中学生棋士、高校生棋士ってだいたいそのストレートやっちゃうからなあ

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8 似た者師弟

 七月下旬。とうとう天衣ちゃんが参加するマイナビのチャレンジマッチの日になった。研修会も順調に勝ててるし、チェスロックの使い方も慣れてきたから大丈夫だと思うけど。

 僕も対局がなかったので一緒に東京へ新幹線で向かっている。というか僕は明日東京でお仕事がある。

 だから都合が良かったということ。もちろん晶さんも保護者として一緒に来ている。

 

「天衣ちゃん。前にも言ったけど、勝った後のインタビューは愛想良くね。マイナビって凄く記者来るし、将棋界でもかなり注目されてる棋戦だから」

「わかってるわ。最年少記録叩き出してあげる」

 

 チャレンジマッチ通過の最年少記録だけど、天衣ちゃんが勝ち上がったらぶっちぎりの更新だ。記録保持者は空さんだけど、記録は十歳何ヶ月か。天衣ちゃんは八歳七ヶ月になる。一斉予選も勝ち上がりそうだけど、まずはチャレンジマッチだ。

 チャレンジマッチはいわば予選の予選。これに勝てば二週間後の一斉予選に出れて、それに勝つと本戦に出られる。

 女流の大会ながらアマチュアも出られる最大規模の大会だし、勝ち進めば女流棋士になれるという決まりがある珍しい大会なのでみんな気合いを入れてやってくる。

 だから反則にならないように前にも言った事例をもう一度伝えた。それを神妙に聞く天衣ちゃん。将棋の力以外で負けるなんて許せないからだろう。

 

「天衣ちゃん。変装はこんなもので大丈夫かな?」

「……伊達眼鏡かけただけじゃない」

「でも結構雰囲気変わったと思わない?」

「珍しいとは思うけど。晶、いっそ髪型変えてあげれば?ワックスか何か使ってあげなさいよ」

「確かに。先生はもう少し自分の知名度を省みたほうがいいぞ?」

 

 そうだろうか。将棋に詳しい人じゃないとわからないと思うけど。一斉予選にもなれば観客も来るけど、今回いるのは晶さんのような保護者だけ。僕だって付き添いの関係者扱いで観戦するつもりだからそこまで話題にならないと思うけど。

 そう思っていたのに晶さんによってワックスで髪型を跳ねているように変えられた。何で男性用の整髪剤を持っているのか聞いたら必要になるかもしれないからと常時持っているらしい。珍しい事態を想定しているんだなと思った。

 

 そういうわけで会場に行って受付をしている間に、東京の連盟職員さんに僕のことがバレた。天衣ちゃんのことは弟子として連盟に届け出を出しているので納得されたほどだ。月光会長から通達があったんだと思う。

 晶さんと一緒に観客席へ。女流棋士同士は一回戦でかち合わないようにトーナメントが組まれるので予想通り天衣ちゃんの相手は女流棋士だった。立場上は格上相手だ。

 なんだけど。

 

「お嬢様、もう勝ったのか?」

「みたいですねえ。46手という一抜けです。他のところはまだまだ対局をしていますけど」

 

 一斉予選に選ばれるようなシードをもらえない女流棋士なんて相手にならないかー。何というか、一人だけ実力が違いすぎるんだよね。チャレンジマッチに空さんが混ざり込んでいるようなもの。三年前もおんなじ感じだったんだろうか。

 このチャレンジマッチは四連勝すれば一斉予選出場になる。敗者復活戦もあるけど、天衣ちゃんの場合それはなさそうだ。

 

 二・三回戦も短手で吹っ飛ばしていた。うん、虐殺だ。低く見積もっても奨励会一段レベルの天衣ちゃんじゃ奨励会にも上がれなかった女流棋士は吹っ飛ばしちゃうよなあ。

 反則やいつぞやのような読みすぎてミスをするってことも起きなかったし、良かった。次の四回戦を勝てば最年少一斉予選出場者だ。

 そのまま観戦しようと思っていたら記者席に案内された。職員さん曰く折角いるので弟子の将棋を解説してくれないかとのこと。

 その相手の記者さんは。

 

「あれ?供御飯(くぐい)山城桜花。どうかされたんですか?」

「今の私は観戦記者の(くぐい)です。名刺いりますか?碓氷新人王」

「新人王は正式タイトルじゃないので普通に四段で呼んでください。いやー、それにしてもこういうこともされていたんですね」

 

 知らなかった。彼女は女流タイトルの山城桜花を持つ供御飯さん。女流タイトルを持っていることと九頭竜さんと同期というか小学生名人戦で知り合ったとかで親交があるようでたまに一緒にいる女性だ。

 京都に住んでるって聞いたことあるけど、まさかマイナビのチャレンジマッチに記者として来ているなんて。敵情視察の意味合いもあるんだろうか。

 

「解説と言っても、映像を流したり音声を流すわけじゃないんですよね?」

「対局の推移をコメントしてもらえれば、私がそれをこのパソコンで打って実況する形ですね。今回は夜叉神アマと焙烙(ほうろく)女流三段の対局について解説していただきます。対局者紹介はこちらで打ちますので」

「ただ話せばいいんですね?」

「それを切り取って私が打ちます」

 

 なるほど。つまり普通に観戦しながら呟けばいいわけだ。解説のお仕事とあまり変わらないのかもしれない。

 

「それにしても焙烙女流三段と早指しですか。これは夜叉神アマも苦戦するかもしれませんね」

「ですね。僕だって吹っ飛ばされるかもしれません。彼女の自爆は棋士でも有名ですよ」

 

 調子が良いとA級在位八段を吹っ飛ばしたこともある焙烙さん。でも早指しのしすぎで長期戦は苦手だとか。空さんに勝てるかもしれない女流棋士の一人だ。普通ひっくり返せないほどの棋力の差があるんだけどなあ。

 天衣ちゃんは席に着いた後、飲み物の準備も終えると薄紅色の小物入れから扇子を取り出す。その扇子を開いて出てきた文字は豪胆な「天衣無縫」。

 

「『天衣無縫』ですか。碓氷四段の扇子ではないですよね?」

「違います。あれは彼女が一番尊敬する人の扇子ですよ。……彼女との関係性って、職員の方から聞きました?」

「ええ。ですがあなた方が発表するまではもちろん表に出しません。デリケートな問題ですから」

 

 その辺りは女流棋士とはいえ、観戦記者でもある供御飯さんは徹底していた。いや、僕も天衣ちゃんがいつ発表するのか知らないけど。大槌師匠門下だということだけは発表されているはず。

 本気の時に出す扇子。天祐さんの遺品だ。名人や月光会長との記念対局でも使っていた物で、小物入れも母親の遺品。

 全力を出すべき、敬意を持った相手に出すそれ。焙烙さんを認めている証拠だ。

 対局が始まる。焙烙さんはガンガン攻めているけど、天衣ちゃんはじっくりと自陣を整えている。ありゃ、珍しい。天衣ちゃんが穴熊組んでる。

 

「夜叉神アマは穴熊を選択。焙烙女流三段はいつも通り攻めていますね。これまでの三戦を見ると夜叉神アマは攻めの将棋のように感じましたが、いかがでしょうか?」

「ああ、いえ。天衣ちゃんは定跡をしっかり進めるタイプですよ。さっきまでの三戦は早々に定跡から外されたので攻め込んだだけで。それに天衣ちゃんも焙烙女流三段のことは注目していたので手堅く守ろうと思ったのでしょう」

「なるほど」

 

 そう言いながらパソコンでコメントを打ち込んでいく。この中継結構な人が見てるんだな。今日は中継されるような棋戦が他になかったか。観る将からするとちょうど良かったのかも。

 明日は大きいのが一個あるし。

 

「夜叉神アマは振り飛車穴熊。焙烙女流三段はゴキ中の相振り飛車となりました。最近相振り飛車を見たばかりですね」

「あはは。でも女流タイトル戦では珍しくないかと。振り飛車の女流棋士の方は多いですから。天衣ちゃんはどちらも指せますよ。今回は穴熊に任せて飛車で突撃するみたいですね」

 

 どちらも手を止めずにバンバン駒を進める。いや、持ち時間は確かに少ないけど早指しにもほどがあるというか。

 あっという間に八十手超えた。

 

「は、早い……!どちらが優勢ですか?」

「若干天衣ちゃんが。穴熊の守りを焙烙女流三段が崩せていない代わりに、天衣ちゃんは焙烙女流三段の薄そうな守りを食い破っていますから。それは穴熊が得意な供御飯さんもご存知のはず。いやでも焙烙女流三段、今日は調子がとても良い日ですね」

 

 その証拠にかなり早い手なのに痛烈な手が多い。「どかーん!」とか叫んでるし楽しそうだ。

 焙烙さんが指した一手。今までは天衣ちゃんも即座に応手を返していたのに、何かを呟きながら長考に入った。時間にちょっとだけ余裕があるけど、考えすぎたら一気に持ち時間がなくなる。大丈夫だろうか。

 あの状態を見るのは三度目。名人との対局で初めて見せてから、僕との対局で一回、山刀伐さんとの対局で一回見せている。

 アレの後は天衣ちゃんにとって最高の一手を出す。となると読めるかな。

 呟き終わって指した一手。それはただの銀打ち。

 

「へ?銀を、捨てた?」

「供御飯さん。終局です。ちょっと複雑ですけど、十七手詰ですよ」

「十七手?あの銀から……。……え?まさか」

「はい。三手で焙烙女流三段の攻めが止まって、そこからは防戦ですけど、持ち駒からしても最短十一手。最長十七手の詰です」

 

 焙烙さんも調子が良かったのか、十一手の方には気付いてそれを回避したけど十七手詰の方は防げずに途中で投了。いやあ、素晴らしい将棋だった。天衣ちゃんまた強くなったんじゃないかな。

 僕もウカウカできないぞ。

 

「……アレを、読んだんですか?」

「読んだでしょうね。とある対局では自分の二十五手詰を読んで投了しましたから」

「十七手の方は結構複雑というか、十一手の方に隠れていて見逃す可能性もありますよね?あの子にどんな将棋を教えているんですか?」

「特別なことは何も。昔の棋譜を起こして意図を探ったり、僕と指したり。後はとあるアマ棋士の棋譜を検討したりですよ。詰将棋を何十時間とか、将棋アプリやネット将棋、AIによるソフトなんかは使っていません」

 

 僕は師匠としては失格だと思う。ただ大槌師匠に習って、天祐さんに教わったことをそのまま天衣ちゃんに教えて、後はひたすら将棋を指しているだけ。

 僕自身まだ学生だし、棋士としても実績は少ない。女流のことだってろくすっぽ知らない。それでもただ将棋を指しているだけで良いと彼女が言ってくれるからそれに甘えている形だ。

 だから強くなったのは彼女の才能と努力で、僕の力なんてほぼない。練習台になってるだけなんだから。

 終局後、史上最年少一斉予選参加者になった天衣ちゃんは予想通り記者に囲まれて質問責めにあっていた。最初から笑顔で受けてくれて良かった。

 

「一番尊敬する棋士はどなたですか?」

「碓氷暁人四段です。彼の棋譜は全て並べています」

 

 あれ。まだ師匠だってこと発表しないんだ。僕の棋譜は全部並べてるっていうか、僕が振り返るのを一緒に検討してるんだけど。

 連盟職員は関東も関西も知ってるんだからもう隠す理由はないと思うんだけど。天衣ちゃんとしても何か意図があるんだろうか。

 

「新人王ですものね。他に尊敬している方、対戦したい方はいらっしゃいますか?プロ・アマ問わず」

 

 女性の記者からのその質問で、天衣ちゃんの笑顔が固まった。マズイ。記者の人は多分女流の、空さんの名前を挙げてもらいたくてした質問なんだろうけど、アマを含んで一番尊敬する棋士なんてわかりきっている。

 僕が晶さんを探すと、晶さんはすでに近寄っていた。僕は職員さんの元へ走る。

 

「父の……夜叉神天祐アマ名人を、尊敬しています……」

 

 そう言って泣き崩れる天衣ちゃん。晶さんがすぐさま抱きかかえて、職員さんに事情を説明した僕に続いて職員さんが質問を打ち切ってくれた。

 僕も同じことになったんだ。当事者の天衣ちゃんがああならないわけがない。

 僕は晶さんを追いかけて控え室へ。職員さんにも許可を取って控え室の一室を借りられた。

 天衣ちゃんは晶さんに抱きついていた。けれどハンカチで顔を拭っている天衣ちゃんの表情はそこまで悲痛なものじゃなかった。

 

「天衣ちゃん、あっちは任せて。落ち着くまでここで休んでて」

「お兄ちゃん……。だい、じょうぶ。お父様のこと、尊敬していることも知っていて欲しいことも本当だもの。……わたし、お父様とお母様に誇れる将棋を指せたかしら?」

「もちろんだよ。最後の対局は凄かった。あの指し回し、空さんを超えてたよ」

 

 僕はそう断言する。棋士すら吹っ飛ばす焙烙さんの全力に勝ってしまったんだから。空さんはまだあの領域にないと思う。今指せば空さんを倒せると思ったからこその言葉だ。

 天衣ちゃんはもう一度ハンカチで涙を拭った後、ゆっくりと立ち上がる。

 

「お兄ちゃん。もっと将棋を教えて。このまま、女王になるわ」

「うん。僕にできることは少ないけど、精一杯指導させてもらうよ」

 

 その後、月光会長に天衣ちゃんが会見を途中で中断させてしまったことを謝ったけど「師弟そっくりですね」の一言で全部許された。いや、やってること一緒だけど、それで良いんだろうか。

 一斉予選出場者は他にもいたから、そちらをスケープゴートに、記者の方達にはプライベートに関わるのでということで天衣ちゃんに尊敬する棋士についてあまり深掘りしないようにお触れを出したとか。

 それ僕も出てそう。前科持ちだし。

 

 天衣ちゃんも他のことなら堂々と答えられそうだし、大丈夫、なんだろうか。

 職員さんが簡単な質問票を持ってきて、それに天衣ちゃんが記入することで回答ということになった。僕と全く一緒じゃん。

 得意戦法や将棋歴など一般的な質問だった。いや、僕達が泣き崩れた質問も一般的なものではあるんだけど、それだけは地雷というか。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9 ニコ生解説

 マイナビチャレンジマッチの翌日。僕は東京の将棋会館の一室に来ていた。将棋を指すわけじゃないけど、解説のお仕事だ。

 スタッフさんに挨拶しながら、今日のお仕事の相方がいらっしゃったのでそちらにも挨拶をする。

 

「おはようございます。鹿路庭女流二段」

「おはようございます。碓氷四段。……お仕事前だから珠代さんで良いんですよ?」

「ニコ生の途中でポロっと言っちゃいそうなのでやめておきます。研究会じゃないんですから」

 

 そう、ニコ生の解説のお仕事をもらって、聞き手が鹿路庭さんだったのだ。今回の棋戦は棋帝戦第三局、棋帝のタイトルを持っている名人と挑戦者篠窪太志七段の勝負なんだけど、名人が二連勝している。

 ネットの評判曰く、「衰えが衰えた」「全盛期が戻って来た」だもんなあ。ストレートで防衛しそうだったらそうも言われる。

 スタッフさんと一緒に流れを確認して、本番へ。鹿路庭さんは慣れているために進行はスムーズだった。

 

「そして今日の解説は先日新人王を獲得しました、碓氷暁人四段です!」

「皆様初めまして。碓氷暁人です。本日はよろしくお願いします」

 

 挨拶をするとコメントがいっぱい流れる。凄い、画面が真っ白で見えないや。「可愛い」がいっぱいあるけど、これは鹿路庭さんに向けたコメントだろうなあ。美人さんだし、人気が凄い。

 女流棋士ってこういう場ですごく人気だもんなあ。天衣ちゃんもいつかこういう仕事するんだろうか。

 

「碓氷先生はニコ生初めてですよね?初めての相手が私で恐縮です〜」

「僕も緊張しているので、慣れている鹿路庭女流二段が一緒で良かったです。緊張して放送事故にならなくて安心しました」

「鹿路庭さんでいいですよ〜。なんたって、お・ね・え・さ・ん!ですからねっ!」

「じゃあ今回だけ鹿路庭さんと。スタッフさんもいい笑顔で頷いていますし」

 

 なぜかすごく推された。というか、お姉ちゃんって呼んで的なことが台本に書いてあった時は目を疑ったけど、それは阻止できたようだ。

 流石にこんな生放送で、年上の女性をお姉ちゃんって呼ぶなんて、ねえ。恥ずかしいじゃないか。

 研究会もやっている相手だから尚更。次会った時に絶対揶揄われる。

 棋士紹介をして、戦いの火蓋が落とされる。先手は挑戦者の篠窪さん。

 だけど、数手進んで驚くべきことが起きた。

 

「あっ!名人が角道を塞ぎました!まさか!?」

「三間飛車でしょうか、振り飛車ですね。あえて四間飛車にするかもですが、三間飛車の方が一手早いことが多いです。棋帝戦では初めての振り飛車です。名人は居飛車派ですけど、振り飛車の時って勝率が九割近いんですよね。超えてたかな?」

 

 そこのところ曖昧だ。けど最近名人は振り飛車をよく指す。そのせいで生石玉将が負けてられないって僕に研究会をよく申し込んでくる。

 あの人も僕が居飛車できるからって都合よく呼び出すよね。兄弟子だしお世話にもなったから基本断らないけど。でも僕も一門の名に違わず振り飛車派なんだけどなあ。

 序盤が進んでいって名人が三間飛車の石田流で、篠窪さんが矢倉だ。

 定跡通りに進むので、こちらのニコ生では随分と緩やかに会話が進んでいた。

 

「碓氷先生は名人と記念対局をされていましたね。無言の感想戦は話題になってましたよ?」

「ああー……。僕もあれ、よくわかってないんですよ。ただここについて話したいなって思った場所を提示したら名人もそれに続いてくれて。それが終わって次に確認したい場所は名人が示してくれて。言葉にしなくてもお互いやりたいことが盤面に出てくるので、言葉が不要だったというか」

「それがもうおかしいんですよー」

 

 コメントも「ありえない」「思考レベルが一緒」「たまよんのおちょぼ口可愛い」「暁人きゅんのたはは顔可愛い」などが流れている。え、僕が可愛いとかおかしいんじゃないかな。

 こんな中学生男子を捕まえて可愛いとか。もし天衣ちゃんがニコ生出たら終始可愛いしかコメント打たなくなるんじゃない?

 ああ、違うか。男子に使う「可愛い」は「面白い」と同義だ。学校でもそんな感じで使われてるもんな。

 

「生石玉将との感想戦は普通でしたね?」

「名人だけですよ?あんなことになったの。言葉は大事です。意思疎通には言葉が一番ですよ」

「碓氷先生がそれを言っても説得力がないというか……。棋士の先生方ってたまに感覚が優先で言語化してくださらないことがあるじゃないですか。碓氷先生もそうなのかなって」

「指導対局をすることもあるので言葉は大事にしていますよ。休みの日や学校ではよく小説読んだり、映画見たりして言葉の勉強をしています」

「へー!詳しく!」

 

 趣味について話したら掘り下げられた。コメントも盛り上がってるからいいか。最近読んだ小説や見た映画を話していく。

 小説は日本のものを見るけど、映画はいわゆる洋画をよく見る。アクションものとか好き。

 そうこう話して昼食休憩も終わった後、盤面が動いた。名人が攻めた。

 

「6六角ですね。重たい一撃です。篠窪七段の攻撃の手が止まりました」

「ここは攻め続けたいですね。飛車と角による攻撃ですけど、篠窪七段はまだ攻めていいと思います。1五香で端を開けていけば突破口は見えそうですが……」

「端攻めですか?」

「はい。篠窪七段の矢倉はまだ健在です。守りに割くよりは薄い端を攻めればそこから馬で攻め込めると思うんですけど……」

 

 そう解説していくと、篠窪七段は矢倉の補強に銀を使った。そんなにガチガチにしなくちゃいけない将棋かな、これ。

 

「チッ!」

「……えー、名人の、ですよね?」

「僕初めて聞きました。眉間に皺が寄ってますね」

「そんなに悪い手でしょうか?」

「悪い、というか……。先送りの手ですよね。角や飛車に対応したわけじゃなくて、攻め込まれそうだから防御を増やしておこうっていう。篠窪七段はまだ攻めることのできる時に一手渡してしまったわけで。これが敗着の一手にならなければいいんですが……」

 

 二連敗している相手だから萎縮してしまったんだろうか。それぐらいらしくない手だと思う。

 おやつタイムになってプリン・ア・ラ・モードを対局者が食べている。ニコ生でも同じものを取り寄せたようで僕達もいただく。

 兵庫で有名なものらしい。対局は兵庫の「ホテルネオ淡路」で行われているのに、わざわざ東京に取り寄せるなんて。

 

「あーんとかします?」

「え……。鹿路庭さんファンに刺されたくないので遠慮します」

「そんな怖いファンいませんよー。どうです?」

「いや、僕の学校で鹿路庭さんファンいっぱいいるんですよ。将棋会館に近い学校なので将棋詳しい生徒も多くて。鹿路庭さん、ご自身の人気を自覚した方がいいですよ?」

 

「……それは君こそじゃないかなー?私こそ君のファンに刺されちゃいそうだし。というか、スタッフも悪ノリであーんなんてカンペに書かないでよ」

 

「鹿路庭さん?」

 

 僕の方に突き出していたスプーンはご自身の口に収まった。良かった、これで明日の学校でいじめられることはなくなる。

 鹿路庭さんと一緒にニコ生出るってだけで絡んできた男子多かったからなあ。空さんと人気を二分してるよね。空さんと同じ学校になりたかったって叫んでる男子もいたし。

 その男子たち、女子に白い目で見られてたけど学校での立場は大丈夫だろうか。

 プリン美味しい。

 おやつタイムも終わって五時過ぎ。もう終盤になっていた。

 

「ああー、詰ですね。九手詰です。篠窪七段も気付いてますね」

「投了です。以上、112手で名人が棋帝戦防衛しました!」

 

 終わったけど感想戦を見たり、最後の詰を説明したり。名人強いなー。でも今日はいい勉強になった。初めての解説も楽しかったし満足満足。

 あとは明日以降男子に刺されないようにするだけだ。終始鹿路庭さんが隣にいたし、多分同級生だと思われる怨嗟のコメントいくつかあったもんなー。

 そういうわけで終わった後は皆さんに挨拶をして新幹線で大阪に直帰。学校の準備をして早めに眠ることにした。昨日もホテルだったためにちゃんと疲れが取れてない気がする。天衣ちゃんのこともあったし気疲れしてるんだろう。

 お風呂から出てさあ寝ようと思ったところでメールが来ていた。天衣ちゃんからだった。

 

「デレデレしてなかったからヨシ」

 

 ニコ生見てたのかな?鹿路庭さんは研究会も一緒にしてたし、それこそデレデレしてたら鹿路庭さんファンに何を言われるか。人気者に何かしたらあとが怖いんだぞ。

 空さんとか。

 だからあまり空さんには近寄らないようにしてるんだけど、体調悪そうにしてたら水の差し入れくらいは許してくれるよね。同い年だし。

 

 すぐに九頭竜さん呼んで帰らせたけど。やっぱり空さんってどこか悪いのかなあ。あんまり深く聞いたりはしないけど、心配だ。

 職員さん達が見守ってるからそこまで心配はしていないけど。九頭竜さんや清滝さんがいるわけだし。

 空さんのことは置いて、返信しよう。けどなんて返信したものか。

 返信の内容に結構悩んでしまって、結局なんてことのない返事をするのに一時間もかかった。バカな。

 




色々原作とは歪んでいるので、タイトル戦の結果や通算タイトル数など捻じ曲がっています。
ご了承ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10 変人ばかり

 二週間はあっという間だ。今日はマイナビの一斉予選なのでまた天衣ちゃんと晶さんと東京に来ていた。実は最近盤王戦の予選の関係で東京に来てる。出席数が……。義務教育だし大丈夫か。

 八・九月も一般棋戦やタイトル戦の関係で東京に来る回数増えそうなんだよね。移動費は連盟から出てるから新幹線使ってるけど、飛行機とどっちがいいだろ。

 大阪駅が近いから新幹線の方が早いな、うん。

 

 新幹線の中で頭の準備運動として僕と一戦だけする天衣ちゃん。全然緊張してないな。

 来るのも三回目だから会場については全然迷わなかった。もちろん今日も僕は変装済み。というか今日こそ一般客が会場に詰め寄るので顔を隠さないといけない。

 お仕事以外で女流の棋戦に来る棋士、特に新人なんていないから、目立つ。鹿路庭さんにも確認を取ったら絶対バレないようにしてくださいって言われたし。

 そんなわけで会場に入って、マイナビ名物らしい「個人スポンサー」を示すボードが受付近くにあった。受付を済ませて連盟職員にまた来たって苦笑されて、なんとなく見てみたら凄い数字になっていた。

 

 

 夜叉神天衣……154(通常46、特別108)

 

 

 3桁。鹿路庭さんだって女流では二番人気の人なのに、合わせて47だ。お金を払って近くで対局を観れたり記念撮影ができる制度らしいけど、通常で一万、特別で一万五千円払わないといけない。

 お金持ちが多いんだなあ。あ、晶さんが特別スポンサーになって一つ増えた。そんなお金を払わなくても生写真くらいいつでも撮ってくれるだろうに。

 僕は首から関係者札を下げることで晶さんの隣で観戦できるらしい。お金を払ってる人と一緒のところで観るのはちょっと心苦しい。お金払ってないし。

 天衣ちゃんは棋士控え室へ。僕たちは観覧スペースへ行く前に対戦表を見ていた。知ってる人もいるけど、直接的な対面はないからなあ。棋譜を並べたことのある人も何人かって感じだし。

 

「あ。祭神女流帝位が同じブロックにいますね。二回戦です」

「む。お嬢様が熱心に棋譜を並べていた人だな。覚えてるぞ」

「女流では焙烙女流三段に続いて警戒すべき相手ですからね」

「あ〜れ〜?こっち知ってる?しかも〜あれあれ〜?暁人きゅんじゃね?」

「はい?」

 

 誰だろう、人の名前に、中学二年の男子にきゅんなんて付けちゃう痛い人は。

 そう思って振り返ったら痛い人がいた。話題に挙げていた祭神女流帝位が棒付きの飴を舐めていた。

 

「やっぱり〜。なになに?女流の将棋に興味あんの?知らなかった〜」

「祭神女流帝位、初めまして。碓氷暁人四段です。あと、あのできれば人が多いのであまり僕の名前を呼ばないでいただけたら」

「あ、お忍び?オッケオッケ!だからそんなカッコしてんだ〜。ま、可愛いからオッケ!」

「はぁ」

 

 なんというか。ちょっと前のギャルのような。いや、ギャルと分類していい人を見たことがないから新しいか古いかなんてわからないんだけど。

 受付から離れて、一応話をする。

 

「いま時の人が女流の大会にどしたん?」

「知り合いの応援です。指導対局もしたことがあるので」

 

 天衣ちゃんは僕との関係をまだ隠すつもりらしくて、そういうことにした。嘘は言ってない。本当のことも言ってないだけで。

 

「へ〜!裏山!暁人きゅんってばやいちをボコっちゃうから、一回指してみたいんだよね〜。でも二回じゃどっちが強いかなんて言えないし、やいちとどっちが強いんだろ?」

「……九頭竜七段のことですか?」

「そ!やいち!やいちの弟子になりたいんだけど、つうか彼女?そうしたら毎日将棋指せるじゃん?もうそれだけで幸せじゃん?暁人きゅんってやいちと仲良かったりする?」

「すみません……。研究会とかしたことがなくて。それに九頭竜七段は今竜王戦で忙しいですし」

「そっか〜。橋渡ししてもらおうかと思ったけど、残念」

 

 また九頭竜さんの周りの女性が増えたぞ?どうなってるんだ。今日空さんがいなくて良かった。喧嘩勃発するところだったよ。

 モテモテだなあ。僕って女流の方と縁があったのは鹿路庭さんだけだ。大槌師匠はお歳だからあまり女の子の弟子をとってなくて、繋がりがなかった。

 九頭竜さんは同門に二人も女性がいるからこそだろうな。

 

「ところで、教えてたのって誰?」

「夜叉神天衣という子ですよ。この方は彼女の保護者で、一緒に来たんです」

「ああ、一番人気の!」

 

 知ってたんだ。てっきり女流棋士なんて眼中にもないと思ってたのに。

 この人、女性タイトルホルダーとして棋士の方と色々な棋戦で戦うのだけど、結構勝っている。空さんを倒せるかもしれない女流の一人だ。

 焙烙さんよりは安定しているし、実際空さんとの将棋も途中までは優勢だったから女流で一番強いのは彼女かもしれない。

 

「フーン……。その子って、見えてるの?」

「……?ああ、脳内将棋盤のことですか?それとも読み筋の話です?」

「君にも見えてる世界のこと。どうなの?」

「うーん……。入り込めば、確実に。普段はどうでしょう?でも強いですよ。僕も負けます」

「……!キヒッ!最・高!こんなトーナメントクソつまんねえって思ってたけど、楽しみできたァ!ありがと、暁人きゅん!」

 

 とてもいい笑顔(可愛らしいとは言わない)を浮かべて控え室へ向かう祭神女流帝位。煽っちゃったかな。けど良い将棋になると思う。

 最後のが本性かな。ずいぶん猫かぶってたんだなと、その豹変っぷりに驚いた。

 

「先生、あんな言い方して良かったのか?」

「天衣ちゃんが勝つか負けるかは置いておくとしても。良い経験になると思いますよ。だから本気で指してくれるなら天衣ちゃんとしても本望だと思いますけど」

 

 

「あら、鹿路庭女流二段。おはようございます」

「あ、天衣ちゃん!おはよう」

 

 この二人、例の名人による研究会を一緒に経験したためにそこそこ話す仲になっていた。とはいえ、それは天衣が他に女流で知り合いがいないため唯一顔を知っているから話しているだけでもあるが。

 将棋をすれば天衣が吹っ飛ばしていたが、それはそれ。暁人に言われて礼儀を気にしていたため女流の先生相手には下手に出ていた。

 

「山刀伐先生が会えなくて寂しいって言ってたよ?あと名人も

 

 流石にあの研究会のことを大っぴらに言うわけにはいかなかったので、名人のことは小声で告げていた。鹿路庭が山刀伐と懇意にしているというのは有名だったが、天衣はほぼ無名の人間だ。

 山刀伐の名前を出しただけで周りの女流棋士はどういうことかと聞き耳を立てていた。

 

「これに集中したかったので。東京に来るのは師匠の考えで控えていました。研修会で大ポカもしちゃいましたし」

「なるほどね〜。お師匠さんによろしく伝えておいて?」

「はい」

 

 鹿路庭はこれだけの会話で師匠のことをまだ隠しているのだと察して名前を出さなかった。できる女である。謎の師匠が山刀伐と関係を持っていると思われる程度だろう。

 

「……それとは別件で。碓氷四段にニコ生であーんをしようとしたのは何故ですか?」

「あ、やっぱり気にしてた?スタッフさんの悪ふざけだったの。碓氷四段の人気のおかげでいつもより視聴者多かったみたいで、バズらせようとしたスタッフが何か話題を作ろうとしてて。本当に困っちゃったわ」

「碓氷四段に止められてなかったらしてましたよね……?」

「それが女流の聞き手の辛いところなのよ。あそこで私が断っちゃうと視聴者に怪しまれちゃうし、仕事の話も来なくなっちゃう。そういう意味じゃ碓氷四段は最高の対処をしてくれたわ。炎上もしなかったし」

 

 女流ならではの苦労話だ。天衣はまだ経験していなかったために実感しづらい話だが、どこで炎上してどこで仕事を回してもらえなくなるかわからない。

 特に鹿路庭のように見た目も込みで仕事を手にしている人間にとっては。

 

「そうそう!個人スポンサー凄かったね!昔の空女王よりも多かったわ!」

「……そうなんですか?あの制度についてもさっき知って」

「あー。あんまり興味なさそうだもんね。多分天衣ちゃんのチャレンジマッチの後の記事でファンが増えたんだと思う。今は空女王のおかげもあって女流の棋戦を観に来る人も増えたから、それで上回ったんじゃないかな」

 

 銀子の頃はそこまで女流の棋戦に注目されていなかった。銀子という圧倒的スターが産まれて注目され始めたのだ。

 特に今のタイトルホルダーは見目も優れている人が多い。そのため観客はかなり増えた。この勢いがなければ天衣でもそこまで数字は伸びなかっただろう。

 一方天衣からすれば注目された理由が泣き崩れたインタビュー記事となると、素直に喜べないものがある。

 

「わたしは、わたしの将棋を指すだけよ。注目なんて関係ない」

「ふふ。やっぱりそっちの口調の方が天衣ちゃんらしいわ。対戦表は見た?」

「いいえ。受付の方に、こっちにもあると言われたから」

「私とは別ブロックだから本戦じゃないと当たらないね」

 

 そう言われてようやく天衣は対戦表を見た。自分の名前を見付けてその対戦相手を見て。

 天衣は笑った。

 

「すごいよ、あなたは。彼女と当たるってわかって笑えるんだもの」

「当たり前じゃない。棋士を吹っ飛ばした?捌きの雷?──もっと凄い人を知っているもの」

(名人じゃなくて暁人君なんだろうなあ)

 

 鹿路庭はおそらく正解だと思っていても口に出さなかった。そしてそれは正しい。

 天衣が今一番尊敬している棋士は暁人という事実は一切変わっていない。

 そんな時、控え室に入って来る人物がいた。その人物は辺りを見回した後、天衣を見付けて口角を三日月のように吊り上げた。

 

「みっけ。楽しませてよね……!キヒヒッ!」

 

 

「お、先生!お嬢様が勝ったみたいだぞ!」

「ですねえ。……完勝譜です」

 

 晶さんが言うように天衣ちゃんは勝った。めちゃくちゃな人数の観客に見られながら指していつも通りに戦えるかなと思ったけど、天衣ちゃんは会場で二番目に早く終わらせて勝った。メンタル面は問題ないみたいだ。

 ちなみに一抜けは祭神女流帝位。すっごい笑顔でバシバシ指してた。途中歓声が上がってたのは凄い。

 天衣ちゃんも勝った今、めちゃくちゃ野太い声援を受けてるけど。

 勝った天衣ちゃんはこれから個人スポンサーたちと記念撮影をしてお昼休憩を挟んで二回戦をやって今日は終わり。

 

 すっごく人が多いから気疲れしないといいけど。

 天衣ちゃんは愛想良く記念撮影をしていたけど、晶さんの番になったら露骨に顔を歪めていた。自分のお付きがわざわざ高額支払ってまで記念撮影に来るとは思ってなかったのだろう。

 僕は関係者札を下げているからって控え室に行ったりはできないので晶さんと適当に近くの牛丼チェーンに行った。さっさと食べて帰ってきて余裕を持って場所の確保をする。

 

 二回戦の時間になって、天衣ちゃんと祭神女流帝位がぶつかる。やっぱり彼女たちの会場前はかなりの人だかりができていた。

 天衣ちゃんは後手。そして今回も扇子を出して左手に持っていた。どうなるかと思って見ていたら、お互いが振り飛車の準備をしていた。

 

「相振り飛車か!イカちゃん相手に振り飛車は無謀じゃ……」

「まあ、女流は振り飛車多いからな。夜叉神ちゃん、さっきは居飛車だったけど」

「でも焙烙女流三段とも相振り飛車になってただろ?天衣ちゃんって振り飛車の方が得意なんじゃないか?」

 

 そんな声が観客席から聞こえてくる。お客さんたちも将棋を理解して見に来ている人が結構いる。明らかに容姿に釣られてる人も若干数いるけど。

 天衣ちゃんは四間飛車、祭神女流帝位は中飛車。どちらも飛車を振り、相手の陣地へ突き進む。城門を削り、敵の勇者を跳ね飛ばし。雑兵を狩っていく。

 持ち時間が三十分しかないからか、指す手が早い。それでもお互い齟齬が出ないほどやりあっている。そのせいで観客のボルテージが上がっていく。

 

 本来、将棋は静かな場所でやる競技だと僕は思っている。これから一般棋戦に参加して僕も観客に囲まれるだろうけど、その時どれだけ自分を出せるかわからない。

 けど、目の前の二人は。周りの声など聞こえないかのように盤面に集中していた。

 

「いい!凄いな!お前、銀子より良い!こっちについてこれるとかさあ、これから女流棋戦に力入れる理由ができちゃった!」

「違う、違う。……違う。これ!」

 

 女流帝位の叫びが響き、天衣ちゃんの否定の声が静けさを引き出す。全く違う様子の二人ながら、その局面は激しく移り変わる。

 持ち駒を投入して、奪われて。奪い返して使われて。まだ一分将棋に入り込まないのにゆうに100手を超えた。

 この一斉予選から解説がつくけど、その速い展開に解説が追いついていなかった。

 これは女流の棋戦だ。だけど、この棋譜は棋士のものだ。それだけ白熱した戦い。

 

「違う、違う……。違う!まだ、まだ……違う。ここ!」

「なっ!」

「飛車を、切った!?」

 

 振り飛車だというのに、もう終盤だというのに。

 天衣ちゃんは飛車を切った。それは誰をも驚愕させ、しかし最善手だった。そうすることでしか、彼女に勝ち目はなかった。

 けど、その先を女流帝位は読んでいた。即座に飛車を食い潰し、更なる天衣ちゃんのと金による攻撃を受け潰す。

 そう、飛車を与えても、使わせる場面を作らなければ良い。その前に詰ませてしまえばいい。僕がよくやる手だ。

 

「これでぇ!」

 

 女流帝位の攻防一体の馬の一手を、歩一枚で躱す。そして奪った飛車をとうとう、投入した。

 だけど、天衣ちゃんはそれを無視した。自分の防衛網を信じて。

 

「ここっ!」

 

 中飛車をすることによって空いていた中央。そこに香車を突っ込ませる。その攻撃にまた攻防が入れ替わり、女流帝位は防衛を一手だけ加える。

 そこから天衣ちゃんは攻め続ける。攻めて攻めて、攻めて。

 きっと彼女は、気付かない。

 自分の認識と、目の前がズレていることを。

 天衣ちゃんが駒台に手を触れる。このまま攻めようとしたのだろう。

 だけどそこに。駒は一つもない。

 

「あ……」

 

 呆然とした天衣ちゃん。そう、そこに銀があるはずだと思っていたはずだ。

 だけどそれは、七手先のこと。今は銀を取るために桂馬を動かさなければいけない。

 けれど、その止まった思考が、彼女から時間を奪い取る。

 電子時計が、彼女の持ち時間がなくなったことを示すブザー音を鳴らした。それに肩を大きく震わせて、持ち時間がなくなったことによる負けを告げる鐘を聞き入れる。

 

 天衣ちゃんの動きが止まったんだけど、女流帝位が何故かブザー音のうるささに電子時計を思いっきりぶっ叩いた。ドガっ!とかいう大きな音が聞こえて電子時計が落ちたほど。

 その行動に会場はどよめいたが、それ以上の叫びを放つ。

 

「さっさと指せ!夜叉神天衣!」

「……負けました」

「あ?……ああ〜?ええー……?」

 

 天衣ちゃんの方が先に冷静になったみたいだ。女流帝位は周りを見渡して、落ちた電子時計を見て。

 盤面を見て、天衣ちゃんの顔を見て。

 対局が終わったことを理解した。

 

「ウソ〜!?あんな盛り上がってたのに!?最高にハイだったのに!時間切れぇ!?ありえないんですけどぉ!とにかく続き!」

「え、はい……」

 

 天衣ちゃんが困惑しながらも続きを指す。ズレたのは十三手前だろうか。そこから一切駒台を見なくなったから、そのまま頭のイメージ通りに指したんだろう。そしてその考え通りに女流帝位も指した。

 途中で女流帝位が間違えてたら、ズレにも気付けたんだろうか。

 この対局そのものは133手で終わったけど。最後までいっていればもうちょっと続いた。いや、持ち時間各三十分の早指しでそんな長丁場に普通ならないはずなんだけど。

 お互い集中しすぎて一分将棋になってたのに気付いてなかったんだろうな。

 そして進めていって。天衣ちゃんが銀の存在を確認して。

 九手詰が現れた。

 

「はあああ〜。気付かなかった!負けました〜」

「いえ、あの。勝ったのは女流帝位です……」

「夜叉神ちゃ〜ん。こっちまだ『ありがとうございました』って言ってないけど?」

「あの。それを言ったらわたしは『負けました』と言ったのだけれど……」

「持ち時間あと三十分あったらこっち負けてんじゃん!こんなので勝ち拾えとか無理〜。誰だよ、この棋戦の持ち時間考えたやつ」

 

 うわー。とうとう大会規約に愚痴を言い始めた。すごいなあ、女流帝位。自分が勝ったことを認められなくてスポンサーに喧嘩を売るなんて。

 でもそんな姿を見て「さすがイカちゃん!」「痺れる〜」「潔い!」などなど好評なのか野太い声が聞こえる。

 いや、潔いかな?勝ちを認めなくて駄々こねて、多分うるさかったからって電子時計ぶん殴ってたけど。

 

「ああ〜もう!何で負けてんのに……わかりましたっ!ありがとうございました!」

 

 感想戦をやりながらずっとぐちぐち言ってたら流石に職員さんに止められたらしい。女流帝位にありがとうございましたと言われて天衣ちゃんは頭を下げる。それでようやく対局が終わったと見做され拍手が起こる。

 溢れんばかりの拍手が会場を包む。最後まで対局をしていたのはこの二人だ。そして一番凄い棋譜も。

 

「これ女流迷譜100選に選ばれるっしょ」

「お前、絶対迷う方で言ったな?最後のあれがなくて棋譜だけ見たら名前の方の名譜100選に入れられるだろ」

 

 そんな声が聞こえてくる。時間を告げる電子音がうるさかったからぶん殴りました、なんて後にも語られる所業だよなあ。

 でも、そんな破天荒なことを結構してきたからか、女流帝位を見る目はまたかくらいに済んでる。棋士も変わり者多いけど、観客も変わってる人多いよね。

 

「お嬢様が負けたことには変わりないんだな?」

「はい。時間切れによる負けです。勝負に勝って試合に負けた形ですね。もしあと三分、持ち時間が余ってたら勝ってたかもしれません」

「それも勝負の世界か……」

「でも、やっぱり天衣ちゃんは強くなってますよ。空さんと戦えなかったのは残念ですけど」

 

 もしタイトル戦になっていればどうなっていただろうか。黒星のない真っ白な白雪姫に、墨をつけられたか。三勝される前に一戦は抗えただろうか。

 それは、来年に持ち越しだ。

 

「僕も頑張らなきゃな」

 

 天衣ちゃんは帰りの新幹線で気付かなかったことに悔しくて泣いてたけど、すぐに僕と将棋を指したいと言ってきた。だから僕はそれに従う。

 この悔しさもバネになる。研修会じゃなく、大会での初めての負けだ。しかも勝てた勝負に負けた。

 大会独特の空気もある。それに勝ち進めば天衣ちゃんの目標である女王に近付けた。なれていたかもしれない。

 今回負けたら、もう次は来年だ。来年になるまで待たなくちゃいけない。約束を一年先延ばしにしてしまう。それが悲しかったんだと思う。

 

 来年はちゃんとタイトル挑戦できるように、僕も指導に力を入れよう。

 そう考えていると僕は。青竜戦とチャレンジ杯で優勝して勝利数の関係で五段に昇段。そのまま毎朝杯で名人に勝って優勝、六段に昇段した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11 指し初め式

「何というか。去年は二人の年だったわね」

「いやー。僕がいくら話題を作っても、その先を行くんだから。九頭竜竜王は凄いよ」

 

 年が明けて指し初め式。僕と天衣ちゃんも参加していた。僕は去年から参加していたんだけど、天衣ちゃんは今年初参加だ。

 僕も色々将棋界を騒がせる記録を残したんだけど、九頭竜さんはそれを上回る偉業をやってのけたからなあ。史上最年少のタイトル挑戦者、史上最年少タイトル保持者。しかも将棋界で最強と呼ばれる竜王に新人がなっちゃうんだから。

 八段の段位記録、一生破られないんだろうな。十六歳四ヶ月?無理無理。この年数より年下で竜王になるとか不可能でしょ。

 

 僕と天衣ちゃんは並んで指し初め式に来たんだけど、僕は黒い袴を、天衣ちゃんは赤い鮮やかな振り袖を着ている。なんとこれ、どっちも弘天さんからのプレゼントだったりする。

 僕は去年制服で参加したんだけど、あまり好評じゃなかった。だから今年は和装をしようと思ったんだけど、そうしたらいきなりプレゼントされて驚いた。誕生日プレゼントということだったのでありがたく受け取ったけど。

 僕たちが将棋会館に向かうと、既に酔っ払ってる人が。そんな人たちに絡まれている九頭竜さん。天衣ちゃんを見せないために手を取ってさっさと上の階へ駆け上がることにする。

 今日天衣ちゃんは髪をお団子に結っている。シニョンって言うんだったかな。普段に増して可愛いから危ない。

 

「お、お兄ちゃん?」

「ちょっと急ごう。アレに絡まれたくない」

 

 先輩をアレ扱いしたくないけど。この年末年始、竜王になったから天衣ちゃんの写真ちょうだいというメールがめっちゃ来た。

 ムカついてそれを無視したら痛電してくる始末。僕の中であの人の株が一気に下がった瞬間だった。

 なにが研修会に顔を出しても話しかけてくれないなんだか。他の子達は史上最年少タイトル挑戦者ともなれば近寄るけど、天衣ちゃんは将棋をするために将棋会館に通っているわけで有名人に会いに行ってるわけじゃない。

 だから将棋に集中していただけ。それに天衣ちゃんにだって肖像権がある。そんなに写真が欲しければマイナビで個人スポンサーになれば良かったんだ。

 

 他の人はお金を払っているのに、竜王だからと写真を求めてくるなんて。竜王になったら写真をあげるなんて約束もしてないし。

 メールに金髪外国人幼女の写真を添付してきて、彼女の写真をあげたんだから天衣ちゃんの写真をくれとか言ってきた。

 空さんにチクったよ。あと晶さんにも要注意人物として話してある。そのおかげでメールはなくなった。

 けど今日は親交を深めるためとか理由をつけて近寄ってくるかもしれない。晶さんも来られないから僕が守らないと。

 

「お、レコードホルダー二人組じゃないか。明けましておめでとう」

「生石玉将。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「ああ。いやあ、似合ってんな。黒と赤で二人ともよく映える。レコードホルダーとしても注目されるだろうから、挨拶回り大変だろうけど頑張れよ」

 

 生石玉将にそう労われる。記録持ちだったりタイトルホルダーだったりすると色々な人に囲まれるのは目に見えている。

 天衣ちゃんという可愛くて史上最年少女流棋士というのは、それだけで話題になる。研修会を突破して規定の級になったために女流として登録した時は結構騒がれた。今日もそうなるだろう。

 関西の指し初め式は結構適当だ。好きに指して好きに話して、好きにお酒を飲んで。記者が来たら答える。それだけ。

 特別な用事や東京の将棋会館に行かない限り、原則参加ってこと以外はゆるい集まりだ。

 

 僕と天衣ちゃんは知り合いの棋士や職員さんに話しかけられて、新年の挨拶をする。もう皆さん僕と天衣ちゃんの関係性を知っているから一緒にいても特になにも言われない。

 女流棋士になった際、公表したからだ。

 挨拶もそこそこに、開会式の挨拶も終わって僕達は別れて将棋盤の前で待っていた。複数ある将棋盤の前に好きに座っていいのだけれど、レコードホルダーということで僕と天衣ちゃんと指したい人がいっぱいいるらしい。去年も最年少だからって結構指した。

 天衣ちゃんには職員さんがついてるからいいとして。

 僕も何人かと指していると、新しい来客があった。空さんだ。

 

「空女王、明けましておめでとうございます」

「おめでとう。指すわよ」

「あの、いいんですか?女王ともなれば上座(ぼく)側では?」

「いいのよ。抜けてきた」

 

 そういうわけで他の人が指した途中の盤面から続ける。僕たちが同い年だからか、写真を撮る記者の方も多い。空さんはいつも通りのセーラー服だけど、僕が和装しているためにフラッシュが多い。

 

「あの小娘の師匠だったのね。道理で」

「研修会で見ましたか?あ、まだ言っていませんでしたけど、二段昇段おめでとうございます」

「ありがとう。マイナビと他の女流棋戦の棋譜を並べたのよ。例会があるからって棄権する女流初めて見た」

「天衣ちゃんの場合今は数をこなすことが大事だと思って体調とスケジュールを見て棋戦に出場させていますから。それこそマイナビのように時間を把握できなくなったら勝てるものも落としちゃいます」

 

 そう、あの悔しさがあって女流の棋戦にも数個参加させている。例会と被るところまで勝っちゃったら棄権するんだけど、それも一回だけ。

 祭神女流帝位に毎回ぶつかって負けるか、焙烙女流三段に負けるためにタイトル挑戦までは行っていない。けどなんだかんだ勝ち上がった女流帝位の思考が早すぎて相手が追いつけず反則をやらかしてタイトル戦で負ける、ということを繰り返して去年から女流のタイトルホルダーの顔ぶれは変わっていない。

 

「あなた、女流帝位に何かした?」

「いえ?特には。影響を与えたとすれば天衣ちゃんだと思いますけど」

「そうよね。……去年より強くなってる」

「次に女流帝位が勝てば、女王挑戦ですからね。応援してます」

「……私の応援なの?」

「天衣ちゃんは、あなたから女王を奪うつもりですよ」

 

 そう伝えると、空さんの手が止まる。天衣ちゃんにとって女王とは空さんなのだから、空さんが負けるなんて思いたくないのだろう。

 

「そう。頑張るわ」

「はい。で、来年は天衣ちゃんが女王に挑みます」

「……待ってるって、伝えておいて」

「ご本人から伝えた方が、思いも一入だと思いますが?」

「嫌よ。面倒臭い」

 

 そういうものだろうか。よくわからないまま僕も将棋を進める。

 

「あと、あのメール。ありがと」

「ああ……。僕もメールと電話が続いて困ってたので。止めてくれてありがとうございます。……その、そんなに小さい女の子が好きなんですか?子供が好きとかではなく?」

「女の子限定ね。少年から声をかけられたらキリッとしてるけど、女の子だとニヘラってしてるもの」

 

 重症だあ。清滝桂香さんと空さんがいて小さい女の子が好きって。なのに好きな人は清滝さんを公言している。空さんは清滝さん相手なら目くじら立ててないけど、他の女性が近くにいると警戒してるし。

 女流帝位を始め、山城桜花や女流玉将とかと一緒に出かけている目撃情報多数。というか、鏡洲さんと椚君、それと神鍋五段以外の男性と一緒にいるところを見たことない……?

 

「……あの、色々頑張ってください。体調も、本当に気を付けて」

「ええ。ありがとうございました」

 

 満足したのか、お互いお辞儀をして終わる。続いてやってくる人達相手に将棋を指したり、色々な人に挨拶したり。

 一番若い将棋師弟ということで天衣ちゃんとの2ショット写真を凄く撮られた。

 下の階がとても騒がしかったけど、多分大先輩方が酔っ払っているんだろうと思うことにした。皆さん飲兵衛だから暴れちゃったのだろう。

 それからも僕達は結局将棋を指して棋戦に出て、学校に行ってお仕事をしていくという日常を過ごしていたんだけれど。

 三月末に、事件が起こる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12 もう一人の「あい」

 三月末。NHK杯も終わって他の棋戦も小休止できるようになって、春休みに入った頃。初日の内に宿題を終わらせておこうと思って机に向かって宿題をやっていた。

 食卓で勉強をしていたんだけど、勉強机はちゃんと別部屋にある。なのに何で食卓でやっているかというと。

 

「天衣ちゃん学校の宿題とかないの……?」

「終わってるわ。だから春休みは将棋漬け」

「二日目だよ……?」

「小学校の春休みの宿題なんてドリルをどこまでやって、自己採点して提出しなさいってくらいだもの。そんなの学校にいる間に終わらせたわ」

 

 小学校ってそんな感じだったけ?既に配られてる教材を終わらせることだったら、初日に終わっててもおかしくないのか。

 中学校は怠けないためにっていうのと、来年は三年生で受験だからって先生お手製のプリントを渡されている。配られたのが終業式の昨日なんだから終わってるはずがない。

 

「今日中に終わらせるからちょっと待ってて……」

「急がなくていいわよ。わたしも確認したいことがあるし」

 

 そう言いながら天衣ちゃんはタブレットとにらめっこしている。動画を見ているんだろうか。誰かの対局の動画かな?イヤホンを片耳にだけつけて見ているらしい。

 それはいいか。まずは宿題を終わらせよう。残りは社会と英語か。僕って苦手なものは残すタイプだったっけ?

 そんな感じで静かな音が続く午後の昼下がり。休憩しようかなと思ったら晶さんがいつの間にかお菓子を用意してくれている。おやつには少し早い時間だったけど、用意してもらったんだから食べる。

 ガトーショコラに舌鼓を打っていたら、携帯電話に着信の音が。誰かからの緊急連絡かと思って画面を見たら竜王からだった。

 こんな真っ昼間になにぃ?正直出たくないんだけど。

 

「お兄ちゃん。表情が一気に死んでるわ」

「……急用かもしれないし、出るかあ。……もしもし?竜王ですか?」

『碓氷ぃ!助けて!お前しか頼れない、姉弟子に殺されるぅ!!』

「あ、いつものですね。お疲れ様です。また今度」

『切ろうとするんじゃねえ!?頼む、今回は本当に死ぬ!』

「また女流帝位が泊まりに来ました?将棋連盟には黙っておくので、何とか丸く収めてくださいね」

『何でお前はイカの味方なわけ!?違うから!ホント助けて!』

 

 ええ……。女流帝位以外で空さんがブチ切れてる?そんなこと直近であったかなあ。

 ああ、もしかして。

 

「また女子小学生の写真撮ったんですか?そのフォルダを見られたとか?」

『何でお前はそういうこと言うかな!?俺同期よ!!』

『八一……?またなの……?』

『ヒィ!悪化した!頼むよ、姉弟子を止められるのはお前しかいない!指し初め式で楽しそうに話してただろ!?』

 

 あーあ。それ言っちゃうんだあ。よりにもよって竜王が。

 絶対電話の向こうで空さんブチ切れてるよ。あなた関連の話をしていただけなのに。

 僕って空さんとは同い年以上の関係性ないんだけど。でもこれ、空さんを止めないとマズイ案件かもしれない。もし無理心中とか起こったら大問題だもんなあ、将棋界にも世間的にも。

 二人ともタイトルホルダーだし。

 天衣ちゃんの目標のためにも止めますか。

 

「竜王、住所は?すぐ向かいます」

『助かる!福島の──!』

 

 聞いた住所を晶さんに伝えて車を出してもらう。晶さんにお手数をかけてしまったから僕は頭を下げる。ほんと、ごめんなさい。

 もちろんガトーショコラを食べてから出て来たけど。ちょっと遅れるくらい大丈夫だろう。それと天衣ちゃんを一人残しておくわけにもいかなかったので連れてきた。天衣ちゃんはタブレットの電源を落として、呆れながら尋ねてくる。そこまでして見る動画じゃなかったみたいだ。

 

「で?竜王は何をやらかしたの?昨日は師弟対決で恩返ししたんじゃなかった?」

「あ、そうなの?それは知らなかった。……空さんのブチ切れ具合からして、女性を家に泊めたんじゃないかな。だから前科がある女流帝位かと思ったんだけど」

「違ったと」

「みたいだね。だから相手はわかんない」

「それよりも先生。またあの男は女子小学生を盗撮しているのか?」

「盗撮じゃなくて同意の上みたいですけど。……はあ、気の乗らない」

 

 車で十五分ほどして、竜王のいるアパートに着く。天衣ちゃん、古臭い建物ねなんて言わない。

 指定された部屋のインターホンを押す。バタバタという音と共に思いっきり内側から扉が開いて涙と鼻水で汚い竜王が現れた。

 

「碓氷ぃい!おせえよ!」

「いや、車で送ってもらって急いだんですが。あ、天衣ちゃん離れて。危ない」

「ええ」

「夜叉神ちゃんが離れていく!?なぜ!」

「いや、顔見てください。竜王」

「八一ぃ……。本当に見境がないわね……?」

 

 あ、空さんという名の修羅がいた。包丁片手に持ってない?本当に刺される直前だった?来て良かったんだか、放っておけば良かったんだか。

 天衣ちゃんが着ている洋服、凄く高いブランド物なんだから鼻水で汚すわけにはいかない。誕生日プレゼントで贈ろうと思って晶さんに話を聞いて驚いたもんなあ。そんなブランド物着てるんだって。

 結局同じような値段の、違う高級ブランドの服をプレゼントしたんだけど。小さい時って着飾ってこそだよね。天祐さんも語ってた。今日着てるのは僕が渡したものじゃないけど、ブランド物に変わりはない。

 

「あー、空女王?全面的に竜王が悪いのはわかってるので、まず包丁を降ろしませんか?」

「酷い!?しかも置くじゃなくて降ろすだけ!?」

「だって何かの拍子に落として空女王が足を怪我したらどうするんです?竜王が責任取って一生面倒見ますか?」

 

 女の子を傷付けたら、それこそ一生物の責任がついてくる。そうなっても空さんは困らないだろうけど、その想像をしたのか空さんが恥ずかしがって包丁を戻しにいった。

 うん、危ないからね。良かった良かった。

 

「ほ、ホントお前呼んで良かった……!姉弟子ずっと包丁離さなくて怖かったんだよ!」

「いや、年下の僕に頼らないでくれます?それで、何をやらかしたんですか?」

「……見てくれればわかる」

 

 そう言うので案内された先にいたのは。

 ランドセルを脇に置いた天衣ちゃんくらいの年齢の女の子だった。

 

「誘拐は犯罪ですよ。天衣ちゃん、110」

「わかったわ」

「待て待て待て!話を聞いてくれぇ!というかこの二人の連携息合いすぎ!?」

「わたしも負けていられません!何します?ししょー!」

「君は黙ってて!」

「師匠?」

 

 え?竜王も弟子取ったの?それだけなら空さんがキレるとは思わないんだけど。女子小学生の弟子を取るくらいで怒ってたら他の女性問題はどうなるんだって話だし。

 

「……その小童。弟子にしてもらいたくて石川から単身殴り込みして、昨日ここに泊まったんですって」

「小童じゃないですー!」

「……男性一人暮らしの家に、女子小学生を泊めるのはちょっと」

「え、嘘!?お前から否定されるの!?お前だって夜叉神ちゃん泊めたりしてんじゃないの!」

「例会で遅くなった時だけですよ。それに彼女の保護者も一緒ですし」

 

 空さんの説明で怒った理由を知って、僕の苦言に竜王が反論を言ってくるけど両家公認のお泊まりだ。僕も夜叉神家にお世話になってるし。僕の家は両親が定期的に様子を見に来るから大人の目もあるけど、ここはどうだろう。

 とにかく、今回は問題な気がする。

 

「親御さんに泊める旨確認しましたか?流石に弟子入りの話が上がって、こんな小さい子が一人で親も連れずに大阪まで来るっておかしいと思うんですけど……」

「あ」

「確認してないんですね?空さんが怒るのも当然かと。連盟か師匠のどちらかにそういう嘆願書が届いていればいいんですけど、それもなしに女子小学生を保護者の了承なしに泊めたとなると犯罪だと思います。条例かどうかまでは覚えてないですけど」

 

 一気に顔が青くなる竜王。気付いてなかったのだろうか。まあこれで空さんが怒った理由が嫉妬とかじゃなくて同門から犯罪者を出さないためとかってなるから、正当性が出てくるかな。

 名前もわからない小学生も顔を青くしている。うん、これ親に言わずに来てると思う。度胸があるんだか、無鉄砲なのだか。

 

「というわけで連盟か清滝九段に相談するのが解決策だと思います」

「……お前、本当に俺より年下ぁ?」

「間違いなく。竜王って結構抜けてますよね……。というより、周りが見えてない?」

「うっ。心当たりがいくつも……」

「ししょー。この人とそっちの女の子、どなたですか?ししょーのお友達?」

 

 話題転換だろうか。首を傾げながら尋ねる少女。言い逃れとしてもどうなんだ。

 そして、その言葉に驚く隣の天衣ちゃん。え、という口をしたまま少女を見て、僕を見て。そして少女をあり得ないものでも見たかのように凝視している。

 竜王は知ってるのに、僕のことは知らないのか。竜王の方が知名度は上だと思うけど、僕と竜王って結構セットで知られてるから片方だけ知ってるなんて珍しい。

 それに竜王に弟子入りするような女の子が天衣ちゃんを知らないのも。女流になるのか棋士になるのか知らないけど、どっちにしろ天衣ちゃんのことは同年代の星じゃないのかな。

 

「碓氷六段、夜叉神女流一級。そこの小童、私のことも知らなかったわ。というか、八一以外のことを何も知らないのよ」

「それはまた……。プロに興味なくて将棋だけ指してる子もいるんでしょうけど、それで竜王の弟子になりたいとは」

「いやあ。この子、将棋に興味持って三ヶ月だって言うから。しょうがないというか」

「あー……。石川って言ってましたし、竜王戦をたまたま見て興味持って、という感じですか?」

 

 時期的にはちょうど合うけど。それで親元を飛び出して許可もなく弟子入り希望。

 師匠候補がこれなら弟子候補もこうなるのかな?

 

「凄いです!名探偵ですか?」

「いや、被害者だよ。天衣ちゃん帰ろうか。これ以上やれることないし。僕は黙っておきますよ」

「……あいちゃん?あなたもあいって言うの?」

「……それが何?」

「わたしの名前もあいって言うの!雛鶴あい!よろしくね!」

 

 雛鶴。それって竜王戦最終局の旅館の名前だったような。向こうでは有名な苗字なのかな?

 本当に名探偵なら僕は竜王という巨悪を捕まえるために頭を働かせるんだろうけど。むしろ隠蔽しようとしている悪い人じゃないだろうか。

 

「竜王、ひとまず問題は解決したみたいなので帰ります」

「ああ、ありが──いや、解決してなくね!?」

「連盟でも清滝九段でも、とにかく電話して事情を話すしかないと思いますけど。空女王が怒るのも当然の出来事でしたし。むしろ空女王に誠心誠意謝るのが筋じゃ?」

「ぐ、ぐぅ!」

「それでいいですか?空女王」

「ええ、ありがと。このクズ、小童のこと隠そうとしたし、押し倒したのよ。裸で。それを問い詰めたらあなたに電話し始めたわけ」

「……もう僕を巻き込まないでくれます?ホント、僕も天衣ちゃんも何も聞かなかったことにしますから……。空女王と清滝桂香さんってこんな苦労をしてたんですね……。今度京都の菓子折り、用意します……」

「わかってくれて嬉しいわ」

 

 包丁を持ち出すのはやりすぎじゃとか、空さんって危ない人なんじゃって疑ったけど、空さん悪くないよ。そんなことを好きな人がしてたら、ずっと昔から好きな人がしてたら包丁くらい持ち出すよ……。

 天衣ちゃんもドン引きして僕の後ろに隠れてる。これ、本当に世間様にバレたら将棋界が終わる……。

 

「まるで俺が裸で押し倒したみたいに言うのやめてくれます!?俺も被害者なんだけど!?」

「どっちでもそんな状況になってる時点でマズイって自覚してくださいよ!?ホント、棋界最強タイトル保持者って自覚あります!?」

「実感が追いついてねえんだよ!そんな自覚あったら十一連敗とかするか!」

「将棋の話じゃなくて人間としての話をしてるんですよ!昇段の時の記者会見で迷惑かけたから助けようかなって思った僕の善意返して!」

 

 僕と竜王が取っ組み合いの掴み合いになって叫ぶ。いくら将棋が強いからって許されないこともあるの!それで問題になった棋士の大先輩いらっしゃったというのに!

 

「何で同門でもないただの新人王が竜王を助けなくちゃいけないんですか!」

「おまっ!新人王どころかチャレンジと青流も獲って新人戦総ナメした上に毎朝杯まで獲った神童が何言ってるんだ!」

「史上最年少竜王には勝てませんよ!」

「同期だろ!」

「僕の昇段同期は鏡洲さんと坂梨さんですぅ!例会の同期はまた別ですし!」

「俺を除け者にすんなよ!鏡洲さんたちはお前の半期後だろうが!」

「僕は学校もあるし、正式な弟子への指導もあって忙しいんですぅ!ネットでクズ竜王って叩かれてる人の尻拭いまでできませーん!」

「それを言ったら戦争だろうが!この貴公子(プリンス)!神の子!名人に勝った少年!名人と以心伝心!去年最も勝った本物!一年五ヶ月で新人名乗れなくなった中学生!」

「八一、それ悪口じゃないから」

 

 ありゃ。僕ってそんなに通称があるのか。恐れ多いなあ。

 僕って新人王になったのに、六段に昇段しちゃったために防衛戦もせずに一期で新人王手放すんだよね。他の新人戦関連のタイトルも。

 新人戦ってタイトル戦みたいに前年度優勝者が頂点で待ってるわけじゃなくて、予選免除になるだけだからタイトルホルダーがいない決勝もザラにあるんだけど。一般棋戦みたいだ。

 最後の新人を名乗れなくなった期間は竜王の方が二ヶ月早いんだけど。怒鳴って疲れたから帰ろう。

 

「お邪魔しました」

「ほら、八一。師匠の家行くわよ。桂香さんにも怒られなさい」

「うえええ。桂香さんに怒られたくない〜!」

 

 年下の女の子に耳を引っ張られているダメな年上をあまり視界に入れずに出ていく。下で待っていた晶さんにお礼を言いつつ、車で立ち去る。

 

「先生、何とかなったのか?」

「血を見ることはなかったので、解決でいいんじゃないでしょうか……」

「はあ。あれが竜王だなんて、将棋界はどうなっちゃうのかしら……」

「名人に頑張ってもらう?ああ、僕もそろそろ竜王戦の対局あったなあ」

 

 6組は人が多くて勝ち上がるの大変だった。また決勝で神鍋さんと当たりそうなんだよな。あの人も勝率高いから激戦になるだろう。

 そんなことを考えていたら、隣の天衣ちゃんが笑っていた。

 

「どうしたの?」

「ふふ。さっきのお兄ちゃん、普通の男の子だったなあって。竜王と取っ組み合いの喧嘩して……」

「至って普通の男子だけど」

「至って普通の男子は中学生で棋士にもなってないし、名人にも勝てないわよ」

 

 天衣ちゃんの言葉に晶さんも大きく頷いていた。将棋のことは別にしてくれないかなあ。それ以外は他の中学三年生と変わらないと思うけど。

 後日。例の雛鶴さんが竜王の内弟子になったと知って驚いた。女の子を内弟子って。一般家庭を既に築いているか男の子だったらわかるけど、大丈夫なんだろうか。

 その報告を受けた後に空さんに会ったら案の定機嫌が悪かった。僕はもう関わらないぞ。

 




中学生棋士二人爆誕によって奨励会の因果が捻じ曲がりました。

歳下二人に負けた者が多く、メンタルボロボロ。昇段者が変わってます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13 強情相掛かり

雛鶴あいの戦法ですが、原作三巻の内容からこういうことするんじゃ、と思って使わせています。


 四月に入って少しして。土曜日に久しぶりに実家に帰ってゆっくりしつつ両親の勧めでお土産をいくつか買って。

 日曜日に大阪に帰ってきた。両親に車で送ってもらい、そのまま両親は神戸の夜叉神宅に行くのだという。僕は将棋会館に用事があったからいいけど。

 天衣ちゃんも今日例会があるとのことで将棋会館に来ているという。例会って僕達棋士なら観覧しても良いわけで、一回くらい観に行こうかな。天衣ちゃんがどんな感じで例会に挑んでいるのか知らない。

 本当に師匠失格じゃないだろうか。うん、一回くらい確認しておこう。

 そう考えて受付を通ろうとしたら空さんがいた。今日は対局なかったのかな。制服だけど、臨戦態勢じゃないというか。

 

「こんにちは、空女王。今日はお休みですか?」

「そうだけど、スケジュールの確認よ。もうすぐ女王戦が始まるから」

「ああ……。女流帝位とですね。女流玉将との対局見ましたよ」

 

 女流帝位と月夜見坂女流玉将との一戦、天衣ちゃんの後学のために生中継で見たけど80手かかってなかった。女流帝位がノリにノッて大興奮の大爆発。一方的に叩きのめしていた。

 全五戦三勝先取の女王戦がこれから始まるけど、全国各地で行われるからそのスケジュール確認に来たんだろう。四月の下旬からだったかな。学校へ出す欠席届のための書類をもらいに来たっていうのもありそう。

 僕もお世話になってるし。

 ああ、ちょうど会えたんだから渡しておこう。

 

「タイミング良かったです。昨日京都に戻ってお土産買ってきたので。ありきたりですけど生八ツ橋とあぶらとり紙です。清滝家とは別にあるので、これは女王が家に持って帰ってください」

「ありがと。桂香さんも喜ぶと思う」

「なら良かった。桂香さんは今日例会ですか?」

「そのはず。確認まではしてないけど、例会に欠席するとは思えないから」

「ありがとうございます。じゃあ顔を出してきますね」

 

 連盟職員さんにも生八ツ橋のお土産を渡して、許可をもらって例会をこっそり見守る。晶さんを見付けたと思ったらその近くに竜王もいた。

 晶さんに声をかけた後、竜王にも声をかける。

 

「竜王、お久しぶりです」

「お、碓氷も来たのか。今日は対局なかったんだ」

「久しぶりに土日休みでしたよ。なので昨日京都戻ってました」

「……お前、土日休み久しぶりって嫌味?」

「え?対局なくて天衣ちゃんへの指導もお休みもらっただけですけど?」

「だから、これまでは結構な頻度で対局あったんだろ?勝ってるってことは結構暇な俺への嫌味じゃないのか?」

「ああー……。だってこの時期は竜王戦のランキング戦と玉将戦がメインですし、それ以外だと今って新人戦ばかりじゃないですか。参加資格なくなった僕達は暇で当然だと思いますけど?」

 

 NHK杯や他のタイトル予選に勝っていなければこの時期棋士は暇だ。去年みたいに順位戦も時期を繰り上げていないならなおさら。

 竜王は去年他の棋戦を投げ捨てていて、今年に入ってからも十一連敗していた。軒並み予選で負けていたら暇だと思う。

 その代わり内弟子の指導に力を入れられると思うんだけど。

 

「「あ」」

 

 そんなことを考えていると、研修会で動きがあった。まさかの天衣ちゃんと雛鶴さんが指すことに。そのせいで僕と竜王が思わず声を出してしまった。

 師匠同士が近くにいるのは問題かなと思って僕は晶さんの隣に移動。そのまま晶さんに雛鶴さんの説明をする。

 天衣ちゃんの方が級が上のため、まさかの香車落ち。何でそんな無謀な組み合わせを?同い年だからって級に差がある二人を、香車落ちにしてまで組ませるのだろうか。幹事の久留野七段も何か考えがあるんだろうけど。

 香車落ちはまだ先だと思ったから教えてないぞ。どうしよう。駒落ちなんて奨励会に入るまで使わないと思ってたのに。相手が使ってくるからセオリーは知ってそうだけど。

 

 天衣ちゃんは研修会に所属するようになってまだ二年目。女流としても踏み出したからそんな無理な対戦相手を与えられるとも思ってなかった。研修会入りを賭けた入会試験の相手は奨励会に入ってからだし、そういうハンデをつける対局はする確率は低いはずだった。

 天衣ちゃんの実力は言わずもがな。そして勝ち星が関係する例会だから相手の実力をしっかりと見定めないといけないので実力差がありすぎる対局にはならないと思ってた。

 だから、この対局はどうなんだろうと疑問に思ってしまったわけで。雛鶴さんの実力を知らないからこそっていうこともあるんだけど。

 そして始まってすぐ。

 

「え……?」

 

「どうかしたのか?先生」

 

「ああ、天衣ちゃんの相手の雛鶴さん。まさかこんな序盤で定跡から外れてくるなんて思わなくて」

 

 まだ10手目だ。天衣ちゃんも香車落ちで指すなんて初めてだろうけど、それでも平手と共通する定跡はある。そもそも香車という駒がないのだから、それだけ有利な空いている右側、雛鶴さんから見たら左側を攻めるべきなのに右へ攻めている。

 これには天衣ちゃんも口をへの字にしている。僕達側から天衣ちゃんの表情がよく見えるけど、音を口にしていないだけマシか。

 

 天衣ちゃんは崩れた定跡から、まずは守りを固めていく。右に守りを置く美濃囲い。本来振り飛車での守りだけど、攻められていないから香車がなくても大丈夫だと考えたんだろう。その守りで天衣ちゃんは戦うつもりだ。

 将棋歴四ヶ月には負けないと。絶対の自信を持って決心した戦術。

 一方雛鶴さんはその美濃囲いを知らないのか、やっぱり定跡なんて関係なく駒を進める。飛車先の歩を進めてるけど、形だけ見れば相掛かりっぽい。だけど、天衣ちゃんは振り飛車だから相掛かりにはならない。

 まるで初心者だ。期間を考えればまさしく初心者だけど、そんな人物をわざわざ竜王が弟子にするだろうか。相手を見ずに、相掛かりを進めているような。

 

 気持ち悪い。彼女には何が見えているんだ?その将棋の先に、誰を見ているんだ。

 天衣ちゃんが、映っていない。将棋に見えない。彼女は、誰と戦っているつもりなんだ?

 序盤が終わって中盤。ビシッと鋭い駒音がする。雛鶴さんの飛車を追い詰める銀の一手。飛車を逃がすか無視して攻めに出るか。どちらにしても選択を迫られる一手。

 あの銀にも気付かなかったとしたら。彼女の強みは終盤なのだろうか。でもこのグダグダな戦局から、いくら終盤が強くても盛り返せるのか。

 あの銀は天衣ちゃんからの挑戦状だ。目を覚ませと。いつまで寝ぼけているのかと。

 

 竜王の弟子なら、早く応えろと。

 雛鶴さんは、飛車を逃した。スペースのある横へ向かったけど、攻めるためでもない。守るために引いたわけでもない中途半端な、飛車の使い方を知らないような一手。ただ飛車を失わないための一手。

 それと同時に、天衣ちゃんのスイッチが、入ってしまった。

 

「違うわ」

 

 長考もなしに続く津波のような波状攻撃。飛車を、攻守の要を逃したことで獰猛な獣達が相手の玉目掛けて襲いかかる。

 強制的に終盤へ移行、正確にはそのサインを見逃した雛鶴さんだが、あそこからどう切り返すのか。それを待っていたけど。

 粘り強い守りを少し見せて、詰まされてしまう。合駒も見逃して、彼女の守りは剥がれていく。

 ちらりと、竜王を横目で見てみた。竜王もこの展開は予想外のようで口が開いていた。

 

 やっぱりあれは彼女本来の実力じゃないのだろう。あれじゃあどこにでもいるただの少女だ。

 雛鶴さんは最後まで抗おうとする。そう言えば最近、竜王と神鍋さんが戦後最長の総手数の棋譜を残してたっけ。だから最後まで諦めずに粘ろうとしたんだろうけど。

 その勝負は、もうついている。二方向から来る攻めを、片方しか守れていない時点で攻撃の手を止められない。対処できる金や飛車がいない。銀じゃ力不足だ。

 

 そして、天衣ちゃんが攻撃の手を緩めた。逃げた先の飛車の前に、駒音もさせずにチョンと駒台から歩を置く。

 侮辱的な一手に見えるかもしれない。そしてそれをされるまで気付かなかったのは彼女だ。

 周りで息を呑む音がする。天衣ちゃんに向ける目線が鋭くなる。特に天衣ちゃんをライバル視してそうな女の子の目線が、痛い。どちらかというと雛鶴さんの友達だろうか。

 逆に力のある人はため息をついているほどだ。もうすぐ奨励会に上がれるような中学生の男子達。彼らは天衣ちゃんの意図を察していた。侮辱的な手じゃないとわかっていたから。

 

 まるで相手に一手譲るような、戦場ではない場所への歩。譲っても問題ないからこそできること。

 もう、詰んでいると相手へ教える一手。

 雛鶴さんはその一手を見て大きく目を丸くして。盤面を覗き込み、駒台を見て。

 その一手のことを理解した。

 

「ま、け……ました」

「ありがとうございました」

 

 天衣ちゃんは綺麗にお辞儀をして、目を伏せたまま小物入れを持って立ち上がった。彼女がいつも持っている小物袋。そこに入っている扇子は、今日は途中で仕舞っていた。いつも激戦の時は左手に握っていたそれ。

 開かれるどころか、相手にその姿を見せることもなく終わった。将棋盤の影で隠れていて遠くから見ている僕にすら見えないまま仕舞っていた。

 研修会は対戦結果を幹事に勝者が伝えて、対局が全て終わればそのまま帰っていい。だから久留野七段に勝敗を伝えて天衣ちゃんはそのまま部屋から出ていく。今日最後の対局だったんだろう。

 

 感想戦をやる状態じゃないと、わかったからこそ確認もせず出ていった。それが余計に他の女の子を怒らせたけど、それは違う。なのに、彼女の師匠であり棋士の僕はそれを口にできない。

 久留野さんの面目を潰すことになるし、彼女たちの師匠の顔に泥を塗ることになる。僕自身も一門に泥を塗る。だから、我慢した。

 晶さんに天衣ちゃんを追いかけてもらうけど、僕は聞くことがあった。雛鶴さんは泣き崩れて他の女の子に慰められているけど、それどころじゃない。

 

「久留野七段。さっきの対局はあれで同格だったんですね?」

「碓氷六段……。はい。私も始まる前までは……。違いますね。組み合わせを考えた時点では香車落ちが手合いだろうと思っていました。何しろ雛鶴さんの入会試験の二回戦を私が、三回戦を空女王が勤めたので。もちろん駒落ちですが」

 

 久留野さんが自分で確かめた?それで力を示して実際入会して、なのにあの始末?

 いくら竜王が驚いていたとはいえ、そこまで波があるのか?まさか焙烙さんみたいに強い時は凄く強くて、弱い時は自滅するほど弱いとか?

 

「今日変だなと思ったのは一局目です。級は上ですが、雛鶴さんの実力であれば余裕を持って勝てるであろう相手でした。けれど彼女は辛勝。二局目も同じような戦局で、三局目で彼女は負けました。何かおかしいとも思いましたが、体調不良でもなさそうですし対局をズラすわけにもいかずにそのまま続けましたが、ああいう結果でした。本来であれば、もっとできる子だと思っていたのですが……」

「そう、ですか」

 

 久留野さんの目が信用ならないとは思っていない。かなりの数の子供を見てきたこの人なら、それが適正だったんだろう。直接確かめてもいるんだから。

 そう思った結果が駒落ちでの虐殺。しかも、最後に余計なことをしなければ王手を仕掛けなければならないほど盤面も見えていない状態になるほど集中力を欠いた彼女。

 彼女が研修会に入って初めての例会のはずだ。二週間しか経っていない。それであれだけボロボロになるだろうか?入会試験より一局多かったとしても、久留野さんや空さんを相手にするよりはよっぽどマシなはず。

 竜王が何かしたのか。それとも入会試験が限界だったのか。

 二週間で、研修会に入って弱くなるなんてことがあるのか。対戦相手が弱くなってやる気がなくなる女流帝位じゃないんだから。

 

「わかりました。お時間を割いていただきありがとうございます。……それと、最後の一手については勘違いしている子にはフォローしていただけるのですか?」

「いえ。それはできません。あれを侮辱的な一手だと思っているのであれば、一手損角換わりはおろか二手損角交換も否定されなくちゃいけない。自分で気付かなければいけないことです」

「……厳しいですね」

「ここは学校じゃありませんから。棋士を育成するための機関です。……王手を宣言されることと先ほどの一手。どちらが屈辱的かというだけの話です」

 

 さっきの一手は盤面か棋譜を見なければ一手譲られたことを、詰んでいることを理解できない。けどここには他にも対局をしている人がいる。その中で「王手」という声が聞こえることは、集中力を失うかもしれない。

 天衣ちゃんは周りに配慮した。自分の他に対局している人を。

 研修会に参加している人達は棋士及び女流棋士になるために努力している人達だ。王手をかけられる前に詰みを見付けられて、その前に相手に「負けました」と認められる人を育成する場所。

 

 粘るのはいい。持将棋もいい。けど、負けていることを認められずに「負けました」と言えない人は棋士になれない。そして詰みを読めない弱い人間は落ちていくだけ。

 「王手」と言われるまで詰んでいることに気付けない人間に配慮するような場所じゃない。ここは棋士への登竜門であり、実力を高め合う場所。

 実力があることが大前提で、仲良しこよしの場所じゃない。そういうことだろう。

 

「お仕事中失礼しました。退席します」

「いえ。弟子のことですから当然でしょう。気にはかけます。二人ともね」

 

 やっぱり久留野さんは良い大人だ。それがわかって一礼してから立ち去る。竜王は雛鶴さんの方へ向かっていたけど、何か言うつもりはない。

 僕は僕の弟子が心配だ。

 下へ降りて一階の自販機の前のベンチ。そこでお茶のペットボトルを飲みながら座っている天衣ちゃんがいた。

 

「天衣ちゃん。大丈夫?」

「……気にしてないわよ。他にも実力がない相手は今までにもいたもの。……ただわたしが、あの子に期待しすぎただけ。たった四ヶ月しか将棋を知らない子。あの竜王の弟子。空女王に追い縋れるもう一人のあい(・・)。……お兄ちゃん。来週東京に行くのよね?」

「うん。金曜の夜からね」

「指しましょう?わたしはまず空女王に追いついて。──棋士になるわ」

「わかったよ、Principessa(プリンチペッサ)。これからはもう少し東京へ行く頻度を増やそうか」

「今度は何語?」

「イタリア語のはず。あ、『ゴキゲンの湯』にする?」

「どっちでも良いわ。もっと強くなって、あなたと戦いたいもの」

 

 それは公式戦でってことかな。棋戦によっては女流でも当たる可能性はあるけど、目標を高く持ってるのは良いことだ。

 この後桂香さんにお土産を渡して、師匠の家に寄ってお土産を渡した。師匠は天衣ちゃんが可愛くて仕方がなかったのか色々な手土産として将棋の本や簪、それにお小遣いとして一万円を渡して記念撮影をしていた。僕も写真撮られた。大槌師匠は最近寝たきりになってしまったので、孫弟子の来訪が嬉しかったのだろう。

 本当に棋士の皆さんって身内には甘い。師匠にとっては孫弟子に当たるし、年齢からしても孫に変わりないから可愛がってしまうのだろう。

 

 貰えるものは受け取らないと失礼なので、貰ったお金で美味しいスイーツを食べに行った。すっごく高くて三人で一万円を使ってしまった。怖い。

 僕の家に帰ってからは名人へ連絡を取って予定を聞き出して、研究会のセッティングをした。名人の都合が悪くてこっちにいる時に生石さんを訪ねれば良いや。

 生石さんは食べ物要らないとか言うから娘さんと奥さんへのお土産としてあぶらとり紙を買ってある。今度行った時に渡せば良いだろう。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14 横文字合戦

 お土産も無事に渡して、色々と研究会もやって充実した頃。

 僕は対局のために東京に来ていた。この東京の将棋会館にも随分慣れたものだ。三段リーグの頃からお世話になってるんだから二年ちょっと?あれ?全然経ってない……?

 とにかく、今日は対局のために来ていた。竜王戦第6組決勝。神鍋六段との一局だ。

 

 対戦する部屋へ入ると、既に神鍋六段はいらっしゃっていた。年下の僕が遅れるなんてあってはならないことだ。

「申し訳ありません。遅れました」

「かまわないとも。我も着いたのはついさっきだ」

 

 優雅にカップで紅茶を飲みながら、神鍋六段はそう言った。でも謝るのが礼儀だし。

 僕も一礼して席に着く。周りの準備をすると目に入るのはやはり白マント。凄い個性、トレードマークだと思う。

 

「ゴッドコルドレン。六段昇段とB級2組昇級おめでとうございます」

「フッ、ありがとう。モルタルスノウ。君も六段の昇段とC級1組への昇級おめでとう。一応順位戦の関係で上座に座らせてもらっている」

「年齢も棋士番号も鑑みて、ゴッドコルドレンが上座は当然かと」

「我は新人戦で君に負けている。戦績は一勝一敗。どちらが上もないだろう」

 

 いやあ。順位戦が上というだけで神鍋さんが上座は決まりだと思う。

 この人はゴッドコルドレンと呼ぶと喜んでくれるのでそれに合わせている。英訳が好きらしい。だから僕のこともモルタルスノウって呼ぶ。

 これも個性だよね。うんうん。棋士には色んな人がいるなあ。

 僕達の会話に記録係の人はげんなりしている。慣れた方が精神的に楽なのに。

 駒を並べて記録係の宣言で将棋が始まる。振り駒の結果僕が先手だ。

 

 先手をもらったのなら、僕は先手中飛車にすると決めていた。ゴキ中にしようか、原始中飛車か。神鍋さんの様子も見てだけど。ゴキ中って基本的には後手番で使う戦法って思われてるけど、そんなことないって試してみるのもありかな。先手でも使われることはあるし、実際破壊力は振り飛車でもダントツだ。

 神鍋さんは手堅く矢倉を。うん、矢倉ならゴキ中にしよう。後手番でひっくり返せるゴキ中を先手で使ったらどれだけ脅威か。試してみよう。

 というわけでゴキ中に決めて進めていくと、あちらは矢倉穴熊へ進めていった。

 

「あれ?もしかして史上最長手数の?」

「うむ!あれは相矢倉の結果ああなってしまったが、振り飛車なら倒せると思ってな!」

 

 あれの決め手はめちゃくちゃ伸びた対局時間のせいで現れた集中力の途切れであって、戦略ミスじゃないと思うんだけど。

 400手も竜王と指したなんて凄いよなあ。負けられなくても僕はそこまで指せない。

 どうしても負けられない戦いもあると思う。千日手を回避したのかもしれない。

 だからって僕は集中力を切らせて勝つなんて手をしたくない。僕達がやっているのは将棋だ。僕はプロだ。

 こんな将棋を指したいと思えるような棋譜を残したい。

 もう棋譜でしか残っていない、天祐さんとの将棋のように。

 誰かが振り返って、良い将棋だと言って貰えるような将棋が指したい。

 

 だから僕は、その時の最善を探す。それが見付からなかったら潔く負ける。

 相手のミスは咎めるし、反則で勝つこともある。けれど、僕は純粋に将棋の内容だけで白黒をつけたい。

 二人で将棋を指したい。相手に負担をかけるような将棋は指したくない。

 楽しくないじゃないか。

 だから名前の通りの、ゴキゲンを表す様に。僕は飛車を振る。これこそが僕の将棋だと見せるように。

 こういう将棋が指したいから神鍋さんの趣味にも合わせている。お互い楽しく指せて、面白い棋譜が残せる。これほど良いことはない。

 たとえ最硬の堅牢さを誇る穴熊であっても、ゴキ中はそれを超える破壊力があるのだと見せつけるのが僕の仕事だ。振り飛車一派としての意地と言ってもいい。

 

「素晴らしい!さすがプリンス・モルタルスノウ!我が『城塞(シタデル)』をここまで喰い破るとは!」

「これ、兄弟子の決め台詞なんであまり言いたくないんですけど。『喰らわせてやるのさ、捌きを!』」

「なるほど!ブラザーソウルというヤツか!燃えるな!」

 

 なんです?

 一応ノッて見てそれっぽいことを兄弟子が言ってたなーと思って言ってみたけど、将棋は普通にパシパシと指す。

 確かに矢倉穴熊は堅かった。神鍋さんが産み出した「新手」の端香も突破力が素晴らしかった。

 だけど、僕の竜と金が先に城壁を平らげてしまった。

 

「ふふ。とても胸のすくバトォウだった。負けました」

「ありがとうございました」

 

 うん、感想戦も横文字いっぱいだったけど楽しかった。というか楽しみすぎた。矢倉穴熊を喰い破る手段を話し合って、やっぱり振り飛車って良いよねって布教をしてしまった。神鍋さん居飛車派だけど。

 

「なるほど……。ここでホーリーランスを喰らわせると。確かに穴熊は硬いが、逃げ道がない」

「ゴッドコルドレンのホーリーランスは素晴らしい。けどそれは振り飛車としても使える手です。このホーリーランスにイーター・ドラゴンを加えると……」

「先ほどのように喰い破られると。それにゴールドスラッシュも効いているな」

「グランドクルスが残っていれば守りを気にせずファイアーウォールができます。このままだと窒息しますね」

「ううむ……。こうなる前にドラゴンホースとホーリーランスによるダブルアタックで戦況を支配したいところだが」

「今回はここの3六銀が気持ち悪くて。ここをもし3六ドラゴンホースにできていたら……」

「ほう?ほうほうほう!?更にホーリーランスとシルバースラッシュで攻め込めると!?いや、しかし……もう一手欲しいな」

 

「そこでグランドクルスですよ。グランドクルスを攻勢に向けるタイミングがシビアですし、間違えると自陣が崩壊しますが……。振る先で変化が大きいですし、問題は振り飛車派だと指先で相手の振る先がわかってしまうので、振り飛車相手には通用するかというと。兄弟子である玉将には一瞬で看破されると思います」

「いやいや、検討のし甲斐がある!これはマスターに報告せねば!今の言葉も玉将でなければ、居飛車の者だったら通用するだろうという確信が聞こえる。やはり目線が居飛車と振り飛車では違うな。感覚、盤面の見方。それらが我々とは違うように思える。だが、このままではオールラウンダーな名人からその座を奪えないか……?」

 

「振り飛車も数をこなさないとグランドクルスの投入タイミングが計れなかったりします。居飛車の方々は特に堅実な将棋を指しますから。その点オールラウンダーと呼ばれる方は僕達と同じ直感を兼ね備えています。やっぱり居飛車の方からすると攻防の切り替えの瞬間が僕たちのように瞬時に直感任せでとはいかないので、機会を逃さずってところですかね。オールラウンダーという存在がいるので、ゴッドコルドレンも後天的に身に付けることは可能かと。居飛車穴熊は堅かったですけど、今回のようにゴキ中で潰せてしまいましたから。振り飛車の勘は覚えた方がいいかと」

「ふーむ。やはり将棋は奥が深い……。今までは振り飛車対策しかしてこなかったが、実際にコントラクトすべきか?」

 

「良いと思いますよ?僕も居飛車の戦法はかなり並べています。相手の仕掛けるタイミングを察知するには自分で試してみるのが一番ですよ」

「防御の薄さも気になるが、やはりそこはチャレンジあるのみだな。やはり振り飛車党総帥(コントラクター)の捌きはスペシャルか?」

「スペシャルではなくエクセレントですね。僕では思い付かないタイミングで雷撃を喰らうので」

「そうか……。我はマスターにコントラクトしてもらおう!少しでもライトニング・パラライズは回避しなくてはな!」

 

 そんな感じで感想戦は終わって、何故か仲良く一緒に部屋を出た。こんな棋士いるかな。

 記者達が待っている場所へ着くまでに神鍋さんのマスターこと師匠、釈迦堂さんが女性ものの洋服店を経営しているとのことで気になるので、この後行くことにした。

 記者の皆さんのインタビューに二人揃って答えて終始にこやかに対局が終わった。あ、竜王戦の挑決リーグ戦に参加することになったのか。またスケジュール見直さないと。

 

 お店に向かう途中、天衣ちゃんからメールが来ていたことに気付いた。「大丈夫?横文字大好きになっちゃったの?」と心配していたけど、これは神鍋さんへの特別仕様で普段はあんなことにならない。中継見てたのか。

 神鍋さん相手の特別仕様だから大丈夫ってことを伝えて、釈迦堂さんのお店へ。ブランドショップだったけど、天衣ちゃんのサイズに合う服がいくつかあったのは喜ばしい。身長を伝えれば釈迦堂さんも天衣ちゃんを見たことがあったので服のサイズは大丈夫だろうとお勧めしてくれた。

 お姫様のような服を二着色違いで買ったのと、キュロットスカートを一つ、ロングスカートを一つ、服に合うような靴を二足買った。

 

 いっぱい買ったからか、住所を伝えれば届けてくれるのだとか。夜叉神家に宅配をお願いして、僕はホクホク顔で大阪へ帰った。

 その二日後に僕の家に来た時に、贈った服の一つを着ていて可愛いなと思った。最近天衣ちゃんに「神戸のシンデレラ」って異名がついてるけど、それに違わず彼女はお姫様だ。

 天衣ちゃんのご両親もこういう服着せたかったんだろうなあと思って、ついついたくさん買ってしまった。幸いお金はあるし、夜叉神家からたくさん貰い物もしてるからこれくらいは返さないとね。

 そんな感じで良い気分だったんだけど、空さんからメールが来ていた。空さんが悪いわけじゃないんだけど、なんとなく内容に予想がついて見たくなかったけどいつまでも見ないままというわけにもいかなかったので見ることにした。

 

「JS研……?何の略?そういえば天衣ちゃんのこともJSって言ってたような……」

「先生。女子小学生の略称じゃないか?」

「え?あー……。だから小学生がいっぱい写ってる写真が来たのかぁ」

 

 晶さんよくわかるなあ。あんまり一般的な略し方じゃない気がするんだけど。僕が疎いだけ?

 

「竜王?」

「うん。内弟子以外にも他に三人泊めたんだって。雛鶴さんが弱くなった理由を調べようとしたらしいんだけど、わからないままで。空さんは別に弱いままで良いって思ってるらしいけど」

「それはそうでしょ。同門とはいえ、雛鶴は竜王に惚れてるんだから」

「え?……え?」

 

 なんか天衣ちゃんから衝撃的な言葉が出て来たんだけど?雛鶴さんが、竜王に惚れてる?

 

「……気付いてなかったの?そうじゃなきゃ単身石川から殴り込みに来ないし、内弟子になんてならないでしょ」

「ああ、そっか……。空さんっていう内弟子の例があったからその可能性には思い至らなかった」

 

 その空さんは清滝九段へ復讐のために内弟子になったのだとか。内弟子をとることすら昨今珍しいので関西では有名だ。

 

「それにしても。そんなに急に棋力が落ちるなんてあり得るのかしら?」

「加齢と共に落ちるとは言われるけど、そんなの人間として当たり前だから。雛鶴さんは小学生だし。天衣ちゃんもそうなる可能性があるとしたら他人事じゃないんだよね……」

 

 そう、同い年の天衣ちゃんがもしかしたらそうなる可能性はある。だから解決法があるなら知りたいくらいだ。

 

「……ああ。わかったかも。大丈夫よ、お兄ちゃん。わたしは当分弱くならないわ」

「え?そう?根拠あるの?」

「わたしはお兄ちゃんとお父様に幼少期に鍛えられて、今では名人や山刀伐八段とも指してるのよ?スランプはあるんだろうけど、弱くなってる暇がないわ」

「……よくわかんないんだけど、大丈夫?」

「大丈夫。きっと、色々環境が変わって対応できてないのよ。学校が始まったり、住む場所が変わったり。それに始めたばかりはすぐ実力が伸びても、将棋は研究が全て。時間も必要って教えてくれたのはお兄ちゃんでしょ?」

 

 うん、結構前に言った。才能も大事だけど、研究を続ければ棋士になれるって言ったことがある。タイミングさえ逃さずに研究に力を入れれば山刀伐さんや鏡洲さんのように報われる人もいる。

 要するに、雛鶴さんには積み重ねが圧倒的に足りないのだろう。

 

「定跡とか全く知らなかったからね……。伸び悩んで負け始める頃か。……早くない?」

「スタートが遅くて、研修会って場所を知らなかったからでしょ。……そんな余所の子より指導に専念してほしいのだけど?」

「もちろん。年度内には奨励会に入品(にゅうぼん)できるって久留野さんから聞いてるよ。編入試験は駒落ちとか定跡の問題が出るんだったかな?」

「じゃあその辺をお願い」

 

 天衣ちゃん、僕や椚君並みの爆速で研修会を駆け抜けていくなあ。まあ、奨励会に入ったらちょっと足踏みするだろうけど。勝ち星の問題もあるし、やっぱり研修会と奨励会は別格だ。

 それに一回の対局数も減る。持ち時間も増える。

 知識も必要だけど、体力トレーニングも必要かなあ。

 

「天衣ちゃん。これから毎朝走る?」

「……お兄ちゃんが通話を繋げてくれるならやっても良い」

「それくらいは良いけど。会話しながら走るつもり?」

「ただ走るのも味気ないし。ラジオ代わりよ」

「そんなトーク力に期待しないでよ……」

「見た映画や読んだ小説の話で良いのよ」

「……それなら、できるかな?あ、無理して走らなくて良いからね?小学四年生だと……1kmか二十分ってところかなあ。晶さんその辺りでお願いできます?」

「任せてくれ。お嬢様、ジャージを用意しますね。スポーツウェアの方が良いですか?」

「どっちでも良いわよ。晶に任せる」

 

 

「将棋が二の次になったんでしょ。弱くなるに決まってるじゃない」

「お嬢様。それはあの雛鶴という子が棋士や女流、それこそ女王などを目指さず今で良いと受け入れたということですか?」

「そうよ。凡百の女流と一緒ってこと。好きな相手と一つ屋根の下で、家事してお世話できて満足なんでしょ。向上心のかけらもない、それこそ内弟子を賭けた時よりも弱くなって当たり前。第二の人生なんだもの」

「まるで老後のようですね……。もし今以上の目標ができればわからないけど」

「弟子として楽しくて。他の女の子と将棋を指せて。それだけだったら勝負師を産み出す場所でやっていけないわよ」

 

 帰りの車の中で天衣は自分の推論を述べていた。先日の雛鶴と入会試験の際の雛鶴は別人すぎた。将棋に取り組む姿勢も意気込みも真剣さも、必死さも集中力も棋力も。

 天衣だって入会試験の全てを見ていたわけではないが、終盤の追い込みは凄かったと思っている。なのにその片鱗が一切見えなかった。

 これでもし女流になるとしたら、それこそタイトルなんて取れないだろう。雛鶴がタイトル保持者になれなかったら竜王が雛鶴家に婿入りするようなことを入会試験の際に雛鶴の母親が言っていたことを思い出す。期限は雛鶴が中学を卒業するまで。

 

 ──そう。雛鶴の野望がどちらにあるかを考えたら、彼女は女流タイトルを取らない方が女としての幸せを約束されている。

 将棋をしたいから指しているのか、ただ竜王に憧れて将棋を指しているのか。その憧れはどういう憧れなのか。

 意識改革がなければ、停滞して腐るだけ。そういう魔境なのだと、天衣はわかっていた。

 今日は勝ったが、天衣も負けが混むことがある。不調というのもあるし、級の割に強い相手も多い。棋士を目指す天才たちが日本の約半分から集まっているのだから、負けて当たり前だと思っている。

 今も驚異的な勝率を誇っている暁人だって研修会と奨励会でそれなりの数を負けている。空銀子の女流無敗記録と研修会は別物だと理解していた。

 その辺りの精神性を、既に天衣は獲得している。

 

「お嬢様。今日の四連勝のお祝いに可愛い、運動性のあるランニングウェアをご用意いたします」

「晶。そんなことで一々祝われてたら部屋が贈り物で埋まるんだけど?」

「ああ、すみません。碓氷先生の贈り物で部屋を飾りたいですよね。でも実用性のある物を用意しますので」

「お兄ちゃんは関係ないわよ!」

「でも一緒に走ることになったら可愛らしい格好をしたいでしょう?」

 

 ウガーとがなった天衣だが、そう言われてしまえば小さく頷くしかない。野暮ったい服で暁人の前に出たくなかった。それがたとえ運動着だとしても。

 コクンと頷く様子をバックミラー越しに見た晶は、よく鼻血を出さなかったなと自分を褒めながら運転を続けていた。

 天衣のスマホが振動する。メールが来て、内容は東京遠征の話とゴキゲン巡りについて。そんなメールひとつで柔らかく笑う天使を見て晶は心の底から暁人に感謝の念を送っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15 【新人王】碓氷暁人きゅんについて大いに語るスレ78【もう六段】

 

 

1:名無し観る将

 

このスレは私達の貴公子碓氷暁人きゅんについて語るスレです。愛でて愛でて将棋の内容を語っていきましょう。アンチなんていないと思うけど、いたら滅却するけどいたらブラバ推奨。

 

スレが埋まりそうだったら>>950が次のスレを立ててください。

 

暁人きゅん公式プロフィール→

http//…

前スレ→

http//…

 

2:名無し観る将

>>1

スレ立て乙ー

 

3:名無し観る将

>>1

乙ー。なんかところどころ変わってるけど……ヨシ!(現場猫)

 

4:名無し観る将

ま、まあええやろ。語れる場所があればええんやし

 

5:名無し観る将

前スレの続きだけど、弟子の夜叉神ちゃんの研修会お忍びで見に来てたってマジ?

 

6:名無し観る将

確定情報じゃないけど。なんたって保護者以外の一般人入れないから職員さんや研修会にいた人のリークじゃないと特定できない。棋士がリークするはずないし

 

7:名無し観る将

でもその日に暁人が関西にいたのは本当らしいよ?公式の関西ツィッターが京都土産もらったって喜んでる投稿あるし。生八ツ橋のど定番だけど

 

8:名無し観る将

うわ、マジやん。気配りもできる中学生とか

 

9:名無し観る将

っていうか夜叉神ちゃんも強いなー。第二の空銀子やん

 

10:名無し観る将

気が早いけどもう少ししたら奨励会に上がれそうよね。この子、まだ九歳なんですよ(ボソッ)

 

11:名無し観る将

暁人もめちゃくちゃ強かったからなー。さすが弟子

 

12:名無し観る将

それにこの子、あの夜叉神アマ名人の娘さんでしょ?月光会長と名人に角落ちとはいえ勝った最強アマ

 

13:名無し観る将

当時話題になったもんなー。二十三手詰読んだのと、名人のマジック誘発

 

14:名無し観る将

去年のマイナビで一番尊敬するアマだって答えてたからね。お父さん大好きになるのもわかる

 

15:名無し観る将

暁人きゅんのスレじゃなくて夜叉神ちゃんのスレになってるwww

 

16:名無し観る将

この二人は切っても切れないやろ。クズと弟子の女子小学生と一緒や

 

17:名無し観る将

クズも女子小学生の弟子とったん?自分の将棋もボロボロなのに大丈夫なんか…?

 

18:名無し観る将

まあ、とった瞬間歩夢きゅんに泥試合で勝ってるからなあ。やっぱり気持ち変わるんとちゃう?暁人きゅんも夜叉神ちゃん弟子に取りたくて三段リーグ頑張ったって言っとったし

 

19:名無し観る将

暁人が言えば微笑ましいになるのに、クズが言うと犯罪にしか聞こえん…w

 

20:名無し観る将

というかクズで通じるのなんなんwww

 

21:名無し観る将

そろそろ竜王の話やめないとスレチだぞー

 

22:名無し観る将

>>21

誰も竜王の話してないでw

 

23:名無し観る将

そうそう。歩夢きゅんで思い出したけど、竜王戦第6組決勝が暁人きゅんと歩夢きゅんに決定したな。しかも中継付き。やったぜ

 

24:名無し観る将

やったぜ

 

25:名無し観る将

歩夢きゅんも強いよなー。今暁人と何回戦ったっけ?

 

26:名無し観る将

>>25

一勝一敗だな。新人戦と棋帝戦で次が三回目。連勝記録止めたのが棋帝戦のゴッドコルドレンよ。ここでも連勝止めて叩かれなかったのは人柄よなー

 

27:名無し観る将

中継されるのは初めてだな。棋譜速報はあったけど

 

28:名無し観る将

今回もゴッドコルドレン節が炸裂するのか……。暁人はアレを聞いてどんな顔で指すんだろ

 

 

【新人王】碓氷暁人きゅんについて大いに語るスレ81【可愛すぎか!?】

 

455:名無し観る将

終局!

 

456:名無し観る将

ゴキ中で最も堅い穴熊喰い破った…。攻撃力高杉ぃ

 

457:名無し観る将

スレ3つも消費してやがるw

 

458:名無し観る将

そりゃそうやろw

 

ゴッドコルドレン「ホーリーランス!」(香車、いつもの)

モルタルスノウ「グランドクルス!」(振り飛車、案外ノリノリ)

 

可愛い

 

459:名無し観る将

まさかの暁人きゅんも厨二病w

 

460:名無し観る将

まあ、去年までリアル中二だったし……

 

461:名無し観る将

でも他の対局でやらんやん?

 

462:名無し観る将

グランドクルスって言われたらダイ大しか思い浮かばん

 

463:名無し観る将

>>462

やーい、おじさーん

 

464:名無し観る将

ここにいるのなんて一部の追っかけ除いてみんなオッサンやろ。まあでもダイ大はリメイク決定して単行本出始めたから…

 

465:名無し観る将

ちょw感想戦もその感じでやるんwww

 

466:名無し観る将

無理して言ってる感じで可愛いー!暁人きゅん萌えっ!

 

467:名無し観る将

私達を萌え殺す気なのっ!?

 

468:名無し観る将

横文字で笑っちゃうけど、話してる内容は大真面目という

 

469:名無し観る将

二人とも将棋に関しては真面目やからな。歩夢きゅんはあの格好やけど。マントはきちんと脱いで折り畳んでるけど

 

470:名無し観る将

貴族やからな

 

471:名無し観る将

>>470

下町の豆腐屋の長男やん…

 

472:名無し観る将

でも歩夢きゅんすげーよな。今唯一の女流棋士に育てられた棋士だろ?

 

473:名無し観る将

エターナルクイーンも化け物だから。空銀子出てくる前の女流なんてエターナルクイーンくらいしか知らなかったレベルだし

 

474:名無し観る将

エターナルクイーンいなかったら多分ここまで女流盛り上がってないぞ…

 

475:名無し観る将

でも最近の女流楽しいよ。白雪姫とイカちゃんの女王戦楽しみ。暁人きゅんの弟子の夜叉神ちゃんもいるし

 

476:名無し観る将

皆可愛いし

 

477:名無し観る将

>>476

ハァ!?暁人きゅんの方が可愛いし!

 

478:名無し観る将

男女で美醜は云々カンヌン

 

479:名無し観る将

いや、暁人が可愛い顔してるのは事実だけどさー。流石に女の子に可愛いって言いたいわけよ

 

480:名無し観る将

暁人も髪伸ばしてそういう格好させればワンチャン……?

 

481:名無し観る将

おいバカやめろ!

 

482:名無し観る将

「最近髭剃り買ったんですけど、髭剃り使うほど生えてこないんですよね」

先生、これは…?

 

483:名無し観る将

なー、将棋の話しようぜー。実際先手ゴキ中ってのはすげえ破壊力あるって証明した一局なんだからさー

 

484:名無し観る将

ゴッドコルドレンのあの掛け声聞いてると将棋の内容頭に入ってこない

 

485:名無し観る将

でも暁人きゅん楽しそうだからヨシ

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16 竜王挑戦者決定三番勝負

 僕最近東京に来る頻度増えたなー。対局だから仕方がないんだけど。学校の先生にもそろそろ欠席数がマズイと言われた。義務教育だから留年とかないけど、欠席が多すぎてまともに評価できないと。

 学校の成績とか気にしてないし、テストも頑張ったから許してください。この前のテストも学年二番だったからそれで許してくれないかなあ。

 宿題が溜まるのはマズイけど、対局で負けるのも嫌だ。そうなると学校ある日に早起きしてご飯食べながら宿題や英語の予習を速攻片付けるのが習慣になってしまった。

 

 そのせいで学校がある日はトーストしか食べていない。うん、高校行くのはないな。これ以上勉強に時間を取られたくない。

 竜王戦の中継はしたいために、他の対局が平日にズラされる。その結果将棋会館に行くことが増えた。僕が学生だからと対戦相手の方には大阪にご足労いただくことも多い。本来は上座の相手に合わせるんだけど、僕は特例で平日だけはそういった対処がされることになった。そういう調整をしてくださる月光会長には頭が上がらない。

 今日はどうやったって大阪じゃ無理だった。竜王戦の挑決リーグは全部中継されることと、その決勝の相手が相手。

 

 名人を僕の都合で大阪に呼ぶのは無理だろう。タイトル戦でもないんだから。将棋界で一番威光を放つ人だもの。上位者を立てる将棋界だから、上の方に合わせて行動するのが当たり前。

 結構早めに着いたんだけど、記者の方々が随分いた。簡単な、というかありきたりな質問ばかりだったから定型文で答えられた。すぐに今日の対局室に向かう。

 今日すぐ下の階でニコ生の中継あるから、結構人が集まっていた。その喧騒を聴きながら対局室で正座をして待つ。名人より遅かったら流石にマズイ。記録係の人や観戦記者、それにニコ生のスタッフさんがもういた。カメラも回っている。

 

 今日の対局が注目されてる理由は簡単。僕が勝とうが名人が勝とうが大記録が待っているからだ。

 僕が勝ったら史上最年少のタイトル挑戦者に加えて七段昇段。名人が勝ったら永世竜王への最後の一期である七戦に挑むことになる。

 記者のみなさんにとっても、連盟にとっても。美味しい対戦カードになったわけだ。

 僕と名人の対局は記念対局も合わせて一勝一敗。もしかしたらがある一戦。僕が勝ったら最年少同士のタイトル戦になるだろうし。

 しばらく待って、名人もやって来た。名人がもちろん上座。時間がかかったのは記者に足止めを喰らったからだろう。

 

「やあ、碓氷君。学校はどうだい?」

「宿題や予習が大変です。どうしても対局で休んだ日は次の授業が虫食いになってしまって」

「あと九ヶ月か。高校には行くのかい?」

「行かないつもりです。弟子にももっと時間をかけたいですし、僕自身も研究をいっぱいしたいです。高校に行きたくなったら後から行くか、高卒認定を取ればいいかなと」

「そうか。君はその道を行くんだね」

 

 そんな雑談をしながら駒を並べる。他の棋士の方々にも相談したけど、高校でしか得られないものも多いけど今のように将棋に全部リソースを送れるのはだいぶ違うと言われた。

 弱くなりたくない僕は、もっと研究に時間をかけたい。だから高校進学はやめておく。

 

「では時間になりました。名人の先手でお願いいたします」

「「よろしくお願いします」」

 

 

「ニコ生をご覧の皆様、初めまして。本日第30期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局のニコ生中継、聞き手を務めます夜叉神天衣女流一級です。よろしくお願いします」

 

 将棋会館の四階で、天衣は初めてとなる聞き手を務めていた。小学生だということと研修会もあるためにこれまで仕事として回されてこなかったが、解説の棋士の推薦を受けて今回は引き受けた。

 既にコメントには『幼女かわいい』『お嬢様〜!』『夜叉神ちゃんprpr』など流れていたが、天衣は無視する。最後は意味がわかっていなかった。

 

「そして本日解説の山刀伐尽八段です。よろしくお願いします」

「はーい、皆さんお久しぶり〜。初めましての方は初めまして〜。山刀伐ですよろしく」

 

 そう、山刀伐が希望をしていた。鹿路庭が女流棋戦で予定が空いていないことと、この二人の対局なら天衣しかいないと思ったからだ。

 幸い天衣はその女流棋戦については奨励会に入ると参加資格がなくなり、もう奨励会へ上がることも見え始めたためにエントリーもしていなかった。

 

「夜叉神ちゃん、初めてのニコ生で緊張してない?大丈夫?」

「大丈夫です。勝手がわからず粗相をしてしまった時は遠慮なく指摘してください」

「わかったよ。もしかしたら僕が暴走しちゃうかもしれないから。この二人の対局だし」

 

 山刀伐が目線を向けると、画面も対局室へ切り替わる。そこではちょうど名人が入室したところだった。

 そして座布団に座りながら暁人と雑談を始める。これにはニコ生で弾幕が出来上がった。

 

『世間話www』『学校について聞くとか、それだけ注目してるんやろな』『挑決前に雑談てwww』『完全に親戚の子への接し方』『解釈一致』『弟子思いの暁人きゅん』『照れてる天衣ちゃん可愛い』

 

 そんなコメントが流れながらも対局が始まった。最初の数手を指してお互いが何を選ぶかと予想する前に盤面に変化が起きた。

 

「え?もう角交換ですか?」

「名人が早速仕掛けたねえ。碓氷くんはすぐに同銀。名人はどうするつもりかな?」

 

 暁人が角をとってすぐ。ノータイムで名人は4五角打ち。

 それが示す戦法は。

 

「筋違い角っ!?」

「はははは!名人、随分と昔のものを引っ張ってきたねえ!一番最近の棋譜でも十年以上前のものだよ!」

「山刀伐八段は名人との研究仲間として知られていますが、研究をされていたのですか?」

「いや?僕も知らなかった。毎朝杯で碓氷くんに負けたのが堪えたのかねえ?さあ、これに碓氷君はどう応える?やっぱり飛車を振るのかな?」

 

 暁人も目を丸くして、少し考え込んでいる。ペットボトルのお茶を一口、口に含んでから5二金右を。

 名人も3四角をすぐに指す。

 そしてお返しのように暁人はノータイムで6五角打ち。

 

「ヒャハハハハハ!ダメだこれ!僕でも解説できないよ!相筋違い角(・・・・・)なんて!!棋譜残ってるの?」

「あー……。両対局者とも扇子で口元を隠していますが、二人とも山刀伐八段のように笑っていますね……」

「こんなの笑うしかないだろう?竜王戦の挑決でこれとか!夜叉神ちゃんは散々だねえ、初めての聞き手のお仕事がこれなんて」

「碓氷六段には後で小言を言うつもりです」

「そうするといい。始まる前の弟子思いの発言はなんだったんだ……!」

 

 放送事故レベルで山刀伐が腹を抱えて笑っている。両対局者はひとしきり笑った後に続けて指しているが、ニコ生のコメントなんて「w」のコメントで真っ白になっていた。

 筋違い角すら不利な戦法として十年以上前に研究が終了したもので、それこそ実戦では全く見なくなったもの。そんな不利になる戦法をお互いするなんてキチガイかと思われても仕方がない。

 それを大記録がかかっているこの対局でしたのだ。誰もが呆れて笑ってしまってもおかしくないだろう。

 定跡がなくなったために解説をしなくてはならなかったのだが、山刀伐がダウン。そのために天衣が解説の真似事をして山刀伐が頷くという変則的な解説になっていた。

 お昼を挟んで少しした頃。また事件が起きた。

 

「名人が、3四飛車成を指しました!いえ、前に上がっているなとは思っていましたが……」

「もうめちゃくちゃだよ!名人は今日が公式戦だってわかってるのかい?」

「碓氷六段の飛車を無視してでも囲いを食い破ろうとしていますね。でも、相筋違い角でもっと盤面が乱れるかと思いましたが……」

「うん。筋違い角からの振り飛車なんて代物をしてるくせに囲いが残ったまま整ってる。さあ、ここからどうなるかな?」

 

 コロコロと変わる戦法。だというのに守りは両者健在で攻撃も無理筋ではない。わけのわからない試合運びに山刀伐も天衣も解説を投げ出していた。

 次の手を予想しても、二人が平然と外してくるのだ。入玉をするわけでもなく、なんだかんだで王も玉も自陣に留まっている。

 大駒の切り合い、複数の攻撃から一気に守る一手を見逃さない大局観。それでいて持ち時間を浪費しない素早い思考力。

 夕方を過ぎて、お互いが飛車を食い合い。また飛車を投入して殴り合いをして。

 夜八時を過ぎた頃。碓氷が金を自陣に打ち込みながら頭を下げた。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

「え、今!?終局!?」

 

 これには記者達も驚いた。決着が着いた瞬間をカメラで収めようとしたのに、終局の雰囲気もせずに終わってしまったのだから。

 彼らの敗因は、ニコ生を見ていなかったこと。そこで続いていた名人の理解者と名人と戦っている者の弟子の解説を確認していなかったこと。

 

「以上、118手で先手名人の勝利です。山刀伐八段。最後は二十三手詰でしたね」

「まあ、碓氷くんもそれを名人が見逃さないとわかっていて投了したんだろうね。じゃあその二十三手を解説していこうか。感想戦の前に写真撮影があるみたいだし」

 

 というわけで天衣は身長が足りないために台に乗りながら山刀伐と大盤解説をしていく。既に投了前に二十三手詰を二人が宣言していたのでネットではその解説を聞いているところだ。

 そしてきっちり二十三手で詰んでいて、二人もコメントで称賛の嵐を受けていた。

 その解説が終わる頃、また二人が感想戦を無言で始める。二度目のこれは山刀伐も苦笑しているだけ。毎朝杯はこの感想戦は中継されなかった。中継は対局までだったからだ。またコメントが爆速で増えていくために拾うこともできない。

 第二局は暁人が早石田の急戦を仕掛けて勝ったが、第三局は相振り飛車のガチンコバトルになって名人が勝利。

 

「振り飛車党より振り飛車で強い居飛車の親玉」という名誉と共に名人は竜王戦への挑戦者となっていた。

「参りました。僕にはまだ竜王挑戦は早いみたいです。名人のタイトル通算100期と永世竜王期待しています」

「おや、同期の竜王の応援はしなくていいのかい?」

「竜王戦で僕が負けた相手は名人ですから。それに僕が応援したくらいで結果は変わりませんよ。その時に強い人が竜王になるんですから。応援も大事ですけど、これはある意味竜王への信頼の証ですよ?」

 

 棋力については認めているからこその発言。それでも今暁人が応援しているのは自分を負かせた相手であり、研究仲間でもある名人だった。

 相性の悪かった山刀伐にも竜王は勝っていたので、とんでもない試合にはならないだろうと暁人は楽観視していたということもある。

 竜王戦第一局で名人の深い吐息を聞くまでは。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17 竜王戦第一局(ハワイ)

 天衣ちゃんのマイナビ一斉予選の前に修行をしようという話になって久しぶりに「ゴキゲンの湯」に来ていた。女流は振り飛車が非常に多い。だからここの常連さん達は良い仮想敵になる。その時に生石さんから初情報を聞かされた。

 

「えっ。竜王も来てたんですか?あの居飛車しか指さない人が?」

「ああ。山刀伐との対局で振り飛車使ってただろ。二週間で鍛えてやった。というか、居飛車一筋のあいつが山刀伐に勝てるほどの振り飛車を俺以外に誰が教えられるんだよ」

「同門の誰もそんなことしませんからね。確かに。来るなって言ってた例の二週間ですか」

 

 山刀伐さんから「八一くんに負けた〜。慰めて」というメールが来てたから棋譜を見たけど、限定合駒三連続で読み切るって凄いよね。何で振り飛車指してるんだろうとは思ったけど。

 まあ、生石さんなら納得。

 天衣ちゃんにはお客さんと指させているのに、僕らは雑談をしている。というか、実は棋譜の情報提供だったりする。

 名人研の相振り飛車の棋譜を渡して生石さんにも検討してもらおうということで渡していた。将棋の全部なんてこの一生じゃ理解しきれない。コンピューターが発展してもこの先百年あっても足りないと投げるくらいなら、協力者を増やそうという話。

 名人研に参加するつもりのない生石さんだけど、なら相振り飛車だけでも受け持ってもらおうという名人の差し金だったりする。とりあえず最近の五十局分を渡した。

 

「でも、二週間で振り飛車マスターですか。才能が違いますね」

「ああ。『不利飛車』なんて蔑称使ってたくせに、不出来ながらも振り飛車を使ってみせた。山刀伐の長年の努力を嘲笑ってるようで背筋が冷えたよ。……だが、山刀伐は全く折れてない。この棋譜を見りゃ分かる。竜王戦はどうなるか」

「僕は負けちゃったんで、気楽に観戦しますよ。他の棋戦に力入れます」

 

 山刀伐さんはちょっとショックを受けていたけど、すぐに立ち直ってまた僕達と研究をしている。最近は名人と竜王戦があったから僕は参加しなかったけど、二人はちょくちょく研究をしていたらしい。

 後からその時の研究ノートもらったけど。ズルい。ズルいものはズルい。

 

「竜王も一人で来たわけじゃないでしょう?弟子はどう思います?」

「あー、『ひな鶴』の娘さんな。脳内将棋盤が十一あることと詰め将棋はバケモノだと思った。……だが、それだけだ」

「十一って。僕でも三つかそこらを並行するのが限度ですよ。それに詰め将棋ですか。終盤が強かったりは?」

「その終盤が強かろうと、序盤中盤で圧倒しちまえば敵じゃない。詰め将棋に至るまでに相手を潰せばおしまいだ。特に早指しだと定跡をまともに知らないあの状態じゃ勝ちは続かねえよ」

 

 さすが兄弟子。僕と思考回路が一緒だ。まあ、「ゴキゲンの湯」なんて付けちゃうほどの人なんだからゴキ中とかの速攻大好きなんだろうけど。

 

「女流なら通じる相手もいるだろうけど、今のままじゃタイトルホルダーには吹っ飛ばされるな。研修会も上の方は無理。奨励会に入る前に吹っ飛ばされる」

「それを竜王に教えました?」

「教えるか。人様の弟子に、しかも居飛車ヤローに。それにも気付けなかったらまだ師匠の器じゃないんだろうよ」

「……師匠の器ってなんでしょうね。僕もこれで良かったのかってずっと悩んでいます。天衣ちゃんへの指導は幼少期からの延長と、僕が奨励会の頃から感じていたことを伝えているだけ。それだけで強くなったのは天衣ちゃんの才能と努力の結果です。師匠らしいことってできてないなあって悩んでいて……」

「このバカが」

「イテッ」

 

 生石さんに頭叩かれた。バカって言うなら頭叩かないで欲しい。余計バカになっちゃうじゃないか。

 

「師匠なんて結局、自分が経験したことしか伝えられねえんだよ。子育てと一緒だ。ちょっと先輩としてアドバイスする。ご褒美をあげる。一緒に将棋を指す。師匠なんてそんなもんだ。堅っ苦しく考えても無駄無駄。それで天衣ちゃんは不満を持ってないし、弱点とかあるわけでもないんだろ?十分じゃねえか」

「十分、ですか?」

「ああ。いくら師匠が親身になったって腐る奴は腐る。伸びない奴は伸びない。育てた奴が全員棋士になれるか?なれねえよ。そういう世界だ。天衣ちゃんは今楽しく将棋を指してる。勝ち星も順調に稼いでる。悩みを相談されたら真摯に聞いてやる。それでいいんだ。それにお前まだ中学生だろ。お前だって本当は庇護下にいないといけない年齢なんだからな」

 

 まあ、義務教育通ってるし。僕も色々教わる側だ。研修会や奨励会ならアドバイスできるけど、棋士としては新人。女流については全然関われないから調べるくらいしかできない。

 これからも失敗するだろう。情けない姿を見せるだろう。それでもいいと、兄弟子は言ってくれた。

 

「二人三脚で進めばいいんだよ。本当にわからなくなったら大人に聞け。お前さんらはまだそういう年齢だ」

「そうですね。焦らないようにします」

「おう。……それにしても、どっちも『あい』なあ。師匠が同期の中学生棋士となると偶然にしちゃあ出来過ぎだな」

「同い年で将棋の才能もある同じ名前ですからね。でもちょっと、将棋に関わるのが遅かったですかね?」

「目標がどこかにもよるだろ。女流なら今からでも全然間に合う。指導免許を取るとかでもな。今の所彼女は女流になって八一の聞き手をするのが目標らしいぞ?」

「ええー……。微妙に目標低ぅ」

 

 女流棋士になるで頑張っている女の子もいるだろう。それこそ女流タイトルを取りたい、空さんのようになりたいって子もいるはずだ。

 なのに目標が聞き手。しかも師匠の。

 じゃあ師匠以外の聞き手はしたくないのか。女流で満足してタイトル戦には参加しても女流で居られる程度に流すのか。

 楽観視がすぎないかなあ。

 

「やっぱり女流タイトルを持ってる人とは意識が違うなあ」

「そんなに関わりあったか?」

「天衣ちゃんが弟子になる前に雑談がてら結構聞き回ったんですよ。釈迦堂さんは将棋の普及、月夜見坂さんは竜王との公式対戦、供御飯さんは最近知ったんですけど観戦記者になりたくて。祭神さんは純粋に強い人と戦いたいからでしょうけど。タイトルホルダーじゃないですけど鹿路庭さんも向上心の塊ですし。女流ならまだしも、付属の仕事の聞き手がメインって」

「まあ、俺もそれ聞いてもし一緒に仕事することになったらこの子真剣にやってくれないんだろうなって思ったよ。意中の相手じゃないんだからな」

 

 仕事は仕事でちゃんと誠意を持ってやらないとダメだよね。まだ小学生だからその辺りの意識がないんだろうな。

 

「そもそも、何で二週間とはいえ研究会受けたんです?生石さん僕以外とは奨励会のもう一人としかやってないんですよね?」

「そのもう一人ってのが銀子ちゃんでな。銀子ちゃんに頼まれて仕方がなく二週間だけってオチだ」

「え……?あの『おまえ、生石か?うちの師匠をいじめるな!!振り飛車なんて消えてなくなれっ!!』って啖呵を切った空さん?」

「そう。その銀子ちゃん」

 

 昔将棋会館にやってきた清滝一門から空さんが一歩出てきて啖呵を切った事件。僕がたまたま大槌師匠に会って興味を持たれて棋士室に案内された時の話だ。その流れで生石さんの指導対局を受けていた時の話だからよく覚えている。同い年の女の子がすごいこと言ってたから印象深い。

 その頃から振り飛車大好きな僕としては未だに空さんが苦手だったりする。最近は同族意識ができて険悪ではないけど。

 

「よく研究会やるつもりになりましたね……」

「彼女の研究量半端ないからな。俺も勉強になる」

「それ、僕に言っちゃって良かったんですか?」

「二週間奪ったお詫びだそうだ」

「律儀だなあ。空さんの恋路、うまくいくといいのに」

「お前も人の恋を応援したりするんだな」

「しますよ。横恋慕とかじゃなければ。まあ、竜王はそういう噂が多いのが心配ですけど」

「同期なのに随分違うよな。お前に女の影とかないのはどこで差がついたんだ?」

「別に今は恋愛とかいいですよ。自分のことと将棋のことと天衣ちゃんのことで手がいっぱいですから」

「……ふうん?こりゃ大変だ」

 

 

「天衣ちゃん、マイナビ本戦出場おめでとう」

「まだよ。挑戦者になるまでは通過点だもの」

 

 八月上旬。僕の竜王戦と同時期にあったマイナビの一斉予選ではすごく強い人に当たることなく本戦に出場となっていた。それと驚いたことに清滝桂香さんも。彼女は今回の本戦で勝てば女流棋士としての資格を得る。

 もう研修会も年齢ギリギリだったっけ。去年から調子がいいみたいとは天衣ちゃん談。研修会に何度も顔出せなかったし、あまり詳しくはない。晶さんもそこまで他人の成績を調べようとは思ってないだろうし。

 連盟のHPを見れば戦績載ってるけど、そこまではしたくない。

 

「一回戦、月夜見坂女流玉将かあ」

「横歩取りが得意な人ね。女流帝位には吹っ飛ばされていたけど、女流では強い人でしょう?」

「奨励会にも挑戦した人だからね。名人だって勝率は七割……今期だけで言えば八割だ。最強の人でも二割は負けるんだから、油断したら負けるよ」

「わかってるわ」

 

 そんなことを言いつつ、今日の本題はマイナビのことじゃない。正確には明日の明朝だけど、数年ぶりにある竜王戦の海外遠征。第一局をハワイでやっていて、その生中継を見ようと思っている。

 最近買った高性能ノートパソコンにコードを挿してテレビに繋げる。これで大画面でネット中継を見られる。

 大盤解説も合わせるとこうして見るのが一番だ。むしろこれだけのためにノートパソコンを買った。あとは名人との研究会で纏めたデータを見せる時くらいだろうか。

 ハワイとは十九時間の時差がある。向こうの九時に対局開始なので天衣ちゃんは前泊をして僕の家で朝の三時半に起きて、四時からの対局を見る予定だ。

 だから早めに寝る準備を済ませて、実際さっさと寝た。そして三時半に設定しておいたアラームに叩き起こされて目覚めたけど、晶さんは鳴った瞬間止めていた。ボディーガードってすごい。

 三人眠いまま準備をして見守る。電気も点けて色々準備をする頃にはすっかり頭は回っていた。

 先手は竜王。お互い角道を開けるスタンダードな始まり。その頃には晶さんが紅茶とラスクを用意してくれていた。ラスクは袋に入っているそこまで高くないもの。朝ご飯前にちょっとお腹にものを入れておこうくらいのもの。

 お礼を言いつつ軽く食べて、三手目が終わっていた。竜王が飛車先の歩を進めていた。

 

「一手損角換わりかなあ」

「そうでしょうね。あの人は一局目、初対戦の相手にはその人の得意戦術を使うもの」

 

 天衣ちゃんも同意してくれたように、名人は角交換。これに竜王が驚いてたけど、予想してなかったんだろうか。

 名人は盤面真理を求める。たとえどんな記録がかかっていようと、その人が得意戦術とするのだから自負もあって詳しいはず。自分の知らない盤面が見られるかもしれないと期待して得意な戦型を調べて使う。

 生石さんも昔それを喰らって、相振り飛車で調子を落としたって言ってたな。やってくることがわかっていても、実際にやられるのはよっぽど傷になったと。

 僕の初対戦は奨励会しかデータがなかったし、記念対局ということもあって振り飛車じゃなく矢倉だったけど。

 それでも負けたけどね。

 竜王は初の防衛戦で浮足立ってるのかな?

 それから竜王が穴熊を組んで、名人は薄い守りだけど攻守のバランスがいい陣形を組んでいた。結構広く駒が散っている。

 

「竜王は随分手堅いなあ。それに手が早いような……」

「そういえば直前くらいに竜王からLINE来てたわよね?嫌そうにしてたけど」

「ああ、そういう内容じゃなくて名人のこと聞かれたよ。三戦指してみてどうだったかっていう感想求められて。ありのまま『楽しかったし面白かったし強かった』って返しておいた」

「名人との対局を、しかも記録がかかった大勝負を楽しい、面白いって言えるのはお兄ちゃんくらいよ」

 

 そうかなあ?僕はまだまだ名人と公式戦で戦う機会があるだろうし、名人は全盛期に戻って来てるというか、山刀伐さん曰く今が全盛期って言ってた。七冠獲った時よりも強いんだろうか。

 実際に対面して指さなきゃ比較できないよなあ。

 

「竜王からもあり得ないって返ってきたけど。実際楽しかったんだからいいじゃない。新しい発見もいっぱいあったし。案外筋違い角もやり方いっぱいあるってわかったから」

「あの対局のニコ生、大変だったわ」

「……はちみつアルテナでいい?」

「物で釣ろうなんて、安直だわ。……それでいいけど」

 

 そんな小言をもらいつつ、その日はゆっくりと対局を観戦して一日目は五十手目で終了。名人が封じ手をしていた。

 明日も同じように観戦するつもりなのでさっさと寝た。また三時半のアラームで起こされて、のそのそと動き出す。

 棋士って夜まで対局が長引くことが多いから夜遅くに寝るんだけど、その分朝は対局さえなければ寝てられる。

 けど僕には学校がある。今は夏休みだからいいけど、これ若いからできる無茶だよなと思っていた。

 封じ手も発表されて、やっぱり紅茶を飲みながら戦局を眺めるけど。

 

「うーん。まずいかな」

「どっちが?名人がハイペースで指してるのはわかるけど、そこまで悪い状況?まだ中盤なのに」

「ああ、うん。一見竜王が有利に見えるけど、竜もあるし、手番も握ってるけど。全部受け潰されてるよ」

「は?……待って。なら……違う、ダメ。……違う。違う……。ほ、本当に攻め筋がない……!?」

 

 そう、攻めているはずなのに攻め筋がない。大駒の準備ができているのに、それを仕掛ける先も、有利にする道筋も、ない。

 かといって角を犠牲にしてまで作った竜を橋頭堡にするの馬鹿らしいし、大駒を失う。駒得だけを考えれば竜王がとても有利に見えるけど、その先がない。

 竜を生かしつつ攻める前に、名人に手番が回る。

 駒得させて、実は歩とかの弱いとされる駒でじっくりと攻めている。毒攻めみたいだ。

 

「ど、どこから……?」

「流れが変わったのは、2三角かな。角を捨ててでも竜を作りに行ったでしょ。穴熊だから大丈夫だと思ったんだろうけど、角を捨ててまで金と桂馬をもらって、竜王を作って。竜王は最強の駒だけど孤立無援にしたら何も意味がないから。飛車はあくまで牽制で馬を作りにいけば金と桂馬がなくても攻められたはずだけど……。その変化手を並べようか」

 

 竜王が長考に入ったみたいだし。

 折りたたみ式の将棋盤を出して並べる。そこで2三角ではなく4四歩にする。と金狙いかつ牽制の歩だ。別に金を奪いにいかなくても自力で作ればいい。

 多分竜王は初めての防衛戦で焦ってる。竜を簡単に作れる状況が産まれるんじゃなく、作らされていると思わないと。

 

「うん。下準備が足りない。今からじゃ攻め続ける前に息切れを起こすよ」

「で、息切れした後に名人はもらった角と準備していた歩で攻めるのね……。ここからなら角が二つあれば歩と銀で十分穴熊を削れる」

「そ。と金にしてもいいし、ここから名人はいくらでも攻められる。竜王が勝ち目というか逆転するなら穴熊の強化をしてまた150手以上の長丁場にすれば芽が出るかもだけど、攻めた瞬間に終わる。大阪名物の持将棋に持ち込んで、名人がミスすればってところかな」

 

 長考が続いて昼食の注文を取りにきたスタッフさんが中に入る。竜王はホットサンドを頼むけど、名人はコーヒーだけだった。

 持ち時間も逆転したし、おやつの時間もあるから無理に食べなくていいって考えかな。

 

「これ、もう……」

「守りを固められても、名人は三十手以上攻め続けられる。そして、それだけあれば穴熊は終わる。おやつを食べたって竜王の持ち時間を考えれば向こうの時間で五時前には決着が着くよ。名人のことだからおやつを食べて糖分補給して、夜は今日で終わりだからハワイの美味しいものを食べに行こうとか考えてるんじゃない?家族総出でハワイに行ったはずだし」

「家族サービスまで考えているとは、名人は凄いな……」

 

 晶さんが呟くけど、実際すごい人だ。というか、僕もこの先を読めてるから名人が大ポカしない限りはそう推移するはず。

 向こうがお昼休憩になったのと同時に僕達は外へ朝のランニングに行った。七時過ぎだからちょうど朝の散歩とかで人手があった。晶さんも一緒に走るらしい。いつもそうしてるらしいし、昨日もそうだった。

 昨日初めて天衣ちゃんのランニングウェアを見たけど、最近のそういう運動着って可愛らしいもの多いんだね。知らなかった。テニスウェアみたいにピンクのラインが入っているし、背中のメーカーのロゴもピンクだった。

 なんというか、よく似合っていて。でも言葉にするには的確なものが出てこなくて純粋に「可愛いね」としか言えなかった。もっと言葉の勉強しないとなあ。

 僕と晶さんは黒いジャージだった。僕に至っては中学校のジャージだし。実用性大事。

 

 三十分くらい軽めに走って、家に着いたら三人で朝ご飯を作った。最近料理に目覚めているらしく、気分転換で料理を習ってるとか。調理実習ではまったとか言ってた。

 その朝ご飯を食べ終わった頃に竜王がようやく着手。長い長考の結果歩で攻めたけど、その瞬間名人が目を大きく開き、メガネを外してレンズを拭きながら大きく溜息をついた。息を吐いただけに聞こえなくもないけど、僕や山刀伐さんなら気付いただろう。

 落胆の吐息だと。

 名人はその歩を無視して手番を握った。そのままミスもせず攻め続け、穴熊が消えていき。

 おやつ前。名人が玉の隣に金を打って、竜王が頭を下げた。

 

「いやあ。まさか相手が初の防衛戦第一局、海外の上に大記録が差し迫った将棋で落胆の様子を隠さないなんて」

「いつぞやの挑戦者に舌打ちするよりいいんじゃない?」

「どっちもどっちかな。さて、次の名人からのお呼びはいつになるんだか。天衣ちゃんのマイナビで東京に行くのが先かな?」

「同じ日に対局あったわよね?」

「玉将戦の対局だね。いやホント、東京行く回数多くない?」

「それだけ勝ってるってことでしょ」

「じゃあお互い頑張るってことで。横歩取りで指すよ」

「ええ、お願い」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18 マイナビ本戦

「ハッ。化け物の子は化け物か」

「……お父様のこと、知っていらっしゃる?」

「ああ、悪ィ。父親じゃなくて師匠のことだ。碓氷のことはわかってるつもりだった。……お前は銀子やあのイカ娘と同じ、特殊変異タイプだな」

「そこまで変かしら?わたしは師匠とお父様に幼少期から鍛えられただけで、特別な何かに目覚めたつもりはないわ」

「それで去年あんな棋譜が残せるかよ。……もうすぐ奨励会に上がれるらしいが、あそこは女流みたいに甘くはねーぞ」

「わたし、女流を甘いなんて思ったことはないのだけれど?様々な柵の中で戦っている猛者。師匠や師匠の知り合いがそう女流の世界を称していたわ。そしてわたしは白雪姫のように黒を知らなかったわけじゃない。……でも、先達の言葉はありがたく受け取っておくわ。ありがとう」

「……生意気だな。だが、それくらいで良いのかもな。銀子を吹っ飛ばしたらお前のこと認めてやるよ」

「わたしは認めなくて構わないから、師匠とお父様のことを認めて欲しいわね」

「碓氷のことはとっくに認めてるっての。お前の親父さんも、月光のおっさんや名人相手に勝ってるんだ。それだけで十分認めてるよ」

「なら良かった」

 

 

 マイナビ本戦一回戦。ここから一斉予選までとは違って一日に一つの対局しかしなくなる。一回戦も日にちを分けて行われる。

 今日は天衣ちゃんの日で、僕も玉将戦があったから一緒に東京に来ていた。僕が東京の将棋会館から出ていくと近くに天衣ちゃんと晶さんが待っていた。ホテルで待っていていいのに。

 

「勝ったわ」

「おめでとう」

「お兄ちゃんもおめでとう」

「ありがとう。次は鹿路庭さんとか。明日名人宅で顔合わせるけど大丈夫?」

「別にいいんじゃない?」

 

 とのことだったのでホテルで泊まって、翌朝名人の家へ。その前に月夜見坂さんとの棋譜を確認したけど、やっぱり横歩取りで研究成果を発揮して勝っていた。初めての対戦だったことと、月夜見坂さんの自信も込みで横歩取りだったんだろうな。

 名人の家に着いたら早速VSをやらされた。名人が先手で僕が一手損角換わりという注文で。僕あまり一手損角換わり得意じゃないのに。

 終わった後、まあ当然のように聞いてみた。

 

「竜王戦第二局に向けてですか?」

「そうだね。竜王はおそらく一手損角換わりを使ってくるはずだ。二連敗を避けるなら得意戦法で来るはず」

「往復ビンタになりません?」

「そこまで彼はメンタルが弱いのかい?」

「さあ……?でも山刀伐さんには三連敗しましたし、竜王って一回負けると次に勝つまで期間がありますよ?それで連勝してまた負けての繰り返しです」

 

 スランプが長いのか、調子の波が激しいのか。負ける時は負けまくって勝つ時は無敗。よくわからない。

 

「彼はエンターテイナーだね。タイトル戦は盛り上がりそうだ」

「まあ、その法則でいけば三連敗の後に四連勝もあるかもだけど〜……。それまでの二局で舌打ちしませんか?名人」

「するかもしれないな。あの虚勢の歩で思わず出そうになったが、ハワイの人達に悪い印象を抱かせるのはまずいと思って耐えたよ」

「隠せてませんよ……」

 

 山刀伐さんの呆れに僕も頷く。舌打ちよりは断然良いけど、あのタイミングじゃ落胆の意味だってわかるし。ネットでも話題になってた。

 目をかっ開いていたら、気付く人は気付く。

 

「強い人と七戦もできたら発見が多いかもしれない。これだからタイトル戦は面白い」

「七戦保つメンタル持ってる人どれだけいるんですか……。月光会長と生石玉将くらいじゃ?」

 

 他にも有名なA級棋士もいるだろうけど、とは山刀伐さん。僕は同じ人と何回も戦ったことがないからわからない。この前の名人くらいだ。それも三回だけ。

 タイトルを獲ったけど一般棋戦だったり、一勝で獲れるタイトルばかりだったからその辺りは僕に実感がない。

 

「ああ、楽しい将棋にしたい。今度はあちらのホームだから楽しめるだろう」

「第二局大阪ですからね。ハワイは色々と想定外だったんでしょう」

「それにしては九頭竜竜王、一手損角換わりをされた時の驚きが凄かったと思うんですけど……。東京の棋士室でもおやって言われてましたよ?」

「東京はそんな感じだったんだ。現地では名人のことしか見てないし、質問も名人のことばかりで八一くんのことはあまり見れてなかったなあ。碓氷くん、大阪はどうだったの?」

「僕達自宅で見てたので大阪の様子わからないんですよ。清滝一門は現地に行ってたので大阪でわざわざ会館に出向いてまで検討する人達がいなかったというか」

 

 朝四時前に開けるとなると職員さんも大変だろうし。東京は開けたらしいけど。

 棋士室に集まったなんて話は聞かなかったな。生石さんも後から見ただけで生で調べるつもりなかったって言ってたし。

 

「ん?僕達?……碓氷君、天衣ちゃんと一緒に自宅で見てたの?朝四時から?」

「え?はい。そうですよ?」

 

 鹿路庭さんが確認してくるけど、何かおかしかっただろうか。名人も山刀伐さんも気にしていないけど、鹿路庭さんだけ慌てている。

 はて?

 

「やっぱり東京でも変だと思われたのね。名人の傾向を掴んでいたらあり得る戦法だったと思うのだけど」

「僕達も変だなーって思ってたんですよ。一手損も奇襲ではあるけど、筋違い角ほどおかしな奇襲でもなかったので」

「筋違い角がおかしすぎるだけだから。んー……。僕が名人の研究相手だと知ってるから、僕と名人が終わらせた研究をぶつけると思ってたとか?それとも盤面真理を求めて新しい可能性を見付けるために……ゴキ中?」

「え?自分が勝った戦法を名人が使うと思ってたってことですか?限定合駒三つ読まなきゃ覆せない手段ですよ?」

 

 山刀伐さんと竜王の対局は竜王がゴキ中、山刀伐さんがそれを絶滅させる超急戦を仕掛けた。絶滅させるように終盤は圧倒的に山刀伐さんが追い込んでいたけど、何兆通りあるかわからない手数の中から三連続限定合駒というそれをしなければ負けるたった一つの望みを見付けて勝った。

 逆に言えば、その限定合駒でしか《どうしても勝てない》。驚異的な読みができなければそこに辿り着く前に潰せる研究結果だった。

 それは対処法と呼ばれるワクチンにはなり得ないし、誰もが指せる、普及する手段じゃない。そこまで行ったら最後はただの読み合いだ。

 それも盤面真理だろうけど、そんなどれだけ対局をこなして一生どころか千年続けて一回現れるかどうかの盤面に名人が誘導するだろうか。

 

「よく私の一手を奇跡と呼ぶけど。あの限定合駒こそそこに至った過程こそが奇跡で、あれを再現する、同じ轍を踏むのは盤面真理でもなんでもない。もう結果は出た。それに私達の研究成果を知らないのに私がゴキ中を使ったとしても超急戦を使いこなせるはずがない。私がゴキ中にするという推測はそれこそ突拍子もない予測ではないかな?」

「ゴキ中の対処策を見付けたと思っていて、八一くんが否定したわけですから。『盤面真理を求めている』という情報だけならゴキ中へ誘導しようと思ってもおかしくはないかと」

「……一手損以外も検討しておくか。だが、後手番ゴキ中こそそんな奇跡を起こしたからまたそれを使おうとしてくる?ホームでメンタルが強ければそれもあるか……」

「僕が指します?それとも山刀伐さん?」

「いや、夜叉神君に頼もう。その次は鹿路庭君に。女性の視点というのも侮れない。空君もそろそろ私達の世界に来るだろう。それに、彼女は彼の姉弟子なのだろう?そういう手を仕込んでくるかもしれない」

「わかりました」

 

 天衣ちゃんが名人と指し、山刀伐さんが棋譜を取ることになった。僕が鹿路庭さんと指すけど、この後天衣ちゃんと指すのにその師匠と指して良いんだろうか。

 まあ、こういう諸々を了承して鹿路庭さんも来てるんだろうけど。

 それからみんなで楽しく将棋を指した。天衣ちゃんと鹿路庭さんは精魂抜けてたけど、いつものことだよね。

 

 

「今日はよろしくお願いします。鹿路庭女流二段」

「こちらこそ。夜叉神女流初段」

 

 マイナビ本戦二回戦。これに勝てばベスト4、つまり今日も合わせてあと三回勝てば女王に挑戦できる。

 女王はお父様とお母様と約束をしたタイトル。それまでは通過点に過ぎないけど、慢心したら負ける。

 鹿路庭珠代。タイトルこそ持っていなくとも、同じ名人研に参加する女流。最近読みが深くなって強くなったと噂されているけどそれは事実。

 貪欲な勝利への意気込みは、本物だからこそ、わたしは最初から扇子を取り出す。

 

「……扇子、出してくれるのね」

「ええ。あなたは全力で潰す」

 

 始まったのは相振り飛車による力戦。本戦から持ち時間は三時間になったのに、そんなの関係ないと言わんばかりの駒のぶつけ合い。

 考える時は考えて、果敢に攻める時は攻めて。

 相手の駒を奪い、奪い返し。入玉を果たそうとする相手の王を咎めて。

 最後は頭金を打ち付けた。

 

「負けました。……やっぱりあなたは強いよ。でも、私はまだ諦めない。空銀子すら墨がついた。もう女流は一強状態でも膠着状態でもない」

「まあ、その墨をつけたのはあの女流帝位だから何とも言えないのだけど。……わたし達が参加しないタイトルくらい獲ってくれば?」

「そうね。だからってマイナビと女流玉座から逃げないわ。絶対に勝てない相手なんていないもの」

「そうよ。最強と言われる名人を、わたしの師匠は二回倒しているもの。将棋に絶対は存在しないわ」

 

 その後は朗らかに感想戦をして、握手をして終わり。

 だと思ったらまた史上最年少記録だかなんだかで記者に囲まれた。マイナビ本戦出場の最年少記録はわかるけど、一回一回写真に納めないといけないのかしら。

 そう思いながらも、笑顔を浮かべて応対する。すっかり慣れたわね、作り笑顔。

 そしてその日。竜王は名人に二連敗を喫した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19 追い込まれた結果

 また負けた。山形の天童であった三局目も連続王手の千日手という反則一歩手前で錯乱しての大悪手。そこから巻き返せず、今日の棋譜を思い返して。

 これまでの俺の将棋を思い出して。俺の生活を思い出して。

 帰る時に聞いた記者たちの言葉が脳に蔓延りついていた。

 

『負けてた時に内弟子とって勝って。また負け始めたら新しい弟子とるのかね?』

『弟子とるのは否定しないよ。碓氷っていうバケモノがいるんだから。同じように弟子取ってるけど両方とも順調に結果を残してる』

『碓氷はあくまで弟子で、一人暮らしだからな。それにほら、夜叉神ちゃんはアマ名人の娘っていう土台も大きいだろ。名人に角落ちとはいえ勝ったアマだぞ?』

『それ言ったら碓氷なんてまだ中学校通ってるじゃないですか。学校と弟子と、自分の研究と。それでもほとんどの棋戦で勝ち上がってますし、順位戦もまだ無敗。このまま昇級しますよ』

『あの二人は話題性に事欠かないねえ。いや、清滝一門も話題を結構作ってくれてるから十分なんだけど。竜王の弟子は上がってこないねえ』

『空銀子と夜叉神天衣が別格なだけですよ。アレが普通の女子小学生です』

 

『竜王になったからって弟子を育てられるかって言われたら違うよなあ。名人の弟子が棋士になれるかもわかんないのに。……名人に弟子いないけど』

『あの人は教えるより自分で研究したい人だろうからな。教える時間よりも盤面真理。負けてもいいから盤面真理。精神性が違いすぎる』

『だからこそ、今回ちょうどいい竜王永世と通算100期、達成してほしいよなあ』

『ストレート奪取も話題にはなるんだろうけど、最年少竜王としてせめて一矢報いてほしいよ。竜王戦の注目度は半端ない。フルセットとは言わなくていいからさ。棋界の頂点タイトルなんだし』

『去年のも、これまでの実績も。ただの偶然、奇跡で終わっちまう。中学生棋士なんだからそれだけじゃないのはわかってるけど、世間はそう見ない』

 

『若くして弟子をとるなんて異例だからな。碓氷も実績がないから最初は隠してたんだし。中学生で弟子をとるなんて批判されて当たり前だ。そこを二人とも実績でねじ伏せた』

『竜王って実績があるから、弟子はいいんだよ。それが女子小学生で内弟子っていうのが輪をかけてさあ。弟子は若いから実績を出せなくてもしょうがないとして、内弟子と女子小学生っていうのが批判の種になる』

『清滝先生もタイトルこそ持ってなかったけど竜王を育てて、空銀子を育てて自分の娘も女流棋士になった。あの人もA級在籍したんだから実績はあったんだよなあ。育てる力も』

『弟子取ってからあの人も強くなったよなあ。九頭竜の弟子を認めたのもそういう理由があるんだろうな。負け続けてたし』

 

『でも十代に弟子は早かったんだろうな。清滝先生が弟子を取ったのって娘さんが高校生になってくらいの歳だろ?』

『そうしたら碓氷っていう例外が……』

『それはまさしく例外。神の子だぞ?名人に二回勝てる十四歳なんて神童としか言えない』

『その上弟子も超級。もうすぐ奨励会に上がれるとか』

『もし九頭竜と碓氷の竜王戦だったらフルセットまで行ったかな……。せっかくやるなら長い方がいいが。話題性も続くし』

『言っても詮無いことだな。去年楽しませてもらったから今年も期待してたんだけど』

『三連敗からの四連勝なんて聞いたことないし。ここまでかな』

 

 そんな内容だった。こういう時に記憶力の良い棋士は嫌だ。全部覚えて頭から離れない。

 ネットでも散々叩かれた。だから貶されるのは今更だと思ってた。

 けど逆だ。あの人達は俺に期待してくれていた。記者の将棋担当なんて大体が青春の中で将棋を嗜んできた人達だという。そんな人達だからこそ期待してくれた。大阪の人達も俺を応援してくれた。なのに結果はこれだ。

 期待にも応えられない。これなら罵詈雑言をぶつけられた方がマシだ。……期待が重い。竜王を獲って連敗した去年よりも辛い。

 ネットを見るわけでもなく、スマホの電源を点けていた。なぜかLINEを開き、一門の誰かに電話をするでもなく。

 ある奴の名前を見付けて、電話をかけていた。

 しばらくの送信音の後に、相手は出てくれた。

 

「……もしもし?竜王ですか?今日って竜王戦の第三局では?」

「負けたよ。見てないのか?碓氷」

「すみません。さっきまで対局だったので。感想戦終わったばかりなんですよ」

 

 俺のこと興味ないのかと思った。いつものように不機嫌そうな声。声変わりしたのにそこまで低くない男の声。

 本当の天才。神童、碓氷暁人。

 

「それで、僕に何の用事です?棋譜を見てないので今日の棋譜云々の話はできないですけど」

「……お前、名人と戦ってどうだったって聞いたよな?本当に楽しかったし、面白かったのか?」

「え?はい。楽しかったし、面白かったですよ。これでどうだって思った手に簡単に対処されますし、よく言われるマジックと呼ばれる鮮やかな手には舌を巻きました。それでも負けられるかって足掻いてたら見たことのない場面、棋譜になって。検討のし甲斐もあるし、これを天衣ちゃんに教えたら強くなるんだろうなって思ったら楽しかったですよ」

 

 もう、そこからして俺と違う。

 俺は自分の負けた棋譜をあいと並べたりしたか?二人で検討をしたか?次勝てるか一緒に考えようと、したか?

 しなかった。彼女は初心者だ。才能があっても定跡も変化手も知らない。将棋界の常識も知らない。

 その土台から作っていこうと……してもいない。彼女の本領が発揮されるのは終盤になってからだと思って定跡や序盤の手をほとんど教えていない。そうすれば強くなれるはずだと何の根拠もなく。

 彼女が好きな詰め将棋ばかりやらせて。後は対局をしていただけで。

 検討なんてしたことなかった。

 

「……そんなことまでしてるのか、夜叉神ちゃんは」

「でも本当に、対局したり昔の棋譜を並べたり、見付けた面白い研究を一緒に考えたり。昔からやっていたことの延長しかしてないですよ。師匠として恥ずかしいです」

「いや。お前は立派な師匠だよ。俺なんかよりもずっと……」

「──竜王?」

 

 俺も昔から師匠や姉弟子とそうしてきた。けど、あいにはそうしてこなかった。勉強法なんて人それぞれ。人には人の合うやり方がある。

 あいは詰め将棋の天才だった。だからその長所を伸ばしてあげたかった。女流タイトルを取るまでにゆっくりと、徐々に教えてあげれば良いと思ってた。

 バカか、俺は。彼女は空銀子じゃない。いくら将棋図巧を三ヶ月で解こうが、終盤の天才だろうが、脳内将棋盤が十一個あろうが。

 姉弟子が強くなったのはひたすら将棋を指したからだ。それこそ寝る間も惜しんで、病弱な身体で倒れても。入院しても、何をしていても。

 

 彼女は将棋一色だった。

 好きなことをやらせて徐々に?年齢制限もあるのに、そんな悠長なことを言ってどうする。桂香さんだってちゃんと一門になるのは遅かったけど、類稀なる研究ノートのおかげでようやく女流になれた。

 他のタイトルホルダー達も女流の中では才能がある。幼少期からの積み重ねであそこまで駆け上がった。

 なのに、同じような才能があるからってただ対局をするだけで定跡も教えず。時間をかけていつかは女流タイトルホルダーに。

 バカすぎるだろう。俺は。

 あいの折角の才能を潰していたのは、俺だ。

 

「碓氷。俺の弟子の雛鶴あい、弟子にしてもらえないか?あの子はお前の元にいれば強くなる。俺じゃダメだ。甘やかしてばかりで強くさせられない。あいはお前もきっと認めるくらい才能のある子だ。だから──」

「竜王。いや、九頭竜八一。それ以上口にしたら僕はあなたを軽蔑する」

「……なんで?あいは今からでも遅くない。ちゃんとした師匠の元で育てれば女流タイトルホルダーだって夢じゃ──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの子が師匠に選んだのは、アンタだろうが!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳鳴りがするかと思ったほどの怒声。碓氷のここまでの大声、初めて聞いた。

 いつもは物静かに話す奴だったから。

 

「知りませんよ、他人の弟子の才能なんて。そもそも僕は清滝一門でもない。あの子を引き受ける義務も義理もない。そもそも僕に、弟子を二人も見られると思いますか?」

「いや、お前なら余裕だろ。夜叉神ちゃんをあれだけ育てたなら……」

「僕が、彼女を内弟子にするんですか?天衣ちゃんすら通いで教えているのに?何で後からきた二番目の弟子を内弟子で付きっきりで教えないといけないんです?そんなの、天衣ちゃんに不義理だ」

「なら内弟子にしなければ……」

「清滝先生の家に住まわせますか?そうしたら僕じゃなく、清滝先生が教えればいい。石川が実家の子を僕が教えるとなったら内弟子にするしかないでしょう。一人でアパートを借りられないんだから」

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 

「それに、わかってるんでしょう?彼女はあなたに憧れて将棋を指すことを決めた。研究会を開くくらいならまだしも、彼女を教えられるのはあなただけです。僕がどう教えようと思っても、熱意を持ってくれませんよ」

「そんな、ことは」

「仮に弟子にしたとしても。僕は天衣ちゃんを優先します。雛鶴さんが内弟子になろうが、天衣ちゃんの女流棋戦に向けた研究や奨励会に向けた訓練を優先させます。雛鶴さんが指したいと言っても、天衣ちゃんに予定があれば。僕の棋戦が近ければ。そちらを優先します。二人平等になんて今は無理ですし、学校の宿題や行事があればそれに手をかけなくてはいけません。その上でもう一人?身体が持ちません」

「ああ、学校、か。……卒業した後は」

「どれだけあなたが可能性を模索しても。僕は絶対に彼女を弟子にしません。あの子が憧れて、あなたが認めた。それを他人に押し付けないでくれます?僕の元で教わりたいという意欲のある子ならまだしも、他人のあなたに強制的に渡された子なんて指導もできません。才能を潰すとかではなく、根本からおかしいんです。それをわかってください」

 

 そう、押し付けたかった。俺にできないことでも、碓氷ならできるだろうと思って。こいつなら簡単にあいを女流タイトルホルダーにできるだろうと思って。

 捨ててしまえば、時間が取れる。竜王戦に全部向けられる。去年のように。

 その。甘い誘惑に溺れた。

 

「……悪かった。三連敗して頭がおかしくなってた」

「そうみたいですね。だから僕はこれ以上何も言いません。弟子との関係も、これからも。自分で決めてください。こんなこと僕に最初に言ってるんでしょうけど、もっと頼れる人はいるはずですよ。身内じゃないからこそ零せたことかもしれませんが」

「最後に、一つだけ聞かせてくれ。お前は何でそうも強いんだ?」

「強い?バカ言わないでください。強くなんてありませんよ。今僕が頑張ってるのは」

 

 

 

 

 ──ただ、約束を守りたいだけです──

 

 

 

 

 そう言って通話は切れた。

 約束か……。

 

「昔は、銀子ちゃんとどこでも行けたなあ。真剣師のところ行って、会館に行って。将棋を指して指して指して。それだけだった。それで良かった。棋士になろうが、竜王になろうが、結局銀子ちゃんと将棋を指してばかりだった」

 

 それが変わったのは、あいが弟子入りしてから。銀子ちゃんとのVSの時間は確実に減ったし、創多や鏡洲さん、歩夢との研究の時間も減った。

 俺は、戻りたかったのか。

 

「俺、最低だ……」

 

 けど、最低のままじゃ終われない。俺に期待してくれる人も応援してくれる人もいるんだから。

 スマホで、連絡先を探して通話をかける。

 

「あい?今大丈夫か?……うん、そう。負けた。それで悪いんだけど、俺の第四局が終わるまでそのまま師匠の家でお世話になってくれないか?ストレートは避けたいし、調子を戻したくてさ。第四局が終わったらどんな結果でもまた指そう。……うん、ごめんな。師匠と桂香さんにも伝えておいてくれ」

 

 あいの方はこれでよし。後はもう一人だ。

 

「姉弟子?今大丈夫ですか?……はい。はい。それでその、大変恐縮なのですが。当分VSをやりたいのでお時間割いてくれませんか?」

 

 

 通話を切ってそのままスマホも暗くさせる。全くもう、ムカムカしてきた。

 

「天衣ちゃん、晶さん。いきなり大声出してごめんなさい」

「それはいいのだけど……。帰ってきて電話してるのが珍しいと思ってたら、相手はまた竜王なの?」

「そう。弟子引き取ってくれって。思わず怒っちゃったよ」

「それは、まあ。怒って当然ね。焼きが回ったのかしら?」

「たぶんね。もう思考回路めちゃくちゃ。それだけ名人との対局で心に来たのかもしれないけど。今日の対局そんなに酷かったの?」

 

 天衣ちゃんが並べていた将棋盤を見る。ついでにノートパソコンで棋譜も。

 将棋自体はそこまで悪いものじゃないと思うけど。

 

「連続王手の反則負けする寸前で大悪手か。心に来るのもわかるけど……」

「弟子の立場からしたら、いきなり身売りさせられかけたんでしょ?それをわたしがやられたと知ったら心を病んで寝込むわ」

「僕は絶対しないから。というわけで雛鶴さんには言わないでね」

「そもそももう奨励会に上がるし、女流の棋戦にも出てこないんだから接点ほぼないわよ?」

 

 それもそうか。クラスが違いすぎるし、もう既に一回戦ってるから今年は例会で対局はなさそうだ。もう一回戦う頃には天衣ちゃんが奨励会に上がってそうだし。

 

「ま、終わったことだしこれからはあの二人次第ということで。今日名人はため息とかしてなかった?」

「してたわ。竜王が王手今何回って記録係に聞いてる時に。記録係も肩入れ行為になるから言えないもの。その後に大悪手されたら、ね」

「次の竜王戦は……あー。近くに僕の対局ばかりだ。研究会できなさそうだね」

「今回は名人に頑張ってもらいましょ。LINEで情報交換だけすればいいと思うの」

「だね。じゃあ検討始めよっか」

「お兄ちゃんご飯は?」

「あ……。食べてなかった。ありがとう」

「どういたしまして」

 

 僕も頭が回っていないようだ。食事も忘れるなんて。

 コンビニで買ってきたお寿司を食べてから検討をする。僕も竜王に怒れないくらい周りが見えない時がある。気を付けないと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20 竜王戦第四局

 竜王戦第四局。これには観戦していた者達も首を捻っている。

 僕達もこの日は将棋会館の棋士室で検討を行なっていた。石川の「ひな鶴」に行きたい人は行かせればいい。僕達はここで十分だった。

 今日でストレート失冠になるかどうかの一局だったので生石さん含む大槌一門で検討をしていた。師匠だけいないけど。足の調子がよろしくないから仕方がない。

 初日が終わったばかりなんだけど。なんて言えばいいか。

 

「まるで別物だな。筋違い角じゃねーが、十年前の研究を見ているような」

「最新のものではないですね。相掛かりなのに、同じような盤面になっていない。もう定跡が崩壊している」

 

 最新の定跡に合わせて組んだ名人と、昔の棋譜をなぞるように並べた竜王。けどそこまでの齟齬も出ていないし、どっちが優勢でもない。そんな感じで封じ手まで終わった。

 今日はここまでということで帰る。明日対局の棋士はいないのでまたほぼ全員集まるだろう。大記録達成の瞬間を見逃さないように。今日は対局あった人いたらしいけど、気が気じゃなかっただろうな。

 翌日再集合。の前に自販機の前で坂梨さんに会った。

 

「お。碓氷君に夜叉神さん。それに夜叉神家のお付きの方。おはよう」

「「おはようございます。坂梨四段」」

「私のことはお構いなく」

「そうですか?ではすいません。夜叉神さんは初対面なのによく知ってたね?」

「師匠の同期ですから」

「あー……。半期後を同期と呼ばないと思うが?同じ年度内の話でも」

「僕の同期は坂梨さんと鏡洲さんですよ」

「竜王に聞かれたら怒られるぞ」

「もう言いました」

 

 そう言うと目をしばしばとさせる坂梨さん。本人に言ってるんだからもう誰相手にも気にしなくなった。

 

「自分でも驚いてるのに、君にそう言われたらもっと驚く。あの時の三段リーグはおかしかった。鏡洲さんは実力でというか、あの空気に慣れていたんだろうけど。おまけは運が良かっただけだ。なにせ中学生棋士二人にボコされて周りが戦意喪失してたんだから」

「でも一期抜けしたのは実力だと思いますよ?」

「何で俺が史上七人しかいない三段リーグ一期抜けなんて名前を残さないといけないんだ。君や神鍋君ならともかく。そのせいで去年は苦労した。先輩の皆様が俺も同類の天才だと誤認してな」

「戦績悪くなかったですし、詰め将棋100問の正解率第二位だと思いましたが?」

「詰め将棋は、数少ない自慢だから。上が月光会長だから驚かれるけど、そこまでじゃない」

 

 そうかなあ。坂梨さんは十分実力あると思うんだけど。案外自己評価低くて首を傾げてしまう。

 

「二人はどちらが優勢だと思う?」

「今日の対局なら昨日の時点で五分五分だと思いますよ。封じ手次第ですけど、まだ互角です。それに竜王は『好い顔』をしていたのでこの対局は面白いかと」

「変に緊張していないというか、九頭竜竜王は第三局までと雰囲気が異なります。優勢は師匠と同じで判断できませんけど、名人の悪い癖が出ない限りはこれからですね」

「ああ、確かに竜王は雰囲気が柔らかくなったと思う。悪い癖っていうのは面白いこと優先で勝負をほっぽり出すことだろ?名人はあと三つあると思って面白いのを優先しそうだ」

 

 そこが名人の悪いところだと言ったら、天衣ちゃんに前、お兄ちゃんもそっくりと言われた。新人戦とか三段リーグではそんなことなかったのに。

 僕が盤面で楽しさを優先するのは指導の時と名人との戦いだけだ。

 坂梨さんは別の部屋で観戦するようで、飲み物を買って去った。僕達も飲み物を買って棋士室へ。晶さんは関係者でもないので入れず、下の道場で子供達と将棋をするらしい。ようやく駒の動かし方とルールを把握したのだとか。

 対局は緩やかに進んでいく。進行が遅いけど、研究の新旧対決のようで、お互いがお互いを探り合っている。

 定跡からは外れている。けど盤面は静かなまま。小競り合いしか起きていない。

 

「ソフトの評価値は?」

「だいたいマイナス100からプラス100を前後しています。どっちもどっちと言いますか」

「ソフトは広く浅くだから一評価にすぎないが、これはどうなんだ?」

 

 皆さん検討を始めているけど評価も感想も芳しくない。次の手を予想しようと思っても、どこかで引っ掛かりを覚えるか名人達の指す手がよくわからずに検討のし直しが起きている。

 

「師匠。ここまでお互い持ち時間を使っているのって……」

「相掛かりの棋譜が膨大すぎるからだろうね。一門の前でこう言いたくないけど、どうしたってここ二十年の将棋は居飛車が圧倒的に多い。相掛かりの数なんて恐ろしいほどある。名人はどんどん情報をアップデートしてるんだろうけど、だからこそ十年前から変化し続けている、変化前の棋譜に対応できない。いや、手探りでしている最中だ。筋違い角みたいにあまり研究されていないものならすぐに引っ張り出せても、メジャーな戦法の昔のもの。戸惑うはずだよ」

「でも、ただの十年前の研究ならそこまで脅威じゃないわよね?」

「そう、そこ。十年前のものなのに、竜王は完璧に指し回している。もうずっとそれで戦ってきたかのように一手一手が自然だ。竜王も最新の相掛かりにぶつけるために齟齬を修正しなくちゃいけないのに、それが少ない。持ち時間にも現れてるね」

 

 三十分の差。持ち時間が長い将棋では三十分なんて簡単に消えてなくなるけど、持ち時間はそのまま余裕を示す。もう五十代の名人と十代の竜王じゃ体力にも差がある。終盤になればその差が大きくなるはず。

 昼食、おやつも挟んで夕方。未だにどちらが優勢かわからない膠着した状況。果てしなく地味なのに、盤面は整っているのに理解できない。そのせいで棋士室の外で会う棋士の皆さんの表情が優れない。

 予想ができずに、これだけ指しても水面下で戦っている準備のような戦況。持ち時間的にも今日には終わるはずなのに、終わりが見えない。

 それが恐ろしくなっている。

 

「兄弟子。盤を一つ借ります」

「おう。何かわかったら教えてくれ」

「もしかしたら、ですけど。名人が負けるかもしれません」

「……はぁ!?」

 

 その一言で棋士室が騒がしくなる。今は竜王が長考している場面だけど、これ本当に終わるかもしれない。

 今の場面を作って、僕が竜王側。生石さんが名人側に立つ。そして僕が指したのは4四銀。

 

「……この銀が?……おいおい。待てよ!?碓氷、いつ気付いた!」

「今です。確信はありませんでしたけど、竜王がしきりに駒台の銀を気にしていたので銀を打ちたいんだろうなと思いました。何を狙っているのか、どこまで考えているのか。それを考えたんですけど、4四銀しか、思いつきませんでした」

「……二十七?違う、三十……四十五手詰になるのか!?これ、成立する……してやがる!?いや、全部受かってるのか!?」

「僕も自信がありません。他の方も考え付くものを指してください」

 

 一斉に全部の将棋盤で検討を始める。一気に騒がしくなり、盤が足りないと一人が他の棋士室に駆け込んで4四銀の検討を頼んだ。

 名人も画面の先で盤面にしがみつくように眺め始めている。お互いが、全員が。もうこれに集中している。

 

「三十三手目を2二金なら受け潰せるんじゃ!?」

「馬鹿野郎!成金ならともかくどっからその金出てきやがった!?八一なら金があるだろうが、名人の金をどこから引っ張ってくんだよ!焦るんじゃねえ!」

「……ダメです、兄弟子。潰せません。持ち駒が少なすぎて、名人は一手足りない」

「バカな……。なんだ、そりゃあ。あれだけ静かな盤面で、どうしたらそんな一本道が産まれる!?どうやってあいつは見付けた!?詰め将棋じゃねえんだぞ!」

 

 生石さんの叫びと時を同じくして。竜王は4四銀を打つ。三連続限定合駒というレベルじゃない。何をどうやったらそんな結果が産まれる。これこそが、盤面真理なのか?

 

「負けました」

「ありがとうございましたっ!」

 

 万感の思いを込めて、竜王は頭を下げる。テレビの中で大盤解説の山刀伐さんと鹿路庭さんが困惑しているのでスマホを出して電話をかける。

 

「碓氷くん、どうなってるの!?これ、何手詰!?」

「大阪では結論が出ました。四十五手詰、完全に通る、これしかない一本道です。4四銀は必至です」

「四十五……!?ありがとう、すぐ考える!」

 

 向こうは大慌てだろう。大記録がほぼ確実で。なのに盤面はひたすらに綺麗で。唐突に終わった一戦。

 こっちでも大慌てだ。上から下まで噴火したような大慌て。しかも竜王のホームグラウンドだ。一門は現地に行ってるとしても、ここで竜王を応援していた人も多い。今も「一矢報いやがった!」「なんだよあれ!化け物か!」みたいな叫びが聞こえる。

 

「師匠。どうなってるのよ?」

「僕が聞きたいよ。銀を打つとしたらどこにって思って、一番良いと思ったのが4四ってだけ。それが必至なんて気付かなかった。変化手を考えたけど、どれもこれも通らないことしかわからなかった」

「で、並べたら一本道?……どう思いますか?生石玉将」

「どいつもこいつも化け物だよ。八一も名人も、こいつも。……将棋図巧にでも載せられるほどの詰ましだぞ、これ」

 

 テレビの画面で山刀伐さんが四十五手詰を解説してネットでは阿鼻叫喚。名人の大記録を一回でも止めたこともそうだが、こんなの誰が思い付いて実行に移せるんだと。

 名人には今回の大記録記念に国民栄誉賞を一緒に渡す予定もあったそうだから、一番驚いているのは政府関係者だろうか。ストレートでいけると思ってたのに、まさかまさかの敗北なのだろうから。

 

「兄弟子、一つ賭けをしませんか?」

「おい、中学生」

「負けた方がご飯をおごるということで。あの二人が次の対局、振り飛車を使うか」

「……使わない。特に八一はまだ名人に届く振り飛車は使えないだろ」

「今回の一件があってもですか?」

「この短い間にアイツは変わったが、それだけで振り飛車のセンスが身につくか。アイツはやっぱり根っからの居飛車だよ」

「じゃあ僕は、名人が振り飛車を指すと思います。三間飛車辺りを」

「……なんだぁ?その推測は」

「今回竜王は昔の研究から現代への反逆を見せました。お返しとばかりに、名人は昔の将棋を引っ張ってきますよ」

「昔の将棋ねえ」

 

 次の竜王戦は一週間後。間隔が短く、この期間僕も山刀伐さんも対局が入っているために名人研は開けない。

 だから生石さんとの賭けもそこまで不公平じゃないはずだ。

 

「ま、良いだろ。お前が勝ったら天衣ちゃんと池田さんか?俺が勝ったら妻と飛鳥。これで公平だろ」

「じゃあ、そういうことで。食べたいもの考えておいてください」

「それを家族に教えたら、結局連れていくことになりそうだな」

 




このあと一時間後にもう一話投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21 竜王戦第五局

こちら本日二話目ですのでご注意を。


 竜王戦第五局。今度こそ名人が竜王奪取なるかということでこの日も大阪会館には結構な人数が集まっていた。

 一日目のおやつ過ぎぐらいから、名人が定跡から外れる。三間飛車を指している時点で近くの生石さんが「寿司……」と呟いていたのを忘れない。ご馳走様です。

 

「この囲い、見覚えないが……。何だこれ?」

「これで守れるのか?随分とバランス悪くね?」

「竜王もそう思ったのか、長考増えたな」

 

 棋士室でもそんな感じで名人の意図が読めずに困惑していた。名人の研究結果がわからない形に突入したせいで誰もが頭を抱える。名人の対局だともう見慣れた光景だ。

 

「おい、碓氷。これ御城将棋だな?……知ってたんだろ」

「本当に使うとは思いませんでしたけど。『十年前の研究で驚いたから、こっちは二百年以上前の棋譜引っ張ってきたよ。どう対処する?』って感じに名人は考えているかと。名人が竜王を認めたんですよ。盤上真理を探る相手として」

「お前はどこで名人がこれを使うって知ったんだよ?」

「竜王戦の挑決で。面白い棋譜多いから何か発見あったら教えてくれって言われまして。大槌師匠にも棋譜集め手伝ってもらいました」

 

 将棋の棋譜とはいえ御城将棋は、めちゃくちゃな棋譜が多いから記録上残してるだけで、見向きもしないような棋士も多い。定跡なんて知ったことかと指しているものもあるし、御城将棋という特徴から途中で指し手が当時の将軍やご家老に変わって、意図が変わってる棋譜も複数。

 それを研究する意味があるのかと言われたら、棋士としては微妙かもしれないけど、盤面真理を求める名人としては面白かったらしい。

 偶然の一手なのかわからないが、面白い一手も多い御城将棋。将軍の前だったからか普段指さないような手もあるので変化手を考えるだけで面白いし、乱戦力戦になった時に考える力をつけさせるという意味でも重宝した。

 天衣ちゃんにも結構考えさせたし。

 

「膨大な量ある中から三間飛車を的中させんなよ」

「振り飛車の可能性は高いと思ってましたよ?名人、このシリーズでは振り飛車使っていませんでしたから」

「まあ、なあ。んで、何で三間飛車だと思った?」

「この棋譜、検討のし甲斐がたくさんあるからです。変化手いっぱいで楽しいですよ?」

「なるほど。名人が選ぶわけだ」

 

 初日はそんな困惑を隠せない終わり方だった。名人が封じ手をして終わり。大盤解説は釈迦堂さんと神鍋さんの師弟が行なっていることもあってTVの視聴率も良いらしい。というか、このシリーズは世間的にも注目度が高いのだろう。

 

「それで兄弟子。いつにします?」

「……後でスケジュール教えるから、そっちで合わせてくれ」

「わかりました」

 

 約束を忘れない。美味しいお寿司を食べられることが決まって僕はホクホクだ。

 次の日も棋士室に集まって竜王戦に集中した。特に検討に至っては無限の可能性があったので将棋盤はフル稼働だった。

 

「左攻め、桂馬の高飛び、馬を作ってもいいか……?時間足りねえな、これ」

「竜王もしっかり考えていますけど、名人の方が研究しているだけあって時間消費が少ない。竜王だって最善手を指してるはずなんですが」

「変化手が多すぎる。全部を読み切るなんてソフトでも難しいんじゃない……?」

 

 人間の脳じゃ考えられるパターンに限りがある。いくら三連続限定合駒を読み切った竜王でも、全部の変化手から詰みまでは読めないだろう。いくら持ち時間の長い竜王戦といえども。

 そもそもその読みを、名人に外されたら考えていた時間が無駄になる。昔の人が自由自在に指したものだからこそ、対応がしづらい御城将棋。

 全く通らない変化手ももちろんあるけど、それはお互いに潰し合う。それでもたくさんある道筋が二人を疲弊させるけど、やっぱり名人は研究しきれなかった変化手を見せてくれることを楽しんでいる。

 これタイトル戦なんだけど。しかも大記録がかかった、日本中が注目する。政府の方々も今日こそはと思っているのに二百年前の棋譜を持ち出したことを知って困惑してたって鹿路庭さんがLINEをくれた。

 

「昔の棋譜も、掘り起こすかあ」

「ですね。バカにできないってわかりましたし。名人が使ってくるなら対処できるように研究しないと虐殺されますよ。最新の研究が全てってわけじゃないですからね。ワクチンできた!って喜んでいても、奨励会員が三日後にその解決策見付けたなんて話ザラですし」

 

 最新の研究も全く最新じゃなかったとか、この将棋界でよくある。最新の研究が過去の戦法によって覆されるとかも多々。だから僕達棋士は研究を続けるんだけど、どうしたって時間に限りはある。

 だからこそ面白いし、棋戦が楽しくなるんだけど。

 生石さんが大槌師匠に少し古い研究を分けてもらうことを決めた頃、盤面が動いた。名人が怒涛の攻めを始めたのだ。

 もう名人には終局が見えているのかもしれない。

 

 竜王も大阪の勝負師特有の粘り強い将棋をするけど、それを名人が食い破る。竜王の持ち味は薄い防御で足りる息継ぎをさせない攻撃だと思ったけど、なんか最近って防御に重きを置くようになったんだよね。指す将棋が変化したんだろうか。

 結局、夜の九時過ぎ。竜王が頭を下げたことで終局。

 名人がタイトル通算100期と永世竜王の称号を手にした。前人未到の偉業に対局室には大量のフラッシュが焚かれて、ニュース速報も大量に流れ始める。

 

「八一は残念だったが、四・五局目は良い将棋だった。これであいつはただの八段か」

「来年にはすぐにまた竜王に挑戦すると思いますけどね。他のタイトルも駆け上がってくるかもしれませんよ?それこそ玉将とか」

「そん時はそん時だな。しっかし名人も大変だな。終わってすぐ移動して、東京ですぐに国民栄誉賞の授与式と記者会見をぶっ続けなんて。明日でいいだろうに」

「政府の支持率回復のためでしたっけ?それに巻き込まれた名人は災難ですよね。そんなもの要らないとか思ってそう」

 

 勝負も終わったので、大阪会館からみんな退散。天衣ちゃんと晶さんと一緒に家に戻って、お風呂に入ってから名人の記者会見を見ていた。

 嫌そうな顔で記念品の筆や硯を受け取って、そのまま記者の質問に答える顔は不機嫌だ。というより疲れてる?いくら五局目が神奈川だったからってそのままデスマーチは。

 ああ、九頭竜さんと感想戦できてないから不満なんだ。感想戦よりもこっちを優先させられたから。

 

『この偉業を達成した上で、戦いたい相手などはおられるのでしょうか?近年ではコンピューターやソフト、AIの発展が著しいので、そういった人以外との対戦も視野に入れているのでしょうか?』

『いいえ。機械は機械でしかありません。私が指したい相手はあくまで人間。そして今注目しているのは女性の躍進。私は公式戦で女性と戦ったことがありません。それでも、女性の方々の驚くような棋譜や、私でも指せるかわからない名譜がいくつも存在します。制度や立場の問題から様々な障害がある女性でも、素晴らしい将棋を指す。私が知らない光景を見せてくれる。だから──私は女性と、研ぎ澄まされた空気の中で指してみたい。そう考えています』

 

 名人の堂々とした宣言。それに隣で見ていた天衣ちゃんは目を丸くしてテレビの奥の名人をじっと見つめていた。

 

『男女で将棋の能力は変わりません。男だから強い、女だから弱いなんてことは、あり得ない。それを示す棋譜はいくらでもあるのに、認めない風潮が嘆かわしい。事実、棋士を負かす女流棋士も、奨励会を順調に駆け上がる女性も、小学生でありながら奨励会に進もうとする才女もいる。これから女性も、どんどんとこちらへ来るでしょう。その時、不甲斐ない将棋を指さないために牙を研ぎ続けるだけです。

 私は今回このような賞をいただき、皆さんが偉業だなんだと持て囃してくれますが。将棋の普及や女性の躍進に繋がった釈迦堂里奈女流名跡こそこの賞を受け取るに相応しい人物だと思う。私の為したことなど、彼女の足元にも及ばない。私はタイトルを獲った回数が多いということで表彰されましたが、最年少竜王となり、八段昇段の記録を作った九頭竜八段や、史上最年少プロ棋士となった碓氷六段と比べれば、ただ実績を積み上げただけの先を歩く人でしょう。彼らならどちらかがこの記録に届く可能性も十分あります。彼らこそ将棋界の星なのだから。私はあくまで、案内役でしょう。

 私はもう舗装されきった道を歩いてきただけですが、女性は道ならぬ道を自分の足で踏み越えている方々です。そんな方々の将棋に対する意欲を、執念を、熱意を。私は尊重する。その上で、盤面で見せてほしい。私が望むのはそれだけです』

 

 僕の名前はおろか、天衣ちゃんのことも示唆されてる。これはこの後ネットが荒れそうだなあ。全国放送でこんなこと言っちゃって、名人は何を考えているのか。

 いや、本心を語ってるだけだ。疲れて頭が働いていないんじゃないだろうか。

 

『今日私が使った戦術の元になった棋譜は、江戸時代のとある将軍と大奥に務める女性との間で行われた将棋になります。私は脳科学には詳しくないので男女の性差が脳の働きに差があるのかもしれませんが、この棋譜を見た時にその柔軟さと視点の違いに気付き、呆然としました。事実、将軍が負けています。この将軍は将棋が好きなことで有名だったので、それほど価値のある棋譜だったのでしょう。

 将棋は二人で指します。そして、成立してから一千年以上経つのに果てがありません。その果てを解明してくれるのは、これまで研究を続けてきた男性ではなく、女性なのではと。最近は思います。ですから、女性と盤を挟んで奥深さを探求したい。その日を渇望します』

 

 それからもいくつか質問があったが、その女性への言及がインパクトありすぎて他はあまり耳に入ってこなかった。

 なるほど、天衣ちゃんや鹿路庭さんと積極的に指そうとしていたのはそういう意図があったのか。それに女流のことも結構確認していることが意外だった。

 面白い棋譜はもちろんあったけど、そこまで注目していただなんて。

 

「……名人には参るわね。こんなこと言われたら、頑張るしかないじゃない」

「期待に押し潰されないでよ?」

「大丈夫よ。お兄ちゃんと二等分だもの」

 

 二、かなあ。他にも結構示唆されてたから注目と期待されているのは数人いるけど。

 まあ、良いモチベーションになったかな。これで結果がついてくれば最高なんだけど。指導にも力が入っちゃうなあ。僕もまだまだ頑張らないと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22 九頭龍師弟

 竜王戦も終わって年末が近付いてきた頃。九頭竜さんに頼まれてある場を整えていた。

 とはいえ、珍しいものじゃない。ただの研究会だ。場所も将棋会館の空いている棋士室にしたので集合する手間もなかった。関東式の誰かの家に集まって研究会の方が秘匿性があるけど、誰かさんのようにJS研という見られて困るものにはしないからこれでいい。

 どうせ会うのは本人と弟子だけなんだから。天衣ちゃんにはご足労になっちゃったけど、名人研と生石さん以外とも研究会をやってみるのは面白いと思って承諾した。

 天衣ちゃんと合流してから棋士室に行くと、既に九頭龍さんと雛鶴さんはいた。

 

「すみません、九頭竜さん。お待たせしてしまって」

「いいよ。夜叉神ちゃんが遠いのはわかってるんだから。こっちこそ、研究会受けてくれて助かる」

 

 お互いの師匠の前に、相手の弟子が座る。師匠同士、弟子同士でもいいんだけど、それだったら研究会じゃなくてもできる。

 それに竜王戦の時にちょっと生意気な口を聞いたからそのお詫びもある。

 ぶっちゃけ相手の強さがわかっていないので、どちらも平手で指す。特に雛鶴さんは相手が強いと強くなる女流帝位タイプなのか、波がありすぎる焙烙さんタイプなのかわからない。今日も強いのか弱いのかわからないためにこれが一番いい。

 

「えっと。平手でいいんですか……?」

「九頭竜さんにも平手で指してもらうから。事前にそう決めてたし、これでいい」

 

 そういうわけで始める。以前見たように何が何でも相掛かりというのはやめたらしくて、序盤も勉強し始めたようだ。生石さんも振り飛車を教えたって言ってたけど、振り飛車は使ってこなかった。僕が振り飛車党というのもあるだろうけど、師匠が居飛車だからな。

 まあ、それでもちょっと突つけば脆く崩れそうな危ない指し回しなんだけど。

 気分としては指導対局だ。天衣ちゃんにやるものではなく、道場にいるような子供にやることと一緒。天衣ちゃんなら実力がわかってるから本気で色々試せるけど、今は雛鶴さんの実力、指し方を知りたいからお互いゆっくり考えられるような戦術を使っている。

 バシバシ飛車で捌いたら指導にならない。

 囲いも作って駒がぶつかり合って終盤に入って。彼女は盤面にのめり込むように集中する。これが噂の終盤力か。

 

「こうこうこうこうこう……うん、ここ!」

 

 長考の末に指した2三金。

 うん、悪くない。堅実で丁寧な一手だ。

 だからこそ、咎めてみよう。駒台から7六銀打ち。積極的に攻めているし、自分の読みに自信があるのだろう。そして防御力にも、終盤に対する意識も。

 今彼女は酷くバランスを崩している。この終盤に辿り着くために序盤の指し回しを覚えて。様々な戦法に触れて、逆転しようとして。

 だからこそ、経験が圧倒的に足らない。定跡を学び始めたのはここ一ヶ月のことじゃないだろうか。竜王戦が終わって九頭竜さんに教わったのだろう。将棋図巧を解いたことは凄いと思うし、僕は全部を解いていないからその価値を正しく把握できていない。

 それが自信になっているんだろうけど、彼女の場合その詰に至る局面に入ったり、それこそひっくり返せる程度の局面なら強いんだろう。だけど、その前から崩れてしまえばひっくり返せないという事実は変わっていない。生石さんと話した時のまま。そんなすぐには変わらない。

 

 詰ますことに意識が行きすぎて、防衛にあまり意識を割いていない。だからこっちの奇襲に対して、対処しようとして思考が止まる。多くの攻め筋から最適解を持ってこられたとしても、手番がひっくり返ることを想定していない攻めをすれば、途端に脆くなる。

 一見意味のない、僕の銀打ち。いや、正確には本当に意味のない一手だ。けど、何か意味があるのではないかと確認してしまう。これが例会だったり大会だったら勿体無い時間消費だ。自分の読みを信じていたからこそ、予想外の一手に混乱する。完全に信じられる自信も備わっていない。

 また長考して、その銀を無視して攻撃を続ける。僕は意地悪くその攻撃を無視して攻めを続けた。また考え込むけど、やはり無視して飛車を進めてきた。

 十分でしょ。

 

「負けました」

「え?……あっ!ありがとうございました!」

 

 僕が頭を下げて、雛鶴さんも頭を下げる。感想戦を始める前に、隣の局面を覗き込む。僕達と違ってまだ決着がついていなかった。

 九頭竜さんは伊達眼鏡をつけたままウンウン唸ってるし、天衣ちゃんも扇子を持ちながら違う違うって呟いている。

 それから十分ほどして、天衣ちゃんが負けた。

 

「はぁ〜……。疲れた。夜叉神ちゃん強すぎ」

「ありがとうございます。九頭竜八段に指していただき、良い経験になりました」

「そっちは……え?ここで終わり?どっちが勝ったんだ?」

「わたしが勝ちました。ししょー」

「……碓氷、何手詰?十九?」

「ですね。確認も終わったので終わらせました」

 

 四人での研究会だったから棋譜は取ってないけど、この一局くらいならすぐに思い返せる。

 まずは僕と雛鶴さんの将棋だ。

 

「最後の攻めから話すね。何で最後にこんな無理な攻めをしたんだろうって思ったでしょ?」

「はい。受かっている攻めだったので無視して攻めました。正解、だったんですよね?」

「うん。僕が勝つとしたら金を防いで、そこから竜で攻めなくちゃいけないけど。逆転するには三十手以上必要だね。そこまで長い将棋を指すつもりもなかったから終わらせたけど」

「あー、碓氷?あいのどこが悪かったんだ?」

 

 九頭竜さんに聞かれて、思ったことをそのまま言う。雛鶴さんのために助言すると決めていたから、嘘偽らざる本心をそのままに。

 

「この将棋ではなく、彼女について言いますけど。やっぱり経験と時間が圧倒的に足りません。九頭竜さんと指すのもいいでしょうが、九頭竜さん以外の強い人と数多く指さないと九頭竜さんだけに勝てる子になりますね」

「対人経験。しかも強い人か。同学年とか、ちょっと上の級くらいなら勝てるんだよ」

「これだけ終盤が読めればそうでしょう。ただ定跡をしっかりと学んでいて経験値のある少し強い人には中盤までの差が大きくて捲れません。それと、雛鶴さんは防衛に対する意識が低いですね。確かに将棋は相手の王を捕まえるボードゲームですが、その前に自分の王が捕まればそれまでです。それに持ち時間もある。僕の無駄攻めにも長く考え込みましたから。防御を考えず殴り合いになったら、速攻が大好きな女流の皆さん相手には厳しいかと」

 

 将棋は自分のリードを保って相手を追い詰めるのが一番効率がいい。だから序盤の定跡をしっかり勉強するし、新しい戦法などが出てきたらそれの対策を考える。その序盤と中盤でリードを取られないようにと訓練し始めたんだろうけど、まだ付け焼き刃。

 上位者には勝てない。

 それに女流の中には深く考えずに直感で指す人が何人かいる。それでタイトルホルダーにもなっているんだからその人たちと戦った際にどうなるか。雛鶴さんも女流タイトルを目指しているらしいし。それを聞いたのに目標がタイトルじゃなくて九頭竜さんの聞き手なんだからどういうことって頭を捻ったけど。

 

「雛鶴さんの読む力は確かに凄い。でも、読み過ぎている。全く要らない、必要のない手ですら読んでいるのでしょう。……何て言うんですかね。終盤のように追い込まれないと目の前に集中できない。最適解を最適解だと理解するまでに時間がかかる。……遊び将棋、はリスクが高いし。うーん」

「それこそ小学生名人戦でも出ればいいんじゃない?同レベルの相手は多いでしょ。それか街の将棋道場に行くとか、地方大会に出るとか。さっさと級を上げて女流の大会に出るとか」

 

 天衣ちゃんもアドバイスをくれる。やっぱり人に教えるのは難しい。僕は最初が天衣ちゃんでかなり楽させてもらっている分、二番目以降の弟子を育てる時に苦労しそうだ。

 天衣ちゃんは下地がしっかりし過ぎていたし、精神面も物凄く完成されている。我慢強いし、意欲もある。下地がない子を教えるのは大変だ。

 

「将棋以外の、何か一つに集中できることをやらせてみるとかですかね。ゲームとか、映画鑑賞とか。頭を休ませる、将棋のことを考えない時間を作ってあえてゆとりを作るとか。急がば回れとも言いますし」

「姉弟子もサッカーとかで息抜きしてるからなあ。あいにもそういうの探させようか」

「何でそこでおばさんの名前が出てくるんですか?ししょー……」

「いやだって身近な例だし。ウチの一門でサッカー見に行くことは恒例行事だったんだぞ?今年は色々あって行ってないけど、その辺りも師匠と話し合うか。あいにはいつも苦労させてるから、そういう息抜きも大事だってわかってもらわないと」

 

 そうそう。名人だって四六時中将棋のこと考えてるわけじゃないんだから。休みの日はスマホでポケ○ンGOやってるそうだし。脳をずっと働かせていると疲れちゃうんだからそういう息抜きは大事。

 僕だって小説読んだり映画見たりしてボーッとしている時間がある。そうやってガス抜きしないと逆にいい将棋ができない。パフォーマンスが低下しちゃうんだとか何とか。師匠や天祐さんが言ってた。

 雛鶴さんが空さんを敵視しているのは恋のライバルだからだろうな。でもそれが将棋に出るのはまずいと思う。銀を使えば好転した状況であまり銀を使いたがらない子だなと思った。そういうところも問題点だけど、人の恋路には口を出さない。

 そういう余計な思考を将棋の際にしちゃうからダメなんだろうけど、そこら辺は九頭竜さんに任せる。

 それからは天衣ちゃんへ九頭竜さんがアドバイスしたり、師匠と弟子同士で指したりして解散になった。これ以降は天衣ちゃんが空さんと女王を賭けて戦うかもしれないので距離を置くことに。

 

「どう?雛鶴さんと指して面白かった?」

「面白くはないわよ。序盤中盤をもっと指せるようにならなければ負ける理由も、楽しくなる理由もないわ。お兄ちゃんみたいにあえて泳がせなければ今はまだ吹っ飛ばせる」

「今はまだ、ね。意識改革とかその辺りはあまり口出したくないからなあ。意欲や目標が大事だと思ってるけど、そこまで他所のお弟子さんに口出すのはヤダ。それも恋愛がらみになると余計に」

 

 潜在能力自体は高いんだけどね。それを活かしきれていないのが現状。

 特に将棋の源全てが九頭竜さん関係というのがマズイ。これで九頭竜さんが彼女でも作って内弟子は終わりだってなったら、彼女はもう将棋を指さないんじゃないだろうか。それぐらい彼女は九頭竜さんに依存してしまっている。

 

「……でも本当に、九頭竜さんが誰かと付き合ったらどうするんだろう?」

「略奪愛でも仕掛けるんじゃない?」

「……天衣ちゃんは難しい言葉を知ってるなあ」

「感心するところそこ?……実際あの子、そこに関しては諦め悪いと思うわよ?独占力も高いし、しょっちゅうくっつきに行ってるし、周りの女は年下だろうが年上だろうが関係なく威嚇しにいくし。竜王戦第四局の前夜祭で披露宴もどきやったって自慢されたわ」

 

 なにそれ。前夜祭を何だと思ってるんだ……?そんなことを月光会長が許可したということが信じられない。将棋の普及になることは積極的にする人だけど、それは普及に繋がるのだろうか。

 確かに第四局は「ひな鶴」だったからそういうことができたんだろうけど。だからってなあ。雛鶴さんの両親も一緒になってそれをしたってことは親公認?

 

「そんな状況なのに、九頭竜さんって第三局の後はずっと空さんとつきっきりでVSやってたの……?」

「そんなことしてたの?」

「らしいよ?自分を見つめ直すだかで。今までで一番指してきたのは空さんだから、復調するなら空さんに頼るのが良いって思ったらしいね。後から九頭竜さんが教えてくれたよ」

「それでちゃんと勝ったんだから、その対処法は合ってたってことよね」

 

 スランプの脱出方法なんて人それぞれだからなあ。でも九頭竜さんは竜王戦で負けてから調子が良くて勝ち続けている。生石さんが言うように将棋が崩れなかったパターンだ。

 僕も名人と指して崩れなかったから、兄弟子にはおかしいと散々言われたけど。そんなにおかしいことだろうか。

 天衣ちゃんが大阪に来るともう泊まっていくのが当たり前になったな。別に迷惑でもないから良いんだけど。むしろこれが日常になっている。天衣ちゃんと晶さんとご飯を食べて、順番にお風呂に入って。電気を消して寝る。

 この生活にも慣れてきたけど、このまま学校を卒業して将棋一本になったらこの生活も変わるんだろうか。そんな四ヶ月ほど先のことを考えながら、眠りに就いた。

 

 

 夜、お手洗いに行きたくなって目覚めた。わたしもこのアパートで過ごすのがすっかり慣れたわね。三人で過ごすにはちょっと手狭だけど、お兄ちゃんがいる部屋だから窮屈じゃない。むしろ近くに感じられて良い。

 お手洗いの電気を消して手を洗って。ベッドに戻ろうと思ってふとハシゴの上、お兄ちゃんが寝ているスペースが気になった。晶も起きている様子がないから、登ってみてお兄ちゃんとご対面。

 小さな寝息を立てて眠っているお兄ちゃん。起きている様子はない。

 

 ……可愛い寝顔してるわね。こうして見ると女の子っぽいというか、男性というよりは辛うじて男の子って感じ。これで髪を伸ばしてちゃんとお手入れしてメイクでもしたらそこら辺の女顔負けの美少女になるんじゃないかしら。背は結構伸びて160後半はあるのに。

 ネットで女装のこと書かれていたから気にはなったけど、今度やってもらおうかしら?絶対似合うと思うわ。もう十五になるのに全然髭生えてこないし。手とかも手入れしてないくせにスベスベで羨ましいって晶が言ってたわね。……色白すぎて不安にもなる。

 

 帰ってくる時に九頭竜八段の恋愛話をしたからというわけじゃないけど。お兄ちゃんのことが気になった。雛鶴ほど独占力が強いとは思わないけど、正直お兄ちゃんはモテるから心配する。ネットではもちろん、研修会でも年が近いから本気で好きな女もいる。わたしの学校にだっている。

 ルックスが良くて、将棋も強くて愛想もいい。将棋に関わっている女からすれば憧れにもなる。お兄ちゃんはあまり周りのそういう声に気付いていないけど、わたしはよく聞く。弟子だからこそ、やっかみを受ける。そういうのは全部実力で黙らせてきたけど。

 

「そういえば、お兄ちゃんの女の好みとか知らないのよね……」

 

 特に公言しているわけでもなし。そういう話をしたことがないからまるでわからない。鹿路庭さん相手に靡くことはなかったし、わたしから見ても美人な空女王や晶とはなんてことなく話している。

 好みが全くわからないわ。

 

「……予約しておこうかしら」

 

 眠っている間に悪いとも思うけど。

 無防備な、鈍感なお兄ちゃんが悪いってことで。

 寝息を立てる可愛らしい唇に、そっと唇を重ねる。柔らかいというか、不思議な感触。もう一回とか思っちゃうけど、起きられても困る。

 やってから顔が熱くなってきたけど、そのままお兄ちゃんの布団に潜り込む。今日は普段やらないことだらけだ。でも、何だか甘えたくなった。そのまま、熱い顔はお兄ちゃんの胸に隠す。

 次の日の朝。起きたら驚いた顔を見せたお兄ちゃんと晶が面白かった。

 ──お兄ちゃんは誰にも渡さないんだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23 玉将戦挑戦者決定リーグ戦とクリスマス

 十二月は色々と忙しかった。僕と天衣ちゃんの誕生日があったのでお互いに祝いあったり、様々なタイトルの予選や本戦の最終戦が重なって強い人との対局が多かった。十二月が一番負けたかもしれない。というか、決勝でだいたい負けた。勝てば名人とタイトル戦ができたのに。残念。

 そんな負けが込んでいると、天衣ちゃんが何故か青い顔をしていた。ブツブツと何かを呟いている。

 

「……将棋界のデマだと思ってたのに……。初めてを経験したら強くなるか、弱くなるなんて迷信じゃなかったの……?まさかお兄ちゃんが弱くなっちゃう方だったなんて誤算だわ……!どうすれば、打ち明けるべき……っ!?」

「天衣ちゃん?どうかした?」

「なっ!?何よ!」

「いや、さっきから独り言多いから。何か悩み事?」

「なんでもないわよ!なんでも!お兄ちゃんには関係ないことだわっ!?」

「そう?ならいいけど。最近天衣ちゃんは調子が良いみたいだし、僕としては嬉しいよ」

 

 久留野七段によればあと一回勝てば奨励会に上がれるらしい。特に今月の戦績が良いんだとか。次の例会で勝てば奨励会に編入する資格を得て、試験を受ければ奨励会だ。四戦して全敗さえしなければ良いのは気持ち的に楽だろう。

 晶さんの運転する車の中でスケジュール帳を出しながら予定を確認する。うん、もう確定させて大丈夫だな。

 

「天衣ちゃん。僕の最後の対局は24日に決まったから、その後ならいつでも良いよ」

「え?24、日……?」

「そうそう。年末はイタリアに連れていってくれるんでしょう?」

 

 夜叉神家総出で年末にイタリア旅行になるらしい。それに僕も同席することになった。というか年末や年度終わりに夜叉神家はよく海外旅行に行く。僕も対局さえなければ一緒に連れていってもらうこともあった。海外旅行をしたこともあって洋画とか気になって見ちゃうんだよね。

 今年はイタリアらしい。晶さんも含めて本家に残す人以外はかなりの大人数で旅行に行く。帰りは何故か僕と天衣ちゃんと弘天さんだけで飛行機に乗って帰ってくる。他の人たちは買いすぎたお土産を空輸できないから船で帰ってくるのだとか。外車に乗ってる人もいるから、車とか買ってるのだろう。

 そんな夜叉神家での大きな行事なのでせっかく連れていってもらえるのだし予定が決まったのなら伝えておかないとと思っただけだ。

 

「晶さん。弘天さんにお伝えしていただけますか?」

「わかりました先生。対局が終わってすぐは無理でしょうから26か27に出発と伝えておきます」

「すみません。僕に予定を合わせてもらって」

「構わないさ。先生にはとてもお世話になっている。しかし24まで対局があるのか?それはそれで大変だな」

「僕はマシですよ。人によっては29くらいまで対局がある人もいますから。僕なんて最近受験生のクラスメイトを刺激しないためにあえて平日に対局を入れられるので、年末はそこまで忙しくなくなっただけです。学校側から平日に対局を増やしてくれなんて言われるとか、酷くありません?」

 

 受験しないくせに学校の成績がいつも三位以内だとやっかみの視線があるからだとかなんとかで、受験生を刺激しないでほしいらしい。先生達も大変だなと思った。僕としては休みが多くなる分学校の成績はちゃんとしておこうと思って頑張ったことなのにそれが他の人の邪魔になっちゃうなんて。

 受験かあ。僕にはもう預かり知らないことだ。

 

「学校の先生が碓氷暁人を抱え込めないんでしょう?優秀すぎることは凡人には対処に困るのよ」

「優秀、かなあ?文句がないようにしてるだけなんだけど。係りの仕事とか結構免除してもらってる分、勉強と生活態度だけは気にかけてるだけだよ?」

「学校でも優等生で、将棋をさせれば天才。だとしたら学校にできることは将棋の天才を腐らないように快く将棋へ送り出すくらいでしょ。それを世間も求めているから、学校はお兄ちゃんを放り出すしかないのよ」

「そんなものかな」

 

 学校側の意図まではよくわからないけど。将棋に集中できるというのは嬉しいことだ。

 僕の学校生活はあと三ヶ月で、なんの感慨も覚えないまま終わるだろう。それで良い。僕には将棋があれば良いんだから。

 イタリア旅行の日程も決まって、僕はまた一つ決勝の対局があったんだけど。

 その相手は山刀伐さんだった。玉将戦は挑戦者決定リーグという方式が採用されていて、二次予選通過者三人とシード選手四人の計七人による総当たりの結果成績最上位者が挑戦者になる。僕は二次予選通過者の方。

 もう五戦終えて、僕と山刀伐さんが今のところ成績トップタイ。この一戦の勝者が挑戦者になる。どちらが勝っても初のタイトル挑戦だから報道陣が多い。

 山刀伐さんは努力の人の初挑戦。僕は最年少挑戦者として。竜王戦の時のように注目されている。

 

「やあ、碓氷くん。今日はよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

 

 東京に来て、初めて山刀伐さんと対局をする。しかもタイトルを賭けた一戦だ。A級棋士であり、名人の研究相手で僕とも研究をやっているために手の内がバレている相手。

 そんな彼と、持ち時間四時間の大決戦をしなければならない。

 この先で待っているタイトルホルダーは生石さん。兄弟子への挑戦は是が非でもしたい。お世話になった生石さんだからこそ、七番勝負をしてみたかった。

 山刀伐さんは生石さんと同年代。僕は兄弟弟子。タイトル戦も注目される要素がてんこ盛りだ。

 

 振り駒の結果、先手は山刀伐さん。今まで将棋は先手有利のゲームだと言われてきたけど、近年その評価は覆りつつある。様々な戦法の開発によって後手の勝率が五割に近くなってきた。だから先手が若干有利程度に評価は落ち着いてきている。

 これも将棋ソフトの高性能化のおかげと言われている。棋士でもソフトの研究に精を出す人が増えてきた。

 僕はソフトを毛嫌いして一切触れていないんだけど。ソフトにはソフトの利便性があるのはわかるんだけどね。

 

 山刀伐さんは角交換したあと、飛車を振らせたくないのか5三角打ち。それからも徹底して飛車を振らせないように誘導してくる。手損をしてでも飛車を振らせたくないような束縛系の将棋だ。

 居飛車のままでも戦えなくはないけど。それはそれで山刀伐さんの研究のドツボに嵌まっている感じがする。どうしたものか。慣れ親しんだ振り飛車にするか、お互い居飛車で戦うか。

 ここまで束縛されるのは初めての展開だったので、このまま居飛車にしてみよう。山刀伐さんと居飛車のまま戦うというのも面白いかもしれない。名人との研究会でも公式戦でもあまり居飛車は見せていない。検討こそすれども、僕自身が指すことは少なかった。

 そういう情報というアドバンテージも考えて、このまま居飛車でいくことにする。

 銀を進めると、山刀伐さんが一つ笑みをこちらに向けた。

 

「僕の招待状を受けてくれてありがとう。楽しいパーティーにしようね」

「新境地はその時点で楽しいですよ?」

「ふふ、それはそうだ。君は八一くんと違う境地に連れていってくれるかなぁ……?」

「あの!昼食注文を!」

 

 これからという時に連盟の職員さんがやってきた。もうそんな時間か。何食べようかな。持ってきてもらったメニュー表に目を通す。出前のお店が多いからメニュー表が多い。

 

「僕はカフェマルタのクラブサンドの極で。碓氷くんはどうする?」

「そうですね……。弥勒屋の釜玉うどんを」

「わかりました」

 

 お互い軽食のようなものを頼んでしまった。食事は大事だけど、満腹にしてしまったら頭の回転が鈍くなりそうだからこれくらいで良い。だから線が細いって天衣ちゃんに心配されるのかなあ。それを言ったら天衣ちゃんも細いんだけど。

 それから数手指してお昼に。今日は対局が少なかったのか、控え室にいる棋士は少なかった。一番の上座は山刀伐さんだった。僕はそこそこ離れている。

 釜玉うどんは様々な具材が入っていて、卵が熱々のうどんに絡まっていてとてもボリューミーだった。かまぼこにワカメにしいたけ、さらには海老天とさつまいもの天ぷらまで。僕の想像しているうどんよりも1.5倍くらい量があった。美味しかったからなんでも良いけど。でも写真は欲しかったなあ。こんなに多かったら別のものを頼んだかもしれない。

 

 下が騒がしかったしご飯が報道されたのかな。一般の人じゃ戦い方なんてわからないだろうし、ご飯くらいしか注目しないんだろうけど。

 ご飯も食べ終わって対局再開。

 お互いが居飛車だからか、自陣が堅い。飛車で攻め込みたいけど、下手に攻めたら一気に防衛網が崩れる。

 ということで馬を走らせよう。

 

「ンフ!やっぱり君は素晴らしい!大局観から読み筋から、どれもが高水準で備わっている!しかもそれが際ということもなくこれからも伸び続けている。しかもこうやって居飛車も指せるオールラウンダー。なんて、羨ましい。だからこそ、僕はまだ負けられない」

 

 山刀伐さんが指した一手は馬の行動を阻害するような銀打ち。でも阻害するだけ。攻勢に出ればまだまだ行ける局面だ。

 だから持ち駒を総動員して攻める。まだ守りを気にしなくて良い。決定的な一撃も貰っていない。だから攻めていける。

 だけど、山刀伐さんの一撃には思わず唸ってしまった。

 

「馬を切った……!?」

「そう。君の真似。大駒を切る勇気が、僕には足りなかった。それを君が教えてくれたんだょ?君はいざとなったら自分の武器である飛車さえも切る。それは生石くんも一緒だ。君達がやることを僕もやらなければ、君の境地に至れない」

 

 馬を切ったのと同時に、相手の飛車が突っ込んできた。防御を捨てて一気呵成に畳み掛けてくる。確かにこれは僕の将棋に似ている。まさかそんな形でやり返されるなんて思わなかった。

 飛車の突撃に飛車をぶつけることで致命傷は避ける。けど僕の飛車も奪われて僕の陣形が崩れた。こっちに大駒が転がってきたけど、活かす場所がない。

 活かす場所がない?そんなはずはない。僕が考えつかないだけだ。

 こんな時こそ思い出せ。天祐さんの将棋を。あの人の受け潰す将棋を。

 だから、活路は──ここだ。

 バチィ!と勢いよく駒を叩きつける。僕はこの程度で揺らがないという意思表示。

 と金の突撃に対して合わせたのは貰ったばかりの角。これしかなかった。

 

「……ッ!君は本当に、容赦がない……!」

「まだ、終わりじゃありません」

 

 山刀伐さんが攻めて。僕が受け潰して。僕は駒損も気にせず受け潰して受け潰して受け潰して。

 猛攻を防ぎ切った時には、僕の攻め手がなかった。

 形勢は僕の有利なのに。桂馬と銀くらいでしか攻められない。香車も防衛に使っていて、大駒は渡してしまった。今から攻める準備をしていてはまた猛攻が来て守りきれない。

 穴熊の様相はまだ残っているけど、山刀伐さんの薄い守りを攻めきれない。

 山刀伐さんはブツブツ呟きながら盤面にしがみ付いている。けど、僕にはこれ以上できることはなかった。

 詰みはない。けど、ここから僕が勝つにはありえないほどの時間をかけて山刀伐さんの猛攻を防いで駒を得るしかないけど。

 一分将棋に突入している今からでは、圧倒的に時間が足りない。

 だからそこから数手の山刀伐さんの攻撃を受けて、僕は頭を下げた。

 

「負けました」

「あ……。ありがとうございました」

 

 負けてしまったことで報道陣が雪崩れ込んでくる。今回の敗因は山刀伐さんをよく知っていると慢心したことだ。この人はオールラウンダーだし、散々辛酸を嘗めている大先輩。こんなヒヨッコとは明らかに経験値が違う。

 だから、僕のようなヒヨッコの戦法なんて使ってこないだろうとタカを括って用意できなかった僕のミスだ。持ち時間の計算もできていなかったと言える。

 敗因だらけじゃないか。

 初めてのタイトル挑戦が決まって山刀伐さんはハンカチで目元を抑えている。こんな状況じゃ話も聞けないだろうということで負けた僕へ質問が飛んだ。

 

「碓氷六段。玉将戦挑戦者決定リーグ戦にあと一歩のところで敗れましたが、今どのような心境ですか?」

「また研鑽が足りなかったなと、痛感しました。山刀伐八段の研究の広さと深さに、若輩者として脱帽するばかりです。愚直なまでの研鑽に裏打ちされた一手がとても多く、経験が足りない自分では対処が間に合いませんでした。それが持ち時間にも現れていると思います」

 

 僕は一分将棋に突入しているけど、山刀伐さんはまだ七分残っている。僕と当たるために僕用の研究を散々してくれたんだろう。

 それを嬉しく思うのと同じく、応えられなかったことが悔しい。もっともっと、指せたはずだ。天祐さんならあの決定的な場面からでも切り返せたはず。

 だって同じ戦法をしてきた僕が何度もそうやって負けてきたんだから。

 

「どうすれば勝てていたと思いますか?」

「今日の対局は完敗です。勝つとなったら振り駒からやり直さなければ勝てないでしょう。千日手になったとしても勝てなかったと思います。僕の読みは終盤、全て山刀伐八段の研究の前に潰されましたから」

 

 それからも質問がいくつかあったけど、聞きたいことが終わったのか山刀伐さんへ質問が移る。けど涙ぐんだまま答えられそうにない山刀伐さんを置いて、僕は対局室から一礼して去った。

 速報で山刀伐さんのことがネットニュースに流れている。同年代対決というのもいいものだ。生石さんと山刀伐さんのどっちを応援しようか。

 山刀伐さんに喝を入れて貰ったことで、それからの対局は調子が良かった。順位戦は無敗のまま年を越すことになる。他の対局も負けることはなかった。

 そして今年最後の対局。盤王戦で敗者復活戦から勝ち上がった僕は挑戦者決定トーナメント優勝者である篠窪七段を二連勝で下して、挑戦権を逆転獲得した。

 クリスマスイブに、史上最年少によるタイトル挑戦記録の塗替えという速報を流してしまった。全国のカップルの皆さん、邪魔してごめんなさい。

 

「お兄ちゃん、おめでとう。これで名人と五番勝負できるわね」

「ありがとう……。わざわざ来てもらって悪いんだけど、もうすごく眠くて……。これ、クリスマスプレゼント……」

「あ、ありがとう。──って、お兄ちゃん!?」

 

 家に来ていた天衣ちゃんにクリスマス用のラッピングをされた包みを渡してすぐ、僕は眠くて寝てしまった。ロフトまで上げるのは危険だということで、僕は下のベッドを借りて眠っていたらしい。

 次の日に起きたのは昼過ぎだった。その時にはプレゼントで渡した緑色のセーターを着た天衣ちゃんが出迎えてくれた。

 うん、明るい緑色も似合うね。

 それからクリスマスは夜にパーティーを開いたこと以外はゆっくりして、次の日には飛行機でイタリアへ向かって。三泊四日の海外旅行を楽しんだ。海外では結構な人達が観光名所で腕を組んで歩いていたので、それを真似して僕の腕に掴まってきた天衣ちゃんが可愛かった。弘天さんとも仲良く手を繋いで歩いていたけど。

 

 途中から晶さんを含む数々の御付きの人がいなくなっていて、今年も三人だけで飛行機で戻ってきていた。やっぱり買い物が嵩んで船じゃないと帰れなくなってしまったと晶さんが申し訳なさそうに話していた。

 その後年が明けてから再会した晶さんはいい買い物ができたと喜んでいたからいいものがたくさん買えたんだろう。何を買ったのか聞いたらやっぱり車とか、バーナーとかハンマーとかガットを買ったのだとか。

 イタリアってそんなに工業品がいいのかな?それにガットって、テニスでもするんだろうか。実業家だからテニスにも進出するとか?

 皆さん良い表情だったからあんまり詳しくは聞かなかったけど。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24 指し初め式とソフト

 今年もこの季節になった。新年初仕事である指し初め式。僕たちは去年と同じように和装して将棋会館に来ていた。

 今年は雛鶴さんの姿もあった。彼女もおめかししている。なんだかニコ生でやらかしたんだかなんだかで世間的にも知られる元竜王の弟子。それ以外にも九頭竜さんが主催するJS研の女の子達は世間的に有名になっているのだとか。

 その事件の映像を天衣ちゃんは知っているのだが。

 

「……馬鹿馬鹿しいから師匠は見なくていいわよ」

 

 わざわざ師匠呼びで止めてきた。気にはなったけど、そこまで言われたら見ないことにした。またいつもの発作を起こしたんだと思うけど。鹿路庭さんも聞き手で同席していたらしい。

 鹿路庭さんに連絡を取ってまで聞こうとも思わない。九頭竜さん周りはもうあまり関わり合いたくない。説教をしてしまったことと天衣ちゃんに邪な目線を向けそうでちょっと距離を置きたかった。

 

「よっ。お二人さん。明けましておめでとう」

「「明けましておめでとうございます。生石玉将」」

 

 今年も真っ先に声をかけてくれたのは生石さんだった。他の兄弟子も多数いるけど、お酒の方が気になるみたいだ。

 

「しっかしお前さんらは年度ごとに何か一つ話題をぶっ込まないといけない病気にでもかかってるのか?」

「そんなつもりはありませんけど……。六段昇段は運が良かったのもありますし」

「タイトル挑戦史上最年少記録樹立に、女性では史上最年少の奨励会入品と女王挑決出場だろ?また今年もお前さんら師弟を目当てに来ている記者が多いから頑張れよ」

「わかりました。兄弟子、玉将戦負けてしまってすみません」

「また来年待ってるからよ。次こそ来いよ」

 

 凄い自信だ。山刀伐さんに勝つ気満々で、これこそ兄弟子って感じだ。

 いつぞや生石さんは山刀伐さんのことをそこまで評価してなかったからなぁ。同年代じゃそこまで才能がない人、だったかな。タイトル挑戦もやっとだし、遅咲きの人なのは間違いない。

 でも今A級にいるのは事実だし、タイトル挑戦を勝ち取ったのも事実だ。生石さんも甘く見てると足元掬われそうだけど。

 

「あ、鏡洲さん!明けましておめでとうございます!」

「鏡洲四段。明けましておめでとうございます」

「おう。明けましておめでとう。碓氷君に夜叉神ちゃん」

 

 次に会ったのは鏡洲さん。鏡洲さんには去年とてもお世話になったから思わず駆け寄ってしまった。

 

「去年の駒文字のこと、お世話になりました。そのおかげで天衣ちゃんに誕生日で渡すことができました」

「そりゃあ良かった。でも俺は棋譜を提供して駒彫師に渡りをつけただけだぞ?」

「それでもです。僕達も棋譜を持っていますけど、参考にする文字は多い方が良いですから」

 

 天衣ちゃんに天祐さんの駒文字で彫られた将棋駒を贈りたくて、鏡洲さんも天祐さんと関わりがあったために協力してもらった。駒彫師の知り合いもいなかったので紹介もしてもらえた。そのおかげで天祐さんの文字で掘られた将棋駒と将棋盤を一式贈ることができた。女流棋士になった時には間に合わなかったけど、それを天衣ちゃんは笑って許してくれた。

 師匠は昇段などでお祝い事があったら弟子に何かをあげるのが将棋界で、それに間に合わなかったんだけど良しとしてくれた。

 

 今では天衣ちゃんは実家でその将棋盤を使っている。僕の家ではなく天衣ちゃんが使ってこそだと思うので僕の家では使わずに、天衣ちゃんが自分の研究のために使っている。

 そんな話もしながら、やっぱり緩い感じで指し初め式をやっていく。今年は日本将棋連盟関西本部総裁の名前で呼ばれる蔵王九段が今期の順位戦を最後に引退することが伝えられているので、いつもより空気が重い。

 蔵王九段が下の階へお酒を飲みに行ってしまう。指し初め式と言っても全員が指すわけではない。いい歳のおじさん達はお酒を飲むことの方が大事らしい。

 僕は素直に将棋を指していた。お酒を飲める歳でもないし、記者さん達が僕に話を聞きに来るからその相手をしなければならない。

 

 なんだか囲碁の先生もいらっしゃったらしいけれど、何故か子供は近寄るなという命令が職員さんによって出されたために顔も見れなかった。

 それと今年は空さんが四十年ぶりになる奨励会三段への編入試験を務めるだとか女性としての初三段昇段があるかもだったり、小学生の三段昇段の可能性など色々話題があったようで、記者の数も多かった。僕への質問も多かったけど、盤王戦のタイトル挑戦や七大タイトルではないけど賢王戦も決勝まで残っている。

 今年は去年に続いて将棋界には話題が多い。去年の名人の大記録もそうだけど、それに続くような数々の記録が産み出されようとしている。その関係で将棋界は結構潤っているとか。

 

 まあ、僕は今年も自分で頑張りつつ天衣ちゃんの手伝いを続けるだけだ。

 盤王戦は二月からだから、他のタイトル戦に参加しつつ準備をして、優先は女王挑決に挑む天衣ちゃんかな。相手は祭神女流帝位との三番勝負。同じ相手と連戦するのは初めてだし、相手は女流で最強疑惑のある女流帝位だからしっかりと準備をさせたい。

 その準備でまた東京に何回も行くことになる。もちろん名人研のために。

 研究会をしていて鹿路庭さんの一言。

 

「盤王戦で争うのに、一ヶ月前にこうして研究会していて良いんですか……?」

「竜王戦の時は注目度が高かったから控えたが、次はただのタイトル戦だ。構わないだろう」

「いや、あの。碓氷君にとっては大記録のかかったタイトル初挑戦ですよ……?」

「僕もタイトル初挑戦だし、お揃いだねえ碓氷君」

「そうですね。頑張りましょう」

「……鹿路庭女流三段(・・)。何を言っても無駄よ。この人達はこれが日常なのだもの」

「慣れって怖いね……」

 

 女性陣はそんな感じで呆れていた。なんだかんだ名人研は月二回くらいやっている。一番忙しい名人のスケジュールが空いた日を聞いて日程を決めて強行軍で行うので、名人のやる気次第でいくらでも開催される。生石さんとの研究会は月一回やれば良い方なのに。

 あとは僕が対局で東京に来る時に合わせてって感じだ。大阪にいる生石さんよりも頻度が高いのはどういうことだろうか。

 でも去年は六段になっていたから大阪での対局も多かった。タイトル戦の予選でも大阪でできたのはありがたかった。一年目なんてどれだけ東京に来ていたことか。

 あ、鹿路庭さん女流三段への昇段おめでとうございます。

 名人研は新年になって誰かが昇段しても、誰かがタイトルに挑戦しようと。

 変わらない光景が広がっているだけだった。

 

「賢王戦の相手は於鬼頭帝位だったか。彼も強くなったな。三月には彼と三番勝負か」

「ソフトでの研究に嵌っているんでしたっけ?ソフトの発展は凄いのは知っているんですけど、パソコンはあくまで棋譜の纏めと情報収集に使っている程度でソフトにまでは手を伸ばしていないんですよね」

「ソフトは独特だからねえ。それに、ソフトの教えてくれた通りに指していれば勝てるわけでもない。あれはあくまで指標を示してくれるだけだよ。そこから何かを掴み取るのはできるだろうけど、のめり込んで将棋勘が狂っても困る。そういう意味じゃ於鬼頭くんは凄いけど」

「どうもソフトの考える手は人間味も面白味も、生命の息吹も感じなくてダメだ。あれは指している実感が薄すぎて私では何も感じられない」

「僕も同感です。時間がかかっても人と指す方が発見も多いし楽しいですよ」

 

 それぞれがソフトや於鬼頭帝位のことに触れながら研究を進めていく。

 そういえば九頭竜さんもソフトの導入を始めたんだってこの前の研究会の時話していたっけ。その成果はどうだったのか聞き忘れた。

 けど僕は僕のまま進もう。変わらないことも大事だとされる将棋界だ。山刀伐さんとか見てると勇気を貰えるし、変に変える必要はないと思う。

 そもそも、僕はまだ棋士になって数年だ。スランプに陥ったわけじゃないし、ゆっくり進もう。

 

「ソフトの評価値って当てになります?何でこの手がマイナス評価されなくちゃいけないんだって評価も多くありませんか?」

「そうだな。特にこの前の竜王戦なんて評価がバラバラで一定しなかったと聞く。ソフトの研究が足りないのか、人間の心や戦術を理解できないのか。盤面だけで将棋が成立するわけでもないだろうに」

「でも、僕達棋士をソフトは吹っ飛ばすんですよね。碓氷くんも気を付けなよ?賢王戦で勝ったらソフトとの対局があるから。連盟もそんなの断っちゃえば良いのに」

 

 山刀伐さんが少し暗い顔でそんなことを言う。結構大きな大会だし、連盟側も断れないだろう。スポンサーが減ってきて困っているなんて話も聞いたくらいだ。それに賢王戦を将来的に七大タイトルに加えて八大タイトルにするなんて話もあるくらい賢王戦は重視されている。

 ソフトに負けると、世間から叩かれるんだよね。話によるとソフトは人類の対局数を超えたらしいのに。でも竜王戦で正しく評価できなかったからか、ソフトの強さについては世間ではまだまだ下火。棋戦で優勝するならソフトくらい倒せって言う一般の方も多い。

 於鬼頭帝位なんて確かソフトに負けてその後体調を崩してしばらく休場していたんじゃなかったっけ。それでもソフトと戦って毎年負けるから山刀伐さんはうんざりしているわけだ。

 

「スポンサーの意向なんですよね?ソフトでの評価とかも出て来ましたし、実際棋士はソフトに負けているので世間が求めているのでは?」

「僕達棋士からしたら得るものの少ない対局だからね。ソフトの奇想天外な一手は何億もの変化手を考えていて読み切った上での手で、ソフトと戦わない限り現れないような手が多い。いくら人間が機械をトレースしようとしたって、脳の構造的に不可能だろう。それに、竜王戦のように理解できない対局もある。ソフトはまだ完璧じゃないよ」

「まあ、ソフトを使って強くなってくれて、一つでも盤面真理が解明されるなら利用するのを止めようと思わないよ。私は使わないだけで」

 

 強くなる方法なんて人それぞれだから、名人はそう言う。僕達は古い人間だからとにかく対局をして研究をするだけだ。ソフトに対応し始めている相手は新しい人種と将棋界では言っていい。

 どうやら関西でも関東でもソフトを使い始める棋士や奨励会員が増え始めたらしいけど。

 

「今度三段に昇段するかもっていう椚二段もソフト信仰している子の一人だってね?彼は使いこなしているらしいけど、ソフトに傾倒して調子を崩している子も多いよ」

「へえ。そう言えば次の棋士総会で対局中のスマホの持ち込みが禁止になるかもって聞きました。ソフトでのカンニング対策って聞きましたけど」

「関東の奨励会でそういうことがあってな。よくトイレに立ち上がるから気になったらカンニングをしていたと発覚した。その子は奨励会を除名処分になったし、棋士にまでそれを徹底させるかはどうかと議論されているよ。そんなに立ち上がったら不審だから気付くだろう。そんな棋士の風上にも置けない人物はいるのか、というところで議論は止まっている」

「初めて聞きました。カンニングしてまで勝って、その後棋士になってやっていけると考えたんでしょうか……?」

「さあ?」

 

 カンニングなんて学校のテストでも禁止されているのに。禁止行為に誘導する人もそうだけど、自分の実力以外で勝って僕は棋士ですって胸を張って言えるんだろうか。

 

「何で雑談しながらこんなに将棋をバシバシ指してるの……!」

「だから諦めなさいって、鹿路庭女流三段。あの程度の雑談、師匠や名人達にはそれこそ雑談なのよ」

「あ、名人。この研究会の人手増やしませんか?五人だと中途半端で。記録係にしても、対局をするにしても。もう一人いたら色々と数的に良いと思うんです」

「それは常々思っていたが、誰か心当たりはあるのかい?」

「僕は一人心当たりがあって、後は兄弟子の生石玉将から推薦された人が二人いるんです」

「ふむ?誰だい?」

「僕からは鏡洲四段。玉将からは空銀子女王と清滝桂香女流三級です」

 

 鏡洲さんと空さんのことは名人と山刀伐さんは知っていた。女性を増やすことも天衣ちゃんと鹿路庭さんを推薦したのは僕と山刀伐さんなので問題ないだろう。

 名前を聞いた女性陣がちょっと顔を顰めたけど。

 

「何で生石くんがその二人を?清滝門下の二人じゃないか」

「空女王とは研究会をしているからです。それと清滝女流三級についてはその研究量を空女王が褒めていて、研究ノートは群を抜いていると話していましたよ」

「あの人、研究という意味では凄いと思うわ。それはわたしも認める」

「清滝さんは聞き手としても知識量から人気がありますよ。先生方の話にもついてこられると評判です。女王は、言わずもがなだと思いますが」

「なるほど。じゃあ誘ってみるか。負けました」

「ありがとうございました」

 

 名人と礼をし合う。いや良かった。正直振り飛車派の棋士が僕だけっていうのは限界を感じていたんだよね。鏡洲さんは振り飛車派だから加わってくれるとありがたい。

 鏡洲さんはすぐに了承。空さんには僕からメールで清滝さんと一緒にお誘いしたんだけど、こちらはあまり良い返事がもらえなかった。

 空さんの体調がそこまで良くないことは昔から知っていたので、体調が良い時だけの参加となった。東京に出てくるのも大変だろうし。清滝さんに至っては即座に了承の返事が空さん経由でやって来た。

 名人研のLINEに三人の参加が承認されたのはそのすぐ後のこと。空さんも一応メンバーには加わっているが出席するかどうかは対局や学校のことを鑑みてとのことだ。彼女は進学するようなのでその辺りも関係しているのかもしれない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25 恋愛観

 僕の名人との盤王戦は二月にある。その準備をしつつも他の棋戦が順位戦くらいだったために天衣ちゃんの修行に全部振ることができた。他の棋戦はシード枠を取れたために予選免除で棋戦の数は減っている。全棋士参加の棋戦じゃない限りほとんどシードが取れた。

 だから奨励会に向けた練習をたくさんする。9勝3敗という成績を残せば昇段するという状態でそれを超える10勝2敗で抜けた。6連勝ができなかったから次を目指そうと思ったらそこから一回しか負けないんだから凄い話だ。

 これで天衣ちゃんは段位保有者。それも女流でもなく奨励会員だ。これで公的には夜叉神初段になった。問題はこのせいで女流棋戦の出場に制限がかかることだ。出られるのがマイナビ女子オープンと女流玉座戦だけ。このタイトル保持者が空さんと祭神さんだからあの二人と戦えるのならその二つだけでいいとさえ天衣ちゃんは考えている。

 

 棋戦が増えすぎたら小学校も休まないといけなくなるから結果として棋戦が減ったのはいいことかもしれない。経験も大事だけど、今の女流棋士だと挙げた二人と焙烙さん以外に負けないからなあ。そうなると奨励会向けの調整をするのが一番だ。

 空さんは三段だし、奨励会向けの強さに設定して問題ないだろう。

 ここからは時間がかかると思う。天衣ちゃんはほとんどつまづかずに昇級を重ねてきたけど、ここからは昇段の条件も厳しくなるし段位所有者は本当に実力で上がってきている。運だけで上がってこられるほど甘くない。

 

 月に二回、一日二局しか行えずに最速昇段が8連勝。僕でもできなかったことだ。

 ここからは本当に時間がかかる。そして二回昇段したら魔の三段リーグと呼ばれる場所だ。

 まだ十歳になったばかりの天衣ちゃんはこれからかなり苦戦すると思う。

 

「そんなこと言われても。師匠は十三歳までに三段リーグまで上がって、そこからは一期抜けでしょ?魔の三段リーグって言われてもピンと来ないわ」

「あそこに十年しがみつく人もいる。鏡洲さんなんてその良い例だ。それだけあそこは特殊な場所だし、苦しい場所だよ。あそこは本当に僕達プロと遜色ない命のやり取りをしている。アレばっかりは実際に体験してみないとわからないよ」

「ふーん」

 

 将棋盤を挟みながらそんなことを話す。僕が三段リーグを一期で抜けちゃったせいで天衣ちゃんの三段リーグに対する意識がちょっと低いかもしれない。

 でもあそこは九頭龍さんが二期かけた場所で、空さんも三段に上がるのに時間をかけていることを伝えると確かにと頷いてくれた。

 僕が色々と特殊なせいで弟子の天衣ちゃんには苦労をかけるなあ。

 

「じゃあ師匠はどうして一期抜けなんてできたのよ?運とか実力って回答以外で」

「そうなると精神論でしかないんだよね。三段リーグにいる人はみんなプロになりたい、そこがゴールじゃなくてタイトルを獲りたいだったり名譜を残したいだったり様々な理由があるだろうけど。僕はただ君を一秒でも長くひとりぼっちにしたくなかった。だからガムシャラにやっただけだよ」

 

 そんな本音を言うと、天衣ちゃんは将棋盤を覗き込んでいた顔を上げてこちらに視線を向けてきた。そのまましばらく固まっていて将棋盤に目線を戻すわけでもなく、駒台の駒を握るわけでもなく。

 僕もちょっと恥ずかしいことを言ったなと飲み物を飲んで誤魔化していると、駒が全く動かなかった。そんなに悪い盤面だろうかと将棋盤を覗くけど、そこまで酷い状況じゃない。

 しばらく待ってみると、天衣ちゃんも飲み物を飲んでからひとつため息をつく。

 

「……頭の中の将棋盤が全部吹っ飛んだわ。ちょっと待って。…………ああ、そういうこと。ここね」

 

 問題なく最善手を選ぶ。脳内の将棋盤が吹っ飛んでいても現実の将棋盤を見ればどこに指すべきかわかったんだろう。僕は次の手を指しつつ、天衣ちゃんの次の手を待つ。

 VSをやってるけど、時間は特に決めずにやっていたから残り時間とか気にせず指している。天衣ちゃんは考えながらまた言葉を重ねる。

 

「……さっきの言葉。あんな殺し文句を言われて驚かないと思ってるの?」

「え?……そっかあ、君のためって殺し文句かぁ」

「お祖父様や晶とか、他にも人はいるけど。お父様とお母様を亡くしたわたしがあの会見を見て、そんなことを言われて。……心臓止まるわよ」

「さすがに僕より先に天衣ちゃんが亡くなるのは嫌だな。気を付けるよ」

 

 そう言うと持っていた駒をそのまま駒台に置き直して横になってしまった。え、体調が悪かったんだろうか。

 

「先生はお嬢様に不戦勝で勝つつもりか……?」

「え?」

 

 晶さんにそう言われて、天衣ちゃんは起き上がって部屋を出て行く。お手洗いだろうか。自分の手番の時は離席しても問題ないけど、持ち時間も減る。今日はそんなに細かく決めていないから大丈夫だけど、このまま戻ってこなかったらどうしよう。

 天衣ちゃんがいない中で二人っきりになった晶さんが、将棋をしている中で質問をしても良いだろうかと聞いてきたので大丈夫ですと答えるとそのまま質問をされた。

 

「先生は今付き合っている人はいるのか?」

「えっと、恋愛的な意味で彼女という意味ですよね?いませんよ」

「その歳でプロになっていて、大阪の学校ということはさぞモテるだろう。学校の成績も悪くないと聞いている」

「成績とかはそうですけど……。僕ってモテませんよ?告白とかされたことないですし」

「そうなのか?」

「行事とか行っていないですし、クラスにもほとんどいませんから。ただのクラスメイトよりも遠い存在なんですよ。なぜかクラスにいる、テレビとかで紹介される人。クラス係も負担させられている、日直も一切やらない奴。それが僕です。将棋会館に学校が近いからって女子全員が将棋に詳しいわけでもないですから。棋士だからモテる、なんてことはありませんよ」

 

 僕はクラスメイトにめちゃくちゃ迷惑をかけていると思う。たとえ登校しても日直なんてやったことはないし、係の仕事も手伝ったことがない。一応棋士ということで免除されているけど、それで良い評価を受けることはないだろう。

 たまに男子が昨日の対局凄かったとか、一般棋戦獲るとか凄いじゃんと褒めてくれるけど、全員男子だ。女子に褒められたことはないなあ。

 そういうところは空さんと大違いだ。空さんなんて群がられて迷惑だって言ってたし。いや、空さんはあの容姿だからたとえ将棋で有名じゃなくてもモテモテだっただろう。僕にはそういうイベントが起きないところ、いっその事たまに学校に来る不登校少年だとでも思われてるのかもしれない。

 九頭龍さんも中学の頃はモテなかったって言ってたなあ。同じ中学生棋士でそうなんだから、多分この立場はステータスになっていない。

 まあ、九頭龍の場合は空さんがいたことがすっごく大きいと思うけど。

 

「学校ではそうなのか……。では将棋関係では?周りに女性がいないということはないだろう?」

「女流の方とは解説くらいしか会いませんし、事務員の方とかは僕と年齢が近くありませんし……。まあ、そういう人はいませんね」

「そちらの方でも告白されたことはないのか?なんたって史上最年少棋士だぞ?」

「子供ですからね。中学生に手を出すような大人もいませんよ」

「じゃあ先生は付き合ってる女性はいないのか」

「いないどころか、そもそも付き合ったことがないですよ?僕って将棋バカなので周りの人にあまり興味を持たれなくて。将棋中心の生活をしていればそうもなりますって」

 

 恋愛はなあ。よくわからない。天衣ちゃんや晶さんと関わることが多いから女性にどんなことをしたらまずいんだろうってことを勉強するために小説を読んだり映画を見たりしてるけど、これが役に立ってるんだかわからない。さっきも天衣ちゃんを困らせたみたいだし。

 恋愛の経験値どころか、一般人としての経験値が少なすぎる。というか交友関係が狭すぎる。将棋がコミニュケーションツールになっているから将棋さえ関係していれば問題なく話せるんだけど、関係なかったらあまり話せないのが僕だ。

 ゲームとかやらないし、テレビもニュースは見てもそれ以外はあまり見ない。だから流行に疎い部分もあって同級生とは話が弾まないし。

 そういうこともあってあまり高校に行く価値が見出せなくて進学しないんだけど。

 

「バレンタインなどにチョコはもらわないのか?」

「将棋会館には届いていたみたいですけど……。何が入っているかわからないから食べない方が良いって先輩棋士に言われました。その先輩はチョコの中に爪とか髪の毛とか入ってる物が送られてきたらしくて。怖いですよね」

 

 そんな実体験を聞いたらもらっても食べる気が起きなかった。既製品にも加工をしていたということがあったらしくて、既製品だからと食べるのはまずいらしい。

 だから会館に届いた物は申し訳ないけどメッセージカードやお花だけもらって後は事務員さんに処分してもらっている。というかどの棋士もそうしているようだ。女流の方とか事務員さんにもらったら食べるけど、ファンの方の物はそういう扱いにしている。

 

「なんというか、棋士は大変なんだな」

「そうですね。でも芸能人じゃないのでアイドルとかに比べればだいぶマシだと思いますよ?」

「それもそうか。……そうなると棋士の先生方はどうやって結婚するんだ?先生の話を聞いている限り出会いが少なそうだが……」

「一番多く聞くのはやっぱり女流の方や囲碁とかの他のボードゲーム関係の女性の方ですね。後は棋士って結構人脈が広くて、師匠の紹介でお見合いがセッティングされたりとかって話も聞きます。他にはごく稀にですけど、遠征先のホテルの仲居さんとか取材で会った人とかと仲良くなってそのまま、みたいなことも聞いたことがあります。名人のように芸能人と結婚するなんてレア中のレアですよ」

 

 名人もきっかけは取材だったかな。あんまり馴れ初めとかは聞いたことがないから他の人に聞いた話だけど。

 ファンと結婚した人っていたっけ。僕も対戦相手の棋譜は調べるけど、家族情報とかは全然調べないからわからない。

 でも案外独身の人って少ないんだよね。やっぱり師匠とかの紹介が多いんだろうか。

 

「まあ、彼女もいないのに結婚とか話しても意味ないんですが」

「彼女を作るつもりはあると?」

「これでも男なのでいたら良いなとは思いますけど……。今は作る余裕なんてありませんよ。自分の将棋と天衣ちゃんの指導で手いっぱいです。進学しないので生活には余裕が出るでしょうけど、今の感じだと棋戦で戦う人は上位者ばかりでしょうし、タイトル戦ともなるとかなり日程を喰います。天衣ちゃんのことも合わせて成人するくらいまで余裕はできないんじゃないですかね……」

 

 いや、本当に。新人戦もなくなったし、シード枠が増えたとしても棋戦は結構ある。それに中学生だからと月光会長に抑えてもらっていた仕事も恩返しとしてやりたいし。

 そもそも未成年がどこで異性と出会うんだか。学校に行かないで同年代の人と出会うのは難しいだろう。

 

「ちなみに好みのタイプはあるのか?」

「タイプですか?ひとまず将棋に興味があって……。後は特にないかもしれないです。可愛い人が好きなのか綺麗な人が好きなのかとかってよく判断材料にされますけど、可愛くて綺麗な人もいますよね?だから見た目はあまり気にしないんですけど……。頑張る人は好きですね。それが恋愛としての好きなのか、人間として好感が持てるからなのかはわかりませんが」

「ふむふむ。先生のことがよくわかったよ。参考にさせてもらう」

 

 何の参考にするつもりだろう。

 そんな話をしていると回復したのか、天衣ちゃんが帰ってきた。まだ顔は赤いけど、将棋盤を覗き込んでいるから続ける気はあるんだろう。

 

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないけど、ここで辞められないわ」

 

 それはそれで心配なんだけど。

 でも将棋自体は悪いものじゃなかった。だからしっかりと指して反省もして今日は終わりにした。

 

────

 

「今日聞いてみた感じ、特定の異性はいないようですね。残念ながらお嬢様のことも恋愛対象としては見ていないかと」

「ふん、でしょうね。悲しいけどそういう目で見られたことがないもの。お兄ちゃんにとってわたしはあくまで妹で、弟子なのよ。……五歳差ってもどかしいわ」

 

 帰りの車の中で晶と天衣が話し合う。今日は日曜日なので泊まることなく神戸に帰っていた。

 

「多分女性とか男性とかで見ていないんです。将棋での関係性だけで人間関係が終了している。そのため先生は将棋を除いた関係の在り方が掴めないのでしょう。私達の調査ではかなりモテるのに本人が意識をしていないのはおかしい」

「……鈍感なんじゃなくて、多分恋愛って感情がわからないのよね。それか自分には関係ないと思っているのか。その割りには九頭龍八段のことは気にかけていたけど」

「アレはあからさまですし、お嬢様への不安もあってでしょう。清滝さんのことが好きだと公言していて空女王に懸想されて、女子小学生の写真を欲しがる。祭神女流玉座とも問題を起こしていますから、九頭龍八段のことは流石にわかるでしょう」

「の割には雛鶴のことは気付いてなかったけどね……」

 

 それもおそらく将棋関係が先に結び付いてしまい、恋愛で考えられなかったからだろう。九頭龍と雛鶴が一緒にいる場面を見ればすぐにわかったかもしれないが、暁人は二人セットでいる場面をそんなに目撃していたわけではない。ある意味情報不足だったから気付けなかったと言っても良い。

 

「後は女子小学生が七つも歳上に恋をすると思っていなかったのでしょう。幼稚園生が保母さんを好きになるならまだ理解できても、小学生が高校生くらいの人を好きになるのは理解できなかったのでしょう」

「大人の七歳差と子供の七歳差は違うってこと?」

「簡潔に言ってしまえばそういうことです。後は本人が小学生の時に高校生のことを好きにならなかったためにそういう感情が理解できないのでしょう。先生は優秀すぎたせいで将棋以外のことが疎かになっているんではないでしょうか?」

「あり得るわね……。わたしはずっとお兄ちゃんのことを見てたし、初恋がお兄ちゃんだから良いけど、お兄ちゃんは初恋もまだじゃね……」

「お嬢様。我々はお嬢様の恋を応援しています」

「ありがと。でも余計なことはしなくていいわ。情報収集以外は、わたしの手で全部やるから」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26 盤王戦一局目

あけましておめでとうございます。
これからもよろしくお願いします。


 二月。僕の初めてのタイトル戦が始まる。最近の学校は受験一直線で同級生が受験で頑張っている姿を見て僕も頑張ろうと思えた。既に私立高校の受験結果は出始めているので結果が良かったり良くなかったりというのをあちこちで見るようになった。

 みんなも戦ってるんだなあと思うと、僕の身も引き締まった。

 盤王戦は持ち時間各四時間の一日制の五番勝負だ。これは予選の時から変わらない。変わるのは将棋をする場所が各地方の高級ホテルだったり旅館だったりするところだ。将棋会館以外で将棋をするのは記念対局以来。滅多なことがなければ基本は将棋会館で将棋をする。

 

 タイトル戦は話題性とか協賛になってくださる企業の関係で色々な地方に向かわせられる。一日制だけど毎回前夜祭があって、地元の協賛の方々に挨拶したりする。その日は会場に泊まって、次の日に勝負。これがタイトル戦の流れだ。

 盤王戦の第一戦は広島になった。広島の高級旅館がどうやら勝ち取ったようで前夜祭ではかなり歓迎された。僕が最年少でタイトル挑戦ということでかなり話題になったらしく、広島の旅館に詰め寄ったファンは想定以上だったらしい。

 嬉しい誤算ですねと、月光会長が仰っていた。

 

 僕は前夜祭に学校の制服で出席して、ありきたりな挨拶しかできなかった。名人と戦うのは久しぶりって感じがするだけで、これが初めてじゃない。

 将棋盤の裏に記名したり、景品が当たるくじをしたり。そんな感じで前夜祭が終わってその後はすぐに寝て。

 次の日の朝。僕が和服を着ていると生石さんが僕の部屋に来ていた。自分のタイトル戦で忙しいだろうに、同門で唯一のタイトル保持者だからと確認に来てくれていた。とてもありがたい。

 

「お、問題なく着れてるな。初めてのタイトル戦だから手間取ってないか心配してたが、杞憂だったか」

「最近は一人で着られるようにバンドとか色々あるので。結構楽でしたよ」

「確かに楽になったよな。ん、帯とかもズレてないな。ぶちかましてやれ、暁人」

「はい。行ってきます、兄弟子」

 

 軽く背中を叩かれて、昨日のうちに案内された部屋へ向かう。照明とか確認をしていたので道に迷うことはなかった。記者達のフラッシュも気にせず入室する。流石にタイトル戦前に質問などはなかったらしい。そういうのは昨日のうちに済ませてある。

 僕の方が早かったようで下座で待つ。数分後、名人もやってきた。挑決の時のように何か話すこともなく立会人の生石さんが諸々を確認した後に駒を並べていった。立会人の配慮も月光会長がしてくださった。

 そして定刻になって。お願いしますと頭を下げた後に。

 僕達は、ただただ深淵の中にいた。

 

────

 

 不思議な感じだ。

 身体も頭も、心までも。何もかもがフワフワしている。それだけならいいのに、この真っ暗な空間には中央に将棋盤が置かれていた。

 誰も前に座っていないはずなのに勝手に駒が進んでいく。それが不思議でしょうがなかった。

 僕の手は、僕の身体にきちんとくっ付いている。なのに僕の側である下座の駒は勝手に進んでいった。

 辺りを見渡す。宇宙みたいにキラキラと点在する星のようなものがたくさんあった。

 でも地球や月、太陽があるわけじゃなく。

 

 ただ中央の将棋盤にだけスポットライトが当たっているかのように明るかった。

 

 周りの光も気になる。でもそれ以上に僕は将棋バカなんだろう。将棋盤で行われている将棋がどうしても気になった。

 僕の側が四間飛車だ。上座の方は左美濃。比較的オーソドックスな戦法同士だろう。

 駒が進んでいく。指運に任せたかのような、軽快な僕の飛車。楽しそうに縦横無尽に駆け回っている。もちろん上座側もそれを咎めるように指してくる。

 僕が振り回して、攻防一体の一手を指されて攻守が逆転して。

 

 でも僕も負けじと守って攻めての切った張った。百手を余裕で超えてもまだ詰みが見えてこない。合駒が起きても全然終わりそうにない一戦。

 これ、いつまでも続けたいなと思えた。僕も見たことがない盤面に移行して、どこまででも進められそうなほど終わりの見えない棋譜になるんじゃないかと思えた。

 でもそれは幻だ。意図的に引き延ばそうとしなければとてつもなく長く、終わりの見えない将棋にはならない。時間制限もあるし、何よりこれは相手がいてこその勝負。

 

 それでもお互い負けたくなくて。この終わりはどこだろうと考えて。

 

 ああ、ここがきっと一番いい終着点だねって笑い合って。

 

 決めたらそこへ一直線に進んでいった。

 

 勿体無い、とは思わなかった。終わりのないことなんて存在しないし、将棋はどこかで終わりを迎えるもの。棋譜に残さず延々と続けるのは一人の棋士としてみっともないと思えた。だから美しく終わらせるように着地点を決めた。

 スルスルとそこへ向かっていって、たまたまそれが下座側の勝ちになる戦いで。

 決着が着いた瞬間、この空間には居られないよと言われたかのように。

 足元に穴が空いて、そこに吸い込まれていった。

 

────

 

 ……変な夢を見ていた気がする。

 目に入ったのはいつも通りスッキリとした名人の顔と。さっきまで夢で見ていた将棋盤と同じ盤面になっている高級な現実の将棋盤。

 そして、めちゃくちゃに焚かれているフラッシュの数々。

 え、寝てたわけじゃないよね?全く覚えがないんだけど……。

 

「碓氷六段!初戦勝ち星スタートおめでとうございます!」

 

 僕が、勝った?そんな、全く指した覚えがないのに。

 そんな記者団は無視して、名人と感想戦をする。以前とは違って声に出して確認をしたい場所を示した。それが珍しかったのか記者のフラッシュの数が増える。

 名人に示した場所は問題なく解決した。今度は名人が声に出して確認したい盤面に移して、そこの検討を。

 指した覚えがないのに、どういう変化筋があったのかちゃんと答えられた。なんだこれ、自分が指した覚えが全くないのに、自分の動きのようにしっくりくる。

 そんなわけのわからない感想戦も終わって、本格的なインタビューになる。その第一声は勝敗云々ではなく、こんな言葉だった。

 

「あの、お二人とも。お食事を摂らなかった理由はなぜでしょうか……?旅館の方がお昼の確認に来られてもそのまま指し続けましたが」

「「え?」」

 

 その言葉に僕も名人も首を傾げていた。お互い持ち時間は一時間以上余っており、朝に始めた勝負は午後二時過ぎに終わっていた。

 午後二時ならご飯を食べていておかしくはないんだけど、僕は食べた覚えがなかった。名人も同じようで声までハモっていた。

 

「自覚がなかったのですか……?一応何度か声をかけていたようですが」

「そうなのですか?碓氷君、君は気付いたかい?」

「いえ……。それだけ将棋に集中していたのでしょうか。全く気が付きませんでした。言われてみればお腹が空いていますけど……」

「私もタイトル戦は100回以上やっているのに、初めての経験ですね。意図的にご飯を頼まなかったことはありますけど、お昼に気付かなかったのは初めてです」

 

 僕もプロになってかなり対局をこなしてきたけど、お昼休憩に話しかけられて気付かなかったのは初めてだ。飲み物はそれなりに減っているから本能的に水分は補給していたみたいだけど。

 僕達が食べていないと気付いて、これは僕達だけの問題じゃないと今更ながら気付いて立会人席の方へ顔を向ける。

 

「あの。立会人の方や記録員の方は大丈夫でしたか?」

「大丈夫じゃねえよ……。対局者が離れないのに俺達が離れられるわけがないだろ……。一緒に飯抜きだ」

「すみません……」

「それは悪いことをした。生石君も染谷君も記録員の飯田君もすまないことをしたね。ではこれから一緒にご飯にしようか。おそらく旅館の方に作っていただけるのだろう?」

 

 立会人の生石さんはもちろん、副立会人の染谷さんも飯田さんも連れ立って食事の席へ向かった。その後に取材を受けることにして、まずは栄養補給だ。

 飯田さんは名人が名前を覚えているとは思わずに驚いていた。飯田さんは今奨励会二段で棋士ではないために棋界の頂点が知っているとは思わなかったのだろう。

 僕と名人の竜王戦の二戦目の記録員をしていた人だ。僕と名人がそう言うと更に驚いていた。棋譜も丁寧に書いてくださるし、こうして名人のタイトル戦に志願するほど僕達に興味を持ってくれている方なんだから忘れるわけがないのに。

 

 わざわざ広島まで奨励会員が来るのは一苦労だ。いくら記録員を務めて給料が出るからって、ここまでの新幹線代を考えたら赤字になる。いや、移動費は連盟が持ってくれるんだったかな?僕はタイトル戦の記録員をやったことがないからわからない。

 食事の席で注文した後に名人とさっきの棋譜について話し合う。さっきの感想戦程度じゃ全然掘り下げが足りなかった。というか何であんな結果になったのか本当にわからないんだから。

 ご飯を食べてそれでも終わるわけがなく。結局研究会に回そうという話になった。その研究会だって盤王戦が終わらないとできない。それまでお預けっていうのはかなり遣る瀬無い。今すぐ解き明かしたいのにそれができないんだから。すごく長い気がしてくる。

 

 ご飯の後にはインタビューを受けて、早めに終わったこともあってその日の内に大阪に帰ることにした。名人は飛行機で帰るらしい。僕達は新幹線だった。

 家に帰る途中で天衣ちゃんからメールがあった。今どことのことだったので家に向かっていると言えば、学校が終わったらすぐに向かうと返事がきた。今日は平日だったから天衣ちゃんは普通に学校に行っていた。

 天衣ちゃんが来る前に和服をクリーニングに出して家に帰る。やけに疲れたなと思って、生石さんに言われた通りに体重計に乗った。タイトル戦で体重を落とす奴が多いから、はっきりと数字を見ておいて次の対戦までに体重を戻しておけと口酸っぱく言われた。

 その言い付けを守って体重計に乗ると。

 

「うわぁ……。二kgも落ちてる」

 

 たった一戦、しかも四時間制の棋戦でこれだ。これ二日制の棋戦とかに出たらどうなっちゃうんだろう。

 ちょっと不安になったのでタイトル戦経験者で同年代の頼れる同期に電話をかけてみる。

 

「もしもし、碓氷?お前からかけてくるなんて珍しいな」

「お時間いただいてすみません、九頭龍八段。ちょっとお伺いしたいことがって。タイトル戦の後って体重減ったりしましたか?」

「体重?全部終わったら三kgくらい落ちてたけど、一戦ごとに計りはしなかったな……。え、まさか?」

「はい。今帰ってきて乗ったら二kg減ってて」

「……そんなにカロリーを減らす対戦だったっていうのはわかる。俺もニコ生で見てたからな。っていうか食事抜いたからじゃないのか?」

「いや、あの後すぐ食べたんですよ?それでこのザマなので心配になっちゃって」

 

 九頭龍さん、見ていてくれたのか。

 いやでも、一回戦っただけでこれはマズイ。五回も戦ったら単純計算で十kgも落ちるってことになる。

 名人と研究会や他の棋戦で戦った後はそんなことがなかったと思うんだけど。体重を計り始めたのが今回からだからイマイチわからない。

 

「とにかく食った方が良いぞ。棋士は最後は体力勝負だし」

「はい、そうですね。ありがとうございます」

「いや、大したこと言えてないし。……碓氷、このまま頑張れよ。タイトル獲っちまえ」

「激励ありがとうございます。それでは」

 

 同期だから期待されているんだろうか。九頭龍さんは最高位タイトルの竜王を獲得したんだから、盤王くらい獲得してみせろって言ってるんだろう。

 スタートダッシュは良かったんだからこのままならイケるかもしれないと思ってくれたんだろう。その期待には応えたい。けど相手は名人だ。そんな簡単にいくはずがない。

 まずは荷物とか片付けようかと思っていたら天衣ちゃんと晶さんがやってきた。そしてすぐに体重計の記録ノートを見られて、即座に食事に行くと僕を引っ張ろうとした。

 

 夕食の時間にはちょうど良かったし、さっき食べたはずなのにそれなりにお腹が空いていたので晶さんに車を出してもらってカツ屋さんに向かう。天衣ちゃんが夜叉神家のお金で払おうとしていたが、そこは師匠として断固として断った。

 弟子に奢ってもらう師匠なんているわけがない。かなりのご年配ならまだしも、小学生に奢ってもらうわけにはいかないだろう。

 

「でもお兄ちゃん、本当に大丈夫なの?」

「体重は問題だけど、それ以外は大丈夫。あの不思議な感じも把握しないといけないんだよね……」

「……綺麗な棋譜だった。アレを崩したくなかったから、お昼休憩を挟まなかったの?」

「いやあ?全く気付かなかったんだよね。僕も名人も。二人とも気付いたら頭下げてたっていうか」

「はぁ!?」

「だから後でニコ生の様子を見ようかなって。あの時の僕達、どうなってたんだろう?」

 

 そう言うと天衣ちゃんに白い目で明らかに呆れられていた。白い目で見られるなんて初めてのことかもしれない。

 カツを美味しく食べた後は明日も平日ということで天衣ちゃんは神戸に帰した。学校があるのに僕の家に泊まるわけにもいかないからね。本来今日は来る予定がなかったんだし。

 僕は次の日学校に行った後、家に戻ってきてから昨日の映像を見た。天衣ちゃんも二日続けて僕の家に来て一緒に初戦の振り返りをした。

 いたって普通に指しているし、飲み物もしっかり飲んで持ち時間も使っている。異常なのは食事の確認に来た女将さんの言葉に二人とも全く反応を示さずに将棋を続けていること。その様子にニコ生のコメントが大量に流れて数分間サーバーダウンしたようだ。

 僕が勝ったことやこのお昼拒否のことからすっごい話題になっているらしい。

 僕だって普通に指せるなら指したかったよ……。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27 女の拘り

 二月は僕のタイトル戦はもちろん、天衣ちゃんのマイナビ決勝戦がある。決勝の相手は祭神女流帝位。これはトーナメントが発表された時点でわかっていたことだ。焙烙女流三段以外に相手になりそうな人がいなかった。他のタイトルホルダーは全員天衣ちゃんの山にいたもんなあ。

 僕の次の試合の前に決勝がある。だから天衣ちゃんのためにも神戸に来て指導対局をしていた。

 天衣ちゃんの決勝の次の日に僕の二局目がある。違う棋戦に出ているんだからこういうことは普通にある。棋士と女流で日程が被るなんて良くある。いくら同じ将棋連盟が日程を組んでいるからって師弟の日程を考慮するなんて無理だ。

 

 男女の師弟なんてどれだけいるんだって話だし、弟子を取っている人は複数人弟子にしている人もいる。その全員の日程を把握している連盟職員なんていないんじゃないだろうか。

 そんなことをお茶菓子を頂いている時に考えつつ、この後はどうしようかと考える。女流帝位の得意戦法は振り飛車だからとにかく振り飛車を僕が指しているけど、ぶっちゃけそれっていつもの僕だ。それに振り飛車と一言で言っても指し手の感覚で全然違った景色を見せる。

 

 同門の僕と生石さんでも全然振り方が違うし、名人は居飛車が得意だからか僕らほど感覚で振らない。それでも強いんだからビックリだ。

 だから女流帝位対策にただ振り飛車をしていて効果があるのかって話。女流帝位は強い時は本当に僕達棋士を簡単に吹っ飛ばす。正直才能だけなら現存の女流棋士で一番だ。

 そんな女流帝位対策なんてどうしようってことで。僕だって指したら負けるかもしれない。

 栗最中と緑茶をいただきながらそう考えていると、天衣ちゃんが話しかけてきた。

 

「師匠。次の一局、名人と戦う時のように本気で指してくれない?」

「うん?僕って名人と指す時はそんなに違う?」

「この前の一局みたいに指してほしいの。あれはどう考えても異次元だったわ。──あの状態の師匠と指せれば、それ以上に怖いものなんてないもの」

「アレかあ。意図的にできるかな……。話した通り、名人の前に座って気付いたらあの終局だったんだよ?」

 

 天衣ちゃんにも話したけど、本当にどうしてああなったのか僕自身も、名人もわかっていない。そんな状態を意図的に出せるのか。

 今まで天衣ちゃんともそれなりに指してきたけどあの状態にはならなかった。再現するなら名人と指すのが一番なんだけど、タイトル戦で戦ってる人と研究会をするわけにもいかないし。

 わからないなりにやってみるしかないか。

 

「わかった。できるだけやってみるよ」

 

 天衣ちゃんにはちょっと失礼かもしれないけど。

 ここはタイトル戦でも使う旅館の一室で。

 上座に座るのは名人だと仮定して、指そう。

 

 

 わたしのお願いをどう感じたのか。

 将棋盤を挟んだ先の碓氷暁人は目が据わっていた。そしてわたしが動かした次の瞬間には駒を動かしていた。

 その意図を読もうと、定跡からすぐ外れるかもしれないからその可能性を残したまま動きを探りながらも振り飛車を指す。

 お互い振り飛車で進む。名人と初めて指した時のように碓氷暁人の情報の波がわたしを襲う。

 どのルートで来るか。奇襲のタイミングは。何を狙っているのか。攻守の切り替えのタイミングは。何に重点を置いているのか。

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 何でそんな手を打つのか、それが悪手ではないとわかるのはわたしがかなり考えてから。全部が重い一撃で、そもそも先手だったわたしがいつの間に手番を握られていたのかわからなかった。

 防戦になり、何とか受け潰そうとする。必死に考えたのに、わたしが指してノータイムで次の一手を指してくる。

 上手くいった防御なんていくつあるのか。囲いに迫る大駒。それを防ぐには、近寄らせないようにするには。こんな定跡も攻め方も、見たことがなかった。

 

 わたしの学習量が足りないのか。

 ただただ、わたしの脳が追い付けていないだけなのか。

 ずっと扇子を握ったまま、盤にしがみつくように言葉を洩らす。脆弱な手しか思い付かない。こんなすぐに吹っ飛ばされる手を思い付くな。

 何通りの攻め筋がある。どこを守るのが最善だ。

 

 

 そもそも、最善って、何?

 

 

 戦法、駒、マス目。状況も加味したらどれだけ変化手があると思ってるの?スーパーコンピューターですらまだ将棋を終わらせたとは言えない無数に近い盤面。それを人間が全部読み切れるとでも?

 そんな驕りを捨てろ。

 わたしはまだただの女流棋士で、奨励会に入ったばかりの小童。

 女流棋士のタイトルも獲ってないただの十歳の小娘。将棋に出会うのが早かっただけの、周りの人に恵まれただけの子供。

 夜叉神天衣として何も残せていないただの小学生が、名人に墨を付けた碓氷暁人の思考全てを読む?

 

 

 傲慢になるのもいい加減にしろ、小娘。

 

 

 将棋の関係者として、最も碓氷暁人の側にいた?

 公私共に長い時間を過ごしている?

 彼と一番長く将棋を指しているのは、生きている中ではきっと自分だ。だからどうした?長く指しているだけで濃密な時間を過ごしたのは生石玉将や名人、山刀伐八段の方。

 そんな事実だけで、隣に立った気になっていたのか。何を当たり前のことを今更自覚しているのか。

 お父様が縁を結んでくれて、幼少期から側にいることが常識になっていて。

 わたしを寂しがらせないようにと、三段リーグを一期で抜けて。

 

 その後も非常識だと理解しながらプロになってすぐただの知人のわたしを弟子に迎え入れたお人好し。

 優しい人につけ込んで、トッププロの環境を教えてくれて。図々しくもわたしを将棋のトップだと思って指してくれなんて、バカなの?

 自分だってタイトル戦が控えているのに、息抜きと称してわざわざ神戸まで来て。わたしのワガママに二つ返事をして。

 わたしが女流帝位程度に負けたくない。早くあなたに恩返しがしたいと思ってるだけなのに、結局あなたに縋って。

 

 

 こんな浅ましいわたしに、本気で指してくれる。

 

 

 今まで指導として戦法を変えたり、それこそ駒落ちで何度も指した。模擬戦ということでかなりの対局をしてきた。

 だけど、まるで公式戦のように本気で戦うのは初めてだ。その時点で、わたしが一番なはずがない。

 彼にとってわたしは弟子で、夜叉神天祐の娘でしかない。

 本気で競う相手じゃない。弟子として大事にされていても、同格だなんて絶対に思われていない。

 史上最年少タイトル挑戦者に、奨励会員を名乗れるようになったばかりのわたしが追い付けると?本気を出すほどの価値があると思われてすらいない。

 

 きっと今までは弟子だからとか、そういう無意識のセーブがかかっていたんでしょう。でも、本気を出せばこの通り。わたしなんて蹂躙されるほどの実力でしかない。

 常識で考えたら無理だ。トッププロでさえ負かす神童に、弟子なだけの女が勝てるわけがない。

 

 

 ──わけがない、で終わらせたら、わたしは何者にもなれなくなる!

 

 

 わたしはどうなりたい。

 お父様の将棋を、きちんと受け継ぎたい。こんな将棋もあったんだと、世の中に証明したい。

 ただの碓氷暁人の弟子で終わりたくない。女流として戦うのではなく、棋士としてこの人の前に座りたい。

 名人のように、この人を将棋で理解したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 碓氷暁人の、全てを愛してる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局行き着く先はそこなのかと、わたし自身に呆れながらも。

 この人を愛しているなら、隣に居たいのなら。

 この人の最も大切な将棋も理解しないとわたしがわたしを許せない。

 思考の濁流に呑まれるな。

 本当に濁流なんてあるわけがない。

 

 あるのは目の前の人の、たった一つの思考だけ。どういう終わりを観ているのか。それだけ。

 趣味とか好みとかじゃない。この一局を、どうしたいのか。

 知識という定跡を、頭から吹っ飛ばした。

 それは先人の遺産。

 だけど、目の前の人は先人の誰でもない。同門の癖はあるかもしれないけど、碓氷暁人の考えは碓氷暁人の中にしかない。

 

 

 

 

 

 

 もしもし、聞こえますか?

 師匠は、どこを目指していますか?

 百二十二手の終わり(勝ち)で合っていますか?

 

 

 

 

 

 気付いたらまた鼻血を出して横に倒れていて。

 キチンと終わりは、百二十二手目の銀成だった。

 

 

 二月十四日。

 マイナビの挑戦者決定戦が東京将棋会館で開かれた。時間は朝の十時前。上座には祭神雷女流帝位。下座には夜叉神初段。

 女流帝位の女王へのリベンジか、最年少チャレンジャーの誕生か。どちらにせよ注目されるカードだった。入室前にどちらにもフラッシュが焚かれる。この時点で天衣は最年少記録を塗り替え続けてきたので、このまま様々な記録を打ち立てて欲しいとさえ願われていた。

 

 それは彼女の師匠が、同じように現在将棋界で大躍進をしていたために期待も高まっていく。

 そんな期待に対局者の二人は一切気にも留めないのか普段通りの様子で座っていく。むしろ緊張しているのは記録係の方だった。

 二人して座った後に、上座の祭神が駒を並べながら口を開く。

 

「マイナビも何でこんな日程にするかね?バレンタインデーモロ被りじゃん」

「何か予定があったのかしら?」

「モチ。やいちに直でチョコ渡そうと思ったんだけど、やいちって大阪じゃん?こっちに対局で来てもないからさー、対局終わったらそのまま家行こうかなって。もう作ってきて会館の冷蔵庫借りて冷やしてるんだよねー」

「いいんじゃない?今からならお互いの持ち時間を考えても新幹線には間に合うでしょうから。千日手なんかしないでしょう?」

「するわけないじゃん。楽しみにはして来たけど、長引かせるんじゃなくて潰す気で来たんだから。去年みたいなツマラナイ幕引きにするつもりないしー。やーしゃじんチャーン、お前はただの女か(あーゆーれでぃ)?」

「ええ、いいわ。──今のわたしは、一筋縄じゃいかないわよ?」

 

 開戦。

 お互い得意な振り飛車による、ガチンコの殴り合いが始まる。

 持ち時間に余裕はあるはずなのに、ほぼノータイムの早指し。早すぎて記録係が困惑するほどの早さだった。考えていないんじゃないかと疑うほどの、即座に駒音が鳴り合うこの場は異常な空間が出来上がっていた。

 天衣は真面目な表情を崩さず、祭神は笑顔を絶やさない。

 

「キヒッ!お前、やる度に強くなってんじゃん!しかも今回は、確実に()()()()()()()()()()()()!その歳で、こんな女流の闘いで!()()()ヤツと闘えるなんて思ってなかったじゃん⁉︎今までですら十分だったのに、ここまで練り上げて来てくれるなんて最高すぎんだけど‼︎ここまで思考が一致する女なんて初めて‼︎」

「ごめんなさい。あなたのために鍛えたわけじゃないの。──ここはまだ道半ば。通過点でしかないわ」

「あはははははは!そうだよなあ、こんなとこで足踏みしてらんねえよなあ⁉︎だってアンタはこれの上を知ってる!あの異常な、たった二人の語り合いの片方を知っちまってる!そこが最終地点なら、こんなの登り始めでもねえよなあ⁉︎あーしも、別の頂きがある!名人にはお互い感謝してるっしょ?やいちをあそこまで鍛えてくれたんだからさあ!ああ、早く公式戦でやいちと()りてー‼︎」

 

 そんな会話がニコ生に堂々と乗りながら二人の捌きが繰り広げられる。

 飛車同士が喰い合い、前から仕掛けていた歩が爆弾的な役割を果たしたり、香車の火力が火を噴いたり。

 盤面は恐ろしく動いていく。お互いの囲いはボロボロになりながらも最後の一線だけは抑え込み、守るよりも攻める動きが続けられる。

 早指しが過ぎて解説が追い付かない。どっちも次に何をしてくるのかわかっているのか、応手が即座に繰り出される。

 

 一枚、また一枚と。お互いの囲いが削られていく。攻めと攻めの駒がぶつかり合い、かといって守りを完全に蔑ろにしているわけでもなく。必要な時にはどちらも防衛のための駒を自陣に置く。

 ミスもなく、いつぞやの先読みが過ぎて必要な駒が今ないということにもならず。

 決め手は祭神の飛車が、受け潰されたことだった。

 

「チッ。先手の一手分届かなかった……」

「ええ、そうね。わたしが後手だったら負けてた。──師匠並みに強かったわ」

「マジ?暁人きゅんと同等って認めてくれんの?ならやいちと同等ってことじゃん。うっわー、そのお墨付きは嬉しいかも」

「最近は直接対決がなかったはずだけど?」

「あん?あーしの旦那舐めんなよ?また来年竜王奪いに行くってーの。それに今は名人に黒付けたっていう指標もあんじゃん?名人は頂点かもしんないけど、やいちも暁人きゅんもその下には確実にいるっしょ」

「そうかもね。竜王かはわからないけど、九頭竜八段もすぐにタイトル挑戦くらいはしそうだわ」

「ねー。あ、言ってなかった。負けました〜」

「ありがとうございました」

 

 最後に雑談をしていたこともあって、異様な空気は残ったまま。

 当人達は気にすることなくさっさと感想戦を始めてしまう。

 

「こっちも一応考えたのだけれども……」

「うっわ、えげつな。どっちにしろあーし不利は変わらんくね?ここでこっちに指してたら大チョンボだけど」

「さすがにそっちには指さないでしょう。一見王手に近そうで角の攻守に利用されるだけじゃない」

「だよねー。んじゃあ、ここのこの場面は?七7銀よりは持ち駒の銀打ちした方が良かった?」

「そうなると攻めが更に手薄になるから七7銀は正しかったと思うけど。ここでわたしの桂馬を通す方が悪手よ」

「銀って使えねー」

「悪い駒ではないわよ。金が万能すぎるだけで」

「ホント、駒の持つ力が絶妙なのは凄いわ。もし銀じゃなくて金四枚だったらゲーム変わってるわー」

「それは色々とバランスが崩れるわね……」

 

 感想戦も無事に終わり、それでも雑談が続く。

 

「チョコ以外にもメガネを用意したんだよねー。ペアメガネって奴?」

「へえ。九頭竜八段は対局の際にはメガネをかけるものね」

「暁人きゅんはそういうことしないよね。自然体っつーかさ」

「師匠はそういうスイッチがないみたい。アイテムじゃなくて意識の切り替えって言ってたわ。わたしは扇子に頼ってしまうけど」

「扇子邪魔じゃね?」

「これが案外落ち着くのよ。あなたもそのメガネ、対局の時だけでもかけてみたら?何か変わるかもしれないわ」

「まあメガネくらいならいっか。できたらこれ、デート用にしたいんだよねー」

「そこは九頭竜八段と相談すればいいと思うわ。ペアメガネなら対局とデート用で分けるとか」

「──天才かよ」

「それほどでも」

 

 そんなツッコミどころ満載な会話もニコ生で流れ続け。記者による質問なども入って放送も対局も終わった。

 そして祭神は宣言通り新幹線で大阪へ。怒った銀子と雛鶴(正妻気取り)が待つ決戦の地へ向かっていった。

 一方天衣は。

 

「はい。バレンタイン。わたしは帰るけど、明日頑張って」

「うん、ありがとう」

 

 神奈川で前夜祭に出ようとしていた暁人にチョコを渡して神戸に帰った。

 明日は平日だったので、小学生の彼女は学校に行かなくてはならないのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

28 タイトルは遠く

「決着!盤王戦は三勝一敗で名人が防衛に成功しました!」

 

 そんな言葉がフラッシュと一緒に掛けられる。

 お、終わったの?すっごい倦怠感で将棋が終わった感覚がない。

 けど盤面はこの四戦ずっとそうだったように、変な空間でやっていたような将棋と全く同じもの。どう動かしたのかも全部頭に入っていて、その上で負けたということも覚えている。

 勝ったのは初戦だけ。そこからは三連敗という結果だった。それが悔しい、という気持ち以上に凄い将棋を指したものだという実感と、途方もない疲れが押し寄せて感情が追い付かない。

 

 居飛車にしろ相振り飛車にしろ、四戦全てで今までとは違う境地に到れたと思う。ここからどうなるのか、あの空間での将棋は本当に楽しかった。まだまだ将棋は続いていくんだなって思えたし、僕達の一生じゃ解明できないだろうって思えたのは本当に大きな収穫だった。

 これまで以上に研究を頑張ろうって思えた棋戦だった。初めてのタイトル戦だとか、奪取できなかったこととか、そんなことを聞かれたけどイマイチ頭が回らない。

 僕も名人も、とりあえず水分を摂取する。その後、名人が口を開いた。感想戦をしないと。気になる展開がたくさんある。

 

「ああ、時間が足りないな……。この後、防衛の記者会見をしなければならないのか」

「そうですね。感想戦は早めに切り上げないと……。それにこの感じ、また僕達ってご飯を抜いています。栄養的にも倒れるかもしれないですね」

「そうだね。この疲れは栄養不足もあるな……。碓氷君、今月の予定はどうだったかな?」

「NHK杯とか順位戦とかは平日なので今月の土日は空いていますよ。三月頭の土曜日だけは卒業式なので、それさえ終わればという感じです」

「そうか。もう語りたいことがありすぎる四局だった。早く研究会を開こう。他の人の意見も聞きたいから全員呼ぶとして、また私の家で良いかな?」

「名人に大阪までご足労いただくのもおかしな話ですし。主宰は名人ですから」

「しかし、大阪に住んでいる人が多いだろう?」

「かと言って大阪の将棋会館でするわけにもいかないですし……。僕の家は狭いので人数が増えた今、僕の家は向きませんよ」

「じゃあ私の家で。LINEで皆の予定を聞こう」

「そうですね。それが良いかと」

 

 そんなことを話しながら駒を動かしていた。最低限確認したい場所だけ確認して、後は研究会に持ち越しだ。

 お腹空いたな。倦怠感もそうだけど、空腹と頭を使いすぎたことによるトリプルパンチがかなり効いている。

 でも長いタイトル戦もこれで終わりだ。早く家に帰って寝たいと思った。

 記者の一言がなければ。

 

「あの……?名人と碓氷六段は研究会をしているのですか?それも名人の家に行くほど熱心に?」

「「あ」」

 

 僕と名人が同時に惚けた声を出してしまった。

 研究会は別段秘密の会合ってわけではない。将棋界では誰々と誰々が研究会を開いているよ、なんて話はすぐ聞こえてくる。大阪なんて将棋会館でやっているから見に行けばすぐにわかる。

 ただ、僕達の研究会ってどうなんだって話なんだよね。さっきの発言で何回も研究会をやっているということはわかっちゃっただろうし、変に話題がある僕達だ。

 記者が殺到するのは、目に見えていた。

 まずい、疲れと空腹で僕も名人も何も考えずに話してた……。

 

「そ、その研究会はいつ頃から⁉︎碓氷六段が奨励会の頃ですか⁉︎」

「いえ、最近のことです。彼が棋士になってからですよ」

「他の参加者は?碓氷六段の弟子である夜叉神初段は⁉︎」

「ごめんなさい。参加者はノーコメントで」

「頻度はどのくらいで⁉︎」

 

 さっきまで名人の防衛ばかり取り上げていたのに。凄い食いつきようだ。

 なあなあで取りなして、この盤王戦の当たり前になった立会人と記録係も合わせての食事を旅館の一室で頂いた。流石にそこでは記者達が入ってこないように将棋連盟の職員さんが頑張ってくれた。

 箸を持つ手が重たいものの、蟹のしゃぶしゃぶを食べる。脚がもう分けられていて、湯通しするだけで食べられる。それと蟹味噌でできた汁物と刺身をご飯でいただきながら名人と話す。

 

「いやあ、疲れ切った頭で会話するのはダメですね」

「そうだね。いや、発端は私にある。早く研究したいと、好奇心が抑えられなかった」

「それは僕もです。僕が気付けば止められたかもしれないので、お互い様でしょう」

 

 蟹味噌って初めて味わったけど、なんというか独特だ。磯臭いというか、味噌っぽくないというか。脳味噌だからそう感じるのかもしれない。

 そんなこんなで食事にありついていると、今日立会人だった九頭竜さんが神妙な顔付きで質問をしてくる。

 

「碓氷、名人と研究会してたんだな」

「ええ。ちょうど九頭竜八段と初めて棋士として戦った後のGWから。名人と山刀伐八段の研究会にお邪魔させていただいた形ですね」

「ってなると二年近くか。夜叉神ちゃんももちろん一緒だろ?」

「まあ。名人のご指名だったので」

「え?」

 

 その言葉に九頭竜さんは名人の方を向く。名人も食べながらその視線に気付いたのか、うんうんと頷いていた。

 

「夜叉神君のことは父君の件で知っていてね。彼の娘が碓氷君の弟子になったと聞いたら居ても立ってもいられなかった。彼女はあの段階で碓氷君の攻撃的な将棋と夜叉神天祐アマ名人の受け将棋を高い次元で融合させていたよ。女性に注目していたからこそ、彼女の才覚には驚いた。君の姉弟子や女流帝位のような才能を感じられて良かった」

「その二人と同格ですか……」

「ああ。それに登龍花蓮(のぼりょうかれん)初段も伸びてきそうだ。どんどんとこちら側を目指す女性が増えて嬉しいよ」

「……やっぱり強くなるためには、研究会増やすかあ」

 

 九頭竜さんはそんなことを言う。きっと雛鶴さんの育成方針のことだろう。

 研修会や将棋会館の将棋道場でも将棋を学べるだろうけど、やっぱり上は知っておいたほうが良いと思う。清滝九段と相談するのも良いことだと思うんだけど。一門なんだし。

 そんな清滝門下である空さんと清滝桂香さんをウチの研究会に引き抜こうとしているのはどうなんだか。研究会で学んだことをどうするかは彼女達次第だから、それを清滝門下に下ろしても僕はなんとも思わないけど。

 名人も研究が進めば万々歳って思っていそうだから情報漏洩とか気にしていなさそうなんだよな。

 

「碓氷と夜叉神ちゃんが参加してるのって名人主宰の研究会だけか?」

「いえ、今のところは生石玉将ともたまに研究会をしていますよ。もっぱら腕が鈍っていないかの練習台にされていますけど」

「生石さんか。あの人は二週間だけって約束だったからなあ。誰かいないかなあ、あいも一緒で良いよって言ってくれるような研究会……」

 

 名人の方を見るけど、名人は誘う気がないっぽい。

 いや、多分九頭竜さんだけなら許可していたかもしれないけど。雛鶴さんが一緒というのがダメっぽい。

 雛鶴さんのことを名人が知らないからだろう。名人からすれば九頭竜さんの弟子の女子小学生としか情報がない。女流棋士になったわけでもなく、研修会で圧倒的な結果を残したわけでもない。

 それに名人ってそこまで大人数の研究会好きそうじゃないんだよな。僕達は五人でやっていたけど、そこに三人増やした。多分二桁は名人にとって多いのだろう。名人の家もそこまで大きくないし、研究会で人数が増えれば日程調整も大変だ。

 

 名人は自分が研究をしたいからこその研究会。名人ありきの会で、僕達はパートナー兼名人のおこぼれをいただくような立ち位置の研究会に名人の意見なしに誘うことはできない。だから僕からは誘わない。

 名人研の最低条件は何かしら名人へ寄与できる人だと名人が言っていた。その条件に雛鶴さんが合致しているかどうか。

 一年後ならまだしも、まだ定跡が曖昧な子を迎え入れる余裕はないのかもしれない。

 

 九頭竜さんと盤面真理を辿るなら、公式戦が良いと考えたとか。竜王戦第四・五局はとても素晴らしかった。アレが常時できるのなら研究会に誘うのかもしれないけど、九頭竜さんは良くも悪くも調子の波が激しい。山刀伐さんに三連敗したかと思ったら大逆転をしたり。七大タイトル戦ではそれこそA級だろうがB級一組に居る格上の棋士にも勝つのに、同じ級のはずの順位戦では成績が奮わなかったり。

 まあ、僕がこうやって推測をいくつか立てても、名人の思惑が僕と同じとは限らない。他の理由で誘わないのかもしれないし、後から誘うかもしれないからね。

 

「碓氷は大阪で何か心当たりないか?」

「いやあ、僕も結構行動範囲が狭いので。まだ中学生の僕に人脈を期待しないでくださいよ」

「そりゃそうだ」

「特に大阪なんて将棋会館で研究会をしているじゃないですか。いっそ受付で聞いた方が有力な情報が出てくると思いますよ?」

「確かに。サンキュー」

 

 研究会って結構諸刃の剣な部分もあるから誰でもOKですなんてしている研究会は少ないと思う。

 空さんを加えることだって結構リスキーだと思ってるけど、空さん自身が参加したいと言っていたから天衣ちゃんとマイナビで戦うけど名人も許可を出したんだろう。

 僕や名人のように戦う人と一緒に研究会をすると手の内がバレるかもしれない。そのリスクを背負ってでも研究会に参加するメリットが上回っていれば参加するだろう。

 空さんはそのメリットを選んだわけだし、天衣ちゃんは空さんと一緒に棋譜を並べることを是とした。鹿路庭さんと一緒な時点で今更感はあるんだけど。

 

 さすがに北海道だったので、この日はそのまま旅館でもう一泊した。名人は研究会のことを記者会見でのらりくらりと躱してくれて、話題にはなったけど大騒ぎにはならなかった。

 そういうわけで金曜日。学校が終わってすぐ天衣ちゃんと晶さんを連れて名人の家にお邪魔した。そのまま名人の家でご飯も頂いて、そのまま夜まで盤王戦の振り返りを僕と天衣ちゃんと名人の三人で行った。

 次の日の朝には山刀伐さんと鹿路庭さんも来て、お昼には空さんと清滝桂香さんも来た。鏡洲さんは今日対局で来られないと悔しそうに言っていた。

 

「いらっしゃいませ。空女王、清滝女流女流三級。清滝女流女流三級は初めまして、碓氷暁人です。見ての通り名人は盤から離れられないので」

「……話には聞いていたけど、その小娘が強くなるわけだわ。名人とあなたに鍛えられる小学生なんてこれ以上ない環境じゃない?」

「空女王も大差ないのでは?ずっと九頭竜八段と幼少期から指し続けていたわけですし。ああ、言い忘れていました。空女王、三段昇段おめでとうございます」

「ん、ありがと」

 

 ずっと女王って呼んでたけど、空さんは最近昇段したんだった。そのお祝いは言ってなかった気がして今言うことになってしまった。椚二段と女性初三段か小学生で初三段かの昇格を争った対局で空さんが勝って昇段。あの日もニュースで緊急速報が流れるほど大騒ぎだった。

 将棋ブームが起きているから、その流れに乗ってのことなんだろうけど。空さんの昇段確定はいいにしても椚二段もまだ勝ち星を稼げば次の三段リーグに間に合う形で昇段するのだとか。

 僕はギリギリ中学生に上がってからの三段昇段だったからそこまで騒がれなかったな。中学生で三段入りした人は過去に何人もいて、その中で見事に中学生棋士になった人もいれば結局三段を抜ける頃には他の人と年齢が変わらなかったなんて人もいる。

 

 本来三段に上がるだけなら話題にならないんだけど、今回はどっちも初の記録がかかっていたから盛り上がったんだろう。

 後はアレだ。僕と坂梨さんが一年の間に連続して一期抜けなんてことをしたせいでこのままプロになれるかもと思われているわけだ。可能性としてはもちろんある話だけど、二人には外野の声なんてあまり気にせず頑張ってほしいと思ってる。

 話を戻して将棋環境の話だけど、空さんの場合は師匠として清滝九段もいたわけで。天衣ちゃんも一応大槌師匠の門下だけど大槌師匠が直接指導したのは一度か二度。名人と山刀伐さんとは何度か指しているけど、指導をしてもらっているわけでもないし。感想戦を行うけど、それ以外は指し回しを教えたりなんてことはしていない。

 

 この研究会って面白い棋譜があれば変化手を考えるけど、それ以外だとひたすらにVSをする研究会だ。自分で糧にして勝手に強くなってねという放任主義研究会だったりする。

 ワクチン開発だとか、奇策を考えるとかは稀だ。たまたま対局を続けていってそんな光明が見えたら突き詰めていくけど、基本は戦ってばかり。

 名人らしいといえば名人らしいけど。

 今は天衣ちゃんと名人が盤王戦第一局の変化手を考えている。天衣ちゃんが名人側を。名人が僕側を。盤王戦で唯一負けた試合だからこそ名人は知りたいのだろう。二人とも来客があったというのに全く盤面から顔を逸らさない。

 

「碓氷六段初めまして。いつぞやは八つ橋とあぶらとり紙ありがとう。それとこの研究会のお誘いも」

「僕は生石兄弟子に橋渡しをされただけですので。マイナビ本戦一回戦の棋譜を見ましたが、ようやく仮免許をいただけたというのが信じられない指し回しでした。二年以内の昇級とのことですけど、あれだけ居飛車を指せるのであれば何も不安はないと思います」

「ほら言ったじゃない。桂香さんは凄いんだって」

「そ、そんなに褒められるなんて思ってなかったのよ⁉︎だって碓氷君って名人にも勝っちゃう人なのに、こんなにベタ褒めされるなんて予想できる⁉︎」

「八一だって褒めてたじゃない」

「八一君はほら、身内だし」

 

 なんとなく清滝門下の力関係が垣間見える会話だった。元竜王なんだけどなあ。

 女流棋士で居飛車を指す人は少ないから、このまま居飛車を極めていけば女流としての地位もしっかり確保できると思う。空さんもそういうスタイルだし。振り飛車だって指せるんだから相手への対策もかなりできる。

 実際研究量が半端ないからマイナビ一回戦で釈迦堂女流名跡にも勝てたんだろう。というか、二回戦だって悪い将棋じゃなかった。しっかりと囲いも作って戦えていた。

 相手が、祭神女流帝位じゃなければもう少し勝ち上がれたのかもしれない。

 山刀伐さんもあっちに集中しているし、僕が説明しないとダメか。

 

「この研究会って基本的には名人が出す棋譜について研究することが大前提の場です。今日は盤王戦の第一局ですね。棋譜が提示されなければ全員でVSをするか、特定のテーマで戦うか。そんな感じです。あっちはもう四人で集中しているのでこっちは三人でやりましょうか」

 

 ということで早速並べ始める。定跡から外れた辺りから話し合って、どんな変化手があるのかということを検証し合う。定跡から外れたところで棋譜を見ながらこうだったらどうだろうと僕と空さんで指す。棋譜通りに指さずこういう変化だったらどうだろうと指していく。

 そもそもどうして僕がこんな道筋を選んだのか、言葉を交えながら指していく。

 

「え、ええ……?今はゆっくり考えられてるけど、タイトル戦の時はこれより圧倒的に短い時間で指していたのよね……?どうなってるの?」

「アレでも結構悩んだんですよ?変化手がいっぱいで、結局棋譜通りが一番の最短で綺麗な棋譜になるとわかったので名人と合わせて終着点にしたわけですし。泥沼にしようと思ったらこうやって分岐がたくさんありますから。今だって局面が大きく変わりそうなものだけピックアップして並べていますけど、本気でやろうと思ったらそっちみたいにのめり込むことになります」

 

 清滝さんの言葉に答えるように名人達の盤面を見る。まだ四人とも現実に帰ってこないでブツブツと全員が何かしらの手を検討している。

 空さんも顎に親指を当てながら必死に考えているようだ。清滝さんもノートにひたすら何かを書いている。

 と思ったら、目を丸くされて僕の方を見てきた。なんだろう?

 

「……対局中に名人と意思疎通してたの?」

「え?ああ、まあ。ほら、僕と名人がたまに感想戦でやっていた無言のやつあるじゃないですか。あんな感じでお互いがどこに指したいのかわかったというか。九十八手目でこの終わりにしようと決めたんです。そこからはほぼノンストップだったのはニコ生でも確認できますよ」

「そんなことってできる……?」

「桂香さん。この将棋星人の言葉を真に受けようとしちゃダメ。将棋星人同士テレパシーを使ってるのよ」

 

 空さんが会話に参加してきたと思ったら飛車で銀を奪われた。飛車の進軍を無視して僕側は角を進めて馬に成る。苦い顔をした空さんがまた考え始めるけど、さっきの言葉を考える。

 テレパシー、なあ。確かにあの空間で名人と思考を一緒にしていた気もするけど、そんなこと人間にできるんだろうか。

 長年の疑問もついでに解消しておこう。

 

「空女王。その将棋星人ってなんなんですか?確か九頭竜八段にも使っていたと記憶していますが」

「……アンタ達みたいな突拍子もない将棋バカのことよ。普通の人間はテレパシーも三連続限定合駒なんてものもできないの?わかる?」

「限定合駒は僕にもできませんよ……。それに四4銀の必至も」

 

 僕と名人は波長が合ったとかそういうことでなんとかなりそうだけど、九頭竜さんの結果は純粋な実力だろう。

 でも違う星の人だと思っちゃうほどに遠い憧れの人で、その人に追い付きたいから頑張る、かあ。

 

「ロマンチストですね、空女王は」

「バカにしてるの?」

「まさか。それだけ九頭竜さんのことが好きなんだなと思っただけです」

「……はぁ⁉︎」

 

 

 

 それは今日一番、というか今まで聞いてきた中で一番の空さんの大声だった。顔も真っ赤にして睨まれてしまった。

 あれ、まずかったかな。

 

「……えーと、気付かないと思ってました?これでも空女王とは四歳の時から面識があるので、あそこまで九頭竜八段にベッタリなら気付かない方がおかしいというか……」

「銀子ちゃん。八一君とある程度関係がある人ならみんな知ってるから……。碓氷君なんて同年代なんだし。この研究会だって八一君に追い付きたいから名人に八一君を誘わないようにしてくださいってお願いしたんじゃない」

「桂香さんっ⁉︎」

「あ、そうなんですか。なるほど……」

 

 だから名人は九頭竜さんを誘わなかったのか。まあ、ここでイチャイチャされても困るし、九頭竜さんとはタイトル戦とか一般棋戦でぶつかれば良いと思ったのかな。

 名人もタイトル通算100期の会見で女性と戦いたいって言ってたし。棋士の中でもそれなりに対局機会の多そうな九頭竜さんよりも今のところあまり戦う機会のない空さんと清滝さんを優先したってところかな。

 天衣ちゃんも気付いてますよと伝えて、それからもしばらく指し続けた。清滝さんも途中途中で質問をしてどういう意図があったかとかを話していく。やっぱり清滝さんは勉強量が凄まじく深いのか似た流れの戦法や攻め方の話がスラスラ出てくる。出てこなくても研究ノートを見返してこれと見せてくれるのがわかりやすい。

 

「いや本当に清滝さん、後はこの知識を盤面で活かせれば無敵なのでは……?」

「それができたら苦労しないというか……。ああ、でも夜叉神さんに勝てた時は本当に悔しかったのよ?絶対に負けたって思える盤面で、まさか二歩で勝っちゃうなんて思わなくて。その時は夜叉神さんも何で?って顔してて。こんな歳下の凄い子から勝ち星奪っちゃって意味があるのかなあとか、そう言えば昔銀子ちゃんにも強く当たっちゃったなあとか色々思い直してね?それで銀子ちゃんのアドバイスで研究ノート見返して、ようやくここまで来られたって感じだから」

「でも桂香さん、最近調子いいじゃない。大丈夫、ちゃんと強くなってるよ」

 

 そういえばそんなこともあった。

 僕達はそれからも話を交えつつ指していくと、隣の決着が着いたようだった。

 

「フゥ〜……。ん?空女王と清滝君。来てたんだね、いらっしゃい」

「名人、本当に気付いてなかったんですか……?」

「僕も気付いてなかったなあ」

「わたしも」

 

 名人がやっと挨拶をしたことに鹿路庭さんがびっくりしていたけど、山刀伐さんも天衣ちゃんも気付いてなかったようだ。それだけ集中していたんだろう。

 ひと休憩いれようかと話題になったところで、和室の襖がスパーン!と開けられる。名人の娘さんだった。

 

「お父さん、もう三時過ぎてるんだけど⁉︎お父さんは良くても他の人はお客さんでご飯はウチで用意するって話だったでしょ!」

「いや、しかし……。中断するわけにもいかなくてだな」

「それに話を聞いてたら来客にも気付いてなくて碓氷君に対応任せてたって?この集まりの中心はお父さんのはずでしょ!皆さんすぐに食卓に来てください。お母さんが作った料理温め直してますから」

 

 名人も娘さんには敵わないようだ。こういう姿を見ると本当にありふれている父親なんだけど。

 空さんと清滝さんは移動中にお昼を済ませていたようで昼食を辞退していたけど、その代わりにデザートを用意されていてお茶会をしていた。その内容が恋バナで、娘さんも空さんの恋愛事情は知っていて揶揄っていた。清滝さんも娘さんも良い人がいないなんて言って愚痴り合っていた。

 そんな食事が終わった後はまた検討の再開。夜九時には切り上げて順番に食事とお風呂のローテーションを回してそれぞれの客室で寝ることになった。女性陣は一緒に、僕は山刀伐さんと同室で。

 次の日は早指しでそれぞれVSをしていた。初めて来た人は名人と指す決まりができたようで空さんと清滝さんは名人とぶつかってかなりやつれていた。

 帰りは同じ新幹線で、二人は疲れていたけど僕と天衣ちゃんはマグネットの将棋盤で一戦をしていた。それを見て空さんがゲンナリとしながら呟く。

 

「あんた達、体力底なしなの……?」

「いや、慣れただけですよ。東京には結構な頻度で行っていますし、あっちに行ったら二人で指すことなんてほとんどありませんから。最後に指して解散って形です」

「習慣よ。わたしは師匠と戦うことが最後の調整になってるの。だからたくさん他の人と戦った後はこうしないと自分を崩しそうで嫌なのよ」

「……なるほど。そう言えば良いのね」

 

 何か悪いことを思い付いたような空さんのことを追求することなく、大阪まで指し続けた。

 駅に着いてからは晶さんが迎えを呼んでいたようでリムジンで全員を乗せてくれてそれぞれの家まで送ってくれた。空さんと清滝さんはリムジンに乗るのが初めてでソワソワとしていたけど、そうだよなあ。こんな高級車に乗る機会なんてまずないよなあと僕の感覚が狂っていたことを突き付けられた。

 この後、三月に入ってすぐ。

 将棋指しにとって一番長い一日と言われる順位戦最終日を迎える。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29 女王一局目

 正直に言ってしまって、僕にとって順位戦最後の日というのは全然緊張することはなかった。この日までに九勝していて、簡単な話最終戦を待つことなく昇格を確定させていたからだ。二年連続の昇級ということで来年からB級2組が決まった試合。

 せっかくなのだからと、全勝通過をした。このことに天衣ちゃんがすぐにメールをくれたのが嬉しかった。対局も早めに終わってしまったので他の人たちを見る。

 

 降格しそうな人にとっては崖っぷちだし、昇格するかどうかの人はここで逃すと一年を棒に振ることになる。今日までに結果が決まっていない人たちは本当に死に物狂いで対局に挑んでいる。

 何で棋士が順位戦に力を入れるのか。名人位に挑戦したいということもあるだろうけど、一番の理由はクラスによって対局料の金額が決まるからだ。

 棋士の対局料、その基本給は所属しているクラスによって決められている。だからタイトル戦で結構勝っていてもクラスが低ければ年収で見ると低かったりする。僕も一年目はそんなに金額は高くなかった。けど昇級してからはかなり収入が増えた。

 

 タイトルは獲ってないのに去年から比べると下手したら倍増くらいしている。子供向けのイベントとかに出ておらず、平日は学校にも行っているから仕事も多くない。

 なのに収入が増えたのは昇級したからだ。

 C級2組にずっといると収入という意味ではかなり差が出てくる。

 そのC級2組にいるのに竜王なんて獲得してタイトル戦でも上の方に来る九頭竜さんは例外的な人だ。むしろ何であの人は順位戦で負けるんだろう?

 

 棋界最強の称号は竜王だけど、やっぱり名誉があるのは名人だ。名人になるには厳しい順位戦を勝ち上がってA級に入り、そこでトップの成績を残さないと挑戦できない。瞬間的な最強で良いのなら竜王になれるけど、名人は長年の積み重ねを示す時間のかかるタイトルだ。若造じゃ挑戦もできない、格式のあるタイトル。

 だからこの名人に挑むための順位戦が棋士のステータスを表す給料に反映される。段位じゃなく、ここ数年の実力で判断されるというのは給料の決め方として正しいのかもしれない。段位は獲得したら落ちたりしないから段位だけで給料を決めたら若手はずっと給料が上がらない。

 

 実力社会だからこその措置だ。

 九頭竜さんと蔵王九段の対局だけど、蔵王九段の戦法に翻弄された九頭竜さんが負けた。蔵王九段はこれを引退対局にしようとしていたので勝利で終えられて安堵したのか。それとも若い才能をどう思ったのか。それは僕には窺い知れない。

 九頭竜さんは負けたものの、勝ち星の関係で昇級していた。

 そしてもう一つの注目すべき対局。清滝九段と神鍋七段の対局は清滝九段の勝利。この結果から神鍋七段はB級1組に昇格して清滝九段もB級2組に残留していた。降格寸前だった清滝九段は何とか踏み留まった形だ。

 

 来年のクラスも決まったということで順位戦の次の日に天衣ちゃんを連れて回らないお寿司屋さんに来ていた。お祝い事って何で焼肉かお寿司なんだろうね。美味しいから良いけど。

 これは僕のお祝い兼これから始まる天衣ちゃんへの女王戦への激励会だ。四月から空さんと五番勝負をすることになるために初めてのタイトル戦に挑む弟子への景気付けみたいなもの。

 

「いやあ、でも良かったよ。弟子の方が先にタイトル戦に出るなんてことにならなくて」

「先生、そういうことはよくあるのか?」

「七大タイトルになると、師匠が出ていないのに弟子がタイトル戦に出るみたいなことはよくありますね。タイトル戦に出られる人は棋士でも極一部ですから」

「先生はそのタイトル戦にこの前挑戦しただろう?」

「ええ、まあ。トーナメントで勝ち上がらないといけないので段位や順位戦のクラスが上でもタイトル挑戦できない方はいます。山刀伐さんも今回初めてのタイトル戦ですから」

「そういうものか。あ、大将えんがわ」

「はいよ!」

 

 お寿司を食べながら晶さんに質問をされる。僕や九頭竜さんがおかしいだけでタイトル戦に挑める人は少ない。みんなで名人に勝とうとして研鑽を積んでいる人達がタイトル戦の上位に来て、その人達に勝たないとタイトル戦に挑めない。

 しかも挑んだ先が名人なことが多数。今名人が持っていないタイトルは玉将と帝位だけだ。生石さんや於鬼頭(おきと)さんもかなり強い方だからタイトルを奪うのは至難の業だろう。名人に挑むのとどっちが良いんだか。

 

「わたしはお兄ちゃんが師匠で良かったわ。タイトル経験がない師匠を持つと苦労しそうだもの」

「タイトルが全てってわけでもないんだけどね。でもやっぱり弟子が先にタイトル戦に出るのは悔しいみたいだよ?まあ、僕は意地で守らせてもらったけど」

「ふん。じゃあタイトルをもらってくるわ。浪速の白雪姫を一奨励会員に叩き落とす」

「三段リーグも大変そうだからね。重荷を下ろしてあげるのも優しさだよ」

 

 空さん、三段編入試験で千日手からの負けを喫したみたいだ。ライバルを一人増やしてしまったらしい。椚二段も結局三段に昇段したみたいだし、また三段リーグは大変そうだ。

 史上最年少棋士誕生か、初の女性棋士誕生か、三段復帰の古参が下克上を見せるのか。今回のリーグも話題性が抜群だ。天衣ちゃんが挑む時はそんなことにならなければ良いけど。

 

「一局目、神戸になったんだって?」

「そう。お互い関西で学生だから西日本中心になるんですって」

「その辺りは会長と、あとは弘天さんが手を回したんだろうね」

「おじいちゃまが?」

「将棋連盟の発展のために尽力してくださってるからね。孫娘のためならちょっとくらい力を貸すよ」

 

 多分。そうじゃないと西日本で纏まる理由がわからない。一局くらいは関東でやった方が話題性があるのに移動のリスクを考えて西日本だけにしたのは弘天さんの力が大きいと思う。

 あとは空さんも体が弱いから無理に北海道とかに行かせるわけにもいかなかったんだろう。

 月光会長も天衣ちゃんと空さんを気に掛けているからスケジュールとかは融通を利かせているんだろうな。

 

「僕もかなり融通してもらったから、二人の対局も手を掛けてくれるよ。月光会長が大阪の人だからこそだろうね」

「やっぱり会長がどちらかで変わるの?」

「そこにいるかどうかって、結局目の届きやすさが違うから。あとは月光会長が清滝門下と兄弟関係だから空さんに手厚い援助をしてるんだろうね」

「一門に甘いのはどこも同じなのね。お兄ちゃんだってこうやってすぐに食事に連れ出すし」

「ご飯は僕が食べたいからっていうのもあるよ。僕一人じゃこんなお店にも来られないからちょうど良かったりするんだよね」

「あら。つまりわたしは都合の良い女ってわけね?」

「どこでそんな言葉覚えたのさ……」

 

 一人での食事って味気なかったり恥ずかしかったりするから天衣ちゃんと晶さんがいるのはありがたかったりする。それを都合の良い女とは思ってないんだよなあ。

 僕からしたら両親の代わりに天衣ちゃんを甘やかしてるようなものだし。

 それに、天衣ちゃんが居て助かったことは僕にもたくさんある。彼女の笑顔が、純粋に将棋を楽しむ姿が、歳上の僕に負けて本気で悔しがる向上心が。

 真摯に将棋に取り組む姿が、研究会や奨励会でどれだけ励みになったことか。

 僕がやっていることなんてその恩返しでしかない。

 

「天衣ちゃん、タイトル獲ったら何か欲しいものある?あるなら用意するけど」

「それも将棋界の習わし?」

「そうだね。新人王とかの小タイトルだとそうでもないけど、女王は女流の正式タイトルだから一門でお祝いするよ。僕達の門下だと生石さんを祝う会でしかないけどね」

「それは名人が強すぎるからでしょ」

 

 七大タイトルの保有者を出す一門なんてほとんどいない。A級棋士が出ても祝ってたらしいけど、そんなA級も今や生石さんだけ。居飛車が台頭しすぎた。

 振り飛車一派だからこそ頑張りたいけど。ちょっとそういう慶事が少なくなっているからこそタイトル挑戦をした僕や最年少タイトル挑戦という女流記録を作った天衣ちゃんが注目される。

 名人の一強を崩すことを期待されているということ。後は最近上がり調子の清滝門下に負けていられるかという思いもある。

 

 基本棋士って負けず嫌いだから対抗心メラメラで勝とうとする。ワクチンの開発とか、新戦術の考案などをして一矢報いる。そういう向上心がないと棋士としてやっていけない。

 勝負の世界で割と大事なものはメンタルだと、最近思うようになった。メンタルがダメダメだと良い将棋なんてできっこない。

 

「……そうね。なら欲しいものがあるわ」

「ん?何々?何が欲しいの?」

「ものじゃないかもしれないけど、お兄ちゃんの時間を一日ちょうだい」

「時間?一日空けておけばいいの?」

「ええ。それでお願い。あとはご飯とかもおねだりするかもだけど」

「それくらいは良いよ。じゃあタイトル獲ったら二人でどこかに遊びに行こうか」

「ええ。約束ね」

 

 二人って初めてかも。必ず誰かしらと一緒にいたけど、僕と天衣ちゃんだけで遊びに行くことはなかった。天衣ちゃんが幼いから子供だけで遊びに行くってこともなかったんだろう。天衣ちゃんが今のお屋敷に引き取られてからは晶さんが基本的に一緒にいるから二人だけはなかった。

 お寿司を食べ終わってその日は解散。

 僕は色々なタイトル戦の予選に挑みつつこれといった激戦があったわけでもなく。

 天衣ちゃんの女王戦一局目が始まった。

 

────

 

 神戸のプリンスホテル。そこのスイートルームで行われる女王一局目。

 天衣は対局が始まる前に晶を連れてホテルの近くの墓地に来ていた。そこには夜叉神家のお墓があるのだ。お花を添えて線香を挿して。

 両手を合わせて意気込みを述べていた。

 

「行ってくるわ。お父様、お母様。そこで見守っていて」

 

 言葉は短く、決意は強く。

 天衣は部屋に戻ってすぐに着替えて決戦の場へ向かった。

 そこには取材陣も連盟関係者もわんさかおり、対局者達が入場してくる。どちらも袴を着て入り、女王空は白と青の袴を、挑戦者の天衣は全体が黒く帯だけが赤い袴で入ってきた。

 

 史上最年少タイトル挑戦者の天衣に焚かれるフラッシュの数が多い。二人とも将棋盤の前に座り天衣は扇子を手提げ袋から出す。

 二人とも名人研で顔を合わせているために今更語ることはない。ただぶつかり合うだけだ。

 空は矢倉を。天衣は三間飛車を。お互いの得意分野で叩き合う。

 袖で駒が吹き飛ばないように気を付けながらお互いの大駒を食い合う。

 

「違う、違う違う違う!」

 

 天衣の声が大きくなる。違うと判断したルートが頭から消えていき、天衣の中には一本道だけが残る。その筋道が間違いないように確認しながら天衣は金の頭打ちをする。

 竜が包囲し、角が奥から狙いを定め。守りも重厚なまま天衣は一つ息を吐く。

 

「……負けました」

「ありがとうございました」

 

 夜叉神天衣。

 十歳四ヶ月で女流タイトル勝利記録樹立。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30 微妙なお年頃

 天衣ちゃんが格上の空さんに女王戦で勝った。その事実に僕は奮起させられたんだと思う。タイトル戦で勝った。まだタイトルを奪取したわけでもないけど、五局の内の一局でしかないけど勝ちは勝ちだ。そう思うとどの棋戦でも気合が入った。

 四月は年度切り替えのタイミングだから、実は棋士にとっては対局の少ない月だったりする。NHK杯とかの放送をしているから世間の目に触れる機会は多いし、名人戦もしているから一般的にはかなり話題になるけどそれ以外となるとタイトル戦は叡王戦しかない。

 

 その叡王戦も七大タイトルじゃない上に優勝者はAIと戦わなくちゃいけないしほぼ絶対負けるとなると棋士としては好きなタイトル戦ではない。僕も負けちゃったから叡王戦は関係ないし、名人戦はクラスが違うからカスリもしないタイトル戦だ。

 となると僕が戦う棋戦は一般棋戦の銀河戦に七大タイトルの棋帝、玉座、帝位の本戦と竜王戦のランキング戦が組まれるくらいだった。

 盤王はシードをもらったから予選免除。そういうわけで色々と棋戦を戦い抜いた結果。

 

「碓氷暁人六段、棋帝戦挑戦者となりました!六月にある名人との五番勝負に挑みます!」

 

 持ち時間の短い棋帝戦を勝ち上がり、また名人と戦える舞台を手にしていた。一次予選は一時間、二次予選は三時間という短い持ち時間で、本戦になってようやく四時間になったけど結局早指しをしなければいけないこの戦いは厳しいものがあった。

 けど勝ってまた名人と戦えるんだ。四月に決まって六月にタイトル戦というちょっと時間が空く不思議なスケジュールだけどこれは準備ができると思っていいことだと思うことにしよう。

 というか、相手の名人が忙しすぎる。生石兄弟子が持っている玉将以外全部のタイトルを持っているために六個のタイトルでは全部防衛戦をしなければいけないんだから。六月は名人の防衛をしながら僕との対局になる。

 

「いやいや、これが案外タイトルを多く持ってた方が楽なんだよ。予選も本戦もなくてただタイトル戦に集中できるからね。今の私は一般棋戦と順位戦、それに玉座戦以外はどっしりと構えていられる。スケジュールも決まっているからこうして名人研も開きやすくて助かる」

「そういうものですか?」

 

 平日に東京に来て名人の家で指していた。僕はこの四月に学業から解放されて平日が空くようになった。空いたら空いたで月光会長にインタビューやら将棋指導やら解説やらの仕事を任されたから存外暇ってわけじゃないんだけど。

 碓氷フィーバーなる言葉があるらしく、僕の関連商品は売れて僕が出演した番組の視聴率は良いようだ。僕の名前が使われるのはなんだかなあという気持ち。タイトルを獲ったわけでもないただの棋士なのに。去年みたいに中学生棋士とは呼ばれずただの棋士になる。

 

 この名人研、今日は僕と名人と天衣ちゃんと鹿路庭さんに鏡洲さんしかいない。平日だしそんなものだろう。空さんは高校に進学したから普通に学校に通ってるんだろうし、山刀伐さんは解説のお仕事。清滝さんは女流の大会があって出場している。

 天衣ちゃんは特別日課で午前中授業だったのですぐに新幹線に乗ってそのまま来た形だ。

 僕は名人と指して、天衣ちゃんは鏡洲さんと指している。鏡洲さんも何回か参加して慣れたのか僕や名人ともバンバン指す。学びが多くて素晴らしいと歓喜していた。

 

「碓氷君、絶好調みたいじゃないか。今のところ七大タイトルは負けなしだって?」

「はい。棋帝以外でも名人に挑戦したいんですが、ここからは本当に強い人ばかりで苦戦しそうです」

「俺も九頭竜も負けましたよ。……おっと、世間話に花を咲かせてる場合じゃないな、こりゃ」

 

 鏡洲さんも加わろうとしたら天衣ちゃんがバシン!と駒を叩きつけていた。こっちに集中しなさいと怒っているようだった。まあ、この盤面だと天衣ちゃんは集中を乱せないだろう。

 一方鏡洲さんからすれば十五手詰が見えているから気が緩んだところで僕達の会話に入ってきたってところだろう。もう少ししたら鏡洲さんが投了するはずだ。

 この前玉座戦で九頭竜さんに勝った。僕が先手をもらってそのまま振り飛車でなんとか押し切った形だった。美しくない盤面でただただ力で振り切るしかなかった。それだけ九頭竜さんが強く、一瞬でも美しい盤面を、なんて考えたら吹っ飛ばされると思ってできる限りの頭を回した結果盤面はグチャグチャの力戦になった。

 

 両入玉したわけじゃないけど、かなり守りが薄い布陣になっていた。ちょっとでもミスったら負けていたと思う。先手じゃなかったら危なかった。本当にあの人は強すぎる。名人と一緒で気を抜けない。

 ただ、九頭竜さんと戦う時は名人の時のようにあの変な空間に行くことはなかったんだよね。九頭竜さんとも何回か指せばあの状態になるだろうか。

 僕と名人の対局も終わった頃、天衣ちゃんも勝っていた。師弟揃って勝ったのは嬉しい。

 

「いやいや、夜叉神ちゃん強すぎ。銀子ちゃんに勝ったのも納得だわ」

「一回で終わらせる気はないわ。このままタイトルも貰う」

「良い意気込みだ。三段リーグを思い出すな。……銀子ちゃんの方はこれで三段リーグの方で調子を崩さなきゃ良いけど」

「今のところ全勝スタートをしているので大丈夫じゃないですか?」

 

 空さんは今やこの名人研に参加している身内なので三段リーグの戦績も確認している。まだ二戦しかしていないけど空さんは二勝している。これは女王戦の前の対局だから次がどうなるかわからないと鏡洲さんは心配しているんだろうけど、メンタルの維持なんて本人にしかできないからなあ。

 対局が必要なら僕達はいくらでもする。せっかく同じ研究会にいるんだから利用してほしい。女王戦だけは僕は天衣ちゃんの味方だけど、それ以外だったらなんだってしよう。

 ただまあその魔の三段リーグで、早速波乱が起きてるみたいなんだよね。

 

「椚君、いきなり黒が付いてしまったんですね。小学生棋士なんてものが期待されてるから凄く注目されていますけど、大丈夫でしょうか?」

「おや。彼が心配かい?碓氷君」

「僕や九頭竜さんに続く人間として期待されていますからね。特に僕が一期抜けなんてことをしてしまったので彼もできるだろうって一般の人が思ってしまう。それって重責なのかなと思いまして」

「当時はそんなこと思ってなかったくせに」

「それはそう。今も僕が早くタイトル獲って欲しいっていうマスコミのプレッシャーを知って思い至ったくらいだよ」

 

 三段リーグの頃は天衣ちゃんの言うように重責なんて感じる暇がなかった。僕のことがあんまり注目されていなかったこととまさか一期抜けするとは思われていなかったせいで僕はスルスルと抜けていってしまった。最終戦が近くなってようやく大記録になるぞと騒がれ始めたくらいだ。

 それと比べると最初から注目されている空さんと椚君、あと三段リーグに編入した辛香さんは大変だろうな。

 

「椚君は誰に負けたんだい?」

「三段リーグに編入した辛香さんという方です。確か生石兄弟子の奨励会同期だとかで兄弟子が少し話していましたよ。空さんを負かして編入したので実力は確かです」

「努力の人、というわけだね」

 

 辛香さんのことは正直あまり知らない。兄弟子も上がってきたら気にすれば良いとしか言わなかったし。三段リーグの棋譜も集められないからどんな将棋だったのかもわからない。一般じゃ三段リーグの棋譜を集められなくなった。奨励会員じゃないとダメという形に規則が変わったらしい。

 それだけ三段リーグも注目を浴びるようになったということだ。プロになる前にそんな注目を浴びてどうするんだろうとは思ってしまう。女流は女流としてプロで記録にも残るけど、奨励会なんて四段昇段以外であまり記録らしい記録を残してもプロになってからそこまで意味のある記録じゃないから、奨励会の記録なんてどうでも良いと思ってしまう僕はズレているのだろうか。

 中学生棋士は全員タイトルを獲得したとか、そういう話はある。けどそんな少数のことじゃなくもっと有意義なデータを用いるべきじゃないだろうかと思ってしまう。

 これ、天衣ちゃんが三段リーグに挑戦する時も大変そうだよなあ。

 

「三段リーグはまだ先の話よ。今は女王戦に集中するわ」

「それが良い。鏡洲さんどうでしたか?」

「三段リーグが長かった俺だからこそ言える。十分三段リーグでやっていけるだろ。その三段リーグに挑戦中の銀子ちゃんにも勝ち目はあるだろうな」

「勝ち目、ですか。どっちが強いとは断言されないんですね」

「十代なんてすぐに強くなる。しかも恋する乙女は最強だぞ?今銀子ちゃんの状態がわからないからなんとも言えないな」

「恋する乙女ですか」

 

 そんなに強いものだろうか。空さんは確かに強くなった気がするけど空さんが九頭竜さんを好きなのはそれこそ昔からだし、もう一人の恋する乙女に分類される雛鶴さんはそこまでの成果を発揮していない。彼女は将棋経験がなさすぎて除去すべきか。

 他の恋する乙女……。清滝さんは乙女という年齢ではないし、大人の恋愛事情に首を突っ込むのはどうかと思う。晶さんは将棋をやってないし、天衣ちゃんはどうなんだろう。そういう話をしたことがない。雛鶴さんの例があるから天衣ちゃんが早すぎるというわけでもない。

 師匠だからって弟子の恋愛事情に首を突っ込むのはどうなんだ。聞くのも正直嫌だなぁ。

 

「そんなところでも性差が。面白い。だがそれなら適齢期の女性はもっと強いはずでは……?」

「もしそれが本当なら今頃女性が覇権を取ってますよ……。名人、迷信を信じないでください」

「恋する乙女同士が戦ったら勝敗は変わらないじゃない。少し考えればわかることですよ、名人」

 

 名人が感心していたけど、鹿路庭さんと天衣ちゃんが否定する。

 空さんが無敵だった理由が恋する乙女だったから、なんて話は勝負飯がカレーだったから勝てたとか、アイスを食べたから勝てたとかと同じような迷信でしかない。カレーを食べたって負ける時は負けるし、神奈川の有名な旅館だったら両対局者ともカレーを食べるんだから論も何もなくなる。

 ……祭神女流帝位が圧倒的だった理由が恋する乙女だったから、という説を出しそうになったけどやめた。天衣ちゃんに負けたこともあったし、棋士には負けたこともあるんだから結局全勝ではない。

 

 僕達の研究の参考にもできない論なんだよね。男だから乙女にはなれない。しかも勝つために恋するなんて恋への侮辱でしかない。

 恋ってもっと崇高で、相手のことを想って。とんだ我儘で自己愛的でめちゃくちゃで、それこそ周りも見えないくらい我武者羅に突き進むもので。

 結局は、想いの押し付けだ。だから僕は我慢しなくちゃいけない。晶さんにそれとなく突かれるのは正直冷や汗もので困る。

 

 僕は名人研の後もかなり調子が良かった。

 そして天衣ちゃんは女王戦の二局目を落とし、イーブンに。女王は健在だと世間を賑わせた。

 だけど五月の頭。第三局でまた世間を沸かせる対局結果になった。天衣ちゃんが快勝譜を残して女王へリーチをかけた。

 

 小学生女王の誕生。空さんよりも二年も早い偉業達成なるか。そして空さんはこのまま三段リーグにも悪影響を及ぼしてしまうのか。そんな風にマスコミは騒ぐ。

 でも三段リーグではまだ無敗の空さん。第四局は将棋界でかなりの注目を浴びることになった。

 決戦の地は鹿児島の指宿(いぶすき)。僕もその日は仕事を振られなかったので現地に行くことにする。前夜祭から乗り込む気だった。

 

「弟子に先にタイトル取られるのか?いやあ、師匠想いな弟子だな」

「兄弟子だって大槌師匠に同じことやったくせに」

「おう。お前が玉将に挑んでくればそんなことなかったかもしれなかったのにな」

「負けてくれるつもりだったんですか?」

「馬鹿言うな。真っ向から潰してやるよ」

 

 最終調整で来ていたゴキゲンの湯で生石さんにそう揶揄われた。山刀伐さんを倒して防衛した、現在名人以外の唯一のタイトルホルダーの言葉は格が違った。

 

「というか生石さん、一応空さんの研究仲間でしょう?応援しなくて良いんですか?」

「それを言ったら夜叉神ちゃんなんて姪弟子で同門だぞ?この場合俺が夜叉神ちゃんを応援する方が筋が通ってる」

「確かに」

「銀子ちゃんも三段リーグで調子は悪くなさそうなんだがな。……お前、本当にあの子に何した?」

「前から言ってますけど、特別なことは何も。名人の個人レッスンを受けてるくらいですかね?」

「個人レッスンって名前のガチバトルだろ。それができる時点で小学生としてはありえないんだよな……。あの子は、俺達の場所まで来るぞ」

「その日が楽しみです」

 

 それこそを僕は望んでいるんだから。最初は女王を目標にしていたけど、天衣ちゃんはそんなところで止まる子じゃない。女流に居続けたら女流帝位の言葉じゃないけど「才能が腐る」。名人と指せる実力が鈍ってしまう。

 だから僕はもう女王以外の女流のタイトルには参加させる気がない。もう女流で天衣ちゃんと戦えるのは極少数だ。その極少数と勝ち上がった末に戦うくらいなら奨励会に集中させた方がいい。

 マイナビだって正直実力差がありすぎる。今回女王を奪えなくても来年以降はどうしようと悩んでいるくらいだ。

 

 だって今までが空さんと女流帝位の二強状態で、その二人に勝ち星をつけられる女流棋士は天衣ちゃん以外に二人しかいない。焙烙さんと登龍さんだけ。そんなピラミッドが完成されてしまった場所で燻る理由がない。

 だから女王を奪えなかったら来年のマイナビをどうするか。しっかりと天衣ちゃんと話し合おう。女王に拘るのか、上のステージを見るのか。

 そこは尊重させないと。女王なんて天衣ちゃんは両親との約束だからそんなに軽いものじゃない。

 でもきっと、人生を左右する選択になる。このままタイトルを獲得できることが一番揉め事がない結果になる。願わくば、彼女に祝福を。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

31 似た者同士

 指宿の旅館で行われる女王戦第四局。ここには将棋ファンはもちろんのこと、記者や関係者が数多く訪れていた。この一局で女王が決まる可能性が高いために記者はその瞬間を見逃さないために集まっていた。女王はこれまで空銀子が不動の玉座にいる。空銀子は誰にも負けなかったために女王は代わり映えがしなかった。祭神雷ですら落とせなかった、女性棋士最高の称号。

 そこにリーチをかけたのがまだ小学生の夜叉神天衣。史上最年少の偉業を成そうとしている人物が、二勝一敗という結果で今日勝てば女王の座を奪取できるという場まで登りつめていた。もし今日勝てば女王の獲得年齢を大きく更新する。

 

 そして夜叉神の注目される年齢以外の理由は、やはり師匠の存在が大きいだろう。既に棋士の中で存在感を出している碓氷暁人はタイトルこそ獲得していないものの名人と渡り合える天才。その弟子としての才覚をしっかりと見せつけるかの如く成績を叩き出していた。

 奨励会にも進み、今回のこの結果だ。容姿も良いことからメディアはかなり騒ぎ立てていた。

 そんな夜叉神の準備が整って対局室へ向かう前に、暁人が廊下で待っていた。女王戦で顔を出せたのはこの第四局が初めて。それ以外の日程では全て対局が被っていて応援に来ることはできなかった。

 だからこそ、この大事な対局に顔を出せて良かったと思っていた。

 

「天衣ちゃん。君は僕にとって初めての弟子だけど。──断言するよ。君は最強で、最高の弟子だ。だから女性の一番の座を、奪えるよ」

「ありがとう、師匠。──行ってきます」

 

 天衣は第一局と同じ黒い着物で対局室へ向かう。

 高校生対小学生。その対面だけでも異色だというのに、それが女王という女性棋士の頂点を決めるタイトル戦で。しかも小学生が王手をかけている。

 少女は進む。わざわざ顔を出してくれた師匠と同じ場所には立てていない。だからこそ、同じ土俵に立つための通過点として亡き母との約束を果たす。

 座布団の上に座り、小物入れから扇子を取り出す。「天衣無縫」と書かれたその扇子。それを閉じたまま両手で持ち、対局者を待つ。

 のちの将棋界にも存在しない、高校生と小学生の女王戦第四局が始まろうとしていた。

 

・・・・・

 

 その対局は静かな始まりだった。天衣は四間飛車による振り飛車、空は一手損角換わりという立ち上がり。最初のうちは定跡通りに進み、決定的な動きはなかった。空がこの大一番で選択した戦術がとある弟弟子を彷彿とさせたが、記者達が少し慌てたが棋士関係者は特に何も思わなかった。

 何せすでにその弟弟子のタイトル戦の際にVSを散々していたと噂になっているのだ。その弟弟子の得意戦法を使ったところで記者が話のネタとして食い付く以外は、棋士からすれば平常な光景である。同門なのだから戦法が同じになっても何もおかしくはない。

 

 そんなことを言い始めたら、天衣だって振り飛車を使っているのは師匠と一門の影響だ。戦法一つで騒いでいたらキリがない。特にこの二人は女性どころか棋士からしても珍しいオールラウンダーだ。居飛車も振り飛車もどっちもできるのは珍しい。

 男性は圧倒的に居飛車、女性は振り飛車の数が大多数を占めている。対処法を研究しても自分では使えない戦法というのは棋士でも多々ある。だが彼女達はかなりの勉強量を己に課してどんな戦法でもある程度は使えるようになっていた。

 

 それこそが強くなるための手段だと幼少期から学んでいたのだ。

 空は棋士の世界を目指しつつ女性の世界でも無敗でいることを幼馴染みの隣に立つための条件だと勝手に自分で縛り付けたために小さい時に酷い暴言を吐いた生石玉将へ頭を下げて研究仲間になってもらった。居飛車は師匠と弟弟子との研究で学び、オールラウンダーとなった。

 天衣も元々は父の影響で居飛車派だった。だが暁人のことを理解するために振り飛車にも手を出し、大槌一門に入ることを前提として暁人から振り飛車も重点的に教わった。その結果ハイブリッドになったという、周りから見れば天才少女の出来上がり。

 

 この二人は実のところ共通点が多い。

 将棋の努力量が半端じゃないこと。後天的にオールラウンダーになったこと。奨励会に挑んでいること。女性の中では飛び抜けた才能を持っていること。

 将棋を通して、好きな人に振り向いて欲しいこと。

 少し年齢差があって、少し環境に差異があって。だが本質は似ている二人だ。女流棋士の頂点を決めるための舞台で激突することは必然の運命だったと言ってもいい。

 

 対局自体も、女性だからと、まだ学生だからと色眼鏡で見られるようなものではなかった。どの対局も百手を超える力戦ばかり。どちらに天秤が傾くのかも終盤までわからないほど拮抗した勝負。この三局の棋譜を見れば奨励会に属している人間はもちろんのこと、棋士でも感嘆の息を吐くほどの美しい棋譜ばかりだった。

 この第四局が動いたのは両対局者が持ち時間を一時間ほど消費した頃。女王の空が攻勢に出て定跡から脱した。防御を最低限の囲いと持ち駒でどうにかすると決めた空は攻勢に出る。

 

 そこからはずっと空が攻め続けた。一手損角換わりという先手のアドバンテージを覆せる戦法が功を奏して空はずっと攻め続ける。途中の昼食休憩でしっかりと栄養を取り、午後からの対局でも最適解を見つけ続けた。

 絶好調と呼んでもいい指運だった。頭で考える前にこれが最適なルートだと何処かで理解していた。相手がどう指すのか、どうすれば相手を追い詰められるのか。それが瞬時にわかってしまう。

 この状態がどういうことか、空は理解していた。

 

(これが八一達の見ている世界……。私もやっと追いつけたの?)

 

 八十手を超えて、まだ指し続ける。

 だが、おかしい。

 いくら攻めても相手の玉に届かないのだ。

 夜叉神天衣という女流棋士は短い手で相手を吹っ飛ばすことが多いために彼女は攻めるのが好きな人間だと思われている。所属している一門も誰もが振り飛車党であり、振り飛車なんてものは攻めて攻めての大駒の斬り合いだ。

 師匠も例に漏れずオールラウンダー寄りの振り飛車派であるため、そんな誤解が広まっても仕方がないだろう。公式戦で見せる姿から勝気な少女だと思われることが多い。

 

 だが、天衣の本質は父から譲り受けた受け将棋だ。彼女にもその才能が受け継がれており、我慢強い精神と才能がなければできない受け将棋を、まだ十歳で完璧にできていた。

 空はそんな才能を名人研で何度か見ていた。だからこそ天衣をあまり詳しく知らない人間よりも理解していたと言える。

 この状況は、誘い込まれたのだと。

 

「あなた、とても良い景色が見えているみたいね?でも残念。わたし、その領域は去年の五月に通り過ぎた場所なの。今はその上を、知ってる」

 

 飛車の暴威が、戦場を荒らす。

 空が使う将棋星人という人間が見ている領域に、空もこの対局で辿り着いた。将棋界でも一握りしか到達していない天才の領域だ。

 だが、その領域に辿り着いていた暁人とどれだけ対局を続けてきたか。空だって九頭竜とVSをしてきたためにその領域に近付いていただろう。

 空と天衣の差は、そんな将棋星人達の中でも更に上澄みの、神の位置に座する名人と、その名人と訳のわからない意思疎通を果たした暁人と本気でぶつかり合ったということが大きい。

 

 空も九頭竜と清滝という将棋のトッププロと戦ってきた。生石とも研究会を開いて実力を磨いてきた。

 だが天衣はその領域の上の景色を、二視点から学ぶことができていた。そして辛うじてであっても暁人と少しは同じ思考を共有できたのだ。

 天衣はそんな力を、出し惜しみもなく振るった。

 尊敬する女性として、自分の先を行く先輩として。この価値のあるタイトルで全力で叩き潰すことにした。

 それが最大の餞となると信じて。

 

 上の領域に侵食された空は最適解なんて見えなかった。それでも最善手を指し続け、百十一手で投了。

 空が頭を下げた瞬間に大量のフラッシュが焚かれた。

 女性で最も強い、棋士に最も近い女性の敗北。最強の頂を冠する、史上二人目の女王の誕生。

 記者がいることなんて御構い無しに二人は感想戦を始める。空はこの四戦が糧になるとわかったからこそこの一局も真剣に思い返したかった。奨励会での対局に活かしたかったために。

 天衣もそれに応えて自分の見えていたルートを示し続ける。だが、一方でこんなことを天衣は言った。

 

「でも、これってまだわたしも完璧じゃないのよ。うっすらと見えるだけ。あなたのルートは見えていたけれど、それ以上のルートは思い付いちゃっただけ。その思考の行き着く先や過程とかはすっ飛ばされて、でも今よりも良い手だなと思えたから指しただけなのよ」

「ふうん?よくそんな不確かなものに手を伸ばしたわね?」

「だって、そこがあの人達の見ている景色だから。そこに踏み込まなくちゃ、追い付けない。せめて同じ場所に立たないと対局もできないでしょう?いつまでも追いかけるだけじゃダメなのよ」

「……本当に、似た者同士ね。あなたと私」

 

 そこからの記者会見は大変だった。最年少記録の樹立。空への三段リーグへの懸念。小学生に負けたということでこれからの奨励会での対局では苦労するのではないかという質問が多かった。

 だが空は堂々と言い切る。

 

「この結果は偶然でも何でもありません。ただ夜叉神初段の方が強かった。それだけです。それこそ三段に昇段した私よりも。今回のことで思い知りました。彼女と三段リーグで闘いたくないので、私はさっさと三段を抜けることにします。彼女はすぐにも三段に上がってくるでしょうから」

 

 この発言は物議を交わしたがそれでも言いたかった。

 運で三回も勝てるほど将棋は優しい競技ではない。純粋に実力が劣っていたから負けたのだと空は胸を張っていた。

 そしてこの発言が正しかったと見せるように、彼女は女王戦が終わった後の三段リーグでも二連勝。これで六勝無敗という快進撃を続けていた。しかもどれも完勝譜と呼ばれるような一方的な結果であり、それを知った記者は空の言葉が間違っていなかったことと、そんな空に勝った天衣に恐怖を覚えた。

 

 天才の再来が、また奨励会を襲うと。師匠が師匠なら弟子も弟子だという認識を改めてしたのだ。

 記者会見も終わって、天衣はそのまま旅館に泊まることにした。記者会見は夕方にあったのでそこから神戸に帰るのは体力的に難しかったのだ。小学生なために体力も限界で、鹿児島からだと飛行機で帰るにしても吸収をそれなりに移動することになる。

 それよりは今日はしっかりと休んで、明日ゆっくりと帰ることにした。これは空も同じで二人とも昨日と同じ部屋に泊まることにした。

 部屋に戻る途中で暁人と晶が待っていた。全ての行程が終わって暁人は真っ先に彼女に祝福の言葉を言いたかったのだ。

 

「おめでとう、天衣ちゃん」

「ありがとう、お兄ちゃん。少しはあなたに近付けたかしら?」

「それはもちろん。三段リーグにいる空さんに三勝一敗。空さんの実力は疑いようがないし、天衣ちゃんは祭神さんにも勝ってる。間違いなく、女性の中で最強の存在だよ」

「お母様との約束は果たしたわ。これからはお父様との約束の番。──碓氷暁人との、公式戦よ」

「待ってる、って返すのが正解かな?」

「そうね。待ってなさい。絶対に、将棋であなたにぎゃふんって、言わせて、みる、んだから……」

 

 そこが体力の限界だったのか、天衣は前のめりに倒れそうになる。それを慌てて暁人が受け止めて晶と二人掛かりで部屋へ運んだ。着替えなどは晶が全て行い、世間では最強女性棋士の代替わりが騒がせている頃、その二代目小学生女王は眠り姫と化していた。

 そして公式戦ではないが、二人の対局は意外と早く決まる。

 暁人の二度目のタイトル戦。名人との棋帝戦ももう間も無くといったところ。その間も暁人はイベントへの出演や対局などで忙しかったが、将棋界でもとある計画が動こうとしていた。

 

 それは迅速に決まっていき、予算もスポンサーから快く降りてきた。

 なにせ話題性のある師弟。熱のある内にやっておきたいイベントではあった。

 暁人への負担は大きくなってしまうが、暁人自身は将棋界の発展に繋がるのならとあっさりと了承。本人も六月は忙しかったが、逆に早めの連絡だったために予定を空けられた。

 サプライズになるのは天衣側。サプライズを仕掛けられた天衣は想定通りに驚くことになる。

 女王になったからには様々な煩雑なことも増えていった。メディアへの出演にインタビューなど。そのサプライズもそういう一環だと受け入れた。

 

 ただそれが女王獲得をした褒美である暁人とのデート終わりに知らされるというのが気に食わなかったが。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

32 碓氷暁人

 暁人はその日、京都駅で待ち合わせをしていた。普段は大阪に住んでいるが大阪で出掛けようものならちょっと噂されかねないので暁人はあえて地元である京都を選んでいた。

 神戸を選ばなかったのは、相手の地元だからこそ行き慣れていていると思い新鮮さを求めて京都を選んだ。実のところ彼女はあまり京都に来たことがなかったのでそういう意味も込めて楽しめるだろうと暁人は考えていた。

 地元の人にバレないようにいつもは着たことのないようなお洒落な私服を着ていた。上は茶色のジャケット、下は黒のスラックス。頭には変装用の野球帽を被って、年相応の若者であることを見せ付けていた。一応自分が有名だという自覚があるのだ。だから顔は見えないようにしている。

 

 ちょっと早目に待っていて約束の時間の少し前に駅の前へリムジンが着く。そこから降りてくるのは予想通り天衣。

 天衣の格好はいつもの黒いゴスロリではなく空色のワンピースを着ていた。そして麦わら帽子も被っている。これなら黒い服で印象的な天衣だとバレないだろう。大阪でも神戸でもないので天衣がいるとも思われない。

 

 天衣は女流棋士の最年少タイトル記録を獲得したために連日テレビに出たため、顔も知られている。大阪で二人で歩いていたらすぐ噂になるだろう。九頭竜と空が歩いていたらすぐ掲示板やSNSで情報が流れる。そういうのを避けるために暁人は京都を選んだ。

 暁人の出身が京都だと、あまり知られていない。関西出身だと知られていても暁人があまり京都のことを話していないので知っている人しか知らない。それも込みで暁人は出掛けるなら京都が良いと考えていた。

 リムジンの運転席の窓が開き、晶が顔を見せる。

 

「では先生。お嬢様をお願いいたします」

「晶さんがついて来ないのは珍しいですね」

「お二人で出掛けるという約束をしているのに私がいてはお邪魔でしょう。ではお嬢様、夜七時にこちらへ迎えに来ますので」

「ええ、お願い」

 

 晶さんはすぐにリムジンを動かして帰ってしまう。駅の近くで車が停まっているのはマズイので神戸に戻ったかどこかで時間を潰しに行ったのだろう。

 二人になった暁人と天衣はどちらからともなく手を握って歩き出す。

 

「それでどこに行くの?全部任せちゃったけど」

「午前中は映画行こうか。僕が行きたい場所で良いんだよね?」

「ええ。わたしってお兄ちゃんのこと将棋でしか知らないなと思って。食事の好みは知ってるけど、その他のことってあまり知らないのよ。映画とか小説とか見てるのは知ってるけど、そのくらいしかプライベートを知らないわ」

「まあ、プライベートなんてそんなものでしょ。天衣ちゃんが来たら将棋やっちゃうんだし」

「将棋で繋がってるからこそでしょうね。将棋以上に大切なものなんてないもの」

 

 それが二人の関係性。昔からずっと変わらない、二人の繋がり。

 将棋以外のプライベートなんてどれだけ知っているのか。暁人は神戸の家に何度も行って泊まりもしているので天衣のことをかなり知っている。天衣の両親からも色々と聞いているので天衣のことばかり知られている。

 だというのに天衣は暁人のことをあまり知らない。暁人が神戸の家に来たからといって暁人が自分の趣味に耽るわけでもなく、やはり将棋の話ばかり。天衣の進路の話を弘天としたりして暁人自身の話はしない。京都の家にお邪魔することもなかった。

 

 暁人の実家に行ったことがないのは暁人の家族があまり将棋のことを詳しくないからだ。祖父ならもちろん詳しいが、両親はそこまで将棋に興味がないと言える。息子が頑張っているので応援こそするものの暁人がもたらした記録がどれだけすごいものなのか理解もしていなかったりする。

 そして暁人の休日の使い方も問題があった。平日はもちろん、休日の多くは大槌門下に顔を出したり研修会に顔を出していた。そして都合が合えば神戸の夜叉神家に顔を出す。そんな生活を繰り返していたために京都に行く機会がなかった。

 

 父親的にも休みの日は家でゆっくりしたかったということもある。そんな中他の家族が遊びに来ているというのも休まらないだろう。天祐はそんなことを気にしなかったので日曜日だろうが暁人を呼び出していたが、これは天祐の感覚がおかしいと言える。

 そういうわけで天衣は今日初めて暁人の家族に会うのだ。

 

「映画を観た後は僕の家に行って、母さんが作ってくれるご飯食べて。その後は買い物に行こうか」

「お兄ちゃんのご両親ね。結局一度も会ったことがなかったわ」

「二人とも将棋に興味ないから。僕の大阪の家も三ヶ月に一回くらいしか見に来ないし。後は三者面談とかないと大阪に来ないから会う機会がないよ」

「これだけ交流が長いのに不思議な話よね。お祖父様とは何回もお会いしているけれど」

「お爺ちゃんは天祐さんのライバルだったからね。まあでも、今日は母さんが張り切ってるから。会うのを楽しみにしてたよ」

「それはまた、なんで?」

「ニュースで天衣ちゃんのこと見たんだって。それで僕の弟子だってわかってびっくりしたとか。僕が棋士になった時点で弟子の女の子のことは伝えてたし、その弟子が僕のアパートに来るって伝えておいたんだけど。この前根掘り葉掘り聞かれたよ」

 

 暁人も何が何だかという状態だった。

 全部伝えておいたことを改めて説明するのは面倒だと暁人は思っていた。両親に事細かい説明をしてなんとか理解してもらい、今度家に連れて来なさいと言われたので今日連れて行くことにした。

 話している間に映画館に着く。

 観る映画は海外のアクション物。世界的に有名なアメリカ系列のヒーロー物だ。

 

「こういうのが好きなの?」

「頭空っぽにして見られるからね。ストーリーとか気にせずただ二時間ボーッと出来る時間っていいものだよ?」

「確かに頭の休憩にも良いかもね」

 

 ドリンクだけ買ってシアーターに入る。休日なだけあって結構な席が埋まっていた。二人の席は後ろ目の中央の席。ここを選んだのは音響的にも画面的にもかなりバランスが良いと暁人が長年の経験で思っていたから。

 映画の内容的にはアクション盛り盛りの悪役とヒーローが暴れるもの。それの吹き替えではなく英語字幕のものだった。

 アクションだらけだったので本当に大筋だけ理解していればわかる内容だったので頭を使うことはなかった。予算を相当かけたのかアクションもかなり派手でビルの倒壊はもちろん、街一つがボロボロになる始末。

 その派手さに現実的じゃないと思った天衣だったが、それこそが創作というものかと納得もしていた。CG技術自体も凄くて本当に物が崩壊していたり役者が浮いているようにも見えた。

 技術の結晶を、見られた。

 使われている技術などは素晴らしいものだと理解できた天衣だからこそ、見終わった後に暁人に質問をしていた。

 

「お兄ちゃん。どうして字幕付きで見たの?音と画面下の文字を追うのって疲れない?」

「あー。僕は慣れちゃったからなあ。聞こえてくる音と自分が変換する意味が違うっていうのは割と慣れてて。それと吹き替えがあまり好きじゃないんだよね。なんか本当に別人感が凄くて。役者さんの生の声が聞こえるのが好きっていうかさ」

「……そういうところで並行思考について鍛えてる?これはありそう……」

「こらこら。本当に息抜きなんだから将棋から頭を離す。僕はそこまで考えてないよ」

「むしろ無意識にしているからこそ鍛えられているんじゃない?」

「脳科学とかは興味ないからなあ」

 

 映画館からはバスで移動して暁人の実家へ。

 実家に行くと暁人の母が天衣のあまりの可愛らしさに玄関でハグをしていた。もう一人頑張って女の子を産めば良かったかしらなどと言う始末。

 家ではThe・家庭料理を食べてこういうのも久しぶりだと天衣はうんうんと頷きながらパクついた。その様子に母親はメロメロだったようでずっと可愛いと連呼していた。

 食後には天衣が祖父と将棋を一局だけ指した。結果は天衣の圧勝。九年前の段階で下り坂に陥った棋力で新進気鋭の天衣の相手は無茶だった。

 その一局が終わって、祖父は感慨深そうに天衣の頭を撫でた。

 

「老いぼれの願望を聞いてくれてありがとう。君には天祐君の将棋がしっかりと根付いておる。暁人、この子をちゃんと導いてあげなさい」

「わかってるよ、爺ちゃん」

 

 祖父から天祐と戦ったアマチュア時代の棋譜を貰って。

 その後はブティックに行って暁人は天衣に服を買っていた。

 タイトル獲得記念だ。これから暑くなってくるのでそれでも外出時に暑くならないようにとサマードレスを。薄めのエメラルドグリーンのドレスに着替えて出て来た天衣があまりにも似合っていたので拍手をしながら迎えてしまった。

 その服に似合うようなヒールサンダルも同時に購入。ブティックはこういう合わせやすい物も一式で購入できるのが良いところだ。ついでに小さいポシェットも買っていた。

 

 暁人はなんだかんだこうやって天衣に物を与えるのが好きだったりする。

 というか、中学生が持っている大金の使い道なんてこれくらいしかない。

 将棋のために必要な物を買っても勝ち星がえらいことになっている暁人の年収はウン千万だったりする。七大タイトル挑戦もしている上に負けたタイトル戦だってほとんどが予選最終戦辺りまで行っていたり、それこそ一般棋戦では優勝していたり。

 お金の使い先なんてちょっと豪華な食事と天衣へのプレゼントくらいしかないのだ。

 天衣も貰って嬉しいので受け取るのは拒否しない。そうなると天衣への物はかなり増えていく。

 着替えた天衣と一緒に京都の街を歩く。歴女の面がある天衣は京都の街に大興奮。暁人も地元のことなのでわかる範囲で説明をしつつ、お気に入りのお茶屋さんでティータイムにした。

 

「最中と栗最中?」

「そう。これと抹茶のセットが好きでね。研修会で昇級するとよく母さんに連れてきてもらったよ。爺ちゃんと一緒のことも多かったけど」

「渋い趣味だったのね」

「抹茶がダメなら他にも飲み物はあるよ?」

「良いのよ。今日はお兄ちゃんを知る日なんだから」

 

 結局抹茶が苦かったようで、あまり進まなかったが天衣は飲みきっていた。最中は気に入ったようで持ち帰りも頼むほど。

 抹茶については幼少期から好きだった暁人の味覚がおかしいと言うべきだ。京都の本格的なお抹茶というやつで本当に苦味が強い。なのに暁人は子供の時からこれと最中の組み合わせが好きだった。

 暁人は舌がバカというわけではないのだが、抹茶に特に好みが合致したのだろう。昔から結構珍しく思われていて注文した瞬間にお店の人に久しぶりだねえと言われてしまったほどだ。帰ってきたら来るようにしているが、それでも京都に帰ってきたのは半年ぶりくらいになる。レアキャラ扱いもおかしくはないだろう。

 ティータイムが終わった後も京都観光は続く。山城桜花の会場にも行き、もう参加することのない女流の場も改めて。

 陽が落ちて、もうすぐ帰りの時間ということで京都駅へ向かった。

 

「こんな感じで良かったの?僕のことが知りたいっていうのは」

「うん。お兄ちゃんが育った街を知れた。全然知らなかったことを知れた。十分よ」

「天衣ちゃんが満足なら良いんだけど。また時間があったら京都に来る?流石に今日だけじゃ回り切るなんてできなかったし」

「そうね。また来たいわ。──ねえ、暁人さん(・・・・)。わたしは──」

 

 天衣が覚悟を持って何かを言おうとした時、暁人の方から「プルルルルル!」という音が聞こえる。電話の着信音だ。

 天衣は勢いが削がれてしまったので、電話をどうぞと手で示す。暁人はごめんと言ってから電話を取る。相手は大阪の将棋会館。

 何だろうと思いつつ、暁人は出る。

 

「はいもしもし。碓氷です」

「こんばんは。碓氷六段。今お時間よろしいですか?」

「月光会長?大丈夫ですけど、できたら手短にお願いしたいです」

「そうですか。では端的に。碓氷六段、来月の月末に夜叉神初段と記念対局をしていただきたいのです」

「……天衣ちゃんは目の前にいるので僕から伝えましょうか?」

「そうしていただけると助かります。ポスター用の写真を撮ったりインタビューがあったりするのでできれば来週中にお二人にはこちらへ顔を出していただいてスケジュールの調整をしてもらえればなと」

 

 急な話に暁人は驚く。天衣も電話の内容は聞こえていないが自分に関わることのようだと思って眉を潜めていた。

 

「あの、どういう理由の記念対局なんですか?タイトルを獲ったから?」

「そうです。今日本中があなたたち師弟に注目しています。将棋の普及にはこれ以上ない宣伝だと、東京の方でもそういう企画が動きまして。ただ申し訳ないのですが既に旅館も抑えてしまっていて、日程をずらすことやそもそも開催できないような状況ではないことは留意ください」

「来月ってことはもうそこまで進行しているってことですよね……。わかりました。僕は構いません。ただ天衣ちゃんにはもう少し手心を。まだ小学五年生なので」

「あなたの四段昇段記者会見を見た時からわかっていますよ。女王関連でのこちらからのゴリ押しはこれで最後です」

「お願いします。それじゃあ、用事がありますのでこれで」

「お忙しいところ失礼しました。それでは」

 

 電話が切れたところで天衣に内容の説明をする。

 天衣も暁人との記念対局ならと了承。来週、既に日曜日なのでもう今週だが一緒に将棋会館に行くことを決めた。

 それと、暁人として清算しなければならないことがある。

 

「ねえ、天衣ちゃん。さっき言おうとしてたことって……」

「良いの。記念対局の方が大事だから。気にしないで」

「僕が気にする。気になって眠れなくなるくらいだ。だから僕の方から伝えなくちゃいけない。──もし天衣ちゃんの気持ちが変わらないなら。僕は君が好きだ。だから僕は君の気持ちに応えたい」

「……………………………………ぇ?」

 

 突然の不意打ちに天衣の思考がフリーズする。

 鈍感だと思ってた相手からの、まさかの告白。何とか振り向かせようと色々と画策して様々な手段を講じようとしていた第一歩が今日のお出掛けのはずだった。

 だというのにその一歩目で、まさかの相手からの告白。こんなの想定しろという方が無理だ。

 

「天衣ちゃんがいつからそうなったのかわからないけど、絶対僕の方が好きになったの早いからね?……かといって五歳差って結構大きいし、十歳より前に言ったらお遊びだって思われそうだし……。あと世間体とかも気にしてて」

「…………」

「どれだけ本気になって良いのかわからなかった。君は純粋に僕のことを兄として好きなのかどうかもわからなかったし、師匠として尊敬しているだけだって言われたらわからなかった。僕たちは幼い時から近すぎたんだ。九頭竜さんと空さんの関係性に近いけど、年齢差で言ったら九頭竜さんと雛鶴さんと同じ。それに年齢だけ見たら僕は高校生で君は小学生だ。だから色々と怖かったのはある。けど、君は変わらなかった。その気持ちが変わらないなら、僕と恋人になろう」

 

 暁人が差し出す手に、天衣はすぐに握り返せなかった。顔は真っ赤になって脳がフリーズしていたからだ。そんなそぶりを一切見せなかった好きな人からの逆告白。

 それは本能か。望む関係に至れるというのだから、天衣はそのチャンスを逃せなかった。

 だから、暁人の手を取る。

 

「これからもよろしくね、天衣ちゃん」

「……これで、恋人?」

「うん。周りには隠さないといけないけどね」

「ああ、条例とかあるんだったわね……。お兄ちゃんがロリコンって言われないように気を付けないと。ロリコンじゃないのよね?」

「天衣ちゃんだから好きなんだよ。僕の好きなタイプのこと、晶さんから聞いてない?かなりボカしたけど天衣ちゃんのこと言ってたつもりなんだけど」

「……明日もう一回電話しても良い?今日のことが夢じゃないって確かめたい」

「ふふ、良いよ」

 

 繋いだ手のまま京都駅へ向かう。

 体格差もあるために周りから見たら妹の手を引っ張る兄に見えるだろう。仲の良い兄妹にしか見られないだろう。

 実際朝はそう見られていたはずだ。それで良いと天衣も思っていた。

 だというのに今は違う関係だ。兄と妹のようであって、将棋の師弟で、幼馴染で。

 

 

 

 恋人だ。

 

 

 

 七時ちょうどに駅に着いたために既に迎えのリムジンがロータリーに着いていた。暁人が後部座席のドアを開けて天衣をエスコートする。そして買ったものが入っている袋を助手席に置いて晶にお礼を言う。

 

「晶さん、お迎えありがとうございます。来週僕も天衣ちゃんも将棋会館に向かう用事ができたので平日の放課後に都合の良い日に会館に行きます」

「わかりました。先生は家まで送らなくて大丈夫ですか?」

「バスですぐですから。天衣ちゃんもまた明日」

「うん、また明日……」

 

 素直な天衣に晶はおや?と思ったものの帰るのが遅れても困るのですぐに車を発進させた。

 京都駅を離れてすぐ、後部座席の天衣が顔を手で塞ぎながら横にコテンと倒れこむ。

 

「お嬢様?お疲れですか?」

「そうじゃなくて……。お兄ちゃんに告白されちゃった……」

「…………はぁ⁉︎」

 

 告白したのではなく告白されたのはどういうことだと晶は運転しながら大いに慌てた。

 暁人の様子から恋愛感情なんて全く見られなかった。だというのに暁人が告白したというのだ。

 天衣は次の日の朝、学校に行く前に電話をかけた。そして昨日のことが夢ではないと知ってその日一日はずっと頭がふわふわした状態で過ごしていた。

 弘天なんてその話を聞いて婚約のための血判書を作成しようとするほど。そんな話が晶から回ってきたが、暁人は呆れながらとんでもないことを言う。

 

「そんなものなくても、僕は天衣ちゃん一筋ですよ?七年以上好きなのに今更誰かを好きになれると思うんですか?」

 

 それが決め手となり、夜叉神家では二人を婚約関係だと公認した。十六歳になったら事実婚をさせようと。世間の評価などもあるのでそんな最速で動くのはマズイと考え、結婚は伸ばすが婚約なら良いだろうとした。

 碓氷家ではそのことが後から伝えられて、暁人はそんな重要なことをなぜ話さなかったのかと怒られたりもした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

33 お泊まり

 それからの僕と天衣ちゃんの距離はすごく変わった。今までも結構近かったり、平然と手を繋いでいたりしたけど、それ以上に近くなったと言ってもいい。

 なにせ、晶さんの視線しかないとはいえ僕の家で僕の膝の上で寝ているんだから。

 将棋を指して疲れてしまったのか、そのまま僕の膝の上に頭を預けてスヤスヤと眠ってしまった。明日は予定がないらしいし、休日だからこのままでもいいけど。

 

「……先生、良ければこのままお嬢様を泊めてもらうのは可能でしょうか?」

「あ、はい。というか今までも泊めてたので何も問題ないですが……。あ、もしかして天衣ちゃんから聞きました?」

「聞いたというか、旦那様が乗り気というか。それは後日碓氷家に正式に通達されるでしょう。実は私、明日どうしても外せない用事がありまして。そちらに注力しなければならず」

「あー、天衣ちゃんだけ残していくってことですか。大丈夫ですよ」

 

 晶さんは申し訳なさそうに帰っていった。天衣ちゃんが起きたら歯磨きをさせてもう一度寝かせればいいとして、それまで僕は小説を読むことにする。

 もうすぐ名人との棋帝戦がある。早指しの棋戦だけど、僕としては今まで通りに指すだけだ。

 時代小説と呼ばれる新撰組の小説を読んで夜も更けてきた頃、天衣ちゃんがモゾモゾと動きながら頭を少しだけ浮かせた。

 

「んぅ……?」

「おはよう、天衣ちゃん。と言ってもまだ夜だけど」

「お兄ちゃん……?」

「うん。対局が終わった途端電池が切れちゃったんだよ。寝るなら歯磨きして寝よっか」

「うん……」

 

 まだ眠気眼な天衣ちゃんの手を取って歯磨きをさせる。こんな状態でお風呂に入ったら危ないからお風呂は明日の朝で良いかな。

 僕も歯磨きをする。ご飯も食べてないけど一食抜いたくらいで人は死なないだろう。明日が休みで本当に良かった。

 僕ももうすぐタイトル戦があるし、天衣ちゃんも女王戦のアレコレが終わって忙しさからは脱却できていた。僕は細々とした対局はあるものの毎日対局や仕事があるわけでもなく、天衣ちゃんはもう女流の棋戦に出ないと決めたので奨励会だけに集中できている。

 歯磨きが終わった頃には天衣ちゃんもある程度脳が復活したようだ。

 

「お兄ちゃん、一緒に寝て良い?」

「もちろん。別に遠慮しなくて良いのに」

 

 恋人なんだから気にしなくて良いのに。寝巻きに着替えてロフトの上に上がる。こうして一緒に寝るのはいつぞや天衣ちゃんが潜り込んできた時以来。

 それ以外だと天衣ちゃんは僕の家だとソファ兼ベッドで寝るし、神戸に行く時は僕は客室に案内されるから並んで寝たことはない。

 そう思うとドキドキする。天衣ちゃんがすぐそばで僕を見つめながら目の前にいるんだから。

 

「……狭くて近いわね」

「一人用のベッドだからね。二人用なんて想定してなかったよ」

「それはそうだけど。……暁人さん、キスしたい」

「急だなぁ。実は寝ぼけてない?」

「そんなことないわよ。そもそも初めてじゃないし」

「ん?」

「わたし、いつぞやベッドに潜り込んだ時に暁人さんにキスしちゃってるもの」

 

 それは聞いてないなあ。気付きもしなかった。

 そっか、僕のファーストキスは天衣ちゃんに奪われていたのか。その記憶がないのはかなり不幸じゃないだろうか。

 というか、天衣ちゃんってもしかして結構肉食系?そういうのはゆっくりと進んでいけば良いと思ってた僕としては想定外ではある。

 けど天衣ちゃんがしたくて、僕だってしたくないと言えば嘘になる。

 だから天衣ちゃんの頭の後ろに手を伸ばして。

 

 そのままとても小さな口に、僕の唇を合わせた。

 歯磨きをしたばかりだからか、ミントの味がする。何秒くっつけていたのかわからないけど、唇を離して天衣ちゃんの顔を見ると瞳が潤んでいた。ちょっと惚けているのが可愛いと思ってしまった。

 どちらからともなく、もう一度と思って顔を近付ける。触れるだけのキスを何度も繰り返していく内にお互いのことを抱きしめていた。天衣ちゃんの小さくて柔らかくて暖かい体が、とても安心する。

 もう一度、と思ってると僕の唇の中に天衣ちゃんの小さな舌が入り込んできた。知識としてはあるものの、そんなことを天衣ちゃんがしてくるとは思わなくて驚いちゃったけど、歯を舐めてきたり唇を舐めてきたりして、その慣れていないような不器用さが堪らず愛おしくて。

 

 僕からも舌を絡ませたら暗いながらも天衣ちゃんの顔が真っ赤になるのがわかった。

 映画とか、それこそ外を歩いている時とかにカップルが街中でキスをしているのを見てそんなに良いものなんだろうかと思っていたけど、これはヤバイ。

 癖になっちゃうかも。

 お互いに貪った後、唇を離すと天衣ちゃんは息を荒くしながらコテンと僕の腕に頭を乗せる。

 

「ハァ……。眠いの、どっか行っちゃった」

「僕も。でも今から将棋はできないでしょ?」

「それは無理。スイッチが入らないわ」

「じゃあ、眠くなるまでゴロゴロしようか」

 

 こうやってゆっくり過ごすのが久しぶりだったからか、天衣ちゃんの進級した後のクラスの様子や僕が学校に行かなくなって自由になった時間に何をしているのかを話し合った。

 天衣ちゃんは女王になったことで学校でかなり有名になったらしい。それと他校生に告白されたけど速攻断ったとも。

 僕は生石さんとの研究の時間が増えたり、大槌門下に顔を出したり、将棋会館でやらなくちゃいけない仕事をしたり、家ではゆったりと貯めていた映画を見たりしていることを伝えた。

 天衣ちゃんが先に寝ちゃってお開きになり、朝にお風呂に入ることにしたんだけどここでも天衣ちゃんは積極性を見せてきて一緒にお風呂に入ろうとしてきた。

 流石にその一線だけは死守した。ここだけは守らないといけないと僕が歳上としての本能が訴えていた。

 

「キスもしたんだから、その先だって大差ないじゃない……」

「いやいや、大きすぎる壁があるからね?そこだけは絶対にダメだから」

 

 これ、僕の方が手綱を締めなくちゃダメだ。天衣ちゃんの好きにさせたら僕が社会的に死にかねない。

 小学生を彼女にしてる時点でアウトと言われるだろうに、僕は更にここから弟子に手を出した師匠というのと、本当に手を出しているという事実まである。

 自分の身は自分で守らないと。

 

 

 今日の対局は玉将戦の予選だった。危なげなく勝って今後の予定を確認していたところに九頭竜さんが通りかかる。

 

「あ、碓氷。お疲れ。こんな時間ってことは対局終わりか?」

「お疲れ様です、九頭竜さん。はい、対局終わりです」

「俺も終わったからこれからご飯行かないか?あいには遅くなるって言ってあるし」

「僕も今日なら大丈夫ですよ」

 

 天衣ちゃんは今日来ない予定だ。だから外食をしても問題ないと思う。

 あと、いまだに九頭竜さんの弟子があいと呼ばれるのは慣れない。本名だからしょうがないんだけど、九頭竜さんが天衣ちゃんを呼んでいるようで、しかも呼び捨てにしているようで僕としてはちょっとビックリしちゃう。

 九頭竜さんは天衣ちゃんのことを夜叉神ちゃんって呼ぶから天衣ちゃんのことを呼んでるわけじゃないってわかるんだけど。

 

 僕ってこんなに独占欲が強かったのか。彼女になったからかもしれない。

 九頭竜さんにお好み焼き屋に連れて行かれた。僕も九頭竜さんも大阪の人じゃないけど、大阪の味も好きになってきた。ことあるごとに大阪で外食をしていたら大阪の味にも慣れてしまった。

 自分で焼くスタイルじゃなくてお店の人が焼いた物を運んできてくれるスタイルらしい。鉄板焼きのお店と呼ぶべきかも。お好み焼きを一つ頼んで、後は牛肉の鉄板焼きを頼んだ。

 

「夜叉神ちゃんが女王かぁ。当分姉弟子が女王に居座り続けるって思ってたんだが」

「確かに空さんは強いですけど、無敵の人なんていませんよ。それに天衣ちゃんだって十分強いですから」

「そのことでさぁ、姉弟子が不気味なんだよ。せっかく持ってたタイトルなのに重荷がなくなったとか言っててさ。奨励会に集中できるとか言ってるんだよ」

「最近調子良いですよね、三段リーグ」

 

 僕もこのリーグは気になってるから調べているけど、今の所空さんは負けなしだ。初の女性棋士、小学生棋士、編入からの返り咲きなど見所が多い上半期。

 天衣ちゃんが女王になったから調子を崩していないだろうかと心配で見守っていたけど、物凄く好調だ。お好み焼きを突きながら二人の関係者として空さんの話題になる。

 

「最近VSやってるんだけどさ。日に日に強くなってるんだよ。なんかあったのかなあ」

「僕たちは成長期なんですから。強くもなりますよ」

 

 女王戦で刺激をもらったことと、後は名人研の影響だろうか。環境が変わると良い変化も起きやすいとかなんとか。

 弱くなったわけじゃないんだから良いんじゃないかな。

 

「そうだ。今度夜叉神ちゃんと記念対局やるんだって?師弟で記念対局って珍しいよな」

「それだけの快挙ですから。小学生女王は」

「あいも夜叉神ちゃんに負けてられないってやる気になってるよ。今度の小学生名人に出るんだ。最近は友達との将棋が楽しいって言っててさ。楽しいってわかったら上達してきたみたいで最近は中盤が良くなったんだよ」

「後は定跡をしっかり学んだらもっと強くなりそうじゃないですか。将棋を始めて一年だとしたらそんなものですよ」

 

 むしろ一年しか学んでいないのなら凄く強いんだよね。ただ将棋ってどうしても経験値というか学習量が思いっきり影響するボードゲームだ。基礎を固めていけば中学生くらいになったら十分強くなってると思う。

 小学生で研修会に入れるってことは別に将棋に出会うのが遅かったわけでもないんだし。

 

「お前も最近調子良いよな。それに笑顔なこと多いし。良いことでもあったか?」

「良いことづくめですよ。勝率も良くてタイトル戦も決まっていて。弟子も順調に強くなっていますし」

「俺も良いことないかなぁ。いや、順位戦も昇段したり良いことは確実にあるんだけど」

「それ以外に良いことってなんです?」

「そこはほら、彼女ができるとか?俺、この歳になっても彼女がいないんだよ。何かの間違いで桂香さんから告白されないかなー」

 

 この人、ダメだ。

 何でそこで逃げちゃうのかなって感じ。これって多分、関係性を壊したくないから清滝さんに逃げてるだけだよね?

 九頭竜さんが動いて壊れる関係性なんて九頭竜さんが懸念しているその人以外なのに。祭神さんや他の女流の方々、それに弟子の雛鶴さんだけだろう。

 ちょっと突いてみようかな。

 

「九頭竜さんって本当に清滝さんのことが好きなんですか?」

「ばっか、お前。あの包容力に満ちたお姉さんを好きにならない男がいるかよ」

「僕はそういう意味で好きではないので。……それこそ、清滝さんのことはお姉さんとして、家族として好きなんじゃないかなって思うんですけど」

「……何が言いたいんだ?」

「九頭竜さんって巷では鈍感って言われていますけど、本当に色恋に鈍いんですか?あからさまに好意を向けてくる人もいるじゃないですか。その人達の気持ちに気付いていないとは思えなくて。──本当は好きな人がいて、その人が素っ気ない態度をするから隠しているだけなんじゃ?」

 

 僕がそう言うと、九頭竜さんは黙ってしまう。楽しみにしていた牛肉の鉄板焼きが届いても箸を伸ばそうとしない。

 焦げないようにだけ見守りながら話を続ける。

 

「照れ隠しで素っ気ないフリをしたり、思ってもないことを言ってしまうことはあると思いますよ。そうですね。二人の関係性が変わったのは彼女が小学生名人になった時。確かあの時から九頭竜さんは彼女のことを『姉弟子』と呼び始めました。

 ──何故?

 入門が早かったから?小学生名人で記録を打ち出したから?()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?僕は幼少期からあなた方を知っているだけなので推論も多分に含まれているでしょう。でも二人が変わったのは絶対にそこです。

 あなたが彼女を一人の女の子ではなく、『姉弟子』という立場に組み込んだんです。そして関係が変わってしまった彼女はあなたに素っ気ない態度を取り始めた。順序が間違っているかもしれませんし、どちらに責任があるとか言うつもりもありません。

 ただ……。あなたが本心を伝えても、彼女は拒絶しませんよ。第三者目線だからこそ言えます。彼女はまたあなたと昔のようになりたいと思っていますよ。もしくはそれ以上の関係に。そういう話は彼女とよくするので」

 

 流石に焦げそうだと思って鉄板からお肉を均等に取り皿に分ける。

 竜王戦のように最後に頼る人が誰かなんて本人もわかっていて、一番気にかけている相手だっていうのに何を躊躇っているんだか。僕みたいに年齢の壁があるわけでもないのに。

 病気のこととか、今三段リーグで大変だからとか、理由はあるのかもしれないけど。だからって清滝さんを言い訳にして自分の気持ちから目を背けているのはどうなんだろうか。

 

「小学生名人だとか女王だとか、竜王だとか。今はそんなことを気にしなくて良いただの八段と三段でしょう?竜王戦の大変な時に支えてもらったでしょう?このままなら彼女は初の女性棋士になります。そうじゃなくても三段リーグなんて大変なんですから、支えてあげてください。彼女の同年代かつあなたと同期の立場からのお節介です」

「……銀子ちゃん、本当に怒らないかな?」

「あの人のあなたへの罵倒は、全部好きって意味ですよ」

「そんなのわかるか。死ねとか言われるんだぞ?」

「それは言われるでしょう。女子小学生を同棲させて内弟子にして、その内弟子の友達の女の子の写真を嬉々として撮ってるんですから。それで好きな人は清滝さんって公言してたら恋する乙女としてはそれくらいの罵倒はして当然かと」

 

 いつぞやの包丁はやり過ぎかとも思うけど。それだけ九頭竜さんって問題行動も多いんだよね。

 お肉を口に含んだ九頭竜さんはそのまま伝票を持って立ち上がった。

 

「ちょっと銀子ちゃんに会いに行ってくる」

「半分は払いますよ」

「いや、竜王戦の頃のあれこれの分だ。払わせてくれ。……まさかお前に恋愛で説教されるなんてなあ。女っ気全くないくせに」

「失礼な。僕にだって彼女はいますよ」

「──は?」

「あ、誰かは秘密です。ちなみに彼女も空さんのことは気付いてましたよ。『何よ、あの両片想いは。見ててイライラする』って言ってました」

 

 僕がちょっと自慢をすると九頭竜さんの口があんぐりと開いていた。そんなに意外だったかな。彼女ができたっていうのは。

 確かに僕の周りに女の子はいないから想像もできないのかもしれない。

 

「上手くいくのはわかってるので祈ったりしません。たとえ殴られても愛情の裏返しですからね?」

「まあ、殴られるようなこともあるかぁ。包丁が出てこなければよしとするか」

 

 そんな情けないことを言いながら九頭竜さんは空さんが一人暮らしをしているマンションに向かった。そのままお泊まりコースなんじゃないかな。

 小学生を一人で家に置いておくのはどうなんだろうとも思いつつ、焚きつけちゃったものはしょうがないと思うことにした。

 後日、空さんから「ありがとう」というメールが来た。それだけで色々と察したのでこれ以上は口を挟まないつもりだ。

 お幸せに。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。