真・恋姫†無双 トキノオリ (もんどり)
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オリノホソク
本外史の簡単な人物紹介


※本編を読んだ後でお読みください
※このページは「あれ、この人どんな人だったっけ?」の確認用です


■ 鳳山民 字:李姓 真名:なし

 

主人公。鳳徳公に拾われた、記憶なしの女の子。

何かにつけて過去を思い出そうとしているが、まったくもってうまくいかない。

深く考えるのが長く続かないタイプ。

 

背は高い方で、徳公よりも高く雛里よりもものすごく高い。

襄陽から徳公に会いにくる男(碧玉ではないらしい)よりも高いときもある。

髪は茶色で背中の半ばまで伸びており、切ってもいいかなとも思っていたが雛里によってその考えは無くなった。今はポニーテールのように括っている。

 

徳公から色々と教わっており、どうやら羌笛などの芸術はあまり秀でてないようだ。

狩りは結構得意で料理もそこそこの腕前(並みの並み)

つまみ食い番長の徳公をどうにか丸め込みながら日々の家事労働をこなしていた。

自分のことをオレと言い、女の子らしい言葉遣いではないが、徳公に諫められたことはない。

徳公に拾われた時を十五歳としている。

 

【挿絵表示】

 

・オリノキテン時

あっという間に徳公に名前を付けられたのは、ある意味良い思い出。

子魚を回避してホッとしている。

思考の沼にハマりかけるとすぐに意識を切り替えてしまう。

時折へんな夢を見るようだ。

母さんが死んだなんて認めない。

 

 

■ 鳳徳公 字:尚長 真名:不明

 

主人公を拾ったちょっと変わり者の女性。

好いた男性を碧玉と呼び、家出を企て実行する突拍子もない人。

自分の娘とするからには厳しく躾けるお母さんでもある。

以前子供が居たが、他界している。

自分のことをワシと言い、オマエなどといった言い回しから口は結構悪い。

薄い青紫の髪に切れ長の瞳で眉目秀麗。

スラリと伸びた鼻先は格好よく、女性の割りに薄い唇がより涼しげな表情を強調している。

間違いなく美人。年齢不詳。胸はでかい。

 

・オリノキテン時

硯山(※1)に一人で住んでいたが、碧玉と一緒に住むため魚梁洲へと家出した。

襄陽から徳公に会いにくる男がいるが、すぐに追い返されていた。

雛里に司馬徳操を紹介している。

どうやら戦に巻き込まれたようで、深く傷を負い沔水に流されたという情報が司馬徳操の元に舞い込んでいた。

 

 

■ 碧玉

 

鳳徳公の好い人。度量があり、徳公を縛らずに好きなようにさせている。魚梁洲に居るらしい。

どうやら徳公と一緒に戦に巻き込まれたようだ。

 

 

■ 高

 

鳳徳公の生真面目な姉。

忌み名なのか字なのか真名なのかは不明。

 

・オリノキテン時

賊の討伐に出かけて亡くなった。

 

 

 

■ 鳳統 字:士元 真名:雛里

 

鳳徳公の元へ預けられた年若い女の子。

引っ込み思案の箱入り娘で、弁もあまりたたないためか心配した親に徳公へと引き渡されたが、なかなか内気なところは改善されていないようだ。

慣れてくるとしれっとぐいっと来るところもあるが、あわあわしている様子なのでそんな気はしない。

二つに結んだ薄い青紫の髪にペリドットの輝石みたいな瞳を持つ。

 

・オリノキテン時

李姓についてはどこか不思議な感覚を覚えているが、それを口にすることは性格も邪魔してなかなかない。

親が死に、親戚周りに邪険にされる。

徳公の薦めにより水鏡の元へ李姓と共に訪れた。

女学院につくまで料理を一人で通して作ったことがなかった。

李姓が早く帰ってくるようにという願いを込めて美味しいご飯をつくるのを目標に腕を磨いている。

 

 

■ 司馬徽 字:徳操 真名:不明 号:水鏡

 

鹿門山へと続く参道から脇道に逸れた山奥で私塾を開いている女性。

品のよい服装で少したれ目がちだが瞳には理知的な光を湛えており、茶色の長い髪を芸妓のように結い上げた華やかな様子は、なるほど噂名高い先生って感じである。

完全オリジナルと言っても過言ではないほどの性格と喋り方なのでご注意ください。

 

・オリノキテン時

料理が上手な知的な女性。

李姓は母との違い(大人の女性)にびっくりしていた。

鳳徳公のことを尊敬しており、姉のように慕っている。




※1  正しくは峴山(ケンザン)。文字化けそうな気がしたので当て字にしました。

<修正>
2018/05/12 名前の間違いを訂正
2018/05/19 調整のため再投稿 文章追記
2018/06/03 1-9の内容を追記
2018/06/08 脱字などを修正


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オリノキテン
1-1


「母さん!」

 

 そう大声で叫ぶと、いつものように池のほとりで釣り糸をたらしながら、のんびりとした様子でくつろいでいる徳公に駆け寄った。

 こちらを振り向いた彼女は、樹木の枝葉の間からさし込む光をまぶしそうに目を細めるも、オレの姿を認めると笑みを零し手を振ってくれる。その姿がオレは嬉しかった。

 

「どうした、そんなに慌てて」

 

 母は側まで来たオレを見上げてそういうも、「まあ、座れ」と自分の隣を顎で指し示す。

 オレの呼吸の荒さのおかげで魚も逃げていくぞと笑いながらからかわれれば、しぶしぶながらもそこに座るしかないわけで。

 あがっていた息を整えながらも、言われた場所へと腰を下ろすと横目でチラリと母である徳公の顔を窺った。

 もうオレの方は見ておらず、たらした糸への視線を向けている。

 その表情は飄々としているようでもあり、どこか柔らかな笑みをたたえているようにも見える。

 スラリと伸びた鼻先は格好よく、女性の割りに薄い唇がより涼しげな表情を強調している。

 間違いなく美人だ。自分はというと、残念ながら母とはまったく似ていない。

 そりゃそうだ、血が繋がっていないのだから似るわけもない。

 強いて似ているところをあげるのならば、この胸の二つの大きさはこの母と同じくらいの重量ぐらいにはなるだろうというところだろうか。

 自分の胸を見て小さなため息を一つ吐き出した。

 そんなオレの様子に母はこちらをチラリと見るもすぐに視線を元に戻す。

 どうやらオレから話出すのを待ってくれているようだ。

 気遣いに感謝しつつ、オレは身体を母の方に向けて座りなおすと、真っ直ぐに見やり言葉を紡いだ。

 

 

「母さん、真名を決めたよ」

 

 

◇◇◇

 

 遡ること、半年以上前。

 オレが母である鳳徳公に拾われたところから始まった。

 母の話によるとオレはこの湖からもう少し山の頂上の方へと向かって歩いていった所に落ちていたそうだ。

 追い剥ぎに遭うにしても、人は殆ど通らないような山道だ。

 母曰く「怪しすぎて生死を確認するのに躊躇ったよ」という状況だったらしい。

 放っておいたら寝覚めが悪いという理由を言ってたけども、何はともあれオレを家まで連れて帰ってくれたのだから、案外と母はお人よしなのだろう。

 さておき、なかなかオレの目が覚めなかったから医者にみせようかと腰を上げたところで、オレが目覚めたそうだ。

 

 目が覚めたオレはというと、なんというか、ぼんやりとした状態だった。

 その時のことは正直あまり覚えていないのだが、寝起きの時のぼんやりとした、全てのものが霞んで見えるというか、簡潔にいうと感覚が鈍かった。

 目の前の人物からの問いをぼんやりと聞いていたのだが、目の前の人物は埒があかないと思ったのだろう水を飲ませてもらい、ご飯を食べ、人心地ついた時にオレはようやく気づいたのだ。

 

 「自分が何も持っていない」ということに。

 

 さて、参った。自分の名前もわからない、自分が何者かもわからない、自分が何をしようとしていたのかもわからない。

 今も、過去も、未来も行く手塞がりだ。

 お腹は満たされたが、今度は心が満たされない。

 がっくりと項垂れるオレの思考には目の前の人の存在すら吹き飛んでいた。

 後から考えれば、救ってくれたお礼を言うべきところだったのだろうが、それどころじゃないぐらいこの事実に動揺していたのだ。

 見えていた視界が認識できなくなり、考えた言葉が自分の中の全てを支配する。

 文字通りオレは自分のことで頭がいっぱいだった。

 だから、助けてくれた恩人がこの家から出て行ったことにはまったく気づかず、しばらくずっと頭を悩ませていた。

 

 葛藤は色々あったがしばらくして、いくら悩んだところでこの状況が変わらないというところにたどり着いた。

 落ち着くとおかしなもので、さっきまでは受け付けていなかった自分のおかれている状況がすんなりと入ってくる。

 

 木の芳香が充ちた家だ。目の粗い敷布だが、パリッとした手触りが清潔な感じを窺える。

 綿は薄く寝やすいというわけではないが、大事に使い込まれているのだろう、きちんと繕われていた。

 先程自分が食べたであろうご飯を入れていた茶碗は姿を見せず、空になっていた水差しに水が補充されていた。

 

 周りをゆっくりと見渡してみる。

 寝台は二つ、箪笥が一つ、小さな窓があり、傍らに花瓶に可愛らしい花が飾られている。

 耳を澄ましてみた。窓の外から小鳥の囀る音が聞こえる。

 だが、それ以外の音はしない。オレは恐る恐る隣の部屋と繋がっているのであろう、この部屋の入り口へと視線を向けた。

 扉はない。卓が少し見えるから廊下ではないのがわかる。

 じっと見つめてみるも視界には何も映らず、人の気配すら感じなかった。

 

 その瞬間、オレの中でなんというか、肝が冷えたとかいう次元を超越した。

 もう、本当に自分にうんざりしたぐらい変な汗が出た。

 恩人を放置して礼を言わずに自分のことに夢中になっていたのだ、流石に恥ずかしい。

 慌てて寝台から飛び起きると、卓がある部屋の方へと駆け寄った。

 

 小さな部屋だ。こじんまりとした卓が一つある。

 椅子は二つ、左奥に厨房と思わしきものが見える入り口がある。

 右側の奥は……扉がついている入り口があった。

 一瞬迷ったが、左の部屋を覗き人が居ないことを確認してから、扉を開け恩人を探すべくこの家から飛び出した。

 

 恩人は案外と近くに居た。

 家を出たオレの目の前には木々が溢れるほど立ち並んでいたが、道があった。

 右へ行くか左へ行くかは賭けだったが、どうやら見事勝ち取ったらしい。

 しばらく行くと木々の隙間から湖が見え、そこに恩人が座っていたのだ。

 名前を聞きそびれたということもあり、声をかけるのに迷ったわけだが、無難に「すいません!」という言葉で声をかけることにした。

 

「おや、目が覚めたみたいだな」

 

 息を切らせながらも恩人の側まで行くと、彼女はこちらを見て片方の眉を持ち上げ、からかうようにそう言った。

 言葉が刺さるというのはこういうことを言うのだろうか。

 自業自得だとは思うが、ちょっと前の自分に説教したい。小三時間ぐらい説教したい。

 

「あの…、……」

「まあ、座れ」

 

 恩人の言葉にちょっと逡巡するも、彼女の隣へと腰を下ろすと、すぐさま向き直り地面へ手をついて頭を下げる。

 先手必勝、というか本当になんかものすごく居心地悪い! とりあえず謝りたい!

 

「本当にすみませんでしたっ!」

 

 オレの叫ぶかのような大声の後、鳥の鳴き声だけがこの池の畔に木霊する。

 恩人の声は聞こえない。

 更に地面に額を擦り付けるのかというぐらい頭を下げる。

 それでも恩人の声は聞こえない。

 こうなってくると、だんだんと不安になってくる。

 怒らせちゃった? やっぱり怒るよなー……、普通怒るよな……。

 どんよりと落ち込みつつも、誠意だけは見せたくてしっかりと頭を下げる。

 水の中に何かが投げ込まれたような、まさしくちゃぽんという擬音がふさわしいだろう水の音が聞こえ、そしてすごく間を置いてから恩人からポツリと呟きがもれた。

 

「……というか、何で謝られてんの? ワシ」

 

 恩人はなんというか器が大きかった。

 オレが自分のことに一杯になって、助けてもらったお礼も言わずに自分に掛かりきりになったにもかかわらず、「さもありなん」の一言で終わらせた。

 

 落ち着いたオレに彼女はもう一度オレ自身のことを改めて聞いてきた。

 だが、思い出すことも出来ずこれからどうすればいいのかもわからないことを伝えると、「ふむ」と一言呟いて、釣り具らしきものを片付け始める。

 オレは戸惑ってしまったわけで、気づいたら彼女が荷物を全て片付けて立ち上がっていた。

 恐る恐る彼女を仰ぎ見ると、薄く意地の悪い笑みをみせて顎で地面に置かれたバケツを指し示し口を開いた。

 

「帰るぞ。オマエはそのバケツを持つんだ」

「……っ! はいっ!」

 

 オレは慌てて立ち上がると、魚の入ったバケツを持ち上げて彼女に続く。

 これからのことや、いままでの自分に不安があったが、それよりも目の前の彼女に自分という存在を受け入れてもらえたという事実に、嬉しく思った。

 

 

 

「さて、改めて話をしようか」

 

 飛び出てきた建物に戻ると先程オレだけ食事を振舞われたというのもあり、彼女が飯を食べるのに付き合って軽く食事をした。

 その後、食べ終わった茶碗などを一緒に片付け、お茶を入れて卓で一息入れていた時にこう切り出されたたのだから、ビクッと身体が震えてしまったのは仕方がないことだと思ってもらいたい。

 

「まずは、ワシの自己紹介をしよう。鳳尚長、見ての通りここで生活をしている」

 

 そこで彼女は言葉を切ると、少し考える様子を見せた。

 切れ長の瞳に理知的な光が見える。こういう顔が眉目秀麗というのだろうか。

 パッと見て若くも見えるが、瞳を見ると相応の年齢をつんでいるようにもみえる。

 つまりは……年齢不詳にということだ。

 そんな彼女が言葉を選んでいるのだ、何を言われるのだろうかとちょっと焦る。

 自分を落ち着かせるためにそっと茶器を手に取り、一口お茶を飲んだ。

 ……うーん、ぬるい。

 

「おい、オマエ」

「すみませんっ! お茶ぬるくてすみませんっ!」

 

 急に呼ばれ慌てて謝るも、少し驚いた様子でこちらを見る彼女に自分の取り違いということに気づいてげんなりした。

 コホン、という咳払いに居住まいを正す。

 ちょっと気を抜いた矢先にこれだ。変な汗をかきすぎて、今オレの服を絞るとしずくが滴り落ちるに違いない。

 そんな他愛ないことを考えながら彼女の言葉を待った。

 

「オマエは、これからどうするつもりだ?」

 

 彼女の口から出たのは、なんとなく考えるのを避けていたことについてだった。

 今日は色々あったから寝て、また明日……なんて考えは、楽観的な考えだったのだろう。

 これから、という言葉に眉を寄せる。

 

 どうしたかったなんて思い出せない。

 もしかしたら思い出せるのかもしれないが、今は思い出せないのだ。

 自分の中の心を探るように、今の自分に当てはまる言葉を捜す。

 

「オレは……、思い出した時に動けるぐらいには生きたいです。今は、何がしたかったのか思い出せませんが……。何かしたかったことがあるような気もするので、そのためにも……その、生きたいです」

「ふむ、具体的にはないのか?」

「具体、的に……?」

「なんでもいい。旅に出たいとか、ここに住みたいとか、そういうのだ」

 

 ただ漠然と生きたい、としか考えてなかったオレは具体的という言葉に面食らった。

 旅に出たい? 出たところでどうなる。

 あてのない旅も面白いかもしれないが、知識もなにもないのに旅に出たところで死ぬのがオチじゃないか。

 だいたいここはどこなんだ。

 そこまで考えてから、目の前の恩人へと視線を向ける。

 いつの間にか思考に溺れ俯いていたらしい。

 

「あの、ここに住みたいと言った場合は、住ませてもらえるんですか?」

「ぬ? まあ、ワシの邪魔さえしなけりゃ住んでもいいだろう。ここに住みたいのか?」

 

 打てば響くというような返答にオレは思わず頷くも、すぐさま首を振って言葉を添える。

 

「その! 旅には出たいです! ……まだ、気持ちの整理がついてませんが、自分を知りたいので旅には出たいんです。ですが、まだ考えがまとまらなくって……。出来れば、しばらくの間でも、こちらで住まわせていただけたらと思ってます」

 

 最後のほう、なんだかごにょごにょとした感じになってしまったが、自分の気持ちを伝えると彼女はうんうんと頷いてから「さもありなん」と言った。

 この言葉、この人の口癖なのだろうか?

 

「さて、名前が無いのは不便だな。名乗りたい名はあるか?」

 

 彼女の言葉に首を大きく横に振る。

 そんな直ぐに思いつくのあったら、まずそれを名乗ってると思うわけだが。

 名前か……。腕を組んで首をかしげる。

 自分の名前について色々考えたがまったくもって思い出さないんだもんな。

 

「ふむ、山民はどうだ? 山で拾った民だから山民。いい名前じゃないか!」

 

 閃いたとばかりに、目を輝かせこちらへと身体を乗り出して言うと、彼女は椅子に座りなおして「うんうん、いい名前じゃないか!」と一人頷いている。

 やばい、このままじゃ本当に山民って名前になっちまう!

 

「あの……」

「よし、姓はワシの名前から鳳。名は山民としよう!」

「えっ? ちょっ」

「字もやろう。子魚なんてどうじゃ? ワシの字、この名にするか迷ったらしいしオマエにつけるのもまた一興」

「や! 子魚はちょっと……ってか、えっ」

「ぬ? 我侭なヤツだの。それじゃ李姓にするか。ふむ、李姓。良い字じゃないか」

 

 オレの意見はそっちのけで、彼女の中で次々とオレの名前が決まっていく。

 気づけばどうにか子魚は逃れたものの、鳳山民、字は李姓という新しい名前を授かっていた。

 オレが自分の名前を無くして、約二十刻後の出来事だった。

 

「山民!」

「……なんでしょう」

 

 言いたいことは沢山あったのだが、返事をすると嬉しそうに笑う彼女に新しい名前を受け入れる。

 山民なんてちょっと安直のようなダサいような気もするが、恩人が喜んでいるのならそれもいいだろう。

 

「改めて名乗るとしよう。姓は鳳、名は徳公。字は尚長。この家の主で、今からオマエの母になろう」

 

 ……なんて、気軽に考えていたオレはもしかしたら馬鹿だったのかもしれない。

 彼女は楽しそうに、そして慈愛に満ちた笑みをむけ言葉を続ける。

 

「ワシはオマエを実の娘のように接し、旅に出れるよう育てよう。まァ、教育とかいうのはワシには向かん。だが、今までも子供を育てた実績はある。折角拾ったオマエが外に出て何もせんうちに死なんようにはしたいからの」

 

 そこで彼女は一旦言葉を切ると、小さく困ったような笑みをみせてから、卓の上に置かれていた茶器を一気に煽った。

 ごくごくと喉の鳴る音がする。 そしてぷはァという言葉と一緒に卓へ茶器が叩き置かれた。

 彼女はオレを見て、今度はしっかりと笑いかける。

 オレはその笑みに、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えていた。

 

「真名はつけん、自分で考えろ。真名は自分にとって心を許した相手に呼んで欲しい名前のようなもんだ。許可無く呼ぶと殺されても文句の一つも言えん。今のオマエには旅に出る覚悟が足りん。正直なところ、ここから出ていくと言っていたらワシはきっと反対しただろう。もしオマエにその覚悟が出来たとき、オマエの中の何かが生まれたその時、ワシに真名を教えろ。ワシはオマエの旅立ちを心から喜ぼう」

 

 言葉にならなかった。少しでも口を開けば嗚咽を漏らしそうで、ただじっと唇をかみ締めて滲む彼女の顔を必死で見つめていた。

 長い、長い時間そうやって歯を食いしばって泣くのを耐えていたが、その間彼女もその場所から動くこと無く、オレに付き合ってくれた。

 卓へと俯いたオレに、そろそろ寝るぞという言葉をかけて立ちあがると、引きずるように寝台へとつれていってくれる姿は、彼女が宣言したようにまるで母親のようだった。

 それぞれの寝台に寝転がる。寝台は硬く寝心地が良いとはいえないものだったが、目覚めたときに比べると雲泥の差があった。

 色んなものを無くしたが、それに代わって色んなものを手に入れた。

 なんというか、あれよあれよという間に決まったことだが、自分がわからないという事実はオレにとって思ってたよりもどうやら堪えてたらしい。

 それが、あの言葉で曝け出されたのだろう。

 掛け布を頭から被りながらも隣の寝台で眠るかの人にそっと感謝の気持ちを込めて呟いた。

 

「……母さん、ありがとう」




<修正>
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル及び「1.」表記の修正


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1-2

 あれから、あの切ないような嬉しいような気持ちはどこにいったのだろうか?

 一夜のまやかしだったに違いないと思えるような日々が続いた。

 母である徳公が有言実行とばかりに、厳しくしつけてくれたからだ。

 記憶は、例えるならば泥の沼地のごとくで、思い出そうと思っていることすらもわからなくなっていき、思考をそこで止めてしまうということの繰り返しをしている。

 それでも分かったことはいくつかあった。

 母に聞いたところ、ここは硯山(※1)の東側に位置するらしい。

 

「ということは襄陽の近くということになるか」

「ここいらの土地勘には明るいのだな」

 

 ふむふむ頷いていると、母はそう言って笑った。

 その出来事に驚いて、オレは思いつく限りの町の名前を挙げていく。

 母も解説を加えながらこたえてくれた。十のうち四程、「ワシは知らん」と言っていたから、もしかしたらオレは旅の行商人だったのかもしれない。

 他にも、生活をする上で不便を感じられないぐらいには知識があった。

 料理に関してもまずくもなく美味くも無いという微妙なお墨付きをもらい、内心軽くへこんだのは内緒である。

 山腹に家があるせいか調味料などを町まで買いに行かねばならず、面倒だという理由で色んなものが無いままに作っているのだから仕方が無いだろうと、開き直りたい。

 そんなこんなで、畑で作物を育て、畔で魚を釣り、薪を割り、水を汲み、野草を摘み、獣を捕まえ、そして自分の身を守るための護身術を寝る前に少し教えてもらうという日課を続けていた。 

 

 余談だが、尿に混じって血が出たことがあった。

 オレは病気かと思ったが、女では普通にあることだから落ち着けと母に諌められ、知識を総動員してはじき出した答えが生理である。

 しかし、「これって生理?」というオレの質問に母は首をかしげて「何を整理するんだ?」と言っていた。どうやら間違った知識もオレの中には根付いているらしい。

 オレはそっと自分は行商人だったかもしれないという言葉を取り消した。

 

 木々の葉の色がより深くなったと思う頃には、畑仕事すらも余裕に感じられるほどの体力を得ることが出来た。一人で狩りに行き、鹿や猪といった大きな獲物も見つけられれば、ほぼ捕らえられる。

 ……なんてことを自信ありげに言ったりすると、母に後で殴られるのだが。

 それでも山民となってからのオレは、あの時から比べて一人で旅をするという不安を、抱くことすらなくなってきているというのが現状だ。

 もうそろそろ旅をしてもいいとは思うのだが、なかなか踏ん切りがつかない。なによりも真名すら決まっていないのだ。

 

「どーすっかなぁ」

 

 空を見上げ、木々の葉の隙間から覗く空に、オレの呟いた言葉が響いた。

 

 

 

 

「山民、明日には姪が来るから掃除しとけ」

 

 漢水まで降り、よく肥えた魚を数匹捕まえてえっちらほっちらと家まで戻ってきたオレを出迎えた母の第一声がこれだった。

「母さんの兄弟か姉妹の娘?」

 母の無茶振りはいつものことなので、壷の入った籠を傍らに置きながらそう尋ねる。

 

「生真面目な姉がいてな、そこの娘だ。箱入り過ぎて家から出んと心配して、ワシが一時期預かることになった」

「へぇ……、母さんとはまったく逆のお姉さんなのか」

「よし山民、表へ出ろ。今から稽古をつけてやる」

「本当にスミマセンでした」

 

 すぐさま謝ると、とって来たばかりの魚を捌くため台所へと向かった。

 塩は貴重だからそのままで焼くか、それとも汁物にしてぶちこむかが最近の料理法なのだが、今日釣ってきた魚は脂がよくのっているため、汁物にはせず焼くことに決める。

 たしか親指のつめぐらいの大きさの岩塩の欠片がまだ残ってたはずだ。

 そう思いしまっておいた場所を覗くと、拳大ぐらいの大きさの岩塩が二つどっしりと置かれていていて、思わず自分の目をこすり二度見してしまう。

 

「か、母さん! 何これ、岩塩が二つも現れたんだけど!」

「ああ、高からの差し入れだ」

「母さんの生真面目なお姉さん?」

「そうだ。気をつかわんでもいいのにな、アイツらしい」

 

 そういって笑う姿から姉妹の仲の良さが窺えて、いつもより機嫌の良い母に自分の機嫌もよくなってくる。しかもこのあたりならば通常海塩が主流だと思うのだが、この大きさの岩塩となると西から採れたものに違いない。そのことを考えると、母の姉は母のことを大事に思っているのだろう。

 いただいた岩塩でなく、もともとあった小粒の岩塩を取り出し、砕いてすりつぶしながら明日来るであろう従姉妹のことを聞いた。

 

「来る子ってどんな子なの? 娘っていうことは女の子だよな」

「ぬ? 一言でいえば雛のようだの、尻に殻がついとるぐらいのな。オマエと一緒」

 

 声高らかに笑う母親にムッとするも、否定するとかえって面倒なことになるということを骨身に沁みているオレは華麗に無視した。ものすごく、突っ込んで欲しそうだったが、無視。

 「最近の山民はつまらん」なんて言われても、からかわれる方の身にもなってもらいたい。

 

「そういえば、寝るとこどうすんの? 寝台二つしかないし」

「ワシ一人で一つ、統が一つ、オマエが床」

「ヒドッ、せめて簡易寝台を作ってもいい?」

「狭くなるからダメだ」

 

 母の即答に「いや、でも」と言い募るも、きっぱりくっきり拒否された。これは本気の本気で、取り付く島も無いのだと経験でわかっていたので、潔く諦めることにする。

 統というのがきっと母の姪っ子さんなんだろう。身体が小さい子なら一緒に寝ることできるんだろうけど、オレぐらいの大きさだったらちょっと狭いかな。できれば床は遠慮したいんだよなぁ。

 ぶつぶつとぼやく様に呟きながら腸を取り塩を振った魚を調理し、……とはいっても食べやすく切り、塩をふって焼いただけの簡単の調理だ。野菜をいため、たれを掛ける。素湯の中にとき玉子と刻んだネギを入れて今日の晩御飯の準備は終了。

 

「そんじゃご飯にするから、母さんちょっと手伝って」

「食べることなら任しとけ」

 

 なんていつもの軽口をやりとりをしながら、卓の上に皿を並べる。もちろん口ではあんなこと言っていたけども母も手伝ってくれた。

 まあ、つまみ食いもしてたけどさ。狭い家というとなんとなく嫌な感じだけど、でもさほど広い家じゃないからこういう時は楽だなって思った。あっという間に食べる準備が整うからね。

 

 そんなこんなでおいしい食事が終わり、食後の教養の時間がやってきた。食べた後は少し休むという時間を有効利用するため、最近はもっぱら母と一緒に音楽を嗜んでいる。

 母はこんなものぐさに見えて、案外と小器用で教養もあるらしい。

 寝台の上に胡坐をかいて座りながら、約四尺五寸ほどの大きさの琴を膝の上に載せて、軽やかな音を室内に響かせていた。

 オレは羌笛と呼ばれる竹の縦笛を吹いている。穴は三つしかないので、笛(※2)よりかは扱いが楽なように思う。逆に言えば三つしか無いからやりにくいとも言うけどね。

 残念な音色を室内に響かせながらも、母の音に合わせるようにと竹の笛を吹き鳴らした。

 

「噂名高い杜公良に認められるような才を身に着けろ……とはいわんが、せめてワシぐらいには弾いて欲しいもんよの」

「目標が高すぎるんですけど! つか、きっとオレこの楽器初めて触ったんだと思うんだよなー……ぷぴー」

 

 母の言葉にツッコミを返した後、もう一度笛を咥えて吹いてみるも、なんとも無残な音色が鳴り響いた。

 

 

 我が家の朝は早い。なぜ早いのかというと、朝の鳥の囀りが煩いからだ。昨日の夜に痛めつけた身体を擦りながらも、寝台からゆっくり起き上がる。

 今日は確か、従姉妹がくるんだったっけ。

 どこかぼんやりする頭でまだみぬ従姉妹のことを考えながら顔を洗いにいくため、外に出た。

 だから気づかなかったのだ。家を出たすぐに、足元に何かが蹲っているなんて。

 

「う、おっ!?」

「……ふぇ? きゃっ」

 

 すってんころりんというほどの見事さはないが、足元の障害物に蹴躓いて前方へと転がった。足には柔らかい感触が微かに残っていたが、無理やり身体を捌いたので打ち付けた右肩が痛い。

 

「いたた……ってか、大丈夫?」

「ぅう……ん、あ、あわわ……っ、ふ、ぁ、ふぁいっ、大丈夫れしゅっ!」

 

 起き上がり慌てて蹴り飛ばしかけた方へ向かって声を掛ける。どうやらそれは女の子で、オレが現れる前にはちょこんとしゃがみこんでいたのであろう姿が、今じゃ両手両膝を地面につけて唖然とした様子でこちらを見ていた。

 目が合った瞬間、少女は真っ赤になりながらあわあわと声に出し、辺りを見渡している。

 二つに結んだ薄い青紫の髪が少女の動きにあわせひょこひょこと動く様を見ていると、なぜか心の奥そこに懐かしいような、切ないような、嬉しいような、悲しいようなそんな気分があることに気づいた。

 多分、初めて会う顔だ。ここで暮らし今日まで会ったことは無い。髪の色や質が母に似ているからそう思うのか?

 

「騒がしいと思ったら、統か。久しいな」

 

 家の戸口から顔を出した母だった。

 母の顔を見つけると少女は慌てて立ち上がり母の腰へと抱きついた。

 

「ふえええええええっ、叔母様っ、こ、こ、こわかった、ですっ」

「ふむ……襲われたのか?」

「ぶほっ」

 

 あやす様に少女を抱きとめた母の台詞は、オレをからかうにしては高度すぎた。噴出した音に少女は慌てて母の後ろへと周り、オレから姿を隠す。

 いや! オレのせいじゃないんですけど! どう考えても襲ってないよね! 躓いただけだよね!

 口をぱくぱくさせていたオレを見た母は、にやりというのがしっくりくるような笑みをこちらへと見せて、「とりあえずオマエは顔でも洗って来い。ワシは中で統と話をする」と告げた。

 さぞ楽しそうで、なによりです。がっくりと項垂れると、目の前で家の扉がゆっくりと閉まった。

 

 顔を洗っても正直気がすまなかったので、荒れるまま畑の世話をする。ちょっと万事が荒っぽかったが、そんなことはささやかなことだと思う。ついでに外においてある大きな瓶の水がかなり減っていたので、水を汲むため畔まで赴き、数度往復して瓶に水を満たした。

 額の汗を拭い空を見ると日がだいぶ昇っていることに気づき、そろそろいい加減に現実逃避から戻らなければと思いなおす。しかし、一瞬のうちにいろんなことを考え、あのドヤ顔の母を思い出すと、ついうっかり漢水まで降りて魚を釣りに行きたくなった。というか、もっと下っていって南下したところにある魚の養殖場まで行き、途中どこかで泊まってやりすごしたい。

 オレはため息を一つ吐き出すと、籠に熟れた採りたての野菜を放り込み、釣具を持って家からすぐそばにある池の畔へと向かった。

 

 

 魚は三匹しか釣れなかった。いや、正しく言えば三匹を釣った時点で止めた。流石に昼を回ってしまうのもどうかと思うからだ。釣具を初めて持たされた頃から考えれば、三匹釣れるだけでも上等だったのに、今じゃ数刻で三匹がつれるようになったわけだから、進歩といえば進歩なのかもしれない。

 ずっと釣りは運しだいだと思ってたけど、ちょっとした努力で全然違うんだなあ。

 そこまで考えてから、自分の今の感想に首をかしげた。ちょっとばかりの違和感。

 

「っと!」

 

 釣り上げた魚が籠の中で跳ね、慌てて籠を持ち直すと「ま、いっか」と呟きを漏らして家へと続く道を足早に進んだ。

 お客さん居るから今日はちょっと豪勢にするべきか? 素揚げもいいけど、酸辣が効いた味付けも捨てがたい。麺を打つの面倒だけど、ちょっと手間隙掛けてみっかなー。魚香、茄汁、麻辣……はないな。

 ぶつぶつと呟きながらも浮かんでくる味に、なぜか涎がたれそうになるわけで。どうやらかなりお腹がすいていたらしい。ぐーっと腹がなり、誰も聞いていないというのに少し恥ずかしくなったオレは、より歩く速度をあげたのだった。

 

 

「今日の飯はなんだ?」

 

 扉を開け、卓の前でゆったり座っている母と目が合ったと思ったら、これだ。

 あの少女はまだ家の中に居て、母の向かいにちょこんと座っている。

 ちなみに、母の一言にびっくりしたようで、「あわ、あわわ」なんていいながら慌てていたりするわけだが、なんというか少女の体格が小さいためか、――かわいい?

 そう、かわいいとしか言いようが無い。

 

「さっきはゴメン。怪我は無かった?」

「えっ! ……っと、えと、ぁ、あ、あのっ、は、……はいっ、大丈夫れしゅ」

 

 母の訴えは無視して荷物を置くと少女へと向き直り、先程おざなりになってしまった謝罪を述べた。少女はまさか自分に話しかけられるとは思ってもいなかったみたいで、大きな目をさらに大きく見開いて吃驚すると、近くにあった帽子を掴んで顔の前に持っていき、顔を隠しながらこくこくと、首がもげちゃうんじゃないかなって心配しそうになるほど、首を縦に何度も振った。

 

「無視するなんて酷い奴に育てたつもりはないぞ、山民」

「何か言ってたの? 母さん。聞こえなかったよ」

 

 つまらなさそうに文句を言う母は適当に流して、麺を打つために籠を回収しながら台所へと向かおうとすると、「山民!」と強く名を呼ばれ立ち止まる。

 

「何、母さん?」

「オマエ、挨拶もろくに出来んのか」

 

 眉を寄せて機嫌が悪そうに言う様子から、本気で注意されているようだ。

 はて? 挨拶とな。

 荷物を置き少女へと向き直ると、そういえば名乗っていなかったかもしれないと思い、口を開いた。

 

「えーっと、山民です。鳳山民、字は李姓。ちょっと前からこの人の娘をやってます。よろしく」

「あ、あわわ……は、初めましてっ。ほ、鳳統でしゅ! 字は士元、よ、よろしくお願いしましゅっ」

 

 かみかみの少女、鳳士元の言葉になぜか顔が綻んで、小さく笑いながら再度「よろしく」と伝える。

 真っ赤になった顔を大きな帽子で隠す士元に「ご飯もうちょっと待てる?」と聞くと、先程より増して首を縦に何度も振った。彼女の首がもげない為にも、速攻で飯の準備にとりかかるオレが居ましたとさ。

 

「ところで、山民」

「ん?」

 

 下ごしらえのあらかたが済んだところだろうか、台所へと入ってきた母には目もくれず黙々と作業をしながら言葉だけで返事をする。

 そんなオレの態度に怒った様子はみせず、オレの近くまで来ると静かな声が落ちてきた。

 

「何故、名乗ることをしなかった?」

 

 母の声色に思わず手を止め振り返る。真剣な表情で、真剣な眼差しで、こちらを真っ直ぐに見つめていた。質問された内容を考えてみるも、たいした理由は無い。でもそれを言おうものなら怒られるのではないかと思い、なんとなく言い渋ってしまうが、母からは問いを投げかけたっきり言葉は無い。

 きっとオレからの返事を待っているのだろう。

 

「えーっと……、なんというか。言葉にすると不真面目で礼儀知らずなんだけど、うーん。……ほら、なんていうか、名乗るってことすら思いつかなかったというか」

 

 視線を彷徨わせながらそこまで言葉を紡ぐと、ちらりと母の様子を伺った。怒っている様子は無い。先程からと同じ様子でオレを見ているだけで、何かを言う様子は無かった。

 仕方なしにオレは頭を捻って、何故名乗ることすら思いつかなかったかを考える。

 薄い青紫の髪、真っ赤になってかみかみの彼女、そんな鳳士元を見てオレはどこか懐かしい感覚がしたのかもしれない。

 

「無意識のうちにって感じで、多分……知ってる人の対応になっちゃったというか。いや、知らないんだけど! 士元も初めましてって言ってたし。あの時のオレにじゃあ士元の名前を言ってみろって言われても多分答えられないだろうけど、でもそんなことも思いつかないぐらいに知ってる人のような感覚になったというか」

 

 しどろもどろになりながらも言葉を重ねる。自分で言うのもなんだが支離滅裂の内容だ。母をちらりと見ると促すように頷いて、オレも少し安心して頷き返すと話の続きを語り始めた。

 

「なんていうか、この気持ちを言葉でちゃんと表そうとすればするほど、わからなくなっていくというか。ほら、前にオレの記憶の話をしただろ? あんな感じで。んー、そう! 沼にはまるみたいに、よくわからないって気持ちに飲み込まれてくっていうのが、その、えっと、……今のオレの心情、です」

 

 言いながら、さっきの言葉となんら変わらないという事実に気づき、思わず最後は口ごもるように途切れがちになり、とっても残念な言葉の結び方で終わる。

 どう考えても、たいした理由は無いよなあ。

 がっくりと項垂れているとオレの頭の上に、ふいに暖かい手が置かれた。無造作に伸び散らかした髪を、細長く少し荒れた指先が掻き回していく。

 

「わざとでないなら、かまわん」

「ん……、ごめんなさい」

「ワシに言うべきじゃなかろうて」

「そうだね、士元に後でもう一度ちゃんと謝るよ」

 

 考えてみれば、士元にしたことは失礼だったのに、彼女は怒ることもせずに挨拶を返してくれた。お礼も兼ねて、今日のご飯は腕によりをかけよう。

 離れていく指は名残惜しかったが、それよりもしでかしたことに対して精一杯気持ちを込めてご飯を作る。

 

「うし、気合はいった!」

「ふむ、その調子で早めで頼むぞ。腹減ったし」

「やる気が最後の一言でお亡くなりになりました」

 

 母の茶々に軽口で応じながらも、手は母が来る前よりも早くに動かして。精一杯という気持ちに偽りはないから、今のオレの持てる全力を持って調理に取り掛かった。

 

 

 オレの努力の甲斐あってか、出来上がった料理は二人にものすごく喜んでもらえた。いままでで一番の出来だったから、なおさら嬉しかったりする。

 士元にもう一度謝罪をしたところ、やはりあのかみかみ口調で気にしないでくださいと言われ、なんというかはたから見たらオレが謝られてるって感じになっちゃったので、そこで終了にした。

 士元は照れ屋だよなって言ったら「あわわ、あわわ」といいながら目を回してしまったのもいい思い出だよな! ――きっと。

 そんなこんなで、新しい面子である士元も一緒に今日も今日とての食後の勉強が始まり、母と士元が話し合いをしている間に、オレは晩ご飯用の肉を求め森へ狩りに行って一働きをしてくることになった。もちろん「肉食べたい、肉」と言い出した母の我侭のためである。

 母が行くかオレが行くかで一悶着あったのだが、今日はオレが行くことでなんとか収まった。なんというか、士元って人見知りってレベルじゃないよなあ。

 そう思ったらついつい口からぽろりとすべりでて、台所へ水を汲みに行く士元の後ろ姿を見ながら呟いた。

 

「士元って、人見知りとかいう次元の話じゃないよな」

「まあ、見てわかるとおりあがり症なのもある。襄陽じゃ弁がたたねば馬鹿にする輩も多い。焦ればよりからまわる。本人も歯がゆかっただろうて」

 

 負の連鎖か、そら引きこもりたくもなるわな。

 これからしばらくここで生活するらしいし、その間に改善されればいいなーなんて思いながら、よっこらしょと掛け声一つ漏らし腰を上げる。

 

「それじゃ行ってくるよ。夜前には帰るつもりだから、どうしても見つけられなかったら魚になっちゃうけど、そこは我慢してね。特に母さん。駄々こねるんだったら野菜だけにするから」

 

「やれやれ、山民はいちいち煩い」

「どっちがだよ!」

 

 軽口に突っ込みを返して、壁際に立てかけていたもろもろの狩り装備を手に取ると、持ち運びやすいように腰紐などに引っ掛けたり、背中にしょったりと狩りの準備を整える。

 竹筒に入った水がちゃぷちゃぷしているのを確認してから、家の扉をあけた所で声が掛かった。振り返ると士元が手に水を持ちながらも、もじもじしながらこちらを見ている。

 オレは首を軽くかしげると、彼女は顔を真っ赤にしながらなかば叫ぶように言葉を紡いだ。

 

「ぁ……あのっ、あ、あわわ……い、いってらっしゃい、でしゅっ!」

 

 声を掛けてもらえるとは思っていなかっただけに、おもわず吃驚してしまったが、オレは満面の笑みをみせてこう応える。

 

「応! いってきます!」




※1  正しくは峴山(ケンザン)。文字化けそうな気がしたので当て字にしました。
※2  正しくは篴(テキ)。文字化けそうな気がしたので当て字に以下略。
   Fueとは違うんですよFueとは。
   羌笛とごっちゃになりやすくしてしまったのは坊やだからです、すみません。

<修正>
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル修正


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1-3

 鳳士元という、母の姪っ子が我が家にやってきてから一月が過ぎた。

 士元の人見知り及びかみかみはいまだ健在だったが、オレにもようやく少しは慣れてきたらしく、当初のぎこちなさから少し脱却したようだ。

 客人という扱いから家族という扱いへ移行したため、彼女の日課は畑で野菜をむしることから始まる。士元は身体が小さいから、水汲みや水撒きなんかの力仕事はオレの担当。母は苗などの様子を見たり、魚を釣ったり、その日の思いつくままのんびり過ごしてる。

 噂によれば巷では山賊とか増えてきているらしいけど、そんなことを感じることのない毎日を過ごしていた。ああ、でも最近は母に用事があるだとか、勧誘したいだとか、そんな関係の人よく訪れるようになったかな。だいたいそういう人たちが帰った後の母は、色々と面倒で正直困るから、できれば来て欲しくないんだけど。

 今も母が襄陽から来たという立派そうな服を着た人と話をしている。どんなとばっちりが後から降りかかってくるかわからないため、オレたちは急いで畑仕事をこなしているところだ。

 

「士元、そっちはどう?」

「っ! ……えと、あの、後はこっち側の野菜を収穫すれば、終わりですっ!」

「了解! オレはこの後、念のために水瓶の水を足しておこうと思うから、士元は先に家へ戻ってていいからね」

 

 流れる汗を手の甲で拭いながら、先に家へ戻るように伝える。まあ、話し合いもそろそろ終わるだろうし、オレよりも士元のほうがきっと上手いこと母をなだめてくれるだろうという目論見も、実はあった。そのことがわかったのであろう士元は、「李姓さんは、ずるいです」なんてかわいく膨れているが、そんなことは気にしない。

 

「あ、まってください……!」

「ん?」

 

 両手に桶を持ち、いざ出発というところで士元に呼び止められ立ち止まると、彼女は収穫に使っていた籠を脇へと置いて、こちらの方へと走りよってくる。

 

「あ、あの、髪の毛」

「あー、やっぱ邪魔だよなあ。切ろうかとも考えたんだけど、なんとなく切れなくってさ」

 

 桶を傍らに置おくと、耳の横から流れる茶色い髪の一房をつまみ、持ち上げた。いつのまにか背中の半ばまで伸びた髪の毛に、いい加減本気で切ることを考えるかと真剣に悩む。

 

「あわわ、勿体無い、です。……長い髪も、似合ってます。あの、後ろを向いてくださいっ、髪、結んだ方が……その、いいから」

 

 士元を見ると手に紐が握られていて、どうやらそれで髪の毛を結んでくれるらしく、言われるがままに後ろを向き、その場にしゃがみこんだ。

 オレは母よりも少し背が高く、士元よりすごく高い。今日みたいに襄陽から母に会いにくる男よりも高いときもある。きっと普通に後ろを向いただけじゃ結んだりとか出来ない……よな? 多分。

 彼女の手が耳の横に回るのを視界の端にとらえて、士元の指は小さく細い指なんだなと思っている間に、オレの髪をするするとまとめて結い上げてしまった。

 後頭部の上のほうから一束の房が流れる。その様子は、まるで馬の尻尾のようだ。

 一度ゆるく頭を振ってみせると、士元へと振り返り礼を言う。

 

「サンキュ、邪魔にならなくていい感じだ」

「さん……きゅ?」

「ん? ああ、えーっと、ありがとうって意味。なんかつい口から出ちゃったよ、ゴメンな」

 

 オレの言葉に左右へと揺れる水色の髪の毛を見ながら、先程のやりとりをもう一度脳内で再生させた。今回のように、不意にオレの口から出た言葉の意味が伝わらないことがある。それは何を意味するのだろうか。過去の自分についてを考えることは昔より増えたのだが、それはきっと今の生活に慣れたからなのだろうと思っている。だが、この士元が家に来たことにより、より違和感が増えてきているようにも感じるのだ。

 

「おい、山民! 統!」

 

 なにか以前のオレと係わり合いがあるのか、そう考えた矢先に家の方から母の怒鳴り声が聞こえてきた。あの声の様子じゃ今日もご機嫌斜めのようだ。これを無視なんてしてると、本当に後が面倒になるので、とりあえず大声で返事を返す。

 

「ういー」

「はいっ!」

 

 見ると士元も母の声にビクッとした様子で返事を返しており、思わず噴出すとそれを聞きつけた士元が真っ赤になって拳をつくり、オレの腹めがけて叩きにきた。全然痛くない拳がぽかぽかという擬音が似合うような速度でオレの腹に当たっている。士元の必死な様子をこのままもっと見ていたいところだが、このまま母を放置した事に対する後処理を考えると諦めざる終えないわけで。

 

「ゴメンゴメン、ほら母さんが呼んでるから行こうぜ」

「あ、あわわ……、最近の李姓さんは、いじわるです」

 

 士元の言葉に声を立てて笑うと、オレは傍らに置いた桶を邪魔にならないところへと片付け、収穫した野菜の入った籠を士元から奪い取りつつ、母の待つ家へと向かった。

 

 しかしながら家への扉を開けても静かで、思わず士元と顔を見合わせる。いつもならここで母の

「遅い! なにをしている!」という怒鳴り声が飛んでくるところだ。玄関から覗く卓には座っていると思われた母もおらず、オレらはとりあえず中へと入り奥の部屋を覗いた。

 

「なにしてんの、母さん」

「ぬ、来たか」

 

 大きな風呂敷とでもいうのだろうか。この場所からは母に邪魔され中身は見えないが、その風呂敷の中になにかが沢山詰め込まれているように見える。ちょっとでも力が入ったら風呂敷を結んでいるところが外れ、中身が全部こぼれてしまうのではないかと思うぐらいの膨らみだ。その風呂敷と一人格闘している母を見つければ、思わずツッコミを入れても仕方が無いとオレは思う。一仕事終わったぜ、とでもいいそうな爽やかな顔で額の汗を拭う母に、士元なんかは視線をあちらこちらへと泳がせてしまっているではないか。

 

「来たけど、ホントなにしてんの?」

「見たらわかるだろう」

「わからないから聞いてんだろ!」

 

 母の切り返しに怒鳴るような荒い口調で切り返す。内心の呆れやら訝しげやらを抑え、どうにかこうにか紡ぎだした言葉だったというのに、この人はしれっと言い返しやがった。悪気が無いのがなお腹が立つ。なんだ、なんかどこかでこういう人知ってるような気がするんだけど。こう、理不尽の代名詞みたいな人。しかも偉そうというか自信満々というか、アホの子みたいな感じの人。

 

「山民は見る目が無いの。まあいい、オマエらあっちへ行くぞ」

「あ、あわわ」

 

 何かを思い出しかけた気がするのだが、母の声に思考を一旦引き出しへとしまうと、言われるがままに向こうの部屋へと移る。もちろんあの風呂敷包みはオレが持たされるんだけど、結構な重さがあり、いつ結び目が解けないかと肝を冷やした。とりあえず、玄関の方へと置いておけといわれたので言われたとおりに移動させると、オレは士元の向かいの椅子に腰を下ろす。オレと士元、二人が座ったのを確認すると、母はもったいぶって咳払いを一つし、そして意地の悪い笑みを見せた。

 

「ワシは今日から家出をする」

 

 向かいに座る士元を見た。きょとんとした表情で母を見ている。あの顔は、何を言っているのかわかっていない顔だ。ちなみにオレも何を言っているのかわからない。母へと視線を戻すと、ヤツは悦にはいったような顔でオレらの様子をうかがっていた。この人が自分の親になったことをちょっとぐらい悔やんでもいいだろうか。そんな考えもよぎるほど、あまりにも突飛過ぎて二の句がつげられないでいた。

 

「あの人もそろそろ魚梁洲の探索が落ち着くだろうて、ワシの休養も兼ねておる」

「……あの人?」

「ぬ? 山民には話してなかったか。碧玉という、ワシの尊敬し、愛する人のことだ。気分転換も兼ねて、魚梁洲のほうに寓居でも、ということになってな。あの人が先に様子を見に行ってくれておる」

 

 母の口から出てくる言葉は、衝撃的なことが多すぎてオレの脳が上手く作動してくれない。家出、ということは横においておいてでも、後から出てきた碧玉さんという人についてさえも処理しきれない。その中で一番最初に理解できたのは、母が家から出て行くということ。

 

「えっと、一つ聞くけど」

「応、聞いてみろ」

「その、母さんだけで行くの?」

「そのつもりだ」

「オレらはその間どうすんの?」

「二人次第だな」

 

 ちょっと待て、落ち着けオレ。深く息を吸ってゆっくりと時間を掛けて吐き出した。焦った気持ちが嘘のように消えていくわけもなく、変な汗がうっすらと額に浮かんで、思わず額を袖ぐりで拭う。周りを見渡してみると、カチンコチンと固まった士元が見えた。口癖のあわわすら出ていないところを見ると、士元の中の何かを越えてしまったのかもしれない。彼女の大きな目がぐるぐると渦を巻いてまわっているかのようにみえる様子から、そのまま倒れてしまうんじゃないかと、どこか冷静に状況を鑑みるオレがいた。

 

「――えっと、ゴメン。意味がわからない」

「ふむ、何がわからんのだ?」

 

 士元から意識を母へと向けることに成功したオレは、素直に謝ってみる。そうすると母は一つ頷いて、問いを投げかけてきた。何が、わからないか。オレはその疑問に首をかしげる。

 

「あ、あのっ」

「ぬ? なんだ、統」

「あ、あのっ、も! も、戻っていらっしゃるんでしゅか!」

 

 オレが言いよどんでいると、復活を果たしたのか、士元が机に向かって前のめりになり声を上げた。その声の大きさに言った本人が吃驚したのか、周りを見渡し真っ赤になって身体を小さく丸めて、本当に小さな声で「あぅ」と、呟きを漏らす。

 

「一月か二月か、今のところはそれぐらいを考えておる。その間、オマエらはここで適当に過ごすも良し、統は家に帰るも良し」

「お、オレは?!」

「山民、オマエはここで気張って武者修行」

 

 さっき二人次第っつったよな? な? オレの選択肢は一つしかねーだろ。武者修行ってなんだ、武者修行って。思わず心の中で反論するも、口はパクパクと開くだけで声にはならず、目の前の人物の満足そうな顔に撃沈する。がっくりと項垂れたオレに、母は少し苦笑の混じった声で、言葉を付け加えた。

 

「正直なところ、連れて行くことも考えたんだがな。最近きな臭い噂が流れておって、オマエらはここに残る方が良いというのがワシの判断になる。まあ、統は高にそろそろ顔を見せても良い頃だから、この機会に家に戻るといいだろう」

「うへー、オレ一人かよ」

「一人がそんなに嫌か?」

 

 思わず漏れた心の声に、母がからかいの混じった口調で問いかけてきたが、反論をする気力もなく「まあね」と短く返す。よくよく考えてみれば、オレが山民として生きてきて……といっても、数ヶ月ぐらいなんだが。まあ、山民としての自覚をもってから初めての一人暮らしになるわけだから、寂しいというか不安が勝ってしまった。なのでうっかりと素直に同意をしてしまったんだけど、それがどうやら母には頼りなく見えたのだろう。片方の眉だけを器用に持ち上げ、少し呆れたような声で付け加えた。

 

「オマエ、統が無事に家に帰れるまで送って来い」

 

 その言葉に驚きの声を上げたのはオレだけではなく、士元からも素っ頓狂な悲鳴が聞こえる。思わず士元をまじまじと見つめると、案の定真っ赤になってわたわたとあたりを見渡して、何も顔を隠せるものが無いことに気づくと、身体を前に折って頭を抱えるように丸まってしまった。士元ってなんというか、愛玩動物とでもいうか。いや、飼育するって意味じゃなく、平たく言えば、かわいいよな。

最近なんか特に意味も無いけど、からかうわけじゃないが真っ赤にさせておろおろする様を楽しんでいるところがある気もする。罪悪感は、少ししか無い。そんな感じで士元について妄想が暴走していると、母がコホンと咳払いをするのが聞こえ、慌てて母の方へと向き直った。

 

「山民、顔がニヤけてるぞ」

「うっせ!」

 

 真顔で突っ込みを入れてくる母に短く軽口できり返すと、はーやれやれといった様子で肩を竦めて見せるところが、オレを無性に苛立たせる。

 

「まあ、良い。どちらにしろ、統が家に帰るのであれば、の話だがな。――どうする、統よ」

「っ! ……あ、あわわっ。あ、あのっ、ぅう、……あぅ」

「士元、落ち着いて。大丈夫、母さんは別に急かしてるわけじゃないから」

「いや、急かしておる」

 

 この人は……! 頑張って耐えていたオレの堪忍袋の緒が盛大な音を立てて引きちぎられ、思わず勢いあまって席を立ち上がろうとすると、慌てた様子で士元が声を張り上げた。

 

「あっあの! ……ぁぅ、り、李姓さんっ! わ、わた、私と一緒にっ、家に来てくだしゃいっ!」

 

 見事なまでのかみかみだ。真っ赤な顔のままで周りを見渡して隠れれそうなところを探しているところが士元らしいと思いながら、娘の成長を見守る母のような様子で頷く母を視界からそっと締め出した。

 

「いいの? 母さんの言葉を真に受けなくて大丈夫だから、勢いに任せて言っちゃわない方がいいと思うんだけど」

「あわ、大丈夫でしゅっ! あ、あの、ちゃんと考えましたから」

「うーん、けど……」

 

 いつものこととはいえ、この慌てっぷりというか、かみかみっぷりというか、勢いに任せてるようにしかみえないから余計心配になって、ついつい言葉が鈍ってしまう。たしかに、二月後とか言っていたが約束がきちんと守られる保障がないと思われる母を、いつ帰ってくるかわからないまま一人この家で待つのは寂しすぎる。士元についていけば、きっと気も紛れるし街までとはいえ見聞を広げられるのは間違いないだろう。むむむ、と小さく唸るように呟くとこちらを真っ直ぐ見つめる視線に気づき顔を上げた。

「!!?」

 どこかホワンとした表情でこちらを見てた士元と目が合ったが、すごい勢いで視線を逸らされてしまった。 なんか変な顔してたかな?

 

「ふむ、とりあえずは決まったようだな。途中水鏡先生に会わねばならんから、ワシはもう行くぞ。統よ、高によろしく言っておいてくれ。ついでに、姉上も今度は釣りに付き合ってくださいともな」

 

 オレたちのやり取りがおさまったのを見計らって、母がオレと士元の話を切り上げる。決まってないだろって言いたい気もするが、士元についていく方が良いような気がするので黙っておいた。母の言葉に士元はこくこくと首を上下に振って大きく頷くと、母は士元の頭に手をのせて優しくゆっくりと撫でる。別れを惜しむかのような様子に少し羨ましくもあり、ほほえましくもあった。

 

「統、家に帰って落ち着いたら、司馬徳操という人物を訪ねると良い。荊州に移ってきたばかりだが、しばらくこちらで住むそうだ。思慮深く、面白いヤツでな。もしオマエが進むべき道に迷ったとき、きっとオマエの道を照らしてくれるだろう」

「は、はいっ!」

 

 諭すような言葉に、士元が強く返事を返す。その返事に母が小さく頷くと、士元の頭の上にのせていた手を退けてこちらへと視線を真っ直ぐに向け、オレの名前を呼んだ。なんとなしに居住いを正して、出来るだけ平静を装って相槌を打ち、母の言葉を待った。

 

「山民」

「ん、なに?」

「約束を覚えているか?」

「はい」

 

 いつか自分が旅に出るときまでに、真名を決め覚悟が出来たときに母に教えること。

 それが母との約束だ。まだオレの中で真名は決まらず、覚悟すら宙ぶらりん状態で、士元の付き添いを兼ねてここから離れ、町に出るということすら不安になっている。そんな後ろめたいような、情け無いような気分の為か、母の視線をまっすぐに受け止めることもできず、視線をそらしながらもどうにか肯定を返すと、母はふむ、と一つ呟きを漏らした。

 

「まだ名は浮かばぬようだな」

「……はい」

「覚悟はどうだ?」

「自信は、ありません」

 

 静かに、しっとりと柔らかな声音で問われると、情けなさが溢れ頭が下がり俯いてしまう。士元は気を利かしてくれているのか、沈黙を守ったままでオレたちを見守ってくれているようだ。その優しささえも、今は少し心が痛い。

 

「そうか。ならば次逢うまでに決めておけ。学びて思わざれば則ち罔し、オマエの目で見てオマエが考えるのもまたしかり。ただし、危なくなったら逃げろ。いいな?」

「はい」

 

 オレの返事に母はやや乱暴にオレの頭へと手をのせ、髪の毛をかき回すように撫でた。「手のかかる娘だ」なんてぼやくように言ってはいるが、声音も手つきもどれも優しいものだった。普段の態度とうってかわって、こういう時の母への接し方がどうにもぎこちなく、ただただおとなしくなってしまう。そんなオレを見てる士元の表情はとても優しい顔をしていたのだが、なんだかとても面映かった。

 

「さて、ワシはそろそろ行く。明日の昼頃に今日来たヤツらがまた来るとかほざいてたから、オマエらも話に付き合いたくないのであれば、明日の昼までにここを出るが良い。残っているものは適当に片付けておいてくれ。勿論戻ってくるつもりはあるが、野党が紛れ込まぬともいえんからな。片付けはきちっとしておくように」

「了解」

「あわわ、がんばりましゅっ」

 

 オレと士元の顔をゆっくりと交互に見て、母が深く頷く。それにあわせオレや士元もしっかりと頷いた。母が椅子から立ち上がり、続いてオレらも立ち上がると、見送るために門口の前までついて行く。大きな荷物をさほど重くなさそうに担ぐ母に、どうにか「道中気をつけて」と言葉を紡ぐと「応」と短い頷きを返してくれた。背を向けて山道を下っていく母の姿を、姿が見えなくなるまで見送り続ける。一度、だいぶ母の姿が小さくなった頃ぐらいに、こちらへと振かえるのが見えて大きく手を振った。オレも、士元も精一杯手を伸ばしてぶんぶんと振る。そうすると母も片手を大きく振ってくれた。それも一瞬で、母は背を向け山道を下って行く。母の背中が木々の間から消えてもしばらくはずっと母が下っていった道をオレたちは見続けていた。

 

 さわさわと風により木の葉が震え、葉擦れの音だけがこの場を満たしているようだった。そういえば、オレが名前を一度無くし、新たに名を得たときのように、今回のことも突然だったように思う。そればっかりじゃない、あの人はいつも突然で、そしていつもこちらが驚くようなことばかりをしでかすのだ。振り回される身にもなって欲しい、片付けなんてそんなにしたことが無いんだぞ。

 どこかぼやけて見える木々を睨むように見つめ、心の中で毒づいた。母に驚かされたことや腹が立ったこと、呆れたこと、怒られたこと、嘆かれたこと、そして楽しかったこと。短い期間だったが、沢山の思い出があり、それが次々と思い出せてなんだかこの場から立ち去りづらかった。

 くいくいと服の裾が引っ張られる。ぼんやりとしていたオレはそれに気づくのが遅く、何度も裾が引っ張られてから、ようやく自分の服の裾が引っ張られていることに気づいた。傍らの小さな背の女の子に視線を向ける。薄い青紫の色をした髪の毛を二つに結んだ、目の大きな少女がこちらを心配そうに見上げていた。その両の瞳は真っ赤で、鼻も少し赤くなっている。

 

「オレたちもいい加減、片付けて準備しないとな」

「はいっ」

 

 士元が何かを言い出す前に、オレは名残を切り捨てるかのような少しおどけた口ぶりで、そう言い笑いかけた。彼女もはにかむような笑みをオレに返し、二人で家の中へと戻っていく。まずは作戦会議だ。いつ士元の家へ向かうかとか、どうやって片付けるかとか、決めなければならないことは沢山ある。身体が少し冷えてしまったから、温かいものを飲もうといってお茶を入れ一息つくと、二人で母のあれこれについて思い出を語り合った。彼女から聞く母のことは、オレからみた母と少し違ってて、新たな一面がみれたようで面白かった。

 あの後、沢山の言葉を士元と交わした。母はどうも望まない客人が面倒だからと家を出たようなので、その足取りがばれるのは嫌だというところで二人の意見は一致し、明日の昼までにこの家を出ることに決める。しばらく家を空けるための片付けなど、あまり経験の無い二人だったためか知識を出し合うのに手間取り、夜中近くまでかかってしまった。ありがたいことに、荷物はさほど多くなく、オレの思いつきも功を奏して綺麗に片付けることが出来たと思う。荷造りはどうやら苦手じゃないらしい。すごいすごいと褒めてくれる士元にオレはちょっとだけ胸を張った。

 夜、朝まで数刻しかないけれど、しっかり寝ておこうということで寝台に寝転がったのだが、色々と思い出して眠れず士元の様子をみる。彼女も眠れないためかころころと寝台の上で寝返りをうっているのが見えた。

 

「士元、起きてる?」

「~~っ! ぁ、あわわ……ぐ、ぐーぐー」

「いや、寝たふりしなくていいから」

 

 オレが声を掛けた瞬間、ビクッと身体を震わせて文字通りぐーぐーと寝たふりを始めた士元に冷静に指摘をすると、小さな声で「ぁう、いじわるです……」という呟きが漏れる。母の居ない初めての夜はどうにも少しもの寂しくて、士元の存在がとてもありがたかった。

 

「なんか寝ようとしてると、色々思い出しちゃって困るよな」

「……李姓さん」

「まあ、それで士元が起きてるならもうちょっとだけ話とか出来たらいいなと思ったんだ」

 

 士元が眠くなるまででいいから少し話に付き合ってほしい、そう続けようとした矢先。彼女は自分の寝台を降りてこちらへと近づいてくると、オレの寝ている寝台へと手をかけ潜り込んできた。

 

「あの、士元?」

「あ、あわ、お、おじゃ、おじゃま、します……」

「う、うん……って、えーっと」

 

 意図を問いただそうと名前を呼んだが、どうやら通じたわけでなく違う返答がかえってきて、なんと言うべきか考えあぐねる。寝台はさほど広くは無いが、士元が小さくほっそりしているためか、二人で横になるのは問題ない。オレと士元の間には少しだがそれなりに隙間があるし、とりあえず壁ぎりぎりの寝台の端っこまで下がっておけば、士元が窮屈に感じることはないだろう。じりじりと壁際へとよりながら、現状について考えた。

 なんか焦る。女同士なのだから焦る必要性は無いのだが、なんだか落ち着かない。抱きつくのも変だし、かといって直立不動になるのもおかしいわけで。オレの手の置き場はどこが一番安全なんだろうか、などと後から思えば頓珍漢なことに思考がかたまっていた。

 

「……あ、あの、李姓さん」

「はいいっ!」

 

 すっかり自分の手の置き場に思考がむいていたせいで、士元からの問いかけに身体を揺らし素っ頓狂な返事を返してしまった。暗闇だが、近くに居るためか彼女の目がまん丸としているのが見える。慌てて咳払いをして、動揺のためずり落ちた掛け布団を直しながら、士元に向かって話の続きを促した。

 

「っと、ゴメン。どうした、士元?」

「は、はい…えっと、その、……あ、あの」

 

 こちらを向いては直ぐ俯いて、またこちらを向いて何かをいいかけるも俯いて、という動作を繰り返しもじもじする士元に、オレは少し首をかしげる。いったいなにを言いたいのだろうか。母のことか? 眠れないなんて言ったものだから、優しいこの子は気を使って慰めてくれるのかもしれない。ここはやはり変なこと言ってゴメンな~なんて、くだけた感じで言って場を和ませるべきか。そう思い口を開けたと同時、士元も一緒に言葉を紡ぎだした。

 

「悪い、変な……」

「き、聞いてく……」

 

 お互い、言いかけた言葉半ばで口をつぐむ。場には沈黙が重くのしかかり、そっと様子をうかがうため視線を向けると、同じようにこちらの様子をうかがう士元の瞳にぶつかった。プッと噴出したのはどっちが最初だったのだろうか。オレも士元もお互いの様子がおかしくて声を立てて笑った。ひとしきり笑った後、士元のほうへと向き直り肘を曲げて頭を支え、自分の身体へと空いた手を置くと、改めて話を仕切りなおす。

 

「それで? 何を言いかけたんだ?」

「あわ、李姓さんが先に、どうぞです」

「んー、オレは変なこと言っちゃったから、士元に気を使わせたかなと思ってさ。ゴメンな」

「ち、違いましゅ! あう、き、気を、気を使ってるというわけでは、ないですっ! あ、あわ、ち、ちがっ、使ってなくはないですが、つ、使ってるんですけど、けどっ、違うんでしゅっ……!」

 

 自分の言った言葉に対して慌てて訂正を入れるも、どう説明していいのかわからないとでもいったようなそぶりで慌てふためく姿に、思わず手を伸ばして士元の頭の上へ手をのせた。柔らかい髪質とでもいうのだろうか、手のひらにさらさらとした感覚を味わいながら、気にしなくてもいいよという気持ちを込めてそっと頭を撫でる。あたふたしていた様子が、今度はカチンコチンと一瞬固まったけれど、何度も撫でている間に小さく息を吐き出し、今ではオレのされるがままになっている。

 

「気を使ってくれて、ありがとな」

「っ!! いいえっ、そ、そんな、お言葉、もった、勿体無いです……!」

 

 真っ赤になって俯く様子に、小さく笑いながらもう一度ありがとうと伝える。しかし、たまに言葉の使い方が仰々しいことあるけどなんでだろう? 癖なのかな。オレとしてはもっと砕けた言い方でもいいのにって思うけど、こればっかりは強要できないからなあ。止められないことをいいことに、士元の頭を撫でながらぼんやりと考えていると、小さな声で名を呼ばれた。

 

「あ、あの」

「うん? ああ、士元の話だったよな。さっき士元はなにを言いかけたんだ?」

 

 訴えたいことはうっすらとわかったが、気にせず士元の頭を撫でながら話の続きを促す。こちらを見つめている、ちょっと潤んだ瞳に屈してしまいそうになるが、この感触とお別れと言うのは寂しいので士元の視線は気にせず撫で続けることにした。オレが撫でるのを止めないことを察したのか、諦めたのか。彼女は小さく呻いてから、自分の胸の前で拳を作るとオレを真っ直ぐに見つめ口を開いた。

 

「わ、私の名前は、鳳統、字は士元」

「……士元?」

「あわわ……、あ、あああの、まだ、まだあるんです。もう一度、いいます……」

 

 自分で言うのもなんだが、訝しい声がでた。いきなり名乗り始めた士元に名を呼ぶと、オレの不審がった声に慌てた様子で待ったをかけられる。もう一度という言葉に頷いて、なんとなく身体を起こして座ると、彼女もオレと同じように座りなおし、深呼吸してから言葉を紡いだ。

 

「私の名前は、 鳳統といいましゅ……ます。字は士元。ま、真名は雛里……こ、これからは雛里って、呼んでくだしゃいっ」

 

 そういった彼女の真っ直ぐにこちらを見ている瞳に、ドキリと大きな音を立ててオレの心臓が鳴る。士元は緊張のためか普段以上にかみかみだったが、言い終えた彼女の表情は晴れやかだった。




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1-4

 早朝、というには少し遅い出発になってしまったのは、きっと昨晩の士元との長話だったからに違いない。けしてやましいことは無い。というか、女同士でやましいもなにも無いわけで。まだ眠そうな士元の表情に小さく笑うと、それに気づいた彼女が照れたような、はにかんだ笑みを見せてくれる。

 

「それじゃ、いくか」

「はいっ」

 

 大きく膨らんだリュックを背負いなおしてそういうと、元気な返事が返ってきた。オレの背負っているリュックよりは小ぶりだが、来るときよりも膨らんだ荷を背負う士元の姿を見ると、やっぱり荷をもう少しオレが持てばよかったと、ちらりと思う。

 これを口にするときっと士元は、力いっぱい否定して余分な体力を消耗するだろうから、オレの心の中だけにしまっておくことにした。それでも、オレの考えはザルだったようで、この賢い少女は普段よりもやや早めの足取りで彼女の家路へと進んでいく。

 

「あんまり早く歩きすぎると、転ぶぞ」

「大丈夫で……しゅっ!?」

 

 ほら見たことか。ならされた道とはいえ、少し大きめの石がちらほらと転がっている。その一つに足を引っ掛けたのであろう、士元は荷の重さに負けてそのまま重力に従い道へと転がった。

 

「士元っ!」

 

 名を呼んで駆け寄ると、涙目になりながらむくりと顔をこちらへ向けた士元の瞳の強さに、オレはいささか怯む。なんで駆け寄っただけでこんなに睨まれるんだ? やや困惑気味に心の中で叫ぶも、口では違うことを言葉にする。

 

「大丈夫か?」

 

 手を差し伸べ、士元が起き上がるのを介添えすると、膝頭のところが少し擦りむけているのが見えた。深い傷ではないが血が滲んでいて、砂利がまわりについている。傷口に触れないように砂利を払うも、その傷口自体に少し砂利が残っていた。

 

「砂利が少しついてるから、傷口を洗おう。痛いかもしれないけど、ちょっと膝を曲げてもらっていいかな」

 

 水筒と布を取り出しながら、士元にお願いする。布は膝下に当てて水が靴下などに掛からないようにするためだ。取り出した水筒の口を開けながら士元を見ると、彼女は下唇をかみ締めながら眉を寄せ、まだこちらを睨んでいた。

 な、なんだ? オレ、なにか変なことしたっけ?

 

「し、……士元?」

「っ!!」

 

 恐る恐る問いかけると、彼女は瞬間ハッとした表情を見せる。しかし、みるみると泣きそうな顔へと変わっていき、目尻の端に水溜りが浮かび上がった。な、なんで泣く?! え、マジでなんで、なんで? まるでオレは士元がうつったかのようにあわあわと慌てふためくと、ぽつりと士元が言葉を漏らした。

 

「……真名」

「あ、……え?」

「……真名で、っ……よ、呼んで、くださいって」

「え? ……あ、えーっと」

「いったのに、……ふ、……ぅ、うぇっ…な、なんで……呼んで、…く、くれないん…でしゅ、……です、か」

 

 さっきまでこちらを睨んでいた瞳は俯いて見えず、スカートの端っこを握り締めながら声を震わせながら訴えかけてくる。ぼたり、という言葉が似合うほどの大きな滴が地面へと落ちてはその色を変えていた。マズい、これはものすごくマズい。まさか泣かれるとは思わなかったと頭を抱えたくなるが、そんなことをしたところで目の前の少女を傷つけたことが無かったことにはならないわけで。どうにか泣き止んでもらうために必死に言葉を探した。ちょっと恥ずかしかっただけの、出来心なんだ……とは、流石に言えない。

 

「あの、さ。……えーっと、本当に、呼んでも構わない?」

「……ぐじゅっ……よ、呼んで…くださいって、いいましたっ」

「昨日の夜、話したのはオレに都合のいい夢じゃない?」

「……夢じゃ、ないです……ぐじゅ…」

「そっか……それじゃ、改めて。雛里、痛いかもしれないけど、膝まげてもらってもいい?」

「……っ、はいっ!」

 

 まだ涙は消えていなかったが、先程とは違う満面の笑みで返事をした士元……いや、雛里にオレはほっと胸をなでおろした。それと同時に本音を話さずなんだかごまかしてしまったことに少しの罪悪感を覚える。ああ、でもなんとなく雛里には見栄を張っていたいというか、お姉さんぶりたいというか。いや、多分もしかしたらオレの浅はかな思考は雛里にバレバレなのかもしれないけど、それでも今は嘯いていたかった。ふと、傷口を水で洗い流しながら考える。彼女を家まで送るということに対して、オレはもしかしたら気負っているのかもしれない。

 

 なんだかんだと時間をくってしまった。そろそろ母の嫌がっていた人達がやってくるだろう。道はここだけではないのだが、いかんせん雛里の目的地もとい実家が襄陽だ。そいつらも襄陽から来るのだから、この道を使ってくるだろう。鉢合わせして、そして母の子だということがばれてしまったらと考えると、少し迂回してから襄陽に向かうのも手かもしれない。

 布を絞り水気を切った後、水筒とともにしまいこむと雛里へとオレの考えを伝えてみた。さっきまでのやりとりを思い出したのだろう、彼女はあわわと小さく呟いて顔を真っ赤にさせて俯く。なんだ、このかわいい生き物は。空咳を二つほどしてから浮ついてしまった気持ちを切り替えた。

 さて、もう少しこの道を下ったところに道が分岐しているところがある。左の道をとれば襄陽の南へと抜け、真っ直ぐに続く道へととればここ硯山(※1)の東の端へと抜けるだろう。近いのは断然左の道なのではあるが、 ここは敢えて真っ直ぐに進んで迂回しつつ襄陽へ入るべきなのだろうか。

 雛里へと視線を向けると、彼女は普段からみている柔らかな表情から一転させ、キリッとした深く何かを思慮する顔をしていた。普段とは違う表情っていうのは人の心を動かすものなんだな、などとどこかぼんやり考えていたが、雛里の強い眼差しがオレの視線と交差すると、思わず喉を鳴らす。

 

「今よりももっと昔のことなのですが、硯山(※1)の南側にある沔水のほとりに叔母様と叔父様が住まわれていた小さな小屋があったはずです。このまま進めば叔母様を探す人たちに出会う可能性はかなり高いですから、そちらで今日は一泊し、明日から川沿いを進んで襄陽へと向かうというのは、……あわわ、どう…でしょうか?」

 

 すらすらと言葉を紡いでいた雛里の語尾が急に弱まり、最後には恥ずかしそうにこちらへと上目遣いで見上げ問いを投げかけてきた。照れちゃったのかな? さっきまで真名を呼んでくれないと膨れていた娘には見えないよな。思わずさっきとのギャップに肩を揺らして笑うと、雛里は更に顔を真っ赤にさせてオレに向かってぽかぽかとその小さな手をぶつけてくる。

 

「っ! ……わっ、わっ、わ、わ、笑うなんてっ! 酷いでしゅっ! ですっ」

「ったた! ゴメン、ゴメン。悪気はないんだって」

 

 雛里の手を捕まえて謝ってみても、その少し潤んで真っ赤になった瞳がこちらを睨んでくるのはかわらず、どうしたものかと考える。とりあえず、その小屋に行って見ようと促しながら、雛里を掴んだ手の片方だけを放した。分岐のところを真っ直ぐに進み、右へと抜ける道を進めばいいかな。硯山(※1)の南っていうと、確か魚の養殖場があったはずだから、そちらへと向かえば問題なさそうだ。

 横目で雛里を見ると真っ赤になったまま、少し俯いてオレの手に引っ張られるまま歩いていた。もちろん、繋いだ手は嫌がられてはいないようなのでしばらくはこのまま、繋いだままでいようと思う。

 

 

「……李姓さん」

「ん?」

 

 雛里がオレの名を呼んだのは分岐を真っ直ぐと進み、しばらく進んでから右へ折れる道を見つけて、そちらへと足を踏み入れてからだった。まだ繋いだ手は離していない。とりあえず道を間違えた可能性があるので足を止めると、雛里もオレに倣いすぐ横で止まる。

 

「道、間違えた?」

 

 そう聞くと、少し驚いたような顔を見せ、すぐさま「い、いいえっ! ちがいますっ」とこたえてくれた。ふむ、ならば足が痛いのかと目星をつけ雛里の足元をみてみると、オレの視線を追ったのか、雛里も自分の足を見て慌ててもう一度「ち、ちがっ…ちがいましゅからっ!」とこたえてくれる。

 うーん、ならどうして名前を呼ばれたんだろうか。真っ直ぐに雛里の目を見つめると、彼女は伏目がちでオレとの視線を外しながら口を開いた。

 

「あわわ…さ、さっきは……その、あわ…なぜわ、笑ったんです…か?」

 

 さっき笑ったというと、今のようにあわあわしてる普段の雛里と、真面目な表情で力強く献策をする雛里の違いに思わずってやつか。そのまま伝えるとなんだかまた怒りだしそうだし、どう言ったもんかなあ。

 

「たいした意味はないよ」

「そ、そんなことないでしゅっ! ですっ! 笑ってましたっ! わたっ……私、変なこといってませんっ……あう、多分…い、いってないはずでしゅっ」

「まー、まー、落ち着いて。雛里は変なこと言ってない。ただ、そうだなぁ。真面目に言ってくれてたのに最後の最後に不安そうに見上げてきたところが、すごく可愛かっただけさ」

 

 オレの言葉を理解したとたん真っ赤になって俯く雛里に声を立てて笑ってから、止めていた足を再び踏み出した。繋いだ手をゆるく引っ張りながらまだ固まっている雛里を促すと、小走りでその距離を埋めてこちらをちらちらと盗み見してくる彼女に笑みが漏れる。おおっと、これ以上笑っちゃうとまた叩かれちゃうか。声を立てしまいそうになる笑みを飲み込みながら、今日の宿屋である小屋に向かった。

 

 

 「正直に言おう。放置されている小屋は、人が住めるものじゃない!」

 

 しん、とした部屋に怒声があがる。しかし誰からの反応も無く、オレは肩を落として肩についた埃を払った。さっきの台詞で大体は察してもらえるかと思う。ようやくの思いで到着した小屋の扉を開けると、そこは埃の住処だった。いや、わかってたんだけどさ。それでもこれは酷すぎる。なんて言ってても仕方が無いわけで、とりあえず何日も住むわけじゃないし、何より野宿よりはマシだってのはわかるんだけど。そう心の中でぶつぶつと言いながら、元寝台と思わしきところをさっき折った木の枝葉っぱつきを使い、積もっていた埃をはらった。もちろんそうすることにより部屋の中に埃がまうわけで、ごほごほと咳こみながらもしかして野宿のほうが楽なんじゃ、などという悪い考えが過ぎってしまっても仕方ないとオレは思う。ああ、もう、やだ埃やだ。床下へと落とした埃を屋外へと移動させて、絡まった蜘蛛の巣に悪態をついた。

 雛里は外で小枝を拾ってくることになっている。最初はオレが外で小枝や木の実を拾う予定だったのだけども、雛里がどうしてもといってオレが中で埃と格闘することになった。まあ、背の低い雛里がこの埃と戦うとしたら、三十秒もしないうちに敗北しちゃうだろうな。かの鳳雛と呼ばれし軍師殿といえども、この埃には敵うまい。

 そこまで考えて、オレは首をかしげた。どっかで聞いたことあるフレーズだよな。だいたい鳳雛ってなんだ。 鳳統士元雛里、略して 鳳雛ってことかよ? 安直過ぎる。

 ながい嘆息を吐き出してオレは頭を振りこの馬鹿げた思考を隅へと追いやった。そういやそろそろ用を足したい。そっと自分の下腹部へと手を置くとチラリと入り口を見た。どうやら雛里はまだ帰ってくる様子はない。もう少し待てないことはないけど、ぎりぎりまで我慢して何かあって漏らしちゃうと、お漏らしっ子という汚名をきてしまうことになる。それだけは避けたい。少し考えた結果、小屋を出て地面に書置きをしていおくことにした。まあ、そんなに時間はかからないと思うけど、心配させたくないよな、やっぱ。がりがりと地面を削り、どうにか読める文字になったものを確認すると、オレは立ち上がり花をつみに向かった。

 

 用を足したときってなんでこんなに清清しい気持ちになるんだろ。鼻歌交じりにオレは草むらをかきわけながら道へと戻る途中、ふと雛里とのやりとりを思い出した。あの時、雛里はもじもじとしながら懸命に外に小枝拾いに行くと主張していたんだけど、もしかして雛里も用を足したかったとか? 一緒に暮らしてたときもそうだったよな、たしか。用足しとかなくて大丈夫? とか言ってもすぐさま真っ赤になってあわわ言ってたし。うーん、こんな自然の摂理でいちいち照れてたら、身が持たないよなぁ、雛里の。まあ、恥ずかしいといえば恥ずかしい気もするからわからなくもないけど、どうにかしてそこの照れ部分を上手いことする方法考えないと。

 人の手のはいっていない自然は逞しいというか、もっさりと茂った草や葉をかきわけながらも雛里との今後のことをぼんやり考える。そろそろ雛里は帰っている頃だろうか。地面の書置きを読んでもらえてるとありがたいのだが、如何せんオレから見てもどうにか読めるぐらいの文字だから、気付かずにオレが居ないと慌てていないといいけど。

 しくじったな、小屋のすぐ裏手にすればよかった。覗かれたらまずいと言うわけじゃないが、さすがにトイレ中に出くわしてしまうと恥ずかしいという思いがあって、少し遠めの場所を選んでしまったのが敗因か。小走りで小屋へと続く道のりを行くも、ガサガサガサという葉の擦れる音が聞こえ、速めた足取りを緩めることにした。

 突然の自然の摂理により小屋を離れたオレは、雛里に合流するために好き放題に生えている草を掻き分けながら、もとの小屋へと戻った。いや、戻ろうとしたというのが正しいのだろうか。排泄物を垂れ流しているところを雛里に見られたくないために距離を稼いだのが、運の尽きともいえるだろう。足早に進んでも、直ぐには到着しなかった。あと少しで小屋が見えてくるだろう、そういったぐらいの距離だった。葉の擦れる音が、オレの中の違和感を刺激する。思わず速度を緩めると、その時、一つの声がオレの耳に飛び込んできた。

 

「――っ!!」

 

 声というよりも、切羽詰ったようなそんな音だった。そう、女の子の悲鳴。オレは慌てて声のした方へと向かって、今まで以上に全速力で向かう。これが、雛里だったら! そう思うと、背中に冷たいものが流れたように思えた。がむしゃらに走る、葉が擦れ不信な音が流れて相手に気付かれようとも、構わなかった。否、それすらも気にしていられないぐらいの動揺をオレはうけていた。

 そして向かった先で見たものは一人の刃物を持った男と、蹲り、被った魔女のような帽子のつばを握り締めながら小さく小刻みに震え、その大きな瞳に大粒の涙を浮かべた……雛里だった。

 

「雛里っ!!」

「……っ!!」

 

 思わず、オレは大声で雛里の名前を呼んだ。この感覚をなんと呼べばいいのかわからない。だが、心の奥底から、揺さぶられる何かがあった。ただ突き動かされるように、オレは男の元へと向かって突進し、右の肘を相手へとぶちかますように体当たりをかます。

 男はオレの声に驚き、振り向いた様子だった。まるでスローモーションのように、その様子が目の前で繰り広げられたが、そんなことは今のオレには関係ないことだった。相手の身体へオレの右肘がめり込んで、男に覆いかぶさるように地面へと転がる。衝撃がオレを襲ったが、それよりも男の持っていた剣へと意識を向けた。剣を持つ手が緩んでいる。しめた! そう、心の中で叫ぶと相手の手から剣をもぎ取った。転がるように距離をとりながら立ち上がる。男もわき腹を押さえながら立ち上がってきた。その視線は鋭く顔が真っ赤になっていて、この現状に怒りをもっているようだ。

 

「なにしやがる……っ!」

 

 うめき声にも似た言葉が男から吐き出される。それこそ、オレが言いたい。雛里になにしやがる、と。男の言葉は理解できていた。それについてもオレは理性的に心の中でだが返答できていた。後からこの出来事を思い出すたび、本来なら怖いと思うところなのではないのかと不思議に思うところなのだが、この時はまったくそんなことなど思いもよらなかった。そう、言うなればこの男を殺すことしか考えていなかったのだろう。掴んだ剣を握り締めると、オレは男の首元へと向かって切りかかった。

 ザシュッ。そう音がした気がした。その手ごたえに顔を顰めるも、食い込んだ剣をどうにかしようと男の身体に蹴りをいれ、剣を引き抜く。剣が打ち込まれた箇所から、噴出すような赤い液体が飛び出してきた。むせ返るような臭いに、先程に似た心の奥底から突き動かされるようなそんな衝動を覚え、地面へと吸い込まれる男の身体の、血が吹き出るその箇所へもう一度剣を振るう。引っかかるような感覚があったが、無理やり横へとなぎ払うように動かした。男の身体が地面へと吸い込まれると、その片割れが少し先に転がる。

 

 現状を簡単に説明すると、オレは追い詰められていた。

 だから咄嗟に身体が動いてしまって、起こった事に対しての状況の見通しやそのときに感じるであろう感情なんて考える暇も無かった。呼吸も荒く、肩で息をしている状況だ。脳に酸素が足りていないのか、目の前に映る状況と自分とに透明の板があるかのように、現実が遠く希薄に感じる。ふと視線を落とすと握り締めた柄の先の剣身には赤くどろっとしたものが着いていた。地面には先程までオレを殺そうとしていた男が倒れていて、その身体にくっついているだろう頭は、少し離れたところに落ちている。

 まだ息は整わない。切り落とされた断面は綺麗なものとはお世辞にも言えず、到底肉屋にはなれないであろう切り口だった。物盗りの持つ剣を奪ったためか剣の質も低かった所為もあるが、オレの武術の才が高ければもう少しマシな切り口だっただろう。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと細く息を吐き出した。なぜかまだ息が整わず、額に浮かんだ汗が頬を伝い顎から大地へと零れ落ちる。黒く変色しつつある地面から視線を手元へと移せば、握りこんだ剣ごと細かく揺れていた。

 そこでようやく、オレは自分が震えていることに気づいた。

 

「……っ」

 

 希薄になった現実との間に挟まっていた透明の板が消え、いま起こった出来事が現実としてオレの中で認識できたその瞬間。目の前に転がっていた死体が、世界が、かき消されるように消えた。それはまるで映像が切り替わるかのような、そんな不思議な感覚だった。

 

***

 

  気づいたらオレは別の所に居るようだった。先程と同じようにオレは剣を右手に握り締め立っていた。そこはどこかの部屋の中みたいで、飾りは必要最低限、されど置いてある品は質の良いものばかり。緑色を基調とした部屋の造りで、仕事場なのか机や棚が部屋の殆どを占めていた。机の上に積まれていたであろう竹簡が机の周りを中心に床のあちこちにばら撒かれており、墨汁も硯から零れ、机の上から床へと向かって滴り落ちている。何本もある筆もやはり床に転がり、そして人が倒れていた。

 先程の物盗りとは違う、女性の死体だった。オレは慌てて近寄ろうとするも、身体がいうことをきいてくれず、一歩も動くことは出来ない。不思議に思い、右手を前に突き出すように動かそうとしてみるも、やはりぴくりとも動かない。指一本動かせないどころか、首や視線すら動かすことが出来ずに、石像になったようにその場に立ち尽くす。じんわりと汗をかいていた。自分の自由が利かない状況と負荷、それに理由のわからない焦燥感。心臓の音が早く、大きく鳴っていて外に漏れ出しそうなぐらい緊張している。張り詰めた空気の中、竹簡がぶつかった音が室内に響いた。

 

「……あぅ」

 

 がたっという音の後に、小さな声が聞こえる。聞き覚えのある、女の子の声だ。オレの視界がゆっくりと音の鳴った方へと移り、一歩また一歩とその距離をつめる。その子は机と椅子の間、床へと腰座りこみ魔女のような帽子のつばを握り締めながら、小さく震えつつもこちらを見上げてきた。

 大きな瞳だ。大きな帽子から青紫の色の薄い髪が見えている。怯えと困惑と悲しみが混ざったその眼差しに、口端からチリッとした痛みを感じた。

 

「ど、どうして、こんなことを、……す、するんですか?」

「……思いつきさ」

 

 その身体と同じように、震えるような声で問いかけてきた言葉に、唇が開かれた。オレよりも低い声で、その質問の答えを返す。それは無慈悲な台詞で、視線の先で小さくなって怯える少女の大きな瞳から透明の滴が何度もぼろりと零れ落ちた。

 

「……わ、わ、わたしゅ、たち…には、……よ、用が、なくなった、……ぐじゅっ…ふぇ…から、です…かっ」

 

 しゃくりあげながらもこちらを見上げ必死に言い募る姿に、オレは訳のわからない状況にもかかわらず弁解をしたくなる。泣かないでくれ、オレの中で君はとても大事な人なんだ、そんな悲しいこと言わないでくれ。そう、言葉を紡いで彼女の涙を少しでも止めたかった。必死で言い募ろうとするも、この身体はピクリとも動かない。そしてまるでオレをあざ笑うかのように、嗚咽を漏らす少女へとこの身体は小さく笑い声を漏らした。

 柔らかい笑みだった。視界が細まり両方の口端が少し持ち上がる。それと同時に右手に持った剣の柄を両手で握り締め、大きく頭上へと振りかぶった。少女は大きな瞳をさらに大きく開き、「ぁ、ぁ、あ、ぁっ」と短く声を漏らす。彼女は動かない。いや、動けないのか。真っ直ぐにオレを見つめその現状に心を震わせる。

 

「俺は、今までも、これからも。……皆が大好きだよ」

 

 まるで愛してやまない相手へ伝えるかのようにゆっくりと紡がれた言葉は、剣を振りかぶっているオレの動作とはそぐわない内容で。大粒の涙を零す少女の表情にも困惑が見えた。聞こえるか聞こえないかの、とても小さな声で疑問を投げかける呟きが少女から漏れたが、その返事はなく。

 

 「……ゴメンな」という囁きとともに、振りかぶっていた剣が振り下ろされた。




※1  正しくは峴山(ケンザン)。文字化けそうな気がしたので当て字にしました。
※2  沔水(ベンスイ)って漢水の上流とかなんとか調べてたらあったんですけど、どこから漢水でどこから沔水なのやら、おなじなのやら、よくわからなくなってきたので、ふいんき(何故かry)で感じ取っていただけたらさいわいです。
※3 一部文章つけたしました。Webって便利!……本当に申し訳ありませんでした。

<修正>
2013/08/11 追記
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル修正


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1-5

 自然の摂理をこなし、悲鳴を聞き駆けつけた先で男と雛里の姿を見つけたときから、オレはまるで物語を見てるかのような感覚だった。男を殺し、自分がやった事実を飲み込むと、チャンネルが切り替わりまた違う物語を見る。先に見た物語がハッピーエンドだとしたら、後の話はバッドエンドというのだろうか。足元に崩れ落ちた物言わぬ物体へと主人公が一瞥をくれるところまで見て、世界が真っ黒に塗りつぶされた。どうやらオレは物語を見るのをやめたらしい。

 

「……さんっ! 李姓さんっ! 李姓さんっ!」

 

 雛里の声がする。同時に身体を揺すられるような、そんな感覚に襲われた。先程見た悪夢とでもいうのだろうか、その時に見たあの色々な感情が混ざったような女の子の泣き顔を思い出す。あんな顔をさせるのは嫌だな、ぼんやりとそう思った。瞼が重くなかなか開かないせいか、オレを呼ぶ雛里の声に焦りが濃くなっていく。ああ、チクショウ。そんな声を出させたくないのに。どうにかこうにか瞼を半分持ち上げると、目の前に黄緑色の宝石みたいな輝きを持った大きな瞳が視界一杯に飛び込んできた。しっとりと濡れそぼっているが、まるでペリドットのようともいえる輝石が煌いている。オレは無意識だったが、小さく笑みが漏れた。ああ、雛里は生きている。

 

「……怪我は無い?」

「はいっ!」

 

 少し掠れてしまったが、オレの問いに雛里はすごい勢いで頷いた。とても身体が重く、感覚もどこか鈍かった。それでも背中から感じるすこし冷たい感触に、どうやらオレは地面へ寝ている状況なのだと判断する。次いで、ゆっくりとだが両手の指を動かしてみた。大丈夫、ちゃんと動く。思わずオレは、安堵の吐息を漏らした。

 覆いかぶさるような雛里へともう一度視線を向けると、またあの澄んだ瞳にぶつかった。大きな眼の中には人の顔がうっすらと映っている様子が見える。雛里もオレの眼の中の雛里の顔が見えているのかな? ……なんてことを考えながら、心配そうに見つめる彼女の名を呼んだ。

 

「雛里」

「はいっ!」

 

 すぐにはっきりとした声で返事が返ってくる。雛里にしては珍しい、嬉しそうな声だ。自分の意思で動く右手を、薄い青紫の髪を両脇に結わえた雛里の頭の上へと持っていこうとし、途中で手を止める。なんてこった、オレの手は血まみれだった。こんな手で、雛里の頭は撫でられない。この綺麗な髪の毛を汚すのはどうかと思うし……って、そういえば帽子どうした? さっきまで被ってたよな。視界の端に映った血塗れのオレの手をまた地面へと戻した。その様子をきょとんとしたような、不思議そうな表情でオレを見てくる雛里に、オレは疑問をぶつけてみる。

 

「そういえば、帽子……どうしたんだ?」

 

 ついでに、起き上がりたいとつたえると「あわわっ!」というお決まりの言葉を言いながら、覗き込んでいた顔だけでなく、人一人分ぐらいの距離をとられた。その様子をぼんやりと見つめながら、地面に手をついて上半身を起き上がらせる。いつもなら、照れる雛里に口を緩めるところだが、今はとられた距離が、とても、とても寂しいような思いを感じた。

 とりあえず血を拭おうと思ったのだが、ついた血を拭うのには手持ちの水だけではまかなえなかった。いや、厳密に言うのであれば、足りないと踏んだから手を洗う分だけしか水には手をつけていない。手を洗ったあと一度小屋に戻って雛里と軽く相談した結果、最低限に纏めた荷を持って、山を下りながら湧き水を探そうということになった。 

 物取りから奪った剣を片手に下げ、空いた手で最低限に纏められた荷を持とうとしたが、雛里にとめられて剣以外には水筒ぐらいしか持っていない。雛里は大きなリュックを背負っているのだが、こんな小さな少女に背負わせて、彼女よりも身体の大きいオレが剣と水筒しか持っていないという状況がとても心苦しい。とはいえ、現状ではデメリットが多くて自分が持つと言い出す事が出来なかった。

 

「李姓さん……?」

 

 こちらを見上げた雛里の瞳が、オレの視線へとぶつかる。こちらを窺うような、少し小首をかしげる姿が可愛らしい。心の中にある、この気まずいとでもいうのだろうか、やるせない、なんともいえない気持ちを押し込めて、出来る限り優しく見えるだろう笑みを浮かべた。

 

「早く、川か何かにぶち当たってくれればいいのになって思ってたんだよ。そしたら、雛里の荷物を少し持ってあげられるのにって思ってさ」

「……っ!!!?」

 

 オレの言葉に雛里はビクッと身体を震わせると、口をパクパクさせ、あっという間に顔を真っ赤にして俯いてしまった。こうなってしまうとほぼほぼ雛里の顔は帽子のつばで隠れてしまい見えなくなる。しばらくは、こちらを見ずに俯いたままで照れていてくれるだろう。

 さっき雛里に言った言葉は本心だ。だけど、この血塗られたオレの姿は、あまり見て欲しくない。気丈に耐えている様子の雛里だが、惨たらしいともいえる死体と血の色、臭い。そして、悲惨な可能性の存在は雛里の精神をじわじわと攻撃しているだろう。オレ自身も、正直辛い。このむせ返るような血の臭いは、どんだけ嗅いでも慣れはしないのだ。剣の柄を握る手に力を入れる。人を殺すのなんて、碌でもない。少し落ち着いた今ではそう思えた。ただあの時は、男を殺さなければ雛里が危険だとしか思えず、その思いのまま剣を奪い、物取りの命を奪った。殺さなくていいのならば、殺したくは無かった……と、思う。実を言えばそこは自信が無い。雛里が危険に陥っていたから、カッとなった可能性は捨てきれ無いからだ。だが、殺さなければ殺される。そう瞬間的に考えたからこそ、オレは躊躇わずに男の命を奪ったのだろう。

 

「……」

 

 ちらりと横目で雛里を見ると、やはり帽子のつばで顔は隠れていて、歩く振動にあわせて淡い青紫色した髪が揺れている。雛里が生きているのはとても嬉しいことだ。だから、オレのしたことに後悔は無い。母もきっと良くやったと褒めてくれるだろう。……、いや待て。あの母だしな。そういえば、母さんはちゃんと碧玉さんと会えたのだろうか。オレでも勝てるような物取りなら、母さんにとって苦労なんてすることはないんだろうけど、それでもやはり心配だ。間違いなく母さんの方が強いだろうけど、たとえ本物じゃないとはいえ親を思う気持ちは強いもので、何事も無く目的の場所へとたどり着くことをひっそりと祈る。ああ、話が逸れたな。いや、無意識のうちに逸らせたのか。

 

「……」

 

 溜息がオレの口から零れ落ちた。その瞬間、隣を歩く雛里の肩が小さく揺れるのが見え、思わず小さな声でだが「ゴメン」と謝る。柄にも無い、うじうじと悩んだって仕方がないことだろう。空気を大きく吸い込むと、細く長くゆっくりと口から息吐き出した。

 足を止め雛里の方へと向き直ると、雛里はオレの動きに少し遅れて気づき、一歩先へ足を踏み出した状態でこちらに首だけ向ける。そして驚いた様子でオレを見ると、踏み出した足を戻しこちらへと向き直った。おっかなびっくりしたした様子でこちらをおずおずと見上げてくる雛里に、自然と笑みが漏れる。ああ、改めて思うよ。

 

「雛里が生きててよかった」

「っ!! り、り、あ、えっ、李姓しゃんっ! あ、あわわ……、えと、あの、あのっ……あう」

 

 白い肌を真っ赤に染め上げながらあわあわと慌てふためく雛里の姿に、オレは思わず声を立てて笑ってしまう。やっぱり、こうでなきゃダメだ。輝石のような瞳に滴を浮かべながら「っ……卑怯です!」なんて睨んでるように見えない視線でこちらを見てくる、そんな雛里でないと。

 

 

 

 それから幾許もせず、川を見つけた。勿論、速攻水浴びになったのは言うまでも無い。まずは辺りを見渡して警戒し、まあ大丈夫だろうというところまで確認してから、靴を脱いでそのまま川に突入。川はそれほど大きなものじゃなくって、小川と言ってもいいぐらいだ。そうだな、四歩から五歩ぐらいの幅になるか。雛里で言うなら七歩ぐらいありそうだよな。そう考えてみればなんというか、大雑把というか、個人基準というか。この時代ってえらくルーズだと思う。……ん? あれ、どういう意味だそりゃ。

 

「……っ、り、李姓さん」

 

 不意に声が聞こえ、声がした方へと視線を向けると、小さな白い布を必死に身体に巻きつけてこちらを不安げに見つめる雛里に、オレの思考の全てが持っていかれた。

 まあ、女同士だから。大丈夫。えっと、そうだ。結構浅い。一番深いところと思われるこの場所で太股ぐらいの水位だから、雛里が入ったとしても問題ないはずだ。普通に、浅瀬の所で、靴と靴下を脱ぐだけでも全然雛里は問題ないはずだ。いや、まて。落ち着けオレ。前後の文脈がおかしくなってるだろ。とりあえず、空いた片手で水をすくい自分の顔に水をかける。うん、冷たい。

 

「あう……」

 

 白い肢体がほんのりと桃色に変わる姿に、なんとなく視線を逸らしてしまった。女同士だから、大丈夫! くそ、待てオレ。とりあえず、何か言わないと。えっと、足元! そうだ、足元に注意しろって言おう。

 

「あ、あ、あの、雛里さん」

「は、はいっ!」

 

 超どもってしまったが、仕方がない。動揺しても仕方が無いと思う、流石に、今回ばかりは。咳払いを数度繰り返してから、雛里の方へと視線を向ける。あ、すでに入水してた。オレの手足と違って雛里は小さく可愛らしい手足をしていて、爪すらも小さい。こう、小さい貝殻? 何に例えていいのかよくわからないが、桜色っつーか、ほんのり桃色。んでもって、何故かつやっとしてる。オレのは結構ボロボロで艶はそんなに無い。何がどう違うんだって前に聞いたら、薬草を煎じたものを薄く延ばしてどうのこうの、小難しい話を延々と聞かせてくれた。そういや、母さんの爪もつやっとしてた。オレは二人みたいにマメじゃないから、無理だ。そんな感じで現実逃避をしていたら、雛里さんが近くまでやってきてました。女同士だから大丈夫。大事なことなので何回でも言う。

 

「足元、結構すべるから気をつけような」

「はいっ」

 

 嬉しそうに頷いた雛里を見ると、とりあえず雛里よりも川下の方へとゆっくりと移動する。このままじゃオレの服とかについた返り血が、雛里につくのは勘弁願いたい。提げていた剣先を気にしながらざぶざぶと移動すると少し屈んで剣を握る手を柄ごと川の中に沈めた。乾いた血はそう簡単には取れてくれず、逆の手で血の塊をこすり洗い流しながら、川の水が染まる様をぼんやりと見つめる。こうやって、澄んだ水も血が混ざれば色が濁るんだよな。って、ああ、ダメだ。本当に思考がループしてるよ。浸けていた手を剣ごと水面から引っ張りだすと、鈍く光る剣の刃を見つめ方を竦める。そのまま川縁へと剣を投げると、隣から小さな悲鳴が上がった。

 

 「あ、あわわ……」

 

 投げられた剣とオレを交互に見る雛里を見てから、おもむろにきていた上着を脱ぎ捨てる。あ、ちょっと違うか。脱いで川に浸けた。いきなり下着姿になったオレにビックリしたのか「ヒッ」って小さく悲鳴上げてたけど、なんか酷くないか。まあ、雛里だから許す。

 脱いだ服をざぶざぶと水で洗い流すも、やはりこびりついてるせいかなかなか取れない。擦り合わせてとってもだめだ。くそう、なかなか頑固なヤツだ。ごしごしと力任せに擦り合わせてると、腕に冷たく柔らかい感触がふにっと訪れた。思わず固まって、視線を向けると水に濡れたような寂しげなペリドット色した瞳にぶつかる。

 

「……雛里?」

「っ……」

 

 名前を呼んでも悲しそうにふるふると頭を左右に振る雛里の動きにあわせて、両の脇に結わえられた髪がふわふわと漂う。触れられている腕からは浸かっている川よりも冷たい感覚を感じるのに、肌が触れ合っている場所からは熱を感じ、不意に涙が零れた。

 

 

 

 しばらく涙を流した後、なんだか恥ずかしくなって無言で身体についた血とかを洗い流す。そんなオレに対して、気を使ってくれて何も言わないでそっと寄り添うように血を落す手伝いをしてくれる雛里に心の中で感謝しつつ、川から出て濡れた服を絞った後、着心地悪いそれを着て山小屋まで戻った。勿論始終無言である。恥ずかしいってだけでなく、なんていっていいのかわからないというか。小屋に到着しても、必要最低限のことしか話せなくって。ようやく雛里に謝れたのは、小屋に置かれていた毛布が腐っていたのでかわりに柔らかい葉で仮の布団をどうにか作り、明日に備えて寝るかと言って横になってしばらくたってからだった。

 

「ゴメンな」

「そ、そんなの気にしないでくだしゃいっ! ……あわ、気にしないで下さいっ」

 

 瞼を閉じてはいるが、言葉には一杯気持ちを込めて謝った言葉に、雛里は優しい言葉を返してくれた。右腕が雛里へ触れそうなほどの距離に体温を感じながら、川での出来事を思い出す。濡れていた服はほぼほぼ乾いており、となりの雛里が濡れることは無い。それぐらいの時間、感謝の気持ちだけでなく詫びの言葉すら出なかった。そんな自分がとても不甲斐ない。

 

「情けないな……雛里の方が、嫌な目にあたっていうのにさ」

「そんなことっ! あう、……そんなこと、ないです。李姓さんの方が一杯怖い思いしたと思います。わた、私も怖かった、けどっ、それでも、李姓さんの方が嫌な思い一杯一杯したと、……あう、思いますっ」

 

 左腕を自分の瞑った目の上に置きながら弱音を一つ吐き出すと、雛里が大きく身じろぎする様子を感じ、同時に彼女にしては珍しい大きな声が耳へと飛び込んできた。多分こちらを見ているだろう視線を感じるが、それでもオレは目の上に置いた腕をどける気にはなれず、右手を自分の腹の上に置く。

 

「雛里」

「ひゃっいっ」

 

 雛里のひっくりがえったような返事に低く小さく笑った後、「ありがとう。さ、明日があるから寝よう」そう言って、今日の出来事に蓋をした。雛里はオレの名を小さく呼んだが返事を返さないで居ると、もそもそっと隣が動いてやがて静かになる。静寂に包まれた部屋は何故か薄ら寒く、右側あたりに居るだろう雛里の体温がとても暖かく感じられた。そして二人が黙ってからおおよそ二刻が経ったであろうその後に、オレの右手の甲にそっと手が重ねられ、オレはまた静かに涙を流した。

 

 明朝、目が醒めたオレは重ねられた手をそっと離すと寝台へと座りなおして、雛里を起こさないように優しくその薄い青紫の髪を梳く。指の間をさらさらとすり抜ける感触と共に、ふっくりと眠る雛里の寝顔に改めて思った。オレは、強くならなきゃいけない。力……身体だけでなく、心も。こんなあどけなく眠る小さな女の子一人も守れないなんて、情けないよ。今回みたいなことが無いように、もっと強く。もっと強く、もっと強くならない……と……。ズキン、と強い痛みが頭に走る。そう、確か昔もそんなことを思ったんだ。強くならないと、変わらないから。ズキズキと締め付けるような痛みが頭に響くも、浮かんできた言葉を追い続ける。変わらない? 何が変わらないんだ。一体、オレは、何を変えたかった……。

 

「りせい…さん……?」

 

 眠そうな声が聞こえてきて、視線を下へと動かすと雛里が重そうな瞼を持ち上げてこちらを見上げている姿が見えた。口の両端を持ち上げて笑みを向けると、雛里もふにゃりと笑いかえしてくれる。ひとまず思考は横に置いておこう。オレは弱く、昨日は雛里に沢山迷惑をかけてしまったのだから。雛里を襄陽へきちっと送り届けて、そして母さんが戻ってくるまで武者修行だ。武者修行ついでにちょっとそこいら探検もしよう。

 

「おはよ、雛里」

「……ぅん、おはよう…ござい、ます……」

 

 夢心地ともいえそうな表情の雛里に挨拶を投げかけると、むにゃむにゃと口を動かしながらも挨拶を返してくれて、思わず止めていた柔らかな髪の毛を梳くという作業を再開してしまった。オレの髪と違ってぱさぱさしてなくて、触り心地がたまらない。当分触れなくなるだろうから、遠慮なく触っておこうと思う。うん、たまには自分に正直に生きないとな。

 

 そう、自堕落ともいえる時間に酔った結果が、現在の状況である。はい、雛里が口をきいてくれません。雛里が覚醒して、オレの動作に口をぱくぱくさせた後、あわあわ言い出して真っ赤になったまでは想定内。ちょっと悪ノリして、「雛里の寝顔、可愛かったよ」なんてかっこつけて、気障ったらしく言ったのが間違いだった。もうね、ちょっと前のオレを怒りたい。ご飯……といっても干した芋だけなんだけど、それをもごもごと口の中で噛み締めながら雛里を見てみるけど、オレと目をあわせてくれない。まいったなーって思うけど、でもまあ、かわいいといえばかわいいからいいか。なんて、結構末期だよな、色んな意味で。

 

「さ、行こうか」

「……」

 

 気をつけようと、本気で思う。あれ、雛里ってこんなに根に持つタイプだっけ。小屋の外に出てくる雛里を見ながらふと考えてみたが、こんなことは初めてだと思う。……うん、多分。最近ちょっと自信は無いというか、なんだろ、言葉で表現するのって難しいな。まあいいか。何事もなければ多分今日中に襄陽についちゃうだろうから、そしたら雛里とはしばらく会えなくなるだろうし。こんな状態のままで別れたく無いから、仲直りしないと。

 

「雛里」

 

 ちょっと拗ねたような顔がこちらを向き、そして少し困ったような表情へと変わる。その大きな瞳を真っ直ぐに見つめながら、もう一度「雛里」と名を呼ぶと、雛里は被っている帽子のつばを握り締めて俯いた。

 

「ゴメンな、雛里」

「……っ、……」

 

 オレは腰を落し屈んで、俯いている雛里と目が合うように見上げると、雛里は目を見開いて驚いたような顔でオレを見つめ返した。そしてまるで泣くのを堪えているかのような、口を真一文字に結んだ表情へと変えると、そのまま覆いかぶさるようにオレの首へと抱きついてくる。

 

「ちょっ! 雛里っ」

 

 雛里は小さいから抱きつかれてもどうってことないんだけど、流石に不意をつかれるとちょっとビビる。後ろへ倒れこみそうになるのを気合と根性で堪えて雛里の身体を受け止めると、そっと抱きしめ返しながら雛里のことについて考えてみる。なんで、今日に限って雛里はこんなに情緒不安定なのか。視界の端で薄い青紫の髪が揺れるのをぼんやりと見ながらたどり着いた答えは、寂しいというところだった。いや、もしかしたら怖いということなのかもしれない。まあ、オレは雛里じゃないから正解はわからないんだけど、それでもオレの中にも寂しさはすごくあるので、それだったらいいなという願望も少し混じっている。彼女は聡い。それは一緒に過ごしていてすごく良くわかる。だからこそ、襄陽に戻った後のこととかも解るのかもしれない。ぎゅっと首にかじりつく様に抱きしめられたその身体が小さく震えてる様子を感じながら、オレは宥めるようにぽんぽんと雛里の背を緩く撫で叩いた。

 

 

「……あう。李姓さん、ごめんなさい」

「こっちこそ、ゴメンな」

 

 あれから少しして、雛里はそういってオレの元から離れた。謝りの言葉を返しながらも、雛里の帽子へと素早く手をかけるとそのまま帽子を雛里の頭から引き剥がして、現れた雛里の頭をくしゃっと撫で付ける。あわわっていうお決まりの言葉を言ってたけど気にせず撫でる。思う存分撫でる。

 

「り、李姓さんっ……!」

 

 雛里の小さな拳がオレの腹に当たってきたので仕方ない、撫でていた手を中断する。置いていた荷物を素早く担ぐと、雛里の頭へと帽子を乗っけて返し、その手を雛里に差し出した。

 

「行こう、雛里」

「はいっ」

 

 寂しいという気持ちはあるが、これで会えなくなる訳じゃない。きっとまた会えるんだから、嘆く必要は無いはずだ。きっとまた会える、その言葉に何故かチクリとする痛みを感じたが、オレはその感覚を無視し、差し出した手に感じる小さく柔らかな暖かい感触を感じながら、一歩踏み出した。




<修正>
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル修正


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1-6

 襄陽の一角に、それなりに大きい家があった。大層でかいというほどでもないが、普通の家というには流石に謙遜すぎるだろうというぐらいの広さだと思う。そんな屋敷ともいえる住いはそれなりの規模の街中だというのに静まり返っており、来る途中にあった市などが並ぶ通り沿いの雰囲気とこの屋敷とでは同じ街の中なのかといいたくなるぐらいだった。

 オレはまるで屋敷と街を遮断するかのような、少し高い壁から庭の端に蹲る雛里の方へと視線をずらすと、その姿に思わず目を細めてしまう。このまま地面に吸い込まれてしまいそうな、そんな小さく丸まった姿勢。よくよく見てみると身体は小さく震え、時折ひっくひっくとしゃくりあげる声が聞こえた。

 

「雛里」

 

 逡巡したが、名を呼んだ。地面へとしゃがみこんで声を抑えながら泣く少女の背中がぶるりと震えたが、それ以上大きな動きはみえない。オレは一歩足を踏みだした。じゃり、と小石がすれる音がする。小さな音さえもよく響くこの屋敷には、もう誰も居ない。いや、オレと雛里の二人だけしか居ないというのが正解か。

 

「雛里」

 

 もう一度、名を呼んだ。今度は帽子のつばを握り締め、地面へと下がっていた頭が心持ち持ち上がる。オレは足を止めず、また一歩と雛里のそばへと音を立て距離を詰めた。じゃり、じゃり、と音が続く。その度に地面へ吸い込まれそうになっていた雛里の身体が浮上してきて、オレが雛里の後ろに立った時、雛里の頭は完全に持ち上がっていた。

 

「雛里」

「……李姓、さん」

 

 名を呼ぶと、小さくだが名を呼び返してくれる。その様子にほっとして、屈んで雛里の頭でも撫でようかと思ったが、「わ、わたしゅ」という雛里の言葉に動きを止めた。

 

「あわ……、わ、私は……頭ではわかってるんです。……あう……ちがう、違います。わかってるし、納得もしてるんです……。でも、私……」

 

 言いながら雛里はゆっくりと立ち上がる。手は帽子のつばを掴んだままだったが、その手は小刻みに揺れ、きつく握り締められていた。オレはいつのまにか口の中に溜まっていた唾液をどうにか飲み込むと、口を噤んだまま雛里の言葉をじっと待つ。

 

「の、罵られることは……つらいし、怖いです。わた、私はっ……トロいから、きっと、この先も色んな人に迷惑かけちゃったり、きっ! あ、あわわ……昨日みたいに、こ、こ、ころ、殺されそうになったりするかもしれましぇん。……しれません」

「……雛里」

「でもっ! ……それでも、私は……こんな思いをするのは、嫌なんです」

 

 ゆっくりと振り向きこちらをみた雛里の瞳には大粒の涙が浮かんでいたが、その眼差しは力強く、とても眩しかった。そして、そんな雛里の様子にオレは心の底から安堵した。

 

 

 ――あれから。襄陽についたオレたちは、残り時間を延ばすかのように露天商をはしごして、遠回りをしながら雛里の家に向かった。雛里の家は結構でかくて、今まで住んでいた母の家をと比べてひっそりと落ち込んだり。あの岩塩を二つもくれるぐらいだから、わからなくもないんだけどさ。まあ、そんな些細なことをあの時はぼんやり考えていたわけなんだけど、近くまで来て見ると違和感が凄かった。来た事の無い……と思われる……オレが感じるぐらいの、違和感。

 

 雛里は繋いでいたオレの手をほどいて走って家に向かうぐらいで、本当に焦ってたんだと思う。肩で息をしながら、静かで音のしない屋敷を走り回ってた。とはいっても屋敷は言うほど荒れていなかったから、とりあえず出かけているかもしれないし、回りに聞いてみようということになってご近所さんに聞いてみたりしたんだけど、これがまた最悪で。つまり、雛里の親は賊の討伐に出かけて死んだ。そういう話だった。

 

 それだけだったら、良くは無いがいくらかマシだったんだけど、親戚があまりよろしくないというか碌でもないと言うか。近くに住んでいた親戚に会ったんだが、流石にブチ切れそうになったぐらいの碌でもなさだった。親が亡くなって傷心の小さな娘に、あの親戚は罵倒するだけではこと足らず疫病神のように扱って、……いや、もう思い出したくもない。まあ、そんなことがあって、固まった雛里の手を引っ張って雛里の家に戻ってきた。

 

 庭の隅っこで泣く雛里にかける気の利いた慰めの言葉なんて思いつかないし、泣けるときに泣いた方がいいというのもあってそっと見守ってたけど、状況が状況だし塞ぎこんで蹲った様子は、そのまま地面へ溶けてしまうのではないかと思うほどだった。

 

 そんな、小さく蹲っていた雛里を見つめながらオレは、いろいろと思考を巡らせていた。雛里が立ち直るまでとりあえずここで一緒に暮らすか。うーん、ここには思い出が沢山詰まってて色々思い出して辛いかもしれない。なら、またあの小屋まで戻ったっていいか。武者修行はしたいけど、こんな雛里は置いていけないし、これからどうするかなんて聞ける状況じゃない。

 このまま涙とともに地面へと溶けていきそうな雛里をそのままにしておけなかった。だから、オレは名を呼び距離をつめる。どうか、雛里が消えていなくなりませんように、と。願いを込めて名を紡ぐ。

 

 その願いが届いたのか、地面に吸い込まれそうになっていた小さな身体はしっかりとこちらを向き、オレの名を呼んだ。まっすぐにこちらを見て、思っていることを、自分の気持ちを伝えてくれる。そんな雛里だったからこそ、オレは本当にホッとしたんだ。

 

 ちょっと前までは、地面にさえも溶けてしまいそうな雰囲気で。慰める方法はどうしようか、とか。オレがしばらくは面倒見ないとな、とか。とりあえずつらい気持ちを逸らすように、違う話をしようか、とか。そう考えていただけに、すぐ立ち上がれた雛里の強さに、なんともいえない感動を覚えた。

 

「雛里はどうしたい?」

 

 そう聞くと雛里は濡れそぼった瞳を数度瞬かせ、振動でそのふっくらとした頬に涙がふるりと伝い、顎先からぽつりと地面へと落ちた。思わずその滴を目で追ってしまったが、再び雛里の瞳へと視線を向けると、先程と同じ強い眼差しがこちらを捉える。

 

「人に……、司馬徳操さんという方に、会ってみようと思います」

「その名前は確か、母さんが言ってた人だね」

 

 オレの言葉に小さく頷くと、雛里はちらりと建物へと視線を向けてからオレのほうへと向き直り、そして何かを思い出したように帽子のつばを掴んであわわ、と小さく声を漏らしながら俯いた。

 

「……どうかした?」

「あ、あわわ」

 

 俯いて緩く頭を振る雛里に声をかけるも、返事らしい返事はかえってこない。耳を澄ませば「だ、だめ……だめ、ダメダメだよ……ゆるしてくれないよ……嫌われちゃったらどうしよう……でも……やっぱり……ううん、言ってみないとわからないよ……虎穴に入らずば虎児を得ずだよね」だなんて言葉が微かに聞こえてくるんだけど、うーん。一緒についてって欲しいってことなのかな?

 

「あっ! …あ、あわわ。あ、あの、……李姓さん」

「うん、どうした?」

 

 まさしくもじもじとした様子で、雛里がオレの名を呼んだ。雛里の次の言葉を待っているんだけど、なかなか次が出てこず、オレの視線の先で小さな声を漏らしながら、でもでもだってを繰り返している。うん、可愛いからずっと見ててもいいんだけど、日が暮れちゃうな。

 

「なあ、雛里」

「ひゃいっ!」

 

 小さな身体をびくりと震わせて、悲鳴のような返事をした雛里に、オレは肩を震わせて笑った。それをみた雛里は顔を真っ赤に染め上げると俯いて少し唸った後、オレの胸元へと飛び込んでくる。

 利き足を半歩後ろに下げて雛里を受け止めると、胸元をぽかぽかと小さなこぶしをつくって叩く雛里の背をあやすように叩いた。

 

「雛里、今日は宿に泊まろう。路銀はまだ余裕があるし」

「……うぅ、……はい」

 

 オレは雛里の小さな背を緩く叩きながら、空を見上げた。黒い鳥の影が数羽、空を気持ちよさそうに飛んでいる。腕の中の小さな暴力はオレの言葉の間に止まり、胸元の服を握りしめ皺をつくっていた。顔は見えない。帽子の鍔はオレの胸元でつぶれており、曲がっていた。

 抱きとめている腕とは逆の手で哀れな姿になっている帽子を取り上げると、慌てたように頭を持ち上げ見上げた雛里の瞳と視線がぶつかった。

 

「ちょっと良いご飯を食べて、ゆっくり寝よう」

「……李姓さん」

 

 オレは目を細め、出来るだけ柔らかく笑ってみせると、自分の頭に雛里の帽子をかぶせた。そして、雛里の目に浮かぶ水たまりをそっと指で拭ってみせると、ペリドット色した輝石が左右へと戸惑うように揺れる。頬を朱に染めながらも、戸惑うようにオレの名を呼ぶ雛里にもう一度笑ってみせると、両腕で少しきつめに抱きしめた。

 

「そしたら、さ。次の日は一緒にその司馬さんって人のとこに行こう」

 

 腕の中にいる雛里は苦しかったのか少しもがいていたが、それとは違う、動揺に近い身体の震えを感じた。抱きしめることを優先しているから顔は見えないが、雛里はオレの言葉の意味を、意図を読み取ろうとしているのがなんとなくわかる。オレは、ほんの少しだけ抱きしめる力を緩め、ゆっくりと空を見上げながら雛里の言葉を待った。

 

「……り、李姓さん」

「うん」

「……李姓さん、」

「うん」

「わ、わたしゅ……。わたし、その」

「うん」

「あわ、あわわ……」

 

 紡いでいた言葉を止めると、服を握ったまま頭をオレの胴にぐりぐりと押し付けてくる雛里の背中を緩くたたく。うーっと小さな唸り声を聞きながら、また空を自由に翔る数羽の鳥を見送った。

 

 

 

「……落ち着いた?」

「は、はいっ、そ、そ、その、しゅみましぇん……あう、すみませんでした」

 

 雛里の中で色んな葛藤があったんだろう。日が暮れるのを回避するために言い出したのだが、それはあまり意味をなさなかったのは仕方がないといえば仕方がないのだろう。

 宿屋へと向かいながら、自分の頭に載せていた帽子を雛里の頭へと戻すと、あわわっという声の後にまた謝られた。帽子はオレが奪い取ったのだから、雛里が謝る必要がないのにだ。

 

「雛里、謝りすぎだろ」

「あわわ……そ、そのすみま……っ、あぅ」

「また、アレやらなきゃだな」

「っ!! そ、それはずるいです!!」

 

 そのことが気に食わなかったオレは、場を和ませるように一緒に住んでいた時のような軽口でからかうようにそう告げる。アレとか言うと意味深な感じがするけど、中身は全然健全なものである。一緒に住み始めたころはなんでもかんでもすぐ謝ってしまう雛里に対して、見かねた母さんとオレがどうにかできないかと考えた末編み出された罰ゲームだ。雛里がどうでもいいレベルで謝ると、オレと母さんの頬に口づけるという、なんともオレ得な罰である。真っ赤になりながら少し背伸びをして頬に口づける雛里は大変なご褒美だったなあ。あ、いや、念のためもう一度言うけど、健全な罰ゲームだから。オレは女だから全然健全なんだ、察しろ。おっと、思い出したのか雛里はすぐさま声を張って返事を返してきた。おお、大成功。

 

「そんなことないと思うけどな。雛里が謝りすぎなければいいだけだし」

「そ、そうですけど……あう、でも……」

「こういうときは何て言うんだっけ?」

「うー……はい。あの、李姓さん」

 

 俯きがちに歩いていた足を止め、恥ずかしいのか潤んだ瞳でこちらを困ったような表情で、先ほどまで泣いていた為か目元を真っ赤に染めながらこちらを見上げる雛里に、オレの胸がトクりと鳴った。こういうの、なんて言うんだっけ。ミイラ取りがミイラになった? そんなよくわからない敗北感。

 まあ、あれだ。雛里は……かわいいは正義ってこと。そんなよくわからないことを考えながら、雛里の言葉を待つ。

 

「李姓さん、ありがとうございます。今日、一緒に、親戚のところに話を聞きにいってくれてありがとうございます。あの人からかばってくれて、ありがとうございます。そ、それに連れ出してくれて、ありがとうございます。つらいときにも、名前を呼んでくれてありがとうございます。気を紛らわしてくれて、ありがとうございます。……明日も一緒に、いてくれるって言ってくれて、ありがとうございます」

 

 ゆっくりと、だがはっきりと言葉を紡いでいく雛里の言葉に眼を見開いた。言い切った雛里の顔は、泣きはらした顔だというのに嬉しさが堪えられないけど恥ずかしいというなんとも言い難い表情をしており、オレの胸の奥のほうでじんわりとした温かな感覚を感じる。心が温かくなる笑顔とはこういう顔をいうのかもしれない。

 

「こちらのほうこそ、ありがとう雛里」

「……はいっ!」

 

 オレは雛里へと手を差し伸べた。その手に差し伸べられた小さな手を掴み、宿屋へと向かう。それはこの街につく前のオレたちの姿と酷似していた。

 

 

 夕暮れ時なので部屋が空いているか不安だったが、空いている店を見つけた。流石襄陽だけあって宿の数も多い。まあ、相場よりやや高めとなってしまったのは仕方がないが、その分質は良いのだ。雛里にもちょっと良いご飯を食べようと言ったし、結果良ければすべてよしってやつだ。だいぶ軽くなった財布を胸元へと仕舞いこむと、こちらの様子をうかがっていた雛里と目が合った。

 

「あの、わ、私も、お金……だしますっ!!」

「いいって、オレが泊まろうって言ったんだしさ。雛里はおとなしく奢られなさい」

「あわわ……ご、ごめ」

「雛里?」

「っ! ありがとうございましゅっ!!」

 

 ぶんっと頭を下げてお礼を言う雛里に、ついつい苦笑交じりで応えながら食堂へ行こうと誘いをかける。さて、雛里を送り届けてからどうなるか、だな。司馬徳操さんって人に会った後は、雛里はどうするんだろうか。オレはその雛里を見届けたらどうするんだろうか。ちらりと横目で雛里をみると、はにかむ様に笑った雛里をみてオレは考えを止め、雛里の手を取り食堂へと向かった。

 

 食堂は賑わっていた。案内のもと席へと座るが、正直あまり長居はしたくない。そう、そんな賑わい方だった。よく考えればそれもそうか。なぜかそれなりに名のある母さんの姉が亡くなったのだ。

その噂をしないわけがない。聞こえてくる心のない言葉は、おいしい料理さえも味を狂わしてきて、せっかくのご馳走がもったいなかった。

 

「雛里、ごめん」

「李姓さんが謝る必要はないですよ。……あ、あわっ! あの、そっそんな顔をあげてくだしゃいっ! ……あう。顔をあげてください! ほ、本心ですからっ」

 

 あまりにも申し訳なくって謝ると、すぐさま雛里は頭を緩く振りそう応えてくれた。とはいえ、オレは本当に考えが至らなかったことに不甲斐なくって、拝むように頭を下げて謝ると、慌てたように雛里が頭を上げるように言ってくれる。どんだけ優しいんだよ、この子。

 

「ありがとう、雛里」

「お礼を言うのは、……私の方ですから」

「またそうやって言う。ホント雛里は優しいなぁ」

「うぅっ……李姓さんは、いじわるな人ですっ」

 

 しみじみと本心でそう言うと、ぷくっと頬を膨らませながらオレを意地悪だと睨んでくる雛里に小さく笑った。だいぶ落ち着いてきたらしい、よかった。ホッとしたオレは机の上に並ぶ手間のかかった料理へと箸を伸ばす。

 さすがに牛ではないが、鶏をパリッと焼いた後にネギと棗を加えてじっくりと煮込まれた羹は、一口飲めば身体の芯からじんわりとあたためてくれた。きれいにうろこがそぎ落とされ、等間隔に筋目が入った大ぶりの魚は、身をほぐすと食欲をそそる匂いがふわりと鼻孔をくすぐる。魚の身を口の中へと放り込むと、しっかりと染み込んだタレの味が口の中へと広がった。生姜や胡芹、大蒜のような癖のある味に隠れて紫蘇、山椒と、うっすらと辛みを感じるこれは……橘皮か? なにはともあれうまい。心労でご飯がおいしく食べれないなんて、切ないよな。ほっくりと炊きあげられた芋を口に放り込みながら、同じく美味しそうに舌鼓を打つ雛里を見て、視線がぶつかった。にこっと笑ってみせると、雛里も嬉しそうに笑い返してくれる。

 よし、決めた。雛里を司馬さんって人のところに送り届けたらオレは母さんのところに行こう。母さんの姉さんのことを伝えて、それから旅に出よう。雛里は心配だけど、それでもこうやってちゃんと前を向いて、笑えるんだから。いい加減、オレも自分と向き合わないとな。ああ、母さんに会うまでにできたら真名も決めたい。というか、雛里と別れる前に伝えれたら一番かなあ。どんな真名がいいだろ。

 

「李姓さん、おいしいですねっ」

「うん。本当においしいな」

 

 梨をおいしそうに齧る雛里を見ながら相槌をうつ。理想を詰め込んだ名前にしよう。こんな薄っぺらで、自分さえもわからないのだから。芯のある自分でありたい。芯というのは安直だから、もう少し捻りたいな。剣とか? 一つの剣で一剣……イージィェン、いやなんか違う。違和感がある。剣じゃなく刃とかどうだ? なんか疼くものがあるよな。一刃って漢字でイーレン。んー、やっぱ、なんか違和感。この場合、イチジン? いや、カズキか。なーんか変な感じだな。

 

「雛里」

「なんでしゅ……、どうかしたんですか?」

 

 まあ、雛里が噛み噛みなのはいつものことだ。机に「一刃」と書いてみせてると、雛里はこちらを見て首を傾げた。

 

「何て読むか知ってるか?」

「あわわ……えっと、普通ならイーレンと読むんじゃないかと、思います」

「そっか、ありがとな」

「あう、この文字がどうかしたんですか?」

 

 不思議そうに瞬く瞳に、オレは少し苦笑しながら真名にしようかと考えていて、と素直に告げた。




<修正>
2018/05/09 スペースなど文字調整
2018/05/19 サブタイトル修正


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1-7

「……真名」

 

 雛里の手が止まり、口元へ運んでいた芋がぽろっと転がり落ちた。それに気が付く様子もなく大きな瞳を零れ落ちそうなぐらい見開いて、ゆっくりと瞬く。視界の端に落ちた芋を捕らえながらも、肯定を示すため頷いた。

 

「うん、真名にしようかと考えてる」

「……えっと」

 

 口を開いては、ぱくぱくと唇を動かすだけで声は出ず。眉を寄せ、なんとも言えない表情をして軽く俯くも、すぐに顔を上げて口を開くがやはり言葉にはならなかった。

 彼女のこんな姿は想像していなかっただけに、何か問題があったのだろうかと内心で首を傾げるが、オレの中では答えを見つけることが出来ない。

 

「似合わない?」

「ちっ!! ……違いますっ! 似合わないことありません!!」

 

 オレの言葉に俯きがちだった頭がぶんっと持ち上がって、大きな声が紡ぎだされた。その声の大きさに自分でもビックリしたのか、ハッとした様子で辺りを見渡してから、声を調節しながらもオレをまっすぐ見て否定する。

 

「上手く……上手く、言葉が見つからない……けど、似合わないってことだけは、ありませんからっ!」

「雛里」

「ほ、本当に。……なんて言って、いいのか、わからない……けど。そ、その! あ、あわわ……。私に、教えてくれて……嬉しいです」

 

 はにかむような笑顔でこちらを見る雛里に、オレの中でムクムクと沸いていた不安が飛んでいった。思わず力んでいた肩の力を抜き、雛里が落とした芋へと手を伸ばす。雛里はオレの手の動きを視線で追うと、転がり落ちていた芋に気付いて、いつものようにあわあわと慌てふためいた。

 

「ごっ、ごめんなしゃいっ! あわ、ち、ちがっ……ごめんなさい! わた、わたしのお芋っ」

「大丈夫、大丈夫。三秒ルールだよ」

「……さんびょう、るーる?」

「そう、これぐらいの時間なら問題ないってことだよ。それに落ちたのは床じゃなく、机だしね」

 

 不思議そうに小首を傾げる姿にオレは笑って、落ちた芋を口の中に放り込んだ。ほんのりと温かな芋を噛みしめると、芋の甘みが口内へと広がる。ほら、机の上に落ちたとしても、こんなにもおいしい。

 雛里はオレの口の中へ芋が放り込まれる様子を見て拗ねた表情を見せていたが、オレのうまいという言葉に仕方がないなともいうような表情をして笑った。

 

 

 あの後、真名の話はせずに食事が終わった。いつもよりも少し豪勢な食事を終えて、風呂も入って後は寝るだけとなったのだが。雛里は二つある寝台の、それぞれにあてがわれた寝台から抜け出して、オレの寝台へと潜り込んできた。母さんが家出したあの夜よりも、どこか慣れた様子でオレの布団の中へと潜り込む様子はどこか感慨深いものがある。

 

「雛里?」

「あわわ……少しだけ、お邪魔します」

「う、うん……って、えーっと」

 

 雛里と違い、どうやらオレはあれから進歩はしていないらしい。思わず動揺を滲ませた返事を返してから、どうしたもんかと思いつつもじりじりと壁際へと移動した。前回と同じように自分の手の置き場をどうするかと考えつつも、こちらを見上げる遠慮のない雛里の様子に、オレは涅槃のポーズへで迎え撃つ。

 

「李姓さん」

「……うん」

「本当は、一刃さんって……その、呼ぶべきというか……あう、あっ、あの、呼んでも……いいんですか?」

「うーん、そうだね。食事の時は話の途中になっちゃったけど、あの時も言った通り……真名にしようかと考えてる」

 

 顔を覗き込むようにそう問うてきた雛里に苦笑しつつも頷くと、眉をぎゅっと寄せて口をへの字にした雛里は数度深呼吸をしてから、こちらの様子を伺いつつ更に問いを投げかけてきた。

 

「……悩んでる、の?」

「正直に言えば、……悩んでる」

 

 するりとオレの心の葛藤を導き出した雛里に、自分の腰もとへと置いた手を雛里の頭へと伸ばして乱雑に撫でまわす。指先に触れる絹糸のような手触りに自然と目を細めうっそりと息を吐きだした。

 やや粗い手を払うことなくされるがままの雛里は、どこか苦しそうな表情でこちらを見上げていたが、しばらくして不意にぎゅっと抱き着いてきたため、オレはその勢いで背中を寝台へとくっつけてしまう。抱き留めた雛里の柔らかな身体の感触が側面全体に伝わってきて顔が熱く感じられるが、宙に彷徨わせていた手をどうにか雛里の小さな背中へと回すことに成功した。

 片手でぽんぽんとリズムよく雛里の背中を叩きながら天井を見上げる。火は落としているから辺りは薄暗く、天井もはっきりとは見えなかった。おぼろげに浮かぶ天井の筋を見ながら、雛里の様子をそっと伺ってみる。雛里はオレの胸の間に顔を埋め、ぎゅっとしがみついているだけで、当分話をする様子はなさそうだ。色々と考えられることはあるけれど……さて、どうしようか。

 

「雛里?」

「……」

「やめといた方がいいかな?」

「………、…ぃ」

 

 ぐぐもった声が聞こえてきたが、聞き取ることが出来なかった。言い直してくれるのを待っては見るも、言葉が紡がれることはなくただひたすらオレにしがみついている。ああ、参ったな。

 

「……っと」

「っ!?」

 

 雛里を抱きしめたまま寝台を横へ転がって、覆いかぶさるように移動する。雛里をつぶさないように寝台へ両肘をつきながら、雛里の顔を覗き込んだ。

 薄暗い中でもこんなに接近していればはっきりと形がわかる。零れ落ちそうなほど見開かれた瞳は潤んでおり、映ったオレの顔がぼんやりと滲んていた。

 

「もう一回」

「……ぁ、……」

「もう一回、教えて?」

 

 泣き出しそうなのをぐっと我慢するように、眉をぎゅっと寄せて唇を噛みしめる雛里に、オレは自分の額を雛里の額へくっつける。更に近づいた距離に「ふぇぇっ」と可愛らしい小さな悲鳴が聞こえたが、スルーをして雛里の名を呼んだ。雛里の大きな瞳は左右に視線をゆらゆらと移動させ、そして目を閉じる。

 閉じられた瞳と、視線をずらせば暗闇でもよくわかる紅色に染まった、緩く開けられた唇。吸い寄せられそうになる衝動を、口の中に貯まった唾液と一緒に飲み込んだ。

 あぶないあぶない。なんかよくわからない衝動に流されるところだった。上体を軽く起こして雛里の鼻をつまむ。「……ぅんっ」という艶めかしい悲鳴が聞こえたような気もしたけど、スルーだスルー!

 あたふたと雛里の鼻をつまむオレの手を排除した雛里は、少し不貞腐れた表情でオレを見つめてきたが、咳ばらいをしてやり過ごす。

 

「それで? 鳳士元先生の答えを教えてくれないか?」

「……わからない、です」

「えっ?」

 

 拗ねた様子で絞り出すように言った雛里をまじまじと見つめると、ふぅと息を吐きだす様子が見えた。握りこぶしを下唇に当て、顎を引いて言葉を選ぶように考える姿に、オレは姿勢を正して言葉を待つ。雛里の思考しているところ見るに、どうやらおちゃらけた内容とは違うようだ。そんな難しいことを聞いたかな? と内心首を傾げる限りだが真名という内容上、デリケートなのかもしれない。うーん、悪いことをしたかもなぁ。

 

「えっと……」

 

 思考の淵に沈んでいた雛里がこちらをまっすぐと見据えてきた。先ほどの揺らいでいた瞳とは違う、意思を持った眼差しだ。オレは相槌を打つと表情を引き締めて、同じように真剣な目で見つめ返す。

 

「とても、……言葉にするのは難しい感情です。えっと、まず初めにこれだけは伝えさせてください。一刃さんってお名前、私は嫌でもやめといた方が良いとも思いません。……これだけは、間違いない、です」

「そっか。うん、わかった」

「えっと、……あの、……えっと」

「いいよ、遠慮なく言ってほしい」

「っ……、はい、わかりました。先ほど言った通り、私は嫌でもやめといた方が良いとも思わないんですが、なんとなく……。なんとなく、違和感があって……」

 

 雛里の違和感という言葉に、耳の傍で心臓がドクンッと音を立てたような気がした。そう、オレも違和感がある。この名前は、オレの名前じゃないような……何かが違う、そんな気分に陥るのだ。

 

「なんでこう思うのかは、わかりません。でも、なぜかそう感じて……っ、李姓さんも納得していないようでしたし、なんとなく安心しちゃったような気もするし、えっと…わっ、わたしゅっ……私、が。私が、この気持ちを伝えて、りっ、李姓さんにっ、李姓さんにとって良くないことに、せ、背中を押してたらっ! それは、嫌だなって。あ、あと……き、き、きらわっ……嫌われたらどうしようって、おもっ、思って……」

 

 だんだんと頭が下がり、終いには俯いて肩を揺らし涙声になる雛里を抱き寄せる。心の中では先ほどから煩いほどの鼓動が鳴り響いているが、泣いている女の子をそのままにはしておけない。

 

「大丈夫、雛里を嫌いになんてならない」

 

 大丈夫だと、安心してほしいと、心を込めて言葉にすると、雛里もぎゅっとオレに抱き着いてきた。

 

「ひっ、一人はっ……ひとりは、いやぁっ……っ、ふっ、ぅ、き、……ぃで」

 

 ぐずぐずと涙声で訴える姿に、雛里の頭へ頬を載せる。鼻を啜りながら嫌わないでほしいと願う様子は、導き手を亡くした迷い子のようだった。よく考えてみれば当たり前かもしれない。母さんと離れてから短期間で色々起こったのだから。涙はストレスを解消できると言うけれど、泣いたら終わりというわけではないのだ。

 別れる前にはオレの真名を渡したいってのは、オレの我儘みたいなもんだ。そんなことよりも、雛里を泣かせてしまったことの方が問題だし、この様子で人のところに一人で預けるのまずいかもしれない。

 腕の中でしゃくりあげて身体を震わす雛里を抱きしめながら、今後のことを改めて考え直す。先ほどまで感じた、あの不思議なほどの動悸が無くなっていることにも気づかずに。

 

 

「なあ、雛里はオレとずっと一緒に居たい?」

 

 ややあって、泣きはらした目を冷やすために水につけた布を雛里へと渡しながらそう聞くと、雛里はいつも通りに「あ、あわわっ」とかわいい声で慌てふためいた様子でオレの様子をうかがってきた。

 

「オレは雛里と一緒に司馬さんって人のところに行った後、雛里が過ごせるようなところを見つけたら、母さんのところに行こうと思ってた」

「……っ」

「まあ、母さんは碧玉さんって人といちゃいちゃしてるかもしれないから、送り届けたってこととか、その、雛里のお母さんのこととか。そういうのを伝えた後は、……旅に出ようと思ってる」

「……は、い」

「うん、それでね。さっき言ったことにも繋がるんだけど。雛里はオレとずっと一緒に居たい?」

 

 渡した布は手に握りしめたままで、力が入っているのか微かに手が震えていた。眉を寄せこっちを睨むように見つめる雛里に苦笑をこぼすと、オレは雛里の眉の間に指を置いて軽くつつく。

 

「眉間に皺が寄ってるぞ。ほら、寝転んで布を当てないと明日酷いことになるからさ」

「り、李姓しゃんっ!」

「ハイハイ。続きは布を当ててからね。ほら寝転んだ寝転んだ」

「ぅう~~っ」

 

 しぶしぶ寝台へと寝転んだ雛里の瞼の上に、鼻へとかからないように布を被せた。ゆるく布を押し当ててから寝台に腰かけると、そっと雛里の手を取った。ゆっくりと握りこまれる指先にオレは小さく声を立てて笑うと、それに呼応するかのように握った手の力が籠められる。

 

「李姓さん」

「うん」

「わ、私も」

「うん」

「一緒に。……りっ李姓さんと、一緒に……」

「うん」

「……旅に、出たい」

「……、そっか」

「……うん」

 

 握りしめた手の、親指の腹で雛里の手を撫でる。しっとりとした触り心地が指から伝わり、同時にじわじわと喜びが胸の中で広がった。雛里が弱ってるから、ひとりぼっちは嫌だから、そういう気持ちがあるからってことは解ってる。それでも必要としてもらえるのは、ものすごく嬉しいと感じた。

 

「それじゃあ、雛里も旅の準備もしないといけないな」

「っ! はいっ!!」

 

 雛里と一緒に旅に出る。時間もそれほど経っていないのに、なんだか指針が二転三転してるような気もするけど、そういうのも悪くはないだろ。きっと。

 ――周りに振り回されるのは慣れているのだから。

 

 次の日、昨日のことも相まって起きたのは大分遅かった。雛里もオレも遅くって、店の人に起こされ追加料金を取られたという悲しい状況だ。雛里の旅の支度もしなければならないし、お金は計画的に使わねば。荷物を整理したいということもあって、雛里が家に戻っている間にオレが司馬さんの情報を集めることにした。

 

 司馬徳操さん。なんと、知る人ぞ知る有名人だった。どうやら鹿門山の方向に居を構え私塾を開いているらしいけど、山奥らしくってちょっと大変かもしれない。まあ、母さんも硯山(※1)に住んでたんだから、全然フツーに住めるんだろうけどさ。

 話し合いの結果このまま街をでて向かって、山の開けたところで野営するか、それほど遅くなければそのまま押しかけようってことになった。途中で一泊することになるなら、何かしらの用意は必要だよなぁ。なんて考えつつ雛里と合流するために門前に向かうと、すでに雛里は準備できていたみたいで小さな風呂敷を両手で持ち、壁にもたれながら俯いて待っていた。

 

「雛里、お待たせ」

「……李姓さんっ!」

 

 オレの声にパッとこちらへと振り向いた雛里の顔は満面の笑顔で、もっと早くに切り上げて迎えに来ればよかったと反省する。こちらへと駆け寄る雛里の頭を、帽子ごとぽんぽんと叩いてから集めた情報を共有した。

 

「えっと、それじゃあどっかで携帯食買って向かうか」

「はいっ! 確か、あそこの裏手にある通りに、安価だけれど質の良いお店がありました!」

「そうなんだ? それじゃ、そこに寄って念のため二日分購入して向かうことにしようか」

 

 嬉しそうな声ではいっ! と元気よく返事をする雛里の荷物をしれっと奪い取り、代わりに聞き込みがてら購入した饅頭を一つ渡す。あわあわとしている雛里を置いて目的のお店へと向かうと、慌てた様子で追いかけてくる雛里の「まっ、待ってくださいっ!」という声が聞こえてきた。心持ち速度を落として歩いていると、追いついた雛里がぷくっと頬を膨らませる様子が見える。膨れる姿も大変可愛らしい。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。暖かいうちに食べて」

「ぅう、……はぁい」

 

 珍しく間延びした返事にじっと雛里を見つめると、そんなオレに気付いた雛里は片手で帽子の鍔を掴んでぐっと顔を隠した。うん、大変よろしい。

 

 そんなこんなで携帯食を手に入れたオレたちは、襄陽の街を抜け川を渡り、鹿門山へと至る山道へと入り込んだ。鬱蒼と茂る木々や藪を横目に、それなりに整えられている道をひたすら歩く。夕方を過ぎているためか辺りは薄暗く、ほどなく夜の帳がおりるのだろう。

 

「あわわ、李姓さん、そろそろ松明の準備をしませんか?」

 

 掛けられた声に足を止めて振り返る。どうやら雛里も同じようなことを考えていたみたいだ。荷物から松明を取り出し火をつけると、先ほどよりもくっきりと辺りが見渡せるようになった。ぼうぼうと燃え盛る火の熱気を感じながら、風が強くなくてよかったと安堵する。本当にこの時代は不便だよな、と思ったところでハタと我に返った。

 

「……李姓さん?」

 

 今の物言いはなんだ。この時代は? 変な言い回しだ。まるで、この時代以外を知っているようじゃないか。

 

「李姓さん」

 

 それだけじゃない。灯りなら松明なんて当たり前だという考えもある。……なんだ? 気持ちが悪い。自分の中で、考えが、いくつも、矛盾して、ぐちゃぐちゃする。

 

「李姓さん!」

 

 松明を持つ手とは逆の腕をぐいっと引っ張られて、視線をその原因へと向けた。雛里の心配そうな眼の中に、オレの強張った表情が浮かんでいる。俺は、……オレは、何を考えていたんだろうか。

 

「りっ、李姓さん、しっかりしてくだしゃいっ!」

「……、うん」

「あわわ……、しっかりしてください」

「うん、ごめん」

「……松明、あぶないです」

「そうだね、面目ない」

 

 深く、深呼吸をする。目を閉じて息を最大限まで吸い込んで、口を小さく窄めて細く長くゆっくりと吐き出した。切り替えるべきだ。そう、雛里が心配する。目を開けて雛里へと視線を向けてから、わざと軽く謝った。

 なんかぼーっとして、という言葉でごまかしながら先へと進もうとするも、雛里はオレを心配してか休憩にしようと言い募る。出る前に夜通し歩くと決めたんだし、もう大丈夫だと説得してどうにか休憩を回避することができた。

 正直なところ、休憩したらきっとさっきの考えが止まらなくなりそうだ。そんなことになったらきっと雛里は心配する。それに、オレは……。

 いや、とりあえず司馬さんの元に訪れるのが先だ。山を越える程ではないって言っていたし。できるだけ考えこまないように、雛里と他愛ない話をしながら山を登っていく。しばらく行くとそれなりに整えられた道の脇に細いけもの道が現れた。道を教えてくれた人が言っていた分かれ道だ。

 松明の炎に気を付けながら、脇道をひたすらまっすぐ進んでいく。時折振り返って雛里の様子を伺うが、それほどへばった様子もなくついてきていた。よかった、休憩するとしてももう少し開けたところでしたい。

 

「あっ! あそこみてきゅださいっ……あわっ!? み、……み、て、ください」

 

 雛里の弾んだ声と噛んだ言葉、そのあとの絞り出すような、恥ずかしさが滲み出る訂正に肩を揺らして笑った。オレが笑っていることに気付いたのだろう、雛里は数歩の距離を詰めてオレの背中を小さな拳で叩く。小柄な雛里の拳ぐらいではオレにダメージを与えることはないので、ごめんごめんと謝りながらも雛里の攻撃を止めようとはしなかった。うん、かわいい。ホント、母さんの元に来た時から比べて大分慣れてきたなぁ、嬉しい限りだ。宥めながら先ほど言っていた場所を再度教えてもらうと、大分先ではあるが木々の隙間から光が漏れていた。

 

「司馬さんが居るかわからないけど、今日はあそこで休憩できたらさせてもらおうか」

 

 荷物から竹筒を出し水を飲んでそういうと、同じように水分補給をしていた雛里も元気よく頷いた。再びあまり整えられていないけもの道を進みながら、雛里と二人司馬さんについて話をするが、往々にして噂話の域を出ない。

 

「どんな人かな?」

「とても、器量ある方だって……言ってた、よ」

「うんうん、他にも人を見る目がすごいって言ってたね」

「あわわ……私、大丈夫かなぁ」

「大丈夫、大丈夫」

 

 自信なさげな呟きを漏らす雛里を励ましつつ、歩きづらい道をしっかりと踏みしめて前へと進む。だんだんと光が近づいてきて、程なくして開けた場所へと出た。

 山奥にあるのにしっかりとした佇まいだ。複数人が住めるような大きさで、目的地の司馬さん宅で間違いなさそうである。流石、私塾を開いているというだけある大きさだ。しかしながら、夜も更けてきたためか辺りは静かで、耳を澄ませてみても虫の鳴く音と葉擦れの音しか聞こえない。ちらりと雛里を振り返ると頷く様子が見え、オレは門へとまっすぐ向かうと、中を覗き込んで大きな声で呼びかけた。

 

「すいませーん!」

「……」

「誰かいらっしゃいますかぁ!」

 

 奥の方からパタパタとした物音が聞こえる。それとともにしばらくお待ちくださいといった声が小さく聞こえた。よかった、人がいるらしい。灯りが消えていたわけではないから、就寝していたわけではないだろう。ほっと息を吐きだすと、不意に服が引っ張られて少しよろけてしまった。

 

「どうした?」

「……あ、あわわ」

 

 オレの服の裾を引っ張る雛里にそう声をかけたが、あわあわとした様子で返事が戻ってこない。どうしたんだと考えてみたところ、一つだけ思い当たる点があった。

 

「人見知り発動?」

「あぅ……、李姓さぁん」

 

 どうやら図星のようだ。涙目でこちらを見上げる姿は可愛いが、そうもいっていられない。パタパタと駆けてくる音がだんだんと近づいてきていて、そのうち門の中から人が出てくるだろう。そして、そうこうしているうちに扉が開く音が聞こえ、「お待たせしました、どちら様ですか?」という声とともに目の前に女性が登場すると、雛里はオレの後ろに隠れてしまった。

 

「夜分遅くにすいません。オレは鳳李姓と申します。こちらは司馬徳操さんのお住まいで間違いないでしょうか」

「ええ、そうですよ」

 

 雛里の代わりに司馬さんのお家かどうかを確認すると、是という返事が返ってきた。まずは一安心だ。女性は少したれ気味の瞳に理知的な光を湛え、ふっくらとした唇を優しそうに持ち上げている。茶色の長い髪は左右を緩く垂らして後ろへと流れ、後頭部でリボンのように結い上げた御髪へと続いている。ゆったりとした上衣は品がよく、大人の女性らしさがひしひしと伝わってきた。ちょっと緊張するけど、まずは泊めてもらえるように交渉だ。

 

「母、鳳尚長に教わり司馬徳操さんに会いに来ました。図々しいお願いで大変申し訳ありませんが、一晩泊めていただけませんでしょうか」

 

 できるだけ丁寧な言い回しで、背筋を伸ばし、四十五度を意識して深く頭を下げ最敬礼する。後ろでも頭を下げている感覚があったから、きっと雛里も一緒に頭を下げているんだろう。頭を下げたまま女性の言葉をじっと待っていると、「どうか頭をお上げください」という声がした。

 

「鳳、李姓さんと言いましたか。何もないところではございますが、よろしければおあがりくださいな。……そちらの、女性もご一緒に」

「あっ、ありがとうございます! ……ほら、雛里も挨拶して!」

「あ、あわ、あわわっ……鳳士元でしゅっ! よ、よろしくおねがいしましゅっ!」

 

 オレの後ろに隠れていた雛里を女性の前へと押し出すと、目をぐるぐると回したような表情で必死に名前を名乗り頭を下げる。雛里のいっぱいいっぱいの様子に目の前の女性はくすっと笑みを零すと、緩くお辞儀をしてから口を開いた。

 

(わたくし)の名前は、司馬徳操。とある名士から水鏡と名付けられまして、最近は専ら水鏡と呼ばれております。そして生徒は今はおりませんが、この住まいで私塾を開いております。――ようこそ、水鏡女学院へ」




※1  正しくは峴山(ケンザン)。文字化けそうな気がしたので当て字にしました。

<修正>
2018/05/16 追記
2018/05/19 サブタイトル修正
2018/06/03 本文修正


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1-8

 すんなりと宿泊許可をもらえたのは幸運だったと思う。司馬さんに連れられて建物の中へと入ると、こじんまりとした部屋へ案内された。どうやらこの部屋で寝泊まりしていいらしい。食事について聞かれ、まだ食べていないと正直に話すと、ご馳走してくださるとのことだった。やばい、めっちゃ良い人。慌ててお手伝いさせてくださいと言ったが、お客様なのでという言葉に負けておとなしく部屋で待つことになった。

 

「司馬さん、良い人そうでよかった」

「……うん、もっと、ちゃんとご挨拶……したかった、な」

「ま、終わったことはしょうがないさ。ご飯の時に改めてちゃんとお礼しよう。な?」

「あわわ……、そうだね。もっと、頑張る」

 

 荷物という荷はないけれど、担いできたものなどを一旦床へとおろしてから手ぬぐいと竹筒を取り出した。水で手ぬぐいを湿らせ、手や顔、足などを拭いていく。雛里もオレと同じように手足や顔を拭いていき、人様のお家にお邪魔しても問題ないぐらいには身だしなみを整えた。これで少しはマシだろう。

 

 とりあえず勿体ぶってしまった第一関門の司馬さん家にお泊りは見事クリアできたわけだけど、これからがなぁ……。司馬さんと雛里でたぶん話とかあるだろ? それから、ありがとうございましたって言って、母さんが居るだろう魚梁洲のところに向かって。まあ、詳しい場所がわからないから聞き込みと探索をしなきゃなんないだろうし、3、4日ぐらい見とけばいいのかな。

 

 真名は決められなかったけど、雛里は一緒に旅に出てくれるっていうし、母さんに会うまでに決めておかないと旅に出させてくれないとか言われそうだ。……いや、今のオレだったらもしかしたら真名を決めなくても背を押して送り出してくれるかもしれないか。あの頃より成長したよな、オレ。うんうん、大丈夫大丈夫。

 

 胡坐を組んでた足を投げ出し、半ば転がるように後ろに手をつく。あー……いいや、転がってしまえ。重力に負けるかのように、床についていた手の平を肘へと変更し、そのままころんと寝転がって頭の下に両腕を追いやり枕にした。

 

「りっ李姓さんっ! あわ……あわわ」

「雛里も転がってみたら? すげー楽……」

 

 慌てふためく雛里を共犯にするため、という気持ちは少しはあるが、きちんと座って足を崩さない雛里にもう少しだらけても良くない? というアピールをする。まあ、そういうのできないタイプだって知ってるけど。あわてふためく姿からあとでメっって怒られるまでがご褒美です。

 

 しかし、すごく眠いなぁ。考えなきゃならないことは山のようにあるのに、ものすごく眠い。雛里をもう少し見ていたいけど、少しだけ瞼を閉じてもいいかな。いいよな。雛里の声は可愛らしくて、玉を転がすような……耳に心地の良い声だ。……うん、ごめん。……もう少しだけ。

 

 

***

 

 

 ふと気が付いたら森の中だった。木々は緑のほかにも黄色や赤色が混じっており、落ち葉すらも華やかな色どりだと感じた。オレは剣を右手に握りしめ立っていて、視線の先に先ほど見た水鏡女学院の門が見える。一歩、また一歩と足が勝手に進み、視線は固定されていた。

 視界はくっきりと見えているが、感覚や気分はあやふやで、どこか膜を張ったような……そう、テレビで物語を見ているようなそんな感覚だった。

 

 陽の光によりはっきりと見える門を潜り抜け、庭先に植わった桑の木々を横切って、建物の中に土足で足を踏み入れる。オレに気付いた子供がこちらへと駆け込んでくるのを、剣を掴んだ右手が無造作に振るわれ、視界と部屋を赤く染めた。

 刹那、甲高い声が屋敷を駆け抜けた。声に吸い寄せられたのか、わらわらと集まってくる幼子たちに何度も何度も剣が振るわれ、赤く、赤く染めていく。逃げなさい、という凛とした声や、助けてと叫ぶ声が入り混じり、屋敷は混乱に支配されていた。

 

 オレは……いや、この身体はその中をかき分けるように、むせ返る血の匂いとともに足を進めていく。剣からはとめどもなく血が垂れ落ち、切り捨てた幼子は弾むように床を転がった。

 

 一方的な虐殺。屋敷の人間をすべて殺しつくすかのような、見た者をすべて切り殺すその行いに、この人物は何を考えているのだろうか。奥へ奥へと進んでいく身体に、殺しても殺しても止まらないこの身体に、オレは恐怖を感じる。悪い夢だと思いたい。この先に居るのは、誰なのだろうか。オレは、誰が居るのか、知っているのではないか。

 

 また一人幼子が切られ床に転がった。奇麗に首をはね切れずに幼子はまだ生きていた。幼子の口から先生逃げてという叫び声があがった。この身体はためらいもなく幼子の心臓を突き、幼子が叫んだ方向へと足早に駆けていく。ああ、やはり。やはり、狙いは――司馬さんなのか。

 

 どくどくと鳴り響く心臓の音が、だんだんと大きくなっていく。部屋を抜け、廊下を走り、奥の扉を開いた先に毅然と立つ女性を見て、心音が痛いほど耳を打った。

 

「……お久しぶりですね」

「……そうですね、本当に……お久しぶりです。水鏡先生」

 

 まっすぐにこちらを見る瞳には何の色も写されてはおらず、それこそがこの出来事への感情だとわかる。背にかばった幼子を守るかのように一歩前へと進み歩く彼女に、この身体は薄く笑って剣を構えた。

 

「たぶん、ここを逃しても問題なかったと思うんです。正直なところ、貴女に会うことは殆どなかった」

「……何を言ってるのかしら」

「あはは、確かに今の言葉は解らないかもしれませんね。……でも、俺の経験では貴女に会ったのは五回ぐらいしかなかった。あの、腐るほどの時間の中で」

「……貴方と会ったのは一回だけだと思うのだけれど。朱里や雛里と一緒に挨拶にきた時の」

「そうですね。そう、今回はその時だけしか会ってません。――でも、これをスルーしてすべて水の泡になったら、大変じゃないですか? オレはもう一度コレを繰り返すなんて、出来はしない。……だから、すいません。どうか、死んでください。オレは愛紗や鈴々みたいに剣の才能はないので、動かれると一発で殺せないから。苦しめたいわけじゃないんです。だから動かないでくださいね」

 

 言い終えたと同時に構えた剣を振りかぶる。芸妓のように華やかに結い上げた茶色の長い髪に刺さる簪が壁へと吹き飛び、辺りを血に染め、そしてどさりという音が二つ鳴り、幼子が泣きわめく声が室内へ響いた。

 幼子にもすぐ剣が振るわれるとオレは思ったのだが、逡巡するかのように腕が迷い、舌打ちを一つ鳴らして幼子に剣が振るわれる。短い悲鳴をどこか遠くに聞きながら、この夢のような状況について考える。これは一体、何を意味しているのだろうかと。

 

 あの時のような危機的状況ではない。なのに、こんな悪夢ともいえる夢を見るのか。いや、本当に夢なのだろうか。どこかリアルで、でも身近には感じられない、そんな感覚がぐちゃぐちゃと織り交ざって……この感覚は、最近体験した気がする。

 

 ――そう、松明を付けたあの時だ。あの時のオレは何を思った? 不便だと、……この時代は、そう、とても不便だと思ったんだ。まるで他の時代を知っているかのようなそんな感想を思い浮かべて、オレの中で疑惑を生んで、そして……。

 

「……もう少しだ」

 

 考えを遮るかのように聞こえた音に、泥を掻き混ぜるかのような思考の沼から浮かび上がる。この身体が言葉をしゃべったのだ。

 いつのまにか屋敷から出ており、拓けた場所に出ていた。少し先に崖が見え、その下に街が見える。振り返る身体と共に視界が流れ、先ほどまで居たと思われる水鏡女学院の建物を捕らえた。再び崖へと視線が戻り、街をゆっくりと眺めてから空へと移動する。先ほど見えた街は襄陽だろうか。空は遠く、青い空に白い雲がたなびいていた。

 

 

***

 

 

 目を開けたら、知らない天井が見えた。身体全体の上に少しの重さを感じ、ベッドの上に寝ていることに気付く。首を横に傾けると、雛里がすやすやと眠っているのを見つけ、ようやく夢から覚めたことに思い至った。

 

 ベッドから両手を取り出して、じっくりと観察をする。手の平はカサカサとしていて、左手の中指の付け根のところにあるマメがだいぶ固くなっていた。でも、赤くは染まっていない。

 身体を起こして部屋を静かに見渡してみる。質素ながらも丁寧に使われているのか、備え付けられている棚も机もとても奇麗だ。どこも、赤くない。

 

 寝ている雛里の傍に行きしゃがみこんで顔を覗き見る。大きな瞳は閉じており、あどけない顔をしてこんこんと眠っていた。まつ毛が長いな、という感想が無意識にぽつりと零れ落ちる。慌てて雛里の様子を伺ったが、起きる様子はなくほっと息をついた。

 立ち上がり廊下へと続く扉へと近づく。耳を澄ましてみるも家の外から鳥の鳴く音ぐらいしか聞こえない。扉を静かに開けると薄暗い廊下の先に、やわらかく白っぽい光が差し込んでいた。

 光に吸い寄せられるかのように、音をたてないように扉を閉じて光の元へと向かう。この奥は離れになっているのか、短い渡り廊下があった。右手には庭が整えられており、ため池がキラキラと柔らかく輝いている。

 左手には背の高い桑の木がいくつも植わっていた。ふらふらと、桑の木の方へと足を進めていくと、崖が見えてくる。それでもなおゆっくりと近づいていくと、柔らかな陽の下に街が見えた。ああ、襄陽の街だ。

 

「おはようございます、李姓さん」

 

 聞こえてきた声に肩が大きく跳ねて、慌てて声がした方を振り向くと、比較的低めの桑の木の下に人影が居ることに気付く。緩慢な動きでこちらへと近づいてくる様子を息をひそめて待っていると、次第に姿がはっきりと見えるようになった。茶色の髪を品よく結い上げ、髪に刺した簪がしゃなりしゃなりと涼やかに音を奏でる。手に抱えた笊には赤黒い木の実が数多く摘み取られていた。

 

「――司馬、徳操……さん」

 

 水鏡先生、と呼びかけた言葉を飲み込んでどうにか名前を呼ぶ。オレの傍まで来て歩みを止めた彼女は、優しく労わるような眼差しでオレを見た。

 

「はい。よければ水鏡とお呼びくださいね」

「あ、はい! すいません! えっと、水鏡……さん、おはようございます。昨日はすいませんでした!」

 

 水鏡と呼んでほしい、そう言ってくれたのはありがたいことだが、頭を下げて謝ることでもやっとする気持ちをどうにか心の隅へと追いやる。

 

「いえいえ、お疲れだったみたいですね。配慮が足りず申し訳ございませんでした」

「えっ!? いや! オレの方がすいませんでした! その、色々と。……本当にすいません」

 

 申し訳なさそうな声音で謝る司馬さんに、オレも慌ててもう一度頭を下げなおす。本当に色々とすいません! 司馬さんは悪くないのにな。声を出しているうちに、身体の中の重い何かが霧散していく気がする。夢だ、夢。切り替えよう。司馬さんにとって、今のオレは突然押しかけておきながら、ご飯が出されるのも待てずに眠り込んだ人間だ……って、酷いな!? 本当にすいませんでしたっ! って気持ちをものすごく込めて頭を下げると、頭上からくすくすという笑い声が聞こえてきた。

 

「ふふっ、ごめんなさい。大丈夫、気にしなくて良いですよ。でも士元さんも心配してましたから、自分を大事にしてくださいね」

 

 頭を上げると司馬さんが目を細め肩を小さく揺らして笑っており、急に恥ずかしくなってもごもごと返事をして頭を掻く。母さんとは全く違う、大人の女性だ。まったく! 違う!!

 

「朝ごはんは食べれそうですか?」

「食べれます!」

 

 反射的に敬礼のポーズをしてそう返す。鈴を転がすような笑い声が司馬さんから漏れ、オレは心の中で大きくやっちまった! と叫んだ。ああああああ。顔が熱い。

 

「昨日の残り物で申し訳ないのですけど。ふふっ、こちらへどうぞ」

「食べれるだけで嬉しいです! ありがとうございます!」

 

 やけくそ交じりにそう言って、くすくす笑って先導する司馬さんの後を追った。雛里のことを聞かれまだ寝ていることを伝えると、よければもう少し寝かせてあげてくださいとお願いされる。勿論ですとも!

 

「そういえば、昨日士元さんとお話したのですが、この後は母君の元に一度顔を出した後、旅に出られるとか」

「えっ、あ、そうです」

 

 どこかぼんやりと司馬さんの後について歩いていたせいか、気の抜けたような声が出た。慌てて肯定しながら、旅に出る理由を聞かれたらどうしようかと悩む。記憶を探しに旅に出るとかカッコイイ感じに言ったとして、初対面に近い人間には重すぎないか、とか。雛里は小さいし、連れて行くのは無謀だと怒られたらどうしよう、とか。ぐるぐると考えがまとまらずにどうしようかと狼狽えていると、司馬さんが一つの扉をくぐって立ち止まりこちらへと向いた。

 

「そちらの机でお待ちくださいな。今、ご用意しますね」

「はいっ! ありがとうございます」

 

 ビシッと気を付けの体勢をとると、深く頭を下げる。司馬さんのくすくすと笑う声と共に、どういたしましてという言葉をもらい頭を上げた。とりあえず、聞かれた場合の雰囲気でちゃんと話すか考えよう。オレは示された机に備え付けられた椅子に腰かけると、司馬さんの背中へと視線を向けた。

 こうやって、誰かが厨房で動いているのを座ってみるのはいつぶりなのだろうか。司馬さんは持っていた笊を調理台の上へと置いて、袖をゆるりと逆の手で押さえながら、棚の上の物を取ろうとしている。その何気ない姿がとても色っぽく、品があって美しかった。

 

大人の女性(母さんとは大違い)だ」

「? 何か言いましたか?」

「いえ! 何も言ってません!!」

 

 うっかりと漏らした言葉が届いたのか、司馬さんが不思議そうな顔でこちらを見ているが、慌てて否定する。思ってても口にしちゃイケナイ言葉だった。あぶないあぶない。

 しばらく台所でテキパキと動く司馬さんの様子を伺う。人にご飯をつくってもらえるのはとってもありがたく、嬉しいことなんだなと痛感する。雛里も手伝ってくれてはいたが、オレがご飯をつくるのが当たり前になっていたこともあり、一人で作ったことは数える程度ぐらいしかない。オレはまったりとくつろぎながら、ご飯が出てくるのを待った。

 

「先ほどの話の続きですけど、旅の予定は決まっているのですか?」

 

 そういいながらお盆の上に温かな湯気があがる器をいくつも乗せ、こちらへと向かってくる司馬さんをぽかんと見つめる。

 

「予定ですか?」

「ええ。もし急ぎの予定が無いのであれば、少しの間この女学院でお勉強しませんか」

 

 音をたてないように、目の前へと並べられていくご飯を視界に入れながらも、司馬さんから目を離すことが出来ない。

 

「おやおや、驚かせてしまったかしら。断ってくださっても構いませんよ。旅に出て新しきことを知る……それもまた善きかな、ですから」

「水鏡さん」

「ふふっ、とりあえずご飯が覚めてしまう前に食べてしまうのが先でしょうか。どうぞ、召し上がってくださいませ」

「ありがとうございます。……いただきます」

 

 うっそりと笑う司馬さんに、どうにかこうにかお礼をいって箸を手に取った。美味しそうな、香ばしい匂いが漂っている。主菜は炙魚。筋目が入り味がよく染み込んでいそうな、程よい色味の付いた白身魚が皿に盛りつけられていた。箸で魚の身を突くと、抵抗もなくほろりと身がほぐれる。これ以上崩さないように気を付けながら口の中へと放り込むと、すぐに橘皮の風味を感じ上品な深い味わいが口腔へと広がった。しっかりと下味をつけているのだろう、ただ魚を焼いただけでは表現できない味が、じんわりと脳へと伝わってくる。大蒜の味もまた美味しい。

 

「美味しいです、ホント。人にご飯を作ってもらえるのは、嬉しいですね」

「お口に合ったようでうれしいわ。鱠も少しお時間をもらえればお出しできるけど、いかが?」

「いえ、大丈夫です! 美味しいからいくらでも入りそうだけど、流石にこれ以上食べるのは量的に難しいです」

 

 羹へと手を伸ばして鼻を近づけ匂いを嗅いだ。鶏出汁だろうか、食欲をそそる良いにおいがする。具はたくさん入っていて、鶏肉のほかにも数々の野菜が水面から顔を出している。箸を匙へと持ち替え、具を押すようにスープだけをすくえば、澄んだスープの水面に浮かぶ油がきらりと光った。「おいしそう」そう、思わず呟きが漏れる。自分の声に我に返り視線を司馬さんへと向けると、司馬さんは少し照れた様子でくすくすと笑みを浮かべ、こちらを見ていた。オレは一つ咳ばらいをし、内心に浮かんだ恥ずかしさをごまかしながら匙を口へと近づけ、ふーっと息を吹きかけて冷ました後、ごくりとスープを飲み込んだ。

 

「うまい」

「それはそれは、安心しました」

 

 にこりと笑う司馬さんにつられるように笑ってから食事を再開する。お世辞なく美味しい。はっきりとした塩の味といい、惜しげもなく調味料が使われている。炙魚はそれなりに大きなもので、二匹並べて盛り付けられているところから、初対面に近いというのにすごくもてなされているのを感じた。

 

「本当にありがとうございます、水鏡さん」

「どういたしまして。喜んでいただけているようで、(わたくし)も嬉しく思います」

「その、えっと」

「大丈夫ですよ。まだ朝が訪れたばかりですから。急ぎの用事が無いのであればゆっくりおくつろぎくださいな」

 

 優しい声音が耳を打つ。ありがとうございますと礼を言ってご飯を思う存分味わった。ちょくちょく味付けや調理方法、素材の入手方法などの話をしながら箸を進めていると、気が付いたらすべてを平らげていた。お腹はいっぱいだが、もっと食べたいなと思わせる食事で、本当に美味しかった。司馬さんがお茶を淹れてくれ、じんわりと熱くなった湯のみを両手で抱えて一口飲んだ。身体に染み込むような暖かい感覚にほっと息を吐きだす。

 

「ご馳走様でした」

「はい、お粗末様です」

 

 緩やかな時間が流れているかのような、そんな雰囲気を感じながら、食事前に司馬さんから言われた女学院で勉強しないかというお誘いについて考える。勉強することには異存はない。予定といえるのも母さんに挨拶をするぐらいしかないのだし、知識の無いままで流浪するのは危ないというのもわかっている。オレだけならまだ良いが、雛里もいるのだ。

 そういえば、雛里はどうするのだろうか。彼女も誘われているのか? まあ、オレに話が出るということは、話が出ているのだろう。ふむ、と頭を悩ませていると、司馬さんがこちらをぽわっとした表情をして見ていた。これ、どこかで見たことある表情だぞ。

 

「……えっと?」

「あっ、あら、ごめんなさい。お茶のおかわりはいかが?」

「ありがとうございます、大丈夫です。えっと、ご飯前に言ってたここで勉強するって話について、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

「雛里は……士元は何て言ってました?」

「ふふっ、李姓さんの考えも聞いてみたいと言っていたわ」

「そっか……、うん。えっと、オレも雛里の考え聞いてみたいので、相談してから決めても大丈夫ですか?」

「勿論、問題ないわ。ゆっくりと決めて頂戴」

 

 はい、と相槌を打ってからお茶を啜る。雛里はいつ頃起きてくるだろうか。お茶を飲みながら司馬さんと世間話をしつつ、雛里が起きてくるのを待った。




<修正>
2018/05/19 サブタイトル修正
2018/05/20 前書き修正
2018/06/03 前書き削除 本文修正


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1-9

 結局、女学院にしばらく住み込みさせてもらい勉強をすることとなった。雛里の、こちらの様子を伺う上目遣いが大変良かったから、という理由だけではない。雛里が落ち着く時間もあった方がいいし、オレも最近夢見もよくない。そして知識は何事においても大事なのだ。そんなことなど色々合わさって、ここ二か月現在進行形で女学院で勉強中なのである。

 

 司馬さん……いや、水鏡さんはとても博識な人で、色んなことを教えてくれている。水鏡先生と呼ぶのはあの夢の所為かどうしても嫌な感じがして、その微妙な気持ちに気付いてくれたのだろう水鏡さんは好きに呼んでくれて大丈夫だと言ってくれた。

 水鏡さん、と心の中では呼んでいるが、雛里にメって怒られた結果、声に出だす場合は水鏡師傅と呼ぶことにしている。雛里もつられてたまに水鏡師傅って呼ぶこともあるけど、雛里の口からは先生という言葉で聞きたい。しぇんしぇって舌ったらずで呼んでるのはとってもかわいらしい。かわいいは正義。

 

 母さんも色々と教えてくれていたが、噛み砕いて教えてくれているせいかとても分かりやすい。昔教養だっつって、笛やら琴やら二胡やら、どこにその楽器仕舞ってたんだ? ってぐらいの数多い楽器の演奏技術を習っていたが、ここでは教えてもらっていない。覚えたいなら教えてくれるらしいけど、オレそういう才能なさそうだから遠慮しておいた。

 ちなみに雛里は笙に興味があったみたいだが、一尺程の大きさと管の数が十九程あり結構難しそうなので、やるならば時間をゆっくりかけて覚える時間を取らないといけない、ということもあって今は塤を教えてもらっている。

 黄土色よりもやや白っぽい卵型のそれを大事に抱え込むように、小さな指を一生懸命伸ばして穴を押さえ吹く姿は、オレの心をものすごーく癒してくれた。にまにまとした様子で雛里を見ていた為か、以後教えてもらう時には同席させてくれなくなったのが大変残念である。

 

 今は水鏡さんと雛里とオレだけだけど、どうやら新しく生徒が来るらしい。女学院っていうだけあって、女の子が来るそうだ。雛里と同じ年ぐらいの女の子だそうで、大変楽しみだったりする。雛里は人見知りが激しい方だから、仲良くできるか不安だと漏らしていたけど、水鏡さんが言うように自然体でいれば問題ないとオレも思っている。無理して繕ったとしても一緒に住むんだからすぐに疲れちゃうよ。

 

 

「あ、水鏡師傅! 今ちょっと良いですか?」

「あら、何かしら李姓ちゃん」

 

 廊下の先を歩いていた水鏡さんに気付き声をかけた。そう、水鏡さんってオレらのことを親しさを込めてちゃん付けで呼ぶようになったのだ。怒られたり大事な時は呼び捨てで呼ばれたりさん付けで呼ばれたりするので、今のところ機嫌は普通っぽいな。

 隣を一緒に歩いていた雛里は巻物を2つ大事そうに抱えて、水鏡さんと同じように足を止めて振り向いた。不思議そうな表情でこちらを見る二人は、顔も髪の色も違うがどこか親子のようにも見える。

 

「そろそろ一度、母さんのところに顔を出そうと思って」

「っ!!」

「あら、何かあったのかしら」

 

 伸ばし伸ばしにしていた、母親に報告しに行こうと思っている件を水鏡さんに伝えると、雛里が目を見開き息をのんだ。なんでそんなに驚いてるんだ? 旅に出るわけじゃなくって、ちゃんと戻ってくるつもりなんだけどなぁ。

 水鏡先生は瞬きをゆっくりしてから、先ほどと同じような不思議そうな表情のまま小首を傾げた。傾げたためか、髪に刺さった簪の飾りがしゃなりと音を立てる。仕草一つとっても大変色っぽい。

 

「いや、特にってことはないんですけど。ただ、元々一度顔を出す予定ではあったんで、そろそろいい加減に顔だけは出しておこうかなって。もう夏も盛りですし。あっ! 勿論、戻ってくるつもりですよ! だから安心していいよ、雛里」

「あ、あわわっ!?」

「あらあら、よかったわね雛里ちゃん」

 

 水鏡さんが袖口を口元に寄せてくすくすと笑っている。その横であわあわと慌てふためく雛里もとても可愛らしい。いやー、いいものが見れたなという、心の中でほっこりしていると、こちらへ視線をまっすぐに向けた水鏡さんの姿に違和感を感じた。

 

「そうね、話を詰めるためにもここではなく別のお部屋でお話ししましょうか。雛里ちゃん、申し訳ないけれど、抱えているものを第二教室へ置いてくださいな。それと庭先にある畑にいくつか収穫できるお野菜があるの。そちらも取ってきてくださる?」

「ぇ……。あ、はいっ! わかりましゅたっ! あ、あわ……わかりました」

 

 水鏡さんの声はとても優しい声だった。雛里は愕然と水鏡さんへ視線を向けたが、ハッとした様子で頷き、いつものように噛んだ。照れたように言い直した後、こちらへと視線を向けてきたがその瞳は不安で揺れていて、オレは安心させるように微笑む。

 

 ひと月ぐらい前に、女学院で過ごしている時に、母さんの元へ報告に行くときは一人で行くつもりだと言ったことがある。その時の雛里の瞳も不安に揺れていた。

 

 雛里がここで過ごす時間をとても気に入っているという事に、一週間もかからずに理解できた。スポンジが水を吸うように、貪欲に知識を吸収していく。駒を使って盤上で戦略や戦術を練る雛里は、本当に楽しそうで邪魔をしたくなかった。あれは? これは? なんで? と、水鏡さんに質問を投げかけてはああでもないこうでもないと悩み、駒を進めては戻して考察を繰り返す。象棋とか全然雛里には勝てやしないし、意見を聞かれても上手く返せたこともない。そんなオレ相手でも楽しそうに、そして真面目に知識を吸収していくのだ。

 

 だからこそ。だからこそ、オレは一人で母さんの元に顔を出そうと思った。オレを気にせず一人で存分に好きなことに打ち込む時間があってもいいんじゃないかと、そう思った。長い時間じゃない、予定では一週間も満たない時間だ。それならば、悲しませることもないだろうし、寂しさをすごく感じさせることもないはずだ。

 

「大丈夫だって、雛里。前にも言ったけど十日以内には戻ってくるつもりだし」

「り、李姓さん……はい、その、あの……」

 

 予定日数を伝えて、安心させるように微笑むと、雛里はくしゃっと顔をしかめさせ、潤んだ目でこちらを見て名前を呼び、何かを言いかけて口を噤んだ。

 

「雛里?」

「なっ、なんでもありましぇんっ!」

「え? 雛里?」

「あ、あわわっ! 置いてきましゅっ!」

「ちょっ、雛里ー!?」

「あらあら」

 

 脱兎のごとくこの場から立ち去り奥の曲がり角へと吸い込まれていった雛里の背中を見送り、困惑した表情を隠しもせず水鏡さんへと視線を向ける。水鏡さんは困った様子で雛里を見送った後、わずかに苦笑を滲ませながら(わたくし)たちも行きましょうか、とオレに移動を促した。

 一体雛里はどうしたんだ? 内心首を傾げながら先を進む水鏡さんの背を追い足を進める。途中厨房に寄り、お茶を汲んで茶菓子を出してもらい、それをオレが抱えて予定していた別室へと向かった。

 

 

「それで、里帰りだったかしら」

「え? あ、違うこともないのか。えっと、母さん……鳳尚長はもともと峴山に住んでたんですけど、今は魚梁洲にいるそうなんで探して会いに行こうかと。雛里のお母さんってオレの母さんのお姉さんらしくって、その、亡くなったことも併せて報告しようかなって思ってるんです。まあ、母さん何故かいろんなこと知ってるし、もうすでに知ってるかもしれないけど。雛里を家に送れって言われてたこともあったし、これからのことも含めて早いうちに話しておきたいな、と」

「なるほど……よきかなよきかな、よ。報告、連絡、相談は大事なことです。それをきちんとこなそうとしたこと、本当に偉いわ。流石よ、李姓ちゃん。(わたくし)も、普段なら背中を押すことでしょう」

 

 この部屋は他の部屋と少し変わっており、靴を脱いで部屋へと入るつくりになっている。書簡の山と併せて本が至る所に積み上げられ、圧迫感に手狭だと感じるだろう。小さな卓の前に向かい合って座っており、水鏡さんはオレが持ってきた湯呑に品よくお茶を注いでくれる。山頂付近に建物があるためか、はたまた窓を全開に開けて風通しを良くしているためか、うだるような暑さまではなっていない室内でも湯気がほのかに立ち上っていた。

 自分の前に置かれた湯呑に頭を寄せて、熱くて持ち辛い湯呑を指先で押さえつつ傾ける。

 

「李姓さん」

「っ!! すいません!」

 

 名を呼ばれ、慌てて頭を上げる。舌先が少しヒリヒリするが、我慢の子だ。姿勢を正してから口の中に溜まった唾液を飲み込む。ちらりと水鏡さんを見るとにっこりと微笑んでおり、思わず視線をそらしてしまった。

 

「熱いからお気をつけなさいな。それはともかく先ほどの続きですけど、本来なら無条件で背中を押すところですが、今回はいろいろと問題があるわ」

「問題……ですか?」

「そう、問題があるの。……そうね、どこから話ましょうか」

 

 水鏡さんはそう言って湯呑を器用に持ちお茶を上品に啜る。よくわからない緊張感がオレを包み、正座していた足先を組み替え居住まいを正した。

 

「一番大きな問題から話をしましょうか。……鳳尚長は亡くなった可能性が高い」

 

 室内に、水鏡さんの声が響く。今まで聞こえていた蝉の鳴く声が、世界から消えてなくなった。じんわりと全身に汗をかいていたが、血の気が引いたのか今はとても寒い。汗で濡れた服が肌にくっつき、それがとても冷たく感じた。母さんが亡くなった? そんな、まさか。

 

「……、え?」

「二か月ほど前、この辺りでは大規模な盗賊退治が行われたのはご存知かしら」

「は、はい。それで、雛里のお母さんが……」

「そう。沢山の豪族名士が駆り出され、そして残念ながら帰ってきた人は少なかった」

「で、でも母さんは盗賊退治に出かけたわけじゃ」

 

 涼しそうな顔で言葉を紡ぐ水鏡さんが、なぜか遠く感じる。事実を淡々と語る姿は心の奥でよくわからない濁った感情を増幅させた。いや、待て。可能性が高いだけだ。

 

「そうね。……李姓さん、貴方にとって鳳尚長といえばどんな人かしら」

 

 せり上がってくる不安や恐怖心を抑えつけ、滲むように広がる不審を否定しながら返事すると、静かに肯定した水鏡さんが不意に投げてきた質問に瞬きを繰り返す。母さんといえば? 

 

「え? え、えっと……子供っぽくて、すぐ拗ねたりオレを困らせたり、からかったり。勉強も理由を聞いてもどっか曖昧で、でもわかるまで付き合ってくれる。ごっ、護身術もお前は弱っちいからって言っていつもボッコボコにされるけど、最後には頑張ったなって褒めてくれる……賢くて、強い。度量のある、母さん……です」

「尊敬しているのね」

 

 部屋に優しく響く声が満ちた。水鏡さんは目を細め優し気を湛えた眼差しをオレに向けている。オレは眉をぎゅっと寄せどうにか口端を持ち上げると、はい、と頷きを返した。

 

「先ほども言った通り、亡くなった可能性が高いわ。でも、亡くなったと断定はできない。……彼女は実はここいらでは少し有名なの。知っていたかしら?」

「えっ、いや! 全然知りませんでした」

 

 母さんが有名? そういえば襄陽から人が何人も会いに来ていた。素気無く帰してたからあまり気にも留めたことないけど。それになんかそいつら偉そうで、怒鳴ったり文句を言ってきたりされたこともある。

 

「ふふっ、あの人らしいわ。とにかく、彼女は少しばかり有名なためか、巻き込まれてしまったみたいなの。(わたくし)が現在掴んでいる情報は、深く傷を負い沔水に流された、というところまで」

「っ! それじゃ」

「可能性が高いという理由はね、この情報が二か月前に掴んだ情報だからよ。それ以降の情報を掴めていないから、事実なら生存は怪しくなる」

「それは」

(わたくし)の情報収集力についてかしら?」

 

 目を細め、うっそりと笑った水鏡さんに、無意識に腰が引けた。蛇に睨まれた蛙はこういう気分を味わっているんじゃないだろうか。どうにか辛うじて首を振ると、水鏡さんは困ったような苦笑を見せ、ごめんなさいねと謝った。

 

「これでも必死で情報を集めてるのよ」

「水鏡師傅……」

(わたくし)も、あの人を尊敬しているわ。……とても、すごい人。姉のように慕ってもいるし、いつかあの人のようになりたいとも、思ってる」

 

 水鏡さんは目を閉じて、まるで母さんを思い出すかのように言葉を紡ぐ。ゆっくりとした言葉はどこか震えが混じっており、悲しみの色を湛えていた。

 

「李姓さん、だからね。貴方は覚悟もしなければならないわ。希望は捨てなくてもいい。でも、最悪も考えなさい。貴方が、あの人の娘ならば。(わたくし)は貴方に奇麗ごと以外も伝えます」

 

 閉じていた瞼を持ち上げまっすぐにこちらを見つめる眼差しは、凛とした表情でいて優しさを湛えている。まるで迷ったときに背を押してくれる母さんのように。

 

「水鏡師傅」

「何かしら」

「母さんに、大事な人が居ることは知ってますか?」

「ええ、知っているわ」

「その人は。……その人も、亡くなったんですか?」

「そうね、その可能性が高いわ」

「……、わかりました」

 

 母さんも、母さんの大事な人も。戦に巻き込まれ亡くなった可能性が高い。オレは、どうするべきなのか。オレは、これから……。

 

「も、……」

「?」

「もしかしたら」

「ええ」

「家に、戻ってるかもしれない、から」

「李姓さん」

「わ、わかってます! 事実を。事実を飲み込むためにも。オレは、一度。……一人で、峴山の家に戻りたい、です」

「居ない可能性が高いわよ」

「わかってます!! でも、オレは……帰りたい」

 

 水鏡さんの諭すような言葉に、荒々しく声で切り返す。八つ当たりだとわかっているけど、理性を振り切り声を荒げてしまい、取り繕うように、希望を紡いだ。出てきた声はとても弱弱しく、情けなかった。

 

「わかりました。……今日はゆっくりと休んだ方がいいわ」

「だいじょうぶ、です。オレ、明日には、行こうと……思います」

「一人で行くのかしら」

「はい。一人で、行きます」

「……ちゃんと、戻ってくるのよ」

「……はい。雛里を、残しておけませんから」

 

 お茶、ご馳走様です。とも付け加え、どうにかこうにか机の上に両手をついて立ち上がる。ふらふらと廊下へと続く扉へと向かい、脱いだ靴を履いた。すると水鏡さんから名前を呼ばれ、壁に手をついて振り返る。

 

(わたくし)も、貴方が帰ってくるのを待っています」

 

 いってらっしゃい。そうこちらを真っすぐに見つめる水鏡さんに、オレは唇を噛みしめると深く頭を下げた。

 

 

 部屋に戻ったオレは、布団に頭を突っ込んで声を殺して泣いた。母さんとの思い出が一つ一つ思い浮かび、そのたびに涙が溢れて止まらなかった。

 

 何時間泣き続けたのだろうか、よく覚えていない。鼻が重く息がし辛くて這うように室内を横切り、ちり紙を見つけて思い切り鼻をかんだ。どんだけ出るんだというほど何度も鼻をかみ、涙を手の甲で拭ってまた鼻をかむ。瞼が重いしまだ息もし辛いが、明日の準備をしなければならない。

 

 窓の外を見ると真っ暗になっており、大分類時間がたったことがわかる。しまった、雛里はもしかして部屋を覗きに来たのだろうか。……雛里には伝えるべきなのか。ん? 雛里は知らないのか?

 重い身体を持ち上げて、廊下へと続く扉へと向かう。静かに扉を開けて外の様子を伺うも虫が鳴く音ぐらいしか聞こえない。するりと扉を潜り抜けて彷徨うように廊下を歩けば、少し先の空き部屋から光が漏れていた。

 コンコンコン。扉をノックして少しだけ開ける。ちらりと中を覗けば雛里がこちらへと向かってくる様子が見えた。

 

「……李姓さん」

「ひなり、ごめん」

「あっ、謝らないでくだしゃいっ! あわ、あの、謝らないで、ください」

「でも」

「とっ! とにかくこっちにっ」

 

 扉をがばりと開けた雛里はオレの袖口を引っ張って、部屋の中へと引きずり込む。反動でオレはたたらを踏みながらも室内へと踏み込むと、バタンと扉が閉められた。

 

「……」

「……」

 

 沈黙が部屋を占めた。いや、雛里はあわあわしてそわそわしているから、完全な沈黙ではないだろう。オレは荒んでいた心を少しだけ落ち着け、近くの椅子に座った。その様子を雛里が視線だけで追っかけていたのにも気づいている。オレは雛里に視線を合わせ名を呼んだ。

 少し逡巡し、意を決した表情でこちらへトコトコ歩いてくる雛里を見つめながら鼻を啜る。まだ鼻が全体的に重く、ジーンとしていて息をするのがしんどかった。

 

「ひなり」

「ひゃいっ」

 

 真正面は机があるから、隣に立った雛里に向き直り少し見上げる。名を呼ぶと声が少しひっくり返って、恥ずかしそうに視線をうろうろとさせた雛里にまた心が癒された。

 

「あたま、なでて」

「ふぇ?」

「いいから、はやく」

 

 急かすと雛里はぎこちない様子でそっとオレの頭に手を置いた。サラサラと優しく指先で撫でられる。てっぺんあたりから後頭部にかけて優しく何度も撫でられ、オレは瞼を下ろした。

 室内には虫の鳴く音と髪をなでる音だけが響いている。じわじわと込み上げてくるものがあり、枯れる程泣きつくしたはずの涙が、眦からぽろりと零れた。

 

「李姓さん」

「なに?」

「明日、あわ……もう、今日だね。お家に、一度帰るって……聞いたよ」

「うん」

「わ、私も」

「ひなり」

「っ! あわわ……ダメ、だよね」

「うん、ごめん」

 

 きっぱりと断り謝ると不意に頭へ推力を感じ、顔全体に柔らかく暖かい感触が伝わった。瞼を持ち上げてみると目の前の一帯が白い。どうやら雛里に頭を抱え込まれているようだ。

 

「ひなり」

「絶対に」

「うん?」

「絶対に、すぐに、帰ってきてくだしゃい」

 

 ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。少し息苦しくなるが、雛里の言葉に心が温かく感じる。すぐに返事をしなかったためか、雛里は少し慌てた様子で言いなおした。

 

「あわ、帰ってきて」

「うん」

「すぐに、だよ」

「……すこしだけ、まちたい」

 

 見るだけじゃきっと我慢が出来ない。母さんが戻ってくるのを待ちたくなるだろうっていうのは今からでもわかる。雛里に嘘をつきたくはないから、素直に希望を口にする。

 

「じゃあ、五日以内」

「もうちょっと」

「三日にするね」

「ごめんなさい」

 

 もう少しの我儘を、と思ったら逆に期間を短くされて素直に謝った。頭の上でくすくすと笑う声が聞こえ、ぎゅっともう一度強く抱きしめられた後解放される。見上げると少し困ったような表情で笑みを湛えて小首を傾げる雛里に、もう一度ごめんと謝った。最初に考えていた理由と違うけれど、オレは一人であの小屋に向かいたい。

 雛里はにこっと笑ってオレの頭を撫でると、名残惜しそうにその手をオレの頭から離した。離れた手を視線で追いながら、先ほど零れた涙の残滓を中指で拭う。そんなオレを気遣わしげに見ていた雛里だが、ハッとした表情をしてからもじもじとこちらの様子を伺い始めた。

 

「あわわ……李姓さん、ご飯……食べる?」

「たべる」

 

 少し俯きがちに上目遣いで尋ねられ、間髪入れずに返事をする。花も綻ぶような笑みを見せてわかったと言う雛里に、オレもつられるように笑みが浮かんだ。

 どことなくソワソワしている雛里の後へと続きながら、厨房へと向かう。扉を開け中に入ると椅子に座っててと促されたため、おとなしく席に着いた。雛里の鼻歌が微かに聞こえ、先ほどと打って変わってご機嫌な様子に首を傾げる。何か美味しいものでもあるのだろうか。

 雛里の可愛らしい鼻歌と虫のコーラスをBGMに、家のことを考える。明るい歌声は暗くなりがちな思考を上向きに修正してくれるのか、ちゃんと五日で帰って来ようと思うことができた。

 

 ご飯は襄陽で買っていけばいいか。まだ路銀は少し残っていたはずだ。襄陽での聞き込みをするつもりはあまりないから、移動距離は往復で三日を見てればいいだろう。二日は待てる。もし、二日の間に母さんが戻ってこなくても、置手紙を置いてたまに見に行くこともできるだろう。なんなら母さんを探しに旅に出てもいい。本当は、今にでも探しに行きたいが、そうなると雛里もついてくるって言うだろう。

 それはダメだ。あんなにも学ぶことが楽気な雛里を、連れ出すことはしたくない。今度こそ幸せになってほしいのだ。あんなことはあってはならない。

 ここを拠点にたまに山を下りて探す、ぐらいなら雛里を置いていっても大丈夫なような気がする。それにもうすぐ他に女生徒がくるだろうから、その子と一緒に勉強すればそれほど寂しくも思わないだろう。できればオレみたいなタイプじゃなく、雛里みたいなタイプの子がくればいい。ライバル的なそんな感じで切磋琢磨できる、そんな子。

 

 香ばしい匂いが漂ってきた。食欲を刺激される、いい匂いだ。正直なことを言えばそれほど腹が減っているわけではない。でも、やることが見えてきた今なら、素直に食事を楽しめるだろう。瞼はまだ腫れているが、鼻の重さは大分薄れてきた。にこやかな笑顔でお盆を持ち、こちらへと向かってくる雛里に口端を少し持ち上げる。

 

「李姓さん、お待たせしましたっ」

「ありがとう、雛里」

 

 少し焦げた腩炙に、不揃いの野菜と卵が浮かぶ蛋花湯、乱雑に切られた葱と山椒が目に付く鱠。並べられた料理がいつもと違う出来栄えに雛里の目を見つめると、雛里は照れた様子で俯いた。

 

「あわわ……、一人で作ってみました。……どう、かな?」

「雛里が?」

「うん……。一度も、通して一人で作ったことないから、その、美味しくないかもしゅれないけど……、しれないけど。えっと、食べてくだしゃいっ」

 

 雛里はお盆で顔を隠すようにしながらそう言うと、お盆の端から目だけを出してこちらの様子を伺っている。オレは箸を手に取ると手を合わせていただきますと言って、まずは蛋花湯へと手を伸ばした。

 毛湯の味がしっかり出ており、卵と野菜の味の親和性も高い。若干の臭みがあるが、初めてにしては上出来だ。膾はどうだろうか。魚醤をかけて一口いただくと、山椒が前へ前へと主張しているが全然美味しい。ご飯を間に挟み、腩炙へと手をかける。かぶりつくと肉汁が口の中へと広がった。あぶり焼き豚とか、ホント旨い。豆板醤がいい仕事していてご飯がすすむ。残念なところを上げるなら、焦げ目がつきすぎて、黒くなってるところが苦い。それ以外は本当に旨い。

 無言でバクバクと食べ進め、すべての皿を空っぽにすると両手を合わせてご馳走様をする。雛里はおろおろを通り越し、ハラハラしてオレの様子を固唾をのんで見守っていた。視線を雛里へと向けるとビクッと大きく肩を揺らしたが、オレは気にすることなく満面の笑顔でうまかったと伝える。

 

「美味しかった。雛里、ありがとう」

「っ!! よ、よかったでしゅっ! です!! 本当に、よかったよぉ……。あわ、ほ、本当に美味しかった……?」

「うん、本当に旨かった」

「! ……えへへっ」

 

 安心したような、嬉しそうな笑顔を見せる雛里に心がポカポカする。やっぱこうやって人に作ってもらえるご飯は、本当に嬉しいし、美味しい。

 

「あの、私っ」

「うん?」

 

 ほっこりしていると、雛里は真剣な様子でこちらを見て言葉を紡ぐ。なんだなんだと思いながら雛里へと視線を向けると、顔を朱に染めた雛里がお盆の影から続きを口にした。

 

「お、美味しい料理を作って、待ってましゅっ……待ってる、から!」

「……」

「だから、えっと……。はやく、帰ってきて、ね?」

 

 もじもじとした様子が大変に可愛らしく、言葉で返せず無言で何度も頷いた。



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