飼殺の檻・九と一つの呪いの話 (アークフィア)
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一章
一日目・昼


「ああ、アレはもういらないモノでしょうね」


 吼え猛る彼らを見て、彼女はつまらなさげに眉を(ひそ)めた。


 ───ステンドグラスから淡い光が差し込んでいた。

 

 その光は、もはや元の形がどんなものだったのか一目で判別できないほどに風化してしまった、十字架だったハズのモノをおぼろげに照らしている。

 その十字架の影に隠れるように、片膝を付いて熱心に祈りを捧げる一人の少年の姿があった。

 

 年の頃は十代後半くらいといったところ。

 ところどころが跳ねている焦げたような茶色の髪は、それが癖毛なのか寝癖なのか一見しただけでは判別できない。代わりに、健康的に焼けた肌やほどよくついた筋肉は、少年が畑仕事を日々の食の(かて)にしているのだろうということを容易に想像させた。

 

 微動だにせず、ただただ静かに祈りを捧げ続ける少年。

 ───彼がみじろぎをしたのはそれから五分ほど経ち、教会入口の扉が開く鈍い音が耳に届いてからのことであった。

 

 

「随分と熱心だねぇ?

祈る神様も祈る仏様も、みーんな居なくなっちゃったってのにさ」

 

 

 少年が立ち上がりつつ視線を背後に向ければ、扉を開き教会の中に入ってきていたのは修道服を着た一人の女性だった。

 その服装──修道服に注目すれば、彼女がここのシスターなのだろうという推察がつく。……右手にかじりかけのパンを持ったまま(時おり口元に運んでかじりつきながら)こちらに歩いてくることや、ベールを頭に被らず、代わりに彼女の長い髪を結うのにその布が使われていることなど、大小さまざまな問題点から目を背けるのであれば、と言う注釈がつくが。

 

 

「……少なくとも、真っ当なシスターが口にだすセリフじゃないな、それは」

 

 

 呆れ混じりの小さな苦笑を少年が返せば、当の本人から返ってくるのは「いーのよ、なんてったって私はエセだから」という愉しげな声。

 

 ───サラ。

 それがこの、綺麗な黒い髪と黒い瞳・そしてそれらと真反対の白い肌と、少し野暮ったさを感じさせる黒縁のメガネが目を()く、いつも(たの)しげに笑っている女性の名前だ。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 外見から年齢の判別はつかないが、頻繁に少年へ姉貴面をして見せているあたり、少なくとも20を迎えてはいるだろう。……まぁ身長差だけ考えれば、多くの人が少年の方を『兄』だと答えるだろうが。

 

 その話題から分かる通り、彼女の身長はさほど高くはない。

 目測でギリギリ150を越えているか否か。彼女の身長はそのくらいのものだろう、というのが少年の見立てだ。

 対する少年が170をゆうに越えているだろうことから、身長による年上・年下の勘違いは町の人々からのお決まりの出来事と化している。

 

 ……もっとも。

彼女と少年、二人の普段の落ち着きようやら性格やらを比較した結果として、少年のほうを『兄』と見ているものがいないとはとても断言できないわけだが。

 

 話を彼女の容姿に戻すとして。

 その顔は綺麗、というよりは可愛らしいほう。愉しげにころころと変わる表情や後頭部で犬の尻尾のように揺れるポニーテールとあわせて、彼女の年齢を更に幼く見せているところがあるのは否定できない。……そのわりに体型そのものは普通に大人の女性、といった感じなので少年は時々モヤモヤとした気分を味わうことになるのだが。

 

 なお、そうしてモヤモヤしたときは決まって彼女の残念な性格が露呈して全部霧散することになるので、恐らくこれでいいのだろうな、とも思っている少年なのだった。

 

 さておき、神父一人しか聖職者が居なかったこの町にふらりと現れた彼女は、かれこれ三ヶ月ほど、この寂れた教会でシスターとして働いている。……こうして、神父が不在の時に掃除に来る程度には、だが。

 逆に言えばそのくらいのことがまともに見えるほどに彼女が不真面目・不信心であるのだという証拠でもある。

 

 実際、彼女がこの教会で行うことといえば、周囲の清掃かはたまた町民へ向けた炊き出しか、くらいのものだ。聖職者らしい仕事───例えば礼拝を執り行っているところなどは、この三ヶ月間一度も見たことがない、と少年は言い切ってしまえる。

 それくらい、聖職者としては落伍者もいいところなのがサラという女性だ。

 

 そんなエセシスター(本人はこの呼称を大変気に入っているらしい。言い出したのは少年)は、右手のひとかけらほど残ったパンをヒョイと自身の口に放り入れると、空いたその手で左手に持ったかごから新しいパンを取り、少年に向かって差し出してくる。

 

 

「ま、もうそろそろお昼だし、食前のお祈りも充分したでしょ?

……というわけでほい。

お姉さんからのおごり、味わって食べるがよいぞー」

「……おごりもなにも、おばさんが作ってくれた弁当だろ?これ」

 

 

 少年が呆れたようにため息を返せば、サラは「バレたか」と呟き小さく舌を出して、ごまかすように笑うのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「そういえば、神父様はいつごろ帰ってくる予定なんだ?」

「んー……、さあ?近くの村を回ってくるって言ってたから、早くても明日の昼くらいじゃないかな?」

 

 

 かごの中に一緒に入っていた水筒からお茶を注いで貰い、一息つく。

 

 教会外の階段に座って少し早めの昼食をゆっくりと摂っていた少年。

 色とりどりの季節の野菜と、朝に取れた新鮮な卵をボイルして輪切りにしたものを挟んだサンドイッチや、先ほどサラが食べていた少し固めの長いパンを、コーンがたっぷり入ったスープに浸して柔らかくしながらちびちびと消費し。

 傍らのサラと他愛ない会話を楽しみつつ、天気のいい教会周りの森林の景色を楽しみつつ。ぽかぽかとした陽気の中で、眠気を誘う午後の日光浴を楽しんでいた少年だったわけだが。

 

 ふと、本来この教会に居るはずの───、今はちょっとした用事で外に出掛けている神父のことを思い出し。近くの木陰に座って足を伸ばし、リラックスした様子で陽射しを浴びていたサラに尋ねてみることにしたのだった。

 

 ところがそうして聞かれた側のサラはと言えば、しばし思い出すような素振りを見せたものの、さして興味も無いのか小さく首を振って話を打ち切ってしまう。

 言い終わったあと、足先を小さく前後させ視線を宙に惑わせるその姿からは、どこかつまらなさげな空気も感じさせた。

 

 ……まぁ、エセシスターを自称するサラとは違い、この教会唯一の神父たる男は自他ともに認める敬虔(けいけん)な信徒であり、かつ彼女の自由奔放かつ大胆不敵な行動に、あれこれと注意を促せるような生粋の紳士でもある。

 ──わりと苦手意識があるのかもしれないな、と少年は小さく頷いて階段から立ち上がった。

 

 

「……おっと、もうそんな時間か。それじゃ、また夜にね」

 

 

 それと同時、少年の行動を見て思い出したように立ち上がったサラは、修道服に付いた細かな草や埃を軽く払い落とすと傍らに置いてあったかごを手に取り、適当な挨拶を置いて走り去ってしまう。

 まるで過ぎ去っていく台風のような慌ただしさに、思わず呆気に取られたような表情を(さら)していた少年だったが。

 しばし(ほう)けたあと小さく頭を掻いて「まぁいつものこと、か」と呟き、教会の敷地から出てサラが向かった方向とは逆、自身の管理する畑の方へと歩き始めるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 二人が居た町外れの教会より徒歩五分ほど。

 その小ささからすれば十二分過ぎるほどの活気を漂わせる町市場の中で、愉しげな笑顔と共に目的地へと歩を進めるサラの姿があった。

 

 

「こんにちわおじさま。今日の商いはどんな感じ?」

「んぁ?……おお、サラちゃんか。まぁぼちぼちと言ったところかねぇ?それとー……、おお!そうそう、今日はサニーさんとこのアスパラがおすすめだ」

 

 

 立ち寄ったのは軒先に幾つかの野菜を並べた、冴えない印象の男性が立つ店。

 彼はサラの声に呼び込みを切り上げて振り返り、小さく笑みを浮かべ返した。そして、サラの言葉を聞き顎に手をやり思考すること暫し。惑わせていた視線を一点に絞り指差すのは、ザルの上に並べられた数本のアスパラガスだ。サラはその言葉を聞いて、男の指の先にあるザルに近付き、おすすめだというアスパラガスを一本手に取り確かめ始める。

 

 

「ふーむ……。穂先よし、太さよし、切り口よし。……うん、確かにこれはおすすめするだけはあると見た!という訳でおじさま、一束いただける?」

「はいよー。支払いはどうする?一応貨幣での支払いも取り扱ってるけども」

 

 

 一通りアスパラガスの状態を確め、納得したように一つ頷くと、男に大して人差し指を一つ立て、小首を傾げつつ注文を行うサラ。対する男は彼女の横を抜け、手早くアスパラガスを五・六本まとめ紐で緩く縛って束にしつつ、サラの方に視線を戻して支払いについて聞き返す。

 すると、サラは「ふっふっふっ」と意味深な笑みを彼に向けた。笑みを向けられた側の男はなんとも微妙そうな顔で彼女に視線を返していたが、

 

 

「今回は物々交換!というわけでほい、これなんかどう?」

「……お?お、おー?!こいつはノウサギか、また珍しいもん持ってきたもんだなぁオイ」

 

 

 左手のかごから出てきた物に思わず目を丸くしていた。

 そう、かごから出てきたのはいわゆるノウサギだったのである。……なお、血抜きと内臓の摘出、及び内部と外部の洗浄はすでに済んでおり、あとは皮と肉に分離するだけで使える状態になっていた。無論、そのまま中に入れておくとかごに獣臭さが移るので別の袋にわけて入れてはいるが。

 

 

「つーかお前さん、曲がりなりにも聖職者だろうに殺生は構わねぇのかい?」

「いーいんですいいんですなんてったって私はエセですから。……そもそもこのご時世、その辺りの殺生やら不養生やらなにやらを口うるさく咎めるのなんて四角四面で生真面目な正直ものさんっ、……な、うちの神父様くらいのものですよ?」

 

 

 怪訝そうな視線を向ける男に対し、サラは流し目を伴ったチョイ悪っぽい笑みを返す。その態度と言葉に男はといえば「まぁ、確かに」と小さく頷くのだった。

 

 このご時世、動物の殺傷をことさらに気にする『愛護団体』のようなモノは、もれなく彼ら自体が『愛護』されるような希少種である。地方に住む普通の民間人としては、メシの食いっぱぐれがなければ特段気にする必要もない話、というのがここ一帯での共通認識であった。

 

 

「それにほら、お肉食べたいっ!……って時、結構あるじゃない?豚だとか牛だとかは今じゃ手に入り辛いし、かといって鶏は毎朝の卵のためにも中々捌き辛い。そもそもの話、健康を気にするのなら野菜ばかりお肉ばかりというのも宜しくないのだから、結局どこかでお肉を融通しなきゃいけないわけで。なら、こうして幸運にも手に入れる機会を得られたのなら。与えられた自然の恵みに感謝して丁重に頂く、というのはなんら悪くない、寧ろ自然なことだと私は思うのです。

そ、れ、か、ら。──晩酌のつまみとか、欲しいでしょ?」

 

 

 身振り手振りを交えながら力説するサラ。

 男の側としてもタンパク質が欲しい・具体的には肉食べたい、なんてことは常々思っているので、彼女の言葉には素直に頷かされるところがあった。──もっとも、最後に付け加えられた言葉には別の意味で目を輝かせていたが。

 

 

「おまっ、そんなん欲しいに決まってんじゃねーかっ!」

「そうでしょうそうでしょう。日々の労働へのごほうびは大切ですもの、わかるわかる」

 

 

 仕事後の贅沢としてちびちびと酒を飲む、というのは男の密かな、そして唯一の楽しみだった。それを彼女が知っていたのかは不明だが──、どちらにせよ、酒のつまみにジャーキーとか何かしらの肴が欲しい、と思うのはいつの時代の酒飲みにも変わらない願望らしい。

 

 なお、ウサギ肉は暫くの間(三日間ほど)冷やしておかないとガスが出て肉に臭いがついてしまうという特徴があるため、実際にジャーキーとして加工できるようになるのはもう少し経ってからだったりするが、その辺りは些細(ささい)な話。

 

 

「あー、でもそうするとどうするかねぇ……」

「あれ?もしかしてこれじゃあ足りなかったりする?」

 

 

 と、突然男が困ったように顎を掻き、その様子にサラは小さく首を傾げた。無論、サラの言葉のようにお代が足りないわけではない、その逆である。

 

 

「寧ろ足りすぎな部類だよ、なんてったって毛皮付きだからなぁ」

「………あっ」

 

 

 例えノウサギ──何かしらの野性動物でなくとも、生き物の『肉』と『皮』というのは、共にあれこれと使いようのあるもの。こうして店にサラが持ち込んだノウサギは既に下処理の済んだものであるが、同時にあくまでも終わっているのは『下処理』のみ。

 ……毛皮がまるまる残った一羽分のノウサギ、言い換えると『ノウサギの毛皮』と『ノウサギの肉』の二品を持ち込んだことになるため、さすがにアスパラガス一束では(それがある程度値の張るものでもない限り)、双方のつりあいが取れているとは言えないだろう、というのが店の主人たる男の主張であった。

 

 

「いやー、でもほら、でもほら?ノウサギはあくまで取ろうと思わなきゃ取れないわけで、野菜とかしっかり農家の方が育てている以上掛かる労力が違うといいますか?そもそも自然の恵みとして大地からわけて貰っているこのお肉と、人が自身で育てて作る野菜とかの価値っていうのは、それを適切に測らないと価値に目が眩んだ人々の自然環境への大規模な搾取が起きかねないから、自然側を不必要に高く見積り過ぎるのはシスター的にはNGといいますか」

 

 

 唐突にあれこれと言葉を捲し立てる(そして都合よくシスターぶる)サラと、その姿を見て訝しむ様子を隠そうともしない男。やがて彼は、彼女が何をそんなに慌てているのかの根本的な理由に気が付き、ぽんと小さく手を打った。その表情は悪戯を思い付いた悪ガキのような笑みで。

 

 

「お前さん、まーた婆さんに黙ってやらかしたんだな、それ?」

「なななななんのことでしょううふふふふ」

 

 

 男はにやにやと笑いながら指摘する。

 対するサラ、図星の顔であった。視線が泳ぎまくっているのでバレバレである。そしてそういう時のサラは、いつもとは逆にいじられ役となるのがお決まりで。

 

 

「そんじゃあ遠慮なく物々交換させて貰おうかねぇ?えっと玉ねぎニンジンジャガイモにんにくそれからそれから……」

「あああやめてやめて適正価格にするのやーめーてー!!ばーれーるー!!」

 

 

 泣いて懇願する彼女の前で悪鬼羅刹(愉快犯)と化した男は、あれこれと野菜を見繕ってサラのかごに次々突っ込んでいくのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「ああもうひどい目にあった……」

 

 

 とぼとぼと町を歩くサラ。そのどんよりとした様子に周囲の町民が何事かと首を傾げるが、相手がサラであることを確認すると「なんだいつものことか」と各々の作業に戻っていく。

 その周囲の対応に「血も涙もないとはこのことか!」とサラがハンカチを噛んで悔しがっていると、

 

 

「サラおねーちゃん、シーナのおうちのまえでなにしてるのー?」

「……んむ?おっとこんにちわシーナちゃん、今日は一人でおるすばん?」

 

 

 突然服が引っ張られる感覚に襲われた。

 その感覚に任せて視線を下に向ければ、金髪碧眼の小さな女の子がサラの修道服のスカート部分を引っ張り、こちらを不思議そうに見上げているのが目に写る。

 思わず笑みを溢しながらその手をやんわりと外し、彼女の目線と同じ高さになるようにしゃかんで優しく頭を撫でてあげれば、少女はくすぐったそうにはにかみながら元気な声を上げた。

 

 

「おとーさんはおしごとー、おかーさんはみずくみー」

「ふむふむそりゃそっか。健康的な一般家庭ですもの、このくらいの時間ならみんな忙しいよねぇ。……ん、教えてくれてありがと。それと一人でおるすばんえらいぞーシーナちゃんっ。──ところで、お兄ちゃんどこいったの?」

 

 

 サラは少女の言葉に納得したように一つ頷くと、ちょっとだけ乱暴に──子犬を撫でるようにわしゃわしゃと彼女の頭を撫でてやる。相手側の少女は特に嫌そうでもなく、「きゃーっ♪」と楽しげな声をあげていた。

 

 しばしそうして戯れたあと、その手をピタッと止めて問いかけてみれば。少女は小首を傾げ、不思議そうに彼女を見上げながら答えを返す。

 

 

「おにいちゃんはー、おそとー」

「……遊びに行ったのね、りょーかいりょーかい」

 

 

 妹を放っておいて遊びに出た(仕事を放棄した)ことを確認して「あとでお説教ねー」と心のメモに書き取りつつ、それはそれとして止まっていた手をまた彼女を撫でることに費やし始めるサラ。

 

 そうして少女の面倒を見る中で彼女がお昼をまだ摂っていないことを聞きつけ、サラは張り切ってシチューを用意してあげることにしたのだった。

 ……間違っても証拠隠滅のためではない。ないったらない。

 

 

「ですので残りは夜の副菜にでもしてもらえればー、と具申するわけなのですがどうでしょうおばさま?」

「あなたはいつも通りねぇ……、いえねぇ?うちの子の面倒を見て貰った手前、文句とか不満とか一切無いですけどねぇ?」

 

 

 じとっとした目を向ける少女の母親(まさに肝っ玉母ちゃんといった様相)に少しひきつった笑みを返すサラ。

 

 相手側の母親の視点からしてみれば、かわいい子供達に昼ご飯を作ろうと急いで帰ってきたら既にサラに準備されていたため、溢れる気合いが少し空回りした感こそあるものの、材料もろもろ彼女負担(薪もサラが用意したらしい)なので特に文句はない。

 さらに色々ほっぽりだして遊びに出てしまったバカ息子に変わって愛娘の世話まで焼いてくれているのだから、文句どころか感謝のひとことふたこと述べても良いくらいだと思っている。思ってはいるのだが……、

 

 

「まぁ、あまりお婆さんに気苦労を掛けるものじゃありませんよ?あの人、あなたのために結構気を砕いてるんですから」

「ゆめゆめ承知しております……」

 

 

 それが如何なる過程によって起きたものか──言い換えてしまえば、彼女が自分のやらかしをごまかすために施したものであることにもおおよそ察しがついてしまっため、一応釘を打っておくことにした肝っ玉母ちゃんなのであった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……おかしい、減らしたはずなのに増えてる」

 

 

 シチューのお礼とばかりにかごに詰めこまれた小麦の束を複雑そうな表情で見るサラ。実際こんな感じで毎日何かをやらかしては回りに施し施されているのだからなんとも言えない。

 まぁ、それが高じて町の人とも仲良くなれているのだから、甘んじて受け入れるべきかなぁ、とも思うサラなのであった。

 

 しばし難しい顔でうんうんと唸っていたサラだったが、やがて挽回は不可能だと開き直り、再び目的地に向かって移動を再開。

 

 ───そうして辿り付いたのは、町の中心部から少し外れた場所にある小さなパン屋の前。お昼時を越してまだ数刻も経過していないがために、焼けたパンの良い匂いがまだ残っている店先へと近付き、「ただいまー」という言葉を投げ入れながらカウンターをヒョイと飛び越す。

 小気味良い着地音と綺麗な着地ポーズを決めながらサラが視線を前に戻せば、中に置かれたロッキングチェアには呆れたように彼女を見返す一人の老婆が座っていた。

 

 

「……本当に、なんっ!……っかい言っても、アンタのお転婆は治りゃしないねぇ?!スカート翻すんじゃぁない、生足を晒すんじゃぁない!年ごろの娘がはしたないったらありゃぁしないよっ!」

「あーもう、いいのいいの。だって私エセシスターだもの」

 

 

 手をひらひらとさせて「お小言反対ー!」と言わんばかりの態度なサラに対し、「いいわけあるかいねっ」と血相を変えて捲し立てるのはこのパン屋の店主、キキばあさんである。

 

 二人の出会いもまた三ヶ月ほど前になるわけだが、そのやりとりはまるで昔から一緒に生活してきたかのように気心知れたもの。……口うるさくも心根の優しい母と、お転婆で元気盛りの歳の離れた娘───というのが、町の人から見た二人の間柄だ。

 無論、正式な親子関係にあるわけでもないし、そもそもに二人の出会いもまだ三ヶ月程度の浅いものでしかない。それでも、そういう錯覚を起こしてしまう程度には、二人の仲は「良い」と呼べるのであった。

 

……ちなみにキキばぁさん曰く、サラのことは「嫁に行った娘を思い出してしまうので放って置けない」からあれこれと世話を焼くのだ、とのこと。

 それを聞いた町の人々が皆一様に、「いや流石にサラと比べるのは可哀想だよ」と、この町から遠く離れた場所に住まうという娘さんに同情したとかしないとか。

 

 さて、そんな喧嘩するほど仲の良い母娘の片割れであるサラはというと、あれこれと不満を噴出するキキばあさんを華麗にスルーし、左手のかごをさりげなくカウンターの傍に戻し、二階への階段に足を掛けていた。……端的にいうと敵前逃亡である。

 

 と、途中で何かを思い出したのか二階に消えかけていた体を少し戻し、ひょいと階下に顔を覗かせた。その気ままな動きにキキばあさんは思わず唖然とし、

 

 

「キキばぁ、夜にまた出るから夕食宜しくねー」

「……アンタは、……いや、もういいよ。

いつものでいいんだろう?わかったから早く上にお行き」

 

 

 続く言葉に半ば疲れたようにため息を吐いた。

 額に置かれた左手からはそこはかとなく哀愁が漂っていたが、対するサラは気にもとめず(もとい、敢えてスルーしつつ)、「ありがとー」と返して今度こそ二階に消えて行った。

 

 なお、その後かごの中身についてキキばあさんに問い詰められたのは言うまでもない。

 

 ……逃げられてないじゃないか、とか突っ込んではいけない。

 

 



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一日目・夜

 ────夜。

 

 町は暗く静まり返り、灯る明かりはまばらなもので。雑木林を抜ける細い道には、空から降ってくる星明かり以外の光はなく、それゆえに道の先はほぼ見通せず、足元は覚束ない。周囲は生い茂る木々によって、町に灯る僅かな灯りも阻まれてしまっているがゆえにことさら薄暗く……。

 

 そんな夜道をただ一人、少年は町外れの教会へと向かい、歩を進めているのだった。

 

 左右に広がる深い森の奥の方からは、フクロウのものと思しき鳴き声が響いてくる。

 ふと、その鳴き声をどこまでも追って行きたいという衝動に駆られ───止める。

 あまりに益体がないし、それに今の町の状況……、ひいてはこの辺りで起きているとある事件のことを思えば、それがどうしようもないほどに愚かな行為であると分かってしまうからだ。さすがに後先を考えずに行動できるほど道理を知らない子供、というわけでもない。

 ゆえに少年は小さく首を振ってその誘惑を払いのけ、その代わりにとばかりに、たどり着いた教会の扉に手を掛けたのだった。

 

 扉を開け足を踏み入れた教会の中は、外よりもなお薄暗い。申し訳程度にはめ込まれた薄い窓ガラスを通して差し込む、柔らかな月の光くらいしか教会の中を照らすものがないのだから、仕方がないといえば仕方がない話なのだが。

 

 ……しかし、ただ一つの明かりであるその柔らかな月の光こそが、この古ぼけた教会の中を一種の神秘的な空間へと変貌させていることもまた事実。

 

 教会の中央に座す朽ち果ててしまった十字架も、この淡い輝きの中では不思議と存在感と威圧感を増しているように思える。──まるで神聖な空気の中で厳かに鎮座し、迷える衆生を静かに待ち続けているかのようにも見えてくるのだから、中々の演出力だと舌を巻かざるをえまい。

 

 ───そして、そんな神秘的な舞台……朽ちた十字架の前に立ち。ひとり、月のスポットライトを浴びて佇んでいるのは。

 聖歌のように高らかでありながら、鎮魂歌のように聞く者に哀切を誘う───、そんな、高く澄んだ声を教会内に響かせる一人のシスター。……そう、彼のよく知る女性である、サラであった。

 

 少年の聞き覚えのない、恐らくは彼女の故郷のものと思われる歌を、切なげに高らかに、一心に歌い続けるその姿は。

 彼女が『シスター 』という一種の神聖な職にあることを思い出させるように美しく、かつ不可侵なものにも見えて。

 

 

「……いつもこうならいいんだろうけどな」

 

 

 いつものお転婆で破天荒な彼女と、今現在の……ともすれば吹く風と共にどこかへ行ってしまいそうな儚げな姿とのギャップに、呆れたような、感心したようなため息と共に小さな笑みを溢せば。

 その吐息の音で少年の存在に気付いたのか、十字架の方を向いていたサラは歌うのを止めて振り返り、彼に大きく手を振りながら駆け寄ってくる。

 

 途端に崩れてしまった神秘的な空気に思わず苦笑を漏らし、返礼に軽く手を振り返しつつ、少年は教会の扉を後ろ手に閉めたのであった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「さて、おいしい夕食も終わったことだし、と。それじゃあ今日もはりきって、お月さまをお供に夜の見廻りとしゃれこもうじゃない?」

 

 

 少し遅い夕食も終わりに差し掛かったころ。すっかりカラになってしまった傍らのかごに改めて布を掛け直しながら、サラが席を立つ。

 少年はそれを複雑そうな面持ちで眺めながら、残っていた左手のパンを口の中へと放った。

 

 ───彼女が『見廻り』と称するこの行為も、それを始めた時からはや一月ほど。別段なにかが見つかることも、なにかを解決することも無いままに、日数だけが無意味に過ぎているのが現状だが。その事実が少年に幾ばくかの不満と、それと同じくらいの不安をもたらしているのだった。

 

 そんな、胸中の複雑な思いが漏れだした厳めしい顔をする少年に、思わず小さな苦笑を溢してしまうサラ。

 対する少年はといえば、彼女の笑みに暫し苦い思いを胸の裡にしまい込むように瞑黙した後、どうにか表情を取り繕いつつ椅子から立ち上がるのであった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 ───失踪事件、と呼べばいいのだろうか。

 サラがこの町にやって来てから丁度一ヶ月くらいの時期に、この町の住人である男が一人、忽然と姿を消したのが始まりだ。

 それは、『消えた』と言うのが妥当過ぎるほどに突然で、けれど、『消える』理由が本人に一切無いような人物に振り掛かったモノ。

 

 ……自分から消えるはずがないのであれば、必然、それは『誰か』の仕業だという答えに行き着く。

 ゆえに、町の人々が各々に不気味がるのに合わせて、その事実は根を張り葉を繁らせた『不穏な噂』という明確な形を得ていった。

 

 ───曰く、【人喰い】の化物。それが、消えた男を跡形も無く喰い殺したのだ、と言う噂に。

 

 形を得たとはいえ噂は噂。具体化した根も葉も、所詮は一つの幻でしかない。

 

 ……ないのだが。

 その『噂という幻』が、町の住人達の不安を悪戯に煽っているというのもまた明確な事実。

 ゆえにこうして(エセとはいえ)シスターであるサラが、町民の心の安定を図る為に周辺区域の森の探索を行うこととなるのもまた、ある意味必然の話であった。

 

 なお、本来その辺りを任せられるはずの神父はといえば、同じく不安がった近隣の町村民達の心のケアのため、西に東にとあちこちを走り回る忙しい日々を送るはめになっている。……神職というのはこういう時大変だな、と少年が思ったかどうかは定かではない。

 

 閑話休題。

 結果だけを言えばサラが夜の見廻りをすることになった、というだけの話なのだが。そこに「まった」と異を唱えたのが、ここでサラに同行している少年である。

 

 幾ら(エセ)シスター、聖職者とは言え、女性一人にそんな危ない真似をさせるわけにはいかない──

 

 そんな、町会議の場での少年の訴えに、他の皆がそれもそうだ、と同意を見せた結果。最終的にサラと少年の二人で見廻りを行うことになった──、というのが、今この場に少年が居ることの答えだった。

 

 ……もっとも、当所少年は一人で見廻りをするつもりでいたのだが、町会議の場であれこれと問答を行ったすえ、サラに押し切られる形で二人での見廻りを承諾させられた、という本人にとっては割りと苦い裏話もあったりするのだが、それはそれ。

 

 この話で一番重要なのは、少年が未だにサラが見廻りに同行することに反対している、ということだろう。

 

 

「もうっ、毎回言ってるじゃない。少なくとも私は君の数十倍は強いよ、って。お姉さん的には、寧ろ君の方が心配なんだよ?」

 

 

 不満げな様子を隠しきれていない少年の様子に、腰に手をやり不満げに言うサラ。実際、初日からずっとこの調子なので彼女の反応も無理もない。

 ただ、不満げな割りに少し嬉しそうなのは──、

 

 

「………………」

「あぁっ、もう!先々行くの禁止ーっ!」

 

 

 結局。

 少年は答えず後ろを向き、教会の外へと歩き出してしまう。慌てて傍らのかごをひっ掴みその後を追って教会を出るサラ。

 

 ──彼女が少し嬉しそうなのは、彼がどうして不満げなのか、という理由を理解しているからなのか。

 それは彼女の心に問い掛けねばわからない問題であった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「君の数十倍は強い」というサラの言葉を聞くのはこれで十回目だ、と少年は思い返す。

 

 その言葉が額面通り「彼よりも強い」という意味なのか、はたまたこちらを納得させるためのただの強がりなのかは分からない。が、サラの運動神経が特筆してよいものである、というのは確かな話だった。

 

 例は幾つも挙げられる。

 とある日に子供たちと一緒においかけっこをしたことがあるのだが、彼女が鬼になったことは「初めから鬼であった」時を除いて皆無だった。

 ……すなわち、一度も誰かに捕まったことが無いのである。それも、彼女以外全員が鬼になったような状況も含めて、だ。

 皆で一斉に飛び掛かったのにも関わらず、隙間を縫ってひらりと避けられた時には思わず自身の目を疑ったものだ。

 

 またある時、少年が体力作りのために教会の周りを走り込みしていた時のこと。

 それをたまたま見つけたサラが一緒に走り始めた結果、なんと5週ほど周回遅れにされたあげく、息も絶え絶えの彼に対して彼女は息どころか汗すらもかいてなかった、なんてことがあった。

「だらしないわねぇ」なんて言われてしまった少年の自尊心がどれほど傷付けられたことか!

 

 他にも、サラに用事があった少年が彼女の姿を探して教会の周囲を歩き回っていた時のこと。

 教会の内も外も散々探し回ったのにも関わらず、どこにもその姿が見つからずに困り果てていたところ。どこからともなく聞こえてきた寝息にはっとした少年が上に視線を向けると、なんとサラが教会の近くに生えているそれなりの高さの木の上で呑気に昼寝をしていた、なんてことがあった。

 

 ……近くに脚立は無かったので素手で登ったことが分かり、少年は困惑しきりだったという。

 なお、下から聞こえてくる少年の声に目を覚ましたらしいサラが「うーけーとーめーてー!」などと宣いながら木の上から飛び降りて来たりもしたがそれはそれ、である。突然サラを受け止めることになった少年が肝を冷やしたのもそれはそれ。……役得だった、などとは言わない。

 

 そうして少年が複雑な感情がこもったため息を吐いていると、森の最中にある小川で休憩を提案し、それに少年が承諾を返した結果近くの岩に腰を下ろして靴を脱ぎ、清流に足先を晒し水を跳ねさせて遊んでいたサラが、こちらに不満げな表情を向けてきたのだった。

 

 

「ほらもう、君ってばまーたため息ついてる。

そうやっていっつもため息ついてるけど、そんなんじゃ幸せ逃げちゃうよー?」

 

 

 ビシッ、と少年を指差しながら告げるサラ。

 が、その行動に少年が苦笑を見せれば、返すように破顔してみせた。……その笑顔が眩しくて、対する少年は思わず普通の笑みを返してしまう。

 

 

「そうそう、【笑う角には福来る】ってね」

 

 

 さらに愉しげに笑うサラ。──どうでもいい話だが、サラは今は亡き【ヒノモトノクニ】の【ことわざ】というものをよく使う。少年がそのことを尋ねると決まってはぐらかされるので、詳しく聞いたことはないのだが。

 

 ……案外、サラの故郷なのかも知れないと少年は考えている。サラがこの町に来るよりも以前になにをしていたのか、町の人間は誰一人として知らないのだから。

 

 

「──よっ、と。

休憩終了、そろそろ見廻り再開としよっか」

 

 

 靴を履き直して立ち上がるサラ。

 それに少年が頷き、近くの岩の上に置いていたカンテラを取る。

 

 周囲は相変わらず暗く、遠くの方までは見えそうもない。そうでなくともここは森の中である、迷わないようにすることだけでも一苦労だ。

 ──だけどサラは躊躇わない。まるで道が分かっているかのように足を踏み出し、事実迷わない。それに少年が毎回首を捻るのもいつも通りである。

 

 

 ……結局。この日もまた何も見つからないまま、見廻りを終えた二人はそれぞれの家に戻ることになったのだった。

 

 



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二日目

「あ、おはよー。昨日はよく眠れた?」

「……疲れが残らない程度には」

 

 

 朝。

 教会のまえで掃き掃除をするサラの姿を見かけ、挨拶を返す少年。……彼女は今日もいつも通りにこやかに笑っていて、同じように夜遅くに家に戻ったはずなのになぜこんなに元気なのだろうと少年は内心首を捻る。

 

 

「そういえば、手伝ってくれるって話だったけど。……無理そうなら帰っててもいいよ?」

 

 

 すると疲れていると勘違いしたサラが心配そうにこちらを覗きこんでくる。慌てて「大丈夫」と返せば、暫しこちらを訝しむように視線を向けて来るものの、ここで押し問答をする意味もないと悟ったのか一つため息をついて。

 

 

「じゃ、とりあえず掃き掃除から手伝ってくれる?」

「……了解」

 

 

 こちらに自身が持っているのものとは別の箒を渡してくるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 教会の周りを箒で払う音を聞きながら、少年はこれからの予定を思い出す。

 こうして掃除をしているのは他でもない、今日がサラの数少ない教会で行う仕事の一つがある日だからだ。そのため、普段はあまり気にしない教会の外観を整えているわけである。

 

 

「まぁ、ホントなら毎日掃き掃除とか拭き掃除とかするべきなんだけどねー」

 

 

 と困ったような笑みを浮かべるサラは、手際よくごみをまとめてちり取りに掃き入れていく。……シスター以外のことをしていないのなら、確かに教会の整備は大事な仕事だろう。しかして彼女はエセシスター、普段は町の人々の仕事を手伝うことの方が多い。

 

 だからといって森に出るイノシシを罠にかけたり、伸びた木々の剪定を行ったりするのは何かおかしい気がしないでもないが。……まぁ、そうして町での困りごとを体当たりで片付けてくれるので町の人からのウケがいいのは救いか。

 

 ただ少年としては、エセシスターを自称するがゆえに教会に近寄らない・近寄りたくないのではないか?……と思っていたりする。

 最初にそう呼び出したのはこちらだが、今では完全に自称するほどである。これではまるで、そう呼ばれたいがためにそういう行動を取っていたようにも思えて──、

 

 

「……い、おーい。君、起きてる?それともやっぱり疲れてる?」

 

 

 目の前で自身の意識を確かめるように手を振るサラの姿が映り、少年は思わず小さく飛び上がった。

 対するサラまでつられて飛び上がるものだから、彼女を宥めるのに思わぬ時間が掛かってしまうのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「サラちゃんおはよー」

「はいおはよー。教会の中には入らないようにねー、穴空いてるところとかあって危ないからねー」

 

 

 はぁい、と元気に挨拶を返してくる子供達を誘導し、所定の場所に連れていく。しばしそれを繰り返せば、最終的には町中のほとんどの子供達が教会前の原っぱに集まっていた。子供達の前には簡素な机が置いてあって、近くには移動式の黒板が一つ。

 ……ここまで来れば答えはもう出ているようなものだが、答え合わせは彼女の口から、ということにしよう。

 

 

「……はいっ、じゃあとりあえず前回のおさらいからしよっか!今週もバリバリ勉強するぞー!」

 

 

 ───そう、サラは青空教室を始めようとしていたのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 頻度的には大体週に一度ほど、町の子供達を集めて行われる青空教室。

 あれこれ忙しい神父が行おうという企画だけはしていたものの、様々な理由から結局行われないままに放置されていたそれを、サラが引き継いで始めたのが大体二月ほど前。

 最初はまばらな参加者しか居なかったそれも、今となっては町の子供達みんなが集まるほどに知名度を得ていた。

 

 

「ホントはみんなに一冊ずつ教科書があればいいんだけど、流石に今のご時世それは贅沢どころか無理無謀な話。だから、私の字ってばそんなに綺麗じゃないからごめんだけど、黒板読んで覚えてねー」

 

 

 そう言いながら、前回教えた部分を軽く黒板に記していくサラ。

 最近は歴史の授業に移ったばかりで、話としては【大厄災】──かつて起きた最悪の事件について、その始めの部分が板書されていく。

 

 

「【大厄災】は、世界全土を巻き込んだ大きな争いのこと。今はもう誰も覚えていない神様や仏様、他にも色んな凄いモノ達が地上に降り立って──そして消えていった事件、っと」

 

 

 文章と共にその『凄いモノ』達の図を記していくサラ。羽が生えた人のようなモノや、足のない人のようなモノ。そういった謎の生き物達が、次々と黒板に書き記されていく。

 

 

「サラちゃんそれなにー?」

「んー?これはね、天使様。神様のしもべだったらしいんだけど詳しいことはよく分かんない、かな。それとこっちのギザギザ羽のやつは悪魔様。こっちは元々神様の敵だったらしいんだけど、【大厄災】の時は神様と一緒に戦ったんだって。……まぁ、みんな居なくなっちゃったんだけどね」

 

 

 小さく苦笑を浮かべながら、サラは書いた図に大きくバツ印を付けていく。

 

 ……居なくなった。そう、彼らは居なくなってしまった。

 【大厄災】において、彼らは全て消え去ってしまったとされている。されている、というのは彼らの痕跡がまばらになってしまい、その存在の確証が取れなくなってしまったからだ。

 

 

「文章とか絵とか、そういうのを守ってる神様とかが居たらしいんだけど。その辺りもまとめて居なくなったらしくて、今この世界に残ってる本とかからは、不自然な感じに名前らしきものとかが抜けてたりするんだって。で、そこから逆説的にそういうモノが居たんだ、っていうことがわかったってわけね」

 

 

 記録や記憶を司るモノが消えたことで、すでに記されているものにも影響が出てしまった、というのが今の世界の常識だ。

 ──ゆえに、この世界には色んなモノが欠けてしまっている。

 

 

「あの十字架も、元は『誰か』を象徴するものだったはず。……けれど、記録も記憶も失われてしまって、今の私たちにわかるのは、アレが誰かに関係があった凄いモノだってことだけ。だからまぁ、『祈る』って行為も【大厄災】前のそれとは違うものになっているはずなんだよね。……って、まぁその辺はおいといて」

 

 

 教会の上に鎮座する十字架をどこか憂い気な目で見つめたあと、軽く頭を振って板書を再開するサラ。……一瞬、本音が垣間見えた気がしたが、流石に授業を止めるわけにも行かず少年は沈黙を守る。

 なお、少年も年齢区分的には子供に含まれるので、自分もこの授業を聞く権利はある、などとよく分からない自己弁護をしていたりする。

 

 

「とりあえず、【大厄災】で色んなモノが失われました、っていうのが前回までのお話。次は【大厄災】──百年前のそれが起きてから、どうやって人々が立ち直って行ったのか、大雑把にやってくよー」

「「「はーい」」」

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……ん、そろそろお昼にしよっかみんな」

「「「はーい」」」

 

 

 ふと空を見上げれば、太陽が真上に昇っている。

 時間としてはちょうどよいということで、授業を切り上げ昼食の時間とすることを子供達に伝えるサラ。少年はそれを見越してすでに昼の準備を始めていた。

 

 

「週に一度だけとはいえ、思えばキキばあにも結構無理言ってるよねぇ。……あとで肩とか揉んであげよっかな」

 

 

 子供達が座っていた場所に大きな布を敷いて、少年が運んできたかごを並べていく。

 中に入っているのは、子供達のためにとキキばあが用意したサンドイッチだ。

 

 

「キキばあのサンドイッチ好きー」

「うんうん、キキばあのパンは美味しいよねー。だから今度店に行ったら直接言ってあげてね、きっと喜ぶから」

 

 

 などときゃいきゃいはしゃぎながらサンドイッチを手に取って食べ始める子供達。

 少年も自身の取り分を持つと、少し離れた木陰に座って食事を摂り始めた。

 

 ……のどかだな、とぼんやり思いつつサンドイッチを一齧り。今回の中身はリンゴやみかんなどのフルーツがホイップクリームと一緒に挟んであるものだった。クリームの甘さとフルーツの酸味がたまらない逸品だ。店で直接買うとわりと値の張るものなので、こういうのは手伝いの役得かな、と思いつつ少年はサンドイッチを食していく。

 

 

「毎回思うんだけど、なんで君はみんなから離れて食べてるの?」

 

 

 そうしてサンドイッチに舌鼓を打っていると、子供達の集まりから離れたサラが、こちらに歩み寄ってきていた。心底不思議そうな顔でこちらを見てくるものだから、理由なんて「なんとなく」でしかない少年は押し黙るほかない。

 そんな少年にしばし視線を向けていた彼女は、ややすると小さく吹き出して、

 

 

「そんなに困らなくてもいいのに。君くらいの年齢ならよくあることだし、別に恥ずかしがらなくてもいいよ」

 

 

 と隣に腰を下ろした。──木陰から空を見上げれば、木々の隙間からこぼれてくる日差しはなんとも暖かげで、思わず眠気を誘ってくる。なんでもない日ならこのまま午睡に身を任せるのだが、生憎と今日は青空教室の日。子供達を一度昼間に寝かしつけてしまうのは、帰ったあとに夜眠れなくなったりの原因にもなりかねない。

 

 だから、とりあえず。

 少年は隣のサラを殊更意識しないように注意しつつ、昼食を終えて次第にはしゃぎ始めた子供達へと視線を移すのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「遊ぶのも、勉強だ!……ってわけで、午後からは体を動かすぞー」

 

 

 サラの宣言を聞いて大はしゃぎする子供達。

 昼食の後片付けをしたのち、場所を森の前に移して再開した青空教室は、子供達全員とサラに少年を含めたみんなでのかくれんぼとなっていた。無論、森の奥までは入らないように言い含めてはあるものの、ついつい奥まで入ってしまう子が居るのも事実なので、少年にはその辺りの注意も任されていたりする。……伊達に補助役として混ざっているわけではないのだ。

 

 

「ふーむ、さてさてみんなどこに隠れたかなー?」

 

 

 今回の鬼はサラだ。……というか、サラが本気で隠れると全然見つけられないので(平気で木の上に隠れたりするので)、必然的に鬼役になっているだけだったりするのだが。

 そうして、十分な時間数を数えて待っていた彼女が子供達を探し始める。その途中でこちらに目配せをしてくるサラにアイコンタクトで頷き返しながら、少年は彼女とは反対の方向へと身を進めていく。

 

 やがて、森の外れ──亡くなった人を埋葬するための墓地となった一画に出る。

 ここまでは流石に子供達もやってこない。何故ならどことなく不気味で近寄り難いからだ。……つまり、ここより奥には子供達は基本近寄らないので、必然的にこの辺りに居ればうっかり奥に来てしまった子供を見つけやすいということでもある。それゆえに少年は歩くのを止めて立ち止まる。

 

 少年としても不気味なのは不気味なのだが、それはそれ。周りの子供達よりも大人であると言える彼としては、ここでしばらく立ち止まってサラがこっちに来るのを待つのなんてわけないのだ。……多分。

 

 

「……まぁ、できれば早く来てほしいんだが」

 

 

 思わずぼやいた言葉は森に虚しく消えていく。

 

 ……昼を過ぎて空の太陽は少し傾き、時間帯的には一番暑い時分のはずだが、森の奥に位置するこの墓地はどういうわけか何時も肌寒く、管理役である神父やサラ以外は滅多に近寄らない。

 

 その辺りが余計にこの場所の何とも言えない不気味さを増やしているような気がしないでもないが、それを愚痴ったところで教会関係者以外が管理を手伝う、ということにもならないだろう。なので少年の今の思考は気を紛らわせるための無駄なものでしかなく……、

 

 

「よっ、と。やっほ、おまたせー。……って、どうしたの君?」

 

 

 考え事に没頭していたせいでサラの接近に気付けずに、思わず驚いて木の背に隠れてしまった少年は、バツが悪げに「……なんでもない」と声を返すのだった。

 

 

「ふーん……?ま、いいや。とりあえずみんな見付けたから教会まで戻ろっ」

「ああ……」

 

 

 おずおずと木の背から出て、先導するサラの背を追う。

 ……と。

 

 

「………?」

「ん?どしたの?」

 

 

 ふと、何か刺激臭のようなものを感じて辺りを見回すが、そんな匂いを発しそうなものは特に見当たらない。

 首を捻りつつ、子供達を待たせると後が怖いと思い直し「いや、なんでもない」と返して墓地を出る。

 

 

 ──あの酸っぱい匂いは、なんだったのだろうと思いながら。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「サラちゃんまたねー」

「はいまたねー、帰ったら手洗いうがいしてお母さんのお手伝いするんだよー」

 

 

 教会から町へと帰っていく子供達に手を振り見送りながら、サラは満足げに一つ息を吐く。

 

 太陽もだいぶ傾いて、今は夕暮れ時。勉強も遊びもたっぷり行った子供達は、満足げな笑みを浮かべながら町への道を歩いていく。

 みんな楽しく学べたようだ、とサラも少年も思わず胸を撫で下ろすのだった。

 

 さて、一日中サラの仕事を手伝っていた少年も、そろそろお役御免の時間が近付いていた。無論、夜になれば何時も通りの見廻りがあるので、これでお別れというわけでもないのだが。

 

 

「君もありがとねー。子供達みんなの相手は流石に私一人じゃ無理があるから、いつも居てくれて助かるよ」

「まぁ、教会にも色々世話になってるから。これも恩返しみたいなもんだよ」

 

 

 サラのお礼の言葉に少し照れ臭そうに目線を泳がせながら、少年は言葉を返す。

 

 ……両親の居ない少年に取って、この教会の神父は親代わりとも呼べる人だ。

 だから、というわけでもないが。小さい頃から教会の行事を手伝うというのは、彼にとってはよくある日常の一つであるといえた。

 無論、今となっては色々と理由や意味の失われてしまった、所々の行事のことを神父から教わることで、一種の勉強代わりにしていた面も無くはないのだが。

 

 その辺りのことをサラに話すとやけに食い付いてきたものだったっけと少年は小さく破顔する。

 

 

「んー?なになに思い出し笑い?何を思い出したのよー?」

「ああ、ちょっとな。サラが町に来たばかりの時のことを、少し」

 

 

 その微笑みを目敏くサラが指摘してくるものだから、素直にその内容を伝えてやる。

 対するサラはちょっとムッとしたあと、小さく苦笑した。

 

 ……それにしても、まだ三ヶ月しか経っていないのか、と少し驚く。

 ふらりとこの町に現れた彼女は、現れた時からこんな風に人懐っこかったように思う。それゆえか、どうにももっと前から一緒に色々やってきたような気がして仕方ないのだ。

 それがどうにも面白くて、また笑みがこぼれてしまう。

 

 

「あっ、もう!また笑った!そりゃ、あの時の私はちょっとアレだったかなーって思わなくもないけど、思い出してまで笑うのはちょっと酷いんじゃないかなって思うんだけど?!」

「……そう思うんなら、もう少ししっかりしてくれよな、姉なんだろ?」

 

 

 どうにもサラは、少年が彼女の当時の醜態を思い出して笑っていると勘違いしているようだが、少年はあえてそれを指摘せずに彼女をからかうような言葉を選んでいく。

 対する彼女は面白いようにムキになってバタバタとするものだから、かえってそれが面白さを煽って仕方がない。

 しまいに少年は笑いをこらえるように顔を伏せるはめになるのだった。

 

 

「ぬぐぐぐ……。……はぁ。まぁ、いいけど」

 

 

 しばしそうしてじゃれたあと、サラは一つため息を吐いた。

 

 

「でも、なんというか。受け入れて貰えてわりと嬉しかったかな、あの時は」

 

 

 そして、懐かしげに目を細めながら空を仰ぐ。

 

 ──突然現れて町に置いてくれと頼んできた彼女を、この町の人々は温かく迎え入れた。

 今のこの御時世、ともすれば即座に排斥されてもおかしくはなかったのだから、こうして彼女が感謝するのもおかしくはない。……とはいえ、この町の人達はみな善人ばかりで、受け入れないという選択肢は端から無かったのだろうが。今となっては受け入れるという判断はまさに最良だったとしか言い様がない。こうして、子供達もよく懐いていることだし。

 

 そういえば、サラも最初の内は不器用なりにシスターの仕事をこなそうとしていたような、と少年は思い出す。

 しばらくして何かが変わったのか心境の変化なのか、今の不真面目シスターと化していたわけだが。少なくとも最初の内──大体一月経つ前までは、礼拝やら何やらといった教会の仕事に手を出していたような覚えがある。

 では、一体なぜその辺りのことを一切やらなくなってしまったのだったか?ということを思い出そうとして、

 

 

「君も、色々ありがとね?私はほら、あんまりいい大人じゃないけど。せめて君に誇れるくらいには頑張りたいなって、そう思ってるんだ。……なんてね」

 

 

 突然向けられた彼女の笑みにその辺りの疑問が全部吹っ飛んでしまう。……我ながら現金すぎるぞ、と内心で少年がぼやいたかは定かではないが、

 

 

「……まぁ、頼りにはしてるよ、ほんと」

 

 

 と照れながら返した言葉に、更なる笑顔が帰って来たことだけは確かだった。

 

 



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二日目・?

 

 ──深い森の中を、当てもなく逃げ回る。

 時折背後を振り返るものの、辺りが暗すぎて何も見えない。

 けれど、ずっと。

 そう、こうして逃げ始めてからずっと。

 ──首元の辺りにずっと、言い様の無い不快感がこびりついている。

 

 噛まれたり、怪我をしたわけではない。

 ただずっと、「そこを狙われている」とでも言うような、おぞましい不快感がずっと纏わりついている。

 それが恐ろしくて、深い森の中をずっと逃げ回っている。

 

 

 ……何時から逃げていたのだったか?

 森の中に大型の獣の姿を見かけ、喜び勇んで狩りに入ってからの筈だから、それこそ日が落ちる少し前からだったか。

 弓と矢筒に矢を数本用意して、森の中に意気揚々と入っていって。

 

 ある程度奥まで進んだ先に大きなイノシシの姿を見付け、息を潜めながら近付いて、その眉間に矢を打ち込んで、一発じゃ足りなかったから更に数本打ち込んで、そうしてやっとイノシシは動かなくなって。

 思わず喝采をあげてイノシシの死体に近付いて──、

 いつの間にか、連れていた筈の相棒である犬のケリーが居なくなっていたことに気が付いた。

 

 イノシシの眉間に一発目の矢を打ち込んだ時には鳴き声が聞こえていたはずだった。だから、その時はまだ近くにいたはずだ。

 いつの間にかはぐれてしまったのか、そう思って指笛を吹いて呼んでみたが、しばし待ってみてもケリーの姿は見えない、どころか吠える声さえ聞こえやしない。

 

 流石に少し心配になって、辺りを声を出しながら探し回る。

 その時はまだ日が沈み切ってなかったから、薄暗い森の中で足を滑らせてしまったのかと思いながら森の外れまで探してみたが、そこまで行っても何も見付からない。

 仕方なく仕留めたイノシシの死体の元へ戻って──、

 

 

 

 

 

 死体が、消えていた。

 

 

 

 

 

 その時点で引き返して居れば良かったのだろうが、最初に見かけた獣の影がさっき仕留めたイノシシよりも大きかったように思えて、そこからどうやら森に熊でも出たのではないかと思い直し。

 

 最初に用意した矢の数がそれなりに多かったこと。

 居なくなったケリーが熊に襲われてしまったのではないかと思ったこと。

 それと、仕留めた獲物を失ってしまったことが合わさって、彼は少し苛立っていた。

 苛立っていたから、熊も一緒に仕留めてやると意気込んでしまった。……意気込んでしまったのだ。

 

 

 流石に熊相手だと言うのならもう少し警戒するのが常なのだが、どうにもその時は気が立っていたからあまり冷静に動けていなかった。

 それでも、ある程度は気を付けつつ、音を極力立てないように森の奥へと進んでいった。

 

 ──ある程度進んで、何か妙な匂いが鼻を掠めた。

 酸っぱい、とでも言えばいいのか。森の中では余り嗅がないような、そんな匂いだ。

 それが、突然に周囲から香ってきたのだ。といっても、それは本当に微かな匂いで、たまたま鼻に付いたという方が正しい程度のものだったが。

 ゆえに、少し訝しく思いながらも森の奥へと進んでいく。

 

 ……進む度、匂いが強くなっていく。

 最初は酸っぱい、と思っていた匂いだったが、次第に嗅いでいると気持ちの悪くなる匂いだと気付く。生理的にというか、とにかく気分の悪くなる匂いだった。

 普段なら、こんな匂いがする場所には近付かないだろう。

 その時は苛立ちを増すだけでしかなかったが、今となっては引き返す口実としては上々だったと思える。結局は苛立ちが勝って先へと進んだわけだが。

 

 そうして匂いと格闘しながら、ある程度開けた場所にたどり着いた。

 この頃にはもう辺りはうっすらとしか視認できず、たどり着いた場所がどこなのかもすぐには判別できなかった。

 しばし目を細めて待つことで、ようやく目が暗さになれて周囲の様子が朧気ながら明らかになっていく。

 

 そこは、神父が管理している町民達の墓地だった。

 町の人はほとんど近寄らず、教会の関係者が時折整備に訪れるだけの、閑散とした場所。

 町の人間がここに来ることなんて、町の誰かの葬儀があった時くらいのものだ。

 

 だから、彼は一瞬意味が分からなかった。

 あるのは地面に刺さった十字架くらいしかない筈のこの場所で、

 

 

 

 

 さっきのイノシシと、

 相棒のケリーが、

 真っ赤に染まって、

 ぐちゃぐちゃになって、

 異臭を放ちながらそこにあって、

 何故か蛆が沸いたその肉塊の、

 それの前に黒い何かが居て、

 その顔らしき部分がこっちを向き───、

 

 

 

 

 瞬間、彼は逃げ出した。

 意味が分からなくて、恐ろしくて、とにかく逃げ出した。弓も矢筒も全て投げ出し、とにかく遮二無二に走る。

 息があがって苦しいが、それよりもなによりも後ろが恐ろしくて仕方がなくて、とにかくあそこから離れるためにひたすらに走り抜けていく。

 

 そうして走り続けて、ふと気が付くと。

 彼は、森の奥で自身の位置すら分からなくなってしまうほど遠くへと走り抜けてしまっていた。

 

 

 切れた息を整えながら、恐る恐る後ろを向く。……少なくとも、何かが追いかけて来たりはしないようだった。

 そのことに安堵し、ほっと一息をつく。

 一息ついて、これからどうしようと頭を抱える。

 

 見間違いでなければ、あそこにいたのは化け物らしき何者か。それが、自身の獲物と相棒を手にかけた、ということになるのだろう。

 果たして、それを町のみんなに言って信じて貰えるだろうか?

 変に焦って獲物を取り逃がしてしまった、そんな憐れな男の妄言だと流されてしまわないだろうか?

 犠牲になった相棒だって、愛想を尽かされて逃げられたのだと一笑に伏されてしまうかもしれない。

 少なくとも、わけの分からない化け物に出会ったというよりは信憑性があるように思われる。

 

 そうしてうんうんと悩むことしばし。……ここであれこれと考えても埒が空かないと判断した彼は、とりあえず町に戻ろうと決心して歩を進めようとする。

 そうして右足を浮かせて──、

 

 そのまま踏み出せずに、地面に転んでしまう。

 自身の意思とは違う結果になって、意味が分からなくて混乱する男。

 そうして何があったのかと足下へと視線を移して、

 

 

 

 

 

 ──自身の右足の膝から下が、無くなっていることに気が付いた。

 

 

 

 

 

 声にならない叫びを上げ、狂乱する。

 痛みはない、違和感もない。

 ただ、自身の右足だけが不自然に欠損している。

 わけが分からない、意味が分からない、そんな表情で右足を見つめる彼は、そこで自身の鼻を掠める匂いに気付く。

 ……酸っぱい、腐乱臭。

 今はまだ微かなそれは、先ほどあの場所から匂っていたそれと同じで、

 

 

「──■■■■」

 

 

 

 突然、聞き取れない言葉が周囲に響く。

 男の声なのか、女の声なのか、どちらなのかの判別ができない掠れるような声。

 しかし、これは声が小さいから聞き取れないのではなく、言葉そのものの意味が聞き取れていないような──、

 

 

「──■■■■」

 

 

 男の思考を遮るように、また声が聞こえてくる。

 それは先ほどよりもはっきりと、それでもなおまだ掠れたままのもので、男はそれを発するモノが近付いて来ているのだと確信する。

 

 ──消えていた首への不快感が復活する。

 それも、より強い不快感と共にそれは熱さえも帯びていく。

 

 ……痒い。

 熱を持った場所が刺すような痛みと、抑えきれない痒みを持ってこちらに異常を伝えてくる。

 そこまで異常を自覚しても男は逃げることさえできない。

 

 

 膝先の無い右足は、よく見れば腐ってしまっていたからだ。

 

 

 わけの分からない状況に、男は怯え震えることしかできない。

 そうして震えながら、男は最近教わったある仕草を思い出す。

 曰く、己の力ではどうしようもない状況に出くわした時、人の力ではどうしようもないものに出会った時、最後の最後に行うこと。

 人の手に届かぬ奇跡で、人を救うもの。

 町の神父が、熱心に教え伝えた一つの儀礼。

 

 

 男は怯え震えながら、無事に動く右手を握り、額に触れたのちその手を胸まで下ろし、次に左肩に触れてから右肩にまで手を引いた。

 

 

 するとどうしたことか。

 首の違和感は消え去り、恐怖に震えていた心は穏やかに薙ぎ、周囲から聞こえていたおぞましい声も、いつの間にか無くなってしまっているではないか。

 

 男は呆気にとられて、しばしそうして放心したあと、思わず笑いだした。

 そして、先の祈りを教えてくれた神父に深い感謝を捧げた。

 

 

「おお、神父よ。貴方の導きに感謝します」

 

 

 

 

 

 

 

 ──男の腐乱死体が見付かるのは、それから一日経った後のことであった。

 

 



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三日目

「おはよー、今日はよろしくねー」

「……ああ」

 

 

 少年の管理する畑の前で元気な挨拶をするサラ。

 対する少年はといえば、今日も睡眠が足りていないのか返事がどことなく低調だ。……無論、作業ができないほど不調である、というわけでは無さそうだが。

 

 昨日は少年がサラの手伝いをする日だったが、今日はその逆。

 サラが少年の畑仕事を手伝うために、朝一で少年の住む小屋に突撃してきていたのだった。

 

 

「それで、今日は何する?土を耕す?畝を作る?それともた・ね・ま・き?」

「何を植える気なんだ……?普通に水やりとか伸びすぎた葉の剪定とかだ、忙しい畑の担当はしてないしな」

 

 

 この町では町民が分担して畑を管理しているのだが、少年は畑を任されるようになってからまだ日が浅いので、毎日気を使う必要のある畑の管理はまだ担当していない。

 もっぱら、じゃがいもやミニトマトなどのある程度育てるのに余裕のあるものの管理がほとんどだ。

 無論、だからといって仕事が簡単というわけでもない。ゆえに、今日は手分けして畑の手入れを行うことになったのだった。

 

 

「お、毛虫がいるー。ねぇ知ってるー?毛虫って大体蛾になるって言うけどそうでもないんだってー」

「なんだその情報……ってちょっと待て素手で触るな触るな」

 

 

 その途中、サラが葉に付いている毛虫を素手でぺぺぺとはたき落としていたり、

 

 

「陽に当たるように剪定するのって意外と難しいよね」

「だからって根ごと抜くなよ……そこのやつは確かに抜かないとダメだろうとは思ってたけど」

 

 

 他の野菜と近すぎて生育の邪魔になっている苗を根っこから引き抜くなど、仕事はしているのだがいかんせん豪快すぎるその行動に、思わずハラハラさせられながら少年は畑を回っていく。

 その途中で周囲の大人達から「姉ちゃんの世話も楽じゃねぇなぁ?」などとからかわれるものだから、少年はなんとも微妙な表情を浮かべざるをえないのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「それで居た堪れなくなって教会の修繕作業に逃げるのはどうかと思うなー」

「……逃げたわけじゃない。昨日サラも言ってたようにそろそろ教会に空いた穴とかも直さなきゃいけないなって思っただけだ」

 

 

 そもそもサラのせいだろ、とも言い出せず。そそくさと畑を抜け、教会にやってきた二人。

 まぁ、きっかけがどうあれ、現在の教会内が荒れてしまっているのは事実。それを補修するというのは、仕事としては申し分ないと言えるだろう。

 そういうわけで、床に空いた穴を用意した板で塞いだり、剥がれかけの壁の塗装を再度塗り直したりしていく二人。

 

 

「そういえば、昔は孤児院もしてたんだっけ?ここ」

「みんな立派に巣立っていったから廃業になったんだけどな」

 

 

 そんな中でふと思い出したようにサラが聞くものだから、俺が最期の孤児院生だったわけだし、と少年は昔を懐かしんだ。

 

 この教会は例の【大厄災】を偶然生き残った数少ない建物で、当時はその混乱もあり、身寄りのない孤児達で溢れていたのだという。

 だが百年という時を経る中で、新しく迎え入れられる孤児達も徐々に減っていき、つい二年前、最期に残っていた孤児である少年が教会を巣立ち、それをもって孤児院としての役割を終えたのだった。

 

 ……とはいえ百年の間ろくに補修もしないまま孤児院として運営されていたこの建物は、子供達の無茶な遊びや日々の生活の中で随分と傷んでしまっており、比較的手入れをしていた神父の住まいの部分や、そもそもあまり人の立ち寄らなかった……現在見廻り前の集会所と化している元懺悔室などの一部を除いたそのほとんどが老朽化してしまっている。

 それゆえ一年前に礼拝堂で祭儀を行った際に町民が腐った床を踏み抜いてしまった時を境に、教会としての機能もほぼ停止してしまっていたのだった。

 

 

「礼拝、ねぇ」

 

 

 箒の柄に顎を乗せたサラが一つ息を吐く。

 

 ……大体一月に一度は行われていた祭儀も、一年前を堺にその機を失い、今では神父から直接教えを受けるよりほかない日が続いている。

 そのことに神父は心を痛めていたが……、その中での例の噂話である。少年としては、神父が余計な心労を背負っていないか気がかりでもあった。……まぁ、神父とサラの相性が悪い、というのも気がかりの一つではあるのだが。

 

 

「そういえば、一つ気になってたんだけど。神父様ってこの教会でのお勤めは長いの?」

「ん?……そうだな、わりと長い方、か?」

 

 

 サラの言葉に少年は記憶を探る。

 自身が物心付いた時にはもうすでに神父となっていたはずなので、それを踏まえるとそれなりに長くこの教会に務めているのではないだろうか?

 先代の神父様が病気で神職を辞退するまでは見習いだったと聞くが、それも自身が物心付いた時分には既に過去の話となっていたもの。

 見習い期間がどれくらい必要なものなのかはわからないが、それでも20年を下回る、ということはないだろう。

 

 

「なるほど、ねぇ?……ん、神父様の話は分かったわ。んじゃま、そろそろ他の仕事に移りましょうか」

「ん?……ああ、もうそんな時間か」

 

 

 サラの言葉に窓から空を見る。……どうにも、話をしているうちにそれなりに時間が経っていたらしい。

 太陽は真上に昇っていて、教会の前は俄に騒がしくなり始めていた。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「はいどうぞ、いっぱいあるから味わって食べてねー」

「ありがとよーサラちゃん」

 

 

 いえいえ、と笑みを浮かべながら町民達の持ちよった器に汁を盛り付けていくサラ。

 集った町民達はそうして盛り付けられた汁物を、あーでもないこーでもないと騒ぎながら味わっている。

 それはとても楽しげで、この集まりが町民に歓迎されるものであることを如実に示していた。

 

 ──俗に言う炊き出し、というべきものを行うようになったのも、子供達のための青空教室が始まって一月(ひとつき)ほど経ってのこと。

 

 本来であれば教会側が材料から器から、ほぼ全ての必要物を用意して町民達に施すものが炊き出しらしいのだが、流石にサラと神父の二人しか居ないこの教会では材料の工面ができず。

 どちらかと言えば、町の外からやって来たサラがこの辺りでは珍しい異郷の料理を振る舞うための集まりとなっていた。

 なので、炊き出しと呼ぶよりは飲食会と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 

 そもそもは子供達を集める青空教室の事後報告会とか説明会的な集まりだったのが、どうせ集まるならと男達が酒やらつまみやらを持ち込んで宴会めいたことをし始めたため、そうして酒を飲んで騒ぐよりは普通に飲み食いをして話す会にした方がいいとサラが提言し、言い出しっぺの彼女が他の地の料理を出してあれこれと話す場となった……という経緯で始まったのがこの会だ。

 そのため、材料の下拵えの手伝いこそあれど、基本的には彼女が調理に配膳に、といった風に雑事を一人で行う会となっているのが現状である。

 ……負担になるのではと思わないでもないが、町民と言葉を交わす彼女に疲れは見えず、どころかとても楽しげに配膳をしているので、でしゃばらずに大人達の列を整えるくらいの手伝いに止めている少年なのだった。

 

 なお今回の汁物は、根菜を多く使い彼女特製の調味料で味を整えたという、こちらで言うシチューをもっとサラサラにしたような、とても不思議なものだった。

 シチューにするなら大きめに切って入れられているであろう肉の塊が、薄切りになって汁に浮いているというのも特徴だろうか。

 

 

「ホントは豚を使うんだけどね、流石にパッと用意できるものでもないから今回はイノシシの肉なんだ。……まぁ、イノシシ肉の処理にちょっと手間がいるから、晩御飯のおかずにもう一品とかにはおすすめできないかなぁ」

 

 

 とはサラの言。……肉の処理云々の前にイノシシの用意自体がそうそうできるものではないのだが、どちらかといえば先日イノシシを捕獲したからこそ今日の炊き出しに使うことを思い至ったらしい。

 なので、ある意味その辺りは弁えているとも言えるのかも知れなかったり。

 

 

「ほら君も、大人達の列とか整備してなくていいからほらほら並んで並んでっ」

 

 

 などとぼんやり考えていたら、急に背中を押されて前につんのめる。いつの間にやら背後に回っていたサラが、こちらの背をぐいぐいと押してきていたからだ。「わかったから押すのはやめてくれ……」と彼女を追い払って、素直に列の後ろに器を持って並ぶ。

 ……近所のおっさんがニヤニヤとこちらを見ていたため思いっきり足を踏んづけてやった。途端に悲鳴をあげてこちらを睨んでくるが、その背後を指差してやれば青ざめた彼はこちらから視線を外す。彼の奥さんが、夫のことを無表情に見つめて(睨んで)いたからだ。……この少年、わりと奥様方からの評判もよいのでこういう状況では勝ちやすいのである。

 

 必死に妻に謝り倒す男を横目に、少年はぼんやりと空を見上げる。……男衆相手には今のでいいのだが、女衆も今の夫側のようにこちらを楽しげに見てくることがあるので、結局差し引き負けみたいになるのはどうにかならないのだろうか、と内心ぼやきつつ。

 

 

「はい、君はまだまだ育ち盛りなんだからいっぱい食べなきゃダメだよー」

 

 

 しばらくして少年の番になると、サラは鍋の中から具と汁を溢れんばかりに器に注いでくる。

 周囲の男共からずるいみたいな声が上がるが、「じゃあこのあとお酒無しだけどそれでもいいの?」と返されて瞬時に静かになった。……この酒バカどもめ。

 

 ──このあと出されるのは教会の地下倉庫でよく冷やされた葡萄酒なので、酒に飢えた男達としては変にサラの気を損ねてそれを楽しめなくなるのは非常に困るのだ。そういう意味で、この場にいる男達の地位は低いと言えた。

 まぁ、酒を飲めない少年からしてみれば、ろくでもない大人共め、くらいの気分にしかならないのだが。……とはいえ、文明の利器もろくに使えなくなってしまった現代において、冷やすという行為がどれほどの価値があるのかということを訪ねられると、少年としても納得の芽を出さざるをえない。孤児院にいた頃は、真夏の日に出されるよく冷えた果物類を楽しみにしていた覚えがあるからだ。

 そんなことをつらつら考えつつ、いつもの定位置である教会前の木の影に腰を下ろす。

 持ってきたスプーンで汁を掬い、一口。……程よい大きさに切り分けられた人参やじゃがいもは舌で潰せるほど柔らかく、肉の油や調味料が中までしっかり染み込んでいる。

 汁そのものも飲んでいるだけで体が芯から温まるようで、器いっぱいの汁を全て飲み干す頃にはすっかり幸せな気分になっていた。……まぁ、今が季節的に暑くなり始めたばかりで、ちょっとぽかぽかし過ぎたかとも思わないでもないが。

 

 

「……や、君ってばホント美味しそうに食べるよね、ちょっと照れちゃうや」

 

 

 そこにいつも通りに近付いてくるサラ。

 その手に持った器にも彼女手製の汁物が盛り付けられているようだ。どうやら長かった配膳が終わり、彼女自身も昼食を摂る時間ができたらしい。

 よっ、という一言と共に彼の隣に腰を下ろした彼女は、一緒に持ってきたかごの中からパンを一つ取り出し、汁に付けて食べ始めた。

 

 

「……いや、流石に塩辛くないか?」

「キキばあにお願いしてね、塩を少なめのパンにしてもらったの。だからまぁ、わりと合うよ?」

 

 

 流石にそれはどうなのだろうと少年が問えば、わざわざこの汁物に合わせたパンを用意して貰ったのだと返してくるサラ。

 そうして彼女は幸せそうにパンを汁に付けて齧りつつ、時々汁そのものもすすっていた。

 

 

「……その、見られてるとちょっと食べ辛いんだけど。それとも、実はまだ欲しかったりする?」

 

 

 そうしてずっと見ていたら、彼女が居心地が悪そうにこちらに視線を向けてくる。……そんなに見つめていただろうか、と思わず少年は慌てるが。

 

 くぅ

 

 と自身の腹の虫が鳴る音を聞いて、思わず表情が全て凪いだ。

 ぷっ、と小さな笑みを浮かべた彼女は器を傍らに置いて立ち上がり、

 

 

「───はい。まだ残ってるし、なんなら付け合わせにパンもあるよ?」

 

 

 と、新しく汁を注いだ器とパンを一纏めにこちらへ差し出してくる。

 ──顔を俯かせた少年は、わなわな震えながらそれを受け取った。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「結局、どんちゃん騒ぎになっちゃったねぇ」

 

 

 くつくつと笑みを浮かべるサラの言葉に、些か疲れたような様子で机に伏せっている少年。

 あれからすぐに少年の醜態を肴に酒盛りが始まってしまったので、当事者たる少年のその心労足るやいかほどのものか、という話である。

 日が沈んでもなお解散しようとしない男達の撤収作業にさらに気力を奪われた、というのも一因だろう。

 最初の内はやれやれといった様子だった奥様方も、最後の方では無理やり夫の耳を引っ張って連れ帰る、という有り様である。……あれは明日が酷いだろう、主に妻の機嫌と二日酔いの頭痛が。

 まぁ、少年からしてみればいい薬以外の何物でもないので特にいうことはない。ついでに自分のやった醜態について記憶が飛んでいてくれればいい。……奥様方の記憶には残っているので根本的な解決にはならないが、それでも全員に憶えられているよりはマシだ。

 

 そうして、元懺悔室に持ち込んだ机に頬杖をついて不貞腐れている少年に苦笑を返しつつ、サラは窓から外を見る。

 今日も外は薄暗く、森は静まり返っている。

 特に何かがあったようにも──特に何かがあるようにも思えない。

 ただ、いつも通りの森の姿がそこにはあった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「んー、今日も何もない、かな」

 

 

 思わずといった風にぼやくサラ。少年もその言葉に頷きを返す。

 多少道を変えて行動範囲を広げたりしてみるものの、噂の確証に繋がるようなものにはいまだに出会えていない。

 せいぜい出会うのは足下を駆けるねずみだとか、森の奥の方でこちらに視線を向けてくるフクロウくらいのものだ。

 夜の森はただただ静かで、無意味な不安感を煽る以外のことは何も起きていない。

 それゆえ、少年の緊張感もどこか緩みがちになっていた。あまり油断し過ぎると足下の暗さゆえに木の根に引っ掛かって転倒しかねないので、最低限の警戒はまだ続いているのだが。

 

 ……それでも。

 最初に見廻りを始めた時に比べれば、どこか真剣味が薄れてしまっている、というのは紛れもない事実だと言えた。

 

 

「とはいえ、あんまり奥の方に足を伸ばすのは時間的に無理があるし、ねぇ」

 

 

 夜に何者かが蠢いていると言うのが噂の主旨である以上、必然的に探索は夜になってしまうわけだが。

 夜に探し回るにはこの森は広すぎるし、そもそもあまり奥に行ってしまうと底なしの谷があるため、誤って落ちてしまったりしかねない。それゆえ、見廻りもせいぜいが森の奥の手前──共同墓地の少し奥までとなっている。

 

 夜に立ち入る墓地の雰囲気の恐ろしさはなんとも言い難いものだが、幸いというかなんというか、ここで何かが見付かったということもない。果たしてそれを喜んでいいのかは謎なのだが。

 

 まぁ、そんなわけで。

 今日も墓地の奥まで進んだあと、こうして森の小川まで戻ってきて休んでいるというわけだ。

 

 この間のように素足を晒して小川に浸していたサラは、岩の上でため息を吐いている。

 少年も少年で近くの木の幹に背を預け、ぼーっと空を眺めていた。

 

 

「んー……仕方ない。今日はもう戻ろっか?見廻りを続けるにしろ止めるにしろ、一回町長さんに相談した方がいいだろうし」

 

 

 靴を履き直したサラがひょいと岩から飛び降りてくるのが視線の端に入ったので、少年は視線を下から横に戻した。

 実際、夜遅い生活が続いた少年としてもそろそろ限界が見えていたころである、見直しをするというのには素直に賛成であった。

 そうして、またいつものようにサラが先導して森に戻ろうとする。

 

 ──ところが、今日の見廻りはこの後がいつもと違ったのだ。

 なんと、サラが森に入る直前で立ち止まったのである。

 訝しむ少年がサラの顔を覗き込めば、彼女は常とは全く違う、厳しく鋭い目で目前の森を睨んでいた。

 思わず、少年も森の中へと視線を向ける。……生憎と、少年の目ではなんの異常も感じられない。そこにあるのはいつも通りの、暗くて鬱蒼とした森だけだった。

 

 

「……誰か居るの?」

 

 

 それでも、サラは眼前の森に向かって鋭く言い放つ。……それは確認、というよりはどこか確信めいた声音だった。思わず、少年がごくりと生唾を飲み込む。

 

 ──暫しの沈黙と緊張。

 やがて、なにかが動く物音が目の前の森から返ってきた。

 

 

「───やれやれ、サラ君のそういう所は素直に感心しますよ」

 

 

 茂みの中から現れたのは一人の中年男性。

 黒の礼服に身を包み、普段なら人の良さそうな笑みを浮かべているだろうその顔を、今は小さく苦笑に歪めている。短く切り分けられた髪は金色で、瞳の色は青色。背丈はサラより頭一つ分高い。

 

 ───そう、彼こそは。

 

 

「……え、神父様!?こんなところで一体なにを!?」

 

 

 我に返ってすっとんきょうな声を上げる少年。

 傍らのサラはと言えば、露骨に嫌そうな顔をしている。

 対する神父はと言えば、先までの苦笑を緩め楽しげに笑っていた。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 ───ジェームズ・ウッドリバー。

 街の皆からは【神父様】と呼ばれ親しまれている彼は今、暢気に礼服に付いたほこりや葉っぱを手で払い落としていた。

 

 

「───お早いお帰りでジェームズ神父。近隣の村々の方はもう宜しいので?」

 

 

 そんな神父に対し、サラは先程までの調子が嘘のような、低く感情の読めない声で問い掛ける。少年が視線を横に移せば、その表情までもが堅く愛想のないものに一変していた。

 そんな露骨過ぎるサラの態度の変化に呆れたような顔をする少年だが、当の話し掛けられた神父本人は露ほども気にしていない様子で笑みを浮かべている。

 

 

「そうですね、深夜の外出は控えること。居なくなった人がいれば速やかに伝えること。───その他諸々、きっちりと伝えてきましたよ」

 

 

 そんな神父の態度にますます不機嫌そうになっていくサラだったが。

 

 

「………左様ですか。なら私は帰っても良さそうですね。───彼の事、宜しくお願いします」

 

 

 ぴしゃりと言い放つと、踵を返して脇目も振らず森の中に消えて行ってしまった。

 そんなあんまりにもあんまりなサラの行動に唖然とする少年。

 そんな中、当の神父はといえば、困ったような笑みを浮かべ、サラが消えていった森の奥へと視線を向け続けていたのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……相変わらずサラ君には嫌われているみたいですね」

 

 

 二人で森を歩き町へと帰るなか。

 ため息こそ漏らさなかったが、些か疲れたような表情を浮かべぽつりと溢す神父。そんな彼の様子に、少年もまた曖昧な苦笑を浮かべていた。

 

 確かに、あそこまで行くと『嫌われている』と言う方が正しいだろう。最早威嚇している、とでも言った方が正しいような態度であった。

 

 ……ただ一つ疑問が有るとすれば。

 サラがあそこまで露骨に嫌悪を示すこと自体が珍しい、ということだろうか?

 基本的にあっけらかんとしているのがサラの常なので、あそこまで嫌悪感丸出しなのはどこか異様に思える。

 そう考えているのが顔に出ていたのか、神父が苦笑と共に口を開いた。

 

 

「彼女とはどうにも『神』に対する価値観が違うみたいでしてね。………なかなか上手くいかないんですよ」

 

 

 初耳であった。

 サラが神父を苦手としているのはずっと姑に対する嫁の心境のようなものだと思っていた少年にとって、今の話はまさに寝耳に水もいいところであった。

 そんな少年の呆けた顔に、神父が笑みを返す。

 

 

「いずれは、理解して貰えると信じていますがね」

 

 

 ……真っ直ぐな眼だった。

 そうなる事を信じて疑わない強い眼差し、彼が『敬虔な信徒』と呼ばれる所以である。事実、彼の真摯な言葉に心動かされた住人も数多い。

 

 少年の視線に笑みを深めた神父は、右手のカンテラを目線の高さにまで持ち上げたあと、少年に声を返した。

 

 

「さ、今日はもう寝床に戻るとしましょう。夜も遅いですしね」

 

 

 指差す先には町の灯りが疎らに浮かんでいた。

 

 



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四日目

 ──その日は特にいつもと変わりなく始まった。

 いつものように鶏が朝を告げ、いつものように大人達が寝床から起きてきて、いつものように朝の準備を行い、いつものように畑や小屋へと向かったのだ。

 

 だから、それは『いつも』という日常を変化させる明らかな異常であった。

 とある牛小屋の裏手、その小屋の管理をしている男が、いつものように牛達の様子を見ようとして──、向かいの草原に、見慣れないものを見つけた。

 遠目に赤く写るそれは、まだ朝方であるがゆえに確りとその全貌を視認できず、ゆえに男はそれに無防備に近付いた。

 

 そして、後悔する。

 ──鼻が折れ曲がりそうになるような腐臭。思わず喉元に込み上げてくる胃酸。

 そう、そこにあったのは。

 真っ赤な血溜まりに浮かぶ、人一人分の腐食した肉塊であったのだ。

 

 ──男の情けない叫び声が、鶏の声の代わりに町中へと響き渡った。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……おはよ」

 

 

 いつもよりも堅い笑みを浮かべたサラが、こちらに挨拶をしてくる。

 対する少年も小さく挨拶を返すが、そこからいつものように話が続くことはない。

 昨日の別れ方は流石に不味いと思ったのか、はたまた単にあんな態度を彼に見せてしまったことを悔いているのか、───それとも、そのどちらでもないのか。

 少年にサラがどう感じているのか判別はつかないが、それでも居心地が悪いということだけは確かだった。

 

 小屋の中にサラを招き入れる。最初は中に入るのを躊躇していた彼女は、しばらくしてなにかを決心したような目をし、小屋の中に入るとそのままテーブル前の椅子を引いてそこに腰を下ろした。……話をする、という気になったらしい。

 それが昨日のことなのか、はたまたそれ以外かは分からないが、とにかく長くなりそうだということだけは確かだったので、手始めに茶を淹れることにした少年。しばし台所に立ち、湯が沸くのを待つ。

 

 ──火のはぜる音だけが小屋に響く。

 なんとも言えない空気の中で、なんとも言い出せずに湯の様子を見る少年。

 なんとも言わないサラは、ただその背を見つめ続けている。

 そして、一瞬逡巡するように視線を惑わせたあと、意を決したように声を出そうとして、

 

 

「うわあぁああぁあぁっ!!?」

 

 

 ──町中に響き渡る男の叫び声に動きを止めた。

 何事かと視線を交わす二人だが、小屋の中からでは何が起こったのかわかるはずもない。

 そう判断して、二人は揃って小屋を飛び出していく。

 そうして、沸騰する湯の音だけが家の中に取り残されるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 たどり着いた先では、大人達が一ヶ所に集まってなにやら騒いでいた。

 その騒ぎ方は昨日の楽しげでどこか緩やかなそれとは違い、切羽詰まったというか慌てふためいているというか、とにかく尋常ではないものだった。

 

 顔を見合わせた二人はとにかく何があったのかを確かめるため、集った町民達に声を掛け必死に落ち着かせようとしている神父の元へと駆け寄る。

 

 

「ジェームズ神父、これは?」

「ああサラ君、どうか君も彼らに言葉を掛けてあげてくれないか!私だけでは少し対応しきれないと思っていた所なんだ!」

 

 

 一切の理由を述べず、町民達の混乱を抑えることを優先するように言う神父。

 対するサラは表情を一瞬硬化させたあと、少年に「ごめん、ちょっとお願い」と声を掛け、神父の手を引きそのまま近くの小屋の影へと止める間もなく突き進んで行ってしまった。

 

 思わず呆気に取られる少年だったが、すぐに気を取り直して大人達を宥めるためにその渦中へと歩を進めるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……ジェームズ神父。あの場で子細を話すのは躊躇われるというのは伝わりました。ですので、こうして町民達から離れた場所へ誘導したのです。───話して、頂けますね?」

 

 

 まるで詰問するような態度のサラに思わずため息を溢しそうになった神父は、すんでのところでそれを堪えた。

 話が更に拗れかねないし、実際町民達の前で話をするのは躊躇われると思ったのも確かな話だったからだ。

 ──第一発見者の男以外に、直接あれを目にしたものはいない。

 それは発見場所が比較的教会に近かったこともあるが、それを衆目に晒すのは宜しくないと神父が真っ先にそれに布を被せて隠したからでもある。

 そして混乱していた男も真っ先に教会に保護したため、子細がどこからか漏れることも恐らくないだろう。

 ゆえに、今はまだ不安に苛まれているだけの町民達に余計な負担を掛けまいと詳しく説明するのを避けていた、というのが先ほどまでの神父の状況だった。

 だが、その結果として混乱した町民達に群がられているのでは意味がないというのがサラの主張だろう。

 だから、彼女は一度神父と町民達を引き離した。──自身がこの場で取るべき最善を模索するために、だ。

 

 

「いつもそうなら私としても有難いんですけどねぇ……」

「ジェームズ神父。私に対しての小言はあとでいくらでも伺います。ですので先の悲鳴の子細、お聞かせ下さいまし」

 

 

 なぜこの子は私に対してこんなに慇懃無礼なのだろうかとちょっとへこむ神父だったが、自身の心の安定よりは町民達の安寧を取る方が利口か、と思い直してことの子細を話し始めるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……死体が、見付かった?」

「形的にというか、量的にというか。恐らくは人間のものとおぼしきものが、ね」

 

 

 告げられた子細に閉口するサラと、一つ息を吐いて瞑目する神父。

 見付かったのはただの肉塊と化した、人間らしきものの死骸。人間らしき、というのは皮膚が腐り落ちて内部の肉が見えているせいで、実際には四肢のようなものがあるピンク色の肉の塊にしか見えないからなのだが。

 とはいえこの辺りに大型の猿などはおらず、また熊とは明らかに大きさというか手足の比率というかが違うように思えたため、消去法的に人の死体なのだろうという予測が立った、という面も無くはないのだが。

 そういったことを付け加えれば、伝えられた側の彼女はしばし沈黙したあと、

 

 

「……わかりました。であればジェームズ神父、祭儀の用意をお願いします」

「ん?……ああなるほど。確かに、今の騒ぎを抑えるにはそうした方がいいでしょうね」

 

 

 神父に対し、町民達へ祭儀を行うことを提案する。

 大勢の人間の混乱を一度に治めようとするのであれば、それに向いた行事を行うのが確実だ。

 幸いにしてそれを行うのに必須となる神職の人間は──、そっち方面の信頼の乏しいサラでは無理があれど、町民の信頼篤い神父がこうして戻ってきているし、開催場所となる礼拝堂の補修も都合よく昨日のうちに終わらせている。

 ある意味、機会を失っていた祭儀を再開するのにちょうどよい状態であると言えた。

 

 

「では、ジェームズ神父は先に教会へ。私は町民達をある程度落ち着かせたあと、彼等を連れてそちらに向かいますので」

 

 

 そこまで決めたのち、こちらに一礼を返してサラは足早に小屋の影から表に出ていった。……あまりに早いその退去に思わず小さくため息を溢す神父。とはいえ、神父としては別の気掛かりがあるのだが。

 

 

「……都合よく、ね。サラ君、君は何を知っているんだい……?」

 

 

 今のこの流れが『あまりにも都合が良すぎるのではないか』という神父の言葉は、誰にも届かずに宙に消えるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 久方ぶりに人を招き入れた礼拝堂は、いつかの祭儀の時のように厳かで、何者にも侵しがたい神秘的な空気を纏っているように思えた。

 ……思えば久しくこの空気を忘れていたな、と少年は黙考する。

 

 本来の正式な儀礼であればもっと凄いのだ、と神父はいつも悔しそうにしていたものだが。のちのちサラに聞いたところによれば、現在では進行上必要不可欠な部分が複数失伝しているらしく、完全な形で祭儀を行うことは事実上不可能だとのことだった。

 それを聞いた時、少年は思わず神父に憐れみの念を抱いてしまったものだが──。

 

 さて、完全な形を知っているらしい彼女が、初めてまともに手伝ったとも言えるこの祭儀は、果たして彼女の言う完璧な儀礼となっているのだろうか?……なんて、益体もないことを思わず考えてしまうのは、彼女が澄まし顔でピアノの前に座って厳かな曲を奏で続けているからだろうか?

 歌が上手いことは彼女の歌をよく聞く関係上知っていたが、まさか楽器の演奏まで上手だとは思わなかった、と少年は内心感嘆していた。

 ……反対に神父の方は楽器の演奏が壊滅的であったため、自身の代わりに楽器ができる者を探すのに腐心していた時期があるとかないとか聞いたこともある少年としては、見つかったのがよりにもよってサラだというのは彼にとって不運なのか幸運なのか、と遠い目をしそうにもなったが。

 まぁ、いつもより五割増しくらいに張り切っている神父の姿を見るに、嫌われているとかどうとかの前にちゃんとした祭儀ができる、ということの方が彼にとって重要そうだというのは確実だろう。

 そうして、祭儀開始の挨拶やらお決まりの文句やらを彼が満足いくまで(というと語弊があるが)こなしたあと、

いよいよ今回の本題である朝の出来事へと話題が及んだ。

 

 

「今朝、我が教会の付近にて、痛ましい事件が起きました。詳しい身元は分かりませんが、恐らくは近日行方が分からなくなった者の内の一人でしょう。彼がこういう形で私達の前に現れたことを、私は哀しく思います」

 

 

 その言葉に、町民の一部がざわつく。

 恐らく最近身内が行方不明になったことがある者達なのだろう、見るからに狼狽え、哀しみに涙している。それを、

 

 

「──ですが!神は祈る者を決して見捨てないでしょう。失われた命を、流した涙を!我らが神は、決して見逃さぬのです!苦難の中で、神の心を求めるのなら、神は必ずや、我らをお導き下さるでしょう!──さぁ、祈るのです。失われた者に、安寧を、安息を。天に、祈るのです」

 

 

 神父は熱の籠った言葉で慰める。

 一人、また一人と、目を閉じ頭を垂れ、祈りを捧げ始める町民達。

 神父はそれを見て目を細めたあと、振り返って礼拝堂の奥にある十字架に祈りを捧げ始めた。

 ……それは、「神が居なくなった」とされる今の世界で唯一とも言える、切なる祈りの姿であった。

 

 そうして、しばしみなが瞑目したのち。

 神父の儀礼の閉幕の言葉と共に、町民は一人、また一人と、盛んに言葉を交わしながら町へと帰っていく。

 そこに先程までの暗さは見受けられず、神父の言葉が彼らの不安を拭い去ったのだということが如実に感じられた。……だからこそ、とある一人だけが彼らと違う表情をしているのが殊更に目立ってしまうわけなのだが。

 

 そのとある一人はといえば、弾き終えたピアノに布を被せたあと、神父の元へと静かに歩み寄っていく。

 

 

「ああサラ君、助かったよ。君のお陰で町民達を安心させることができた、感謝しよう」

 

 

 気の抜けた笑みを浮かべる神父の前に立った彼女は、少年が一度も見たことがないような怒りを抑えた表情で。

 

 

 ──軽い音。

 

 

 それは、サラが神父の頬を右手で叩いた音だった。

 信じられない、とサラと神父を交互に見る少年と、何が起きたのか理解できていないように目蓋をぱちぱちと何度も開閉させる神父。

 そのどちらもを無視して、サラは吼えるように言う。

 

 

「──私は貴方を軽蔑します、ジェームズ神父」

 

 

 そう言い捨てて、彼女は礼拝堂の外へと足早に歩き去ってしまうのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「ああ、うん。私のことよりも、サラ君のことをお願いできるかな?」

 

 

 そんな神父の言葉を受けた少年は、サラを探して一人森の中を走っていた。

 あまりにも彼女らしくない行動だったものだからおろおろと慌てていた少年を、見兼ねた神父がこうして送り出してくれなければ、自分はいまだに礼拝堂で立ち止まっていたかもしれない。

 それくらい、先のサラの行動は少年に驚きと、少しばかりの恐怖を産み出していた。

 

 やがて、いつも二人が休みを取る小川の付近にたどり着く。

 はたして、彼女はそこに──いつもの岩の上で、縮こまるようにして膝を抱え、視線を明後日の方向に飛ばしていた。

 落ち込んでいるのか、はたまた悲しんでいるのか。

 そのどちらでもないのかも分からないまま、少年はサラに近付いていく。

 

 

「……私は、あの人を許せそうもないや」

 

 

 こちらが近付いてくるのを察知していたのか、彼女はポツリと呟くと目蓋を閉じ、苦笑いと共に開きながらこちらに振り向いた。……まるで泣いているかのようなその表情に、思わず立ち止まる少年。

 それに構わず、彼女は言葉を続ける。

 

 

「神の不在は、もはや隠しようもないもの。──光すでに亡き我らの世界において、それでも確かに、神の愛はあった。……あったんだよ、神の愛は」

 

 

 膝を抱え直し、視線を正面に戻しながらサラは言う。

 

 例え今は失われたものであっても、神の愛はあった。

 失われるその時まで、確かに神は人を愛し、人を想い消えたのだと。

 ……ゆえに、今は亡き神の愛を騙り、それを説く神父のあのやり方は、自分には絶対に許せるものではないのだと。

 そこまで語って、ちょっと照れ臭そうに、

 

 

「まぁ、私よりちゃんとした、もっとすっごいシスターからの受け売りなんだけどね」

 

 

 と微笑んでみせた。

 それから、町民を安心させるためにはああするしかなかったと一定の理解も示した。

 示した上で、やっぱり相容れないのだと彼女は苦笑する。

 

 

「あーあ、こうなるって分かってたからエセらしく振る舞ってたのに。……やっちゃったなぁ」

「……やっぱり、わざとだったのか?」

 

 

 あ、バレてた?と舌を出すサラに、ようやくいつも通りに戻ってきたと少年は苦笑する。

 

 

「知ってる?同じものを信じていても、喧嘩にはなるんだよ。解釈の違いとか、言葉の受け取り方次第で、ね」

「なるほど、今のサラと神父様はまさにってわけか」

「あ、やぶ蛇だった……」

 

 

 そうして、なんでもない話をして、なんでもないように二人は町へと帰る。

 ただ一つ、少年が問い損ねたことだけを置き去りにして。

 

 

 ───「神の不在」について、どうしてそこまで確定事項のように話すのかという、その問いを。

 

 



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四日目・?

 

 ───深夜。

 誰もが寝静まり、動くものの無いはずの時間。

 誰もいない森の中を、奥へ奥へと歩を進める黒い影の姿がそこにあった。

 

 灯り一つさえ持たずに進むその影は、どういうわけか迷いもせず、木の根に足を取られもせず、すいすいと軽快に森の奥へと進んでいるように見える。

 そうして奥へ奥へと進んで行って……、やがてその黒い影はとある場所にたどり着いた。

 

 ……そこは、森の奥にある町の共同墓地であった。辺りに人影はなく、獣の蠢きさえ聞こえぬその場所を月だけが静かに照らしている。

 

 黒い影はその墓のうち、適当なものの前に進むと、その根本を道具を使って堀り起こし始めた。静かな森の中に、土を掘り進める音だけがこだまする。

 ……やがて地面から出てきたのは腐って骨が見えてしまっている、人の右腕らしき塊。

 黒い影は現れたそれをまじまじと観察すると、軽く土を払って傍らに置いた袋の中へしまっていく。

 

 同じような作業を三回ほど繰り返した黒い影は、満足のいく結果が得られたのか掘った穴を丁寧に埋め直し、腐肉の詰まった袋とスコップを手早く纏めて墓地から離れていった。

 

 ……数分後。

 傍らの茂みから、一人の男が這い出してくる。

 どうにも黒い影のことを探っていたらしいその男は、丁寧に埋め直された墓地と、黒い影が去った方向へと視線を交互に飛ばしたのち、

 

 

「……やはり、君は……」

 

 

 堅い顔で呟いて、黒い影とは別方向に去っていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「おおおい大変だ大変だ!寝てる場合じゃねぇぞお前っ!!?」

「……なんだ、もう朝か……?」

 

 

 ベッドの中で寝ぼけ眼で少年が呟けば、見渡した小屋の中はまだ真っ暗で。

 はて、今日は日が昇る前に畑の様子を見なければならない日だったろうか、と状況を思いだそうとして──、

 

 

「いいから起きろっての!大変なんだよいいからさっさと起きろって!!」

「……?????ああ、すぐ行く」

 

 

 小屋の外で戸を叩きながらこちらのことを妙に急かす、隣の家の男の行動に首を傾げつつ外に出るための最低限の準備をして小屋を出た。

 そのまま、説明する間も惜しいと言わんばかりの彼に連れられて町の中央部へと走る。

 

 町の中央部には伝言板が備えられている。

 町からの重要な連絡や、その他の雑多なお知らせなどを記載するための場所だった。少年も時折、大人達の間で取り決められた約束事などを確認するために利用している。

 その伝言板の一画に、教会からの有難い言葉や次の祭儀の時刻を記すために設けられた場所がある。隣の男はそこに記されたものを指差していた。

 生憎薄暗くてよく見えないので、少年は伝言板に一歩近付き、書いてある言葉に視線を走らせる。

 意味が分からなくて目蓋を擦った。

 寝惚けているのかと自身を疑った。

 三度確認して、己の見間違いではないのだと思い知る。そこに書かれていたのは、

 

 

「……嘘、だろ」

「あ、おい落ち着けっ!……ってああ、行っちまった」

 

 

 男の引き止める声も虚しく、少年は教会へ向けて走り去ってしまう。男も滅多に見ない少年の全力疾走は、彼が大いに慌てていることを如実に示していた。

 伸ばした手は空を切ってしまったので、男は仕方なしに掲示板の方へと向き直る。……今、広場では大人達が集まって「嘘だ」「信じられない」なんてことを言い合っている。

 男だって信じてはいない。……いないのだが、教会からの連絡用の場所に文を書くのは、多く見積もっても二人。

 それが決まっているからこそ、悪戯目的でここに何かを書くような者がこの町にいない、ということもよく理解している。

 何せ、そんなことをすればすぐに誰がやったのかバレてしまうだろうから。

 ゆえに、書いてあることが本当かどうかはさておいて、記載内容が荒唐無稽と笑い飛ばせないものである、ということは事実なのだろう。

 だから男は伝言板に視線を向ける。

 沈痛そうな面持ちで、そこに書いてある言葉に渋面を向けるのだ。

 

 伝言板の一画。

 教会からの言葉を記す場所。

 そこに文字を書く者は二人しかいない筈の場所。

 そこには、こういうことが書かれていた。

 

 

『シスター・サラに罪の疑いあり。一晩の禁固刑にて、その罪科の是非を問う』と。

 



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五日目

「神父様っ!!」

「おおっ!?あ、ああ、君か……、早いというかなんというか」

 

 

 教会内の神父の居住区に、まさに扉を蹴破る勢いで飛び込んできた少年。

 その鬼気迫る表情に、しかし神父は苦笑を崩さない。

 

 

「どういうことですか!サラに罪の疑いがあるって!」

「……彼女が深夜徘徊をしていた、というのは知ってるかい?」

 

 

 問い詰める少年に対し、冷静に言葉を返す神父。

 少年は一瞬見廻りの事を思い出すが、それならば自身も早々に呼ばれているはずだと気付き、押し黙る。

 そうして落ち着いた少年を近くの椅子に座らせると、彼は用意したコップに水を注いで少年に差し出した。

 

 

「見廻りとは別。それが終わった深夜にね、彼女が町を抜ける姿を見たんだ。不審に思った私が彼女のあとをつけると、彼女が向かったのは共同墓地だった」

「共同墓地……?」

 

 

 深夜の森の中の、更に墓地などに一体何の用事があったというのか。

 少年が考え込もうとする前に、神父は答えを述べる。

 

 

「昨日の遺体を埋めた墓を、掘り起こしていたのさ」

「堀りっ……!!?」

 

 

 飛び出した答えに思わず息を飲む少年。

 一度埋めた遺体を掘り起こす?一体何を考えているんだ彼女は?!

 そんな少年の内心が表に出ていたのか、神父は小さく息を吐く。

 

 

「詳しいことはだんまりなんで分からないけど、外から来たサラ君の事だ。遺体を調べる技術とか、持っててもおかしくはない。たぶん、詳しい死因とか調べようと思ったんじゃないかな?」

「……死体から、そういうものが分かるんですか?」

 

 

 今度は別の意味で驚く少年。

 この辺りでは遺体の検分なんてものに縁はない。そもそもに医者がおらず、神父がその役目を兼任していたくらいなのだ。

 

 死体はあくまでも憐れな者の亡骸以上のものではなく、それを確かめようなどという思考そのものが存在していない。

 ゆえに、サラがそういう技術を持ち合わせているかもしれない、ということ自体が彼にとっては驚きの対象になっていた。

 

 

「まぁ、こっちではできる人の方が珍しいからね、私も人伝でそういう技術があるらしいと知っていただけだし。……ただまぁ、町民達にとっては違うだろう?」

「……あ」

 

 

 彼女がそういう技術を持ち合わせているかどうかは別として。

 墓を掘り起こしたということを知った町民達がどう思うかと言えば、間違いなくサラを非難・ないし侮蔑するだろう。

 遺体を調べるという知識が無いのだから、彼女の行為は死体を辱しめる行為にしか見えないはずだからだ。……知っていても争いは起こるが、知らない方がもっと争いが起こるものだ。

 

 

「だからまぁ。今回のはあくまでも、私から町民へのアピール以上のものは無いんだよ。今でこそ受け入れられているけれど、サラ君が余所者なのは一応の事実だからね」

 

 

 つまり、こう言うことらしい。

 サラが真相究明のために皆に黙って遺体を掘り起こしたので、それは決して遺体を冒涜するものではなく、あくまで彼女なりに考えて行ったことであり、町の人を故意に傷付けるために行ったことではないのだと知らせるため、敢えて伝言板に彼女が一晩牢に入れられるのだと記したのだと。

 無論、問題なんてあるはずもないので明日には無罪放免、彼女は外に出てきている──という寸法だ。

 

 

「とはいえ、彼女の意思の確認が取れていなくてね。悪いんだけど君、サラ君にその辺り確認して来て貰える?」

 

 

 そう言って、神父は地下への鍵を少年に渡すのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 ──子供の頃、悪いことをしたら牢に入れられるんだぞってよく言われていたっけ。

 

 そんな事を思いながら、少年は地下へと繋がる石の階段を降りていく。

 

 教会地下にあるそれは、元々は地上で何かあった時に非難するための場所だったのだそうだ。

 それが【大厄災】を機に役目を失い、巡り巡って、罪を告解した者達が一晩反省するための場所になったのだという。……ある意味、今のサラにぴったりの場所だと言える。

 

 とはいえ、一つだけ少年には気になっている事があった。それを問いただすためにも、と少年は一つ気合いを入れる。

 

 やがて、分かれ道にたどり着いた。右に進めば保存庫で、左に進めば牢屋だ。今は保存庫に用はないので、素直に左に進む。

 

 石のアーチが続くトンネルを抜ければ、少し広い空間に申し訳程度の鉄格子が備え付けられた一画に出る。

 

 ここが地下牢。

 今見ると随分安っぽいというか、ちゃちな造りの場所に見える。……昔は怖かったんだけどなぁ、と少年が奥に進めば、一番奥の牢の中、そこに備え付けられたベッドの上で、膝を折って膝下から足の甲をベッドにつけ、その足の裏の上に臀部をのせている──という、なんとも珍妙な座り方をしたサラの姿がそこにあった。

 

 ……確か、正座というのだったか。

 気を落ち着かせたり、考え事をする時などにするもの、らしいのだが。昔サラに教わって試した時には足が酷いことになって、とてもではないが考え事をするような余裕はなかった。

 こうして微動だにしない彼女を見るに、サラにとっては問題ないようだが。

 

 

「サラ、元気そうで良かった」

 

 

 少年が声をかける。

 すると、集中するように閉じられたサラの目蓋が開いて、視線がこちらに向く。

 

 ……冷たい目だった。

 思わず一歩後ろに下がる少年は、しかし頭を振って鉄格子に近付く。

 

 

「サラ、どうしてあんなことをしたんだ」

「……あんなこと、とは?」

 

 

 神父に対しての態度のまま固定されてしまったかのような彼女の態度に困惑しつつ、少年は答えを返す。

 

 

「そりゃ、墓を掘り起こしたことだよ。……死体を確かめようとしたんだろう?サラにそんな技術があるとは知らなかったけれど……」

「……なるほど、そういう……」

 

 

 返ってきた答えにサラは何かを納得したようにため息を漏らすと、決心したようにこちらに視線を向けてきた。

 

 

「──生憎ですが、私にその様な技能はありません」

「……は?」

 

 

 返ってきた言葉が少年の表情を凍らせる。……だって、じゃあ、なんのために?

 

 

「……掘り返したことは事実です、それが必要だったことも。ですがそれでも、私に検死技術がないのもまた紛れもない事実です」

「……っ、なんなんだよっ、その理由ってのは!」

 

 

 頑なな言葉を紡ぐサラの事が急に分からなくなって、少年は鉄格子にすがり付くように近付いて、彼女へと疑問をぶつける。

 ──その激情に帰ってくるものは凪。彼女は答えられないと首を横に振った。

 

 

「……っ、なんで……っ」

 

 

 ──俺にまで、そんな目を向けるんだ。

 そんな言葉は口に出せなかった。出した途端にどうしようもない亀裂が入って、どうにもならなくなる予感がしたから。

 それでも、少年はすがるように、彼女へと視線を向ける。

 

 いつの間にか、彼女は泣き出しそうな表情を浮かべていて。

 

 

「─────」

 

 

 ただ一言だけ呟いて、彼女は視線を少年から切る。

 もはや話すことはない、ここでお前にできることはないのだと拒絶するかのような態度だった。

 

 しばらく少年は彼女を見続けていたが、彼女がこちらに視線を向ける気配はなく。少年はふらふらと踵を返し、牢の出口を目指す。

 

 

「───ジェームズ神父には、それで構わないとお伝え下さい」

 

 

 その背に掛けられた言葉に一度だけ立ち止まって。

 その言葉になんの感情も含まれていないことに気が付いた少年は、逃げるように牢を出ていった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……それで?情けなくもうちに逃げてきたってワケかい?」

「……ああ」

 

 

 町の中心部から少し外れた一軒のパン屋の店内。

 ──キキばあの店に逃げるように訪れた少年は、その憔悴した様子から心配したキキばあに促されるままに店内に導かれた。

 その中で一連の流れを説明していたのだが、聞いているキキばあは話が進むほどに「心配して損した」とでもいうような態度になっていく。

 

 

「……はぁ。なんというか、ほんっ……とうに、あのお転婆娘は何回言っても聞きゃあしないというか……」

「……あの、キキばあ?」

 

 

 ぶつぶつと文句を言うそんな姿が不思議に思えて、少年が声をかける。

 その様子は先ほどと比べれば天と地で、話を聞いてやった甲斐はあったかねぇ、とキキばあは内心で安堵のため息を吐く。

 

 

「その、心配じゃないのか?サラのこと」

「ああ?!心配?!んなもんいつも掛けられっぱなしさね!毎度毎度わたしゃ血圧上がりっぱなしだよ!」

「お、落ち着いてキキばあ……」

 

 

 血相を変えて捲し上げるキキばあの様子に、思わず聞くんじゃなかったと後悔する少年。

 しばらくして、キキばあは一つため息を吐いて話を始めた。

 

 

「いいかい、あのお転婆は何かをしでかす気だ。もしお前があの子を大切に思うのなら、もう少し信用しておやり」

「しん、よう?」

 

 

 呆けたように呟く少年に、そうさとキキばあが頷く。

 けれど、もはや何を信用すればいいのか、少年にはわからなくなってしまっていた。

 

 

「神父様は、サラを庇おうとしてた。なのに、サラはそれを違うって言って、理由があるなら言えばいいのに、それさえしなくて……。俺、サラの何を信じればいいんだよ……」

 

 

 実際、何か理由があるのなら話せばいい。

 なぜ彼女は理由を話さないのか、

 なぜ彼女は墓を掘り起こしたのか、

 なぜ彼女は──あの時、泣きそうな顔だったのか。

 分からないから、少年はこうして俯くことしかできない。だから、

 

 

「そうさねぇ、理由を言わないのは……。──知られたくない相手がいるから、かねぇ」

 

 

 ──外からもたらされる手がかりに、視線を上げた。

 知られたくない相手。

 サラが墓を掘り起こした理由を、知られたくない相手がいる?いや、でも。

 

 

「そんなの、話してもすぐ神父様の話で上書きされるんじゃ」

「もうちっと頭を使いな坊主。ほっとけば理由の方は神父のでっちあげで町には広まる。なら、わざわざ本当の理由は別にある、だなんてことを言う必要はないんだ。黙ってれば無罪放免、真相は露と消えるわけなんだからね」

「いや、でも」

 

 

 今度は、自分に『違う』と示す必要がない。

 理由を隠しておきたいのなら、そのまま神父の言葉通りだと頷いておけばいい。……敢えて自分に『違う』と伝える必要はない。

 

 

「……坊主、ところでの話なんだがね?『サラが違う』って言ったこと、その内容を詳しく伝えられたかい?」

「……あ」

 

 

 キキばあの言葉に、少年は唖然とする。

 ……そうだ。確かに自分は神父に対して、サラの返答を『違うらしいけどそれでいい』と言っていたとしか伝えていない。

 無論、それはあくまでもサラが子細を話さなかったから起きたことだ。

 

 

「だけど坊主は、その子細こそ知らずとも『理由が違うこと』は知っている。──なら答えはそういうことさね、『理由は伝えられないけど、違うということは伝えたかった』。……さて、ここまで解いて坊主はどこに行き着く?」

 

 

 神父が提示した理由とは違う、そして理由は話せない。

 だけど、違うという事実だけは伝えたかった。

 ……なら、導き出される答えは一つだ。

 

 

「……理由を聞いたなら、俺は神父様にそれを教えるはずだ。──だから言わなかった。何故ならば、サラが理由を知られたくない相手が……神父様だから」

「そして、その疑いをアンタにも持って欲しかったから違うと伝えた。……大筋はまぁ、そんなとこだろうさ」

 

 

 ふん、と不満げに息を吐くキキばあと、信じられないと視線を揺らす少年。

 なぜなら、それが事実なら。サラが神父に対して、何か疑いを持っているということになるからだ。

 けど、なぜそれが墓荒らしと結び付く?

 

 

「さてねぇ?雑に考えるならその死体に神父が何かしら関わってるとかだろうが。……腐乱死体だったんだろう?噂がどうあれ、神父に結び付くか……までは私にも分からないねぇ」

 

 

 ロッキングチェアに揺られながら放たれたキキばあの言葉。その一部に、少年は違和感を覚える。

 

 

「……?いや、なんで疑問系なんだ?キキばあも居たんだろ、祭儀。なら、神父様から聞いてるはず……」

 

 

 町民全員を集めて行われた祭儀。

 その始まりの時に、神父は遺体が腐っていたということを皆に伝えている。

 だから、おかしいのだ。───「腐乱死体だったんだろう?」という問いかけは。

 

 

「いいや、私は行ってないよ。そもそも私は神職が嫌いでね、金を貰っても行く気はないさ。……そもそもの話、私の足じゃ教会までの道なんざ、途中で諦めちまうよ」

 

 

 返ってきた言葉に、少年は衝撃を受けた。

 キキばあは、あの場にいなかった?

 ごくり、と唾を嚥下する。

 

 あの時、サラは何を呟いたのだったか。

 それを思い出した少年の中で、一つの推論が浮かび上がる。

 そしてそれに付随するように、仮説が次々と組み上がり──、

 

 

「……いや、まだ足りない」

「あん?」

 

 

 キキばあの疑問の声には答えず、少年は黙考する。

 ───これはあくまで推論でしかない。答えだと示すこと、それができるだけのものでしかない。

 疑いが積み上がった、単なる『噂』でしかない。

 だが、だからこそ。それは光明として、彼の目前に浮かび上がった唯一の道だといえた。

 

 

「……ふん、なんだか知らないが調子が戻ってきたみたいじゃないか。話を聞いた甲斐があったってものかねぇ?」

「……ありがとうキキばあ、色々楽になった」

 

 

 小さく礼を返せば「礼はいいさ、またうちで何か買っていくんならね」とキキばあは笑う。

 ……あの娘にしてこの母有り、とでもいうのか。そんな風に思って、小さく笑みが漏れる。

 

 そうして、しばしの間共通の話題に花を咲かせる二人なのであった──。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 そうして、話題に花が咲いたまま夜になった。

 

 知らない仲でもないのだから泊まっていけ、と半ば強引にサラの部屋の鍵を受け取った少年は、思わずちょっとどきりとしてしまったあと、気を取り直して部屋に入り、あるものを探した。

 そうして目的のものを見付けると、確認したのち元に戻す。

 

 そのあとは、しばらくして夕食ができたと言うキキばあの言葉に階下へ降りて、彼女の作った料理を楽しみ、そのまままた会話に花を咲かせ──、

 

 

「……寝てしまったか」

 

 

 ロッキングチェアに揺られながら寝息をたてるキキばあの姿に小さく笑み、起こさないように毛布を掛けて部屋の灯を消す。

 そのまま、二階のサラの部屋へと、音を立てないように戻っていった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 ──そして、夜は更ける。

 

 人気のない店内は暗く、聞こえる音もキキばあの寝息だけ。

 遠く響くフクロウの声も、夜の静寂を破るほどのものではなく。……だから、その音は暗闇によく響いた。

 

 何かが地面を擦る音。

 ずる、ずるというその音は、最初は微かに。

 やがて近く、しかし微かなままに、夜の空気に響き渡る。

 何かを目指すように、ずるずると、微かに地面を擦る音だけを響かせて。

 

 やがて、店の前に一つの影が現れる。

 それは、黒いローブで姿を隠した何者か。

 それが、店外に繋がる戸を音を立てぬように通り、そのまま店中へと入ってくる。

 そして、まるで何かを探すように、一度頭らしき部分を左右に揺らしたあと、目的のものを見付けたのか移動を再開する黒い影。

 

 やがて、影はロッキングチェアで寝息を立てる、キキばあの前に立った。

 その影はしばし彼女を見つめるように佇んだあと、ゆっくりと彼女へと近付いていく。

 そして、その影の手らしきものが彼女の頬に触れようとした時──、

 

 

「ああぁあぁっ!!!」

「──っ!?」

 

 

 チェアの後ろに隠れていた少年が飛び出し、手に持った角材を影に振り下ろす!

 奇襲に成功した少年の攻撃は確かに黒い影に命中し、

 

 

(っ!?一発で折れた!?)

 

 

 驚愕する少年の目の前で真っ二つに折れてしまう。

 確かにいいところに当たった気はするが、幾らなんでも脆すぎやしないかと少年が気を散らした隙に、

 

 

「……っ、」

 

 

 黒い影は彼の脇を抜け、そのまま店外に飛び出してしまう。

 「待てっ!」と少年が叫ぶと同時、

 

 

「う、うおおぉ!神の敵めぇ!」

 

 

 という男の叫び声が外から聞こえた。

 同時、複数の人間が争うような音が外から聞こえてくる。

 ややあって、外の喧騒が収まると同時、店内に入ってくる人影があった。──そう、神父だ。

 

 

「すみません、逃げられてしまいました……」

「神父様、ご無事ですか!?それと何故ここに……?」

 

 

 面目ない、と頭を下げる神父を迎える少年。

 彼の問いに「君の見廻りの引き継ぎさ」と答えた神父は続けて言う。

 

 

「それより、ここの主人は?」

「……っ、そうだばあ様っ!」

 

 

 キキばあの安否を問われ、少年が弾かれたように店内のキキばあの元に走る。

 そして、驚愕した。

 あの一瞬で、キキばあの顔の右半分が爛れてしまっていたからだ。

 幸い見た目ほど酷い傷ではなさそうだが、それでもキキばあの意識は失われてしまっていた。

 

 

「──腐りかけている、のか?」

 

 

 後からやって来た神父が彼女の顔の傷を見てそう診断する。

 ……とにかく、彼女を休ませなければならない。

 そう判断した神父が彼女を抱え上げ、少年の方に視線を向ける。

 ある事実を、彼に伝えるためだ。

 

 

「それと、これはとても言い辛いことなのですが……」

 

 

 少年が続きを促す。

 ……次に彼が発する言葉を、ある程度予測しながら。

 

 

「サラ君が、地下牢からいなくなりました」

 

 

 ──返ってきた言葉は、おおよそ予想通りのものだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「明日の朝、山狩りを行おうと思います」

 

 

 教会のベッドにキキばあを寝かせた神父が、少年の方を振り返り告げる。

 告げられた少年は一度肩を震わせ、信じられないと神父に言葉を返した。

 

 

「神父様はサラを疑っているのですか!?」

「……サラ君が逃げたのは保存庫に隠されていた通路から。ゆえに、深夜の内に皆に知られず活動できたのは、現状彼女だけです。理由や手法は分かりませんが、彼女が犯人だという可能性が高いと言わざるをえません」

「そんな……」

 

 

 項垂れ、言葉を失くす少年。

 神父は彼に寄り添うように傍らに立ち、言葉を掛ける。

 

 

「安心なさい、神は全てを見ています。きっと、正しい裁決が下されることでしょう」

「神父様……」

 

 

 そして、一先ず落ち着くまでは一人にした方がいいだろうと判断した神父が部屋を離れる。

 一人取り残された少年は、しばし俯き続けていたが。

 

 

「……本当なのか?サラ、これが……」

 

 

 問いかけるように視線を上げる。

 先までの悲観はそこにはない。

 ただ、示されたある事実が、彼の意思を強く後押ししているのだった。

 

 



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六日目・①

 山狩りは、早朝から行われた。

 町民達は神父の言葉に半信半疑であったが、それでも『噂』の解決に繋がると言われれば大きな文句は出なかった。

 

 山狩り、などと言うと少し物騒に聞こえるが、その実単なる集団行脚である。

 人数を動員し、死角をカバーし、目的のものを見付けるために集団行動する──。

 ゆえに、そこには動員された人間達の団結が必要となる。

 

 ……そういう意味で、少年が山狩りに動員されないのは必然であるとも言えた。

 何せ、彼は今回の捜索目的であるサラと、殊更仲の良かったといえる人間である。

 仮に発見しても見逃してしまうのではないかと神父が危惧し、代わりに病人の面倒を見るように、と言いつけるのは自然な流れだった。

 

 キキばあが寝かし付けられたベッドの横で、時折彼女の様子を見たり、無事な方の額に浮かんだ汗を拭いてやったりする少年。

 ……顔の右半分を覆う腐食した部分は、当初感じた通り、見た目ほどの傷ではないらしい。

 時折寝苦しそうにしているものの、目立つ異常と言えばその程度で、見た目から予想される患者の恐慌は、一度足りとも目にすることはなかった。

 

 ……少年は知るよしもなかったが。

 顔の半分という、人体の表面積的に考えれば大部分が腐っているといえる状況で、それでいて命に全く別状がないというのは。

 それ自体が明確な異常であり、そこには必ず何か不審な点があると、疑って掛かってもおかしくないものだ。

 

 無論、少年にその知識はなく。

 彼にはただ、見た目より軽い怪我なのだろう、という単純な予測だけしかできなかったのだが。

 

 そうして、キキばあの面倒を見ていると。

 教会の窓の外を、黒い影が横切ったような気がした。

 

 

「……サラ?」

 

 

 少年にはそれが、サラが自分を呼んでいるように思えて。

 一瞬、キキばあに視線を向けて立ち止まる。

 ここで彼女の様子を見ることが、彼に神父が与えた仕事だ。

 けれど少年にとっては、サラの安否を確かめることもまた、重要なことだった。

 しばし躊躇ったあと、意を決して教会の外に飛び出す少年。

 

 ──その背を見送るものが居たことを、彼が気付くことはなかった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 森の中を、必死で駆け抜ける。

 辺りに町民の姿はない。

 追い込むように探す、という手法上、最初に探した場所への警戒は薄れるということだろうか。

 なんにせよ、追いかける黒い影が人気のない場所を選んで駆けている、ということだけは確かであるようだった。

 

 時折視界を横切る黒い影を必死に追いかけ、森を走る。

 途中で小川に出た時に追い付いたと思ったのだが、何故か黒い影は小川に出た途端に反対側の森に姿を隠そうとしていて、一瞬理解できずに立ち止まった少年を待つかのように森に佇む場面もあったが。

 結局はその影に追い付けぬまま、森の果て──底なし谷の前へとたどり着く。

 

 黒い影は、そのまま黒いローブが目に写っていたものだった。

 ……それが昨日のモノと同じかは分からないが、その中身が誰なのかは予想がついていた。

 ローブの下から腕が伸び、顔を隠していたフードを捲り上げる。

 

 

「……追い付かれちゃった。速くなったね、キミも」

 

 

 浮かべた表情は苦笑。

 追いかけっこでは負けたこと無かったのに、なんて嘯いて。

 彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「───サラ。話しては、くれないのか?」

 

 

 少年の問いに、彼女は首を振る。

 だがそれは、決して拒絶からくるものではなく、ただ──確信が持てていないから話せない、という感じのもので。

 

 

「積み上げたものはあるけれど、最後の一つが掴み切れない。そして……悔しいことに、これは多分、私じゃ掴みとれない。お互いがお互いを疑っているから、お互いに最後の一歩を踏み出しきれないでいる」

「……?……っ、いや、サラ、待て、待ってくれ」

 

 

 抽象的な事を言うサラを訝しむように見ていた少年は、彼女が一歩後ろに下がるのを見て狼狽する。

 彼女の視線が、微妙に自身を外れていることもその狼狽を助長した。

 

 だから、手の届かない距離を、どうにか詰めようと駆け出そうとして。

 

 

「……うん、ごめんね。それと、あとはお願い」

 

 

 そうして、少年の手が彼女に触れるよりも先に。彼女の体は背後へと倒れていって──、

 

 

「サラっ!!サラぁーっ!!」

「危ないっ!落ち着くんだ!」

 

 

 その手を捕まえようと飛び出した少年を後ろから羽交い締めにするのは、いつの間にか彼の背後まで来ていた神父だった。

 

 少年が暴れる間に、サラの姿は谷の淵へと消える。

 どうにか神父の手を振りほどいて、淵まで駆け出し、乗り出すように谷底を覗き込むも。

 一年中深い霧に覆われるがゆえに底なしの谷と呼ばれるその谷の終点は、白く曇って目視することすらままならず。

 

 

「サラ、なんで……」

 

 

 焦点の合わない目をしながら俯く少年の傍らで、神父は足下に何かが落ちているのを見付ける。

 

 そこにあったのは、今谷底へと身を踊らせた彼女がいつも身に付けていた、野暮ったい黒縁のメガネ。

 

 

「……遺品、ということになるのでしょうかね」

 

 

 ぽつりと呟いた神父もまた、谷底へ視線を向ける。

 ───深い霧は渦巻き、そこに何があるのかを決して見せようとはしなかった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 中身のない棺が、こんなにも空しさを煽ることを、少年は生まれて初めて知った。

 

 

 あれから町民達を教会に集めた神父は、森の中でサラを発見したこと、そのサラが発見した自分と、少年の目の前で谷底に身を投げたこと。棺に納められたメガネが、彼女が唯一残したものであることを伝えた。

 

 

「また、深夜私が確認した黒いローブのものと、彼女が纏っていたローブは同じものでした。──恐らく、『噂』の元となったのも彼女でしょう」

 

 

 例の『噂』が始まった時期と、彼女が町に訪れた時期は一月ほどずれている。……確定事項と語るには怪しいが関連性がないと言い張るには微妙なその時期のずれを、神父は『噂』の準備のための期間だったのだろうと推測する。

 

 集められた町民達は当初疑問の声を上げていたが、静かな声で淡々と、そして穏やかに告げられていく神父の言葉に、次第に一つ、また一つと騒ぐ声はなくなっていった。

 

 ──そうして、中身の無い棺を見送り、サラの葬式は静かに終わりを見せたのだった。

 

 棺に近寄る町民達は、小さな困惑と大きな哀しみをもって、主の居ない棺の中に献花をしていく。

 その中に誰一人としてサラに対しての罵倒を述べるものがいなかったのは、彼女が町民に愛されていたからか、はたまた──。

 

 最後の一人が献花を終え、教会から去っていく。

 あとに残されたのは、意識の無いまま車椅子に乗せられたキキばあと、その車体を押して棺の前までやって来た少年だけ。

 

 その様子を背後から見守っていた神父はといえば。

 最後の町民が見えなくなってから、後ろ手に教会の戸を閉めた。そのまま、未だに棺に祈り続けている少年の後ろへと歩み寄る。

 

 

 ───そして。

 

 

「───できるならば、私の手で神の御許へと送ってあげたかったのですが。まぁ、不信心者が一人消えたことは喜ばしいと言えるので問題はないでしょう」

「……神父、さま?」

 

 

 聞こえてきた言葉に思わず信じられないと振り返る少年。……だが、すぐに彼は振り返らなければ良かったと後悔する。

 彼の視界に入ったのは笑っている筈なのに、醜悪だとしか呼べない顔で、中身のない棺に視線を向ける神父様(化け物)の姿だったのだから。

 

 

「……その顔を見せるということは、もう隠す気はないのですね」

 

 

 そんな顔を見てしまった少年は、しかしすぐさま落ち着きを取り戻す。……そのことが神父には面白くなくて。

 

 

「いつ気付いたのです?私は貴方の前でぼろを出した気は一切ないのですがねぇ?」

 

 

 彼を睥睨し、詰問するように問いかける。少し気圧された少年は──それでも気を振り絞り。

 

 

「全部サラが教えてくれた」

「へぇ?どうやって?」

 

 

 返す言葉に首を捻る神父。

 彼が見た限り、そんな疑惑を伝えられるような時間はなかったように思う。

 だが、確かに。

 少年にとって、答えはサラが教えてくれたも同然だった。

 

 

「一つ目は態度。サラの言葉によれば貴方と彼女の軋轢は、互いの神への解釈の仕方によるものだとのことだった」

 

 

 ──神父のそれは、亡きモノを騙るもの。

 その欺瞞を許せぬと彼女は言っていたが。

 果たしてそれは、本当にそれだけのことだったのだろうか?その差異を語り、疑問を生じさせるためのものでもあったのではないだろうか?

 

 

「二つ目はタイミング。俺達が礼拝堂を修繕した次の日、貴方は帰ってきた。──そして都合よく、礼拝堂を使う機会が訪れた」

 

 

 修繕の切っ掛けを作ったのは少年だ。

 だがそれは、切っ掛けがたまたま少年になったというだけで、他の何があったとしてもあの日に修繕を行う気が最初からあったとすればどうだろうか?

 ──それは都合がいいのではなく、わざと都合を合わせたのだと言えないだろうか?

 

 

「三つ目は違和感。神父様、貴方はキキという名前に聞き覚えは?」

「はい?……ああ、サラ君の懇意にしている方でしたね。それが何か?」

 

 

 ……少年は小さくため息を吐く。

 それは、キキばあが言ったこと、そして神父の態度に関わることだ。

 

 

「もう一つ質問です。町民達からの貢ぎ物のパン屋。……どこにあると思います?」

「………は?」

 

 

 あの時キキばあはこう言った。「祭儀なんて頼まれても行く気はない」。

 そして、神父は貢ぎ物のパンを受け取ったことはあっても、それがキキばあの作ったものだと知らず、そしてその住居を知らない。

 

 後から町の人に聞いたところによれば、キキばあはその大の神職嫌いを周囲に公言して憚らず、仮に貢ぎ物に使うのなら自身の名は絶対に出すな、と口酸っぱく町民に勧告していたほどなのだという。

 

 ゆえに彼はキキばあがパン屋であることを知らず、仮にサラから名前を聞いたことがあっても、それが貢ぎ物のパンとは結び付かない。

 

 ……そう、彼にとってはパン屋の主人とは、決して祭儀などに顔を出さない誰か、でしかないのだ。だから、

 

 

「今こうして俺の横に居る人が誰なのか知らない。……知らないから、サラがやったといえる」

「……つまり、彼女が」

 

 

 神父は小さく舌打ちをした。あまりに迂闊だったと気付いたのだろう。

 サラとキキばあの関係とは、喧嘩はしても決して傷を付けるようなことはしない、仲良く喧嘩するを地で行くような間柄だというのは周知の事実であるのだから。

 ゆえに、彼女がキキばあを傷付けるためにやってくるなどあり得るはずがない。

 

 あの時黒い影が、何かを探すように視線を彷徨わせていたのも理由の一助となった。

 ──暗い森の中ですら一歩を躊躇わない彼女が、暮らし慣れたキキばあの家を見知らぬ場所のように探るなんてことをするはずがないのだから。

 

 

「そして最後。これが一番重要なのですが──、『キキばあをお願い』、そう頼まれました」

 

 

 最後のピースは、言われた時は意味に気付けなかった言葉。

 あの時彼女が呟いた言葉は泣き出しそうなその顔と共に自身に届いてはいたが、それの解釈ができないまま少年はキキばあの店に逃げていた。──キキばあの店に逃げたからこそ、繋がった。

 

 

「あの言葉と表情に嘘はなかった。だから『キキばあをお願い』という言葉は信用できた。──信用できたから、逆算できた。なんで、キキばあをお願いされたのかを」

 

 

 神父の神への解釈は今もなお神は居て、こちらを見ているというもの。──それは裏を返せば、今なお神への不義理は許されるものではない、という苛烈な価値観だとも言える。

 

 礼拝堂の修繕は、最初から疑っていたから。

 神父が戻る前を見計らって、彼の神への態度を測るための舞台作りのためのもの。

 

 そして、恐らくは初めて。ちゃんとした祭儀を行ったことによって、彼にとって祭儀に参加しなかったものを、不義理と認める機会が生まれた。

 

 そこまでまとめれば、あとは杜撰でも構わない。

 サラの言葉は「自身の居ない間、キキばあを頼む」と解釈ができる。

 少年にはそれだけで十分だった。そして、黒い影の来襲によってそれは確信に変わったのだ。

 

 

「俺はサラを信じたかった。だから信じた、結局はそれだけの話ですよ。……神父様」

 

 

 その言葉には躊躇いも、疑いもなかった。

 一つのものを信じる、切なる想い(信仰)の形がそこにはあった。そしてそれを目の当たりにした神父はといえば、

 

 

「……はぁー……。ようやっと邪魔者を排除できたと思ったら、その意思を継ぐものがいる?……訳が分かりませんねぇ道理が足りませんねぇ、神の愛は普遍しそれ以外の愛は全て無駄だというのに、よりによって、異性愛?………ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなこの不信心者がぁっ!!!」

 

 

 突然、狂乱する。

 その変貌ぶりに少年が思わず一歩下がれば、神父だったものは構わず言葉をぶちまける。

 

 

「特に特にぃっ!!!貴方には生まれた時から特別に神の愛を教え与えたというのにぃ、たかだか三ヶ月程度共に過ごしただけの毒婦に誑かされぇ、あまつさえ自分から神の愛を捨てるぅ???

……ああダメですね罪深い裁かねば今すぐここで神の身許へ!送って!差し上げましょうかぁ!!!」

「っ?!」

 

 

謎の悪寒に任せてキキばあを庇うように地面に飛び込む少年。

 

 

憐れみを(amen)んんんっ!!!!」

 

 

 対し神父が何事かを叫び、右腕を振るう。

 直後、少年の頭上を不可視の何かが横切り、

 

 

「嘘だろ……!?」

 

 

 伏せた少年が見つめる先で、礼拝堂のピアノが腐って崩れ落ちた。───自然現象ではない、それは明らかな異常だった。

 

 

「嘘では有りませんよぉ?ええ、ええ。最後ですから教えて差し上げましょう。あの毒婦と、君。……ああそれからその老婆もですか。この町の中で、神の不在を信じる者はそれだけだった。──それだけだったのですよ、そう!!不信心者は、お前達だけだったのだっ!!……不信心者に戻る肉など要らぬのですっ!!腐って崩れて滅びてしまうがいいぃぃいっ!!」

「っ!!」

 

 

 いつの間にか近付いてきていた神父が腕を伸ばす。

 虚を付かれた少年は、とにかく傍らのキキばあを守るために彼女を抱え隠し。

 

 

「──『人を喰わねば生きられぬ【モノ】がいる』」

「────っ!?」

 

 

 そして、今にもその手が少年に届くというその時。

 低い、低い声が周囲に響き渡った。

 それはまるで、あの世を彷徨う幽鬼が、地の底から生者に呼び掛ける時のような、おぞましき声。

 

 ……けれど、この世にもあの世にも、もはや亡者共の姿どころか、あらゆる超常の影姿も残っているはずがなく。

 なればこれは、紛れもなく『今』を生きるモノの──カタチある声。

 

 気が狂ったのかと己の理性を逃がすことも叶わず、

 気が迷ったのかと己の理性を確かめることも叶わず。

 ただ、近付いてくるその声に恐怖するよりほかない。

 

 

「───っ、誰が、誰が何を恐れると言うぅっ!!我は神の代弁者にして代行者ぁっ!!我が神の威光の前にぃっ、あらゆる不徳は正されるが定めぇっ!!姿を見せよぉっ、不信心者ぁっ!!」

 

 

 神父が叫び声と共にがむしゃらに腕を振り払えば、たちまちにして周囲の椅子や机が腐り、朽ち果てていく。

 傍らの少年にできることはその狂乱に巻き込まれぬよう低く身を屈め、自身と意識のないキキばあの身を守ることだけだ。

 

 

 ───それでも、声は止まらない。

 

 

「『人を喰らうために あらゆる不徳を喰らうモノがいる 人を喰らうために あらゆる美徳を喰らうモノがいる そこに善悪の違い無し それは摂理であり 必然である』──食事を邪魔されたのなら誰だって怒る、っていうね」

「……っ!?この声っ……!?」

 

 

 そこで初めて、二人は視線を外に向けた。そう、その声は教会の外からのものであった。

 

 ──町民はすでに町に戻った。

 そうなればかつて『彼女』が言った通り、この寂れた教会に来る物好きはここにいる少年と、『ここで働いている』者くらいしかいない。

 

 そう、今目の前で困惑の表情を浮かべる神父と、もう一人の『彼女』しか。

 

 思わず莫迦な、と神父が溢し、あわせて少年が小さく息を呑む。

 聞き間違える筈がない。

 何故ならそれは、少年にとってのそれは。

 

 

「人ならぬモノ全てが喰い殺されたこの世界で、人ならぬモノからの福音が消え去ったこの世界で。仮にその【モノ】に名を付けるのなら……、そうね。───【殺人鬼】、なんて名前がいいんじゃないかしら?」

 

 

 瞬間、教会の重厚な扉がまるで枯れ木のように弾け飛び、外から黒い影が教会内へと突っ込んでくる。

 それは神父から入り口までの距離をまるで稲妻の如き速度で詰め、大きく踏み込んだ左足からその速度を全て拳に乗せ替え、無防備な神父の横っ面を力任せに殴り抜いた。

 

 人間が鳴らしていい音とは思えない、壊滅的な破壊音と共に壁へ向かって吹き飛んで行く神父。

 彼は教会の壁にめり込むようにしてぶつかり、かつそのまま壁を崩落させその瓦礫の中に埋まっていった。

 

 そこまで見届けて、少年はようやく視線を上げる。そこに、見知った顔があることを期待してだ。

 

 そして確かに、そこには見知った顔が──、天使のような顔で悪魔のような不敵な笑みを浮かべる、知り合いのシスター(サラ)の姿があったのだった。

 

 



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六日目・②

「……間一髪、ってとこかな?」

 

 

 振り抜いた拳を開き、自身に付いたほこりをのんきに払いながら棺の中の黒縁メガネを取るサラ。

 数刻ぶりに彼女の顔に収まったそのメガネは、どこか誇らしげに見えた。

 

 できあがったその姿は、不自然なほどにいつも通りの彼女の姿で。

 ゆえに少年はそれが、彼女がこちらに気を使って意識的に行っているものだと気付く。

 

 

「……ん、ただいま」

「……バカ、呑気なこと言ってんじゃねぇよ……っ」

 

 

 チラリとこちらを向いた視線が以前のような冷たいものじゃないことが、少年には何より嬉しく思えてしまう。

 そんな二人の会話を、

 

 

「………ああぁあぁっ!!!不愉快不愉快不愉快不愉快ぃぃいっ!!」

 

 

 瓦礫を吹き飛ばしながら現れた神父が邪魔をする。

 見れば彼の瞳孔は開ききり、口からは煙のようなものが立ち上ぼり。顔中に、異常に膨れ上がった血管が浮き上がっていた。……鬼相というのはこう言うものをいうのだ、そう思ってしまうような異様さだった。

 

 

「……私には一つ、確信を持ちきれなかったことがあった。共同墓地を暴いてなお、わからないことがあった。──それは今はっきりした。だから、私は貴方に告げましょう」

 

 

 対しサラは、そんな彼を指差し、告げる。

 

 

「対象・【殺人鬼】:形式名【腐臭の夢想家(イディオット)】。───貴方の罪科を、神に代わり裁きましょう」

「やって見せろこの毒婦がぁああぁっ!!」

 

 

 その言葉が、戦端を開く狼煙となった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 先手を取ったのは神父だ。

 とはいえ、彼が腕を振るえばそのまま攻撃となる関係上、離れた場所から先手を取るというのは彼の特権となる。

 

 全てを薙ぎ払うように一文字に振るわれた右手から、不可視の何かが飛び出す。

 サラはそれを目視するよりも速く、少年とキキばあを抱えて椅子の後ろへと飛んだ。

 転がるように他の椅子を弾き飛ばしながら背後を見れば、先程まで三人が居た場所は一様に腐り落ち、先の一撃が防御できるようなものでないことを示していた。

 

 

「とはいえ……」

 

 

 瞬時に腐るその速度こそ驚異であるが、不可視の何かそのものの速度は、そこまで速いものではないように見えた。……速くなくとも効果範囲が広いので、それに意味があるのかと言われれば少し疑問でもあるのだが。

 その様な事を考えつつ、サラは二人を抱えたまま教会内を駆ける。

 

 

「逃げるばかりですかぁ!!?いいからさっさと土くれに還れ(amen)んんっ!!!」

 

 

 その背を追うように、神父の腕が振るわれる。

 壁に着弾した何かが次々と壁に穴を開けていく。

 ……今でこそ逃げ切れているが、この鬼ごっこがいつまでも続けられるとは少年には到底思えなかった。

 神父は腕を振るうだけでいい。

 サラは二人を抱えて走り続けなければならない。

 ──どちらが先に根を上げるのかは、明白だろう。

 

 

「……サラっ!俺を離せ!それならなんとかなるだろ!?」

「バカな事言ってないでいいから口閉じてて!舌を噛むわよ!」

 

 

 堪えきれずに少年が叫べば、対するサラも大声で叫び返す。

 ……その声の余裕のなさがどこか不自然に思えて、それを問おうとした矢先、

 

 

「っ!」

「ぐっ!?」

 

 

 サラが急制動し、立ち止まる。

 何事かと視線を巡らせれば、神父が進行方向に何かを放ち、強制的に立ち止まらせていたのだった。

 ……激情しているように見せて、その実こちらを仕留める機会を淡々と狙っていたのだ、神父は。

 

 

「甘くみないでほしいものですねぇ?別に楽しむつもりは有りませんから、いつでもすぐに終わらせられるんですよぉ?」

「──甘く見てなんかないけど?」

「……はぁ?」

 

 

 こちらを訝しむように見る神父に対し、サラは拾った瓦礫を投げつける。

 無論、当たるはずもなくそれは避けられ、

 

 

「苦し紛れですかぁ?!無駄な事を……」

「───最初の内激情してたのは本当。でしょ?……だから、今のを避けちゃうのよ」

 

 

 避けられた後ろで、『半壊した』柱に当たる。

 ──教会内にちょうどよく盾になるものはほぼない。

 だからこそ、最初の内にサラ達が隠れた場所に掠めるように放たれた何かは、いつの間にやら教会の骨組みを腐らせており、

 

 

「……っ!しまっ、」

「だから、こうなるのよ」

 

 

 ダメ押しの投擲が柱を割ると同時、教会は音を立てて崩れ始めた!

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「上手いこと誘導できて良かった、かな?」

 

 

 投擲と同時に教会の外へと飛び出したサラが、崩れた建物を前に言う。

 縦横無尽に駆け回って神父の目を眩ませた彼女は、その速度に彼が慣れる頃を見計らっていたのだった。

 結果として彼は瓦礫の下、というわけだ。

 

 

「とはいえ、まだ終わりじゃないでしょうね。……キミ、キキばあと一緒に下がってて」

 

 

 サラに言われ、素直に教会から離れる少年。

 ……教会を崩したのは、自分達が逃げる時間を稼ぐためだろう。その行為を無駄にすることはできない。

 だから彼は小さく頷いて、キキばあを抱えて離れて行くのだった。

 

 

「さて、と」

 

 

 それを横目に、彼女はスカートを翻す。

 顕になった太ももには、一つの黒いベルト。

 そこに納められた黒い木のようなものを、彼女は取り出して手に取った。

 

 それと時を同じくして、瓦礫の一角が吹き飛ばされる。

 煉瓦や椅子の破片を舞い散らせながら出てきた神父は、しかし服が所々破けてしまっている程度で、負傷らしき負傷は見られない。

 そして、その眼もまた、死んではいなかった。

 

 

「さぁ、続きといきましょうか?」

 

 

 瓦礫の上からサラを睥倪する神父は、両手を彼女に向けて振るうことで答えとした。

 放たれた何かは先程までよりも大きく、速く、

 

 

「──シッ!!」

 

 

 ───彼女に触れる直前で、断ち分け(車/斤)られた。

 

 神父が息を呑む。

 それは、理解の範疇外の結果だった。

 何かを犠牲にして防御するのは分かる。

 当たらないようにと逃げ回るのも分かる。

 だが、真正面から──それも、手に持った仕込みナイフで斬って捨てるなど、理解しろと言う方が間違っているようなものを突きつけられて、一体どう反応しろと言うのか。

 

 

「──呆れた。貴方、私のこと疑ってたんでしょう?なら、同じ穴の狢だって考えなかった?」

「──っ!!?」

 

 

 そうして神父が驚愕している内に、いつの間にかサラが目前に現れていた。

 こちらを小馬鹿にするような、はたまた憐れむかのようなその視線から、逃げるように一歩下がる神父。

 対するサラは、手の中のナイフを、──光を反射しない真っ黒な刀身を持った仕込みナイフを、彼へと向け、言う。

 

 

「私はサラ、サラ・ウインドエッジ。───【殺人鬼喰らいの殺人鬼】。貴方の終わりを看取る、最悪の殺戮者よ」

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「殺人鬼喰らいの殺人鬼……っ!?」

「……その反応で最後の疑問も解けたわ。うん、これで憂いなく──食事(殺害)ができる」

 

 

 困惑する神父の姿に、何事かを納得した様子のサラ。

 対する神父は途端に、目の前に居る女が化け物以外の何者にも見えなくなっていた。──何故、こんな化け物が。

 

 

「……みぃとめなぁいいいっ!!!わたしはぁ、けぇしてぇぇぇえっ!!!」

 

 

 恐れを振り払うように、彼は腕を振るい、

 

 

「──【嘴突(しとつ)】」

 

 

 それより速く、彼女のナイフが彼の胸の中心部に当たった。

 

 ……そう、当たっただけだ。

 それは決して、彼の肉体を傷付けることも、──薄皮一枚だって切り裂けていないというのに。

 彼には今、自分の中の命が終わったことを、まじまじと感じとる事ができた。

 

 

「……あ、」

「──どうしても、理解できないことがあった。【殺人鬼】が起こす事件にしては、あまりに迂遠。いつ【殺人鬼(そう)】なったのかは知らないけれど。私にはあの噂が──貴方の命を繋ぐためのものだとは、ついぞ思えなかった」

 

 

 自身が【殺人鬼】と区分されているということを知らず。

 【殺人鬼】にとっての殺人がどういうものなのかを知らず。

 そして──そもそもの食事(殺害)の仕方を知らず。何も知らない幼子のような神父の姿に、彼女は困惑しきっていたのだ。

 

 

「恐らくは、最初の殺人(それ)は偶然。たまたま噛み合って、スイッチが切り替わって。……正解がわからないまま、苦しみ続けたのね」

 

 

 彼の正解は、不義を働いた者。

 そしてそれは、正解であっても最善では無かった。

 あの時掘り起こした死体が、殺されてはいても殺さ(喰わ)れてはいなかったことからも、それは伺えた。

 

 ……そう、彼は【殺人鬼】として餓えていたのだ。

 それも、恐らくはずっと昔から。

 

 

「私があの時墓場で探していたのは、貴方の前任者の神父の遺体。案の定、その死体は『腐ったまま』そこにあった。──【殺人鬼】が食べ損ねた遺体特有の、異常に掛かったままの姿でね」

 

 

 あの時見付けた遺体は、噂の元となった遺体と、先日の腐乱死体。

 ……そして、身元不明の腐乱死体の三つ。

 最後の遺体が腕とおぼしき場所にロザリオを握っていたことが、彼女に一つの確信をもたらしたのだ。

 

 

「あとは貴方の疑いを利用して、わざと地下牢に入ったってわけ。……ほぼほぼ確信できていたけれど、もう一つだけ確かめなきゃいけなかったから」

 

 

 わざわざ使ったローブを神父に渡したのは、それによる偽装工作を期待してのこと。

 彼が自分を疑っていることは知っていたから、それを使っての排除に乗り出すだろうと思ってのことだった。

 一つ誤算があるとすれば、最初に庇うような話を持ちかけられたことだろうか。

 

 

「貴方の正解が不義者だと確信していた私からすれば、あそこで庇われるのは想定外だった。……本当に貴方がそうなのか、一度立ち止まって考え直してしまうくらいには、ね。……結局、私じゃなくてキキばあを襲ったから確信は取れたんだけど」

 

 

 始めに襲われるのは明確な教義の対立者たる自分だろうと思っていた彼女からしてみれば、あの場にキキばあがいなかったこと──、それが不義に繋がるという想定に至ったということは、寝耳に水も良いところだった。

 ……思わず、少年に冷たい態度を取ってしまう程度には。

 もっといいやり方があったのでは、と少し反省したりもしたものだ。

 

 

「あとは──私が問い詰めた所で本心を表さないだろうと感じたから、谷底に飛び降りておしまい、後の追求を彼に任せてね。……本来自分側の人間の裏切りなら、本音を引き出せると思って、ね」

 

 

 悪い奴でしょ、と笑うサラに、神父は穏やかに微笑み返す。

 何故、そこまでしたのかが分かってしまったからだ。

 

 

「──貴方の信仰は本物だった。【殺人鬼】の本能に従うなら、少しでも疑う者(不義者)がいれば皆殺しにしてもおかしくなかったのに。貴方は最後まで、神の不在を信じるものだけを排除しようとした」

 

 

 最後まで。

 彼は、己の本能に従った殺戮をよしとしなかった。

 推定される状況を省みれば、本当に狂乱してもおかしくない状況だったというのに。

 実際、もってあと数日──、仮にサラ達を殺せたとしても、それが食事(殺害)になっていなければ結果は同じだっただろう。

 狂乱し、苦しみ抜いて──町ごと消えていたはずだ。

 この世界における一般的な【殺人鬼】とは、そういうものなのだから。

 

 

「だから、私は彼を帰らせたのよ。──貴方の答えは、彼には重すぎる」

 

 

 神父の居なくなったこの町は、やがて神の不在、その真の意味を知るだろう。

 ……その時、この町に救いを与えられるのは一足先にそれを知って、なお祈りを欠かさない彼以外に存在しない。

 だがもし──彼が神父の真実を知ってしまっていたとしたら。

 彼は神父の意思に殉じ、居ない神を信じ続ける道を取っていたかもしれない。───それは、あまりにも残酷な道だ。

 

 

「ふ、ふふふ。全く、どうしてこう……」

 

 

 心底おかしそうに神父は笑う。

 ──化け物だと、確信したというのに。

 

 

「嫌われ者を進んでやるのは、余りいいこととは思えませんねぇ」

「──誰かがやらなきゃいけないんでしょ、こういうのは」

 

 

 違いない。神父は小さく笑う。

 鼓動はもう止まりかけだ、恐らくはこの意識ももう途切れるのだろう。

 ──先代との諍いから始まった長い苦難の日々も、どうやら終わりを迎えようとしているようだ。

 

 

「では、最後にお一つ」

「はい?」

 

 

 だから、最後にこの敬虔な化け物(信徒)に、一つ問い掛ける。

 恐らくは、誰よりも優しいこの化け物に。

 

 

「貴方は、どこまで行くつもりなんです?」

 

 

 その問いに、彼女は少し呆けたような顔を見せたあと、ちょっと照れ臭そうにはにかんで。

 

 

「『世界の果てまで』。───そういう風に、約束したから」

 

 

 そう笑う彼女の隣に、見知らぬシスターが見えた気がして。

 だから神父は、納得したように頷いて。

 

 

「なるほど。それは、遠いですねぇ」

 

 

 そのまま、幸せそうに微笑んで、その命を終えた。

 それを見送ったサラはと言えば。

 

 

「そう、遠いのさ。じゃあ───ごちそうさま(amen)

 

 

 一つ言い置いて、踵を返す。

 神父の遺体は、いつの間にか煙のように消えてなくなっていた。

 

 



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章末

「──ん」

「っ、キキばあ!」

 

 

 キキばあを背負いながら森の道を行く少年。

 その背の上で、小さく身じろぎをする彼女に気付き、少年は急いで近くの木の影に駆けよって、彼女を背から下ろし、木の幹に背を預けさせる。

 

 ──見れば、腐食していたはずの彼女の顔の右半分が、まるで腐食していたという事実さえ無くなったように、綺麗なものに戻っていた。

 

 

「──ったく、上手くやったみたいだねぇ、あの子は」

「キキばあ、喋って大丈夫なのか?」

 

 

 目蓋を開けたキキばあは小さく頭を振ると、空を仰いで一つ息を吐く。──姿形こそ元に戻ったが、その姿は殊更に年老いて見えた。

 

 

「やったって……」

「さてね。あの神父をどうにかした、ってことだろうよ」

 

 

 視線を移しても、ここから見えるのは崩れた教会の一番上──、教会という建物を象徴する十字架だけだ。

 それより下は、木々に隠れて伺うことはできない。

 

 

「──外に出た娘の訃報が届いたのは、随分前のことさ」

「……え?」

 

 

 だから、突然の告白に少年は困惑する。

 それに構わず、キキばあは話を続ける。

 

 

「嫁にでた、なんて町のみんなには誤魔化したもんだが。……ほんとはね、うちの娘はよその教会に行ったのさ」

 

 

 娘が恋をして嫁ぐように出ていった先は、教会。

 神の花嫁として、彼女の娘は出ていった。

 伝書鳩なんて洒落たもので時折報告を寄越してくる娘を、彼女は時に文句を言いながら、時に安堵するように待ち続けたという。

 

 ところが五年前。

 その連絡がぱったりと途絶えた。

 最初は単に忙しいのだろうと思っていたのだが……、

 

 

「ある日突然、ここの神父とは別の神父がやってきてね。……殺されたって話だった」

 

 

 ある日突然娘の訃報を告げられた。

 夫と早くに死に別れた彼女にとって、唯一の肉親だった娘は、勤めていた教会で事件に巻き込まれ、その命を散らしたのだという。

 無論、彼女はその神父に詰め寄った。

 

 何故、どうして。

 ──黙し語らぬその神父に有らん限りの罵詈雑言を投げ付けて──それきりだ。

 そもそもに娘が教会に行くことを反対していた彼女は、すっかり神職というものに嫌悪感を抱いてしまっていた。

 

 それからは、行き場の無い思いを全てパンにぶつけてきた。

 作って、作って、作って。

 作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って、

 

 

「──それ、いくら?」

 

 

 そうして、サラに出会った。

 軒先に現れた彼女は、今と同じようなシスター服を着ていて。

 神職嫌いの彼女は「アンタに売るものは何もないよ」と突っぱねたという。

 ところが、彼女はそれに一つ頷きを返し、

 

 

「知ってる」

 

 

 ──ふわりと笑ったその姿に、娘の姿がダブって見えた。

 彼女は娘の働く姿を見たことが無いはずなのに。

 その笑みは、娘が浮かべたそれと同じなのだと、何故か直感していたのだ。

 

 そうして、サラがキキばあの元に寝泊まりするようになった。

 

 

「娘は──生きたいように生きたんだろう。そして、その意思か何かを──サラは受け継いでいた」

 

 

 娘を思い出す、どころではない。

 彼女にとって、サラは──文字通り娘も同然だったのだ。

 

 

「だからまぁ、あのお転婆がどうするつもりかは分かるよ。……追いかけな、私のことは構わずにね」

 

 

 キキばあの促しに、一瞬躊躇を見せた少年は。

 やがて意を決するように、振り替えって元来た道を走っていった。

 その背をぼんやりと見送って、彼女はまた空を仰ぐ。

 

 

「……全く、とんだお転婆娘を連れてきてくれたもんだね、カリン」

 

 

 子に掛けられる迷惑は、どうしてこうも楽しいのだろうと笑いながら。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「──サラっ!!!」

「あー、来ちゃったかぁ……」

 

 

 息を切らしながらたどり着いたその場には、瓦礫の上に佇むサラの姿があった。

 こちらに向ける視線はバツの悪そうな、はたまた悪戯がばれて気不味い子供のような、そんな感じのもので。

 

 

「何も言わずに、行ってしまう気だったのか」

「──変な未練は残したくないしね。それにほら、貴方の中の私の姿を崩したくないし」

 

 

 問い掛ければ、彼女は苦笑を浮かべる。

 ……どうせ、変なことを考えているのだ。三ヶ月、たった三ヶ月だけど、それでも。

 

 

「……お前は何時も無茶苦茶で、こっちの都合なんて考えてなくて、それで」

「あー、うん。やっぱそんな感じだよね。けど……」

「けれど!!」

 

 

 弁解しようとするサラの言葉を遮って、少年は胸の内をさらけ出す。

 

 

「俺はっ!サラだから、……サラを好きなんだ!!お前がどういうものだって関係ないっ!!俺と、俺と一緒に居てくれ………っ」

 

 

 お転婆で、突拍子もなくて、朗らかで、楽しげで、恐ろしくて、強くて、カッコ良くて、───全てが、好きだった。

 例え人とは分かりあえないモノなのだとしても。

 それでも、この思いは本当だった。

 

 

「──あー、うん。その、なるほど?」

 

 

 対するサラは、照れ臭そうに視線を泳がせて。

 

 

「──うん、ありがと。私を、好きになってくれて」

 

 

 ──額への口付けは、どういう意味だったか。

 瓦礫から軽く飛び降りた彼女が、それを行って。

 その意味を考える内に、視界が明滅し始める。

 平衡感覚が崩れ、立っていられなくなる。

 

 

「なに、を」

「──恨んでくれていいよ。許してくれなくてもいい。けれど、ひとつだけ」

 

 

 ──それでも、生きて。

 そう告げて、彼女は踵を返す。

 ……前がわからない、足が覚束ない、去ろうとする彼女を止められない。

 

 

「──許さないっ!俺は、俺はっ!!絶対に、許さないからな……っ!!!」

 

 

 だから、せめて。

 許さないと、告げる。

 何を許さないのかを告げぬまま。

 ただ、許さないのだと声を上げる。

 小さく笑みが帰って来たような気がしたあとに、視界は暗転し───。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「──良かったのか、あれ」

「いいのよ。……私なんかには勿体ない。きっと、生きて生きて生きて──、私よりいい人を見付けられる」

 

 

 瓦礫の裏には、一台の鉄の馬車(オープンカー)

 その運転席に座る、どう見ても普通の人には見えない相手に軽く言葉を返して、そのまま助手席に飛び乗る。

 運転席の男はしばし彼女を微妙な眼で見つめていたが、

 

 

「まぁ、お前さんがいいなら、それで構わねぇさ」

 

 

 適当に言い置いて、車のエンジンを点火する。

 ──今の時代において、維持も運用も凄まじく手間が掛かる車に乗って、二人は町から離れていく。

 話す話題は──これからのこと。

 

 

「んで?とりあえずこのまま本部か?」

「そうね、今回の報告やらなにやらあるし。──久しぶりに見たい顔もあるし、ね」

 

 

 思い浮かべるはとある後輩の姿。

 居ない内に無理をしてないか、心配事も多いがゆえに。

 それに、意外と長くなってしまった今回の事件についての報告も、それなりに早く纏めなければいけないだろう。

 

 

「ったく、相変わらず忙しそうだなぁ、最強(てっぺん)?」

「それは貴方もおんなじでしょうに大統領。……あれ、いま帝王なんだっけ?」

 

 

 どっちもだよ、と返して男はアクセルを強く踏む。

 車は更に加速し、遠く離れた町はもはや点より小さくしか写らない。

 それを少しだけ寂しげに見つめて──、

 

 

「やっぱり引き返すか?」

「───冗談。『世界の果て』に連れてくまで、立ち止まる気はないっての」

 

 

 自身の隣に誰かが居るかのように微笑んだあと、彼女は視線を前に戻すのだった。

 

 

 

 




ここまで読んで頂きありがとうございます。

amenって書いてごちそうさまって読むキャラが書きたくて始めた拙作でしたが、
少しでも楽しんで頂けたのなら幸いです。
良ければ感想とか頂けると喜びます(唐突な感想乞食)


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interlude

「んー!ここに戻ってくるのも三ヶ月ぶり、かぁ」

 

 

 大きく伸びをして体を解しながらぼやくサラ。

 あの町での仕事はわりと長期になってしまい、こっちに戻ってくるのは実に三ヶ月ぶりとなる。

 

 ……貯まっている仕事を思えば頭が痛いが、いい休暇になったというのも確かな話だった。

 なので、貯まっている仕事は早急に消化するつもりでもある。

 ゆえに、特に寄り道せずに本部へと向かうつもりだったのだが。

 

 

「──そんで、一休暇のあばんちゅうるを楽しんだ、とゆーわけやね?」

「……アバンチュール違うわっ、っていうかその似非関西弁はやめなさいって私言わなかったっけ?」

 

 

 木陰からこちらに向かってくる人影を確認して、思わず苦い顔を浮かべる。

 歩いてくるのは、肌以外の全身を黒で固めた和服美人、とでもいうべき女性だった。

 ──凄まじく胡散臭くて、めんどくさそうな雰囲気を纏っている、という注釈が付くタイプの。

 

 

「ふふっ、いややわ沙良はん。うちのこれが似非やなんて、アンタはん以外にはもう誰にもわかりまへんのに、わざわざ指摘してくれるんやもん、ほんまそういうとこええわぁ……♪」

「やめてくれない鳥肌立つんだけどっ!?」

 

 

 恍惚とした笑みを浮かべる彼女をしっしっ、と追い払うサラ。

 対する和服美人はといえば、「いけずやわー」と宣いながらどこかへと消えて行った。

 ……思わぬ疲労感に苛まれつつ、気を取り直して目の前の扉をくぐる。

 

 本部、と呼ばれるこの場所は、とある海の一画にポツンと存在する、陸続きではない孤島。

 その陸地の大部分を占領するのは一つの建物だ。

 

 【大厄災】以前には政の中心部として使われていたそれは、今となってはその機能の全てを失っている。

 それでもここが本部、と呼ばれるのは、世界権力の最高峰がここに集まっているから、なのだろう。

 容易く侵入できないこの場所で秘密の謀を行う、というのはいかにも『らしく』思えた。

 

 ──まぁ、実際にここに来てみれば、そんな感想はどこかに行ってしまうだろうが、ともサラは思っていたりする。何故ならば、

 

 

「ふむふむ、帰ったか我らが【殺人姫】。堂々たる凱旋、まっこと見事よな」

「……爺様、姫は止めてってば」

 

 

 歩を進めるサラの前に現れた小さな影。

 突然現れた小汚ない年老いた男が、その視線をサラの上から下までねっとりと這わせていく。

 ……別にやらしい意味じゃないのが余計にめんどくさい。

 彼はただ、この場所における最高戦力が、無事に帰って来たのかを確かめているだけでしかないからだ。

 なので不躾な視線だと思うものの、サラはその視線自体に反発することはない。

 ……どっちかと言えば姫とか呼ばれる方が嫌だった。

 

 想像は付くかもしれないが、一応紹介しておこう。

 このちょっと変な老人こそ、世界権力の最高峰、【七賢人】が一人。

 メリカ大帝国代理、リーチマンその人だ。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「元気そうで結構結構!いや、(ぬし)が元気でなくなったら困るのは儂らだがな?」

「どうだか。爺様のことだからそれなりにやるでしょうに」

 

 

 帰還を喜ぶリーチマンに対し、サラの反応は素っ気ない。

 ……ここに集まっている人間は一癖も二癖もあるような人物ばかりだ。

 自身は確かに最高戦力ではあるだろうが、いなければいないでどうにかするだろう、というのがサラの正直な感想だった。

 

 

「ふむ、信用されとらんのぉ、儂らは主を十二分に信用しとるんじゃが。──何せ【篝火】足りうる器をこの世で始めに示したのは主だからして!」

 

 

 愉快愉快、と豪快に笑う爺様に思わずジト目を返しつつ、サラは柄でもないと首を振る。

 

 

「それを言うならレイの奴も同時期だってば……。というか、世間話しに来たわけじゃないんだけど爺様?」

「おお、そうじゃったそうじゃった」

 

 

 サラの言葉に一つ柏を打ち、爺様が踵を返す。

 呆れた様なため息を一つ吐くと、サラもまたその背を追って歩を進め始めるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「さて、任務ご苦労サラ・ウインドエッジ。我ら七賢人も主の帰還を労うとしよう」

「……前から思ってたんだけど、七賢人とかカッコ付け過ぎじゃない?」

「なに、主の昔に比べれば「あーあー聞こえない聞こえないー」……まぁよかろう」

 

 

 やってきたのは壁が崩れて外が眺められるようになっている部屋(会議室)

 空いた壁を正面として、その両側に机と椅子が並び、そこに顔の見えないようにベールを被った複数の人間が座っている。

 

 見る人が見ればちょっと頭が痛くなりそうなその情景に、思わず苦言を溢すサラだったが、代わりとばかりに自身のことに話が及ぶと、思わず誤魔化す以外の選択肢を取れていない。

 その辺り、互いの気安さが見えるような気がしないでもないのだった。

 

 

「【兆し】の予言とはいえ、よくぞ務めを果たして下さいました。……とはいえ、一つの【兆し】に時間を掛けすぎているというのも確かな話」

 

 

 そんな中、ベールを被った人間の一人が声を上げる。

 その声に呼応するように、他のベールの下からも声が上がる。

 ……大体は、彼女が時間を掛けすぎているということについてだったが。

 

 

「しかしのぅ、【兆し】が曖昧にして奇っ怪なのは今に始まった話でもなかろう?───それとも何か?今さら【鑑定士(ライセンサー)】に文句を言いに向かうか?」

 

 

 それを抑えるように言うのがリーチマンだ。

 彼が七賢人のリーダーである、ということもあるが、彼が今の世界で一番巨大な国家であるメリカ大帝国の代理人であることも関係しているのだろう。

 口々に声をあげていた賢人達が押し黙るのを確認し、リーチマンがこちらに向き直る。

 

 

「とはいえ、一つの【兆し】が終わったのであれば新たな【兆し】に向かうも道理。──【殺人姫】よ、報告を終え次第次なる【兆し】の捜索のために【鑑定士】の元へ向かうがよい」

「……了解」

 

 

 不承不承にそう返して、サラは部屋から外へ出るのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「なるほど。それはまた、災難でしたね」

 

 

 先程の部屋とはまた別の部屋。

 こちらは窓が黒い布で覆い隠されていて薄暗く、真っ昼間なのにわざわざ蝋燭に火をつけて光源を確保しているという、部屋の主の趣味というか実益というかが反映されたものだった。

 

 ……見ていると色々精神安定を掻きかねないので本当は来たくないのだが、ここにいる彼に会わないことには話が始まらず、更にはこの環境でなければ彼は【兆し】を知り得ない以上、結果としてサラの胃に過大なダメージが積み重なるのであった。

 

 なので、気遣うような彼の言葉に、彼女はひきつった笑みを浮かべることしかできないでいる。

 ──【鑑定士(ライセンサー)】。

 それが、彼と言う個人を示す名前だ。

 

 

「ああ、うん、そうね。……えっと、それでなんだけど。【兆し】の方は───」

「───ああっ!!!」

 

 

 そうして、笑みを浮かべながら恐る恐る声を掛けようとしたところ、彼が急に叫び、仰け反った(思わずサラは椅子から飛び退きそうになった)。

 そして、彼は突然に──瞳から、滂沱の涙を流し始める。

 

 

「ああ……ああっ!!また、またなのですか!またこの世に、新たなる【兆し】が現れると言うのですか!!」

 

 

 ……昔はもうちょっと冷静に見ていられた気がするのだが、今となっては半狂乱となって【兆し】を読み解き刻んでいく彼の姿は、中々に心臓に悪い。

 そんな事はおくびにも出さず、サラは彼がそれを──【兆し】を書き上げるのをじっと待つ。

 やがて、糸が切れたように彼が倒れ込むと同時、彼が書き上げたモノを拾い上げた。

 

 

 ──曰く。

 『ユシア連邦に兆しあり。幼子の御手(みて)焦愛(じょうあい)に触れ、悪戯に命を食む。その飽くなき食の果てに、その愛は永久に至る』。

 

 ……抽象的と言うか、読み解くのに時間の要りそうなものだった。

 そんな一文を読み終え、彼女は笑う。

 

 

「さて、次の【兆し】が【篝火】であることを祈りましょうかね──」

 

 

 行き先はユシア連邦。

 今なお白き氷に閉ざされた、極寒の大地だ。

 



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二章
二章・一日目


 ──求めることは、罪だろうか。

 足りないのだと、まだ欲しいのだと。与えられなかったものを、その()が一杯になるまで、求め続けることは。

 

 与えなかったお前が悪いのではないのか。

 与えられたもので満足できなかった私が悪いのか。

 満足とはなんだ?どこまで貰えれば、どこまで埋め尽くせば、この、耐え難き孤独は満たされる?

 穴の空いた()は、どこまで満たせば救われる?

 

 

「───ああ、全く。求めることしかできないのは、辛いでしょうね」

 

 ───だから、その出会いは必然だった。

 

 

 

 

 

 

 

二章・■求/■食

 

 

 

 

 

 

 

「……こういう時ほど【殺人鬼】だったことを感謝することもないわよね」

 

 

 いつものお決まりの(シスター)服の上に、ひらりと羽織った黒いコート。あとは頭に被った黒いユシア帽……、現地の気温を思えば、あまりに軽装過ぎる姿だ。

 ただ、一般的な【殺人鬼】は気温の変化を無視できる。それが何かしらの異常でない限り、彼らにとって気温の変化は、命を脅かすものとはなり得ない。

 

 そういう意味で、彼女の今の服装はお洒落をしていると言い換えてもいいものだった。無論、周囲から浮かないようにするための変装の意味合いもあるのだが。

 なので、しばらくしたらコートの前は閉じることになるだろうと彼女は一人ごちる。

 

 近くの町からの乗合馬車に、他の乗客達に紛れながら乗るサラは、ふと外に雪がちらつき始めるのを見る。肌寒い、程度だった気温も徐々に下がり始めているようだ。……すなわち、ついにユシア領内に入ったのだと理解する。

 

 交通手段も前時代に戻ってしまったこの世界において、変に早い移動を繰り返せば要らぬ緊張をもたらす──とは、七賢人の誰の言葉だったか。

 そういうのなければパッと行ってパッとやれるんだけどなぁ、と小さくぼやいたら滅茶苦茶怒られたっけ、とも思い返しながら、サラは馬車に揺られ外を眺めていた。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 ユシア領内に入ってほどなく、サラはしばらくの足止めを受けていた。それは、

 

 

「───吹雪、ですか。確かに、それはどうしようもありませんね」

「はい、申し訳ないのですが……」

 

 

 車を引く馬達の厩舎の前、申し訳無さそうに頭を下げる御者に問題ないと礼を伝え、建物から出る。

 町に付いてから次第に強くなった吹雪は、今や数歩先すら見通せないような猛吹雪と化していた。町の中は対策を取っているのでそこまででもない、ということだけは救いだろうか。とはいえ、足止めを食らってしまったのは確かである。

 

 ……広いユシア領内を徒歩で回るのは現実的ではない。というか、この猛吹雪の中を歩いて回ってたら明らかに余計な騒動の火種になる。移動方法が限られている以上、吹雪が止むまでこの町に滞在せざるをえないのはどうしようもない事実だった。

 

 

「こういう時は使っていいんじゃないかと思うんだけどねぇ……」

 

 

 自身の【殺人鬼】としての異能を思えばそっちの方が楽だと思うのだが、婆様方の言う通りそれをやると、【兆し】以外の【殺人鬼】にも勘付かれそうでなんだかなぁ、というのも確かな話。

 

 

「ふぅ。やれやれ、今回も長丁場かな?」

 

 

 なんて事をぼやいていると。

 

 

「おや、こんな辺地に神職の方がお見えになるとは」

「!」

 

 

 背後から声を掛けられ、彼女は後ろに振り返る。……この服が神職のものであると分かる相手なので微笑みも忘れずに。

 そうして、そこに立っていたのは身なりが良く、物腰の柔らかそうな老齢の男性。今時珍しいくらいの紳士的な雰囲気を醸しだす人物だった。

 

 

「こんばんは、素敵な殿方。私はシスターサラ、巡礼の旅を続けるしがない聖職者にございます」

「ふふっ、これはご丁寧に。私はこの地にて病院を営むスタンリーと言うもの。どうぞ御見知りおきを」

 

 

 膝を曲げて挨拶(カーテシー)すれば、返ってくるのは右足を引いての挨拶(ボウアンドスクレープ)。……この時点で相手がその辺りの礼儀を今も重視する人物(関係者)だと知れたサラは、とりあえずこのまま聖女口調で通すことに決めるのだった。

 

 

「ところで、スタンリー様はどうして私にお声を?」

「何、素敵な女性が困っているようだったからね。声を掛けるのは紳士の嗜みというわけさ」

「あら、お上手ですこと」

 

 

 ……周囲からすると道の真ん中で何やら腹の探りあいめいた事をしているようにしか見えず、思わず御者が声を掛けようかと思ったりしたそうだが。

 そんな事は露知らずとばかりに、サラは彼に連れられ、その自宅に案内されるのであった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……やれやれ。噂の【殺人姫】殿はなんともお転婆だ」

「……やっぱり、爺様からの使者でしたか。爺様から何か?」

 

 

 家の玄関で肩にうっすら積もった雪を払い落としているサラに、スタンリーがやれやれと首を振りながら声を掛けてくる。

 問いかければ、彼はニヤリと笑って。

 

 

「何、お転婆娘がそっちに向かうから宜しく、とね?」

「……みんな私のことなんだと思ってるんだろ」

 

 

 会う人会う人みんなにお転婆と言われているような気がする。昔からしてみれば十分落ち着いたと思うのだが、なんて事を思うサラ。……そうして昔よりマシ、とかやってる時点でまだまだだと思われているというのは言わぬが花か。

 そんな事を思いながら、スタンリーは彼女の帽子を受け取って近くの帽子立てに引っ掻けた。

 

 

「まぁ、この辺りの吹雪が長引くのはいつものことだ。良い機会だから今のうちに書類整理も終わらせて置けとのお達しだよ」

「……まぁ、やろうとは思ってたけども」

 

 

 なんでこんなところに来てまで書類とにらめっこせねばならぬのか、とサラは小さくぼやくのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……んー、んんー……」

 

 

 羊皮紙をペンでかつかつとつつきながら黙考する。

 物を書く時、どうして書き出しはこんなにも難しいのだろう、と思いながら乾いたペン先にインクを付け直したり、はたまたジーっと蝋燭の火に目を凝らして何か思い付かないかと足掻いてみたり。

 

 ……言うまでもないが、サラは書類作業が苦手である。溜まりに溜まった書類作業は、彼女がやりたくないからと避けていたのが理由と言えなくもない。なので自業自得なのだが──、しばらくして彼女は全て投げた。諦めたともいう。

 

 

「何にも浮かばないんだから浮かばないの、仕方ないんですっ」

 

 

 誰に向けたものかもわからない言い訳を宙に投げながら、ベッドに身を投げる。

 枕を胸元に手繰り寄せて、あっちにゴロゴロ、こっちにゴロゴロ。広いベッドを有効活用しながら、彼女は右へ左へ転がっている。……文面が思い浮かばない、というのが言い訳なのはどう見ても明らかだった。この女、意識しすぎである。

 

 

「もし、サラ嬢?」

「ひゃいっ!?」

 

 

 などとやっていたら、扉を叩く音。声はスタンリーのもので、内容は食事をしないか、と言うもの。

 

 

「別に構わないのに。【殺人鬼】の食性を知らないって訳でもないでしょ?」

「なに、知っているよ。君達にとって普通の食事は娯楽に過ぎないということはね。……だからまぁ、単に食事の場と託つけた会話を楽しみたいだけなんだよ、私は」

 

 

 そう笑う彼は、右手にワインを持っていて。……変に湯だった頭を冷やすにはちょうど良いかとサラは了承する。

 

 

 食堂ではメイド達が待ち構えていた。席に付くなり料理が順に運ばれてくるものだから、適当に会話する予定だったサラは少しばかり面食らう。

 

 

「いや、美味しいから良いんだけどね」

 

 

 出てきた白身魚の粉屋焼き(ムニエル)をナイフで切り分けて口に運ぶ。

 バターの香ばしい匂いとカリッとした食感は、今の時代にちゃんとした魚料理が出せる人間を雇い入れていること──、それだけの財力を目前の男が備えている事を教えてくる。

 

 

「大袈裟な。幾ら今の時代があれこれと後退したとはいえ、調理技術まではそうそう失われはしないよ」

「どうかしら。そんなの、ユシアに根差す人間なら──、それも【殺人鬼(わたしたち)】を知る人間なら、自覚して当然だと思うけど」

「…………」

 

 

 サラのある意味辛辣な言葉に押し黙るスタンリー。その様子に流石に言い過ぎたことを察し、サラは謝罪する。

 

 

「ごめんなさい、言い過ぎました。……けど、貴方もちょっと今のは迂闊だったと思う」

「……いや、確かに。今のは軽率だった、こちらからも謝罪を」

 

 

 互いに謝罪を受け入れ、食事に戻る。しばし互いに無言で食事を摂り続け───、

 

 

「……だから、私は言ってやったんだ!お前のやり方は迂遠過ぎる、それでは足りんとな!」

「あー、あー。なるほど、それは確かにねぇ」

「だろう?!」

 

 

 サラの目の前で、スタンリーはすっかり酔っぱらってしまっていた。呂律こそ回っているものの、顔は真っ赤で視線はフラフラ、どう考えても明日は二日酔いコースの悪酔いにしか見えなかった。

 

 

「……その、いつもこうなんです?」

「いえ、旦那様は自制のできる方でいらっしゃいます。……その、申し上げにくいのですが、先の話題のせいではないかと」

「あー……」

 

 

 私のせいか、と顔を押さえるサラ。

 酒を飲む気でいた上で、更に酒が進むようなことを言ってしまったせいだと。

 近くのメイドに聞いたところによれば、そういうことらしい。……そうなると、その背を押した側としては無視して部屋に戻るわけにもいくまい。

 

 

「すみません、あとは片付けておきますので、貴方はもう下がって大丈夫ですよ」

「え、いえ、それはできません。私共の仕事をお客様に手伝わせるなど……」

「いいんですよ、主人がこんなになってるんだから見なかったことにするのも従者の役目です。……付き合ってたらいつまで続くか分かりませんよ?」

「あう……」

 

 

 視線の先では何やら歌い始めたスタンリー(主人)の姿。……正直、このまま衆目に晒すのは憐れにすら思えてくる。

 

 結局、渋るメイドさんを下がらせて、サラはスタンリーの面倒を終わるまで見ることにするのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「こういうのって逆じゃないのかなぁ……」

 

 

 酔っぱらった挙げ句にプツンと糸が切れたように眠り始めたスタンリーを、部屋に戻して寝かしつけたあと自身が借り受けた部屋に戻る途中。

 

 ふと、窓の外が気になった。

 

 地元の名士ということになっているスタンリーの家は、まるで小さな城のような大きさを誇っている。

 それゆえか、窓から写る建物の全貌は、ある一定の高さから吹雪の白に覆われてしまい、見通すことができないでいた。

 そんな一画が、今。たまたまに吹雪が止んで、その姿を現していたのだ。

 

 城だと思った感想そのままに、そこに合ったのは五階ほどはある尖塔。

 白くこびりつく雪が煌めき、一種神秘的ですらあるその塔は、たまたま止んだ吹雪の合間から月の明かりを浴びて、まるで一本の蝋燭のように見える。

 そして、その先端に近い部分にあるせり出した踊り場(ベランダ)に、

 

 

「───人?」

 

 

 その塔よりも白く、舞い散る雪よりも白い───、白い、誰かの姿があった。

 

 ……世が世なら、幽霊か、はたまた塔の上に幽閉されたお姫様か。

 そんな風に呼ばれそうなその誰かは、雪の塔の上で、ただ白い満月を眺め続けていた。

 

 やがて、止んでいた吹雪が猛威を増し、その姿を覆い隠す。……屋根も壁もある場所に居たから別に吹雪にまみれたりはしていないだろうが、なんとなく彼女のことが気になったサラ。

 

 

「まぁ、もう夜も遅いし、聞くにしても明日かな」

 

 

 さっき見えた満月の位置からして、もう次の日は迎えてしまっているだろう、寝かしつけたスタンリーを起こすのも気が引ける。

 なら、明日また改めて聞いてみるのがいいだろう。

 

 

「それにしても───」

 

 

 はて、塔の上に幽閉されたお姫様。……昔、どこかで聞いたことがあるような気がする。

 そんな事を思いながら、彼女は最後に窓の外を一瞥し、部屋の戸を後ろ手に閉じるのだった。

 



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二日目

「ああ、それは私の孫だな」

 

 

 朝食の場で昨日の事を尋ねたところ、スタンリーからはそんな言葉が返って来た。

 なんでも、少し物覚えが悪く、外に出すことも叶わないような孫。

 ……全身真っ白な容姿をした孫は、今のご時世どう足掻いてもまともに生きられる目はない。そのため、周囲から隠すように塔の上に幽閉しているのだという。

 時折、メイド達を向かわせて相手をしてはいるが──、恐らく、塔の上で寂しい思いをしているだろうと言うことも。

 

 

「……そこまで分かってるなら、貴方が相手をしてあげればいいんじゃない?」

「息子夫婦の忘れ形見でな、しかも勘当した息子達の。……私としても、距離感を測りかねているのだよ」

 

 

 咎めるように言えば、返ってくるのは素っ気ない──、けれどどこか哀しげな言葉。

 そんな態度で返されてしまうと、所詮他人であるサラとしては掛ける言葉がなくなってしまう。

 

 

「それに私は多忙の身だ。……あれの望むものは与えられるまい。なら、最初から触れぬのもまた、愛なのだろうよ」

「まぁ、貴方がそれでいいならいいけど。……恨まれるわよ、それ」

 

 

 問い掛けた言葉は、知っているとすげなく返された。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 どうせしばらく足止めをされるのだ、そこまで言うなら君に任せよう──。

 そんな言葉を渡されてから半刻ほど、サラは尖塔の最上階を目指してメイドの背を追っている。流石に鍵は貸して貰えなかったので、付添人が必要になったからだ。……よもや君が襲うわけでも無かろう?などと言われてしまえば断ることもできなかった。

 確かに、聞く感じその孫は【殺人鬼】にとって──、より正確に言えば【殺人鬼(それ)】の存在を知り、過剰に恐れる者達にとって、自身を生かすための最高の捧げ物になる素質を秘めていると言えた。

 

 ───生まれた時から白かった者(アルビノ)

 人種によらず、年齢によらず、全身が白で構成された、透き通るモノ。

 その物珍しさから見せ物になることさえあったというそれは、前時代の悪習をそのまま受け継いでしまったモノの一つでもある。

 曰く【大厄災】よりも昔、その白に染まった姿から神の使いのような、希少なモノとされ、場合によっては人肉食の被害対象になることもあったというアルビノ患者。……【殺人鬼】の食性を理解しない者は、同じように使えるだろうと考え、今もなお、『神の使いのように』という部分が欠損したまま、己の安全を買うためにアルビノ患者達を捕まえている、らしい。……無論、それが哀しきすれ違いなのは言うまでもない。

 【殺人鬼】の食性を知らぬ彼らに、それを理解しろと言うのも酷な話ではあるのだが。

 とはいえ、目覚め方によってはアルビノを好んで食事(殺害)する【殺人鬼】もいるだろう。全くの見当違いでもないのが、ある種の質の悪さを産み出しているともいえる。

 ──そういう意味で、今も昔も。白き彼らの安寧は脅かされ続けている、ということなのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「しばしお待ち下さい。準備をして参ります」

 

 

 鍵を開けてメイドさんが扉の中に消えるのを見届けることしばし。

 手持ちぶさたに塔の内部を眺めて見るものの、最上階以外は屋敷内に出るまでずっと階段、というこの塔に見目新しいものは何もない。

 ……幽閉されている、とは文字通りのことだったか。

 そんな感想しかでないのは、意外と長時間の階段が堪えていたのか否か。

 などと無体なことを考えて暇を潰していると、

 

 

「お待たせしました、サラ様。どうぞお入り下さい」

「あ、はい」

 

 

 扉が微かに開き、中からメイドさんがこちらを手招きする。……立て付けが悪いのか、はたまた開きすぎると何か不都合があるのか。

 さてこれはどちらなのだろうと思いつつ、扉の隙間をするりと抜けて、中に入る。

 

 入ってすぐに気が付くのは、部屋の中に微かに響く、ソプラノの歌声。ついで、部屋の中に散乱する、人形やおもちゃの数々。

 目的の彼女は部屋の中心でこちらに背を向け、何やら楽しげに肩を揺らしていた。

 ……メイドさんは入り口で貞淑に佇んでいる。どうも、こちらに手を貸したり何か口を挟むつもりはないらしい。

 信頼されているのか、はたまた警戒されているのか。

 それがどちらに対してのものなのかについても少し思案しつつ、サラは中心部の彼女に近付いていく。

 そして、その足音に気付いたらしい彼女が、こちらを振り返った。

 

 ──精巧な磁器人形(ビスクドール)が今の時代に残っているのか、サラは知らないが。

 初めて彼女の顔を見た時、作り物のような美しさとはこういうものを言うのかと納得した。

 透き通るような白い髪は長く、彼女の足先よりも長く。

 足を前に開いて座っていた彼女を中心として、放射線状に広がっている。

 それそのものが一つの芸術品にも見えるような絹糸の前髪の奥に隠れるのは、見た者が満場一致で美しいと断じるような、整った顔立ちだ。

 長い睫毛もまた白く、肌の色もまた白い。

 とかく白で染められた彼女の中で、一際目を惹く色があった。

 ──蒼。

 彼女の瞳は、本来のアルビノ(それ)とは違い、透き通る様な蒼。

 白く、蒼い少女。

 それが、サラが彼女に抱いた印象だった。

 

 

「……おねぇちゃん、だれ?」

 

 

 歌を止めた彼女は小さく首を傾け、サラに問う。

 その声も仕草までもが可愛らしいものだから、サラは小さく確信した。……まともに生きられる目はないって、そういう意味でもか!

 

 見た者が十中八九魅了される少女。

 そりゃあ、こんなの外には出せない。出しようがない。出した途端に色々と凄まじいことになって終わりである。

 これほどまでに無策で外に出した時の展望が想像しやすい子もいないだろう、なんて感想が漏れてくるほどだ。

 ふと背後に視線を向ければ、先程まで貞淑に佇んでいたはずのメイドさんが悶えている。

 ……メイドよ、お前もか。

 これ、信用ならないのはメイドさんの方だったんじゃ、と疑いつつ視線を戻す。

 ──不思議そうにこちらを見上げる彼女と目があって思わず呻いた。

 やめてくださいそんな綺麗な目で見ないで色々焼ける。……なんてことをサラが思ったかどうかはわからないが、彼女は一先ず深呼吸して体勢を建て直した。

 それから、聖女スマイルで自身を武装し軽く挨拶をする。

 

 

「私はサラ。巡礼の旅を続けるしがない聖職者です。宜しくね」

「ほぇー、せいしょくしゃ?うんとね、アーリャ、それよくしらない……」

 

 

 言葉の意味が分からなかったらしく、しゅんとなる少女。……何故だか凄まじい罪悪感に襲われるが、説明のしようがないのでとりあえず放置。

 代わりに、彼女の名前を聞くことで興味をそらすことにする。

 

 

「お姉ちゃんの名前は教えたから、貴方の名前を教えて欲しいな?」

「うん?えっとね、アーリャはね、アルヴィナっていうんだよ!」

 

 

 白いフリルのついた袖をパタパタさせながら、彼女は満面の笑みで言う。……背後で誰かが倒れた気がするが放置。

 

 ──アルヴィナ。

 確か、ユシアの古い言葉で白だとか純粋だとかいう意味だったか。

 わざわざ地元の言葉(遺失言語)で名付けている辺り、この命名はスタンリーが行ったものかもしれない。

 

 

「……そう考えると、愛してはいるのかな」

「……?」

 

 

 彼女の隣に座りながら小さくぼやけば、当の彼女はよくわからないのかまた首を傾げている。

 その姿に「なんでもないよ」と返して、彼女の頭に手を置き、優しく撫でてやる。

 最初びっくりしたような顔をしていたアルヴィナは、やがて気持ち良さそうに目を細めた。心地良さそうに唇から漏れる鼻唄がこれまた可愛らしい。……背後で何かが跳び跳ねる音が聞こえた気がしたが気にしない。

 

 

「よし、サラお姉ちゃんと遊ぼっか?」

「ふぇ?え?え?あそんでくれるの?アーリャとあそんでくれるの?!」

 

 

 撫でるのを止めて、彼女に小さく笑ってあげれば。

 最初は離れた手を名残惜しそうに見ていたものの、徐々に笑みが浮かび、目が爛々と光輝いていく。

 ……喜び過ぎでは?と思わなくもないが、背後で血溜まり(忠誠心)に沈むメイドを見る限り、彼女の遊びは一人で行うものが多いのかもしれない。

 ……遊んでやれよと言うのも無責任かなぁ、なんて。

 全身で喜びを表現するアルヴィナの様子を見ながら嘆息するサラなのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 部屋の中でできる遊びなんて大したものではないが、それでもアルヴィナは大喜びで一つ一つの遊びを楽しんでいた。

 あまりに楽しそうに遊ぶものだから、サラもついつい本気で相手をしてしまった。

 ──なので、気が付いたら外が真っ暗だったのは別に誰のせいでもない、と思う。

 

 

「……えー、かえっちゃうのー?」

「んー、流石にここで寝泊まりはさせてくれないんじゃないかなー」

 

 

 分かりやすく落胆するアルヴィナに頬を掻くサラ。

 ……流石にこの部屋で一晩を明かすのは憚られる。お付きのはずのメイドさんがそのまま冥土に行きそうになっているので、早急に戻るべきというのも無くはないのだが。

 それ以上に、あまり深入りするものではないと自身の勘が告げているのもあった。

 ……ずっと一緒には居られない以上、どこかに線引きは必要だ。それが夜まで遊ぶことというのはどうなのかと思わないでもないが。それでも、別れというものは必要だろう。──そして、再会の約束も。

 

 

「明日もまた来るから。ね?」

「………またきてくれる?」

 

 

 不安げな彼女の頭に手を置いて撫でてやると、泣きそうな顔をしていた彼女は唇をきゅっと引き締めて涙を我慢していた。

 なので彼女に一つ、約束の挨拶を教えてあげることにする。

 

 

「じゃあ、約束っ」

「……?なに……?」

 

 

 右手の小指を立てて、彼女の顔の前に持ってくる。

 アルヴィナの右手も同じように小指だけを立たせて、互いの小指を絡めるように組む。

 それから、約束の言葉を紡いだ。

 

 

「嘘付いたら針千本のーます、指切ったっ」

「え?え?」

 

 

 困惑するアルヴィナに微笑みを返し、説明してやる。

 これは、約束の儀式。

 これを行ったのなら、交わした約束は絶対に破ってはいけないのだと。

 

 

「私の地元で、大昔流行ったらしいんだよね。……でもうん、針千本って無茶苦茶だよね。一本でも無理があると思うよ私」

 

 

 まぁ、無理だからこそ破らないんだろうけど。なんて事を言うサラと、自身の小指に視線を交互させるアルヴィナ。……なんだか、とてもぽかぽかするような気がして。

 

 

「うん!やくそくー!」

「……はい、約束」

 

 

 小指だけを立てて右手を突き出す彼女に、サラは微笑みと、同じように小指を立てた右手を顔の横にそっと添えて応えるのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

 おやすみー、というアルヴィナの声にお休みと返して、後ろ手に戸を閉める。

 いつの間にやら元の貞淑さに戻ったメイドさんが手早く扉に鍵を掛けて、行きと同じように階段を先導し始めた。──その背中に声を掛ける。

 

 

「……いいんですか?」

「……私共は、アルヴィナ様の安全を御守りするだけですから」

 

 

 ……頑なな人だなぁ、なんて感想を口内に留めつつ、階下に向けて階段を下るサラなのであった。

 



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飼殺の檻・裏[re]・一つと九の呪いの話
re・1話


雰囲気違いすぎるけどとりあえず置いてみるテスト。
世界観は共通です。
ただしコメディです。
なんか唐突にギャグし始めたのは真面目なモノを書きすぎた反動、なのかもしれない。


 その時、俺はとても受かれていたんだと思う。

 

 ありがちな展開で唐突に死を迎えた俺は、これまたありがちな展開で自称神様からの謝罪を受け、お決まりの文句でチート能力を手に入れ、お約束通りに異世界転生を果たした。

 

 ……はずだったのに。

 

 

「おーい、もしもぉーし?キミ、生きてる?死んでるなら返事してー、なぁんて。

……死んでたら返事なんかできないってのバッカじゃねぇーのきひひひひっ!!」

 

 

 上下逆さまの視界に映る、見るからに陰キャな女の子に嗤われているこの状況はなんなんでしょうねぇ?

 誰かー、説明してくれ三行で。

 

 

 

 

 

 

 

 

一話・お話しまshow!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はーしんど。おかしくって仕方ないにゃー」

 

 

 混乱する俺を無視して少女はつまらなさげに息を吐いた。……前髪で顔が完全に隠れているので陰キャだと思っていたのだが、改めてその全身像を見るとどう考えても陰キャじゃなかった。……いや、これは逆に陰キャが陽キャを勘違いして偽装している系の服装では?

 

 などと失礼な事を思っていたのがバレたのか、彼女の頭がぐりんとこちらに向いた。

 前髪の合間から、ギラギラとした目線がこちらを刺すように降ってくる。

 

 ……正直言うとめっちゃ怖い。

 俺なんでこんな睨まれてんの?なんかした俺?単に倒れてただけじゃない俺?

 

 

「ふーん、なるほどなるほど。へー、意外と頑丈じゃん、キミ」

 

 

 するとどうだろう、何故か知らんが褒められた。しかも声音から察するに、わりとマジに褒められたらしい。……今の流れのどこに褒められる要素があったのだろうか、全くわからん。

 

 

「……うん、キミちっと脳内会議し過ぎじゃない?もっと外部に出力してホラホラ」

 

 

 などと考えていたことが顔に出ていたのか、はたまた相手が察しがよかったのか。

 ちょっと困惑したっぽい言葉が返って来て俺も思わず声を返す。

 

 

「うぇ?あ、ああ、うん」

「陰キャかよ!詰まんなよ!ボキャブラリー死んでんのアンタ?!」

「ああんっ?!そんな格好してる奴に陰キャだとか言われんの屈辱テラバンバンジーなんですけど!?」

「そんな格好って何よっ?!……っていやちょっと待ってなにその屈辱テラバンバンジーって、もしかしてそんなの流行ってんの今?」

 

 

 陰キャに陰キャと呼ばれることほど屈辱的なこともないので思わず喧嘩腰に返したが、何故かこちらが返した言葉に食いついてきた少女。

 そんな彼女に返す言葉はもちろんこれである。

 

 

「いや?全然?適当に言っただけ」

「………ふんっ!!」

 

 

 返答は脛への一撃だった。

 ……痛みでもんどり打つ俺の姿が気持ち悪いなどの批判は受け付けません。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「マジで死ぬかと思った」

「どんだけ虚弱体質なのよそれで死ぬって」

 

 

 真顔で述べれば真顔で返された。……なんというか会話のレスポンスが軽快な奴である。

 これは陰キャというにはちと明るすぎるな、君はセミ陽キャだ。

 

 

「なんなのよそのセミ陽キャってのは……」

「朝に生まれて夜に死ぬ。真の陽キャではないので太陽に焼かれて死ぬ」

「蝉モチーフっぽいのに蝉より儚いのなんなの!?」

 

 

 真顔で解説してやると本気で驚愕された。

 ……いかんな、会話が楽しくてなんも進まん。というか、だ。

 

 

「そもそも陰キャ呼ばわりされたくないならその前髪どうにかしたらどうだ?」

「は?前髪?何言ってるのよんなもんちゃんと纏めて、……まと、めて」

 

 

 思いっきり顔を覆い隠している前髪が彼女の陰キャ度を跳ね上げているのは自明の理なのでそこを指摘すると、何故かそのまま機能停止する少女。

 ……え、もしかして、前髪ちゃんと纏めてるつもりだったの?

 つまり陽キャっぽい格好してる陰キャっていう最初の印象は間違いでもなかったの?

 

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、彼女は自身が肩から提げているポーチから髪止めを一つ取り出すと、それを使って前髪を掻き上げて留めた。

 ……あらやだ美少女。

 

 

「……きっひっひっひっ!!よくぞ我が正体見破った!流石は異界よりの流れ人、その真価を今見たわ!」

「一体何キャラなのか。そもそも繕うの遅いわ。なんかもう威厳とか無理では?」

「………ふんっ!!」

「困ったら俺の脛蹴るの止めへぶしっ!!」

 

 

 面白い子を弄るのは楽しいけどほどほどにしようね、お兄さんとの約束だ!(痛みに悶えながら)

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「えーこほん、こほん」

「そんなんでリセットでけへんと思うけど」

「………」

「ひぇ」

 

 

 すっかり一連の流れで上下関係がはっきりしてしまったような気がします、俺です。

 彼女が視線をすっ、と俺の脛に向けるものだから思わず竦み上がってしまった。

 気を取り直して、現状の説明を求めるもとい彼女の話を聞くことにする。

 

 

「えーっと、意外と頑丈じゃんって話だっけ」

「オレ、ガンジョウチガウ。トテモモロイ、タイセツ、シテ」

「うん、身体の話じゃないから」

 

 

 片言の弁解を返せばもう慣れたのか普通に返される。……むぅ、普通に返されるとちょっとむっとするな。

 

 

「しなくていいから。これ以上ややこしくしようとしないで、いいわね?」

「アッハイ」

 

 

 ちょっと突飛なことしてやろうとしたら先に釘を刺されたでござる。……っていうかどう考えても思考が読まれているでござる。

 イエーイ陰キャ少女見ってるー?

 

 

「いい加減にしないともっかいやるわよ」

「あ、はい、すみません」

 

 

 明らかにマジでキレられたので素直に謝る。

 俺良い子なので言われたら守れますよホントですよ?

 そんな俺の祈りが通じたのか、少女はしばらくこっちにジト目を向けて来ていたものの、やがて一つため息を吐いて姿勢を正した。……さっきのよくわからん上位者ムーブに戻ったとも言う。

 

 

「私が頑丈って言ったのは、キミの中身の方。私の視線を浴びて精神の均衡を一切欠かないとか、ちょっとビックリってレベルじゃないってワケ」

「……ん?え何もしかして俺初手で殺されかけてたの怖っ」

「いや流石に威力は絞ってたわよげふんげふん。……そそそそうよ、私の邪視を受けてなんにも無いなんて中々やるじゃないっていうか?」

 

 

 ……なんだろこの滲み出る良い子ちゃん感は。

 きっと確りした親の教育と愛情を受けて育ったんだろうなぁ、そんな彼女が私にくれるのも確かな他者への慈愛。何故なら彼女は特別な云々かんぬん。

 

 

「……思考が常に横道にそれるのは処世術かなんかなの?」

「おおっと」

 

 

 そういや読まれてたんだった。

 

 話が進まんので余計なことはとりあえずカットして彼女の話に耳を傾ける。

 なんだか微妙な視線を感じたが、そのまま話を続けることにしたらしい。……諦めたともいう。

 

 

「……とりあえず、見るだけで相手をどうにかできる、だなんていう規格外な力を持つ私の真名を聞きたくなったんじゃない?聞きたい?そっか聞きたいか聞きたいのね分かったわ教えてあげるわ清聴なさい!!」

「おおー」

 

 

 わー、どんなビッグネームが飛び出すんだろ楽しみだなぁー(棒)

 

 

「我が真名、■■■■■■■■(Nyarlathotep)!無貌の神、這い寄る混沌!あまねく世界を恐怖に陥れ、世界を破滅に導くトリックスターとは私の事ってね!きっひっひっひっひっ!!」

 

 

 そうして飛び出した名前に、俺は心底恐怖した。

 何故ならば、何故ならば。

 

 

「その名前って人間の声帯では再現不能って言われてたじゃないですかやだー!」

「……え、そこ!?そこに食い付くの?!」

 

 

 少なくとも人間形態なのに、恐らく正確っぽい発音が飛び出すなんて思わないじゃないか!

 やべーよもう一回聞いとくべきかな?

 

 

「違う違う違うー!!期待してた反応とぜぇんぜん違うー!」

「せやかてナイアン、自分確かに美少女やけど気が狂うレベルではあらへんし」

 

 

 あの神話の神が化身を用いる時はやべーレベルの絶世の美男美女になるとされているけれど、目の前の彼女は確かに美少女だけどまぁ見ただけでどうにかなるようなものではないし。

 

 

「正気を削るって言うけど幾らダイスの女神が笑ったとしても直視してて発狂なしとかえーって感じだし」

 

 

 化身と言えど直視したならそれなりに正気を削られるはずだがそんなことは全然無さそうだし。

 

 

「何よりただの人間に口の勝負で負けてるとか千の貌持つトリックスターの名が聞いて呆れるというかなんというか」

 

 

 その口車で数多の人間を破滅させてきたまさしく口の魔術師とでも言うべき神が、高々数十年そこらしか生きてない人間の言葉で慌てるとか寧ろイメージ崩壊も良いところであるというか。

 

 まぁ、そんな感じで微妙に信憑性が薄いのである。とはいえ、

 

 

「初手発音不能音が飛んできたので多分本人なんだろうなぁとは」

「……うー!!うー!!」

 

 

 一応多分無貌の神様本人なんだろうなぁという確証たるものはあったのでそこは信じてますよー、と返したらうーうーbotと化してしまった。

 悔しいのかずっと地団駄踏んでいらっしゃる。

 

 ……ナイアウーウージダンダッホテプみたいなタイトルで動画サイトに流したら視聴数取れるかな?

 なんて考えてたらまた脛を蹴られた。

 それで良いのか無貌の神げふぅ。

 



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re・2話

「ひどい目にあった」

「知らないわよアンタが悪いんでしょうが」

 

 

 結局気を取り直すまでに半日掛かってしまった。

 ……おかしいなー、当初はこんな予定じゃなかったんだけどなー。

 そんな事を思うも後の祭り、筆が遊べば言葉は滑るのである。

 

 

「……ねぇ、実はどこか別の場所と交信してるとか、そういうヤバいのじゃないわよねアンタ?」

「だいじょぶだいじょぶ、単に転生したてでチャンネルがおかしいだけなのです、そのうちちゃんとしたのに合うと思います、具体的には3ヶ月後くらい」

「お願いだから今すぐ合わせて!?」

 

 

 やっぱりこの子はからかうととても面白い。

 ……あ止めて脛は止めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

二話・説明しまshow!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……いい?お願いだから、横道反れずに・ちゃんと・確り・話を・聞いて」

「うぃ」

 

 

 こちらに念を押してくる彼女に頷いて、心を無にする。

 相手に読まれているのでこれくらいしないと話が進まないだろう。

 なので今から俺は無。

 無。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……聞けぇ!!」

「あべし」

 

 

 無になり過ぎて全て抜け落ちていた。

 まさかここまで俺に無になる素質があるとは。つまり無とは、今とは、転生とは。

 

 

「お願いだから真面目にやって?!それ多分ここじゃないどこかに行く奴でしょ!?」

「おおっと」

 

 

 ネタの天丼は鮮度が落ちるので気を付けなければ。

 失敬失敬と謝って、今度こそちゃんと聞く体制になる。流石に二話も使って何も進まないのは面白い面白くない以前の問題だ。

 

 

「……なんでこんな奴を選んじゃったのかしら私……。いやでもだって選んだの多分あの人だし……」

 

 

 そうして真面目に聞く態度を取っていると、何故か彼女の方がぶつぶつと違う事を考えているようだった。

 ……はて、あの人とは?

 

 

「……アンタ、転生者でしょ?だったら多分、こっちに来るときにあの人に会ってるはずだけど」

「んんん?」

 

 

 その言い方からしてどうにも死んでから見た神様のことではないらしい。

 というかあの人……人?にはほぼほぼ一方的に謝罪とチートを押し付けられたような気しかしない。

 

 

「それはまた雑な神様を引いたのね……」

 

 

 そう告げるとニャルさん(仮称)は遠い目をしていた。その口振りからするに、わりと神様案件に詳しいようだ。

 

 

「ニャルさん言うなっ。……まぁ、この世界はわりとアレな方だから、こっちに転生先を振ってくる奴は基本クソよマジで」

「へぇ、じゃあこの世界はどんな感じの世界なんです?」

 

 

 そう聞けば、ようやっとまともな話ができると意気込んだ彼女が、指をパチンと鳴らした。

 その音に合わせて突然ホワイトボードがどこからともなく湧いて出てくる。

 ……無貌パワーの無駄遣いでは?

 

 

「使ってこそでしょこういうのは。ほら、ボードの前に座って座って」

 

 

 どこか楽しそうなのは彼女の素なのだろうか。

 だとすればやっぱり良い子なんだなぁと思いつつ、俺はホワイトボードの前に子供のように陣取るのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「さて、この世界の子細を話すにあたって一番重要なのは、この世界がほぼ滅びかけ──いわゆるポストアポカリプスってやつだってことね」

「いきなり不穏な空気」

 

 

 ポストアポカリプスといえば、モヒカン達がヒャッハーしたり、モヒカン達がウボァーしたり、せめて安らかに死ぬがよいされる世界の事だ。

 とても怖い。

 

 

「……ねぇ、多分だけどアンタが今思い浮かべてる奴、ポストアポカリプスとしてはちょっと特殊な奴じゃない?」

「おお「言わせないわよ」……ろーん」

 

 

 思考が読まれているので発言を取り消されることもあるらしい。これはなんとも悲しい。

 まぁ、どうにかする方法なんて幾らでもあるのでへこたれる気は一切ないのだが。

 

 

「……ホントにどうにかしそうだから怖いのよアンタ……。んん、まぁ、それは置いといて。この世界が滅びかけたのには、100年前のある事件が関わっているの」

 

 

 彼女はそう言いながらホワイトボードを指差す。

 なんと、マジックが勝手に文を書き上げていくではないか!

 なるほどマジック(ペン)マジック(魔法)。これがニャルラトジョークというわけじゃな?

 

 

「んなわけあるかっ!!……んん。100年前に起きたその事件の名は、【大災厄】。……こっちから見始めた、みたいな奇特な人じゃなければ聞いたことはあるかしら?」

 

 

 そんな事を言いながら視線を中空に彷徨わせる彼女。

 何を言ってるのかはよくわからんが、こっちはよく知らんので解説をお願いしたいのだが?

 

 

「はいはい。──【大厄災】、それは地上に現れた一つの異端、それを滅ぼすためだけに他の異端が集い、戦いを挑んだ大戦争のこと。……結果としては大敗退で、ありとあらゆる異端が露と消えちゃったわけなんだけど」

「え、あらゆる異端が?」

「ん?ええ、そうだけど?」

 

 

 なんでそこに食い付いたの?みたいな顔をする彼女だったが、俺としては残念極まる話なのだ。

 

 

「そっか……、異世界なら居ると思ったのに。会いたかったな……ずんど◯べろ◯ちょ」

「言っとくけど古いわよそれ」

「古いならなおのこと神秘が高まってそうじゃないか」

「……知らないわよ……」

 

 

 なんでこの子は話すたびに頭を抱えるのだろう。

 やはり無貌の神様なので異世界からの交信を頻繁に受け取ったりしているのだろうか。

 

 

「……あーもうっ、いいから聞くっ!とにかく、異端は滅びたの!一個だけ、最悪のものを残して!」

「ほうほう、一つだけ。それが実はアレだったりは「ないです」うぬぅ……」

 

 

 こちらの希望が悉く折られていく。

 確かにこの世界はクソだな!

 

 

「絶対違うけどもうそれでいいわよ……」

 

 

 疲れたように肩を落とす少女。

 ……ちょっとからかい過ぎたかと反省。

 お詫びにポッケから個包装の飴を取り出して差し出したら、特に迷いもせずに受け取ったあと、何かに気付いたように手を止めた。

 

 

「いやちょっと待ってこれどこから出したの?」

「服のポッケから」

「いや待ちなさい、アンタ間違ってなければ転生者だけど着の身着のまま型でしょう、さっき見た時こんなの持ってなかったじゃない」

 

 

 なんと、流石の無貌の神ハイスペックアイ。

 あの時邪視った時に何気なくこっちのスキャニングを終わらせていたらしい。

 ということは俺の財布の中に千円札しか入ってないことも把握済なのか。

 

 

「いやまぁ、うん。それも把握済といえば把握済なんだけど。……そこ触りたくなかったのに自分から話題にするのはちょっと卑怯臭くない?」

「気分だけバブリーしたかったんだ。ところで今の子にバブリーって言葉が通じるのちょっと面白いよね、俺世代じゃないけど」

 

 

 流行り廃りそのものが流行り廃るのって珍しいんだろうか、なんて思いつつ財布の中にみっしりと入った千円札に思いを馳せる俺なのだった。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……って、違うわよ!この飴の子細を!言え!」

「イエーイ」

「ふんっ!」

「オアーッ」

 

 

 ついに脛への蹴りにタメがなくなってしまった!

 コマンド省略とか流石無貌の神汚い。

 

 

「お望みなら過程を省略して無限回ぶちこんであげてもいいのよ?」

「丁重にお断りします」

 

 

 めっちゃ良い笑みで言われたので丁寧にお断りしておく。

 全く、この世界に転生して初めて出会うのがこんな暴力系ヒロインだとは思わなかったぜ。……ん?「貌」力系ヒロイン………?

 

 

「おいバカやめろ、私以外の貌にまで喧嘩売ろうとするな」

「ヒロインであることは認めるのか(困惑)」

「いいから質問に答えろってばぁ!!」

 

 

 大きな叫び声をあげる自称無貌の神。

 大丈夫ですか?正気が削れていませんか?

 貴方の正気を保証してくれるのは誰ですか?……ニャルニャルしてる側だし保証人も自分だよね分かります。

 

 

「誰のせいだと思ってんのよ誰のぉ!!いいからちゃんと答えなさいよぉっ!!」

「転生前に貰ったチートです」

「……はぁ?」

 

 

 ホントは平穏無事で居られるっていうのが欲しかったんだけど、転生先的に無理と言われてしまったので代わりに貰ったものがある。それが、

 

 

「『一生衣食住に困らない』?」

「うぃ。着るもの食べるもの寝るとこが大丈夫なら血霞吹きすさぶヤベー環境でも案外どうにかなるんじゃないかと思った次第」

「……ああ、うん。確かにそれはチートよね、紛れもなく」

 

 

 無論、他にバレると自分が血霞の中心になりかねないのであんまり言いたくなかったけど、そもそも心を読まれてるんだから話すも話さないもないよね!

 

 

(……全然読めなかったんだけど)

「全然読めなかったんだけどって顔」

「っ!?」

 

 

 顔に書いてあったので読んであげたらめっちゃ警戒された。

 仲良くなりかけていた子猫に思いっきり逃げられた時の気分である、とてもつらい。

 

 

「無貌の神を子猫扱いした不遜さは見逃してあげる。……で、なんでこっちの考えてること読めたわけ?」

「それも多分貰いもの」

「……ってことはこっちの話か。たく、お節介というかなんというか……」

 

 

 多分って言葉で全部把握したらしい彼女は、勝手に納得して勝手に満足したようだった。警戒して損した、とばかりに隣に戻ってくる。

 

 

「にしても……ふーん、なるほどねぇ」

 

 

 そして唐突にニヤニヤし始めるものだから思わず心配になって彼女のおでこに右手を当てる。

 ……知恵熱とかではないようだ。まぁ無貌(略)が知恵熱で倒れるとかあり得ないか。

 

 

「……ナチュラルに無礼なのはもうこの際気にしないけど。まぁ、私がなんでニヤニヤしてるのかなんてこの後の話を聞けばイヤでもわかるわよ」

「ニャルニャルしてる?」

「間違ってないけどやめて」

 

 

 仕方ないのでヤレヤレする俺なのだった。

 

 



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re・3話

「私は神です、知りたいこと何でも教えましょう」

「俺のことどれくらい好きか教えて?」

「面白い人だなーというくらいには好きですよ?」

「なんと」

 

 

 突然目の前に現れた人に自分は神ですとか言われても納得なんてできるはずもないのだが、こっちの質問にちゃんと答えてくれるのを見るにどうやら神様であってたようである。

 地獄に仏、転生に神。なんともはや、ありがたいことである。

 

 

「まぁ私は神ではないんですけどね」

「なんと」

 

 

 と、ありがたがっていたら本当は神様ではないのだと告げられた。

 思わずちょっとテンションが下がるが、そもそも死んだ云々の後に出会ってるんだから、神じゃなくてもあんまり変わらねーやと思い直してとりあえずまた拝む。

 

 

「そこで拝まれるとは思いませんでした」

 

 

 そしたら神様(仮)に苦笑された、解せぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三話・会合しまshow!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遥々遠くからご苦労様です。私、一応ここの管理などを執り行っているモノですわ。なんでも、お好きなようにお呼び下さいまし」

「では貴様」

「はいなんでしょう貴方様」

「負けた」

 

 

 好きなように呼んだら文字数増やされたでござる、相手の方が一枚上手でござる。

 思わず膝を付いて項垂れていると頭上から「呼びにくければミナト、で構いませんが?」との提案。

 本名か何かだろうか?とりあえずありがたく呼ばせて貰うことにする。

 

 

「ではお前」

「はい貴方♪」

「ミーの敗けデース」

 

 

 意味を変えられたらおしまいだってば。

 どうにも会話の主導権がとれそうもないので素直に話を聞くことにする。……こここれは決して負けたわけじゃないんだからね?!

 

 

「はいもちろん♪……さて、貴方様の冒険はここで終わってしまいました。コマンド?」

「ヤメローシニタクナーイ!」

 

 

 もう既に死んでいるのに死にたくないとはこれ如何に。

 ともあれ、自身が死んだあとであることを確認する、という意味ならばさっくりざっくりである。

 

 

「はい、そういうわけでして。貴方様は向こうの神様から幾つか贈り物を受け取ってここにたどり着いたわけですが。……ふむふむ、変なことになりそうなものは特に有りませんね。──あったら(くび)ってましたが」

「ナチュラルにもっかい死にそうになってた件」

 

 

 死んでるのにもっかい死ぬとはこれ如何に。

 

 

「一度死んだのなら二度も三度も同じだと思いませんこと?」

「思いませんですこと」

 

 

 にこやかな笑顔のミナトさんに必死に首を横に振る。

 ここで了承すると特に悩みもせずに飛頭蛮にされてる未来がありありと見えるのでわりと必死である。中身にアンコがつまってるわけでもないのでそんなことされたら普通に終了だ。

 

 

「つまってませんの?」

「夢と希望がつまってるといいですね」

「……やっぱり切られたいのでは?」

 

 

 ワクワクした目で見られても嫌なものは嫌です。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「……さて、とりあえず私からの検査は以上です。特に問題なく通って構いませんかと」

「やったぜ」

 

 

 あれからあれこれ調べられた結果、このままこの世界に転生しても大丈夫だと太鼓判を貰った。……検査されながら思ったのだが、なんだか空港検査を受けているような気分だった。

 

 

「まぁ、疫病検査ならぬ要らぬ騒動の火種検査ではありますからね。下手なチートは無謀の始まり、特にこの世界では迂闊な行動一発即死、ですもの。……あいえ、即死ならまだ優しい方でしたね」

「ヤベーところをこれでもかと匂わせてこないで下さい死んでしまいます」

 

 

 ただまぁ、会話のあちこちに地雷を突っ込んでくるので何一つ気は抜けませんでしたけどね?!

 

 

「しっかり避けた貴方が言うことでもないと思いますが。……では、はい。これを」

 

 

 そういってミナトさんは何かをこちらに差し出した。

 ……勲章?ピンがあってどこかに付けるバッジ的なものだった。とりあえず受け取って胸のポッケにくっつける。

 

 

「デレデレデレー。残念、貴方は呪われてしまいました」

「ちょ」

「そしてテッテレー。貴方は呪いに打ち勝ちました。呪いに打ち勝ったものは古来から祝福を受けるとされます、おめでとうございまーす」

「ええー?」

 

 

 くっつけたら呪われて、呪われたと思ったら既に呪いを克服していた。

 何を言ってるのか何一つ分からないのですが?

 

 

「具体的には私からの呪いを克服しましたので、その特典が与えられます。やりましたね、更なるチートゲットですよ?」

「おー。……ところでその呪いとは?」

「克服できなければ今ここで爆散していました」

「……what's(なんて)?」

「爆散していました。運がいいというかなんといいますか、持ってますね!」

「何故この人はここまでナチュラルに人を亡きモノにしようとするのか」

 

 

 人の悪意が見えるようだよ、と俺が遠い目になったのは言うまでもない。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「いえ、私も多分大丈夫だろうなーと会話の中で確信したから渡したんですよ?」

 

 

 流石に無意味に爆散はさせませんよーとミナトさんは言うのだが、それは裏を返せば意味があれば爆散させるってことですよね?……と問い返したら視線をそらされた。

 この人やっぱヤバいのでは?

 

 

「こんな世界なので多少ヤバいくらいがちょうどよいのですよ」

「よいのですか」

「よいのですの」

 

 

 ならいいか。

 気を取り直して呪いと祝福の子細を聞く。

 

 なんでもこの世界には一つヤベーい化け物が居て、さっきのはその化け物になれるかの適正を測るためのものらしい。適正があれば馴染んで、無ければそのまま付けた人が消え失せる。

 ……ホントに爆散寸前だったんですがそれは。

 

 

「ところが貴方は馴染むより先に行っちゃいました。なので呪いが裏返り、祝福と化したのです」

「なんと」

 

 

 どうやら俺はいつの間にか、地上最強の生物への一歩を踏み出していたらしい。これはあれか、砂糖水とか飲んだ方がいいのだろうか?

 

 

「ただまぁ、祝福以外は最低限の身体スペックだけなので、いきなり最強ー、とかは無理なんですけどね」

「ぬか喜びだった」

 

 

 別に最強目指してたわけではないけどちょっと拍子抜けする。

 さて、肝心の祝福とは一体なんなのだろうか?

 

 

「化け物としての維持コストが免除されます」

「維持コストの免除」

「はい♪」

 

 

 それって実質なにもないのと同じなのでは?そう問えば、それがそうでもないらしい。

 

 その化け物は力の維持に一定周期で一定の魂を必要とするのだが、その一定の魂、というのが問題らしく。

 大体本人1に対し必要な魂は10、酷い時にはもっと掛かるその維持コストは、向こうの世界の住人がそれを解消するためだけに、あれこれ思案するレベルで深刻な問題なのだとか。……うーん闇深案件。

 

 

「なので、最初からその維持コストが掛からない貴方は、向こうに行ったら周囲から羨望の眼差し間違いなしなのです」

「はえー」

 

 

 なるほどわからん。

 

 なお、ちゃんと聞くところによると。

 その維持コストは実は代替品であり、俺の祝福は正しい形で維持コストを払ってくれるもので、一般的な化け物達の維持コストが掛かりすぎているのは、使っている燃料が代替品だからなのだとか。

 

 

「ただまぁ、向こうにも既に正式な維持コストを払ってる子が何人かいますので、別に貴方が初めてというわけでもないんですけどね」

「ぬかに漬かってる気分なんですがそれは」

 

 

 なおその後ぬか漬け気分どころか、異世界という混沌の坩堝に漬けられるはめになる俺なのだった。

 どっとはれ。

 

 

 

†  †  †

 

 

 

「そんな、嘘、嘘でしょ……、こんなやつが、覚醒者………?」

 

 

 そんな事が転生前にあったのだとニャルさんに話したら、すっごい顔になって踞ってしまった。

 

 それもこれも彼女が「アンタはね、この世界で他人を犠牲にしなければ生きていけない体になってしまったのよー?」なんてニャルニャルするからである。

 

 他人をからかうとき、貴方もまたからかわれているのだ、なんて宣ったら脛にパンチが飛んできた。

 ……意外と元気そうだなと呑気に思う俺なのだった。

 



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