GOLD SHIP RUN (パイマン)
しおりを挟む

ウマ娘版『SBR』の設定・雑想ノート

本編の背景となる『ウマ娘世界に合わせて改変されたSBRの設定・情報』です。
必要な情報は本編内で描写しますので、ここを読む必要はありません。
本編の大雑把な描写だけではイメージしづらい方や、詳しい設定を知りたいという方向けに書かせていただきました。

注意:原作の設定と改変した設定を合わせて表記してあります。混同しないようご注意ください。


ウマ娘版【スティール・ボール・ラン】

 

目的『ウマ娘によるアメリカ大陸横断レース』

 

・主催者:スティーブン・スティール

・スタート地点:サンディエゴ

・ゴール地点:ニューヨーク

・総走行距離:約6000km

・参加者総数:3852名(トレーナーは除く)

 

 

 

【レースの詳細】

 

・レース参加資格:16歳以上のウマ娘(トレーナーの同伴可)

・レースの参加料はウマ娘とトレーナーで別個払う必要あり。

・参加料は原作ではひとり1200ドル(15万円)だったが、舞台が現代になったことによる参加料に含まれる費用(リタイアした者の回収など)の軽減に伴い複雑な改変となる為省く。貨幣価値自体は原作も現在の価値に相当する金額で設定しているらしい。

・賞金:1位5000万ドル(60億円)/2位100万ドル/3位50万ドル/4位25万ドル/5位12万ドル/以下10位まで配分あり。

・レースは『ステージ制』でゴールを含めて9つのチェックポイントがあり、各チェックポイントの通過順をステージの順位とする。

・ポイント制:優勝は最終ステージ1着の選手ではなく、各ステージで得たポイントの合計が1番多い選手。

 

 

 

【ルール】

 

・レースを走るのは参加ウマ娘個人である。

・チームによる参加、選手の交代は失格となる。

・トレーナーは担当するウマ娘を支援することでのみレースに干渉出来る。トレーナー自身がゴールしても入着と判定はされない。

・リタイア時には、レース主催者により交通費、医療費、宿泊費等がまかなわれる。

・銃器類の使用・武装は禁止。サバイバルなどに必要なナイフ類・対獣用護身道具の所持は認める。それらが犯罪行為に用いられた場合は即失格・逮捕となる。

・明確な妨害行為はペナルティを課せられる。(度合いにもよるが失格ではない。また『妨害』の判定は、その都度審議により決定する)

 

 

 

【運営側の準備やレースへの支援】

 

・参加者には全員に専用無線機(GPS付)を配布し、任意にリタイアが可能。リタイア宣言が確認された時点で回収・救助に向かう。

・9つのチェックポイントでは補給を受けられる。参加者(トレーナー含む)には食事・宿泊が無料提供される。

・怪我や病気の治療は受けられない。自身やトレーナーが医療品を購入して行う分には自由。

・リタイア宣言が確認されるまで救助は行われないが、意識不明など危機的状況でも自発的にリタイアが出来ない場合などは緊急措置として運営が独断で回収に向かう。もちろんリタイア扱い。

・レースの状況は可能な限り逐一記録され、スポンサーである各テレビ局から世界中に配信される。(原作と違い現代技術でドローンなど情報収集手段が豊富な為)

・レース中でもカタログから選ぶことで運営が物資を届けてくれる。ただし有料。受け取れる場所も限られる。(砂漠の真ん中で水を注文とかはムリ)

 

 

 

【トレーナーの役割・認められている権限】

 

・トレーナーは担当するウマ娘への支援が認められている。支援内容は各々の自由。

・一日の走行距離の多いウマ娘に生身で随伴することは現実的ではない為、チェックポイント以外の補給・休息地点を設定して待機、辿り着いた担当ウマ娘をケアするというのが基本的な支援となる。(登山のベースキャンプに近い)

・支援内容はウマ娘の『治療』『体調管理』『最適なコースの模索』『ペース配分の指示』など多岐にわたる。トレーナーの技量次第。

・トレーナーにはウマ娘と同じ無線機が配布され、それによるアドバイスや指示などの通信が許可されている。

・トレーナーは担当するウマ娘のリタイア権限を持っている。トレーナーがリタイアを宣言した場合は、ウマ娘の意思に関係なくリタイアとなる。

・トレーナーの所在はウマ娘側に影響しない。トレーナーがいなくなってもレースは続行可能。

・トレーナーは運営側の用意する移動手段を利用出来る。しかし、ウマ娘をそれに同伴させることは出来ない。

・トレーナーはウマ娘のレース進行に同伴することが出来る。しかし、運営側の用意する移動手段は利用出来ない。

 

 

 

 

 

 

↓具体的なレースの進行状況(原作のネタバレあり)↓

 

 

 

【レース開始前】

 

・インディアンの義姉に育てられたウマ娘『サンドマン』、部族への恩返しの為にSBRへの参加を決意。トレーニング中のヴァルキリーとニアミス。

・ポコロコ、博打でスッた帰り道にジプシーの婆さんの占いで来月から何をやっても上手くいく人生最高の至福の時期が来ると教えられる。

・『お前の傍には幸運の女神がついているよォォォ~~! 人生最大の絶頂期がやってくるんじゃあ~! 迷うことはない! 何でも好きな事をやるべきじゃあ~! 女神が傍にいればお前の人生成功間違いなし!』

・実はよく世話になっているヘイ・ヤーとの仲を取り持とうとしたババアのお節介だった(←結果的にヘイ・ヤーへの幸運)

・ポコロコ、リッチな生活を夢見てSBRへの参加を決意。

・参加資格に必要なウマ娘であるヘイ・ヤーを拝み倒す。ヘイ・ヤー、呆れながらも了承。

・サンディエゴ・ビーチにてレースの参加者受付開始。500人ほどの予想が、この時点でそれを遥かに超える2000人以上が集まる。

・開催前の記者会見にてスティーブン・スティール氏、伝説のスピーチ。

・ジャイロとヴァルキリー、悪質な野次馬に絡まれるが鉄球の技術にて撃退(さすがに決闘による人死にはなし)

・その場面に偶然居合わせたジョニィ、回転の秘密を知る為にレースへの参加を決意。

・参加資格に必要なウマ娘を探して、偶然スローダンサーと出会う。

・ジョニィ、必死の勧誘。不審さ全開の上、金まで持ち出して買収しようとする。

・スローダンサー、ジョニィを半殺しにする。

・スローダンサー、一晩中付き纏われる。

 

 

【第1ステージ:15,000メートル】

 

・最終的な参加者は3852名。

・全長4kmに及ぶスターティング・グリッドより一斉にスタート。海岸から丘陵地帯、曲がりくねった上り坂、雑木林の下り坂、捨てられた農場を経る15kmのコース。

・全体的に見れば、距離的にも短く、コースもオーソドックスだと判断されるのがSBRが魔境のレースと呼ばれる所以。

・トレーナーの出番はほとんどなく、純粋なウマ娘の能力が試される最初のステージ。

・レース開始前、スローダンサーがデレる。ギリギリでレース参加決定。

・レース開始。原作通り、ヴァルキリーがスタートダッシュ。

・自動車で参加するバカも、ラクダ娘もいるわけないだろ! いい加減にしろ!

・ポコロコとヘイ・ヤー、仲良く寝過ごす。

・スローダンサー、ジョニィの的確なアドバイスにより上位に食らいつく。シルバーバレットとの因縁が始まる。

・原作通りの展開。ヴァルキリーが1着でゴールするも、後に妨害行為があったと判断されて降格。サンドマンが1着に繰り上がる。

・予想外に出鼻を挫かれたジャイロとヴァルキリー、ジョニィとスローダンサーとの協力体制を取って優勝を目指すことを決定。

 

 

【第2ステージ:アリゾナ砂漠越え】

 

・砂漠を経由する総距離1200㎞の長距離レース。

・決められた1ヶ所のチェックポイントを通過する義務以外は、ルート選択や1日の走行距離は各選手の自由。野営も自由。

・運営側にリタイア以外の申告は不可。水や食料を要求するだけでもリタイアとみなされる。

・この辺りからトレーナーのサポートが重要になり始める。

・過酷な環境で走るウマ娘の姿や現場で彼女達を支えるトレーナーの姿がテレビで放送され、反響を呼ぶ。

・野営中のテントへスタッフが訪れてインタビューしたりする内容は後の特集で何度も使用されるほどの鉄板人気映像になる。

・多分、日本では世界まる見え的な番組で紹介されたりする。……あの番組ってもう古い?

・結果的に、このステージで1300名以上がリタイア。

・原作通り、事前情報の水場を無視して砂漠の真ん中を突っ切るコースを選ぶヴァルキリー。

・無謀な判断だと焦りながらも、結局それに続く決断を下すジョニィ。そして、それに付き合わされることになるスローダンサー。

・原作と違い、トレーナーの拠点サポートが認められているから多少はマシか?

・原作で襲ってきた『ミセス・ロビンスン』の馬の名前『エル・コンドル・パサ』なんだってさ。

・エルちゃんがあんな噛ませなワケないだろ! いい加減にしろ!

・よって、『ミセス・ロビンスン』という名前の変なウマ娘がサボテンで妨害攻撃して襲ってくる展開になりました。

・ヴァルキリー、鉄球の回転で撃退。

・スローダンサー、常識が崩れていくのを感じる。

・スタンドによる襲撃、殺人事件は起こらず。

・ただし、妨害などによる傷害事件はあったので、敏腕保安官マウンテン・ティムが迅速解決。

・相棒は星条旗ビキニとカウボーイハットが勝負服のグラマラスなウマ娘。タイキシャトルの血統ですねこれは、間違いない。

・多分、ここだけアメリカのアクション映画やってる。

 

 

【第3ステージ:ロッキー・マウンテン・ブレイク・ダウン】

 

・ロッキー山脈を越える510kmの山岳ステージ。

・激しい高低差が身体に大きな負担を掛ける、人間はもちろんウマ娘にとっても未踏の体験。

・足腰に負担を掛け続けた結果、炎症や疲労骨折を起こしてリタイアする者が続出。最終的なリタイア数551名。

・トレーナーのいないウマ娘の大半が、ここと次のステージで力尽きてリタイアする。

・身体能力で劣るスローダンサーも危うい状態になるが、ジョニィのケアによって走行続行可能にまで回復。

・スローダンサー、ジョニィを本格的に見直し始める。同時に、レースに対して『覚悟』を決める。

・原作通り、休息地点でディエゴとシルバーバレットとの絡みあり。ただし、スタンドバトルはなし。

・山岳コース上での純粋な競り合いによるレースバトル。テレビ放送も盛り上がる。

・ジャイロとヴァルキリー、ディエゴとシルバーバレットに敗北。

・スローダンサー、ジョニィの言葉を受けて限界を越えた成長が始まる。

 

 

【第4ステージ:広い広い大草原の小さな墓標】

 

・原作ではここからスタンドバトルや、裏で暗躍する大統領の話がメインになり始める。

・しかし、この世界では『遺体を探すレース』ではないので全部カット。

・レース自体は途中で嵐に遭遇するなどのアクシデントもあり、かなり盛り上がる。

・走行距離も約1250kmと長丁場。

・山岳コースでの負担が響いたのか、このステージで1477名がリタイアする。

・ヴァルキリーが再びシルバーバレットと嵐の中で競り合い、あと一歩まで迫るが妨害一歩手前のラフプレーにより敗北する。

・しかし、シルバーバレットの中で初めて焦りが生まれ、ヴァルキリーを本格的に敵視し始める。

 

 

【第5ステージ:イリノイ・スカイライン】

 

・走行距離は約780km。ミシシッピー川を渡ってミシガン湖畔を終点とするコース。

・原作ではここでサンドマンがディエゴと組んだ大統領の刺客として襲ってくるが、当然この世界ではなし。

・ミシシッピー川は『泳ぐ』というウマ娘にとって意外と必須ではないスキルを要求してくる。これに苦戦する選手が複数出る。テレビ的にはオイシイ見所。

・川を渡り終えた辺りから本格的に冬の季節に移り替わり、雪が降る。

・厳しい環境に加え、ここでレース外部から『妨害』が先頭集団を襲う。

・原作で大統領が放った11人の刺客が、別の勢力(国家か何らかの選民主義組織かは決めてない。複雑になるから)に置き換わって襲ってきたような展開。

・この事実はテレビやニュースを通じて断片的に世間に知られるが、多くは謎のままSBRが終わる。

・この『妨害』を受けたジョニィ達は何とか乗り切るが、巻き込まれる形になったサンドマン含むウマ娘とトレーナー数名が負傷してリタイア。

・原作とは違って、サンドマンは生還する。無事、部族の元へ帰る。

・賞金は手に入らなかったが、サンドマンの人を魅せる走りや参加理由がテレビなどでピックアップされ、反響を呼ぶ。

・後日、その反響を受けてファニー・ヴァレンタイン大統領が彼女の部族を含む複数の民族の保護計画を発表。国民に広く支持される。

・リタイア数67名。この時点での残り参加者数374名。

 

 

【第6ステージ:ミシガン・レイクライン】

 

・走行距離約690km。コースよりも冬に入った影響で、気温の低下や突発的なブリザードなど過酷な環境が牙を剥き始める。

・ここに至るまでに蓄積した疲労やストレスに『体温の低下』という普通のレースでは在り得ない経験が、ウマ娘を蝕んでいく。

・それをサポートする為、トレーナーも拠点で待つスタイルではなく、同伴する形を取り始める。

・当然、進行速度は遅くなるが、確実な一歩を刻んでいく。

・過酷な環境を共に切り開いていくウマ娘とトレーナーの姿は、砂漠コースに並ぶ大反響を呼ぶ。野営キャンプへのインタビューはテレビの特集で(略)

・やはり原作であったウェカピポ達の襲撃はこの世界ではなかったが、凍った湖を渡るシーンはSBRでも有数の見所になった。

・このステージの1位はヴァルキリー。2位はスローダンサー。3位ヘイ・ヤー。

・これまで所々で目立っていたが、本格的にジャイロ組とジョニィ組が注目される。

・厳しい環境の為か、このステージで313名がリタイア。参加者数が100名を切る。

・この時点で、ジョニィとスローダンサーも回転の技術を身に着け始める。

 

 

【第7ステージ:フィラデルフィア・トライアングル】

 

・走行距離は約1300km。

・原作では大統領が本格的に動き始め、遺体を巡る戦いが加速していく。その分、レース内容は描写されていない。

・なので、レースがメインのこの世界では大幅カット。

・ただし、原作でディエゴを含めた三つ巴戦だったように、ディエゴとシルバーバレット相手にレースの随所で激戦を繰り広げる。

・9名リタイア。レースはいよいよクライマックスへ。

 

 

【第8ステージ:ボース・サイド・ナウ】

 

・走行距離約140km。

・原作では列車上での大統領戦。当然、この世界では無し。

・ただし、第5ステージでの『妨害』が規模を増して先頭集団を襲撃。

・国家や組織が特定の国籍もしくは所属の選手を勝たせる為に仕向けた、といった陰謀論がまことしやかに囁かれるが詳細は闇の中。

・いずれにせよ、この襲撃でウマ娘とトレーナーに数名の死者と多数の重軽傷者を出す大惨事になる。

・テレビの放送が一時中断されるなど世間にも大きな衝撃を与える。

・しかし、皮肉にもそれによって過去最大の視聴率を記録。SBRの世界的認知度は最高のものとなる。

・この襲撃により、ジャイロ死亡。ヴァルキリー、リタイア。

・ジョニィとスローダンサーはレース続行。

・ヴァルキリー、ジャイロの遺体を連れて祖国へ帰還。

・以後、彼女が公式のレースに姿を現すことは2度となかった。

 

 

【最終ステージ:マンハッタン・ラプソディ】

 

・走行距離13km。ニューヨークの市街地を走る最終ステージ。

・道無き道ではなく、舗装された道路を純粋な経験と技量のみで走り抜ける高速ステージ。

・市街地ということでカメラなどの映像記録も撮りやすく、各所でのデッドヒートをテレビで生中継し、世間も大いに盛り上がる。

・この段階ではトレーナーの介入する余地はほとんどなく、ルート選択やペース配分などを事前にウマ娘と打ち合わせた後は見守り、祈るのみ。

・ジョニィ、観客の中にいた父親と和解。

・それを見届けたスローダンサー、僅かに安堵の笑みを浮かべ、声を掛けることなくスタートする。

・この時点での参加者45名。優勝圏内は4人。その内の3人は『スローダンサー』『シルバーバレット』『ヘイ・ヤー』

・幸運を味方にするヘイ・ヤーの予測不能な走りも人気を集めるが、純粋に実力最高峰のスローダンサーとシルバーバレットの対決が一番の注目を集める。

・シルバーバレット、経験と回転の技術によって食らいつくスローダンサーにかつてない戦慄を感じる。

・ゴール直前まで互いに離されることのないデッドヒート。

・ほとんど差なしにゴール。長距離レースでは予想外の写真判定まで持ち越す。

・判定、1着シルバーバレット。2着スローダンサー。

・SBRレース優勝者、決定。

・閉幕式。ヴァレンタイン合衆国大統領のスピーチと、賞金、トロフィーの授与をもってレースは終了する。

 

 

 

【総合順位】

 

1位:シルバーバレット(ディエゴ・ブランドー)

2位:スローダンサー(ジョニィ・ジョースター)

3位:ヘイ・ヤー(ポコロコ)

 

以下原作通り。省略。

 

 

 

【レース終了後】

 

・完走者41名(原作はディエゴとジョニィが失格で39名)

・ゴール上位のウマ娘以外にも完走者や奮闘した者はテレビなどでピックアップされ、トレーナーや育成機関からのスカウトが来るなど一度夢破れたウマ娘への光明となる。

・レースの経済効果は約7兆円と発表される。

・非人道的レースとの非難が各方面から上りはしたが、スティーブン・スティールが個人的利益全額を各方面に寄付すると発表すると、批判はピタリと止んだ。

・様々な後ろ暗い面を残しながらも、主催者の高潔な精神が美化され、レースは『大成功』と世間的に認知される。

・これによりウマ娘のレース業界が国を越えて活性化。

・2ケ月後、とある島国で正統なレースを舞台とした新しい競技大会が提唱される――。

 

 




原作『スティール・ボール・ラン』全24巻。
3巻からスタンドバトルが介入してきて展開が面白くなってくるけど、ウマ娘を知ると序盤のレース展開も面白く感じるようになってくるぞ!
つまり、アプリ版ウマ娘を楽しんで漫画を読めば、相乗効果で更に楽しめるという寸法さ!(ダイマ)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#1「スティール・ボール・ラン」

この作品の世界観はウマ娘の設定にSBRの設定を改変して近づけたものです。
なので、SBRレースは原作とは違い『遺体の存在しない世界』で行われています。
この設定を前提でお読みください。


 この『物語』はアタシが歩き出す物語だ。

 肉体が……という意味ではなく、青春から大人という意味で……。

 アタシの名前は『ゴールドシップ』

 最初から最後まで、本当に謎が多いトレーナー『ジョニィ・ジョースター』と出会ったことで……。

 

 

 

 

 

 

 

「また、ですの? 飽きませんわね、ゴールドシップさん」

 

 朝の学園食堂で、ここ2か月の間ですっかり日常化した姿を、メジロマックイーンは眺めた。

 朝食の代わりに新聞を広げたゴールドシップの肩越しに、記事を一瞥する。

 

「『スティール・ボール・ラン』――レース終了から2か月も経つのに、まだ記事が一面を飾っていますのね」

 

 ――レースがあった。

 人類史上、そしてウマ娘にとっても史上初の競技大会が、アメリカで開催された。

 太平洋『サンディエゴ』のビーチをスタートし、ゴールを『ニューヨーク』と定めたウマ娘による北米大陸横断レース。

 優勝者に支払われる賞金は5000万ドル。2位以下にも各賞金が設定されている。

 参加者は16歳以上、国籍、人種、プロ、アマチュアは問わない。トレーナーの同伴も可。

 ただし、参加するウマ娘は個人であること。チームによる参加や交代は失格の対象となる。

 たった一人で、毎日休まず、1日70kmから100kmの道を他人と競い合って走り抜かなければならない。

 総距離は約6000kmだ。しかも、未だ開拓のされていない危険な場所も通過する。

 ゴールまでの予測日数は、開催前でも60日から80日とされていた。

 その内容から、企画段階で多くの反響と批判を呼びつつも当初の想定よりはるかに規模は膨れ上がり、3000人以上の参加者と全世界の注目を集めて、ついには9月25日午前10時にレースはスタートした。

 どんなトラブルが起こるのか誰にも予想出来ない、歴史上初の試みだった。

 まずゴールまで走り抜くことすら困難。その上で優勝を掴んだ者には、賞金以上の栄誉が約束されていることは間違いなかった。

 そのレースの名が『S B R(スティール・ボール・ラン)』である。

 誰もが毎日固唾を飲んで見守りながら、同時に失敗するだろうと思われていたレースだ。

 長すぎる距離と過酷なコースは、どんなウマ娘もゴールまで辿り着けないだろう、と。

 しかし、レースは成功した。

 史上初の挑戦は、史上初の栄光として世界中に示されたのだ。

 それが2か月前の話である。

 

「実際には100日以上かかった長期間のレースですから、幾らでも特集は組めるでしょうけど……」

 

 以前読んだものとさして代わり映えのない記事を流し読みながら、メジロマックイーンは表情を曇らせた。

『SBR』が終了してから、海外はもちろん日本でも多くの報道や番組が放送された。

 過酷なレースを走り抜いた優勝者やその他の参加者達を華々しく飾り立てる一方で、多数の重軽傷者と十数名の死者を出したという結果は激しい賛否両論を呼んでいる。

 メジロマックイーンもまた、レースの影に隠された凄惨な現実に眉をしかめる側だった。

 芝とダートの上にある正統なる栄誉を求めて走る名家のウマ娘である彼女には、命を蔑ろにしてまで競い合うレースと、その危険を見世物のように扱うレース主催者は理解の及ばない存在だったのだ。

 

「いつまでもお祭り騒ぎ……本当、世間もアナタも飽きませんわね」

 

 目を背け、思わず棘を含んだ言葉が口から漏れ出る。

 そこでようやく、新聞に視線を落としていたゴールドシップが顔を上げた。

 

「3000人が走った6000kmのレースだぜ? 2000mのレースを18人で走ったって何が起こるかわかんねーのに、6000kmなんて想像もつかねぇよ! なんかワクワクしてこねぇ!?」

 

 瞳を輝かせながら、ゴールドシップは笑っていた。

 メジロマックイーンとは違い、彼女は『SBR』が開催される前から企画に強い興味を抱いていた。

 当時の生中継ではテレビの前に齧りつき、海外放送が終了した今もこうして関連するニュースに細かく目を通している。

 ゴールドシップというウマ娘の性格をよく知る者からすれば、驚くべきことだった。

 常日頃から自由奔放で、面白いことを探して学園を走り回り、奇行を繰り返し、そして何より気分屋で飽きやすい。

 興味を失った時や調子の乗らない時は、すぐに目の前の物事を投げ出す。

 トレーニングやレースにおいてもムラの多い彼女が、ここまで一つの出来事に執着し続けるのは、少なくともメジロマックイーンにとって初めて見る姿だった。

 

「テレビの放送は色々カットされてたしさ、特集はレースの目立つ部分だけ何回も繰り返すし、全然情報が足りねーっつーの! アタシはもっと色んな場面を見たいのによ」

「100日を超えるレースですのよ。映すカメラが何台あっても足りませんし、膨大な記録を編集する人間が何人いても足りませんわ」

「だよなー! やっぱり現地に直接行くべきだったんだよ!」

 

 口惜しそうにぼやくゴールドシップを見て、メジロマックイーンの額に青筋が浮かんだ。

 レース開催期間中、突然『アメリカへ行く』と言って走り出したのを、必死で取り押さえた時の騒動を鮮明に思い出したのだ。

 

「……あの時は深夜でしたわね。同じ寮の皆が総出で貴方を追いかけて、結局朝まで走り回って」

「いやー、メンゴメンゴ。レースの放送見てたら、ゴルシちゃんの内から湧き上がる衝動を抑えきれなくなってよ」

「出来るかどうかは別として、いきなり海外に行ってレースを見ようだなんて、非常識ですわよ」

「いや、むしろ一緒に走るつもりだったな」

「もっと非常識ですわ!」

「まあ、無理なのは分かってたよ。途中参加は認められてねーし」

「そういう問題ではなくてですね……」

「ホント、惜しいことしたよ。なんで、企画聞いた段階でアメリカ行かなかったんだろ」

 

 わずかに俯いて、ゴールドシップは呟いた。

 

「……本気で言ってますの?」

 

 メジロマックイーンには、それが普段彼女の口にしている冗談や悪ふざけと同じだとは思えなかった。

 静かな声色の中に、芯の通った堅さがあった。

 情熱があった。

 自分の見たことのない、ゴールドシップというウマ娘の抱くレースへの情熱が。

 自分の知らない彼女の姿を見るのが、酷く悔しかった。

 

「アナタは、まだデビュー前ですのよ」

「うん」

「普段どれだけふざけていても、わたくしはアナタの実力を認めています。デビューすれば、きっと一角の選手になると」

「うん、ありがと」

「同じ馬場で競い合うのを楽しみにしていましたわ。それなのに、アナタはこんな奇をてらったレースに惹かれるというんですのね」

「相変わらず、マックイーンはこのレース嫌ってんなぁ。『わたくしはこんな下々の者が参加する野蛮なレース認めませんわ!』ってお嬢様的なヤツぅ~?」

「危険を承知で参加した者達の決意や覚悟には敬意を払いますわ。けれど、事故はもちろん暴力さえ介入する危険性のある環境に、あえて身を置いて競い合う必要性や意義がどこにありますの? このレースに競技としての正当さがあり、後ろめたさがないとは思えませんわ」

「うん。アタシもさ、ただの『愉快で楽しそうな見世物』って考えてるわけじゃねーんだ」

「だったら、冗談でも――」

「冗談じゃねぇんだ」

 

 ゴールドシップは、真っすぐに見据えて答えた。

 

「知りたいんだよ、アタシは」

 

 その口元は、いつものように楽し気に笑ってた。

 

「何を、ですの?」

 

 探していたものを見つけた、焦がれるような瞳だった。

 

「アタシ達が普段走っているコースからは想像も出来ないような道に、どんなものが転がってるのか。そこを全力で走ったら、どんな気分になるのか。そんな奴が3000人も集まったら、どんなレースになるのか」

 

 いつも楽しいことを、面白いものを探していた。

 レースの中にある駆け引きや競い合いの中に、それらを見出していた。

 

「大陸の端から端まで走るんだぜ。宇宙に行くよりも遠い距離さ。スタートで見た光景とゴールで見る光景。一体、どれだけ違ったものが見えるんだ?」

 

 何の障害もないコースの上で、純粋な実力を比べ合う。

 普段は大人しいウマ娘が、レースでは闘争心をむき出しにして走る。

 そこには『熱』があった。

 ゴールドシップ自身を熱くさせる『情熱』があった。

 そして、あの『SBR』というレースには、これまで経験したことのない狂気的な熱を感じたのだ。

 

「熱かったんだよ、あのレースは。見てるだけなのに、アタシは熱くなったんだ。走りたくてたまらなくなったんだ」

 

 あの熱狂の中に飛び込みたくなった。

 楽しいことを探す必要なんてない。

 あのレースの中には、楽しいことも面白いことも、幾らでも転がっている。

 何も考えず、走り続けるだけでそれを味わうことが出来る。

 周りの奴らを追い抜いて、ゴールまで出来たら、もう言うことはない満足感を得られるに違いない。

 そう、思った。

 この学園を、日本を越えて、海の向こうの遠い世界を夢想した――。

 しばらくの沈黙の後、ゴールドシップはチラリと視線をメジロマックイーンへと向けた。

 伺った彼女の様子は、どこか寂し気で、小さく唇を噛みしめていた。

 

「……っつってもー、もう終わった話なんですけどー!」

 

 一転して、ゴールドシップは茶化すように笑い声をあげた。

 

「まあ、冷静に考えりゃあさ、100日はねーよ100日は! レースにしては長すぎるっつーの、もはや旅だよ旅! 温室育ちのアタクシには、日に三回のお風呂とシルクのベッドのない生活なんて到底考えられませんわー!」

 

 メジロマックイーンは、オホホホと笑うゴールドシップを見つめ、やがて諦めたように彼女の気遣いを受け入れた。

 

「……そうですわね。お風呂とベッドはもちろん、水と食料さえ満足に手に入るか分からない、過酷なレースですわ」

「さすがのゴルシちゃんでもヤベーって感じちゃうんだよな。テレビとかではコース上にある渓谷の落盤とか、派手な事故ばっかりピックアップされてっけどさ、栄養失調や脱水症状でリタイアした奴も相当いるよな」

「人の手の入っていない荒野も通りますのよ。危険な野生生物や何よりも病気を運ぶ虫は、日本で暮らしていると忘れがちな脅威ですわ」

「虫かー、蜂とか蚊を想像してる時点で考えが甘いんだろーなー。コエーコエー」

「あら、怖いもの知らずなゴールドシップさんからそんな感想が聞けるとは思いませんでしたわ」

「いや、いくら頑丈なゴルシちゃんでも限界があるからね。アタシだってさ、怪我とか病気はゴメンだから」

「そういう意味でも、やはりアナタが『SBR』に参加しなかったのは正解ですわ」

「分かってるって。フォローしてくれるトレーナーもいねぇしなー」

 

『SBR』を走り抜いた上位参加者の中で、称えられる者はそれぞれの順位に2人ずつ存在する。

 一人は実際に走ったウマ娘で、もう一人はそれを支えたトレーナーである。

 優勝者を含む上位のウマ娘達には、必ずトレーナーが同伴していた。

 同伴といっても、ウマ娘の走行距離に人間が生身で随伴するのは不可能である。

 かといって、さすがに車両による併走は許可されていない。不正の原因になるからだ。

 このレースでは、ウマ娘の走行距離は一日数十kmに及ぶ。日々、積み重なる疲労やトラブルのリスクを最小にする限界の距離だ。

 だが、その限界を究めて走り続けるのは容易ではない。

 一日を過ごす為の食料と水、野営の為の装備、それらを持って走れる距離、速度、その負担、それを繰り返して体力と精神をすり減らす日々――。

 到底、ウマ娘が一人で背負いきれるものではない。

『SBR』では大きく分けて9つのチェックポイントが設けられており、それぞれの地点で補給や休息を得られるようになっているが、ポイント同士も1000km以上離れていることが多い。あるいはコース上に過酷な環境があることが。

 足りない補給と休息を補い、適したルートや進み方を模索して導く為に、トレーナー達は独自にポイントを設け、そこに先回りをして辿り着いた各々のウマ娘を支援した。

 コース上にあるのは砂漠、山岳地帯、危険な生物の棲む幾つもの森林や河。長引くレースの中で季節は変わり、雪さえ降っていた。

 走り続けるウマ娘よりいくらかマシとはいえ、人間にとって厳しい環境であることは間違いない。

 実際に、このレースで発生した死傷者にはトレーナーも含まれている。賛否両論を受ける、問題の一つでもあった。

 しかし、レースの完遂は悲劇を美談に変える。

 何より『ドラマ』があった。

 過酷なレースを、お互いに支え合って走り抜くウマ娘とトレーナーの姿には圧倒的なドラマ性があった。

 多くの人々はそれに感動した。

 今や『SBR』に参加し、上位でゴールしたウマ娘はもちろん、あるいはそれ以上にトレーナーは世界的スターの扱いであった。

 

「トレーナーかぁ……そういや、デビュー戦にはトレーナーが要るんだよなぁ」

 

 ゴールドシップには、担当してくれるトレーナーがまだいない。

 実力不足というよりも、彼女自身の気まぐれさとムラッ気の多さが原因だった。

 

「アナタがその気になれば、トレーナーの方からすぐにスカウトに来ると思いますわよ」

「その気になれってさ、つまりアタシに真面目にやれってーことだよな?」

「そうですわ。つまり、望み薄ですわね」

「それ、本人以外が言っちゃうー!?」

「だったら、アナタの方から声を掛けてはいかがですか?」

「それもいいけどさ、どのトレーナーも忙しそうなんだよな」

「仕事をしているのですから、誰だって忙しいですわよ」

「暇そうな奴なら拉致っても問題ねーと思ったんだけどな」

「問題ありますわ」

 

 グダグダと実りのない会話を続けながら、ゴールドシップは手元の新聞に視線を落とした。

 既に一通り目を通した『SBR』の記事が載っている。

 レースを制したウマ娘当人達の情報は、この2か月間で既に特集し尽されている。

 優勝者を含む上位10人のウマ娘を担当したトレーナー達の情報が掲載されていた。

 目新しいものはない。これまでの総集編のように、写真付きで簡素なプロフィールと近況が書かれている程度だ。

 

「贅沢は言わねーからさー、この内の誰か一人アタシのトレーナーになってくんねーかなー。レースの話とか聞けてさ、きっとオモシれーと思うんだ」

 

 いつも通りの冗談や軽口のつもりだったのだろう。

 もはや彼女の頭の中でトレーナーに関する悩みは消えかけ、打てば響くメジロマックイーンとの会話を小気味よく続けるつもりで口にしたのだ。

 

 ――既に下手な映画俳優よりも有名になってしまった彼らを、トレーナーとして雇うなど贅沢を通り越して無謀だ。

 ――そもそも、あの例外的なレースで示した実績が、日本のレースに活かされるとは限らない。

 

 幾つもの常識的な反論は、しかし返ってこなかった。

 メジロマックイーンは、ゴールドシップの言葉に酷く悩まし気な表情を浮かべていた。

 しばし迷った後、彼女は意を決して口を開いた。

 

「……ゴールドシップさん」

「あん、何だよ?」

「アナタ、知りませんの?」

「へっ、何を?」

 

 新聞に映る一人のトレーナーの写真を指差して、メジロマックイーンは答えた。

 

「この方、1週間ほど前からこの学園に来てますわ」

 

 担当したウマ娘の名は『スローダンサー』

 大陸横断レース『SBR』における実績は2位。

 そのトレーナーの名は『ジョナサン・ジョースター』とあった。

 

 

 

 

 

 

 ――どうして、こんな所まで来たのだろう?

 

 砂浜に腰を下ろし、寄せては返す波を眺めながら、静かに考えていた。

 学園の裏山にあった洞窟を抜けた先に、こんな場所があるとは思ってもみなかった。

 背後には森林と岸壁があるのに、目の前には海が広がっている。まるでアドリア海の秘境のようだ。 

 海に囲まれた島国とはいえ、日本というのは不思議な国だなと思った。

 妖精か何かに導かれたと思うには少しばかり後ろ向きな理由で、無意識にこんな所までやって来てしまった。

 学園にいるウマ娘や職員達は、無遠慮な注目や口出しをしてこない良識的な者達が大半だったが、それでも人目は避けたかったからだ。

 思えば、アメリカから密かに出た時もそうだった。

 あのレース以来、国内では自分の行動すべてが報道される。

 だから、日本に入国する際には、マスコミには極力気づかれないよう移動した。

 スターの来日だとか、朝のニュースで流れたり新聞に載るのは御免だった。

 自分という異分子が目立つことなく落ち着ける場所を探して、結果トレセン学園に渡りをつけられたのは幸運だった。

 ここの理事長は、立場に対していささか若すぎる少女だったが、理解があり、力があった。自分を臨時のトレーナーとして学園に招き入れてくれた。

 彼女達には感謝しかない。

 だが、もう自分はトレーナーとして働くつもりはなかった。

 元々、誰かの期待に応える為にあのレースに出たわけじゃない。自分はもっと利己的な人間だ。

 学園にいる間、事情は知らずとも自分の顔と功績だけは知っている多く期待の視線から、逃げ場を探して1週間を過ごした。

 アメリカで、自分の周囲を取り巻く喧騒に嫌気がさしたはずだった。

 人によっては、居心地のいい環境だと感じるのかもしれない。かつての自分もそうだった。

 だからこそ、知っている。

 民衆がもてはやすのは、上辺だけのスターだ。

 欲しいものは何でも手に入るのだと、一時だけ錯覚させる。

 たくさんのテレビ局のカメラを向けられたり、金持ちや芸能人のパーティーの誘いを受ける度に、惨めな気持ちになって何かを行動しようと思う気が失せていった。

 過酷なレースを最後まで走り抜いたパートナーであるウマ娘とも別れ、もう2度とこの界隈とは関わるまいと毎日を逃げるように過ごしていたというに――。

 なのに、結局こうして彼女達のいる世界へと寄り添っている。

 トレーナーとして彼女達の夢に寄り添うわけでもなく、ただ海を見ている。

 何の理由もなく、浜辺に座り続けている。

 

 ――どうして、こんな所にいるのだろう?

 

 ただ、何の慰めにもならない、懐かしさだけがあった。

 あのレースも、(ビーチ)から始まったのだ。

 

「……おっ、こんな所にボロいカヌー発見!」

 

 感傷に浸って、何時間経っただろうか。

 

「うっひょお~! すっげえ穴だらけ、100人乗ったら即沈没! 浸水間違いなしのコンディションだぜ!」

 

 誰もいないはずの浜辺が唐突に騒がしくなった。

 

「んで、こっちは――出たな! お宝探しの定番、謎の長靴!」

 

 しかも、騒いでいるのはたった一人のウマ娘だった。

 浜辺を走り回り、打ち上げられた汚い長靴の匂いをクンクンと嗅いでいる。

 

「ああ~、漁業のフレーバー……遠き日のマグロ漁船……遠洋漁業の想い出が蘇るぜ……」

 

 自分も含めて二人しかいない空間で、彼女の声は嫌でも耳に入る。

 言動は支離滅裂で、内容の理解も出来なかった。

 意味が分からない。イカれているのか? この状況で……。

 冷めた視線に気づくことなく、そのウマ娘は自己完結した行動を続ける。

 

「――って、何やってんだアタシ! 思い出に浸ってる場合じゃねえ! 探すんだよ、お宝を!」

 

 一体、何を探しているのだろう?

 そんな疑問を抱きながら、いつの間にか海ではなく彼女の方を眺めていると、ようやくこちらに気付いたかのように目が合った。

 

「……ん? 何こっち見てんだオマエ」

 

 着ている制服から、トレセン学園に在籍するウマ娘であることは分かった。

 

「あっ、分かっちゃった☆ ゴルシちゃんの可愛さに見惚れてたんでしょ~。気持ちは分かるけどぉ、勝手に見るのは…ダ・メ・だ・ぞ☆」

 

 しかし、それ以外は何も分からなかった。

 ここまで強烈な個性を持つウマ娘には、これまで出会ったことがない。

 関わり合いになりたいとは思えないが、無視することも出来ない。

 

「その……無視してくれてもいい質問なんだけど、結局君は何を探しているんだ……?」

 

 渋々、とりあえずの疑問を口にしてみた。

 

「そりゃオメー、お宝っぽいナニカだろ。人の形をしてたら言うことはねーな」

「つまり、誰かを探してるってことじゃあないのか?」

「ああ、そうだぜ! だが、マヌケは見つかったよーだなッ!」

 

 ビシリッ、と自分を指差してくる。

 

「……僕を探していたのか?」

「1週間前にアメリカからこっそりやって来たっつー、有名なトレーナーを探してたんだよ。オメー、日本に来てたんなら教えろよなー!」

「僕と君は初対面のハズだ。君は一体誰なんだ?」

「アタシの名前は『ゴールドシップ』!」

「『ゴールドシップ』……」

「そういうオマエは『ジョナサン・ジョースター』!」

 

 ゴールドシップは、最初から既に確信していたようだった。

 

「……そっちは本名だ。親くらいしか呼ばない。愛称の『ジョニィ』で通してくれないか」

 

 ようやく状況を察し、ジョニィは疲れたようにため息を吐いた。

 つまり、彼女もまた世界的に有名なレースを2着でゴールしたウマ娘のトレーナーの、栄光と実力を求めて探していたというわけだ。

 アメリカでも日本でも、自分の周囲に湧いて出る大多数の人と同じように。

 ジョニィは拒絶するように視線を海に戻すと、ゴールドシップが何かを言う前に断言しようとした。

 

「悪いけど、僕は君のトレーナーとして働くつもりは――」

「なあ、アンタ外国人だろ?」

「……なんだって?」

 

 思わず戻すつもりのなかった視線を戻していた。

 いつの間にか、すぐ隣にまで近づいたゴールドシップは、ニヤニヤと楽しそうに笑いながらジョニィを見ていた。

 

「外国から来たんだから外人に決まってるよなぁ。何人だ? イタリア人だったら嬉しいなぁ」

「国籍はアメリカだけど、一族はイギリスの貴族だった。でも、何でイタリアなんだ?」

「アタシよぉ、歌思いついたんだよ」

「歌?」

 

 ジョニィは呆然とした。

 目の前のウマ娘の言動は、本当に脈絡がなくて唐突だ。

 

「歌だよ。日本人には通じねーんだ、イタリア語の歌だから」

「……」

「大分前から、ずっと考えてたんだよ。作詞作曲ゴールドシップだぜ。聴きたいか? 歌ってやってもいいけどよ」

「……ずいぶん……君、暇そうじゃあないか……」

「聴きたいのかよ? 聴きたくねーのか? どうなんだ? アタシは二度と歌わねーからな」

 

 トレセン学園で日常的に見てきた、将来のデビューを目指して日が暮れるまでトレーニングを続けるウマ娘達。

 そんな彼女達を指して至極真っ当な指摘をしたつもりだったが、ゴールドシップからは拗ねたような反応しか引き出せなかった。

 色々と言いたいことが湧き上がってきたが結局、

 

「…………じゃあ、聴きたい」

 

 酷く面倒になって、それだけ答えた。

 

「そうか、いいだろう。タイトルは『チーズの歌』だ」

 

 ゴールドシップは満足そうに笑うと、咳払いをして歌い始めた。

 

「――ピザ・モッツァレラ♪ ピザ・モッツァレラ♪」

「……」

「レラレラ、レラレラ♪ レラレラ、レラレラ♪」

「……」

「レラレラ、レラレラ♪ ピザ・モッツァレラ♪」

「……」

「――っつー歌よ。どおよ? 歌詞の2番は『ゴルゴン・ゾーラ』で繰り返しだぜ。ゾラゾラ、ゾラゾラ……♪」

「……」

 

 ジョニィからの反応はなく、表情も変わらない。

 

「……どよ? どうなのよ?」

 

 焦れるようにゴールドシップは詰め寄った。

 耳から入ってきた得体の知れない歌詞とリズムを吟味するように、ジョニィは顎に手を当てて、更にしばらく沈黙し、

 

「――いいよ、ゴールドシップ! 気に入った!」

「マジすかッ!?」

 

 ゴールドシップの表情が明るく輝いた。

 

「あっ……ヤバい! スゴクいいッ! 激ヤバかもしれないッ! 傑作っていうのかな……クセになるよ! ヨーロッパなら大ヒット間違いないかも!」

「マジすか!! マジそう思う?」

「耳にこびりつくんだよ! レラレラのとこが」

「実はひそかにアタシもそう思うのよ! だろォ~~!! 譜面にできる?」

 

 それから、ゴールドシップが何処からか見つけてきたヤシの実を素手でカチ割り、その汁で水分を補給しながらあの意味不明な歌を二人で口遊んだ。

 この場所も大概日本のイメージとはかけ離れていたが、彼女がいると更に不思議な空間へ迷い込んだように感じる。

 

「レラレラ、レラレラ」

「ゾラゾラ、ゾラゾラ……バンド組む?」

「いいねぇ、ウイニングライブで一曲かますか!」

 

 しかし、ゴールドシップとの会話は心地よかった。

 ついさっき出会ったばかりの、名前以外何も知らない謎だらけの相手なのに無理なく軽口を交せる。

 何処か、あの『親友』を思い出させるようだった。

 ジョニィは久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた。

 何の理由もなく、無気力に座り込んでいた時とは違う。

 不思議とこのままで良いと思えるようになっていた。

 

「……へっ、オマエもなかなかいい顔になってきたじゃねーか」

 

 ゴールドシップが言った。

 彼女の言葉は、ジョニィの心の奥に抱えるものを見抜いているようにも、ただ適当に口にしているだけのようにも聞こえる。

 

「僕の顔色が悪いように見えたかい?」

「ヒマ持て余してんだなーって顔してた。楽しいことなんて何一つねーって顔」

「酷いな。でも、そうかもしれない」

「あのさぁ、どうしても聞きてーんだけど」

「なんだい?」

「あのレースを最後まで走り抜いたってのに、何でそんなに空っぽの顔してんだ? ゴールしたら燃え尽きちゃったってヤツ?」

 

 あのレース――『SBR』のことで間違いなかった。

 ジョニィは一瞬、口を閉ざした。

 誰もが彼にあのレースの話を聞きたがる。

 その度にうんざりしてきた。

 何も語りたくはなかった。

 どうせ話しても理解できないだろうし、理解してもらいたくもない。

 だがゴールドシップは、テレビ映えのするコメントを求める記者や番組の司会者のような人間とは違う。武勇伝を聞いて盛り上がりたいだけの酒の入った女達とも違った。

 あの長い旅路を経験した者にしか共感し得ない本音を、特に抵抗なく話せそうな気がした。

 

「アタシは、あのレースを見ているだけでスゲー熱くなったんだ。アタシもあそこで走りたいって思ったぜ。ゴールしたら、きっと最高に楽しいんだろうなって」

「……僕はトレーナーだ。実際に走ったのは僕の『スローダンサー』の方さ」

「ああ、そっちの方にも出来れば話を聞いてみてぇなーって思うよ。でも、あのレースで上位に入った奴らって、全員ウマ娘を一人で走らせなかったじゃねぇか」

 

 優勝者も、そしてジョニィも含め、『SBR』をゴールした上位10着のウマ娘達には例外なくトレーナーが付いていた。

 そして、過酷さを増すレースの終盤では、ほとんど寄り添うようにコースを共に走っていた。

 機械など使わない。生身の人間が、傷つき、疲れ果てたウマ娘と支え合いながら道を進んだ。

 あのレースが、単なる珍しい見世物ではなく、正統なウマ娘のレースとして世界的に認知された一因がそこにある。

 人間とウマ娘が共に歩む歴史の一つとして刻まれたのだ。

 ジョニィが『2着』でありながら、世間に大きく注目される理由もそこにあった。

 

「特に、アンタは『そんなハンデ』を背負ってるのにやり遂げた。相当な根性がねーと出来ないぜ」

 

 ゴールドシップは、ジョニィが座る傍に横たえられた『2本の杖』を見ながら言った。

 ジョニィの足は動かない。『下半身不随』なのだ。

 レースに参加する前からそうだった。

 街中や学園内のような整備された場所では、車椅子を使っている。

 裏山を通ってこの浜辺までやって来れたのは、レースを通してわずかに動くようになった足と身についた技術を使ったからだ。

 何の道具もなければ、這うように動くことしか出来ない。

 そんな不自由な体を持つトレーナーが、時に自分のウマ娘に抱えられ、時に自ら足掻き、這いつくばって、それでも進み続ける姿は多くの観衆を感動させた。

 ジョニィの存在は『SBR』のドラマの一つを演出したのだ。

 

「あのレースを本当にただのドラマだなんて思っちゃいねーけどさ、やり遂げたからには譲れない理由があったと思うんだ」

 

 テレビで見たジョニィの必死な姿は、今の無気力な様子とは似ても似つかない。

 

「ゴールした時に何も感じなかったのか? ゴールには何の意味もなかったのか? ……って、今のアンタを見てると思っちまうんだよなぁ」

 

 そう残念そうに呟いて、ゴールドシップは海を眺めていた。

 言葉や声色に、民衆がスターに抱くような勝手な期待や失望といった嫌味は感じなかった。

 あのレースの危険性を少なからず理解していながら、そこを走ってみたいという純粋な熱意を抱いていた彼女の本心なのだろう。

 テレビでは語られない。語るつもりのない、ジョニィの本心を彼女は聞きたがっている。

 

「……意味はあったさ」

 

 100日以上に及ぶレースの記憶を思い起こしながら、ジョニィは話し始めた。

 

「あのレースを経て、何か得るものがあったかと聞かれれば確かにあった。金や名誉なんかじゃない。もっと『かけがえのないもの』を、あのレースで見つけた」

 

 元から賞金や名声目当てで参加したわけではない。

 誰もが『ゴールした時のこと』を称えるので、誰も『スタートした時のこと』を知らない。

 

「だけど『失ったもの』もあった。何より『本当に手に入れたかったもの』は手に出来なかった」

 

 世間は動かない両脚を、困難を乗り越えた勲章のように称えるが、ジョニィにとっては忌まわしい負の財産でしかなかった。

 この身体をどうにかしたかったから、レースに参加した。

 あのスタート地点で、希望を見つけたから。

 それに追いすがる為に必死だった。

 共に走った『スローダンサー』も同じだ。

 彼女とは、スタート地点で偶然出会ったにすぎない。

 

「僕たちは、最初からレースで勝つことが目的じゃなかったんだ」

 

 最後まで一緒に走ってくれた彼女には感謝しかない。

 彼女の方が、自分の都合に付き合ってくれたのだ。

 支えられていたのは、トレーナーである自分の方だった。

 レース後に得られた賞金や栄誉は、彼女にこそ相応しい正当な報酬だ。

 だからこそ、自分は何も得ていない――そう、ジョニィは思っていた。

 

「ニュースや新聞でも結構取り上げられたから知ってるだろ、レースに出る前の僕の評判。

 落ちこぼれた、元天才トレーナーだ。なんのドラマ性もない、女と遊んでる時に撃たれて下半身麻痺になったマヌケさ。失望と侮蔑の経歴が、今じゃあ、過酷なレースをパートナーとの絆で乗り越えカムバックしたガッツストーリーとしてもてはやされてる」

 

 当時、ジョニィの抱えていた絶望の大きさを誰も知らない。

 

 ――自分の足で歩き出せない。

 

 その事実が全てだった。

 その事実が、ジョニィの人生から何もかもを奪っていった。

 それをどうにかする為に、レースに参加したのだ。

 

「ドン底だった『マイナス』の自分を『ゼロ』に戻す為に走った。僕にとってのゴールは『ゼロ』に戻ることだったんだ」

 

 再び歩けるようになりたい。

『生きる』とか『死ぬ』とか、誰が『正義』で誰が『悪』だなんてどうでもいい。

 ただ『ゼロ』に戻りたい――!

 

「……実際、あのレースの後から上手くいったことは多いよ。冷え込んでいた父親との関係も改善した。こんな身体だけど、安寧のある暮らしが出来る環境にもなった。他人に蔑まれることもない」

 

 人生の多くを取り戻した。

 それでも――本当に手に入れたかったものは、ここにはない。

 

「僕はあのレースで出会った『親友』を失った。そして、あのレースで『一番負けたくない敵』に勝てなかった」

 

 ジョニィは、動かない足を握り締めた。

 結局、これが答えだ。

 心の底から望んだものを得られなかったから、ゼロから新しい人生を始めることも出来ない。

 今の自分に納得出来ない。

 利己的な自分が、今こうして座り込んでいる原因なのだ。

 

「僕はゴールなんてしていない。レースを走る前と同じ、僕はまだ『マイナス』のままなんだ……」

 

 ジョニィは吐き出すように話を終えた。

 隣のゴールドシップは、何の反応も返さない。

 話の内容に具体的なものはほとんどなく、ただ心情を吐露するだけのものになってしまった。

 あの長い長いレースでの出来事を、事細かに全て話して聞かせることなど出来るはずもない。知らずにいた方がいいことも、後悔も多い内容だ。

 下手な同情や共感も欲しくない。

 夕暮れが始まる時刻。赤くなり始めた浜辺で、しばらくの間波の音だけが二人の間に響いていた。

 

「……ホント、落ち着くな。ここ」

 

 話を終えてから随分経って、ゴールドシップが口にしたのはそんな当たり障りのない言葉だった。

 穏やかな声色だった。

 ジョニィの語った苦悩など、聞いていなかったかのような反応だ。

 本当に聞いていなかったのかもしれない。

 そういうことをしそうな性格に思える。

 それならそれでもいい。気が楽だ。

 ジョニィは気が抜けたかのように、小さく息を吐いた。

 

「寄せては返す波の音……っつーの? ワビサビってヤツだよな……」

「ワビサビって何だ?」

「知らねーよ、アタシもフィーリングだ。考えるな、感じろ」

 

 言われるまま、ジョニィは波の音に耳を傾けることにした。

 

「あ~、癒される~。一生ここで過ごすのもありかもな~」

 

 どうせ適当に口にしているのだろう、ゴールドシップの言葉は聞き流す。

 

「はあ~~~……」

 

 波の音が響く。

 

「あぁ~……」

 

 波の音が、

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーッッッ!?」

 

 ゴールドシップの絶叫にかき消された。

 

「な、なんだ! 一体どうした!?」

「やっべぇえええ! 溜まってきたぜ、フラストレーション!!」

 

 勢いよく立ち上がったゴールドシップは、驚愕するジョニィを尻目に激しく足踏みを始める。

 

「あえてレースの緊張から遠ざかり、癒しの中に身を置くことで生じる、勝負への渇望!」

「勝負? 何の話をしているんだ!」

「そして突き動かされる衝動ッ! ファイアー! バーニング! エクスプロージョン!!」

「一人で興奮しているんじゃあないッ! 何がしたいのか説明しろ、ゴールドシップ!」

「オイ、立てよジョニィ! 今すぐ帰んぞ!」

「ちょっと待て……!」

 

 ゴールドシップは片腕でジョニィの身体を軽々と抱え上げると、もう片方の手に杖を持ち、学園に戻る道を走り出した。

 

「ここでやることは終わったから、帰るっつってんだよ! 勝負の前にフラストレーションを溜めることで、アタシは熱くなれんの! んで、実際もう走りたくてしょーがなくなってんだよ!」

「だったら、僕を抱える必要はないだろう! 好きなだけ浜辺を走ればいいじゃないか!」

「バッカ、オメー走るっつったらレースに決まってんだろうが! そもそも明日はデビュー戦だしな!」

「……え! 今なんて言った? ちょっと待って、今『明日』って言わなかった? 明日ッ!?」

「心配すんなって! レースの申し込みまでは、アタシ一人でもなんとか騙せたんだ! あとはトレーナーの同伴があれば参加出来んだよ!」

「なにそれ!? 僕がお前のトレーナーァ!?」

「いいから、行くぞ! GOッ! ジョニィGOッ!!」

「うォおおおおおおおーーーッ!!?」

 

 

 

 

 

 

 

「えー、こちらレースコース。中継はお馴染み、ゴルシちゃんでお送りいたします。

 まずは、臨時トレーナーのジョニィ・ジョースターさんに突撃インタビュー☆ 今日のレースに向けて、意気込みをお聞かせください!」

「……本当に、今日がレースだったのか」

「オイオイ、設定ぶち壊しマンかオメーは。『そうだ』って何回も言ってんじゃねーか」

 

 ジョニィは半ば強引にゴールドシップに連れられて、舞台となるレース場を一望出来るスタンドの一角に来ていた。

『メイクデビュー』――その名の通り、デビュー前のウマ娘達が初めて公的な観客の前で走るレースだ。

 ほとんどが無名のウマ娘達のレースであるにも関わらず、広大な観客席はそこそこの規模で埋まっていた。

 数台だがカメラも並び、実況も付くらしい。

 海外のウマ娘しか知らないジョニィにとっては、ちょっとした驚きだった。

 

「スゴいじゃないか。これなら何着になろうが、レースに出るだけで顔が売れる。デビュー戦だけで一定の人気が保証されてるワケだ」

「アメリカじゃ違うのか?」

「地方によるなぁ。僕が子供の頃に見た地元のデビュー戦は、木の柵で囲んだコースの外で何十人かが立ち見してたくらいだよ。都会は桁違いに規模がデカいけどね」

「アメリカンドリームってヤツか。都会と田舎で差があるのは日本も同じだけどな。その点、うちの学園は国内でも有数のエリートウマ娘育成機関らしいぜ」

 

 エリート――目の前のウマ娘にこれほど似つかわしくない言葉もないだろう。

 どうやって入学出来たのか想像もつかない。

 ジョニィからの疑惑の視線を意に介することもなく、レース用の運動着とゼッケンを付けたゴールドシップは簡単な柔軟をしていた。

 今のジョニィは車椅子に乗っている為、長身の彼女を軽く見上げる形になる。

 日本の建物はバリアフリーが充実しているからありがたい。

 しかし、レース場に車椅子の外国人がやって来ているというのはちょっとした注目を集めるらしい。

 そして、向けた視線の先にあった『テレビや新聞で見たことのある顔』に気付いて、湧き上がったどよめきが更に周囲の気を惹くのだ。

 自分に集まる好奇の視線を、ジョニィは慣れたものであるかのように受け流していた。

 その周囲の反応を視界にも入れない態度と、傍らにいるゴールドシップの存在、外国人という壁からか、声を掛けられるまでには至っていない。

 

「――っと、そろそろ時間だな。んじゃ、フラストレーションを豪快にぶちまけてくるわ!」

 

 ゴールドシップもまた周りのことなど気にも留めない自然体だった。

 あのジョニィ・ジョースターを連れてやって来たデビュー前のウマ娘。

 レースの受付で起こった一騒動も、もはや彼女の記憶には残っていないだろう。

 だから、ジョニィはトレーナーとして書類にサインをしたし、レースを見る為にスタンドまでやって来た。

 そうしようと思う程度には、彼女と彼女の走りに興味を惹かれていた。

 

「アタシの走りをしっかりと眼に焼き付けておけよな!」

「ああ、見ていくよ。ただ、その後のことなんだけど……」

「細けーこたぁいいんだよッ!」

 

 ゴールドシップが詰め寄る。

 

「いいか、アタシを見とけよ? 月までブッ飛ぶスゲーもん見せてやっから」

 

 不敵な笑みを残し、レース場へ向けて足早に駆けていった。

 残されたジョニィは、意味深げなゴールドシップの言葉をしばらく反芻した後、スタンドの最前列へと移動した。

 手すりに腕を掛けて、上半身を持ち上げる。

 足が動かなくても、この程度のことは苦も無く出来た。

 これでレースが一望出来る。

 ゴールドシップがデビュー戦で走るコースは『芝』『2000m』 ウマ娘にとって短くはないが、長くもない距離だ。

 スタミナに関しては問題ない。彼女には長距離にも適性がある。

 つい昨日会ったばかりのウマ娘だ。レースはもちろん、トレーニングをする姿も見たことはない。

 それでも、ジョニィにはゴールドシップの身体能力や脚質など、あらかたの情報が把握出来ていた。

 彼がかつて『天才トレーナー』と評された事実は、決して過ぎ去った栄光ではない。

 ゲートにゴールドシップを始めとした、デビュー戦に参加するウマ娘達が入場すると、ジョニィは無意識にそれぞれの能力比を計算していた。

 自分は『トレーナー』という立場を彼女に貸しただけであって、今後指導を受け持つつもりはない。先ほどははぐらかされたが、そのことはレースの後にキッチリと断りを入れるつもりだ。

 このデビュー戦の結果がどうであれ、ジョニィの今後を左右するものではない。

 ゴールドシップの走りに興味はあっても、彼女の勝敗に興味はなかった。

 

「……勝てるな、これ」

 

 しかし、それを抜きにしても自分の見立てに間違いはないと冷静に思えた。

 デビュー戦を走るウマ娘は9人。

 その中でもゴールドシップの能力は抜きん出ている。

 ジョニィの優れたトレーナーとしての才能と経験が、一目でこのレースの結果を見抜いていた。

 ゴールドシップは、レースの前半では後方に待機して他のウマ娘達が集まって『団子』となる状況を避け、スタミナを温存して後半で勝負にかける『追い込み型』だ。

 信じられないほどの爆発力とタフネスを身体に秘めているのが分かる。

 しかし、おそらく『どんな走り方』をしても、このレースでは勝てるだろう。

 それほど他との隔絶とした差があった。

 経験という点で差はないのかもしれないが、緊張で強張るウマ娘が大半の中、彼女の顔つきだけが違う。

 あれは何か一つのことを決めた顔だ。

 覚悟の顔だ。

 メンタル面でも、他のウマ娘達に勝ち目はない。

 わずかに追従できそうなのが1、2人。それ以外は団子になって後方から抜き去られるか、前方で引き離されて、レースを終えるだろう。

 

『――各ウマ娘、ゲートに入って体勢が整いました』 

 

 実況の声がスタンドに響き渡る。

 当然ながら、前評判のないゴールドシップを贔屓するような様子は、実況にも観客の声援にもない。

 この段階では、どんなレースが展開されるのか想像出来ないのだ。

 盛り上がる観衆の中、ジョニィは一人静かな気持ちでレース場を眺めていた。

 気になるのは、ゴールドシップの走りだけだ。

 

『スタート!』

 

 ゲートが一斉に開放され、レースが始まった。

 

『各ウマ娘、綺麗なスタートを切り……あぁっと!?』

 

 次の瞬間、実況よりも早くゲートから飛び出すものがあった。

 

『ゴールドシップだ!!』

 

 ジョニィの見抜いたパワーを爆発させて、スタートと同時にゴールドシップが加速していた。

 

『ゼッケン番号6番、ゴールドシップがスタートダッシュを仕掛けた! これは逃げの作戦でしょうか!?』

 

 スタートと同時に先頭に立ち、その位置をキープし続ける走り方も存在する。

 他のウマ娘との小競り合いを避けて体力とスピードを保ちやすく、先頭を行かれる焦りというプレッシャーも与えられる作戦だ。

 しかし、違う。

 実況と解説の二人も、ゴールドシップの走りに対する違和感はすぐに察することが出来た。

 彼女は猛烈な勢いで加速し続けている。

 

『それにしてはスピードが乗りすぎています。ちょっと掛かり気味かもしれません』

『後方の集団をどんどん引き離していく! 最初から全力疾走です! まるでゴール前のラストスパートだ!』

 

「オマエ何をやっているんだ、ゴールドシップ!

 スピードはともかく理由(ワケ)を言えェェーーーッ!!」

 

 ジョニィは人目も憚らず絶叫していた。

 叫ばずにはいられない。信じ難いことが目の前で起こっている。

 あれは『作戦』だとか『掛かり気味』だとか、そんな心理的な問題じゃない。

 ゴールドシップは冷静だ。

 分かっていて『あんな走り方』をしている。

 自分がやっていることの自覚がなければ出来ない走り方だ。

 

「あれはウマ娘の走り方じゃあない! 人間の走り方だッ!」

 

 ウマ娘と人間の決定的な差は、その運動能力を持続出来る時間だと言われている。

 彼女達のスタミナは人間の比ではない。

 時速60kmから70kmほどの速度で走りながら、緩急をつけることで走行中にスタミナを回復させることさえ出来る。

 しかし、最高速度を長く維持できる一方で、ゼロから一気に限界まで加速する瞬発力においては人間よりも僅かに劣るとされていた。

 ウマ娘の筋肉に適さない極端な『力み』は、脚に強い負荷をかけ、無駄に体力を削り取る。

 ゴールドシップの走る姿は、まさにそれだった。

 あれは、スプリンターが賞金やトロフィーを賭けて競技をする時の走りの姿だ。100m程度の短い距離だけ走る時の――!

 

『ゴールドシップのスピードは衰えません! あっという間にコーナーに差し掛かった!』

 

 優れた身体能力に裏打ちされた走力は、既に他のウマ娘達をはるか後方へ置き去りにしていた。

 スタート直後に取ったリードは凄まじく、更に加速を続けて距離を離していく。

 傍目には圧倒的なレース展開に見えるだろう。

 しかし、今はその上がり続けるスピードがマズかった。

 当然ながら、コーナーを曲がり切るには減速しなければならない。

 急な減速は加速以上に脚に負担をかけ、姿勢を崩し、体力も無駄に消耗する。

 

 ――どの地点でスピードを緩めるか。

 ――スピードが落ちるということは、後方の者には追い付くチャンスでもあるということ。

 ――最も速度を維持できるタイミングは何処か。

 

 レースには様々な場面で駆け引きが存在する。

 しかし、今のゴールドシップにはそんなものはなかった。

 案の定、コーナーを曲がる際には勢いを殺し切れずに、大きく外側に膨らんだ軌道を走る形になった。

 単純に他のウマ娘達よりも長い距離を走るハメになっただけではない。

 上がりすぎたスピードの勢いを殺す為、余計な負担を身体に掛けたはずだ。

 あのままコースを外れたり、転倒しなかったのは、彼女の身体能力が並外れていたからだった。

 だが、そんな力任せの強引な走り方をいつまでも続けられるわけがない。

 直線に戻ったゴールドシップは再びスピードに乗り始めたが、明らかに調子を落としていた。

 ジョニィの見立てでは余裕を持って駆け抜けるだろうと思っていた2000mの距離のまだ半分も達していないのに息が上がっている。

 当然だ。本来ならば脚を休めるはずのコーナーで却って体力を激しく消耗した。

 加速をする為に体力を消耗して、その加速を殺す為にも体力を使った。

 結果、序盤で取ったリードのアドバンテージを失って、疲れ果てている。

 何故、こんな走り方をしたんだ?

 まともな走り方なら、どんな作戦だろうが安定して勝てた。

 では、彼女は最初から勝つことを放棄していたのか、というとそれも違う気がした。

 最も愚かな走り方をして自分で自分を追い詰めたゴールドシップは、今もなお懸命に走り続けている。ゴールと勝利を目指して。

 

「く、くそ……ッ! 一体どういうつもりなんだ! 僕に何を見ろっていうんだ!?」

 

 歯ぎしりをしながら、ゴールドシップの姿を睨みつける。

 

 ――このまま、負けるのか?

 

 ジョニィは知らず、汗の滲んだ拳を握り締めていた。

 レースは終盤。最後のコーナーを回り、ゴールドシップを先頭にしてウマ娘達が戻ってくる。

 そう、変わらずゴールドシップが先頭だ。

 しかし、同じ視界の範囲に他のウマ娘達もいる。

 スタートであれだけ引き離した勢いは、もはやない。

 リードは取れているが、距離的に圧倒的なものではなかった。

 レースの定石として、最後の直線から溜めていた脚を開放し、加速するウマ娘達。

 それに反して、完全に失速し始めているゴールドシップ。

 その表情からは、初めて会った時の掴みどころのない余裕は全く見て取れない。

 滝のような汗を流して歯を食い縛る、青ざめた顔があるだけだった。

 ジョニィには、その表情の意味が分かった。

 あの長大な距離を走る、常に極限の疲労と隣り合わせだった『SBR』レースを経験したからこそ分かる。

 あれはギリギリになった時の者の顔だ。

 過酷な環境を乗り越え、時に耐え忍び、どんどん載せられる積み荷のように疲労が全身に蓄積していく。

 スタミナという概念が全ての細胞から汗と共に絞り出され、身体の中から力という力がなくなって、全ての何もかもが限界に達した時。

 ようやく見えた『ゴール』の前で膝をつき、魂さえも座り込んで、動けなくなってしまう寸前の顔だ。

 

 ――このまま、負けるのか?

 

 ゴールドシップの背後から、2人のウマ娘が迫ってくる。

 最初に『追従できるかもしれない』と思った2人だ。

 見立て通りだった。

 だが、こんな結果になるとは全く予想出来なかった。

 

 ――このまま、本当に負けるのか?

 

 ジョニィは叫ぼうとした。

 自分が何を言おうとしているのか全く分からなかったが、力の限り叫ぼうとした。

 目の前で起こる出来事を、叫ぶことで覆そうとした。

 

「――ここからだ!」

 

 しかし、それを遮ったのは他でもないゴールドシップだった。

 

「見とけよォ、ジョニィィィィーーーッ!!!」

 

 実況の声や観客の声援を貫く、雷鳴のような叫びだった。

 誰にも聞こえた。

 だが、その意味が分かったのは一人しかいない。

 

『ゴールドシップ、再び加速しました!』

 

 限界に達していた腕が振り上がり、疲労で引きずっていた脚が地を蹴り抜き、倒れ込むしかなかった身体が前へと進んだ。

 スタミナの底がついた肉体の内側で、一体何を燃料をしているのか分からない爆発が生まれた。

 

『完全に生き返った、ゴールドシップ! そのスタミナは無尽蔵なのか!? 猛烈な勢いでゴールへ向かう!』

 

 ゴールドシップが走る。

 追い抜こうとした背後のウマ娘達を再び置き去りにして、ゴールに向けて突進する。

 

『後方をどんどん引き離していく! スタート時の勢いさえも超えたスピードだ!』

 

 見開いた眼は血走り、舌を垂らしながら、凄まじい形相で走っている。

 ジョニィは見た。

 燃えるような瞳の奥にあるのは、レースに勝つ為に全てを捧げた『漆黒の意思』ではなく。

 もっと、眩しく。

 脈動する彼女の肉体が、光り輝くような――。

 

『ゴォォォーーール! ゴールドシップ、見事デビュー戦を勝利で飾りましたァァーーッ!』

 

 

 

 

 

 

「……っべー、ヨユーだったわ……全っ然、余裕だったわ。余裕すぎて……宇宙まで行くトコだったわ……」

 

 腰に手を当て、俯いた状態でゴールドシップはブツブツと呟いてた。

 息も絶え絶えなせいか、何を言っているのか全く聞き取れない。

 レースを終え、退場用の通路の途中で動かなくなった彼女を、ジョニィは迎えに行った。

 

「あんな無茶苦茶な走り方をするからだ」

 

 近づいてくるジョニィにゴールドシップも気付くが、軽口も反論も返せない。

 やっとのことで顔を上げて、引き攣った笑顔を見せるだけである。

 

「普通のウマ娘はレースの前に『イメージ』がある。これから走るコースを、どういう配分で進むか。何処で休んで、何処で勝負を仕掛けるか」

 

 途中でスタッフから貰ってきた、ミネラルウォーターのペットボトルを放り渡す。

 

「そういうイメージがさァ~、あるのが前提なんだよ! このマヌケッ! 頭がオカシイのか、オマエはッ!」

 

 ゴールドシップはもどかし気にキャップを捻ると、中身を一気に飲み干した。

 

「君が考えなしのアホだったら呆れるだけで済んだ! だが、事前に考えてなきゃあんな無謀な真似は出来ない! 一体どういうつもりだったんだ!?」

 

 ペットボトルを空にして、ようやく一息つく。

 

「目立って勝ちたかったのか!? 自分の力が『SBR』レースでも通用したって僕に認めさせたかったのか!? 僕に見せるエンターテインメントでも演出したつもりか、アレで!」

 

 同じレースを走った他のウマ娘達はすでに去っている。

 二人だけしかいない通路で、ジョニィの捲し立てるような叱責だけが響いていた。

 それに対して、ゴールドシップは何も答えなかった。

 右耳から左耳へと抜けていくだけのように聞き流し、身体に染み渡る水分を実感しながら、目を瞑って深呼吸を繰り返している。

 何を言っても無駄だと悟ると、ジョニィも黙り込んだ。

 しばらくして、ようやくゴールドシップが視線をジョニィに向けた。

 そして、一言だけ口にした。

 

「――どうだった、アタシの走り?」

 

 その問いかけに、ジョニィの胸中で様々な思いが錯綜した。

 全く予想していなかった、レースの最中に抱いた緊張感。

 前のめりになるほどの焦燥。

 彼女が1着でゴールした瞬間に走り抜けた衝撃。あるいは感動。

 ゴールドシップの走りは、ジョニィの心を動かした。

 色々と言いたいことはある。

 称賛したい気持ちは強いが、文句も言いたい。

 だが――とりあえず、それら多くの感情は仕舞っておくことにした。

 言いたいことがあるなら『後で』言えばいいことだ。

 だから、ジョニィはどういった一言でまとめればいいのか、しばらく考えた後、

 

「『黄金』のようだったよ」

 

 そう言って、小さく笑った。

 あの『SBR』レースを終えて以来、初めて心から笑ったような気がした。

 一方のゴールドシップは、ジョニィの言葉を聞いて不思議そうな表情を浮かべた。

 この比喩表現がどういった意味を持つのか、彼女には分かるはずもないだろう。

 ゼロから湧き出した無限のパワー。

 ただ一人の人間に見せる為に走り抜いた覚悟。

 あの走りの中に、ジョニィが見たものが何なのか、共感できる者はいない。

 しかし、少なくともその言葉が紛れもない称賛であることは、彼女にも理解出来た。

 

「ああ! なんたって、アタシは『ゴールドシップ』だからな!」

 

 ゴールドシップもまた、満足したように笑顔を浮かべた。

 それ以上、交す言葉は必要なかった。

 お互いの瞳を覗き込む。

 その奥にある意思は同じだった。

 ジョニィは車椅子を操作して、来た道を戻る方向へ向けた。

 ゴールドシップは、それを手伝うことはしなかった。

 必要ないと思った。

 今、この時だけは。

 二人は肩を並べて、同じ方向へ進み出した。

 

「なあ、一つだけ聞いてもいいかい?」

「何だよ? アタシのスリーサイズならヒ・ミ・ツ☆」

「何で、僕だったんだ?」

「はあ!? オマエ鈍いなぁ、言っただろ!」

「言ったか?」

「あの『SBR』レースを走り切ったオマエが、何の感動もなくじっと海を眺めている姿を見てさ、アタシは感じたんだ」

「……」

「ああ、こいつヒマなんだな……ってさ」

「……そういえば言ってたね。アレ、本音だったの?」

「だからさ――『トレーナー』」

 

 ゴールドシップが右手を差し出した。

 

「これからアタシが、アンタの人生を面白くしてやるよ!」

「……ああ。これからよろしく頼むよ」

 

 ジョニィは、その手をしっかりと握り返した。

 

 

 

 

 

 

 思い返してみるに……僕がこの学園に来たのは一体何故なのだろう?

 手にした金や名誉に群がる周囲の喧騒から逃れる為に、海で隔てられたこの島国へやって来たのか?

 あるいは幼い頃から、いつも傍にいたウマ娘たちに対する郷愁。

 何かにひきつけられて、この学園に来た。

 人は美しいものが好きだ。

 ピカピカに新しければ、さらによく――そして、それが走っているものなら、この世で最も美しい。

 初めてウマ娘のレースを見たのは5歳の時。

 躍動する脚の筋肉の動きや蹄鉄シューズが土を蹴る音を美しいと思ったし、走る動作を通して彼女達が何を感じ、何を思っているのか分かる気がした。

 

 ただ一つ言えることは――。

 

 この学園には『美しいもの』が確かに存在していた。

 あの時、大陸横断レースという熱狂に満ちていたあのビーチで見たもののように。

 僕は何かにひきつけられるように、この学園に来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の名前は『ジョニィ・ジョースター』

 この『物語』は、僕が『再び』歩き出す物語だ。

 最初から最後まで、本当に謎が多いウマ娘『ゴールドシップ』と出会ったことで……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――失敗というのは……いいか、よく聞けッ! 真の『失敗』とはッ! 開拓の心を忘れ、困難に挑戦することに無縁のところにいる者たちの事をいうのだッ!』

『このレースに失敗なんて存在しないッ! 存在するのは冒険者だけだッ! この『SBR』レースは世界中の誰もが体験したことのない競技大会になるだろうッ!!』

 

 

 

「――感動ッ! いつ聞いても、スティール氏の演説は素晴らしい!」

 

 今や伝説となった『SBR』レース開催前の記者会見の映像を見ながら、秋川やよいは感極まっていた。

 世界中が注目したウマ娘のレースには、当然のようにトレセン学園理事長である彼女も強い関心を寄せていた。

 

「大会の実態そのものには些か思うところはありますが、尊敬する点も多い方ですからね」

 

『SBR』レースの主催者であるスティーブン・スティールに対する評価は、日本国内ではやや批判寄りである。

 レースで多くの犠牲者を出している以上、やはり倫理や人道面から否定的な意見が多い。日本のウマ娘業界では特にそうだった。

 ウマ娘を餌にして富と名声を得た金の亡者などと評されることもある。

 しかし、秋川やよいはスティールの行動力とその実績に大きな敬意を抱いていた。

 秘書のたづなも、やよいと同じ見解だった。

 

「同感ッ! 危険の多いレースだったが、その中にこそ多くのチャンスがあった! 参加者を年齢や国籍などで差別しなかったのは本当に素晴らしい! 夢破れたウマ娘達に新たな栄光を示してみせたのだ!」

 

 平等なチャンスという点で、『SBR』は世界中の現役を退いたウマ娘達に大きな希望を与えていた。

 安全性の考慮されたレースだろうと、勝者と敗者は必ず存在する。

 そして、敗者の方が圧倒的に多い。

 才能や機会に恵まれず、年老いて表舞台を去ったウマ娘は数えきれないほどだ。

 そんな彼女達に与えられた世界中の注目を浴びる新たな舞台。

 本来なら存在しない、二度目のチャンス。

 そのチャンスを掴めた者は、やはり少なかった。

 再び夢破れ、中には本来の生活で負う必要のない傷を負ったり、命を落とした者さえいた。

 しかし、最後まで夢を目指して走りながら前のめりで倒れた者と、夢を見ることすら出来ずに無為な余生を過ごす者――どちらが幸福なのか?

 少なくともスティール氏の決断と行動力は世界を動かし、自分達が苦悩し続けるしかなかった問題に一つの答えを示したのだ、と。やよいは思っていた。

 

「伝統ッ! 実績のあるレースを続けることは歴史的に見ても意義のあることだ。しかし、ただ続けるだけではいずれ低迷する。現代のウマ娘達が生きる世界に、新しい風と可能性を吹き込まねばならない!」

「では、理事長。いよいよ、決心されたのですね?」

「肯定ッ! スティール氏の言葉と行動は私の不安と迷いを払拭してくれた。彼は偉大な先駆者だ! 彼の言葉を思い出すと、勇気が湧いてくるッ!」

 

 やよいは決意の漲った瞳をたづなに向けて頷いた。

 今のところは、目の前の一人しか聞き届ける者はいない。

 しかし、すぐにでも日本中の、いや世界中の人間に宣言することになるだろう。

 既にその決断と覚悟は済ませてある。

 

「『URAファイナルズ』――全てのウマ娘達が頂点を競い合う、新世代のレース! それをここに開催するッ!」

 

 

 

 

 

 

 ――日本にて新たなウマ娘の世界的レース開催宣言! 『SBR』の後追いかッ!?

 ――『SBR』レースで準優勝の『ジョニィ・ジョースター』がトレセン学園で新たな才能を発掘!

 ――『URAファイナルズ』で真の決着か!? 『SBR』レース優勝者争いの疑惑!

 

「……気に入らん」

 

 アメリカのニュースや新聞は、新しい話題に早速飛びついていた。

『SBR』の成功により、現在ウマ娘のレース業界は大きな盛り上がりを見せている。

 当時のレースの記録を掘り起こし、検証という名の勝手な憶測や煽り文句で注目を集めようとしていた。

 その内の一つが、ゴール間際で起こった優勝者争いの接戦である。

 激しい競り合いで、大レースのクライマックスに相応しい盛り上がりを見せたが、『URAファイナルズ』という新たな話題の発生に関連して一つの疑問が生まれた。

 

 ――ジョニィ・ジョースターとそのウマ娘は、本当に実力差で負けたのか?

 

 元々、不確定要素が多く介入する異例のレースだった。

 真っ当なレース場で競った場合、彼と優勝者のどちらが優れているのか?

 新たなレースの中心となるトレセン学園にいつの間にか在籍していたジョニィの存在が発覚すると、世間はこぞってこの話題を持ち上げた。

 彼が新たなウマ娘のトレーナーに就いたという情報も、勢いを後押ししていた。

 かつてパートナーだった『スローダンサー』は既に現役を退いたウマ娘だった。

 若くて伸びしろのあるウマ娘という、より良い条件ならば、彼のトレーナーとしての能力は優勝者のそれより上なのではないか? そして、彼に鍛えられたウマ娘自身は?

 接戦だった『1位』と『2位』を再び競わせて雌雄を決したいというファンの心理は、どのような競技でも同じだ。

 

「勝ったのは『オレ』だ、ジョニィ・ジョースター。栄光を手にしたのは、間違いなく『オレ』なのだ」

 

 しかし、優勝した者にとっては不快極まりない話だった。

 特に『彼』は生来そういう性格だった。

 自分の邪魔をする敵には、常に相手の『誇り』を引き裂いて勝利してきた男だった。

 

「所詮、貴様はオレがゴール前に置き去りにしてきた敗者だ。オレがこれまで追い抜いてきた者達と同じ、路傍の石になったハズだ」

 

 優勝者である『彼』は、あのレース以来富と権力に満ちた生活を送っていた。

 そして、それに満足もしていなかった。

 更なる富を、更なる権力を。

 並外れた野心と向上心で、社会の頂点を目指し続ける。

 

「その石ころが再び足元に転がるのは、道を塞がれるほどではないにしろ、気分のいいものじゃあないな……」

 

 故にこそ、『彼』はこれを世間からの挑発と受け取った。

 

「『URAファイナルズ』――全てのウマ娘の頂点を決めるレースだと?

 いいだろう。今度こそジョニィ・ジョースターに完全なる勝利を収め、完膚なきまでに心をへし折って、この世界から放逐してやる。そして、この大会を更なる飛翔への踏み台にしてやるッ!」

 

 飢えた獣のようにギラついた瞳で佇む『彼』の傍には、白銀のウマ娘が静かに寄り添っていた。

 

「真の勝者は、この『ディエゴ・ブランドー』だッ! どんなウマ娘が相手だろうと、我が愛『シルバーバレット』の敵ではない――!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 To be continued……

 

 

 




pixivで見たゴールドシップとジョニィの掛け合い漫画が面白すぎて勢いで書き上げてしまいました。
(どんなムチャ設定の小説でも)あの漫画を見ると投稿する勇気が湧いてくる……。
書いてる最中に『SBRは遺体から星3因子を回収するレース』とかいうアホワードが思い浮かんだけど、メインの舞台はトレセン学園で確定です。
別に精巧な世界観を作りたいわけじゃないんだ。そうしないと気になって書けないだけなんだ。
『ジョジョキャラとウマ娘の掛け合いが見たい』というだけなんです。
誰か『「ライス、ライス、ライスよォ~」ってライスシャワーのほっぺプニプニするプロシュートお兄様』の話書いて下さい。漫画でもいいです! 何でもしますから!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#2「シルバー・バレット・ファイア」

第一話のアンケート結果(すでに終了)により、ウマ娘『シルバーバレット』は、一人称『私』でカリスマがあるキャラになりました。
どのアンケート結果でも、イヤな奴なのは共通してます。
また、サポートカードとして『シンボリルドルフ』が登場することになりました。
悩みましたが、会長のキャラをより理解する為に星3交換チケットを使いました。会長しゅき。
メジロマックイーンはガチャで引くことにしました(鋼の意思)
ライスシャワーもガチャで引きます(漆黒の意思)



 ――あの日、僕は出会ったんだ。

 希望。あるいは奇跡。なんでもいいが、とにかく僕は出会った。

 女と遊んでいる最中に行った劇場で撃たれて、僕は脚の動かない栄光の残骸に成り下がった。

 あれから2年経つ。

 あんな事がなければ……と、後悔しない日はなかった。女優の劇なんか、見たくもなかったんだ……。

 あれ以来、1ミリだって動いたことのない僕の脚……。

 世間は僕に諦めろと言った。

 言葉で……あるいは無言で。

 この脚はもう動かないのだ、と。

 ドン底の人生から這い上がるチャンスなどないのだ、と。

 だけど、あの日。

 あの北米大陸横断レースの始まるスタート地点のビーチで――。

 

『妙な期待をするなよ。お前の事情がどんなものか計り知れないが、そのイスから立ち上がったのは偶然にすぎない。単なる肉体の反応で、それ以上のものは何もない』

 

 ――『ジャイロ・ツェペリ』

 それが彼の名前だった。

『SBR』レースに参加する為に、あのビーチにやって来ていた。

 彼があの場で偶然見せた『鉄球の技術』は、これまで僕が見たことも経験したこともない不思議な力を持っていて、その力は僕の止まっていた肉体を動かした。

 

『ハッキリ言っておく。この『鉄球の回転』は、確かにオレの武器だ。だが、おたくさんのような歩けない者を歩かせることなんか出来はしない』

 

 初対面の彼は、他人の僕にそう冷たく断言した。

 だけど、そんな言葉だけを信じられるはずがない。

 現実に起こっているのに、そのままでいられるか。

 やっと見つけた希望なんだ。なんとしても、その『回転』の秘密を暴いてやる。

 彼がレースに参加するというのなら、それを追ってやる。

 賞金も栄誉も、僕には必要ない。必要なのは希望という光だけだ。

 

『そのウマ娘の選択は、正しい』

 

 思い返せば、あの時の僕は『スローダンサー』に随分と酷いことをした気がする。

 才能も功績もなく、ただ無為に独りあの場にいた彼女に僕が声を掛けたのはただ必死だったからだ。

 彼女の心情や都合を何も考えていなかった。殴られても仕方がなかった。

 だから、彼の遠慮のない真実の言葉は、僕だけでなく彼女も救ったのではないかと今では思う。

 

『老いたウマ娘には経験がある。おっと、レディに対して年齢なんてデリカシーのない話をしちまったかな』

『だが、このレースのような場合、脚をくじいたりするような危険な土地に勢いで突っ込んでいったりしない。体力だけの若いウマ娘のようにはな』

 

 彼は本当に、最初から最後まで謎の多い男だった。

 担当するウマ娘の名は『ヴァルキリー』 ゼッケン番号B-636。

『SBR』レース参加時の書類には経歴や出身地など、自己申告制の情報を一切記入していなかった。名を売ろうという考えはなかったらしい。

 だが、優勝するという意思は固かった。

 優勝に興味のない僕は、あのレースでは異例の協力体制を取って、長い道のりを共に進んでいった。

 

『いいか、ジョニィ。何度も言うが『鉄球の回転』は『技術』だ。お前が期待しているような肉体を癒すパワーなんてものはない』

『回転の力が干渉出来るのは皮膚まで。お前の脚が動いたのは、筋肉に電極を刺して刺激を与えるような医療技術と同じだ』

『それでもいいなら、お前は歩く真似事くらいは出来るようになるかもしれない』

 

 その後のレース展開によって彼らの人気が高まってくると、運営側も観客へのアピールの為に改めて経歴などを洗い出そうとしたが――。

 イタリア出身であること以外はほとんど情報は明かされず、名前もどうやら偽名らしいということが分かっただけだった。

 そのミステリアスな人物像がかえって彼の人気を高めた。

 

『だが、その脚を根本的に治したいというなら……『外』からじゃあなく『内』からの干渉が必要なのかもな。『回転のエネルギー』を肉体の内側に伝わらせる方法』

『それがどんな方法で、どんなことが起こるのかは、オレにも分からないがな』

 

 彼と彼のウマ娘は常に上位の記録でレースを進めた。

 だが、9つのチェックポイントの内、第8ステージの終盤において――死亡。

 ヴァルキリーを庇っての事故だった……と、世間では公表されている。

 

『……おい、ジョニィ。ジョニィ……こっちだ。こっちだぜ。オレはこっちへ、進むぜ……』

 

 遺体は、ヴァルキリーが祖国に持ち帰った。

 トレーナーである彼と兄妹であるかのようによく似た、気の強いウマ娘だったが……別れ際の、厳かだけど何処か寂しげな彼女の微笑みが今でも忘れられない。

 

『そうゆう事なら……そうゆう事でいいんだ。オレの本名は……約束したよな。誰にも言うなよ……』

 

 一時期は優勝候補として世界的に知名度を上げながらも、彼と彼のウマ娘のその後の経過は依然として知られていない。

 

『じゃあな……元気でな』

 

 ――ジャイロに会いたい。

 もう一度、君と話がしたい。

 無事な君と一緒に肩を並べて歩くことが出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。

 あるいは、レースの時と同じように4人で共に旅路を進んでいけたのなら……。

 だが、歩み出そうとした僕の足は、再び止まってしまった。

 あのレースに参加しなければよかった。

 希望なんて知らなければよかった。

 そんな後悔さえ、時々湧いてくる。

 

 

 

 あれから2ケ月――。

 僕はもう一度出会った。

 希望というには少しばかり奇妙な、黄金の輝きを持つウマ娘に――。

 

 

 

 

 

 

「――その『鉄球』は?」

 

 ジョニィが束の間の夢想から我に返ると、テーブル越しに目の前のウマ娘が不思議そうに手元を見ていた。

 

「……え?」

「その手に持った鉄球さ。トレーニング用の道具か何かかな?」

 

 ジョニィが左手で玩んでいた、手のひらに収まる程度の鉄の球を指して訊ねる。

 確かに、日常的に持ち歩くには少々不思議な物体だった。

 危険物という程ではないが、ズシリと重く、一見すると何の用途があるのか分からない。

 握力や筋力を鍛える為の道具という判断は常識的なものだった。

 

「ああ、これはお守りというか……」

 

 ジョニィは苦笑を浮かべながら適切な言葉を探し、

 

「亡くなった友達の形見、かな」

 

 結局、素直に答えることにした。

 気まずくなるほど悲しい事情を含んだ物ではないと思った。少なくとも、自分は『彼』の死について一区切りつけている。

 相手のウマ娘もそれを察したのだろう。

 

「そうか。不躾な質問をすまない」

 

 軽く目を伏せ、短く謝罪をするだけで済ませた。

 ジョニィも小さく首を振るだけで、それを許した。

 元々、謝罪など必要のない質問だった。

 ジョニィは鉄球を車椅子に付けたポーチへ仕舞うと、目の前のチェス盤に集中することにした。

 昼食の時間を過ぎたトレセン学園のカフェテリアは閑散としており、トレーニングや学業から一息入れようとした者達の憩いの場となっている。

 特に、今日の天気ははあいにくの雨だ。

 雨音と穏やかなBGMが流れる空間で、ジョニィは目の前のウマ娘に誘われてチェスに興じていた。

 お互いに共通の考えから、カフェテリアを利用する他の生徒達からはなるべく目立たない隅のテーブルを選んだつもりだったが、思惑空しく二人の様子は周囲の注目を集めていた。

 ジョニィ自身が今や学園でも話題のトレーナーなのだが、相手のウマ娘も負けず劣らずの立場であるが故だ。

 

「さっ、次は君の手番だ。チェスを続けよう、ジョースター君」

 

 簡潔な仕草や言葉にも気品がある。

 没落したとはいえ貴族の出身であるジョニィにも納得出来る、上に立つ者としての気高さがある。

『シンボリルドルフ』――学園の生徒会長を務め、ウマ娘としての実績は日本で最強格である『皇帝』と呼ばれる存在だった。

 

「続けるのはいいんだが、僕なんかと指して楽しいか?」

 

 何故か自分を妙に気に入っているらしいシンボリルドルフへ純粋な疑問を投げ掛けながら、ジョニィは駒を動かした。

 トレセン学園のトレーナーに正式に就任してから1か月ほど経つが、何かと気に掛けられることが多い。

 彼女の人柄からして嫌われることの方が珍しいだろうが、短い時間で随分と気安い関係になっているような気がした。

 

「まず、チェスを嗜む生徒というのは意外と少ないんだ。加えて、私の相手をしてくれる生徒はもっと少ない」

「君が相手だと、大抵の生徒は気後れするだろうな」

「私の至らぬ点だ。意図せずとも委縮させてしまう」

 

 二人が向かい合って座れば、有名人が共演するちょっとしたテレビ番組だ。

 カフェテリアにいる生徒の大部分が、二人のやりとりを遠巻きに眺めていた。

 小声で交す二人の会話がどんなものなのか、凡人の自分達には想像も出来ない領域にあるのだろうと夢見心地に想像しながら。

 

「だから、普段は距離を置きながら彼女達の学園生活を見守ることにしている。先ほども――」

 

 シンボリルドルフは優美な微笑を浮かべて、ジョニィの目を見据えた。

 

「ある生徒が『炭酸水』を買っていた『そうだ』」

 

 答え:『炭酸水』=『ソーダ』 

 

「……ん~~~、なかなかオモシロかった。かなり大爆笑!」

「だろう!?」

 

 優美さや気品といったものが消えて、子供のように無邪気な笑顔が輝く。

 言葉とは裏腹にジョニィの返した相槌は声色も表情も変わらないままだったが、シンボリルドルフは嬉しそうに何度も頷いた。

 

「ふふふっ、今のは結構自信があったんだ。後からもっとジワっと来るタイプだからね。気に入ったなら、君も使っていいぞ」

 

 普段は実力や肩書きをひけらかさない彼女が、珍しく自負するように胸を張る。

 シンボリルドルフにとって、チェスの相手以上に自分のダジャレに付き合ってくれる相手は貴重だった。しかも、理想的な反応をしてくれるなら尚更だ。

 ジョニィの対応が常に真顔であり、実際に内心がどうなっているのかは分からないが、幸いなことに浮かれたシンボリルドルフはそれに気付いていない。

 傍から見れば若干シュールなやりとりが混ざることを除けば、二人は気の置けない良好な友人関係を築き上げていた。

 シンボリルドルフを慕う者達から、よそ者であるジョニィが疎まれることもほとんどない。

 日常的に彼女のダジャレに付き合わされて反応に四苦八苦している副会長のエアグルーヴなどは、ジョニィに対して『適切な相槌とスルーを自然体で使いこなしている……!』と畏敬の念すら抱いていた。

 

「ところで話は変わるが、今日も『SBR』について色々と聞かせてもらっていいかい?」

 

 シンボリルドルフの問い掛けに、ジョニィは頷いた。

『SBR』レースのことは、二人の間でよく話題として持ち出されている。

 全く新しい世界的なレースに興味を抱くのは、トレセン学園の生徒会長としても、一人のウマ娘としても当然のことだった。

 彼女は国内の有名なレースを無敗で制し、『三冠』という偉業を既に達成していたが、それを踏まえても『SBR』というレースは想像もつかない未踏の世界だった。

 その栄光を掴み取った上位のウマ娘達には殊更関心を寄せていた。

 

「走ったコースの状況については、あらかた話したと思ったけど」

「ああ。スポーツというよりサバイバルと言った方がいいような、壮絶な話だったよ。今日は、そんなレースに参加したウマ娘達について、君の見解を踏まえて話を聞きたいんだ」

 

 シンボリルドルフの胸中には、競い合う世界は違えど、自分の想像もつかない偉業を成し遂げたウマ娘達への敬意が満ちていた。

 

「例えばトレーナーの君から見て、出会ったウマ娘の中で1番『強い』と思ったのは、どんなウマ娘だ?」

「あのレースでは『強い』や『弱い』といった要素はあまり重要じゃなかったな。運が大きく関わる場面も多かったし、変わっていく環境に適応出来るかどうかが生死を分けた。一概に誰が『強い』とか判断は出来ないよ」

「すまない、質問が悪かったな。子供が遊びで話す、スタローンとジャン・クロード・ヴァンダムはどっちが強い? そのレベルでいいよ」

「……スタローンとヴァンダム知ってるの?」

「……再びすまない、映画は見たことないんだ。有名な俳優だから、アメリカ人の君に分かりやすい例えかと思って」

 

 シンボリルドルフは、赤面を誤魔化すように小さく咳払いをした。

 

「や、やはりレースを上位でゴールしたウマ娘が優秀だったと順当に判断すべきかな?」

「いや、さっき運の話をしたけど『3着』のウマ娘『ヘイ・ヤー』は実力としてはどう見ても平凡だったと思うよ。単純な直線のコースで走れば、この学園の生徒の半分には負けるだろうね。ただ、その運だけが並外れていた」

「ほう、つまり運だけで上位に食い込んだと? ……それは、競技者として些か納得のいかない結論だな」

「世界は広いってヤツさ。競技としてのレースの外には、そういう強さもある」

 

 国内で実力を比べ合う正統なスポーツを究めたシンボリルドルフと、大陸という広大なコースを走り抜く経験をしたジョニィの見識の違いだった。

『SBR』レースではプロ・アマチュアを問わず参加を認めており、ヘイ・ヤーはまさにアマチュアの代表格とも言えるウマ娘だった。

 元々は、トレーナーの『ポコロコ』と一緒に田舎の牧場で働いていて、レースになど一度も参加したことがなかった。

 ポコロコのトレーナーという肩書きも参加の際に勝手に付いたもので、彼自身トレーナーとしての資格もなければ技術も持っていない、ただの農夫だった。

 

「でも、ウマ娘のメンタルケアに関してだけは本当に優秀だったよ。あの特殊な状況下でのレースでは、ウマ娘に掛かるストレスは相当なものだった。そんな中で、ヘイ・ヤーは最後まで調子を崩すことがなかったように見えた」

 

 その幸運ゆえか、ヘイ・ヤーは長いレースの最中でも大きな怪我や病気などを患うことはなかったが、疲労だけはどうにもならない。

 ポコロコがトレーナーとして持っていた能力は『常に彼女の傍にいて、励ます』だけだった。

 ただそれだけの能力だった。

 ただそれだけの能力で、100日以上の期間、9つのステージを越えてヘイ・ヤーを支え続けた。

 

「テレビとかでヘイ・ヤーに付けられた二つ名が『幸運の星(ラッキースター)』だったっけ」

 

 レース後、ヘイ・ヤーは今回の実績を元に競技としての世界に進出――することはなく、ポコロコと一緒に故郷へと帰っていった。

 現在では、賞金を元手にして牧場を広げ、以前よりもずっと余裕のある暮らしをしているという。

 一攫千金を体現した彼女は、まさに苦労を知らない幸運の成功者だった。

 テレビなどで特集される際にも、彼女のウマ娘としての実力を評価する内容はほとんどなく、宝くじで一等を当てた金持ちを紹介する番組のようなものばかりだ。

 

「世間では彼女が幸運だけで楽に賞金を勝ち取ったように揶揄するけど、少なくとも僕にとってあの二人の手にした成功は順当なものだと納得出来る。他の参加者と同じように辛い環境を経験して、二人で全てを乗り越えていた」

「なるほど……私は、ヘイ・ヤーというウマ娘について少し誤解していたようだ。テレビに映る時、彼女の様子がいつでも自信に満ちているように見えたのは、幸運があったからではなく支える者がいたからなんだな」

 

 ウマ娘とトレーナーの一つの理想像だ、と。シンボリルドルフは何処か嬉しそうに呟いた。

『全てのウマ娘が幸福になる世界を作る』――成就には果てしない困難と道のりが存在する理想を掲げる彼女にとって、ヘイ・ヤーがレースの外で掴み取った幸福は新たな可能性として輝いていた。

 夢破れた者を多く知るからこそ実感する。

 レースから離れた世界にも、ウマ娘の幸福は存在するのだ。

 その証明は一つの救いのようにも思えた。

 

「やはり、現在世間で流れている評価よりも、経験者から聞く実際の話は違うな。もっと聞かせてくれないか?」

「別に構わないけど……やっぱり、次は『2着』の話?」

「ああ、是非聞かせて欲しい! 君のウマ娘『スローダンサー』について」

 

 珍しく積極的に頼み込むシンボリルドルフに対して、ジョニィは少しばかり気恥ずかしさを覚えていた。

 必然的に、自分のことについて語ることになるからだ。

 

「……随分、彼女を高く評価しているようじゃあないか」

 

 ジョニィとしてはスローダンサーが評価されることを素直に嬉しく思っているが、それにしてもシンボリルドルフを含めて世間は好意的な意見や評価ばかりだった。

 それに比例するようにジョニィ自身の評価も上がっていくのだから、当人としては困惑も混ざる。

 

「彼女の成し遂げた偉業を評価しないウマ娘はいないさ。大器晩成、彼女こそは一度夢に背を向けてしまった者にとっての希望なんだ」

 

 ジョニィの反応に対して、シンボリルドルフは笑って答えた。

 

「不愉快に感じてしまったら申し訳ないが、ハッキリ言って彼女に才能と呼べるものは存在しない。年を経ることで得た経験は貴重だが、それを踏まえても実力は平凡の一言に尽きる――と、私は判断する」

「ああ、その判断に間違いはないよ」

 

 何よりも、その事実をスローダンサー本人が痛いほど自覚していた。

 自覚していたからこそ、彼女はあのビーチにいた。

 レースに参加するわけでもなく、漲るような自信と真っ白な未来を携えた無数の若いウマ娘達が集まる熱狂の中を、ただ無為に彷徨っていた。

 あの時、ジョニィと同じくらいの絶望を、彼女もまた抱えていたに違いないのだ。

 

「才能と機会に恵まれず、レース場を去る――ウマ娘として、よくある結末なのだろうな」

 

 シンボリルドルフは心苦し気に現実への了解を示し、そして内心では了承していなかった。

 彼女は恵まれた側のウマ娘だ。

 持つ者が持たざる者の未来を憂うのは憐れみ以外の何物でもない。

 それを自覚している。

 

「だが、スローダンサーはその終着点から壁を越えて道なき道へ進んだ。そして、栄光を掴み取った」

 

 だからこそ、シンボリルドルフは会ったこともないウマ娘を誇らしげに語った。

 

「彼女には、尊敬しかない」

「ああ。僕もそうだ」

 

 ジョニィも迷いなく断言した。

 

「彼女との馴れ初めについて、聞かせてもらってもいいかな? スタート時には君達は全く注目されていなかったから、ほとんど記録が残っていない」

「その記録の通りさ。彼女とは、スタート地点のビーチで偶然出会った。彼女にそのつもりはなかったけど、僕はどうしてもレースに参加する必要があった。だから、パートナーになるように頼み込んだんだ」

「運命の出会い、というヤツかな」

「そんな綺麗なモンじゃない。当時は僕も彼女も劣等感を抱えていたから、初対面の印象は最悪だったと思うよ。いや、僕が最悪だったんだ」

「ははっ、まさか金でパートナーを頼み込んだわけでもあるまい」

「実はその通りなんだ」

「……えぇ?」

「歯が折れるほど殴られたよ。しつこく付きまとったら、足も折られた。まあ、下半身が麻痺してたから痛みはなかったけどね」

 

 事も無げに語るジョニィを、シンボリルドルフは僅かばかりの軽蔑を込めて見つめた。

 しかし、ジョニィは当時の言動を恥じてはいても、金を払ってウマ娘を買収するという行為自体に問題は感じていないようだった。 

 

「君は……結構、手段を選ばないタイプなんだな」

「友達やスローダンサー自身にもよく言われたよ。でも、だからこそあのレースを走り切れたと思ってる」

「ハングリー精神を否定するワケではないが……」

「だから、正直世間の評価には戸惑ってるんだ。僕をスローダンサーを導いた高潔な指導者のように扱うのはやめて欲しい。高潔なのは、彼女の方だった」

「勘違いしないで欲しいが、別に君に失望したワケじゃないんだ。性格の面で意外な部分を見たというだけで、私は君のトレーナーとしての評価を疑ってはいない」

「スローダンサーは、レースの中で成長した。才能を越えたのは、彼女の努力と意志だ」

「そして、君の与えた『技術』でもある」

 

 シンボリルドルフの鋭い視線が、ジョニィの瞳の奥に隠されているものを射抜いていた。

 先ほどまで談笑していた気安い友人ではなく、『皇帝』と評される実力者としての眼光だった。

 

「私は、血の滲む努力と不屈の精神が生み出す成果について軽んじてはいない。だが、同時に限界という壁の高さも痛いほど知っている」

「……」

「ほとんどのウマ娘達が挫折せざるを得ないその壁を越えたのは、れっきとした『技術』があったからだ。スローダンサーの走りには、才能を補って余りある『技術』があった」

「……」

「私には、その『技術』の正体がまるで分からなかった。だが、確かにある。そして、それは君が教えたものだ」

 

 そう強く断言する彼女の声には、隠しきれない渇望が滲んでいた。

 

「私は、それがとても知りたい」

 

 走ることに意義を見出し、スピードの限界に探求心を刺激される、ウマ娘としての本能が『皇帝』にまで上り詰めた彼女にも存在した。

 いや、頂点を究めようとするからこそ、人一倍大きな力への貧欲さがあった。

 いつの間にか、手元のチェス盤からは動きがなくなっていた。

 二人は互いの内心を探るように、しばらくの間無言で視線を交した。

 

「……しかし、君が『それ』を教える相手は私ではないんだろうな」

 

 自然と強張っていた体から力を抜くように、シンボリルドルフは普段通りの気品ある微笑を浮かべた。

 

「残念ではあるが、楽しみでもある。君の鍛えたゴールドシップとレースで競い合う日が来るのが」

 

 デビューしたてのウマ娘に対して、『皇帝』は期待を寄せていた。

 

「一つだけ、答えると――」

 

 ジョニィはポーチの中にある鉄球に思いを馳せながら言った。

 

「あの『技術』を僕が教えたというのは、正確じゃない。僕も教えられる側だった。レースの中で、二人で学び取ったんだ」

「更に先人がいたというのか?」

「ああ。そして、スローダンサーはあの『技術』を完全に身に着けることは出来なかった」

「完全ではない……あれで?」

 

 シンボリルドルフの胸中に戦慄が走った。

『SBR』レースの状況を放映するテレビの中で見た、スローダンサーの走り。

 平凡で見るべき所のない走りが、時として信じられない爆発力を発揮し、不整地を滑るように駆け抜ける。

 身体能力で差のある相手との競り合いでは、経験とそれ以上の不可解な『技術』をもって制してみせた。

 様々な場面で、予想を悉く裏切るパフォーマンスを発揮した彼女の『技術』が、まだ未完成なものであったというのか。

 

「……なるほど。完全な『技術』を身に着けたゴールドシップと勝負をするのが、楽しみではあるが怖くも感じるな。立場に胡坐をかいて挑戦を待ち構えている余裕はなさそうだ」

「君が慢心してくれるほど甘い相手だとは思っちゃいないさ。それに、全てはゴールドシップ次第だ」

「彼女では、あの『技術』を身に着けるのは難しいか?」

「ゴールドシップは、既に『自分の走り方』を持っている。スローダンサーとは前提が違うんだ。僕が教えることは余分かもしれない」

「確かに、彼女は才能に溢れた良いウマ娘だ。トレーニングで走っている姿を、何度か見たことがある。とても楽しそうだったよ」

「ああ。なんというか……彼女は『敵を必要としない走り方』なんだ。ライバルとかそういう『絶対に勝ちたい相手』がいなくても、自分だけで強くなれるタイプなんだ」

「言いたいことは分かるよ。彼女はとても自由な走り方をする。レースに勝つことではなく、レースを楽しむことが一番の目的なのだろう」

「勝てれば気分がいい。だから勝つ――そういうタイプさ」

「そして、実際に勝つ。レースを楽しみたいというウマ娘は他にもいるが、結果が伴うことは少ない。才能とは残酷だな。望んだ者に与えられるわけではないのだから」

「ゴールドシップが持っているのは才能だけじゃないさ。そうでなきゃ、僕も彼女の走りには魅せられなかった」

「誤解をさせたなら、すまない。私も彼女の自由奔放さは素晴らしいと思う」

「つまり、ゴールドシップは行動方針にムラッ気があるって話なんだ。彼女には、スローダンサーのような『技術』は必要ないかもしれないし、君と競うこともないかもしれない」

 

 ジョニィの言葉に、シンボリルドルフは意表を突かれたような表情を浮かべた。

 

「ふむ……ひょっとして、君達は『URAファイナルズ』に参加しないつもりなのか?」

 

 秋川やよいが提唱した、全てのウマ娘の頂点を決めるレース『URAファイナルズ』は2年後に開催予定となっていた。

 本来は、もっと時間が掛かるはずだったのだが、『SBR』によってウマ娘のレース業界が活気づいていたことと、その『SBR』を盛り上げたトレーナーの一人であるジョニィが学園にいたことで当初の想定よりも話題性がずっと高くなったのだ。

 レース開催宣言の反響は、日本国内を越えて世界にまで広がった。

 海外からのスポンサーも付くようになり、大会の準備は急ピッチで進められている。規模も予定より大きくなりそうだ。

 優勝すれば、第二の『SBR』とも言える世界的な栄光を手にすることが出来る。

 国内で実績のあるウマ娘は、ほとんどが参加することになるだろう。

 しかし、ジョニィは顎に手を当てて、思案するように即答を避けた。

 

「ゴールドシップ次第、としか言えないな。僕としては参加したいと思っている。僕の顔をレースの宣伝に使ってしまっているし、個人的にもこの学園で世話になっている恩は返したい」

 

 ちなみに、ジョニィの存在が『URAファイナルズ』の宣伝になってしまったのは結果的なものであり、やよい自身にそのような意図はなかった。

 事態が発覚したその日の内に、彼女はジョニィの元へ謝罪に訪れている。

 そういった律儀な部分も含めて、レースの成功に協力したいとは思っていた。

 どうせ、日本に来るまで目的を見失っていた人生だったのだ。

 この学園は、そんな自分に安息の生活を与えてくれた場所であり、ゴールドシップと出会う機会をくれた場所だった。

 

「学園に貢献してくれることはありがたいが、君としてはレースに参加することは義理を果たすという意味合いが強いのだな」

 

 シンボリルドルフは残念そうに呟いた。

 

「今のところ、勝利の栄光とかそういったものは、僕には重要じゃないんでね。ゴールドシップが出たいというなら、その意思を尊重するさ。ただ、どうも彼女は海外のレースに興味があるみたいだ」

「『SBR』のような、か」

「学園にいる仲間と競い合いたい、とも思ってるようだけどね。どうするかは、まだ検討中さ」

「そうか……」

 

 相槌を打って、その先を言い淀むシンボリルドルフを、ジョニィは不思議そうに見つめた。

 ただ単純に、レースで競い合えないことを残念に思っている様子ではなかった。

 彼女は聡明だ。様々な物事を考慮して発言する。

 つまり、何か言い悩む事情があるのだろう。

 

「何かあるのか?」

 

 いずれにせよ、自分が関係する話なのだ。

 

「……ジョースター君。君は『SBR』を優勝したウマ娘と、そのトレーナーを知っているな? 『シルバーバレット』と『ディエゴ・ブランドー』だ」

 

 その名を聞いた途端、ジョニィは盛大に顔を顰めた。

 

「その反応を見る限り、あまり良い印象を抱いていないようだ」

 

 シンボリルドルフは察したように苦笑を浮かべた。

 

「勘違いしないで欲しいんだが、これは優勝した相手に対するやっかみだとかじゃあない。僕がディエゴ・ブランドーという男を大嫌いなだけだ」

 

 断言するジョニィの頑なさに、シンボリルドルフは肩を竦めた。

 性格が合わないだとかの単純な理由ではなく、もっと根の深い嫌悪感を抱えている。心の底から嫌っているというプレッシャーすら発しているようだ。

 ディエゴ・ブランドーは、イギリスの名誉あるレース業界の天才トレーナーだ。

 通称は『Dio(ディオ)

 王族さえ観戦するレースでも数々の功績を残しており、『SBR』開催前から優勝候補として注目されていた。

 その『SBR』を実際に優勝したことで、彼の名声は最高にまで高まったと言っていい。

 元は下層階級出身でありながら、名門貴族に突出した才能を見出され、育てられた。

 不遇の少年時代を過ごしながらも、己の腕前一つでのし上がってきたドラマティックな経歴が、彼の人気を後押ししていた。

 しかし、ディエゴに関する知識は全てテレビや新聞越しに演出されたものばかりであり、実際にどういった人物なのかはシンボリルドルフにも知りようがなかった。

 その実際の人柄を、レースを通して直に感じ取ったジョニィが、ここまで露骨に嫌っている。

 

「つまり、そういう男なんだろうな。ディエゴ・ブランドーというトレーナーは」

「結局、僕はDioに敗北した人間だ。何を言っても負け惜しみや妬みに聞こえるだろうから、ノーコメントとさせてもらうよ」

 

 ディエゴという名が絡んだだけで、一気に警戒心を高めたジョニィは、嫌々ながらも質問の意図を訊ねた。

 

「それで、あの男が『URAファイナルズ』と何の関係があるんだ?」

「もう、大体察しているんだろう。君がレースに関わっているという情報が流れて、世間が騒いでいるのさ。ジョニィ・ジョースターとディエゴ・ブランドーの真の決着を、とね」

「冗談じゃない。決着ならあの時ついたさ。アイツは『絶対に負けたくない相手』だったけど、結局負けたのは僕の方だ。それはレースの結果が証明している」

 

 ジョニィはうんざりしながら答えた。

 

「それはDioにとっても同じことだ。奴にとっても終わった勝負さ。僕のことなんて、もう道端の石ころほども気にしちゃいないだろう」

「ところが、そうでもないらしい」

「……何だって?」

 

 シンボリルドルフはタブレットを取り出すと、画面を操作してあるニュースの一面を見せた。

 

「『URAファイナルズ』への参加を表明したディエゴ・ブランドーとシルバーバレットが、近日中に日本へ来る予定らしい。『再び相まみえるかつてのライバル。2年後の決着に向けて』というのが今一番熱い見出しだ」

「……なんてことだ、クソッ」

 

 ジョニィは思わず悪態を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 将棋の盤面を挟んで、ゴールドシップとメジロマックイーンは向かい合っていた。

 勝負の緊張が張り詰める中、ゴールドシップが満を持して手を振り上げる。

 

「ドロー! アタシはギルフォード・ザ・ライトニングをアドバンス召喚! 盤面の駒はみんなしぬ!」

「ゲームが違いますわ!」

 

 ここまでの流れを全て無視して、将棋盤にトレーディングカードを叩きつけたゴールドシップにメジロマックイーンはツッコミを入れた。

 

(あ……これは、もう将棋に飽きましたわね)

 

 全てを察したメジロマックイーンは、飛び散った将棋の駒を箱の中に片付け始めた。

 今日の天気はあいにくの雨である。

 本来予定していた外でのトレーニングを控えた二人は、室内でのそれに切り替えていた。

 今いるトレーニングルームは競争相手との駆け引きや勝負勘を養う訓練設備のある場所とされているが、実際はボードゲームが充実したレクリエーションルームに近かった。

 効果があるかどうかは個人によるが、とりあえず暇つぶしにはなる。

 

「雨あしも遠のいてきましたし、完全に止んだらわたくしと併走でもいたしますか?」

「えー!? 雨の後の地面って泥跳ねちゃうしー、ドレス汚れちゃうしー、アタシ走りたくなーい!」

「張り倒しますわよ」

 

 何処まで本気で言っているのか分からない軽口を交しながら、メジロマックイーンはため息を吐いた。

 ようやく自分のトレーナーを見つけてデビューを果たし、しかもそのトレーナーがあのジョニィ・ジョースターだった。

 デビュー戦でも無茶苦茶な走りで強引に1着をもぎ取り、それが話題を呼んだのかデビュー直後では異例の知名度を得ている。

 一人の選手として歩み出した自覚を持って何か変わったかと思えば、別に何も変わっていない。

 相変わらず、気分屋で飽き性で自由だ。

 メジロマックイーンは、今日もゴールドシップに振り回されていた。

 

「せっかく正式なトレーナーが付いたのですし、トレーニングメニューなどは組まれていませんの?」

 

 ゴールドシップからまた突飛な言動が飛び出す前に話題を提供する。

 実際、メジロマックイーン自身も興味があった。

『SBR』レースの実績を抜きにしても、ジョニィのトレーナーとしての知名度は非常に高い。

 彼が16歳の時に育てたウマ娘は、ケンタッキー・ダービーの優勝など海外の有名なレースで数々の功績を残しており、かつては若き天才トレーナーとしての名を欲しいままにしていた。

 一時期は落ちぶれたとして評価を落としていたが、今や彼の名声はかつて以上に高まっている。

 才能の限界を迎え、全盛期も過ぎたスローダンサーを更に躍進させたジョニィのトレーナーとしての手腕は、メジロマックイーンも強く興味を惹かれる点だった。

 そんなトレーナーが、予測不能に定評のあるゴールドシップへ課すトレーニングとはどんなものなのか、気になって仕方がない。

 

「メニューならあることはあるけどさ、別に普通だな。ゴルシちゃん的には、デカイ鉄球にぶつかったり、ジープで追い回されるような派手な特訓を覚悟してたのによ!」

「それは特訓ではなくただの虐待ですわ。でも、特別な内容ではなく、基本を忠実に繰り返すというのは、やはり大切なことなのでしょうね。わたくしの先入観でしたわ。お恥ずかしい」

「マックイーンは真面目だねぇ~。アタシとしては、同じこと繰り返すよりもたまに面白いこと混ぜてくれた方がやりがいがあるんだけどなぁ」

 

 そうぼやきながらも、ゴールドシップがここ1か月の間トレーニングをサボっていないことをメジロマックイーンは知っていた。

 以前ならば、他のウマ娘達がトレーニングをしている時間に、学園内やあるいは外で遊んだり奇行を行っていたはずである。

 トレーニングの合間に適度な休息を挟むという意外と考えられた体調管理の元での行動なのだが、自己流でやっている為かかなりいい加減だった。

 しかし、ジョニィがトレーナーになって以来、行動が規則的になっている。

 トレーニングの時間には、必ずその為の場所にいるのだ。

 

(気まぐれなゴールドシップさんに当たり前のことを毎日繰り返させる……この時点で、既に彼のトレーナーとしての実力が発揮されているのかもしれませんわね)

 

 メジロマックイーンは、改めてジョニィの指導力に感服した。

 実際には、トレーナーとしての能力というより、ゴールドシップを乗り気にさせる合いの手の上手さや相性の合致が大きな要因だった。

 

「今は基本的な身体能力を底上げしながら、ゴールドシップさんの成長の方向性を探っているのではないでしょうか?」

「そうかぁ? ジョニィって初見で結構何でも見抜いちまうぜ。スカウターでも使ってんじゃねーかってくらい、アタシの脚質とか理解してたし、先のこともう見えてんじゃねーの?」

「だとしたら……って、トレーナーさんのこと名前で呼んでますのね」

 

 何故か自分の方が少し気恥ずかしくなって、メジロマックイーンは頬をわずかに赤くした。

 咳払いを一つ挟んで、すぐに切り替える。

 

「その、ジョースターさんから……何か特別な技術の教練は受けていませんの?」

「特別な技術って何?」

「それは……」

「それは? ゴルシちゃん分かんない」

「ひ……必殺技、とか?」

「えっ、何言ってんの? アタシらやってるのレースよ。ゲームのやりすぎじゃない?」

「もうっ、意地悪しないでください!」

 

 ニヤニヤと笑うゴールドシップの胸を、メジロマックイーンはポカポカ叩いた。

 

「ワリーワリー、言いたいことは分かってるって。アタシも期待してたんだけど、今のところ、あのスローダンサーがやってたみたいな『技術』は教えてもらってねーかな」

 

 ジョニィのパートナーであったスローダンサーの持つ『技術』――その存在は、見る者が見れば確信出来た。

 メジロマックイーンも、ゴールドシップも、彼女の力に秘密があることは見抜いている。

 しかし、その実態がまるで掴めない。

 その正体を暴く鍵を握っているのは、トレーナーのジョニィだ。

 現在、最もその秘密に近いであろうゴールドシップのトレーニング内容について知りたくなるのは、高みを目指すウマ娘ならば誰でも同じだった。

 

「強いて言うなら、普通のトレーニング以外に『フォームの矯正』をすることが多い気がするんだよな」

「フォームの、矯正?」

「結構細かくさ、指摘してくんだよ。手足を動かす時は直線じゃなくて曲線を意識しろ、とか。手首や足首の捻り具合とかさ。どんだけ意味があんのか知んねーけど」

「直線ではなく曲線……捻り?」

 

 ゴールドシップと関わりのないウマ娘では手に入れることさえ出来ない希少なヒントだ。

 メジロマックイーンは、それらのキーワードを元にして考え込んだ。

 フォームの矯正自体は珍しいことではない。

 走る為にはより効率的な身体の動かし方があり、本人の適性やコースの状況に応じて最適なフォームというものがある。

 ゴールドシップは未だデビューしたばかりの新人で、優れた才能を持っていても様々な部分が荒削りだ。それを整えるという意味でも、妥当な教導のようにも思える。

 深い意味はないのではないか――しかし。

 

「気になりますわね」

「そお?」

 

 真剣な表情のメジロマックイーンに対して、ゴールドシップは他人事のように呆けていた。

 

「アタシとしては自由なフォームで走らせて欲しいんだよなぁ。そりゃ速くなるのは分かるけどさ、爆発力っつーの? フォーム整えて小じんまり纏まって走るよりも、ドカンッと気持ちよく突っ走りたいね!」

 

 ゴールドシップの主張も分かるような気がした。

 型に嵌らないのが彼女の走り方の長所だ。

 それを活かすだけの爆発力を秘めた肉体と才能を持っている。

 

「……ですが、それではいずれ限界が来ると思いますわ」

 

 メジロマックイーンもまた才能を持つウマ娘だが、それを技術によって研磨することを重要視している。

 これは完全に個人の考え方と性格の違いだった。

 

「アナタだけのやり方では、勝てない相手が現れるかもしれません。そんな時の為にトレーナーさんの意図を理解しておくことは必要、なのではないかと思いますが……」

 

 ゴールドシップの良さも十分に知っている。

 だからこそ、最後の部分を言い淀んだ。

 

「……マックイーンは優しいなぁ」

「な、何がですか?」

「他人のアタシをそこまで心配してくれんのがさ」

「他人だなんて、そんな寂しいことを言わないでください」

「そうだな、ワリィ。あれだろ、『不甲斐ないアナタを倒しても面白くはありませんわ!』ってライバル的なお節介なんだろ? いいなー、やっぱ『URAファイナルズ』出ようかな! マックイーンと勝負してみたいし!」

「場合によっては出ないつもりでしたの……?」

 

 そんなことを考えていたなんて全く知らなかった。

 メジロマックイーンは、驚きと安堵の混ざったため息を吐いた。

 

「まったく、世間の期待を気にしないのはゴールドシップさんらしいですけど」

 

 思わず漏れた呟きに対して、ゴールドシップは不思議そうな顔をした。

 

「どゆこと? 『URAファイナルズ』でアタシってなんか期待されてんの?」

「知らないのですか? アナタがあのシルバーバレットと『URAファイナルズ』で対決するという話題で、世間は賑わってますのよ」

 

 ジョニィがトレーナーになって以来、ゴールドシップは『SBR』に関連する世間の情報から興味を失っていた。

 レースの話を聞きたければ、参加した本人が傍にいるからだ。

 実際、ジョニィと絡めば話題は尽きず、ゴールドシップはこの1か月間退屈とは無縁の日常を送っていた。

 楽しすぎて、自分を囲む情勢の変化など気にも留めていなかった。

 

「シルバーバレットって『SBR』で優勝したウマ娘だろ。えっ、世界のスターウマ娘じゃん! アタシ、まだ無名だよ!?」

「重要なのはトレーナー同士の因縁ですわ。彼女のトレーナーであるディエゴ・ブランドーとジョースターさんをライバル同士とする見方が、今や世間では浸透しているようですわね」

「ああ、アイツか」

 

 ディエゴの名を聞いてわずかに眉を顰めるゴールドシップの反応は珍しいものだった。

 

「珍しいですわね、アナタが誰かを苦手に思うなんて」

「ジョニィがディエゴのことスッゲー嫌ってんだよな。ジョニィが嫌うってことはアタシともきっと合わないんじゃね?」

「……まあ、実際にどういう人物なのかは会ってみなければ分かりませんが、彼と彼のウマ娘が世界的に有名なことは確かですわ」

「そいつらが『URAファイナルズ』に参戦して、『SBR』での本当の決着を! ってヤツか。負けたスローダンサーに代わって、アタシがシルバーバレットの新たな対抗バになったワケだ」

 

 シルバーバレットは『エリート』という言葉を体現したウマ娘だった。

 優れた血統を持ち、生まれた時から英才教育を施され、史上最年少でデビューして数々のレースを勝ち取ってきた。

 常勝無敗。彼女自身が優れすぎていた為、トレーナーの存在に何の意味もないと言われていた程だ。

 誰がトレーナーになっても、彼女は勝つ。

 輝きを増し続けるシルバーバレットの栄光に、多くのトレーナーが焼かれ、彼女の下を離れていく中――当時、同じく若き天才であったディエゴに巡り会った。

 神が選んだ運命のコンビだ、と世間は言う。

 ディエゴと組んだ彼女は、もはや海外では最強となった。

 イギリスのレース業界で伝説となり、アメリカに進出して『SBR』で優勝を勝ち取った。

 

「今や世界を制したウマ娘。故についた二つ名が『世 界(ザ・ワールド)』――でしたわね」

 

 競い合う上でこれ以上の強敵はいない。

 そんな相手と話題性の高さだけで勝負をさせられることになりそうなゴールドシップ自身は、思いのほか冷めていた。

 

「どこまで本気で報道してんのかね? レースを盛り上げる話題の一つとして、煽り立ててるだけじゃねーの?」

 

 片や世界のスター。

 片やデビューしたての無名。

 実際のレースまでに実績をあげる期間があるとはいえ、世間はゴールドシップが勝てるとは到底思っていないのだ。

 不満だと感じる以前に、当人を無視して勝手にお祭り騒ぎになっている周囲に付き合いきれないという思いが強くなった。

 

「会ったこともないヤツを勝手にライバル枠にされてもなー。アタシ、ライバルはマックイーンがいいなー」

「光栄ですけれど、実際にレースをするとなったらとんでもない強敵ですわよ。勝つ気はありますの?」

「負ける気はないけどさー、周りがやれって言ってるだけのレースしても気分が乗らないっつーかぁ~。大体、苦手だよアイツ。テレビで見たけど、顔コエーもん!」

「世界が注目するレースですのよ。ワガママが通る状況では……」

 

 その時。

 ふと気づくと、部屋の外が騒がしくなっていた。

 生徒と思われる複数のウマ娘達が走る、慌ただしい足音が聞こえる。

 

「……何でしょう?」

 

 メジロマックイーンが扉を開けると、ちょうど目の前の廊下を二人の生徒が走り去るところだった。

 二人は開いた扉に気付かないほど興奮して、騒がしい会話を交わしながら目の前を過ぎていった。

 

「本当なの!? 今、学園のホールにあのシルバーバレットが来てるって!」

「会長が対応してるって話だよ! ジョニィ・ジョースターさんに宣戦布告しに来たんだって!!」

 

 ゴールドシップとメジロマックイーンは、思わず顔を見合わせた。

 

 

 

 

 

 

 そのウマ娘は、名が体を表すように白銀の髪と尾を揺らして、トレセン学園のホールに佇んでいた。

 ただそれだけで、周囲の視線を集めてやまない圧倒的な存在感がある。

 学園の生徒達は似たようなウマ娘を知っていた。

 シンボリルドルフだ。

 シルバーバレットとシンボリルドルフは似ている。

 内から滲み出る計り知れない実力。

 微笑一つとっても格の違いを感じる優美さ。

 纏ったオーラは、自然と頭を垂れてしまいたくなる。

 一言でいえば『カリスマ』があった。

 しかし、シンボリルドルフのカリスマを『白』とするなら、シルバーバレットのそれは『黒』と言うべきものだった。

『憧れ』ではなく『畏怖』を抱かせる力が、彼女にはあった。

 レースで彼女の隣のゲートに入った時、そのまま立ち竦んで走り出すことすら出来なくなってしまいそうな圧力が、無意識の内に発せられているようだった。

 

「――トレセン学園へようこそ。生徒会長のシンボリルドルフだ」

 

 相対してもいないのに萎縮してしまう周囲の生徒達を救うように、報告を受けたシンボリルドルフはその場に駆け付けた。

 ジョニィとの会話で話題には出したが、まさか今日この日にシルバーバレットが学園を訪問するとは思ってもいなかった。

 

「会えて光栄だ。私はシルバーバレット」

 

 二人は絶妙な距離を空けて対峙した。

 言葉の上では友好的だが、握手を交わせるほど近寄らない。

 シンボリルドルフは普段生徒に向ける優しげな微笑を消していた。

 対するシルバーバレットは笑みを浮かべているが、それは何処か傲慢さや余裕を含んでいるような、見る人によれば挑発的に感じる笑みだった。

 

「日本に来ていたとは知らなかった」

「マスコミには知らせずに来たからな。何処へ移動するにも、彼らは大げさに騒ぎ立てる。そちらを訪れる際には迷惑になると思ったのでね」

「お気遣い感謝する。しかし、この学園に何の用だろうか?」

「単なる挨拶さ。我がトレーナーも、すぐに合流する」

 

 シンボリルドルフの傍らにはジョニィもいたが、シルバーバレットは目の前のウマ娘だけに意識を向けていた。

 

「先日、我々は『URAファイナルズ』に参加することを表明した」

「知っている。そのことをわざわざ宣言しに来たのか?」

「こういうパフォーマンスが必要なのだ。世間は、この学園と我々が因縁の下に対決を行うのだと期待している」

 

 その時、初めてシルバーバレットはジョニィの方を見た。

 視線を受けて、ジョニィは眉を顰めた。

 いつ見ても、あのディエゴとよく似た瞳だと思った。

 

「実際には違うとしても、世間が『ある』というのだから『そういうこと』にして動かなければならない。スターの辛いところだな」

「どういう意味だ?」

 

 ジョニィの代わりにシンボリルドルフが訊ねた。

 その顔つきは険しい。

 シルバーバレットの微笑は、今明確に嘲笑へと変わったのだ。

 

「我々とジョニィ・ジョースターとの間に因縁などない」

 

 ハッキリと、冷酷なほど断言した。

 

「もはや勝負はついたのだ。『そこ』にいる『それ』は、ただの負け犬だ」

 

 シンボリルドルフにも、ジョニィにも、周囲の者達にも届く、強い言葉だった。

 

「そうだろう? ジョニィ・ジョースター。既に負け犬ムードのお前と再び相対しているのは、我々の詰めが甘かったと反省しているからだ。お前の『誇り』を完全に引き裂かなかったせいで、まだ負けていないのだとお前自身にも周囲の人間にも勘違いさせてしまった」

 

 何も言い返さないジョニィをいたぶるように言葉を続ける。

 

「それを正すためにレースに参加するのだ。お前が分相応な敗者として惨めに蹲ったままならば、我々も頓着しないのだがね。今からでも世間に公表するつもりはないか? 自分は完全な負け犬であり、勝ち目のないレースに参加は出来ないと――」

「おい」

 

 シンボリルドルフの口から酷く低い声が漏れた。

 普段の温厚な彼女の姿からは想像も出来ないほど険悪なオーラが立ち昇っている。

 

「それ以上無礼な口を叩くな」

 

 シルバーバレットに向ける視線は、もはや完全に敵に対して向けるものだった。

 しかし、それを受け止める当人は、むしろ楽しげに笑っていた。

 

「そんなに睨まなくてもいいじゃあないか。別に喧嘩をしにきたんじゃない、安心しろよ。ここに来たのは、君の方に興味もあったからなんだ。皇帝シンボリルドルフ、友達になろう」

「断る」

 

 即答するシンボリルドルフの顔は、もはや能面のように感情が消えている。

 

「初対面なのに申し訳ないが、私は君がかなり嫌いになった。用が済んだのなら、さっさと消えてくれ」

 

 氷のように淡々と告げる。

 初めて見る生徒会長の冷たいやりとりに、周囲の生徒達も凍り付く中、シルバーバレットはゆっくりと視線を移動させた。

 

「そう言うなよ。興味のあった君と会い、ジョニィ・ジョースターの現状を確認した。あと一つ、取るに足らない用があってね――」

 

 シンボリルドルフとジョニィの背後に視線を向ける。

 シルバーバレットに気を取られていた二人は、そこでようやく気付いた。

 荒々しい足音と、何かを引きずる音が近づいてくる。

 

「アポイトメントはございますかァ、お客サマァ~~~? 誰だって顔してんで自己紹介させてもらうがよ、アタシの名前はゴールドシップ! 今や世界に羽ばたく期待のルーキー・ゴルシちゃんだよ☆」

「止まって! 止まってください、ゴールドシップさん……っ!」

 

 何故か腰にメジロマックイーンをしがみ付かせたゴールドシップが、肩を怒らせながら踏み込んできた。

 メジロマックイーンは彼女を引き止めようとしたらしい。

 しかし、それを引きずって無理矢理やって来たのだ。

 

「アンタがシルバーバレットだな。アタシのトレーナーに何か用か?」

 

 ゴールドシップは内から湧き上がる怒りと苛立ちを、引き攣った笑顔で誤魔化そうとしていた。

 しかし、体裁を取り繕う余裕はもはやない。

 誰がどう見てもゴールドシップは、目の前の『敵』に対して怒っている。

 シルバーバレットはその興奮した姿を涼しげに観察して、向けられる敵意を一笑に伏した。

 

「先ほどのやりとりを聞いて、飛び込んできたのか?」

「おっと、会話が成り立たないアホが1人登場ォ~~~。質問文に対し質問文で答えるとテスト0点なの知ってたか? マヌケ」

「ゴールドシップさん!」

「よせ、ゴールドシップ!」

 

 完全に喧嘩腰で挑みかかるゴールドシップを、メジロマックイーンとこれまで黙っていたジョニィが制止しようとした。

 メジロマックイーンは学園内で暴力沙汰が起こる最悪の事態を危惧していたが、ジョニィはシルバーバレットの狙いを読み取っていた。

 しかし、それを説明する間もなく、ゴールドシップはシルバーバレットの眼前にまで詰め寄った。

 

「しっかりと聞いてたぜ。取るに足らない用ってのはアタシのことかァ? ゴルシちゃんは心が広いから1回くらいの暴言は大目に見てやるけどよ~……やっぱナシ。ムカつくから一生根に持つこと決定」

「ほう、ならばどうする?」

「どうするもこうするも、アンタが訂正しねーんなら出るトコ出るぞって話だよ。っつーかなぁ――」

 

 もはや鼻先すら触れるほど顔を近づけ、怒りに満ちた眼光で相手の瞳を射抜く。

 

「アタシのトレーナーを侮辱してんじゃねぇよ。蹴り殺すぞ、テメー」

 

 殺気立ったゴールドシップの言葉に、誰もが息を呑んだ。

 平穏な学園の中で、これほどまでに激しい怒りをあらわにするウマ娘を、誰も見たことはなかった。

 ただ一人。

 その殺気を向けられるシルバーバレットだけが、面白そうに笑っていた。

 

「気に入った」

「あぁん?」

「出る所とやらに出ようじゃあないか――私と今からレースをしないか? ゴールドシップ」

 

 

 

 

 

 

「――こうなることが、奴の狙いだったんだ」

 

 外は、既に雨が止んでいた。

 練習用のレース場へ向かうゴールドシップの後ろ姿を、車椅子で追い掛ける。

 

「分かっているのか、ゴールドシップ!?」

「ああ、分かってるよ」

 

 ジョニィの叱責に対して、ゴールドシップは事も無げに答えた。

 つい先ほどまで、ホールで怒りに我を忘れかけていたような姿は何処にもない。

 

「アタシがスローダンサーのような『技術』を身に着けているのかどうか、アイツは確かめる為に来たんだろ?」

 

 冷静な口調で正解を返され、ジョニィの方が一瞬言葉に詰まった。

 

「……そうだ」

「散々挑発しておいて、戦力分析が本当の目的だったワケだ。あんな言動してるくせに慎重な奴だぜ。もっと慢心して『ワタシは調子こいて最後に逆転されるボスです』って態度取ってりゃいいのによぉ~」

「分かっていて、何故挑発に乗ったんだ!? このレースの勝敗に意味はない! 奴の前で走った時点で、君のあらゆる情報は抜かれると思った方がいい! そういう恐ろしい能力があるんだ、奴のトレーナーにはッ!」

 

 ディエゴ・ブランドーには類稀なる分析能力があった。

 どんなウマ娘であっても、その脚質や得意なコース、距離、走り方に表れる特有の『クセ』まで読み取ってしまう。

 彼自身が見なくとも、シルバーバレットが正確に収集した情報を分析し、それを更にシルバーバレット自身がレースで活かすことも可能だった。

 単なるウマ娘とトレーナーの関係ではない。

 互いが互いの能力を増幅し合う、恐るべきコンビだった。

 

「例えこのレースで勝てても、奴は何も堪えない! 観客も何もいないからだ! 手を抜くことさえするかもしれない! 本番のレースで勝って、世間にアピールすることが目的なんだッ!」

「……そこだよ」

 

 不意にゴールドシップは足を止めた。

 勢いよく振り返って、ジョニィに詰め寄る。

 

「『例え』ってなんだよ、『例え』って!? まるでアタシが負けるみたいな言い方するじゃねーか! 勝っても無駄だぞって言い方だけでいいんだよッ!」

 

 ゴールドシップはここまで貯め込んだ不満を爆発させるように捲し立てた。

 

「警戒してるのは『技術』だけで、アタシ自身の力は何とも思ってねーって部分も気に入らねーよ!!」

「ゴールドシップ。君はまだ成長途中なだけで……」

「あとさぁ、アレどう見てもアタシとアイツとの一対一の流れだったじゃん! 何で会長まで参加することになってんの!?」

 

 ――その勝負、私も参加させてもらおう。

 

 ホールでの一触即発の状況の中へ、シンボリルドルフの発言がスルリと入り込んでいた。

 シルバーバレットの目的からすれば、国内トップクラスのウマ娘の情報が手に入るのだから望むところである。

 不満げに喚き立てるゴールドシップをメジロマックイーンが宥めている間に、シンボリルドルフがシルバーバレットの着替えの為、連れ立って去っていく。

 結果、なし崩しに三人での勝負が決まってしまった。

 レース場の使用許可を得る為にメジロマックイーンもその場を去り、不満の収まりきらないゴールドシップは外へと飛び出したのだ。

 

「複数人でのレース形式にしたのは、少しでもこちらに有利にする為だ」

 

 ジョニィは諭すように、静かな口調で言い聞かせた。

 

「まともにやり合えば、シルバーバレットに有利な状況が出来上がってしまっているんだ。見ろ、雨のせいで地面が濡れて不安定だ。奴は『SBR』の経験で、不整地での走りに慣れている」

「……会長が加わったところで、何か変わるのかよ?」

「逆に奴は『正規のコースを複数人で走るレース』という形式からしばらく離れていた。その違和感が隙になるかもしれない。何より、一対一で『目の前の相手にだけ集中すればいい』という状況は避けたい。『自分と相手以外の誰かに差されるかもしれない』という第三者のプレッシャーが必要なんだ」

 

 そこまで話して、ジョニィは大きく息を吸い込んだ。

 

「だが、そこまでしても――」

 

 そして、あえて可能性を匂わせず、意を決して残酷なまでにハッキリと断言した。

 

「君はシルバーバレットには勝てないッ!」

 

 

 

「言いにくいけど予言させてもらう。このレースで君に勝ち目はない――!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

To be continued……

 

 




意外とトレーナーに対する愛が重いゴールドシップ説、あると思います。
次回、ゴルシ死す! デュエルスタンバイ!!(CV.上田瞳)



・おまけ

SBR版ウマ娘『ヘイ・ヤー』
ジョージア州の牧場でポコロコと一緒にのんびり暮らしていたウマ娘。
一度もレースに出た経験がない素人だが、とてつもない強運の持ち主であり、その運でレースを乗り切った。
3着でゴールし、受け取った賞金を持って故郷に帰り、裕福になったこと以外は何も変わらないのんびりとした生活に戻った。
世間はポコロコが彼女の幸運にあやかるだけの男だと非難しているが、ヘイ・ヤーにとって自分の幸運は彼と一緒に面白おかしく暮らす為にあるのだと思っている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#3「ドミネイト・ザ・ワールド」

主役のゴールドシップが唯一無二のクセの強いキャラなんで、他のキャラのストーリーはあえてあまり見ないようにしてます。
アグネスタキオンとか見ちゃったら、違う話書きたくなっちゃうからね。
なので、前評判とかよく知らないウマ娘の育成を優先的にやってました。
今回はナイスネイチャ。
……知らなかったんだ、こんなに恋愛要素のストレートなキャラだったなんて!
ヤバイ。この娘……絶対俺のことが好きだ! しかも噂の温泉イベを今回初めて当てちゃった。あ、あ、やめて畳みかけてこないで! 助けてゴルシ! 俺、この娘のこと好きになっちゃう!(完凸した桐生院サポカを試しに使ってみたらこっちも直前で温泉イベがあった件について。このでけぇ水族館が…)


「――クソッ! ジョニィのヤツ、イラつくぜェー!」

 

 ゴールドシップはチンピラのように苛立ちながら制服を脱ぎ捨てた。

 そして、丁寧に折り畳んでロッカーの中に仕舞った。

 

「……言葉とは裏腹に、物には当たりませんのね」

「自分の服なんだから当たり前だろ! 着れなくなったら困るじゃねーか、チキショーめー!」

「冷静なのか怒ってるのか分かりませんわ」

 

 更衣室へゴールドシップの様子を見に来たメジロマックイーンはため息を吐いた。

 少し安心したような、疲れたような気分になる。

 学園のホールで見たゴールドシップは、普段の様子とは明らかに違っていた。

 あそこまで本気で怒り、他人に対して敵意を剥き出しにする姿は初めて見た。

 心配だった。

 彼女の駆られる激情は、これから始まるレースだけではなく、もっと根本的に彼女の心身に影響を及ぼすような気がする。

 

「珍しいですわね、アナタがそこまで他人に苛立つなんて」

「キレてないっすよ? アタシ、キレさせたら大したモンですよ? それはそれとして、あのシルバーバレットってヤツはちょームカつくんですけどぉ。そいつに『勝てない』なんて断言しやがったジョニィは更にムカつくんだよ!」

 

 ――あの時、ジョニィはゴールドシップに向けて告げた。

 このレースでシルバーバレットに勝つことは出来ない、と。

 

『シルバーバレットが自他共に認める歴戦のウマ娘だとか、君がデビュー戦以外まだ経験したことのないルーキーだとか、君の『弱点』だとか……そういう話ではなく』

『でも……つまり、なんと言うか……君は奴に届き得るものを持っているはずなんだ。『技術面』でも『闘争面』でも、君は今の段階でもシルバーバレットに迫れるはずだった……』

 

 言葉を濁しているわけではない。

 しかし、何処か自分を納得させようと言葉を探っているジョニィの様子に、ゴールドシップは苛立ちを覚えた。

 何が言いたいんだ? ハッキリと言え。

 勝ち目がないと言ったのはアンタだ。

 アタシの力を信じるのか、信じないのか。ハッキリと言え――!

 そう詰め寄るゴールドシップに、ジョニィは酷薄な表情で答えた。

 

『ハッキリ言ってるじゃないか! 君はシルバーバレットには勝てない! 僕には分かるんだ。あのシンボリルドルフにも勝てない……経験で分かる』

 

 その冷たい返答は、ゴールドシップにとってショックだった。

 普段は他人の言動や周囲からの評価を気にしないマイペースな彼女を、彼の静かな宣告は生まれて初めて大きく動揺させた。

 思わず言葉を失うゴールドシップに対して、ジョニィは容赦なく続けた。

 

『君にとってレースとは駆け引きや競り合いを楽しむものであり、勝利は気分を良くするものだ。君はその『前向きさ』と自由な生き方で培われた『能力』でレースに参加している』

『そして、今回初めて君が『僕を侮辱された』という正当な怒りを抱いてレースに挑むという状況も理解している。それは、本当にありがたいことだと思う……』

 

 言葉とは裏腹に、ジョニィの声色は感情を排した厳しいものだった。

 

『でも、それは君が自分以外の誰かから『受け継いだ』動機だ。君はレースに臨む意義や意欲を『受け継いで走るウマ娘』だ!』

『それに対してシルバーバレットは違う! 奴は生まれた時から成功が約束されていた。周囲から与えられるものを黙って受け継いでいれば、実績や名誉を手に入れることが出来た。なのに、奴は『奪う』ことを選んだ! 勝利も栄光も、自らの意思と渇望の上で奪い取ってきたウマ娘だ!』

 

 あの『SBR』という過酷なレースで、華々しい栄誉とは程遠い泥のような競り合いを互いに繰り広げた。

 

『シルバーバレットは『飢えた者』 君は『受け継いだ者』 どちらが『良い』とか『悪い』とか言ってるんじゃあない! その差が、このレースで今の君が持ち得る全ての可能性を引き出した上で奴に迫る、最後の一瞬に出る! その差は君の勝利を奪い、君を喰い潰すぞッ!』

 

 極限の状況で渡り合った敵への理解から来る結論――その重みは、ゴールドシップの反論を詰まらせた。

 結局、それ以上ジョニィの言葉を聞くことが耐えられず、背を向けて走り去った。

 彼は、まだ何かを言おうとしたのだろうか。

 だが、今更レースをやめるわけにはいかない。

 

「ジョニィのヤツゥ……アタシが腹の満たされた子犬のように闘争心を失った根性なしだとぉ~」

「そんなことを言われたのですか?」

「言われてねーよ!」

「えぇ……?」

 

 八つ当たりでメジロマックイーンを困惑させながらも、ゴールドシップ自身、動揺を治められないでいた。

 ジョニィの忠告の意図が読めずにイライラしていた。

 勝利への渇望もなく、ただ楽しむ為にレースに臨む自分の姿勢を非難されたのか?

 そういう受け取り方も出来る。

 だが、そうではない。

 そうではないと思いたい。

 彼は、まだ何かを言おうとしていたと思う。

 今の自分ではシルバーバレットには勝てない、とは言った。

 しかし、永遠に勝ち目がないとは言わなかった。絶対に敵わない相手だとは。

 ジョニィが自分にこの先期待しているもの、望んでいるものが、あの言葉の後に続いたのかもしれない。

 

「けどよォ~、我慢出来なくなるには十分なんだよ! トレーナーが『お前の力を信じない』なんて、繊細なウマ娘の乙女心を超傷つけること言いやがって!」

 

 運動着に着替え終えたゴールドシップは、怒りと戦意を漲らせながら、敵の待つレース場へと踏み出した。

 

「オマエが見出した『黄金のような走り』ってヤツを、もう一度目に焼き付けてやるからなぁ! 覚悟しとけよ、ジョニィ!!」

 

 

 

 

 

 

 ゴールドシップが居る所とは別の更衣室に、シンボリルドルフとシルバーバレットの二人は来ていた。

 

「ほら、これを使うといい」

「新品か。気前がいいな」

「そこまで高価なものではないさ」

 

 ビニールでパッケージされた学園指定の運動着をシルバーバレットに放り渡した。

 受け取ったそれを広げて、興味深そうに眺める。

 

「なかなかいいデザインだ。記念に貰ってもいいか?」

「……好きにしろ」

 

 シルバーバレットの言葉が、本心からの茶目っ気なのか、それともこちらを単にからかっているのか分からなかった。

 無視して着替えを始める。

 

(どんな形であれ、レースはレースだ。わざと負けるつもりはない)

 

 シンボリルドルフは、シルバーバレットの本当の目的が情報収集にあることに気付いていた。

 あの場では言葉こそ交わさなかったが、ジョニィもそれに気付いている。

 その上で、彼の意図を察し、自分もレースに参加した。

 

(有利不利の状況は、これで少しはバランスが取れるはずだ。だが、ゴールドシップを勝たせる為かというと、それは違う)

 

 自分には、自分なりの目的と矜持がある。

 一人のウマ娘として、自分以外の誰かに勝ちを譲るつもりで走る気はないし、二人掛かりで相手を潰すつもりもない。

 いつものように、勝つつもりでレースは走る。

 その上で、今後の為にやるべきことをやるという冷静な打算も存在した。

 

(シルバーバレットがこちらのデータを奪うというなら、こちらも彼女の能力がどれほどのものなのか分析させてもらう。おそらく、彼女との関わりは、このレースだけでは終わらない)

 

 シンボリルドルフは、そう直感していた。

 日本にやって来た理由が、ジョニィへの宣戦布告やゴールドシップの能力分析だけとは思えないのだ。

 彼女のトレーナーであるディエゴが合流した後、『URAファイナルズ』が開催されるまでの長い期間の内に、日本で何かしらの行動を起こすつもりだろう。

 そして、おそらくその行動の内の何処かで自分はシルバーバレットと本当の意味で争うことになる。

 そういう推察と、半ば確信めいた予感があった。

 

(すまないな、ゴールドシップ。これは、君だけの戦いではない――)

 

 今から始まるレースは、ある意味三つ巴となるだろう。

 観客はなく、公式にも記録が残ることはない、互いの思惑と意地が交差し合うレースだ。

 生徒の味方をする会長としてではなく、レースに臨む一人のウマ娘としての冷徹な意識に切り替えたシンボリルドルフは、ロッカーの扉を閉じた。

 元から着慣れた運動着だ、時間など掛からない。

 シルバーバレットよりも自分の方が早く着替えを終えたのは、事前に計算していたことだ。

 

(少々姑息だが、肉体の外観からも情報は収集出来る。こんなものは駆け引きとも言えないが、遠慮をする相手でもない)

 

 既に戦いは始まっている。

 先に着替えを終えたシンボリルドルフは、自然な仕草でシルバーバレットの方に観察の為の視線を向けた。

 

「――ッ!?」

 

 そして、思わず息を呑んだ。

 服を脱ぎ、半裸となったシルバーバレットの身体には夥しい数の傷跡があった。

 一番目立つのが、右肩だ。

 おそらく何かで擦った、いや削ったと表現してもいいような、皮膚の引き攣った傷跡が広がっていた。

 粗いコンクリートの壁やアスファルトの地面で肉を擦った時の傷が、このような感じになる。

 左の脇腹の傷跡も目を惹いた。

 こちらは範囲は狭いが、縫合の跡が分かる傷だった。

 何かが刺さった跡のようだ。

 刃のような鋭利なものではない。木の枝のような太く、表面の粗い物が刺さった跡だ。

 思わず、上から下まで全身を観察して、左脚に視線を落とした時シンボリルドルフは背筋に冷たいものが伝うのを感じた。

 左脚の大腿部に、長い縫合の跡があった。

 切り傷のように見える。しかも、縫合する必要があった程の傷だ。

 あと少し深ければ、筋肉の機能に影響が出ていたかもしれない――そんな恐れを抱かせる傷が刻まれていたのだ。

 選手生命はもちろん、後の生き方まで左右される、ウマ娘として最も恐怖を感じる傷跡だった。

 そして、それら以外にも幾つもの小さな傷跡が、シルバーバレットの身体には刻まれていた。

 本来ならば、美術品のように整えられているはずの肉体が、多くの傷跡で彩られている。

 シンボリルドルフは、そこに痛々しさよりも戦慄を感じた。

 

「君ほどのウマ娘が……」

 

 動揺を悟られないように押し殺した声が、僅かにこぼれ出た。

 古傷と言えるほど時間の経ったものではない。

 治ってはいるが、ごく最近ついた新しい傷ばかりだ。

 何処で負ったものか、それは分かり切っていた。

 全て、あの『SBR』レースで負ったものに間違いはなかった。

 

 ――こんな傷を負うような経験をする必要が、何処にあった?

 

 元々、シルバーバレットというウマ娘の成功は、既に約束されていたはずだった。

 優れた血統に生まれ、環境にも恵まれ、実際にそこで育まれた能力と経験は彼女に常勝をもたらした。

 栄光への道は舗装され、敵も障害もない。

 芝とダートのレースを走っていれば、いずれ彼女は何の憂いもなく頂点に立つことが出来ただろう。

 

 ――そんな彼女が、何故『SBR』などという危険なレースに参加したのか?

 

 その意味を、もっと深く考えるべきだったのかもしれない。

 何処かで彼女を、自分と似た存在だと考えていた。

 才能と環境に恵まれたからこそ勝利を義務付けられ、どんな形であれ、それに応える為に走るウマ娘だと。

 だが、違う。

 目の前の存在は、自分とは決定的に違う道を歩んでいる。

 シンボリルドルフは得体の知れない畏怖を、初めてシルバーバレットから感じていた。

 

「さて、待たせたな」

 

 気が付けば、シルバーバレットは着替えを終えていた。

 シンボリルドルフの視線や意図に気付いていたのか、それともいないのか、その表情からは分からない。

 

「行くとしようか」

 

 初めて対面した時から、常に崩れぬ余裕の笑み。

 傲慢とも取れる絶対の自信。

 

「……ああ」

 

 その瞳を見る。

 

(気をつけろ、ゴールドシップ……)

 

 世界を制したと評され、敗北を知らぬ常勝の実力を備えながら、なお頂点を目指して『飢えた』その瞳を。

 

(こいつは、強い――!)

 

 

 

 

 

 

 勝負の場となるレース場にいるのは、実際に走るゴールドシップ達3人に加えて、ジョニィとメジロマックイーンだけだった。

 ホールで彼女らのやりとりを見ていた生徒達は、誰もこの場には来ていない。

 シンボリルドルフが、生徒会長としての権限を使って近づかせないようにしたのだ。

 

「今回使用するコースは『ダート』 距離は『2000m』となりますわ」

 

 完全なる第三者として審判の役割も担うことになったメジロマックイーンが、3人に向かって説明する。

 彼女ならば、例え身内が相手でも公平な判断をするという信頼を受けてのものだった。

 

「ダートか……構わないのか?」

 

 シルバーバレットが、シンボリルドルフに対して訊ねた。

 学園が備えるダートコースは本物のレース場と変わらない、水捌けの良い砂を使っている。

 とはいえ、つい先ほどまで降っていた雨の影響で地面は乾ききらないほどの水分を含んでいた。

 湿って固まった砂の感触は、泥に近い。

 不安定な足場はシルバーバレットにとって有利だ。

 

「私は構わない」

 

 シンボリルドルフは短く答えた。

 敵にとって有利となり、自らにとって不利となるコースを選んだのは全く打算的なものだった。

 シルバーバレットにとって情報収集が第一の目的となるならば、わざわざ重要な情報を渡す必要はない。

 今回の走りで彼女が知ることが出来るのは『不利な状況で走った相手の情報』だけだ。逆に、こちらは『実力を活かせる状況で走った場合の能力』を知ることが出来る。

 2000mはゴールドシップがデビュー戦で経験した距離だ。

 レース経験の差というハンデを抱える彼女には、僅かながら不利を消す要素となる。

 これが、今のシンボリルドルフに出来る精一杯の援護だった。

 そして、おそらくシルバーバレットはこれらの意図を察しているのだろう。

 お互いの思惑を読み切った上で言及しない、不文律のようなものが二人には成立していた。

 

「そうか。気を遣わせてしまったようで申し訳ない。せめて、私が勝っても『足場が悪かった』という言い訳くらいは通してやろう」

「はぁー!? 何でこっち見るんですか!? 何でゴルシちゃんの方見ながら言ったんですかぁー!?」

「ゴールドシップさん!」

 

 シルバーバレットに掴みかかろうとするゴールドシップを、メジロマックイーンが諫めた。

 ジョニィは先ほどから、ずっと無言のままだ。

 その表情から、何を考えているのか内心を読み取ることは出来ない。

 ゴールドシップの方も、そんなジョニィからあえて視線を外しているように見える。

 

(冷たい方、なのかしら……?)

 

 シルバーバレットへの敵意を大げさに見せてはいるが、ゴールドシップがこの場の誰よりも純粋にこのレースへ臨もうとしていることは、メジロマックイーンにも分かった。

 打算や策謀など挟まない、愚直なほど真っすぐな勝利へ向かう意思を感じる。

 やはり、初めて見るゴールドシップの姿だった。

 そんな彼女に、あろうことか『勝ち目はない』と伝え、それ以上何も言わないジョニィがこのレースに何を見出しているのか。

 メジロマックイーンは酷く気になりながらも、今この場でそれを口にすることは出来なかった。

 いずれにせよ、この勝負の結末を見届けなくては何も分からない。

 

「それでは各バ、ゲートに入ってください」

 

 本番をシミュレートする為に、コースには本物さながらのゲートが用意されている。

 シルバーバレットを挟むようにして、3人は隣り合うゲートへと入っていった。

 その途端、シンボリルドルフとゴールドシップを得体の知れない重圧が襲った。

 すぐ隣のゲートに怪物が入っているかのように錯覚する威圧感。

 それはレースに臨む時のシルバーバレットが放つプレッシャーに他ならない。

 並のウマ娘ならば、走ることも忘れて立ち竦むしかない威圧の中、しかし左右の2人は眉一つ動かさなかった。

 

「――ほう。少なくとも、この私の隣に立つ資格はあるようだ」

 

 シンボリルドルフとゴールドシップは一笑に伏した。

 

「コケ脅しをする暇があるならレースに集中することだ。中央を無礼(なめ)るなよ」

「アタシが動揺するのは、隣のゲートにウ〇コが落ちている時くらいだぜ」

「こらっ、ゴールドシップ。汚い言葉を使うんじゃない。折角、中央の学園に在籍出来る生徒は皆すごいんだぞ、というアピールをしたのに」

「いいんだよ、コイツなんかもうウ〇コみたいなモンだ」

「ゴールドシップさん、始めますわよ!」

 

 騒がしいやりとりを交す二人の間でシルバーバレットが面白そうに笑いをこらえる中、メジロマックイーンの注意が飛ぶ。

 今度こそ、レースの開始を前にした本当の緊迫感が3人の間に走った。

 自然と軽口は閉ざされ、周囲は静まり返る。

 お互いがお互いの放つプレッシャーに呑まれてはいない。

 これが公式のレースではないことが惜しまれるような、勝負の行方の見えない緊張感を抱きながら、メジロマックイーンは隣にいるジョニィへ目で問い掛けた。

 無言で返された頷きが、答えとなる。

 ゲート開閉の遠隔リモコンを頭上に掲げ、ハッキリと見えるようにスイッチへ指を掛ける。

 メジロマックイーンは大きく息を吸い、声を張り上げた。

 

「――スタート!」

 

 合図と同時にスイッチが押し込まれ、ゲートが解放された。

 3人が飛び出したのは、ほとんど同時だった。

 誰も出遅れなど起こさない。

 歴戦のウマ娘であるシルバーバレットとシンボリルドルフはもちろん、ゴールドシップも2人に対して全く劣ることのない完璧なスタートを切ってみせた。

 水を含んで泥のようになったダートを蹴散らし、3人が最初の直線を走る。

 

「……やっぱり、こういう形になったか」

 

 レース場に着いて以来、ジョニィは初めて言葉を発した。

 その呟きを聞き取ったメジロマックイーンが、改めてレースの進行状況を観察する。

 先頭を走るのはシルバーバレット。

 そのすぐ後ろにゴールドシップ。

 少し距離を置いて、シンボリルドルフが最後尾を走っている。

 シンボリルドルフが後ろを走っているのはスピードで劣っているからではなく、間違いなく作戦だった。

 オーソドックスではあるが、序盤は後方に控えて脚を溜め、後半で差すつもりなのだろう。

 同時に、シルバーバレットの走りを観察する意図も含んだ上での位置取りだった。

 先頭を走るシルバーバレットがそういう逃げの作戦なのか、あるいは本気で走っているのかは、メジロマックイーンには分からなかった。

 彼女の全力の走りを理解しているのは、恐らくジョニィだけなのだ。

 そして、それに追従するゴールドシップは――。

 

「ジョースターさん……これは、拙いのではないですか?」

 

 思わず、メジロマックイーンはジョニィに問い掛けていた。

 ゴールドシップの走りには『逃げ』や『差し』といった作戦はなく、ただ目の前を走るシルバーバレットを追っているだけのように見える。

 真後ろにピタリと張り付くような位置取りも、それを裏付けているような気がした。

 水気を含んだ地面は靴底に張り付き、地面を蹴ると同時に後方へ飛び散る。

 すぐ後ろを走るゴールドシップは、胸や肩にそれを受けて、服を汚していった。

 汚れるだけならば、まだいい。

 高速で走る中降りかかる土や泥は、少量であっても反射的に脚を竦ませる。

 些細なことではあるが、精神的にも肉体的にも良いことはない。

 シンボリルドルフが距離を取っているのは、そういった影響を避ける為でもあるのだ。

 ゴールドシップの位置取りは悪手としか思えなかった。

 やはり、シルバーバレットにこだわる余り、冷静な判断が出来ていないのではないか。

 

「いいや、位置は問題ない。あの『位置』がスゴクいいッ! あの『位置』がベスト!」

 

 ジョニィは力強く断言した。

 

「そ、そうなのですか?」

「ゴールドシップが知っててやってるのか不明だけど、あれは『風圧シールド走法』だ。前走バの向かい風の死角に尾けて風圧による疲労と速度低下を避け、脚力を温存する作戦だ」

「理屈では分かりますが、死角となる位置を維持するには相手とかなり接近しなければなりません。脚同士の接触事故さえ起こり得ます! 危険ですわ!」

「確かにリスクはある。だが、ベテランの走りに追従するという判断は経験の差を埋めるという点でも正解だ。3人という少人数だからこそ、接触のリスクを大きく減らせる。元より、リスクで怯むような奴じゃあない!」

 

 メジロマックイーンは、その言葉からゴールドシップへの理解と信頼を感じ取った。

 同時に、彼女の走りが抱える危険性をジョニィが案じていることも察することが出来た。

 彼の顔には、緊張感から来る汗が滲んでいる。

 

「……だが、これは『観客の見ているレース』じゃないし、相手は『シルバーバレット』だ! 気を付けろ、ゴールドシップ! 仕掛けてくるぞッ!」

 

 いつの間にか、ジョニィは手に汗を握り締め、前のめりの焦燥感に突き動かされるまま叫んでいた。

 かつて、彼女の走りを初めて見た時のように。

 

 

 

 

 

 

(まさか、この私をシールドに使うとはな――)

 

 背後にピッタリとくっついたまま離れないゴールドシップの気配を感じながら、シルバーバレットは面白そうに笑った。

 先頭を走る者が後方に対して『追いつけない』という焦りを与えるように、後方を走る者は先頭の者に『追い抜かれるかもしれない』という恐怖を与える。

 全く引き離されることなく追従するゴールドシップのプレッシャーは凄まじいものだった。

 並のウマ娘ならば、その重圧に耐えきれずに動揺し、ペースを崩してしまう。

 レースの終盤、ゴールを目の前にして背後にある気配が爆発し、次の瞬間自分を貫いて飛び出していくのではないかとさえ錯覚するだろう。

 しかし、シルバーバレットにはレース全体の状況を観察する余裕すらあった。

 

(その若さにして走力も判断力も、加えて度胸も申し分なし。だが、あのジョニィ・ジョースターをトレーナーとするウマ娘が持つ『一番の脅威』を、こいつはまだ見せていない)

 

 最初のコーナーを曲がり、再び直線に入る。

 気配を絶ったかのように静かなシンボリルドルフにも気を配りつつ、シルバーバレットはゴールドシップに意識を集中した。

 

(お前はあの『技術』を持っているのか? いないのか? 温存しているというのなら、少しばかり揺さぶりを掛けてやろう)

 

 走る最中、一瞬だけ姿勢を低く沈める。

 その変化にゴールドシップが気付いた時には、既に遅かった。

 

(あの『SBR』の道無き道に比べれば、ここのダートはまるで整えられた絨毯の上を走るようだなァ――!)

 

 シルバーバレットが、地を這うような前傾姿勢の状態で加速した。

 それに反応するよりも早く、背後のゴールドシップの顔面を土と泥が襲った。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 背後からわずかに上がる呻き声を聞いて、事が成功したのを確認する。

 加速をする為深く踏み込んだついでに、意図して地面を蹴り上げ、後方へ『つぶて』のように巻き上げてよこしたのだ。

 傍から見れば、それが狙って行われた妨害行為なのか単なる事故なのか、酷く判断が難しい動きだった。

 可能性があれば審議されただろう公共のレースではあり得ない、伝統のイギリスレース界の外にあるラフプレーだ。

 張り付くように背後を陣取って走っていたゴールドシップには避けようがなかった。

 動揺で集中力を切らされ、眼に土や泥が入れば視界を塞がれた状態になる。

 そんな状態で、まともに走れるわけがない。

 顔の泥を拭い、一度切れてしまったレースへの集中力は精神的に立て直すだけでも大きなロスだ。

 場合によっては脚さえ止まってしまうだろう。

 ――普通ならば。

 

(――何ッ!?)

 

 だが、止まらなかった。

 背後から迫る気配は、一瞬たりとも遠ざかることはなかった。

 思わず視線を走らせたシルバーバレットは、却って自らが動揺させられることになった。

 ゴールドシップは全く怯むことなく走っていた。

 顔面を土と泥で汚しながらも、それを拭う仕草さえ見せない。

 眼の中に泥が入っても瞬きすらせずに見開き、口に入った砂利を噛み締めながら息を吐き、鬼気迫る表情で眼前の背中を睨みながら走り続けていた。

 

「止まると思うなよ……」

 

 口を動かすとガリガリと不快な感触がする。

 視界は不鮮明な上に激痛が走る。

 しかし、それでも彼女の内側で燃え上がる炎は揺るがない。

 前へ踏み出せという意思の炎は。

 

「これしきのことでよォォォーーーッ!!」

 

 泥と汗の混じったものが、高温を発する肉体の表面で蒸発し、白い湯気となって立ち昇っていた。

 それを纏いながら、ゴールドシップは最後のコーナーを曲がり切る。

 そして、最後の直線。

 ここまで敵の背後に甘んじてきた鬱憤を晴らすかのように、ゴールドシップは脚力を爆発させた。

 泥にまみれながら充血した眼で迫る姿は、かつてない強大なプレッシャーとして目の前を走る者を圧し潰そうとする。

 

「――なるほど。お前を過小評価していたようだ、ゴールドシップ」

 

 しかし、前を走るのはシルバーバレットだった。

 世界を制したがゆえに『世 界(ザ・ワールド)』と呼ばれるウマ娘だった。

 

「だがッ! 無駄だッ!」

 

 シルバーバレットの瞳の奥で『漆黒の炎』が燃え上がる。

 

「無駄無駄無駄ァ!!」

「何!?」

 

 追い抜こうとするゴールドシップを突き放すように、シルバーバレットが加速した。

 ここに至るまでの走りとは明らかに違う、彼女の『本気』だった。

 

「マヌケが……知るがいい! 『世 界(ザ・ワールド)』の真の力は、まさに『世界を制する』力だということをッ!!」

 

 その加速は一時的なトップスピードを発揮するだけのような甘いものではなかった。

 限界が無いかのように『加速し続けて』いる。

 あらゆるウマ娘の常識を覆すような、信じられないほど鋭く伸びる末脚だった。

 

「バカな! 単純な脚力の差じゃねーだろ、コレ……ッ!?」

 

 徐々に引き離されていく背中を、ゴールドシップは信じられない気持ちで睨みつけることしか出来なかった。

 確かに凄まじい末脚だが、何故こうも容易く差が開いていくのか。

 走る速度以外にも違いがあるとしか思えなかった。

 ジョニィの言っていた『不整地を走ることに慣れている』という意味はこのことなのか。

 しかし、理屈が分からない。

 水に濡れて踏み込みが効きにくいダートの上を走っているのは、全員同じだ。

 地面に点在する硬さと柔らかさが異なった領域同士を繋ぐ、幾つもの『ライン』――。

 その中でも最速で有利に走れるベストの『ライン』を、シルバーバレットは優れた感覚と経験で見極めながら走っているというのか?

 彼女には分からなかった。

 

 ――『君はシルバーバレットには勝てないッ!』

 

「うっせーぞ、ジョニィ! 黙ってアタシを信じねぇか!」

 

 もはや策も力も出し尽くした。

 スピードは上がらない。

 差も縮まらない。

 むしろ、離されていく。

 精神的な動揺をきっかけに乱れた呼吸が、スタミナの消耗と共に更に荒れていく。

 必死に走り続けるゴールドシップの視界に、ゴール付近で待つジョニィの姿が映った。

 彼は叫んでいた。

 自分と同じように必死で叫んでいた。

 何をそんなに必死になるというのか。

 この結末を予想したのは、彼自身だったのに。

 

「クッソォォォーーーッ!!」

 

 心がグチャグチャになる。

 ただ手足だけは死ぬ気で動かした。

 だが、そんな行為はゴールを目前にして『追いつけない』と絶望したウマ娘が皆やるようなことだ。

 足掻くゴールドシップの傍らを、実体のない影のようなものが音もなく走り過ぎていく。

 

「やはり来たか、シンボリルドルフッ!」

 

 ゴールドシップに代わってシルバーバレットに迫るのは、それまで気配を消し、焦りを殺し、限界まで溜めていた『皇帝』の末脚だった。

 応える言葉は無く、ただ冷静に、氷の刃のように鋭く差し迫る。

 純粋な身体能力だけでは説明出来ないスピードは、彼女もまたシルバーバレットのような『ライン』が見えている証拠だった。

 ゴールの直前、シルバーバレットとシンボリルドルフの差が限界まで縮まった。

 審判を担当するメジロマックイーンの眼でさえ、その差は見極められない。

 ほとんど同時に、人の形をした2つの弾丸がゴールを飛んで過ぎていった。

 

 ――レースは終わった。

 

 ゴールドシップがそこを通ったのは、5バ身ほど離された後のことだった。

 

 

 

 

 

「レースの結果は……申し訳ありません。わたくしの眼では判断出来ませんでしたわ。お二人は、ほとんど同時にゴールしたように見えました」

 

 メジロマックイーンは、シルバーバレットとシンボリルドルフに乾いたタオルを手渡しながら告げた。

 さすがに写真判定用カメラなどの設備は備えていない。

 肉眼で見る限り、2人がゴールする瞬間はハナ差すらなかったように見えた。

 違う位置から見ていたジョニィにも正確な判定は下せない。

 ハッキリとしているのは、ゴールドシップが3着だったことだけだ。

 

「なるほど。ならば、この勝負は私の負けということにしておこうか」

 

 軽くかいた汗を拭いながら、シルバーバレットが事も無げに告げた。

 

「こちらの有利な条件で、ほぼ同着だったのだ。とても胸を張って自分の勝利だなどと誇れんな」

「……そうか。では、私も1着は辞退させてもらおう。明確な勝利を刻めなかった、自らへの戒めとして」

「好きにするといい」

 

 牽制し合うように言葉を交わすと、2人はあっさりと勝敗に関する議論を放棄した。

 お互い、そこに意義を見出してもいなければ、こだわりも持っていない。

 このレースが持つ意味を表も裏も知っている。

 本当の決着は、いずれ別の機会に果たされることになるだろう。

 

「……ゴールドシップさん」

 

 2人とは離れた位置で座り込むゴールドシップの傍に、メジロマックイーンはそっと歩み寄った。

 汗だくの顔を俯かせて、肩を大きく上下させながら息を整えようとしている。

 ゴールして以来、一言も口にすることはなかった。

 ジョニィの方を見るどころか、顔すら向けようとしない。

 メジロマックイーンは、黙ってタオルを頭に被せ、彼女の今の表情が誰にも見えないようにした。

 

「ゴールドシップ、君は……」

 

 ジョニィが何かを言いかけながら近づく。

 しかし、上手く言葉が紡げなかった。

 苦悶の表情を浮かべ、レースの時から握り締めたままの拳を震わせながら、なんとか言うべきことを形にしようとする。

 

「いや……僕は……」

「――『言い訳』は、通じないぜ。ジョニィ・ジョースター」

 

 不意に、全く予想もしない方向から、この場の誰のものでもない声が割り込んだ。

 学園の生徒が近づかないように指示したはずのレース場に、いつの間に居たのか、1人の男が佇んでいた。

 その存在に気付いたジョニィとシルバーバレットが、互いに全く正反対の反応を見せる。

 

「お前は……Dio!」

「来たか、我がトレーナー!」

 

 ジョニィが完全なる敵意をもって睨みつけ、シルバーバレットが嬉しげに両手を広げて迎え入れる。

 ディエゴ・ブランドー――シルバーバレットのトレーナーにして、彼女の伝説を築いた立役者が、そこにいた。

 初めて対面するメジロマックイーンとシンボリルドルフは、僅かに身構えた。

 テレビの画面越しに彼の顔や言動は知っていたが、直に出会ってその人柄や性格といったものを感じ取ることが出来た。

 整った顔に浮かぶ不遜な表情や態度。その瞳に奥に暗く燃える野心や野望といったものが、彼の全身から滲み出ているようだった。

 ジョニィが嫌うのも無理はない。

 合わない人間にはとことん嫌われるタイプだろう。

 シルバーバレットによく似た、色で表現するならば『黒い気配』を纏った男だった。

 何処か危険な『匂い』のする男だ――ウマ娘である2人は本能的にそう感じ、忌避感を抱いた。

 

「私のレースを見ていたのか?」

 

 そんな周囲の反応を尻目に、シルバーバレットはディエゴの傍へ寄り添うように歩み寄った。

 

「ああ、見ていたよ。シルバーバレット、お前の勝ちだ」

「そうか。君がそう言うのなら『そういうこと』にしておこう。『どうでもいいこと』だ、ここでのレースなど」

「ああ、完全に理解した。もう、この学園に用はない。さっさと帰るとしよう」

「分かった。必要なことは、後で話すとしよう」

 

 2人だけで言葉を交わし、ジョニィ達からあっさりと背を向ける。

 つい先ほどまで行われていたレースの緊張やその余韻すら残っていないかのように。

 ディエゴとシルバーバレットは、この場から立ち去ろうとしていた。

 

「――待てッ、Dio!」

 

 それを呼び止めたのはジョニィだった。

 ディエゴが足を止めて、振り返った。

 

「何だ? オレに何か言いたいことがあるのか? ジョニィ・ジョースター。『言い訳』は聞かないと言ったぜ。お前らが……負けた『言い訳』はな」

 

 車椅子に座るジョニィを自然と見下しながら、ディエゴは吐き捨てるように言った。

 取るに足らないものを見る眼だった。

 

「改めて、再認識したよ。お前らはオレ達の敵じゃあない。ただ目障りなだけだ。本当の決着をつけたいというのなら、世間が納得する完全な形でつけてやるさ。面倒だけどな。オレを呼び止めたのが『敗北宣言』なら、聞いてやるぜ」

 

 あまりに傲慢が過ぎる発言に、メジロマックイーンとシンボリルドルフも眉を顰めた。

 しかし、ジョニィは黙って睨みつけたまま、ゴールドシップに至っては何の反応も見せない。

 ディエゴは、そんな2人の様子を一瞥すると、鼻で笑って再び背を向けた。

 

「言いたいことがないんなら、オレはもう行くぜ。暇じゃあないんだ、スターはな。この日本で、色々とやることがあるんだ」

「……そうだな。大したことが、言えるわけじゃないんだ」

 

 ディエゴの背に向けて、ジョニィは言った。

 

「結局、僕が君に負けたのはどうしようもない事実だからな。今、この場で言えるのは本当に大したことじゃない……ただ、どうしても一つ、宣言しておきたいことがあるんだ」

 

 ディエゴとシルバーバレットの背が遠ざかっていく。

 2人に向けて、ジョニィは短く、しかしハッキリと告げた。

 

「――君達は、僕とゴールドシップが倒す」

 

 それは、ジョニィが初めて見せた、今後のレースに向けての明確な意思表示だった。

 彼の瞳には、決意と覚悟の炎が燃えていた。

 ディエゴは一瞬だけ足を止め、そしてすぐに歩みを再開した。

 そのまま振り返ることもなく、2人は学園を去っていった。

 

 

 

 

 

 

「ゴールドシップは、未だジョニィ・ジョースターからスローダンサーのような『技術』を教わってはいない。まず、間違いないだろう」

 

 学園を後にしたシルバーバレットは、迎えの車の中でディエゴに収集した情報を伝えていた。

 

「隠している様子でもなかった。今回のレースで見た、あれが彼女の現在の全力なのだろう」

「現在の……含む言い方をするじゃあないか」

「秘めた素質は素晴らしい。これは素直な称賛だ」

 

 学園でのレースを思い出しながら、シルバーバレットは楽しげに笑った。

 

「彼女ならば、ジョニィ・ジョースターの指導の下でなくとも、この私に届き得る才能を持っていると判断する。そこに、あの『技術』が加われば、いずれ本当に我々の前に立ちはだかる障害となるかもな」

「へえ、そうかい。だが、その『いずれ』ってのはいつの話だ?」

 

 ディエゴは興味などないといった様子で切り捨てた。

 

「3年後か? 5年後か? 奴らが必死こいてトレーニングを積み重ね、健気に実績を稼いでいって、お前に届き得る存在になったとしても、もうその頃にオレ達は同じ舞台に立っちゃいない。そんな格下を、相手にしなくちゃいけない立場にはな」

「ああ、そうだな。奴らが今からあの『技術』を身に着ける準備を始めたとしても、それが脅威となるのはずっと先のことだろう」

「フン、そもそもオレは脅威だなんて思っちゃいない。油断するのはバカのやることだから、警戒を払っているだけだ。シルバーバレット、お前に勝てるウマ娘など存在しない」

 

 シルバーバレットに顔を寄せて、ディエゴは囁いた。

 

「いいか、あんな奴ら相手にするだけ時間の無駄なんだ。オレ達は勝ち続けて『社会の頂点』に立つ。どいつもこいつも、オレ達の下につけてやるんだ!」

「分かっているとも。我々が頂点に立つ。私は誰にも負けない」

 

 シルバーバレットは嬉しそうに微笑みながら、ディエゴの瞳を見つめ返した。

 巨大な富と権力を手に入れ、栄光を掴み、賞賛に囲まれながらも尚止まらない飢えた獣のような瞳を。

 

「ジョニィ・ジョースター。お前らが先を行くオレ達に追い縋りたいというのなら……好きにすればいいさ。オレ達がとっくに通り過ぎた道の『足跡』くらいは追わせてやる――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

To be continued……

 

 




ゴールドシップはボーボボみたいな理不尽ギャグの権化で、周りを振り回してばかりで、たまに痛い目見て、でもいざという時にはシリアスもこなして、ヤバイ状況でも何とかなるような安心感をくれる名脇役だと思います。
でもなぁ、オレはお前が主役のスポ根が見たいんだよゴルシィ……!


・おまけ

SBR版ウマ娘『スローダンサー』
才能なし・実績なし・将来性なしの三重苦を背負ってすっかりいじけてしまった陰キャソバカス年増のウマ娘(メカクレか野暮ったい眼鏡か悩む)
『SBR』のスタート地点で彷徨っていた所をジョニィに(金で)誘われ、キレて半殺しにする。
しかし、一晩中付きまとわれ、恥も外聞もなく縋りつかれて最終的に彼の頼みを受け入れ、レースに参加することになる。
その後、何度も死にそうな目に遭いながらも、ジョニィと共にジャイロやヴァルキリーから多くを学ぶことで限界を越えて成長し、最終的に2着という栄光を手にする。
レース後は都会の有名なウマ娘育成機関の講師に就任することに成功した。
ジョニィの世話をしながらその後の人生を送るつもりでいたが、傷心の彼を想って密かに国内から送り出す手助けをした。
でも、未だにジョニィには未練たらたら。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#4「スタンド・アップ・トゥ」

今回、話の都合上日本のレースの話が出てきますが、私個人はウマ娘をやっているだけで競馬の知識は『銀と金』で外れ馬券が万札に見えた森田のことくらいしか知らないです。
レースの固有名詞が描写されないのは、その辺の知識不足のせいです。
『作中の時系列や流れ的に、このレースは〇〇(レース名)にした方がいい』という指摘がありましたら、是非教えてください。


 ――貴方は『絶対に負けたくない』とは言ったけれど『優勝したい』とか『勝ちたい』とは言わなかったわ。

 ――考えておいて欲しいの。ゴールを抜けた先で、貴方がどんな人生を思い描いているか。

 ――貴方の言う『ゼロ』から先の未来で、どんなことをしたいのか。どんなものを見たいのか。

 ――それがなければ、例え貴方の脚が動いたとしても納得のいく道を進めるとは思えないわ。

 

 

 

 ……今でも、僕の中で完全な答えは出ていない。

 僕が『SBR』に参加したのは、完全に僕個人の理由だった。

 優勝して黄金のトロフィーや勝利の栄光をこの手に掴みたいだとか、そんなことは少しも考えていなかった。

 ゴールの先に輝かしい成功の未来が待っているなんて思っていなかったんだ。

 ただ、僕はゴールを通り抜けた時、その後に続く道を自分の脚で歩いていけたらよかったんだ。

 少なくとも、僕はそれを望んでいた。

 最初のスタートラインを踏み出した時は――。

 

 太平洋のサンディエゴから始まったレースは、100日以上の長い期間を経て大西洋のマンハッタン島で終結しようとしていた。

 第8ステージのゴールは、そのまま最終ステージのスタートとなり、選手はそれぞれ待機しているボートでニューヨーク州ブルックリン地区コニー・アイランドまで渡ることになる。

 1位から着順ごとに15秒間隔で各ウマ娘がスタートし、約13kmの市街地を走るのが『SBR』レース最後の第9ステージだ。

 ポイント制のレースにも関わらず、この終盤で他の選手を大きく引き離す単独1位のウマ娘はいなかった。

 優勝圏内にいるのは4名――僕のスローダンサーもその内に入っていた。

 

『なあ……!』

 

 アッパー湾を渡るボートの中で僕は苛立っていた。

 ボートが出る順番は、第8ステージのゴールの着順だ。

 僕達は第8ステージを5位で入着してしまった。

 

『なあってばッ! もっとスピード上げれないのかッ! 遅いぞッ!』

 

 冷静に考えて、ボートが着いた後のスタート順はもう決まっているんだ。ここで前のボートを追い越しても何の意味もない。

 焦っていたんだ。

 あの時の僕は、何かに急き立てられているようだった。

 胸を掻き毟りたくなるような気分だった。

 

『まさか、お前Dioから妨害の為のワイロを貰ってるんじゃないだろうな!?』

『ジョニィ! こっち……こっちに来て。落ち着くのよ』

 

 スローダンサーがいなければ、僕はボートの船員にもっととんでもない暴言を吐いていただろう。船を降ろされていたかも……。

 彼女は僕を抱えて、誰もいない甲板の隅へと連れて行った。

 

『離してくれッ! この程度の距離なら君の手伝いは要らない……要らないんだ! 例え脚が動かなくったって、この程度! クソッ!』

 

 気持ちの整理がついていなかった。

 第8ステージで、ジャイロが死んだんだ。

 表向きは『事故』ということになっている。しかし、実際にはもっと事態は複雑だった。

 これだけ大きなレースだ。多くの参加者がいる中で、様々な国籍のウマ娘や人間が関わり、そこには国家だとか組織といった個人を越えた勢力の思惑も絡んでいる。

 つまり、誰かが誰かを勝たせたくて、その為にレースの外から『妨害』という手段に出る奴らもいたって話だ。

 詳しい事情は分からない。

 多分、機密だとかそういう世間に公表出来ない部分が多くあるのだろう。

 確かなのは……第8ステージの終盤で僕達は大規模な『妨害』に巻き込まれた。

 僕達だけじゃない、レースの先頭集団だった多くのウマ娘やトレーナーが巻き込まれた。

 複数の勢力が入り混じった、巻き込み事故みたいな混沌とした状況だ。

 ジャイロはその中でヴァルキリーを……そして、結果的に僕とスローダンサーを庇って、致命傷を負った。

 僕自身も怪我を負ったが、重傷ではなかった。ジャイロのおかげだ。

 ジャイロは、死んだ。

 ヴァルキリーは、走ることを止めた。

 僕とスローダンサーは……レースを、続けることにした。

 

『……どうして、僕を担いで走ったんだ』

 

 スローダンサーは怪我をした僕を背負って、第8ステージを走り抜いた。

 結果、彼女は『5位』になった。

 そして……Dioとシルバーバレットは『1位』で第8ステージをゴールし、リードしていたポイントを逆転されてしまった。

 

『君1人で走れば、きっと1位でゴールに滑り込めたはずだ。Dioの優勝の可能性を潰すことが出来た』

『怪我をした貴方を放ってはおけなかった』

『放っておけばよかったんだ、僕のことなんて! トレーナーがいなくてもウマ娘は走れる! ルール上、何の問題もない!』

『走れないわッ!』

 

 スローダンサーは、僕の胸倉を掴み上げて怒鳴りつけた。

 思えば、出会って以来僕は彼女を怒らせてばかりいた気がする。

 

『トレーナーが信じなければ、ウマ娘は走れない。お願い、自棄にならないで。ゴールするって決めたんでしょう?』

 

 ……何故、僕はレースを続けようと思ったのだろう?

 スローダンサーは、元々僕がレースに参加する為に頼み込んだウマ娘だ。

 もちろん、彼女にも報酬はある。走り切れば、賞金と栄光が手に入る。

 だけど、彼女が最初に走り始めたのは僕の願いの為だ。

 そして多分、最後まで走ってくれるのも同じ理由だった。

 僕の願い……。

 このレースで得ようとしたもの……。

 結局、僕の脚は動かなかった。

 可能性を知るジャイロも失ってしまった。

 僕は未来だけじゃない、大切な友も失ってしまったんだ。

 本当に手にしたかったものは、ゴールの先には存在しない……なのに、何故?

 それを考えようとすると、今でも頭の中にレースの記憶が幾つも思い浮かんで、答えの形が薄れていく。

 自分の脚で歩けるようになりたかった。

 ジャイロを失いたくなかった。

 Dioに負けたくなかった。

 4人でもっと旅を続けたかった。

 僕は――。

 

『第9ステージはおよそ30分で決着がつく市街戦。最後のコースでは、貴方達トレーナーが介入する余地はないわ。ウマ娘だけの戦いになる。やれることをやりましょう、今の内に』

『ああ……そうだな。その通りだ。地図を出してくれ。ルートを、考えないと……それから』

『……ジョニィ。貴方は――』

 

 今でも、僕の中で完全な答えは出ていない。

 あの時彼女が言った、ゴールの先で思い描くものについては……。

 

 

 

 レースの結果は、知っての通りだ。

 スローダンサーは、シルバーバレットに負けた。

 世間は『2位』の彼女を称賛した。

 そのトレーナーである僕を喝采した。

 この『SBR』レースを完走した者達を等しく称えた。

 多くの参加者が、多くのものを得ただろう。上位の者ほど、より多くのものを――。

 

 僕は何を得たのだろう?

 レースを終えて、ジャイロやヴァルキリー、スローダンサーとさえ別れて独りになった時に残ったのは、途方もない喪失感以外には『敗北した』という強い思いだけだった。

 僕は、勝ちたかったのだろうか?

 少なくとも、僕はスローダンサーがシルバーバレットに敗北する姿なんて、絶対に見たくはなかったんだ。

 自分の信じたウマ娘が、打ちのめされる姿なんて……。

 

 

 

 今、僕は再びレースに出ようとしている。

 敗北して逃げた先で出会ったゴールドシップと共に、あのDioとシルバーバレットのコンビに挑もうとしている。

 あの時の答えを出す為に――。

 

 

 

 

 

 

 ディエゴ・ブランドーとシルバーバレットが学園を訪れたあの日から1週間が経過していた。

 3人で行った模擬レースの状況こそ部外者には知られていなかったが、学園のホールで世界的に有名なウマ娘と一触即発の状況になったこと、その後実際に3人がレースで激突した事実は生徒達の間で広く知れ渡っていた。

 情報が錯綜しているとはいえ、騒ぎが学園内で収まっているのは僥倖と言っていいだろう。

 無責任に外部に漏らす者や、噂を聞きつけてデマを広める悪質な記者などもいない。

 ディエゴ達が話題作りに自ら情報を広めることもなかった。

 

「――しかし、やはり彼らが日本に来た目的は別にあったな」

 

 学園の生徒会室。

 本来ならば関係する役員以外入れない場所で、シンボリルドルフとジョニィは顔を突き合わせて、タブレットに表示された1つの情報に視線を落としていた。

 あの日の騒動の当事者として、定期的に話し合う機会を設けている。

 この事態には、信頼出来る例外として生徒会役員のエアグルーヴだけが関わっていた。

 

「つい先日の記者会見です。シルバーバレットを同伴させて、ディエゴ・ブランドーが大々的に発表しました」

 

 エアグルーヴが今朝の記事の一面を見せた。

 

「半年ほど日本に滞在し、その期間でレースに参加する。しかも、1つや2つではない。10回のレースに参加して全て勝利する、と」

「僕も日本のレースに関してはこの学園に就任する際に勉強したけど、どれも有名なレースばかりじゃないか?」

「その通りだ……その通りです」

「いや、敬語はいいよ。エアグルーヴ……僕って苦手に思われてる?」

「そうじゃない。『ジョースター』という苗字が苦手なだけだ」

「どういうこと?」

「とにかく、話を続けるぞ」

 

 咳払いをするエアグルーヴと傍らで苦笑を浮かべるシンボリルドルフ。

 2人を不思議そうに一度見回して、ジョニィは話の本筋に集中することにした。

 

「これは様々な面で問題発言だった。記者会見後の反響は凄まじい。マスコミはこぞって好き勝手に書いているな」

「実質、日本のウマ娘に対する宣戦布告だからね。分かりやすく盛り上がるだろう」

 

 しかも、その発言をしたのが3か月前に『SBR』で優勝し、今でも話題になり続けているウマ娘とそのトレーナーなのだ。

 ジョニィ・ジョースターとの因縁が記憶に新しく、2年後の『URAファイナルズ』まで繋ぐ話題を探す必要すらない火種が向こうから飛び込んできた。

 日本のレース業界は、今や最高潮の盛り上がりを見せている。

 良くも悪くもだが。

 

「いくら話題性が高まるとはいえ、こんな発言では批判も多いだろう」

「ネットでの反応は半々といったところです」

 

 僅かに眉を顰めるシンボリルドルフに対して、エアグルーヴは収集した情報を答えた。

 2人とも国内では相応の実績を持つ、日本の代表格とも言えるウマ娘だ。

 だからこそ、学園を管理する生徒会の地位に就いている。

 ディエゴとシルバーバレットの宣言は、2人の立場からしても今後に大きく関わりのあることだった。

 

「シルバーバレットには『SBR』を優勝した以前に、イギリスでの実績もありますからね。国内にもファンは多かったようです」

「Dioは日本がアウェーであることを理解している。敵を作ることは、きっと承知の上での発言さ」

「となると、やはり目的は2年後の『URAファイナルズ』に向けての地固めか……」

「多分ね。アメリカやイギリスと比べると、日本は純粋なファンの力が強いと思うよ。国家や一部の上流階級よりもレースへ与える影響が大きい」

 

 外国人としての視点で、ジョニィが答えた。

 ウマ娘がレースで勝てば、当然ファンがつく。

 ファンが増えれば国内の人気が高まり、そのウマ娘の参加するレースは注目され、盛況になる。

 そして、やはりファンというものは自分の応援するウマ娘の勝利を望んでレースを見に来るのだ。

 ただ強いだけでは、ただ勝つだけでは、歓迎されない。

 ファンの多いウマ娘を負かすことで、勝ったウマ娘がかえってブーイングを受ける場合もある。

 そういった面で見れば、外国のウマ娘が日本のレースで勝つことは純粋な結果以上に難しい問題だった。

 

「あえて過激な発言で注目を集め、レースに勝つことで日本での地位を固めるつもりか。最初は批判も多いだろうが、短期間で10回も勝てば世間の認識も変わる。返す手のひらも多くなるだろう」

 

 エアグルーヴが苦々しげに呟いた。

 無謀で愚かな発言だと一笑に伏すには、シルバーバレットの刻んだ伝説は大きすぎた。

 

「日本のレースの規約的にはどうなんだい。外国のウマ娘がこんなに好き勝手に参加出来るものなのか?」

「複雑なところではある」

 

 ジョニィの質問にはエアグルーヴが答えた。

 

「実際に、過去グラスワンダーなど一部の海外出身のウマ娘が国内固有のレースへの参加を却下された事例がある。しかし、その後ファンの運動で無事参加出来ることになった」

「つまり、業界の決定を曲げてしまった前例があるのか」

「そういうことだ。ファンの力が強いというのは、確かな話だな。特に現在、『SBR』の影響によってグローバル化という名の規則の形骸化が起こりつつある。シルバーバレットの参戦は歓迎されるだろう。ファンにもアンチにもな」

「勝利も敗北も望まれている。Dioの挑発に、まんまと乗った形になるわけだ」

「日本のウマ娘は世界にも負けない、とマスコミは美辞麗句で煽り立てるだろう。参加を拒否すれば日本のレース業界は逃げ腰、実質奴らの不戦勝だ。完全に扇動されてるよ、やり口がまるで政治家だ!」

「実際、Dioの奴はトレーナーを辞めたら政治家を目指すと思うよ」

 

 悪態を吐くエアグルーヴに、ジョニィが淡々と返した。

 ディエゴ・ブランドーという男の本質を理解している。

 彼は天性の才能があったからこそトレーナーになった。

 しかし、それはあくまで社会の頂点に上り詰める為の手段の一つに過ぎないのだ。

 

「事前に日本で自らの存在をアピールし、一定のファンを獲得しておく。下地を作った上で2年後の大会に臨み、優勝を掴むことで日本国内での地位を確固たるものにする――これが彼らの計画の概要というわけだな」

 

 それまで黙って情報を整理していたシンボリルドルフが、簡潔な形で話を纏めた。

 

「半年で十連覇――勝つと思うか? シルバーバレットは」

 

 エアグルーヴは、あえてシンボリルドルフではなくジョニィに訊ねた。

 ディエゴの計画が現実のものならば、日本の主立ったウマ娘は全員彼らのターゲットだ。

 いずれ自分達もシルバーバレットと争うことになるだろう。

 敬愛するシンボリルドルフ本人にその予想を直接聞くのは、ほんの僅かだが恐ろしかったのだ。

 会長は負けない。

 自分も負けるつもりはない。

 しかし、相手は『世 界(ザ・ワールド)』と呼ばれたウマ娘だ。

 シルバーバレットを相手にするということは、まさに世界を相手にすることと同義なのだ。

 その強大な敵と渡り合い、今なお敵視されているジョニィの意見を聞きたかった。

 

「過去、Dioとシルバーバレットはイギリスで短期間での十連覇を成し遂げている」

 

 ジョニィは私的な見解を避けて、過去の実績から答えた。

 

「ああ、それについては調べてある。ディエゴ・ブランドーとシルバーバレットがトレーナー契約を結んだ年だ。イギリスの主立ったレースを制覇した上で、最後は王族の観戦するレースで優勝し、コンビとしての知名度を世界的にも広めた」

「当時からシルバーバレットは勝って当たり前のウマ娘だった。だけど、短い間隔でのレースはどんなウマ娘でも疲弊させる。最初は無謀な挑戦だと言われてたよ。Dioの話題作りに天才が潰される、とね」

「実際に無謀だと思う。月に1、2回のレース間隔は過密なスケジュールだ。次のレースに向けての十分な休息も調整も挟む暇がない」

「だからこそ、トレーナーのケアや管理能力が重要になる。トレーナーが必要ないとまで言われたシルバーバレットの傍にいてDioの名が霞まないのは、それだけの能力を示したからだよ」

「ならば、今回もやってのけるか……」

「目的の為ならどんなものでも利用する! それがDioという男だ。シルバーバレットの溢れる才能を限界まで使って、今の地位を築き上げたんだ」

「……含む言い方だな。まるで、奴がシルバーバレットを利用しているように聞こえるぞ」

 

 エアグルーヴの指摘に、ジョニィは黙り込んだ。

 私見を避けたつもりでも、どうしても個人的な感情が入り混じってしまう。

 彼の人生にとって、ディエゴ・ブランドーという男はそれほどの割合を占める存在だった。

 特に、今は――。

 

「ディエゴ・ブランドーの情報は私も調べた。実績は素晴らしいが、黒い噂も多くある。例えば、彼が20歳の時財産を手に入れる為に83歳の老婦人と結婚した」

「……」

「その老婦人は半年後に死んだ。彼が殺したかもしれない、という噂だ。だが、そんな真偽不明の噂と実際の奴の能力に何の関係がある?」

「まあ、待ってくれ。エアグルーヴ」

 

 シンボリルドルフが穏やかに制した。

 

「彼が言いたいのは、おそらく別のことだ。あのコンビの強さに関することだろう?」

「……ああ、そうだ」

「だったら、教えてくれないか。メジロマックイーンから聞いたよ。君はゴールドシップにも『勝てない』と断言したらしいが、何を根拠としてのものなんだ?」

 

 シルバーバレットとは模擬レースではなく、本物の舞台で争うことになる――シンボリルドルフはもはや確信していた。

 来るべきその時に備えて、彼らと渡り合ったジョニィの話はどんな些細なものでも参考になる

 エアグルーヴも黙って注目する中、ジョニィは意を決したように小さく息を吐いた。

 

「シルバーバレットというウマ娘については、実力以外で語れることは少ない。彼女が何を考えてDioの傍にいるのかも分からない。ただ、彼女はDioによく似ていて、それを前提に僕の感じたことを語らせてもらう」

 

 本来ならば、ゴールドシップに対して言おうとしたこと――そして、結局言えずにいたことを話し始めた。

 

「この日本は豊かな国だ。君達2人も含めて、この学園に在籍するウマ娘達は才能にも環境にも恵まれた者が多い。育まれた環境が、君達にレースへの『意義』や『意欲』を与えてきた」

 

「それに対して、あの2人は違う。奴らはあの地位に至るまで、あらゆるものを奪い取ってきた」

 

「特にDioはそうだ。下層階級で生まれた彼は、トレーナーとしての技術も地位も食べ物さえも奪い取って生きて来た」

 

「Dioは生まれた時から、運命までも『奪い取って』来た人間! 奴らは勝ち続けてなお『飢えて』いる! だからこそ、『強い』ッ!」

 

 ジョニィの語る内容を、静かに聞き入れるシンボリルドルフと、納得のいかない表情を浮かべるエアグルーヴ。

 

「……つまり、貴様はこう言いたいのか? 我々日本のウマ娘は、ぬるま湯に浸かった惰弱さ故に負けると」

「『飢えなきゃ』勝てない。ただし、あんなDioなんかより、もっともっと気高く『飢え』なくては――」

 

 ジョニィの言葉には、単なる精神論だと決めつけることの出来ない説得力があった。

 世界を相手に渡り合った者としての重みがあった。

 エアグルーヴがそれ以上何も反論出来ずに神妙に黙り込む中、シンボリルドルフが代わりに口を開く。

 

「君の言いたいことは分かった。文字通り住む世界が違うからこそ、我々の常識では計り知れないものがあの2人にはあるのだろう。それに対する警告として真摯に受け止めさせてもらう」

「ああ。具体的な話じゃなくて申し訳ないが……」

「いや、とても参考になった。ただ、だからこそ聞いておきたい」

 

 ここまで気を張り詰めていたシンボリルドルフは、少し表情を和らげて訊ねた。

 

「何故、ゴールドシップにそのことを話さなかったんだ?」

「む……」

「君は彼女に『勝てない』と断言するだけだった。具体的な根拠を教えれば勝てるというわけでもないだろうが、私にはあえて君がそれを話さなかったように思えてね」

「……鋭いな、君は」

 

 ジョニィは困ったように頬を掻いた。

 

「『飢える』ことがDioに勝つことに繋がると僕は思っていた……少なくとも、『SBR』の最中では」

 

 観念したかのように、語るつもりのなかった話の続きを口にする。

 

「ただ一つのことを渇望し、どんな犠牲を払ってでも目的を達成する『漆黒の意思』こそが勝利に繋がると信じて、僕はあのレースを走り抜いた。それは間違いないと思う。今でも、そう思う」

 

 ――だが、あの日。

 

「見たんだ、僕は。ゴールドシップの走りに黄金のような輝きを見た」

 

 彼女は、あの日初めて出会ったジョニィ・ジョースターという男の為に走った。

 浜辺で何の目的もなく座り込んでいた、彼女の言う『暇そうな奴』に見せる為に、自分を限界に追い込むような無茶苦茶なやり方でゴールまで走ってみせた。

 

「彼女はあの時、勝利に飢えていたか? 何かを捨てて走っていたか? ――違う。逆だ。彼女は背負わなくてもいい、僕の苦悩を背負って走り抜いた」

 

 ――君はレースに臨む意義や意欲を『受け継いで走るウマ娘』だ!

 

 あれは本心から出た、真実の言葉だった。

 その走り方が他の走り方と比べて劣っているなど少しも思っていない。

 彼女の走りには『気高さ』と『尊さ』があった。

 

「僕は、そんなゴールドシップの持つ『黄金の精神』に魅せられた。彼女の黄金のような走りに賭けてみたい」

 

 そう言い切るジョニィの表情を見て、シンボリルドルフは満足げに笑い、エアグルーヴは呆れたようにため息を吐いた。

 

「……何だそれは。単なる惚気か? 結局、貴様はシルバーバレットに勝つ為にどうしろと言いたいんだ?」

「ゴールドシップには『飢える』ことを学んで欲しい。だけど、それに囚われて欲しくない。少しずつ成長して、そうすれば最後に勝つのは彼女のような『受け継いで走るウマ娘』だ。僕は、彼女自身の走りが勝つところが見たいんだ」

「やはり、惚気ではないか。我々が勝つ為の参考にはならんぞ、このたわけっ!」

 

 エアグルーヴの一喝に、ジョニィが肩を竦める。

 シンボリルドルフは、堪えきれないとばかりに押し殺した笑い声を漏らした。

 

「なるほど、よく分かったよ。君は本当に、ゴールドシップに期待しているんだな」

「……期待を掛けるだけで、何も行動に移せていないけどね」

 

 あのレースから1週間、ジョニィは一度もゴールドシップと顔を合わせていなかった。

 様子を窺う限り、彼女は授業にすらまともに出ていないらしい。

 ジョニィは敗北から学べばいいと思っていた。

 無理をせず事実を受け止め、今は3着に甘んじても少しずつ成長すれば、いずれシルバーバレットに勝てる、と。

 しかし、あの敗北が彼女に与えたショックは、思っていた以上に大きなものだった。

 

「あの敗北にショックを受けたのは彼女だけではない。君もそうだ」

「……そうかな?」

「そうだ。君自身、自覚していないフリをしているだけだ」

 

 シンボリルドルフの指摘に、ジョニィは黙り込むことしか出来なかった。

 

「だからといって、担当するウマ娘のケアもしないというのは、トレーナーとしての怠慢以外の何物でもないと思うな。甘えてはいけない」

 

 何処か面白そうに叱責するシンボリルドルフに対して、やはりジョニィは何一つ反論出来ずに沈黙するしかなかった。

 

 

 

 

 

 

「――あら、1週間も経つのに思ったよりも荒れてませんわね」

 

 ゴールドシップの部屋を訪れたメジロマックイーンは、室内を見回して少し感心した。

 学園の寮は基本的に2人分のルームシェアである。

 しかし、偶然なのか謎の多い彼女に何か謎のめぐり合わせがあるのか、ゴールドシップにシェアする相手はおらず、1人あぶれていた。

 1人しかいない部屋の主が機能不全を起こせば、環境は荒れていく。

 メジロマックイーンは、床に散らばった服やタオルを集め始めた。

 

「ちゃんと洗濯はしてあるようですね」

 

 洗濯して乾燥させた段階で力尽きたのだろう。

 皺くちゃの洗濯物を抱えて、空いている方のベッドへ腰かける。

 自分の持ってきた荷物を傍らに置くと、黙って畳み始めた。

 

「……マックイーン、止めても無駄だぜ」

 

 部屋の主は、自分のベッドで布団に挟まり、放置されて萎びたハンバーガーの具のようになっていた。

 

「アタシはゴルゴル星に帰ることにした。もう地球にはいられないんだ」

「あら、そうなのですか」

 

 メジロマックイーンは、萎びたハンバーガーの世迷言をあっさりと聞き流した。

 

「ウ〇コ野郎に負けた。アタシは日本のウマ娘の恥さらしだ」

「汚い言葉を使うのはやめなさい」

「アタシはウマ娘ではなかった。ゴルゴル星からやって来た宇宙人がウマ娘に擬態していたんだ。レースに勝てない似非ウマ娘なんだ……」

「世界のエースを相手に接戦をしたルーキーが、随分と自惚れた落ち込み方をされますのね」

「キビシー」

「負けたのなら、勝てるように努力すればいいのです。アナタはここで終わるようなウマ娘ではありませんわ」

「無理だ。イヤだ。アタシはもう誰にも勝てねー……レースなんて出たくねー。何もかも忘れてチーズ蒸しパンになりてーよ」

「チーズ蒸しパンになったら、ティータイムのお茶請けにして差し上げます」

 

 普段とは勝手の違うスルーを続けられて、ゴルゴル星出身の宇宙人は喋らなくなった。

 シルバーバレットとのレースに敗北して1週間。

 メジロマックイーンは初めてゴールドシップの部屋を訪れたが、おそらく1週間ずっとこの調子だったのだろう。

 授業には顔を出さず、学園の各所で幽鬼のように彷徨う姿が度々目撃された証言だけが挙がっている。

 彼女の所業が今のところ学園で問題になっていないのは、普段の奇行が周囲に認知されているからだ。

 ずっと部屋に閉じ籠っていないだけマシなのかもしれないが、ゴールドシップがおそらく人生で初めてだろう挫折に打ちのめされていることは確かだった。

 ジョニィ・ジョースターがトレーナーとなってから、彼女の知らなかった一面が次々と明らかになる。

 メジロマックイーンは、その事実が嬉しいような悔しいような複雑な気分だった。

 

「それで、アナタはこのまま萎びたハンバーガーになっているのか、チーズ蒸しパンに生まれ変わるのか、どっちですの?」

 

 そう皮肉を投げ掛ける自分の声が思ったよりもずっと冷たいことに、口にした自分自身が驚いた。

 盛り上がった布団が怯えるように僅かに震えた気がした。

 

「……もうちょっとゴルシちゃんに優しくしてもバチは当たらないんでねーの?」

「今のアナタに必要なのは、優しく布団を掛け直してあげることよりも、剥ぎ取って尻を叩くことだと思うのですが」

「ふーん、じゃあやってみろよ」

「分かりました」

「え゛っ!? ちょっ待……イヤァァーーッ! やめてよして乱暴しないでっ、え゛ん゛ッ!!」

 

 メジロマックイーンは、事前に言った通りのことを実行した。

 

「ひでぇ……普段の奇人変人に振り回される可愛いマックちゃんは何処行っちゃったの?」

「奇人も変人もアナタのことですけどね。おはようございます、ゴールドシップさん」

「……おはよう」

 

 ようやく起き上がったゴールドシップは、ボサボサの髪を掻きながら恥ずかしそうに笑った。

 

「なんちゅーか……マジで恥ずかしいな。あんま顔見んなよ。目ヤニとかついてるかもしれないし」

「ずっと寝ていたわけではないのでしょう?」

「そりゃ1週間寝っぱなしじゃないけどさ、今もう昼過ぎだし」

「夜、走っていたのではないですか?」

「……見てたのかよ?」

「いいえ、勘です。でも、マヌケは見つかったようですわね」

「……どーにもやりづれーな。今のマックちゃんはよぉ」

 

 ベッドに座り直して、向かい合う形になったメジロマックイーンから気まずげに目を逸らす。

 しばらくの間、お互いに口を開かない沈黙が流れた。

 メジロマックイーンは目を逸らさず、黙ってゴールドシップが話を切り出すのを待っている。

 

「色々とな……らしくねーのは自覚して、考えてみたんだよ」

 

 やがて、ゴールドシップはポツリポツリと話し始めた。

 

「もうちっと脚が速ければとか、もうちっとスタミナがあればとか……なんか当たり前のことしか浮かんでこねーんだわ」

 

 型破りの自由人なゴルシ様が何の面白味もねーよな! と、茶化すように笑う。

 しかし、それを聞くメジロマックイーンは静かに微笑んで、話の先を促すだけだった。

 

「公式のレースをデビュー戦しか経験してねールーキーが何言ってんだって思うかもしれねーけどよ、壁にぶつかってると感じるワケ」

「世界最強の壁ですわね」

「不思議とな、今度こそアイツに勝ってやる!……って気分にはならねーんだ」

「……」

「ただ、絶対に負けたくない時に負けたって後悔がな……スゲーんだ。夢にまで見るんだよ」

「……ええ」

「変だよな。マックイーンとか見てるとさ、こういう時次のレースで勝つ為に色々奮い立つと思うんだ」

「わたくしは、そうですわね」

 

 メジロマックイーンは、自分自身を強調して答えた。

 

「負けた時の気分というのは、人によって違いますわ。あまり気にしないという人もいます」

「うん」

「そういう人が次も負けるかというと、そうでもありません。勝ったりもします」

「うん、そうだな」

「勝ちたいと思わないから次も勝てない、とか。そういうことは気にしなくていいと思いますわ」

「……そうかな?」

「特に、アナタはそれでいいと思います」

「へへっ、何だよそれ」

 

 いつの間にか俯いていた顔を上げて、ゴールドシップは少し笑った。

 

「ジョニィがな、レースの前にアタシは勝てないってハッキリ言ったんだよ」

 

 メジロマックイーンには既に一度話した内容を、改めて口にする。

 

「シルバーバレットは『飢えた者』でアタシは『受け継いだ者』、その差がゴール前の一瞬で出るってな。……言われた通りになったよ」

「それだけが原因だとは思いませんわ。実力や経験の差もあります」

「理屈では分かってる。でも、どうしても自分を納得させられねーんだ」

 

 ゴールドシップは固く拳を握り締めた。

 

「次に勝つ為にどうすればいいかじゃなくて、何で負けたのかを延々と考えちまうんだ」

「それは多分、アナタの走り方が否定されたからですわ」

「否定?」

 

 不意を突かれて、キョトンとした顔をする。

 1週間悩み続けていて、そんなことは考えたこともなかったといった顔だった。

 

「……そうなの?」

「いえ、わたくしにアナタの本当の気持ちなんて分かりませんわ。ただの推測です」

 

 子供のように純粋に訊ねてくるゴールドシップに対して、メジロマックイーンは苦笑しながら続けた。

 

「飢えた者が勝つ、というのは競技において一つの真理であるとは思います。実際に、わたくしもそう考えていますわ」

「うん、マックイーンがレース前にスイーツ断食するのもそれが理由だな」

「ジョースターさんの言葉とは大分重みが違うような気がしますが……まあいいですわ。とにかく、勝利に飢えることは力になると思います」

「……だから、アタシは負けたんだよな」

「あのレースで、自分が飢えていなかったと思いますの?」

「シルバーバレットに腹が立ったから勝負を挑んだんだ。アイツに負けたくないって思いだけが強かった」

 

 ゴールドシップは、あの時抱えていた複雑な感情を読み解くように独白した。

 

「1着でゴールしたいとか考えてなかったんだ。そうでなきゃ、会長にも負けてるのに悔しいって思わないのはおかしいだろ」

 

 3人で走って、3着だったレースだ。

 3人中最下位。

 しかし、順位に対して悔しいとか情けないとか思うことはなかった。

 ただひたすら、自分の前を走り続けたシルバーバレットと、その背中を見ることしか出来なかった自分が悔しくて嫌だった。

 

「デビュー戦でもそうだったんだ。結果的に1着は取れたけど、走ってる時はそんなこと考えてなかった」

「ええ、それはアナタの普段の走りを見ていれば分かります」

「そりゃ勝てなかったら悔しいさ。けどよ、それよりもアタシはレースで熱くなりてーから走ってるんだ。楽しいから走ってるんだ」

 

 それが間違いなく本心であるはずなのに、まるで世間では認められない価値観を口にしているかのように自信のない声が出てしまう。

 

「だから……そんな考えで走ってる奴が、絶対に負けたくない奴に負けたんなら……その考えが間違ってるってことになっちまうだろ」

 

 それが結論だった。

 1週間、喉元でつっかえていたものをようやく吐き出した気分だった。

 しかし、スッキリとした気持ちになんてならない。

 ただ自分の抱える問題の形と重さを、再認識しただけだった。

 その重さのせいで、走ることはもちろん立ち上がることさえ出来ない。

 

「アイツに……シルバーバレットに負けたくなかったんだ。アイツに勝てれば、アタシは――」

「何ですか?」

「うまく言えねーよ」

 

 シルバーバレットに勝ったら自由になれる――そう言うつもりだった。

 自由になって、そうしたら、また好きなように走ることが出来る。

 何の負い目もなく、レースを楽しむことが出来るようになる。

 そう言おうとしたのだ。

 しかし、それも本心ではないような気がした。

 そういう気持ちがあることも間違いではないが、それだけではないような気がした。

 ジョニィを侮辱された時に抱いた黒々とした感情と、そのジョニィに自分の勝利を信じてもらえなかった時の悔しさ。そして、実際に勝てなかった時の無力感。

 様々なものが身体の中を渦巻いて、全てを言葉という形で表すことが出来なかった。

 ゴール前で必死に叫んでいたジョニィが自分に向かって何を言っていたのか聞き取れなかったことが、あのレースで一番の心残りだった。

 

「結局、『飢えなきゃ勝てない』ってことなのかな……」

「そのことでしたら、わたくしは少し考え方が違いますわ」

「どう違うんだ?」

「もしかしたら、アナタに押し付けるような考えになってしまうかもしれませんが――」

 

 メジロマックイーンは少し言葉を探すように間を取り、

 

「わたくしは、ゴールドシップさんの走り方が好きですわ」

 

 そう答えて、微笑んだ。

 

「勝つ為に飢えることを学ぶのは必要かもしれません。けど、その考え方に囚われて欲しくはありませんわ。シルバーバレットに勝つことをゴールだと考えてほしくない。通過点だとでも思っていただければ良いと思います」

「……マックちゃん、スゲーこと言うね」

「そうですか?」

「本気でいけ好かない奴だけどさ、相手は世界のトップに立つウマ娘だぜ。そいつに勝つことを通過点にしろって、ルーキーに対する無茶ぶりの中でも最大級じゃねえか」

「あら、アナタの口から常識的な反論が出てくるなんて初めてですわね。それに、ルーキーはルーキーでもアナタは『ゴールドシップ』でしょう」

「いや……そりゃアタシは天下のゴルシちゃんだけどさ」

 

 そう言うゴールドシップの方が何処か自信が無さげで、メジロマックイーンの方が疑いのない自信を持って断言する。

 普段の2人とは真逆の構図が出来ていた。

 

「アナタが『負けたくはないけど勝ちたいとは思わない』と考えるのは、そういうことなんだと思いますわ」

「……」

「アナタにとって、シルバーバレットというウマ娘は越えるべき壁ではあるけれどライバルではないと思います。一度越えることさえ出来れば、アナタはもう彼女を気にしないでしょう。アナタの走り方はライバルを必要としないでしょうから」

「……マックイーンにもさ、ライバルっているだろ?」

「いますわね」

「他の奴にもさ、大抵いるんだ。アタシみたいに嫌いだから対抗するって関係じゃなくてさ、一緒にレースに出て競い合う、高め合う相手がさ」

「そうですわね。レースでそういう相手がいると、お互いに充実します」

「だからさ、ライバルを必要としない走り方って……悪いことなんじゃねーかなーって……」

「悪くありませんわ」

 

 メジロマックイーンは、ゴールドシップの躊躇いを切り捨てるように断言した。

 

「何も悪くありません」

 

 優しく笑いながら、ハッキリとした言葉で続ける。

 

「どんな主義主張や信念を持ち出そうが、レースの結果が出ればそれが全てですわ。納得のいくゴールが出来るかどうか――それが全てだと思います」

「……『納得』のいく、ゴール」

「負ければ『納得』がいきません。だから皆、勝ちにいくのだと思います。結局、そのことへのこだわりに個人で違いがあるだけなのだと思いますわ」

「……」

「だから、ゴールドシップさんは自分の走り方に後ろめたさなんか感じる必要はないのです。それを拭う為にシルバーバレットに勝たなければいけないというのなら、勝てばいい。そうして決着をつけた後にも、アナタのレースは続いていく」

 

 それが何でもないことなのだと言い聞かせるように、

 

「アナタの『良い』と思うように走ればいいのです」

 

 力強く告げた。

 

「改めて言いますけれど、わたくしはゴールドシップさんの走り方が好きですわ。本当に楽しそうで、何処までも自由で、ゴールを過ぎた後もそのまま宇宙まで走っていけそうで――」

 

 ――だから、その走り方を捨てない為に、シルバーバレットに勝ってください。

 

 その言葉を聞いて、ゴールドシップは眼を見開いた。

 押し付けるような考えになってしまうかもしれません、と。メジロマックイーンは言っていた。

 そうなのかもしれない。

 彼女の言葉を聞いて、頭と胸の奥で渦巻いていた混沌としたものが、不意に一つの方向へ向けて加速し始めたような気がした。

 ベッドから起き上がることすら億劫だった。まともにトレーニングをする気も起きず、衝動的に走り出したくなる焦りだけがあった。

 そんなゴチャゴチャした気分が綺麗さっぱり消え去って、視界が広がったように感じた。

 押し付けられたものじゃない。

 彼女は自分に走る理由を与えてくれたのだ。

 ジョニィの言う通り、自分は何処までも『受け継いで走るウマ娘』だった。

 そういう走り方が、好きなウマ娘だった。

 ゴールドシップは、今度こそしっかりと顔を上げて、メジロマックイーンの眼を真っすぐに見返した。

 

「これが、わたくしなりにアナタに言えることですわね」

 

 そして、きっと自分よりもアナタが話すべき相手がいる。

 メジロマックイーンの瞳は言外にそう伝えていた。

 

「……へっへっへ、さすがはマックイーンだな」

 

 ゴールドシップは、まず感謝の礼を口にしようと思った。

 しかし、無意識に普段のヘラヘラとした軽薄な笑顔と軽口が出てしまっていた。

 

「挫折した若者を諭し、導く偉大な先人! いよっ、さすが名門メジロ家を背負って立つ女!」

「真面目な話をしていましたのに、からかわないで下さい」

「スイーツを我慢する以外は何でも出来る女!」

「わたくし、『パクパクですわ』なんて言ったことありませんわ!」

 

 いつもの調子を取り戻したゴールドシップは、勢いよく立ち上がって、寝間着を脱ぎ捨てた。

 

「まったく、アタシとしたことが1週間も無駄にしちまったよ! 笹食ってる場合じゃねぇ!」

「ジョースターさんなら、今は生徒会室にいるそうですわよ」

 

 畳んだばかりの洗濯物からジャージを渡しながら、必要な情報を教える。

 

「マジでさすがだな、アタシのやりたいことまでお見通しかよ!」

「それと、何かお腹に入れておきなさい」

 

 ジャージを着終えたゴールドシップに、今度は荷物の中から栄養補給用のチューブゼリーを手渡す。

 それを受け取ったゴールドシップは、潤んだ瞳でメジロマックイーンを見つめた。

 

「優しい……優しいマックイーンおばあちゃん……ッ!」

「アナタの祖母になった覚えはありませんわ。というか、100歩譲ってもそこはお母さんじゃありません!? もうっ……早く行きなさい」

「……あのさ!」

「何ですか?」

「ホントにさ、助かったよ。色々話をしてくれてさ、アタシ1人じゃ答え出なかったと思うから……だから」

「はい」

「だ、だから……っ!」

 

 喉元まで言いたい言葉が出かかっているのに、つっかえて顔が熱くなる。

 しばらく頑張ってみたが、結局素直な気持ちを表に出すことは出来なかった。

 

「――今度、何か奢るわ! あ、100年後ヒマ!? 空いてたら宇宙行こーぜ!」

 

 メジロマックイーンにとって、ゴールドシップの普段の言動は振り回されるだけで理解不能だ。

 しかし、今回ばかりは言いたいことがよく分かった。

 照れ隠しに捲し立てる彼女を微笑ましく思いながら頷く。

 

「ええ、予定を空けておきますわ」

 

 そう言って、走り去る彼女を笑いながら見送った。

 

 

 

 

 

 

『うぉおおおおォォーーー!! どけどけどけェーーー!!』

 

 騒がしい雄叫びと足音が近づいてくるのに気付いて、ジョニィ達は一斉に生徒会室の扉へ視線を向けた。

 

『レーダー受信、レーダー受信。周囲ニ、トレーナー反応アリ。……レーダーが反応してるなら間違いねえ! この辺りにトレーナーがいるはずだ!!』

 

 騒音の発生源は、扉の前で立ち止まって何やら喚いている。

 エアグルーヴはその意味不明さに不審そうな表情を浮かべたが、シンボリルドルフはジョニィの方を見ながら苦笑を浮かべた。

 

「どうやら、君が迎えに行くよりも彼女の方が先に立ち直ったようだ」

「ああ。この後どうなるのか、何となく分かるよ。すまないけど、僕の車椅子は部屋の方へ戻しておいてくれ」

 

 訳知り顔で会話をする2人に訊ねようとして、エアグルーヴが扉から眼を離した瞬間、

 

「ゴルシちゃんとのコミュニケーション・パートの時間だ、コラァ!!」

 

 その扉が勢いよく蹴り開けられた。

 

「な……っ!?」

 

 開かれた扉から、ゴールドシップが飛び込んできた。

 比喩でも何でもなく、生徒会室に身体ごとダイヴしてきたのだ。

 その勢いのまま床を前転して、壁に盛大にぶつかることでようやく停止する。

 呆気に取られたエアグルーヴが気に掛ける余裕も咎める暇もなく、すぐさま立ち上がったゴールドシップがジョニィに駆け寄った。

 

「見つけたぜ、ジョニィ! ここで会ったが100年目! アタシと一緒に来てもらうぜぇ!」

「拒否権ある?」

「あるワケねーだろ、んなモン!」

「分かった。じゃあ、せめてその手に持ってる麻袋を使うのはやめてくれ……」

「トレーナー捕獲完了!」

「話を聞けェ! ゴールドシップッ!!」

 

 頭から被せられた巨大な麻袋によって、ジョニィの台詞の後半は飲み込まれていった。

 ここに至るまで思考停止していたエアグルーヴが、ようやく我に返る。

 

「ま、待て! ゴールドシップ、貴様どういうつもりだ!?」

「すまねぇな、アタシはこれから担当トレーナーとの絆レベルを上げるイベントをこなさなきゃいけねーんだ。悪いが、ジョニィは借りてくぜ。話があるなら明日にしてくれ!」

 

 ゴールドシップはジョニィを詰め込んだ麻袋を担ぎ上げながら、満面の笑顔で答えた。

 そして、面白そうに状況を見守るシンボリルドルフの方へも顔を向ける。

 

「そういうワケだ。構わねーよな、会長さん?」

「ああ、構わない。彼との話し合いは丁度終わったところだ」

「じゃ、アタシとジョニィは失礼させてもらうぜ!」

「……ゴールドシップ」

「なんだァ?」

「また君の元気な姿を見られて嬉しい。よくぞ、戻ってきた」

 

 その言葉に、ゴールドシップは不敵な笑みを返した。

 

「会長、次にレースをする時はアンタにも勝つぜ」

「ついでに扱えるほど、私の力は甘くはないぞ」

 

 お互いに一瞬だけ好戦的な視線を交した。

 

「――よっしゃ! それじゃあ、改めてあばよ!!」

「待たんか、貴様!」

 

 エアグルーヴの制止を振り切り、ゴールドシップはあっという間に生徒会室から走り去っていった。

 残されたのは、先ほどまでの騒動が嘘のような静寂と半壊した生徒会室の扉だけだった。

 突然の嵐が通り過ぎたかのような一幕だった。

 

「クソッ! 人ひとり担いで、なんて速さだ!」

「あの足腰の強さは天性のものだな。やはり、ゴールドシップは将来有望なルーキーだ」

「感心している場合ですか」

 

 エアグルーヴは疲れたようにため息を吐いた。

 

「会長は、あのゴールドシップを随分と眼に掛けておられるようですね」

「一緒に走ってみて、彼女の才能を肌で感じたよ。今回の敗北が彼女にどんな影響を与えるのか不安だったが……見事に復活してくれたようで何よりだ。彼女は強くなるぞ」

「私には素直に喜べません。奴が成長するということは、起こす問題の規模が大きくなることと同義なような気がします」

「はははっ、違いない!」

「笑い事ではありません」

 

 ぼやきながらも、何処か気が晴れたように明るく笑うシンボリルドルフの様子に安堵した。

 ディエゴ・ブランドーとシルバーバレットの関わる事柄を眼にする時は、常に気を張り詰めていたのだ。

 今回、それが初めて解れたような気がする。

 エアグルーヴにとって、ゴールドシップは得体の知れないルーキーという印象しかなかったが、シンボリルドルフはシルバーバレットに対抗する重要な存在だと考えているようだった。

 

「会長は、あのシルバーバレットを倒すのはゴールドシップだと考えているのですか?」

「……分からない」

 

 手元のタブレットに映る、シルバーバレットの過去の記事に視線を落としながら答えた。

 

「ただ、あのシルバーバレットというウマ娘を単純な実力だけで測るのは危険だと思うよ」

「どういうことでしょうか?」

「ジョースター君が言った通りだ。数字やグラフで表現出来るデータ以上の何かを隠し持っている……そんな気がする。私でも理解の及ばない何かが」

「……会長が誰かに劣っているとは、私には思えません」

「劣っているとか優れているとかの問題ではないんだ。理解が及ばないことが問題なんだ」

 

 自分と似ていると思ったウマ娘。

 生まれつき勝利することを義務付けられてきた存在。

 シンボリルドルフ自身は、自らの歩む道に迷いはなく、後悔もしていない。

 掲げる理想とその責任の重さを、当然のこととして背負ってきた。

 むしろ、その重みが地に足のつく確かな実感を、理想が歩む道の正当さを証明してくれているように感じていた。

 そして、同時にそれ以外の生き方を想像するのも難しかった。

 もし胸に抱く理想もなく、成すべきことの為に使われない自らの才能を持て余していたら、自分はどんな生き方をしていただろうか?

 想像出来ない。

 ただ意味もなく強いだけの生き方など、孤独と虚しさしか感じない。

 

 ――『生まれは同じ』だったはずだ。

 ――しかし、何処かで道を違えた。

 ――何かの『出来事』あるいは『出会い』をきっかけにして、シルバーバレットはシンボリルドルフとは全く違う人生の指針を見つけた。

 

 そんな価値観の違う道を、シルバーバレットは歩いている。

 自分と同じ才能と環境に恵まれながら、その力を自分の為だけに使って生きている。

 そこに満たされる意義はあるのか。

 際限のない渇望の先にゴールは定めているのか。

 彼女が、自らの進む道の先に何を見ているのか――。

 

「私は、もう少し彼女を知る必要があるのかもしれない……」

 

 シンボリルドルフは無意識に、そう呟いていた。

 

「会長……?」

 

 黙り込んだシンボリルドルフを案じるように、エアグルーヴが声を掛ける。

 その不安げな声を聞いて、我に返った。

 信頼する右腕に、意味もなく気を遣わせるべきではない。

 シンボリルドルフは話題を変えることにした。

 

「すまない、ちょっと考え事をしていた。そう……そうだ、ジョースター君のことだ」

「あのトレーナーが何か?」

「ああ、実は彼に海外のギャグを教えてもらっていたんだ」

「え゛っ」

 

 エアグルーヴにとって最悪の話題転換だった。

 シンボリルドルフは明るい空気に切り替えることが出来る、いい思い付きだと考えていた。

 

「日本のダジャレとは、また趣向が違っていてね。文化の違いが面白く感じるよ」

「そ、そうですか」

「日本の場合は言葉遊びだが、海外のものはジェスチャーにも重きを置いているようなんだ。どれ、1つ紹介しよう」

「え!? いや、それはご遠慮して……!」

「見てくれ、エアグルーヴ。今、私の指は4本立っているな」

「は、はい」

「そこちょっと失 礼(4・2・0)ィィィ~~~」

「……」

「分かるかな? 『し』で4本、『つ』は『トゥ』と発音して指2本だ。最後に『れい』で指の形を丸にしてゼロというわけなんだ」

「な……なるほど?」

「君、そこちょっと失礼ィィィ~~~」

「…………はい」

「外国のギャグというのも趣深いものだな」

「大変、興味深いですね……」

 

 たまに誤解されるが――エアグルーヴは、シンボリルドルフのダジャレに呆れているわけではない。

 彼女の抱く尊敬の念は極まっている。

 彼女がダジャレを聞いて調子を崩す時。それは敬愛する会長が会話に紛れ込ませたダジャレに気付けなかった己の不甲斐なさに嘆く時なのだ。

 故に、彼女は苦悩の極みにいた。

 慣れない海外のギャグを一生懸命見せてくれる会長の心意気を喜ぶべきか。

 ただでさえ反応が困難な会長のダジャレに文化の壁という更なる難易度を加えたジョニィを恨むべきか。

 苦悩の果てに、エアグルーヴの調子は下がった。

 

 

 

 

 

 

 被せられていた袋が取り払われた時、目の前に広がったのは何となく予想していた通りの光景だった。

 青い水平線。

 白い浜辺。

 視界の片隅に映るボロボロのカヌーは見覚えのあるものだ。

 あの日、ゴールドシップと初めて出会った場所だった。

 

「アタシとオマエの運命の出会いの場所だ。懐かしいか?」

「……ああ、懐かしいね。まだ、あれから1か月しか経ってないとは思えない」

 

 あの時と同じように、ジョニィとゴールドシップは並んで腰を降ろした。

 

「アタシも同感だね。1か月前にジョニィをトレーナーにするなんて想像もしてなかったし、1週間前にシルバーバレットと対決して負けるなんてことも想像してなかった。退屈しねーよ、ホント」

「この1週間、何してたんだい?」

「負けた悔しさで、枕を涙で濡らし続けてたよ」

「そうか……すまない」

「ああん? 何で謝るんだ?」

「レース後のメンタルケアはトレーナーの仕事だ。僕はこの1週間、君に対して何も出来なかった」

「ヒドイ! アタシとの関係は仕事だけだったの!?」

「……すまない」

「いや、どっちに対して謝ってんのか分かんなくなるから真面目な返答やめろっつーの。後者に対してだったら、さすがのゴルシちゃんも傷つくぞコラ」

 

 以前は当たり前のように交していた軽口にも、ジョニィは黙り込むだけだった。

 

「完全復活したゴルシちゃんのことは、もうどうでもいいけどよォ~。今度はオメーの方が溜め込んでるモン吐き出した方がいいんじゃねーの?」

 

 その様子を見て、ゴールドシップは呆れたようにため息を吐いた。

 

「別に、僕は何も溜め込んじゃいないさ。あのレースで一番精神的にショックを受けたのは君だ」

「嘘つけ! 信じて送り出したゴルシちゃんが盛大に負けて、オマエもショック受けてたんだろ? だから、アタシに構う余裕がなかったんだ」

「忘れたのか? 僕は君の敗北を予言していたんだ。あらかじめ分かっていた結果に動揺する必要なんてない」

「本当かぁ~? 本当に何も溜め込んでないかぁ~? 胸に仕舞ってるモン全部吐き出しちまえよ! 海ってのはそういう場所なんだ! 他には誰もいない、二人っきりだぞ☆」

「いいや、ないね。僕には吐き出すものなんてない! 君が立ち直ったのなら、それで問題は解決だ。話を先に進めよう」

 

 ジョニィは視線を前に向けたまま、頑なにそう言い切った。

 ゴールドシップは、そんな横顔をじっと見つめた。

 

「ジョニィ、アタシの眼を見ろ」

 

 からかうようなものではなく、隠された本心を見抜くような真剣な眼つきだった。

 

「隠すなよ、ジョニィ。ウマ娘とトレーナーだ。アタシ達は、2人でひとつなんだ。オマエが侮辱されると、アタシは酷く腹が立つ」

 

 ジョニィは何かを堪えるように、固く眼を閉じた。

 しかし、ゴールドシップの静かなささやきは、彼の抑え込もうとした感情を激しく揺さぶった。

 

「アタシがレースで負けて、オマエは悔しくなかったのか?」

 

 その問いかけに、ジョニィはついに耐えきれなくなって口を開いた。

 

「――ッ、ああ! 悔しかったさ!!」

 

 本音を吐き出した。

 一度、堰を切ってしまえば、抑え込んでいた様々な思いが一気に溢れ出してきた。

 当時の記憶がフラッシュバックして、身を捩るような悔しさで頭がいっぱいになる。

 

「悔しかったに決まってる! 何で、僕が君の負ける姿を見なきゃいけないんだ!?」

 

 ジョニィはゴールドシップの眼を真っすぐに睨みながら、捲し立てるように叫び続けた。

 

「しかも、よりによってあのDioとそのウマ娘にだッ! あんな光景、2度と見たくなかったのに! 何で負けてるんだよ、君は!!」

「え~、でもアタシ『負ける』って予言されちまってたしなぁ~」

「あんなくだらない予言くらい覆してくれ! 君は僕の信じたウマ娘だぞ!」

「吐き出せとは言ったけど、オマエ無茶苦茶言うなぁ……」

「クソッ! ゴール前で僕があんなに大声で応援していたのが聞こえなかったのか!?」

 

 それを聞いて、ゴールドシップは一瞬ポカンとした。

 あの時、ジョニィが何を必死に叫んでいたのか知りたかった。

 あのレースで一番の心残りだったことが、あっさりと解決したのだ。

 

「……そうかそうか。いや、ワリーな! あの時は必死だったもんで、聞こえてなくてよォ」

 

 少しの間呆けた後、ゴールドシップは湧き上がる喜びを抑えきれずに顔をにやけさせた。

 

「何をニヤニヤしているんだ? 真剣に受け止めてくれ! この際だから言っておくが、僕が悔しかったのは負けたことだけじゃあないッ!」

 

 ジョニィはゴールドシップに詰め寄って、告げた。

 

「いいか、君はシルバーバレットより劣ってなんかいない。『成長』さえすれば、君は奴に勝てるほどのウマ娘になれる! それを理解せず、見下すDioにもムカついているんだッ!」

「へえ? ……アタシは、シルバーバレットに勝てるのか?」

「勝てる! 君の走りは『世界』にも通用するッ!」

 

 ジョニィは断言した。

 迷いは一切なかった。

 これまでずっと黙っていたことを、全て言い切った。

 言葉にして吐き出したことで、溢れる感情のまま捲し立てていた勢いが落ち着いてくる。

 ジョニィとゴールドシップは、しばらくの間無言で見つめ合った。

 1週間前の敗北以来、ようやく2人の心が何の隔たりもなく通い合ったような気がした。

 

「――いいぜ、ジョニィ。話の『前提』が無事成立して何よりだ。ここから先へ進めよう」

 

 ゴールドシップは真剣な表情で言った。

 

「『アタシはシルバーバレットに勝てる』――その為に必要な時間はどれくらいだ?」

 

 その質問に、ジョニィは少しだけ考えてから答えた。

 

「3年……いや、2年だ。2年で『君はシルバーバレットに勝てる』ようになる。僕が保証する」

 

 それは聞く者が聞けば『無理』や『無謀』とも言える結論だった。

 どれだけ才能が溢れていようと、デビューしたばかりのウマ娘が、今や実力も経験も世界のトップクラスに立つウマ娘に、そんな短期間で追いつけるわけがない。

 担当トレーナーの贔屓目を超えて、無能で無責任な発言だとすら捉えられる。

 しかし、ジョニィは断言した。

 この結論に一切の疑いや不安は抱いていなかった。

 

「2年か……『URAファイナルズ』には間に合うな」

「ああ、そうだ。トレーニングをしてレースの経験を積み重ねれば、世間が期待する通り君は2年でシルバーバレットと同じ舞台に立てるようになる。そして、世間の予想を裏切って勝つ」

 

 力強い宣言だった。

 自分の担当するウマ娘の可能性を全く疑っていない、トレーナーの理想的な言葉だった。

 しかし、ゴールドシップは小さく首を振った。

 

「……駄目だ、遅い。2年後じゃ遅いんだ」

 

 ジョニィの信頼が嬉しくなかったわけではない。

 一度敗北したシルバーバレットに勝てるという可能性を信じてくれるだけでも、望外の喜びだ。

『世界』の重みを、決して侮っているわけではない。

 

「とんでもねーことを言おうとしてるのは分かってる。でも、2年じゃ駄目だ。時間が掛かりすぎる。もっと早く、アイツに勝てなきゃ駄目だ」

 

 ゴールドシップの無謀を通り越して現実を見ていない発言を、ジョニィは黙って受け入れた。

 まるで、そう言うことを分かっていたかのように。

 そして、自分自身もまたその考えに同意するように、何も反論することなく話の続きを促す。

 

「焦りとかそういうんじゃない。アイツと走ってみて分かった。アイツの走りは相手を『屈服』させる走りだ。一度あの走りに負けたら、次に勝つまでずっと萎縮することになる。『勝てない』と思い込まされる!」

「……そうだ。シルバーバレットは、そういうウマ娘だ」

「何より、アタシ自身が『納得』いかねぇ! アイツの背中を追いながら2年間もレースに出るなんて我慢出来ねぇ! どんなレースでも『アイツに勝てない自分』を思い描きながら走らなきゃいけないなんて、絶対に『納得』いかねぇッ!」

 

 

「――『納得』は全てに優先するぜッ! でないと、アタシは『前』へ進めねえッ! 『本当の走り方』を取り戻すことは出来ねえッ!!」

 

 

 ゴールドシップの決意の叫びは、海の彼方にまで響き渡るようだった。

 途方もなく困難な道のりに対して、迷いも恐れもない。

 彼女の限りない覚悟を込めた言葉だった。

 ジョニィはその言葉を静かに聞き入れていた。

 

「ジョニィ、Dioとシルバーバレットはまだ日本にいるんだろ? いつまでいるんだ?」

「約半年の予定らしい。日本国内のレースを荒らし回って、それからアメリカに帰るつもりだ。次に日本に戻ってくるのは、2年後の『URAファイナルズ』になるだろう。それ以外、日本に来る理由がない」

「だったら、ジョニィ……分かるよな? トレーナーとして、アタシの今後のレースについての展望を聞いてくれ」

 

 ジョニィは躊躇なく頷いた。

 彼もまた覚悟を決めていた。

 

「――これから『半年以内にシルバーバレットに勝つ』! アイツらが国内にいる間に『決着』をつけるッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

To be continued……

 

 




育成の序盤に『目標:世界最強のウマ娘に勝つ』を12ターンで達成しなくちゃいけない無理ゲー。
ジョニィがゴルシに優しくしないせいでマックイーンがそういう役割に来ちゃうんですよね。ゴルマク最高ですわ。これだけあれば勝ちですわ。



・おまけ

SBR版ウマ娘『サンドマン』
インディアンの義姉に育てられたウマ娘。
名前が「マン」なのはあれだよ、白人が勝手に聞き間違えて呼んだんだよきっと。
部族への恩返しの為にSBRに参加し、賞金によって住む土地を買おうと決意する。
出身が出身なだけに公式のレースには参加した経験がなく、トレーナーもいない個人参加。
しかし、岩場から岩場へ飛び移るトリッキーな移動方法や『大地を味方につけた走法』によって、レースでは上位の成績を維持し続ける。
第5ステージにおいて重傷を負ってリタイア(原作通りの死亡ルートも検討したが、三女神様が不幸をどっかにフッ飛ばしてくれたことにしよう)
無事、部族の下へ帰って義姉と涙の再会を果たす。
また、彼女の走りや参加理由がテレビなどでピックアップされ、国の保護を受けられるようになった。
原作では部族の嫌われ者だったが、ウマ娘世界では部族全体の娘扱い。「掟に背いた罰だッ!」とか言ってた野郎はただのツンデレになった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#5「スタンド・バイ・ミー」

前回の前書きで言いました、レースの知識不足へのフォローを多くいただき感謝いたします(リンゴォ式お辞儀)
やはり本作の展開では結構無理のあるスケジュールになるようなので、レースの固有名詞は明示せず、少々強引な理屈で話を回していくことにしました。
ジョジョ世界とクロスしているから、と納得いただければ幸いです。
精神力カンストがデフォで『スゴ味』で理屈を押し通す物語だからね。


 勝利の美酒とはどんな味だ?

 栄光の輝きとは何色の光を指す?

 響き渡る喝采は何と言っている?

 

 ――そんなものはない。

 

 勝利は課せられた義務。

 栄光は踏み締める道のように不動。

 喝采は生まれた時から聞こえている。

 お前は勝つ為に生まれた。

 常勝の憂いも敗北の恐怖も感じてはならない。

 それは隙を生む。

 周囲からの期待に窒息している暇はない。

 頭を下げるな。

 脚を上げろ。

 腕を振れ。

 鍛えろ。

 走れ。

 誰にも前を塞がれるな。

 勝利を目指せ。

 1位を目指せ。

 ゴールの先にあるトロフィーはお前の為に用意されている。

 それが他の誰かに奪われることは、お前が受け継いだ誇りある血統への侮辱だ。

 与えられた『使命』を果たせ。

 敗北は『使命』を穢す。

 許されぬ大罪と知れ。

 

 勝て、当然のように。

 掴め、選ばれた者のように。

 走れ、生まれる前から約束されていたように。

 

 走れ――!

 

 

 

 

 

 

『先頭のメジロマックイーンは依然スピードを緩めない! 5バ身以上の差をつけながら、最後の直線に入りました!』

 

 突入したクライマックスに、観客から大歓声が上がった。

 それに負けじとレース場に響く実況の声にも熱が入る。

 1番人気のウマ娘が、それに応えるように先頭を走っているのだ。

 特に、今回のレースでメジロマックイーンに掛けられる期待は単なる勝利以上のものが含まれていた。

 

『後続のシルバーバレット、まったく近づけていない! 彼女の連勝記録を打ち破れるか、メジロマックイーン!?』

 

 波乱を呼んだ『十連覇宣言』から早4か月、ディエゴ・ブランドーとシルバーバレットのコンビは既に7連勝を達成していた。

 距離も馬場も選ばず、日本の強豪並み居るレースを勝ち抜いている。

 それがどれほどの偉業であるか、もはや理解していない者はいない。

 目の前で走るウマ娘は文字通り『怪物』だ。

 世界を制したがゆえに『世 界(ザ・ワールド)』と呼ばれるウマ娘だ。

 日本という島国を飲み込もうとする強大な存在であると認めざるを得ない一方で、歯痒く思う者も未だ少なからずいた。

 日本のウマ娘は、まだ負けてはいない。

 決して『世界』に劣る存在ではない。

 次こそは自分の信じるウマ娘が、シルバーバレットの覇道を阻んでくれる――そうした多くのファンの願いが次々と打ち破られ、今、メジロマックイーンに人々の縋るような期待が掛かっているのだった。

 その『期待』を負担ではなく力に変える。

 メジロマックイーンは、そういう稀有な強さを備えたウマ娘だった。

 気負う心もない。

 身体のキレは良く、調子は万全だ。

 しかし――。

 

(この状況――譲られましたわね!)

 

 レースの運びは理想的だった。

 理想的過ぎた。

 後半から溜めていた脚を開放して、集団に巻き込まれることなく最後の直線で先頭に躍り出ることが出来た。

 あとは、何も考えず全力でゴールまで走り切るだけだというのに。

 嫌な予感ではなく確信として、メジロマックイーンはこの状況を『シルバーバレットが描いた図面』だと察していた。

 わざと最終直線で先頭を譲ったのだ。

 ここで追い抜く為に。

 

(けれど、背後からプレッシャーは感じない。一体、いつ仕掛けるつもりで――)

 

 ここに至るまで気配を絶ったかのように何も感じないシルバーバレットの静けさを不気味に感じて、つい肩越しに背後を窺ってしまう。

 しかし、一瞬だけ振り返った視界にシルバーバレットの姿はなかった。

 

(いない……!?)

 

 5バ身差とはいえ、ラストスパート次第では十分に距離を詰められる位置にいたシルバーバレットが忽然と姿を消していた。

 

(何処ですの!? シルバーバレットが消えた……)

 

 失速して、更に後方で走る集団に飲み込まれた様子ではない。

 どう見ても『後ろ』にはいないのだ。

 見失いようもないこの直線で、他に視界から消える位置があるとするならば――。

 

『並んでいるぅ――ッ!』

 

 それに気付いたメジロマックイーンの戦慄と、悲鳴のような実況の驚愕が重なった。

 

『並んでいるッ! 並んでいるぞッ! すでに左後方『1バ身』の差で、メジロマックイーンと並んで走っているぞォ! シルバーバレットォォォーーーッ!!』

 

 走っているメジロマックイーン自身も、それを俯瞰している者達も理解出来ない光景が広がっていた。

 

『どういう事なのかッ!? まるで魔法だ! いつの間にかメジロマックイーンの加速に追いついている! ここからでは、まったくシルバーバレットが加速しているようには見えませんでした!』

 

 実況の言葉が、その場にいる全ての者の心境を代弁しているようだった。

 ただ1人、シルバーバレット自身だけが勝利を確信した不敵な笑みを浮かべて、メジロマックイーンへ静かに詰め寄っている。

 どんな方法なのかは分からない。

 全く計り知れないことではあるが、何らかの方法によって距離を詰めたことに間違いはなかった。

 だからこそ、メジロマックイーンは自分に訪れるだろう敗北の未来を見てしまった。

 同じ方法で追い抜かれ、そして一度抜かれればもう抜き返すことは出来ないからだ。

 ゴールはもう目の前だというのに、このまま逃げ切るには絶望的に距離がありすぎる。

 

「――やはり、世界にはとてつもない強敵がいるものですわね」

 

 混乱も焦りもあった。

 しかし、メジロマックイーンは覚悟を決めて笑った。

 ここに至って、やれることはもはや一つだけ。

 ただ残された力を全て吐き出して、走り切ることだけだ。

 

「参ります。ゴールドシップさん、お先に失礼!」

 

 後を託すように呟くと、メジロマックイーンは最後の加速を行った。

 このラストスパートで突き放すか、あるいはシルバーバレットの不可解な加速と拮抗出来なければ勝利はない。

 傍から見ても分かる、目覚ましいスパートに実況と観客が一瞬湧きかける。

 このまま逃げ切れるかもしれない――。

 しかし、その期待は無慈悲にも叩き潰された。

 まるでメジロマックイーンが加速するタイミングを分かっていたかのように、シルバーバレットも末脚を発揮したのだ。

 メジロマックイーンとて日本を代表するウマ娘だ。鍛え上げられた身体能力はシルバーバレットに劣るものではない。

 同じタイミングで加速し、互いに大きく離されることもなければ詰められることもなかった。

 そして、逃げ切る為の距離を稼げなかった時点でメジロマックイーンの敗北が決定した。

 得体の知れない技術か経験かによって、シルバーバレットはゴールの100m前でメジロマックイーンに追いつき、20m前で追い抜いた。

 

『シルバーバレットが差し切ってゴォォォール! なんということでしょう、恐るべき逆転劇! これが『世界』の力なのかッ! この世界最強のウマ娘の快進撃を阻む者はいないのか!? シルバーバレット、これで国内レース8連勝を達成しましたッ!!』

 

 観客席から凄まじい歓声が響き渡った。

 メジロマックイーンの敗北を惜しむ声も、シルバーバレットへのブーイングもあったが、それらは会場の熱狂にかき消される程度のものだった。

 勝利を掴み取ったシルバーバレットの実力を称える声の方が大きい。

 エンターテインメントとして、大いに盛り上がる接戦だったのだ。

 傍から見れば、それは手に汗握るギリギリの決着に見えた。

 しかし、抜かれたメジロマックイーン当人も含めて、分かる者には分かった。

 これは計算された勝利である、と。

 詰将棋のように確実な段階を踏んで演出された逆転劇である、と。

 

「――最後のスパートは見事だった」

 

 変えようのない勝敗の結果を明示する着順掲示板を見上げるメジロマックイーンに、シルバーバレットが歩み寄った。

 

「動揺も混乱も最小限に抑えて、決着の瞬間まで集中力を切らさなかった。だからこそ、最後の加速に一切の陰りが生まれなかった。私がゴールの100m前で勝利を確信出来なかったのは久しぶりだったぞ」

「……お褒めの言葉だと、受け取っておきますわ」

 

 シルバーバレットの称賛が単なるリップサービスなのかは分からなかったが、少なくとも余裕の表れではないと察して、不承不承受け入れた。

 目の前の彼女は、自分と同じように汗を流し、上がった息を整えている。

 そういった状態になる程度には、彼女を追い詰めたということなのだ。

 もちろん、その程度の事実で満足出来るほど謙虚な性格ではない。

 メジロマックイーンは相手から見えないように、握り締めた拳を隠した。

 

「妥協のない全力の君に勝てて光栄だ」

 

 その様子に気付いているのかいないのか、シルバーバレットは笑ってそう続けた。

 言い訳が挟まる余地のない決着を勝ち誇るように。

 嫌味と感じるほど小物な相手ではない。

 だが、大物であるがゆえに傲慢だ。

 悔しさから無意識に睨みつけるメジロマックイーンを面白そうに見つめ返しながら、シルバーバレットは自然な動作で詰め寄った。

 衆人環視の中、メジロマックイーンの腰に腕を回して強引に抱き寄せる。

 レース後に起こった1着と2着のウマ娘の思わぬ接触に、驚きの声とそれに混ざった黄色い悲鳴が響き渡った。

 

「な、何をなさいますの……!?」

 

 メジロマックイーンは突然の事態に、羞恥で頬を赤く染めながら抵抗しようとした。

 しかし、それよりも早く、シルバーバレットが頬が触れ合うほど顔を近づけて、耳元に囁いた。

 

「やはり、体幹が僅かに歪んでいる」

「……えっ?」

「無意識に左脚を庇っているようだ。自覚はないか? 早めに医者に診てもらった方がいいだろう」

 

 小声で短く告げられた内容だった。

 周囲の誰にも聞こえていないだろう。

 シルバーバレットは腰に回していた腕を解くと、静かに距離を置いた。

 

「君ほどのウマ娘の成長が阻害されるのはもったいない。次の『URAファイナルズ』では更に力をつけた君と競い合いたいものだ」

 

 呆気に取られるメジロマックイーンを置いて、背を向ける。

 

「もっとも、その時も勝つのは私だがね」

 

 肩越しに振り返り、余計とも思える一言を残して去っていく。

 その顔に浮かぶのは、学園で初めて見た時から変わらない傲慢で不敵な笑みだった。

 

 

 

 

 

 

「信じて送り出したマックイーンがシルバーバレットに敗北して寝取られるなんて……」

「誤解を招くような言い方はやめてください!」

 

 メジロマックイーンは顔を真っ赤にして叫んだ。

 しかし、対するゴールドシップの方は力なく項垂れたままだった。

 本気なのか冗談なのか分からないが、酷く落ち込んだ様子でブツブツと意味不明なことを呟いている。

 

「しかし、上手いこと美談にまとめてるよ。マスコミは、もうDioとシルバーバレットの味方だな」

 

 そのやりとりを尻目に、ジョニィが淡々と呟いた。

 3人の囲むテーブルの上には、新聞の一面が広げられていた。

 

 ――『互いの健闘を称え、抱擁を交わす2人の名優。偉業達成まで、あと2勝!』

 

 シルバーバレットとメジロマックイーンが抱き合う写真を一面にして、そんな見出しがデカデカと書かれている。

 記事の内容は、先日行われたレースについてだ。

 日本の期待を一身に背負って惜しくも敗れたメジロマックイーンと十連覇宣言を現実にし続けるシルバーバレットの確かな実力の両方を称えるものだった。

 エアグルーヴの予想した通り、当初は懐疑的であり批判的な部分も多かった世間の認識は、ほとんどが手のひらを返しつつある。

 実態はともかく、シルバーバレットにはカリスマがあり華がある。

 勝利後のウイニングライブも完璧にこなして観客を魅了した彼女は、国内で多くのファンを獲得し続けていた。

 シルバーバレットというウマ娘が単なる悪役(ヒール)ではなく、毎回劇的なレースを展開するエンターテイナーであり、日本のウマ娘や観客に友好的なアピールを欠かさないことも良い方向に影響していた。

 もちろん、ジョニィにはそれが彼女のトレーナーによって意図的に演出されているものだと分かっていた。

 

「マックイーンの脚の方は大丈夫なのかい?」

 

 世渡りに関してディエゴが何枚も上手なのはとっくに理解している。

 ジョニィは思考を切り替えて、メジロマックイーンの方を案じた。

 

「主治医の診断では、しばらくの療養が必要ですが問題はないそうです。炎症を早期に発見出来たことが幸いだったと言っておりましたわ」

 

 彼女の左脚の膝にはサポーターが巻かれている。

 傍らには杖も置かれているがこちらは念の為であり、現在の状態で歩行に支障が出るような事態にはなっていない。

 靭帯が炎症を起こしかけていた、と当時診断された。

 気付かずに放置していれば、深刻な症状にまで発展していたかもしれないとも告げられている。

 その診断を受けたメジロマックイーンは複雑そうな表情を浮かべていた。

 

「シルバーバレットさんに助けられましたわね……」

 

 危うく選手生命を絶たれるかもしれない未来を回避出来たのだ、当然感謝はある。

 しかし、相手は自分を含めて日本のウマ娘の潜在的な敵であり、実際に自分は全力を出しても敗北してしまった。

 彼女の人柄も決して好きになれるタイプではない。

 何故、自分を助けるような真似をしたのだろう?

 シルバーバレットというウマ娘が分からなくなっていた。

 

「アイツの意図は分かんねーけどよ、とりあえずマックイーンを助けてくれたことは感謝してやるぜ。でも、これが同時にマックイーンの負けた理由でもあるワケだろ?」

 

 いつの間にか正気に戻っていたゴールドシップが、真剣な表情で訊ねた。

 ジョニィがそれに対して頷く。

 

「そうだ。本人が気づかない症状まで把握されるほどに分析されたんだ」

「前にジョニィが言っていたDioの『恐ろしい能力』ってヤツか」

「初めて見るウマ娘でさえ、短時間でそのデータを盗んでしまう。『SBR』でもそうだった」

「あのレースは最初から最後までコントロールされているように感じましたわ。でも、最後の直線で追いつかれたのはどういうカラクリですの?」

 

 自身の敗因について、メジロマックイーンは訊ねた。

 

「なんであろうと、必ず『クセ』というものがある。それが機械であろうと物であろうと。特にウマ娘は生き物だし、人間以上にストレスもあれば個性もある」

 

 ウマ娘がストレスに敏感な生き物であることは、科学的にも立証されている事実だった。

 体力的には人間の比ではなく優れている彼女達が短期間での連続したレースへの出走を避ける理由もここに起因する。

 その身体能力に反して、驚くほど繊細な生き物なのだ。

 トレーナーが担当するウマ娘の肉体だけではなく、日々の調子を気遣うのもその為だった。

 

「例えば、あるウマ娘は加速をする時必ず尾を上下させてからダッシュする。また、あるウマ娘は追い込まれると集団の外側にふくれて走ろうとする。首を振るヤツ、体を沈めるヤツ、歩幅を変えるヤツ――」

 

 ジョニィ自身が思いつくまま、知っているウマ娘のクセを口にする。

 当然、ディエゴが持つデータはこれ以上に膨大なものだろう。

 

「レース中、個々のウマ娘のクセを読み取り、そこを攻撃すればどんな相手だろうと理論上抜くことは可能だ。Dioが分析し、シルバーバレットがそれを実行する。これがあのコンビの必勝パターンだ」

 

 強く断言するジョニィに、メジロマックイーンとゴールドシップは息を呑んだ。

 

「マックイーン、当然君にもクセがあり、奴らはそれを事前に見抜いていた。特に『左脚を庇う』なんていうのは絶好の弱点だ。君が左脚を踏み出すと身体が左にブレる。そして当然のこととして、その時ブレた分スピードが落ちるッ!」

「……わたくしがブレた時だけあちらが加速すれば無駄な労力を使わずに追いつくことが出来る、というわけですわね」

「そういうことだ」

「もし、それを知っていれば……いえ、恐らく結果は変わらなかったでしょう」

「知ったところで、クセは直したくとも直そうとすると別の弱点が出てくる。それは人間もウマ娘も同じサガ。クセは『宿命』のように消えることはない」

 

 そう言い切るジョニィの無慈悲な言葉を受け入れて、メジロマックイーンは大きく息を吐いた。

 あのレースを終えて以来、胸につかえていたものをようやく飲み込めた気がした。

 完敗だ――少なくとも今回のところは。

 そう考える程度には、メジロマックイーンは負けず嫌いな性格だった。

 

「……なあ、ジョニィ。アタシをレースに出さないのは、それが理由なのか?」

 

 それまで考え込んでいたゴールドシップが、不意に疑問を口に出した。

 半年以内にシルバーバレットを打倒する目標を立ててから4か月が経過し、トレーニングこそ毎日のように行っていたが、彼女が公式のレースに出たのはデビュー戦を除けばまだ1度だけだった。

 

「そういえば! ゴールドシップさん、レースではデビュー戦に続いて1着でしたわね。おめでとうございます、記事も読みましたわよ!」

「新聞には隅っこにちっこく載ってただけ、だけどな。アタシの1着よりもマックイーンのレース自体の方が注目されてるよ」

 

 一転して明るく笑うメジロマックイーンを見て、ゴールドシップは恥ずかしそうに苦笑した。

 キャリアが違うのだから、世間の扱いが違うのも当然だった。

 格付けをするならば、メジロマックイーンやシルバーバレットは格上であり、ゴールドシップは若手の格下だ。

 当初その立場に反して彼女が異常な注目を集めていたのは、ジョニィやシルバーバレットなど周囲との関係性による影響が大きい。

 そのシルバーバレット自身が次々と新たな話題を世間に提供している現状、ゴールドシップへの注目は薄れていた。

 

「でも、その『注目されない』ってのがジョニィの狙いなんだろ?」

「君をレースに出さない理由の1つではあるね」

 

 ジョニィは頷いた。

 

「レースに勝って有名になれば、それだけ多くの記録が残る。Dioに渡る情報は少しでも抑えたいんだ」

「わたくしも含めて、シルバーバレットと対決したウマ娘は情報戦の時点で大きく不利を取られていたのですね」

「Dioの分析能力が異常なのもあるけど、日本はウマ娘とそのレースに関して驚くほど詳細な情報を残しているからね。病気や故障の記録なんか弱点を剥き出しにするのと同然さ。後遺症やハンデがあるなら、奴は喜んでそこを突いてくる」

 

 そういったレースへの姿勢を非難する考えは、少なくともこの場の3人にはなかった。

 勝負である以上、その行為に不当な部分は何一つない。

 ただ個人の好みや性分があるだけだ。

 直接対面したことで、ディエゴとシルバーバレットの人柄は理解していた。

 彼らにとって、レースとは互いを高め合う崇高でフェアな精神を優先するものではない。

 それは、ここが日本というアウェーでなくとも同じだろう。

 コースに存在するのは、自分とそれ以外。

『ライバル』ではなく『敵』

 相手の弱みを突き、自身の強みを最大限に活かす。そして、勝利と栄光を他者から奪い取ることこそが重要なのだ。

 

「だから、ゴールドシップを必要以上にレースに出すつもりはない。予定としては、あと一回だけだ。もちろん、勝つことが前提だけどね」

「当たり前のように言ってくれるよなー。ま、勝たねーと実績が足りないのは分かってるけどよ」

 

 ウマ娘には、その実績に応じてランク付けがされており、公共のレースで格下のウマ娘が格上のウマ娘と競える機会はほとんどない。

 レースが私闘ではなく公共事業としての一面も持っている以上、参加者全員が一定のレベルで競い合える証明が必要なのだ。

 しかし、もちろん例外はある。

 

「『十連覇宣言』――最後の10勝目を賭けたレースは、これまでの日本にはない枠を特別に企画すると言われていますが、参加の為の実績としては足りていますか?」

 

 メジロマックイーンは、この4か月で大きく動いた日本のレース業界について思い浮かべていた。

 既存のレースがディエゴとシルバーバレットによって次々と制覇されていっている。

 世間はその様子に盛り上がっているが、国としては『国内のレースが海外の勢力に荒らされている』という捉え方も強かった。

 日本の誇る有力なウマ娘達が破れ、代表的なレースのトロフィーが海外のウマ娘に軒並み奪われたとなれば、国家事業としての威信にも関わる。

 日本の伝統とは関係のない、全く新しいレースを企画するというのは苦肉の策であった。

 

「色々決まっていないこともあるけど、調べてみる限り参加の規約は緩いみたいだね。実績が重要なのは変わらないけど、ファンの投票も結構大きく影響するみたいだ。ゴールドシップの知名度なら、ギリギリ参加出来るんじゃないかな?」

 

 おそらく今回だけの特例になるだろう新規のレースであるだけにつけ入る隙は多かった。

 一種のお祭り騒ぎでお茶を濁しつつ、一連の騒動の最後を締めようというのだ。

 

「そんな……もし、実績不十分で参加を拒否されたらどういたしますの?」 

 

 確実な手段を取ろうとしないジョニィの曖昧さに、メジロマックイーンは不安を覚えた。

 

「この機会を逃したら、2年後の『URAファイナルズ』まで関われる機会はありませんわよ?」

 

 メジロマックイーンは『半年以内にシルバーバレットに勝つ』という目標を、ゴールドシップ自身から聞いていた。

 無茶な目標だとは感じたが、それをあえて自分に話したゴールドシップの決意と覚悟を信じることに決めたのだ。

 だからこそ、その前提さえ成立しない状況は何としても避けて欲しい。

 心配そうに案じるメジロマックイーンに対して、ジョニィは事も無げに答えた。

 

「多分、上手くいくよ。いざとなったら役員を買収するから問題ないさ」

「……えっ!? ちょっと待って、今『買収』って言いました? 『買収』!?」

「いや、すまない。ちょっと誤解を与える言い方だった。つまり、参加出来るように許可を取ってこいって交渉するんだ。……ワイロが欲しいなら払うぜ」

「もっと直接的な言い方が出てきませんでした!? 言うに事を欠いて『ワイロ』ォ!?」 

 

 ジョニィに掴みかからんばかりに混乱するメジロマックイーンを見て、ゴールドシップが他人事のようにゲラゲラと笑っていた。

 

「笑っている場合ではありませんわよ、ゴールドシップさん! 幾らなんでも、わたくしの眼が黒い内は不正なんて絶対に許しませんからね!」

「だから冗談だってッ! ちゃんと上手くいくように話を持っていくよ、不正はしない!」

「具体的にはどういう方法ですの!?」

「マスコミを使うんだよ! Dioがやったように、記者会見でも何でも開いて『僕とDioとの因縁の決着を一足先につけてやる』とでも宣言して話題をくれてやるんだ。僕の発言なら、海外のマスコミだって注目するさ」

「それは……確かに、それなら上手くいくかもしれませんが」

 

 メジロマックイーンは思わず納得しそうになった。

 しかし、それが同時に危うい手段であることも理解していた。

 実績ではなく、話題性だけで参加したゴールドシップの立場が酷く厳しいものになることは容易に想像出来た。

 

「その手段では、本当にシルバーバレットさんと『同じ舞台に立つだけ』しか出来ませんわよ。レース当日に、ゴールドシップさんの味方はほとんどいなくなりますわ」

「ああ、ファンというよりは野次馬みたいな奴がメインになるだろうね。身の程知らずのウマ娘が大差で負けるのを見てもそれなりに楽しめる奴らだ」

「分かっていて、やるというのですね?」

「それが一番勝ち筋のある方法だからだ。当日までに少しでもトレーニングを重ねて力を蓄え、レースの参加を減らしてゴールドシップの成長した能力をDioから隠す。短期間でシルバーバレットに勝つ方法はこれしかない!」

 

 ジョニィは断言した。

 彼の瞳の奥では、担当するウマ娘が勝つ為に手段を選ばないトレーナーとして極まった覚悟が黒い炎となって燃えているように見える。

 本当に必要になれば、先ほど言った買収さえ彼はやるだろう。

 負ければ大言虚言を吐いたトレーナーとして再び評価が地に堕ちる未来すら覚悟をしている。

 しかし、その『覚悟』をゴールドシップにも課そうとする姿が、メジロマックイーンには恐ろしく冷酷に映った。

 仮に勝負の舞台に立てたとして、もしも負ければゴールドシップはその後どうなるのか?

 可能性としては敗北する結果の方が大きいのだ。

 ゴールドシップの将来を潰しかねない危険性を負ってまで取るべき手段なのか――。

 

「そういうワケなんだけどさ、構わないよな? ゴールドシップ」

 

 苦悩するメジロマックイーンを尻目に、ジョニィが軽い調子で訊ねた。

 

「ああ、いいぜ。だから気に入った!」

 

 それに対して、ゴールドシップもまた一切躊躇いのない返答を返していた。

 周囲の思惑や期待など知ったことではないという堂々とした態度で。

 いつも見るゴールドシップの姿だった。

 周りの心配や不安などバカバカしいものだったのだと最後は分かってしまう姿だった。

 既にお互いを理解し合っている2人の顔を見渡して、メジロマックイーンは脱力するようにため息を吐いた。

 

「……お2人が納得し合っているのなら、わたくしが口を出す必要はありませんわね。せめて、当日は声援に駆け付けさせていただきます」

「ありがとうよ、マックイーン! ゴルシちゃん感激!」

「おい、ゴールドシップ。彼女のような常識的な友人は宝石を見つけるよりも貴重なんだ、大切にしろよ」

「分かってるよ! ここはよォ~、あのイケ好かない野郎の所業に対抗して、レースに勝ったら観客の見てる前でマックイーンを抱き上げてキスしてみせるってのはどうだ!?」

「やめてください!」

 

 賑やかなやりとり。

 しかし、それが一時のものでしかないと3人は知っていた。

 メジロマックイーンは負けた。

 ゴールドシップが勝てる可能性は、現状限りなく小さい。

 ジョニィは勝負を成立させる為の段取りは考えているが、具体的に『どうやって勝つのか』を教えてはいなかった。

 シルバーバレットに迫った数少ないウマ娘であるスローダンサーが持っていた『技術』は、未だゴールドシップには明かされていないのだ。

 

「……まったく、前途多難ですわ」

 

 ディエゴとシルバーバレットの十連覇が達成されるまで、あと2戦。

 次のレースは既に決定され、最後のレースも具体的な予定が形になりつつある。

 

「最後のレースに関しての情報、ご覧になりましたか? まだネットのニュースでしか公開されていない内容ですわ」

 

 メジロマックイーンは、ジョニィとゴールドシップに訊ねた。

 

「シンボリルドルフ会長が参加を表明したそうです。世界最強のウマ娘に、日本最強のウマ娘をぶつける算段のようですわね」

 

 その情報を聞いたジョニィとゴールドシップは、僅かに眼つきを険しく変えた。

 それは奇しくも、あの日の対決と同じような状況で再びレースを行うことを意味していた。

 

 

 

 

 

 その日開かれた記者会見は、シンボリルドルフにとって少々不本意なものだった。

 シルバーバレットの十連覇の最後を飾ることになる新規のレースに関して役員が質疑応答を行うのがメインだ。

 その締めに、シルバーバレット当人と参加を表明したシンボリルドルフへのインタビューが少しばかり加わる。

 最後に握手の1つも交して、お互いの健闘を称え合う――言ってしまえば台本の存在する世間向けのアピール以上の意味は持たない、顔合わせの場だった。

 その証拠に、トレーナーであるディエゴ・ブランドーはこの場に来ていない。

 シンボリルドルフも、これが必要なパフォーマンスであることは理解している。

 しかし、未だ結果の出ていない9戦目のレースを飛ばして『シルバーバレットを最後に止めるのはシンボリルドルフだ』といった分かりやすい見出しを掲げる今回の記者会見は気に入らなかった。

 既に開催が決定されている9戦目のレースには、信頼する右腕であるエアグルーヴが参加する予定だ。

 彼女の敗北が決定されているかのように動く周囲の流れが、愉快であるはずがない。

 こうした日本国内を動かす大きな流れ――それを生み出し、支配しているのは間違いなくディエゴ・ブランドーとシルバーバレットだ。

 エアグルーヴ自身、そういった流れに呑まれまいと奮起しているが――。

 

「やあ、シンボリルドルフ。まだ残っていてくれたか」

 

 記者会見後、学園へ帰る前のちょっとした休憩のつもりで控室に残っていたシンボリルドルフの元へ、シルバーバレットが顔を出した。

 ほんの一瞬、身構えそうになる。

 学園で非公式のレースを行い、2ケ月後には公共の場でも競い合うことがほぼ決定した。

 潜在的な敵であり、個人的にも友好関係を結びたいとは思わない相手だ。

 先ほどの記者会見でも、2人が交わしたのは表向きだけの穏やかな挨拶と事務的な会話だった。

 

「……私に何か用か?」

「そう警戒しないでくれ。最初に会った時も言っただろう? 友達になりたいんだ」

 

 何処まで本気で言っているのか分からないことを口にしながら、テーブルを挟んで向かい合うように気安く腰を降ろす。

 シンボリルドルフは何も答えず、控室に用意されていたポットに手を伸ばした。

 

「コーヒーか? 紅茶か?」

「どちらでも」

「どちらかにしてくれ」

「では、紅茶で」

 

 シンボリルドルフは手早く、しかし丁寧な動作でカップに紅茶を満たすと、シルバーバレットに差し出した。

 

「ご丁寧にありがとう。……君には嫌われていると思っていたよ」

「ああ、私は君が嫌いだ。だが、君とはもう少し話さなければならないとも思っていた」

「それは嬉しいな。私に興味を抱いてくれているというわけだ」

「君もな、随分と私を評価してくれているようだ。島国のトップに立つ程度のウマ娘ならば、有象無象の如く蹴散らす対象ぐらいに捉えているのだと思っていた」

「直接会うまではそうだった。しかし、実際に顔を合わせ、レースで競い合うことで考えが変わった。あれからシンボリルドルフというウマ娘についてより詳しく調べることで、確信も持てた」

「確信……? 何についてだ?」

 

 シルバーバレットは、意味深げに笑いながら紅茶で僅かに唇を濡らした。

 

「シンボリルドルフ、君は私によく似ている」

 

 そう断言した。

 

「私達は、他のウマ娘とは何処か違うのだ」

 

 シンボリルドルフは、それについて何も応えなかった。

 

「他者よりも多くのものを持って生まれてきた。だからこそ、他者から多くのものを望まれてきた」

「ああ、そうだな。生まれと生き方は似ている」

「途中まではな」

 

 シルバーバレットは意味深げに笑った。

 

「一つ質問なんだが――『全てのウマ娘の幸福の為に生きる』というのは充実しているか?」

 

 シンボリルドルフが掲げ、公言する理想について問い掛ける声は意外にも純粋なものだった。

 その理想を見下したり、綺麗事だと嫌うような様子は見られなかった。

 自分には理解が及ばない生き方がどういったものなのか知りたい――そんな純粋な疑問が表れて出た言葉だった。

 

「頂点に立てるだけの力を持つ者が、何故自分の足元よりも下にいる者達に奉仕しなければならない? 逆じゃあないのか?」

「一つ、訂正してもらおう。私が行っていることは奉仕ではない」

「では、それを行うことで君が得るものは何だ?」

「夢を叶えることが出来る」

「夢?」

「私の夢は1人で叶えられるものではない」

 

 現在に至るまで、自らの歩んだ軌跡を思い浮かべる。

 そうすると、いつでも穏やかな気分になるのだ。

 

「レースは1人で走ってもつまらない」

 

 思い返せば、多くの出来事や人々の顔が脳裏を過って、自然と笑みが浮かぶ。

 1人で全てを行うのだと思い上がっていた時期もあった。

 実際にそれが可能に思えてしまう能力があったからこそ、周囲の人々の存在を疎かにした。

 理想への道が限りなく困難であることは最初から分かっていた。

 しかし、不可能だと思わなかったのは多くの人々に恵まれたからだ。

 自分にそれを気付かせてくれた生徒会の仲間達。

 自分が導こうとした学園の生徒達が、いつしか理想へ続く指針となってくれていた。

 そして、こんな自分に寄り添ってくれたトレーナー。

 この道を歩かなければ出会えなかった者達。

 夢のような日々。

 そして、夢はまだ終わらない――。

 

「競い合えるライバルが欲しい。認め合える仲間が欲しい。私の勝利を祝福し、敗北の涙を受け止めてくれる人々に傍にいて欲しい」

 

 自分の歩みは間違っていない。

 道は未だ半ばだが、望んだものを全て手にすることが出来たのだ。

 

「私が求めるものは、多くのウマ娘達が同じように望むものであるはずだ」

「……それを、君が他者にも与えるというのか?」

「与えるのではない。求める者に等しく得られる機会を用意したいんだ。優れた才能を持ちながらそれを活かす機会に恵まれぬ者や、才能に恵まれないからこそ己の意思一つでしがみ付く者達に、少しでもチャンスが与えられる世界を作りたい」

「それが君にとって何の得になる?」

「君は、先ほどから自分の損か得でしか物事を判断しないな」

 

 シンボリルドルフの皮肉に、シルバーバレットは苦笑しながら肩を竦めた。

 

「単なる損得勘定では、本当の意味で自分に寄り添ってくれる存在など現れはしない」

 

 シンボリルドルフは言った。

 

「君の言う通り、私達は他者よりも少しばかり多くのものに恵まれて生まれてきたんだ。そこに意味が見出せなければ、感じるのは孤独と虚しさだけだ。君は私と似ていると言ったが……共感は出来ないか? 他者よりも優れた力を思うさま振るうだけで何か満たされたか?」

「……いや」

「ならば、それが答えだ。誰もを導く頂点となれるだけの力があるのなら、皆を導くウマ娘でありたい。私の夢は皆の幸福であり、皆の幸福の中にこそ私の幸福がある」

「……」

「だからこそ、ハッキリと答えよう――私は今の生き方で充実している。君とは違う」

「……そうか」

 

 小さく呟いて、シルバーバレットはもう一度紅茶を口に運んだ。

 シンボリルドルフの語った内容に反発しているような様子ではなかった。

 かといって、共感をしているワケでもない。

 ただ、小さな納得だけを見せているようだった。

 

「そういう生き方もあったのかもしれないな」

 

 ポツリと呟くシルバーバレットの顔には僅かな笑みが浮かんでいた。

 それはシンボリルドルフがこれまでで初めて見る類のものだった。

 出会い方が違えば友人になれたのかもしれないと、少しだけ思える表情だった。

 

「私からも訊いてもいいか?」

「ああ、構わない」

 

 今度はシンボリルドルフが訊ねる番だった。

 

「――君はディエゴ・ブランドーの為に走っているのか?」

 

 それは、ずっと抱いていた疑問だった。

 お互いが似た者同士であるという考えはあった。

 少なくとも、生まれが同じであることは先程の話でも確信出来た。

 自らに与えられた力を振るって傲慢に生きるだけで満たされる程度の器ならば、こうして言葉を交わすことはなかっただろう。

 単なる敵として、レースで相まみえるだけだったはずだ。

 しかし、自分達の根幹の部分は同じだった。

 意味もなく強くあることに、何の意義も見出していなかった。

 自分が理想に生きがいを見出したのと同じく、目の前のウマ娘もまた見出したのだ――たった1人の男の中に。

 

「……勝利の味を知っているか?」

 

 シルバーバレットは微笑を浮かべながら言った。

 

「栄光の光が何色をしているか知っているか?」

 

 返答を待つまでもなく、言葉を続ける。

 

「自分を称える喝采が何と言っているのか分かるか?」

 

 ――そんなものに意味はない。

 

 勝利は義務でしかない。

 与えられたものを血肉に変え、受け継いだ使命を果たす。

 ただそれだけの為に生きていた。

 ただそれだけの為に走っていた。

 当然のように勝利は手の中にあった。

 何かを感じたことはない。

 少なくとも、彼に会うまでは。

 

「私は、全部ディエゴに教わったよ。本当に、色々なことを『彼を通して』知ったんだ」

 

 シルバーバレットは、何処か誇らしげに語っていた。

 シンボリルドルフは、その表情に既視感を覚え、そして気付いた。

 多分、今の彼女の表情は自分が心を許せる仲間達と言葉を交わす時に浮かべるものと同じ顔なのだ。

 

「彼は飢えている。そういう『身の上』なんだ。私達が恵まれた生まれだというなら、彼は恵まれない生まれだった。だからこそ、全てを奪い取って上り詰めてきた。私達には想像も出来ない生き方をしてきたんだ」

 

 そう語りながらも、シルバーバレットの瞳にはディエゴを蔑む色など欠片も存在しなかった。

 

「彼は今でも、哀れなほどに飢えている。だがね、本当に哀れなのは……本当に哀しい存在なのは、飢えることすら知らずに『与えられるものだけで生きてる』ことじゃあないのか?」

 

 その言葉が暗に『誰のこと』を指しているのか、シンボリルドルフには理解することが出来た。

 

「初めてディエゴと出会った時、彼は私のことを成り上る為の単なる道具だと思っていたよ。いや、今でもそうなのかもしれない。言葉で確かめたことはないからな」

「……何だと?」

「いや、いいんだ。『そんな些細なこと』はどうでもいいんだ。彼は、私が勝ち続ける限り私を必要としてくれている。それだけは確かだ」

「……」

「重要なのは、彼と一緒にいると私にも『飢える』ということが理解出来るんだ。実感出来るんだ。味も、色も、音さえ、彼を通して感じることが出来る」

 

 ――初めて彼を見た時、得体の知れない生き物を見たような気分になった。

 

 何故、そんなにも周りから奪いたがるのだろう?

 何故、そんなにも周りを憎むのだろう?

 何故、周りから与えられることを甘受しないのだろう?

 貧欲に勝利を欲し、1つの勝利を得ればそれを足蹴にして更なる富と権力を目指す。

 そんな姿に卑しさを感じたことすらあった。

 初めはそんな風に思っていた。

 だが、やがて気付いた。

 周りから何も求めない。

 周りに何の感情も向けない。

 周りから生きる意味さえ与えられている。

 そんな『生き物』にどんな存在意義がある。

 気付いて、そして理解した。

 自分が彼を卑しく思っているのと同じように、ディエゴ・ブランドーはシルバーバレットという虚しい存在を軽蔑していたことに。

 

「……そうか」

 

 そういうことなのか――。

 シンボリルドルフは、唐突にシルバーバレットというウマ娘の行動原理を理解した。

 勝利という義務の為に走り続けていた彼女に現実を見せたのは、1人の男だった。

 自分が掲げた理想を通して認識した『世界』を、彼女はディエゴ・ブランドーという男が抱く社会への憎悪と渇望を通して初めて認識したのだ。

 

「シンボリルドルフ。君の『全てのウマ娘の幸福の為に生きる』という価値観は理解出来ないが、そういった生き方を選んだ経緯は理解出来る。結局のところ、私達は1人では生きられない存在なのだと思うよ」

「その『私達』というのは『ウマ娘』という存在を指して言っているのか?」

「そうだ。『理想』にせよ、『夢』にせよ、『人』にせよ、私達は何かに寄り添っていなければ生きる意味を見出せない。私達は誰かの『傍に立つもの』なんだ」

 

 その言葉は、大げさではない一つの真理であるように聞こえた。

 ウマ娘が備える強靭な身体能力と、それを活かす『走る』という行為への渇望と本能。

 それでいて、酷く繊細な一面がこの生物には存在する。

 ただ1人でずっと走り続けることは出来ない弱さがある。

 自己満足以外の『走る』という行為に意味や価値を与えてくれる何かを誰もが無意識に求めている気がしてならない。

 競い合うライバル達。

 走り抜いた先にある勝利と栄光。

 共に夢を目指すトレーナー。

 レースに夢と希望を託す観客達。

 ウマ娘の走りには寄り添うものが必要だった。

 

 ――『レースは1人で走ってもつまらない』

 

 そう言ったのは、つい先ほどのシンボリルドルフ自身だ。

 

「そして、君は選んだというわけか……ディエゴ・ブランドーの『傍に立つもの』として走る(生きる)ことを」

 

 シルバーバレットは答えず、カップに残った紅茶を飲み干した。

 

「話が出来てよかった。有意義な時間だったと思う」

 

 立ち上がり、控室の扉へと向かう。

 それを止めようとは思わなかった。

 話したいことはまだ幾つかあったが、お互いに相手を理解しようという気は既に失せていた。

 自分達は似ていた。

 そして、現在歩む道は決定的に違ってしまっていた。

 2度と交わることはない。

 あとはただ、コース上で雌雄を決するだけだ。

 そう理解し合えたのだ。

 

「……シンボリルドルフ」

「何だ?」

 

 お互いに視線を交すことなく、最後の会話を交わす。

 

「君は『全てのウマ娘が幸福になれる世界を作り、それを支える存在』となることを目指しているのだな?」

「その通りだ」

「理解した。ゆえに、私は答えよう」

 

 シルバーバレットは肩越しに視線だけを向けて言った。

 

「私は我がトレーナーと共に世界の頂点を目指す。頂点に立つのは私達だけだ。『それ以外の全てを足元に積み重ねる支え』とさせてもらう」

 

 ――シンボリルドルフ、君と君の理想も含めて。

 

 そう告げて、シルバーバレットは控室から出ていった。

 それは明確な宣戦布告だった。

 全てのウマ娘の幸福を目指すシンボリルドルフに対して、全てのウマ娘を糧にして頂点を掴むと宣言したのだ。

 

 

 

 1か月後、開催されたレースにてシルバーバレットはエアグルーヴ含む多くの強敵を降して通算9連勝を達成した――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 To be continued……

 

 




ジョジョクロスなんでシリアスな場面も当然書くんですが、書きながら「ウインニングライブがあるんだから、こいつも『うまぴょい伝説』踊ってんのかな……」とか冷静な部分で考えちゃいますね。



・おまけ

SBR版ウマ娘『ナットロッカー』
原作ではチョイ役。
しかし、そんな短いシーンにアグネスデジタルも死ぬ要素が詰まっている。
では、まずはコミック23巻の90話のページを開いてください。
もう原作の時点でエモいシーンなんだけど、これをウマ娘に変換すると更に尊くなる。
ロシア国籍でシベリアのように冷徹な印象を与えるウマ娘『ナットロッカー』(軍人然とした無表情クール系)がトレーナーのバーバ・ヤーガと支え合いながら長い旅路を乗り越えてようやく第8ステージのゴール目前まで辿り着いたのに脚を負傷して走行出来ない状態になっておりそれでも無理して最終ステージに挑もうとするんだけど全てを察したバーバ・ヤーガが悪態一つ吐かずむしろ慈しむように彼女を抱きしめながらリタイア宣言をしてその腕の中で静かに悔し涙を流す場面は最高だと思うんだけどお前らどう?(ワンブレス)
多分、こいつら祖国に帰ってからうまぴょいしたんだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#6「ハイ・ヴォルテージ・レンジ」

ようやく書きたいシーンまで進めることが出来ました。
この作品を書き始めた当初は『チーズの歌』と『黄金長方形』のくだりをウマ娘世界でやりたいだけだったのに、何故ここまで前置きや伏線が長くなってしまうのか…コレガワカラナイ


 ――普通のウマ娘はレースの前に『イメージ』がある。

 

 かつて、ジョニィは言っていた。

 

 ――これから走るコースを、どういう配分で進むか。

 

 あの時はデビュー戦だった。

 初めて公式のレースで走ったのだ。

 経験も何もない素人だった。

 

 ――何処で休んで、何処で勝負を仕掛けるか。

 

 だが、今は違う。

 レースこそこれでまだ3回目だが、その程度の知識は当たり前だと思えるくらい学んだのだ。

 ゲートに入るまでに、今回のレースへのイメージや作戦はしっかり頭の中で確立させてきた。

 行き当たりばったりの走りなんてしない。

 このレースは絶対に勝たねばならないのだから。

 勝たなければ『アイツ』に挑戦すら出来ない。

 

 ――そういうイメージがあるのが前提なんだよ、このマヌケッ!

 

 しかし、ゲートが開いた瞬間それまで頭の中にあった考えは全て吹き飛んで消えてしまっていた。

 ジョニィの罵声が聞こえたような気がした。

 それも同じように消え失せる。

 何故ならゲートが開いた瞬間、『アイツ』が1番に飛び出していったからだ。

 もう2度と見たくないと思った背中が、自分の前を走りやがったのだ。

 それを見た途端、もうソイツを追い抜くことしか頭の中になくなってしまった。

 今日のレースの参加者は自分も含めて12人いるが、その中にコイツはいなかったはずだ。

 一体、どうやってすり替わったのか。

 それとも、13人目としていつの間にか加わっていたのか。

 自分でも頭のおかしいことを考えていると分かっている。

 そんなことが在り得るはずがないのだ。

 しかし、現実に目の前をアイツが走っている。

 ……現実か?

 いや、どうでもいい。

 いるのだ、目の前に。

 自分は、またアイツの後ろを走らされているのだ。

 その事実だけに囚われてしまっていた。

 視界にあるのはその後ろ姿だけだ。

 本来いるはずの11人の走者達の方こそ、視界から消えてしまっている。

 ただ目の前の背中を追い抜く為に、必死で走った。

 自分が何処を走っているかも分からなくなっていた。

 確か、コースは長距離だ。

 具体的には何mだっただろう?

 今、どの地点を走っているのだろう?

 イメージもペース配分も、もう頭の中にはない。

 ただ1つのことでいっぱいだ。

 追いつけない。

 クソ。

 クソッタレ。

 あの日と同じだ。

 ずっとアイツの背中を睨みながら走っている。

 1度もアイツの面を拝めないまま、ゴールしてしまう。

 またか?

 また負けるのか?

 勝つと宣言したじゃねえか。

 アタシの勝利を信じろとジョニィに言ったじゃねえか。

 なのに、追いつけない。

 クソ。

 何が長距離だ。

 全然距離が足りねえんだよ。

 レースが終わってしまう。

 アイツに前を走られたままレースが終わってしまう。

 もっと距離を伸ばしてくれ。

 あと少し走れば追いつけるんだ。

 スタミナなんて配慮しなくていい。

 走り終えた後に酸欠でぶっ倒れても構わないから。

 もっと距離を。

 ゴールを過ぎてしまう。

 このまま。

 アイツの背中を睨んだまま。

 アイツの後ろを走ったまま。

 ゴールへ――。

 

『ゴールドシップ! 大差で今、ゴールイン!』

 

 ……え?

 

『圧倒的な実力差を見せつけ、レースを制した! 1位、ゴールドシップ!!』

 

 我に返ると、実況が自分の勝利を騒ぎ立てていた。

 観客席からは称賛と喝采。

 それを呆然と受け止める。

 周りが何を言っているのか理解出来なかった。

 1位だと……?

 それは自分が1番先にゴールをしたということなのか?

 そんなはずはない。

 だって、自分はずっとアイツの背中を見ることしか出来なかったんだ。

 勝てなかったんだ。

 ずっと前を走られた。

 追いつけなかった。

 ゴールを抜けた先、アイツが立っている。

 あの時と同じ、いけ好かない余裕の笑みでこちらを見ている。

 負け犬を見る眼で見下ろしている。

 アイツが。

 

 シルバーバレットが――。

 

 

 

 

 

 

 その日のトレーニングに来たゴールドシップを見た時、ジョニィは『とりあえず走らせた方がいい』と思った。

 疲れ果てるまでグラウンドを走らせた方がいい、と。

 ゴールドシップは何も言わずに従った。

 何週走れとか、どういったペースで走れとかも言われていない。

 ただガムシャラに走った。

 本来ならば、スタミナが尽きて自然と脚を止めるものだが、天性の肉体とそれを凌駕する精神力を持つ彼女はどれだけ疲れても止まらなかった。

 体力以上に、肉体の内に抱え込んだ堅い意志のようなものが彼女に脚を止めることを許さなかった。

 走り続けるゴールドシップを、ジョニィは何も言わずにずっと見つめていた。

 放課後、残ってトレーニングをしていた生徒達のほとんどが帰宅するだけの時間が経っても、そうしていた。

 やがて、精神力だけではどうにもならないほど体力を消耗して、ほとんど歩くように目の前を通り過ぎようとしたところへ、初めてジョニィは声を掛けた。

 

「そこまでだ、ゴールドシップ。疲れでフォームが崩れている」

 

 立ち止まったゴールドシップは、汗だくの顔をジョニィに向けた。

 

「スタミナを消耗したからフォームを崩すんじゃない。逆だ。フォームを崩さなければ、スタミナの消耗は最小限に収まる」

「……ああ、そうだな。気を付けるよ……」

 

 息も絶え絶えに、ゴールドシップは頷いた。

 普段の彼女を顧みれば、殊勝を通り越して違和感すら覚える態度だった。

 普段ならば、軽口の1つも飛んでくるはずだ。

 どんなに理屈の通ったトレーニングでも、気が乗らない日はとりあえず愚痴や文句の1つも言ってみる。

 そういう性格だったはずだ。

 どんなに過酷なトレーニングで疲れても底を見せない余裕を持っているのが、ジョニィの知るゴールドシップだった。

 

「重症だな」

「……へっ、そう見えるか?」

 

 ジョニィの呟きに、ゴールドシップは苦笑を浮かべた。

 そこにいつも見せる力強さや快活さはない。

 虚勢すら張れない笑みだった。

 

「ああ。少しずつ弱ってる感じはあったけど、先日のレースに出てから一層酷くなったよ」

 

 一週間ほど前に出走したレースの内容と結果を指して、ジョニィは言った。

 シルバーバレットやシンボリルドルフが出走するレースへの参加資格を得る為に出た、ゴールドシップにとってメイクデビューを除く2度目の公式レースだ。

 ゴールドシップは、そのレースで勝利した。

 単なる勝利ではない、後続との大きな差をつけての1着だ。

 圧倒的な結果だった。

 スタートからゴールまで、彼女は誰にも影すら踏ませることなく『逃げ』切った。

 より格式高いレースに比べれば規模や人気は劣るが、その場にいた観客達は思い知っただろう。

 ゴールドシップというウマ娘は、既にこの程度のレベルに収まる実力ではない。

 実績が足りないだけで、その力は格上相手にも届き得る、と。

 その評価は彼女がシルバーバレット達と対決する舞台に登る為の後押しの1つとして、世間に少なくない説得力を与えた。

 ジョニィの目論見通りだった。

 ゴールドシップがシルバーバレットと同じ舞台に立つ為の下準備は順調に進んでいる。

 しかし、彼女に勝てる可能性は日に日に遠のいている気がした。

 

「あの日のレースで君は『追い込み』の作戦を取っていたハズだ。事前にもそう話し合った。だが、君は結果的に『逃げ』を選んで勝った」

「……選んだんじゃねーよ」

「そうだろうさ。君は追い掛けたんだろう――シルバーバレットの幻影を」

 

 ジョニィの指摘を受けても、ゴールドシップは肩で息をしながら佇むだけだった。

 それは無言の肯定だった。

 圧倒的な大差でゴールをした後、歓声を上げる観客や着順掲示板にさえ視線を向けずに呆然と佇むゴールドシップが、今の姿と重なった。

 自分が勝利したことを信じられず、戸惑うように辺りを見回していた。

 何かを探しているようだった。

 いるはずのない『本当の勝者』の姿を。

 勝利を祝福する喝采を浴びながら、彼女は敗北感に包まれていたのだ。

 

「……幻影。そうだな、アタシが見たのは幻だ。アタシはいるはずのないシルバーバレットの姿を追いかけて走ってたんだ」

 

 そう呟くゴールドシップの声は弱り切ったものだった。

 

「ジョニィの言う通り、マジで重症だなこりゃ。レース中にあんな奴の幻を見るなんて、フツーじゃねーよ。アイツ、呪いでも掛けてんじゃねーか? いや、マジであり得るかも……」

 

 ゴールドシップは何とか軽口の形にしようとしていたが、ジョニィにはそれが彼女の抱える不安の一部なのだと分かっていた。

 恐れていた事態になりつつある。

 

 ――シルバーバレットに一度負けたら、もう『勝てない』と思い込まされる。

 

 そう言ったのはゴールドシップ自身だったが、奇しくもそれが事実であったことを彼女自身が証明しつつあった。

 シルバーバレットとの勝負の日が近づく程に、彼女の精神が刻み込まれた敗北の記憶に蝕まれていくのだ。

 呪い、という表現は決して大袈裟なものではないと思った。

 これはシルバーバレットがゴールドシップに残した『呪い』そのものだ。

 その『呪い』が、レースに出る度に幻となって彼女の目の前に現れる。

 ゴールドシップが勝負を急ぎ、ジョニィが彼女をレースに極力出さない判断を下した理由がそこにあった。

 日々のトレーニングによってゴールドシップの能力は確実に向上している。

 しかし、先日のレースではジョニィがメイクデビューで見た彼女の本来の走りは失われていた。

 他の選手との駆け引きだとか、ましてやそれを楽しむ余裕だとかは一切見られない。

 ただ必死に、いるはずのない敵の背中を追い抜こうとする悲壮な姿だけが、ジョニィの眼には映っていた。

 あのレースに勝てたのは、ゴールドシップの才能と実力による単純な力押しの結果に過ぎない。

 もしも、あれがシルバーバレットとの本当の勝負だったのなら――。

 勝ち目はない。

 力ではなく意思が負ける。

 シルバーバレットだけではなく、同じく出走するシンボリルドルフやあるいは他の選手にまで。

 ゴールドシップ自身も、それを薄々気付いているのだ。

 気付いていて、どうしようもない所まで追い詰められつつあるのだ。

 

「まあ、言ってもしょーがねーよ! アイツとの勝負までもう半月を切ってんだし、呪いを解く為の神父さん探してる暇もねーし! 本番に向けて日々鍛錬あるのみってな!」

 

 ゴールドシップは気分を切り替えるように大声で笑った。

 しかし、本当に切り替えられるわけがなかった。

 全身を汗で濡らしたまま拭うこともせず、疲労で震える脚を無理矢理動かして、再びグラウンドを走ろうとする。

 

「ゴールドシップ」

「分かってるよ。フォームに気を付けろ、だろ」

「ゴールドシップ、そこに座るんだ」

「何だよ? お喋りしてるヒマはねーぞ」

 

 ゴールドシップは苛立ったように、ジョニィを睨みつけた。

 

「こうなることは分かってたんだ。分かってて負けそうになってるアタシの弱さだ。くだらねー慰めなんて……」

「慰めも説教も口にするつもりはない」

 

 ジョニィは強い口調で切り捨てた。

 その瞳には厳しさと決意が宿っていた。

 

「僕は君のトレーナーだ、ゴールドシップ。君を勝たせる為にいる。君が1人で越えられない壁にぶつかったのなら、僕が導く。今、決心した」

 

 ジョニィの覚悟を宿した言葉が、ゴールドシップの焦りを吹き飛ばすように響いた。

 走ることも忘れて呆然と佇む彼女は、やがて大きく息を吐いて、無意識に強張っていた身体の力を抜いた。

 

「……分かったよ、座ればいいんだろ」

 

 観念したかのように、その場に座り込んだ。

 地面に腰がついた瞬間、それまでの疲労が一気に襲ってきたかのように身体が重くなった。

 だから、座りたくなかった。

 次に立ち上がることが出来るのか分からなくなってしまった。

 しかし、ゴールドシップはもう腹を据えたかのように胡坐をかいて、ジョニィを見つめた。

 

「それで、どうするんだ?」

 

 ゴールドシップの問いに、ジョニィは答えた。

 

「――『LESSON(レッスン)』だ、ゴールドシップ。君がシルバーバレットに勝つ為の『技術』を、今ここで教える」

 

 

 

 

 

 夕暮れ時を過ぎたグラウンド。

 自動点灯する大型照明によって明るさは保たれているが、特別に申請でもしない限り、この灯りも一定の時間帯を過ぎると消灯される。

 既に、ゴールドシップとジョニィ以外周囲にはいない。

 皆、トレーニングを切り上げて寮へと帰ったのだ。

 2人だけが残った空間で、ジョニィの言う『LESSON』が始まろうとしていた。

 

「……その『技術』っつーのは、スローダンサーが使ってたあの『技術』のことでいいのか?」

 

 さすがのゴールドシップも無意識に息を呑むほどの緊張があった。

 テレビ越しにも見た不可解な『技術』

 才能の限界を迎えたウマ娘を、更なる領域へ押し上げた『技術』だ。

 しかも、その『技術』を身に着けたスローダンサーは、恐らく世界中でほとんどいないだろう『シルバーバレットを追い詰めたウマ娘』なのだ。

 結果的に勝つことは出来なかったが、今の自分などよりもずっとシルバーバレットに迫ったウマ娘だった。

 何故、今更それを教える気になったのかは分からないが、自分に最も必要なトレーニングであるような気がした。

 

「ああ。だが、まずはLESSON1――『妙な期待はするな』」

 

 無意識に表情を明るくするゴールドシップへ、ジョニィは厳しく告げた。

 

「これから教える『技術』は君がレースに勝つ為に必要なものだ。だけど、この技ひとつで勝てるほど甘い相手じゃない。まず、それを確認する」

 

 普段のゴールドシップならば、こんな縋るような期待を抱いたりしない。

 彼女には自分の走り方がある。

 この『技術』に関しても、普段の彼女ならば『面白そうなトレーニング』程度の感想しか抱かなかっただろう。

 そういう余裕を持っていた方が『技術』を教えるよりもずっと彼女の力になっただろうし、ジョニィも彼女自身の走り方を信じていた。

 しかし、シルバーバレットに敗北した記憶は予想以上に彼女の精神にダメージを与えていた。

 彼女が本来の走り方を取り戻すには、やはりシルバーバレットに打ち勝つしかない。

 

「シルバーバレットの強さには2種類ある。1つは『経験』だ」

「まあ、そりゃ分かり切ったことだな」

「ああ、どうしようもない差だ。君を積極的にレースに出して経験を積ませることも考えたけど、たった半年でこの差を埋めることは出来ないだろうし、それよりも君の成長率を逐一分析される方が不利になると判断した」

 

 それに、今のゴールドシップにとってレースは勝とうが負けようが苦痛でしかないだろう。

 ジョニィは言葉の後半をあえて口にしなかった。

 ゴールドシップ自身もそれは理解しているだろうからだ。

 

「君に経験させたい日本の有力なウマ娘が、ほとんどシルバーバレットとのレースに行ってしまったというのもあるね」

 

 結果的に、シルバーバレットは日本のあらゆる種類のレースを経験したことになる。

 様々なバ場で代表的な選手を相手にした経験値は、海外のウマ娘が得るアドバンテージとしては相当に大きい。

 十連覇最後のレースは体力や体調から見てもシルバーバレットにとって不利ではないかと世間では言われているが、2人は共通してその考えを否定した。

 ディエゴとシルバーバレットは盤石の体勢で、シンボリルドルフを代表とする日本のウマ娘達との最後のレースに臨むだろう。

 

「ゴールドシップ、実際に共に走った君なら分かっていると思うがシルバーバレットの持つ『経験』というのは、ペース配分や駆け引きといった程度のものだけじゃない」

「分かってるよ。アイツには多分、より速く、有利に走れるコースの『ライン』みたいなものが見えてる」

「そうだ。日本と海外のコースの違い、芝や土の硬さを克服出来た能力がそれだ。『SBR』を経験したことで、奴のその能力は世界でもトップクラスに極められたと言ってもいい。あのシンボリルドルフさえ及ばないかもしれない」

「……つまり何か? シルバーバレットの見極めた『ライン』が一番いい『ライン』だって言うのか? アイツの走る『ライン』が一番速くて有利だっつーなら、どうやって追い抜くんだよ? ベストを取られてるなら、アタシの『抜き所』は何処だ?」

 

 その問い掛けにジョニィはすぐには答えなかった。

 

「……シルバーバレットの『ライン取り』の『ミス待ち』だな。それしかない」

「『ミス待ち』だぁ……? アイツがミスる『かも』だと? それを悠長に待ちながらアイツの背中を追っかけてろってのかよ、ジョニィ!」

 

 ゴールドシップは怒りを滲ませて叫んだ。

 立ち上がれるだけの体力が残っていれば、そのままジョニィに掴みかかっていただろう。

 

「そんなのはダメだ! そういうのはよぉ……何か違う! 違うぜ、ジョニィ! アタシがアイツに勝つっていうのはそういうことじゃねぇッ! アイツをぶち抜いてゴールすることがアタシの勝ち方だッ!」

 

 ゴールドシップは叫びは、ジョニィの作戦に対して殴りかかるようだった。

 他に何かいい考えがあるわけではない。

 自分が相手よりも経験で遥かに劣っていることは自覚している。

 自覚していて、なお叫ばずにはいられなかった。

 彼女の中で燃えている何かが、その作戦を許さなかった。

 

「……なんだ、言えるじゃないか。『そういうこと』が」

 

 理屈のない反論に対して、むしろジョニィは安心したように笑って返した。

 ゴールドシップは一瞬呆けた後、僅かに羞恥で顔を赤くした。

 

「ジョニィ、アタシを試したな!?」

「どれだけガッツが残ってるのか知りたかっただけさ。今後のトレーニングにも影響するしね」

「うっせー、バーカ! バーカ!」

「まあ、実際に試す意味もあったけどさ、言ったことは本音だよ。シルバーバレットが見極める『ライン』以上のコースを、今の君が見つけられるとは思えない」

 

 ようやく普段通りの軽口が交せたことに安堵する気持ちを隠して、ジョニィは厳しく告げた。

 

「最初のレースでシルバーバレットの背後についたのはいい作戦だったと思う。本番でもマークしてゴール直前で差す作戦で行ってみるかい?」

「……いや、ダメだ。多分、あんな手は2度と通じねぇ。なんとなくだけど、そう思う」

「そうか。じゃあ、やめとこう」

「いいのか? アタシの単なる勘だぜ」

「『経験』じゃあ勝ち目がない。となると、それを補えるのは君の持つ『センス』だ」

 

 ジョニィの持つ経験や常道で作戦を考えれば、敗北の可能性をどうしても払拭出来ない。

 トレーニングでは鍛えようもない部分である以上、ゴールドシップが本番で発揮する『センス』が勝負の要になると考えていた。

 

「僕から見ても君の持つ『センス』は計り知れない。僕のちっぽけな視野には収まり切らない、その可能性に賭けたいと思う」

 

 そう言ってゴールドシップを見据えるジョニィの瞳には、疑念や不安といったものは全く映っていなかった。

 自分が担当するウマ娘の力を信じる、理想的なトレーナーの眼をしていた。

 

「……まあ、ジョニィの考えは分かったよ。本番でどうするかは、アタシが決める」

 

 ゴールドシップは僅かに視線を外して答えた。

 信頼される恥ずかしさもあるだろう。

 しかし、本当は『任せとけ』とでも力強く答えたかったはずだ。

 それが出来なかった。

 やはり、今の彼女に必要なのは勝利の可能性を見出せるだけの力と根拠だ。

 

「話を続ける。シルバーバレットのもう1つの強さは『能力』だ。優れた才能を鍛え上げた奴は、純粋に強い」

 

 言いながら、ジョニィは車椅子のポーチに手を伸ばした。

 

「これに関しては、正直不利と感じるほど差はないと思っている。君の身体能力は決して奴にも劣らない。優れている部分さえあると僕は判断する」

「レース出る代わりにひたすら鍛えてたからなー」

「だけど、ここにも『経験』が関わってくるんだが……ゴールドシップ、おそらく君は当日、本来の実力の8割も発揮出来ない状態になるだろう」

 

 ジョニィの推測に対して、ゴールドシップは反論しなかった。

 

「そういう『思い込み』になってしまうかもしれないから、本当は言うつもりはなかったんだが……君自身も、もう理解してしまっているんだろう?」

「ああ、本人がいないレースで幻覚まで見ちまうほどだからな」

「君はシルバーバレットという存在に強く囚われてしまっている。本番のレースでは、その影響がより顕著に出るハズだ。高い確率で君は『掛かった』状態になると思う」

 

 それは予想というよりも、ほとんど確定した未来だと2人は冷静に捉えていた。

 

「シルバーバレットとの対決は国内最大規模のレース場で行われる。出走者は18名。距離は3200m。長距離に分類されるレースの中でも特に長いコースだ」

「さすがにその距離はゴルシちゃんも初めての長さだな」

「それでも君のスタミナなら十分に走り切れる距離だ」

「1位だって狙えるぜ。……普段通りの調子で、並の相手だったらな」

「残酷に響くかもしれないけど、言わせてもらう。現在の君ではシルバーバレット本人を前にすれば間違いなく動揺する。レースに臨む精神状態としては、むしろ何も知らなかった最初のレースの時の方が万全だった」

「……」

「手足は思うように動かず、疲れは普段より何倍も早く、重く感じるようになる。他の選手の集団にブロックされる状況ならまだマシな方だ。シルバーバレット以外の背中を見ることは、君にとって限りない焦燥と苦痛を与えるだろう。そうして何も考えられなくなった時、君は敗北する」

 

 ジョニィはまるで当日の光景を見てきたかのように語った。

 それは単なる妄想やイメージではない。

 ゴールドシップ以前に、多くのウマ娘の育成に関わり、レースに送り出したベテラントレーナーとしての経験から来る確かな説得力があった。

 

「――だから、君に『技術』を教える。最初に言った通り『妙な期待はするな』 これから教えるのは一発逆転の奥の手なんかじゃない、本番で抑え込まれる君の力を引き出す為の『技術』だ」

 

 そう言って、ジョニィはポーチに差し込んでいた手を抜き出した。

 その手には『鉄球』が握られていた。

 ゴールドシップも、これまでに何度か彼が手で玩んでいたのを見たことがある。

 1度訊ねたこともあるが、親友の形見のような物らしい。

 用途は分からない。何かのトレーニング用の道具かとも思った。

 しかし、それを聞いてから、何となくその鉄球に関する質問は控えるようになった。

 その鉄球が今、話の本題に関わるようにジョニィの手の中で『回転している』――。

 

「……おい、それどうやって回ってるんだ?」

 

 ゴールドシップは不可解なものを見ているかのように訊ねた。

 ジョニィの手のひらの上で、鉄球は鋭く回転を続けている。

 もう片方の手を使って回した様子はなかったし、手で回したにしては回転が速すぎる。

 何よりも『止まらない』のだ。

 その凄まじいスピードを維持したまま、鉄球は回転し続けていた。

 

「僕とスローダンサーがこの『技術』を学んだのは、『SBR』レースで出会った『ジャイロ・ツェペリ』というトレーナーと『ヴァルキリー』というウマ娘からだ」

 

 ゴールドシップの質問には答えず、ジョニィは話を続けた。

 

「結論から言うと、スローダンサーが身に着けた『技術』とはこの鉄球のような『回転の技術』に秘密がある。ジャイロの一族であるツェペリ家が『無限』への追及の果てにこの技術へ昇華したと言っていた」

「か、『回転』……? それに『無限』だって? オイオイ、アタシ達は今レースの話をしてるんだよな?」

「いいから聞け! これは僕も受け売りだし、現実に眼にするまで信じられない気持ちなのも分かる。だけど、確かにあるんだ。『回転』には計り知れないパワーと秘密があるッ!」

 

 そう言って、ジョニィは鉄球を持った手をゴールドシップの前に差し出した。

 依然として鉄球は高速で回転を続けている。

 手のひらの摩擦などで勢いが落ちる様子はない。

 放っておけば、それこそ『無限』に回転し続けているかのように。

 ちっぽけな鉄の球がただ回っているだけの光景に、ジョニィの言うような計り知れない何かを感じて、ゴールドシップは小さく息を呑んだ。

 

「ゴールドシップ、座っていろよ。今から君を『立たせる』」

 

 それはどういう意味だ――?

 そう訊ねるより早く、ジョニィの手のひらから意思を持ったかのように鉄球が飛び出していた。

 回転をしたまま鉄球は高速で飛来し、座り込んだゴールドシップの太ももに触れた。

 鉄の塊がぶつかる衝撃はなかった。

 代わりに、鉄球の回転に服と皮膚が巻き込まれたと思った次の瞬間、ゴールドシップは『立ち上がって』いた。

 

「な……何ィ!?」

 

 立とうという意思はなかった。

 そもそも立ち上がる為の気力も体力も尽きていたはずだった。

 しかし、何かを考えたり感じたりする間もなく、自分は立ち上がってしまっている。

 疲労や倦怠感が行動を阻害する間もなく、肉体が勝手に動いていた。

 その現象を起こした鉄球は、これもまた不可思議なことに回転を維持したまま、飛んできた軌道を巻き戻るようにジョニィの手の中へと収まった。

 

「これがLESSON2だ。『筋肉に悟られるな』 鉄球の回転は君の皮膚にだけ作用した。皮膚までなら筋肉は気付かない。回転を使えば、意識に関係なく筋肉を理想的に動かすことも出来る。精神に左右されることなく、潜在する身体能力を引き出すんだ」

 

 ゴールドシップは呆然と佇んだまま、ジョニィの話を聞いていた。

 初めて会った時から、2人の関係はどちらかといえばゴールドシップがジョニィを振り回す側だった。

 彼は自分に『何を考えているんだ』とか『頭がオカシイのか』とか得体の知れないものに対するように色々と言ってきたが、たった今それを返上したくなった。

 目の前の男も相当得体が知れない。

 

「……世界は広いぜ。ゴルシちゃんの想像もつかないモンが、世の中にはあるんだな」

「本当は『鉄球の技術』にはもっと深遠な奥義が存在するらしい。それを極めたジャイロ達とは違って、僕が出来るのはこの程度だ」

「『達』って……クソッ、眩暈がするぜ。こんなワケのわからねー技術を極めた奴が、人間とウマ娘の両方にいるってのか。現実感があるのかないのかもう分かんねーな」

「とにかく、『回転の技術』にパワーと秘密があることは見ての通りだ。なんとか受け入れてくれ。これはまだ『初歩』に過ぎないんだ」

「『初歩』かよ……これ以上何が飛び出してくるってーんだ?」

「他人事のように言うけどね、ゴールドシップ。君は既にその『初歩』を身に着けてるんだぜ」

「……え?」

 

 ジョニィの思わぬ言葉に、ゴールドシップは一瞬呆気に取られた。

 彼の見せた『手品』や『魔法』と言った方がまだしっくりくる『技術』を、自分が既に一部身に着けていると言ったのか?

 最初は何を言っているのか理解出来なかった。

 しかし、これまでのジョニィと過ごした日々を思い返して、気付いた。

 彼の持つ『回転の技術』を身に着ける機会があったとすれば、それは彼の課すトレーニング以外に在り得ない。

 そして、彼の考えたトレーニングメニューの中で唯一『特別』だと感じるものがあった。

 

「――『フォーム』か!? アタシに教えた『フォーム』の中に『回転の技術』が仕込まれていたのか!」

 

 その叫びを肯定するように、ジョニィは鉄球を握り込んで回転を止めた。

 

「正解だッ! 僕が回していた鉄球は手首だけで回転させたものじゃない。『腰』『肩』『肘』『手首』『指』と関節のわずかな捻りを繋いで螺旋状に円を描くことでエネルギーを生み出し、鉄球に伝えていた。身体全体で回すから強力な回転のパワーを得られる」

「身体全体……!」

「脚の動かない僕と違って、君には下半身からも回転のパワーを生み出すことが出来る。走りながら全身の動きで『回転の円』を描くんだッ! そこに『無限のパワー』が生まれるッ!」

「……マジで言ってる、それ?」

「LESSON3『回転を信じろ』――回転は無限の力だ。それを信じろ」

 

 ジョニィの真剣な表情と瞳に気圧されるように、ゴールドシップは戸惑いながらも何とか話の内容を呑み込もうとした。

 単なる与太話ではないことはハッキリしている。

 現実に、その力の一端を眼で見たのだ。

 フォームに関しても、確かにジョニィの指導を受けることで速く走れるようになった実感はある。

 それが単なる身体能力の向上ではなく秘められた技術による成果だと、明確な意図をもってトレーニングを課したジョニィ自身が言うのなら信じるしかないだろう。

 しかし、全てを信じ切るには足りなかった。

 スケールが大きすぎるのだ。

 

「し……信じろって言われてもよぉ、ジョニィ。確かにアンタの言う『回転の技術』に不思議なパワーはあるのかもしれない。けどよ、なんつーか……話のレベルが急に飛びすぎじゃねーか? いきなり『無限』なんて単位だされてもゴルシちゃん混乱しちゃうんですけど。宇宙の話をしてんじゃねーんだぞ」

「君は自分のフォームが生み出す力を実感したことはないか?」

「いや、そりゃあ多少は効果が出てるのかもしれねーけどよ。だけど……やっぱり、そういう『手応え』を感じたことはねーよ。そんなモンを感じてたら、アタシだってこんなに不安になったりしねーって」

 

 無意識にシルバーバレットの姿を思い浮かべて、ゴールドシップは眉を顰めた。

 やはりダメだった。

 ジョニィに自分が身に着けたフォームの秘密を聞かされても、勝てるイメージが浮かばない。

 彼の語った真剣な話の内容は信じるに値する。

 回転の中で生まれる『無限のパワー』というものは本当に存在するのかもしれない。

 しかし、自分のフォームが生み出す回転にそういった力が宿るとはとても思えなかった。

 

「それは君の描く『回転』がまだ不完全だからだ」

 

 俯きそうになるゴールドシップに、ジョニィは言った。

 

「だからこそ――『敬意を払え』だ。敬意を払って回転の更なる段階へ進め……LESSON4だ」

 

 鉄球を車椅子のポーチに戻す。

 ここまでの話は『ここから先の段階』へ進む為の準備に過ぎなかった。

 ジョニィは、かつて『SBR』レース中の極限状態でジャイロから教わったことを思い出していた。

 彼がやったように、上手くゴールドシップを導けるかは分からない。

 ここから先はツェペリ一族の『奥義』とも言える領域だ。

 自分やスローダンサーが、それを身に着けることが出来たのは偶然の部分も大きい。とても才能だったなどと自惚れることは出来ない。

 しかも、身に着けた『回転の技術』は2人とも不完全なものだった。

 ジャイロやヴァルキリーが極めていた領域へは到底届かない。

 スローダンサーは勝てず、自分の脚は動かなかった。

 それが自分の限界であり現実だ。

 同じウマ娘であるスローダンサーが教えた方が、まだゴールドシップにとって力になるかもしれない。

 しかし、それでも――。

 

「まず最初に言っておく、ゴールドシップ」

 

 導かなくてはならない。

 彼女の勝利を信じるトレーナーとして。

 

「君はこれから『できるわけがない』というセリフを、4回だけ言っていい――」

 

 

 

 

 

 

 ――その日、国内最大規模のレース場は観客席を埋め尽くすほどに盛況を極めていた。

 

 数多くの格式あるレースの舞台となったこの場所で、今最も新しく、最も型破りなレースが行われようとしている。

 後年開催される予定である『URAファイナルズ』を一足先に持ち込んだような、日本を越えて世界の注目も集める国際的レースだ。

 十連覇宣言の達成まであと1勝を残す『世 界(ザ・ワールド)』シルバーバレット。

 国内での偉業達成後しばしの沈黙を経て再び舞い戻ってきた『皇帝(カイザー)』シンボリルドルフ。

 そして、彼女達にも負けない実力と知名度を誇るウマ娘達。

 ファン投票で選ばれ、その未知数の実力で大番狂わせを起こすかもしれないと密かな期待を寄せられる数名の若手も添えて、ここに18名のウマ娘による長距離レースが開催されたのだ。

 話題性においては過去類を見ないレースだろう。

 世界中に放映された『SBR』の優勝者であるディエゴ・ブランドーとシルバーバレットのコンビに対して、準優勝者であるジョニィ・ジョースターが新たに日本で育成したウマ娘が挑むというだけでも世界的に注目の的だ。

 そこに日本国内で伝説を刻んだシンボリルドルフが加わる。

 国内海外に老若男女問わず、生粋のウマ娘ファンから話題に釣られて運良くチケットを手にした者まで、多くの人々がこのレース場に集まっていた。

 

「レースが始まるどころか、ウマ娘の誰も入場さえしていないのにすごい賑わいですわね」

 

 選手控室にまで届く声や音には、場慣れしたメジロマックイーンでも驚きを禁じ得なかった。

 観客やスタッフなど何十万もの人々が限られた敷地内に集まり、そこで蠢き、放つ熱がレース場を包み込んで独特の空間を形成しているようだった。

 文字通り、この場所は『熱狂の中心』だった。

 

「……緊張していますか、ゴールドシップさん?」

 

 メジロマックイーンは、すぐ傍にいるゴールドシップに努めて優しく問い掛けた。

 既にレースの為の『勝負服』に着替えたゴールドシップは、控室に入って以来ずっと椅子などに腰を休めることなく、立ったままだ。

 手足の調子を確認し、時折深呼吸を繰り返している。

 

「緊張? フフッ、違うぜ……これは集中というのだよ」

 

 ゴールドシップは芝居の掛かった口調で答えた。

 普段通りの軽口のようにも聞こえる。

 しかし、メジロマックイーンは全てを見抜いているかのように、その顔をじっと見つめた。

 

「本当に?」

「なんだよ、マックちゃん。アタシが本番を前にしてビビってるとでも言いてーのか?」

「……」

「……実は怖いの! お願い、抱いて!!」

「おやめなさい!」

 

 縋りつくゴールドシップをメジロマックイーンは慌てて引き剥がした。

 

「へへっ、ワリ―な。さすがのアタシも、普段通りの調子とはいかねーわ」

 

 メジロマックイーンとのやりとりで少しばかり余裕を取り戻したゴールドシップは、苦笑しながら素直な気持ちを口にした。

 メイクデビューを含めれば、公式のレース経験はたったの3回。

 4回目にして、この大舞台だ。

 事前に分かっていたこととはいえ、レースの実績という経験と自信を持たずにルーキーが挑むには荷が重すぎる舞台だった。

 何もかもが未体験の出来事ばかりだ。

 こうして袖を通した勝負服さえ、今日着るのが初めてである。

 

「勝負服、似合っていますわよ」

「マジ? 子にも衣裳ってヤツ?」

「本当に綺麗です。かっこいいですわ」

「……マックちゃん、やめてよ。弱ってる所に優しくされたらゴルシちゃん、コロっといっちゃう」

 

 ゴールドシップは、メジロマックイーンにそっと抱き着いた。

 ゴールドシップの方が身長が高い為、メジロマックイーンの頭を抱え込むような形になる。

 今度は拒まれなかった。

 ゴールドシップの広い背中に、優しく両手が回される。

 

「怖えよ、マックイーン。今日、あのシルバーバレットとの決着がつくんだ」

「1人にだけ囚われないで下さい。他の選手に足元を掬われますわよ」

「分かってるよ……いや、分かってねーのかも。なんかもう、既に頭の中がグチャグチャだ」

「しっかりしなさい、アナタは『ゴールドシップ』なのですよ」

 

 ゴールドシップの背中を数回強く叩くと、メジロマックイーンはそっと身体を離した。

 

「誰が相手だろうと関係ありませんわ。納得がいくまで走ることだけを考えていなさい」

「……分かった」

 

 ゴールドシップはようやく、それまでの虚勢とは違う本当の笑みを、少しだけ浮かべることが出来た。

 レースの時間が近づき、メジロマックイーンと連れ立ってパドックへと向かう。

 パドックとは、出走するウマ娘達の姿を観客に披露する場である。

 選手の状態を観察してその日のレースの予測を行う意味もあるが、勝負服の着用が許される格式高いレースでは着飾った彼女達の華やかな姿を純粋に楽しむ場でもあった。

 

「よお、ジョニィ。待たせたな」

 

 パドックへ入場する前に、ゴールドシップは付近で待っていたジョニィに声を掛けた。

 彼は直前まで記者の相手をしていたはずだった。

 今回のゴールドシップの参加には、色々と話題が尽きない。

 実力不足ではないか? 話題作りの為に強引に参加を捻じ込んだのでは? 実際のところシルバーバレットに勝ち目はあるのか?

 記者を相手にすることに慣れたジョニィならば、こういった無遠慮な質問にも問題なく対応出来ただろう。

 実際に、彼は普段通りの様子でゴールドシップを迎えた。

 

「もうすぐ選手がパドックの周回を始める。君も早く向かってくれ」

「オイオイ、ゴルシちゃんの晴れ姿を見て何か言うことはねーのかトレーナーさんよぉ?」

「ああ、日本じゃ『子にも衣裳』って言うんだっけ」

「このヤロウ……」

 

 顔を引き攣らせるゴールドシップの傍らで、メジロマックイーンはこっそり笑いを堪えていた。

 ジョニィは軽口のつもりだったのだろうが、それは外国人特有の日本のことわざの誤用だった。

 ウマ娘に対して『子にも衣裳』とは『美しいウマ娘に綺麗な衣装を着せれば完璧である』と意味する。

 ジョニィが視線を外した一方で、ゴールドシップは密かに頬を赤らめていた。

 それに気付いたのはメジロマックイーンだけである。

 

「そんなことより、事前の人気投票の結果を見たかい? やっぱり1番人気はシンボリルドルフだそうだ。優勝候補だってさ」

「あぁん? アタシじゃねーのか?」

「残念ながらね。ちなみにシルバーバレットは2番人気。君は9番に入ってる。実績よりも話題性で参加したにしちゃ、いい人気だと思うぜ」

「見る目ないね、世間の一般ピーポーはよォ」

 

 軽口を叩きながらも、ゴールドシップはシルバーバレットの名を聞いて無意識に周囲を見回していた。

 今回のような大規模なレースの場合、観客の人数が多すぎる為パドックは施設内に設けられている。

 関係者のみが現場に立ち合い、観客に対してはカメラで映したものを外部の大型モニターに投影して、解説を添える形式を採用していた。

 それでもスタッフやトレーナーを含めて何十人もの関係者が集まる中、ゴールドシップはその姿を見つけた。

 まずはシンボリルドルフ。

 威厳ある勝負服に身を包んだその美麗な姿は、この場で1番の注目を集めている。

 そして、シルバーバレット。

 白と銀を基調として青のアクセント加えた勝負服は、赤を基調としたゴールドシップの勝負服とは奇しくも対照的な印象を与える。

 彼女もまた、ただそこにいるだけで自然と視線を集める存在感があった。

 少し離れた位置にはディエゴの姿もある。

 ジョニィもディエゴも、お互いの存在にはとっくに気付いていたが、言葉はもちろん視線すら交すことはなかった。

 ここに至って、語り合うことなど何もないのだ。

 しかし、彼らの担当するウマ娘達は違った。

 じっと睨みつけるゴールドシップの視線に気付いたかのように、シルバーバレットがこちらを見て微笑を浮かべた。

 あの時と何も変わらない。

 向ける視線は格下を見る瞳だった。

 自分の勝利を最初から確信している顔だった。

 ゴールドシップは舌を出して、首を掻き切る仕草をしてみせた。

 シルバーバレットはそれを一笑に伏した後、興味を失ったかのように背を向けた。

 その背中を、ゴールドシップはずっと睨み続けていた。

 

「――どう思う? 我がトレーナー」

 

 ゴールドシップの貫くような敵意を背中で感じながら、シルバーバレットは何食わぬ顔でディエゴに問い掛けた。

 

「どうもこうもないな。やはり、ヤツは雑魚だ」

「君も同じ見解か?」

「ああ。あのウマ娘は警戒するに値しない。予定通り、今回のレースではシンボリルドルフだけをマークしろ」

 

 ディエゴは嘲笑すら浮かべて断言した。

 

「この期に及んで、ジョニィ・ジョースターは育成を誤った。ゴールドシップは、あの『技術』を身に着けてはいない――」

 

 

 

 

 

 

 ――君はこれから『できるわけがない』というセリフを、4回だけ言っていい。

 

 最初、ゴールドシップはジョニィの言ったことの意味が理解出来なかった。

 ここまで『回転の技術』について常識を超えた話を立て続けにされてきたが、それを踏まえても突飛な話の切り出し方だった。

 しかし、半ば呆気に取られるゴールドシップを尻目にジョニィは話を続けていく。

 

「いいな……『4回』だ。僕もジャイロからそう言われた」

 

 ジョニィは車椅子に備え付けてあった杖を取り出した。

 

「先ほど説明した通り、ジャイロの一族は『無限』という概念を技術に昇華したんだ。逆に言えば『回転の技術』の真髄は、この『無限』という概念にある」

 

 杖を使って、グランドの土に図面を描いていく。

 それは長方形の図だった。

 ゴールドシップは混乱しながらも、とにかくその図を見ながら話に耳を傾けた。

 

「『黄金長方形』という形がある。聞いたことがあるかい?」

「……黄金比のことか? 近似値にして1:1.618で表されるっていう。今描いた長方形は縦『9』横『16』の比率になってるってことだろ」

「ゴールドシップ、君はたまにアホかと思う時があるけど意外に博識だよな」

「うっせーよ! いいから話を続けろ! この『長方形』が一体何だっつーんだ!?」

 

 ゴールドシップが話を急かすと、ジョニィは続けた。

 

「この『長方形』は古代から、この世で最も美しい形の基本の『比率』とされているらしい。『ギザのピラミッド』『ネフェルティティ胸像』『パルテノン神殿』『ミロのビーナス』『モナリザ』――この世の建築や美術の傑作群には、計算なのか? あるいは偶然なのか? この『黄金の長方形』の比率が形の中に隠されているのだとジャイロは言っていた」

「……オイ、待ってくれ。何の話だ?」

「それは完璧な比率……これらの作品を作った芸術家達はその『長方形』を本能で知っている。だから『美の遺産』となって万人の記憶に刻み込まれるのだ、と」

「待てって、ジョニィ! オメーがこんな時に一体何を言い出してんのか、アタシにはさっぱり理解できねーんだが!?」

 

 ゴールドシップの戸惑いを無視して、ジョニィは再び地面に図を描き始めた。

 

「『黄金長方形』には次の特徴がある。正方形をひとつ、この中に作ってみる」

 

 最初に描いた長方形の中に、更に線を追加していく。

 縦に1本引かれた線が1つの長方形を『正方形』と『小さな長方形』の2つに分けた。

 

「残ったこの『小さい長方形』もまたおよそ9対16の比率の黄金長方形となる。これにまた正方形を作ってみる。この残りもまた黄金長方形だ。さらにまた作る。さらにまた……」

 

 ジョニィは図面に次々と線を引き、幾つもの正方形を作っていった。

 やがて描ききれないほどになると、最初に作った正方形の中心に杖を突き立てた。

 

「そして、この正方形の中心点同士を連続で結んでいくと――」

 

 ここまでの話を聞き、図面が示すものを察したゴールドシップは顔を青ざめさせた。

 

「無限に続く『うず巻き』が描かれる。これが『黄金の回転』と呼ばれる回転だ」

「ま……まさか!」

「君は『フォーム』が描く回転の円をこの通りに回していない……だから限界を感じている」

 

 ジョニィは動揺に揺れるゴールドシップの瞳を射抜くように見据えて告げた。

 

「『黄金長方形の軌跡』で回転せよ! ――そこには『無限に続く力』があるはずだ。君の走りの中にその力を宿すんだ」

 

できるわけがない(・・・・・・・・・)ッ!」

 

 ゴールドシップは思わず叫んでいた。

 ジョニィが最初に言った通りの言葉を。

 

「……今、言ったか? 『できるわけがない』……と?」

 

 ジョニィに指摘されて、ゴールドシップは我に返った。

 心の底からの動揺が、無意識に形になって口から飛び出していた。

 最初は意味の分からなかったジョニィの話が、少しずつ意味のあるものに変わっていく気がした。

 しかし、もしもそこに含まれた意味が真実ならば、これは計り知れない話だ。

 

「か……! いや、仮に……その黄金長方形の回転の力なんてのがあるとして、そんなこと、このアタシに……!」

 

 ゴールドシップは言葉を詰まらせた。

 頭の中が酷く混乱していた。

 いっそのこと、ジョニィの話が支離滅裂で妄想染みた与太話のようなものだったのならば、どれだけ呑み込むのが楽になっただろう。

 しかし、彼の話はここまでの実演も含めて現実的で、また同時に信じ難いものだった。

 理解は出来る。

 だが、実現出来るとは到底思えない。

 何と答えればいいのか分からず、歯を食いしばるゴールドシップをしばらく見つめていたジョニィは、やがて車椅子のポーチから1枚の小さな金属板を取り出した。

 

「ゴールドシップ、あと3回だけ『できない』と言っていいぜ。君が3回目に言った時……『これ』を君にやる」

 

 よく見れば、それは単なる金属板ではなかった。

 長方形の形にデザインされたベルトのバックルだった。

 表面の塗装が剥げ、薄汚れたバックルだった。

 

「ジャイロが使っていたベルトのバックルだ。これも『黄金長方形』の比率で正確にデザインされている。このバックルの形の軌跡上で正確に回転させれば、それは『無限の回転』をなぞることと同じだ」

 

 ジョニィはバックルの上で手のひらを回転させて見せた。

 

「この回転のイメージをフォームに反映させれば、それもまた無限の回転となる」

「そ、そんなのがあるのか!? 何言ってんだ、黄金長方形の『スケール』なんて……そんな便利なモンがあるなら最初から出せよ! やってみるから、ソイツを見せてくれ!」

「ダメだ」

「はあ!?」

「『できない』と3回目に言った時と言っただろう」

「バ……バカか、テメーッ! アタシをおちょくってんのかァー!?」

 

 ゴールドシップはジョニィに掴みかかった。

 身動きの取れない車椅子の相手にここまで遠慮していたが、もう我慢の限界だった。

 焦りと混乱で追い詰められていた。

 

「できるわけがない! そんなのすぐにできるわけがない! アタシがマジで悩んでるっつーのに何なんだよ!? フツーに考えてこんなこと、できるわけがない! オラッ! 3回言ったぞ、ジョニィ! さっさとその『スケール』を見せやがれ!!」

 

 捲し立てながら伸ばしたゴールドシップの腕から、ジョニィはバックルを遠ざけた。

 

「今のは、1回にしかカウントしないからな。あと2回だ。あと2回言った時やる」

 

 そう言って睨みつけるように向けるジョニィの視線には、有無を言わせぬ迫力があった。

 身体の不自由な相手に対して、人間よりも身体能力に優れたウマ娘だ。

 ゴールドシップが本気で奪おうと思えば、バックルを奪うことは出来ただろう。

 しかし、彼女自身薄々と感じていた。

 ジョニィの言動全てに意味があり、『黄金の回転』を得る為に必要なトレーニングのプロセスなのだと。

 それでも、彼の意図が分かったところで具体的な意味を理解出来なければ、自分は何も身に着けることは出来ない。

 

「クソォ……何なんだよ? それは何かの『試練』なのか? ゲームなんかしてる場合じゃねーんだぞ! 半月後にはあのシルバーバレットと戦わなきゃいけねーんだ!」

 

 ジョニィの考えていることが分からなかった。

 ただ弱気だけが、どんどん心の奥から湧いてくる。

 そんな自分への情けなさも。

 

「このままだとアタシは負ける。少しずつ少しずつ、その日が近づいてくるんだ……!」

「落ち着け、ゴールドシップ。あと2回だ……『できない』と言え」

 

 その場に崩れ落ちるゴールドシップの肩に手を置いて、ジョニィは繰り返した。

 

「いいか、『できない』と4回言うんだ。これから半月後のレースまで、トレーニングは普段通り続ける。それまでに言うんだ。君には、もう全て説明した」

 

 彼が何かを伝えようとしている意思は強く感じる。

 しかし、それが何なのかどうしても分からなかった。

 少なくとも言葉や文字で表現出来るものではない。

 それを理解しなければ『黄金の回転』は得られない。

 

「LESSON4だ、ゴールドシップ。『敬意を払え』――」

 

 意味の分からないジョニィの言葉だけが、ゴールドシップの頭の中で虚しく繰り返されていた。

 結局、その日のトレーニングはそこで終了した。

 そして、ジョニィの言う通り日々のトレーニングを繰り返した。

 彼に説明された通り、フォームに意識を向けながら走った。

 しかし、どうしても自分の走りに彼の言うような劇的な力が宿っているとは思えなかった。

 何度も『できない』と諦めかけながら、何処かでこの『できない』はジョニィの意図するものではないと理解していた。

 これは単なる自分の弱さからくる逃避の為の諦めなのだと。

 ゴールドシップは必死でトレーニングを続けた。

 そして――何一つ分からないまま、レース当日を迎えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 いよいよレースが始まる。

 観客席は満員だった。

 椅子が備えられた指定席はもちろん、レース場を隔てる柵の前まで立ち見する客が詰めかけている。

 その文字通りの最前列に、ジョニィはやって来ていた。

 車椅子用の席もあったが数が少なく、何よりレース場から遠い。

 一望するには良い位置かもしれないが、少しでもレースの近くにいたかった。

 ゴールドシップが走る場所の近くに。

 

「辛くはありませんか、ジョースターさん?」

「大丈夫だ。僕のことは気にせず、なるべく君の楽な体勢でいてくれ」

 

 人の詰めかけた最前列に車椅子を持ち込むスペースなどない。

 ジョニィはメジロマックイーンに支えられる形で、そこに立っていた。

 

「助かったよ、マックイーン。ゴールドシップへのフォローといい、君には世話になりっぱなしだ」

「お気になさらず。ゴールドシップさんへのお節介はわたくしが好きでやってことですし、今回のレースを少しでも近くで見たいのは同じですわ」

 

 レース場に出走者であるウマ娘達が姿を現し、周囲が大きな歓声に包まれた。

 この歴史的大舞台を前にして、粛々とゲートへと向かう者、観客にアピールをする者、様々な様相を見せてウマ娘達は進んでいく。

 シンボリルドルフは前者、シルバーバレットは後者だった。

 そして、ゴールドシップは両手にピースサインを見せながら一際目立つパフォーマンスで観客席にアピールを繰り返していた。

 実況がその様子に軽く触れ、場を盛り上げる。

 一見すると、ゴールドシップは若手にあるまじき余裕と度胸を見せつけているように思える。

 しかし、ジョニィとメジロマックイーンにはそれが自分を奮い立たせる為の虚勢であることが分かっていた。

 

『このレース、最も人気を集めているのはシンボリルドルフ、1番人気です』

 

 全てのウマ娘達がゲートに入り、出走の準備が整いつつある。

 

『この評価は少し不満か? 2番人気は今や日本に旋風を巻き起こしているウマ娘、シルバーバレット』

 

 実況と解説が、準備完了までの前置きとして3番人気までのウマ娘達に軽く触れていく。

 当然、人気の劣るゴールドシップに触れる機会はない。

 しかし、彼女の存在が今回のレースで密かに注目を集めているのは間違いなかった。

 シルバーバレットを相手に奇跡の勝利を掴むのか、それとも無惨に敗北するのか。

 そういった複雑に入り混じる前評判を承知の上で参加を捻じ込んだのだ。

 普通のウマ娘ならば、そういった観客の期待がプレッシャーとなって余計な負担を掛けるだろう。

 しかし、今のゴールドシップにはそれさえ届かない。

 ジョニィは険しい表情で、そう考えていた。

 

「……ゴールドシップさんは、大丈夫ですか?」

 

 メジロマックイーンは、拭いきれない不安から曖昧に訊ねることしか出来なかった。

 ゴールドシップは、どう見ても本調子ではない。

 普段の彼女からは想像も出来ない姿だった。

 シルバーバレットに勝つとか、あるいは健闘するとか、そういったレベルですらない。

 ちゃんと走れるのか――そう不安になってしまうほど追い詰められているように思えた。

 

「パドックを回った後、レースまでに話す時間はあったと思いますが」

「ああ、話をしたよ。今日までのトレーニングも含めて、彼女には伝えられるだけのことを伝えたと……そう思う」

 

 答えながら、ジョニィは無意識に拳を握り締めていた。

 やれるだけのことはやった。

 だが、全てを完璧にこなせたとは到底思えなかった。

 もっと何か、上手いやり方があったのではないか、気の利いた言葉があったのではないかと後悔が何度も頭を巡っている。

 ゴールドシップに必要だと思った『黄金長方形の回転』についても、結局彼女を混乱させただけなのではないかと思う。

 身に着くかどうかも分からない技術を教えるよりも、彼女の追い詰められた精神を守ることがトレーナーとして正しい判断だったのではないか?

 彼女の走りに魅せられたと言いながら、その走りを彼女から奪ったのは自分なのではないか?

 そして、永遠に取り戻せなくなってしまうのでは――。

 

「あとは、彼女がレースの中で気付くのを祈るだけだ」

 

 ジョニィは内心の動揺を表に出さず、それだけ呟いた。

 レースが始まる。

 始まってしまう。

 距離3200mのレースだ。

 長いように見えて、ウマ娘の走力をもってすれば数分で結果が出るレースだ。

 全てがこのわずかな時間で決まる。

 先頭のウマ娘がゴールを過ぎた時、自分が見る光景はあの『SBR』の最終ステージで見たものと同じものになるのではないか。

 自分はまた、自分の信じたウマ娘が打ちのめされる姿を見ることになるのではないか。

 敗北の記憶に蝕まれているのはジョニィも同じだった。

 あの時と同じ、身を捩るような不安と前のめりの焦燥感が彼の全身を支配していた。

『SBR』レースの時と――。

 学園での非公式レースの時と――。

 

『ゲートイン、完了。出走の準備が整いました』

 

 レースが、始まる。

 

『――スタートです!』

 

 ゲートが解放され、総勢18人のウマ娘達が一斉にコースへと飛び出していく。

 

『各ウマ娘、揃ってキレイなスタートを……ああっ!?』

 

 実況が思わず声を上げるほどの出来事だった。

 ジョニィの隣で、メジロマックイーンが小さく『あっ』と声を漏らしたのが聞こえた。

 

『ゴールドシップ、大きく立ち遅れました!』

 

 タイミングがズレたとか一歩分遅れたといったレベルではなかった。

 ゲートが開いたことに気付かなかったのではないかと思う程、何バ身もの差を空けてゴールドシップは走り出していた。

 致命的なまでのゲート遅れを起こして、レースは始まってしまった。

 

 

 

 

 

 

 レースが始まる。

 始まってしまう。

 ゴールドシップは堅い表情で、目の前にある閉ざされたゲートを睨みつけていた。

 早く開け、と念じ続けていた。

 しかし、それは勝負を急ぐ気持ちから来る焦燥ではない。

 一刻も早く、このゲートから出ていきたかった。

 ここは息苦しすぎる。

 もちろん、ゲートは完全密閉された場所ではない。

 すぐ隣を見れば、同じくゲートの中でスタートを待つ他のウマ娘達の顔が眼に入るだろう。

 そうだ、隣だ。

 すぐ右隣にシルバーバレットがいる。

 奇しくも隣のゲートになってしまった。

 学園でのレースと同じだ。

 あの時は何も感じなかった。

 だが、今は違う。

 何なんだ、この感覚は。

 隣のゲートに間違えて得体の知れない怪物でも入れたのではないか。

 右から来る強大なプレッシャーに圧し潰されそうだった。

 ゲートに入る前から、シルバーバレットとは眼を合わせていない。

 向こうは、こちらを歯牙にも掛けていないだろう。

 ゴールドシップは逆の理由で視線を向けることが出来なかった。

 今、この段階で奴を見れば、その瞬間囚われてしまうだろう。

 パドックの時のような余裕は、もうない。

 いや、最初から余裕なんてなかった。

 何もかも虚勢だった。

 レースが始まる。

 始まってしまう。

 まだ走り出してもいないのに、ゴールドシップの息は粗くなっていた。

 呼吸が上手く出来ない。

 走れるのか、こんな状態で?

 今日までにやれるだけのことはやってきたつもりだった。

 覚悟もしてきたつもりだった。

 こういった状態になってしまうことも事前に分かっていたつもりだった。

 全部『つもり』だった。

 この期に及んで、頭の中を『何かやり残したのではないか』という後悔が意味もなく巡り続けている。

 やり残したこと――。

 そうだ。

 ジョニィからの『LESSON』がまだ終わっていない。

 結局、『黄金の回転』を身に着けた手応えはなかった。

 フォームは意識している。

 しかし、おそらくこれは違う。何も変わっていない。

 ジョニィにあと2回『できない』と言うのを忘れてしまった。

 だが、おそらく言葉では意味がないのだろう。

 彼の持つ長方形の『スケール』も、結局渡されることはなかった。

 

「……あ?」

 

 そこで、不意にゴールドシップは気付いた。

 自分の勝負服。

 そのベルトに、あのバックルが装着されている。

 ジョニィの言っていた、『黄金長方形』をコピーしたバックルが。

 何故、それがここに?

 ジョニィがそう仕組んだのか?

 何故、今更それに気付いたんだ?

 混乱の最中、ジョニィと最後に会話をした時のことをかろうじて思い出した。

 パドックから出た後、レース場に着くまでに彼と言葉を交わした。

 ゲートが閉じた時から、そこに至るまでの記憶さえ閉ざされてしまったかのように今まで忘れていた。

 彼は何かを言っていたはずだ。

 レースが始まる前。

 確か、最後のレッスン。

 LESSON5を――。

 レースが――。

 

『――スタートです!』

 

 最初、響き渡るその言葉が何を意味するのか理解出来なかった。

 気が付くと目の前が大きく開けていた。

 その開けた視界に、次々と駆け出すウマ娘達の背中が見えた。

 シルバーバレットも、シンボリルドルフも。

 

『各ウマ娘、揃ってキレイなスタートを……ああっ!?』

 

 心臓が止まるほどの焦燥感に襲われて、ゴールドシップは無意識に駆け出していた。

 それは肉体に染み付いた反応に過ぎなかった。

 混乱する意識の中、彼女はかろうじて理解した。

 レースが――始まっている!

 

『ゴールドシップ、大きく立ち遅れました!』

 

 実況の声が分かり切ったことを告げる。

 ゴールドシップは自分自身に向けて悪態と罵声を吐きまくった。

 出遅れた。

 ただでさえ勝ち目のない勝負なのに、スタートでいきなり躓いた。

 先行するシンボリルドルフを追うように、シルバーバレットは遥か前方。

 自分は最後尾だ。

 元々、作戦は『追い込み』で行くつもりだったから位置は問題ない。

 それでも最後尾は遠すぎだ。

 この作戦すら、つい先ほどまで頭から吹っ飛んでいた。

 こんな状態で。

 シルバーバレットに勝つなんて。

 ジョニィの言う『黄金の回転』だなんて。

 

 ――できるわけがないッ!

 

 心の中で絶望を叫びながら、ゴールドシップは走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 To be continued……

 

 




『黄金の回転』に関しては、原作への独自解釈を加えた上でウマ娘の世界観に落としこんでますんで、他の方の解釈と違う部分もあるかもしれません。
原作はコミック読んだだけなので、設定集とかあったとしても眼を通していないので。
とりあえず、この世界では
『黄金の回転』=無限のパワーを生み出す。
『鉄球の技術』=無限のパワーを様々な効果として現実に発揮する。
といった区別化をしています。
『黄金の回転』自体は、ただパワーを生み出すだけ。それを活かすのは別の技術って解釈ですね。これ1つで何もかも解決って超便利技術ではないです。



・おまけ

SBR版ウマ娘『ヴァルキリー』
ジャイロのパートナーとして『SBR』に参加したウマ娘。
若く才能に溢れているが、それまでは無名だった。イタリア出身。脚質は『逃げ』
ジャイロと共にツェペリ家で育った。
彼とは兄妹のような関係であり、口調や服装なども彼を真似ている。
気が強くて口が悪い。スローダンサーのことを当初は『オバハン』や『ざぁこ♡』と罵ったりジャイロと一緒にジョニィをからかったりするメスガキ要素を全面に出しつつジャイロにだけは心を許しているとかだったら個人的に萌えるんだけどお前は?
『馬』が存在しないウマ娘世界においては『馬』が生み出す回転のパワーを『鐙』を伝って鉄球に加える原作の技術が生み出されていない。
ウマ娘でありながら『鉄球の技術』を身に着けた彼女だけが、その領域へ至り『ボールブレイカー』さえ発動させる可能性を持った唯一の存在である。
『SBR』においても、リタイアしなければ優勝する可能性すら十分にあった。
しかし、ジャイロの死亡により彼女がレースを走ることは以後2度となかった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#7「ゴールド・シップ・ラン」

私は小説を書く時、事前にシナリオを完全には考えずに書きながら整合性を取っていくタイプなので、今回の作品ではボスキャラであるシルバーバレットのキャラの方向性を一人称アンケートで決めた時に、話の方向性も決まりました。
『一人称【私】=カリスマボスに敗北からのスポ根路線』って感じですね。
もしも他のタイプだったら、
『一人称【オレ】=汚い手も使う野心満々ライバルキャラとの喧嘩レース』
『一人称【ボク】=分からんけどなんか湿った怪文書』になってたかも。
1番最後のが採用されなくてよかったって思うワケ。


 ――『LESSON5』は存在しない。

 

 仮にそんなものが存在したとしても、ジョニィはそれを知らなかった。

 あるいは彼に『回転の技術』を活かす為の、何か『特別な力』があったのなら話は違っていたかもしれない。

 あるいは、その『特別な力』を更に昇華させる必要に迫られるような状況に追い込まれていたならば。

 しかし、ジョニィにとって『回転の技術』とは自分が歩けるようになる為に必要な技術であり、その為に探求する努力はしても、それ以外のことに使おうという発想はなかった。

 ジョニィ・ジョースターをそこから先に導く前に、ジャイロ・ツェペリはこの世を去った。

 だから、ジョニィの『回転の技術』は進化しなかった。

 そこまでがジョニィの限界だった。

 

 ――LESSON4から先へと導く為の言葉も、可能性も、ジョニィは知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 パドックでのお披露目を終えた後から、ゴールドシップは一言も喋らなくなった。

 レースの時間が近づいてきている。

 何をどう足掻こうが、今日で『決着』はつくのだ。

 シルバーバレットに敗北して以来、彼女を苦しめてきた『呪い』は今日晴らされる。

 勝利によって呪いに打ち勝つか、敗北によって魂が挫折するかの2つに1つだ。

 そして、今のゴールドシップには後者の未来しか見えていないことを、ジョニィは理解していた。

 レース場へと続く地下通路。

 ゴールドシップとジョニィは、ここまで一言も交わさずに進んでいた。

 結局、ゴールドシップは『黄金の回転』を習得出来なかった。

 それ自体はジョニィも薄々と予期していたことだった。

 自分がそうであったように、精神が追い込まれる極限状態にまで至らなければ『黄金長方形』の秘密に気付くことは出来ないだろう。

 しかし、弱りきった彼女をそんな状況へ放り込むことにしか勝機を見出せないのは、間違いなく自分の不甲斐なさのせいだ。

 ジャイロから学んだことをそのまま伝えることしか出来ない、自分の無能を心底呪った。

 もうこれ以上、どう導けばいいのか分からない。

 だが、このまま何も言葉を掛けずにレースへ送り出すことだけは出来なかった。

 

 ――『トレーナーが信じなければ、ウマ娘は走れない』

 

 スローダンサーは言っていた。

 トレーナーとして、ゴールドシップを『独り』で走らせるわけにはいかない。

 それだけは確かだった。

 

「……ゴールドシップ、今回のレースだけど」

 

 ジョニィは言いかけ、それ以上上手く言葉が形にならず、大きくため息を吐いた。

 

「……何だよ?」

 

 歩いている間ずっと前だけを向いていたゴールドシップは、そこで初めてジョニィと眼を合わせた。

 ジョニィは少しの間考え、そして今更考えたところで何も良い案など浮かばないのだと悟った。

 考えたって仕方がないのなら、今の内に言いたいことだけ言ってしまおう。

 ずっと、ゴールドシップに伝えたかったことを。

 

「ゴールドシップ、もしもスタートをミスったとしても気にするなよ」

「……オイ、ジョニィ。ソイツはちょいとアタシをバカにしすぎじゃねーか? ここに至ってスタートなんかで躓くと思うのかよ」

「気を楽にしろってことさ。君の得意な『追い込み』は、序盤は後方に控えるのが前提なんだ。何なら、最後尾から攻めたって勝機はある」

「アタシが本調子じゃないからって、フォローが雑過ぎるぜ。いくら作戦でも、シルバーバレットのスピードに最後尾から追いつくのは無理だってことくらい分かるだろ」

「僕が言いたいのは、一見遠回りのように見えても実はそうじゃないってことなんだ」

 

 ジョニィの脳裏に、今日この時に至るまでの記憶が過っていった。

『SBR』レースに参加し、そして敗北した日のこと。

 失意の中、偶然日本を訪れてゴールドシップと出会った日のこと。

 彼女の走りに魅せられたこと。

 彼女の敗北。

 自分の敗北。

 そして、あの日から今日という決着の時に至るまで渡り歩いてきた日々を。

 

「『LESSON5』だ……そう、確か。次は『LESSON5』だ、ゴールドシップ」

「え……何だって?」

 

 ジョニィの突然の言葉に、ゴールドシップは戸惑いながら問い返した。

 

「僕が『SBR』レースに参加したのは、自分の人生を『ゼロ』に戻す為だった。いつだって、その目的の為に最短の道を試みていた。ジャイロを追いかけたのも、彼から『回転の技術』を学ぼうとしたのも、全部最短の道だと思ったからだ。全てを投げ捨ててでも進もうと思った。そうすることが、一番早く目的に辿り着く道だと思っていた」

 

 ジョニィはゴールドシップの瞳を見つめながら続けた。

 

「だけどそうじゃなかった。『一番の近道は遠回りだった』『遠回りこそが僕の最短の道だった』――」

 

 ゴールドシップには、ジョニィの言っていることの意味が理解出来なかった。

 急に何を言っているんだ?

 彼が与えた『LESSON4』すら理解できていないのに、何故今頃『LESSON5』を?

 

「『SBR』レースで負けて、今再びこのレースの場に立ち会うまでの間ずっとそうだった。そして、君に出会えたからその道を渡って来れた」

 

 何を言っているのか分からない。

 しかし、その告白は、何故か強く胸に迫るものがあった。

 

「あのレースで敗北して、僕の歩みは止まったのだと思っていた。敗北したゴールの先に続く道はなかったのだと……」

 

 彼が自分に限りない『感謝』を伝えようとしている意思だけは、痛いほど理解することが出来た。

 

「だけど、そうじゃなかった。あのゴールは『君と出会う道』に繋がっていた。僕にとって『一番の近道』だった」

「ジョニィ……」

「いいな、ゴールドシップ。LESSON5は『遠回りこそが最短の道』だ。それだけ、忘れないでくれ」

 

 そう言って、ジョニィは右手を伸ばした。

 初めて彼女のレースを見た後、そうしたように。

 ゴールドシップはその手をしばらく見つめた後、躊躇いがちに自分の手を差し出した。

 そうして、2人はもう一度あの時のように固く互いの手を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 最初のコーナーを抜けた時点で、シンボリルドルフは3番手の位置にいた。

 これは当初の予定通りだった。

 今回のレースで1番注意すべきは、言うまでもなくシルバーバレットである。

 これまでのレースの傾向からして、彼女が『ゴール直前で差し切る』という劇的な演出を狙った作戦で来ることは予想がついていた。

 彼女自身の類を見ない強烈な末脚からも、得意とする戦法であることが分かる。

 そこに自身の勝機も踏まえての『先行』作戦を、シンボリルドルフは選んだ。

 しかし、同時にこの作戦を『選ばざるを得なかった』という、ディエゴとシルバーバレットの思惑通りだということも理解している。

 シンボリルドルフにとって、シルバーバレットとの間に最も差を感じるのはやはり『経験』である。

 こちらの『クセ』は徹底的に研究されているはずだ。

 そして、それ以上に彼女の持つ『ライン』を読み取る能力は対処のしようがない。

 この能力に関しては、恐らく自分よりも上だろう。

 シルバーバレットの選ぶ道こそが最も速く効率的に走れる『ライン』であり、一度抜かれれば、それ以上の有利な『ライン』を見つけ出さない限り追い抜くことは永遠に出来ない。

 ゆえにこその『先行』だった。

 シルバーバレットよりも前のポジションを維持しながら、ゴールまで抜かれることなく走り切るしか勝機はない。

 それは一度でも『ライン取り』をミスすれば敗北するギリギリの綱渡りの作戦だったが、シンボリルドルフに精神的な動揺はなかった。

 ただ冷静に、己の勝ち筋を見極めてそこを走り続けている。

 距離的にレースの序盤が終わろうという段階でも、シンボリルドルフは正確に周囲の状況を把握出来ていた。

 彼女より更に前を走る2人のウマ娘は、今はまだその速度と位置を維持出来ている。

 自分やシルバーバレットと地力で劣ることを理解しているのであろう彼女達が、駆け引きを避けて『逃げ』の作戦を選んだのは賢明な判断だ。

 

 ――しかし、あの2人は早ければ中盤で失速するだろう。

 

 普段はウマ娘達の幸福を想うシンボリルドルフも、レースの中では冷徹な思考を巡らせていた。

 逃げるウマ娘は、後方から追い上げるウマ娘達のプレッシャーに常に晒されることになる。

 背後に迫る気配は精神を揺さぶり、疲れが出始める後半ほど動揺は大きくなるものだ。

 積み重なる疲労が自分自身に『もうスピードは上がらない』『これからどんどん脚が遅くなる』と呪いのように囁きかけてくるのだ。

 ましてや、このレースで背後を走るのはシンボリルドルフと、何よりもシルバーバレットである。

 シルバーバレットの放つプレッシャーは、もはや殺気と表現してもいいものだ。

 追いつかれれば食い殺される。

 そんなイメージを纏わりつかせる、怪物の如き気配が後方から徐々に迫ってくるのだ。

 並のウマ娘ならば、スタミナ配分も何もかも忘れて、ただガムシャラに走ることしか出来なくなるだろう。

 レース序盤とはいえ、未だに『逃げ』という作戦を冷静に維持出来ること自体、先頭の2人がこのレースに選ばれるだけの実力者であることを証明している。

 しかし、それも恐らく終盤まではもたない。

 何故なら、シルバーバレットに加えてこの自分がいるからだ。

 この『皇帝』シンボリルドルフが走っているからだ。

 レースで走る以上、誰かに勝ちを譲る気はない。

 

 ――目の前の2人を抜き去り、シルバーバレットには自分の背中を睨ませたままゴールしてやる。

 

 シンボリルドルフは覚悟と闘志をもって、レースを走り続けていた。

 

「どうする、ゴールドシップ……?」

 

 スタートで盛大に出遅れたゴールドシップのことも、シンボリルドルフは把握していた。

 彼女が明らかに本調子ではないことも知っている。

 しかし、だからといってそれ以上の意識を割くことはなかった。

『これ』は自分の勝負で、『あれ』は彼女の勝負だ。

 彼女が自分の走る位置まで追いつかない限り、この2つが交わることはない。

 

「このまま、私達の背中を眺めたままレースを終えるか!?」

 

 生徒会長として、彼女の復活を願う自分もいる。

 1人の選手として、この場にいる全てのウマ娘から勝利を奪い取る決意を固めた自分もいる。

 2つの信念を矛盾なく1つに束ね、シンボリルドルフは勝利を目指して疾走を続けた。

 

 

 

 

 

 

 最初のコーナーを抜けた時点でも、ゴールドシップは最後尾に甘んじ続けていた。

 スタートの遅れを取り戻す為に、ペース配分も無視して全力で走ったつもりだったのに――。

 

(クソッ……!)

 

 手足が思うように動いてくれない。

 上手く息が出来ない。

 全身がまるで油を挿し忘れて壊れる寸前の歯車のようだ。

 肉体のあらゆる動きが全く噛み合っていない。

 

(クソッ! クソォォッ!)

 

 やっとの思いで縮めた距離は、誰かを追い抜くどころか最後尾からまだ4バ身近く離れていた。

 そこから一向に距離を縮めることが出来ない。

 出来ないまま、息だけが上がっていく。

 身体の何処かに穴が開いてスタミナが漏れ出ているのはないかと思う程、猛烈な勢いで力が抜けていく。

 シルバーバレットに追い縋るどころの話ではない。

 目の前にあるウマ娘の背中にすら手が届かない。

 前へ前へと急き立てる焦燥だけが肉体の内で空回りしていた。

 

 ――手足は思うように動かず。

 

 ジョニィの言った通りだった。

 

 ――疲れは普段より何倍も早く、重く感じるようになるだろう。

 

 ジョニィの言った通りだった。

 

 ――そうして何も考えられなくなった時、君は敗北する。

 

 このままでは、全てジョニィの言った通りになってしまう。

 ゴールドシップは必死で手足を動かしながら、思考も途切れさせないようにした。

 考えるのをやめれば、そこで全てが終わってしまう。

 それだけは確実だと理解している。

 しかし、何を考えればいいのか分からない。

 頭の中で、これまでの記憶が無作為に飛び交っては、断片だけを残して消えていく。

 この状況を打開するには『黄金の回転』しかない。

 ジョニィの言っていた『黄金長方形』を見つけ出さなくては――。

 

(こんな状態でどうやって見つけ出せってんだよ、ジョニィ!? 見つけたとして、それから……!?)

 

 こうして走りながらも、フォームには常に意識を向けている。

 ジョニィとのトレーニングで矯正したフォームを可能な限り再現しながら走っている。

 それでも、この状況を打開出来るパワーが宿っている実感はまるでなかった。

 

(ダメなのか……やっぱり!)

 

 噴き出す汗が鉛のように重く全身を覆っていく。

 必死で呼吸をしているのに、肺に空気が上手く取り込めない。

 諦めと絶望が両脚を絡め取ろうとしてくる。

 

(アタシは、このままシルバーバレットと勝負すら成立することなく負けるのか……ッ!)

 

 どうすることも出来ない悔しさから涙が溢れてきた。

 

(最初からこのバックルを使わせてくれれば、こんなことにはならなかったんだ!)

 

 勝負服のベルトに装着されたバックルに一瞬視線を落とす。

 しかし、レース中にそれ以上のことが出来るわけもない。

 何故、ジョニィが今更になってこのバックルを渡したのか理解出来なかった。

 せめて、もう少し早かったのなら――。

 

(例えこのバックルが『黄金長方形』のコピーだったとしても、練習しなけりゃ回転なんていきなりできるわけがねぇだろッ!)

 

 ――その時。

 

(できる……わけが?)

 

 ゴールドシップは不意に引っ掛かりを覚えた。

 今、自分が自然に考えたこと。

 無意識に巡らせた思考の中に、何か無視の出来ないキーワードがあったような気がする。

 何故、ジョニィはこのバックルをすぐに渡さなかったのか?

 

(……『できない』と4回言ったら。ジャイロ・ツェペリの一族が見出した……待てよ)

 

 ジョニィはあの時『全て説明した』と言った。

 自分が『黄金長方形』を回す為の要素を全て伝えたと判断したのだ。

 答えを導き出せるキーワードは揃っているはずなのだ。

 

(そうだ、自分で言ったじゃねぇか……『このバックルはコピー』だと。ジョニィも『黄金長方形の比率でデザインされた』物だと……)

 

 バックルについて、当たり前のように受け入れてしまっていた。

 これが『黄金長方形のコピー』だというなら、一体何を目安にして作ったコピーなのだろう。

 このコピーを作る前にあった『もの』は?

 

(待て……待て待て待て! 分かってきた! そーいやぁ、芸術家やジャイロ・ツェペリの一族が『黄金長方形』を見つけたというなら、それは何処から学んだんだ?)

 

 万人を感動させる芸術作品に秘められているという『美しさの基本』であり『黄金長方形』の比率。

 しかし、その芸術品を作った芸術家も、その芸術品から見出した者達も、最初は一体何処で、誰から、それを学んだのだろう。

 学者から聞いたり、定規で測ったわけではないはずだ。

 それは、このバックルのように『コピー』であり『本物』ではない。

 一体、最初に『誰が』『何処から』発見した……?

 

(――『本物』があるはずだ!)

 

 ゴールドシップは眼を見開いた。

 

(このバックルのような『定規で測ったコピー』ではなく、『本物の黄金長方形』でなければ『黄金の回転』は回せないんじゃ……!?)

 

 いつの間にか、息苦しさも身体の重さも忘れて思考に没頭していた。

 涙で滲み、狭くなっていた視界が一気に開ける。

 グズグズしている暇はない。

 答えが見えかけてきた。

 探すんだ。

 

 ――『本物』を探せ。

 

 自分の眼で。

 

 ――『本物』を見なければ回転しない。

 

 ジョニィが、そしてジャイロ・ツェペリの一族が伝えようとしていたことが、ようやく分かりかけてきた。

 与えられた言葉の1つ1つが意味を持ち始める。

 

(LESSON4は『敬意を払え』だ……何に対して敬意を払う? 『本物の黄金長方形』が秘められた敬意を払うべきものってのは何だ?)

 

 芸術とは人が作り出したものだ。

 その芸術の見本となるものが存在するとしたら、それは世界に最初から存在する『自然』や『生命』に他ならない。

 歴史の芸術家達が、自らの生きる世界に敬意を払った深い洞察から生まれた比率。

 彼らが学んだものと同じスケールで『黄金長方形』を見つけ出す。

 自然や生命の中に隠された黄金のように美しい比率を――。

 

「ジョニィ……アタシが今、見ているものでいいのか……?」

 

 ゴールドシップは思わず、この場にはいないジョニィに語り掛けていた。

 

「今までにも! すでに! さっきからも! 見ているもので!?」

 

 ゲートに入ってから、レースが始まった後も、まるで気付かなかった。

 あるいは、それよりずっと前から、気付くチャンスはあったのに視界にすら入れなかった。

 未来の敗北に怯える自分自身にしか意識を向けなかったからだ。

 

「『本物』の長方形はこれでいいんだなッ!」

 

 ゴールドシップの視界には、当たり前の世界が広がっていた。

 当たり前だからこそ、普段は気にも留めない風景。

 敬意を払うべき自然と生命に溢れた世界だ。

 上空は抜けるような青空。

 長大なターフ。

 周囲を囲む観客席には無数の人々。

 同じコースを走る17人のウマ娘達。

 ゴールドシップはこの時初めて、自分の走る世界を認識したような気がした。

 

「ああ、そうだ……『LESSON5』だ」

 

 その眼には、もはや完全な形の『黄金長方形』が映っていた。

 ゴールドシップは走ることが本能のウマ娘だ。

 優れた感性を持った芸術家などではない。

 しかし、ウマ娘である彼女だからこそ洞察力が最も深く発揮される対象が目の前にある。

 レースの中で、いつでも彼女の心を熱くさせるものだ。

 そこには『美しいもの』があった。

 ピカピカに光って走る、世界で『最も美しいもの』があった。

 選ばれた者だけが走れるレースの世界に身を置く為、そしてその先にある勝利と栄光を掴む為、鍛え上げたウマ娘達の肉体。

 それは万人を感動させるだけの芸術に等しいもの。

 彼女達が汗と努力の果てに得た肉体に、等しく『黄金長方形』は宿っていた。

 

 ――何故、あの時になってジョニィは『LESSON5』を口にしたのか?

 

 ジョニィは間違っていなかった。

 スタートで出遅れたからこそ。

 彼女達の後ろを走っていたからこそ。

 この事実に気付くことが出来た。

 

「ジョニィの言う通りだった。『遠回りこそ最短の道』だった……ッ!」

 

 肉体の内側で、何かが噛み合ったような気がした。

 全身でチグハグに動いていたあらゆる部分が、1つの規則性を持って高速で『回転』し始めたのを感じる。

 それは文字通り『歯車が噛み合った』ような感覚だった。

 急に呼吸が楽になった。

 手足が自由に動く。

 疲れが何処かに吹き飛んだ。

 ここに至るまでに失われた力の代わりに、四肢の描く『黄金の回転』によって生み出された『無限のパワー』が、ゴールドシップの走りに限りないエネルギーを漲らせていた。

 

「見えたぞッ! 見えてきた、ジョニィッ!」

 

 透き通るように明瞭になった思考と視野に、レースの世界が見えてきた。

 今の時点で距離的には半分を過ぎ、レースの中盤に差し掛かっている。

 長距離の場合、レースの展開はどうしても縦に長く伸びやすい。

 最後尾であるゴールドシップと先頭集団までの間には、もはや追い上げるのは絶望的とも思える距離が開いていた。

 終盤に向けて加速するシルバーバレットと、彼女が見極める理想的な『ライン』を越えてゴールに至る可能性は限りなく細く、小さい。

 

「勝利の感覚が見えてきたッ!」

 

 しかし、ゴールドシップの心と行動には、もはや一点の曇りもなかった。

 遠回りこそが最短の道だ。

 レースのこの瞬間、この場で目を覚ましたことが、シルバーバレットに迫れる唯一の勝機なのだと確信していた。

 涙の浮かんでいた瞳から、黄金の輝きが溢れ出す。

 心が叫ぶ。

 

 ――ここからだ!

 

 かつて、初めて彼に見せた時のように。

 

 ――見とけよ、ジョニィ!

 

 ゴールドシップの黄金のような走りが始まった。

 

 

 

 

 

 

 何十万もの観客の中で、そのレースの変化に気付いた者は少なかった。

 縦に長く伸びた走者の列で、人々が自然と注目するのは先頭集団のデッドヒートだ。

 シンボリルドルフとシルバーバレットの対決に誰もが意識を向けている。

 だからこそ、ほとんどの者が気付かなかった。

 ましてや、最後尾のゴールドシップに起こった変化に気付けた者はごく一部だった。

 終始ゴールドシップから眼を離さなかったジョニィが、一番に最初に気付いた。

 

「出来ている……」

 

 この場で唯一『本物の黄金長方形』を知っている彼だけが気付いて、大きく息を呑んだ。

 

「長方形の中に……。やったぞ……『形』が出来ているぞ!」

 

 ジョニィは思わず拳を振り上げて、歓喜の声を上げた。

 次に、すぐ傍にいるメジロマックイーンがゴールドシップの様子の変化に気付いた。

 

「あれは、スピードが徐々に上がって……いえ、ゴールドシップさんの身体が光って……!?」

 

 眼の錯覚かと思った。

 メジロマックイーンは『黄金長方形』や『黄金の回転』のことを知らない。

 しかし、ゴールドシップの走り方が明らかに変わったことには直感的に気付くことが出来た。

 まるで地上で溺れているかのように、喘ぎながら必死で手足を動かしていた先ほどの様子からは一変している。

 四肢には力が漲り、歪んで見えたフォームは完成された芸術品のような美しさすら感じた。

 そして何より、彼女の肉体から黄金に輝くエネルギーが迸っているのが見えた。

 我が眼を疑って一度瞬きすれば、それはやはり幻であったかのように見えなくなってしまう。

 しかし、確かに――。

 ゴールドシップの走りには、かつてない力が漲っていた。

 無限に溢れ出すかのようなパワーが。

 

「『形』が出来ているぞ、ゴールドシップ! 『黄金長方形』の形の中に、今……君がいる!」

 

 ゴールドシップの四肢が完成された回転の円を描くのをジョニィの眼は捉えていた。

 初めてのレースで魅せられたあの黄金のような走りが、長方形の中にピタリと合致している。

 

「で、でも……これは、どうなりますの!?」

 

 ジョニィの見ているものが理解出来ないメジロマックイーンにも、レースの中で計り知れない現象が起こっていることだけは感じ取れた。

 ここまでの不調が嘘のように、ゴールドシップは速度を上げて追い上げを図っている。

 しかし、それが勝利に繋がるのかどうかは判断出来なかった。

 レースはまだ中盤を過ぎた辺りだ。

 この時点で追い上げを始めるようなロングスパートで、果たしてゴールまでスタミナがもつのか?

 同時に、最後尾から先頭まど辿り着くには、これ以上遅くスパートをかけても間に合わないとも感じる。

 スタート時の出遅れが痛すぎたのだ。

 単純に距離が開きすぎている。

 しかし、やはり勝負を仕掛けるには早すぎる気がした。

 レースの終盤になれば、確実に脚を残しているだろうシルバーバレットやシンボリルドルフも加速する。

 17人もの走者を抜き去った上で、更にそれを越えるだけのスタミナとスピードを発揮出来るのか。

 そして、シルバーバレットが選んだ最適なコースを超える『ライン取り』は可能なのか――。

 

「それでいい! 君自身が『良い』と思うように走れ!」

 

 メジロマックイーンの不安を、ジョニィの力強い声援がかき消した。

 

「シルバーバレットも、シンボリルドルフも気にするな! 彼女達の選んだラインなんて見えなくていい! 君自身が、このターフの上を自然体で走って喜ぶように――」

 

 ジョニィは声の限り叫んだ。

 自分の信じるウマ娘の為に。

 ゴールドシップの走りが辿り着く勝利の為に。

 

「君の納得がいくまで『良い』と思うように走れッ! ゴールドシップ!!」

 

 

 

 

 

 

(ただ走るってだけのことが、こんなに気持ちのいいもんだったのか)

 

 ゴールドシップは思わず笑いそうになった。

 何の遠慮もなく全力で手足を動かしてターフを走るという喜びを、久しく忘れていた。

 目の前には現実だけがある。

 シルバーバレットの幻影など存在しない。

 敗北の後悔も、勝利への焦燥もない。

 ただ自由だけがあった。

 この大地と空の下を、好きに走り回っていいという自由への感謝があった。

 

(現金なもんだな。ほんのちょっと前までは、スタミナがもつのか不安でゴールまでの距離を長く感じてたんだが――)

 

 今はもう、何処までも走っていきたい。

 ようやく、かつての自分の走り方を思い出せた。

 そして同時に、このまま走り続けるだけではシルバーバレットに決して勝てないことも理解していた。

 

(『黄金の回転』……これでようやく『五分』ってところだ。あのヤロウをぶち抜く為には、これだけじゃあ足りない)

 

 シルバーバレットの『実力』に拮抗したとして、そこから更に差を詰めるには奴の『経験』を超えなければならない。

 その為の具体的な考えがあるわけではなかった。

 しかし、ゴールドシップの中に不安や諦めといった類のものは、もはや欠片も存在していない。

 シルバーバレットに対して『勝てない』などと嘆く弱気は吹き飛んでいる。

 かつて初めて対峙した時と同じ、燃え上がるような闘争心が彼女の中に蘇っていた。

 

(完膚なきまでに叩きのめしてやるぜ。『ライン取り』の『ミス待ち』で勝つなんてレベルが下だ! 向こう100年間はアタシに挑んで来たいとは思わせないような勝ち方をしてやるぜッ!)

 

 スピードを上げながら、前を走るウマ娘達を次々と抜き去っていく。

 ゴールドシップの驚異的なロングスパートを、彼女達は呆然と見送ることしか出来なかった。

 スタミナへの不安や、終盤に向けて脚を溜めようという考えもある。

 しかし、何よりもゴールドシップの加速し続ける走りに圧倒されていた。

 単なる力任せのスピードではない。

 集団の隙間を、無理なく、そして最短のルートで走り抜けていく。

 

 ――それでいい。君自身が『良い』と思うように走れ。

 

 ジョニィの声が聞こえたような気がした。

 もちろん気のせいに決まっている。

 彼が観客席の何処にいるかなんて分からないし、今は最後のコーナーに入ったばかりだ。

 何十万もの声援の最中、こんな距離まで1人の人間の声が届くわけがない。

 

 ――シルバーバレットも、シンボリルドルフも気にするな。彼女達の選んだラインなんて見えなくていい。

 

 だが、聞こえた。

 確かにジョニィの声が聞こえた。

 彼が傍にいるような気がした。

 

(そうだ……アタシはこれでいい。この『ライン』でいい)

 

 ゴールドシップは自分が走るべきラインを見ることにだけ集中した。

 内から行くか、外から行くか。

 誰と誰の間を抜けるのか。

 幾つもの可能性とルートが見える。

 その中から、最も良いと思えるものを選ぶ。

 この能力と経験において、シルバーバレットやシンボリルドルフの方がずっと優れているのだろう。

 彼女達の行く道をなぞらないということは、あえて『厳しい道』を行くということだ。

 

(厳しいな……だけど、そこは『アタシだけが行くライン』だ)

 

 その道には滞るものは何もなく、滑らかに回転するかのような自分だけが『なじむ道』だ。

 シルバーバレットのラインなんて見えなくていい。

 周囲の歓声や自分の足音も聞こえなくなっていく。

 先を行く他の選手達さえ消える。

 

(アタシだけの『気持ちのいい道』だ!)

 

 ゴールドシップは、その道を走った。

 ただ無心で走った。

 自らの研ぎ澄ました『センス』が導くまま、前へ。

 

(この道の進む先にある……)

 

 ゴールという名の。

 

(光があるはずだ……)

 

 勝利という名の。

 

(光を探せ!)

 

 ゴールドシップは『光』の中へと走っていった。

 

 

 

 ――君の納得がいくまで『良い』と思うように走れ。

 

 

 

 

 

 

 最終コーナーを抜けて最後の直線へと入る段階――この時点でレースのクライマックスの舞台は整えられたと言ってよかった。

 このコーナーに入る直前まで先頭を維持していた逃げウマ娘の2人はよく健闘したと言えるだろう。

 しかし――そして、やはり。

 観客達が思い描いていた通り、ついに逃げ脚が衰えて失速する彼女達を2人のウマ娘が追い抜いた。

 

『最終コーナーに入って、シンボリルドルフが先頭に躍り出た! そのすぐ後をシルバーバレットが続きます! やはり、この2人の一騎打ちだッ!』

 

 それがまるでこのレースの予定調和であったかのような実況が響き渡る。

 観客達のほとんどが、もはや2人の対決に釘付けだった。

 

『皇帝の力が世界を制するのか!? 世界の広さが皇帝を呑み込むのか!? 最後の直線に入りました!』

 

 コーナーの内側で脚を使い果たして失速していく逃げウマ娘の2人と、これを呑み込んでいく後方のバ群。

 レースの展開はシンボリルドルフとシルバーバレット、そしてそれ以外という形になりつつあった。

 

『シンボリルドルフが先頭、シンボリルドルフが先頭です! また差を詰めてシルバーバレット! ――あっ』

 

 その時、白熱する実況にあるまじき間の抜けた声が混じった。

 しかし、それを気にする者はいなかった。

 誰もがその姿を見た時『あっ』以外の言葉を失った。

 誰も注目していなかったのだ。

 レースの後方で集団に飲み込まれ、決戦の舞台に足さえ掛けられなかったウマ娘の存在など。

 

『そ、その内からゴールドシップが上がってきた! ゴールドシップですッ!!』

 

 自分で口にした言葉が信じられないかのように、実況は驚愕に震えながら繰り返した。

 先頭を行く2人よりも後ろでは、混沌とした集団が形成されていた。

 最後の望みを託して全力を振り絞ったウマ娘達が後方から追い上げ、前方からは失速した2人のウマ娘が合流する。

 その2つの流れがぶつかり合う混乱を裂いて、眼に映える真紅の勝負服がぬっと姿を現したのである。

 スタンドで直に見ていた観客達も、テレビで観戦していた者達も、誰もが完全に意表を突かれた登場だった。

 

『まるでワープでもしたかのように現れました! 最後尾を走っていた黄金の船が突如として浮上したッ!』

 

 予想外の展開に、驚愕とそれ以上の期待をもって熱狂する観客達。

 そんな周囲の喧騒を無視して、ゴールドシップは更に鋭く踏み込んだ。

 

『シルバーバレットがついにシンボリルドルフと並んだ! しかし、ゴールドシップが凄まじい勢いで追い上げる――!』

 

 

 

 

 

 

「……何だ?」

 

 シルバーバレットは感じた。

 

「何か……おかしい?」

 

 シンボリルドルフは思った。

 

 ――『違和感』がある。

 

 それは2人が共通して覚えた感覚だった。

 極限にまで集中していたシルバーバレットとシンボリルドルフは、レース全体の状況を把握しながら、もはや勝負は自分達2人だけの領域に達したと考えていた。

 2人の競い合う空間は周囲からは切り離されているかのように無音だ。

 聞こえるのは自分の音と、相手の音だけ。

 ゴールはもはや目の前。

 先行するシンボリルドルフと、それを差そうと迫るシルバーバレット。

 実力は伯仲している。

 決戦の最終段階で向き合うべきは、お互いに1人だけだ。

 しかし、その領域に『何か』が入り込んできた。

 お互いに、自分自身と相手の走行のリズムは完全に把握している。

 しかし、『何か』……おかしい。

 この音は何だ?

 この静かに迫りくるような気配は――?

 

「何ィ!?」

 

 それを視界に入れたシルバーバレットは驚愕の声を上げた。

 肩越しに振り返るまでもなかった。

 そのウマ娘は、もはや肩を並べる寸前にまで肉薄していた。

 

「ゴールドシップッ!? 貴様……!?」

「いつの間に!?」

 

 シルバーバレットとシンボリルドルフは、自分達だけだと思っていた領域へと侵入した存在にようやく気付いた。

 

「……あん!? なんだァ、オメーは! いつの間に、アタシの前を走ってやがる!?」

 

 そして、不思議なことにゴールドシップの方もたった今シルバーバレットが目の前にいることに気付いて、驚きの表情を浮かべていた。

 

「何で2人して『アタシの道』を走ってやがる! どけッ!!」

「な、なんだと!?」

 

 ゴールドシップは、自分が先頭に追いついたという自覚すらないようだった。

 あるいは、追い抜こうという意思さえなかったのかもしれない。

 ただ、自分の走る先にある邪魔なものに気付いたかのように睨みつけていた。

 

「アタシは1位でゴールして、テメーに勝つんだよ! テメーなんてどうでもいいんだッ!」

 

 ――何を言っているんだ、コイツは!?

 

 言葉を向けられたシルバーバレットも、それを聞いていたシンボリルドルフも戸惑った。

 シルバーバレットに勝つことを意識していながら、その当人を全く気にも留めていない。

 その瞳も、2人を見てはいない。

 2人に勝つことが『目的』なのではなく、1位でゴールして得る『結果』にしか過ぎないように。

 このレースの勝利を『通過点』としか考えていないかのように。

 レースが始まる前のゴールドシップとは何かが違う。

 その眼差しが、一体何処を見ているのか分からない。

 

 ――シンボリルドルフではない。

 ――シルバーバレットですらない。

 ――ゴールドシップは今何処を見据えている?

 

 理解は出来ない。

 しかし、理解は出来ないながらも、自分達が走るレベルの世界へと踏み込んできたのは確かだった。

 2人に対して、追い縋るどころか差し切るほどのスピードで迫る。

 今や、3人の走る『ライン』はピタリと重なっていた。

 ここに至ってようやく理解した。

 ゴールドシップはラインを読んでいるわけでも、先を行っていた2人の道筋をなぞってやって来たわけでもない。

 本能的に、偶然にもラインを選択して2人の行くラインと一致しているのだ。

 経験から選択するのではなく、ゴールドシップの見えている道が理想の道だった。

 

「凄い! 凄いぞ、ゴールドシップ!」

 

 シンボリルドルフは魅せられた。

 

「このシルバーバレットを見てもいないだと!? 舐めるなッ!」

 

 シルバーバレットは初めて抱いた屈辱と怒りを脚に込めた。

 

「これはアタシだけのラインだ。他人のケツなんて見てねぇでよォ~、更にもっともっとブッ飛ばすことにするぜェ!!」

 

 ゴールドシップはまだ走れることに歓喜しながら速度を上げた。

 3人の間には、もはや1バ身どころかハナ程度の差しかない。

 その僅かな差も、一呼吸の間に何度も入れ替わり、文字通り一進一退の激しいデッドヒートを繰り広げている。

 見えない火花を無数に散らしながら、3人は一塊となって最後の直線を駆け抜けていった。

 

『200を切ってゴールドシップが先頭に替わる! シルバーバレットが差し返した! いや、先頭は再びシンボリルドルフか!? ゴールドシップ! シルバーバレット!』

 

 ゴールは目前。

 実況は狂ったように3人の名前を連呼し続けた。

 目まぐるしく位置を入れ替える3人の競り合いに、言葉も視界も追いつかない。

 巨大な火の玉が芝に焦げ目を残しながら疾走しているかのようだった。

 観客達が歓声とも絶叫ともつかぬものを張り上げていた。

 数十万の熱狂がレース場全体を震わせる中、3人は激走する。

 ゴールへと続く最短の道を、最速で駆け抜けていく。

 

「もっとだ! もっと見せてくれッ!」

 

 黄金の輝きに眼を焼かれた皇帝。

 

「何故今更になって、貴様が……!? 貴様如きがァ!」

 

 意識外からの一刺しに絶対の土台を揺るがされる世界。

 

「どいつもこいつも見やがれってんだ! アタシが『ゴールドシップ』だァァァーーーッ!!」

 

 無限の回転を宿しながら駆け抜ける黄金船。

 三者三様の雄叫びを上げて、3人はほとんど同時にゴールへと踏み込んだ。

 ほとんど――だった。

 全く同時ではなかった。

 ゴール直前の一瞬。

 出たのは『力』か、それとも『意思』の差か。

 ゴールドシップが、シルバーバレットとシンボリルドルフよりも僅かハナ差程度先に前へ抜け出ていた。

 

『抜けたッ! 抜けたァ!! ゴールドシップ、ゴールイン!!』

 

 誰もが眼を疑う中、実況の声がハッキリとレースの結果を告げる。

 

『2着、シルバーバレット! 3着、シンボリルドルフ! まさかの大番狂わせッ! 2つの伝説を、最後方から追い上げて鮮やかなまでに抜き去ってみせましたッ! 後方集団から浮上した、黄金の不沈艦ッ! 1着はゴールドシップだァァーーッ!!』

 

 そして、観客席全てから爆音のような歓声が一斉に上がった。 

 

 

 

 

 

 

 祝福が陽光のように降り注いでいる。

 喝采が雨のように降り注いでいる。

 キラキラと光るものがゴールドシップの視界には無数に映っていた。

 肩で息をしながら、しばらくの間呆然と佇む。

 実況が何かを言っているが、凄まじい歓声にかき消されてよく聞こえない。

 自分が、ゴールを通り過ぎた場所に立っていることだけは理解出来た。

 レースは終わったのだ。

 周囲をゆっくりと見回すと、視線に気付いてこちらに少し悔し気な笑みを浮かべるシンボリルドルフが見えた。

 こちらに背を向けて、静かにターフを立ち去ろうとするシルバーバレットが見えた。

 共に走った幾人ものウマ娘達が見えた。

 そして、思い出したように着順掲示板を見上げた。

 1着の位置に自分の番号が表示されていた。

 

「……勝ったのか?」

 

 あまり実感がない。

 だが、揺るがぬ現実としてそこに結果があるのだ。

 以前のレースで見た幻など存在しない。

 レースに勝者はただ1人。

 自分以外にいないのだ。

 やがて沸々と、腹の底から歓喜が湧き上がってきた。

 全力を振り絞って走り抜いたばかりだというのに、またすぐに駆け出したい衝動に駆られる。

 それを堪えて、ゴールドシップは今度こそ明確に誰かを探す為に周囲を見渡した。

 

「ジョニィ!」

 

 ゴールドシップは、今一番顔を見たいトレーナーの名前を叫んだ。

 

「ジョニィ、何処だ!?」

 

 近くにいるはずだ。

 理由もなく確信していた。

 最前列の柵の向こう側にいる無数の人々に視線を走らせる。

 

「――ここだ! ゴールドシップ!」

 

 聞こえた声の方向を見れば、ジョニィがそこにいた。

 感動に涙ぐむメジロマックイーンに支えられて、ジョニィがこちらを見ていた。

 彼は何処か信じられないといった風に、しかし自分と同じように湧き上がる実感と喜びを噛み締め始めているようだった。

 ゴールドシップは満面の笑みを浮かべた。

 

「やったぜ、ジョニィィィーーーッ!」

 

 そのままジョニィ目掛けて走り出した。

 駆け寄って言葉を交そう、というような遠慮のある走りではない。

 レースでやるような全力疾走だった。

 

「イエーイ! ジョニィ、イエーイ!」

「お、おい……!?」

 

 目の前で止まるつもりはない。

 そのまま身体ごと飛び込むつもりくらいはあるような勢いに、ジョニィは戸惑った。

 全く彼女らしくないことではあるが、あの喜びようからしてハグでもしてきそうな様子である。

 ジョニィは反射的にそれを受け止める為、手を広げていた。

 

「ゴールドシップさん!?」

 

 ジョニィの脚が不自由なことを忘れているのではないか、とメジロマックイーンが焦る。

 止めようかとも思ったが、感極まった故の行動なのかと考えれば一瞬言葉詰まった。

 困難を乗り越えた2人の喜びに水を差すような、無粋な真似はしたくない。

 躊躇っている間に、走って勢いをつけたゴールドシップがジョニィに向かって飛び込んだ。

 

「イッエェェーイ!!」

 

 脚の方から飛び込んだ。

 

「何をやっているんですのアナタはァァァーーーッ!!?」

 

 メジロマックイーンの絶叫が、歓声を引き裂いて響き渡った。

 ゴールドシップのドロップキックを受けたジョニィは、呻き声を上げて盛大に倒れ込んだ。

 ウマ娘の脚力を考慮すれば、かなり控え目な威力だった。

 一見すると、派手なキックを叩き込んだように見えて、絶妙な手加減をしたものである。

 ジョニィは怪我はもちろん、気絶することもなかった。

 しかし、だからこそ怒り心頭にすぐさま『立ち上がって』ゴールドシップに掴みかかった。

 

「どういうつもりだ、ゴールドシップ!? 勝てたからってはしゃぎすぎだッ!」

「どーよ!?」

「どうよって……何がだよ!? オマエなぁ、一体何がしたくて――!」

 

 ニヤニヤと笑いながら意味の分からない問い掛けをするゴールドシップにジョニィは更に怒鳴ろうとして、

 

「え?」

 

 ふと気付いた。

 今、こうしてゴールドシップに掴みかかっている状態だ。

 蹴り倒されて、そこから立ち上がったのだ。

 自分の脚で立ち上がったのだ。

 

「ぼ、僕の脚が……ッ!?」

 

 動いた――!

 そう実感した瞬間、ジョニィの両脚は再び力を失った。

 崩れ落ちそうになる身体を、ゴールドシップが咄嗟に支える。

 しかし、彼の中には確かに残っていた。

 自分の脚が再び大地を踏み締めた、数年ぶりの実感があった。

 

「……なあ、ゴールドシップ。見たか? い、今……僕の脚が動いたの見たか!?」

「見た見た! オメーが自分で立ち上がったんだよ!」

「何をしたんだ!? 君、僕に何かしたんだろう!?」

「知らねーよ! パッと思いついたこと試してみただけだぜ!」

「思いついたって!? ……いや、そうか。さっき『黄金の回転』で走ってきたな? そういう……ことなのか? 『回転のエネルギー』を身体の内側に伝えるって……そういう!?」

「細けーこたぁいいんだよ!」

 

 ゴールドシップは笑いながらジョニィの身体を持ち上げて、柵の向こうから自分の傍へと引き寄せた。

 

「待ってくれ、考えを纏めたいんだ!」

「考えるなんて後でも出来るだろ! 今はとにかく、考えるな! 感じるんだよ!」

 

 騒然とする周囲を置いてけぼりにして、ゴールドシップはジョニィを担いだまま元の場所へと戻った。

 ここなら、観客席からの喝采を一身に浴びることが出来る。

 数十万の人々が、自分の――自分達2人の勝利を祝福している。

 この光景を見せたかったのだ。

 ゴールドシップの意図を察したジョニィは思わず口を噤んでいた。

 言いたいことや聞きたいことはたくさんある。

 彼女の勝利を祝福したいし、その後にやったことについては文句も言いたい。

 しかし、とりあえずは――。

 彼女の言う通り、『後で』でもいいかもしれない。

 自分の脚が治るかもしれないという期待と不安は棚に上げておこう。

 向き合う時間はこれから幾らでもある。

 レースは、もう終わったのだ。

 今日、この日まで2人で積み上げた成果と共に。

 

「……なあ、ジョニィ。アタシが勝つ瞬間をしっかり見てたか?」

 

 今はただ、この光景と歓声を記憶に焼き付けておきたい。

 あの日、敗北して以来求めることすら忘れていた『勝利の栄光』を久しぶりに味わいながら。

 

「ああ、見ていたよ」

「どうだった、アタシの走り?」

 

 その言い回しに、かつての出会いの記憶を思い返しながら、ジョニィは笑って答えた。

 

「『黄金』のようだったよ」

 

 

 

 

 

 

 降り注ぐ勝利への祝福と喝采。

 シンボリルドルフにとって、それは何度も経験したものだった。

 しかし、それが自分自身ではなく他者にもたらされる光景というのは、ほとんど見たことがない。

 勝利とは絶対のものだった。

 自信とは絶対のものだった。

 それが崩されるというのは、なんとも――。

 

「悔しいものだな」

 

 勝利の祝福を受けるゴールドシップとジョニィを遠巻きに眺めながら、シンボリルドルフは自嘲気味に呟いた。

 完敗だと思った。

 少なくとも、自分はこの結果をそう受け止めている。

 傍から見れば、最終直線での競り合いはギリギリの勝負に映ったかもしれない。

 しかし、あの時自分はレースの最中でありながら、勝利の栄光以外のものに魅せられた。

 レースの中でレースを忘れた。

 それが決定的に命運を分けたのだと考えていた。

 

 ――あの時、自分は勝つ為に走っていたのではない。

 ――ただ、ゴールドシップの走りを少しでも近くで見る為に走っていた。

 

 魅せられたのだ、彼女の走りに。

 ゴールドシップを追い抜こうとは思わずに、少しでもあの走りに近づこうと思っていた。

 その意識の違いが、最後の一瞬に出た。

 あの瞬間、自分は勝負の領域から弾き出され、ゴールドシップとシルバーバレットの対決だけが残ったのだ。

 だから、2人ともに敗北した。

 最後まで勝負に徹しきれなかった自身の未熟だ。

 

「未熟、か……」

 

 悔しくはある。

 しかし、何処か清々しい気分もあった。

 これまで国内で伝説を打ち立て、その実績を元に理想への道を確実に歩んでいる実感があった。

 だが、何ということはない。

 世界は――世の中は広かったのだ。

 皇帝などと呼ばれようとも、自分はまだまだ未熟な井の中の蛙に過ぎなかった。

 その事実が、何故か笑い出したいほど面白かった。

 レースの中には、まだまだ信じられない出来事が転がっている。

 理想も未だ道半ば。

 獲得したトロフィーを部屋に飾って眺めていられるほど、納得のいく道を歩き切ったワケでもない。

 

「『飢える必要あり』だな、私も……ゴールドシップを見習って『気高く』飢えてみるか」

 

 シンボリルドルフは、新たな未来に眼を輝かせていた。

 

 

 

 

 

 

 シルバーバレットは1人、退場用の地下通路を歩いていた。

 普段は当たり前のように自分へ与えられていた祝福と喝采に背を向けて、レース場を去っていた。

 絶対だと思っていた勝利は、他者に奪われた。

 揺るぎない自信は、歯牙にも掛けていなかった相手に砕かれた。

 シルバーバレットは得体の知れない感情に支配されていた。

 それは本来ならばほとんどのウマ娘が経験するもの――敗北感だった。

 世界を制したはずのウマ娘は、今日初めて敗北を経験したのだ。

 俯きながら無言で歩いていたシルバーバレットは、予想通り待ち受けていた姿を見て、力なく微笑んだ。

 

「……やあ、『ディエゴ』」

 

 いつものように『我がトレーナー』とは呼ばない。

 普段のように自信と傲慢に溢れた不敵さもない。

 そんなシルバーバレットの姿を見て、ディエゴは不機嫌そうに眉を顰めた。

 

「負けてしまったよ」

 

 シルバーバレットは端的に告げた。

 それは事実上の敗北宣言だった。

 接戦だったのは確かだ。

 惜敗と表現してもいいだろう。

 連戦に次ぐ連戦で調子が悪かったとか、日本というアウェーの舞台だとか、最後の競り合いはやろうと思えば進路妨害の審議にも持っていける状況だったとか――そういう『言い訳』など微塵も挟むつもりのない断言だった。

 その一言だけを口にして、シルバーバレットは黙り込んだ。

 この後訪れる、あらゆる展開を全て受け入れるつもりだった。

 自分は勝つ為に生まれたウマ娘だった。

 勝ち続けるからこそ価値のある存在だった。

 ディエゴにとっても、そうだったに違いない。

 頂点に立てないウマ娘など、彼の野望には必要ない。

 だから、きっと――。

 

「ここまで、なんだろうな……」

 

 契約は終了だ。

 彼はこれから自分よりも優れたウマ娘を探しに行くだろう。

 

「――おい、シルバーバレット」

 

 ディエゴは心底不機嫌そうに口を開いた。

 

「何を諦めたような顔をしているんだ? オマエ、まさか本気で敗北宣言なんてしているんじゃあないだろうな? あのゴールドシップとかいうワケの分からんウマ娘に本気で白旗を上げるって!?」

「……え?」

 

 シルバーバレットは呆けた顔を上げた。

 

「ふざけたことを考えてるんじゃあないぞ! あんな奴らに負けてたまるかッ! 頂点は『オレ達』だッ!」

 

 煮えくり返った腸から直接吐き出すかのように、ディエゴは怒鳴った。

 敗北したシルバーバレットを責めるようなものではない。

 彼の敵意は、自分達の栄光に泥を掛けたジョニィとゴールドシップのコンビにだけ向けられていた。

 

「クソッ! 忌々しい奴だ、ジョニィ・ジョースター! 『SBR』の時もそうだった! いつまでも、このオレの邪魔をしやがるッ!」

「……君は、私を責めないのか?」

「責める? ああ、そうだな。オマエにも言っておきたいことがある――何負けてるんだよッ!」

「す、すまない」

「謝るくらいなら勝て! 何で、オレがオマエの負ける姿を見なくちゃいけないんだ? しかも、よりによってあのジョニィ・ジョースターとそのウマ娘にだッ!」

 

 ディエゴは拳を握り締めて、歯を食いしばっていた。

 シルバーバレットは、悔しさに身を捩るトレーナーの姿を呆然と見つめていた。

 こんな彼の姿は初めて見た。

 

「いいか、オマエは世界で最も優れたウマ娘だ! あのジョニィのウマ娘なんかに劣るハズがない! 今回のレースで世間がくだらん誤解を深めるかもしれんが、すぐに取り消させてやるッ! 『URAファイナルズ』で奴らを叩き潰してなッ!!」

 

 誰に向けてのものかも分からない鬱憤を吐き出すと、ディエゴは大きく一息吐いた。

 

「……まあいい。とにかく、今回のレースはオレ達の負けだ。それは認めよう」

 

 まだ何処か苛立ちの残った声色で、自分を納得させるように呟く。

 

「世間からすれば、これでオレとジョニィは一勝一敗の互角だと考えるだろう。次の決着をつけるレースが、より盛り上がる話題になったと考えれば得したものだぜ。ムカつくけどな」

「『次の』……か?」

「ああ、そうだ。何だ? まだ腑抜けたことを言うつもりなんじゃないだろうな?」

「いや……ただ」

 

 シルバーバレットは、おずおずと訊ねた。

 

「君は、まだ私のトレーナーか……?」

「当然だ」

 

 ディエゴはくだらないことを聞くなとばかりに断言した。

 

「今回の敗北はオレの責任でもある。油断するのはバカのやることだと言ったが、どうやらオレはバカだったらしい。そこん所はちょっぴり反省するぜ。これまでオマエの能力に頼り過ぎた」

「いや、いいんだ。私も期待に応えられず、情けないよ」

「弱気になるんじゃない、そんなのは弱者のすることだぜ。オマエは間違いなく強者だ。これからは、オレがトレーナーとしてその力を更に磨き上げてやる。そうすれば、オレ達にもう敵はいない」

「……ああ」

 

 シルバーバレットは小さく笑みを浮かべた。

 それは最初に見せた弱気なものではない。

 かといって、これまでの自信に満ち溢れたそれではない。

 何処か清々しい笑みだった。

 

「私も、もう二度と負けないさ」

 

 シルバーバレットは揺るぎない決意を込めて呟いた。

 当然だ、とばかりに頷いてディエゴは歩き出した。

 そのすぐ傍にシルバーバレットが付き添う。

 

「……『気高さ』か」

「どうした?」

 

 ディエゴが不意に洩らした小さな呟きを、シルバーバレットは聞き取った。

 

「死んだオレの母親が言っていたのを思い出した。『どんなに貧しくても気高さだけは忘れてはいけない』――と。オレ達が負けた理由はそこにあるのかもしれない」

「気高さを忘れない……『気高く飢えろ』ということか?」

「そうかもな。これまでのやり方で勝てなかったんだ、別のやり方を試すしかないだろう」

 

 ディエゴは、すぐ傍を歩く自分のパートナーを一瞥した。

 貧しさと周囲の人間の排斥によって死んだ母親のことを思い出すと、当時抱いた激しい憎悪が蘇る。

 富める者は更に富み、貧しい者は更に貧する。

 このクソのような社会に生きる者全てが、どいつもこいつも有罪に思えた。

 しかし、傍らに立つ彼女はどうなのだろう?

 彼女も有罪か?

 殺してやりたいほど憎い相手か?

 分からなかった。

 ただ、これまで忘れていた『気高さ』という腹の足しにもならない言葉を見直す切っ掛けを作ったのは、この共に歩んできたパートナーの存在だった。

 

「……今度、時間のある時にでも話してやるよ。オレの母親のことを」

 

 ディエゴがそう言うと、シルバーバレットは少し驚いた後、嬉しそうに笑った。

 

「是非、聞かせてくれ。君のことをもっと知りたい――『我がトレーナー』」

 

 

 

 

 

 

 ――これは『再生の物語』

 

 文字通り、僕が再び歩き始めるようになったいきさつ。

 僕にとって、全ての始まりであり終わりになるだろうと思っていた『SBR』レースから、更に続いていた長い長い旅路の本当の終着点(ゴール)

 あのレースで、僕はジャイロ達と幾つもの『河』を渡ってきた。

 大きさや小ささに関係なく、渡る河の数はその旅路の長さを物語っていた。

 僕は一際大きな河を越えて、日本へとやって来た。

 そこでゴールドシップに出会った。

 彼女と出会い、半年という短くもあり長くもある日々を過ごし、この時に至る。

 今――僕は最後の河を渡り終わった。

 

「……ゴールドシップ」

 

 祝福と喝采はいつまでも続いていた。

 僕は彼女に支えられ、それを受けていた。

 あるいは『SBR』のゴールの先にもあったのかもしれない光景を、改めて眺めている。

 あの時見失っていたものを、見つけたような気がする。

 

「本当に廻り道だった」

 

 彼女が僕を見て、優しく微笑んだ。

 

「本当に本当に……なんて遠い廻り道……」

 

 視界が滲む。

 僕は今、泣いている。

 あのレースでの敗北以来、ずっと流れることのなかった熱いものが頬を伝っている。

 

「ありがとう、ゴールドシップ。本当に……」

 

 これは僕が彼女と出会う物語。

 

「本当に……『ありがとう』……それしか言う言葉が見つからない」

 

 これは僕達が共に歩き出す物語だ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 To be continued……

 

 




まだ終わりじゃないぞい。もうちっとだけ続くんじゃ!(あと1話で完結です)
ジョニィの脚が動いた理由ですが、原作では『聖なる遺体』のパワーによって麻痺した脚が動きました。
ただ、治ったのは『最終決戦で完全な黄金回転のエネルギーを得たから』という説も存在します。
今回は、その説を採用しました。
治るというよりは、治療の可能性が見えたって感じです。
あとは現代の医療技術とジョジョの治療補正が何とかしてくれるよ!



・おまけ

SBR版ウマ娘のヒミツ

ヘイ・ヤーのヒミツ
①実は、結構落ち込みやすい性格をしている。
②実は、開運アイテムとしてキャラクターグッズが世界的に売れている。

スローダンサーのヒミツ
①実は、ヴァルキリーに『オバハン』と言われて以来『誰が年増だ!』が持ちネタになっている。
②実は、音楽やファッションの感性が相当古い。

サンドマンのヒミツ
①実は、義姉にだけは全く頭が上がらない。
②実は、長老達がウマ娘を大地の精霊と同一視して扱うので義姉以外の部族の仲間からちょっと距離を感じている。

ヴァルキリーのヒミツ
①実は、こっそり歯にジャイロと同じ彫り物をして当人とその父親に死ぬほど怒られたことがある。
②実は、ツェペリ家以外の人間の女がスゴク嫌い。

シルバーバレットのヒミツ
①実は、ディエゴに話しかける時は異常なほど顔を近づける。
②実は、抜群のプロポーションと独特のポージングでモデル界でもかなり有名なカリスマ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ「7日で一週間」

本編で書きたい部分終わってるし、もうそのまま完結でいいんじゃない? とも思いましたが他のウマ娘もジョジョ要素に触れさせたかったので長い蛇足です。
マジで長いのでヒマでヒマでしょうがねーって時にでも読んでください。
ジョジョとウマ娘の融合した世界観の補足的な部分が多いです。


 一週間の内で憂欝な日ってのは誰にでも訪れるものだと思う。

 大抵の人間にとっては『日曜日』か『月曜日』だ。

 待望の休日にハメを外しすぎて二日酔いに頭を抱える日曜日の夜。

 うんざりするくらい遠い休日に向けて仕事を始める月曜日の朝。

 僕の場合は――。

 

 

 

 少し、僕の話をしよう。

 僕……ジョニィこと……本名『ジョナサン・ジョースター』は、アメリカ・ケンタッキー州ダンビルに生まれた。

 ジョースター家は、元はイギリスで海上貿易の仕事をしていた貴族だったが、時代の移り変わりと共に住んでいた土地もアメリカへと移っていった。

 僕の父はそんな貴族の分家だったが裕福な牧場主であり、三冠レース七連覇を誇るウマ娘のトレーナーだった。

 そんな父の仕事の関係で、僕はイギリス・イングランドで少年時代の数年を過ごしたことがある。

 父は厳しい人だった。

 貴族という家柄と他国から移り住んできたという立場から、自らの血統への『誇り』や『敬意』といったものを特に重んじていた。

 テーブルマナーさえロクに守れない僕は、まったく出来の悪い息子だっただろう。

 僕はいつも父に叱られて、泣いていた。

 そんな僕には5歳年上の兄『ニコラス』がいた。

 僕とは違って頭も要領も良く、トレーナーとしての才能も溢れていた。

 父の仕事を受け継ぐのに何の心配もない長男だった。

 僕はいつも兄さんに助けられてばかりいて、その輝かしい活躍に憧れていた。

 

『兄さんは何をやっても上手だな。ぼく、違う家の子なのかな? 全然似てない……』

 

 そう愚痴る僕を抱きしめて、兄はいつも言ってくれた。

 

『あのなジョニィ……お前はまだ小さいだけなんだ。もう少ししたら、オレがちゃんと教えてやるよ。約束だ。そうしたら2人で助け合って、世界中色んな所で闘っていこう!』

 

 その言葉は、幼く未熟な僕にとって見たこともない広い世界を感じさせてくれるものだった。

 狭い屋敷の扉を開いて、何処までも続くターフを駆け出すような……。

 その先に輝かしい未来(ゴール)が約束されているような……。

 父も兄には殊更期待をかけていて、兄はその期待に何の憂いもなく応えていった。

 兄が初めて担当したウマ娘が地方の新星として鮮烈なデビューを飾り、そんな彼女と兄が男女としての交際を始めた時も、周囲には祝福しかなかった。

 気難しい父もあの時ばかりは口元を緩め、僕は兄が栄光と共に新しい家族を連れてくるのだと大喜びした。

 夢のように輝かしい日々だった。

 それがこの先ずっと続くのだと思っていた。

 だけど、そうじゃなかった。

 永遠に続く『日曜日』なんて存在しない。

 憂欝な日ってのは、誰にだって訪れるものなんだ。

 

 ――ある日、トレーニング中の事故で2人は死んだ。

 

 何の変哲もない、毎日繰り返しているトレーニング中での出来事だった。

 僕はいつものように、少し離れたコースを区切る柵の反対側から2人のトレーニングの様子を眺めていた。

 ウマ娘特有の強靭な脚力が地面を蹴る美しい音に耳を傾けていた。

 そのリズムが崩れたと思った次の瞬間、何かが倒れ込む音と激しい土煙。そして、柵の壊れる音が響き渡った。

 僕は一瞬何が起きたのか分からなかった。

 だけど、周囲はすぐに騒然となった。

 同じトレーニング場にいたウマ娘やトレーナー達が、『兄と彼女』の名前を叫びながら『医者を呼べ』と何度も繰り返していた。

 ゴール前の直線で仕掛けるラストスパートの時点で起こった不運。

 ウマ娘は加速の最高点において時速60キロから70キロのスピードを発揮する。

 そんな最高速の中、彼女は足を踏み外して転倒し、そのままゴール付近で指示を飛ばしていた兄へと突っ込んだ。

 子供だった僕が現場を見せられることはなかった。

 だが、まるで人身事故のような酷い有様だったらしい。

 バラバラになった柵の破片と共に、彼女の身体が兄の身体にめり込んでいた、と……。

 

 あの日は……何曜日だっただろう?

 あれから、何をやっても2人の死が日々の中でちらつくようになった。

 栄光ある未来が約束されていたはずの兄。

 祝福を受けるはずだった新しい家族。

 だけど、残されたのは望まれない子供である僕だけ。

 喪った家族を引き摺り続ける父との関係はすれ違い、冷え込んでいった。

 

『おお……神よ。あなたは……連れていく子供を間違えた……』

『出ていけ……もうお前とは暮らせない……』

 

 ……いいよ。

 そんな風に言うなら……いいとも、父さん。

 もう僕は誰の世話も必要としない。

 自分ひとりで立派にやってみせる。

 兄が……ニコラスが何だって言うんだ? いつまでもニコラス……ニコラスって。

 兄はもう死んだんだ。

 トレーナーとしての優れた才能なら、僕だって持っている。

 僕が鍛えれば、どんなウマ娘だろうとレースを勝ち、栄光を掴むことが出来るんだ。

 そうさ、どんなウマ娘だろうとだ。

 そいつに才能があろうがなかろうが、裕福だろうが貧しかろうが、レースに対してどんな夢や理想を持っていようが関係ない。

 僕が勝たせてやる。

 僕の力が勝たせてやる(・・・・・・・・・・)――!

 そうして僕は、周りに……世間に……僕自身の力と価値を認めさせていった。

 手に入れた富と名声に酔いしれ、群がる奴らにそれをばら撒いてやった。

 兄が手に入れるはずだったものを、全て代わりに手に入れたつもりだった。

 

 だけど――。

 

 ああ、だけど。

 あの時の僕は、結局どんな『ウマ娘』にも心を開いてもらえなかったような気がする。

 トレーナーとして何人ものウマ娘を勝利に導いてきたけど、彼女達はいつの間にか僕の下を去っていったし、僕もそんな彼女達を特に気に掛けることはなかった。

 相手なんて誰でもよかった。

 兄と彼女の間にあった特別な絆の存在を、僕は信じていなかったんだ。

 僕が劇場の前で撃たれたあの日、はべらせていたのは人間の女だった。

 何処かの富豪の娘だか何かだった。顔も名前も、もうよく思い出せない。

 あの日は、何曜日だっただろう……?

 あの日から、僕は何回目の『一週間』を迎えただろう……?

 

 朝日が昇り、また新しい一日が始まる。

 

 

 

◆月曜日!――Lunedi

 

 

 

 現アメリカ大統領『ファニー・ヴァレンタイン』は、歴代でも類を見ない国民からの支持率を誇る男である。

 その人気の理由は、強い愛国心から来る国と民への献身的な行動にあった。

 一週間の始まり。多くの国民が重い足取りで仕事場へ向かうこの日にも、彼は朝早くから執務室へ訪れていた。

 

「おはようございます、大統領」

 

 そして、そんな彼よりも更に早く訪れ、執務室に迎え入れた一人の『ウマ娘』がいた。

 

「おはよう。今日も美しいな、私の愛バ――傍に来てくれ『ラブトレイン』」

 

 ラブトレインと呼ばれたウマ娘は、まるでダンスの誘いのようにヴァレンタインの差し出した手を取った。

 そのままエスコートするように彼をソファーへと誘う。

 ウマ娘という種族は、その名称が表す通り全員が例外なく女性であり、また大半が美形である。

 ラブトレインは、そのウマ娘全体で見ても特に際立って美しい外見をしていた。

 一方のヴァレンタインもまた平均的なアメリカ男性として美形の部類に入るが、その体格はやや肥満気味である。

 身長もラブトレインの方が高い。これは彼女が体格のいいアメリカのウマ娘の中でも更に長身であり、まるでウサギのように長い特徴的な耳がより強くそういった印象を与えている。

 そんな2人が並び立つ光景は何処かアンバランスに見えて――しかし、確かに『男女の仲』を感じさせるものだった。

 

「朝食は済まされましたか?」

「ああ、家で済ませてきた。コーヒーだけ貰えるか」

「かしこまりました。それと、こちらは今日の朝刊です」

「ありがとう」

 

 まるで夫婦のように気安く、2人はやりとりを交わした。

 しかし、実際に2人は夫婦ではない。

 ヴァレンタインには正式に結婚した立場の大統領夫人がいるし、ラブトレインは彼の仕事上のパートナーに過ぎなかった。

 公式の役職である大統領補佐官とは、また違う。

 ファニー・ヴァレンタインの個人的な秘書という立場だ。

 ウマ娘としての優れた身体能力をもってシークレットサービスより身近で大統領を守り、その公務を補佐出来るだけの知識と経験も持つ。

 ヴァレンタインから絶大な信頼を寄せられる唯一無二の存在だった。

 美しく、強く、賢い――そんなウマ娘を側近として侍らせた権力者は、歴史にも多い。

 2人の関係は周囲にも認められていた。

 しかし、具体的にどういった関係なのか?

『愛人』か? ただ性別が違うだけの『友人』か? ヴァレンタインの『傍に立つもの』として彼女をどういう言葉で表現するべきか――?

 それは当人達にしか分からないことだった。

 

「……今日も、我が国はレースの話題で沸いているな」

 

 新聞を眺めていたヴァレンタインは面白そうに呟いた。

 彼の愛読するアメリカの伝統的なニュース紙は、ここ数週間必ずといっていいほどウマ娘のレースに関する話題を一面に取り上げていた。

 まだ記憶に新しい『SBR』の熱狂が再燃したかのように、アメリカ国内ではウマ娘のレースに多くの関心が集まっている。

 理由は言うまでもない。

 いずれ開催が予定される『URAファイナルズ』の舞台である日本で一足先に行われたレース。

 シンボリルドルフとシルバーバレット、そしてゴールドシップの対決だ。

 

 ――日本の伝説と世界的スターウマ娘を無名のウマ娘が打ち破った。

 ――『SBR』の優勝者に準優勝者がリベンジした。

 ――完全な決着は来る未来のレースにて。

 

 大番狂わせの起こったレース自体の人気もさることながら、未来のレースに向けての期待も高まっている。

 元より『SBR』によって活性化していた世界中のレース業界が、今後の具体的なイベントに向けて大きく動き出している――そういった状況だった。

 

「あのレースは、私も後日テレビで観た。なかなか手に汗握るものがあったな。君はどうだ? 観たか?」

「はい、観ました」

「どうだった? ウマ娘としての視点からすれば、あのレースはやはり滾るものがあったのかな? 本能が刺激されたか? 興奮は?」

 

 ヴァレンタインは薄い笑みを浮かべながら、ラブトレインに訊ねた。

 それは男が女をベッドに誘う前に履いている下着を確認する前戯のような、何処かエロティックで下卑た楽しみを味わう口調だった。

 

「そうですね……」

 

 ラブトレインはそんな質問にも嫌悪感を示すことなく、答えた。

 

「感じ入るものがなかったかと言えば、嘘になります。もしも、アナタが大統領ではなく私のトレーナーだったのなら、私はあのレースを走っていたでしょう」

「私が導き、君が走る……それはとても魅力的な世界だ」

「はい。あのレースのトロフィーも、『SBR』のトロフィーも、アナタに捧げてみせます」

 

 優しくも力強い笑みでそう断言するラブトレインを見つめ、ヴァレンタインは束の間夢想した。

 

 ――自分が大統領ではなくトレーナーとして働き、最高のウマ娘だと信じる彼女がレースで走る姿を見守る。

 

 そんな世界を想像したことは一度や二度ではない。

 もしも自分達があの『SBR』に参加していたら、と他愛もなく考えたこともあった。

 ラブトレインというウマ娘との付き合いは長い。

 現在の大統領夫人とは15年前に出会って結婚したが、それよりもずっと昔の子供の頃から彼女は傍にいたのだ。

 兵士であり愛国者であった父を戦争で亡くした時も、彼女は傍にいた。

 亡き父の形見であるハンカチと遺志を受け継ぎ、祖国に尽くすことを決意した時も、ずっと――目の前の存在は自分の傍に寄り添い、行動を共にしてくれた。

 ファニー・ヴァレンタインという人間の人生に付き添い続ける『傍に立つもの』だった。

 友人よりも、伴侶よりも、同志よりもずっと固い絆で結ばれた半身。

 そして、その固い絆が彼女を束縛してしまっているのではないかと一抹の罪悪感を抱いた時もあった。

 この大地と空の下で自由に駆け回るウマ娘としての幸福と権利を奪ってしまっているのではないか、と。

 もしも、自分がこの国の大統領ではなく、ただひとりのトレーナーとして生きていたのなら。

 彼女は、やはり今と同じように自分の傍に立っていただろう。

 ウマ娘という生物の本能を押し殺すこともなく、好きなように駆け回っていただろう。

 そんな彼女と共に生きることは、間違いなく自分にとっても幸福な生き方であるはずだ。

 一国の指導者としての責務ではなく、ただひとりの男としての人生――。

 在り得たかもしれない未来をしばしの間脳裏に思い描き、ヴァレンタインは大きく息を吐いた。

 幸せな夢想に耽る男の姿は、その瞬間消え失せていた。

 

「我が心と行動に一点の曇りなし……! 全てが『正義』だ」

 

 ヴァレンタインの決意に満ちた言葉を聞き、ラブトレインは満足げに頷いた。

 彼女もまた長年付き添った男の心を理解していた。

 ウマ娘としての真っ当な『生』を捨てて、ひとりの人間に尽くす道を選んだことに一片の後悔も抱いていない。

 

「これは私が選んだ道……この国で、私が『最初にナプキンを取った人間』だ。均等に食器の置かれた円卓で、誰かが最初に右のナプキンを取ったら全員が『右』を取らざるを得ない。もし左なら全員が左側のナプキンだ。そうせざるを得ない。これが『社会』だ……私はこの国を愛している」

「はい。私も、この国を愛しています」

 

 2人はじっと見つめ合った。

 今更、ここまで歩んできた道を振り返る必要も意味もない。

 これから先も共に歩んでいく――何の曇りもなく。

 

「君は『女神』だ、ラブトレイン。私の女神……共にこの国を愛してくれ」

「アナタを愛するように、この国を愛します」

 

 ヴァレンタインはソファーに座ったまま腕を伸ばし、ラブトレインの腰を掴んだ。

 自らの肉体の内で滾る衝動のまま、強く抱き寄せる。

 

「いけません……大統領。ここは執務室です」

 

 ラブトレインは形ばかりの抵抗をしたが、自身の腕はヴァレンタインの肩に回されていた。

 

「そうだ。ここは大統領執務室(ホワイトハウス)だ。歴史上重要な決断が、ここで行われてきた。欲情するか? ファースト・レディでさえ与えられない特権だ」

「アナタには大統領夫人が……ああッ、いけません……」

「君が情熱的な言葉を口にするからだ。何なんだ? すごくカワイイぞ、その表情……興奮してきたッ!」

 

 そうして2人は絡み合いながら、ソファーのクッションに身を沈めていった――。

 

 

 

 いつものように執務室の前までやって来た大統領補佐官は、朝の静けさを乱さぬ程度のノックをしてドアを開いた。

 

「おはようございます、大統領。本日のご予定ですが――」

「ああ……いいぞッ! スゴクいいッ! その調子だ、私の愛バ!」

「いけませんッ! これ以上強くなんて……!」

 

 長年、ファニー・ヴァレンタイン大統領に仕えてきた補佐官は冷静沈着だった。

 自身の視界に激しく乱れる2人の痴態が飛び込んできても、精神的動揺を表さなかった。

 

「顔の上だッ! 私の! 君の魅力的な尻とクッションで私を挟み込むんだッ! うぉおおおおっ!? 早く! 早く押し潰すんだッ!」

 

 ソファーに寝転がったヴァレンタインの顔の上から、ラブトレインの尻が圧し掛かっていた。

 性行為の比喩表現ではない。ただ、そう表現するままの光景が室内に広がっていた。

 お互いに服を着たまま、ヴァレンタインの顔面にラブトレインが騎乗した状態になっている。

 ただそれだけで、2人は大いに昂っていた。

 2人だけの世界に没入して、周囲のことなど何も眼に入っていないかのように互いの情熱を高め合っていた。

 

「圧迫だッ! 呼吸が止まるくらいッ! 興奮してきたぞッ! 早く! 『圧迫祭り』だッ!」

「いけません! こんなこと……いけませんッ! ああッ、私のファニー!」

「もっと乗ってくれラブトレインッ! 強くッ、もっと! もっと! うぉおおッ! 乗っか――」

 

 補佐官は無言のまま数歩、後ろに下がった。

 

「――これより一時間、予定を空けておきます。ごゆるりと」

 

 そう告げて、彼は2人だけの世界に続く扉を閉ざした。

 普段よりも一時間遅い時刻を過ぎて、今日もアメリカという国の一週間が始まろうとしていた。

 

 

 

◆火曜日!―― Martedi

 

 

 

 つい1年ほど前にアメリカを舞台にして始まった『SBR』という大レースが起こした熱狂と衝撃。

 それと同じ『大きな力のうねり』のようなものが、今度は舞台を日本に移して、世界を動かしている。

 その『うねり』の中心――シルバーバレットと対決したシンボリルドルフが生徒会長を務め、ゴールドシップが一生徒に収まっているトレセン学園でも、あのレースの影響は現れていた。

 とはいえ、それは社会の様々な界隈に与える影響に比べれば、酷くささやかなものだったが。

 

「えー!? 今週号にも『シルバーバレット』載ってないじゃん!」

 

 それは例えば、トーセンジョーダンの愛読する人気ファッション誌に表れているようなちょっとした影響である。

 しかし、流行に敏感なうら若きウマ娘の少女にとっては、人目も多いカフェテリア内で思わず声を上げてしまうような、決して軽視できない影響だった。

 

「マジテンション下がるぅ~、これで三週連続じゃんかぁ……」

「何? 海外のファッション誌?」

 

 同じ『今時のギャル』繋がりで友人の一人であるゴールドシチーが、背後から覗き込んで言った。

 

「そっ、ウマ娘専用のヤツ。あたし、毎週通販で買ってんだ~」

「アンタ、海外のファッションに興味あったの?」

「いいモンに日本も外国もカンケーないっしょ! 一年前の『SBR』レースが始まった辺りからさ、ウマッターでも外国のファッションとかネイルとかトレンドに結構上がってっし」

「知ってる。アタシの仕事にも、その辺の影響出てるし」

「シチーはモデルやってるもんね。でさ、ファッションもなんだけど、この雑誌に出てるモデルのシルバーバレットがマジでイケてるわけよ!」

 

 シルバーバレット――既に世界的に有名だったそのウマ娘が、日本国内に与えた衝撃は記憶に新しい。

 裏表のない尊敬と感動をあらわにするトーセンジョーダンとは違い、ゴールドシチーは僅かに表情を引き締めた。

 

「ジョーダンって、シルバーバレットのファンなの?」

「ファンっつーかリスペクトって感じ? いや、違いよく分からんけど。でも憧れはあるよね~。この本もファッション誌ってより、写真集って感じで読んでっから」

「まあ、確かにあの人ひとりで他のモデルの存在感食っちゃってるところあるけど」

「顔いいし、脚も長いし……何よりスゲーのがあの『ポージング』よ! SNSでもリスペクトした写真とか動画山ほど上がってっけど、やっぱオリジナルには誰も勝てんわ~。何食ったらあんなポーズ取れんの? って感じ」

 

 そう言って、トーセンジョーダン自身もまたポーズを取ってみせた。

 立ち上がった状態で顔を半ば隠すように開いた左手を持ってくる。

 構図としては単純なものながら、残った右手の位置と僅か下がった左肩の角度などが絶妙に噛み合って独特なセンスの立ち姿となっていた。

 

「これ知ってる!?」

「ポージングの『レベル1』だっけ。これまで雑誌に載ったシルバーバレットのポーズで、真似るのが難しい順に難易度をレベル分けしてんでしょ?」

「あたし、これ一番好き! 真似しやすいし、たまにウマッターで上げっと軽くバズるんだよね」

「知ってる。アタシも、仕事でそれやらされたから」

「そういえば、シチーってシルバーバレットとレースでガチった後でモデルの仕事まで一緒にやったんだっけ?」

「……うん」

 

 シルバーバレットとディエゴ・ブランドーが日本で行った『十連覇宣言』のレース。

 最後の1つはゴールドシップによって阻止されたが、そこに至るまでの9回のレースの中でゴールドシチーは他のウマ娘達と同様にシルバーバレットと争い、そして敗北していた。

 シルバーバレットが1着、ゴールドシチーが2着のレースだった。

 当時の世間は、それを『惜敗』と表現した。

 既にデビュー済みのウマ娘として確かな実力を誇り、実績も上げていて――それ以上にモデルとして高い人気と知名度を持っていたゴールドシチーを『圧倒的な実力差で敗れた無惨な敗北者』として扱うことを、多くの人間が望まなかったのだ。

 それは勝利者であるシルバーバレットでさえ同じだった。

 国内で人気のあるゴールドシチーに大差勝ちすることで生まれる反感を避けた。

 トレーナーであるディエゴの指示だった。

 ゴール前のギリギリで差し切って勝つ――そんなエンターテインメントを演出して、勝ってみせたのだ。

 あのレースを走っていたゴールドシチー当人も含めて、参加した全ての選手が皆一様に理解していた。

 あのレースの真の勝者は、シルバーバレットただ1人だ。

 何もかも彼女の手のひらの上でコントロールされていたレースだ、と。

『世界を制した』と言われたウマ娘の圧倒的な実力と経験の前に完敗した。

 あるいはその後の展開さえ計算されていたのだろう、とゴールドシチーは察していた。

 シルバーバレットとのモデルの仕事は、ディエゴの方から持ち掛けられたのだ。

 あの仕事は大成功だった。

 2人が組むことによって、シルバーバレットは日本に、ゴールドシチーは世界に名を広めた。

 激闘を繰り広げた競争者2人がレースの外では遺恨を持ち込まず、互いを認め合うように並び立つ美しい一枚絵は多くの人々を魅了した。

 その事実に対して、ゴールドシチー自身は酷く複雑な気持ちだった。

 本当に、一言では言い表せない。

 未だに飲み込むことさえ難しい感情だ。

 

 ――敗北したことが悔しい。

 ――モデルとレースを両立する姿を尊敬する。

 ――自分よりも遥かに多くの勝手な期待や価値観を押し付けられながら、それすら完璧に利用する生き方に畏怖を抱く。

 ――己の道を迷いなく突き進む背中を遥か遠くに在るように感じる。

 

「凄いウマ娘だよ、あの人は」

 

 あの人のようになりたい。

 あの人のようにはなれない。

 あの人のようにはなりたくない。

 

「……敵わないって思った」

 

 様々な思いを胸に仕舞って、ゴールドシチーはそれだけを口にした。

 

「でもさ、その凄いウマ娘にあのバカってば勝っちゃったんだよね~。今でも信じられんわ」

「あのバカって……」

「ゴルシっつーかゴールドシップのこと」

 

 トーセンジョーダンは呆れたように笑いながら、その名前を口にした。

 

「普段からワケの分かんないことばっかりやってるバカのくせにさ、前評判とか全部ひっくり返して勝ってやんの。マジありえんし」

「……随分気安いじゃん。ジョーダンって、ゴールドシップと知り合いだったっけ?」

「知り合いっつーか、一方的に絡まれてるっつーか……」

 

 ゴールドシップもメイクデビューから一年も経っていない新人だが、トーセンジョーダンは怪我からの延期を繰り返してデビュー戦も未経験である。

 レースでも学園生活でも接点があるとは思えなかった。

 

「学校のさ、種目別競技大会で偶然同じレース走ることになってさぁ。そん時に眼ぇつけられたのか、やたらと絡まれんのよ」

「ああ、そういえばあの時ってメイクデビュー前の話じゃん。確かに、いい勝負だったね」

「あの後アイツがトレーナー見つけて、併走練習の時とかムリヤリ拉致られたりして、ホント無茶苦茶で――」

 

 トーセンジョーダンは心底嫌そうに語っていたが、不意に表情を和らげた。

 

「でも、アイツもアイツなりに結構ヘコむことあるみたいなんだよね。シルバーバレットとのレースが近づくと、なんかすごいナーバスになっててさ」

「そりゃあ……なるでしょ。しかも、あの生徒会長まで相手になるっていうんだから」

「でもさ、それでいざ結果が出ればアレでしょ。ビビるって、マジで!」

「……確かに。ビビる」

 

 あのレース以来、ゴールドシップの存在は学園内でも注目を集めていた。

 普段の変人奇人ぶりが広く知れ渡っている為、話題に挙がることはあっても尊敬や憧れの対象になることはほとんどない。

 しかし、この時。

 2人の言葉には確かにゴールドシップへの敬意が含まれていた。

 自分達と同じようなスタート地点から走り出しながら、遥か遠くにある存在の背中に追いつき、追い抜いてみせた競争者としての姿に尊敬の念を抱いていた。

 

「アイツがバカなのは間違いないけどさ、あれだけ突き抜けられると……あのバカさ加減、見習いたくなっちゃうじゃん」

 

 そう呟いて笑うトーセンジョーダンに釣られるように、ゴールドシチーも口元を緩めた。

 シルバーバレットの十連覇宣言の最後を飾ったあのレースは伝統や格式のあるものではない。

 しかし、あのレースの中で繰り広げられた激闘とその結末が与えた影響は、世間にも、この学園にも大きく残った。

 シルバーバレットの力に敗北して打ちのめされた――『もう二度と勝てない』と思い知らされたウマ娘達が、ゴールドシップの走りを見て再び奮い立った。

 自分やトーセンジョーダンだけではないはずだ。

 トレセン学園の生徒達の多くが、あのレースで心に火を点けられた。

 

「そうだね」

 

 ――レースがしたい。

 

「アタシも見習ってみよっかな」

 

 ――次こそは、勝ちたい。

 

 いずれ来る『URAファイナルズ』に向けて、再び何かが自身の内から燃え上がってくるのをゴールドシチーは感じていた。

 

「……ところで、最初の話題に戻るけどさ」

「最初の?」

「シルバーバレットが雑誌に出てないって話」

「あ、そうそう! それ!」

「しばらくはモデルの仕事もレースもやらないで休養に充てるって言ってたよ」

「えっ、ウソ!? いつ言ってたん!? 本人に聞いたの!?」

「いや、ニュースとか。有名人なんだからネットとかで幾らでも出てるし。雑誌のメインモデルなら、その前のバックナンバーで告知とかしてるんじゃないの?」

「書いてたかもしれんけど、あたしが英語とか読めると思う?」

「英語分かんないのに海外の雑誌を定期購読してたの、アンタ……」

 

 ゴールドシチーは、呆れたようにため息を吐いた。

 

 

 

◆水曜日!――Mercoledi

 

 

 

 トレセン学園のエントランスホール――そこは多くの生徒達が行き交い、備え付けられたテーブルで親交ある者達が会話に花を咲かせている。

 そして今日も、エントランスの一角にてマチカネフクキタルを筆頭に、メイショウドトウ、サイレンススズカの3人によって有益なディスカッションが行われていた。

 

「救いは……」

 

 メイショウドトウはこの世の絶望を全て味わったかのような声で呟いた。

 

「救いはないんですかぁ~!?」

「救いは、ありまぁす!!」

 

 そんな彼女をマチカネフクキタルが力強く救った。

 

「ハイ! というワケでですね、掴みもバッチリという感じで今からドトウさんを私が救おうと思います! マチカネフクキタルです!」

「メイショウドトウですぅ~」

「……え、何これ? 私、また何かに巻き込まれてる?」

 

 自分が何故この場にいるのか分からないサイレンススズカは、ひとり呟いた。

 それでも一度囲んだテーブルを立たないのは、彼女の人の好さである。

 

「実はですね、私ついに究極の幸運グッズを手に入れてしまったのです!」

 

 そう言って、マチカネフクキタルは小さな箱を取り出した。

 英語の表記しかない、海外の輸送用段ボールだ。

 

「苦節数か月……慣れない英語に悪戦苦闘しながら、本場アメリカから通販で取り寄せた逸品です!」

「本場って、何の本場なのかしら?」

 

 サイレンススズカの静かなツッコミをスルーして、全員が注目する中箱から物品を取り出す。

 

「レースで偉大なウマ娘は数あれど、幸運という点において最も偉大なウマ娘はただ1人! 我らが『幸運の星』ヘイ・ヤー先生の幸運を宿した人形ですっ!!」

 

 ヘイ・ヤー――大陸横断レース『SBR』で第3位の成績を残したウマ娘である。

 優れた実力や経験ではなく、並外れた幸運によってレースを走り抜けた彼女は世間からの注目度も高く、普段は世情に疎いサイレンススズカでさえ知っているウマ娘だった。

 マチカネフクキタルが見せる人形は、言われてみれば確かにヘイ・ヤーの人形だと分かる『面影』を持っている。

 しかし、じっと見ていると不安になってくる絶妙にサイズのバランスが取れていない頭身と、虚ろな表情のデザインは人形にも関わらず何処か生々しい。

 呪いの儀式に使う人形か、誰かの魂を抜いてそれを植え付けた人形なのではないか――そんな唐突なイメージがサイレンススズカの脳内に浮かび上がった。

 ハッキリ言うと不気味だった。

 

「いやぁ、本当に手に入れるのに苦労しましたよ。かなりのレア物らしく、あまり数が出回っていないようでしたからね!」

 

 ――それって正規品じゃなくて偽物だからなのでは?

 

 そんな疑念を言葉にしない配慮が、普段は天然ボケと言われるサイレンススズカにも存在した。

 

「ドトウさん! この人形が手に入った以上、アナタは救われたも同然です。ヘイ・ヤー先生のラッキーパワーがあれば、運勢最悪の日だって安心安息安全地帯ってなモンです! 1週間がハッピーウィーク! 毎日がエブリディ!」

「はぁあああっ! ありがたやありがたや~」

 

 そして、2人が純粋に喜んでいる空気に水を差す勇気もなかった。

 

「フ、フクキタルは最近ヘイ・ヤーさんのグッズを集めてるわよね。ひょっとしてファンになったのかしら?」

 

 見れば見るほど不安になる人形から視線と話題を逸らす為に、サイレンススズカは訊ねた。

 少々強引な話の切り替え方かと思ったが、この話題にマチカネフクキタルは眼を爛々と輝かせた。

 

「もちろんです! ラッキーパワーをレースに最大限活かすあの走りは私の理想像ですからねっ!!」

「あれを真似しようと思うのは、ちょっとどうかと思うけど……」

 

 サイレンススズカは世情に疎い方だったが、そんな彼女でも当時話題の頂点にあった『SBR』レースについては何度かテレビやニュースで目にしていた。

 そのレースの中でも異端の走りを見せるヘイ・ヤーは、シルバーバレットなどの実力者達とはまた別の方向性で注目を集めていた。

 スタートダッシュを盛大に寝過ごして始まった彼女の走りは、様々な場面で不自然なほど運を味方につけた。

 時刻通りスタートした3000人以上の選手達が踏み均した結果、なめらかになった地面で脚に負担を掛けることなく加速し、あっという間に最後尾集団に追いつくという展開など序の口だ。

 追いついた後も『他の選手の脱落』『ショートカットに便乗して成功』など、単なる偶然とは思えない展開を経て先頭集団まで追従した。

 何よりも恐ろしいのは、これらの出来事が本当に『単なる偶然』に過ぎなかったことだった。

 何の反則も技術も本人の意図すらない、降って湧いた『幸運』を味方につけた走りだった。

 あんな走り方は、どんなウマ娘にも真似出来ないだろう。

 

「いやぁ、さすがにあの幸運は真似したくても出来ませんよ。それに私、ヘイ・ヤー先生のファンであって、あのラッキーパワーのファンではありませんから!」

 

 そんな彼女の走りには、人気も集まったが批判も多かった。

 アメリカ大陸を横断するという誰もが極限状態で競うレースの中、幸運を味方につけたヘイ・ヤーの走りは『楽をしている』『ズルをしている』などと捉えられることも多かった。

 勝負は時の運とはいえ、自らの意思や技術の介在出来ない要因を理不尽に思うことは誰であろうと同じである。

 結果、ヘイ・ヤーは人気こそあったものの、真剣なレースからは無意識に除外された見世物の一種のように捉えられていた。

 ヘイ・ヤーのファンだと面白半分で口にする者は多い。

 しかし、ヘイ・ヤーのファンだと真剣に断言する者は少ない。

 

「あの過酷なレースを、途中で挫けずに最後まで走り抜くなんて『幸運』とは全く関係のない偉業ですからねっ!」

 

 マチカネフクキタルは、そんな数少ない本物のファンの1人だった。

 その返答に、サイレンススズカとメイショウドトウも思わず笑顔を浮かべた。

 

「そうね。そういう所は、フクキタルにも通じる部分があると思うわ」

「実際に『SBR』ってレースというよりサバイバルみたいでしたからねぇ。私があんなのに参加したら、きっと途中で野垂れ死んじゃいますぅ~」

 

 メイショウドトウのストレートな表現に、サイレンススズカは口元を引き攣らせた。

 しかし、決して大袈裟な仮定ではない。

 実際に死傷者の出たレースなのだ。

 

「本当に、あのレースに参加した人達はそれだけで偉大ね。テレビで観ているだけでもハラハラしてたもの」

「やっぱり、さすがのスズカさんでもあのレースには参加したいとは思いませんか?」

「え……フクキタル、『さすがの』って何? 私ってああいうレースに参加したがると思われてるの? 死んじゃうかもしれないのよ?」

「スズカさんって走ることに関しては結構怖いもの知らずな上に考えなしなところありますからねぇ」

「いえ、さすがにそれは……」

「広いアメリカ大陸を端から端まで100日以上かけて走り抜けるレースを想像してみてください。どう感じますか?」

「……気持ちよさそう」

「ひぇえええ……」

 

 恍惚とした表情で呟くサイレンススズカを見て、メイショウドトウは小さく悲鳴を漏らした。

 総距離約6000kmのコースを想像して、この感想が出てくる精神性は同じウマ娘であっても畏怖しかない。

 それは話を振ったマチカネフクキタルも同じだった。

 

「うーん、自分で言っておいて何ですがスズカさんが『SBR』で走ってる姿はあんまり違和感ないですね。絶対、途中で脱落すると思いますけど」

「そ、そうかしら? 確かに長距離を走れるスタミナはないけど……」

「いえ、そうではなく。スズカさんは走ること以外は無頓着な方ですから、日常生活も真っ当に送れるかたまに心配になりますからね。あんな長期間の過酷な旅には耐えられません。きっと砂漠コースの時点で水を補給出来ずに干からびてしまうでしょう」

「それ以前に一週間生き延びられるでしょうか~? 食料や寝床の確保が出来ずに倒れちゃいそうですぅ……うううっ、かわいそうなスズカさん……」

「ウソでしょ……」

 

 2人からの辛辣な評価に、サイレンススズカは絶望した。

 

「とはいえ、私達が普段走っているレースとは全く違う別世界の話ですからね。私だって『SBR』のレースを完走する自信なんてありません。だからこそ、ヘイ・ヤー先生を称えたくなるんですが」

「で、でもぉ……ヘイ・ヤーさんも1人じゃきっと無理だったと思いますぅ。レースの間ずっと付き添ってくれたトレーナーさんがいたからこそだと思いますねぇ~」

「ヘイ・ヤーさんのトレーナーっていうと、ポコロコさんだったかしら?」

「はいぃ~、私はどちらかというとポコロコさんの方のファンなんですぅ~。あんな人がトレーナーさんだったら、凄く心強いなってぇ~」

 

 メイショウドトウの意外な発言に、2人は眼を丸くした。

 ポコロコが『SBR』の参加者として便宜上『トレーナー』と世間から扱われているだけで、実際にはその技術も資格も持たない農夫にしか過ぎないことは広く知られている。

 ウマ娘であるヘイ・ヤーはともかく、ただの一般人であるポコロコにトレーナーとして評価できる要素はないのだ

 しかし、そんな世間の評価など知らないかのように、メイショウドトウは普段のオドオドとした態度からは珍しい、明るい笑顔で言葉を続けた。

 

「テレビで観るヘイ・ヤーさんは、いっつも笑顔で元気いっぱいで……あんなに大変なレースなのに辛かったり不安になったりしないのかなって思ってたんですけど~、傍にはいつもポコロコさんがいてヘイ・ヤーさんを励ましていたんですよねぇ~」

「確かに、インタビューの映像では2人のそういうやりとりが多かったわね」

「私ってドジで勝手に落ち込んじゃう性格なので、ああいう風にいつも傍にいて励ましてくれるトレーナーさんだったら頑張れそうだなって。お2人の様子を見て羨ましいなぁって思っちゃいました~」

「なるほど。自分ひとりだけの専属トレーナーというのは、やっぱり憧れちゃいますね」

 

 マチカネフクキタルは納得するように頷いた。

 本格化を迎えていないメイショウドトウにはまだトレーナーが付いていないが、マチカネフクキタルとサイレンススズカは既にデビューを済ませている。

 しかし、2人共専属のトレーナーがいるわけではなく、1人のトレーナーが結成した複数人のウマ娘によるチームに所属して、指導を受ける形だった。

 この形式はトレセン学園では珍しいことではない。

 学園に就職したばかりの新人トレーナーはまずベテランの下でサブトレーナーとして下積みをすることが多く、ベテランになれば1人でも多くの生徒があぶれないようにチームを作って複数人を指導することが求められる。

 もちろん強制ではないが、ベテラントレーナーを専属として1人の生徒が独占してしまうことは学園からしても非効率的で歓迎すべき形ではないのだ。

 そして、将来有望な生徒というものは、より質の高いトレーニングを求めてベテランのチームに所属する流れが普通である。

 必然的に専属トレーナーというものは、駆け出しの新人や主立った実績のない中堅トレーナーのスカウトに応じたウマ娘だけが得るものであり、期間も一時的なものだった。

 そのウマ娘が成果を出せば、実績を示したトレーナーはチームを持つことを推奨されるからだ。

 1人のウマ娘と1人のトレーナーが二人三脚で苦楽を共にし、栄光を掴む為に最後まで走り続けるガッツストーリーは現実ではドラマのような希少な話だ。

 だからこそ、ヘイ・ヤーとポコロコの関係にメイショウドトウは憧れるのかもしれない。

 あるいは、思春期のウマ娘達は皆少なからず同じような気持ちを抱いていたのではないか。

 夢とロマンを求めるその気持ちには、マチカネフクキタルとサイレンススズカも共感出来た。

 

「レースの後のお話も大好きなんですぅ~。『SBR』を走り切ったら一緒に地元に帰って、賞金で牧場を大きくして一緒に暮らすって……本当に素敵なお話だと思いますぅ~」

 

 どんなウマ娘でも、レースを引退した後のことは考えなければならない。

 3人は偉大な記録を残してレースを去ったヘイ・ヤーとポコロコのその後の生活を想い、それを自分自身にも置きかえながらしばしの間思い思いに自身の将来を夢想した。

 

「……ああ、いいですねぇ。共に生涯の目標を達成したトレーナーさんと、今度は人生のパートナーとして一緒に暮らす。老後も穏やかに過ごせれば言う事なしです!」

「確かにそうだけど、フクキタルは表現がストレートね」

 

 サイレンススズカは頬を僅かに赤くしながら、苦笑した。

 

「今からでも専属のトレーナーさん、探しましょうかねぇ? ヘイ・ヤー先生の人形を手に入れて運気は確実に向いているはずなので、運命の人を導いてくれるかもしれません!」

「あああぁ~、私もあやからせてくださいぃ~!」

「導いてくれるかどうかは分からないけど、フクキタルはトレーナーさんが変わっても大丈夫なの?」

「今のチームに不満があるわけではありませんが、やっぱり一対一で指導していただくというのはトレーニングの密度という点でも違いますからね。最近ちょっと伸び悩んでますし、縁があれば是非モノにしたいですね。ああっ、何処かにいないでしょうか私の運命の人!」

「フクキタルのそういう積極的な所、本当に尊敬するわ。私はどうしても受け身になっちゃって……」

「スズカさんの才能なら引く手数多ですよぉ~。不安なのは私の方ですぅ。私みたいなダメなウマ娘をスカウトしてくれる人なんているかどうか……ううっ」

「何を言っているんですか、ドトウさん! 今のあなたこそフリー! 未来は真っ白です! きっと素敵なトレーナーさんとのご縁がありますよ!」

「そ、そうでしょうかぁ~?」

「もちろんです! 何せ、今一番熱いトレーナーさんがこの学園にはいるじゃないですか!」

「それって……」

「そう、ジョニィ・ジョースターさんです!」

 

 マチカネフクキタルの口から飛び出した意外な名前に、2人は眼を丸くした。

 

「元々実績のあるベテラントレーナーさんでしたが、ゴールドシップさんの活躍で更に有名になりましたからね。近々チームを作る予定だという話を小耳に挟みました。どうです、ドトウさん? この機会にジョニィさんへ売り込んでみては!?」

「え、えぇ~!? むむむ無理ですぅ~、私なんかがゴールドシップさんみたいになるなんてぇ~!」

「ゴールドシップみたいになるのは誰でも無理だと思うけど……」

 

 静かにツッコミを入れながらも、サイレンススズカはジョニィ・ジョースターという人物について思い出していた。

 ジョニィは初めて学園を訪れた時から密かに注目されていた。

 どういった経緯か理由かは分からないが、海外で実績を残した名トレーナーが突然トレセン学園にやって来たのだ。

 しかも、単なる客人としてではなく、正式なトレーナーとして迎えられたのである。

 有能なトレーナーから指導を受けられるかもしれないという点において、多くの生徒達が関心を抱いた。

 だが同時に、彼に近寄り難い空気も出来上がっていた。

 その多くはジョニィの負の経歴によるものである。

 トレーナーとして指導したウマ娘に多くの栄光を掴ませた実績を持ちながら、テレビではそれを傲慢にひけらかし、女性とのスキャンダルも多かった。

 そうして良い意味でも悪い意味でも有名になった果てに、有名な金持ちの娘と遊んでいる最中に劇場の入場待ちの列に割り込もうとして逆上した客に撃たれた――と、そんな他愛もない惨めな没落を迎えた。

 その後『SBR』で再び返り咲くものの、歳若い少女達の多くにとっては無意識に忌避の念を抱く男である印象が強かったのだ。

 

「スズカさんはジョニィさんと話したことありますか?」

「いえ、話したことはないわ。でも、偶然だけど初めてこのトレセン学園に来た時に姿を見たことがあるの」

 

 サイレンススズカもジョニィの一般的な経歴は知っていた。

 だが、そんな経歴よりもまず何より、初めて彼を見た時の印象が強く残っていた。

 ただ何の目的もなく、独りでそこにいた。

 誰よりも彼自身が、何故このトレセン学園にいるのか分かっていなかったような気がする。

 車椅子に乗って、自分が注目されていることを知りながら周囲に関心を向けずに去っていく姿を見た時、思ったのだ。

 

「ああ、この人は寂しいんだろうな……って」

 

 ジョニィが多くのウマ娘を導き、何人もの女性と関係を持ったことは知っている。

 しかし、彼女達の中で本当に彼の傍に寄り添っていた人はいたのだろうか。

 彼の傍に立とうとした者は――。

 あるいは、そういう人物を彼は失ってしまったのかもしれない。

 自ら離れてしまったのかもしれない。

 あの時のジョニィの傍には誰もいなかった。

 あの日、ゴールドシップというウマ娘と出会うまでは。

 

 

 

◆木曜日!――Giovedi

 

 

 

「――メロンパフェ」

 

 ポツリ、と。

 そう呟いたメジロマックイーンの顔には『スゴ味』があった。

 心に決めた行動を必ず遂行するという鋼の意思があった。

 

「メロンパフェもお忘れなくッ!」

「う……うん、分かってるよ。ちゃんと注文したからね」

 

 その鬼気迫る物言いに、テーブルを挟んで向かい合ったメジロライアンは若干引き気味になりながらも頷いた。

 

「とにかく、快復おめでとう。もう左脚の方は大丈夫なんでしょ?」

「ええ、ようやく主治医からもお墨付きを貰えましたわ」

 

 メジロマックイーンはシルバーバレットとの勝負以降、彼女に指摘された左脚の炎症の治療に努めていた。

 深刻な症状ではなかったが、競技者であるウマ娘にとって脚は消耗品である。

 人間よりも何倍ものスピードで何倍もの距離を走る彼女達の肉体は、やはり何倍もの負荷を受けているのだ。

 軽い怪我や病気だと甘く見て無理を重ね、自らの選手生命を縮めてしまった例は枚挙にいとまがない。

 メジロマックイーンは今日まで、レースへの参加はもちろんトレーニングも自重して、じっと回復までの時間を耐えていたのだ。

 

「これで、ようやくトレーニングが再開出来ますわ」

 

 メジロマックイーンは晴れ晴れとした表情を見て、メジロライアンも自分事のように嬉しそうに笑った。

 

「今週いっぱいは軽いものに留めて、来週から本格的にトレーニングに入るんだっけ?」

「ええ、『新しいトレーナーさんのチーム』では初めてのトレーニングになりますわ。ですが、その前にまずはパフェ! スイーツの節制も今日で解禁ですわ!」

「すごい勢い……そんなに楽しみだったの?」

「快復したら絶対に『東方フルーツパーラー』の『メロンパフェ』を食べる――最初に掲げたこの目標があったからこそ、私は今日この日まで耐え忍べたのですわ」

「マックイーンは本当にここのパフェが好きだねぇ」

「グラスの『形』が良いのです。上から食べていくとパフェのクリームやシャーベットの層が絶妙なバランスで混ざり合うようになっていて、味がどんどん変わっていくんですの。パフェ1個分のカロリーで色んな味が楽しめるのが良いですわ!」

「へえ、面白そう。あたしも今度食べてみようかな」

「よろしければ、私が注文した物を一口食べてみますか?」

「いやあ、それは悪いよ。折角我慢したんだから、今日はマックイーンが全部食べて」

 

 そうして談笑する2人がいるのは、件の『東方フルーツパーラー』だった。

 トレセン学園から程近い駅前で、一流ファッションブランドのブティックが建ち並ぶ先にその店はあった。

 一階で高級メロンを目玉とした果物を売り、二階ではその果物を利用したスイーツを提供するカフェを経営している。

 高級品を扱うだけあって一般人には少々立ち寄りにくいが、トレセン学園の生徒達――エリート育成機関に通えるだけの比較的裕福な家庭が多い――は、放課後や休日に足を運ぶ者も多かった。

 そして、スイーツに眼がないお嬢様であるメジロマックイーンは、常連にして上客である。

 放課後、トレーニングの予定がなかったメジロライアンと連れ立って、こうしてやって来たのだ。

 

「ところでさ、マックイーン。さっきの『新しいチーム』の話なんだけど……」

 

 注文の品が届くまでの待ち時間に、メジロライアンは気になっていたことを訊ねた。

 

「ジョニィ・ジョースターさんのチームに移籍するって、もう相手から了承はもらってるの?」

 

 その質問にメジロマックイーンは頷いた。

 

「ええ。まだ正式に書面での契約は行っていませんが、来週からのトレーニングはジョースターさんの指導の下で行う予定ですわ」

 

 メジロマックイーンは、既に専属のトレーナーを持つウマ娘である。

 しかし、2人の関係は少し特殊だった。

 彼女に最初に付いたトレーナーは、メジロ家から派遣されてトレセン学園に就任していたトレーナーだったのだ。

 メジロ家のウマ娘を数多く指導してきた老練な教官であり、実際にメジロマックイーン自身もその人物の指導の下で目標のレースを勝ち取っている。

 選抜レースでスカウトを待つ他の一般生徒とは違う、名門であるが故に恵まれたスタート。

 それを無駄にせぬよう、この体制で自分はずっと戦っていくのだと考えていた。

 しかし、メジロマックイーンは脚の療養中に現在の環境から離れる決断をした。

 突然の移籍の申し出には『担当するウマ娘の脚の不具合を見抜けなかったトレーナーへの不信』などと周囲から邪推する声もあったが、そんな負の理由から来るものでは断じてない。

 もっと前向きな決意から来るものだった。

 あの日、レースでゴールドシップの勇姿を眼に焼き付けた時に抱いた決意だった。

 

「今のままでもわたくしは強くなれるでしょう。メジロ家に恥じぬ成績を残せると思います。その意思も自信もあります」

「でも、それじゃ満足出来なくなっちゃったんだ?」

 

 メジロライアンは悪戯っぽく訊ねた。

 しかし、彼女自身も共感出来る気持ちだった。

 

「凄かったもんね、あのレースは」

「ええ」

 

 2人は束の間、当時の興奮に浸った。

 場所は違えど同じレースを見ていたのだ。

 絶対的強者が2人も存在するコースの上で、致命的な出遅れから遥か高みにある領域に駆け上がり、勝利までもぎ取ってみせた奇跡の大逆転。

 レースには信じられない出来事が転がっている。

 繰り返される定石と常道の中で忘れていく選手や観客達に、それが紛れもない事実であることを鮮烈に思い出させた。

 歴史には時折そんな伝説を残すウマ娘が現れる。

 あの時のゴールドシップは、まさにそういう存在だった。

 あんな場所を自分も走ってみたい。

 あの瞬間に自分も立ち会いたい。

 そして、出来れば自分自身がそういう存在になりたい――多くのウマ娘がそう奮い立ったに違いなかった。

 

「わたくしはデビュー前からメジロ家のウマ娘として目指すべき目標を掲げ、そしてそれを達成しました。心の何処かで『ひとまずの挑戦は終わった』と区切りをつけてしまっていたのかもしれません」

「燃え尽き症候群ってヤツかな?」

「そこまで無気力になっていたとは思いませんが……勝利に『飢えて』はいなかったのかもしれません」

「何の為に勝ちたいかにもよると思うよ」

「ええ。まさに、その為の新しい目標が見つかりましたわ」

「ゴールドシップに勝ちたいの? それとも、シルバーバレット?」

「さて、それはどうでしょうね」

 

 メジロマックイーンは曖昧に笑って誤魔化した。

 あのレースで『見たもの』を話してもよかったし、それを信じてもらえなくてもよかった。

 だが、何となく口を噤んだ。

 ゴールドシップが見せた『黄金の走り』――彼女の走る姿が放つ『光』が眼の錯覚ではなかったことを、メジロマックイーンは信じていた。

 

「いずれにせよ……わたくしは、より高みを目指すことを決めましたわ。これはメジロ家とは関係ありません。わたくし自身の挑戦です」

 

 そう宣言するメジロマックイーンはやはり、そして自分の知るこれまでの彼女の中で一番誇り高い姿だとメジロライアンは思った。

 

「……やっぱり凄いな、マックイーンは。それであのジョースターさんまでトレーナーにしちゃうんだもん」

「それに関しては、これまでに色々と御縁があった為運良く了承をいただけましたわ。あの方は本来はゴールドシップさんの専属ですから、初対面の部外者が売り込むことは難しかったでしょう」

「でも、チームを作ることになったんでしょ?」

「組織的な話ではなく、心情的な部分ですわね。わたくしも含めてチーム全体の指導に手を抜くような方ではありませんが、本当の意味であの方は『ゴールドシップさんだけのトレーナー』なのだと感じますわ」

「えっ!? それってぇ……」

「何でそこで顔を赤くしますの?」

 

 少女漫画を読んだ時のように頬を赤らめるメジロライアンはに対して、呆れたようにため息を吐く。

 実際に、あの2人がそういった恋愛感情を挟んだ関係だとは思えなかった。

 しかし、それ以上に強い絆があるようには感じられた。

 ゴールドシップの言動が破天荒すぎて彼女からジョニィへ向けられる感情が具体的にどんなものなのかはよく分からないが、ジョニィからゴールドシップに向けられる感情が酷く重いことは明らかだった。

 シルバーバレットとの対決に至るまでに見せた、勝負を成立させる為にはどんな手段も使うという『漆黒の意思』が未だに眼に焼き付いている。

 目的の為ならばあらゆるものを――それこそ人間性さえ――捨てる覚悟を抱けるほどの危うさを秘めているような気がした。

 現在、彼がそれほどの覚悟を抱くのはゴールドシップの為に行動する時だけだ。

 

「仕事に私情を持ち込む方ではありませんわ。でも一方で、自分の中の優先順位を明確に決めている方でもあると思いますわね」

 

 彼のトレーナーとしての技術や経験は疑いようもないし、チームに所属する者達には真剣に向き合ってもくれるだろう。

 しかし、その先のレースや未来を本気で案じている相手は1人だけなのだ。

 そういった意味でジョニィは『ゴールドシップのトレーナー』という立場を崩すことはない――と、メジロマックイーンは冷静に分析していた。

 

「そして、わたくしはその関係で構いませんわ。というより、それが健全なトレーナーとの関係です。ライアン、あなた少女漫画の読み過ぎでは?」

「そ、そうかなぁ? 専属のトレーナーさんに特別に想われるって、ちょっと憧れちゃうけど……」

「トレセンは婚活会場ではありませんわ。とにかく、わたくしは自らを高める為にジョースターさんの指導を受けるのです。ゴールドシップさんからも見習う部分があるのだと思いましたしね」

「うん、それに関してはメジロ家の方も肯定的だと思う。海外の新しいノウハウを取り入れることは歓迎すると思うよ。特にレース業界の『ジョースター家』って言ったら有名だもん」

「結果的にジョースターさんがそうであっただけで、家柄で選んだわけではないのですが……確かに多くのダービーウマ娘を輩出してきたジョースター家の名声は聞き及んでおりますわ」

「そういえば知ってる? デビュー前の生徒会長さんを指導していたトレーナーもジョースター家なんだって」

「シンボリルドルフ会長が? それは初耳ですわ」

「しかも、一度は契約を切ったそのトレーナーさんと最近また連絡を取り始めたって噂が――」

 

 2人の歓談はそこで一時中断になった。

 注文の品がテーブルに届いたのだ。

 目の前に待ちに待ったメロンパフェが置かれると、メジロマックイーンの意識はもうそれだけに奪われてしまった。

 来週から始まる新たな環境への意気込みや決意もこの甘美なる時間の前には棚上げだ。

 苦笑するメジロライアンを尻目に、メジロマックイーンは嬉々としてスプーンを手に取った。

 

「――失礼。相席はいいかな?」

 

 不意に、不可解な問い掛けを受けたメジロライアンは、いつの間にかテーブルの傍に立つ2人の客を見上げた。

 

「えっ、席は他にも空いて……」

 

 メジロライアンは絶句した。

 見上げた先には見覚えのある顔が2つ並んでいた。

 知り合いではないのに嫌という程眼にしたことがある有名な顔だ。

 主に、最近の新聞やテレビで。

 

「君はメジロライアンだな? はじめまして、私はシルバーバレット。知っていると思うが、こちらは我がトレーナーのディエゴだ」

 

 そう言うと、シルバーバレットはスプーンを持ったまま固まっているメジロマックイーンの隣に腰を降ろした。

 ディエゴの方も許可など得る必要はないとばかりに、いつの間にかメジロライアンの隣に座っている。

 しかし、彼の視線はすぐ傍のメジロライアンにではなく、向かいに座るメジロマックイーンにだけ注がれていた。

 

「単刀直入にいこう。メジロマックイーン、オレはお前と交渉をしに来た」

「な……っ、な……?」

「急かし過ぎだ、我がトレーナー。ここは順序良くいこうじゃないか。まず何故我々がここに居合わせたかというと、それは狙っていたからだ。君の分析は既に終了している。怪我の経過や好物のスイーツもな」

 

 混乱するメジロマックイーンの髪を弄りながら、シルバーバレットは耳元で囁いた。

 

「あ……アナタ達は、しばらくは活動を止めて休養に入ると……」

「その通りだ、そう公表したな。だが帰国したとは言っていない。この国でまだやることがあるんだ」

「それは……一体何ですの?」

「我々をこの国に留める理由は一つしかない。ゴールドシップとジョニィ・ジョースターを打ち倒すことだ。その為には君が必要なんだ」

 

 メジロマックイーンは思わずシルバーバレットとディエゴを交互に睨みつけた。

 レースに勝者と敗者が存在するからといって、レースの外でまで相手を味方と敵に区別して考えたことはない。

 例え敗北した相手であっても、その実力に敬意を表して接するのがメジロ家としての流儀だった。

 しかし、2人はジョニィを公然と侮辱し、ゴールドシップを精神的に追い詰めた相手だ。

 これまでの言動が、知らずメジロマックイーンを身構えさせていた。

 ゴールドシップ達に勝つ為に自分が必要だとは、一体どういう意味なのか?

 何か弱みを握れるとでも思って接触したのか?

 

「……それで? 具体的に、わたくしに何を要求するつもりですの?」

 

 メジロマックイーンは正面のディエゴを鋭く睨みながら、真意を問い質した。

 

「優秀な『ステイヤー』がひとり欲しい。このDioが作るチームの『チームメイト』としてだ」

 

 ディエゴの明解な返答に、一瞬言葉を失った。

 

「繰り返すぞ、『チームメイト』だ。チームでジョニィ達を打ち倒す」

「な……なんですって!?」

「お前の分析は既に終了したと言ったぞ、メジロマックイーン。お前は海外を含めても有数の完成されたステイヤーだ。チームの戦力としても、シルバーバレットの併走相手としても不足はない」

「チームって……わたくしにペースメーカーにでもなれと仰いますの? だとしたら、ふざけないで下さい。お断りですわ!」

「そうじゃあない。これは公開前の情報だが『URAファイナルズ』の前段階として『チーム戦』が企画されている。ジョニィ・ジョースターがチームを作ろうとしているのも、これが理由の1つだ。奴らが参加するのなら、オレ達も参加する」

「相手の戦力を減らして、こちらの戦力を充実させる。チーム戦での『引き抜き』は有効な戦略だろう? 君個人にも興味があったしな。また一緒に走ってくれると嬉しい」

 

 同性相手でも眩暈のするような色気を発しながらシルバーバレットは微笑んだ。

 想像もしていなかった話の展開を受けて、メジロマックイーンは完全に言葉に詰まった。

 シルバーバレットとディエゴ・ブランドーは初対面こそ悪印象だったが、個人では敵対するような関係ではない。

 しかし、ゴールドシップとジョニィ・ジョースターにとっては敵も同然であり、嫌い合う相手だ。

 だから――どうしよう?

 仲間や友人が嫌っているからといって、よく知りもせずそれに同調するような真似は自身の矜持が許さない。

 そして、混乱するメジロマックイーンには2人が本当はどういう人物なのか、ますます分からなくなっていた。

 初めて出会った時と比べると、何だか雰囲気も違う気がする。

 少なくとも目の前の2人は自分に対して敵意や悪意などないどころか、素直な称賛をもって実力を評価してくれていた。

 だが、だからといって彼らの誘いを受けるというのはあまりにも――。

 

「きゅ、急にそのようなことを仰られても……」

「断言してもいい。ジョニィ・ジョースターがお前をゴールドシップのように導くことはない。奴が持つ『技術』がお前に教え与えられることはないだろう」

「それは……!」

「平等だとか不平等だとかの話をしてるんじゃない。ただ事実を言っているんだ。お前が奴のチームに入ったとしても『真の成長』は得られない」

「く……っ」

「その点、オレは違う。お前に世界にも通じる技術と経験を与えてやろう。そして、お前が練習で高め合う相手は世界を制する実力を持った最高のウマ娘だ。これ以上の条件はない。それともお前は仲良しクラブでダラダラと馴れ合うことが望みなのか?」

 

 相も変わらずディエゴの態度は不遜と傲慢が滲み出ており、言い方も何処か挑発的だ。

 しかし、言葉の端々には厳しくも納得の出来る理屈が通っている。

 あのシルバーバレットとそのトレーナーのスカウトなのだ。

 事実だけを見れば、より高みを目指す為の手段としてこの上ないチャンスなのだろう。

 だが。

 しかし――。

 返答に窮したメジロマックイーンは視線で逃げ場を探した。

 

(ラ、ライアン……助けて!)

 

 その助けを求められた側は、茹でダコのように全身を上気させて縮こまっていた。

 異性との接触に免疫のない彼女は、すぐ傍に座るディエゴを意識するあまり思考が吹き飛んでいたのだ。

 特に、ディエゴは下手な俳優よりも美形で有名人でちょっと強引なオレ様系という少女漫画でも王道な男性像だった。

 メジロライアンの乙女心はそういうのに弱かったのだ。

 

(落ち着くのよ……スイーツを食べて落ち着くのよ……)

 

 メジロマックイーンは震える手でスプーンを持ち上げた。

 その情けない手を内心で叱責する。

 うろたえるな。

 メジロ家はうろたえない――!

 

「ちなみに、メジロ家の方にも話は通したし、そのことをマスコミにリーク済だ。オレとジョニィ、どちらを選ぼうが世間はメジロ家御令嬢のスカウト合戦を大々的に取り上げてニュースにするだろう。対談したお前のお婆様とやらは『お前自身後悔のない選択をしろ』と言っていたぜ」

 

 メジロマックイーンは口に含んだクリームを噴き出した

 

 

 

◆金曜日!――Venerdi

 

 

 

「おい、頼まれてた件だが――」

 

 ナリタブライアンが生徒会室に入ると、シンボリルドルフは丁度通話中だった。

 出鼻を挫かれたことに小さくため息を吐き、それでも邪魔をしないように黙ってソファーに腰を降ろす。

 その様子を一瞥すると、シンボリルドルフは視線で謝罪しながら気づかれない程度に笑みを浮かべた。

 行動や言葉遣いは粗野だが、ナリタブライアンはこういう配慮の出来る善良なウマ娘なのだ。

 

『なんだ、来客か? やっぱ休日に連絡すりゃあよかったかな』

「いや、同じ生徒会の役員だ。気にしないでくれ」

 

 ナリタブライアンは、通話から聞こえてきた声が若い男のものであることに少々驚いた。

 入口の扉と正面から向かい合うように配置された生徒会長用の立派な机にはシンボリルドルフが座り、その傍らにはエアグルーヴも控えている。

 立てかけたタブレットでモニターしながら、2人で相手と通話をしているようだ。

 この2人と気安く話し合える若い男がいるという事実がまず意外だった。

 どんな相手なのか少しばかり興味を惹かれたが、ナリタブライアンの座る位置ではタブレットが背を向けていて画面の方は見れない。

 無遠慮に覗き込むほどの気にもなれなかった。

 

『まっ、伝えるべきことは伝えたからな。仕事の邪魔にならねぇように、ここいらで切り上げとくか』

「私としては君との他愛ない会話を久しぶりに楽しみたかったがね」

『そいつはオレが日本に着くまで楽しみに待っておきな。新しく仕入れたイギリス流の最新ジョークを披露してやっからよォ~』

「フフッ、それは本当に楽しみだ。その調子でトレーニングの方もよろしく頼むよ」

『そっちの方もしっかり準備してあるから安心しなって! ヒヨッコだったあの頃とは違って、もうすっかり一流トレーナーの風格よ。やっぱ天才だもんね、ボクちゃんってば!』

「フンッ! それだけリサリサ先生に扱かれたということだろうが。技術は鍛えられても、その軽口は変わらんな」

『トホホ……エアグルーヴの方も相変わらずキツいこって』

「それで、先生の方もお前と同じ期日に学園へ来られるというのは間違いないんだろうな?」

『ああ。っつっても、オレと違って短期間の就任になるけどな。チームや担当は持たずに、全体の教導に務める形になると思うぜ』

「そうか。それでも、あの方の指導をもう一度受けられるというのは光栄の極みだ」

『リサリサ先生のことはオレも尊敬してるけどよォ~、あのキツいシゴキを受けてそう思えるのはマジで頭のネジどっか飛んでるんと違う? シーザーを思い出すね』

「母と同じくらい尊敬している方だ。かつて受けた指導に恥じない、成長した姿をお見せするつもりだと伝えておいてくれ。再会を楽しみにしています、とも」

『オーケー、オーケー。オレとの再会も楽しみにしてくれると嬉しいね。それじゃあルドルフ、そろそろ切るぜ』

「ああ。再会を楽しみにしているよ、トレーナー君」

『そうそう! そういう一言があるとボクちゃん、ハッピー、うれピー!』

 

 別れ際の言葉に苦笑を浮かべると、シンボリルドルフは通話を終了した。

 

「すまない、ブライアン。待たせたな」

「いや……頼まれてた書類だ」

「ありがとう」

 

 ナリタブライアンは持っていた書類の束を手渡した。

 何気なく机の上のタブレットに視線を向けたが、当然先ほどまで繋がっていた通信は既に切られている。

 この画面にどんな顔が映っていたのか、少し気になった。

 

「……珍しいな」

「何がだい?」

「さっきの会話が、だ。アンタ達でもあんな軽口を交わせる相手がいるんだな」

 

 その言葉にシンボリルドルフは微笑し、エアグルーヴは不満そうに顔を顰めた。

 聡いナリタブライアンはそれだけで2人がそれぞれ通話相手をどう思っているのか、何となく理解した。

 

「軽薄で不真面目なだけだ。奴との会話は疲れる」

「私は彼との会話は楽しいし、肩肘を張らなくていいから好きだな」

「アンタのトレーナーだった男か?」

「その通りだ。私がクラシック三冠を取る以前に担当してもらっていた、海外のトレーナーだ。興味があるのかな?」

「話の流れを聞く限り、近い内にこの学園にトレーナーとして再び来るんだろう? だとしたら、私にも関係あるかもしれないしな」

 

 ナリタブライアンは担当のトレーナーがまだおらず、デビューもしてないウマ娘だった。

 しかし、数々の模擬レースや大会の圧倒的な戦績を経て、恐るべき実力と才能を備えていることは誰もが知るものとなっていた。

 秘めた素質は申し分ない。後はそれを磨き上げるトレーナーとの巡り合わせだけが、彼女のデビューに必要なものだった。

 そこで躓いていた。

 宝石のように輝かしい素質に眼の眩んだトレーナー達が我先にとスカウトに群がり、ナリタブライアンはそんな有象無象を一蹴してしまった。

 彼女のレースに向ける荒々しいまでの意欲と本能に応えることの出来る器を持った相手はいなかったのだ。

 そうして燻っていた彼女がとりあえず腰を落ち着ける場所として、シンボリルドルフは自分の懐である生徒会へと誘ったのだった。

 既にシンボリルドルフの併走相手が出来るほどの実力を身に着けたナリタブライアンは、トレーナーを必要としていながら、もはや凡百の相手では指導は務まらない。

 

 ――であるならば、必要なのは凡百ではないトレーナーだ。

 

「アンタを『皇帝』に押し上げたトレーナーには興味がある」

「ほう?」

 

 シンボリルドルフの視線が僅かに鋭くなった。

 それはつまり『指導を受けるに値するトレーナーかどうか興味がある』という意味だった。

 

「アンタのトレーナーは、アンタだけの専属なのか?」

「いや、チームを作って私を含む何人かのウマ娘を担当してもらう予定だ。企画されている『チーム戦』に参加するつもりではあるし、彼には1人でも多くの生徒達を指導してもらいたいからね」

「なら、場合によってはそのチームに入るつもりだ。いい加減、私もデビューしたいからな」

「それは来る『URAファイナルズ』に向けてのことかな?」

「ああ。それと……シルバーバレットだ」

 

 その名前を口にしたナリタブライアンの声色には、滾るような熱量が秘められていた。

 日本で半年間、10回ものレースを行い、数多くの有力な選手達を打ち破ってきた恐るべきウマ娘シルバーバレット。

 強敵とぶつかり合うレースを熱望するナリタブライアンにとっては、求めて止まない対戦相手だった。

 しかし、結局ナリタブライアンがシルバーバレットと競うことはなかった。

 デビューしていなかったからだ。

 たったそれだけのことで、彼女は生涯最大の敵になるであろう相手と同じコースに立つことすら出来なかったのだ。

 最後のレースを制したゴールドシップの大逆転劇を見た時、ナリタブライアンは胸を掻き毟りたくなるような焦燥と後悔に駆られていた。

 

 ――何故、あそこに自分はいないのか!?

 

 自分もあんなレースがしたかった。

 あの時、解き放つことの出来なかった昂りが、未だにナリタブライアンの胸の中で燻り続けているのだった。

 

「シルバーバレットが強いことは分かっている。アンタも、あのゴールドシップだって強い。だから早く走りたい。アンタ達をまとめて抜き去ってやりたい」

 

 溢れ出る激情を隠そうともせず口にするナリタブライアンには、若さゆえの向こう見ずさがあった。

 それを見て、シンボリルドルフは口元を吊り上げた。

 

「若いな……というほど、私も達観はしていないつもりだ。だからこそ、かつてのトレーナーを学園に呼び戻したのだからね」

「アンタもシルバーバレットに勝ちたいのか?」

「あのレースでの敗北は私に1人のウマ娘としての渇望を思い出させてくれた。『飢えなきゃ勝てない』もっともっと『気高く飢え』なければ――」

「フンッ……いいな。お高くとまった会長様かと思ったが、そういう顔が出来るアンタは結構好きだ」

「おっと、いけないいけない」

 

 シンボリルドルフはおどけるように頬を両手で揉み解した。

 

「とにかく、君がチームに入ってくれるというのなら歓迎だ。エアグルーヴも、既に担当のトレーナーはいるが『チーム戦』におけるメンバーとして参加予定なのでね」

「ええ。それに私のトレーナーにとってもチームでの教導は良い経験になるでしょう。リサリサ先生が来て下さるのならば尚更です。トレーナーとして学んで欲しい部分も多い」

「会話の断片ではよく分からんが、そのリサリサというのはアンタのトレーナーの更に師匠ということでいいのか?」

「うん、そう思ってくれて構わない。この辺りは少し複雑でね。私の教導をしていた時、トレーナー君はリサリサ先生のサブトレーナーという立場だったんだ」

「サブトレーナーがアンタの担当になったのか?」

「その通りだ。こう言っては何だけれど当時はお互い未熟者同士で……でも、だからこそお互いに衝突や失敗を繰り返しながら二人三脚でやっていけたと思うよ」

 

 当時を懐かしむように浮かべる笑みを見て、ナリタブライアンは意外な思いだった。

 彼女の知るシンボリルドルフというウマ娘は、何事もそつなくこなすイメージが強かった。

 物事に悪戦苦闘しながら取り組む泥臭い姿は想像も出来ない。

 

「私のトレーナー君は少し立場が特殊でね。ジョースター家という名は聞いたことがあるかな?」

「ジョースター? ゴールドシップのトレーナーと関係があるのか?」

「歴史のある一族で、元々はイギリスの貴族だった血筋だ。ジョニィ・ジョースターはその一族の分家出身だからアメリカ生まれになるんだが、私のトレーナー君は本家の人間でね。イギリス生まれの正真正銘イギリス貴族の末裔というわけさ」

「……そんな奴が、なんで日本でトレーナーなんてやってたんだ?」

「文化の違いというヤツだ」

 

 エアグルーヴが生徒に対して講義するように補足した。

 

「イギリスにおける『トレーナー』とは仕事の役柄だけを指すのではない。ウマ娘の指導に携わり、パートナーとなって共に切磋琢磨することは健全な心身を養うとして上流階級の教育に古くから組み込まれている。トレーナーの資格は一種のステータスでもあるのだ」

「……分からんな。貴族の趣味でトレーナーをやっているということか?」

「言っただろう、文化の違いだ。ウマ娘の立場と関係には、その国の歴史も関係している。そういう国もある、とだけ覚えておけ」

「とにかく、私のトレーナー君は君の言う『趣味でトレーナーをやる』為にトレセン学園に留学のような形でやって来た、とイメージしてくれて構わないよ。少なくとも、当時の私はそのように捉えていた」

「それは……」

 

 さすがのナリタブライアンも言葉を濁した。

 シンボリルドルフが壮大な理想を掲げていることは知っているし、その理想の為に幼少の頃から努力していたことも知っている。

 そんな彼女が理想の第一歩としてデビューを控える前に、全く価値観の違う海外からやって来た道楽のトレーナー――反りなど合うはずがない。

 この2人がどうやって今の関係を築けたのか、想像も出来なかった。

 

「言っただろう? お互い未熟だった、とね。色々あったよ。本当に色々ね」

 

 シンボリルドルフはあえて詳細を語らず、意味深げに微笑むだけに留めた。

 

「イメージの一助となるように、彼が嫌いな言葉を教えてあげよう。一番が『努力』で、二番目が『ガンバル』だ」

 

 ますます混乱するナリタブライアンの反応を楽しむように、シンボリルドルフは声をあげて笑った。

 

「色々と、大丈夫なのか? そいつは……」

「大丈夫ではない。アイツは正真正銘のたわけだ。リサリサ先生がいなければ、どんな人間になっていたか」

「どんな形であろうと、きっと大物になっていただろうな。彼は恥ずかしがり屋だから軽口に誤魔化されるが、性根だって善良な人間だよ」

「会長は奴に甘すぎます」

「だが、私に無敗の三冠を取らせた手腕は事実だ。あれは私だけではなく、トレーナー君の力と知恵が合わさった2人の成果なのだと自負しているよ」

 

 誇らしげに語るシンボリルドルフの様子からして、自身のトレーナーとの深い信頼関係が伺える。

 エアグルーヴの不服そうな態度は、そんな関係を認めざるを得ない現実の裏返しなのだ。

 だからこそ、ナリタブライアンは新たな疑問を口にした。

 

「それほどの関係を築けたのに、何故アンタ達は契約を一度解消したんだ?」

 

 デビュー以来連戦連勝の末に無敗の三冠を達成して、伝説を築いた『皇帝』シンボリルドルフ。

 更に四冠、五冠と彼女の伝説は更に積み上げられるだろうと世間は信じていた。

 しかし、その時点で彼女の走りは一時止まることになる。

 引退をしたわけではないが、まだまだ成長し続けるはずの若き皇帝はしばらくの間レースから姿を消した。

 シルバーバレットとの対決が大いに盛り上がったのは、そんな彼女が久方ぶりにターフへ舞い戻ったことも影響しているのだ。

 この空白期の理由を『後進の為に生徒会長として学園の業務に注力していた』とするのが世間一般の見解だが、彼女のトレーナーの事情を聞く限り、それが事実だとしても発端は違うのだろう。

 元トレーナーが再び日本にやって来るということは、かつて一度日本を離れたということなのだ。

 何らかの事情があって2人は契約を解除せざるを得なくなり、それが原因となってレースには出なくなった。

 生徒会長の業務に勤しむことは彼女の理想を叶える行動と矛盾しないが、それも結果に過ぎない。

 シンボリルドルフ自身だけでなく世間からも望まれていた『皇帝』の邁進を止めた理由とは、一体どれほどのものなのか――?

 

「これもまたトレーナー君の特殊な立場ゆえの問題でね。ジョースター家は長い歴史の中で徐々に衰退していた。そして、彼の父親は早くに亡くなり、彼は若くして一族の命運を背負わなくてはいけなくなったんだ」

 

 貴族という立場から何となく想像していた通り、個人の意思では抗えない流れがあったのだとナリタブライアンは察した。

 

「私としては、彼とシニア期の最後まで一緒に走り抜けたかった。三冠だけじゃない、もっと多くの勝利を共に掴みたかった。しかし、彼は急遽帰国することになってしまったんだ……」

 

 シンボリルドルフの話を聞きながら、ナリタブライアンは気まずさを隠すように顔を逸らし、内心で舌打ちした。

 こんな辛気臭い話は聞きたくもないし、言わせたくもなかった。

 余計な質問をしすぎたのかもしれない。

 

「そして、彼はアメリカで大成功して不動産王になった」

「……は?」

 

 間の抜けた声を漏らして顔を上げたナリタブライアンを、シンボリルドルフが悪戯に成功したように笑って見つめていた。

 

「ブライアン、君はテレビやニュースを見ないのか? 『ジョースター』といえば、今や世間一般ではアメリカの『ジョースター不動産』のことを指すんだ。レース業界でも有名だがね」

「……いや、知らんな」

「そうか。まあ、とにかく彼は一族の衰退を止めるどころか過去以上の繁栄を一代でもたらしたというわけさ。かつて高校生だった彼が、今では急成長を遂げた大企業の社長だ」

「ちょっと待て。そんな立場の人間を一介のトレーナーとして呼びつけるのは、逆の意味でマズくないか?」

「彼は問題ないと言ってくれた」

「個人の許可でいけるのか、それは……?」

「会社が安定してきたから刺激が足りない、とも言っていた。私からの誘いは渡りに船だ、と」

「おい」

 

 額から一筋の汗を流すナリタブライアンは、意外と常識的なウマ娘だった。

 傍らではエアグルーヴが、今後学園やその背後で起こるだろう様々なゴタゴタを諦めて受け入れるようにため息を吐いていた。

 

「飢えなきゃ勝てない――私もなりふり構わず見習うことにしたよ。かつて進むことを止めたもう一つの道を、今度こそ最後まで走り切る。そして、全てに勝つのは私だ」

 

 そうして笑うシンボリルドルフの顔は、玉座に君臨する皇帝ではなく獰猛な挑戦者のそれだった。

 

 

 

◆土曜日!――Sabato

 

 

 

 スペシャルウィークは自他共に認める田舎者である。

 この度、トレセン学園に転入する為に生まれ育った北海道から遥々やって来た田舎のウマ娘である。

 単身上京した彼女は早速都会のビル群に圧倒され、人混みに揉まれて流された。

 学園から送られた案内書を失くし、自分が何処にいるのか、どの道を行けばいいのかも分からなくなった。

 それでも彼女は挫けなかった。

 道が分からなければ、誰かに聞けばいいのだ。

 田舎で純朴に育った彼女は、他人の善意を信じていたのである。

 そして――。

 

「君、かわいいね。田舎からやって来たの?」

「いいよ、いいよぉ。道でも何でも聞いてよ、俺達何でも教えちゃうからさ」

 

 チャラいナンパ男2人に捕まった。

 

(お母ちゃん。都会は……都会はやっぱり怖い所だべぇ~~~!)

 

 同じウマ娘すら周囲にいない環境で育ったスペシャルウィークは、もちろんナンパされた経験などない。

 初めて出会う都会の若い異性には、興味よりも恐怖の方が強かった。

 田舎では見たこともない奇抜な恰好と髪型をしていて、強い香水の匂いはウマ娘としての嗅覚を不快なほど刺激した。

 これが都会の流行なのかもしれない、と。何とか好意的に解釈しようとするスペシャルウィークの健気さを、脈があると都合よく受け取った2人の男は気を良くして近づいた。

 

「あ、あの……私、トレセン学園までの道を知りたくて……」

「あのエリート校の学生さんなんだ? 俺、初めて会ったよ」

「転校してきたの?」

「は、はい」

「へぇ~、歳いくつ?」

 

 道を訊ねているだけなのに、質問ばかりしてくる2人にスペシャルウィークは戸惑うことしか出来なかった。

 失礼なことだと分かっているが、何故か答えたくない。

 無遠慮な異性に対して生理的な嫌悪感を抱くことは何もおかしなことではなかったが、善良な性格の彼女は友好的な態度の裏に隠された悪意や欲望といったものを疑うことが出来なかったのである。

 

「とりあえずさぁ、何処か店に入らない? 奢っちゃうよ」

「いえ、ですから私は道だけ知りたくて……」

「うんうん、だから何でも教えてあげるって。だからさ、ゆっくりお話し出来るトコいこうよ」

 

 人間とウマ娘では身体能力に明確な差がある。

 例え男だろうと、ウマ娘相手に強引な実力行使は出来ない。

 だからこそ、スペシャルウィークのような無知で流されやすい相手は格好の獲物だった。

 なし崩しに主導権を握ることが出来る。

 男達はほとんど密着するようにスペシャルウィークの左右を挟み、そしてさりげなく肩と腕に手を伸ばした。

 

「――やっぱどんな国でもさァ~、共通するもんだよねぇ。いなかっぺ特有の香りっつーの? オノボリさんが纏う空気みたいなヤツ」

 

 背後から聞こえた嘲笑混じりの声に、3人は思わず振り返った。

 そこには小柄なウマ娘が立っていた。

 スペシャルウィークにとっては男2人のファッションも見慣れないものだったが、そのウマ娘の格好もまた奇抜だった。

 着飾ったファッションというよりは何処か旅にでも出るようなアウトドアの服装だ。

 スカートではなく丈夫そうなジーンズとブーツを履いている。

 年季の入った大きな男物のトラベラーズハットが華奢な体格と比べてアンバランスだった。

 整っているだろう顔にも大きな防塵ゴーグルを付けていて、本当に異国の旅人めいている。

 しかし、北海道の大自然の中で育ったスペシャルウィークにとっては、まだ親しみを感じる格好だった。

 自分と変わらないくらいの歳に見えるのに堂々としている。同じウマ娘であることも手伝って、酷く安心感を覚えてしまった。

 

「ちょっと、いきなりシツレーなこと言うんじゃないわよ。こういう異文化交流ってファーストコンタクトが大切なんだから」

 

 更に別のウマ娘が、もう1人やって来た。

 今度は見上げるような大柄なウマ娘だった。

 小柄な方のウマ娘と並んで立っているから、余計に大きく感じるのかもしれない。

 少なくともスペシャルウィークや男2人よりも更に身長が高い。

 特に、こちらはタイトスカートの女性的なスーツに身を包みながら、その両肩が何かの詰め物でもしているかのように異様に広いことがより大柄な印象を与えていた。

 長い金色のクセっ毛に、こちらもサングラスで目元を隠している。

 

(背が高い……金髪……が、外人さん!?)

 

 スペシャルウィークは自身の置かれた状況も忘れるほどの衝撃と感動を味わっていた。

 都会で初めて出会った自分以外のウマ娘。

 しかも、外国のウマ娘だ。

 田舎者の彼女にとって、テレビの中にしかいないと思っていた存在だった。

 

「そこのいなかっぺ、呆けてないでこっち来なよ。トレセン学園に行きたいんでしょ? アタシ達も行き先同じだからさ」

 

 混乱するスペシャルウィークを、小柄なウマ娘の方が手招きした。

 スペシャルウィークは戸惑いながら、左右を挟む男達を見回した。

 しかし、2人の男はそのやりとりに口を挟むこともなく、何故か大量の脂汗を流しながら固まっていた。

 伸ばした手は、スペシャルウィークの身体に触れる寸前で止まったまま動かない。

 

「これって……『鉄球』?」

 

 その手の甲に拳程度の大きさの球体が高速で回転しながらくっついているのを、スペシャルウィークは見た。

 

「お嬢さん、早くそこから離れなさい。それとも、そこの服の趣味が悪い男どもに脈ありだったりする?」

「あ、いえ! その……ごめんなさい!」

 

 スペシャルウィークは動かない男2人に頭を下げると、声を掛けてくれた大柄なウマ娘の方に慌てて駆け寄った。

 近くで改めて見ると、やはり自分よりも大きな外国のウマ娘というのは初対面であることも加わって緊張する。

 しかし、あの男2人とは違って不快感は一切なかった。

 むしろ母親を思い出させるような安心感があった。

 香水や体臭とは違う、故郷で嗅ぎ慣れた木々や土の香りがするような気がした。

 まるで子供の頃の自分と同じように、大自然の中をずっと駆け回っていたかのような。

 

「お、おい! お前ら、俺達に何したんだよ!?」

「身体が全然動かねぇよ! て、手が……手が捻じれていくゥゥゥ~~!」

 

 ナンパしようとしていたスペシャルウィークのことなど既に意識になく、男2人は自身の肉体に起こっている異変に半泣きになっていた。

 手の甲にくっついた鉄球の回転に巻き込まれるように皮膚が捻じれ、それに引っ張られる力が指先から腕、全身の筋肉までも拘束しているかのようだった。

 少なくとも、スペシャルウィークにはそういう現象に見えた。

 

「ナンパ自体にいちいちケチつけたりはしないけどさァ~~~、やるならもっとスマートにやりなよ。不細工な男の不細工なナンパって、傍から見ててイライラっすからさァ~~~!」

 

 嘲るように吐き捨てると、小柄なウマ娘は両の手のひらを広げて左右に掲げた。

 それが合図か命令であったかのように、男達の肉体を支配していた2つの鉄球がひとりでに離れて、手の中に納まっていた。

 その途端、男達は自分で自分の鼻の穴に2本の指を突っ込んだ。

 どれだけ動かそうとしても自分の意思では動かなかった腕が、今度は勝手に動いたのだ。

 

「五分ほどマヌケ面晒すくらいで勘弁してやるよ。脳みそ貫くまで突っ込まれたくなきゃさっさと消えな、ざぁこ♡」

 

 自身を襲う不可解な現象に翻弄されきった男2人は、くぐもった悲鳴を上げながら這う這うの体で逃げ出した。

 一連の流れを見ていた通行人達の中には首を捻る者もいたが、それ以上に深く関わろうとはしなかった。

 傍から見れば、不快なナンパの現場にウマ娘が介入し、警察を呼ぶまでもなく男2人が勝手に退散したという流れだ。

 その中にあった不可解な現象は、一瞬の出来事だった為ほとんどが認識出来ず、僅かに視認出来た断片的な情報に頭を悩ませ続ける者はいない。

 皆、日常生活の一コマの中を通り過ぎる通行人に過ぎないのだ。

 街中のちょっとしたトラブルは解決した。

 周囲の人々はその事実に満足して、その場を歩き去っていった。

 

「あ、あの……ありがとうございます!」

 

 スペシャルウィークは、2人のウマ娘に深く頭を下げた。

 小柄な方のウマ娘が、どうやって男2人を拘束し、追い払ったのかは分からない。

 しかし、彼女達が困っている自分を助けてくれたのは間違いないと分かっていた。

 

「……お礼を言うってことは、助けられたって思ってるってことでしょ?」

「えっ? は、はい! 助けていただいて、ありがとうございます」

「助かったって自覚してんなら、ナンパされて迷惑だってこともしっかり態度と言葉に表しなよ。アンタ、なんも抵抗しないから、てっきりナンパされていい気分になってんのかと思ったよ」

「そ、そうですね……曖昧な態度を取って、相手の方にも迷惑でした……」

 

 意地の悪い指摘を受けて意気消沈するスペシャルウィークの素直さに、小柄なウマ娘は思わず吹き出した。

 

「冗談、冗談だって! あんなナンパ、クソうぜーくらいの感想でいいのよ。ニョホホ」

 

 特徴的な笑い声を上げて、そのウマ娘はニヤリと笑った。

 開いた唇から見える歯には『GO!GO!ZEPELLI』という英語が刻まれていた。

 

(都会ではおへそや舌にまで穴を空けてピアスとか付けるファッションがあるって聞いてたけど……歯に彫り物!? こ、これが海外のトレンド!?)

 

 それを見たスペシャルウィークの中で外国への誤解が1つ生まれていた。

 

「それで、あの……お2人はトレセン学園に行かれる予定なんですか?」

 

 スペシャルウィークは、改めて2人のウマ娘を交互に見回した。

 雰囲気からして学生のようには見えない。

 特に、大柄なウマ娘の方は明らかに年上だ。

 学園に関係があるとすれば、生徒というよりも教員の方がしっくり来るだろう。

 しかし、すぐに勝手な思い込みを反省した。

 自分よりも体格が良くて大人っぽいからといって、学生の年齢ではないと決めつけるのは女性に対して失礼な話ではないか。

 

「ひょっとして、私と同じ入学するご予定……とか?」

「あらァ~? そう見えちゃう? あたしって学生に見えちゃうゥゥ~~~? キャーーー♡」

 

 スペシャルウィークの窺うような言葉に、大柄なウマ娘は酷く気を良くしたようだった。

 腰をくねらせながら満面の笑みを浮かべている。

 そのやりとりを見ていた小柄なウマ娘の方が、思わず吹き出した。

 

「ニョホホホ! 日本の田舎ってそんなに過疎化がヤベーの? こんなババアが学生やれる学校なんて少子化深刻じゃなァ~い?」

「誰が年増だ、テメェェーーーッ! この娘の眼には、それだけあたしが若々しく映ったってことでしょうが! このファッションが若い感性に通じるという証明よッ!」

「そもそもソレが疑わしいっつーの。何、その肩パット? イタリアでもそんなファッション見たことないわよ。そんなモン肩に入れてんのサイヤ人くらいじゃねーのォー?」

「これが日本では最先端のファッションなのよ! 間違いないわ! ウマッターで会った日本のフレンドが絶賛してくれたもの!」

「それが騙されてるんじゃあなきゃ、アンタと同じ感性のヤベー奴が日本にもいるってことじゃん。憂鬱だわ。やっぱ日本なんて来なきゃよかった」

「え……えっと」

 

 スペシャルウィークは戸惑いながら、2人の騒々しいやりとりを眺めていた。

 喧嘩のようにもじゃれ合いのようにも見える。

 険悪な雰囲気ではないが、軽口の応酬にしてもかなり遠慮がない。

 同じウマ娘の友達を持った経験のないスペシャルウィークには、2人の関係を上手く推し量ることが出来なかった。

 

「ごめんなさい! 私、何かマズイ質問しちゃいましたか? 田舎に住んでたから、自分以外のウマ娘とは会ったことも話したこともなくて……特に外国の方は」

「いえ、いいのよ。このメスガキはいつも年齢のことであたしをからかうの。学生と思われて、年甲斐もなく浮かれたあたしも悪かったわ」

 

 申し訳なさそうに縮こまるスペシャルウィークの肩に優しく手を置いて、大柄なウマ娘はサングラスを外した。

 あらわになったアメリカのウマ娘特有の碧眼は、その口元に浮かんだ微笑みと同じでとても優し気だった。

 ハッキリと分かるようになった顔つきは、確かに学生というほど若くは見えない。

 しかし、故郷にいる母親や近所の大人達に感じるものと同じ大きな包容力と安心感があるような気がした。

 大人っぽいのに鼻や頬についたそばかすが愛嬌を醸し出していて親しみのある顔つきだった。年増だなんてとてもからかえない。

 スペシャルウィークは初対面であるはずの目の前のウマ娘がすぐに好きになった。

 

「改めて、はじめまして。あたしの名前は『スローダンサー』よ。トレセン学園で講師をやる為にアメリカからやって来たの」

「はい、はじめまして! スローダンサーさん! ……『スローダンサー』?」

 

 何処かで聞いたことがある名前を反芻して、スペシャルウィークは首を傾げた。

 初対面のウマ娘であることは間違いない。

 しかし、その名前も、更に言うならば顔まで何処か覚えのあるものだった。

 実際に会ったことはないが、誰かから聞いたり、何かで見たことがあるような――。

 

「……ああああっ!? ひょ、ひょっとして『SBR』で準優勝された、スローダンサーさんですか!?」

「あらァ~、やっぱりあたしってばここでも有名? 島国の田舎まで名前が知れ渡ってるとは思わなかったわ」

「テレビ! テレビで観ました! 新聞でも!」

 

 田舎暮らしのスペシャルウィークにとって、外人に対するイメージは『映画に出てる人』程度しかなかった。

 そして、そんなイメージの通り、初めて出会った外国のウマ娘は映画に出ている俳優と同じくらい有名人だった。

 娯楽の少ない田舎において、海外の大規模レース『SBR』が放送される日は母親と一緒にテレビの前に齧りついて観ていたものだ。

 未だ会ったことのない自分以外のウマ娘が、何千人も集まって広大なアメリカ大陸を横断する壮大なレースは、狭い世界しか知らないスペシャルウィークの心を感動と興奮で大いに揺さぶった。

 優勝者のシルバーバレットが日本のウマ娘と激しい勝負を何度も繰り広げたことは記憶に新しく、そんなシルバーバレットと世界で競り合った猛者がスローダンサーなのだ。

 その憧れの選手が、自分が初めて出会うウマ娘として目の前に立っている。

 スペシャルウィークは喜びと感動をあらわにするよりも、まず混乱した。

 

「スローダンサーさんが……私がこれから通う学園で講師をやる……!? あわわわ……!」

「アナタにとっては災難だったかもしれないけど、トラブルを切っ掛けにこうして会えたというのも何かの縁かもしれないわね。講師といっても学業よりレースの教練を担当する予定よ。まだトレーナーのいないアナタにも教えることが多いと思うから、その時はよろしくね?」

「は、は、はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします! 光栄です!」

 

 スペシャルウィークは何度も頭を下げながら、ふと思い至った。

 顔を上げて、小柄なウマ娘の方を思わず見つめる。

 2人の内一方は世界的に有名なウマ娘だった。

 ならば、もう1人の方は?

 スペシャルウィークの知る限り、テレビで観た『SBR』では彼女のようなウマ娘は映っていなかった。

 レースに参加していなかったのか、あるいは目立った成績は残さなかったのだろうか。

 しかし、スローダンサーとは気心の知れた仲のようであるし、体格や歳の差があるにも関わらず対等の関係に見える。

 

 ――彼女は一体何者なのだろう?

 

 そんな疑問をスペシャルウィークの視線と表情から察したスローダンサーは、あえて何も答えない友人に代わって説明する為に口を開いた。

 

「こっちのクソ生意気なメスガキの名前は『ヴァルキリー』よ。彼女もあたしと同じく『SBR』に参加していたわ。出身はイタリア。公式のレースに出場した経験はなし。脚質は根っからの『逃げ』で左回りのコースを得意としている。走る際には8回呼吸するごとに1度身体を左にぶらす悪癖があるから、もしもレースで競う場合はそこを突くといいわ」

「オイオイオイオイオイオイオイオイオイ、あのさァ~~~。紹介するにしても説明しすぎなんじゃねぇーのォ? そいつとレースなんてするわけないしさ」

 

 ヴァルキリーと呼ばれたウマ娘は呆れたようにスローダンサーとスペシャルウィークを睨んだ。

 

「何、不愛想にしてんのよ。折角日本で会った同年代の子なんだから……同年代よね? そういえば、あたしアンタの年齢知らないわ。教えなさいよ」

「どォォォ~でもいいィィ~~わァァ~~~。ああ、メンドくさ……」

 

 面倒くさいというよりも、いっそ人付き合いそのものを嫌っているのではないかと思う程ヴァルキリーはスペシャルウィークから距離を置こうとしていた。

 スペシャルウィーク自身も、どう対応すればいいのか分からなかった。

 スローダンサーとは違い、ヴァルキリーという名前をテレビや新聞で見た覚えはない。

 新聞の記事はもちろん、テレビで観た『SBR』の番組は生放送ではなく一般放送向けに編集された内容だった。

 何千人といる全ての参加者にスポットライトが当たるわけもなく、注目度の高い選手やテレビ映えする場面などが優先的にピックアップされる。

 それゆえに、スペシャルウィークを含む多くの一般人がヴァルキリーのことを知らなかった。

 レース開始当初に優勝候補とされるほどの走りを見せた彼女を、今や多くの人々は忘れていた。

 インターネットなどでリアルタイムに発信された無編集のレース放送ならばともかく、世間一般の視聴者の眼に触れやすい特集番組などではまず間違いなくカットされるからだ。

 公共の放送になど映せるわけがない――多数の死傷者を出した『SBR』レース中最悪の事故の当事者など。

 

「あの、ヴァルキリーさんの方は私と同じ学生としてトレセン学園に行くんですか?」

「違うわよ。日本へはこいつに強引に連れてこられたの。学園に行って何をするかなんて、アタシだって知らないわよ」

 

 自分がいる状況を改めて認識し、ヴァルキリーは不機嫌そうに吐き捨てた。

 

「元々、ジョニィから誘いを受けたのはスローダンサーだけでしょ。アンタ1人だけで行けばよかったじゃん」

「彼からの手紙にはアナタを心配していることも書いてあったのよ。ジョニィは立ち直ったわ。だから、今度はアナタにも立ち直ってもらいたいのよ」

「ハァァァ~~~ッ、うっざ! いらないから、そういう同情」

「同情じゃない。あたしはまたアナタと走りたいわ」

「アタシはもう一生分のレースを走ったのよ。アタシはトレセン学園とかってぇ所の生徒にはならないし、もう2度と誰かと一緒に走ったりもしない。ジョニィの顔見たらさっさと帰るわ」

 

 蚊帳の外にいるスペシャルウィークには、2人の会話の意味や、その背景にある過去の出来事については何も分からなかった。

 しかし、スローダンサーと、苛立たし気な態度に隠しているがヴァルキリーも、何処か苦しそうで悲しそうにも見えた。

 何よりも、スペシャルウィーク自身が悲しかった。

 一体どんな経験をすれば『もう2度と走らない』とまで考えてしまうのだろう。

 テレビの特集でしか知らない『SBR』レースの中で、自分では想像も出来ないような辛い体験をしたのかもしれない。

 ただ、ウマ娘でありながら誰かと共に走ることを拒絶し、何の目的もなくただここにいる彼女を見て思った。

 

(ああ、この人はきっと寂しいんだろうな……)

 

 スペシャルウィークには、それだけはハッキリと分かった。

 

「……あの、すみません。トレセン学園までの道なんですけど」

「ああ、ごめんなさい。つい話し込んじゃったわ。そうね、ここから5キロほどの所にあるらしいから、タクシーでも――」

「走って行きませんか?」

「……は?」

 

 突然の提案に、スローダンサーは眼を丸くし、ヴァルキリーは呆けた声を上げた。

 

「ですから、学園まで走って行きませんか!?」

 

 スペシャルウィークは特にヴァルキリーに向けて、更に強く言い募った。

 

「ナァナァナァナァナァナァナァナァナァ、話聞いてた? こっから5キロもあるんだから、タクシーで行くんだって」

「私、走るの大好きですから! 5キロくらい全然平気です!」

「アンタの都合は聞いてねェーのよ。走るのが好きならアンタだけタクシー乗らなくていいから、走ってついてくればいいじゃん」

「一緒に走りましょう!」

「嫌よ」

「走りましょうよ! 天気もいいですし、きっと気持ちいいですよ!」

「嫌だって言ってんのが聞こえねェ~かなァ~~? 頭脳がマヌケか、アンタは!」

 

 ヴァルキリーはスペシャルウィークを睨みつけた。

 この突拍子もない提案が、先ほどの会話から何かを察した彼女の優しさであることはヴァルキリーにも分かっていた。

 分かっているからこそ、余計に苛立った。

 自分とスペシャルウィークのやりとりを黙って様子を見守るスローダンサーの視線も気に入らなかった。

 優しさや気遣いといったものは、もううんざりするほど受け取った。

 自分を庇って死んだ彼の遺体を祖国に持ち帰った後、出迎えてくれた育ての親達の暖かさに救われると共に少しずつ息苦しさを感じていた。

 走ることをやめて一歩も進まずにいる自分自身に言いようのない焦りと後ろめたさを抱き始め、耐えられなくなっていった。

 優しくして欲しくなかった。

 誰も自分の傍に寄り添って欲しくなかった。

 だって、また走りたくなってしまうから。

 もう彼は――ジャイロはいないのに。

 

「私はヴァルキリーさん達と一緒に走りたいです!」

 

 ヴァルキリーの拒絶の視線を、スペシャルウィークは真っすぐに見つめ返していた。

 澄んだ瞳だった。

 この世の残酷なものを知らない田舎娘の無垢な瞳だった。

 

「私には『日本一のウマ娘になる』という夢があります。その為にトレセン学園に行きます」

 

 だが、純粋な瞳だった。

 この大地と空の下で自由に走り回れることを感謝する、純粋なウマ娘としての喜びを宿した心があった。

 

「だから、ヴァルキリーさん達と一緒に走りたいんです。日本どころか世界を走ったお2人が見た光景は、今の私は想像も出来ません。でも一緒に走れば、同じコースの中にいれば、何かが分かりそうな気がするんです。だから――」

 

 スペシャルウィークはニッコリと笑って、呆気に取られるヴァルキリーの前に手を差し出した。

 

「私と一緒に走りませんか?」

 

 力強い言葉と笑顔だった。

 ナンパに翻弄されてオドオドとしていた顔、有名人と対面してアタフタとしていた顔、2人の会話に気まずげにしていた顔――これまで見た百面相に隠された、このウマ娘の本当の顔をヴァルキリーとスローダンサーは見たような気がした。

 この国で一番のウマ娘に――などと大それた夢を躊躇も恥じらいもなく語ることが出来る器が、確かにあるような気がした。

 

「……アンタってさ、バカか大物のどっちかよね」

 

 ヴァルキリーは無意識に強張らせていた身体から力を抜き、小さくため息を吐いた。

 ここまでずっと顔を隠すように付けていた防塵ゴーグルを外す。

 ブラウン色の勝気な瞳が、真っすぐにスペシャルウィークの瞳を見つめ返した。

 

「いいよ、走ろうか」

 

 言った。

 思わず口にしていた。

 その一言で、ヴァルキリーの胸の奥で鬱屈として積み重なっていたものが1つ軽くなったような気がした。

 何かが楽になったような気がした。

 ただ学園までの道を誰かと一緒に走ることを決めただけなのに。

 口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「学園まで一緒に走ってあげるよ」

「本当ですか!?」

「アンタがあたしについて来れるならね。言われた通りアタシは生粋の『逃げ』だからさァ~、後ろなんて気にしないでぶっちぎってやっから。振り返ってアンタがいなくても知らないよ?」

「はい、私も負けません! ゴール前で差し切ります!」

「上等。オバハン、アンタも来る? 歳で足腰弱ってんならアンタだけタクシー使ってもいいよ」

「誰が年増だ、テメェェェーーーッ! いい加減、そのネタ擦んのしつけーんだよッ! 2度と減らず口叩けないようにしてやるわ!」

 

 文字通り逃げるようにヴァルキリーが駆け出し、すぐさまスペシャルウィークがそれに続く。怒りの形相でスローダンサーが追った。

 都会の街並みを、3人のウマ娘が駆ける。

 それは何でもない光景だった。

 競い合い、笑い合う――この地上でありふれた、祝福された光景だった。

 

「そういえばさァ」

「はい、何でしょう?」

 

 本気ではないとはいえ、しっかりと自分の走りに追従するスペシャルウィークをヴァルキリーは肩越しに振り返った。

 

「アンタの名前、まだ聞いてないわ」

「……ああっ! そうだった、すっかり忘れてた! ご、ごめんなさい」

「謝んなくていいからさ、教えてよ。知りたいな、アンタの名前」

「はい! スペシャルウィークです! これからよろしくお願いします!」

「へえ? いい名前じゃん。よろしくするかどうかは分かんないけどね」

「そんなこと言わずに、学園でも一緒に走りましょうよ!」

「だから、アタシはトレセン学園の生徒になるつもりはないんだって。まあ、何したいかなんて自分でもまだ分かんないけど――」

 

 これから向かう学園で何が待っているかなんて、さっきまで興味もなかった。

 しかし、今は少し違う。

 今日、明日と休日が過ぎて来週には学校が始まる。

 どんな生徒達が学園に通いにくるのか知らないが、少なくともこの世間知らずなウマ娘が日本一という大それた夢を目指す為の一歩を踏み出すのだ。

 それを見るのは、なんだかちょっぴり楽しみな気分だった。

 

「ニョホホ、来週は何か面白いことが起きそうじゃん」

 

 ――『特別な1週間(スペシャルウィーク)』と出会ったんだからね。

 

 

 

◆日曜日!――Domenica

 

 

 

 どの学校でもそうであるように、日曜日は休みの日だ。

 窮屈な授業から解放された学生達が思い思いのやり方で、一週間の一番楽しみな一日を満喫しようと学園から外に繰り出していく。

 それはこのトレセン学園でも例外ではない。

 多くのウマ娘達が街に出てショッピングを楽しんだり、友達の部屋に集まってゲームで遊んだりしている。

 しかし、ストイックな者達はこの貴重な青春の一日を、学園のトレーニング施設やグランドで自己鍛錬に費やしていた。

 ここ最近は、そんな学生達が少し増えたような気がする。

 広大なコースを走るウマ娘達の姿を眺めながら、ジョニィはそんなことを考えていた。

 

「『イメージ』はあるんだよ……『回転』のイメージはな」

 

 そのジョニィの背後では、芝生に座り込んだゴールドシップが手元を弄りながらブツブツと呟いていた。

 

「風の中の木の葉がバレエダンサーのようにくるくる『舞うイメージ』っていうか……」

 

 ゴールドシップが持っているのは、手のひらに収まる程度の小さなゴム製のボールだった。

 それを指で弾いたり、もう片方の手を使ったりせず、手のひらの筋肉の動きだけで回そうと試行錯誤している。

 

「全身で回すってのは、もう分かってんだけどよ~……おっ!!」

 

 突然、手の中でボールが高速で回転を始めた。

 クリア出来ないゲームでコントローラーを無茶苦茶に操作してみた時のように、様々な動作を試していたゴールドシップには何が切っ掛けでその力が生まれたのか分からなかったが、とにかくボールは回った。

 

「おおおおおっ!? ま、回っ……ジョニィッ!」

 

 しかし、その回転は全く安定しないものだった。

 不安定な遠心力で暴れ回るボールは、手の中を飛び出して腕を伝い、そのまま肩に弾かれて地面に飛んで行ってしまった。

 ゴールドシップは背中を向けたままのジョニィを睨んで、憤慨した。

 

「なんだ、ジョニィ! 見てなかったのかよォ~~~! 今の見ててくんなかったのか!? なんで見てねーんだよ!? すごかったんだ! 絶対に回ったぜッ! ボールがッ!」

 

 その騒々しさに、ジョニィはようやく振り返って呆れたようにゴールドシップを見つめた。

 

「なんで僕が四六時中君を見てなきゃいけないんだ? で? そーなのか? もう一回僕の目の前でやってみせろよ」

「オメーはこのゴルシちゃんから一日中眼を離しちゃいけないんだよ! 1秒後に何が起こるかわかんねーんだからな! クソッ、ボールどっかいっちまったよ!」

「本当に何が起こるか分からないから困るんだよなァ」

 

 ジョニィはため息を吐きながら、自身の持つ鉄球を足元に落とした。

 正確な回転を加えられた鉄球は地面に触れた途端、振動波を起こして水面の波紋のように芝を波打たせる。

 ソナーのように広がった衝撃の波が円状に広がり、地面に落ちたボールの位置を明らかにした。

 

「おっ、あったあった! やっぱ、回転の技術って便利だよな~。面白そーだしよ! なんとか使えるようになんねーかなぁ」

「こんなの覚えたってレースには使えないぞ。走るフォームに回転の動きを反映させることと、ボールを回転させることは違う。君には早く『黄金の回転』のフォームを自在に使いこなせるようになってもらいたいんだけどね」

「んなコト言ったってよォ~、あの時は無我夢中で走ってたから正確な身体の動かし方なんて再現出来ねーよ。『黄金長方形』はちゃんと見えてるつもりなんだけどよォ~」

「分かっている。あのレースの時ほどの集中力を意図的に発揮することは、今の君には難しいだろう。大舞台で走る極限の緊張感と興奮、シルバーバレットやシンボリルドルフが相手だったからこそ引き出せた潜在能力だ」

「偶然で勝てたなんて思いたくねーけどよ、実力で勝てたとも言えねーよなぁ」

「間違いなく君自身の力があってこそだ。だけど、確かに運も良かった」

 

 ゴールドシップはその言葉に反発することもなく、立ち上がってジョニィの傍に歩み寄った。

 

「あのレースでDioとシルバーバレットは完全に君からマークを外していた。シンボリルドルフに向けられていた意識の外から不意を打てたからこそ、最後の最後で差し切ることが出来たんだ」

「実際に走ったアタシが良く分かってるよ。まっ、二度目はねぇだろうな」

「奴らとは再び決着をつける日が来る。その時には、もう君は徹底的に分析されていると思っていいだろう。Dio達だけじゃない。勝者である君は、他のあらゆるウマ娘から挑まれる立場になる」

「かーっ! モテる女はつれーなぁ、オイ! あのシルバーバレットの野郎にスタートからマークされるとか、ゴルシちゃんゾクゾクしちゃう!」

 

 ゴールドシップはおどけたように笑いながら舌を出した。

 かつてシルバーバレットと対決する前に余裕ぶって叩いた軽口は、全て内心の不安を隠す為の虚勢だった。

 しかし、今は違う。

 本来の走り方を取り戻したゴールドシップに、あの時のような精神的な弱さはない。

 ヘラヘラと笑う顔の裏側で、シルバーバレットからもぎ取った勝利が単なる偶然ではないことを証明してやろうという決意が燃えていた。

 それを察して、ジョニィは満足そうに笑った。

 

「だったら、トレーニングも真面目にやれよ。レースだってそうだ。君、公式ではまだ2勝した実績しかないんだぜ」

「しょーがねーだろ、やる気が出ねー時は出ねーんだから。ゴルシちゃんの気まぐれなオトメゴコロに対する理解度を高めて、なんかおもしれートレーニング考えとけよ」

「来週からマックイーンが併走相手として一緒に練習してくれる予定だから、それでいいだろ?」

「ジョニィっていつもそうですよね! マックちゃん与えとけばアタシが大人しくなると思ってるんですか!?」

「思うね。君の精神は好きな相手にちょっかいかけたがる小学生レベルだ」

「誰が小学生だコラァ! このナイスボディが去年までランドセル背負ってたように見えんのか!?」

「マックイーンだけじゃない、これからは僕もチーム単位で指導をすることになる。他のメンバーと喧嘩とかするなよ」

「他のメンバーっつったってよぉ、未だにマックイーン以外チームメイトの候補いねーんだろ? 誰か目ぇつけてる奴とかいねーの?」

「気になる娘は何人かいるけど、こっちから勧誘しようとまでは思わないかな」

「んだよ、オメー! ゴルシちゃん1人にゾッコンすぎじゃね!? しょうがねーから、アタシから推薦してやるよ! トーセンジョーダンっていう面白そうな奴がいんだよ!」

「それ、君が何度か併走相手に拉致してきた娘か?」

「そうそう! アイツ、足の爪が弱いらしくてよぉ。その怪我のせいで満足にトレーニングも出来ねーし、デビューも遅れてんだ」

「『爪』か……確かに、ウマ娘にとって爪の脆弱性は重い問題だな」

「なんとかしてくれよ、なぁ~? アタシはアイツと限界バリバリのレースをしてみてーんだよ!」

「じゃあ、とりあえず今度連れてきてくれよ。僕のチームに入れるかは分からないけど、スローダンサーが来週から学園で講師として働くから、彼女を紹介してもいい」

「おっ、オメーの元相棒がようやく来んのか! なんだよ、来週は面白そうなイベント目白押しじゃん! オッシャア! なんか猛烈にやる気出てきたー! 何してんだ、ジョニィ! このパッションが燃え尽きねぇ内にさっさとトレーニングすっぞ!!」

 

 先程まで夢中だったボールを放り出して、グランドに駆け出そうとするゴールドシップをジョニィは苦笑しながら追った。

 飛んできたボールを片手で掴み取り、鉄球と一緒にポーチに入れる。

 両脚の太ももを軽く揉んで調子を確かめると、一歩ずつ踏み出した。

 もう車椅子も、杖さえ使っていない。

 

 ――立って遠くを眺める。

 ――誰かを追う為に歩く。

 

 たったそれだけの当たり前のことに感動する日々にも少しずつ慣れていった。

 

「歩けるか? ジョニィ」

 

 とっくに先へ行ってしまったと思っていたゴールドシップが、静かに微笑みながらジョニィが来るのを待っていた。

 

「少しずつ……だけ。もっと劇的なことなのかと、ずっと想像していたけれど……月が満月になっていくように……この事それ自体は何気ないものだった」

 

 ジョニィもまた穏やかに笑い返して合流する。

 肩を並べた2人は、ゆっくりと足並みを揃えながらグランドへと歩いていった。

 

「……ところで、ジョニィ。今いちパクリっぽいんではあるんだがよォ~~~。1コ『新曲』思いついた。次、レース勝ったらライブで歌うからなコレ」

 

 歩きながら、何の前触れもなくゴールドシップが言った。

 先程までの落ち着いた雰囲気からは一変して、普段の珍妙な言動に戻ってしまっている。

 しかし、2人にとっては日常的なやりとりだった。

 ジョニィは小さく頷いて先を促した。

 

「タイトル……『これがアタシの一週間』!」

 

 ゴールドシップが『月曜日』から『日曜日』までのトレーニングをモチーフにしたという珍妙な歌を口ずさんでいく。

 ジョニィはそれを歩きながら聞き流していた。

 ウマ娘とトレーナーがトレーニングの為にグランドへ一緒に歩いていく。

 この学園では当たり前の、何気ない日常。

 1つのレースに勝つ為にこの当たり前を繰り返し、学園の日々は過ぎていく。

 勝っても負けても、また新しいレースが始まる。

 その度に、ウマ娘とトレーナーはまたグランドまで一緒に歩いていくのだ。

 

 

 

「――っつー歌よ。どよ?」

「……いいーーーねェーーー。すごくいいよ! 超イケてる! 幸せそーな一週間なんだっていう……時間の概念がない所がとてもいい!」

「だろッ! 歌詞をメモし終えたか? 次のウイニングライブが楽しみだぜ!」

 

 

 

 また、新しい一週間が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『GOLD SHIP RUN』 完

 




本編で書きたい部分は書いたと言いましたが、最後を『7日で1週間』のネタで締めるというのは実は一番最初から考えていた終わり方でした。
元々この作品を書く切っ掛けになったのがpixivのとあるジョジョ×ウマ娘の漫画で、そこでこのシーンが見事に漫画化されてたのをリスペクトしたくて書き始めました。
URLはったりして直接作品を紹介してもいいのか分からないので、興味のある方は是非自身でキーワード検索でもして探してみてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
楽しんでいただけたなら幸いです。



SBR版ウマ娘『ラブトレイン(D4C)』
ファニー・ヴァレンタイン大統領の側近として常に傍に控えているウマ娘。
シルバーバレットに匹敵する才能を秘めているが、レースに出たことは一度もない。
幼少の頃からヴァレンタインを守り、支えてきた。
レースを走りたいというウマ娘としての本能がないわけではないが、彼への忠誠心と愛が完全にそれを凌駕している。
ヴァレンタインもまたこの世で最も彼女のことを信頼している。
ヴァレンタインとは大統領夫人を差し置いてほとんど正妻のような関係だが、夫人が同性愛者なので実は彼女の方が狙われている。
ヴァレンタインを『挟む』ことが好きで、そういう特殊なプレイを当人同士ノリノリでたまにやっている。
『D4C』がウマ娘としての名前なのはさすがにアレだと思ったので『ラブトレイン』になった。
ルーシーの力を得たD4Cと同じで、ヴァレンタインにとっての『女神』がウマ娘として最初から傍に居たら、という存在。
彼女が傍にいる限り『聖なる遺体』も必要ないので、この世界ではヴァレンタインは普通に善き愛国者としてアメリカに尽くしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。