NEXT FRONTIERを目指して (ハチハル)
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序章
プロローグ 二人の絆、二人の始まり
チーム・アルデバラン。
数年前、トレーナーとウマ娘の二人だけで結成され、数々の記録を打ち立ててきたチームの名前だ。
トレーナーの名は、
そして彼の相棒であるウマ娘の名は――シンボリルドルフ。無敗の三冠を達成し、更にウマ娘レース史上初の七冠をも達成した、稀代の皇帝との呼び声も高い、トレセン学園の現生徒会長だ。
たった二人で始まったチームはこの数年間で新たに何人かのウマ娘を迎え、他のチームに勝るとも劣らない強豪へと急成長してきた。
そんな世間からも大きな期待を寄せられているチームに、今年も新メンバーが加わっていた。
「あ~、疲れたよう、マックイーン」
「気持ちは分りますが、しゃきっとしてくださいまし、テイオーさん」
夕陽が差し込む部室で、学園指定の制服に身を包み、髪をポニーテールで結わえ白い三日月型の前髪が特徴的なウマ娘――トウカイテイオーが、パイプ椅子に座り、長机に突っ伏すようにもたれかかっていた。
そんな彼女を、同じく制服を着て、紫色の艶やかな髪と落ち着いた物腰が特徴的なウマ娘――メジロマックイーンが注意する。
「マックイーンは平気なの?」
「疲れた、というのが正直なところですがメジロのウマ娘たる者、この程度でへこたれていられませんわ」
アルデバランのトレーニングは、他のチームと比べて幾分かハードだ。
筋力トレーニングしかり、水泳によるスタミナ強化しかり、走る際のフォームの改善しかり……。マックイーンもテイオーもこのチームに来て1ヶ月程度だったが、想像以上にハードで音を上げそうになったくらいだ。
それでもマックイーンが1ヶ月チームに居続けられたのは、何よりも「メジロ家のウマ娘である」という矜持が心の支えになったからだった。
「流石マックイーン、名家のお嬢様だね」
「当然です。そういうテイオーこそ、門限ギリギリまで自主トレしているでしょう?」
「あははー、もしかして寮長?」
「自覚があるのでしたら、あまり困らせないであげてください……」
溜め息交じりに言うと、テイオーは舌を出して手を合わせ、「ゴメン」と言ってくる。その表情が憎たらしいというよりも可愛らしいのが、彼女の良いところの一つだろう。
「まあボクも、カイチョーみたいな“無敗の三冠ウマ娘”になるって目標があるんだもん。出来ることは今のうちからやっておきたくて」
「それで無理して、身体を壊したら元も子もありませんわよ。会長さんのお話、忘れましたか?」
「ああ、カイチョーがトレーナーにすっごい怒られちゃったってやつ?」
二人がチームに入った日、武によるミーティングと身体能力を測るテストを終えた後、チームのリーダーでもあるシンボリルドルフがそれとなく教えてくれた。
無敗の三冠がかかった菊花賞の一月前、彼女は生徒会長の仕事をこなしながら門限ギリギリまでトレーニングに励んでいたのを、武に見つかったのだという。
当時の彼は、普段の温厚さからは想像出来ないほどの怒りを見せたのだとか。
その後は、ルドルフが一手に引き受けていた仕事を生徒会のメンバーが引き受けてくれるようになったこともあり、門限ギリギリに帰るということは減ったそうだ。
「ええ。私には天皇賞連覇というメジロ家の悲願がありますが、無理が祟ってケガをしてしまっては、トレーナーさんに申し訳が立ちませんわ」
「そうだねえ。ボクも、ケガしちゃったら無敗の三冠どころじゃないし」
「でしたら」
「ダイジョーブ! 別に毎日やってるわけじゃないし。勉強の方でも一番取りたいもん、カイチョーみたいに!」
「まったく、あなたって人は……」
兎に角ルドルフのことが好きなテイオーだが、それもまた彼女の良いところだと思いながら、マックイーンは苦笑を浮かべる。
憧れの人のようになりたくてきちんと努力を積み重ねているテイオーのことは、それほど嫌いではないしむしろ好ましく思う。彼女ならば、本当に無敗の三冠を達成するのも夢ではないだろう。
「さて、私はこのまま寮に帰ろうと思うのですが、テイオーさんはどうしますの?」
自分のカバンに荷物を入れ、忘れ物がないか確認してからロッカーを締めつつ聞くと、テイオーは何か思いついたように告げた。
「ねえ、マックイーン。トレーナーとカイチョーと言えばなんだけどさ――」
「本当に良いんですの? テイオーさん」
すっかり日が落ちかかり、薄暗くなった学園の校舎内を歩きながらマックイーンは、前を歩くテイオーに声をかけた。
「でも、マックイーンも気になるからついてきたんでしょ?」
「それは確かに……気になりますが……」
「でしょ? だって
チーム練習が終わった後、特別な用事でもない限り武とルドルフは二人で連れ立って、校舎に戻っていくことが多い。“とある事情”もあって、テイオーは以前から気になっていたらしい。
ただ自分自身の夢や、デビューが少しずつ迫っていることもあってトレーニングに専念していたため、確かめようという発想が出てこなかったのだとか。
「人のプライベートを勝手に覗き込むのは、あまり気乗りしないのですが」
テイオーの行動力には戸惑わされるばかりだが、マックイーンも確かに二人の様子は気になるというのが正直なところだった。
口では色々言いながら歩みを止めないマックイーンを見て、テイオーは喜色を浮かべて無邪気に笑う。
「ダイジョーブ、バレなきゃ覗きじゃないから」
「言い方が犯罪っぽいですわ!?」
一路生徒会室に向かった二人は中に人がいないのを確認してから、武のトレーナー室へ向かった。
教員塔の廊下を進んでいくと、一つの部屋から灯りが漏れているのが見えた。
マックイーンとテイオーは互いに目配せをして、部屋へと近づいていく。
ドアは曇り窓ガラス付きの引き戸だったが、幸か不幸か僅かに開いていて、隙間から中を覗き込むことが出来た。
「ふむ。ということは、二人とも長距離を視野に入れた中距離路線で行く、ということかな?」
「ああ。特にマックイーンは、ステイヤーとしての適性が見込まれるし、テイオーも足捌きは目に見えて優秀だね。強くなるよ、あの子たちは」
視線の先に見えるソファーに二人並んで座り、座面ほどの高さのテーブルに置いた資料を見下ろしながら議論する男女の姿があった。
先に話していた、鹿毛でロングヘア―の、テイオーに似た白くて長い三日月型の前髪で制服姿のウマ娘が、“皇帝”シンボリルドルフ。その隣の黒髪を短く切り、白いTシャツと茶色の長ズボンというかなりラフな格好で優しげな眼をした男性が、マックイーンたちチーム・アルデバランのトレーナー、白井武だ。
「ねえねえ、ボクたちのこと話してるよ」
二人にバレないように声を抑えて、テイオーが話しかけてくる。
「期待、されてますわね。ですが今はそれよりも――」
「うん――」
マックイーンとテイオーは、今のやり取りを見て自分たちへの評価よりも気になることがあった。それは――――。
「二人ともなんか近くない?」
「自然に肩を寄せ合ってますわね。それもぴったりと……」
真面目な議論をしながら、仲睦まじげに互いの肩をぴったりと密着させている、期待の若手トレーナーと皇帝の姿だった。
「ぶーぶー。ボクもあんな風に、カイチョーに構ってほしい!」
「き、気にするのはそこですの……?」
テイオーとしては、二人が見るからにいい雰囲気でいることよりも、ルドルフと密着している武のことが羨ましいようだ。
「マックイーンはどうなの?」
「どう、と言われましても……」
改めて、室内にいる二人の方を見る。
先ほどから肩を寄せ合っているのもそうだが、時折視線を通わせた二人の表情が、トレーニング中に見たときよりも柔らかく見えた。顔を寄せ合っている瞬間もあって、ふとした瞬間に頬に口づけくらいはしてしまいそうな――。
「いけません、いけませんわ……!」
そこまで想像してしまって、マックイーンはブンブンと首を振る。
今まで走ることに専念してきて恋愛ごととは縁遠かった彼女には、少しばかり刺激が強かった。
「マックイーン、顔赤いよ?」
マックイーンの考えていたことを知る由もないテイオーは、首を傾げて顔を覗きこんでくる。
「み、見ないでくださいまし!! ――あ」
恥ずかしさのあまり思わず声を上げてしまってから、マックイーンは硬直する。傍にしゃがみこんでいたテイオーも、「しまった」と言わんばかりの顔をしていた。
恐る恐る、トレーナー室の方に視線を向けると……。
「……二人とも、入ってきたらどうかな?」
気恥ずかしそうにしながら、努めて平静を保っている様子のルドルフがマックイーンたちのことを見ていた。
部屋に通されたマックイーンとテイオーは、武とルドルフの対面に置かれたソファーに腰掛けていた。
武とルドルフはというと、部屋を覗き込んでいたときとは違い、ほんの少し間を空けて座っていた。それでもマックイーンからは、普段練習で見かける二人の距離感よりも些か近いように見えた。
気まずい沈黙が流れる中、最初に口火を切ったのは武だった。
「二人とも、どの辺から見てた?」
「その、私たちの適性距離のお話をされていた辺りからですわ」
「……割と見られてたな」
マックイーンの話を聞いて、武は視線を逸らし、頬をかく。
「二人とも、ほんとに仲良しなんだね。いいなあトレーナー。カイチョーとあんなにくっついて」
「いや、それはその……」
テイオーの無邪気な発言に、武は返答に窮しているようだった。あまり恋愛というものをよく知らないらしいテイオーに、どう答えたものか困ってしまうのも無理はない。
とはいえマックイーンも恋愛経験は無いので、人のことは言えなかった。
「やはり、去年の“記者会見”は本当だった、ということですわね」
「――ああ、あの会見か。君も見ていたんだね、マックイーン」
「ええ。会長さんが去年の有マ記念を制し、七冠を達成した数日後の記者会見。あの発表には本当に驚かされましたわ」
「そーそー。カイチョーとトレーナーが付き合ってたーって皆大騒ぎだったよね」
昨年末、都内のホテルで行われた記者会見で行われた、チーム・アルデバランのトレーナー白井武と無敗の七冠ウマ娘シンボリルドルフの交際発表は、世間を騒がせていた。
週刊誌各社は事前に情報を掴めておらず、他のメディア各社にも寝耳に水のような話であったため、テレビや新聞、ネットといったあらゆる場所で混乱が見られた事件だ。
「もしかしてテイオーたちが覗きに来たのって、それが理由?」
「うん。だってカイチョーとトレーナー、皆がいるところだとさっきみたいにくっついてなかったもん。本当にお付き合いっていうの、してるのかなーって。でしょ、マックイーン」
「私も最初はそんなつもりではなかったのですが……。テイオーさんの言うことにも一理あると思いまして……」
「あー、なるほど……」
テイオーとマックイーンの話を聞いて、武は納得がいったかのように頷いた。
「その辺りは、世間に公表する前からの名残……みたいなものだな」
「私とた……トレーナー君が、ウマ娘と担当トレーナーという関係である以上、メリハリは付けないといけないからな。特に衆目に晒される状況下では」
「人目も憚らずいちゃつきなんてしたら、ルドルフ自身の走りにも、他のウマ娘たちの走りにも影響が出かねない。ルドルフは“皇帝”でもあるから、影響は尚更大きくなる」
「ですから、表では普通に接していたと。トレーナーとその担当ウマ娘として」
武とルドルフの話を聞いて、マックイーンは合点がいく。確かに時と場所を弁えなければ、ウマ娘たちのコンディションへの影響はどうなるか分かったものではないだろう。そのことを鑑みての対応だった、ということか。
それはそれとしてルドルフが一瞬言葉に詰まったのは気になるが、話の腰を折ってしまいそうなので、あえてこの場は流すことにする。
「ああ。“皇帝”が恋愛にうつつを抜かしている、などと言われてしまえば、後輩たちにも示しがつかないだろう?」
「確かに、そのとおりかもしれませんわね……」
そこまで考えて対応していたということに、内心驚かされる。
トレーナーとウマ娘が恋愛関係になったという話は前例のない話ではないが、ルドルフの場合は別だ。
“皇帝”の異名を持ち、無敗の三冠を成し遂げ、その後も七冠を手にするなど、ウマ娘の世界において影響力は大きく、熱心なファンも多い。下手な対応を取ってしまえば、大変なことになっていたのは想像に難くなかった。
「ねーねー。カイチョーはトレーナーのどんなところが好きなの?」
難しい話は飽きた、と言わんばかりに横からテイオーがルドルフに直球で投げかける。
そんなテイオーを見てルドルフは咎めるのではなく、優しく微笑えんだ。
「――そうだな。常に私と同じ視座をもって隣に立っていてくれるところ……だな」
「それでカイチョーは、心臓がきゅーってなったの?」
「それだけではないが……。一言で表すのは難しいな……。例えば――そうだな。トレーナー君が私に初めて告白してくれたときは、今まで経験したことがないほど心臓が高鳴ったな」
「へえー! そうなんだ!」
当時のことを思い出しているのか、頬を染めるルドルフに、テイオーは目をきらきらと光らせて前のめりになっていた。
「よく覚えてるな、ルドルフ」
「当然だ。忘れたくても忘れられないよ、あの時の君の言葉は。『一生、君を支えたい。君の隣にいたい』、なんて言われてしまってはな。断るわけがないだろう」
「……出来れば一言一句まで覚えていてほしくはなかったなぁ」
耳まで赤くなり、武は自分の顔を覆ってしまっていた。余程恥ずかしかったのだろう。
マックイーンも、その気持ちは分らなくもない。聞いている方まで、顔が熱くなってきてしまうくらいのセリフだった。
「告白どころか、プロポーズですわね完全に」
「ああ。私も彼に惹かれていた時期だったからね、一も二もなく受け入れてしまったよ」
そう言って笑うルドルフの顔は、心底幸せそうだった。
「トレーナーさんはどうなんですの?」
「お、俺か?」
マックイーンに話を振られ、武は顔を覆っていた手を下ろす。
「ええ。トレーナーさんはその、会長さんのどんなところがす、好きなんですの?」
口にするにはまだ恥ずかしかったが、ルドルフの話を聞いた以上、武の話も聞いてみたいと思い、マックイーンは勇気を出して問いかける。
武はまだ耳を赤くしたまま、頬をかいた。
「好きなところか……。沢山あるけど、特に好きなのは走ってるときの姿だな」
「分かる! カイチョー、走ってるときカッコいいもんね!」
「確かに、カッコいいよな。けどそれ以上に、“綺麗だ”って思うんだ。初めてルドルフの走りを見たときから」
テイオーの合いの手を肯定しつつ、武は視線を上に向けて、思い出すようなしぐさを見せる。
「綺麗、ですか」
「ああ。あの力強くも、滑るようなあの走り。最後の直線でのあの加速……。一目惚れだったよ」
「ふふ、私に告白してくれたときも、言っていたな」
ルドルフの走りは、マックイーンもテレビやレース場で実際に見たことがある。
中距離長距離問わず、先行して走ることもあれば後方からの差し、他のウマ娘が動き出したときも焦らず耐える冷静さ。そして最後の直線で、完膚なきまでに勝利するその姿――。
まさに、“皇帝”の名に相応しい走りだった。
「へえ~。他には他には?」
「ちょっと、テイオー」
武の言葉に、うんうんと頷きながら食い入るように話を聞こうとするテイオーを窘める。
「もちろんあるよ。外見だと紫色の瞳とか、綺麗に手入れされてる髪や尻尾とか、大人びた声とか。中身で言うと、常にウマ娘たちのことを慮っているところとか、レースに対する想いの強さとか」
「うんうん! それでそれで?」
「外行きだとすごく威風堂々としてるけど、ほんとは皆の輪に混ざりたいところとか、気を許した相手にはちょっと茶目っ気が出てくるところとか――」
「トレーナー君、そろそろその辺で……」
テイオーがあまりにも興味津々に聞いて話しやすかったのか、武の口から次々とルドルフへの想いが出てくる。
恥ずかしそうに止めにかかるルドルフを見ながら、武は語りだすと止まらなくなるクセがあると以前彼女が教えてくれたことを思い出し、マックイーンは苦笑していた。
「――あとはそうだな。ルドルフが歌う歌はどれも好きなんだが、俺が特に好きなのはうま――」
「トレーナー君!」
武が何かを口にしようとした瞬間、ルドルフが慌てた素振りで彼の口を手で塞ぐ。
突然の行動に、テイオーが小首を傾げて聞いた。
「うま……何?」
「うま……?」
その単語が頭の隅に引っ掛かり、マックイーンは思案する。
ウマ娘が歌うのは、プライベートでのカラオケや特別に何か活動をしていなければ、ウイニングライブのはずだ。そこで歌われる曲も、お約束のパターンが多い。
「Winning the soul」であれば皐月賞、日本ダービー、菊花賞のクラシック三冠、「NEXT FRONTIER」であれば天皇賞の春と秋や有馬記念、といった具合だ。しかしそれらを含めた、ウイニングライブに使われる曲には、「うま」という単語が入る曲はなかったはずだった。
「いや、それはその、まだ未発表の曲なんだ。色々な事情があってね。そのうち、皆も歌うことになると思うが――」
「何なの、カイチョー? その曲って」
「私も気になりますわ」
「それは、そのだな……」
マックイーンとテイオーにじっと見つめられて、何故かルドルフは視線を宙に漂わせる。あの皇帝がこれほど慌てるとは、余程重要な新曲なのか、それとも他に何か聞かれたくない理由でもあるのか。けれど武が「好き」と言っている以上、気になるものは気になる。
「――う……」
「「う?」」
「……『うまぴょい伝説』」
恥ずかしそうに俯きながらルドルフが呟いた曲名に、マックイーンとテイオーは首を傾げた。
いや、聞いたことがない曲だから首を傾げるのは当然だが、それを抜きにしてもルドルフがここまで羞恥の表情をしているのが、マックイーンには解せなかった。ウイニングライブでは堂々と歌っていた彼女に、ここまで感情を露わにさせる曲とは、いったい何なのか。
「去年には出来上がっていた曲なんだが、試しに歌ったのをトレーナー君に聞いてもらったところ……。失神してしまってね」
「し、失神ですか?」
「――そのぐらい良かったんだ、ルドルフのうまぴょいは」
「う、うまぴょい……?」
ルドルフに手を放してもらい、ようやく話せるようになった武の言葉に、マックイーンは困惑する。
ルドルフは兎も角、武の言っていることが全くの意味不明で、容量を得ていない。
「トレーナー、それってどういうことなの? ボク全然分かんないんだけど」
「まあそうだよな。何というかな、滅茶苦茶可愛いかったんだよ」
「カイチョーが?」
「そうなんだよ。ルドルフはどんな曲も歌いこなせる凄い子だけど、あの曲は特別な振り付けがあってさ。そのときの表情があまりにも可愛くて可愛くて。危うく心臓が持っていかれそうになったというか――」
またもやエンジンに火が付いたかのように、武は凄い勢いで話し出す。
練習のときは真面目に指導してくれていたトレーナーの別の一面に、マックイーンは面食らってしまった。
この人が本当に、若くして皇帝シンボリルドルフと共に七冠を達成し、チーム・アルデバランを強豪に押し上げた、白井武なのか。
「ト、トレーナー君、二人とも困っているようだが」
「――っと、すまん。スイッチが入ると、どうにも語りたくなってさ。だからどうか、そこまで引かないでくれると嬉しいんだけど……」
隣に目をやると、テイオーも困ったように苦笑いをして、マックイーンを見ていた。
流石のテイオーも、あの勢いは手に余ったらしい。
「い、いえ、こちらこそ。それだけトレーナーさんが会長さんのことを思っていらっしゃるのは、十分伝わってきましたから。私にも、覚えがあることですし……」
「そ、それは良かった……」
マックイーン自身、好きなもののことになると自分では気持ちが抑えられなくなることがある。それ故、武のことを責めることは出来ない。
「あははー。それぐらい、カイチョーとトレーナーはソーシソーアイってやつなんだね」
「テイオー、意味は分かっていますの?」
「互いのことを思いやって、すっごく好き同士ってことだよね!」
「間違っては……いないですわね」
本当にテイオーが言葉の意味を理解出来ているのかは疑問だったが、あえて突っ込むことはしないことにする。純粋で天真爛漫なのは、彼女の良さの一つだとマックイーンは思う。
余計なことを言って傷つけてしまうぐらいなら、何も言わない方がいいこともあるだろう。
「そうだな。相思相愛……。確かに私とトレーナー君の関係には、その言葉が相応しいと思うよ」
「俺も同じだ、ルドルフ」
「トレーナー君……」
武とルドルフが、お互いの顔を近づけて見つめ合う。
「……おほん」
目の前でいい雰囲気になり始めた二人に咳払いをして、マックイーンは自分の存在をアピールすると、武たちはハッとした表情で姿勢を正した。
「す、すまない」
「い、いえ。お気になさらず……」
お互いを思っていれば、二人だけの世界に入ってしまうことも致し方ないと割り切れる。ただ、目の前でいちゃつかれるとマックイーンとしては対応に困ってしまうというだけで。
――決して、その場で口づけをするんじゃないかと考えてしまったわけではない。断じて。
「マックイーン? どうしたの、そんなに首をブンブン振って」
怪訝そうな顔をするテイオーに覗き込まれて、マックイーンはもう一度咳払いをして居住まいを正す。
「しっ、失礼いたしました。お二人が思い合っていることは、十分すぎるほど伝わってきましたわ」
「うんうん! ボクも、トレーナーとカイチョーが本当に付き合ってるんだって確かめられて、良かったよ!」
「これで君たちの疑いを晴らせたというのなら、恥を忍んだ甲斐があるよ」
照れたように笑って、ルドルフは頬をかく。
これで、常日頃思っていることの疑問は解消出来た。テイオーが言い出したことではあるが、彼女と一緒に来ていなければ、確かめようにも確かめられなかったかもしれない。
武とルドルフの前なので流石に言えないが、あとで感謝を伝えておこうと、心の中に留めておくことにした。
「うーん、でも大丈夫なのかな?」
ようやく話がひと段落し、そろそろお暇しようかとマックイーンが考えていた横で、不意にテイオーが呟いた。
「何か疑問か? テイオー」
武が聞くと、テイオーはいつになく真剣な表情で頷いた。
「うん。二人とも、皆の前では普通に接してるけどさ――。それだとトレーナー、他の子たちに取られちゃうんじゃないかなあって」
「ない……とは言えませんわね」
テイオーの疑問はもっともだ。
表ではあくまでもトレーナーとその担当ウマ娘として、武とルドルフは接している。いくらあの記者会見のことがあるとはいえ、少しでも周囲に付き合っていると普段から示しておかないと、何かあるんじゃないかとテイオーは危惧しているのだろう。
自分にもチャンスがあるのではと考える子や、たまたま事情を知らずトレーナーに告白する子が出てこないとも限らない。
武はこの学園では男女比率的には少ない方の男性である上、ウマ娘たちとも歳が近い。そして誰よりもウマ娘のことを考えてくれる人物だ。全く無い、と言い切ることの方が難しかった。
「ああ。なんだ、そんなことか。安心してくれたまえ」
「その心は?」
動じることなく、寧ろ余裕たっぷりの様子のルドルフに、マックイーンが問う。
「万が一そうなったら、恥を捨てて示すまで。――この男は私のものだ、とね」
「ぴいっ!」
武の腕に抱きつきながら宣言するルドルフから凄まじい重圧を感じて、隣に座るテイオーが尻尾をピンと伸ばし、小さく悲鳴を上げる。
マックイーンも、皇帝の圧を目の当たりにして背筋に冷たい汗が流れる感覚がした。元々そんなつもりはなくとも、ここまではっきりと警告されると、武を横取りしようなんて気は失せる。
「それほどトレーナーさんのことが大事なのですね」
「理解してもらえて感謝するよ」
マックイーンが言うと、ルドルフはさっきまでの重圧を霧散させて微笑む。
普段通りの表情に戻ったのを見て、マックイーンもテイオーもホッと一息ついて、無意識に緊張していた身体から力を抜いた。
皇帝シンボリルドルフの圧は強烈だと噂で耳にしたことはあったが、目の当たりにすると話に聞いていた以上のものだった。恋愛ごとというのが些か気の抜けてしまいそうなポイントだが、当事者からすれば関係のないことなのだろう。
「……なんか、そこまで好意を示されるとなんか照れるな」
「トレーナー君、二人の前だ。せめて二人きりのときにしてくれ……。結構恥ずかしいんだ、私も」
余程嬉しかったのか頬をかく武に、ルドルフは彼の腕から離れつつ視線を逸らす。
「これが世にいう、イチャイチャ、というものですか……」
「何言ってるの? マックイーン」
甘い雰囲気を見せられて毒気を抜かれるマックイーンに、テイオーは不思議そうに首を傾げるのだった。
一通り疑問を解消したマックイーンは、これ以上二人きりの時間を邪魔してはいけないからと、テイオーと共にトレーナー室を辞し、寮への帰路に就いていた。
校舎を出るとほとんど日は落ちて、街頭の灯りが点いていた。
「随分と、トレーナーさんたちのところに長居してしまいましたね」
「そうだねぇ。ボクは見たいもの見れたし、満足だよ」
「あら、いいんですの?」
「うん。カイチョーはトレーナーのこと、すっごく大事に思ってるのが分かったし。ボクがワガママ言って、カイチョーを困らせることはしたくないから」
テイオーのことだから嫉妬するのではと思ったが、先ほどの彼らのやり取りを見て思うところはあったようだ。
「そうですわね。私たちのこともよく見てくださってるようですし――、お二人とお話して、ますます気合が入りましたわ」
「うん。ボクも絶対、無敗の三冠取りたいって思った。カイチョーとトレーナーのためにも」
「ええ。私も、天皇賞連覇、確実にモノにしてみせますわ」
二人が人前でいちゃついていなかったのは、彼らも言っていたとおり学園のウマ娘たちへの影響を鑑みてのものだろう。
同時に、チーム・アルデバランの面々が全力で、ターフを駆け抜けられるための環境づくりに気を配っているからこそ、二人きりのときでも自分たちのことが話題に上がっていたのだろうとマックイーンは思う。
「頑張ろう、マックイーン。いつかターフの上でぶつかるときもあると思うけど、そのときは負けないよ」
「こちらこそ、あなたに負けるつもりは微塵もありませんわ」
テイオーが校門に向かって小走りで駆け、振り返る。
それから拳を突き出して、にかっと笑って宣言する。
「じゃあ、ボクたちは仲間でライバルだ!」
マックイーンも思わず、頬を綻ばせて拳を突き返す。
「改めてよろしくお願いしますわ、テイオー」
「うん! よろしくね、マックイーン!」
メジロマックイーンと、トウカイテイオー。
チーム・アルデバランに新しい風を吹かせることになる二人の物語は、まだ始まったばかりだ。
* * * * * *
マックイーンとテイオーが去ったトレーナー室で、二人が座っていた対面のソファーを見つめながら、武とルドルフは並んで座っていた。
「ふむ。少しだけ、私たちは余所余所しく見えていたのだろうか、タケル」
顎に手をやり思案しながら、ルドルフが呟く。
マックイーンたちの前では「トレーナー君」と呼んでいたが、二人きりになると武のことを呼び捨てにしていた。
「そうだなあ。いっそ、二人きりの呼び方を表でもしてみるとかいいんじゃないか、ルナ」
お返しとばかりに武も、ルドルフのことをかつて本人から教えてもらった幼名で呼ぶ。
「さ、流石にそれは……」
「ルナと呼んでくれ
「この状況で私のジョークを使わないでくれ。余計に恥ずかしくなる……」
「俺は好きなんだけどな、ルナのジョーク」
いつだったか、二人で月を見上げながらルドルフがそんなダジャレを言っていた。他にもことあるごとに、彼女はジョークを言う傾向がある。
普段は威厳ある皇帝として振舞っていることもあって、ルドルフのジョークを知る者は武を含めて、日常的に交流のある者に限られてくる。
大抵は凍り付いたような表情をしたり、無反応だったりするが、武は彼女のジョークを聞くと自然に笑みが零れてくる類の人間だった。
「そこまではっきり言ってくれるのは、タケルくらいのものだ。最初は、場を和ませようと始めたものだが、どうも皆からは一様に微妙な反応をされてしまう」
「典型的なダジャレだからな。けど案外、この先ツボに入るヤツが出てくるかもしれないぞ」
「ありがとう。そうだと嬉しいな」
武の言葉に、ルドルフは微笑む。
「それにしても今日は、マックイーンとテイオーのおかげで色々懐かしい話ができたな」
「ああ。私が君と二人で会見したのはまだ半年ほど前だが、随分昔のことのように思えてくるよ」
「全く、あの時はホント大変だった。ある程度覚悟はしてたつもりだったんだけど」
「私も、君がいなければあの数の取材はなかなか捌ききれなかったと、つくづく思うよ」
七冠を達成して間もないころの、交際を発表した記者会見から始まった一連の騒動は、元々それなりの頻度で取材を受けていた武とルドルフにとっては、未知の経験だった。
それでもなんとか乗り切れたのは、お互いの存在があったからだ。
当時のことを思い出して、武とルドルフは笑い合う。
「やっぱり、七冠達成した後に発表のタイミングを持ってきたのは正解だったな。その前だったら、レースどころじゃなかっただろうし」
当時のメディアはルドルフの七冠達成で話題が持ち切りだったところに、あの会見だ。報道がますます過熱していったのを、武はよく覚えている。ポジティブに受け止めるものもあれば、スキャンダラスに報じるものまで、反応は様々だった。
「何が最適なタイミングか、は実際にやってみないと分からないからな」
「そういうもんかね」
「そういうものだよ、タケル」
会見のタイミングを後ろ倒しにしたらしたで、世間の反応はまた違ったものになっていただろう。しかしそれも、結果論にすぎない。
「秋川理事長にも、随分世話になったなあ。一生、足を向けて眠れる気がしない」
「彼女の尽力があってこその、あの会見だったからな」
トレセン学園の理事長、秋川やよいは、会場の手配やマスコミへの初動対応など、武たちの希望を汲み取って、色々と奔走してくれていた。武もルドルフも、その辺りのことについては感謝してもしきれない。
「この恩に報いるためにも、これから頑張っていかないとな」
「私も、今の私に出来ることに全力で取り組むとするよ」
「がんばろう、ルナ」
「お互いにな、タケル」
改めて武とルドルフは、誓いを胸に抱く。
そうやって今までの数年間を、二人は支え合うようにしながら駆け抜けてきた。それは、これからも変わることはないのだろう。
互いに依存し合うのではなく、自立した存在として支え合う。その在り方は、武とルドルフが初めて出会った日から少しづつ築き上げてきたものだった。
――武が史上最年少のトレーナーとしてこの学園にやって来て、初めて選抜レースで“皇帝”の走りを見たあの日から。
マックイーンが想像してたのは、半分当たってて半分はずれてるということで、よろしくお願いします。
次回本編からは、時間軸が遡る予定です。
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本章
第1話 始動、皇帝との出会い
刹那、ターフを風が駆け抜けた。
体操着にゼッケンを付け、鹿毛の髪をなびかせ、少女が最後の直線で一気にスパートをかける。
『おっと、ここで抜け出したのは1番シンボリルドルフ! シンボリルドルフだ! 後続を2バ身、3バ身と引き離し――今、ゴール! 本日最初の選抜レースを制したのは、シンボリルドルフ!!』
ゴール板の前を駆け抜けた瞬間、会場が歓声に包まれる。
少女がスタンドの前に戻って手を振ると、更に歓声が巻き起こった。彼女の圧巻の走りに、誰もが興奮を抑えられない。
その威容は正に、“皇帝”の名に相応しいものだった。
東京都府中市にある、府中トレセン学園。
都内の学校の中でも随一の広さを誇る敷地の一角に設置された、トレーニングコースで、選抜レースが開催されていた。
選抜レースとは、ウマ娘たちが公式戦と同様にレースを行い、その走りを見てトレーナーたちがスカウトを行う大事な場だ。
トレセン学園の運営元であるURAが開催する、中央のウマ娘レースにデビューするには、トレーナーとウマ娘の契約が絶対となる。
新たな才能の原石を見つけたいトレーナーたちと、デビューして勝利を勝ち取りたいウマ娘たちの双方にとって、この選抜レースは今後の運命をも左右する重要な行事だ。
今日は、年に4回ほど開催される選抜レースの一つだったのだが、凄まじい盛り上がりを見せていた。
「あの子が、シンボリルドルフ……」
コース正面に設置されたスタンドの一角で、レースを観戦していた青年が呟いた。
髪を短く切り、黒のスーツに身を包んだ彼の名は、
学園には研修という形で今日から出向き、理事長室で秋川やよい理事長から直々に説明や各種手続きを終えた後は、敷地内を巡っているところだった。
「普段の選抜レースも盛況ですが、今回は特にすごいですね」
その隣で、緑色の制服に身を包み、頭に同じ色の帽子を被った女性が微笑む。彼女の名前は、駿川たづな。この学園の理事長秘書を務める女性で、今は理事長の指示もあり、武に学園の案内をしているところだ。
「彼女の周りにいるのはウマ娘と……、トレーナーの人たち?」
「はい。白井さんもご存じのとおり、今日は大事な選抜レースの日ですから。この機会に、有力なウマ娘と契約したい、と考えるトレーナーさんは少なくありません」
ルドルフの周りに集まってきた取り巻きは誰も彼もが、興奮冷めやらぬといった表情をしていた。
同じウマ娘として憧れを抱く者、是が非でも彼女と契約したいと必死になっているトレーナーたち。そんな彼らを前に、威風堂々とした態度で応対するルドルフ。
「確かにあの子は、他の子たちと比べても纏ってる雰囲気が違いますね」
「皇帝、と呼ばれているくらいですから。もしかしたら、白井さんが配属されるチームの子と対決することもあるかもしれませんね」
「そう、ですね」
たづなの言葉に返事をしつつ、武はどうしてか、ルドルフから視線を逸らすことが出来なかったのだった。
学園の説明やら案内やらを終えて、学園から徒歩15分程度のアパートに帰りついた頃には、もうすっかり日が沈んでいた。
途中のコンビニで買った弁当を食べ、風呂も済ませた武は、ベッドに倒れこんだ。今日は一日中あちこち歩き回ったせいか、身体は随分と疲れ切っている。
それで武の意識が沈んでいくということはなく、寧ろはっきりと目が覚めていた。
「シンボリルドルフ……」
昼間、学園で目にした少女の名前を口にする。
威風堂々、泰然自若、彼女が周囲の人たちと話す姿を思い出すと、自然とそんな単語が浮かんできた。
それがレースになると、まるで疾風の如く他者を圧倒する走りで、ターフの上を駆け抜けていく。特に最後のカーブを超え、集団から抜け出して直線で一気に後続を引き離していく姿が、目に焼き付いていた。
「ん……」
不意に、手に持っていたスマホが振動し、通知を確かめる。
画面には、武の見知った名前からのSNSメッセージの通知が表示されていた。
スリープモードを解除し、アプリを起動して内容を確かめる。発信者の名前は――。
「……レイグランド」
幼馴染で、高校時代にはサブトレーナーとして共に地方を戦ったウマ娘だった。
サブトレーナーとは言っても高校生なので資格があるはずもなく、あくまでも資格を持った大人のトレーナーの補助として、レイグランドのチームに所属していた。幼馴染だからという観点で、トレーナーから彼女を任されていたため、実質的な相棒ではあったが。
『久しぶり。元気してる?』
『一年ぶりだな。俺は元気』
『そ』
『どうしたんだ、レイ』
昔からの彼女の愛称を使いつつ、武は尋ねる。
大学生になってから一年ぐらいの間、諸々の事情で連絡を取っていなかった相手からの、突然のメッセージだ。武としては、何か要件があるのかと思って聞かずにはいられなかった。
『今日、行ってきたの?』
『行ったって、どこに』
『中央のトレセン学園』
『なんで知ってんのさ』
『あんたのお母さんから聞いた』
『もしかして、ウチの店行ったのか』
『そりゃ行くでしょ、ウマ娘なんだから』
そういうことだったのか、と武は合点する。
武の実家は武の母を店長として、主にウマ娘用のスポーツアイテムを取り扱う専門店を営んでいる。大手と比べると流石に規模は小さいが、それでも地元のウマ娘たちには人気の店だ。
レイも高校時代、よく店を利用する常連の一人だった。今は一戦を退いているはずだったが、店に行った、ということはまだレースに出ることを考えているのかもしれないな、と武は頭の隅で考える。
『無理すんなよ』
『私はいいのよ。武の方が心配だわ。学生なのに、トレーナーみたいなこともするんでしょ』
『大丈夫。一緒にレイとやってたこととそんな変わらないだろうし』
武が通っている大学のトレーナー養成コースは、読んで字の如く未来のトレーナーを育てるためのものだ。
今回の研修も大学の教育プログラムの一つであり、既に高校などで実績を積んだことのある学生は、実際に現場に出てトレーナーの下につき、より実践的な形で学ぶことが出来る。
武はそこで、将来中央でトレーナーとして働くために大学へ入学した。
『変わらないから心配なのよ。勉強も私のトレーニングメニュー組むのも頑張りすぎて、倒れたの忘れてないわよ』
「よく覚えてるな、そんなの……」
誰もいない部屋で、武は一人呟く。
レイの言うとおり武は高校時代、地方の重賞連覇がかかっていたレイのトレーニングメニューを、普段の勉強と並行しながら必死でやっていた時期があった。結果、無理がたたって熱を出し、学校を休む羽目になった。
頑張りすぎだとレイに泣きながら怒られたのは、ちょっとしたトラウマだ。しかしそれは心配の裏返しだというのも分かっていたので、同じ轍は踏むまい、と武に決心させる出来事でもあった。
『ありがとう、レイ』
『別に。私がなんであんたのことが心配か、分かってるんでしょ』
『……そりゃもちろん』
『後ろめたさは感じなくていいわ。
レイの“あれ”という言葉に、胸が締め付けられる。それでも、マイナスな言葉はかえってレイに対して失礼だろうと、武はぐっと動きかけた指を止めた。
『楽しかったわ、あんたとの三年間』
『俺も楽しかった。レイには感謝してもしきれない』
『なら、そっちでしっかりやんなさいよ。武は、“最強のウマ娘を育てる”のが夢なんでしょ』
『ああ』
『私も、あんたに恥じないウマ娘になるわ。だから、負けるんじゃないわよ』
『勿論、生半可な気持ちでここに来たわけじゃないから。レイも頑張れよ』
『ありがと。それじゃ、私はもう寝るわ』
『ああ。お休み』
『お休みなさい。それと』
メッセージのやり取りが終わろうとしていたとき、レイが文をそこで一旦区切った。数秒の間があって、次のメッセージが届く。
『私はまだ、諦めてないからね。それじゃ』
直後に手を振るクマのスタンプが来て、そこでレイとのやり取りは終わった。
「諦めてない……、か」
武は、レイのメッセージの意味を正確に理解していた。
最後に会ったとき、武はレイから宣言にも似た言葉を受け取っていた。さっきのメッセージも、そのことを言っているのだろう。
「諦めの悪いところは、あいつの美点だな」
久しぶりの幼馴染とのやり取りに微笑みつつ、武はそのまま床に就くことにしたのだった。
「確認ッ! シンボリルドルフの担当トレーナーは決まっているか、という話だったな?」
翌日武は、研修の合間を縫って秋川理事長を訪ねていた。
理事長室の最奥にどっしりと置かれた執務机の前で、頭上に猫を乗せた栗毛の少女が扇子を手に打ち付ける。彼女こそがトレセン学園の理事長、秋川やよいだ。
背が小さく、必然的に武は見下ろす形になるが、聞けば年齢は少なくとも武やたづなよりも若いか、同じくらいだそうだ。どうしてそんな子が、とも思うがその辺りは色々と込み入った事情があるらしいので、あえて踏み込んで聞くことはしていない。
「はい。昨日の様子だと、決まっててもおかしくないくらいの勢いでしたが……」
「気になる、というのだな?」
「はい」
一晩が経ち、学園で研修を受けている間も、頭の片隅にはあの少女の走りがこびり付いていた。
加速時のあのスライドの大きさから来る、風のような走り。重心はぶれることなく、ゴールに向かって地を蹴る姿。あそこまでバランスの良い走りを、武は見たことがなかった。
「結論ッ。彼女のトレーナーはまだ決まっていない! しかし、トレーナーたちに課題を出したと聞いている」
「課題……。シンボリルドルフが、ですか?」
「肯定ッ! トレーナー契約を結びたいのであれば、『何故私の下へ来たのかを聞かせてほしい』と言ったそうだ。期限は一週間、と聞いている」
トレーナーとウマ娘の契約は通常、トレーナーからスカウトするという形を取っているが、稀に逆スカウトというのも存在することは武も聞いていた。しかし、トレーナーたちを試すというのは、そのまま受け取るのならおかしな行動と受け取れる。
「それだけ必死、っていうことか」
生徒たちに慕われ、生徒会長まで務めるルドルフなら、自分の行動が見方によっては傲慢とも受け取られてしまうことは分かるはずだろう。それでもトレーナーたちを試した、ということはデビューにかける想いが相当強いのかもしれない。
「質問ッ! 君は、シンボリルドルフと契約が結びたいのか?」
「契約……」
秋川理事長に問われた言葉を、反芻する。
武が理事長室に来てルドルフのことを尋ねたのも、ただ気になって仕方がなかったからだった。少なくとも、理事長室に来た時点ではそうだった。
しかし、契約という言葉を聞いたからだろうか。武の内側でもやもやとしていたものが、形のあるものに変わっていく。
本当は、不相応なのかもしれない。トレーナーの資格もない、学生でしかない身分の自分に出来るはずがない、と考えていた。高校時代に、トレーナーまがいのことをさせてもらっただけの人間に過ぎない。ルールとして見ても、まともな人間ならまずあり得ない、と切って捨てるだろう。
――それでも、自分の信じる道のために手段を選ばなかった少女がいた。
ルドルフが一歩を踏み出したのなら、一瞬でも彼女のトレーナーになってみたいと考えてしまったのなら。
諦めるのは簡単だ。でもそれでは、レイに対しても顔向けが出来ない。
答えは一つだった。
「――契約したいです。トレーナーの資格があるとか無いとか、関係ない。俺は、あの子のトレーナーになりたいです」
子どもじみた、無茶苦茶な我儘だというのは武自身、誰よりも理解しているつもりだった。それでも“やりたい”と感じたのなら少なくとも、言葉にしておきたいと思った。それこそ、レイグランドのトレーナーだって、元は武自身がやりたいと言い出したからこそ実現したことだった。
武にまっすぐと眼差しを向けられた秋川理事長は、目を見開く。
「不可、と言いたいところではあるが……。共感ッ! 君の想い、しかと受け取った!」
扇子を開いてパタパタと仰ぎ、にっこりと秋川理事長が微笑む。半分ダメ元だっただけに、武は一瞬、反応が遅れた。
「あの、いいんですか? 子どもの我儘みたいなものですけど……」
「肯定ッ! 私は、未来ある若者の応援をしたい! ――たづな!」
「は、はいっ!」
秋川理事長に呼ばれ、隣に控えていたたづなが慌てて返事を返した。
「至急! URA本部との日程調整を頼む!」
「分かりました! すぐに手配しますね!」
指示を受けて、たづなが駆け足で理事長室を辞していった。
慌ただしくさるたづなを見送ると、武は秋川理事長へと向き直る。
「理由とか聞かなくていいんですか?」
「不要ッ! 君の熱意は、目を見て十分に伝わった!」
「……ありがとう、ございます」
「うむ」
にっこりと微笑む秋川理事長に、武は頭を下げる。彼女が万が一困った事態に直面したとき、必ず助けになろうと心に誓うのだった。
武は秋川理事長と話し合った結果、他のトレーナーたちはプレゼン資料を作っている、という話を聞き、武も取り掛かってみることにした。
その間に秋川理事長は、本部と掛け合ってくれるとのことだった。学園にやってきて早々、便宜を図ってもらって頭が下がる思いだ。
そして一週間が経ち、その日はついにやってきた。
先日選抜レースが行われたトレーニングコースの一角で、ルドルフを囲うようにトレーナーが二人並んでいるのが見えた。顔ぶれは若い男の人と、ベテランらしき女の人と一人ずつ。
武はそこに、一週間かけて作った資料が保存されたタブレットを片手に、歩いていった。
「すみません。飛び入り、構いませんか」
第一声を発すると、背を向けて立っていたトレーナー二人が振り向き、その向こうにいたルドルフと視線が合った。
トレーナー二人の刺すような視線に耐えつつ、武は彼らの隣に並ぶ。
「君は……。選抜レースでは見なかった顔だが」
「白井武といいます。この学園には大学のトレーナー研修で来ています」
「研修というと……。なるほど、府中教育大学の学生、ということか」
関心したように頷くルドルフを前に、武は背筋を正す。
隣のトレーナーたちからの視線の圧だけでなく、ルドルフの佇まいを間近で見ると、自然とそんな姿勢を取っていた。これが皇帝のカリスマか、と心の内で思う。
「学生……? けどそのタブレット……。まさか、あなたも彼女にプレゼンを?」
武の手元を目ざとく見ていた女性のベテラントレーナーが、意外そうに目を見開いていた。続けて、若い男性トレーナーが呆れたような声を出す。
「学生ということは君、トレーナー資格を持っていないんだろう? 仮にプレゼンが良かったとして、君にはそもそも彼女を担当する権利がない。帰った方が身のためだ」
遠回しに邪魔者扱いされたことに、武はそれが普通の反応だよな、と受け流す。
「資格については理事長が今、本部と交渉してくれています」
「り、理事長が!?」
女性トレーナーが驚きの声を上げる。男性トレーナーの方も、信じられないとでも言いたげな表情をしていた。
「――ふむ。理事長を動かすとは……。彼女が動くとなればあるいは……」
ルドルフは顎に手を当て、一人でなにやら考え込んでいた。ややあって一つ頷くと、改めて武と視線を合わせる。
「白井武、と言ったか。二人の後で良ければ、君の話も聞かせてはくれないだろうか」
「分かりました」
「もう知っているだろうが、私の名前はシンボリルドルフ。この学園の生徒会長を務めている。今回ここに集まっている目的は、把握しているのか?」
「『何故、私の下に来たのかを聞かせてほしい』。そう、伺っています」
「結構。それでは早速、一人ずつ話を聞いていくことにしようか」
その一言により、ルドルフのトレーナー候補たちによるプレゼンが始まった。
武に先んじて、二人のトレーナーがそれぞれプレゼン資料を持ちだして、ルドルフに対して彼女の課題への回答と、その実現のためのプランを提示していった。
男性トレーナーの方は、ルドルフをより強いウマ娘にするためだと語り、そのために予め用意した分厚い計画書を手渡していた。
女性トレーナーは、ルドルフへの期待を一緒に背負う覚悟を告げ、勝利するために必要なことをまとめた資料を提示していた。
やはりというか二人とも、プロとして何年もウマ娘の世界でやってきただけあって、語る言葉も提示した資料も説得力のあるものばかりだった。
「では、最後に白井君。君が何故ここに来たのかを、聞かせてくれるかな?」
ルドルフの問いが、武に向けられる。
タブレットの画面を点け、自分が作ってきた資料を見下ろす。そこには、自分なりにルドルフのデータから作った育成計画書が表示されていた。
しかしこの一週間、資料を作りながら心の中に引っ掛かるものがあった。
慣れないながらも作ってきた資料は、プロのトレーナーが作るものと比べて数段劣っているのは火を見るよりも明らかだ。少なくとも、同じ土俵で戦っていても勝ち目は全くと言っていいほどない。
それでも、何故武はルドルフの下にやってきたのか。その原動力は、何だったのか。
「――シンボリルドルフさん。あなたの夢を、聞かせてもらえませんか」
「私の、夢……?」
「質問を質問で返すようで申し訳ないです。でも、大事なことなので」
武の脳裏には、一週間前の記憶が浮かんでいた。
選抜レースを1着で勝ったあの日、ウマ娘たちの声援を受けていたルドルフは、笑顔を浮かべていた。
レースのときとも、トレーナーたちと話しているときとも違う、柔らかい笑顔だった。
「――いいだろう。私の夢は、全てのウマ娘が幸福に暮らせる時代を創ることだ」
そして、今この瞬間――。
自らの夢を語るルドルフの表情は、あの日と同じように温かみのある笑みだった。それを見ただけで、武は自分が何を言うべきか、決められた。
「なら俺は、あなたの夢を叶えたい。夢の先で、あなたの笑顔が見たい。――俺の夢の原点も、そこにあったから」
「君の、夢か」
「俺の子どものころからの夢は、“最強のウマ娘”を育てること。この一週間、なんで俺はその夢を目指したんだろうって考えました。そしたら、思い出したんです。子どものころに見た有マ記念で1着を取ったウマ娘が、すごく幸せそうな笑顔で笑っていたのを」
全ては、そこから始まった。
物心ついて間もないころ、両親に連れられて見に行った有マ記念。歴史に残る名勝負だったそのレースで1着を取ったウマ娘を見て、武は両親に言ったのを覚えている。
『いつかトレーナーになって、ウマ娘をあんな風に笑わせたい』
本当に、子どもらしい漠然とした夢だった。けれど、いつしか「最強のウマ娘」を育てることを目標にしていた。そうすれば、ウマ娘を笑顔に出来ると信じていたから。
「レースで1着になるのも、最強のウマ娘を育てることも、結局のところ手段でしかない。でもだからこそ、強さを求めた先に、皆に見せられる光景があると俺は思います」
ずっと忘れていた夢。いつの間にかすり替わっていた目標。この一週間で、武は忘れてしまっていたものを思い出すことが出来た。多分、久しぶりにレイとメッセージのやり取りをして、過去を振り返る時間があったからだろう。
「――なるほど。君の最初の夢はつまり……」
「ウマ娘を笑顔にしたい。それはあなたの夢と、決してかけ離れているものじゃないと思います。そしてその対象は、あなたも例外じゃない」
ルドルフは目を閉じ、黙して考える素振りを見せる。
「――――ありがとう。答えは決まったよ」
しばらく間が空いて、目を開いたルドルフが再び口を開いた。
「二人とも、素晴らしいプレゼンだった。あなたたちの教えならば、きっと違う景色が見えていただろう。折角用意してもらったのに、申し訳ない」
「……そうか、残念だ」
「頼みましたよ、白井さん」
ルドルフから丁重に返された資料を受け取りつつ、二人のトレーナーはそれぞれ言葉を残しつつ、去っていく。
彼らの背中を見ながら武は、ルドルフに尋ねた。
「本当に、いいんですか。プロでもなんでもない俺と一緒で」
「構わないさ。君は既に、秋川理事長を動かしている。それに、私と同じ夢を見たいと言ってくれた。何故かな、不思議と君の言葉を聞いただけで私も一緒に歩んでみたい、と思ってしまったよ」
「――それなら頑張りましょう、二人で」
「ああ。よろしく頼むよ、トレーナー君」
武とルドルフは互いに向かい合い、力強く握手を交わす。
例えこの先どんな困難があったとしても、彼女と一緒ならきっと乗り越えられる。ルドルフの紫色の瞳が期待に揺れているのを見ながら、武はそう思ったのだった。
ルドルフとトレーナー契約を交わすことになった後、武は彼女と共に秋川理事長に報告するため、理事長室へ向かった。
結果から言えば交渉は成功し、URA本部から正式にウマ娘との契約を許可する通達があったようだ。ただ、トレーナー試験を合格しているわけではないのでURAから仮免許が発行される運びとなった。
正規のトレーナーになるには、3年後までに試験に合格するか、GⅠレース優勝などの実績を上げることが求められ、もし達成出来なかった場合仮免許は停止される、という条件が付け加えられた。
その後はルドルフと別れ、新しく宛がわれたトレーナー室や部室の整理整頓や書類作成など、色々と手続きに追われ、やることが全て終わったときには日がとっくに沈み、夜の7時を回っていた。
「トレーナー君。今、帰るところかい?」
自宅へ帰ろうと学園の校門を出ようとしたところで、背後から声をかけられ振り向くと、制服姿で学生カバンを肩から提げたルドルフが立っていた。
「色々手続きがありまして。そちらも今帰りですか? 随分遅い時間ですが」
「私もあの後、生徒会の仕事を片付けていてね。気が付けば、こんな時間になってしまっていたよ」
そう言って、ルドルフは苦笑する。
彼女は日々のトレーニングや勉学だけでなく、生徒会長としてかなりの量の仕事をしているらしいと噂で聞いたことはある。こんな時間に下校しようとしていた辺り、あの噂は本当なのだろう。
二人で歩き出しつつ、武はルドルフに声をかけた。
「お疲れさまです。あまり、無理はしないでくださいね」
「君もな、トレーナー君。――ところで」
「何でしょう?」
「その、敬語は出来れば止してもらえないだろうか。年長者であり、これから苦楽を共にする君に、そんな言葉遣いをされてしまっては、こう、落ち着かないんだ」
武としては“皇帝”と呼ばれているルドルフに対して、一定の敬意を表すためのものだったが、違和感があったようだ。
ルドルフに笑っていてほしいと思っても、それは決して、困らせたいというわけではない。武はすぐに、言葉遣いを変えることにした。
「分かった。こんな感じでいいか? ルドルフ」
「配慮、感謝する。――うん。こちらの方が、私としても話しやすい」
「なら良かった」
ホッとしたように笑うルドルフに対して、武も笑顔で応じる。武もこの言葉遣いの方が、肩ひじ張らずルドルフと話せる気がした。
「ひとまず無事に、契約が正式に成立したようで、ホッとしているよ」
「俺もだよ。まだ仮免許だけど、ルドルフのトレーナーとして頑張るよ」
「ああ、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしく」
正規の免許ではないため油断は出来ないが、これからルドルフのトレーナーとしてやっていくための道筋は付けられた。学ばなければならないことは多いだろうが、ルドルフとなら大丈夫だろうという感覚が不思議とあった。直感みたいなもの、と言ってもいいだろう。
「それにしても、理事長室で君の経歴を聞いて驚いたよ。まさか、かつて地方で活躍した“冠位の雷光”……、彼女のトレーナーだったとは」
「非正規の、だけど。少なくとも名目上は先生がトレーナーだったし」
「しかし実際には、君が彼女のパートナーとして地方レースの重賞を次々と制覇していた……。なるほど、上がすぐに動いたのも納得だよ」
“冠位の雷光”。それは、武の幼馴染にして元相棒、レイグランドの異名だ。「冠位」は名前から、「雷光」はまるで雷のようにターフを駆ける様から付けられた。
本人は「中二病みたいでハズイ」と嫌がっていたが、今ではすっかり地方レースファンの間で定着してしまっていた。
そんなレイは二年前の年末のレースで一線を退き、諸々の事情もあって武とのコンビも解消、となっている。
「結果的に良い方向に動いたってだけだよ」
少なくとも、高校時代に積み上げてきた実績は、武に味方してくれた。
世間では武の担当教師が、レイのトレーナーであり実績も彼の物、ということになっている。武の存在は、あくまでも学習目的の補助要員、として新聞に報じられたことがある程度だった。
しかし流石はURA本部というべきか、大学生になったころには既に把握していたらしく、研修として学園に来られたのも、実績を評価されてのことだった。
「浮かない顔をしているな」
ルドルフに指摘されて武はようやく、自分の表情に気が付く。いつの間にか、表情に出てしまっていたらしい。
「覚悟はとっくに出来てる。ウマ娘を笑顔にしたいって夢のために、まずは君を支えようって思ってる。ただまあ、あいつのことを思い出すと心が痛むっていうか」
「……それは、私が聞いてもいいことなのか?」
「ルドルフが聞きたいっていうなら、話すよ。これから長い付き合いになるわけだし」
言葉を区切って、ルドルフの返答を待つ。
「なら、聞かせてもらえないだろうか。愁苦辛勤――君が何故、かつての相棒のことで心を痛めているのかを」
真摯な視線を向けてくるルドルフを見て、武は頷いた。
「告白、されたんだ。あいつに」
「――それは、また」
武の突然の言葉に、ルドルフは目を白黒させているようだった。流石に一言だけだと伝わらないのは、重々承知の上で武は続ける。
「一昨年の年末にあったレースでレイは優勝して、控室に戻ってきたときに好きだって、言われたんだ。けど俺は、自分のエゴでそれを断った」
あの時のレイの表情は、一年半近く経った今も鮮明に思い出される。黒色の水晶のような瞳を潤ませて、悲しみに暮れる彼女の顔は、忘れたくても忘れられなかった。
「君がそのとき抱えていたエゴとは、何だ?」
「“強いウマ娘”を育てる……。昼間にもルドルフに言った夢だけど。当時はそのことばかり、考えてた。ちょうど、将来が有望そうな子を他に見つけた時期だったから、余計に固執してた。『レイは“最強”になった。じゃあ次は、あの子を育てたい。だから中央に行ってトレーナーになろう』、なんてことを考えてたよ」
「君は、彼女のことを……」
「好きだったよ、初恋相手だったから。でも、本当に意味であいつの気持ちを考えられてなかった。俺とこの先も、ずっと一緒に走りたいって言ってくれた。引退してからもずっと。けど俺は、『それは無理だ』って無神経にも言ってしまって」
――レイを、酷く傷つけた。
小学校低学年のころからの付き合いで、ずっと片思いしていた相手から告白されたこと自体は、武も嬉しかった。両想いだったんだ、と思っていた。
けれど同時に、中央に行ってトレーナーになり、レイ以外の“最強のウマ娘”を育てたいという思いもあった。常日頃自分の夢を語っていた相手であるレイなら、きっと分かってくれる。
勘違いも甚だしかった。
帰り道を歩きながら、ルドルフは肯定も否定もせず、静かに武の話を聞いていた。だからだろうか、武はつい、自分の後悔を洗いざらい吐き出していた。
「本当に最近まで、自分のバカさ加減に気付いてなかったよ。レイの気持ちに応えられなかった分、俺は“最強のウマ娘”を育て上げていかなくちゃなんて思ってた」
「それに気付いたきっかけは……。そうか、私の問いかけか」
「うん。ルドルフの問いかけを理事長伝いに聞いて、プレゼン資料を作りながら考えてた。何で俺は、トレーナーになろうと思ったのか。何で、ルドルフを担当したいって思ったのか。そしたら案外、答えなんて簡単だった。小さいころに、とっくに見つけてたものだったから」
あるいはもっと早くに気付いていたら、レイの気持ちを傷つけず、中央を目指すにしてももっとマシな言い方があったのかもしれない。
しかしそれはもう、取り返しのつかない過去の話だ。変えることは出来ない。せめて、同じ轍を踏まないように明日を生きていくしかない。
「――それを、この短期間で見つけるとは。流石だな」
「褒められることではないと思うよ」
「それでも、だよ。やり方を間違えてしまったとしても、君は今、ここに立っている。その上で、過去とも向き合った。それは尊ぶべきことだと、私は思う」
思っていたよりも肯定的な言葉を向けられて、武は頬をかく。何故だか、実績を褒められることよりも嬉しいと感じていた。
「改めて聞くけど、本当に俺でいいんだよな?」
「心配無用。君となら、私も共に成長していけると感じたよ」
まるで確信したかのように、ルドルフは笑顔を浮かべる。ひとまずは受け入れてもらえたらしいと分かって、武はほっと一息吐いた。
「悪い、俺ばっかり話して」
「気にするな。その代わり、いつか私の身の上話でもさせてもらおうか」
「ルドルフの話か。さぞ可愛い子ども時代だったんだろうな」
「揶揄わないでくれ。まだまだ道理をしらない頃の話だからね」
ちょっとした冗談を言い合い、武とルドルフは笑い合う。
真面目で気高く、そして優しい目の前の少女のことを見ながら、何がなんでも彼女のことを支えようと、武は改めて心に誓うのだった。
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第2話 初戦、皇帝は駆ける
新潟レース場で開催されるジュニア級メイクデビューの今日、天候は幸いにも晴れとなっていた。
「いよいよデビュー戦だな、ルドルフ」
地下バ道に向かいながら、武は隣を歩くルドルフに視線をやる。
ルドルフはトップスが白、ボトムスは緑の体操着姿で、「6」の数字が大きく書かれたゼッケンを身に着けていた。普通のウマ娘なら初々しさを感じるところだが、彼女の場合は堂々とした立ち振る舞いもあってか、見事に着こなしていた。
「そうだな、トレーナー君」
「緊張してるか?」
「愚問だな。私は必ず勝ってみせるよ。そのために私たちは、今日まで鍛錬を重ねてきたのだろう?」
自信に満ちた目で、ルドルフは武と視線を合わせる。
彼女の言うとおり、武とルドルフはデビュー戦に向けて、調整を重ねてきた。
今回のレースは、芝の2000mで行われる。これは本来、デビュー初戦で走るには少々長い距離だ。大抵のウマ娘は、1000mかそれよりも少し長い程度の距離を走る。
しかしルドルフは己が夢のため、まずはクラシック三冠を手にすることを目標としている。一冠目となる皐月賞は今日と同様、2000mのコースを走ることになる。そのためにもまずは、デビュー戦で慣らしておきたいというのが、ルドルフの希望だった。
「結構きつめにトレーニングメニュー組んだつもりだけど、全部やり切れるとは正直思ってなかった」
武はルドルフの意向をくんで、通常ならデビュー前のウマ娘ではしないような、ハードなトレーニングを組み込んでいた。内容はバーベルやウェイトトレーニングをしたり、山を走ったりといった体づくりや、学園のコースを使った実践形式の練習など、様々だった。
元々基礎的な体力はついていたからか、彼女はそれらのトレーニングを難なくこなし、更には生徒会の仕事や普段の勉強までこなしていたというから驚きだ。
「クラシックを走るのに、避けては通れないからね。少しずつ私が走れる距離を伸ばしていく調整をしてくれたおかげで、今はすこぶる調子が良い」
「それなら良いんだ。頑張ってこいよ」
かつてレイに怒られたことが頭を過るが、喉元まで出かかった言葉を抑え、武はルドルフの背中を押すことにする。
大事なレース前にあれこれ言って調子を崩してしまうのだけは、避けたいことだった。
「ありがとう。――では行ってくるよ」
意気軒昂といった調子で返し、ルドルフは地下バ道へと入っていく。彼女の背中を見送ると武も踵を返し、観客席へと向かったのだった。
『最後に本バ場へ入場したのは、6番、シンボリルドルフ! 圧倒的1番人気です!』
武が観客席に入ったのとほぼ同時に、女性のアナウンスが会場に響いた。
人気投票の順位を示すかのように観客たちの関心は、先日の選抜レースで圧倒的な走りを見せたルドルフに集まっていた。
ルドルフが観客席の前まで進み出て手を振ると、歓声や拍手が沸き起こる。それほどまでに、彼女への注目度は高かった。ルドルフも特に緊張した様子もなく、寧ろ余裕そうな表情で観客たちに手を振り返していた。
先にゲートの周辺で待機している残り8人のウマ娘たちは、そんなルドルフのことをある者は羨ましそうに、またある者は嫉妬の表情で見つめている。
「これだけ場を支配してるとなると、他の子たちからのマークもつくだろうけど……」
登場しただけで、あっという間に空気を自分の物にしてしまうルドルフのカリスマ性は目を見張るものがあった。しかしそれは逆に、他のウマ娘からのターゲットにされやすいということにもなりかねない。
それでもルドルフはしっかりとトレーニングを積んできたし、彼女の地頭の良さからすると、どういうレース展開になりうるかは想像がつくだろう。
「――信じてるぞ、ルドルフ。君なら必ず勝てる」
デビュー戦とはいえ、負けてしまう可能性はゼロではない。それでもルドルフの努力をしっている武は、彼女の勝利を疑っていなかった。
『各ウマ娘、ゲートに入り体勢整い――今、スタートしました!!』
ゲートが開いた瞬間、9人のウマ娘たちが一斉に飛び出した。
ルドルフはお手本のような綺麗なスタートを決め、最初の直線を4番手の位置につけて前を伺う。
「出だしは上々、流石ルドルフ」
先頭に立った黒い短髪のウマ娘が大逃げの形を取り、2番手との差は4バ身以上の開きがある。自分がレース展開を構築して、後続を疲弊させようという魂胆か。
先頭のウマ娘も、序盤から中盤にかけてスタミナを使いすぎて、終盤でバテてしまい順位を落としかねない博打だ。しかもデビュー戦でその戦略に打って出るのは、明らかにルドルフを意識してのことだろう。
2番手、3番手のウマ娘は何とか先頭に食らいつこうとしつつ、すぐ後ろにいるルドルフを意識したコース取りをしていた。
『各ウマ娘、第1コーナーから第2コーナーへと進む! 早いレース展開となっていますが、後続の子たちはついて来られるのか!?』
出だしからハイペースになったこのレース、4番手以降のウマ娘たちは無理にルドルフを囲おうとせず、足を溜めながらマークする方向に切り替えていた。
前方では変わらず、3人のウマ娘たちが、ルドルフに越されまいと必死の形相で走っているのが会場内の中継モニターに映し出されていた。
言いようのない緊張感が観客席を支配する中、武も生唾を飲み込む。
「――焦るなよ、ルドルフ」
観客席にいる武の心配とは裏腹に、ルドルフは落ち着いていた。
「心配無用だ、トレーナー君」
地下バ道に向かう前、彼は明らかにルドルフ以上に緊張していた。
我儘も同然な頼みを、嫌な顔一つせず受け入れてくれたことは、ルドルフにとってありがたいことだった。
体調面での心配もあったのだろう。言葉にはしていなかったが、表情には分かりやすいくらいに現れていた。
「それでも彼は、私の勝利を信じてくれている」
あれだけ緊張していたということは、勝ってほしいという思いの裏返しだ。それは何も、信頼していないということではない。むしろ逆だろう。
武の期待と信頼は、まだそれほど長い付き合いではないルドルフにも十分伝わってきた。
「ならば――」
彼が信じてくれた自分を信じるだけだと、ルドルフは前を見据え続ける。
ルドルフの遥か前方、序盤から大逃げに打って出た1番手のウマ娘は、第3コーナーの手前から明らかに速度が落ちて、後続との差が縮まってきていた。
対して後ろの方からは、追い上げの準備にかかろうというウマ娘たちの気迫がびりびりと伝わってくる。
「これがトゥインクルシリーズ……。やはり、観客席から見ているのと実際に走るのとでは全く違うな」
学園内での模擬戦や選抜レースは走ったことはあれど、ルドルフにとって公式戦はこれが初めてだ。
芝の匂い、前後を走るウマ娘たちの息遣い、そして全身で感じる風、スタンドの方から聞こえてくる観客たちの歓声……。多くの人々の想いが注がれているのを、肌で感じ取っていた。
しかしルドルフの心の内では、気圧されるどころかむしろ高揚感が湧き上がっていた。
これが本当のレース。そして、自分の夢へ近づくための大きな一歩だと思うと、自然と口角が吊り上がる。
「このレース、確実に勝ってみせよう――!」
『各ウマ娘、第3コーナーから第4コーナーへ向かう! 各ウマ娘のペースも上がってきた!』
レースは佳境へと向かい、観客席の盛り上がりが徐々に最高潮へと向かう。
後方からの追い上げに負けるまいと、先頭集団のウマ娘たちが残された力を振り絞る。
そして、第4コーナーから最後の直線へ立ち上がる直前――レースは大きく動いた。
「――来たっ!」
思わず拳を握り、声を上げた武の視線の先には、先頭集団をかわし颯爽と前を行くルドルフの姿があった。
腕を振りターフを踏みしめ、ひたすらに前を進んでいく。
『先頭はシンボリルドルフ!! ルドルフ先頭!! 後続たちを引き離し、その差は1バ身、2バ身――まだ広がる!!』
興奮気味のアナウンスの声と観客たちの歓声を浴びて、ルドルフが力強くスパートをかけ、後続たちをどんどん引き離していく。
最後のコーナーを抜ける直前から仕掛けたルドルフに、他のウマ娘たちは全く対応出来てなかったようだった。
それもそのはず、ルドルフの最大の武器はラストスパートの伸びにあった。
例えブロックされていてもねじ伏せる、パワフルな走りと驚異的なスピードは、さながら風のよう。
武が初めてルドルフを見たときも、彼女はそんな走りをしていた。
だからこそ、ラストスパートまで耐えるためのスタミナと、最後に必要な瞬発力を重視して鍛えてきた。
そしてその成果は、想像以上の形で返ってきた。
『後続たちも追いすがるが、依然として距離は開いたまま! シンボリルドルフが最後の直線を独走し――今、1着でゴール!! シンボリルドルフ! 5バ身差でデビュー戦の勝利を飾りました!!』
文字通り後続たちを置き去りにして、ルドルフがトップスピードのままゴール板の前を駆け抜けた。
「おめでとう、ルドルフ!」
ウィナーズサークルでルドルフと合流するなり武が声をかけると、ルドルフが余裕の笑みで応じる。
「ありがとう、トレーナー君。見てくれていたか」
「ああ、最高の走りだった。流石だ」
「そこまで褒めてくれるとは、嬉しいよ。それに――」
ルドルフが視線を向けた先には、観客席から声援を送る人々の姿があった。皆、武たち――正確には、ルドルフに希望と期待の籠った視線を向けていた。
「今この瞬間、私の走りに夢を見てくれている者たちがいる。ふふっ、責任重大だな」
「そうだな。俺も、君のことをここからもっと、支え続けるよ。一緒に夢に向かって走るって決めたから」
これからルドルフはレースを走る度、多くの人の関心を寄せ付ける、すごいウマ娘になれるだけのポテンシャルを持っている。
武は選抜レースやデビューに向けたトレーニングで、その片鱗を見てきた。
最終コーナーからの走りは勿論、明晰な頭脳、カリスマでもって多くの学園の生徒たちから慕われる様子、勝利のために努力を積み重ねる忍耐――。
必ずしも努力や人気が結果に結びつくわけではないのが、ウマ娘レースの厳しいところだ。けれど、ルドルフならきっとやってくれる。そんな信頼感があった。
そしてそれは、ルドルフのことを直接は知らない観客たちも同じだろう。だからこそ、彼らの期待が重荷になってしまわないように、支え続ける。
――いや、もっと支えたいと思った。トレーナーとしてだけでなく、一人の人間として。
「――ふふっ、頼もしい限りだよ」
そんな武の決意が伝わったのか、ルドルフは心底嬉しそうに微笑んでいた。
ウィナーズサークルでの記者たちからの取材を受けた後、武とルドルフは控室へと戻っていた。
「早速着替えてみたのだが、どうだろうか」
レースの後に行われるウイニングライブの準備のため、着替えたルドルフが、おかしなところはないかと武に衣装姿を見せる。
白と赤と青をメインカラーとした衣装は、ステージで踊ることを前提とした動きやすい構造になっていた。その上でデザインにもこだわっているようで、どんなウマ娘が身に着けても可愛らしく見えるようになっていた。
デザインのことを十分承知した上で、改めてルドルフの衣装姿をまじまじと見る。
凛とした佇まいでどこか威厳と風格のあるルドルフだが、普段の制服姿やジャージ姿が見慣れていた分、新鮮だった。
衣装一つで、ここまで華やかに見えるのかと武は思う。
「――うん。めちゃくちゃ似合ってる。マ子にも衣装だ」
頭の中では色々と感想が出てきたが、どれを言うべきか瞬時に取捨選択した結果出てきたのは、極めてシンプルな言葉だった。
「そこまで褒められると、かえって面映ゆいな」
武の直球な言葉に、ルドルフは頬を染めながら苦笑する。
「ごめん、ついぽろっと」
「いや、いいんだ。あまり、そういう褒め言葉には慣れてない、というだけだ」
親族はどうか武には分からないが、ルドルフの場合周囲の子たちから尊敬の眼差しで見られることが多い印象だ。ルドルフに対して失礼があってはならないからと、「似合っている」以上の言葉を貰う機会は少なかったのかもしれないのは、何となく想像は出来た。
「まあ、その。俺の偽りのない本音だよ」
「分かっている。私もつい、照れてしまってね」
「けどこの先は多分、そういう言葉もファンの人たちから貰うようになると思うよ。ルドルフなら間違いなく」
「なら、今のうちに慣れておかないとな」
そう言ってルドルフは、僅かに恥じらいの表情を残しながらも、頷いた。
日が傾き、夕陽に照らされた野外ステージの観客席は、今日のレースを見ていたであろう観客たちが大勢いた。
決して広いとは言えないが、それでもほとんどのスペースが埋まってしまうほどの盛況ぶりだった。
「これほどの観客がいるとは、中々壮観だな」
ステージの袖からこっそりと観客席を覗いたルドルフが、呟いた。間違っても観客たちに声が聞こえないように、声のトーンはやや抑え気味だ。
「例年のデビュー戦より、多いんじゃないか?」
ルドルフの傍に立って一緒に覗き込みながら、武も呟く。
子どものころからウマ娘レースが好きな武は、何度か日本各地で行われる中央のデビュー戦も身に行ったことがある。思い出せる範囲だと、多くても今日の四分の三程度だったか。
ネット配信も主流なこの時代にこれだけの人を集めたのは、やはりシンボリルドルフという期待の新人が大きく報道されていたからだろう。
「これは、ますます気合が入るな」
「力み過ぎて棒立ちだった、なんてことはないようにな」
デビュー戦後のライブではたまに、ダンスや歌のレッスンを受けていなかったり緊張しすぎるあまり、棒立ちになってしまったりといった話がある。前者は指導者側の問題もあるが、後者の場合は事前にしっかり練習していた子が特になりやすかった。
ルドルフも武のトレーニングとは別に、専門のコーチから指導を受けてしっかりと練習してきている。彼女の精神状態次第では、あり得ない話ではなかった。
「無い……とは言い切れないな。忠告感謝するよ」
笑って応じながら、ルドルフは観客席の方をまっすぐと見ていた。それを見て、杞憂だったかと武は安堵した。
「――あ、あのっ! お話し中すみません!」
観客席を覗きこんでいると背後から声を掛けられ、武とルドルフは後ろを振り返る。そこには、先ほどのレースで2着と3着だった二人のウマ娘がステージ衣装姿で立っていた。声をかけたのは、2着の子――レース序盤から大逃げを展開していた黒い短髪のウマ娘の方だった。
「ああ、君たちか。構わないよ。先ほどのレースでは同じターフの上で戦えたこと、感謝している」
「はいっ。ルドルフさんには完敗しちゃって悔しいですけど……。でも、一緒に走れてよかったです!」
「私もです! 今日のライブ、よろしくお願いします!」
2着の子に続き3着の栗毛の長髪の子も、ルドルフに対してぺこりとお辞儀をする。
「ああ。こちらこそよろしく頼むよ。私も初めてのステージで、実のところ緊張はしていたんだ」
「そうなんですか? あんなに堂々とされてたのに」
2着の子が、意外そうな表情を浮かべる。確かに傍から見れば、ルドルフは緊張なんかしないように思える。
「緊張しているからこそ、だ。君たちも知ってのとおり、私は生徒会長も務めているが、初めて皆の前で演説したときは緊張したよ。それでも自分を奮い立たせて胸を張り、堂々と演説する。――これだけで、大抵のことは乗り越えられてきた。事前準備ももちろん大事だが、本番で最後に物を言うのは度胸だ」
「ど、度胸……」
「緊張するのは失敗したくない、負けたくないと思うからこその気持ちだ。ならその気持ちを力に変えて、このステージで皆にぶつけてしまえばいい。それにウイニングライブは三人で歌う。ターフの上ではライバルでもステージの上では仲間だ。皆の力を合わせれば、最高のライブに出来ると信じているよ」
「――はいっ! ありがとうございます!」
「がんばります!」
二人はルドルフの言葉を聞くと、先ほどまでどこか硬かった表情が幾分か解れたようだ。
元の待機場所に戻り、振り付けの確認をする二人を見送りながら、ルドルフは微笑んでいた。
「すごいな、ルドルフ」
「私は少しだけ背中を押しただけだよ。あの子たちがより良いひと時を過ごせるようにね。――それに」
「それに?」
「自然と口を吐いて出た言葉ではあったが、私自身改めてステージに上がる覚悟が決まったよ」
こういう時、誰かにアドバイスをしようと話したことが、自分にとっても励みになるという経験は武にも覚えがあった。
初めてトレーナーのようなことをするとなったときは、不安や緊張で押しつぶされそうになったのも今ではいい思い出だ。
「それなら後は、全力で出し切るだけだな」
「ああ。見ていてくれよ、トレーナー君」
「勿論だ。俺は君の、ファン第1号だからね」
そう言うとルドルフは一瞬、きょとんとしたような表情をしていた。
皇帝と慕われる子でもこんな顔をするんだなと思いつつも、武はもう一度声をかける。
「何かおかしなこと言ったかな、俺」
「――あ、ああ、いや、すまない。そうではないんだ。ただ、トレーナー君の言葉を噛み砕くのに時間がかかってしまってね。……そうか。トレーナー君が私の最初のファンか……。ふふっ」
考えるようなポーズをしながら、ルドルフは噛みしめるように呟く。
ルドルフ本人にはまだ言っていないが、そもそも彼女のトレーナーになりたいと思ったきっかけは、初めて選抜レースで風のような走りを見たからだった。あの瞬間間違いなく、武はルドルフのファンになっていた。
「ルドルフ?」
「いや、思いの外、嬉しくてね。――うん。ならば私は、君にも最高のパフォーマンスを見せなければな」
「ああ。ここから応援してる」
「ありがとう。トレーナー君がいるなら、100人力だ」
そう言って笑いながらルドルフは、最後の段取り確認を行うと告げて、先ほどの二人の下へと向かった。二人のウマ娘はルドルフが来たことに最初は驚いた様子を見せたものの、すぐに受け入れ、三人で話し始めた。
この調子なら大丈夫そうだと一息吐き、武は邪魔にならないところまで移動してライブの開始を待つことにしたのだった。
日が更に傾いて薄暗くなり、いよいよライブ開始の時間が迫ってきた。
ルドルフは他の二人と一緒に舞台袖に立ち、スタッフの合図が出る瞬間を待つ。
「準備はいいな? ルドルフ」
「問題ない。後は全力で出し切ってくるだけだよ、トレーナー君」
本番前最後の合間を縫って武が声をかけると、ルドルフは余裕の笑みでもって応えた。
そんなやり取りをしていると、ルドルフを挟むように並んでいた二人のウマ娘がくすりと笑った。
「会長さんとトレーナーさん、仲が良いんですね」
「うんうん。さっきも二人で、何か話してましたし」
「ごめん、邪魔だったかな」
流石に無遠慮だったかと武が謝ると、二人は首を振った。
「大丈夫です。ルドルフさんがレースであんなに強かった理由、何となく分かりましたから」
「うんうん。そりゃ勝てないわけだよ」
「――ふむ。もう少し詳しく聞きたいところではあるが……。始まるな」
武と同様、二人の言葉の意味を図りかねた様子のルドルフだったが、開園を知らせるブザーが鳴ったために、話を打ち切って前を見る。
武も三人の邪魔にならないように数歩下がった直後、彼女たちは一斉にステージに向かって駆けだした。
ルドルフのデビューを飾るウイニングライブは、結果として成功に終わった。
観客たちからの声援を受けたルドルフも、両脇を固めた子たちも笑顔でステージを終えることが出来ていた。
ひとまずこれで、最初の関門はクリアしたと言えるだろう。
「今日は本当にお疲れさまだ、ルドルフ」
新潟から東京へ向かう新幹線の中、武は隣の窓際の席に座るルドルフに声をかけた。
「ありがとう、トレーナー君。これでようやく、夢に向かって走り出すことが出来たよ」
「レースでは文句なしの1着、ライブも大成功。お客さん、すごく喜んでたな」
「ああ。ターフの上でもステージの上でも、皆の声援はすごく力になった。これからも粉骨砕身、彼らのためにも努力していかないとな」
観客たちの声援は、ルドルフにとって励みになるものだったようだ。彼女の綻んだ表情が、それを何よりも雄弁に語っていた。
実際、ルドルフがセンターとして行われたライブは、デビュー戦とは思えないほどの盛り上がりぶりだった。
高い歌唱力、キレのあるダンスをした上、視線もしっかり送るという、堂々としたパフォーマンスが観客たちの心に響いたようだ。SNSで、今回のライブのことを興奮気味に語っている人たちが数多く見受けられたことが何よりの証明だった。
「すっかり人気者だな。今日のレースとライブの呟き、すごい数だよ。見てみる?」
「いや、遠慮しておこう。皆の声は観客席から十分に聞こえるし、あまりネットの声に拘泥しすぎても良くないからね」
「まあ、確かに。今は色々大変な時代だからな」
ネットは匿名性が高い分、ポジティブな言葉だけでなくネガティブなことを書き込まれてしまうことも多い。ルドルフもこの先、そういったことを書かれることが出てくる。場合によっては、心を乱されてしまうこともあるだろう。
彼女の判断は十分、理に適っていた。
「まあそれでも、誰かが私を見てくれているのはとても嬉しいよ」
「今日のライブも、すごく嬉しそうに笑ってたもんな」
「そんなところまでよく見ているな、トレーナー君は」
武の言葉に、ルドルフは照れ臭そうに笑う。
「そりゃあ、曲がりなりにも2ヶ月近くルドルフのこと見てきているから。初めてのライブであんな風に笑えるなら、この先も大丈夫だなって安心したよ」
「なら私も、その信頼に応えないといけないな。この先のレース――特にクラシックに入れば今以上に厳しいものになる。まずはそこに向けて、己を鍛えていくつもりだよ」
流石と言うべきか、ルドルフは先々のことまでしっかり考えているようだった。
「俺も、ルドルフのことしっかり支え続けるよ。まだまだ未熟だけど、これからもよろしくね」
「それを言うなら、私も未熟者の身だ。こちらこそ、よろしくお願いするよ」
本当ならしっかりとした大人のトレーナーの方が、ルドルフがいざ立ち止まってしまうようなことがあったとき、道を示してあげられるのかもしれない。しかし武にはそういった人生経験はまるで無かった。
それでもルドルフの夢を叶えると決めた以上は、とことん付き合うつもりだった。
「――とまあ、お互いの決意表明もしたところで」
武は黒いリュックからタオルケットを取り出して、ルドルフに渡した。
「トレーナー君、これは……?」
「今日はいっぱい頑張ったし、東京に着くまでの間くらいは寝てて大丈夫だよ。まあ、ルドルフは今日に限らずいっつも頑張ってるけどさ」
慣れない土地でのレースにライブと、ルドルフは自覚が無いかもしれないが初めてのことばかりで、身体には疲労が溜まるだろうと思い武があらかじめ用意していた。
「心遣い、感謝する。正直なところ少々、眠気もあってね」
「それだけ頑張ったって証拠だよ。タオルケットは一応新品だから、遠慮なく使って」
武からタオルケットを受け取り、ルドルフは自分の体にかける。
「なら、ありがたく使わせてもらおう。トレーナー君は眠らないのか?」
「俺は、今日のことをレポートにまとめて、大学に提出しないといけないから。少しでも記憶が残っているうちから始めておきたくて」
武はリュックからノートパソコンを取り出し、電源を点ける。
ルドルフのトレーナーとしてやっていく場合、この先大学の講義に顔を出す余裕はほとんど無くなる。代わりにレポートを提出すれば単位が出るということだったため、レースの度に書くことになっていた。
目標レースに向けてどんな練習過程やレースでの結果、武とルドルフのメンタルのことなど、内容は色々だ。結局はレースで結果を出すことが全てであるため、どちらかというと報告書や日報の類ではあるが、だからといってさぼるわけにもいかない。
「……ふむ。そう言われると、私も溜まっている生徒会の仕事をしたくなってしまうのだが……」
「ルドルフは今日の主役だったんだから、ゆっくり休んでよ。俺は走ってなかったし、帰ったらさっさと寝るつもりだから」
それにまた無茶をしたらレイにも怒られそうだし、と冗談交じりに武は笑いパソコンに向かう。
「そういうことなら、私は休ませてもらうとしようか」
「うん。東京駅に着く前には起こすよ。降りる準備もあるし」
「何から何まで、本当に世話になる」
「そりゃ、ルドルフのトレーナーですから」
ルドルフがウマ娘たちのために頑張っているように、武も彼女の夢を支えるトレーナーとして、出来ることはしておきたかった。あまり度が過ぎればお節介だろうが、このくらいなら良いだろうと踏んでのことだった。
「――ふふ。ではお休み、トレーナー君」
「ああ、お休み」
ルドルフは目を閉じ、ややあって寝息を立て始める。
すぐに眠りについたあたり本当に疲れていたんだなと思いつつ、武はレポートを書き進めていったのだった。
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第3話 休日、皇帝の素顔
ルドルフが華々しい勝利を飾ったデビュー戦から約一週間後、武は束の間の休日を過ごしていた。
日曜日ということもあり、今日は各地でウマ娘のレースも開催されている。武は住んでいる場所から近いという立地条件もあって東京レース場に行くことが多かった。
今日は夕方から重賞レースがあるということで、それまでは暇だからと駅前を散策することにした。レポートも無事片付け、直近でルドルフの大きなレースはまだ無いため久しぶりに羽を伸ばせる。
そんな休日でもウマ娘のことを考えている辺りが、白井武という青年の長所であり短所でもあった。
レースまでの時間を潰そうと考え、とりあえず駅近くの映画館に向かうとよく見知った人物が入り口でポスターを眺めている姿があった。
七分袖が特徴的な緑のトップスと白いパンツ姿の女性が、武に背を向ける形で何やら考え込んでいる様子だ。
服装だけで言えば普段からそのような恰好をしている女性に覚えは無いが、鹿毛の尻尾と髪、頭の上から生えた耳、そして考え込む際の立ち方の癖から、誰かはすぐに分かった。
「ルドルフ?」
名前を呼ぶと、耳をぴょこっと動かし鹿毛の少女――ルドルフが振り向いた。
「――ああ、トレーナー君じゃないか。急に声をかけられたものだから、驚いてしまったよ」
武の姿を認めると安堵したように、ルドルフが笑う。一方の武は、これまた意外な物を見て咄嗟に反応を返すことが出来なかった。
「トレーナー君?」
「……ごめん、ルドルフの眼鏡姿に驚いてた」
「ああ、これか」
ルドルフはフレームが紺色の、縁が上半分だけになっているタイプの眼鏡をかけていた。
普段は威風堂々とした印象だったが、眼鏡姿になると服との組み合わせもあってかより知的で大人っぽく見える。
「初めて見たよ、ルドルフが眼鏡かけてるの」
「そういえば君の前では、この姿を一度も見せたことは無かったな。大抵、学校指定の物か勝負服だったからな。変だろうか?」
「いや、むしろ似合ってる」
「そ、そうか」
一も二もなく武に即答されて、今度はルドルフが戸惑いを見せる番だった。しかしそう答えてしまうほど、ルドルフの眼鏡姿は新鮮でありよく似合っていた。
「眼鏡といえば、ルドルフって目は悪くなかったと思うけど」
確か、ルドルフの担当になる前に彼女のデータを閲覧したときに視力のデータが入っていたが、数値は平均よりも良かったような記憶がある。普段の様子を見ていても、視力の悪さを伺わせるような場面はなかったはずだ。
「これは伊達眼鏡だよ。度は入っていない」
「じゃあ、オシャレ用ってわけか」
「そのとおりだ。私なりに色々研究してかけてみているのだが、似合っていると言われてほっとしたよ」
ルドルフは照れ臭そうに頬を掻く。
普段の生徒会の仕事やレースに対するひたむきな姿勢、威風堂々とした立ち振る舞いを見ていて失念していたが、ルドルフとて一人の年頃の少女ということなのだろう。
「トレーナー君の私服姿も、見るのは初めてだな」
興味深そうにルドルフは、紺色の半袖Tシャツに白系のズボンというラフな格好をした武の全身を眺める。
その視線にむず痒さを覚えながらも、武は頷いた。
「普段はスーツ姿だもんな」
武はトレセン学園では基本、スーツ姿で過ごしていることが多い。最近は気温も上がってきたので、上着は着ずにワイシャツ姿が基本的な恰好だ。
学園からの指定は無いが、周囲の先輩トレーナーたちはスーツやジャケットを着ていることが多いので、武もそれに倣っていた。
結果としてルドルフも、ワイシャツ姿の武と接することが多くなっていた。
「ああ。休日だから当然といえば当然の格好だが……、学園の外でこうして私服姿の君を見ていると、何だか不思議な感覚になるよ」
「言いたいことはよく分かるよ」
武とルドルフは基本的に、学園やデビュー戦に関わる場所ぐらいでしか顔を合わせたことが無い。そういった場所ではお互い、きちんとした格好をしていることが常だった。
学園もレースも関係ない場所で、完全にオフの状態で顔を合わせたとなるとどうにも落ち着かない気持ちは、武にもあった。
「ふむ。スーツ姿を見慣れていたから、というのはあるにしても……。うん、君もよく似合っている」
「そ、それはどうもありがとう」
思いの外良い評価を貰えて、武は頭を掻く。
「ふふっ。さてはトレーナー君、あまり褒められ慣れてないな?」
「まあ、あんまりそういう機会はなかったから」
成績面で良い評価を取って褒められることなら素直に受け取れるのだが、それ以外の要因で褒められるのは何故か、照れ臭さがあった。
そういった部分をかぎ取ったのだろう、ルドルフは微笑みを浮かべて武を見ていた。
「ところでルドルフは、見る映画決めたのか?」
あらかた互いの格好について話すことは話したかと、武は話題を変える。
「それが、まだ決めかねていてね。私はどうにも他人に威圧感を与えてしまうようだから、少しでも共有出来る話題があればと来てはみたのだが……」
「色々タイトルがあって、決めきれないってこと?」
「そんなところだ。あまり、流行りの映画というものには疎くてね。情けない限りだが」
ルドルフはルドルフなりに、他人――この場合はウマ娘たちだろう――から親近感を持ってもらうために、映画館へ来たのだろう。
しかしルドルフは、自らの夢のため学園生活だけでなく生徒会長を務め、つい先日レースデビューもしたばかりと多忙の身だ。世の中の流行にアンテナを張り切れないのは、無理もないことだった。
「それじゃあ、流行りとは別に気になる映画はある?」
「私個人の感性でいいのか?」
「流行りもいいけど、まずはルドルフの興味を優先させた方がいいんじゃないかなって」
ルドルフがどんな種類の映画が好きなのかは分からないが、無理に流行り物を観るよりはそちらを優先させた方が、話題作りもしやすいのではと考えて提案してみる。
ルドルフは顎に右手を当てて、暫し考える素振りをしてから顔を上げた。
「例えばそうだな……。今日上映しているもので言うと、そこのポスターに載っているタイトルだな」
彼女の視線の先には春ごろに公開された、ウマ娘を主人公とした実写映画のポスターがあった。一時期、テレビで特集として取り上げられるほどの話題を集めた映画だ。
「なるほど。公開日に見たけど、凄かったよなこの映画」
「なんと。トレーナー君も見ていたのか」
「もしかしてルドルフも、公開初日に?」
武が聞くと、ルドルフは嬉しさを隠し切れない様子で頷いた。
「ああ。偶然にも休みの日に重なっていてね。主人公が挫折と苦難を超えながら成長していく過程が丁寧に描かれていて、自然と物語に惹き付けられていたよ」
「確かに。泥臭いけど、皆の言葉で立ち上がって走ってるのを見ると、『頑張れ』って気持ちになったな」
「『頑張れ』……か。ふむ」
武が映画の感想を語ると、ルドルフが何やら考え込んでいた。
「ルドルフ?」
「ああ、いや、君の感想と比べると私は、物語の流れや構造といったものに焦点を当てているなと思ってね。ほら、トレーナー君は主人公への共感を示しただろう?」
ルドルフの言葉どおり、武は確かに主人公の気持ちに共感したが故の感想を口にしていた。物語の流れを見られるのも十分すごいことだと武は思うが、彼女にはどうにも引っ掛かるものがあったらしい。
「確かにそうだけど……。それがどうかしたの?」
「どうにも私は、同世代の子と比べて感想が批評に寄るきらいがあるようでね。それは君も例外ではなかったらしい」
「まあ確かに、ルドルフのは批評っぽいといえば批評っぽいけど……。そこに視点が向けられるのも、すごいと思うよ。あ、でもそうか」
「君の思っているとおりだ、トレーナー君。同世代の子たちには、いささかハードルが高くなってしまうようでね」
同世代の子……つまりルドルフと年の近いウマ娘たちは、登場人物の気持ちや感情に寄り添って見る子が多いかったのだろう。一方でルドルフは彼女たちには共感されにくい視点を持っている。そのギャップが気になっていて、どうにか埋めたいということか。
「登場人物の気持ちに共感して、他の子と語れるようになりたいってこと?」
「ああ、そのとおりだよ」
「なるほど。それじゃあ……」
他のウマ娘たちと同じく思春期の只中にいるだろうルドルフが、そういったことに悩んでいるのは意外だったが、どうにか力になりたいと武は思う。
共感という意味で、より身近なことをテーマにした作品は無いかと探す。ウマ娘レースよりももっと一般的で、誰にでも起こりうるようなことをテーマ……。
そう考えてポスターを見ていると、一つのタイトルに目が留まった。
武の目に映ったのは、悲哀の恋愛映画として巷で話題のアニメ映画の宣伝ポスターだった。
つい先日公開されたばかりで、ちょうど興味が湧いていたタイトルだ。
「恋愛映画か。トレーナー君は、こういった物も見るのか?」
「時間が空いたとき、たまにね」
恋愛物に限らずだが、まとまった暇が出来たときに気になる作品があれば、見に行くという程度だ。
ただ、映画それぞれに色んな物語があり、主人公と同じ視点で非日常的な体験が出来るというのは中々楽しいし面白い。その意味では、一人一人のドラマがあるウマ娘レースと似ているものはあるかもしれない。
「ふむ。確かにこれは、ちょうどいいかもしれないな」
「うん。より身近だし、感情移入もしやすいのかなって」
「なるほど……」
「場面ごとに登場人物の感情を解説っていうのは風情が無いし……。実際に映画を見て、自分が感じたことをお互いに話すっていうのはどうかな」
「確かに、トレーナー君がどんな風に心を動かされたか聞けば、次に映画を見たとき何か気づくこともあるかもしれない、ということか」
「そんなところだよ」
映画に限らず物語というのは、他の人がどんな風に感じたかを実際に見聞きすることで、より理解を深められるものだと武は思う。これは、小学生のころからレイや他の友達と一緒にレースの話やアニメの話で感想を言い合った経験から来るものだった。
「――ふむ。では、この映画を見てみようか。トレーナー君もそれでいいか?」
「もちろん。早速チケット、買おうか」
そんなわけで武とルドルフは、現在大ヒット中のアニメ映画を二人で見ることとなったのだった。
90分ほどとなった映画を見終えた武とルドルフは、昼食も兼ねて近場のカフェにやって来ていた。
窓際のテーブル席に座り、それぞれ注文した軽食やアイスティーを口にして一息吐くと、先刻見た映画の話になる。
「ルドルフはどうだった? さっきの映画」
「素晴らしい映画だったよ。主人公とヒロインの微妙な心の移り変わり、二人が培った物が、ヒロインを失った主人公が明日を生きる希望になる……。繊細で、感動的な話だったよ。大ヒットするのも頷ける」
「その辺、綺麗に作られてたよね」
「ああ。……とまあ、私は相変わらずこんな感想になってしまうのだが、トレーナー君の感想も聞かせてはくれないだろうか」
やはりまだ慣れないのか、ルドルフの感想はどこか俯瞰しているようなところがあった。しかし、だからと言って態々指摘するようなことを武はしなかった。ルドルフが自覚しているのなら、その必要はないだろう。
「そうだなあ。やっぱり、ヒロインが治らない病気を抱えてるって分かったときは辛かったし、亡くなったときは喪失感があったな」
「トレーナー君、エンドロールで泣いていたな」
「う、気づいてたの……」
くすりと笑うルドルフを見て、武は恥ずかしさから耳が熱くなる。暗いから分からないだろうと高を括っていたが、しっかりバレていたようだ。
「しかしそのぐらい、主人公の気持ちと一体になっていた、ということか……。私はその点、共感は少し難しかったかもしれないな」
「じゃあ、ヒロインの気持ちになってみるのはどう?」
「ヒロイン、か?」
「そう。ルドルフがヒロインの立場だったとして、主人公のことはどう思う?」
「ふむ……」
アイスティーを口に含みつつ、武はルドルフの言葉を待った。
「私がそのヒロインだったとして……、ああも献身的に支えてくれる彼は心強いし、必然、惹かれていくだろうな。先が長くない彼女が『どうしてそこまでしてくれるの』と問い、彼に『君の傍にずっといたいから』と返されていたシーンは……胸が熱くなったよ。なるほど、これが『きゅんきゅん』、というやつか」
映画の内容を思い出すように語りながら、ルドルフは何か合点がいったようだ。
「あのシーン、俺もすごく良かったって思うよ。その後のシーンはまあ、その、ドキドキしたけど」
直接口にするのが恥ずかしく武は言葉を濁すが、ルドルフはその意味を理解したらしく、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「上映中は感動的だとは思っていたが……。た、確かに口づけのシーンは思い出すだけで頬が……」
「ま、まあ、あのシーンは兎も角……。話題作りの参考にはなった?」
「ああ。彼女たちが何を語りたがっているのか、理解出来たよ」
頬の赤みを残したまま苦笑するルドルフに、武は笑みを返した。
今すぐには難しくても、これで他のウマ娘の子たちと気兼ねなく話せるきっかけになれたら御の字だ。
「何か、妙な空気にしちゃってごめん」
「構わないよ。寧ろ、私に付き合ってくれて感謝しているくらいだ。ありがとう、トレーナー君」
「こっちこそ、ルドルフの話を聞けて良かった」
普段はレースでの勝利に繋げるトレーニングをサポートするような役回りで、トレーナーらしいことは出来ていなかったから、少しでも力になれたことが武には嬉しかった。
「ふふ、普段の練習でもそうだが、私のトレーナーが君で良かったと思うよ」
「ほんとに? どっちかっていうとサポーターみたいな立ち位置だなと自分では思うんだけど」
「そんなことはないよ。私のレースへの展望や希望を聞いて、なるべく私の意に沿うような形でトレーニングメニューを組んでくれているのは、知っている。それに今日みたいに、他愛のない日常の話にも付き合って、相談にも乗ってくれるんだ。頼もしい限りだよ」
ルドルフに正面から見られて、今度は武が視線を逸らす番だった。
「……そっか。俺は君の期待に、ちゃんと応えられてるんだな」
「ああ。秋のサウジアラビアRCも、トレーナー君となら必ず勝てると信じている」
まだデビュー戦を勝っただけだというのに、ここまで信頼を寄せてくれていることを知って、身体の内側がむず痒くなる思いだった。
あまりにも真っすぐで、純粋な希望に満ちた目を向けられると、武はどうにも落ち着かなかった。
「とまあ、お互い気恥ずかしい空気になってしまったわけだが……。ここで一つ、気分を変える話題を提供しようと思うのだが、良いだろうか?」
「う、うん。是非お願い……」
ルドルフの申し出に、武は藁にも縋る思いで頷いた。恋愛シーンの話やルドルフからの期待と、色々と気恥ずかしくなるような話題が多かった。
それ故、ルドルフのちょっとうきうきした様子に武は咄嗟に気づくことが出来なかった。
「昔、私の友人が子供のころ動物園の触れ合い体験で蛇を持ったことがあるそうだ。中々重量のある子だったようでね、友人はこう思ったそうだ。――とっても
「…………………………うん?」
聞き間違いだろうかと、武は自分の耳を疑った。
しかし目の前にはいつになくにっこりと笑うルドルフの姿があった。若干俯いて肩を揺らし、耳と尻尾が忙しなく動いているのも見える。
明らかに、自分の発言でツボに入っていた。
「すまない、つい笑ってしまったのだが……。その様子だと、どうやら不発だったようだな。小粋なジョークで場を和ませようと思ったのだが、難しいものだ」
先ほどの笑いをやや引きずりながらも、ルドルフは武の反応をしっかり見ていた。
確かに、場の空気を変えることには成功していると言える。しているのだが……。
「まあ、うん。俺は好きだよ、ルドルフのジョーク」
「そうか? ならいいのだが……。今度は君を抱腹絶倒させるような冗談を用意するとしよう」
自分の指で頭をとんとんと軽く叩く仕草をしながら、ルドルフは告げる。
中々独特な冗談だったが挫けず前向きな彼女の姿を見ていると、毒気が抜けていく思いだった。
「……まあ、ルドルフが幸せそうならそれでいいか」
決意するように頷くルドルフを見ながら、武は小さく呟くのだった。
カフェを出て武はルドルフを伴い、東京レース場にやってきていた。いよいよ、武が見ようと思っていたレースの開始時間が迫っていたからだった。
観客席に向かう群衆の中を歩きながら、武はルドルフに話しかける。
「ありがとう、ルドルフ。付いてきてくれて」
「私に付き合ってくれたからな、そのお礼だよ。それに私も、今日のレースは個人的に気になっていたんだ」
今日のレースは、トゥインクルシリーズの中でも特に注目度の高い重賞が開催される。それを反映するかのように、多くの人たちが東京レース場にやってきていた。
「じゃあ、どっちみちここには来るつもりだったんだ」
「ああ。注目度の高いレースは、この目で見ておきたいんだ。特にGⅠレースは、ほとんどを現地で見ていたよ。まあ、今はデビューしているから時間や場所の関係上、難しくなってしまったがね」
ウマ娘レースは全国各地で行われるがGⅠも例外ではなく、京都や阪神、中京といった東京から遠く離れた場所でも行われている。ルドルフはそんな場所にまで自分の足で見に行っていたということだろう。
流石の武も、交通費がかかってしまうこともあって中々足を延ばせる機会は少ない。ルドルフはその辺も上手く都合をつけて、現地に行っているということになる。
「ウマ娘好きは誰にも負けないつもりだったけど……。すごいな、ルドルフ」
武は遠方でレースが行われる場合、テレビで見ていることがほとんどだ。特に重賞レースは欠かさずに見ていたが、更に上を行く存在が自分の傍にいたことに武は驚かされる。
「いつか道を切り拓く皇帝として立つために、実戦の空気感は少しでも知っておきたかったからね。何も、現地に訪れることばかりが偉いわけではないよ。私が必要だったから、そうしたまでだ」
見晴らしのいい後ろの席に座りレース場を見下ろしながら、ルドルフは当たり前のように言う。どこまでも謙虚で、“皇帝”の名に相応しくあるための努力を積み重ねていく彼女の在り方を見ると、多くの学園の生徒たちから慕われるのも頷ける。
「それでも、そういう努力を一つひとつ積み重ねてきたのは立派なことだと思うよ」
多くのウマ娘は走ることが好きで注力する傾向にあるが、ルドルフは更に“その先”を見据えている。皇帝の名を背負っているという自覚も影響しているのだろう。
そんな彼女の姿勢は、武としても見習うべきところがあった。
「ありがとう。他ならない君にそう言われると、より一層奮励努力していこうという気概が持てるよ」
「頑張りすぎて倒れることだけは無いようにね」
「ふふ、心配性だな君は。だが、その点は気をつけるとしよう」
ただでさえルドルフは、生徒会長としての仕事もあって多忙の身だ。今は生徒会との仕事の折り合いを上手く付けられているようだが、どこで綻びが出るか分からない。
ルドルフは安心させるように笑いかけるが、武にはその点が心配だった。
「――と。バ場入場が始まったな」
武の思考を打ち切るように、ウマ娘たちのバ場入場を知らせるアナウンスが場内に響いた。待ってましたと言わんばかりの観客たちの歓声の中、ルドルフが呟く。
「そういえば私の次のレースも、ここだったな」
「サウジアラビアロイヤルカップだな」
秋に開催されるGⅢレースで、ルドルフにとっては初めての重賞だ。開催場所は今日と同じ東京レース場で、芝1600mで争われる。
「距離は若干異なるが、条件は近い。実のところ意識していたわけでは無いが――何かしら参考になりそうだ」
「確かに。しっかり見ておかないとな」
「ああ」
実際のレースは4ヶ月くらい先だが、少なくとも全くの無意味ということは無いはずだ。
ルドルフに先んじて、この大舞台を駆けるウマ娘たちの走りも見ることの出来る貴重な機会でもある。
武はルドルフと共に、レースの推移を見守ることにしたのだった。
「すっかり日が暮れてしまったな」
東京レース場からの帰り道、隣を並んで歩くルドルフが呟いた。
「レース、参考になったか?」
「ああ。改めてあのコースは、距離が短くても消耗戦になりそうだいうのは、見ていて感じたよ」
序盤はともかく、中盤を超えたあたりからが正念場だというのは武にも見て取れた。特に二つの上り坂が関門となるのは、今日のレースを走っていたウマ娘たちの消耗具合からも分かる。
「クラシック三冠を目指すとなると最長で3000mは走ることになるから、そういう意味でも次のレースは大事な通過点になりそうだな」
「ああ。スピード、スタミナ、そしてここぞというところでの踏ん張りを求められるという点では、中長距離と変わらない」
「となると、最初から長距離を走るつもりでトレーニングを積んでいかないとな。かなり厳しめに組むことになると思うけど、付いて来れる?」
「勿論だ。デビュー戦で無事走り切ることが出来たんだ。次もトレーナー君と一緒なら、私は必ず勝てる」
自信に満ちた瞳で、ルドルフはそう言い切った。その信頼は武にとって嬉しいのと同時に、身が引き締まる思いだった。
“皇帝”としての道を歩んでいく以上、その道のりは生半可なものではない。ルドルフのことを支えていくと決めた以上、彼女からの信頼にもきちんと応えたい。
「俺も、ルドルフを勝たせられるように頑張るよ」
「お互い、頑張らないとだな」
「うん。今日、ルドルフと一緒にレースを見て、改めて気合いが入ったよ」
当初、武としてはちょっとした休みのつもりだったがルドルフと色々話しながらレースを観戦ことで、改めて何をしていくべきかが見えてきた。
今も頭の中で、どんな風にルドルフのトレーニングメニューを組んでいようかという思考が過っている。
それを察したのか、ルドルフが小さく笑い声を漏らした。
「全く、君も真面目だな。――いや、それぐらい真剣に考えてくれている、ということか」
「そりゃまあ、ウマ娘が好きでトレーナーになろうとしてるぐらいだし」
「君に担当してもらうウマ娘は幸せ者だな」
「それで行くと、ルドルフは幸せ者ってことになるけど……」
「ああ。ウマ娘として、親身になって接してくれる君と出会えてよかったと思っているよ。今日で言えば私の相談事に付き合ってくれたこと、本当に感謝している」
まさか肯定されるとは思っていなかった武は、咄嗟に言葉を返せなかった。
「……そ、そっか」
「トレーナー君? もしかして、照れているのか?」
武はまだトレーナー見習いというべき立場で実績も少なく、確固たる自信を持てていなかった。それ故こうして担当ウマ娘から好意的な反応を返されると、何を返せばいいか分からなくなる。つまりは、ルドルフの言葉どおり照れ臭くなっていたのだった。
「まあ、そんなところ……」
「そうなのか。私としては意外な反応だったが……。昼の服装の件といい、普段は見られないトレーナー君の表情を知れたのは僥倖だったな」
「やばい。余計恥ずかしい」
武としてはもう少し堂々とした姿を見せていたかったが、ルドルフに指摘されてしまうと更に顔が熱くなる。
「思えば、普段からこういった話はしてこなかったな」
「まあ、まだ契約してそこまで時間が経ってないっていうのはあるかもしれないけど」
武とルドルフの付き合いの殆どは午後の練習時間で、あとは通勤時間に一緒になったときぐらいだ。二人はそのほとんどを、練習やレース、それから学園での勉強や生徒会の話をして過ごしていた。
それ以外の話は未だ距離感を測りかねていたこともあり、踏み込んだことは皆無だった。
「たまにはこういった会話も、悪くないな。私たちは年単位で共に歩んでいくわけだから、互いのことをもっと知るのもいいのかもしれない」
「それはそうだね。ルドルフが同世代の子との話題に困っていたとことか、冗談が好きなところとか意外だったけど知れて嬉しかったし」
「私もだ。先ほどのレースでは目を輝かせていて、心の底からウマ娘レースが好きだというのが伝わってきたよ。あとは、褒められ慣れていない点も意外だった」
こうして話していると、お互いまだまだ知らないことが多いんだなと実感させられる。
あまり他人に対して自分のプライベートのことを話すのは得意ではない武だったが、ルドルフ相手なら大丈夫だという感覚があった。そして同時に、ルドルフのことももっと知りたいという思いも湧いてくる。
「まあ、他のことはこれから少しずつ話していくってことでいいか?」
「ああ、構わないよ。長い付き合いになるわけだからね」
短く見積もっても三年間、武はルドルフと一緒にトゥインクルシリーズを駆け抜けていくことになる。親睦を深める時間は、まだ沢山残っている。
だから今は焦って全てを知ろうとするよりも、少しずつルドルフのことを知っていきたいと武は思う。
それから数十分ほど歩き、二人はルドルフの住む寮の敷地前で立ち止まる。
「ありがとう、ルドルフ。今日は楽しかった」
「私もとても充実した一日だったよ。ありがとう。それから、ここまで送ってくれたことにも感謝を」
さりげなく武はここまで歩いてきたわけだが、その意図をルドルフはしっかり察していた。
「気にしなくていいよ。俺がしたくてしたことだから」
「そうか。――ではまた明日もよろしく、トレーナー君」
「こちらこそよろしく、ルドルフ」
挨拶を交わすとルドルフは微笑みながら振り返り、寮の敷地内へと歩いていく。その背中を見送ると、武も踵を返して自宅アパートへと向かうのだった。
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第4話 対決、皇帝と無敗のスーパーカー
サウジアラビアRCまであと一ヶ月くらいとなったころ。
武とルドルフは順調にトレーニングを積み重ねていた。
長距離のランニングや坂路での瞬発力強化など、求められるだろう基礎的な部分をこの数ヶ月の間取り組んできた。
ルドルフは生徒会の仕事もこなしながら練習に休まず取り組み、あとは仕上げだけという段階にまで来ている。
「それじゃあ、最後にタイムを測ろうか。芝のコースを一周してくれ」
「よろしく頼む」
学園内に設置された練習コースのうち、芝コースに学園指定の赤いジャージを身に纏ったルドルフが立つ。武はストップウォッチを片手に、彼女の体勢が整うのを見計らう。
「位置について――」
武の言葉と共に、ルドルフがスターティングポーズを取る。
「スタート!」
合図と共にルドルフが芝を勢いよく蹴り、走り出した。蹄鉄で地面を踏みしめ、出遅れることもなく流れるように好位置に付ける。
ここ最近の脚力強化のトレーニングの成果が、早速発揮されていた。
デビュー戦前後の時期もルドルフは十分強かったが、とくに成長した部分の一つがスタートだった。
「うん、良い調子だな」
ルドルフは良いペースを維持しながら、最初のコーナーへと差し掛かっていく。ここは無理することなく、実戦を意識するかのように速度は維持しつつ足を溜めていた。
武が見た限り、ルドルフの得意とする走り方は未知数だ。最後方からの追い込みは難しいかもしれないが、先行や差し、逃げと戦術の幅は広い。学園にやってきた際にもらったルドルフのデータにも、その傾向が示されていた。
先行策で走るなら、逃げや先行を選択したウマ娘たちに好位置で追走しやすいだろうが、選択肢が多い分どうするべきか迷うところだ。
頭の隅で思考を巡らせている間も、ルドルフは二つ目のコーナーを抜け、直線も問題なく駆けていく。
そして最終コーナーに侵入する直前、ルドルフがスパートをかけた。
――ターフの上を、風が駆け巡る。
武がそう感じた直後、ルドルフは最後の直線で更に伸びを見せて、眼前を駆け抜けた。
咄嗟に押したストップウォッチを見下ろす。
「1分45秒07……」
レコードに迫る勢いのタイムに、思わず鳥肌が立つ。
「トレーナー君、タイムはどうだったのかな?」
走り終えたルドルフが、息を整えつつ武の下にやってくる。その言葉で武は我に返りながら、ストップウォッチをルドルフに見せた。
「ふむ。悪くないタイムだな」
「相変わらず凄いな、ルドルフ。一ヶ月前のタイムから2秒更新だ」
「まあ、こんなものか……」
ウマ娘のレースにおいて2秒の短縮はそれだけゴールに速く着けるという意味で重要だ。それでもルドルフは満足そうな表情を見せないのは、“皇帝”として夢を掴もうとしているからか。
「スタミナの消耗具合はどう?」
「最初の頃と比べて、余裕を持って走れるようになったな。トレーナー君のトレーニングのおかげだよ」
この数か月間、サウジアラビアRCで東京レース場の険しい坂を走り切れるよう、フィジカル面の強化は特に気を配っていたところだ。将来、より長い距離を走る上でもスタミナは欠かせない。
成果が出ていることに武は、ひとまずほっと胸を撫でおろした。
「残り一ヶ月、この調子で仕上げていきたいな」
「そうだな。では、今日のトレーニングはこれで終了ということでいいだろうか」
「ああ。クールダウンしたら解散だな」
「ことを急いては仕損じるという言葉もあるからな。では一周、軽く流してくるとしよう」
今後の流れを確認し、ルドルフが軽いジョギングをするためコースに戻るため踵を返す。武もいつでも上がれるよう準備していると、背後から誰かが近づいてくる足音がした。
「あら? トレーニングはもうお終いかしら?」
振り返ると、学園の制服を着た少女が立っていた。
腰ほどまで伸びる鹿毛の髪は巻かれ、腰に手を当てて佇む姿と相まって大人っぽい印象を与える。
翡翠の瞳が優しく笑い、武を見つめていた。
「そうだけど、君って……」
「マルゼンスキーよ。よろぴく!」
「よろ……ぴく……?」
ピースサインを作りながら名乗った彼女の言葉に、武は戸惑う。武にはほとんど馴染みのない言い回しだったので聞くべきか迷っていると、引き返してきたルドルフが隣に立っていた。
「君か、マルゼンスキー」
「あらルドルフ。久しぶりね」
親しげに話しかけたルドルフに、マルゼンスキーも笑顔で応じる。
「知り合いなの?」
「ああ。以前、彼女のレースを実際に見たことがあってね。その時に話をさせてもらったんだ。彼女のことは――」
「知ってるよ。8戦8勝で引退した『スーパーカー』の、マルゼンスキーだよね」
ルドルフに言われるまでもなく、元々ウマ娘好きな武はマルゼンスキーのことを知っていた。
ほんの一、二年前、中央で活躍し観客たちを沸かせたウマ娘だ。レースの出場条件など諸々の事情で一線を退くことになり、多くの人たちから惜しまれたこともよく覚えている。
「あら、知っててくれたのね。嬉しいわ」
「こちらこそお会いできて光栄です、マルゼンスキー」
「もう、敬語は止してよー。お姉さん貴方よりまだまだ若いんだから」
武としては偉大な実績を刻んだウマ娘の一人なのだが、マルゼンスキーは違う意味で受け取ったらしく困ったように笑う。
武より若いのに「お姉さん」というのは若干引っ掛かるが……、話がややこしくなりそうなので追及はしなかった。
「じゃあ、えっと、よろしく……」
「うんうん! 素直な子は好きよ!」
「マルゼンスキー、トレーナー君が困っている」
マルゼンスキーの押しの強さに戸惑っていると、横からルドルフが助け舟を出してくれた。
「あら。じゃあ、この子が」
ルドルフの静止に動じることなく、マルゼンスキーが興味深げな視線を向ける。
「ああ。この春から私のトレーナーを務めてもらっている――」
「白井武です。よろしく」
ルドルフから引き継ぎ、自己紹介をする。まだ敬語が抜けきっていなかったが、一応の礼儀だからとあえて気にしないことにした。
「話には聞いてたけど、若いわね。学生さんだったかしら?」
「大学2年だね」
「その歳でトレーナーもやってるなんて、イケてるわね!」
「イケ……?」
またしても日常的にはあまり聞かない言葉をマルゼンスキーが口にする。意味は武にも話の文脈からして十分伝わるのだが、果たして年若い少女が使うのだろうか。
先ほどから微妙に引っ掛かりを覚えるが、マルゼンスキーはどこ吹く風だ。
ルドルフはそんな彼女の性格のことは既に知っていたのか、言い回しについては特に反応を見せず率直に尋ねる。
「ところでマルゼンスキー、私たちに何か用があったのではないか?」
「そうそう! 前々から貴方たちのことは気になってたんだけど、走るのはダメってお医者さんに止められてたのよね」
マルゼンスキーの引退理由の一つに、脚部不安があったことを武は思い出す。全く走れないことはないが、大事を取っての引退だったと当時報道されていた。
「――つまり?」
「ついこの間、たまになら思い切り走っても大丈Vって言われたのよ! だから――一本走らない?」
マルゼンスキーは絶妙に古臭い言葉を話していたかと思うと次の瞬間には、蠱惑的な笑みを浮かべ鋭い視線をルドルフに向ける。瞬間、得体のしれない何かが場を支配しているかのような感覚に囚われる。
しかしてルドルフは――。
「良いだろう。無敗の伝説……相手にとって不足なしだ。よろしく頼む、マルゼンスキー」
場の空気に飲まれるどころか、寧ろ拮抗するぐらいの覇気でもって応えていた。
「そうこなくっちゃ!」
「距離はサウジアラビアRCと同じ、1600mでどうだろうか」
「あら、私の得意な距離だけどいいの?」
「構わないよ。むしろ、実戦を知っている君だからこそ頼みたい」
「分かったわ! ――負けないわよ?」
「私も胸を借りる立場とはいえ、負けるつもりはないよ」
「ふふっ。じゃあ、早速着替えてくるわね!」
やり取りを終えると先ほどまでの威圧感を霧散させて明るく笑い、マルゼンスキーは部室小屋の方へと小走りで行ったのだった。
その背中を見送り、隣のルドルフも覇気を霧散させていた。そこでようやく武は、一息吐くことが出来た。
「……すごいな、二人とも」
「ああ、すまない。トレーナー君には心労をかけてしまったな」
冷や汗をかく武に気付いたルドルフが、気遣うような視線を向けてくる。
過去にも肌がひりつくような緊張感を目の当たりにしたことはあったが、今回のようなことは武にとって初めてだった。地方の時には感じたことがなかったこともあり、改めて中央がどんな場所なのかを今更ながら痛感していた。
「初めて見たよ、ルドルフがあんなに闘志を燃やしてるの」
普段のトレーニングやデビュー戦のときもルドルフはやる気に満ちていたが、先ほどのは今まで以上のものだった。
「私も以前から彼女に興味があってね。もしも競うことになったら、果たしてどちらが勝つのか――。それを試す絶好の機会がやってきたんだ、滾らないわけがないだろう」
どこか子どもっぽさも感じる笑みを浮かべながら、互角の勝負を出来ると言外にルドルフは告げていた。
相手は出走の回数こそ少ないものの全戦全勝を誇ったあのマルゼンスキーだ。実績はまだ足りないと言わざるを得ないルドルフが、それでも自信を持てるのは――。
「それだけ自分の脚に自信があるんだな」
「勿論だよ、トレーナー君」
ともすれば大言壮語と取られかねないが、ルドルフの走りを普段から間近で見ている武からすれば、あながちあり得ない話でもなかった。
いっそ完璧なまでのペース配分と、最終コーナーから最後の直線にかけての凄まじい伸びは彼女の武器だ。現役時代、8バ身以上の差をつけてゴールしたこともあるというマルゼンスキーとも十分張り合えるだけのものはある。
「気合は十分……。脚の方はまだ大丈夫?」
「問題ない。あと一本は、全力で走っても問題ないだろう」
ほんの数分前にタイムを計ったばかりということもあり若干心配があったが、ルドルフは自分の脚を確かめつつ異常がないのを確かめる。
「そっか。けど体にかかる負担は大きいし、終わった後のクールダウンは入念にやらないとね。ストレッチも手伝うよ」
「何から何まですまないな、トレーナー君」
「このくらいは当然だよ。君のトレーナーなんだから」
ウマ娘にとって脚は命と言っていいくらい大切なもの。その脚を守るためにもトレーナーとして出来るのは練習メニューを組んだり、身体のケアを手伝ったりといった補助的なことくらいだ。
ルドルフが再起不可能なケガを負う姿は見たくない。だからこそ武は、自分に出来ることはしっかりやっておきたかった。
「では私も、君の担当ウマ娘として恥じない走りを見せなければな」
鹿毛の皇帝は、それが当然だと主張するように笑みを深めた。
「二人ともお待たせ!」
数刻してジャージに着替えて戻ってきたマルゼンスキーを、武はルドルフと共に迎える。
「待っていたよ、マルゼンスキー」
「おかえり」
「二人とも、今日は時間を割いてくれてありがとね」
早速準備運動で体を解しながら、マルゼンスキーは微笑んだ。
「私の方こそ、公式戦ではないにしても君と走る絶好の機会を得られて、感謝している」
「もう、持ち上げすぎよ。お姉さん困っちゃうわ」
「それでもだ。出走条件のせいで出られるレースは多くなかったとはいえ、そのほとんどを圧勝してきた。持ち上げないわけにはいかないだろう」
ルドルフが口にしたとおり、マルゼンスキーの現役時代の出走回数は少ない。一方でその戦績は圧倒的で、8戦中6戦を2着に7バ身以上の差をつけてゴールしていた。
「そう言われると、照れちゃうわね。お姉さん、俄然やる気が湧いてきちゃったわ!」
嬉しそうに笑いつつ、マルゼンスキーは体を解し終えるとスタート位置へ移動していく。ルドルフも、その後に続くように歩いていった。
「それじゃあ、1600m一本勝負で行くよ。準備はいい?」
「ああ、いつでもスタートをかけてくれて構わない」
「私も準備オッケーよ!」
スタート位置で前傾姿勢になったのを確認し、武は右手を高く挙げた。
「位置について――スタート!!」
一気に手を振り下ろした瞬間、ルドルフとマルゼンスキーが同時に前へと飛び出した。
マルゼンスキーは武の合図と同時、一気に加速して先頭に立つ。出遅れなくスタートしたはずのルドルフを4バ身ほど放し、先制攻撃とばかりに逃げを打っていく展開だ。
「――速い」
現役時代、短距離やマイルを中心に走っていただけあって序盤の展開はマルゼンスキーの方が上手だった。
彼女が走ってきた距離は、中距離以上のレースと比べてスタミナの負担は必然的に下がる。その分、序盤から逃げを打っても疲れにくく自分のペースでレースも作りやすい。
一方のルドルフは、中段からやや前方に位置取りをして最後に差し切っていくタイプだ。故に脚を溜めやすい走り方ではあるのだが――。
「少し、マルゼンスキーに引きずられてるな」
今回はたった二人でのレースということもあってか、ルドルフはマルゼンスキーに置いていかれまいと後方から食らいついていた。しかしそれは、裏を返すとマルゼンスキーにペースを握られてしまっている状況でもある。
「流石に、デビュー戦のときみたいにはいかないか」
ルドルフが前回戦った面々とマルゼンスキーとでは、実力や経験にはっきりとした差がある。距離も短いため、終盤でマルゼンスキーのスタミナ切れも期待は出来ない。
むしろ無理に後ろをついていく方が、かえって終盤での脚を残せないことに繋がりかねない状況だ。
「ルドルフ……」
武はつい右手に握りこぶしを作りながら見守る視線の先で、ルドルフとマルゼンスキーが最初のコーナーへと入っていく。
マルゼンスキーは変わらず先頭を走り、ルドルフはその後ろに付けていた。
ふと、ルドルフの表情が目に映る。
4バ身前を行くマルゼンスキーの背中を負うルドルフに、焦りの表情は無かった。むしろ虎視眈々と差し切る機会を伺っているようだ。
マルゼンスキーもルドルフの食らいついてくる走りに気付いたのか、笑みを浮かべながらペースを維持していた。
「スーパーカー」と言われたマルゼンスキーの逃げ足は、ルドルフがかつてレース場のターフで見たときから全く衰えていなかった。
彼女の戦法は、逃げの一手のみ。単純明快なまでの走りで一度も先頭を譲らず、他のウマ娘たちをねじ伏せてきた実力者だ。
後ろにぴたりと付くような走りは、スタミナを無為に消費させてしまう。かといってデビュー戦の時のような感覚で足を溜めることに注力していては、距離の短さもあって終盤で追いつけなくなる。
ペースを握られる形になってしまうが、4バ身ほど後ろにつけて走るのが現状の最善手だった。
「流石にきついな」
幼い頃から実力者相手に走る機会はあったが、マルゼンスキーほど圧倒的な逃げでペースを作るウマ娘との勝負は初めてといっていい。
自分でペースを作らずあえて相手についていくような走りでも、今までは勝つことが出来ていた。しかし今回は、それまでとはわけが違った。
気を抜けば置いて行かれそうなほどの逃げ足についていくだけも、スタミナを消費してしまう。それでもまだ巻き返しが可能なバ身差は維持出来ている。
武の指導の下府中の街中や付近の山、あるいは学園内のプールといった場所で行ったトレーニングの効果だろう。なんとか、終盤に加速する分のスタミナは残せていた。
やがてルドルフとマルゼンスキーは、最終コーナーへと進入する。
コーナーを幾分か進んだ先で、先に仕掛けたのはルドルフだった。
「ふっ……!」
ターフを強く蹴り込み、左回りのカーブを突き進む。
最後の直線に差し掛かろうかというとき、マルゼンスキーに半バ身ほどまで詰める。少しずつ、彼女との差が埋まっていく。
――行けるか。
そう思った瞬間、ルドルフの淡い願望を振り払うかのようにマルゼンスキーが更に加速した。
「くっ!?」
あれだけの逃げを展開していた上で、まだ加速する余裕を残していることにルドルフは戦慄した。観客席から見ていたはずの本当の力を間近で感じて、全身に鳥肌が立つ。
マルゼンスキーはルドルフに2バ身を空けて、ゴールへ突き進んでいた。
それでも、負けるわけにはいかない。
自分のトレーナーである武が祈るような表情で見守っている姿が、コースの脇に見える。いつの間にか集まってきたらしい、ウマ娘のギャラリーたちもいる。
そんな状況で無様に負けることはルドルフの矜持が許さなかった。
全てのウマ娘が幸せに暮らせる時代を創るという夢を掲げて生徒会長に就き、ターフの上で“皇帝”の名に相応しい背中を見せることで皆の希望となる。そのためにここまで走ってきた。
何よりまだ、残り僅かとなったスタミナが残っている。
「――――行け!!」
最後の力を振り絞り、三度目の加速をする。
ターフを蹴り、3バ身にまで広げられていた差を徐々に巻き返していった。
2バ身半、2バ身、1バ身半と少しずつマルゼンスキーの背中に近づいていく。
ふと、マルゼンスキーの息遣いが聞こえた。
一切乱れのない呼吸をしていたことに、感嘆の念が頭を過る。
マルゼンスキーはゴールを見据え、自身の勝利を疑っていなかった。しかし僅かに、差を詰められたことに対しての動揺と喜びも聞こえてくるようだった。
――ゴール板が迫る。あと数秒で、この勝負は終わってしまう。
そのことに僅かな寂しさを感じながらルドルフはマルゼンスキーと共に、ゴールを駆け抜けたのだった。
徐々にスピードを落とし数十メートル進んだところで、ルドルフは膝に手をついていた。
呼吸は荒く、肺が足りなくなった酸素を取り込もうと大きく動く。全身は焼けるように熱く汗が滝のように流れ、地面に滴り落ちるのを見ながらルドルフは呟いた。
「――あと1バ身、届かなかったか」
勝負は、マルゼンスキーが1バ身先行してゴールを駆け抜けたことで決した。
学園のコースは、多少の坂はあれど普段から走り慣れている。距離にしても、クラシック以降走ることになるGⅠのレースと比べれば短い。それでも体力を消耗し、最後の最後で指し切ることが出来なかった。
敗因はいくつも浮かんでくるが、これが今のルドルフに与えられた結果だった。
「ルドルフ!!」
聞き慣れた男性の声に顔を上げれば、武が血相を変えて水とタオルを抱えて駆け寄って来ていた。
普段は切れ長だが優しげな印象を与える目が、今は気遣わしげなものになっている。
「ありがとう、トレーナー君。助かるよ」
水とタオルを受け取り、息を整えながらも笑みを作ることで武を安心させようと試みる。努めて笑みを作ったルドルフの顔を見て、武はひとまず安堵したようだった。
まだ大学生の年若いトレーナーだが、未熟さを自覚しながら担当ウマ娘のことをしっかりと考えてくれるところはルドルフも嫌いではなかった。そういう彼だからこそ、ルドルフは或いは自分の望みに近づけるかもしれないと思った。
武をトレーナーに選んだことは間違っていなかった。
「大丈夫か?」
「ああ。どうにか落ち着いてきたよ」
水を口に含みながら、武の言葉に応える。
「レース、惜しかったな」
「そうだな。彼女には、あと一歩及ばなかったよ」
改めてマルゼンスキーとの勝負を振り返り、ルドルフは結果を口にする。言語化したからか、悔しさと同時にこれが今の自分の実力かというある種の納得感もあった。
「それでも、最後まで粘ってて凄かった。まだまだ伸びるよ、ルドルフは」
「ありがとう。私もここで挫けるつもりはないよ、トレーナー君。次は必ず勝つさ」
武の目を見ていると、自然と力が湧いてくる。それは、ルドルフに対して期待を込めていてくれるからか。それとも、彼がウマ娘を好きだからか。
経験自体は他のトレーナーに比べて劣ってしまうのは否めないが、武の人としての在り方は一緒にいると心地が良い。
「ふふっ、二人とも仲が良いのね。お姉さん、羨ましいわ」
既に息を整えたマルゼンスキーが、微笑みながら話の輪に加わってきた。
ルドルフはトレーニング後だったというのを差し引いても、マルゼンスキーは汗をにじませるだけでまだまだ余裕そうだった。
この分だと、トレーニングの疲れが全くない状況で戦ったとしても結果は変わらなかっただろう。
「マルゼンスキーも、水分補給しっかりね」
「あら、気が利くのね。ありがと」
武が予備として用意していた水とタオルを、マルゼンスキーは顔を綻ばせながら受け取る。こういう気配り上手なところも彼の良いところの一つだとルドルフは思う。
「ありがとう、マルゼンスキー。とても有意義なレースだったよ」
「私もよ、ルドルフ。まだデビューしたばかりなのに凄く強いわね!」
マルゼンスキーからの望外な評価に、ルドルフは思わず笑みを零した。まだまだ改善点は多くあるものの、自分の走りを褒められることは素直に喜ばしいことだ。
「マルゼンスキーの走りも、全盛期と遜色ないものだった。改めて、私が目指す道の険しさを思い知らされたよ」
ルドルフには慢心も油断もなかった。それでも負けたのはコースに対する理解、基礎的な身体能力、そして先頭を走ることへの情熱といった部分で未熟だったからだとルドルフは客観的に振り返る。
これから先、走ることになる重賞レースの数々では色んな思いを持ったウマ娘たちが出てくることはルドルフもよく知っている。そんな彼女たちを差し置いて頂点に立つには、生半可な気持ちではいられない。
GⅠの空気も肌身で知っているマルゼンスキーとのレースは、ルドルフに多くの収穫をもたらしていた。
「その口ぶりだと、やっぱり目指すのかしら?」
「ああ。クラシック三冠――私の夢を実現するために、まずはそこを目指したいと思っている」
クラシック三冠はウマ娘レースの歴史の中でも、未だに二桁に満たない人数しか成し遂げられていない偉業の一つだ。
後続たちに皇帝としての姿を見せ、より夢に近づくためにもクラシック三冠は避けて通れないしルドルフ個人としても挑んでみたい気持ちがあった。
そんなルドルフの決意を、マルゼンスキーは柔らかく微笑みながら受け止める。
「ふふっ、頑張ってね!」
「勿論だ。――ではトレーナー君、私はクールダウンに入ろうと思うのだがいいだろうか?」
「ああ。全力出し切った後だから無理しない程度にね」
「そうだな。留意するよ」
武の言葉に従い、ルドルフはマルゼンスキーに一礼をしてからクールダウンに入った。
「本当に強かったわ、ルドルフ」
クールダウンに向かうルドルフの背中を見送りながら、武の隣でマルゼンスキーが呟く。
「でも、まだまだ貴方には及ばなかった。あの子を勝たせてあげられなかった」
コースの外でレースを見ていてルドルフに足りていなかったものは、分かりやすいほどに見えていた。ペース配分や位置取り、スタートダッシュや仕掛け方といった部分でマルゼンスキーには水をあけられていた。
表情を見るに気持ちの面では決して負けていなかったし、次のサウジアラビアRCに勝てるくらいの実力もあった。しかし現状のままでは、ルドルフも口にしていたクラシック三冠は難しいだろう。
それでもマルゼンスキーとの勝負を終えたルドルフの目は、折れていなかった。むしろ更に、闘志を燃やしていると感じられたほどだった。
そんなルドルフの成長をこれから先も手助けしていきたいと、武は誓う。
「ふふっ。トレーナー君、ルドルフと同じ目をしているわ」
「同じ目……?」
「ええ、それはもうメラメラに燃えていたわ。最高のアベックね、貴方たち!」
「あ、ありがとう……?」
最後の方の言葉の意味は分からないものの、褒められているのは分かったので武は首を傾げつつも応える。
マルゼンスキーは武の方にウィンクを送ってから、視線をルドルフに戻す。その横顔は相変わらず微笑んでいたものの、僅かに悔しさも滲んでいた。
「ルドルフが言ってくれたとおり、私も
「やっぱり、負けたくない?」
「モチのロンよ! 走りで負けたいウマ娘なんて、一人もいないわ。それでもあの子が内に秘めてる力は未知数ね。それこそ、傍で見守ってみたくなるくらいに」
「マルゼンスキー?」
何か決意を含んでいるような視線に、武は思わず声をかける。しかしマルゼンスキーはそれには答えず、武に視線を合わせながら突然話題を変えた。
「ねえ、貴方たちのチーム名って決まってるのかしら?」
レースの描写、中々難しい……。
本当はもう少し書きたいことあったのですが、長くなりすぎたので分割します。
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第5話 新星、皇帝と新たな仲間
武はクールダウンの後着替え終えたルドルフに先ほどのことを伝えると、腰を落ち着けて話したいという彼女の意向でマルゼンスキーと共に生徒会室に通されていた。
生徒会長室は落ち着いた色合いの執務机や応接用のソファーなどの調度品が配置された、文字通り生徒会長のための部屋となっている。こうして専用の部屋が用意されているあたり、トレセン学園の生徒会長は普通の学校と比べて重要な立ち位置にあることが伺える。
ルドルフは執務机に背を向けて配置されたソファーに腰掛け、武とマルゼンスキーはテーブルを挟んで対面に座っていた。
「さて、私たちのチーム名が決まっているか、という話だったな」
腕を組み顎に手を当てながら話すルドルフに、武は頷きを返す。
「そういえばずっと、保留したままだったね」
「ああ。私とトレーナー君、二人での出発だったからな」
「学園からは、クラシックに出るには規定の条件でチームを作っている必要があるとは言われてたんだけど、俺の場合は状況が状況だからメンバーがルドルフしかいなくて」
武がまだ正式なトレーナーではないという立場、高校時代の実績があるにしてもトレーナーとしての能力が未知数なこと、“あの”ルドルフがそんなトレーナーと契約を結んでいることなど、色々な要因が重なって他のウマ娘たちから敬遠されているのが現状だ。
学園もそこは理解しているらしく、仮にルドルフ一人のチームになったとしても、各レース出場にあたり優先出場権を獲得し成績を収めれば一定期間猶予するとのことだった。
そんな事情もあり、チーム名を決めるのは保留されたままだった。
そのことをマルゼンスキーに説明すると、頷きながらも指摘する。
「そういえばそんな噂も聞いたわ。でもその割には、勧誘はあまりしてなかったみたいね?」
「まあ、そう思うよね」
「どうしてなのか、聞いてもいいかしら?」
武は一度、向かいに座るルドルフに視線を向ける。
端整な顔立ちをしたルドルフは、武の視線に何事かと首を傾げつつも静かに言葉を待っていた。
そんなルドルフと視線を合わせながら、武は彼女の姿を初めて見た日のことを思い出す。
見る者全てを惹き付けてしまうほどの走る姿を見たからこそ、武はルドルフの夢も応援したいと思った。
彼女の顔を見ながら、武は自分の内側に問われたことへの答えを探す。
答えは思いの外、あっさりと出てきた。
「――ルドルフの走りだけを、ずっと傍で見てたかった。それに独り占めしたかったんだよ、俺は」
マルゼンスキーに言われて初めて自覚した、と付け加えながら武は苦笑する。
ルドルフの走りを傍で見るのに、他のチームメンバーがいることは大して問題ではない。むしろメリットの方が多いだろう。
それでも自分から行動を起こしていなかったのは、他のウマ娘がいることで彼女の走りを見逃してしまうのではないかという恐れ。そして、ルドルフの走る姿を見る時間を誰にも邪魔されたくないという思い。
身勝手だと思われても仕方のない、子供じみた独占欲だった。
「結局は俺のエゴだよ。……この話をしてなかったら、ずるずると先延ばしにしてルドルフに迷惑かけるところだった。申し訳ない」
一定期間という曖昧な表現を学園はしてたものの、チーム結成のタイムリミットはどんなに先延ばししても菊花賞までだろう。
このまま気付けていなかったら、自分の夢もルドルフの夢も叶わないなんてところまでいってもおかしくなかった。
「私も君の想いは、傍にいてひしひしと感じていたよ。ただ仮にそうなったとしても、私は学園にかけ合うだろうな。何としてもトレーナー君の下で走りたい、彼と共に後輩たちに道を示したい、と」
「いいのか? ルドルフのトレーナーになったのも、ずっとチームを作らずにいたのも結局、俺の我儘なんだよ?」
「それを言ったら、私だって十分我儘な類だろう。自ら掴みたい夢があってこの学園に来て、ターフを走ると決めた。君も、君なりの想いや信念があってこの学園に来たのだろう?」
「それは、そうだけど」
「なら、私の走りを傍で見たいという想いも否定されるべきではないさ。むしろそこまで言ってもらえて、嬉しいくらいだ。そんな君だから――君が、“白井武”という人間だったから私は契約を結ぶと決めたんだよ」
優しげに紫の瞳を細めながら、武の心配もエゴも大した問題じゃないとルドルフは言い切った。
相手を慮り導くような在り方は、まさに“皇帝”の名に相応しいものだった。
ルドルフの優しさに、これではどちらが年上か分からないなと武は笑みを零した。
「なるほどね! つまりトレーナー君はルドルフにゾッコンで、ルドルフもトレーナー君にゾッコンで……。やぱり最高のアベックね、貴方たち!」
武たちの話を聞いていたマルゼンスキーが、花の咲いたように満面の笑みを浮かべていた。
間違っていないようでどこか微妙に間違っているようなまとめ方に、ルドルフが頭を抱える。
「マルゼンスキー、その言い方は多分に語弊があると思うのだが……」
「トレーナー君はどう?」
「え、俺?」
隣に座るマルゼンスキーは興味津々な様子で武を見つめ、ルドルフはツッコミを入れたとはいえ気になるのかちらちらと視線を向けていた。
“ゾッコン”の意味は武も知るところだが、答え方一つ間違えるだけでどこに話が転がっていくか分からない。
いつの間にか追い詰められた状況に胃が締め付けられながらも、武は何とか答えを絞り出した。
「――まあ、その。トレーナーとしてはゾッコン……だね」
ちらりと、ルドルフとマルゼンスキーの反応を伺う。彼女たちの反応はというと……。
「ねえ、聞いたかしらルドルフ!」
「き、聞いているよマルゼンスキー……」
「もう、珍しく照れちゃって可愛いんだから」
「揶揄わないでくれ……」
片やマルゼンスキーは喜色満面の笑みを浮かべ、片やルドルフは耳と尻尾を忙しなく動かしながら視線を彷徨わせていた。
「ふふっ、ウマ娘冥利に尽きるわね」
「それは……そう、だな。そこまで私の走りを買ってくれているとなると、より自信が持てるよ」
一応ながら、武の警戒していたことにはならなかったようで内心安堵する。ややこしい方向に話が転がっていく展開は免れたようだった。
「仲が良くて何よりね!」
「大分話は脱線したけどね……」
にこにこ笑顔のマルゼンスキーを見て、色々とエネルギーを使っていた武は脱力するばかりだった。
「と、とにかく。私たちのチーム名が何だったかという話だったな」
動揺からどうにか立ち直ったルドルフが、咳払いをしつつ話の軌道修正にかかった。武もこれ以上は精神が削られそうだったので、これ幸いと話に乗る。
「ここまでなあなあで済ませてきちゃったからね。……だから、今から考えなきゃいけないわけなんだけど」
こうして話題に上がった以上、チーム名はそろそろ決めておきたいところだった。
例え武とルドルフだけのチームでスタートしたとしても、今後メンバーを増やす意志があると学園に認められる可能性は十分にある。それに、チームの体をなしているかいないかによってもメンバーの集めやすさは変わってくる。
武としては、菊花賞までにはチームの最低条件である5人は集めたいところだった。
「チーム名の候補はあるのかしら?」
「一応、前に何となく調べて頭の中に候補として留めてるのはいくつか。今学園にあるチームの名前は、星の名前――特に一等星が中心だからその辺りの名前にしたいと思ってる」
「そうね。私もそれがいいと思うわ。ウマ娘は誰だって、一番になって輝きたいものね!」
トレセン学園に存在しているチームは基本的に、一等星の名前が付いている。
昔から親しまれ強いウマ娘を輩出しているシリウスや、そのライバルであるアルタイル、最近頭角を現し始めたリギル、休止状態にあるらしいスピカ……などは学園内でもよく知られている。
どのチームにも一等星の名前が付いているのは、マルゼンスキーが言ったとおりの願いが込められているからだろう。
武としても、同じようにルドルフやこれから入ってくるだろうメンバーのために、一等星の名前は付けたいところだった。
「ルドルフは、これが良いって名前はある?」
「そうだな。私としては……この格言を体現するようなチーム名であればいいと思っているよ」
ルドルフが、武から見て右手側の壁に飾られた横長の額縁に視線を向ける。
――Eclipse first, the rest nowhere.
白い紙に、ただその一言だけが書かれていた。
「あら、学園のモットーね」
「ああ。――唯一抜きん出て、並ぶ者無し。日本語では、そのように解釈されている言葉だな」
マルゼンスキーの言葉に頷きながら、ルドルフは慈しむように額縁を見つめていた。
武も、両親からその格言について聞かされたことがある。遥か昔、遠い異国の地で名を馳せたウマ娘の活躍から生まれた言葉だ。
「……チームに入るウマ娘たちには、そのぐらい強くなってほしいってこと?」
「あるいはチームそのものが、だな。まあ、如何様にも解釈出来る言葉ではあるが……。まずは私がこの言葉を体現することで、ウマ娘たちの希望となりたい。そして私の後に続く後輩たちにも、いつかこの言葉を体現する者がチームから現れて欲しい。故に、チーム名もその象徴となるものがいいと考えている」
「なるほどね……」
ルドルフが如何様にも解釈出来る、と言ったのはウマ娘によってその言葉の定義は違ってくるからだろう。例えば日本一になるとか、ダービーで一着を取るとか、目標は様々だ。
そんな風に己が定めた目標に向かってウマ娘たちがひた走ることを学園が望んだからこそ、学園のモットーとされているのだろう。
ルドルフの願いは、武も共感するところだ。ルドルフがやろうとしているのは、後輩たちの道を拓くこと。
それなら――――まだ見ぬ“彼女たち”に相応しい星の名前がいいだろう。
「――アルデバラン」
いくつかの候補の中から、武はその名前を口にする。
「確か、“後に続くもの”を意味する名前だったな」
「うん。プレイアデス星団の後に続いて東の空から昇ってくることに由来してるっていうのを知ったときから、これが一番いいんじゃないかって思ってたんだ」
「ふむ……。プレイアデス、という名前はあくまで星団の名前だ。確かに、命名法則に照らすとアルデバランの方が適切だな」
「アルデバランも一等星に数えられるくらいには明るい星だし、俺やルドルフの後に続く子たちが“自分だけの一番”を手にして、更にその後輩たちも続いていく……。そんなチームにしたいと思って選んだんだけど、どうかな?」
先ほどの格言も意識しつつ、武はルドルフに対して名前に込めた願いを語った上で聞いた。
本当はもっと気軽に名付けても良かったのかもしれないが、ルドルフの夢を応援する以上は何か意味のあるものにしたいと武は考えた。ルドルフも意味を持たせたいと考えている点においても一致している。
果たして彼女は、どう受け取ったのか。
武は口を紡いで、目を閉じ黙考するルドルフの答えを待つ。
「――いい名前だ。我々の新たなチーム名として相応しいものだと思う。マルゼンスキーはどう感じただろうか」
「チョベリグな名前だと思うわ! 私も大賛成よ!」
またもや独特な言い回しをしつつ、マルゼンスキーは武とルドルフに向かって笑顔を向ける。
ひとまず二人に気に入ってもらえたようで、武はほっと一息吐いた。
「それじゃあ申請書類は後でちゃんと作るとして……。チーム名決定ってことでいいかな?」
「ああ、問題ない」
「ふふっ、決まりね! どんなチームになるか楽しみね!」
この瞬間、武とルドルフによる新しいチーム「アルデバラン」が誕生したのだった。
これで武がずっと後回しにしてしまっていた問題は片付き、めでたしめでたしといきたいところだったのだが、ここに来て新しい問題が一つ。
「ところでマルゼンスキー、聞いてもいい?」
「何かしら?」
「君はどうして、
つい先刻の模擬レースのときから今この瞬間まで気になっていたことを、武はストレートに投げかけたのだった。
「ふふっ、気になるかしら?」
「そりゃ、気になるよ。いきなり声をかけてきて勝負しよう、なんて言われたら。あの時は二人とも乗り気だったし俺も個人的に君の走りは見たかったから、聞かなかったけど……。何か理由があるんじゃないの? ここまで付き合ってくれてることも含めて」
ルドルフのトレーニング終わりに合わせたように声をかけてきた時点で多少気にはなったが、武も個人的な興味が上回っていたためその場での言及はしなかった。
医者から走ってもいいとお墨付きをもらったのは本当だとしても、その相手が何故ルドルフではないといけなかったのか。そして、今まではあえて流していたが当然のようにチーム名を決める話し合いに混じっていたのか。
どちらも武は不快に思わなかったし、ルドルフとの対決が見られたりチーム名を決めるきっかけをくれたりと、感謝しているくらいだった。
だからこそ、気になるのだ。
――どうしてそこまで自分たちに関わろうとするのか、と。
「――君は、俺たちのチームに加わろうとしてるんじゃないかって思ったんだけど、どうかな?」
今までのマルゼンスキーの言動を踏まえた上で、武は一つの推測を口にする。ここまで積極的に関わってきたことを思うと、むしろそれしか考えられなかった。
「ええ、そのとおりよ。私は貴方たちのチームに入りたいの。でもトレーナー君が本当に気になるのはそこじゃなくて、“私が貴方たちのチームに入りたい理由”よね?」
「うん。そこが気になってた。何でマルゼンスキーほどの子が、まだ1勝しかしてないチームに入りたいのかって」
ルドルフも同じようなことを思っていたのか、武と共にマルゼンスキーに視線を向ける。
マルゼンスキーは本来、別のチームを預かる若手トレーナーの下走っていたと武は記憶している。
史上稀に見る無敗のまま引退したウマ娘の誕生はそのトレーナーの名声にも繋がったはずだし、そう簡単に手放してもらえるとは思えない。引退してもすぐに学園を去らず、卒業までチームに貢献するウマ娘もいるくらいだ。
「それはね、ルドルフがいたからよ」
「私が……?」
ルドルフをまっすぐ見て、マルゼンスキーは告げた。
「そうよ。貴方のデビュー戦の走りを見たときから、ずっと一緒に走りたいって思ってたの」
「君もあのレースを見ていたのか」
「ええ。デビュー戦の時点で貴方の実力は頭一つ抜けていたわ。他の子のマークも意に介さないどころか置き去りにしちゃって勝つんだもの。ウマ娘として、ルドルフみたいな子と走りたいって思うのは自然なことじゃない?」
マルゼンスキーの言うとおり、デビュー時点でのルドルフの実力は明らかに他のウマ娘たちと比べて抜きんでていた。あの走りがマルゼンスキーの琴線に触れたのだろう。
「確か君は、“アンタレス”に所属していたと記憶しているがそちらはいいのか?」
ルドルフの疑問はもっともだった。
マルゼンスキーは本来、アンタレスという若手の女性トレーナーに率いられたチームに所属していたはずだ。
チームの移籍自体は前例がないわけではないが、チームの代表であるトレーナーから同意を得られているかは確認しなければいけない点だった。
「問題ナッシングよ。ルドルフのところでもう一度走りたいってトレーナーちゃんにも相談したわ。……まあ、私の脚が治りきってなかったからって最初は止められちゃったけどね」
自分の脚を擦りながら、マルゼンスキーは苦笑を浮かべる。
マルゼンスキーの引退の要因となった脚部不安は、彼女を担当していたアンタレスのトレーナーからも心配されていたようだ。常人ではあり得ない速度で走るウマ娘にとって脚は、生命線と言ってもいい。首を縦に振らなかったのは、武にも容易に想像出来た。
「それでもマルゼンスキーは、自分の意志を曲げなかったんだね」
「ええ。私が本気だって知ったらトレーナーちゃんも折れてくれて、その代わり脚はきちんと治せるところまで治してからにしなさいって言ってくれたの」
それが、アンタレスのトレーナーに出来る最大限の譲歩だったのだろう。
武は春ごろに一度挨拶を交わしただけで人となりはほとんど知らなかったが、嬉しさ半分申し訳なさ半分といった調子で話すマルゼンスキーを見るに、良い人なのだろうと思えた。
「良いトレーナーなんだね、その人は」
「それはもう! 沢山お世話になったわ。普段のトレーニングもそうだし、レースもやりたいようにやらせてくれたし、私が行きたいって言って買い物やドライブにも付き合ってくれたし……。最高のトレーナーよ」
「――だがそれでも、彼女の下を離れることを選んだのだな」
思い出を懐かしむように目を細めるマルゼンスキーに対して、ルドルフが切り込んだ。
「ええ。私はルドルフっていう目標のためにもう一度走りたいって思ったわ。ルドルフと本気でぶつかり合ったら、もっと楽しいレースが出来るんじゃないかって。だから初心に帰る意味でもこのチームに入りたかったの」
「なるほど。君の気持ちはよく分ったよ、マルゼンスキー。私のような若輩者にそこまでの評価をしてもらえて光栄だ。私は歓迎したいところだが、トレーナー君はどうだろうか?」
「俺も、そこまでの覚悟をして来てくれたのなら断る理由はないよ」
マルゼンスキーの答えを聞いて、武はルドルフと視線を合わせつつ首を縦に振った。
彼女が引退したのはケガをはじめとした様々な事情があったが、気持ちに区切りをつけて一線を引く選択をしたのは彼女自身のはずだ。
それでも今日、直接対決をした上で一緒のチームで走りたいと言わせるほどに、ルドルフの走りはマルゼンスキーの気持ちを変えた。少なくともそれは、尊ぶべきことだ。
「一ついいだろうか、マルゼンスキー」
「何かしら?」
「君の言い回しだと、現役復帰を希望しているようにも聞こえたが……。違いないだろうか?」
「そのつもりよ。そんなに簡単な話じゃないっていうのは、私もよく知っているけど」
マルゼンスキーの言うとおり一度引退したウマ娘が復帰した前例は限られる上、日本ではURAにより中央での復帰は認められていないのが現状だ。
「ああ。URAは過去、復帰したウマ娘が命の危機に瀕し選手生命を絶たれてしまったという事態を経験している。故に非公式戦や一部の例外を除いて、中央での選手の現役復帰は認めていない」
「でも、復帰したから危ない目にあったわけじゃないでしょう? ターフの上を走る子たち皆が背負ってることだわ」
ルドルフが口にしたURAの方針は、ウマ娘たちを守るためのものであって間違っていない。一方でマルゼンスキーの言い分も、ウマ娘全員が同じリスクを背負っているという指摘も理解出来るものだった。
「その指摘は、私も同意するところだよ。だが、URAが規則に厳しいのは君自身が経験していることだろう?」
「日本ダービーのことね」
クラシック三冠の一つであり、これからルドルフも目指すことになるそのレースにはかつて様々な制限があった。マルゼンスキーは当時の制限に引っ掛かってしまい出走が叶わず、彼女のダービー出場を期待していたファンたちから失望の声も多く上がっていた。
「大外枠でもいいから出させてくれってトレーナーちゃんと一緒に頼んだけど、あの頃のURA本部は全然聞いてくれなくて。あれはちょっと、悔しかったわね」
そう言ってマルゼンスキーは茶化すように笑うが、忸怩たる思いもきっとあっただろう。
それだけURAは保守的な面が強い組織だとも言えるが、良くも悪くもウマ娘を「守る」ためでもある。
「まあ、URA本部の判断は世間の人たちに知れ渡った途端、各所で猛烈な批判を浴びてそれまでの方針が嘘だったかのように規制を緩めたが……。それは、君の活躍があったからだ。君のようなウマ娘がもう二度と悔しい思いをしないようにと、世間が動いた。間違いなく、君のおかげだよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、少し救われるわ。でもあの騒ぎは、ちょっと怖かったわね……」
「それは、私も同意するところだな……」
今から数年前、マルゼンスキーのダービー出走不可のニュースはテレビやインターネットを通じて瞬く間に日本中に広がり、大炎上の様相を呈していた。
レースに出るウマ娘は競争選手であると同時に、アイドル的な側面も併せ持つ。
まして、マルゼンスキーはダービー前の時点でも圧倒的な成績を叩き出しながら、その見目麗しい容姿と大人びたお姉さんのような立ち振る舞いから熱心なファンも多かった。それが余計に、URA本部に対しての世間の批判を加速させたのだろう。
当時の混乱ぶりは、武もよく覚えている。
「マルゼンスキーの現役復帰はすぐにとはいかないだろうけど、あれだけのことがあったんだ。少なくとも無碍にはされないんじゃないかって俺は思う」
世間の激烈な反応を目の当たりにしたURA本部は、未だ事件の傷は癒えきってはいないだろう。今回は命にも関わることのため慎重にならざるを得ないが、妥協点を探ることは可能なはずだ。
「そうだな。秋川理事長を通して本部と交渉する形になるだろうが、まずは君自身の意志を示すことが大事だ。私とトレーナー君に話してくれたようにな」
「――うん、そうね。まずは何事もやってみないと始まらないわ」
日本ダービーの騒動があったから今回は話を聞いてくれるだろう、というのは現段階では希望的観測に過ぎない。駄目なものは駄目だと突っぱねられる可能性は依然として残っている。
それでもマルゼンスキーが口にしたように、動いてみないと成否すら分からないだろう。
だから武も、本部と交渉することに関しては何の抵抗もなかった。
「それじゃあ、まずは俺が秋川理事長に話してみるよ。マルゼンスキーがうちのチームに入るっていう報告と一緒にね。その後にマルゼンスキーも直接話を聞かれることになると思うけど……、それでいいかな?」
「それは嬉しいけど、いいの?」
「マルゼンスキーを預かることになる以上、俺もトレーナーとして責任がある。それに俺個人としてもマルゼンスキーが来てくれるのは素直に嬉しいし、このぐらいはへっちゃらだよ」
内心では秋川理事長にまた苦労をかけることや、マルゼンスキーに並々ならぬ思いを注いできただろう前任トレーナーと話すのは武も気が引ける。
それでもGⅠをよく知り、ルドルフの先輩ともいえるマルゼンスキーがチームに入ってくるメリットは大きいと思えた。
だからこそ、強気でマルゼンスキーの問いに答えた。
「ふふっ、それじゃ、お言葉に甘えちゃうわね。トレーナー君っ!」
武の精一杯の強がりを見て取ったのか、マルゼンスキーは一瞬目を見開いてから破顔したのだった。
「んーっ! すっかり日が暮れちゃったわねぇ」
学園の校門を出ると、月が浮かぶ空を見上げながらマルゼンスキーが大きく伸びをした。
「二人とも、先に帰っててくれてよかったんだよ?」
武は前に並んで立つルドルフとマルゼンスキーを見ながら、苦笑交じりに言った。
生徒会長室で新たなチーム名とマルゼンスキーの加入が決まった後、武は早速秋川理事長に報告しに行った。それ自体はとんとん拍子で話が進んだものの、アンタレスのトレーナーへの挨拶やマルゼンスキーが現役復帰を目指すことついての話をしていたら、いつのまにか夜になっていた。
武もこうなることは想定内だったが、意外だったのはルドルフとマルゼンスキーが待っていてくれたことだった。帰路につくため荷物を取りに、自分のトレーナー室に戻ると二人がいたのには驚かされていた。
「この大事な節目に、君一人に全てを任せて帰るというのも憚られたのでね。せめて君の報告が終わるのを待ちたかったんだ」
「でももう、門限ギリギリの時間だよ?」
「何、そのとき寮長から怒られるのは私一人だから問題ないさ」
当然とばかりに言い放つが、ルドルフは生徒会長だ。学園の学生たちを纏める立場の者が門限破りをするのは如何なものかと武は思う。
一方で彼女なりに心配してくれていたというのは伝わって来たし、待っていてくれたことに対して素直に嬉しい気持ちもあったので、それを態々口にすることはしなかった。
「マルゼンスキーは大丈夫なの?」
「私は一人暮らししてるから問題ナッシングよ! トレーナーちゃんにも挨拶しておきたかったもの」
武の用事が終わり三人で校舎を出る前、マルゼンスキーは退勤するところだった前のトレーナーを捕まえて話をしていた。
武はルドルフと共に気を遣って先に玄関で待つことにしたが、その場を離れる直前に見た二人は気の置けない友人といった間柄であるのが見て取れた。
「さっき会ったときも思ったけど、すごく優しい人だったね。マルゼンスキーのこと、大事にしてるのがよく分かったよ」
「ふふっ、そうね。レースでも練習でも遊びでも、いろんなところに行ったもの。楽しかったわ」
同性であることも影響したのか、学園でも随一と呼べるくらいには彼女たちの仲の良さが伺えた。
思い出を懐かしむように微笑むマルゼンスキーの表情が、それを何よりも物語っていた。
「あの人から託された分、俺も頑張らないとな」
「よろしくお願いね、トレーナー君っ。待ってる間に君が良いトレーナーだってことはルドルフからしっかり聞いたから、期待してるわ!」
「うん。よろしく、マルゼンスキー。因みにどんな話をしてたのか聞いても?」
マルゼンスキーの言葉に応えつつ、興味半分に武は尋ねた。
マルゼンスキーは意味深な笑顔を浮かべながらルドルフを一瞥し、口を開く。
「それはねぇ……。トレーナー君がルドルフのステージ衣装をべた褒めしたこととか、オフの日にデートしたこととか! ふふっ、貴方たち一年目から中々やるわね!」
「ちょっ、それは色々と語弊が……! いや間違ってはいなんだけど!」
確かにルドルフのステージ衣装を褒めたのは事実であるし、オフの日も結果的に二人で出かける形になったが聞きようによっては誤解を招きかねない言い方に、武は焦る。
そんな武を見てか、マルゼンスキーはますます楽しそうに笑みを深めていた。
「ルドルフが嬉しそうに君のこと話すから、つい色々聞いちゃったわ。細かいところまで気を配ってくれてるとか、トレーニングは柔軟まで手伝ってくれるとか、レースの対策もすごく考えてくれてるとかね」
「そ、そうなんだ……」
思っていた以上にルドルフが自分のことを語っていたことを知り、武は何と返せばいいか分からず曖昧な返事をする。
武自身としてはトレーナーとして当たり前のことをやってきたつもりだ。一方でルドルフのようなすごいウマ娘にそこまで評価してもらえていたのか、という思いもあった。
「すまない、トレーナー君。私もマルゼンスキーと話しながらこの数ヶ月を振り返るうち、つい熱がこもって色々と語ってしまったんだ」
「そ、そっか。まあルドルフが話したいって思ったんなら、俺はそれでいいよ」
「か、感謝する……」
妙な気恥ずかしさから、武とルドルフは押し黙ってしまう。そんな二人を見てマルゼンスキーは、微笑ましい物を見るような表情をしていたのだった。
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第6話 重賞、皇帝の進撃
ルドルフにとって初めての重賞となる、GⅢサウジアラビアロイヤルカップ。
秋晴れとなった空の下、東京レース場には多くの観客が詰めかけていた。
やはりというべきかデビュー戦で強さを見せつけたルドルフに注目が集まり、事前の人気投票では1番人気に推されていた。
とはいえ前回のデビュー戦と違い、中央での特にレベルが高いとされる重賞の一つだ。ルドルフに限らず、それぞれが何かしら秘めた物を持つウマ娘たちばかりである。1番人気だからと言って絶対に勝つとは言い切れないのが、怖いところだ。
「トレーナー君、緊張してる?」
武が観客席の最前列で出走の時刻を待っていると、チームメンバーとして一緒に来ていたマルゼンスキーに隣から声をかけられた。
「そりゃあ、ルドルフにとって初めての重賞だから。ルドルフが勝つって信じてるけど、どうしてもね」
武はかつてレイと共に地方で様々なレースを戦ったが、重賞として設定されているレースに出てくる中央のウマ娘たちのレベルは段違いに高かった。
それに、チーム・アルデバランとしても初めてのレースだ。ここで勝って幸先のいいスタートを切りたいというのが正直なところだ。
「ルドルフは違うみたいよ?」
マルゼンスキーが視線を向けた先、コースを挟んで観客席の正面に設置されたモニターにはゲート入り前のウマ娘たちの表情が映し出されていた。
一人ひとりがアップで映され、最後に一番人気となったルドルフの姿が流される。
体操着に身を包んだルドルフは腕を組み、静かにゲートの方を見ているようだった。
「――泰然自若、か。ルドルフらしいな」
よく四字熟語を口にするルドルフに倣って、ターフの上で佇む彼女のあり様を武は口にする。
緊張はしていても、それすらも力に変えて悠然と目の前のレースに集中する。そんな立ち姿だった。
デビュー戦後のウイニングライブの時、ルドルフが一緒にステージに立つウマ娘たちに語っていたことが思い出される。あの時口にしたことを、今も有言実行しているのだろう。
それが、ルドルフの強みの一つなのだと今更ながら武は思い至る。
「私もね、初めて重賞に出たときは緊張してた――気がするわ」
「気がする……?」
「ええ。緊張する気持ちよりも、大舞台で一番前を走ることが楽しみで仕方がなかったのよ。その時、自分を突き動かしていたものの比重の方が大きかったわ。ルドルフも多分、似たようなものじゃないかしら」
今のルドルフを突き動かしているのは、ウマ娘たちが幸せに暮らせる時代を創ること。そのために彼女は生徒会長として下地を積み重ね、ついにターフの上へと進出した。
どうしてルドルフがその夢を持つに至ったかを、武は知らない。けれど、そこから始まった歩みの中で彼女が胸に抱いていた物がなんなのかは、言い表すことが出来る。
「ルドルフの場合は……使命感、か」
「きっと、ね。そういう“何か”を持ってる子の意志の強さは、トレーナー君が何よりも知っているでしょ?」
マルゼンスキーの言うとおり、ルドルフは武が初めて出会ったころから心に決めた“何か”……明確な夢を持っていた。理想、と言い換えてもいいだろう。
冷静に考えればあまりにも途方もない、いつ辿り着けるかも分からない夢だ。終着点があるのかどうかさえ、疑わしい。
それを、ルドルフは分かっているのだろうか。いや、聡い彼女のことだ。きっと分かっていたのだろう。
困難な道のりだと分かっていても、ルドルフはそれを願わずにはいられなかった。
武の「ウマ娘を笑顔にしたい」という夢と、根本的な部分では共通している。しかしルドルフの夢は、更にその先を行っていた。
「……そうだね。いつだってルドルフは地に足が付いてた。あの子なら、本当にやってくれるんじゃないかって思う」
夢を叶えるため、ルドルフは生徒会長になり、勉学もトレーニングも手を抜かずにやってきた。それが自分に必要な物だと判断したのだろう。そしてしっかりと、結果も残してきた。
だから今回も、ルドルフは必ず勝つ。ルドルフの在り方を見つめ直して、武は確信にも似た思いを抱くことが出来た。
「そうね、私もそう思うわ。だからいっぱい応援しましょ」
「うん。……励ましてくれてありがとう、マルゼンスキー」
「ふふっ、何のことかしら?」
マルゼンスキーは愛らしさと大人っぽさを兼ね備えたウィンクを武に送りながら、笑っていた。
『東京レース場1600m、芝の状態は良の発表となりました。各ウマ娘、気合十分の表情をしています。注目はやはり、1番人気17枠2番のシンボリルドルフでしょうか』
『前回のデビュー戦は2着に4バ身差を付けて勝利しています。今回はどのようなレースを見せてくれるのか、目が離せないウマ娘ですね』
女性の実況と男性の解説の声がスタンドに流れるのを聞きながら、武はゲートインしていくウマ娘たちの様子を見守る。
ウマ娘たちはジュニア級、クラシック級、シニア級と1年ごとに昇級していくことになるが、このレースで出場するのは今年デビュー戦を勝利したジュニア級のウマ娘たちだ。
多くのウマ娘たちにとっての最初の関門を突破しているだけあって、ほとんどの子が仕上がっており気合も十分に見える。展開次第では、誰が勝ってもおかしくはない。
「――頑張れよ、ルドルフ」
右手を握りこみながら、武はモニターを祈るような気持ちで見つめた。
東京の芝1600mは、3コーナー周辺の下り坂と最終直線の上り坂があることで距離以上にスタミナを消耗しやすい。その対策は、同様のコースを走ったことのあるマルゼンスキーにも協力してもらって練習を積み重ねてきた。
普段の勉学や生徒会の仕事もある中、ルドルフは練習も手を抜いていなかった。そんな彼女の頑張りが、報われてほしいと武は思う。
『各ウマ娘ゲートイン完了しました。――今、スタートしました!』
実況の声と同時にゲートが開き、ウマ娘たちが一斉に飛び出す。
『各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました。1番人気シンボリルドルフは4番手の位置に付けていますが――他のウマ娘たちとの位置取り争いでやや順位を落としたようです』
『最初の300mは緩やかな下り坂が続いていますからね。スピードは出やすいですが、この後の展開を考えると出来るだけいい位置に付けておきたいところです』
実況と解説の言葉通りルドルフは好位置で走っていたものの、下り坂を利用するように走るウマ娘たちが複数いたことで追い越され、中団のやや後方に順位を落としていた。
しかしルドルフはそんな状況にあっても焦らず、スピードを一定のまま維持しながら前方を伺う。
「流石ルドルフ」
ルドルフの冷静さに、武は言葉を漏らす。
東京レース場芝1600mは、序盤から中盤にかけて長い下り坂と短い上り坂の繰り返しで、息が抜き辛いのが特徴だ。ここで他のウマ娘たちに付き合って最初の下り坂をハイペースで進もうものなら、あっという間にスタミナを消耗させられてしまう。
あえてライバルの消耗を狙っている子もいるかもしれないが――ルドルフはあくまでも冷静に、脚を溜めることに専念していた。
『2番手以降は順位が定まらず、混戦の様相を呈しています。やはりこの後のカーブを警戒しているのでしょうか。先頭を駆けるのは3番、後続を2バ身放しての逃げのようですが――』
『掛かっているのかもしれませんね。今回のコースはマイル戦ながら中距離戦並みかそれ以上のスタミナが要求されます。持つといいのですが』
逃げ自体はレースの主導権を握りやすく、スタミナを持たせられるのであれば決して悪い選択ではない。
「マルゼンスキーはこのコースで勝ってたよね。逃げで」
「そうね。二回走って、二回とも勝ったわ」
当時のことを思い出しているのか、マルゼンスキーは楽しげに笑みを浮かべていた。彼女の場合は先頭を走るのが好きだっただけとも言えるだろう。
一方で息が入れ辛いとも言われるこのコースで二勝しているのは、走り切れるだけの実力があったということでもある。
『最初の上り坂を越え残り1200m、3番、後続との差が1バ身ほどまで縮まっています。もうすぐ3コーナー、辛そうな表情を浮かべる子も出てきていますがここから差せるウマ娘は出てくるのでしょうか?』
『直前に短いながらも急勾配の坂があったので息を抜きたいところですが、すぐにスピードの出やすい下り坂に入っています。選手たちにとっては恐らく辛い状況でしょう』
『1番人気シンボリルドルフは現在4番手の位置に上がって、前方集団を見ています』
『坂でややペースは上がっていますが、冷静な走りですね。ここからの展開に期待が持てます』
レースは中盤に差し掛かり、先行していたウマ娘たちの内側からルドルフが位置取りを押し上げ、その差は2,3バ身といったところだろうか。
観客席にいる武の目からも、ルドルフが
3コーナーを下りながら、ルドルフは呼吸を乱すことなく前方集団を見つめていた。
短いながらも急勾配な坂を高速で駆け上がり脚も肺も苦しくなったところで、今度は長くやや急な下り坂とカーブを走らされる。中距離以上のスタミナが要求されると言われるのも納得だった。現に、序盤で脚を使いすぎてしまった子が後ろに下がっていくのが横目に見えている。
その上前回走ったデビュー戦よりも400mも短く、脚を溜められる時間も短い。重賞のコースとして使われるだけのことはある、難易度の高いコースだ。
それでも、ルドルフの走りは揺らいでなどいなかった。
デビュー前から積み重ねてきた、武とのトレーニング。
彼が施すトレーニングは基礎の徹底が特徴的だ。瞬発力や一定のスピードで走り続けられるスタミナの強化といったものもそうだが、目標とするレースや距離適性、脚質から必要な感覚を身に付けさせる。身体能力だけでなく「感覚」もレースで走る上で必要な基礎だというが、それはルドルフも同意するところだった。
武はルドルフと年齢は近いが、当たり前のようでいて徹底させるのにも経験が必要なそれをやってのけられるのは“以前の担当ウマ娘”の存在があったからだろう。
基礎を徹底させるというスタンスは、マルゼンスキーとのトレーニングにもよく表れていた。
実際にコースを走った時の所感をマルゼンスキーから聞いて、レースの研究を皆で行う。急勾配の坂道を使って、体に感覚を覚え込ませるとレーニングもしてきた。
加えて、幼いころから鍛えてきた基礎体力もある。
「想像していたよりも肺はきつい。脚も重い。――だが」
4コーナーに侵入すると同時、ルドルフは先頭三人のウマ娘たちの後ろにつける。
ここから先は緩やかな上り坂が続き、最後の直線で更に急勾配の坂を上ることになる。しかしルドルフは、“それがどうした”と言わんばかりに虎視眈々と前を伺っていた。
最後の直線が、本当の正念場だ。序盤から中盤にかけて削れたスタミナを振り絞り、最後まで走り抜けられるかどうかが問われる。
前方を走るウマ娘たちは流石というべきか、ここまでペースを乱すことなく走り続けていた。きっと、デビュー戦で勝利を飾った後もルドルフと同じく鍛錬を続けてきたのだろう。
それでもルドルフは負けられない。
自分を選び共に夢を見てくれる武と、一度も負けず憧れに近い尊敬を抱いているマルゼンスキーが見ている。 そして、“アルデバラン”の名の如く未来の星になるウマ娘たちの夢も背負っている。
多くの想いを受け取って、ルドルフはこのターフに立ったのだから。
最後の直線に入る。前に進む度、急になっていく坂をウマ娘たちが懸命に登っていく。
残った力を振り絞り、一着にならんと駆けていく。
それでも僅かに前方集団のスピードが落ちていくのと、外側に
「――ハアッ!」
勝利への道筋を確信し、ルドルフは鋭くターフを蹴りつけた。
『おおっと! ここで2番シンボリルドルフ! シンボリルドルフが伸びてきた! 後続のウマ娘たちも追いすがる!!』
前方三人のウマ娘たちとの差を詰めるようにルドルフが仕掛け、実況の声と共に観客席から歓声が沸き起こる。
後方のウマ娘たちはルドルフに釣られるようにスパートをかけ、前方のウマ娘たちは追い付かれまいと必死に走り続ける。
しかし皇帝は、それを物ともせず最後の直線を突き進んでいた。
『シンボリルドルフ、外からぐんぐん伸びていく! シンボリルドルフ今追い抜き先頭!
その差は1バ身、2バ身! 凄まじい末脚だ! これは強い! シンボリルドルフ! たった今――ゴールしました!!』
ゴール板を駆け抜けた瞬間、更に大きな歓声が会場を包み込んだ。
まるで風のように、悠々と坂を登り圧巻の走りを見せつけた皇帝の姿に、多くの人々が魅了されていた。
ルドルフは勝利に湧く観衆たちに手を振り答えながら、武たちの下へと歩み寄ってきた。
「おめでとう、ルドルフ!」
「最っ高の走りだったわ!」
傍に来るなり武は前のめりになりながら、マルゼンスキーはガッツポーズをしながらルドルフの勝利を祝う。
二人の歓迎ぶりに面食らいながらも、ルドルフは笑みを浮かべた。
「ありがとう、二人とも。君たちから見て、皇帝に足る走りは出来ていただろうか」
「ああ、完璧だったよ」
「ルドルフ、マイルは苦手とは言ってたけどやるじゃない!」
ルドルフはクラシック路線で皐月賞やダービー、菊花賞の三冠を一つの目標にしている。どれも中距離以上のレースばかりで、必然的にトレーニング内容もそれらのレースを見据えた内容になってくる。
そのため距離の短いマイル戦はやや不利にも思えたが、ルドルフは難なく走り切ってみせた。
終盤での凄まじい伸びと共に勝ってみせた姿は、まさに皇帝と呼ぶに相応しいものだった。
「それを聞いて安心したよ。私はまた一つ、夢に近づくことが出来たのだな」
握りしめた右手を胸元に当て、噛みしめるようにルドルフは呟く。
「そうだな。皆が君を見てる。ウマ娘だけじゃなくて、ここにいる人たち皆が」
武の言葉に、ルドルフは顔を上げて観客席を見渡す。
ほんの1、2分前のルドルフの勝利に、ある人は驚きの表情を浮かべ、またある人は興奮冷めやらぬ様子で叫んでいる。東京レース場の観客席に集まった多くの人々が、熱の籠った視線をルドルフに向けていた。
「――ああ。私は夢に近づいただけではなくて、夢を与える者にもなったのだったな」
たくさんの人々の歓声を受けて、ルドルフは眩しそうに目を細める。
ルドルフの胸の内にどんな想いがあるのかは、武には伺い知れない。それでも表情を見れば、その感情は決して悪い物ではないだろうということだけは分かった。
「サウジアラビアロイヤルカップ、優勝おめでとうございます! シンボリルドルフさん、今の心境をお聞かせください」
「はい。今回、サウジアラビアロイヤルカップ優勝の栄誉を授かることが出来たのは、この日に向け連日指導してくれたトレーナー、そして私に声援を送ってくれた全ての人々の力添えがあってのものだと思っています。そのことに、感謝の意を表したいと思います」
レース後の記者会見場で、ルドルフは記者たちを前にして堂々とした佇まいでインタビューに答えていた。シャッター音にも動じた様子はない。以前から注目のウマ娘として取材を受けることがあったからか、随分と慣れた様子だった。
武も隣に立ち、ルドルフのインタビューの様子を見守る。あくまでもルドルフが主役だが、記者から会見の趣旨から離れた質問が飛んで来るのを防いだり、単純に武自身に向けた質問に答えたりするためだ。こうして矢面に立つのは高校時代には無かったので緊張はするが、これもルドルフのためだと割り切って武はこの場に立っていた。
「ありがとうございます。シンボリルドルフさんは生徒会長も務めており、元々学園内での注目度は高かったそうですが、今回2戦2勝を達成したことでよりかけられる期待も大きくなります。プレッシャーなどは感じているのでしょうか?」
「プレッシャーは特に感じていません。私は自らの名と、生徒会長としての立場に誓って多くのウマ娘たちの道を全身全霊の努力でもって拓いていく所存です。とはいえ今はまだ、大言壮語の域を出ません。故に、まずはクラシック三冠を目標に研鑽を積んでいこうと思います」
ルドルフがさらりと口にした言葉に、会場にいる記者たちのざわめきが大きくなる。
まだデビューして2勝目のウマ娘が、記者たちに向けて明確にクラシック三冠への意志表明をするというのは珍しい。そのためか、驚きの表情をする者もいれば期待の籠った眼差しをルドルフに向ける者もいた。
あとは、今年のクラシック三冠に王手がかかっているウマ娘がいることも手伝ったのか。“彼女”に続いてルドルフも三冠を手に入れれば、とてつもない話題にもなる。記者としては聞き逃せない発言だったはずだ。
ルドルフとしては、ここで明確に意思表明をしておくことであえて退路を断ち決意を固めておきたかったという意図もあるのだろう。
それが今後吉と出るか凶と出るかは分からないが、何があっても全力で支えようと武は思うのだった。
「おかえり、二人とも! 記者会見見てたわよ! すごく立派だったわ!」
武はルドルフと共に控室に戻ると、マルゼンスキーが太陽のように明るい笑みを浮かべて二人を出迎えた。
「ありがとう、マルゼンスキー。君にはいつも、苦労をかける」
ルドルフが笑顔で応じつつ、気遣うように言葉を投げかける。
それは一ヶ月ほど前、つまりはチーム・アルデバランを結成してほどなく世間に向けて新チーム設立と共にマルゼンスキーの移籍を発表したことから由来する、心配の言葉だった。
世間的にマルゼンスキーは、8戦8勝の無敗記録を打ち立て引退した伝説のウマ娘の一人という認識だった。そんな彼女が元いたアンタレスを離れ、“新人トレーナー”とデビューしたてのウマ娘による新チームに移籍するとなれば必然、話題になる。
発表してから最初の一週間は特に、学園への取材依頼の申し込みが殺到したり、街中にいたマルゼンスキーへの飛び込み取材があったりと、反響が大きかった。
今日のレースでも、観客席に入っていく際に他の観客たちからマルゼンスキーが声をかけられていたくらいだ。
武にとってはマルゼンスキーの世間への影響力はそれだけ大きいのだと、改めて実感させられる出来事だった。
「いいのよ。今日の主役はルドルフだもの。私があの場にいたら話題、逸れちゃってたかもしれないから」
自然と観衆たちがレースに夢中になる観客席は兎も角、記者たちが集まる会見場の場合はマルゼンスキーがいると話題も自然と彼女のものになりかねない。
そのことを危惧していたマルゼンスキーは、レースが終わった後武たちと別れ控室で会見を見守ることにしたのだった。
「まあそれでも、何でマルゼンスキーは移籍することになったのか、とか現役復帰はあるのか、とか色々聞かれたけどね」
武は会見で、自分に向けられたいくつかの質問内容を思い出す。一ヶ月の間で別々の記者から何度も聞かれたことだったので、質問自体に戸惑うことはなかった。
理由の部分で言えば、マルゼンスキーがルドルフに才能を見出したことやチームとしてもぜひ彼女を迎え入れたかったことなど、一ヶ月前に本人と話したことを取材向けに話した。
復帰に関しては、今後のコンディション次第だと言って濁してある。この辺は本当に、まだ決まっていないからだった。出走させるなら、まずは次の春辺りのOP戦からかと考えている程度だ。
あとは、別の取材で本人が答えているとおりだと言って話題を切り上げた程度だ。
「ありがとね、トレーナー君っ。しっかり答えてくれてて、すごく安心したわ」
「どういたしまして。まあ、マルゼンスキーっていうすごいウマ娘のトレーナーになった洗礼みたいなものだから、このくらいはちゃんとしないとね」
「ふふっ、トレーナー君のそういうところ好きよ」
マルゼンスキーはそう言いつつ口元に人差し指を当て、ウィンクをする。その少女らしい愛らしさと大人っぽさという相反する要素を併せ持ったポーズは、随分と様になっていた。
他人から「好き」と言われた経験が数えるほどしかない武にとっては不意打ちも同然で、マルゼンスキーの言動にどう対応すればいいか分からず固まってしまう。
「あら、意外と初心だったのかしら? そんな可愛い反応されちゃうと、お姉さんのテンションもアガってきちゃうわ!」
「こら、マルゼンスキー。トレーナー君を困らせないでやってくれ」
「うふふ、冗談よ」
今にも悪戯心がトップギアに入りそうだったのをルドルフが諫めると、マルゼンスキーは笑いながらも矛を収めて事なきを得る。
その間に武はどうにか持ち直すことが出来た。
「ありがと、ルドルフ」
「トレーナー君を支えると決めた身だからな、この程度はお安い御用だ。――トレーナー君があそこまで異性からの言葉に反応するとは私も意外だったが」
「そこはまあ、色々あったから……」
「トレーナー君の過去は私も多少知ってはいるが……。今回は素直に受け取ってもいいのではないかな?」
「うん、そこはほんとに反論出来ないね」
これではどちらがトレーナーか分かったものではないと、武は苦笑する。
武が固まってしまったのは恋愛感情を抜きにした純粋な好意に慣れてないのもあるが、レイから告白されたときのことを咄嗟に思い出してしまったせいもあった。
「……まあ、えっと、その。ありがとう、マルゼンスキー」
「ふふっ、どういたしまして!」
ルドルフのアドバイスに従って、照れ臭さを飲み込みつつ礼を述べるとマルゼンスキーは華やいだ笑みを浮かべたのだった。
「ところで、さっきの会見だけど」
「ああ、私がクラシック三冠を目標にしていると記者の皆に表明したことだろうか。トレーナー君には事前の相談をしていなかったのは、申し訳ないと思っている」
「それは気にしてないから、謝らないで大丈夫。ルドルフ自身が決めたことなんだから、君が言うべきだと思ったタイミングで言えばいいと思う。それよりも、ライバルが増えるかもしれないけど……いいんだね?」
武が聞きたかったのは、クラシック三冠を目標に掲げたこと自体よりもそれによって難易度が上がる可能性についての再確認だった。
あの会見の場で既に答えは出ているようなものだが、トレーナーと担当ウマ娘という関係である以上明確に言葉にしておくのも必要だ。
「構わないよ。例えこの先に並み居る強豪が立ちはだかろうとも、一気呵成に三冠を成し遂げてみせよう」
武の僅かな不安要素を振り払うかのようにルドルフは胸を張り、鼓舞するように腕を振りながら宣言する。
「うんうん、いいんじゃないかしら! 私も沢山応援するわ! それで私もターフに戻れたら――いつか必ず、アツい勝負をしましょう!」
「ああ、そうだな。私も、君の雄姿を再びターフの上で見ることが叶う日を心待ちにしている。こちらも精一杯の応援をさせてもらうよ、マルゼンスキー」
気持ちが抑えられないのか尻尾を揺らして笑みを浮かべるマルゼンスキーを、ルドルフも穏やかな笑みでまっすぐ見つめ返しながら互いに誓い合う。
先輩後輩という関係から始まった二人が、仲間でライバルとなった瞬間だった。
お久しぶりです、大変お待たせしました。
あーでもない、こうでもないと悩んでいるうちに他の誘惑もからんでずるずると更新が遅れてしまいました。申し訳ない。
サウジアラビアRCは史実の映像を何度か見て参考にしてましたが、最後の直線のルドルフの伸びのすごいことすごいこと……。素人目にも分かるすごさでした。そりゃ無敗の三冠馬にもなる。
あと今回のお話の時点で三冠に王手をかけてる「彼女」ですが、今作自体に登場させるかどうか迷ってたところ、先日ゲームで実装されたエイシンフラッシュの育成ストーリーにまさかの登場。
あまりにもセリフのサンプルが少なかったころと比べたらまだ書けそうかな?と思い言及させました。今後、どこかで登場させられたらなあ……と思う次第です。
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第7話 新年、皇帝との初詣
『――今年もあと僅か。来年はどんな一年になるでしょうか』
アパートの自室で、武は寝間着の上に半纏を羽織って座卓に肘を置き、テレビを見ていた。
画面にはコートを着込んだ女性アナウンサーが映り、どこかの神社の境内で大勢の参拝客と共に年越しの瞬間を今か今かと待っていた。
武にとっても年が明ける瞬間は、普段の日常とはまた違った感覚があった。
一年が終わってしまったことの名残惜しさと、新しい一年への期待とが入り混じった不思議な感覚だ。
年が変わった瞬間、突然何かが変わるわけでもない。ただ数字が一つ増えるだけのものだ。けれどその瞬間が、武は案外好きでもあった。
地元に住んでいた頃は、両親と共に同じ番組を見ながら年を越していた。実家を出て一人暮らしを始め、一人で年を越すのはこれで二回目にもなる。
時間が過ぎ去るのはあっという間だったなと武が思っていると、いよいよカウントダウンが始まった。
『――――5、4、3、2、1……。明けましておめでとうございます!』
画面の左上に表示された時計が0時を示し、賑やかな曲と共に映像に移る人々から歓声が上がった。
武はスマホでメッセージアプリを開き、グループメッセージでチーム・アルデバランの二人――ルドルフとマルゼンスキーに新年の挨拶を送った。
『明けましておめでとう。ルドルフ、マルゼンスキー、今年もよろしく』
『明けましておめでとう。今年も日進月歩、百錬成鋼の努力で共に勝利を勝ち取っていこう』
『あけおめことよろ! 私も復帰に向けて頑張っていくわ♪ よろしくねっ☆』
三者三様のメッセージが画面に並ぶのを見て、武は微笑む。
武は元々、あまり友人を作るのが得意ではない。
大学は年に数度しか顔を出していないため友人が出来るはずもなく、学園内では他のトレーナーは皆先輩で気後れしてしまう。
そんなわけで気安くメッセージのやり取りを出来るのは家族か、ルドルフとマルゼンスキーくらいのものだった。
当然新年のやり取りをする相手も限られてくるのだが、その数少ない相手にこうして返事を貰えるのは武にとって嬉しいことだった。
画面をトークの一覧に切り替えて、家族とのグループメッセージを探してスクロールする。その途中で、ふと指が止まった。
「あ……」
随分と下に押しやられていたレイとのトーク履歴があった。最後にやり取りしたのは、去年の春ごろ――トレセン学園に来たばかりのころだった。
レイとのトーク画面に切り替えようとして、やめる。
そのまま家族とのグループメッセージ画面を開いて、両親に向けて新年の挨拶を打ち込んだ。
去年色々仕送りしてもらったことのお礼や、今年もよろしくといった一般的と言えるだろう当たり障りのない内容だ。
実際、両親――というか主に母には世話になっていたので、せめてこのくらいはしておきたかった。
そんな心持ちでメッセージに既読が付いたのを確認した直後、スマホが鳴動する。
「明けましておめでとう、母さん」
電話に出ると、数か月ぶりの母の声が聞こえた。
「明けましておめでとう! 久しぶりねぇ、武」
武の母――白井由梨の声色に喜びが隠しきれていない様子に、武は苦笑を漏らす。
「久しぶりだね。元気してる?」
「それはもう元気も元気! あんたこそ、ちゃんと食べて寝てるんでしょうね?」
「ちゃんと自炊して食べてる。睡眠時間は……まあ、何とか確保してる」
武は去年の生活ぶりを振り返りつつ答える。
普段から料理は好きでしているものの、睡眠時間に関しては日によってバラつきがあった。
大学の課題を消化したり学園の仕事を捌いたり、ルドルフたちのトレーニングメニューを組んだり、あるいはトレーニング教本を読んだり趣味で色んなウマ娘たちのレースを見たりしているうちに夜更かししてしまうことがあったからだ。
「ウマ娘のことが好きなのはいいけど、ちゃんと寝なさいよ? レイちゃんに怒られたんでしょ?」
一言も口にしていないのに、ウマ娘絡みであまり寝てないと簡単に看破されてしまう。流石は母親と言うべきか、或いは余程分かりやすかったのか。
武は苦笑しながら答える。
「まあ、うん。あの時は色々と余裕なかったから。今は最低でも6時間確保してるから大丈夫」
「……徹夜してないだけよしとしましょうか」
声の響きから苦虫を噛み潰したような表情をしている気配があったが、それ以上の追及をしてくることはなかった。
その後も互いの近況のことを話し合い、午前一時を回ったところで通話を終え就寝するのだった。
雲一つない昼の青空の下、黒いコートに身を包んだ武は市内の神社にやってきていた。大きな神社ということもあり、多くの参拝客が初詣のために長い列を作って並んでいる。
昨年は昼頃に初めて来たところ物凄い混雑に見舞われたため今年は時間を早めてみると、思いの外そこまで時間を取られずに参拝を終えられそうな人出だった。
参拝客たち武と同じように防寒具を着込んでいる人もいれば、着物姿の女性もちらほら見受けられた。頭の上から伸びる長い耳が列の中から幾つもあることから、ウマ娘もこの神社の初詣に来ているようだった。
年末年始に帰省しなかったトレセン学園の生徒や、付近に住んでいるウマ娘が来ているのだろうと推測しつつ、武は列の最後方に向かって歩く。
前回と同じ轍を踏まずに済んだことに安堵しつつ最後尾に並ぼうとしたところで、武は見覚えのある後姿を見つけた。
緑色のトレンチコートと、腰ほどまで伸びる鹿毛の髪、コートの隙間から覗く尻尾と頭の上にあるウマ耳。そして何より、威風堂々とした立ち姿をする人物――いや、ウマ娘は武の知る限り一人しかいなかった。
「明けましておめでとう、ルドルフ」
隣に並んで人違いではないことを確認しつつ声をかけると、ルドルフは耳をピンと立てて驚いたような顔を見せた。
武の方に体を僅かに向けたルドルフは、コートの下には白のトップスとブラウンのロングスカートを着ており、普段よりもいくらか大人びたような印象だった。
今回は伊達メガネをかけていなかったが、服の着こなしでこうも印象が変わるのかと武は感心する。
「おお、トレーナー君か。明けましておめでとう。まさか新年早々、こんなところで会えるとはな」
声をかけてきた相手が武だと分かると、ルドルフは自然と笑みを零しながら新年の挨拶を返した。
「俺も驚いたよ。ここに来たら、よく知ってる立ち姿のウマ娘の後ろ姿が見えたんだから」
「ふふ、それほど分かりやすかっただろうか?」
「そりゃもう。立ち方の癖ですぐ分かるよ。あとは雰囲気とかかな」
武が知る限りルドルフは、腕を組んだり腰に手を当てたりして立っていることが多い傾向にある。それに加えて、彼女の纏う皇帝の名に違わぬ風格と少女らしさを併せ持ったような雰囲気に不思議と目を惹かれてしまう。
その印象が深く刻まれていたからか、武にとってルドルフを見つけるのはさほど難しいことではなかった。
「まったく、よく私のことを見てくれているんだな。君は」
「一年近く見てたからかな。確実にルドルフだと思ったよ」
「……ふむ。思えば、私たちが出会ってもうそれぐらいの月日が経つのか」
ルドルフは顎に手を当てて、感慨深げに目を閉じた。
「メイクデビューを勝って、サウジアラビアRCも勝って、先月のジャパンカップの日にオープン戦にも勝って……。色々あったな」
メイクデビューは少々距離が長かったものの問題なく勝利、二戦目のサウジアラビアRCはマルゼンスキーの協力もあって見事に勝利。その後の三戦目はルドルフの意向もあって、ジャパンカップ同日に行われたオープン戦に出走し、これにも勝利していた。
「ああ。特に三戦目はある程度目的は果たせたが――」
ジャパンカップは世界各地からウマ娘が集まってくる大会であり、必然海外の関係者も集まってくる。その日に自身の走りを見せることで、ルドルフは世界に己の存在を示そうとしていた。
レースでは最後の直線で得意の末脚を発揮して勝利し、観衆たちを惹き付けていた。
「あまり満足はしてない?」
「ああ。直前にミスターシービーが史上三人目のクラシック三冠達成を果たしていたし、ジャパンカップの注目度と比べるとやはり、目的の完遂が出来たとは言い難いだろう」
難しい顔をしながらルドルフは呟く。
前後の時期に行われる、朝日杯フューチュリティステークスやホープフルステークスはジュニア級の出走が認められるGⅠレースだ。それを回避してあえてジャパンカップ当日のオープン戦を選択したのは、自分の「夢」をより多くの人に見せたかったからに他ならなかった。
その目論見は、ある程度成功したと言って良い結果だった。ジュニア級ながら圧巻の末脚を見せつけたルドルフは、海外の関係者含め確かに注目されていた。
それでもルドルフが悔しがるのは、ジュニア級のオープンとジャパンカップの間にはどうしようもなく高い壁があったことを思い知らされたからだろう。
「ルドルフの選んだことは間違ってないと思うよ。君の努力は、必ず誰かが見ている。そこに人数の多い少ないは関係ないさ」
「――君の言うとおりだな。あのレースの結果は、私が今立っている地点を認識させるに十分だった。ならばあとは、私自身がどれだけ高みに登れるか、だな」
強い意志を宿したルドルフの視線が、武に向けられる。それは武が初めてルドルフが話した日に見たのと同じ眼差しだった。
「そうだな。俺にとっても中央は初めてのことばかりだけど――それでも、ルドルフを勝たせられるように頑張るよ」
「ああ。まずは今年のクラシック三冠――これを確実に取りに行こう」
それから並ぶこと一時間弱、人混みに揉まれながらもどうにか参拝を終えられた武とルドルフは、境内のあまり混んでいない場所を見つけて一息吐いていた。
「これでひとまず参拝は終わったけど……。ルドルフは何か願いごとはした?」
「無論、今年は必ずクラシック三冠を手にする、とね。まあ、願いごとというよりは宣言と言うべきかもしれないがね」
武の問いに、ルドルフは至極当然のように告げる。
並んでいるときにも話題に上がったこともあって予感しつつも聞いてみたが、やはりそのとおりの答えだった。
「宣言でもいいんだよ。結局、願いを叶えるのは自分だと思うし……。ルドルフらしくて、いいんじゃないかな。」
経緯はどうあれ、武自身トレーナーになりたいという願いを持ち、今まさにそれを叶えている最中にある身だ。ルドルフが自分の力で願いを叶えるという覚悟には、武にも共感するところだった。
「まあ、それも私一人の力では到底成し得ないことだろうがね。だからこそ私は君と共に歩もうとあの日、決めたんだ。それに今はマルゼンスキーもいる」
「うん」
「共に歩み互いを導き合う存在。そして、切磋琢磨する仲間……。そういう人たちがいて初めて、私はより願いに近づくことが出来る。それを昨日までの一年間、この身で実感したよ。だからトレーナー君、今年も共に心願成就を目指そう」
ルドルフの紫色の瞳が、武に向けられる。初めて出会ったときから変わらない、真っすぐ前を見据えた力強い視線だった。
例え困難なことだろうと、希望を見出して進み続けるルドルフの姿は武にとって眩しいものだった。そんな彼女の姿を見ていたからこそ、武もここまでトレーナーを続けることが出来た。
「そうだな。俺も、君の夢を叶えられるように頑張っていくよ」
「うん、よろしく頼む。トレーナー君の方は、何か願いごとはしたのか?」
「俺は二人が無事に今年一年走り切れますように、だな。もちろん、ルドルフを勝たせたいっていうのとマルゼンスキーを復活させたいって気持ちもあるけど、そっちは今年の目標だから」
ルドルフの勝利やマルゼンスキーの復活も大事だが、それ以上に怪我なく走り切ってほしいというのが武の偽らざる思いだった。
ウマ娘レースを走る以上、普通の人間よりも怪我のリスクはずっと大きい。
下手をすると
それに武は一度、笑顔を奪ってしまったことがある。もう二度と、同じ轍を踏む真似はしたくなかった。
「……ふむ。確かに私たちは、常に怪我と隣り合わせだからな。時として避け得ないこともあるだろうが……。うん、トレーナー君の想いはしかと受け取ったよ」
「ありがとう。今年もよろしくな、ルドルフ」
深く頷くルドルフに、武は右手を差し出す。その手を見てルドルフは一瞬呆けたような顔を見せた後、屈託のない笑顔を浮かべた。
「ああ。こちらこそよろしく、トレーナー君」
ルドルフは応じて、武の手を握り返した。
初めて出会った日以来に握るルドルフの手は細く暖かく、それでいて力強かった。
「そういえばルドルフは実家に帰らないのか?」
神社の境内に並ぶ出店でニンジンの串焼きをルドルフに奢り、自分も同じものを食べながら武はふと聞いた。
トレセン学園は通常の授業に限っては一般的な中学校や高校と冬休み期間は同じだが、過ごし方は様々だ。トレーニングを優先して学園に残るウマ娘もいれば、三が日が開けて早々にレースを控えているウマ娘もいる。もちろん、実家に帰省して気分転換をするウマ娘もいる。
武はルドルフやマルゼンスキーの都合を聞いた上で大晦日の辺りから正月の頭の五日間までを自主トレ期間としていたが、その間他に何をするかまでは聞いていなかった。
「私は、己がなすべきことをなすまでは帰らないと決めているんだ。それに、生徒たちのことも気になってしまってね」
「なすべきこと……っていうのはクラシック三冠を取るとか、そういうこと?」
「それもあるが、何よりも私が私自身に課した“夢”を掴むための実力を身に着ける、というところだな。実家に帰るという選択肢がないわけではないが、学園にいた方が採れる選択肢は多いと思ってね」
ルドルフらしい理由に、武は納得する。
トレーニング環境で言えば、トレセン学園は日本でもトップクラスにウマ娘用の設備が整っている環境だ。設備自体は事前申請さえすれば年末年始でも利用出来るので、これを活用しない手はないだろう。
「なるほど。生徒たちが気になるっていうのは、もしかして」
「ああ。私に出来うる限りの範囲でだが、生徒たちのケアをね」
「具体的には、どんなことを?」
「この冬休みを最後に学園から去ろうとしている生徒を引き留めたり、学園に残る生徒たちの相談事に乗ったり、といったところだな」
「それはやっぱり、生徒会長として?」
武の問いに、ルドルフは頷く。
「そうだな。それに私個人の心情としても彼女たちには、未来を夢見て学園に来た以上引退のその日まで走り抜けて欲しいと願っている。例えライバルであろうとも、最後の最後まで共に走り抜けたい。そんな思いで声をかけているんだが……」
ルドルフの顔に、僅かに影が差した。
「ルドルフ?」
「私がまだ未熟者だからだろうな。力及ばず、学園から去ってしまう生徒はどうしても出てきてしまうんだ。重賞を一つでも取れば変わるかもと淡い期待を抱いていたが……。事はそう簡単に上手く運ぶものではないのだと、痛感させられたよ」
そう言って、ルドルフは自嘲気味に笑う。
ルドルフが語っていたとおり、年末年始の休み期間に限らず学園を去ってしまうウマ娘はどうしても出てきてしまう。選抜レースに出ても担当トレーナーが決まらなかった、デビューしたはいいものの結果が全く残せず心が折れてしまった。その他にも理由は去っていく生徒の数だけあるため枚挙に暇がない。
去年も、クラシック級どころかジュニア級すら走り切れず去ってしまった生徒の話を武も耳にしたことがあった。
ルドルフはそうなる前に学園に居続けるよう尽力しているようだった。
「でも、留まってくれる子はいたんだろう?」
「まあ、そうだな。けれどそれも、彼女たちの心のどこかにまだ諦めたくないという思いがあったからこそだろう。私に出来たのは、声をかけることくらいだよ」
「なら、それでいいんじゃないか?」
「……トレーナー君?」
武の言葉に、ルドルフは目を見開いた。
「ルドルフは、今の自分に出来る精一杯のことをしたんだろう? その先の事はその子たちそれぞれが決めることだよ」
「そうだな。私も頭では分かっているつもりだが、感情ではどうしてももっと力があれば、と思わずにはいられないんだ」
「分かるよ。でも、それはルドルフが力不足だったんじゃなくて、ルドルフの言葉を聞いた上でその子がその子なりに考えて決めたことだ。それに無理強いして止めたところでいい結果にならないのは、ルドルフも分かるだろう?」
「ああ」
ウマ娘とて、自分の意志を持った存在だ。
心変わりすればまだいいかもしれないが、学園から去ることを決めた子に対して自分の意志を押し付けたところで、それはその子自身の意志ではない。何かあったとき引き留めた相手に責任を押し付けてしまえるし、そのまま芽が出ず時間を無為に使ってしまうなんてこともあるだろう。
「ならそれで十分だし、残ってくれた子がいるだけでもすごいことだよ。君が、その子の心を動かすことが出来たってことなんだから」
「随分前向きに捉えるんだな、君は」
「ずっと立ち止まって後ろを振り返っていても、前に進むことなんて出来ないしね。レースだってそうだろう?」
武とて、今まで生きていて後悔したことはいくらでもある。ふと振り返ったとき、過去の自分の失敗を思い出して苦しくなることもある。それでも自分で決めた目標があり、自分が担当すると決めたルドルフやマルゼンスキーがいる以上、前を向いて進んでいくしかなかった。
「そうだな。どうあれ私も含めてターフを駆けるウマ娘たちには、目指す場所がある。レースであれば一着だし、さらにその先の夢を追い求める。なるほど、言い得て妙だ」
「俺だって、後悔はいくらでもある。それこそ、レイを傷つけてしまったこととかね」
「あの日、トレーナー君が話してくれた以前の相棒のことだな」
ルドルフの確認の言葉に、武は頷く。
「でもそれは結局過去のことで、今更どうこうしたところで無かったことには出来ない。それに、その経験があったからこそ次に繋げられるんじゃないか……って思う」
「――要は気にしすぎるな、ということか」
「そういうこと。気にするなとも言えないし、傷つくなとも言えない。というか多分、避けて通ることは出来ないと思う。でも、過去に囚われすぎるのも良くない。だから上手いこと折り合いをつけて、進むしかない。俺たちが選んだのは、そういう道だったはずだろう?」
トレーナーになって、ウマ娘を笑顔にすること。「皇帝」として、ウマ娘が幸せに暮らせる時代を創ること。一言で表すのは簡単だが、武たちが歩いている道のりは決して平坦ではない。
ルドルフに向けての言葉ではあるが、同時に武自身にも向けたある種の戒めの言葉でもあった。
「そうだったな。日進月歩、立ち止まることや遠回りをすることがあっても我々は進み続ける。“そうしなければならない”という義務感ではなく、“そうしたい”という願いに向けてだ。……うん。君の言葉で、私もいくらか心が定まった気がするよ」
「ごめん。本当なら、慰めの言葉の一つでも言えればよかったんだけど」
「ふふ、君自身言っていただろう? 気にしすぎるな、と。慰めるのはそうだな――私がどうしようもないほど落ち込んでしまったときでいい。今の私には何よりも、叱咤激励の言葉が必要だからな」
「まったく、ルドルフらしいな」
ルドルフの自分に対する厳しさに、武は苦笑を浮かべる。それでも先ほどまで垂れていた耳がピンと立ち、頬を緩める彼女の様子を見てもう大丈夫そうだと判断する。
「――さて。私はもう少し境内を見て回ろうと思うのだが、トレーナー君はどうする?」
「ああ。俺も色々回るよ。お守りとかおみくじとか、後回しにしてたからな」
「早めに出たとはいえ、元日だけあって人混みは如何ともしがたかったな。おかげで小腹が空くほど並んだが……、君の奢ってくれたニンジンの串焼きは空きっ腹にちょうど良いな」
「そうだね。火もよく通ってて美味い」
話がひと段落したところでルドルフと一緒にニンジンの串焼きに手を付ける。
流石に冷めかかってはいたが、それでもちょうどいい火加減で焼かれていて程々に歯ごたえもあり食が進む。
「うん。文字通りニンジンを丸ごと一本串で刺しただけのシンプルなものだが、ニンジン本来の味わいを楽しめる上に身も程よい大きさだ。食べ過ぎなければカロリーもそこまで気にしなくていい。実に美味だったな」
満足そうに微笑みながら語るルドルフの手元には、串だけが残されていた。
「早っ」
ようやく四分の一ほど食べ終わった自分の串焼きと見比べながら、武はルドルフの食の速さに思わずそうこぼしたのだった。
それから武とルドルフはおみくじを引いたり境内に並ぶ出店を回ったりして過ごしていた。
おみくじは武が吉、ルドルフが大吉と正月から幸先の良い結果だった。
出店の方は数が多い分売っている物が似通っているところもあったが、ウマ娘向けの食べ物を用意するところもあればフランクフルトや焼きそばといった定番のものまで多様で、訪れる者を飽きさせない。
武もルドルフも昼食代わりに食べ物をいくつか買う程度で抑えたが、つい目移りしてしまうぐらいには賑わっていた。
出店を一通り巡りきったころには初詣客の待機列も随分と長くなっており、二人はそれを横目にしながら空いた場所を見つけ、暖かい缶コーヒーを片手に一休みしていた。
「物凄い混んできたな」
「ああ。早めに出てきて正解だったな。体力には自信があるが、先に気疲れを起こしてしまっていたかもしれないな」
「流石のルドルフも長時間並ぶのはきついか」
いくらデビュー済みのウマ娘とはいえ、ここまでの人混みの中でひたすら待つというのは退屈してしまうだろう。まして、今の込み具合であれば下手をすると二時間以上待たされるかもしれない。
「昼前の混雑も中々のものだったが、トレーナー君と話をしていたからか退屈せずに済んだよ。来年は、チームの皆で来るのもいいだろうな」
「実家に帰らないの前提なんだな」
「そういう君も、帰るつもりはないのだろう?」
「それはまあ、そうだけど。レースの有無関係なしでこっちにいると思う」
ルドルフに指摘すると、同じことを指摘し返され武は素直に認める。
「理由は聞いてもいいだろうか?」
「構わないよ。結論から言えば、帰り辛いってだけだけど」
「ふむ」
「ほら、レイと色々あったのはルドルフも知ってのとおりだけど……。レイは俺の実家の常連でもあってさ。ちょこちょこ顔を出すんだ」
「ご家族のことというよりは、彼女と顔を合わせ辛いというわけか」
「あいつとは色々あったからね。結局俺は、あいつから逃げてるんだ。さっきあんな偉そうなこと言っておいて、情けない話だけど」
今のところチームに正月早々レースに出るウマ娘はおらず大学も冬休み期間なので、帰ろうと思えば帰ることは出来る。諸々やらなければならないこともあるが、実家に持ち込めばいい話だ。
それでも今まで帰らずにいたのは、レイとの関係に起因していた。
「情けなくなどないさ。君は過去の失敗から目を背けてなどいないし、歩みを止めていない。それにいつかは彼女と向き合わなければならないことは、自覚しているのだろう?」
自己嫌悪に陥りかけていたところを肯定されて、武は目を瞬かせる。
「……それは、そうだね。いつかはあいつと話さなきゃいけないって思ってる。でも今はまだ、その時じゃない」
自分とは真逆の考え方をしていたルドルフの言葉を受け止めながら、武は自分の心の内に問いかける。
それなら、いつならばいいのか。どういう自分になれば、レイとまた話すことが出来るのか。
「俺は、あいつにも胸を張れるトレーナーになる。ルドルフもマルゼンスキーも、何ならこれからチームに入るかもしれない子も笑顔にするトレーナーになって、あいつを――
武の言葉はともすれば、矛盾を含んでいるものだった。
「それは……」
「分かってるよ。ウマ娘を笑顔にするって言いながら、あいつを泣かせるかもしれない。でも、俺とあいつの関係を前に進めるためには必要なことなんだ」
小学生の頃に出会い高校では共に地方を戦った幼馴染との思い出は、振り返ると数え切れないほどあった。
初恋相手であったことは確かだった。しかしその気持ちは、彼女と共に過ごすうちに違うものへと変わっていった。それが何だったのかは、未だ答えは見出せていない。
「君はそれでいいのか?」
「構わないと思ってる。むしろこの先何年もあの時のことを引きずっている方が、お互いのためにも良くないと思う」
「――今はそのための準備期間、ということか。心の整理をつけることと、一人前のトレーナーとなって君が選んだ道を彼女に示すこと、その二つを果たすための」
「うん。それから俺とあいつが、もう一度笑って話せるようになるためにもね」
仮に立派なトレーナーになってもう一度レイを振ることになったとして、それが必ずしもいい結果を招くかどうかは分からない。しかしそんな悪い未来を恐れて立ち止まるよりも、僅かでも希望を夢見て進む方が良いだろうと武は思った。
「全く、君の前向きさには驚かされるな」
武の答えに、ルドルフは苦笑していた。
「そう見えたのは多分、ルドルフと話したからだよ」
「私と?」
「ああ。正直、レイのことはずっと引きずってたんだけど……。ルドルフの悩みを聞いて、俺の話も聞いてもらって……。そしたら自然と、ちゃんと向き合わなきゃって思えたんだ」
武は高校時代、例え負けてしまっても次の目標に向かって進むことをレイと共に繰り返していた。「何故負けてしまったのか」ばかり追求しても前には進めない。「結果は結果として受け止めて、次に進む」ということを続けてきた。続けざるを得なかった。
その経験を言葉にしてルドルフに自分なりの考えを伝えたつもりだったが、却って武自身が気づきを得るきっかけとなっていた。
今日こうして話をしていなかったら、無理に前に進もうとしてどこかで立ち止まってしまっていたかもしれないと武は思う。
「私も学園を去るウマ娘を引き留められなかったことで、己の無力さを悔いていた。しかし決してそうではないと君が教えてくれた。無駄ではなかったと、認めてくれた。不思議なことに、それだけで随分と救われた気持ちになったよ」
「それなら良かったけど……。俺たち、正月早々何話してるんだろうな」
お互いの悩みが一つずつ解消されたところで、武はふと我に返る。
正月とはもっと、未来への希望だとか正月行事や食べ物のこととか、そういったことをして楽しむのが普通なのではと。
「ふふ、確かにな。こうしためでたい時期に話すにしては、少々重い内容だったかもしれないな」
武に同調するように、ルドルフも笑みを浮かべる。
「だよねえ。――あんまり踏み込まないようにしてたんだけど、ルドルフのプライベートの話とか聞いてもいい?」
トレーナーとウマ娘という関係である以上、必要以上に相手に深入りするべきではないと武は線引きをしていた。あとは単純に、プライベートに踏み込んで嫌われて今後に支障が出てしまうのを恐れていた。
しかし会う度に真面目な話ばかりしていては、息が詰まるのではないか。そう考えて、武は話を切り出した。
「君であれば勿論、構わないよ。私も君がこの年末年始、どんなことをして過ごしていたのか興味があったんだ。存分に話し合おうじゃないか」
顔を綻ばせるルドルフを見て、武も頬が緩む。
その後は缶コーヒーを飲み切り帰路につきつつ、他愛のない話をしてルドルフとの親睦を深めたのだった。
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第8話 復帰、皇帝の先達者
ターフの上に立つウマ娘たちは皆、1着を目指す。その動機は様々で、ウマ娘の数だけある。レースに出る以上は各々が1着――すなわち勝利を手にしたいと願い、叶えようとひた走る。
そんな夢見るウマ娘たちの中でマルゼンスキーは
叶えたい願いは特にない。トレセン学園に来たのも、地元の後輩たちの期待に応えたかっただけ。GⅠレースで栄光を勝ち取りたいなんて気持ちは、元々持ち合わせていなかった。だからこそ夢を持っているウマ娘たちを見ると、疎外感を覚えることもあった。
しかし最初に抱いていたその気持ちは、マルゼンスキーをスカウトしたチーム・アンタレスのトレーナーや他のウマ娘たちとの交流の中で少しずつ変わっていった。
引退すると決めたその日まで走り続けられたのはきっと、何もないと思っていた自分に彼らが夢を見てくれたからだろうとマルゼンスキーは思う。
だからこそダービーに出られなかったのは悔しかったけれど、今の彼女には目標があった。
“気持ちよく走りたい”という思いと同じくらい、“勝ちたい”と魂に熱を宿してくれる
一度は足のこともあってターフを去ると決めた。
――けれど“もし”が許されるのなら、またターフに戻って走りたい。
かつての自分では、見ることの出来なかった景色を見るために。
初詣から一ヶ月と少しが過ぎたある日の日曜日、武たちチーム・アルデバランは東京レース場の控室に立っていた。
今日はGⅢの一つである東京新聞杯が開催される日であり――マルゼンスキーが同レースに復帰戦として出場する日でもあった。
「いよいよだね、マルゼンスキー」
白のトップスと赤いボトムスに着替え、枠順を示す「2」が大きく書かれたゼッケンを付けたマルゼンスキーに武は声をかけた。
「ええ。久しぶりにまたターフに立てるって思うと、今すぐ走りたくてうずうずしちゃうわ」
マルゼンスキーはいつもの余裕のあるお姉さんといった雰囲気を纏っているが、どこか浮足立っているようにも武からは見えた。
「緊張してる?」
「そうね。また走れるっていう嬉しい気持ちはあるんだけどね。皆が戻ってきた私を受け入れてくれるのかな、とか最後まで走り切れるかしらとかつい考えちゃうわ。初めてだわ、こんなに緊張するの」
胸元に手を当てて困ったように笑いながら、マルゼンスキーは頷く。
「君は必ず勝つと断言するよ、マルゼンスキー。君はあらゆる不安を全て打ち払えるだけの実力を持ったウマ娘だと、信じているよ」
武の隣でルドルフが告げる。マルゼンスキーを見つめる瞳には、彼女の走りへの絶大な信頼が伺えた。
「ふふ。ありがとね、ルドルフ。トレーナー君はどうかしら?」
「マルゼンスキーが先頭に立ってレース展開を自分のペースに持ち込めれば、勝つのはそう難しくない。全盛期と遜色ないレベルで走れるように仕上げたつもりだし、何より君自身の二年間の経験がある。マルゼンスキーなら必ず勝てるよ」
「そこまで言われちゃったら、負けるわけにはいかないわね」
武の言葉に、マルゼンスキーはくすぐったそうに笑った。
マルゼンスキーが得意とする逃げの戦法はペース配分を誤ればあっという間に沈んでしまうし、先頭を走る分脚にかかる負担も大きい。
それでもマルゼンスキーは二年間で走った8戦全てを逃げで勝利しているし、それを実現出来るだけの体作りもしっかりとしている。
「ただ、一つだけいいかな」
「何かしら?」
「
「ええ、分かってるわ。要するに全力以上の力を出さなければいいってことよね」
「難しいことを要求してるのは分かってるんだけどね。でも俺は、また怪我をして君が笑えなくなるのが怖いから」
「ふふ、大丈夫よ。トレーナー君が心配してくれる気持ちは伝わってるわ。ありがとね。怪我をしない範囲で、しっかり勝ってくるわ!」
武の不安をかき消すように、マルゼンスキーは胸元に手を当てて力強い笑みを浮かべた。既に二年間レースを走っているだけあって、その貫禄は“無敗のウマ娘”に相応しい頼もしさだった。
「ああ。勝ってこい、マルゼンスキー」
マルゼンスキーの様子を見て大丈夫だろうと判断した武は、激励の言葉を贈った。
その隣でルドルフもまた、マルゼンスキーに声をかける。
「私も一人のウマ娘として、マルゼンスキーが再び大舞台に立てる日が来たことを心から嬉しいと思う。君の逃げ足は正に、電光石火と呼ぶに相応しいものだ。その脚で再び栄光を掴むことを期待しているよ」
「ええ。ここまで来るのに、皆に背中を押してもらったり助けてもらったりしたわ。皆の期待に応えるために、何よりいつか一緒に走るルドルフに勝つためにまずはここでバシッと決めてくるわ!」
『晴天に恵まれた東京レース場、パドックには大勢の人が詰めかけています! 本日の東京新聞杯はGⅡですが、GⅠレースに勝るとも劣らない人出です!』
『今日は皆が待ち望んだ日ですからね』
『では早速、お披露目の時間となります! まずは1番――』
ルドルフと共にパドックにやって来ると、観客席はほとんどが人で埋め尽くされているような盛況ぶりだった。今日のレースで実況と解説を担当する二人のアナウンスも聞こえるが、観客たちと同様どこか興奮が隠しきれていない。
どうにか人だかりを潜り抜けて最前列に辿り着くと、最初に紹介されたウマ娘が緊張の混じった笑顔を浮かべ観客席に向かって手を振っていた。重賞に出ているだけあってファンもついているのか、あちこちから声援が飛んでいる。
「分かってはいたが物凄い人だかりだな、トレーナー君」
「確か速報だと10万人を超えたみたいだよ」
「――ふむ。GⅠでも特に規模の大きいクラシック三冠や春と秋の天皇賞、ジャパンカップや有馬記念と同等或いはそれ以上……ということだな。重賞でこれだけの人出があるというのは、驚愕させられるな」
「それだけ皆、待ってたってことだもんな」
マルゼンスキーがアルデバランに移籍した直後は、どんな路線で進んでいくのかはぼかしていた。脚の状態の兼ね合いでどのレースに出走するのか様子見をしたかったからだ。
ただその影響か、世間では現役復帰説だけでなくトレーナー志望説や地方レース出走説など色々取り沙汰されていたようだ。
それでもマルゼンスキーが復帰する可能性を期待する声は多く、半月ほど前正式に東京新聞杯での復帰を宣言した際には大騒ぎだった。
「ああ、それは間違いないだろうな。ただ、懸念の声が少なからずあるも事実だ」
「それは……、そうだろうね」
僅かに眉を顰めながら話すルドルフに同意した直後、歓声が上がった。
最初にお披露目を終えたウマ娘と交代するように、ステージのカーテン奥からマルゼンスキーが歩いてくる。
『さあ、ここで1番人気に推されました2番マルゼンスキーの登場です! 復帰レースということもあり、会場はGⅠレースさながらの盛り上がりを見せています!』
『今回も彼女の圧倒的な逃げが炸裂するのか、楽しみなところです』
マルゼンスキーが、紹介されるのと前後して右手で投げキッスのようなポーズを観客席に向けてすると、更に大きな歓声が上がる。
ルドルフと共に後ろを振り返れば、観客たちは懸命に手を振ったり大声でマルゼンスキーの名を叫んだりしている光景が目に映る。それだけ、彼女の復帰を待ち望んでいた人が多い証だった。
復帰戦で勝てるかどうか分からないにも関わらず1番人気に推されているのも、ファンたちの気持ちがより強く表れた結果だろう。
「マルゼンスキー、大丈夫か?」
「確か故障で引退したって言ってたよな。トレーナーは何考えてるんだ」
ふと、近くにいた二人組の男性客の会話が耳に入る。それはまさに、先ほどルドルフが口にしていた懸念の声そのものだった。
「彼らの懸念はもっともだ。故障したウマ娘が中央で復帰した前例は、ほとんど無いからな。故にその不安を払拭するには――」
「マルゼンスキーが無事に走り切る。まずはそれが最低条件だね」
ルドルフの言葉を引き継いで、武は今のトレーナーとしての自分とマルゼンスキーに求められていることを口にする。
トレーナーである武は再び怪我をさせないように調整する必要があるし、マルゼンスキーも己の脚で無事に走れることを証明しないといけない。
最低条件とは言うが、何が起こるか分からないのがウマ娘のレースである上に今後もその状態を維持が必要で、難しいことには違いなかった。
「ああ。そのために私もトレーナー君も、ここまで力を尽くしてきた。あとは彼女がゴール板を駆け抜けられるよう、見守るとしよう」
『今日も一段と冷え込む東京レース場、天気は晴れ、バ場状態は良の発表となりました。16人のウマ娘たちがゲート前で出走の時を今か今かと待っています』
『フルゲートにはなりませんでしたが、各ウマ娘の好走に期待したいですね』
『注目はやはりこの子、1番人気マルゼンスキー。観客席からは、彼女への声援が数多く聞こえます』
パドックでのお披露目を終え、レース場に移動したマルゼンスキーは向こう正面手前に設置されたゲート付近から観客席を見つめる。
1600mと距離が比較的短いためスタート位置は観客席から遠いが、それでもここまで聞こえてくる自分を応援する声を、マルゼンスキーは目を閉じて噛みしめていた。
皆が皆、復帰することに肯定的でないことは分かっている。それでもほとんどの人は不安があれど、マルゼンスキーが戻ってくることを歓迎してくれた。
武もルドルフも、ターフの上に戻れるよう背中を押してくれた。
そんな彼らが、遠くに見える観客席から見守ってくれている。
皆が期待してくれているという事実があるだけで、マルゼンスキーはもう一度走れる気がした。
「――ううん。気がするじゃなくて、ちゃんと証明しないとね!」
気つけとばかりに自分の頬をぺちぺちと両手で叩き、マルゼンスキーはゲートに視線を移す。既に何人かのウマ娘はゲート入りして、出走の時を待っていた。
マルゼンスキーも続いてゲートに入ると、遠くの観客席から歓声が沸き起こる。普通の人よりも優れた聴覚を持つウマ耳が、「頑張れ!」や「マルゼンスキー!」といった自分を応援する声を捉えた。
マルゼンスキーは小さく口角を上げ、ゲートの向こうのターフを見て出走の合図を待つ。
両隣に今年からシニア級になったウマ娘たちがゲート入りしながら警戒するような視線を向けているが、それすらも彼女の気持ちを高揚させていた。
『各ウマ娘、ゲートイン完了しました――』
レース場に響く実況の声を聞いて、スターティングポーズを取る。
束の間の沈黙の後ガタンと音が鳴ると同時にゲートが開き、マルゼンスキーは軽快なスタートダッシュを決めた。
『各ウマ娘、綺麗なスタートをしました! 先頭は1番人気マルゼンスキー、後続に1バ身の差を空けてハナを進みます。怪我を乗り越えターフに舞い戻ったスーパーカー、得意の逃げでレースを展開する模様です』
最初の100mを駆けながら、マルゼンスキーは風を切って進んでいく。
久しぶりのレース場の芝を踏みしめる感覚、風と共にやってくる芝の香り、後ろを走るウマ娘たちの息遣い、ホームストレッチ側の観客席から聞こえてくる歓声――。
一年以上も遠ざかっていたレース特有の雰囲気に万感の思いを抱くのはほんの一瞬のことだった。
何もレースを走るためだけに帰って来たのではない。勝つためにターフの上へ舞い戻ったのだ。
「脚はちゃんと動いてくれてる。うん、アガってきたわ!」
いつまた故障するかもしれない脚は、力強く身体を前へと押し出してくれる。風を切っていく感覚は何度体験しても飽きることはなく、先へ先へと走る潤滑油になる。
マルゼンスキーの口角は自然と上がっていた。
それでもまだ、200mを超え3コーナー手前の短い上り坂とその後の3コーナーまで続く緩い下り坂が待っている。
ジュニア級やクラシック級の頃ならもっと飛ばしていただろうが、武からの忠告もある。それに加えて、3コーナーからホームストレッチにかけて心臓破りの坂が続くのをマルゼンスキーは何度か身をもって経験していた。
脚部の不安と一年以上のブランクのことも考えると、序盤から全力で行くにはリスクがあった。
故に、後続に抜かされないぎりぎりの範囲でしっかり逃げつつ、脚を溜めることをマルゼンスキーは選ぶ。
『各ウマ娘は3コーナーに突入し2番マルゼンスキーが先頭、1バ身離れて3番――』
ウマ娘たちが走る位置を知らせる実況が響く観客席では、観客たちが息を呑むようにしながらレースの推移を見守っていた。
武もルドルフと共に、3コーナーを駆けるマルゼンスキーに視線を送る。
「――ふむ。無敗の名は伊達ではない、ということだな。気付いているか、トレーナー君」
腕を組みマルゼンスキーのレース運びを注視していたルドルフが、視線はそのままに武へ声を投げかける。
「ああ。さっきから一度も
「やはり君の目にもそう映るか。先頭を走りながら脚を溜めるところまでは常套手段と言えるが、同時に後続に抜かれないようつかず離れずの位置取りをしている。言葉にすれば簡単かもしれないが――」
「普通、中々出来ることじゃないよね」
スピードを落として後続との距離が詰まることはなく、逆に後続を2バ身以上離すこともなく1バ身程度を維持して、マルゼンスキーは逃げ続けていた。
必然、マルゼンスキーは緩急をつけて走ることになるが、それによって他のウマ娘たちはどこか走り辛そうにしているのが伺える。完全にマルゼンスキーがペースを握っていた。
「私の知る限り、マルゼンスキーは駆け引きなどせず圧倒的な逃げで他の追随を許さなかったが、今回の走りはそれとは逆だ。トレーナー君の指示があったとはいえ、これほどのレース展開をするとは」
「……今まではそんなことをする必要すらないほど逃げてただけで、あの子にはそれだけの実力があるってことか」
遠目から分かるほど楽しそうに走るマルゼンスキーの様子を見るに、頭で色々計算してというよりは天性の勘と前任トレーナーの下での経験による合わせ技によるものなのだろう。
「――私が超えるべき壁は、高いな」
武の言葉に、ルドルフはそれだけ呟くと再びレースに意識を向ける。
レースはいよいよ、4コーナーからホームストレッチに突入しようかという頃合いだった。
「さあっ、振り切るわよ!!」
4コーナーを抜けゴールまでの道筋が見えた瞬間、マルゼンスキーは加速した。
さながらギアを一息にトップまで上げアクセルを踏み込むかのように、抑えていたスピードを解き放つ。
『各ウマ娘4コーナーを超え最後の直線に入ってきた! 先頭を進むのはマルゼンスキー、後続との差をぐんぐん広げていきます! 後ろの子たちは届くのか!?』
実況の興奮したような声がスタンドのスピーカー越しに響くと共に、観客たちの歓声が沸き起こる。
レースが始まった直後とは真逆の、ゴールが迫るにつれて会場のボルテージが高まっていくのをマルゼンスキーも肌で感じる。
胸の内に湧き上がってきたのは懐かしさよりも高揚感だった。
後ろのウマ娘たちの絶対に追いつこうと必死になっている息遣いを聞くと、ここまで来たからには負けたくないと気合いが入る。
誰かが観客席から自分の名前を呼ぶ声が聞こえると、最後の険しい坂を上り切ろうという気力が湧いてくる。
『後続との距離は2バ身、3バ身――まだ広がる!? マルゼンスキー、衰えを感じさせない走りだ! 無敗記録更新なるか!?』
残り200m、マルゼンスキーにはもう実況の声も観客たちの声も等しく同じ物としてしか聞こえていなかった。
最後の最後で負けないために、後ろの気配を耳で探りながらしかし脚はトップスピードを維持する。
坂を上るのも辛いが、登り切った後に更に平地を走らなければならないのも辛いところだ。
それでも脚は問題なく動いてくれた。
まるでブランクなど無かったかのように、マルゼンスキーに最後の一押しをさせてくれる。
『マルゼンスキーまだ伸びる! 復帰戦とは思えない走り! 無敗のスーパーカーがターフに帰ってきた!! マルゼンスキー! マルゼンスキー、今一着でゴーールッッッ!!!』
マルゼンスキーがゴール板を駆け抜けるのと会場から爆発したような大歓声が沸き上がるのは、ほぼ同時だった。
脚に負担がかからないように減速し、ゴールから100mほど離れたところでマルゼンスキーはようやく止まる。
息はすっかり上がり心臓も早鐘を打っていて、全身から次々と汗が溢れ出してくる。
胸の内にあるのは無事に1600mを走りきれたという安堵と、1着でゴール出来たという喜び。
けれど、それ以上にもっと大切なものがあった。
『マルゼンスキー、長いブランクを乗り越え奇跡の復活を果たしました!!』
実況の興奮冷めやらぬ声に同調するように、観客たちが一斉に湧き上がる様子がマルゼンスキーの目に飛び込んできた。
正面スタンドを埋め尽くす人たちが、思い思いにマルゼンスキーの勝利を祝福していた。
拍手をする者、大声でマルゼンスキーを祝う者、隣の人と喜びを分かち合う者、涙を流す者――沢山の喜びの感情がそこには溢れていた。
「皆、ありがとうっ!!」
その光景を見ていると居ても立っても居られなくなり、マルゼンスキーは観客たちに手を振る。
マルゼンスキーはジュニア級とクラシック級を通して、“夢”という名前の沢山の想いを受け取ってきた。
かつて“楽しいから”と走っていた自分に、皆は夢を見てくれた。それは、ターフに帰ってきた今も変わってはいなかった。
自分がここにいてもいいんだと肯定されているようで、たまらなく嬉しくなる。
『着順確定しました! 1着2番マルゼンスキー、6バ身差で2着4番――――』
実況が着順を読み上げるのと同時、電光掲示板にも着順を示す番号と着差、そしてタイムが表示され――会場にどよめきが起こった。
『1着マルゼンスキー、タイムは1分31秒6――コースレコードを達成しました!!』
「マルゼンスキー!」
ルドルフと共に地下バ道に降りた武は、ターフから戻ってきたマルゼンスキーに真っ先に声をかけた。
一度引退する前と遜色ない圧倒的な走りに興奮が抑えきれず、彼女に駆け寄る。
武はかつて一度だけマルゼンスキーの走りを現地で見たことがあったが、まさか再び目にすることが出来て、レコード更新というおまけまでついてくるとは思わなかった。
この瞬間ばかりはトレーナーとしてではなく、一人のファンとしての顔を覗かせていた武だった。
「……あ。トレーナー君……? それにルドルフも……」
そんな武に対してマルゼンスキーはどこか気の抜けたような表情で、声をかけられて初めて二人の存在に気が付いた様子だった。
「マルゼンスキー、どうかした? 大丈夫か?」
武が茫然自失といった調子のマルゼンスキーに声をかけると、彼女はゆるゆると首を振った。
「うん。ありがと、トレーナー君。ただ、夢を見てるんじゃないかって思っちゃって……」
「夢じゃないよ。ちゃんと現実だ。1着おめでとう、マルゼンスキー。まさかレコードまで出すなんて思わなかったけど」
「ああ。まさに驚天動地の活躍だったよ、マルゼンスキー」
ゆっくりと歩を進め武の右隣りに立ちながら、ルドルフもマルゼンスキーに賞賛の言葉を投げかける。
「夢じゃないのね……?」
「そうだよ。手、握ってもいい?」
「え、ええ……」
マルゼンスキーが頷くのを見て、武は彼女の手を取る。
両手で包むように握った手は、つい先刻力強い走りをしていたとは思えないほど指が細く、それでいて暖かかった。
「トレーナー君の手、冷たいわね」
「そりゃあ、まだまだ冬だからね」
今はまだ2月の上旬で、春に向かっているとはいえ東京もまだまだ寒さが続く時期だ。手袋をしていなければ必然、指先から冷たくなっていく。
「そっか。夢じゃ、ないのね」
ようやく状況を飲み込めてきたのか、マルゼンスキーがふと小さく微笑んだ。そして――。
「マルゼンスキー!?」
次の瞬間、マルゼンスキーの目元からぽろぽろと涙が零れだしていく。
突然のことに武は驚くことしか出来なかった。
「……あたし、帰ってきたんだ」
そう呟くや否やマルゼンスキーは武の手を引き寄せて抱きつき、傍にいたルドルフも抱き寄せる。
そのまま顔を俯けてしまったマルゼンスキーは肩を震わせ、すすり泣くような声を漏らしていた。
「そうだ、マルゼンスキー。皆が君の帰還を待ち望んでいた。奇跡は起こせると、その脚で証明したんだ」
マルゼンスキーの左肩に右手を乗せながら、ルドルフが柔らかい笑みを浮かべて声をかける。武も初めて聞く、慈愛に満ちた声色だった。
マルゼンスキーが突然泣いてしまったことに慌てていた武だったが、ルドルフの声を聞いて平静さを取り戻す。
GⅢとはいえ長い空白期間を挟んでいきなりの重賞を勝ち、会場に詰め掛けた人たちの言葉を貰い、コースレコードまで更新してみせた。一度に色んなことが起きて、マルゼンスキー自身色々な想いを抱えていたのだろう。
それ故の涙であるのなら、無理に泣き止ませようというのは野暮だった。
考えを改めた武はルドルフに倣ってマルゼンスキーの右肩に左手を乗せて、待つことにしたのだった。
「――ふうっ。トレーナー君、ルドルフ、ごめんね。待たせちゃって」
ひとしきり泣いた後涙を拭いたマルゼンスキーは、すっきりしたような笑みを浮かべつつ謝った。
「大丈夫だよ。どうしても泣きたいときっていうのはあると思うし」
「ああ。私も君の涙を見て少し、もらい泣きしてしまったよ」
武の後に続いたルドルフの言葉に、武は彼女の横顔を見る。確かにルドルフの目元には、泣きはらしたような跡が残っていた。
「あたし、トレーナーちゃんの前以外で泣いたことなかったんだけどね。まだまだ走れるんだって分かったら、泣けてきちゃったわ」
「私も人前で涙するのは初めてだったよ。不可能と言われたことを覆すウマ娘はこれまでもいたが――君の起こした奇跡は本当に素晴らしいものだった。ありがとう、マルゼンスキー」
穏やかな笑みを浮かべるルドルフに、マルゼンスキーは苦笑交じりに微笑む。
「私だけの力じゃないわ。ここまでサポートしてくれたトレーナーちゃん、トレーナー君、ルドルフ……皆のおかげよ。だからこれは、皆で起こした奇跡なのよ」
マルゼンスキーが挙げた名前には武とルドルフだけでなく、前任のトレーナーも含まれていた。
それもそのはず、マルゼンスキーの育成を引き継ぐに当たってこれまでのトレーニング資料を武に渡してくれていた。それだけでなく、アルデバランの練習に定期的に顔を出して様子を見てくれていたのだ。
マルゼンスキーだけでなく、大学生の身分であるため学園内に居場所があまりない武にとっても数少ない頼れる先輩だった。
「そうだな。先輩には感謝してもしきれないからな。今日は遅くなるだろうから、明日皆で挨拶しに行こうか」
「ええ、それがいいわね!」
武の申し出にマルゼンスキーが喜色満面の笑みを浮かべ、ルドルフも同調するように頷いた。
「――さて。記者の方々を待たせているだろうし、ウイニングライブも控えている。そろそろ行こう、二人とも」
「あら、そうね。記者会見の方は時間が無いから、このままで行くけどいいかしら?」
ルドルフの言うとおり時間はあまりない。数分とはいえここに留まっている間に、記者会見の準備はとっくにととのっていることだろう。今頃、担当者がマルゼンスキーが来るのを待っているのは容易に想像がついた。
「マルゼンスキーがそれで良いなら問題ないよ。体操着のままインタビュー受けてる子はいままでもいたし。――けど、その前に」
武は言葉を区切って紺色のハンカチをスーツの上着ポケットから取り出した。
「トレーナー君、どうしたの?」
「ちょっとじっとしてて、マルゼンスキー」
問いには答えず、武はハンカチでマルゼンスキーの目元を拭った。
「ルドルフも」
「ト、トレーナー君?」
ハンカチを畳直して濡れていない部分で、今度はルドルフの目元も拭う。
流石に涙の跡が残ったまま記者たちの前に出すわけにはいかないと思っての行動だった。
「まだちょっと赤いけど――うん、大丈夫だな。これで多少は誤魔化せると思う」
「え、ええ。ありがとね、トレーナー君……」
「か、感謝する。トレーナー君」
どうにもルドルフとマルゼンスキーの反応が鈍く、武は首を傾げる。
「もしかして変なことした?」
「へ、変じゃないわ。ただその、おったまげーっていうか……」
「……トレーナー君、以前誰かの涙を拭ったことは?」
ルドルフの問いに、武は自分の記憶を掘り起こしてみる。
「確か、レイが泣いてたときはよくこうしてた気がするな」
思い返せば高校時代、レイは多くのレースに挑んできたがあと少しで届かず負けることもあれば苦しい戦いの末勝利を掴んだこともあった。そういったとき、よく涙を流し武が涙を拭っていた。
当時の片思い相手云々以前に戦友のような間柄でもあったレイの悲しい顔は、見たくなかったが故の行動だった。
「……なるほど、君が彼女に未だ慕われる理由が分かった気がするよ」
「あたしはレイって子が誰か知らないけど、うん。これはちょっと心臓に悪いわね」
武は何と無しに言ったつもりだったが、ルドルフとマルゼンスキーは武から僅かに目を逸らし気恥ずかしそうな表情を見せていた。耳や尻尾もそわそわと忙しなく動いていて、武の目にも分かるほどの動揺ぶりだった。
「……その、トレーナー君は何故我々にそこまでしてくれるんだ?」
視線を戻したルドルフが、武に問いかけた。武の答えは、考えるまでもなかった。
「そりゃ、ウマ娘の笑顔が好きだからだよ」
レースが楽しくてしょうがないと笑う姿、レースに勝って喜ぶ姿、ライブステージで観客たちと一緒になって笑顔になる姿――。トレセン学園に来てからようやく自覚したことではあるが、彼女たちの笑顔が好きだし自分の手でそれを実現したいと思ったから武はトレーナーを志した。
当たり前のように告げた言葉だったがルドルフとマルゼンスキーは目を開き、やや間を置いてどちらからともなく吹き出すように笑いだした。
「ふふっ、そうだったな。君はそういう人だ。涙は決して悪いものではないだろうが、笑顔の方が皆を幸せにする力がある。だからこそ君は、トレーナーになったのだな」
「ええ、そうね。トレーナー君はやっぱり、トレーナーに向いているわね。でも、あたしたち以外にあんまりこういうことしちゃだめよ? あたしたちも年頃の女の子だもの」
笑みを浮かべながら納得するようにルドルフは頷き、マルゼンスキーはそれに同調しながらも片目を瞑りながら武に忠告する。
善意のつもりでやったことだったが、マルゼンスキーの言葉で武はようやく自分の行動の意味に気が付く。
「そ、その、困らせちゃってごめん。下心とか全然無かったんだけど」
「だいじょうV! あたしもルドルフもちゃんと分かってるわよ。それよりもほら、記者会見早く行きましょ!」
「そ、そうだね」
今更になって恥ずかしくなってきた武だったが時間も押していたので、マルゼンスキーの提案に素直に乗ることにし、ルドルフも伴って地下バ道を後にするのだった。
お久しぶりです。大変お待たせしました……!
今年の更新はこれで最後になると思います。次回はいつになるか……。気長に待っていただけると幸いです。
コースレコードですが、こちらはウマ娘発表前のレコード記録を参考にしています。
少なくとも、最新のレコードを超えない感じで調整していくつもりです(展開次第で変わるかも?)
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第9話 如月、皇帝たちとのバレンタイン
「はい、これ」
放課後、授業が終わるや否や帰ろうとしていた武は、一人の女子に廊下で呼び止められていた。
栗毛色の髪を後ろで纏めたその女子の頭の上には特徴的な耳が二つあって、忙しなく動いている。彼女は武の通う小学校で少数ながら在籍しているうちのウマ娘の一人だった。
「何これ、どうしたの? レイ」
同級生でもあるそのウマ娘――レイグランドに突然、カラフルな可愛らしい手のひらより小さいサイズの包みを突き出され、武は困惑したように首を傾げる。
レイ――レイグランドは一年以上前、小学4年の秋ごろに転校してきたウマ娘だ。
その時から同じクラスで過ごしてきているが、とにかく走ることが好きで負けず嫌いの女の子というのが武の印象だ。そんな勝気なところがある一方、真面目であまり突飛なことをするところも見たことがない。
それに加えて武自身の性格もあってレイ以外の女子とは滅多に話さないので、武は今自分の身に起こっていることもさっぱり分かっていなかった。
「何って――。今日が何の日か覚えてる?」
「何の日って……。平日だからGⅠとか無かった――」
「トゥインクルシリーズは関係ないわよ!?」
「じゃあ普通にローカルシリーズのレースだよね。平日開催っていったらそれだし」
「確かにあるけど、いい加減ウマ娘から離れなさいよ!?」
小学5年生ながらまるでウマ娘のことしか頭にない武のマイペースぶりに、レイからのツッコミが飛んだ。
「じゃあ……。金曜日だから海軍カレーの日とか」
「……アンタ本気で言ってる?」
「え、違ったっけ」
「本気なのね…………」
心底呆れたように溜め息を吐くレイを見て、武は自分が何か悪いことをしたのかと考えるがやはり思い当たる節が無い。
今日という日が何なのかも、レイが渡そうとしているのが何なのかにもまるで気が付いていなかった。
「ほらこれ、バレンタインチョコ。どうせウマ娘のことばっか考えてて気付いてなかったんでしょ」
「へ?」
突き出すように差し出された包みを両手で受け取りながら、武はきょとんとした顔をしていた。
頭の中で今日は何日だったかと考え、ようやく2月14日という日付を思い出した。
「あー、そっか。バレンタインデー……」
「その様子だとほんとに気付いてなかったのね、武」
「うん。母さん以外から貰ったことないし」
「……そりゃバレンタインなんて気にしないわね」
武の口からさらっと放たれた言葉に、レイはさもありなんといった様子だった。
武は幼いころから中央地方問わずウマ娘のレースを見て育ち、必然的に学校の勉強以外はウマ娘のことばかり考えているような子供だった。
周りの子たちは同級生の誰が気になる、なんて話もする年頃だが武はまるで興味を示さず徹頭徹尾ウマ娘のことしか頭にない。そんなわけで同じクラスの女子たちはあまり武とは絡もうとせず、必然的に義理チョコすら貰ったことがなかった。
そんなわけでバレンタインデーは毎年母からチョコを貰って初めて気付く、という体たらくだった。
「別に気にしてないよ。それよりなんで俺に?」
それでもまるで悲しむ素振りも見せない武の疑問に、レイは何故か視線を逸らした。
「…………それは」
「それは?」
耳と尻尾を忙しなく動かして、何故か物凄く言い出しにくそうな雰囲気を醸し出すレイを、武はじっと待つ。
「……ぎ、義理チョコよ。転校してからこっち、お世話になってたし」
何度か自分を落ち着かせるように息を吸ってから、レイはその理由を告げる。
武が住む地域の近所にはレース場やトレセン学園の施設がある関係で、この小学校にもウマ娘は少数だが通っている。しかしレイは田舎から引っ越してきて友達はおらず、武のクラスでウマ娘は彼女一人ということもありやや浮いていた。
そんなレイに真っ先に声をかけて友達になったのが、武だった。
「レイってこういうイベント、気にしないタイプだと思ってた」
「アンタと違って走ることしか頭に無いわけじゃないからね? 蹴飛ばすよ?」
「それじゃあ、去年のバレンタインとかはどうしたのさ」
揶揄するのでもなく純粋な疑問として、武は聞く。
武の記憶では去年の今頃は普通に仲良くなっていたし、渡そうと思えば渡せたはずだ。
「あれは、えっと。――わ、忘れてたのよ」
「そうなの?」
「ええそうよ! なんか文句ある?」
「別にないけど。忘れてたなら仕方ないね」
「即答!? もっと何か聞くことあるんじゃないの!?」
「え? でも忘れてたんでしょ?」
「……いや純粋すぎるでしょ」
問答の末に何故か頭を抱えるレイの様子に武は今一ピンと来ていなかった。
その日を過ぎてしまって渡せなくなることくらい、あってもおかしくはないだろうというのが武の考えだった。
そして今年は、チョコを渡してくれた。それなら武がかける言葉は一つだった。
「レイ」
「何?」
「チョコ、ありがとう。女子からチョコ貰うの初めてだから嬉しいよ」
「――っ! そ、そう。それは良かったわね」
自然と零れた笑みと共に向けられた武の笑みに、レイは顔を赤くしてそっぽを向く。
初めて貰ったチョコの包みを大事にランドセルにしまってから、武はレイの手を引いた。
「夕方のレース、レイも見に行くでしょ?」
「……行く」
何故レイが顔を赤くしているのかに気付かないまま、武は彼女の手を引いて近所のレース場へと向かうのだった。
「――――君。―――ナー君。トレーナー君」
耳元で誰かが囁く声が聞こえる。
ほんの少し低音の、それでいて凛と透き通った心地の良い声だ。この声を、最近はよく聞いていた気がする。
誰の声だったかと思いながら、武は少しずつ微睡みから引き戻されていった。
「――ぁ。るど、るふ……?」
未だ覚醒しきらない意識の中、開いた眼に映ったウマ娘の名前を反射的に呼ぶ。
「トレーナー君、もう午後だ。トレーニング前のミーティングの時間だ」
「午後……。とれーにんぐ……。――――っ!?」
半ば覚醒しかけていた意識が一気に現実に引き戻され、武は咄嗟に突っ伏していた仕事机から飛び起きた。
「おっと。目は覚めたかな、トレーナー君?」
「ルドルフ、今何時!?」
勢い良く起き上った武の頭をひょいと避けて一歩後ろに下がったルドルフに、武は混乱した頭のまま尋ねた。
元々、ルドルフやマルゼンスキーの今日のトレーニングメニューの整理くらいは昼休みの内に軽くしようと考えていたのだ。事と次第によっては、それが一切出来ないままルドルフたちのトレーニングをしなければいけない、という思いが武を焦らせていた。
「まだ昼休みが終わったばかりだよ。そう慌てずとも、練習開始予定時刻にはまだ猶予がある。安心してくれ」
苦笑しながらルドルフは自分のスマホを操作し、時計を見せてくれる。そこに表示されていたのは12時55分――今日の14時からの練習にはまだ十分間に合う時間だった。
「よ、良かった……」
安堵の溜め息を吐きながら、武は椅子の背もたれに身を預けて天井を仰いだ。昼食の弁当を食べてすぐに寝落ちしてしまったようだから、時間にして30分ちょっとといったところだろうか。
「トレーナー君、スヤスヤ眠ってたわね」
ルドルフとは別に声が聞こえて視線を向けると、机を挟んだ向かい側に微笑むマルゼンスキーが立っていた。
「えっと……。おはよう、マルゼンスキー、ルドルフ」
「おはよう、トレーナー君っ!」
自分の寝顔を思い切り見られていたことへの恥ずかしさと気まずさを紛らさすために、武は起き抜けの挨拶をすると、マルゼンスキーは深く聞かずに気前の良い挨拶を返してくれる。
その優しさに、思わず笑みが零れる。
「おはよう、トレーナー君、目が覚めたところで申し訳ないが……口元に涎が付いているぞ」
安堵していたところに差し込まれたルドルフの指摘に、武は机へ頭を打ち付けたくなるほどの羞恥心に苛まれたのだった。
「やばい、死にたい、穴掘って埋まりたい」
口元を拭い終えた武は、腕で顔を覆うようにしながら机に突っ伏していた。
耳まで熱くなっていて、きっとルドルフたちからは赤く染まっているのが見えるだろう。それでも恥ずかしさと、何より真っ赤に染まった顔を見られたくなかった武にはこうする他無かった。
「その、すまないトレーナー君。あまりにも心地良さそうに眠るものだから悪いとは思ったのだが……」
「ルドルフは全然悪くないよ。無防備すぎる俺が悪い」
普段なら外で寝落ちなんてしないのだが、トレーナー室に一人という環境で部屋の暖房が程よく効いていたせいなのか、昼食後で腹が満たされていたからなのか。理由が何であるにせよ、油断してしまっていた。
早々に目が覚めていれば何事もなかったかのように誤魔化せもしたが、間の悪いことにルドルフとマルゼンスキーに寝顔を見られてしまった。あまりにも、二人に合わせる顔が無い。
「まあでもトレーナー君、ここのところずっと頑張ってくれてたものね。疲れが出ちゃうのも、仕方ないと思うわ」
「普段のトレーナー業務に加えて、マルゼンスキーの取材対応もあったからな」
「ええ。ありがとね、トレーナー君」
先日の東京新聞杯でマルゼンスキーが奇跡の復活劇を遂げた後、各方面から取材依頼がこの一週間殺到し武は対応に追われていた。
大半は学園側で対応してもらった案件が多かったが、マルゼンスキーのインタビューの付き添いをしたりアポ無しでやってきたマスコミの取材を断ったりと大忙しだった。中には武に直接取材を依頼する所もあって、自分が矢面に立つとは思っていなかった武の心身を疲弊させるには十分すぎるくらい濃密な一週間だった。
「どういたしまして。ルドルフも、学園の外に出るときはマルゼンスキーに付き添ってくれてたし、助かったよ」
「
「まあ、もうすぐGⅠも増えてくる時期だからね」
一度引退したウマ娘が中央で復帰するというのは、前代未聞の大ごとだ。それもマルゼンスキーというウマ娘を取り巻く事情が事情だったからこその、例外中の例外でもある。必然、世間の注目が集まるのも無理はないだろう。
しかしいくら大ごととはいえ同じ話題ばかりでは次第に人々も飽きてくるし、春のGⅠがこれから盛り上がってくる時期だ。自然と、マスコミからの注目も落ち着いてくるだろう。
「もうそんな時期なのねぇ。ルドルフは皐月賞に出るんでしょ?」
「ああ。私の夢に近づくためにも、クラシック三冠は避けては通れない。その前哨戦として、来月の弥生賞にも出るつもりだ」
GⅡの弥生賞は皐月賞の前哨戦とされ、中山レース場芝2000mと同じ条件の下走ることになる。それに加えて3着以内に入れば優先出場権も得られるとなると、出ないわけにはいかない。
「私も精一杯サポートするわ、ルドルフ」
「ああ。よろしく頼むよ、マルゼンスキー」
マルゼンスキーの言葉に、ルドルフも快く応じる。
「俺からも頼む、マルゼンスキー。今のトレセン学園の中じゃ、併走相手をお願い出来る子はそう多くないし」
ルドルフの場合実力差があってついていけないどうこうの話の前に、頼もうにも恐れられて中々併走トレーニングが出来ないことがあった。特にジュニア時代の、マルゼンスキー加入前の時期はほぼ一人でのトレーニングになってしまっていたなと武は振り返る。たまに物好きなごく一部のウマ娘がルドルフに声をかけていた程度だ。
それでデビュー戦を勝ってしまうあたり、シンボリルドルフというウマ娘が秘めている力は底知れない。
「皆遠慮しちゃうものね、憧れの会長さんが相手ってなると」
「やはり私は、他の生徒たちからすると親しみにくいのだろうか」
ルドルフは以前からそのことについて頭を悩ませているようだが、あまり関わりのない生徒たちからするとどうしても委縮してしまうのだろう。
「親しみにくいってことはないと思うけどね、俺は」
「トレーナー君?」
「あまり悩まなくていいってことだよ。皆にとっては“生徒会長”でも、俺やマルゼンスキーにとっては他の誰でもない、ただの“シンボリルドルフ”だから」
武は生徒たちのことで思い悩む顔も、ダジャレを口にして微笑む姿も見てきた。マルゼンスキーにしたって、同じターフに立つ者同士で切磋琢磨し合う仲だ。そこにいるのは、生徒会長として皆の畏敬を集める存在としてではなく、一人の年頃の少女としてのシンボリルドルフだ。
「そうね。あたしも、ルドルフのこと好きよ」
「トレーナー君、マルゼンスキー……」
ルドルフは意外そうに目を見張ってから、困ったように微笑む。
「――全く、君たちには叶わないな」
「もしかしてルドルフ、照れちゃった?」
「揶揄わないでくれマルゼンスキー。まあ、喜ばしく思ったのは事実だが」
悪戯っぽく笑うマルゼンスキーに、ルドルフは頬を掻く。そんな微笑ましい光景に、武もつい頬が緩む。こうして見ているとやはり、ルドルフはどこにでもいる普通の少女なんだと実感させられる。
二人の様子を見守っているとルドルフがこほんと一つ、照れ臭さを誤魔化すように咳払いをしてから手に持っていたカバンを開けた。
「感謝の代わりと言っては何だが、二人に渡したいものがある」
そう言って丁寧に包装紙で包まれた長方形の箱を二つ取り出し、武とマルゼンスキーそれぞれに手渡していく。
「ルドルフ、これって」
武の問いに、ルドルフは頷く。
「ハッピーバレンタイン、トレーナー君、マルゼンスキー。心ばかりだが、日頃の感謝を込めたチョコレートだ」
「ありがとうっ、ルドルフ!」
ルドルフから受け取ったチョコを手に、マルゼンスキーが華やいだ笑みを浮かべて真っ先に喜びを伝える。よほど嬉しかったのだろう、耳と尻尾がそれはもう忙しなく動いていた。
「そっか、今日はバレンタインだったか」
チョコレートを手に取りながら、武は昔のことを思い出す。
それは小学生のころから、感謝の証として毎年チョコレートを贈ってくれたウマ娘の友人との記憶だった。
一昨年まで唯一母以外でチョコをくれたが、込められていた本当の気持ちにはずっと気づけずにいた。やっと気づいたのはレイとの溝が生じてしまった後、去年の2月だった。
久しぶりに母以外から貰うことがなかったことで、ようやくレイのチョコに込めていた気持ちに思い至ったのだ。
今思うとあの頃の自分を武は呪いたくなる。
自分が積み上げていた物を無自覚に自分で壊して、ようやく気づくなんてあまりにも無様な話だ。
手元の青い包装紙に包まれたチョコを見れば、ルドルフなりの気持ちが込められていることがよく分かる。それが義理であれ、何であれ、ないがしろにはしたくないと思った。
「――ありがとう、ルドルフ。大事に食べるよ」
せめて感謝の気持ちだけでもしっかり伝えたいと、武はルドルフの目を真っすぐ見て言う。
「二人にそこまで喜んでもらえると私も選んだ甲斐があったよ。」
「ええ、すっごく嬉しいわ! 包装紙、私は赤いのでトレーナー君には青いのにしてくれたんでしょ? しかもこれ、都心の方の百貨店のじゃない!」
「ほんとだ。結構高いんじゃないか、これ」
独特なデザインの包装紙にマルゼンスキーは目を輝かせ、武も思わずまじまじと見つめる。
「何、大したことはないよ。遠慮なく食してくれ」
「そっか。それじゃあ早速開けるよ」
「そうね。ルドルフがどんなチョコを選んでくれたのか、あたしも気になるし」
「ああ、構わないよ」
武とマルゼンスキーは早速、それぞれに渡された包みを丁寧に開けていく。
「ねえルドルフ、これって」
「俺とマルゼンスキーで別々に選んでくれたのか」
中に入っていたのはシックなパッケージが特徴的なデザインの板チョコだった。
武はあまりチョコ市場に明るいわけではないが、見るからに値が張りそうな代物に思える。
「ああ。トレーナー君は時折トレーナー室でコーヒーを飲んでいるからそれに合うよう、苦みをある物を。マルゼンスキーには甘さを楽しめるようにミルクチョコレートを選んでみた」
武が思っていた以上に、ルドルフは二人のことをよく見ていたらしい。
武は眠気覚ましに微糖の缶コーヒーを飲むことが多い。苦みのあるチョコレートならいいアクセントになるだろう。
「ここまでしてもらうと、来月何をお返しにしたらいいか悩むね」
「トレーナー君が気にすることではないさ。君が喜ぶ顔を見られただけでも、私にとっては報恩謝徳になっているよ」
ルドルフはそう言って笑うが、武としてはやはり貰いっぱなしでは落ち着かない。来月に向けて何かしら準備はしておこうと、武は静かに決意する。
「ふふっ。トレーナー君、自然とお返ししようって言うのイケてるわね」
「まあ、こういうのは大事にした方がいいって子供の頃母さんから言われてたし」
レイから初めてチョコを貰った日に母親から念押しされたことを思い出して、武は懐かしさから笑みを浮かべる。
小学校のころから友達と呼べる人がいなかった武にとって、女友達というのは更に稀有な存在だった。そんな子からバレンタインチョコを貰ったのなら、義理でもいいからちゃんとお返しした方がいいと強く言われていた。
その理由も、今ならよく分かる。
「それじゃあ、あたしもお返し期待しちゃってもいいかしら?」
冗談めかして笑いながら、マルゼンスキーは自分のカバンから二つ包みを取り出した。
赤基調のどこかレトロな雰囲気の包装紙に包まれた箱を見て、武はすぐに検討がつく。
「もしかして、マルゼンスキーもチョコを用意してくれたのか」
「ええ。あたしも、二人にすっごく感謝してるもの。だからこれは、あたしなりの気持ちよ」
マルゼンスキーから受け取ったそれは、手のひらほどの大きさがあった。
目配せで開けてもいいか確認を取ってから、武は包みに手を付ける。
「一口チョコか」
箱を開け中身を見ると、小さくカットされたチョコがそれぞれ白い包装紙に包まれ、整然と並べられていた。
「なるほど。私たちが食べやすいように配慮してくれたんだな」
武と同じように中身を見ながら、ルドルフは感心したように呟いていた。
「ルドルフは生徒会宛てで沢山貰いそうだったし、トレーナー君も他の子から渡されそうだなって思って、ね」
「そんなところまで気を回してくれたんだ」
ルドルフ初め生徒会メンバーは他の生徒たちからの人気も高いので納得するところだが、自分のことまでそんな風に見ていたのかと、武は驚く。
しかしよくよく考えれば、マルゼンスキーはよく人のことを見ているし困っているウマ娘がいれば必要なら手を差し伸べることもある、姉気質なところもある。この一口チョコという選択も、彼女ならではのものだろう。
「
「ふふ、どういたしまして」
不意に差し込まれたルドルフのダジャレに武が固まる一方で、マルゼンスキーは上機嫌な返事をするのだった。
二人からチョコを受け取り、午後のトレーニングも終えた武はトレーナー室に戻ってノートPCやタブレットに表示させた資料とにらめっこしていた。
今日のトレーニングの成果をPCの表データに書き込んでいき、次の課題を洗い出していく。
「ここまでウッドチップ中心にしてきたけど、ルドルフは前に比べてスタミナも筋力も付いてきたか。マルゼンスキーは復帰戦が終わったばかりだからあまり無理させられないとして――」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、今後の予定を組み立てていく。天候の変化も鑑みて練習場所やメニューを決め、予約が必要な施設は事前の簡単な申請書も作っておく。
マルゼンスキーは脚に極端な負担がかからないように当面レースに出走させる予定はないが、ルドルフの方はそうもいかない。
来月には弥生賞が控えているし、彼女が宣言したクラシック三冠の一つ目である皐月賞は再来月だ。
コース条件は同じにしても、枠順や出てくる相手もある程度考慮する必要がある。
「――まあ、ルドルフの走りを見てたらそれも必要か分からないけど」
ルドルフの場合、スタート早々に好位を確保し仕掛けどころを伺う王道の戦法だ。デビュー戦、サウジアラビアRCとその走り方で勝っているのを見るに、多少の不利があっても実力で解決してしまえるだけのポテンシャルを秘めているように思える。
「となると、どんな状況にも対応出来るように鍛えてく方針は変わらないか」
小手先の作戦は使わず、正々堂々実力で全てを勝ち取っていく。それがルドルフの走り方であり、皇帝に相応しいとも言えるだろう。
「――と、もうこんな時間か」
キーボードを打ちつつ思考にふけっているとスマホのアラームが鳴り、時計を見る。
PCとスマホに表示された時計はどちらも、ちょうど20時を指していた。
外もすっかり暗くなり、冷え込んでいる時間帯だ。あまり残っていると方々から心配されるため、仕事を切り上げて帰り支度をする。
コートを着込んで部屋の暖房と灯りを消し、武は自分のトレーナー室を後にした。
途中、同じように居残っていた先輩トレーナーと挨拶を交わしつつ外に出ると、冷たく乾燥した空気が頬に触れる。
「すっかり遅くなっちゃったわねえ。門限大丈夫?」
「予め申請は通してあるから、問題ないよ。――まあ、寮長はかなり渋い顔をしていたが」
「あの子の顔が目に浮かぶわ……」
校舎の前を正門に向かって歩いていると後ろからふと声が聞こえて、武は振り返った。
視線の先で、制服の上に上着を羽織りカバンを肩にかけたルドルフとマルゼンスキーが並んで歩いていた。
同じタイミングで二人も武に気付き、にわかに驚いたような顔をしていた。
「やあ、トレーナー君。今帰りかな?」
「そうだけど……。ルドルフは生徒会の仕事?」
声をかけてきたルドルフに応えつつ、武はそう尋ねる。
学業優秀なルドルフが居残り学習とは考え辛いし、自主的に勉強するにしても寮に帰ってからすればいい話だ。制服姿で息も上がっているような様子もなく、消去法で考えれば答えは明らかだった。
「君にはお見通しか」
「まあ一年近くルドルフのトレーナーやってれば、そりゃあね。マルゼンスキーは付き添い?」
「あたし? あたしは付き添いっていうよりお手伝いね。ルドルフってば、どうしてもファン感謝祭の準備をしておきたいって言うもの」
ファン感謝祭は、毎年トレセン学園で行われる行事の一つだ。名前のとおりウマ娘たちを応援してくれるファンたちのために学園を開放し、様々な出し物をする学園祭のようなイベントだ。
生徒主体で行われるため、実行委員会のトップは必然生徒会となる。そして生徒会長であるルドルフは、管理運営の責任者だ。
「君も知ってのとおり、ファン感謝祭の時期には皐月賞が控えている。その前には弥生賞もあることを考えると、あまり時間は取れないだろうと思ってね」
「だからまだ時間があるうちに、やれることをやろうとしたのか」
「ああ。あまり褒められたことではない、と自覚はしているのだがね」
ルドルフは面目ないと苦笑しながら、武とマルゼンスキーを見る。
「あたしがいなかったら、全部一人で片付けようとするくらいの勢いだったわ。貴女の悪い癖よ、ルドルフ」
「それについては何も返す言葉が無い。しかし君が手伝ってくれたおかげで、私が今この時期に目を通しておくべきものについては片付けられた。感謝するよ」
「もう、ルドルフったら」
素直に感謝の言葉を向けられて、マルゼンスキーも怒るに怒れないと言った様子で笑う。
その様はまるで、本当の姉妹のようにも見えた。
「まあ、あんまり無理はしないようにな。ルドルフに倒れられたら、俺もマルゼンスキーも悲しいから」
武はかつて無理をし過ぎたことで周りを随分と心配をさせてしまったことがある。そんな過去の自分と同じ経験を、ルドルフにはしてほしくない。
そんな思いから、武はルドルフに言葉を投げかけたのだった。
「そうね。ルドルフはもっと、周りに頼っていいと思うわよ」
「――二人の忠告、感謝するよ」
一瞬目を瞑って思考する素振りをしてから、ルドルフは笑みを浮かべる。
何を考えていたかは分からないが、彼女がそう告げた以上は深く追求せず見守ることにする。
こういうことは注意を受けて素直に従うか、頭では分かっていても無理を続けてしまうかの二つに一つだろう。後者にならないように祈りつつ、何かあればフォローするのがトレーナーとしての役割だと武は心に決める。
「そういえばトレーナー君は、こんな時間までお仕事かしら?」
武が話題を変えようと思ったタイミングで、マルゼンスキーが水を向けてくる。
今まで棚に上げていただけに耳の痛い話だったが、聞かれた以上は答えないわけにはいかなかった。
「そんなところ。今日の練習のデータとか色々まとめてたら、つい夢中になっちゃって。二人から貰ったチョコ食べながらやってたら、こんな時間になっちゃったよ」
「あたしたちのチョコを食べてくれたのは嬉しいけど、理由がなんだか子どもっぽいわね」
「私たちのため、というのが何とも面映ゆいがな」
隠さずに言うと、二人は困ったように笑う。
子供のころから武はウマ娘という存在に惹かれ続けてきた。同年代の子どもたちがアニメやゲーム、スポーツや音楽といったものに夢中になるように、武もウマ娘を追い続けてきた。
その中でもウマ娘のレースは、武の心を何よりも躍らせる。
故にファンでありトレーナーでもある武は、練習データのまとめやレースの研究、トレーニングメニューの組み立てすらつい楽しんでしまう質だった。
マルゼンスキーの子どもっぽいという指摘も、あながち外れてはいなかった。
「まあ今日は帰ってから勉強もしなくちゃだし、仕事はまた明日にするから。心配させてごめん」
二人がわざわざ言及したのも自分を気遣ってくれたからだろうと察した武は、先んじて謝る。
「つい忘れそうになるが、君はまだ学生の身分だったな」
「そう。あくまでも大学の研修で来てるって立場だからね。今からトレーナー試験に向けて準備しておきたいし」
URAの猶予のおかげで、正式なトレーナー免許の取得にはGⅠ優勝などの実績を上げるか試験に合格するかのどちらかを達成すればいいことになっている。
しかしレースの結果はいつでも保障されるわけではないし、他のトレーナーたちは大抵試験を潜り抜けてきた人たちばかりだ。
自分を試すという意味でも、結果如何に関わらず試験は受けるべきだろうと武は考えるようになってきていた。
「応援してるわ、トレーナー君っ。でも、あんまり無茶はしないでね?」
「言われちゃったな。その辺は上手くコントロールするよ。長距離レースと同じで、ペース配分も大事だと思うし」
先ほど言ったことがブーメランのように帰って来たことに苦笑いしつつ、武はマルゼンスキーの目を見答える。
「ええ。息抜きしたくなったら、いつでも言ってちょうだいね? お姉さん、こう見えて免許持ってるから」
「ドライブか。なら、そのときはお言葉に甘えてお願いさせてもらうよ――――ルドルフ、どうした?」
マルゼンスキーの提案に快く応じていると、何故かルドルフが遠い顔をしていた。
「――ああ、いや。その……彼女とドライブに行くなら覚悟を決めておくことだ」
「うん……?」
らしくなくいまいち要領を得ないことを言うルドルフに首を傾げつつあるいていると、いつの間にやら学園の校門のところまで来ていた。すっかり三人で話すのに夢中になってしまっていたらしい。
ルドルフは途中まで帰り道が一緒でマルゼンスキーも一人で返すには少し心配な時間帯だと考え、先ほどの疑問は隅に追いやりつつ改めて二人に声をかける。
「と。ルドルフもマルゼンスキーも今日はありがとう。チョコ、すごく美味しかった」
「そう? それならよかったわ」
「早速口にしてもらえて、私も嬉しいよ」
そういえばまだ感想を言ってなかったと武が礼を言うと、二人は笑みを浮かべて応じる。
「二人とも途中まで送って――」
「――こんな時間までお疲れさま、武」
校門を出た直後、横合いから不意に懐かしい声が聞こえた。
武は思わず足を止めて、隣のルドルフとマルゼンスキーが立つ方向とは逆の方にゆっくりと振り返る。
そこには栗毛色の艶やかな髪を後ろの高い位置で縛り、ブラウンのジャケットと青系統のジーパンに身を包んだ釣り目がちのウマ娘が立っていた。
恰好からして明らかに学生ではなく、その佇まいから大幹はしっかりしていてよく鍛えられているであろうことが伺える。
印象は随分と変わっていたが、武はそのウマ娘のことをよく知っていた。
「なん、で、ここに――」
鈴の音のような声とその姿を、武が忘れるはずがなかった。
――忘れられるはずが、なかった。
「…………レイ」
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