桜の花言葉〜殺さずの剣客、そして人斬りの君へ〜 (沖田愛好家)
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一章 筆頭局長・芹沢鴨
1-1 天竺葵


なんか、読んでた小説消えてたんですよね。
代わりに勢いで書いちゃいました。
そのせいで、全く良いタイトル名が思い浮かばないという……。
しかもサブタイトルまで思い浮かばないという……。


 

 男は誰かを殺すことができなかった。

 何を当たり前な、と思ったかもしれない。

 人が人を殺めることに正義や悪やと論ずる意味などなく、殺人という罪科を犯せば、その時点で如何に聖人君子であろうと皆ただの罪人と化す。それが現代における常識であり、昨今の教育環境が齎した最大の功だと言えよう。

 

 ——人が人を殺すことに何の疑問も持たない、何の躊躇いもない人間は、タガが外れてしまっている。

 

 けれど、こと幕末において必要な殺人とは「正義」なのである。

 己が殺される前に斬殺した。

 仲間を殺される前に射殺した。

 要人を守るために絞殺した。

 仇討ちだと曰っては殴殺した。

 理由など挙げ出したら枚挙に遑がないほど、この時代では動機がいくつも転がっている。それこそ、道端で歩いているだけで殺人の動機など見つかりそうなほどに。

 故に、「当代において殺人は必要行為なのだ」と誰かが言った。狂った人斬りが言ったのか、はたまた幕府の幕臣が言ったのかは知らない。もしかしたら、*1似非商人が口走ったものかもしれない。

 けれどこの場合、誰が言ったのかなど重要ではない。重要なのは、「時代がそれを望んでいる」と言うことなのである。このような言葉が流布されても、誰もそれに対し反論を唱えない。ばかりか、世論が殺人を肯定し、時代が殺人を希求している。これらは一重に、命の散り様を美徳と考える弊風が起因しているのだろう。他人のために命を捧げることを誉とした武士道は、まさに封建社会が作り上げた絶対主従の悪夢である。

 国が、時代が、人々が、命を投げ打つことを肯定していると言うのに、誰が「殺人はいけないこと」と断定できようか。殺したとしても、そこに大義名分があれば非難されることなどない。当代での仇討ちは幕府公認のものであり、かの有名な赤穂事件では、各々の手紙に殺人の覚悟が書き認められていた程である。必要であれば斬り捨てられても仕方なかったと言われた時代である。それなのに男は誰も殺すことができない……。

 

 今一度ここで話を戻す。

 

 男は誰かを殺すことができなかった。

 読者諸兄はこれらを聞いて、まだ「何を当たり前な」と思っただろうか。予備知識を与えられ、時代背景を明るみにされた今、少しでもこれを普通のことだと思えただろうか。もしかしたら、腑抜けた男だと嘲笑ったやもしれない。いや、心底情けない奴と蔑んだ可能性も考えられる。戦争であれば人が戦死しても許容するように。寿命を迎えて死ねば仕方なかったと笑えるように。この時代の殺人は日常と癒着している。

 気付いていた人間もいたやもしれぬが、別にこれは「殺人」という大枠に括った言葉ではない。男は誰も殺すことができないのだ。例え、自分とは関係のない命が散ろうとしていても、どんな極悪人が相手でも、男は命の取り零しを許容しないのである。簡潔に言うなれば、男は誰かが死ぬのを許容しなかった。これは異常なことではないだろうか。

 

 ここより始まる物語は、そんな時代に反骨する異常者が、一人の女の子と出会うお話である。

 

 

 霧が掛かった三月の終わりのことである。職を失い、居所も失った剣客は、当てもなく京の町をふらついていた。

 今夜は風が冷たくて気持ちがいい。

 そんな動乱の時代とは真逆の感想を抱く男の足取りは、どことなく軽いように見えた。このまま風に乗ってどこかへ運ばれてしまったらいいのにと、年甲斐もなく思ってしまう。

 男は気がつけば、いつの間にか暗がりの隘路に入っていた。別に人がいない方へと向かっていたわけではない。ただ風に誘われているように、この場所へと足を運ばせていた。特段なにかをしたいわけでもなかった男は、元の大通りにでも戻ろうと踵を返す。男はあまり暗いところが好きじゃなかった。だから、できれば家屋の灯りが漏れる場所を彷徨いたかったのだ。

 しかし、そこで足は止められた。

 男が大通りに戻るためにと踵と躰を返した時、奥の方から何やら鬼気迫る声が聞こえた気がしたからだ。

 

(なんでござろう……)

 

 最近では京の町も物騒だと聞く。「世直しだ」「尊王攘夷だ」と騒いでは、商人たちから金を捲し立てる攘夷志士。「我々は京を守っているのだぞ」と嘯いては活動資金を囃し立てる幕臣の武士。男からすればどちらも不逞浪士でしかないので、できれば他人を巻き込まないように抗争してもらいたいと、常日頃から思っている。断れば即座に斬ってしまう血気盛んな連中に関しては、何かしらの罰を儲けるべきではないかとも考えていた。

 けれど上の者たちはそこまで頭が回らない。と言うよりも首が回らない。今は国の存亡をかけた戦いの時期でもある。国か少数の人命かと問われれば、彼らは間違いなく国と答えるのだろう。

 ならば、己だけでもその少数の人命を助ける側に回るべきではないだろうか。男はそんな風なことを考えていた。

 

(様子だけでも見るべきか……)

 

 嫌な予感を覚え、そう決意した男は隘路の奥へと突き進む。もしさっきの声が気のせいだったならば、それはそれでよし。無駄骨だと思ったりせず、誰も傷ついていなかった事に安堵すればいい。

 男は結局、誰よりもお人好しであったのだ。

 距離にしてみれば*23丈ほどを突き進んだ時。男の目の前に、暗闇の中から二人の人影が現れた。

 

「た、助けて、誰か助けてぇ……!!」

 

 一人は、そう言いながら手首から先の失せた右腕を庇い、一心不乱にこちらへ走ってくる中年の男性。

 

「逃しません!」

 

 もう一人は、銀色に輝く刀を構え、逃げる男性の背を追っている剣客であった。

 さて、この状況でどちらを助け方が良いのか。

 男からすれば、今目の前に映っている光景だけで判断しなければならない。

 

(とにかく、今にも殺されそうになっている方を助けるのが先決か……)

 

 どちらが善で、どちらが悪か分からないが。

 男は命の危機に晒されている人間を、見捨てることなぞ出来なかった。

 

「そこの逃げている御仁! そのまま某に向かって飛び込むでござる!」

 

 男がそう言うと、助けが来たことに安堵したのか、逃げていた男性がくしゃっと顔を歪める。そして、そのまま男の言う通りに前方へと勢いよく飛び込み、逃げていた男性は数丈先の地面に着地した。飛び込んだ彼とすれ違い様。男は腰に指していた太刀の鞘を左手で握り、親指で鯉口を切る。柄には右手をかけ——滑らせるように——襲いかかっていた剣客の刀に向かって抜刀した。

 キィィィン——と耳障りな金属音が鳴り響く。

 剣客の振り下ろした刀と、男が抜き放った刀が鍔迫り合った。すると光が差し込まなかった隘路に、ゆっくりと月光が差し込まれる。

 

「何者ですか、あなた……」

「そちらこそ、何者でござるか」

 

 睨みあう両者。

 月光で照らされて分かったが、男と向き合っている剣客は実に女らしい顔立ちをしていた。まるで猫でも彷彿とさせる愛らしさだ。刀を持たず、血の匂いさえしていなければ、その辺りの商店で看板娘を務めていそうなくらい美しい。

 端正な顔つきと、綺麗に切り揃えられた黒髪からは、やけに甘い匂いが男の鼻腔をくすぐった。

 

「私はそこに転がっている殿内さんに用事があるんですよ。関係のない方でしたら、どいてくれませんか」

「そうはいかんでござるな。某が退けば、其方、この御仁を殺すのでござろう」

「フン——その方を助けて、あなたにどんな益があると言うのです」

 

 女剣士は男の剣を華麗にいなすと、そのまま距離を取った。あのまま刀と刀を合わせていても、決着らしいものが訪れないと思えたからだ。実際、男はあのまま鍔迫り合いだけで時間を稼ぎ、その間に殿内と呼ばれた男性を逃がそうとしていた。女剣士は理論的に男の策略を見抜いていたわけではないものの、結果的にはその野生の勘とも言える思考力で、無駄な時間稼ぎをくらわずに済んだのである。

 

「本当に退かないなら——あなたも斬りますよ?」

 

 ともすれば、その声は並の剣客よりもよほど冷酷に響いた。聞く者の身を竦ませる、極北の地に吹き荒ぶ風のような、けれどもオーロラの如く綺麗な声。

 対面しているだけなのに、男はその一言に脂汗を滲ませる。

 

「それは困るでござる」

「ならば早く刀を納め、ここから去れ——私は二度も同じ忠告をしない」

 

 言うが早いか、女剣士は平突きの構えを取った。

 剣術の中でも突き技というのは当てにくい部類に入る。斬撃と違い振り回さないし、直線的にしか進めないからだ。

 しかし、それに勝るほどの殺傷力の高さがあった。急所に当たれば、それだけで相手の動きを止めることができるし、下手をすればそのまま死に追いやれる。故に彼女が突き技を選択したということは、逃がさないという意思表示ではなく——今ここでお前を殺すという決意表明であるわけだった。

 

「随分と血気盛んな娘でござるな」

 

 男は女剣士の平突きの構えとは対象に、刀を持った右手をぶらりと垂れ下げたまま、左半身を少し前に出すだけであった。

 前方から見れば、男の体は斜めに佇んでいる。構えというにはあまりに杜撰だ。あくまで自然体であり、ただ刀を抜いているだけの姿勢にしか見えなかった。流石の女剣士も、眉を下げる。なんの意図があって、そんな姿勢で固まっているのかなど分からない。左半身を若干前に出しているせいで、右手から放つ斬撃の初動は必ず遅れる。それなのに男は、半身を少し前に出しただけで、特に動こうとしなかった。

 

「私のこと侮っているんですか?」

「いいや、そんなことはない。突きに対しての構えなら、これが良いと判断しただけでござるよ」

 

 男はちらりと転がったままの殿内を一瞥する。

 

「其方、殿内と呼ばれていたか! 女剣士がこちらに向かってきた瞬間、走って逃げるでござるよ! そのまま進めば大通りに出るため、誰かに匿ってもらうと良い!」

「わ、わわ分かった! ありがとう、恩に着るッ!!」

「なに、困った時はお互い様でござる」

 

 殿内からの感謝を聞き、男はいざ斬り合いを始めようというのに、わざわざ振り返ってまで喜びを頬に浮かべた。昨今では見られなくなった柔和な笑みに、ふと緊迫した空気が薄れる。

 決して男と殿内に面識があったわけではない。今日初めてお互いの顔を見たし、声すらも聞き覚えがなかったほど薄い関係性である。助ける義理もなければ、労力を払う価値もない。なんせ殿内は右手を既に失っているため、これからは剣を握ることなど出来ない状態なのだ。武士としての人生は明らかに終わりを告げている。

 それでも、他に生きていく方法など幾らでもある。手が無いのであれば、頭を使う商いをすればいい。商いが向かないのであれば、剣を教える道というのもある。殿内には、まだ真っ当に生きられる機会は残っていた。男はその未来の可能性を守るためだけに、己の命を刈り取ろうとしている女剣士と戦うのだ。

 

「戯言を……誰一人として逃しはしない」

 

 唾棄するように女剣士は腰を沈める。

 狙いを定めているのは、目の前に立ちはだかる男の心臓部。それを一突きした後、走って逃げるであろう殿内の首を後ろから一閃——跳ね飛ばす。

 その工程を頭で数回浮かべ、万全のタイミングを見計らい、女は弾丸の如く()()()

 

「今だ! 走れ、殿内殿!」

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 女剣士が飛び込んだのと、殿内が起き上がったのは同時である。転がっていた殿内の方が進み出す速度は遅い。それは庇っている男も百も承知の事実だった。だから本来であれば、「襲いかかったと同時に走れ」は致命的な指示の間違いだと言える。もっと早く、女剣士が仕掛けてくるより前にスタートしなければ、男が一撃で屠られた場合、殿内は確実に殺されてしまうからだ。

 けれど、それは男が一撃で屠られた場合の話である。

 

「獲った!」

 

 勝利を確信した女剣士が叫んだ——。

 剣先は男の心臓部を目掛けて走っている。

 あと数瞬で男の胴体に風穴が開くだろう。

 その瞬間、男の生命活動は終わりを告げ。

 まるで糸の切れた操り人形のように、下品に地面へと落下する。

 そう、それこそ少女が思い描いた未来。

 そうなるはずだと思い込んだ未来図だった——。

 

「っ、え?」

 

 だが、それは現実に成り得なかった。

 風穴を開けるも何も——。

 さっきまでそこにあったはずの男の体が綺麗に消え失せているのだから。

 まるで隙間を這い回る蛇のように。

 前に出していた左足を軸に、

 男は華麗に女剣士の右背後へと回転していた。

 女剣士を後ろから強襲する一撃。

 回転の反動を使いながら。

 刀を——振り抜く。

 

 

「な……んで」

 

 死んだと悟った瞬間、女剣士——沖田は目を閉じた。

 あの突き技に合わせて、カウンターを決めてくるとは思いもよらなかった。第一、自分の突き技自体、大抵の人間に躱されたことがないのだ。それを初見で完璧に合わせてくるなど、沖田にとってはとても信じられない光景だった。

 

「構えと目線で狙いがバレバレでござる。あれじゃ、合わせてくれと言っているようなもの。道場などであれば、お面をしていて目線が見えないから良いものの、実践じゃ次の手を教えているようなものでござるよ」

 

 沖田がその言葉に反応して目を開けてみれば、目の前には無傷の男がにこやかな顔で立っていた。

 ついでに言えば、彼女自身の体にも怪我らしい怪我は見当たらない。刀を振り抜かれたと思ったのに、どこにも切り付けられた後すら無かった。

 

「どうして私は生きているのですか……」

 

 意味が分からないと言った様子で男に尋ねた。

 最後に見えた光景は、男が己に刀を振るった瞬間である。あれは幻想でもなければ、妄想でもないと言い切れる。そのため沖田は質問したのだ。

 

「どうして、と言われても……某はいかなる理由でも殺しはせんでござるよ。だから今回も、其方の動きを止めるために、ほら——」

 

 そう言って男に指差される己の腹部分。目線を下ろしてやれば、そこには男が持っていた刀が、沖田の衣服を貫いて壁へと縫い付けられていた。

 

「衣服は駄目になったかもしれないが、それは許してほしいでござる。某も其方の見事な突きに、少々手荒なことで止めるしか出来なかった」

 

 あははは、と乾いた笑みを浮かべた男は、後頭部を掻きながら言った。

 恐ろしいほどの絶技に沖田は何も言えない。これは最早完璧な敗北だ。相手を殺すより、相手の動きを止める方が難しいのは沖田でも知っている。本気で殺し合いにでもなれば、己が負けることは自明だと感じた。

 

「はぁ……申し訳ないと思うなら早く抜いてください。殿内さんにも逃げられましたし、それに貴方には敵いそうにありませんので」

 

 ため息まじりに女剣士が言えば、男は「ちょっと待つでござる」と突き立てた刀を力一杯引き抜いた。

 かなり強く突き立てていたのだろう。刀を抜いた部分を見れば、真っ黒な穴が深々と開いている。下手をすれば、この穴が己の体に空いていたのか。それを考えるだけで総毛立った。

 気まずそうに目線を逸らす。

 

「それよりどうして其方は、殿内殿を殺そうとしていたでござるか?」

「はぁ? 呆れました。何となくそうだろうと思ってはいましたが、本当にあなた、何も知らないで殿内さんを助けたんですね」

「返す言葉もない——が、()()()()()()()()()()()()

「……」

 

 沖田は内心でどうしようもなく長いため息を吐く。

 殿内の仲間ではないと半ば分かっていたが、それでもこの男は罪人を逃した男である。正確に言うならば、殿内は何かをした罪人ではなく、これから何かをしでかす”予定”だった人間である。

 それを沖田はある人物から聞き、独断で殿内を酒場へと連れ出した後、酔った彼を四条大橋で暗殺しようと考えていた。ただ誤算だったのが、先に剣を握られぬよう右手を切断したにも関わらず、殿内が咄嗟の判断で、大声を発しながら一目散に逃げてしまったことだ。

 それが結果的に功を奏し、こうやって訳もわからないお人好しに阻まれてしまった。

 殺しはいけないでござるよ。

 ——何を甘っちょろいことを言っている。

 沖田からしてみれば、目の前の男が気に食わないと思うのに時間は掛からなかった。

 

「この時代で殺しの善悪を説きますか——この私(沖田さん)でも呆れるくらい馬鹿ですよ、あなた。まあ、良いです……あの傷では二度と剣は持てないでしょうし、何より血を流しすぎて死ぬ可能性が高い。殿内さんには悪いですけど、あんなの死んだ方がマシな痛みですよ」

「それは本人に頑張ってもらうしかないでござるな。某に出来るのはここまで」

 

 医療の知識などあまり無い男である。そんな男が保証できるのは、沖田から逃すということのみ。

 腕がどれだけ良くても、専門外のこととなれば男はとことん弱かった。

 

「それじゃ某は行くでござるよ。沖田殿? も女でありながら剣客をしている身——あまりとやかく言うつもりは無いが、夜道は気をつけるでござる」

 

 そう言って刀を納め、大手を振って四条橋の方へと歩いて行く男。

 さっき対峙した時は、中々鋭い眼差しをした剣客という印象を抱いたが、後ろから見ればただの陽気な男である。きっと、沖田が後ろから襲うなんて考えてもいないのだろう。

 

「全く。あんなお節介焼きに出会うとは、私もついてません」

 

 再度、沖田はため息まじりに呟いた。

 

(私も帰ろう)

 

 肌にこびりついた乾いた血を取りながら考えていると、同時、気がついたことがある。

 

「あぁっ! ちょっと待ってください! 小袖だけじゃなくて、帯まで斬ってるじゃ無いですか、あなた! どうしてくれるんですか!? 私帰れませんよ!?」

 

 道理でさっきから着崩れすると思っていた。腹部に穴が空いているのが原因かと思っていたが、よくよく見てみれば帯が千切れかけている。あと少し力を加えたら、前から着物がはだけるのは容易に想像できた。

 男は沖田の動転ぶりに思わず振り返り、何事かを察して笑った。

 

「あはははー、すまんでござる」

「何が、すまんでござる、ですかああああ!!1」

 

 込み上げてきた激情を肩に宿し、沖田は力一杯鞘だけを男に投げ付けた。

 人間とは投擲能力において生物界で最強だと言われている。霊長類では、ごく稀に高速で正確に物を投げつけられる場合もあるそうだが、人間は日常的にそれができる。沖田の投擲能力も一般人とはかけ離れたしなやかなフォームにより、あり得ない速度を誇って男の脳天に鞘を直撃させた。

「んぎゃっ」

 情けない声を発し、ばたりと倒れる男。無理もない。鞘は重さに換算すると*31斤いかないくらいである。これは野球ボールに換算すると大体3〜4倍の重さだ。それが放物線を描くことなく、一直線に投げ込まれたのだから、威力は計り知れない。さっきの斬り合いでは絶対に倒せないと思っていたのに、呆気なく男はやられてしまった。

 あまりの拍子抜けに、沖田は目を丸くする。てっきり軽く避けられるものとばかり思っていた。

 

「……もしかして、くたばりました?」

 

 沖田は男に警戒しながらも声をかけた。

 右手には柄が握りしめられている。さっきまでこの男とは争ったわけだし、今ならこの男を殺せるかもしれないと考えたからだ。

 けれど男は、そんな沖田に対しても反応することがなかった。

 

「あの、からかっているんですか?」

 

 沖田は最後の確認として、抜刀していた刀で男の体を少しだけ突いた。針に刺されたような傷跡から、ほんのり血が滲み出る。けれど、男が何かしらの行動を起こすことはない。完全に気を失っている。頭部に鞘が直撃したのだから当たり前と言えば当たり前だが……。

 沖田はこの瞬間、この男を完全に殺せると判断した。

 

「なぜだか知りませんが、倒せたみたいですね」

 

 そう言って沖田は、刀の鋒を男の心臓部へと狙い定める。人間であれば一突きで絶命させられる急所。さっきは見事な回転で避けられたが、今の動かない男になら、間違いなく当てられる。

 

「——悪く思わないでください。斬り合った後に、無防備を晒した貴方が悪い」

 

 身も心も凍らせる、不吉な声色で沖田は呟いた。

 殿内を逃したこの男が何者かなど、沖田には分からない。聞いた限りでは、ただの通りすがりのお人好しだと思っている。そんな人間、別に殺す必要もないのだが、それでも沖田は目の前の男を殺そうと思った。

 

 なぜなら、この日、沖田は人斬りになる覚悟をしてきたからだ。

 

 兄弟子である近藤のため、京の町で壬生浪士としてやっていくには、自分を人斬りにしなければならない。

 ある人物から「殿内が近藤を害そうとしている。総司君は未だ人を斬ったことがないのだろう?」と言われた。それが意味することなど、聡い沖田には瞬時に理解できた。女でありながら剣客をやっている身だ。いずれそういう話をされることなど目に見えていた。

 だから、沖田は証拠のためにと殿内を誘い出し、酒場で証言を取れた時から、己が人斬りになる覚悟をしていた。近藤の役に立つため、試衛館メンバーの足を引っ張らないようにと。

 なのに、だ。

 目の前で倒れている男に殿内暗殺を邪魔立てされ、しかもその理由が「殺しはいけない」などという意味の分からない戯言ときた。今更ながらに向かっ腹が立つのも仕方のないこと。

 

「小娘のままでいられない。私たちの夢のためにも」

 

 誰に聞かせているのか。沖田の口からは自然と言葉が溢れていた。

 現代は、後に幕末と呼ばれる時代の転換期。意義ある人殺しは許容され、また黙される時代。時代が、国が、人々が殺人を肯定し希求する。そんな乱れに乱れたはずの時代なのに、倒れた男は沖田に向かって言い放った。

 ——人殺しはいけないでござるよ。

 戯言だ。胸を掻きむしりたくなるほどの甘言だ。誰が聞いたって反吐が出る。汚れを知らない小市民ならまだしも、脇差をさした武士の言うセリフではない。そんな言葉を吐くのは、いまだに己の手を汚したことのないヘタレだけである。

 けれど、それでも沖田は…………

 

 

 ほんの少しだけ——人を斬らないことに安堵した。

 

 

 気がつけば、振り下ろしていた刀が男の心臓部から大きく逸れて、何もない地面へと突き刺さっていた。当然、流れ出ているはずの血は誰からも溢れていない。男も先程と同じように、少しも動かず地に伏している。

 ふっと短い息が沖田から溢れた。

 

「意味もない殺人をしてまで、私はこの夢を——」

 

 今日初めて真剣で人を斬った沖田。その感触を確かめるように、突き立てた刀から手を離しゆっくり開閉させる。

 気持ち悪い。

 肉にめり込む感触も、骨を砕き斬る感触も、斬られた相手が発する奇声も、鼻腔をくすぐる鉄の臭いも、何もかもが気持ち悪い。肌にこびりつく乾いた血をさっさと洗い流したい。汗と血が染み入った着物なんて早く脱いで、横になりたい。

 けれど、昨今の京はこんな気持ち悪いもので溢れかえっている。治安を維持することは難しく、京で過ごす人間はどこかで安寧を求めている。

 そんな世知辛い現代で、彼女は一人考えた。

 いつかこの気持ち悪さも、慣れてくれる日が来るのだろうか——と。

 

 

 男は目を覚ました。「どの男だ?」と聞かれれば、あの「お人好しの男」であると答える。そのお人好しの男は、いつの間にか眠っていたことに気がついた。。何故なら頭上には見知らぬ天井、横を振り向けば見たこともない襖が並んでいたからだ。

 男の最後の記憶にあるのは、一人の雪椿を彷彿とさせる女剣士。彼女と戦ってから少し後、そこで男の記憶はぷつりと途切れていた。何かいけないことを思い出そうとする気分だ。昨日の記憶を掘り返そうとすればするほど、なぜか頭痛がする。

 少しだけ気を休めようと、空いていた障子の奥を見れば庭が広がっている。雄弁に咲いた桜が見事なまでに美しいと思えた。

 

「目が覚めたんですね」

 

 桜に夢中になっていた男の背後から、声が掛けられる。痛む頭を庇いつつ、ゆっくりと後ろを振り向けば、そこには淡い青色の着流しを着た沖田であった。さっきまで外にいたのか、沖田の黒髪に桜の花弁が着いている。男はそれを見て、くすっと笑うと、頭の方を指差して「ついてるでござるよ」と教えてあげた。

 

「っ、ありがとうざいます。起きて早々、人に指摘するくらいまで元気になったんですね」

 

 嫌味を十二分に含めた言い草だったが、男はそれを気にしない。

 

「沖田殿がここまで? どうやら迷惑をかけたようでござるな」

「迷惑って……そんなの殿内さんを逃した時から思っていましたよ」

「あははは、それについてはあまり謝る気がないでござる」

 

 男は気まずげに頬を掻くと、布団から立ち上がった。

 それとは対照的に、沖田は彼の近くに腰掛ける。

 

「あまり長居するのもよくはない。何も恩返しできないが、某はこれにて失礼するでござるよ」

 

 いつの間にか着替えさせられた寝間着を脱ぎながら、男は言った。

 長いこと寝ていた気がするため、体が重く感じる。さっさと出立ちの準備をする男を見ながら、沖田は部屋に立てかけてあった彼の刀を手に持った。

 

「出ていくのは結構ですが、その前に貴方と話がしたい人がいます」

「某と話でござるか?」

「ええ、殿内さんとの件かと」

 

 沖田がそう言って目を伏せると、男は苦笑いをした。

 殿内との関係を聞かれても、男から答えられるものは何もないからだ。あれはただの偶然、その場に居合わせたから助けただけの奇跡でしかない。殿内という人間自体を懸念したというには、あまりに男は無差別的な行動であった。

 

「困ったでござるな。某は本当に何も殿内殿とは繋がりがないのだが」

「知っています。あなたが何も考えていない、とんだお人好しということも。それでもあの人に話をしたいと言われれば、私はそれに従うしかありません」

 

 沖田の言葉に、男は眉を曇らせる。

 

「あの人とは、いったい誰の事でござるか?」

「芹沢鴨——私に殿内さんを暗殺するよう提案した張本人です」

 

 ここから始まる物語。

 それは、()()()()()()()()異常者が、()()()()()()()女の子と動乱を生き抜く物語である。

*1
似非:くだらないという意味

*2
およそ10メートル

*3
600g




Q.この主人公、絶対にあれを参考にしているやろ?

A.Yes、Yes、Yes. Oh my God.



ちょこっとだけ豆知識。
以下、Wikiさんを活用。

・殿内義雄
1863年、清河八郎発案の浪士組に参加。その後、壬生に残った芹沢・近藤・根岸らたちと共に、壬生浪士組(後の新選組)を結成する。
最初の壬生浪士の筆頭格だった近藤・芹沢・根岸らは既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は江戸幕府の信用で筆頭格になったので派閥らしいものはなく、旧知の根岸らと近かったとされている。
殿内は自前の派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らにしこたま酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い死去した(文久3年5月の書簡で、沖田に殺害されたという)。これが壬生浪士組最初の粛清とされる。暗殺の原因は諸説あり。

この小説では、主人公のおかげで彼は無事あの後も生き残り、ひっそりと余生を過ごした。一応は明治まで生きており、最後は孫に看取られて死んだ。


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1-2

長くなりすぎたから無理やり真っ二つにしました。
なので終わり方が雑かも。
一話は大体6000文字くらいに抑えたいんだ!! 許してくれ!!

沖田さんと主人公がイチャイチャするのはもう少し先か……


 

「壬生浪士」とは、清河八郎が集めた浪士組の中でも、京に残り会津藩預かりとなった隊のことである。

 構成員はそこまで多くない。芹沢一派、近藤一派、根岸一派らといったものが寄せ集まって出来ている。烏合の衆と言われればそれまでだが、これら武士たちはどれも腕の立つ者ばかり。京の町で不逞浪士を取り締まるくらい、彼らにとっては容易なことである。

 そんな中でも、芹沢一派の頭である「芹沢鴨」は少し有名な人物であった。

 芹沢鴨——その前名を下村嗣次。

 天狗党の元構成員であり、捕まった際には死刑まで言い渡されていた男の名前だ。

 元々、尊王攘夷の名の元に、様々な悪事に手を出していたのが天狗党である。幕府は当時、攘夷に反発する勢力が多かった事、さらに彼らの悪行が目に余ったことが重なって、下村含む天狗党の幹部を拘束した。

 そんな経緯を持つ男が、普通であるはずもなく——この壬生浪士内でも彼の発言力は日に日に増大していた。

 

「……昨日の件は良かったのですか?」

「なんだね、新見。昨日の件とは?」

「沖田君のことですよ。芹沢さんは彼女に発破をかけていましたが、殿内暗殺——失敗したそうじゃないですか」

「ふっ、ふははははは! 新見ぃ、その言い方だとまるで、『私は殿内が死ぬことを望んでいた』みたいに聞こえるじゃないか」

「っ、すみません。出過ぎた発言を」

 

 庭の見える一室で酒を呷りながら笑う芹沢と、その横に座り酒を注いでいる新見錦の談話である。昨晩、沖田が殿内暗殺を失敗したことについては、既に彼らの耳に入っているらしく、それについて新見が言及をしていた。

 しかし、それでも芹沢は愉快なものを聞いた風に笑い続けている。新見の言う通り、殿内暗殺をけしかけた諜報人でありながら、芹沢はどこまでも余裕を持った笑みだった。

 

「ですが、何者なのでしょう。あの沖田君が倒せなかった剣客というのは……」

「さあな。もしかしたら、意外と名の知れた武士なのかもしれんよ」

 

 芹沢は愛おしそうに、傍に置いた愛刀を撫でる。その所作が意味するところなど、新見には皆目見当もつかない。

 ただ、芹沢の口振りからして一つの疑問が新見に湧いた。

 

「芹沢先生はご存知なのですか?」

 

 その質問に芹沢は目を細める。

 

「ふん。それについては今から確かめてみるところだよ」

「——失礼します」

 

 芹沢がそれを言い切ったのが早いのか、それとも襖を開けられたのが早いのか。

 新見が声の聞こえた襖の奥へと視線を投げれば、そこには二人の男女が部屋へ入ってくるのが見えた。

 

「沖田君——」

「芹沢さん、連れてきました」

 

 新見の呟きなど耳にも入らぬ様子の沖田は、淡々と芹沢にだけ告げた。

 それがよほど面白かったのか、芹沢は「ふっ」と鼻で笑い、そのまま「まあ、座れ」と言う。部屋に入ってきた沖田と男はそれに従い、芹沢・新見と対面するように座した。

 

「ほう……貴様が総司君の報告にあった謎の剣客か」

 

 芹沢は唇の片端を上げて、男を値踏みするように全身を隈なく見る。

 江戸茶よりも紅い色彩を纏った小袖、光に照らされ赤く光る茶色の長髪。。服装の鮮烈さもさることながら、顔の造りも中々に美形と言わざるを得ない。

 

「もっと厳つい剣客を想像していましたが……若い、ですね」

 

 そう唾をこくりと飲んで言うのは新見だった。

 沖田は壬生浪士の中でも、腕は最強クラスと謳われている隊員である。実践経験がほとんど無いと言っても、大抵の武士になら勝ってしまうくらい彼女は強いだろう。それを易々と退けた存在、と予め聞かされていたならば、誰もが新見のように、年季の入った厳つい剣客を想像するに違いない。

 それなのに現れたのは、猫も殺せなさそうな若造である。歳は大体、壬生浪士でも最年少とされる藤堂平助と同じくらい。これにあの沖田が負けたと聞けば、新見も少し疑いの目を向けてしまうと言うもの。

 そのため新見は、男と沖田を交互に侮蔑するような視線を送った。

 

「すまぬが、どちらが芹沢殿でござるか? 何分、拙者は沖田殿の口からし紹介されてない故、名乗ってもらわないと分からないでござる」

 

 新見の視線を無視して男がそう聞くと、芹沢が持っていたお猪口を御膳の上に置いた。

 

「私が芹沢鴨だよ」

「そうでござったか。これは失礼」

 

 芹沢が名乗ると、そちらに向けて男は丁寧に頭を下げた。

 しかし、芹沢は男の謝罪など気にする様子もない。刀の側に置いてあった鉄扇を持ち、そのまま沖田を指し示す。

 

「いやいや、構わんさ。それよりも——君が総司君に勝ったと言うのは本当かね」

 

 男を射抜くほどの眼光。

 隣に座っていた新見は思わず息を呑んだ。

 

「いいや、拙者の負けでござる。沖田殿には助けられた故、どちらかと言えば彼女は命の恩人でござるよ」

「ほう……総司君からは君に斬り合いで負けたと聞いたが」

「それは過程の話でござる。拙者が倒れた後、沖田殿はいくらでも拙者を殺せたはず……それをしなかったのだから、拙者にとっては命の恩人と変わらんでござるよ」

 

 男はそれだけを言うと最後に虚偽のない笑みを浮かべた。

 男からすれば、沖田の行為は命を助けられたものに等しい。それを敗者の行動などと蔑まれることが許容できないのだろう。そもそも、男にとって斬り合いの勝敗などどうでもいい事である。殿内の命を助けられた時点で、彼にそれ以上の望みなど一つもない。

 そんな男の考えが見え透いたのか、沖田は男の言葉にため息を吐いた。

 

「このお人好し——」

「沖田殿、今何か言ったでござるか?」

「いいえ、別に——馬鹿だなって思いまして」

 

 沖田の突然な悪口に男は「え?」と固まってしまう。

 

「なるほどなるほど。大体の成り行きは分かった。総司君の報告に偽りはなく、また君の発言にも虚偽はない、と言う事だね」

「いや、だから拙者は沖田殿に負けて……」

「貴方がそれを主張し続けると、話が進まないので黙っていてください」

 

 沖田が、未だに反論を続けようとした男の口を塞いだ。

 

「しかしそうなるとだね、非常に厄介なことに総司君は勝手に隊士を斬り殺そうとして、勝手に隊士を逃亡させた事になる。これは非常に厄介なことに、ね」

 

 芹沢は演技くさく「困った、困った」と言いながら、鉄扇で己の肩をリズミカルに叩いた。

 芹沢からしてみれば、殿内も沖田も己の敵でしかない。もっと正確に言うなら、壬生浪士の権力争いにおいて、芹沢一派以外の人間は邪魔でしかないのだ。

 そんな邪魔な連中を運良ければ二人も減らすことができる。芹沢の狙いはそこなのだろうと、この場にいる沖田と新見は考察した。

 だから、この二人はそれぞれの思惑で芹沢の言葉に便乗する。

 

「芹沢先生の言う通り、沖田君はこの不祥事にどのような責任を取るつもりですか? 殿内さんと言えば、幕命でここに残られた取りまとめ役の一人ですよ。それを勝手に斬るなんて……」

「お言葉ですが、殿内は近藤一派、芹沢一派、根岸一派とは別の勢力を作ろうとしていました。それを見過ごせば、壬生浪士に新たな混乱を招くのは必須。私が殿内を殺せなかったことを糾弾される筋合いはあっても、殿内を殺そうとしたことを責められる覚えはありません」

 

 それぞれの言葉を聞いて、新見と沖田はお互いに睨み合った。

 芹沢はそんな二人を尻目に、口を出さず己をずっと見つめてくる男に問いかける。

 

「と、こんな風に言い争っているが、君はどう思うかね?」

「……拙者には幕命だの、勢力だの、一派だのは分からんでござるよ。ただ一つだけ言えることは——沖田殿に人殺しをさせるべきじゃない、と言うことでござる」

 

 男がそう言った瞬間、その場にいる全員がぽかんと呆けた。

 

「ふははははは! 総司君に人殺しをさせない!? 壬生浪士の隊員である、彼女をか!?」

「一戦交えただけで分かるでござる。沖田殿はまだ人を殺したことがない、彼女の手は汚れてないのでござる。殺人などさせるべきじゃない」

「だから殺させるなと? ふん、馬鹿馬鹿しい。武士が人を斬らずに何を斬ると言うんだ?」

 

 世間は「天誅だ」「攘夷だ」と血生臭いことになっている。

 それに対して「男の殺さず」はあまりに夢物語であった。芹沢を含め、新見も沖田もそれには同意する。武士が斬るものは果物や魚なんかじゃない。己の信念と相容れない人間だけである。

 

「……」

 

 だが、男はそれでも意思を曲げようとはしなかった。芹沢の睨みに真っ向から挑み、目線をピクリとも外さない。それどころか文句があるなら幾らでも言ってこい、とすら感じる勇ましさである。

 芹沢もそれを察することができたのか、持っていた鉄扇を畳へと打ち込んだ。

 

「相分かった。君が人殺しを快く思わない人間ということもね」

 

 芹沢は新見から酒瓶を奪うと、そのまま御膳においたお猪口に酒を注ぐ。

 

「けれど、それを踏まえて聞きたいことがある。古来より、他人に嫌なものを教えるとき、それは決まって己の実体験から説明されるものだよ。つまり君が人殺しの悪さを説明するということは——君は人を殺したことがあるということだね?」

「……」

 

 芹沢の言葉に、男は何も返さない。

 まるで男の時が止まったかのように、ただ黙ってじーっと芹沢を見つめている。

 

「いや、君は人が悪い。自分は殺人をしておきながら、他人には殺人をするなと言うのだから。今のご時世、女が剣客をやっているだけでも可笑しな事。普通であれば、このような奇跡考えられない。けれど幸福なことに、彼女は腕が良かった。だから、こうして壬生浪士に取り立ててもらえているんだ。そんな彼女から君は、剣を取り上げるつもりなのかね?」

 

 その言葉に嫌な顔をしたのは、男ではなく沖田の方であった。

 彼女からすれば芹沢の言っていることは全て正論である。己がここにいられるのも、近藤の役に立つだけの技量を兼ね備えていたからだ。でなければ、女の身でありなら天然理心流を学べていないし、そもそも京の同行だって認められなかった。

 己には斬るだけの力があり——才能がある。

「慢心」とも取れるその考え方は、されど沖田の腕によって「当然」という言葉に変換されていた。自惚れるだけの強さを彼女は兼ね備えていた。

 今の彼女は人を未だに殺したことはない。

 しかし、人を殺し慣れた彼女は真の人斬りとして大成する。

 これはもはや決定事項であり、世界の意思なのである——……。

 

「確かに。人殺しは時に必要——武士は人を斬る者。沖田殿にはそれを行う才能があり、また力もある。このまま成長すれば、誰もが彼女を恐れる剣客となるだろう」

 

 男は言う。

 それがこの世の真理なのだと。

 この時代が求めている人間なのだと。

 

「けれど某は——そんな当たり前のことよりも、当たり前じゃないことを目指す方がずっと素敵だと考えているでござるよ。できれば、沖田殿にはそんな優しい剣客を目指してもらいたい」

 

 当たり前じゃないことを目指す。

 口で言うのは簡単だ。全員がそのような強い心を持てば、きっとこの世から戦争は無くなるのかもしれない。

 けれどそれが出来ないから、人間は当たり前や、常識と言ったものに逃げる。挑戦することをやめ、夢を見ることをいつしかやめてしまう。

 男の願いは純粋だった。まるで幼な子が将来の夢を語るような目をしていた。

 芹沢はそんな男の瞳に舌打ちし、新見は意味が分からないと視線を逸らす。

 

 だが、沖田だけはそんな男の微笑みから目が離せなくなっていた。

 

「綺麗事だな……やはりどこまでいっても夢物語に相違ない。時代の転換というものを真に理解できていない。お前も、近藤も、根岸もだ!」

 

 芹沢はそう怒鳴ると、鉄扇を男に投げ放った。

 けれど男は避けることをしない。その場からあえて微動だにせず、その鉄扇が額にあたり、そこから血が流れようと、彼は真っ直ぐな瞳で芹沢を捉え続けた。

 

「なぜ避けなかった? もしや——避けたところを斬りつけると分かっていたのかぁ?」

 

 芹沢はその言葉通り、鉄扇を投げたと同時、素早い動作で刀を抜いていた。

 男がもし鉄扇から己の頭を庇うため、一瞬でも芹沢から視線を外していれば、彼の肢体にその刀が打ち込まれていたことだろう。一連の流れを見ていた新見は、それを想像し思わず絶句した。

 

「いや、どちらにせよ避けるつもりは無かったでござる。拙者は間違ったことは言ってないゆえ」

 

 額から頬へ、頬から首筋へ。鉄扇によって裂けた箇所から血が滲み出ている。

 それでも男は怒ることもせず、冷静に芹沢へと言葉を返した。どれだけ芹沢が嘲笑おうと、馬鹿にしようと男はそれに一切乗らない。

 まるでつまらないといった様子で、芹沢はその刀を新見に投げ渡した。

 当然、抜身状態で放り投げられた刀を新見が受け止められるはずもなく、畳に突き刺さるのだが。

 

「まあいい。どちらにせよ総司君に処罰が必要なのは変わらないのでね。よかったじゃないか、これで君の言う通り彼女は人殺しには成らなくて済む」

「……どういう意味でござるか」

「仲間を勝手に殺そうとしたんだ。彼女には償いとして切腹がお似合いだと思わないか?」

 

 芹沢は懐から短刀を取り出すと、沖田の目の前に差し出した。

 

「っ」

「大丈夫だ。苦しまないよう、きっちり新見君が介錯してくれる。安心して逝くといい」

 

 沖田とは反対に、空気が漏れ出したような笑い。

 座っている沖田に目線を合わせるよう芹沢はしゃがむと、彼女の顔を穴が開くほど見つめる。

 

「ほら、どうしたのかね。最後くらい武士になってみてはどうだ? それとも切腹も知らないのか?」

 

 動きそうにない沖田を急かすため、芹沢は渡した短刀を手に取り抜刀する。

 鞘から出てきたそれは、太陽の光に当てられギラギラと輝いて見えた。

 

「仕方ない。切腹のやり方も知らん子娘のために、私自ら教えてあげよう」

「何を……!?」

 

 芹沢は沖田の手に無理やり短刀を持たせると、それを彼女の腹へと鋒を向けさせた。

 力の強さだけで言えば、当然、芹沢が強い。

 沖田は必死に食い止めようと力を込める。が、所詮は刀を自在に振れる程度の女の筋力だ。日本人でも珍しい体格の大きな芹沢に敵うはずもない。

 正直、殿内暗殺を失敗した沖田はこうなるだろうことを予測していた。

 いやもしかしたら、暗殺を成功させたとしても、その罪を芹沢は沖田に擦り付ける予定だったのかもしれない。芹沢からしてみれば、根岸の仲間と近藤の仲間、両方を減らすことができるチャンスだったのだから。

 

「こらこら。力が入りすぎだ、総司君。もっと肩の力を抜きたまえ」

「——っ、いい、え!」

 

 あと僅か。蟻の大きさくらいまで、沖田のお腹と短刀の鋒が近づいた時だった。

 短刀の刀身部分を素手で掴み取り、沖田の切腹を止める者がいた。

 

「やめるでござる」

 

 男はそう言うと、そのまま素手で刀身を握りつぶす。

 手からは皮が剥げ、肉の断裂が垣間見えた。ドバドバと流れる血は、まさに滝である。

 そんな状態にも関わらず、男は沖田に向かって「大丈夫でござるか?」と心配そうに尋ねるのだ。

 

「貴方——自分の手がどうなっているのか分かっているんですか!?」

「切れてるでござるな」

「切れてるでござるなって……、これじゃ刀も振れないじゃないですか!」

 

 沖田は自分の着流しを急いで短刀の破片で破き、それを男の手に力強く巻きつける。

 怪我をした時はこうやって血を止めるのだと、道場にいたとき教えてもらった。

 男はそんな沖田の行動に目を丸くする。まさか彼女がここまで取り乱したように処置をするとは考えもしなかったからだろう。

 

「とにかく、血を止めながら井戸まで行きますよ! 水で洗い流してから、もっと綺麗な布で止血した方が良いと教わったことがあります!」

「い、いや。そこまで面倒をかけてもらうわけには……」

「何を言ってるんですか! 私なんかのために手を切断するところだったんですよ!?」

 

 沖田の気迫に押されるがまま、男はそのまま部屋の外へと連れ出されそうになった。

 しかし、それを見過ごす者はこの場にいない。

 切腹の邪魔をされた腹いせからか、芹沢は沖田に引っ張られる男の衣服の襟を掴み、部屋の奥へと投げ飛ばした。




うほ、いい男。
主人公の容姿をようやく描写できた。
どうせ皆さんあれでしょ、参考元の姿を想像してたでしょ。
大丈夫、作者も同じです。

はい、今回のちょこっと豆知識を載せておきますねー

・新見錦
新撰組が好きならば知ってる人が多いと思われる人物。
芹沢が筆頭局長で、この新見と近藤が局長を後につとめたりする、意外とすごい人。浪士組の際には、三番組小頭に任命されていたりします。しかも部下には、沖田の義理の兄である林太郎、井上源三郎などの試衛館メンバーが多くいたりだとか。まあ、井上さん以外は江戸に戻りましたけど。
そんなことから、意外と名も知れた人だったり、強い人だったりしたのかもしれませんね。私の小説ではちょっと小物くさいですけど!!


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1-3

少しだけ6000字をオーバー。
んー、むつかちぃです。
とりあえず、これにて第一話終了でございます。


「勝手にどこかへ行こうなど、貴様らは実に無礼者だな」

 

 血に濡れた鉄扇を拾い上げながら、芹沢が言った。

 

「芹沢さん……殿内暗殺の件なら後で聞きます。しかし、あれについては私にも言い分がある。それも聞かず勝手に隊士へ切腹を命じるなど、貴方こそ、この壬生浪士で天下を取ったつもりですか?」

「取ったつもりぃ? たわけたことを抜かすな、小娘。既に私がこの壬生浪士の長だろ」

 

 振われる鉄扇。目にも止まらぬ速さで振り抜かれたそれは、しかし、沖田に当たることなく宙を舞った。

 

「貴様……」

「少々、芹沢殿は短気すぎるでござるよ」

 

 男の手には先程、芹沢が新見に預けた刀が握られていた。無論、持手は短刀によって傷つかなかった左手である。

 沖田はそれを見て、反撃しようとしていた手を引っ込めた。あのまま男が乱入してこなければ、沖田の拳が芹沢に炸裂していたことだろう。

 

「そもそも殿内殿暗殺に関して、某らは嘘の供述をしていたでござる。殿内殿を斬ったのは某。沖田殿が殿内殿に襲われていたため、それを助けようとしての結果でござるよ」

 

 なんの悪びれもなく、さっきまでの供述を全て否定した男。

 それには流石の芹沢も瞠目してみせた。

 

「嘘、だと? そんなものがこの芹沢に通じると思っているのかぁ?」

「通じるも何も、それが真実。其方がどれだけ否定しようとも、事実をねじ曲げることはできないでござろう」

 

 男は話が終わったと言わんばかりに、持っていた刀を転がっている鞘に仕舞った。

 

「ふざけるな。だったらそれを証明してみろ、その真実とやらを見せてみろ」

「証明でござるか?」

 

 芹沢のセリフに疑問を抱いた男が首をかしげる。

 

「そうだとも。『総司君が殿内に襲われていた』。これが真実なら総司君では太刀打ちできなかった殿内を、君がなんとかしたと言うことになる」

「つまり、彼が私よりも強いことを証明しろと? しかし、それじゃ……」

 

 沖田はそこで言い淀んだ。

 彼女の言う通り、それじゃ最初に沖田が報告していたことを裏付ける材料にしかならないからだ。

 男は一度、沖田に勝っている。そこから導かれる結果で、どう芹沢にメリットが発生するのか、彼女には何一つとして理解できない。だからこそ、沖田は芹沢には他の狙いがあるのではないかと警戒する。

 

「嫌なら、やはり最初の供述は嘘ではないと言うことで構わないね」

 

 芹沢は、当惑する沖田を見てせっついた。

 芹沢の考えが分からない以上、沖田は下手に返事ができない。昨日、勢いそのまま殿内を暗殺しに行った結果が今なのである。

 それを踏まえれば、これ以上の迷惑を近藤たちに掛けたくないと思うのが、必然であった。

 

「どうすればいいでござるか」

 

 けれど、そんな沖田とは対照的に男は迷いなく芹沢に言った。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 何か裏があるかもしれないですよ、そんな簡単に……」

「大丈夫でござる。いざとなれば、沖田殿の命だけは守ってみせるでござるよ」

 

 男がそう笑うと、沖田は訝る気持ちを持たざるを得なかった。

 だって、この男とは昨日会っただけの関係である。それなのに男がここまで沖田のために身を張っているのは、理解に苦しむところだ。

 お人好しとは思っていたけど、昨日斬り合いをした人間にまで手を差し伸べるとは、実に甘い男である。

 

「ふっ、戯言を。なぁに、証明方法は実に簡単だ」

 

 芹沢がそう言うと、「新見!」と後ろで口を挟めずにいた腰巾着を呼ぶ。

 

「お前が奴を殺せ」

「わ、私がですか……」

「相手は右手を負傷して使えない小者だ。まさか、私や永倉君と同じ神道無念流免許皆伝の君が、怖気付いたなどと言わないよなぁ?」

 

 威圧を込められた言葉に新見は唾を飲んだ。

 ここで言い返せば、きっと新見は芹沢に斬り殺される。そのため、新見は文句を言うこともなく、震えた手を庇うように薄氷を踏む思いで庭に出た。

 男も新見に続き庭へ出る。

 刀は沖田に没収されているため、先程使った芹沢の刀を勝手に持ち出していた。

 

「先に忠告しておくが、痛い思いをしたくなければ降参するのをお勧めするでござる」

「っ、ふざけるな! 私は水戸藩出身、神道無念流の新見錦! 貴様のような小汚い剣客に負けるはずがない!」

 

 新見が吠えたのを合図に、両者とも抜刀した。

 江戸の三大道場——幕末期の江戸で高い人気を誇った三つの剣術道場——の一つ、「神道無念流」と言えば、立居合が有名だと思う。

 だが、実際のところ居合を学んだものは極めて少なく、実のところ剣術を修めた者が大半だと言われていたりする。男と対峙している新見も、その例に漏れず、彼が得意とするのは立居合ではなく、真っ向から相手を叩き斬る剣術だった。

 だから今回も、新見は抜刀の構えではなく霞の構えを取っている。腰は少しだけ沈められ、口の位置で構えられた刀は地面と水平に男へ向けられていた。

 

「神道無念流……諸藩で多くの者が学ぶ流派でござるな」

 

 男はそう言うと、新見とは別に正眼の構えを取った。

 正眼の構えは五行の構えの中でも、特に色んな技へ派生しやすく扱いやすい構えである。

 また、新見よりも男の刀の位置は低いことも重なって、相手の胴体を狙いやすくなっていた。

 

「ちっ……、神道無念流に対し胴を狙いますか。きちんと知識はあるようですね」

「知識も何も、あれだけ多くの者が学べば、それだけその流派の特性は広く深く知れ渡る。示現流のような門外不出の流派でもない限り」

「痴れ事を。あんな芋臭い剣術と神道無念流を一緒にしないでいただきたい。門人が多いと言うことは、つまり、それだけ他流派より秀でている証拠。特性を知られてなお、江戸の三大道場として数えられるのは、神道無念流が優秀である証明。あなたがどれだけ対策しようとも、皆伝である私には敵わないはずなのです!」

 

 新見はそう言うと、口の高さで構えられていた刀を踏み込みと同時、振り下ろす。

 相手の右肩から左胴にかけて斬りつける逆袈裟——。

「力の斉藤」と謳われるほどの破壊力を持つ神道無念流の一太刀は、それだけで恐怖に値する代物であった。

 部屋の中から見ていた沖田も唇を噛んでしまう。短刀を握りしめ破壊した男は、今や片手で新見の相手をしているのだ。あの強烈な一撃をその負傷状態で捌けるのかどうか——全てはそこにかかっている。

 

「はぁぁぁぁ!」

 

 振り下ろされる新見の剣。

 そのまま行けば、男の肩口を間違いなく切り裂いたはずの凶刃は、いつの間にか男が垂直にして持ち上げた刀の腹の上を滑っていた。

 軌道を逸らされたことに気がつく新見。打ち込む前の会話を想像すれば、男は先手必勝とばかりに胴体を狙うと誰もが思っていた。

 けど、男は胴体など最初から狙っていない。男が狙っていたのは、紛れもなく新見の渾身の一撃。それを利用したカウンターである。

 

「くそがっ!」

 

 男の剣技によって、本来とは別の場所を撫でさせられた新見は悪態をついた。

 今は完璧に受け流されたせいで刀が下を向いてしまっている。ここから男の首元へ向かって振り上げたとしても、遅すぎるのは明白だった。それを裏付けるように、男は左手だけで持った刀の柄頭を、頭の位置が低くなった新見の眉間に強く打ち込む。

 

「なん、でっ……!?」

 

 防御を差し込むことすら許さない一撃。

 新見の額からは血が流れ、あまりの衝撃に身体は宙を舞い、無様に地面へ叩きつけられた。

 

「真剣の斬り合いで、胴技と突技ほど使いにくいものは無いでござる。神道無念流が道場試合において、胴技を弱点としているのもそれが所以でござろう」

 

 慣れないはずの左手で納刀する男は、未だ一言も喋らない芹沢に問いかけた。

 

「これで満足でござるか、芹沢殿。新見殿はしばらく立てないでござるよ」

 

 そうすれば、黙していた芹沢も「ふっ」と息を漏らす。

 持っていた鉄扇を強く手に叩きつけては、その衝撃で空気の破裂音を奏でてみせた。

 

「よもやその傷で新見に勝つとは、文句の付け所もない。さすがは『赤衣の剣客』と言ったところかな?」

「赤衣の剣客——?」

 

 沖田は聞き慣れないその言葉に、疑問の花が脳裏に咲いた。

 

「知らないのかね? 京の町でふらっと現れては不逞浪士、悪徳商人、人斬り等を成敗している輩の名さ。まあ、成敗と言っても……今みたいに生ぬるいことをしているようだがね」

「……なるほど、大体見えてきたでござるよ」

「ほう、腕だけじゃなくて頭も少しは回るのか。はははははははは——結構結構!!」

 

 綺麗に並んだ歯を全部撒き散らすような大笑い。

 芹沢が本当に狙っていたのは、沖田の懲罰でもなければ、目の前の男を殺すことでもない。いかに己の戦力を増やすことができるか。それだけである。

 だからこそ、芹沢は赤衣の剣客と呼ばれる男を瞳に映しながら、人差し指を立てた。

 

「話が早く済むのは嫌いじゃない。私が君に提案するのはたった一つ、とっても簡単なお願いだよ」

「お願い——でござるか?」

 

 その言葉に芹沢は、顔の半分が口になるくらい大口を開ける。

 

「私の戦力となれ! 国のため、未来のため、私のためにこれから働け! 尽忠報国! 君がこれから刃を振るうのは、どうでもいい小市民のためでも、死にかけのクソみたい侍のためでもない! 私と国のために、その力を万全に発揮しろ!!」

 

 それは八木邸中に響く大柄な声だった。

 聞く者が聞けば、壬生浪士内で新たな抗争を引き起こしたであろう。幸い、今は芹沢以外の人間が壬生寺に出かけているため、その心配はないが。

 それでも、隣で事の成り行きを見守っていた沖田は、今の発言に呆気を取られる。

 対して、それを言われた赤衣の剣客は、困ったように頬を掻き、

 

「すみませんが、それは断らせていただくでござるよ。拙者は誰側の味方をしようとも考えていないので」

 

 と丁重に断った。

 だが、そう返事されるのも、芹沢からしてみれば織り込み済みだったらしい。芹沢はチラリと己の顔を凝視する沖田を一瞥した。

 

「いいや、君は私の言う通りにするさ。何故なら、こちらにはその材料があるんだからね」

「……んー、困ったでござるな、そう言われると拙者に拒否権は無くなる」

「ははは、最初からそんなもの用意していないとも。私は確実に物事を進めたい人間でねぇ。念には念を入れるんだ、何事もね」

 

 ここまでの全てが芹沢に仕組まれたことである。

 そう考えれば、赤衣の剣客も納得できた。

 最初はきっと沖田を身内にする予定だったのだろう。殿内暗殺を成功させ、人斬りとしての才覚を顕した彼女を近藤一派から引き抜く。それが芹沢の当初の予定だったに違いない。

 けれど、それは赤衣の剣客によって頓挫した。

 沖田は暗殺を成功させることはなく、さらに人斬りを止めさせるような事まで囁くお人好しが出てきたのだ。芹沢の欲していた、絶対的な人斬りを誕生させるのは難しくなった。ましてや、殿内暗殺で得るはずだった彼女の好感度も、芹沢は稼ぎ損ねると早々に判断したのである。

 しかし、その早い判断能力が彼を違う計画へと誘わせた——。

 それが目の前の手練れを己の配下に加えると言うもの。

 いくら挑発しても乗ってこなかったが、実力は新見との一戦で確かめた通り。沖田の技量となんら遜色ないほど洗練されている。甘ちゃんであるところを除けば、概ね芹沢の望んだ人物と言えるだろう。また、人斬りとしては向かないその性格も、仲間を引き入れるための弱点と思えば、都合の良いものだと捉えられる。

 結果、芹沢は当初の計画を全て切り崩し、沖田を利用して赤衣の剣客を手に入れる方向へとシフトチェンジしたのであった。

 

「芹沢さん。意思のない者を勝手に隊員に迎えるのは、邪魔でしかありません。そもそも、こう言うことは近藤さんや家里さんにも……」

「ほー、誰が隊員として迎えると? 勘違いするなよ、総司君。コイツは私の狗だ。君たちにあげるつもりは微塵も無い」

 

 噛み付いてきた沖田を追っ払うかのように、芹沢は一蹴した。

 確かに彼が誰と組もうと、それが不逞浪士でも無い限り文句を言われる筋合いはない。ましてや、配下として加えようとしているのは単なるお人好しである。百利あって一害なしとすら言える。

 であれば、沖田が芹沢の横暴な態度に怒る必要は無いのだ。

 それなのに沖田は怒りを発露させる。

 

「狗だとか、あげるだとか……少し彼に向かっての言い方が雑なんじゃ無いですか」

「いやいや、私は己の部下にきっちり上下関係を教え込んでいるだけだよ。君みたいにキャンキャンと鳴かれては、外で連れ歩くのも恥ずかしいだろぅ?」

「っ、私だけじゃなく近藤さんまで侮辱するか……!」

 

 そんな一触即発の空気に、赤衣の剣客が割って入る。

 今にも芹沢へ飛びかかりそうだった沖田の目の前に立ち、まるで芹沢を庇うように背を向ける。それが堪らなくイラつくと思った沖田は、赤衣の剣客の長い茶髪を握って引っ張った。

 

「なんで止めるんですか! あなたは芹沢さんの味方をするつもりですか!?」

「お、落ち着くでござる! 某はなんと言われても気にしないでござるから!」

「あなたのためじゃなくて、私は私のために芹沢さんを殴るんです!! 自惚れもいい加減にしてください!」

「えー……、某のために怒ってくれていたのでは無いのでござるか……」

 

 自分のための怒りじゃないと言われて落ち込む赤衣の剣客。

 沖田は「当たり前ですよ」と、鼻で笑った。

 

「なんで昨日会ったばかりの貴方に、私がそこまでしなければいけないんですか。私はあなたと違って、見ず知らずの人に汗水は垂らしません」

「誇らしい顔で言う台詞ではないでござるな」

 

「はぁ」とため息混じりの声を漏らして、赤衣の剣客は取り残され気味であった芹沢へと向き合った。

 未だに右手からは裂傷による出血がひどい。ぽたぽたと板張りの床に血が垂れているのは、見ているだけで痛々しいと思えた。

 それでも男は気にしないのか、傷ついていない方の左手で刀を芹沢に返す。

 

「拙者が部下になるのに条件がいくつかあるでござる」

「ふん……申してみよ」

「一つ、拙者は人を殺さぬ。

 二つ、拙者は人を殺めさせぬ。

 三つ、拙者は無益な争いを好まぬ。

 以上のことを守ってくれるのであれば、拙者は芹沢殿の狗にでも道具にでもなるでござるよ」

 

 赤衣の剣客が出した条件を芹沢は反芻しながら考える。

 人を殺さない、と言うのはまだ目を瞑ってやらないこともない。けれど、その次の人を殺めさせない:と言うのは少々厄介だと思えたからだ。

 けれど、芹沢は……、

 

「良かろう。その条件を飲んでやる。どうせ貴様は人を殺させなくても、十分に使えると証明したからな」

 

 倒された新見を見て、条件を飲むことにしたらしい。

 赤衣の剣客はそれを聞いて、子供のようにころころ笑うと、「良かった」と言い、左手で沖田の手を引っ張って去ろうとした。

 

「あ、そうそう。一つだけ言い忘れたでござる」

 

 突然、何かを思い出した男は足を止めて振り返る。

 芹沢はそれを細い目で眺めながら、男の次の言葉を促した。

 

「なんだ」

「いや——芹沢殿は某のことを狗と言っていたが、確かに某は狗がお似合い。某に噛まれたくなければ、精精、手綱はしっかりと握っておくことでござる」

 

 そう言った時の男の瞳——。

 その奥に映る景色に、芹沢は一瞬だけ己が死ぬ瞬間を垣間見たのだった。

 

 

 

 さて、ここから蛇足ではあるのだが、もう少し続く。

 芹沢との騒動が終わり、二人は井戸付近にて傷を処置している場面——そこでの会話。

 短刀を握りしめて、あまつさえ破壊したのだ。当然のことだが、かなり裂傷が激しい。沖田程度の知識では下手に疵付けを縫うこともできないので、とりあえず焼酎で消毒して、その上から布を当てることとなった。

 

「んっ、やはり酒は傷口にしみるでござるな」

「当たり前です。文句を言わないでください」

 

 きつく布を巻く沖田に「容赦」という二文字は存在しないが、それでも甲斐甲斐しく男に治療を施した。

 目の前にいるのは、芹沢に与することとなった、つまり近藤一派とは相容れない人間である。普通に考えれば、そんな者の治療などする必要もなく、また気に掛けることすら煩わしいはずだ。

 しかし、芹沢一派だとか、家里・根岸一派だとか、そんなものどうでもいいと考えている沖田からすれば、あまり関係のない話ではあった。彼女本人からすれば、近藤を立役者にはしたいものの、それで芹沢を殺そうなどとは考えていない。殿内のように、第三勢力を作り上げ、壬生浪士に仇なすようであれば粛清しようとは思ってはいるが。

 しかし、それを知らない男からすれば、この手厚いとも言える処置に、内心で首を傾げずにはいられなかった。

 

「沖田殿は良いのでござるか」

「何がです?」

「その、芹沢殿が某に言っていたこと——勘のいい沖田殿であれば、理解したでござろう」

「……」

 

 気まずげに頬をかく赤衣の剣客。

 沖田はそれを見て、「ああ、あれのことか」と、その言葉が指す記憶を掘り起こした。

 

 ——つまり君が人殺しの悪さを説明するということは——君は人を殺したことがあるということだね?

 

 男が沖田に後ろめたいことがあるとすれば、きっとこれのことだろう。

 沖田はそれを理解し、ため息にもならないほど長い息を吐いた。

 

「意外ですね、貴方って実は話したがりなんですか?」

「えっ?」

 

 沖田の言葉が思っていたのと違ったせいか、男は目を丸くする。

 まるで母親に怒られると思っていたのに、逆に褒められた時の子供みたいだ。

 

「興味ないと言えば嘘になります。でも私と今話しているのは、初対面の人でも、例え昨晩殺し合った人でも、誰だろうと関係なしに助けてしまう……そんなお節介焼きで腹が立つ剣客ですよ」

 

 沖田はそれだけを言うと、最後に男の右手をパンと叩いてにっこり笑った。

 まるで春に咲く桜のように——。

 暖かい日差しを伴いながら、それはキラキラと眩い光を放つ。

 

「でも、話したくなったら勝手に話してください。意外と私も聞きたがりなので」

 

 その言葉に、男は堪えきれず「ふっ」と笑った。

 

「なんでござるか、それ。某は死ぬまで言わぬかもしれんよ?」

「なら私が聞くまで死なないでください」

「死ななくても、どこかへ行ってしまうかも……」

「そうなったら追いかけます」

「また沖田殿の邪魔をしてしまうやもしれぬ」

「大丈夫、その時は私があなたを斬りますので」

 

 沖田と赤衣の剣客はそれだけの言葉を交わすと、それ以上何も言わなくなった。

 お互いがお互いに何かを秘めている。そんなこと、出会った時から男も女も理解していた。

 片や、女の身でありながら剣客をし、人斬りを目指すもの。

 片や、過去に陰鬱な影を持ち、人を殺さぬと誓うもの。

 決して相容れぬはずの水と油。

 しかし、どことなく同工異曲でもある。

 そんな二人が交わった時、待ち受けるのは鬼か蛇か。

「天竺葵」。今宵のお楽しみはここまででございます。




いつもちょこっと豆知識を載せていますが、どうしよう今回も載せようか。
後書きなんてみんな飛ばす者だし、なくていいか、なんて思ったりもしている私です。
いや、それでも、もしかしたら少ないながらも需要あるかもしれぬ!

と言うことで、ちょこっとだけ豆知識。

・神道無念流
作中でも説明した通り、幕末江戸三大道場の一つ「練兵館」で教えられていた。
「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されており、神道無念流は他流派と比べて力の剣とされていたことがうかがえる。まあ、力で最強なのは示現流かもしれませんが。
芹沢と永倉は実はこの流派が一緒だったりします。よく、芹沢と永倉が他の隊士と比べて仲良さげに描写されるのは、このため。
そして実は、あの桂小五郎さんは練兵館の初代塾頭を務めており、もしかしたら試衛館時代に近藤達と知り合っていたかも。(創作では知り合ってることになってたりする)


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2-1 胡桃

6000字に収められなくて困ってる人間です。
最後入れたい話あったけど、致し方なしに省きました。
仕方ない、もったいないとは思うけど……!
先に進む速度も重要なので。
最後にちょこっとだけアンケートさせてもらってます。


 

 誰も彼もが寝静まった晩、二人の男が微かに灯りのついた部屋にいた。

 一人は芹沢鴨。愛用の鉄扇を広げては閉じを繰り返しながら、目の前の男を見下している。

 もう一人は家里次郎。偉そうにあぐらをかいて座る芹沢とは対比的に、こちらは謙虚に正座で頭を下げていた。

 力関係など、その描写だけでも一目瞭然である。強者は芹沢、弱者は家里。壬生浪士の中でも一つの勢力として認められていた家里が、芹沢に屈服しているのだ。それが意味するところは一つである。

 

「どうか命だけはお助けを!!」

「ふっ。それでも君は武士なのかな? 頭を下げればなんでも許されると?」

「め、めめめ滅相もございませんっ!」

 

 舌がうまく回っていないのか、家里の言葉は不安定だった。

 殿内暗殺未遂から、勢力は一転。家里はこんなふうに、芹沢へ命乞いをするほどまで惨めな存在となっている。

 それもこれも、全ては彼の仲間達が壬生浪士から逃亡したことにあった。

 殿内暗殺未遂の一件を聞いてから、根岸ら数名が江戸へと勝手に帰還したのだ。当然、取り残された家里が壬生浪士で活躍するためには、どこかの陣営に与するしかない。かといって、武士の誇りを捨てきれない家里は、近藤に頭を下げることだけは拒んだ。馬鹿らしいことだとみんなは思うだろうが、この時代ではそれが普通である。

 となれば残る選択肢は一つだけ。芹沢一派への仲間入りである。

 家里はそれを実行するため、こうして芹沢へ頭を床に擦り付けているのだ。

 だが、それを見ている芹沢の目は非常に冷めたものだった。

 

「私はね家里——別に人助けを趣味にしているわけでは無いのだよ。お願い事をするときは、相手方に何かしらの便益を示す……それが常識というものじゃないかね?」

 

 苛立っているのか、それとも嘲笑っているのか……。

 芹沢の言葉の節々からは、家里を圧迫するような力が見て取れた。

 決して、ただの武士として生きただけでは、このような圧迫感は身につかない。家里もそれを重々承知しているため、余計に冷や汗が流れ落ちる。

 

「べ、便益ですか……? ししししかし、私にはそのようなもの……根岸らも帰東してしまいました! 仲間を差し出そうにも、何も残っておりませんッ!!」

 

 喉を震わせながら家里が言った。

 彼の言う通り、家里が芹沢へ差し出せるものなど何一つとしてないだろう。金も、人も、情報だって、彼は命に見合うだけのものを所有していないのだから。

 だが、そんなことは芹沢だって分かっているはずだ。共に壬生浪士に所属し、一派の頂点同士だった間柄。今の家里が献上できるものなど、彼が欲しいとすら思わないガラクタばかりである。

 それでも芹沢は余裕を持った笑顔を浮かべたまま、持っていた鉄扇をパッと横に振るう。

 

「いやいや、問題ないさ。私の頼み事は、君が一肌脱ぐだけで解決するほどの些事だよ」

「わ、私がですか……?」

 

 あり得ないことを聞いたように、家里は強張った顔を上げた。

 己の身一つだけで出来ることなど、たかがしれている。元々、浪士組の取りまとめ役に任命されたのも、ただの運でしかなく、家里の実力など誰も見向きしないものばかりである。

 そんな家里が単身で粉骨砕身に頑張っても、芹沢が満足する事など起きようもないと思えた。

 それ故、妙な懐疑心だけが家里の胸中に燻っていく。

 

「安心したまえ、君には今から大阪へ行ってもらう。あの無能な公方の護衛役としてね」

「そそそそ、そんなことができるのですか!?」

「私にもそれなりのツテはある。あちらも見栄を張るため人手は欲しいだろう。私が推薦しなくとも、惜しまずに働き手は受け取るさ」

 

 そう吐かれた芹沢の言葉に、嘘はないように見受けられた。この男が「出来る」と言うのであれば「出来る」のだろう。それだけの凄みが芹沢にはある。

 だからこそ家里は分からなかった。

 尊王攘夷派である天狗党出身の芹沢が、まさか公方の護衛職に就くのと引き換えに、自分の命を見逃してくれるなど、おかしすぎる提案だ。

 確かに昨今では公武合体が進んではいる。福井藩や土佐藩、それに薩摩藩と言った大名たちもそれを後押ししているのが現状だ。けれど、そんなもの表面上の話だけ。攘夷志士は天皇の妹を人質にとったと非難し、去年には坂下門外の変を引き起こす始末。

 佐幕派の近藤がこの命令を出すならまだしも、どちらかといえば倒幕派にも近い思想を持つ芹沢が、将軍家をお守りするために命令するとは考えられなかった。

 ——何かしらの裏がある。

 家里はそう勘繰った。

 

「君は大阪に行ったら、ここに書いてあることを実行しろ。詳細は追って新見に連絡させる。準備が出来次第、そちらから連絡を寄越したまえ」

 

 家里の予感は見事的中し、芹沢は本題と思われる書簡を投げ渡した。

 さらさらと紙が家里の目前に舞い落ちる。手に持って見てみれば、そこには思いもよらない文書が、そこに書き連ねられていた。

 

「こ、これは、正気ですか……!?」

 

 思わず口が乾く。

 呼吸は乱れ、動悸が激しい。

 先ほどまで命の瀬戸際に立っていたはずなのに、さらに崖っぷちへと追い込まれた気分だ。

 そんな家里を見て、芹沢は獰猛に口端を釣り上げる。

 

「——いいね、失敗は許されない。命が惜しければ、それなりに足掻いてみせるんだな」

 

 これから待ち受ける困難も、苦難も、全てを見透かしたような発言。

 その言葉に、家里はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 

 芹沢の部下兼狗となった男の1日は実に多忙である。

 朝——早くに起きては掃除をし、朝食を作る。

 昼——八木邸に住まう者たちが脱ぎ散らかした衣類を洗濯し、食事を作る。

 夜——芹沢のために酒と煙草を買いに行っては、食事を作る。

 これだけ見れば、ただの奉公人と思われてしまいそうだが、残念ながらこれが現実である。芹沢に傘下へ入るよう言われたものの、それらしい働きを男は未だ命じられていない。本当は「ただ小間使いが欲しかっただけなのでは?」と思われても仕方のないレベルである。

 今だって、男は芹沢から何も言われないため、自主的に隊士たちの衣類を集めては、八木邸の子供たちと一緒に洗濯していた。

 

「ござるー、ござるー! 見てみて! とぎ汁お化け!」

「とぎ汁お化け!!」

「はははは、二人とも顔が白いでござるなー」

 

 八木家の子息、為三郎と勇之助が洗濯の際に使う米のとぎ汁を顔面につけてはしゃぐ。赤衣の剣客はそれを見て、にっこり笑うと二人の顔を手ぬぐいで拭いてやった。

 何気ない日常の一幕とは、きっとこういうことを言うのだろう。

 子供が笑い、それを見て大人もつられて笑う。

「平穏」という二文字がとてもふさわしい光景だ。

 だが、そんなものなど知ったことかと言わんばかりに、一人の男がその日常に冷や水を掛けた。

 

「——おい、狗。付いてこい」

 

 井戸端まで響いたそれは、庭に隣接する部屋から出てきた芹沢の言葉である。

 いつもなら「おい、買ってこい」が決まり文句となりつつあるくせに、今日は珍しく「おい、付いてこい」という言い回しになっていた。

 どうせ拒否したところで、聞いてはくれないのはここ三週間で男も理解している。

 そのため、赤衣の剣客は素直に襷を外して立ち上がった。

 

「はいはい……相変わらず唐突でござるなぁ。為三郎と勇之助、悪いがこれをあそこへ運んでおいてはくれぬか?」

 

 赤衣の剣客は洗濯が終わっていない分を、縁側の方へ持っていくようお願いした。

 二人の子供はそれを聞いて頷き、

 

「うん、いいよ! その代わり帰ってきたら肩車して!」

「僕も、僕も!」

「任せるでござる。二人とも肩車してあげるでござるよ」

 

 赤衣の剣客は二人の子供の頭をそっと撫でてやると、そのまま縁側にいる芹沢へ近寄った。

「随分と馴染んでるようだね」と芹沢が含み笑いで男に言う。

「おかげさまで」と赤衣の剣客は屈託のない笑顔で返した。

 

「芹沢殿も子供好きなようでござるな。為三郎が、また絵を描いて欲しいと言っていたでござるよ」

「ふん……気が向いたらな」

 

 赤衣の剣客の言葉に芹沢はぶっきらぼうに答えた。

 目線はどこか遠くへと飛ばされている。これは芹沢なりの照れ隠しなのかもしれないと思えば、赤衣の剣客も微笑まずにはいられなかった。

 そのため、いつものお返しに少し弄ってやろうと悪い考えが浮き出てくる。具体的には、「あれ、照れてるでござるか?」を連呼して、芹沢の羞恥心を煽ると言うもの。

 だが残念ながら、この赤衣の剣客に煽りスキルはほとんどない。それはもう幼稚園児くらいにない。あったとしても、小学生の方がもう少しきちんとした挑発をするだろう。

 その為、芹沢は後ろで「あれ、照れてるでござるか?」を連呼している男を無視し、そのまま目的の部屋と突き進んだ。

 

「ここだ、開けろ」

 

 無反応を決め込んでいた芹沢が、一つの部屋の前に止まり赤衣の剣客へ言った。

 

「む、ようやく話したかと思えば……それくらい自分で開けて欲しいでござる」

「狗が私に歯向かうと?」

「普通、狗は障子を開けれんでござるよ」

 

 芹沢の怒気を孕んだ声すら何処吹く風と聞き流す男。

 今ここに芹沢一派が集結していれば、きっと大御所芸人を目の前にした若手芸人ばりに働いたことであろう。

 だが、ここにいるのは狗と呼ばれてはいるものの、忠犬ではなく狂犬である。狂犬と言っても別に病には掛かってはいないし、甘噛みしかしてこない狗ではあるが。

 それでも芹沢からすれば目に角が立つ言い方だったのに間違いはない。

 その為、芹沢は大きく舌打ちを繰り出した。

 

「ちっ、いちいちと口答えをする狗だ」

 

 芹沢は諦めて自分で開ける。

 二人が部屋に入ってみれば、そこにいたのは近藤、山南、土方、それに新見であった。

 赤衣の剣客からしても別に初対面というわけではない連中である。三週間も手狭な八木邸でお世話になっていれば、それなりに彼らとの面識も増えるというもの。確かに赤衣の剣客が一番話すのは沖田であるが、それでも人当たりの良い山南なんかは、気さくに話しかけてくれる部類の人間だ。今日だって共に朝食を取る時、色々な話をしたのを男は覚えている。

 あちらもそれを感じたのか、山南は赤衣の剣客を見ると、少しだけ驚いた顔をして優しい笑みを浮かべた。男もそれに返すように自然と笑みを浮かべる。

 

「ほう。どうやら私が最後のようだ」

 

 なんの悪びれもなく芹沢が言った。

 その言葉に土方は少しだけピクリと眉を動かすが、芹沢の腰巾着である新見は大袈裟に反応する。

 

「いえいえ。芹沢先生を待たせないように早く来たまでです」

 

 だが、そんな新見も赤衣の剣客をチラリと見て額に縦皺を寄せた。

 どうも赤衣の剣客が現れてからというもの、新見は男に良い感情を抱いてないらしい。まあ、今回も芹沢が己ではなく、赤衣の剣客を伴って参上したことに不満を持っているそうだし、嫉妬というものなのだろう。

 芹沢はそんな新見を無視して広間の上座に当たる部分へ着席。赤衣の剣客は座らずに、柱へと体を凭れさせた。

 

「それで話というのは何だ、芹沢さん。まさか、くだらねぇ事を言うために集めたわけじゃねぇんだろ?」

 

 芹沢が対面に座ったのを見て、単刀直入に切り込んだのは土方である。

 赤衣の剣客から見ても、その一言で空気が張り詰めたのが分かった。

 元々、土方と芹沢はそこまで相性が良くない。そのせいもあって、芹沢が何かすれば、その度に皮肉を混ぜた言の葉を土方が差し込むのである。

 けれど、そんな土方に異議申し立てをする者がいる。

 

「おい、土方君! 芹沢先生に向かってなんだ、その言い種は!」

「うるせぇ。俺たちはいきなり呼び出されたんだ。こっちがいきなり本題を聞いて何が悪い」

 

 土方の態度が気に食わない新見が立ち上がりかけるも、土方はそれを睨みで止める。

 伊達男は目力が強いと言うが、土方のそれは軽く子供を泣かせるほどであった。

 

「まあまあ、二人とも落ち着いて。土方君も少し喧嘩腰すぎじゃないか」

 

 そんな二人に助け舟を出したのは山南であった。

 ゆったりとした物腰の柔らかさは彼の理知的な外観に合っている。土方も山南の言うことは聞くらしく、新見への侮蔑的な眼差しを目を伏せることでやめた。

 

「すみません、芹沢さん。この時間はいつも稽古をしていまして、歳のやつも気が立っているんでしょう」

 

 場が収まったのを見計らい、今し方まで黙していた近藤が口を開けた。

 黒髪の総髪。無骨でありながら、どこか優しさを感じる出立ちの男。赤衣の剣客から見ても、外見から彼の厳格さがよく分かる。

 近藤一派の筆頭であるのだから、当然なことではあるが、彼もまた芹沢に勝るとも劣らない凄みを帯びている。人の良さそうな笑みを浮かべているのに、時折覗かせるその冷徹な眼差しは、流石の芹沢も肝を冷やしていた。

 

「……構わんよ。私も話を早く終わらせるのは同意見だからね」

 

 芹沢は近藤の瞳から視線を外すと、懐に仕舞っていた一枚の書状を取り出す。

 

「それでは早速だが、まずはこれに目を通して欲しい」

「なんですか、これ」

 

 芹沢が取り出した紙を受け取った近藤は、不可思議そうにそれを凝視する。

 表題には「壬生浪士脱退状之事」と書かれており、その旨と経緯が本題に書かれていた。年月日は今よりも一、二週間前の日付が記載されており、差出人には「家里 次郎」と達筆に書かれている。

 誰が見ても、家里が壬生浪士を辞するために筆をとったのだと理解した。

 

「家里から直筆の脱退書だ。奴はここを抜けて大阪へ下る公方の警護職に就く」

 

 芹沢は事もなげにそう言った。

 確かにここ最近、それこそこの書状に記載されている日付くらいから家里を見た者はいなかった。浪士たちの間では、家里は根岸・殿内失脚により、江戸に逃げ帰ったのだと噂されたくらいである。

 けれど、真実は少しだけ違ったのだ。家里が消えた日付と、この書状に記載されている日付はほとんど一致している。

 つまりこれが意味するところは、芹沢は家里が隊から抜けるのを勝手に了承し、しかもそのための書状を書かせていた上で、今まで誰にも教えなかったと言うこと。

 あまりにも一隊士としての実権を超えている。流石にこれには土方、山南のみならず、近藤までもが顔を顰めた。

 

「どういう了見だ、それは……そんな大事なこと、なんで俺たちに相談しなかった」

「相談も何も無いだろう? 彼は元々、殿内や根岸の一派だ。それが瓦解した今、家里がここに残ること自体ありえないと思うがね」

「そういう事を聞いてんじゃねぇ。俺たちに黙って公方の警護職に就かせただと? ふざけるな」

 

 思わず拳に力が入る。

 土方が怒っている理由としては、きっと近藤を差し置いて、芹沢が勝手に隊長ぶった行動をしているからだろう。確かに未だ役職も何も決まっていない現状、芹沢のやったことは、ただの越権行為に他ならない。

 新見だけがこの書状を見て喜んでいるのが、何よりの証拠である。

 

「……芹沢さんの言いたいことは分かりました。ですが、それだけではありますまい」

 

 しかし、土方とは違って近藤は落ち着いていた。

 彼からしてみれば、いずれ家里が出奔するなど見え透いていた未来である。それを誰が取り立てたか、誰が許可したかなど、近藤からしてみればどうでもいい話なのだろう。さっき書状を見て顔を顰めたのだって、「なぜそれを喋ってくれなかったのか」と言う、純粋な仲間として見られたい気持ち故だ。

 元より近藤は、誰かの上に立って何かをしたいと思う人間ではない。それは、関係の浅い赤衣の剣客からしても間違いないと思える見識だった。

 さて、そんな近藤に芹沢は「流石だ」と笑う。

 

「私が話をしたいのはこの先についてだよ。根岸ら一派が消えた今、これからの壬生浪士について話をしたい」

「なるほど、そういうことでしたか……」

 

 山南は芹沢の本題を理解し、納得したように頷いた。

 今でもこうやって越権行為だの、誰が上に立つだので揉めている壬生浪士。そろそろきっちりとした上下関係を示さなければ、内部からの崩壊で隊は腐り落ちるだろう。

 それは誰もが懸念していたことである。

 近藤か芹沢か——。

 そこを白黒はっきりさせるしか、壬生浪士の未来はない。

 芹沢は持っていた愛用の鉄扇をパシッと音を立てて閉じ、近藤を指す。

 

「まずは局長。これは近藤……そして新見に任せようと思う」

「っ、私は異存ありません! ありがとうございます、芹沢先生!」

「ふっ、気にするな」

 

 局長——それは字を読んでも分かる通り、「局」の長である。

 江戸時代では、一般的に組織の事を「組」と呼ぶ。ここで言うならば、清川が集めた「浪士組」がそれに当てはまるであろう。けれど、その浪士組から独立し、京都残留組となった壬生浪士は、「組」ではなく「局」とするべきだと芹沢は考えていた。

 そのため、芹沢は「組長」ではなく「局長」と言う役職を設ける。

 そこに近藤一派の頭でもある近藤を入れてやれば、誰も文句が言えない。

 はずなのだが……、

 

「私もそれで構いませんが……そうなると芹沢さんの役職が無いのでは?」

 

 頭が切れる近藤は、すぐさまその問題点に気づき指摘した。

 局の長とは、まさに壬生浪士の頂点に相応しい役職ではある。だが、そこに芹沢ではなく新見が座ること自体、疑問の余地を残さざるを得ない。

 そもそも、そこに芹沢が入ったとしても、それでは根本的解決は何もしていないだろう。

 これは近藤一派と芹沢一派の力関係を如実に知らしめるための工作である。局長という役職に、それぞれ一派の頭が就いては、どうやっても力関係は今と同じように拮抗するだけである。

 

「まあ、話は最後まで聞きたまえ。次に副長だが、そちらの土方君と山南君に任命するのはどうかね」

 

 それでも芹沢は近藤の意見を無視して、にやにやとした笑顔で言い放った。

 土方は流石にきな臭いと感じたらしく口を挟む。

 

「おい、いい加減にしてくれねぇか。副長の席を俺たちの勢力で埋めるなんざ、何を企んでいやがる」

 

 けれど、それに応えるのは芹沢でなく新見だった。

 

「君は一々、芹沢先生に文句しか言えないのか!?」

「テメェは黙ってろ。俺は芹沢さんに聞いてんだ」

 

 一触即発とはよく言ったものだ。

 土方も新見も、少し突けば直ぐに爆発してしまいそうな勢いである。お互いに芹沢と近藤を取り立てたい者同士。相入れないことも多いのだろう。

 だからこそ、当事者たちは余計に頭が冷える。近藤も芹沢も、土方たちの論争など蚊帳の外として扱い、飄々とした態度を崩さない。

 いや——そもそも近藤や芹沢は、そんなくだらない事など眼中にないのかもしれない。

 

「別に、何も企んでなどいないさ。私は適材適所を意識して、君達全員にそれ相応の役職を与えられるよう、提案しているだけだ」

「それは有り難いのですが、やはりそうなっては芹沢さんの席が……」

「案ずるな、近藤——」

 

 芹沢がぴしゃりと言う。

 

「私は()()()()の席に座する。二人も局長がいるのだ、それを纏める者が必要だろう?」

 

 その発言に山南と土方は瞠目した。

「局長」と聞けば、誰もがその局内での頂点を意味するものだと考える。

 けれど、江戸時代の役職に精通しているものであれば、芹沢のカラクリに気づいたはずだ。

 そもそも、この時代で「長」という言葉はあまり使用されない。

「組頭」然り、「番頭」然り、どれもこれも「頭」と言う字が使われている。「長」と言う漢字が一般的に使われ出すのは、外国の知見が入ってきた江戸時代よりも未来の話だ。

 だからそこで気がつくベキだった。

 芹沢が「局長」と言う役職を設けたのか、それより上は本当に無いのかと。

 

「それが狙いか、芹沢さん……!」

「なるほど。私たちにはそれ相応の、しかし芹沢先生にはそれ以上の役職を……と言うことですね」

 

 土方と山南が続け様にそう漏らす。

 してやられた——そう思った時にはもう遅い。

 なぜなら近藤はすでに「私もそれで構いません」と言ったのだ。今それを撤回して、「自分も筆頭に」などと言い出したら、それこそ一派同士の全面戦争である。芹沢もそれを見越していたのだろう。常に余裕を持った笑顔は今も健在なままだ。

 部屋の隅で立ち聞きしているだけの赤衣の剣客すら、芹沢の巧妙な話術に舌を巻く。

 

「人聞きが悪い事を。私はこれこそ、今後の壬生浪士において適格な人事だと考えている。逆に聞くが……君達はこれ以上に適した配役があると言うのかな?」

 

 そう言われるとなんとも答え辛いと言うのが、この場の誰もが思った事であった。

 確かに近藤一派の頭である近藤は、局長という高い役職に就かせてもらっている。また、その一派の両腕とも呼べる土方、山南は副長だ。新見が局長で、芹沢が筆頭局長だとしても、それなりに近藤一派の顔は立てていると言えるだろう。

 また、この京都在住の浪士組が会津藩預かりになったのも、芹沢あってこそ。一番の功労者とも言えるものが、それなりの地位に就くのはごく自然な流れとも言える。

 だからこそ近藤は、腕を組んだまま「相分かった」とつぶやいた。

 

「……私にはそれ以上のものが思いつきません。確かに芹沢さんの言う通り、私たちの上には絶対誰かが座らなければならない。筆頭局長と言う役職は、なるほど——私たち両方の顔を立てるためにも必要なものと考えられます。これでいきましょう」

「近藤さんッ」

 

 まだ納得がいかない土方だけが、近藤に詰め寄った。

 

「……ふっ、中々に話が分かるようだね、近藤は。君の部下もこれくらい物分かりがいいといいのだが」

「何だと——?」

「文句があるなら言葉ではなく刀で向かってきたらどうだ? いや、本当の武士でもない君には少し難しいかね?」

 

 そう嘲笑った芹沢は、土方の闘争心を煽るよう感情を逆撫でする。

 流石にそこまで侮辱された土方も黙ったままではいられない。机と共に置いてあった刀に手を取り、それを引き抜こうと姿勢を取った。

 ——が、それが引き抜かれることはない。

 土方と芹沢の間に割って入るよう、近藤が立ち上がったからだ。

 

「挑発はやめてもらえませんか。これでもコイツらはコイツらなりに、きちんと考えて行動しています。私は貴方が引き起こさせた総司の一件も——まだ許せる気分じゃ無いんですよ」

 

 さっきまでの謙虚な近藤はいない。

 いるのは、鋭い眼光で芹沢を射抜く修羅だけである。

 芹沢はそんな近藤と数舜の間、視線を交わすと飽きたように鉄扇をぱたぱたと開閉させた。

 

「これは怖い怖い。そう睨まれては私も何も言えないな」

 

 芹沢は「よっこらせ」と言いながら立ち上がる。

 

「それじゃ、私の話はここまでとさせてもらおう。これ以外の人事も、私が決めさせてもらう。詳しいことは後日、皆の前で発表しよう」

 

 それだけ言うと、芹沢は立ち上がった土方と近藤、それに座っている山南たちをすり抜けて、部屋の出入り口へと足を運ばせた。

「行くぞ、狗」芹沢は飽きもせず、目線だけで赤衣の男に障子を開けるよう命令する。

「まだ拙者に頼むでござるか?」とため息まじりに赤衣の剣客はつぶやいた。

 これは今後、どれだけ言っても無駄だろう。

 そう諦めた男は、芹沢の望むままに障子を開けてやるのだった。




いつもならここで豆知識を垂れ流すのですが、
今回は作中で「なぜ、新撰組なのに局長」というのかについて、その一説を垂れ流したので許してください。ごめんなさい、ネタ切れとかじゃないんだよ!?

ただアンケートをさせてもらいたくてですね。
今回までは、致し方なしに新見や近藤(オリキャラたち)を出させていただいています。
これも全て、型月でまだ出てきていないのが悪い。(コハエースにそれらしき奴はいた気がするけど)
で、まあこれくらいのオリキャラ量なら全然良いのですけど、残念ながら壬生浪士には他にも四人ほど未登場のキャラがいますよね。
藤堂、井上、永倉、原田……。
さてこれを出すのか、出すとしてもどれくらい出すのか。
そのアンケートをさせていただけたらなと思います。


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2-2

これはアンケートをする前に下書きされていた話なので、アンケートが反映されてません!
申し訳ないっす!
なので、藤堂と永倉が色こく出ますが、これからは多分アンケート結果的にモブキャラに降格されます。


1

 

 かちゃかちゃ——もぐもぐ。

 夜も更けた頃、八木邸の一室にて10人の男女が思い思いの食事を楽しんでいた。

 膳に並べられているのは、右から沢庵、おひたし、焼き魚、味噌汁、白米である。その中でも白米の量は、みんな同じく山盛りにされている。現代の人間が見れば、「おかず無しでこんなに米食べるのか」とツッコミたくなるような比率だった。

 そんな食事風景に一つの叫び声が響き渡る。

 

「あ”あああああっ!!? 新八さん何するんスか!!?」

 

 貴重な肉である魚を奪われ、そう慟哭したのは——藤堂平助だった。

 未だ10代という若さでありながら、この壬生浪士で隊士をしている人物。

 女なのか男なのか分からない中性的な顔立ちは、すれ違う人みんなが振り返ってしまうほど美形と言えるだろう。しかもそれに拍車をかけるように、藤堂が着用しているものも、妙に着崩した装いのため、未来で言うユニセックスなものに落ち着いていた。

 Fateで一番近しい雰囲気は誰かで例えさせてもらうなら、間違いなく「アストルフォとかデオンの類」と表現できる。

 

「ふ、ふ、ふ、ふー、甘いねー平助は。この世は所詮、弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬんだよ」

 

 藤堂から転じて、目の前で奪った魚を自慢げに食べるのは——永倉新八だった。

 この人物まで長々と説明していたら、流石に終わらない。それこそ、また藤堂と同じ分量の描写を入れなければいけないので、詳細は割愛させてもらう。もっと言うなら、永倉については一言で締めようと思っている。

 見た目と通常の雰囲気は「るろうに剣心」で、戦闘時の雰囲気は「ゴールデンカムイ」。

 ——以上。

 

「ぐぬぬぬ、なら僕だってぇ!!!」

 

 さてさて、そんな雑な地の分を綴っていると藤堂が怒ったのか、仕返しを兼ねて永倉の魚めがけて箸を走らせた。

 

「おらっ、おらぁ、おら、おら!」

「いやー鈍いね。平助はまだまだ箸使いが荒いんじゃ無いか?」

 

 だが藤堂の箸捌きを、全て受け流す永倉。

 大人気ないと言えばそこまでだが、彼の本気具合はその攻防戦からも見て取れる。

 箸と箸を打ち交わすこと三十回。流石にこれ以上、やっても永倉の魚を獲れないと判断した藤堂は、隣で静かに食べる赤衣の剣客へと泣きつくことにした。

 

「もう! 赤衣さん、新八さんに僕の魚獲られたっス!」

「はははは、それはいかんでござるな。仕方ない、某の魚をあげるでござるよ」

 

 あくまでにこやかな笑みを崩さない男。

 彼は毎夜、飲みに出かける芹沢に付き従わず、こうやって近藤一派の者達と食事を共にしていた。そもそも、外で物を食べると言うことを、あまり習慣づけていないせいでもある。いや、もっと根本的なことを言うなら、男は金の使い方などもよく分かっていない。

 どこか浮世離れしたように見えるそれは、藤堂が男を気に入っているポイントなのだろう。沖田の次に仲が良いのは、藤堂なのかもしれない。

 

「本当っスか!? やった、どこぞのむさ苦しいオッサンより、赤衣さんは良い人っスね!」

「むおっ」

 

 魚を貰えたことがよほど嬉しかったのか、藤堂はそう言って赤衣に抱きついた。

 抱きつく際、胸を強打されたのは内緒である。言ったら言ったで、藤堂は過剰に反応するだろうから。

 しかし、目の前で若者から、「オッサン」呼ばわりされた永倉は唇を尖らせ、

「若い子にそう言われると、流石の俺でも傷ついちゃうなー」

 と一人ぼやくのだった。

 まあ、誰もそれに対してのフォローは入れないけれど。

 

「はあ……お人好しすぎです。藤堂にまでご飯を分けるなんて」

 

 そんな三人のやりとりを眺めていた沖田は、目の前に座る赤衣の剣客をじっと見つめて言った。

 表情から読み取るに、どこか不満げな色が見て取れる。赤衣の剣客もそれが理解できたのか、頬を掻きながら気まずげに返す。

 

「んー、でも今回の平助殿は被害者でござるし……」

「昨日は加害者の永倉さんにあげてましたよね?」

「うっ」

 

 赤衣の剣客の言葉が詰まった。

 毎夜、共に食事をしていると言うことは、それだけ男がしていることを沖田は知っているということだ。当然、彼が何日に誰へなにをあげたのか、そんなこと知らないわけがない。

 これで彼が藤堂に食事を分け与えた回数は十二回。永倉へ分け与えた回数は三回ずつとなる。三週間という短い期間で、こうも食事を分け与えていたら、いつか男は倒れてしまうのではないか。沖田はそう懸念していた。

 

「良いですか? あなたも人なんですからきちんと食べてください。ただでさえ、少し細身なんですから」

「うーん、返す言葉もないでござるな」

「ほら、今日は私の魚半分あげますから、これからは気をつけてくださいね」

「む? でもそれでは沖田殿が……」

 

 魚の切り身を半分に割り、その片割れを沖田は男の皿へと移す。

 さっきまで他人に食事を分け与えるなと言っていたくせに、これでは彼女の説教が急に陳腐なものに思えてきた。

 だが、沖田は赤衣ほど優しい人間ではない。どちらかと言えば、彼みたいな夢想家よりもリアリストと言った方に近いだろう。そんな彼女が、なんの計算もなく魚を分け与えるはずもなく、

 

「……良いですよ、気にしなくて。その代わり今度、団子をご馳走してください」

 

 沖田はそう言って指で小さな丸を作った。

 壬生浪士内でも、沖田は甘い物好きとして知られている。未だに質素な食生活を送らされている彼女は、魚と交換して団子が手に入るのならば安い交換だと考えたのだ。

 現金な人というか、計算高いというか。

 何にしろ、そんな沖田の魂胆が見えてしまった男は「沖田殿らしい」と一言だけ呟いた。

 まぁ、沖田からすれば、他にも息抜きがてら何処かへ出かけたい——という気持ちがあったのかもしれんが。

 

「あー、ずるいっスよ!! 僕も行きたい! 良いっスよね、赤衣さん?」

 

「団子」と聞いて藤堂も興味を惹かれたらしい。さっきまで魚を食べていたにも関わらず、再び会話へと舞い戻ってきた。相変わらず、藤堂の瞳はキラキラと輝いている。

 

「何言ってるんですか、藤堂は邪魔なので連れて行きませんよ」

「痛っつぅ〜!」

 

 だが、それが沖田にしてみれば鬱陶しいと感じたのだろう。

 赤衣に擦りつこうとする藤堂の額めがけ、デコピンを飛ばし一蹴する。勿論、手加減などしてはいない。今の沖田が出せる最大火力を中指に集約させた結果、藤堂はコロコロと床で悶絶した。

 少しすれば、ようやく痛みも引いたのか、額を摩りながら藤堂が起き上がる。その様子を隣と前で見ていた赤衣、永倉は沖田の鬼畜さに苦笑いを浮かべ、同時にこう思った。

 ——甘い物が関わった沖田だけは、敵に回さない方がいい、と。

 

「とりあえず、あなたはこの残ったおひたしでも食べなさい」

 

 そう言って沖田は、藤堂の膳に置かれた、未だ箸もつけられていないおひたしを見る。

 藤堂もその視線に沿って、おひたしを眺めるのだが、次第に苦々しい表情を浮かべた。

 

「え〜、これ食べれるんっスか〜? 雑草に見えるんスけど」

 

「雑草」とは流石に酷い言い様である。

 今のは作った側に失礼というよりか、これを栽培している農家に失礼な発言であった。

 そのため赤衣、沖田それに永倉は、藤堂に向けて何かしら言おうと口を開く。が、それよりも先に凛とした声が部屋中に響いた。

 

「平助、それは壬生菜と言うんだ。壬生村の農家さんが汗水流して作ったものなんだから、好き嫌いはいかんぞ?」

 

 声のした方向を全員でパッと見れば、そこにはニコニコと笑顔を浮かべた近藤が藤堂を見ていた。

 ——笑顔なのに怖い。

 赤衣、沖田、永倉、藤堂が満場一致でそう思う。

 近藤が一寸たりとも目尻や箸が動かないせいもあり、その感情はどんどん強くなった。

 

「うへ〜、分かったスよぉ……も〜、近藤さん百姓の出だから、そういうところは本当にしっかりしてるっスよね〜」

 

 最終的に近藤の笑みに耐え切れなくなった藤堂が、そう言っておひたしを口にした。

 食べた感想は、「あ、これ意外といけるスね」である。壬生菜という素材が元々美味しいせいなのか、それとも作り手が上手かったのか、藤堂が知る機会はない。

 

「ん? 近藤殿は武士の生まれではないのでござるか?」

「赤衣さん、知らなかったんスか? まあ、上洛組じゃなかったら無理もないっスね〜。元々、武士の才能があったらしくて、それを見込んだ近藤周助先生が養子にしたらしいっスよ」

 

 箸をかちゃかちゃと鳴らして、藤堂が言った。

 行儀が悪いとは誰も注意しない。少しだけ沖田が藤堂を睨んだけど。

 

「ちなみに、土方さんが近藤さんの幼馴染らしくて、総司ちゃんは妹弟子。あんまり知られてないっスけど、源さんがみんなの兄弟子っス!」

 

 そう言われたので、赤衣は井上源三郎の方を見やる。彼も赤衣が見ているのに気が付いたのか、丁寧に会釈で返してきた。

 どうやら口数は多くないにしても、礼儀正しい人のようだ。

 

「ま〜、みんな試衛館時代からの仲間っスね」

「ふむ。どうりでみんな仲が良いわけでござる」

 

 藤堂の締めの言葉に赤衣は、うんうんと頷いた。

 仲が良いのはいいことである。芹沢一派も仲良しではあるのだが、どうも新見らが芹沢に群がっているように見える。

 対して、この近藤一派は一人一人が仲間を大切にし、近藤を盛り上げようと努力しているのは見ていて気持ちが良かった。赤衣が個人的にどちらの陣営につきたいか、と聞かれれば、彼は迷いながらも近藤一派を選ぶことだろう。まあ、芹沢には芹沢なりの良さがあると思い込むようにしてはいるが。

 

「おい、今日の賄い方は誰だ」

 

 そんな風に赤衣の剣客が考えていると、近藤の横で食べていた土方が徐に声を上げた。

 見てみれば、鋭い眼差しで膳の上を睨みつけている。心なしか眉間に皺が寄っているようにも思えた。

 隊士達はそんな土方を見て、言いにくそうに視線を逸らす。

 

「えーと、今日っていうかねぇ……」

「ここ最近と言いますかー……」

「ん? 料理は赤衣さんが来てからは、ずっと赤衣さんが作ってるっスよ」

「「っ!? 平助(藤堂)!?」」

 

 永倉、沖田が必死に誤魔化そうとしているのも知らず、無遠慮に藤堂が核心をついた。

 土方はそれを聞いてピクリと眉を釣り上げる。元々、伊達男な土方の顔つきは、少し睨んだだけでも相手を竦み上がらせるほど、怖い造りをしているのだ。そんなものを真っ向から向けられた赤衣は、思わず肩を跳ね上げた。

 

「おい、赤衣——」

「な、なななななんでござろう! 某の料理が口に合わなかったでござるか!?」

 

 沢庵が入った小鉢を持ち、土方が立ち上がる。腰にはなぜか食事中なのに脇差が携えられたままであった。

 全員がそれを見て、「あー、死んだな」となんとなく思う。無類の沢庵好きで知られる土方が、神妙な表情をしたまま沢庵を持ったのだ。これから赤衣の未来が明るくなるとは、到底思えない。

 しかし、そんな壬生浪士たちの予想は、次の一言で大きく覆される。

 

「なにビビってやがる……おい、この沢庵もっと作れねぇのか」

「……はい?」

「だから、もっとこれを量産できねぇのかって聞いてんだ」

「……」

 

 時が止まった。

 いや、厳密にはそれを聞いていたみんなの動きがフリーズした。

 ある者は箸を落とし、ある者は口から白米を溢れさせ、ある者は目を丸くする。みんなが一様に土方のセリフへ、ある程度の驚きを示したのだ。

 

「そ、それは、まぁ、大根さえあれば?」

 

 最初にフリーズから立ち直ってきたのは赤衣だった。

 問われた当事者だったということもある。しかし、1番の要因は土方の怖い顔から、少しでも早く解放されたいという欲求からであった。

 

「ふっ、そうか。なら俺が大根を大量に仕入れてくる。だからお前は死ぬほど沢庵を作れ」

 

 赤衣の返答が満足のいくものだったらしく、土方はそう言って男の肩を叩く。今し方までの怖い顔は、まるで仏のように柔らかい好青年の顔へと変化していた。

 だが、そんな変わり身など赤衣には関係ない。

 肩を叩かれた部分を見て、もう一度赤衣は土方の顔を見やる。

 

「え……? いや流石に死ぬほどは嫌でござる」

 

 男がそう言うと、慈愛に満ちた表情の土方が次第に顔を曇らせた。

 

「……副長命令だ、断れば斬る」

「うわー、正々堂々とした職権濫用。いや、某は隊士じゃないから関係ないでござるが……」

 

 赤衣は諦めたようにため息をついて、「承知」と最後に呟いた。

 これ以上、土方に逆らったとしても、彼の意見を変えさせることはできないだろう。それならば、とっとと不毛な会話を終わらせた方が身のためである。

 それに赤衣は、料理を褒められたことに関してだけは、素直に嬉しいと思っている。あの硬派な土方が、手放しで賞賛してくれた。それだけでも、彼のために何かしてあげようかな、と言う気持ちにはなっていた。

 

「——はっ。いけない! 何か土方さんの見てはいけないものを見てしまった気が……!」

 

 土方の行動に我を忘れていた沖田が、ようやく口を開く。彼女からしたら、あまりに衝撃的な出来事だったのだろう。

 赤衣と土方を交互に見た沖田は、場を整理するため、首を傾げながら呟いた。

 

「えーと、つまり……土方さんはその沢庵を気に入ったんですか?」

「ああ——普通なら沢庵は、炊き立ての白米と食した時こそ美味いとされている。だが、これは単体で食っても絶品だ。いや、どちらかと言えば、そのまま食った方がうめぇまである。そもそも沢庵ってのは、甘みが増すほど美味いと俺は考えてんだが、この沢庵はそれを」

「あ、そこまでで結構です。長いので」

 

 沖田が片手を翳して止めると、土方は解せぬと言った表情で、自分の席へと戻った。

 

「ま〜ぁ〜、副長みたいに〜、僕は沢庵信者じゃないっスけどぉ、壬生浪士もようやく会津藩預かりになった事だし〜?」

 

 どこか寂しげな土方を見ながら、藤堂が猫撫で声でそう発する。

 その意図に気が付いたのか、沖田も一つ咳払いをしてそれに続いた。

 

「そろそろ夕飯を豪勢にして欲しいですよね〜」

 

「「いえーい!!」」と、最後に二人は手を叩き合う。

 現在、彼ら彼女の食費を捻出しているのは、お世話になっている八木家の者達だ。前借りという体裁はあるものの、ほとんどがご厚意に甘えている状態で、食べられる量には限度があった。

 しかしそれは、京都残留組が正規の浪士組と別れてしまったせいでもある。京都ではなんの後ろ盾もない、拠り所もない残留組浪士たち。芹沢のおかげで、なんとか会津藩とつながることができた今ならば、多少は経済面が改善されてもいいと、みんな思っていた。

 

「残念ながら、それは給金が出てからの話だね」

「え?」

 

 しかし現実とは無情である。

 山南のその一言で、場にいる全員が察したのか、シーンと静まり返った。

 そのせいか、和気藹々とした雰囲気は壊れ、重苦しい空気だけが漂う。

 

「まあ、先方もワシらが信頼できる集団かどうか、計りかねておるんだろう」

 

 空気を割るように、そう言ったのは近藤だった。

 少しだけ困ったような表情を浮かべてはいるものの、その凛々しい声に嘘偽りは見受けられない。

 近藤は箸と茶碗を膳に置き、パン! と膝を叩く。

 

「丁度良い、みんな聞いてくれ! 明後日なのだが芹沢さんと新見、そしてワシで大阪に壬生浪士の資金を借りに行こうと思っている。あと数名程希望者を募りたいのだ、誰か名乗りをあげる者はいないか?」

 

 大阪といえば、この時代、天下の富の7割が集まったとされる天下の台所である。物流の中心地としても名高い大阪ならば、確かに資金を調達するのに打って付けの場所と言えるだろう。

 こんな悪知恵、誰が発案したのかなど聞かれれば、すぐに芹沢だと分かる。

 だから近藤一派の浪士達は微妙な顔つきをしながら、その呼びかけに答えるか思い悩んでいた。芹沢が企んでいることに、ろくな事はないと思っているから。

 

「あなたも行くんですか?」

 

 沖田はそんな仲間の顔を見渡しながら、赤衣に聞いてみる。

 ここで食事を一緒にしてはいるものの、赤衣は体裁上、芹沢の小姓みたいなもの。となれば、大阪に赴く芹沢と同行しないわけがないと思ったからだ。

 

「ん? あー、そう言えば芹沢殿に何かのお供を命じられていたでござるな。多分、これのことでござろう」

「ふーん……」

 

 案の定、赤衣は何らかの命令を受けていたらしい。

 ほとんど彼が興味を示していないため、曖昧な記憶ではあるが、ほぼ赤衣の大阪行きは確定と見ていいだろう。ならばと、沖田は手を上げる。

 

「近藤さん。私行きます」

「お、そうか! 総司が来てくれるなら、あちらも悪い顔はしないな! なんせお前は試衛館一の美人だ、はははは」

「もう、やだなー近藤さん! そんな、私が美形なのは今に始まった事じゃないでじゃないですかー!」

 

 親バカとアホ——。

 なんとなく二人を見ていた隊士達から、そんな言葉が出た。

 豪胆に笑う近藤を見ながら、流石の沖田も照れたように笑っている。彼女を正面切って美人と褒めるのは、この浪士組内でも近藤と赤衣くらいであろう。大抵の浪士は、沖田を女として見ていない。裏では「約束された男への道」「招き蕩う性転換」と揶揄していた。

 

「大阪か……なら、俺も付いて行かせてもらう。少し気になることもあるからな」

 

 そんなバカ二人を無視しながら、土方が冷静に告げる。

 こんな状況でも、いつものクールな土方を装えるのは流石と言えた。

 きっと彼はこんな状況に幾度となく立たされたのだろう。沖田と近藤がはしゃいで、それをセーブするような役割に。

 

 痛みを伴わない教訓に意義はない。人は何かの犠牲なしには、何も得る事はできないのだから。

 しかし、その痛みに耐え、乗り越えた時。人は何者にも負けない、強靱な心を手に入れる

 そう、鋼のような心を手に入れる。

 

 土方はきっと、狂戦士になっても、その強靭な鋼のメンタルで理性を保つに違いない。

 

「歳も来てくれるのか! いやー、よかった。歳ほど商売に精通してる者はおらんからな! じゃあ、決まりだ。明後日、ワシや芹沢さん達に、総司と歳を加えた面子で大阪に資金を調達しに行く。その間の責任者は山南君に一任するとして、みんなそれぞれ職務に励んでくれ」

『はい!』

 

 そう全員が返事をして、食事は再開した。

 未だに土方は沢庵を噛みながら、変なうなり声を上げている。正直、見ていて気持ち悪いとさえ思った。

 しかし、それよりも赤衣には何かしら勘のようなものが働いているらしい。茶を啜りながら、ため息にもならない短い息を吐いた。

 

「むぅ、何事もなければ良いでござるなー」

「心配しすぎじゃないですか?」

 

 沖田はそう言って赤衣を茶化す。

 彼女の中には、大阪で団子を強請ろうという計画しかない。

 だからこそ、呑気でいられるわけなのだが、そんな彼女を見て、赤衣も「気にしすぎか」と思うことにした。




アンケート締め切りはとりあえず次話投稿までです。
今のところモブキャラ欄が多いですね〜、なるほどなるほど。
まあ、プロット変更はモブキャラに降格させる奴らの役目を、原作キャラに当てはめればいいだけなので楽です。
ただ、それができないのが近藤とかってだけなんですよね。

と、まあいつも通りに最後、ちょこっとだけ豆知識を置いておきます。

・昔の沢庵
沢庵の始まりは意外と江戸時代の頃から。
臨済宗の僧・沢庵宗彭が考案したという言い伝えがあったりする。
今、スーパーなんかで売られている沢庵と、江戸時代の沢庵の風味は違うらしく、今の方が甘かったり色艶が良かったりするらしい。私は江戸時代の沢庵を食べたことないから、細かいところはわかりません。
と言っても、そんな食事の差というのは色々とあって、寿司なんかも「鮓」や「鮨」と言った違いが、現代と江戸時代であるのです。まあ、これはまた別の機械に詳しく。


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2-3

今回も長くなりすぎたので、半分にぶつ切りしました〜。
あぁ〜、終わり方が気に食わないんじゃぁ。
まー……仕方ないですけどね、こればっかりは。
長すぎても、私の拙文では目に毒なだけですので。


1

 

 江戸時代の豪商、平野屋五兵衛。

 江戸時代の今橋は大店の両替商が軒を連ね、天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が道を挟んで店を構えていたことから、「天五に平五 十兵衛横町」と呼ばれていた。

 平野屋五兵衛は大阪の両替商の家。姓は高木氏であり、慶安3年頃に開業。享保17年の飢饉の際,窮民救済の功により家役を免除され、また十人両替として幕府御用をつとめる。米価調節のための買米・御用金の下命に応じ、慶応3年に兵庫商社世話役に就任し,諸藩へ手広く金融活動を行うなど、有力な大坂町人として存続した。

 さて、ここで言う「十人両替」について軽く説明しよう。十人両替とは江戸時代、大坂の両替商を統制するため、本両替仲間の行司から選任され、公用を勤めた代表的両替商のことである。初めに天王寺屋五兵衛ほか2名の両替屋に命じ、後に鴻池(こうのいけ)、平野屋などを加えてその数が10名となったことから呼称されるようになった。

 そもそも幕府も大名もお金に困っていた時代。富んでいたのは、全国から産物が集まり、米相場や為替相場を動かした大坂、いや大坂の豪商だった。天下の富の7割が集まったとされる大坂の財力を、金に困っていた武士が見逃すはずもない。商家への押し借りはこの時代で流行。もちろん、返済などされるはずもなかった。

 商家もそれに対抗するべく、町奉行所に相談したりはしている。けれど、奉行所は後難を恐れてか、今で言う「民事不介入」の態度を貫き通すのが常だった。そのため、彼ら商家は天災が起きた農家のように、泣き寝入りする他なかったのである。

 

 さて——、そんな現代の世情を知っていただいた上で、場面は大阪の大通り。

 先頭に芹沢・近藤・新見、後続には沖田・赤衣の剣客、最後尾に土方という形で並んで歩いている。

 資金調達の遠征のためか、全員がそれなりの軽装をしており、芹沢に関しては刀すら差していない。これは多分、押し借りと間違われるのを忌避した結果であろう。最近では、刀を持ったまま店に入るだけで、不逞浪士と勘違いされる始末なので仕方がない。

 

「平野屋での資金調達、上手くいきますかねー」

 

 悪い現状が重なっているせいか、赤衣の剣客に並び立つ沖田がそのような弱音を吐いた。

 彼女としても、外部で資金調達をするのは初めてのことである。試衛館時代、経営が傾いていたことを思い出せば、金の手に入りにくさは一塾頭ながら重々承知していた。

 しかし、それに対して芹沢は嘲笑ってみせる。

 

「ふっ、もしかして総司君は心配性かな?」

 

 大人の余裕というやつなのか、天狗党時代から横暴なことをしてきた経験というやつなのか、そう言う芹沢に焦りは見受けられない。

 

「十人両替の一人であれば、それなりに泡銭も溜め込んでいることだろう。我らは精忠の志士。きっと円満に話を進められるさ」

「……そんな簡単な話とは思えませんが」

 

 芹沢の持論を聞いても、やはり釈然としない沖田は唇を尖らせた。

 どちらにせよ、彼らはここで資金調達をしない限り未来がない。武器を整えるにしても、隊士を増やすにしても、まずは活動資金となる元がいる。

 大体、会津藩預かりとなった今でも、それらに対する助成金は国から一切出ていないのだ。であるならば、自分たちで集めるしか道がないのは誰もが周知していた。

 

「総司が心配する気持ちは分かるが、ワシらが義をもって説明すれば、あちらも納得してくれるとワシは思うぞ」

 

 近藤も芹沢の言葉に暗い顔はしたものの、概ね上手くいくのを願うよう声を絞り出した。

 とはいっても、この近藤は試衛館を貧乏道場にした一端だったりするわけだが。

 そのことを知っている沖田は、無意識に長い息を吐く。

 

「まあ、近藤さんには最初から期待はしていないとして、そっち側で何か策とか用意してあるんですか?」

 

 沖田のその尋ねに、ピクリと眉を釣り上げたのは新見だった。

 

「当たり前だ。芹沢先生が無策で資金調達をするわけがないでしょ」

「ふーん。そうだと良いんですけど……」

 

 聞きたかったのは具体的な策の内容だが、新見の反応からして沖田らには教える気が無いらしい。芹沢も沖田の問いかけに何も言わず、鉄扇で肩を叩きながら闊歩している。

 そのため、沖田はこれ以上、問い詰めても意味がないと判断。すぐさま会話の対象を前方から横へと切り替えて、未だ視線を方々へと投げている赤衣の剣客を見た。

 

「あなた、ずっとそうしてますけど、なにか探してます?」

 

 赤衣の剣客は己に尋ねられているのだと気づき、沖田の顔を見て、頬を掻いた。

 

「あ、いや、勇坊と為三郎にお土産を強請られたので、何かいい物は無いかなと」

「ふーん。仲良いですね、あの子たちと」

「沖田殿もそうでござろう? 可愛い坊主たちでござるな」

「その割には、変な関節技を極められてましたけど」

 

 沖田はそう言って「ふふふ」と笑った。

 育ち盛りのやんちゃ坊主。こんなお人好しが目の前にいたら、そりゃ好き勝手してしまうのも当然である。

 

 一向らがそうやって思い思いの会話をしていると、気がつけば平野屋の屋敷が見えた。両替商というのは中々に良い店を構えているらしい。大阪の中でも、これほど立派な屋敷はないであろう、大きさだ。看板には平野屋の威厳を示すためか、でかでかとした文字で「両替」と書かれている。出入口と思われる格子の引き戸には、目線部分に青い暖簾が掛かっており、中から座って見ると、外が眺められるよう設計されていた。

 

「ここが平野屋か——近藤たちは不慣れなようだし、私がまず話をつけてこよう」

 

 芹沢は愛用の鉄扇で平野屋の看板を指すと、そのまま含み笑いを浮かべた表情で、店の入り口へと出向いた。

 近藤はそれに対し「お願いします」と正直に言う。どれだけ鼻につく言い方をされたとしても、彼は自分のことをぞんざいに扱ってしまう人間だ。芹沢が遠回しに馬鹿にしてきたとしても、それは変わらない。「どうでも良いことだ」「至極当然のことだ」と、素直に受け入れる。

 しかし、近藤自身がそうであるからと言って、他の人間もそうであるとは限らない。近藤のことを大切に思っている者は、少なからず芹沢の言動に腹を立てるであろう。

 いつもであれば、それが土方の役目だったりするのだが、なぜか、この瞬間だけは土方から芹沢への嫌味が飛ばなかった。

 

「……どうしたんですか、土方さん」

 

 可笑しいと思った沖田が、大阪に来てからずっと黙っている土方に声をかける。

 土方は試衛館時代から共に過ごしてきた仲間だ。近藤よりも長く付き合いがあるとまでは言わないが、それなりに時間をともに浪費してきた人物である。彼の言動がおかしいことに、沖田が気が付かないはずもない。

 

「いや、少し気になってな……。おい、芹沢さん。あんたが平野屋に入る前に、少し下から店の中を覗かせてもらうぜ」

 

 沖田に問われた土方は、そのまま前方にいる近藤たちを押し退けて、出入口前に立つ。そうして、その偉丈夫を鬱陶しそうに感じながらしゃがみ込み、スーッと格子の間から店内を覗き込んだ。

 

「……ちっ、どうやら嫌な勘は当たったらしい」

 

 軽く舌打ちを繰り出したあと、そのまま土方は近藤に目配せした。

 

「可笑しいとは思った。水を履いた後の地面に足跡があるが、どれも店に入っていくものばかりだ。しかも集団で、左足の跡だけ深めになっていやがる」

 

 店内に入っていく足跡——それは言葉のままを意味しており、入っていった形跡はあるが、出て行った形跡は無いということ。

 次に左足だけの跡が深めに残っている。これは、左足に重心が傾いている証拠。つまり、脇差を携えた集団が、平野屋に入ってからまだ出てきていないといぅことである。

 土方のそれを聞き、近藤と沖田、それに赤衣の剣客も違和感を察知したらしく、彼と同様、下の格子の隙間から店内の奥を見た。

 

「不逞浪士か?」

「ええ、どうやら押し借りされている真っ最中のようですね」

「数は八人でござるな」

 

 近藤、沖田、赤衣が続け様に言う。

 彼らの目に飛び込んできたのは、格子の引き戸を隔てた平野屋の中。そこで大柄の武士八人が、小柄な童と気の弱そうな男一人を取り囲んでいるところだった。

 見るからに穏やかな雰囲気じゃない。大柄の武士の中には、何人か血のついた鞘を装着している。

 人を斬ったことがある証拠——気性が荒そうなのが見て取れた。

 

「お、おお侍様ぁ! 何卒、お許しください!」

 

 気の弱そうな男が、土間の地面に額を擦り付けそう叫ぶ。

 どうやら事態はそこまで切羽詰まっているらしい。武士集団の一人が、重たそうな巾着を手に気色の悪い笑みを浮かべていた。

 

「安心しろォ。この金は国のため、我らが使ってやる」

「し、しかし! 100両などという大金!!?」

「——やかましいっ」

「うぐぅっ」

 

 口答えをした男が、巾着を持った男に腹部を蹴られた。

 力加減などしていないらしい。蹴られた男は咽び、唾液と胃の中の物を地面に撒き散らしてしまっている。

 ——なんて酷いことを。

 沖田も、近藤も、赤衣もそう思った。今すぐ彼らを守らなければ、あの不逞浪士たちがつけ上がってしまうのは一目瞭然である。下手をすれば、あの血塗られた鞘から刀身が飛び出しかねない。

 ——そうなるより早く平野屋に突撃しなくては。

 そう思った二人の言動は、しかし、次の武士集団の言葉によって止められる。

 

「貴様、公方様のために身を粉にして働く我ら精忠の士に、協力できぬと申すのか? 貴様らが外敵相手に不正な商いをしているのは、知っているのだぞ?」

「そ、そんな! 決してそのようなこと……!!」

 

 公方様のため……つまり徳川将軍のために働いている武士。

 それはつまり、壬生浪士と同じ志を持つ人間たちであり、しかもその人間たちが、平野屋は外敵と密かに繋がっている非国民だと言ったのだ。

 これに関しては何の証拠もない。

 もしかしたら、武士集団が適当なことをでっち上げている可能性だってある。

 だが、もしこれらが本当だった場合。壬生浪士が彼らの邪魔だてをしたとあれば、隊はすぐさま破滅してしまうことであろう。その危険性を、近藤と沖田はこの一瞬で理解してしまったのだ。

 そんな二人の反応を見た芹沢は、なんの反応を示すこともなく、立った状態では視界を塞ぐ青い暖簾を剥ぎ取った。

 

「返せや……」

 

 沖田と近藤が蹈鞴を踏むと、気の弱そうな男に庇われていた小供が武士集団を睨んだ。

 

「あ? なんだ、童。その眼は?」

 

 武士集団の一人が小供に尋ねる。

 いや、これは尋ねるというよりも、睨み返していると表現するべきかもしれない。

 その視線に小供はとうとう我慢の限界が達したのか、倒れ込んだ男を庇いながら、喉をはち切らさんばかりに叫んだ。

 

「これは高木様の大切な金や! あんたらみたいな小汚い泥棒に渡すもんと違う!」

 

 ピシリと場が凍る。まるで極北の大地に裸一貫で立っているような感覚だ。

 それなのに小供は引くことをしないらしい。額には脂汗を滲ませ、拳は真っ赤になるまで握り込まれている。いつ斬られたって文句が言えない。いや、文句が言わせられないような死に体になると言うのに、それでも小供は武士集団を睨むのをやめなかった。

 

「小汚い泥棒だと!?」

「貴様、我々に向かって何を言ったか分かってるのか!!」

「ひ、ひぃぃぃ、どうかお許しを! この子はまだ幼いんです! 多少の無礼には目を瞑ってくださいませぇ!!!!」

「なぜ頭を下げるんですか、番頭! 俺は間違ったこと言ってない! こいつらはただの泥棒や!」

 

 怒号が響き渡る平野屋。それを聞きつけて、段々と人が集りだしたらしい。いつの間にか、中を覗ける引き戸の周りには、大勢の町人と近藤・芹沢一向でひしめき合っていた。

 流石にこの状況はどうにかした方がいいと、その気持ちだけが近藤たちに積もっていく。

 けれども彼らと対立することが誠に正義なのか、どうなのか。こういった状況に不慣れな近藤はそれを計りかねて、横にいる芹沢を盗み見た。しかし、芹沢は芹沢で何も言わず、無表情のまま平野屋の中を見つめている。その態度に彼の思惑が見て取れない。

 

「ほーう……よほど活きがいいらしいな、小僧」

 

 巾着を持った武士が、気の弱そうな男と仲間を押しのけて、小供の目の前にしゃがみ込んだ。

 小供と武士。両者の視線が交わされる。

 小供の目つきは未だに緩和しておらず、それどころか鋭さは増したように思えた。それなのに、武士は慣れない手つきで小供の頭を撫で、「珍しい奴」と笑ってみせる。

 それを見た野次馬も、気の弱そうな男も安堵のため息を漏らした。どうにか落ち着くことができたかもしれないと、そう期待した。

 けれど、そんな訳など無かった。

 

「ふっ、小供一人くらい殺しても構わんな——殺れ」

 

 その号令とともに、武士集団の鞘から明らかな殺意が解き放たれた。ギラギラと光る刀身は、まさに死を象徴した凶器。誰も抜刀命令が降ったことに疑問を抱いていないのは、彼らがそれ相応の経験を踏んでいる証拠だった。

 武士集団全員が、待っていましたと言わんばかりに舌なめずりし、全員が小供に向かって刀を構える。誰かが歯止め役にならなければ、平野屋の中はすぐさま地獄と化すであろう。

 ここにきてようやく近藤も腹を決めたらしく、腰に刺さった刀の柄に手を押し当てた。

 

「幕府側と思い、ある程度の狼藉は見守ったが、流石にこれは止めるぞ、総司、歳!」

「当たり前です。あんな小さな子供に刀を向けるなんて、許せないので」

「ああ、任せろ」

 

 三人がそう意気込み、平野屋へ突撃するため引き戸に手をかける。

 ——が、そんな三人を止める者がいた。

 

「待ちたまえ」

 

 引き戸に手をかけた近藤の手を、芹沢が握って抑える。

 先程と同様、芹沢に表情の色はない。怒っているのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、憂いているのかも分からない。

 それを見た沖田は、怒りに呑まれた顔をして芹沢を睨んだ。

 

「なんで止めるんですか、芹沢さん。理由によっては容赦しませんよ」

 

 カチャリ——沖田は己の愛刀で鯉口を切る。

 その手を離さなければ、即座に切るという脅しだ。

 けれど、そんなもの芹沢には赤子の癇癪くらいどうでもいいことだった。何故なら芹沢の目の前にいる女は、未だに人を殺したことがない生娘である。人斬りとして大成した沖田であるならばいざ知らず、目の前の生娘程度の睨みに竦む芹沢ではなかった。

 

「君たちでは力不足だ。そもそも、総司君も土方君も、まだ人を斬った事がないだろう?」

「うっ、それは……」

 

 芹沢の言葉に沖田だけは言葉を詰まらせた。

 殿内暗殺を失敗している沖田としては、これに反論できる材料を持ち合わせていない。「次も斬れないのでは」と聞かれれば、「そうかもしれません」と答えるしかなかった。

 

「関係ねぇ。人を斬ったことがなくても、鍛錬は積んでんだ。ここであれを見逃すくらいなら、俺は鬼にでもなってやる」

 

 だが、言葉を詰まらせた沖田とは違い、土方がそう芹沢へ突っかかる。

 明らかな殺意を芹沢に向けているところを見る限り、彼は沖田よりも容赦がない。そもそも気に食わない相手に止められているのだから、彼からしたらここで言うことを聞く義理など微塵も無かった。

 それが芹沢にも伝わったのだろう。芹沢は近藤の手をはなし、もう片方で持っていた鉄扇を開いて己を煽ぐ。

 

「ふ、その意気やよし。だがね、人を斬った事がないと言うことは、手加減の仕方もしらないということだ。我々としても幕府側の同志を殺したくはない」

「じゃあ、どうしろと?」

「言っただろう、力不足だと。こういう人助けに滅法慣れた男がいるではないか」

「っ」

 

 芹沢がそれを言い終えるより前に、沖田はその滅法慣れた男が居た場所に視線を移した。

 だが、既に赤衣の剣客の姿はない。気の弱そうな男が蹴られるまでは一緒に見ていたはずなのに、音もなくいつの間にか消えていた。

 芹沢はそんな消えた赤衣の剣客に向けて笑みを溢す。

 

「——其方たち、その辺にしておくでござる。相手は子供でござるよ」

 

 平野屋の中で声が響いた。

 いつの間に中に入ったのか、どこから入ったのかはわからない。けれど、赤衣は子供と倒れた男を庇うように立っていた。

 刀をまだ抜いていないところを見る限り、戦うつもりは今のところは無いらしい。できる限り穏便なやり方で場を鎮めようとするのは、男らしいと言えば男らしかった。

 

「なんだ、貴様?」

 

 そう問いかけた武士集団の一人が、赤衣の剣客の刀を見る。

 他の武士たちもそれに釣られて男の得物を確認し、口の端をニヤリと釣り上げた。

 一眼見ただけで、使い込まれているのが分かる鞘と柄。それなりの場数を踏んでいることなど、武士集団が察するにはあまりにも簡単すぎたのだ。

 

「ふん、あんたも武士ならば、この童がしでかした事くらい分かるであろう? 童であろうと、女であろうと、武士を愚弄するものは皆斬り捨てだ」

 

 巾着を持った武士が誇らしげにそう説いた。

 確かに、公事方御定書には切り捨て御免——無礼討ちについての記載がある。けれどそれは、正当な理由があった時だけ適用される法律だ。実際には、正当な理由の実証などこの時代では難しく、武士の斬り捨てが横行することなどほとんどない。

 それ故に、この武士が言っていることはただの詭弁であった。妄言と言っても差し支えがないかもしれない。

 それを誇らしげに語る時点で、武士として品位が知れるというものだが、赤衣の剣客はそれよりも、もっと根本的なことに不満を抱いてた。 

 

「何を言い出すかと思えば……お金を巻き上げて、子供に刀を向けるのが武士のする事でござるか?」

「——なに?」

「某の知っている武士と、お前達の言う武士はどうも違うようでござる」

 

 呆れたようなため息。

 馬鹿にしているわけではない。けれど、馬鹿にしたようため息。

 赤衣の剣客からすれば、心の奥底より這い出た本音であるのだが、武士集団にとってはそれが余計に貶されたと感じる要因となった。

 

「っ! なら、貴様の言う武士とやら示してみせろ! その矮躯と刀でな! やってしまえ!」

 

 そう命令した巾着の武士を除き、他7名の武士が小供、気の弱そうな男、赤衣の剣客を狙って刀を振り下ろした。

 鍛錬された剣筋なのは分かる。外野となった土方や沖田からして見ても、武士集団がそれなりの使い手集団であることは理解できた。

 それなのに、だ。

 それなのに赤衣の剣客は抜刀した瞬間、その7名をたった7回刀を振っただけで、瞬時に叩き倒した。




たらりありあらー
たらりらーたらりらー

もっと沖田と赤衣を全面に出したいなと思う今日この頃。
もう二話は終わりそうなので、三話以降のプロットを修正して、沖田成分と赤衣成分を増量中。
芹沢が主役みたいになってしまっては、元も子もないので!
まあ、第一章は芹沢も沖田と赤衣に次ぐメインキャラですけど。

そんなこんなでちょこっと豆知識ー
と言いつつ、今回の話では最初の方に垂れ流ししましたけど。

・両(お金)
みなさん一度は疑問に思いませんでしたか?
1両って現代でいう何円なんだよって。
簡単に言うと、これはすごく難しい問題です。なぜなら、1両はふつーに◯円だとは言い切れないから。その理由は、少し考えてみれば当然のこと。昔と今で、全く同じ値段差のものはほぼないからです。もっと略して言うと、「今と昔の米の価値は違うよね。今と昔の大工の賃金は違うよね。この二つの価値の差って違うよね」と言うこと。
18世紀においては、米価で換算すると1両約6万円、大工の賃金で換算すると1両約35万円となるらしい。なので、1両あたり大体10数万程度の価値があるのかな〜と思ってくれればいいと思います。


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2-4

アンケートを終わらせるの、すっかり忘れていました。
とりあえず、予想通りといういか、最初の勢いのままモブキャラ欄が多い様子。
モブキャラと言いながら、2-1ですでに名前を出してしまっているが、これは仕方がない。
と言うことで、前回の続きからです。


「つ、つぇぇ……」

 

 倒れる武士のうち一人がそう呟いた。

 喉から辛うじて出せた一言である。そのか細い声だけで、赤衣の剣客の強さが見てとれた。

 7名の武士は一人残らず地面に叩き伏せられ、残るは巾着を持った武士のみ。小供も、気の弱そうな男も、あまりに一瞬の出来事、息をすることすら忘れて見惚れた。

 そんな赤衣の活躍に沖田だけは「ま、当然ですね」とどこか誇らしげである。一体、何から目線で言っているのか、是非とも聞いてみたい。

 

「残るは一人……。もう二度と横暴な真似はしないと、平野屋の皆さんに誓うでござるよ。あとはこの者達を連れて、どこへなりと好きに逃げればいい。某は追わぬ」

 

 赤衣の剣客が目を鋭く細めて言った。

 あまりの出来事に息をすることすら忘れていたのは、巾着を持った武士も同じこと。己と相手の力量差が分からないほど、この武士も馬鹿では無かった。

 だけれども、武士は下がることができない。

 一度、抜刀した癖に、それを無かったことにして逃げるなど、剣客としての恥だ。背中の傷が政治的致命傷となった話も、ここ最近の話である。なりふり構わず逃亡を図った殿内が珍しいだけで、意識の高い剣客は怯え逃げることを一切好まなかった。

 

「ふ、ふざけるな! そんな真似が武士にできるか!!」

 

 だから武士は巾着を投げ捨て、叫び、振りかぶる。

 五行の構えの一つ——上段の構え。

 その特性は圧倒的な攻勢にある。

 胴、籠手、足を全て曝け出しながらも、相手の攻撃よりも早く、振り下ろすことで敵を悉く蹴散らす姿勢は、まさに明白な殺意であった。

 

「やむを得んか」

 

 赤衣の剣客はそれを見て、諦めたようにぶらりと右手で刀を持ったまま、それを垂れ下げた。

 沖田と争った時にも取った構え。

 自然体に近いその姿勢から発生する奇想天外な動き。それは、どんな流派でも体験することのできない技の派生攻撃を意味する。

 武士は赤衣の剣客の構えに怪訝そうな表情を浮かべる。そして数舜、赤衣の剣客の動向を観察した後、己に打ち込まれるよりも早く、男へと突撃した。

 

「死ねいやああああああああああ!」

 

 巨躯から振り下ろされる剛剣。

 一切合切の物質を斬り捨てるため打ち出された必殺の剣撃。

 確かに早い。その大柄な体から放たれているとは思えないほどの俊敏性がそれにはある。例え受け止められたとしても、その刀ごと斬ってしまいそうな勢いが、それには乗せられていた。

 が、その基準は一般的な武士と戦うときの話である。

 

「遅い!」

 

 ——上から声がした。

 誰もいるはずのない頭上から響きのいい声がした。武士は目を見張る。信じられないものを見た時、人は声が出なくなるというが、まさにそれと同じだ。

 口を開け、目を見開き、体が固まる。

 頭上には天井を地面とし、こちらへ刀を向けている赤衣の剣客が一人。武士が刀を振り下ろしたところで誰もいない。目の前にはすでに男は消え失せてしまっているのだから。一切合切を薙ぎ払う袈裟斬りも、さらに上空へ飛ばれては全てが無意味と化した。

 ならばどうする。振りかぶった刀をどうすればいい。

 そんな考えが逡巡するその瞬間、赤衣の剣客から刀が振り下ろされた——。

 

「す、すごい……」

 

 小供がそう呟いた。

 目の前には、先ほどまで自分や番頭を痛ぶっていた武士集団が、全員倒れ伏している。生死を確認しようと近づいてみれば、全員気絶しているだけで、呼吸音が口や鼻から絶え絶えながらも聞こえた。

 神業だ……。

 この時代、何かと物騒なこともあり、こう言った斬り合いの場面で、全員を気絶させた男の所業はまさに神業と言っても差し支えがない。そもそも、真剣を使っているのだから、死者が出ること自体、別におかしな話では無いはずなのだ。その理屈を捻じ曲げている男の方が可笑しいのである。

 

「一人も殺してないよ、この兄ちゃん!! みんな気絶してるだけだ!」

 

 小供がもう一度そう叫ぶ。

 そうすれば、野次馬根性を働かせていた町人が一気に色めき立った。

 

「お、おおお俺あいつ知ってる! 赤衣の剣客だ! 京で誰も殺さず人助けをしちまうっていう、伝説の剣客だ!!」

 

 小供の叫びに呼応するかの如く、町人の中の一人がそう言った。

 その一石に、誰もが熱気をさらに高まらせる。

 だが、赤衣の剣客と呼ばれた男だけは、その一石を投じた人間に「む?」と言った表情で見やった。

 

「大阪にそんな物凄い剣客が来たのかよ!」

「うおおおお! 俺、感動しちまったあああ!」

「あんたは英雄だ!」

「怪我はない、大丈夫!? お名前は!?」

 

「え?」

 

 赤衣の剣客が向けた視線など気が付かないのか、平野屋の外で観戦していた町人が、一斉に赤衣の剣客へと殺到する。まさに決壊したダムのようだ。人の波がどんどん平野屋に押入り、赤衣の剣客を襲った。当然、目の前で陣取っていた土方や近藤たちもそれに巻き込まれる形となる。

 

「ああぁぁぁ、そんな大量に来られても困るでござるぅぅ」

 

 町人に集られている赤衣の剣客は、人混みに目を回しながら、好き放題、抱きつかれたり、肩を叩かれたり、髪の毛を引っ張られたりした。

 もみくちゃにされている赤井の剣客。近藤や土方はそれに巻き込まれながらも、改めて、赤井の剣客の強さを認識した。

 

「あれが赤衣の剣客か……沖田に勝ったってのは嘘じゃねぇな」

「そうらしい。強いな、彼は。芹沢さんはとんでもない者を引き受けたのやもしれん」

「呑気なことを言ってる場合ですか!? あの人、あのままだと民衆に押しつぶされますよ!?」

 

 土方と近藤の論議を聞いた沖田は、そう言って、民衆に潰されかけている赤衣のところへと人垣を割りながら向かった。

 いつの間にか難を逃れていた芹沢は、それを見て鼻で笑う。そして、新見にも助けるよう命令すると、襲われそうになっていた平野屋の人間達に近づいた。

 

「どうも、危なかったようだね」 

 

 小供に視線を合わせて、しゃがみ込む芹沢。

 それを少々、強張った様子で見たのは気の弱そうな男である。

 

「あなたは……」

「あれの主人と言ったところだ。なーに、私も少しお金を借受に来た身。その際に、今の騒動を見てしまってね。助けさせたが、怪我はなかったかな?」

 

 芹沢は小供を見ながら告げた。

 小供はそれに「うん」とだけ答える。

 

「それは何より」

 芹沢はその返事を聞いて笑顔を浮かべると、立ち上がり、町人の波へ向けて踵を返した。

「しかし、この騒動のせいで金の借受は難しそうだね。違う店にでもお願いしに行くとしよう」

 

「お待ちください」

 

 しかし、それを呼び止める男性がいた。

 芹沢が呼び止めに反応し、首を声のした方向へと向ける。

 

「ん? 君は?」

「私はこの平野屋9代目当主 高木五兵衛でございます。この度はうちの者どもをお助けくださり誠にありがとうございました」

 

 聞けば、その人物とはここの主人だったらしい。

 騒ぎを聞きつけて駆けつけたにしては、あまりに登場が早すぎる。このタイミングで出てきたことを鑑みれば、この男がどこかから、この騒動を見守っていたことに芹沢は気がついた。大方、主人が居ないと言って、あの武士集団をやり過ごすつもりだったのだろう。いささか強引な連中だったために、そのやり方ではトラブルを回避できなかったようだが。

 

「ふっ、ただの偶然だよ。気にしないでくれたまえ」

 

 鉄扇を振りながら、芹沢は謙虚にそう返した。

 瞳には獰猛な喜悦を滲ませている。どうやら、このあと当主がどのような返しをしてくるのか、手に取るように分かっているらしい。

 

「いいえ。それでも命とお金を守っていただいたことは事実。お礼がしたい。お金の借受の件、私たちに任せてはもらえないでしょうか」

 

 案の定とも言うべきなのか、芹沢が予測していたことを当主が口にした。

 差し出されたのは、武士集団が持っていこうとした100両。資金調達を目的に大阪へと渡ってきた彼らにとって、その金額は十分な量であった。

 芹沢はその差し出されたお金を少しだけ吟味すると、閉ざしていた口をゆっくりと開ける。

 

「……なるほど。相分かった。そう言うことなら頼むとしよう」

 

 そのとき芹沢が浮かべた表情は細く、獰猛であったと誰かが言った。

 

 

 日はすっかり落ち、空には白い星々が浮いている。まだ4月ということもあり、夜はいっそう冷え込んだ。

 そんな冷え込む時期だからこそ、酒というものは格別に効く。強い酒を飲めば、それだけで体は温まるし、何より気分が向上した。芹沢もその例に漏れず、自身の好きな酒を煽りながら、対面に座している家里に話しかけた。

 

「万事うまくいったよ、家里。君はやればできる侍らしい」

「は、はは、良かった……本当によかった」

 

 重苦しい声でそう言われた家里が、ようやく憑き物が取れたような表情を浮かべた。

 家里の格好を見てみれば、昼頃、「あれは赤衣の剣客だ!」と叫んだ町人と非常に酷似している。もしかすると、この格好と芹沢の言う「万事うまくいった」は、何かしら関係性を帯びているかもしれない。

 

「さ、ささ最初は護衛職に就いた人間を勧誘し、悪質な押し借りをさせろと言われて驚きました……。しかも、中野屋が外敵に繋がっていると嘘までついて……」

 

 家里が芹沢に注がれた酒を一口飲み、安堵したように声を漏らした。

 大阪へ出奔するよう命じられた時は、どうなることかと家里も思ったのだろう。しかも、本題として出された書状には、明らかな犯罪行為が記されていた。命を助けてもらうためだとは言え、将軍の護衛職を悪用するなど武士には考えられない。

 けれど、それを考えついてしまうのが芹沢という男である。

 家里はそれに対し、さらなる恐怖心を増大させていた。

 

「私は何事も念には念を入れたくてね。平野屋に今後、金を無心するためにも、恩を売っておくことは大切だったのだよ」

 

 芹沢はそう言って、空になった盃に溢れんばかりの酒を投入する。

 盃に溜まった酒が映し出す芹沢は、まるで全てを見通すかのように笑っていた。

 一体、いつからこのようなことを計画していたのやら。

 赤衣の剣客という武器を手に入れてからなのか、それとも家里が命乞いをした時からなのか、はたまた殿内暗殺を沖田に唆した時からなのか……。それは芹沢にしか分からない。

 ただ一つだけ言えることはある。

 それは、彼の計画がここで終わりでは無いということだ。

 

「そ、そそそれで芹沢さん……私はこれからどうすれば。おおお押し借りを仄めかしたのが、もし私の仕業だと知られれば、いい一大事。こここ、このまま壬生浪士に戻っても、よろしいのでしょうか……!」

「ふむ——」

 

 家里が懇願するように尋ねると、芹沢は口につけようとした盃を一旦離した。

 

「いや、君には最後の仕事がある」

 

 戦場を駆ける矢の如く放たれた言葉。

 最後の仕事、というのに違和感を覚えた家里は声と顔を強張らせた。

 

「さ、最後ですか……?」

「ああ」

 

 芹沢は緊迫に満ちた家里とは打って変わり、飄々とした様子で懐から短刀を取り出した。

 それはまさに汚れを知らない短刀と言えるだろう。

 誰かが強く握った形跡もない艶やかな柄。鞘には傷一つないところを見れば、これが新品であるということが分かる。一体こんな綺麗な短刀で何をしろというのか。受け取った家里は小首を傾げずにはいられなかった。

 

「え、ええと……こここれで何を?」

 

 家里は腑に落ちない様子で尋ねる。

 

「決まっている。斬れ」

 

 けれど、芹沢は当然のようにあっけらかんとした態度で言い切った。

 

「え、え? なにを、です……?」

 

 未だに理解ができない家里は、主語を求める。

 

「決まっているだろう、はらを、だ」

 

 それに対し、芹沢は再度、臆面もなくそう言った。

 家里はそれでも意味が分からないのか、「はら? はら、はら?」と何度も呟いた。綺麗な短刀を握り返し、まじまじと見つめながら「はら」とは何なのかを考えた。

 結果、その言葉が指し示す一つの単語に行き着く。

 斬る、はら、短刀。

 ——斬る、腹、短刀。

 つまり芹沢は、今この場で家里に切腹を命じたのである。

 それが分かった瞬間、家里は盃と料理が乗った膳を倒しながら颯爽と立ち上がった。

 

「そ、そそそそそんな! 話が違っ!」

「文字通り命は助けてやった。一、二週間は飯を食べ、眠りにつけただろう? それ以上に君はなにを望むというのだ?」

 

 家里の反論など聞く耳を持たない芹沢は、図々しいまでの理論を打ち立てる。

 芹沢曰く、一時的に見逃してやったことで約束は果たされたと言いたいらしい。しかし、家里からしてみれば、そんなのは約束の反故に相違ない。そんなペテン師も目を見張るほどの詐欺など見たことはなかった。

 ——命を助けてもらうために、惨めになりながらも働こうと思っていた。

 ——いつかは壬生浪士に戻り、それなりの成果をあげるつもりでいた。

 ——いや、殿内や根岸らと共に一緒に壬生浪士の天下をとりたかった。

 けれど、それらは全て夢幻である。芹沢に命乞いをした時点で、家里の判断は間違いだったのだ。これがもし、武士のプライドなんか打ち捨てて、近藤側へ与していれば、もしかしたら未来は変わっていたかもしれない。

 まあ、所詮はタラレバの話である。現実にもう一度なんていうものは存在しない。セーブ地点なんてものはあり得ない。その時、その時を必死にもがき生きていくのが生命の営みである。

 

「嘘だ、そんな、嘘ですよね……! だって、そんな……あんまりなことって」

「家里、君は知らないようだから教えてやる。私はね——冗談は言わないんだよ」

 

 ともすれば、家里がこれから行う動きなど手にとるように分かった。

 今この時。一瞬でも一刻でも長く他人より生き延びたいと考えた時——家里の体は出口に向かって走っていた。芹沢が最後に浮かべた笑顔。口角をニヤリと持ち上げ、瞳には深い闇だけが映し出されている。

 あれから逃れなければ家里に未来はない。いや、あれに見られた時から家里に未来はなかったのかもしれない。そんなことを考えていると、家里が飛び出そうとした出口から、一つの影が飛び出してくる。

 ——新見だった。

 あらかじめ家里の逃亡を予見していた芹沢が、最初から全ての裏事情を知っていた新見を配置していたのだ。

 出てきた新見は、走る家里を軽く組み伏せる。そしてそのまま、彼の後ろ側へ張り付き、そのまま芹沢が渡した短刀の鋒を家里の腹に突き立てた。横一文字に切り裂かれる腹。血が溢れ、鉄の匂いが充満する。

「じにだくな”い、じじじにだくな”い」と家里は泣きながら言った。口からは唾液が、鼻からは鼻水が垂れた。

 けれど、そんな彼を嘲笑うかのように芹沢は己の刀を抜き放つ。

 切腹では中々死ねない人間のために用意される役。首を落とし、苦しみから解放するため、芹沢は刀を使って家里を断頭したのだった。

 

「……泣かなければ立派だったのだけどね」

 

 それだけを呟いた芹沢に一つの笑みも見受けらはれしない。

 

 

 同時刻、団子屋。

 星空が見える茶屋が売り文句らしいその店で、沖田は念願の団子を赤衣に強請り、頬張っていた。大阪に折角来たのだからと、芹沢が一泊することを推奨したためである。そのため、近藤と土方は大阪の街をふらつき、沖田と赤衣の剣客はこうして茶屋を巡っていた。

 そんな中、赤衣の剣客が何やら感じ取ったのか、ふと顔を上げる。

 

「む?」

「どうしたんですか、急に?」

「いや……何か聞こえた気がしたのだが」

 

 そう言われて、沖田は周りを確認してみる。

 だが、騒ぎらしいものは一つもない。至って穏やかな日常風景だけが店の外に広がっている。あとはキラキラと輝く星と月が、地上の人間を見下ろすかのように、空で鎮座しているくらいであろうか。

 

「んー、別に何もないですけどねぇ」

 

 沖田は関心を早々に失ったのか、串に刺さった団子を口に入れた。

 それに合わせて赤衣の剣客も、「気のせいでござるな」と呟く。昼頃に武士集団と出会したせいで、変に気が立っているのだろうと思ったからだ。

 

「こんな星と月が綺麗な夜に、誰かが悪さをしようなどとは思わないでござるな」

 

 赤衣の剣客が茶を啜りながら、夜空を見上げた。

 雲一つない夜空だ。淀みなく月明かりが辺りを照らしている。沖田や赤衣の剣客以外にも、チラホラと同じようにして夜空を見上げる人がいた。

 

「そうですね。団子のお供に非常に良いです」

 

 沖田も赤衣の剣客に同意なのか、そんな綺麗な宝石箱を、まるで童のように見上げた。

 こんなに月が綺麗なのだから——。

 そう皆が思い、争いをやめたのならば、日ノ本ももっと平和になるのかもしれない。何気ないことに一喜一憂し、誰もが死の恐怖に、理不尽な事柄に怯えなくてもいい世界になれたなら……ああ、それはどれだけ美しいのだろう。

 けれど、世界はいつだって残酷だ。そんな夢物語を許容するはずもない。国やなんだと興味のない赤衣の剣客ですら、それは理解している。

 だからこそ、赤衣の剣客はふと思った。

 些細な平和でいい——。

 こんな日常の一幕を、目の前に映る大切な人々を——。

 それだけは守れるように、これからも頑張っていこうと。

 

「そう言えば、赤衣の剣客って言われた時、どこか睨んでましたけど何かあったんですか?」

「む? いや、見たことがある顔だなと思っただけでござる」

「なんですか、それ」

「んー、はっきりとは見えなかったので、誰かは分からなかったのでござるよ」

「なんか怖いですね。もしかしたら、誰かに嵌められたんじゃないですか?」

「……沖田殿、なんか怖いでござる」

 

 策略、謀略、戦略、計略。

 数多の言い方はあれど、それが指し示す意味は一つしかない。

 今回のことも、芹沢に全て仕組まれていたとは露知らず、二人は仲良く団子を齧り続ける。

 それが幸せなのか、不幸なのか。それはまだ誰も知らぬこと。この先の物語は、みなさんがその目で確かめることなのですから。

「胡桃」。今宵のお楽しみはここまででございます。




これにて二話完結!
最初は三分割で抑えるつもりだったけれど、四分割になってしまいました。
んー、まとめるの難しいですねl。


と言うことで、ちょっことだけ豆知識を置いていきますね。

・家里次郎
次郎と書いて、実は「つぐお」と呼びます。
第一話で殺されかけていた殿内と同じく、彼も京に残った浪士組を取りまとめるよう仰せつかっていた人物。
史実でも、殿内が殺され、根岸らが逃走したことにより、彼も大阪へと出奔します。そして、大阪にて近藤や芹沢らに士道不覚悟として切腹させられました。
この時、みなさんが知っているような俗に言う「局中法度」がすでに作られていたのかは不明。ただ、私の解釈ですと、もしかしたらこういう事柄を元に、隊律は作られたのかもしれません。


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3-1 薄

お久しぶりですね、はい。忘れられていると思いながら投稿します。


 

 疲れを吹き飛ばす方法は千差万別だと、湯に浸かる沖田は考えていた。

 食事が好きな人であれば、きっと何かを食している時に疲れが吹き飛ぶのだろう。また、歌を詠むのが好きな人なんかは、その歌を披露している時に疲労感が消えるのかもしれない。

 人間は皆、日々なにかに追われている。それが仕事であれ、生活上の営みであれ、何もしない人間というのはこの世にいないからだ。当然、沖田だって日々の稽古に加え、最近では八木邸や近所の子供と遊ぶことが多くなった。この間なんか、町の川に子供や赤衣の剣客と出向いて釣りなんかをした。その時に釣れた魚を、赤衣の剣客が調理してくれたのは、まだ彼女の記憶に新しい。

 沖田は赤く染まる夕焼けを見上げる。今日もこうして1日が終わるのだ。空には、一筋の黒い斑点模様を作り上げる鳥の群衆が見えた。もしかしたら、彼ら彼女らは巣に帰っているのかもしれない。そう思うと、なんだか笑みを零さずにはいられなかった。

 

「あぁぁ〜、生き返りますねぇ〜」

 

 風呂桶に背中を預けながら沖田は言った。

 彼女がいま入っているのは、五右衛門風呂と呼ばれる文字通り「風呂」だ。かまどの上に釜を置き、その表面に板を取り付けて風呂桶として機能させる。当たり前だが、底は直接熱せられている釜なので熱い。そのため、普通は底板などを入れて足場にするのだが、沖田は面倒だということで、下駄を履いたまま入浴していた。

 

「湯加減はいいでござるか?」

 

 かまどで火力の調節をしている赤衣の剣客がそう尋ねる。もくもくとかまどの入り口から出てくる煤のせいか、頬は若干黒くなっていた。

 

「すごく良い感じですぅ〜」

 

 そう言って沖田は口元まで湯に沈めた。体温が十全に温められているのは、体に触れなくとも分かる。とろけるような湯加減は、差し詰めほろ酔い気分といったところであろうか。

 

「でも本当に良かったんですか? 私が入って」

 

 沖田は火の番をしている赤衣の剣客へ、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 そもそも、なぜこの二人がこうして五右衛門風呂に集まっているのかというと、話は少しだけ遡る。と言っても、そこまで深い話ではないのだが。

 

 いつも通り、赤衣の剣客は誰に頼まれたわけでもなく洗濯に勤しんでいた。

 今日は量が少なかったせいか、意外と早く終わってしまった彼。どうせだと、八木家の人の分まで洗濯をすることにした。

 それを見た八木家当主が、いつもお世話になっているお礼として、風呂を提供したのだ。汗水たらして頑張ってもらった対価としては、この時代、中々に気の利いた考えである。しかも、風呂に入る際には、奉公人を使って火の番をさせても構わないとまで言われた。

 しかし、赤衣の剣客は「そこまでは……」と言って断る。別に対価が欲しくてやっているわけでもないし、自分が勝手にやったことに対して報酬をもらうというのは、彼自身の気が引けたのだ。

 八木家当主もそんな赤衣の剣客の気持ちは察したのか、一度は引き下がる。

 けれど、「恩人に対し何もしないわけにはいかぬ」と、風呂で疲れだけは取るよう言い立てた。他人からの強い主張を無碍にできない赤衣の剣客は、渋々それに了承。奉公人は使いたくなかったので、己の手で水を溜め、火を起こし、水を沸かした。

 いざ、湯ができてみれば、赤衣の剣客はそこで頭を抱えた。彼はこういった露天風呂や、他人に裸を見られる場所を極端に避ける傾向がある。そのため今回も、風呂の準備はしたものの、やはり入ろうとは思えなかった。

 でも、入らなければ燃やした薪が全て無駄である。薪だってそれ相応の労力を消費して得られる消耗品だ。誰も入らない風呂のために使われたとなっては、赤衣の剣客としても心苦しい。

 さてはて、どうしたものかと考えていると、ちょうどそこに稽古終わりの沖田が通り掛かった。相変わらず、容赦ない稽古を繰り広げているらしい。隣にいる藤堂がぐったりとした様子で歩いていた。

 赤衣の剣客はそれを見て、藤堂と沖田を出来上がった風呂に入れようと考え、誘った。勿論、二人はすぐさま了承……と思いきや、予想外にも二人はその誘いに難色を示した。

 藤堂は稽古による疲れから入浴を拒否。沖田は五右衛門風呂の何が良いのか分からないという偏見で拒否。

 流石の赤衣の剣客も、沖田の理由には納得がいかず、半刻ほどかけて五右衛門風呂の良さを熱弁し、今に至るわけだ。

 

「あ、言い忘れてましたけど、立ち上がったら殺しますからね?」

「ははは、そんな事しないでござるよ」

 

 回想が終わったところで、沖田の鋭い言葉に赤衣は、「まさか」と言いながら笑ってみせた。

 彼も一応は中性的な顔立ちはしているものの、中身は歴とした男である。江戸時代の混浴は現代よりも抵抗が薄かったとはいえ、それでも恥じらいを持つ乙女はいる。沖田が嫌だというのであれば、決して裸は見ないし、見ようともしないのが常識的な行いだと赤衣の剣客も考えていた。

 

「それにしても、私はずっと鉄砲風呂が一番と思っていました。でも、あなたに言われた通り、五右衛門風呂も捨て難いですね〜」

「江戸では鉄砲風呂が流行ってるのでござるか?」

「ええ。よく、姉さんや筆さんに入らされましたよー。『宗次郎は女の子なんだから』って」

「微笑ましいでござるな」

 

 赤衣の剣客がそう笑うと、思い出しように沖田が片腕を振るう。

 

「私が上がったら、あなたも入ります? 代わりますよ火の番」

 

 その提案に逡巡する赤衣の剣客。

 だが、人前で入るのを拒んだ末に沖田たちを誘ったのだ。今更、五右衛門風呂に入ろうとは微塵も思わない。

 

「んー、某は行水で構わんでござる」

 

 男は首を振りながらそう答えると、沖田は不満げに頬を膨らませた。

 

「えー、今度いつ入れるか分かりませんよ? 江戸と違って京は湯屋が少ないんですから」

「残念ながら、某はあまり他人に見せられる体をしてないのでござるよ」

 

 ふと沖田の視線が赤衣の剣客の体へと這う。

 謙遜するほど醜い体格はしていないだろう。和服の上からもわかるとおり、赤衣の剣客は中々に引き締まっている体をしていた。

 それでも裸体を見せることに抵抗するということは、その下に何か人に言えぬモノが存在しているということ。誰しも他人には言えない秘密は一つ二つ持っているものだ。そのため、沖田もそれ以上強く言うことはしないでおいた。

 

「そう言われると何も言えませんね」

「すまないでござる、気を使わせて」

「いえ、私の方こそすみません」

 

 沖田がそうして肩を竦めると、不幸にも拍子に下駄が脱げた。

 当然、下駄が脱げれば沖田は一糸纏わぬ素足である。稽古によって鍛えられた分厚い皮も、直接熱せられている釜に触れれば尋常じゃない熱さが伝わってくる。

 

「熱っ!!」

 並々ならぬ条件反射ですぐさま下駄を履き直した沖田。

「大丈夫でござるか!?」

 そして、その声に反応し、思わず立ち上がってしまった赤衣の剣客。

 この二人の行動が重なってしまった時、どうなるかなど誰でも容易に想像ができた。

 

「ふー……もう大丈夫です。いやー、驚きましたよ。五右衛門風呂の底ってこん、な、に……」

 

 描写するまでもない。沖田の声は次第に萎んでいき、目の前にたたずむ男と視線があった。

 視線が合うだけならまだいい。ただ、赤衣の剣客の目線は沖田よりも上にあったことが問題なのだ。

 見上げ見下ろす関係。当たり前だが見下ろされているのは沖田である。

 

「あ、あのこれは……事故でござるよ?」

「覚悟はいいですか?」

「か、覚悟って、某は別にわざとでは——」

 

 歳をとるごとに肥大化していく体の一部を隠し、沖田はすぐさま————————

 

「天誅!!」

「ぐへぇ!!」

 

一言で言えば「一撃必殺」である。

 赤衣の剣客は、地上最強の生物ですら見惚れる鮮やかな殴打で倒された。

 

「もう知りません! そこで地べたでも舐めながら反省してください!」

「うぅー、すごい力でござるなー……」

 

 目をくるくると回す赤衣の剣客に、ベーっと下瞼を捲る沖田。

 赤衣の剣客は、数瞬前の光景を記憶から消すためにも、そのまま流れるように意識を奥へと沈めた。目を覚ました時、さっきの光景が脳裏に染み付いていたら、きっと沖田にもう一度殴られるからだろう。だがそれは、彼女にだって女性らしい部分が残っていることの証明でもある。赤衣の剣客はその事実が少しだけ嬉しかった。

 

 

 

 さて、意識を刈り取った側の沖田と言えば、もう暫く湯で疲れを取ることにした。グッと背筋を伸ばし、そのままゆったりと背中を風呂桶に預ければ、気の抜けた声が出る。

 元々、彼女は男に囲まれて生きてきた人間だ。彼女の周りにいた女といえば、実の姉であるみつや近藤の養母と嫁さんくらいである。試衛館で1日の大半共にいたのは、何を隠そう近藤や男の弟子たちだ。

 だから男には慣れている。多少の問題いで取り乱したりはしない。

 そのため、何故自分がこんなにも刹那的に怒ったのか、少女は分からなかった。

 

「あ、沖田ちゃん発見」

「斎藤さん?」

 

 湯でだらけていると、後ろから斎藤に声を掛けられる。

 首だけ回してみれば、彼はいつもの軽装でよっと手をあげていた。

 

「ごめんな、入浴中に」

「いえ、構いませんよ。それより何かあったんですか?」

 

 自分を探していたであろうことは、さっきの斎藤の台詞で沖田も察していた。そのため、何か問題でも起こったのかと思案する。

 けれど、そんな沖田を否定するように、斎藤は首を小さく横に振った。

 

「近藤さんからみんなへ話があるってさ。芹沢さんもいたから、壬生浪士としての話だと思うね」

「壬生浪士として? うーん……分かりました。着替えが終わったら、すぐ行きます」

「そうして頂戴」

 

 沖田は近くに用意していた白布を体に巻き、五右衛門風呂から出る。湯に長く使っていたせいか、体の至る所から白い湯気が出ていた。ほっと熱気の篭もった息を漏らし、自慢の黒髪に滴る水を乱雑に振り払うと、斎藤がじっとあるところに目を向けていたことに気が付く。

 

「……ずっと聞きたかったんだけど、なんで彼は倒れてるわけ?」

 

 いつもの剽軽な態度ではなく、そこそこの苦笑いを浮かべた斎藤の質問。

 その問いに沖田は、

 

「……獣だったからです」

 

「え? なんて?」

「べ、別にいいじゃないですか、この話は! ほら、斎藤さんも早く行きますよ!」

 

 食い気味という言葉では足りないくらい必死な沖田に、斎藤は悪戯心が芽生えたらしい。眼を細め口角をにやっと釣り上げれば、くすくすと幼児のように斎藤は笑った。

 

「いやいや、沖田ちゃんがなんでそんな顔真っ赤なのか、僕気になるなー」

「斎藤さん!」

 

 その叫び声は、夕焼けとともに静かに色褪せた。

 

 

 八木邸の一室にて、一つの声が響き渡る。

 

「みな、聞いてくれ。明日、会津中将様が我らに御接見してくださることとなった。そこで、壬生浪士全員で京都職本陣へ出向くこととする」

 

 そう発したのは近藤であった。はきはきとした艶のある声だ。彼としても、会津中将に会えるのを心待ちにしているのだろう。何を隠そう会津は壬生浪士を召抱えている藩である。その中でも会津中将である松平容保は、昨年に京都守護職を拝命している大役人であった。

 

「すごいですね。私たちもとうとう認められると言うことですか」

「どうすりゃいいんスか! 僕、新しい服買った方が良いっスかね!?」

 

 近藤の発言で、聞いていた壬生浪士たちが歓喜の声を上げる。

 壬生浪士は決して身分が高い者たちの集まりというわけではない。土方や近藤は生まれつきの武士ではないし、沖田なぞそもそも女である。会津中将と言った大物に会える機会など、一生訪れないと思っていた矢先の報であった。

 浮き足立つな、という方が無理である。

 特に近藤は、幕府のために命を捧げると決めた会津中将に憧れを抱いてすらいた。

 

「お前ら落ち着け。まだ話は終わってねぇだろうが」

 

 比較的落ち着きを払っている土方がぴしゃりと場を静めた。

 会えるとわかっただけでこの盛り上がりよう。実際に会津中将の前へ出向いた時のことも考えると、メリハリを付けさせるのは大事である。

 近藤も自身の不甲斐なさに気がついたのか、「んんっ」と咳払いをして平静を保つ。

 

「そこでだな、折角、会津中将様にお目通りが叶うのだから、皆で上覧試合を行おうと思うんだ」

 

 降って湧いたような機会。これを逃す手はないと、壬生浪士の幹部たちは考えていた。

 

「へー、なんか面白そうじゃない? 僕たち壬生浪士としても堅苦しい話し合いより、気楽な試合の方が好きだしさ。会津中将様だって、僕たちの事を()()()んでしょ」

 

 斎藤が手足を伸ばしてそう言う。

 そもそも、ここにいる大半の連中は弁よりも剣が立つ集団だ。山南のようにどちらもできる人間は稀有である。格式張った挨拶をするよりも、剣を2、3振るった方が京都守護職としても喜ぶだろう。

 その考えに土方も同意しているのか、彼は頷きながら壬生浪士の面々を眺めた。

 

「斉藤の言う通り、ただ出かけていって挨拶をするだけってのもつまらねーだろう。試合の組み合わせも決めてある。まず第一試合は俺と藤堂だ」

 

 じろっと見つめられる藤堂。並の女であればくらっとしてしまうその強い眦に、藤堂は逆に笑みを引き攣らせた。単純に怖いのである。

 

「ぼ、僕が土方さんっスか? 僕、勝っても殺されないっスよね……?」

「いま死にてぇなら、殺してやるが?」

「あ、なんでも無いっス。すんません、調子乗りました」

 

 土方の冗談か本気かも分からない声のトーンに、流石の藤堂もたじたじである。

 

「第二試合は永倉と斎藤」

 

 続け様に発表されたのは第二試合の面子。

 永倉、斎藤と言えば、壬生浪士の中でも沖田と並び最強格として知られていた。そのため、この対戦には全員が注目せざるを得ない。どっちが強いのか、果たして最強はどっちなのか、そんな疑問が彼らを注目の的へと変じさせた。

 

「へー、僕と永倉さんねぇ」

「斉藤が相手とは、中々面白い組み合わせしてくれるじゃないの」

 

 だが、当の本人たちはそんな視線など知ったことではないらしく、静かに笑みを深めるだけだった。

 

「最後が山南と沖田、てめぇらだ」

 

 土方が紙に書いた対戦表を見せながらそう告げると、沖田はきょとんとした表情になる。まさか自身が上覧試合に抜擢されるなど思ってもいなかった。しかも、相手は山南。過去に他流試合で近藤に敗れているとはいえ、北辰一刀流の免許皆伝者としての実力は伊達じゃない。斎藤や永倉は華々しくその実力を知られてはいるものの、山南に関しては底が知れなかった。

 

「お手柔らかにね、沖田君」

「はい……でも、手加減はしませんよ」

 

 獰猛な笑みを浮かべる沖田。

 赤衣の剣客に敗れてから、彼女の剣技は日々磨きが掛かっている。その実力を確かめるためにも、山南との試合は沖田にとって僥倖であった。

 

 一通り、上覧試合の組み合わせを発表し終えると、最後に近藤がこう締め括る。

 

「我々が会津の方々にどう評価されるかは、試合の内容如何に掛かっておる。みんな、気を引き締めて稽古に励んでくれ」

『承知!』

 

 一寸違わず発せられた声。全員が全員、明日という日を待ち望んでいるのが分かる。

 けれど、そんな輪を乱すかのように、先刻からずっと黙っていた芹沢が徐に口を開けた。

 

「待ちたまえ」

 

 年端も行かぬ小童が見れば、すぐさま泣き出してしまいそうな声。愛用の鉄扇をはためかせながら、まるで「暑い暑い」と蔑むように芹沢は眼を細めていた。

 

「どうかしましたか、芹沢さん」

「いやはや、近藤君。試合の組み合わせなのだが、少しこちらからも出したい奴がいてね」

 

 勿体ぶったその言い方に眉を下げたのは、誰あろう土方だった。

 

「出したい奴だと? 誰だ」

 

 土方はそう告げながらも、視線は新見を指していた。芹沢一派の中で一番こういうのに手慣れていそうなのが新見だからである。

 けれど、新見は近藤と同じく局長という立場の人間。おいそれと上覧試合などには出せない。それは近藤だけでなく芹沢も分かっているはずだ。そのため、土方の視線は新見から芹沢一派の武士たちへと標的を変えた。

 しかし、土方の予想は悉く裏切られる。

 

「赤衣の剣客だよ。あれの戦いぶりは実に鮮烈さ極まれり。きっと君たちの言う通り、会津の奴らが喜ぶだろうさ」

 

 芹沢が提示したのは、なんと壬生浪士に所属してもいない赤衣の剣客であった。

 そのため、赤衣の剣客と最も仲の良い沖田が、真っ先に芹沢の提案に否を突きつける。

 

「待ってください。彼は隊士ではないですよ」

「そうだな。しかし、あれは私の狗だ。つまり壬生浪士筆頭局長の所有物と言える。私の判断次第では、戦力として考えても良いだろう?」

 

 その言葉に反論出来る者はこの場にいなかった。彼が芹沢とどのような契約を結んでいるのか。それを一から十まで知っているのは当人たちだけだから、と言うのもある。しかし、一番厄介なのは赤衣の剣客の人柄だ。彼はきっと、この場にいる誰かが危険に走るとなれば、喜んでその身を投じることであろう。なればこそ、彼を部外者として突っぱねることはできなかった。

 

「屁理屈なんてもんはどうでもいい。で、誰と戦わせるんだ」

 

 切り替えが恐ろしく早い土方は目を伏せて問いかける。芹沢の暴論にいちいち目くじらを立てていては、身が持たぬと知っているからだ。

 芹沢もそんな土方の態度に満足したのか、鉄扇を閉じて下顎にこつりと当てる。そうして何事かを思案するように、隊士たちを見回した。

 

「…………斎藤君。君にお願いしよう」

「僕? なんで僕が?」

 

 指名された斎藤は、まるで訳がわからないと言った様子で肩を竦めた。

 

「無敵流とかなんとか言っていたじゃないか。君の力は壬生浪士の中でもかなり高い。それに君————人を斬ったことがあるだろう?」

「……まいったな、こりゃ」

 

 まさにその瞳は他人を見下すかのようなものであった。芹沢の言葉には「私に隠せているとでも?」と言いたげな表現が隠れている。

 果たして芹沢と同様、斎藤の血の匂いに気がついたのは、この壬生浪士内で何人いたことか。少なくとも、何も言わずじっと黙っている近藤には気が付かれていたのだろう。

 

「君なら、あれを殺す気でいけると思っただけだ。まあ、無理なら断ってくれて構わないがね」

 

 土方を見る斉藤。

 ここで断ったら、赤衣一人に退いたことになる。それは近藤一派の人間として、いや、一人の男として斎藤にはできなかった。

 

「はぁ、分かりました。分かりましたよ。僕あんまりそういうの好きじゃないですけど、精一杯頑張らせてもらいますよ」

「ふっ、それは何よりだ」

 

 芹沢はそうして満足そうに頷いた。

 

「私からの話は以上だ。これ以上、何もないならこのまま会合を終わるとしよう」

「分かりました」近藤はそうして一拍置く。「では、何も無い様なので、これにて解散!」

 

 

 あれから。

 沖田の一撃で気を失ってしまった男、赤衣の剣客はのそりと五右衛門風呂近くで目が覚める。気がつけば空は黒く変色しかけていた。沖田を風呂に入れていたときは真っ赤だったはずなのに。

 となると、少なくない時間を彼は地面に伏していた事になる。具体的な刻は分からない。もっと未来に行けば、そういうのも分かるようになるのかもしれないが、赤衣の剣客は取り立てて気にすることはなかった。

 少しだけ腫れている頬をさすりながら男が立ち上がれば、後ろから沖田が近づいてきたのが分かった。

 

「あ、いま起きたんですか?」

 

 男は沖田の冷ややかな態度に気がつきながらも、乾いた笑みを漏らした。

 決して目線は顔より下に近づけない。別に赤衣の剣客が欲情しているわけでもないが、見られている沖田からしたら些細な視線で嫌な気持ちになるだろうと、思ったのだ。

 

「先刻は本当にかたじけない。今後はああ言うのが無いよう気をつけるでござるよ」

「真面目ですね……まあ、謝らなかったらもう一発叩き込みましたけど」

 

 ふん、と沖田は軽く顎を逸らした。

 赤衣の剣客から彼女の表情を窺い知ることはできない。けれど、どうやらもう一発お見舞いされることはないらしく、その事実だけで男は少し気分が晴れた。

 

「それより、今度の会津中将との接見。そこで上覧試合をするのですが、気をつけてくださいね」

「ん?」

 

 赤衣の剣客からしてみれば寝耳に水だ。沖田が何を言っているのか、さっぱり分かっていない。

 しかしそれでも、沖田はなんでもないように続ける。

 

「斉藤さんは永倉さんに並んで強いですよ。まあ、私の稽古に付き合ってくれたことがないので、実際の強さは知りませんけど。油断すれば貴方と言えど、怪我じゃすまないかもしれませんね」

 

 と、そこまで言ってようやく沖田は止まった。

 ついでに、くるくると回していた人差し指も動きを止める。

 赤衣の剣客は腕を組み、ひとしきり何かを悩んだ後、

 

「沖田殿。まず、会津中将って誰でござるか」

「えっ」

 

 そんな常識も知らぬ童のような言葉を持ち出した。




fgoで幕末組が増えてきたので、私としても助かる人間。
まだちょっとしたイベント進めていませんが、どうやら土佐勤王党が多いようですね。
龍馬が描きやすくなる。
てか、ハーメルンでも沖田さん小説が増えてきていて私は大満足です。これもイベントおかげですかね。

と言うことで、そんな人たちを応援するためにもちょこっとだけ豆知識を置いておきます。

・会津藩
会津藩って会津戦争でも有名なやつですね。そんな会津藩ですが、あまり知られていない学問好きの藩祖・保科正之と言う人が、後世にいろいろな影響を及ぼしています。その一つが15条からなる遺訓ですね。その遺訓の中に「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず」というのがあります。大君とは徳川、列国とは他藩についてです。この家訓を守るべく、病弱でありながらも京都守護職に就いたのが、この小説でも出てくる松平容保だったのでした。


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