怪滅神甲ダイダラ (足洗)
しおりを挟む

一章 神甲顕現
1話 学び舎における彼


タイトルは長い方がいいと聞いて(おっさん特有の乗り遅れ)



 

 夕空は赤黒い“膜”に覆われている。

 山一つを包み込んでしまうほどの広大さ、それは物理的な遮蔽物であり、物理法則に並び立つ異なる力が為したる巨大な繭である。

 かつて現世に流入した異能────魔術により編まれた結界である。

 内部に閉じ、あらゆるものを逃さぬ為に布かれた悪意の檻。

 その只中に立つ一人の影。いや、一つの、巨大な人型の異形。紫の肌、鳥のような黒い翼と蝙蝠のような翼膜を両の背に負い、下半身には無数の蛇が群生している。なによりも、全高三丈(10メートル)にも及ぶ巨躯。

 腰から流れるようにくびれた曲線の肢体、豊満な乳房、そして黒いベールから覗く瓜実形の顎が、それが辛うじて女、雌性のものであると主張している。

 とはいえ化物だった。違えようもなく魔なるモノ。喩えるまでもない邪悪の顕現。悪魔が化身。疑いはない。

 かの者こそ、この結界を創り出した張本人だった。

 閉じ込められた人を、魔を、諸共に喰らう為に。姿通りの悪辣さで、憎き者共を害する為に。

 しかして、奇怪。

 殺意と憎悪の権化の如き化物は、その牙を、爪を、揮うことに躊躇していた。

 怯えていた。

 

『オ、オ前ハ』

 

 化物は慄いている。恐れている。

 眼前に在るモノに。

 在り得ぬ筈だと。在ってはならぬと。

 赤黒い闇を払い、魔性たるその巨躯を照らす、“銀”。

 

『オ前ハナンダァ!!?』

 

 それは武威の顕現。

 銀の鎧。不破の盾であり、絶対貫徹の矛である。

 國守(くにもり)の要。怪滅の神甲(はがね)なり。

 其は、称して────

 

 

 

 

 

 

 

「あいよ500円丁度、まいどあり」

 

 放課後の校内というやつは実に賑々しい。足早に帰宅の途に赴く者、意気軒昂各自の部活動に勤しむ者、何くれとなく級友らと駄弁に興ずる者。

 各クラスから溢れる活気を聴きながらに笑む。変わらぬものの実在を、何やら嬉しく思うのだ。

 屋上前の階段踊り場。扉の窓から注ぐ西日。それに金属光沢が照り返した。

 貨幣を一枚受け取って銭入れに仕舞う。代わりに広げた茣蓙の上から一つ、小振りな金属の輪を取り上げる。

 真鍮製の指輪であった。外観の飾り気は極少ない。

 

「……ホントに効くんですか、これ」

「さて、試してみてのお楽しみってなもんでね」

「ちょっ、それじゃ困るんですよ!」

「まあまあ、効き目が気に食わなかったそん時ゃ代金はそっくり返してやる。まずは一晩、使い心地を検めな」

「余裕ないんですよこっちは! 毎晩毎晩搾られて……精力付く食材とか薬とかいろいろ試しましたけど、もう限界で……」

「こうして藁に縋って来た訳だ。しかし、真っ先に縋るべき場所が他にもあろうに。ほれ、確か、この学校の養護教諭は魔道カウンセリングの資格持ちだってぇ聞いたがね」

「い、言える訳ないでしょ! こんなっ……こんなこと……」

左様(さい)で」

 

 顔を羞恥の赤色に染めて少年は俯く。“下”の相談など出来ぬと仰せだ。

 呆れと、その様の憐れに肩を竦める。

 

「その指輪は接触した生体の『オード』の消耗を抑え、同時に大気中のオードを吸収変換し、生体に横流す。ま、流行りのハイブリッドエンジンみてぇなもんだ。お前さん程度のオード量なら、普段の倍は放出できるようになるだろう」

「ば、倍っ……ホントなんですか?」

「だぁから、手前(てめぇ)で使って確かめやがれぃ。効こうが効くまいが別に死にゃしねぇよ」

「……わかりました」

「おう。まあ()()に、彼女と仲良くな」

 

 こちらの言に、少年が顔を上げる。そのげっそりとやつれ切った顔が笑みを形作る。

 

「仲悪かったらこんな苦労してないですよ……」

「ハハハッ、違ぇねぇ。だがそいつぁ、淫魔と(わり)無い仲になっちまったお前さんの自業自得だぜ?」

「うぅ」

 

 ぐうの音を上げながら少年は去っていく。

 そうして、その背中が階下に失せた直後に、声が響いた。滑らかで、艶っぽい。鼓膜から神経を侵すかの美声。

 

「ケンくん! もう! 探してたんだよ?」

「メ、メイヤ!? 先に帰っててって言ったのに」

「やだって言ったもーん。えへへ、ほら早く帰ろ」

「う、うん」

「……あれ? ケンくんのオード、なんだか今日は強く匂うね。濃くて、たっぷりしてて、あはっ、瑞々しい……んっ、ちう」

「メイヤ!? やめてよ! こ、こんなところで……!?」

「ふふ、どうして……? ケンくんだってこんなに昂ってるのに……すぅ、ほらぁ、こぉんなに匂ってる。青くて、臭くて、香ばしい……あはは、硬くなってきたよ、ほら、ほら」

「ひっ、ぃん……メイヤぁ……」

 

 鼻に掛かった喘ぎと甘い囁きが吹き抜けから響き昇ってくる。

 お若い二人は、どうやら踊り場でおっ始めるつもりのようだ。

 

「おぉいおい勘弁しろよ。袋小路だってのに……」

 

 のこのこ階段を下りて鉢合わせるのは如何にも間抜けだ。馬に蹴られる趣味もない。

 仕様もなく、扉に向き合う。無論、ここは常に施錠されている上、わざわざ鍵を失敬する暇もなかった。

 触れて、“式”を起ち上げる。常ならぬ超常なる“力”を丹田にて練り上げ。

 鍵穴へ注ぐ。

 

「なんだ、シリンダー錠か」

 

 ならば式の小細工すら要らぬ。こちょこちょと練った気を操り捻り押しやって、回せばかちりと錠が引っ込む。

 大事な商品を鞄に詰め、茣蓙を丸めて縄で括る。そそくさと扉を開けて屋上へ出た。

 吹き込む風は陽の匂い。満天に茜、地続きに群青の夜闇、そこに白の疎ら雲。春の終わり、夏の気配色濃く薫る日和であった。

 

「ははぁ、春の終わりも近いかねぇ」

『暦の上ではとうに済んでいる』

 

 頭上より声が降ってきた。

 声、などと表してはみたが、それは声帯を震わせ空気を通して響く音声(おんじょう)ではない。

 肉の喉の代わりに頭蓋を直接打って奏でるかの調べ。形なき言葉の念。

 ざらりとした質感をした低音。さりとて重みはなく、それは水晶の鳴動めいた女の声。

 黒い羽が一片落ちる。

 羽撃(はばたき)と共に現れたる黒い影、象。

 烏であった。たっぷりの漆で染め上げたかのように濡れた漆黒の姿。嘴から足先までで三尺(1m)にもなる体躯、それが己の肩に止まった。

 鉤爪を具えた脚が一つ、二つ、そして三つ。

 三本の脚がしっかりと肩を掴んだ。

 

「よう、集金ご苦労。こいつが今日の上りだ」

『この私を伝書鳩代わりに使うなど』

「昔を思い出すか?」

『ほざけ』

「ハハハッ!」

 

 札入れを脚に括ってやる。業腹極まると嘶いて、鴉は一飛び、屋上の手摺に乗り移った。

 その後に続く。

 

『“石”はまだ見付からんのか、と。上政所(かみのまんどころ)から矢の催促が来ている』

「気安く言ってくれる。だが、どうも手応えがねぇな」

『隠されている、ということか』

「あるいは未だ力を行使されておらぬか……厄介なことよ」

 

 眼下には正門に向かう生徒らの、大小様々な姿がある。本当に、千差万別な。

 直立二足歩行の者とそうでない者との比率は半々、あるいは後者がやや凌ごうか。

 体格の大きさが目を引くのはやはり、ケンタウロスだろう。サラブレッド種並の下半身からネイビーブレザーの制服を着た女人の上半身が据わっている。

 イヌ科ネコ科、他多数の獣の身体部位を持つ者は特に多い。耳だの髭だのは序の口、手足はおろかまるきりの獣が二足歩行する姿も散見される。猫又、クー・シー等が代表的であろうや。

 下半身の長大さというなら、その点ラミアは抜きん出ている。ある生徒など正門にまで爬行し終えてなお、尾の先が未だ玄関口に留まっている始末だ。

 

「あれー? 刈間(かるま)だ。どうしたの、こんなとこで」

 

 背後に羽撃の風を聴く。

 見やれば鮮やかな蒼い翼、蒼毛のハーピー。級友の少女であった。娘は両腕の翼で空を巧みに掴みその場で滞空している。

 挨拶を返そうとした途端、頭上に無数の影が過る。

 翼持ちの生徒が今、続々と空へ舞い踊っているのだ。色とりどり種々数多の鳥類種。蝙蝠や鼫のような翼膜、皮膜で滑空する者もある。

 

「ミリーは今帰りかい」

「そだよ。空組でカラオケ行くんだ。今日はすごいよー。なんと一年のセイレーンの子が来ます! あ、刈間も来る?」

「おいおい魔術師でもねぇただの人間に無茶を言うんじゃねぇや。カラオケ屋まで行っておいて耳に蝋燭つめる訳にもいくまい」

「大丈夫大丈夫。小声でマイク通せばへーきへーき。あとなんたって合唱部だからね!」

 

 だからなんだと、問うべきであろうか?

 とぼけた娘の言い回しに肩が落ちる。

 

「ここから連れてったげるよ。こう、鉤爪でぶら下げて」

 

 少女らしい張りのある両腿の、しかし膝から下は鳥の趾め足。固く厚い皮膚に鎧われた鉤爪がある。

 皮肉はおろか骨まで砕けよう握力のそれを目にして、思わず笑声が漏れた。

 

「そりゃまた楽しそうだが残念、この後バイトでな」

「クックルー……まーた振られちゃった」

「まあまあ、これに懲りずまた誘ってくれな」

「それこの前も聞いた~。そうやっていけずな奴はもう誘ってやんないぞー!」

 

 膨れっ面でなお一層バサバサと翼で宙空に地団駄する小鳥の娘子。悪びれ拝み手に誤魔化そうとした、その時。

 一陣、強風が屋上を席巻する。

 竜巻も斯くやの荒々しさ。いやさまさしく、それは竜の仕業であった。

 

「うわっ、ノヴァリア先輩だ!」

 

 翼持ちの生徒らを後塵に置き捨てる凄まじい紅の疾風。紅い翼膜、紅い外皮、そこから覗く女生の顔容。

 人化したレッドドラゴン。三年のノヴァリアは、その美しい偉丈夫に見惚れ凝固する諸々を一顧だにせず大空へ羽撃いて行った。

 その両腕に、少年を一人抱えて。

 

「いいなぁ……(つがい)と一緒に飛び下校デートとか……うぅ私もやりたい!」

「デートはいいがな。流石にあの速度は人間には辛かろう」

「ああ、たぶん平気だよ。風系の加護……や、魔法かな? 綺麗な流線で風が避けてたし」

「ほほう流石ハーピー、よっく見とるのう」

「まあねっ。でもノヴァリア先輩なんか期末の魔学学年一位だよ? 美人で強くて頭も良いとか竜種ってホント反則だよねー」

「それに選ばれっちまった男子(おのこ)は、さながら勲章もんかね」

「いやいやこれが結構大変らしいよ。ドラゴンって肉体も魂も他の種族と存在の位階からして違うでしょ? 特にほら、ナニとは言わないけどアッチの方の相性とかオードとか体力とか……」

「ナニからナニまで言うとるが」

 

 少女は実に邪な顔で楽しげに笑った。

 レッドドラゴンの番に選ばれた少年。思えば、なるほど。運び去られた彼には見覚えがあった。

 

『永続で肉体強化できる刺青があるって聞いたんだけど!?』

 

 走り込んできた開口一番にそう捲し立てられ、なかなかに面を食らった。

 ドラゴンと他種族、とりわけ人間との存在力の隔たりは、生半に埋められるものではない。骨肉、魂魄の両面から文字通り粉骨砕身の鍛錬を数十年続け、ありとあらゆる伝説級の宝具を身に纏えば、その後ろ足の爪の先に届くか否かといったところ。それも、その血脈に英雄の才覚と器を備えているという絶対前提条件を要するが。

 若い身空の親に貰った大事な体。相わかったと気安く呪紋なんぞ刻み込む訳にもいかず、その時はソーマを小瓶3ダースばかり都合して引き下がらせたのだった。

 内服薬を恃むとはいえ、今もああして仲睦まじく連れ添っている。なによりのこと。

 

「いいないいな~、私も早く番見付けなきゃな~。ちらっちらっ」

「おぉミリーならば引く手はさぞや多かろうなぁ。気立てが良い器量も良い。特にその、尾羽の蒼の爽やかさと言ったら」

「ッッ~~! そっ、そう? そうかな?? や、実はね、最近ね、羽繕いの美容院変えたんだ……す、すごいね刈間! 人間のくせにわかっちゃうんだ! わ、私のことどんだけしっかり見てるんだよぉ! な、なぁんて……えへ、えへへへへへ。クックルル~♪」

 

 上機嫌も上機嫌。羽撃すらまるで舞いの様相でくるりと転身。

 そうして床面に降り立った娘は、小鳥同様の慎重さでちょこちょことこちらに近寄った。

 

「か、刈間、バイト終わった後でいいからさ、わ、わ、私とさ、ふっ、二人でさ……ん?」

「ん?」

「それ……?」

「どれ?」

 

 翼の羽先で肩口を指差される。手でまさぐると、一片。それは大振りな黒い羽であった。

 

「う……」

「う?」

「浮気者ぉーー!! ばぁかばぁか! 刈間のばぁか!」

 

 発奮した娘はその勢いで飛び立ち、一声掛ける隙さえ晒さず青空に昇ってしまった。

 その鮮やかな蒼は、空の青みの中でなお際立って、軌跡は流星めいた残光を引く。

 思わず吹き出す。魔物の妖しき美しさと童女のような幼気が、なんともはや面白いというか愛らしいというか。

 

「浮気だとよ。お前さんも悪い女だなぁおい」

『……知らん』

「カッカッ、そうかい」

 

 虚空より、隠形を解いた黒い烏が現れる。こちらの皮肉にも取り合わず、烏は不機嫌そうに一声、嘶いた。

 眼下には今もなお多種多様の人魔の営みが広がっている。内訳は人の男子と魔物の女子、それが大半だ。

 逆はない。少なくともこの学園においては。

 一種ちぐはぐな光景がしかし、現世情を如実に顕している。

 魔物の大胆で強烈で甚だ旺盛な求愛に、怯みたじろぐ人の子ら。其処此処で繰り広げられる熱烈なお相手(つがい)探し。

 新学期の始まりを思い知る。

 

「春の終わりはいつになるやら」

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2話 天使が

エロギャグものだと思った?
そんな面白いもん私に書けるわけないだろ! いい加減にしろ!(涙)




 人界と魔界の融合。

 それが今、この世界の有様。

 

 

 この事変は巷間に『融界』と呼称された。

 世界各地で発生したこの大規模な異界出現は、極点を越え沈静化を見せているものの、今もって緩やかにそして確実に広まり深まり、双方向の侵食を続けている。

 

「先の二大大戦、魔界進撃戦と人界決戦を経て、多くの犠牲を払いながら人外種および亜人種、そして只人種との間に和平が為りました」

 

 黒板型のデジタルディスプレイに映し出された年表の中、クローズアップされた一項目が赤く明滅する。

 童女のような小さな手がそれを指し示した。

 教卓にちょこんと座する矮躯。歴史兼魔術史を担当する因幡教諭はアルミラージと呼ばれる兎の半獣人である。兎らしいふわりとした白い毛並みと綿毛のような尾、ピンと立った二つの長い耳。

 そして兎とは名ばかりの、その額から聳えた雄々しい一角。

 縄張りで悪さする子を手当たり次第串刺しにしてたから赤くなったの……などと、彼女は実に愛くるしい笑顔で語ってくれたものだ。

 

「それぞれの戦役に終止符を打った兵装、二種類ありましたねー。一年次の歴史で履修しましたねー。さあ何と何! じゃあ……中村くん答えてください」

「うえ!? えぇ~っとぉ~……??」

「期末のテスト範囲だったでしょー。もぉー中村くんマイナス二万点」

「落第とかいうレベルじゃないっす先生」

「はい! じゃあクヌィラさん、哀れな中村くんに答え教えたげてください」

「魔界からは槍。人界では鎧だ」

 

 教室の後方、体格の良い褐色肌の女生徒が即答した。

 異様に発達した犬歯を剥いて、少女はとても快活な笑みを見せる。

 

「あの地獄の総元締め、悪魔共の(かしら)手ずから放った槍は魔界に進出した人間の一個師団を蹴散らし、次元境界に風穴を空けやがった……!」

 

 荒々しく息吐き、その興奮を隠しもしない。戦を語り昂るは、彼女が戦闘種族アマゾネスの血統ゆえか。

 

「おぉ流石女傑アマゾーンの末裔。皆さんもクヌィラさんを見習って」

「資料集読むだけで濡れてくる。その挿し絵で何度も抜いた」

「見習わなくていいでーす」

「好みで言えば人界側の鎧の逸話はマジでたまんねぇ。開かれた魔界と人界を繋ぐ大穴に陣取って666の悪魔軍団をたった一人で塞き止めたなんて言うんだぜ? 思い出すだけで……んっ、ふ、うっ……マジ半端ねぇ」

「半端ねぇのはあんたですよ。椅子拭いといてください。他の生徒も使うんですから」

 

 我らが『マギケイブ学園』は朝礼とその他連絡事項の通知を除き、授業にはもっぱら講義室が利用される。各授業の度に生徒らはクラス単位、履修科目単位でめいめい移動していく訳だが。

 当然ながら講義に使用する机と椅子は共用のものであり、次に来る生徒がその()()()()()に濡れそぼった座面にうっかり腰を下ろしては、なかなか憐れなことになろう。

 

「はい! この二大戦争で用いられた兵器の正式名称、来歴、運用年、運用国家。試験に頻出っていうか必ず出ますよ! 絶対覚えてくださいね。進学考えてる人は特に!」

 

 チャイムが鳴った。本日のカリキュラムの全消化を祝う鐘である。

 それに負けじと、白兎の教諭はさらに続けて。

 

「フォーリナーズパートナーシップの二年次仮契約書面の提出日、来月までですからねー! 皆さん忘れずに出してください!」

「やっべ」

「もうそんな時期かー」

「うわ、俺かんっぜんに忘れてたんですけど」

「私が出しといたよ」

「お、さっすがシルキーはマメだなぁ」

「貴方を見付けた日に」

「……それ入学式の日?」

「うん!」

 

 講義室の各所で提出したの忘れたの、がやがやと相談事が始まる。その大多数が相談の始まった矢先から、抜け目のないパートナー……主に女生徒の側で既にして事務処理が一切、全く、何条の()()()()済んでいる旨の報告に終始していく。

 

「いやはや若ぇってのにしっかり者ばかりよな、この学校の皆皆は」

「そういう問題……?」

 

 純白の少女シルキーに腕を抱かれながら、中村くんがぽつりと言った。

 通常シルキーは人ではなく、家に憑く妖精である。果たして彼をいつから見初め、いつからその傍近くに身を置いていたのか……彼が知る必要はないだろう。こんなにも幸せそうに娘子は笑み綻び、両人仲睦まじいのだから。

 その時、己の座る長卓にどっかりと尻が乗った。

 

「おめぇは他人のこと言ってる場合じゃねぇだろ」

 

 クヌィラはその太く分厚い腕を組む。贅肉とは縁遠く、優れた筋骨に鎧われた長い手足。太い眉、ぎらつく眼光、野性味溢れる精悍な顔立ちは虎か獅子のそれ。破壊と闘争に特化し尽くした、強靭なる美を備えた姿。

 当人にその意図はないのだろうが、えらく凄みを利かせた睨みが降ってくる。

 

「さて、そう急ぐようなことでもなかろうさ」

「急げって因幡が言ってたろ今。ああ、なんならオレがもらってやろうか?」

「カッカッ、そいつぁ有り難ぇ申し出だが。お前さんにゃもう決めた相手が居るであろうに。柔道部のカークランドだったな」

 

 彼には以前、筋肉増強の魔術・妖術・法術各種を記した書物を幾らか目録に認めてやった。肉体面で僅かでも彼女を満足させたい、と……なんとも純なその願いに胸を打たれたものだ。

 涙ぐましい努力を彼は今も続けているのだろう。この豪放な娘子の為に。

 

「へぇよく知ってんな! でもま、いいんだよ。オレらは強ぇ男の子を孕んでなんぼなんだ。おめぇはその点、いい線いってる気がすんだよなぁ」

「おぉおぉ派手に買い被りやがって。まあ褒めてくれんなぁ嬉しいぜ。だがお前さんはその前に、手前(てめぇ)で汚した椅子をとっとと掃除しちまいなよ」

「えー、いいじゃんかよーあれくらい。ウンディーネのやつなんて毎回どっかしら濡らしてんじゃん」

「あんたの小便と一緒にすんじゃないわよ!!」

 

 呼ばれて飛び出てとはまさにまさに。座席の合間を高速で走り抜けてきた液体が水の柱となって立ち塞がり、そうして人型を取る。

 液状の長い髪、液状の制服、液状をした少女の顔が今、憤怒に泡を立てている。

 

「小便じゃねぇよ。汁だ汁。まん」

「言わんでいい言わんで」

「同列に扱うなって言ってんのよこの蛮族!」

「ま、まあまあリューズ」

 

 ウンディーネの少女に遅れて、パートナーである李少年がその手を取る。流体の手は少年の手を握り、形を崩して、さながら一体化の様相で絡み付いた。リューズの許しなくばそれは永遠に解けまい。

 その辺りの悶着をおそらく随分と前に済ませたらしい李くんは、気にした素振りも見せず。

 両人手を握り合わせたまま己の方に向き直った。

 

「刈間まだパートナー見付けてないカ?」

「へぇ、ちょっと意外」

「ハハハッ、そいつぁまたどんな買い被り方だ。即断即決お相手を見付けろたぁ、この憐れな転校生にゃ無理の勝つ難題ってぇもんじゃねぇかい?」

「まーたそゆこと言ってー」

「そういう胡散臭い言い回しの所為で女の子寄り付いてこないんじゃないの?」

「まだるっこしいよな」

「こりゃまた手厳しい」

 

 人と魔の共存共栄。それが現世論の主流と言って差し支えない。官民を問わずあらゆる団体、組織、企業が、国家が、(こぞ)ってそれを掲げ、それに見合う規制緩和、法改正を実施してきた。

 フォーリナーズパートナーシップ制度もまたその一環である。個人、個体単位で言えば、あるいはこれこそを()()()と呼ぶのやもしれない。

 本国においては一般的に満十五歳以上、義務教育を修了した者が対象となる。基本的には諸学区単位に通知が配されるが、近県合同で催しを開かれることもしばしば。対象者には優先的に外界人との出会いの場と機会を設けられ、魔界人界の多様な文化、風土、情緒を知り合い、学び合い、次世代的(ネクスト)グローバリゼーション意識の醸成を促すと共に、種族間の垣根を越えた真の融和を新世代の若者達に託して云々かんぬん。

 要は、国を挙げた異種同士の見合いであった。制度参加者には公共施設使用の優待や様々な礼品が贈られ、人魔カップルが成立すればそこへさらに上乗せがされる。そうしてそれが婚姻にまで至った場合、地域によっては一部税の優遇措置から、なんと助成金まで出るそうだ。それも通常の婚姻に対する免税・助成と並立して、である。

 御大層な御高説で謳い上げてはいるものの、魔界側の人界に対する根深い執着を嗅げずにおられない。そして人界側の手厚い忖度もまた。異種交配による異界間の軋轢の解消、延いては国民の感情の操作を狙って……そう批難する声もある。

 終戦から早七十余年にもなるが────あるいは、まだほんの七十余年でしかない。

 これら魔界人種との親交推進を図る現在の世界情勢をして、(はばか)ることなく。

 

 ────狂っている

 

 そう叫ぶ声も、ある。

 だが。

 

「そ、そんなことないよ!」

「ん?」

吓死我了(びっくりした)……!?」

「んだよセラス。でっけぇ声出しやがって……てかおめぇ、でかい声出せたんだな」

 

 妙なところに感心して頷くクヌィラに、セラスと呼ばわれた少女は俯いてしまった。

 その深緑の髪の頭上に戴く、淡い桃色をした五枚の花弁が垂れ下がり、娘の羞恥した顔を隠す。袖口より這い出た蔦を指先にいじいじと巻き上げ、花ばかりでなく肩身まで縮まってしまう。

 土より出で、花に生まれしアルラウネのセラス。元来が植物としての特性を色濃く残す種族だが、この娘子は幼体を除けば土壌を必要としない。まさに今も我々の眼前で直立して二足歩行すらして見せている。その根は確実に高位の魔界植物に由来を持つのだろう。

 優れた能力はしかし、必ずしも自負自信という骨子を組み上げるものではないらしい。この少女は実に、引っ込み思案なのだ。

 そんな彼女が声を荒げて一体全体どうしたというのか。

 

「か、刈、間くんは、いい人間……すっごく、すごくいい人間、だよ……? 私と、私のパートナーのことで……その……し、親身になって、相談、乗ってくれて……」

「んー? そんなこともあったかねぇ」

「え、セラスもこいつに?」

「助けて、もらった」

 

 セラスのパートナーである少年は、なんとも不幸なことにナス科植物のアレルギー持ちだった。娘の能力あらば原種由来の毒性を変態させ薬効に転じる程度は造作もなかったろうが、人体側のアレルギーにはさしものアルラウネとてどうすることもできない。

 少女の体に触れれば少年は全身に発疹と痙攣を起こし、その花粉を吸い込めば重い咳喘息を発症した。己が彼らに出会った頃には、触れ合うことはおろか近寄ることすら困難になっていた。

 この場合の対処として最も適当なのは、まず医師の診断を仰ぐことである。生体医術にせよ医的魔術にせよ、素人が浅知恵を働かせるよりもよほど現実的だ。しかし、その結果このカップルにまず推奨される対策は、パートナーの変更であろう。

 リスクの伴う交友に拘泥させず、安全確実な交配を……それはむしろ、自然界の動植物の摂理だが、魔界ではむしろそちらの方がスタンダードであるらしい。クヌィラの性に対する豪放さが良い例だ。

 しかしそれでも、彼と彼女は問題の解消を望んだ。不断の、固い意志で。

 何故に?

 勿論、皆まで言うことではない。

 その言うまでもない覚悟を見せられたのだ。であれば、己如きが一肌脱いでやる理由には十分。

 一悶着二悶着と大っぴらに言えぬ些末事が幾らもあったが、“裏技”を使ってどうにかこうにか御し均し、今やセラスは想い人と連れ添ってこの学び舎に在る。

 

「わ、私の友達、紹介するよ! マイコニドの子とか、に、日本の南方の、木の妖精さんとか……!」

「ほう、キジムナーか。そいつぁ変わり種だな」

「刈間くんが、どれくらい、どれくらいすごい人間か、わかってくれる。きっと、みんなわかってくれるから……だから!」

 

 気を落とさないで、とでも続くのだろう。

 どうやら己はこの娘子に心底憐れまれている。あるいは心配をされている。

 それがなんともはや、擽ったいやら可笑しいやら。

 

「聞いたかおい。己なんぞの為に骨を折ってくれるとよ。セラスは優しい子だなぁ」

「ふゆ!? そ、そそんなこと……!」

「クヌィラもちったぁこの娘の健気を見習ってみちゃどうだ」

「うっせ」

「無理無理、このガサツ野蛮女にそれはマジ無理難題だってば」

「しつこく言うな! 小便ひっかけて黄色くすっぞ!」

「そういうとこが下品だっつってんのよ!!」

「カッハハハハハッ」

 

 水の精霊らしからぬ元気な怒りっぷりと、女戦士の荒っぽい気性、その応酬がなんとも愉快だった。

 他人事のように存分笑声を上げていた時。

 

「君達、そろそろ講義室を閉める。いい加減に帰り支度をしてもらえるかな?」

 

 澄んだ美声が差し込まれる。それは凛然とした響き。脳裏に美麗な銀細工を想起するような声だ。銀の精緻な飾りをあしらった────十字架を

 二対四枚の純白の翼が西日の赤色を孕み、清浄なる光輝となって再び照り返す。後頭部では、微細な光の粒子が真円の輪を構成し、後光の如く静止している。

 天使。

 この紛うことなき主上よりの御遣いは、何を隠そう我がクラスの委員長サリエリーヌである。

 

「うげっ、サリー……」

「人の顔を見てそれはないだろうクヌィラ。それと立ち聞きに申し訳ないが、パートナー選びは基本的に当人の自由意思で行うものだ。周りが急かすべきじゃない」

「っ、ご、ごめんなさい……」

 

 途端、花の少女がなお一層に縮こまる。

 サリエリーヌはそんな少女へ優しげに微笑した。慈しみさえ滲んで。

 

「セラスの思い遣りは間違いなく素敵なことさ。その善意を僕は賞賛するし、君の深い友愛には敬意を表する」

「ふぇっ……はぅぅ……!」

「いちいち言うことが大袈裟なんだよ、こいつ」

「クヌィラはもう少しだけ言葉を和らげてみてはどうだい。そうすれば相手にも君の本来の思慮深さを伝えることができる。君の飾らない気風は美徳だ。僕も好ましく思う。けれど心根は胸の奥深くに在り、表現することは常に難しい。僕は君が、正しく評価されることを望むよ」

「あ゛ぁーー!! これだ! サリーの話は聞いてると背骨が痒くなってくんだよ!」

「ふふふ、それは君の良心に僕の声が響いてくれているということかな?」

 

 クヌィラは両手で背中を掻き毟った。そうして堪らんとばかり卓から跳び降り一目散出口へ向かう。途上で鞄を手に引っ掛け、振り返りもせずこちらに手を振った。

 

「じゃあな!」

 

 扉の向こう、瞬く間に軽快な足音が遠ざかっていった。

 リューズが瑞々しい笑声を上げる。

 

「いい気味ね。あいつには放課後、毎日サリーに説教してもらえばいいのよ。少しは懲りて品も上がるでしょ」

「僕との会話をまるで拷問か何かのように扱わないで欲しいんだが……」

「あぁらそんなつもり全然ないわよーオホホホ。よし! じゃあ私達も行きましょっか、李」

「あい。帰り、晩ゴハンの買い物しなきゃネ」

「セラスも行く? 駅前の商店街までだけど」

「う、うん。私も、駅で待ち合わせ、だから……」

「ではお開きだな。皆、帰り道は気を付けて行くんだぜ」

「刈間もね」

「再見、刈間」

「さ、さよなら、刈間くん」

 

 ひらひらと手を振って三者を見送り、己もまたえいこら席を立つ。

 

「それで?」

「あん?」

「ギンジには誰か、気になる子はいないのかい」

 

 肘を抱いて小首を傾げる。黄金を溶かし紡いだかのような金のショートボブ、その横髪が淡い血色の頬に流れる。

 各国の宗教画に描かれる(たお)やかな天使よりも、かの娘の面差しはずっと幼気だ。下手な世辞すら浮かばぬほどに可憐な少女が、微笑を湛えて己を見ていた。今度はそこに微かな、悪戯の気色を滲ませて。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3話 お前を狙っている

 暮れの茜光(しゃこう)に染まる天使を見返し、首を捻る。

 

「おぉ? 急かすもんじゃあねぇと、ほんのつい先刻まで講釈垂れておいでじゃなかったか?」

「勿論その通りさ。ただ、迷えるクラスメイトの相談に乗ることも僕の務めの内だ。なんせ僕はクラス委員長だからね」

 

 少女は胸に手を当て、瞑目して首を左右する。それが純然含むところのない十割の善意……であるかのような顔を作る。

 

「天使って奴ぁどいつもお節介焼きでいけねぇ」

「前の学校にも天使が在籍していたのかい」

「ああ、真面目一徹の堅物な娘だったが……いや今思えばなかなか可愛げもあった」

「こぉら、僕には無いと言ってるように聞こえるぞ?」

「滅相もねぇや」

「……ん? どっちの意味だいそれ」

「くっふふふ」

 

 意地悪く笑んでやると、天使様は御機嫌を損ねてしまわれた。むくれっ面でこちらを睨み、程なく、呆れの色濃い気息を吐く。その形の良い眉尻を下げ、大袈裟に肩を竦めてみせた。

 美人というやつは、どんな所作にも映えを伴う。ほとほと嫌味なほどに。

 

「君がこの学園に転入してもう三ヶ月だ。そろそろ身を固めてもいい頃じゃない?」

「まだたった三ヶ月よ。あとな、たかだか高坊に固めるほどの身もあるめぇ」

「高校生だからこそ、さ。恋愛経験は若い内に積んでおいた方がいい……ギンジは随分と、()()そうだけど」

「カッカッ、そいつぁ褒めてくれてんだよな?」

「ああ勿論。そして不思議だとも思ってる。君のように“個”の強い人間は人ならぬモノを惹き寄せる。良くも悪くもね。だから君に熱心にアプローチを掛けてくる娘は多い筈だ」

「ほー、そりゃあ知らなかった。だがよ、たしか例の神話からこっち魔物の(おなご)はぁ、その、なんだ。性豪だろう?」

 

 その昔、神代の時、魔界の中枢にて。放蕩の限りを尽くしていた某男神に、とうとうその妻たる女神が怒り狂い、一つの呪いを掛けた。色欲、淫欲に対する封殺の呪威(じゅかい)である。

 平たく言えば、魂のレベルで不能(インポ)になったそうだ。

 それがただの夫婦喧嘩に終始したなら、面白可笑しな神話として書物を読み飛ばすだけで済んだのだろうが……なんと事は魔界全土へと波及した。なんでも好色な夫を持つ魔物、魔族、竜種等の妻らが婦神魔会なるものを結成し、その呪いを拡張・強化・流布したとか。

 結果、魔界の種族、その全てが呪われた。そこに生息するあらゆる者共の雄のリビドーが。雌雄同体であればその男性機能だけが。

 死んだ。

 ……いや、瀕死と表しておこう。武士の情けだ。

 この下らなくも極大の事変によって、魔物の雄の気性は極めて大人しくなってしまった。

 あるいは、人間種にとってこれは喜ばしい事実であったのかもしれない。人を喰らう魔物を含めその半数近くが弱体化したも同然なのだから。

 変化を強いられたのが、雄だけであったなら。

 唐突だが、世界は均衡を保とうとする。そこに存在する個々の生命体の意向など慮外のさらに外へ押しやって、あるいはそれらの集合された無意識が、自然界の総意が、バランスを求める。

 つまり、魔界中の雄の性欲が弱まった分だけ────魔界中の雌の性欲が超越した。

 ただの笑い話が一転、死活問題となった訳だ。

 今や人界の男は、魔界の雌にとって恰好の生殖相手(つがい)である。男性機能が健在である点は勿論、魔物の女の側にすれば求愛の対象として強く認識されることが心理的満足へ繋がるとか。夢魔のように生殖行為や物質としての精液だけでなく、精気、淫靡な欲求そのものを糧とする種にとってはまさに生命線。

 なるほど、魔界側の人界懐柔政策の極まった()()()は、この辺りに起因するのだろう。

 笑うべきか、嘆くべきか。

 

「笑い話さ。一界を巻き込んだとんだ乱痴気騒ぎ」

「天界に坐すお前さん達にゃ他人事ってぇ訳かい」

「ふふ……そうならよかったんだけど」

 

 不意に、空白。

 それは半拍にも満たぬ無音の間。会話の、期せずして訪れた言葉の途切れに過ぎぬ。

 それがなにやら只事でないのは、その流し目。依然として美しい少女の顔貌、そこから注がれる二つの瞳。銀の虹彩。

 天使は微笑む。

 

「ギンジ、僕はね、君を尊敬しているんだ」

「カカッ、突然どうした。前置きのねぇ世辞は後が恐いぜ?」

「前置きならあるさ。三ヶ月、僕は君のことを見ていた。君の善事善行を、ずっと……ずっと」

 

 事も無げな口ぶりであった。事も無げに……お前を監視していたと告げられた訳だ。

 

「初めて見た時から、君がただの人間には思えなかった。気が付くと目で追っていたよ。すぐ校内の様子を覗うだけじゃ満足できなくなって後を尾けるようになった。勿論、人間は窃視を嫌うだろうと思って地上は避けた。僕の“眼”は少し特殊でね。雲の上からでも触れてしまえそうなほど間近に見えるんだ。目端が利く君でも、流石に気付けないだろう?」

「ああ、そうらしい」

「たった三ヶ月、そう言ったね? そのたった三ヶ月の内に君は多くの者を救った。多くの迷える仔羊を」

「羊の獣人は覚えがねぇなぁ。ん、いや、そうだ一年にバロメッツがいたな! 人界じゃあ珍しいんで目についた……」

「その後すぐ、淫魔の(つがい)にされた少年が相談に来て、君は彼に魔具を売った」

「……」

 

 茶化し誤魔化しも、相手を乗せられないのなら己がただ滑稽に横滑りするばかり。

 サリエリーヌは笑みを深める。より深く、深く。

 

「不思議だったよ。どうしてこの人間は、他者を救済してまわっているのか。彼は聖人でも司祭でも僧侶でもないというのに」

「今お前さんが言ったろう。こいつぁ商売だよ」

「あの魔具は正規品じゃない。あんな安価で手に入る魔具など存在しないし、あれらは正規品に求められる安全基準まで性能を絞られていない。ハンドメイドだった。けれどその力は限りなく、真物だった。500円だっけ? あははは、ギンジってば値付けが苦手なんだね」

「……おいおい出所を嗅ぎ回るなんざマナー違反ってぇやつだぜ」

「ふふふ、大丈夫。外特や教職員に密告したりはしないよ」

 

 それもこちらの態度次第……言外の、そんな意図を勘繰らずにおれない。

 あるいはそうやって戦々恐々する己の様をこそ、見たがっているのか。

 この美しい天使の、お清らかなる御嗜好は何処へ向かわれておいでやら。

 

「ギンジ、僕は君を尊敬してる」

「ちょいとくどいぜ、サリーさんよ」

「何度でも言うよ。僕は、君を、尊敬してるんだ。心から。君は何の見返りも求めず人々を救済する。何の迷いも躊躇もなく、艱難辛苦に喘ぐ誰かに手を差し伸べる。君の中にある、尊い慈愛が見える。感じる。はぁっ……」

 

 熱い吐息を零し、サリエリーヌは両手を握り合わせてその場に跪いた。

 

「君の中に、(たっとう)き愛を感じる。この光を知っている。あぁ君は人を救い、また魔すらも救う。まるで、まるでそう────救世主のように」

「救う救うと気安いな。傲りを知れ、天使」

 

 娘の表情に変化は見られぬ。欠片ほども。

 だがその大きな瞳、宝珠の如きそれが刹那、揺らぐ。

 たかだか人間風情の発する鬼気。上級天使に取り、それが微風ほどのものであることは間違いない。ないが、まさか、人間からそんなものをぶつけて寄越されるなどと考えもしておらなんだ……そういう虚の衝かれ様。

 次の瞬きで、娘は天使の貌を取り戻していた。

 

「俺ぁただ手前のやりてぇことをやってる。その末に相手が勝手に助かってるだけだ。その御大層な救済嗜好を(なす)り付けてくるんじゃあねぇよ」

「……ふふ、そう。そうなんだ。また一つ君を知ることができた。嬉しいよ」

「そうかい」

 

 睨め見下ろすこちらの目玉を、それでもうっとりと、宝物でも眺めるように見上げてくる。上気した娘の美しい筈のその顔が、なにやら無性に(おぞ)ましい。

 

「それでも僕は、貴方の中に、救済の光を見ている。神の愛を」

「……」

「ギンジ、どうか僕をお傍に置いてください」

「御免だね。他を当たりな」

 

 荷物を手に背を向ける。

 どうやら見込みを盛大に外した。いや、己が未だ天使というモノに対して正しい理解をしていない。そう考えるべきだろう。

 

「じゃあな委員長」

「大天使サリエルは、いつでも貴方を見ています。この混沌たる地上に降り立った、貴方という光を」

「うるっせぇ覗き魔! 助平! 変態!」

 

 情けない捨て台詞を置いて、乱暴に扉を閉めた。

 閉まる扉のその向こうで、なおもサリエリーヌは跪き、握った両手を押し戴いていた。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4話 香り立つ怪気

 

 初めて君を見付けたのは、こんな夕暮れの緋色の街で。

 美しい空とそれを映す硝子細工のような、墓標のようなビルヂングの狭間。人と人と、人でないモノ共の夥しい営みの氾濫が地上を塗り潰す光景の中に。

 貴方を。

 

 

 その少年は黒妖犬(ブラックドッグ)に追われていた。

 盛りのついた半獣人の雌犬である。涎を垂らして未だ幼い人の子を追い回す様は、いみじくも半人を名乗ることさえ烏滸がましい。なんて醜悪なのだろう。

 そして追われる彼、パンテオン学園指定のブレザー。ネクタイの色を見るに級友ではなく下級生のようだ。ああ。

 ────なんて迂闊な、と思った。昼と夜の境界は(けだ)し魔物、異形共の時間。いくら人界の、繁華街の中とはいえ若い男が一人不用心に出歩いて無事で済むと考える、その浅はかさ。平和に呆けた人の子は実に愚かだ。

 しかし、愚かでこそ人。

 愚かで、脆弱で、儚い。なればこそ。

 その祈りは尊い。その祈りは真に迫る。信心を呼ぶ。信仰の道を拓く。

 だからこそ、人間(あなた)達は愛おしい。

 愚かであれ。愚かなれ。

 ビルの上から、愛しい子を見下ろしながら、さてもどうしようかと悩む。

 あの犬を殺すのは容易い。

 木っ端な邪妖精など、人界の生態系に貢献すらできぬという点では羽虫にもその存在価値は劣る。

 存在ごと消し去る。尚更に可能だ。()()()で済む。

 しかし、あるいはこれは、彼に主が与え給うた試練。そうは考えられないだろうか。

 このままあと数分もすれば彼は駄犬に捕まるだろう。雑魚妖精とて魔物。単純な肉体の性能だけならば、人間を遥かに超えている。膂力、瞬発力、持久力、動体視力。獣に生身の人間は敵わない。極々、極々一部の例外、超人や英雄と呼ばれる異常者を除けば、人間が人外の者共に敵う道理はない。

 彼は犯されるだろう。肉欲の限りに、蹂躙され尽くすだろう。

 盛りのついた、それはなにも侮蔑の意味ばかりでなく。あの犬は現に、人間の雄に発情している。

 精も根も搾り尽くされ、襤褸切れのようにされた彼はきっと後悔するだろう。どうして一人で、こんな時刻に、こんなところを出歩いてしまったのか。自分はなんて愚かなことをしたのか、と。

 自身の愚を、覚る。

 それが、それは────見たいな。

 恐怖に咽び泣きながら、改心を誓う。誰に? 勿論、当然に、天へ。

 彼は天上の、未だ見ぬ主へ誓うだろう。

 素晴らしい。

 それはとてもとても素敵だ。

 そうだ。襤褸雑巾のようになってしまった少年をこの身で以て清めてもいい。

 そうすれば彼の心は悔い、改められる。完全に、完璧に。

 確信して、決心。

 僕は少年を見守ることにした。

 けれど、その後すぐ、少年に与えられた試練は道半ば頓挫した。

 

 刈間ギンジの手で。

 

『お座り!』

 

 路地から現れた刈間ギンジは開口一番そう叫んだ。

 なにを馬鹿な。そう思ったのも束の間。

 急停止するや否や、なんと黒妖犬は言われた通りにその場に座り込んだのだ。両手と両足を揃え、行儀よく。強か躾けられた犬同然に。

 

『おぉよぉしよしよしよしよしよしぐっぼーいぐっぼーい』

『あ、あの、あたしメス……くぅ~んっ』

 

 先程までの色欲に支配された熱情はどこへやら。雌犬は従順に男の諫めに鎮まった。

 

『ど、どうして……』

『なぁに、細やかな暗示の手妻よ。恰好つけて言やぁ、(しゅ)をかけるってぇやつだな。大丈夫か?』

『は、はい……』

『ハッ、ハッ、ハッ! きゅ~ん、きゅ~ん』

『あん? なに? ほっほう、このワン公、お前さんに惚れ込んじまったそうだぜ』

『えぇー!?』

『え? なんだ? 通学路でよく会う? だそうだが』

『い、いやいやいや俺知らないですってこんな人! ……あ、この前、黒い犬に餌あげました』

『ワン!』

『それ! だとよ』

 

 彼はその後も奇妙な通訳を続け、俄かに興奮しかける犬を躾け鎮め、逃げ腰の少年を宥めて賺し。

 とうとう少年と雌犬の仲を取り持ってしまった。

 

『奇縁だが、幸いにこいつぁ良縁だ。ちっとばかし気が急いてつんのめっちまったが……ここは一つ、お前さんの度量でこのワン公を許してやれぬか』

 

 からからと軽妙に笑い、彼は言う。

 優しげな……慈悲に溢れた笑み。

 少年は怖々と黒妖犬に手を伸ばした。黒く豊かな髪、しな垂れた耳の合間に、そっと這わせ。

 少年は、つい先刻自分を凌辱しようとした魔物を撫で慈しんだ。

 人が魔を許す。その光景。

 

 

 貴方はまるで架け橋だ。渡れぬ筈の彼岸と此岸を、交わらぬ筈の相異を、結んでしまう。

 どこにでもある話。魔物の雌が人間の男性を手籠めに、あるいは性の道具にする。そこに愛などない。愛はない。全て唾棄すべき淫欲。罪。穢らわしい。

 

「嘆かわしい世界」

 

 この融け合い混じり合い坩堝と化した世界が、僕は心底(おぞ)ましいのだ。どうして、天高きに坐す御方はこの不浄の世を大水によって押し流してしまわれないのか。終末の喇叭は何処(いずこ)。アポカリプスは今、今ぞ。

 してはならぬ。疑ってはならぬ。試してはならぬ。

 悍ましいこの厭世と救世への希求は、僕を苦しめた。葛藤など、あの頃にはなかった。迷いなど、知る由とてなかった。

 悍ましいこの融界に────けれど遂に、貴方は現れてくださいました。

 

「君を通して見える世界が、僕は欲しい」

 

 不浄で淫らで穢らわしい世界に、聖なる愛の実在を知らしめてくれる人。

 刈間ギンジ。慈悲の御方。粗略を演じて、深遠な思慮を抱く人。

 僕には見える。貴方の中にある、不可視の光。遠大なる愛の実在が。

 

「……いいや、そう、そうだね。君が好む言葉を遣うよ」

 

 雲よりも高く、風すらも軽く薄い、星々の煌めきを翼に受けて、今夜も君を見ていた。

 

「一目惚れだったんだ、ギンジ」

 

 その矢先であった。

 大教会よりその“聖務”を任ぜられたのは。

 間違いない。これは運命だ。主の思し召したる縁。

 君と僕の。

 だから

 

「もっと、見せてよ。君を、隠さずに、余さず全て」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繁華街に向かって歩道を行く。行き過ぎていく車両、無遠慮に騒音を巻き散らすバイク、そうして人とそうでない者らと幾度も擦れ違う。ここはN県S市内人魔共学の学区。異種個体数は国内二位の規模を誇る。

 石を投げれば五分以上の公算で魔物に当たるだろう。

 無論、身の安全を保障されたいならやらぬ方がいい。覚悟すべきなのは暴力沙汰ではなく、もう少しばかり生々しい事態であるが。

 日暮れを遠く、ビルの狭間に見送った。横切った街灯が指折り示し合わせたかのように点っていく。

 逢魔ヶ刻。暗闇が最も()()、異界に近付く頃。夜闇の立ち込め始めた空よりなお漆黒の翼が降ってくる。

 烏が三本足で己の肩を掴み、止まった。

 

『厄介なものに目を付けられたな』

「カッカッ、他人事に言いやがって。お前さんの見落としでもあるんだぜ? とはいえ、無論……我が身の油断よ」

『神甲状態でなければ我らは全能を行使できない。あの上級天使は私の索敵限界の外からこちらを監視していた。況して人間がその生身の五感で、隠形に徹する天使(あれ)らの存在を気取るなど不可能だ』

「人外の面目躍如ってところか? こいつは小回りが利かねぇのがどうもな」

『気安く行使するものではない。だというのに……お前はこの地で既に一度、神威を開いた』

「見られたと思うか?」

『天空三十里を超える高高度に陣取り、物理的障壁すら無視して地表の物体を目視能うほどの眼力……邪視。それがかの大天使の異能。だが、一度合一を果たさば────確実に()()()神力が勝る』

 

 静謐を音に固めたかの沈着冷静な声に、力が張る。気迫が滲む。それは自負であり、絶対の、絶大の信頼。

 賜りし“神威”に対する信仰……そして、踏み越えてきた戦いがある。闘争の果てに、今の俺達が在る。

 堅物の烏はそれを信じていた。信じてくれていた。

 

「ほほう、さしもの七大天使とて神威を纏った俺達を捉えることまではできんか」

『然り』

「どうだい恐れ入ったかストーカー天使!」

 

 諸手を上げて夕空へ向け景気よくハッタリをかます一方で、得心するところもあった。

 

 ────僕をお傍に

 

 千里まで見透かしそうな覗き魔が、妙にしおらしいことを(のたま)った理由は十中八九これだ。片時とて眼を離さず(つぶさ)に観察を続けていた物珍しい種類の猿、もとい人間がしかし、その見えぬものなどない筈の監視の眼をしてただ一点、不可視の領域を有していた。

 さぞや気が気でなかろうよ。

 

「ハッ、かかずらってやる義理もねぇ。こちとら抱えてる厄介事の年季が違ぇんだ」

『……自慢にもならんが』

「まったくだ! カッハハハハ」

 

 我らの使命。たった一つ、その為だけに生きてきた。

 この甲斐もない生命が、今なお存続する理由。死に損ないの、最後の夢。

 約束が。

 

『……』

「さてさて晩飯の算段でもつけるか。しかしお前さんの言う通りならあの変態め、家ん中まで覗いてやがるんだろ。カァッ、これ見よがしに陰膳でも置いてやろうかね……いや、逆に喜びそうだな。まさか食う為に乗り込んでくるなんてこたぁ流石に……あれならやりかねんな」

 

 阿呆な懸念を烏に聞き流されながら、家路をぷらぷらと辿る。

 夜が、その黒い軍勢で天と地とを覆い尽くした。街灯と家々の灯を頼りに、また一つ路地を横切った。

 

「────」

『……ギンジ?』

 

 (うなじ)を撫で……刺し貫く、その気配。

 

「出やがった……」

『なに』

「出やがったぞ!」

 

 烏の反問にも取り合わず、アスファルトを蹴りつけ疾駆する。

 

「“殺生石”の香気(におい)だ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5話 拳に誓い

妖獣都市と異種族レビュアーズを見ながらガオガイガーを作業用BGMにして書くエロギャグ魔物娘系SS

ってなんだよ(突然の正気)

高低も判断のつかないおかしなテンションのSSです。どうかご容赦賜われれば幸い(激太予防線)



 

 

 どうして。

 ベッドに横たわる貴方は、震える小鳥のように愛らしかった。

 

「別れよう」

 

 組み敷かれ、為す術なく、暴流のような快楽に身を捩ることしかできない貴方は、ただ、ただただひたすらに愛おしかった。いっそ私が狂ってしまいそうなほど。

 違う。とっくに狂っていた。もう遅い。私は貴方に狂い切ってる。

 涙を啜る。貴方から分泌される全てを身に受けて、穴に注ぎ入れて、淫口で飲み下す。どうして溢してしまうなんてことができるだろう。それらは貴方の媒介物。貴方の構成物質。貴方そのもの。

 私が貴方を欠片でも取り逃すなどありえない。あってはならない。

 だのに。

 どうして。

 

「僕らは、やっぱり住む世界が違ったんだ」

 

 幸せだった。貴方を見付けたその日から、私の幸福は始まった。

 あるいは初めて、本当の幸福を知った。

 貴方が好き。心から愛してる。貴方と共にいたい。一緒に生きたい。

 貴方を幸せにしたい。貴方と、幸せになりたい。

 貴方さえいれば、それでよかった。よかったの。

 それなのに。

 どうして。

 

「ごめん……さよなら」

 

 どうして!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七十余年も昔の話だ。

 魔界のモノ共を手引きし、人界の権力者を傀儡として操りながら、両世界のさらなる融合を、地獄の如き、至極の混沌を願った女がいた。

 (おぞ)ましき毒婦。傾国の美姫。悪女にして鬼女。古の大妖。ありとあらゆる怪異なるモノ共の温床。

 世界の存続を徹頭徹尾脅かす最大最悪の(まがつ)に対し、天上に座して采幣を振るう者らはその討滅の為の最適武力を投じた。

 

 ────憐れよのう。憐れな男よのう

 

 せせら笑う声がする。それは憐憫と侮蔑、そして。

 

 ────さぞ重かろう。天津(あまつ)の奴輩共に御仕着せられた“それ”は

 

 血に塗れ、地に跪いて、それでもなお、美麗。滴るまでの美しさ、艶然と笑み。

 悍ましき女怪は俺を笑う。女神の如き慈愛さえ滲ませて(わら)う。

 

 ────あぁ、可愛いギンジ。私のギンジ

 

 白魚のようにしなやかな手が伸びる。乞い、求めるかの必死さで。己に、この身に、触れるを望んで。

 哀切な瞳が肉と皮と骨を貫き、ひた魂を撫でた。柔らかに、(なま)めく。桜色の唇が愛を囁く。

 

 ────ぬしを殺してやれぬのが残念じゃ。のう、憐れなギンジ……アハッ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハ

 

 天を衝く憎悪の哄笑は、女の望む場所へ確と届いたことだろう。

 その悪しみごと、この拳は女を粉砕した。

 しかし、打ち砕かれた化物の骸は、その膨大な妖力が引き起こした爆轟によって世界中へ散逸した。血と肉と骨と魂と、心。それら全ての混合物。

 白面金毛九尾狐。かの者の憎悪の結晶は“殺生石”と忌み名付けられた。

 無際限の妖力を垂れ流し、触れ寄る者、恐れ逃がれんとする者、それら一切の区別なく人魔悉くを惑わせる悪性。無辜の國民を脅かす、怪しき力。

 災禍は続いている。七十余年を経た、今もなお。

 

 

 

 

 

 

 

 一本の路地を駆け抜ける。飲食店の大振りなポリバケツを避け、道を横切った黒い野良猫を跳び越えた。

 

「フギャー!?」

「おぉっとととごめんよ」

 

 鋭い抗議の鳴き声をやり過ごしながら、疾走疾走また疾走。

 薄暗い小路のさらに深みへ。見通し絶無の直角道を右へ折れた時、それが見えた。

 壁際にもたれ掛かるスーツ姿の男。二手二足、角も獣の耳も羽も尾もない人間の男である。

 刹那、周辺に視線を這わせるが不審な者も物もモノもない。男に駆け寄って、様子を検めた。

 

「おい、おい兄さん。聞こえるか! おい!」

『オードが枯渇している』

「なに?」

 

 追随して地上に降り立った烏が言った。

 なるほど、見れば確かに。ぐったりと壁に体重を預けた男の体は、そこに当然に流れているべき“力”の脈がひどく希薄であった。

 

「オードだけを吸って肉は放置したってのか……? 身体情況は如何に」

『急激なオードの喪失によって昏倒しただけだ。命に別状はない』

「よし。兄さんすまねぇが、救急車はも少し待ってくんな」

 

 言い置いて、立ち上がる。

 道の先に意識を差し向ければ……その端緒は、まだそう遠くはない。

 

「お前さんは空から行け。この対手はわりに(のろ)い」

『承知』

 

 夜空に飛び上がった孤影を見送り、再び走り出す。

 香気などと表したが、己は何も鼻で臭いを嗅ぎ取っている訳ではない。第六感と呼ばれるそれより幾分程度の低い感覚。勘働き、あるいは経験則に近い受容器。記憶させられた。この感覚、項を針で執拗に刺突されるかの不快。

 あれを打ち殺した日から、この痛みが俺に付き纏っている。

 殺生石の残り香が残光のように道に、壁に、宙に尾を引いていた。

 

「いっそ罠を疑うほどよ。この逃げ方は杜撰が過ぎるぜ」

『捕捉した。人型が一つのみ。脚力の外的強化を認む』

 

 声ならぬ念が、空間的距離を無為として脳髄に言葉を打ち込む。

 我らの間には煩雑な通信機器は勿論、それに類する術の起動すら必要としない。

 

「追い立てる。挟み撃ちだ」

 

 簡易な魔術による身体強化は、今時分の高等学校を卒業した者であれば誰しも使うことができる。当然、(みだ)りの使用を禁ずる法令、現在の魔界技術類行使等取締法が施行されてより五十年以上が経った。

 街中、それもこの時刻、見咎められればまず以て強制連行を免れまい。しかし今宵この手合いに対して、公僕に出る幕は与えぬ。

 走り、地を蹴る足に力を込める。魔的な、異能による、怪力ではなく、ただ単純な筋力。速筋を瞬発させ、より速く。

 我が身は術を恃む必要性を失くして久しい。

 100メートルを五秒弱で走破しながら、もう100メートル跨ぎ越す。追い駆けっこも終わりが見えた。

 その背中が、見えた。

 夜闇に紛れる暗い色味。黒よりくすみ、青みを帯びたコート。

 

「近頃すっかり春めいてきやがったってぇのに、そいつぁちと暑苦しかねぇかい?」

「!?」

 

 走行しながらに背中が跳ねる。

 追跡者の存在に、なんと今更気付いたらしい。

 驚きか警戒か、いずれにせよ対手の駆け足の運びが淀む。その瞬間、その前方に大烏が降り立ち、行く手を阻んだ。

 コート姿が(たたら)を踏み、止まる。目深に被ったフードの口が、前へ後ろへ往き来する。その慌てっぷりはいっそ憐れみすら誘った。

 

「用件は皆まで言わずとも解ろうが、まあ聞け。なにやら怪態な石を持っているだろう? そいつをこちらに引き渡し、ついでに出所を教えてもらいたい。さすれば貴公の身柄の無事は約束する。返答や如何に」

 

 可能な限り端的に発した問いは過不足なく先方へ伝わったろう。

 対する背中が発する沈黙に不理解の色は見られず、異種特有の言語的な不通もまた確実にないと断ずる。

 何故ならその(だんま)りが唯一物語ったのは、拒絶の二字であったから。

 次の瞬間、奴は懐に手を入れた。

 間合いを詰める。何かを取り出す間を与えてはならない。

 もう半歩でその肩を掴める。

 その手は、未だ懐中。こちらの方が先に、届く────

 

『下だギンジ!』

「なに!?」

 

 念と羽撃、二種の叫びが己の脚を踏み止まらせた。その瞬間、もう半歩先にあった地面が────地面ではなくなった。踏み、乗り、通行する路としての体裁を失った。

 アスファルトに亀裂が走る。盛り上がり、直下から押し上げられている。

 何に?

 その問いの答えは即座に姿を現した。先に二本ばかり突き出てきたのだ。やや遅れて、中央から三本目が貫通した。

 白い柱の如くに屹立する、角が。

 鼻面に一角、そして眼窩上部よりそれぞれ二角を戴く巨大な頭部は、後頭へ向かって波打つようなフリルが広がる。

 その姿、見間違うことがあろうか。古生物学に対して格別の造詣も持ち合わせぬ己でさえ、その名を諳んずることは容易であった。

 トリケラトプスである。トリケラトプスの巨大な骨格が、地中より這い出してきたのだ。

 

「おいおいおい!」

 

 地盤を盛大に沈下させながら、それでも巨体は地上に全貌を晒した。

 原寸大の骨格標本がそのまま動き出したかの光景に度肝を抜かれつつ、未だ崩れ続ける地面から跳び退がる。

 

「こいつぁ死霊術か」

『否、これは生体の骨ではない。術を刻んだ模造物を巨大化させた式神、ないし傀儡回しの法』

「この狂った出力は石を使った為か。道理よ」

 

 原物に何を用いたかは知らんが、少なくとも懐に忍ばせられる程度の小物であろう。だが相対する恐竜の体長は見当で10メートルを凌ぐ。

 この狭い小路に、よくぞ収まっていられるものだと感心すら湧く。

 一体までならば。

 二体目はないと、どうして考えられる。

 烏の警告よりも早く、我が身は瞬発していた。

 さらに、さらに後ろへ。今在る空間を全速力で脱する。

 それは、つい一瞬前に己が身を置いていた場所に、躍り出てきた。横合いの、廃ビルの壁を突き破って。

 砕けて散ったコンクリート、引き千切れた鉄筋が宙を舞う。その只中でまたしても、この狭苦しい空間を巨体が席巻した。

 巨大な(あぎと)でずらり居並ぶ乱杭歯。それの身体形状に見られる理合いはただ一件、一心不乱の攻勢。眼前の獲物を噛み砕き、喰らう為の機構。

 ティラノサウルスである。

 

「男の子は好きだろうなぁ」

『ギンジ!』

「ああ見えてるよ」

 

 暢気を気取る阿呆に、烏から至極当然の叱咤が飛ぶ。

 二体の巨躯の後ろに隠れ、当の術者様はいそいそとなにやら準備に入っている。

 三度、現れたのは翼竜であった。プテラどうのとケツァルどうのとそれはどうでもいい。問題なのは、巨大な骨格標本でしかない三体の恐竜の中で唯一、それは翼膜を張られていた。

 飛翔するのだ。あれは。

 飛翔して、この場を逃れる肚なのだ。

 

「させぬ」

 

 もとより交渉の決裂は明白。

 対手は武力によってこちらを退ける意志を見せた。

 ならばこちらも応報いたす。

 

「神威を使う。神鏡(かがみ)を開け」

『承知』

 

 人を、魔を、國民を惑わせる怪しき力を滅ぼし尽くす。

 それが、我が宿命なれば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6話 宿無しの黒猫

語尾が「○○ッス」な舎弟キャラのツルペタ(超重要)褐色黒髪猫娘とかええと思う(性癖)

5/28ちょっと加筆。


 

 

 日暮れの裏路地。薄闇の帳。迂闊にも踏み入った男を出迎えたのは、夢か現か地球産古代竜種。

 路を、建屋をその巨体で刻一刻壊し崩していく。

 どこぞの恐竜をよくよく逃がしがちなテーマパークの映画を思い出す。あるいは、夜の美術館で行われる美術品達による乱痴気の宴模様。

 しかし今、相対する光景はそのような夢溢るる冒険活劇とは縁遠い。

 あれを為さしめたモノを知っている。その悍ましき、怪しき力を、己は忌々しいまでに思い知っている。

 ゆえに。

 

『清め給え、祓い給え』

 

 我が身は怪滅の武力なり。絶対不破、國防(くにもり)神甲(はがね)なり。

 水晶の鳴動にも似た音声で、祓詞(ことば)が紡がれる。

 烏の胸に“孔”が空く。孔は広まり、烏の肉体を飲み込んだ。いやさ、烏そのものが変じたのだ。物理法則を嘲笑う形状変態、物質転換。成型されたのは真円の、底無しの孔と見紛うほどに滑らかな────鏡であった。

 研き抜かれ磨き狂った鏡面はさながら虚の如し。それは無垢の極致、汚穢(おあい)の対極。万物を清め、祓い、()()()()()。これこそは、天照らす神の鏡であった。

 拡大、拡張する。手鏡ほどであった真円は今や己が全容を映すまでに巨大化を果たした。

 己が全身を、飲み込んでしまうほどに。

 

『ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、ここの────』

「にぃぃいやぁぁぁあぁああああッッッ!?」

「『!』」

 

 祝詞は完成を見ず、頭上から降ってきた間抜けな絶叫に遮られた。

 廃ビルの瓦礫と粉塵に巻かれ、間もなくその人物は地表に激突……せず、着地した。手足四つを地に付け、重力加速による落下エネルギーを殺し切る。見事に、軽やかに、しなやかに、さながら猫の体捌きで。

 

「シュタっ! とぉっとととと!?」

 

 (さなが)らではなかった。

 埃で薄汚れた浅黒い肌と黒髪、そしてそこに戴く黒い耳。明らかなネコ科のそれ。黒い尻尾がゆらりゆらり宙を泳ぐ様を見れば、それが猫の獣人であることは歴然であった。

 黒猫の少女。見当で年の頃十代の初め頃か、もっと低い。幼いと表すが妥当であろう。

 騒然としたこの場に文字通り降ってきた珍客に対して、我ら、そして敵方たる彼らすら反応はほぼ同様。水差されと言うか、実に白けていた。

 

「……あ、あり? お、お呼びでない? こりゃこりゃ失礼いたしましたー! あはは、あはははは……なぁんて……ねぇ?」

 

 古いギャグで場の空気をさらに凍て付かせる憐れ、もとい可哀想な少女。しかし、そもそも空気を読むなどという機能を有しておらぬ傀儡恐竜は、眼前に現れたそれを辺りに散逸する瓦礫と区別しなかった。

 つまり、間もなく少女は踏み潰される。

 

「ぎにゃーー!!? おおおお助けぇ!?」

 

 殺生石を完全に消滅させる為には“神甲”の顕現は絶対不可欠。必定の仕儀。しかして、もはや。

 全身を鎧うだけの暇はない。

 ならば。

 

略式手甲(りゃくしきてっこう)!」

『愚鈍な猫化(ねこばけ)が……! 清祓(しんぎ)(ひと)(たり)! 奮え!』

 

 堅物烏の珍しい悪態に思わず笑む。

 笑みながら一歩、踏み締めて、その鏡面へ拳を突き入れた。衝突、衝撃、破砕、ないし指骨の粉砕、発生すべき諸々一切の事象が、起きない。

 鏡は拳を受け入れた。するりと、抵抗すらなく。水面が没する何もかもを拒むことがないように。

 鏡の内に沈んだ拳、前腕。それが光に変わる。()くなる。

 肘から先が消失した。

 

「ギッ────」

 

 腕一本分の痛覚神経は欠片の手心なく、その機能を全うした。痛み、痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み。脳髄の許容限界など考慮されない痛みの氾濫、暴走。

 白化する視界と意識。刹那の忘失を、しかし許さぬ。

 敵は目の前なのだ。

 そして、護るべき者が、ここには在るのだ。

 鏡が閉じる。収縮し、孔が塞がる。

 飲み下された前腕にそれは吸い付くように閉じ切った。そうして密着した鏡は既に鏡に非ず。失くした腕は、もはや変わった。変わり果てた。

 銀の手甲。

 鎧われた右腕。

 巌の如き武骨。守護を謳いながら、攻撃性の権化の如き戦形(かたち)をしたそれは。それこそは。

 

「────“烈風”」

 

 手甲に埋まる深緑の光鈺(たま)。光が渦巻く。

 神鏡を打突、装甲を為すまま、そうして留まらぬ。

 

「ぬぅうおぉあああッ!!」

 

 鎧われた拳をそのまま打ち出す。

 何を打つ。敵は遥か前方。拳打の間合には程遠い。届く筈などないその突きが────ティラノサウルスの頭を潰した。

 上下に圧潰したアルミ缶めいて拉げ、首の支えすら千切れ飛ぶ。骨格標本は学術的にも深刻な欠損を晒した。

 

「ひぃいっ……ひえ?」

「伏せていろ!」

「はいぃい!!」

 

 手足ならばまだしも、骸骨が首を失おうと構うものか。それは未だ行動能力を失っていない。

 そして、首無し竜の背後にはさらにもう一体、重戦車級の三角竜が控えている。

 真っ正直に、真正面から相手をする手間を惜しんだ。

 銀鎧の掌を返す。甲を地に、平を天に。掌に架空の物体を乗せるかのように。

 その途端、風が逆巻く。大量の瓦礫と塵芥を巻き添えに、立ち昇る。ぐるりぐるりと渦を回して、五つ。

 竜巻である。

 細く縊れて高速回転する旋風が一時に五つ発生している。自然現象にありえざる光景。紛れもない異能の齎す顕現。

 掌を握り、押し包む。

 五条の竜巻は連動する。二体の恐竜を囲み、押しやり、包み込み。その骨格を触れる端から削ぎ上げた。

 砕けた白い骨片が、鑢に掛けられるようにして白い粉末に、塵に返ってゆく。

 

「風と共に削れ去れ、渦責(うずせみ)

 

 五つの竜巻が合流し、その中心にある二体の恐竜骨格を飲み込んだ。それは破砕機の攪拌と同等の結果を生む。

 風が止んだ時、辺り一面には白い粉塵だけが残された。

 頭上、夜空の彼方を見やる。

 白い骨の翼竜の姿は夜行迷彩として最悪の色彩であったが、今のこちらには絶好、これ以上ない僥倖である。

 

「飛ぶぞ!」

『急げ、石の妖力が高まっている』

 

 右拳で地面を殴り付ける。直に地面に触れる前に、拳はその僅かな空間と激しく反発した。強圧縮された風の塊である。

 まるで固いゴムを打ったかの手応え。そうして強化されたこの右腕は、矮小な人体を弾き飛ばすに十分な威力を発揮した。

 飛び上がる。

 夜天へ。

 翼竜とそれに乗る下手人、その後塵に追い縋って。

 

「逃すかぁ!」

 

 背面に突風を形成し、自身を薙ぎ払う。苛烈な加速によって身体を大気の壁が阻んだ。眼球の防御反応との我慢比べ。とはいえお蔭を以て推力は十二分。

 一撃で落とせる。一撃、届けば、届きさえすれば。

 速度は優っている。圧倒的に、こちらが速い。

 右拳で、翼竜の背骨を叩き折────その背が突如、消え失せた。

 

「! 転移か!?」

『……否、跳躍だ。魔術ではなく、石の力で空間を越えたのだ』

 

 空振りのまま、推力を失った体は重力の手に引かれる。落下する。

 手近なビルの屋上目掛け、風を手繰って降り立った。

 魔術による転移ならば構成する式を解析することで行く先の特定が叶うが、殺生石はそんな行儀を嘲笑う。煩雑な工程など無視して、その怪力で空間に直接穴を穿つのだ。

 追跡は不可能であった。

 

 

 

 

 

 

 

 路地へ戻る。見るだに酷い有様の、崩れた路に崩れたビル、その他諸々の瓦礫と土砂の山。

 遠くサイレンの音がする。誰ぞが通報してくれたようだ。

 残って警察の到着を待ち、事の顛末を歌ってもいい。あるいは上政所、己の上役連中にその辺りの事後処理を丸投げしてもまた良し。そもそもそれがあやつらの仕事なのだから。

 とはいえ、今回の不始末については滔々小言を食わされそうだ。

 独り内心で辟易とする。その時。

 

「兄貴!」

「ん?」

 

 背後からの呼ばわりに振り返る。

 そこには先程の猫娘、黒長の髪は整えたのか夜闇の中ですら光沢を放っている。丈の短い黒いカットソー、ローライズの黒いホットパンツ、形の良いヘソがこちらを向いている。春めいてきたとはいえ、逆にこちらは体を冷やしそうだ。

 

「ようお嬢ちゃん、災難だったな。怪我はねぇかい」

「はいな! 危ういとこでしたけど、兄貴のお蔭でこの通りぴんぴんしてまス!」

「そりゃ重畳だ。あぁ、ん? 兄貴ってな俺のことか?」

「もちろんッスよ!」

 

 路地の薄闇でキトンブルーの猫目が輝く。諸手を上げて娘は満面の笑みを湛えた。

 

「いやいやいやホント死ぬかと思ったッス。故郷の海が走馬灯でリフレインで。先立つ不孝を天国のお父さんに謝るとこまで済んでましたからね。あなたは命の恩人様ッス! 感謝感激リコリスキャンディって感じで! ありがてぇありがてぇ」

「へいへいわかったわかった。ハッ、よく喋る奴だなお前さん」

「紛れもない本心が漏れ出ちゃうんでスよぅ。それにしても、さっきのはすごかったッスねぇ! あんなでっかいゴーレムを一発でぶっ飛ばしちゃうんスから。並のマジックアイテムじゃできない芸当ッスよ。どこで手に入れたんスか、あんなすんごいの!」

「なぁに、一昨日ネット通販でたまたま見掛けてな。いや我ながら掘り出しもんだったぜ」

「えぇ……近頃の通販やべぇッスね」

「おぉやべぇやべぇ。やべぇのなんのってなもんで、俺ぁトンズラこかしてもらおうかね。そろそろ警察が着いちまう」

 

 踵を返して、サイレンの響く方向とは逆の道を行く。

 

「じゃあな、嬢ちゃん。警察には聞かれたことを素直に話せばいい。下手に隠し立てると要らねぇ勘繰りをされっちまうからな」

「待った待った待った!」

 

 ぐいっとシャツの裾を引っ張られる。猫娘は背中に取り縋って、なおもぐいぐいとシャツを押し引きした。

 

「そりゃねぇッスよ兄貴! ここで会ったのも何かの縁。不肖このケット・シー、兄貴にお供いたしまッス!」

「ほー、お供ね」

「はいな! 舎弟として身の回りのお世話とかめっちゃがんばるッスよ! パシリなら任してください! そんじょそこらのお遣いとは比べ物にならない速さ叩き出しまスから! 世界狙えるッスたぶん! 他にも、えーとえーと、か、肩叩きとか朝刊の新聞枕元に置いといたりとか……よ、よ、よ、夜のお供などもいかがでせう!!?」

 

 暗がりでもはっきりと見て取れるほど顔を真っ赤にして、猫の娘は叫んだ。裏返った声で実に外聞の悪いこと悪いこと。そうしておいて、視線の泳ぎ方が尋常ではない。

 必死である。それはそれは、必死な様で。

 その場に屈む。直立した娘をやや見上げるような格好で、じ、とその瞳を覗き込む。

 視線を逸らすことはなかったが、途端に瞬きの回数と速度が増した。長い睫毛がばっさばっさと。

 その細い背中に、さてなんぞ後ろ暗いものを負うているらしい。

 

「どうやら、警察の世話にはなれぬと見える」

「なななななんのことでせうか……」

「ふむん」

 

 先程この娘はどこから降ってきた。

 倒壊した廃ビルの上からだ。

 ビルの瓦礫の山には、解体予定物件と表題された看板の切れ端が刺さっている。

 住人でもない。そして、空きテナントを借用する為に内見に来た客、という薄い可能性も消えた。

 とすれば。

 にやりと笑みを刻んで、汗みずくの娘の顔を仰ぐ。

 

「お前さん、不法入界だな?」

「ぎくぅ」

 

 ノリが良いと笑おうか、悪びれもせんと謗ろうか。

 あるいは一巡して殊勝に罪を認めて、娘は図星に呻き声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7話 不法入界

可愛い女の子ってどうやって描写するんだろう……。



 ゆっくりと、眼前を横切っていく皿とその上に揃って並ぶ乾いた玉子を見送る。ゆっくりと、その後を追従していく皿と色とりどりのネタを見送る。

 どれも一様に鮮度は悪い。乾き、腐って、いずれ廃棄される。食品ロスの増加は飽食の現代に付きまとう由々しき問題だ。

 生産者や料理人に畏敬を持てだの他の貧しき者らを慮れだの、口はばったいことを言うつもりはない。というか、言う資格もない。

 が、それはそれとして物を食うに困らず済んでいる。この今を、素朴に有り難がるくらいが相応であろう。

 

「んにゃうみゃっ、うみゃあうみゃあ!」

「わぁかったから、も少し静かに食えねぇのかい」

 

 その意味で、心底旨そうに寿司を頬張るこの娘子の様は真っ正直だ。(てら)いがない。

 

「回転寿司でそこまで喜べっちまうんだから、お前さんは安上がりな娘だよ」

「んぐっ、むちゃくちゃ美味しいッスよ? 兄貴はもう食べないんスか?」

「ああ。ほれ、こいつも食え」

「わーい! マグロはやっぱ赤身ッスよ!」

「カッカッ、生意気言いやがる」

 

 黒い猫の耳がぴくぴくと頻りに動く。

 腹を空かせた娘子を連れ、帰り道の回転寿司チェーンに入って小一時間。デザートのアイスまで平らげて、娘はぽっこり膨らんだ小腹を擦った。

 

「満足したかい」

「はいー、もう食べらんにゃいッス……人界は食べ物美味しいッスよね~。この国は特に」

「その分、値は張るが」

「あははは、家無しにはキツい事実ッス」

「今まではどうしてたんだぃ?」

「ま~、そこは、ね? わたくし猫でありますから、小鳥とか魚とか捕まえたり。飲食店の裏のゴミ箱なんかは漁り甲斐があっておススメッスよ?」

「ハッ、そりゃ、今後の参考に覚えとこう」

「にへへへ」

 

 路頭に迷う準備ならいつでもできている。猫ほど軽やかに生きることなどできまいが。

 

「ふぃ~……ではでは、そろそろ行きましょっか兄貴!」

「あいよ」

「そのぉ、それでですね。お代の方にゃんですがぁ……」

「野暮ってぇこと言うんじゃねぇや。素直にごちそうさんでいい」

「うみゃおん! さっすが兄貴太っ腹! ごっちそうさまッス!」

「へいへい」

「よっイケメン! 御大尽! さすあに!」

 

 おべっかも堂に入ったもの。調子の良い囃しっぷりの娘の猫額を小突く。

 店を出ると、冴えた夜気が頬を撫でた。春先なれば夜は冷えような。

 

「寒かねぇかぃ、その恰好は」

 

 裾の短いカットソー、丈の短いホットパンツ。早くも中身を消化したらしい小腹がほぼ丸出しの娘子を見やる。

 娘は妙に気取った所作で人差し指を振りつ、舌先を鳴らした。

 

「兄貴、それこそ野暮ってもんッスよ。女子のオシャレは根性ッス!」

左様(さい)で」

「まあちょびっとだけ寒いッスけどぁっくちゅん!」

 

 ブレザーの上着を脱ぎ、細い肩に掛ける。これぞまさに御仕着せというやつだ。

 きょとんとこちらを見上げた猫目が、笑みをこぼす。

 

「にへへへ~……兄貴はなかなかの女誑しっぽいッスねぇ」

「戯け」

「……でも実際、その……どうしてッスか?」

「ん?」

「や……どうしてこんな、よくしてくれるのかなぁって」

「飯奢ってやったくれぇで大仰だなおい」

「そういうんじゃなくて! いやゴハンはマジで感謝ッスよ? わりと心の底から切実に。懐事情が、その、そろそろあれで……」

 

 照れ隠しに大笑いして、娘はまた不可思議そうな顔に戻った。

 

「見返りを求めねぇ親切は不気味か?」

「ぶ、不気味とまで言わないッスけど……正直、相当ヘンな人間ッスよ、兄貴って。人界の人間種は基本魔界の住人のこと恐がるでしょ。いや兄貴にしたら、あたしみたいな猫妖精くらい簡単にぶっ飛ばせるんでしょうけど」

「くくっ、まあできねぇとは言わねぇが」

「お見逃しありがたく! ……それはともかく、最近は落ち着いたみたいッスけど、何年か前にもほら、未成年の男の子を攫ったとかいうのも」

「発情期に入った剣牙虎(サーベルタイガー)だったな、ありゃ。古代種の純血で、身体能力も並の獣人を二回りは凌ぐってんで外特も随分手を焼いたらしい」

「それッス。その後からッスよ、獣から人化した魔界人種の渡界条件増えちゃったんスから。同じネコ科ってだけで……やんなっちゃうッスよ」

「気苦労だな、そいつぁ」

「ホントはもっと、ちゃんとしたやり方で……この国に来たかったッス。言い訳みたい、ってかもろ言い訳ッスけど……憧れてたんスよ。人界に、この国に」

「……」

 

 照れ臭そうに鼻を掻く。娘の、やはり衒いのない笑顔。

 

「……ま、それぞれ事情があろうさ」

「……」

 

 我ながら軽々しく宣ったという自覚はある。

 無言で己を見上げる娘の視線は、納得というものから遥か遠い。

 それでもどうにかこうにか、この猜疑の瞳を安堵させ得る答えを()り出すなら。

 

「そうさなぁ」

「……」

「この國に、そういう無茶を踏んでまで行きてぇと思ってくれた。その心持ちが、嬉しかった……ってぇのはどうだい?」

「えぇ……」

 

 益々もって疑わしげに目を細めて娘は呻いた。

 

「ぶっちゃけ余計に胡散臭いッス」

「信じる者は掬われるらしいぜ」

「絶対字違うでしょそれ。違っちゃダメなやつッスそれ」

「おぉそうそう、実は俺ぁ無類の猫好きでな」

「せめて最初に言ってくださいよ、嘘でも。いや嘘ならなおのこと……」

「カッカッカッ、そうかい。そら気付かなかった。次からは気ぃ付けるよぅ」

 

 御評判通り、胡散臭い笑声で人の悪い笑みを向けてやる。

 娘は長い長い溜息を吐いた。

 

「変な人間ッスね、兄貴は」

 

 繰り返す娘の顔は、変わらぬ呆れと諦めと、そして……どこか安堵しているように見えた。

 隣り合い、道を歩く。ふと、間合いが四半歩ほど縮まっている。付かず離れず、触れず掠らず。どうやらそれが、己がこの娘子に許された距離、であるらしい。

 

「……」

「? どうした?」

「や、あの……根性とか言っておいてなんなんスけど……」

「あ? ……あぁ、(はばか)りかい」

「はば?」

「便所に行きてぇんだろ?」

「や、まあ、そうッスけど。兄貴はデリカシーない方の人ッスか」

「横文字にゃとんと弱くてなぁ」

「意地悪な人でしたか……」

「くくく、すまんすまん。待っててやっから、そこのコンビニで済ましてきな」

 

 丁度差し掛かったコンビニエンスストアを親指で差す。煌々とした店内の照明が、夜闇の中にあってはその存在感がなにやら非現実的だ。時間の感覚を狂わせられる、とでも言おうか。

 とはいえ、催した娘子にとっては渡りに舟、地獄に仏。

 そそくさと店内へ駈け込もうとする、それを一旦制する。

 

「な、なんスか。ま、まさか……そ、そそ、そういうプレイを御所望で……?」

「ばぁか。ついでだ、なんぞ入用なもんがあるんなら買っていけ……こいつで足りるか」

 

 財布から万札を出して手渡す。

 娘はそれを受け取ると、暫し呆けて手の中の札を見下ろしていた。

 

「……あたしが」

「?」

「あたしが、これ持って逃げるかもって思わないんスか」

「逃げてぇのか? 行きてぇんならお前さんの好きにしな。追い駆けてってとっ掴まえようなんて気はねぇからよ」

「……お人好しッスね」

「ちょいと違う。俺ぁ物好きなのさ。いやぁ? 数寄者と呼んでくれても構わねぇんだぜ? ハハハハッ」

 

 見得を切って()()()など利かせてやると、娘は今度こそ呆れの気息だけを吐き出した。

 

「さあさあ漏らす前にとっとと行っちまいな」

「ふんだ! このスキ者!」

 

 笑いながら捨て台詞を置いて娘は店に駆け込んでいった。

 駅前のロータリー近く。幸いに、ガードレールやら花壇の縁やら座れそうな場所には事欠かぬ。コンビニ近くの車両通行止め用の太い鉄柵に腰を預ける。

 夕飯、あるいは酒宴時と言っていい時刻。駅前の飲み屋街からは頻りに酒焼けた喧騒、歓声が響いてくる。

 帰宅の途につく会社員、学生とてもなお多い。賑わいというなら、これ以上ない光景。活気を感じる。それがなにやら……悪くない。

 そうして、然程に物思いに耽る間もなく、烏が肩に舞い降りていた。

 

『どういうつもりだ』

「藪から棒になんだ」

『あの猫化のことだ』

 

 茶化した反問にも取り合わず、烏は今日も今日とて単刀直入である。

 

「なに、袖振り合うも他生の縁と、よく言うであろうが」

『我らの役目、忘れたか』

「忘れられるもんなら、今少し楽だったろうな。この生涯も」

『……』

「フハッ、そう苛々(かっか)するな。あの娘の仮住まいを粉にしちまったのは己にも少なからず責めを負うところがある。次の(ねぐら)が見付かるまで、屋根を貸してやるくれぇ安いもんだろ」

『だが、あれは不法にこの人界へ侵入した魔物だ。お前が匿って、それを咎められれば面倒になる』

「その為の政所ではないのか。散々方々へ横車を押しておいて、この程度どうにか出来ぬとは言わせん。私兵を動かせる場を用意する。それが(ぬさ)振り役のせめてもの務めだろう」

『私事ならば、その限りではない。あれを助けるのは、お前があれを過度に憐れんでのことではないのか。かつて……かつてお前が、その拳で屠ったモノとあれを、重ねているのではないのか』

 

 責める声音に迷いを聴く。責務の重みを知るがゆえに、烏は言葉を選ばなかった。否、選び抜いて、己に問うている。

 怒りなど、どうして抱くことがあろう。ただ胸中に満ちるのは幾度目とも知れぬ覚悟だけだ。

 

國民(くにたみ)を護るが、我が使命」

『……』

「この國を好きだと言ってくれた。ならばあの娘も、俺が護るものの内よ」

 

 それ以外に理由など、要らぬ。

 

『……』

「なんだ、まだ文句があるのか。ならもう今の内に全部申せ。思い残すことのないように、ほれ」

『いや、違う』

「ん?」

 

 烏の視線はこちらではなく、どうやら通りの向こう側、飲み屋街よりも色に富んで繁華な路地を見ている。ホテルや合法違法を問わない風俗店が、表に裏に軒を連ねている。

 そんなところへ足を運ぶのは、余程の性豪か世を儚んだ人間だけだ。なにせ今時分、性風俗は魔物の領分。性的行為そのものを重視する種族がその上金銭まで稼げるとあって、就労を希望する女型魔物は数多い。

 そして、その逆。男娼を商う店が圧倒的に増加した。理由は例の、傍迷惑な神話に由来する訳だが。

 悲しいかな需要は実に、莫大であった。兎角この時勢、人間の男が風俗店に勤めることは紛れもない職業選択の一柱となっている。

 己のように()()人間には不可思議を禁じ得ぬ時流だ。男娼を珍しいとは言わんが、それにしても、と。

 閑話休題。

 烏がその目で捉えたものは、己の目にも映し出すことができる。

 魔物の女が二人、人型に近しい姿。

 鱗を帯びた手足と、長く太い尻尾。爬虫類の特徴を覗く。

 もう一人は、両の側頭部から歪曲した角を生やし、背中に黒い膜翼を負う。悪魔、夢魔、淫魔いずれかの類。

 格別に珍しい取り合わせという訳ではない。何の種族的接点を持たぬ異種同士が出会い、関わるのが今のこの世界なのだから。

 問題、そう特異な、明らかな事案は。

 

 ────いいからいいから、はいはい静かにね~

 ────声上げたら腕折るぞ

 

「っ!? ~っ!!?」

 

 魔物が二人、一人の少年を路地へ連れ込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8話 人も魔も

 娘子がコンビニから出てくる。ビニール袋片手にこちらに手を振って駆け寄ってきた。

 

「お待たせしたッス! 食後の午後茶しばきましょう。ミルクティーでよかったッスかね?」

「おう、ありがとよ。丁度いい、腹ごなしに飲みながら待っておれ。すまねぇがちっとばかし小用ができた」

「へ?」

「すぐに戻る」

 

 言い置いて、通りを跨ぐ。人混みをかわし縫うように駆け抜け、つい先刻三者の入り込んでいった路地へ。

 薄暗がりにバーの看板が朧な光を放つ。立ちんぼ、もといキャッチの為に客を待ち構える魔物の姿もちらほら。

 先程の取り合わせ。魔物二人に少年一人、目立つことは請け合いだ。

 人が三人肩を並べるのも難しかろう狭い小路に踏み入る。途端に、客引きなのだろう女が一人……()()、己に絡みついた。

 この手の誘い女には珍しく、肌を晒すどころか足先手先に至るまでゆったりとした黒いローブで身を包んでいる。レース編みのフードの中、女の白い顔が浮かび上がるようだった。それもその筈、袖口や裾から覗くのは手でも足でもない。

 触手であった。

 ローブの内より限りを知らず伸び踊り現れ、こちらの体中を取り巻いていく。

 

「はぁい、お兄さん。遊んでかない?」

「悪ぃな。螻蛄(おけら)なんだ」

「えぇ~、そうなの~」

 

 いかにも残念な風合いに顔を作り、女は切なげな溜息を吐く。

 吐息するまま、口を開いた。粘り、口唇に幾重にも粘性の糸を引き、赤い口腔を外気へ晒す。そこから溢れ出る。舌、舌、舌、舌の形状をした触手ら。

 くちゃりくちゃり、口内を蠢かせ、女は瑞と艶で濡れた笑みを浮かべる。

 

「んふふ……お代はお金じゃなくてもいいのよ?」

「そいつぁ色っぺぇな。眩んじまいそうだ」

 

 笑みを向けると、虹彩を持たぬ青い眼球をとろりと蕩かせて女は応えた。魅了の魔眼などは吸血鬼や高位の魔族の専売である。ゆえにこれは、この女の()()であり、艶気の出し方なのであろう。

 舌先が、つ、と頬を舐めた。客引きが客に直に触れるのは御法度だ。少なくとも人界の、この国では。

 無論この程度、御愛嬌の一言で済むが。

 

「気を付けなよ、近頃は外特が五月蠅いぜ」

「……もう、萎えることお言いでないよ。野暮よねぇ人間って」

「フハハッ、まったくだ。野暮ついでに訊ねてぇんだが、さっきここいらを三人連れが通らなかったかぃ。一人は魔族、一人は爬虫人(リザードマン)、もう一人は……」

「通ったよ。馬鹿な魔物二匹が子供を引き摺ってた」

「何処かに入ったかい」

「たぶん、その先のアビスってホテル。受付通らず連れ込めるのあそこだけだから」

「ありがとよ」

 

 宙を這い回っていた触手がローブの中へ一挙に引き込まれた。

 片手を上げて、女の前を歩き去る。

 

「お兄さん、警察?」

「カッ、まさか。そう見えるかい?」

「ぜーんぜん……あの子を助けるの?」

「さあて」

 

 肯も否も口にはすまい。色に()けたゆえの非行、過ぎた悪ふざけで済めば御の字だが。そうでないなら。

 もし、そうでなかったなら。

 

「上手く行ったら店においで。祝杯、奢ったげる。上手く行かなかったら……優しく慰めたげる。フフフフフ……」

 

 好奇の視線に背中を撫でられながら、道をほんの数分も歩けば青黒いサイケデリックな看板が現れた。

 『Abyss』。五階建ての妙に黒々としたビルだった。

 頭上、夜空を旋回する烏に思念を送る。

 

「見えるか」

『四階、西の角部屋だ』

「わかった」

 

 自動のガラス扉を潜り、エレベーターに乗り込む。赤い革張りの、妙に狭苦しい箱だ。四階に到達し、昏い廊下を奥へ進む。最奥、407号と金細工で印字された扉。

 ノブを握り、オードを流し込む。開錠の式を起ち上げ、二つと数えず扉は開いた。

 部屋の内装も建屋同様に暗い。床は黒い大理石、ガラステーブルやソファ、棚にベッド、全てが黒い。

 唯一白いシーツの上に、組み敷かれた少年がいる。

 組み敷いているのは、大柄な鱗甲の背中。鋸刃めいた背鰭が長い長い尾の先端まで連なって、中空をゆらゆらと揺れている。半人の丸出しの尻は、これがなかなか良い形をしていた。

 その隣では、黒いワイシャツの前を開けた淫魔がベッドに腰を下ろしていた。怪しげな光を放つ目を見開いてこちらを向く。

 

「はっ、え、誰?」

「あ? んだよ……」

「動くな。20時6分、強制猥褻の現行犯だ」

 

 それらしい文言で言い放つと、少年に覆い被さっていた爬虫人がベッドから飛び起きてこちらを向いた。

 しかし、見やった場所に立っていたのは、どう見ても公僕とは言い難い若造。

 爬虫人、おそらくはクロコダイル種の女。それは発達した下顎の牙を剥いて、吼える。

 

「なんだてめぇ! こいつの仲間か」

「いいや、ただの通りすがりだ。狼藉が見えたんで、手遅れになる前に止めてやろうと思ったのよ」

「は、はあ?」

「悪いこたぁ言わねぇ。痛い目見ねぇ内にその子放して帰れ。今回は見逃してやる」

「「…………」」

 

 沈黙が室内に満ちた。言葉の意味理解の為、というより、それを言い放った者に対する理解が大層難航した結果として。

 たっぷり十秒間かけて思考の整理が済んだ頃に、二人の魔物は大笑した。

 

「なにそれウケる!」

「いや、いやいやイキんのも大概にしとけよ。人間が……ぷっ、ぶはははははは! あ~あ、まあいいや。イリス、こいつは私んだから」

「いいよ~。もともとあーしショタ狙いだったしぃ。あでもでも、あとでちょっと代わってよ。精子の味比べしたいから」

 

 鰐の女、半獣人としてはまだまだ若い其奴は、無造作にこちらへ手を伸ばした。天然の手甲めいた外皮、長く太く歪曲した爪。人体を容易く解体できるその手掌を、出迎える。

 掴んで、止める。

 

「お、なんだよ。恋人繋ぎ?」

「や~ん可愛い。ダーウル、優しくしたげなよ~」

「私、そういうの得意じゃないんだけど」

 

 少女同士の気安い会話を聞く。

 一向、歯牙に掛けられた様子もない。それは獲物に対する傲りでさえない。愛玩物をどう扱おうか、期せずして手に入った玩具でどう遊ぼうか。

 いっそ無邪気なほどに、魔物達はこの時間を楽しんでいる。

 もう片方の手が伸びてくる。同様にそれを掴み、止める。

 手四つ。相対して。

 

「あぁ? 手押し相撲でもやればいいの……か、っ、あれ? っ! お、おい、この!」

「あっははは、なにそれ。パントマイム? 上手い上手いダーウル!」

「ち、ちがっ、なんで、うごか……!!」

 

 満身の力が加えられている。この手に、腕に。青筋を浮かべる蟀谷(こめかみ)、増加する血量が、全身筋肉のうねりが、聞こえる。分かる。

 しかし。

 

「ぐぅおぉぉぉおおおッッ!!? なんなんだてめぇ!?」

「ダ、ダーウル? な、なにしてんの。え、意味わかんない」

 

 それでは、足りぬ。

 握り捕えた手掌ごと、鰐人の体を押しやる。抵抗する余地もなく、対手はこちらの力に従った。

 

「そら、最後通牒だぜ。その子放して、大人しく帰りな」

「ッッ!!? ッッ!!?」

「!?」

 

 力自慢の相棒が膝を折って崩れる。その様を見てようやく、淫魔の少女は状況を理解したようだ。

 しかし残念ながら、往生際の方は見誤ったらしい。

 

「こっち見ろ!」

 

 言われた通りに目を向ける。そこには先程の、怪しげな光を宿した瞳があった。赤とも桃とも知れず揺らめく色彩、色に乗せた力。

 淫魔の魅了の魔眼。女はその専売特許を惜しみなく披露した。

 瞳から、こちらの眼球へ。こびり付くようにして色が映り込む。それは視神経を通じ脳へ浸透し魂を侵略する。その深度は魔眼の持ち主のレベルによるが、殊催淫という分野において淫魔は突出した能力を発揮する。

 己の眼球、肉体がまともであったなら。

 眼球に侵入しようとする力を瞼で受け止めた。ややも丸めて、纏めて、捏ねて、そうして眼前に放る。目の前で必死に力比べを続ける鰐の少女へ。

 

「へっ? んひっ!? んぁあぁあああ!!?」

「え? は? え?」

「いん、んひゃ、あんっ、にゃにこえ!? にゃんでぇ!? あへぇぁ!?」

 

 手四つも保てず、鰐の少女は床に丸まった。股座へやった手を出鱈目に動かし、秘部を掻き回す。大理石に水溜まりができていた。小水ではない液体が。

 

「あぁあぁ、ひでぇことしやがる……人界において種族固有の異能は私用を禁じられてるってぇこたぁ、無論承知であろうな?」

「う、あ」

「どうする?」

 

 こちらが問うと、淫魔の少女は肩を跳ねさせ後退る。サイドテーブルに腰を打ち、その上の灰皿やらティッシュ箱やら落としたところで。

 踵を返し、部屋を出て行った。開けた前を直すこともせず。

 

「カッ、連れは置き去りか。薄情だな。なぁ坊主」

「! ……あ、あの」

 

 半裸の少年はベッドで身を起こしたまま凝り固まっていた。

 恐ろしい思いをしたのだ。無理もない。無理もないが。

 

「これに懲りて、私娼紛いからは足を洗うこった。いや、今は魔活と呼ぶんだったか?」

「っ! ……なんで」

 

 先程とは違った意味合いで凝固する少年の面を、鼻で吐息して見返す。

 魔物の女相手に、仲立ちを通じず、個人売春を働く者が近頃頓に増えた。需要は確実なのだからそれで小遣いを稼いでやろうという思惑も解らなくはない。だが、浅はかだ。

 このような事態を想定しない。想像はしても、鼻先にぶら下がった金銭を追わずにおれない。

 事程左様にそれも、人情であろうが。

 

「ちったぁ後悔覚えたかよ。次に支払う勉強代は、今日ほど安かぁねぇぞ」

「…………」

 

 項垂れる少年に背を向けて部屋を後にする。

 欲望は底を知らず、そしてまた恥などなおのこと知らぬ。人も魔も、それは変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9話 仔猫の影の底から

 ホテルを飛び出して、路地の奥へ逃げる。無意識に人混みを避けたのは、自分のやろうとしたことへの後ろめたさか。

 一瞬、翔んで逃げようかとも考えた。けれど、躊躇するまま結局は断念した。

 もし空まで追ってこられたら……背筋に冷たい汗と震えが伝う。

 とにかく、逃げる。逃げなきゃ。あんな怪物に目を付けられたら人界で生きてなどいられなくなる。

 あんな。あんな。

 

「あぁもぉお! 最悪最悪最悪! 人間のくせにっ……!」

 

 人間は脆い。人間は弱い。

 その非力は、憐れみよりむしろ庇護欲を刺激した。

 魔物にとって人間がおおよそその程度の地位に格付けされていることは事実というより、自然の摂理だった。

 極々一部の例外、人間種というやつの中には極めて稀に異常な個体が現れる。いけすかない神々や、魔の貴族の方々にすら迫るほどの力を備えるモノ。突然変異、いや異常者が。

 先の大戦で、そういった手合いの殆んどは淘汰された筈だ。そう教えられてきた。だのに。あんな。

 魔物にとって人間などただの餌だ……今の御時世でうっかりとそんなことを口にすれば世間は容赦なくそいつを袋叩きにするだろう。人と魔の共存共栄。それが全世界、両世界を巻き込んで立ち上げられたスローガンなのだから。

 善き隣人でありましょう。

 そんなお題目が、嫌だった。そういう空気に縛られていることが、窮屈でしょうがなかった。

 

 ────淫魔だもん。美味しそうな人間と自由にセックスして何が悪いの? ぜったいその方が楽しくない?

 

 あいつ、あいつの所為だ。

 あいつの口車に乗ってしまったから、私はこんな目に遭ってる。

 後ろを振り返る。暗い路の向こうに人影は見えない。見えないだけだろうか。すぐにでも、追い掛けて来やしないか。

 見上げた空は雑居ビルだかマンションだかに長細く区切られていて、その屋上の影から今にも、跳び降りて来やしないだろうか。

 あの怪物、人間の形をした化物は、もしかしたら警察か何かだったのかもしれない。魔物に対するエキスパートを集めた部署があるとか聞いたことがある。

 通報されるだろうか。そしたら、捕まっちゃうのかな。未成年の人間を、能力を使って犯そうとした。完全にアウトだ。絶対ヤバイ。謹慎や退学ならまだいい。最悪、魔界に強制召還される。渡界ビザは剥奪、取消。強制猥褻なんて事由が残れば、もうほぼ一生在留資格なんてもらえない。大枚叩いて面倒な手続きを何十何百こなしてようやく来られた人界なのに。

 まだ。

 

「四人しかヤれてないのに!」

 

 足りない。足りない。足りない。

 もっと食べたい。人間の精子、淫欲、あの甘い味。一口食べたらもう忘れられない。

 それを取り上げられる。こんなことで、たかがこれくらいのことで。

 ありえない!

 地団駄を踏む思いで駆け足が怒る。そうしてまた一つ、曲がり角を折れた。その先に。

 人影が立っていた。

 

「ひっ!?」

「んにゃ!?」

 

 喉奥から発した掠れた悲鳴に、ひどく間の抜けた声が重なる。

 それは、黒い猫の半獣人、いやケット・シーの少女だった。

 あの男ではなかった……その事実に対する安堵よりも、今は驚き脅かされたという苛立ちが勝った。

 

「ご、ごめんなさいッス」

「うるさい! 邪魔なんだよ!」

 

 振り切った手の甲が少女の頬を打った。強かに。

 爬虫人の馬鹿力ほどでないにしても、悪魔の端くれ。腕力も相応で、少女の華奢な体を突き飛ばすには十分だった。

 

「あぐっ、っ!」

 

 打たれた驚きと、そのまま壁に衝突したことでその娘はさらに声にならない呻き声を上げた。

 思わずそれを見やる。罪悪感、なんて殊勝なものがあった訳じゃない。ただ感情のままに振るった暴力が、取り返しのつかない結果を生んでしまったのではないか。そんな恐れ、不安、その払拭の為の確認行為。

 自分の行動や思考が、最低の屑だと自覚するのは、きっともっと後になる。微かにそんな後悔の予感を覚えながら。

 見やったそこに。

 少女が。

 少女は。

 少、女────

 

「…………へ?」

 

 ビルの、黄ばんで薄汚れた白い壁があった。少女はそれにぶつかった。自分がそこに少女を突き飛ばした。

 薄汚い白の壁が、壁に、少女は腕を()()()()()

 埋まってる。手先から肩口まで、深く、沈んでいる。

 虚に。

 壁に広がる。波立つ。渦巻く。黒。黒い虚。それは穴ではなかった。壁に穴が空いたのではなく、壁に虚ができていた。まるで黒いペンキをぶち撒けたかのような黒々。黒。けれどそれには底が無かった。沼の淵のように、鬼火が誘う死沼のように。

 少女が沈めたその腕を中心に、虚はどんどん壁に広まり、壁を侵し、壁を蝕んで。

 

「『羽虫は礼儀を知らんと見える』」

「あ、あぁ、あぁぁあ、あぁ……」

 

 少女が口を開いた。虚の奥から声がした。

 片や鈴を転がすような、片や岩を擦り合わせるかのような、奇妙な二重奏。

 

「『ほう……羽虫ではなく、走狗であったか。益々以てつまらぬ。その“土産”だけ置いて逝け』」

「ああああああああああああああ」

 

 体はなぜ動かないのだろう。口はなぜ閉じないのだろう。声はなぜ途切れないのだろう。

 この虚を知っている。知らない。この虚を知っている。知らない。この虚を知っている知らない知っている知らない知っている知っている知っている知っている。

 この虚の奥底に坐す御方を、われらは知っている────

 黒い沼の底から飛び出した“糸”に巻かれ、手足を絞め潰され、丸めた藁同然に変わり、引きずり込まれてゆく最中、懐かしい匂いを嗅いだ。麗しの、故郷の香を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え」

 

 ふと気付けば、誰も居ない暗がりの路にぽつりと一人佇んでいた。

 先程ぶつかりかけた女の人も、もうどこにもいなかった。

 

「? ん~??」

 

 化かされた心地で首を捻る。猫が狐に抓まれるなんて洒落にも笑い噺にもならないけど。

 

「あれ」

 

 その時、足元に光る物を見付けた。

 屈んで、拾い上げる。ゴールドの細い輪。精緻な彫細工を施された、シンプルだがなかなか洒落たブレスレットだった。

 

「これって……」

「こぉら」

「にゃふぅ!?」

 

 背後からの声に飛び上がって振り返る。そこに居たのは見知った顔だった。

 剽悍な笑みを湛える、青年。青年にしか見えない筈なのに……なんだか奇妙な男の人。

 

「びっくりしたー。兄貴でしたか」

「コンビニで待っておれと言うたろうに」

「い、いやぁ、あたしもそうしてようと思ってた筈なんスけど……?」

「?」

 

 自分でも上手く説明できなかった。いやできなくはないけど。

 知らぬ間に、気付いたらここに立っていました。なんて。奇妙というか、もはや不気味な話だ。

 変な子だと思われてしまう。今更かもしれないけど。

 

「ん、なんだいそりゃ」

「ああ、これッスか。今ここで拾ったッス」

 

 金のブレスレットを青年に掲げ見せる。そうして、不意に思い出した。

 

「あ、きっとさっきの淫魔のお姉さん」

「……淫魔」

「そうッス。曲がり角でぶつかりそうになって……なってぇ……うーん? うん、たぶん落としたんじゃないッスかね」

「心底虚覚えだな」

「にへへへ~、すんません」

 

 後ろ頭を掻いてはにかむ。なんかリアクション間違えてる気がする。

 ふと、思い立って、ブレスレットを腕に嵌めた。腕を上げて猫手で手招きなどしてみる。あざといなーなんてちょっと恥ずかしくなりつつ。

 そのまま。

 

「えへへ、どうッスか? 結構似合う────」

 

 ぐらりと、視界が揺らいだ。

 全身が脱力する。骨がなくなったみたいに、頼りなく、力なく。

 倒れる。

 地面と衝突する寸前に、体は支えられていた。大きな手、太い腕、軽々抱き留められて背中越しにその力強さを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうした!? おい!」

 

 突如、足元から崩れ落ちた少女を抱え、声を掛ける。意識レベルの維持を試みてのことだが。

 焦点の合わぬ目、だらしなく開いた口の端から涎が頬を落ちる。全身の筋肉が弛緩してしまったかのようだった。

 このままでは遠からず失神か、半昏睡状態に陥るだろう。

 

「おい! 寝るな! 目を開けろ! 聞こえているか!?」

「ん、にゃぁ……」

『腕輪だ! 腕輪がオードを吸っている』

 

 烏の言葉にそれを見やる。即座、金の腕輪を少女の手首から抜き取った。

 

「ふにゃ……ぁ……あ……?」

「しっかりしろ。気分は? 体の状態はわかるか?」

「あぁ……なん、か……ふにゃふにゃ、するッス……気ぶん……? たぶん、へーき……ッス」

『オードの枯渇による一時的な麻痺と意識混濁だ。生命維持に支障は来たすまい』

 

 烏の簡易な診断を聞き安堵を覚えたのも束の間、今ほど語られた症状は直近の記憶野を大いに刺激した。

 

「先刻、路地で倒れていた会社員の男。あれも一時に多量のオードを抜き取られたゆえの昏倒、だったな」

『然り』

「この腕輪を持っていたのが先の淫魔であったとして、この時と場の近接符合……偶然と片付くものか?」

『“石”の保有者は何らかの理由により一般人からオードを奪っていた。しかし、あの淫魔は保有者ではなかった』

「協力者か、無自覚に利用されていたか。はたまた我らが未だ関知せぬ別働する何者かが存在するか……」

 

 いずれも不確か。その曖昧模糊とした推測に基づいて動くにせよ、今少し確度を要する。

 だが手掛かりはあった。今、この手の中に。

 彫金の細い腕輪を見る。それの表面に刻まれている規則的な紋様は文字だ。それも人界の言語ではない。魔界の、かなり古いもの。古い血族……貴族と呼ばれるモノ共が使う魔術式である。

 

「! こいつは」

『物質転移に似た術の組成だが、今少し単純で強固なもの。腕輪を通してオードが転送されている』

「大元を辿れるか」

『時間は掛かるが可能だ』

 

 烏の胸に鏡が開く。腕輪をそこへ放ると、それは波濤を立てて鏡の中に入っていった。

 

『……逆探知を警戒してか、かなりの数の中継点を経由している。解析完了は明朝になる』

「そうか……俺の方も当たりをつけたのが一人居る。登校して来てくれりゃあ面倒はねぇんだが、いずれにせよ」

 

 明日、決着をつける。

 胸の内にまた一つ覚悟を終えて、腕の中の少女を見た。娘は依然、脱力しきった様子でぼんやりとこちらを見上げるばかり。

 

「災難だったな」

「あはぁ、はは……そ、ッスねー……」

「とりあえずこのまま己の(ねぐら)に運んじまうが、いいかい?」

「んにゃ~……あたし、お持ち帰りされちゃうんスね~……にへへ」

「おぉ、嫌ならここに寝かしといてやってもいいんだぜ?」

「ひぇっ、しょんな、せ、殺生なぁ……」

 

 萎れた声を上げて拝み手を作る娘子に、堪らず吹き出して笑う。

 

「そんだけ減らず口がきけりゃ上等だ。よっ、こらと」

 

 黒猫娘の矮躯を抱え上げ、歩き出す。先に飛び立った烏の後を追う。

 思えばなんとも、長い夜である。

 

「あ、ところでな」

「はぁい、にゃんでしょ?」

「いやなに、お前さんの名めぇだよ。すっかり訊きそびれちまってたこと思い出してな」

「……あぁ、ホントッスねー……にへへ、あたしもうっかりしてたッス……」

 

 またぞろ照れ臭そうに顔を綻ばせる。微睡に蕩けた瞳で己を見上げ、娘は言った。

 

「エル……エルって、呼んでください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10話 変な人間

心理描写は書いてる分には楽しいけれども話まったくまんじりとも進まなくなるね(自業自得)


 

 

 借り手もつかない雑居ビルの最上階。それが今時分、この地における己の(ねぐら)であった。

 コンクリート打ちっぱなしのだだっ広い十畳間。元は何かの事務所であったそうだ。

 事務机やら書架といった業務用備品は既に撤去され、家具すらろくろく残されてはいなかった。

 ただ唯一、黒革のソファだけが部屋の真ん中を占拠している。置き土産、というより運び出し処分する手間を嫌ったのだろう。

 己の持ち込んだ硝子テーブルと細々した生活雑貨を除けば、この部屋の全容はそれで仕舞い。

 頭上で回る天井扇はせめてもの遊び気であろうか。

 

「なーんもないッスね」

「引っ越して来たばかりでな」

「いやそれにしたってこれはちょっと……あたしが住んでた廃ビルのがまだ生活感あったッスよ?」

 

 取り壊し予定の建物をまさしく我が物顔で住処に仕立てあげるのもどうかと思うが。まあ言わぬが花よ。

 弁は立っても未だに足腰の立たぬ娘子をソファに横たえる。寝入った赤子同然に、娘は座面に身を沈めた。

 

「……なんか、すんませんッス」

「あん? どうした。ハハハッ、今更しおらしくなっちまってよ」

「今更って言われたらそりゃもう今更ッスけどね! でも、だって……ご迷惑お掛けします」

「さて、俺ぁ拾った猫に餌付けして家まで連れて帰ったまでよ」

「にゃおん」

「ハハハッ!」

 

 実にそれらしい鳴き声である。妙に気の利いた娘っ子だ。

 愛想だ媚だの使い方を心得ている。それを世馴れと取ろうか、擦れ根性と厭おうか。

 強かだ。見上げたものよ。

 

「ならばついでに風呂でも入れてやろうか?」

「いやんえっち! やっぱりあたしのカラダが目当てだったッスね!」

「へへへ、じたばたすんじゃあねぇや。おぼこじゃあるめぇし」

「いやー! ケダモノー! スケコマシー! わぷっ」

 

 威勢良く悪い方に乗り良く吼える娘に毛布を放ってやる。もぞもぞと蠢き、毛布の端から二つの耳と頭、そうして小さな顔が出てきた。

 

「まあ、風呂は明日でよかろう。西側の扉が脱衣所だ。好きな時に使いな」

「……ありがとうございます」

「あいよぅ」

「あれ、そういえば兄貴は何処で寝るんスか? 他の部屋とか?」

 

 寝床の質を気にするほどの繊細さは持ち合わせぬ身ゆえ。今ほど娘が寝転んでいるソファが、己の普段の寝所である。

 

「ああ、そんなとこだ。少し早いがもう休めよ。今宵はほとほと多事だったからなぁ、随分と疲れたろう」

「あ、はい、まあ……ううん、ホント言うとむっちゃ疲れました」

「一晩眠ればオードも戻ろう。そら、灯りを落とすぞ」

「はい……兄貴!」

 

 壁際のスイッチに手を掛けたところで突如、呼ばわれる。

 見やった娘子は、すぐには二の句を継がず。迷い、躊躇い、探しあぐね。

 

「……おやすみなさいッス」

「ああ、おやすみ」

 

 

 

 

 

 

 

 使い古されて、妙に小馴れた柔らかなソファと、こちらは買ったばかりらしい真新しさの残る毛布。なんだかちぐはぐな感触に挟まれて、それでも暖かな寝床に安堵した。

 微睡み、ぼやけた頭の中で、繰り返しに浮かぶ。

 変な人間。

 

「……変な人間」

 

 そう繰り返しに呟く。同じ印象。同じ言葉。

 それは、部屋に転がり込んだ今も変わらない。むしろ補強されたような気さえする。

 親切にしてくれる人はいた────けれど、肩入れしてくれる人はいなかった。

 それはそうだろう。ほんの一時、勢いつけて発揮する仏心とかいうやつと、深入りして終わりの見えない責任を負い続ける覚悟はまったく違う。

 どちらがより厄介で、困難かは言うまでもない。

 その厄介者であるところの自分を、受け入れてくれる人間はいなかった。それが当然だ。出自の知れない自分のような魔物は、人界では例外なく忌み嫌われる。同じ魔物が相手であっても。いやむしろより一層、女性型の、同じ()()()性別にある魔物にとっては特に。

 自分のような者は、心底疎ましかろう。

 不思議とは思わない。人界に来られる魔物は限られている。今でこそ、多くの渡界者で溢れているかのように見えるこの世界だが、魔界は未だに深刻な女魔物余りが続いている。伴侶(つがい)の有無どうこうで悩める内は平和で、いっそ下らない笑い話だけど……問題は種の存続を第一とするような野性を色濃く残す魔獣。そして、存在の維持に人間を必要とする、不可欠とする魔物達だ。

 淫魔や吸血鬼など解りやすい種族もあれば、人間の堕落、悪徳の行為、精神性を得て存在を維持する悪魔のようなケースもある。

 けれど、これは極論すれば、魔界の住人全てに当てはまる。

 魔なるモノには、それを()()()誰かが必要なのだ。求めるとは、なにも好意だけを意味するのではない。忌み嫌われ、畏れ戦かれることもまたその存在を証し立て、明らかにし、確固としてくれる力。

 感情をくれる誰か。好も悪も色とりどりに、数限りなくその内に宿す、この世界で最も豊かな心を持つ生物。

 人間以外にない。

 人間が、魔物達の生命線だった。

 ……まあ、近頃は特に、性欲にこそ、その重きが置かれているけれども。

 

「ぁ、あたしは違う……違うもん……」

 

 そりゃあまったくの絶無(ゼロ)とは言わないけど……言わないけど。

 私を軽々抱きかかえてくれたあの男の力強さが、否応なく脳裏を過る。筋張って、血管の浮いた前腕と、太い二の腕。程よい弾力の胸板に頬を預ける安心感。見上げた男の太い首、そこに隆起した喉仏の存在感。雄の、象徴のような器官。

 最近の魔界ではまず見ない、猛々しさを秘めた男性。刈間ギンジ。

 その姿を思い起こすと、どうしても、やっぱり、邪なものが胸の奥に擡げてくる。下腹部に、熱を。

 

「ッッッ! だぁーッ! これじゃあただの痴女じゃないッスか!?」

 

 包まった毛布の中でもぞもぞ悶える。

 仕方ない。仕方ないことなのだ。妖精(ケット・シー)とはいえこの身は猫。獣の性質が強く表れている分、性的な欲求も相応なのだ。だから仕方ないことなの! 

 ……誰に対する言い訳なのやら。

 

「……」

 

 人界に来たのは、別に(つがい)を作る為じゃない。色事に対する興味も、ないことはないけど、不法入界なんて無茶無謀に走る理由としては薄い。

 孤独だった。気付けば、独りで生きていた。魔界に居た頃も、人界に入り込んだ今も結局ストリートチルドレンの一人。

 街の雑踏を歩く度、遠く人の喧騒を聞く度、私は自分が独りであることを思い知る。

 でも本当に恐いのは、孤独感に苛まれている時じゃない。恐いのは、私が、怖れて止まないのは。

 孤独の辛さを忘れてしまうこと。慣れ切って、独りを寂しいと思えなくなること。

 妖精なんて曖昧な自然現象みたいなものだ。ただふらふらと存在して、流れていけば、いずれ土塊みたいに風にさらわれて消えるだけ。

 消えてしまう。なくなってしまう。

 孤独は辛い、独りは寂しい、そうやって涙を流せるなら、私はまだ私だ。ここに居る。エルって名前の猫妖精だって、言い張れる。

 でもそうでなくなったら。そういう当たり前すら忘れて失ってしまったら。

 魔界にも人界にも私を覚えていてくれる誰かなんて居ない。私はただ、誰でもない何かとして、この世界から消去される。

 それが、堪らなく、こわい。

 

「…………」

 

 ソファの上で背中を丸め、体を両手で抱き締める。私はここに居る。ここにちゃんと在る。それを確かめる為に。

 毎夜毎晩この確認行為をする。止められない。止めたら、朝を迎えられないんじゃないか。本気でそんな不安が胸を、頭の中を一杯にする。こうなったらもう眠れない。私はただ日の出の到来を、息を潜めて待つことしかできない。

 誰か。誰か。誰か。

 

「……兄貴」

 

 刈間ギンジという人が、私にはまだよくわからない。今日、いやついさっき出会ったばかりなのだからわからなくてもそれは当然で。わかった気になる方がおかしい。頭がおかしい。

 親切な人だと思った。優しい人でよかった。

 ────何か裏があるんじゃないか。本当は、とても恐ろしい人なんじゃないか。

 疑いは幾らでも想像できた。それでも、こうしてのこのこ付いて来て、与えられた寝床で一時の安堵を噛み締めている。

 

(やっすいなぁ、あたし……)

 

 優しくされたら、やっぱり嬉しい。まるでなんでもないことみたいに、気負わない衒いのない彼の施しは、暖かだった。

 善い人。でも聖人じゃない。覚者なんて柄でもない。

 不思議な能力を持っていて、明らかに戦い馴れした態度で、そもそも戦う理由を抱えている……ただの人間じゃないことだけは確かだけど。

 でも、私はたぶん今、とんでもなく運命的で、一生涯で一番の幸運に巡り逢っている。

 私の孤独を吹き払ってくれる。私が今の今まで孤独だったという事実を思い出させてくれる。

 私を助けてくれる。

 そんな、都合の良い人に。こんな図々しくて、浅ましくて、烏滸がましい願いを、叶えてくれるかもしれない人。

 私に居場所を……私の居場所に、なってくれるかもしれない人。夢にまで見た。夢でしかなかった。こんなこと。

 

「兄貴……信じて、いいッスか……?」

 

 貴方を利用してもいいですか。貴方に縋り付いても、いいですか。

 

「!」

 

 物音がする。彼が出て行った扉の向こう。

 程なく、それが階段を上がる足音であることがわかった。

 ここは最上階の部屋だ。すると彼はその上、屋上に向かったのだろう。こんな夜更けに。

 

「……」

 

 不信感、なんて持てるほど私は刈間ギンジを知らない。だからこれは間違いなく、不安感だ。

 不安に衝き動かされ、未だ重みと怠さの残る体を起こす。それでも、立って歩くくらいなら支障はない。ネコ科の魔物は夜こそ本領。オードの回復も早い。

 のろのろとした動きで、努めて足音を殺しながら、私は屋上への階段を登った。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11話 変わらぬもの

5/28ちょっと加筆


 

 

 携帯端末を取り出し、目当ての名前を一覧から呼び出す。

 風は冷涼だが、そこには生々しい熱気を覚えた。夜はこれからとばかりの、人の、魔の、街の活気。それがビルの狭間から漏れ聞こえ、夜空の疎ら雲に宿りまた降り注ぐ。

 屋上の鉄柵に肘を預け、夜景になにやら耽った。

 呼び出し音が丁度三回。程なく、妙に艶気のある男の声がマイクから耳孔を揺さぶる。

 

『お前から電話なんて珍しいじゃないか』

「いくら死に損ないの爺でもな、今時スマホぐれぇは使うのよ」

『老人扱いして欲しいならせめてそれらしく振る舞う努力をしろ』

「これでも善処はしてるんだがなぁ、ハハハッ!」

 

 処置なし。そんな気息が受話口から溢れた。

 

「無沙汰だな、真柴警部補殿」

『今は警視だ。嫌味か?』

「昔を偲んでんのさ。なんせ昇進秒読みの出世頭様は肩書がころころ変わっていけねぇ」

『まったく……』

 

 真柴レオン。

 K県警外界事象特殊捜査科所属の元警部補。現在の階級は自己申告の通り、三十の半ばを数えぬ内に警視ときた。日ノ本有数の難関大学卒業後国家公務員採用1種試験を易々と通過し果せた所謂キャリア組。そこに才覚と確かな能力が揃えばなるほど、出世頭とのこちらの評に何程の錯誤もない。

 十年来の腐れ縁は、変わらぬ忌憚のなさで盛大に溜め息を吐いた。

 

『それで、用件はなんだい』

「なぁに大したことじゃあねぇ。つい先刻よ、仔猫を拾った」

『……続けろ』

 

 ちくり、針のように鋭く、警戒感が電話口から立ち上る。

 それをしかし、さも素知らぬといった風情で話を続けた。

 

「家もねぇ行く宛もねぇってんで部屋に連れ帰ってきたなぁいいが、それではい仕舞いという訳にもいかねぇ。住まわせるにしてもいろいろと手続きが要るだろう。この國に限った話じゃあねぇが」

『まあな……』

「その辺りを諸々踏まえて、差し当たり後見人になってだな」

『待て』

「たしか以前己が使っていた別口の名義がぁ、あったろう、ほれ、そっちに厄介になってた折の、嘱託の特務警官だかパート警官だか騙ったあれよ。いや成人の身分証明になりゃモノはなんでも構わねぇんだがな」

『待て!』

 

 怒声が耳を貫いた。端末を耳から離しても、大音量の御小言が過不足なく聞こえてくる。

 

『お前なぁ……軽々しく魔物を拾って、いや拾うだけならまだいい。良くはないがまだマシだ。生活の面倒を見るのも匿うのも勝手だ。だが、せめてもう少し段階を踏め!』

「踏んでおるだろう、今」

『スタート地点がおかしいと言ってるんだ』

「カッカッ」

 

 至極真っ当な苦言であった。

 なればこそ、この男に電話を寄越したのだ。

 

「まあ、思い立ったがと、よく言うだろう」

『……本人はなんと言ってるんだ。お前に在留の口利きをして欲しい、そう願い出てきたのか』

「いいや、あの娘が望んだのは今日の一宿一飯だけだ。他に期するものはねぇ、そう腹ぁ括った面してやがった」

『……』

「身の程を知っている。媚を売り、愛想振り撒き、時に図々しいふりしてお道化てみせもするが、全て承知の上でのこと。そういう救われねぇ賢しさが、どうにも気に入った」

 

 孤独を恐れ、誰かを求めながら、孤独であることに納得している。それは諦めに近しいが、冷徹な思索を尽くした覚悟だった。

 そういう者が、俺は好きなのだ。

 

「気に入ったんで、ちょいとばかり節介を焼いてやるのさ。頼まれもしねぇ恩着せよ」

『性質が悪いな』

「まったくだ。可哀想に」

『はぁあ……』

 

 他人事に宣う己にとうとう呆れ果ててレオンは五臓六腑から吐息した。

 

『その様子じゃビザどころかその子、無戸籍だな?』

「そうなる。ま、身の証が立つ程度に体裁整えるなぁ難しかねぇ。政所(うえ)に掛け合うなり、裏に買い求めるなり……二つ目は冗談だぜ」

『当たり前だ。外特(ぼく)らに部屋へ乗り込まれたくないなら、今後そのジョークは控えてくれ』

「ククッ、気を付けよう」

『しかし、それならこの電話は何の為だい。聞く限り、お前がその仔猫を引き取るだけなら問題はないように思えるが』

「ああ、それがな……学校にな、通わせてやろうかと思ったのよ」

 

 おそらく、あの娘は学び舎と呼ばわるものを一切知らぬまま育ってきている。地頭の良さが災いして、それで支障来たすこともなく今の今まで生きてこられたのだろうが。

 

「当人の意思次第だが、行っておいて損もあるめぇ」

『それこそ、お前が指南してやれ。なにせ今まさに学生生活の真っ最中なんだろう?』

 

 意趣返しとばかり、実に皮肉気な口ぶりで、実に痛いところを突いてくる。

 

「そうさ、そうとも。老い耄れの糞爺がどの面下げてか子供らに混じって高校生活に勤しんでるよぅ」

『ふふふ、宮仕えは辛いな』

「私兵だ。遣いっ走り。いや鉄砲玉ってぇ方がしっくりくる。フトダマめの卜占がとち狂った所為で、とんだ暴発だぜ」

『……殺生石か』

「それ以外にあるめぇよ。己が未だ無様な生を晒す理由なんざ」

『……』

 

 殺生石は神出鬼没の権化。あれは次元境界にいとも容易く穴を開け、あらゆる場所に移動する。ゆえに、その存在を、影響が及ぼされるより前に感知することはほぼ不可能に近い。

 唯一、アメノフトダマノミコトの執り行う正占(ますら)の祭祀を除いて。

 

「通わされっちまってんなぁこの際仕方ねぇ。だがどうも、何分今の学校ってもんに不案内でな。入学の準備だの手続きだの、経験者殿に御教示願おうと思ったのよ」

『あぁ……なるほど』

 

 子持ちの()()()()知り合いは、生憎と少ない。その数少ない内の一人がこの男である。

 

「妻子は元気か?」

『元気だよ。アキがお前のことを心配していた。「ちゃんと食べてますか」だそうだよ』

「ハハハッ、なんだすっかりおっ母さんだな。アリアちゃんは今年幾つだ?」

『十一。もう五年生だ』

「早いもんだなぁ」

『ああ、本当にな……』

「しっかし、顔を合わせりゃ喧嘩喧嘩だったアキ坊とお前さんがまさか夫婦(めおと)んなって、おまけに可愛い娘までこさえるたぁ。世の巡り合わせってなぁほとほとわからねぇもんだ」

『なんだよ、改まって』

「感慨に浸ってんのさ。巫女とインキュバスなんて取り合わせ前代未聞だったが、案の定というか反目の根深ぇこと根深ぇこと。手前らの間を取り持つなぁ心っ底苦労したぜ」

『えぇいっ、十年も昔の話を蒸し返さないでくれ』

「カッカッカッ!」

 

 十年など、己にとってはつい昨日の事だ。老いさらばえ、ただ風化していくばかりのこの魂に、それでもまだ鮮やかに残ってくれている記憶。細やかな、思い出。

 この真面目堅気なインキュバスを昔話で困らせてやるのが、なんとも楽しくて仕様がないのだ。

 その後も、役所の手続きだの学校案内だの所帯染みた話を二、三、そうして取り留めもない思い出話を幾らか。電話の向こうに居る青年が変わりなく、そしてこの十年で立派な父親に変わっていたことを知った。

 変わらぬもの、変わりゆくもの。

 一途な想いに包まれながら、子は育つのだ。筋違いな実感を得て、筋違いに、俺はそれをひどく尊いと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「変わらないのはどちらですか!? お母様!」

 

 魔導式端末による外界通信網の向こう側に在る彼女に、私は絶叫した。

 

「時代錯誤? 家柄と血筋に拘泥する貴女の口からよくもそんなことが言えますね!?」

 

 それはある種、規定された事柄だった。私がマスティマ家に生まれたその時から。

 貴族は家の存続の為に、同じ貴い血と結びつかなければいけない。そんなしきたり────糞喰らえだ。

 

「淫魔がっ、愛する男を貪って何を咎めるって言うの!?」

 

 色欲に命を尽くすのが我らではないのか。淫蕩に耽り、めくるめく夢に男達を堕さしむのが、至上命題である筈だ。

 ……私は、それがただ一人だった。

 私が貪り喰らいたいのは。私が融かし交わり重なりたいのは。私が、愛欲に沈め、私自身すら溺れたのは。

 私が愛した人は、あの人だけだった。

 

「お母様!? まだ話は! 私はあの人と……!」

 

 続く言葉は、携帯端末の無音に黙殺される。母は私の望みを切って捨てた。浅はかで、甘やかで、細やかな夢。

 愛する人と添い遂げたい、そんな小娘らしい我儘。

 わかっていた。何度も何度も、この問答を繰り返して、その度に道理を語って聞かせようとする母はいっそこの上ない誠実さで、厳格さで、私と向き合っていると言えるのかもしれない。

 現実を見ない私は、愚かだ。間違いなく。

 現実を受け入れない私は、いずれ母の指図によって魔界に呼び戻されるだろう。人界での在留許可を出し、資格と身分を保証しているのは誰あろう母なのだ。

 魔界。あの懐かしくも忌々しい世界に召還される。

 人界から、人の世から、あの人の。

 

「ケンくん……ケンくん……!!」

 

 それだけは、絶対にイヤ。断じて、認めない。

 私のケンくん。私だけのケンくん。愛してる。愛しています。貴方だけを。貴方だけしか見えない。

 わかってる。貴方が別れを切り出した理由も、それがまったく、どうしようもなく、苦汁の決断だったことも……裏で母が貴方にお金を渡し、脅迫紛いの恫喝をしていたことも全部全部全部。

 

「許さない」

 

 私と貴方を引き裂く全ての事象を許さない。

 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!

 だから。

 仄暗い洋室の奥。化粧台に鎮座するダークブラウンの小箱。蓋には金属の錠前が埋まっている。そして鍵穴の奥から────怪しい光が漏れ出している。

 

「ケンくん、待っててね。もうすぐだから。もうすぐ……永遠が手に入るよ。私と、ケンくんだけの……」

 

 

 

 

 

 

 

 寡男の独り住まい。そんなところに娘子が一人身を寄せるとなれば、なにくれとなく物入りだ。

 寝具を買い、衣服を買い、その他細々と生活雑貨を見繕う。中身の乏しい冷蔵庫に二人分の食料を買い込み詰め込む。

 それはなんとも小忙しい数日間だった。街へ出掛けて、大荷物を抱え、棒のように草臥れた足を叱咤して歩く幾度目かの帰路。

 

「にゃはは、大量大量♪ いやぁこんにゃ豪勢に買い物したのアタシ生まれて初めてッスよ」

「そうかい」

「……ごめんなさい」

「ん? どうした突然」

「お金、いっぱい使わせて。迷惑かけて」

 

 夕暮れを背に、突如娘の顔は翳った。影の中には変わらず爛漫な笑顔がある。しかし。

 時折、娘はこんな表情(カオ)をした。それは、言葉通り金を浪費することへの後ろめたさであるのだろうが、それだけではない。

 それはおそらく。

 戒めている。己を。今の自分の立場を。

 いや、言い聞かせているのだ。

 こんなことは長くは続かぬ。調子に乗るな。終わりは来る。きっと来る。きっと、今に。

 捨てられる。

 

 ────希望を持つな

 

 必死に、執拗に心中で繰り返している。それはそんな顔だった。

 慣れているのだ。他人の親切に、仏心に。そしてそれが、そう長続きするような代物ではないと、知っているのだ。

 

「……や、にゃははは! さ、行きましょっか。日が暮れちゃうッスよ、兄貴」

 

 空元気を振り撒いて娘が駆け出す。

 それを健気と取るか、憐れと取るか。あるいは、そういった感情を対手より引き出す目論見が娘にはあり、己はまんまとそれに嵌められている。なるほど、あり得ることだ。もしそうなら、己は潔く負けを認め精々都合の良い銭袋役を務め上げよう。

 そうならいい。その方がいい。

 そのくらいの強かさあらば、あの娘は何処であろうと生きて行けよう。刈間ギンジなどという出自怪しき男を頼るまでもない。なんとなれば利用し、使い途を終えたなら見限ってしまえばよいのだ。

 そうであったなら、よかったのだが。

 

「儘ならぬものよな」

 

 異界と現世。

 著しく融け合い、混ざり合ってしまった今でさえ、彼の地と此の地は存外に遠い。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12話 ここが帰る家になるなら

自尊心低めな女の子いいぞぉこれ(人でなし)


5/28ちょっと加筆


 

 黒い仔猫が我が(あば)ら家に寝床を拵え、早数日。

 いやはや馴染んだもの、などと気安くは言い難い。それこそ猫は家に居着く獣なれば。

 この身に全幅の信を置いてくれるなどとまさか思うまい。己がかの娘子より得るべきは信頼ではなく、信用である。この現世で、利用価値を見出されることである。

 

「兄貴は……」

「おう、なんだい」

「い、いや、その……なんでもないッス」

 

 そう広くもないビルの一室。

 顔を合わせる度、遠慮がちに薄ら笑いを浮かべる娘に、さてどう踏み込んだものかと、悩む。

 こういう時はこの粗忽な性質が恨めしい。いやさ、時ばかりは無駄に長く、それは長く()()があったのだ。その無用の長々とした時間の中でこの悪性を正すということせなんだ我が身の不徳と言えよう。

 幼い子供を相手にひどく往生している。大の男がまったく、無様なもの。

 レオン辺りに笑われそうだ。

 

 

 

 日の出の早まりを覚える春日和。白んだ街並みを窓から望み、朝焼け露に濡れるアスファルトの匂いを嗅いだ。

 早朝、元は給湯室だった炊事場に赴くと、どうしたことかそこは、煙で充満していた。

 

「おぉ!? おいおいおい」

「ぁ、兄貴ぃ~……」

 

 煙の中に黒く小さな人影。猫娘のエルは、ガスコンロを前になんとも情けない声を上げた。

 兎にも角にも窓という窓全てを開け放ち煙を追い出す。依然、閑静な早朝の街へ、朦々と焦げついた臭気を解き放った。火災報知器がガラクタ同然であったのが幸い、もとい危なっかしいことこの上ない。

 

「あ、朝ごはん作ろうと思って……」

「ほぉ、それで、こりゃなんだい」

「……卵焼きッス」

 

 フライパンの中心で黒煙を上げる黒い物体は卵だったか。食材の買い置きなどなかった筈だ。おそらく昨夜のコンビニでこの娘が調達しておいたのだろう。

 その気遣いの行き届きに比して、実践はまだ不得手と見える。

 恥ずかしげに下を向く娘子の頭の上で、しゅんと両耳が萎れている。

 

「次に火を使う時ゃ、己を呼びなよ。慣れるまでは危ねぇから。いいかい?」

「あ……は、はいッス! ごめんなさいッス……」

 

 小振りな頭に軽く触れ、撫でる。柔らかな毛並みの下、耳が頻りに揺れ、微かな震えを感じた。

 

「ハハハッ、なんだなんだこのくれぇで。随分としょげ返っちまって」

「だ、だって、その……拾ってもらってから今まで、一宿一飯どころじゃない恩義がありますから! なにかでお返ししないとって、思って、思ったのに……」

「ほほう、そらまた殊勝な心掛けだな」

「そ、そんなそんな。当然のことッスよ当然の! はは、はははは……」

 

 なにやら言い訳染みた物言いで、娘は取り繕うように笑みを作る。

 さてさてなにを気負うておるのやら。無為徒食の輩は厄介払いされるとでも恐れてか。

 はたまた、この聡い耳が、なんぞ聞き取ったのやもしれぬ。

 

「そう気を張らずともな、掌返して追ん出したりしねぇから安心しろ」

「……」

「流石に、信頼をしろとまでは言わんさ。なんせ行きずりで偶さか出会うた怪しげな男だ。だがそれだけに、怪しげな手管と伝手に通じておってな。お前さんが一人立ち出来るように計らう程度、こう言っちゃなんだが造作もねぇんだぜ?」

 

 お道化て肩を竦めて見せる。

 娘は、伏し目がちにそれを見上げて来た。それは、実に怖々とした────

 娘が自分自身に対し、厳に禁じ続けてきた心根。

 

「……ホントに?」

「おう。請け負うとも。無論、お前さんにその気があればの話だがな」

 

 娘は、先夜の成り行きを聴き知っている。別段、隠し立てするようなことではなかった。盗み聞きとて、咎められるようなことでもない。

 なにより自身の与り知らぬところで勝手に決められた仕儀。あるいはこの娘が気に染まぬと言うなら己は手出しを控えるだけだ。

 おのれの生き様はおのれで決めるもの。可能不可能を論ずるは後も後。決意あって、全ては始まる。

 望みあって、その進む道を決める。

 では、この娘子は。娘の望みとは。

 暫時、黙って俯いていた娘は、ゆっくりと顎を上げ、己を見上げた。

 揺れる瞳にあるのは、不安。そして抑えようと抑えきれず、隠そうとも隠しきれぬそれは────期待であった。

 この娘は過度な期待だの希望だのが往々にして裏切られ易く、また失望がどれ程に苦み辛いかをよくよく心得ている。

 それを臆病などとは言うまい。ほとほと賢しき心積もりである。

 

「お前さんのその堅ぇ気組は見上げたもんだが、しかしどうだい、今少しばかり」

「……優しい人はいました」

 

 ぽつりと娘は言った。感情の色味も薄い、ひどく虚しい響きで。

 

「親切にしてくれる人は、いました。逆に親の仇みたいに心底嫌われることもありました。殴られたり蹴られたりはしょっちゅうで、血のオシッコが何日も止まらない時だってありました。でもそんなのは、平気です。痛いのも、苦しいのも、耐えればいずれ消えますから……」

 

 それは自嘲の笑みだった。苦辛の過去をその目に映しながら、どうしてかかの娘が軽んじるものは自分自身なのだ。

 

「恐いのは……本当に、耐えられないのは……無視されることです。まるで居ないものみたいに扱われることが、誰にも見られない聞こえない、触れられないものにされるのが……誰かが識ってくれなきゃそれは無いのと同じなんです。この世に存在出来なくなるんです。あたしら妖精なんて、突然現れる自然現象みたいなものです。ある日突然消えてなくなったっておかしくない。それを誰も、何も、気にも留めません。空しいんです。堪らなく恐いんです。恐いんです。恐いんです!!」

「……」

 

 娘は叫んだ。万感の、全霊の、恐怖を。

 

()()()ないでください……なんでもします。身の回りのお世話でも……痩せっぽっちだけど、体だって、好きにしてください……だから、あたしを見てください。()()()()として、扱ってください。お願いします。お願いします。お願いっ……だから……!」

 

 シャツの裾に両手で縋る。華奢な、小さな手が、その見た目からは想像外の力で必死に、強く強く。

 見上げる娘子の顔が歪む。苦悶する。鋭痛を堪え、今にも嗚咽し、感情を決壊させるその寸前で忍耐している。

 幾度の裏切りを経たのか。幾度の失望を噛み締めたのか。寒々しい現実に骨肉と心を凍てつかせ、諦めが常態となるまでに果たしてどれ程の時を要したか……そう長くはなかったろう。夢想を抱いて生きるには辛い浮き世だ。

 孤独の生涯に、諦めながらも希望を見ずにおれぬ。その(いたい)けなさは痛ましくさえあった。

 現代現世にあってしかし、この懊悩の何が奇異(おかし)かろう。格段に豊かさを増した資源大量消費社会。昔日よりも恵まれていると余人は軽々に(のたま)う。一面、それは正しいやもしれぬ。飢餓や疫病は減り、子が七五三を数えることは当然と考えられるようになって久しい。その慶ばしきを疑う余地はない。

 ゆえに、ゆえにこそ。この目の前で、容易に涙すら流せず立ち尽くす一人の娘子を救えぬ世界を疑わねばならぬ。否定せねばならぬ。

 誰あろう、己だけは断じて。

 

「……」

 

 義憤を肚のそこで燃やす己の、なんと滑稽なこと。反駁の余地なき無様よ。

 意気を吹き、息巻くは易い。所詮この身に能うのは、この拳の間合にあるものを打つか、護るか。この二肢。高々そればかりなのだ。その事実に幾年、幾星霜打ちのめされてきた? 飽き切るまでに厳然と、この身を切り刻んできたではないか。

 分際を忘れたかよ、刈間ギンジ。

 此度、自嘲を食むのは己であった。我が身の性能を見誤っている。恥ずべきことだ。己に出来ることなど、出来ることなど。

 笑んで、娘を見下ろした。殊更に子供受けする人相でもない。せめて僅かでも和らいでいればいい。

 この娘が僅かでも、安堵出来るなら。

 

「お前さんの望みを十全に叶えてやれるか、それはわからん。なんせ想い願いの一等深いところの話だ。軽々に(うん)と吐くこともできようが、それではお前さんも、安心などできまい?」

「……」

「カッカッ、大法螺吹いてやるのも甲斐性! と、そう言われっちまえばそれまでだ……この甲斐性無しにできることとなると、そうさな」

 

 ポケットに手を入れて、それを取り出す。

 娘の眼前にぶら下げて見せる。

 

「え……」

 

 ゆらゆら揺れる小さな銀色。何の変哲もないピンシリンダー型の鍵である。

 娘は半歩後退り、それを両手で受け取った。依然として不可解げに黒々とした目を瞬く。

 

「これって……」

「ここの鍵だ」

「ここ?」

「ああ、ここ」

 

 鸚鵡返しに鸚鵡で返す。そうして軽く足で床を打った。

 なんのことはない。このビルのこの階層、この部屋の扉を開ける為の鍵。それだけの木っ端な金属片。

 

「ここはもうお前さんの家だ。だから、この鍵はお前さんが持ってな」

「…………」

 

 呆然として娘は鍵を見、己を見上げ、そして今一度鍵に目を落とす。

 手の中にあるその小さなものがなんであるのか、即座には理解できず。しかし、少しずつ。亀裂を満たす石清水の如くに、その意味が娘の中で了解されるのが見て取れた。

 

「ぁ……」

 

 ぽたり、一滴。宝珠のように煌めく露。涙が鍵を打った。掌を打った。

 幾たびも幾たびも、涙は流れて落ちた。

 証と呼ぶには些末な、しかし現実の手触りと、意味。

 帰る家。

 おそらくは、この娘が心底から欲する、居場所……それになるやもしれぬ。ここは。

 

「うぁ、っ、あぁ……!」

 

 さめざめと泣き始めた娘子の頭を撫でてやると、娘はそのまま己の腹に顔を埋めた。両腕は腰に回され、裾を頑として握る手は相も変らぬ。

 幼子の温さが、身に沁みた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13話 焦る少女ひとり

5/28ちょっと加筆


 

 朝らしい、と呼べなくもない。路面を汚す吐瀉物、道端に転がる酔っぱらい、帰宅の途にのっそりと現れる()()()ホストやホステスの疲れた顔。それら早朝の風物詩を後目に、繁華街を抜ける。

 駅前に辿り着けば、出勤するサラリーマンやOL、登校中の学生が大挙する。

 気怠い朝の風景に雑ざり、仮初めの学徒たる己もまた登校の流れに乗り合う。

 その時、頭蓋を揺さぶる念の鳴動を聞いた。

 

『あの娘、いつまで傍に置くつもりだ』

(カッ、開口一番になんだ)

 

 水晶めいて澄んだ声音が、一層硬質になっている。そこに滲む苛立ちを表すかの如く。

 肩の上から響く声ならぬ念に、こちらもまた同様に応える。

 

(住まいを同じくすると話をつけてからほんの何日かだ。お前さんにしちゃあ随分と堪え性がねぇな。えぇ?)

『あの娘の言、出任せでないと言い切れるのか』

(同情を買う為に、か? あれが演技だってんなら、まさしく千両役者の才覚よ。どこぞの芝居小屋……今はなんと言うんだ? 劇団か? そこいら辺りにいっちょ売り込んでみるかい。いい活計(たつき)になる)

『何かしらの企み事を持ち、お前に近付いたのやもしれん。先の天使などは何を思うてか自らその意図を宣言したが。魔界の謀略者共が同じようにトチ狂っている保証はない』

(それならそれで構わん)

『……正気で言っているのか。豹変し、いつ寝首を掻きに来るとも知れん者と』

 

 隠れ身を為して姿無き烏の、唖然とした顔が目に見えるようだった。

 

(おうとも、正気さ。己がその程度で首を飛ばす惰弱者ならば、あの怪態なる石塊総てを砕き切るなど夢のまた夢よ)

『……』

 

 殺生石を利用して、この世に覇を為さしめんとする奴輩を幾つも幾つも砕いてきた。

 九尾狐。かの女怪に魅せられ、惑い、狂い、魔道に堕ちた者達を、異界人種を……時に人間すら。

 そうして今なお、かの魔石によって野望を企む者共が現れた。

 だからどうした。全てを遠ざけ、全てをただ破壊すれば、事は済むのか。厄災は終わるのか。

 そんなものは甚だしい短慮に相違ない。

 

(なんてな……よしんばあの娘が何某かの謀によって遣わされた者であるとするなら、尚の事、目の届く間合に入れておく方が都合はよかろう。違うかい?)

 

 今のところ、その影は見えぬ。この目がそれを捉えられておらぬだけか。

 かの娘の泣き顔に、己が見た真。あるいは憐憫に眩み、ただそれを見逃してしまっているのやもしれぬ。この、節穴が。

 しかし、それを忘れてしまえば。

 人がましい甘さ。それを許される身ではない。わかっている。

 だが、それでも。それを失くせば、この身は。

 俺とても、ただ、滅するばかりの兇器(まがきもの)に成り下がる。

 あれと同じ。あの化生の女と、同じ。

 

「……」

 

 烏は半瞬の沈黙の後、言った。実に、諦めの深く滲んだ声音であった。

 

『……油断はするな』

「応。努々、肝に命じよう」

 

 頷いて、この話を仕舞う。烏もまた、なお執拗に言質を求めるような真似はしなかった。

 今はなによりも直面する使命を果たさねばならぬ。

 

(例の腕輪、足跡は辿れたか)

『解析は完了している。探査に少々梃子摺らされたが、腕輪から伸びた経絡は西へ、街の郊外まで続いているようだ』

(この足で直接乗り込むというのも手だが、さて)

『お前の懸念は、学園か』

 

 文字通りの以心伝心によってこちらの考えを過不足なく烏は了解した。何事も筒抜けというやつだ。

 

(一人、検めたい者がいる。此度の主謀……とは、正直思えぬ手管だが。石を持った者が学校に居るやもしれぬというならば放っては置けまい)

『如何にする』

(お前さんは腕輪の出本を探ってくれ。もしそこに主謀者、ないし共犯者が潜んでいた場合はそのまま監視に移れ。戦闘は避けろ)

『承知した』

 

 手筈の整頓を終えて、しかし。

 一向、肩口から飛び立つ様子のない烏に目を向ける。

 

『我ら二身、合一して初めて神威を奮う……用心しろ』

(ありがとよ)

『……ふん』

 

 堅物の烏姫は素直ではなかった。だが、その真心なにをか違えよう。

 その優しい心配に笑みを送る。

 まるで逃げ去るように烏はビル間を抜けて飛び上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 ハーピーの少女、ミリアス・バードランドは苦悩していた。

 講義室の長卓にわっと羽を広げ、突っ伏したままどんどん萎れていく。

 

「ミリーは……なに、どしたん?」

「なーんかー、FP(フォーリナーズパートナーシップ)の相手まだ決まんないんだってー」

「へぇ、てかミリーFPとか興味あったんだ」

 

 フォーリナーズパートナーシップ制度への参加は強制ではない。各学期毎に一ヶ月の申請期間が設けられ、その間にパートナー申請が受理されればその後の特典や季節に応じたイベントへの優待が届くという、言ってしまえばそれだけの形式的なものである。

 全員が全員、この制度によって生涯の伴侶を見出だす訳ではない……まあその相当数が婚姻にまで到っているのも事実だが。

 独り身を嫌って、この時期だけと割り切って適当な相手を見繕おうとする者も居る。

 逆に、パートナーの存在をひけらかすような底意地の悪い輩も時折。

 ミリーは格別、彼氏の有無にこだわりはなかった。素敵な出会い、運命的な(つがい)、色恋に対してはなるほど、人並み程度の関心がある。血道を上げるほどの情熱、情念? 執念? そこまでのものがないという話。

 …………なかった。以前までは。

 

「ハーピーって造形が人型ベースだし人間種からも人気あるでしょ」

「よりどりみどり~っていう? うらやま~。私今の彼と会うまでFP呼ばれたことないよ~。同じ羽持ちなのに~」

「蝶好きのハカセくんだっけ? 昆虫種はどうしても見た目で敬遠されちゃうからねぇ」

「爬虫類もよ。下半身だけでもダメな人間はダメなんだって。質感とか、あと鱗? 失礼しちゃうわ」

「半獣タイプは優遇され過ぎ。ムカつく」

「無機物は決定的に嫌われたりしないからいいじゃない。それに液体なら、()()()()時いろいろ悦ばれそうだし……ふふ」

「えーろーいー。ラミアって実は結構性欲強い?」

「いやいや、でもミリーはほら。誰彼構わずじゃなし、もう完全に一人ロックオンしてるんでしょ」

「えっ、ホント!? 誰誰?」

「ああ、もしかしてあの転校生?」

「えーっとー、名前なんてたっけ……か、かり、かる?」

「刈間! そうそう刈間ギンジ!」

 

 不意のことで一瞬、息が止まる。まさに今、考えを巡らせていた胸の内の中心その人の名前が挙がって。

 クラスメイト達の聞えよがしな噂話は続く。

 

「おーあれかー」

「ほほう、ミリーの好みはああいう男っぽい感じと」

「彼、わりと絶滅危惧種なキャラよね~」

「危惧っていうかもういねぇよあんなの。口調もなんか変だし」

「うちのおじいちゃんがあんな喋り方だった」

「人界のテレビドラマの、時代劇? ってやつで聞いたことある~」

「ミリーは変わった趣味なんだな」

「話した感じいい人だったよ?」

「私はやだぁ。意志強そうで」

「お前は単に年下を甘やかしたいだけだろ」

「年なんてどうでもいいよぉ。ただどろどろに甘ぁく溶かしてぇ、私なしじゃイけない体にしたいだけぇ」

「食虫植物ってなんでこう……B組のセラスを見習いなさい。控えめで可愛いあの感じ」

「はあ? あいつあれで神樹系統のアルラウネよぉ? 本気で言ってるぅ? あのレベルの精霊だと私なんかよりよっぽどえぐい支配欲してるからねぇ」

「具体的には?」

「彼氏の精巣に寄生木(やどりぎ)植え付けるくらいぃ?」

「えぇ……」

 

 セラス、アルラウネの少女の話題を聞き取ったことで、ふと記憶野を刺激するものがある……いや精巣云々は関係なしに。あの可憐で楚々とした少女がそんな性癖を隠し持っていた事実にわりと心底驚いているけれども。

 セラスの噂は有名だ。

 

「彼氏くんのアレルギー、治ってよかったねー」

「アレルギーってあれでしょ。病気じゃなくて人間の体質の問題なんでしょ。治るもんなの?」

「知らなーい」

 

 セラスが見初めた人間の男子は、肉体が致命的に彼女と合わない造りをしていた……らしい。人間の生理学は必修科目なのだがどうも苦手だ。覚えること多すぎ。

 それはともかく、誰が見ても相思相愛であるにもかかわらずカップルとして行く末が絶望的な二人を、クラスの皆して頻りに同情した。それはほんの一月前に抱いた感慨で、記憶にも新しい。

 それが今や昔のこととばかり。セラスと彼氏くんは現在進行形で何の問題もなく、前途洋々自他共に認めるラブラブバカップルぶりを学園各所で発揮している。見せられるこっちが胸焼けするくらいに。

 彼と彼女のその幸せに、一人の立役者が居ることを私は知っていた。

 刈間ギンジが、セラス達を助けたことを知っていた。

 放課後、空からの帰り路。窓の外から教室を見下ろした時、偶然に彼らを見付けた。すすり泣く男子生徒と、離れたところで俯くセラスと、そしてそんな彼らに優しく微笑む刈間の姿を。

 

 ────あぁあぁ男子(おのこ)がそう泣きじゃくるもんじゃねぇぜ。大丈夫、大丈夫だよぅ。きっと二人、一緒になれる。きっと、な

 

「…………」

 

 彼の微笑を思い出す度、私の胸は熱くなる。

 どうしてあんなにも、あの人は優しく笑えるのだろう。慈しむように、包み込むように、目一杯の愛情がそこにはあった。親鳥が小鳥を見守るような、うっかりすると浸ってしまいたくなる手触りのそれ。

 この人は、どうしてこんな顔ができるのだろう。

 この人のこの顔を、私は忘れられない。つまるところ……一目惚れだった。

 特別な関りも、会話すらまともに交わしたことのなかった男子生徒。自分に向けられたものでさえないその笑顔に、私はやられてしまったのだ。

 ……ちょろいかな? なんかちょろいとか惚れっぽいとかそういうレベルですらない気がする。

 でも、そう決めた。決めてしまった。私は、番にするなら刈間がいい。刈間のような雄がいい。

 そう決意した──のはいいものの。

 

「でー? ミリーは刈間とFPの申請しないのー?」

「ふぎゅっ」

「蝶子、こら」

「それが出来てねぇからこんなんなってんだろが」

 

 昆虫種は時に爬虫人種以上に冷血だ。容赦がない。

 二本の触覚を揺らして小首を傾げる美しい蝶々の少女を、出来る限り恨みがましく睨んだ。

 初対面と自己紹介に勇気を振り絞り、それからは校内で見掛ければ必ず声を掛け、選択科目も被るよう頑張って調()()した。

 元々人当たりのいい人間で、異種に対する隔意や、生物的能力差からどうしても付き纏う人がましい怯えもない。刈間ギンジは間違いなく稀有な人間だった。そんなところにより一層私が惹かれていったことは言うまでもない。

 ないのに。丸一月の奮闘虚しく、私と彼の間には一切、これっぽっちも、まんじりとも、進展が無かった。

 

「………………」

「ほらぁ、また落ち込んじゃったじゃない」

「でもあんだけアプローチかけて反応なしだろ?」

「ハーピーは好みじゃないとか」

「人型にこだわりがないとか」

「知ってる知ってる! ケモナーっていうんでしょそれ!?」

「実は対物性愛だったりして」

「迂闊なこと言うなバカ、クリスタルゴーレムがすごい勢いでこっち向いたぞ」

「造形はお世辞抜きに美の女神(アフロディーテ)級なんだけど、やっぱり柔らかくないと殿方の受けは悪いんでしょうね」

「魔術で硬度と靭性いじるしかないか」

「コントロールばちくそ難しいよ、あれ」

「努力するしかない。大丈夫、愛があれば」

「まずは愛しい彼を見付けなきゃ」

「見付かったからって必ず実るとは限らない。悲しいけどこれ、現実なのよね」

「実らせる為の弛まぬ努力を愛と呼ぶのよ。だから」

 

 気付くと、目の前にスマホの画面を突き付けられていた。

 ラミアのミディーナ。その細い瞳孔のぎょろりとした眼を見上げる。

 

「はいこれ」

「なにこれ?」

 

 それはメッセージアプリ『魔IN』のグループチャット画面だった。一クラス分ほどの参加人数とそれを上回るメッセージの乱立。その中の一つ、一際長文の吹き出しをミディーナは示す。

 

「A組のメイヤノイテからのお誘い」

「ああ、あの淫魔の?」

「んー? 親睦会?」

「そ。FP関係のイベントって基本はカップル向けが多いでしょ? だから案外、こういう個人主催のパーティの方がフリーの人間と出会えたりするのよ。学外からも募ってるし、学園で好みの男子がいない娘なんかはよく利用するみたい」

「いやでも、これミリーが行っても仕方なくね?」

「刈間を誘って行くとか?」

「脈ナシなのにぃ? こんなとこ付いて来てくれるぅ?」

「ふみゅん……」

「はいはいいちいち落ち込まない」

 

 番探しの為の下心見え見えのこの誘いを、またぞろあの飄軽な態度で断られたりしたら……もう立ち直れる気がしない。

 

「別にデートに誘えとか、新しく出会いを探せとか言ってる訳じゃないわ。メイヤにアドバイスなり男を手玉に取るコツなり伝授してもらえばいいじゃない。きっとミリーに足りない経験値を力一杯補ってくれるわ」

「淫魔だしな。その辺はもう百戦錬磨だろ。ミリーなんか足元にも及ばないくらい」

「寝技壱百八式くらい持ってそう。そういえばハーピーってどうやってするの? ベッドでできるの? それとも枝の上?」

「こらこら、お子ちゃまにそんなこと聞いてあげないの。可哀想でしょう」

「どーせ処女ですよ悪ぅございましたね!!!」

「声でけぇよ」

「あはははは! ミリーが怒ったー!」

 

 好き勝手言ってくれやがるクラスメイト達の有り難い御教示に涙が出そう。出た。

 蝶とケンタウロスに飛び掛かり、追い掛け回す。健脚のケンタウロスは兎も角、蝶々の風に乗って舞い踊るかのような飛翔は見かけに反して実に捕まえ難かった。逃げる逃げる。趾め足の指からまた逃げる。

 

「軽食もつくし、なんなら私ちょっと行ってみたいかも……ん? 土産まで貰えるんだってさ、ほら」

「んー? うわっ、これカルテアィのブレスレットじゃん!」

「え? え? うそ!」

「見せて見せて見せて。うぅわホントだ!」

 

 どこからともなく現れたクラスの魔物女子達が一挙にスマホに群がった。

 ブランドに詳しくない自分でも、名前くらい知っている。魔界の大悪魔だか高位女神だかがデザインした高級装飾。魔術的な価値はさて置いて、女子のトレンドセンサーにそれは見事刺さりに刺さった。どこのブティックでも品薄のそれを、パーティの参加景品にしてしまえるのだから。

 

「流石はマスティマの令嬢。金持ちはやることが派手だわ」

 

 華美な飾り気も少ない、ゴールドのシンプルなブレスレット。どうやら有翼人種向けのバングルもあるらしい。

 

「……」

 

 ────着飾れば、あの人も少しは見てくれるかな

 

 浅はかなのを自覚しながら、気付けば私は自分のスマホのメッセージアプリを開いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14話 逸る少年ひとり

5/28ちょっと加筆


 

 想定される最悪の事態はただ一つ。“石”の覚醒。それによりもたらされる万象一切悉くの破壊────破滅だ。

 あの石に備わった唯一の機能。生みの対極、創造行為の絶対否定。積み上げられた秩序という礎を打ち崩す混沌の槌。

 災厄、災禍、災厄、災禍。そして、その果てに虚無。

 言葉は幾らも尽くせるが……つまるところ碌なことにならない。

 人口密集地、まして学校内で石の力の解放を許せば、その被害は計り知れぬものになるだろう。迂闊な行動は厳に戒める必要があった。

 とはいえ登校後、目的の人物を捕縛する機会を窺うまま早、放課後を迎えている。慎重を期したゆえに巧遅を気取ったが、臆病と揶揄されたとて返す言葉はない。

 校内に残る人間が最低限になる時刻に、かつ当該人物を一人で、人気のない場所へ誘導する。己が名指しで呼び出しなどすれば、対手は最大級の警戒を抱き、悪くすれば逃げられていたろう。

 

「お役目とはいえ、生徒を騙すのは気が引けますね……」

「悪ぃな、因幡先生」

 

 歴史兼魔術史担当、アルミラージの因幡教諭は表情を昏める。

 現在、我々の佇む第二学舎は幾つかの大講義室を除けばその殆どは資料や教材用倉庫、準備室が主。平日とはいえ放課後、一時ばかり無人状態にするのは不可能ではなかった。

 急場で拵えた『空調整備中』の立て看板は、我ながら良い出来栄えである。

 

「殺生石は発見次第即時滅却。保有者の抵抗如何によってはその排除も許容する。それが上政所と“ミナカ”よりの勅命です」

「その要不要をこれから確かめるのさ。現場に面も見せねぇ上役連中にそこまで指図される謂れはねぇ」

「……聞いてた通りの人ですね、刈間ギンジ」

「へぇ、己の何をお聞きだぃ」

「変わり者、偏屈屋、命令無視は日常茶飯事で、穏便に片付けられた筈が甚大な被害を伴って終わった案件も一つや二つじゃない、制御の利かない武力装置」

「カッ、酷ぇ言われ様だな」

「そして根っからの……神嫌い。大戦の英雄、日ノ本の守護者、國防の要、だのに、天津神に対する信仰心をまるで持たない人間」

「雇われの私兵風情に愛社精神なんざ求められてもなぁ。斯く言うあんたはどうなんだい、兎さんよ」

「私の一族が代々報恩を奉じ信仰で拝する御方は地上に坐すので。天上のお歴々のことは存じ上げませんね」

「カッハハハハ! あぁあぁ、そうだったな」

 

 傾き始めた西日。影の色濃い廊下を行く。

 その己の背に、童女のような幼気な声で先生は言う。

 

「事情はどうであれ、今は貴方も私の生徒の一人です。無理はダメです……彼共々、どうかご無事で」

「承り申した。最善を尽くそう」

 

 衒いのない思慮に送られ、学舎の最果てへ、大講義室の扉に手を掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 講義室は正面の黒板ディスプレイに向かって半円のすり鉢状をしている。

 目当ての人物の背中は、長卓の最前列の端に行儀よく座っていた。

 気配は殺さず、足音は努めて粗野に。こちらの存在を殊更主張してやると、背中はしっかりこちらを振り仰いだ。

 

「御子神ケンヤ」

「えっ……か、刈間、くん」

 

 青瓢箪の、ひどく幼気な顔立ちだ。その印象は初対面から変わらない。

 少年は驚き、席を立って後退る。

 

「ど、どうしてここに。先生は?」

「なぁに、己の方でお前さんにちょいと用があったんでな。内々に済ませたいと、因幡教諭にお骨折りいただいたのよ」

 

 笑みを向けてもケンヤ少年の顔色は快調しなかった。青く、暗む。

 

「……僕に、何の用ですか」

「あれからどうだ。指輪の使い心地は」

「は? ゆ、指輪?」

 

 虚を衝かれた顔で少年が目を瞬く。

 当店のお得意様はひどく戸惑っておいでだ。

 

「そうさ。似非商人(あきんど)とはいえ売り物が客をきちんと満足させたかどうかくれぇは、気になるもんでな」

「そ、そうなんだ……大丈夫。というか、その、彼女からはすごく、かなり評判よかったよ。いろいろと……ま、満足してるし、刈間くんには本当に感謝してるよ」

「そうかい! いやそりゃなにより。なによりの言葉だよぅ」

 

 己の笑みは白々しくはなかろうか。尤もらしく吐く喜ばしげな言葉は、実に性質の悪い本音の覆いに他らなぬ。

 講義室の中央に渉る階段を下りる。席を立ったケンヤ少年もまた、階下で己と差し向かった。

 

「よ、用はそれだけ? じゃあ、僕はこれで……」

「いいや、帰してはやれん。その石を寄越すまでは」

 

 少年が凝固する。愛想笑いが凍り付き、目ばかりが凝然と見開かれていく。

 

「……石? ごめん、なんのことかな。僕には心当たりがない」

「先夜、繁華街の路地で会ったことも忘れちまったかい」

「忘れたもなにも、僕はそんなところ、行かないから……」

「その指輪、己の御手製ってぇやつでなぁ。イシコリ……知り合いの鍛冶師に教わって己が拵えた。いや拙い手妻で恥ずかしい限りよ。こんなものを売り物にするなど恥を知れと、かんかん怒鳴られたもんだ」

「意味が、わからない」

「悪さをするなら、装身具はなるべく帯びるな。物から足が着いちまう」

 

 汗を滴らせて、後ろ手を隠す少年を指差した。

 

「下手人は指輪を嵌めていた。お前さんと同じ中指に、己が造ったこの世でたった一つの、その不細工な指輪をよ」

「………………」

 

 奉行を気取って証拠を突き付け罪の在処を咎める。何様だと、笑う外ない。

 笑い話にできたなら、己の無様な早とちりと揶揄できたなら、それでよかったのだ。

 そうはならなかった。

 そして少年は、糾弾された罪を認めた。認めた、が。

 こちらを見上げるその目には、罪科に対する悔いはあっても、諦めだけは何処にも見えぬのだ。

 

「……これは、この力は、渡せない」

「……」

「これは僕の、僕らの希望なんです」

「希望? カッ、そりゃまた随分()()()ちまったもんだ」

「刈間くんにはわからないよ。僕みたいな、凡人の気持ちなんて……!」

 

 語気を荒げて少年が階段を一段踏み付ける。己の見上げる者、あるいは己より高きに存在するあらゆるもの、届かぬ世界に憤怒して。

 

「この力で僕は変わらなきゃいけない。弱い僕を、ぶち壊してでも僕は……僕は!」

「!」

 

 少年はブレザーの懐へ手を入れた。その内側の何かを握り締めた。

 何か。

 

「僕は魔界に行かなきゃいけないんだ!!」

 

 跳躍、一歩で接近は叶う。詰め寄り腕を捻じり上げ、床面に引き倒す。可能だ。

 一歩分の暇、それを甘受すれば。対手の一挙動よりもこちらは速い────否。

 それでは間に合わぬ。己が移動を開始したその半ば程で既に、対手はその()()()()を終えてしまう。ゆえに。

 腕を下方から掬い、振るう。袖口からその小粒な、分銅を投擲する。細いワイヤーを伴って。

 それは空中を射掛けた矢の如く飛翔し、鋼糸の軌跡を引きながら真っ直ぐに、下方へ。

 少年の右足首に巻き付いた。

 

「え!?」

「いよっとぉ」

「うわぁ!?」

 

 ワイヤーを引き込み、吊り上げる。階上と階下という位置関係も手伝い、少年は足を跳ね上げながらもんどり打って倒れ込んだ。

 その間に駆け寄る。倒れた少年の足を掴み、上履きを抜き取った。

 

「あ!?」

「流石に同じ手は二度も喰ろうてやれんでな。ほう、やはり」

 

 靴の中には薄い靴ベラが嵌っていた。そして、その表面には幾何学を組み合わせた円の文様。魔術の陣であった。

 転移の魔術陣。

 

「触媒は持ち歩かず、踏み付けた足下に召喚しその上で傀儡と成す寸法か。悪くねぇ工夫だ。一挙の動作もなく行動でき、迂闊に近寄った者には不意を打てる。そして」

「ぐ、あっ」

 

 懐深く仕舞われたその手を掴み出し、手首を極めてうつ伏せに組み敷く。

 小さな革袋。この袋自体も何らかの隠匿の魔術が施されている。中身を外気から密め、衆目から隠す為の。

 

「術の源力(げんりき)と発動体を兼ねるモノ」

「か、返して!! それは、それはぁ!!」

 

 膝で両腕を踏み付けられ、地面に縫い留められたままそれでも、少年は藻掻いた。

 少年の悲痛なまでのその叫びを黙殺し、袋を開ける。

 

「! これは……」

「返してよ! お願いだからっ、それは僕の……それは僕とメイヤの!」

 

 袋の中にあったのは、石ではなかった。講義室内に差し込む茜の西日を押し退けて立ち昇る、異彩。

 一時とて一定しない色の混淆。玉虫色の光を放つそれは、砂だった。

 だが、この香気。不快な鋭痛を項から全神経に注ぎ入れるかのこの気配は、確かに殺生石のそれ。

 知っている。己はこれを。この始末に悪い物体の存在を。

 

「殺生石の残滓か! だがこの量は」

 

 掌一杯分ほどの砂粒らは、それでもなお禍々しい力を垂れ流している。

 殺生石が放つ瘴気は謂わば揮発した妖力そのもの。異次元から現界した石の妖力は外気に触れることで再結晶化する。無論、それはあくまで石の怪力の副産物でしかない。原石の含有する力には遠く及ばぬ。

 妖力の結晶化、物質化などという現象がそも法外、埒外の事変。本来相当の時間を掛けねば、ここまでの量の残滓が集まることはまず有り得ん。

 あるいは。

 石を極度に活性化でもさせぬ限り。

 少年の胸倉を掴み、眼前に持ち上げた。

 

「こいつを何処で手に入れた。いや、誰から掠め取った」

「っ! …………」

 

 少年は一瞬、怯えに身を震わせる。そうして視線を俯かせ、口を閉ざした。

 だが確かめられた事実も一つ。やはり、石の保有者は別にいる。

 その時、頭蓋の内に念の声が響いた。

 

『ギンジ、腕輪の根を見付けた』

「お前さんにしちゃえらく時間を喰ったな」

『廃棄された工場が丸ごと強力な多重結界によって覆われていた。その突破に梃子摺ったのだ』

「厳重な守りだこった。中にはさぞ、珍重な代物が仕舞われていたのだろうな」

『否。ここにあるのはオードの貯蔵用魔石と製造された腕輪だけだ』

「石の痕跡は見えぬか」

『ここにはない……残滓すら見えぬ』

 

 静かに、声音が歯噛みするのを聞く。

 おそらく、敵方は必要な分の腕輪とオードを既に確保しており、その工場の要はとうの昔に失せた後なのだろう。あるいは、我らの如き者共、追跡者の目をそちらに向けさせる為の囮として残した。

 まんまと一杯喰わされた訳だ。

 握り込んだ胸倉をさらに引っ張り上げ、少年を立たせる。

 

「石、いや、この砂は何処にあった。この砂の出元は、誰が所有していた」

「…………」

「庇いだてるような相手か。それならば尚の事、お前さんは一刻も早く口を割った方がいい。手遅れにならぬ内に」

「……手遅れ?」

「ああ、遠からずそいつは死ぬ」

「!?」

 

 驚愕が顔中を震撼し、少年は息を呑んだ。

 

「う、嘘だ」

「……」

「でも、だって、そんな、そんなの」

 

 その事実には、証し立ての為の言葉は要らぬ。石を使い、その力を解放させた者は死ぬ。例外はない。

 己が周囲のあらゆるものを巻き込み、この世から消滅する。

 

「殺生石、そう呼んでいる。字義通りの、それだけしか能のねぇ忌まわしい石塊よ」

「そ、それ、って……」

「そうだ。あれの齎すものは一つ、たったの一つ────破滅だ」

 

 

 

 

 

 

 

 放課後の講義室、窓辺の席に座ったその少女は、紅く暮れなずむ空を見上げていた。

 学年一と言ってもいい美貌を、憂いが彩る。メイヤノイテ。彼女を知る誰もが彼女に惹かれ、彼女に敬服する。眉目秀麗、そして頭脳明晰、文武両道の才覚に溢れ、物腰は柔らかで、かつ軽やか。無欠の、完璧な、魔性。厭味すら浮かばない。僕なんかとは、生物として存在から掛け離れている。実際そうだ。彼女は高貴な魔族の令嬢。凡人以下の人間種の僕とは違う。違う。違うのだ。

 溜息を零したくなるくらいに綺麗な、絵画の中にしかない光景をそこに見た。

 けれど。

 けれど僕はどうしてか、感嘆よりもむしろ胸騒ぎを覚えた。焦燥にも似た感覚。

 放って置けない。彼女を。

 でないと、彼女は。

 どうしてそんなことを思ったのか。なにをとち狂ってそんな発想に至ったのか。わからない。

 わからないのに。僕はその訳のわからない焦燥に負けて、彼女に声を掛けていた。

 ただ、ただ心配で。

 

「だ、だ、大丈夫……ですか?」

 

 ただただその横顔が、辛そうで、痛そうで。

 ()()()だったから。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15話 意気地

何の気なしに見てたけど、コナンの犯人の自供シーンって実は物凄く端的で分かり易くまとめられてたんやなって(小並感)




 西日の眩い大講義室で、呆然と蹲る少年を見下ろしている。

 その貌、その目を知っている。微かに差した希望を剥奪され、重い現実を一度ならず知らしめられた者の様。

 絶望に片足を浸けて、あとは沈みゆくを待つばかりの。

 

「彼女は、魔界に帰るんです」

 

 出し抜けに、ひどく投げやりな調子で少年は言った。それが如何にしても、どうあっても、動かし難い事実であることに深く諦めて。

 

「マスティマは魔界の、大悪魔の系譜に連なる貴族で、人界のマギケイブ学園に来たのも本当にただの純粋な留学で、永住なんて微塵も考えてなかった……そう、メイヤは言ってた」

「だが、お前さんと出会って心変わりした」

 

 こちらの相の手に少年は一瞬驚いてから、くしゃりと笑った。痛みを堪えて泣き出す寸前のような、不恰好な笑みだった。

 

「今でもわからない。どうして僕なんかと付き合ってくれたのか、僕なんかを……好きだって、言ってくれたのか。どう考えたって釣り合ってなかった。由緒ある貴族出の美少女で、運動も勉強も人柄も、全部完璧だった。僕には高嶺の花よりもっと高いところにあるような存在だった。世界が違うって、思った。なのに……」

「……」

「実は結構見栄っ張りなんです、あの娘。外面よく振舞ってるけど、部屋だと意外にだらしなくて。掃除は苦手じゃないけど、好きじゃないってサボるから、仕方なく僕が……一人で何でも出来ちゃうのに、一人にされるとすごく怒るんです。出掛ける時は必ず呼ばれて、どこへ行くのも一緒で……寂しがり屋なところが、どうしようもなく可愛くて」

 

 肩を竦めて鼻から笑う。やにわに始まった少年の惚気話を笑い飛ばすのは容易いが。

 少年にとって、それらは一様に思い出だった。終わったことなのだ。決して戻らぬ幸福であると重々に承知して今、順々に、噛み締めている。

 

「……彼女の母親に言われたよ。『娘の遊び相手になってくれてありがとう』って、丁寧に菓子折りと……お金も押し付けられた」

「手切れ金って訳か」

「もしくは脅し、かな。ふふ、いや、違うかな? 僕なんて歯牙にも掛けられてない感じだった。今時珍しいくらい人間を見下してる……これもちょっと違うか。家畜とかペットに近いよ。あの目は当分……」

 

 ────これで、どうか身の程を弁えてくれることを願っています

 

「忘れられない……」

「それで、おめおめ引き下がったのかぃ」

「っ! 簡単に引き下がれるわけない!! 僕は、僕だってメイヤを! メイヤのこと……!」

 

 激憤に身を乗り出すも、しかしそれを圧し殺して少年は歯を食い縛った。

 

「メイヤは人界に居られない。在留の許可も期限も彼女の母親が決めることだ。魔界に連れ戻されるのを僕には止められない。なら、僕が魔界に行く! メイヤに会いに行く! メイヤの母さんを説得する! 何度撥ね付けられても何度追い出されても、死んでもっ!!」

 

 それが口先だけの覚悟なら、この少年はここにはおるまい。

 諦めることが出来なかったのだ。ゆえに、思い違えてこんなものに手を出した。

 小袋に収まったこの玉虫色の砂に。

 少年は再び項垂れる。

 

「……魔界への渡界条件、知ってますか?」

「まあ、色々だ。年齢、職業、犯罪歴、病歴、思想に精神性、そして」

「オードの生成量。渡界できるオードランクは最低でもB-。でないと、魔界の大気に満ちる濃密なオードに人間の体は耐えられない…………僕のオードランクはEだ」

 

 それは実に、歪んだ笑みだった。腹の底で煮える黒々としたものが顔の皮膚を彩っていく。

 

「理論上の最低値。医者にも驚かれた。今の世代でこんな数値は見たことないってさ! はっ、あはははははは! ははっ、は、ぁ……」

「こいつは、何処で見付けた?」

 

 からからに渇ききった笑声が途切れた頃、問う。脅しすかすような語気ももはや必要はなかった。

 とつとつと少年は口を開く。

 

「メイヤの部屋の、化粧室……化粧台の上に小さな木箱があって、その周りに散らばってた。才能皆無の僕でもわかったよ。これは、この砂、砂みたいな()()をしてるこれは、きっととんでもなく恐ろしいものだってことが。見ているだけで、眼球が炙られそうだった。全身の神経で危険を感じた。それくらい凄まじい力を秘めてる。力を。力……僕が、今、喉から手が出るほど欲しいものが、そこにあった。だから」

「なるほど、他人からオードを奪っていたなぁ、こいつの力を引き出す呼び水にする為か」

「……そうです。僕のカスみたいなオードじゃ、使うどころか肉体を蝕まれないよう抵抗(レジスト)できるかもあやしかった」

 

 殺生石は一定の“刺激”を受けることで爆発的な反応を起こす。それは文字通りの爆発を引き起こすこともあれば、全く別種の、世にも(おぞ)ましやかな(カタチ)で顕現することもある。

 刺激とは、力である。

 魔力、気力、仙気、精気、法力、妖力、他数多、それら世の理に根を張る種々のエネルギーを与えたなら、あの石はそれを糧に、それに千倍する力を放出するだろう。

 そして刺激とは……心である。

 精神活動、感情、魂の営み、情念、堪え難く表出するその情動。心を貪った時、あれは真に無際限の肥大を始める。

 

「カッ、とんだ似た者夫婦だよ。お前さん方ぁ」

「え……?」

「お前さんの恋女房も、同じことをしてるってぇ言ってんのさ。お前さんよりも手広く、遥かに悪賢くな。貴族の御令嬢とはいえ何故あんなものがあったか疑問には思わなかったかい? 宝石箱に納めるにしちゃあまりに、剣呑な代物だとは」

 

 少年の目に怯えが走る。取り返しのつかいない何か、その到来か、喪失を予感して。

 その予感は正鵠を射ている。残酷なまでに凄惨な未来を確約する。

 

「もしその娘が収集した多量の呼び水(オード)を殺生石に注ぎ込めば、溢れ出す力は周囲一帯を巻き込み、そこには虚無だけが残る。虚無だけが」

「…………」

 

 少年は絶句した。その呼吸すらも止めた。顔から色が抜け落ちていく。絶望が彼の細い喉元に満ちていく。

 

「何としても止めねばならん」

「ど、ど、どうしたら。僕、僕は、あぁメイヤが、メイヤが、メイヤ、メイヤ、そんな、どうして、メイヤぁ……」

「戯けぇ!!」

 

 怒声が講義室を反響する。教師が大勢を相手取り声を張るのと同様かそれ以上の覇気で、ただ一人の教え子に向けた大音声。

 引き攣った音色を響かせながら、それでも少年は譫言を飲み込んだ。

 

「めそめそと見苦しいったらありゃしねぇ、小僧が。泣き言吐いていられる刻限はとうに過ぎ去った。悔いも恥ずるも後にしろ。もはや一刻とて猶予はない」

「ひ、ぃ、ひぃ」

「言え。手前の女は今、何処にいる。好いた女をむざむざ死なせたくねぇなら、とっとと吐きやがれぃ!」

 

 ぱくぱくと口を開閉させること一拍、浅く息を吸っては吐き、恐怖に粘ついた唾を飲み下すのにもう一拍。

 少年は、絞り出すように言った。

 

「南部町の、ミヤオ山、そこの麓の別荘地にコテージがあって、今日そこでパーティーを開くって……」

「パーティーだぁ?」

「FPの時期になると時々あるんだ。まだ相手の見付かってない人間や魔物の為に、淫魔の自分なら良い橋渡しになれるからって……そう……そうだ。僕は、後から来るように言われてた。『準備』ができたら、連絡するからって……!」

『ギンジ!』

 

 その時、念を頭蓋に受け取る。音に依らぬ声はしかし、予想よりも近く、今なお近付きながら聞こえてくる。

 窓に駆け寄り開け放った。思った通り待ち人は黒翼を閉じて茜の空から急降下してくる。

 

「ほとほと絶好の機よ。略式手甲!」

『承知。清祓一十。奮え』

 

 黒い陰影が歪曲する。それは真円の鏡へと変化(へんげ)する。

 降り来る神鏡へ拳を突き入れた。それは前腕に喰らい付き、真実腕の骨肉を一片残さず平らげた。

 痛覚の暴虐を意志力にて握り潰し、銀の手甲の拳を握る。拳に埋め込まれた光鈺に深緑の力が渦を巻く。

 握り固めた風に乗らんと、窓から身を乗り出す寸前。

 

「ま、待ってください!」

「ん?」

「僕も、僕を連れ行ってください! お願いします!!」

 

 背後を見やれば、そこには深々と下げられた少年の頭、その旋毛がある。

 そうして少年は顔を上げた。必死に堪えるその震えは如何なる理由か。恐れ、怯え、劣等感、罪悪感、無力感、それら諸々の綯い交ぜになった混濁の目。一時とて一定としない混乱の目。

 しかし、そんな惑うばかりの瞳であるのに、ほんの一筋差し込む光明がある。

 

「メイヤを止めたい……僕が、メイヤを止めなきゃ。止めなきゃダメなんです!」

「おう、ならさっさとこっち来て掴まれ」

「勝手なことを言ってるのはわかってます。でも、僕がっ…………へ?」

「そら、時間がねぇぞ」

 

 戸惑う少年の十全な理解を待たず、手を後ろ腰に回しベルトを引っ掴む。

 

「お前さんの操る翼竜ほど快適にとは行かんでな。舌噛むなよ」

 

 無責任に言い放ち、拳に力を込める。

 と、なおも目を瞬いてこちらを見上げる少年の面に、口の端で笑みを放った。

 

「女は(こえ)ぇぜ。根性見せろよ、ケンくんよぅ」

「……はい!」

 

 腑抜けから打って変わった良い返事に頷く。

 拳を打ち、風に弾ける。夕空に砲弾の如く打ち上がり、一路目指すはミヤオ山。

 遠間に見える山肌に、淀みと歪みが霞のように垂れ下がっている。空間の歪曲、それは紛うことなき次元の綻びであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16話 神甲

ようやく書きたいところを書けている気がします。




 眼下に広がる夕暮れの街並みを不遜にも跨ぎ越えて、空を翔る。駆ける。

 飛翔と呼ばわるには荒々しく、固めた風を解き放つ反動推進による鋭角軌道。

 しかし、そのお蔭を以て目的地と思しい山麓を今程、既に望んでいた。

 

『極めて広範囲の結界術行使を認む』

「山ごと覆い隠したか。邪魔者に嘴挟まれるのが余程お嫌らしい」

「っ! ひ、ぐ、ひぃぃい!!?」

 

 小脇に抱えた少年の悲鳴に一吹き笑う。

 轟轟と鼓膜を叩く風鳴りを抜け、麓の別荘地へ向け降下態勢を取る。

 

『接触まで三、二、一』

「破ッ!」

 

 右腕に変じた烏からの、ご丁寧なカウントに合わせるまでもない。我らはもはや感覚すら共にしている。

 眼下には林を拓いた広大な土地に木造の洒落たコテージが散見された。その上空、虚空へと、荒れ狂う風を纏いし拳を打ち込む。

 手応え────有り。

 

 ぴしり

 

 それは冬晴れの早朝、霜を割り潰したあの快妙な感触に似ていた。

 夕空の只中、拳の先に亀裂が走っている。あたかも硝子を打ち割ったかの様で、瞬時、破片が舞い散り、飛び荒び。

 開く。穴が。

 不可視の障壁を潜り抜けたその先に、暮れ泥む茜の山麓風景はなかった。

 あるのは、ここに広まるのは異界であった。

 視界を染め上げるのは桃か赤か紫、黒みさえ帯びたこれは、まさに“肉”色の暴力。

 空が、大地が、木々が、山が、色彩の暴虐により塗り潰され、陵辱されている。

 

「こ、これ……!?」

「こいつぁ淫魔の瘴気か」

『魅了、眩惑、催淫、光と臭気に注意せよ。これらは肉体と精神両面に作用する』

 

 枯れ枝を踏んで地に降り立つ。

 疎らな木々が立ち並び、その合間より山嶺を仰ぐここは、日がな散策に打ってつけの林道であったのだろう。今や見る影もなし。蔓延するのは趣をぶち壊しにする猥雑な色香。

 

「っ!? ぐっ、あ、かひゅっ」

「おう坊主、気をしっかり持て」

 

 一歩、踏み出す間もなく呼吸を乱して少年がその場に崩れる。

 即座、右腕を一振り。

 

「祓えよ、神風(しんぷう)一陣」

 

 右拳の光砡より発する風は、邪気を払い病魔を退ける神威の流れ。この程度の瘴気を無毒化するのは造作もない。

 付近一帯を浄めたことで周囲の肉色が幾らか遠退いた。とはいえ、頭上を覆う結界は未だ赤々と山麓を圧迫している。先程穿った穴すら、今しがた塞がった。

 

「はぁっ! はぁっ、はぁ、はぁ……」

「大丈夫かい。歩けるな?」

「は、はい……ふぅ、ふぅ、ふ……もう、平気です」

「行くぞ」

 

 それがただの痩せ我慢であることは一目瞭然で、少年の足取りは重く、淀んでいる。

 息苦しかろうに、しかし、どうしてか不意に少年は笑った。

 

「……この指輪がなかったら、僕はきっと一秒も正気を保っていられなかった。ホント、一人じゃ何もできない。一人じゃ、メイヤの前に立つことすら……情けない。惨めだよ」

「ハッ、結構なことじゃあねぇか。そいつがあれば、お前さんは正気のまま女の前に立てる。堂々と、胸張ってな。手段を選り好みする楽しみは後に取っておけ」

「……はい」

 

 行く。林道を歩く。よく見れば足下には飛び石が敷かれている。目的地へのその標を一歩また一歩と辿るほどに瘴気は濃度を増していく。

 

「刈間くん……その、たとえばの話、なんだけど」

「指輪以外の魔具か」

「……」

「オードの生成量、回復速度、保有限界、反応強度。一口に強化と言っても様々だが、確かにそれぞれに異なる効用を齎す(ぶつ)はある。あるいは、それら全てを一挙に叶えちまう欲の張った代物もな……」

「じ、じゃあ……!」

「補助魔具で下駄を履かせたランクでは、渡界審査は通らんぜ」

「……魔界にさえ行けるなら手段は選ばない。魔界にさえ、居られるなら……」

「強力な魔具、呪物には、当然代償を要する。十二分な効用を求めるのならそいつぁ例外なく禁戒の品であろう」

「僕に、僕に払えるものならなんだって払う」

「本来の肉体の性能を超えてオードの生成器官に対して外的な過剰増強を施すならば、肉体、霊魂、双方に圧し掛かる負荷も相応だ。一時、魔界の大気に抗うことは出来るだろうが決して長続きはしまい。お前さんの基礎生成量を鑑みても……三日保てば御の字。七日目には命がねぇぞ」

「…………それでも」

「……そうかい」

 

 堅く堅く、動かぬ決意がそこにある。生半な脅しなどに覆せぬものが。

 

「命懸けか」

「……僕には他に、懸けられるものなんてないだけだよ」

 

 少年はまた、自嘲の気息を吐いた。うんざりと。

 

「いいや」

「え?」

「見事よ」

 

 その諦観は実に陰鬱だったが、分際を弁えた心積もりがあった。

 幼く、未熟、しかし確とそこには覚悟があった。

 

「カッカッ、とはいえ命あっての物種だ。お前さんは恋女房と一緒になりてぇんだろう? ならば生きろ。生きて添い遂げよ」

「で、でも……どうやって」

「道具に頼らず、魔界の環境に耐え得る肉体を得たいと思うなら、修験を積む外あるまいて。相当の回り道だが」

「鍛えれば、僕も強くなれるってこと……?」

「不可能ではない。ただし、一朝一夕に練達するものではないぞ。五年か十年か、あるいはさらなる時を湯尽することになるやもしれぬ」

「……」

 

 定命の人間種と、半不死の魔族。時間の重みの違いは明白であった。しかしその末期には、両者は共に同等の喪失を味わうこととなろう。

 死は平等に、理不尽に、普く降り注ぐ別離ゆえ。

 少年の目を見る。

 その未来を想像し、揺らぎ、歪み、恐れる目。それら全てを圧し殺して意気地を張り通そうとする、その目を。

 その覚悟の程は、検めるまでもなかった。

 

「……やります。たとえどれだけ時間が掛かっても」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 林を抜ける。広大な拓地は芝生を敷き詰められ、その奥、豊かな緑の山裾を背にして二階建ての豪勢なコテージが建っている。傍には整備された小川が流れ、アーチ状の石橋がそれを跨ぐ。

 都会の喧騒から遠く、自然豊かな景観に囲まれたまさに別荘地。

 ウッドデッキから庭先には、レース地の白いクロスを広げた長テーブルが数卓。卓上には所狭しと料理やデザート、フルーツ、飲料が居並ぶ。流行りのピンチョス仕立てなケータリングかと思えば、プロパンや水道を引いた調理スペースと思しいテント設備が見える。

 さぞや豪奢な立食パーティーが企画されたのだろう。是非、御相伴に与りたかったものだ。

 だが、もはや叶わぬ。ここは今や────死屍累々。

 其処彼処で、異種人間種合わせて数十の女男が力なく倒れ伏し、身動き一つ取らない。

 死屍などと表したが、無論のこと人死にの有無は知れぬ。この瘴気に当てられたゆえの昏倒なら即刻命を落とすようなことはあるまい。が、それも、迅速な処置あればこそ。

 右拳を打ち出す。風を解き放つ。

 周辺一円を薙ぎ払い、さらに前へ、瘴気の中心へ。

 

「ずぁあっ!!」

 

 黒く昏い気を放つもの、それは一人ぽつりと佇んでいた。

 その娘。黒いフィッシュテールのパーティードレスを纏い、腰部から翼膜を生やし側頭部より歪曲した角を頂く、魔族の女。

 淫魔の。

 

「メイヤ!?」

 

 純粋な風力により進突する空気の砲弾。それは過たず、少女の身体に直撃した。

 その体躯、見当で体重50kg程度と思しい。今の一撃には娘子を軽々吹き飛ばし昏倒させてなお余りある威力を込めた筈。

 しかして、娘は不動。その身に風のうねりを受けて、ほんの僅かにたじろいだ様子もない。精々がスカートの裾を残り滓のような微風が撫でた程度。

 己の暴挙に当然、少年は驚愕と怒りを発した。

 

「か、刈間くん!」

「あぁあぁ文句なら後で幾らでも聞いてやる……糞ったれめ。あの娘御、手練手管は無論、覚悟の据わり方までお前さん以上らしい」

「え……?」

 

 ゆっくりと、娘がこちらに向き合う。首元から肩口を晒すドレスの襟、フリルを豊満な乳房が押し上げている。そう、その左胸の上に。

 極彩色の、その石が埋まっていた。

 少女の柔い肉を抉り、その白い皮膚の下を、石を中心に無数の根が走っている。

 

「殺生石を肉体に埋め込みおったか……戯けが!」

「メイ、ヤ……」

「…………ぁ」

 

 呼ばわりに、娘は反応を示した。如実に、瞭然に、花が咲き誇るような笑みで。

 

「ケンくんだぁ」

 

 うっとりと蕩ける。瞳に妖しげな光を宿し、視線は一心、専心、たった一人を見詰め捕えて、放さない。

 

「あぁケンくん、ケンくん、ケンくんケンくんケンくんケンくんケンくんケンくんケンくんケンくん、来てくれたんだね」

「メイヤ、それは……」

「これ? ふふふ、そうこれ。これはね。私達の希望だよ」

「き、希望?」

「そう。そうだよ。そうなの。これがあれば私達は一緒になれる。一緒に、永遠になれる。何にも邪魔されない。誰も邪魔できない。世界も。魔界も人界も超えて、私達だけの世界を手に入れられる。あはっ、素敵。素敵だねケンくん。これでやっと、やっと、あははは、あはははははははははははははは」

 

 高らかな哄笑だった。心からの喜びを娘は謳っていた。狂おしいほどの一途さで、少女は少年との未来を悲願していた。

 

「この人達は、メイヤが……こうしたの?」

「うん! この力を使う為には私のオードだけじゃ足りなかったから、いっぱいいっぱい必要だったから、頑張って集めたの。少しずつ、外特や他の奴ら……母に、ばれないように、少しずつ少しずつ、腕輪を使って集めた。自分達のオードが削られてるとも知らずに、ブランド物ってだけで釣られるバカな淫魔や魔獣共は扱いやすくて助かっちゃった」

「…………」

 

 とても晴れやかな顔で少女は己が犯行を宣った。子供が無邪気に、親の褒め言葉を期待するかの様相である。

 少年は絶句した。そのあまりの迷いの無さを、理解できずに。

 少女の視線が流れ、自身の周囲に散らばるものを、自身が手ずから招待した客の横たわる姿を見るともなしに見る。少年に向けたものとは打って変わった熱量絶無の瞳、冷え冷えとした眼。

 

「出会い? フォーリナーズパートナー? 異種カップルの奨励事業? 独り身の人間の男が来るかもって仄めかした途端こんなにぞろぞろ(たか)ってきた。ぷっ、ふふ、バカみたい。バァァァァカ。くふ、ふふふふふ……淫魔なら男を手玉に取るなんて簡単でしょ、だって。都合のいいセフレ紹介してよ、だって。淫魔なら、大悪魔の貴族様なら、それくらい訳ないでしょ、だって? ふ、ふふふ……ざけんなよ」

 

 顔面から、色が失せる。表情(いろ)が消え去り、代わりに虚無(うろ)が現れる。少女は能面よりなお無機質な貌で、その薄紅の口から憎悪を吐いた。

 

「淫魔だからなんだ。貴族だからなんだ。そんなもので勝手に決め付けるな。私を規定するな」

「メイヤ……」

「ケンくん……ケンくんだけだよ。淫魔のメイヤノイテでもない。貴族のマスティマでもない。ただのメイヤを、ただの私を見てくれる人。あなただけ。ケンくんだけ。ケンくんだけでいいの。ケンくんだけが私の全てなの…………見境の無いお前ら淫売とは違うんだよぉ!!」

 

 絶叫が天を衝く。それは現実に衝撃を伴って、山を覆う結界すらも揺るがせた。

 そして、その手に光を掲げた。それは妖力。純正無比の、破壊の力。

 跳躍する。娘がその手を翳す先、倒れ伏す諸々の前に躍り出る。

 光が奔った。鋭く、大気を貫きながら迫り来る。

 

「はっ……!」

 

 横合いからそれを殴り飛ばした。風によって障壁を構成したところで、もはや防ぐことも叶わなかったろう。

 弾かれた妖力の塊は真っ直ぐに雑木林へ着弾し、爆轟に霧散しながら大量の木々と土砂を巻き上げた。

 

「お前……刈間ギンジ」

「ほう、すっかり眼中にないものと思っていたが、見知り置いてくれておったとは。カカッ、嬉しいね」

「メイヤ! もうやめよう! こんなこと!」

 

 少年の声に耳を傾けながら、少女はこちらから片時も視線を逸らさなかった。力に酔った者の振舞いに非ず。隙無しの構え。

 増幅された渇望、暴れ狂う願い、それを叶える為に自身を最適化している。先の過激な言動も今の暴挙も、一瞬の()()に過ぎない。

 この女子(おなご)、なかなか厄介だ。

 

「帰ろう一緒に! 僕が間違ってた。僕が、バカだったんだ。君と離れ離れになることに、怖気づいて、耐えられなくて。引き離されるくらいならいっそ……別れようなんて、言った」

「…………」

「でももう諦めない。絶対に君を諦めたりなんかしない! 会いに行く。迎えに行くよ。魔界に。どれだけ時間が掛かっても、どんな苦しいことも耐え抜いて、君と一緒になる。そう決めたんだ!」

「…………ケンくん」

 

 薄く笑みを湛えて娘は吐息する。感極まった悦びが滲む。

 

「嬉しい……嬉しいよぉ、ケンくん。そんなにも想ってくれて、メイヤはとっても幸せです」

「なら!」

「でもダメ」

 

 優しげな囁きが少年の必死の叫びを切り捨てた。

 

「ダメなの。もう一時だって、一瞬だって、私はケンくんと離れたくないの。傍にいて欲しいの。この体に触れて欲しいの。キスして、思い切り私を抱いて……誰にもその邪魔はさせない。何にも、世界にも時間にさえ阻ませない」

 

 虹彩が尖る。ネコ科のそれに近く、天と地ほども隔絶した瞳。異形、化物の眼光。

 

「邪魔するものは、私とケンくんを邪魔立てするものは……」

 

 娘の万感の憎悪が、己を刺し貫いた。

 

「お前か、刈間ギンジ。お前が、ケンくんを唆したんだな」

「な、なに言ってるんだ、メイヤ」

「お前、お前ぇ……! 許さない。私からケンくんを奪うものは、何一つ! 全部、許さないぃ!」

 

 娘がその場に蹈鞴(たたら)を踏む。顔を手で覆い、呻く。喘ぐ。苦しげに、まるで何かに耐えている。身の内より何かが肉を抉り皮を破って外へ、この世へ這い出てくる痛みに。

 

「うぅ、ぐぅぅううう、いっぎぃいぃえぁああ……!!」

『妖力の空間飽和許容限界を超えた。実体化する!』

「メイヤ!!?」

 

 石の発する極彩色、漂い蔓延するばかりだった怪光が、その全てが結実する。結晶となり、物質と成る。氷点下の大気に昇華したダイヤモンドダストの如く、それらは玉虫色に輝きながら粒子を為し、砂状に縒り、石礫へ固まり、無数に舞い上がる。

 それらは群体の生物のように娘の体を押し包んだ。

 逆巻く。頭上高く、限りを知らず結晶は生まれ、また群体へ加わっていく。天を撫でるまでに肥大した結晶の嵐は、しかし徐々に収斂し、凝固を始めた。

 (カタチ)を取り始めた。

 指となり、腕を伸ばす。六本三対の両腕。

 黒い翼膜、黒い羽、二種六枚三対の両翼。

 嫋やかな体つきは間違いなく女のそれ。豊かな乳房、引き締まった腹と形の良い腰骨……そこから伸びる蛇。無数の蛇。黒々とした鱗状の皮膚が光沢を放つ。蛇、蛇、蛇の下半身。

 

『アァアァアアァアアアアアアアア!!!』

 

 歪曲した二角を頂く魔なる女。桃色の髪を振り乱し、体高百尺にも及ぶ巨大な魔人が咆哮する。

 黒いベールの下、その顔容を窺い知ることはできない。しかし、薄布の向こうから凝然と、怪光を放ってこちらに突き刺さる視線がある。それは憎悪の槍だった。

 右腕を構える。

 

『オ前ハ邪魔ダ! ココニ居ルバカ共諸共ニ消シ去ッテヤル!』

「まったく……」

 

 魔人は巨大な口腔を開き、極彩色の光を凝集する。先と同じ、何の工夫もない破壊の力の放出。絶大甚大の威力にそも工夫の必要などあるまいが。

 

「仕様のねぇお嬢ちゃんだ」

 

 腰を沈める。

 

『なっ、受けるつもりか!?』

「受けねばこの場の皆が死ぬ」

 

 烏の至極真っ当な驚愕を聞き流し、丹田にて回し満たし、拳へ、右拳の光鈺へと気を練り上げる。

 頭上から降ってくる。光が。

 拳を打つ。瀑布を、打ち止める。

 衝撃、重圧、大気を、空間を吹き飛ばす破壊。

 芝生が捲れ上がり、周囲のあらゆる物が、人が魔が、光とこの拳との衝突の余波によって吹き払われていく。

 

「ぐぅうおおおおおおおおッ……!!」

『受け、切れぬ! やはり略式では……!?』

「わかっている!!」

 

 剥き出しの土に足が沈む。

 拳、右腕、肩から脊椎、胴体から両足。全身の筋骨が軋む。

 土塊として挽き潰されるまでもうあと僅か。その寸前に────風を手繰る。

 上空から降り注ぐ光の瀑布に抗して、ではなく。

 己の足元から前方へ。風が爆ぜる。

 

「がっ!!」

 

 身体は跳ねたゴム毬のように後方へ飛ぶ。未だ放たれる光の奔流を引き連れて。

 背中が何かを打ち破った。木製の壁、柱、扉に窓。

 豪奢なコテージが一軒、跡形もなく粉砕された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土煙を上げ、抉れた地肌を晒す大地。建物の名残はおろか地形すら変えた惨状。

 それを為さしめた魔人は天地を裂かんばかり笑った。愉快、愉快、と笑った。

 

『ハハハハハハハハハハッッ! ハハハハハハハハハハハハハッ!』

「メイ、ヤ……メイヤ……なんて、なんてことを……」

『ハハ、ハハハハ……ハハァ、ケェンクン』

「!?」

『一緒ニ、行コウ』

 

 ベールの下の眼玉が少年を捉え、同時にその下半身の蛇が左右に分かれる。

 それは股座の合間に空いた肉の壺。さらに無数の蛇達が群生する、魔人の秘所。

 蛇は触手の如く少年に群がり、絡み付き、その身を容易く捕えた。

 

「ひっ! ひぃっ!? メイヤァァアア!!?」

『オイデ、サア、愛シイ人』

 

 最も弱く柔く、そして最も熱い己の最奥へ、愛する少年を迎え入れる。肉の宮に引きずり込まれ、その悲愴な叫び声さえ消えて失せる。

 山麓の平原に束の間、静寂が戻った。

 

『ンッ、ンアァ、ケンクンノ味ダァ……シバラク私ノ(なか)デ眠ッテテネ。目ガ覚メタ頃ニハ着イテルカラ。私達ダケノ世界ニ、私達ダケノ理想ノ場所ニ』

 

 魔人は頭上を仰ぐ。空よりもなお高き場所、遠い異なる場所を。

 空間に歪みが生ずる。蜃気楼のように大気が揺蕩い、それは渦を巻き、その中心に穴を捻じり開ける。次元境界の穴。そしてそれは魔界でも人界でもないところへ繋がっている。虚数に近しく負極のさらに向こう側。

 ここではないどこかへ。

 

『行コウ。ココジャナイドコカヘ。イツマデモ一緒ニ! ドコマデモ一緒ニィ!!』

 

 手を伸ばせばほら、すぐそこに、新たな未来が────

 

「そんなものはない」

『!?』

 

 冷厳と放たれた言葉に振り返る。

 瞬間、光が眼を焼いた。

 

『清め給え、祓い給え。御魂(おお)いし業の(かげ)。塗れ染まりしや現世(うつつ)汚穢(おあい)……』

「その先に待つは塵も残さぬ破滅のみ。生命霊魂一切を殺し尽くす、破滅のみ」

 

 光は輪だ。それは見知らぬ幾何学的文様により形作られた巨大な円環。

 抉れた大地の中心に広がり、その真円の前に一人の男が立っている。

 

『ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、ここの、とお。みなかにむすび、とこたちて、ふるえ』

 

 朗々と謡われるそれは明らかに何らかの術式行使。完成させてはならない。絶対に阻止せねばならない。

 極大の恐怖でそう感じる。そうしなければ、きっと、それはもはや。

 

『消エロォォォオオオオ!!!』

 

 絶叫と共に口から力を吐き出す。先の幾倍、幾十倍にもなる極彩色の暴流。

 大地が抉れて消える。山に穴を穿ってなお止まらない。結界は砕け散り、夜闇の帳に唾するかのように光で全てを蹴散らす。

 この殺意を疑わない。全てを殺す思いで、覚悟で、ここに来た。ここに至るまでの罪業を不遜に積み重ねてきた。

 殺す。殺す。殺す。私と彼の未来を認めぬもの、邪魔するもの、それがたとえ────実の母であっても!

 殺意と憎悪の奔流に削られた大地。そこに。

 男は立っている。光の円環を背にして、そこに在る。

 

『ッ!? ナンナノ、ナンナノヨ、オ前…………オ前ハ、ナンダァッ!?』

 

 真円が男を包み込む。その虚無の鏡面へ、怖気を覚えるほどに透き通った光の水面に、男を覆い尽くして。

 消える。男の姿が。

 刹那、“ソレ”は顕現した。

 

 ────銀の鎧

 

 武骨、剛強、暴力の化身、それはそういう(カタチ)をしていた。

 全身を覆い尽くす重厚な装甲。鬼神の如き凶相の鉄仮面。額と側頭部より伸びた鋭い五角。そして両拳と両膝、胸の中央、それぞれ五ヶ所に埋め込まれた五つの光鈺。

 威容。この世ならざる強烈な存在感。皮膚を炙られ、裂かれるような覇気。

 こんなものが、人界に存在するという極大の違和。

 しかし。

 しかし、私は、これを知っていた。記憶野の片隅にある。その姿を歴史の資料、あれはそう、文献のコピーだった。古びた本の一(ページ)

 そこに描かれていた。記されていた。

 神造兵装。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人を、魔を、その心を惑わし貪る悍ましき異形。怪しき力を打ち滅ぼす為。

 天なる神が鍛え、地なる神の骸が纏い、人の霊魂(こころ)が揮いし(はがね)

 其は、称して。

 

怪滅神甲(かいめつしんこう)!」

 

 拳を打ち、地を踏み締め、謳い上げるは宿命の名。神に選ばれし戦人の名。

 我が名は────

 

「ダイダラァアアアアア!!」

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17話 滅

 外殻、骸骼(がいかく)、内骨格との癒着・融合および同期────完了。

 五体に埋設した五つの神象顕現光砡に対する霊魂との経絡接続────完了。

 神甲、完然。

 五体に満ちる神威の(いぶき)、溢れ漲る力が高熱を発し、それを装甲各所に点在する排熱孔より噴き出す。

 (はがね)の吐息は紛れもない戦気の発露である。

 己が頭上、夜天を覆うほどの巨躯を仰いだ。今宵この身が粉砕すべき敵を。怪なる力を。

 無数の蛇を蠢かせ、大悪魔の権化の如き異形が、しかして退く。たじろぐ。

 

『神造、兵装……コノ国ノ、神ノ鎧……!?』

「然り」

『ソンナモノガッ、ドウシテ!?』

「知れたこと。その身に埋めた殺生石を」

 

 蹴り足が大地を沈める。同時に、背部推進剤噴射孔が火を噴いた。

 爆発的推力により刹那、間合が詰まる。それは絶好、拳の打ち間。

 

「討ち滅ぼす為だ」

『ッッ!?』

 

 下方から右仰打(アッパー)

 それは接触するや対する巨体を上空へと跳ね上げた。

 

『ギィィイイ!!?』

 

 強圧縮した大気の塊を拳に込め、打撃の瞬間に解放した。

 “烈風”の右拳は風を操る。

 戦場は上へ上へ、雲を抜け夜空の高みへと移る。

 殺生石の妖力によって異形へ変じたかの娘の威力は刻一刻増すばかり。地上でその暴威を奮われれば、被害は量り知れぬものとなろう。

 

(ここ)ならば存分に仕合えよう」

『ホザケェ!! オ前ナドニ! 私達ノ永遠ヲ! 私達ノ未来ヲ邪魔サレテタマルカ!!』

 

 魔の化生と為った娘子が怨念の塊のような叫びを発する。

 その瞬間、群生する蛇がその腰元より溢れ出した。聞くだに悍ましい擦れ掠れた気息の音が無数に響く。鋭利な牙を剥き、射掛けた矢の素早さでそれらは襲い来る。

 眼前。口端裂けんばかりに開かれた蛇の(あぎと)無数。視界を今、埋め尽くした。

 退がったところで詮もない。蛇はおそらくあの巨体から無限に()()()

 かわすと言うは容易いが。為し得るは至難。

 疾風では囚われる。

 ならば。

 

「“武雷(ぶらい)”」

 

 一言、名を呼ばわる。それは左脚、膝に埋め込まれた黄金の光砡。空気を引き裂く鳴動、空間を裁断する閃光が溢れ出す。

 それは雷。天象の為せる御業。

 “武雷”の左脚は雷を操る。

 左脚より生じた電荷は瞬く間さえ許さず全身へ行き渡り、装甲にある変質をもたらした。

 白化する。全てが白い光に。

 我が身が雷そのものと化す。

 

 ────迅雷

 

『!?』

 

 間隙絶無にも思える蛇の群。しかしそこにも僅かな隙がある。蛇体が身動ぐ為の、ほんの僅かな空洞が。

 割り込む空間さえあるならば委細問題はない。

 (はし)る。(はし)る。空間を寸刻むが如くに一条の電雷と化して蛇の道を越える。

 行き掛けの駄賃とばかり、擦れ違い様に蛇の頭を蹴り潰す。それを足掛かりに次の蛇の頭を潰しさらに次へ。次へ。

 瞬機にて五十余り、蛇を退治て今、魔人本体に肉薄した。

 体を捌き足底から蹴り込む。

 

「轟脚」

『グ、ギャッ……!?』

 

 迅雷の速度で、蹴り足が魔人の腹に突き刺さった。

 潰れた蛙さながらの呻きと涎を吐き散らし、巨体が空に踊る。

 三対の翼が宙を撃ち、見えぬ(たたら)を踏むかのように留まった。その腰元で頭を失った無数の蛇の首から血とも汚濁ともわからぬ液体が噴き出しては止まらぬ。

 

『グゥッ……コンナ、コンナモノデェ!! 私達ハ止マラナイ! 諦メナイィ!! アアアアアアアアア!!』

 

 虚空を満たす悲願の叫びに応え、蛇共の頭が、骨を接ぎ肉が生え皮が張る。微かな傷の名残すらなく、凄まじい速度でかの肉体が再生する。

 牙が、眼玉が、その健在の憎悪が己を狙う。

 

『外皮硬度の異常な上昇を認む。生半な手傷は彼奴に超回復の機会を与えるだけだ。一撃で総体を滅せよ、ギンジ』

「……」

 

 烏の忠言は確認行為に過ぎない。もとより殺生石によって現象した異形を討つにはそれ以外に方途はあらぬ。再生と増殖と強化、単純極まる強烈無比の能力。破滅という終着へ至るまでの限りある時間を、最大最高最凶の効率を以て無尽の災禍に変える。

 滅却。それだけが、あれを止める術。

 だが。

 今、この拳を止めるものは迷いか、それとも躊躇か。

 否。拳を握り固める。覚悟を込める。己の責務をここに果たす。

 魔人は先刻の焼き直しを嫌ったらしい。蛇の、そしてその自らの口腔を晒した。

 大気が揺らいでいる。それは明らかな、過大な熱量の発露。

 

『燃エロォオオオオ!!』

 

 炎。炎。炎。

 居並ぶ口という口から火炎が放射される。

 それもただの火ではない。どす黒く、触れた端から空気は瘴気へと変わり空間そのものを貪る悪辣さ。毒。毒の炎。

 夜空の群青を侵食する黒い赤紫の炎。それは化学物質としての毒性のみならず、憎悪と怨嗟を源に練り上げられた呪詛でもあった。

 しかして神甲は破邪の防護(まもり)を有する。如何な呪毒の炎であろうとも、これを脅かすこと能わぬ。

 問題は、装甲の堅牢性に甘えこれらの対処を怠った場合、その全てが地上へ降り注ぐということだ。

 風で散らすか? 論外。被害の範囲を手ずから広げる最悪手である。

 この儀、雷では物の役にも立たぬ。

 ならばもう一手。札を切るまで。

 

「“紫水(しすい)”」

 

 一声、そして霊魂より呼ばわれば経絡を通じ、右膝に埋まる光砡が蒼く輝き目覚める。

 この儀、この場に欲するのは水分。眼前で放散される大火焔を消し去り押し流す単純明快、純粋無比の大物量からなる水。

 “紫水”の右脚は水を操る。

 間合の内に存在する水────水に類するあらゆる液体を手足の如く自在に動かすことは序の口。この右脚の神髄は、その生成力。

 無より生まれる大瀑布。我が右脚の一踏みは、暴れ川を起こす。

 

龍呵(おろち)!」

 

 蹴り足が宙を打つ。その足下より溢れ、暴れ、流れ出す水。山河の氾濫に匹敵する大質量。大放水。

 対する巨躯、その吐き散らされる大火焔をも呑み込んでなお余る。

 

『ナァッ!!?』

 

 空に踊り出た流水は、それら全てを包囲し、圧し潰した。

 “紫水”より生成される水は謂わば御神水。毒であろうが呪であろうが為す術もなく打ち消し無に帰する。地上には少々煤けた雨が降るだろうが。

 水に巻かれた魔人が水中で藻掻く。呼吸不要なその異形とて、清めの水に浸けられればさぞ苦しかろう。

 

『今だ! “武雷”の電撃にて止めを討て。どれ程の再生力と外皮硬度を誇ろうとも、全身を内外から焼き切る電流の前には無意味。そして“紫水”より生成した水に宿る神気を通せば効果は相乗しなお絶大。これは絶好機ぞ、ギンジ』

「否」

『! なんと』

 

 刹那、烏が息を詰め、反問する。その険しく尖る眼光が見えるようだ。

 

「今“武雷”の電撃を浴びせれば、内部に囚われた者らの生命をも絶つことになる」

『もはや猶予はない。殺生石の妖力はかの娘が異形と化した段階で極点の目前に迫っていた。()()()のオードが潤沢過ぎたのだ。一刻も早く滅却せねば、この空間に甚大な被害を齎す』

 

 然り。全く然り。烏の謹言に異論を差し挟む余地は無い。

 時空間を歪め、その有様を壊す殺生石。これの増長を野放しにすればどうなるか。どれほどの災禍、どれほどの破滅を産み落とすことか。数千、数万では終わらぬ死が。この國、人界にまた一つ黄泉へと堕する穴を穿つことになろう。

 たった二人、たかが二つの生命、それらの犠牲を以て災禍の種を、それが芽吹きを迎える前に枯らすことができる。

 熟考の要もない正理。そして神命。この神甲に、天津の神々が期するもの。

 だが。

 だが────

 

「忘れまいぞ、彼奴らの大言壮語」

『……』

「『國土を護り、國民を護れ』と。我が身を贄とし、地の神の骸を掘り起こし、この(はがね)を御仕着せた」

 

 それは契約だ。己が望み、神々が利用した。互いの利害、目するものが偶さか()()()()()ゆえの仕儀。いやさ、ただの成り行きだった。

 だが、それでもやると決めた。

 やりたいからやってやる。護りたいから護る。ただそれだけ。ただ、それだけの。

 

『ウゥゥガァアアアァアアアァアアアアッッッ!!!』

 

 魔人は満身の力で、その身を取り巻く水の膜を引き裂いた。夜空に再び憎悪の咆哮を響かせながら。

 そう。そして、あれもまた。

 

「好いた男と共に生きたい。好いた女と添い遂げたい。あの娘と小僧めの、ささやかな、今や破れちまった夢だ。そしてこの國で一度でも、想い人との安住を夢見たと言うなら……あの子らとてもまた、國民よ」

 

 未だここに在る。今もここで、叶わぬ夢を求め哀切に泣くのなら。それは己が護るものの一つに過ぎぬ。

 ゆえに。

 この拳が討ち滅ぼすものもまた、一つ。

 國民を、俺達を惑わし、想いと願いを貪り喰らう混沌の原石。その怪しき力を。俺は憎む。俺が滅ぼす。

 

「“灼火(しゃっか)”……!」

 

 霊魂から経絡を通じ、左拳へ。拳に埋まる紅の光砡が目を開く。同時に溢れるは火気。夜気を貪りながら燃え広がろうとする灼熱の炎。

 油断すれば一挙に、爆轟と共に暴れ出そうとする力。左腕の経絡を、そこから繋がる霊魂そのものを焼き焦がす壮絶なる炎熱。

 それを握り潰す。御し、圧し固め、制する。征服する。

 “灼火”の左拳は炎を操る。

 全てを焼き尽くし、全てを吞み下す。火焔の申し子、カグツチのほむら也。

 

『ナンデダヨ!? ナンデ!? ドイツモコイツモ、ナニモカモガ私達ノ邪魔ヲスル!!?』

 

 妖力が夜空に放散される。その内部より無限に湧き上がる力、怪力を遂に持て余し、その異形体にさえ収め切れずに。

 肉が膨れ上がる。四肢が伸び、筋骨が肥大する。魔人の巨大化は止まらない。

 その下半身より群生する蛇は、分化増殖、そしてまた融合を繰り返し、もはや不定形の触手に成り下がった。

 翼が夜天に広がる。黒く、翼膜と羽根の二種三対。魔族たる象徴には幾重にも妖力が織り交ざり、羽撃一掻きで周辺全てを薙ぎ払ってしまうだろう。

 増大するばかりの力で、しかし、娘の願いは叶わない。

 

『タダ一緒ニナリタイダケナノニ!!』

 

 その願いだけが、断じて叶わない。

 

『コノ人ガ好キナノ! ケンクンガ、好キなだけナのに! それの、それのなにがいけないって言うんだよぉ!!!』

「ああ」

 

 ベールの下の顔に亀裂が走る。まるで涙のように頬を伝う。許容量を超えた妖力は、自壊の修復すら叶わず漏れ出ていく。

 

「お前達の真心に間違いなどない。なれど」

 

 切なる願いを叫び、その肉体を崩れさせながらそれでも、胎内に抱いた愛する者を断じて離さない。

 なれど、なればこそ。

 その悲哀を、理解する。その幼気な愛に言祝ぎを思う。

 しかし。

 

「滅する」

 

 その願いを、これ以上喰らわせはしない。穢させはしない。

 左拳、そして右拳。二つの光砡に神気を叩き込む。

 深紅(あか)深緑(あお)。夜空を満たすは二色。たった二つの色彩が溢れて止まぬ。

 

『しかしギンジよ。灼火を用いればあれの外皮どころか、総体の完全滅却は必定』

「応よ、相も変らぬじゃじゃ馬の左だ。ゆえに一工夫凝らすとしよう」

 

 この“烈風”の右で、“灼火”を御する。

 

『殺生石の位置は確かに捕捉している。だが、あの少年が、あの巨体の何処にあるのか、その正確な位置を掴めねば……お前の企図は成就しまい』

「案ずるな。縁はある」

 

 少年の、なんとも切実で、ややもすれば滑稽な、少女には内緒の密かな努力。

 

 ────い、言えるわけないでしょ! こんなっ

 

『なに?』

「因果はきっちり応報した。あの小僧の願いは、確と……この身に届いている!」

 

 背部推進剤噴射孔、全開放。

 経絡直結、神気最大火力にて発破。

 眼前の、悶え、苦しみながら、それでも決して諦めぬ。怪力乱神の異形にして、ただの一途な乙女に、吶喊する。

 それは総滅の(とな)い。

 

清祓(しんぎ)、極天……」

 

 全経絡に走る力。肉を、骨を、なによりこの魂魄を焼き溶かすほどの、純粋無垢な力。

 神力の極み。究極の解放を、今。

 

『私はっ、私達はぁぁああぁぁぁぁあぁぁぁああああああっ!!!』

 

 叫びはさらなる力を、純粋なる怪力を放出する。熱線、閃光、雲を断ち割り空間を裁断するエネルギー波。

 それを越える。避けはしない。正面から受けて立つ。

 高速の突撃。一心不乱の直進突。当然に被撃は免れず、怪光線は装甲表面を存分に打ち、焼いた。

 しかし止まらぬ。断じて。

 この拳に誓った覚悟を貫徹する。

 瞬時にして間境。巨躯を目前に、その巨大な腕が降り落ちる。

 しかし、寸毫の差。

 こちらの拳撃が、早い。

 それは右から、そして左の。刹那の二連打。

 右拳が外皮を打ち割った。それは僅かな亀裂に過ぎない。それで十二分。“烈風”の右拳で風を流し込む。

 左拳に、灼熱の火焔を宿す。止めの一打。それこそは極天(おわり)の型。

 

「“百火凌嵐(ひゃっかりょうらん)”ッッ!!」

 

 神気宿せし神の風に、神威の焔を着火すればどうなるか。それも、強固に密閉された外皮の内側で。

 魔人、その異形の躯は────爆発四散した。

 散逸し、解体する巨体。その奥へと進撃する。

 本体、メイヤノイテ。その身に食い込む怪力の源。殺生石へ手を伸ばす。

 娘はこちらを見ていた。愕然と、息を呑み。

 

「っ!?」

「滅」

 

 委細構わず、その左胸を抉った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜空は未だに神の焔が舞い踊り、妖力の残滓を逃さず残らず貪りながら赤々と燃え続けている。

 それを花火でも見上げる心地で眺める。両腕に、少年と少女を抱えて。

 ゆっくりと地上に降り立った。

 気を失った少年を地面に横たえ、その隣に同じく眠れる全裸の少女を添え置く。

 

「ハッ、この小僧も存外に豪胆だな。暢気な寝顔しやがって」

『なるほど……指輪か』

 

 不意に、ひどく得心した呟きが頭蓋内に響く。

 

「ああ、後生大事に身に着けておったお蔭で、此奴の居所を掴むことができた」

『そして紫水の大暴流を浴びせたのは鎮火の為だけではなく、内部の子らを百火より護る為でもあった、と……縁とは、よく言ったものだ』

「情けは人の為ならず。巡り巡った善因が善果を呼んだ。めでたしめでたし、ってな」

『偶さか上手く事が運んだに過ぎない。図に乗るな』

「カッカッ、こいつぁ手厳しいや」

 

 娘の胸元には赤々とした傷痕が残った。“紫水”より生成した快癒の神水によって深傷(ふかで)は塞いだが、ここばかりはただの外傷と同じようには行かぬ。玉の肌に、それは永遠に残るのだろう。

 しかし、どうか。

 この傷こそは、娘の覚悟。この少年に対する愛情の深さ、その顕れ。そうも思えてしまうのだ。

 寄り添い眠る子ら、その穏やかな寝顔に一吹き笑う。

 

「末永く、お幸せに」

 

 この先もきっと、その道のりは容易ならぬ。

 だがきっと、この子らは幸福に辿り着くだろう。決して決して諦めぬ。その覚悟は今宵、存分に見せてもらった。

 

「ま、駆け落ちの手伝いくらいはしてやるさ」

 

 処置無しと、烏の呆れた溜息が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18話 少年と少女と母親と

5/28ちょっと加筆


 夜天に佇む者がある。浮遊か飛翔か、二対四枚の純白の翼を持ちながら羽撃(はばた)くでもなく空間に静止する異様。

 異類なるもの、天の御使いを僭称する異界人種。

 大天使サリエル、その分御霊(わけみたま)を身に宿す少女。現世においてはサリエリーヌと名乗る女学生である。

 少女は、笑った。

 華やぐように可憐に笑った。頬を朱に染め、うっとりと蕩けて。

 

「ギンジ、やっぱり君はとても素敵だ」

 

 眼下には想い人一人。

 銀の鎧を身に纏い、悪を滅する戦人。

 

「ふふ、あぁわかってるよ。君の本質はその力じゃない。そんなものは添え物さ。君の真価はその覚悟。武力を振るうに足る魂」

 

 異郷、異教の神威はなるほど、絶大の力を持つ。あれを用いて為せぬことなどない。偉業であろうと、覇業であろうと。

 

「君は傲らず、誇らず、それをただの道具として使うんだね。他者救済の為のただの装置に身をやつす。慈悲の人。慈愛の御方。やはり、やはり、貴方こそが」

 

 純白の美貌が笑む。(おぞま)しいまでに美しい天使は、にたりと粘つく笑みを溢れさせた。

 

「人界の救い主に相応しい……」

 

 悦びを込めて、少女は頷く。両の手を握り合わせ、祝福を唱う。

 言祝(ことほ)ぎも束の間、少女は薄く瞼を開きそれらを見下ろした。彼がいたく大事そうに地面に横たえた二人。

 少年の方はまあいい。しかし、ソレを斯くも丁重に大切に扱うのはいただけない。

 

「そんな汚物、石塊と同じく砕いてしまえばよかったのに」

 

 吐き捨てる。唾棄する。その慈悲に恥を知らず浴する悪魔輩の女。

 忌々しい。本当に。

 

「所詮、淫魔風情の想念ではこの程度か。役立たずめ。捨て駒さえ満足に全うできない。殺生石の妖気隠蔽の為にパンドラの箱の模造魔具(イミテーション)までくれてやったというのに……」

 

 再び“穴”は穿たれず、彼の救済という使命に戦勝の花一輪すら添えられず。

 潰しが利くからと、悪魔など使ったのがいけなかった。人間の少年と生涯を共にしようなどと身の程を弁えぬ大望を抱いた愚物に、彼のその御手で鉄槌を下して欲しかったが……。

 

「仕方ないなぁ、もう。まったく貴方は本当に……優しい人なんだから」

 

 微笑して、両腕を抱く。この腕に、きっと抱いてみせる。きっと貴方から、抱かれに来てくれるだろう。

 

「いずれ人界に巣食う魔のモノ共を総滅し、我ら天の御使いが人々を導く。その為の劇薬、殺生石……ふふふ、なんて都合の好い代物だろう。穢らわしい魔の群を、同じ穢れの塊で掃除できるなんて!」

 

 清なるかな。聖なるかな。

 そう遠くない未来。この混沌に交じり澱みあった歪な世界の救済が────“浄界”為った曉には。

 

「その時、貴方は最初の神の使徒となるのです。そしてサリエルはいつ何時も貴方のお側に。救世主たる貴方のお側におります。だから、ねぇ、ギンジ……」

 

 ────次は何を捧げればいい?

 

 

 

 

 

 

 

 暗く昏く叢の奥底に。夜闇に浸る森の奥間に。

 それらは潜んでいた。其処彼処に、無数に、その眼を爛々と暗中に浮かべ、ただ一つを見て、ただ一人を、銀の鎧のその男を見詰めていた。

 

 ──神甲

 ──日ノ本の守護者

 ──銀の鎧! 銀の鎧! 銀の鎧ィ! イヒヒヒャハハハハ!

 ──不破の盾、不動なる者

 ──我らの敵だ

 ──あまねく悪しきモノ共の敵

 ──あぁ愛しき怨敵よ

 

『「怪滅神甲。貴様はほとほと変わらぬ男よ」』

 

 鬱蒼とした木陰の深み、一層の暗がりに佇む少女が囁く。その鈴の音のような声に重なる厳を擦り合わせるかの悍ましい唸り。

 猫妖精の少女、少女のようなモノ。

 

『「あの頃から、ちらとも変わらぬ。寸毫とて衰えぬ」』

 

 その憤怒。

 芳しい憎悪。

 

『「貴様の本性はそれだ。それだけだ」』

 

 救済? そんなものは天使共の戯言よ。

 日ノ本の神々に与えられた神威、与えられた使命、それすらその有り様の繕いに過ぎぬ。

 

『「憎いのだろう。怪しき力が、悪なる力が、邪なる力が、憎くて憎くてしようがないのだろう」』

 

 それでよい。それでよいのだ。

 お為ごかしの善行も、大義も捨ててしまえ。つまらぬ欺瞞は犬に食わせよ。

 愉しいことが待っている。絶ゆることなき法悦が、我らを待っている。

 

『「あの時の続きをしよう。あの闘争を、麗しの戦争を、決戦の、その続きをしよう」』

 

 魔界と人界の狭間。次元境界。物質とイデアの途上、(かたち)無き純エネルギーに満ちた空間、玉虫色の粒子ばかりが積もる砂漠の只中で。

 数千、数万の魔の化生を向こうに奴は闘い闘い闘った。狂った光景をそこに見た。ただの一騎、鎧一領が、嵐となって己以外の全てを虐殺する。戮殺する。あの異様、かの異常。

 思い出すだに、心が踊る。

 

『「貴様の武力をまた浴びたい。貴様の造り出す潰滅(かいめつ)を見たいのだ。その方途も既に万端整っている」』

 

 再び魔界と人界を繋ぐ穴を穿つ。そしてその穴を出発に七十年前の再来を、再融界現象を引き起こす! ……無論、これの実現が最上の成り行き。だが、そう高望みはすまい。幸いに、こちらの掌中にはもう一枚、札がある。

 殺生石。

 東洋の化獣(けもの)の落とし胤。混沌の源泉。

 

『「無為に使い潰すだけの愚かな天使共とは違う。あれにはもっと、もっと、有効な活用法があるのだから」』

 

 散逸した殺生石を縒り集め、一つにする。ばらばらに砕かれた妖しき力を復元する。

 さすればどうなる?

 さすれば────

 

『「かの女狐を呼び戻してやろう」』

 

 怨敵を、憎き怪力の権化を、貴様の運命を。

 白面金毛九尾は、貴様の虚飾を剥ぎ取るに最適の劇薬となろう。

 

『「憎め、怪滅神甲。怪を生む我らを憎み、その総力総身総魂の限りを尽くして我らを殺すがいい」』

 

 血みどろの闘争劇を演じよう。

 

『「それまでこのバエルの半身を預けたぞ。慰みに使うか、それとも嬲りものにするか。好きなように弄べ」』

 

 少女の形をしたナニかは、その身をくねらせ、自身を抱いた。

 小振りな乳房を揉みしだき、その先端の、ややも固くなり始めた突起を指先で捏ね回す。

 股の合間に滑らせた指が、下着越しに肉を割り、奥の柔襞を掻き分ける。

 闇間に、粘った水音が響いた。

 

『「ふ、どうやらこの娘もそれがいいと言っている。体は実に正直だ……」』

 

 秘部から取り出した指は濡れそぼり、指と指に淫らな糸の橋を渡した。

 その昂りは、少女の恋心に端を発する肉欲か、それとも。

 悪徳の大王バエル。

 その束の間の気紛れか。極東に見付けた武の化身、“神”を使う人間への、郷愁。

 あるいはこれもまた、恋情よ。

 

『「楽しみだ。とても、とても楽しみだ」』

 

 ──待ち遠しい

 ──早く。早く。早く

 ──殺し合おう! ヒヒッ、ヒヒャハハッ! 殺し、殺、殺してぇ! ゲヒヒヒ!

 ──その拳で打て。その脚で踏みつけよ

 ──この爪で、お前の背中を掻き毟ってやる

 ──熱く、熱く抱擁してやろう

 

 愛しき、我が怨敵よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南部町ミヤオ山にて発生した集団の昏倒、昏睡現象は公には事故として報じられている。『別荘地に訪れた客は皆、山中に偶然現下した“ヒダル神”に居合わせ、激しい飢餓、倦怠、麻痺に陥ってしまったのだ』と。

 救急車が大挙して被“神災”者を搬送、外特含む警察機構と対怪異調伏特殊技能班による山狩りが行われ、現場山麓周辺は一時騒然となった。

 被神災者の中に、事故発生当時の様子を克明に記憶している者はいない。(ヒダル)の影響は実にミヤオ山全体に及び、その能力範囲内に入っていた者は全員がほぼ同時に意識喪失を起こした為だ(ということになっている)。

 ゆえに、山が抉れ、崩れ、()()()()()この天変地異について、世間では今もって謎のままである。

 表向きの事情だけを知らされた所轄捜査員らは随分苦労したことだろう。事情を探ろうにも聴取は得られず、唯一の物証らしきものはこの拳が砕いてしまったのだから。

 そして裏に通ずる上層部、外特の極一部の人間は、此度の顛末を上政所から何くれとなく言い含められていよう。

 そうして、事後処理だけを体よく押し付けられる。前線に立ち職務に対する者達の矜持など、上役共は知ろうとも思うまい。果たしていつまでこの横車は腹に据え置いてもらえるやら。

 横車の取手の一つを握る己には、実に笑えぬ皮肉であった。

 

 

 市内中央病院。入院用病棟の特別個室。

 病室というよりホテルのスイートと表した方がしっくりと嵌る。二十畳ばかりの広い室内の奥、巨大な二枚ガラスの窓辺にはクイーンサイズのベッドが設えてある。

 その上で身を起こす少女、そしてその傍らに寄り添う少年。病室に踏み入ったこちらを認めて、少年が椅子から立ち上がった。

 

「刈間くん」

「よう。元気かい」

 

 御子神ケンヤとメイヤノイテ・F・マスティマ。

 事態が一旦の収拾迎え、彼らの処遇もまた決した。

 

「あの石は、気付いたらそこにあったんです。私の部屋の引き出しに、まるで初めから仕舞われてたみたいに……こんな馬鹿みたいな話、信じてもらえないと思いますけど……」

「いいや。その馬鹿げた話こそが、あの石の災いなのだ」

 

 空間も、物理的障壁も、あれの前には無意味。なんの前触れも兆しも表すことなくこの世に現れる禍。異物。怪力。それが殺生石。性質の悪い天象の如きモノ。

 メイヤノイテに特殊な背後関係はなく、此度の暴走も石の力が作用した精神錯乱に依るところが大きい。処遇などと、偉そうに言えたものではない。実際のところ、この少女に殺生石に関わる情報源としての価値を見出せないと知った上役連中は早々にこの子を見限った。

 手厚く布かれた情報統制の下、この娘の為した所業はもはや表沙汰になることはない。法はおろか、事の真相を知らぬ被害者達とて無論のこと。

 裁く者はない。

 

「罪を問う者も、科を量る者も、糺す者とてもはやない」

 

 娘は永劫、贖罪の機会を失ったのだ。

 

「…………私は」

「辛く、苦しかろう。償えぬ罪ほど重いものはない」

 

 娘は頭を振った。己の言葉に、一抹の慰めでも含まれていたやもしれぬ。

 それを拒むように。

 

「たくさんの人を傷付けた。私の、願いの為に……他の誰かの願いを踏み付けにした……私は……!」

「背負って行け」

「…………っ! く、ぅ、ぁ……はい……」

「己ら二人で」

 

 少女の膝の上、固く握り合わされた両手。その上に、重なるもう一つの手。

 少女は傍らの少年を見、少年は少女の瞳に応ずる。

 

「はい……忘れません。私は、私達だけは絶対に……この罪を」

 

 二人の子らは己を見返し、頷いた。

 肩を竦め、応接用のやたらに柔らかなソファを立つ。

 今更確認の必要もないことだったが、それはしっかりと見ることができた。少女はもう怪力に迷うことはない。そして、彼女には連れ合い、伴い生きるを誓った者がある。

 

「御母君はえらく厳しい御人と聞くが」

「はい……」

「説得します。時間を掛けて、何度でも。僕はもう絶対に諦めません」

「左様で」

 

 幼い面差しに二つ、決意の炎を見た。愛する者との生涯を夢見て、それを夢で終わらせぬ覚悟を見た。

 今にも燃え上がりそうな両人に一吹き笑う。まったく熱い熱い。熱くて堪らないので、野暮は早々に退散するとしよう。

 踵を返して部屋を後にする。そのまま後ろ手に扉を閉める寸前。

 

「刈間くん!」

「ん」

「ありがとう! 本当にっ、ありがとう……!」

 

 振り返る愛想とてなく、片手をひらつかせてその場を去る。

 別段、珍しくもない。異種の(つがい)が一組出来上がった。ただそれだけの話。

 級友が夫婦になった、ただそれだけ、ただの目出度いお話で。

 病室から生っ白い廊下に出る。ワックスで磨き抜かれた床面。己の歩みの先に、ふと。

 

「おや」

 

 白い廊下の中で、その黒い出で立ちはひどく浮き彫りである。際立って目立つ。目を引く。

 視神経を直接手繰り寄せられるかの如き、蠱惑。

 かつかつと踵の高い靴を打ち鳴らし、その女怪は眼前に立った。

 黒いジャケット、黒いロングスカート、レースのハイネックと露出は少ない。

 だというのに一目でわかる。なんとも起伏の激しい体だった。乳房と臀部の豊かさに比して、腹回りの細さはまるで砂時計のシルエット。

 淡い桃色の長い髪。即頭部から歪曲した角が出ている。

 顔立ちは、なるほどかの娘に、メイヤノイテによく似ている。姉妹と言っても差し支えないほど。

 

「素顔は初めて見る。お前が神甲の担い手か」

「まあ、そんなようなものだ」

 

 マスティマ家現当主。大魔族にして淫魔の女王。そしてメイヤの御母堂である。

 

「……愚娘が世話になったそうね」

「さて。世話を焼いたなぁ己ではない」

「?」

「命懸けで好いた女を救おうとした男が、今そこの病室にいる。礼を言いてぇんならそっちに行きな」

「…………」

 

 鉄面の無表情。しかしそんな無機質な顔にも隠しきれぬ艶気を帯びていた。

 

「……貴族は貴族として、市井の者は市井の中に在って、それぞれに相応の幸福を得られる。軽率にこの分を跨げば必ず歪を生むわ。傷付いて痛い思いをすることになる。どちらもね」

「そいつぁあんたの経験かい」

「…………」

 

 精緻な石膏像と化して、母君は暫時押し黙った。

 その紅い瞳の奥底に、何を映し、何を見るのか。

 決まっている。

 

「御息女は実にお強い。胆が据わっておられる。その姫君に見初められたあの若者も」

「……」

「今少し、信じてやっちゃどうだい」

「……まだ十五よ。あの娘は。生まれたばかり。殻も取れていない雛鳥なのよ……」

「親が四六時中見張らずとも子は育つものよ。時にこちらが度肝抜かれるくれぇにな」

 

 ふ、と。意外そうな目が己を見上げた。

 不安に揺れる瞳。子育てに悩み、答えを探しあぐねる、それは紛れもない母の貌。

 娘の身を案じ、魔界の貴族と言う立場すら忘れ、矢も楯もたまらず人界へ飛んできた。

 今更、推し量るまでもない。この者とても親なのだ。

 

「そら、行ってやりな」

「……」

 

 今一度こちらを見上げる視線に笑みを返す。

 そうして一人の母が、やや強張った足取りで病室の扉へ向かって行く。

 その背中に一つの決心を負って。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章 魔蟲蠢動
19話 暗躍


久々の息抜き。



 その空間は、路地をさらに奥へ進んだ半地下にあった。

 看板も掲げぬバー。それもその筈、営業(あきない)などしていない。少なくとも真っ当な酒屋としての機能をここが果たしていないことは明白である。

 にも拘らず今夜、ここにはそこそこの客入りがあった。店内には数人の人魔が居合わせていた。実に運の悪いこと。

 彼あるいは彼女ないしそのどちらでもない誰か等は、一様に倒れたテーブルやバーカウンターの裏に逃げ込み身を縮めている。

 突如として湧き起こった厄介事、暴力沙汰の終わりを震えながら心待ちにして。

 その期待に応えてやるような心算でもないが。

 

「シッ」

 

 踏み込み一震。地を砕く思いで進突する。

 身体の重心が前へ、質量相当の移動力の発生、それを掴む。

 掴み、握り固め、拳と共に打ち出す。

 対手の体躯、その中心へ。水月へと打撃を捻り込む。

 

「────ぎゃふ」

 

 なかなかに体格の良いその男は、その大柄をくの字に折って鳩尾を押さえ、堪らず床に吐瀉物を撒き散らした。

 嘔吐の原因はなにもこの拳の所為ばかりではない。

 男は強かに酔っていた。おそらくは酒──ではないものに、酔い溺れ、支配されていた。

 

「がぁあああ!!」

 

 背後より響く咆哮が雑居ビルの鉄筋さえ震撼させる。砲弾さながらの殺気を半身に躱す。

 鋭い二つの角が、空を突き退けて横合いをすり抜ける。闘牛の如き女。いやさ、猛牛(ムルシアン)種の半獣人。

 真っ当な人間がこの突進を食らえば命はない。

 猪突に急停止など叶わず、牛人の頭突きは支柱にぶつかり、突き刺さり、砕き散らした。

 

「オオオオオオオオンッ!!」

 

 人の言葉すら忘れたか。獣の咆哮を上げて黒毛の巨体が再度こちらに向かってくる。

 理性の欠片もそこにはない。猛る本能にあかせ、その血走った目に映る存在を、この身ならずとも、あらゆるものを突き殺すことだけに脳髄を支配された動き。

 猛り、そして狂っていた。

 連れ合いの男など比べるべくもない巨体。強靭な筋骨とそれに見合うだけの質量。生体オード量とて並の獣人を凌ぐだろう。一生物個体として、人を超えた性能を有している。

 それをしてまたさらに一段底上げするものがあった。狂暴なる膂力を凶悪に捻じ曲げる異物、怪力(ちから)を、その体内に認めた。

 迫り来る二角。此度それを躱さず、その鉾先を待ち受ける。

 掴み、止める。

 

「ヴァッ!?」

「ッッ! ずぁぁああああああ!!」

 

 掴んだ角ごと、突進の勢いそのままに持ち上げ、大きく仰け反る。

 地面に投げ落とす。

 

「ギャッ!?」

 

 床面の材質が鉱石や金属でないことを差し引いても、その体重分の衝撃は存分に筋骨を軋ませたことだろう。

 牛人は仰臥したまま動けずにいる。それが再起する前に、掌をその腹に押し当てる。

 腹の奥底に落ちた異物へと手掌より神気を放った。

 

「げぇあ」

 

 あまり品の宜しくない()()()を上げて間もなく、女は口腔から反吐を吹いた。噴水か散水機のような景気の良さ。現と目の当たりにするには頗る胸に悪い光景である。

 うっかり吐瀉物を浴びぬようその場から跳び退く。

 嘔吐の勢いが収まるのを見計らい、女を仰向けから側臥に。回復体位を取らせた。

 

「“香気”を追って来てみりゃ、なんとも酷ぇ臭いだ」

 

 今宵此度とて我々の目的は変わらない。

 殺生石の気配を追って、人魔入り乱れるN県S市内を東奔西走。アメノフトダマから寄越された正占(ますら)を手掛かりに、どうにかこうにかこの店を探り当てた。

 うらぶれた地下の酒場、そこに降り立ったその時。突如、この者達が襲い掛かってきたのだ。

 その身の内に殺生石の微香を宿して。

 

「どうだい、石はともかく残り滓くれぇはあるか」

『……』

 

 隠行を解いて薄闇から出現した烏は、床面に広がった吐瀉物を見下ろし、珍しくその変化に乏しい顔を顰めた。

 不快感は大いに察するが。

 

『……いいや、完全に霧散している。残滓すらも見えぬ』

「やはりか。店に入るまで存在を気取れぬほどだ」

『両名にオードの強化と肉体能力の向上を認む。この微量ではほんの短時間持続させるのが精々だろう』

「……益々わからんな」

 

 一体何処から湧いて出たか。

 殺生石の神出鬼没さは身に染みて知るところであるが、これ程までに()()現界は過去類を見ない。

 十中八九、石か石の残滓を何処からか手に入れたこの者らがそれを使用し、この狂乱へと至ったのだろうが。

 

『ギンジ』

「ん?」

 

 言語による迂遠な問答など必要なかった。その声ならぬ念の呼ばわりに滲むは警告の色。

 店の戸口が弾かれるように開け放たれる。それは己がカウンターの裏に身を潜めたのとほぼ同時のことだった。

 

「警察だ! 全員その場を動くな!」

 

 ドスの利いた大声が半地下に響き渡る。それはまるで戦場における武者名乗りに似て堂々と、敵を射竦めるだけの覇気に満ちていた。

 なによりも警察の二字が、この場の空気を凍り付かせた。

 テーブルやソファーの影に隠れる者達に、明らかな怯えと焦りを見て取る。

 

「21時7分! これより強制捜査に入ります!」

「店長は!? 店長はどこだ!?」

「おいそこ! 何も触るな!」

「ひぃ」

「な、なんだよ」

「私、かっ、関係ないから!!」

 

 どかどかと乱暴な足音が十人単位で店内に入って来る。今ほど抵抗を試みてしまった幾人かは公務執行妨害辺りで現行犯御用となるだろう。

 どうやら妙な場面に鉢合わせてしまったようだ。警察の店舗に対する強制捜査。果たして何の名目やら知れぬが。

 

『どうする』

「三十六計」

 

 こちらの所用とあちらの公用。邪魔立てする気はなし、かといって巻き込まれるのは如何にも不都合だ。

 逃げるに如かず。

 問題は方法だ。唯一の出入り口は大挙した捜査官達によって塞がれてしまった。

 無論、神甲の能力を使えば逃走方法は幾らでも都合できる。軽々しく……という非難に満ちた烏の視線に気付かぬふりさえすれば。

 然すれば実行あるのみ。そう思い切ろうとして。

 

「お?」

 

 そこでふと、視線の隅を過るものがあった。

 カウンターの端にもう一人、己同様に隠れ潜む者がいたのだ。痩せぎすで髪の長い男だ。不健康そうな面をさらに青くして、男は這うように店の奥へ行く。

 奥には酒瓶の棚があり、その下段の引き戸を開いて、なんと男はその中に入っていった。

 

「ほほう」

 

 そそくさと後を追い、戸棚の中を覗く。棚の裏の壁をぶち抜いた隠し通路だった。暗い廊下を2メートルばかり進んだ先で、痩せた背中が消える。

 それに倣って戸棚を潜り、奥へ。

 そこは六畳ほどの狭い部屋だった。コンクリート打ちっぱなしの寒々しい空間。天井付近の明かり窓から街灯の光が朧に降り注いでいた。その下に脚立が立て掛けてある。

 そんな無味乾燥な隠し部屋でたった一つだけ鎮座する黒い金庫。その前に、痩せ枯れた男の背中が蹲っていた。

 金庫の扉を開き、その中身を男は手にしたバッグに詰めていた。実に必死な様子だ。背後に立った己の存在に気が付かぬほど。

 男の手元を見下ろして、一人納得を覚える。輪ゴムで巻かれた紙幣の束。複数台の携帯端末。そして、ビニールで包装された白い粉末。

 それが白糖でないことだけは確かだ。

 

「なるほど」

「!?」

 

 声を発したことで、男はようやくこちらの存在を認めた。跳ねるように立ち上がって振り返る。驚愕と恐怖の同居する頬のこけた面。

 

「お、お前、さっきの」

「荷造り中に申し訳ねぇな。丁度いい逃げ道があったんで、使わせてもらうぜ。構わんだろう」

「ふ、ふざけんな!!」

 

 困惑を怒りで上書きし、男は吠えた。そうしてポケットからナイフを抜き、刃先をこちらへ向けた。

 諸刃には幾何学の紋様が刻まれ、それが薄く輝いている。おそらくは魔術による機能付与(エンチャント)。効果は麻痺か昏睡か。元来は非力を補う為の特殊武装も、こうして不逞の輩が良からぬ目的に悪用する。

 皮肉な話だ。だがなにもその皮肉を成就させてやることもない。

 突き込まれる刃の尖端、それを握る手、伸びる腕。それらを紙一重に躱し、擦れ違い様に男の腹へ拳を叩き込んだ。

 

「うげぇあッ!?」

 

 涎を垂らして崩れ落ちる男を床に転がす。硬質な音を立てて床面をナイフが滑った。他の雑多な物品同様無造作にそこらを散らばる。

 白い粉。果たして尋常の、あるいは人界の代物であるかもわからぬそれ。

 

「……薬か」

『まさか、石を』

「まだわからん」

 

 早合点は禁物だ。だが可能性として熟慮する必要があった。その為の情報を集めねばならない。

 差し当たり目下に転がるものを、と言いたいところだが。悠長に家捜しをしている時間はなかった。

 直に表の警官達がここを見付け、この男を処理するだろう。金庫の中身と共に。

 包装された小袋を一つ摘み上げ、懐へ仕舞う。

 

「一服もらってくぜ」

 

 この烏の相棒にかかれば薬剤の成分解析くらいは訳もない。しかし、こいつは望み薄だ。

 ……()()を薬に加工などして、ただで済む筈がない。よしんば作ることができ、売買までされているとしても、出回っている量は微々たるものだろう。こんな木っ端な売人風情が多量を抱えているとも思えぬ。

 明かり窓を開き、地上へ這い出す。

 幸いに人影の見えない路地へと立つ。隣接する別のビルの地下を通り抜けて一本裏側の通りに出たらしい。

 酒と煙草の臭いから解放され、冷えた外気が実に心地よい。

 表の喧騒に素知らぬ風で、散歩の途中を装ってその場を離れんと歩き出した。歩き出そうとしたのだ、が。

 

「そこのお前! 止まりなさい!」

「……」

 

 背中を叩く声は紛れもなく己を呼び止めるもの。

 何処にでも目端の利く者というのは居る。一見して袋小路の半地下のバーに、抜け道の存在を懸念して裏通りに張り込む。考えとしては単純だが、その発想へと現に思い至り即時行動に移るとは。即断即決は間違いなく有能の一要件だ。

 この儀この場において、この身にとっては生憎と迷惑千万であるが。

 

「両手を上げて、ゆっくりとこっちを向いて!」

 

 言われた通りに振り返る。通りの先に立っていたのは、パンツスーツ姿の若い女性警官だった。手帳の提示義務を律儀に守り、顔写真付きの身分証明がちらりと見える。

 女のもう片方の手には鍔ありの黒い警棒が握られている。不審な動きを見せたならそれで打ち据えてくれようという心積もりなのだろう。

 それは御免被る。

 とっとと逃げてしまうが吉か。

 

「赤崎君、裏口は見付かったのか」

「! ま、真柴警視!? 下がってください! 参考人を一人確保するところで」

 

 通りの向こうからまた一人、長身の男が現れた。

 かっちりとしたダークグレーのスーツ、銀縁の眼鏡、そして夜闇の中でさえ光るような純銀の髪。冗談のような美しい顔をしたその男は、己を認めてその目を見開いた。

 

「刈間」

「あぁ? レオン坊じゃねぇか」

「その呼び方はやめろ!」

 

 旧知のインキュバスが、美貌を歪めてビル間に叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20話 彼と彼の務め

 

「警視殿自ら現場にお出張りとは、一体どんな風の吹き回しだい」

 

 うらぶれた酒屋への“手入れ”が一段落済んだ後、己は旧知のインキュバスに伴われ、いや連行され、近場のファストフード店を訪れていた。

 窓辺のスツールに並んで座り、夜の繁華街を男二人で見下ろす。

 この男の座する姿は相変わらず絵画の如しだ。若き銀髪の警視、真柴レオン。十年来の腐れ縁。

 奴は紙容器のコーヒーを一口含み、味わうように吐息して肩を竦める。こちらの皮肉に対してたっぷりと勿体付けた態度で仕返しをくれる。

 

「職務上必要に駆られれば、警視だろうが総監だろうが現場に立ち会うこともある」

「ヤクの捕り物にか? 幾ら現場好きったって限度があらぁ。なによりもお前さんK県警の外特であろう。所属県外の別部署にまで出しゃばってくるなんざどう考えても奇天烈な話だ」

「警察機構の中では確かに珍しいが、近年、外特の県外出向自体はよくあることだ。魔界人種関連の事件には既存の犯罪捜査手法とは別に特殊なノウハウを必要とされる。僕に求められたのは現場の指揮者への教育や管理職の補佐、まあ平たく言えばアドバイザー役だ」

「ほー、縄張り意識の塊みてぇな警察が随分と柔軟になったもんだな」

「頑ななままではいられなかっただけさ。特にこの街は規制緩和以後、渡界者受け入れの規模は首都に次ぐ。それどころか魔界人種との交流の拡大・増加の速度という意味でいえば、地方都市として世界一だろう」

「それだけに外特の仕事は増える一方か」

「……ああ、残念ながら」

「だがするってぇと……やはりありゃただの薬ではないのだな」

「ああ、魔界由来の薬物だ。原料および製法は『魔捜研』で目下分析中だが。その流通を握っているのも、おそらくは」

 

 異界よりのモノ。

 夜景に目を落としたまま美青年は事も無げに言った。秘匿すべき捜査情報を。

 

「いいのかい。一般市民にそこまで(つまび)らかにしちまって」

「お前が一般市民なものか。怪魔の討滅武力が……お前があそこに居たということはつまり()()なんだろう」

「ああ、無論だ」

 

 殺生石が関わる事象なれば嘴を挿まざるを得まい。それがたとえ国家公権力、警察機構の責務に横車を押す仕儀になろうとも。

 レオンは苦々しく溜息を吐いた。

 

「薬物事件にあの石が絡むなんて……厄介だな」

「あれが齎す破滅の力は天象のそれに近いが、それゆえに惑うのだ。人も魔物も。心の惑いにそれは、蛇の如く這入り込む」

「……過ぎた力は、犯罪とは不可分ということか」

 

 静かに、吐息するように若き警視は呟いた。

 それこそこの男と出会った経緯も、思えば似たような流れをなぞったのだった。

 ほんの十年前。T市内異種人種無差別殺害事件。血臭に塗れたあの事件で、新芽のように青いこの刑事と出会った。冷厳な眼差しと言動、その奥底に焔のような義憤を燃やすインキュバスの青年。

 あの頃より幾分落ち着きを身につけた、ように振る舞うこの男。しかしその中身はちっとも変わらぬ。

 変わらぬ正義を鉄の芯に、背骨を支えるその姿。

 

「? なんだ」

「いんや。生意気に齢食ったような面ぁしてやがると思ってな」

「はあ? なんの厭味だ、それは……」

 

 納得とは程遠い顔つきで、しかし次の瞬間にも青年は一計を案じたらしい。

 

「殺生石がこの一件に関わっているなら、お前を巻き込まない手はない。現地協力者として精々利用させてもらおう」

「おぉおぉ、すっかり悪賢くなっちまって」

「止むを得ない措置だ。あの危険な石を確実に破壊できるのは神甲の揮う神威だけ……刈間ギンジ、お前だけなんだって」

「……」

「十年前に、思い知った……心底歯痒いけどね」

 

 レオンは笑みを浮かべた。自嘲の色濃い儚げな微笑であった。

 警察や自衛隊といった組織力、兵力の介入を排し、ただ一個人に武力を与え怪にして邪なる存在の撃滅を行わしめる。

 それは疑いなく無法の所業。赦し難い(かたき)に対し凶手を差し向けるが如き、狂った勅命だった。まさしく天津の神々による謀に他ならない。

 天地破滅の力、世界滅亡の力、大融界現象という災禍の再来、そんなものの存在を世の人々に知られる訳にはいかぬ。それによる世界の混乱は必定であった。

 しかしなにより、なによりも、彼奴らがこの真実を秘するのは────

 

「お前の戦いはまだ続くんだな」

 

 ぽつりと、レオンは言った。それはどこか、歩き疲れた子供のような口調で。

 だからという訳でもないが、この顔の表情筋は、主の意思に先んじて妙に穏やかな笑みを湛えるのだ。

 笑って言ってやる。

 

「いずれ終わる。終わらせる。なんとしても。それが十年かかるか百年かかるかはわからぬが、殺生石は俺が必ず滅ぼし尽くす。この身命が」

 

 (ダイダラ)に喰らい尽くされるその前に。

 

「…………」

「カカッ、んな顔するんじゃあねぇよ。どうせ俺ぁお前さんより長く生きるんだ。恥ずかしげもなくな」

 

 窓ガラスの向こうで広がる人と魔の営みを見下ろす。煩雑であり混沌として、健全な、ありふれて善良な、護るべきものがそこにあった。

 

「ラヴィン・ハイヴ」

「あん?」

 

 出し抜けにそう言ったレオンを見やる。

 警視はスーツの懐から薄い紙の箱を取り出し、卓上を滑らせた。

 黒地に金の箔縁をあしらえたマッチ箱だった。その表面には男の言の通りの英語が印字されている。

 

「近く市内にオープンしたクラブだ。魔界人種の女性がホステスとして人間種相手に接待飲食等の営業をする……とまあ、近年では然程珍しくもない業態の店だ」

「この店が薬を撒いてるってのか」

「残念ながら確定情報はまだない……魔種風営法の施行以来、こういう水商売の営業形態に対する締め付けは急激に強まった。過剰な性()()と判断されれば即時営業停止の勧告が下る。どころか薬物の売買なんてものが明るみになれば、経営者は勿論、就労資格を持った従業員まで送還対象にされるだろう。そんなリスクを奴らが犯すとは思えない」

「奴ら?」

「そう。ラヴィン・ハイヴの経営母体に当たる。組織の名はコロニー。その首魁は殺人蜂(ホーネット)種の虫人、ストライクと呼ばれる女だ。現在、外特でも内偵を進めている。さっき強制捜索を行ったバーも、このコロニーの息が掛かった店だった。幸い物証と情報源は取り逃がすことなく確保できたよ。どこかの乱暴者のお蔭でな」

「礼を言いてぇなら聞いてやらんでもないぜ? 暴れていた二人、あれはどうなった」

「意識不明で病院に搬送された。典型的な急性中毒症状だ。案の定、簡易検査ではどちらからも薬物反応が出た」

 

 レオンはスマートホンを操作して画像を表示した。

 それは車道の対岸から盗撮されたものらしい。部下と思しい虫人に警護されながら、車に乗り込もうとする女が写っていた。

 金の髪、額から伸びる触覚、首筋を覆う金の被毛。人型を残した瓜実の顔貌、そこに埋まる黒々とした複眼が妖しげな美しさを演出している。

 さて、果たしてこの女は、薬を売り捌き腐った金子で私腹を肥やすただの害虫か、はたまた石塊の怪力で世を乱さんとする災禍の種か。

 いずれであれ、検めねばなるまい。

 

「石が絡む以上、派手に動くことになる。お前さんらを慮って容赦するような真似はできんぞ」

「ふっ、そんなものお前に期待してないよ」

「けっ、そうかよ」

 

 忌憚のない返答に鼻を鳴らす。

 レオンは控えめに笑声を漏らした。

 

「何かあれば逐次連絡をしろよ。一般市民を自称する気なら、お前にだって通報義務がある。そして警察(ぼくら)には市民生活を守る義務がある」

「覚えていたらな」

「ふん、忘れたことなんてない癖に」

「近頃耄碌しててな。いやはや寄る年波には敵わん」

「馬鹿」

 

 存分に軽口も叩いた。席を立つ。

 

「ではな。アキ坊とアリアちゃんに宜しく伝えて────」

「ん? どうした」

 

 立ち上がったまま動かぬ己の様をレオンが訝しむ。

 それに応えず、己は店内の一角、階段横のゴミ箱を注視した。

 欄干とゴミ箱の影に身を潜める者がある。少なくとも当人は、潜めているつもりらしい。

 手に盆を持ち、両腕にはテイクアウトした品が入っているのだろう大きなビニール袋を二つずつ提げている。それがゴミ箱の横合いから丸見えなのだ。

 その姿には見覚えがある。その娘は、先刻現場から逃げようとした己を呼び止めた捜査官の一人だった。

 

「赤崎君、どうしたんだこんなところに」

「えぁ!? あ……あははは! ど、どうもお疲れ様です警視! こんなところでお会いするなんて、き、奇遇ですね!」

「……まさか僕らを尾けて来たのか?」

「そそそそそそんなっ、ち、違いますよ! これから夜通しで調書を取ることになるので、班の皆に夜食でも、と!」

 

 赤崎、と呼ばれた娘はその場で直立し、がさごそとビニール袋に邪魔をされながらなんとか敬礼した。

 そうしてずり落ちそうになった制帽をその赤毛に慌てて押さえ付ける。かっちりとしたパンツスーツに合わせるには、紺の略帽というやつは浮いて見えてしまうものだ。

 装いのちぐはぐさ、そして先の毅然とした警官ぶりとは裏腹な、慌てん坊というか、そそっかしい様子がなにやら面白い。

 悪戯心が湧いて、盆の上を指差す。

 

「ほー、ならばその小山は夜食の前の夕食ってぇ訳だ」

「はっ!? い、いえ、これは、その、小腹が空いたからしょうがなく……」

 

 娘の手にした盆の上には、バーガーが四つか五つか積み重なり、フライドポテトに至っては広大な砂丘の様相で積もりに積もっている。よくぞ盆の一枚程度に納まったものだと呆れるやら感心するやら。

 己の揶揄いに顔を真っ赤にして、赤崎は口をぱくぱくとただ開閉した。言い訳すら浮かばぬらしい。

 暫時右往左往とした後、娘は真柴に羞恥の視線を、そして己に怒りの矛先を向けた。

 

「お前に! んん゛っ、あなたに関係ありません! というかなんなんです!? 警視と知り合いのようだが、本当なら現逮で連行するところなんだぞ!? あっ、いや、ですからね!」

「おやおや剣呑だねぇ。俺ぁ一体どんな嫌疑でお縄を頂戴せねばならんのですかな」

「あ、明らかに不審だからだ! それに、そう。それに、現場から逃走を図ってただろう。職質にも応じようとしなかったし、公務執行妨害、です!」

「そいつぁおそろしいや。こちらのお嬢さんはそう仰せだが、警視殿はどうだい」

「赤崎君、この男の処遇については僕に一任してくれと、現場でも伝えた筈だ」

「で、でも、真柴さん」

 

 なおも言い募ろうとする娘子に、真柴はその上注意を重ねようとはしなかった。

 黙して見返され、娘はしゅんと肩を落とす。まるきり叱られた忠犬の有り様だった。

 それを笑うこちらを当然の怒り顔が再び睨み付ける。

 

「おぉっとっと、これ以上はどうやら御寛恕賜るなぁ難しそうだ。御用になる前に退散させてもらうぜ」

「ぐ、るるっ……! ぬ、ぐ」

 

 低い唸り声が響く。獣のような。それを娘は慌てて喉の奥に飲み込んだ。

 その様に見て取れるものもあったが、この上迂闊のことを口にすれば今度こそは噛み付かれるやもしれぬ。とりあえず沈黙を尊び、その場を離れた。

 

「刈間、前にも言ったが」

「?」

「その御役目が落ち着いた頃でいい、またうちに顔を出せ。アリアがお前に会いたいと駄々を捏ねるんだ」

「……そうだな。近ぇ内に寄らせてもらおう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 男の背中を見送って、真柴レオンは鼻腔からごく小さく息を吐いた。

 終わらぬ職務などない。どんな責務であろうと、いつかは終わる。いつかは、きっと。

 あの男は人の定命という終着を踏み越えて、未だにその務めを果たし続けていた。

 あるいは、最大の仕事を奴は数十年も前に終えている。怪魔の大首魁たる、あの妖狐を一度は屠った。融界という混沌の元凶をその手で砕いた。

 そこから始まったのは謂わば果てしない残務処理。世界中にばら撒かれた災禍の種、何時何処に現れるとも知れないそれらを一つ一つ潰して潰して潰し続けて。

 

「あいつの残業は、いつ終わるんだろうな……」

「はい?」

 

 赤崎刑事は不思議そうに目を瞬いてこちらを見た。次いでその目に、ありありともの問いたげな色が宿る。

 

「あいつ……あの人、ホント誰なんですか? 見た感じ若そうなのに変な口調だし……怪しさ満点ですよ」

 

 それは猜疑ではなく、純粋な疑問符だった。

 その純心さに思わず笑みがこぼれる。

 まさか、うっかり答えることもできない。大戦の英雄、この國の最強の盾であり矛。

 怪滅神甲。

 末端はともかく、国家機関公然の秘密。國に仇為す脅威を討滅する為の武力装置。その正体があれだなどと。

 

「ともかく、奴には関わらない方がいい。君が僕以外の上司へ報告を上げることまでは止めないが」

 

 仮に刈間ギンジを被疑者ないし参考人として捜査したとしても、その結果や報告はある段階で差し止められ、葬られる。

 そういう仕組みになっている。

 

「…………」

「それより、いいのかい。せっかくの差し入れが冷めてしまうぞ。夜通しで調書の作成もあるんだろう」

「あっ! え、えっと、私はこれで失礼します!」

 

 飛び上がった彼女が踵を返そうとして、テイクアウト以外のバーガー類を見て動きを止める。

 たっぷり十秒間逡巡した後、彼女はフライドポテトだけ三秒足らずで平らげて、敬礼しながら走り去っていった。

 

「やれやれ」

 

 その素直さに呆れるやら微笑ましいやら。コーヒーを飲み干しながら、レオンは今後の事件の荒れ模様と、加速度的に訪れるだろう進展を想像して溜息を吐いた。

 そして彼は、後日に大いに悔いる。年若い部下に宿った青い正義感、その素直さを見誤ったこと。彼女にはもっとしっかりと釘を刺しておくべきだった、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21話 悪報

 夜更けの暗い家路を行く。

 盛り場の熱気は衰えを知らず、行き過ぎる店の灯りと乱痴気騒ぎが幻燈のようだ。現実とかいう寒々しいものを一時ばかり忘れてしまいそうな。陽炎を眺めるような、朧気さ。

 魔と人とが在るこの御世の、ほんの一突きで崩れ去るだろう危うい均衡を知っている。大戦から七十余年、今やそんなものは無かったと世間も人々も(のたま)うが、薄皮一枚剥いだ裏側に蠢動する怪魔がある。破滅がある。

 その脆く、平らかな現世(うつしよ)を護るが我が宿命。

 

『ギンジ』

「おう、気付いてるよ」

 

 愚にもつかない思考に烏が蹴りをつけてくれる。

 それは警告であった。我々、いや己の背後を尾け回す存在を報せる。

 レオンと店で別れてから延々と、この者は実に根気よくついてくる。親鳥を追い回す雛鳥のような健気ささえ覚えた。

 尾行術のなんとも言えぬ拙さがまた一層にその印象を強めるのだ。

 

『先の店で鉢合わせた娘だ。目的は不明』

「おおかた、得体の知れぬ男の正体をどうにも知りたくなったのだろうよ。レオンめ、きちんと諭してやらなんだな」

『例の「ころにぃ」とか言う徒党の間者である可能性は?』

「ない、と断言はせんが公算は少なかろう」

「へっくち! っ……!!」

 

 背後の電柱の影で可愛らしいくしゃみが響く。声の主は慌てふためいてその隠れ切らぬ身を必死に縮めた。

 

「少々間抜けが過ぎる」

『…………』

 

 そういった間抜けを演ずる()()である可能性も絶無ではないが、それはもはや過ぎて及ばざる浅慮であろう。

 つまり考えるだけ無駄だ。

 歩調はそのまま路地に折れる。

 当然、いや本来当然であってはならないのだが、背中に慌ただしい足音が縋る。見失うまい、そんな気概。

 しかし、覗き込んだ路地の暗がりに男の姿はない。

 

「え!? ど、どこに」

 

 よく通る声量が、この雑居ビルの屋上にまで届いた。

 娘はきょろきょろと周りを見回し、程なく途方に暮れた様子で元来た道を取って返す。

 そのしょげた略帽の頭に笑みを落として、空中の帰路を跳んだ。

 

 

 

 (ねぐら)である古びたビルの最上階。エレベーターではなく屋上からその中に降りる。

 扉の隙間から漏れ出る明かりに気付く。

 室内に踏み入る。

 

「おかえりにゃさい!」

 

 扉の開く物音を聞き取ったのだろう。娘はこちらに駆け寄って、己を出迎えた。

 

「ただいま」

「にへへ」

 

 応えの文句にどうしてか、エルははにかんだ。照れ臭そうに俯いて、両手を後ろ腰に回してゆらゆらとその場で揺れる。

 

「なんだいなんだいニヤけた面ぁしやがって」

「にゃはは、やぁ……なんだか照れ臭いんスよぅ。おかえりって」

「まだ馴れねぇのか」

「にゃふぅ、だ、だってだって……家で誰かの帰り待ってるなんて、初めてで……」

「そんなものかねぇ」

「そーなんスよー。まったく兄貴は幼気な純情ってものがわかってないんすから」

「面目次第もねぇです」

 

 恭しく頭を垂れてやると猫娘は御機嫌麗しく笑った。

 奇縁からこうしてこの部屋に娘を招いて早数週間。

 

『いや物なさすぎッス。あんまりにも殺風景すぎッス。人間の住むとこじゃないッス』

 

 暮らし始めて早々に、娘子から忌憚のない不平不満を遠慮なく上申されたもの。

 我が家は兎角、家具が少ない。男の独り住まい、それも当座凌ぎの屋根に過ぎなかった場所。娘の言葉を大袈裟と笑えぬ有り様ではあった。

 ならばと、趣向品的家具を取り扱う店に伴おうとしたところ、娘子は首を左右して言うのだ。

 

『お値段異常なあそこッスか? ダメダメお金勿体ないッス! にゃんの心配ご無用、実は穴場があるんス!』

 

 穴場……例のミヤオ山近く、大型粗大ゴミの不法投棄場所に連れられ、使えそうな家具一式をえいこら運び出し、部屋に運び入れ終わったのが一昨日の話。

 褒められたことではないが、土にも還らぬゴミとして腐らせるよりは幾分かマシだろう。

 二人分の寝床にカーペット、花柄の妙に愛らしいカーテン。古臭い南国調の間仕切り(パーテーション)で自分用の空間を拵えるちゃっかり具合。

 ソファーの真正面に型落ちの大型テレビが鎮座し、その手前には木製テーブルと椅子が二脚。卓上の花瓶に本日は黄色いパンジーが活けられていた。

 見事と言おうか、それとも呆れようか。ソファーに腰を沈め、すっかりと生活感に溢れた部屋を見渡す。

 

「随分様変わりしたもんだ」

「言っときますけど、これで最低限ッスよ。やっと人並に指が掛かった程度なんスから、安心しにゃいように」

左様(さい)ですか」

 

 こちらの内心を読み切って釘を刺してくる。

 パーテーションの端から注がれる猫目は不信感に満ち溢れていた。

 

「勝手知ったるというか我が物顔というか。図々しくなったじゃあねぇか、うん?」

「このくらいの図太さがないとやってけないッスからね~。日ノ本ホームレス歴1年は伊達じゃないッスよ」

「偉ぶるんじゃねぇよ物悲しい」

「それに、猫は家に憑く生き物ッス。一度居座ったら巣作りに余念はないッスよ~。いくらこのエルちゃんが可愛いからって気安く招き入れてしまった兄貴の迂闊さを呪うことッスねぇ。にぇっへへへへ」

 

 迫力のない邪悪さで娘が低く笑う。笑いながら、その小さな顔は再びパーテーションの向こうへ引っ込んだ。

 悪ぶって、お道化て見せて、こちらに気を遣っているようにも見えるし、単に面白がっているだけのようにも見える。

 まったくもって愛嬌に事欠かない奴だった。

 点けっぱなしのテレビでは魔物向けの食料品のCMが流れていた。『味も香りも本国仕込み』『オード回復量当社比30%UP!』とかなんとか。

 

「あ~にき!」

「ん?」

 

 呼ばわりに振り返れば、そこに。

 黒猫の少女が立っていた。それも紺のブレザーを纏って。

 それは現在この身がせっせと通わされている『マギケイブ学園』の指定制服である。

 その場でくるりと一回転、プリーツスカートが花弁のように宙に咲く。

 どうだと自信満々胸を張りながら、顔を朱に染めて娘は照れ笑う。

 

「気が早ぇな。学校は週が明けてからだぜ」

「い、いいじゃないッスか。よこーえんしゅーってやつッスよぅ。で、その……どうッスか。変じゃないッスか、アタシ……」

「そうさな、こいつぁまさしく」

「は、はい」

「馬子にも衣裳ってぇとこか」

「……」

「おや不満かぃ?」

「兄貴はやっぱ意地悪ッス」

「カッカッカッ」

 

 じとじとした視線に見上げられ、思わず意地の悪い笑い方をしてしまう。

 なおも笑い続ける己の傍に娘は屈み込んだ。その細い顎を己の膝の上に乗せ、両手でぐいぐいと腹を押された。

 

「すまんすまん。心配せずともよぉく似合ってるよ」

「……にゃふ」

 

 黒髪を撫でてやると、擽ったそうに二つの耳がぴくりぴくりと震えた。喉をごろごろと鳴らす様は、なるほど仔猫に相違ない。

 ほんの小さな、童の姿が────

 

「…………」

「? 兄貴?」

「どうでもよいが、皺になっちまうぞ」

「あっ、着替えてくるッス。あぁ兄貴! 兄貴はそこを動いちゃダメっスよ! 微動だに!」

「茶を一杯もらいてぇんだがねぇ」

「アタシが淹れてあげますから、ソファーをぬくめといてくださいッス」

「あんだそりゃ」

 

 妙ちきな交換条件をとりあえず受諾し、娘子が戻るのを大人しく待つ。

 何の気なしに眺めていたテレビ画面では、キャスターの男が近日のニュースを読み上げていた。

 

『今週9日、N県S市繁華街の路上で魔界人種による暴行傷害事件が発生。駆け付けた警察によって逮捕されました。逮捕されたのは単眼種成体女性(23)で、周囲の店や標識、歩道等を破壊。目撃証言では、それを制止しようとした通行人に襲い掛かったということです』

「……」

 

 N県S市繁華街。映像に流れる路上はここから徒歩数分の場所にある。

 なんとも物騒な話だ、エルにも注意するよう言い含めなければ。そのように暢気に聞き流すこともできた。

 しかし。

 

『警察によると、容疑者は薬物を使用していた疑いがあり、県警は容疑者の血液から使用された薬物の特定を進めています』

 

 聞き流しにはできぬ文言を、この耳孔は拾った。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22話 仔猫、転入す

 石造りの巨大な尖塔、そこに設えられた大時計を仰ぐ。

 マギケイブ学園の校舎は人界の近世、ないし中世欧州の城塞や聖堂のような姿をしている。ゴシックだかルネサンスだか、ともかくこの学園の学舎を設計した某はひたすら古風旧懐を演出したかったらしい。

 多種多様な人魔の登校風景の中を二人、連れ立って歩く。

 朝を迎え、部屋を出、校区までの電車の車中でさえはしゃぎ回っていた黒猫の娘子が、どうしたことか今は己の腕にしっかりと縋り付いて離れない。生徒が傍らを過る度にその体をびくつかせている。

 

「緊張するか?」

「す、するッス」

「カカッ、そうかい」

「にゅう……兄貴、なんかちょっと面白がってないッスか」

「うむ、面白くねぇと言やぁ嘘になるな」

「意地悪!」

「ははは!」

 

 苛立ち紛れに娘は己の腕に爪を立てた。

 痛い痛いすまぬすまぬ。笑声混じりの謝罪など娘子は無論のこと聞く耳を持たなかった。

 

「この学校はそう悪いところじゃあねぇさ。級友の者共は皆やたらに愉快だしな。入って三月程度の己が大丈夫なんだ、お前さんならすぐに馴染む」

「そ、そういうもんッスかね……」

「ああそうだとも。それでもまだ不安な内は、そうさな、いつでもこっちのクラスに遊びに来りゃいい。どうせ同じガッコの中なんだからよ」

「……はい」

 

 小さな、それは小さな手が己の手を握る。子供らしい体温、迷い子のような必死さが掌に伝う。

 握り返して、努めて軽薄に笑んでやると、娘は釣られて薄く笑った。

 それを愛らしいなどと言った日には、また爪を立てられそうだ。

 また一歩、娘子の手を引いて進み出ようとした、その時。

 背後より気配が近寄る。それは迷いなく我らに迫り、疾風の敏速さで周囲を()()()()()

 紫の蛇体である。陽光をぬらりと照り返す滑らかな質感。その表皮下では柔軟にして強靭な筋繊維が幾重にも束を作り、恐るべき剛力を生む。人の身などは、紙屑を握り潰すより容易に圧壊できるだろう。

 ラミアの女生徒だった。己の右の上背から美しい顔が覗き込んでくる。鱗よりも淡い藤色の髪がはらり、まさしく藤の花めいて肩に垂れ落ちた。

 

「はぁい、刈間くん」

「おう、おはようさん。確か……ミディーナだったな」

「あら嬉しい。クラスが違うのに覚えててくれたんだ」

「ああ、なんせそちらさんは実に目を惹く容姿をされておいでだ」

「ふふふ、褒められてる、と思ってもいいのかしら」

「無論だとも、何か御用かな別嬪さん」

「お上手……」

 

 妖艶に笑み、囁いて、赤い唇の合間から二股の舌が(もた)げた。触れるか触れぬか絶妙の間合で、女生は己の顔の産毛をちろりと舐った。

 ラミアなりの挨拶、とでも思えばよいのか。

 ふとした時、ミディーナは己の傍らで凝固する娘子に気が付いた。

 にたり。そうして今度は実に意地の悪そうな笑みを湛え。

 

「あらあらあら、もしかして刈間くんのお相手かしら。ニホンの化猫(モンスターキャット)? それともケット・シー?」

「よ、妖精種の方ッス。エルって言いまッス。よろしくお願い……」

「エルちゃん! ふぅんそうなんだぁ。んん可愛いわねぇ。ホント……食べちゃいたいくらい」

「ひょえぇっ!?」

 

 蛇の女子(おなご)は熱く吐息して囁く。仔猫は背中に氷柱を差し込まれたかのように震え上がると、より一層己に縋り付いた。

 へたりと垂れ下がる耳、その頭に手を添える。

 

「そう露骨に脅かさんでくれ。馴れぬところに来てただでさえ身を縮めておるのだ」

「あらら……ごめんなさい。ちょ~っとふざけただけなのよ。でも……ちょっとした厭味でもあるのよ? 貴方への」

「あん?」

「だって、刈間くんも結局この子みたいな小さくて可愛い異界種が好みなんでしょう? 人間って好きよねぇ、特に(けだもの)が人化したタイプとか。酷いわぁ、被毛は良くても鱗持ちはダメなんだって人間、多いじゃない」

「カカッ、まあ犬だ猫だなんてなぁ元来が人間と生活を共にしてきた動物だ。それこそ馴れ、というやつなのだろうよ」

「依怙贔屓って良くないと思うわ」

「俺ぁその鱗も美しいと思うがねぇ」

「まあ……」

 

 吐息のように囁くや否や、仔猫と己、二人を取り巻く蜷局(とぐろ)が一巻き分狭まった。

 赤い舌先が耳元に這う。

 

「FP(フォーリナーズ・パートナーシップ)の申請はもう済ませてしまったのかしら」

「おぉもうそんな時期だったかい。すっかり忘れっちまってたなぁ。いやはやどうも筆不精な性質でいけねぇ」

「ふふ、よければ()()しましょうか? でも、そう、そうなんだぁ。じゃあ……私にもチャンスはあるのね。あぁ勿論、ひとり目だなんて贅沢は言わないわ。その子の後でも、他の娘の後でも……もし、お望みなら」

 

 唇が寄り、声が甘く耳孔を揺らす。

 

「先に体の相性から、確かめてみましょうか……?」

 

 舌よりもなお赤い目に爛と火が燈る。情熱的な、捕食者のような。

 種の存続に対する積極性、いやさ攻撃性において魔界種の雌性(おなご)はそれこそ人後に落ちぬ。この色香を前にしては、人種のか弱い男風情など一溜りもあるまい。

 さて、我が身とてそのか弱い人種の男に相違ない。世辞にしても面と向かって憎からずと言われて悪い気はせんが、如何せん己は()()。この幼子にどう返事をしたものかと半瞬ばかり逡巡する。

 一種凶暴な妖美の微笑に笑みを返した、その時。

 突如、影は舞い降りた。

 

「ミぃディーナぁぁああ!!」

「あら」

 

 蒼い羽毛を飛び散らせながら、顔を真っ赤にしたハーピーの娘が地に降り立つ。

 

「おはようミリー。遅かったじゃない」

「まるで待ってたみたいな言い草ですけどね! こ、こんな、往来の真ん中で! え、えろ、エロいことしようとしたでしょ!?」

「えぇ~なぁに~? エロいことってぇ~? 具体的にどんな~? ちゃんと言ってくれないとミディーナわかんなーい」

「はぁ!? だ、だから今」

「どんなこと想像したのぉ? ほら、刈間くんにも教えてあげようよぉ」

「ひぅっ、ち、ちがっ、かるま、違うから!!」

「おうおうわかったわかった。ミリーはいい子だもんな。大丈夫、ちゃぁんとわかっておるよ。だから、な? 落ち着きな」

「あー、やっぱり依怙贔屓~。鳥獣(ハーピー)だってエッチなこと好きだもんね~?」

「し、知らないってばぁ……!」

「そろそろしつけぇぞミディーナ」

「はーい、ごめんなさぁい」

 

 反省の色は微塵もないが、ラミアの娘は蜷局を解いて素直に引き下がった。

 

「こうして引き留めてあげたんだもの。役得くらいいいでしょ。そもそもミリーが自分から会いに行けば済むことじゃない」

「うっ、だってぇ……」

「ほら」

 

 ニ、三言の耳打ちを終えて、ミリーが背を押されて己の目前に立つ。

 娘はその両翼の先をもじもじと合わせながらひたすら視線を泳がせた。

 途端、ミディーナが溜息を吐いた。

 

「この前の、ミヤオ山の事故、あったでしょう。そのことで話したいんですって」

「あれか。いやそうか。あれにミリーも巻き込まれちまったんだってな。可哀想に、まったくとんだ災難だ……」

 

 白々しくならぬ程度にはこの口舌は働いた。

 あの日、表向きには事故として処理されたかの事変。その山麓の別荘でメイヤノイテにより催された会食の場に、この娘は居合わせてしまったのだ。

 

「怪我が無くて、なによりだ」

 

 心からそう思う。

 厚顔に、安堵を噛んでいる。

 結局のところは己が手落ち。迅速な解決を果たせなかったゆえの、災禍。

 この娘の無事を喜ぶ権利が、果たして己にあるだろうか。

 そんな下らぬことを考えた。

 

「……」

「違うの。あ、そ、その、心配かけてごめん。心配してくれて、すごく、嬉しい……けどその! ちがくて! 誤解を解きたくて、私! 私があそこに居たのは別に人間の男の子との出会いが欲しかったとかじゃなくてただメイヤにアドバイスを……か、か、刈間と、貴方ともっと!────」

 

 早口に捲し立てようとした娘は、不意に視線を傍らに注いで停止した。

 傍らのエルに。

 

「え、っと?」

「あ、ど、どもでス」

「おぉ、そうだ。紹介しよう。この娘は今己のところで面倒を見ておる子でな。ミリーも宜しくして」

「あ、兄貴」

「ん?」

 

 裾を引かれてエルを見下ろす。娘は首を左右してからミリーを見た。

 ミリーは、愕然と己とエルを見比べて、わなわなと震え上がっていた。

 

「ど」

「ど?」

「ど、どど、ど、同棲ッ!?」

「はぁ」

 

 赤く赤く茹で上がった蒼いハーピーの姿に、ラミアの娘は深々と溜息を落とした。

 両翼を広げてミリーは叫ぶ。

 

「ふぎゅ、ふみゅ、ふぐぅ……! 刈間のバカ! ばぁか! この浮気者っ! ばぁかぁああ!!」

 

 声高々に罵倒しながら、それこそ疾風となって空に飛び上がる。その蒼い軌跡は真っ直ぐに校舎屋上の飛行登校者用玄関に突っ込んでいった。

 

「もぉ子供なんだから」

「んーなにーミリーふられたの?」

「ありゃりゃミリーってばまーた失恋か」

「えー! ボク今回は成就に食券四枚賭けしてたのにー!」

「さっさと食べちゃえばいいのにね」

「無理無理あの子処女だよ? あとめちゃ純情だもん」

「そりゃ無理だよねー。あはははははは」

 

 周囲で聞き耳を立てていた種々の人魔が、なにやら不届きなことを口にしながら去っていく。

 己はともかく、体よく肴にされた娘子が憐れだった。

 

「兄貴って意外とにぶちんだったんスね。あのハーピーさん可哀想ッスよ」

「まったくだ。己という奴ぁ愚鈍でいけねぇ」

 

 エルの実に忌憚のない言葉が耳に痛い。

 

「後で詫びに行くとしよう」

「ちゃんと誠心誠意謝んなきゃダメッスからね。乙女心は繊細なんスから」

「言うねぇ娘っ子」

 

 尤もらしいことを言う娘の鼻を小突く。馬鹿話で緊張も多少解れたようだ。

 ミリーを追って先を行くミディーナを見送る。

 大時計の針はそろそろ始業時間に迫っていた。

 その時、仰ぎ見た校舎の窓辺に。

 

『……』

 

 白銀の少女を見た。大天使の名を冠する異界人。

 邪眼の主は、己と、己の傍らの娘子を見下ろしていた。澄んだ瞳、不吉なほどに美麗な顔が。

 柔く笑みを湛えていた。

 

「覗き屋め」

「?」

「いや、なんでもない。さあさあこれから職員室で挨拶だ。行儀よくな?」

「うひ、ま、また緊張してきたッス」

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23話 お膳立て

 職員室で事務的な処理に加え、学年主任、そして担任教師との顔合わせを済ませた。

 応接室に通されてから初めこそびくついていたエルも、二、三遣り取りをする内に落ち着きを取り戻していった。担任の女性教諭が同族の妖精種であったこと、それも掌大の小ささとあって、威圧感などというものから程遠かったことも一因であろうか。むしろ己の方が面を食らった程だ。

 花の精(プリムラ)は、その小翅から小刻みに燐光を散らしながら入学案内の上で滞空する。

 

「ではでは『刈間エル』さん、本日から一年D組への編入になります。ちなみに今回の編入クラスの選定に学科試験の結果は反映されてません。でもでもエルさんの成績なら希望を出したら特進クラスに入れますよ。今回の語学・数学・魔学、三科目どれも正答率9割! よく勉強されてますね~!」

「いやいやぁそれほどでも」

「ほぉ、そいつぁまた、顔に似合わぬ特技だな」

「失礼にゃ。これでも趣味は読書なんスから。それに教材は毎年まとまった量が捨ててあって読み応えが」

「捨て?」

「にゃんんんでもないッス!」

「特進なりなんなり、本人が目指してぇと言うなら宜しくしてやってください……と、後見人も申しておりました」

 

 エルは魔界からの留学生、そして己はその寄宿先の家族。兄代わりとなってエルのことはまるで妹のようにとても可愛がっている。可愛がるあまり過保護にもこうして面談に同席する程なのです……といった設定で行きみゃしょうとはエルからの進言であった。

 加えて、未成年という体でこの学園に籍を置く己がまさか後見人でござい、などとは言える訳もない。

 プリムラの教諭は、エルとその居もしない後見人何某が勉学に熱心なことを甚く感動した様子だ。

 

「さ! クラスに移動しましょっか! 刈間くんも付き添いご苦労様です。それにしても初登校の子を心配して付いて来てくれるなんて、ふふふ! 優しいお兄さんですね~」

「にゃふ、わりとしょっちゅう意地悪ッスけどね~」

 

 肩口に娘の小さな頭がぶつかる。なにやら(すこぶ)る上機嫌にエルは笑った。

 応接室から廊下へ出る。

 すると、白く長い耳が二本、さらに赤く鋭い角が一本視界に屹立する。純白の被毛。赤い目。

 

「あら? 因幡先生。どうされたんですか?」

「おはようございますレシー先生。いえね、刈間くんを捕まえに来たんですよ。授業はとっくに始まってるっていうのに、いつまで立っても来る気配がなかったので」

 

 我らを出迎えたのは、一角兎(アルミラージ)の因幡教諭であった。

 ────瞬き一つ、赤い流し目が己を刺す。

 

「丁度いいです。教材を運びますから、刈間くんはひとつ馬車馬になってください」

「ありゃま、とっとと逃げるんだったな」

「あはは、わかりました! それじゃあエルさん、寂しいでしょうけどお兄さんとはここで一旦お別れです。D組に案内しますね」

「あ、はいッス。じゃ、兄貴……行ってきます」

「おう、行ってきな」

 

 ひらひらと舞うプリムラに伴われ、猫娘は一路教室へ向かって行った。

 

 

 

 

「迂闊ですよ」

 

 目当ての資料室に入り扉を閉めて開口一番、因幡教諭は言った。

 

「名ばかりとはいえ保護者の身ゆえ。娘子の学校生活の初日とあらば心配が募るってなもんでな」

「言い直します。軽率だ、と言ってるんです。気安く、子供を引き取るなんて……武力装置が何を考えてるんですか」

 

 幼気な面差しに似合わぬ冷厳さで教諭は己の軽口を切って捨てた。

 格別、反駁は浮かばなんだ。それが己に対する指図というより、あの娘を慮っての言であるからだ。

 

「少なくとも独り立ちできるまでとは考えておるよ。五年か、いや八年そこらか? まあ異界人種の(よわい)と人の年波を比べても詮無いことだが」

「責任は持つんですね」

「無論だとも。この仕事、給金はまあ(はした)だが使う宛がねぇってんで貯えはそこそこある。大学くれぇは行かせてやれるさ」

「そうではないでしょう」

 

 声色になお一層険が宿る。怒りも露わに教職者たる女生が己を睨む。

 

「貴方はこの國を護る武力です。戦う責務を負っている。そんな貴方の傍にあんな小さな子を置くと言うんですか。危険が大き過ぎます。あの子を貴方の戦いに巻き込まないこと、あの子を護ると、責任を負えるのか!? そう聞いてるんです! なにより……貴方が中途に斃れないと、どうして保証できますか」

「できる」

 

 鰾膠(にべ)も無く言い放った。反駁はないと、今ほど腹の内に思っていた者が。

 だが真実だ。

 

「俺は死なぬ。もはや、死ねぬ」

「…………」

「この身がどういうモノかは貴職もご存知の筈だ。人の定命を外れて久しい。カカッ、もう千年近い。地の神の骸(ダイダラ)は永久不滅。それに宿り、囚われたこの魂も、もはや()()ことはない」

「それは……」

 

 その表情が翳る。どうしてかひどく、痛ましげに。

 

「おいおい、そんなものを乞うてこんな話をした訳ではないぞ。安心してくれと言うておるのさ。中途でほっぽりだすような真似はせん。なんとなれば、あの娘が天寿を全うする姿を見届けてやってもいい」

「っ……」

 

 白兎の赤い瞳が俯いた。甲斐も無い身命、そんな己のような者にすら憐れみを抱かずにおれぬ。慈悲深いその気性。

 この娘が“表の”仕事に教職を選んだ理由がわかるような気がした。

 鼻から短く息を吐く。他人に気苦労負わせてりゃ様ぁねぇや。

 

「だが確かに、俺と神共の戦に娘っ子を巻き込むようなことがあっては元も子もないな。里親を探そう。善い引き取り手が見付かればいいが」

「……相談くらいは乗りますよ。あの子はもう、私の生徒でもありますから」

「そいつぁありがてぇ」

 

 感謝を込めて笑みを送るが、因幡教諭はむすっと不機嫌そうにそっぽを向いた。

 

「ところで、要件はこれだけではあるまい」

「……ええ、ここからはお仕事の話。昨夜のニュースは見ましたか?」

「繁華街で起きた乱痴気騒ぎか。薬絡みとの報だが……やはり」

「はい、殺生石との関与が疑われます。それになにより今回、容疑者として逮捕されたのは……この学園の生徒の家族です」

「ほう」

 

 娘の相貌が歪む。苦く、辛く。心を痛めて。

 それもしかし一瞬のこと。

 

「逮捕されたのは一ノ目アイ。この学園には、妹さんの一ノ目メイが在籍しています。素行は、あまり良いとは言えません。以前から深夜徘徊で注意を受けていて、補導歴もあります」

「単眼種は、薬学に通じているのだったな」

「……血統や生まれた部族の特色にもよりますが、一般的には」

 

 とある単眼の神にその血の起源を持つとされる単眼種。かの種族は部族集団ごとに様々な秀でた技能を有する。古くは鍛冶製鉄や呪術を得手としたが、時代の推移と共に呪的医術が変化し、薬物の調合技術が発展していったとか。

 薬による事件に、薬に秀でた異界人種。

 繋がりが無いと判ずる方が無理というものだ。検めねばなるまい。

 

「ちぃと探りを入れるか。一ノ目メイとやらはどのクラスだぃ?」

「一年D組です」

「なに?」

 

 それは、先刻決まったエルの所属学級ではなかったか。

 偶然にこんな事態が起こる、訳はない。

 

「お前さんの差し金か。なかなかどうして抜け目のない」

「……皮肉は甘んじて受けましょう。でもこれでD組に顔を出す口実にはなる筈です」

「その辺りの手管は流石、年の功というやつかな」

「串刺しにしますよ」

 

 赤く眼光を稲光る。

 一震、小さな足が床面を打ち鋭く鳴り響いた。

 くわばらくわばら。

 

「ふんっ……今回の件、私なりに情報収集を試みましたが、生徒はどうしても教師を前にすると口が重くなるみたいです。特に、今回のような場合は」

「ガッコの先生と夜遊びの話をする子供は、そうおらぬか」

「貴方のその生徒という立場から聞き込みをしてください」

「承知した」

「ただ、一ノ目メイは昨日から学校を休んでいます。今回の件で体調を崩した、と連絡は来ていましたが……学園側としては、白を切られると打つ手がありません。警察のように家に押し掛けて詰問する訳にもいきませんし」

 

 欠席の理由が虚偽である可能性もある。

 であれば、一ノ目メイの居所を急ぎ突き止めねばならない。

 級友らからその手掛かりを得られればよいが。

 

「それにしても」

「はい?」

「この学園に“縁”が()()()()()……そう抜かしたフトダマめの正占(ますら)はどうやら当たっちまってるらしい」

「……」

 

 メイヤノイテの暴走に続き、時を空けずにこうしてまた一人生徒が事件に関わっている。その可能性が浮上した。

 悪い予感ほどよく当たる。

 まったく、笑えぬ冗談だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24話 やんちゃ盛り

 昼休み。己は早々D組の教室を訪れていた。

 午前の授業からの解放と昼飯の算段で賑わう室内を前側入り口に立って見渡す。

 目当ての娘は窓辺の席にいた。そしてその机の周囲に複数人、人魔交々(こもごも)の集りができている。

 

「じゃあエルちゃんって一人で人界に来てるの!? すごーい」

「いやぁはは、そんにゃすごいなんてとんでもにゃい。ぶっちゃけただ勢いで来ちゃったというか」

「なに言ってんの。すんごい行動力だよ。私らは言っても親世代が帰化してたり、学園の留学受け入れ制度に乗っかったりだもん」

「心細くなったりしない? 特にほら、妖精種は精神的にもさ、土地のオードに引っ張られるって言うし。私の人魚の友達さ、水が合わなくて辛そうだったよ」

「まあ妖精っつっても、アタシはほとんど獣人みたいなもんッスから」

 

 卓上で無数の吸盤を備えた赤い触腕がくねる。髪の毛の束がそっくり軟体の腕に代わった娘だった。

 もう一人、黄金の毛皮に覆われた大柄で頑強な肢体。牝獅子の娘は、自身の隣に立つ癖毛の少年の肩を抱いている。連れ合いと思しい。

 少年が感嘆して言う。

 

「渡界どころか外国暮らしってだけでも僕なんかすぐホームシックになっちゃうよ」

「いやホントただ運が良かっただけなんスよぉ。ホームステイ先の人がいい人で、いろいろ、いろんなことに肩入れしてくれる……本当に、いい人で……えへへ」

「なぁにぃ~、イイ人ってそういう意味なの?」

「ふえっ!? ややや、そんなそんな!」

「お、この慌てぶり、これは怪しいですねー」

「あっはは、エルちゃんってばケット・シーなのに実は肉食系~? いいなー渡界してすぐ出会いがあるなんて羨ましいよ! 私なんて結局学外で彼氏見付けたしさー」

「肉食の権化の頭足類がなんか言ってますわ。エルちゃん聞いてよ、こいつの相手、バイト先のスイミングスクールの先生なんだよ? エッロいっしょあらゆる意味で」

「メスライオンが他人の性欲にとやかく言うなっての。あんた達なんて一晩で空になるまで搾り取る癖に。魔術とか能力に頼らない分、いっちばん厄介だし。ね~エルちゃん」

「愛し合うのに手加減なんて要らないの。ね~?」

「僕はノーコメントで……」

「なにを~!? エルちゃんもそう思うでしょ? 同じネコ科だもん! イイと思ったんなら即夜這いが獣人の本分! いや本能よ! というわけで、あんたも頑張って、れっつとらい! べっといん!」

「はいぃ!? むむむ無理ッスよ!」

「女は度胸! 何でもためしてなせばなるから、アタックしなってー」

「いやいやいやいやそんなことしたらアタシなんてゲンコツ一発でぶっ飛ばされちゃうッス」

「ははは、んな訳ないでしょ。人間相手に」

「大丈夫大丈夫、いくら妖精種が非力って言ってもオードの強度で押し切れるわよ」

 

 姦しくも騒がしい女子衆に囲まれ戸惑いながら、それでも楽しげにエルは笑う。

 その様に知らず、安堵など噛んでいた。妹分の様子を見に訪れた兄貴分、などとは体の良い建前であったのだが。現金なものだ。

 時機を改め出直すか。そうして踵を返そうとした時、娘の猫目がこちらを捉えた。

 笑顔が咲いた。ぱっと、それこそ花開くように。

 

「兄貴!」

 

 かの娘の声は、さながら神楽鈴の如く透き通り、また耳孔に響き渡る音色をしていた。室内の喧騒を瞬間、裁ち割るほどに。

 

「ふにゃ!?」

 

 静まり返った周囲の様子に、むしろ声を発した当人こそ慌てふためいている。

 ひそひそとした囁きと共に好奇の視線を互いに浴びる。こうなれば、己だけそそくさこの場を逃げ去っては娘が憐れだろう。

 こうした注目の源泉は、上級生が下級生の教室を訪ねてきた物珍しさにもあるだろうが、なにより人間種の男子に対する雌性魔種達の並ならぬ興味関心に根差すところが大きい。値踏み、とも言えようか。

 委細素知らぬと室内へ踏み入る。行儀よく肩身を縮める者より、不躾に堂々と我が物顔を晒す者の方が面白みは薄まる。

 程なく、教室内は当初の騒がしさを半分ほど取り戻していた。残りの半分は未だこちらの様子を窺う心算(はら)のようだが。

 粗略な己などとは違い、なんとも行儀よく困り顔をするエルを見下ろし、思わず笑みが浮かぶ。

 

「おう、早速友達ができたみてぇじゃあねぇか。いやぁ感心感心」

「にぇ……もぉ、口に出さないでくださいよぉ。恥ずかしいんスから……」

「なにも恥ずかしがるこっちゃあるめぇ。善くしてくれてありがとう、でいいじゃねぇか」

「兄貴のそういうデリカシーの無いとこはほんっとお爺ちゃんッスね」

 

 常にないその憎まれ口は、どうやら照れ隠しらしい。

 

「もしかして、エルちゃんのステイ先の、えっとえっと、噂の兄貴さん!」

「へぇ~、こんな感じ……」

「あ、ど、どうも、こんにちは」

「ああ、こんにちは。これからエル坊が世話んなる。どうか、よろしくしてやってくれ」

 

 辞儀するこちらに、少年が律儀に応えてぺこぺこと頭を下げる。

 牝獅子の娘は己の頭の天辺から爪先までじろじろと観察に余念がない。

 不意に、するりと、腕に赤い触腕が絡み付いた。

 それは器用に袖を捲り、表面の吸盤で地肌に吸い付く。快とも不快とも言えぬ、名状し難い感触であった。

 

「お? お、おぉ……んん、これは……なかなか……」

「あっ、ク、クーラさんっ、それは……」

「吸盤で味見されてるわよ、あんた」

「にゃにゃっ!? ちょちょ、なにしてんスか!?」

「あはははは、ごめんごめーん!」

 

 椅子を跳ね退けてエルが(いき)り立つ。

 クーラには特に悪びれた様子もないが、触腕はすぐさま腕から離れた。

 赤く吸盤の痕を残す腕にエルが縋り、空気を裂くような無声音を発した。毛が逆立ち、まるきり威嚇の様相である。

 思いも寄らず、娘の反応は劇的だった。

 

「あぁエルちゃんごめん! ホントごめんてー!」

「他人のオスに唾つけようとするからだ」

「フシュッ!? だ、だから兄貴はそういうんじゃないッスってば!」

 

 腕に縋る猫の手により一層力が篭った。

 なんとも幼気な悋気であった。

 

「カッカッカッ、それで? 手前のお味はどうだい。お口に合ったかな」

「はい! 結構なお点前で! こんな質と純度のオード私はじめて……なんだかまるで」

 

 軽口に問うと、蛸の娘は何故か感嘆の吐息を溢す。

 

「まるで……人間じゃないみたい」

「はぁ? んな訳ないでしょ。どっからどう見てもただの人間じゃん。クーラ、バカ言うんじゃないわよ」

「やー、そうなんだけどぉ。すっごいパワフルっていうかぁ、エネルギッシュ! っていうかぁ。例えると~……そうそう! ノヴァリア先輩だ! 竜種のひとみたい」

「り、竜種!?」

「ふーん……?」

 

 癖毛の少年が発した驚愕の声は、話の輪の外で聞き耳を立てていた者らにも同等の驚愕を与えた。せっかく減じ、遠ざかっていた好奇の目が、またしてもその数を増す。

 

「いや、お世辞でもちょっとそれはないかな」

「ノヴァリア先輩引き合いに出すのはねー」

「アッハハハ! そうだよー、人間くんがかわいそうだよ」

「そうそう、比べるにしてもさ、竜種はない。せめて魔獣くらいで抑えめに褒めなきゃ」

「コボルド並のパワー!」

「それは褒めてない」

「テキトーに褒めて点数稼ぎ?」

「蛸ってホント見境なくエロいよね」

「彼氏持ちは帰れッ!!」

「ひどくない!?」

 

 好き勝手に言いたい放題。下馬評とはこのことか。聞くだに小気味良いやら面白いやら。

 ゆえに己は素知らぬ風で、エルに笑い掛けた。

 

「聞いたかぃ、この身がなんとかの赤き竜の姫君の如しとよ! いやはや高評過ぎてまあ面映ゆいったらねぇや。なぁ?」

「……そうだとしてもアタシは驚かないッスけどね~」

「おいおい真に受けるんじゃねぇよ。己が上滑っちまうだろうが」

 

 お道化てふざけて笑う己に、またも律儀に少年が頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい。クーラさんは、べつに悪気があるわけじゃ……」

「カカッ、なぁに気にしちゃいねぇよ。ほんの軽口だ。だからお前さんもな、そういちいち畏まらんでくれぃ。こっちこそ身の置き所がねぇや。同し人間の(おのこ)同士じゃあねぇか」

「あ、う、うん。へへ……」

「…………」

 

 はにかむ少年を微笑ましく思ったその瞬間、一際強くその視線に刺された。

 傍らに立つ大柄。筋骨に鎧われた肉体、天然の武装。級友のアマゾネス・クヌィラにも通ずる野生の美。牝獅子の娘の細い瞳孔が、己を射貫いている。

 

「どうかしたかぃ。己の言い様になんぞ気に障るところでもあったかな」

「気に障るっていうか、気になる、いや興味がある、かな? クーラの舌の感度はよく知ってるからさ」

「リオ……?」

 

 少年の呼ばわりにも応えず、獅子獣人リオは不動でこちらを見据えた。じっと、真っ直ぐに、鋭く研ぎ澄ませて。

 

「試してみたくなっちゃうよね。どう、お昼ご飯の後で軽く運動しない? 柔道場、ああ中庭なら芝生だし」

「いやいや、遠慮しておこう。相手が百獣の女王では、煽てられて登るにしてもこいつぁ“木”の方が高過ぎらぁ」

「そ、そうだよリオ! 危ないよ」

 

 逡巡もなく首を左右する。有り難いことに、実に気遣わしげに少年もまた己に同調した。

 

「そーだそーだ!」

「メスライオンが無茶振りしてるぞー!」

「暴力はんたーい」

獣人(じぶん)の馬鹿力くらい自覚しなさいよ」

「勝負にもなんないってわかり切ってんのに」

「そういうプレイ? 征服欲ぅ、みたいな?」

「彼氏持ちは死ねッッ!!!」

「誰だ今死ねって言ったの!?」

 

 そうして外野から同情ともヤジともつかぬ声が上がる。非力な人間と獣人が、それも獅子が格闘戦を所望するというのは些かならず非常識だ。結果は火を見るよりも明らか。種族的能力差は歴然にして絶望的。肉体性能もオードも。

 誰も疑いはしない。侮るという心持ちすらなく、憐れみさえ以て。

 人と魔の力の差は、絶対なのだ、と。

 

「……」

 

 非難の声にリオは気勢を弱めた、ように見えた。

 冷めたと言わんばかりの面相に、しかし────納得の二字だけが、気配とて見えぬのだ。

 

「ガァッ!」

 

 突如、獅子は拳を振り上げた。いやさ、その凶悪な爪を。

 人と魔の区別無く、骨肉を粉砕してなお余る威力を備えたそれ。それが降ってくる。

 己に────ではなく。

 それは。

 傍らの娘子を。

 エルを狙っていた。

 

「──」

 

 敏捷性は語るに及ばず。ネコ科の生物の瞬発は鋼鉄の発条(ばね)の解放に等しい。射掛けた矢の如き速度。鋭く鋭く、鋭い身体稼働。

 もう一刹那、瞬きの間を許さずその爪先は娘子の頭に到達する。片耳を殺ぎ落すだろう。

 暴挙であり、凶行である。

 しかしその“意図”は知れた。

 刹那の半、その手首を掴む。

 さらに半、振り下ろしの勢いを利して、()()

 振り子のように下方から身体を彼方と此方、入れ替え、捻じり、卓上に。

 

「ガッフッ……!?」

 

 引き倒し、その上体を卓面へ押さえ付けた。

 もとより、この獅子には本気でエルを傷付けるつもりなどなかったろう。己がその光景を前に肝を潰してどのように動くのか、ただそれを見るためだけの余興。

 

()()の企図、成就せりといったところか? 悪戯も結構だが、少々性質が悪いな」

「ッ!? ぐ、が……!?」

「満足かい、お嬢ちゃん」

 

 安っぽい捨て台詞を言い置いてその腕を解放する。

 ふと気付けば、耳に痛いほどの重い静寂に満たされた室内。それを見回して、溜息が零れた。

 エルは目を瞬き、何が何やらと言った様子。その頭を慰みに撫でながら、心中に湧いたこの情けなさに思わず呻く。

 

「大人気ねぇ」

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25話 あたうこと

 言葉は反響する。頭蓋骨よりも深い場所で。

 あいつの声。思い出す度、息が詰まる。

 

『同情かよ?』

 

 放課後の教室。夕焼け色に染まる視界。こびり付く。嫌になるくらい。そこら中がぼやけた茜色になった空間で。一つだけ確かな、判然とした色。その“目”に釘付けになった。吸い込まれて、落ちていきそうなくらい、澄んだ大きな黒い淵に。

 

『魔界人種の女なら、人間から言い寄られれば喜ぶとでも思ったわけ』

 

 たった一つの目を眇め、顰めて。一ノ目は言った。

 俺が差し出したFPの申請用紙を握り潰して、堅い声音で吐き捨てた。

 

『勘違いしてんじゃねぇよ』

 

 小柄な少女が俺を睨め上げる。

 心底の怒りと、この上ない失望と、どうにもならないくらい……悲しげに。

 

『もう……私に近寄らないで』

 

 俺はただ何も言えずに、一ノ目が教室を出ていくのを見送った。

 机に残されたくしゃくしゃの紙屑が、俺の馬鹿さ加減を嘲笑っている。ひどく、惨めだった。

 堪らなく悲しかった。一ノ目のあの目が、悲しかった。

 俺は結局、何もできない何も知らないひたすらのクソガキで、無力な人間種の男なんだと思い知った。

 できること。俺なんかに何が?

 できることを。そんなものない。

 一ノ目の為に。恩着せがましいんだよ。

 鬱屈と自己嫌悪だけを繰り返す日々。ある時から学校に一ノ目が来なくなって、そこに焦燥感が加わった。

 

 

 そうして、最悪の気分で迎えたある日の昼休み。

 

「満足したかい、お嬢ちゃん」

 

 それは教室の一角で起こった。

 獅子獣人の女子が男子生徒にちょっかいを掛ける。それ自体は何一つ珍しくはない。そんなもの毎日毎時この学校の其処彼処で見られる光景だ。

 異常なのは結果。

 男子、それも人間種の男子がだ。事も無げに、獣人の腕を捻じり上げて机に押さえ付けている。どうやったかなんてわからなかった。一部始終、野次馬気取りに眺めていた筈なのに。

 

「今の、見た?」

「み、見た。あのリオが」

「倒された……? 転んだんじゃないでしょ、あれ」

「誰、誰誰あの男子。に、人間だよね? いやホントに人間?」

「知ってる! 転校生の、かぁ、そう! 刈間!」

「刈間ギンジだ」

 

 口々に囁かれる名前には聞き覚えがあった。転校生というありふれたフィルターとは違うあの青年の奇妙な“噂”を。

 精悍な横顔だった。今の、ただふさぐばかりの自分とは正反対の。

 好奇の視線に晒されて物怖じもせず堂々と、なにより、強力な魔界人種と相対した人間種がどうしたって抱えてしまう引け目を……怯えを微塵も持たない眼差し。

 強い人間。もしかしたら生まれて初めて見る。今のこの、人界と魔界が融け合った世界にはもういないとされる人種。

 

「戯れ合いも程々にな」

 

 刈間はリオを解放すると、諫めるように言ってその場を離れた。軽やかに笑いながら。

 

「あ、兄貴! アタシもー!」

「ま、待って刈間くん! 僕らも……リオ! 行くよ!」

「え?」

「早く!!」

「はいぃただいま!」

 

 同じく転校生のケット・シーが刈間を追い、リオをせっついてその彼氏の山島が、そして終始面白がっていたクーラが後に続く。

 教室中の全員が呆気に取られてそれを見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 我ながら間の抜けた話だ。D組の子供らに話を聞き込もうと乗り込んでおいて、単に悪目立ちしてすごすご引き下がって来たなどと。

 因幡教諭に知られた日には、さぞ痛烈な小言を頂戴することになろう。

 なにより、娘の初登校、晴れの日に無用の騒ぎを立てちまった。

 

「すまねぇな」

「え? あっはは、なんで兄貴が謝るんスか?」

 

 放課後、帰り支度を終えたエルと落ちあい、隣り合って廊下を歩く。

 こちらを見上げて娘子はころころと笑った。

 

「いいんスよぅ。ちゃんとリオちゃん反省してたし、山島くんなんか本人より深刻そうに謝ってくれましたし」

「気弱に見えたが一本筋の通った男子(おのこ)だったな。それでいて存外に亭主関白だ」

「いやー恐かったッス。普段からああなんスかね。叱り慣れてる感じで。リオちゃんめちゃんこ落ち込んでましたよ」

 

 連れ合いの男女二人、その丁寧な謝罪を聞きながら昼飯を食うことになるとは思わなかった。

 誠意云々はどうあれ、しっかりとケジメを付けようというあの気概は己の好むところである。

 不意に、こてん、と隣を歩く娘子の小さな頭が己の腕にぶつかる。

 もの問いに見下ろしたこちらを娘が見上げる。にんまりと、ふやけた笑みだった。

 

「守ってくれて嬉しかったッス」

「んー?」

「えー違うんスかー?」

「カカカ、さてどうだったかな」

「む~」

 

 不満そうに、ぐずるように、娘はぐりぐりと頭を擦り付けてくる。

 耳の付け根を掻いてやると、少しだけ満足そうに喉を鳴らした。

 

「まあ、収穫はあった」

「?」

 

 謝罪のついで、行き掛けの駄賃というやつ。獅子の娘やその連れ合いは、良い情報源となってくれた。

 一ノ目メイ、かの娘は単眼種の中でもかなり古い部族にその血脈を連ねるそうだ。それもとりわけ薬草の調合術に秀でた家系だったと。入学当初など、手製の軟膏やら香水やらを折に触れて級友に振舞ってくれていたという。

 口は悪いが、面倒見がよく、保健委員として級友らの体調に目配りを欠かさない。思慮深い娘だった。少年少女らはそう口を揃えた。

 様子が変わったのは一月前。

 目に見えて、華美に着飾るようになった。ブランド物の装身具を見せ付け、羽振りの良さをひけらかす。深夜、繁華街でなにやら物騒な風体の連中と同道する彼女を見たという者もある。

 学校での振舞いは粗暴になり、級友への態度は硬化した。それを注意した者を衆目の前で口汚く罵ることもあった。

 明かな変調。しかし、それを訊ねる者にこそ、一ノ目メイは容赦しない。

 孤立は必然であった。いつしか少女に話し掛ける者、関りを持とうとする者すらいなくなった。

 そうして現在、かの娘は教室から姿を消している。

 事件への関与を疑いたくなる。己のこれは果たして短慮か?

 本人に直接確かめるのが最短の道であろう。教諭から家の住所を得て身柄を抑えるというのも手だ。家に帰っているなら、の話だが。

 もしこの薬物事件に巻き込まれているというのならそれこそ、無事でいる保証さえ。

 

「……」

「兄貴……?」

「ん? おぉすまんすまん」

 

 正面玄関に行き着き、靴を履き替えて外へ。

 下校する人魔諸々、あるいは屋外競技の部活動で汗を流す誰そ彼。人種と異種、それらが交わる混沌とした風景。同じほどこの上なく調和を果たした世界。

 子供らが日々を生きている。懸命に、平らかに、生きている。

 それを脅かすモノがある。

 あるいは今も何処かで、脅かされる者がいるのやもしれぬ。それは何処とも知れぬ一ノ目メイであり、まだ見ぬ誰かであり、傍らを歩くこの子であるやもしれぬ。

 何ができる。己に、何が。

 何が、怪魔の討滅武力よ。國守の(はがね)よ。

 己の所業など所詮は虱潰し。限り知らずこの世に吹き出、涌き出る邪悪を滅するだけだ。滅ぼすだけがこの身の単一能。

 それ以外に無い。たったそれだけの在るがままの“ちから”。

 ……くだらぬ。

 思考遊戯に蹴りをつける。刈間ギンジ、貴様に手を(こまね)く時間はない。

 一刻も早く、かの娘を見付け出さねば。

 手掛かりは。

 

「か、刈間さん!」

「!」

 

 校門に差し掛かった時、背中に声が掛かった。

 振り返ればそこには男子生徒が一人、立っていた。

 余程に急いで来たのだろう。肩で息をし、顔に汗を浮かべている。

 いや、あるいはそれは、呼吸乱れ、汗滲むほどの焦燥で。

 

「はぁ、俺、はっ、俺、三叉(さんさ)って言います……その、一ノ目の、一ノ目メイのことで、話、したくて」

「お前さん……」

「お願いだ。いや、お願いしますっ。一ノ目を助けてください!」

 

 その場で深く頭を下げる少年に、思わずエルと顔を見合わせた。

 

「頭上げな。とりあえず場所を移すか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅前通りにある純喫茶『オデッセイ』に入る。テーブル席で向かい合い、少年は怖々とソファーに腰を下ろした。

 明るい髪色、今時の若者然とした出で立ち。顔立ちは薄いが、目立って悪い部分の無い小綺麗な造りをしている。女受けは良さそうだ。

 注文したコーヒーが来るのも待たず、少年は語り始めた。

 

「一ノ目とは、俺のバイト先の近くで偶々鉢合わせたんです」

 

 少年は深夜のバーでウエイターをしていたそうだ。無論未成年の、それも15歳の少年が深夜労働に勤しむなど違法であり、学校にも黙ってのことであろうが。

 後ろ暗さ。決め事を破っている自覚。そういうものを抱えて夜の街に身を置く。一ノ目メイもまた、それは同じだった。

 娘は夜、繁華街のクラブで働いていたという。客から指名を受ける本業の接客嬢、それが他の客に付いた際、場を繋ぐ役。所謂ヘルプとか。

 

 ────ぶっちゃけヤだけど、稼げるからさ

 

 ひどく疲れた顔で、それでも強かに歯を見せて少女は笑ったという。

 繁華街の路地裏で二人、仕事の愚痴を言い合う。そんな細やかな時間を少年と少女は共にした。

 裕福ではなかったそうだ。少年にせよ、少女にせよ。遊ぶ金欲しさではなく、必要な生活雑貨や文具に費やす為に。

 

「うち片親でさ。母さん病気で、あんまり働けないんだ。本当は俺がフルタイムで働きたいけど、高校は行けって……」

「……そうか」

「あ、いや、俺のことはいいんだ。一ノ目のとこは両方とも死んだって言ってた。今は姉さんと二人暮らしだって。だからって訳じゃないけど、なんか、他人事に思えなかった。一ノ目と話をしてる時、すごく安心した。共感できる相手ができたって……でも……ある時、突然」

 

 ────もう会わない

 

 深夜の逢瀬は突如終わりを告げた。誰あろう少女の口から。

 

「姉さんの様子がおかしい、姉さんを助けなきゃいけない……そう、言ってた。俺にっていうか、独り言みたいに、思い詰めた感じで」

 

 それが一月前のこと。その日を境に、少女の有り様は変容した。

 

「バイトの帰り道で一ノ目を見た。通りに停まった黒塗りの車に乗るところだった。すげぇヤバそうな異界人に取り囲まれてて。俺……声も掛けられなかった……びびって、足動かなくて、糞っ!」

 

 少年は自己嫌悪に顔を歪めた。

 太腿に拳を振り下ろす。何度も、何度も。

 

「助けたかった。なにか、してやりたかった。だから、FPを、一緒に、一緒なら、どうにかできると思ったから……そうしたら」

 

 ────同情かよ?

 

「ふられた……馬鹿みてぇ。下心見え見えだっつうの……結局、俺じゃなにも、なんの助けにもなれない。少なくとも一ノ目にとって俺は役立たずで、無力なガキだったんだ」

 

 歯を食い縛る音を聞く。無念を噛んで、少年は泣いた。

 コーヒーが二つテーブルに置かれる。怪訝そうにする店員に、少年は慌てて顔を隠した。

 湯気を立てる黒い水面。そこに映る男を見下ろす。

 無力、無能はどちらだ。この男と、この少年。一体、どちらだ。

 わかりきっている。

 水面に映った愚鈍な男が獰猛な笑みを湛えていた。無価値な憤怒を持て余し、目の前の子の無念が胸奥でひどく痛む。

 

「お前さんが救いだったのだろうな」

「え……?」

「その娘にとって、掛け替えのないほどに」

 

 誰が為に苦悩し、涙する幼子に笑みを送る。

 

「事情はわかった。肩入れさせてもらおう」

「! は、はい! お願いしますっ、お願いします!」

「能う限り全速で事に当たる。心配するなとは言わんが、あまり思い詰めるんじゃあねぇよ?」

 

 堅く、必死に頷く様をしてそれは無理な相談のようだ。

 

「最後に一つ。一ノ目メイが働いていたというクラブは何処か知っているか」

「はい。えっと……これです」

 

 三叉少年はブレザーの内ポケットからそれを取り出した。黒地に金の箔縁をあしらったマッチ箱。

 つるりとした表面に印字されていたのは。

 

「『ラヴィン・ハイヴ』」

 

 やはり、繋がった。

 

 

 

 

 

 

 

 




私はただ異種族のかわいいおにゃのことイチャイチャする話を書きたかっただけなのにどうしてこうなった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26話 魔の巣

娼館とか、水商売とか、いろいろワクワクしちゃうよね(クズ)



 見るからに気を逸らせる少年を宥め、今日のところは家に帰した。

 喫茶店を別れ際、何度も何度もこちらに頭を下げるその姿。少なくともこの坊の、一ノ目という少女に対する想いが、ただ一時の熱病でないことは知れた。

 虚空より出でて肩に止まった巨烏もまた同じことを考えたらしい。

 

『あの必死さ、目を離してよいのか。激発し、無謀を働かぬとも限らん』

「張り付いている訳にもいくまい。こちらとて早々に動かねば……お前さんを見張りに付けられるんなら安心なんだが」

『戯けたことを言うな。殺生石の発現に対し、我ら合一して神甲を纏わねば完全なる滅却は能わぬ。元凶へ攻め入るという時に手分けなどは愚昧の極みぞ』

「わぁかっておる。そう耳元でがなるな」

『ふんっ』

 

 烏の言は全くその通りだった。

 一人と一羽の単独私兵風情に出来ることなど数もない。この上は早期決着を以て不安要素の発芽を無とする他、道はなかった。

 ならば向かう先は一つ、『ラヴィン・ハイヴ』。

 所在地は以前にレオンから聞き知っている。夜の店とあって開店時間まではまだ間があった。ならば今の内に“準備”を済ませておこう。

 

『ギンジ、あれはどうする』

「ん? おぉおぉ、そうだった」

 

 喫茶の通りを挟んだ向かい。古書店の看板の影からこちらを覗う者。

 学園を出てここまでよくぞ根気よく尾行してきたものだと、妙な感心すら湧いた。

 

「くく、熱心だなあの嬢ちゃん」

『ちょろちょろと意味もなく嗅ぎ回っている……目障りな』

「なんの。己が学生であること、通う学舎まで足で突き止めて見せたのだ。大したもんだ」

『褒めてどうする』

 

 先夜の尾行者、あの警察の娘子だった。赤崎とかいったか。

 装いはニットキャップにミリタリージャケット、ジーンズと実に一般人然としたものだが、落ち着きなく物陰を出たり入ったり、その忙しなさは目立つことこの上ない。

 そんな空回った行動力と相も変らぬ間の抜けっぷり。呆れと感心を同量ずつ覚えるが、これより赴く場所にあれを引き連れて行くのは間違いなく悪手だろう。

 

「丁度いい。着替えるついでに撒くとしようかい」

『着替え?』

「制服で夜遊びは不味かろう。盛り場にはそれに相応しい恰好ってものがあるのさ。(おなご)受けを狙うならなおのことな?」

『……私の知ったことではない』

「くはは、そうかい」

 

 素気無い烏を伴ない商店街を歩く。

 まず差し当たって足を向けたのは洋服店である。個人経営の小造な店構え。しかし繁華街が近いとあってか一枚硝子の飾り窓(ショーウィンドウ)には、普段着とするには些か華美な装束を身に纏ったマネキンが、気取り見栄張り()()を作っている。

 その内の一体、黒いシャツ、黒いベスト、黒いジャケット、黒いスラックス、それぞれ濃淡はともかく上から下まで黒一色の細身のスーツが目に入る。着る物に格別の頓着などしない粗忽者には、それの良し悪しなどわらぬが。

 

「まあ、こいつでいいか」

『さっさとしろ』

「へいへい」

 

 言うや烏が肩を飛び立つ。

 己は古風な意匠の小洒落た扉を潜り、ベルの音色と共に中へ踏み入る。

 店内へ踏み入って最初に目に映ったものは、淡く桃色がかった白。白い花弁のような髪。白い娘子が、カウンターの向こうで仕立ての為の一枚布を裁断している。鋏、ではなく、それ自身の()()

 複眼がこちらを顧みた。ほっそりと人のような輪郭をした顎、その左右で鋭い顎肢が開閉する。

 その華やかな出で立ちからしてハナカマキリだろう。昆虫種の人化した異界人だった。

 

「いらっしゃぁませ~」

「表に飾ってある黒のスーツ、あれ一式もらいてぇんだがいいかい?」

「はぁい、ありがとうござまぁす。でぇは、サイズお計りしますね~」

「いや、そりゃあこっちで合わせるゆえ、お気遣いは無用に」

「んはぁ?」

「そのまま着て行きたい。試着室借りるぜ?」

 

 おかしなこと抜かす男に戸惑いながら、娘は素直にマネキンからスーツを脱がせて寄越してくれた。

 懐から取り出した万札を十か二十、スーツと引き換えに手渡す。

 

「足りねぇんなら言ってくれ」

 

 通された試着室で手早く着替え、鏡の前に立つ。案の定、袖や裾が余っている。

 この“肉体年齢”なら然もあろう。それを見越してやや身頃の大きなものを選んだのだ。

 

「五つか六つ、ってぇところかね」

 

 気息を吸い、丹田にて回す。それはさながら風船を膨らませるかの仕業。

 真実一息分の間で肉体の()()は完了した。

 上背と身幅が増した。手足は太く張り、長く伸びた。

 十五、六の青年から、二十かそこらの若造へ。

 ぴたりと嵌るスーツの着心地、我が目測の正確さを自画自賛する。

 試着室の仕切り布を除けて外に出た。ハナカマキリの娘がこちらを向いて、そのまま複眼と顎肢を開いたまま固まった。

 手には万札が数枚。やはり過払いだったようだ。

 

「そいつぁほんの心づけだ。代わりと言っちゃなんだが、このことはあまり言い触らさんでくれるかい?」

「へっ、は、はぁ、はい、どもぉ、ありがとござぁました……」

 

 釈然としない声に送られて店を出る。

 舞い戻って来た烏が再び肩に止まる。

 シャツのボタンを二つ三つ開け襟も崩す。ジャケットの前を開け、ポケットに手を入れて踵を踏み鳴らして歩けば、如何にも軽薄な風体の男が現れる。

 ふと思い至り、髪を後ろへ撫で付けた。整髪されたかのような形に固めれば、これこの通り。

 

「完璧であろ?」

『何がだ』

「遊び人刈間ギンジの出来上がりってな」

『くだらん』

「カッカッカッ!」

 

 洋服店を覗う気配に動きはない。

 文字通り人が変わったのだ。こちらの変容、もとい変化(へんげ)には流石にあの娘も気付くまい。

 準備万端整えて、いざやいざ、夜の盛り場へ繰り出すとしよう。

 

 

 

 

 そこはビル一棟を丸ごと店舗として改装しているようだ。

 地上から夜天に伸びる黒い石柱。見上げたビルの窓や支柱はハニカム形状の模様が至る所にデザインされている。蜂の巣(ハイヴ)に見立ててのことだろうが。

 正面入り口の両脇に二人、黒い外套を纏った異界人種の女が立っている。フードから覗く黒々とした複眼と褐色の触覚は蜂のそれ。手には何故か三叉の槍を握り、さながら城門の番兵といった出で立ち。

 ハイヴを守護する働き蜂だ。

 構わず、真っ直ぐに入り口へと向かう。

 迎える番兵の方はこちらを見て一瞬動きを止める。人間種の、それも男が一人で異界人種の店に入ることに驚いたようだ。

 戸惑いを呑み込んだらしい番兵の会釈に送られ、その黒い鉄の扉を開く。

 大理石の通路、受付にも蜂の昆虫人が立っていた。こちらは黒いパーティードレスを纏い、その場で深々と頭を下げた。

 

「いらっしゃいませ。ようこそ、ラヴィン・ハイヴへ」

「一人だが入れるかい」

「もちろんでございます。さあ、どうぞ」

 

 一見は門前払いかとも案じたがそれは杞憂に終わった。

 通路の奥の扉へと誘われ、開かれたそれを潜る。薄闇の中、壁面に這うようにして淡い黄金色の照明が管状に布かれている。100坪ほどの空間に客席用のソファーとテーブルが幾つも並び、瀑布のようなシャンデリアがその上に垂れ込める。仄かに蜜が香った。酒か、あるいは真実、其処彼処に活けられた花束の。

 客席の八割方は埋まっている。開店間もなく浅い時刻を狙ったが、それでも客足は上々。各所から人間種の男と異界人種のホステス、酒精混じりの笑声が沸く。色と肉への欲か、それとも金か。ある意味こここそ差別なき世界だった。人と魔、いずれも同じ欲を抱き、同じ夢を見ているのだから。

 

「こちらへ。お客様の為の“メス”がすぐにも参ります。どうぞお寛ぎくださいませ」

「……」

 

 呆れた言い回しに顔を顰めそうになる。それをどうにか聞き流し、肩を竦めて蜂人の案内人を見送った。

 程なく、隣にそれは()()()()()

 紫のドレス、同色のアームロング、レース地の美しい腕が四つ。そしてドレスのスカートの下から伸びる節足が四脚。

 青紫の縞模様を描く丸い尻、厳密には腹に当たるのだろうその先から糸を出して、天井から逆様に現れた娘子。赤い四つの目玉の内、人がましい形をした二つを細めて笑む。

 蜘蛛の異界人種。娘はその人形のような均整の面差しに美麗な愛想笑いを浮かべた。群青の髪に幾筋か濃紫のメッシュが走っている。

 くるりと器用に反転して、正転した笑顔に向き合う。

 

「はじめまして、ミグモって言います。なんてお呼びしたらいいかな。お客様は初めての方ですよね?」

「刈間ってもんだ。ああ、そうだよ」

「んー、初めてが私で大丈夫ですか? 虫っていうか、蜘蛛が苦手な人間さんって結構いらっしゃるから」

「なんのなんの。お前さんのような別嬪相手に文句の付けようはねぇさ」

「あはは、ありがとうございます。お好きなお酒ってありますか?」

「そうさな。ならここは一本、お前さんの好きなやつを開けてくれるかい?」

「えぇ! いいんですか~? そんな気前よく言っちゃって~……いいんですよ、お兄さん。無理しなくたって。このお店、いろんな意味で容赦ないから、ほら……」

 

 こちらに身を寄せて、娘がこそりと耳打ちする。

 客のお世辞と見栄には慣れたものなのだろう。娘はさり気なく、品書きに並ぶ高級酒の値段をこちらに見せてくれた。ゼロが五つ、時に六つ、僅かに七つ。それ以下のものはない。だがそれだけに、客に金を使わせた分だけ娘自身への()()もまた増えるだろうに。

 がっくりと肩を落とした。大袈裟に、如何にも芝居がかった調子で。

 

「かぁっ、すっかり気を遣わせちまって! 面目ねぇや。俺ぁそんな貧乏くせぇ男に見えっちまうか……」

「あぁっ! 違う違う! そんなんじゃなくて!」

「……くっふふふ、それならいいんだが」

「へ? あ、うぅわお兄さん、意地悪なタイプの人だ。せっかく心配してあげたのに!」

「カッカッカッ、初めて来た店で初めて接客してくれる娘さんへの、ま、御祝儀みてぇなもんだ。どうぞ、受け取ってやってくんな」

「はぁいはい。もぉ! ありがとう!」

 

 己の首に、娘がその四本の腕を巻き付けて抱き着く。こうして肌身を触れ合わせるのも接客の心得の一つなのだろうが、美人に抱き着かれて悪い気はしない。

 その時、思念が一刺し、頭蓋を突いた。

 

『本来の目的を忘れるなよ』

(わかっておるわかっておる)

『…………』

(カッカッ、そう怒るな。外部からビル内部を看破できるか? 構造、人員配置、人数、罠の有無、なんでも構わねぇが)

『ビルには魔術防壁が布かれている。壁面だけではなく建造物の基礎骨子に組み込まれたものだ。透過、看破は現状不可能。中和し観測を試みるが相応の時間を要する上、精度には限界がある……あと、私は決して怒ってなどいない』

 

 グラスに注いだ黄金色のシャンパン。小さな泡が水面に向かって揺らめき立ち昇る。それこそ泡沫。

 今宵限りの男女の、その場限りの睦言を……などと。

 幸か不幸か、ミグモという娘子はその辺り、忌憚が無かった。気取りがない。

 

「お兄さんはお仕事なにしてんの? あ、待って。当てたげる。うーん……学校の先生! は、ないか。社長さんってタイプじゃないんだよね~。でも会社員さんには見えないしー。実は危ない人だったりして?」

「さぁてどうだか。当てられるかな。もし当てられたら、どら、もう一本つけようじゃねぇか。そら頑張れ頑張れ」

「えぇ!? だぁから無理しちゃダメって言ってんじゃん! 無駄遣いとかダメなんだから! お金って大事なんだよ!?」

「カッハハ、いやぁそうだ! その通り! 己が悪い! そんな悪い奴にゃシャンパンなんて勿体ねぇ。だから次はウイスキーがいいな。この25年モノがいい。おぅい給仕さんよーい!」

「あ、バカ!」

 

 悪く言えば明け透けだ。だが、好ましくはあった。

 慌てて己の肩を揺すり、なんとなれば取り出した糸で縛り上げようとまでする。面白可笑しな娘子だった。

 

「無理しちゃダメだよぉ……言ったでしょ、このお店は……」

「無理なんざしちゃいねぇさ。ただお前さんと話をしてると楽しい心持ちになる。そうすると酒が進む。それだけのこった。ハッハッハッ」

「……ふーん、変なの」

「お前さんこそ、酒ばかりでは体に悪ぃや。何か食わんか? 好きな物頼みなよ」

「んー……ありがとう。でもいいや。ここからまだまだ長いから、食べると衣装のライン崩れちゃう」

「そうかい。仕事人の心掛けだ。立派だのぅ」

「そんなことないよ。ふつーふつー」

 

 微かに鼻腔から吐息する。おそらくは当人も隠すことを忘れた疲労感が、じわり滲む。

 

「人界に来て長いのかい」

「んーん、まだ一年ちょっと。デザイナーの学校通っててさ。お水(これ)はその授業料稼ぎのバイト」

「……ほぉ、そいつぁ本当に立派だ」

「ぜんっぜん、指名増えないし、バックは減るし、それで怒られるし……あんまし向いてないみたい。ここで働き出してから体の調子も良くないんだよね。睡眠不足だからかな? はぁ……ぁ!? ご、ごめんなさい……愚痴っぽくて」

「いいや」

 

 娘は大慌てで取り繕い、愛想笑いを顔に貼り付けた。そうして怖々と、伏し目がちに入り口付近を見やる。

 そこではパンツスーツの蜂人の女が佇立し、周囲をその複眼で睨んでいる。そしてぴたりと、こちらと目が合った。

 黒スーツが歩み寄って来る。

 ミグモはただでさえ色の白い顔を青くさせた。

 蜂人の女が、仮面のような笑みでそこに立った。

 

「失礼しますお客様。ミグモは一旦下がります」

「おいおい、そりゃねぇや。この娘さん楽しい子でな、指名料が掛かるってんなら喜んで払うぜ」

「申し訳ございません。すぐに別のメスを、参らせますので……ミグモ」

「はい……」

 

 取り付く島もなく、黒スーツはミグモに目配せした。娘は従順に立ち上がる。糸を引かれた傀儡のように。

 労働環境はともかく、上役は善玉とは言えぬらしい。

 立ち上がり、娘にそっと手を差し出した。

 娘はそれを見下ろして、不可思議そうに首を傾げる。その素直な反応が可笑しみを誘った。

 笑む。

 

「楽しかったぜ。ありがとう。お近付きの印に握手だ。握手」

「……ふふっ、やっぱり変なの。私も面白かった。お兄さんが変な人で」

「ほっほーこやつめ、言うじゃねぇか。カッカッカッ」

 

 娘の飾らぬ笑顔は美しかった。先刻までの愛想笑いなどよりも、余程に。

 手が握られる。それを握り返す。

 弱弱しいそれに、そっと────

 

「……?」

「体を大事にしなよ。こいつはちょっとしたお(まじな)いだ」

「あ」

 

 握手を解いた娘の掌に、手折った花が一輪残る。桃色のチューリップ。飾られていたものを失敬したのだ。

 娘が目を瞬く。己自身の体を見下ろして、また首を傾げた。

 

「あれ、なんか、なんでだろ、体が軽いや……お兄さんが?」

「さぁて」

 

 空惚ける己を、娘は見上げた。なにやら妙に、眩げに、切なげに。

 

「おい、ミグモ」

「あの」

 

 蜂の女の呼ばわりを無視して、ミグモが己を見上げる。

 

「ごめん、名前。もう一回教えて」

「刈間ギンジ。またな、ミグモちゃん」

「うん……うん! あの、これ」

 

 娘は名刺を取り出し、その裏面に何やら急いで書き殴って己に手渡す。

 

「またね!」

 

 最後にもう一度笑って手を振り、娘は黒スーツに伴われていった。

 暫くして、先とは別の蜂人の女が己に近寄って来る。

 

「お客様、よろしければお客様のメスのお好みを伺えますでしょうか。当店には種々とりどりの異界種が揃っておりますので、きっと見合うメスをご提供できます……もちろん、()()()サービスも」

「ほぅ、そうなのかい。そりゃあいいことを聞いた。では頼めるかい」

「なんなりと」

 

 使った金額がそろりと効能を現し始めたようだ。嫌味なほどに恭しく頭を垂れる蜂の女、その金髪の旋毛に、望み通りに言ってやる。

 

「単眼種の娘。良い子が居ると聞いてるぜ?」

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27話 共闘

 仮面に罅が走るように。

 蜂人の女の顔は笑みの形で凝固した。大顎、赤い唇、頬を覆う外骨格、黒々と光沢を放つ複眼、褐色の触覚さえ静止してぴくりともしない。

 無論、それは一瞬。一秒にも満たぬ空隙。

 客商売も長かろう。営業スマイルの鉄面皮を取り繕い、案内人の蜂人は恐縮の体で顎を引く。

 

「申し訳ありませんお客様。当店は単眼種のメスの取り扱いをしておりません。恐れ入りますが、どうか別の」

「おやぁおかしいねぇ。確かここだった筈だが」

 

 大仰な所作と驚愕の声を作る。

 案内人の女は背後を振り返るような真似こそしないが、途端に視線は泳ぎ、明らかに周りの反応を気にしていた。

 吹聴されては不味い、と。

 

「おう、そうだ。この店を出入りしてる単眼種の娘さんを遠目に何度か見たぜ。何やら物々しい御付を引き連れていたんで、てっきり人気の子かと思ってよ」

「見間違いでしょう」

「そんな筈はねぇや。現に俺ぁ、その娘と話をしたことがある」

「……」

「近頃、なにかと物騒だってな。気安く()()()()()()()()()()ほどよ。姉妹二人暮らしで不安も多かろうと、こちらとしても心配になる。一目顔を見るだけでもいいんだが……どうだい。呼んではいただけんかな」

 

 睨め上げた虫の顔に表情は無かった。隠し事を突かれた動揺……ではなく。人化により、まだしも人がましかったものが、今やまさしく昆虫の貌を晒していた。

 鋭い顎が一度、打ち鳴らされる。苛立たしげに。

 

「残念ながら当店ではお客様のご要望にお応えすることはできないようです。今日のところはお引き取りいただきたく」

「そりゃ愛想がねぇな。きっちり払うもん払ってんだ、もう少し飲ませてくれよ」

「お引き取りを」

 

 ずらりと、黒服が席を取り囲む。湧き出る闇のように。

 蜂、蜂、蜂。合図も交わさず、それらは単一の目的を共有していた。

 愚かな人間種の男を脅し圧する。

 店内を重い沈黙が覆っていた。酒と異種の女生に酔い、乱痴気騒いでいた一秒前が嘘のような重苦しさ。

 

「ほぉ、見世物小屋がようやく蜂の巣らしくなってきたなぁ。えぇ? くくくっ」

「なにか」

「聞こえなかったか?」

 

 一触即発。号令の一つも上がれば事は起こる。

 そうしてやってもいい。が。

 テーブルに札束を一つ放る。

 

「代金だ。勘定は任せるぜ」

 

 ソファーを立ち、踵を返す。

 黒スーツの垣根が割れる。無数の冷血な複眼に睨まれながら出口へと向かう。

 

「あぁ釣りは仲良く分けるんだよ。足りねぇ時ゃあ、いつなりと取り立てに来るがいい。待ってるぜぇ。カッカッカッ!」

 

 背筋を射貫く敵意に殺意が混ざった。

 擽ったいそれらに後ろ手を振って、蜂の巣を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煌びやかで品のない極彩色のネオンを浴び、繁華街を歩く。其処彼処の店屋で、路上で盛る酔いどれの笑声を聞く。それらより遠ざかる。

 なるべく人気がなく、なるべく静かな方へ。

 これから演ずる馬鹿騒ぎは闇の中でこそ相応しい。優しい闇、血も痛みも悪意も包み隠せるところ。

 大通りを外れ、路地へ。路地の裏、さらに裏。日中に陽光すら照らぬのだろう。異様に冷涼な空気が満ちる、そこはビルとビルとビルの狭間。異界人種受け入れの為に、急激な都市開発と拡大を余儀なくされたS市の街並は歪だ。

 あるいは、それは望まれ創り出されたのやもしれない。闇、淀み、人の目の届かぬ死腔。異界の奥深くより現世に出でたモノらは、その魂の奥底で故郷を求めている。深淵の暗黒を求めたが為に。

 闇の只中で、ふと、そんなことを考えた。

 帰る場所を求めて止まない。居所を、喉から手が出るほどに欲して、縋る。あの猫の娘子、エルが涙ながらに己に告げたこと。

 変わらないのやもしれない。異なるモノ、人界に在って、人と在ることで自己の目的を達しようとする異類妖獣魔族。種の存続の為に、あるいは生の充足の為に、ただひたらすに欲望を満たす為に。

 皆それぞれが夢を見ている。

 そして時に、自他諸共を贄としてでも、夢の結実を果たそうとする。

 夢か、我欲か。そこに善も悪もない。ないのだろう、本来は。

 それでも。

 俺は邪悪を滅するのだ。この拳で、悪と断じて打ち滅ぼすのだ。

 それがたとえ何であっても。誰であっても。

 お前達はどちらだ。幼子を使って企てを為さんとする、お前達は。この拳にとって、どちらなのだ。

 

「……来たな」

 

 闇の向こうから響く足音。やはり己を追って来た。あれだけ挑発したのだ。来てもらわねばこちらが困る。

 路上の中央に陣取って、その到来を待ち受ける。

 そら来た。

 息せき切らせて走り込んできたのは────ニットキャップを被った赤髪の娘であった。

 

「おぉ? お前さんかい」

「やっと……やっと見付けたぞ! はぁッ、はぁ! はぁ! くっ、はッ! この、ヤロウ……!」

 

 肩を上下させ(いき)り立つ。膝に手を付き上目遣いに睨みを呉れるその娘は、先日来せっせと己を尾行していた赤崎何某であった。

 洋服屋で撒いた筈の者がどうして。

 

「はぁ、はぁッ、変身の魔法か、幻術か知らないけどな、私は鼻が利くんだよ! まんまと逃げ切ったつもりだったんだろうがそうは行くか!! お前が今回の事件に関わってんのは明らかだ! 事情、聴取ッ、ふぅ! ふぅッ、いやもう連行だ! 任意とか知るか糞ッ!」

「ふははっ、ここぞとばかり口が悪ぃな。なんだぃ、そっちが素面か?」

「うっさい!! いいから大人しく────」

『ギンジ、奴らだ』

 

 発奮する娘子がさらに言い募る前に、水晶の鳴動めいて頭蓋に声が響く。

 相棒からの思念。それは警告の調べ。

 彼奴らは林立するビルの間隙から、そこから僅かに覗く夜空よりやって来た。

 いや、降って来た。

 

「なんだ!?」

「……」

 

 身の毛もよだつ羽音を響かせ、一つの群が降り立つ。己と娘を狭間に取り込み、道の両端を塞ぐ。

 ひとつ、ふたつ……十を数えて参列が終わる。最後に一匹の蜂人の女が己の背後、五歩の間合に立った。今宵この群の頭目はどうやら奴であるらしい。

 振り返らぬまま、笑声を上げる。

 

「アフターを頼んだ覚えはねぇんだがな」

「ご遠慮無きよう。サービスに手を抜かないのが当店のモットーです」

「そいつぁ見上げた心掛けだ。それもこんな美人が寄って集ってとは、嬉しくって涙出ちまうねぇ。いやはや体が足りるかどうか」

「ご心配なく、私共ひとりひとりが丁寧にお相手いたします。心行くまで、思い知らせて差し上げます」

 

 軽口に思いの外、洒落の利いた応えが返って来る。

 当然だ。彼方にとって此方は歯牙に掛けるほどの脅威もない人間種の(オス)。奴らの複眼には餌か玩具程度にしか映ってはいないのだ。その余裕を崩す理由が無い。

 自分達の裏の事情に通じている小生意気な下等生物を、さてどう料理してくれようか。今の奴らの思案の掛け処はそんなところだろう。

 慢心と油断。

 これほど御し易いものはない。実に好都合。

 問題は。

 

「蜂の異界人種……ッ! お前ら『コロニー』か!?」

 

 言うや、娘は後ろ腰から何かを抜き取る。

 黒い棒。一振りでその先端が伸びる。鍔付きの特殊警棒であった。

 警棒を構えて、己を娘は自身の背後に押しやり、周囲を牽制した。

 

「私はS県警外界事象特殊捜査科の刑事だ! お前達の行動は異界人種の人間種に対する集団での恫喝に当たる! 道を空けろ!」

「……」

 

 県警の二字を耳にしても、居並ぶ虫人共の反応は薄い。

 娘の耳にこそっと囁く。

 

「大層勇ましいんだが、どうも迫力不足だそうだぜ」

「なんだとぅ!?」

「カッカッ、どうどう落ち着け。こやつらの強気はなにもお前さんの所為ばかりではない」

 

 蜂や蟻に代表される群体を構成する虫の異界人種。それらは群の存続をこそ第一と考える。一匹二匹が逮捕され人界から追放されようが、肝心要の群さえ無事ならそれで委細構わぬのだ。

 あるいは、その中枢……女王の身さえ守護されるならば群の幾らかが殺がれようとそれで良い。

 捨て石上等。相手が警察関係者であろうが無茶を働ける。

 

「……応援を」

「いや、やめておけ」

 

 悠長に電話を掛けている時間はもうない。

 羽音が響く。闇間に低く。ひどく不快に耳孔を揺さぶる。

 群の中から四つの羽音が中空へ飛び上がる。

 

「男は殺すな。ある程度痛めつけてから連れ帰る。女は、まあ死んでも構わん」

「だそうだ」

「舐めやがって……!」

 

 低く、唸りが響く。それは娘子の喉笛が吹き鳴らしていた。

 獣の威嚇。娘はその異常に発達した犬歯を剥く。

 鼻が利く。なるほど、己の姿を見失ってなお追跡し果せた理由が今わかった。

 

「右から飛んでくる一匹、凌げるか」

「はぁ!? なに言って」

「そら、来るぜ」

 

 そうしてやはり合図などなかった。群体昆虫、その面目躍如の連帯で羽虫が襲い来る。

 まずは四匹。二匹対になって前後から。大顎を左右に開き、あるいは腰部から生えた丸い腹、両足の間からその先端の毒針を伸ばして。

 上方から滑空攻勢。

 

「糞ッ! やってやるよ!!」

 

 意気軒昂。乾坤一擲。

 顎を開いて飛び込んできた一匹、その喉に警棒の丸い尖端が突き刺さっている。娘は実に正確に、最短の直線軌道で敵を射貫いた。

 

「見事」

 

 暢気に感嘆の声を漏らす。

 その娘に並走する。

 左側面から降りて来た蜂、その毒針の鋭鋒を掴み取る。アイスピックをさらに一回りも太くしたような径。それを力任せに引き込み、後ろへ投げる。

 飛んで迫る二匹に投げつける。

 

「ギャッ」

「グヒ」

 

 その体長、外骨格の質量を加味しても100㎏はあるまいが。

 壁に三匹諸共激突する。特に、相応の勢いで投擲された仲間に押し潰された二匹は、奇妙な音を吐いて動かなくなった。

 出鼻を挫かれる。無論、敵方の。

 ()()()()()()()()人間を見たことがなかったのだろう。コロニー、異界の犯罪組織と聞いたが、どうやら大戦を経験していない若い世代だ。実に幸いである。

 

「おまっ」

「伏せろ!」

「ッ!」

 

 なかなかに良い反応速度。娘が地面に伏せったと同時に、左後ろ蹴りで空間を薙ぐ。躍り掛かってきた蜂人を。

 胸部を捉えた足底に、対手の外骨格を砕いた感触を覚える。

 蹴り足は過たず、娘に突進したその蜂人と、さらに遅れて追随したもう一匹を巻き込んだ。

 その背後、仲間の身体を壁に、死角から腕が伸びる。硬く鋭い節足の指。肉皮はおろか骨すらも削る強度。

 

「シィッ!」

 

 しかしてそれも届かねば無用の長物。

 先んじて娘は肉薄した。正しく長物の利を活かして。警棒の間合は徒手の敵よりも長い。早い。速い。

 上段からの打ち下ろしが、対手の手首を粉砕した。

 悲鳴を上げる間も与えず、下方から刺突。腹部へ突き立てる。

 

「グェア」

 

 その交錯はまさしく瞬き一つ分。

 対手は突かれた部分を抑えたまま膝を屈して丸くなった。それは虫の死骸の様に似る。いや死んではおるまいが。

 娘は最速最短で敵を無力化し果せた。なるほど、腕っ節だけなら一廉のそれらしい。

 己はといえば、半歩後退しながら肘を後方へ打ち出した。

 

「ギャブッ!?」

 

 丁度そこへ躍り掛かって来た蜂の鼻面に肘関節の先端が突き刺さっている。

 大顎が粉砕しなかっただけ、この女は幸運だ。女は体液を吐いて仰向けにゆっくりと倒れていく。

 実時間にして一分にも満たない。しかしここは死屍累々。死骸こそ無きにせよ。

 十と一、居並んでいた蜂の昆虫人種、その八つがアスファルトに転がった。

 残りの三つに向き直る。特に、後ろで物見遊山を気取っていた洒落の利いた女に。

 視線が合うとその複眼が歪む。後退り、手入れの甘い地面に躓く。先刻までの不敵さが見る影も無い。

 

「まだやるかい。そろそろ体が辛ぇんだがねぇ」

「嘘つけ」

 

 赤崎の娘子が心底不信げな声で言った。

 今一歩、頭の女に近寄る。

 黒々の複眼に溢れるような怯えを映して、女は叫んだ。

 

「くっ、薬を使え!」

 

 聞くや否や、前に並んだ蜂人が二人がジャケットの懐から“それ”を取り出し、口に放った。

 白く細長い、それは……カプセル?

 

「ギッ、ギギッ、ギギギギギギギガガガガガガガ」

「!」

「なんだ!?」

 

 奇声を発して蜂人二匹が揺らぐ。蹈鞴を踏み、藻掻く。悶え、苦しみながら。

 その身体が膨張する。肥大する。

 黒いスーツが見る間に張り詰め、あっさりと弾け飛ぶ。

 中から現れたのは黄と黒の縞模様。それは家々の軒先で、林の狭間で、叢の奥で、よくよく見馴れた警戒色。蜂の体色。

 異なるのは規模。尺度。

 巨大な、体長3mを凌ぐ巨躯。巨大なスズメバチ。

 随所に人型の名残を見るが、そんなもの彼方へ吹き飛ばすその大きさ。

 そしてなによりその姿。凶々しいまでの殺意の象形。棘を群生し、触れただけでコンクリート塀に傷を刻き込む強度。

 姿形に加え、その複眼にもまた火炎のような殺意が燃え盛る。

 しかし……己を驚愕せしめたのは、そんな異形の姿ではなかった。

 蟲共の眼光の奥底に、それを嗅いだ。

 

 ────殺生石の香気!

 

 何故気付かなかった。この距離で。

 彼奴らが懐から取り出したカプセル剤。十中八九あれこそ殺生石入りの“薬”だったのだろう。

 だのにこの段、これほどの異形化を為すに至るまで捕捉できなかった。

 

(どうなっている)

『……おそらく、あれは眠っている』

(なに)

『あの石を如何にして薬物などに仕立て上げたかはわからぬが、薬物単体ではあれは疑似的な休眠状態にあるようだ。そして生体に吸収同化した時、初めて活性化するよう何らかの調合が為されているのだろう』

 

 だとすれば薬物それ自体を感知することは不可能。

 あれが使用されるまで、こちらには対処の手段がないのか。

 

「愚かな……!」

「やれ! 生け捕りはいい! 二匹とも殺してしまえぇッ!」

 

 ヒステリックな女の叫びをその化け蟲二匹が理解しているかは定かではない。

 が、目の前の餌を貪る。その一点において命令と行為に齟齬はなく過不足も皆無。

 戦闘ヘリの回転翼(ローター)の如し、激しい重低音の羽音が建造物すら震撼させた。

 飛来する。我先にと殺到する。塀を砕きビルを削り、空間的猶予の無さで、それらは縦列にならざるを得なかった。

 一匹、下腹部、巨大長大な針の鋭鋒が、鐘楼を打つ撞木の有り様で。

 前転。項を針先の気配が撫でた。

 暴風のような速度でそれは夜天に昇る。

 矢継ぎ早。二匹目。そいつは直接その大顎を開き、食らい付いてきた。

 

「逃げろ!!」

 

 後方から娘の叫びを聞き取る。無事であったことに安堵しながら、腰を沈め、拳を握り固めた。

 開かれた大顎の径は、己の胴回りなど容易く超えている。咬まれたが最後、上半身と下半身が破断するのは自明の理……まあ、この肉体にそんな()()()があればの話だが。

 さても、その前に。

 腰溜めから掬い上げる。肘は固定し、肩を支点に、振り子の要領で。脚と腰は発条仕掛けの推進力。その先端、拳という弾頭を射出する。

 大顎を、打ち上げる。

 

「ずぁあッ!!」

 

 土台たる足下がアスファルトを抉る。

 蜂の頭部が跳ね上がった。大顎の鎌は間合いを逸れ、己の頭上へ。

 しかし、その体躯の突進力までは殺し切れぬ。

 

「ぐぉ」

 

 体当たりを喰らう形で、自身もまた大きく弾き飛ばされた。

 空中を背泳ぎする。下方に、娘子を行き過ぎて、ビルの壁面に背中から衝突した。

 地面に降り立つ。肩にぱらぱらとコンクリートの欠片を浴びた。

 

「くはっ、痛ぇ痛ぇ。流石に、生身ではこれが限界か」

『やむを得まい』

「お、おい! 大丈夫か!?」

 

 慌てて娘は己に駆け寄り、肩を貸そうと身を寄り添わせる。

 

「逃げるんだ! 走れるか!? いや死んでも走れ!」

「いいや、逃げるのはお前さんの方だ。アレの相手こそは己の御役よ」

「はぁ!? 馬鹿言うな! アレはもううちの退魔班じゃなきゃ対処できないレベルだ。糞! あいつら法治国家なんだと思ってんだ!? 私が時間を稼ぐ!」

「お、おいおい」

 

 警棒を手にして娘が前に出る。上空では二匹の巨大蜂が態勢を立て直しながら、まさに降下してくる。

 夜闇を背にすればなお一層に際立つ巨躯。あれの質量だけで十二分の殺傷能力足り得る。

 それをそんな儚い棒切れで、一体全体どうしようというのか。

 

「お前は気に入らない! 訳知り顔で、警視ともなんか仲良さそうでムカつく! でも……一般市民を守るのが」

 

 犬歯を剥いて、娘は吠えた。ヤケクソのように咆哮した。

 

「私の仕事だ! だから邪魔すンな!! 馬ァ鹿!」

 

 その小さな背中。己を守ろうと無茶無謀を張る、その背中が。

 

「気に入った」

「早く逃げ────」

 

 既にして眼前にその巨躯はあった。閉所とは比べ物にならぬ加速力で降って来た蜂の化物。この巨体にしてこの速度。射掛けた矢の如き、ふざけた速度。

 息を呑む娘子。

 その横顔から前へ。地を踏み砕き、前へ。

 

略式手甲(りゃくしきてっこう)!」

清祓一十(しんぎひとたり)、奮え』

 

 虚空より出現した烏の謡い。その祝詞と共に光が咲く。花弁の如く美麗な神鏡(かがみ)

 その神聖なる水面へ右拳を突き入れた。

 光に変わる。粒子に消ゆ。拳の先から肘部関節が、物質から光子へ。(うつつ)から(かくり)へ。肉と骨が解け、剥き出しの魂魄が新たな(にく)(ほね)を鎧う。

 極限の痛みは、極天の力へ。

 銀の手甲。そこに埋まる深緑の光砡(たま)

 その銘は。

 

「────烈風」

 

 巨蟲の額を打ち砕き、神気の嵐流が吹き荒れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

28話 一計を案ずる

 

 

 烈風の拳撃は神気を孕む。

 それは魔なるモノ、闇の中に生きるモノ共に対し覿面の破壊力を示した。

 鎧われた拳骨が、巨大な蜂の額を打ち、沈み、骨格表層を砕く。

 そも、巨体の質量と速度を乗じた突進力、それが打撃一点に集約された貫徹力は尋常ではない。

 断末魔の悲鳴もなく、異形の蜂が路地を転がった。ビルの壁面を削り、アスファルトは捲れ上がる。

 

「っ!? う、上だ!」

 

 赤崎が叫ぶ。

 もう一匹。警告通りそれは直上から。

 これまた巨大な臀部から、槍の穂先ほどもある針を()()出して────不味い。

 スズメバチは毒針で外敵を攻撃するが、それは直接刺すばかりではなく。このように。

 毒を散布する。

 針先から、それは霧となって噴射された。

 頭上一面を黄ばんだ蟲毒が覆った。

 躱すのは容易い。よしんば毒に触れ、ないし吸引したところで己の肉体はそれを然程の痛痒も時間も要さず無害化するだろう。

 問題は、傍らの娘子。

 風を打って離脱する、あるいは風を逆巻いて毒を散らす。どちらも娘を毒という脅威から完全に守り果せるには僅かに足りぬ。

 ならば。

 

略式脚甲(りゃくしききゃっこう)!」

清祓(しんぎ)二十(ふたたり)、結べ』

 

 極限に短縮し、増速された祝詞と神楽。たった一瞬限りの神前儀式。

 その唱いと共に頭上に現れたる神鏡。光輝く円環へ向けて、跳ぶ。

 身体の上下を入れ替え、蹴り上げた右脚が光に包まれる。

 光になる。

 肉体が魂魄の次元から再構築され、それは武力の形を得る。

 銀の脚部装甲。その銘を。

 

「“紫水”」

 

 紫水の一蹴り、それは玉散らす、波を起こす、怒涛のような瀑布を生む。

 光砡より生成された水。神の気を帯びたそれは破邪の清水。

 巨大な傘のように放射状に展開した多量の水が頭上を覆う。ビル間の狭小な空間を満たすほどの流水。否、水塊である。

 散布された蟲の僅かな毒液など容易く呑み下す。

 そして清水に触れ、絡み混ざり合ったことでその毒気は完全に消え去った。

 さらにもう一打。背泳ぎの恰好のまま空間を蹴る。

 

「昇龍」

 

 落ちもせず止まりもせず、水は重力に反逆する。滝そのものが空へと昇る。

 中空の巨大な蜂諸共に。

 暴流に呑まれ揉まれ、そこに宿る神気によって彼奴の体内の怪力をも清め祓う。

 御神水の渦潮より解放された化け蟲が地に落ち、重く地響きを立てる。

 程なく、それは異形化から元の蜂人の姿へ戻った。

 

「た、倒した……」

「いや、もう一匹」

 

 ()()、流水を手繰る。

 それは今まさにこの場から飛び去ろうとする蜂人の女へ、すっかりと瓦解し果てた群の頭目へと殺到する。

 

「ひ、ひぃ!? た、だずっ……!?」

 

 命乞いと思しい文言を口にしようとした女は、逆柱となった水流に飲まれ、奇妙な濁音を吐いた。

 耳を傾けてやるには少々手遅れというもの。水中で暫時溺れさせ、気絶した辺りを見計らって女を解放した。

 情報源を捕縛し一先ずはこれにて決着……と、言いたいところだが。

 

「……」

「お前」

 

 傍に寄る気配に振り返ると、そこには赤崎の娘子がある。手にした警棒をこちらに向け、警戒と戸惑いを同じほどに含んだ眼で己を睨んでいる。

 

「何なんだ、いったい……その腕、その足! 特殊魔具の不法所持どころの騒ぎじゃないぞ。それにあの完全に異形化した異界種をたった一人で……お前、本当に人間か!?」

「無論だ。我が身は健康優良な、ただの人間だよ」

「ふざけんなッ!」

「ふざけちゃいねぇさ。まあ、確かにちょいとばかり(あめ)気触(かぶ)れっちまってるが、そういう御役目なんでな」

「役目……?」

「どうしても知りてぇってんならお前さんの上司に訊ねてみるといい。お前さんの立場なら、聞き知っておく意味もあろう」

 

 その権利がある。

 己の仕儀は、警察機構の当然の治安維持任務を嘲弄するも同じなのだから。

 

「…………」

 

 納得とは程遠い顔がそこに浮かぶ。不信と義憤、なにより悔しげな歯噛み。

 刑事という職責を重く、大切に背負えばこそ、眼前の男の無法が許せぬのだ。無法にも一人の人間に、法を超えた力を揮わせる“見えざる手”があると、朧気ながら理解してしまったのだ。

 憐れに思う。傲然と。

 それでもやらねばならぬのだ。己が誓いを果たす為。國民を脅かす力を消し去る。怪滅を為す。

 

『ギンジ』

「……ああ、わかってる」

 

 感傷に浸っていられる余暇など己にはない。許されない。

 コロニーの者共の動きは実に性急であった。一ノ目メイの名を出したただそれだけで相手の闇討ちを図るなど。

 如何に蟲の異界種が群体存続を優先するといえど、ここまで直接の暴挙はその優先事項をすら危うくするだろう。

 つまり今の奴らは、拙速に動かざるを得ない状況にある、ということ。

 どうやら事は一刻を争う。一ノ目メイという娘子の身柄を無事に確保するには。

 

「こりゃ悠長に家捜しする訳にはいかんな」

『どうする』

「お、おい、お前、さっきからなに独りでぶつぶつと……」

 

 気味悪げな娘子の言い様に苦笑しながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。

 電話機能を起ち上げ、直接番号を打ち込んだ。つい先刻、美人な娘から貰い受けたばかりのそれ。

 呼び出し音を丁度三回聞いた頃。

 

『もしもーし、もしかしてギンジ?』

「当たりだ」

 

 店で向かい合った時より幾分間延びした声音であった。作らず飾らぬ。これが素なのだろう。

 ミグモはころころと上機嫌に笑った。

 

『あははっ、早速かけてきたね~。キミってば思ったよりガツガツしてますなぁ。ふふ、アフターのお誘い?』

「カッカッ、まあそんなようなもんだ……いや、出任せは止しておこう。白状するとな。お前さんに協力して欲しい」

『? 協力って?』

「己はある娘を探している。一ノ目メイという単眼種の娘だ。数日前から行方知れずで学校にも来ていない。おそらく、そのビルの何処かに囚われている。助け出したい」

『えっ、えっと』

 

 やにわに告げられた事柄の突拍子も無さに、電話口の声は当然戸惑った。

 

「いや娘の居所を教えろ、などと無茶は言わん。お前さんに頼みてぇのは……」

 

 端的な要請と、その店舗を運営する母体組織の実態を伝える。至極、手前勝手な事情を果たしてどのように受け取ったか。

 ミグモは声色の戸惑いを一旦仕舞い、こちらの言葉に耳を傾けた。

 

『……薄々思ってたけど、ここってそんなヤバい店だったんだ』

「悪いことは言わん。頼み云々はさて置いても、そこは早々に足抜けしちまいなよ。なんなら己が別の働き口を見繕うてもいい。勿論、お前さんの心持ち次第だが……」

『ホントに!? じゃあやるよ! 協力する! もう正直うんざりなんだ。バック安いし客層悪いし、一番はあの蜂女達の顔! ふつーに恐いんだもん!』

 

 打って変わって、あるいはいっそ晴れやかにミグモは声を上げた。快哉の如く。

 その現金さには思わず笑いが溢れる。

 

「わかった。請け負おう。そこよりずっとまとも仕事をな」

『できれば次は昼職がいいな~。昼夜逆転ってやっぱりキツくて』

「カッカッ! おうおう。承知したぞ」

『それからさ……今度ご飯行こうよ。ふふ、ギンジの奢りで』

「あぁ無論だとも。好きなもの鱈腹食わせてやる」

『やったね! ギンジ愛してる!』

 

 如何にも安っぽく軽やかな睦言で電話は切れた。

 ふと居直れば、不信から一気に不満爆発といった様子の赤崎が、スマートフォン片手に己を睨み付けていた。

 

「どういうことだ!? 今照会したら一ノ目ってあの、薬をやって暴れた異界人……」

「そう、その妹だ。今はコロニーの連中に捕まっている。おそらくは薬物の調合をさせる為に」

「なっ」

「今からその囚われの娘子を取り戻す。乗りかかった舟だ。いっちょお前さんにも手を貸してもらうぜ」

「はあ!? なんで私がお前なんかに!」

「一般市民が悪党に誘拐(かどわか)されたのだぞ。警官の姐さんを頼るなぁ至極真っ当な筋であろう?」

「こ、のっ、自分の役目がどうとか言っておいてぬけぬけと……!」

 

 憤懣遣る方なしと娘が歯軋りする。それでもこの場を立ち去らない生真面目さはやはり好ましい。その義侠心に敬意を覚える。

 溜息一つで、微かに怒りを鎮めて娘は当然の疑問を口にした。

 

「だ、だいたい、取り戻すって言ったってどうやってだ。あのビルは丸ごとコロニーの本拠地だろ。忍び込むのだって難しいぞ」

 

 忍び込む。行儀のよい手だ。正攻法でもある。

 備えを凝る時間があれば、それを選んでもよかったが。

 

「ゆえに次善策だ。忍び込むのはこの際諦めて……」

「うん」

 

 事は一刻を争う。どうやらそれは彼我共々同じこと。ならばこちらも敵のやり方に倣い、拙速を尊ぶとしよう。

 

「殴り込むのよ」

「…………はい?」

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29話 奪還に乗じる思惑

 

 

 

 手筈は単純にして単純。創意工夫など絶無の、まさに蛮行である。しかしてこれを行うにあたり必要な情報も既に得てしまった。

 従業員として、店の内部を見知っているミグモから確認を取りたかったのはただ一つ。

 

「そのビルに無人の部屋はあるかい。外に接した場所なら廊下でも構わん」

『んーっと、たしかぁ……倉庫。事務机とか椅子とか置いてる倉庫があった。えぇっと方角はね……』

 

 夜天に楼閣が聳え立つ。黒いビルの滑らかな壁面を仰ぎ、それと思しい()()()をつける。

 七階の角部屋。高度20メートル超。

 右拳に風を纏わせる。乱れ絡み合い逆巻く乱気流。その塊を掴み、足下を。

 

「はあっ……!」

 

 打つ。

 下方で解放された暴風は、その上に居座る身体を容易く吹き飛ばした。一進、遮光硝子の窓すれすれを飛翔する。

 半秒と掛からず目当ての高度に到達した。

 同時に、右脚の蹴撃。ぐんと突き出した右脚には紫水の生んだ流水が纏いつく。

 細く、鋭く、廻る。回転する。螺旋を描き、その先鋒が壁面に接触する。

 瞬間、魔術防壁の抗力が発生した。光る幾何学模様。異界の文字と紋により編まれた精緻な式。強固な守護結界である。並の火器では傷一つ付くまい。

 しかしこの一合にあってそれは無力だった。何故ならば単純至極、こちらの(はがね)の方が強いからだ。

 刹那の抗いも消え去り、螺旋の渦槍は壁を抉り、貫いた。

 掘削された壁の建材がばらばらと解けて散る。薄暗い室内にそれらは飛散し、事務机やら事務椅子やらを盛大に巻き込んだ。

 手ずから穿った風穴より、街の灯が差し込み、部屋の惨状を露わにする。

 聞いていた通りの無人の倉庫。しかしいずれ、そうではなくなる。

 

「見通しの悪さは相変わらずかい」

『……ああ、忌々しいことに内側へ入り込んだ分だけ四方からの索敵阻害が激しい。五間から先は見通せぬ』

「近場に蟲が居らぬならばそれで十分よ」

 

 風と水の操法を工夫したことで最大限に音を封じた。ゆえにこの暴挙に比して破壊音そのものは極々小さい。

 だが絶無ではない。なにより、結界を破壊などされればまずもってその式を掌握する術者が即座に感づく。

 何を置いても今は速度。速度。速度。可及的な速度を。

 

「“紫水”」

 

 右脚の足下から床面を割り砕きながら伸ばした水の糸。それは謂わば水による感覚神経。

 現代の人界建造物ならばほぼ確実に存在するだろうもの。水道管が、内部の全階層に亘って張り巡らされている。

 水を(しるべ)とすれば、その近くに存在するあらゆるものを我が身は知覚可能だ。探査妨害の魔術式も、水と繋がることで()()()()()するこの仕儀に対しては意味を為さない。

 建物の血管とも呼ぶべき水の道。それを辿り、走査(はしる)。七階層に始まり八、六、九、五と感覚を這わせ、そうして四階層。

 

「見付けた」

 

 このビル内部でも最も分厚く、偏執的なまでに封鎖術を施された部屋に。紛うことなき監禁部屋に。

 生活の配慮のつもりか、設えられた小綺麗な大理石の洗面台、その蛇口から豪奢な内装を覗く。

 部屋の中央に据えられた真っ赤なソファー。そこに座り、項垂れる娘子が一人。真っ直ぐな黒髪が横顔を流れる。その隙間から、大きな単眼が見て取れた。

 ここより下方入射角はざっと30度といったところ。射線上に人影無し。

 

『多数のオードがこちらに接近している』

「是非も無し! 貫くぞ!」

 

 右脚に流水を纏い、再び回す。螺旋を廻る。

 渦巻く槍の穂先が床面を穿った。

 床材、支柱、鉄骨を次々に貫き押し退けながらに。時には従業員なのだろう娘子ら、異変に気付き右往左往する蜂共、それらを過ぎ去りさらに下層へ。一路その部屋へ。

 程なく達した。

 豪奢に飾られた部屋の中、瓦礫と砂塵が降り注ぐ最中、ソファーから愕然とこちらを見詰める一ノ目。

 

「っ!? な、なに、誰だよ」

「三叉という坊に頼まれてな、お前さんを攫いに来た」

「! 三叉って……そんな、うそ」

「嘘か真か吟味させてやりてぇところだが、生憎と時間が惜しい」

 

 驚き二の句を詰まらせる娘に近寄り、その赤いドレス姿を肩に担ぎ上げた。

 

「きゃっ、おい! ちょっ、ちょっと!?」

「ちょいと寄り道しなくちゃあならん。少し揺れるぞ。舌ぁ噛むなよ」

 

 さらに何か叫ぼうとする娘子には取り合わず、踏み出す。疾駆する。

 壁に向かって。

 

「ま、待って待って待って待ってよぉ!!?」

 

 右拳を突き入れる。逃走となればもはや音を気にすることも、まして渦槍で丁寧に穴を空けてやる必要もない。

 壁を打ち壊しながら突き進む。

 

「ひぃぃい……!!」

 

 もうひとり、ミグモの位置は一ノ目メイ同様、先程の走査の折に特定している。二枚の壁を打ち抜いてまた部屋に入る。そこは煌びやかな装身具の立ち並ぶ衣装部屋だった。

 黒いレース地のワンピースにファー付きのブルゾンと幾分ラフな装いのミグモの姿がそこにあった。

 

「わ、わ、ホントに壁から来た! えっ、てかなになにその腕! 足のも!」

「後だ後。急がねば巣を突かれた蜂の大群がすぐにも来ちまうぞ」

「やっば! そうだった」

「で、でもどうやって……!?」

 

 肩口に乗る娘からの問い掛けに、笑みで応える。

 単眼が見開かれ、そうしてすぐにその顔色が青褪めた。賢いことに、すぐさま娘は理解したのだ。この男は同じことをする気なのだと。

 

「ぶち抜くぞぉ! 掴まれぃミグモ!」

「っ!」

 

 娘の手首の付け根から蜘蛛糸が飛び出し、己の胴体に巻き付いた。縛り、固定する。蜘蛛の専売特許だ。まず振り落とされる心配はない。

 

「いいよギンジ!」

 

 了承の声に後押しされ、跳躍する。宙返りし、身体の上下が反転する。

 右脚の流水が最大加速の螺旋を迸らせた。

 貫徹する。天井を。

 このビルそのものを。

 

「わぁぁああああっ!?」

「うきゃぁあーーー!!」

 

 悲鳴と絶叫を伴に、四階から十階、その最後の天井を蹴り抜いて、遂に空へ。冴え冴えとした夜天へ躍り出た。

 

「ひゃ、わ、わ、あっは、あはははは! やっばいよギンジ! 頭おかしいってば! ってかふつーに飛んでるんですけど!」

「蜘蛛とて空くれぇ飛べるだろう」

「バルーニングなんてアラクネのサイズじゃできるわけないっしょ!」

「カッカッ、そうかい」

 

 元気溌溂にはしゃぐミグモ。対して一ノ目の娘子は実に律儀に驚き慌てふためき、一巡して今は静かになった。声も出ないのだろう。

 繁華街の極彩色の灯を眼下に、風を操りながら上昇を続ける。

 後塵の警戒は怠らぬ。蜂共は巣を荒らした埒外者を血眼になって追い掛けてくるだろう。

 今にも、大挙して。

 

「……妙だ」

「えー? なにーギンジ? うわぁ景色やばいね! きーれー」

 

 巻き付けた糸をするすると辿ってミグモが腰に抱き着く。豪胆というか、もはやこの者にとって今の状況は単なる空中遊覧の体であるらしい。頗る楽しげだ。

 こうして楽しむだけの余裕がある。

 追跡者の影が無いからだ。

 

「何故だ」

『地上の様子がおかしい』

「なに」

『蜂人共全てが何かに向かって攻勢を仕掛けている。いや……何かと交戦している』

「交戦だと」

 

 地上、先程後にしたビル付近に視線を這わせる。視覚強化を為す、までもなかった。

 火の手が上がっている。ビルの各所から。

 そうして通りでは、絶えず怒号と轟音が飛び交った。

 ちかちかと明滅する極彩色。それは繁華な街の灯ばかりではなく、オードだ。魔術、異能、それを行使する為に揮われる原初の力、オードの光だった。

 蜂人が大群となって攻勢を仕掛け、それに負けじと無数の異界人が応戦している。

 これはまるで。

 

「戦……」

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30話 姉妹

 

 

 夜天に昇り、風にそよがれ飛翔する。

 高層ビルを跨ぎ越え空中遊歩を踏みながら、己は思案を迫られていた。

 予想された追跡者は影もなく、蜂人共は突如出現した『敵勢力』の襲撃に対応を余儀なくされている。己の正体はともかく、侵入者によってまんまと一ノ目メイが奪取されたことは既に発覚しているであろう、にもかかわらず。

 戦力を割く余裕すらないのだ。そしてそれほどにあの襲撃は奴らにとり寝耳に水だったのだろう。

 どうする。

 これを好機と、この娘らを安全圏に逃がすのは確定事項としても、その後かの戦場をどのように扱う。

 懸念は、やはり。

 

「あの薬を作ったのはお前さんだな?」

「っ! ……はい」

 

 肩に担いだ娘の痩身が震えた。声音は微風にさえ掻き消えてしまいそうなほど弱々しい。

 それは罪悪の針。心の臓腑を滅多刺すこの世で最も御し難い痛み。

 

「それは、お前さんの意志か」

「ちがっ、そんなわけないでしょッ!! あんなもの作りたくなんてなかった! 私はただお姉ちゃんを……取り戻し、たくて……!!」

 

 その先は聞くまでもないこと。姉の身柄、そしてその無事を条件に薬物の調合を強いられたのだ。

 

「元々は、お姉ちゃんがやらされてたことだった……お姉ちゃんが夜仕事でハイヴに出るようになってすぐ、私らの出身を知られて……お前達の借金の債権は買い取った、薬を作れ、言うことを聞かないなら、一生飼い殺しにする。か、金持ちの人間の、お、男に……体の方を売れば、返済は早まる……薬を作るのが嫌ならそうさせてやる……そう、言われた」

 

 如何にもなヤクザのやり口だ。絵に描いたようとでも言おうか。あるいは恐喝の指南書なるものがこの世に存在するなら、それは大見出しを飾って掲載されること請け合いの。

 正しく下劣の所業である。

 

「一ヶ月くらい前からお姉ちゃんが家に帰らなくなった。店のヤツらに聞いても『仕事』の一点張りで……でも、ある時……お前の姉は、お前を置いて逃げたんだって」

「逃げた?」

「私を置いて逃げた。高跳びしようとしたところを捕まえて、監禁した。ご、拷問に、かけてる。だから、お前が代わりをやれって……」

「はっ」

 

 なるほど。どうやら此度の一件、その碌でもない顛末が見えてきた。

 一ノ目メイの姉、一ノ目アイは確かに逃走した。良心の呵責か、度重なる理不尽に対する忍耐の限度を超えた為に、()()()蜂の巣を抜け出した。一ノ目アイを取り逃がし、その上身柄を警察に奪われた蜂共は、慌てて妹である一ノ目メイを確保し、幽閉した。外部との通信手段を断たれたこの娘が、姉の状況を知らないのは当然のこと。その辺りを出任せで言い含めて娘自ら協力させようとしたのだろうが。

 一ノ目アイの行動は、決して彼奴らの(のたま)うような逃避ではなかったろう。

 ……自身に薬を使ってでも、一ノ目アイは抗ったのだ。

 何の為に? それは、おそらく。

 

「お前さんの姉御は捕まってなどいない。先日街中で錯乱し、その日の内に警察病院に搬送された」

「……へ?」

「おう慌てるなよ。命に別状はないそうだ」

「どっ、どうして、どうして!? どうしてお姉ちゃんが、そんな……!?」

「そうさな……今月の九日、この日付に覚えはあるかい?」

「こ、九日って…………あ」

 

 呆けたように、娘はその単眼を見開いて呟いた。

 

「私の、誕生日」

 

 それはまた、大層合点の行く話であった。

 

「ならばそういうことだ。薬で力を暴走させてでも、お前さんに会いに行こうとした。その日ばかりは、会わずにはおれなんだのだ」

「あ……あぁっ……」

 

 そのたった一つの瞳から娘は涙を滂沱した。風に浚われていく大きな水の粒は止め処なく、体中の水気を失ってしまいそうなほどだ。

 

「ふぎゅ、ふぐぅ、い、いい話……」

「おいおい、上着に垂らさんでくれよ。新品なんだ」

 

 鼻水を滂沱してミグモも盛大に泣いた。

 珍重な薬剤師を失った彼奴らめはなんとしてもその代役を欲した。代えの利かぬ専門技能者である。そして姉の窮状を知ればこの娘とてもはや恫喝に隷従などしない。彼奴らは姉の情報が伝わる前に、娘を幽閉する必要があったのだ。

 下準備の行き届かぬ杜撰な拉致監禁に走ったのもそれが事由。

 だが、それが仇となった。

 いや、あるいは憐れな話だ。実に運が無い。

 ある一人の少年の無垢な願い。いやさ暴挙よ。娘子を想い、想い、想うあまりに、少年はよりによって己を頼った。こんな男を焚き付けてしまったのだから。

 運の尽きというなら、あの悪辣の“石”を利用しようとしたその愚行から。

 以上二項を以て、容赦してやる理由が消えた。

 

「さてと、一先ずお前さん方を地上に下ろすぞ」

「えー、どうせだからこのまま家まで送ってよー。あ、なんなら泊まってってもいいよ? ふふふ」

「カッカッ、そいつぁまた次の機会に取って置こう」

「ちぇっ」

「地上に着いたら、そこにいる赤崎という女を頼るといい。外特の刑事だ。諸々取り計らってくれる」

「……」

 

 肩の上で身を強張らせる娘子に、努めて軽く笑みを送る。

 

「なに、悪いようにはしねぇよ。お前さんのことも。無論、姉御のこともな。事情を話せばすぐにも会えよう。いや必ず会わせてやる。請け負うぜ。こんな身形(なり)だが警察程度に横車押すなんざ朝飯前でな。ただし」

「はい……?」

「代わりと言っちゃなんだが、事が落ち着いた後でいい。あの三叉の坊主に、もう一度その顔見せに行ってやってくれるかい」

「! はい……はい!」

 

 震える声はしかし力強く、滲む瞳には悲哀とは対極の、眩い光が戻ったように見えた。

 

「……ついでにお前さんがあの坊を憎からず想っていてくれると、己の立つ瀬も浮かばれるってなもんなんだが。くくく」

「えっ! あっ、そ、それは、それは……~~~っっ!」

「なになにそういう話なの? 聞きたい! 聞かせて! 聞かいでか!」

 

 囃し立てるミグモに返事もできず、声ならぬ声でメイが鳴く。頬と言わず額と言わず、耳までもかっかと朱に染まる。

 どうやらその恋路は明るそうだ。

 

「……最後に一つ、教えてくれ。お前さんが作らされた薬、その材料の中に奇怪な石か、砂があった筈だ。それをどうした」

 

 若々しく甘く酸い。それは未来の匂いだ。この先を生きる子らの、その前途。

 己は顧みる。

 過ぎ去ったものを。血と火、ただ殺し、壊すばかりの(オード)の臭い。嗅ぎ馴れた戦場の香。そして、怪なるその石の悍ましい香気を。

 

「……あった。すごく、強い力、危険な力を持った石……同じ部屋にいるだけで身震いした。あれは人が、魔物だって触れていいものじゃない! 私、私っ、そう解ってたのに……!」

「薬の素材に使えと命じられたのだな」

「ただ混ぜるだけじゃダメだった。あれは、極悪なニトログリセリンみたいなもの。触ったり衝撃を与えたりなんてレベルじゃない。心すら、刺激として受け取って爆発するようなヤバいやつ……私の家に代々伝わる古い呪術と組み合わせてやっと安定させられた。肉体の構造自体を呪術式に見立てて、吸収されるとそれを基盤にして発動する。オードを増幅して、身体、というより生態そのものを根本から強化する。あれを使えば、ゴブリンがオーガになれるよ」

 

 冗句の体裁で、娘は心底の恐怖を口にした。

 

「数は」

「じ、十二錠……」

「そうか。よく教えてくれた。ありがとうよ」

 

 また涙を堪えた瞳が己を見上げる。そんな目で、胸を痛めることなどないのだ。幼子よ。お前に罪などない。案ずることなど、ない。

 子らの生きる道を鎖さんとする邪悪。

 この拳が滅ぼす。これより、滅ぼしに征く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

31話 それを知る者

書きたいこと全部盛りにしようとするとしっちゃかめっちゃかして胃がもたれるね。という一例(白目)


 

 

 

 夜気を払い除け、アスファルトの地面に降り立つ。マギケイヴへの通学時にも歩く駅前通り。馴れ親しんだ家路の半ばは先の繁華街の真ん中とは異なり、まだしも深夜なりの静けさがある。

 路地の両脇をそわそわと行ったり来たりする娘子がこちらに気付いた。

 傍らには、先刻捕え縛っておいた蜂人の女が未だに気を失っている。

 赤崎が警察手帳を手に走り寄ってくる。

 

「一ノ目、メイさんですね? 私は外特刑事の赤崎といいます」

「は、はい」

 

 刑事の二字に、一ノ目が怯むのがわかった。

 その隣に並び立って如何にも大仰な所作で肩を竦めてみせる。

 

「おいおいこんな若い娘さんをそう脅し付けるもんじゃねぇぜ」

「脅してねぇわ」

「いやいやその顔がな」

「恐いってか!? えっ、こ、恐い? 私の顔って……」

「ちょっとギンジ、意地悪言っちゃダメでしょ。こういう子は男の人の言うことすぐ真に受けちゃうよ」

「この通りの初心(おぼこ)い娘子だ。恐がるこたぁねぇんだぜ」

「おぼこ言うな!」

 

 がうがう吠え立てる赤崎を宥めあやす。一ノ目は大きな単眼を丸めた。戸惑いでも気が紛れるなら儲けものだ。

 

「ではな。あとは頼むぜ、赤崎の嬢ちゃん」

「嬢ちゃん言うな! いや待て。お前はどうするんだ」

「無論、仕事をしに行くんだよ」

「……戦うのか」

 

 皆まで言うまい。

 片足の装甲で、歩みはひどく不揃いな金属音を立てた。

 そんな我が背に慌てて声を上げたのは一ノ目であった。

 

「待って! 無茶だよ! た、戦うってあいつらと!? 蜂人の魔物と!?」

「善からぬモノを如何わしきことに使い、彼奴はやってはならぬことした」

 

 怪しき力、災禍の石で、國民を惑わせ陥れた。

 

「手前らが手を付けたそれが一体なんなのかも知らずに。残念ながら、警察の出る幕はとうに過ぎちまったのさ」

「……」

 

 赤崎の無言は実に雄弁だった。義憤という、真っ直ぐな自己嫌悪。

 しかし一ノ目は食い下がる。なんとなれば追い縋り、己の服を引き掴む念の入れ様。

 それほどの必死。死に物狂いの制止。

 

「無理っ、無理なの! あいつらにはあの薬が、私がっ、私が作った薬がある! あれを使われたら誰にもどうにもできない! 全部、全部全部壊される!! あんたも殺されちゃうよ!」

「そうはならぬ。そうはさせぬ」

「なんでっ……!」

 

 何の根拠があって、あるいは何故。そんなことが言える。言い切れるのかと、娘は悲鳴のように問うた。

 自身の作り出したものがどれほどに恐ろしいものか、悍ましいものなのかを熟知しているのだ。それが使われ、その果てに見も知らぬ誰かが害され、傷付くことに(おのの)き、その罪の重みをこれまでに散々思い知ってきたのだ。

 この細い両肩に、鉛のような責めを負うているのだ。

 罪などない。この娘に、その姉御とて、そのような覚悟は要らぬ。強いられるものではなかった。

 負うべからざる者がその罪の呵責に泣いている。

 

「案ずるな。それがこの拳の使い途だ」

「…………」

 

 娘は絶句した。目の前の男の言があまりに愚昧であったからかもしれない。

 調剤された薬十二錠。最初の二人の香気とオードの具合から鑑み半錠を服用したとして一錠、その後に蜂人二匹が変化の為にさらに一錠ずつ。残り九つ。

 

「一つ残らず消し去ってやる」

 

 そして、その禍根たる石を滅する。

 鉄靴を響かせ、その場を離れる。娘の手を離れ、再び夜天へ。

 戦場へ翔ける。

 

 

 

 

 

 

 

「あーあ、ホントに行っちゃった。店の周り、結構ヤバい感じだったよ……戦争みたいな」

「……まあ、あいつならやっちまえそうではある」

「貴女は止めなくてよかったの? 一応ケーサツの人なんでしょ。っていうかギンジもそうなんじゃないの?」

「一応じゃなく私は歴とした警察だよ! そんであいつは違う! ぜんっぜん違う! あんなのが警察であってたまるか!」

「あっははは、だよねー」

 

 吼えかかる赤崎、軽妙に笑うミグモ。

 そしてメイは一人、奥歯を噛み締める。

 

「……」

 

 脅されて仕方なく、姉が囚われ自分自身もまた囚われ。借金と言う負い目。真っ当に、この人界で生きる。そんなちっぽけなプライドもあった。

 薬を作ったのは自分だ。あの危険なモノが、災いの権化と知りながら、結局は自分可愛さで。自分と姉が生きる為に。警察に報せることもせず、唯々諾々悪事に気触れ続けたのは、今の生活を守る為。

 人界で、ただ普通に。

 ただ、普通の。

 

 ────ひ、一ノ目……俺とFP組んでくれ!

 

 恋をしたかった。

 そんな夢を見た。

 夢を。

 

「一ノ目!」

「え……三叉……?」

 

 街灯も朧な駅前のアーケードの向こうから響く足音。

 息せき切らせ、一人の少年が少女に駆け寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風を貫きながらスマートフォンを耳に当てる。暴風の嘶きを御し、驚くほど澄んだ音色で呼び出しの電子音を聞く。

 通話した瞬間、心底不機嫌な美声が耳を突いた。

 

『よりによってこんな時に電話を寄越しやがって。なんだ』

「口が悪いぜレオン坊。アリアちゃんが真似しちまったらどうする」

 

 インキュバスのかの美貌がすっと無表情になるのが電話越しにも見えた。怒るほどに冷める。この男の美点であり、難点でもある。

 

『無駄話なら切るぞ』

「ラヴィン・ハイヴ周辺の状況はどこまで掴んでる」

『お前はその渦中の真ん中に居るものと思っていたが、どうやら違うらしいな』

「ああすっかり出遅れっちまったんで、こうして情けなくお前さんにお伺いを立ててるのさ」

 

 会話の最中、レオンは随時指示命令と思しい文言を何処かに飛ばす。電話の背後では捜査員がてんやわんやと動き回っているに違いない。

 

『北区の幹線道路で複数の異界人同士が()()をしているとつい先程通報があった。依然として止む気配はない。今のところ市民への直接被害は報告されていないが』

「戦闘か」

『ああ、暴行でも傷害でもなく、戦闘だ。我々外特および退魔班はこれより現場へ急行し、その鎮圧に当たる』

「お前さんにしては随分と動きが鈍いな」

 

 皮肉ではなく、純然たる疑問だった。この男がそのような事態の報告を受けて、まだ現場に居ないなど。

 まずもって考え難い遅慢。

 レオンはどうやら苦虫を噛んでいた。苦々しいその唸りが耳孔に響く。

 

『SNSの反応の方がまだしも早い。警察への通報は明らかに遅かった。()()()()()()いた』

「なんだと?」

『幾つかの道路、小路が違法に封鎖され、当該区域では魔術的電波ジャミングの兆候が確認されている。まったく、呆れるほどの手際の良さだ』

 

 それは怒りの息遣いにも、あるいは感嘆の吐息にも聞こえた。

 

『……これは、うちの組対部の友人が漏らした独り言だ。以前からコロニーには敵が多かった。群体特有の統率力によって新興勢力としては破格の拡大を果たしたが、他の勢力との軋轢もまた大きかった。この街の古参。特に古くからの暴力団とは犬猿の仲と言える』

「今起きてるなぁ、ただの縄張り争いだってのか」

『いや、そんな可愛いものじゃない。この、蜂の巣(コロニー)を駆除する好機を「彼ら」は虎視眈々と狙っていた』

「こちらの尻馬に乗られた……いやなるほど、己はまんまと出汁に使われたってぇ訳だ」

 

 レオンは何も言わず、沈黙にて肯定した。

 己があの店、あの蜂共と一騒動起こすと予見し、その混乱を見計らって大攻勢を仕掛ける。哀れ新興組織コロニーは碌々抵抗も出来ぬまま人界に旗を掲げる夢も潰え儚く塵と消えゆ、と。

 ────机上の空論というか絵に描いた餅というか、一体どれほど豊かで斬新で白痴の如き想像力があればこんな計画を思い付き、また実行しようなどと考えるのやら。

 確実性もへったくれもない。唯一、己という、謂わば逸脱した要素を感知していなければ出来ぬ芸当。

 己を、この神甲(はがね)を、なにより殺生石を知り、その動向を知る者。

 

「何者だ」

 

 我知らず呟きは低く、険を帯びた。

 

『……今夜動き出したのはその内の一組。規制緩和以前から異界人との交流をいち早く積極的に受け入れ、おそらくは日本で初めて人魔混成の指定暴力団として公安にマークされた……「龍神会」だ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

32話 抗争

 

 

 蜂人が一匹、夜空を飛んでいく。緩く巻かれた長い髪は黄金に黒のメッシュが走り、黒地のドレスのスカートに黄色の縞模様が差し色として映える。普段はキャストとして店に出ることもある。そういう役割を与えられた見目良い働き蜂の女。天高く、その頂を目指すように翅を広げ。

 ────そうして程なく撃ち落とされた。矮小な羽虫が人の手で叩き落とされるように、呆気なく。

 

「当たり」

 

 夜の大通り。大量の車両が片側四車線の道路を無造作に占有している。即席の防御陣地(バリケード)である。

 革のジャケット姿が黒のSUVのボンネットから腹這いで黒いL字の器物を構えている。黒みの強い赤毛の側頭部に剃り込みを入れた鷹人(ホーク)の女は、感慨もなく言った。

 命中を確認するや、傍らの灰褐色のざんばら髪の女が口笛を吹く。首筋や手足をブチ模様の体毛で覆い、鬣犬(ハイエナ)特有の太く強靭な犬歯を剥いて笑う。

 

「よく当てるなぁ。あの蟲共やたらにすばしっこいってのに。あんたらの種族ってなに、皆スナイパーなん?」

「遮蔽物もない。目眩ましも張らない。そんなところを迂闊に飛び上がったあれが間抜けなんだよ。まあ、私の同族であれを仕留められないなら生きてる価値はないね」

「うっへー。猛禽人種こっわ」

 

 魔界の銃は実体の弾を使用しない。弾倉および薬室に込めるのは実体無き純粋な(オード)。魔力や氣力といったスタンダードな原初の(アモ)を注ぐことで、給弾はおろか装填さえ要さず一挙の動作なくエネルギーの弾丸を発射できる。利便性という点ではなるほど評価に値する。

 現に今も、道路の彼方此方でオードの光や音が無数に撃発を繰り返している。

 

「何匹やった?」

「ウチは三匹」

「私は四匹」

「うきゃー! こっち負けてんじゃん」

 

 また、銃火器を模したこれらの武器には様々な魔術的効果付与(エンチャント)が可能だ。従来の銃器がライフリングやレティクルを改良し、スコープやサプレッサーを後付けできるように、ブースターによって威力を嵩上げし、あるいは火炎、氷結、電磁気、毒といった固有属性を加え、敵に二次的なダメージを与えることもある。程度によっては何かしらの条約に違反しそうなものだが。

 いずれにせよ、より簡易簡便に、最小の労力で最大の殺傷能力を求めれば、こういった武器が出来上がる。こういう形状(かたち)になる。

 

「武器なんてものは所詮、非力を補う為に使う。使うからには上手く使う。でなきゃみっともないだろ」

「ふーん、そういうもんなん、っと」

 

 不快な羽音が響く。それも直近、鷹人の女の視界の外だった。

 そこへ跳弾のような鋭さでブチ模様の影が跳ぶ。接近してきた蜂人、その翅の根元を掴み腹を足蹴に、首元に喰らい付く。ブチハイエナの咬合力を以てすれば蟲の外骨格などスナック菓子に等しい。苦も無く噛み砕き、その体液を滴らせた。

 降下してきた勢いそのまま、蜂人をアスファルトの路面に叩き付ける。

 

「ぺっ、まっず。でもこれで四匹! 同点同点」

 

 鬣犬の女は半透明の体液を吐き捨て、ついでとばかり足蹴にしたそれの背中から翅を毟り取った。

 痙攣するそれは文字通り虫の息だが、死んではいないようだ。

 

「あんたみたいな奴に武器なんざ無縁だろうな」

「獣人だかんねー。大概ぶきっちょだしバカだから。それにこの方が楽じゃん。へへへ」

 

 魔術だの異能だのが持て囃されているようで、魔界も現世も行き着く結果には大差がない。兵器は兵士の戦力を平均化し、悪く言えば陳腐にする。その方が都合がいいから。その方が使い勝手がいいから。

 欲しいのは約束された破壊力。野性の色濃い獣人や蟲人が、装備よりも自身の肉体を恃むのはそれが最も信頼に足る武器だからだ。

 しかし。

 

「そんなん言ったらうちの(かしら)が一番ヤバいっしょ」

「あのひとは別格だ。比べられるもんじゃない」

「キャハハ! ま、そうだけどさ」

 

 武器の有無云々だの、野性だの。そんな次元を超えた存在はいる。超越者が。

 

「膠着し出した。向こうの混乱が冷めてきてる」

「一匹一匹はザコいけど数めっちゃ多いんだもん。だから蟲は嫌いなんよ」

「……数だけじゃないかもしれない」

「え?」

 

 肉体と言う名の武器。唯一無二のそれを、もしさらに強化できるなら。望むままに。(おお)きく(つよ)くできるのなら。

 (ヤツラ)は躊躇わない。

 群体の守護を第一とする蜂人(ホーネット)種は、その遂行に当たり手段を選ばない。その()()さえあるのなら。

 

「デカ物が来るぞ!」

「うっげぇ」

 

 バリケードたる車両が弾け飛ぶ。床に転がるミニカーを蹴飛ばしたような様。

 (ひしゃ)げ、部品を巻き散らして跳ね飛ぶワンボックスカーを頭上に仰ぎ、次いで鷹の目はそれらを捉えた。その無体を働いた張本人達を。

 ビルにも匹敵する巨体。計八車線の幹線道路さえ狭しと、膨れ上がる。凶悪な姿容をしていた。蜂の体に三対の人の手足、蜂の複眼と大顎に人の頸と背骨。悍ましく人魔を折衷した異形。黒と黄の警戒色に彩られた外骨格には無数の棘を群生する。蓮の蕾めいて肥大した臀部で長く鋭い針が出入りし、そこから毒液を滴らせている。

 巨大な異形の蜂人。その成れの果て。怪物。

 這いずり、あるいは屹立するそれらが全部で九つ。夜空を覆った。

 路面を這う一匹が腕を薙ぐ。いや、もしかしたら、それはただ単に()()()をしただけなのかもしれない。

 たったそれだけで道路は紙のように捲れ、街灯は草のように刈り取られた。散兵として各所で戦闘していた龍神会の面子、そして、なんとなれば周囲を飛び回っていた蜂人さえ巻き添えにして。

 消し飛ぶ。蹴散らされていく。

 純粋なる、強烈なる、それは質量だった。

 

「ちっ、化物が」

「やべぇやべぇやべぇ! ど、どうすんのよこれ」

「とっくに来てる。撤退命令だ! インカム付けろって言っただろバカ!」

「ご、ごみーん。獣人用のやつ動く時邪魔でさ」

 

 蟲が巨大化を始めた瞬間には、広域無線で下知が伝播していた。当初の作戦通り。

 足の速い者はさっさとビルの小路へ逃げ込んでいく。よしんばあの巨体や大群の蟲を相手取るにしても閉所の方がいい。

 とはいえこの場で継戦だけはありえない。

 徒走する他の鳥人種や翼膜人種の姿も各所に見られた。翼があるからと飛んで逃げるような真似をすれば、先の間抜けの二の舞を踏むからだ。

 

「糞っ、走るぞ」

「アイアイ!」

 

 地響きを立てて巨蟲が迫って来る。

 鬣犬は流石、獣とあって走力は並以上。人の形を取っていようが、その脚力は自動車の法定速度に匹敵する。

 一方、翼を封じられた鷹人の女は、当然ながら出遅れた。太く強靭な(あしゆび)。握力ならばともかく、走力は人並をやや超える程度に留まる。

 

「急げ!」

「わかってる! 先に」

 

 行け。

 そう続けようとした声が、喉奥で凝り固まる。

 我が身に覆い被さる影。街灯とネオン光によって生まれた色濃い闇が、鷹人の女の背後に。

 蜂の凶悪な貌。そうして天牛(カミキリムシ)も斯くやの大顎が。

 オード銃を向け、撃ちまくる。数十発の弾丸は正確に複眼へ命中しあるいはその口内へと注ぎ込まれたが、僅かな怯みも、痛痒を感じた様子すらない。

 

「糞がぁ!」

 

 悪態が巨像に押し潰される。鷹の目を見開き、最後の抵抗とばかり悍ましい怪物を睨み付けた。最期まで────爆音。

 

「!?」

 

 いつしか影は晴れていた。

 巨大な蜂の顔も既にない。

 何が起きた。理解は、実に緩慢に脳へ浸透する。

 その“銀”が巨大蜂を吹き飛ばした。

 腕を掴まれる。傍らで鬣犬の女が叫ぶ。

 

「おい! 起きろ! 逃げんぞほら!」

「あ、ああ」

「キャハハハッ、ってかマジやべぇ! 今ぶん殴って吹っ飛ばしたぞ、()()()

「あ?」

 

 興奮した様子でハイエナは下品に笑った。それはひどく濁った、さながら獣の吠声(はいせい)。今にも涎を垂らしそうな笑み。その目が見詰める先に。

 男が立っていた。黒い背広、黒いパンツ──銀の右腕、銀の右脚。

 その歪な鎧姿は幹線道路の中央に陣取り、そうしてその正面には頭の骨格を潰された蜂が横たわっていた。

 

「あぁそうか……あれが」

「本物だ。ネットでも挿絵しか見たことないわ。へへ……んーとと」

「写真撮っても無駄だぞ」

 

 早速スマホカメラを構えた鬣犬に釘を刺す。

 

「うえっ、なんか画面やべぇ! ぐちゃつくんですけど!」

「画像にも映像にもあれは映らない。どうやら本当らしい」

「えー! いいねめっちゃ稼げると思ったのにぃ」

「極道がそんなもん稼いでどうする……」

 

 見物人を気取って巻き添えなど御免だ。馬鹿話もそこそこに二人、その場を連れ立って離れる。

 最後に背後を一瞥する。鷹の目は、男がさらに一匹の蜂を下から殴り上げている様を見た。巨体が宙を舞っていく。建造物ほどもあろう大きさの蟲が。

 事も無げに、それを為し得る一人の、一個の人間を。次元違いの超越者を。

 行き掛けの駄賃に命を救われたことを加味しても、この感想は変わらなかった。

 

「……あんたも大概」

 

 ────化物だよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大通りに面した商業ビルの屋上に、ひとり。

 碧い姿がある。

 豊かに長く流れる碧い髪。青みすら帯びた白い肌。

 豊満な肉体、矮小な人型に閉じ込めたそれをダークスーツで包み、和物の白い大袖羽織りを肩に掛けている。

 碧い瞳が眼下の幹線道路を睥睨した。虹彩が細まり、その女が人ならぬ異種であると主張する。

 口端が引き上がり、美しい唇の下から乱喰の牙が覗いた。

 

「ようやくのお出ましか、國防(くにもり)(はがね)……ギンジ」

 

 袖口から覗く嫋やかな手。襟首の艶やかな項。

 白く、美しい稜線に────次々と。生える。生え揃い。覆う。帯びていく。

 鱗。びっしりと均一に並びゆくそれは、碧い龍鱗。宝石(アクアマリン)の如き美しき龍の生体装甲。

 人がましい、形の良い耳が変じ、三又に骨が伸びそこへ鰭が張る。

 細身のパンツ、その扇情的な丸みの臀部から鋭く碧い異形の尾が突き出す。先端から根本までびっしりと鋭い鰭条を生やした海魚のようなそれ。

 

「仕事をし易くしてやったんだ。ふふ、少しくらい感謝しなさいね」

 

 艶然とまた、笑み。

 楽しげなその笑みが、消える。

 龍神の女、リヴァイアスは己の背後を見やった。

 黒く蠢くその暗闇を。

 

「『女王蜂が逃げたぞ』」

「魔界からわざわざそんなことを慌ててせっつきに来たのか。魔王を冠する大悪魔が、存外に胆が小さいな。あれに逃げ場などない。尾行はつけたが、我々が手を下すまでもなく……」

 

 眼下の男がその存在を許すまい。

 わかりきった事実を口にする気はなかった。背後の悍ましい存在にしてから、そんなことは十二分に承知であろう。誰あろう、その身を以て。

 

「『天使が動く』」

「……」

「『強欲な女王蜂は単眼神(キュクロプス)の末裔の娘を諦めまい。蜂の子を生み、練り上げさせた怪力の薬で強力な軍団を築き、再びこの地に巣を作るだろう。お前達は一掃される』」

「よく動く舌だ。そちらに赴き、私が直に引き抜いてやろうか」

「『だがお前達の末路は変わらぬ』」

「ああ、まったくだ。その雑用は大事を済ませてからとしよう」

 

 電子機器を用いず、空間を隔てた相手と通信する技術は実際のところ、この御時世幾らでも存在する。

 その中でもとりわけ手早く面倒のないのがこの念話だ。生体波長(チャンネル)さえ合わせられるなら街中であろうが山奥であろうが距離や遮蔽物の有無関わりなく思念や声を伝達できる。

 直属の部下へ指示を飛ばす。詳細な手法を練り、それが末端の実動員へと配されるまでに五分と掛からない。

 立案された作戦が動き出した頃には既に、背後の気配は消え失せていた。

 今もなお大通りで繰り広げられる闘争が、どうしてかひどく……懐かしい。

 

「元気そうね。あの頃とちっとも変わらない」

 

 怪物と相対し、その拳で脚でそれを屠る男の様は、遠い思い出の中のそれと何一つ変わらない。

 胸躍る、ただ直向きな力の発露。

 

「いえ……貴方はもう変われないのよね」

 

 戦場で逢瀬を繰り返したあの日々から、何一つ。

 死を奪われた男は、この先の幾年、幾百年、あるいは幾千幾万、きっと。

 戦い続けるのだろう。人の定命を超え、超え果ててなお。それでも生きて、生きて、戦い戦い戦い戦い戦い戦い、また戦う。

 憐れな人。

 それが、その事実が少し────

 

「ふ、ふふ……」

 

 海神は柔らかに喜悦した。

 憐れな男に、男の有り様に、穏やかな微笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。