IF.皇帝の幻の遠征計画と半人半バのお嬢様 (なすび。)
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序章ー逆スカウト
『鳳求凰』


 注意書きです。人を選ぶ内容のため説明させてください。

 並行世界かつ競馬史の詳細を知らない未来の日本人が、異物として来ているという設定です。このため、

 お嬢様が世界観に突っ込みを入れる。
 登場人物が考察をする。
 2次設定や演出が含まれています。

『以下何でも許せるorスルーに慣れてるという場合のみ読み飛ばし下さい』
 挿絵に畳んでおります。必要な方はご一読お願いします。

【挿絵表示】


 以上、抜けがあるかもですが広大な地雷原です。
 それではルドルフ視点よりはじまります。


"――やっと待ちに待った吉報か! ――"

 

 ――あのレースから約7ヶ月後の『6月末』。

 随分かかったが、きっといい知らせに違いない! 

 

 そう思いたい! 

 

 鬱屈(うっくつ)していた私の気分が一変するかの如く、今日の天気は晴れ渡っていた。そんな中、私は喜色満面(きしょくまんめん)はやる心のままに歩みを進めている。

 

 すると私の鼻先を、土の乾く独特の香りがかすめていった。快晴もあって換気を兼ね、どこかで窓を開け放っているのだろうか? 

 

 一瞬気が紛れたが、そんなことはどうでもいい。それよりもっと気になることが、今向かっている理事長室で待っているのだから! 

 

 気になる事というのは、かねてより自身が『計画していた2つ目の目標』に関するものだ。そのきっかけとなった出来事は、この学園に入学した当初まで遡る(さかのぼ)

 

 全てのウマ娘の幸福を目指すという、大言壮語(たいげんそうご)な夢を掲げていた私には、力や『実績』が必要だった。これが1つ目の目標だ。

 

 そして、2つ目の目標として、出来ればレースは国内だけでなく海外にも行きたい。

 

 2つ目の目標に対する思いが強くなったのは、中等部1年の11月に『第1回ジャパンカップ』を観戦したことが原因だった。

 我が校が完全に敗北した傍ら――万雷の喝采(かっさい)の渦中にいたのはG1すら勝った事のない、これがラストランのウマ娘とそのトレーナー。

 

 そして『助っ人のケアスタッフ1名』で構成された最年少チーム。

 

 その光景は私の目と心に憧憬(しょうけい)として焼けつけられ、中でもケアスタッフとされている少女が気になった。

 年頃は私とほとんど変わらない、ただの若いスタッフ。たったそれだけなのに、何故だか強く興味をひかれた。

 

 後日気になって調べてみると、彼女はケアスタッフではなかった。あの年齢で既にトレーナーだというのだから驚きだ。

 

 それも米国クラシック4冠――英雄『旋風のディーネ』が本来のパートナーだという。

 ディーネというウマ娘は、ケンタッキーダービーのお膝元、通称ルイビル学園の生徒会長。つまりあの少女は全米ダート戦線の総大将を支えるという、随分な大役を担っていた。

 彼女は元々孤児だったらしく、出生地は日本。3歳の頃から渡米してアメリカで暮らしているそうだ。

 

 そして、我が校の最大スポンサー『オルドゥーズ財閥』の社長が彼女の養父であるという。

 

 大変魅力的だが、今の自分にはおいそれと手が出ない。

 高嶺の花だと諦めるよう、納得できない自分に言い聞かせた。

 

 まあ、あのレース以降、欲が出た私は『海外挑戦』に俄然(がぜん)挑みたくなってしまった。

 

 そのために優秀な技能を持つトレーナーが必要だった。しかし、トレーナー探しは、進退両難(しんたいりょうなん)を極め上手くは行かず。

 なれば海外遠征を諦め、国内のみに集中すべきか……。曇天に覆われた空のような、遺憾千万(いかんせんばん)な想いを抱え日々を過ごし続けた――。

 

 ――そんな時だった。

 

 様子を見かねた『秋川やよい理事長』が声をかけてくださった。

 私は理事長に五里霧中(ごりむちゅう)な迷い、悩みだらけ胸中。原因と思われる、レース観戦当時の事も含め全てをさらけ出した。

 

 すると理事長は私の相談を聞いた後、ある提案をした。

 その提案とは、私に生徒会長の座へとついて欲しいという旨だった。理事長が計画している学園改革を実行するため、生徒会側に協力者が必要だというのが理由らしい。

 私はその計画に賛同し、生徒会長を目指す傍ら、理事側との接触も増えていった。さらにその日々の中、吃驚仰天(きっきょうぎょうてん)な事柄を知る羽目になるとは、この時微塵(微塵)も思ってはいなかった……。

 

 自分たちの都合に"巻き込む以上は"と理事長から明かされた真実――。

 それは秋川やよい理事長と、駿川たづな理事長秘書が、実は"ウマ娘"だということだった。隠している理由など、詳しい事情は教えては頂けなかった。きっと何か深い事情があるのだろう。

 

 複雑な背景を抱えていそうな2人に囲まれながら、私は学内選挙を勝ち上がった。無事生徒会長となったのが、今から2か月以上前だ。

 

 

 

 理事長室前に到着。私は軽く握った手の甲で、分厚い木の板を叩くような音を3回ほど響かせる。

 

 『――入りたまえ!』

 

 学園で最も高級な調度品に(あふ)れ、なお落ち着きがある。そんな品の良さを感じられる室内に入室する。

 理事長から掛けるよう指示された私は、テーブル越しに対面になっている、応接用のソファーの下座に着席。そして理事長は、片手に大量の資料を持って対面側に腰を下ろした。

 

「吉報が来たと聞いて参りました。その吉報とはいかほどの事でしょうか?」

 

 私が理事長にそう尋ねると、彼女は口元を横にした三日月の(ごと)く形を変えた。

 

「発見ッ! ついに君が望みそうなトレーナーがみつかったッ! それも君の願いを変えてしまった意中のあの子だッ!!」

「それは!? 彼女にはまだ担当がいたはずでは!」

 

 驚く私とは対照的に、目の前の理事長は胸を張り口元に微笑みを湛えている。

 

 そしてそっと……資料を目の前テーブルの上に並べた。

 その内容に私は思わず目を見張った。資料として置かれた新聞に書かれていたタイトルは……。

 

『"ケイローン"フリーエージェントリスト入りへ!』

 


セントウル(半人半バ)

 ウマ娘と人間が高頻度に世代を重ねることで産まれてくる。

 セントウル(半人半バ)はウマ娘とは違い"耳"と"尾"はない。

 身体能力は"人間"ではなく"ウマ娘"に比肩する"新人類"

 

 ※何故セントウル(半人半バ)と呼ばれるかは詳細不明※


 

 ケイローンとは少女が持つ古の賢者に由来する2つ名だ。

 胸の内より湧き立つ感情に流され言葉を失った。歓喜に震えしばし茫然とした後、手にした新聞から視線を外し理事長を向く。

 

 すると理事長は椅子に座ったまま右手を腰に当て、得意顔を浮かべ扇子を広げて扇ぎはじめる。

 

「彼女が担当していたウマ娘が引退を決意した。そして所属組織との契約期間は残ってはいるが『フリーエージェントリスト』に載ったッ! 君を驚かせようと黙っていたのだッ! いやー、そんな気がして待っていた甲斐があった! 情報が入り次第、真っ先に契約交渉を入れておいたのだッ! 交渉の結果彼女が色よい返事を出せば、晴れて君のトレーナーとなるだろうッ!」

 


【フリーエージェント制度】

 WHRA(世界ウマ娘レース協会)の制度。

 各国のトレーナーやケアスタッフなどの契約や移籍の管理制度。

 各国のトレセン学園の組織の雇用形態に合わせ、契約諸々に細かな取り決めがある。

 

 『要するにウマ娘を育てる側のリクルートおよびスカウト制度である』

 

 対象スタッフが契約期間中ならば、そのスタッフと所属する組織の合意が必須。

 合意すれば、WHRAの公式サイトの名簿

 『フリーエージェントリスト』に掲載され交渉可能となる。

 組織の合意なしにスタッフ本人が申請できる場合もある。


 

「ありがとうございます! ここまでしていただけるなんて――!」

 

 巍然屹立(ぎぜんきつりつ)なあの子がリストに載る可能性は限りなく低い。現実的でないと心のどこかで諦めていた。情報誌で見かける度、これからあの国で彼女と巡り合い担当される娘に対し羨ましくも思っていた。

 

 この僥倖に感謝したい――そう期待に胸が高鳴った。

 

 再び資料に目を落とす。そこには代理人に提示された『移籍金』が記載されていた。会話を続けようと私は理事長側に視線を戻して向き直る。

 

「国際Sライセンス持ちかつ契約年数が残ってると――やはり『億』は越えますね」

「左様ッ! 実務経験前提の外科手術以外できる医師のようなもの。世界でも現在7人ほどしかいない貴重な資格の所有者ならば、1億ちょっとなら相場よりずっと安い方だ」

 

 理事長はニヤリと笑みを浮かべた。通常Sライセンス持ちの相場は2億を軽く超える。

 その金額を出してでも欲しい。有能と認められたトレーナーばかりの世界が、この国際Sライセンス持ちであった。

 そして芝での実績がほぼ無いという理由で、相場より低く設定されている。しかし、それならば経験を積ませ、さらに価値を上げる事が出来る魅力もある――。

 

 つまり大変お買い得というわけだ。きっと我が校以外にも誘いが殺到してるに違いない。

 

「米国史上最強の4冠ウマ娘を無事之名バで担当しきった彼女の実力だ。きっと君と彼女ならこの状況を変えられるはずであるッ!」

 

 そう理事長は高らかに言い切った。

 

「海外は2年前からはじまった新制度『フリーエージェント』を使い、優秀なトレーナーやケアスタッフや医師を確保してますしね」

「反面ッ! 我が校は出遅れてしまった。変化を恐れる気持ちはわかるが、今何とかせねばいずれは……」

 

 日本トレセンは出遅れたのだ。新制度に真っ先に飛びつけた海外校の環境に比べ、現在後塵を拝する状況であった。

 このままでは在籍する生徒の前途にも関わる。そして海外にある他校との実力差を放置しておけば、いずれ本校に入学してくる生徒が減る。予断を許さない状況であった。

 

「我が校の最大スポンサーである『オルドゥーズ財閥』。その『現総帥の養子』でもある彼女ならばその役もきっと適任でしょう」

「左様ッ! ここまでいい条件のトレーナーが掲載されるとは、正に天の配剤ッ!」

 

 目の前でガッツポーズをきめている理事長。彼女が考えた、状況打開のための学園改革の作戦はこうだった――。

 

 私が『生徒会長』になることで『生徒会』『理事』『教員やトレーナーなどのスタッフ』の3つの勢力のうち最低2つを押さえる。

 その後フリーエージェントの導入を会議で可決。実力派のトレーナーをひとり入れ、その有用性を示す。

 

 0か1でしか物事をやらないとなると、組織は停滞してしまう。やってみてからその調整を考えたい、そう理事長と私は考えていた。

 

 そして、連れてきたトレーナーに私を担当させるのは、協力の見返りの他大きな理由がある。

 舶来のトレーナーに、事情を知らない生徒の担当をさせるとする。

 

 万一争いが起きた際、その矛先は誰に向くだろうか? 

 

 ――連れてきたトレーナーか、担当されたウマ娘だ。

 

 リスクと利益が表裏一体(ひょうりいったい)であり、本件はその危険度がいささか高い。

 誰かにその重責を背負わせたくない。しかし私は生徒会長の役目も担っており、連れて来たトレーナーを常に守れる状況にない。

 

 自分の身は自分で何とかする。それも選定条件には含まれていた。

 

"――あとは相手が呑んでくれるかどうかだ――"

 

 資料の少女は実績、後ろ楯、まさに完璧だった。だが、態々火中の栗を拾ってくれるだろうか? 

 そんな不安が、心にできた晴れ間を再び曇らせそうになる。

 

 扉を叩く音がする。私の耳の両耳がそれを捉えて振り向く。

 ドアを開けたのは理事長秘書のたづなさんだった。彼女はティーセットを携えている。

 

「失礼します――理事長、そろそろ先方との約束の時間ですよ?」

 

 保温用のカバーが被せられたティーポットからは、テーブル周りに紅茶特有の良い香りを、距離が近づくと共に強くこちら側に漂わせてくる。

 

「おおッ! そんな時間だな。少女とのWeb会議のアポイントを、ダメ元で頼んでみたら取れたのだッ! 君も直接、件のトレーナーと話してみたいだろう? あちらにも『こちらの資料は送信済み』で準備は万全だッ!」

 

 私に尋ねた後、理事長は香りを楽しむ仕草を見せながら、たづなさんが淹れてくれた紅茶を味わっている。

 

「ええ、可能なら私も同席して話をしてみたいです」

「決定ッ! しばし待ちたまえッ!」

 

 理事長は私に対し、自分の座っている左側に着席するよう指示した。そして彼女はノートパソコンとカメラなど、会議用通信機材をソファー前のテーブルに設置し始めた――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

 壁にかかった時計を見上げると、既に10分ほど経過していた。

 理事長の左側に私は座っている。理事長の右側のたづなさんを覗き見ると、彼女も興味津々といった様子だ。

 

 紅茶のおかわりをたづなさんが淹れなおして程なく1分後――目の前のノートパソコンに通話通知が出た。受話器マークをクリックする音が室内に響き通話がつながる。

 

 画面に現れた少女はさらに時を経て――息を飲むような美しい姿に成長していた。

 一言で表すなら花顔雪膚(かがんせっぷ)。絵画が生きていると形容しても全く違和感はない。

 

 その深いエメラルドの(ひとみ)(のぞ)き込めば、吸い込まれるというより、射抜かれた気分になる。暗く青いダークサファイアの(きら)めきを(まと)っている、黒いシルクの束の髪は、白いシュシュで(ゆる)くまとめて肩にかけていた。

 

 体形は華奢だが、彫刻のようなメリハリがあるボディライン。服装はネイビーブルーのスリーピースのジャケットスーツ。

 魅入られたこちら側の沈黙に対し、面食らったような様子を画面内の彼女は見せ、そして戸惑いつつ薄い桜色の唇を動かした――。

 

「……? こんばん――じゃなくて。日本は今、こんにちはですね」

「日本ウマ娘トレーニングセンター学園の理事長と秋川やよいと申します! 本日は急なアポイントメントに応じていただきありがとうございます!」

 

 今の言い間違いから察するに向こうは夜のようだ。時差的あちらは真夜中に近い時刻だろう。

 最大手スポンサーの養女が相手とだけあって、理事長も音声読み上げソフトのような声色だ。完全に緊張感で固くなってしまっている。

 これはどうフォローすべきかと内心私は頭を抱えた。それと同時に、画面の向こう側から『ふふっ』と可愛らしい笑い声を上がったので皆一様に視線を戻す。

 

「はじめまして。Churchill 〇〇wns付属ルイビル校(Horse Girl Racing School at Louisville)の×××・望月・×××××と申します。今日の私はルイビル校のトレーナーとしての立場です。畏まらないでください。お気遣いなく」

 

 彼女の気遣いにより、張り詰めたこちら側の空気が解けた。そして落ち着きを取り戻した理事長の進行のもと、理事長、たづなさん、私の順に互いに自己紹介を済ませていく。

 

――それらを済ませた後、少女側から話をふられた。

 

「では、向かって右手のシンボリルドルフさんの担当というのが交渉の……?」

「うむ。私の左側――そちらから見て向かって右側に座っている彼女が、君の担当するウマ娘シンボリルドルフだ。あとは書類の通りの状況で少し厄介な状況でして。スポンサーである貴女に手を出せる者はいないとは思いますが……」

 

 画面の中に見える少女は、送信した資料と思われる紙束を片手で持ち見やる。しばらく目を走らせて読み返した後、彼女は軽く眉をひそめ唸り、何やら考えるような仕草をした。両者沈黙しながら数秒が経過したころ、彼女は書類をテーブルの上に置いた。

 

 こちら側を見つめるその表情に険しさはない。しかし、口元目元は――嵐の前の静けさのような気配を伴うものであった。

 

「そうですね。なら、出方次第で養父(ちち)牽制(けんせい)をお願いしてみましょう。現在の状況が続くと学園の先々を考えた時によろしくない。だから私にその進路を拓け。そうおっしゃりたいのですね? しかし――」

 

 向こう側で再び資料を手に取り、紙がめくられる音が通信機越しにこちらまで響いてくる。

 壁掛け時計の秒針の音がはっきり聞こえるほど、我々は静まり返り、その一挙一動(いっきょいちどう)に注目していた――。

 

「海外からスタッフを導入する際、その人数の調整を誤る、もしくは出入りが激しくなる。その場合"人材教育的な観点"から、平均練度の維持が難しそうな気がしますね」

 

 迷いを浮かべた彼女が言っていることは最もだろう。この制度はうまく使えば薬にもなるが、使用量を(あやま)れば毒にもなる。それが今回の問題の根にはあった。

 

「厄介な状況ですね。財閥の後ろ盾を活用してもハイリスク。……どうしたものかしら?」

 

"――これは思っていた以上に謹言慎行(きんげんしんこう)。用心深く、そして可憐な見た目からは想像がつかないくらい思慮(しりょ)深いか……。ならば――"

 

「現状の閉塞感を変えるため、貴女の力が必要なんです。――リスクについては私も最善を尽くします。どうか共に覇道を歩んでくれませんか? 学園の(ため)、私の(ため)に」

 

 真っ直ぐ少女を見つめ――ひとつひとつ言葉を紡ぐ。

 踏み込んでこないのならば、こちらからそれを促す。彼女はじっと私の言葉を聞き入ったあと――。

 

 

「――――取引をしましょう」

「取引?」

 

 それは一体どんな内容なのだろうか? その内容に注目するあまり、再び緊張感と静けさへに支配された。この空間は完全に今、獲物を見定めた大鷲(おおわし)の視線を向ける彼女の手の平の上にある。……そう強く意識させられ息を飲む。

 

「そう――取引。私は商人でもあるので、いま財閥が学園と契約しているものとは別に、シンボリルドルフさん個人との取引を――」

 

 私がそう返すと少女の口元と目元はイタズラっぽい形を浮かべた。そして胸の高さ辺りで両手の指を組み、こちらを軽く覗くような姿勢を取る。

 怪しく(きら)めいたその宝石のような(ひとみ)と私の視線が交差する。――心内を(のぞ)き込まれそうな気がして、息を飲んだ私の鼓動は、掛かり気味のペースで打ち鳴らされていく。

 

「単刀直入に伺います。その内容は?」

 

 虎穴に入らずば虎子を得ず。思い切って私は切り出した――。少女は深くうなずき、ゆっくりと姿勢を正した。

 

「ひとつ目はトレーナー業に差し障りなければ、今まで通り財閥の仕事もさせてください。もうひとつは私の『靴売りのお仕事をお手伝い』をして欲しいのです。つまり、現在私が担当しているブランドの靴を履いて、レースに勝ち続けてください。勿論シンボリルドルフさんの『選択肢』をひとつ頂くわけですから、おまけ特典はつけますよ?」

「――その"特典"とは?」

 

 私と少女以外の時が止まっているのではないか? と思うほどの雰囲気が漂うその中。彼女はこちらに向けてある1枚の書類を見せた。

 

「移籍金の総額のうち80%を財閥が負担します。もちろんシニア級が終わるまでに、途中打ちきりなどなければ返済不要です」

「驚愕ッ! むしろそれではこちらが世話になりすぎてはいませんか?」

 

"――書類がすぐ出てきたと言う事は、予めここに落とし所を持ってくる気だったか――"

 

 書類には取引の詳細が記載されていた。その内容は全てこちら側が圧倒的な利益を得られるもので、私の耳は思わず大きく動き、目を丸くしてしまう。

 

「何か目算でも?」

 

 あまりに出来過ぎている。ないとは思いたいが、何か裏でもあるのかと私は警戒しそう尋ねる。

 

「当然あります。私の現在の2つ名は『ケイローン』以外だと『Grand Trainer of Dirt』もしくは『罵る意味』での『ダート屋』。このイメージが付いた事により私が『財閥で担当しているシューズ部門ブランド』において芝用の蹄鉄やシューズが鳴かず飛ばずの状況です」

 

 グランドトレーナー。

 それは『国際トレーナーライセンスS持ち』のトレーナーが、ある一定以上の戦果を担当したウマ娘と共に(つか)み取ったとき――世界ウマ娘競走協会(W H R A)がそんな至高へ到達した者へ贈る呼び名だ。

 彼女の場合コーナーが曲がれず、ラチに激突するようなウマ娘と共に歩むことを決めたこと。そしてケンタッキーダービーの出直前に見事に弱点を克服させ、クラッシック三冠ですら厳しいアメリカダートクラッシック戦線において、共に『四冠』を掴んだ。それが評価されたのだ。

 

 しかし――少女が関わったウマ娘の成果が『ほぼダートのみの戦績』ゆえに、芝をダートより下に見る層は『ダート屋』と彼女を(さげす)み呼ぶ。

 

「そしてシンボリルドルフさんは私に声をかける位なのですから、おそらく海外などの大舞台が狙いなんじゃないかと? 私は貴女が勝てると見込んでいます」

 

 『いかがでしょうか?』と少女は大量のニンジンをぶら下げたような、その美味しいそうな契約を我々に投げかけてくる。

 

「なるほど、利害は一致している。そして貴女はそれを実現する自信があると?」

「えぇ――そのチャレンジに付き合ってくれるようなウマ娘を探しているのです」

 

 少女は口元と目元に笑みを(たた)えたまま、エメラルドのよう…な双眸(そうぼう)でまっすぐ見つめ返してきた。ちらりと理事長を見ると、(うなづ)かれたため画面に向き直り――。

 

「――乗った」

「交渉成立ですね」

 

 緊迫していた空気が時の流れを取り戻していく。

 そしてその場で口頭にて仮契約を結んだ彼女は、やや眠たげに目を細めた。そして笑みを浮かべ『それでは、おやすみなさい』といって回線を切る。

 

 そんな中私は自らが望んでいる、夢への行程が前進しはじめるのを感じた。

 それはまるで、大海原に出港する船がゆっくりと離岸し、大航海へと繋がる大海原に向け進み始めたかのように。そんな浮足立った気分に包まれる――。

 

 そこまで想像してふと頭の中に何かが過る。腕を組み、思考と言葉をかき混ぜ――。

 

"――ふむ? ……皇帝の行程……ふふふ――しかし……ああ、本当に嬉しい! ――"

 

 ジョークも上手くできた上にこの収穫! 歓喜に踊り出してしまいそうだが、それは自身のプライドが許さないので体裁を整える。

 

 ジャパンカップ、そして海外への憧憬(しょうけい)を抱かせた彼女と、これから選手キャリアを歩める幸せを、私は()み締めた――。




ご拝読有難うございます。

 参考文献、素材等の情報は全話分を近況報告に載せております。
※内容がぶれるほどの加筆修正があれば、活動報告で。

重要
◇お嬢様のモデリングについて◇
 アメリカ出身という事、緑がトレードマークですが、あのお方ではないです。

 緑の瞳はアハルテケ達の住む中央アジアに多いから。
 アメリカ育ちというのは、飛び級をさせるのに現実的でした。他の候補地だったオーストラリアや、イギリスより描写しやすかった。そういった都合もあります。

 ルドルフさんがお嬢様の事をやたら気にする理由は、『三大祖』『血』がヒントです。

【背景設定関係】――読み飛ばし可

■トレーナーが現在所属する組織
 ・ケンタッキー州
 チャーチル・ダ〇ンズレース場付属ルイビル学園
 英語では付属校はあらわさない為
 「Horse Girl Racing School at Louisville」

・オルドゥーズ財閥
 レースシューズブランド部門の担当でもある

■資格
 アメリカでのトレーナー、およびケアスタッフ資格
 国際Sランクトレーナー資格保有
 
■Grand Trainerとは?
 国際Sランク資格所有者のうち、担当ウマ娘が著明な成績を残した場合、WHRA(世界ウマ娘レース協会:オリジナル設定)から贈られる称号と設定しています。

 トレーナー君は四冠と無事之名バで担当しきった功績が認められ、その称号を贈られた7人目のトレーナーです。
 国際ライセンスはオリジナル設定です。実務経験必須かつ、あまりの難易度のため国際Aランク以上は自己満足の世界となっています。
 (Aでも十分鬼畜な内容)
 いちいち各国でトレーナー資格を取らなくて良くなる便利制度です。

 さらにSランクはトレーナー資格に加えて
 Sは外科手術以外の医療技術および機器使用許可あり

 Aランクは整体やマッサージ資格まで

■フリーエージェント制度
 ※野球の制度とは違います※
 WHRAの制度。各国のトレーナーやケアスタッフなどの契約や移籍の管理制度。
 各国のトレセン学園の組織の雇用形態に合わせ、契約諸々に細かな取り決めがある。

 “要するにウマ娘を育てる側のリクルートおよびスカウト制度である”

 例)
 今回のように対象スタッフが契約期間中ならば、そのスタッフと所属する組織の合意が必須。合意すれば、WHRAの公式サイトの名簿"フリーエージェントリスト"に掲載され交渉可能かどうかが分かる。

 契約期間が切れていたり、雇用形態によっては組織の合意がなくてもスタッフが単独でリスト入りを申請できる場合もある。

■主な担当バ
 米国 四冠『旋風のディーネ』『曲がれないウマ娘』
 60戦32勝 故障なし複勝率93%
 ダービーレコードウマ娘。

 史実部分の細かい補間は原作にないものだらけです。ご注意下さい。

◆変更履歴
 生徒会長になった下りは描写を変更しました。
 誤字脱字報告より重複表現を訂正。
 執筆へのご協力およびご拝読ありがとうございます。


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『憧憬』君と夢ヲ抱く

ルドルフ視点です。
東京の直線は2003年の改修によるゴール板移動前のものです。


"――1月のケンタッキーはこれ程までに雪が積もるものなのか――"

 

 銀世界に染まる街並みが車窓の外へと流れていく。

 

 我々は今オルドゥーズ財閥が用意してくれた、黒く頑丈そうなリムジンに乗り、近隣の空港から移動している最中だった。

 私は1番奥の席に座っている。同乗しているのは理事長で、彼女は備え付けの冷蔵庫の中を(のぞ)き込み何かを探している。

 

 心地よい芳香が車内に(ただよ)う中、私は足と腕を組み直す。その香りのみに意識を集中して楽しもうと、座席にもたれ瞼を閉じた――。

 

「カーッ! 実に美味ッ! こんなにも良い待遇なのに、黒ハチワレの猫(留守中の相棒)を連れて来れなかったのは実に残念ッ!」

 

 しばらくもしない内に、理事長が感動したかのような声をあげた。

 

 目を開いたらどういう状況が広がっているか、何となく想像はついている。しかし、気になって確認すると――。

 理事長は車内の冷蔵庫から発掘したと思われる、高級ニンジンジュースに夢中な様子だった。余程美味しかったのだろう。

 

「確かに残念ですね。検疫の関係がなければ、旅の仲間が増え私も楽しかったと思います」

「うむ! 来れなかった分、相棒には土産を沢山持って帰らねばなッ!」」

 

 理事長が再びジュースを味わいはじめたので、会話をそのまま切り上げる。

 何故理事長がいるかというと『1月は忙しくない、故にッ視察へ行きたいッ!』と言うことだった。微笑ましい理事長の姿を眺めていた視線を外し、今度こそ目を伏せた。そして――今日初めて直接会うであろうトレーナー君のことを私は考えはじめる。

 


【オルドゥーズ財閥】

 アメリカに集団移住した中央アジアの遊牧民の末裔。

 ゴールドラッシュで一旗あげ、その後数々の分野で成功。

 今では大財閥として数えられるようになった。

 

 末裔であるウマ娘、セントウル、人間などが今も多数在籍。

 一族経営ながらその方針は徹底した実力主義。

 慈善事業にも熱心である。

 

 お嬢様の実家つまり養子先。

 日本トレセン学園の筆頭スポンサーである。


 

 6月に行ったWEB会議の最後に交わした仮契約。そのことが影響してか、昨今、少女の保護者(養父)が寄付の増額を申し出てくれていた。

 それにより学園の施設は一気に拡充し、学園の者たちは皆喜んでいた。財政面から見ても、彼女を引き入れたのは正解だったのだろう。

 

 一旦思考するのをやめ――ゆっくり瞼を開き今度は車窓の外を眺める。すると丁度レトロな建物が特徴的なレース場を車は横切った。その景色からルイビル学園は目前であることに私は気付く。

 

 そして程なく数分後くらいだろうか?

 リムジンは学園の敷地内に入り、ロータリーから屋根つきのエントランスの下に入っていく。

 

 仮契約から約半年の今日。『例のレース』からはや1年。

 やっと見つけた私のトレーナーは、あの憧れの光景の中に居た少女。今から迎えに行くトレーナーだ。

 

 今日が来るのをその日その日を指折り数え、一日千秋(いちじつせんしゅう)の心持ちの中随分待った気がする。

 

"――さて、彼女を迎えに行くとしようか――"

 

 私は乗車口から屋内に向けて敷かれた、深紅のカーペットの上に足を踏み出した――。

 

   ◆   ◇   ◇

 

 大統領執務室を彷彿させる、豪華な調度品に囲まれたルイビル学園の理事長室。ここでの正式手続きは今しがたつつがなく終わった。

 

 テーブルの空になったカップから、まだ芳ばしい豆の香りがほんのり漂っている。

 

 この場への参加者は我々とオルドゥーズ財閥の幹部。そしてルイビル側の理事長と生徒会長ディーネ、トレーナーの6名だ。

 

"――良い内装だが、長時間いると肩が()りそうだ……まあ無事終わって何より――"

 

 慣れない感覚から解放されることに、内心ほっとして息をついている――。

 いい内装ではある。しかしどこを見ても目が(くら)むような感覚を受けてしまい、落ち着かなかった。

 

『スケジュールが押しているため、私はこれで失礼します』

 

 右側のシングルソファーに着席していた、『白真珠のような光沢』の毛並みのウマ娘はそう発言した。彼女は保護者である社長代理として来ており、オルドゥーズ財閥の社長秘書の肩書を、契約調印前に名乗っていた。

 

"――毛並みから察するにアハルテケだろうか?――"

 

 真珠色のウマ娘は簡単な挨拶を済ませ、ドアの向こうへと消えていった。

 

 そして私の右隣にいる秋川理事長に視線を向けると、彼女はルイビルの理事長と何やら話し込みはじめる。私とトレーナーとなった少女は、静かに理事長同士の会話が終わるのを待っていた。

 

 両理事長同士の会話がこの絢爛(けんらん)な空間を支配する事約10分後。

 話に区切りが付いたようで、ルイビル側の理事長がこの場を締めくくった。

 

 すると我々側とは机を(はさ)んで対面にある、ルイビル側のソファーに着席していた、今正式にトレーナーとなった少女が、私に近づいてきて――。

 

「お疲れ様でした。今日は私も同じエリアに寝泊まりするためご案内します」

「よろしく頼むよ、『トレーナー君』」

 

 両理事長とディーネ生徒会長とまだ話があるらしい。なので私とトレーナー君のみ先に退出する事になった――。

 

   ◇  ◆  ◇

 

 部屋を目指して歩いている間、私とトレーナー君は終始無言。お互い出方に困っている状況が続いていた。

 

 知り合ってまだ日も浅い。メディアで知った情報以外、私は彼女がどんな話題を好むのか? 具体的にはわからない状況だ。

 私の少し右前を案内するように進むトレーナー君も、どことなく歩き方がぎこちない。しかも肩まで緊張しているように見える。

 

 緊張感をほぐしてやりたいが、あまりいい案が思いつかない。ジョークでもとおもったが、ほぼ初見の彼女が引いたらどうするんだと、迂闊(うかつ)な自分の意見を却下する。

 

 赤いカーペットが敷かれた白亜の廊下を、そんな気まずい空気の中歩き続けていると……。

 

 左壁面に並ぶ窓から、日の入りの気配を背にしたチャーチル・ダ〇ンズレース場の立派な建家が見えた。

 

"――あれがケンタッキーダービーの会場か――"

 

 改めてみると異国情緒(じょうじょ)があふれるモダンな建物だ。

 

 例えるならば長崎のグランバー園の『旧四津菱第2ドックハウス』だろうか? 1番外側には殆ど壁が無く代わりに白い細い柱がいくつも並び、その華奢(きゃしゃ)な柱が支えるのは傾斜の(ゆる)く平べったい大きなグレーの屋根。

 その屋根には三つほど尖った細い塔が等間隔に立っている。建物全体から感じる雰囲気は、明治頃に数多く建てられた偽洋風の建築物に似ていた。

 

「――気になりますか?」

 

 トレーナー君が私の視線の先に気付いて(のぞ)き込んできた。

 

「あのレース場で、かのケンタッキーダービーが開かれるのだったかな? ――折角だ、地元の者である君から色々と話を聞かせてほしい」

「そうですね……この地域にまつわるもの……。アメリカのレース史でも構いませんか?」

「それで構わない。好きに話してくれ」

 

 粗方(あらかた)は知ってはいる。しかし住民から聞く話は、書物から得られるものとまた味わいが違う。

 

 そして内容がレース史となれば、資質と実力を試す事ができる。

 丁度いい話題が見つかって私の方も気が楽になった。心なしか彼女の方も、表情から察するに、緊張が和らいでいるようだ。

 

「――では地元史含むアメリカレース史で。元々ルイビルは草野球の様にレース場のあるなしに関係なく、手軽に行うのが主流でした。そしてこの地に初めて競技場が整えられたのは南北戦争前になります。さて、ケンタッキーダービーが創設される前のアメリカで主流のレース形式は御存じでしょうか?」

 

 ただ冗長に語るだけでは私が退屈すると思ったのだろう。こちらに気遣い問答を投げてくれた。

 

「レース史は得意でね。同じメンバーの組み合わせで、同じ距離を2回勝つまで走る『ヒート競走』だろう?」

 

 専門的な用語を追加しながら私は会話のラリーを続ける。

 

「正解です。主に長距離のヒートレースが人気で、勝負は今のレースと違い着差がクビハナなどの僅差の場合は『デッドヒート』。勝者なしとなっていたそうです」

「ヒートといえば、かの『日食の名を冠するウマ娘』も戦績のうち7勝がこの形式だったね。アメリカだとこの形式で有名なウマ娘は『盲目の英雄』だったかな?」

「そうです。キーンランド校の英雄ですね。話を戻しますと、南北戦争勃発後は北部がレースの中心となりました。しかし、レースの形式は1回勝負の中距離走に時代は移りってゆきます。流石にヒートだと走る方も見る方もツライ、ということになりまして……」

「4マイルの超長距離設定では例え1本だとしても、それは確かにつらいか」

 

 ヒート走の距離設定は大体4マイル。約6.4キロを僅差以上で2勝するまで何本も。

 その過酷さを想像してしまった私の耳が前に垂れる。トレーナー君も私と同じ事を想像しているような表情を浮かべている。

 

「やっぱり、きついですよね?」

「そこまで長いのは嫌気がさすよ。……そういう君はどうなんだい?セントウル(半人半バ)ならば、我々のように走れるだろう?」

「やれなくはないですが――翌日は全身筋肉痛にさいなまれ、ベッドから起き上がれなくなるのは確実ですね」

「ふふっ私も実際にやったらそうなりそうだ」

 

 私はトレーナー君は顔を見合わせ苦笑いを浮かべ合った。

 

"――脱線させてしまったので話を戻すとしよう――"

 

「話題の中心を戻そう。結局その後どうなったんだい?」

「はい。形式を変えなかった各地のレース場は、やはり廃れていきました。そしてルイビルもレース形式の切り替えを検討することになります。しかし、何番煎じではお客さんは態々ここに来ません。そのため英国のダービーや、パリ大賞典を参考に華やかなレースをやろうという事になりました。そして――」

 

 トレーナー君は窓の外の日が傾き西日に照らされる。彼女は段々と美しい(あか)に染まっていくレース場を見やった。

 そしてこの地にまつわる過去を振り返るよう、眼前の黄昏(たそがれ)にも似た深い声色で言葉を紡いだ――。

 

「バラで作られた優勝レイを巡る『ケンタッキーダービー』が誕生する事になりました。そのレースは長い年月の中様々な人々が代わる代わる支え続けられ、今日では住民全員で明るい未来を勝ち得た象徴となったんですよ」

「なるほど。その歴史背景を元に掲げられたのが『挑戦する勇気』それがこの学園の志だったか?」

 

 そう以前本で読んだことがあった。

 

 ――もう十分だろう。

 

 教養面を測り終え、満足した私は校風へと話題を切り替えた。

 まるで二人で話しながらワルツでも踊るかのように、トレーナー君の学園での思い出話を引き出す方向へとリードしていく。

 

「そうなりますね。その校風通り、幼かった私を雇ってディーネのトレーナーになる許可を出してますから。時々それでいいの? まさか勢いだけでやってない? って突っ込みたくはなりますけど」

 

 トレーナー君は飽きれた表情をしつつも、どこか(なつ)かしむような優し気な表情を(にじ)ませている。きっと何か懐かしい思い出にでも触れたのだろう。

 

「ふふっ。(にぎ)やかでいいじゃないか。私はそういった雰囲気好きだよ」

「そうなんですか? 意外ですね」

「おや? 君は私の第一印象をどう思っているんだい?」

 

 どうやらトレーナー君にまで、私は硬い印象に見えていたようだ。

 少し落ち込んだが、私について皆そう言うのだから仕方はないか……。

 

 私の印象を尋ねると、彼女は軽く腕を組んで首をかしげて『うーん……』とかなり困っている。なんだか言葉選びに気を使わせているようで、申し訳なくなった。

 

「……すっごく真面目な空気が漂ってます。日本語で言い表しにくいです」

「ああ、すまない。その感想はかね当たってはいるが、こう見えてジョークも嗜むのだよ。今度いいジョークが思いつけば君にも披露しよう」

「それは意外ですね。楽しみにしてます」

「ふふっ是非期待しててくれ。――さて、話は変わるが、私は一度――日本で君を見かけたことがあるんだ」

 

 彼女は不思議そうに首を軽く傾げ眉をひそめ、私と会ったことがあるかを思い出そうと考えるような仕草をした後――。

 

「日本? もしかして――ジャパンカップですか??」

「そうだ。中等部の1年生だった当時の私は友人達と見に来ていたんだ」

 

 トレセン学園に私が入学したその年の11月後半。

 第1回目のジャパンカップレースには、アメリカの遠征チームは3組きていたが、その中のうちG1未勝利のウマ娘を(よう)したチームにトレーナー君は同行していた。

 

 チーフトレーナーの19歳の青年と、G1未勝利のウマ娘『ノベルティソング』。

 そんな組み合わせの二人が挑む遠征計画に、トレーナー君は助っ人として参戦。

 

 しかし、当時14歳だった彼女は、芝での実績は皆無。かつ最年少のスタッフだった。

 

 ――チーム修学旅行。

 当然メディアが注目する内容は『若い』と『G1未勝利』。当時の各メディアはそればかり注目していた。

 

「招待された来日組のチームの中では、君の所属はひと際目立っていたね」

「まあ年齢の他、レノベルティのチーフトレーナーが『バ場が固いのとかないから水撒け!!』って、当日の朝に会見でブチ切れてましたしね」

「君が会見で必死に止めているのをニュースで見たのを覚えているよ」

「あはは……まあんなの中々ないですからね」

 

 それはかなり賑やかな光景だった。

 吠えて暴れるチーフトレーナーを、担当ウマ娘とトレーナー君が、顔を真っ青に染め上げ彼を退場させることで止めているのだ。

 

 この個性的極まりない一行が世間を震撼させるなんて、私も含め全員が夢にも思わなかっただろう。

 

「お陰で胃も頭もキリキリでした。チーフトレーナーの要求は却下されましたが、直前に雨が降ってバ場が湿ったのはラッキーでした。展開もアメリカダートでお馴染みのハイペース――。ノベルティは勝つべくして勝ちました。私はそう思ってます」

 

 

 

 あの日、国中に衝撃を走らせたレースが府中、東京レース場で行われた。

 

 ――その最終直線500.4 m。

 

 ノーマークだったノベルティソングが、後方から一気に先頭集団をとらえはじめる。

 『私の事を無視するな!!』まるで今までのすべて覆さんと言わんばかりに。

 

 自らの評価も何もかも、全てを置き去りにして駆け抜ける。

 歯を食いしばり乾坤一擲(けんこんいってき)衝撃の勝利を飾った。

 

 ノベルティソングは自らの実力を示したのだ。

 

 最初で最後――G1勝利をラストランで。

 それは今見ている黄昏(たそがれ)時の黄金のような、赤金に輝く有終の美――。

 学園の先輩方が撒けたのは悔しかったが、本当にいいレースだったように思う。

 

「追い込みレースでの、府中および日本レコード。それを叩き出したノベルティソングの走りは実に見事で素晴らしかった。あの衝撃に魅せられ、ジャパンカップ、延いては世界と戦いたいと私は強く思ったんだ」

 

 そう伝えるとトレーナー君は小首をかしげ、少しだけ背丈が小さい彼女は私を見上げる。

 

「ルドルフの夢は世界の大舞台に出ることなのですか?」

「私の夢か? そうだな。大言壮語(たいげんそうご)と笑ってくれるなよ?」

 

"――そんな君が、私の夢を聞いてくれる日がくるなんてな――"

 

 トレーナー君に私の夢である『百駿多幸』を目指していること伝えた。離している間、彼女は真剣に傾聴してくれていた。

 

「と、いう訳なんだ。そしてそれには実績が必要。海外レースに挑戦したい気持ちは、それと別に最近沸き上がってくる気持ちなんだ。自身の力がどれだけ通用するのか。なんというか、衝動的な感覚に近い」

「なるほど……」

 

 興味深げに聞き入るトレーナー君に、私はにさらに言葉を続ける――。

 

「あのレースは私にとって特別なんだ。それに関わっていた君と、本日正式に契約を交わすことができ、とても嬉しく思っている」

「私は彼女たちの勝利に対し、直接的な貢献していませんよ?」

「君としてはそうだとしても、私の目には眩しく映ったんだ。共に歩む道が本当に楽しみで仕方ない」

 

 お互い身体は窓の外を向いていたため、横に並ぶようにいたトレーナー君の片手をとる。そして茜色の西日に照らされる彼女の顔をみつめ、しっかりと想いを告げる。

 

 するとどういう訳だか、ふいっとトレーナー君は私から顔を反らしてしまう。

 

「そんなにストレートに褒めちぎられると……さすがに照れてしまいますね」

 

 西日で廊下全体が染まっているため分かりにくいが、様子から察するにどうやら照れているだけ。何か失礼でもあったわけではなかったようだ。安心すると同時にそんな彼女の様子に微笑ましさを感じた。

 

 そんなとき、トレーナー君の背後から、何者かが忍び寄る気配を耳が察知した――。

 

 

『――うーん! いい感じの雰囲気だね!』

『うわぁ! ディ、ディーネ!?』

 

 気配に警戒していた私は動じなかったが、トレーナー君は私の横で飛び上がっている。もし彼女に我々の耳と尾があればきっと逆立っていただろう、それくらいの驚きようであった。

 

 イタズラが成功し、満足したような笑みを浮かべているのは小柄なウマ娘。

 明るめの栗毛に、頭頂部から額の真ん中にかけ、細くも太くもない一筋の白い流星。そして美しく大地に着きそうな長い尾。

 ディーネ生徒会長がひょっこり現れた。

 

 びっくりしていたトレーナー君は、落ち着いた頭で言われた意味を時間差で理解したらしい。今度はあわあわと慌てている。

 

 その顔色は羞恥心(しゅうちしん)からだろうか? 先刻照れていた時よりも、この夕日の中ではっきりと赤に染まっていた。

 

『なっ!? そんなんじゃないよ! ちょっと誉められ過ぎて恥ずかしかっただけで!』

『なんだー。いい雰囲気だったからそういう事かと『ないですから!』新しい担当の子とも上手くいきそうだねー』

 

 ディーネ生徒会長のいじりに対し、必死の突っ込みを入れるトレーナー君。思わず笑いが込み上げて吹き出してしまう。

 

『面白いでしょ? 普段は澄まし顔で余裕ぶっこいてるけど、こうやってからかうとわかりやすく慌てるの』『ちょっと! そういう事教えるのやめて!』

『ふふふ。確かに意外な一面だった。大人びた雰囲気の強い方だと思っていたが、こんな一面があるのだなと』『忘れてっ! 今の忘れてください!』

 

 トレーナー君はあまりの恥ずかしさに身悶え、ついに声にならない音を上げしゃがんで両腕で頭を抱えてしまった。

 

『ルドルフの宿泊する部屋の位置を確認したらふたりとも食堂へいかない? そっちの理事長さんはうちの理事長と後から合流しに来るらしいし、私は貴女を夕食のお誘いにきたの! どうかな?』

『気遣いありがとう。是非そうさせてもらうよ』

『決まりだね。てか、とっくに来客用の宿泊室についていそうな時間なのに、本当に2人とも何してたの?』

 

 トレーナー君をどうしてやろうか? もっとからかってやろうという表情で、ディーネ生徒会長は話題を投げてくる。

 

"――慌てる姿が年相応で可愛らしいが、可哀想だから助け船を出しておこう――"

 

『――レース場を私が気にしていたら話が弾んでしまってね』

『なーるほど! それは盛り上がっちゃうわ。まあとりあえずいこうか!』

 

 茜空(あかねぞら)から濃紺(のうこん)の夜空へ、次第に移り変わってゆく色が(のぞ)く窓辺を離れ、ふたりと共に宿泊する部屋の位置確認へと戻る事に。

 

 私はやっと彼女を手中(しゅちゅう)に納めた嬉しさで、その道中の足取りは、いつもよりずっと軽かった――。




◆変更履歴◆
心理描写不足を補いました。中々難しいですね。
ディーネがトレーナー君にかけたセリフを変更しました。
誤字脱字発見と心理描写()を""――ABCD――""に小説仕様へと変更。

改行調整

改修前のデータを入手できたので東京の直線データ修正


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『離別』さらば、"ケンタッキーの我が家"

前半トレーナー君視点。後半ルドルフ視点です。


"――朝が来たら、ルイビルともついにお別れですか。どうしても寂しくなってしまいますね……――"

 

 窓の外を見ると胸中を表したかのような薄曇(うすぐも)り。モヤがかる満月は夜空の中央に差し掛かっていた。1時間ほど前まで粉雪により、グランド全体は白く真っ新に塗り潰されている。

 

 その景色は私の心持の所為か、先行き不透明な私の未来見えてしまう。不安な気持ちを()き消すために出した、ため息が窓へと当たる。それが小さく白い丸の曇りを作り、私はその場を離れた。

 

 寝具を含め荷物をまとめて日本トレセン学園へと昨日既に送ってしまった。今いるのは、モノクロ調に統一している自室ではない。

 来賓用の宿泊室は三ツ星ホテルのような内装であった。今ではすっかり慣れた、アメリカを感じさせる豪華な一室で、日本に飛び立つ前に羽を休めている。

 

 昼間にシンボリルドルフのフルメディカルチェックを行った。そのデータを入れた媒体は、輸送用小型ケースに入れてある。そしてそれは既に先刻、現在室内中央のラグの上に転がる頑丈な黒いトラベルトランクに詰め終えた所だ。

 

 ――忘れ物はない……かな?

 

 日中の窮屈(きゅうくつ)な空気をまとったスーツを脱ぐ。そして肌触りがよい、シンプルなホワイトシルクワンピースに着替える。

 

 その後、室内から繋がる小さな簡易キッチンでココアを淹れた。

 

 白い湯気の立ち昇る茶色いマグカップを手にそっと歩く。そして金のカーテンタッセルでまとめられた、ザクロの様に赤く長いカーテンによって、両サイドを囲まれた出窓に向かう――。

 

 出窓にはそれと一体化している、赤いベルベット素材のウインドウソファーがある。湯気だけを揺らしながら、こぼさないようゆっくりとした動作で、それに腰かけた。

 そしてソファーに設置された、クリーム色の豪華で大きめなクッションにもたれかかる。置いてあったこげ茶のブランケットを、そっと膝へとかける。

 

 (なが)めた窓から見える空からは、ゆっくりと、ゆっくりと……。

 

 また粉雪が舞い落ちていっていた。

 

 

 私の心の景色も似たようなものだった。

 今までの思い出が浮かんでは舞い、そして今見ている雪の様にふわゆらりと沈んでいく。

 

 そんなぼんやりとした気分のなか、

 

  ゆっくり、

 

        ゆっくり

 

 

  思い出の回廊へ

        

     思考を落とし込んでいく――。

 

 

 高校と大学を同時卒業したての9歳当時。ゲートが開きゴールを目指し疾走する"駿馬(しゅんめ)"のように、過去にない速さの年齢でルイビル校に就職した。

 

 誕生日が過ぎて10歳になりたての私は、まずケアスタッフとして経験を積む予定だった。

 

 だが、その初勤務の日に事件は起きた。

 

 まるで今日も明日も平凡であろうと思われる、小さな港町のような早朝のミーティングルーム。

 そこに補給物資を求め、不意打ちに来た海賊の如く現れた"曲がれないウマ娘"ディーネ。

 

 彼女は早めに職場へ来ていた私を抱え、連れ去った。

 

 そしてそのままルイビルの理事長室に駆け込んだ。彼女は私の配置転換を願い、自らのトレーナーにしたいと激しく訴えたのだ。

 

 『私と一緒に冒険への航路を歩んでくれ』

 

 ディーネはその場で行き成り攫ったことを詫びた。そして自分のトレーナーになってくれと、熱烈なアピールをしてきたのであった――。

 

 当時の私はある絶望に飲み込まれていた。

 生きながらに死ぬ。そんな風に腐りかけていた私は、ディーネの姿を見て初心を思い出すことができた。その熱意に負け、私は"曲がれない"彼女のトレーナーとなる事を決めた。

 

 私たちは、世界一周を成し遂げた『黄金の牝鹿号』のような冒険をした。

 そしてその旅路の途中、全てのアメリカウマ娘の夢である、4冠"スーパーエフェクタ"という栄光の称号を共に掴んだ。

 

 しかし、その航海は適度に風のそよぐ、うららかな海ばかりではなかった。

 

 ディーネがダービーでレコードタイムを出した時。

 まるで晴れていた海域に突如襲い掛かったサイクロンのように、私たちへ事件が降りかってきた。

 

 ディーネが急激に強くなった原因は、薬物投与が原因。

 あらぬ疑いをかけられてしまったのだ。

 

 冤罪(えんざい)により一晩留置所で過ごす羽目になったが、すぐに(うた)いは晴れて解放された。その他にも嵐の海に()まれ、叩きつけられる波の水圧で、()も船体も破壊され、もうこのまま沈むのではないかと思うほど、苦しいことも沢山あった。

 辿(たど)り着いた先で財宝を見つけ、二人で手を取り合い、思わず踊すような楽しいことも色々と――。

 

 そしてすべて無事のまま、生涯戦績60戦という途方もない航海を共に乗り越えた――。

 

 あれから月日は流れた。

 去年の6月――シンボリルドルフから連絡が来る少し前。

 ディーネと私の大冒険の日々は静かに終わりを告げた――。

 そして新たな航海相手である、シンボリルドルフと歩むことを決めた。

 

 そんな私は今月ついに16歳になった……。

 

 "再び"大人になるまで、あと4年だ。

 

 息を吹き掛けてココアを一口含んむ。そして転がすように味わう。

 甘い甘い、丸みのある甘みが私の口の中に、温かな思い出が心に広がるよう、ココアの甘みも広がっていく。

 

 甘さへの逃避。その余韻(よいん)が終わると、また現実が顔を出してくる――。私がもっとエゴイストになれるなら、こんな風に苦しまないのかもしれない。

 

 だけど私はその方法を知らない。いや、知りようがなかった。

 

 しばし沈黙ののち、私は窓の外の闇に溶け込む様に目を閉じる。

 

 ――今現在、世間は私を『天才』と呼ぶ。

 しかしこれにはトリックがある。創作のお約束のような展開みたいなそれは……。

 

 

"――私が転生者(生まれ変わり)だから――"

 

 よく知る馬といえば"四つ足で走る馬"だった。

 

 私が存在していた西暦は21XX年――。

 ここより遥かに文明が発展している所で私は確かに生きていた。

 

 『人工子宮』により効率的に次世代が産み出され、科学技術で緻密(ちみつ)に組み上げ設計され尽くしたその世界で、私は『×××××』という名前の医者として生きていた。

 

 その暮らしは何の波乱もない、まさに()ぎの海のような生活で、高望みなどしなければ幸福そのものの人生だった。

 

 しかし、それは……乗っていた列車が事故を起こしたことにより、終わりを告げた――。

 

 痛みが無かった所為(せい)で、私は自分が死んだという事がわからなかった――。

 

 目覚めたときは(まぶた)が非常重く、そして赤ん坊独特の香りがする。

 

 寝起きから覚醒し、何事かと慌てる私の気持ちをいったん落ち着かせる。そして冷静にその香りを辿ると、それは私自身であった。

 

 まさかと思い声を出せばほぎゃあとしか言えない! さらに身体はふかふかした赤い厚手の布にくるまれ身動きが取れない――!

 五感からくる情報と儘ならない身体の状況から、自らの身体がいつの間にか赤子になっていることに気付いた。

 

 そこまで考えてたところで、鼻から空気を吸い込むとツーンとする痛みが走る。そこから『凍死』という2文字が頭によぎる。行動しなければ死が迫りくる。

 

 いつもなら感情制御で頭をクールダウンできるというのに、その時の私は人生で初めてぐちゃぐちゃの脳内を経験した。

 

 恐怖、痛み、理不尽、原始的な怒り。いろんなものが走り抜けていくことに、さらに自分が化け物になったのかと思い、発狂という状況に近いものにななる。

 

 混沌とする自我の激流に私は飲まれた。

 しかし、それでも必死で生きろと私の本能がもがき暴れる。

 

 ――私は一か八かで助けが来ることに賭け、この世界に産声を上げた!

 

 体力が尽きるのも覚悟の上で、言葉にならないその叫びを全身からあげた。

 

 お願いだから助けて、お願いだから。

 

 そんな命乞いを雪空の曇天に向かって全てをぶつけ叫んだ――!

 

 すると……。

 

 しばらくして雪を踏み鳴らし、此方へと近づく足音の気配が。そして誰かが私を抱き上げて顔に触れた。

 

 助かった。

 

 まだうまく開けられない目が疲労感でさらに重いが、何となく開いて私を抱くその存在を認識しようとした。

 

 しかし、生まれて初めて見た、自分以外のその存在に、私はひどく驚くことになる。

 

 ――なぜなら、獣のような耳を持つ女性が、私の顔を覗き込んでいたから。

 

 それがウマ娘との初めての出会いだった。

 

 日本の山奥、望月町という土地で、白真珠のような髪を持つウマ娘に拾われた。それから新たな名前と2回目の生を得た。そして助けてくれたウマ娘の上司にあたる方の養子となり、やがてレースを走るウマ娘の(とりこ)となってゆく。

 

 やがてトレーナーになるという目標を、淡い青写真のような夢として、私の感情に浮かび上がらせた。私に命と優しいひと時を届けてくれた、ウマ娘達に幸せを届けたいと。そう願うようになった。

 

 しかし、一度通った大人へのステップを、再度上るのは面倒だったの。そこで、ある実績を盾に養父にねだって、一緒にアメリカに渡った。そして飛び級を何度も繰り返しながら研鑽を積む日々を過ごし、いつしか私の周りにいた人々は、天才と呼ぶようになる。

 

 しかし、実際の私は前世経験値を引き継いでいる。だから本物の天才ではなく、世界を(あざむ)く『(いつわ)りの天才』だ。2回目の生で得た足し算のような経験を、たった1度の生で得たように見せかけてしまった。

 

 この世界の人類の努力の証をズルい手段で塗り替えてしまった。

 自らの手抜きが浅はかさの罪を犯したのだ。自分が今現在、ある意味詐欺師で、大嘘つきだと気付いたのは就職直後だった。

 

 

 感情制御が外れ、感情を組み込みなおしていた私は、子供の様に思考回路が酷く幼いくなっていた。その所為で深く考えていないことに、やっとその時気付いた。

 

 自業自得からくる自己嫌悪に対し、苦しみあぐねいていた。そんな時、私はディーネと出会い彼女の明るさに救われた。

 

 そして既にやってしまったことは嘆いてもしょうがない。私はその気持ちに区切りをつけようと決めた。

 

 ――そのつもりだった。

 

 開き直ろうとするたびに、誠実さに欠けるのではないか? 魂の奥底の良心が、私の在り方に問いかけるよう、忘れたころにまた自問自答を投げかけてくる。

 

 そのため炭の中で、静かに炎が(くす)ぶるかのように、罪の意識が常に付きまとっている。

 そうして葛藤(かっとう)しながら出した結論は、この世界にパワーバランスを崩さないよう留意しながら貢献し、その嘘を償おうというものであった。

 

"――最後まで名乗るに値する存在でいよう――"

 

 私は前に進むため、(いつわ)りの天才を演じる努力をするという開き直りを、(くす)ぶる気持ちを無視して、無理やりに気持ちの舵を切ろうとしている。

 

 初心に戻りこの世界の方たちのために頑張りたい。そんな風に普段はそうやって気持ちに(ふた)をして、ウマ娘の夢を応援するという夢をまた追っている。

 

 しかし、普通は自我が先で知識は後。だけど私は知識が先で自我が後。

 私の魂は歪んでいた。そんな持病のようなイビツサが、人格の不器用さを招いていた。そしてふとした時にその欠けた部分は顔を出す。そして開き直ったはずのそれに対し、自己嫌悪に駆られていく。

 

 全く以て矛盾の(かたまり)。嫌になる。

 何の薬にもならないから、一旦それについて考えるのはもうよそう――。

 

 ココアを一口飲んで、そのゆれる液面を眺める。冷めてきたそれは、もう白い湯気を立てていない。

 

 

 そして、私が偽りの天才になったこと以外に、一番大きく変わったのは……。

 

 『私が人類だけど人間じゃない』という事実――。

 この世界には3種類の人類がいる――人間とウマ娘と"セントウル"だ。

 


 

【セントウル(半人半バ)】

 新人類。人間の外見でウマ娘の身体能力を引き継いだ集団

 何故そう呼ばれるようになったかは現在では不明


 

 ウマ娘からはウマ娘が最も産まれやすいが、人間の男女も産まれなくはない。

 その特性が【セントウル】を産み出した。

 

 【セントウル】のはじまりは紀元前の草原だ。

 

 人間とウマ娘が共同生活を始めていた。そしていつしか、ウマ耳と尾のない『ウマ寄りの美しい容貌』と『身体能力』をもつ新人類【セントウル】が発生した。

 

 一般的に【セントウル】はシマウマ娘やロバ娘、ポニー娘などと生活圏が近い『遊牧民』など『草原で暮らすもの』に多い。それぞれ混じり合うウマ娘の身体能力や、『耳と尾以外の外見的特徴』を引き継ぐことがある。

 【セントウル】とされる基準はウマ耳や尾のない人間 の外見で、一定以上の身体能力を有するものが【セントウル】と認定される。『身体能力』が『人間』ならば『人間』とされる。

 

 私は『独特な(きら)めきを持つ髪』と『エメラルドのような瞳』を特徴とした、中央アジア系の軽種系『アハルテケ』のウマ娘が由来だと遺伝子鑑定結果が出た。アハルテケから派生した【セントウル】は、瞳の特徴から【スマラグディ(エメラルド)・セントウル】と呼ばれている。

 

 大きな窓ガラスの方に顔を向けると、深い緑の宝石のような双眸(そうぼう)、そして独特な髪の(きら)めきが映り込む。それらは私の中に流れる血が人間でもあり、ウマ娘でもあることを主張している。

 

 あの日から、あの事故から何もかもが変わってしまった。

 その変化により得たもの(主張の強い自我)もあり、失ったもの(安穏な日々)もある。

 

 管理が当たり前の世界から自由な世界にやってきて、最初こそは定められた道など無いことが異様にも感じた。

 

 いきなり目の前に指し示されていた道筋全てが消えたのだ。そのかわり目の前に広がったのは、いつ深みに嵌るやもわからないまま、夜道を手探りで這いまわり進むような人生だ。――初めて知ったレールのない生き方というのは、ただただ恐ろしく戸惑ったこともあった――。

 

 そんな私の胸中を(いや)してくれたのは、この世界に広がる全てだった。まるで満天の星空のような無数の命の輝き。心の中心に根付き温かみをもたらしてくれる『絆』にあふれたこの世界の情景――。

 

 それらはとても、イビツな私の心を通した目には美しく映った。

 

 生存戦略のみを完全に優先する方に(かじ)を切った前の世界にはない、余裕に満ちたこの世界の事を今はとても気に入っている――。

 

 私は物思いから現実に思考を戻し、すっかり冷めたココアを一気に飲み干した。

 

   ◆  ◇  ◇

 

「――随分目が()れているようだが、大丈夫かいトレーナー君?」

 

 昨晩ベッドに入ったあと、結局私は疲れるまで泣いてしまっていた。長年家族のように過ごした、学園の皆との別れが迫るという事実。それを意識したら、急に胸が締め付けられるような、そんな激しい痛みを(ともな)う寂しさ感じてしまったから――。

 

 朝起きて重たい(まぶた)の感覚を受け、急いで飛び起きて室内にある壁掛けの鏡を見る。 

そして案の定、(まぶた)()れあがっていた。

 

 (あわ)てて冷やしてはみたが手遅れ。このひどい状態の私の目元を、ルドルフに指摘されてしまい、恥ずかしいやら、情けないやらで気分は最悪だ。

 

「見送りで涙とか見せたくないので先に泣いておいたんです。やっぱり思い入れはあるので……」

「そうか……。あまり無理はしてくれるなよ?」

 

 ルドルフは私のそんな様子を酷く心配そうにしていた。

 

"――こんなにも情けない姿を晒してごめんね――"

 

 そうこうしている内に、迎えの黒いリムジンがエントランスに入ってきた。

 

 ――ついに巣立ちの時がやってきた。

 

 動じないようにしている。しかし、本音は今まで過ごした親元を離れる鳥が、何度も何度も、巣や親元を振り返っているような、そんな気持ちだった。

 

 『元』となってしまった担当ウマ娘ディーネや、ルイビルの理事長や面々に別れと心からの感謝を告げる。その後車まで敷かれた、赤いカーペットの方に向き直ると――。

 

「――行こうか、トレーナー君」

 

 寂しさに染まっている心に、優しく、あたたかな風がそよぐよう、語り掛ける声の主はルドルフだった。彼女は私の前に自身の片手をそっと差し出してくれる。

 

 今口を開くとそのまま感情の堰を切り落とし、更なる醜態(しゅうたい)を招く気がする。差し出してくれたその優しさに、甘える形で無言のまま頷いて返事をした。

 

 そうしないと、

 

 

 

   この感情に、耐えられそうに、  ないから――。

 

 優しく手を引かれながら迎えの車へ。エントランスの向こうの雪景色と、鮮やかなコントラストを成した、紅いカーペットの上を歩いてゆく。

 

 新たな旅の入り口である車のドアがゆっくりと開いた。

 

 秋川理事長、ルドルフに続き私も静かに乗り込んで行く。

 車内の最後尾。横並びの席のうちの窓側の席にルドルフに促されるまま、膝から崩れ落ちそうな身体を御しながら静かに座る。

 

 そして、この学園での思い出の区切りを示すかのように、ゆっくりと――ドアが閉った。

 

 車輪を静かに回しながら、リムジンは向かうべき先に進んでいく。

 そして最後の思い出の風景写真のように、車窓に収まったルイビル校の景色に私は自然と目がいってしまう。

 

 流れ戻れぬ時のように過ぎていく雪の積もった学園。心にあふれる思い出の光景から、私は目を離せず段々とまた抑え込んでいた気持ちが暴れ出す。それはまるで満水のコップの(ふち)のように、目頭や胸中へと湧き出ていた。

 

"――だめだ、泣かないとしているのに……目で追わないとしてるのに! ……見てしまう! 肩も震える!――"

 

 こんな未熟な様をルドルフや秋川理事長に恥ずかしくて晒せない!

 堪えようとはしていた。だけれど……!

 

"――また泣いてしまう!――"

 

 日本へ行くのが嫌なわけじゃないのよ。

 けれども溢れる感情や胸の痛みが止まらなかった。前世でも人工子宮から産まれ、教育プログラムを受け、家族というものはおとぎ話でしか知らなかった。

 

 しかし今は違う――養父という家族ができて家族のよさを知り、ルイビル校で出会った様々な仲間からは、"群れる"ということの良さを知ったから!

 そんな自分の内から(あふ)れ出てきている感情は、嵐の中での取り舵のように制御を失いそうになる! そんな自我をどうにか抑え込もうとしていた。

 

 なんとかかんとか攻防している内、学園が完全に見えなくなった頃――。

 

 ふいに後ろから優しく両肩を引かれた。そのまま引き寄せられた先に収まり見上げると、私を抱き止めているその温かい腕が、ルドルフのものだとわかった。

 

「泣きたいときは、泣くのだッ――」

 

 私は今ルドルフに軽く抱きしめられて見えないが、背後で声の主の秋川理事長が鼻を啜るような音を立てている。

 

「我々と行くのを嫌がってるわけじゃないのはわかっている。君にとって大切な仲間のだろうから、辛くて泣くのは普通のことだ。――だから、大丈夫だ。そのような事で失望したりなんかしない」

 

 頭上からふってくるはルドルフの、なだめ言い聞かせるようにゆっくりで――私の寂しさにあふれる胸中を優しくなでる様な優しい声色。

 彼女は私を大切なものを扱うかのように、優しく抱きしめている。もう片方の手で髪をなでる。

 

 その手から伝わる優しさに、抑えていたプライドの堰が決壊した。別れの寂しさが吹き出した感情に何もかも押し流されてゆく。

 

 情動が作る濁流(だくりゅう)にのまれ溺れないようルドルフの腕の中で彼女に縋りつく。

 

 そして泣いて泣いて――泣き疲れるまで泣いて、泣いて、泣きじゃくった――。

 ルドルフはそんな感情に流されている私を、その激流から守るかのように黙ってずっと抱え込んでくれていた――。

 

   ◇  ◆  ◇

 

 最寄りの国際空港がトラブルにより使用できないようだ。急遽(きゅうきょ)財閥側が片道1時間ほどかかる空港から、日本へ帰るためのチケットを用意してくれた。

 

 仲間との愛別離苦(あいべつりく)の感情に溺れていたトレーナー君は、泣き疲れた彼女は私の腕の中で静かに寝息を立てている。

 その様子は、感情の激流からやっと川岸に流れ着いたような。そんな安らかな表情をしていた。

 

 車窓の外から目が離せなくなっていた先刻の彼女の姿は、とても切なく悲しげなものだった。幼いころからずっと過ごしてきた地を離れるというのは誰だって寂しい。

 見守っていた私もつらくなり、プライドを保とうとしていた彼女の意向を無視し、本心をさらけ出させた。

 

"――これでよかったのだろうか。……失態に落ち込まないといいのだが――"

 

「総帥からは養子としてきちんと可愛がられているとはいえ、やはり長年住み慣れていては寂しいのだろうな」

 

 ぐるぐると悩み始めた私の思考を中断させたのは理事長だった。彼女は子供を見守るような視線を宿し、こちらを見つめている。理事長は先ほどまで、トレーナー君が涙を流す姿に心を痛ませもらい泣いていた。

 

「……そうですね。そうかもしれません」

 

 (きぬ)のような手触りのトレーナー君の髪を時々撫でる。すると時折身じろいだり、すぐったそうな仕草が見られる。

 

 泣き疲れてる彼女はトレーナーで、私はレースを走るウマ娘(アスリート)。私を支えるのが彼女の役目。故に、先程の様に未熟にも取り乱すようなことは、厳しい者が評価するならば即日落第ものの減点ものだ――。

 

 ――しかし。

 

 彼女も私もそれぞれ心を持ち生きている。それを忘れてはいけない。

 

 濃い血の繋がりの支えもなく、私と歳がひとつ程しか変わらない。そんな彼女がどれだけのものを抱えているか、私にはまったく想像がつかない。

 破竹の勢いで我々を含む人類の記録を破りながら歩んできた道は、決して平坦ではなかっただろう。歩みつかれる事もあっただろう――。

 

"――そして、別れが辛くなるほどそれだけウマ娘たちを深く愛せるならそれはそれで情が深く『ヒト』らしくていいのかもしれない――"

 

 このまま起きなければ、トレーナー君を抱えて帰りの便まで運ぼうかと思ったが、それはやめた。トレーナー君の新しい家となる我が学園へと旅立つ前に、育っ た 故郷(ケンタッキー)の風景は彼女も見たいだろうから。

 

 新たな航海への旅路の幕開けとなる空の港まであと20分。

もう少ししたら私の腕の中で眠る君を起こすとして……。

 

"――いましばらくは羽を休め、ゆっくり休んでくれ――トレーナー君――"

 

 やっと見つけた宝物のような彼女を落とさぬよう、大切に、大切に、落とさないようそっと腕に抱き直した――。




 実在のアハルテケ種で一番有名な黄金の毛並みですが、実に様々な毛色があるそうです。

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第1章ー地固めージュニア期 in日本
『六憶詩』照準は"偉大なる女王陛下の庭"へ


ローテは折角なので国内は史実の83年から85年の当時のものとしました。
そのためアプリ版とローテが違います
悩みましたがキングジョージの間のアーリントンミリオン(当時バ〇ワ〇ザーミリオン)は回避。

作中のバ場設定は後書きで解説してます。
※史実と違っていたりする部分もあります※

トレーナー室の間取り

【挿絵表示】


トレーナー君視点。ジュニア期前の大体2月頭くらい
それでは……どうぞ――


"――この学園には謎が多い――"

 

 時々緑色に光るウマ娘やトレーナーを見かけるのは何故だろう?

 

 特にアグネスタキオンというウマ娘のトレーナーが、よく光っている気がする。発光するサイクル的には、3日に1回光っているような?

 あと学園周囲の河原の草地に、左巻きのミステリーサークルのようなものを時折見かける。あれは一体何なんだろう……?

 

 そして、駿川たづな理事長秘書は――何故『駿』川なんだ?

 四つ点の『馬』なのは何故だろう?

 

 本能とでも言うものだろうか、たづな秘書の(まと)う気配はどこかひっかかる。私の"同類"である"半人半バ(セントウル)"でも、人間の気配ともつかない。

 

 ”彼女”(たづな)は一体何者なんだろう?

 

"――もしかして……――"

 思考の海のなか、あるいくつかの可能性を見い出しかけたけれども。

 

"――やめておこう。碌な事にならなさそう――"

 

 そんな風にプレハブ作りのトレーナー室内で、ルービックキューブを組み立てるよう、くるくると思考を回していく。

 外からはまどろみを誘う小鳥の声が響いている。

 

 私はソファの上で仰向(あおむ)けの体勢(たいせい)で横になって、窓から入る木漏(こも)れ日をブランケット代わりに被って(くつろ)ぎながらルドルフを待っている。

 今日は初ミーティングの日。希望ローテーションを提出してもらい、それについてお互いの意見交換を予定していた。

 

"――生徒会で遅れているのかな……?――"

 

 壁にかけてある、どこにでもありそうなシルバーの時計を確認する。約束していた午後2時はとうに過ぎ、もう4時頃に差し掛かっている。

 私はルドルフの意思を優先してこのミーティングを提案した。けれど、それが生徒会長である、ルドルフの負担になってはいないか、いまさら心配になってきた。万一があるかもと思って、いくつプランを作ってはいるが……。

 

 私物で持ち込んだ昼寝用ソファーの上から、左向きに身体と顔を寝相を変える。その視線の先にはふたり掛けのソファーが対面になっている。その真ん中の低めのテーブルに、ミーティング資料をセットしたのは今から3時間前。

 寝転んで待っていると、今度は私が寝てしまいそうな気がした。ソファーから起き上がり、両腕をまっすぐ上にあげ私は背を伸ばす。

 

"――とりあえずハーブティでいっか――"

 

 疲れているであろうルドルフのために、彼女が来たらすぐ()れておこう。そう思い、ハーブティーを淹れるための道具や、ガラスカップを用意しはじめた。

 

   ◆   ◇   ◇

 

 それから10分ほど経過した頃だ。

 トレーナー室をノックすると同時に、ルドルフが息を切らせながら勢いよく入ってきた。

 

「すまない! 待たせた!」

「問題ないですよ。お疲れ様です」

「希望ローテーションはこれに入っている。テーブルの上に置いておくよ」

「忙しい中ありがとう。ハーブティとニンジンケーキを用意しているのだけれど――召し上がりますか?」

「頼みたい。今日はトラブル続きでね、結局昼食も落ち着いて食事する事すら(まま)ならなかったから助かる」

「――この後の予定はありますか?ないなら私も予定が無いので先にゆっくりおやつにしましょう」

 

 食事をしながら仕事するのは大変だろう。この後の予定がなければ、ゆっくり食べてもらったほうがいいと思い、私はそう声をかけた。

 

「大丈夫だと言いたいところだが、今日は流石に甘えさせてもらうよ」

「決まりですね。では準備します――楽に座っていてください」

「――ありがとう」

 

 ルドルフはため息が漏れ出そうなほど疲れ切った声で、そう返事をした。そして彼女はソファーの左端に座り、アームレストに左肘をかけ、ゆったりともたれかかった。

 その後ろ姿に相当な疲れが見える。先に食事にするにあたり、書類を片付けながら顔色を窺うと、やはり悪い。何かと自分は(はん)を示さねばならない、そう自負しているがゆえに、ルドルフは無理をしやすいのだろう。

 

"――随分と気分まで落ち込んじゃって……どのハーブティにしましょうか……――"

 

 トレーナー室に私物で持ち込んだ冷蔵庫の中には、複数の乾燥したハーブが入っている。その中で気になったのは――。

 

"――やっぱりこれかな……――"

 

 右奥にオレンジの皮を干して作る、オレンジピールが入った瓶が目に入った。それを冷蔵庫から取り出した。

 

"――ちょっと手抜きだけど、お腹空かせているのに待たせるのもアレだから許してね?――"

 

 水を最初から沸かす手間よりその時間が惜しい。おそらく温度的には大丈夫だろうと踏んで、透明なガラスポットの中にオレンジピールを入れる。そしてトレーナー室内に備え付けられた、給湯設備のサイドスペースの上に置かれた、白い電気ポットからお湯を注ぐ。

 

 しばらくすると――スッキリした気分になれる柑橘類(かんきつるい)の爽やかな香りが、疲労感(ただ)うこの空間を塗り替える。気分の上昇気流を促すかのように、その香りを含んだ蒸気がふわりと舞い立ちこんだ。

 そして冷蔵庫の中から"ニンジンパウンドケーキ"を取り出す。前もってすぐ出せるようカットして皿に乗せ、ラップをかけて用意していた。後はトッピングだ。

 

 オレンジピールの匂いに気付いたのだろうか? ルドルフがちらっと、こちらを向いて様子をうかがっていたのが、作業中視界の(すみ)に映った。

 けどプライドの高い彼女は、そんな子供らしい一面を私に気取られたくないと思うだろう。あえて気付かないふりをして、切っておいたケーキに粉砂糖を振りかける。ケーキを乗せた皿の隅に、チューブ入りの植物性ホイップクリームを軽く絞り出す。そしてタッパーに入れておいた処理済みのミントも添える。

 

 時計はハーブティをカップに注ぐ頃合いになった。透明なガラスのカップを用意。ポッド内にはフィルターがついていた。なので茶こしを使わず、そのまま蒸らし終えたハーブティーを入れる。

 

 それらを全て一緒にプレートにのせ、ルドルフの待っているミーティングスペースに戻る。

 

 すると……いつの間に座り直したルドルフがそこには居た。あまりだらしない姿を見られたくないタイプなんだろう。そして、先程まではそれを(さら)すほどに、彼女が疲れていたのだろうという事を察した。

 

 そしてケーキとハーブティを互いの席に向かい合うようにセットし終わった私も、ルドルフの正面に座った――。

 

「このケーキは君の手作りかい?」

 

 私が着席したくらいのタイミングで、ルドルフは尋ねてきた。

 

「ミーティングにと思って作ってみました――召し上がってください」

「ありがとう。頂かせてもらうよ」

 

 彼女は私に余裕を見せた後、ゆっくりと食べ始める。私も対面に座り、あまり気にしないようにしながらハーブティを味わう。

 

 彼女が今食べているのは、ケンタッキーのルイビル学園でも評判だったものだった。

 ドライニンジンとドライリンゴを蜂蜜(はちみつ)で戻し、刻んでニンジンを混ぜこんだ生地に()り込む。そしてしっとりと焼き仕上げた自慢のパウンドケーキだ。

 

 生地の砂糖を控えめにし、そこに蜂蜜(はちみつ)のニンジンやリンゴを混ぜ込む。味の方(かたよ)りを作っているため、ただ甘いケーキよりも美味しく感じられる。味に飽きたら生クリームやミントと一緒に口にしたり、いろいろな角度で楽しめる自信作だ。

 

 リンゴが入れてあるのは、ルドルフがリンゴが好きだということを、日本へ向かう機内で聞いていたから。彼女の様子を見る限り、どうやら大成功のようだ。心なしか顔色も少し良くなっている。

 

"――よく見ると所作(しょさ)が綺麗――"

 

 彼女がカップをテーブルから持ち上げた。その動作ひとつひとつが洗練されており、気品に(あふ)れ優雅な印象を受ける。

 

「また作ってほしいと思うくらい美味しかった。こうやって歳の近い誰かにもてなされるのも久しぶりでね。君の心遣いが大変嬉しく思うよ」

 

 テーブルマナーが出来ているなら、教える手間も大分省ける。なんて漠然と考えていたら、ルドルフは特製ケーキを食べ終わったようだ。

 

「そうでしたか、もしかしたらと思って準備しておいてよかったです」

 

"――確かにルドルフは近寄りがたい。なんていうか、時々物凄いオーラが出ている。ザ・皇帝って雰囲気のいかにもなオーラが――"

 

 それに加え、ルドルフが話す言葉と話題は、同じ年頃のウマ娘にとって難しい内容だ。ルドルフは私の歳が自分に近いと思っているが、私の中身は転生により現在××(ピー)歳の大人である。

 

"――だから話題についていけているのだけれど――"

 

 それに甘えさせていたら、ルドルフの将来はどうなるだろう? 自分で考えられるタイプだけど、同じ年頃に限定すると人間関係に関しやや不器用な印象を受ける。もし手助けするとしたら、どういう事が出来るだろうかと頭をひねる。

 そして皿の上に残る、ひと口サイズのニンジンケーキを口の中に収め、オレンジピールティーを味わう。

 

"――やっぱり同じ年頃のお友達を作る手伝いをしたほうがいいのかなぁ――"

 

 マルゼンスキーとは交流が既にある。ルドルフの英会話能力は完璧だったけど、さらなる熟達を目指すって目的を付けて、タイキシャトルを引き合わせてみるのがベスト?

 

 それとも――ビワハヤヒデ? どちらも?

 

 そのうちタイキシャトルとは元々アメリカで既に交流があった。そして先にこちら(日本)に来ていた彼女は、また友人として仲良くしてくれている。

 フレンドリーな性格のタイキシャトルと知り合えば、ルドルフの対人対バ関係は確実に広がりそうだ。

 

 ビワハヤヒデとは日本トレセン学園での勤務初日に知り合った。私をカフェテリアで捕まえた彼女は、知識欲から"問答"をいきなり仕掛けてきた。彼女は性格的にルドルフと仲良くやれるだろう……話も合いそうだし?

 

"――さてと、確認確認――"

 

 気軽に接してくれるお友達ができない問題に関しては、ルドルフの覇道に響くため追々(おいおい)対処しよう。

 

   ◇  ◆  ◇

 

 中断していた希望ローテーションの確認を進めるため、薄茶色の封筒から紙を取り出した。

 

"――ジュニア期はデビュー、10月後半の旧いちょう特別こと、サウジアラビアRC――"

 

 視線を下の方に滑らせ確認してゆく中、引っ掛かりを見つけて視線を止めた。

 

"――……あれ? ジュニアG1は出ない?――"

 

 その理由は何となくわかる。ファン数のために最低限レースには出るが、ジュニア期のG1は目標にしない。

 

 理屈としては、成長期の身体を長い目標で仕上げるつもりなのだろう。

 トレーニングに関する理論は様々だ。しかし、何の考えなしにやるのは禁物である。

 

 例えば成長途上のウマ娘に、ジュニアG1や、クラシック前半のダービーだけを目標として、過度なトレーニングを課してしまうとする。

 すると『発育』が十分じゃない身体に、強い負荷をかけ続けることになる。

 

 結果、ウマ娘の将来を潰してしまう。そしてこれは真に残念ながら、よくある事だった……。

 (まれ)に『天性の肉体を以て耐え抜く例外中の例外』もいるが――それはまず『ない』とみるのが無難だ。

 

 鍛えるべき筋肉の種類、骨や靭帯(じんたい)との兼ね合いも考えず設計し、短期的な視点で勝利だけを重視。そんな風にトレーニングを組むのは悪手。親御さんの教育が良かったのか、ルドルフはそれをよくわかっているのかもしれない。

 

 そして過度なトレーニングやハードローテにより、肉体に蓄積(ちくせき)した疲労による故障は怖い。特に靭帯(じんたい)や関節を故障しまうと癖になる。

 骨折も同様だ。骨折部が太くなるからといって、損傷部分強化されるというのは『誤解』である。

 

 アメリカの最新設備で行った、フルメデカルチェックのデータ解析の結果――ルドルフは大変素晴らしい肉体をもっていた。反面虚弱ではないが、パワーがある分ダメージの蓄積(ちくせき)に留意する必要がある。緻密(ちみつ)なバランス調整が必要になるだろう。

 

 そして私には、国際資格により関節や靭帯(じんたい)を評価するために『携帯超音波診断装置』や、『医療レベルのケア用機器』をどこの国でも使える。なので状態を細かいスパンで把握し、場合によりその場である程度ケアできる。

 

"――成長曲線は普通。遺伝子情報は理想的。突発的なアクシデントがなければ大丈夫かな? で、クラシックは弥生、皐月、ダービー……はい?――"

 

 クラシックのローテープランを追っていた私の目は、ゴマ粒サイズの点となった。そこにはなんと――。

 


07月後半 【英国:アスコット】

キングジョージ6世&

クイーンエリザベスダイヤモンドステークス

 

09月後半 【日本:中山】

セイクライト記念(G3)

 

10月前半 【仏国:ロンシャン】

凱旋門

 

11月前半 【日本:京都】

菊花賞

 

11月後半 【日本:東京】

ジャパンカップ

 

12月後半 【日本:中山】

有マ記念


 

"――……うっそ……クラシックで行く気!? まあ、やってやれなくはない。けれど……――"

 

 内容的にハードローテーションである。大切な事なので2回見て確認したけれど、ハードローテーションである。

 

「ルドルフ」

「なんだいトレーナー君?」

 

 この鬼ローテを希望したルドルフに、その真意を尋ねるべく声をかけた。

 

「――本当にこのローテで行くんですか? クラシック戦線のローテが過密気味だし、シニア期を考えるとどうかと思います。それにキングジョージ(女王陛下の庭)や凱旋門はシニア級との格上戦。バ場とコースが日本の中央以上にタフです。あちらの管理や気象条件を考えるとほぼ稍重から重バ場。洋芝はソフトではありますが、整備状況などのリスクもあります。……流石にこれは盛り過ぎではありませんか?」

 

 するとルドルフの顔つきがかなり真剣……。

 というより威圧感のあるものとなった――!

 

 あまりの変わりように、私は息をするのを止め身体が硬直した――!

 

「だから私はわざわざフリーエージェントを使ってまで、君という『航海士』を私の手元に連れてきたんだ。できるだろう? 君なら――私を突破させることができるはずだ。」

 

 わざとゆっくり言葉を並べるその様は……

 

 一歩、

    また一歩、

 

 狙った獲物をじわじわと

      低い姿勢で追い詰めるような気配を感じる。

 

 私を見るルドルフの雰囲気は、まるでそう。"目当ての獲物を射程圏内にいれた"獅子"だ。

 背筋に何かいやな汗が流れ、ウサギが駆け抜けて草を騒がせるように、産毛が逆立つような感覚が走っていく。

 

「!」

 

 自らに迫る危機や異変を察知した小型草食獣のように、私はビクリと身体を震わせた。明らかに威圧されている――思わず短く息を飲み怯んでしまいそうになる。

 

 ――だけれど!

 

「……どうして海外大舞台のシニア戦線行くのがクラシック期なんですか? リスクを負うだけの何か強い理由があるのでしょうか?」

 

 私も『プロ』だから、簡単に引き下がり言いなりにはなれない。

 即時硬直状態の自分に喝をいれ、ルドルフの中に潜んでいた荒々しい一面と対峙する。じっとルドルフを見据え、揺さぶりをかけてきた目的を知るため、こちらも探りかける。

 

「――ふむ。何かしら動揺すれば押しきれると思ったが、簡単には動じないか。流石だね、トレーナー君」

 

 ルドルフはいたずらっぽい悪い笑顔を浮かべた。その表情からして私を『わざと』試したようだ。なんだか弄ばれた気分になり、ちょっとだけ腹が立つ。

 

"――貴方の皇帝オーラも相まって、実際に私が受けたのは動揺というより威圧。もといそのプレッシャーは肉食獣に狙われ、食われかけた系の類だったんですが!――"

 

 こんなことを毎回されてはたまらない。私は頬を膨らませて『怒っているぞ』という態度を見せる。すると、いたずらに失敗してばれた子供のように苦笑をうかべ、彼女の自信満々の眉毛はハの字の困り眉となった。

 

「動揺させても私は『はいわかりました』なんてぜーったい! 言いませんからね? 全く」

「ふふ。すまない、少し試してみたくなった。しかしそれは戯れが過ぎたようだ――許してくれ」

「今回だけですよ? 一応私は1歳目上で、貴方のトレーナーですから真面目な話し合いでそういうのはダメですよ? 」

 

"――いたずらにすら全力を出すのがこの子の怖い所だわ――"

 

 困ったものだとため息を吐きたい気分になる。今みたいにルドルフは相手を試す癖がある上に、かなり賢い。

 

 彼女の賢さを測るため、私はケンタッキーからのフライトの間、ルドルフにチェスを持ちかけた。しかし、彼女に勝てても一度試した戦法なら、時間を置いてから試すと全く通用しなくなる。セオリー外含め何パターンも挟んでも、"覚えてやり返してきた"。

 

 戦法の取り方から察するに、彼女の思考ロジックは最初に目標地点を決めている。そして、そこに進めるための何通りも道筋を用意している。AルートがダメならB。次はC、D。こんな具合に小手先の戦術ではなく、戦略的な思考をしている。

 そして思いやりがあるためエゴイストでは無いものの、かなり我の強い。そう私は彼女の性格を読んでいる。そして意志を貫くためならば、強引な手段も取ってくるタイプだろう。

 

 彼女の意志は尊重したいが、無茶なことに関して止めなくてはならない。私がいるからといって、無理無茶無謀が通ると学習されてしまっては困る。

 そんなことを考えている私とは裏腹に、目の前のルドルフは私の態度に満足げだった。彼女はハーブティーを優雅な動作で一口飲んだ後――。

 

「話を戻すと、理由は君が絶対に納得しないだろうなというものだ……どうしてもなんだ。沸き上がる渇望からくるもので理屈じゃない」

 

 どうしてもプライド上言いづらいのだろうが、声色は私がどう反対意見を意見具申しても、最終手段として自らの矜持に障るがごねてでも通したい。そんな雰囲気が読み取れるようなものだった。

 

"――チャレンジしたい、冒険したいって熱意なら仕方ないか……――"

 

 厳しいが完全に無理なわけでもない。そう思って私はこう切り出した――。

 

「――そこまでしていきたいのなら、私は使える手段全て使って全力を尽くします。それでも避けられない何かがあっても、いま決めたことに対して後悔はしませんか?」

 

 ルドルフの顔がまるで鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。

 私が"非論理的なこと"(無茶なローテ)を聞き入れようとしたからだろうか? 大方かなり反対することを予想していたのだろうか。

 

「ルドルフは皆のために頑張っている。だからルドルフがやりたいと言う事は叶えたい。聞けるお願いなら私はそれを聞きたい。それで後悔しないのなら――私はその覇道(みち)に付き合います。引き返せなくなるかもしれない、最悪があるかもしれない。……それでも選びますか?」

 

 私は真っ直ぐと彼女の瞳を見つめて力強く返す――。

 

「――トレーナー君。どんな結末になっても私は自分で決めた事を後悔はしない。君が心配な気持ちは最もだが――すまないが頼まれてくれ。」

 

 どうやら彼女の決意は相当に堅いようだ。

 

「……わかりました。でも、本当にダメそうなら、引き返せる範囲の段階で止めますからね?」

「それで構わない。そしてだ」

 

 そしてルドルフは皇帝としての表情から、リラックスした柔らかい。おそらく素の一面であろうそんな表情を浮かべる。

 

「私の『無茶なワガママ』を聞いてくれてありがとう。――トレーナー君のその心遣いが素直に嬉しいよ」

 

 それはとても美しい綺麗な笑顔だった。心から湧き出てくる感情の表れのような、幸せが、そして嬉しさが溢れていた。

 

 ――ああ、こんな顔も出来るんだな。

 

 そう思った後私は口元に軽く笑みを浮かべ。

 

「どういたしまして」

 

 そう返した。かなりの賭けになるが、無事に切り抜けてみせるか。そんなルドルフの笑顔だった。少しは心の距離というか、素を見せてくれるのだから多少は素を見せてくれるほど気を許してくれているのだろうか? それを置いておいてもう一度ローテーションの書類に目を落とす。

 

"――取りあえず長期目標はキングジョージ突破かな……秘密兵器の仕上げも急がないとね――"

 

 疲労困憊(ひろうこんぱい)といった感じの雰囲気はルドルフからすっかり失せた。そして人をからかって遊ぶほどに回復している。そのことにとても安堵した。

 

 全部が全部聞いてあげられるわけじゃない。けど聞けるワガママだけは聞いてあげたい。

 見た目の歳が近いから安心して頼み事したり、ふざけたりできるんだろう。本当はもっと私の方が年上だけど、そんな居場所を望むなら、そういった思い出を作ってあげるのもいいかもしれない。

 

「ところでルドルフ」

「なんだいトレーナー君?」

「ケーキまだ沢山あるけど――おかわりはいかが?」

 

 まだ冷蔵庫には残りのケーキがあった。ルドルフはまだお腹を空かしているかもしれない。そう思った私は彼女に尋ねてみる――。

 

「ああ、君の邪魔じゃないなら――もう少しこのお茶会の続きを楽しみたい」

 

 彼女は嬉しそうな顔を浮かべ、元気が出たのか張りがある声でそう返した。

 

 柑橘(かんきつ)のさわやかな香りに包まれて、私たちのお茶会は続いた――。

 

   ◇  ◇  ◆

 

 希望ローテーションも通って、あの後残りのケーキも食べ切り満足したルドルフがこの場を去ったその後――。

 

 私は鍵付きの引き出しを開き、手にしたのは秋川理事長からの"宿題"だった。

 

"――学園スタッフにおける『フリーエージェント』に関する私側からの『意見』ねぇ――"

 

 学園改革は私のすべきことじゃない。しかし、これは放置して良い物ではないと感じはじめている。

 

"――文字起こしの議事録をみる限りまだ何かありそう。養父が学園にさらに投資し、施設の改修を済ませたけど、まだ足りないのかな?それとも――"

 

 座り心地の良い、革製のデスクチェアーに深く腰かける。そしてもう一度、書類を見直しながら状況と照らし合わせていく。

 

"――……判断材料も足りないか――"

 

 色々と考えてみたものの、全体の俯瞰図(ふかんず)が見えず決定打に欠ける。私は書類を引き出しに戻し鍵をかけ、立ち上がって簡単に身だしなみが乱れていないかチェックした。

 

"――少し歩いて情報を探しておこう、『学園内に詳しい情報屋』を押さえておかなきゃ――"

 

 根回しも人脈も何もかもがまだ足りない。そして放置しておけばルドルフに火の粉がかかる可能性がある。それだけは阻止したい。

 

 私は行動を開始した――。




【バ場の背景と作中設定】――読み飛ばし可

 エクイターフやエアレーション技術がある設定で行くと、史実内容やタイムが大幅に変わる気がしました。

◇なので連載中のバ場設定ルール◇
 ・エクイターフではなく芝は80年代にあった野芝や当時の芝状況に置き換え。
 ・路盤は資料が手に入れば当時の情報で描写。
 ・時代は2000年代でありますが、モデルが83年からひっぱります。
 ・1989年に札幌競バ場はまだない。なのでない競技場は書かない。
 ・コースの資料が入手出来たら当時の状況で描写。。
 ・現代のようなエアレーション作業は83年から85年まだ未登場。なのでなし
 ・水はけに関わるコース下の暗渠管はなしで。

 史実に寄せた謎時空という感じでいきます。

変更履歴
大幅に加筆修正しました。6/11
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『望月』月と芝と嘘つきと【前編】

【旧第3グラウンド】
 ライスシャワーさんがアニメウマ娘2期で練習していた旧校舎とは、本館校舎を挟んで真反対の放置されているエリアと設定。


ルドルフ視点です――どうぞ、お待たせしました。




"――毎日よく頑張るな……――"

 

 昼食を食べ終えたこの時間帯。

 生徒会室の大窓から見える中庭では、ウマ娘やトレーナーたちが楽しそうに談笑している。

 

 そしてその輪の中心には、楽しそうに談笑するトレーナー君がいた。

 

 私は生徒会室の大窓から少し離れた位置に立ち、その歓言愉色(かんげんゆしょく)の宴を眺めている――。

 

 2月の初回ミーティングから約2ヶ月――。

 話しやすく"解語之花(かいごのはな)"のような、愛らしい姿のトレーナー君は、瞬く間に人間関係の範囲を広げていった。

 

"――それは彼女の美点ではあるが……――"

 

 私もトレーナー君と出会ってから人間関係は広がった。

 

 彼女からの紹介で"タイキシャトル"や、"ビワハヤヒデ"と知り合った。特に英会話の実践をかね、紹介されたタイキシャトルの影響で大幅に交遊関係は広がった。このふたりは私にとって、気心知れた大切な友人達になりつつある。

 

 知り合って驚いたのは、タイキシャトルとトレーナー君はかなり親しい間柄であったということだ。

 

 アメリカでトレーナー君が"元"担当していたのは"全米の英雄"と呼ばれたウマ娘。そのウマ娘に憧れたタイキシャトルは、ルイビル校のオープンキャンパスに来ていた。それがきっかけで、幼馴染みになったそうだ。

 

 中庭の景色にまた変化があらわれた。

 またひとりトレーナー君へ質問をする為に人影が増えてゆく。

 

 皆が彼女に求めるものは技術や知識だろう。"聞き耳"を立てていればわかる。

 大半は海外の情報や勝利につながるヒントを得ようとする、向上心溢れるトレーナーやウマ娘、そして熱心な教官ばかり。

 その全員が、彼女はまだ未成年だという事をきちんと理解して接している。

 

 下心などありえない。節度を以て接する事が出来る大人ばかりだ。

 

 それを解っているトレーナー君も、悩みや相談の1つ1つに丁寧に乗っている。

 私のトレーナーであるという自負があるのだろう。

 人間関係を広めるのは私のためという事もわかる。この業界で横の繋がりは大切だ――そして、何より……彼女の人間関係が広がることは喜ばしい。

 

 しかし、我々の取り巻く状況を考えると、どうなのだろう? 目立ちすぎるのはよくはないのではないか? 

 いまのトレーナー君は、理事長が目指す変化の象徴そのもの。それが強い影響力を持ち始めるという事が、最悪の事態になる可能性もありえなくもない。

 

"――いくら身体能力が人より我々に近い半人半バ(セントウル)とはいえ、やはり心配だ。それに――"

 

 彼女が他の者と話しているのを見ていると、何故だかもやもやとした気分になる。

 

 こんな気持ちになった経験はあるにはある。

 それは幼い頃、仲の良い友人が他の子と話していると、嫌な気分になった時だった。

 

 これは嫉妬だ。彼女へ自由に話しかけられる周りの者が羨ましい。私だってもっと色々な事を話したい。聞きたい。

 

 こんなことを思っているなんて、周りにばれるのは意地でも避けたい。絶対に知られたくない。この歳にもなって焼きもちを焼いている自分を恥じた。

 

"――ん? 焼きもち……――"

 

 私は腕を組み考え込む――。

 

"――確かトレーナー君のミドルネームは望月(もちづき)だから……――"

 

 大きく耳をパタンと動かし、拳を胸の前で打つ!

 

"――もちづき、焼きもち、望月。望月に焼きもち! なかなか良いな!――"

 

 誰も居ない生徒会室の窓辺で、うんうんと、ひとり大きく頷きこの素晴らしいジョークを思いついた自身を讃える。

 このまま気分良く生徒会の仕事に取りかかろう。窓辺を離れようとしたその時だった。

 

――うまぴょい♪

 

 スマートフォンの通信アプリ、LEAD(リード)の通知音が室内に響いた。アプリを開いて内容を確認すると

 

"――『ゴールドシップ』の捕獲救援要請か――"

 

 LEAD(リード)に送られてきた内容は、エアグルーヴとナリタブライアンからの救援要請だった。どうやら過ぎたイタズラをしていた、ゴールドシップを追いかけているらしい。しかし、思いのほか上手く逃げ回っており、中々追い付けないようだ。

 

 ゴールドシップ。

 自身をエンターティナーと称し、一風変わった行動をとる生徒だ。

 しかし、やる気を出した彼女の実力は本物で、ただ強い訳ではない。出走経験は模擬戦のみであるが、心理戦やブラフも仕掛けてくる中々の策士であった――。

 

"――彼女達だけでは荷が重いか――"

 

 アプリを閉じ深くひと呼吸置く――。

 不意に中庭を見下ろすとトレーナー君と視線があった。トレーナー君は私を中庭から見上げ、破顔一笑(はがんいっしょう)を浮かべながら手をこちらに振っていた。その姿に心が和み私も軽く手を振り返す。

 

"――さて――"

 

 生徒会長(皇帝)としての責任を果たすため、私は窓辺を離れた。

 

   ◆  ◇  ◇

 

"――少しやり過ぎたか。門限は……いかん、ギリギリになりそうだ――"

 

 生徒会のメンバーは業務で学園に泊まることがある。そのため寮の鍵を渡されており、各寮長に連絡を入れれば門限を超える事も出来る。

 

 私はアプリを使い、ヒシアマゾンにその(むね)を連絡する。

 

 辺りを見回せば、すっかり濃紺(のうこん)の景色。見上げれば満天の星空が広がっている。

 

 茜色(あかねいろ)の時間帯から空へ登っていた満月は、夜空の中央の玉座へ収まるように、堂々と浮かび一帯を照らしていた。

 

 何故トレーニングなのにひとりでいるかというと、私がそれを望んだから。

 

 

 ……あの後トレーナー君と顔を合わせずらかった。

 

 昼間生徒会総出でゴールドシップを捕らえた後、"ひとりでトレーニングをしたい"旨を、通信アプリでトレーナー君に連絡をいれた。

 彼女は心配そうにしていたが、"気分転換"と誤魔化し押し切ろうとしたところ、それ以上は触れないでくれた。

 

 そういった繊細(せんさい)な気配りが出来るのも、彼女の特筆すべき美徳だった。

 

 夜の青に染まるグランドの外周を見回すと、それに沿って桜が植えられている。月明かりに照らされ、満開に咲き誇り、心安らぐその香りも相まって、桃源郷のような幻想を(かも)し出していた――。

 

 そして私は、今宵(こよい)の夜空を支配するものを見上げる。

 

"――満月か……――"

 

 そして、星々を背景に最も輝くそれの名を、中央に(ミドルネーム)冠するトレーナー君の顔を思い浮かべた。

 

 彼女は孤児だった。

 

 産まれて間もないころ、真冬の森に捨てられていたらしい。

 拾われた孤児の苗字は、地名や自治体の長の苗字から贈られるそうだ。

 彼女は満月の日に、望月という土地に産声をあげたので、望月。

 

 ――そう名付けられた。

 

 それらは『ジャパンカップ勝利! 噂の天才の素顔の特集』、月刊トゥインクル12月号でそのように紹介されていた。

 

 幸運な彼女にはすぐに新しい出来た。新しい家族によって、新たな名___と、家名___を与えられる。

 

 その手続きの際に全てまっ更に一度消えた"望月"。

 

 しかし、彼女は物心ついた頃『初めて貰ったお誕生日プレゼント』だからと、感謝を込め『ミドルネーム』に戻したのだという。

 

"――私が()()なら、君は()()()()()か――"

 


【セレーネー】

 獅子座の獅子を育み、

 ウマ娘を侍らせた全能にして豊穣を司る女神。

 絶世の美女であり、花盛りの女性と『現在』を司る。

 『満月』を象徴している。


 

"――全能のセレーネー。まるで私の大切なトレーナー君みたいだな……本当に――"

 

 本当に良くできた偶然だろう? まるで出会うべくして出会ったような。

 私と彼女にはそんな共通点が存在ししていた。

 

"――それは運命か宿命か、必然か。さて明日は……――"

 

 私の両耳が何者かの足音を捉え、思考を中断させた。

 何故なら、何者かが"工事中"の『旧第3グラウンド』に向かって、"ひとり"歩いている足音がしたからだ。

 

"――全く! 困った生徒がいたものだ!――"

 

 月見を中断し、私はその影を追った――。

 

   ◇  ◆  ◇

 

"――いない!? ――"

 

 旧第3グラウンドに繋がる森を、月明りを頼りに走ってきた。しかし、追っていたその影と足音は一向に見当たらない。

 

"――おかしい。そろそろ追いついていそうなものだが……――"

 

 疑問符を頭にうかべながら仄暗い森を抜け旧第3グラウンドに出た!

 

 ――――はずだった。

 

"――これはどういうことだ……?――"

 

 森を抜け、一気に月明りに満たされた、旧グラウンドが視界一杯に広がった。

 敷き詰められたターフは月光を帯びて青緑に輝き、波の様にそよぐその表面はまるで海。

 

 立派な草原がそこに広がっていた。

 

 本能が刺激されるようなその光景。

 

  一歩、

     一歩

 

  また一歩踏み出して、その真ん中あたりで止まった――。

 

 その美しい新緑にしばし心を奪われる……。

 草木のすれる音だけが両耳に伝わり、桜の香りとターフの良い香りが私を包んでいく。

 

 余韻を十分堪能した後、私は辺りを見回した。

 

"――これは草原練習場だろうか……――"

 

 よく見ると楕円(だえん)のコースの跡地のカーブ部分から見て、その中央から分けた右半分は平坦。もう左半分は勾配(こうばい)がランダムにある丘となっているようだ。

 

 右半分の平坦部は『筋腱(きんけん)と関節の柔軟性』を高める目的だとして、左半分の方は勾配をランダムに配置しているのだろうか? 波打って見えたそれは、右側よりも負荷を高く設定し、『推進力』を高める目的なのだろう。

 

 そして何より……これは……。

 

 屈んで芝を少しめくってみる。敷かれているのは洋芝……それも()()()()()()()()()()だった……。

 


【ペレニアルライグラス】

 ホソムギの別名。洋芝

 主要用途:牧草、ゴルフ場、スタジアム等

 地下の茎は細い糸くずを大量に集め丸めたような形状

 

 足を乗せた感触の差

 日本の野芝

 粗い網目の布を踏んだ感じに近い

 

 ペレニアルライグラス

 糸をとにかく大量に集めてきて、適当に形を整える

 その上に足を乗せる感覚に近い。

 

 ヨーロッパの芝が深いと言われるのは、フカフカで走りにくいから


 

"――夏枯れを起こす寒冷地の芝を一体誰が、何のために植えたのだ――"

 

 疑問に思っていたその時だった。また誰かが駆けてゆく足音を私の両耳が捉える。

 

"――全く! 流石に夜目に強い我々でも、夜に走るのは危ないというのに! それに門限はどうした!――"

 

 音の主をさっさと捕まえて寮に戻さなければ!

 

 音を探ってゆくと、旧第3グラウンドに繋がる入り口に戻る。

 

 すると先ほどは見逃していた(わき)()れた横道を見つけた。

 

 横に立って並んで8人分くらいの幅の道は、グラウンドを囲む森の中を、ぐるりと取り巻き周回しているようだ。

 その道の上にかかりそうな木々の枝は、全て剪定されている。そして足音の主の居場所を示すかのように、青い光の道筋が通っていた。月光の反射具合からおそらく相当な高低差もある。

 

"――こんなところにコースが? いつのまに?――"

 

 疑問に感じつつも、耳をそばだてながら走って追う。

 

 しかしここも洋芝が生い茂っており足元がかなり悪い。一歩踏み込むたびに深く沈み、大変面倒な道だ。

 

"――不整地かつ勾配(こうばい)がきつい! 何なんだこのコースは!――"

 

 夏合宿所の裏山の上級コースとも、また違う難易度の高さだった。足音の主はこんな面倒な所を一定のペースで走っており、その音が全く乱れない。

 

 慣れている――。この悪路を平然と走る者正体に興味を()かれ。

 走りにくいが再加速をかけ、足音の主との距離は段々(ちぢ)まってゆく。

 

"――やっと見えて――! ――"

 

 何かを確認するかのように足元を確かめながら走る足音の主。

 服装は学校指定のジャージではなく、一般的なレディースタイプのランニングウェア。

 

 そしてポニーテイルに(まと)めたその黒髪は、月明りを受け、青いサファイアのような(きら)めきを反射していた。

 

「トレーナー君!!」

 

 私の声に振り向いた足音の主の瞳は――確かにエメラルドの緑を反射していた。

 

 間違いなくトレーナー君だ!

 

 だが彼女は大胆不敵(だいたんふてき)な笑みを浮かべ、足元を確認しながら走るのをやめ……。

 

 私に背を向け、一気に突き放しにかかった――!

 

"――なっ! ――"

 

 その態度は『追い超せるものならばかかってこい』『"地の利"は私のほうが有利よ?』そんな風な返事が返ってきそうな走りだった。

 

"――煽られた!! ――"

 

 彼女の種族、【スマグラディ・セントウル】はアハルテケの半人半バ(セントウル)。そのアハルテケは容姿のほか、能力も特異なものだった。

 

 まず、スラリとしたメリハリのある身体は、我々より頑丈で悪路に強い。

 そして、太古に存在した『千里を同じペースで駆け抜ける』とされる、『汗血(かんけつ)バと呼ばれたウマ娘たちに近い存在』である。

 

 トップレベルの大会では、スローペースながら160kmにもなる『エンディランスレース』や、無駄のない身体付きを生かした『障害レース』が彼女たちの主戦場。

 

 『砂漠を水なしで突っ切る走る猛者(もさ)』もいるという。

 そう、休まず走り続ける事に特化した猛者たちだ。

 

"――条件が君に有利なら勝てると……? ――"

 

 悪路にあたる深い芝は、黄金のウマ娘の血を引くトレーナー君には、非常に有利だろう。

 だが、私と比べれば練習量が違うはず!! そして何よりも――!

 アハルテケの……その力を引き継いでいる"君"に勝ちたい。

 

 私の闘争心に火が付いた。

 

"――(あなど)ってくれるなよっ!! ――"

 

 本気になって追いかけようとする――しかし!!

 

 足が沈み込む上に芝の下の道が悪い。仕掛けるならばコーナリングで差を(ちぢ)め、カーブを抜けて直線か

 

 月のおかげで足元は見える。しかし肉体的消耗こそはしづらいが、タフなバ場のせいで息が上がるペースが速い。

 

 私でも苦戦するこのバ場でも、泳ぐようにトレーナー君は駆けている。フォームの差だろうかと思い、試しにトレースするとこれは上手くいった。

 脚運びのコツを得た所で、目の前で楽しそうに走っている彼女を追い抜くため、狙いを定める。

 

 ペースをカウントしながら脚を貯め、私のほうが有利になるコーナーに入った。

 

 コースの外周に生えている木々の壁が視界から遠のいた。コーナーを抜け、長い直線がすべて視野の中央に収まった――!

 

 目測でおおよそ200m1ハロン。仕掛け時を確認できたため、集中して一呼吸置き、溜めていた脚を炸裂させた!

 

"――――――っここだ!!"

 

       ――あと100!

   ――あと60!

 

 風を切る感触が気にならないくらい、思考の中だけはスローモーションに感じている。そしてトレースしたフォームをアレンジし、一気に距離を詰めていく!

 

"――(とら)えたっ!――"

 

 振り返らず、気力振り絞って逃げ切ろうとしていた彼女の横を一閃――!

 抜き去った!!

 

"――勝った!!!! ――"

 

「もうちょっと頑張れるとおもったのにいいいい!」

「私の勝ちだ!!」

 

 抜き去ったタイミングとは少し遅れ、彼女は実に悔しそうな絶叫を上げている。

 

 私は減速しながら彼女に軽く首だけ振り向いて、勝利を宣言。

 そしてクールダウンに入った彼女を横並べに迎えるため、私もゆっくりと更に速度を落としはじめた――。




◆用語まとめと解説――読み飛ばし可

【セレーネー】(お馬さんの表現は置き換え)
 獅子座の獅子を育み、ウマ娘を侍らせた全能にして豊穣を司る絶世の女神。
 ()()()()()()()()を司る。()()を象徴している。

諸説あり、セレーネ―神満月説、ルナ神三日月説を採用です。

【アハルテケ】(実在データ)
 色々な毛並みがあるが、有名なのは"黄金の毛並み"。
 血統的にはかなり古いです。
 伝承によると汗血馬の子孫らしいです。
 RPG風にたとえて覚えるなら『HPゲージが底なし』

 またバイアリーターク号は史実馬のシンボリルドルフ号などのご先祖様に当たりますが、このバイアリーターク号がトルコマン、もしくはアハルテケでは?という説があるそうです。

 ※ウマ娘の法則と合わせて設定した妄想中のギミックに繋がります。シンボリルドルフさんがお嬢様に対し、非常に強く惹かれ合う理由は実はここからです。共通先祖どころか三大祖の大元がお相手。ジャパンカップでの出会いはさぞ強烈な事件だったでしょうね。

 原産はザックリ行くとトルクメニスタン――漫画『乙嫁語り』の舞台でもあります。カスピ海沿岸ですね。

※お嬢様とその養父のご先祖様はおおよそこの辺りから、ゴールドラッシュ直前のアメリカに諸事情あって移住していると設定。


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『望月』月と芝と嘘つきと【後編】

前半ルドルフ視点です。後半トレーナー視点となります。

生徒会の役職は公式で裏取りできたものを今回載せています。


 月明りの森で競い合ったその後、クールダウンかける。その並走中、彼女にアレやコレやと聞こうとした。

 

 しかし、トレーナー君は『明日話すから』と、早く寮に帰るよう私を促してくる。

 

 彼女のその判断は正しい。

 

 しかし私は気分的に話をしたかった。私は門限の連絡は済んでいる事を伝え、『少し話したいから、一緒に月見でもしないか?』と誘う。すると、彼女は渋々(しぶしぶ)な態度ではあったが、ここに残ることを許可してくれた。

 

 先にグラウンドで待っているよう彼女は私に指示を出し、彼女は手荷物を取りにどこかに消えていった。

 

 それが数分ほど前の事。

 グラウンドの入り口から、ほんの少し入った芝の上に腰を落ち着け、私は彼女を待っている。

 

 そして退屈(たいくつ)しのぎに先ほどの月下の試合に思いを()せていた。

 普段優雅に歩く彼女があそこまで走れるとは。私は口元に満足感を浮かべ、月を仰ぎ見る。

 

 高い位置で()わえられたその髪は、月の光の中で揺れる度、サファイアが煌めくような"青"を放っていた。

 宝石のような輝きを放つ黒髪に、思わず手を伸ばしたくなる。そんな衝動に強く心をかき乱された。

 

"――そして何より実力も悪くない――"

 

 貴重な血筋を持つその青き閃光が、ターフを突っ切る姿を己の目にじっくり収めたい。機会があればまた競争がしたい。そう思うほどアハルテケを感じさせる特徴を持つ、彼女の走る姿には惹きつけられるものがあった。

 

 そして更に数分が経過したころだろうか?

 

 トレーナー君は青いスポーツドリンクボトルひとつと、スポーツタオルを片手に戻ってきた。そして私の左隣の芝の上に、そっと腰を下ろして並んだ。

 

「使って下さい」

 

 彼女はひと組しかないボトルとタオルを私に差し出した。

 

「それは君の分だろう? 貰ってしまっては悪い」

「アハルテケの血が守ってくれるので、多少の渇きは平気なんです。お気遣いありがとうございます。遠慮しないでください」

「わかった。こちらこそ気遣いをありがとう。では、頂くよ?」

 

 私が補給をしている間、トレーナー君は月を見上げている。その横顔はさわやかな余韻を感じるすっきりとした表情だった。

 半分渡そうかと思って声をかけたが『私はトレーナーで、あなたはアスリートなのだから』と、そのまま全部飲むように勧められてしまった。

 

 補給し終わった後、彼女に先ほどは何故煽ったのか尋ねることにした。

 

「どうして先ほどは(あお)ってきたんだい?」

「少し走りたい気分だったから、勝負してみようかなと思いまして――」

「なるほど。初めて君が全力で駆け抜ける所を見たが、思った以上にスピードもあってこちらも楽しめたよ」

「ふふ、それはこちらも何より。ところで、外周コースを走ってみた感想はいかがでしたか?」

 

 今の質問から考えるに、このコースの設営に、彼女が関わっているのだろうか? 気になった私は感想を述べるついでに尋ねることにした。

 

「鍛錬になりそうだ。根の下まで深く沈み非常に走りにくい。……ところで、この練習場の設営には、君が直接関わっているのかい?」

 

 トレーナー君は桜の優しい雰囲気のような微笑みを浮かべ、私の回答に答え始めた――。

 

「ええ、そうですよ。仮契約の後秋川理事長と相談して草原練習場と、外周コースを設計しました。一旦グランドの下の諸々を撤去。外周コース含めコースの土を総入れ替え。外周の2400mは、もとの地形を生かす。これでヨーロッパ並みの高低差かつ、自然に近い『坂道』を作り出せる。芝はうちの財閥が普段他に卸しているものを転用しました。詳細は明日理事長より発表があります」

「ふむ、つまり今の情報から察するに、ヨーロッパ攻略を想定したアイルランドのような草原練習場。ある程度土側の条件まで近づけた、洋芝のコースを作っていたと?」

「そうです。アイルランドに習った練習コース設計だと、今の情報でわかる所が流石ですね。今日のトレーニングでルドルフに試走してもらう予定だったんです。キャンセルになったので、先程私が代わりに走っていたんですよ」

 

 それは惜しい事をした。彼女とコミュニケーションを取る機会を、私はみすみす逃してしまったようだ。

 過ぎてしまったことは仕方ないと、がっかりしていた気分を切り替える。

 そして、そんな大工事をしていたというのに、私にはひと欠片も情報が入っていなかった。その疑問を彼女へと返す。

 

「何故練習場を作っていたことを、私に教えてくれなかったんだい?」

「……ごめんなさい。サプライズしたかったんです。本当は誕生日にできたらなって感じだったんですが、ずれてしまいました」

 

 誕生日にトレーナー君からは既に『世界ジョーク辞典』を貰っていた。しかし本命はこちらだったようであった。

 

「なるほど。しかし学園にはそこそこ設備はあるが、それでもあちらで勝つには足りないと?」

「ええ。ヨーロッパでも勝つとなると、やはり慣らしが必要です。利用者の安全上、完全に同じには出来ませんでしたが、ここがあるとないではきっと結果は違います」

 

 

 その理由に納得した。しかし、資金調達はどうしたのだろうか?

 既に財閥からは学園にはとんでもない額の寄付まで頂いている。ふと気になってもう少し聞き出してみることに。

 

「ここを作ったお金はどうしたんだい?」

「私の貯金です。財閥でのバイト代金をずっと貯めていたものと、最近の内職分です」

「ずいぶんスケールの大きなバイト代のようだが……。まさか君……無理などしていないだろうな?」

 

 私もワーカーホリック気味で、ひとの事を言えたものではないが、不安になり耳が前に垂れる。その様子をみた彼女は、ゆっくりと首を左右に振って否定した。

 

「いつもより気合い入れて資金調達はしましたが、無理まではしていませんよ」

 

 どうやらこのコースを作るために、いつの間にか仕事を増やしたらしい。それで最近の眠そうにしていたのかと、色々と腑に落ちる。そんな彼女の心遣いに、春の夜の肌寒さを感じている、私の胸の内は温かくなった。

 

 

「――ありがとうトレーナー君。そこまでしてくれたのならば、私も君の真心に応えられるようより一層頑張らねばな」

 

 彼女が私のために粉骨砕身(ふんこつさいしん)してくれた事が素直に嬉しい。

 一見するとトレーナー君は、何でも涼しげに突破しているように見える。しかし、彼女が人一倍努力しようとしている姿を、この短い間で私は何度も目撃している。

 

 それでいて何の苦労も愚痴も語らず、常に優しくほほ笑んでいる。――立派なものだ。

 

「しかし、貰っておいて聞くのもどうかと思うが……。ペレニアルライグラスは夏枯れを起こしてしまうのではないか?」

 

 今度はここを見つけたときの疑問をトレーナー君にぶつけてみる。この芝は本来、関東に植えても維持できないはずだ――。

 

「これは改良型のペレニアルライグラスです。本州の南までなら、余裕で夏を越せる程度に耐暑性を上げた品種となります。私がシューズブランド立ち上げる条件として、養父から課題として出され、開発と日本での販路開拓を任された財閥(うち)の商品です。私の最初の開発品です」

 

 私の左隣に座っていたトレーナー君は、地面に手を当てて視線を落とす。そして芝を優しい手つきでゆっくりとなでた。

 

「ふむ。夏枯れを起こさないペレニアルともなれば、さぞ売れただろう?」

 

 そう尋ねると同時にトレーナー君の表情は一変。何か思い出したくないような、言いにくそうな雰囲気を漂わせはじめた……。

 

 そして気まずそうに視線を左側へと泳がせる……。

 

"――しまった! まずい話題だったか……! ――"

 

 やってしまった……!!

 トレーナー君がウマ娘ならば、耳も尾も垂れて、うなだれてそうなこの空気!

 それをなんとかリカバーする方法を、私が必死に考える間流れる気まずい沈黙。

 

 しかし、先に口を開いたのは彼女だった。

 

「いいえ。…………見事なまでの大爆死でした」

 

 トレーナー君の顔色はかなり酷い物であった。それは苛烈な戦場で何か悪い物でも見た、帰還兵を彷彿させる雰囲気を漂わせている。

 

 相当な大失敗だったのだろう……。

 

 そうと分かれば話題を変える方がベターだ。

 

 しかし、その原因が何故なのか気になってしまった。

 

「何故――? こんないい芝なら幾らでも売れるだろう? 牧草としても高い需要があるはずだが?」

 

 私は『押すな』とかかれたボタンを、押したくなる衝動のまま、彼女にその話の続きを促してしまった。

 

「………販路確保する前に、開発と生産を見切り発車してしまいました。……生き恥です――っ」

 

 トレーナー君は『嗚呼』(あゝ)といわんばかりに声にならない声を上げ、勢いよく両手で顔を覆った。

 

 どうやら余程のことだったようだ。

 彼女の丸い耳は赤く染まり、うつむき、大変恥ずかしそうにしていいる。

 

 その姿からは『やってしまったああああ』といったところだろうか? そんな嘆きの声が、今にも聞こえてきそうだった。

 

 まさに青天の霹靂(へきれき)

 随分とうっかりした理由に、私も唖然(あぜん)とした。仕事に関しては几帳面かつ慎重で。優秀な彼女がまさかそんな失敗をしていたなどとは、夢にも思わなかった――。

 

「それは……まあ、うん。失敗は誰にでもある。しかし、それではなぜブランドを始める許可が降りたんだい?」

「失敗が悔しすぎて手分けして営業かけて、なんとか赤字は回避しギリギリ合格しました。今でこそ売れて少しずつ利益を伸ばしていますが、心臓に悪かったです。未熟だったころの最大の失敗なんですよ」

 

 どうやら私は彼女のトラウマを深く抉ってしまったようだ。好奇心故に迂闊な事をしてしまい、とても申し訳ない気持ちになる。

 

満身創痍(まんしんそうい)だが、結果オーライだったという事か。リカバリーできただけでも良しとしようじゃないか?」

 

"――……ん? ……まんしん ?――"

 

 いいものが出来上がりそうだ。ここは1つ、ジョークで元気を出してもらおうか!

 閃きと同時に私の耳は大きく動き、渾身の作品を彼女に披露すべく私は胸を張った。

 

「油断の意味の慢心とかけて、慢心創痍(まんしんそうい)だな」

「……」

 

 トレーナー君は手から顔を離し、ゆっくりと私を見つめた。

 その表情はまるで未確認生命体(UMA)でも見たかのような、ポカーンとした顔をしていた。

 数秒ほど眉を(ひそ)め、難しい事でも考える様に首を傾げる。そして自身の胸の前で彼女はポンと手を打つ。

 

「――――……あ! そういうことですか! 今日はキレッキレの日ですね。よく出来ていると思います!」

「そうだろう? 本当にいい具合にできた!」

 

"――どうやらジョークは大成功だったようだ!――"

 

 しおれかけた花が水を得て、活力がもどったように元気になった。そんな彼女を見て私は安心した。

 そして私たちはふたりで顔を見合わせ、月明りの中で笑いあう。

 

 メイクデビューまであと3ヶ月ほど。トレーナー君とならば、初陣はきっと良いものになるだろう。

 草原の香りと空気に包まれながら、私は心を躍らせた――。

 

   ◆  ◇  ◇

 

 談笑のあと、ルドルフは私を寮へ送ってくれると申し出てくれた。

 けれど、それは立場上受け入れることは出来ない。断りを入れ、渋るルドルフを先ほど美浦寮に送り届けた。

 

 そして私は月夜の道を進み、『待ち合わせ場所』へと向かう。

 

 ルドルフと競い走って遊んだ直後のことだった。

 ドリンクを置いていた位置に戻った際、アプリに『例のモノ』が出来たと『情報屋』から連絡が来ていた。

 

 "職業倫理上の観点"から門限に近い時間に来てもらうのは良くない。よって、期日前報酬は"本日分"も入れて支払うので、受け渡しは明日に。そう返信し提案した。

 

 しかし、即返ってきた返答は、門限越える手続きをした。月見花見の散歩ついでだから出向く。……強引に押し切られてしまった。

 

 学生も職員帰り、警備の人も詰所に戻っている。

 辺りは私以外の気配もない。

 

 ――締め忘れた蛇口から水滴がしたたり、その音がただ響くだけ。

 

 その中で、私は学園の女神像のに佇み、約束のした時間になるのを待っていた。

 髪を高く結んだままにしていると痛くなる。少し夜風に通したかったので、まとめていたゴムを外し下ろした。

 

 髪を暫くそよがせていると、私の他少しずつ、

 

 

   ――何者かの気配がこの空間に溶け込み始める。

 

「待たせたな! いやーてっきり会長様とのデートでぇ、アタシとのデートはすっぽかされるかと思ったぜー!」

 

 この場に蹄鉄の音がカツン、カツンと、ゆっくりとした歩調を表しながら軽く響いた。

 

 私は音へゆっくりと振り向く――。

 

 その存在は建物で出来るひと(きわ)青が深い影を抜けてくる。

 

 月明りのなか、その姿が照らされはじめた――。

 

 闇の海から浮かび上がったその表情は、結んだ唇が笑みを表す弧を描いている。そして、目立つ長身に学生服。

 

 月明りに輝く、白い髪を軽くそよがせた声の主――――。

 学園のエンターティナーことゴールドシップが、月光をスポットライトの様に浴び、レッドカーペットの上を歩くスターのように颯爽と現れた。

 

 

「こんな時間に学生の身分の貴方を来させてしまい、申し訳ございません。あと、デートではないです。断じて。というか、見ていらっしゃったんですね?」

 

 私が眉を顰めゴールドシップを見つめる。すると彼女はすっとぼけた表情を浮かべた。そして両手の平を自らの顔の横から少し離し上に向け、左右に揺れた後くるりと回る。

 

「ばっちり見たぜ! アタシの他にはだーんれも来なかったぞぉー? なあアレ号外にしてもいい?」

「お客様第1主義者の貴方ならしないでしょう?」

 

 ゴールドシップは絶対にお客は裏切らない。

 なぜならゴールドシップは破天荒なエンターティナーだから。

 

「おー? 相変わらず良い読みしてんな? 流石皇帝が直々に迎えにいって、その寵愛(ちょうあい)を一身に受ける生真面目なお嬢様(トレーナー)だけあるなぁ」

 

 ゴールドシップはそういって、あごの下に左手の人差し指と親指だけ伸ばし、うんうんと頷いている。そんな彼女の様子に、思わず呆れ一色のため息が出てしまう。

 

「入職早々、スキャンダルで『文秋砲』の餌食になり、一発大破だけはしたくないですよ?」

「なるほど! アタシに因んだ船の言い回しナイスぅ! 座布団10まーい! ドンドンパフパフ! ぱちぱちぱち! だ、け、ど、相変わらずぶれない上にお堅いなぁ。……ほら。バイト代は永世中立国の口座に『()()()()()』と、『GOLDEN』(素晴らしい)の組み変え合わせでよろしくぅ! 振り込みおくれんなよ? 遅れたら、ゴルちゃん! お客様をダートに沈めちゃうぞっ☆」

 

 私はゴールドシップから記憶媒体を受け取った。ゴールドシップは頭の後ろで腕を組み、ニヤリと大胆不敵な笑顔を浮かべて見下ろしている。

 私は通信アプリを開いて財閥の部下に指示をとばす。

 

「期日前報酬を含めたバイト代の振り込み指示を飛ばしました。――遅くとも明日の朝には振り込まれるかと」

「流石ぁーそこにしびれるあこがれなーい! でも、なんでそんな回りくどい事するんだよぉ? アンタなら単独でも解決できるんじゃね? 50個の星の国旗んとこのエライオッサンの養女だし? 可愛くお・ね・が・い☆ すれば逆らえないだろうここの上は」

 

 ゴールドシップは私を斜め下に見下ろし余裕の表情を浮かべている。頭のいい彼女ことだ、おそらくこの態度は『わかっていて聞いている』のだろう。

 

「そんなことを何にも悪くない人たちにできませんよ。……変わることへの不安は誰にだってだってあります」

 

 私が来たことで、今を守りたいだけの人たちを不安がらせてしまった。

 それは私の望む所ではない。そしてその恐怖は最悪の場合、ルドルフの覇道を(はば)んでしまう結果を招くだろう。それは生徒会長を担う彼女の汚点になりかねない。

 

 学園の現在の組織図は悪くない。

 長い目で見れば豊かな組織にもなる。しかし、停滞を恐れフリーエージェントを安易に乱用すればどうなる? 外からの刺激になるどころか、いつか教育的な問題を引き起こしかねない。

 

 ――ただ、それなら今のままで良いかといえばそうでもない。

 

 いつかは見直し、問題があれば逐次(ちくじ)変えければ不満が溜まってしまう。

 私に取り巻いている気配の中に、その旗印として利用する何者かの意図が、時折含まれている事に気付かないほど、私は(おろ)かではない。

 そして、それはルドルフの為にも、最善の形に収めなければならない。

 

 ――だからこその腹の探り合いや人脈作りが必要だった。

 

「――明日もしかしたら、話し合える人とも、話し合えなくなってしまいます。あと」

「あと……? なんだよぉ! もったいぶんなっつーの! 脚溜めんな!はやくぅ!はやく教えてくれよぉ!!」

 

 ゴールドシップは私の目の前で地団太をふんだり、ふざける様におどけている。

 

「いちトレーナーが、理事側と生徒会の在り方に関わるような、根幹部に関わる仕事を奪うのは越権行為です」

 

 理事長にはたづなさんがいる。『シンボリルドルフ生徒会長』には、副会長のエアグルーヴやナリタブライアンがきちんと支えている。

 

 そこに余計な手出しをする事は、私の矜持が許さない。自分で考える事が出来る子供たちから、考えることを奪う。それはいささか過保護がすぎる。

 

 ルドルフは――自分で道を見出す事が出来る。私はそう信じてる。

 

 頼まれた意見書と考えるために、必要な"聞き()らしてはいけない声”のデータまとめて渡せば、あとは理事とルドルフが対処しなければならない。

 

 求められればヒントを出す。それ以上は蛇足だ。余程、何か支障がある事でなければ、干渉すべきではない。

 

「不満の声のうち、ルドルフや私では手が届かない所を集めてくれて、ありがとうございます」

「こんなもん朝飯前だぜぃ☆ ――ゴールドシップの情報屋サービスの、またのご利用お待ちしております――」

 

 謎のテンションからの丁寧語でのお礼。それをいい終えると、今度はマナー教師のお手本のような綺麗なお辞儀をゴールドシップは決めた。そして彼女は自身のそんな姿がツボに入ったのか、両手を何度か目の前で打ちつけ笑っている。

 

 

"――そもそも私は『噓つき』だから偉そうにする資格はないんですよ――"

 

 最初はただ、助けてくれた養父やウマ娘に恩返しがしたかった。

 

 それだけだった――。

 

 過程を飛ばし目標だけ見て勉強し、実績を積み重ねていた。その愚直(ぐちょく)な行為の結果、気付けばギネスに載り、この世界の人類史の努力を踏みにじっていた。

 

 生まれ変わった分積み重ねがあるだけ。お嬢様っていうのも、たまたま運に恵まれただけ――!

 

 本当は天才になんかきっと到底及ばない……。

 

 そしてルドルフから私への憧れを聞いた時、照れるのは一瞬だけ。すぐに気まずさと罪悪感、そして申し訳なさが直後から胸を突いた――。

 

 未だに私はルドルフの憧れの、あの光景には居る資格があったのかわからない――……っ。

 

 鼻と目じりに湿り気とツンとした気分を(まと)いそうになる。制御の弱い感情に叱責を入れ、みっともないと感じるそれらを引っ込める。

 

"――天才という称号は、目の前のゴールドシップのほうが余程ふさわしい。彼女は間違いなく天才だ――"

 

 生まれ変わる前は管理の関係で嘘をつけなかった。そして嘘をつくことが、こんなにも苦しいとこの世界に来て初めて理解した。

 

"――これが嘘をついた人の心の痛みなんだと……――"

 

 分相応の見た目のせいで目立ってしまった。

 

 けれど人脈づくり以外は出しゃばらず、謙虚に誠実に生きていきたい。

 先人の知識をどうしても助けたくてやむなく使うこともあった。しかし、その後猛烈な罪悪感を感じた。そういう厚かましい行動をとり続ければ、物理的には満たさるが心は荒んでゆく。

 

 だからずっと勉強し続け、自分の力の底を上げようともがき続けた。そして無理やり痛む心のまま、己に発破をかけて開き直ろうともした。

 

 一度世の中に対し天才だって嘘をついたんだから最後まで、意地でも『偽りでも天才』で在ってやりたい。自分で背負ったから、期待されているからには、嘆いている場合ではない。

 

 その道を歩むたびに心がズキズキと痛むけど、振り向いている暇なんてない。

 

"――開き直っている私が、他人を糾弾(きゅうだん)する資格なんてないんだよ!――"

 

 笑い終えたゴールドシップは胸の前で両腕を曲げ、くねくねと腰をくねらせながら動きこういった。

 

「いいってことよー! ホントにぶれねぇなぁ! ……ゴルシちゃんもそこまで想ってくれるトレーナーがほしいなぁ☆」

 

 ゴールドシップは足は楽に開き、左手は腰に当て、右手は胸より少し高い位置で弧を描くように動かしながら指をぱちーんとならした。

 

「――まだ見つかりそうにないですか……?」

 

 ゴールドシップは中々よき理解者に恵まれないらしい。そのためトレーナー探しが難航していると聞いたことがあった。心配になり声をかけると、頭の後ろで手を組むゴールドシップの目元と口元の形が綺麗な笑顔に変わる。

 

「お? 心配してくれんの? サンキューな! ……まあ、私の事を理解してくれる奴が来るまで待つよ。――――せっかく()()()()()()()()んだしさ

「―――え?」

 

 強く吹いた一陣の風により、木々が観衆のように騒がしく()れる。その音で掻き消えて一部聞こえなかった――。

 

 ゴールドシップは少し寂しげな気配をまとい、最後に何かを言っていた。

 

 いつもと様子の違う彼女に対し、心配だなと思っていたら……。

 

 ゴールドシップは私に対し急にヘッドロックを決めた!

 そしてガシガシぐりぐり! と、私の髪が乱れるのも構わず、頭をなで繰り回す。

 

「ちょ! やめなさいゴールドシップさん!」

「よっしゃー捕獲ゲット――――!! 隙ありぃ!! 思った通り! お前めっちゃ触り心地いいなー髪! いいなー会長様は、こんな健気なトレーナーと出会えて! 」

「っ! うわっぁ!」

 

 そして今度は素早く両脇に手を通され、高々と持ち上げられた。

 彼女は私を下から見上げながら、真剣な表情を浮かべる――。

 

 そんな彼女の瞳に、私の不安げな表情が反射していた。

 隠していたつもりがどうやらバレバレだった。それに気付き余計にショックを受ける。

 

「……つか、アタシの事よりもまずもっと自分を大事にしろ。じゃないといつか後悔するぞ? "セレーネー(満月)の癖に裏はヘカテイア(新月)なトレーナー()()()" 」

「……えと……お気遣いありがとうございます……?」

 

 また途中何か言ってい。しかしそれは、聴覚が人間並みの私には、聞き取れる領域にない音だった。

 ゴールドシップは口元と目元をニッとでも効果音が付きそうな、いい笑顔を浮かべた。そして私を下ろし頭をポンと左手で一度撫で――。

 

「じゃあなぁー! 忍び込んで帰るし、ばれっから見送りいらねーわ。アンタもさっさと帰れよー?」

 

 ゴールドシップは私から離れると、ウキウキとしたステップを踏みながら、足早に駆け去っていく。

 意味深なようで、途中ハイテンション。意味深でもないような、そうでもないような……。ゴールドシップの発言の意図意味全てが分からない。そんな堂々巡りの思考のせいで頭の中で私は迷子になった。

 

 そして、ただ立ち止まっている髪の乱れた私が、女神像の前にしばらくの間残された――。

 


【ヘカテイア】

 またの名をペルセースの娘。ペルセースは太陽神へ―リオスの子。

 カナリアやトラキアで信仰されていた()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()、即ち()()を司る。

 

 人々に成功を与える女神で、他の神々よりも真っ先に祈ればそのご利益は増す。

 司るのは ()()と――セレーネーよりも()()()()()





【考証的な設定】――読み飛ばし可
 ・坂路の申し子ミホノブルボンさんを考えるとまだ
  坂路という表現はなしが無難
  『坂道』とさせていただきました。

 ・現代の日本には草原調教施設や
  芝の坂路が日高にはあるみたいです。

 ・ペレニアルは品種改良により、
  耐暑性が上がったものが実際にはあるみたい。
  それよりさらにチートペレニア(架空)にしてみました。

 ・日本と海外の馬場の違いは何て言うかコースの土の下の部分まで違う。

 ・トレーナー君は慣らすことで対策をしようとしています。

 ※坂路自体はシンボリ牧場の千葉拠点にあった。
  それを参考に栗東に作った経緯があるそうです。

■変更履歴
 ゴールドシップさんのセリフ中の国旗の星の数を51から50に誤字のため変更しました。
 誤字発見へのご協力ありがとうございました。

 改行調整


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【幕間】月色の"葦"毛は怪しげに微笑む

ゴールドシップ視点です


 朝には振り込まれるだろうバイト代を楽しみにしながら、綺麗なお月様の下を軽いステップを踏みながら駆けていく。

 

 そして栗東の寮まで辿り着いた。

 

 今日は何となく窓から出入りしたい気分だった。

 自分の部屋の窓を見上げると、童話ラプンツェルの髪のようなロープが垂れさがっている。それを使って『なんちゃら3世』の真似して外壁をするすると登りきる。

 

 物音を立てないようロープを回収し、窓を閉める。で、このなげぇやつは適当にベッドの下に滑らせて隠した。

 

 靴を脱ぎ、ベッドのサイドボードに帽子と頭飾りを外して置く。

 制服は適当にハンガーにかけ、他はランドリーバスケットにダンクシュート!

 

"――今日もきまったぜぃ☆ ――"

 

 パリコレをイメージした、赤いナイトウェアの上下にお着換えして、ルームシューズを履く。朝、玄関で靴を履く時にばれる可能性を考え、次のミッションコンプリートへ向け、行動を移していく。

 

"――視界良好! 異常なーし! ヨーソローぅ! ――"

 

 寮長サマに気取られぬよう、慎重に物音に注意しながら進む。門限越えの手続きをしてるし問題ないないんだけどな?

 

 けど、いちいち声をかけられたら気分的にめんどくせーじゃん。

 

 月明りを頼りに窓の外の風の音しか聞こえない。――深く青い青い、静粛が支配する廊下や階段を経て、靴箱に靴を戻し終えて『寮長サマに見つかるな!』のクエストをクリアした。

 

 全て上手くいった。肩の力をぬるっと抜き、アタシはマイ☆スイートルームに戻っていった――。

 

   ◆  ◇  ◇

 

 今日はひとりしかいない部屋に戻ると、そこも廊下と同じ月明りと青に染まっていた。

 

 月明りを頼りに壁にかかった時計で時刻を確認する。

 時刻は深夜0時を少し過ぎ……シンデレラの魔法がとけちゃう時間だな。

 

 そして消灯していないことがばれないよーに、カーテンをゆっくりと閉める。

 

 光が遮断されたことで夜の青がより一層深くなる。その闇の中、いかにも学生って感じの机の前にアタシはしゃがみんだ。そして一番大きく、深い引き出しを慎重に開ける。

 中から、教材入りのプラスチックボックスを抜き出し床にそっと置く。

 

 空っぽになった引き出しに作った偽の底板を外し、赤の大学ノート『ゴルちゃんの探偵手帳』と表紙に書かれたそれを取り出した。

 

 そしてしばらくそのままの姿勢で、揚げパン戦争をする前の懐かしさに浸りたかったから、そのタイトルを見つめた。

 

 すると、アタシ同じ名前の謎生物の記憶。ハイパー違和感が生まれた、その当時の記憶がよみがえってきた――。

 

 アタシがきゃわゆい3歳児の頃、そんな多感な時期にだよ?

 自分と同じ名前の謎生物の記憶を見つけた。

 

 びっくりしたぜ! 

 

 で、レースがしたくて学園に入学するじゃん? 謎生物の断片的な記憶から『聞いたことがある名前のやつ』もいるんだぞ?

 ゴルシちゃんいよいよ混乱しちまったよ。

 

 頭がイカレチマッタと本気で疑うくらいにな……。

 

 教材の入ったボックスを、邪魔にならない場所に置き、引き出しを閉める。

 

 その間も何者かの記憶がじり脚のように侵食してくる。モノクロから少しずつ色がついて鮮やかに。燻ぶったお線香の煙のように、脳みその中で煩わしくも煙たく立ち昇り続けてている。

 

 観衆の前に仁王立ちすれば、喜んでスマホを構える人間たち。その光景のどこにもウマ娘はいない、人間以外はでけぇ鹿に似たシルエットだけの謎生物。

 

 ――いつ思い出しても奇妙で不思議な記憶だった。

 

"――ウマ娘が居ないのはおいといてだ。謎生物の思い出ラインナップは一体どうなってんだよ――"

 

 それはふざけた時のアタシみたいに、シッチャカメッチャカ。

 わけがわからねーよとぼやき、ノートを机の上に置いた。そして椅子を引いて机に身体を近づける。

 

 アタシは右手で軽く額を抑えた。そして顔にかかったモヤを振り払うよう、軽く首を振って燻ぶるそれ搔き消した。

 

 机の右端にあるシンプルな卓上照明を灯す。

 青い空間の机周りにそっと暖色の丸い光が滲みだす。

 

 その滲みだした光の中でノートめくった。最初から情報を精査するため、最初のページを開き情報を辿る。

 

 左は表紙の裏で、右の片側だけしかない最初のページには――。

 


2 X   X   X 年 5月 まつ


ごる しちゃ ん3さ い の とき   なぞの のきお くと であった


 

 そのページの下の方には、同じ日に張り付けた古い新聞記事の切り抜きがある。

 子供が切ったようなジグザグとした切り口。不器用に切り取られた切り抜きは、薄い紙を液体ノリで張り付けられ、それ特有の波打ちをノートに残している。

 

 そしてこれまた切り抜きの上には、子供のような字で日付が書き込まれている。劣化した紙質には年月が刻まれていた。

 

"――ガキの頃の字……下手糞だな――"

 

 懐かしい気持ちへひたひたミルクインクッキーしながら、アタシはそれを見つめる。

 


2 X   X   X 年 5月 ま つ


『日本産まれの天才、9歳で大学、高校ダブル卒業!!』

――――は望月町で拾われ、―――で―――現オルドゥーズ財閥総帥秘書、元障害レース部門の世界大会覇者である、アハルテケのウマ娘"白真珠"のマハスティ氏(24)に拾われ自治体により、望月――と名付けられた。エメラルド様の瞳を持つ半人半バ(スマグラディ・セントウル)だと判明―――はマハスティ氏の務め先オルドゥーズ財閥の養女として――。将来の夢は――――。


 

 そう。当時この記事を見る少し前の番組のニュースに映る会長のトレーナー(お嬢様)は、明らかに他の天才児とは違ってた。

 

 そして時々、天才って呼ばれるタイミングで嫌がる顔を一瞬浮かべてやがった。――褒められてるのに何で嫌がるんだよ。

 

"――仕草に子供らしさが全くねぇ。他の天才児の映像をウマチューブで見比べたけど、あからさまになんか違げぇ――"

 

 両腕を組み少し、天井のシミを数える訳でもなく見上げ、目を細めてうなる。

 

"――そんな違和感に気付けたのはアタシは広く浅く、雑学っつーのか? まあ勉強することが好きだからだ――"

 

 赤いボディに金色の金具がついたペンを筆箱から取り出した。それをくるくると右手で回しながら、思考も一緒に皿回ししていく――。

 

"――そして……同じ名前の謎生物。断片的な情報から判断すると、ある憶測から想像力が膨らんでってワクワクした。そしてこの怪しい天才児。もしかしたら中身は人間かも? つーことで、アタシは追っかけてみることにしたんだけどぉー  ――"

 

 右手に持ったペン尻で右後頭部を少し搔いた。

 草木は爆睡なう。時計の秒針の進む音以外聞こえない。オーディエンスもおらず、静まり返る室内の中。

 

 

 乾いた液ノリでパリッとしている紙の音を響かせ、

 

  ――次のページをめくる。

 

 このページは神話についてだ。

 児童向けの教養本のページを印刷したような切り抜きが、左右のページ2面に張り付けられている。その左側のページ部分にまず目を向ける。

 


しりょ う : ウ マ む すめ の神 話


 むかしむかし、あるところにウマむすめの神たちがいました。

 さいしょは何もしないで、のんびりしていた神さまたちのうち、三人のウマむすめの女神たちが中心となりこの世界を作り、植物や生き物、自分たちによく似たウマむすめ、そしてウマむすめたちの友だちとして、にんげんを一番さいごに作りました。

 神さまたちは、神さまの世界からたましいを連れてきて、ウマむすめのお母さんのおなかの中にたましいが入ると、その子どもはウマむすめとして生まれてくるようにしました。

 そして神さまが名まえをさずけていると、生まれたあとに思い出すようになりました。


 

"――ここと謎生物のアレから色々と深読みができる訳だ……――"

 

 アタシは腕を組み2回頷いた。そして背中がゴルゴルに凝りそうだったので、二足歩行のチーターみたいに、のびーっと両手を高く上げながら伸ばして姿勢を戻した。

 それから問題のノート右側の神話にも目を向ける。それは粘土板に刻まれた発掘品の写しで、中々見つからなかった情報のひとつだ。

 

 


しりょ う : セント ウ ルの 神  話


オ×コ××ア×××ン神とセントウル

 むかしむかし、いたずらが大好きな芦毛の神さまは、役目がなくてたいくつしていました。

 そこで他の神さまに金のりんごを与え、夢中になっている内にウマむすめとして生まれるはずの赤ちゃんに、にんげんの魂をいれてしまいました。神さまたちは気付いてあわてましたが、赤ちゃんはすでに生まれてしまいました。

 にんげんの見た目なのに、力はウマむすめになってしまったその子どもはウマむすめとにんげんに受け入れられ、そしてよりウマむすめとにんげんをなかよくしました。

 いたずらにおこっていた他の神さまたちはみんなが仲よくなれるならと、ウマむすめとにんげんのきずなが深いところにセントウルをつくりだすようになりました


 

 楔形文字に書かれたそれはこの国ではマイナーな神話。

 

 ――半人半バ(セントウル)の創世神話についての資料は、この石板の写しのみ。

 

 アイツら何なんだよマジで。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 半人半バ(セントウル)半人半バ(セントウル)同士かウマ娘と人、もしくはウマ娘と半人半バ(セントウル)からしか産まれねぇ。

 

 神話とかアタシの体験を考えるに、お嬢様の中身はやっぱ人間か? あと、あの大人びすぎてる様子から、見た目よりはずーっと歳はいってる。

 

 つまりアタシと同じ、何らかの記憶がぶっこまれてる存在ってことか? いや、違うな。多分創作モノとかの転生者って線もあるか。

 

 お嬢様は完成され過ぎてる。別の存在が脳内ルームシェアリングしてるようなら、もっと未完成さが目立つはずだ。

 

 つか普通半人半バ(セントウル)やウマ娘は親子の情が強いから捨てられるのは稀。ってことはアイツの親、なんかやべーのに巻き込まれたのか?

 

"――まあ、わかんねーけどさ……あんま触れないほうが良いか――"

 

 更にペンを持った右手で次のページをめくる。このページは学園で集めた状況記録が手書きで集められている。

 


・場所:特になし   所作にがさつさが無い


 

 謎生物の記憶上、他の謎生物と名前が一致するやつで、××が同じならガサツさはない。だが××が《変わっちまった奴》はどんなに丁寧な所作を心がけても、どっかしらに特徴が残る場合がある。

 

 アイツの場合それはない。お嬢だからかもしれないが、メディアでたどれる範囲まで情報探してみた。けど、まだ躾が甘いはずの3歳段階とか見る限り動作は完全に女の子。

 生まれ変わりなら間違いなく『元は女』だろう。

 

 しっかし、その動画を見ても違和感がバリバリ。しっかり者の範囲を超えてんだよ。――そんな棒演技じゃ、デミグラスハンバーグ賞はとれねーぞ?

 

 あの映像記録を思い出しながら腕を組み、うんうんとひとり頷く。

 

 そして次に同じページ内のその下の情報に目を移した。

 


・場所:カフェテリア 箸の持ち方に違和感

・場所:カフェテリア 日本の学生文化に詳しすぎる


 

 カフェテリアのが一番引っかかる。

 

 3歳からアメリカにいたはずなのに? なんで箸が使いこなせるんだよぉっ!

 

 最初お嬢サマなら習うのかとおもったけどぉ……。どーも綺麗な持ち方じゃなくて、綺麗には見えるが少し癖があるんだよなぁー。

 

 なんつーか、家庭的な感じってやつ?

 もしマナー講師が教えてるならあり得ない。一流のお嬢様が天才バカ凡なミスするかって話。

 

 アタシは腕を組んみ、右斜め上ほにゃらら度の角度で天上を見上げる。そしてその時のことを頭の中に巻き戻してからのリピートした。

 

 ぶっこまれてる中身は日本人か? ってその場であたりをつけた。そんな賢いアタシは、そのままある話題を吹っ掛けてみた。

 

 そう、『合唱コンクール』の話題をな――。

 

 日本の学生なら当たり前って感じっつー文化でだろ?海外でもやってはいるみてーだけど、アメリカではねぇからな。

 

 そしたら3歳までしかいなかった癖に『コンクールでよく歌われている歌』まで知ってるっておかしくね? しかもその場でマイナーなやつ歌ってやったら曲名を当てやがった。

 

"――くっそ怪しいなぁーまじで! 面白れぇ! ――"

 

 そして次はその下に記載された情報メモに目を通す。それはあのお嬢様が、会長サマのための情報収集で、アタシを頼ってきたときのものだった。

 


・場所:新聞部の部室 取引した時の雰囲気

・場所:トレーナー室 知識量は凡人以上


 

"――実際接してみると天才っつーより秀才だなぁありゃ――"

 

 多分アタシのほうが頭の回転数が数倍以上上だ。

 

 『情報屋』を引き受ける条件として、『お茶』に誘ってみた。

 

 んだ・け・どーぅ……。

 

 将棋や色々試したけど凡人の域を出ねぇ。上振れしてても、秀才の上ってところだな。

 

 ペンを机に戻し、腕を組んだまま少し机から距離を離す。そしてくるくると座っている椅子を回転させる。いったん頭をホワイトアウト。

 

 ワンブレスいれてからのーそん時会話で振ったある話題を思い出した。

 

"――天才ってわざと褒めたらやっぱ一瞬顔を曇らせてるし? 地力を見るために会長サマがいねぇ間に会いに行って、色々雑学だったり試させてもらったけどん……――"

 

 質問に対しての答え方は理路整然としていた。そしてかなり難しい質問を差し向けても、完璧な回答を打ち返してくる。

 

 結果、現在の地力は相当高けぇのがわかった。――発想が普通なのに? 

 

 芝の販路を確保しないでポカるような小娘が、アメリカの9歳で高校と大学をダブル合格できんのかって話。

 

 そんなに商売甘かねぇよ!

 

 どう考えても倍の年月はかかる感じだしぃ? ってことは、元々積み重ねがある可能性がいよいよ高けぇ。――まだまだ状況証拠は不十分だけどよ。

 

"――お前は、どこから迷い込んで来たんだ? ――"

 

 ここまでのメモを見て、腕を組み左手をあごの下にLの字に延ばした指添える。そして思考回路を回転させる。

 

まだ決定打に欠ける。だけど多分アイツ……。

 

"――アタシでいう謎生物がメインになってるやつだ。小説家になろーぜのチート勇者かなんかが近い――"

 

 机の上に放り出されていたペンを握る。そして今日の出来事もそのページの一番最後に書き足す――。

 

・場所:旧第三グラウンド

 芝の販路開拓する前に開発を見切り発車するくらい間抜け

 ※シューズブランド立ち上げは14歳の頃 芝の開発はそれより前。

 

 停止した蒸気機関のように胸から大きく呼吸を吐き出した。ペンは机の上に放置プレイ……せずにペン立てに戻す。

 

そして『ゴルちゃんの探偵手帳』を二重底の引き出しに戻す。その上に教材入りのボックスを置き、引き出しをそっと閉じる。

 

   ◇  ◆  ◇

 

 深夜の月明りがカーテン越しにしか入らない、ブルーライトが差す空間の中。

 ……脚の着地を慎重に慎重に行いながら、ルームシューズを脱いで部屋の右側にあるベッドの上の布団をめくる。そしてそっと掛け布団の中に入り、枕の間に曲げた腕を差し込み横向きに寝た。

 

"――しかし、なんであんな苦しそうな顔するんだろうな――"

 

 天才って呼ばれるのだってさぁーヨイショされりゃラッキーなんだからよ。貰えるもんは貰っときゃいいだろう。まぁ、性格が真面目過ぎて生きづらいんだろうなぁ

 

"――まあ、そういう人間は、嫌いじゃないけど――"

 

 目をつむりながら下にする腕を組みかえ、壁とは逆の方に寝返りを打った。

 接した感じもアタシの事を馬鹿にしたり、騙そうとしない。アイツの中身が人間なら好ましい奴の部類だ。

 

 やれやれ手間がかかる。そんな気分を含めた呆れ色の呼吸、なんとかの型を短く吐き出す。

 

 つかさ、嫌なら背負わねーで振り落とせばいい

 

  んだ……よ……

 

 このゴルシ様みてーに……

 

   な……

 

 まどろみが深くなり、答えが出ないその思考を投錨して強制終了。

 そのまま潜水艦みたく、爆睡へ沈んでいこうとした。

 

 時だった……。

 

 

"――!! あ!! ――"

 

 忘れていたことを思い出し、布団をはねのけ勢いよく起き上がった。

 

 そして机の方に忍び足で近づき、また机の照明を急いでつける。

 机右側の薄い一番上の引き出しから『定期報告書☆』という、文字の書かれた赤いシールの張られたクリアファイルを取り出した。

 そして中にストックしておいた、テンプレート用紙を取り出す。

 

"――やべ! 締め切り明日じゃねーか!! ――"

 

 いっけねー! もうひとりの先約のお客様依頼! わすれてたぁ!

 

 机の上のペン立てから、赤いボディのボールペンを1本引き抜いた!

 

 ――空が白みだすまでは4時間前後。夜明けまでなら既に残り5時間を切った。

 もうひとりのお客様の『定期監視報告書』の期限は死守しないとヤバイ。約束破ったら、SE雷ドカーンどころじゃねえ!

 

"――すっとぼけて怒らせると、めっちゃ怖いからなぁ――"

 

 阪神の最終直線で追い込みをかけるよう、アタシはペンを走らせた――。

 




■変更履歴
 表現を一部置き換え。


■素材元等
楔形文字ワープロ くりごはん3.6様
http://yunzu.qee.jp/cunei/

挿絵素材元 かわいいフリー素材集 いらすとや様
https://www.irasutoya.com/
※利用規約範囲内での利用です。

以降 近況報告の参考資料元での紹介とさせていただきます。
2021/06/21

ネタバレってほどでもないけどモチーフ。
葦が噂しているという童話をどこかで聞いたことはありませんか?



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『初陣』嵐迫るメイクデビュー【前編】

アニメ版などの街並みを見る限り、電車などの交通網、防災における治水などの技術は今の時代程度かなと。そんな感じで行きます。


前半トレーナー君視点、後半ルドルフ視点です。




――20××年7月22日 午後15時半頃――

――新潟レース場併設 関係者宿泊施設内403号室――

 

"――最悪だわ――"

 

 新潟レース場併設のURAが関係者のために用意した宿泊施設。

 その4階の女性スタッフ及び、女性トレーナーエリアの403号室――内装はどこにでもありそうなシングルベッド付きのビジネスホテルのような部屋に私はひとり泊まっている。

 

 スーツは脱いで簡易クローゼットに直ちに収納。シンプルな白Tシャツ、そして青のシンプルなジャージのスウェットパンツに着替え終わったのは、ルドルフとの昼食から帰った後――12時半頃だった。

 

 その後ビジネスホテル風のベッドの上に思いきり、資料や新聞紙やらを広げてかれこれ3時間。枕側から見てベッドの左サイド中央に腰かけ、実に様々なことに対し頭を悩ませていた。

 

"――勘弁してよー……"

 

 ひとしきり唸ったあと、ベッドサイドに腰かけて座っていた状態から、両手で持っていたシルバーのタブレットの画面を切り、ぽいっと自身の右に軽く放った。それと同時にもはやお手上げかもしれないという心境を絵にしたような、両手を万歳ー! の状態を華麗に決め――時間差で仰向けにベッドに倒れ込んだ。

 

 そしてクリーム色の室内用スリッパを足で払って脱ぎ散らかし、足を曲げてベッドの上に引っ込めながら体全体を左にひねる。軽く左向きに丸まるような姿勢で寝返りを打ち、左腕を軽く曲げて頭の下に置いた。そのまま視線の先――散らかしていた新聞紙の束のひとつを右手で取る。

 

4つ折りにされたまま片手でとった面から見える新聞のタイトルはこうだ。

 


2XXX年7月23日


『前線北上! 島根など山陰一帯に断続的な雨』

『―河川今夜から明日未明にかけ、危険水域に到達か―』


 

 

 今私とルドルフが居る新潟よりもやや南方。

 21日頃の福井県や石川県の24時間あたりに降った雨量は福井約66mmと石川約73mm。

 

 今年の本州の梅雨入りは6月半ば。

 そして7月の頭に日本の南海上に停滞していたその梅雨の前線が北上。その際九州を中心に各地で大雨が降りがけ崩れも発生していた。

 更に6月から今にかけて北日本では、オホーツク海側から例年以上に寒気こと『やませ』がなだれ込んだ。そのため今年の新潟は例年よりもずっと涼しく、若干肌寒い日があるほどであった。

 それを示すかのように、ここ3日の新潟市における平均気温は約25.6度で平年と比べればおよそ4度ほど低い。

 

 7月の7日から14日。北日本が寒気の影響で寒くなった事により梅雨前線は日本の南海上に一度引っ込んだ。そしてレース予定地である新潟における一般的な梅雨明け時期は、7月20日~21日頃、遅くとも22日頃だった。

 

 予定していたメイクデビュー新潟には梅雨は開ける――私もルドルフもそう思っていた。

 

"――そういうのって、フラグなのよね――"

 

 ふう――と、ため息をつき新聞をポイっとまたベッドの枕の方に軽く投げた。

 仰向けになり自身の甘さを悔やみ、軽く歯をかみしめながら結んでいない髪の毛――耳の上あたりの毛をくしゃりと両手で軽く掴む。

 

 太平洋高気圧――その高気圧は東京から見て南東あたり、つまり天気予報全国マップ上だと画面右下のはるか洋上に存在する。いわゆる夏特有の"蒸し暑い晴れ"を連れてくる空気の塊のことだ。

 

 その真夏の空気の塊が15日ごろから"よっこいしょ"と言わんばかりに勢力を拡大。それに伴いこの梅雨前線はこの高気圧から下から持ち上げるように押し上げてられてしまう。

 晴れをもたらすその高気圧が今回ばかりは余計なお世話をしてくれた。おかげで前線が再び本州に向かって北上してきてしまった。このため今年の梅雨は寒気を伴い、かつ長梅雨、その最後は"暴れ梅雨"とならんとする勢いである。

 

"――まるで東京を何回も上陸して襲いに来る、あの"デッカイ黒い恐竜"みたい――"

 

 髪を軽く掴んでいた両手の力を抜き、今度は右向きに身体を軽く曲げる姿勢で寝返りを打つ。

 

 そしてルドルフと私のいる新潟でも今月の14日から天気がぐずつきはじめていた。

 20日から同地は雨は降ったりやんだりを繰り返し、1日当たりの雨量は20日には24時間で約41mm。21日に約26mm、本日22日に1mmといった一見すると大したことが無いように見てしまうが……。

 

"――本州の真ん中あたりを横切る梅雨の停滞前線。この前線を洋上の太平洋高気圧が予想を超えて押し上げた場合、前線の位置が今より北上してくるはず――こちらの寒気の強さを考えると、今夜中にそれが押し負けていきなりの北上は無いとは思いたいけれど、それはあくまでも"願望"でしかない――"

 

 もし仮に太平洋高気圧が寒気を打ち負かし梅雨前線が急速に北上してきた場合、23日は断続的に雨が降り続く中でのレースになるのは目に見えている。

 最悪の場合集中豪雨になる可能性も考えなくてはならない。

 天気に"絶対"はないのだから――。

 

"――災害クラスの豪雨ともなると、全国トップの水捌けを誇る新潟競技場でも厄介か――"

 

 そんな災害に匹敵する冷たい雨の中を走らなければいけないルドルフの体調が何よりも心配だ。

 しかしその雨の中でも走らねば、競わねばならないのが"ウマ娘"という"アスリートたち"だ――それを止めるということがルドルフの誇りを傷つけるであろうことを、わかっている私にはその選択を選ぶことは難しい。

 

 それに後先への思慮を放棄し、ルドルフの安全のみを考えて止めてみたとしても……きっと彼女は己の戦場に向かうだろうから見守ることしかできない。

 

 多少の豪雨ならば開催もあるが災害級となり観客や選手の安全が確保できない場合、URAやさらに上の国の判断次第ではレース自体が行われないこともあり得る。そうなった場合北海道の函館か、秋の中山でのメイクデビューに切り替えることも考えなくてはならない。

 

"――この土地の武将、直江兼続も引用してる言葉だけれど、"天の時。地の利。人の和。"という戦略成功の為の三要素。そのうち天の時と地の利が、規格外の梅雨で押し流されるように全てひっくり返ってしまいそうね……――"

 

 一旦放心したかのように天井を10数秒ほど見つめた。

 そしてゆっくりと肺に空気を送り、吐きだし…それを静かに……静かに繰り返した。

 

 室内には壁掛け時計の秒針がカチカチと響き渡るのみとなる。

 

 迷走から瞑想へ。私の意識は思考の階層の深みにゆっくり歩みを進めた。

 そして思考の回廊の中を立ち止まったかの感覚を受け、その回廊の深みに向いていた視線を、ゆっくり現実に向けて振り返るように向ける――意識はゆるゆると現実に浮上し、迷走していた思考が一瞬クリアとなる。

 

 そして、その解となるものを吐いた。

 

 

"――残るのは人の和。ルドルフと私、お互いのチームワークと地力のみ――"

 

 

 大きく長い溜息をついてもう一度軽く唸りながら体を軽くばたつかせた。そして足をのばし両腕をお手上げ万歳にして背中を伸ばす。

 

"――夕飯後のミーティングで相談してそれからかな――"

 

 私は考えるのをやめ一旦完全に脱力して寝ころんだ。

 どうにもならない天気の事を考えすぎて疲れてぼーっとした頭で、その体勢でのまま――軽く左右に首を傾けつつ、瞼を開くのも億劫になってきた両目でゆっくり見まわした。

 

"――派手に散らかしちゃった。片付け面倒だなぁ……――"

 

 そんな面倒な現実から目をそらすように、また右を向いて手足を軽く投げだし軽く背を曲げ楽な姿勢で横になる。

 

 そしてしばらくもしない内――シンプルながら寝心地の良いベットに沈む右半身、その沈み込む感触がまるで沼地に沈み込んでいくようなものに思えるほど、まどろみの先に誘われかける――。

 

 強烈なまどろみがこのように迫り来るのも無理はない。

 東京のトレセン学園を8時に出て、午前9時台の東京駅発の上越新幹線を利用し、新潟駅まで1時間半ほどの旅路。そしてその後駅からタクシーでここについたのが午前11時頃。先発して送っておいた隣の部屋にある荷物確認を1時間で済ませる。

 

 その後ルドルフの食事のため施設内のレストランに向かい――帰ってきて今まで唸り倒していたのだから。

 

 

"――16時まであと……15? ふ……ん?――"

 

 身体を軽く起こすように動かして、左ベッドサイドから正面に見える壁掛け時計を見やる。

 時刻は15時45分ごろを示していた――ここで寝てしまうと18時の夕食に遅れてしまう可能性がでてくる。

 

 しかし抗えないほどの睡魔が迫る状況で、私は再びベッドに右向きに寝転がってしまう。

 じわじわと意識に疲労からくるそれが滲み、浸透してくる眠気から無意識に瞼を閉じようとしてしまう――。

 

 瞼を軽く閉じる度の暗転との数回以内の攻防の後、結局――私は画面の電源を切られたタブレットのように、プツリ――と意識を落とした――。

 

   ◆  ◇  ◇

 

――7月22日 午後16時半頃――

―― 新潟レース場併設 関係者宿泊施設内6階 607号室――

 

 トレーナー君と昼食を共にした後宿泊施設内併設の屋内設備で、試合前日の軽いウォーミングアップ程度のメニューをこなし終わったのは今からおおよそ1時間ほど前のことだ。

 

 ひとりでそれらをこなしたのは特段トレーナー君を付き添わせる理由もないのと、彼女にも仕事があるだろうという配慮で決めたことだった。

 

 そんな軽いメニューを終えウマ娘用の宿泊エリア6階の607号室に戻ってきたのは55分前。

 汗を流すためにシャワーを浴び――館内着として持ってきたお気に入りの"アジダース"の黒いダジャレTシャツと、洗い替えの学園仕様の赤ジャージのスウェットパンツに着替え、髪を乾かし終わったところだった。

 

 洗い物はできれば部屋にため込むよりも洗ってしまいたいため、汗にまみれた洗濯物のうち小物類はランドリーネットに入れる。それらをビニール素材で出来た小さ目の、トートバックタイプのエコバックに近い形状のランドリーバックに詰め込んだ。

 

 そして持っていこうと予めベッドの上に置いておいた、茶色い琥珀の美しい皮が特徴的な長財布を右手に持つ。ベッドの左隣にあるサイドテーブルの上に置いておいた、タッチ式ルームカードキーの入った透明無色のビニール素材で出来た、カードホルダーの黒いネックレスストラップ紐を首にぶらさげた。

 

 ドア付近50センチくらいの位置で、クリーム色の室内用のスリッパを脱いだ。

 そして館内用の臙脂色(えんじいろ)のスリッパに履き替え――ランドリーバックを手にフロアに出る。

 

 フロアの左手にある601号室方面に、赤い絨毯に白い壁の――量産型のビジネスホテルのような内装の廊下を進むと、突き当りでランドリーコーナーへと行きついた。

 設置された洗濯用の設備のうち空いているところを探し自分の洗濯物を放り込んだ。

 見たところ10個ある洗濯用のみの設備のうち、既に7つほど先客で埋まっていた。

 

"――ふむ……皆真剣そうで何よりだ! その熱意に負けぬよう私も明日は結果を残さねば――"

 

 感心した気持ちで口元に軽い笑みを浮かべ腕を組み、軽く頷くよう頭を動かした。そして、そうしながらも壁に貼られたランドリー設備の使い方の説明に軽く目を通す。どうやら柔軟剤や洗剤類は自動で追加されるらしく硬貨を投入口に入れて設定し――そのまま回した。

 

 水音が響き洗剤も投入され――ゆっくりと、自身が持ってきた洗い物が洗濯されていくのをしばし眺める――。

 

"――ふふっ。動く様がなんとも面白くてつい、いつも見てしまうな――"

 

 そんな子供染みた事をしてしまった自分自身の態度を鼻で笑いながら、取り出し口のドアの左にある――ランドリーバックをひっかける金具にそれを引っかけた。

 

"――もうこんな時間か――"

 

 ランドリーコーナーの黒縁のシンプルな壁掛け時計の時刻は16時42分を指していた。

 18時にはこの施設の2階にある食堂でトレーナー君と夕食を共にする約束をしている。

 そしてその約束相手のトレーナー君はというと、本日の昼食時の様子がここ数日内で一番のうわの空だった。それでもこなすべき役割をきちんと果たし、仕事の方はできているので特段の問題は無いのだが――。

 

 

"――今日の昼食時、食事量が明らかに少なすぎた――"

 

 6か月接してみてわかったことがある。

 トレーナー君は信頼を置いた相手の前では純真無垢(じゅんしんむく)で、考えていることが表情や仕草から実にわかりやすくなる特徴がある。まさに頭隠して尻隠さずといった丸見えな様子から、そんな無警戒なところから私に対する信頼度が伺い知れそれはそれで喜ばしいことなのだが――。

 

 しかし、そんな信頼を置いた状態でも今度は心配させまいと隠し事をし、それが分かる癖がある。

 今日共にした昼のように"食事量がぐっと減り、食べなくなってしまう"事だ。

 半人半バ(セントウル)のトレーナー君はウマ娘の私より少し少ないくらいの食事量を食べる。

 それでも人間よりはたくさん食べるはずなのだが、何か抱え込んだり、何らかの研究に没頭している場合は人間の1食分以下にまで落ちる。

 

 つまるところ廃寝忘食(はいしんぼうしょく)の状態にほぼなってしまう。

 3日3晩食べず飲まず、砂漠すら超えるという半分入ったアハルテケのウマ娘の血筋からくる、規格外のステイヤーとしての底なしの体力――そのせいかトレーナー君は無茶が利き過ぎてしまう。

 

"――体力の持ちが桁違いなせいで、色々と感覚が狂いやすいのだろう――"

 

 様子を窺えば心配させないように隠そうとするので余計に気になってしまう。

 しかし、普段トレーナー君は私に対し、私が踏み込んでほしくない所に踏み込まないでいてくれている。だからこそ様子を見ながらに留めてきたのだ――それが私なりの誇り高くあろうとする、範を示そうと必死に頑張るトレーナー君への敬意だった。

 

 しかし――。

 

"――昼の様子はどう見ても深刻そうだった――"

 

 『困った……どうしよう』そんな声が聞こえてきそうな雰囲気が、思いっきりトレーナー君の顔に張り付いていた……やはり表情だけは通常運転で非常にわかりやすい。

 

"――夕食前だが少しトレーナー君の様子を見てこようか。ばれていないと思い今回も隠そうと頑張っている君には悪いが――"

 

 ランドリーコーナーの奥にある自販機で自分のために冷たいビックボスのブラックのコーヒー。そしてコーヒー党が多いことで有名なアメリカ育ちなのに、何故か紅茶が好きなトレーナー君への差し入れに、冷たい紅茶香伝のミルクティーをひとつ買った。

 歩行中両手が塞がれるのはあまり好きでないため、財布と缶コーヒーををジャージのポケットにしまって、この場を離れフロア真ん中にあるエレベーターの前に歩みを進める。

 

"――またしても間の抜けた一面が掘り起こされ、少々可哀想な事になるかもしれないが……隠した君が悪い――"

 

 エレベーターの前について下向きの三角形のボタンを押す。

 

 私の事を信頼してないわけではない。それはわかってはいるがもう少し私を頼ってほしいものである。以前エアグルーヴに対し過保護が過ぎて叱られてしまったことがあった。あの時私に対して激しい怒りをあらわにした、あの時のエアグルーヴの気持ちが少しわかった気がした。

 

 エレベーターの到着音が静かなフロアに響き両開きの銀色のドアが開く。

 私はエレベーターに乗り込みカードキーをタッチで読み込ませ、移動制限のロックを解除し4階と書かれたボタンを押した。

 

   ◇  ◆  ◇

 

 4階のトレーナーエリアにつき403号室をノックをしても返事が無い。

 

"――居ないのだろうか?――"

 

 中にいる気配はしていた為、耳をそばだてもう一度ノックした直後だった――。

 

――ゴンッ! ゴツ

 

 何やら派手に鈍い音がした……。

 なんというか、差し詰め慌てて飛び起きて落ちたようなぶつかった様な音だった。

 そして痛みで悶絶したような声までもが聞こえる。

 

"――慌てさせてしまったか。可哀想に……音からして大丈夫なんだろうか……?――"

 

 歩幅の乱れた足音がドアの向こうで数歩したあと、また目の前のドアに軽く激突する音がした。流石に大丈夫かと声が出そうになったと同時に部屋のドアが開く。

 

 青ジャージのボトムにTシャツ姿。やや寝ぐせがかった髪のトレーナー君がゆっくりと外開きの扉を開け、ふらりと倒れ落ちるように目の前に現れた。

 

「あっ!」「おっと!」

 

 ドアが開いたのはいいが今度は外に零れ落ちそうになるトレーナー君。

 私は一瞬慌てつつも何も持っていない左腕で抱え支えてキャッチ! おそらく3回目であろう床との激突は避けられた。

 

「ごめんなさい――! 支えてくれてありがとう、ルドルフ」

「構わないよ――休憩中に起こしてしまったかな? 何回か室内でもぶつけていた様だが大丈夫かい?」

 

 寝ぼけ気味のトレーナー君の体勢が落ち着くまで支えた後、きちんと立ったのを確認して彼女の身体から腕を離した。

 

「軽い痛みの余韻は感じますが、何ともな……って!」

寝ぼけ気味だった緩い空気から一気に覚醒した後――。

 

「――まさか私、約束の時間に遅刻しましたか!?」

 

 一瞬で『やらかした!?』と言わんばかりに真っ青になるトレーナー君。

 その様子から寝落ちだったのだろう。

 

「遅刻ではないよ。夕食前に雑談を来てみたんだ――だめかい?」

 

 真っ青かつ我々のように尻尾や耳があれば、毛が逆立っていそうな様子からほっとした雰囲気に戻ったトレーナー君。しかしそれもつかの間――今度は3秒もしない内に部屋を振り返った後、左に視線が泳いだ。そして、軽く部屋を見やりながら凄くばつの悪そうな表情を浮かべ――。

 

 

「――途中で寝ちゃってたから資料で散らかっているんです。それでも良ければ……」

 

 どうやら散らかした部屋を私に見られたくなかったらしい。

 先ほどの表情はそういう事かと納得と同時に、ふと微笑ましくなり笑みが漏れてしまう。

 

「突然来てしまい寧ろ申し訳ないことをしたね。一生懸命やっていたのだろうから私はそれでも気にしないよ。君こそ良ければ、お言葉に甘えてお邪魔させてもらってもいいかい?」

「――大丈夫です。すぐ片づけますね。どうぞ、入ってください」

 

 私がドアの内側に手を付けるとトレーナー君はドアから手を離した。入り口から少し離れたところで彼女は、フロア用の臙脂色(えんじいろ)のスリッパを脱いで隅に置く。

 

 そして室内用のクリーム色のスリッパに履き替えた後、私の分もすぐ左隣の外套などをつるすスペースの、ウォークインタイプのようなクローゼットから出してくれた――。

 




【解説や考証的な設定】
 ◇気象状況モデル『昭和58年7月豪雨』『山陰集中豪雨』
 1983年7月20日~23日にかけての洪水。
 史実馬のシンボリルドルフ号がデビューした当日周辺に起きた凄まじい暴れ梅雨。

挿絵素材元 かわいいフリー素材集 いらすとや様
https://www.irasutoya.com/
※利用規約範囲内での利用です。以降近況記載の紹介とさせていただきます。
2021/06/21


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『初陣』嵐迫るメイクデビュー【中編】

おまたせしました
前半ルドルフ視点 後半トレーナー君視点


 トレーナー君が出してくれた室内用のスリッパに履き替え、左手に外套や靴をしまうウォークインクローゼット、右手にはユニットバスのあるであろうドアの前を通り、ベッドのある部屋へと入る。

 

 左のテレビやポットの置かれた奥に長細いサイドテーブルには、ノートパソコンが置いてあるだけだが……。

 

"――過ごしていた様子が想像がつくというかなんというか……――"

 

 ベッドの真ん中に横向きに寝たであろう窪みとシワの寄り具合、そのシワから左右にベッドの上へと資料がポンポンと散らかっている。その散らかっている物の内容は新聞やタブレット、あと左上でクリップされた資料の束が適当に散りばめられるように置かれていた。おそらく寛ぎながらも長時間資料とにらみ合っている内に、疲れて寝てしまったのだろう。

 

 トレーナー君は髪をサイドテーブルに置いてあった白い無地のシュシュで、頭の後ろの低い位置で軽くひとつにまとめなおし、散らかっているものをサイドテーブルの方へせっせと片付けはじめた。

 そして片付けているトレーナー君が手に持ったある新聞のタイトルが一瞬だけ私の目にとまる――。

 

"――豪雨の予兆か――"

 

 一瞬みえた新聞のタイトルには島根に豪雨の気配があるといった内容だった。

 今朝方みたニュース曰く、今年の梅雨は例年よりも長く、そしていま島根や山陰を中心に激しい雨を降らせているのだとか? 

 明日の山陰地方における24時間あたりの予想雨量はなんと300mmを超え、今年の梅雨の締めくくりは近年稀に見るような強烈な暴れ梅雨と化していた。

 

"――山陰に両親がいる者もいるかもしれない、学園の者たちの身内は無事だろうか――"

 

 そんな風に関係者の安否を案じている内に、色々なもので散らかっていたベッドの上は綺麗になっていた。

 

「椅子でもベッドでも好きな方に座ってください。飲み物はどうします?」

「ベッド側に座らせてもらうよ。飲み物は持ってきているから大丈夫だ。君にも差し入れを持ってきた――紅茶でよかったかな?」

「! ありがとうございます。これ好きなんですよね――ふふっ」

 

 紅茶香伝の缶を差し出すと甘いもの好きなトレーナー君は、大変嬉しそうに両手で受け取ってくれた。

 そしてベッドサイドの枕側のほうに私が腰かけ、私の右側に頭ひとつくらいの距離を置いて紅茶の差し入れに気を良くしたようにトレーナー君がぽんっと軽く腰かけた。

 

「考え事しすぎてたから丁度良かったです。いただきます!」

「それは何より――こちらも頂かせてもらうよ」

 

 そういってお互いジュースを開ける音を響かせ飲み始める。

 喉も乾いていたのだろう、いつもはじっくり味わうような様子で飲み物を飲むトレーナー君が、それと比べると少し勢いが良い位のペースでミルクティを飲んでいるようだった。

 

「考え事か……昼間も食べないほど考えていた様だが、何を考えていたんだい?」

 

 ミルクティを飲むのに一区切りついたタイミングを見計らい、単刀直入に切り出してみる。

 すると眉を少しひそめて若干困り気味の横顔を浮かべた後、トレーナー君は答えた――。

 

「明日の天気についてです。あまりよくないみたいなので色々と対策やパターンを練っていたら、完全に頭がスイッチが入って食欲がわかなくて」

 

 それからトレーナー君は私に悩んでいた内容をゆっくりと明かしてくれた。

 どうやら先ほど視界に入った新聞の件に絡むもので、明日が相当悪い天気になり得る可能性があるという事、それに伴う様々な調整、作戦立案、そして――

 

「――何よりもルドルフが風邪引かないかなとか、いろいろ心配だったんですよ」

 

 手元の紅茶香伝の缶へと視線を落としたトレーナー君の、缶を握るその両手に少し力がこもった――。

 

 確かに例年よりも強い寒気の影響の中、下手をすれば激しい雨に打たれるかもしれない――それでも私が走るであろうという状況で最善手を考えねばと悩んだのだろう。

 

「そうだな――様々なことを考慮しているであろう君が、結果的に私を止めるという選択肢を取ることはおそらく無いだろう」

 

 トレーナー君のうつむき加減が深まり、手の力がすこしだけさらに強まったように見えたが、私はそのまま言葉をつづけた。

 

「遥々新潟まで来ている観客の事も考えれば、観客の安全性が確保されるのであれば私が出ねばならんのは尚の事。それがウマ娘としての、レースを走るものとしての宿命だからね――だが、そうやってきちんと心配して最善手を探してくれていることを嬉しく思うよ。ありがとう」

 

 そう私が声をかけると、トレーナー君の缶を持つ両手にかかる力が少し抜けたように見えた。そしてやっと――ゆっくりと彼女は私の方へと真夏の草原のような深いエメラルドのような瞳を向けてくれた。

 まだほんの少しだけ不安感が滲む顔だが、少しだけ肩の荷が下りたようなそんな表情だった。きちんと食事をとってもらうにはもう一押し必要そうだ。

 

「私には君もついているのだから大丈夫さ――そうだな、もし雨が降るならば温かい飲み物が飲みたい。それを控え室に用意しておいてほしい」

 

 トレーナー君に続けて安心させるように言葉を選び声をかけると――。

 

「そうですね――雨対策で用意してみます……!」

 

 この所続いている曇天の空からやっと晴れ間の気配がする光が差したような――そんな雰囲気がトレーナー君に漂ってきた。彼女はいわゆる軍師に当たる立場故に当然ギリギリまで悩む必要がある。

 しかしトレーナー君の性格上、非情な決断を下すことは出来ない訳ではないのだろうが、考え方の中心が命を最優先に重視する医者に近い立場故に苦手なのかもしれない。

 

"――まあ、そんな思いやりが深い所が、私にとって非常に好ましいのでもあるのだがね。ふふっ――"

 

 そんな最善を目指し悩みぬく彼女だからこそ、前任において生涯戦績60戦を無傷で突破できたと私は考えている――思考停止や慢心こそが勝負にとっての一番の敵だ。

 

「悩むのがトレーナー君の仕事かもしれないが、もし君が嫌でなければもっと私を頼ってくれ。私たちはコンビなのだから。それに君の不安くらい背負ってみせるさ」

「――トレーナーならもっと堂々としたほうが良いのでしょうね。情けないし成長したい……」

「そんなもので情けないとは思わないさ。もう少し弱さや脆さも見せてくれても大丈夫だ。それに――」

 

 私はベッドサイドから立ち上がり、まだ少し中身の入る缶コーヒーをサイドテーブルに置いた。そしてトレーナー君の前に向き直り、少しひざを折って、彼女の両肩に信頼を形にするように両手を置いて私とは異なる色の瞳同士を合わせた。

 

「私が君を選んだんだから共に頑張っていけばいい」

 

 するといつものトレーナー君のふわりとした、心地よい木漏れ日のような笑顔が見られた。これで大丈夫だろう。

 

「――そうだねっ。そうですね……ありがとう、ルドルフ」

 

 トレーナー君は今のように敬語が一瞬崩れる瞬間が時々ある。

 それは私の伝えたいことが、彼女の心の奥にきちんと届いたのだと思っている――。

 

 もう少し気楽に話してくれてもいいのだが、それは契約を結んでいる間は無理だろう。

 私に対し親しみを持ってくれている崩れている敬語の部分から垣間見える心の奥とは別に、トレーナーとしての矜持から一線を保ち――なるべく丁寧に話そうとしているのだから。

 

 切り替えに成功した様子だし、大丈夫だろうという安堵と共に――ふとあるアイデアが浮かんだ。

 

「そうだ、トレーナー君」

 

 肩に手を置いたまま彼女の瞳をまっすぐにとらえ私はその提案を切り出した――。

 

「? なんですか?」

「てるてる坊主を作らないかい?」

 

 『きょとん』――そんな擬音がトレーナー君の顔に浮かんだような気がして、大変わかりやすいその間の抜けた表情に私は思わず笑いが吹き出してしまった。

 

  ◆  ◇  ◇

 

 ルドルフの提案を受け、泊っている部屋の隣の空き部屋――荷物の多いチームだとふた部屋借りれるため、倉庫として用意された404号室に私は来ていた。

 その部屋で置いてある荷物から目当てのものを探し、雑貨用のスーツケースをあさっている。

 

"――あった!――"

 

 持ち出そうとしているのは、勝負服などが万一破れた際に修復のために癖で持ち歩いているものだった。20センチ四方に高さ4センチくらいの上下で被せて閉じるだけの、無色透明のプラスチックケースに入った簡易ソーイングセット。その蓋は被せているだけなので開いてしまわないように幅広のゴムで留めている。

 

 最初ルドルフの提案では紙を買ってきて作る予定だったのだが、せっかくならと提案してこの部屋に来たのだ。ついでにそのトランクの中にある補修用の布切れの一部をもって、ルドルフの待つ403号室へ戻る。

 

「おまたせ。簡易セットですが大概のものはありますよ。あとひとつ材料を出しますね」

「手間を取らせてすまない。って――簡易というよりそれは本格的の間違いなのでは? 随分と君は物持ちがいいな……」

 

 ベッドに再び腰かけているルドルフの右隣に、愛用しているソーイングセットのケースを置いたところ、誉め言葉のようなひき気味の様な突っ込みをもらった。

 

「ふふっ。癖でレースに行くときは持ち歩いてしまってるんです。破れやすい激しいレースが予想されるような時など、もっと本格的な感じで持っていくときはハンドミシンを持ち込んでますよ」

 

 403号室に戻った私はそんな会話をしながら、さらにその部屋の隅っこに置いていたボストンバックの中を探る。

 

「ハンドミシンならまだ可愛いが――君の場合、レース場の待機室に工業用ミシンを持ち込んでいてもなんら疑問には思わないな」

 

 そう返されたのでわざと私は軽く振り返り、口元に横向きにした三日月のような形と目元に笑みを浮かべ――。

 

「あー……それもいいかもしれませんねぇー……いいアイデア、頂きました」

 

 口元をわざとニヤリと歪ませて、手元を数秒ほど止めて軽く振り返りルドルフにそう返してみた。

 

「! まさか本気で!?」

 

 思った通り驚いたルドルフの声色が『それは本気で言ってるのかい!?』とでも聞こえてきそうな感じで、私の正気を疑うように動揺した。戯れと称して彼女からはよく遊ばれてる気がするので、偶にはやり返させてもらおう。普段やられっぱなしな分中々いい表情の一本を取る事が出来た。

 

「……しかしよく考えると人を押さえて運んでもらうのが面倒ですね。やっぱりやめます」

「一瞬君ならやりかねないと思ってしまったよ――今のはわざとかい?」

「ふふ、それは言えませんねぇー」

 

 ルドルフとそんな冗談でじゃれあいながらも、視線を再び手元に戻して引き続きボストンバックの中から目当てのものを探す。そして広げれば25センチ四方の正方形になる"レースで縁取られたシルクの白いハンカチ"を複数枚取りだした。私の荷物の中に持っていた為こちらをテルテル坊主のメインに使うために。

 

 それを見つけて持ち出し、私はルドルフの右隣に戻ってきて腰掛け、材料を全てをベッドの上に置いた。

 材料は白いレース縁取りのハンカチ、当て布用の白い端切れ、簡易セット内の縫い糸の他、刺繍糸やボタンがいくつか。道具としては各種縫い針、糸切りばさみとコンパクトサイズの裁ちばさみ、針山などがソーイングセット内に入っている。

 

「これだけあればいいものが作れるな。始めようか」

 

ルドルフと私はハンカチを1枚ずつとった。

 

「あ、端切れをこのまま詰めるとちょっと不格好になっちゃいますね。少し加工しますよ」

「ありがとう――しかし、こんなことをするのはいつ振りだったか……」

 

 私はテルテル坊主の頭の中に綺麗に詰めやすいようにするため、白い綿(めん)でできた当て布の端切れを、裁ちばさみで長い柵状に裁断しはじめた。

 

「ルドルフも裁縫を嗜んでいるんですか?」

「ああ、好きというほどではないが嗜みでね。君はどうなんだい?」

「私は仕事と趣味を兼ねてですね。……前任は曲がれない時代によく勝負服を破ってしまう事もありまして――あとは刺繍をしていると落ち着くからです。今でも時々時間があればハンカチとかに刺繍をしたりしていることもありますね――詰めるやつできましたよ」

「ああ、ありがとう。――刺繍というと中央アジアの技法のものかい?」

 

 会話を続けながら裁断した端切れを二人で分けて、ハンカチ中央に置いて、なるべくテルテル坊主の頭の大きさがバランスが良くなるよう調整を重ねていく――。

 

「そうですね。ルーツだからとマハスティから――養父の秘書に教えてもらっていました。あとはそれにアレンジして立体的な刺繍などを我流で少々――って中央アジアの伝統だとよくわかりましたね」

 

 エメラルドの瞳の半人半バ(スマグラディ・セントウル)やアハルテケのウマ娘が多く住む中央アジア。

 そこでは家々で伝統的な刺繍を習い、引き継いでいく伝統がある。日用品の他、嫁いでいく際に婚姻衣装などに刺繍を自分で施すためだ。私は図案を引き継ぐ為の親がいないので、拾ってくれた養父の秘書から図案を引き継がせて貰っている。そしてそこから刺繍の魅力に憑りつかれてしまった――。

 

「アメリカとも、ルーツ元とも文化が違うこの国に来て、君が不安を感じなくて済むようにしたかったんだ。君に半分流れているルーツ、アハルテケのウマ娘たちのことや彼女たちが多く住む国の文化の事も、もう少し知っておこうと思って。」

 

 ルドルフのこういうマメな所は素直に尊敬するし、その気遣いをありがたいと思ってる。

 

"――でも、私の中身は異なる時空の日本人だから、なんか余計な気を回させてしまってる気が――"

 

 そんな事情が何だか手間を取らせてしまって、そこは本当に申し訳ないと思っている。私は今でもお風呂は湯舟派の土足厳禁、花粉の時期はマスクしたいって思っているくらいばっちり日本人だから。あと納豆や卵かけご飯も好き――アメリカで食べてる姿を見られると大体ドン引きされてたけど。

 

"――けれど、それと同時に心にとても温かいものを感じる――"

 

 自我が強くなってから16年ほど経過してもなお、やはり感情というものが新鮮であり、思いやりというものはいつも心が温かくなるものだから――。

 

「ふふっ――そこまでしてくれてたのね。ありがとうございます」

「これくらい問題ないさ。他でもない君の為だ」

 

 うまく丸め真ん中に収めくびれを作り、テルテル坊主の首を刺繍糸でくるくると巻き終わる。私のテルテル坊主は青の糸で巻き、ルドルフの方は緑の糸で巻いている。

アタマのバランスと胴体のバランスのいい顔のないテルテル坊主が、それぞれの手元に完成した。

 

「ふむ? このままでもいいが――少し寂しいな」

「やっぱり顔がある方がいいかもしれませんね……?」

 

 2人してまだのっぺらぼうなテルテル坊主を互いにひとつずつ両手で持ち、それを覗き込みながら思案するように同じ方向の右側へと軽く首をかしげる。

 

「そうだな。では何か表情を作ってみよう」

「それもそうですね。どんな顔にしようか」

 

 ルドルフがどの糸を取るかなと、彼女の綺麗な手元をみていると紫がかったピンクと黒の刺繍糸で目と口を作るようだった。

 

"――ルドルフの色で作ってるのかな。なら私は緑と黒にでもしとくかな――"

 

 そう思い私は緑色と黒の糸を選択して縫い始める。緑色で丸い目を縫い、口元をほんのちょっと口角を上げて縫って完成だ。

 

「――できた」

「私もだ」

 

 ルドルフのテルテル坊主の顔は、紫がかったピンクの糸で丸い点のような目にまつ毛のような横はねがほんの少し足され、口元は自信ありげの表情。若干ドヤ顔気味のそのテルテル坊主は、ジョークが決まった時のルドルフの得意げな表情に何となく似ているような気がした。

 

「そのテルテル坊主は、穏やかな表情をしている時の君の表情に似ているね」

 

 私がまじまじとルドルフの手元に収まるテルテル坊主を見ていた時、ルドルフもまた私のテルテル坊主を見つめていた様であった。

 しかめっ面させるよりほほ笑んだ表情で作っただけなのだが、どうやらルドルフが見ると私のテルテル坊主もまた作り手に似ているように見えたようだ。

 

「瞳の色などが私に色が似てるからそう見えるのかもしれませんね。ルドルフのテルテル坊主もなんだかルドルフに似てる気がします」

「ふふ、まあ自分自身に寄せて作ったからな。そうだ、どうせ飾るのであれば君のテルテル坊主を私の部屋に貰えるかい? お互いに交換といったところでどうだろうか?」

「ええ、構いませんよ」

 

 といってお互いにテルテル坊主を交換し終えたあたりで、壁掛け時計を確認すると食事に行く時間だった18時を、20分ほど過ぎたくらいとなっていた。

 

「あ、そろそろ食事ですね――予定していた時間を過ぎてしまいましたが……」

「まあ楽しかったから良しとしようじゃないか? 施設の食堂は内部の者だけだそうだからジャージでも大丈夫だろう。片づけたらそのまま行こう」

「それもそうですね」

 

 若干ジャージ姿なのはトレーナーとしてだらしない気もしなくもないが、必要のない場面で肩肘張った格好でいるのも、あまり良くないのかもしれないとこのままいくことにした――。

 

 それから二人で片づけて私はソーイングセットを倉庫に戻して戻ってきたら、ルドルフが自分で作ったテルテル坊主を部屋の窓から見える場所に吊るしてくれていた。

 

「――テルテル坊主吊るしてくれたんだ。ありがとうルドルフ」

「どういたしまして。トレーナー君が作ってくれた子の方は、食後のミーティング後に私の部屋に持って帰らせてもらう事にするよ」

「わかったわ。じゃあ食べ終わったらこっちに直帰しますか」

 

 窓の外の空は相変わらず今にも雨が降り出しそうな雲で全面が覆われている。窓に吊るされたテルテル坊主の力を信じ、なるべく降らないよう持ってくれることを祈ろう。ルドルフの門出が無事であるように――。メイクデビューライブまで持つように。会場に来た観客が無事に帰れるように……。

 

「明日は天気が持ってくれるといいですね」

「そうだな。テルテル坊主を二つも吊るしたのだ。ウィニングライブまできっと持つさ――さて、食事に行くとしよう」

 

 ルドルフが先行しスリッパを履き替えて外に出てドアを開けてくれている。私はカードホルダーに入ったルームキーを首から下げ、スリッパをちょっと急ぎ気味に履き替え『ありがとう』とルドルフにお礼を言いつつ室外に出た――。

 

――メイクデビュー新潟 第3R 7月23日11時30分まで――

――あと17時間――



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『初陣』嵐迫るメイクデビュー【後編】

お待たせしました。

レース場は史実、改修前右回り新潟コースです。

【挿絵表示】

参考元――映像資料より描き起こし。

◆出走表◆

【挿絵表示】

アプリ仕様だとG1以下の体操服は枠の色っぽい

史実のレースモチーフです。
前半ルドルフ視点、後半トレーナー君視点です。


――20××年7月23日 午前8時半頃――

――新潟レース場 シンボリルドルフ控室――

 

シンプルな室内にはトレーナー君が持ち込んだ、ローズマリーの香りのアロマが小型ディフューザーから漂っていた。

 

 紺色のパンツスーツのベスト姿のトレーナー君は、左手にドライアーを持ち、右手に持っているブラシで彼女は私の髪を丁寧に手入れしてくれている。

 それは湿度で跳ねた髪で公衆の面前に立ち、恥をかかないようにという私への気遣いであった。

 

「こんな感じかな? 終わりましたよ」

 

 鏡で後ろの方も軽く確認すると、自分でやるよりも良いコンディションで整えられていた。

 

「湿度対策でヘアオイルだけはしておいたが、やはり君にセットしてもらうのが一番いいな」

「それは何より。初陣ですからばっちり決めて頑張りましょう」

 

 そんなトレーナー君も今日は髪型をいつもよりきっちりセットしていた。

 一見すると黒髪に見える――ダークサファイアのような、青い煌めきの光沢を放つトレーナー君の髪。その不思議な輝きを持つシルクのようなその髪の今日のまとめ方は――ヘアカチューシャのように前髪の上にまわした三つ編みを組み合わせた、アレンジシニオンヘアであった。

 

 いつもながら複雑な髪形を自分でまとめるのは、中々根気がいる上に手先が器用だと思う。

 

 トレーナー君は使っていた道具をまとめ、控室の隅に置いてあるキャリーバックの中にしまった。そして鏡台の背後、少し高めの上がり畳に置いてあったジャケットを着なおし、同じ場所に置いてあった銀色のタブレットを持ってこちらに来た。

 

「レース前にミーティング内容の再確認を行います。よろしいですか?」

「構わないよ。続けてくれ」

 

 トレーナー君は私の右隣の丸椅子に座り、現状の確認作業がはじまった。

 

「では――はじめさせていただきます。まず確実と予想される状況の確認です。気候条件は湿度94%、風は西南西で約6m前後。予想気温は約23度前後。バ場は不良。出走選手は10名、内回りで距離1000m向こう正面スタートし、右回りコーナーを2回。最終コーナーから真正面をむいた直線は約1.5ハロン。カーブのきつさが京都並みなので勢い余って吹っ飛び注意です――ここまでよろしいですか?」

 

 2月のミーティング時点では秋の中山でのメイクデビューを予定していた。

 しかし私のトレーニング状況が思ったよりも良かったため、前倒しをトレーナー君に提案し意見を求めたところ『やるならばここは?』と提案されたのが新潟の5ハロン戦だった。

 

 トレーナー君曰く――。

 

 『ワンミスが命取りの5ハロン、そして京都に似た新潟のコーナーを上手く曲がれれば――来年には菊の1等賞が拝めるでしょう。つまり……コーナリングの実践演習には丁度いいでしょうね』

 

 

 短距離戦は私の適正外だと思い、外回りの新潟でマイルか中距離で妥協案を通そうとしたが、『外回りだと難易度下がるし、あえて内回りをやってみるのもありじゃないですか』

とのこと。

 長距離戦のように考える時間のない短距離戦で、一瞬の判断力を試すためでもあるからと言われ、その意見に納得してこの場に臨むということになった――。

 

 流石に災害までは想定外といった感じで、昨日のトレーナー君は狼狽えていたが思いやりが深い反面無意味に甘やかしなどしない。

 出来る者には見守りつつも"獅子の谷落とし"がトレーナー君の教育方針だった。

 

「問題ない――湿度が降りそうなくらい高いが雨は?」

「気象台に問い合わせたところ降ってもぱらつく程度だそうです――続けてもよろしいでしょうか」

「続けてくれ」

 

 トレーナー君は頷いてタブレットを伏せてテーブルの上に置き、真っすぐ私の方に向き直る。

 

「前日の打ちあわせ通りなので確認で。ウォーミングアップは夏頃のメニューよりは軽め、春~梅雨くらいのメニューが推奨で、返しは1ハロン15秒以上くらいのペースに抑え目にお願いします」

 

 返しを行うなら1ハロン15秒以上で走ることを厳守――。

 これが第1回ジャパンカップ敗因のひとつだと聞かされた時は驚いた。

 

 1ハロンを15秒以内で走るとウォーミングアップにならず、むしろウマ娘達の疲労が溜まるという。そのレースに参加していたトレーナー君達は、当時――日本陣営の返しの様子を見た時点で勝利を確信していたという。

 言葉の壁は大きいとトレーナー君は語る。西側では常識とされている新しい概念や最新の研究結果などの知識を、私はここ半年以内に徹底して与えられてきた。

 

「あとは……重たいバ場なので、最終直線までに逃げられると厄介。先行の位置から勝ちを得る感じが理想ですが、この辺りは臨機応変に現場判断でお願いします」

 

 一呼吸置いた間に、トレーナー君が私の様子をうかがう気配がした。

 

「――続けてくれ」

 

「はい。あとはボディークリームは塗りましたか? ――以上です。確認が必要な点はありますか?」

 

「問題ない。渡してくれたものもきちんと使ってある」

 

 トレーナー君がいうボディークリームには秘密がある。UVカット機能付き保温クリームで商品名は『laureate(ローリエト)』。古代ギリシャのピューティア大祭の勝者が戴冠する月桂樹の冠の名の商品は、WHRA(世界ウマ娘レース協会)側にきちんと使用許可を下ろしており、海外でも使える用品だ。

 

 季節によって成分が異なるボディークリーム。塗っておくと水をはじき、体温を適度に保ち、日焼けによる消耗も抑える。そんな画期的なスポーツ用品だった。

そして私が渡されたのは美肌成分入りでとても使い心地がいい。

 

 企画製作したのはトレーナー君ではないが、オルドゥーズ財閥の商品であった。

 人間の長距離選手が膝の裏や関節部に体温低下を抑えるため、ワセリンやオリーブオイルを塗るという手段から発案したそうだ。価格は学生でも手が出しやすい200ml約3千円程度。季節天候、アレルギーにあわせ20パターンほどのラインナップがあり、本日使っているプロ仕様のオーダー品は5万円相当のものらしい。

 

 日本ではまだメジャーではないが、海外ではなかなかの売れ行きらしいその商品を、私の為にトレーナー君が日本天候用モデルを開発指示してくれていたのであった。

 

"――まるで便利な道具が出てくるポケットでも持っているようだ――"

 

 そう、子供たちに大人気の"青い狸型ロボット"のようだ。

 タイムマシンすら出てくるのではないかと思えてしまうくらい、それが私の普通になりつつある。そうなっても全く違和感が無かった。

 

「大丈夫そうですね。レース後は打ち合わせ通りにクールダウンをかけて下さい。以上です」

「委細承知した」

 

 そう伝えるとトレーナー君は室内の壁掛け時計と、ポケットから取り出した細工の美しい銀色の懐中時計を確認し――。

 

「――少し早いですが、レース後まで私は失礼した方がいいでしょうか?」

「トレーナーとはいえ君も未成年。ひとりで外に居る方が心配なのでこの場にいてくれ」

「お気遣いありがとうございます。では、お言葉に甘えさせてもらいますね」

 

 私も時刻を確認すると午前9時丁度だった。

 パドックに向かう時間は10時半。本バ場入場前の軽めのウォーミングアップも考慮しても、まだ20分ほど時間に余裕がある。

 

"――暇つぶしに雑談でもしよう――"

 

「そういえば、私の勝負服の採寸はいつ頃になるのだろうか?」

「メイクデビュー後の申請となります。今から1か月半後か2か月後くらいに予定を入れたいと思います――私たちが目標にしているG1は翌年4月半ばの皐月賞ですし」

 

 初回は出走予定の6か月前。ジュニアG1に参戦予定のない陣営は遅らせてくれと、URA側のデザイナーからお願いされている。

 G1以下のレースでは全員学園指定の体操服にゼッケン姿で行われる――今日の私の勝負服も例にもれず緑と白の体操服だ。

 

「選手のイメージで作ると聞いているがどんな服が仕上がるだろうか?」

 

 そう私が言うとトレーナー君は考える様に首を傾げた後――。

 

「先人だとシバタケオーが王様っぽい感じでしたし、ルドルフの場合は神聖ローマ国のルドルフ1世あたりからとって――あだ名通り皇帝っぽい衣装とか?」

 

 私が思い出した名前、『シンボリルドルフ』に近い名の人間――神聖ローマ国のルドルフ1世。私はルナと呼ばれることが無くなった後、ここから皇帝とあだ名されシンボリルドルフと呼ばれるようになったのだった。まあ、正確には『王』らしいがな?

 

「衣装負けしないように励まねばな。マント等が付いていたり、君の言うような仕上がりになっていたらさぞ良い物だろうね」

「もし王道まっしぐらな皇帝っぽい衣装でしたら――試しにルドルフへの呼びかけを陛下(Eure Majestät)と変えてみますか?」

 

 『テヘペロ』そんな擬音が、トレーナー君のいたずらっぽい表情から聞こえてきそうだ。

 

「それを許可してしまうと君は本気で女侍従(Meierin)になりきってしまいそうだな」

「そうですねー。やるなら徹底的にやるかもしれません! それはそれで面白そうなので」

「だと思ったよ。面白そうだが肩が凝るのでその提案は却下だ――いつも通りで頼む」

「ふふっ――はーい」

 

 戯れのような会話を20分程つづけた後、私は最終ウォーミングアップへ、トレーナー君は取材対応へとそれぞれの持ち場へとついた――。

 

   ◆  ◇  ◇

 

――20××年7月23日 午前11時頃――

――新潟レース場パドックとスタンドの間の野外――

 

 頬をなでる湿り気を含んだ草地の香りを含む西南西の風は、寒気を伴っていない。

 気温は依然として例年より低いが災害級の雨という最悪の事態はやってこなさそうだった。

 

 記者対応の後、控室に戻り、上がり畳の上に施術用マット、携帯超音波装置とある秘密兵器をセット。その後パドックのルドルフを見送り、私は黒の双眼鏡を右手にスタンド正面へ向かっていた。

 スタンドの建物内の1Fに入るとこの曇天だというのに、そこそこの数の観客が集まっている。そんな人々の合間を縫い私はスタンド正面の芝の立見席に進む。

 

"――この状況ならルドルフは確実に勝つだろう、心拍数をはじめ色々と桁違いだし――"

 

 短距離戦もこなせるであろうルドルフの身体能力の他、彼女には他にも天与の能力ともいえるべき才能があった。

 

 通常――軽量系のウマ娘の心拍数は、安静時の1分間に30~36回。

 半人半バ(セントウル)も似たようなところで、この数字が低くそして交感神経と副交感神経のコントロールがうまい者ほど、走行能力は高くなるし特に長距離戦においての適正も高くなる。

 

 だが。

 

"――ルドルフの安静時における1分間の心拍数は27――"

"――絶対的な将来が約束されたウマ娘だと思った――"

 

 日本のトレセン学園が私に声をかけたのは他国に比べ遅かった方だった――。

 私のリスト入り情報が出た直後――アイルランド、イギリス、フランスから素早い問い合わせがきていた。さらにその殺到から30分後に日本の学園からのお誘いというか、懇願にも近い問い合わせが来ていたという構図だった。

 

 一向に収拾がつかないため、交渉担当者を通じて担当予定候補のウマ娘のデータ諸々を各国の学園から送ってもらい、選考のために集めた膨大なデータを流し読みする中で、シンボリルドルフというウマ娘のデータに目が止まったのだった。

 記載された神経系の強さ、心肺能力が高く他すべてが能力値が平均して高く卒がない。他に断りを入れるだけの科学的根拠を伴う、将来を確約された力がルドルフにはあった。

 

 ルドルフの判断速度とコーナリングの能力を試すためのメイクデビュー新潟。

彼女が一体どんな風にこのレースを攻略するのかとても楽しみである。

 

 スタンドの建物の外の最前列にたどり着いた。

 ゴールに最も近いフェンス前に右足を少し前に出し、いわゆる『休め』の姿勢でその場に立つ。

 

 空を見上げると曇り空は全体的に広がっているもののまだ大丈夫そうだ。

 

 ジャケットの内ポケットから、銀細工の懐中時計を開き時刻を確認すると、時刻は出走の20分前――11時10分ごろを差していた。

 確認の後懐中時計の蓋をいったん閉じ、ジャケットの内ポケットにしまいつつ本バ場入場の入り口を見据える。

 

『第3競走、出走選手入場です! 新潟第3レースはメイクデビュー新潟ジュニアクラスのレース。芝1000m10名で争われます――1枠1番マインスフラッシュ』

 

 アナウンスが鳴り響きメイクデビュー用の音楽が会場にかかり、本バ場入場が始まった。

 ルドルフの登場を待ちながら他のウマ娘たちの様子を観察する。

 

"――2枠2番の子は結構調子が良さそうね――"

 

 タカネサクラ――栗毛の彼女は三番人気である。見たところ先行逃げ切りタイプのような感じである。

 

『6枠6番シンボリルドルフ』

 

 1番人気のルドルフの登場で会場の熱気と歓声が一気にヒートアップした。

 その声にこたえるようルドルフは観客を見上げ余裕の笑みを浮かべて軽く手を振った。

 そして、ちらりと私の方を見て『行ってくる』と口元を動かしたように見えた。

 

「――きっと貴方が勝つよ」

 

 そう私も発するとこの歓声の中聞き分けているのか、口元を読んだのかルドルフは微笑みを浮かべたまま頷いた後――レースに集中した真剣な表情になり軽めのウォーミングアップを行い始める。

 

"――問題ない感じね――"

 

 前に教えたことを参考にしながらルドルフはそれらをこなしていて安心した。

 そして各選手の最終ウォーミングアップが終わった後、再びアナウンスが始まった。

 

『あいにくの曇り空となりましたが、新潟レース場――第3レースはジュニアクラス、メイクデビュー新潟。芝1000mの内回り、出走者は10名。バ場の発表は不良。この悪条件を乗り越えレジェンドへの第1歩、伝説へと踏み出す未来のプラチナ級ウマ娘は現れるのか?』

 

 独特な言い回しの男性アナウンサーの声が場内に響き渡り、私も右手に持った双眼鏡でゲートの方を確認し始める。

 

『3番人気はタカネサクラ――勝って夏空に桜吹雪を舞わせることができるだろうか?』

『2番人気はロックシャトー人気では負けたが1着は私のモノだと意気込む気合は十分だ』

『1番人気はシンボリルドルフ――皇帝の名を持つ彼女は会場の圧倒的人気をあつめ、初陣に挑みます』

 

 アナウンスや場内に溢れる様々な音より、自身の心臓の音のほうが大きく聞こえる気がする――。

 

『各ウマ娘揃ってゲートインしました』

 

 息をするのも忘れ、ゲートを凝視すること数秒――

 観客の声もその間静まり返る。

 

『スタートです!』

 ゲートの音が鳴り応援する声が場内に地鳴りのように響きわたる!

 

『まずは揃って綺麗なスタート――!』

 

 内の方からタカネサクラが好スタートハナを奪い、その外3番キングマリオン、さらに外からダイアヒラルダ、そしてセダーンローズと続いて出ていく中、出遅れることなくルドルフは好スタートを切った!

 

『激しい先行争いを制しセダーンローズ前途洋々という具合に先頭を走っていく!』

 

 どうやら逃げではなく先行くらいの位置にルドルフは陣取るつもりのようだ。

 

 セダーンローズに引っ付いて2番手にダイアヒラルダが追っていき、その後ろをラチ沿いに内からタカネサクラがピタリとついていく。ルドルフの位置は2バ身後ろの4番手で、その内側を抜けようとマインスフラッシュが離すものかと喰らいついている。

 

『中団は団子状態! サーペンマーメードとロックシャトー固まってその後ろから3バ身離れてキングマリオンが追いかける!後方2名は、エイカンセブン、ユウラムが続いていく!』

 

『残り800m! おっとここで仕掛けるか!? マインスフラッシュの外からロックシャトーぐいぐい位置を押し上げていく! サーペンマーメードもそれに着いて行けるのか?』

 

 双眼鏡で追っていたルドルフがコース中央の木々で見切れた!

 息をするのもほとんど忘れそうになりながら一旦双眼鏡を目から離し、再び先頭集団が見えるであろう地点に目測をつけ双眼鏡で追っていく――。

 

『残り600をきり4コーナーの入り口、先頭はセダーンローズまだまだ半バ身ほど逃げている!』

 

 視界を遮っていた茂みが見切れる先! ルドルフは逃げの子たちを追い3~4番手に居た!

"――外回りをいくのは……ああ! そういうことか!――"

 

『残り400! 2番手からダイアヒラルダ! ダイアヒラルダが先頭に並んでいきます!』

『さらに人気のシンボリルドルフが3番手まで差を詰め上がってきた!』

 

 内のセダーンローズも粘っているが伸び悩むんでいる。私はルドルフの考えていそうな事に予想をつけながら双眼鏡をはずし目視に切り替えた。

 

『第4コーナー回って直線コースに向きましてセダーンローズの外からダイアヒラルダが先陣をきった!』

"――やっぱり! 4番手以下をブロックしてカーブした! ――"

 

 第4コーナーでルドルフは内ラチから3バ身外位の位置に陣取り先頭のふたりを追う位置に!

 そしてルドルフの少し後ろを走る内コースの子たち以外。

 ルドルフを抜いて前に出ようとし更に外を回ろうとした子たちは加速しすぎた!

 遠心力に負けてひとりは外に大きく逸れ! 残りは吹き飛ばされないよう減速した!

 

“――まさか注意点を利用して後続の子たちの脚を削りに行くなんて!――”

 そして当のルドルフは3番手につけ華麗にコーナリングを決めた!

 

 ルドルフの位置はコーナーを曲がり切るか切らないかくらいの所。

 そして1バ身ほど離れた内ラチを走るセダーンローズ。内ラチから3バ身ほど外の位置でセダーンローズの少し前を走るダイアヒラルダ。

 

 そんな先頭2人のおよそ1バ身程度の間にルドルフは狙いを定めたように見える!

 

“――え、ちょ!?――”

 

 ルドルフは溜めていた脚を炸裂させた!

 曲がり切ったばかりだというのに急発進を決めてまるでロケットのように!

 先頭2名セダーンローズとダイアヒラルダの隙間めがけてルドルフはすっ飛んでいく!

 

“――何アレはやっ! ――”

 

 内ラチ側のセダーンローズとダイアヒラルダとの間をシンボリルドルフが抜けてゆく!

 

『―――! ――!』

 

あまりの急展開に実況が遅れているも私の耳には届かない。それくらいあっという間だった!そしてすぐさま2番手だったセダーンローズの前を不正にならないよう、確実にルドルフは奪取!

 

『残り200! シンボリルドルフが内をつきダイアヒラルダをここで捕まえた!』

"――もう抜いてるよ!――"

 

 ルドルフがセダーンローズの前である最内をとったとき、その1バ身程度先かつ外走っていた、先頭にいたはずのダイアヒラルダは実況の前にすでに抜き去られてしまった!

 あまりの展開の速さにまた実況がついていけていない事態になっている!

 

『先頭をぶっちぎるのはシンボリルッルフ! シンボリルド!』

 

"――実況さん今噛んだ!――"

『リードは3バ身にグーンと広がり今1着でゴールインッ!』

 

『人気に応え見事1着! シンボリルドルフ! 会場の期待に応えました! 2着ダイアヒラルダ! 三着タカネサクラ! 未来への第1歩! メイクデビュー新潟を制したのはシンボリルドルフ! 人気に応えましたッ!』

 

 

……実況のお兄さんが噛んだインパクトに最後全部持ってかれた気がした。

 

 殆どスピードを殺さずに曲が切り。位置取りを駆使して同じく脚を溜めているはずの後続の脚を削り、先頭のふたりの隙間をぶち抜く。

 そして念には念をと言わんばかりに2番手をルールの範囲内でブロック。

 そのまま外をいく先頭を抜いてあっさり3バ身。見事としか言いようがない勝ち方だった。

 

 

"――凄いとは思っていたけど、ディーネとはまた別の意味で規格外だわ――"

 

 

 ルドルフが場内に向けて手を振っていた姿を後目にそんなことを考えていた。

 するとルドルフはちらりと一瞬私に視線をよこした。

 私は双眼鏡を持っていない左手の親指をぐっと立てて――。

 

「おめでとう。検査室前で待っているから!」

 

 そうルドルフに声を張り上げていい、私は自分の仕事をするために駆けだした――。

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年7月23日 午後12時30分頃――

――新潟レース場 シンボリルドルフ控室――

 

 クールダウンをかけた後、軽いインタビューに答えた選手達が向かう先――それはドーピング検査だ。

 

 私は一旦ルドルフに渡すためのものを取りに控室に戻り、採血が行われていた検査室の前にやってきたタイミングで第3レースの出走者が出てきていた。

 落胆、切り替えた表情など百面相の他の選手の中からルドルフを見つけて、アミノ酸ドリンクと軽い補給バーと着替えの入った袋渡し、シャワー室で温水と冷水を使って温冷交代浴を行うよう指示し着替えを渡してきた。

 

 それが45分前の話である。

 

 私はルドルフがシャワーから帰ってくるのを待ちつつ、ローズマリーの香りがセットされたアロマディフューザーのスイッチを再び入れる。

 それから帰ってきたルドルフに学校の水泳授業で使うような腰巻タオルや検査着を渡し、控室の左奥にある着替え用のカーテンスペースで着替えさせた。

 

 そして今しがた着替え終わったルドルフは、上がり畳の上に敷いた薄い低反発の黒マットの上にまず足を軽く立てて座っている。

 私はジャケットを脱いでハンガーにかけ、ベスト姿になりシャツの袖を肘まで捲りながらその右横に座った。

用意しているものは検査中に身体にかける大判のタオルを二枚。

業務用の白の乾いたフェイスタオルを2枚。使用済みタオルを入れるバケツ。

 

 控室内備え付けの洗面台からルドルフの着替え中に温水を汲んでおいた蓋つきのバケツがひとつ――その温水の中にも白のフェイスタオルが数枚浸してある。

そして使用する医療器材がふたつ、超音波検査用のジェルを1本傍に配置している。

 

「――では関節部の熱を確認した後検査に移りますね。仰向けにまずお願いします。」

「エコー装置ともなるともっと大型のものを想定していたが、文明の進歩を感じるな」

「ええ、これが出来たおかげで本当に診断が容易になりました」

 


【携帯超音波装置】

充電式の小型タブレットとワイアレスプローブで構成されている。

お腹の中の赤ちゃんとかをみるあのエコー装置のタブレットバージョンである。

 

◆使用方法

超音波を通しやすくする超音波ジェルを塗って、その上にプローブという板状の機械を身体に当てる。細かい操作をしながら画面に映る画像をリアルタイムで見ていく装置。

関節や筋肉の確認などが出来る。


 

「この後も天気は深夜までもちそうです。雨に打たれた生徒は今のところ居ないですよ」

「調べてくれてありがとう。皆無事にレースを終えられそうだな。我々がテルテル坊主を作った甲斐があったね」

 

 ルドルフの関節部の熱を手で確認しつつ、学園の子たちを心配しているであろうルドルフに待っている間に情報収集して確認が取れたことを伝えた。

 

「ふふっ、そうですね。ルドルフも生徒たちも今の所無事で何よりです――では、はじめさせていただきますね」

 

 ジェルを塗る前に関節部に触れて熱が無いか確認し、最初は仰向けに寝てもらい、そしてその後うつ伏せに、腰から下の部分の関節部や軟部組織、筋肉の状態を確認していく――。

 

「特に異常は見当たりませんでした――再生を促すため、マッサージモードでショックウェーブ装置使いますね」

 


【拡散型ショックウェーブ装置】

 今回使用するのは小型のもの。接骨院などで主に使われている。

 四足歩行のお馬さんにも導入されている旬な医療機器。

 動力は電磁誘導タイプのもの。痛みも少なく微調整も効く最新モデル。

 

 使うと体の深いとこまで解されて、使い方次第では手で押せない部分の超回復を見込める。

 ただし状況によっては使用タイミングを見極める必要があり、深い部分の血行促進やマッサージ程度の出力で今回は使っている。


 

 バケツの温水から引き揚げたタオルを絞って超音波ジェルをぬぐい綺麗にする。

そして今度はショックウェーブ装置を持ち出して、声をかけてからうつ伏せのルドルフの脚に当てる。

 

 これが私の使える秘密兵器のひとつ――この国ではメジャーではないこの装置を使いこなし、その効果的な使用方法の情報を最も持っているのが合衆国である。

 

 以前、筋トレメニュー後に使ってみせその良さを知ったルドルフは、是非装置の効果的な使い方を学園ケアスタッフにも広げてほしいと私に頼んできた。

 そのため時間がある時に参考書になりそうな書籍の翻訳書を作るべく、執筆準備をしているのが昨今の私の内職だった。

 日本で本格的に使いこなせる人がでるまでは時間がかかる。けど、正しい使い方が広まれば格段に故障率をさげることができるだろう。

 

「この装置でのマッサージは本当に気持ちがいい。癖になるな」

 

 そんなことを考えていると、ルドルフの方から満足げな感想が上がった。

 この所この装置にハマったルドルフによって、書類仕事でガチガチに肩こりがあるときなどリフレッシュ目的でせがまれることがある。

 

 ウマ娘にとってこの装置を用いたマッサージはとても気持ちがいいらしい。

 一度そのよさを知ってしまったウマ娘の末路は言うまでもない――巷で有名なあらゆる生物をダメにするクッションのように、次々に目の前のルドルフのようにハマってしまう。

 

「ふふっ、本当にお気に入りですね――はい、終わりですよ」

「文明の利器とはやはり素晴らしいものだ。身体がすっきりしたよ、ありがとう」

 

そういってルドルフは体を起こした。

 

「――以上で施術は終わりなので着替えられてください。カーテンの所に保湿用のボディーミルクを置いてあります。筋肉痛の痛みも消えますが、身体の回復の邪魔にならないよう、後にお渡しする回復期の計画書通りにお願いします――身体をふくためのタオルは追加でいりますか?」

「綺麗になっているから大丈夫だ。置いてあった青いボトルだね? 気遣い有難う使わせてもらうよ」

 

 ルドルフは着替えスペースのピンク色のカーテンの向こうに消えてゆき――時刻は午後13時に差し掛かる所となっていた――。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年7月23日 午後18時頃――

――新潟レース場ライブ会場 前列 関係者スペース――

 

 あの後2人で注文した出前を待ちながら、ホットルイボスティと、室内にあった冷蔵庫で保管しておいた若鳥のコンフィがごろごろ入ったレース場名物――農協の売店産のサンドイッチを堪能した。

 

 食事の後に残りのウマ娘たちのレースを見守り3時間ほど時間をつぶした。

 そして午後17時に控室に戻り新人用の支給衣装を着たルドルフのヘアメイクを整え、今からおよそ20分前にライブに向かわせ今に至る。

 

 メイクデビューしたウマ娘が着るのは、支給品の青色の襟に白メインのフィッシュテールのようなスカートが特徴のメイクデビュー衣装。

 来年の皐月賞に漕ぎ着け勝利すれば、G1にたどり着いたウマ娘のみが着用を許される勝負服を着てルドルフは皐月賞の舞台で踊ることとなるだろう。

 

 ここに来るまでに関係者用のスペースで、ルドルフの瞳の色に合わせた紫寄りのサイリウムを2本購入し、私は関係者席の最前列に立ってライブが始まるのを待っていた――。

 

"――はじまった……!――"

 

 第3レースの掲示板内だった選手の紹介があり、この嵐が迫る新潟に応援に来ていたファンたちが声援を各々投げていく――。

 

 ルドルフは今回1着だったため、センターに配置されておりその声援に応えていた。

 

 そして舞台のライトがいったん落ち、深い青の陰のなか舞台上に立つウマ娘達の背中から光が照らされたと同時に楽曲がかかる。

 

『響けファンファーレ――届けゴールまで』

 

"――凄く嬉しそうだなぁ。無事に勝利を飾れてよかった――"

盛り上がる会場とは裏腹に、サイリウムを振ることを忘れて舞台の上のウマ娘達に見入っていた……。

 

 今会場にかかるこの曲は――G1に出るまでの見習いのウマ娘達のための曲――この歌を歌いファンを集め彼女たちはG1に立つことをまず夢に抱く。

 

 どんなことがあっても己の力を信じて進む――そんな歌。

 

 その舞台の上には今――悔しさで一瞬涙を流す子も、一生懸命踊る子も同じ所に立っている。

 それを承知で彼女たちウマ娘は走り続ける。同じ曲を何度も歌いながらグレードレースやその先を目指すために。

 

"――あれ?――"

 

 小雨が少しだけパラつきはじめると同時に、私の頬をそうでないものが濡らした気がした。

 

 大災害級の危機的な状況が迫っていた中、奇跡的に天気が持ちルドルフが勝利を得た嬉しさや、会場の観客や学園の子たちに被害が無くて良かったという安心感。

 

 そしてその事でルドルフが心を痛め無くて良かったと思う気持ちなど、色々なものが混ざったその感情に感化された私の右目から、溢れた落ちた一筋の雫をサイリウムを持ったまま右手で触れて確認できた。

 

"――心だけだけど、歳をとると……涙腺が緩むって本当だったんだね――"

 

 そんな泣き上戸になった私の涙を――それをルドルフが立つ舞台と違い屋根が無い会場の空から優しく降る雨が隠してくれる。

 私は嬉しさからくる笑みを浮かべ、サイリウムを握り直し合いの手を入れながら精いっぱい振り、会場の空気に溶け合っていった――。

 

 

 そんな感動的な感じで私たちの一日は終わるのかと思いきや――。

 後日ルドルフについて衝撃の新事実を知ることに。

 

 

 ルドルフのライブが終わった直後――ルドルフによって私は直ちに控室に戻された。そして雨に濡れた私を拭くべく、タオルを持ったルドルフによって確保されることに――。

 

 それからが衝撃の日々の始まりだった。

 この日はじめてルドルフが相当な心配性で、かつ保護欲が強い性格だという事に気付いた。自分の部屋で寝なさいというのに『何かあっては困る』とルドルフは一歩も引かないし離れたがらない。

 

 宿泊所に戻る間、軽く何回かクシャミをしただけなのに……!

 過保護スイッチが入ってしまって、私のそばから離れようとしないルドルフを何とか説得し部屋に返した。

 

 そしてそれはルドルフと共に新潟から帰ってきてからも、連日の過保護にはしばらくの間驚かされることとなる……。

 

 そう……その後3日間、朝6時出勤の私が通る時間帯ぴったりに、毎日校門前で待っているルドルフによって大丈夫なのかと健康状態を確認される日々が続いた……。

 生徒会のふたりから朝が弱いという情報をもらっていたのだけれど、気合で毎朝早く起きてくるルドルフ。

 

『ありがたいけどルドルフこそ朝きちんと寝なさい』

『就寝が早いから問題はない』

 という押し問答を私とルドルフは校門前で繰り返した。

 

 この互いを心配して言い合う私たちの朝の様子――それが朝練で早めの登校をしてるお年頃のウマ娘たちによって、新潟で一体何が? と、噂話に尾ひれ背びれついて学園内に広まってしまうことになる。

 数日後にそんなことになるとはライブに感動している時の私は知る由もなかった。

 

 女子だらけの学校は常に話題に飢えている――そういう所だという事を完全に失念していたのであった……。

 




正確にはローマ皇帝はドイツ王とされる。
理由は省略。

ドイツの話してたらシュニッツェル(カツ)が食べたくなりました


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『生徒会』パワーゲーム【前編】

お待たせしました。

前半ルドルフ視点 中盤トレーナー視点、後半ルドルフ視点
タイトル変更しました。


――20XX年8月末某日 午後14時00分頃――

――トレセン学園 生徒会室――

 

 あの梅雨から寒気は去り外はカンカン照りの夏空。

 8月前半には熱帯低気圧に続き、台風が上陸――そこから連日の猛暑だ。どの程度かというと、例えば野外にフライパンを放置すれば加熱され、卵を落とせば目玉焼きが焼ける。そう言った具合だ。そしてその煩わしい気候に合わせ、窓の外からはセミの大合唱が忙しなく響いていた。

 

 そんな外気の様相とは打って変わり適度にクーラーの効いた涼しい生徒会室。応接用ソファーの下座にエアグルーヴとナリタブライアン。そして対面の上座に私が座りテーブルの上には印刷した資料類。そして紙のコースターが敷かれた飲み物のグラスが3つ。

 

 本日の集まったの理由は会議――議題は『フリーエージェント制度』や学園の在り方についてだ。

 

 5日後に理事長側と教員側、トレーナー側、そして更に今回はスポンサーやURA役員やトレーナーや教官および下部組織の育成機関の代表等が来る。――そんな全体会議で案を出し意見を述べなければならない。

 生徒会書記のマルゼンスキーは本日夏風邪で欠席したため会議の様子は録音し、後々議事録にまとめる予定とした。

 

「――この膨大な資料はどうやって集められたのですか? 言ってくだされば我々も手伝ったのに……」

 

 左角をクリップされた資料を右手に持ち、それをパラパラと確認した。そしてエアグルーヴは眉をひそめ私に対し不満げな声を上げる。

 

「それは××××××トレーナーが集めてくれたものだ。学園新聞の号外担当のゴールドシップにも協力してくれるよう声をかけ、トレーナーや教官からのほぼ9割方の意見が出そろっている」

「ゴルシを動かした!? あの気まぐれな奴をどうやって……」

 

 エアグルーヴが驚きの声を上げ、ブライアンの耳もまっすぐ向いた。私もこの資料を持たされた時も今の彼女たちと同じく驚愕したものだった。

 

「ゴールドシップの遊びに根気強く付き合ってバイト代で釣ったそうだ。理事の方からフリーエージェント制度に関する意見をトレーナー君は求められていてね。その序に作ったとかで7日前に渡してくれたものなんだよ」

 

 前に垂れてきた前髪を後ろに右手で軽く払い、2人のほうを向く。

 

「殆ど同じ年齢とは思えない出来だな。いっそ手伝ってもらったら良かったな」

「そう思うだろう? 声をかけてみたのだが『そこは頑張ってね』と可愛らしい言い方ではあったが、手厳しめに返されてしまったよ。それに今日は件の装置の講習会もあるようだ」

 

"――『貴方なら出来る』そう言われたからには自力で乗り越えて見せる――"

 

 トレーナー君は資料を私に手渡してくれたのが7日前。

 その彼女はというと本日の午前中から、学園の依頼で自ら講師を務めショックウェーブ装置のケアスタッフ向け技術取得講座へと向かっていた。

 

「例のあの装置ですか――学園のケアスタッフやトレーナーの間では件の装置の話題で今持ちきりだとか」

「装置の使い方を広めてくれる様頼んでみたら、専門書の3冊の和訳書の電子書籍出版を半月で終わらせてくれた」

「――ダイヤ持ちともなると格が違うな」

 

 ブライアンの言うダイヤ持ちとはGrandの称号を戴冠したトレーナー達の通称だ。

 Grand Trainer――それは最難関の国際Sランクトレーナー試験合格者のうち、担当ウマ娘が残した著名な成績を残した場合につく最高位の称号。世界でも今年の合格者3名を合わせて10人ほどしかいない存在だ。

 

 トレーナー君の胸には米国のトレーナーバッジ、そして純金製の国際Sランクトレーナーバッジが常に輝いている。Grandの称号を得たものは更にSランクバッジの隅にダイアモンドはめ込まれている。故にダイヤ持ちというのも通り名なのだ。

 

「世の中を覆い尽くすか如くの蓋世之才(がいせいのさい)の持ち主たちの中でも、神話のいにしえの大賢者(ケイローン)と並び称され、そう呼ばれるだけあって流石というか何というかだ――さて、話を戻そうか」

 

 縦長のシンプルなグラスの中で白い口元の手前で曲がるストローを回す。そしてコーヒーと分離している氷から解け出た水をいったん混ぜた。

 私はひと口含む――どうやら水っぽくなることを計算し、濃い目に淹れたのは正解だったようだ。

 

「フリーエージェント制度の問題点は、乱用すると人材育成における教育上の問題が発生するでしたね? 確かに外からトレーナーを入れすぎれば、刺激になるどころかそれ頼りになってしまう。数を制限すべきでしょう」

「ただ、そうすると環境に甘える人間が出る」

 

 エアグルーヴとブライアンが言う通りだ。フリーエージェント制度を使いトレーナーを調達し続ければ、それ頼りになってしまうだろう。今はトレーナー君ひとりという特異点が1つの状態だが、こればかりになってしまえばやる気を失う教官やトレーナーがでる。そしてウマ娘も舶来のトレーナーばかりに群がっていくだろう。

 

 それはやがて争いの種や、既存の組織の在り方を壊してしまう。――良薬も使い方を誤れば猛毒にもなるということだ。

 

「エアグルーヴの言う通り制限なしにしてもダメだし、ブライアンの言う通りこのままでもよくない。現状日本陣営と外とは圧倒的な情報や技術差がある――そして最新の情報や専門知識はすべて外国語だ」

「現代スポーツにとって、情報収集力は勝利に直結するものですからね。しかも得た情報の質次第でトレーニング環境や使う道具も左右されてしまう。厄介ですね……」

 

 脚を組み、顎に指を当てて険しい表情をエアグルーヴは浮かべた。ブライアンも眉をひそめて考え込むような表情ををしている――。

 

「そしていつまでもアンタのトレーナーだけに甘える訳にもいかない」

「その通りだブライアン。今は厚意でやってもらっているが、本来対処せねばならないのは学園側だ――そこでだ」

 

 そういって新たに資料、といってもA4用紙2枚程度のそれらをふたりに渡す。

 

「次の会議には学園の外部組織であるトレーナー育成機関もやってくるそうだ。そこも視野に含めて抜本的な改革を提案しようと思っている」

 

 渡した紙をめくる音が室内に響く。――そして先に発言する様子を見せたのは今度はブライアンだった。

 ブライアンは書類を左手で掲げこちらに軽く見せた。そして指で気になる箇所をつんつんと右手の指でつつく。

 

「このマネージメント制度とはなんだ? 問題解決に関係あるのか?」

「今回の改革全体の要になるものだ。ブライアン、トレーナー君がまとめてくれた皆の意見に関する書類の8ページ目を見てくれ――何と書いてある?」

 

 エアグルーヴとブライアンが該当の資料に持ち替えてページをめくる。

 

「ザックリとまとめると忙しさで学びたくても無理という意見――つまり時間を作るためという事か?」

 

 私が指定その指定した8ページ目。そこにはフリーエージェント制度を不安視したり、大反対していた層からの意見がまとまった項目だった。

 まだ要領を得ないといった様子で伏せ気味の耳のまま、ブライアンはそう返事を返してきた。

 

「そうだ。昨今のメディアの急激な発達に伴い、マネージメント部門はSNS対応に追われ各トレーナーの負担となっている。増え続ける業務量についていけず、退職になっていた者もいた。その内訳には技術を教えるのは上手いが、人間関係が原因で技術の伝承や更新がうまくいかなかった者、そして対マスコミやSNS対策やマネージメントは得意だがトレーニングの指導が下手だったりするものなどが含まれる」

 

 ひと息ついて私はアイスコーヒーをまた口に運ぶ――。

 

「なれば既存のマネージメント部門を強化し、トレーナー達の忙しさを軽減してしまえばいい。教官の方も雑用担当者の人員を補充と、効率化とデジタル化で時間にゆとりを持たせられるよう書類のように考慮。その環境下で人数制限をかけた『フリーエージェント制度』を同時運用すればいい刺激となる」

「なるほど。特に最後のものは教官としても燻ぶっていますし、得意のマネージメント部門を強化し送り込み。書類のようにしっかりとしたメディア対応をやらせれば閑職に追いやられる者も減る――いい案だと思います!」

 

 そういって納得したかのようなエアグルーヴは目を輝かせた。

 ブライアンも耳がまっすぐ前を向き、軽く2度ほど頷いているためどちらもこれには賛成のようだ。

 私はその様子に頷きながら話を続ける。

 

「そしてヒトもウマ娘もどんなに素晴らしい人格の者でも、2人いれば相性がある。些末な人間関係の問題への対応ならば、どのように転んでも外にも学びに行ける時間や手段を作ればいいのだよ――更に明後日の会議ではどうやら外部組織は新設予定の学科の"相談"がある"そうだ"――相談なだけに、ふふっ」

「――会長、今は真面目な話合い中ですよ? 新設予定の学科の相談とは?」

 

 真面目な話でジョークを行ってしまった。これにはジト目のような表情を浮かべたエアグルーヴに怒られてしまう。堅い話が続いて和ませようとしたのはどうやら裏目に出てしまった。

 

「すまない。海外の最新知識を学ぶための学科を作りたいそうで、そこでフリーエージェント制度で講師となる人材を調達できないかとのことらしい」

「――となると……フリーエージェント制度を講師の調達ではガンガン使っていき、余暇で十分羽を伸ばしたトレーナーや教官達を誘導していくと」

「そういうことだエアグルーヴ。その時にひとつ提案をしようと思ってるものをそれに組み合わせる」

「といいますと?」「何だ?」

 

 息ぴったりの2人の返事を確認し、その続きを私は切り出す。

 

「アメリカの大学などが行っているMassive Open Online Course(大規模オンライン公開講座)や各大学が行っている、オンラインコースを参考にしたコースの設立。監督付き試験もオンラインで行う方法があるらしく、この形式でも行えるようにできないか提案したい。あと動画などで授業を見返したり物理的な時間の軽減が可能だ。育成組織側が求めているフリーエージェント制度で来る者は××××××トレーナーのように日本語が堪能な者ばかりではない」

 

 2人がついて来ているか確認のため一呼吸置く。するとブライアンは少し首を傾げた後、ぴんと耳を伸ばし――。

 

「講座や授業を動画にして編集したり、必要なら同時通訳でオンライン授業にすれば外国語に疎い奴でも日本語で最先端の授業が受けられる。しかも動画ならやる気アガってきた時にいつでも学習できるということか」

 

 かつての明治の時代――列強に追いつけ追い越せをスローガンとしていたこの国には、日本語で専門知識を学ぶことが難しいという問題に直面していた。

 1880年の明治13年頃に『法律学』を学ぶにはそれまで語学がある事が必須条件であった。しかし、これを日本語で講義するという事を行った大学があった。その大学名は駅伝などでも伝え聞く事が出来る。

 

 専門書を読むにはただ外国語が出来ればいいというものではない。まずベースとなる知識を母国語である程度埋める必要がある。そこから語彙や知識を増やしてからでないと全く訳の分からないことにもなってしまうからだ。

 そして我々に関わる和訳の専門書が殆どない今の状況は障壁が大きすぎる。

 

 ブライアンの発言に察したようにはっとした表情を浮かべた。エアグルーヴは口元を結んだまま軽く笑みを浮かべ――。

 

「なるほど。実習の必要が無い単位を殆どそうしてしまえば受けやすそうでいいですね。あと、人間以外のやる気のある学生も受けられるようにすると面白そうです。学園に居る者だとエアシャカールやアグネスタキオンなど向学心が強い生徒も多いですから」

 

"――生徒も閲覧できるようエアグルーヴの提案も加えておくか――"

 

 エアシャカールやアグネスタキオン――頭がよく向学心が強いが故に、彼女らにとってはお遊び程度になってしまう学園の授業はおろそかにしがちだ。

 

 だが在学しているとそういった環境にアクセスする権利があるとしよう。そうすれば彼女らのやる気も違ってくるのは想像に難くない。

 

「それはいい案だな――提出する意見に加えよう。他に意見はないか?」

 

 そう投げかけると2人は軽く唸り、沈黙が流れる――……。

 

 カチカチと壁掛け時計から響く秒針が10回ほど時を刻んだ。そしてエアグルーヴが先に口を開く。

 

「他メリットはやる気があればライセンスの取得状況や講座成績などがわかれば、学園人事から昇格昇給もし易い。給与待遇面に関する不満もこのところでていましたしね。――デメリットといえば、やる気がない者はどこまでも怠けると言ったところでしょうか……計画性のなさも浮き彫りになりやすいです――私からは以上ですね」

 

 そういい終えて資料をテーブルに置いたエアグルーヴ。そして既に資料を置いて頭の上で指を組み背中を伸ばそうとのびーっと腕を伸ばしながら、背もたれにもたれた後ブライアンは口を開く――。

 

「休みがしっかり取れるよう時間を作るのを前提として、その状況ですらその体たらくではもはや自業自得だろう。やる気のあるやつが評価されるし私は賛成――異議は無しだ」

「それもそうだな。私もブライアン同様異議なしとします。会議に提出する意見内容はこの方向性でいきましょう」

「決まりだな『フリーエージェント制度には制限を加えて運用する事』『講師の調達としてフリーエージェント制度を用いるならそれは別枠』『組織の抜本的な改革により教官やトレーナーに時間的な余裕をしっかり持たせること』『各教育機関を結ぶオンラインコースの導入』『オンラインコースへのアクセス権限は在学中の学生も含む』で我々は行こう。一旦休憩を挟み、会議に向けた準備を17時半から行うとしよう。」

 

「お疲れ様でした」「お疲れ様――私は昼寝に戻らせてもらう」

 

 解散宣言をするとふたりはそれぞれ書類をまとめる。その後生徒会室の副会長用の机2基にふたりとも仕舞い始めた――。

 

 ――うまぴょい♪

 

 会議が丁度まとまった段階で私の通信アプリLEADの着信音が鳴った。

 

「――? この時間帯という事は……会長のLEADということは、会長のトレーナーからですか?」

 

 学園のものならば今の時間帯はトレーニングをしていたりする時間だ。

ともなると私にLEADを飛ばしてくるような存在はここのふたりを除けばトレーナー君しかいない。

 

 エアグルーヴの言う通り――確認した画面にはレーナー君からのメッセージが画面には記載されていた。

 

「ああ、今仕事をあがってきたそうだ――ところで2人とも、肉、もしくはスイーツは食べたくないか?」

「肉は欲しい」「え? どういうことですか?」

 

 ブライアンが即答し肉と聞いて目をらんらんと輝かせる。エアグルーヴは訳が分からないといった様子で眉を顰め首をかしげている。

 

「トレーナー君が差し入れを買ってきてくれるらしい。肉なら特大極厚ローストビーフサンドイッチ、スイーツなら『冷やしクリームパン』だそうだ」

「あのサンドイッチか。今日は売り切れてなかったのか……」

 

 『特大極厚ローストビーフサンドイッチ』――近所のスーパーのベーカリーコーナー人気のメニューのひとつだ。

 ローストビーフが野菜少な目肉多めだ。それを包むのはピタパンという、某狸型ロボットのポケットのようなパン。

 その商品は平日でも入手が難しいらしい。だが運よくトレーナー君は作りたてのそれらに遭遇したようだ――。

 

 『冷やしクリームパン』は同スーパーの中国地方の物産展のものらしい。そうメッセージに記載されていた。

 通信販売サイト『Amazoness』と、『楽店市場』をよく利用し、お取り寄せをしているトレーナー君に分けてもらい、それ自体は私も食べたことがある。

 ふわふわとしたやや白めのパンの中に、しつこくなく上品な甘さのクリームがギッシリつまった大変美味なものだった。

 

「全員に好きなだけ奢ってくれるらしい――飲み物も欲しければついでに買ってきてくれるそうだ」

「極厚ローストビーフサンドイッチを4つ。飲み物はコーラがいい」

「ブライアン、お前昼に散々ステーキを食べたばかりじゃないのか……今15時だぞ?」

 

 トレーナー君へ私とブライアンの希望を書き込みつつ、画面で時刻を確認すると確かに15時だ。

 3人で昼食を取った際、ブライアンは極厚ステーキランチのステーキをおかわり上限である4枚も平らげたはずであったが、まだお肉を食べたりなかったようだ。

 

「肉は別腹だ。肉なら入る」

「なんて理屈だ……」

 

"――ふふっブライアンの肉好きは相当だな――"

 

 画面を開いたままの為着信音はしない。トレーナー君から返事が返ってきた。

 

『ふふ――ハヤヒデの言う通りブライアンはお肉が好きなんですね』

そんなメッセージと共に可愛らしく笑うシマリスの動くスタンプが返ってきた。

いつも通り愛嬌たっぷりなトレーナー君からの返信に先ほどまで張り詰めていた私の気分が和む。

 

『肉がいい! と即答だったよ。あまりに見事な返事だったから君にも見せたかったな』

 そうトレーナー君に返事を返す。そしてブライアンの肉への渇望の勢いに、呆れ固まっているエアグルーヴの希望を聞く。

 

「エアグルーヴ、君はどうする? 私もクリームパンを頼む予定だ。クリームパンの味はカスタード、生クリーム、チョコ、小倉、抹茶だそうだ」

「私もクリームパンがいいです。味は……そうですね、抹茶と小倉、カスタードをひとつずつで。飲み物は生徒会室にある設備で自分で淹れます」

「決まりだね。到着まで30分程度だそうだ――ゆっくり待つとしよう」

 

 そういいながら私はエアグルーヴが頼んだものを端末に打ち込み、トレーナー君に返信した。

 

   ◆  ◇  ◇

 

――20XX年8月末某日 午後15時20分頃――

――トレセン学園 廊下――

 

「わかめ好き好きぴちぴちー ふんふふんふふーん」

 

 耳に残って離れないCMソングを口ずさむ。時折適当に鼻歌を交えつつ生徒会室へ向かって廊下を歩いていく。

 

 学園外部機関のトレーナーやケアスタッフ育成機関での講習を終えた。そして学園に帰ってくると校舎内は空調で涼しく整えられていた。今日のトレセンの環境はホワイトそのもの! 最高である。

 

 行きも帰りも殆どタクシーでの移動だったため、RPGでいうダメージ床のような状態の外を歩くことなく帰ってこれた。お陰で汗の不快感はほぼない。

 

 そして私の右手にサンドイッチとコーラの入った袋がひとつ。左手にはクリームパンの入った袋と、私の分のサンドイッチやクリームパンが入った袋のふたつ。――保それぞれ冷材の入った合計3袋をもって生徒会室を目指している。

 

「よお、お嬢。また不思議な歌を歌ってるな」

 

 ドアが開いた左手の教室側入り口から声がかかった。立ち止まってそちらを向く――。

 そこには日焼けをしたような褐色の肌に、黒みを帯びた青い髪とルビーのような瞳が特徴的なヒシアマゾン。

 そして色白かつゴールドシップとほぼ同じくらいの長身に、特徴的な短い黒髪。アクアマリンのような青い目が特徴的なフジキセキの2人がいた。

 

「ふふ、日本のCMって面白いですね。こんな風につい口ずさんでしまいます――こんにちは2人とも」

「こんにちはお嬢様――今日は随分大荷物だね?」

「しかもいい匂いがしてる。食い物か! ルドルフに差し入れか!」

 

 キラキラと目が輝いているアマゾンと、気にかけてくれているフジキセキ。

 豪放磊落(ごうほうらいらく)なヒシアマゾンと温柔敦厚(おんじゅうとんこう)なフジキセキ――対照的なこの2人はそれぞれ美浦と栗東の寮長だ。

 

「ええ、そんなところです」

「なるほど――両手がふさがっていると危ないし、よかったら生徒会室まで運ぶのを手伝うよ」

「そうね。ではお言葉に甘えて」「アタシも手伝う!」

 

 断る理由もないし素直にフジキセキの提案に乗り荷物を持ってもらうことにした。

 そういってふたりはそれぞれ袋を持ってくれて、私は自分の分をひと袋持った状態で生徒会室に向けて再び歩き出す。

 

「しかし結構な量だなールドルフってこんなに食ったっけ?」

「3人分と少し多めに買ったのでこんな感じに」

「――3人というと会議でもしているのかな? 5日後には日本法人全体の会議があると聞いているし」

 

"――流石フジキセキ、きちんと学園の予定を把握してるのね――"

 

「そんなところです。――頃合いを見て様子を見に行くところでして」

「ふーん。……アンタの遠くからきちんと見てるそういう所、ルドルフとホントそっくりだよなー……」

「私が? ルドルフと?」

 

 不意な言葉にきょとんとしてヒシアマゾンを見ると、フジキセキもふふふと視界の外で上品に笑っている声がした。

 

「ルドルフは課題与えといて相手の行動観察しているから。お嬢も似たような行動してるなって思って」

「あー……たまにそんなルドルフを校内で見ます。ありますねその癖」

 

 ルドルフは試し癖がある。成長を促すためなんだろう。ルドルフは課題を与えてはその子の事を時々見守っている。

 

"――確かに言われてみれば今私も同じことをしているけど……――"

 

 私はあの子ほどしっかり者ではない気がする。

 何故かはわからないけど私の雰囲気はルドルフのカリスマと比べると、常に残念な仕上がりのような気がしてならない。

 

"――精神年齢ピー歳にしてこれとか悲しいけど、とほほ……――"

 

 

「少し違いがあるとしたら心配性の度合いだね。校門のアレは中々面白かったよ」

「校門のアレ……?」

 

 フジキセキの発言に首をかしげながら校門にまつわる記憶を思考から掘り起こしていたところ――。

 

「で、本当の所どうなんだ? あの噂!」

「……」

 

 その最中に藪からスティックで飛んできたヒシアマゾンの発言。それにどう答えるべきか私の思考回路はフリーズし立ち止まる。

 窓の外に巣を作っているツバメの雛とツバメの鳴き声が、廊下にややけたたましく感じる程響いた沈黙の後――。

 

「え?」

「だから、マジなの? 噂!」

 

 思い出した噂の数々による羞恥心でパニックになった。そのため『え?』と、結局聞き返すことしかできなかった……。

 フジキセキ言っていたのはメイクデビューの後のあの事だ。

 ルドルフが心配性を発動させ、毎日健康チェックされたあれだ。学園の校門でのルドルフと私の毎朝の『きちんと寝なさい』『早く寝たし大丈夫』を目撃した生徒から、変な尾ひれ背びれまでついていた事件だった。

 

「え、ないですよ? 全部事実無根です」

「本当に本当の本当か? ちょびっともなんもなし? 丸い耳まで真っ赤なのに?」

「こら! 大人をからかうんじゃありません!」

「大人って2歳とかそれくらい年上なだけじゃん? つか! 未成年だろアンタも!」

「――あー……ニホンゴはムズカシイデスネー」

「今の今まで流暢にしゃべってただろ!」

 

 うっかりとんでもないことを口走った。それを日本語がまだ苦手なフリをして回避する。

 そんなコントのようなやり取りがフジキセキのツボに入ったらしく、視界の端で顔をそらせながらプルプルと肩を震わせている。

 

 そんな他愛のない話をしながら生徒会室の前まで来た。

 

「ここまで来たら大丈夫。ふたりともありがとう。これは個人的に買ったものだから、二人で食べて」

「私たちが貰ってしまっていいのかい?」

「ええ、いつも寮長のお仕事のご褒美兼、お手伝いのお礼的な感じで貰ってください」

「それならありがたく頂かせてもらうよ」

「やったー!! サンキューお嬢! 中身は――お? これブライアンの言ってたやつ!」

 

 2人から差し入れ袋を受け取った。そして私が持っていた自分用に買った分をヒシアマゾンに差し出す。

 袋の中を確認して大喜びのアマゾンはテンションが上がっている。

 

 それと同時に、生徒会室の重厚な扉が開いた。――ゆっくりとルドルフが出てきて後ろ手で彼女はドアを閉めた。

 

「お帰りトレーナー君。――ヒシアマゾンとフジキセキも一緒にいたのか」

「ルドルフただいま。差し入れを運ぶのを手伝ってもらったんです」

「美しいご令嬢が、重そうな袋をお持ちだったからお手伝いをね。会長自ら出てくるなんて、そんなにお嬢様の到着が待ち遠しかった?」

 

 フジキセキがニコニコとルドルフをからかう。するとルドルフは少し思案したようなそぶりを見せた後、余裕たっぷりの笑みを口元に浮かべた。

 

「そうだな。お互い忙しく、中々顔を合わせられないからね。こうして会いに来てくれるのが楽しみなんだ」

 

 『おおー。これは?』と感心するフジキセキと『――やっぱ噂はマジなのか?』とアマゾンがピューとからかうように口笛を吹いた。

 

 私は恥ずかしさで顔に血が上る感覚を受けたが、後すぐ冷静さを取り戻す。

 そしてこほんと咳払いして――。

 

「こらー。年長者をからかうんじゃありませんよ?」

 

 寮長ふたりに対し、チベットスナギツネのような表情を浮かべ静かに叱る。

 するとフジキセキとヒシアマゾンは笑いながらも『ごめんごめんつい』『おっと怒らせちゃったか。ごめ!』と、返事が返ってきた。

 

「むくれていても大変美しいね。うんうん、良い表情が見れたところで私達は失礼するね」

「じゃあな! おやつサンキュー!」

 

"――もう! いたずら好きなんだから……!――"

 

 機嫌よく二人の寮長が去っていった。

 とりあえず差し入れを渡して私もゆっくりしよう。

 そう思ってルドルフに持ってきたふた袋を差し出した。

 

「これが差し入れね――会議は上手くまとまりそうですか?」

「どういった提案をするかまでキッチリまとまったよ。君がくれた資料が大変役立った――ありがとう」

「それならよかった。じゃあ、私もこれで――」

 

 表情から察するにきちんと自分たちで何かしらの答えが出たのだろう。安心して私も立ち去ろうとした時――。

 

「まって」

 

 ルドルフは袋を全て左手で持ち、右手で私の片手を軽く掴んで止めた。

 軽く体を向けて私は振り返って彼女の顔を見上げる。

 

「実は少し多めにクリームパンを頼んでいてね。この後予定が無ければ一緒に食べよう――そろそろきちんと彼女たちにも君を紹介しておきたいというのもある」

 

 そういってルドルフはちらりとドアの向こうに視線を送った。

 紹介したい彼女たちというのはエアグルーヴとナリタブライアン――副会長の2人だ。

 ルドルフの居ない場所で既に雑談を交わす程度には交流はある。だが、ルドルフのトレーナーとして、何だかんだ忙しくて彼女本人から紹介されたことが無かった事を思い出した。

 

"――うーん。割と普通に話すけど、まあきちんとした場は必要よね?――"

 

「わかりました。午後からは予定もないのでお邪魔させてもらいます」

 

  ◇  ◆  ◇

――20XX年8月末某日 午後15時35分頃――

――トレセン学園 生徒会室――

 

 甘いものが好きなトレーナー君用にミルクたっぷりのアイスカフェオレを、生徒会室備え付けの給湯室で乳製品と準備している。

 

"――わざと多めに注文しておいて良かった――"

 

 この後も夕方から色々会議に向けて準備はあるにはある。しかし、なんとなくその前にトレーナー君の顔を見てひと息いれたかった。だからわざとクリームパンを多めに注文し、もっともな理由をつけて一緒に食べようと誘った。

 予定通り事が運んだことに密かにほくそ笑んだ。

 

 給湯室の扉1枚をあけて生徒会室に戻る。

 

 ――するとエアグルーヴとトレーナー君が微笑みあいながら和やかに何やら話をしていた。

 トレーナー君に飲み物を渡し、ブライアンが待ちきれないといった様子だったので、先におやつタイムをスタートさせた。そして会話の内容が気になって問いかけてみると……。

 

「戻ってきたとき何やら楽しげだったが、そんなに楽しい事でもあったのかい?」

「ええ、会長のトレーナーが使っているケア用品の話をしていました。いつも生花のようなとてもいい香りがするので気になって」

「確かに――この香りだと、今日はラベンダーかい?」

「そうそう。春の新作アイテムだったの。そこからお花の話をしていて盛り上がりまして」

 

 トレーナー君は香水などは使わない。しかし、自然な花の香りのするボディケア用品を使っている関係で、微かに花の香りを漂わせている。

 今日はラベンダー主体でライムの組み合わせらしい。他のパターンの香りだとバラとライムの組み合わせの時もある。

 

 そしてそれらは一様に香害と呼ばれるも嫌な香りではない。どちらかと言えば、花咲き誇る庭園にいるような気分にさせてくれる。そんな優雅で好ましいものであった。

 

「爽やかでいいと思うよ。――ところでトレーナー君、頼みがあるのだが一応このような案でまとまったんだ。良かったら感想が欲しい」

「感想ならいいですよ」

 

 そしてトレーナー君は小倉あんのクリームパンをひとつ食べ終えた所だった。そしてハンカチで手を拭いた後、私から書類袋を受け取った。視界の中には黙々と肉で満たされたサンドイッチを頬張るブライアン。リラックスしながらアイスティー片手にクリームパンを味わうエアグルーヴ。

 

 そんな雰囲気の中でトレーナー君は手早く書類袋から取り出した。そしてA4の書類5枚を凄い視線の早さで読みこなしていく。

 

「いいんじゃないんですか? 予想した以上でした」

 

 そういって書類を返される。私は一旦離席し生徒会長机の上に置いて戻ってこようとした時、トレーナー君はアイスカフェオレを飲んだのち――。

 

「5日後の件の会議には養父の代理として私も出ることになりました。財閥にとって不利がなければ様子見を頼まれたので、こちらからは特に何かしたりすることもありませんが」

 

 そう発言した彼女は上品にゆっくりとストローをまわし、カフェオレを混ぜ、そしてまたひと口飲んでテーブルの上に戻す。

 

「その歳でもうそんな重要な仕事をしているのか?」

「重要というか何というか、日本にいるのでお使い感覚で頼まれた感じです」

 

 エアグルーヴは目を丸くしてトレーナー君に尋ねる。するとトレーナー君は悩むように眉を顰め、どう答えたらいいか? といった仕草や表情を浮かべた後エアグルーヴにそう返答した。

 

「そうか。ならば君の目の前で失態を晒さないよう私も気合を入れていかねばな。しかしそれをお使いとはまた規模が大きいお使いだね?」

「確かにお使いというにはそのレベルを超えていますね。何度やってもそういう場所は慣れないから苦手ですし」

 

 苦笑いを浮かべたのち、今度は抹茶クリームパンにトレーナー君は手を伸ばす。

 

「お嬢サマはそういうの得意そうに見えるのに苦手なのか?」

「専門分野の学術発表ならともかく、チキンハートの私にとって堅苦しい場というのは荷が重いですねー……まして商売人としてはまだ見習いに毛が生えた程度ですので」

 

 こんな惚けたことを言っているが、現在オルドゥーズ財閥の後継者と目されるのはトレーナー君がほぼ筆頭。他はトレーナー君の養父の弟の2人が候補として挙がっている。

 

 そして当主のうち半人半バ(セントウル)が選ばれた場合、ほぼ9割がエメラルドの瞳の半人半バ(スマグラディ・セントウル)から選ばれている。

 

 しかし同じ部族で実力主義であってもだ。養子であるトレーナー君は立場は微妙だと以前本人の口から聞いていた。

 

"――自身の保身のため、やりたいこと以外トレーナー君はあまり表立った立場に居たくないのだろう――"

 

「私が『超偉そうに堂々と座ってるだけのお仕事』を無事にこなせるよう、みんな生徒会席から祈ってて」

「腑抜けがと言いたいところだが――哀れだから祈ってやらんこともない」

 

 エアグルーヴは厳しい言葉を発しているが、トレーナー君のコミカルな口調の自虐ネタのせいで目と口が笑っている。

 

「アンタはアンタらしくしとけばいいんじゃないか? それはそれで面白そうだし」

「そうしてしまいたいのは山々ですが、やらかすと反省文を書かされるんですよお養父様に。A4用紙にびっしり3枚分くらい起承転結で――」

 

 反省文を書かされる自分の姿を想像して青ざめるトレーナー君。

 そしてほうほう、といった表情でブライアンはそれを聞き終わると――。

 

「という事は――1回既に何かどデカい失敗をやらかしたって事か」

「あ! ……えっと、忘れて今の。忘れてください!」

 

 うっかり墓穴を掘って青ざめるトレーナー君。そんな様子を面白がって遊んでいる、めったに笑わないはずのブライアンがニヤリと口角をあげ――。

 

「――却下だ。しっかり覚えておく」

「そんなー!」

 

 しっかりものの第一印象からトレーナー君のポンコツ度がどんどん上がっているような気がしなくはない。しかしこれはこれで面白いのでよしとしよう。

 その微笑ましい様子に私とエアグルーヴは笑いをこらえていた。

 

"――養子、用紙……ふむ?――"

 

 そしてトレーナー君に助け船を出すべく、私はこの場の話題を変え和ませるジョークを考えることにした。

 

 




 ――3分後

 ルドルフとトレーナー君以外のやる気がさがった!


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『生徒会』パワーゲーム【後編】

おまたせしました。
前半トレーナー君視点、後半ルドルフ視点です


――21××年 夏頃――

――西日本 某所――

 

 

"――ああ、またこの夢か――"

 

 ――夢を見る時に、夢だと理解できている時がある――。

 私の見る夢はいつも色があって、そして匂いが無く一部五感が欠けている。

 これは前の人生を生きていたころの思い出の中だろう。

 

 暑さのしない不思議な感覚と、見上げれば入道雲と蒼穹のコントラストが美しい夏空。そして視線を前に向けてから左右を見渡せば、深い緑の草原。遠くに見えるのはぐるりと囲むように小さな山々。

 ××の草原地帯の草はそよぐけれどその音はせず、夢なので当然草や大地、風の匂いはしない。

 

 山が低いのではなくここは高原に当たる。標高の高いここはあるカルデラの中で、山に見えるのはその外輪を縁取る山々だった。そして――右手には浅い湖が見え、牛などが寛いでいる。

 

 ――!

 

 私が乗せてもらっている鼻を鳴らす子に視点を下ろすと、"真珠のような不思議な光沢"の純白のタテガミや毛並みが目に入る。

 

 2000年代――夢に見ている元の世界の時間軸の100年以上前のこと。

 東北にある軽量種の馬たちが輸入された。

 世界的な絶滅が危惧されていたこの子たちに国内でも数を増やすべく、絶滅回避策を打たれることとなった。

 そして"この子たちの仲間"はこの極東でも世界でも順調に増え、その数を回復させるに至る――。

 

 ××市で数年ほど医者の任に着いていた間にこの子と出会った。この地を離れ関東圏に移る1年前にこの子は亡くなった――。

 そして私もその5年後に列車事故で亡くなって、不思議な人類の居る今の世界にやってきたのであった――。

 

 背中の上から体を前に傾けて左手を伸ばし、彼女の首に手をやって撫でる。触れてみるが思い出の中の毛並みの感触はしない……。

 

「――戻れないのにどうしてこの世界の事を時折夢見てしまうのかしら」

 

 ――!

 

 少しだけ首を後ろに向け私を見て、私を乗せてくれているその子はまた鼻を鳴らした。その姿をみた懐かしさからふと笑みがこぼれる。

 

 そしてどうしてだか彼女の名前を思い出そうとしても思い出せない。モヤがかかった様な記憶に鍵がかかったような――。

 

 

『――お嬢様。お目覚め下さい』

 

 目の前の白真珠のような毛並みの子が喋ったわけではない。

 

 

――20××年 9月前半某日 午前6時頃――

――相模湖付近 某所ホテルの離れの屋敷――

 

 夢の景色は消え、瞼を開くと青色のベッドの天蓋が見えた。

 カーテンを開ける音と、液体が注がれる音と同時にミントの香りが微かに香ってくる――。

 眠い目をこすりながら体を起こすと、周りに見える室内の内観は自身のトレーナー寮のものではない。

 左右を見渡せばヒトの外見をした、ヴィクトリア朝を彷彿させる長めの袖と、長めの裾丈のメイド服の使用人2名が朝の支度の準備をしてくれている。

 

 ――今日は件の会議の日。

 スポンサーとして参加する私はきちんと身支度を整えるため、昨日は郊外にある財閥所有の屋敷に戻ったのであった。

 屋敷の傍にはホテルも経営しており、養父の一族以外にも財閥幹部や社員なども泊っていく。関係者に耳が良いウマ娘が多いことも考慮し、喧騒を避けるためわざと首都圏を外して作ってあるとか? 確かそんな理由の立地だったはず。

 

 寝起きでまだはっきりしない頭で起き上がり、ベッドから1メートル離れたところに用意された椅子に腰かけた。

 椅子の目の前には小さな丸テーブルが置かれ、その上にはアクセサリーボックス。その傍らには淹れたてのミントのハーブティは微かに白い筋を立ち昇らせている。

 

 喉が渇いていたのでわざと温めに淹れられたそれを飲み干す。

 その後寝ぼけている状態のまま、されるがままに肌、そして爪、髪を手入れされていく。

 

"――見ているだけの予定だったんだけどなぁ――"

 

 手入れされながら昼の会議に向け、自分はどうすべきか? 私は寝ぼけた思考のまま頭の中で軽くシュミレーションしていく――。

 

「お化粧と髪型と服装はいかがいたしましょうか?」

 

 不意に背後から私の髪を手入れをしてくれている使用人から声がかかる。

 

「化粧はそうですね、会議なのでしっかりした理知的な印象がいいです。髪型はハーフアップ。髪飾りは渡されたものを最後に付けてほしいですね。服は紺色のスリーピースで、今回はパンツスタイルではなくマーメイドのひざ丈で。シャツはクロスタイ。指定のない色合いは任せます」

 

 目の前のテーブルの上にある青いベルベッド生地のような質感に、四隅の角に金色の金具のが施されたアクセサリーボックスを見やる。

 この中には今回"ある事"に信憑性を持たせるため、父と相談して借りたイメージ戦略アイテムが2つ入っていた。

 

"――これを使ったイメージ戦略がうまくいくといいけど――"

 

 口に手を当てあくびを噛み殺しながら、使用人が髪を梳きやすいよう前に視線を戻す。

 

 この必殺アイテムを使うにあたり私にもそれ相応のリスクが伴う――。

 イメージ戦略用この高額な装飾品を持ち出した以上、身の安全の確保のため私は守りを固めることにした。

 今回は養父の秘書がひとり、それと護衛がひとり。そして2人は何かあった場合の訓練を受けたウマ娘。そしてドアtoドアでの行動なら万一の不安は少ない。

 

 ドアがノックされて使用人を通じ、ノックした者に入室するよう促す。

 するとグレーのパンツスーツ姿に、緩く巻かれた白真珠のような色合いの長い髪をサイドアップで纏めたアハルテケのウマ娘。養父の秘書『マハスティ』が入ってきた。

 

『おはようございます、お嬢様』

 

 マハスティの左耳辺りにある金細工のチェーンとドロップ型の真珠、エメラルドのなどをあしらった豪華な耳飾りが歩くたびにシャラリと音を立てている。

 そして彼女は私の少し前で止まってほほ笑んで英語で挨拶をしてくれた。

 

『おはようマハスティ――お養父さまから何か連絡でもありましたか?』

『ええ、特にこれといった話ではないのですが、総帥から伝言で"気を付けていってらっしゃい"と』

『ふふ、そうですか。ありがとうございます』

 

 養父らしいメッセージに私は朝から心が温かくなった。

 この後の予定は支度が終わったら目の前のマハスティと一緒に朝食をとり、時間を潰してから車内で昼食をとりつつ学園へと向かう。

 

 その胸にトレーナーバッジは無し。なんだか少し新鮮な気持ちだった。

 

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年 9月前半某日 午後13時半頃――

――日本トレセン学園 玄関口付近――

――会議参加者受付案内所――

 

 全体会議の開催場所は持ち回り。よって本日のトレセン学園で行われることとなっていた。

 そのためURAの役員などの政府関係者やスポンサー対応のため、理事長、たづなさん、生徒会長の私。

 そして会議室までの案内役として両副会長や、他生徒会や役割に立候補したウマ娘などの者たちがそれぞれ対応を行っていた。

 

「ひえー。スポンサー連中はいかにもって感じなのばっかだな」

 

 その合間に来るもの来るものが大物ばかり。そんな様子に目を丸くしてヒシアマゾンが軽口をたたいている。

 スポンサーはオルドゥーズ財閥以外の15社の代表がすでに来た。そしてどの者も立派な身なりをしており、トレーナー君よりもはるかに年上の方々ばかりだった。

 

「ルドルフのトレ公も来るんだろ? この中にあのお嬢か……なんか想像つかないな」

「どちらかというと、お茶目で可愛らしいイメージの方ですしね」

 

 ヒシアマゾンやたづなさんの言う通りだった。私の中で最もポンコツさが無かったトレーナー君の第一印象を以っても、桜花爛漫(おうからんまん)といった可憐なイメージの強い。そんな彼女がこの場に集まる財界の要人の中に飲まれてしまう気はしなくもない――。

 

『――受付はこちらで間違いないか?』

 

 考え事をしていたらいつの間にか会議参加者が来ていたのだろうか。

 目の前から低い女性の声で英語が飛んできた――。

 

『ええ、間違いないです』

 

 そう私は返事をとっさに返す――低い声の主は白真珠のような毛並みの大人のウマ娘だった。

 待機していた英語が話せるマルゼンスキーに目配せをし、外国語を話すこの要人らしき人物に受付の案内を任せた――。

 

"――ん? 外国語? という事は……――"

 

 いきなりの事で判断が遅れた。目の前に立つグレーのスーツを身に纏ったウマ娘は、よく見ると見覚えのある独特な光沢のある毛並み――どこかで見覚えがある気がする。

 そして入り口側に目を向けると――。

 

 その姿は一瞬誰だか分からなくなるくらいの変わりようだった。

 しかし、近づいてくるにつれ香る"花の匂い"と髪の独特な燐光から、その人物が自分のトレーナーだという事に気付いて驚き何度か瞬きをする。

 

"――メイクや装飾品でああも変わるものなのだな――"

 

 彼女は右胸に大きな宝石のブローチを身に着けることで、目に分かる形で財力を示していた。普段の仕事の関係上ほぼ素に近いナチュラルなメイクから、化粧の仕方を変えて大人びた印象に。

 チキンハートと称し惚けていたトレーナー君は、外見や所作から印象を上手く操作し、大財閥の令嬢らしい姿をきちんと演出しきっていた。

 

 財閥の関係者と思われる白真珠のウマ娘が私の右手の受付で手続きをしている。その間、トレーナー君は秋川理事長と挨拶を交わしている。その傍には護衛と思われる明るめの緑系統の瞳に、ショートカットの赤い燐光を放つ黒髪――黒スーツ姿の大人のウマ娘がピタリと張り付いていた。そして次に私とトレーナー君の視線が交わる。

 

 あまりの変わりようにこちら側がどう接していいか戸惑うと、先に気を使ってトレーナー君は言葉をかけてくれた。

 

「おはようございます――会議以外はいつも通りで大丈夫ですよ」

「気遣いありがとう。おはようトレーナー君。あまりの雰囲気の変わりように驚いたよ。差し詰め一顧傾城(いっこけいせい)といったところだろうか? 普段の可憐な君も素敵だが、今日の姿もとても素敵だと思う」

 

 トレーナー君は優雅に笑みを浮かべ、慣れているのか『あら、お上手ですね。ありがとうございます』とだけ返答が返ってきた。

 スポンサーという立場で来ている彼女に通訳をさせるわけにもいかない。なので、この一行の会議室までの案内役は、そのままマルゼンスキーが引き受けてくれた。

 

「では、会議場で――」

 

 

 静かにそういって付きウマ娘2名を伴い会議室へ向かい去っていくトレーナー君。

 その去り際の後頭部にも恐らくエメラルドであろう大きな宝石、真珠やダイヤモンドのような透明な宝石や金で構成された宝飾品で飾られていた。ビジュー様の横長のその髪飾りは、ハーフアップの後ろの結び目でその存在感を放っている。

 

「おいおいおい、ルドルフ! お前のトレ公フル装備じゃん。タイマンでも張りに行く気か!? 会議場で大砲外交でもする気か!?」

「報告だけと言っていたが、予定が変わったのだろうか……? ふむ?」

 

 いつも米国育ち同士ということで絡みたがるヒシアマゾンが、トレーナー君のあまりの完全武装っぷりに引いてしまっていた。

 それには私も同意だった。何故ならトレーナー君が右胸に身に着けていた、丸い若草色の宝石のブローチは相当な価値のあるものだ。

 それを見て『まさか持ち出してくるとは』と私は大変驚かされた――。

 

 若草色の宝石の正体はオルドゥーズ・ダイヤだ。

 不幸の宝石ブルーダイヤほどではないが、世界中のテレビ番組などでも取り上げられる有名な宝石のひとつであるのは間違いない。

 

 元の原石名は『草原の輝き』と呼ばれる。その2500カラットの巨大原石から切り出された、4つの500カラット超えのグリーンダイヤモンドのひとつが、先ほどの代物だ。そして『草原の輝き』から作られた宝飾品の全てを、オルドゥーズ財閥は初代当主から所有している。

 

 それらは当主やその権限代行者が身に着けた時のみ歴史の表舞台に現れ、財閥の繁栄と力の証とされている。

 博物館などに気まぐれに展示でもされなければ、おいそれとお目にかかれる代物ではない。

 

 他の宝石との外観の違いはダイヤモンド様の圧倒的な輝きで、多少知識があるだけの私でもひと目でわかる程見事なもであった。

 

"――上からの指示が変わったか、養子だからと侮られないよう養父の配慮か。そのどちらかだな……――"

 

 私も家庭環境の関係でアクセサリーの使い方の意味や、印象操作の大切さは叩き込まれてきている――。

 どう見てもトレーナー君の装いが、その経験からどう見ても戦いに赴くそれに思えてならない胸騒ぎがする。

 

"――また何か考えがあるのだろう――"

 

 そこまで思考を巡らせたところで、次の会議参加者がくる気配を耳が察知した。私は会議までまだまだ続く仕事に向け意識を集中する。

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年 9月前半某日 午後14時――

――日本トレセン学園 会議室――

 

 会議に集まった人数は合計で50名を超えこの室内に集まっていた。

 室内後方から見て前方にはスライド用のスクリーン、スクリーン左に司会兼発表者の台がありその外さらに左の窓側に司会者用の椅子。

 

 そしてUの字のように席が並んでいる。理事、生徒会、教官やトレーナーなどのスタッフ代表者が左手に。そのUの字一番下にスポンサー席。そしてUの字右側にURAなどの政府関係者、ヒト側のスタッフ教育を行う機関の代表者、そして学園入学前のウマ娘養成所の代表者などが着席している。

 

 日差しが強いため我々の背中側の窓はカーテンが引かれ、室内は空調で涼しく整えられている。

 

 ちらりとスポンサー席を見ると、トレーナー君はポーカーフェイスで動かずじっと座っていた。――自身の左隣に秘書を座らせ、護衛と思われる黒スーツ姿のウマ娘は、室内最奥の壁際で待機している。

 そしてたづな理事長秘書が会議室の前方。スクリーンの左端の司会進行席に移動してきた。

 

「時間になりましたので、今から会議を始めさせていただきます。本日はご多忙の中お集まりいただきありがとうございます」

 

 司会進行役のたづな秘書のあいさつから会議が始まり、私の顔の表情がこわばりはじめる。

 緊張感を押さえるように少し呼吸をゆっくりと整える――。

 

「司会進行役を務める、日本トレセン学園理事長秘書、駿川たづなと申します――まず代表者の方々の紹介から入らせていただきます」

 

 紹介はまず学園側から始まった。

 理事長、教官とトレーナー代表1名ずつ、そして私たち生徒会と続き自己紹介の方は淡々と進む。

 

 そしてスポンサーは16社の紹介が始まり、その最後に紹介されたひと際若いオルドゥーズ財閥総帥代理の紹介に場がどよめいた。

 まさか本校に勤務しているトレーナー君を、財閥側が立ててくるとはこの場の誰ひとり思わなかったのだろう。

 

 頭上の両耳から入ってくる大人たちの小さな声が、都会の喧騒のように行き交っている。

 しかし、そんな中でも堂々と紹介を受ける姿、装身具の豪華さに押され――その後ゆっくりと会議場が静まっていく。

 

 それはかつて幕末に横須賀沖に停泊した黒船。

 ぺリー代将率いる東インド艦隊の物珍しさに集まって、その正体を知って慄いたかつての浦賀のように。そんな歴史的事象の様子にも似た雰囲気であった――。

 財閥の名だけではなくトレーナー君は史上稀に見る麒麟児。そんな黄金の頭脳を持つ重鎮の機嫌を損ねないよう、周囲の者たちは様子見を決め込んだようだ。

 

「今日の会議の目的は『フリーエージェント制度』及び『そのフリーエージェント制度を活用した日本法人全体の運営方針』の決定です。17時までに具体的な結論を出したいと思っておりますので、ご協力よろしくお願いいたします」

 

 全員の紹介が終わり会議が始まる。

 

 ――最初のフリーエージェント制度の運用はスムーズに決まった。

 フリーエージェント制度初運用での本校における半年間の効果を秋川理事長から発表され、それに対し会場の大人たちは満足げな表情を浮かべている。

 

 そして『人数制限ありの運用』と、『外部養成機関や本校のスタッフを教育する人材調達としての人数上限の大きめの運用』についてあっさりと決まった。

 更にこの制度の活用に関してはURAもその上も予算は潤沢に出すという――。

 

 ここまで決まって一旦休憩を挟み、本題は後半に持ち越されることとなった。

 

 

――20××年 9月前半某日 15時10分――

 

 

 10分前に休憩は終わり今度は問題の教育改革の方に移ったが、雲行きはあまり良くない状況になってきた――。

 

「講座オンライン授業化によるオンラインコース化については"ヒトの教育機関( う ち )"としても歓迎したいです。しかし教育機関独自という狭いオンライン授業の運用に留めても問題点があります。サーバー運用費用の問題。そして、使う側も最低限必要となるスペックを搭載したパソコンやインターネット環境が必須という問題点があります。パソコン室の強化や貸出するにしても予算的な問題はどうなんでしょうか……?」

 

 スタッフの人事編集による余暇の確保は通りそうだ。しかしオンラインコース導入には、予算の確保に関して教育機関側とURA役員から難色が上がった。

 まして導入分野が国力に直接つながりそうにもない、スポーツエンタメにともなると及び腰にもなるだろう。

 

「動画化によって言語上の問題が解決でき、時間があるときに出来るという事は大きなメリットです。しかし他国でも黎明期のオンライン学習の分野に進むのはちょっとリスクが大きすぎませんか?」

 

"――やはり厳しいか……――"

 

 下部組織のウマ娘養成機関の代表者も難色を示してしまった。

 スポンサー側もひそひそとトレーナー君以外何か耳打ちし始め反応が鈍い。

 だがそんな中――。

 

「オルドゥーズ財閥代表。発言をどうぞ」

 

 たづなさんのセリフをを聞いた私は、思わずたづなさんとスポンサー席を二度見してしまった。

 

 仕掛け時を見つけたトレーナー君は、この場で始めて口を開いた。

 

「もしよろしければ――システムの構築やその運用資金、および切り替えのための資金提供を我が社が"全て"行いましょうか?」

 

 何となく察しはついていたというか、期待してしまっていたとはいえ思わず目が丸くなってしまう。

 かつて威圧の為に鳴らした黒船の空砲のようなその衝撃的な一言に、場はざわめくか、あっけにとられている。

 

 ゴールドラッシュの金山運営から始まり、IT、スポーツ、医療、エネルギー関連分野など、手広くやっていることで知られるオルドゥーズ財閥。

 

 その年間純利益は世界トップクラスだ。

 

 目の前の若きその派閥総帥代理は、億を超える2つの装身具を身に着けていた。それを見れば、誰もがひと目でその予算を軽く出せる存在だとわかる――。

 停泊して沈黙を保っていた艦艇から――ついに主砲が炸裂した。

 

「丁度、オンライン教育分野への進出を我が社は考えておりまして。よろしければ是非、この計画を引き受けさせて下さい」

 

 大規模オンライン公開講座ことMOOCの運用には、収益化が難しくほぼ慈善事業と化している。

 

 しかし反面、海外では各教育機関や大学が、独自で提供しているオンライン講座に関しては運用がうまくいっているという。年々オンラインのみの専攻者が増え定着しているという。

 なので参加する各レース関係の教育機関がやっているもののうち、オンライン化できるコースを実現化。そして各機関のオンラインコースを集めた共通土台となる標準環境(プラットホーム)を提案した。

 

 一般的なキャンパスプログラムと同様オンラインでの出願とし、所定の機関に所属、または卒業しているものを書類審査で受け入れる。学位や単位におけるプログラムコースの場合は所定の基礎的なコースの受講を求める。

 

 このような前提の元のアイデアを提出したのであった。

 

 そして米国といえばそのオンラインコース運用の最先端にいる国。そしてかの国でもオンラインコースのシステム開発に、オルドゥーズ財閥は噛んでいるらしい。そんな企業に開発してもらえるのはこちらとしても好条件だ。

 

 レース関係者用の教育機関で試験運用して上手くいけば、国内の他の教育機関への応用も効く。他の分野にまで広がる未来も開けてくる可能性まで秘めた、選択肢が差し出されたのだ。

 まさにそれこそ――いい意味でも悪い意味かはまだ解らないが、時代の節目には違いない。そんな大きな変化の渦の前に私の尾と耳の毛が、興奮で逆立つ感覚を受ける。

 

「もちろん『責任も』こちらで引き受けましょう」

 

 裏表のなさそうなとてもきれいな笑顔を目元と口元に浮かべた。そしてダメ押しの一言でトレーナー君は場の空気を傾けていく。

 自分たちの責任なしにその実験運用がほぼタダで出来るならば――。

 

"――通る可能性が高い!――"

 

 

 その後挙手による多数決は、満場一致でオルドゥーズ財閥が引き受けることで決まった。そしてその瞬間――何やら意味深に一瞬だけトレーナー君の口元がニヤリと笑ったような……そんな様子が引っ掛かった。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年 9月前半某日 午後16時半頃――

――日本トレセン学園 生徒会室――

 

「いただきます!――うーん、このロールケーキ美味しい!」

 

 生徒会室の応接用ソファーの一角。

 トレーナー君は先ほど宅配で到着した、様々なフルーツがゴロゴロと入ったロールケーキを大喜びで賞味している。

 そして彼女の座る二人掛けソファーの右隣に、自分用のアイスコーヒーを淹れて戻ってきた私は腰かけた。

 

 会議終了次第化粧室で秘書に宝石類を外して引き渡し、トレーナー君は校内で付き人と別れたらしい。

 そしてごく普通の髪留め、トレーナーバッジを身に着け会議室等の片付けまで手伝いに来てくれた。

 

 副会長のふたりが今この部屋に居ないのは、たまにはきちんとコミュニケーションを取れるようにと配慮してくれた結果だった。そんな彼女たちからは『どうして見学と言っていたのに、何故あんな事になったのか聞いてほしい』と頼まれている。皆気になっていることは一様であった。

 

 そして宅配アプリでケーキを注文したトレーナー君を、甘いもので釣り上げて生徒会室に誘導してきたわけだ。

 

 

 今日のトレーナー君の雰囲気は化粧のせいか知的な美女といった風だ。しかし、こうして美味しい物を賞味している姿は、いつもの彼女だなと思えて何故かほっとしている自分がいる。

 

「トレーナー君。単刀直入に聞くが、今日は養父君への報告のための見学だけじゃなかったのかい?」

 

 彼女は『ちょっと待って』といったような動作を右手で行った。その後――アイスミルクティを少し飲んでから語り始める。

 

「生徒会室で案を見た後、養父や叔父にオンラインで状況報告をしたときに、内容を話しました。そうしたらアジア地域担当の叔父が、教育関連の事業や慈善事業をしたいってことで、依頼をもぎ取ってくるよう指示がでました」

 

「つまり上の方針が変わったという事かい?」

「そうです。叔父にバトンタッチといきたいところでした。しかし、叔父は東アジアに居るには居ますが――現在季節外れのインフル明けでして。学生さんにうつすわけにいかないからと。だから私が仕事してたんです」

 

 トレーナー君の叔父上がそんな状況だと知って気の毒に思っている間に、彼女はケーキを食べ終えてしまった。

 その様子はウマ耳があれば、確実に前に垂れ下がっていそうなくらいションボリし、物足りなさそうな雰囲気を漂わせている。

 大方また緊張感で食が細っていて、その原因が解けお腹が減ったのを自覚したといったところだろうか?

 

「――おかわりはいるかい?」

「欲しいです!」

 

 おかわりがあるという事実にきらきらと期待に瞳を輝かせて、勢いよく返事が返ってきた。その様子に思わず微笑ましさが込み上げる。

 多めに買っておいた追加の分のケーキを、トレーナー君の皿へと乗せると、彼女はまた嬉しそうに食べ始めた。

 

 そしてある程度食べ終わったのを確認してから、私は本題を切り出した。

 

「ところで――これはあくまで予想だが、ある程度我々に自力でやってみせ、足りない部分があれば最初から手伝うつもりだったのか?」

「ええ。生徒会の案はいいと思っていましたが、何でもやってしまうのは教育上よくないですからね」

「なるほど。だがどうやって身内を動かしたんだ? いくら君でも難しかっただろう」

「極東進出のために養父が日本国内の人材を求めている。それが突破口になりました。オンラインコースをウチが管理すれば、青田買いで優秀な人材を得られると提案し、オッケーを貰った次第です」

 

 そう答えつつ彼女は片手に持った皿の上のケーキを、一口大にフォークで切って食べる。そして美味しそうに食べながら彼女は顔を綻ばせる。そんな中、私は彼女がきちんと見守ってくれていた事を知って心が温かくなった。

 

「そうか。――ありがとう、君の一押しが無ければ通すのは難しかったよ」

「ふふ、どういたしまして。」

 

 これで当分の間学園改革に関する憂いはなくなった――。

 やっとレースの方に集中できるなと思いつつ、私もケーキを食べ進める。

 

 そして、そういえば夏らしい事を生徒会の視察以外、今年は何もできなかったなという事を思い出した。

 

"――トレーナー君だけにまともに時間を割いたのも、春に花見をしたっきりか――"

 

 その状態ではそれは副会長の2人に気を使わせてしまうのも当然だった。

 

 トレーナー君はというと、最近マルゼンスキー主催の両親、または本人が、海外の出身者である生徒で構成された『外国系ウマ娘の会』に身を置いているらしい。主催のマルゼンスキーからは『特に寂しい様子はしていなさそう』という報告は受けていた。

 

「そういえば私、今年は夏らしい事何もできなかったなぁ。そうだ! ルドルフ、週末にお時間はありますか?」

「今週の山場は今日の全体会議だったから大丈夫だよ」

 

 どうやらトレーナー君も同じ事を考えていたらしく、彼女から遊びのお誘いが来そうな気配がしている。一体何に誘ってくれるだろうかとワクワクしていると……。

 

「『東京国立博物館』で全国埴輪(ハニワ)展っていう全国の埴輪が一堂に集まる面白い展示があるそうです。一緒に見に行きませんか?」

 

"――君の興味の対象は今度は埴輪か.......!?――"

 

 前は『鳥獣戯画展』、その前は『深海ダイオウイカ展』と『始皇帝兵バ俑展』。

 その度にそれら展示会関連の謎の土産菓子が私に手渡されるので、彼女が変わった博物館めぐりを趣味としているのは知っていた。そしてどうやら今度は埴輪の展示が気になったらしい。

 

「普段触れない分野に触れるのもいいね。行こうか。所でトレーナー君はそんなに考古学が好きなのか?」

「はい。考古学には厨二的なロマンがあると思うんです。発掘品や遺跡を見るとわくわくします」

 

 話すたびに新しい一面が増えていくことになんだか面白みを感じてしまう。

 そして私はある提案をそこに付け足す。

 

「『国立博物館』の近くなら美味しいランチが食べられるところを知っているのだが。そこもいかないかい?」

「それは是非! いきたいです!!」

 

 すると思った通り、トレーナー君は更に表情を輝かせた。

 

"――ふふ、食べることと知識欲、君はどちらが好きなんだろうね?――"

 

 当日この一風変わったトレーナー君の反応を見比べてどういう違いがあるか、それを見るのが楽しみだなという気持ちで私の胸は躍った――。

 

 



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【幕間】オーバーワークはほどほどに【前編】

 あるウマ娘の出てくるショートストーリーと、
 尺やテンポ、諸々の都合上幕間に持ってきたお話みたいなやつ。

 ブライアンさんからのルドルフさんへの呼び方はシングレ、うまよんetcなどの引用元によって異なるみたいです。あれ違う? と思う部分はそういう事です。宜しくお願いします。

 前半トレーナー君視点、後半エアグルーヴ視点です



――20××年 9月半ば某日 午後12時10分頃――

――???の狭い窓ひとつの縦長の部室――

 

 カーテンが閉まった薄暗い室内。刑事ドラマにありそうなグレーのデスクにシンプルな卓上照明。そして座り心地の悪いパイプ椅子に私は座らされている。

 このサスペンスのひと幕のような状況の中、私はゴールドシップと対面している状態であった――。

 

「証拠は上がってるんだ! さあ吐け!」

 

 情報屋ゴールドシップとのバイト契約が一旦終了した。

 そのため今の私とゴールドシップの関係はバイト先とアルバイターではなく、一介のトレーナーと学園生徒。私は学園新聞のネタとして絶好のターゲットとなってしまっていた。

 

 目の前に叩きつけられた複数枚の写真は2日前――東京国立博物館で"全国埴輪展"をルドルフと私が楽しんでいる様子であった。グリーンのトップスに白のパンツスタイルのルドルフと、水色の7分丈シャツに白いサーキュラースカートの私が笑いあって写っている。

 

「よく撮れてますね。この写真はどうしたんですか?」

 

 手に取ったそれら数枚の写真を感心しながら私は眺める――。

 

「ウマッター話題になってたぞ? そして目撃者の生徒から快く提供してもらった」

「あー……そういうこと。私は"Horsebook"派なんで気付きませんでした」

 

 そういえば東京国立博物館の前でルドルフが私とツーショットを撮り、自身のウマッター公式アカウントに写真あげていたのを思い出す。最近情報発信についてのレクチャーを彼女にしたら、学園にいる子に習って始めたんだっけな?

 

"――あー。あれで気付いた誰かが野次ウマしてたのか――"

 

 写真を机の上に戻すと写真が全て下げられてしまった。

 

"――あ、......さっきの写真ほしいなぁ――"

 

 そんなことを考えていたら、写真の代わりに白く湯気立つ黄身の半熟具合が素晴らしいかつ丼が差し出された。

 

「かつ丼やるから、ほらなんか面白いこと喋れ!」

「そういうのって取り調べでやると違法って聞きましたよ?」

「なら代金よこせワンコインプリーズ」

「仕方ないですね……」

 

 お昼を食べる前にゴールドシップによりこの取調室もどき――学園新聞部の部室にずた袋によって拉致監禁されたため、私は完全に昼食を食べ損なっていた。お腹が空いているしもったいないので500円渡してかつ丼を食べることに。

 

 そして代金を支払うとおしぼりと割りばしとお冷。インスタントの味噌汁にたくあんの小鉢まで出てくるではないか!

 こんなお得なワンコインメニューがある食堂が近所にあれば、平日のお昼休みには連日サラリーマンが大挙し盛況は間違いなしだろう。

 

「ありがとうございます。それじゃあ遠慮なく頂きます」

「おう、せっかく作ったから冷める前に食え」

 

 おしぼりで手を拭いてから一般的などんぶりサイズのとんかつを箸で口に運ぶ――。ダシがしっかりと利いており、ご飯もいい炊き具合でとても美味だった。

 

 そしてゴールドシップも今からお昼らしく、彼女の背後にある壁際の小型冷蔵庫から『焼きそばパン』やら『紙パックのカフェオレ』やらを取り出してきて食べ始める。

 

 食べながら話すとお行儀が悪いのできちんと食べ終わって、いいタイミングで出てきた紙ナプキンで口を拭いてから私はこの取調室から出るべく行動を起こす――。

 

「大体なんでそんなに皆さんは私たちを気になさるんですか?」

「会長が個人の為に出かけるって今までになかったし、ありえねぇって声が多かったからなー。」

 

 どんぶりなどを銀色のシンプルなオカモチに片付け、部屋の隅に置きながらゴールドシップはそう答えた。

 

「そうだったんですね。でもそれは私がトレーナーだからではありませんか?」

「端から見て思い入れが強そうだけどなー。まあ冗談はこれくらいにしてー。ネタ切れしたから新聞のいいネタ考えるの手伝ってくれよぉ!」

 

 顔の前で手を組んだ私より大きな彼女は、少し背を曲げて上目使いでパチパチとまばたきを数回行った。これは問題を解決するまでここから出してくれないのだろう。

 

 私は頭の中をひっくり返してネタを探すために首をかしげた。そして思い付いたのは──。

 

「そうですね――例えば学園近くの河原のミステリーサークルとか、『月刊ムーン』みたいな感じで取り上げてみるとかは? 学生さんはそういうの好きでしょ?」

 

 無難なものを選んで提案したアイデアを聞き、ゴールドシップは左手を広げたまま自身の顔の前でふりふりと横に振り、『ねーわ』といった感じの顔をして――。

 

「そう思って調べたら学園近くの河原のミステリーサークルはスズカのせいだった」

「え? スズカってサイレンススズカ?」

「そーだ。アイツ考える時にぐるぐる左回りに旋回する癖があるらしく、河原でそれやって草が巻き込まれてあーなってたらしい」

 

 ゴールドシップは左手を軽く顔の横にあげ、人差し指を立てくるくると左回転で回す。

 この学園に来てずっと謎だったものがひとつ解けた。そのことに強い感動を覚えつつ私は提案を続けることにした――。

 

「うーん、ではシラオキ様特集」

「今朝フクキタルから凶って言われて腹立つから今はパス」

「学園の七不思議」

「ガチホラーはパス」

「むー……では――」

 

 よく見るとゴールドシップはニコニコと笑っている。この反応から察するに、ほぼ間違いなくネタとかどうでもいいのだろう。最近遊んでなかったから構って欲しいのかもしれないが、これは困った事になった。

 

"――ってこれ終わりがみえないじゃない!――"

 

 目的がイタズラとなると彼女が納得する答えを出せないだろうという事は確定した。ならばこちらが主導権をにぎるまで――!

 

"――覚悟を決めてひっさーつ!――"

 

 この切り札を使うのは少々リスクが伴うが、覚悟を決めて私は軽く息を吸い込み腹を括った!

 

「では、ゴールドシップさんのご実家が雅でやんご「おいやめろ!」

 

 身を乗り出してきたゴールドシップの片手が私の口に当てられ、その先の重要な部分は止められてしまった。

 

"――お、やっぱりビンゴ?――"

 

 あまりの慌てようからこれは言われたくない話しみたいだった。こんなこともあろうかと、対イタズラ回避用にとっておいたネタだ。

 

"――効果覿面(こうかてきめん)ね。偶然知った事だけど深堀して調べておいて良かった――"

 

 私が続きを喋らないのでゴールドシップはゆっくり手を放し、かなり真剣な顔つきのまま一旦椅子に座りなおした。

 

「――それを何処で知った」

 

 それはいつものゴールドシップからは想像もできない、真剣で低い声だった――。

 

「昔々合衆国から日本へ招かれたウマ娘がいるという、ある歴史的事実がありますよね? それは日本のレース史を読んでいて本国の資料と見比べることで偶然いきつきましたが、――決定的になったのは先ほどのブラフに墓穴を掘った貴女の態度ですけれどね」

 

 余裕の笑みを浮かべる私とは対照的に、ゴールドシップは鋭い眼光を伏せ、机に両肘をつき指を組んだ手に額を寄せ大きなため息を吐いた。

 

「――ほほーゴルちゃんにイタズラされない為にそこまで調べてやってくるとは――いい度胸じゃん」

 

 そう発しながらゴールドシップは体を起こし、腕を組んで納得した表情でうんうんと頷いている。

 

"――え……なんだか嫌な予感がするのは気のせい?――"

 

 形勢逆転と思いきやゴールドシップは余裕の表情に戻った。

その雰囲気になんだかとてつもなく嫌な予感がしてきてならない――。

 この場から逃げたくても入り口側はゴールドシップの背後にあって脱出することが難しい――。

 

 そして、ゴールドシップは突如として立ち上がり!

 

「なら、猶更ここから出すわけにはいかねーな! とうっ☆」

 

 ゴールドシップはにっと笑みを浮かべると同時にそういって机を飛び越えてきた!

 そして私を捕えようと飛びついてくる!

 それを反射的にひらりと右に倒れるように交わして逃げる!

 

「なんでそうなるんですかー!」

「っていうのがお約束じゃん!!」

 

 取調室のような新聞部室内を机を中心にぐるぐる右回りに回って、追いかけてきているゴールドシップから逃げる。

 

「少しはお淑やかにされてはいかがですか! ゴールドシップお嬢様!」

「やなこった! そしてそれ言うなし! 淑やかじゃないのは同じだろうよ、じゃじゃウマお嬢様!」

 

 一瞬ちらりと見えたゴールドシップはなんだか物凄く楽しんでいる。

 その様子から察するに本日のイタズラターゲット先はやはり私らしい!

 

"――窓は!――"

 

 半人半バ(セントウル)の身体能力を生かして窓からどうにか逃げることを考え、窓を見るとカーテンには縦長の縞のような影がいくつか見える。

 つまり外に鉄格子がしてあるということ。

 こういう細かいところまで演出にこだわっているところに一瞬感心してしまうが――!

 

"――あ、やばっ!――"

 

 窓から机、机から入口の間のうち、入り口側に続く左側の机と壁の間。

 そのルートをゴールドシップは私がよそ見をしている間に椅子で塞いでいたのだった。

 

 このため気付かず周回した私は窓側、入り口を背にゴールドシップ。

 完全にチェックメイト――詰んだ状態であった。

 

「叫んで会長を呼ぼうとしても無駄だぞー? 1時間は帰ってこないって聞いてるから」

「知っています。どこまで用意周到なんですかもう」

「前にイタズラ仕掛けたら、即会長がすっとんできた経験を生かしてな! どうだ! ゴルちゃん賢いだろ!」

「賢いとは思いますがまた叱られますよ!」

「叱られるのが怖くてイタズラなんてできるかってーの!!」

 

 じりじりと距離を詰められるため、窓側に同じ距離を後退しながら隙を伺う――。

 

「アタシの秘密を喋らないでもらうため、本格的に取り調べしなきゃならなくなった。おとなしく降参しろー!」

 

 そうは言いつつもおどけてはしゃいでいる態度から、じゃれついて遊んでいるのだとありありとわかる。

 こうなったゴールドシップは非常に厄介だ。

 

"――捕まると面倒そうだなぁ。何かないかしら……――"

 

 そう思ってズボンのポケットに何かないか探ると、大判のハンカチが1枚あった。

 

"――よし、これならちょっと行儀が悪いけど!――"

 

「降参用の白旗はないけれど――――これならあるわ!」

 

そういってハンカチをポケットから引き抜くように取り出すと同時に、油断しきっていたゴールドシップの顔面目掛け投げた!

 

「ちょっおまっ!」

 

 その白い大判のハンカチはおそらくゴールドシップの顔に上手くかぶさったのだろう。

 私は状況を確認せず、まず左足で床を蹴り、右足で机に着地してそのまま体重移動! そしてドア前に左足着地しつつスライド式のドアを左手で勢いよく開く。 ゲートが開いたかのようにドアの音を響かせ、そのまま前傾姿勢で外に飛び出した!

 

「ご馳走様! ハンカチは返さなくていいですよ!」

 

 振り返らずそう叫び、自身のトレーナー室こと安全圏まで逃げ切ろうとまずは玄関までの最短ルートをとる!

 何だ何だと早めにお昼を終えた他の生徒たちが大騒ぎしているなかをすり抜け、ゴールドシップに捕まるまいと必死に逃げる。

 

"――廊下を走ったことは後で自首するから許して! ごめんねルドルフ!――"

 

 生徒会の子たちにこってり絞られるのは覚悟の上で、昼下がりの学園3階の廊下を前方を気にしながら振り返らずに走った。

 

 こういう時自分が半人半バ(セントウル)で、かつ脚質はスタートダッシュに強く逃げ適正ありでよかったと心底思う。

 廊下を走り抜けその端にある階段の手すりを滑り降り、トレーナー室に最も近い出口まできた!

 

"――やった! 逃げ切れる!――"

 

 と思った時だった――。

 玄関を出た瞬間横から飛びついてくる影が視界の端にスローで見えた。

 

 とっさにスライディングのように低空姿勢に変える。

 すると頭の上をデカい何かがかすり、急に体勢を変えたことで低めのサイドテールに纏めていたヘアゴムがするりと抜け落ち、背中の中ほどの長さがある私の髪はふわりと宙を舞った――。

 

 

「ちっ! 冴えてんな!」

 

 背後からずた袋と思われる布の音、それと同時に聞こえた声はゴールドシップ。

 今置かれた状況を振り返らずに察してまた立ち上がって走り出す――。

 

"――行先がばれてる!! しかもまた拉致する気満々じゃん!――"

 

 行先がばれているとまた待ち伏せされるため、駆け込み先を変えてトレーナー室とは逆方向に左折した。

 恐らくゴールドシップは校内を追わず、どこかの窓から何かを伝って降りてきた。

そして私の足音の方向から行先に当たりをつけていて待ち伏せていたのだろう。

 

"――校舎を早く出ようとしてうっかりやらかしてた――――!――"

 

 今度はどこに行くべきか、とりあえずルート選択は不規則にしつつ、またさっきみたいに見えないところから強襲されないよう選んでいく。

 

 

"―― 一番いいのはエアグルーヴに遭遇する事だけど、すると私も連帯責任よね!? それ覚悟してもこの時間帯ってどこにいたっけ! 他なら寮長の2人あたりに助けを求められたらベストだけど!――"

 

 風切り音の中でも聞こえてくる足音――後続のゴールドシップの距離がものすごく詰まってきているのそこからがわかる。

 

"――こんな事なら普段もっと走り込んでおくんだったー!――"

 

 指導するために自分も並走くらいはこなせる程度に鍛えてはいるが、やはりレースガチ勢である彼女たちとは実力差がある。

 このままだとどこかで絶対につかまってしまうのは明白だった!

 

"――そうだ! タイキシャトルとの鬼ごっこでやったアレをやろう!――"

 

 

 タイキがアイルランドに引っ越す前。まだアメリカにいた頃。

 ルイビルの学園に遊びに来る度、歳の近い私と遊びたがるタイキとはよく鬼ごっこをして遊んでいた。

 

 結果はというと私は何度も惨敗した――そう、ある時点までは。

 

 

 その中で編み出した戦法を思い出した私は直角に左にまた曲がって学園の表側ではなく裏側!

 裏庭側に進路をとった!

 

 そして細い校舎間の通路を追いつかれないように祈りつつ突っ切る! 右にぐるんと視界が曲がり、視界もその動き通りに旋回したあと真正面に裏庭が収まった。

 その裏庭には芝生、そして低樹の植え込みが複雑に配置されており、まっすぐ走れない地形となっている!

 

「おい!! あぶねーぞ!」

 

 後ろからゴールドシップがそう叫ぶ。

 何故なら私の目の前30m先には腰の高さほどの低木の植え込みがある。

 そしてそのまま私は真っすぐ速度を維持したまま突っ込み!

 

「問題――ないっ――!」

 

 そういって左足で踏切り、右足を振り上げ植え込みを飛び越える!

 綺麗に空中姿勢がきまり、一瞬の浮遊感を味わった後、右足で着地してまた数歩走り踏切って浮遊感!

 

 そうやって植え込みがある所を10回ほど、短い距離をいくつか挟んで連続して飛び越え、空中散歩をしながらまっすぐ突っ切り障害走のようにして逃げる。

 まだ残暑がきつく全身から汗が吹き出し額からも汗が流れ、しかも運動しずらいスーツだがなんとか突破する事が出来た――!

 

 私に半分流れる血のアハルテケのウマ娘達。

 彼女たちはジャンプ力や柔軟性に富み障害走も得意とする。

 

 タイキに負け続けた鬼ごっこで出した結論は、平地レース向きのウマ娘から逃げ切るには自分が得意なものに引き込むしかない。

 だから植え込みが多く曲がりくねった裏庭をストレートで突っ切り、そのまま逃げてしまう作戦を考えたのであった。

 裏庭の反対側まで逃げて振り返るとゴールドシップが――。

 

「鬼ごっこで卑怯じゃねーのそれ! ずりーぞ反則!」

 

 庭のはるか向こう側100m――追うのをやめたゴールドシップが腹を抱えて笑いながら叫んでいた。

 

「だってそのまま平地を逃げたら捕まるんですもの!」

 

 そう聞こえるように返した私もなんだか可笑しくなって、お互い腹を抱え笑いあう。

 すると頭上から『お見事!』やら『面白かった!』やら拍手やらが降ってきていた。

 声の出どころらしき左手を見上げると、たくさんのウマ娘たちが窓際に押し寄せてはしゃいでいる。

 

 大方この唐突に始まった鬼ごっこをどこからか見て楽しんでいたのだろう。

 

"――わー……これが本当の野次ウマ娘!?――"

 

 そんなことを心の中でごちっていた次の瞬間――。

 

『――後ろ! 後ろ!』

 

 校舎の見える範囲のどこかにいるのだろうか?

 普段ハヤヒデと仲良くしている関係で最近知り合った、ウイニングチケットがそう叫んだ声が聞こえたと同時に!

 

「ほう? 通報があり誰かと思ってきてみたら――」

 

 その声に振り返る間もなく両脇に感触があり、視界が高く上がって足が浮く。

「うひゃぁ!」

 

 びっくりして叫んでしまった!

 何者かによって私は『ライオンキングダム』の開幕で仔獅子が持ち上げられているみたいにされている。後ろを向きたいのに後ろから脇を抱えられいるため見えない上に、ジタバタと動いてしまうも持ち上げられていてどうにもならない!

 

「こら暴れるなたわけ! ブライアン! こっちは確保した!」

『こっちも捕まえた! 全く何やってんだか……』

 

 冷静になった頭で姿勢が崩れ、落ちるのを恐れておとなしくする。

 そのついでに前を向くとゴールドシップが向こう側でナリタブライアンに捕まっていた。

 

「さて、何か言い残すことはあるか?」

 

 持ち上げられてて物理的に不可だが、もしできたとしても確認するのが恐ろし過ぎて振り向けない。

 震え上がる自身の背後越しからでも、声の主であろうエアグルーヴが相当怒っているのがわかる。

 

「す、すみませんでした……」

 

 あまりの恐怖に私は声まで震え、校舎側の子たちがどんな声を上げているかもわからない。

 かなり情けない状態で私はお縄に着いた――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年 9月半ば某日 午後14時15頃――

――生徒会長室――

 

 私は予定よりかなり早く帰ってきた会長に先ほどあった、ゴルシとゴルシから逃げるトレーナーが起こした騒ぎとその処分を報告し終える――。

 

 生徒会長室の応接ソファーにブライアンと私は隣り合って座り、上座には会長。

 机の上には会長が休憩用にと買ってきてくださったものが配置されている。

 ブライアン用の『ファミリアマート』の『ファミリアチキン』と『みたらし団子』、そして細長いグラスに入った冷たい緑茶が3つ――。

 

「廊下を走ったのは良くないが、トレーナー君がずた袋に入れられて拉致されたという連絡が目撃した生徒から私に入っていたし、いたずらされたくなくて逃げていたのなら同情の余地はある」

「確かにそうですが……しかしいけないと知りながらも廊下を走ったことは事実です」

 

 道理で会長のお帰りが早かったのかと今の発言から納得した。

 誰かから会長へトレーナーがゴルシに拉致されたと通報が入り、気にかけて切り上げてきたのだろう。

 

「――しかしこの動画のトレーナー君の激走は中々のものだな……」

 

 そんなことを考えているとあろうことか、会長は確認用に先ほど教えたウマッターにあげられている動画に対し、怒るどころか見入って感心していた。

 

 会長のトレーナーの逃走劇は目撃していた生徒によってウマッターにいくつか動画や写真が上がっていた。

 アハルテケとよばれるウマ娘自体が世界にその総数が万に満たない上に、その半人半バの激走ともなるとさらに希少中の希少。そのような物珍しさから動画には大量のいいねがついていた。

 

「玄関口で待ち伏せしていたゴールドシップをすり抜けてたのもすごかったぞ。あれは中々見ごたえがあって傑作だった」

「ほう? 是非あとで話を聞かせてくれブライアン」

 

 会長はニコニコと笑顔を浮かべて機嫌よくブライアンに反応を返し、ブライアンもブライアンで『おごり次第でな』と完全に悪乗りしている。

 

 確かに宝石のような輝きの髪を靡かせ、植え込みを連続して飛び越える姿は空中姿勢まで見事としか言いようがない素晴らしいものだったが、今はそれに感心している場合ではない。

 

「感心している場合ですか。会長はあのトレーナーに甘いのでは?」

「そんなことはないさ。廊下を走ったことに関しては叱っておくから心配しないでくれ」

 

 そういうも会長の雰囲気にトゲトゲしさははく、眉を少し困ったように下げるのみ――。

 

「ブライアンもその時点で見ていながら何故捕まえなかった」

「芝の上で寝転がっていたし無理だ。ゴールドシップに捕まるか、逃げ切るかして止まるのを待った方が早いだろう? あのお嬢サマは進んで問題を起こすタイプじゃないから、そのタイミングで話せば簡単だ。それからゴールドシップを捕まえればいい」

「まあそれなら理にはかなっているか――」

「だろう?」

 

 そう言ってブライアンは2枚目のファミリアチキンに手を付けるべく手を伸ばしかけて止め、一旦おしぼりで手を拭いてからポケットに手を入れて何かを探していた。

 

 そしてブライアンは机の上に黒いヘアゴム――透明で青空を模した雫のような立体的な飾りがついたものを置く。

 

「それとルドルフ。これはあのトレーナーの髪留めか? 逃げる途中に振りほどけたのか落ちていた――本人のならば渡してくれ」

 

 会長はそれを手に取り、光にかざすようにして眺めた後満足げにほほ笑んだ。

 

「見た覚えがあるから間違いない。彼女に君が拾ってくれたことを伝えておくよ。拾ってくれてありがとうブライアン」

「――なんかアンタは丸くなったよな。前ならもっとキツい感じで怒り狂ってただろうに」

 

 そう言ってブライアンは2枚目のファミリアチキンを手に取りかぶりついた。

 

「……そうだな。大願成就のためには、私も変わらなければいけないと思ったからかもしれない」

 

 会長は手にとっている髪飾りのついたヘアゴムを両手の中で転がして、それを大事にそうに扱って眺めている。そしてそのまま言葉をつづけ――。

 

「誰かを導くのに絶対的な力は必要で、それと同時に柔軟性も必要。頭ではわかっていたのだけれど、私は肩の力が入りすぎていてそれが望まない状況を招いていた」

 

 確かに会長に憧れる者もいれば、その肩に力の入りすぎている姿に距離を感じてしまうものも多くいた。

 会長の雰囲気が大きく変わるきっかけとなったのは、業務の大幅な効率化により全員がある程度時間的余裕を取れるようになったことであった――。

 

 会長はポケットに髪飾りをしまうと、真っすぐ我々を見て――。

 

「それに海外遠征を視野に入れる以上、生徒会の者に私が抜けた分過度な負担がかかってしまうこと。それと私が激務をこなせても後に生徒会を率いる者がその所為で大変な思いをするかもしれない。そういう意味でも効率化もして、自分自身にも余裕を持たせておく重要性に気付けてね。幸い私にはブライアンやエアグルーヴ、君たちをはじめ志の高く自発的なものが多く集まっている。ひとりでも多くの者を導くため、きちんと仕事を分担していこうと思うんだ」

 

 ここ半年で会長は学園改革をしているのだから我々も組織の在り方をきちんとしようと、生徒会の組織図もデザインしなおした。

 それは全て抱えがちになっていた以前の会長からは想像もつかない行動であった――。

 

「そんなに恐縮なさらないでください会長。しかし、本当に変わられましたね――」

「ああ、トレーナー君に厳しく釘を刺されたのもあって色々と――」

 

 視線を左に泳がせ、ばつの悪そうな顔をした会長に、私も隣にいるブライアンも思わず目が丸くなってしまうほど驚きを隠せなかった。

 

"――あのいつも優し気にほほ笑んでいるトレーナーが?――"

 

 会長がこんな表情をするほど厳しくものを言うという事実に――。

 

「へー。アンタがそんな顔するくらいの事だったのか?」

 

 めったに笑わないブライアンが、何か面白い物を見つけたかのように、ニヤリと口元に笑みを浮かべている。そして2枚目のファミリアチキンを食べ終えた彼女は、皿に乗った3枚目のファミリアチキンにそういって手を伸ばしている――。

 

「ああ見えてキツイこともはっきり言う方でね。3月に生徒会の仕事でオーバーワークをし過ぎた際に叱られた。その時ついらしくもなく話の途中でカッとなってしまってね。その後は一歩も引かない彼女と大喧嘩してしまったり色々とね」

 

 昨今の会議でのあのトレーナーの姿を考えても、カッとなった会長相手に反撃する程気丈だとは思いもよらなかった。

 

 会長に連れられてあのトレーナーが学園にやってきた当時、遠目に見たその華奢な少女からは、美しさや儚さは感じても、カリスマ的なものや強者独特の威圧感、そして強さは全く感じられなかった。

 『Grand』と聞くからには会長を支えられるような、皇帝のあだ名に相応しい頼もしい"杖"を想像し期待していた。

 

 だからこそ本当にこの少女が? と最初は目を疑ったものだった。

 しかし後に直接本人と話す機会があり、麗らかで仕事がよくできるという姿が見えたときには『Grand』を冠するだけあると感心すると同時にこれなら大丈夫だと安心できた。

 

 今では友人くらいの距離感になるほど好感が持てる存在ではある。

 そしてふと私は3月ごろと聞いてある事をついでに思い出した。

 

"――だから今年の3月半ば頃から会長はきちんと休むべき時にお休みされていたり、そして人員を大幅に増やし業務を色々分担するようになったような? それと同時に3日程自身のトレーナーと気まずそうにしていたのはその時のせいか?――"

 

 あの時会長とトレーナーが目も合わせないほど大喧嘩したという噂が流れていた。

 タダの噂だと思っていたが、その噂にはちゃんと火元があったのだ――。

 

「その様子だと正面からバッサリやられたな。それでその後どうしたんだ?」

「3日ほどまともにトレーナー君と顔を合わせられなかった。一旦頭を冷やしてからカッとなったことを謝って、じゃあどうすればいいという事を彼女に相談した。するとまず知識をつけ、必要ならば多少の抜けがあっても動じないよう組織改革しなければという提案を受けた」

「なるほど――それは妥当な提案ですね」

 

 少し喉が渇いたので私はお茶を飲みまたテーブルの上に戻す――。

 

「ああ、それでトレーナー君から最新の色々とリーダーシップ論やマネジメント講座をやってもらったが――その講座には口頭と筆記による最終試験があって、4度目の正直でやっと合格を貰った。……追試を受ける気分を産まれて初めて味わった」

「会長ですらそんなに難しいのですか……」

 

 穏やかな笑みを浮かべ会長は私たちに話しているが、最後の一言から察するに余程難解な内容だったのだろう。

 

"―― 一体どんな難易度の試験を課されたのだろうか……?――"

 

 会長が苦戦する難易度と聞いて身震いを伴う寒気がした。

 

「社会人の視点から厳しくと頼んだからかもしれない。内容は個人の主観に左右される持論などではなく、大学レベルの本格的学術や統計に基づいた難易度は高いが有意義な講座だったよ」

「最後の試験の難易度を加味しなければ良さそうな講座ですね」

 

 それは私も興味を惹かれる内容だった。そして、その講座をもしよければ会長の許可を取って、会長のトレーナーの空き時間に頼んでみようかと思う考えがふと頭によぎった。

 

「完全に同意だが、またあの難易度の試験を課されるのは勘弁願いたいものだ。ルイビル校におけるトレーナー君のあだ名に"Drill Sergeant(鬼教官)"というものすらあるらしく、前に担当されていたウマ娘からも『出来る者には厳しい』と聞いてはいたがここまでとは思わなかったよ」

 

 所謂小動物系の類に近い雰囲気をしている会長のトレーナーがどんなことをしたから鬼に見えるんだろう?

 余程出来る者と認めたものには容赦がないと私は見た――。

 

 そしてその『鬼教官』に講座を頼むかどうかを一瞬悩んだが、虎穴に入らずんば虎子を得ず。

 会長のお役に立つためにやるしかない――腹を括ろうとそう決めた――。

 

「姉貴と話しているのを見ているけれど、そんな感じには見えなかったが……意外だな」

「本当に意外だよ。しかしそれらは期待や心配の裏返しだろうさ。皆のお陰でフリーエージェント制度を通じていいトレーナー、いや、自分の行く先に必要な良い先生を手に入れた。だからこそ無理しすぎて倒れるなんて無様を晒さないよう留意し、焦らずしっかりこなしていくとしよう」

「そうですか――会長が安心して留守を任せられるよう我々も尽力いたします」

 

 どうやら会長はきちんと支えてくれるいい杖を見つけたようでよかった。

 何だかほっとした気持ちになる。

 

「そうだな。アンタが強ければ強いほど挑み甲斐がある。私も――まあ、気楽に頑張らせてもらう」

「気楽にって、ブライアン……お前はしょっちゅう逃げてるんだからもっと仕事をしろ!」

「ちっ――わかってるよ」

 

 振り返れば奴が――――"いない"

 

 ブライアンは生徒会の仕事が面倒そうだと雲隠れする癖がある。

 すぐに逃げるのが難だが、本当に自分が必要な時だけはきちんといる上に、仕事は出来るので余計に私は腹立たしかった。

 

「――さて、もう15分したら作業を始めようか」

「はい!」「ん」

 

 あと半年もすれば皐月賞の4月。

 そして会長の最初の海外関門となる英国『キングジョージ』まで1年を切った――。

 

"――会長の遠征ラッシュの日々に備えしっかりと準備を怠らぬようにせねばな――"

 

 会長の目標としている海外遠征という偉業を達成させるべく、私も生徒会の活動を頑張ろう。

 

 残暑の残る窓の外のセミの声は最盛期であった先月に比べて減り、秋の足音が学園に近づいてきていた――。

 

 




◇会長がトレーナーに叱られた時系列的は?

 4話(2月頭のローテ決め)
 ↓
 3月半ばオーバーワークでトレーナーが叱った
 講義を受けて生徒会の業務改善開始
 ↓
 5話(4月の旧第三グラウンド魔改造の話)
 みたいになってます



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【幕間】学校といえばコレ【後編】

 サウジアラビアRCのスケジュールは「いちょう特別83年」に合わせてます。

 前半トレーナ君視点 中盤ルドルフ視点、後半トレーナー君視点です

 ⚠台所のラスボスこと虫注意⚠



――20××年 9月半ば某日 午後19時50分頃――

――トレセン学園本館 3階――

 

 

 空調が切られているため若干蒸し暑い学園の本館内。その濃い青に染まる闇の中を懐中電灯片手に私はゆっくりと歩いている。

 

"――うへー、今日1日で一生分くらい絞られた気がする――"

 

 昼間の爆走事件の後エアグルーヴから注意を受けた。そしてさらにトレーナーのまとめ役の立場にいる、上司の東条トレーナーから特大級の雷を落とさる羽目に――。

 

 そんな踏んだり蹴ったりな私は今――罰として学園本校舎をひとりで見回りをしている。

 

 なんでも最近校内で『謎の影』や『光る人影』を目撃しているとか? 後者は予想が付くけど前者に関しては、ちょっと『ナニヲイッテルノカワカリマセン』みたいな気分になった。

 しかもこういう時に限って昼間警備の人達から風邪が流行ってしまった。そこで今日だけ人手が足りないので、教員とトレーナーが駆り出されたという訳だった。

 

"――『振れ幅の大きい制御の外れた感情』って、こういう時に不便だわ――"

 

 以前の世界では感情がある一定以上を超えないよう、制御がかけられていた。

 その理由は"治安維持"、そして能力向上のため『超記憶症候群』のメカニズムを応用した遺伝子改良。所謂『完全記憶能力』というものだ。これは一見すると便利な反面、『悪い思い出が忘れられなくなる』という大きなマイナス面がある。そんな設計を人類に組み込んだからであった。

 

 元の世界では『天文学的な理由』で『大災害』が頻発していたり、諸々の理由で人類は『数を絞り、少数精鋭にする』という路線を決めていた。そこで『遺伝子を改良した人類』を"労働者"として大量に作った。

 そのため『完全記憶能力』が付与された人類は"量産"されたのであった。そして同時に"嫌な記憶"が溢れる事によって起こる『人格の崩壊』を防ぐため、必要な処置として『感情制御』が付与されることになったという訳だ。

 

 そして今生の私はというと、この『感情制御』が外れている。そのため当然恐怖に対しても感情が大きく振れるし敏感になっていた。

 

"――こんなことになるなら『納涼! 四谷怪談&心霊怪奇現象4時間スペシャル!』の再放送なんて見るんじゃなかった!――"

 

 さらに間の悪いことに先日ある番組を見てしまっている。その内容は再放送されていた心霊特集で、未知への興味と恐怖の新鮮さが手を伸ばすきっかけだった。

 鑑賞した結果はというと、昨夜は夜中にトイレに行けなくなった。そしてエアコンをかけ、布団の中に脚も手も頭も引っ込めて寝る程に、恐怖に支配された状態になってしまった。

 

 そしてその後にこの見回りである。まさに『アカン、詰んだ』といったところだ。

 

 外が曇っているせいで月明りの通らない廊下は深い青――濃紺の闇に支配されている。その奥はまるで深くて黒い夜の沼のようであった。

 深淵を思わせるその光景は、私を更なる恐怖へと誘うに想像力をより一層強く刺激していく。

 そしてこの場を照らす光源はふたつ。ひとつは学園の外で坂を上る車のヘッドライトから伸びるもので、白くこの場を切り取るように廊下を時折照らし横切っていく。もうひとつは手元に持っている赤い色の細長い懐中電灯1本だ。

 

 足音を潜める様な速さでゆっくりと、呼吸を落ち着かせるために深く取りながら歩いていく。すると――前方の右側から水音、何かが滴る音が誰一人いない廊下に響いている。

 

 水音の出元は恐らくトイレだ。息が緊張感で浅くなりつつもトイレの目の前まで歩き、恐る恐る女子側をのぞき込む。

 

 音の出所は奥の洗面台に付属された、水道のハンドルが閉まり切ってなかったのが原因だろう。その証拠にぽたぽたと今なお蛇口から水が滴り落ちている――。

 私は靴からトイレ用のスリッパに履き替えて中に入る。そして一定時間おきに響くその音の出元を閉めた。

 

 しかし、顔を上げた瞬間もしかしたら――今は下を向いてて見えない鏡に、映ってはいけない何かがもしかしたら映っているかもしれない。

 そう思えてならない。なるべく鏡を見ないようにしながら、焦り気味にスリッパから靴に履き替え廊下に戻った。

 

 そして特に何もなかったことに私は胸をなでおろし、見回りを再開する――。

 

 ――すると。

 

 今度は誰かが歩いている様な音がして息を止める。

 勢いよく振り向くが、手元のライトから伸びる一筋の光が、暗い廊下の向こう側に続くのみ――――そしてお約束のようにいない。

 

「――誰かいるんですか?」

 

 念のため声をかける。しかし、廊下は静粛と青が支配するのみで返事はなかった。

 

 しかし、また見回りを開始しようとすると、やはりまた音がする。

 振り向くと止まるそれにまた『誰かいるんですか?』ともう一度投げかける。瞳を一瞬閉じ、全神経を集中させて感じ取った。――恐らく……それはひとりだろうという予想を立てる。

 

"――もしかして、誰かが私にイタズラを仕掛けようとしている?――"

 

 そうであってほしい! ――そうじゃない場合は怖すぎて考えたくもない!

 心臓がバクバクと激しく警鐘を鳴らすかのように鼓動を起こす。そして冷や汗らしきものが流れ始めた感覚が額や背中に伝ってくる――。

 一応足音がした方の教室を全て見回って確認をしたが――やはり誰もいない。

 不審者かもしれないと思って警備に連絡を入れようとしたが、詰所に居ないのか誰も出ない。

 

"――仕方ない、もう少ししてから連絡しよう――"

 

 先にある程度見回って時間をおいてから警備には連絡することに決めた。そして私は4階へと歩みを進めた――。

 

 

 そう、次に進むのが『謎の影の目撃例』が一番多いのと聞くあの4階だった――。

 

 怖いという感情に支配されないよう、階段を上がりながら頭の中は別の事を考える。適当な話題を探り頭を捻って真っ先に出てきたのは、最近のルドルフの様子だった。

 

"――そういえば以前よりルドルフと連絡付きやすいような? 前は必要な業務連絡ですら時々つかなくて困ったのに、教えた事を実行しているのかな?――"

 

 今年の3月に私はライフワークバランスを巡りルドルフと大喧嘩をしていた。そして仲直りした後、彼女に業務改善をする約束を取り付けた。

 

"――何でも自分でやりたい気持ちはわかる。でもあの時のルドルフは色々と抱えすぎて危うかった――"

 

 当時あまりの連絡のつかなさが気になったので、ルドルフ本人に事情を聴くと同時に情報を集めることに。

 サンプリング先は副会長2人をはじめ、生徒会庶務の子。そして書記のマルゼンスキーなど、関係者をピックアップしてターゲットを絞り聞き込みを開始。

 

 探った結果。このままだと『偉大なるカリスマが去ると起こる急激な崩壊』が将来的に起こるであろう、そんな予兆が漂っていたのだった――。

 

 オーバーワークを好む有能な"人財"に好きにやらせ(倫理的にはアウトだが)、営業利益を叩き出す方法はある。

 けれどもルドルフが所属するのは会社のような"営利団体"ではなく、"非営利団体"の生徒会だ。多少学園に発言権があろうがなかろうがそこはブレてない。

 金銭の報酬という共通利益のために動く企業と違い、そんな無茶が長く続くわけが無い。まして次に生徒会を引き継ぐ世代はどうなる? 会社と違い集まる人材は粒ぞろいではない上に素人。そして組織を動かすのに最適な人材が必ず入ると仮定するしてはいけない。

 

 ましてや子供だ。

 

 ルドルフはその性分から、学園を卒業しても、誰かを指導したり組織を導く立場を目指す姿が容易に想像できる。そしてトレーナーの私はウマ娘たちがきちんと社会でやっていけるように教育する役割も果たさねばならない。今のままではいつか困ってしまう事になるかもしれないし、私がずっと手助けできるような訳じゃない。それを教えられる今は大切な時期。ここは教職としてきちんと口を出さねばならない所だ。

 

 先々を考え担当したウマ娘を大切に教育する事――それが私なりの教え子への愛情であると思っているし、そんな指導者を目指している。

 

 しかし実際問題としてルドルフを叱った後不安になるものだった。

 このまま関係にひびが入ってしまうかもしれないと。しかしそれは私が彼女を信じきれない事に繋がりかねない。

 不安に怯える自分に喝を入れ、どうしたら彼女の力になれるか? 方法が浮かべばその方法で良いのかを検討しつつ待ち続けた。そして3日後にルドルフはきちんと私の所に顔を出してくれた……。顔に出ていないといいのだけれど、正直ほっとした。

 

 そして私の言葉のひとつひとつがきちんと彼女の心に響いていた――。

 その後はまず彼女が自らの意志で問題解決への糸口を見いだせるよう、学術的知識やそれに基づく帝王学をしっかりと与えることにした。必要ならば試験を課し、その後の差配をどうするかとういう部分は本人に任せた。

 そしてルドルフが学園の子達と共にその課題をどう解決していくのか? そっとその外から見守って今日に至る。

 

 その甲斐あってか状況は少しずつだが良くなっている。業務連絡の件も含めいい気配がしていた今日この頃であった。

 

 ぶつかりながらも、少しずつルドルフが良い意味で変化し、成長している。教え子が着実に成長している姿を思い出した私は、ほくほくした気分に浸っった。

 

 そして4階の端に到達し、さらに気分が乗ったので適当に明るい歌を口遊む事にした――。

 

「ふふんふふん走り出すーふぉふぉーい」

 

 ワイン2本空けて作ったとされる曲を鼻歌交じりにアレンジしつつ、まず1部屋目を見て回った。

 

"――お、この作戦案外いいかも!――"

 

 意外にもこの歌って気分を変えよう作戦は成功の兆しを見せた。作業はどんどんはかどっていく。

 そして1部屋目の確認中に歌い切ったので、今度は即興替え歌アレンジにして口ずさむ。

 

「深夜の学園で巡回中――ちょこちょこ何気にそわそわ」

 

 そう歌いながら入った2部屋目の教室は落書きだらけの黒板のままだった。放課後に遊んだままの状態なのか、チョークでアニメのキャラクターなどが描かれていた。

 

"――あちゃー……まあ学生さんらしいね! 掃除していこう――"

 

 スルーしてしまうと明日の日直の子が可哀想だ。

 私は黒板消しクリーナーを起動して黒板消しをきれいにしてから落書き消しを決行――。

 

「ガチ追い込み! 寿司食べたーい! でも痩せたい!」

 

 惜しい気持ちもあるが、黒板に描かれたそれらをまず一気に大雑把に消し去る。

 

 そして雑に消し終わったと同時に――私以外誰もいない教室で低音を響かせ、腹の虫が盛大な自己主張を行った――。

 

「お寿司食べたい……お腹空いた……」

 

 空腹感が気になるが……黒板消しにクリーナーをかける。気を取り直すようにまた鼻歌で気分を盛り上げ、大きく腕を動かしながら落書きを消した。そしてもう1夕回クリーナーをかけて仕上げて綺麗な黒板の完成!

 

"――成し遂げた! ……見回りが終わったら近所の"西有"にお寿司を買いに行こう!――"

 

 24時間スーパーだからきっと何かあるはず!

 深夜のスーパーに行く背徳感にちょっとした愉悦を感じながら、黒板消しをきれいにした後――この教室の隣にある女子トイレに入り手を洗った。

 それからもう怖くないので鼻歌なしに、3部屋目の教室に後ろ側のドアから入る。そして中を見て回って教壇側のドアから抜ける。それから4つ目の教室も特に異常はなかった。

 

 さて、あと5つほど教室を見て回った後最後に音楽室かな? と考え事をしながら4つ目の教室の教壇側の出入り口から出る。

 

 しかし――。

 

 

「っ!!」

 

 教室から出た瞬間今しがたいた教室! 背後の室内から物音がした――。

 ゴム製ボールが床をはずみ転がるような音で思わず息をのむ!

 

 真っ白になった思考のまま、私は油を差し損ねた機械のような動きで振り返り、真冬の池の水に浸けたかのような小刻みに震える足で室内に入った。

 幽霊などいないよう祈るような気持ちで恐る恐る確認すると、教壇側の窓際に――バスケットボールが一つ落ちている。

 

 自身の心臓が破裂しそうな勢いでバクバクする鼓動と、教室内に響く黒板の上の時計の、秒針の音のみがこの闇に満ちた世界で私の耳を支配している――。

 

"――落ち着け私! ただのボールじゃん! とりあえず転ぶと危ないし片付けておこう――"

 

 そう考えボールを拾いにゆっくり歩みを進め、ボールを拾い上げようと屈み込んだ――。

 

  ◆  ◇  ◇  ◇

 

――20××年 9月半ば某日 午後20時30分頃――

――トレセン学園本館4階――

 

"――トレーナー君は何故ニコニコしているんだろうか……?――"

 

 少し離れた教室のドアからこっそり手鏡を使って見ている。その丸く切り取られた鏡の中、階段を上がってきたトレーナー君の姿はニコニコと機嫌よくしている。これは想定外。

 

"――そういえば極限のストレスをかけると、何故か笑顔になってしまう者が居るというが――"

 

 ほんの出来心で反応を見て楽しむつもりが、まさか彼女をそこまで追い詰めるほど怖がらせてしまったのだろうか――?

 しかしそんな心配は、次の瞬間杞憂だったとして打ち消された――。

 

 

 『ふふんふふん走り出すーふぉふぉーい』

 

"――いくら何でもメンタルの切り替えが早すぎないか!?――"

 

 先程まで産まれたての小鹿のように震えていたトレーナー君が、なんと鼻歌を歌っているではないか! 驚くべきことに階段を上がり切る前に気持ちを切り替えたようだった!

 

"――なんという鋼の意志! これは私も見習わねば……!!――"

 

 トレーナー君の精神的な強さに感動している私は、3階から彼女をずっと追いかけていた。

 

 そのきっかけは今よりほんの20分前の事――。

 私は生徒会室に忘れ物をしたことを思い出して取りに戻ったのだ。そして目当ての記録媒体を制服のポケットに入れ、裏庭を経由し美浦寮へ向かうその帰り際――校舎本館2階にライトを持った気配を見つけた。

 気になった私は音を辿ってその気配の元を探し当てる。そしてそこに居たのは表情を若干強張らせたトレーナー君だった。

 

 何故警備の者がする事を彼女がしているのか? そんな事よりも彼女の様子を見ていてイタズラ心がうずき、時折足音を聞かせて怖がらせていた。

 そして4階に先回りし、身を潜めて謎の歌を鑑賞するという、今の状況に至った訳だ。

 

"――しかしあの曲が原型と思われるが、この状況下でその選曲センスはどうなっているんだろうか?――"

 

 獅子が跋扈するサバンナならほぼ間違いなく1日持たないであろう。そんなトレーナー君の暢気な姿に私は若干の頭痛を覚え、思わず眉間をマッサージするように左手の指で軽く摘まんだ。もう少し警戒心を持ってくれ。

 

 そうこうしている間に今度は2部屋目の教室から彼女が中々出てこない――!

 

 何かあったのではと危惧して私が慌てて覗き込む。すると同時に――掃除機のような機械音が辺り一帯に響き渡る。

 

 好き勝手に描いて消し忘れた生徒の落書きを掃除する気なのだろう。

 クリーナーをかけているトレーナー君が目に入った。

 まだ少し様子を観察しつつ遊びたいのでそのまま見守っていると――。

 

『ガチ追い込み! 糖質カット! 寿司食べたーい! でも痩せたい!』

 

"――寿司!? そこは米じゃないのか米じゃ!!?――"

 

 そしてその疑問はすぐに解決された。

 何故なら合いの手ついでに空腹であることを主張しようと、トレーナー君の腹の虫が盛大な音を立てたからだ――!

 

『お寿司食べたい……お腹空いた……』

 

 どうやら寿司が食べたかったから歌詞に突っ込むことを考え付いたようである。

 そんなコントのような様子に、思わず笑いの波が閉じた口から吹き出しかける。しかしまだバレる訳にはいかない。

 一旦その場を離脱し、自身の気配が落ち着くまで待ってからまた覗き込む――。

 

 すると黒板はピカピカに仕上がった黒板の前に彼女は仁王立ちをしていた。

 『成し遂げた』そんな声が聞こえてきそうな満足げな彼女の一挙一動(いっきょいちどう)に微笑ましさが込み上げる。

 

 まだそっと見守っていたい私は、その内彼女が入ってきそうな教室にあえて入ってみた。

 

 その間トレーナー君はというと、水音から察するに手洗い場で手についた黒板の粉を洗っているようだった――。

 

 

"――ん? これは……――"

 

 足元にあるのは生徒が仕舞い忘れたのか? バスケットボールがひとつ転がっていた――。

 

"――ふむ……これで少しイタズラして終わりにしよう――"

 

 私はそのボールを抱えてこっそり教室後方、窓側に配置された縦長の掃除用具入れの中に隠れる。その中でトレーナー君が見回りに来るのを待つことにした。

 

 隠れてから数える事5分くらいが経過しただろうか? この教室に入ってきたトレーナー君の足音がしたはじめる。

 そしてその音が教室の外に出たと思われたその時、掃除用具入れの扉をそっと開けてボールを転がし素早くまた扉を閉じた!

 

 ボールが弾み転がる音が響いた後、トレーナー君が居るであろう大よその位置から息をのむ気配がする。

 

 彼女の気配が再び私が潜む教室に入室し、足音が完全に教壇側に向かったタイミングを見計らう。そしてそっと扉を開けると――恐る恐るボールに近づいていくトレーナー君が真正面に収まった。

 

 まん丸キャベツに気を取られているウサギを捕まえる要領で、そーっと、そーっと後ろから近づいてゆき……。しゃがんでボールを拾おうとしている、トレーナー君の白く綺麗なうなじが目立つ首の両側面に、両手の指先を揃えて背後からピトリと当ててみた――。

 

「――――! ひぃぃいやああああああああああああああああああああああああああ!」

 

 大型肉食獣に捕まったウサギのように甲高い声がトレーナー君から上がった!

 それはウマ娘である私には耳にキーンと来る女性特有の叫び声で、その高音から逃れるため、急ぎ自身の両耳を手で倒して塞ぐ!

 そしてトレーナー君はバスケットボールをぎゅーっと抱え込み、膝を崩してペタリとアヒル座りのように座り込んでしまった――。

 

  ◇  ◆  ◇  ◇

 

――トレセン学園本館 4階のある教室――

 

 私が現在正面に回り込み片膝をつきしゃがんで視線を合わせている、トレーナー君はボールを抱えたまま、先程私が仕掛けたイタズラの結果恐怖で腰が抜けてしまっていた。

 大変決まづい状況の中、彼女に謝罪し終えると――。

 

「――3階のいたずらの犯人もルドルフだったんですね……」

 

  トレーナー君はまだペタリと床に座ったまま所謂ジト目で私を見やり完全にむくれてる――水族館の展示で見たフグのようにぷくっと丸くツヤの良い両頬を膨らませていた。

 もう一度重ねて丁寧に謝罪すべきかと思い口を開こうとしたら、先に目の前のトレーナー君が――。

 

「――しょうがないですね。もう――」

 

 トレーナー君は困った様に眉を下げて口元に笑みを浮かべ、ツンと私の額を1回軽く右手の指で小突いた。

 

「気を許してくれてるからこそ、貴女が私にイタズラがしたい気持ちは理解できます。しかし、そういったお年頃なのはわかりますけど、私以外のスタッフにやっちゃだめですよ?」

「重ね重ね申し訳なかった。しかしその言い方だと君にはしていい事になってしまうよ?」

「時と場合を考えてくれるなら。戯れ程度の事ならば問題はないです」

 

 そして私に向かってトレーナー君はゆっくりと右手を伸ばした。そして彼女の浮かべる表情の中で最も好ましいと思っている『優しげな表情』と共に、そのまま耳と耳の間――頭を撫でてくれた。

 ――時折、トレーナー君は今現在の様子のように、"ずっと年上"の様な気配を纏っている事がある。私はそれをすごく不思議に感じていた。

 

 まるで時の流れで変わる月相のように――年相応に見えたり、情緒が落ち着かなさそうなときはずっと幼く見えもする。かと思うと大人のようであったり……実に多様な側面を彼女は持っていた。

 

 そして撫でてもらう心地よさに浸った後――。

 名残惜しいが私は彼女に返事をし、言葉を交わすことで時を進めはじめる――。

 

「――気を付けるよ」

「あんまり気負わないで、大丈夫ですから」

 

 トレーナー君が立とうとするので、まず私が先に立ち上がって手を差し伸べる。そして彼女はボールを左小脇に抱えながら、右手で私の手を取りフラつきながらも立ち上がった。

 

「さて、ルドルフは生徒会室に忘れ物を取りに来たんだと思います。こんな時間ですから寮まで送りますね」

「しかし君はまだ見回りは途中だろう? 私が1人で帰るか、問題なければこのまま見回りに付き合おう。それから君に送って貰うのはどうだい?」

「うーん、私は貴女の学園での保護者の立場ですし、1人でっていうのはちょっと……では申し訳ないけどついて来てもらいましょうか」

 

"――そう来ると思った――"

 

 私だってこんな暗い時間に身体能力的にはウマ娘に近くとも、女性であるトレーナー君を1人にはできない。そう思って彼女の性格を読んで提案してみたが、やはり予想通りに事が運び心の中で私は『上手くいった』とほくそ笑んだ。

 

   ◇  ◇  ◆  ◇

 

――トレセン学園本館 5階の廊下――

 

 イタズラをした教室をトレーナー君と私は出て見回りは順調に進み、部室が連続している5階廊下の最奥――音楽室に向かっていた。

 ここは既に生徒の下校段階で各部屋に鍵をかけてしまう。そのため音楽室以外は素通りできるようであった。

 

 その間私はブライアンから預かった"髪飾り付きのヘアゴム"をトレーナー君に返し、どうして彼女が見回りを担当しているかその訳を聞いてみた。

 するとエアグルーヴにこってり絞られたあと、トレーナーの代表に随分厳しめに叱られたそうだ。そして臨時で本館の見回りを言い渡されたらしい――。

 

「なるほど。警備員が足りなくて罰もかね、君が見回りをしていたんだね?」

「ええ。――昼間の件は申し訳ないです。私は生徒会長である貴女のトレーナーなのに」

 

 私はしょんぼりしてしまった彼女に、これ以上私は何も言えなくなってしまう――。

 

「ダメな事がわかっているようなら問題ないさ。もう十分皆から叱られたと思うから、私からの注意はこれくらいにしておくよ。――――しかし謎の影か、まるで怪談のようだな?」

 

 私がそういうとトレーナー君は頷いて考える様に眉をひそめた。

 

「光る人っていうのはわかるんですよね。恐らくアグネスタキオンの実験関係かと……」

「そうだな。エアシャカールか、アグネスタキオンのトレーナー辺りが光っていて、偶然何らかの理由で夜に校舎に来たとかそういういった事情だろう」

 

"――では、謎の影とは一体……?――"

 

 まさかこの科学の時代に怪談染みた心霊現象など起こり得るのだろうか? 

 

 学園のある府中市には『三千人塚』『高幡城跡(たかはたじょうあと)』などの古戦場関係跡地。そして古くは丑の刻参りが多く行われたとされる『八坂神社』など、いわゆる心霊スポットと呼ばれる場所はいくつかある。

 しかし、学園がある敷地にはそういった伝承はないはずだ。

 

"――ただ、それでもこの学園には七不思議があったな。中には似つかわしくない話もあるが――"

 

 今向かっている音楽室にも七不思議がひとつある。それを何の気もなくそれをトレーナー君に振ってみることにした。

 

「音楽室といえば、我が学園にも不思議な話があったな」

「え? ――もう、怖い系は勘弁ですよ?」

 

 私の左側を並んで歩くトレーナー君の瞳が不安げに揺れる。――別段怖い話ではないので私は続けることにした。

 

「怖いというよりは言った通り不思議な話だ。準備室に不思議な鏡があって、そこに姿を映すと違った姿に見えることがあるとか? 例えば君にウマ耳が見えたり、私が人に見えたり、鹿の様な生き物に見えたり、とかそういう類のようなものだった」

 

トレーナー君の瞳から不安げな気配が去り、逆に興味深々といった様子を彼女はのぞかせた。

 

「へー、本当に不思議なだけの話ですね? 普通学校のそういう話って結構怖い話ばかりなのに」

 

 七不思議のうち、この話だけは本当に不思議なだけで怪談とは言い難い内容だった。そして我々が雑談をしている内に音楽室の前へと到着する――。

 

「ここの見回り箇所は音楽室と――それに続く準備室になるみたいです」

 

 そういって防音仕様の大きな両開きのドアを引いて開ける。すると楽器が多い部屋特有の香りが鼻先をくすぐっていく――。

 その室内の窓側左奥にピアノ、正面奥に鏡が壁面に設置されているのが薄暗い視界の中に納まった。

 

 私とウマ娘寄りの眼を持つトレーナー君は夜目こそ利くが、それは見回りにおいて確実ではない。見やすいよう彼女が懐中電灯で照らす中、2人でそこをぐるりと確かめる様に巡回した。

 そして防音仕様の分厚く大きい片開きのドアを手前に引き、準備室へと我々は入っていく。

 

 準備室内には楽器を保管する棚や、布がかかったドラムセット、スピーカーなどが仕舞われていた。そして、同室内にある掃除用具入れに入れるのが面倒だったのか? 放置された箒が数本とプラスチック製の塵取りがその辺に立てかけられている。

 

"――まったく、気持ちは分かるが、きちんとしてくれなくては困るな――"

 

 ここは軽音部の子たちの活動拠点だ。彼女たちへの注意事項を伝えるという作業を明日にやる事として記憶の片隅に追加する。

 

 そして……。

 

 件の鏡と思われる畳2畳分の大きさのそれが壁に備え付けられているのを発見した。トレーナー君はちょこまかとした小走りで鏡に近寄り、それを確かめるように眺めはじめた――。

 

「案外普通ですね? もっとアンティークな魔法の鏡的なモノを期待していたのですが……」

「ふふ、あれだけ怯えていたのにもう平気そうだね?」

 

 鏡には左端に好奇心に満ち溢れた表情のトレーナー君が至近距離で、そして鏡から1.5mほど離れた地点でそんな彼女の様子に苦笑いを浮かべた私が右側に映っていた。

 

 そして曇り空が晴れたのか、我々の右側にある窓から月明りが差し込んだ。そしてその光の筋はゆっくりと室内を、やや明るめの青へと塗り替えていく――。

 

「いやー。怖い系の話でなければ大丈夫ですよ?――うーん、特に何も不思議現象無しか」

 

 そういってトレーナー君は左を向いて懐中電灯を向け、室内の奥を確認しようと進み始めた。

 

 

 ――その時、

    あり得ないことが起きた――。

 

 

"――っ!――"

 

 驚きで息をするのも忘れてしまう程衝撃が走り、背の真ん中から脳天にさざ波が伝わるかのような寒気がざわざわと騒ぎ立てる。

 

 今目の前の鏡に映るそれは瞬きをする間に一変していた。しかし、驚きでぱちぱちと瞬きをすると何事もなかったかのように戻る。

 

 ほんの一瞬だけ鏡の中の光景が変わっていたのだ……。

 その光景は――まず正面に立っている私の姿がなかった。

 代わりとして映し出されていたのは、電車の内装の様なものを背景に姿がはっきりと見えない女性らしき人影。その不思議な女性を中心に座席に座る幾人かの人間達――。

 

 かなり混雑しているらしいその車内は――手前側の人間は半透明。そして透けて見える座席に座った人間がやたらと強調されていた。

 それはまるで都内の通勤ラッシュを彷彿させるものであった――。

 

"――疲れが出たか……?――"

 

 今はこの場を映し出しており、恐らく疲れのせいで幻覚が見えたのかもしれない。私は眉間を軽く左指で摘まんでやや下を向き、頭を軽く左右に振って先ほど見た奇妙な光景の事を忘れようとした。

 

「どうしたんですか、ルドルフ――?」

 

 私が先ほど見た光景に頭を悩ませている間、トレーナー君は奥を見回わり終わったようだ。そんな私をの様子を少しだけ低い視線の高さから心配そうに覗き込んでいた――。

 

「あ――うん、なんでもない……少し疲れていたみたいだ」

 

 もう一度鏡を見てみる。しかしそれは先ほどまでの事が、やはり幻覚であると言わんばかりに、我々をただただ映しているだけであった――。

 

「――風邪が流行ってるみたいですし、身体には気を付けてくださいね?」

「そうだね。君の言う通り体調管理には気を付けることにするよ……」

 

 疲れを抜くために今日は寮の食堂の取り置きを食べたら、シャワーを浴びて即寝よう――そう心に決めた。

 

 その直後だった――。

 

  ――私の両耳が何かよろしくない音を捉えた!

 

 そう、それはカサカサと這う――食べ物が無いはずの、この場には似つかわしくないアレの音!

 先刻の幻覚などよりも、余程具体的に想像が出来るため背筋にきて、私の尾や耳の毛が逆立ち鳥肌がひろがっていく!!

 

「でか! ルドルフでっかいゴキが出た!!」

 

 そう暗がりに視線を向け叫んだトレーナー君は片方靴を脱ぎ、床を這いまわる巨大なソレと臨戦態勢をとった!

 


【黒いアレ(チート生物)】

 古くは御器という、果物を乗せている食器を噛ることから『御器嚙』(ごきかぶり)

 ゴ〇〇リと呼び始めたのは明治頃、書籍を印刷する際に出た誤字脱字からという説がある。

 2億130万年ほど前から存在しており昆虫界の生きた化石。

 

 人類が研究所を立ち上げて本気で滅そうとしても――絶滅するどころか人類を大いに利用し、繁栄を遂げた『地球史上最強の繁殖力』を誇る。

 

 1秒間で体長の約50倍の距離を移動し、人間の身体能力に換算すると危険察知時の最高時速は約300km。

 "夜行性"のため目はあまり良くないが、"気流感覚毛"という器官があり、それで空気の流れを察知して"考える前に反射的に避ける"能力を持っている。

 

 その能力の仔細は毛から脚に指令が伝わるまでに、脊椎反射のような特殊な"神経回路"が組まれており、『顔面に飛び掛かる』など実に様々な"逃げ方"は、その個体が日頃考え手段をストックしており、本番でそれはランダムに選択され実行する。

 

 つまり『フルオート回避』が出来る生物なのである。

参考元――アー〇製薬など


 

「それで潰すと帰りはどうなるんだ! 使え! トレーナー君」

 

 私は片付けていない放置された箒のうち、フライ返しのような形状の江戸箒を1本、トレーナー君に投げ渡す!

 

「ありがとうっ!」

 

 トレーナー君はそう発言しつつ箒を片手でキャッチしてすぐ、黒い影に向けバシリと叩きつける!

 しかしその一撃は掠り触覚の欠けた影はあざ笑うかのように直角に曲がりすり抜ける!

 

 が!

 

「もらった!!」

 

 それが取る進路を私は予測し、植物性の箒を床に叩きつける乾いた音を響かせ仕留めた!

 

 叩きつけた部分の下には、あまり宜しくない光景が広がっていそうなので、箒は上げずにそのまま柄からそっと手を放した。

 

「おお! ナイスエイム!」

「よし獲った! しかし今一瞬見えた個体――なんだか大きすぎないか?」

 

 始末しようとした瞬間垣間見えたソレは明らかに大きすぎた――何せ10センチくらいはありそうな個体であったからだ。

 

「確かに。東京の個体については色々とアメリカでも噂を聞くけど、デカいって話は聞かないし? もしかして、ナイルワニのギュスターヴみたいな環境か遺伝子のどちらかで大きくなったケースとか?」

「餌が豊富で大きくなった、もしくは突然変異など諸説ある『人食いワニ』だね? しかしここは準備室で食べ物はな――――ん?」

 

 食べ物はないはずの室内に、かすかに食べ物の香りがする――。

 

 匂いの元を辿るべく歩き始めると、靴を履きなおしたトレーナー君が一緒について来て視線の先を照らしてくれる。

 

 すると暗闇を光でくり抜いたような円の中央に、何と菓子パンの袋と紙パックなどが蓋のないごみ箱捨てられている光景が照らし出された。

 

「――これが原因でしょうね。蓋つきのごみ箱ならまだしもこれでは……。この界隈は部室が多く部室で食事をとる子もいるから、恐らくその処理の甘さで発生して、4階で件の影の目撃例に繋がったのかも?」

「なるほど――となると、早急に"ブラックキャップス"などの毒餌や捕獲トラップと、ごみ箱を蓋つきのものに変更し、あとは……各部などごみの処理に関する通達を出さないとならんな」

 

"――あとは業者を入れて駆逐も考えねば――"

 

 そう考えた時だった! またしても一匹大きな影が現れ、身構える前にその黒い"巨大なアレ"は私の方に! 顔面目掛けてすっ飛んでくる!

 

「うわぁっ!」

 

 ――ソレは飛び上がり、真っすぐに飛びついてきた

 

   ――コマ送りの様な時間間隔の中、ソレに張り付かれると覚悟した瞬間!

 

 私の目の前を箒が鼻先を掠り! 

 

 ――!!

 

 乾いた植物の束の音を響かせ地面に箒が叩きつけられる!

 

 そのまま箒は伏せたままにしてトレーナー君は、先ほど私がしたのと同じように柄からそっと手を離した。

 どうやら彼女が見事な空中迎撃を決めて仕留めてくれたらしい――。

 

「――助かったよ! まさか顔面目掛けて飛んでくるとは……」

「東京のヤツは人間やウマ娘を襲うって聞いたけど……まさか本当にあるなんて。これは早急に処分しなければなりませんね――」

「ああ、ヤツらにこれ以上――学園の平穏を乱されるわけにはいかないな……」

 

 

 こうしてトレーナー君と私は学園を騒がす『黒い影』の正体を突き止めた。

 

 その証拠写真を確保した後、この凄惨な"事件現場"を清掃。そして武器に使った箒2本も洗って干し、私はトレーナー君に美浦寮まで送り返され、この珍妙不可思議な1日は終了した――。

 

 

  ◇  ◇  ◇  ◆

 

――翌日 午後12時――

――トレセン学園 シンボリルドルフ担当 トレーナー室のプレハブ――

 

 本日は私と一緒に食事がしたいというルドルフ誘いに乗ってトレーナー室で昼食を取っていた。私と彼女はお弁当を交換し、今しがた食べ終わったばかりである。

 そしてルドルフは食後にブラックコーヒーを、私は甘いアイスミルクティーを片手に食後の他愛ない談笑を楽しんでいる。

 

 此方へ来た時プレハブのドアノブにコンビニ袋に入った学園新聞が吊り下げられていた。その誰かが差し入れてくれたのであろう新聞を、ふたりで見ようという事になり、袋から取り出して開いた。

 

「昨日の私の話がやっぱり一面か」

「まあ大騒ぎだったし仕方ないさ」

 

 対面に座っていたルドルフがこちらのソファーに来て、私の右隣に腰掛けなおし新聞紙を覗き込む。

 

 まず1面にはタイトルで『世にも珍しい"アハルテケ"の半人半バ、激走!』と銘打たれ、昨日裏庭の植え込みを飛び越えていた私の姿が高画質かつカラー、そして大きく引き伸ばして印刷されていた。

 

 そしてその写真の右端には丸く切り取られた、刑事事件でいう犯人と容疑者の様な小さな写真が2つ並んでいた。

 ひとつは『追跡役ゴルシ』と小さく題された木の柵の様な加工で目線の入った写真。そしてその隣に同じ加工をされた私の画像も『逃亡者役』ご丁寧に張り付けてある。

 ついでに私がルイビルにいた頃の特集なんかも、端に小さく組まれていた。

 

「随分凝った新聞だね」

「ですね。これでネタ切れは解消でしょう。しかし細かく調べてるなぁ」

「まあ悪い書かれ方はされていなさそうだし良いんじゃないか? ふふっ、しかしどれもよく撮れている」

 

 何となく新聞のネタに困ったままなのは可哀想だったので、あの事件を新聞にしていいよとゴールドシップには提案しておいた。ルドルフが言うように掲載内容的には問題ないのだけれど。

 新聞と一緒に袋に入れられていた、茶封筒の表についた四角い付箋メモの方に問題があった。当該のメモにはこう書かれている。

 


プレゼント ふぉー ユー!!

アタシの秘密

もし誰かに教えたりしたら

もーっとイタズラしちゃうぞ!

……気分でやるかもだけど?

お嬢様に愛をこめて ゴルシちゃんより


 

 あの秘密を無闇にばらしたりはしないから大丈夫だとは思う。しかしどうやら私は遊んでいい相手と認定されてしまったようだ。次のイタズラから逃げるにはどうしようかと軽く頭を抱える。

 

 新聞に夢中なルドルフに気取られないよう付箋を手の内に隠し――茶封筒の中を確認する。中身は写真が入っており、恐らく記事を書く上で利用した画像と予想されるそれらは、どれも見られて問題が無いものであった。

 

 その中に、私が昨日疲れて写真を分けて貰おうと、撮影主を探し損ねた埴輪展でのルドルフの写真も入っていた。

 

「そっちは何だ?」

 

 学園新聞にある程度目を通し終えたルドルフは、私が手に持っている写真の束を興味深げに見つめている――。

 

「記事に使った資料写真と生徒から写真部に提供された写真のプレゼントだそうです」

「見せてくれ」

 

 私はルドルフにそ持っていたその束を渡し、彼女の隙を見て付箋を手からポケットに仕舞い直した。

 

 ルドルフは写真を1枚1枚ゆっくりと写真を眺めていたが、あるところで止まった。

 それと同時に瞳を丸くしたルドルフは、耳を正面に向けてから興味深げにそれを動かして手元の写真を見ている――。

 そしてルドルフは手元の写真が私にも見えるよう差出し――。

 

「この子供は……君か?」

 

 記憶が大分古いが、それが正しければどこかの雑誌に掲載されていたものだろうか?

 ルドルフが見ていたのは養父の秘書マハスティに抱かれ、真っ白なワンピースに肩位の髪の長さの3歳時点と思われる私の画像だった。

 

「ええ、お養父さまが取材用に公開して使用許可を出している画像でしょうね。いちいち問い合わせがくるのが面倒なので、ホームページに置いてあるんですよ」

「そうか……ふふ、望月なだけに頬がモチモチしていそうで愛らしい写真だ。こんなにいい写真を沢山貰ったのだし、アルバムに貼ったりするのもいいだろうね」

 

 そしてまたルドルフは写真をめくりながら眺め始める――。

 ゴールドシップに形勢逆転を取られ、少し悔しかったがこのプレゼントはありがたかった。目の前の彼女は大変嬉しそうにしているし、私も欲しいと思っていた埴輪展での素敵な笑顔の写真が手に入ったからだ。

 

"――まあ、ルドルフが満足そうなら良いか――"

 

「ふふ、上手くモチモチと掛けましたね? それならこの部屋にアルバムやスクラップブック用のファイルを置いて、これからは写真を残しておきましょう。今度それらは私が買って――いや、……やはり機会を見て一緒にアルバムを買いに行きませんか?」

 

 私がそう提案するとルドルフは『それがいい!』とこちらを向き若干目を輝かせて返事をする。

 それから『では近日中に予定が無い日を後で見繕っておくよ』と返事をしてからまた写真に夢中になってゆく。

 

 私の前で気を許している彼女を視界の端に収めつつ、予定が書きこまれたカレンダーを見やる。

 

 来月の後半にある『サウジアラビアロイヤルカップ』まで、あと1か月半ほど――。

 今の所仕上がりは順調だし、何もなければルドルフはまた圧勝できるだろう。

 

 唐突に流行り始めた風邪に警戒しつつ、私は彼女――ルドルフを勝利に導くため、心の中で気合を入れなおすことにした。



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『初GⅢ』東京マイルは中距離風味

おまたせしました。
◆出走表◆

【挿絵表示】

◆レースの設定◆
【サウジアラビアRC】※2003年改修前
 史実『いちょう特別』仕様。
 1600m東京左回り、芝・天候状況等83年仕様。
 
 アルテミスステークスGⅢ、東京3歳ステークス(東京スポーツ杯2歳)など創設年的なモノや、当時のグレード的な理由。
 もしくは話の流れがそれるので名前が出ていないものがあります。

 前半トレーナー君視点、中盤ルドルフ視点、後半トレーナー君視点です
 それではどうぞ。


――20××年 10月29日 午後14時00分――

――東京レース場 出走関係者スタンド付近――

 

 本日の府中は秋晴れに恵まれた日本晴れ。

 2日ほど前に雨がパラついたくらいで、この1週間はほとんど今日みたいな感じの天気だった。

 

 パドックでルドルフを見送った私は、リンゴの香りがする飴玉を口の中で転がしながら、関係者席であるスタンドの最前列を目指している――。

 時折左右を見渡すと、新潟メイクデビューの時と違い今日は府中開催とだけあって学園の生徒の姿が目立っていた。

 

 その光景の中をサラリーマンの様なスリーピースジャケットの姿で歩いている、私の両頬を涼しい風がすり抜けていく――。

 独特な容姿のため時折じろじろと見られるが、来日当初ならまだしもそんな環境に慣れたので気にも留めず何となく空を見上げた。

 

 その先には、コントラストのはっきりした蒼穹が高く続き、所々秋特有の細く長い白い筋のような雲が走る。そして赤とんぼが2匹すいーっとその視界の中を通過していった――。

 

 口の中で転がしている少しだけ小さくなった飴が、歯を掠り軽い音を頭に響かせる。飴玉を噛み潰して飲み込んで、他の歩行者にぶつからないように前を向き、またゆっくりと歩き始めた――。

 

"――まさかメイクデビューの後、他のレースを挟まずグレードへ行けるなんて……――"

 

 グレードレースに出るには、ファンクラブの会員登録者数が一定以上に達する必要がある。

 通常であるならば地道に出られるレースに出て目立つ必要があり、簡単にグレードに出ることはかなわない。

 

 そう、通常であるならばね――。

 

 シンボリルドルフの場合は違った。

 彼女の場合ある特別な理由があり、それが前評判として反映されデビューから破格の人気を誇っていた原因となっていたのであった。

 

"――まあ、実家にトレーニングコースがあるなんて普通は無い。そりゃ皆気にもするよね?――"

 

 ルドルフの実家は千葉にあるという――。

 本人曰く、その実家にはバランス感覚を養うための砂利道コースや、坂道のコースなど多種多様な設備が彼女だけの為に用意されており、親御さんや専属のスタッフが入学前から彼女に様々な教育を施していたという。

 

"――ここまで気合い入っている家庭環境ってなかなかないわねぇ――"

 

 一体どれほど立派なトレーニング施設があるんだろうか? こんなこともあって"シンボリルドルフ"という選手は入学前から注目されており、その事実は私に対し諸々のハードルを上げてきている――。

 

 人ごみを抜け関係者席があと2m先の視界に収まり、そして学生服を着た、見覚えのある後ろ姿をした先客が2名ほどそこには居た。

 

「あら、お2人ともこんにちは」

「――よぉ」「こんにちは会長のトレーナー」

 

 そこに居たのは左に漆黒の髪のボニーテールのナリタブライアン、そして右には赤いアイシャドウが特徴的なエアグルーヴの2名。

 柵の前の最前列に居た彼女たちは、私に気付いて挨拶を返してくれた。

 私は柵の前で空きのあったブライアンの隣に入り、ルドルフが普段お世話になっているふたりと世間話を始めることにした。

 

「うーん。グレードともなると人手が凄いですね」

「メイクデビューからグレードにいきなり出てきたルドルフが居るし、今日の盛り上がりは格別だろう」

「まあそうなりますか……うう、こういう状況は久しぶりで流石に酔いそう」

「たわけ。ここでそんな事を言っていたらクラシックのグレードワンでは倒れてしまうぞ?」

 

 人口密度が世界4位の東京都。

その府中に集まるウマ娘やら人間多さで酔い、吐き気を催している私の姿を見たエアグルーヴからごもっともな喝を入れられてしまった。

 しかしそんな厳しめな事を言っているが、意外な事にエアグルーヴは口元に笑みを浮かべていた。

 しかもよく見ると耳も伏せていない――ということは?

 

"――あれ? 叱られたというより、からかわれたのかしら?――"

 

 先月末からルドルフにも行った講座を、エアグルーヴ本人から頼まれてやっている。

 もしかしたらそれを通じて、また彼女とも距離感が縮まったのかもしれない。

 いづれにせよルドルフが生徒会の事で何か悩むようなら、彼女たちの力も借りなければいけない――これはいい傾向だろう。

 

 そんなことを考えていると――。

 

「しかし……なんでまたマイルになんか?」

 

 普段無口なブライアンが珍しく今回のレース選択について食いついてきた。

 ブライアンの奥にいるエアグルーヴも、この質問に関する回答はどうなるのか? といった様子で、興味深げにこちらを覗き込んでいる――。

 開始まで時間もある。そのため私は彼女たちに少し解説することにした。

 

「基本ローテはルドルフの希望なんですが、私の方でも許可した理屈はちゃんとありますね。お2人はジュニア期をゆっくり過ごす意味を授業では習いましたか?」

 

 有名な理屈なので既に知っているか2人に確認すると――。

 

「――確か身体づくりの為と習った。あまりビシバシやるとダービー以降へばるとか、確かそんな内容だったか?」

「私もそう聞いている。会長はそのトレーニング理論でローテを希望したんだな?」

 

 ブライアンは普段生徒会の仕事をサボるイメージがあるが、意外とこういうことをきちんと覚えている。きっとブライアンは要領がいいタイプなのだろう。問題がなさそうなので私は話を続ける。

 

「ええ、その通りです。そして許可した理由は距離というよりコースですね」

「む……コース……?」

 

 返事を返したブライアンもエアグルーヴも、イマイチピンと来てなさそうなの表情を浮かべている。自力で答えを出してもらうため、私は少しだけ核心まで話すことにした――。

 

「じゃあヒント――ルドルフが国内で特に勝ちたいのは3冠と、ジャパンカップでしょう?」

 

 私がそう説明を付け加えると、エアグルーヴの両耳が何かに気付いた様子でぴこんと一度動いた。

 

「なるほど――ジュニアクラスのグレードで、かつ左回りの東京レース場の実戦演習としてのサウジアラビアRC。府中は"中距離を走りぬける程のスタミナ"を要求されるから、まずは日本ダービーへのひとつの試金石といったところか?」

「エアグルーヴご名答です。あと1回どこかオープンで東京を走り、来年に『皐月賞』の『中山』を想定したグレードを挟めればいいかなって感じです。まあ距離は距離でマイルはすべての時計理論の軸ですし、東京でそれを計測したいんですよ」

 

 ジュニア期のグレードワン、その主戦場となるコースはここ東京以外だと――。

 『朝日杯』と『阪神ジュニアステークス』となる。どちらも阪神開催でスタート150mでコーナーが設置され、大外不利が響く小回りカーブが主な特徴だ。

 ここはクラシック路線の『桜花賞』の舞台でもある。

 

 そしてクラシックだが、他のG1のマイルレースをあげ特徴を整理すると――。

 

 坂が複数あり長い直線の間に約200mの上り坂――スタミナが試される東京『安田記念』。来年の11月に創設予定の"逃げ殺し"の"淀の坂"。登り切ればそれを下りながら進出し、その先には急な第4コーナーのカーブと320m程の平坦な直線が待ち構える京都『マイルCS』。

 

 あとは中山だが、中山のマイルは枠順に大きく左右される。握り飯のような形のコース取りで、第4コーナーまで直線らしい直線がない。そのため外を回す選択をすると中々内が取れず距離ロスとなる。

 対策としては第1コーナーのポケットからスタートして約240m地点にある、きつめのカーブが来る前に内に入るか、距離ロスをものともしない体力を武器に戦いに行くかになる。

 

 このように同じ距離でもすべて特色が違う――。

 グレード外のレースで東京で走るとルドルフの実力では物足りない挙句、前評判もあり回避だらけになってしまう。そしてグレードの高さだけで選んだ朝日杯ではコースが阪神になり意味が薄れる。

 

 年明け後のグレードも中距離の東京である目黒はあるが出走条件はシニアクラス――結局東京で走ってみるにはマイルしかない。

 だから今年にやってしまうのがベストだった。そういった理由でルドルフはこのレースを選んだし、私もそれを理解で許可を出した。

 

"――府中の面倒臭さはジャパンカップのための研究で理解してる。だからこそダービーとジャパンカップと同じ舞台で走り慣れる必要がある――"

 

「人気が稼げる演習か――しかもその会場はG3。会長サマは末恐ろしいな」

 

 ブライアンは呆れたようにそう言葉を発した。

 

「グレードを軽視している訳ではないけど、結果これが演習となってしまう程ルドルフは強いですね。ダービーは『最も運がいい娘が勝利する』って言われていますが――私は運じゃないと言われる評価を彼女が得られるようサポートしたいですね」

「――アンタも随分な自信だな」

「ふふ、私はその為に連れて来られたんですから。……さあ、はじまりましたよ?」

 

 場内には若い女性の声で実況の放送が流れはじめた。

 私はブライアンの軽いジャブの様な発言を流し、今から選手たちが入場してくるバ場に目を向けた――。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年 10月29日 午後14時20分――

――東京レース場 ターフ内――

 

『2枠4番、シンボリルドルフ! 本日も1番人気!』

 

 場内に姿を見せスタンド正面を向くと、府中のスタンドから大歓声が全身を包んでいく。

 私は声援にしっかりと手を振り応え――それが終わると関係者席に居るであろうトレーナー君を探した。

 

 そして程なく独特な輝きの髪を持つトレーナー君はすぐ見つかる。

 彼女はエアグルーヴやブライアンたちと共にこちらに声援を送ってくれていた――。

 トレーナー君は視線が合うとにこりと笑みを浮かべ、ぐっと右手の親指を立て『GOOD LUCK!』とでも言うかのように唇を動かしたのが見える。

 

 それに軽く頷き、私はウォーミングアップを兼ね『返し』を観衆の前で行いはじめることにした――。

 

『6枠11番、ホープダンサー! 9番人気です!』

 

 バ場の状態を確認しつつある程度走った後、邪魔にならない所に立ち適当な場所を決め――そこをじっと見つめ精神を統一するために深い呼吸をゆっくりと行う……。

 これは私の習慣のようなものだった。

 そうやって研ぎ澄ましていくと周囲の音などが意識の遠くに流れはじめ、段々頭の中がすっきりとクリアになっていく――。

 

"――……――"

 

 しばしそうして目を閉じ――数秒間の完全なる”無我の境地"の中に自分を置く。

 

『8枠17番、ローマンラブリー! 6番人気です!』

 心の整理と準備が整ったのでゆっくりと完成から遠ざかり、向正面のゲートの方へと歩みを進めた。

 

 

 出走者全員がゲートの後ろに集まり、人気の低い者からゲートの中に案内されていく――。

 

『秋晴れに恵まれたここ東京レース場。第9レースはジュニアクラスのG3――サウジアラビアロイヤルカップ! 芝1600m左回りで出走者は17名。バ場の発表は良バ場となりました――!』

 

『最もタフさが要求される、東京1600を制するジュニアウマ娘は誰だ!』

 

 実況の煽り文句に乗った音の波が押し寄せると同時に、緊張感と入り混じり独特な高揚感が私を包んでいった――。

 レース前の人気上位発表の中――周りの者の様子を再度確認するように、他の出走者の様子を見渡しつつ軽めのストレッチをかける。

 

『3番人気はロックゼダーン。パドックでの逃げ切り宣言通りとなるのか!』

 

"――逃げの可能性があるとトレーナー君が言っていた者か――"

 

 トレーナー君曰く。

 『東京マイルで逃げ切るのは至難の業。それを考慮して予想すると1~3人がペースをつくり、セオリー通りなら最終直線までスタミナを切らさないよう警戒した後続は、団子か縦長になるなど慎重策が予想される。必ず先頭のタイムを数え本当にハイペースなのか? 確認を怠らないように』という忠告を受けていた。

 

"――ペースを気を付けつつ、なるべく内側の中団待機がベストだろう――"

 

『2番人気はサンプライド。芝とダート、どちらも安定の戦績! 距離延長の結果は如何に!』

 

"――そろそろか……――"

 

 2番人気まで発表された。

 私は身体を動かすのをやめ――係員の指示でゲートの中へと進む。

 

『1番人気はシンボリルドルフ! 今季最も期待されるルーキー! 今日はどんなレースを見せてくれるだろうか!』

 

 先に入った2人よりもより大きく会場の空気を地鳴りのような声援が響く!

 様々な感情が入り混じるその波を受けたかのように、私の髪や尾をもてあそぶ一陣の秋風がすり抜けふわりと靡いた――。

 

『各ウマ娘揃ってゲートインしました!』

 スタンドからの声がやや静まり――わたしは真っすぐ前を向いて。

 

『スタート!』

 ゲートが音を立てて開と同時に後ろにわざと移動させていた体重を勢いよく前に移す!

 蹄鉄がターフへと一斉に叩きつけられ、大地と空に乾いたその音が鳴り響き、草の踏まれる香りがあたりに一斉に漂う!

 

 出遅れた者がいたらしく、応援していた者たちの悲鳴がスタンドから聞こえる中私は好スタートが決まった。

 現在の位置は先頭から1バ身~2バ身後ろ。

 3つ並んだ団子のように2名の間に挟まれ2番手~4番手あたりであったが――。

 

 ロックゼターンが2バ身差をつけて真ん中から飛び出て、ローマンラブリーも連れだって上がっていくのが見えた。

 

"――やはり逃げた――"

 

 スタートから1ハロン弱続く下り坂を下りきる前に、私は2番手争いから離脱。

 

"――13――"

 3~4コーナーの間から進出のプランに切り替え、先頭のタイムを数えながら中団に位置を下げていく――。

 

 内ラチ側1番ライトドレーク並んで2番手を巡って激しい先行争いを繰り広げ、その間に4番手のビジョンワードが入り込もうしており、その後ろ1バ身ほど距離を話された5番手サンプライドが控えている。

 混戦とする前方をよそに私はまだ前に出ず彼女たちの駆け引きを眺めていた。

 

 12と書かれたハロン棒が左の視界を掠め過ぎて――。

 

"――23。時計は恐らく普通。地力が足りているものは最後に来るか――"

 

 縦長の展開のように見えるそれは、後続が慎重になっているだけでハイペースではない。

 そう踏んだ私は先ほどのプランを変えず仕掛け時を待ちそのまま進む。

 

 ビジョンワードをサンプライドが抜き4番手に収まり、外から12番ホープダンサー追ったその後ろに――。

 

『1バ身離れた所に内側で控えています! 4番のシンボリルドルフ7番手の位置です!』

 

"――35――"

 

 私の周囲のすぐ外にはハビノイソカゼが控えており、その後ろに実況曰く2名ほどいるようだ。

 先頭は3コーナーへ吸い込まれていく。

 

 新潟の小回りが必須なカーブよりもずっと余裕があり、視界の左側のラチが後ろに流れる体感速度が右側の住宅地垣間見える林の景色が流れるよりも速い。

 そしてその中でぐぅっと、私をカーブの外に引っ張る遠心力に負けないようバランスを保ち――。

 

『先頭から最後尾まで20バ身と長い長いキリンの首のような超縦長の展開! それを牽引するのはロックゼダーン2番手から1バ身ほど差をつけまだまだ逃げる!』

 

"――47。平均通り。前に3、右斜め前1。今居る先行グループの前に逃げ3。位置取り準備にかかるか――"

 

 今のアナウンスからおそらく自分の位置は真ん中。

 内ラチの向こうにはコーナーの中間地点、大ケヤキが徐々に大きく見え始め、先頭からは今10バ身。 

 第4コーナーで最前線を走る3人の後ろに位置取れるよう、私も前に進出する機会をうかがい始める――。

 

『大ケヤキを通過し3~4コーナーの中間地点! 先頭は依然と前途洋々ロックゼダーン! その外に2番手ローマンラブリーピタリと張り付き! 続き1バ身離されつつも外からサンプライドがこれを追う!』

 

"――59――"

 

 内側をずっと走り前と横にいる者の間が最終コーナーを曲がりながら、前の者たちを抜くために進路を外に取るために開くのを待つ!

 先頭は横並び団子3姉妹のまま4コーナーに突っ込み、少し後ろの先行グループは6バ身ほど!

 

"――今だ!――"

 

 予想通り前を塞ぐ者が外に出たため、そのど真ん中を射抜いた。

 逃げ3人の後ろ――!

 カーブを抜け切る前に先行グループの真ん中トップを無事陣取る!

 

『コーナリングを決めいい位置を取ったのは! 人気のシンボリルドルフ!』

 曲がり切った目の前6バ身以内に最前の3名!

 

『正面スタンド前の直線勝負が始まった! 差を縮める4番手シンボリルドルフ! あがっていくが間に合うかぁ!』

 

 そして東京の直線500.4 mと最後の上り坂が真っすぐに視野の中心に収まった――!

 坂に入る前にも少し縮めて上がり切ったら一気に仕掛けるべく、目の前の3人の外に進路を合わせる!

 

『残り460! 坂を上がっていきます! 栄光まであと400!』

 

『先頭は依然として最内ラチ沿いロックゼダーン! その外ローマンラブリー! そして更に外にはサンプライド!ほぼ横並びの接戦デッドヒート! お互い譲りません!』

 

 急な坂を上がり切りゴール板まで地平線が真っすぐ見え始め――。

 

『残り200! 坂を上がり切りまだロックゼダーン! ローマンラブリーか! サンプライドも上がってきた! これは混戦だ!』

 

"――もらった!――"

 

 上がり切った直後を狙いビリビリとした静電気のような刺激が顔や全身を駆け抜け、その感覚の中溜めていた脚を炸裂させた!

 

『シンボリルドルフが一気に距離を詰めた! 人気のシンボリルドルフ一気にきた! 唸る獅子の様に前3人を視界に収めまっしぐらに追いかける!』

 

 大きくスライドを取り駆け、近くなる3人の背中は一瞬で詰まり――!

 

『そしてサンプライドを追い抜いた! シンボリルドルフ! シンボリルドルフ残り50で全員を捉え抜き去った!』

 

 先頭3名は完全に視界の外に流れ切り、その先の景色からは誰も居なくなった……!

 

『先頭は完全にシンボリルドルフ! シンボリルドルフ! その大外からミルユホープ上がってくるが追い込むも! 圧巻! 豪脚一閃! 今1着でシンボリルドルゴールイン!』

『強い! 強いっ! シンボリルドルフ人気に応えました! 1着シンボリルドルフ! 2着ミユルホープ! 3着サンプライド!』

 

 

 ゴール板を超えたのを確実に確認してから力を抜き、高揚感がまだ冷めやらぬままの私は、右手のスタンドのほうを向きながら軽く流しつつ、左手を振りスタンドから響くファンへ応えた――。

 

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年 10月29日 午後17時00分――

――東京レース場 シンボリルドルフ控室――

 

 

「あ――もう、予定が詰まってて息切れしそう! はい、ヘアセット完了ですよ!」

「午後の遅いスケジュールだったのに、今回もいい段取りだったよ。ありがとうトレーナー君」

「どういたしまして。ちょっと手を洗ってくるから雑誌とか、そこのボトルにフルーツジュース入ってるから欲しかったら召し上がってください」

 

 鏡台前に座ったルドルフのメイクを整え髪をセットし終え、私はそれに使った道具をパパっと片付てけ、一旦手を洗いに部屋の隅っこの洗面台に近づき水道のハンドルをひねる――。

 蛇口から出る水に手を付けてると、マッサージや施術などで疲れた手を心地よく冷やしてくれた。

 

 15時から検査とシャワーを浴びたルドルフに施術をし、16時からタッパーに詰めて持ってきていた旬のフルーツやおにぎりなどをルドルフに軽く補給させ、それが終わったら手早く着替えとお手入れ。

 

 本日で2回目となるそれらのルーチンは、まるでタイムトライアルレース並みの目まぐるしさだった――。

 

 そして問題に直面――。

 一応夕食時の18時がライブなのでその前にしっかり取らせたけど、ルドルフの普段の食事量を考えたら途中でお腹が空いてしまう予感がする――。

 

"――食べ足りなさそうだけど、ライブ前だから取らせすぎたら気持ち悪くなっちゃうし……あ――"

 

 帰宅時に自分で持ち帰る小さなショルダーバッグの中に、リンゴ味の飴玉が入った缶を入れていたのを思い出す。

 ハンカチで洗った手を拭きながら、上がり畳の隅っこに適当に置かれているバックの中身を漁って、目当ての丸くて平たい缶を取り出した。

 

 缶の表面には食器などで有名な『プリンセリー・コペンハーゲン』特有の白ベースに青い花柄やツタの可愛い模様が施されている。

 ちょっとした事で食欲がなくなる私は糖分摂取の為、他のお菓子の空缶に飴玉を入れて持ち歩くようにしていた。

 

 それを手にルドルフが座っている背後の鏡台を振り返る。

 ルドルフは台の前に備え付けられている椅子に脚を組んで腰かけ、用意しておいたミックスフルーツジュース片手に、経済雑誌を読んでいた――。

 

 ちょっとした出来心で軽く3度ほど缶を振る――。

 その動きに合わせて飴玉がそのアルミ容器の中で、カランカランと軽い音を立てるのを響かせた。

 

 すると音に気付いたルドルフの耳が、可愛いらしく1度か2度はねる。

 そしてルドルフはゆっくりと丸椅子を回転させつつ、雑誌を閉じ耳をまっすぐ前に向けた状態で此方を振り向いた――。

 

「それは? 随分可愛い缶だね」

「可愛いのは缶だけじゃないんですよ――ほら」

 

 興味津々といった様子のルドルフに近づき、私は缶の蓋を開いて中に入っている飴玉を見せた。

 

「ほう? デザインはリンゴか。黄色と赤のグラデーションが鮮やかで綺麗だな」

「そうそう。デザインがまず素晴らしいのよねこの飴は。『楽店市場』の通信販売で買った『信州のりんご飴』。最近のお気に入りなんです――糖分切れを感じたら食べてください」

 

 透明な緑色の包装で両端をねじり包まれた――ヘタのないリンゴそっくりの黄色と赤で彩られた飴玉をルドルフに3つほど渡した。

 受け取ったルドルフは興味深げに手のひらに乗せた内のひとつを取り、光に透かして中のリンゴに似た飴玉をしげしげと眺めた後――。

 

「良く出来ている――素敵な飴玉をありがとう、助かるよ。後で私も購入したいから帰りにサイトを教えてくれるかい?」

「ふふ、いいですよ。他にも素敵なリンゴのお菓子があったから、その時に一緒に紹介しますね」

 

 思った通り気に入ってくれたようだった。

 ルドルフはその飴玉を衣装のポケットに仕舞い、再び私の方に視線を戻し――。

 

「――ところで君は魚介以外だと、リンゴのお菓子やジュースを、頻繁に口にしているようだが――リンゴが好きなのか?」

 

"――あら? 相変わらずよく見てるわねー……――"

 

 ルドルフに魚介類以外の好物を教えた覚えはない。なのにどうして気付いたんだろう? そう疑問に思った。

 しかしよく考えたら、トレーナールームの冷蔵庫に、私物でリンゴジュースやリンゴのお菓子を持ち込んでいるから、それで彼女が気付いたのかもしれない。

 

「好きですね。特にこの国のリンゴは焼かなくても甘くて美味しい。ルイビルでも日本からリンゴを取り寄せると、その味を知っている子の間で争奪レースが起きるほどの人気だったんですよ? ふふふ」

 

 以前担当していたウマ娘『ディーネ』の4冠達成パーティーのデザートとして、日本から取り寄せた『ふじ』がその状況を招いたきっかけであった。

 西洋のリンゴは焼き菓子やジュース用など用途が違うだけできちんと美味しいのだが、生で食べるなら日本のリンゴの美味しさは群を抜いている。

 パーティーに出された生のリンゴを食べてしまったあるウマ娘は、飲み込むと同時に『極東のエデンの果実だ!』と叫び、あるウマ娘は食べてからずっと『Amazones.com』にそれがないか探し回る始末。

 

 そう、この国の『生で食べても美味しいリンゴ』はウマ娘にとって『禁断の果実』であった――。

 

「人気の輸出品とは聞いていたが、本当にそこまで人気があるとは。ふふ――ちなみに君が好きな品種はなんだい?」

 

"――ん? 妙に突っ込んで聞いてきますね? ――"

 

 何やら私を探るような気配をルドルフから感じるものの、質問の内容的に問題ないので素直に答えることにした。

 

「うーん。それは悩みます。用途別に使うからどれとは言い難い――強いて言うなら、特に注文して食べているのは『御所川原』か『つがる』ですね」

「ごしょがわら……? 聞かない名前だがどんなリンゴなんだい?」

 

 聞きなれない単語を耳にしてルドルフのピンクダイヤのような瞳がくるりと丸くなる――耳は完全に前を向き、強い興味を向けているので軽く触れる程度の説明をつけ足すことにした。

 

「青森の御所川原市のみで栽培されている果肉まで赤いリンゴなんです。見た目もルビーみたいな深紅で綺麗ですよ。用途としては酸味が強いのでお菓子に使ったり、ジュースがおすすめです」

「ふむ……なるほど……」

 

"――ん? なんか凄く考えてる表情をしているけど……何だろう?――"

 

 ルドルフは考え込むかのように腕を組んで少し左下に視線を向けていた。

 

"――聞きなれない品種を聞いたからかしら? まあマイナー中のマイナーなリンゴだしね――" 

 

 質問の答えとして返した『御所川原』は一般的なリンゴと違い生産数がかなり限定されるため、青森の物産好きか果物専門店の常連でもなければ知らない品種だった。

 流れる沈黙が気まずくなってきたので、今聞かれた品種の話題をルドルフにも振ってみることにした――。

 

「……そういえばルドルフもリンゴが好きって言ってたけど、品種とかにもこだわりがあるんですか?」

「勿論私は『サンふじ』が好きだ。どこでも手に入るし甘みと酸味のバランスがよく、お弁当のデザートにするにはぴったりだからね」

 

 思い返すとルドルフの茶色い健康的なお弁当には、いつも別の容器でよくフルーツが付いており、その中にはリンゴが入っていることが多かった。

 

"――好きとは聞いていたけどよっぽどなのね。今度から差し入れにもっと取り入れようかな。それとこれでご褒美も決まった――"

 

「なーるほどー。では、明日はサンふじでアップルパイを焼いて持ってきましょうか?」

「それは嬉しい! 帰ったら空いている時間を見繕ってLEADに送っておくよ」

 

 ルドルフは嬉しそうに目を細めてほほ笑んだ。

 このご褒美チョイスは正解のようだ。

 

「ふふ、そんなに楽しみにしているなら多めに焼いて差し入れますね」

 

 

"――やっぱりこういう無邪気な感じはとても微笑ましい――"

 

 一瞬のぞかせた無邪気に喜ぶルドルフの姿に心がじんわりと温かくなる。

 こういう気持ちになれる時があるから、今の私になれて本当に良かったと心底思う。

 

 そんな温かな感情に包まれつつ壁掛け時計を見上げ、そしてポケットからも銀時計を取り出し時間を確認する――時刻は18時25分となっていた。

 

「さて、ルドルフ。ライブ前の会見に向かいましょうか」

「そうだな。丁度いい頃合いだ」

 

 私はルドルフを促しウイニングライブ前の会見へと向かった――。




◆レースの時代背景設定◆
【マイルチャンCS――京都】
 史実は84年実装予定。
 翌年の11月に予定されているレース。
 (新装前の内回りマイル)

【桜花賞――阪神】
 エアグルーヴの兼ね合い考慮
 桜花賞の阪神レース場は使いつつも外回りを増築中って事にしときます。
 現在の話の中では旧式の内回りとします。

【ヴィクトリアマイル――東京】
 史実は06年新設なので、将来新設予定にしときましょう!
 なのでまだ名前は出さない。

【NHKマイル――東京】
 史実は96年実装 解説では使用せず近々実装予定位な設定に。


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『"馬"娘』君に、貴女に贈るMaryXmas【前編】

おまたせしました。
前半トレーナー君視点、中盤ルドルフ視点、後半トレーナー君視点です


――20××年12月10日午後15時――

――トレーナー寮の自室――

 

 若草色と茶色が主体の色で統一されたナチュラルコーデの部屋の中。

 セミダブルベッドにうつ伏せになりながら、白い羽ペンを模したタブレットペンを片手にタブレットを操作している。

 

 特注製の分厚いマットレスが敷かれたベッドはとてもクッションが良い。今みたいに寝転がって作業をしていると、いつの間にか寝落ちしていることも多々ある。――しかし、今はそんな気にはなれなかった。

 

 画面内にはクラシック戦線の武器として用意した『例のモノ』に関する報告と、その納品がクリスマス前になるとのことが書かれていた。

 

 11月27日OP戦良バ場晴れ、東京のマイルレースを圧勝で終えたその翌日――ルドルフの勝負服の一式と仮設計の靴が届いた。

 勝負服のデザインは神聖ローマ皇帝風の緑色の衣装――可愛いというよりはカッコイイ系だ。そしてその『勝負服』という存在は謎めいた存在であった。

 

"――あの服に纏わる謎の恩恵は大きいからなぁ――"

 

 私はため息をつきながら画面から目を外し、タブレットと羽ペンを持ったまま万歳の姿勢で脱力し顔面をベッドに埋める。

 

 ただのプラシーボ効果かもしれないのだけれど、勝負服を着ているときの方が何となく力が湧いてくるのだそうだ。実際微妙に成績が良くなっていたりする。一見するとトンデモないデザインもあるのだが、何故か速く走れる。全く以て理解が追い付かない。

 

 そのほかにもウマ娘たちに纏わる不思議な話は沢山ある。

 例えば『生まれつき名前を持つ』という超常現象をほぼ全員が体験している。理解し難い現象だが、ウマ娘本人たちはこの不可思議な現象に何の違和感も抱いている様子がない。

 

 自身の転生という体験を加味してあたりをつけると、やはり彼女たちは『馬』と何らかの繋がりがあるのかもしれない。それで元々名前を持ってこの世界に別の存在として記憶が無いまま生まれている。あるいは以前の記憶を覚えている者も居るかもしれない。だがそのことについて私は検証するすべを持たない。

 

"――勝負服や名前の事だけでなく、他にもウマ娘には小説で読んだ不思議な生き物のような特徴が他にもあったし、やっぱり彼女たちは私の元居た世界でいうファンタジーな存在なのかしらね?――"

 

 さらに彼女たちには人とは決定的に違う部分がある。

 

 ――その特徴とは個人差はあるが、ある一定の年齢を超えると途端に老化が遅れていくのだ。それはまるで100年以上前に発売されていた古典文学の小説に多く登場していた、『エルフ』を彷彿させる特徴であった。

 

 そして――。

 

 顔を正面に上げタブレットにまた視線を落とそうとすると、黒い画面に不安げな自分の顔が映っていた……。紀元前からウマ娘が家系に混じるエメラルドの瞳を持つ半人半バ(スマグラディ・セントウル)の私も、ウマ娘同様長寿命化が予想されている。

 

 そんな存在になった私は……お世話になった人間たちとの別れに耐えられるだろうか? ――そんな不安がふと過ったが、ネガティブな気持ちを振り切るように俯いてから軽く左右に首を振った。

 

"――うじうじはやめやめ! じゃあウマ娘がおそらく『馬』だとすると、結局半人半バ(セントウル)は一体何者なんだろうか?――"

 

 私が元の世界の伝承で知っているケンタウロスはこの世界にはいない。

なのに何故か私たちは半人半バ(セントウル)と呼ばれている。それは私以外の転生者が過去に居たイタズラの所為なのだろうか?

 

 頭の中でその整合性を探ろうと整理するほど、半人半バ(セントウル)である自分自身がよくわからない存在のように思えてくる。

 画面に映る困惑が滲む自分の顔と、説明のつかない事柄から私は眼をそらすように、タブレットをそっと手放してベットに顔を伏せた――。

 

 ――うまぴょい♪

 

 ベッドサイドにある薄茶色のサイドボードに、画面を伏せて乗せてあったシルバーのスマホが音を立てた。こんがらがってしまった思考を止めて、腹ばいのままベッドの上を進みスマホを取り、通信アプリLEADを開く――。

 

 差出人はルドルフで、内容は明々後日から生徒会で温泉療養施設の視察旅行に行くとのことだった。

 私は『気を付けていってらっしゃい! あと、お土産よろしくね!』というメッセージを送り、ニンジンを思い浮かべながら瞳を輝かせる白ウサギのスタンプを押す。

 そしてルドルフから1分もしない内に『君の期待に沿えるよう何か見繕ってくるよ』というメッセージが、『ミセスドーナッツ』のキャラである得意顔をしている『ポンデ・レオ』のスタンプと共に返ってきた。

 

"――旅行かぁ……いいなぁ――"

 

 そういえばこの世界の日本の探索はまだしていない事をふと思い出す――。

 私からすればこの世界の各国は歴史テーマパークのようで心が躍る。例えば東京タワーはずっと真新しく見えるし、日本橋のデパートの外観は写真でしか見たことが無くレトロで素敵に見えた。

 アメリカのマンハッタンは電子書籍で見た挿絵の景色そのままで、初めて見たときはその光景に釘付けになったものだ。

 

 物珍しいのは建物だけじゃない。

 

 私のいた世界と比べこの世界の食卓事情は大幅に違う。特に私のいた世界では気候変動で絶滅していたクロマグロが、こちらのスーパーでひと山幾らの価格でツナ缶が売られいたのを見てしまった際――缶詰コーナーで数分以上佇んでしまうほど驚いたものだった。

 

"――気晴らしに旅行でも行こっかな?――"

 

 旅行に行くならアクティビティ的なもの……私のいた世界で楽しめなかった事などを楽しもう!

 そう思った私はスマホから旅行サイト『じゃらーん』のホームページを開き、旅行プランを厳選する事にした。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年12月13日午後19時半――

――福島 温泉療養施設 某宿泊室――

 

 

 まるで旅館の内装の様な施設の一室に、私とブライアン、エアグルーヴの3名はどこにでもありそうな寝巻用の浴衣姿を纏った姿で三者三様に過ごしている。

 

 私はホテルなどによくある、和風の出窓の様な一畳程度の空間――広縁に配置されたテーブルにノートパソコンを設置し、先ほど出し合ったこの施設に対する視察感想等をまとめた報告書を作成をしていた。

 作業をしている私の視界の端――ブライアンは左前の和室の布団の上でゴロリとしながらスマホをいじり、エアグルーヴは左の和室の座椅子が置かれたスペースで読書をしていた。

 

 報告書をほぼ仕上げたあたりで一息入れ、買っておいたビックボスの無糖缶コーヒーを開けて飲んだ。そして缶をテーブルの上に戻しながら、凝り固まった背中を両手を上にあげてやや後ろにそらしながら伸ばす。

 するとそれと同時に左前の和室から動きを感じてちらりと見やる。

 気配の元は布団の上に寝転んでいたブライアンが起き上がり、スマートフォンを片手にこちらへと向かってきたからであった。何か相談事があるのかと思った私はブライアンの方に軽く向き直る。

 

「ブライアン、どうかしたのか?」

「……アンタの記事があった」

 

 ブライアンからスマートフォンを差し出され、受け取って覗き込むと『月刊Pretty Derby』の電子書籍版が表示されていた。画面に映るそのページには、私の勝負服を着た感想や意気込みなどが書かれており、トレーナー君からのコメントも隅に掲載されていた。

 

「なるほど、勝負服の記事が出来上がっていたのか……」

「……アンタらしい随分格式ばった服だな」

「そうだな。着負けぬよう常に気が引き締まる衣装で好ましい限りだ」

「ついに来年からクラシック戦線ですね――会長も勝負服の写真をご実家に贈られたんですか?」

 

 左の和室の座椅子に腰かけエアグルーヴは首だけ此方を向いて問いかけてきた。

 

「ああ、郵送で送ってみたよ。最初は『志半ばではないか!』と両親から厳しく叱られるのではと躊躇したが、トレーナー君に『貴女は子供なんだからやりたいように親孝行をやればいい』と背中を押されてね」

「おいおい……自分もまだ未成年だろうに」

 

 ブライアンは鼻で笑いながらそう発言し、私も少しおかしかったその一言を思い出し、スマートフォンを持っていない方の手を口に当てて笑いをこらえた。

 

「ふふ、トレーナー君のその発言は突っ込みどころしかないから、そう言いたくなるのもわかるよ。話を戻すと両親から届いた手紙には『弛んでいる!』と叱られつつも、その後に続く文面から察するにちゃんと喜んでもらえたと思える内容だった」

「会長のご両親は厳しい方だと聞いていますがいい結果となってよかったですね」

「そうだな。思い切って送ってよかったよ――記事を見せてくれてありがとうブライアン。返すよ」

「ん」

 

 ブライアンから借りたスマホを返すと、彼女ははいつも通りの反応でそれを受け取って布団の上に戻り、こちらに背を向けて寝っ転がってスマホを再び弄り始める。視界の端のエアグルーヴは白いポットからお湯を急須に注ぎ、匂いからして緑茶のお代わりを淹れているようであった。

 

 

 私は腕を組んで軽く天井を見上げつつ、首を軽く回して肩こりをほぐしつつトレーナー君が今何をしているか気になった。

 

"――ちょっと出かけるとは聞いていたが、無事に帰れているのだろうか?――"

 

 そう思い立った私は目の前のテーブルの上に置いてある自らのスマートフォンを手に取り、左手は組んだまま右手でそれを操作し『Horsebook』を開いた。

 トレーナ君のアカウントを確認すると、最新投稿に『綺麗な夜景でした。It's really lovely to go up Mt.Hakodate and look at the night view of Hakodate city!』とある。

 

"――『ちょっと出かけてくる』とは聞いていたが函館?!――"

 

 トレーナー君が写真と共に投稿した英文の内容から彼女の現在地を知った。まさかそんなに遠くまで行っているとは思わなかったため大変驚いた。

 

"――やれやれ、それは『ちょっと』の範囲ではないと、折を見て基準を訂正しておかねばならないな――"

 

 少しだけ俯き右手で持ったまスマホの角を額に軽くつけ、苦笑いを浮かべながら私はゆっくり首を左右に振る。そして顔を上げてその最新投稿にいいねをつけ、『はしゃぎ過ぎないように旅を楽しんでくれ』とコメントを残しスマートフォンををテーブルに置いた――。

 

「会長、ブライアン、お茶を淹れましたが要りますか?」

「そうだね。あともう少しで書類作成も終わるし、ありがとう頂こうか」

「ほしい」

「わかりました――――ブライアン、注いだから端に置いておくぞ」

「ん。さんきゅ」

 

 報告書の最後2行を書き終え報告書を完成させ、私は薄い黒のノートパソコンを閉じたと同じくらいのタイミングで、寝転がっていたブライアンがエアグルーヴのいる和室の座椅子に座りお茶を飲み始めた。

 

 私もやることが終わったので缶コーヒーを飲み干し、一旦部屋の外にある自販機コーナーのごみ箱まで捨てに行った。そして戻ってきた後、同じ卓を囲もうと彼女たちの居る和室の座椅子に着席した。

 

「2人ともただいま。――さて、今年もあともう少しだな。色々あったが2人の尽力もあり無事すべての行事をこなせて何よりだ」

「ええ、今年は夏季合宿中に台風が直撃した影響で予算が削られ、生徒会主催の年末イベントも何とか開催にこぎ着けられましたしね。規模が縮小してしまったのが無念ではありますが……」

  

 年の瀬にあえて実家に帰らない者や、レースの関係で学園に残る者の為に行う、生徒会主催の参加自由の年末イベントが25日から控えており、彼女が言う通り今年は合宿地を台風が2度も現地を直撃。

 被害こそ無かったがその対策で予備の予算まで削られてしまい、年末イベント開催が危ぶまれたが先月半ばまでに何とか予算をやり繰りし、規模を調整して無事に開催という運びとなった。

 

「年末のクリスマスのアレは、最悪肉とニンジンさえあればいいんじゃないか?」

「ブライアン……!」

「冗談だ。――ようは私らなりにやれることをやればいいと思う。そもそも群れるのが好きな連中は、結局仲が良い奴と一緒に居るだけで楽しいもんなんだろう? そんな思い出作りの行事出来ただけヨシでいいだろう?」

「ふふ、それもそうだな」

 

 そんなもっともらしい理由を述べているものの、『肉とニンジンさえあればいい』の方がブライアンの本音なのだろう。

 そんな2人のいつも通りのやり取りに微笑ましさを感じつつ、『お茶を淹れてくれてありがとう、頂くよ』とエアグルーヴに声をかけて私は湯飲みに口をつけた。

 

「ところで、アンタは年末トレーナーと過ごすんだって?」

「ふむ? 確かに過ごすが、ハヤヒデから聞いたのか?」

「まあな。アンタがそういう行動をとるのって珍しいなって思って。何か特別な理由でもあるのか?」

 

 飲みかけのお茶が半分ほどある湯飲みをテーブルの上に戻し、何故それを知っているのかブライアンに聞いてみると情報の出所は雑談ついでにそれを話したハヤヒデからだった。

 

「特別な理由にはなるな。実はトレーナー君が『干物女計画』なるものを立てていたらしい。それを止めるために一緒に居ることにしたんだ」

「なんだよそりゃ……アンタのトレーナーは一体何をやるつもりだったんだ?」

 

 ブライアンの耳は興味を示すように前に向いているが、表情は若干引き気味になっている。エアグルーヴはというと意味が解らないといった感じに怪訝な顔をしつつ同じように耳をこちらに向けている。

 計画名が計画名なので2人の態度がそうなるのも無理はない

 

「ひとりでコンビニ食文化巡りとご当地カップ麺試食会を敢行するつもりだったようでね。ストレスなどの"ショック"で食が細りやすい彼女がそんな事をしたら身体にもよくない」

 

そう発言した瞬間、湯飲みからお茶を飲もうとしていたエアグルーヴの動きがピタリと一瞬止まり、ブライアンは盛大な溜息をついた。

 

"――……ふむ? トレーナー君の行動に呆れたのだろうか?――"

 

「色々と今の発言には突っ込みどころがあったが……アンタのトレーナーは『Umatube』によく出てくる日本の食レポが好きな面白外国勢かよ」

 

 そういってブライアンは左手で頭を押さえて目を伏せ俯き、やれやれと言った感じで頭を振った。

 

「ふふっ、面白外国勢は言い得て妙だ。トレーナー君はグルメらしく『こんな簡単に美味しいものが手に入るのは天国だ!』といって、コンビニに立ち寄るとかなりの頻度で限定商品を片っ端から買ってきてしまうんだよ」

「海外の方が日本の食べ物にハマってしまうのは、今ではよくある光景ですが……毎回それでは確かにその行動はやり過ぎですね」

「ああ。しかも発覚の切っ掛けも、トレーナー君がトレーナー室にカップ麺をため込んでいた事が原因だ。仕事をきっちり頑張っている彼女の楽しみだろうし、好きにはさせたいが――流石に度が過ぎているので加減させるべきだと判断した」

 

 数日前、生徒会の用事から早めに帰ってきてトレーナー室に立ち寄った私は、冬ごもりの小動物よろしく大量のカップ麺を戸棚にせっせと隠し詰めていたトレーナー君を見つけた。

 

 運び込まれた量はなんと20個――。隠れて貯め込んでいた理由を聞くと、おやつにしたくて持ち込んだけど、食べ過ぎているのがばれたら私に叱られるとわかっていたからだそうだ。

 

 そんな子供っぽい事をしていたトレーナー君に頭を抱えた直後、ふと思い出したのがその更に2日ほど前にトレーナー君がマルゼンスキーと『年末年始は干物になってコンビニ巡りをしまくろうかな!』なんて廊下で立ち話をしていたのを思い出した――。

 もしかしたら本当にやるつもりかと思って、問いただすとやはり冗談ではなかった。

 

 コンビニ巡りは楽しいという気持ちは分かる。しかし、『口出しすべきことではないのかもしれないが、そればかりを一気に食べていると、流石に体調が心配だよ?』と伝えると、トレーナー君は謝った後少しずつ楽しむことにすると約束してくれた。

 そして他者の目があれば自堕落にはなり過ぎないだろうと思ったので、邪魔でなければ年末年始は彼女の寮に遊びに行くことを打診して了承を貰ったという訳だった。

 

「確実に実にはなるが地獄みたいな課題を作ったり、仕事は天才的なのに意外と子供っぽいのが不思議な人ですよね」

「そうだね。たまにどちらが育てられているんだかと思うときがあるが、互いに教え合いながら成長していくのも悪くないかと思うようになった――そろそろ消灯が近いな。さあ、支度をして寝ようか」

 

 目の前の壁にかかる黒い枠のシンプルな時計の時刻は消灯15分前を差し、我々は就寝準備に取り掛かった後、備え付けの加湿器を起動し床に就いた――。

 

 

 

 

 その翌日――トレーナー君がまさかあんな行動に出るとは、この時の私は全く考えもしていなかった……。

 

 

 

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年12月14日午後10時半――

――函館沖 釣り船 ――

 

 

 

"――小さいころマハスティが言ってたなぁ……狩りが出来る男女はボッチを回避できるって――"

 

 私の世話を焼いてくれている、養父の秘書が言った言葉をぼーっとした頭で思い出していた。そしてそれが意味する事は何だったんだろう? 答えのないそれをぼーっと頭に浮かべ、船尾中央の腰かけられるスペースに座っていた――。

 

「そんなにボーっとしてると海に落ちるよ? ココアでよかったかい?」

「ああ、すいません。ありがとうございます」

 

 外見年齢は20代半ばほどで、青毛特有の真っ黒な黒髪のポニーテール。

 肉体は平地のレースに出るウマ娘達よりも遥かに大きく、アメコミの女性ヒーローの様な立派な筋肉を纏っている。

 そんな見た目の重種系のウマ娘である船長から、私はココアの入ったステン製のマグカップを受け取った。

 

 昨日函館のグルメと夜景を楽しんだ後、ひとりになりたい時用の瞳の色を誤魔化す茶色いカラコンを付けたまま、深夜に今乗っている船の船長と私は合流した。

 そして餌にする生きたイカを夜間に集めながら朝を待ち――目当ての魚影を探している。

 

 折角過去の時代に似たこの世界に来たのだから、すでにほぼ絶滅していたあの魚を釣ってみたいと思った。じゃらーんで旅行プランを押さえ、財閥を経由して釣り船をチャーターし、即道具を揃えて遥々府中から函館までやってきたのであった。

 一応GTと呼ばれるロウニンアジ、そしてカジキマグロは養父と行った沖釣りで相手にしたことがある。しかし今回はそれとは格が違うあの魚だ――引き上げるまでのファイト時間が下手をすると4時間を超えることもあるというから恐ろしいものである。

 

 夜中の寒さよりはマシとはいえ、昼前になった今でもピリリとくる北国の風が頬を撫でていく。

 船尾中央の腰かけやすい所に座りながら、アツアツのココアに軽く白い息を吹きかけ、少し唇で触れて熱さを確認してからそれを静かに啜っていく。

 

「そういえばアンタは中央のトレーナーって言ってたけど、この時期の中央トレセンは有マの準備だろう? 遊んでていいのかい?」

 

 船長は魚群探知機を眺めつつ、舵を取りながらそう私に問いを投げかけてきた。私はココアをチビチビ飲むのをやめて少し冷めたそれを飲み干し――。

 

「担当の子がまだジュニアクラスなもので、今日はお互い休日を合わせた非番なんですよ」

「そうかい。じゃあ来年はクラシックだね。目標は3冠ミスターシービー越えって所かい?」

「怪我が無いのが何より一番ですが、超えて行って欲しいですね」

 

 船長は香りからしてブラックコーヒーの入ったマグカップを片手に、ちらっとこちらを見てニカっとでも効果音が付きそうな感じに笑いかけてきた。

 

「アンタは優しいんだね。アタシは自分が出ていた関係もあって『ばんえいレース』しか普段見ないんだけど、神が讃えるウマ娘以来のクラシック3冠が出るかも? って聞いて菊花賞を見てしまったよ。ミスターシービーは凄いウマ娘だね」

 

 ――ミスターシービー。

 ルドルフのひとつ上の世代の3冠ウマ娘で、おそらくルドルフが春天やジャパンカップ、有マで激突する可能性のある存在。近代のレースにおいて追い込みはナンセンスと言われていた世論の中、ミスターシービーは追い込みの戦法を駆使して勝ち上がりその常識を覆していった。

 

「そうですね。シービーのような勝ち方を菊花賞で行うウマ娘が今後現れるとしたら、それはかなり先の世代になると思います。それくらい先をいっている彼女は素晴らしいですね」

「だよねぇ! あんな走り方をするなんて本当に肉体の頑丈さが別格だと思ったわ。他だとマイルまでならミズホピロハーツなんかも強いかもねぇ。この子は成長しきってからがバケモンになりそうだ。…………まあ来年はもっとすごいのが出そうだけど」

 

 そういって船長はコーヒーを飲み干したマグカップを適当なところにひっかけて置くと、また魚群探知機を見つめ始めた――。その言葉の先の意味が気になった私はふと尋ねてみることにした。

 

「といいますと……?」

「――シンボリルドルフさ。ジュニアG1には出てこなかったが、ありゃきっと大物になる。自分のトレーナーにしたい子をアメリカに迎えに行ったって言うのもかっこいいねー! しかも連れてきたトレーナーはあの第1回ジャパンカップの勝利関係者で、最も若くしてGrandに到達したトレーナーってこりゃまたド派手もいい所。そんな娘たちが常識破りのシービーに挑むのだから熱いったらありゃし――ん?」

 

 船長は会話を途中で打ち切り、魚群探知機に顔を近づけて凝視した後――。

 

「――さあ、おしゃべりはこれまでだ。配置につきな。潮上を取りに行くから、合図したらイカを付けて教えた通り竿を振って投げ込みな」

「わかりました!」

 

 船長は私から空になったマグカップを預かったあと、操舵に取り掛かり船は左舷側に旋回。

 私は島影の函館沖で穏やかではあるが、念のため海に落とされないよう掴まりつつ、竿にいつでも餌を付けられるよう生簀から網で1匹イカを取り出して待機。

 

 旋回し終えた船尾から見えた視線の先には、ドラム缶サイズの濃い青の魚が時折跳ね上がったり、海面すれすれを泳いでなぶらを立てつつこちらに向かってくるのが遠くに見えた。

 その群れの頭を捉えて船長は船を進め――。

 

「餌付けな! 投入は60秒後!」

 

 秒数を数えながら素早くイカを取り付け――!

 

「つきますよう――にっ!」

 私は巨大なリールのついた竿を振ってキャスティングし、群れる魚影の前に針のついたイカを落とした。

 

「ははっ。それでついたら来年のダービーはアンタたちの勝ちじゃないかい?」

「そうだと嬉しいですね」

 

 軽口をたたきつつも手の感覚を竿先から伸びる糸の先からくる振動に集中させている。

 手に持ったマグロ用に買い揃えてカスタムした重い竿からは、投げ込まれた生餌のイカの振動が伝わっていた。

 

 そしてその動きは、何かから逃げようと必死な動きに変わり!

 

「――!?」

 

 竿先がしなり、ぐっと重さが乗ったのでそれに合わせを行いフッキングし、食いついたであろう獲物に針をかけた!

 それと同時に両足がズルリと前に引きずられそうになるも、縁に片足をかけて止めて踏ん張った。

 

「かかりました! わっ――重い!」

 

 半人半バ(セントウル)の力でも持っていかれそうになりつつも、乗る前に教えてもらった通り船尾側の竿を固定する場所に固定して電動リールを動かそうとするも反応が無い! 出航前に確認したのにまさかの不調だ!

 

「すいません! 電動リールが不調みたいなので自力で巻き上げます!」

「あいよ。動きに合わせて巻き上げな。こっちは浅瀬に誘導していくよ」

 

 船のエンジンがかかり一気に加速し、糸の先の獲物が潜っていかないよう浅瀬の方に誘導していく。

 

 そして手から伝わる魚の動きに合わせて糸を出したり、巻き上げたりを繰り返すこと4時間半――。

 

 エンジンを切り船長が見守る中、ついに自分が戦っている重く力強いその相手が、私の居る船尾から2m先の海面をぬらりといった感じで左から右に横切っていった。

 

 腹をこちらに向けた横向きのその姿。

 銀色の腹に背中は黒に近い青――推定3m近くはありそうな、太平洋の青物の王者『太平洋クロマグロ』の横面と目が合う。

 その瞳はギラツいた生目力に満ち溢れ、対峙する自分にプレッシャーをかけてくるような覇気を纏っていた。


【太平洋クロマグロ:Thunnus orientalis】

 本マグロ。トレーナーの元居た世界では色々あって絶滅した。

 成魚は体長3m。重さ400kg。近大の養殖事業が有名。

 元々は深海魚。白亜紀の気候変動により、海面から200m以内の魚が減ったスペースに乱入&俺ツエ―しに来て脱深海。

 時速100kmで泳ぐとされて……いるがそれは近年それは違うのでは? と論争を生んでいるそんな魚。


 

 かかったマグロは横切った後また潜ろうと力を振り絞って暴れ、ラインをコントロールしながらこっちも必死に踏ん張って耐えて引き込む!

 

「こりゃぶったまげた……バケモンだ! 船の右側を通って船頭に向かいな。船底に擦られないように気を付けながら糸をお巻き! 大きさが大きさなだけあって非常事態だ! やらせてあげたいがトドメは任せてくれ!」

「っ――重い!! お願いします!」

 

 船長の指示通りに私は船の右舷の船頭に立ち、そしてその左横に想定外の大物がかかった時用の、モリを持ち船長が待機していた。

 

 うっかり引っ張られて海面に落ちないよう踏ん張りながら、船の下に潜られないようこちらもタイミングを見計らいながら巻いていき――!

 

 再びその化け物が海面に近づいて船すれすれを左から右に横向きに泳いでいこうとしたその時! 船長が叩き込むように投げ下ろしたモリが海面を貫き綺麗に急所を捉えた!

 

 マグロの動きが止まった後、先が鈎状に曲がった道具を使って船長が片腕でその大物を引き上げてくれた――流石ばんえいの元選手であると感心しつつ獲物と至近距離で対面。

 それは私たちの身長をはるかに上回り、そんな大物を獲得した高揚感で私の胸は高鳴った!

 

  ◇  ◇  ◆

――20××年12月14日午後16時半――

――函館港――

 

 延縄の時間に被る前ギリギリに帰ってきた私たちを、情報を聞きつけた人たちが出迎えてくれた。

 港の人の好意で測定した全長はおよそ2m70cm、血を抜きした状態の重さは400kg――ちょっとしたアクティビティをしてこっそり帰るつもりが、なんと釣り師の日本記録を塗り替えてしまった。

 そして大物を釣り人が釣り上げたと聞いた地元メディアのカメラマンも来ており、大変めんどくさい状況に。

 

"――そういえば生徒会が25日にクリスマスパーティーをするらしいし、ルドルフにとりあえず聞いてみてOKなら料理人を調達してそこに出しちゃおうかな。これは流石に消費するの無理だわ――"

 

 そう思いながらリフトで吊り下げられた私の右隣のマグロを見上げる。

 何時間も格闘して釣り上げたこの個体は売ってもそんなに価値は出ない。なら顔見知りに美味しく食べてもらったほうが良いだろう。

 今年は予算が無くて楽しみが減ってるって聞くし、マグロ食べ放題が追加されれば食べ盛りである学園の生徒たちは喜んでくれるかもしれない。

 

 運送は先ほど船長に手続きを頼んだので、あとはどうやって料理人を調達しよう? 保管はどうしよう? などを考えてると船長が私の方に近寄ってきて手を差し出してきた。

 

「日本記録おめでとう! 水産庁への届け出は出しておいたよ。輸送車も手配した。府中での保管先は後でアタシの知り合いの所を押さえられないか聞いてみようか?」

「ありがとうございます。流石に保管スペースの確保に悩んでたところなので助かります」

「吊り上げたマグロの横で写真撮ってあげるから、スマホ貸してごらん?」

「あ、お願いします!」

 

 私は釣りに使った竿を持たされ、自分が釣り上げた獲物の横で写真を撮影してもらった。

 そして船長からスマホを受け取ったその直後、地元メディアと名乗った初老の男性カメラマンが私に断りを入れてきたため、了承するとすぐさま撮影に入り3枚ほど笑顔の表情で撮影した。

 その後取材がはじまった――。

 

「ありがとうございました。この写真は明日の新聞に載せさせてもらいます。いやはや凄い! おめでとうございます! 釣ったマグロはどうしますか?」

「ウマ娘のトレーナーの仕事をしているので、学園の子達と食べられたらいいなと思っています」

「え? まだかなり若そうなのにトレーナーだったんですかい! それは驚いた! あ、新聞用に年齢と名前をお願いします!」

「―――・望月・――――――。年齢は16です」

「―――さんね……はい!? って!! アンタまさか中央の!?」

 

 カメラマンの男性が私の顔をまじまじと見てからそう叫んで声を失い、周りの人はざわざわと騒ぎ始め、ニコニコと笑顔を浮かべていた船長も目を丸くし、雪まつりの雪像のように動きが固まった後大笑いして私の背中をバシンと加減しながら叩いた。

 

「そうか、アンタが噂のトレーナーだったのかい! こりゃ驚いたわーまさかあの話をしていたのが本人だったとは! あはははは!」

「変装した上にお忍び名を使って黙っていて申し訳ございませんでした。騒がれるのが嫌だったもので……」

 

 そういって船長は自身の胸の前で手をばんばんと打ちながら笑い転げている。そして本当の名前を名乗っていなかったことを釈明すると――彼女は左手の親指をぐっと立てて、冬の港の中をぱっと照らすような、まるで真夏の太陽の様な笑顔を浮かべた。

 

「相当な装備を携えて若い子が来たから、最初からどこかのお嬢様じゃないかとは気付いていたよ。誰だってひとりになりたい時もあるからきにしなさんな。流石他国とはいえダービートレーナーだけあって立派な結果を掴んだねぇ。きっと来年はアンタたちがダービーを勝つだろう。本当におめでとう」

 

船長から差し出された右手に私は自身の右手を伸ばして掴み――固い握手を行った。

 

「これは船長のサポートが無ければ無理だった戦果です。本当にありがとうございます」

「嬉しい事を言ってくれるね! さあ、マグロを教え子さんたちに送る準備をしようじゃないか。リボンをつけるかい?」

「ふふふ。――時期が時期なのでリボンをかけるのも良さそうですね。あ、その前にルドルフに連絡入れていいですか?」

「あいよ。画像はファイルに入ってるはずだからそれも送ってやんな。マグロは先に箱に詰めさせてもらうね」

 

 私は左手に持っていたスマートフォンから通信アプリのLEADを起動し、ルドルフにまずマグロと一緒に笑顔で映っている私の写真を送り――『とったどー! 今から帰ります。あとこのマグロ、料理人とか用意はこっちでするから生徒会のクリスマスパーティーに出しませんか? 一人では食べきれそうにないので。いまから箱詰め作業に入るのでまた後で!』とメッセージを追加して送信――。

 

"――でっかいマグロ、喜んでくれるといいなぁ――"

 

 私は狩った大物の配送準備をするべく、船長に声をかけて作業場に向かった――。




【二次オリ設定の引用元など】

 このふたつは二次設定突っ込んであるので注意してください。

◇abema特別生放送第3Rより『ウマ娘はエルフのようなもの』◇
 とりあえず年齢に関してはウマ娘の歳の取り方は、ある一定以上育ったあとはエルフみたいな感じじゃね? 説の設定で書いて行きます。
 って事にしとけば、シンボリルドルフさんがずっと会長してたり、キタサンブラックさんたちが入学するまで、トウカイテイオーさんがお変わりない姿であることなど、話が書きやすいのでココの妄想ではサイ〇人みたいなもんと解釈します。

 そういうのキライだよって方いらっしゃいましたら申し訳ないです。

◇勝負服の謎◇
 公式設定曰く『勝負服を着ると力がわいてくる』ようです。
 勝負服はURAから支給されたり、デザイナーが作ったりするみたいですが、ヒールの高さなどはどうやら変わってないっぽいなど不思議ですね。

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セントウルに関する記述を修正


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『"馬"娘』君に、貴女に贈るMaryXmas【後編】

お待たせしました。
前半トレーナー君視点、後半ルドルフ視点です。

トレーナー君の部屋の間取りイメージ

【挿絵表示】

それではどうぞ。


――20XX年12月25日午後20時――

――トレーナー寮――

 

"――うー……だるい。寝落ちしそう――"

 

 空調で暖房を程よく利かせ、加湿器も稼働――。

 そんな快適空間とかした寮の自室のリビングには、深緑色のふかふかしたコーナーソファーラグの寝っ転がりスペースがあり、そこに私は髪を下ろし、すっぴん&リップクリームのみ状態で横向きに転がっていた。

 

 カフェテリアでの生徒会のクリスマスパーティーを手伝った後、マグロのお礼を理事長とルドルフから伝えられ、そして先に帰るようルドルフから促され帰宅して今に至る――。

 

 結局あのマグロは職人を呼んで調理するつもりが、ゴールドシップが調理する事になった。

 何故ゴールドシップが調理する事になったかというと『Horsebook』に釣果を投稿した直後、『それアタシが捌きたい!』と彼女からいいねとコメントが飛んできた。

 どうしてもやりたいと強請り倒されてオッケーを出し、サポートとして私が厨房に回ることになった。

 

 そしてゴールドシップはバイトで習ったという技術で、400kg以上はあるマグロをあっさり捌いてしまった。

 いったいどんなバイトをしているのか気になったが、余計なことを聞いたら気分次第でいたずらされそうな気がしたのでやめておくことにした――。

 

 そして今手に持った羽根ペン型タッチペンで、タブレットを操作しながら私は情報を見ている。

 タブレットには信頼できる情報サイトなどからタイムなどを自動収集し、そのウマ娘が得意なコース傾向などがオートで表示される自作アプリを表示されていた。

 

"――海外勢はフランスのSage(セージ)は最重要マークね。この子は凱旋門で確実に当たる――"

 

 フランス出身のウマ娘。"賢明な"という意味の名を持つ『Sage(セージ)』はクラシックからのデビューだ。現在6戦3勝、連対率83.3%――ルドルフがダービーと英国で勝利すれば、凱旋門で今年シニアクラスになったこのウマ娘と戦う事になる。

 

"――今年の凱旋門で11着だけど、出しているレースがドーヴィル2回、ロンシャン4回か――"

 

 出走したレースは距離は2000m~2400m。そしてドーヴィルは欧州では小さ目のコース。となるとこの出走が意味するところはコーナリング力を実戦で試すためだろう。陣営はまだ凱旋門を視野に入れていると考えられる。

 トレーナーは同じGrand持ち『軍神マルス』とあだ名される『イヴォン・マーウォルス』。

 

 Sage(セージ)が不調だという噂や事実はなかった。おそらくジュニア期を出さずにしっかりと成長を促しているのだろう。――こちらと大よそ考えていることは同じである。

 凱旋門の舞台であるロンシャンでの勝率が高く、重バ場傾向のある同レース場において重バ場に強いSage(セージ)。今年の動き次第で、マークしなければならないだろう。今年のロンシャンの良バ場はSage(セージ)に分が無かっただけだ。

 

 そしてオーストラリア・クラシック3冠『Fraoula Road(フラウラロード)』。特筆すべきは泥沼状態になった超不良バ場のオーストラリアのAJCダービーで勝っていることだ。その状況で勝てるこの子も凱旋門適正は高いだろう。距離適性も十分で実際に勝った距離は2000~2400mだった。

 既にG1で勝ち星をいくつか稼いでいる彼女が残す課題はヨーロッパのバ場が合うかだけ。来年から『Fraoula Road(フラウラロード)』の陣営は、海外遠征を視野に入れるという会見をしており、その中にはジャパンカップも目標に掲げられていた。

 

 Fraoula Road(フラウラロード)のトレーナーは、今年新たにGrandへと加わったオーストラリアの『Hrímfaxi(フリームファクシ)』。

 神話に由来する名を持つ彼女自身もAJCダービー中心にオーストラリアの中長距離を制覇した強者。怪我さえなければ彼女は海外に挑戦したかったという。

 非常に美しい黄金の髪を持つウマ娘で、現在女性のGrandは彼女と私しかいない。

 

 そして今年のクラシック時点で英オークス含む3冠、ダブルティアラの『Sunny Princess(サニープリンセス)』。アイルランド出身で主戦場はイギリス。連対率83.3%、本年は6戦3勝で1戦以外全てG1戦線。勝利距離は2400~2921m。『オークス路線を選びたがるウマ娘』は『何故かステイヤーが少ない傾向』になるジンクスがある。しかし英セントレジャーの舞台となるドンカスターレース場が平坦なコースとはいえ、オークス路線のウマ娘がこの距離をこなしているのは驚異的なスタミナだ。

 今年の良バ場の凱旋門で2着と好走しているのもあり同じ条件なら確実に脅威になるだろう。

 この型破りなウマ娘のトレーナーはGrand持ちの『ウィル・スターリング』。このトレーナーは、今年英国のレース文化に多大な貢献を上げている。その功績により大英帝国勲章を叙勲している。

 

 そして――本年の凱旋門の覇者『All Strong』。活動拠点はフランス。

 前年の凱旋門は15着、ジャパンカップ2着。とったG1は1つと振るわなかったが、今年は凱旋門で1着をもぎ取ったのち海外遠征を決行。カナダG1『ロスマンズ国際S』、アメリカのG1『ターフクラシックS』『ワシントンDC国際』で勝利をもぎ取った。今はまだアメリカにいるが陣営は『前人未到の凱旋門2連覇』を狙っているという。ルドルフに勝機があるとすれば例年通りロンシャンが重バ場だった場合だろう。

 

 そして彼女のトレーナーはこれまたGrandの『ヘラルド・ミッドフォード』。私が転生というズルをしてこの世界の記録を書き換えるまで、彼が最年少で国際Sランクトレーナー試験に合格し、Grandとなった若き天才と呼ばれていた。

 

 もし私とルドルフが凱旋門に来年挑むとなれば、歴代最多。……Grand Trainerの担当したウマ娘が一堂に会することになるだろう。Grandという称号が贈られはじめて初のヨーロッパVSアジアVS南半球。その3勢力が激突する史上初のレースとなるだろう。

 

"――注目されるのは間違いないだろう。ルドルフに恥をかかせないよう念入りにやらないとねぇ……――"

 

 若干瞼が重くなって脳みそが店仕舞いを始めそうだが、まだまだと喝をいれてもう少し今度はキングジョージに出走しそうな子を見繕うべく、アプリの検索条件を変えようとタッチペンを動かす。

 

 

 ……けれど、夕方の手伝いの疲労もあって、私の頭はもう疲労で限界だったらしく――――。

 

  ◆  ◇  ◇

――20XX年12月25日午後22時――

――トレーナー寮付近――

 

 生徒会の仕事を終えた私は一度入浴してからジャージに着替えた。

 そして寮に置いておいたトレーナー君に渡すクリスマスプレゼントの入った紙袋とルームシューズの入った荷物を持ち、既に昼間荷物を運び入れておいた彼女の住む寮の部屋を目指している――。

 

"――まさか日本記録のマグロを釣って帰ってくるとは、本当に運がいいというか何と言うか――"

 

 視察を終えて学園に帰ってきた夕方『とったどー』という内容のメッセージと共に、通信アプリLEADに巨大なマグロとその横で釣竿片手にピースをしている、真冬の対海装備を着込んだトレーナー君の写真が送り付けられていた――。

 

 そしてそのマグロを料理人を用意するから生徒会のパーティーへ寄付してくれるという――。色々あって予算が削られ、生徒たちの年末の楽しみが減ってしまいそうだったのでその申し出は願ったりかなったりだが、釣りをするために北海道にまで足を運ぶトレーナー君の行動力には、相変わらず驚かれるばかりだった――。

 

 そしてマグロの料理人には何故かゴールドシップが立候補しており、いつものイタズラ好きな彼女の姿を見ているが故に一瞬不安にはなった。

 しかしゴールドシップはきちんと仕事を成し遂げ、寿司を作ったり大変楽しそうに過ごしていたし、食べ盛りの生徒たちは大喜び――クリスマスは昨年よりも1割程参加者が増え大成功に終わった。

 

 そして今日から遂に約束のトレーナー君宅こと寮へのお泊り会が始まる日。

 後に生徒会を引き継ぐ者の為、忙しさを軽減するためにいろいろと試してはいるものの、全体的にまだまだ改革中の為忙しい日々は続いている。

 そんな中久しぶりにまとまったコミュニケーションを、トレーナー君と取れるでろうこの約束を楽しみにしていた――。

 

"――生徒会で泊まるのとは別に、誰かの家でお泊り会をするのは初めてだな!――"

 

 何をして遊ぼうか? ゲーム機もあるというからソフトを買ってきて一緒に遊ぶか、それとも映画を見るか? 初めてのパジャマパーティーへの招待に浮足立つ私は色々なことを考えつつ、白い吐息のでる真冬の夜の道を進みトレーナー寮の既婚者エリア付近まで辿り着いた。

 

 トレーナー君は本来1DKの独身者エリアなのだが、好条件での契約の事もあって理事側から特別配慮があり、既婚者エリアの3LDK大部屋が割り振られていた――。

 エレベーターを使いトレーナー君の住む4階の部屋まで辿り着き、時折吐きだす息が白くなるような寒さの中、トレーナー君の居る405号室の角部屋のインターホンを押す――が、反応が無い。

 

"――ふむ? 手伝いに奔走していた様だし、疲れて寝てしまったのか?――"

 

 寝落ちしてるかもしれないと思い、念のために渡されていた合い鍵でドアを開けて中に入る――。

 

 玄関には明かりが点けられており、ドアを開けた正面に品の良いシューズラックとシンプルな傘立てがその隣に。

 シューズラックの上には瓶に木の棒が数本刺さったタイプのアロマディフューザーが置いてあり、そこからトレーナー君が良く愛用している用品と同じライムとバラの香りが漂ってきている――。

 

 靴を脱いで揃えて玄関を上がり、持ってきていた自分のルームスリッパに履き替える。

 玄関の明かりを消して左手の廊下を奥に進むと、ドアの真ん中に縦長にガラスがはめ込まれたドアがあった。

 

 ガラス部分から光が漏れているので中には居るのだろう。そっと開けて入るとまず右手にダイニングキッチンとテーブル。

 左手が寝室などの部屋のあるドアが3つ――そしてまっすぐ前を見るとコーナーソファーと一体化したコーナーソファーラグがあった。

 

 そしてそのラグの真ん中に、何やら白くて丸いシルエットがぽつんと見える。

 

 そっと白いシルエットに近づいてみると――前の方が膝の少し上の高さで、羽ペン型のタブレットペンを持ったままこちらに背中を向けて身体を丸め、後ろの裾が長いフィッシュテールスカートのシンプルな白いワンピースのナイトウェアを纏ったトレーナー君が深緑の芝のような色合いのラグの上で寝ていた。その表情は実に幸せそうですやすやと静かな寝息を立てている――。

 

"――やはり寝落ちか――"

 

 荷物を置いてそっとタッチペンをどかし、銀色のタブレットも踏まないようダイニングテーブルの上に移動してやろうと手を伸ばす。

 手にしたタブレットには画面が映ったままで、そこには各国のウマ娘のデータベースと出走予想や好走傾向別のランキングが表示されていた。

 

"――ほう? 中々興味深いが、勝手に見るのは良くないな。後に許可を得てからじっくり見せてもらおう――"

 

 タブレットの横のスイッチを押して画面の電源を落とし、そっと持ってきた紙袋と一緒にダイニングテーブルに乗せる。

 その後寝室側に運び込んでいた自分の荷物から、モスグリーンのシルクパジャマセットを取り出して着替え、制服をハンガーにかけ昼間私のスペース用にと指定されていたクローゼットに吊るした。

 戻ってくるとソファーの方で音がした――起きたのかと思ったら、どうやらトレーナー君が寝返りを打っただけだった。

 

 なんとなくそっと近づいてスリッパを脱いでラグの上に上がり、トレーナー君の背後に横座りで腰を下ろした。

 そして私は幸せそうな寝顔をしばし観察することにした。トレーナー君はむにゃむにゃと、なにやら言葉にならない寝言を発している。そんな彼女の髪に指を通した――。

 

 そっと持ち上げると深い黒からダークサファイアの煌めきを放つ。この宝石の様な髪を私は気に入っているが、普段トレーナー君は恥ずかしがって中々触れさせてくれない。

 

「――幸見大福……」

 

 とても幸せそうな表情を浮かべているのは、どうやら『幸見大福』の夢を見ている所為だった。

 

「ふふ、――沢山召し上がれ」

 

 私がそういうとトレーナー君はコクコクとゆっくり頷き、またむにゃむにゃと寝言を言った後寝息を立てるだけの状態に戻った。そのままゆっくりと彼女の頭を撫でながら、あと数日以内に迫る年明けの先に向けて私は思いを馳せる――。

 

"――年が明ければついにダービーへの道。そしてその先には世界が待っている――"

 

 トレーナー君曰く――来年のキングジョージや凱旋門の世界戦線に出てくると予想されるのは、超不良バ場の状況下の中距離G1で勝利をもぎ取るような、道悪が得意なシニア級のウマ娘が複数とのことだった。

 そのため日本のレース場向けメニューの合間に、例のコースを使った練習以外にも道悪対策として、雨上がりの河川敷のドロドロになった部分を走ってみたり色々な事をこなしてきた。

 来年からは成長に合わせ、私が今まで実家にて行ってきたトレーニングを参考にトレーニングメニューを変更していくとのことらしい――どんなトレーニングをするのか非常に楽しみだ。

 

 トレーナー君がもぞもぞと動いて寝返りを打とうとしたので、頭と髪からそっと手を離す――。

 

 しかし、その動きで感づいてしまったのか……寝返りを打ち仰向けになったトレーナー君の長いまつ毛がゆっくりと動き、エメラルド色の双瞳に私の姿が反射して見えた。

 

「――――ルドルフ?」

 

 寝ころんだまま軽く左手で目をこすり、眠そうにトレーナー君は声を発した。

 

「反応が無かったので勝手に上がらせてもらったよ」

「あー……ごめんなさい。疲れて寝ちゃってました……」

「――すぐ寝るかい?」

「うーん……まだちょっと起きてます――」

 

 トレーナー君は起き上がったあと、手櫛で髪を整えてぼーっとした様子で立ち上がりった。そしてキッチンに向かっていった。そして蛇口から水音を響かせた後、寝ぼけた顔でガラスコップから水を飲んだ後、あくびを噛み殺しながらこちらに戻ってきた。

 

「生徒会お疲れ様。あと、タブレットどけてくれてたんだね。……ありがとう」

 

 トレーナー君はまだ眠そうにそう言ってダイニングテーブル上のタブレットを手に取り戻ってくるも、途中ではっと気づいたような表情を浮かべた。

 

「あ! ……ごめん、何か飲みますか? 」

「それならキッチンを借りていいかい? 君に是非と思うものをもってきたんだ」

 

 私はちょんちょんとダイニングテーブルの上の紙袋を右手で指さす。

 

「ええ、いいですよ。キッチンと冷蔵庫の物はすべて使ってくれて大丈夫です。……もしかしてクリスマスプレゼントですか?」

「開けてみるかい? 2種類用意してみたよ」

 

 トレーナー君に促すと『何が入っているかな?』と楽しそうな表情で紙袋を持ち、ラグの上にいる私の方へと戻ってきて横に座って中身を調べ始めた。

 好みが外れてもいいように、紙袋の中には2種類プレゼントが入っており、トレーナー君が最初に取り出したのはサウジアラビアRCのレース後に聞き出しておいたリンゴの好みに因んだものであった。

 

「『御所川原』ジュース! 予約し忘れて今年は諦めてました……! ありがとうルドルフ!」

 

 1L入りのボトルにリボンだけかけたものを3本――すでに売り切られた上に限定販売だったため抑えるのに苦労したが、実家の者を使って方々手を回しやっと卸売業者から譲ってもらったものだった。

 トレーナー君は今の発言から買いそびれていたらしく、手に入ったのがよほど嬉しかったらしく大輪の花が咲いたような、こちらも心の中が華やぐような喜色満面(きしょくまんめん)の笑みを浮かべている。

 

「手に入れるのにかなり苦労したよ。気に入ってくれたようで何よりだ」

「ええ。これはお正月にふたりで開けましょう! ふふふ、嬉しいなぁ。だから以前私のリンゴの好みを聞いてくれてたんですね。――もうひとつは何でしょう?」

 

 そういってジュースをラグの上に3本取り出した後、ニコニコしながら紙袋の中を再び覗き込んだトレーナー君が次に取り出したのは――『彼女の異名に因んだもの』だった。

 

「……! 都内で有名な紅茶店のものですね。流石ルドルフ。プレゼントのセンスもかっこいいです!」

 

 トレーナー君にもう一つ贈ったのは、ミルクティーが好きなのでそれに合いそうな茶葉を2種類と、紅茶ジャムのセットだった。

 上質な紙でできた黒い箱の中には、グリーンのラベルが貼られたアールグレイの紅茶ジャムの瓶を中心に、両サイドに黒い筒状の缶に山吹色のラベルが貼られた茶葉が2種類入っている。記憶が間違ってなければ、トレーナー君が好きな紅茶はウバ茶かアールグレイのはずだ。

 

「そう真っすぐ褒められるとなんだか照れるね。――ではこの紅茶の片方が今回のプレゼントの本命なんだ。淹れてくるから待っててくれるかい?」

「それはとても楽しみですね。ではお言葉に甘えてお願いしますね。ティーポットとカップ&ソーサーは、縦長のガラスキャビネットにセットがありますので、お好きなものを使ってください。ティースプーンや茶こしも同じ棚の箱の中です。ケトルや鍋はシンク下にあります」

「ありがとう。――では少し時間を貰うよ?」

 

 そう伝えた後、私はキッチンを借りて甘い紅茶が好きなトレーナー君の為に、ロイヤルミルクティーを淹れることにした。

 まずガラスキャビネットにあったセットのうち、3段目にあった『白地にジャガイモの花や実、葉があしらわれた』『伝説のウマ娘が創設したというブランド』のティーセットを取り出した。

 

 ティーカップの飲み口の形状は朝顔のように広がったピオニーシェイプ――これはよくある形のティーカップで、味を楽しむならば1段上に飾ってあるマグカップを薄くして下の部分を膨らませたような『ヴィクトリアンシェイプ』が有用だが、私が淹れたいと思っている香りを楽しむための茶葉ならこれが一番いい。

 

 次にシンク下から木製ハンドルの白いホーロー製片手鍋を取り出して軽く洗い、鍋に水を入れて火にかけた。そして沸騰したら1分ほど茶葉を蒸らす――。

 

 その間トレーナー君はリンゴジュースを冷蔵庫に仕舞ったり、寝室とは別の部屋を開けて何かしているようだった――。

 

 茶葉が十分蒸れたあたりで鍋の蓋を開けると紅茶の香りがふわりと広がる。そしてその鍋に牛乳を足して再びコンロの火を点けて温め、縁に泡が少し経ったくらいの沸騰寸前で止めて蓋を閉める。

 

 そして5分ほどしてから温めるために入れておいたカップの湯を捨てて、茶こしで漉してロイヤルミルクティをポットに注ぎ、ポ紅茶缶とポットとティーセットをお盆に乗せて持っていく。

 

 すると先ほどまで私が居たラグの上に小さな折り畳みのテーブルが置いてあった。

 私は紅茶をそこに持って行き、横座りでこちらを興味津々に見つめながらちょこんと座っているトレーナー君の前にサーブした。

 私もトレーナー君の隣に腰を下ろして自分の分を淹れ、ポットと茶葉の入った缶をテーブルの上、そして空になったお盆をラグ上に置いた。

 

「どうぞ。召し上がってくれ」

「ありがとうございます。頂きます!」

 

 口元に弧を浮かべたトレーナー君は火傷しないように、慎重に口を近づけて紅茶を味わい始めた。

 私も冷めないうちに口を付けて飲む。口の中に含むとミルクの優しい甘みが広がり、それに合う爽やかなベルガモットと、華やかな香りが鼻腔に抜けていく――そしてトレーナー君はカップの半分ほど飲んだのちに首を傾げた。

 

「変わった香りですね。ベルガモットの香りからアールグレイというのはわかるのですが……お花?」

「そうなんだ。この茶葉にはある青い花が入っているんだよ」

 

 そういって私は先ほど開封した紅茶缶を開き、中身をトレーナー君に見せた。

 こげ茶色の茶葉に交じり、青い細い花びらがいくつも入っている。

 

「綺麗な茶葉ですね。これが本命ということは、何か特別な理由でもあるんですか?」

「ああ、トレーナー君――学名がCentaurea cyanus(セントーラ・シアナス)でピンとこないかい?」

 

 トレーナー君は瞳を丸くした後、記憶を探るように視線が右上に動き腕を組んで考え始めた。

 

「学名ならラテン語……半人半バ(セントウル)属の浅葱色? 藍色? ――ヤグルマギクですか?」

 


【ヤグルマギク:Centaurea cyanus(セントーラ・シアナス)

 皇帝の花とされ、神話では賢者ケイローンが傷を癒すのに多用したともいわれる。

 古い歴史を持つため悪い意味合いも多いが、基本的には高貴な花。

 花言葉は――『教育』『信頼』『優美で繊細』『優雅で上品』


 

「正解だ。古代エジプトにも関係する歴史の長い花故に様々な由来があるが、いい意味だけで捉えてくれ。賢者ケイローンに因んで『アールグレイ・フレンチブルー』を選んでみた。そしてここ日本において、『浅葱色』は『碧血の故事』に因む色でもあり、『碧血丹心(へきけつたんしん)』こそ君を表すものだと思ったんだ」

 


【碧血丹心】

 この上ない真心を持つ忠義の者を意味する。

 忠誠心が強い者の血は青い玉に変わるという中国の故事より。

 日本でも新選組の羽織の色に選ばれている。


 

「『碧血の故事』――『荘子』ですか?」

「おっと、その反応は想定外だ。――意外なところで君は東アジアの文化に詳しいな」

 

 いくらトレーナー君が妙な所にも物知りな面があるとはいえ、まさかアメリカ育ちの彼女がアジアの故事に対して突っ込んでくるという想定外の返しに私は驚いた。

 

「日本の科学者、湯山秀樹先生が学会でお話しする程好きだったと聞いたので」

「なるほど、するとその科学者の話を聞いて『荘子』を?」

「ええ。何となく興味がわきまして――話を戻しますが、私とルドルフはお互い言いたいことをはっきり言うタイプで衝突もあるけど、そうだとしてもこれからも頑張って支えますよ。Flower imperator est scriptor(皇帝の花)をその意味合いで私に贈った以上、来年もビシバシ行くので覚悟しててくださいね?」

 

 そういたずらっぽく笑っているトレーナー君の眼が一瞬キランと輝いた気がした――この気配はあの地獄の課題が出された時と同じく、何かスパルタメニューを考えているときの雰囲気だ!

 嫌な予感しかしないので、一応加減をしてくれる様布石を打っておくことにした。

 

「あはは……お手柔らかに頼むよ? ――ところで先刻から君が背中に隠しているのはなんだい?」

 

 ほぼ丸見えの様子だが、トレーナー君は背中側に何か2つ箱を隠していた。トレーナー君はニコリと目元と口元に笑みを浮かべると、『ちょっと待ってね』と言ってカップの紅茶を飲み干してから、私に2つの箱を差し出した。

 

「小っちゃい方がプレゼントです。大きい方は、まあ見てからのお楽しみで」

「ほう? では小さい方から開けてみようか?」

「ふふふ、どうぞ――」

 

 トレーナー君の目の前で小さな箱のラッピングを開けると、中には銀色で細工が美しい万年筆が入っていた――。キャップを取ってみると首軸は漆黒、ペン先は銀ベースに金のライン。キャップと本体は銀色で表面には上品なツタ植物の様な装飾が細工されている。

 そしてクリップの部分には、以前正式契約を結ぶ際、トレーナー君が使っていた万年筆と同じメーカー名が彫られていた――。

 

「――生徒会いつもお疲れ様です。これから海外に打って出たり、成人に近づくにつれ人前でサインをする事も多くなると思いますので僭越ながら贈らせていただきました。本来は銀細工メーカーですが、純度の高いプラチナと金で作ってもらいました。錆や劣化の心配は殆どないと思います」

「英国の老舗金細工店への特注とはまた恐れ入るよ。確かルイビルでの正式契約でも使っていた物と同じでは?」

「ええ。デザインは少し変えましたが材質やメーカーは同じですね。けどよく覚えてましたね?」

「綺麗なデザインのペンだったから気になってね。君とお揃いのこの万年筆を大切にさせてもらうよ」

 

 そう言葉をかけると『どうかな? どうかな?』という表情で私の反応を覗き込んでいたトレーナー君の表情はほっとしたものに変わった。

 

「センスが渋すぎるかと心配したけれど、ルドルフが喜んでくれてよかった」

 

 サイン文化のアメリカでペンというものは日本の印鑑に等しい意味合いを持つ。

 私の立場を考えて依頼してくれたのだろう手中にあるこの万年筆は、私の行く先をいつも考えてくれるトレーナー君らしいプレゼントだった――。

 

 人前への露出も増え、良い物を買おうと思っていた矢先の事でこのプレゼントは素直に嬉しい。

 この万年筆は気持ちを引き締める上で新年から使おうと考えつつ、それをいったん箱に仕舞って――次は大きい箱を開けに掛かった。

 

 ラッピングを解いてそれを開けると……。

 

 

 中には勝負服用の靴が入っていた――!

 

「シンボリルドルフ――Japan Racing Trackモデルです。勝負服の靴は素材だけしか弄れないので設計が大変ですね。やっと完成したので急いで持ってきてもらったんです」

「前はデザインだけの仮設計だったがこれが私の靴か――!」

 

 思わず手に取り顔より少し上に掲げていろんな角度から眺めたり、靴底を押してみたりして確かめている。

 靴の裏をみると、ソールのうち地面につかない部分に――金色の文字が横向きに刻印されている。その内容は『Astra inclinant,(星は私たちの気を惹くが、) sed non obligant(私たちを束縛することはない)』、つまり『未来は星の運命に縛られ定まるものではなく、己の自由意志で掴み取れる』という意味合いラテン語であった――。

 

 以前どんなものが仕上がるのか待ちきれずに、いままで出ていたトレーナー君の出しているシューズブランドのダートモデルを見たのだが、『ディーネシリーズ』には『Vincit qui se vincit.』(己を制する者こそ他を制する。)、『一般向け』には『Fortes fortuna adiuvat.』(幸福の女神は勇気ある者の味方也。)など御守のようにラテン語のメッセージが、靴底の土の当たらない部分に金の文字で刻まれており、それがトレーナー君の作るブランドの特徴であった。

 

 そしてついに私専用のモデルに向けて、私だけにメッセージが彫られていることに大変感動を覚えた――。

 

"――己の自由意志で掴めか……いいメッセージだ――"

 

「これが私のモデルのブランドコンセプトになるんだね? 文字の内容も気に入ったよ」

「それは何よりです。『Non ducor, duco.』(我は導かれず、我こそは導くもの也。)と迷いましたが、こちらの方がトゥインクルシリーズを駆け抜けるにはぴったりかなと。――この靴に詰め込んだのは私の知り得る全てを組み込んだ米国の最先端テクノロジーです。これは良バ場モデルなので、あと2つ程バ場に合わせたモデルを履きならして本番に勝負しにいきましょう。――他アスコット、凱旋門モデルも設計は終わったのであと少しで仕上がる所です。こちらは場合によって脚を守るためにインソールとも組み合わせます」

「楽しみだ。年明けのトレーニングで、試しに勝負服とこれを履いて走るプランに変更しても構わないかい?」

「ふふ、待ちきれないって感じですね。わかりました。新年初のトレーニングは試走もかねて野芝のコースでタイム計測といきましょう。……あ、紅茶のお代わりもらってもいいですか?」

「どうぞ。余程気に入ったみたいだね?」

 

 トレーナー君は自分の手で淹れようとしたが、私がポットを取って淹れようとすると『ありがとうございます』といってそっとカップを差し出してきた。

 

「だって普段逆なことが多いから新鮮で。たまにはルドルフに淹れてもらうのもいいですね」

「そうだね。こうやって喜んでもらえるというのが私にも新鮮だよ――あ! 髪が入ってしまうよ!」

 

 トレーナー君の分を注ぎ終えた後、自分の分を注いでいたポットを置いて、いつも違い下ろされた青く光る彼女の髪の左房が、ティーカップに掛かってしまいそうになったのでそれを耳にかけてどかしてやる。

 

「ありがとうルドルフ。そうだ、忙しくてまだちゃんと言えてなかったね――」

 

 目の前のトレーナー君がソーサー持っていない方の手でカップをこちらに向けて掲げ、その意図を察した私も自分のカップをそれに合わせて掲げ――。

 

You‘re the brightest(貴女は私にとって世界で最も)star in my world.(輝く星のような方です。) Merry Christmas, Before Anyone Else.(一番大切な貴女へ、メリークリスマス)

 

 照れているのか若干はにかみながら、それを誤魔化すように英語で祝いの言葉をトレーナー君は述べた。

 

"――おっと、随分凝った言葉をくれたな。ならば返しはこうか……?――"

 

A season for giving(クリスマスという)and sharing is what Christmas is all about.(時期は分かち合いの季節というね.)―― You shared your life with me all throughout the year. ( この1年間を私と分かち合ってくれて、)I thank you for that. (ありがとうトレーナー君。)Merry Christmas, love.(メリークリスマス、大切な君へ)

 

 素敵なメッセージを発した君に負けぬよう、こちらもボキャブラリーからいいフレーズを探して組み合わせて返し、微笑みあってメッセージの贈りあい紅茶をお互いに飲み干す――。

 

「さあ、サンタさんが来なくなってしまうかもしれないよ? 片づけてそろそろ寝ようか? 」

「それもそうですねー。――でもここの部屋のガラスは全て防弾ガラスだし、ベランダには特殊センサーを張り巡らせていますし……来てもどうやって入ってくるんでしょうね?」

「え? トレーナー君。私の記憶が確かだと、ここはそんなに厳重なセキュリティだった覚えはないのだが――?」

 

 トレーナー寮のガラスがそんなガラスだと聞いていないし、学園側のトレーナー寮のセキュリティは入り口のセキュリティと警備員以外ないはずだが? と思い、ティーセットを片付けに立とうとした私は思わず振り返って聞いてしまった――。

 

「この国の治安はいいですが、念を入れた暗殺対策でということでお養父様から改築指示がありまして……。あ、理事長と寮の管理人さんには許可とってますよ? それとルドルフがお泊りするからにはベッドを『エアウェーブ』に発注しておいたので、寝心地ばっちりなはずです!」

 

 トレーナー君はそう力説しながら目をキラキラとさせ『ドヤ!』とでも言いたげな表情を浮かべている。

 

"――確かにすごいが……いや、なんというか、君のずれてる部分が誰の由来かよくわかったよ……――"

 

 トレーナー君がこんな風にずれてしまった原因である例の人物が、養女であるトレーナー君の為にその内トレーナー寮を要塞化するんじゃないか? ふとそんなことが頭によぎったが、まあセキュリティが良くなるのは学園としては歓迎であるため良しとしようと私は強引にそう結論付けた。

 

「何と言うか徹底してるね? 折角だからベッドをくっつけて、寝る前におしゃべりというのをやってみてもいいかい? 生徒会の仕事を挟まず、同じ年頃でお泊り会というのは新鮮だから」

「いいですよー私もそう言うの好きですから! レッツパジャマパーティーですね! あ、お片付けは私やります。ルドルフは歯磨きに先にどうぞ」

「わかった。では先に行って待ってるよ」

 

 トレーナー君は台所で食器類を洗いに向かい、洗面台で歯を磨くために席を立ち廊下へつながるドアを開いた――。

 

 さて年末のイベントの運営や年始の挨拶を終えれば、次は『皐月賞』の前哨戦の『弥生賞』に向けての調整――そのレースは国内で同期のライバルとなり得る者たちとの初顔合わせになる。

 

"――しっかり休んで英気を養い、それに備えねばな――"

 

 予め昼間配置しておいた歯磨きセットで歯を磨き終えて口をすすぎ、入れ替わりにやってきたトレーナー君が歯を磨き終わるのを待つために、私は寝室へ向かった――。



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第2章ー海外遠征ークラシック期
『松の内』1年目の新年


ルドルフ視点です。


――20XX年+1 元旦 午前7時半――

――府中市 某神社――

 

 今朝は年末から2人でコツコツと作り貯めたお節を朝食として食べ、少しゆっくりしてからトレーナー君と初詣に向かう事に。

 制服と学園指定のコートに着替え、キャメル色のトレンチコートにいつもの髪型とスーツ姿のトレーナー君と、早朝の冷たい風を受けながら共に走り抜け――色とりどりの屋台が立ち並んだ府中市内の神社に到着。

 

 北向きに建てられたこの神社の鳥居の内側を覗き込むと、ずらりと並ぶ色とりどりの屋台とシンプルな提灯の飾りが奥まで続き、その参道には着物姿で行きかう者たちの往来でひしめき合っている。

 そして色彩鮮やかな新年の光景を目の当たりにした私の隣にいたトレーナー君は、大粒のエメラルドのような瞳を感動で潤ませ大きく見開き、息を飲むような様子を見せた後……。

 

 

 彼女は感嘆の色を含む白く長い息を吐いた――。

 

「――書籍でしか知りませんでした。――三箇日の境内はこんなにも賑やかで、色鮮やかで綺麗なんて……!」

 

 心を奪われたかのように目を細めて慈しむ様に、その景色に心を動かされている彼女の姿を見て、苦手な早起きをしてこの景色を見せるために連れてきて良かったなと私は思った。

 

「――気に入ったかい?」

「はい!…… って! ボーっとしてすいません。手水舎で手を洗ってから参拝列に並びましょう」

 

 感情の高ぶりを見せた事を恥じるようにトレーナー君はふいっと顔を下に向けた。

 

「ふふ、生徒会や新年のあいさつは午後から向かう予定だから、慌てなくても大丈夫だよ」

 

 込み合う境内で迷わないよう、トレーナー君に自身の左手を差し出すと、彼女は『ありがとうございます』といって右手を少し恥ずかしそうに差し出してきたのでそれを取った。

 鳥居をくぐり露店を気にしているトレーナー君の手を引きながら手水舎に到着し、柄杓で手を洗ったあと参拝列の最後尾を目指し進む。

 

 その途中――まるで優雅に池を泳ぐ錦鯉のように色鮮やかな振袖を纏う、私より年上と思われるウマ娘の集団とすれ違った。

 私とトレーナー君は首を動かしながらその雅な一行を眺めた後、まっすぐ前を向いたタイミングでトレーナー君から声がかかった。

 

「流石に新年になると民族衣装が増えますね。――ところで、先程から境内にいる女性の袖の長さが違うのはなぜですか? 独身か既婚者かなどの立場によって何だか区切られているように見えます」

 

 どうやらトレーナー君は境内ですれ違う着物の女性の特徴の差に対し疑問に思っていたようだ。マイナーな日本文化に詳しいかと思えば、意外な所で疎い面がある彼女のために私はきちんと説明する事にした。

 

「目の付け所が鋭いね? そうだよ。立場によってすべて違う。未婚の女性のみが着用できる着物を振袖という。振袖には3段階ほどの袖の長さがあり、最も長いのは挙式に用いる大振袖、先程すれ違ったのはそれより少し短い未婚女子の正装の中振袖。そして袴を着用するならそれより短い小振袖になる」

「――では結婚した方の袖はもっと短いのですか?」

「その通り。小振袖よりも袖の短い着物がメインで振袖は着られなくなる。だが独身でも一部袖が短い着物でも着られる物もあるにはある」

「なるほどー。詳しい資料を見たことが無かったので興味深いです。本日の風景はまるで日本庭園の池や金魚鉢みたいに色鮮やかで美しいですね」

 

 トレーナー君は様々な色彩に満ちた境内の景色に酔ったかのように、うっとりとした表情で微笑みを湛えている。

 

"――来年は一緒に振袖を着て、参拝するのもいいかもしれないな――"

 

 それはトレーナー君にとっていい思い出になるかもしれない。そして顔が整った彼女ならきっと何を着ても似合うはず――。

 どんな色が似合うだろうか? メイクは? 帯はと想像上で着せ替えを楽しんでいる内に、参拝列の先頭まで15人ほど後ろの最後尾に到達し、私が右に、トレーナー君が左に並んだ――。

 

そしてトレーナー君に参拝方法を説明しているうちに順番が巡ってきた、私と彼女は先頭に立ち2礼2拍手1礼――。

 

"――今年もよろしくお願いします。皆が平穏無事に過ごせますように見守っていてください――"

 

 ちらりと横を見るとトレーナー君もきちんとこなしているようだった。そして後続に順番を譲るために右にずれて参拝列から離れた――。

 

 まだ生徒会のあいさつ回りまでは時間が余っている。

 そのため甘酒を貰ってから露店を巡り、それから学園に向かおうと提案するとトレーナー君は嬉しそうにそれに乗ってきた。

 しかしその前にお手洗いに行きたいらしく、拝殿の外にある神楽殿の前で待ち合わせということで一旦別行動となった。

 

  ◆  ◇  ◇

 

 神楽殿の前は通路からは少し離れており、込み合い具合が軽減されていた。

 私はその隅の邪魔にならない所でスマートフォンを開いてウマッターを起動――新年のあいさつを書き込んで境内の風景を添えてアップし、その後生徒会の目安箱と、ウマッターにある生徒会の共有アカウントアクセス。

 新着メッセージが入っていないのを確認し、共有アカウントにも挨拶を書き込んだ後、ネットニュースの見出しを見ていると――。

 

「あーやっぱりいたいた! あけましておめでとうルドルフ!」

 

 聞き覚えのある声が降って来て顔を上げると、込み合う境内を背景にクラシック3冠ウマ娘――ミスターシービーが初日の出のような温かい雰囲気とともに登場した。

 

「あけましておめでとうシービー。君のトレーナーは一緒じゃないのかい?」

「15分後に表で待ち合わせしてるんだ。退屈だったしウマッターのルドルフの投稿をみてきちゃった。そっちこそ可愛らしいお嬢様(ミス・セレーネ)は? ルドルフが外泊でトレーナー寮に泊まりだったって聞いたから、てっきり一緒にいると思ったんだけど?」

「彼女は今席を外していてね、戻ってくるのを待っている所だ――ところで、何故泊まり先の事を君が知っているんだい?」

 

 泊まり先は連絡用に副会長の2人くらいにしか知らせていない。なのに何故シービーが知っているのだろうか? 疑問に思った私は彼女に尋ねてみることにした。

 

「おしゃまな娘達が噂してたよ。ルドルフがトレーナーさんとよくスーパーに一緒にいて寮に帰ってくのを見たって」

 

 どうやら発信源は私の行動だったようだ。きっと年末年始の食糧の買い出しの様子を誰かが見ていたのだろう。

 

「別に知られて困ることではないが、年頃の子達の情報の早さには驚くものがあるね」

「確かに。私も時々ナイショにしてたことがバレててびっくりするよ! で、ルドルフの年明けの始動は弥生賞から?」 

「ああ、弥生賞を走って勝って、皐月もダービーも勝つ。そして絶対に海外に行く」

「いいね! そして国内クラシックの三冠目を取って、アタシとジャパンカップで勝負!」

 

 そういって右手をグーにして私の前に差し出したシービーに同じく、右手の拳を軽くぶつけ――。

 

「ああ。必ず成し遂げて私が……いや、我々が勝つさ」

「お? おお?! そういう言葉が来るとは思ってなかった! これは思ってた以上にミス・セレーネと気が合うみたいだね? それは上々――こっちとしてもそのほうが楽しいレースが出来そうだし! ――まあ勝つのはアタシらだけど!」

 

 大胆不敵な笑みを浮かべるシービーに同じような表情を浮かべて返す。

 シービーは夏に脚を痛めたのを皮切りに、激しい体調不良に見舞われつつも自身のトレーナーと共に乗り切り、菊花賞を常識破りの戦法で勝ち『神が讃えしウマ娘』が打ち立てた記録を超えた。国内で己の超えるべき相手となった彼女との勝負はきっと楽しいものになるだろう――。

 

 そして静かな闘志の飛ばし合いをして戯れていたその数秒もしない内に――。

 

『ルドルフーごめん! お待たせしましたー!』

 

 白い吐息を切らせ、頬をリンゴのように軽く赤く染めたトレーナー君が、片手に木製の札の様なものを持って右の視界からこちらに走ってきた。

 そしてトレーナー君は『ん?』とした表情をした後私の傍にいるシービーの存在に気付いた。

 

「あ! シービーも居たんですね。あけましておめでとうございます!」

「あけましておめでとうミス・セレーネ。恰好から察するに年始からお仕事かい?」

「まだ新人なので顔位は出しておこかなと」

「なーるほど、それはある意味大変だ。――おっと、アタシの方はそろそろトレーナーを拾いに行かなきゃ。今年2人がどう私の記録を追いかけるか楽しみにしてるよ。またね!」

 

 シービーは軽い足取りで去っていき、残された私の前にトレーナー君がマジックと、絵マを差し出した――絵マには巫女服姿で舞う浮世絵風のウマ娘が描かれている。

 

「これを忘れてました! 折角ですから絵マに願掛けをしていきませんか?」

「ふふ、そうだね。今年は我々にとって重要な年だからこそ神頼みも大切だろう」

 

 私は差し出された絵マを受け取った。

 そして正月のお祭り気分を境内で楽しんでから学園に向かうことにした――。 

 

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20XX年+1 元旦午後19時45分――

――トレーナ寮の彼女の部屋――

 

 夕食には冷凍庫に買い置きしておいたというカニしゃぶ鍋が出てきたりと、金銭感覚がそろそろ麻痺しそうな気がしなくもないが大変満足のいく食事内容だった。

 そして入浴してナイトウェアに着替えた私はコーナーソファー付きラグに背をもたれ、生徒会の目安箱のメールをチェックしてみるも、特に新着メッセージはなかったのでその後はぼーっとしつつCMの流れる大画面の薄型テレビを眺めていた――。

 

 私の左側にいる髪を下ろした姿のトレーナー君はというと……。

 シルク生地のナイトウェアワンピース姿に膝には薄手の茶色いチェック柄の膝掛けをかけ、先程から羽ペン型タッチペンを片手にタブレットを操作し財閥からの依頼をこなしていた。

 

 午後は三箇日という事もあり、皆にもゆっくりして貰おうと考えた私は、周りの者が気にかけて残ってしまわないよう、今しなければならない事だけを早々に終わらせてさっさと上がった。

 そして同様に仕事を終わらせていたトレーナー君に連絡して合流し、年始から初売りをしている近所のショッピングモールに連れて行ったり充実した1日だった――。

 

 年始の業務内容で特に変わったことがあったかというと、あるにはあった……。

 それは生徒会宛に届いていた年賀状の中に『トレーナー君の養父』と、『彼女の警護を担当している責任者』からの2通が混じっていたことだった。

 

 トレーナー君が来日する前から生徒会と理事側の了承の下、学園内にスタッフに交じって密かに護衛となる者が配置されている――。

 

 編成は学園内に数名常駐、他のメンバーは外出時の風景の中に溶け込んでおり、半人半バ(セントウル)、ウマ娘などで構成された財閥の私兵だという。

 彼女たちは学園への迷惑料として生徒達の事も見守ってくれており、お陰でストーカー被害や、空撮による生徒の盗撮といった諸問題が一気に激減。最近は警備とも連携が取れておりセキュリティが大幅に強化された。

 

 そしてその警護責任者は今年から担当が変わるらしく、新任として派遣されてくるのは昨年夏に行われていた会議に来ていたウマ娘であった。

 ペリドットの様な薄緑の瞳に、赤い煌めきをもつ黒の短い髪――そしてやや長めの細い耳が印象的だったその護衛から送られてきた年賀状は、毛筆かつ直筆と思われる達筆な日本語で書き綴られていた――このウマ娘は日本語が話せるとのことらしい。今年からやり取りが気楽になりそうだ。

 

"――しかし、大富豪の娘ともなれば当然と言えば当然なのかもしれないが……いささか厳重過ぎるような気も……――"

 

 学園にはトレーナー君の他にも欧州の貴族身分の者や、資本家の娘などがおり、護衛が付いていることはさして珍しい事ではないのだが、その中でも群を抜いて厳重な警護がなされている。

 

 そんなことを私が考え始めたとき、左隣のトレーナー君がうーんと唸り始めた――。

 

「眉間にシワを寄せてどうしたんだい?」

「うーん……最近日本にきた私の叔父さまがいるでしょ? そこからのヘルプで難題を攻略中なんですが、上手く知識を組み合わせられなくて頭が痛い所なんですよ」

 

 トレーナー君の養父は3つ子であり、末っ子にあたる彼女の叔父は天才的な外科医として有名で、再生医療を得意とし、新聞でも大きく取り上げられるような人物だ。

 以前論文をいくつか拝見したのだが、共同研究者の中にトレーナー君の名前が記載されていることがあった。その事について不思議に思っていたのだが、彼女の今の発言によって記載されていた理由が明確になった。

 

「確か凄腕の名医と噂の方だね? そこからの難題とはいったいどんな内容なんだい?」

 

 興味本位から尋ねてみると、『まあ話せる内容ではあるか……』といって、トレーナー君はタブレットをポンポンとタッチペンで操作して――。

 

「うーん……センシティブ。ルドルフは死体とか――外傷無しの氷漬け的なものは苦手ですか?」

「いや、大丈夫だよ」

「なら問題ないね。どうぞ――」

 

 画面には氷漬けにされた人間の遺体が映し出されていた――皮膚はミイラ化しており褐色を帯びて顔色が悪いが、頭髪などはしっかり残っている。

 

「画像はウマ娘と出会う前の年代の地層から発掘された人間の氷漬けです。紀元前の彼らと現在の人間やウマ娘――それぞれの遺伝子を比較し新しい再生治療方法を見つけたい。その為の研究が行き詰ったので私に考えてくれって事でした」

「なるほど。ウマ娘と出会う前の人間達の遺伝子型を調べれば新しい発見があるという事かい?」

 

 そう聞き返すとトレーナー君はタブレットの画像をポンポンとタッチして仕事用の画面に切り替えて、作業を再開しながら私にその続きを答えてくれた。

 

「そういうことです。……上手くいけば今治せない傷病がいつか治せる日が来るかもしれません。――あと……」

「あと?」

 

 一瞬表情に力が込もり、険しい表情を浮かべたトレーナー君はゆっくりと瞬きをした後、表情を元に戻しながら言葉を続けた――。

 

「あってほしくないですが……万一の場合ルドルフの選手生命を守る事にも繋がりますし、保険としてもこの研究は急ぎたいところです」

「気遣いありがとう。その発明は私にだけでなく、皆の役に立つだろうから是非頑張ってくれ」

 

"――トレーナー君の財閥の仕事は頭脳労働と聞いてはいたが……なるほどな――"

 

 『話せる内容ではあるか』という先ほどのボヤキの部分。そして好きなことをしてフラフラしていても、財閥内で高い地位が約束されている。

 それらの情報から考慮するに、警備が厳重なのもトレーナー君は私の思っている以上に『金の卵を産む鶏』だからかもしれない。

 彼女の存在そのものに価値があるなら、これほどまでに厳重な警備を敷いているのも納得できる内容であった。

 しかしそれと同時にこんな話を私にしてもいいのか? という疑問がわいたのと心配なのでトレーナー君に問う事にした。

 

「ところで、そんな重要そうな話を私にして大丈夫なのかい?」

「まずルドルフは私を危険にさらすようなことをしないと確信しています。そして明日にはこの研究の途中経過を科学雑誌『Physice』(ピュシス)に載せるので問題ないです。それに私はアシスタント枠でしかないし、今はトレセンのトレーナーですから中核人物として狙われることは無いでしょう――今の所周囲からも親戚や、養父の七光りくらいにしか思われてないでしょうし。後ろ盾になってくれている米国の事も考えてもその利益に反しない限り、私の身の安全は確実に保証されているはずです」

 

 トレーナー君は私に向かってニコリと笑みを浮かべた。

 そんなやり取りをして居る内に20時になってテレビのCMが止み、年始の特番が始まった。

 

『さて、今夜の―――――は、豪華絢爛! 世界セレブ特集です』

 

「年始は番組内容も派手なんですね」

 

 トレーナー君はタブレットから目を離さずに操作しながら私に言葉をかけてきた。

 本人曰く、トレーナー君は並列思考が得意で物事を同時処理して考えるのは容易いとのこと。故に仕事をしながら集中力を切らさず、かつ会話を楽しむことが出来るらしい。

 

「まあ年の始まりは景気の良い内容が多いからね――ふむ、セレブ特集か。君の実家も富豪中の富豪だし、もしかしたら出るんじゃないか?」

 

 そう問うとトレーナー君は顔を上げてテレビ画面の方を向いたまま首を傾げた後、またタブレットに視線を落としながら会話を続ける――。

 

「無いと思います。基本的にお養父さまと叔父さま達は、各国で経営しているホテルでの生活を主とし、生活拠点を積極的に持たないんですよ。広大な屋敷を持つより使用人の生活と福利厚生を重視し、警備の厳重な物置や銀行、そして貸金庫さえあればホテル暮らしの方が楽ですから。――富をひとり占めするよりそのほうが良いですしね」

「随分と効率的な暮らしなんだね――それなら出てこないか」

 

 私は会話をいったん打ち切り、テレビに視線を戻して番組を見ることに集中した。

 最初は中東の富豪の話で自宅に猛獣を放し飼いにしたり、豪邸を見て回るありきたりな話がCMを挟みつつ30分ほど続いた。内容が無さ過ぎるのでそろそろチャンネルを変えようとしたその時だった――。

 

『――CMの後! 娘の誕生日に××××をプレゼントとして贈った、ある有名財閥のトンデモエピソードが!!』

 

「「……」」

 

 横に座るトレーナー君の動きがピタリと止まり、沈黙のなかCMがだけが数秒間ほど空間を支配しながら流れていった。

 そしてトレーナー君の顔色がまるで時を取り戻したかのように、真っ青な色へとゆっくりと染まり、そっと彼女はペンタブとタブレットを左側に置いた――。

 

「ごめんルドルフ、チャンネル変えよう!!」

 

 まるでゲートが得意なシュンメの如く素早く動き、私との間に置いてあるリモコンをもぎ取ろうとした! 

 けれど続きが見たかった私はそれより早く左手でリモコンを奪い、右手に持ち替え高く掲げた!

 

「ちょっと!! ルドルフそれを返してください!」

「私が見たいから却下だ」

「家主の私に主導権は無いのですかー!」

「ないな。それにテレビを見ていたのは私だよ?」

「そんなぁ!」

 

 切羽詰まったトレーナー君は何とか続きを見られまいと、一生懸命にリモコンに手を伸ばしてきた。

 が、そう出てくるのは予想済みだったので、リモコンをラグの端に片手で滑らせ、そのままトレーナー君をこちら向きに両腕で抱きしめて捕まえる。

 若干力が足りず、私の腕の中で『こら!! 離しなさい!』と脱出を計ろうと、もがいているトレーナー君に『私がこれを見終わったらね?』と返してそのまま完封。

 そして番組の続きが始まるのを暴れるトレーナー君とじゃれ合い戯れながら待っていた。

 

 続きが始まると観念したトレーナー君は『生き恥だ……』と小さな声を漏らして大人しくなった。

 

 放送された内容は彼女が幼いころ、ふと『リゾート地って良いね』と言葉を零したばかりに、他の富豪が中途半端に作って放棄していたカリブのリゾート地を養父が買い取り完成させ、彼女の名前をつけてリニューアルオープン。そして誕生日にプレゼントしたというものだった。

 しかも毎年誕生日になると、トレーナー君本人の居るいないに限らず花火大会が開かれ、今では世界有数のリゾート地としてその名を連ねているという……特大級の親バカエピソードだった。

 

「……ああ、恥ずかしくて明日職場に行けない。こんなの公開処刑ですよ」

 

 世界の終末でも見てしまったかのような表情を浮かべた後、トレーナー君は顔を両手で覆いながら私の腕の中でそう呟きしょぼくれていた――。

 

"――これはやられる側としては恥ずかしい限りだな……――"

 

「知られたくない気持ちもわからなくもないね。出勤についてはまあ、その……頑張りたまえ」

 

 そうやってぽんぽんと励ますように頭を撫でた後に、抵抗する気を無くしたトレーナー君を離した。

 トレーナー君は左横の元の位置に座り直した後、手櫛で乱れた髪を整えてはじめ――。

 

「お誕生日を祝ってくれるのは嬉しいけど、毎回あんな事までされたら流石に恥ずかしいです。何れ知られる可能性はあるにしても、羞恥心で蒸発しそうです」

 

 髪を整え終わった後、体育座りのように膝を立ててそこに顔を埋めるトレーナー君。そんな彼女の耳の部分はその心情を表すかのように真っ赤に染まっていた――。

 

 人間や半人半バ(セントウル)の耳はウマ耳のように動かないので感情は殆ど読めないが、このように恥ずかしい時だけ色が変わるのでウマ娘の私からすれば大変興味深い様子であった。そんなことをふと思いつつ、私は以前より気になっていた誕生日について触れてみることにした。

 

 それはトレーナー君の出自が孤児という事もあって大変聞きづらい内容であったが、今の会話から察するに特に気にしていないようだ。いろいろなものを貰ってばかりだし、何かささやかながら返したいと思う気持ちから私は触れにくかったその話題を切り出した――。

 

「ところで、君の誕生日は今月の5日なんだね?」

 

 そう声をかけるとトレーナー君はゆっくりと顔を上げた後、右手を自身の顎に手を当てて何か考え込んむような仕草を数秒した後に私の方を向いた――。

 

「そういえばまだ教えてませんでしたね。正確には『私が見つかった日』ですが、そうなります」

「なるほど――いつも貰ってばかりだから、私からも君に何かお祝いをしてもいいかい?」

 

 そう尋ねるとトレーナー君は眉尻を下げつつも照れたような表情で笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、ルドルフは学生さんなんだから、あんまり気負って無理しないでね?」

「わかった。君を心配させるようなことはしない。当日の夜にケーキとプレゼントを用意して遊びに来るから楽しみにしていてくれ。アレルギーや好き嫌いはあるかい?」

「どちらも特にないのですが、強いて言うなら苦味や酸味が苦手です。なのでフルーツは酸味が少なくて甘いのが好きですね」

「なるほど――今ので大体わかったよ。当日を楽しみにしててくれ」

「ふふ、――はーい」

 

 我々は顔を見合わせて微笑み合った。

 

 この緩く穏やかな日々も日付を跨げばあと2日。

 自然と我儘が言えて、それに対してトレーナー君の表情豊かな反応があって、素の気持ちで話せるこの時間が何よりも癒される。

 そしてインスタントまみれの生活をさせないよう、きちんと食事をとらせることには成功したが、そんな目的外の方で寧ろ楽しんでいる自分がいることに気付いた。

 私は充実感に浸りつつもそんな自分自身を鼻で笑った――。

 

「どうしたんですかルドルフ? 何か凄くニコニコしてますけど……?」

「いや、君の健康管理が心配で来たはずなのに、私の方が楽しんでしまっているなと思ってね」

 

 正直に告げるとトレーナー君はニコリと笑った。

 

「いいじゃないですか。私に自堕落生活をさせないという目標は達成されているわけですし」

「それもそうだね。――所で仕事は終わりそうかい?」

「脳が追い付かないから寝て脳の情報整理し、また昼間トライします。なので今日は終わりです! 寝る前にホットミルクを淹れてきますが、ルドルフは要りますか?」

「私の分も頼むよ。お疲れ様トレーナー君」

「ありがとうございます。では、ちょっと待っててください」

 

 そういってトレーナー君はキッチンの方に軽い足取りで向かっていった。

 

"――とはいったものの、何を贈ろうか……――"

 

 食べ物以外の物欲が殆どないトレーナー君に物を贈るということは難題であった。資金力に物を言わせたものはきっと見飽きているだろう。

 キッチンから響いてくる生活音をBGMに私はこの難解な問題にとりかかった。

 

 翌朝から数えてタイムリミットは3日後。殆ど時間が無いためオーダーメイドは無理。それでいて関心を引くプレゼントともなると何が最適だろうか……。

 私は腕を組みながら思考回路をフル回転させてその答えを探しはじめる。

 

"――紅茶はすでに贈ったし、ティーセットも揃っていた。となると……ん? まてよ、そういえば――"

 

 記憶に引っかかったのは午後に生徒会と仕事が終わってから、向かったショッピングモールで見かけた彼女の様子だった。

 

 新年ネタのダジャレTシャツ福袋買い込んだ後、トレーナー君の希望で訪れた雑貨店で我々はある品物を見かけた。そしてその品物のデモンストレーションを見ていたトレーナー君が、境内を見ていた時と同じ感動した表情を浮かべていたのを思い出した。

 

 トレーナー君が感動した表情で見入っていたのは、黄道12星座の彫刻が施された円形の木製台座の上に、直径6センチくらいの無色透明なガラス玉が乗っているオルゴールだった。

 

 そのガラス玉の内部にはレーザー彫りされた横向きの銀河が立体的に描かれており、暗所で起動すると台座内部のLEDが点灯――そして、ゆっくりと回りながらオルゴールの音を響かせると共に、ガラス玉の真上に三日月を映し、その周囲を巡るよう星空を模した光で満たす。簡易プラネタリウムとオルゴールを組み合わせたような神秘的な作品だった。

 

 

"――手が込んでいる割に値段はさほど高いものでもなかったはず――"

 

 そう思った私はポケットに入れていたスマホを取り出し、検索エンジン『Goggles』を起動。そして商品名はすぐにキーワード検索から特定できた。

 どうやら海外の有名オルゴールメーカーの品らしく、念のために見た『Amazones.com』のレビューも悪くない。

 

 

"――学生が手を出せる品物で、上品な贈り物になるだろう。よし、あのオルゴールにしよう――"

 

 その品物のページをブックマークしている内に、トレーナー君がマグカップを両手に携えてキッチンから帰ってくる気配が近づいてきた――。

 

 

   ◇  ◇  ◆

――おまけの後日談――

 

 翌日。トレーナー君は生徒たちからあの番組の内容で絡まれて真っ赤になったり、件の年末に発刊されたゴルシちゃん新聞の号外の内容を読んで卒倒してひっくりかえったり、いろんな意味で忙しい1日を過ごしていた。

 

 そしてその数日以内に迎えたトレーナー君の誕生日。

 お互いの共通の好物であるリンゴを甘く煮て、カスタードたっぷり使用したフルーツタルトを手作りし、例のオルゴールを片手にささやかな誕生日会を開く――。

 

 その予定だったのだが……。

 

 誕生日が全国放送されたことと、トレーナー君自身の日頃の行いが良く人望が厚い結果――タイキシャトルやハヤヒデ達など、トレーナー君を慕う生徒が日頃彼女が行っている善行のお礼を兼ね、私の方へ誕生日パーティーをしたいという打診が持ち掛けられた。

 そのため急遽学園の方で空いている場所を押さえてまとめて行う事とし、当日のお祝いは盛大なものになった――。

 

 パーティーでは考案した本人すらルールは不明という『チケゾーゲーム』に参加したり、カーレースゲームを楽しんだり大変賑やかなひと時を過ごす事が出来た。

 そしてそれと同時に我が学園が、ずっとウマ娘達の傍で育ってきたトレーナー君にとって、新しく帰る場所になりきちんと機能している事を目の当たりにして安心することができた。

 

 

 

 トレーナー君をルイビル校から迎えて連れて来たのが約1年前。

 ――あと3か月と少しでいよいよクラシック戦線が始まる。



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『無敗対決』弥生賞 GⅡ

84年『GⅢ弥生賞』の史実をモデルにした話です。
中山の建物は描写が難しいと判断したため18年以降モデル。
悩みましたがグレードはGⅡでいきます。

【出走表】いつものやつ

【挿絵表示】

前半トレーナー君視点。中盤ルドルフ視点。後半????視点


――20××年+1 3月1日 13時45分――

――日本トレセン学園 グランド外付近――

 

 

 ルドルフのトレーニングに必要な物品を唐草模様のエコバッグに詰め込み、私はグランドを目指していた。ふと顔を上げ空を見れば快晴――だけれども。

 

"――なんでこう異常気象に当たるんだかなぁ――"

 

 現在の府中市の気温は5度――例年平均よりも4度前後低い。

 寒い春に長く激しい暴れ梅雨。それから猛暑に続いて台風直撃祭り――そんな昨年の冬の始まりは10月に北海道で初雪を観測したことに始まり、2月半ばの新潟には1日で約3mの最深積雪を記録し、その影響によって家屋の倒壊や雪崩や雪下ろしによる事故が全国的に多発。

 

 所謂『大雪の当たり年』だった――太平洋側でも転倒事故や農作物に被害が続出たため、お野菜類が大好きなウマ娘達の懐事情も直撃している。

 そしてもう3月だというのに東京郊外ではいまだに積雪が観測されるという。

 

"――保温用に『laureate(ローリエト)』を開発しておいて良かった――"

 

 ルドルフのメイクデビュー時に使っていた、保温を兼ねた美容クリーム『laureate(ローリエト)』。

 昨年の9月から寒波が来ることを予想していた私は、学内の売店に学生さん向けの量産型『laureate(ローリエト)』を置かせてもらっており、この塗るヒートテックは使うと寒さを軽減出来るという口コミを呼んで学園内外で飛ぶように売れた。

 

"――こっちは遠征費用とか稼げたからいいんだけど……――"

 

「――ルドルフの心労をこれ以上増やさないくださいお天道様」

 

 皆の平穏無事を願ってやまないルドルフの心を乱さないで欲しい私は、寒気渦巻く空の中点に座す陽光の主に向かってそうぼやいた。

 こうなったらテルテル坊主をかけっぱなしにしようとも考えたが、そうすると今度は干ばつが心配になるのでやめておいた。

 

"――気候もご機嫌斜めだけど、今日は東条先輩もなんか機嫌悪かったような?――"

 

 今日はお昼にメガ盛りニンジンハンバーグが食べたい気分だったので、ひとりでカフェテリアへと食事に向かっていると、同じタイミングで食事に来ていた東条先輩と、南坂先輩と鉢合わせた。

 

 東条先輩は私の上司でトレーナーの中でも一目置かれる女性だ。

 育成方針は受動的な子向きの管理重視。一見すると硬派な印象を受けるが、レース場で見ていると、熱くなって『いけー!』とか腕振り回しながら叫んでる所を見かけるくらい実際は熱血系。気持ちが先走ると言葉が足りなくなるので、色々と勘違いされてしまう損な面がある。

 

 南坂先輩は私より少し早くトレセンに入った方で、ウマ娘や女性陣にとても人気のある爽やかな雰囲気の男性だ。

 一見するとゆるふわ系に見えるが、決断力と処世術に優れ、能ある鷹は爪を隠すという言葉がよく似合う。交友関係が大変広いため学園外に施設を借りに行けたり、副業の稼ぎでチームをハワイ合宿に連れて行けてしまう。

 

 そんな先輩方2人と成り行きで昼食を取ることになり、雑談の流れで『腐れ縁のトレーナーがいて、その人また飲み代足りなくて建て替えた。もっと計画性を持ってほしい』という東条先輩の愚痴を聞いてしまったのであった。

 

 東条先輩を悩ませているトレーナーの腕は確かなのだが、ウマ娘のために予算を無計画に使い切ってしまうきらいがあり、そして飲み代が足りなくなることがあり東条先輩に助けを求めてくるのだという。

 そんなこんなで東条先輩はそのトレーナーと親交が深く認めつつも、何となく反りが合わないんだとか?

 

"――そういえば私、そのトレーナーさんにまだ会ったことが無いような??――"

 

 何だかんだ都合が合わずそのトレーナーとの面識は無い。

 そのトレーナーの外見的特徴は、南坂先輩曰く黄色いシャツにチョッキ姿で飴を咥えた男性らしい。

 

 お昼の事を何となく思い出していた内にグランド入り口の、スタンド下のトンネルに入って待ち合わせ場所まであと5分以内といったところまできた。

 

"――気にはなるがその内会うだろう。さて! 今日の追い切りタイム計測はりきっていき――"

 

 そのときだった。

 

 

 仕事スイッチをオンにしながら、トンネル内部を歩きその出口寸前に近づいた所――。

 

『おい! アタシの脚をこう何回も撫でようとは太てぇ野郎だな!!』

 

 怒鳴り声が聞こえてきたのはトンネルの外――見切れて見えてないが、右側だろうか? おそらくゴールドシップと思われる怒号が響き渡った。

 

 びっくりした私は出遅れたが、荷物をトンネル出口の端に置いてすぐにその後を右折すると、耳を伏せ怒髪天状態のゴールドシップの後ろ姿がまず見えた!

 

 怒鳴り付けられていた相手は黄色いシャツにチョッキを着た男性トレーナーで、今にも気に入らない事をされたゴールドシップが飛びかかりかねない状況だ。

 

 ブチキレた原因はなんとなく察せられるがこのままだと色々とマズい!

 

「ストップ! ゴールドシップさん落ち着いて!!」

 

 後先考えずに後ろからゴールドシップに後ろから抱き着いて、私は彼女の逆鱗に触れた男性から引き離そうとした!

 

「離せ!! この野郎は今許されねぇ無礼をアタシに働いたんだ!!」

「気持ちはわかるけどまって! 誰か! 誰かー! 止めて!!」

 

 

 『何事だ!』とグランド側にいたエアグルーヴの声が響き、目の前の惨劇を収集すべくウマ娘やらトレーナーやらが集まってくる気配も迫ってきていた。

 

 今日はどうやら大安吉日だというのに、『大いに安し』ではないようである――。 

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年+1 3月4日 午後14時半――

――『弥生賞GⅡ』 千葉県 船橋市 中山レース場 パドック前付近――

 

 江戸川区の東側――らんらんポートTOKYOBAY店から見て、北北西に4キロ位ほど離れた所に位置する中山レース場。

 ここは『有マ記念』の舞台となる日本一のレース場であり、この地で本日行われるのは『GⅠ皐月賞』の前哨戦である『GⅡ弥生賞』だ。

 

 建物の3階部分のベランダの柵の前に立ち、眼下に広がるパドックに目を落としている。

 そして私はルドルフの出番を待ちながら、先に出走している子達の様子やレースをパドック背景にあるビジョン越しに眺めていた。

 

「ヘイヘイ! そこのお嬢様! 焼きそばパン買ってくれよぉー!」

 

 背後から今では聞き慣れた調子のいい声がかかり振り返ると――。

 焼きそばパンを両手に持って差し出している、売り子の恰好をしたゴールドシップがにいつの間にか背後にやってきた。

 

「おひとつ貰いましょう。こんにちはゴールドシップさん」

「ちわちわ! でもって毎度! 300円な!」

 

 ゴールドシップから、焼きそばパンを受け取って小銭入れから100円玉を3枚取り出し代金を支払った。

 

「トレーナーが決まったそうですね? おめでとうございます。――という事は『本格化』を?」

 

 ゴールドシップが契約したトレーナーは、3日ほど前に彼女によって蹴り飛ばされていたあの人影だった。

 

 そのトレーナーは才気を感じるウマ娘に出会うと、後先考えずに脚部をチェックしてしまう癖があり、それでゴールドシップの逆鱗に触れ、派手に空中散歩する結果となった。

 

 このトレーナーこそが件の東条先輩の腐れ縁らしい。

 そしてこの契約の話は昨日トレーナー同士の噂話で聞いたので、もしかしたらゴールドシップが『本格化』したのかな? と思った私は問いかけてみたのであった――。

 

「いや、多分まだだ。あと"役者"が揃ってねぇのに出るのは、なーんか勿体ねぇから本格化してたとしてもまだ出たくない」

「――役者?」

「ゴルシちゃん劇場には役者が揃うのが重要だ。ハリウッドだってそうだろう?」

 

 ゴールドシップは私の右隣に立つと、焼きそばパンをひとつ左手に持ったまま、腕を組んで目を細めてうんうんと頷いた。

 

 役者とはどういう事だろうか? と思ったが、こういう謎の言動に疑問を抱いて尋ねても、高確率でゴールドシップにはぐらかされるので触れないことにした。

 

「そうなんですね。しかしそれにしては模擬レースで凄いタイムなような……」

「あたりめーだろ! アタシは天才。あーゆーおけい? それをいうなら会長サマはどうなるんだよぉ? 入学前からヤバイじゃーん」

 

 『本格化』――それは元の世界の競馬用語とは違うが、こちらの世界にもある『神秘』とも『科学』とも説明が付かない現象である。

 

 『本格化』を迎えていないウマ娘はレース後に息切れをしたり、体調不良に見舞われるが、何故か数字など科学的にその原因を判別するなど客観的な判断は出来ない。

 その『本格化』の判断基準は『食欲の増進』や『なんとなく系のもろもろの理由』など、よくわかっていないし私の方でも調査したことがあるが結局掴みきれなかった。

 

 ファンタジー的な言葉で言い表すなら『ウマ娘としての潜在能力の覚醒』といったところだろうか?

 

 そして星々の瞬きの名をを冠する戦場(トゥインクル・シリーズ)は『本格化』を迎えたウマ娘たちのシリーズとされているが――。

 

 実際には選抜戦や模擬戦のタイムでのみ参加の可否が判断されている。

 そのためレースの中で『本格化』を迎え、シニア級から猛威を振るう選手も居る。

 

 そしてそれとは別にルドルフやゴールドシップのようなパターンがある。

 そもそもの『地力』がぶっ飛んでいるからなのだろうか? 『本格化』しているのか全くわからないけど、タイムも良く不調も見られないといったケースも稀ではあるが存在する。

 

 この本格化によってもたらされた成長ピークの長さは個人差がかなりある。

 

「そうね。それを考えたら、ルドルフもゴールドシップさんも所謂『並外れた強者』なのでしょう」

「だろだろ? アタシはやっぱ最強! ところで――中山ってことは皐月賞の前に試走ってことか?」

 

 トリックスターのゴールドシップが、珍しくまともな話題を振ってきたことに私は目を丸くしてしまう。

 そしてあまりの展開にまごつきつつも話を続けることにした。

 

「ええ――同じ距離、同じコースで走って貰おうかなと。実戦での登り坂の適正も見ておきたいですね」

「言うのとやるのは違うしな。――そういえば去年の6月のイギリスのエプソムのレース見たか? 1着のやつアタオカだったな。Grandで最強って言われてるノッポ男が担当してる娘!」

Keith・Castrum(キース・カストルム)が担当しているFunctio(ファシオ)ですね?」

「おう! 黒ひげ危機一髪入刀的に言うとーアイツは絶対まぐれ(フロック)じゃない。あの実力なら100%アスコットに来るし確実にヤバイ相手になるだろうな」

 

 ゴールドシップがFunctio(ファシオ)を警戒するよう言うのは無理もない。

 

 Functio(ファシオ)は超重バ場のエプソムを逃げの後ろ1~1.5バ身の位置からずっとつけて、普通は脚が上がるはずの坂の手前――最後の直線で末脚を使って勝ったからだ――。

 


【エプソムダービー】

 英国 芝:2420メートル

 エプソムダウンズレース場で行われるレース。

 蹄鉄を伸ばして横に向けた⊂の字の左回りなレース場。

 その特徴を一言でザックリ表すなら、『中山の坂』を濃縮したコース。

 

 ◆特徴◆

 ・道が水平じゃなくてランダムに傾いてる。

 ・路盤は洋芝生やしただけの丘。

 ・スタートしたら⊂の字の上半分の部分まで約1100mの上り坂。

 ・上り坂の高低差は約42m(ウル〇ラマンの身長くらい)、坂の平均勾配は約3.8%

  ※中山の競バ場のラストの急坂で勾配は約2.24%

 ・一番高い部分からちょっと水平を挟む。

 ・次のカーブ部分から続く約23%の角度の坂をゴール手前1/4ハロン(50m)まで下る

 ・ゴール手1/4ハロン(50m)は急坂。

 (目測で高低差2~3m、向正面の勾配と同じくらい??)

 ・逃げ切はほぼ不可能(重要)

 

  ※注:エプソムの高低差ついては、参考にする本や情報誌によりブレがあり※


 

「――ええ、良バ場でもタフ過ぎて辛いのに、それに加えて超不良重バ場。なのにあんな形で勝利した彼女のスタミナやパワーは近年稀に見る最強クラスでしょうね」

 

 年明けに行った対アスコット用のデータ整理中、このレースを見たとき鈍器で後頭部を思いっきり殴られたような衝撃を受けた!

 

 その後は成績が振るわずあの勝利はまぐれ(フロック)だと言われているがきっと違う。

 

 ヨーロッパの中距離女王に輝くべく、きっと彼女と彼はキングジョージに向けてばっちり仕上げてくるだろう――。

 

 そして今年――1600mだった弥生賞の距離は2000mへと延長になった。

 今日のレースか皐月賞――そのいづれかでルドルフが皐月賞のレコードクラスのタイムで突破したとしても、Grandで最強のトレーナーKeith・Castrum(キース・カストルム)が仕上げてくるであろうFunctio(ファシオ)にギリギリ勝機が見えてくるかどうかといったところだった。

 

  弱気になりそうになった自分に喝をいれるも、元々遺伝子改良されただけの労働階級――ただのド庶民であった私はブルリと震えあがった。

 

"――気丈にならなければならないのに心はまた揺らいでる――"

 

 自身がオーバーテクノロジーな存在になったとしても、根っこの部分はそう易々と変われるものではない――。

 そんな自分の未熟さがなんとなく嫌になって、騒がしくわめきたてる自我から湧き上がる色々な感情と葛藤しながら俯いていると――。

 

「――噂だと会長サマとの大喧嘩で、偉そうなこと言ったんだろ? ならビビるのはずるい。お前が自分の事どう思ってるか知らないけれど、この世界の強者の一人であるのは間違いないんだ。一番強いんだぞって顔してろよ」

 

 そんな様子を見たゴールドシップからいつもよりワントーン低い声が発せられた。

 それはルドルフが放つ独特な雰囲気とはまた違う、強者特有のもの――私は驚いて顔を上げた!

 

 ルドルフの瞳の色味と似ているが、すこし明るめのピンク色をしたゴールドシップの瞳に、彼女の言葉に対してハッとしたような表情を浮かべる私が映り込む――。

 私が映るその瞳の持ち主である彼女の表情は、白いタテガミを持つ獅子の様な雰囲気を醸し出していた。

 

 こんなに真剣な表情をしたゴールドシップははじめてなので、あまりの迫力に息をするのも忘れて私の思考は固まってしまう。

 

 するといきなり彼女の口元が弧を描き――彼女の左手が伸びてきたと思ったら。

 

 

 ――私の額の中央に乾いた皮膚の音が一発響いた!

 

「ちょっ!」

 

 どうやら私はゴールドシップから思いっきりデコピンを食らったようだった。あまり痛くはないが狐につままれたような気分になる。

 パンを持っていない右手でベランダの縁の柵を掴んで身体を支え、ひーひーと息を切らせながらゴールドシップは笑っている――!

 

「貴女は本当に私をからかうのが好きですね」

「そりゃ何だかんだ乗ってくれっからなー!」

「まあ遊びですし。しかし、スタッフをあまり困らせてはダメですよ?」

「わかってるって大丈夫! つーか会長サマが一緒なんだから大丈夫だろうよ? もっと気楽にいけよ気楽にさ。――とり合えずパドック始まっちまう前に食べようぜ! せっかく食べやすいようにパンにしたんだからさ。ほらほら!」

 

 いたずらに成功して満足そうな表情をしたゴールドシップは、売れ残っていた焼きそばパンにかぶりつき始めた。

 

 私も小腹が空いていたのでそれ以上は突っ込みを入れず、彼女から購入した焼きそばパンの包装をはがし『いただきます』と言ってかぶりついた――。

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年+1 3月4日 15時25分――

――中山レース場 内回り 本バ場 ゲート入り口前――

 

 少しバ場を確認しながら走り、その後立ち止まって周囲をゆっくりと見まわした後――じーっとターフ上の1点を見つめ、己の心の内と向き合うよう呼吸を整える……。

 

 そのあと目を閉じて数秒してから瞼を開けると、両耳に再び周りの喧騒が流れ始めた。

 

 本日のスタート地点はスタンド側の右奥なので、若い男性のアナウンスに乗せられて上がる観衆の声がいつもよりも大きく聞こえる。

 

『マエツニシキVSシンボリルドルフの無敗対決! 今年から1600mから2000mへと距離延長しての初開催となりました!』

 

 その理由は私とマエツニシキがメイクデビューから無敗で激突するという、見ている側からすれば大変盛り上がるレースが開催されているからであった。

 

 人気の低い者からゲート入りし始める中、私は軽く身体を動かしながら同じレースに出る者たちの様子を見まわした。

 私から2m程離れた位置で肩を軽く回している緑が主体の体操服を着たウマ娘――明るい栗色の毛並みを高く結わえ、長めの前髪の中央に太く白いメッシュが入った彼女の名前は『マエツニシキ』。

 

 去年の11月5日に開催されたメイクデビュー東京芝1400mからデビューしたマエツニシキは、その後1400mの東京で2回、1800mの中山、そして今年の2月に東京で行われた共同通信杯GⅢをすべて勝利してこの場にやってきた猛者だった。

 彼女もまた理論派として知られている両親から英才教育を施されて育っており、ここまでのキャリアは4戦。昨今のダービーまでの平均出走回数は9.3戦――弥生賞までのレースキャリアは私同様少ない方。

 

 そしてそんなマエツニシキが本日の1番人気だった――私は、初めて人気で負けた……。

 

『快晴に恵まれたものの、例年より寒い6.8度と肌寒い中山となりました。第11レースは芝2000m右回り、出走者は14名でバ場の発表は良バ場となりました』

 

 人気上位発表前の実況が始まり、私は気分を落ち着かせるように呼吸を整え、自分のゲートイン入りに備えた――。

 

『3番人気はフィディシンボル! 名門出身の意地! ここで見せられるか!』

『2番人気はシンボリルドルフ! 現在3連勝のこの娘の快進撃を止めるのは誰だ!』

 

 ゆっくりと歩いてゲートインし、1番人気の娘が来るのを待つ。

 本日初めて1番人気ではないのが少し悔しい気持ちはあるが、結果でそれを覆して見せようと私は自身の心に喝を入れ気合を入れなおした。

 

『1番人気はマエツニシキ! 現在無敗の現在4連勝! この娘が最強を示すのか!?』

 

 マエツニシキはゆっくりとゲートインし……。

 

『ゲートイン完了出走準備が整いました!』

 

 スタンド側が固唾を飲みスタートを見守っている。

 少し静かになった中、私もスタート準備をし前だけを見て――。

 

 姿勢を低く、軽く開いた右足と後ろにやや重心をかけ――。

 

『スタートです! おっと3番サンプライドと10番1番人気マエツニシキが出遅れ!』

 

 ゲートが開くと同時に右足に力を入れ、そして前に重心を移動し左足を前に出して踏み出した!

 ターフを蹴り叩く音と観声が一気にこの場を満たす。

 

 そしてサンプライドと力み過ぎたマエツニシキは出遅れてしまったらしく、観客席の彼女らのファンから悲鳴のような声が上がっているのを私の両耳を掠めていった――!

 振り返らずに前だけを見て私は状況を頭に叩き込んでいく。まず真ん中からまず飛び出したのはアキツスワローで大胆にも逃げ切り戦法に出るようだった。

 

 マーク先はマエツニシキの予定だったのだが大きく出遅れたため、私はアキツスワローへとマークを変更。そしていつも通り先頭の通過タイムを数え始める。

 

『アキツスワローの逃走劇を許すものかと、11番フライトリーズン外から懸命に抜こうとしている!』

 

"――12――"

 

 先頭の右側を"2"と書かれたハロン棒が通過していく。

 

 ここから第1コーナーの出口手前まで"16"と書かれたハロン棒のまで途中短い水平部を挟みつつ、連続して上り坂が続く。私は左外から伸びてきた者達を先に行かせ、無理せず中団外目を狙い位置取りを下げていく。

 

『この2名を追いかけて13番ベルパレード! そこにピタリと引っ付くように外から12番シンボリルドルフ得意の好位抜き出しか!? それをマークするように14番アローパワーが追いかける!』

 

 1周目のゴール板を過ぎずっと曲線部が続く中山の第1コーナーが徐々に迫ってきた。

 出たくなったら上がれるよう、外を取られないように気を付けながらレースを進めていく。

 

 スタンド前の1周目から早くも前が激しく位置取りをとりあう中、1番人気のマエツニシキは後方から4人目の先頭まで9バ身の位置取りで待機している様子がアナウンスから知らされた。これは相当脚を削られたのではないだろうか? と、最大のライバルが出遅れてしまったことに対して気の毒に思いつつも、自分のレースに再び集中する

 

 "16"と書かれたハロン棒がマーク先の横を過ぎる――通過は23秒。

 一瞬だけ水平だった足元もまた坂を上る感覚を掴みはじめていた。

 

"――ひとり飛ばしている分少し早い――"

 

『第1コーナー突入です!』

 

 コーナーに真っ先に突っ込んだアキツスワローは内ラチ沿いに先頭で2バ身のリードを保っている。2番手にはその外からベルパレードが追い、さらに3番手は外にアローパワー、内にフライトリーズンがハナを奪い合っていた。

 

 1~2コーナーがくっ付いたような、正円を真っ2つにした形状のコーナーが始まる入り口――中山の第1コーナーに入った。この1コーナーの終わり手前まで登った後から2コーナーの終わり、12ハロン棒の手前までほぼ平坦な地形が続く。

 

"――消耗を押さえ、向こう正面で位置を調整しよう――"

 

 ウマ込みに飲み込まれないよう注意深く走っていると、先頭が"14"ハロン棒を通過した。

 

 通過は36秒――ペースが落ちたのを確認できたので我慢。

 まだまだ前に付くにはまだ早い。

 そしてそんなことを考えている私の視界と周囲には数人ほどが走っている。

 

 3番手を奪い合う2人の2バ身差の後ろでソロナカチドキ、その外に私がつけて並んで5番の位置取りを争っている。そして後ろから実況から恐らくコインドシンザンが、こちらの更に外を回ろうかと言わんばかりに迫りくる気配もしている。

 

『コインドシンザンの後ろ内をついた7番グリーンイメージと並びにここで1番人気! 10番マエツニシキがシンボリルドルフの背後にピタリとにつきました! ここまで無敗は伊達じゃない!』

 

 "12"と書かれたハロン棒が先頭の横を通過していった。

 

 前半800m49秒――全員ラストの心臓破りの坂を懸念し慎重になっている。

 そして出遅れて後方にいたマエツニシキが、いつの間にか私のすぐ背後まで迫っていたのが実況から確認できた。

 

"――おっと、マエツが意外に早く上がってきたか。流石と言ったところか?――"

 

 そこに感心しながら、引き続き外を取られてない程度に気を付けながら進んでいく。

 コーナを抜けて再び視界の先にまっすぐに伸びる向こう正面が広がった。

 3コーナー入り口まで角度を変えながら続く、長い下りの感触が足裏から全身に伝わってきている。

 

 私は5~6番くらいの位置から1000m地点までに4番手くらいの位置まで上がるべく、無理に抑えず前へ前へと進んだ。

 

 そしてマエツニシキ――彼女のマークはおそらく私なのだろう。

 チラリと後ろを見ると同時に外を回る私の後を綺麗について来ている。

 

『向こう正面今1000mの標識を通過しましたが、軽快に飛ばしていきます5番アキツスワロー! リードがまた少し開きまして4バ身のリードぐんぐん放していく!』

 

 1000mを通過したタイムの標準は62。

 展開はスローへ切り替わり足元がやや緩やかな下り坂に転じる。

 

『2番手争いは13番ベルパレードが前に出るも、14番アローパワー並びかけそしてその後――』

 

 先頭のアキツスワローが8のハロン棒を通過――74秒。やはり標準からは+2。

 

 1~2コーナーを反転したような3~4コーナーを曲がりながら、位置取りを上げて逃げの後ろにつけようとしはじめるも、考えている事は皆同じだった。

 

 逃げの1バ身ほど後ろにつけた者もジリジリと前に詰めはじめ、私の右斜め前にいる1名も同じように前へ前へと詰めていっている。

 それに負けじと私も右斜め前を走る者の外に並ぼうと前へ前へと脚を進めていく。

 4番手争いフライトリーズンは私が団子状態、それにソロナカチドキとマエツニシキが追いかけてきていた。

 

『アキツスワロー先頭のまま、3コーナーのカーブへ突っ込んでいく! バ群の長さは20バ身と利根川のようにながく伸びる! 前方と後方で割って食べるアイスキャンディーの様に、バ群が綺麗に真っぷたつに別れた! お弁当の割りばしもこれくらい綺麗に分かれるといいですね!』

 

 残り600mを通過し3コーナーを抜けた!

 ラチ沿いに内に逃げているのが1名。そこに2名並び、その外に私といった位置取りのまま4コーナーへ突っ込んだ!

 

"――ならば外からで!――"

 

 ウォーミングアップついでにバ場を確認した際確かインは荒れていた――。

 

 足回りの悪い場所を避けつつ大回りを覚悟し、私は横並びのまま4コーナーに突っ込んだ!

 

『4コーナーのカーブに――おっとシンボリルドルフが一気に動き出した!』

 

 私のすぐ左のさらに外から! マエツニシキが猛烈なスパートをかけて上がっていく。先頭のアキツスワローは最内ラチ側を視界の前方はるか右端で器用に曲がりきった!

 

 そして私のすぐその横にいた2名が外に大きく膨らみ、私も外の方に膨らんで曲がりながら進路をを取って4コーナーを曲がる!

 そして私の外からマエツニシキが上がろうとしていた――そんな様子が左視界のギリギリ後ろ端に見えていた!

 

『シンボリルドルフ2番手まで上がってきた! マエツニシキも5番手射程圏内にいる! 先頭の最内アキツスワロー逃げ切れるかまだまだまだ逃げている! 粘る粘る気合でねばる! その外の少し離れた位置でベルパレードとアローパワーが並んで争い! そのさらに外からシンボリルドルフ! そしてシンボリルドルフの外にマエツニシキが大外を回りこの辺り混戦! 一体だれがいち抜けしてくるんだ!』

 

 コーナーを抜ける直前位に右隣の者が垂れていったため、空いた少しイン側すかさず取る。

 内ラチからは4バ身程の位置で先頭までは6バ身。

 すぐ右前を走る者を抜けば私の前に居るのはあとひとり――!

 

『さあ直線を向いたが中山の直線は短いぞ! ラチ沿いを逃げる逃げる! 必死に逃げるアキツスワローまさかこのまま前残りか!? 逃げ切れるのか!』

 

 音の暴力が波のように迫るスタンド正面の短い直線が視野に収まった!

 

 そしてラスト1ハロン200m過ぎからは坂がある!

 

"――上がり切ってからでは遅い!――"

 

 脚に力を込めてラスト1ハロン手前から仕掛けた!

 両頬の横を本日中一番の勢いで風が切っていく!

 

『そしてシンボリルドルフ来た来た来たー! 来ました! 残り200m! シンボリルドルフが猛烈な勢いで坂を駆け上って一気にアキツスワローとの距離を詰めていく! その後1番人気マエツニシキ現在4番手だが2番手争いとの混戦抜け出せるか!』

 

 坂を上がり切った時に1番と並ぶか抜くくらいでなければ勝機はない!

 歯をかみしめて脚の回転を上げてピッチ走で一気に登り切る!

 

 目の前右に見えるアロースワローが『くそおおおおお!!』と絶叫しながら走っている。

 

『マエツニシキややイン寄りにコースを変更追いかける! しかしここでシンボリルドルフが坂を上がり切る前に2番手から抜け出した!』

 

 坂の途中でアキツスワローが口惜し気に叫びながらバテたのか沈んでいき――。

 

『先頭は完全にシンボリルドルフ抜けた! つよいつよいつよーい! リードは2バ身!! ぶっちぎる!』

 

 登り切る前に先頭を取って残り100m!

 ピッチからストライドに切り替えほぼ平らになったターフを蹴って一気に後続突き放しにかかる!

 

『マエツニシキ必死に追う! しかし差はどんどん開いている!』

 

"――貰った!!――"

 

 前傾姿勢のままゴールに突っ込んで通過――! 

 

『先頭シンボリルドルフそのままぶっちぎってゴールイン!』

『4連勝無敗の土つかず! 皇帝の名を冠するこの娘の快進撃を止める者はいなかった! 1着シンボリルドルフ弥生賞勝利! 2着! マエツニシキ! 3着! アキツスワロー!』

 

 ゴールしたのを確認して力を抜き、来てくれた者たちに手を振った!

 そして私を応援していた者たちからの歓声がいつも通り上がっている――。

 

 ――のだが何だかスタンドの観衆の様子がおかしい……?

 

 色々混じっていて聞き取りづらいが、きようび聞かないほどスタンドの群衆は大山鳴動(たいざんめいどう)としていた。

 ゆっくり速度を落として立ち止まった後、私は何が何だか分からず思わず首をかしげる。

 

 呼吸を整えながらスタンドを向くとトレーナー君が居るのが見えた。

 彼女も彼女で両手で口を覆ってターフビジョンの方向を向いて驚いた表情をしている――。

 

"―― 一体どういうことだ?――"

 

 いよいよ以て訳が分からない。混乱する私を置き去りに再び場内にアナウンスが流れた――。

 

『何と!! タイムは2分1秒7!!! 距離延長初回の弥生賞! トライアルで皐月賞レコードタイムを超えてしまった!』

 

 肌寒いはずのターフにスタンドの熱気が一気に両耳と全身を突き抜けていく――!

 

"――おお! これは順調な滑り出しだな! これならば……!――"

 

 これなら皐月賞をレコード勝ち出来るかもしれない。

 歴史の記録に手が掛かれば、私が今までで一番海外に手を伸ばせるかもしれない!

 

 そんな期待を抱いた私の胸の内は、高揚した気分でなみなみと満たされていった――。

 

  ◇  ◇  ◆

――20××年+1 3月13日 午前16時――

――トレセン最寄り ファミリアマート付近――

 

"――次でダメなら帰ってネット注文? でも、待つのはヤダ!――"

 

 火曜日発売の週刊誌に今一番憧れの――シンボリルドルフさんの特集があることを、ウマッターで知ったボクは学校から帰ってすぐに目当ての雑誌を探した。

 だけど人気の所為で府中市内の本屋を沢山まわってるのに全滅、コンビニも既にかなりの数を回っている。

 

 ネットで注文すればいいんだけど、どーしても早く手に入れたかったボクは、最後の賭けでトレセン学園の近くのファミリアマートに行くことにした。

 あそこはトレセンのお姉さんたちが来る関係で、いつも沢山仕入れているからギリギリあるかもしれなかったから!

 

"――もしかして……有名なウマ娘さんとかもいたりして! にしし!――"

 

 そんな都合のいい想像をしながら、ボクは軽いフットワークでバ道を駆けていく。

 

 『ボクよりも強いウマ娘なんていない』

 

 ほんの少し前までのボクはそう思っていた――。

 

 レースを始めたきっかけは最初はただ誰かと走るのが楽しかったから!

 そしてどんどん負けたくなくなって努力し続けて、気が付いたら同い年でボクに勝てる子は居なくなった。

 勉強も運動もボクが1番だった!

 1番になるのは嬉しいんだ! いっぱい、いっぱい頑張ったから!

 

 ……なのに、なのに!! なんだか物足りなかった……!!

 

 そう思い始めても走ること自体は嫌いじゃない。

 東京で僕が今行けるとこで1番のチームの試験にも合格して、強くなっていくボクを見たパパやママも『天才だ!』ってとても喜んでくれたのが何より嬉しかった!

 

 そしていつかトレセンに入って、トゥインクルシリーズで活躍して!

 でもって最強のウマ娘はボクで決まり! 本気でボクはそう思っていた――。

 

 それが変わっちゃったのはこの前無敗対決の弥生賞――! 

 そのレースに出ていたシンボリルドルフさんは、無敗の相手に勝っただけじゃなかった!

 皐月賞のレコードを上回るタイムを弥生賞で上げた!

 ボクはレースではじめて誰かに憧れたんだ――!

 ボクもシンボリルドルフさんみたいになりたい! 勝負したい! 勝ちたい!!

 あのレースの後からずっと夢中だった!

 

"――カッコ良かったなぁ……! いいなぁ!――"

 

 あの時テレビで見たレースを思い出しながらバ道を南に下る。

 するとボクの左手に北府中公園が通り過ぎ、そこから少し走ると晴見のファミリアマートが見えてきた。

 

"――さてと! 雑誌、あるかなあるかなー?――"

 

 スピードを落として歩道側に入り歩いて駐車場を横断し、大き目の左手にマンションが見えるファミリアマートに入店した。

 

 ――♪ 

 

『いらっしゃいませ!』

 

 独特の入店音と若いお兄さんの元気な声が耳に入ってくる。

 そのまま左右を見渡し雑誌コーナーを確認したけど――その奥にいた人物を見て思わず目をぱちぱちと瞬きをし、ボクは凝視してしまった――。

 

"――あれ? なんか人間にしては変わった髪? すっごくキラキラしてて宝石みたい!――"

 

 雑誌コーナーの奥では不思議な煌めきを持つ髪をした、紺色のスーツを纏った綺麗なお姉さんが緑の店内カゴを片手にコピー機を動かしている。

 

 その不思議な感じが気になってお姉さんをよく見ていると、コピーし終えたものをショルダーバックに仕舞う動きで見えた左胸――トレーナーバッジを付けていることにボク気付いた。

 

 そのバッジをつけたお姉さんは、どう見ても高校生のお姉さんたちくらいにしか見えなかった!

 そしてボクは驚いて、天井から引っ張られたみたいに両耳がピンと立てた!

 

"――見た目が若いのかな!? それとも本当に若いの?! どっちだろう!! ……って、今は雑誌探さなきゃ!――"

 

 不思議なお姉さんに気持ちが逸れたけど、ここに来た目的を思い出して雑誌を一生懸命探すも――。

 

「またないのぉ……! どうしてないの、シンボリルドルフさんの雑誌……!」

 

 待てば手に入るものだけれどあまりに悔しかった。

 

 そしてボクは悲しい気持ちになって思わず声が出てしまった!

 耳を前に倒したまま、肩を落としてため息をつきながら店を出ていこうとしたら……!

 

「そこのポニテのウマ娘さん――待ってください」

 

 誰かに呼び止められてボクはゆっくり振り返った。

 

 声をかけてきたのはコピー機を動かしていたさっきのお姉さん――肘に緑の店内かごをかけたお姉さんは真っすぐボクを見つめている。

 

「急に声をかけてしまって申し訳ありません。もしかして、シンボリルドルフ特集の雑誌をお探しですか?」

 

 ボクに丁寧な口調で尋ねるお姉さんの両目は、宝石で出来てるんじゃないかってくらい綺麗な緑だった。

 とても綺麗だったその目にボクは見とれそうになったけど――まずきちんと返事をすることにした。

 

「そうだけ――そうです」

 

 ため口が出そうになったのでとっさに言い直した。

 するとお姉さんは『ちょっと待っててください』と言ってカゴから何かを取り出し、ボクの前に差し出してくれた。

 

 それが何か分かったボクは大きく目を見開き、次に出る言葉への期待でいっぱいになった!

 

「よかったらどうぞ。まだ未会計なのでお支払いはお願いします」

 

 お姉さんが差し出してくれたそれは――ボクが探していた雑誌だった!

 

「いいの!? 本当にいいの!?」

「ええ、どうぞ」

「やった――!!!」

 

 嬉しさから差し出された雑誌に勢いよく飛びついてしまった!

 さらに年上の人を相手にタメ口で話してしまったのは、いくら何でも失礼だと思って、ボクが『ごめんなさい!』って慌てて謝ると『問題ないですよ。敬語ではなく気楽にどうぞ』とお姉さんは上品な感じの笑顔を浮かべてそう答えてくれた。

 

「じゃあ遠慮なく普通に話すね! ――でも、これをボクが買っちゃったらお姉さんの分は? お仕事で困らないの?」

 

 気になったのでボクがそう聞き返すと、お姉さんはいたずらっぽい表情をした後、自分の左胸に付けているバッジをちょんちょんと右手で指さした――。

 

「私はトレセン関係者です。目の前でルドルフのファンの子差し置いてってというのは、どうかと思うのでお気になさらず。後で手に入れますからお先にどうぞ」

「にしし! やっぱりお姉さんはトレーナーだったんだ! えへへ、ありがとう! ボク待つのも嫌でどうしても欲しくて何件も回ってたんだ!」

「そうだったんですね。そんなに一生懸命探してくれるなんて、ルドルフが知ったらきっと喜びそうです」

 

"――ん? 何回か呼び捨てにしてるけど、シンボリルドルフさんとこのトレーナーさんは仲が良いのかな?――"

 

 そう思ったボクはこの場の空気とテンションに任せ、お姉さんに気になった事を聞いてみることにした。

 

「お姉さんはトレーナーなんでしょ? なら、トレセンで生徒会長をしているシンボリルドルフさんの事を良く知ってるの? すっごく仲良しっぽい呼び方をしている気がするんだけど……もしかしてとっても仲良しなの!?」

 

 ボクは興奮気味にそう尋ねると、一瞬きょとんとしたお姉さんは、その後首を軽くかしげてふふふと小さく上品な笑い声をあげた。

 

「そうですね――とてもよく知っていますし、仲良しですよ」

「じゃあ! じゃあ! シンボリルドルフさんってお姉さんから見たらどんなウマ娘なの!?」

 

 雑誌を両手で持ったままボクはお姉さんに近づいた。

 するとニコリと笑ったお姉さんは――。

 

「――ルドルフはいつも皆の事を考えていて、とても強くて優しいです。才能があるだけじゃなく、それに溺れる事なく頑張り屋さんでお勉強もレースもトレーニングも完璧。そんな彼女はみんなの憧れの生徒会長さんです。――月並みだと思うかもしれませんが、本当にその通りなんです」

 

"――やっぱり他の雑誌特集で見た通りなんだ!!――"

 

「へーそうなんだ……! あ、来年もしオープンキャンパスに行ったらシンボリルドルフさんには会えるの!?」

「そうですね……彼女は生徒会長なので確率は低いですが、ワンチャンスはあると思いますよ?」

「本当!? なら来年は絶対行く!」

 

 ――うまうみゃ♪

 

 着信音がして目の前のお姉さんは『あ、ごめんなさい』といってスマホ確認した――そして画面を落として上着のポケットに仕舞った。

 

「担当の子に呼ばれたので私はこれで失礼しますね。それでは――またどこかで」

「うん! ありがとう!」

 

 お姉さんは雑誌以外入っていなかった空になったカゴを戻して店の外に歩いて出て行った。

 何となくボクはお姉さんの後ろ姿を気になって、店内から目で追っていると――。

 

"――あれ!?――"

 

 人間だと思っていたお姉さんはバ道を走っていった!

 

"――あのお姉さんは半人半バ(セントウル)だったんだ! へぇ! 珍しい!――"

 

 さっきのお姉さんは都会だとほとんど見かけない、半人半バ(セントウル)だった事にボクは驚いた。

 東京にはいろんな国からモノと人間、ウマ娘がたーっくさん集まるけど、それでも半人半バ(セントウル)はあんまり産まれないからとーっても珍しい!

 

"――にしし! すごいの見ちゃった! 明日学校でみんなと話す話題にしよーっと! ……あれ? そういえば……シンボリルドルフさんのトレーナーさんも確か半人半バ(セントウル)だったような?――"

 

 

 一番知りたいのはシンボリルドルフさんの事だったから、担当トレーナーさんの事はちょっとしか調べてなかった。

 

 パパとママがシンボリルドルフさんの事をボクが調べているって知って、この前ご飯の途中でちょっとだけシンボリルドルフさんのトレーナーさんの事を話していた。

 その内容で覚えているのはシンボリルドルフさんのトレーナーは海外で物凄いウマ娘を担当していた。そしてとても賢い半人半バ(セントウル)だって事と――。

 

"――……まさかね!――"

 

 超大金持ちの娘だって事。

 

"――でも、超お金持ちのお嬢様が自分の脚で走って、わざわざコンビニに雑誌を買いに来るかなぁ?――"

 

 『きっと偶然だろう』

 

 そう思ったボクは、ファミリアマートコラボのハチミーを手に取りお会計を済ませて一旦外に出る。

 

 

 そして店の軒下――入り口から少し離れた場所で待ちきれなくて立ち読みを開始した!

 

 最初の方にある色付きの6ページがシンボリルドルフさんの特集だった。

 内容は去年発売されていた雑誌に載ってた勝負服の写真、他には普段何しているのかとか、そんなのがたーくさん書いてあった!

 

 『お行儀が悪い! 帰って読みなさい!』ってパパに見つかったら叱られそうだと思ったけど、すぐ見たいボクは夢中になって読み続けた――。

 

"――かっこいいなぁ! ボクもこんな勝負服が着たい!――"

 

 シンボリルドルフさんの勝負服は絵本で見た王様みたいで、赤いマントが付いていてとてもかっこ良かった! そして最後のページも待ちきれないので見ちゃおうと思ってめくると。

 

 

「……あー!!」

 

 コンビニ周りで餌を探してボクの周囲をウロウロしていた数匹の鳩たちが、今の叫び声にびっくりして全部飛んで行った!

 

 その原因はシンボリルドルフさんの特集の最後のページの端っこ――!

 シンボリルドルフさんを担当している担当トレーナーさんのカラー写真が、トレーナーコメントと一緒に紹介されていた。

 その姿は不思議な色合いの髪に宝石みたいな目――さっきのお姉さんだった!

 

"――しまった!! さっきのお姉さんだったんだ! もしかしたらシンボリルドルフさんと仲良くなれるかもしれないチャンスだったのに! あーボクのバカ! ――"

 

 もっと下調べをしておくんだったー! と、ボクは悔しいがった。

 

 そして雑誌をパシッと乾いた音を響かせて閉じ、それを左小脇に挟んで持つ。

 ボクは頬を膨らませながらハチミーのチルドカップの側面からストローをはがし刺し、中身を一気に飲み干した。

 口の中に広がる味の余韻を楽しみつつ、もう一度お姉さんが話してくれたシンボリルドルフさんの事を思い出す。

 

 チャンスを逃したのはとても惜しかったけど……。

 

"――でも、どんなウマ娘か担当トレーナーさんから聞けた! やったぁー!――"

 

 ボクはスキップして歩き、飲み干したチルドカップをコンビニ前のごみ箱に捨てた。

 そして帰ってからまたじっくり雑誌を見るために、バ道を駆けてママの待っている家に向かって帰っていった――。

 

 

 




【弥生賞のアレコレ】
 前年までは弥生賞は同地開催の1600mだった。
 そしてターフの下は改修前なので水捌けは今より悪い。
 1984年にグレード制が導入され、弥生賞はGⅢになり2000mに距離も変更。国際格付けなしのGⅡにし、距離延長のみを残しました。
 あとこのレース中に史実では他馬とぶつかり怪我をしてますが、色々考察した結果書きませんでした。

 ここが史実と違う部分です。

【カノープスのあの方】
 ハワイ旅行の部分はアニメの背景(チームメンバー募集ポスター)から引っ張ってます。
 合宿形式についてはどう表現しようかな……。
 アプリ通りならアニメとアプリの設定を併用するなら、独自合宿してるチームもあるってことにすればよさそうだけど考え中です。

【ゴールドシップ号のあだ名】
 『猛獣』『浮沈艦』などなどの他『ホワイトライオン』というパターンもあったみたいなのでそっからです。


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【幕間】カレー日和と大博打

大変お待たせしました。
前半ルドルフ視点、後半トレーナー君視点です。


――20××年+1 3月後半某日 午後19時半頃――

――トレーナー寮 405号室――

 

 

 今朝トレーナー君と出会ってあいさつした際に、髪や衣服からあのカレーの匂いが微かにした――。きっとグルメな彼女の事だから前日に仕込んでいたのだろう。

 

 久しぶりにトレーナー君の作るカレーが食べたくなった私は、打合せしたいこともあった事だしそれもひっくるめて打診すべく彼女に声をかけた。

 すると『生徒会の仕事をして、さらに打合せの後に遅くに帰って寝るじゃ大変だから泊っていきますか?』というトレーナー君の提案に乗ることになった。私は外泊届けを出し簡易お泊りセットが入ったトートバッグを片手に、彼女の寮に転がり込んだという訳だ――。

 

 先に風呂も頂き、モスグリーンのシルクパジャマに着替えてから髪の毛を乾かし、ランドリーバックに仕舞って脱衣所の隅っこに置いた――。

 

 脱衣所出るとカレーを温め始めているのか廊下にもいい匂いが漂っている。そしてリビングに繋がるドアを開くと、その香りはよりはっきりと感じ取れそして私の鼻先をくすぐっていった。

 そして『お腹が空いた』と言わんばかりに私の腹の虫が小さく主張する――。

 4~5歩ほど歩いて軽く首を右に向けて見やると、その視線の先のキッチンには、シンプルなまとめ髪にジャケットだけ脱いだトレーナー君が、おたま片手に鍋をゆっくりかき回していた。

 

「先にお風呂頂いたよ。ありがとう」

 

 そう声をかけると彼女は集中していたのか鍋から視線を外し、気配に気づいてゆっくりとこちらを向いてほほ笑んだ。

 

「いえいえー。今お夕飯を温めてる所だから少しかかります。15分から25分くらい掛かりそうだから、ルドルフはソファーでゆっくりしててください。今日も1日お疲れ様です」

「トレーナー君こそお疲れ様、気遣いありがとう。そうさせてもらうよ」

 

 そう返した後私はダイニングキッチンを通り過ぎ、リビングの中央に配置された優しい色合いのコーナーソファーラグに、ゆっくりと腰を下ろし背をもたれた――軽く体重をかけると低反発素材の柔らかな感触が疲れた私の背中をそっと支えてくれる。

 

"――食事前にメールボックスなどを整理しておくか――"

 

 そう思った私はナイトウェアのポケットからスマートフォンを取り出すが、それとほぼ同時にキッチンにいるトレーナー君から声がかかった。

 

「そういえばルドルフ、私気になることがあるんですよ」

「なんだい?」

「どうして私がカレーを作ってるって昼間気付いたの? 」

 

 トレーナー君はダイニングキッチン越しに小首をかしげつつ私にそう尋ねてきた。

 

「気付いた理由は君からとても美味しそうなカレーの匂いが香っていたからだ。仕込んだ翌日の朝に火入れしていたのが付いていたんじゃないか? 君が作るカレーは一般的なカレーとは若干異なる香りがするからすぐわかるんだよ」

 

 私がそう返すと『なるほどぉ』と感心したようにトレーナー君はエメラルド様の瞳を丸くした――。

 

「ほえー……ウマ娘の嗅覚って細かいですねぇ。――ルドルフは香りで違いが分かる位よっぽど私のカレーが好きなんだね。やっぱり教えた通りの感じになりませんでしたか?」

 

 トレーナー君お手製のバターチキンカレーとの出会いは、年末年始に泊まりに来た際に出されたことが始まりだった。そのレシピはインドから進学してきたウマ娘直伝のものを、日本風にアレンジしたのだという。

 

 作り方はバターで琥珀色になるまで玉葱を炒め、野菜と合わせて軽く火を通し、市販のルーに各種スパイスを微調整で追加。そしてトマト缶とマンゴーチャツネ、前日からヨーグルトに漬けて寝かせたチキンと水を入れてコトコトと煮込んで作る。

 乳製品のコクとまろやかさ、唐辛子のパンチ力が絶妙なバランスで成立したそれはとても美味しかった。

 

 カレーというものは余程の事が無い限り不味くは作れない。

 

 しかし、それ故に飛びぬけた美味しさにもなり辛い。気に入った私はトレーナー君からレシピを教えてもらって練習したがあの味には結局近づけなかった。

 

「10回ほどチャレンジして似たようなものはできたのだけれど、どうもしっくりこなかった。どうしても食べたくなって昼にカレーを食べたのだが何かが違うし、作るにも忙しくて疲れてるしで相談ついでに君にお相伴に与るほうが楽だなといったところだ」

「まあトレーニングとか生徒会とか予定詰まり過ぎていましたしね。私も疲れてるときは外食行っちゃうし、そんな気分ならしょうがないなぁー」

 

"――しょうがない、しょうが……ふむ?――"

 

 これはいいダジャレが思いつくかもしれない! そう思った私は頭の中のボキャブラリーの引き出しをひっくり返して即席のギャグを作りあげた。

 

「ああ、生姜の効いたいい匂いのするカレーの前ではしょうがないね」

「どうしようもないシャレはやめなしゃれー」

 

 乾いた笑いがトレーナー君のいる方向から響いてきた――私のダジャレの出来がイマイチだった場合、トレーナー君は先ほどの様な反応を返してくる。

 

「定番過ぎて不発だったか?」

 

 あまりウケなかったのが残念だが、私もひねりが甘いとおもったのでまあこんな所だろう。

 

「その生姜ネタは流石にしょうもない――って私のも微妙ですね。ダジャレ考えるのって案外難しい。あ、あとできるまで数分くらいかも? 食べ終わり次第相談を受けるから、先にメール確認とかしちゃってください」

「承知した――なんとなく音が無いのもあれだからテレビをつけてもいいかい?」

「どうぞどうぞー」

 

 トレーナー君は私の方を向いて笑みを浮かべた後、また手元の鍋をかき回すため彼女は下を向いた。

 

 テレビをつけると画面にはニュースが映し出され、私たちの存在を示す音以外に新たな音が空間に加わる――。

 そして食事の前にスマートフォンで生徒会目安箱や、メールボックスの内容を確認し自らのポケットに仕舞うと――。

 

「そうだそうだ! 大事な事忘れてた!! ルドルフ、イギリス行きの話なんですが、皐月賞後に飛行機のチケット押さえていいですか?」

 

 

 食器を取り出す音をキッチンから響かせながら、トレーナー君が遠征について話題を振ってきた――。

 

 

"――もうそんな時期か――"

 

 薄型テレビの右横に掛かるカレンダーを見ると今日は3月末日――。

 

 来月4月半ばに『皐月賞』、5月末に『日本ダービー』、そして7月末に女王陛下の庭(アスコット)で行われる『King George VI & Queen Elizabeth Stakes(キングジョージ6世&クイーンエリザベスS)』。

 

 今年は遠征があるので現地調整の都合上、夏合宿は出来るだけ準備をし生徒会は副会長の2人に任せるつもりだ。そして2週間以上前からニューマーケットに入り、ウォーレンヒルで最終調整を行ってから、シニア級だらけのヨーロッパ中距離王ウマ娘決定戦である7月末のレースに挑むことになる。 

 

「ああ、それで頼む。――そういえば、向こうにいる間の拠点は決まりそうかい?」

「知り合いがニューマーケットに持ってる家をウィークリーで借りたいけど、だだ……」

「ただ?」

 

 トレーナー君の言葉の歯切れが悪くなったので、キッチンの方を向くと彼女は八の字に眉を寄せ困り顔を浮かべていた。

 

「家具も揃ってて着替えと食料を持ち込むだけのいい条件で、静かな立地で文句なしなんです。でも、害はないけどリビングで遊ぶ子供の幽霊が出るそうでして……ここ以外となるとホテルで外食三昧か、不便な物件しか無く……」

 

"――はは! イギリスといえば幽霊が出る物件の方が人気と聞くが、まさかの幽霊か!!――"

 

 意外な事で思わず私は鼻で笑ってしまう。無邪気に遊んでいるだけの子供の幽霊くらいじゃ全く怖くない。寧ろ話のネタに見てみたいくらいだった。それに外食三昧よりは土地の食品を使って料理をしたりしたほうが気分転換にもなるだろう。

 そう思った私はトレーナー君に微笑み返し――。

 

「ただ遊んでいるだけの愛らしい子供の幽霊なら問題ないんじゃないか? イギリスの物件にはそういった憑き物が付き物というし、外食ばかりというのも飽きてしまいそうだからそこで構わないよ」

 

 コンロの火を止めた音がキッチン側から響きそれが私の両耳に届いた。そろそろ出来上がりだろうかと思って配膳の手伝いを申し出ようとする前に――。

 

「おや? 今のダジャレは絶好調ですね。なら滞在先は決定ということで、先方に伝えて押さえておきます。あ、サラダとか運ぶの手伝ってください。そろそろお夕食ができますよ」

 

 申し出る前にトレーナー君から頼まれてしまった。

 私は『承知した』と返し台所に向かうべく腰を上げると、キッチンの方から炊飯器を開ける音が響き、炊きたての香りがこちらまで漂ってくる。

 

 そんな美味しそうな夕食の気配に包まれる空間の中、私の気分は高揚していった――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

「ご馳走様。とても美味しかったよ」

「はーい。――そういえば私に話があるって言ってたけど、どんな内容ですか?」

 

 2人で食器を片付けている途中、キッチンに向かうルートの前を歩くトレーナー君は、少し離れた後ろを歩く私を振り向かず私に尋ねてきた。

 

「女王の庭についての相談だ。特にKeith・Castrum(キース・カストルム)が担当しているFunctio(ファシオ)というウマ娘がキングジョージに参戦した場合を君は想定する?あまりに規格外過ぎて一人で考えるには手に余った――意見が聞きたい」

 

 シンクの中に置いてある水の張られた洗い桶に浸けようと、私から食器を受け取ったトレーナー君の動きが止まった――。

 

 そして食後のリラックスした彼女の表情は、仕事に真剣に取り組んでいるときの雰囲気に一変した。

 

「なるほど――その件についてはきちんと話をしなければいけないと思っていました。食後のお茶を淹れてくるから少し待ってください。お茶は何が良いですか?」

「そうだな。ほうじ茶があれば。食器を洗って食洗器に入れておくから、君はお茶を」

「ありがとう! 助かります」

 

 馳走になって何もしないのは良くない。そう思った私はトレーナー君がキッチンの端でお茶の準備をしている傍ら、シンクに浸けられている食器を予洗いして食洗器にセットするため、軽く腕まくりしてからスポンジと洗剤に手を伸ばした――。

 

 

 ――15分後。

 

 先に洗い終えた私から遅れてトレーナー君がジャガイモ柄のマグカップに入った、ほうじ茶を両手に2人分携えて戻ってきた――。

 

 テーブルの上にそのマグカップがふたつ置かれる。マグカップの口からは香ばしい匂いと、白いモヤがたなびき立つ。

 トレーナー君は『説明道具取ってくる』といって書斎に向かい、タブレットをもって戻って来て彼女は私の右隣に座った。

 

「お待たせしました。まず、アスコットで走るうえでの最重要注意点は簡潔に述べると――良バ場以上の堅良で相手が逃げた場合無理に追うのは、選手生命的な意味で自殺行為だという事。それを頭に入れておかねばなりません」

 

 いきなり物騒な注意が飛び出したので私は目を丸くしトレーナー君を覗き込んだ。

 

「――というと?」

「そうですね……ルドルフはイギリスの有名な観光名所White Cliffs of Dover(ドーバーの白い崖)が何で出来てるかご存じですか? これですね」

 

 トレーナー君が『Goggles』で検索して見せたのは、青い海から突然白亜の城壁の様に立ちはだかる断崖の映る風景写真だった。

 そこは有名な観光名所で地理学のテストにも出る。そのため私も知っておりすぐ答える事が出来た。

 

「確か石灰岩と硬い石英の類とか教科書で見たな――説明を続けてくれ」

 

 White Cliffs of Dover(ドーバーのホワイト・クリフ)――。

 イギリスの南側に広がる高さは約100m以上の垂直な未固結の石灰岩の断崖であり、イギリスの別名であるラテン語で白を意味するAlbion(アルビオン)の由来はここから来ている。イギリスを侵略者から守る世界有数の天然の要害だ。

 

「アスコットの路盤は石灰質な土壌も含む。良バ場以上の硬さは日本のと比べればコンクリートの上を走らされているようなもの。自分の限界をきちんと考えないと脚が一発で故障なんてこともあるんですよ。それでも戦えるように良バ場以上用の靴は既に履きならして貰っていますが、ツールに対する過信は禁物かと」

 

 アスコットやロンシャンに使われている洋芝は水仙の葉程ではないが、細めのニラのように幅広の葉で滑りやすい。そして茎と根が糸くずを丸めたようにめぐっており深くてフカフカしている。

 だが一見クッションが効いてそうで美しい緑の下は整地のされていない荒野――Heath(ヒース)だ。

 トレーナー君の説明や経験上から叩きつけられる脚に、カチカチに固まった地面の上を走るような感触が伝わるのが想像できる。

 

 日本のレースが競技としての完成形を目指しているものであるならば、英国のそれはウマ娘の原点――生きるために原野を走り抜くための力を試される。それが私が挑もうとしているレースだ。

 

「よそ者である我々の英国レース攻略を阻むのはイギリスを守る石灰岩というわけか。しかし年間を通して曇りがちで、英国などでは良以上になれば水を撒くと聞く――そんなに硬いバ場になるだろうか?」

 

 日本と降水量はほとんど変わらないが、曇りがちなロンドン郊外。あちらでは良バ場以上になれば必ず水が撒かれるはず。そう思った私はトレーナー君に疑問を投げかけた。

 

「今まで私たちはその異例続きです。例えレース日の朝に水をまいたとしても石灰質の土壌は乾くのも早い。科学的根拠というより、2度ある事は3度目があるような気がします」

「つまり『水先案内人』(トレーナー)としての勘か。確かに不良バ場のメイクデビューといい、春先の低温といい確かに3度目のまさかを警戒する必要はあるか――他に意見は?」

 

 トレーナー君はほうじ茶を少し飲んでから目を細めてうーん……と唸って――。

 

「そうですね。ルドルフは『ラビット』については御存じですか?」

「無論。『ラビット』は同僚の為にペースメーカー役を担う出走者だろう? 日本の黄道十二宮の杯を巡るレース(チャンピオンズミーティング)などチーム戦の作戦上でも見られるものだったか」

 

 チーム戦では作戦の範囲でラビットはOKとされているが、個人戦となるトゥインクルシリーズでは『勝つ気のないウマ娘』が出ていたら失格となってしまう――。

 しかし凱旋門をはじめとする海外のビッグレースでは、個人戦にもラビットを担った者が出てくる。同じ学園、同じ国同士、もしくは同じチーム同士の中から選ばれているのでラビットがいるかどうかは出走プログラムを見ればすぐにわかる。

 

「ええそうです。では問題ないようですので続けます。ラビットは逃げてペースを作ることが殆どなんですが、ストライドが大きく末脚の強力な出走者がいると逃げないことがあります。こういった場合無理に先頭を取ってはいけません、ラビットらしき出走者が逃げない場合は相手は差すつもりなので脚を残すようにするのがいいですね。うちをマークしてれば他陣営にそういった動きもあるかもしれません」

「あちらはペースをハイ寄りに作る分差しが有利だから、差し脚に自信が無ければ前を泳がせて削ってくるという訳か……なるほど。」

 

「そうです。そして最終直線で伸びるために気を付けなくてはいけないのはバ場状態。そしてアスコットの場合はまずスタート地点から最初のカーブのところまでの坂下と、ゴール手前の最終直線などの坂の上の方のバ場は状態が違う事が多いです」

「スタート地点が坂下になるので水が溜まって重くなるという事だね? ではそれを踏まえ位置取りをするならば、スタートからの下りから迎える最初のコーナー部分ががまあまあ水平だったかい? 足元は重いがここで状況を見ながら出来るだけ良い位置をとるのが良さそうかな?」

 

 私はほうじ茶の入ったマグカップを手に取りひと口含み、少し乾燥気味だった喉を潤わせながらトレーナー君の反応をうかった。

 

「そうですね、それが良いと思います。そして最終コーナーまでの坂の途中で位置を上げるならば、下より乾いている坂の真ん中以上からでしょう。これだけタフだと最終直線を向いたころにはほぼ全員の選手の脚が上がってしまうから、本命と思われる子にスイスイ前を行かれ過ぎて、差をつけられすぎていると勝てなくなります」

「なるほど、そして英国ダービーの前年度覇者、Functio(ファシオ)。彼女のクラシック以降の複勝率は100%。そしてその戦法はかなり前目の先行策。最近連対を外しているとはいえ、もし同じレースに出ていたらマークはこの選手で問題ないかい?」

 

 トレーナー君は真剣な眼差しのまま深く二度ほど頷いた。

 

「ええ、出てるなら絶対にFunctio(ファシオ)をマークです。今までのデータ見る限り、相手の作戦はスタートダッシュした後先陣を切るラビットを前に行かせ、その後ろ2番目くらいに道中はつける。最終コーナー回ってから、彼女のずば抜けたスタミナとパワーに任せて一気に抜けてくるんじゃないんでしょうか? それを読んで勝ちに行くならば、コーナー曲がる前にピタっと3番手くらいに居て、良い所を走ってぶち抜いていくとかですかねぇ……」

「となると肝は圧倒的なパワーとスタミナが鍵となるか。坂かつ500m程と長い最終直線で追い抜くため、並々ならぬ体力とパワーが必須と?」

 

 トレーナー君は『うんうん』と言いって頷き、手に持ったままのマグカップにゆっくりと3秒ほど口付け中身を飲んだ後、彼女の表情は少しリラックスした雰囲気へと移り変わった。

 

「外ばかり見てしまうのは気が早いですが、結局東京とか中山を足し算したコースにタフさを追加したような感じですし、海外向けのトレーニングで国内向けも対策しちゃっていいと思います。明日から対西洋G1に向けた新メニューをやれるので、それで対策打とうかなと言ったところです」

「私の実家でやっていたメニューを参考に作ったトレーニングかい? 並走相手の確保は難儀だったんじゃないのか? というより、よく引き受けてくれる者を見つけたね」

 

 そう尋ねるとトレーナー君はニヤっと笑ってと得意顔を浮かべた。

 

「難儀しましたよ。でも、色々あっていい並走相手見つける事が出来たから楽しみにしててください」

 

"――昨日までトレーナー君が食欲を失っていたのはそういう事か――"

 

 昨日までお粥やうどんなど消化にいい食べ物ばかり食べていたのが気になっていたが、そういう事かとふと納得した。あまり食べないなら少量でも栄養になるものを食べさせるために差し入れをしようかとも考えたが、今の表情と先ほどはしっかり食べていた様子から大丈夫そうだと私は胸をなでおろす。 

 

「随分と自信ありといった様子だね。ふふ、君が連れて来てくれる相手が誰だかは敢えて聞かず、楽しみにしておくよ。――おっと、こんな時間だ」

「そろそろ私もお風呂とか入ろうかなー質問は今ので十分ですか?」

 

 薄型テレビの上の木製縁の丸い壁掛け時計を見ると時刻はかなり遅くなっていた。

 右隣に座るトレーナー君はまだメイクも落としていないし着替えもしていない。特に今する必要のない内容しかない上に、これ以上引き留めたら彼女の就寝時間がどんどんひっ迫してしまう。

 

「ああ。十分だよ。遅くまでありがとう、カップは片付けておくから君は入浴へ行っておいで」

「ありがとう。いってくるね!」

 

 そういってトレーナー君はカップの中身を飲み干すとテーブルの上に置き、軽い小走りでお風呂場に向かっていった――。

 

 私はそれを見送った後スマートフォンをテーブルの上に置いて、自分の分のほうじ茶を飲み干して、空になった2人分のマグカップを手にキッチンへと向かった。

 

 

――20××年+1 3月後半某日の翌日 午後13時半頃――

――旧第3グラウンド 外周 アップダウンヒルコース――

 

 草木の芽吹く土の香りに季節柄を感じる――今年は冷え込みのためまだ桜の開花は遠い。

 

"――去年の同じ時期にルドルフと2人で走ったんだっけ? 月日が経つのは早い――"

 

 外周の外ラチ側に私は立って、計測ポイントから送信されてきたデータをタブレットに記録されていくのを眺めている。

 

 そして外周の右奥から地面を叩く音がだんだん近づいてきて、私の目の前をルドルフとタイキシャトルが通過していった!2人が洋芝が敷き詰められたターフの急坂を全速力で切っていった風により、私の前髪が時間差でふわりと揺れる――!

 

 そしてそのしばらくしない内に、右奥のコースからゆっくりと駆けてくる存在をちらりと確認すると、ジャージ姿のマルゼンスキーが息を軽く切らせながらこちらに向かってきていた。

 

「ひー……逃げるの大変だったわ! あの子、ルドルフは一体どこまで成長するのかしらね?」

 

 ルドルフと前半並走していたマルゼンスキーが傍に来て、私の右側の足元に置いてあったクーラーボックスからドリンクを取り出そうとしゃがみこんだ。

 

「3女神のみぞ知るといったところでしょうか? お疲れ様です」

 

 私は笑みを浮かべ、かなりヘトヘトになったマルゼンスキーを迎えた。

 タイキシャトルとマルゼンスキー、この2人が私と一緒にいる理由は3日前に遡る。

 

 ひとりでトレーニングさせるよりは、誰かと並走してペースを作ってもらうほうがよりいっそう実戦に向くだろう。そしてただ並走するのではなく、ルドルフが実家で行っていたトレーニングのアイデアを拝借しようと私は考えた。

 

 ヨーロッパのレースはラビットが出る関係で淀みないペースで展開される。日本の展開とは違うその状況で、好位を維持して追走するにはなれる必要がある。

 それを意識したルドルフの両親は砂利の道、坂道、そして並走相手を前半走る子と途中から入って後半走る子の2人にしてずっと落ちないペースで並走させるトレーニングをさせていた。

 

 ペースが変わらない展開にも慣れそうだし、タフなトレーニングで良さそうだと思ったわたしは、ルドルフからそれら聞いて、じゃあ旧第3グラウンドに作った上級トレーニングコースでその並走をしたらいいんじゃないの? という事を思いついた。

 

 まずいきなり上級コースはきついから普通の野芝のグラウンドで並走トレーニングを行い、徐々に難易度を上げようと思って実行に移すもまさかのトラブルが発生。

 なんとルドルフと並走をした相手のウマ娘の心が折れてしまいかけるという事件が多発した。

 

 ルドルフ本人曰く昔からよくあったそうなのだが、まさかのトレセンの生徒相手ですら委縮させてしまうとはと流石に頭を抱えた。

 ならば実力が上のウマ娘に! となるのだが……そもそもルドルフの実力に拮抗できる可能性があるのは上の学年の子達しかいない。その上に学園に来て間もない私にそんな都合の良いコネはまだない。

 

 どうしたものかとカフェテリアでプリンアラモードをスプーンで突きながら考えていたら、思わぬ手助けが入った――。

 

 様子を見かねた東条先輩が声をかけてくれたのだ!

 素直に悩んでいる事を相談すると、東条先輩は担当している子と合同トレーニングすればいいと快く協力を申し出てくれた。

 しかも合同トレーニングに来るのはスポーツカーの異名を持つマルゼンスキーと、デビュー前だがその恐ろしさは身をもって体験したことがあるタイキシャトルだ。

 

 そんな心強い援軍を得たのだが、東条先輩は他に担当している子の突発的な用事で今日は出れなくなってしまった。そのため本日の合同トレーニングは私に一任となり今に至る。

 

「あ、これ美味しいわね! ねえ、何のドリンク?」

「うちが出してる新作ドリンクです。東条先輩了承の下今回お試しで出してみました」

 

 マルゼンスキーが美味しそうに飲んでいるのは、桃フレーバーのスポーツドリンクで、さっぱりとした飲み口が春先に合うだろうとコーディネートさせた商品だった。

 

「へー。これ、気に入ったわ! もし他のフレーバーもあれば試したいんだけど、試供品とかカタログはある?」

「4日ほどお時間いただければご用意できますよ。準備が出来たら届けますね」

「ありがと! 楽しみにしてるわね!」

 

 ルドルフとタイキシャトルがゴール地点に到達したためタブレットの通知音が鳴った――。

 

 私のすぐ傍でドリンクを味わっているマルゼンスキーというウマ娘は、ルドルフよりも先にデビューしていた。彼女はメイクデビューを大差で勝利し、中山の1200mをその年のスプリンターズステークスのタイムより早く駆け抜け、朝日杯をレコード勝利。

 

 そしてジュニア期もクラシック期の春も常勝無敗――マルゼンスキーは圧倒的に強かった。

 

 しかし――そんな怪物マルゼンスキーはダービーに出られなかった。

 

 その理由は国内の選手の保護という名目で、今も続いている事だが、両親の内または本人海外出身のウマ娘はダービーをはじめ国内の一部重賞レースに出られないというルールが原因であった。

 

 そして3日前に初めて知ったのだが……私が学園に来た当初から付かず離れずの距離で、東条先輩やマルゼンスキーは色々援護してくれていたらしい。それは私にシンボリルドルフのサポートに徹せるためであり、折角変わりそうな風向きを変えない為であったという。

 

 カフェテリアでその話を聞いた私は、知らない間に重たい状況打開を追加で背負わされかけているという衝撃的な事実に対し、内心驚きながら目を丸くしてしまった。

 まあそれはともかく、ルドルフって皆からいろんなものを背負ってるなぁと、そんなことを考えながら片手で後頭部をかきタブレット操作に戻ろうとした時――。

 

「――!」

 

 タブレットに転送されてきたデータを見ようとしたと同時に、誰かの声と背中辺りに衝撃が走った。

 体重が乗っている所為でめちゃくちゃ重い! ――そして明らかに自分より図体がデカい! 大体正体の予想がついているその存在は、思いっきり私を背後から抱きしめている!

 

 冗談抜きに潰れそうだった!

 

「タイキ潰れちゃうよ! あとトレーニング中! こらダメ!」

「No!!!! 最近スキンシップに飢えてるんデス! ワタシは頑張ったんデスからもう少し!」

 

 タイキシャトルはまるでお気に入りのテディベアを抱きしめるかのように、私を持ち上げて頬を摺り寄せている。

 アメリカにいた頃のタイキは私より小さかったが、日本で再会した時には見上げるほど大きくなっていた。だけど当時のままの気分でこうしてスキンシップをはかろうとするので堪ったものではない。

 退路を探すも完全に背中側から抱きしめられていて、これは寂しがり屋のタイキが満足するまで剥がれないかもしれないと諦めかけていたその時だった。

 

「ふふ、元々友人同士と聞いていたが懐かれているね? タイキ、トレーナー君プロデュースの新作ドリンクだそうだよ? 一緒にどうだい?」

Wow, that's really awesome!((おー、それはいいですネ!))

 

 ルドルフがタイキ用にドリンクとタオルを両手に持ち声をかけてうまくタイキの気をそらしてくれたお陰で、タイキの興味は新作ドリンクに向かい私はそっと解放された。そしてタイキによる激しめのスキンシップで乱れた髪――今日は手抜きで低い位置でひとつ結びにしているヘアゴムを髪から抜き取り、タブレットを小脇に挟みながら髪を簡単に結い直した。

 

「一旦軽い休憩を挟んで、また並走しましょう」

 

 そう私が告げると『承知した』『イエース!』『ほいほーい』という三者三様な返事が返ってきた。

 ルドルフはタイキシャトルにドリンクボトルを渡し終わった後、自分のドリンクと芝の上に置いていたタオル片手に私の方に歩み寄ってきた。

 

「承知した。トレーナー君、先程の並走データーを見せてくれるかい?」

「この画面が先ほどのトレーニング内容です。どうぞ。練習後に全員のLEADへもデータを送ります」

 

 ルドルフは私の右側からタブレットを受け取りデータを確認し始める。マルゼンスキーもルドルフの右肩越しに画面を覗き込んで『今どきは便利ねー』といい、ルドルフとデータについてあれこれ話し合い始めていた。

 

 そしてドリンクが余程美味しかったのか、満足げな表情を浮かべていたタイキシャトルはがルドルフとマルゼンスキーの傍に近づいて、ルドルフが持つタブレット画面に表示されたデータを、ふたりよりも高い目線からチラリと軽く覗き込んだ。

 

 けどれどもすぐに飽きたのか、タイキは私の空いている左隣に寄ってきて、またちょっかいを出そうとしているのが表情や仕草から伺える。寂しがり屋のタイキを構ってあげないのは可哀想だけど、今は休憩しているとはいえトレーニング中。心を鬼にしてちょっとその場を離れようとするとすっとタイキが横に来る。構えないという態度を示すため、私がスマートフォンをいじってメール確認をしているフリをすると、タイキ自身の頬を膨らませながら私の左頬を人差し指で餅でも突くかのよう2回ほど突いた。

 

「××××××ー、アナタは今日走らないんですカー?」

 

 タイキの言う××××××というのは私の名前をもじったあだ名――タイキやディーネなどアメリカで出会って親しくなった者が呼んでいる。このあだ名はギリシャ語だと『聡明な者』という意味を持つそうだ。

 

「流石にそれは無茶だよタイキ。お互いアメリカにいた時ならまだしも、もう私では役不足でしょう?」

「でも、ディーネとは一緒に走ってましたよネ?」

 

 ちらりと左側を見ると、私の頬を突くのをやめて腕を組んでジト目をしているタイキがそこ居た――『ワタシとは走ってくれないの? 期待してたのに!』といった心の声が今にも聞こえてきそうなくらいかなり不満げだった。

 

「? ねえ、貴女がディーネを担当してた時ってまだ10代前半そこらよね?」

「それは私も気になった――いくら君が半人半バ(セントウル)でも幼過ぎる。どういう事なんだい? しかも相手はダービーウマ娘だろう?」

 

 振り返るとマルゼンスキーとルドルフが今のタイキシャトルの発言をきいて、耳もこちらに向いた状態で『それは気になるので話せ』という圧力をかけている2人の様子が見て取れた。

 

「どこから説明すればいいのやら――うーん、ルドルフはディーネの経歴で特徴的なとこって覚えていますか?」

「確か……日本でいう所の4冠、スーパーフェクタとあとは……」

 

 タオルを自身の首にかけたルドルフはドリンクボトルを片手に腕を組み、考え込むように首をかしげて上を向いたり下を向いたりして思案した後、ウマ耳を大きく一度パタリと動かしたあと両耳を前に向けた。

 

「ダービーまで上手くコーナーを曲がれなかった――これで正解かな?」

「正解です」「え、それってどうやって走ってるのよ!?」

 

 それを聞いたマルゼンスキーは耳と尻尾の毛が驚きで逆立たせて目を丸くし、ルドルフは軽く目を見開いた。

 

「そりゃコーナーを直線の組み合わせでカクカク曲がる感じになっていましたよ。なんなら最初は直線すらまっすぐ走れずにジグザグ走行でしたから」

 

 そう返すとマルゼンスキーは訳が分からないといった表情で目を丸くして絶句していた。まあ無理もない、状況次第では斜行でアウトだし、その所為で最後方からのレースを組み立てなきゃいけなかったのだから――。

 

「話を戻すとディーネはダービー前日まで呪われたかのように曲がれなかったんです」

 

 私が以前担当していたウマ娘は『曲がれない呪いに掛かっている』と言われていた。

 並外れた心肺能力に恵まれたウマ娘ディーネ――彼女はそれを武器に意気揚々と名門のルイビル校へと進学してきた。

 

 ところが折角本格化の兆しが見えた途端、ディーネはコーナーを上手く曲がることが出来なくなってしまった。それを治そうと腕のいいトレーナーや教官が指導に入ったものの全く改善される様子が無く、折角入学できたのに担当してくれるトレーナーすら捕まらず学園を去る他なくなってしまった。

 

 諦めたくなかったディーネは入ったばかりの私をトレーナーにする事を思いついた。そして晴れてトレーナーとなった私はその状況を打開するために、ありとあらゆる手を使ったが――。

 

「ダービー前日まで当人と徹夜で曲がる方法、もしくは別の方法を考えたんですが、結局私たちは寝落ちし――起きたときにはタイムリミットが24時間を切っていて流石に焦りました。そしてこれだけはやりたくなかったんですが、最終手段として自分の命を賭けるような手法を行う事を覚悟をしました」

 

 命を賭けた――その言葉から、ルドルフは何かを察したのか目をさらに大きく見開いた――。

 

「……内ラチ側にディーネを走らせ、ハンデを工夫してコーナー突入時、君がその外を走るようになるようにして矯正したとか?」

 

"――ルドルフ鋭い!――"

 

 前々から賢いとは思っていたけど、ここまで察しが良いとは思わなかった私は面食らった。

 

「そうです――そして、誰かが真似すると危険なので『本当の詳細』を公表したことはありません」

 

 万一曲がれなければディーネは怪我をするかもしれない。そして当時ディーネより小さかった私は確実に重症を負うことになるだろう。

 だからこそ矯正手段として思いついていても、他のやり方を試し尽くしてからでないと出来ない事であった。

 

「――自分が担当するウマ娘を信じたからこそ君は賭けたのか?」

「それはどうでしょう? 正直なところやっぱりやるのは色々と怖かった。この判断の所為でディーネが怪我するリスクはあるし、私もただでは済まなくなる。そして誰かにこんな事やらせるわけにもいかないし、じゃあ何もしないでぶっつけで挑んで負け戦になる位なら腹を括ろうって滅茶苦茶な理屈でした。でも、あの子と私は賭けに勝った――」

 

 ディーネが私と並走した瞬間ものすごく怖かったのを覚えている。

 

 恐怖で一瞬だけぎゅっと目をつぶった後、いけないと思って見開いて彼女の姿を確認した。その後ろ姿のディーネはコーナーを膨らまずに、はじめて曲がれていたのだった――。

 

 危険な事をしたので当時生徒会長だったウマ娘や理事長から私とディーネはこってり絞られたが、ディーネは自分の限界に打ち勝った――そして翌日のダービーに勝ち名声を手に入れた。

 

「タイキがディーネの時は並走してたって思いこんでしまったのは、真似して事故が起こることを防ぐため、当時の理事と生徒会の緘口令によりメディア向けについた嘘が由来でしょう。ディーネとトレーニング目的で並走をやったのはあの1回なんですよ。あとは私の運動不足は良くないって事で、流すときに一緒に走ってたくらいだけなんですよ」

「オウ! そういうコトだったのでしたカ! 確かにそれを聞いて真似する子がいたらそれはベリーデンジャラス! それはやむを得ないですネ!」

 

 タイキは両手で頭を抱えて驚いた表情を浮かべていた。この話は親しい友人であるタイキにもしていない――。

 

懸崖撒手(けんがいさっしゅ)か。前人未到を成すには時にはそういう決断も必要ではあるが、あんまり無茶をしないでくれよ?」

 

 ルドルフのほうを向くと、彼女はかなり心配そうな表情を私に向けて眉をひそめていた。

 

「わかったと言いたいところですが、取れる手段は全部取るので何とも言えないです。だけどそんな風に困ったらルドルフにきちんと相談するので安心してください。――さあ、そろそろまたトレーニング開始しましょうかねー」

 

 出来ない約束はしない――。

 

 私がやるべきことは担当した子の目標を叶えることだから、その為なら出来ることは何でもするし時には博打に出る必要もある。

 そんな風に私の事を大切に思ってくれるルドルフの気持ちは嬉しいけど、心配性し過ぎてしまう彼女のスイッチが入る前にわざと話を切り上げた――。




次回は皐月賞になります。
レース回で時間がかかることが予想されますが、なるべく早めに仕上げられたらなと。

【いつもの解説もどき】――読み飛ばし可
◆実際の日本の競馬の規約――競争する気が無いのにレースに出て良いの?

 結論――ダメです。
 参考元は『日本中央競馬会競馬施行規約』
 第6節 出走馬――出走について
 第41条 『競走に勝利を得る意志がないのに馬を出走させてはならない』

 トゥインクルシリーズは日本の一般的な競馬から来てると思うんで、この辺りのルールは踏襲されてる気がしたので演出用に採用。ウマ娘公式では特に何も言われてないのでオリジナル設定です。

 ウマ娘にももしあるとしたら……。
 第6節 出走者――出走について
 第41条 『競走に勝利を得る意志がないのに選手を出走させてはならない』

 こんな感じですかね。

◆ラビットとは?
 差し馬を有利にさせたいときに出したりする。
 あと他にいい効果があるとしたら、縦長の展開に持ち込むことで団子状態にならないようにし、本命が馬群から抜けやする。

 ラビットのNG行為
 他の出走馬の進路を塞いで邪魔をしてはいけません。
 あとペースを作るまでは許可されてますが味方に進路を譲ってもダメ。
 などなど、状況によりペナルティが存在します。


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『0415-44』獅子と陰月に皐月女神の祝福を

大変お待たせしました。史実 皐月賞モデルのお話です。

いつもの出走者紹介

【挿絵表示】

最初トレーナー君視点。控室~レーススタート直後までルドルフ視点、そしてレースはトレーナー君視点で、後日談はルドルフ視点です。



――20××年+1 4月15日 10時45分頃――

――中山レース場 スタンド内 土産物屋付近――

 

 GⅠレースが開催される日だけあって、本日の中山はどこもかしこも――――

 

 人、人人

   人、人、ウマ娘ウマ娘、人人、ウマ娘ウマ娘ウマ娘

       ウマ娘、ウマ娘、人人ウマ娘、ウマ娘、人人人、ウマ娘

 

  人人、ウマ娘――そして……。

 

 一見すると人間に見える半人半バ(セントウル)の私は、ルドルフから頼まれたお使いと自分の用事を果たすべく、人口密度の高すぎるスタンド内を徘徊して目的地である売店に来た。

 ルドルフから頼まれたのは食事の調達で、私自身の用事は留守を預かる生徒会の3役以下のウマ娘達へのお土産だった。

 

 なにせ今年は遠征などでルドルフは学園を空けがちになる。ルドルフ個人からのお土産もあるとはいえ、一介の担当トレーナーならまだしも私がここのスポンサーかつ、資本家なのは既に学園に知れ渡っている。そんな状況かつ、ルドルフのサポートを考えるなら、配らないより配ったほうが良いに決まっている。

 そのため副会長の2人と他の生徒会の子達には特に気を使っておく必要があり、負担をかける分アフターケアは怠れない。レース後や帰る間際だとしっかり手土産の内容を吟味できないだろうと考え、今のうちにと買い出しに出かけて来た。

 

 そして目的地に着いた私は学生さんたちは何が喜ぶだろう? などと考えながら中山レース場の土産物店に入った。

 店内にはウマ娘グッズや、千葉の地元のお土産があふれている。その中で商品を吟味しながら棚と棚の間を縫うようにゆっくりと見て回っていると――。

 

『――。――――』

『――――。――――、――――――――――』

『――』

 

 しばらくして聴覚の鋭いウマ娘でなくても聞こえる大きさで響くその耳障りな会話内容――。

 私が商品を吟味している棚を挟んだ向こう側の右前で繰り広げられる噂話には、私への悪意が含まれていた。

 

 その内容は運がいいだけのトレーナーやら、親の七光りなどなど――それらの暴言を聞こえる位置から耳に入ったのは随分と久しぶりに思える――出る杭は打たれるとはよく言ったものだ。

 

"――ルドルフの人気に伴い、私の存在も関係者以外に意識されはじめているって事だろうか?――"

 

 ダークサファイアの様な輝きを放つ黒髪に、エメラルド様の瞳という目立つ容姿なのだから隠れようもなく目立ってしまう。以前の担当だったときも、これ見よがしに悪意のある言葉を浴びせられることはなくはなかった。

 

 理不尽ではあるがそれに心を痛め、とらわれていても仕方ない。

 ルドルフは弥生賞で皐月賞レコード並みの結果を出すなど頑張ってる。私も彼女を支え続けるためには強く居続けなければならない。

 

 トレーナーとして、導くものとして、もっと、もっと先を、ルドルフのいく先を照らすように――私は担当しているウマ娘の羅針盤だ。

 

 この頃は以前よりブレたりせずにそう思えるようになっている。

 きっと以前の私ならば気持ちに整理が付かず多分悩んだだろうが、そうならなくなってきたのはルドルフをはじめこの学園での出会いが大きく私を変えているからかもしれない。

 

 好き勝手に人の噂を囀る集団の言葉を思考からシャットアウトした。

 そして学生の間で流行っていると聞く船橋市非公式キャラクターの『ふなはっしー』とのURAコラボ商品のお菓子類を、いくつか取ってそっと買い物カゴへと入れる――。

 

  ◆  ◇  ◇  ◇

――20××年+1 4月15日 11時5分頃――

――中山レース場 シンボリルドルフ控室――

 

"――まだ食事前だし着るのは早いが……――"

 

 更衣室内の一角。

 カーテンに囲まれたフィッティングスペースに勝負服の一式をかけ、その傍にジャパンモデルの勝負靴をしゃがんでからその傍に置いた。そして立ち上がった私は秒針の音しか響かない空間の中、心の内を歓喜で満たしながら真っすぐに本日初めて実戦で袖を通す戦装束と向き合った。

 

"――この日をどれだけ待ち望んだことか……!――"

 

 そんな期待を大きく吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出す――。

 

 春先の低温で芝の生育が遅れたお陰で、私の初GⅠ戦となる皐月賞のそのターフは弥生賞時には茶色一色だった時よりも緑がちらつき、十分すぎるくらいの良バ場となった。昨年の冬から続く異常な低温には色々と心配ごとで頭を抱えさせられたがこの状況は大変ありがたい。

 

 横長の楽屋鏡の上の壁に掛けられた、シルバー縁のシンプルな丸い時計は11時10分を示していた。

 

"――ついでの用もあると聞いていたが、遅いな――"

 

 トレーナー君に食事の調達を頼んだのが少し前になるが、帰ってくるのが遅い気がする。

 

 基本的に彼女は真面目で時間を守るタイプだ。そして半人半バ(セントウル)かつ財閥の護衛が付かず離れず隠れて見守っている。その彼女に何かあるというのはほぼあり得ない。

 

 しかし、それでも帰還が遅れるトレーナー君の身が心配な私は、通信アプリLEADに連絡を入れるべきか悩んでいたところ、ドアの向こうから微かに響いてくる駆け足の様な足音を私の両耳はしっかり捉えた。

 

 音の響き方からしておそらくトレーナー君だろう――。

 

 彼女の存在をはっきりと示す軽快なリズムで響くその足音はドアの前で止まり、ドアノブが回る。そして予想通り部屋にしおらしく入室してきたトレーナー君の頬は、メイクの上からでもわかる程綺麗な桜色に上気して、おなじみの三つ編みシニヨンヘアーからは、春の野に自生するツクシのようにアホ毛が所々飛び出していた。

 

「すみません遅れました!」

「お帰り。無事に帰ってこれたようで何よりだよ。メディアにでも捕まっていたのかい?」

「ええ、すこしばかり。いまご飯温めますね」

 

 そういってトレーナー君は買い物袋の中からお弁当を取り出し手早く温め始め、手持無沙汰になった彼女はハンガーに掛かった勝負服に気付いた――。

 

「そういえば今日は勝負服の日! ついにGⅠ! すごいなぁここまで4戦ですよ4戦!」

「ここまでスムーズにいくとは思わなかったが、今日を含めてもダービーまで5戦コースなら最小キャリアで行くことになるね。――ところで、お弁当は何だい?」

「おにぎりとさっぱりしたうどん類をいくつかとフルーツ。あとレースまでの補充用にニンジンゼリーはこれとは別に持ってきています」

 

 きちんと炭水化物を中心に選んできてくれたようだった。『適当で頼む』と任せていても、抜かりなく手配してくれる彼女の細かいケアには常日頃感謝しかない。

 

「ありがとう。君のお弁当は何にしたんだい?」

「サンドイッチですね。ゲン担ぎにカツサンドも含めてみました」

 

 トレーナー君はそう言って左側の肘にぶら下げた袋からカツサンドを取り出して見せ、私の右隣の席にサンドイッチをいくつか取り出して置いた。そして私の前にもおにぎりやフルーツ、食事に必要な箸や使い捨てお絞りなどを配ってゆく。

 

「ふふ、カツを食べて勝つという事だね?」

「そう来ると思いましたよー。ギャグも絶好調、レースも絶好調! 午後も張り切っていきましょう」

 

 そう元気よくトレーナー君が気合を入れた瞬間電子レンジの電子音が室内に響いた。

 

 『お、できたできた』と言いながら彼女が扉を開くと、食欲をそそるうどんつゆに含まれるカツオダシの香りが一気に室内に広がった――。

 トレーナー君から最初の1皿目を受け取って、楽屋鏡側の壁に備え付けられた横に長いテーブルの上に乗せる。そして空腹ながら彼女が準備し終えるまで待ってから、ふたりして『いただきます』と述べて食事を開始した――。

 

  ◇  ◆  ◇  ◇  ◇

――20××年+1 4月15日 13時頃――

――中山レース場 シンボリルドルフ控室――

 

 勝負服に袖を通し、髪とメイクをセットし直してもらい出陣準備は完了していた――。

 

 壁にかかる時計を見ると15時25分の発走に対し今から準備をしに行くと早すぎる。

 そこでトレーナー君が持ってきてくれた雑誌を片手にのんびり過ごす事にし、トレーナー君はというと私の傍でタブレットを操作して色々と情報を見ているようだった。

 

 そして先に沈黙を破ったのはトレーナー君だった――。

 何かを見つけたように『お?』と小さく声を上げたため私は顔を上げて彼女の方に視線を向ける。

 

「ねえねえ、ルドルフ。今日の皐月賞の前評判ありましたよ」

「ほう? 私の評価はどんな感じだい?」

 

 レース前日になると元トレーナー達による前評判のようなものがスポーツ新聞の紙面をにぎわす。その内容はペースや展開や、脚質、近走の成績や着順予想などなど実に様々だ。

 自分の評価が気になった私はそう尋ねるとトレーナー君はにっこり笑てタブレット画面をこちらに向けて見せてくれた。

 

「最高評価を推している方が多いですね。予想ペースは貴女が弥生賞に出したタイムの影響かハイペース展開が推されています」

「やはりそうなったか。ならばマークされて囲まれないように気を付けねばな。最終作戦に変更はないかい?」

 

 そう私が尋ねると少し首をひねって考えるような動作をしつつもすぐ返事が返ってきた。

 

「特に変更はありません。確認で上げるなら今回は皐月までの出走数が少ない子が多く粒揃い。そして全員似たり寄ったりの脚質なので、3コーナー超えたあたりから前が詰まりやすい気がします。なので囲まれる気配がしたら早めに逃げにつけて3番手以内に位置取る。そして先頭のペースを見ながら脚を残して一気にぶっちが理想かなと。細かい所はいつも通り現場判断でお任せします」

「承知した」

「では、武運長久を――貴女にヘルメスの母神(女神マイア)の祝福がありますように」

 

 トレーナー君はタブレットを閉じて台の上に置き、私の方に自身の左拳を差し出してきた。その意図を察した私は右手の手袋を外し、そっと近づけ――。

 

「ありがとう。――勝ちに行こう」

 

 トレーナー君の拳に自分の拳を軽くぶつけた。するとニコリと花紅柳緑(かこうりゅうりょく)――満開の花々の様な華やかな笑顔がトレーナー君の顔いっぱいに広がった。

 

   ◇  ◇  ◆  ◇  ◇

――20××年+1 4月15日 15時20分頃――

――中山レース場 ゲート前――

 

 気温は13度~14度だろうか? 肌寒い風がターフの上に立つ私の両頬を撫で通っていく――。

 

 いつも通りのルーチンで精神統一を終えた私はゲートの裏側に到着して、そのしばらくもしない内に、マエツと視線が一瞬あった。

 マエツと互いにしばらく闘志入り混じる視線を交わし合った後、私たちは言葉を交わさずゆっくりとお互いにゲートの方を向き、自分たちの出番が来るまで待った――。

 

『芝も先月より生えそろい、ここ数日にわたり晴れ間が広まり良バ場に恵まれました。中山レース場、第10レースはクラシック級路線の第1関門G1皐月賞――階級がひとつあがった彼女たちによる青春ドラマの芝2000mが開幕します!』

 

 場内に若い女性の声でアナウンスが流れ始めると同時に、今までとは比べ物にならない観衆の声が場内に響き渡った。

 それは轟々唸り垂直に流れ落ちる大瀑布の前に立ったような音圧で、それらが両耳に押し寄せてきているのを感じ、雰囲気に当てられた私も自然と気分が高揚としてくる感覚を受ける。

 

『3番人気はここまで2戦2勝無敗のウマ娘、イエロージャンボ! 現在中山無敗! ラスト1ハロン12秒の末脚で挑む距離延長! 今日も彼女がぶっちぎるのか!』

 

『2番人気はここまで6戦! 連対率100%ウマ娘マエツニシキ! 皐月の空に勝ちドキを上げるのは彼女か!』

 

 ひとり、またひとり、ゲートに入って来てついに私の番まで来た――。

 

『1番人気はここまで4戦4勝ウマ娘シンボリルドルフ! この娘の快進撃を止める者は居るのだろうか!』

 

 スタンドからより一層大きな歓声が上がる!

 ゲートの先が輝いているような錯覚を受けながら、まだ茶色が目立つ野芝を踏みしめ、威風堂々としているように見えるような態度を心がけつつゲートインした――。

 

『各ウマ娘ゲートイン完了しました』

 

 呼吸と体勢を整え、体重をすぐ出られるように一旦後ろにかけ――

 

『――スタートです!』

 

 ゲートが開くと同時に前に体重をかけて勢いよく飛び出していく! よく乾いたバ場に脚を叩きつけ土埃を巻き上げる!

 

 ――私は勝利を! 栄光を! 見果てぬ夢を!

 

 それらを掴むべく自らの脚をかり進んだ――!!

 

 

  ◇  ◇  ◇  ◆  ◇

――20××年+1 4月15日 15時34分頃――

――スタンド最前列 トレセン関係者席――

 

 スタンドの見学立見席に来ていた生徒会のエアグルーヴとナリタブライアンと合流し、私は固唾を飲んでレース開始を待っていた――。

 

 ルドルフがゲートインしてしばらくした後――。

 

『――スタートです! 一斉にそろって飛び出しています! 間から早くもシンボリルドッが抜け出しそうでしたが、その外からルミナスラッドが行きました』

 

 ついに――ついにクラシックG1戦線がはじまるその扉が開いた!!

 

 実況のお姉さんがいきなり舌を噛んでしまったのがすごく気になったが、1周目のスタンド正面――目測で右から左へとルドルフを追う。

 緑が芽生え始めるもまだ冬の気配を感じる野芝を力いっぱい蹴り、土埃を舞い上げながら若きウマ娘達が目の前を走り抜けていく様はやはり圧巻であった。

 

『イエロージャンボが先行争いを制し、ルミナスラッドが2番手追走!』

 

 いつも通りペースを少し落としてルドルフは好位を狙うも一瞬で周りを囲まれた!

 

 先頭が残り1600mを過ぎ――頭の片隅で並行して数えていた秒数は23秒! ペースが速い!

 

"――うわぁ。予想通りとはいえもう囲まれてる! 徹底マークだわこれ!――"

 

 私はハラハラしながら黒いおなじみの双眼鏡を構え覗き込むと、第1コーナーのカーブに入る前から囲まれまいと、ちゃんと動いたルドルフが見えて少し胸をなでおろした!

 

『人気のシンボリルドルフは4~5番手! 続き内にイーストカムリが追走しながら1コーナーカーブに突入です!』

 

 ルドルフは中山の小さなコーナーで他の子達が横に膨らんだその瞬間を逃さず、外に出て2番手のすぐ下の外めにつけた。囲もうとしても他の子が距離ロスを嫌って出てこないと踏んだのだろう。

 

『さあ残り1400! マエツニシキ7から8番手くらいの位置に控えています!』

 

 1コーナーを抜けてすぐ2コーナーへバ群は向かう。36秒とペースは少し落ち着いたが、ルドルフは先頭から1バ身~1.5バ身ほど後ろ、2番手のやや左外に控えている。

 

『先頭は前途洋々意気揚々! スイスイと逃亡中のイエロージャンボが1から2バ身ほどちぎり、2番手追走しているのはルミナスラッド、そしてその外シンボリルドルフ虎視眈々と前を狙っている! これは良い位置だ!』

 

 1200mを通過。先頭の通過時計は標準で2コーナーを抜ける手前まできた。

 そろそろ向こう正面にくるのだがルドルフはどう動くのだろうか。今回は良い位置だし無理しないかもしれないが、彼女の事だから何か考えていそうな気はしなくもない。

 G1のプレッシャーからくるうるさい拍動の感情と入り混じり、今日はどんなレースをルドルフは最終的にプランするのだろうかとも高揚しながらもその動向を私は見守り続ける――。

 

『シンボリルドルフのすぐ後ろに並ぼうと、かっ飛ばしていくのはイーストカムリ! そのさらに外にはベルマッハが5番手! 後は中からコトノテスコがその後ろをついていく!』

 

 2コーナーを完全に抜けて向正面の直線に入った所で、他より進みやすいこの地点でルドルフはじわじわと前方に進出し始めた。

 

『そしてマエツニシキ中団の最内から控えて追いかけ、その集団の外を回りレイメイノフジが上がり、その後ろはアキツスワロー、外をついてビゲイサーペン! この辺り膠着状態!』

 

 残り1000m――今度はペースはまたもや標準通りだが……。

 

"――あら? 前の子はひと息入れつつルドルフやマエツニシキに不利な展開を作る気?――"

 

 もう少し詳しく見ようと目を細めた所、掲示板が望遠鏡内の視界を一瞬横切って、目の遠近感が狂ったように感じ気持ち悪くなってしまった。

 慌てて双眼鏡から顔を離し何回かその不快感を拭うために瞬きつつ、双眼鏡を使わず目視で全体を見る。

 前から後ろまでは目測13バ身くらいで詰まっているほうではある。

 

 人気の2名、マエツニシキは早仕掛けの差し、ルドルフは好位抜出型の先行だ。

 この2人にとってハイ気味からミドルペースに戻され、バ群がぎゅっと圧縮されてしまうような後方ほど不利になる展開は有利とはいえない。

 

 このままやや団子気味に4コーナーに行くと、かなりバ群がゴチャつきそうな気配が漂っている。

 遠近感の狂いの余韻から抜けた私は、双眼鏡を再び構え直して覗き込むとルドルフはちゃんと考えていたのか、2番手の子の外にピタリと並ぼうと仕掛け始めた。

 

"――お、流石!――"

 

 内から123番手が並び4番手以下の壁にするつもりだ! 相手の考えを利用してさらに自分に有利な状況をルドルフは整えている。中山のカーブは小さくかなり小回りを要求さるため、無理に外に出ようとすれば吹っ飛んでいくし、外を回ればかなりのロスになるから出て来れなくなる! 見事なブロックに関心していると先頭を取る勢いのルドルフと先行集団は3コーナーへと吸い込まれていく。

 

『3コーナーに入っていきます! 以前先頭を引っ張るのはイエロージャンボだが! シンボリルドルフがその外からぐいぐいと押し、両者の間にルミナスラッドが抜かせまいと粘る! 残り600!』

 

 ここで不要になった双眼鏡から目を外した。ルドルフがロングスパートをかけた! すごい勢いで中山の3コーナーを曲がっていく。どうせ外に膨らむと踏んで減速せずに行くつもりなのだろう!

 

『3コーナーからスパートをかけているのかシンボリルドルフ早くも抜け出し先頭で4コーナーへ!』

 

 開花が遅れ赤い枝の目立つ桜の木々を背景にバ群は3コーナーを抜け、半バ身ほど2番手に差をつけたルドルフは今度は間髪入れずに4コーナーに突っ込んでいく。

 内側の子、2番手のイエロージャンボは歯を食いしばって逃げ馬の意地『抜かせまい、ここで差をつけさせまい!』と粘っているのも見え、先行集団の熱気がこちらまで伝わってくるような気分になった!

 

『4コーナーのカーブを抜け、さあ中山名物の短い最終直線勝負が始まった! 後ろの子達は追いつけるのか!』

 

 カーブで並んでいた子に押し出されて膨らみ、大分外にルドルフは押し出され、そのすぐ後方――半バ身後ろに外を通ってきたマエツニシキが迫っていた。

 

"――後はお祈りあるのみ!――"

 

 息をするのも、瞬きをするのも忘れるように、自分の心臓の音だけが聞こえてくるような感覚と、周りの歓声が乖離しているかのような時間の感覚を感じる。

 

 一番前から後ろまで13バ身以内だろうか? トップから6バ身以内のウマ娘たちは数名程、内から外に各々大きく広がりながら十分ゴール板を狙える位置取りにいる。

 

 最内ラチ側の子から1~2バ身ほど後方から外ラチへ向かってコースを横切るようにラインを引いたとして、その延長線上――ほぼコースの真ん中に位置する外側で、マエツニシキとルドルフがぶつかりそうな距離間でハナを争い火花を散らしている!

 

『イーストカムリ内側で頑張るも外ではシンボリルドルフとマエツニシキが並んで激しいデットヒート! お互い一歩も譲らず前に突っ込んでくる! アキツスワローも飛んでくる! さあどうなる残り200! 中山の坂を上って坂上! 抜けたのはシンボリルドルフだ!』

 

 残り100mを切った。

 ルドルフも競っている子も怪我しちゃうんじゃないかとハラハラしながら見守る!

 ルドルフはすぐ外にいるマエツニシキの半バ身ほど前に出たままゴールめがけて走っていく! 歯を食いしばってマエツニシキも粘っている!

 

 しかし、弥生の時より少し緑色になったとはいえ、まだまだ茶色いその野芝のターフの上。

 その上を緑の一筋の線が駆け抜ける、春の女神の息吹の様に彼女の勝負服の緑が一閃を描いていく――!

 

「っ! 抜けた!!」

『シンボリルドルフ完全に抜けた――!』

 

 呼吸をするのを忘れた私は思わず、場内に流れる実況と同じような声を出したと同時に大きく息を吸い込んだ!

 

 

「今1.5バ身差程つけシンボリルドルフゴールイン!』

 

 ウマ娘程ではない聴力だけど両耳が張り裂けそうな位の大歓声が私を包む。その雰囲気に感化され、ルドルフが初めてG1に勝てたことなど、様々な感情が溢れてぐちゃぐちゃになった頭の中が、まぶしい光に包まれたかのような気分を受け、全身が宙に浮いたかような感覚を受けた――。

 

「――おい! 大丈夫なのか!?」

 

 左隣にいたエアグルーヴが私の背中に手を回して倒れないように支えてくれたようだった。ブライアンも目を丸くして心配そうにしている。どうやら先ほどの浮遊感は本当に倒れかけたのだ。

 はっとしたわたしはすぐさま全身に喝を入れ、しゃんと脚に力を入れなおした。

 

「ごめんなさい! ありがとうエアグルーヴ」

「全く大丈夫なのか? 気絶などしたらこの後の業務に差し支えるぞ?」

「面目ないです。感動しすぎてしまいしたね」

 

 エアグルーヴは私の背中をトントンと叩いて『気持ちは分かるがもう倒れるなよ』と苦笑いを浮かべた後、彼女と私はターフの上に視線を戻した。

 

『1着シンボリルドルフ! 無敗のまま皐月賞を制しました! 2着マエツニシキ! 3着イグニカルメン! クラシック戦線の1冠目皐月賞を制したのは5連勝のシンボリルドルフ! そして出ました! 2分1秒1! 皐月賞レコード出ました!』

 

 ここまで叫んで声が出なくならないのだろうかと思ってしまう程、場内はヒートアップしたと同時に、今度は両サイドの副会長ふたりがばっと私を振り向いた。

 今度こそ倒れると思われたのだろう。びっくりして目を丸くして二人を交互に見やりながら、『大丈夫、まだ大丈夫!』と言って安心させてすぐまた一緒にターフに目を向き直した。

 

 するとルドルフは観客の前に記念撮影のために立つと、左手を腰に当て晴れ渡った空に向け右手を天高く上げ一本指を立ててポーズを取った。

 

 何度勝ち続けてもやっぱり担当してる子が勝った時は嬉しい。両目が潤みそうになるも恥ずかしいのでぐっと我慢して、頭を軽く左右に振り――。

 

「ではでは、お仕事行ってきます!」

「おう」「ああ、いってこい」

 

 両サイドにいたふたりに別れを告げ、ちょっと離れた所まで移動した後振り向くとルドルフがこちらを見ていた。

 私は潤みそうになる涙腺と、歓喜に溢れる心のまま気持ちをこれでもかと詰め込んだ笑みを浮かべ、ターフの上に立つルドルフに向け手を振った。

 

 それからルドルフに背を向けて関係者席出口へと、誰かを吹っ飛ばさないよう気を付けながら駆けていく――。

 

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◆

      レース後日

 

――20××年+1 4月19日 午後14時――

――トレセン学園 プレハブのトレーナー室――

 

 

 鼻歌を歌いながらトレーナー君はアルバムをガラス扉のついたグレーの引き出しから取り出し、トレーナー室のテーブル&ソファー……があった所に彼女が勝手に持ち込んで設置した、上がり畳のこたつスペースで待つ私の所に戻ってきた。

 こたつの上には黒い和風の網籠に入ったミカン、そして私の目の前と右側に桜の花が描かれた縦長の湯飲みが2つ並び、淹れられた玉露の綺麗な緑の水面から白い湯気がたなびいている。

 

 今日は新聞部や各社から貰った皐月賞の写真を2人で選んでアルバムに並べる予定だ。

 

 正方形のこげ茶色の小さなこたつの壁側に座る私の右――ドア側の面の優しい色合いのピンクのこたつ布団がトレーナー君の手により軽く上がる。それにより少し温度が低い空気が入ってきて、彼女が『おこたは日本の良い文化ー』と言いながら入ってきた。

 

「ふふ。お気に入りだね」

「ええ、脚が冷えないし何より心地が良い最高の文化です。さてと、お写真はどれにします?」

「そうだな。――これはどうだろうか?」

 

 私はライブで歌っている写真を選んだ。構図はビンテージデザインのスタンドマイクに右手をあて、左腕をまっすぐ正面に指差し伸ばした瞬間だ――自分で言うのも何だがかなりかっこよく撮れているように思う。

 

「黒いウーハーを背景にめちゃくちゃかっこいいですね」

「だろう? あと……これと」

 

 私はターフの勝利写真で指を1本立ててポーズを決めているものと、そして笑ってはいけないのだけれど、その写真に写るトレーナー君の微笑ましい姿のせいでクスリと鼻を鳴らし1枚の写真を手に取った。

 

 その瞬間トレーナー君は湯飲みに口をつけるのをやめ、そっとテーブルに戻して数秒固まった後大きく目を見開いた――そして。

 

「え。え……ええええ! なんで、なんでこの写真が!? え、どうして!?」

 

 これは流石にないだろう思っていた写真が混ざっていたことに、あたふたとトレーナー君は仰天している。彼女がそう思うのも無理はない。本来ならば既に取材もオフレコだったはずの写真なのだから。

 

「撮ってしまった方からは『素敵だったからつい』だそうだ。私もとてもいい写真だと思う」

 

 トレーナー君をぎょっとさせたその長方形の縦長の写真の中には、勝負服の私が左手にいてトレーナー君の後頭部を撫でて落ち着かせながら、右手でこぼれる涙を持っていた白いハンカチで拭いて苦笑いを浮かべている。右側には眉尻を下げ申し訳なさそうにしながらも、嬉しそうなトレーナー君の顔が映っているものだった。

 

 泣き上戸なトレーナー君が嬉し泣きをこらえていたのを、ターフから見ていた時から気付いていた。きっとふとした瞬間に彼女は泣くだろうという予感はなんとなくしていた。

 

 そしてその予想は見事的中した――。

 

 トレーナー君はライブ前の会見が終わるや否や、オフレコになった途端不意に気が抜けたのかぽろぽろと宝石の様な瞳から真珠を零す様に嬉し泣きをしてしまった。その時はお互い喜びに浸っていて気付かなかったが、残っていたメディア関係者がこの様子を密かに撮影していた。

 写真を送ってくれた新聞社からは『とても素敵だったので思わず撮ってしまいました。よろしければどうぞ』とオフレコを無断撮影したことに対する謝罪の他、このような一言が添えられていた。

 

「喜びの感情を爆発させている君の素直な姿が素敵だと思う。残しておいてはダメかい?」

 

 丸い両耳まで真っ赤にして俯いているトレーナー君はちょっと唸った後に――。

 

「恥ずかしいですけれど、この写真をルドルフが気に入ってるならいいですよ」

「ありがとう――あとはどれがいいかな?」

「それならこれはどうでしょうか?」

 

 トレーナー君が差し出したのはレース後に、応援に来てくれていた学園の生徒と私が一緒に集合写真を撮ったものだった。

 

「これもいいね。残しておこう」

 

 そんな風にふたりで20枚程度の写真を選び終わった後、トレーナー君がふと私の方を向いた気配がしたので顔を上げる。

 

「そういえばルドルフ。昨日また『ポニーテールのあの子』にあったよ」

「ああ、熱心なファンの子だね。ウマッターにもよくメッセージをくれるから覚えているよ。確かトウカイテイオーだったかい? トレセン入学前のウマ娘の大会で有名な子だったね。あの子と何かあったのか?」

 

 

 そのトウカイテイオーがトレーナー君に話かけるようになったのはの重なり合った偶然の結果だった。

 弥生賞の後にアルバムの収めるべく写真部から貰ったデータを印刷しようとするも、ここに備え付けてたコピー機が壊れた。私的な利用の為に学園の機材を使うのを避け、コンビニへ写真の出力に向かったトレーナー君は、そこで私が特集された雑誌を買えなくてがっかりしていたトウカイテイオーに、トレーナー君はその雑誌を譲ったんだとか。さらにトウカイテイオーはトレーナー君と行動範囲がよく被るらしく、私を担当しているという事もありトレーナー君によく甘えているらしい。

 私は直接会ったことが無いのだが、何故か会ってみたいと思うウマ娘だった。

 

「貴女に伝言を頼まれまして、そしてその伝言について相談があるんです」

「ほう? 私に伝言とは……一体どうな内容なんだ?」

「今週末に大きな大会の決勝レースがあるそうで。そこで1位取ったら自分とあってほしいって」

「大会……ああ、あれか! ふふ、私も1位になったことがある大会だよ。懐かしいな――」

 

 何故だかわからないがトウカイテイオーには不思議と親近感を感じている。

 

 普段なら公平性を規してそういった個人的なファンサービス安易に応じないのだが、トウカイテイオーががっかりする姿を見るのが嫌で、何となく断れない気分になってしまう――。

 

「いいだろう。彼女にはダービーのインタビュー後に時間を作ると伝えてくれるかい?」

 

 異例ではあるがあの大会を勝ち上がるのだから、いずれこの学園にも入学してくるだろう。対面が少し早まるだけだ、そう自分に言い聞かせながら私はその件に関して了承した。

 

「わかりま――あ、でもルドルフから伝えた方が喜ぶかもしれませんよ? ウマッターのダイレクトメッセージなどで直接伝えるのはダメですか?」

「いい提案だ。折角だしその方が喜びそうだしそうする事にするよ」

 

 今夜あたり連絡を入れるにも、まだ幼い子供のようだし遅くならないうちにしようと私はスマホを取り出して予定メモに書き込んだ。

 

「貴女の後ろをついてこようとする、ちっちゃなファンもできて嬉しいですね」

 

 メモに書き込んだあたりでトレーナー君が話しかけてきた。

 

「ふふ、そうだね。――当日君がインタビュー前に彼女を迎えに行ってくれるかい? ダービー後だと多分私は身動きが取れないだろうから。君は確かウマッターをしていないが、連絡先は持っているかい?」

「お返事の為にLEAD交換を済ませてあるので大丈夫です」

 

 普段Horsebookを連絡手段にして、LEADをそう易々と渡さないトレーナー君がIDを交換していたことに少し驚いて目を丸くした。子供に優しいのかなと思いつつ私は当日の連絡を頼んだ。

 

「よしアルバム完成。しまってきますね」

「頼んだよ」

 

 トレーナー君は席を立って私の対面側を通り、上がり畳の横にある棚にアルバムを収納した。そして戻って来て写真を封筒に入れなおして隅っこに置き、ふたりしてミカンを剥いてのんびり食べ始める――。

 

 しばし外で歌う小鳥のさえずりしか聴こえないゆったりとした時間が流れ、先に会話をし始めたのは私の方からだった。

 

「――もしかしたら君がその子を将来担当する羽目になるかもしれないね?」

 

 私が目を付けたように、もしかしたらトウカイテイオーもトレーナー君に頼るかもしれない。

 何の気もなしにそう思ったので素直にそう伝えると、トレーナー君はばつの悪そうな表情を浮かべて首を振った。

 

「それはないですよ。本人曰く病院とか、特に注射が大嫌いらしいので……」

「おっと、それはそれは。はは、確かに他と比べてうちは血液検査を時々するから避けたくなるのも無理はないか」

 

 なんとも子供らしい理由に思わず微笑ましさがこぼれ、トレーナー君も私と同じ感想なのか慈しむような温かいほほ笑みを湛えていた。

 

「ふふ、可愛い理由ですよね。あと、トウカイテイオーちゃんは貴女を目指すなら私に頼ったら意味がないって、超えるつもりで頑張る! いつか勝負したい! とも言っていましたよ」

「それは凄い気合の入りようだね。こちらもそう簡単に超えられない様頑張らねばならんな」

 

 まさか超えるつもりで頑張るとは大したものだとその心意気に感心した。

 デビュー2年目にしてそこまで強く憧れてもらえたことが嬉しい。トレーナー君も『ええ、がんばりましょう』とほほ笑んでからミカンを頬張り――。

 

「――来月末はついにダービーですね」

「ああ、一生に一度きりの大勝負のひとつだ――所でトレーナー君、話は変わるが君はタロットなどには詳しいかい?」

 

 不思議そうに眼をまん丸にするトレーナー君の瞳に自分自身が映り込むのが見える。

 まあ、唐突にこんなことを言えばそんな反応を返されては仕方ない。彼女は口に含んでいたミカンを飲み込んでから首をかしげてうなった後――。

 

「タロットですか? そうですね、占いが好きなウマ娘からセフィロトがどうたらってところまで説明は受けてますよ。それがどうかしましたか?」

 

 それなら説明しなくていい妥当と思った私はトレーナー君と自分自身を鼓舞するため、言葉を紡いだ――。

 

「私の勝負服の色にも使われている色であり、君を象徴する青々とした草原の様なエメラルドの瞳も緑。そして、生命の樹において緑やエメラルドはネツァクという第7のセフィラの色とされる」

「確かに思い返せば偶然にも似たような色ですね……」

「ああ、君は私を皐月賞に送り出すときに皐月その英語表記の語源にかけ、随分しゃれた応援をよこしてくれたのでそのお返しを今しようと思う」

 

 そういうと思い返す様にトレーナー君は首を傾げたり視線を左横に寄せた後、思い出したらしく少し恥ずかしげな表情を浮かべた。

 

「勢いでそういえばそんなことを言いましたね。思い返すとかなり恥ずかしいですが、ルドルフが何を言おうとしているのか気になるので続けてください」

「ふふ。まあ高揚しているときは皆そんなものだよ。話を戻すと、ネツァクというセフィラは『金星』(明けの明星)や『勝利』を司るそうだ」

「それは初耳、なんて言うかとても縁起が良いんですね」

「そうさ。そして実力申し分なく、勝利という言葉に縁のある大変縁起のいい君がいれば、私はダービーにおける運も含めすべての要素の不安も全くなく挑める。参加する者は皆一様に頑張っているが、その努力をさらに上回るつもりでいこう。一度きりのチャンスに勝利の女神(ニーケー)の前髪を掴むのは我々だ」

 

 そう鼓舞すると4月の女神(ヴィーナス)を体現したかのような美しい彼女は、口元を軽く上げ、ニコリと微笑みを浮かべる。

 

「なるほど、そういうことですか。そうですね、必ずや――勝利へ」

 

 お互い顔を見合わせてほほ笑むが、その後トレーナー君はすこし辺りを見回して――。

 

「……うーん、かっこいい感じで締めくくったはずなのに、お互いこたつに入ったままの雰囲気だとなんだか締まらないですね」

 

 そういって彼女はこたつの上にある籠へと片手を伸ばし、ミカンを剥いてその粒を手の平に3つ4つと取り出しはじめた。

 

「こらこら、それは突っ込んだら野暮というものだよ?」

 

 私は鼻で笑いつつ、小腹が空いたのでこたつに脚を入れたまま、身体を伸ばしてトレーナー君の手の内からミカンの欠片をふたつ取ってひとつを口に運んだ。

 

「あ、おみかん達が拉致された」

「君の突っ込みで気が抜けたら小腹が空いて我慢できなかったよ。後で剥いてあげるから機嫌を直してくれ、ほらトレーナー君、口を開けて」

 

 ミカンを私に持ってゆかれて少し不満げな表情をトレーナー君は浮かべていた。彼女の開いた形の良い唇に囲まれる小さめの口に、私の手元に残っていたひと粒を運んだ――。

 

 この麗らかな春の午後からダービーまで……あと5週間と少し――。




 ウマ娘の世界はこちらの世界みたいに賭けがないらしい。
 しかし予想する人はいるんじゃないかな? みたいな表現を出してみました。
 史実沿いだと1名出走取消がありましたが、今回は出たことにしておきました。


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『J-Derby』イェソドに勝利をダァトへ花を

 84年ダービーモデルの話です。

◇架空出走者一覧◇

【挿絵表示】

前半???視点、控室からトレーナー君視点、レースからはルドルフ視点です


――20××年+1 5月24日 午前5時――

――???の部屋――

 

"――……――"

 

 遠い遠い昔から戻ってきたような、懐かしい気分に包まれながら、肺の中の空気をゆっくりと吐きだし、重い瞼をゆっくりと開け現実に意識を引き戻す。

 視線の先、天井はまだカーテンから漏れ出て朝を告げる光に染まっていない。枕もとのサイドボードに置いた赤い目覚ましの時刻を見るとまだ出勤するには早い時間だろう――。

 

 喉が乾いていることに気付いた私は平衡感覚の鈍る足取りでベッドを降り、寝室のドアに手をかけて外に出た。

 テラスに繋がるカーテン越しに朝日の昇る前の気配を頼りに、灯りも点けずにキッチンのシンクの前に立つ。そして私はステンレスの水切り籠に置きっぱなしだったシンプルなガラスコップを蛇口に近づけ、レバーを押して水を満たし乾いた喉を一気に潤した。

 

 辺り一帯にまだ人々の生活の音が満ちておらず、耳を澄ませると早起きな都会の小鳥のさえずりが少し大きめに聞こえ、そんなすがすがしい気分がこの空間と私の心持を満たしてくれた。

 

"――学園に今、『あの子』が居るから最近よく見るのかしら……――"

 

 今朝も含め最近頻繁に見るあの頃の夢……それは私がまだターフの上にいた過去の事――。

 

 

 ダービーでレコードを出した私は栄光から一転、色々な要因が重なって病と怪我に苦しんでいた。その病状は担当のトレーナーさんが方々探してくれて、やっと見つけたアメリカ人名医にすら無理だと断られてしまう程の勢いで悪化し手の施しようもない有様だった。

 

 そしてそのお断りから2時間もしない内に治療を断ったその名医は『試験段階の治療』でよければと、費用は要らないので引き受けましょうと急に提案を翻してきた。説明を聞く限り完治する確率は僅かだけれど、再びターフに立てる可能性に賭け、私はエメラルド色の瞳が印象的な若い医者の手を借りることに。

 

 ――しかし治療後も意識が朦朧とした状態から中々戻らない。一命はとりとめたが回復する兆しは見えず、命だけ助かっただけでもよかったとしても、生き甲斐だったレースに戻るのは諦めるしかないのかと落胆した。

 

 一旦思い出から現実に戻り、朝の支度をしようとカーテンを開けて外を見る。白んだ空に細く薄笑いを浮かべた月が浮かび、その位置は中点に差し掛かっていた。

 

 そして冷静に思えば気味悪いと言われそうな出来事と共に、その奇跡はやってきた――それは丁度こんな月の浮かぶ、朝とは真逆の深夜だった。

 

 『何を引き換えにしても、貴女はレースに出たい?』

 

 首だけを動かし声のする方向を向くと――暗がりに青く光るサファイアのような煌めきを持つ黒髪、そしてあの医者と同じ緑の瞳の小さな子供が、病室の隅の暗がりから浮かび上がるように現れたのだった。そしてその子供は自分が治療薬を開発したのだと名乗っている。

 まだ砂場遊びに興じていそうな子供にそんなことできるのか?それ以前に個人病室にどうして子供がいるのかと疑問に思う気持ちより、その存在が悪魔でも、神でもどちらでもよかった私は『何でもいいから出たい。覚悟なら決まってる。私はレースに出たい』と後先考えず縋るように応えた。

 

 その子供は『私とのやり取りは他言無用でお願いしますね』といってドアの向こうに立ち去り、同じ瞳の医者がすぐやってきて軽く説明をしてから最終同意を取り私に注射と点滴を処方した。

 

 それらを打たれた直後から凄まじい熱感と激痛が駆け巡って気絶。

 そして目を覚ました翌朝から急激な回復を遂げ――菊花賞には間に合い、満足の行くレースキャリアを全うする事が出来た。その後私は、理事長と出会ってトレセンの改革を目指すことに。

 

 私を助けてくれたあの子は初担当したウマ娘にスーパーエフェクタを達成させ、史上最年少のダービートレーナーとなった。雲の上の者となったあの子とはもう二度と会う事はないと思っていたら、偶然が重なり日本にやってくるときた――。

 成長したあの子に、また会えてうれしくて『ありがとう』と声をかけてしまいたかった。けれど今の私は別の存在として生きている。そんなことをしてしまえば私の正体はバレてしまうだろう――。

 

 心の内を洗うよう息を吐きだしてカーテンを開いてタッセルで留め、朝の支度をするべく洗面台に赴いて顔を洗いタオルで拭く――。顔を上げると目の前の鏡には自分の不安そうな顔が映っている。

 

 このような体験があるためダービーの時期に私の胸中の不安が騒ぎ出してしまう。

 また誰かが怪我をするかもしれないとか、いろいろなことが心の中で顔を覗かせるのだ。

 

 しかし今年はあの頃の事を夢には見たけど例年のような強い不安ほどではない。

 根拠は乏しいが今回はきっと大丈夫だろう――そんな安心感に包まれている。

 

 だって私に匹敵する後輩のトレーナーにはあのいにしえの賢者(ケイローン)が居るから――。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年+1 5月27日 12時――

――東京レース場 シンボリルドルフ控室――

 

 楽屋特有の横に長い鏡台の前に優雅に膝を組んで椅子に腰かけた、まだ制服姿のルドルフは先程私の淹れたノンカフェインのハーブティーを片手にリラックスした様子で雑誌を読んでいる。

 

 "――日本ダービーって言えば、あの時を思い出すなぁ――"

 

 そして私はというと鏡台の後ろ側に広がる上がり畳の上で、医療器材の不具合チェックをしながらある事を思い出していた――。

 それは年齢ひと桁前半くらいの頃だ。学会発表と旅行を目的に日本へ向かう叔父に着いて行って私も来日。そして日本ダービーを観戦し、さあ4日後にはアメリカに帰ろうかという話をしていた頃だった。

 

 滞在先のホテル前で叔父に近づきすぎうちの護衛に捕まりながらも、『助けてくれ』と懇願するあるウマ娘のトレーナーが現れた。

 話を聞けばダービーの勝者となったウマ娘がひどい傷病を患っているらしく、もう叔父に縋るほかないのだという。しかし、叔父の技術でも多分無理だろうと、話を盗み聞きしている私も叔父も気づいていた――。

 

 叔父は助けたかったが技術的に無理なのでとそのトレーナーを追い返したが、『神さまでもいれば助けられるんだけどね』と無念を漂わせる姿を私には見せていた。

 

 そんな家族の姿を見て私の心にとてつもなく締め付けられるような、強烈な胸の痛みが走ったのを今でも鮮明に覚えている。

 叔父たちと養父とマハスティ。そんな小さな箱庭の中に居て、彼らだけが全てだった恐れ知らずの私は――元医師としての矜持もあり、この時初めてこの世界にとってのプローメテウスの炎(オーバーテクノロジー)の禁忌に手を染めた。

 

 そして私は叔父に治すアイデアを伝えた。彼は私の知識量に驚き目を剥いた。しかし理由も聞かず彼は医師として目の前の命を救うため、試験段階の技術として説明しそのウマ娘の命を救った。

 

 ただ命だけは助かった彼女が全快するために必要な技術は、ウマ娘の遺伝構造に関し当時もまだ把握できていない箇所があった。そのため下手をすればもっとひどくなる可能性があり、更なるリスクのある治療を薦めるのは責任を持つ意味でも、子供に頼む程の意志を試す意味でも私に任せてほしいと叔父に頼んだ。

 そして私が直接そのウマ娘に了承を取り、叔父が最後の治療を施し――結果奇跡的にそのウマ娘は助かった。

 

 その件に関して叔父達と養父に色々と聞かれたが、私が一貫して『詳細は言えない』と伝えると、『その知識を迂闊に外で使わない事』を約束する代わりに何も追及はされなかった。それどころか半人半バ(セントウル)のその3人は私を積極的に利用しようという事はなかったし、権力を駆使して守ってくれている。

 目の前の命を見捨てられず、後先を考えない愚かな私はこの善良な養父と叔父たちのお陰で今日も無事平穏に過ごせており、能力を認めてもらって大学高校のダブル受講まで許可して貰えることになった――。

 

"――もっともその若気の至りの結果『似非天才』っていう暗黒史に繋がるんだけど、それはそれとしてあの3人には本当に足を向けて寝られないね――"

 

 そして今日の私が『オルドゥーズ財閥の切り札』になるきっかけとなったウマ娘は、トレセンにいるあの方に似ているような気がしたけれど、自己紹介の際に彼女は人間だと名乗っているから他人の空似だった。理事長に事情を伏せてあのウマ娘のその後について何か知っていないか聞いてみた所、あのウマ娘は無事引退まで走れて今は市井で生きているという。近況を聞く限り幸せそうで何よりだった。

 

「百面相してどうしかしたのかい?」

 

 色々な事を思い出していたら、ルドルフが雑誌を閉じて膝の上に乗せ、こちらを見やってほほ笑んでいた。

 

「――そんなに面白い顔をしていましたか?」

「難しい顔をしたり、げんなりしたり、ほっこりしたり忙しそうだったよ」

「あー。それは大分出ちゃってましたね。今アジア支部にいる叔父と、年齢ひと桁くらいの頃に日本のダービーを見にきていた時の事を思い出していだけですよ」

「ふふ、そうだったのか」

 

 ルドルフはそう言ってまた雑誌を開いてそれに視線を落とそうとしたが、丁度用事があるのでそのまま声をかけた。

 

「ルドルフ。靴なんだけどパワー型に傾けた、ダート芝両用の仕様にしておきますか?」

 

 今年の春先が近年稀に見る寒波に見舞われたのはまだ記憶に新しいが、その所為で芝の生育が消耗に追いつかなかった。折角緑が萌え出でていたターフは見るも無残な荒れ地と化し、今朝バ場を2人で確認したところ『芝のレースのつもりが今日はダートだとは』というルドルフのギャグが炸裂。

 

 なんと緑の砂がターフにまき散らされていたのだ。

 芝が荒れると緑に着色された砂を撒くとは噂には聞いていたが、例年以上に緑の砂をまき散らされたそのバ場はターフというより日式ダートレースに近い。

 念のため作っておいた砂ダート用仕様の靴を急遽カスタマイズして用意してみたのだが――。

 

「ターフ用で構わない。気持ちはありがたいが東京レース場仕様で頼む」

「了解しました。では仕様は変えずに行きますね」

「ああ、頼むよ」

 

 私は腰の下程の大きさのある、四角く黒い食品宅配用リュックを大型にしたような収納を開けた。中には蹄鉄やら釘、それらを調整するための工具。そして仕上がった状態の靴が数足入っている。その中からターフ用の仕様にカスタマイズし靴を取り出し、軽く布で磨いてフィッティングスペースの傍に出した。

 

「それと今回、作戦はこちら側の裁量で変更させてもらうよ。やってみたいことがある」

「といいますと?」

「具体的に言うとダービーポジションは敢えて意識しないでやるつもりだ」

 

 ダービーポジション――日本ダービーで起きたある事故がきっかけで、巷にささやかれ始めた日本ダービーのセオリー。その内容はバ群を捌くため第1コーナーを、10番手以内で通過しなければならないというものだ。

 このセオリーを無視した結果立ちはだかるのが、4コーナーを回ってまだ心臓破りの坂がある状況、そこでさらにひしめくバ群の壁。それを超えるためには選手本人が異次元の強さを持っているか、最終直線に入ってすぐに運よく抜け出る隙間が空いていなければ勝機はない。

 

 ダービーは運次第――そう言われてしまうのはこのためだ。

 多い時には30名近く出走していた日本ダービーが25名を切ったのは、今回を含めた過去10年内ではブロッサムウィナーの20名、ミスターシービーの21名、そして――目の前で優雅に脚を組み、落ち着いた様子で椅子に腰かけているルドルフの出るダービーだ。

 

 けれど今回は30人近くいる訳じゃない上に、良発表とはいえ埃まみれの布団の様に叩けば土埃が舞うバ場で飛ばすのもどうかと思った私は――。

 

「いいですよ」

「おっと? こうもあっさり許可が出てしまうと拍子抜けしてしまうな。――何か言うことは無いのかい?」

 

 ルドルフは一瞬肩透かしを食らったような表情をした後、口元を笑みで染め腕を組んだ片手を顎に当てて首を傾げ、『君はどう考えているのかな?』と私の反応を面白がって知りたい様子だった。

 

「バ場が悪いですからテンで行き脚を無理に使わない判断もありです」

「ふむ。君は重い足場でも私が追い付くとふんでいると?」

「ええ。足元が荒れた時の対策について、今までご実家や私の下でルドルフは修練を積んできたのでしょう? メイクデビューの時の湿っただけの足場とは性質が少し違いますが、貴女の重バ場適正は十分なはずです。そして進出を控えることでさらに大きなメリットがあるなぁと思いまして」

「ほう? メリットとは?」

 

 ルドルフはそれは意外な反応だとでも言いたげに、不思議そうに首を傾げた。私はニコリと微笑み返し――。

 

「他の子は貴女が来ないと予定が狂って焦るでしょうね。ルドルフをマークする気満々だろうから、マークが外れたり、レースプランを混乱させる事が出来ます。その『詰んだふり作戦』は良いと思いますよ」

「はは、詰んだふり作戦のネーミングは良いね。勝った後会見で使わせてもらう。しかし、意地悪な作戦を思いついた瞬間の君の表情に新たな一面を見た気がするよ。そんな顔も悪くないね」

 

 どうやら相当な悪人面をしていたらしい。鏡を見ると私は物凄くわるぅーい感じの表情をしている。

 

「えー……それは褒めてるんですか?」

「ふふ、大変魅力的だと思って褒めてるつもりだよ」

 

 ルドルフは『さて、支度に移るまえに一息入れないかい?』といってハーブティのティーパックを紙コップに入れた彼女は、控室にある電気ポットからお湯を注ぎながら休憩するように促してきた。

 作業を終えたので彼女の隣の席に座って待ち、目の前に差し出された紙コップをお礼を言って受け取った――。

 

  ◇  ◆  ◇  

――20××年+1 5月27日 15時20分前後――

――東京レース場 スタンド正面 ゲート裏――

 

 スタンドを見ると子ウマ娘――私の権限で関係者席に入れたトウカイテイオーが、トレーナー君の横から大はしゃぎでこちらに手を振っている。それに手を振り返してバ場の内側を見るとズタボロに芝が剥がれていた。これでは例年通りのセオリーは通用しない。

 気温も先月よりプラス10度と一気に上がり24度~25度前後かつ、ここ1か月府中にまとまった雨は降っていない。それを表すかのように風の中に土埃っぽい乾いた砂と芝の匂いが混じっている――。

 

『快晴に恵まれた府中東京レース場、第9レース芝2400m左回りはGⅠ東京優駿、日本ダービーの開催です!』

 

 場内に飄々とした実況をすることで有名な若い男性アナウンサーの声が響き、会場も大いに盛り上がる。3番人気以下が続々とゲートインし――自分の番がどんどん近づいていく。

 

『――3番人気はこの子! 快速ウマ娘ラッシュソルティ! 内枠の強みを生かし今日も余裕の逃げ切り勝ちか!』

 

 4月末に東京で行われた日本ダービー指定のOPレース、青葉賞を逃げ切り勝ちしたウマ娘が先に入場していくのを見送り――。

 

『2番人気はこの子! 短距離から中距離なんでもござれのマエツニシキ! 気合いは十分! 日本一となりカチドキを上げるのは彼女か!』

 

 マエツはこちらを一度も振り向かずゲートイン。それだけ勝利を得るために集中しているのだろう。皐月賞のあと彼女は東京2000mのGⅡJHK杯を快勝しているため未だに油断ならない。

 

『1番人気はこの子! 常勝無敗のウマ娘シンボリルドルフ! まさか今日も勝ってしまうのか!』

 

 ひときわ大きな歓声がいつも通り上がり、尾の先の毛にその振動が伝わってくるのを感じる。乾いた地面を踏みしめゲートに静かに入り態勢を整え――。

 

『ゲートイン完了 出走準備が整いました――スタートです!』

 

 ゲートが開いたと同時に乾いた地面に蹄鉄を叩きつけて前に出る。

 抑えめにしているため前を塞ぐように視界の中にいるだけでも8人ほどのバ群が前方を覆っていく。

 

『内から好スタートを決めたのは13番キタノカミカゼ! しかし内も外も負けじと前に出る!』

 

 足場を確かめる様に走り、前から7~8番目くらいの位置に控えながら2と書かれたハロン棒の横を先頭が通過。タイムは13秒。

 わざと後ろに下げているため叩き上げられ宙に舞う土埃が入らない様目を細める。それらが鼻腔を抜け喉にも張り付きそうで前に行ってしまいたくなるが、今は我慢だと自分自身に言い聞かせる。

 

 視界のすぐ右側にはマエツがチラつく。彼女は私より内側スタートだった者たちの後ろにつけようと行き脚を使っている。

 

 ――その時だった!

 

 そのマエツの更に大外側から左の内ラチへ向かい斜めに駆け抜ける何者かが目の前を横切っていく!

 

『内側から先頭フジミフウウン、それに並ぶようにラッシュソルティがハナを取る勢いだが! その横に大外からの突っ込んできたベルマッハ! 一気に外に並びもつれ合いコーナーに突っ込んでいく!』

 

 20のハロン棒を通過――タイムは24秒。

 

『第1コーナーのカーブ、ハナをもぎ取ったのはなんと19番ベルマッハ1番手! その後ろに6番フジミフウウン、その外並んで9番ラッシュソルティが2番手争い、少し下がったその後に並びその外ライトドレーク! 3人並んでベルマッハを追い、その先行団子3姉妹の後ろ内から8番ウエストライデン、その外11番イグニカメルン、更に外に人気のマエツニシキはいつもより前目の位置取りだ!』

 

 1コーナーを抜け私の位置は左手内ラチ側にベルパレード、私、そして右手の外にヒマラヤイブキと2人に挟まれ、前列の右斜め前にマエツニシキを視界に収めている。

 

『内にベルパレード、その外まわって10番シンボリルドルっルドルフここにいました! 現在8番手で先頭からは7バ身の位置、その外にヒマラヤイブキ。そしてこの列の後ろに13番キタノカミカゼとテューダーキングがバチバチと火花を散らしあいながら並んで進む!』

 

 右手外ラチ側に東京1800mで使うポケット側からの合流地点が過ぎていくのが見え、さらに18のハロン棒が左端の視界から消え2コーナに入っていく。

 

 先頭までは目測で8バ身。1バ身下がった2番手争いの横並びは外側から大きく垂れ、横に広がっていた先行バ群は1バ身ほど距離をあけて外にずれはじめた。そしてカーブを抜ける頃には並んでも2人程度のほぼ一直線に。1800m通過時点のタイムは36秒。

 

"――ここから12、3秒でラップを刻んでいくのであれば、まだ無理に位置をとる必要は無い――"

 

 右斜め前にいたマエツが私の右側に少し下がり、それに伴い左側にいたものが後列に垂れていった。12秒刻みで16のハロン棒を通過していく。

 

『第2コーナー! 少し下がってクラウンパーソロン、その外まわって中団にイーストカムリと更に外にテューダーキングが並んで追走!』

 

 視界がゆったりとした大きい東京のコーナーをぐるりと左側に旋回――2コーナーを抜け向正面と前を行く者の背が一直線上に広がった。

 

『第2コーナーを抜け後方集団は2番ダイアミリオン、その外大きく回ってアローシラオキ、少し下がってグリーンイメージ、少し下がって内にサドンタイフーン、その外並んでサンプライド追走! そしてメグロクレイバー、最後方はビゲイサーペン』

 

 向正面の足元の芝は『ここで勝てねば欧州は遠い』そんな現実を私に突きつける様に、ダートコースと言っても差支えが無いほど荒れていた。

 

 12のハロン棒こと前半の5Fを通過。

 タイムは1分1秒前後。ミドルペースより少し抑えめの12秒刻みのまま。

 

"――位置取り開始は大ケヤキ手前で決まりだ――"

 

 次のコーナー前までに前を取ろうとする者たちにどんどん包まれ、出来上がった3人ほど横に並んだバ群の壁。そして振り向かなくとも後ろにも数人以上前を狙って並んでいるのが予想できこれ以上下げると抜け出せなくなる。

 右の外に並んでいたはずのマエツも1バ身ほど前、前列の外に進出。そして向正面の坂を登り切り、3コーナー手前までの下りに転じたのが足元や身体に掛かる重力から感じ取れた。

 

 3コーナーの入り口――10のハロン棒を12秒か11秒後半くらいかで先頭が通過。現在地から前方まで10バ身ほど。そろそろ大ケヤキだしある程度前に出たい。縦長になって空いた右側から外に進路を取った!

 

『3コーナー先頭はベルマッハが軽快に飛ばし3バ身リード! 外を回ってフジミフウウン2番手、ベルパレード3番手、その外まわってマエツニシキ並んで来た! 少し下がってライトドレーク、その内を狙ってニシノライデン。少し下がって大外からシンボリルドルフやっときた! 一気に外から前を狙っていく! その内――』

 

 8ハロン棒の横を過ぎタイムを数えるのを止め、じわじわと速度を上げ大ケヤキの右を横切ったころにはライトドレークを外から捉え先頭までは4~5バ身! 先行集団はベルマッハ以下が団子でこのままいくと4コーナーで4人が並んだ壁になる! コーナーで前が開けば僥倖だが――!

 

"――この4人はそんなミスはしないはず! ならば!――"

 

『残り600! 先頭内からベルマッハ、フジミフウウン、ベルマッハ、マエツニシキが半バ身ずつズレながら斜めに並びながら4コーナーに突っ込んでいく! 』

 

 ――好位をとるために準備をした瞬間、全身にチリチリとした電流が走ったような感覚が駆け巡る! それは闘志か、高揚感か何ともつかないその勝利への衝動が全身を更に熱くさせた!

 

 4コーナーのカーブを抜け切る瞬間を狙って先頭に並ぶ4名の外を狙おうとしたその時! 私の右視界の外からカミカゼイチバン! そしてマエツと私の間の左からはクラウンパーソロンが突っ込んできた!

 右はかわし切ったが、左側の勢いが思いのほか強かった! 私はその勢いに押されるかのように進路を外に取り回避したため膨らみ、最終直線のほぼ中央に進路を取る羽目になるも――。

 

 目の前に広がるのは荒れた内側とは違い、青々とした野芝のターフのバ場がまっすぐ約500mの直線上にびっしりと生えそろっている!

 

"――予定は狂ったが、いける!!――"

 

 最内ラチ側にウエストライデン、間にマエツ、すぐ傍にクラウンパーソロンと並び残り400!

 

『東京の長い直線勝負! 心臓破りの坂を上っていくがベルマッハがまだまだ逃げる! 8枠のジンクスを覆し前残りで逃げ切りか!? それとも並ぶフジミフウウンとベルパレードのいずれかが捉えるか!』

 

 前方3名との距離を詰めるために溜めた脚を使ってゴール手前の坂を歯を食いしばり駆けあがる!

 

     ひとり――

 ふたり――

 

 両サイドの視界の外に横に並んでいたもの全てが流れ――!

 

 そして坂を越えて一気に目の前が開けた!

 

 そのまま真っすぐターフの外――最終直線の中央を貫く気持ちで前に前に前に!

 全てを、全身全霊を以て前を、勝利を目指し大地を搔き込んだ――!

 

『残り200! 先頭は依然ベルマッハ! フジミフウウンとベルパレードの2名が食い下がっている! デットヒートな3人を外から紫電一閃の勢いでシンボリルドルフが一気に距離を詰めて来た!』

 

 先頭の横並びの3人まで2バ身! 

 

『シンボリ来る! 前の子達も必死で逃げる! 残り100――っ!』

 

 ゴールをめがけ乾いた地面に蹄鉄を叩きつけストライドを伸ばしさらに追う!

 残り100で視界の左端に前方3名すべてが並び!

 

 そして――!!

 

『シンボリルドルフきた! シンボリルドルフ差し切ってゴールイン! 現在6連勝! そしてマロンフラワーと並び最小キャリアでダービー制覇だぁぁぁ! 1着シンボリルドルフ! 2着ベルマッハ! 3着フジミフウウン!』

 

 飛行機のジェットエンジンの目の前に立ったかのような音の質量がターフの上の私達へと降り注いだ。そして減速し終えた後観衆の前に立ち、紙吹雪降り注ぐ中その空に向けて2本指を立てて左腕を伸ばした――!

 

 ◇  ◇  ◆

――20××年+1 5月27日 午後22時頃――

――オルドゥーズ財閥所有 リムジン――

 

「ライトアップ綺麗だったなぁ――あんな催しがあったのは知らなかったわ」

「ああ、我々が行くと目立つ故に、車内からの案内で物足りないかもしれないが早く見せたくてね」

「そうだったのね。ありがとう、とても素敵な光景でした」

 

 都内某所の有名なイルミネーションスポットに、本日はダービーで勝者となった者を象徴する色が1週間ほど灯される。今年は私が勝ったので深めの緑にライトアップされており、その光景をライブを終え制服姿に戻った私はトレーナー君と車窓越しに眺めて楽しんだのが30分ほど前の事――。

 そしてイルミネーションを窓に張り付いて無邪気に見入り、喜んでいたトレーナー君は私の左隣で先ほどから頭を時々ふらつかせて夢の中へと舟をこぎ始めている。うっかり転倒して額をぶつける前に肩を貸して寝かせてしまおうと思い立ってしまう程に、それはそれは眠たげで危うい様子だった――。

 

「君の仕事は終わったから寝ても大丈夫だよ?」

「お気遣いありがとう、しかし、引率ですから……頑張り、ます」

 

 レースの後は私のケア、マスコミ対応、トウカイテイオーの面倒を見つつ、会見前の迎えと会場にいる保護者への見送り。今日はいつにも増してトレーナー君の業務量は多かった。気遣って眠る事を勧めたものの、職務だからと眠れないとして断られてしまった。どうやら私と同じで彼女も相当頑固なようだ。

 

 そしてトレーナー君は『ぼーっとしてて忘れる所だった』といい、手で隠しながらあくびをひとつした。釣られて私もあくびを浮かべている中、彼女は左前方に伸びるリムジンの収納から何かを取り出しそれを私に差し出した。

 

「2冠目おめでとう」

 

 トレーナー君がそっと両手で差し出したのは、手のひらサイズの木製の台座の上にガラスのドームが乗ったおしゃれな置物だ。中にはアンティーク調の金メッキが施された小さな蹄鉄が中央に配置され、その周りには深紅のバラ2本を中心とした、ブリザードフラワーのアレンジメントがセンス良くあしらわれている。

 

 その蹄鉄の手前側には蹄鉄と同じ色合いの金属フレームがつけられた漆黒のプレートが配置され、『シンボリルドルフ日本ダービー勝利記念』と日付と共に鮮やかな金の文字が刻印されていた――。

 

「……! これは素晴らしい頂き物だ。素敵な贈り物をありがとう――日本ダービー制覇で2本のバラかい?」

 

 即興のジョークを飛ばすとトレーナー君は困った様な呆れたような表情を浮かべた。

 

「えっと……反応に困るタイミングだけど、ジョークは絶好調ですね」

「ふふ、すまない。このタイミングではジョークは微妙だとわかっていたが嬉しくてつい。勝利を信じて用意してくれてたのか……君の育った米国のダービーでは勝者にバラを贈る。そこで私にもバラをということで用意してくれたのか」

「ええ。――知り合いに依頼して同じ薔薇で作ってもらいました」

 

 それはとても名誉なことで、そんな由来のあるバラを用意してくれたトレーナー君の気遣いに心の中に温かい気持ちがじんわりと広がっていく――。

 

「――少し目をつぶっててくれ」

「へ? 何ですか?」

「いいから閉じて」

 

 眠そうだった瞳が驚きで一瞬丸くなったトレーナー君は、『一体何? 何?』といった声が聞こえてきそうな様子でそわそわしながら私の指示に従い目を閉じた――。

 

 ガラスドームを一旦私と彼女の間に置いてから、そっと左前のリムジンの収納に近づく。

 その上に乗った白とピンク、そして赤のバラの花が活けてある花瓶がある。

 帰ったらトレーナー室に活けておくために買っておいたその花の内、純白のバラを1本抜き取る。そして適当な長さに茎を指で切り、彼女の三つ編みカチューシャシニオンヘアの右耳側のカチューシャ部分に差した。

 

「目を開けて。――互いに協力して勝利を掴んだのだから、君にもダービーの花が必要だ」

 

 トレーナー君は私の言っている意味が分からずキョトンとしてしまった。そこで制服のポケットに入れていた丸いシンプルなコンパクトを取り出して開き、花が差してある部分を鏡に映して見せたところ――。

 

「! なんだか照れ臭いですね。――でも……ありがとう――!」

 

 素直な気持ちなのか敬語が崩れ、照れくさそうに頬を染めたトレーナー君の表情と共に、錦上添花(きんじょうてんか)な愛らしいほほ笑みも広がった――。

 

 美しい夜景に、そして勝利。今宵はなんとよい夜なのだろう――。

 そんな満ち足りた気分に浸りながら目を車窓の外に向ける――スモーク越しに見た景色は現在地が学園に近い事を示していた。




◇設定と改変箇所◇
 ?????さんの正体と思われる??????選手と彼女のキャリアは皆さまの御想像にお任せしたいと思います。

 最終直線の進路取りを史実の流れとは変えました。
 思考回路が人に近いウマ娘のシンボリルドルフさんだと、外に出ちゃったらそのまままっすぐ走りそうな気がしたのが理由です。


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【幕間】旅立ち前、時計うさぎのお茶会

 大変おまたせしました。
 爆死を防ぐため重要な設定変更が近況報告にございます。
  https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=270009&uid=357813
  ↑該当記事リンク

 まことに勝手ながら申し訳ございません。
 平たくまとめるとケイローンやサジタリウスがそう言った名前のウマ娘だったケースに備え、半人半バ(セントウル)という名称は、とりあえずウマ娘の身体能力に近い存在が何故かそう言われているに変更させていただきました。

 スタートはトレーナー視点で
 場面切り替わりからルドルフ視点です
 それではどうぞ


――20××年+1 5月29日 午前5時――

――トレセン学園 総合トレーナー室――

 

"――なんかもう、申し訳なさすぎる――"

 

 はっきり言って今の気分は多摩川にダイブしたくなるくらい大分落ち込んでいる。

 気分はどん底ぶち抜いて、地殻越えてコアに末脚なしで行ける状態だ。こんな脳内を見られたら第3者からは、まだアホなこと言えるくらい余裕あるから大丈夫だろ? って言われそうだけど、メンタルの状態を視覚化するならば、猫にズタボロにされた障子といい勝負だった。

 

 昨日からずっと仕事を追い込んでいて今は仮眠室を借りて少し寝て起きたあとだ。

 そして総合トレーナー室内には朝早すぎて私以外誰も居らず、机の上にリポピタソΔの空き瓶が2つほど隅っこに並んでいた。元居た世界の常識で判断するなら半分ウマなのにカフェイン大丈夫なのと突っ込みたくもなるが、この世界のウマ娘たちは全く問題がないようだった――強い、人間に匹敵する解毒能力とか生物として圧倒的強者すぎる。

 

 こんな気分に沈んでいるのはダービーを快勝して迎えた翌日のルドルフのフルメディカルチェックの結果が芳しくなかったからだった。しかも今回のレースで使用した勝負シューズを分析にかけたら、その消耗具合から推測される脚への負担は当初の予想を大幅に上回っているという結果が出た。

 しかしこれは想定以上にルドルフの身体能力が成長していて喜ばしい事でもあり、幸いなことに今回は故障の予兆くらいで済んだしアスコット自体には間に合うだろう。

 

 だが勝負シューズに使われたものは転生前にいた世界の知識を頼りつつも、物質工学を大学で学び直して完成させた超衝撃吸収素材だ。ルドルフと出会う前に完成していた試作品は諸事情あり使えず、ダウングレードしたものを使っているのだがその状態ですらウマ娘のシューズに使うにはオーバースペックな代物だった。そしてこれはアスコットの堅良バ場用シューズにも使われていた。

 

 それが今回のレースでジャパンモデルの良バ場用シューズが一発退場。このままではルドルフの脚をヨーロッパのバ場から守り切れない。そして今年のキングジョージのバ場は長期予報的に良か良以上の確率が非常に高い――。

 

『ルドルフ君はストライドが大きく瞬発力も高い。そして天性の心肺能力と柔軟性でそのままでもF1カーのようなウマ娘だった。そこに我が姪っ子ちゃんのトレーニングと再生医療が加わったことで、彼女を米国製戦闘機に組み替えちゃったのか』

 

 セカンドオピニオンとしてデータを見ていた叔父はそんな風にお道化ていた。茶化している場合ではないのだが、叔父のこの余裕の態度には理由があった。

 

 諸事情こと、ライバル企業の妨害によってWorld horse-girl Racing (世界ウマ娘レース協会)Association((WHRA))から使用許可が取り消されていた、ダウングレード無し版超衝撃吸収素材の使用許可が降りたのだ。

 例え衝撃吸収素材だとしてもレース中にかかる脚への負荷が減ることで、競争成績があからさまに伸びるならば『技術ドーピング』扱いされてしまう。ライバル企業はそこに目をつけて抗議して使用許可保留という事実上の禁止になってしまったのだが、『ここは大人に任せなさい』といって引き受けてくれたお養父様と叔父様たちにより歳月を経て昨日やっと撤回された。

 

 それを受けてトレーナーとしてのレース後処理、ルドルフの靴の修正指示、新作シューズの再設計とそれにまつわる指示を同時並行し今はボロボロのクタクタ。その疲労感は『もう疲れたよ』って教会で犬抱っこしてるうちに天使数体に導かれて昇天しそうなくらいの重苦しさだ――。

 

"――ルドルフの気分転換もさせたいし、ここはがんばらなきゃ!――"

 

 仕事を一気に片付けてダービーで頑張ったルドルフを連れてってあげたい保養施設がある。

 きっと彼女は寮に缶詰だと退屈してるだろうし、大分素直に気持ちを伝えてくれるようになったものの、『暇だ』とか言いだせるほどあの子は器用じゃない。

 

 生徒会の2人にも外出させることを昨日夕方に相談したら、『会長の休み明けまでという事だし問題ない』と快諾してくれた。あとは私が気合入れて仕事の山を終わらせるだけ。

 

 両手のひらで頬をぱちぱちと軽く叩き、3本目の栄養ドリンクに手を伸ばすも――。

 

「飲み過ぎはダメですよ?」

 

 そのセリフを発したと思われる人物は、私の視界外から手を伸ばして栄養ドリンクを1本奪っていった。

 いきなり声をかけられて心臓が飛び上がりそうになったが、それ以上にガチギレしたときのルドルフのような、圧倒的強者のプレッシャーが背後から掛かってて、震えあがってしまって碌に声も出せないし動けない。

 ゴールドシップと追いかけっこしてエアグルーヴに叱られた時の恐怖感にもにた雰囲気に包まれたまま、油の切れた機械仕掛けの人形のように後ろを振り返ると……。

 

「おはようございます、トレーナーさん。1晩で栄養ドリンク3本は飲み過ぎですよ」

「オッ、オハヨウゴザイマス……!」

 

 声の主はたづなさんだった。彼女の口元は弧を描き一見すると笑っているようだが、夏の新緑のような緑の瞳の奥は物凄く怒っている。

 もしも彼女にウマ耳があるなら完全に後ろ見向きに伏せてるだろう。強めの怒り表現の『激おこぷんぷん丸』超えてインフェルノ手前の『ムカ着火ファイヤー』状態だ――ヤバイ!

 

「カフェインの取り過ぎです。よってこちらは預からせていただきますね? その代わり」

 

 プレッシャーに当てられて緊張状態だったため気付かなかったが、ふと美味しそうな魚介だしの香りが鼻先を掠めていった。

 配膳用の木製ワゴンの上からたづなさんが持ち上げたお盆には、お腹に優しそうなとろろたっぷりに海苔とネギ、卵黄の乗った月見うどんと、栄養補助食品のニンジンゼリーが添えられている。

 

「トレーナーさん、貴女もまだ育ち盛りなんです。身体を壊さない為にもきちんと食事を摂ってください」

「すいません、お気遣いさせてしまって。ありがとうございます」

 

 素直に謝るとたづなさんは『お気持ちはわかりますが、無理なさらないでくださいね? 食べ終わったら部屋の端っこのワゴンに置いておいてください。回収に来ますので』といって部屋を去っていった。その心遣いにありがたいと思いつつ、手を合わせて割りばしを割り温かい食事に手を付けた。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年+1 5月29日 午後13時――

――美浦寮――

 

"――……何もしないというのは退屈なものだな――"

 

 寮で食事をとった後壁にもたれてベッドに座った私はそんな気分に浸りながらボーっと過ごしている。私の傍らには既に読み終えた本がいくつか乱雑に積まれていた。

 

 レースに出ると4日ほど体調を整えるため振替休日が与えられる。

 以前の生徒会システムや学園運営のやり方を組みなおしたおかげで、私の不在中に問題が勃発するという事が去年末から劇的に減った。

 そして余暇を十分に過ごせるようになったのだが――あと3日間ひとりでいるのは鬱屈した気分にじわりじわりと押し潰されそうになりそうだ。

 

 さらに先日フルメディカルチェックを受けた際に、バ場からの反動が思った以上に大きいためしっかり休む様にトレーナー君から注意を受けていた。そして軽い運動も制限されていて本当に何もやることが無い。休暇を満足に過ごせるのは良い事なのだけれども……。

 

"――こうしてるのもなんだか釈然としない――"

 

 スマートフォンを弄ってウマッターを開くと、今朝のネットニュースに発表されていたトレーナー君が開発に関わっているシューズ素材の解禁がまだ騒がれていた。

 レース後何も無い時はトレーナー君の所にある蔵書目当てや話し相手欲しさに、彼女の元に滞在も多いのだが昨日急ピッチで靴を作り直すといっていたので、今頃忙しくしている事は容易に予想出来る。

 そんな彼女の邪魔をしてはいけないなと思いながら画面の電源を落とすと――。

 

 ――うまぴょい♪

 

 通信アプリLEADに着信があり手に取ると、送信元はどうやらトレーナー君のようだった。

 開いてみてみると内容は仕事は片付けたという事、療養兼ねて気分転換にいかないか? という事だった。

 

"――レース後の業務量は軽減されているとはいえもう終えたのか。流石というか何と言うか――"

 

 お出かけの誘いが嬉しくて耳もピンとなったが、また無茶したんじゃないかと思うと素直に喜べなくて耳もシュンとしてしまう。

 

『お疲れ様。業務量から考えて早すぎると思うんだが、まさか無茶してないかい?』

 

 そう返事を打ち込むとLEADスタンプで『ギクリ』という文字が付いた、視線を泳がせるウサギのスタンプが押された。

 

『ソンナ事ナイナイ、ナイデスヨ』

 

"――……嘘だな――"

 

 あからさまな嘘の匂いを察知して、私はまず『焚火の絵文字+うさぎの絵文字=焼き肉の絵文字』を打ち込み、そしてステーキを前にお行儀よくナイフとフォークを構え、エプロンを首にかけたライオンのスタンプを押し返す。

 すると土下座したウサギのスタンプと『ウソツキマシタ! 全面降伏! タベナイデクダサイ!』とメッセージが表示され思わず鼻で笑ってしまった。まあ大方私の事を気にして誘うために頑張ってくれたのだろう。

 

 『許す』とメッセージが書かれたライオンのスタンプを押し、『何を持って行けばいい?』と打ち込むと、『2日分の着替えと、あとスマホとか宿題とか?』と返ってきた。滞在先は次の行に書いてあり――。

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年+1 5月30日 午後14時50分ごろ――

――オルドゥーズ財閥所有 相模湖付近のホテル――

――離れの屋敷――

 

 窓際のソファーに腰かけ、部屋着でのんびりしながら眺め降ろすと見事な庭園が眼下に広がり、室内の内装は明治や大正時代を思わせる落ち着いた雰囲気だがひと目で品質がよいとわかるものばかりだった。

 

 府中からほど近い相模湖のリゾートスパには自然のままに近い庭園と温水プール、サウナや大浴場にラグジュアリーな内装の中エステやネイルサービスを受けられ、レストランで出される食材は全て産地直送。我々のウマ耳にも騒がしくないように配慮されたここは大変な人気を博している施設だった。

 

 このホテルの一角を家代わりに与えられている何とも幸せなそのお嬢様はというと、上質そうなベッドの上で寝落ちして寝息を立てている。

 昨日の夕方からこちらに泊まり今日の午前中はマッサージやエステ、ネイルケアなどされ目の前のトレーナー君も私もベストコンディション。そんな状態なのに彼女の体勢はうつ伏せで顔がこちらを向いており、美味しいものを食べているのかかなり幸せそうな顔をしながら時々寝言を言っている。そんな間の抜けた表情に対し笑いを必死にかみ殺して起こさないように離れた所から見ていると――。

 

 彼女はゆっくりと瞼が開いてむくりと起き上がった。そして目をこすったのち背伸びをしてあくびをした。そして寝ぼけ眼全開で此方を向き――。

 

「……おはよう」

「おはようトレーナー君。まだ寝ててもいいんだよ?」

「オヤツを食べ損なってしまうので起きます」

 

 壁にかけられた時計を見ると、時間は15時前を示しており丁度間食を取るにはいい時間だった。目覚まし時計もかけていないのに起きるとは、随分正確な腹時計を持っているなと感心している間に、トレーナー君は若干寝起きの気配を漂わせながら洗面台のある隣の部屋に向かっていった。

 

 蛇口から水を出して洗顔をしている音がする中、私は再び本に視線を落としているとトレーナー君のスマートフォンが鳴った。若干前髪が濡れた彼女が帰って来てそれを拾い上げて確認した。

 

「オヤツできたから隣の部屋に用意してくれるってさ。流行りのアフタヌーンティーで作ってくれたみたい」

「ふむ? アフタヌーンティーが今のブームなのか?」

「ええ、背伸びしてお小遣いを貯め、ホテルやレストランでお茶会を楽しむ学生がこの所多いみたい」

「それは良い事を聞いた。社交ダンスとテーブルマナー講座を既にやっているが、今年はアフタヌーンティーのマナーを取り扱うのもいいだろう」

 

 同じソファーの片側に座ったトレーナー君は、私のその発言を聞いて目を輝かせた。

 

「いいですね。お姫様体験は女の子の夢ですし。それと、我がオルドゥーズ財閥にご依頼頂ければ予算内で必要なものをご用意致します」

「君はそういう所に抜け目ないな」

「ええ、商売人の娘ですから」

 

 商機が見えたのかすかさず営業をかけてくる。そんなトレーナー君のチャッカリした所に思わず笑いが込み上げてしまう。以前も利用したが、彼女の会社は大きい分いい仕入れ先を紹介してくれるので頼みやすい。実践マナー講座を行うならばきっとまた依頼を出すことになるだろう。

 あれこれ計画を考えている内に隣の部屋で準備が出来たらしく、使用人の方がノックしてドア越しにそれを伝えて退出していった。

 

 隣の部屋に入ると庭を一望できる大きな窓に白くて無地の薄いカーテンが引かれ、その手前に2人ぶんのアフタヌーンティーセットが用意されていた。機嫌よくそれに近づいたトレーナー君は椅子を引いてどうぞと促してくれるのでお礼を言って座る。

 

 テーブルの上に添えられたシンプルなメニュー表を見ると……。

 


 【上段 デザート】

  季節のフルーツ入りエルダーフラワーゼリー

  ふじリンゴのムース

  いちごのマカロン

 

 【中段 温料理】

  タラのフィッシュアンドチップス

   ビネガーソース&烏骨鶏卵のタルタルソース添え

  ダチョウ肉のミートパイ

  ほうれん草と時鮭のキッシュ

 

 【下段 サンドイッチ】

  ニンジンたっぷり春キャベツと若鳥サンド

  玉子とコールスローサンド

  トマトパンのエビ&ツナ&アボカドサンド

 

 【アミューズ】

  新ジャガイモのポタージュ

  旬の太キュウリのピクルス

 

 【スコーン】

  プレーンスコーン

   コーンウォール地方のクロテッドクリーム

   甘夏ジャム

 

 【ドリンク】

  春摘ダージリンティー


 

 旬を大幅に外していない素材の構成で、私の好みやバランスを考えて作られていた。

 お茶を自分でカップに注ごうとしたところ、トレーナー君が先にティーポットに手を伸ばすと。

 

「貴女の保養目的だからゆっくりしてて」

「そうかい。ではお言葉に甘えて、ありがとう」

 

 今は客人の立場なのでトレーナー君に任せると、慣れた感じで彼女は紅茶を注いでいき、それを私が受け取りアフタヌーンティーを開始。

 ゆっくり少しずつ食べながらとても幸せそうな表情をしている彼女は、カップの上げ下げひとつとっても完璧で、食事風景は常に優雅で他者の手本となるだろう。

 

"――今まで予定が合わずに誘えなかったが、担当トレーナーも生徒会の講座にパートナーとして参加できるし、ここまでしっかり出来ているならば手本として招くのもいいかもしれない――"

 

 そんなことを考えていると、目を丸くした彼女が眉を軽くひそめ不思議そうにしていた。

 

「どうしたんですか? 穴が開きそうな程私を見てましたけど」

「優雅な食事風景だったので今度のマナー講座に招こうかなと考えていたところだよ」

「そうですか。行くのは構わないですけど、緊張してうっかりやらかしちゃうかもしれませんよ? 私めっちゃ雑なとこありますし」

「ふふ、君のマナーが雑と言われたら世の中はどうなるんだい? きっと大丈夫さ。期待しているよ」

「おー? そうやってプレッシャーかけちゃうんですか? これは行くなら予習復習を頑張らないといけませんね」

 

 アミューズを食べ終えてトレーナー君は軽口を叩きながら赤いトマト生地のサンドイッチを皿に盛り、私もニンジンサンドイッチを取り、ナイフとフォークで切ってひと口含む。

 千切りのニンジンの程よいシャキシャキ感とコールスローにされた春キャベツの甘さ、そして香りづけされた柔らかくて塩加減の良いチキンの肉汁がじわりと口の中に広がる。

 

「どれもいい味付けだね。そういえばイギリス行きの準備はどこまで進んでいるんだい?」

 

 気になってレースの話題を振ると、トレーナー君はその手に持っていたサンドイッチの最後のひと口を飲み込んでからこう答え始めた。

 

「出走申し込みは受け付けてもらえたよ。毎年10名くらいで今年も殺到してるって情報はないからほぼ間違いなく通るでしょう。忙しい時に来てくれる家事手伝いさんも手配したし後は行くだけ」

「靴の方は昨日修正を入れると言っていたが、それも間に合いそうかい?」

「ええ。設計図送ったので今週末には届くはずです。ルドルフの回復をまって履き馴らしつつ試走したいところですね。今週は今日打った栄養点滴、あとショックウェーブ装置とか使って全身の回復を促しますが、そこから仕上げに入ってもレースへの総仕上げには十分間に合います」

「順調そのものでよかった。宿泊先の手配までありがとう。そういえば私の英語の発音の方は問題なかったかい?」

 

 その点に不安があり尋ねると、トレーナー君は少し首を傾げて考えるそぶりをした後に回答しはじめた。

 

「全く問題ないです。堅苦し過ぎず程よい感じがするので相当腕の良い言語教師がついていたんですね。容認英語の発音をベースに河口域英語はわざと混ぜてるんですか?」

「ああ、堅苦し過ぎると思うからアレンジで混ぜている」

「なら大丈夫そうですね。前にルドルフの英語を聞いた時のままなら、丁寧だけど気取った感じが無いイメージを与えられるはずなので、発音はそのままでお願いします」

「君にそう言って貰えるならば安心だね大変参考になったよ。ありがとう」

 

 学園に時々届く海外からのメールの翻訳や、会見で通訳を依頼されれば完璧に務めるトレーナー君に大丈夫だと言ってもらえるなら安心だ。そう胸をなでおろしながらおかわりの紅茶と薄めるためのお湯を足してかき混ぜ、ソーサーを持ち上げて口に含もうとしたところ――。

 

「それと飛行機はチケット取ろうとしたら、お養父様が自家用機出してくれたんでそれで行くことになりました。ダービー勝利のお祝いだそうで」

 

 自家用機と聞いて思わず手が止まり、心地よい環境で横向きだった耳がピンと前に向くほど面食らってしまう。コースを作ってプレゼントしたり今までトレーナー君のセレブっぷりには驚かされているが、ここにきてそんな代物まで持ち出してきた。

 

"――もしかして……トレーナー君の規格外のプレゼント癖は養父譲りなのか?――"

 

 血は遠い親戚レベルの2人だがやる事、成す事がそっくりでそんな所から親子なんだなぁと微笑ましいが、予算のほうは大丈夫なのだろうかと不安に思った。

 

「それはありがたいがそんなに出してもらって大丈夫なのか?」

「全く問題ないです。最近大きな成功収入も入っていますし」

「それは僥倖だね。何か事業に成功したのかい?」

 

 このセリフが出るくらいだからトレーナー君はまた大きく儲けたのだろう。

 その内容が気になった私がそう尋ねると彼女はすっきりした笑顔を浮かべた。

 

「本国での農業事業と肥料の改良に大成功しました。これで食糧危機までの時間稼ぎになるはずだしそれに……」

「それに?」

「みんなも幸せ我が社も幸せ! 食糧生産押さえて100年内にウチが天下を取れたらいいなぁ! なんて、そんな淡い希望を抱いています」

 

 飛び出た言葉に思わず口に含んだ紅茶を吹き出してしまいかけた。

 トレーナー君が『大丈夫?!』と声をかけて席を立ってナプキンを差し出してくれた。お礼を言って受け取り私は口元を拭く。

 穏やかで平和的な方かと思いきや、トレーナー君もやはりオルドゥーズ財閥総帥の娘こと『ラスボスノムスメ』。ストレートに言うなら『食糧事情握ってやる』という内容をさらっと言ってのける所に、既に世界で覇権を握ろうとしている魔王候補のひとりというより、最早次期魔王染みたものを感じてしまう。

 

「それは夢というより野望なのでは……? 君の実家は世界征服をする気なのかい?」

「ついて来てくれる社員を守り、結果より多くの方々のお腹を満たせるならばやるかもしれません」

 

 茶目っ気たっぷりにウインクしてる目の前の彼女が自分の味方でよかったと心底思う。まあ、あの会社のトップや彼女は殆ど正攻法で稼いでいるし、非道な事を好まなさそうだからきっと大丈夫だろう。

 

「超長距離仕様なので羽田からノンストップでいけるから、きっと快適な空の旅になるでしょう。ご飯もお好みがあったら前日までに教えてください。用意してもらいます」

「ありがとう。もし食べたいものがあったらそれまでに連絡するよ。しかし君たち親子はどうしてそこまで私に協力してくれるんだい?」

 

 日頃疑問に思っていたのでこの機会にと思い尋ねると、トレーナー君はためらいもなく答え始めた。

 

「まず商売が第1の理由です。ルドルフが海外で勝利をあげてくれれば、日本国民からのウチへの印象よくなりますしあとは……ロマンですね」

「ふむ、ロマンというと?」

「かつてイギリスに追いつき勝利をもぎ取ったフランスのウマ娘たちの様に、日本の子達が西側に追い付いてくれたら凄く面白い。それでお養父様はトレセンに出資していて、そして偶然ルドルフは私に声をかけた。で、私は貴女なら凱旋門もいけるとおもった。全力で協力するに決まってるじゃないですか」

 

 圧倒的強者故に純粋な気持ちで居られるのだろうか。そんなトレーナー君はとても綺麗な笑顔を浮かべ、そして言葉を続けた。

 

「貴女はきっと夢を現実にするでしょう。そのために札束で各方面を引っ叩きまくるのは惜しみません」

「君の場合札束ではなく金塊で殴りつけそうな勢いだけど、その信任に必ず応えるよ」

「あらやだ。そんな痛そうなもので殴らないですよ」

 

 ふふふとお互い笑い合い、先程入れた紅茶は飲み終えたため、またお茶を足して今度はミルクで割ることでミルクティを作りった。

 そして3段式のケーキスタンドの最上段のデザートを取り分け始める――。

 

「そういえば夕飯のメインディッシュは厚切りローストビーフだって。楽しみですね」

 

 今食べているのにもう夕飯の話をしている。私に怪我の予兆という診断が出た時は死んだ魚のような目をして私に謝っていたから、また食が細るのではないかと心配していた。しかし靴の素材許可が降りた関係で落ち着いたのだろう。

 そんな元気な様子を見て安心して、こちらも思わず微笑み冗談を返した。

 

「食べてる最中にもう夕食の話かい? 君はそんなに食いしん坊さんだったかな?」

「ええ。この前ルドルフによって、おみかん達を拉致されたことを覚えてるくらいには食い意地が張ってます」

 

 まだ覚えているのかと感心したが、表情から察するに本気で怒っていないしふざけているんだろう。そんなジャブを放ってくるトレーナー君に私もおどけて返事を返す。

 

「それは怖い。君から食べ物の恨みを買わないように気を付けないと」

 

 そういってお互い微笑み合い、そしてトレーナー君が頑張って用意してくれたこの和やかな時間は過ぎ去っていった――。

 



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『open-game』白のポーンは時計ウサギを追って

おまたせしました。
トレーナー君視点から始まり、ロンドン入りからルドルフ視点です。


――20××年+1 7月2日 午前2時頃――

――オルドゥーズ財閥専用機内――

 

 昨日夏合宿に皆を送り出し私たちも英国に向けて出発した。

到着した空港には深夜だというのに沢山のメディアが押しかけていて大変な賑わいを見せおり、集まった人々の数で私は軽く酔いそうになるほどの状況だ。

 

 久しぶりに海外に打って出るウマ娘が出たのだから無理ないかなと思いつつ、出来る限りルドルフとインタビューに答え、眠そうな秋川理事長とたづなさんに見送られながら日本を発ち、今現在ラグジュアリーな内装に囲まれた機内のソファーで寛いでいた。

 ルドルフを先に別室のベッドで寝かせ、私はというとまだ情報を精査している。

 

 出走者情報をタブレットで見ると、『Functio』(ファシオ)はキングジョージに出走登録し、勝利を確信しているという『Keith・Castrum』(キース・カストルム)の自信満々のインタビュー記事が載っている。

 

"――やっぱりというかそりゃ来るよねぇ――"

 

 逃げに近い位置に居て先行しさらに突き放せる。こんなウマ娘がヨーロッパでの相手だったら嫌だなって思っていたところにこんなトンデモウマ娘が来たのだから、やはりルドルフの行き先は一筋縄ではいかなさそうだ。そして今回しかも『Richard wells』(リチャードウェルズ)まで出走するそうだ。ラビットは『Sunny Princess』(サニープリンセス)陣営発表の『Ihr Ehre』(イーアエーレ)。予想通りなら最終直線で『Functio』(ファシオ)『Richard wells』(リチャードウェルズ)の前残り組によるデットヒートになるだろう。前年度同レースの勝者で2連覇を狙う『Trade treaty』(トレードトゥリィーティー)も警戒すべきだ。

 今の所それなりの数が集まっているが、おそらくここから当日回避がでて14から10名程度にまとまるだろう。

 

 そして、かつてこのレースに日本から挑戦したある偉大なウマ娘がいた。その時の資料や独自分析したデータを揃え、こちらの準備は整っている。1か月前までに学園の対欧州向けの特設コースで目いっぱい作り込んで、7月頭からニューマーケットに入り、そこで最終調整をかけてマッチョでタフな女子だらけのヨーロッパでルドルフを勝てるように仕上げる予定だ。

 

 きっと間に合うはず――間に合わせなきゃいけない。

 ルドルフにヨーロッパの先頭の景色を見せるために私は来たのだから。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年+1 7月2日――

――現地時刻 午前9時手前――

――英国 時のはじまりの都 ロンドン――

 

 ロンドンの空港に足を踏み入れたのが早朝午前7時頃。メディアはまばらで、そんな様子から私はまだ遠征のスタート地点にいることを認識させられた。

 しかも数少ないメディアがいると思ったら、やはりトレーナー君目当てで前のウマ娘の話ばかり聞かれるのを見て、むっとしてしまったのは私だけの秘密だ。彼女の今現在のパートナーは私だと言ってしまいたかったが、その気持ちはそっと仕舞い今はロンドンの街並みを進む。

 

 私が後に遠征にくる子達の為に資料を残したいと頼むと、頭に黒いウィッグを被り、瞳をコンタクトで茶色に変装したトレーナー君が、軽い足取りでロンドンの歩き方をかれこれ1時間教えてくれている。来たこと自体はあるのだが私が幼少期過ぎて、情報量は彼女の方が圧倒的に上だった。危険な所の基準や日本からの滞在者向けの食事処、そしてどの辺りが学生の滞在先に良いかなどだ。

 

『視線を浴びることが無いって久しぶりだわ』

『そうだね。私も久しぶりの感覚だ』

『そういえば幼いころに来たことあるけど回ってる所はダブってないですか?』

『前は幼過ぎてじっくり見れてないから新鮮そのものだよ。お気遣いありがとう』

『ならよかったです』

 

 河口域英語で話すつばの広い白い女優帽をかぶったトレーナー君は、時折カジュアルな若草色のワンピースの裾をはためかせて少し前を歩いている。そしてスラックスにシンプルで大人なイメージの緑のトップス、そして色違いのグレーのつば広の帽子をかぶった私が後を追う。トレーナー君がスーツだと追われると思った我々は、空港を出る時にこっそり私服に着替えて出ることにしていた。

 

 例年より雨が少ないと言われる今年のロンドン。

 その乾いた風が頬を撫で首の両側面を通り髪を持ち上げるようにして流れていく。気温は高いが湿度がない。そのため風は涼しく感じ、飛行機での移動の疲労もない私の身体には寧ろ軽い運動が心地よい。

 時々風景の中にトレーナー君の護衛が居るのが見え隠れしている。日本より少し彼女たちとも距離間が近い所に、ここが異国で環境が違うということを示していた。

 

 そして誰かが水をうっかり零したらしく小さな水たまりが出来ている。

 その近くを通ると、ロンドンの香りと言われるコンクリートの匂いが強く立っていた。その水たまりを通過した右手には壁が白い石材で出来ていている大きなホテルが1軒

 この橋の真ん中に差し掛かった時、学校のチャイムのような鐘の音が響き始めた。まるでこの町がいまも時計台に刻まれた、かの女王の時代が息づき続いている事を示すかのように――。

 

『聞いた事あるでしょ? このメロディ』

 

 トレーナー君がクルリと振り返りニコリと笑って音の出所を指さして私に語り掛けた。

 

『ああ。小学校のチャイムの音色と同じだね? 祖父と幼いころ訪れた際に聞いて驚いたが、曲名まで走らないな。なんという曲なんだい?』

『うーん。曲名って言う程なのか謎だけど、ウエストミンスター・クウォーターとかウエストミンスター・チャイムとか呼ばれてますよ。前者の名称が示す通り15分で1回、30分に2回、45分に3回で60分に4回鳴って1時間を表すそうです』

 

 日本にはイギリスに倣った文化が数多く散見されるが、まさかこんな所にも影響があるとは初めて聞いた時は思いもよらなかった。そう感心しているうちにウエストミンスター宮殿――英国国会議事堂に付随した建物こと、先ほどのチャイムの音の元である『ビック・ベン』の目の前で立ち止まった。ネオゴシック調で作られた大きな文字盤の大時計は、大空を背景に天高くそびえ立っている。

 しばらくじっと無言でお互いそれを見上げていると、トレーナー君の方が先に口を開いた。

 

『やっぱりじっと見ちゃいますよね。この大きな時計――』

『ああ、作った方々は凄いね。そしてこの議会所からいろんな物事が決まり、世界史に大きな影響を与えたとは感慨深いものがある』

『――他にもし見たいところがあったらあと1か所くらいなら回れますよ?』

 

 一緒に時計台を観上げながらどこにしようか考えるように唸る。

 

『こことは逆だが今は資料館になっているという船が見たい』

『ああ、あの船ですね。いいですよ。バ道でいきますか?』

『折角のロンドンだから歩いていきたい』

『ふふ、わかりました』

 

 私たちは見上げるのを止め来た道を引き返す様にまた橋を目指す。その途中日本からの修学旅行生と思われる学生の集団がバスから降りてくる横を眺めて通り過ぎ、のんびりと景色を楽しみながら他愛のない話を続けた。

 

『――今日のロンドンはいかがですか?』

『そうだな。まず色々と厚みを感じるよ。今からこの国の積み重ねてきた歴史に挑むのだという気持ちになり、身が引き締まる』

『そうよね。私もそんな緊張感を感じています』

 

 追いつけ、追い越せと数多の国々が英国が作った道の続き目指し、そんな国々のひとつだった私の国の先駆者たちもこのような気持ちだったのだろうか……。そんな重圧が我々を包み、今月末にはこの国に勝負を挑んだ決着を見ることになる。

 

『勝ちましょう。近代レースの原点となったこの国で』

『そうだな。絶対に勝って帰ろう』

 

 今少しだけ目の前のトレーナー君の心がより強く成長している気がした。

 そして白い個体を含む鳩の群れが我々の近くを舞い飛び去っていった――。

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年+1 7月2日 20時頃――

――ニューマーケットの借家 書斎――

 

 夕方にすでに荷物が運び込まれた滞在先のデタッチドハウス(1軒家)に到着した。歴史の長い家らしく、フリント(火打石)をレンガ代わりに積み上げたグレーと黒、白がマーブルに交じるツタの這う壁が特徴的だ。小鳥の絵付けの美しい『勝利の女神の名を冠する女王』の時代由来のステンドグラスがはめ込まれた両開きのドアの上の壁面には、白とピンクのツタバラが取り巻いておりまるで絵物語のようであった。大分前に日本からの住民が引っ越してきて以来、住居内は土足厳禁らしく、スリッパで過ごして欲しいと大家のクレアと名乗る老齢のウマ娘からは頼まれた。

 

 妹がここに居たらきっと大はしゃぎするだろうなと思いながら、それからすぐに衣類をクローゼットに仕舞ったり、魔女が箒で宅配する映画などに出てきそうな内観のキッチンで一緒に夕飯を作った。

 

 それから入浴して私は深い緑のナイトウェアに着替え、お互い書斎にこもって私は生徒会、トレーナー君は財閥の仕事をこなし、先程『紅茶が飲みたくなっちゃった』といって彼女はキッチンに向かっていったのが30分前になる。

 読みかけの本に栞を挟み、背中を伸ばす。自分もコーヒーが飲みたくなったのでトレーナー君を追ってキッチンに向かうべきかと思案していると――。

 

『ルドルフー。開けてくださーい』

 

 ドアの向こうからトレーナー君の声がした。本を椅子に置いて出迎えると、引き立ての良い豆の香りがするブラックコーヒーと、ミルクティの香りと共にトレーナー君が顔を出した。どうやらお盆を持っているためドアを開けられなくて困っていたようだ。

 

「休憩にと思って持ってきたんです。どうかな?」

「気遣いありがとう。丁度コーヒーが飲みたいなと思っていたところだから助かるよ」

 

 白いナイトワンピースに薄手のショールを纏った彼女が入室し、テーブルとソファーが置かれたスペースにテキパキと配膳をしてく。

 食器類は『不思議の国のアリス』のような絵柄揃えられ、お茶請けとしてニンジンチョコチップクッキーが皿の上に綺麗に並べられていた。

 トレーナー君がソファーの隣に座るのを待ってから、『いただきます』と述べてからコーヒーに手を付けた。

 

 クッキーをかじると軽くトーストしなおしたのか、サクサクと軽い口当たりに少し柔らかいチョコが口の中でさっと溶けていく。そしてコーヒーを一口飲むとチョコレートによってよりコーヒーの美味しさが引き立っていく。

 

「レースについて何か新しい情報はあったかい?」

「予想通りRichard wells(リチャードウェルズ)選手が出走表明。今朝自信満々のキースさんのインタビューが載ってたくらいです。滞在先もこの近所らしいですね」

「ありがとう。マークしている相手と同じ場所にいるということは、敵状視察には丁度いいね」

 

 力量の差はあるだろうが、それに追いつけなければ勝利はない。目の前に越えなければいけない相手が居ればそれはより具体的なヴィジョンに繋がるだろう――。

 

「そうですね。あともしかしたらルドルフのお祖父様の知り合いも訪ねてくるかもしれませんね? 以前伺った貴女のご家族に関する話から察するに、こちらの関係者にもお顔が広そうですし」

「ふむ、知り合いが多い祖父ならば、そういった人脈を持っていてもおかしくはないか。君が作ってくれた貴族と資本家リストは暗記済みだし、あとは来訪者のためのマナーも再度見直しが必要か」

 

 彼女が言うように私の祖父は幼いころの私をよく海外に連れ出して大舞台を見せてくれていたし、そんな祖父の知り合いが応援がてら訪ねてくる可能性は非常に高いだろう。

 

 ティータイムを終えた後2人で片づけて歯を磨き、読みたいが言語が古過ぎてわからないレース史の本をトレーナー君に渡し、解説付きでそれを読んでもらい、眠くなったところで同時に床に就いた。

 警備の対象が分散しないための都合上、隣のベッドで寝ているトレーナー君は瞳を閉じて3秒以内に寝落ち。相変わらず夢の中へのスタートダッシュは私よりも早いなと思いながら、ベッドライトを完全に消して翌日へとコマを進めた――。

 

  ◇  ◇  ◆

――20××年+1 7月3日 11時頃――

――ニューマーケットの借家――

 

 翌朝、隣家に住む大家さんが昨日食べたクッキーの差し入れに来てくれた。

 大家さんは世界一過酷なレースで有名なGrand National(グラン(ド)・ナショナル)の勝者であり、引退後は同レース2連覇をはじめ、ヨーロッパの障害走で伝説となったウマ娘『白真珠のマハスティ』の担当トレーナーをやっていた経験がある。このマハスティはトレーナー君の養育係で、この関係があったから今回の借家が紹介されたらしい。

 

 大家さんはニンジンチョコチップクッキーを焼くのがうまく、『クッキーおばあさん』と近所では呼ばれているらしい。忙しい時に我々の為に夕食を作りに来てくれるそうで、トレーナー君曰く『クレアさんの料理は味もバランスもいい』そうだ。そしてイギリス料理の洗礼は受けないだろうと断言された。得意料理は先述のもの以外だとビーフシチューだそうだ。

 ここに出入りするのはこの大家と料理以外の家事をしてくれる使用人のフリをしたトレーナー君の護衛が4名。護衛達は同じ家の中に交代で詰めているようだった。

 

 大家さんが帰った後、広い庭で軽くストレッチと運動をして指定時刻内に戻ってくると、トレーナー君がキッチンでお昼ご飯を作っており、その入り口から声をかけると彼女は作業の手を止めてこちらに微笑んだ。

 

「おかえりー。ご飯前にシャワーどうぞ。天気がいいしお庭でランチはどうですか?」

「そうだね、そうしようか。お言葉に甘えてシャワーを頂いてくる」

 

 硬水で髪が痛むかと思いきやシャワーにはミネラル除去装置がしっかり備え付けてあったらしい。試しに腕をドライヤーで乾かしてもこの地域の水質特有の白い粉が浮き出ることはなかった。それに安心して髪の毛を乾かしていると、時刻は12時を少し過ぎたあたりとなっていた。シンプルなトップスとゆったりしたボトムに着替えて窓から庭を覗くと、トレーナー君がこちらの視線に気づいて手招きをしている。

 

 古めかしい木製のドアを開け家を出て庭に出ると右端に低い赤レンガの塀が連なっている。その先には元々ここが2世帯住宅だったため似たような外観の大家さん宅の様子が見え、その庭にはテニスコートが増設されている。そしてそこで孫と思われる小さな子ウマ娘達が、はしゃぎながらテニスをプレイしているところだった。

 

 トレーナー君の居る地点まで数歩という所まで近づくと、ケヤキのような枝葉の広がり方をしているオークの巨木の元に、絵本の挿絵に出てきそうなピクニックスペースが出来上がっていた。そしてその隅に涼し気な水色のカジュアルワンピースの裾を広げて、髪を軽く低い位置にシュシュで結っただけのトレーナー君が座ってカラトリーの準備をしている

 

「食事の準備をありがとう。気温は高いが木陰は涼しいな」

「意外にも湿度はないですからね。今年は特にからりとしているらしいですし」

「そうだね。君が2度あることは3度以上あると言っていたのは大当たりだ。さて、お昼のメニューはサンドイッチかい?」

「ええ、ローストビーフのサンドイッチとタラのフィッシュサンド、そして生食オッケーな鶏卵で玉子サンドを作ってみました。あとはコールスローサラダに、フルーツ盛り、大家さんおススメの葡萄ジュースです」

 

 この国で伝説となったウマ娘が立ち上げた食器ブランド特有の、ジャガイモの花や実があしらわれたの大皿の上にはサンドイッチがこれでもかとてんこ盛りになっている。

 

「なんだか海外のドラマみたいな豪華な食事だね」

「折角なので雰囲気を出すために頑張ってみました。投稿用の写真は撮りますか?」

「そうだね。折角だしHorsebookにあげておこうか」

「あれ? いつの間にSNSを替えたんですか?」

「色々試してみたのだが、億劫だししっくりこなくてね。かといって仕事柄全く発信しないのは痛手なので君と同じHorsebookに落ち着いたよ。公開範囲も選べるのがいいね」

 

 ウマッターにある生徒会用の広報アカウントとは別に作ったHorsebookには、日々の大切な思い出を日記のように記録している。以前はSNSは億劫で仕方なかったのだが、残したい大切な思い出が増えてこうして投稿も自然と増えるようになった。『無事拠点の準備が終わってこれからお昼だ』という内容を投稿し、スマートフォンを閉じて用意されていたおしぼりで手を拭く。

 

「ところで君はいつもの飯テロとやらの投稿はしないのかい?」

「ふふ、すでに撮影済みです」

「抜かりはなかったようだね」

 

 トレーナー君の投稿の大半はセレブっぽい豪華な暮らしぶりではなく、主に食事の事が綴られている。お菓子が美味しいというのならまだ可愛いが、深夜に夕食時に肉を焼いていた動画を投稿するというイタズラが殆どだ。その所為で減量したいウマ娘たちから彼女のHorsebookは発禁モノ扱いを受けている。

 そして料理の写真を撮影しHorsebookにあげていると、トレーナー君はガラスのピッチャーから赤ワインの様に芳醇な香りのする葡萄ジュースと、水を別々のガラスコップに注いでくれていた。そしてお互いに食前の言葉を交わし目の前の馳走に手を付ける。

 

 まず味の優しそうな玉子サンドを口に頬張ると、粗めに潰した白身と細かい黄身の触感。程よい塩加減とマヨネーズの酸味が疲れた身体に染み渡る。

 これを食べ切り水で口の中をリセットし、今度はタラのサンドイッチに手を付ける。玉葱の触感が残るタルタルソースにサクサクしたきつね色の衣の白身魚、それらが新鮮な野菜の旨味とパンの甘みと合わさり、味と共に鼻腔に最高に香ばしい香りが広がる。また水でリセットしてぶどうジュースを飲み、今度は西洋絵画のように盛り合されたマスカットを食べようと手を伸ばしたところ――。

 

「お、大家さんVSお向いさんだ。これは面白い試合になりそう」

 

 トレーナー君の視線の先を追うと、ふたりの高齢なウマ娘がラケットを片手に子供たちと選手交代をしてテニスコートに入っていくのが見えた。

 

「ふむ。それはどういった意味で言っているんだい?」

「ふふ、見てたら分かりますよ」

 

 答えを教えてくれないトレーナー君は優雅に葡萄ジュースをあおった。不思議に思いながらもコートに視線を戻す。そして先攻となった大家さんがサーブをしようとボールを上げ――。

 

 そして考えられない勢いでラケットを振り降ろした! とんでもない速度でボールは相手コートに飛び込み、お向いさんもすかさず打ち返すがどちらも高速かつ激しい打ち合いだ。まるで少年誌のスポーツマンガのような様相を醸し出している。

 目の前で繰り広げられるバトルアニメのような光景が、あまりに衝撃的過ぎてマスカットの粒を落としそうになる。そして視界の端でクスクスとトレーナー君が笑いをかみ殺していた。時間指定したことや、この様子から察するに――。

 

「トレーナー君。はじめから展開を予想して庭に出ようとしたんだね?」

「ええ、大家さんが今日テニスをすると知っていたのでわざとです。この方がヨーロッパが魔境だとひと目でわかると思ったもので。大家さんの経歴は既にお話ししましたが、お向いさんは英国3冠キャリア持ちです。ここ一帯に住んでいる住民のほとんどは元レジェンドばかりなので、世間話でも参考になるのでおススメですよ」

「なるほど。それは良い事を聞いた。しかし本当にすごい身体能力だ」

 

 一体どうトレーニングしたらあんな身体能力になるんだと、思っていると視線の先の庭の端にある茂みの下にタワシのようなものが数匹動き回っているのが目に入った。思わず目を丸くして耳がピンとなってしまうほど驚いた私は耳と尾の毛を逆立てながら見つめていると――。

 

「ええ。皆さん生半可な鍛えられ方をしてませんから。明日からはウォーレンヒルでトレーニングって……ルドルフ?」

「ああ、すまない! タワシのようなものに気を取られていて」

 

 トレーナー君も私の視線の先を見て、ああと微笑んだ。

 

「ハリネズミさんですね。本来夜行性なのですが、ここの近所ではハリネズミさん達を可愛がっている方が多く、警戒心が薄れて昼間でも偶に動いているそうで」

「そうだったのか。ふふ、可愛らしいお客様だね」

 

 よく目を凝らしてみると確かにハリネズミだ。その小さな住民たちはツンと尖った鼻先で一生懸命昼食を探して動き回っている。

 

「ええ、近くで見るとクリクリのおめめがとても可愛いんですよ。先程の話に戻りますが、明日はウォーレンヒルという坂のコースでトレーニングをします。しっかり鍛えて仕上げて本番に臨みましょう」

「世界一と言われる坂のトレーニングコースと聞くし楽しみだ。そこで心身ともに鍛え抜いて、今日までの胸中成竹(キョウチュウセイチク)を無事実らせよう」

 

 そしてまたお互いに食事に集中することにした。

 その後一緒に食器類を片づけてハリネズミを観察したり、本を片手にのんびり過ごし、隣に座っているトレーナー君はタブレットで飛び入りの仕事をこなしている。

 時折顎に手を添えて考えるその横顔、大財閥の幹部に相応しい彼女の姿を見ているのはとても好きだ。自分もいつかこんな風に働けたらなという、そんな憧れにも似たその気持ちで見つめていると、視線に気づいて彼女が困ったようにはにかんだ。

 

「そんなにじっと見てどうしたんですか?」

「いや、何。仕事をしているときの君の表情はとても様になっているなと」

「ふーん。皆同じこと言いますけど、そんなに仕事中だと私の雰囲気は違うんですね」

 

 そういってまたタブレットに目を落とし、その筆1つで百年大計(ひゃくねんのたいけい)を描いて知略縦横(ちりゃくじゅうおう)な勅命を下し、財閥という大きな群れの一部を預かり率いるためにサラサラと白い羽型タブレットペンを動かしていく。

 その横で私は周りの景色に目を移す。すると小鳥の水飲み場に鳩サイズのオレンジの嘴に黒い体、白いアイラインで囲まれた目が印象的なブラックバードが止まり身体を洗った後に囀りだす。

 

 そして本を脇に置いて瞳を閉じ、耳から入る情報に意識を集中させる。葉のすれる音、様々な鳥たちの声や生活音に耳を澄ませてからごろりと寝転んで上を見上げると、木漏れ日が枝葉の間から輝き何とも美しい。

 ウサギを追いかけてはじまる不思議な世界の物語も、こんなまどろみの中が始まりだったかなと考えている内に欠伸が出てやがては微睡んで――。

 

 

 

 次に目を開けたときは陽の光がさらに強く、時刻は体感的に15時ごろくらいだろうか? まぶしさに瞼をいったん閉じて、もう一度ゆっくり開けて光に慣らしてく。

 

 

"――うっかりうたた寝してしまったか――"

 

 いつの間にかタオル生地のブランケットがかけられており、視線の先には借家を背景に草地に座り込みトレーナー君が小難しい顔をしながら、シロツメクサを編み込んで花冠のようなものを作っているのが見えた。

 日に当たって青みががった黒髪の煌めきが強く輝いている彼女に対し、何だか別世界の者のような雰囲気を感じてしまう。それは彼女がトレーナーをやっていなければ、出会う確率が低い存在だからこそ強く感じるのだろうか――。

 

 自由かつ大抵の物事を実現できる力と実力があり、私が欲しいものを全て持っている。そんな彼女をどうにかして卒業後にも自陣へ引き入れ続ける事が出来ないか? と考えてしまうが今の所その方法は見当たらなかった。

 

 彼女はただ『外野に邪魔されずに家族と一緒に居たいだけ』『自分を育て、慕ってくれる者たちのため』だと欲のない事を思っているのみで権力に執着が無く、それがかえって利用しようとする野心家から身を守る鉄壁の盾となっている。

 そうなるとビジネスを引き合いに出さねばならないが、その交渉カードを今のところ私は持ち合わせていない。

 

 そして私が野心満々(やしんまんまん)に巻き込もうとしている事などつゆ知らず、今日も彼女は室内から優しく見守っている護衛達によって、無邪気に過ごしていた。

 

"――そして自分の覇道に本当の意味で巻き込めば、彼女を悲しませることも増えるだろう――"

 

  本当の意味での支援者になってもらえれば、確実に夢が実現するだろう。けれど、きっとその道半ばで沢山傷つけてしまう。以前の自分なら躊躇なく声をかけていたが、今は違う。自分の所為で心を曇らせたり、余計な心痛をさせたくない。内心は複雑だ。

 

 やっとできた! といった表情をしたトレーナー君の手に、少しだけガタついた花冠が完成していた。こちらに戻ってきそうな気配を感じたため、寝返りを打ち狸寝入りを決め込んだ私はまた瞼を閉じていると――。

 

  左の耳を中心に何かが頭の上にのった。多分花冠を乗せたのだろう。その温かな心遣いからくる行動を受け、良心が強く咎めてくる気がした。

 

 そして、何となくくすぐったい気持ちになった私が起き上がる。すると、トレーナー君は両肩を跳ね上がらせて目を丸くした。

 

「あ、ごめんなさい! 起こしました!?」

「いや、少し前から起きていたよ。君がどうするか見ていた」

「あちゃー……それはお恥ずかしい」

 

 耳に引っかかるように斜めに掛かっていた花輪を手に取ると、かなり不器用な仕上がりで思わず笑みがこぼれる。

 

「花の冠か。子供の頃に作ったきりだが、昔は姉や妹たちとよく作ったものだ」

「そうなんですね。シロツメクサを見て懐かしくなって作ってみたけど、上手くいきませんでした......」

「なるほど。では気分転換に私も作ってみるから、もう一度作らないかい?」

「そうですね。折角ですし」

 

 立ち上がってトレーナー君の手を取って立たせてシロツメクサが多い部分に座り、作り方を教えながら編み続ける。時々四葉のクローバーを見つけては編み込み、満足のいく仕上がりの花輪を彼女より先に完成させた。

 

「やっぱり仕上がるの早いなぁ」

「ふふ。続けていれば上手くなるさ」

 

 完全に引き入れてしまえば、こんなにも穏やかな時を過ごせなくなるのも惜しい。

 そして何となく完成したそれをトレーナー君の頭に被せ――。

 

「こういったものはやはり君のほうが似合うね」

「そうですかー? でも、ありがとう」

 

 歴史上、美しき者に狂わされた為政者は数多くいる。彼らも今の私の様にただ安らかな日々を手放すのが惜しくて壊れてしまったのかもしれない……。

 トレーナー君の整った横顔を眺めながらそんなことを考えていると彼女が作っていた花冠も遂に完成した。そしてそれを胸の前に両手で持って私に微笑みながら――。

 

「さっき私のほうがってルドルフは言ってたけど、私は知ってますよ。貴女が笑った顔ってとっても可愛いんです。だから似合わないなんてことはありません。それに皇帝なんだから冠はなんだって似合うはずですよ」

 

 恥ずかしげもなくそうトレーナー君は笑みをうかべ、私の頭にそっと最初にできた冠と合わせて2つの花冠をかけてくれた。

 

「君は本当に何のためらいもなく照れるような事を言うね」

「えー。貴女も私をからかって恥ずかしいこと言うじゃないですか。お互い様ですよー!」

 

  そしてこの様な軽いやり取りが少しずつ得意になっていくのも、レーナー君のお陰なのかもしれない。

 片手で額を押さえて胸中からあふれ出る照れ臭い感情を隠したいが、思わず笑みを浮かべてしまう。褒められたのが嬉しくて、なんだか照れ臭くて、そんな気持ちのままポケットのスマートフォンに手を伸ばした。

 

「折角だし非公開の写真を残してもいいかい? 帰ったら印刷してアルバムに張ろう」

「いいですね。普段とまた違った感じの写真があるのもいいかもしれません」

 

 そうやってまずトレーナー君の写真を1枚、私の写真は2人でインカメラで撮影し終える。

 またひとつ、大切な思い出が増えた――。

 

 今回のレースを勝ってヨーロッパの中距離王の座を手に入れて、彼女の代表ウマ娘だときちんと西洋に認識させる。既に先頭を走る君に少しでも届くようにやはり手を伸ばしたい。

 協力者に引き入れたとしても、絶対に不幸な目に合わせたり悲しませることが無いように力をつければ問題ない。

 

 そう、――私が強くなれば問題はないはず。

 結局私は欲張りなんだ。この大切な時間も、力も全てが欲しい。恐れる事よりも先に出来る限り実績を積み重ね、それから財閥令嬢としての彼女に声をかけることを考えよう。

 

「ルドルフ? なんだか真剣な顔しているけれど、どうかしましたか?」

 

 私の心から波立つ気配を素早く察したトレーナー君は困った様な表情を浮かべていた。

 

「ああ、少しレースの事を考えていたんだ。さあ、夏とはいえイギリスの夕方は日本よりも涼しくなる。環境の差で風邪をひくまえに中に戻ろうか」

 

 そういって本心を誤魔化し、私の言い訳にすんなり納得した彼女と室内に戻ることにした――。

 




次はレース回となります。
頑張って1週間以内でいきたいですね。
資料の入手に苦戦しましたが、雰囲気出せるように構成頑張ります。


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『LR××C』Beware the Jabberwock【前編】

 お待たせしました

 冒頭の詩は差出不明視点で、中盤の控室内だけルドルフ視点で他全部トレーナー君視点でお送りいたします。
 

 なんちゃってレースプログラム
 発走時刻は一部資料が間に合わなかったので推定です。

【挿絵表示】


 だるかったので英国式の馬番決定法則を反映させてません。
 手書きコースの高低差はザックリ。厳密にはもっとアップダウンがあって上下にカクカクしてます。

※こちらの世界だと時々ある偉大なお方が、スタンド中央からご観覧されていることがあります。本妄想では『臨席されていらっしゃらなかった』という設定です※


 Dear ――(親愛なる??へ) ―――― .((掠れていて宛先不明))

 

 Beware the Jabberwock,―― ――――!(??よ、正体不明の魔獣に気を付けなさい。)

 The jaws that bite,(喰らいつく大顎と引き込み) the claws that catch!(掴む大きな爪を持っているから)

 Beware the Jubjub bird,(ジャブジャブ鳥にも気を付けて。)

 

 and shun The frumious (そして怒り狂う不明瞭な怪物) Bandersnatch!(にも近寄るべからず。)

 

 

 ――魔物はどのレース場にも潜んでいる――

 

 

  ◆  ◇  ◇  

 

――20××年+1 7月 24日 午前10時頃――

――英国 ニューマーケット トレーニングコース――

 

 大丘陵の上からぐるりと見渡せば、遥か遠くに森の木々が生い茂りそこから時々涼しい風が葉の匂いを運びながら吹いてくる。そしてウマ娘が主役の街、ニューマーケットは日本とは違い高さがない建物が多く、少しあせた赤いレンガの街並みを遠くまで見渡せる。

 

 それらを見渡すたびに竜やユニコーン、エルフや妖精女王が今にもどこからともなく飛び出してきそうな、濃いファンタジーの世界の香りがリアルに匂い立つような美しい光景だった。

 

 この広大な深緑一色の平原に真っ白な白いラチが数本ほどひかれ、自然の起伏を生かした長い坂路の上には青々とした夏の洋芝がこの辺り一帯を覆っている。そしてトレーニングコースから雨上がりの草地の香りが漂ってきていた。それは怪我防止の水が撒かれいるためなのだが。

 

"―― 一見綺麗な景色だけど……――"

 

 コースではない端っこに行ってしゃがみ芝を少しだけめくってみる。

 山砂ではないカサカサした砂利交じりの地面がお目見えした。試しに人差し指の爪を立てると、乾燥した表面の粉が爪の先につくだけだった。石灰岩由来の土壌が入り混じる路盤は石灰質由来のモノが過剰過ぎれば、乾くとまるでセメントのように固くなる。そしてその細かく砕かれた石灰が地中に蓄積した層を作ってしまうと水捌けを一気に悪くしてしまう。

 

 ルドルフの次走、アスコットも厳密にいえば多少違うが走る感覚はほぼ同じだ。

 現地の芝は葉の幅が広いペレニアルライグラスメインで、他イネ科の牧草を足した洋芝のターフが混じっている。そして日本とは違う洋芝と石灰質の地質が合わさると、乾けばアメリカのダートより硬く、硬い地面の上にふかふかの芝が乗っているため上り坂でグリップを利かせる加減が難しくなる。

 

 さらに雨で水を吸えば地面の上の芝の長さは10センチほどだが、根が糸くずのようで深く抜け辛く、この糸くずの根と土壌の性質でかなり悪くなった水捌けの悪いバ場は非常に重くタイムがかなり遅くなる。そして濡れた幅のある葉を踏めば滑り、さらに重力に従った水が溜まることで坂の上と下でバ場の重さが変わっていく。

 

 この様にご機嫌取りが難しい今回挑むコースが示す通り、ここ英国は日本と何もかも勝手が違う。

 大自然そのものを生かした舞台による『どこでも走れる力』を試すというのが、この国の近代レースのテーマなのだろう。そのためか練習コース内の芝にも石だの岩だのが風化で地面から露出し転がっている。

 

 視線をコースに戻すと、ルドルフはこの坂の下からこちら側に上がってくるところだった。

 

 ここのコースでルドルフを鍛えはじめて1か月近くになる。

 最初はやはり必要スタミナの量が桁違いで、体力の消耗が激しかったらしい。トレーニングを終えたルドルフの様子は食べて、食休みしたらすぐ寝てるという事も多かった。しかしこの頃はテレワークで生徒会の仕事をするまで体力が追い付いてきている。

 

"――これなら大丈夫だとは思うけど、本当に嫌な条件が重なるわね――"

 

 定期的にドローンで水を撒いているにもかかわらず、時間が経過すると頬を撫でる風がとても乾いているという事が今の状況が異常だという事をはっきりと知らしめていた。

 

 今年は昨年に続き圧倒的に7月の雨量が足りない。7月がいくら乾く時期だからといっても異常なレベルで足りないのだ。

 本番当日の朝に予防で水をまいたとしても、風と日差しで乾けば英国バ場基準の良を越えた堅良の可能性が非常に高い。今朝の気象情報も良以下の可能性はほぼ無い。

 

 太陽神の国に住む私達にとって良バ場は稍重時より有利になるが危険は伴う。勝利を届けたい気持ちは勿論あるが、無事に走り抜けてほしい想いもある。

 

 そんな事を考えている内に雄大な景色の中で、ゴマ粒サイズに見えていたルドルフがだんだん大きく見えてきた。私はクーラーボックスからドリンクとタオルを取り出してじっと上がってくるのを待つ。

 

 程なくして幅広の葉を持つ洋芝ターフを叩く鈍い音を響かせルドルフがゴール地点のセンサーを通過。ゆっくりクールダウンをかけてからこちらに彼女はやってきた。

 

 さあ、あとは出迎えるだけだ。近寄ろうと思った時に、背後から私のスラックスの裾を引っ張る存在がいる。びっくりして振り向くと――。

 

「めぇー」

「はい!? ヤギさん!?」

 

 小さくて真っ白な仔ヤギが1匹。『ここはアルプスだったかな?』と思う余裕などなかった私は驚き目を丸くした。その子は私の紺色のスラックスを口にもにょもにょと含み、よだれまみれにしている真っ最中だ。

 

「おっと。トレーナー君お手柄だね」

 

 状況がよくわからないが先にルドルフにドリンクとタオルを渡し、イタズラをしている仔ヤギを抱え上げる。すると仔ヤギはお構いなしに、今度はすっぴんで塩の味しかしないのがいいのか、私の顔をこれでもかと舐め始める。

 

「ちょ、やめ――え!?何がです? 夕食の材料をゲットしたとかそっち系ですか?」

「そうじゃないよ。近所で行方不明になってると噂の仔ヤギなんだそうだ」

「そんな話あったんですね。――あーこら、やめなさい。やめて!」

 

 ここで下ろせばまたスーツがぐちゃぐちゃにされてしまうし、迷子なら猶更下ろせない。

 そんな葛藤なんかお構いなしに、頭を摺り寄せたり舐めたりするのに忙しいヤギさんを抱え直そうとしていると、ルドルフはドリンクを飲み干し汗を拭き軽く笑いをこらえた後――。

 

「ふふ、こちらのウマ娘との情報交換で先ほど知ったんだ。昼にここの管理部からも通達する予定らしいが、もう必要がなくなりそうだね」

「そうだったんですね。なんていうか、ここって本当に一般の方との生活圏が近いなぁ……」

「ぅめぇー」

 

 ここのトレーニングコースは日本のトレセンと違い頻繁に一般の方が出入りしている。

 特にキノコ狩りや山菜探しのシーズンの日曜日には、親子連れでコースの近くを散策しに来る姿も見えるのだとか?そのため利用の際に管理部からは『通行者をハネない様に前方をしっかり見る事』を徹底するよう言い渡されている。

 

 まあ、ファインモーションの母国のトレーニングコースには川が流れていたり、その所為で土日問わず釣り人がいたり、羊が放牧されてるとかが一般的らしいからここはまだマシなのかもしれない。

 

「うめぇー」

「私をなめても美味しくないですよヤギさん……」

「抱えるのを代ろうか?」

「ありがとう。この迷子さんを管理者に連絡したいのでお願いします」

 

 私に抱っこされて好き放題していた真っ白な仔ヤギをルドルフに渡し、代わりに空になったボトルとタオルを受け取る。そしてスマホで管理者に『迷子の仔ヤギを見つけた』とメッセージを入れた。

 

 それから彼女の方を向くと――なんとヤギがおとなしくしているではないか。

 

「なっ……なんで!? 私はあんなにペロペロされたのに」

「これには私も驚いたよ。君からはこの子にとっての美味しい食べ物の匂いがしているのだろうか?」

「うーん。どうなんでしょうね」

 

 そう適当に返したけれど、よくよく考えるとルドルフの皇帝オーラが動物にも発揮されてるのかもしれない。彼女は何故かこちらでも他のウマ娘から道を譲られてることが多いので、仔ヤギがルドルフのオーラを察知しているとしか思えなかった。

 

 ルドルフの表情はフワフワのかわいい仔ヤギが甘えてくれるのを期待してたのだろうか? 残念そうにしながらも、真っ白な毛並みを嬉しそうに撫でて堪能しており、当の仔ヤギも気持ちよさそうにしながら大人しくなでられていた。

 

  ◇  ◆  ◇  

 

――20××年+1 7月 28日 午後14時半――

――英国 アスコットレース場 シンボリルドルフ控室――

 

 勝負服に袖を通し終えたのは昼食から程なくしての頃だ。

 そして今は落ち着いた色合いのモダンな控室内で、シンプルだが座り心地の良い革張りのソファーの背もたれに寄りかかって身体を休めている。

 

 そして今朝夢に見た光景について思いを馳せていた。

 それはとても長い長い誰かの軌跡のようなもので、それが不思議と他人事には思えないような気持ちにさせる夢だ……。

 

『行かねば、故郷の皆が待っているのだから』

 

 夢でそう呟いたのは姿かたちがはっきりと見えない謎のウマ娘だった。

 彼女は日本でトレーナーに見送られて英国へと経ち、旅路の途中で起きた暴動で足止めされるトラブルに見舞われてしまう。さらにはレースの10日前に体調を崩し、調子もギリギリ間に合ったような状態のようである。

 

 そして彼女は女王陛下観覧の下、御前試合となったアスコットのターフ上に向かった――。

 

 過去の景色を見ているかのようなモノクロテレビのような夢の中、顔の見えない観客と共に謎のウマ娘の戦いを見守るという状況にいつの間にか場面が変わっていた。

 

 折角なので何故か持っていた長方形のレースプログラムを開いてみる。しかし鏡文字に見えるが意味不明な言葉の羅列でしかない内容だ。仕方なくそれを閉じ、レース開始を見守るためにスター地点を見やる。見知らぬ彼女は5枠からの出走らしい。

 

 視線の先の内バ場で優雅にクリケットをプレイする者が居たり、何とも言えない不思議な光景の中、スタートした彼女は逃げの1~2バ身の後ろにつけて3コーナーまで下る。そして、4コーナーまでの上り坂も2番手で通過。祈る気持ちで見守る中、坂上の4コーナを回る直前に1番手のウマ娘に並ぼうと仕掛け直線を向く――彼女はトップに立つ。

 

 これはいけると私も思い、思わず組んでいた腕を崩して柵に手をやり真剣に見入ってしまう。

 そして場内が謎の言語でヒートアップする中、

 

  ――残り200mの地点で展開が変わってしまった。

 

 謎のウマ娘は後ろから一気に上がってきたバ群に飲まれ、しかもレース開始から最後方からレースを展開していた者までもが華麗に抜き去っていく。

 

 必死に追うもどんどん差を離されていく。

 その光景は何故だか見ていて胸が張り裂けそうになる。今まで他者のレースを見ていてここまで感情移入したことなどないというのに、全身の毛は逆立ち、鼻にツンとした感触と目頭が熱くなり、何故だか頬の上に水滴が伝っていく感触までしていた――。

 

『『――、―――― ――――』』

 

 彼女の想いのような頭に響くそれと意見が一致した時、そこで夢は終わった。

 

 以前に似たような展開をレース資料で見たような、そんな気もしないような? するような? そんな感覚を受ける。そして記憶力には自信があるはずなのに、この夢に関してはどんどん薄れていっていた。

 

 腕を組み軽く天井を見上げて夢の記憶に思いを馳せている私とは対照的に、疲れ切った顔色のトレーナー君が控室に戻ってきた。

 

「ただいま」

「お帰り。その様子だとまた誰かに追いかけられたのか? 大丈夫かい?」

「お気遣いありがとうございます。――大丈夫ですよ」

 

 そういってトレーナー君は何があったか愚痴も言わず、冷蔵庫の前に立ちドアを開いて飲み物を探している。

 この所彼女の財力目当てで近づく輩が多く寄り付く所為で、彼女は色々と煩わされている様子だった。強気に断ることも可能なのだろうけど、そうすることで私に火の粉が掛からない様に気を付けてくれている。彼女のそういった気配りには毎度頭が下がる思いだ。

 

「さて、ルドルフ。最終報告です。よろしいですか?」

 

 トレーナー君は冷蔵庫内に仕舞っていたミネラルウォーターを軽くひと口飲んで私のすぐ近くのテーブルに置き、同じテーブルの上からタブレットを手に取った。

 そして気持ちを即切り替えた様子で私の方に向き直る。

 

 彼女の着ているいつものスーツと同じ色合いだが、質の良い生地のスリーピースジャケットスーツ。そして磨き上げられた高級感漂う黒革のローヒール。髪もカチューシャのように編み込みをして華やかさを足しながらも、キッチリ後頭部で纏めたシニヨンヘアにしていた。

 

 いつもは『貴女が主役だから』と財閥令嬢としての身分を使わない時は、あまり高価なものを身につけないようにしているトレーナー君だが、ここは他国かつ階級社会の英国だ。そのため私が侮られない程度に身だしなみに対し気を配っており、気合十分な様子がそんな彼女からは伝わってくる。

 

「――はじめてくれ」

「では参ります。――悪い知らせです。バ場は堅良が確実になりました。理論上大丈夫だとは思いますが、万一を覚悟をしてください」

 

 正直なところここまで難中之難(なんちゅうのなん)となり、我が身に七難八苦(しちなんはっく)が降りかかってくるとはメイクデビューの時は思いもしなかった。そしてそれが海外に出てまでもついて回るとはと、そろそろ気象を司る神社にお参りに行ったほうが良いのではないかと最近は思い始めている。

 

「覚悟は決めている――というよりも、履き馴らしたこの靴とそれを作った君を信じている」

「――わかりました。なるべく日差しを避け、アップもし過ぎないようにお気を付けてください。特に他に確認するところはありませんね?」

「問題ないよ。厳しい戦いになりそうだな」

「ええ、――そして、いつも通り現場判断で思うように走ってきてください」

 

 トレーナー君のこの言葉はいつも最後に添えられているが、これはけして無責任な言葉などではない。

 この言葉の中には『すべての責任は私が持つ。だから存分に戦ってください』という意味合いが含まれているらしい。そんなことを以前彼女に担当されていたディーネから聞いた。無論そんなことはさせる気は毛頭ないが、ここぞという場面で勇敢な振る舞いができる彼女の長所は素晴らしいと思う。

 

"――全く以て、いいパートナーを得たものだ――"

 

 一旦深い呼吸をしたのち、軽く目を閉じて精神を無の中に沈める。そしてもう一度呼吸を整えた後、目をゆっくり見開いて立ち上がる。

 

「ありがとう。――では、行ってくる」

「いってらっしゃい」

 

 そういって頭を下げて見送るトレーナー君を背に、私はパドックに向かうために出発した――。

 

  ◇  ◇  ◆  

 

――20××年+1 7月 28日 午後15時10分前後――

――同レース場 クイーンエリザベス2世スタンド正面――

 

 フォーマルからカジュアルまで様々な服装の人たちが入り乱れる中、私は正面スタンドの最前列。関係者席でじっとレースが始まるのを待っていた。

 

 目の前に広がる平地コース。

 2等辺3角形に近い形をしている『Swinley Course』(スウィンリーコース)の内バ場には、屋台や関連グッズの販売業者がテントを連ねている。

 そしてその奥にはクリケット場まで備え付けられており、過去のデータを見るとレースの開催などお構いなしにプレイしている映像などもあった。その様子を初めて見たときは思わず巻き戻して確認してしまったことを思い出し、笑いが少し込み上げてしまう。

 

 そして振り返ってスタンド前の芝の上を見渡すと、こちらではピクニックの様にシートを敷き、優雅に寛ぐ姿も見え、その全てが上品かつ優雅で洗練されていた。

 

 パドックのルドルフを見守った後からこちらで待機しているのだが、その途中同レースに出走するウマ娘のトレーナー達とも言葉を交わしている。そしてその全てがこちらを意識はしているが、私たちの事を強敵としては見なして貰えていない様子が伺えた。

 

 新聞を見ても私達への現地評価は非常に渋い。

 ルドルフは『ここを勝って凱旋門では人気を取りたいね』と言っていたが、きっと彼女が一番悔しい思いをしているはず。そんな気持ちを思うとなんだか悔しくて、ぎゅっと唇をかみしめて少し眉を寄せる。

 

"――マークが外れるのはこっちとしては好材料なんだけど――"

 

 渋い声の男性アナウンサーによってレースのタイトルと紹介が流れ、本バ場入場が始まった。

 そして正面内バ場側の白い骨組みのフレームに、出走選手一覧とトレーナー名が記載された木製の板をはめ込んだボードがゆっくりとあがっていく。どことなく古めかしい機械仕掛け感が漂い、大変味わいのある掲示方式だ。

 

 ルドルフは18番大外での出走だ。そして選手たちがスタンド左側のパドックに連なる道からやってくる。人々は彼女たちに声援を投げる中、私はひとりひとりの様子を見ていく。

 流石にヨーロッパ3大中距離平地レースというだけあって仕上がりが良い子が多い。そして勝負服も洗練されており、実に華やかな選手入場となっている。

 

 選手たちは一旦スタンドの観客前を通った後、ゴール板を少し過ぎたあたりくらいから引き返して返しを行いはじめた。そしてスタンドから左手にあるコーナーを曲がった先にあるゲートの前に集合した。

 

 ルドルフは私の提案通りコースの外に生い茂る森から伸びる小陰でちゃんと休んでいる。そして彼女はいつも通りじっとバ場のどこかを見つめていた。他のウマ娘達もなるべく体力を削られない様に森の陰にきちんと入っている。ここには基本的な事を怠るような大ポカをやるような選手は居ない――何故なら超一流が集いやがて世界の伝説となるものが火花を散らす戦場だからだ。

 

 そしてディーネと米国クラシック4冠を狙ったあの震えが久しぶりにやってきた。

 私の高揚感のボルテージも最高潮になり自然と瞬きの回数が減ってしまい、目が乾いて痒くなってしまった。すこしそれを潤すために俯いて瞬きをし、そして双眼鏡をいつも通り構える。

 

 次々にゲートインが始まり、スタンドの群衆も水の打ったかのように静かになった。

 私もじっと勝利という獲物を狙い、人ごみの茂みに身を潜める様にそれを見つめ――。

 

『――、―――!』

 

 ゲートが開きレースが始まって一瞬どよめいたが皆一様に静かだった。

 レンズで丸く切り取られた視界の先、彼女の勝負服の色のような夏の森を背景にルドルフは好スタートを切った。

 大外から下りの重力を生かして脚を節約しながら前傾姿勢を取り、着地負担をものともせずスイスイと上がってきている。

 

"――勢いに任せにするのは仕方なし――"

 

 最初のコーナーである3コーナーの出口付近が前半1000m。下りは今から角度きつめな約500m+少し和らぐ約260mを足して約760m程続く。

 1000mのおおよその通過タイムはバ場良以上で73秒前後。重くなるほど6~10秒ほど+となる。

 

 一旦前傾を見るために双眼鏡を外した。

 スタート開始から1ハロン、200m前後の地点だが既にトップから最後尾までは13バ身。先頭を走るサニープリンセス陣営のペースメーカーを担うラビットのイーアエーレは、他陣営のスタミナを削るために飛ばしに飛ばし今なお差をつけている。

 

 マークしているファシオは出脚がよく好スタートを切り、最初の500mのキツイ下りでイーアエーレを抜き去りそうになるが、下る角度が緩くなったところで無理せず先を譲り減速していった。

 

 大体予想通りの展開になりそうで思わず口元が緩み、その心境を零しそうになるもポーカーフェイスを貫く。ルドルフは下りで勢いを殺さず外を回って7番手。内側に前年に米国G1を勝利した『Ptolemaic』(タァラメーク)、その外に本レース連覇を狙うトレードトゥリーティ、この2名の外にルドルフは並んで進んでいる。先頭から大よそ10バ身くらいの位置で外を回りながら勢いを殺さずに上がっている。

 

 スタートから600mの残り1800の3コーナー手前。

 そろそろ『スウィンリー・ボトム』というコースで最も低く、おおよそ水平になる箇所に来た。目印となる池がコースの内にお目見えした。

 先頭は変わらずイーアエーレ。そして2番手のファシオはその1バ身後ろ、その外半バ身を回ってサニープリンセスが追走。離れて先頭集団を見る様に、2バ身半うしろリチャードウェルズとその内半バ身さがって『Raison』(レィズン)が控えている。リチャードからルドルフまであと1馬身半もない位置だ。

 

"――作戦通りならそろそろかな?――"

 

 まるでロケットの発射準備に入ってそれを見守る科学者のような気持ちだ。

 祈るのとハラハラするのとで感情がグチャグチャになりそう――心臓の拍動が胸郭をノックし思考に余裕が無いのを伝えてくるし、口の中の水分も熱狂に当てられてどんどん乾いていき自然と呼吸は浅く少なくなる。

 

 下りで行き脚を使ったウマ娘達はこれからの登りに備え、出来る限り脚を残すためにここでは無茶しない。この先には小回りが要求されるカーブが待っているのだ。

 

 だがルドルフはバ群の外を回っており、遠心力がかからない分内側のウマ娘達よりも勢いを殺さずにカーブに入っていく。中山や新潟で行った実践的なコーナリングがいま目の前で生きた経験となり、勝利へとつながる形になっていった!

 

 そしてついに前3人の後ろ、有力者リチャードウェルズに並ぶ、並ばれた側は驚いたようにルドルフを見たのが遠くからでもよく分る!

 

ルドルフの強みは能力が平均的であり、その平均値が高い事。坂の上り下りやコーナリングも優等生だ。

 彼女が勝つために科学技術を拝する者としての私が出来たのは『下り時の脚の着地衝撃を減らし、かつ登りやすい構造を追求したパーツの組み合わせを見つける』ことだった。

 それにより最初の下り時の着地ダメージと、上り坂の消耗を押さえて勝機を見出そうというものがこの対アスコット用堅良シューズの使用用途である。

 

 来る日も来る日も食品配達業者より大きい長方形の黒い布製のシューズケースを担ぎ、ニューマーケットの坂で調整しては、ルドルフと現地で最終的な試行錯誤を繰り返し履き馴らして貰った完成品――それがあの一足だ。

 

 Jabberwocky(『前人未到の未知』)に打ち勝つためには、The Vorpal Blade(『聖剣ヴォーパル』)のような靴ですら足りないかもしれない――であるならやることは1つ。

 

 

"――科学者ならば魔法の剣より最新科学の産物(無限に打てる魔法の銃)を渡さないとね?――"

 

 ディーネに冒険に連れ出され、ルドルフに出会ってからこの学園に来て、自身が抱える悩みに対し私が出した答えの全てがあの靴には詰まっている。アレに使われているのは『こちらの世界で得た経験から作った』と胸を張って言えるものだ。ルドルフを勝利に導く靴であり、私にとって今までの自分との決別の形。

 

 大地にしっかり両の脚をつけ、

 

           振り向かない、

 

 嘆かない、

          取り戻せない過去に怯え続ける意味なんてない!!

 

 

      ――そんな私とは今日で本当にさようなら!!

 

 

 最後まで嘘をつき通してでも、私はこの世界に生きている方々を幸せにしたい!

 

"――それが科学者というものだ! 技術発展に伴う業を背負う勇気を以て、幸福と発展を願う現代の魔法使い。叡智を担う者の生き方だ!!――"

 

 それと同時にスタンド内からまるであり得ないものを見たような声が上がり動揺が走っていく――!

 その原因はルドルフが並んでいたリチャードウェルズと前年度勝者トレードトゥリーティをかわしその前に立ったからだ! コーナリングが得意な彼女ならここで取れるだろうと思っていたがこうも上手くいくと思わなかった。

 

 外を回ることで遠心力を軽減した分スピードを乗せて前を奪取。この作戦は成功し前半約1000mで4番手、ラビット抜いて3番手。通過秒数は並列思考して数えてる通りなら約72秒――これも予定通りだ。

 

 ここまで何もかも手のひらの上。

 思わず口元をゆがませる恍惚にも似た感情が滴り落ちた。

 

 あとはルドルフの勝負根性次第。私はターフで戦う勇者達の結末を見守るため、双眼鏡を首に下げそっと手を離す――。

 

 




 前半1000mのタイムはこの妄想描いてる奴の手動計測のため、実際のデータと異なる可能性があります。ご注意ください。

※誤解を受けたくないので※
 遠心力を考慮したコーナリング技術の話は、レースものでは昔から取り扱う1次作品が大変多い実在技術です。ダメって言われてしまうとほぼ書けなくなり、攻略できなくなってしまいます。似たようなものを見ても、あくまで同じ技術が通用したという感じでご理解いただければ幸いです。

 


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『LR××C』Beware the Jabberwock【後編】

長さが凄まじい事になったので分けました。

ルドルフの視点からはじまり
拠点帰宅からトレーナー君視点です
うっかり視点記載を間違えました


――20××年 7月28日 ほぼ同時刻――

――前半1千m通過地点=残り1千400m ターフ上――

 

 先程追い抜いたすぐ後ろの2名は上り坂で無理に出てきてもほぼ仕留めたと言っても過言ではないだろう。

 そして前3人の位置は最内がラビットのイーアエーレで先頭、距離は5バ身以内。マークのファシオは1バ身後ろの外で2番手。3番手に先頭2名の間をブロックするようにサニープリンセスがファシオから半バ身後ろを走っている。

 

"――72秒! 早い!――"

 

 トレーナーの靴が無ければどうなっていただろうか? きっとここまで走れなかっただろう。しかし、作戦は成功したがいつも以上に余裕がない! そうこうしている内にマーク先のファシオはついにラビットを追い抜きハナを取った! そしてなんとなくラビットが少し下がった気がして内を1人通れるよう開けておくとやはり垂れてきた。

 

 間一髪垂れウマを回避して前を見ると恐らく残り1000m手前! ファシオがラビットをかわし最内の1番手を取った為外に出たサニープリンセスが白い衣装を翻してほぼ並んだ。

 

"――判断が難しいがいつも通りに!――"

 

 そのままピタリと前に並ぶ2名の間を狙い私は最終コーナーに突入した!

 曲がりながら坂を上がればきっと膨らむ――その読み通りファシオと並ぶ外のサニープリンセスが1名分の隙間を作る!

 

 そこを目掛けメイクデビュー時のように私は突っ込んでいった!

 そして残り200mを通過したその時!

 

"――見えた!!――"

 

 世界の先が見えた。誰も居ないただひとりの景色が!

 

 だがここにきて脚が悲鳴を上げかけた! 走りにくい芝の奥から搔き引き裂き、喰らいつく魔物でもいるかのように一気に重くなる! そしてなんとほぼ逃げの位置にいたファシオが視界の右から前に飛び込み、さらに左からは同じクラシック級のリチャードウェルズも上がってきた!

 

 希望が絶望に変わる。

 脳が何とかしようと思考回路をフルスロットルに回すため、走馬灯のように色々な物事が流れ時間の間隔がスローに狂っていく!

 

 ――1/4バ身

 

   ――半バ身!

 

 ファシオに離されていく様は、

   あの奇妙な夢と同じ展開――

 

『――にはさせない! 同じには!』

 

 丹田にひと呼吸置き、自身に雷を落とすが如く喝を入れなおし私は必死で食らいついた!

 そして何とか差し返したのが残り100手前!

 だがファシオもまた差し返してくる!

 

 思考も何もかも全てをかなぐり捨て

    音を立て歯を食いしばり――

 

 

 

 

     そして前だけを見てゴール板を切った――!

 

 

 

 目の前の景色が揺れかすみ、激突を避けるため、外に向かっていた脚は、やがて思考から解放されて勝手に動いている。

 

"―  ― 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ルドルフ!!」

 

 聞き慣れた声と見知った優しい花の香りがした――。

 それと同時に身体をしっかりと支えてくれる感覚は、意識という大河の遥か先にある向こう岸からくるような距離感でやってくる。

 

 思考の霞が少し晴れ、おぼろげな景色の中、最初に見えたのは酷く心配そうな表情をしたトレーナー君だった。私の前に座って両肩に手を置いて顔を覗き込んで意識を確認している。

 

「大丈夫だ――」

 

 少し落ち着いた私は彼女が救護を呼ぼうとしているのを止めた。

 再び酸素を取り込めたことで白い空間とかした視界に光と色が戻ってくる。

 

「学園の者たちがきっと見ている――。だから、肩を貸してくれ」

「――わかりました」

 

 彼女は静かにそう答えて私の左に回って肩を貸してくれた。

 

「……結果は?」

「判定中です。残り50mでファシオと貴女が並んでそのままゴールだったので」

「そうか――」

 

 少しだけ肩の荷は下りて余裕が出た。

 そして辺りを見回しているとファシオも完全に座り込み、あるものは空に腹を向けて大の字、あるものは地面にうつ伏せになって倒れている。

 

 大分楽になったので自分ひとりで立とうとトレーナー君に意志を伝え、いったん離れてもらうと同時に場内に判定結果を伝えるアナウンスが流れた。

 どよめきが止み静まり返るスタンドとターフ、私も息をするのも忘れて耳に全神経を集中させ――。

 

 

『Winner Symboli Rudolf!! She is a winner of the race!!』

 

 勝った。あまりの嬉しさとランナーズハイの余韻の多幸感で一杯になった。

 掲示板は同タイムでハナ差の勝ち。いつものパフォーマンスはどうしようか? 悩んでいると目の前のトレーナー君が大変優雅な所作で私に向かって日本式のお辞儀をした。

 

「おめでとうございます」

「ありがとう。――私たちの勝利だね」

 

 私もトレーナー君にお辞儀を返すと、スタンド方面から音の塊がこれでもかと両耳に降ってくる。

 そして彼女の手を取り共に表彰式の会場へと向かった――。

 

    ◆  ◇  ◇

 

――20××年+1 7月 30日 午後18時――

――ニューマーケットの借家――

 

 コンロの火を止めて木製の取っ手のついた白いホーロー片手鍋の蓋を開けると白い湯気が立ち昇る。その水面は少しだけ鍋に残った余熱で出来る気泡でまだ揺れている。シンク内に置いたステンレス製のザルに鍋の中身をこぼすと、ほくほくに茹で上がったまん丸なジャガイモが10個がザルの上にごろりと転がった。その表面は空気に触れて薄く入れた表面の切り込みが軽くめくれている。

 

「火傷には気を付けて」

「ええ」

 

 ルドルフは少し離れた位置にあるレンガ造りのオーブンの前に立ち、そろそろ焼きあがるであろうパイを取り出すタイミングをタイマー片手に待っている。

 

 キッチンの中央にあるテーブルの隅っこには先ほどまで飲んでいたコーヒーと紅茶が入っていたマグカップがひとつずつ。そしてその傍には英字新聞が数部程重ねておいてある。そしてそれら紙面の1面は1番上に載っている記事とほぼすべて同じ内容だった。

 

 ルドルフの勝利は東洋から来たウマ娘がヨーロッパで勝ち星を上げただけでなく、レース内容がまるで『The Race of the Century』のようだだとこの国や世界に衝撃を与えていた。

 『The Race of the Century』(世紀のレース)――その言葉が意味するものはこの国の『唯一無二の伝説』を示している。伝説の内容は今回挑んだあのレースの最終直線で、2名のウマ娘達が差して差し返しの応酬を繰り返し、激しい一騎打ちでゴールにもつれ込みそして未だ破られぬレコード勝ちとなったというレース内容だ。

 

 それと比較しても今回のレースはそれに匹敵する見ごたえだったと、辛口な記事を書くことが多い英国では十分褒めちぎった内容で讃えられているのだ。

 

 手を洗って布巾で水気を拭きとり、少し冷めたジャガイモの皮を火傷しないように剥いていく。

 

「今思えば全く余裕のないギリギリの戦いだったね。形振り構わなくなったのは今回が初めてだった」

「まあ持久戦という意味ではキツイレース場ですし。ペースが早かった所為でルドルフ含めて燦燦たる光景で噂には聞いていたけど実際に見たらドッキリしてしまいます。あの凄惨なレース後の様子は流石EUのレースって感じですね」

「ああ、タフネスとパワーの殴り合いというに相応しい。出国前にお話を聞かせてもらったマルゼンスキーの知り合いの『The Race of the Century』を担った彼女が言っていた通り、最後はダービー同様負けない気持ちが大切だったと改めて思う」

 

 ルドルフが言うマルゼンスキーの知り合いと知り合ったのは出国の5日前。

 レースを引退した『The Race of the Century』と称えられるレースで激闘を繰り広げたふたりのウマ娘の内、そのひとりが引退後日本に引っ越してきていたのだった。

 

 そしてその方がマルゼンスキーと知り合いで、折角だから話を聞いておこうという事になった。そのウマ娘はかつて私たちと同じあのレースに挑み、そして最後の最後で差し返して勝利した。

 

 そのウマ娘はルドルフに負けない気持ちが大切だと強く伝えており、勝利したウイニングライブ後に私のスマホにその方のメッセージが入っていた。お互いに都合がついたので通話を繋ぎ、『The Race of the Century』を繰り広げた偉大なウマ娘から届いた祝福の想いを私たちは受け取った。

 

 ジャガイモを剥き終わり潰す器具を探そうと私は手を洗ってから布巾で拭いて、しゃがんで戸棚を開き――中を漁りながらジャガイモをマッシュするための道具を探し、目当てのポテトスマッシャーを見つける。そしてルドルフに先ほどの続きを返した。

 

「まあぐでんぐでんだったとしても、ハナ差でもぎ取って勝ちは勝ちです。激戦を制したことを誇りましょう」

「そうだな。諦めない気持ちを以て、ハナ差でねじ込み勝利する機会を手ハナさなかっただけ良しとしよう!」

「ギャグの調子もよさそうですね。いい出来だと思います」

 

 今回のギャグはいい出来なので調子は絶好調なのだろう。自然な流れで良い感じだと思い褒めるとルドルフは得意げな表情をした。

 

 ルドルフの今の健康状態はというと、ライブ後のフルメディカルチェック結果は良好だった。

 私が素材を作り、設計した靴は無事彼女の脚を石灰質の堅いバ場から守り抜き、気持ちだけ長めに休養を取って回復させられるレベルで収まっている。

 その結果を聞いた開発現場担当者の部下は大喜びしており、今日は仕事はしてもよし、切り上げてもよしとして美味しい物を食べて来れるようボーナスを出しておいた。

 警護を担当した者たちにも任務完了後に追加ボーナスがお養父様から支給されるらしく、家族に何をプレゼントしよう? 欲しかったアレを買おうと言いあい、大変微笑ましい様子だった。

 

 四苦八苦(しくはっく)したが結果的に何もかもうまくいって、何事もなく今は心底ほっとしている。

 

 

「今回の総評としてはルドルフが無事に走り抜けられて本当に良かったと思います」

「確かに。衝撃吸収素材の靴が無かったら選手生命的に危ない戦いだった。そして君によって助けられたのはそれだけじゃない。他にもうある」

 

 靴以外に私は何かルドルフにしたのだろうか? そう思って記憶の引き出しを漁りながら私はルドルフに会話のラリーを繋ぐためにとりあえず打ち返す。

 

「といいますと?」 

「君が柵を越えて駆け寄り支えてくれたお陰で恥をかかずに済んだ。――脚は大丈夫かい? 酷い痣になっていたが……」

 

 ルドルフが言う痣というのは派手に転んで出来たものだった。彼女がふらついた事に焦った私はそのまま柵を乗り越え駆けつけようとした際に着地に失敗したのが転んだ原因だ。

 ズボンのお陰で擦り傷などはないが、その時はルドルフのピンチでそれどころじゃない。すぐ立ち上がって万一の為に蹄鉄を打ち付けていたローヒールで走り寄り、ルドルフを倒れないように支えて誘導。

 コースの外側の安全地帯に座らせるのを優先していたため、気付いたのはライブが終わって帰宅してからとなった。そして処置が遅れたその大きな青痣はものの見事に変色していた。

 

「問題ないですよ。見た目ほど痛くないですし、それよりルドルフが倒れて怪我しなくてよかった」

「そうかい? それならいいが……君には本当に頭が上がらないね」

「それを言うなら私は貴女の戦果で食べさせてもらっています。そこはお互い様ではありませんか?」

 

 そうほほ笑むと『そういう事にしておこうか』と、ルドルフはオーブンの横の壁に背をもたれて立ちながら、目を細めた優しく温かな光が灯る瞳で微笑み返してくれた。

 そしてルドルフの手元にあったタイマーが電子音を鳴らした。彼女はタイマーをキッチン中央のテーブルに置き、ミトンを付けた手で窯の扉を開いて覗いている。

 

 そしてこんがりとパイの焼ける香りがこのキッチンに広がり私の鼻先を踊るように掠めていった。

 

「それに、私は――、―――――」

 

 私は彼女と出会って変わった事に関する思いをそっと小さな声でつぶやいた。

 その全てをルドルフに伝える事が出来ないから、ウマ娘でも聞こえない大きさでささやきで紡ぐ。

 

 偽りのベールを少しだけ外した、本当の私からの真っさらな気持ちを。

 貴女のお陰で勇気を学び、そして救われているのだという感謝の言葉だ――。

 

 まだ焼き加減が足りなかったのだろうか? パイを取り出さずに戸を丁度閉じたルドルフは、耳がパタンと大きく動いて振り返った。これはうっかり聞かれたか!? とこちらが目を見開くと『今何か言ったかい?』と聞き返されただけだった。

 

「貴女と出会って色々私も変わって得るものがあり、それに関するちょっとした感謝の言葉ですよ」

「それなら聞きたいな、もう一度聞かせてくれないか?」

 

 直接言わず大体あってることを言って誤魔化した。

 しかし興味深げに表情を輝かせてねだるルドルフは、椅子に腰かけ脚を組みこちらをじっと見つめている。

 

「恥ずかしいのでナイショデス」

「そこまで明かして逃げはずるいだろう?」

「私は逃げ脚質ですからこのまま逃げさせていただきます」

 

 ルドルフに左目でウインクを投げてから、私は冷蔵庫から牛乳を取り出して鍋に注いでバターとコンソメを入れて弱火にかける。洗ったポテトスマッシャーでじゃがいもを潰してそれを追加すれば、あとはじゃいもを茹でてる間に切ったパセリを乗せて完成だ。鍋からは口の中にそのトロリとしたスープの味が想像できるようなジャガイモポタージュの立ち昇り始める。

 

 今日の夕飯はふたりで別々の料理を担当して作っており、私はポタージュスープと前菜に昼間から冷蔵庫で固めているニンジンメインの野菜テリーヌ、そしてもうすでにできている肉料理のローストビーフが担当だ。

 ルドルフにはメインディッシュの魚料理とデザートを作ってもらっているのだが、彼女は何を作ったんだろう? 自分の作業に集中していてルドルフが何を作っているか把握しておらず、気になった私はこげない様に木べらで鍋をかき混ぜつつそれとなく尋ねてみることにした。

 

「ルドルフ。そういえばそれは何のパイなんですか?」

「コーンウォールの郷土料理さ。『スターゲイジー・パイ』という祝いの料理らしい」

 

 それを聞いた瞬間ワレモノにヒビが入るような幻聴が頭に響き、思考回路が固まった!

 


【スターゲイジー・パイ】

 丁寧に作れば美味しいが調理技術が未熟なものが作ると地獄を見る。

 そのためネットではマズイと噂されてしまっている。

 そんな感じのイギリスコーンウォール地方の伝統料理。

 

 このパイを作るための具材はポテト、玉子など家庭により様々。

 共通するのは全て魚がぶち込まれている事。

 

 そして大体魚の頭がパイから飛び出てる。

 この強烈な見た目によるインパクトの所為で

 何かと話題を呼んでしまっているとかいないとか……?


 

「どうしてその料理にしたんですか?」

「そうだね。この料理に纏わる逸話が素晴らしいと思ったからだよ。飢えに苦しむ冬の漁村のために、嵐の海に乗り出して豊漁を勝ち取る。うむ、不撓不屈の心で乗り切り雲外に蒼天を見た我々には星を見上げるパイはピッタリだろう?」

「なるほど、そういう理由で選出したのね!」

 

"――う、うーん。美味しいっていう説も聞いたことがあるけど……――"

 

 もし半人半バで人間寄りの味覚や嗅覚の私が美味しく食べられたとしても、ウマ娘であるルドルフは耐えられるだろうか?

 感覚の違いでがっかりしなければいいが、目の前のルドルフはキラキラと瞳を輝かせている。その土地のモノが好きで愉快犯なところがあるとブライアンから教えてもらったことがあるけれど、まさかここで発揮されるとは思わなかった。

 

"――もしルドルフが食べきれなかったら、最後まで私が食べきろう――"

 

 私は腹を括った。

 こんなに楽しそうにしている彼女のノリに最後までついていこう。それがトレーナーとしてあの子にできることだ。それにルドルフの料理の腕はすべてが茶色くなるがかなり上手い。きっと大丈夫だろうと私は自分自身に言い聞かせる。

 

「ふむ。こちらはもう少しで焼きあがるからテーブルを準備しようか。どうせなら焼き立てを食べよう」

 

 そういってルドルフは新聞紙をリビング方へ持って行き、ポタージュスープも完成。

 30分ほど前から常温に戻したローストビーフをスライスして、葉物のルッコラやクレソンの緑を乗せた皿の上にスライスしたお肉を軽く折り曲げ、おしゃれに見えるよう重ねて沢山載せていく。

 最後にソースをお肉の端に弧を描くようにかけて肉料理は完成。

 

 ポタージュをスープ皿に盛り、次に上から赤のニンジン、白のカリフラワー、緑のほうれん草の三重層が綺麗にできた自信作のテリーヌを3センチ厚にスライスしてジャガイモの花や実、葉が描かれた楕円形の皿に少しずつずらしながら並べ、その周りに薄く輪切りにしたラディッシュとフリルレタスで飾り付けをしてテーブルにそれらを運ぶ。

 

 私がそんなことをしている間にテーブルの上はルドルフによってしっかり整えられていた。

 今の季節に合った若葉色のランチマットが敷かれ、その上にナイフとフォークといったカラトリー、取り皿などがキッチリ並べられていた。そしてその傍らに配置されたグラスにニンジンジュースと、お口直しのミネラルウォーターが注がれている。

 デザートにはリンゴのシャーベットを作ったようで、こちらは溶けてしまうため食後に出すという。

 

 先に準備を殆ど終えたルドルフに手伝われてパイ以外の配膳を完了し、窯の前に戻る彼女に先に座っているように言われて神妙な面持ちで席に着いて待つことに。

 

「こんな感じでどうかな? 実際のモノとは違うがこれはこれで可愛いだろう?」

 

 キッチンミトンを両手につけたルドルフが持ってきたのは、顔と同じサイズに近い楕円形で陶器製のパイ皿には想像したモノとは全く違う光景が広がていた。

 

 香ばしいきつね色に焼けたそのパイ生地のキャンバスの土台には、波を模して編み込まれた格子状の生地が配され、その合間からパイ生地製でサイズは親指くらいの可愛い魚の顔がちょこんと顔をのぞかせており、中央には簡単な帆船の形に切られたパイ生地がデコレーションされていた。

 その額縁を彩るのは生地を編んでロープに見せかけて囲ったもので、左下の端で碇の形に切り抜かれたパイ生地がそれを止めている。

 

 

 ルドルフはやはり出来る子だった! センスの塊だった!

 

「考えましたね! いいアイデアですね」

「だろう? 我ながらいい出来だと思う」

「せっかくですしこのお料理を投稿しませんか? きっとご家族は褒めてくれると思いますよ」

「そうだな。兄や姉、妹たちも私たちの様子は気にしているようだし、1枚とっておいて後でアップしてみるよ」

 

 最後までハラハラさせられたイギリス遠征はこうして幕を下ろした。

 

 翌朝私のHorsebookのコメント欄を見ると彼女の姉妹とお兄さんが飯テロを食らった反応を残していた。それを朝のコーヒータイム中のルドルフに報告すると、彼女の方にもそういった反応があったそうだ。

 

 

 そしてルドルフによってアップされたこれらの料理の影響なのか、日本全国でローストビーフやシャーベットが品切れになるという事件にまで発展していた事を知るのは、私たちが帰国してからの話であった――。



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『Reichsapfel』手中の林檎は黄金に色付いて

大変お待たせしました。

スタートから8月末日(◇◆◇)までがトレーナー君視点。
8月末日(◇◆◇)以降ルドルフ視点です。

いつも通りやばそうだなと思う名詞は置き換え作戦でGOGOです。
それではどうぞ


 それで―――と思っていた。

 ―――だと、――――――。

 

 

――20××年+1 8月1日 午前5時――

――日本トレセン学園合宿施設――

 

 

 薄手の夏布団を蹴り上げて跳ね起きベッドに身体を起こした私は布団を握りしめる。

 そして生暖かい海水に浸かっていたような不快感が、額、背中にと神経を逆なでながらつたっていく――。

 

「…………」

 

 それがタダの夢だという状況を把握し、次に沸いたのは理不尽な夢見に対する沸々とした怒りだった。

 

"――っ! 冗談じゃないっ!――"

 

 とても嫌な内容だ。

 何のレースかはわからないが、大事なレースの直前にルドルフが体調を崩し、結果奔走するという不吉すぎる上に妙に鮮やかな映像。

 まるで最初から定められた運命に翻弄されていたかのようなそれらの流れを思い出し、歯が擦れて音が出るほど噛み締める。そして制御をはずれた感情が暴れまわるまま拳を壁に叩きつけようとした。 

 

 しかし感情の激流の中に引っかかって残っていた僅かな理性で踏みとどまり、肺の中に一呼吸。大きく吸い込んでは吐いて、吸い込んでは吐いてそれを冷ます。

 

 私の引き攣った感情のままの喉はやや過呼吸気味に音を立てつつも、少しずつ少しずつ感情の波を押さえる。そして精神内の深い部分までを抉るように突き刺さった記憶の楔をそっと引き抜いて、その痛みによって失われた冷静さを取り戻してゆく――。

 

 レースには絶対などない。落ち着け、落ち着けと、暗い淀みから水面に向けゆっくりと上がっていくように掛かり気味の自分の心に強く言い聞かせる。

 胸糞悪いその余韻が、そしてその痕から流れ出る感覚が無くなるのを待っている間に呼吸もやっと心に追いついた。 

 

 落ち着いた所でベッドサイドに置いてあったタオルで軽く額の汗をぬぐい、ベッドの頭側についた緑のデジタル時計は午前5時半を示していた。早すぎる起床だがでは二度寝できるかといえば、今はそんな気分には到底なれなかった。

 そしてベッドから降りてふすまを開け、前元号の残り香を思わせる内装の室内を進み、入り口脇にある冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。

 

 それを一気に持ち上げ、さっきまでのふがいない自分に浴びるせるように飲み干して、ボトルを冷蔵庫の脇にあるごみ箱に、そっと片手で放るように捨てた。

 

 ベタ付いた汗ごとすべて流してしまうため、シャワーを浴びて切り替えよう。

 備え付けのユニットバスに向かう前に、着替えを取りに寝室へと戻っていく――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+1 8月1日 午前9時半――

――日本トレセン学園合宿施設周辺――

 

 イギリスからとんぼ返りしたルドルフは身体を休めつつ生徒会の仕事をこなしている。

 私はというと彼女が休んでいる間明日から追加の仕事が入っており、その下準備の作業をする間に楽しむための飲み物を買いに外出していた。

 

 合宿寮のある方向の海辺を背にまっすぐな道を歩く両サイドには森が広がっている。

 そして目の前にはまだ午前中だというのに、アスファルトの上には湯気のようなモヤがかかり、道路に汗が滴れば即乾いてしまう有様だ。

 

 夏合宿でのトレーナーの服装は暑さのため私服またはクールビズでいいらしく、私の本日の服装は髪はポニーテールにまとめ、ジーンズのショートパンツにタンクトップ。そして日焼け止め用にシースルーの白シャツを羽織ったコーデにしている。靴も海辺にも近づくため濡れてもいいマリンシューズといった具合だ。

 

 そしてイギリスでのレース後にふらつくルドルフに慌てて駆け寄ろうとし、派手に転んで作った痣の上には刺されば溶け痛みを感じない針(マイクロニードル)のついた肌色のパッチを張り付けて隠し治療している。

 

"――こんな環境でも問題なく歩けるのには感謝したいわね――"

 

 流石に仕事があるときは車を使うが、砂漠暮らしに特化したアハルテケ由来の体力によって私はこの環境でも少し暑いかなくらいの感覚で過ごせている。

 そして前世の世界の馬たちは暑さをあまり好まないはずなのだが、この世界のウマ娘は人に近いのか比較的暑さにも耐性があるようだ。こんな最強生物と共同生活をこなしているこの世界の人類のコミュニケーション能力は、私のいた過去の時代よりも卓越しているのではないだろうか? あるいはウマ娘達が基本的には平和主義なのが幸いしたのであろうか、いずれにせよ両ご先祖様たちの努力は並大抵のものではなかっただろう。

 

"――まあそれでも今年の熱波は要注意なんだけどねぇ――"

 

 春先の寒波を過ぎ、イギリス同様日本も少雨かつ猛暑日が続いていた。

 

 特に北海道の網走では5月から少雨が続き、7月後半から深刻な干ばつ被害が出ている。このまま同地に雨が降らなければ農作物は深刻な打撃を受けるだろう。国内では夏をまたぐ米や果樹などが不作になることが大いに予想される。

 そのさらに北方に位置するロシアも深刻な高温と乾燥に晒されており、今年は世界的に雨が降り過ぎたり降らなさすぎたりといった具合らしい。

 

 そんな過酷な環境のように引き受けた業務内容もまた難儀なモノだった。

 それは選抜レースで選ばれていない子達の内、『最下位』6名を引き受けこの子達が合宿を終えるまでに目に見える形で競争成績を向上させるというミッションだ。

 

 海外遠征後とはいえ帰ってきたからには仕事をしなければならない。休んでも良いとは言われたが、これは逆に『たまたま良いウマ娘に巡り合った』と侮られている実力をきちんと示す機会となるだろう。私を連れて来たルドルフの為にもその評判は早めに潰しておきたい。

 

 月末の残り1週間からルドルフが合流するのでどちらもこなさなければならないが、ルイビルではディーネ以外の子達の健康管理も引き受けていたのできっと大丈夫だ。

 

 それに引き受ける生徒たちは『競争成績不振』だとしても、そもそも中央に来れるだけの実力が確かにある。ならきっとそれを引き出すための突破口があるはずだ。その成績不振の原因を探るために午後からは6人分のデータサルベージを行わなければならない――そんな感じで中々に骨が折れる状況だった。

 

 夏の深い緑に染まる森林を背景に、道路脇へと設置された赤白赤という風に3つの自動販売機が並んでいる。そのうち右端の赤い自販機の前に立ち小銭を金属音を立てながら3枚投入した。

 レモンが大きく印刷された銀色の缶が特徴的なレモンサイダーをひとつ買い、次に部屋で飲むためのコーラのボトルをと再び小銭入れを覗き込む。

 

 その時だった――。

 

「オイ」

 

 あまり聞き覚えのない声が私を振り向かせる。

 右に視線を移すと学園の生徒と思われる赤い体操服姿の、ルドルフより少し身長の高いウマ娘が寮の方向の道路の端っこに立っていた。

 

 その容姿は外はねの黒髪に特徴的な分け目、ロングのウルフカットだろうか? 眉は細くその端がまばら――その上には何やら金属の丸いアクセサリーが向かって右側に2つ。そしてやや細めのウマ耳とロックな空気の漂う眉の上のそれによく合う耳飾り――。なんとなく気難しさというか、威圧感は感じるものの顔つきはとても可愛い子だ。マリーゴールドを思わせる黄色い眼もパッチリしていて……。

 

"――確かこの子は――"

 

「貴女は確かよくファインモーションとラーメンを食べに行ってるのを見たことがある様な? ……あれ? 光ってるのも見たことがあるけど、確か初めましてな様な……? うーん……」

「ったく、殿下サマとダチなだけあって妙な覚え方してンな。――エアシャカールだ。初めましてお嬢サマ」

 

 私が首をかしげて尋ねると、エアシャカールはめんどくさそうに視線をそらし片手で後頭部を搔きながらそう述べた。

 

「直接話すのは初めましてですね。――私に何か御用ですか?」

「話が早くて助かる。単刀直入に言うとアンタの持っているアスコットのデータが欲しい」

「あー。そういう事でしたか」

「支払いはアンタ相手じゃデータじゃ無理そうか。いくらなら取引に応じてくれるンだ?」

 

 そういえばよくアグネスタキオンと、ああでもない、こうでもないと昼休みに議論する風景を見かけているからこの子はデータから入るタイプなのだろう。

 シースルーシャツのポケットにジュースを入れて私はスマホの電卓で相場通りの値段をわざと出してみる。何故そうするのかは、この子に大切な情報を与えるに値する判断力があるか、そこを見極めるためどのような反応をするか知りたかったからだ。

 

「――ではこのくらいで如何ですか?」

 

 クイクイと小さく手招きをしてそれを寄ってきたエアシャカールに見せる――当然学生では払える値段ではない事で、彼女のウマ耳は士気が落ちて前に下がり頭を抱えた。

 

「――やっぱ高っけェ……」

「編集前の全データとなればこんなものでしょう」

「違いない。想定が少し甘かった……予算が微妙に足りねェ」

「おいくらくらいですか?」

「諭佶がこンくらい足りねェ」

 

"――お? 大体相場通り用意してたんだ――"

 

 指で足りない数を示す彼女が用意していた予算はほぼ相場通りで諭佶数名程度の範囲内だった。

 貸しを作っておこうと考えた私は、この勉強熱心な学生に向け笑みを浮かべ返事を返した――。

 

「――ですが。バイトをしてくだされば、全てタダで差し上げてもいいですよ?」

 

 そう伝えると片手を頭に当てて俯いていたエアシャカールの耳が期待しているのか大きく動き前を向いた。目は見開き希望に満ちた顔をこちらに向けて食いついてくる――。

 

「いいのか!? で、どンな内容のバイトだ?」

「ええ、忙しくて誰かの手を借りたかったところでして。貴方に依頼したいのは数名のデータサルベージです。ある6人のウマ娘のレースデータを出来る限り集めてください。この子たちなんですが――できますか?」

 

 そういって私はスマホを操作して明日から夏季集中トレーニングを担当する子達のリストを表示した。するとエアシャカールは拳と手のひらをばしっと合わせて気合いを入れ。

 

「問題ねェ――学園に居るやつの分なら全てある。半人半バのアンタが学園で激走したのも含めてな」

「あー……あれですか。それは覚えてなくていいんですよ?」

 

 クツクツと笑いをかみ殺すエアシャカールによって、今度は私が恥ずかしい暗黒史を掘り出されて頭を抱えた。その様子を見て彼女は鼻で軽く笑った後――。

 

「走れないより走れた方がカッコイイし気にすンなよ。――納期は今日の夕方までにいける。夕飯時に引き渡しでいいか?」

「ええ。それだけ早いなら簡単な解析メモ等をつけます」

「いいネェ! 自分でデータは吟味する派だが、アンタが分析したっていうんなら参考になる。欲しい」

「ではきまりですね。では緊急連絡用にLEADは交換しておきましょうか」

 

 私がスマホからLEADを開きQRコードを出して、エアシャカールがそれを彼女のスマホで読み取らせた。そして彼女が登録操作している間に自販機でコーラの缶を買い『いる?』と尋ねると、彼女は小さく『おう、サンキュ』といってそれを受け取った。

 

 そして『約束忘れンなよ!』といって私に背を向けて合宿寮の方に駆けて戻っていく。その背中を見送ったあと私は自販機にお札を入れ、ボトルコーラのボタンを押した――。

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+1 8月末日 午後17時50分頃――

――合宿施設近所の夏祭り会場――

 

 月末の夏祭りに向かった生徒達のうち、トレーナーが帯同していない者はきちんと門限通りに帰るよう促すためジャージ姿でこの祭り会場を見回っていた――。

 

 そんな私の次走は9月末に行われる菊花賞の前哨戦『GⅢ セイクライト記念』で、その翌日からフランス入りして『凱旋門賞』に挑む連闘。その準備のために8月半ば過ぎから慎重に始動し始めている。

 

 レースに出る我々の脚はガラスによく例えられる。そして身体の方も競技やトレーニングで酷使すれば、免疫力という意味での『防衛体力』が落ちていく。――適度な運動は防衛体力を高めるが、過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 トレーナー君はこの難局を上手く乗り切るため、実家の医療スタッフにセカンドオピニオンを出し十分な対策を打っているようだが……。

 

 ひとりでいる時の彼女の横顔に何か強い懸念の陰が見えた――それは気のせいだろうか?

 

 ネガティブな思考を振り払うため私は辺りを見回した。まだ薄い水色の夏空には夜の影が少しかかり始めている。その空に屋台や提灯の朱のコントラストがにじみ出てることで、どことなくハレの漂う気配を醸し出していた。

 右を見れば屋台の赤いりんご飴に私の顔が反射しており、左を見れば鉄板で良い音を立てて焼かれる焼きそばの屋台。

 その少し先ではこの祭りの空気を祝うかのように瓶がぶつかり、乾杯するかのような良い音を響かせていた。瓶入りのサイダーが次々と売れ、活溌溌地(かっぱつはっち)に祭りを楽しみ行き交う者たちへと手渡されていっている。

 

 そして頭上の両耳には祭囃子やはしゃぐ者たち。活気横溢(かっきおういつ)な売り子の呼び込みの声などが楽し気に流れ通り過ぎていく。

 

"――トレーナー君がこの光景を見たら新年の時の様に、きっと心を奪われているのだろうな――"

 

 ふと新年に感動の音を心に強く響かせたような彼女の姿を思い出した。白い息を吐き、エメラルドが零れ落ちてくるよう瞳を見開いていた姿が印象的だった。

 空をそのままリフレクションした湖のように、全てを心に素直に映し受け取っているかのように見えたあの様子。――その爽快な感情の波打ち際に立ってみている私の心も洗われるようであった。

 

 しかし残念ながら今回はトレーナー君側の都合が合わず共に祭りを楽しめない結果に。寮でいまも頑張っている彼女へ何か差し入れでも買っていこうかと思案していると――。

 

「――」

 

 何か聞こえた気がして振り返ると、ブライアンとエアグルーヴの2人がいた。

 

「すまない、少し考え事をしていてね――呼んだかい?」

「ええ、こちらの見回りはほぼ完了しました」

「こちらも終わったよ。2人は先に帰っていてくれ」

「わかりました。ではお先に失礼します。お疲れ様です」

 

 エアグルーヴは先に会場の出口へと向かっていき、その後をブライアンがゆっくりと着いていくのかと思いきや、長細い茎のついた葉っぱをいったん口元から外して私の方を向いた。

 

「――土産を買うならお嬢様はりんご飴とラムネがいいそうだぞ?」

「? ブライアン、何故君がそんなことを知っているんだ?」

 

 ブライアンは普段誰ともつるまず一匹狼なきらいがある。しかし、トレーナー君とは姉のビワハヤヒデとの交友関係がある故に冗談を言ったり比較的距離は近い。そして面倒見のいいブライアンは、私やトレーナー君の様子を実は何かと気にかけてくれていることが多い。だがそれでも一定の距離感がある。

 なぜトレーナー君が欲しがっているお土産をを知り得たのか、ふと気になって尋ねてみた――。

 

「施設を出るときに独り言が部屋の窓から駄々洩れしていた。声、位置と内容からしてあのお嬢様以外ありえない」

「なるほど。ありがとうブライアン」

「大方さっきもお嬢様の事を考えていたんだろう? ――そんなに大切なら早くいってやれ」

 

 ブライアンは呆れたように軽く眉を寄せてから片手を上げる。そして葉っぱを咥え直した彼女は祭りの通りに溶け込んでいった。どうやら先ほど思案していた内容がばれるほど私の顔にそれが出ていたらしい。

 そんな自分に対して『困ったな』と独りごちり、気を使ってくれたブライアンに感謝した。そしてトレーナー君への土産を買うため屋台を巡りはじめた――。

 

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+1 8月末日 午後19時半――

――日本トレセン合宿施設 宿泊棟――

 

 土産の入った袋を片手に玄関で靴をスリッパに履き替える。廊下の突き当りを曲がるとひとり掛けのソファーと椅子が並ぶ大広間に出た。

 すると館内着の浴衣と羽織姿のトレーナー君が、その広間で夏合宿の後半に担当した生徒たちにA4くらいの茶封筒に入った何かを配布していた。

 

『はい。これは引継ぎ資料です。もし正式な担当トレーナーが決まって、そのトレーナーさんが望んだら渡してください。成績向上おめでとうございます』

『――ありがとうございます! これで少しは姉に顔向けできるといいな……』

 

 いい報告ができると嬉しそうにする生徒達とトレーナー君を遠巻きに、そっと聞き耳を立てる。

 トレーナー君はGrand Trainerとしての先日の模擬レースで才気を発揮しており、それは彼女が金で地位を買ったとか、お飾りだという良くない噂を全てを一掃したのだった――。

 

 参加者は全員トレーナーが居ないウマ娘とはいえ、競争成績が振るわないメンバーのチームを率いての上位通過。個人成績も躓いていたところを全て指摘して直させ、いい所まで走れるところまで持ち直させたのだ。それは最早教え上手という領域を超えている。

 

 さらに日本トレセンに来た当初から育てている医療スタッフ達は技術が格段に向上している。そしてオルドゥーズ財閥に発注した基幹システムにより、作業効率が上がり充実した日々を過ごすスタッフも増えていた。

 現在学園の士気は我々の海外勝利を受けて非常に高く、まさに繁栄の絶頂と言ったところ。土の名を冠するGrandのトレーナー君は、この学園に日々大きな実りをもたらしている――。

 

 トレーナー君は胸の前で手を軽く2回叩いて鳴らし、はしゃぐ生徒の注意を自分に向けさせた。

 

『諦めない限り道は続きます。日々の積み重ねを忘れずに、ですよ。さあ、あともう少しで花火が見られます。遅れないように解散しましょう。1ヶ月間の強化合宿お疲れ様でした』

 

 『お疲れ様でした!』と威勢のいい返事が数人の生徒達からあがり、話が終わって私に気付いた生徒たちはこちらに微笑んでから『会長が待ってますよ!』とひとりがトレーナー君の肩を叩いて楽しげなステップ踏みながら去っていった。

 

「おかえりルドルフ」

「ただいま。休憩にいかがかな?」

 

 そういって私は袋に入ったラムネとりんご飴を出して見せる。するとトレーナー君は瞳を見開いて瞬きをした後首を傾げた。

 

「欲しいものがピンポイント過ぎてびっくりなんですが……」

「実は最近君が食べたいものが分かる超能力とやらを怪しいサングラスの女性から頂いてね?」

 

 校内で最近目撃されるという不審者のせいにしてふざけていると、トレーナー君ははっとしたあと眉をハの字に寄せて慌て始めた。

 

「……え。それは困る! 困ります! おやつ用に買ったカップ麺の2杯目を私が食べたいなと思ってるときに、貴女にばれちゃうじゃないですか……!」

「まさかと思うがダメだよ? 気持ちは分かるが1日1杯までのルールは厳守だ」

「うう、手厳しいです。――それで本当の所は?」

「君のボヤキが外に駄々洩れしていたのをブライアンが聞いていた」

「……うわぁ……それは恥ずかしいですね。そんなに大きな声だったかなぁ」

「声の大きさというよりは我々の耳が良いからというのが原因だろう。とりあえず君の部屋でこれらを賞味しないかい?」

「そうですね。移動しましょう」

 

 しょげてしまったトレーナー君を促しスタッフが宿泊している棟を目指す。

 木製の古い校舎のような合宿施設の廊下を進み、真ん中が通路としてコンクリ張りになっている渡り廊下を通る。その途中祭り会場の方向を見ると、夜の帳が完全におり切りそうな群青の空に向かい、祭り会場の明かりがにじみ出てとても綺麗だった。

 

 虫の音が響く中、本館と同じような建物の廊下を進んでいく。そして木製の階段を3階まで上がってシンプルな白い合板で出来た扉の鍵をトレーナー君が空けて少し待っているように言った。

 彼女が入っていったあと部屋の中からは紙のすれる音、本を重ねていると思われる音が響いている。きっと引継ぎ資料を作るために奮戦した惨状が広がっていたのだろう。1分ほどして音が止み、最後にカーテンを開けるような音がした。そして私に入るよう促す彼女の声が響いた。

 

 スリッパを脱ぎ揃えて上がると、部屋の明かりが筒抜けな開けっ放しの襖が見える。そこを通って入った6畳ほどの部屋。その奥に窓、右手前にベッドがひとつあり、畳の床には座椅子とちゃぶ台のようなレトロなテーブルとその正面の左壁面に薄型の小さいテレビが一つ。すぐ戻ることを見越して室温は空調を点けっぱなしだったのか、全く蒸し暑さを感じない。

 

 ノートパソコンや資料類は隅っこにまとめて置いてあり、大き目の窓のカーテンはやはり開け放たれている。そしてトレーナー君は座椅子を窓の方に向けて配置を調整していた。

 恐らく窓の向きが花火が見える方向なのだろう。そう察して座椅子の前のテーブルにラムネやりんご飴、そして焼きそばを2つ配置。トレーナー君に促されて右側に着席し、左隣にトレーナー君が座った。

 

「いただきます! 丁度集中力が切れてお腹空いてたところだから助かりました」

「どうぞ召し上がれ」

 

 トレーナー君がプラスチック容器の輪ゴムを外すと、香ばしいソースの香りとカツオぶしの香りがふわりと立ち昇る。私はラムネの栓を開け、水色のガラスボトルを傾けてビー玉を転がす音を響かせそれに口をつけた。舌の上にまずピリパチっとした炭酸のはじける感覚が広がり、サイダーの甘みがひろがっていく――。

 

 そして彼女と私が焼きそばを食べ終えたところで、花火が始まるまでに時間はまだある事だし雑談を始めた。

 

「本日中の作業というのは引継ぎ資料だったのかい?」

「それもありますけど、メディアとの調整担当の方からスケジュールの打診があったのを整理していたりとか色々ですね」

「なるほど。前走の勝利以降格段に取材が増えていたし、それで激務になったというわけか」

 

 スケジュールは過密過ぎないように調整はしているものの、英国で勝ち星を上げた結果取材の申し込みが増えすぎて学園のスタッフからも悲鳴が上がっていた。

 当然トレーナー君にもその負荷は掛かっている。そしてそれを本人が愚痴を言わないので他のスタッフ経由で聞いていた。

 

「そんな所です。――そろそろ花火が上がる時刻だから照明を落としましょうか」

「そうだね。なら私がやるよ」

「お願いします」

 

 私は立ち上がって部屋入り口にあるスイッチを押し明かりを消した。トレーナー君はりんご飴の包装を外した。そしてりんご飴の棒を手に持って少しずつ齧って美味しそうに食べている。私も同じようにリンゴ飴を楽しみながら窓を見ていると花火が上がる。

 

 しばらく眺めたのち、そっと隣を見ると彼女は宝石のような瞳に花火の光を反射させながら、じっとそれに見入っていた。そして、しばらくしたのち空から目を離さないまま――。

 

「職人の腕が光ってますね――素晴らしいです」

「ふふっ。そうだね。――ところで職人と言えば君が1ヶ月受け持った子達の成績は素晴らしかった」

「ありがとうございます。とりあえずフォームの修正とか技術的なモノを指摘するだけで何とかなる範囲でよかった。折角中央に来たのだからこれで自信をつけてくれたらよいのですが……」

「君が方向性を示しきっかけを作った事で、迷っていた状態から道は定まっただろうしきっと大丈夫さ。――しかし常々思うのだが君は相手の変化に敏感だね? 何か秘訣でもあれば教えて欲しい」

 

 今月の半ばを過ぎた頃にトレーニングに合流した際、私はトレーナー君の才学非凡(さいがくひぼん)な新たな側面を目の当たりにしていた。自分の時はさほど注意されなかったので気付かなかったのだが、他の者を見ている際にちょっとした走行フォームの違いを指摘したり、さらには不調を見抜いてくる。実際に保健室で調べるとそれが全て当たっているのだから鳶目兎耳(えんもくとじ)ぶりがいささか過ぎていた。そこでなにかコツでもあるのかと考え、後学のために尋ねる。

 ――すると彼女は腕を組んで小首をかしげ、思い悩むような表情を浮かべた後こう答えた。

 

「うーん。秘訣って言われると言い表すのが難しいかもしれません」

「では質問を変えようか。具体的にどうやって見ているんだい?」

「――他の人に言わないでくれるなら。そう約束できるなら教えます」

 

 これは随分と意味深長(いみしんちょう)な反応が返ってきた。それでも知りたいと思った私は彼女が隠している核心に一歩踏み出す。

 

「自分のすべてをかけて君の秘密を守ると約束するよ」

「――言いましたね? 破った時の代償は安くはないですよ」

「それはまた恐ろしい事を――そんなに重要な事なのか?」

 

 願いをかなえる魔法使いは時として呪いをかける魔女となる。

 そんな雰囲気すら感じ取れる物騒な物言いをしたトレーナー君は、喉が渇いたのかラムネを一口飲みからりと音を立ててテーブルの上にラムネ瓶をそっと戻した。

 

「そうですね。あまり知られたくない私の体質が原因ですので。私は身に降りかかった事だけでなく、覚えたことを全て正確に記憶することが出来、そして忘れる事が出来ないんですよ――」

「それは所謂完全記憶といわれる『自伝的記憶(HSAM)』といったものだろうか?」

 

 以前書籍で読んだその記憶能力者は、それ故に強迫観念を持ったりすると聞いたことがある。前々から妙に記憶力が良いとは思っていたがこれには脱帽した。まさか金曜日に放送されている映画で見られるような力を持った者がこの世に実在するとは――私は息をするのも忘れかけるほど衝撃を受けた。

 冗談かもしれないがトレーナー君があれだけの前置きをしているのだ。彼女の性格上それはあり得ない。

 

 知ってしまうと引き返せなくなるかもしれない。しかしどういうことなのか知りたい己もいる。そしてその続きを語る権利は彼女にあり、私は全身を好奇心で満たし硬直させて息を飲みその先が紡がれるのを待った。

 

「いえ、自伝記憶は本来『何年何月何日にどこに散歩した、何を言われた』とか、自己を中心とする出来事に対し記憶力を発揮するケースが一般的です。そして学習能力には影響を出さないはずなので、私はそれの変わり種ですね。何でもスポンジみたいに覚えられてしまう少し便利な特徴が追加されています」

「そうなると語順や日付などで整理しないと頭がパンクしそうだね」

 

 そうなのだ――私が科学雑誌で見た情報でも自伝記憶にそんな能力の記載はなかった。

 だとしたら突然変異なのだろうか? 奇々怪々な情報が次々に押し寄せる両耳に意識を集中し、あり得ないと切り捨てたくなる自らの固定概念から湧き出る内なる声を一切無視する。

 そして一言一句噛み締める様に彼女の言葉に傾聴を続ける。

 

「そうですね。頭の中の片づけだけは面倒でもやらなければ、いくら長期記憶の量がほぼ無限であっても、それだけに探す時が大変です」

「すると君はその正確すぎる記憶力を使って差異を見抜いていると?」

「そうです。まずサルベージしたデータを頭にすべてストック。そして脳内で見比べる、重ね合わせてみるてるだけなので、案外単純なんですよ。そして見るだけでなく触った感触からの状態、五感に関する事まで細かく覚えているので診断にも重宝します。それで些細な変化も見逃さないという訳です」

 

 きわめて原理はシンプルながら使い勝手の良さそうな才能だ。私も記憶力には自信があるがこれは自分が参考にするのは難し過ぎる。

 上には上がいて海の向こうには様々な才能を持った者も多くいるのだろうが、これはあまりにも珍しい――ただの賢者などではなく遺伝の気まぐれで産まれた麟鳳亀竜(りんぽうきりゅう)の類だ。

 踏み込めば踏み込む程彼女の底を見抜けていないことに気付き、ウマ娘と人間――人類全体の可能性の深さを改めて思い知り、その深淵を覗き込んでしまった私は思わず息を飲んだ。

 

「なるほどすごく便利だ――しかしそれが冗談ではないとしたら、日頃君がどうでもいい事を忘れたような態度を取るのは――」

 

 探究心からくる興奮から一旦頭を冷やして思い返すと、トレーナー君は時々物忘れをしているような様子が見受けられた。であるならば矛盾しているはずだが、彼女はそんな虚栄心など持ち合わせていない。だとすると可能性は1つだ――既に頭までどぶりと浸かりきっているが、止まらない興味から私は更にその奥深くに触れるような質問を向ける。すると彼女は申し訳なさそうな表情をして顔を俯かせてしまった。

 

「定期的にどうでもいい事を忘れたふりをしているのは、体質がバレない為の演技です。――身を守るためとはいえ癖になっていました。騙すようになってしまい申し訳ないです」

 

 あまりに不可思議の連続だったものだから注意が向いていなかった故に、そこまで聞いてやっと私ははっとした――。

 

 我々も人間もすべての生き物は忘れることでストレスから逃れる術を持っている。となるとそれを持たないトレーナー君が何らかのきっかけで受けた苦痛はどうなる――?

 それはずっと記憶の片隅に残り癒えないものが燻ぶり続け、遅効性の毒物のようになるのではないだろうか?

 

 子供の頃に読み聞かせてもらった童話に手に触れたものを全て黄金に変える王が登場するものがあった。

 それは他人には有益だが食べ物が食べられず、愛する者にも触れられないなど本人を苦しめるようなそんな展開の話だったか?

 

 それに似たこの能力は祝福というよりむしろ、生涯を通じて精神を蝕む呪いに近いのでは――。

 

 どんな気持ちで今までそれに耐えて生きてきたのだろうか? これはあまり重く惨い運命だとも感じる。一体彼女が何をしたからこのような試練を受けなければならないのだ?

 

 ――そんな理不尽に対する怒りによって、憂鬱さを招く鈍い灰色の空にも似た気分が胸の内に広がっていく。

 

「構わないよ。そんな状態でよく今まで無事だったというか何と言うか……君が身を守るために隠したがる気持ちもわかる。しかしそれでどうやって今まで過ごしてきたんだい?」

「最初は散々振り回されましたが、その内許したり受け流すことを覚えました。そうやって波間を漂うクラゲの様に生きているくらいが調子が良いんです。それに――」

 

 花火の上がったその青い光で彼女がどんな顔をしているか見えた。俯くのをやめて私の方をゆっくりと向いたその横顔は、何年も酸いも甘いも嚙み分けて生きてきた大人のように安らかで険のないものあった。

 

「この記憶力によって齎されるものは悪い物ばかりではありません。例えば貴女が今日りんご飴やソーダを買ってきてくれたことや、私にしてくれたことも全部覚えていられるんです。その時感じたそのままの感情がずっと私の中には残っています。春には眺めた満開の桜を、夏には花火を、秋には美味しい食べ物と紅葉を、冬には雪空を――そして出会った素敵な方々との出来事を――それをいつでも鮮やかなものとして思い出せます。それが出来るのは素敵だと思いませんか? 大事な記憶をこの世を去る瞬間まで忘れていかずに済みます」

 

 『そしてトレーナーとして活躍するにも、何をするにも便利な能力ですしね』と付け加えて片手に持っていたりんご飴の残りを彼女は食べきった。

 

「だから心配しないでください。そしていつも素敵な思い出をありがとうございます」

 

 花火がまた上がりみえたトレーナー君は何の後悔も悲しみの陰も映していなかった。強がりでもなんでもなく今の発言は本心で、本気でそれを言っているのだという事に私は驚嘆した。

 

「君にはいつも色々頂いているからね。それに対し何が出来るか考えたことを喜んでもらって何よりだ」

「学生さんなんだから気にしなくていいんですよ。その分大人になった時誰かが困ってたら助けて下さいな。あ、私でもいいんですよ? 違法じゃないのが大前提ですが、ビジネスのお話を持ってきていただけたりしたら嬉しいです」

「今の一言で君に対する色々なものが大幅に吹き飛んだよ」

 

 ちゃっかりしたことを言って笑わせようとしに来る彼女の額をつんと押すと、『そのまま感動しててください』とまた一言追加してくる。

 

"――全くそうやってすぐはぐらかす。困った方だ――"

 

 こんな風に学生である私に必要以上に気負わない様に仕向けるトレーナー君に対し、領分以上の事をしても今は立場上たしなめられるだけなのだろう。

 素直に私から色々と受け取ってくれる日はきっとまだ先になる――。

 

 ではそうくるのなら我儘を言うのは年下である私の特権だ。

 一つ一つの思い出をまるで宝石箱にでも仕舞って大事にしているのならば、私が行きたいという事にして色々な場所に連れまわそう。そうやってこちらのペースに巻き込んでしまえばいい。

 これから勝ち星を重ねながら沢山の冒険をして、その心に鮮やかな思い出を届け続けよう――。

 

 

 ――私がいつか大人になって、大切な君に何か返せる立場になるその日まで。

 

 



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リゾナヲ蹟軌之冠三代初『秊八九五二紀皇』

 大変お待たせしました。
 【出走選手表】――見取り図は適当仕様

【挿絵表示】

 ほとんど顔なじみのメンバーですね。
 グレードは84年準拠。
 二次創作だとアウトだと判断した単語は換えてます。
 それではどうぞ。

 ルドルフ視点から始まり、
 ◆◇◇からトレーナ君視点。
 ◇◆◇以降ルドルフ視点です。


――20××年+1 9月半ば某日 午後21時――

――トレーナー寮B棟4階 405号室――

 

 鯉は滝を上り竜となるだろう――。

 1時間ほど前にそのレース名を見て私にトレーナー君はそう告げた。そして彼女は現在入浴中だった。

 

 セイクライト――初代三冠ウマ娘の名を戴いたレースが私の次走。夏を上手く乗り切れたか菊花賞の試走にと望んだレースだ。

 

 程よく空調が効いた室内には壁掛け時計と、薄型テレビから垂れ流れている音のみが通り過ぎていく。

 背を少し後ろに倒すと低反発素材で出来たコーナーソファーが私を包む。

 両腕の下には精巧にホタテの貝殻を模したホタテクッションを挟んで腕を休めて膝を立てる。

 そして右手にはスマートフォンを持ち、生徒会業務の最終チェックをしていた。

 

 今日は寮には帰っていない。

 ひとりでいると気分が落ち込んでしまうため、何となくトレーナー君の部屋に遊びに来ていた。突然の訪問だったにもかかわらず今回はすんなり入れてもらった。いつもなら片付けるといって数分待たされるというのにね――。

 

 生徒会のメールボックスを確認し終えた私はスマートフォンの画面を切り、目の前のテーブルの上にそれを伏せて置いて視線を室内左側に向ける。

 

 片付いていた理由は視線の先にあるリビング左隅にあるその縦長のガラス棚だった。

 それらは全部で2つあり、右に前任のディーネ、その左に私に関する思い出の品々が飾ってある。

 私の方の棚には勝った時の蹄鉄を半分渡して置いた分を盾に加工したものや、私がダービーの時にトレーナー君の髪に差したバラが、ブリザード加工され手のひらサイズのガラスドームに収められていた。

 

 彼女と画面越しに出会ったのが2年前の6月。随分と年月が経過したものだ。

 譲れないものがあって喧嘩もしたり、子供っぽいやり取りをして遊んだりもした。最初は特別という意味で大切だったけれど、今は傍にいて当たり前の存在という意味合いの大切さに移り変わっている。

 

 

"――関係というものは月日が経てば変わると言うが……――"

 

 


【マエツニシキ、短距離マイル路線へ】


 

 今朝見たこの新聞のタイトルを見て、思わず2度見してしまった。

 いつもならレース前で高揚している私の気分が下り坂になったのもこれが原因だった。

 同期でデビューし、弥生、皐月、ダービーと激しく火花を散らしてきたライバル『マエツニシキ』が路線変更してしまったのだ。距離適性を考慮して今年から整備された短距離路線やマイル路線に移ったという。

 

 私に本気で向かってくる数少ない同期だった。そのことがぽっかりと胸に穴をあけた気分にしてくれる。心の中に鈍い色の空が広がり、見上げればポツリポツリと水滴が顔に滴ってきそうな――。

 そんな本音を理想像側の自身の魂は『見せるな』とささやいてくる。それに応え、溢れる何とも言えない感情を握り潰す様に手元のホタテクッションを抱きしめた。

 

 すると――。

 

『――――! 』

 

 ぎゅうぎゅうに潰されたホタテクッションが、私の暴挙に対して叫んだわけじゃない。

 なんというか、声にならない引き攣ったような音が風呂場から反響してきた。

 何事かと思って両耳が驚きに跳ね上がり、勢いよくリビング入り口を振り向く――。

 

『――どうしようっ』

『ヤバイ。どうしよう、増えてる……どうしよう! ……食べ過ぎちゃった!』

 

 足音がその場でくるくると旋回しているような距離のリズムを刻み動いている様子が分かる。

 今の言動から察するに恐らく体重が増えていたのだろう。酷く動揺し、落ち込んでいる気配が聞こえすぎる両耳から手に取るように察知できた。

 

 おそらく夏合宿の間殆ど外に出られなかったのが響いたのだろう。

 しかしトレーナー君は普段あまり食事量が多いわけでない。寧ろ食べなくなってしまう事の方が多いのに太る方が私には珍しかった。

 

 『 嗚呼ァ! ×××((名前))(ピ―)kg微増です。絞りきれてませんとかシャレになんないよ! もう、ヤダぁ!』

 

"――…………――"

 

 彼女はまた声にならない喉の音と、しゃがみこんだような物音を響かせた。

 私もまた心の中で"この空気は一体なんだ"と、言葉にならない謎の虚無感に支配される。

 

 先ほどまで懐かしい思い出や、同期に思いを馳せていたというのに――。

 

 適当な所まであきれ果てた後、ふと微笑ましさが込み上げてきた。美も富も能力も、完全無欠ともいえる存在の彼女が凡ミスをして慌てふためくなんて。可哀想だがそんな様子を覗いてみたい気持ちもある。

 

 私の空気を完膚なきまでにぶち壊したトレーナー君が、そっと浴室から出てこちらに向かってくる物音がした。彼女の足取りは通知表がオール2のアヒルの行進だった学生のように、ひどく落ち込んだような気配を纏っている。

 

 先程地獄耳がとらえたあの一連の流れはあまり聞かれたくない事だろう。そう思った私は知らんぷりをしてテレビを見ているふりをする。

 リビングに戻ってきた彼女はダイニングキッチンの冷蔵庫を開けた。そのタイミングで彼女の方を向き、『おかえり』と声をかけた。

 

「ただいまー……。ルドルフも麦茶飲みますか?」

「頂こうか。随分元気がないが、どうしたんだい?」

「んー……まあ、ね? その、調子に乗って食べ過ぎました……」

 

 トレーナー君は目を泳がせつつバツの悪そうな表情を浮かべ、俯き、液体を注ぐ音を手元に響かせつつ正直に答えた。まあアレだけ騒げば私が聞いていると思って誤魔化さなかったのだろう。

 

 髪をおろし、いつもの白いナイトウェアワンピ姿のトレーナー君が、手早く麦茶を用意して戻ってきて私の左隣に腰を下ろした。そして目の前のテーブルに氷の音をカランと響かせてそれらを二つ置く。

 

「それはまた……。深刻な問題だ」

 

 プライバシーに配慮してすっとぼける私をよそに、憂鬱そうな空気を纏ったトレーナー君はソファーに立て掛けてあった、牡蠣のむき身クッションを軽く抱きしめる。

 

「そうなのマズすぎます。という訳で、私も明日から走っていいですか? ウォーミングアップとか邪魔にならない時に」

「構わないよ。しかしそんなにいう程食べていたようには見えなかったが……」

「うーん。多分不規則な生活と夜遅くまで作業してたので、口さみしくて食べたものがじわじわ来たのかもしれません」

「なるほど。それならまあ――わからなくもない」

「不甲斐なくてすいません」

 

 昨年のオープンキャンパスで『すみません、すみません、ああ。すみません!』と、滅多矢鱈に謝っていたウマ娘を思わず思い出してしまう程に、トレーナー君はしょ気ている。何かフォローしてやりたいが、下手に何か言うと余計に状況を悪化させてしまうかもしれない。それなら彼女の悩みを解決する手助けをする方が無難だろう――。

 

「大丈夫だ。走ればすぐ落ちる。こんな時間だしそろそろ寝ようか。明日は早起きして涼しい時間から慣らしていこう」

「――起きれますか?」

「全く君は私に気を使わせておいて、またそういうことを言うんだから!」

 

 折角気を使ったのに余計な事を言い始めた私は軽く彼女を嗜める。今みたいに歯に衣着せぬ辛辣な突っ込みを入れてくるようになったトレーナー君との距離感は、出会った頃よりもずっと近い。

 そしてこの学園で最も親しく、唯一振り回せる存在となった彼女に手を差し伸べ、引いて立たせる。

 彼女は破顔一笑を浮かべ、いたずらっぽい雰囲気を漂わせた。

 

「突っ込み役としてはついつい! ごめんなさい」 

「イタズラがすぎないようにね? 今日は私が押しかけた側だから洗うよ、君は先に歯磨きを」

「ありがとうございます。では、お願いします」

 

 トレーナー君から空っぽになったガラスコップを受け取り、先に寝支度へと向かわせる。

 

 コップを洗って水切り籠に干し、テラスに繋がるカーテンを閉めようと窓に近づいた。

 閉めきる前に見上げると、満月が星空の中点に差し掛かっているのが見えた。

 

 曇り稍重であった私の胸中は、すっきりとした心模様へと変化していた――。

 まるで目の前に広がる初秋の空に浮かぶ月に照らされたかのように。

 

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+1 9月30日 ――

――中山レース場 シンボリルドルフ控室前――

 

 緊急時のため打ち付けられた蹄鉄の音をカツカツと響かせて廊下を歩く。

 中山レース場のバックヤードを通り私はルドルフの控室を目指していた。右手には買ってきて欲しいと頼まれた生徒会へのお土産と、レース後に必要なものが入った袋をひとつ下げている。

 そして服装はいつものシニヨンヘアーとスーツといったところ。

 

 普段通りだ。だが、いつもと違うのは今日はGⅠではなく『GⅢ セイクライト記念』で、ルドルフは久々に体操服姿で挑むことになる。

 

"――しかし、凱旋門を視野に入れてるのに何でセイクライト記念なんだろう?――"

 

 このレースへの出走は彼女の希望だった。何度か本当にいいの? と聞いているけれど彼女はどうしてもだという。そしてその理由は本人も何故かわからないという。

 

 以前の担当でもこんなことは日常茶飯事だったので今更驚かない。彼女たちには譲れない何かがあるようで、その結果そのウマ娘の思考回路上あり得ないローテーションが提案されることがある。

 

"――元居た世界とは条件が違うし、行けるとは思うけど……――"

 

 前に居た世界の『馬』は輸送の問題が障壁のひとつだと言われていた。しかし、名前や性質の似たウマ娘は環境の変化に非常に強い。こんなローテーションをこなすなんて『馬』では絶対に無理だ。

 何はともあれ本日のレース後のフルメディカルチェックの結果次第。ダメージ回復を早める術は十分すぎるほど持ち合わせている。――健康面は何とかなるだろうとは思いたい。

 

 来月10月7日は『凱旋門』――世界最高峰クラスの国際徒競走の一角だ。前走のキングジョージを勝ち抜いたことで、フランス側から是非にとも招待状が贈られている。ヨーロッパ勢は私たちを迎え撃つ気満々といったところなのだろう。

 

 

 そうこうしている内に目的地に到着して控室のドアを開けると、経済雑誌に目を落としていたルドルフが私の方へ振り返る。

 

「おかえりトレーナー君。お土産は買ってきてくれたかい?」

「ばっちり。これを副会長ふたりに渡して、ライブ後すぐにフランスに飛ぶけど忘れ物はないですか?」

「問題ないよ。今日のレースをしっかり勝って、好調を維持しつつ勝負といこう。ファシオからも再戦を挑まれたからには受けて立たねばな」

 

 前回死闘を繰り広げたファシオも今回の凱旋門賞に登録していた。レース後に連絡先をルドルフと交換してメールを交わす程の仲ではあるものの、ライバルとしてしっかり意識してくれているようで会見では最も強敵として私達の陣営を名指ししていた。

 

 これにはルドルフも大変満足だったらしく、例え全員にマークされたとしても、全て撃破してやると意気込んでいい感じにやる気が出ている。そんな風にみんな青春しているなって所がちょっぴり羨ましい。

 

 

「そうですね。厳しいローテですが、なんとかサポートしてみせますよ」

「任せたよ。前任が何度も月4回出走を決めても、故障から守り切った君とならきっと大丈夫だ」

「そうはいっても無茶なんですから、ほどほどにしてくださいね。今回だけですよ、今回だけ」

「それには同意はしないけど控えるよ」

 

 ルドルフはそんな予防線を張った。私も言いたい放題言ってるけど彼女も私に対して思う事をはっきり言うようになったなと感じていた。

 その証拠にルドルフは私に話しかける時に腕を組まなくなっており、ごく自然体で話してくれている仕草がふたりでいる時には目立っていた。

 

 その信頼に応えたい――。それが貴女のトレーナーとしての誠意だ。

 

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+1 9月30日 15時30分――

――中山レース場 正面スタンド前――

 

 精神統一のルーチンでバ場の一点を見つめた後、瞳を閉じて呼吸を整えてまた見開く。

 視界の先に広がるのはくすんだ苔のような色合いの芝がびっしりと地面を覆っている。皐月弥生の茶色く生えそろっていなかったバ場とは違い、路面コンディションは最高だ。

 

 前髪を揺らしそよぐ風からは、まだ夏の余韻がする。しかし見上げると青い空の草原を、真っ白な羊の群れが走り抜けていくかのように、丸いウロコ雲が連なっている。そしてその青は高く、高く、どこまでも蒼穹が奥まで続くような少し季節の深みを感じられるもので、思わず手を伸ばしたくなる。

 

『さて中山第11レースは芝の2200m右回り外。ラジオジャパン賞セイクライト記念GⅢ――初代三冠ウマ娘、セイクライトの祝福を受けるのはどの子だ!』

 

 アナウンスが始まった事を両耳がとらえる。今日は一風変わった面白い実況をする男性アナウンサーではなく、若い女性が担当しているようだ。

 

『3番人気はこの子! ベルパレード! ここで勝ち星を上げ秋の上りウマ娘となるか!』

 

 弥生賞からの付き合いのベルパレードが先にゲートへと入っていく。そして次に入場したのは――。

 

『2番人気 イグニカメルン! 今日は一段と輝いて見える彼女の末脚は火を噴くのか!』

 

 こちらも皐月賞、ダービーでも一緒だった。見知った出走者も大分増えており、この中で一番古い付き合いになるのは、サウジアラビアRCからの出走者だろう。

 

『1番人気はシンボリルドルフ! ヨーロッパ中距離王決定戦、キングジョージを勝ち抜き玉座を手に入れ現在無傷の7連勝! 一体この子を誰が止めるのか!!』

 

 本日は5枠出走の黄色い体操服とゼッケン姿。勝負服を着てこそはいなくても、立ち振る舞いを意識しながらゲートに入る。――私にいつかついて来てくれる者たちが見ているのだから。

 

 厳しくもきっと今もどこからか見守ってくれている両親。

 そして、人も財も惜しまず投入してくれるトレーナー君。

 

 私を応援し、支える者たちのため――。そして学園を去っていった者たちの励みにもなれるよう、全てのウマ娘達にとって何らの道となれるよう。

 

『ゲートイン完了。10名の出走準備が整いました』

 

 そんな自らの願いを叶えるため、

   ――走ろう。自ら望む未来を目指して。

 

『スタートです! 横一線の状態で好スタートをきったが、抜けてくるのは最内1枠1番快速娘ルミナスラッド! 1バ身リードいきなり飛ばしていく!』 

 

 1枠のルミナスラッドが視界右手から一気に抜けていき、私の両サイドはほぼ横並び。全員私を意識してるだろうから我武者羅に逃げはしないだろうと、トレーナー君が言っていたことを思い出す。

 

『外から7枠7番ベルマッハ上がって2番手で追走!』

 

 左の視界外から上がっていくベルマッハを先に行かせる。私はこの2人を後ろにつき道中を3番手で追走する事に決めた。背後にはピタリと影の様に張り付く何名かの気配がしている。

 きっと私をマークするつもりなのだろう。ここまでは想定済みだ。

 

 2と書かれたハロン棒が視界の横を通過。

 ここから右上の角を少し押して潰した玉子焼きの断面のような台形――外回りの上り坂が始まる。途中インターバルはあるものの、上りからの下りの続くここで仕掛けるのは愚策。ポジションを狙っていくならば向正面だ。

 

『ルミナスラッドは4バ身後続を突き放して先頭のまま第1コーナーに突入!』

 

 残り1800。坂途中の短い水平部からさらに登りに入ったのを接地した靴底の感触が知らせる。

 タイムは24秒。トップと私の距離は10バ身――その真ん中あたりにベルマッハ。そして後続は私の後ろで団子状態で待機している。見かけ上かなりの縦長だがそこまで飛ばしてはいない。

 

『1番手から5バ身離れてベルマッハ2番手追走。そこから5バ身離れてシンボリルドルフ3番手。後続は団子状態だがすっきりした先行集団』

 

 残り1600。タイムは37秒弱。12秒刻みでルミナスラッドもきちんと様子見して走っているのだという事を確信。足元はほぼ水平となり――丘の頂にたどり着いた。皐月弥生の左右対称な設定時と違い、台形左上の頂点となる第2コーナーのほぼ中央を目指す直線部が続く。

 後ろは私を警戒して脚を残しているため無理に出ないで、肉食獣が姿勢を低くし獲物までの距離を詰めるような心境でタイミングをうかがう。

 

『その外半バ身後ろベルパレード4番手、その内ブロッサムクラウン並んで様子見。その後ろ9番イグニカメルン追走、その内ならんでクラウンパーソロン』

 

 残り1400を通過。タイムは49秒大よそ12秒刻み。先頭からは15バ身程離されている。

 

『殿の3名は前からメグロアーネスト、その後ろフルールラヴァン、最後方はイグニカメルン! さあ2コーナーへ突入です』

 

 視界は右に緩やかに弧を描き旋回。私の前を行くベルマッハが下りを利用して詰めようとする脚色が見えた。それに呼応するようベルマッハの後ろに隠れにじり寄りついていく。

 テンの1000mこと残り1200mの通過は61秒。隊列は縦長だがスローに近い。

 

『向正面ルミナスラッドまだまだ逃げる! 現在リードは5バ身! 2番手のベルマッハ、その真後ろシンボリルドルフ! 虎視眈々と前を狙っているが、その後ろクラウンパーソロンとベルパレードがピタリと張り付いている!』

 

 残り1000m。通過は1分14秒弱。ルミナスラッドは一呼吸入れた。

 後ろが団子だとみて休憩しつつも詰まらせるつもりなのだろう。そんなことは予測済みだ。あらかじめ少し外に出ており、半バ身後ろ側からベルマッハの横を狙ってついていく。

 

 このあとほぼ直線の緩やかなカーブの第3コーナーが待っている。

 第4コーナの曲率を考えればそろそろいい位置を確保したい。

 

『残り800! 第3コーナールミナスラッド前途洋々3バ身! そして後ろからシンボリルドルフ2番手争い前を狙う勢い! その内ならんでベルマッハ! 2名の激しいつばぜり合いが始まった!』

 

 残り600m地点まではほぼ直線だ。

 

 目の前にいるルミナスラッドに並び、第4コーナーでは少し外を回って程よい芝の上で最終直線勝負に持ち込みたい。それを読んでかベルマッハもそうはさせまいと同じポジションを狙い外に進路を出して喰らい付いてくるので半バ身下がり共に上がっていく。

 

『おっと、最後方イグニカメルンが外を回って一気に上がっていくが間に合うのか! 縦長のバ群は団子状態のまま第4コーナーへ!』

 

 殆ど隙間が無い状態で内からルミナスラッド、ベルマッハ、私、そして一気に上がってきたベルパレードの4名による巨大な壁が出来上がった状態で残り400mを通過。

 ベルマッハを僅かに差をつけたと思ったが、食い下がり、勝利の執念を燃やした彼女は差し返してくるではないか! 左の大外をまわるベルパレードも私を追い抜かんという勢いだ。

 

"――闘志に応え全員迎え撃たせてもらおうか!――"

 

 4コーナーをほぼ同じ感覚で全員膨らみながら曲がって、空いた最内にもじっと待っていた後続が突っ込んできたのが視界の端に見える。

 

 ぐるりと前方の景色がまわり最後の上り坂、そして両耳に突き刺さる歓声の嵐吹き荒れる正面スタンド視界にすべて収まった。同じタイミングでスズマッハ、スズパレード両者が直線を向いた瞬間スパートをかける! 私もピッチを上げてそれに応戦しようとすると、気分の高揚か両脚と全身に紫電が走った様な感覚を受けた。

 

 ここでストライドも変えて一気に突き放したい。だがまだだ、ストライドを変えるなら坂上からだろう!

 

『正面を向きまず猪突猛進突っ込んできたのはスズマッハ猛烈な勢い! その外ほぼ並んでシンボリルドルフもつれ合うように残り200を通過! 激しい激突のまま坂を上っていく』

 

 目を見開き残り200手前でまずひとり、ふたりを視界外へと仕留めた。

 歯を食いしばり全身全霊で坂に蹄鉄をグリップさせ叩きつけ、大地を踏み抜くように駆け上がる。

 

『強い強い! 坂を上がり切りシンボリルドルフ独走状態3バ身! 2番手争いは激しい接戦!』

 

 坂を上がり切ったころには私以外誰も居ない景色。念には念を入れてストライドの幅を変え一気にゴール番目指して一直線に駆け抜ける!

 

『シンボリ強い! シンボリルドっ強い! シンボリルドルフゴールイン! シンボリルドルフ無傷の8連勝そしてレコードです! 2着以下混戦の為判定となりました!』

 

 ゴール板を切った瞬間、場の空気が決壊したかのように声援が轟々と降り注ぐ。軽く肘を曲げて身体をスタンドに向け手を振り応援してくれているファンへ応える。

 

 ひとしきりそれが終わった後関係者席をみるとトレーナー君はいなかった。もう準備に行ったのかと思ったら、この音の激流の中でもしっかり両耳は彼女の声を捉えた。

 声がした方を向くと、一般席で以前ダービーを見に来ていた私のファン――トウカイテイオーやそのご両親と一緒にトレーナー君はどうやら観戦していたらしい。

 

 そんな様子になんというか、常に子供らに優しい彼女らしさを感じて微笑ましくなり心も温かくなった。

 

 はしゃぐトウカイテイオーの横で彼女は此方を見て手を軽く振ってから、その場の者に断りをいれ持ち場に戻っていった――。

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+1 9月30日 22時――

――成田空港 第2ターミナル4F 某カード会社ラウンジ――

 

 ロビーの特設スペースでメディアインタビューに応え終わった私とトレーナー君は、空港と関係各社の好意で貸し切られたカード会社ラウンジの一角に通された。そしてそこで学園関係者からの見送りを受けている状況だ。

 

 その中には学園関係者だけでなく、トレーナー君が『思い出に』とこっそり招待したトウカイテイオーが、先程から嬉しそうに尻尾を振って私の手を握って頑張ってと応援を送ったあと、トレーナー君の方を向き直った。

 

「トレーナーさんいつも遊んでくれたり、今日も招待してくれてありがとう!」

「娘がいつもお世話になっております。本当に何もかも感謝しても足りません」

「いえいえ。トウカイテイオーさんの財閥スポンサーを務めるジュニアチーム試験、トップ合格おめでとうございます。最高幹部のひとりとしてご息女の今後益々のご活躍を期待しております」

 

 トウカイテイオーはトレーナー君の実家が所有する国内チームに入ったらしく、その話は以前雑談の話題に上ったことがあるので知っていた。あれだけ注射が嫌だと言っていたのにトウカイテイオーは余程私と勝負がしたいらしい。

 

 トレーナー君はトウカイテイオーの保護者との短い歓談を終えると、トウカイテイオーに視線を合わせてゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

「しっかり寝て、食べて、練習しすぎない。健やかに成長を積み重ねてトレセン学園を目指して頑張って下さい。データ越しに下部チームの事は私も時々見ていますので、コーチやチームドクターのいう事をよく聞いてくださいね?」

「わわ、バレてた!? うーん、頑張るよぉ!」

「ええ――素質は上位陣でも平均以上。期待しているので身体づくりを頑張って下さい」

 

 トレーナー君は木漏れ日の様に優し気な笑みを浮かべ、期待していると言われて目を輝かせた小さな私のファンの頭を撫でた。それはまるで小さなアスリートの道を祝福するかのようなそんな雰囲気を漂わせている。

 

「驚愕ッ! 一体貴女の守備範囲はどこまで広いのやら……」

「上からの命令もありますし、やるからには根元から耕す主義なので徹底的にやらせて頂いております。勿論ルドルフのサポートを疎かにしない範囲には留めているのでご安心ください」

 

 トウカイテイオーの頭から手を離したトレーナー君は爽やかな笑顔を浮かべた。それに対したづなさんは苦笑いを浮かべ、エアグルーヴは呆れたような表情をした。マルゼンスキーは『十分な備えあれば憂いナッシングね』と今どき風の発言。ブライアンは眠いらしく顔をそらして手を当て、器用に葉っぱを咥えたまま欠伸を浮かべているが、そんな中でも見送りに来てくれたことが私は嬉しかった。

 

 そして今日は変わった見送りも来ていた。

 そのウマ娘の容姿は、濃い赤いマライアガーネットの色合いに似たピンクの虹彩のつり目がまず印象的だ。ふいっと顔をそらせ、少し離れた位置でツンとした雰囲気を漂わせて立っていた彼女がこちらへ移動するにつれ、その綺麗な瞳の中に移る私の姿はどんどん大きくなっていく。

 

 髪型は前髪に炎を逆さにした様なひと房白い毛が入り混じる流星。サイドが内巻きで、後ろ髪は長く外はねで私に似た茶色。そして金色の植物を模した飾りが頭上の右耳を縁取っている。

 

 私とは犬猿の仲といった距離感の彼女が来てくれるのは珍しい上に嬉しかった。そして彼女は腰に手を当てた状態で私の前に堂々と立つ。

 

「なんだよ。ニヤつきやがって」

 

 表情に出ていたらしく、不機嫌な言葉のジャブが私に飛ぶ。トレーナー君が理事長と話をしつつもチラリとこちらの様子を心配そうに伺った。しかし大丈夫そうだと思ったらしく視線を理事長に戻していったのが視界の端に見えた。

 

「君が見送りに来てくれると思わなくてね、シリウス」

「気に入らないアンタの得意顔を焼き付けておこうと思ってな」

「そうか。留守の間学園であまり暴れないでくれよ?」

 

 シリウスシンボリ――。憎まれ口を叩いているが、取りこぼされた者が出ない様目を光らせる心優しい学園の影の支配者だ。以前は面倒を見ている者たちと共にグラウンドを占拠するなど問題行動が目立っていたが、その理由は校則が原因だった。

 規則やぶりに対し制裁は必要だが、以前の校則は反省文を何時間も書かせており、行き過ぎた罰であるという訴えがでていたのだ。確かにトレーニングが出来なくなるほどの罰はどうかと思い変えようと思ったが、きちんとルールを遵守して学園生活を送る側とのバランスを考えると難しかった。

 

「――アンタの事は気に入らないが、そこのお嬢サマのツラを立てて自重させる」

 

 そこで数多の思想、宗教観、文化など異なる国の出身者をまとめるノウハウを持つ、オルドゥーズ財閥幹部でもあるトレーナー君に相談。それから調整を重ね本末転倒となる罰則を短時間で効果的な内容に変更。トレーニングや学業が遅れた者を取りこぼさない様、先の遠征前に強化メニューも組んだ。

 

 そしてさらに英国から帰国後、トレーナー君はシリウスが面倒を見ていた、一部成績最下位者を引き受けて心を掌握。そのことで最近は以前のような抗議活動はしていない。

 

「ありがとう。助かるよ」

「あっそうですか。――勝って帰って来いよ。勝負した時にぶっ潰し甲斐が無くなる」

「勝負しても勝つのは私だし譲る気もない。楽しみにしててくれ」

 

 好戦的なシリウスの事は嫌いじゃない。挑んでくる者が貴重な私にとって、喰らい付き全力で掛かってくる者が居るのは嬉しい事なのだから。

 

「仲良しさんすぎるそこのお二方? バリバリ燃えてるしいい感じなところ悪いけど、そろそろ出ないと時間ですよー」

 

 手をパンパンと鳴らしてトレーナー君が激しく闘志をぶつけあっていた我々を止める。彼女は嗜める様に我々を見る。

 

「おっとすまない! つい楽しくて」

「そんな感じでしたね。貴女が主役なのですから最後に挨拶をして締めてくださいな」

 

 それに頷いた私は改めて来てくれたお礼を述べようと前を向くと、シリウスは驚きに目を見開いていた。それはまるで豆鉄砲を食らってひっくり返ったハトのような表情だ。思わずその珍しい光景に私も興味からつられて目を見開く。

 

「オイ、どこがだよ。今の見てどこが仲良いって判断したんだ?」

「全部です」

「視力検査したほうが良いんじゃないですかねお嬢サマ?」

「両目の視力3の後半くらいはありますから問題ないです」

「へぇー案外いいんだなって、アンタは草原暮らしの部族か!」

「半分アハルテケですしそうでしょうね」

「アハルテケの連中にそんな能力ねーよ嘘つくな!」

「あらバレましたか。でもそういうコトにしておいてください」

「嫌だっていったら?」

「スポンサー権限で却下します」

「なんだそれ横暴じゃねーか」

「権力は躊躇わず振るえというのがうちの家訓でして」

 

 目の前でトレーナー君とシリウスが、まるで某双子のリスによるボケと突っ込みの応酬を連想させる、コミカルなやり取りを繰り広げていた。その様子を見て私以外でもこうなるのかという感想と同時に、胸の内から面白さにくすぐられて笑いが込み上げ溢れてしまった。

 

 どうやらシリウスですら私を振り回してくれるトレーナー君には敵わないらしい。そうやって溢れて止まらない笑いをかみ殺していると、『アンタも笑うな!』と顔を真っ赤に染め上げて怒るシリウス。それ対し『大変失礼した』と返した後皆を見る。

 

 全員に見送りのお礼を伝え4階のラウンジを出る。見送りをしに来た関係者もその後ろについて来ている。そして我々一団を囲む様にオルドゥーズ財閥の関係者と、空港警備がこの場を切り取りながら3Fに降りる。

 チェックインカウンターの並ぶロビーを見回した風景の奥。――離れた場所から私の両親らしきふたりがそっと見送っていた。

 

 しかし私と視線が合うと父からは目をそらされた。母はじっとこちらを見つめている。

 そんな様子は付かず離れず遠くから、あえて厳しくして私の事を常に思い見守ってくれるふたりらしい在り方で、心の奥になにかジワリと滲んだ感情が、自身の鼻をツンとさせる手前まで迫った。

 

「ああ、よかった! 来ていましたね」

 

 そっとトレーナー君が私に聞こえるくらいの声で囁いた。

 

「もしかして君が招待したのか?」

「ええ。貴女とご両親の様子を伺う限り正解でしたね」

 

 花が綻ぶような様子でふふ、とほほ笑む彼女に私も微笑み返し『そうだね。心遣いありがとう』と心からのお礼を告げる。そして両親に視線を戻し、手を振ってからトレーナー君とお辞儀をする。すると2人も返してくれた。

 

 そして外はどんどん冬に向かっていく秋だというのに、何だか春の陽気のように心が温かくなった私は、トレーナー君へ手を差し出し彼女の手を引いて出国手続きに向かう。

 

 手続きを終え一旦振り返る。手を振った後国際線出発出口をくぐり、我々は花の都へと旅立った――。




【史実と違う所】
 凱旋門はいかず国内ルート選択でモデルにしたレースを走ったというのが史実です。負担考えたらそっちのほうが良いし、このレースを書くか非常に悩みました。

 しかし元ネタはレコードですし取り扱わないのは無しにします。某ネコ型ロボット系トレーナー君に頑張ってもらう事にしました。

【変更履歴】
 誤字脱字の変更。ご報告ありがとうございました。


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『Verre』Recueil de Poèmes-576,1126

 お待たせしました。
 ルドルフ視点から始まり、
 ◇◆◇からトレーナー君視点です。

 資料が足りないのでフランスのアレコレは、現代に近い感じとなってます。
 二次創作で出したらアカンそうなのは言い換え仕様です。


 ×し××は ひ××わ×みに そは×ども――。

 

 

――20××年+1 10月2日 午前9時――

――花の都パリ シャンゼリゼ通り――

 

 左に視線を映せば私の背丈を超える大きさの縦長な窓が連続している。そのガラス越しに見上げた空模様は、外に行き交うパリ市民たちのトレンドの変化の様に気まぐれであった。

 

 対面のトレーナー君はいつものスーツ姿に、誘拐対策の変装で琥珀色のコンタクト。そして頭には茶色いボブヘアのウィッグを被って変装している。

 

 私の方はというと、こげ茶の革製パンプスにボトムは黒のスラックス。そこに白いボウタイブラウスをイン。上着には今は食事中なので預けてあるが、アーミーグリーンの折り襟コートをここに合わせている。

 

 さて朝食は何にしようか?

 見知らぬ土地の食事はいつだって好奇心を満たしてくれる。きっと面白い発見があるはずだ。私は心を躍らせながら目の前に畳み置かれたメニュー表を開く。

 

"――『SURIMI』?――"

 

 手に取ったそれには"あり得ない単語"が記載されていた。

 聞き覚えはあるがこれはいったいどういう事だろう? 私は瞳を見開いた後、瞼を何度か瞬いてからもう一度メニュー表を凝視した。

 

 しかしやはり『SURIMI』と書いてある。どうやら幻覚を見た訳ではないようだ。

 

『"SURIMI"って何でしょうね? 前後の文面だとサラダっぽいですが』

『さあ? ……そもそも我々の知っているものなのだろうか? 気にはなるが、これを注文するにはかなりの勇気が必要だね』

『うーん。確かに……店員さんに聞いてみますか?』

『それはそれで旅の楽しみが減ってしまうから待ってくれ』

 

 公共の場という事を考慮し、トレーナー君と私はフランス語で会話のラリーを続ける。

 いつもの私ならば迷わず頼むだろう。だが、今は大事なレースの前でありここは異国だ。しかしそれでも好奇心に任せて頼むか、それとも戦術的撤退を選ぶか悩ましい所だ。

 

 朝の気配が優しく差し込む、丸テーブルにはレストランと見紛うほどのカラトリーのセットが並んでいる。そして対面のトレーナー君はまだ百面相を浮かべていた。そんな様子に私は微笑ましく思うと同時に、実は内心ほっと胸をなでおろしている。

 

 この頃の彼女はよく悪夢に魘されていた。仕事が立て込んでいる所為なのだろうか?

 先月泊まりに来た時も泣いていて、今日もずっと苦しそうな声にならない嗚咽が聞こえた。段々とそれは秋が深まるにつれその頻度は次第に増えている。

 

 理由を知り解決してやれるものならば、そうしてやりたい。しかし、不用意に触れれば真面目な彼女の事だ。きっと私に迷惑を掛けたと余計に悩んでしまうだろう。

 

 私が出来る事といえば、こうして気晴らしに誘うか、泣き止むまでそっと起こさない様に宥めるか。それくらいしかない。見た記憶がすべて残り、忘れる事が出来ない体質故に悪夢を見続けるのはとても苦しい事だろう。

 

 そんな風にトレーナー君を観察していると、ひときわ大きなクラクションが外の道路で鳴った。何事かと思い私は外をちらりと見るが、特に何もなかった。トレーナー君も何事かといった様子で外を見ていたが、彼女もまたメニューとの格闘を始める。

 

 我々がこうして寛いでいるのはガラス張りのカフェテラスが特徴的な老舗で、ここは映画のロケ地にもなっているそうだ。

 今居るテラスの外には広葉樹の街路樹が植わった歩道がある。その歩道に沿っているのが『ジョルジュ・サンクス通り』。さらにその石畳のような路面の通りの向こう側には、某革製品ブランドが、トラベルグッズ専門のなかで世界一の規模を誇る店舗を構えていた。

 

 今後も移動が続くだろうし、凱旋門賞が終わったら覗いてみるのも良いかもしれない。

 

 そしてトレーナー君が掛けている側にこの通りを進み突き当りを左折。

 道沿いに北上すると古くは『La place de l'Etoile』(星の広場)、今は『シャルル・ド・ゴールド広場』と呼ばれる場所へとたどり着く。そこにあるのは今回のレース名にもなっている『Arc de triomphe de l'Etoile』(エトワール凱旋門)

 

 そして凱旋門の南西に5キロ。ブローニュの森という巨大な森林公園の同方位の端に位置するのが、世界一美しいといわれるロンシャンレース場……凱旋門賞の舞台だ。

 

 ――ついに憧れのレースに出場できる。

 

 そんな高揚感がこの国にきてからずっと胸の奥で暴れまわっている。せめてレース前日には収まってくれないと、当日寝不足でなんて事になりかねない。困ったものだ。そんな子供の様に落ち着かない自身の本心を呆れ交じりに鼻で笑う。

 

 そしてほどなくトレーナー君が静かにメニュー表を閉じた。

 

『決めました。SURIMIとやらをを私、頼みます』

『えぇ……それは正気かい?』

『フランスだからきっと大丈夫ですよ。ルドルフはメニュー決まった?』

『ああ、勿論だ。君がSURIMIを頼むなら私も頼もう』

『――ルドルフこそ大丈夫ですか?』

『美食の街だからきっと外れはないさ』

 

 顔を見合わせて笑いあう。

 トレーナー君が『Madame』と呼びかけると、亜麻色の髪の妙齢な女性店員が注文を伺いに来てくれた。

 注文したのは朝のセットメニュー、その前菜に『SURIMIサラダ』。これを2セット。そして飲み物はというと、トレーナー君が『カプチーノ』を選択。私は『エスプレッソ・ドゥブル』を頼んだ。

 

 ――うまうみゃ!

 

 注文を終えて数秒もしない内にトレーナー君の通信アプリLEADの着信音が鳴り、彼女はスマートフォンを開いてそれを確認。そしてニコリと私に向かって彼女はほほ笑みかけた。

 

『シャンティイの施設使用許可。そして午後から校内見学の招待もきています。いかがしましょう?』

『報告ありがとう。是非伺わせていただきたいと返事を出してくれ』

『わかりました。――こちらの中央の景観は広大で優雅と聞きます。楽しみですね』

 

 ――シャンティイ。

 パリから約40キロ北に進んだ位置にある、ニューマーケットと双璧を成すウマ娘が主役の街。その街には超巨大な学園が存在している。

 

『そうだな。学園に近いレース場には博物館もあるという。もしかしたらマハスティさんの写真もあるんじゃないか?』

『ありそうですね。……時間があれば行きたいかも』

『ふふ。なら見学の帰りに見に行こう』

『いいんですか……! ありがとう! 楽しみだなぁ』

 

 10月1日の5時にフランスに入国し、同日早朝にフルメディカルチェックも済ませた。昨日散々ケアしたとはいえまだ2日間の休養期間は経過していない。空港に私の家族を招待してくれたトレーナー君へのお礼もあることだし、それくらいはお安い御用だ。

 

 そうこうしている内に、先に前菜に頼んだ『SURIMI』なるそれが配膳された。我々はしばしその皿を見つめ、『天使が通った』という外国語の表現に近い長い沈黙が流れる。

 

『……』『……』

『……え?』『ふむ、これは……』

 

 白く丸い平皿の上に濃い緑が鮮やかな葉物野菜。細いインゲンマメに玉子、そしてエビに一口サイズに乱切りされたジャガイモとトマト。色鮮やかな野菜たちの頂点へ、鎮座するように散りばめられたソレは確かに『SURIMI』だ。

 

 


【SURIMI】

 練り物=カニカマ。

 『フランスのヤングにバカウケなナウいアイテムなの!』 

 ペンネーム:赤いスポーツカー大好きさんより

 

 スーパーに高頻度で置かれてるフランスの国民食。

 チーズチクワならぬチーズカニカマなどあって、これはこれで美味しい。

 フランスが世界一消費しているらしく、2キロパックとか普通にある。


 

『カニカマですね』『カニカマだな』

 

"――ん? カニカマ、練り物、かまぼこ……――"

 

 私は思案するように腕を組み首をかしげてる間、トレーナー君は小さな白いココットをサラダの上に傾け、ドレッシングを回し掛ける。

 香りからしてオリーブオイルと白ワインビネガーベースのようだ。隠し味に入れてあるのか、アンチョビの癖のある香りが微かに漂ってくる。――美味しそうだ。

 そしてある程度考えがまとまり、頭上の耳が閃きに合わせ大きくパタンと1回動く。

 

『ふふ、蓋を開けたら何ともなかったね。では、シャンゼリゼのニューカマー、カニ風味かまぼこを賞味するとしようか』

『なるほど、新参者とカニカマですね。絶好調で何よりですよ。では、――"いただききます"』

 

 私もドレッシングをかけ、ナイフとフォークで具材を葉物野菜に巻き込み畳んで口に運ぶ。するとまず広がるのが酸味。その次にアンチョビの塩気。そしてカニとエビの旨味。そして野菜を軽く噛めばシャキシャキとした歯ごたえをきちんと感じる。

 

 おっかなびっくりに選んだSURIMIサラダは当たりであった――。

 

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+1 10月2日 午前11時――

――シャンティイ郊外 財閥保有装甲仕様リムジン内――

 

 パリを出て両脇を背の高い広葉樹に囲まれた森の中を、車はひたすら真っ直ぐ進む。随分長く走った後、開けた場所に出た――。

 

 車窓の両サイドに流れ続けていた木々に変わり、今度は白い壁に朱やグレーなど、淡い色合いの屋根の建物群が美しい小さな町に出た。レンガ造りの塀や細工の施された柵が美しく、時折屋根の上には煙突も見え隠れしている。ビルのような高い建物はない。そんな西洋の香りが漂うアンティークな街並みが外に広がっていた。

 

 遠くを見れば山などは見えず丘が広がるのみ。その小さな街を通り過ぎて高架をくぐると、家々の間隔が再び広くなる。

 そこをしばらく行くと海外特有の交差点―― 一方通行の周回道路(ロータリー式)の分岐点に出た。その中央にはウマ娘のシルエットを象った黒い看板が配されており、車は左回りに進んで3本目の通りに入っていく。

 

 すると片側が林により仕切られた街に出た――。

 

「右手は学園の森だそうですよ」

「なるほど、通りで木々が生い茂ってるのか」

 

 シャンティイの学園は英国の王立学園に匹敵するヨーロッパ最大クラスの規模のキャンパスだ。

 敷地内には東京ドーム約1498個分――7000ヘクタールの森をはじめ、4キロの直線トラック。トレーニングに最適な白いサラサラとした土のダートコース。草原や巨大な坂のコース他、近代的設備など、選手に必要なものは何でもそろっている。

 

「貸してごらん。私が結おう」

「ありがとう。お願いします」

 

 トレーナー君は間借り先の学園訪問に向け、身だしなみを整え直していた。

 ヘアセットをやり辛そうにしていたので手招きして寄せ、道具一式の入った小さな箱を受け取る。

 

 髪型は……いつものまとめ髪……いや、少し華やかな方がいいだろう。

 宝石をカットして磨くような心持で、暗く深い青の独特な輝きを持つ黒髪を扱っていく――。

 

 こめかみの近くから太めの三つ編みを作り、後頭部まで持ってくる。全体的なイメージはハーフアップで、頭の後ろにバラをイメージした編み込みを3つ作った。

 

 20分ほどかけて彼女の髪をセットし終えると、いつの間にか車は立派な細工のされた大きな門の前で止まった。その脇には警備の詰所のような場所があり、運転手と警備の者が窓を開けて何か話している。

 どうらや目的地に着いたらしい。警備の者が離れ、手続きを終え車はその巨大な敷地の中に入っていった。

 

 再び背の高い森に囲まれた道を進み、そこを抜けると一気にコントラストが明るくなった。噴水とシンプルな庭木と芝。それらが左右対称に配されたフランス式の庭園が、スモークがかった車窓の額縁の中に広がる。――手入れが行き届いたその庭に、私は思わず感嘆の声を漏らす。

 

「凄い庭……これだけビシっとなってると、維持管理が大変そう」

「確かに。ここを手入れするだけでトレーニングになりそうだね」

 

 トレーナー君は目を輝かせ忙しく頭を動かし、一生懸命周りの景色を観察している。これではどちらが引率なのかわからない状態だが、彼女が楽しそうにしているのは何よりだ。そして運転席の後ろにつけられたモニターには車の前から見た景色が徐々に映り始める。

 

 

「城だ! ルドルフお城だよ! お城があります!」

「ふふ、わかったから落ち着くんだトレーナー君」

 

 外観デザインは近隣にあるシャンティイ城を模してあるだろうか?

 曇り空から丁度切れ間ができて照らされた、グレーがかる青い屋根と白い壁が何とも美しい。おそらくルネッサンス形式で建てられているその建物は、ここが学校だと知らされてなければ、誰もが巨大な宮殿だと思い込んでしまうだろう。

 

 沢山配置された窓からは、こちらの気配を察知した影がどんどん増えている――。おそらく学園の生徒たちだろう。

 

 城内の入り口と思われるところから赤いカーペットが伸びており、そこにリムジンが横付けされた。ドアが自動で開き、私が先に出てトレーナー君の手を取り誘導する。

 

 トレーナー君を下ろした後一旦手を離す。それと同時に『わあ……』と感動したような声が彼女から漏れた。

 

 しかし仕事中だという事を瞬時に自覚し、しまったという表情をした。そして彼女は御用聞きにいた運転手に対し『ありがとう。必要があればまた呼びます。拠点待機で』という指示を飛ばした。

 

 少し離れた位置に立っていた初老の見た目のウマ娘が微笑ましさに笑い声を小さく漏らした。

 そのウマ娘は私と同じ"鹿毛"で、上品な身なりをしている。こちらの代表者だろうかと首をひねる前に、手が差し出された。

 

『Bonjour 日本から遥々ようこそ。私はこの学園の理事、Jebel(ジェバル)と申します』

『歓迎ありがとうございます。私は――』

 

 理事長と名乗るそのウマ娘から握手を受け、まず自身の名前を名乗る。そしてトレーナー君をついでに紹介する。するとこちらの理事長は微笑み交じりに眉を下げ、私とトレーナー君を見比べ、トレーナー君とあいさつを交わす。

 

『美しいGrand。才気に満ちた貴女を我が校に迎えられなくて残念です。しかし、マダムシンボリルドルフのように、素敵なウマ娘さんからのお誘いでは仕方ないですね。納得しました』

『えっと――』

 

 トレーナー君は反応に困りながらも社交辞令を軽く返している。今の件は初耳だが、彼女が私との契約を最終的に選んだ事に対し、表情を隠しつつも内心嬉しく思った。

 

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+1 10月2日 午前13時――

――シャンティイキャンパス どこかの廊下――

 

"――どうしよう!――"

 

 設備仕様に関する説明を受け、某魔法学園のような巨大な食堂でお昼を取ったのが30分前。そしてお手洗いに行って戻ってきたらルドルフは待ち合わせ場所に居なかった! 彼女は約束を破るようなタイプではない。……何かに巻き込まれたのかもしれないとか、焦りと不安が私の心の中でぐるぐると渦巻く。

 

 そして連絡したくても自分のスマホもどっかに落としたっぽい!

 ……うそん。泣きっ面にハチとはまさにこの事である。 

 

 この現場キャット案件に対処すべく、ビジネスバックに突っ込んでいたタブレットから、スマホの位置情報を確認してみた。

 しかし見つかったその座標はこれまたどんどん動いている! 多分拾ってくれた子がいるんだろうけど、これはこれで困った。

 

 スマホを追いかけつつ、見回しながらルドルフを探しているのが今の状況だ。

 ルドルフが事件に巻き込まれたというのは考え難いし、呼ぶだけなら耳の良い彼女の名前をデカい声で叫べば来てくれるだろう。けどそんなの恥ずかしくてできる訳がなかった。

 

 煌びやかすぎて目が眩みそうな白ベース、金綺羅金(きんきらきん)な廊下を早足に進む。

 その内装はまるでセイクライト記念前にゴールドシップに借りてみた映画、『ぶっ翔ばされて埼玉』のそれにしか見えない。普段の私ならこの宮殿のような校内に突っ込みを入れまくるだろうが、今そんな余裕は全くない。これっぽっちもない!

 

"――嗚呼、もう最悪。なんで、なんでこんな……――"

 

 声にならない喉から絞り出した音に似たものを心の中で響かせる。

 

 そして時折すれ違う学生たちに『Bonjour』と何事もなかったかのように挨拶を交わしつつ、動き回る座標を見ると玄関ホールに繋がっている。

 

 最初に記憶していた校内マップを頭の片隅から引っ張り出す限り、落とし物を届けに教職員の棟へと向かっているのだろう? だとするとルドルフを探す作業と並行できず面倒だ。

 

 そんな私の行く手に大き目の窓がひとつ開いていることに気が付いた――。

 一旦視線を自分の足元に移す。校内が土足可なのもあって靴は履いている。

 窓に近づき下を覗くと芝になっている。植え込みはない。そしてここは2階だ。

 

 外に出たと思われる拾い主の座標を確認するとその位置にはひとりだけ。シンプルなグレースーツを身に纏ったウマ娘が金髪を靡かせ、パッパカと駈足(キャンター)で走っている。持っているのはあのトレーナーっぽい外見のウマ娘だろう。

 

 私はタブレットを鞄に仕舞いチャックを閉め一旦肩にかける――。

 

 飛び降りようと窓枠に手をかけるが……こんな所から出たら『君はお転婆が過ぎる!』とルドルフに叱られる未来が頭によぎった。

 

 窓から降りるのは諦め校内マップを思い出しながら小走りに進む。

 そして外に繋がるちいさな木戸をあけた。金髪のウマ娘が居る方向を確認しながらドアの脇に鞄を置き、姿勢はクラウチングスタートを取る――。

 

 息を吸い込み、吐くと同時に大地を蹴り出す。

 ドア越しになんか聞こえた気がしたけど、今はそれどころじゃない。

 

 ルドルフのようなアスリートレベルの速度は出なくても、私は半人半バ(セントウル)だ。

 荒野だろうが砂漠だろうがどこでも走れるルーツ元の頑丈な身体に物を言わせ、白に近いグレーの石畳の上を全力襲走(Gallop)で突っ切る。コートは入り口で預けてしまっており、今はスーツいっちょ。真正面から冷たい空気の壁にぶち当たって物凄く寒いが今は我慢!

 

 宮殿のような校舎の前を横切るように進む目標との距離は約4ハロン800m。全力疾走している甲斐もあってぐんぐんと距離が近づいていく。

 

 残り100mの距離――私の気配に気づいたスマホを持ってると思われる、癖の強いロング金髪のウマ娘が振り向いた。青い瞳がキラリと反射。その明るいサファイアは驚きに染まる。

 

『そこのMadame! お願いとまって!』

 

 視線を交わしたと同時に叫ぶような声を私は彼女に向けた。すると金髪のウマ娘は大きく耳を動かした後、歩調が緩まり止まってくれた。そして彼女が止まった位置から10m以上、私はオーバーランをしてから停止した。

 呼吸を整えつつ振り返る。するとそのウマ娘は『何事か』といったような雰囲気をまといつつも、私の方に気を利かせて駆け寄ってきてくれた。

 

 金髪のウマ娘はとても大きかった。ゴールドシップよりおそらく一回り大きい彼女のジャケットにはトレーナーバッジも、社員証のようなものも見えない。

 ならば生徒か? とも思った。しかしここの学生は私服登校が許可されているとはいえ、フォーマルな服装をしている子はいなかった。一瞬のうちに色々な疑問を抱いたが、そんな事よりも先にスマホを回収するのが先だ。

 

『Bonjour Madame 私に何か御用ですか?』

『Bonjour 急にお呼び止めして申し訳ありません。スマートフォンの落とし物をお持ちではありませんか? 座標を見たらMadameの位置が示されていて。それ、私のなんです』

 

 そこまで伝えると驚いたように軽く目を見開いた金髪のウマ娘は、私の胸のバッジに視線を落とす。そして納得したような表情と声を漏らした。そして彼女は自身のポケットからスマホを取り出して――。

 

『ええ、持っていますよ。落とし物の"Pantoufles de verre"(ガラスの靴)は合うでしょうか? Cendrillon(サンドリヨン)

 

 差し出されたスマホを受け取り、目の前で生体認証をしてみせた。それが成功をしたのを確認した金髪のウマ娘は、華やかな顔に眩しくなるような微笑みを浮かべる。

 

『ぴったりですね。また校内で落としても、この先にある教職員の受付で落とし物を申請すれば返ってきますよ』

『ありがとうございます。丁度一緒に来てる子ともはぐれていて、同時にタスクをこなしていたのでつい。驚かせてしまって申し訳ないです』

『はぐれた? ……というと、やはり貴女は――』

 

 そう金髪のウマ娘が言いかけた瞬間、彼女の肩越しから聞き慣れた声と、速歩で近づいてくるその声の主の姿が小さく見えた。

 私の視線と物音に気付いた金髪のウマ娘が軽く体を傾けチラリと校舎側を確認し――『お迎えのようだね』と私を振り向かず小さくつぶやいた。

 ルドルフはまず金髪のウマ娘と軽くあいさつを交わし、そしてドアの外に置いてきた鞄を小脇に抱えて持ってきてくれていたようだった。

 

『待ち合わせ場所に居なくてすまない! 怪我人がでて保健室に運ぶのを手伝っていたんだ』

『そうだったんですね。何か理由があるとは思っていましたが、貴女自身の事件とかじゃなくて良かったです』

『ところで――鞄を置いて急いで駆けていくほど、そっちの彼女に何か急ぎの用だったのかい?』

 

 私の返事を聞いて安堵した雰囲気を醸し出したルドルフは、今度は不思議そうな表情を浮かべた。そして金髪のウマ娘と私を見て問いかける。すると、私が経緯を説明しようとする前に、手で制した金髪のウマ娘がルドルフの方を向き――。

 

『姫君はスマートフォンを落としたらしくてね。タブレットから位置を把握し、落とし物を持っているであろう私を追いかけて来たそうだ』

『説明ありがとう。それで既読もつかなかったわけか。君にこそ何もなくて良かった』

『心配かけてごめ――へくしっ』

 

 そこまで言いかけて身体がブルリと震え、それが意味する気配を察知した私は彼女たちから顔をそらしくしゃみを手で押さえて一発。手をハンカチで拭く。

 

『おっとこれは……。一度カフェテリアに戻って温かい飲み物など召し上がられた方がよさそうですね』

『そうしたいのは山々なんですが予定が押してまして……』

『確かにそうだが私は君の体調の方が心配だ。どうしたものか――』

『問題ないですよ』

 

 この後控えている予定は校内見学。――それを何故このウマ娘がそう言い切れるのだろうか? 訳が分からず私もルドルフもキョトンとしてしまう。すると、金髪のウマ娘は微笑んで言葉を続ける。

 

『申し遅れました。私はブロワイエ。日本からのお客様の案内を理事長から任されたここの生徒です』

『なるほど、そういう事か』

 

 ルドルフの耳がダジャレをひらめいた時の様に大きく動き、合点が言ったような様子を見せた。そしてブロワイエはうんうんと頷いて――。

 

『ええ、そういう事です。さあ、お姫様が風邪をひかない内に、少し早めのアフタヌーンティーから参りましょうか。詳しいお話はそちらで』

 

 ブロワイエと名乗った金髪のウマ娘は私たちに向けウインクを投げる。生徒である彼女がスーツを着ていたのは、私たちを出迎えるためであったのだろう。心の中で『ああ。そういう事か!』と疑問が解決した心境をひとりごちる。

 

 ブロワイエはついてくるようジェスチャーをし、先を先導するように歩き出す。ルドルフは私のカバンを持ったまま、『行こうか』といって私を促した。

 

 そして私たちは温かい室内に向け、やや駆け足気味に日本と比べて、晩秋に相当する気配が濃い道の中を戻っていった――。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+1 10月4日 午後22時――

――シャンティイ城付近 コネタべル通り――

――オルドゥーズ財閥チェーン 高級ホテル――

 

 白とやや黄味がかったシャンパンゴールドのソファー、同系色のカーテンで統一された落ち着いた室内にはホログラムの火が浮かぶ白い暖炉が右手に置かれ、暖炉の上には大きな鏡。

 

 通りを見下ろせるバルコニーに繋がる大窓の横には、本物そっくりなヒヨコと牝鶏の石膏像が置かれている。この部屋に来た時ルドルフがこの像があまりにも良くできているからと、何枚か写真を撮っていたのが印象的だった。

 

私たちが座るソファーの前には木目調の薄型テレビが壁に掛けられており、そこからは誰が見る訳でもなくニュース番組をたれ流していた。

 

 3日の騒動の後。校内見学を引き受けてくれたブロワイエが、その後の私達の予定を聞いてちょっとした観光案内も買って出てくれることに。そして私たちはその案内で、シャンティイ城やその周辺のウマ娘の博物館を見て回った。

 

 今朝は軽い調整をかけ、その様子を見る限りルドルフは旅の疲れも出ておらず元気そのもの。

 

 ……今の所あの悪夢でよく見るパターンの兆候は出ていない――。

 

 ――同じソファーの右側にルドルフは掛け、生徒会の業務をテレワークでこなしている。その横で私はドイツ語の本を眺めるふりをし、その胸中に渦巻くものを誤魔化していた。

 

 違反に気を付けながらビタミンの補給。それらの処方許可はきちんと予め下ろしておいた。疲労も数値的に見られないし、グリコーゲン量も今日の直前検査の感じだとしっかり蓄えてある。

 

 凱旋門は中距離だが、ここで勝つには3000m以上のつもりで挑まなければならない。記憶をもう一度読み返しているが、今のところ見落としはないはず。

 

 ――喉が渇いたな。

 

 本をそっと閉じて両手を上げて背を伸ばす。そういえばルームサービスがあったのを思い出した。夕食から時間もたっているし、ルドルフも喉が渇いてるかも。そう考え、私は真剣な顔をする彼女に注文を伺うべくそっと呼び掛けた。

 

「ルドルフ。ルームサービス頼むけど、何か飲みますか?」

「そうだな……コーヒー、いや。今日はココアでいこう」

「マシュマロは?」

「3つで」

 

 部屋に設置された端末でルームサービスを注文する。

 

 それが届くまでの間、もう一度記憶に相違が無いかの確認作業に戻る。

 

 パワーとスタミナの殴り合いがヨーロッパスタイルのレースというのは共通だが、イギリスとフランスでは気を付ける点がまた変わる。洋芝の条件は似たり寄ったりだが、今回は土が違う。

 

 英国は石灰質で乾けば非常に硬くなり、重バ場ではこれまた石灰の所為で水捌けが極端に悪くなる。そして幅広な葉と糸くずの根が水をスポンジのようにため込み、それらが組み合わされば……。

 

 ズルっと一気に滑る。そんな重バ場だ。

 

 対してロンシャンの土には泥が混じっている。イメージ的には田んぼに近い。

 何故田んぼか? パリの地図にわかりやすいヒントがある。

 

 ロンシャンの競馬場はどこにある? セーヌ川の蛇行部――川でU字を描いたど真ん中でしかも元森。なら土はどうなる? 義務教育でナイル川の恵みとは何ぞや? といった話を聞いた覚えはないだろうか?

 

 泥だ。農耕地帯に豊穣をもたらす大地の恵みだ。セーヌ川上流から運ばれてくる、きめ細かい泥が堆積したその上にロンシャンレース場は建っている。

 

 イギリスと違い水を含めばぬかるみ、田んぼに近い泥の混じる路盤となる。

 そして今年の9月~今日まで例年以上の降雨があった。きっと今年は非常にバ場が重くなり、参加者の両脚を深みに強く引きずり込もうとするだろう。

 

 たかがバ場、されどバ場。地質を制する者は世界を制するだろう。

 

 それを不問と出来るほど、絶対的な身体能力があればすべてを解決できる。しかし、走るための理屈はレースで勝つために、尚の事きっちり詰めておかねばならない。

 

 人間の一流アスリートが経験したことが、ほぼない路面コンディション。

 極例として砂利道を何度か練習したくらいで突っ走って、いつもの調子が出せるだろうか? 少し実力劣る選手を用意し、しっかり砂利道に慣らして競争させるとどうなるだろう?

 

 結果は目に見えている。どんなに優れた選手でも、経験の差で格下相手に負けるというケースも十分あり得る。身体能力が拮抗しているならば、なおさら慣れているほうが勝率は高い。

 

 あの旧第3グラウンドにコースを作った意味はそこにある。

 滑りやすい幅広の葉の上を走ることに慣れ、荒れた大地でも走ることを恐れさせない。

 

 怪我をするかもしれないという深層心理のブレーキを外し、ヨーロッパで彼女が本領発揮するには慣れが必要だったから。本能の奥底、深淵からくる恐怖に打ち勝つためには、類まれな負けず嫌いだけでは足りない。

 

 泥に関しては再現度が足りなかったので、雨上がりの河川敷にふたりで赴き散々走り慣らした。

 きっと大丈夫――そう思うしかない。

 

 

 適当につけていた番組の音が電源を落としたかのように急に途切れた。私は何事かと思って画面を見る。

 

『番組の途中ですが、臨時ニュースです。週末の凱旋門賞に――』

 

 ルドルフは『凱旋門賞』という単語に反応して、点けっぱなしにしていたテレビに注意を向ける気配を漂わせた。

 

『出場予定だった英国のファシオ。トレーニング中に右脚を骨折。出走取消となりました』

 

 ルドルフが手に持っていたタブレットをカーペットの上に落した音が響く――。

 レース場に潜んでいたJabberwocky(不確定要素の魔物)の鉤爪はファシオに牙を向いていた。

 

 

「――おくれぬものは なみだなりけり。か……」

 

 想像に難いルドルフの方を私は見られなかった。――どう声をかけて良いかわからない。

 

 同情? 慰め? 憐憫?

 それを向けられることをルドルフからハッキリ求められても居ないのに?

 

 そういったもので他人の本心に触れられる程無粋にはなれない。トレーナーはアスリートの支えにならなければいけない。しかし、安易な慰めの言葉は、誇り高き彼女の魂を尊重すればするほど、戸惑ってしまう。

 

 私には彼女を導く責任がある。

 しかし親でもない、家族でもない。そこをはき違えてはいけない。

 

 けれど理屈だけで動く世の中じゃないんだよ? 感情だってあるんだぞ! 大事なんだよ!

 

 前に居た世界でいう彼女たち『サラブレッド』の脚はガラスによく例えられいた。

 

 それはこの世界でも例外ではなく――無事にキャリアを全う出来る選手は少ない。

 だからって、どうしてこうなんだ。なんでこのタイミングなのよ――。

 

 ルドルフが楽しみにしてたんだよ? あのルドルフが。

 レースが楽しみって、再戦が楽しみって……言ってたんだよ……なのに、なんで……。

 

 運命? そんな言葉で言い切りたくない。

 ファシオの気持ちも考えたら、そんな言い方は出来ない。

 

 彼女たちの勝負にどうして水を差した!!

 理不尽だ。それはあまりに理不尽でしょう!

 

 肩が震えかけるがそれを抑え込む。ボコボコと心の底から湧き上がる、溶岩のような熱を伴う激しい感情。怒鳴り散らしてしまいたいソレらがぐちゃぐちゃに入り混じるものをせき止めるため、歯を自然と噛み締めてしまう。

 

 

 そう暴れまわる私の本心を必死で押さえつけていると、ルドルフはため息を吐きだした後。

 

 ――私の右肩にポンと片手を乗せてきた。震えが伝わらない様にしたかったけど、ビクリと肩が動いてしまった。

 

 観念してルドルフの方を向くと彼女の表情はすこし哀し気ではあったが、それを振り払っていつもの表情にすっと戻っていった。

 

「――……再戦は楽しみだったんだが、仕方ないね……」

「――ええ……」

 

 そういってルドルフは何事もなかったかのように、落としたタブレットを拾い上げた。

 本当にルドルフは強い。――私よりもずっと、ずっと彼女の魂は強者だ。

 

「――勝ちにいこう」

「……そうですね。しっかり休んで、確実に……」

 

 ――何が起きても見守ろう。

 強くなりたくてもまだそこまでは及ばない私だけど。しっかり見守ろう――。

 涙が溢れそうになっても、

   辛くても、

 

  出来ることを精一杯しよう――。

 

 

 

 

 人の夢と書いて儚いと書く、

 

 

       では――

 

 ウマの夢と書けばなんという意味になるのだろうか……。

 



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『Sire X,1936-1957』Le coeur hérité【前編】

 大変お待たせしました。
 84年凱旋門賞にルドルフがいたら? というIFです。

 雰囲気だけのプログラムはこちら。
 コースもザックリイメージ。

【挿絵表示】

 発走時刻、枠番などは映像資料から。道中も勝負服からの目測仕様。
 いつも通り二次創作だとアウトー! なのは全部言い換えます。

 ルドルフ視点からはじまり
 ◇◆◇から◇◇◆の真ん中がトレーナー君視点です
 レース開始からはルドルフ視点です


 ぬるま湯に浸かっている時のフワフワとした感覚。意識が水底から浮上するようはっきりしはじめ、見知らぬところにいると気付いた。

 

 ――恐らくこれはあの時と同じく、"夢"なのだろう。

 

 英国のレース前に見たものと同じく、モノクロの景色が広がっていた。

 

 周りを観察するようゆっくりと見まわす。

 すると昔のヨーロッパ紳士(しんし)淑女(しゅくじょ)恰好(かっこう)をした、黒いシルエットだけの者たちが活気づいていた。彼、もしくは彼女たちは新聞を片手に謎の言語で話したり、優雅にお茶を(たしな)みレース場を満喫している。

 

 そして新聞売りのような影が気さくなジェスチャーの後、私に大学ノートサイズ紙切れを渡した。その紙切れは不可解な文字の羅列(られつ)のレースプログラムだった。かろうじて読めたのは『Grand Prix de Paris(パリ大賞典(パリ大賞))』というレース名。そして平地で距離が3000という内容だけ――。

 

 『パリ大賞典』――ある大事件が起きるまで、このレースがヨーロッパ最大級の重賞レースだった。

 

 ここは恐らく過去のロンシャンなのだろう。

 夢は現実に見たものを映すという。昼間シャンティイ校の理事長、Jebel(ジェバル)さんから、彼女の『ひとつ上の先輩だったウマ娘』について、思い出話をして頂いたからかもしれない。

 

 出走者一覧を見るとやはり読めない。そして何故だかここに来てからずっと……花火の後に感じる火薬の臭い、鉄臭さが風に乗って(かす)かに(ただよ)ってくる。

 

"――折角のレースだ。プログラムが読めたら嬉しいのに――"

 

 違和感しかないその中で、私は暢気(のんき)にそんなことを考えていた。

 

 すると――紙の上の文字が風に吹かれた羽のように、宙にバラバラっと浮かびあがった。また同紙の上に舞い落ち組み替えられる。そして『Noir comme un corbeau』( カラスのように黒い )という意味のフランス語が浮かび、また読めないレースプログラムへと戻っていく。

 

「……何なんだ? 選手のあだ名か何かか?」

 

 ――Est la bonne réponse(正解です。   )――

 

 また文字が浮かんで組み替え戻る。

 

 会場のどよめきからレースが始まる気配を感じ取り、正面のターフへと視線を向ける。そこにはゲートではなく、胸くらいの高さに張られた(ひも)の前に並ぶウマ娘達が居た。

 

 ターフ両端の支柱に沿って(ひも)の両端が上がり、レースが始まった。

 正面スタンド前を横切った400m地点。比較的大柄で『カラスのように黒い』ウマ娘がバ群の中で転倒しそうになるも、何とか持ち直す。

 

 『こんな時代だから、こんな時代だからこそ、私はいいレースがしたい』

 『――私はレースを勝つ事で皆の希望になりたい』

 『憧れの、"Lig×th×use o× Ale×an×ria"(アレクサドリアの光のようなお方)のように』

 

 モノクロの世界で唯一色付いたウマ娘――彼女から何かが聞こえたような気がした。

 

 その光景は最近聞いたいた話と同じだった。

 Jebel(ジェバル)理事長から聞いたあのウマ娘の話の夢なら、きっとここは件の事件から連想されたものだろう。

 あのウマ娘はこの厳しい時代に、私と同じように誰かの希望になろうとしていた。シャンティイの理事長が私たちに良くしてくれたのは『似たものを私から感じたから』という理由だった――。

 

 青毛のウマ娘はバ群の中を進み、坂を上って下る。そして『False straight』(フォルス・ストレート)を通り抜け、(ゆる)いコーナーを回った。最終直線――ゴールまで残り400m地点まできたが、先頭までは10バ身もある。

 

      先陣を切るのは内ラチ側に1名、

 

 その後ろ3バ身離れて1名

 

 

 

   そして青毛のウマ娘――二人の真ん中を射程に収めているが。

 

 あの位置から(まく)るのは相当に難易度が高いだろう。間に合うのかという野暮な突っ込みを頭から()き消し、私はじっとその試合模様を見守った。場内からは渦潮(うずしお)のように歓声(かんせい)が巻き起こり、この辺り一帯を(つつ)んでいく。

 

 すると私の(ほほ)をレースの時のチリリとした感覚が駆け巡った。驚いた私は頬を片手で押さえる。

 このモノクロの世界を引き裂き閃電(せんでん)が走る。獅子の咆哮(ほうこう)の如く雷霆(らいてい)(とどろ)いた!

 

 ――そんな錯覚(さっかく)の中心。霹靂神(ハタタガミ)と化した青毛のウマ娘は豪脚(ごうきゃく)を炸裂させる!

 

 あの感覚は私がいつもレース中に覚えるそれに近い……!

 興奮から全身に伝わり鳥肌が広がる。そして高揚感を伴った震えが一瞬のうちに走っていく。

 

 そうこうしている内に青毛のウマ娘は、先頭2名の間を通り2バ身をつけて完勝!

 そして彼女はとても素敵な笑みを浮かべ、観客に応え手を振っていた。

 

"――いい夢だ。私もそんなウマ娘になりたいものだな――"

 

 レースプログラムを小脇(こわき)に挟む。そして心からの祝福を込め、フランスのトップスターに拍手を贈った。

 そしてその時だった。脇の下に挟んでいた紙が分厚く変化した気がした。

 

 違和感を感じて広げてみる。すると彼女の次走について書いてあった。対戦相手は英国2冠の『青』の名を冠する栗毛のウマ娘。ふたりは『セイントレジャーS』で覇を競う事になるらしい。

 そして私の心の中に青毛のウマ娘の強者と相対するという喜びが広がった。

 

 『みんな喜んでくれるだろうか? 相手も強そうだし試合も楽しみ!』

 そんな無邪気な心の声が――私の中に響いてくる。

 

 しかし、場内にわずかに漂っていただけの鉄と火薬臭いその嫌な臭気。それが一段と強く鼻腔を突き刺しはじめた。そして歩く人の足音や拍手が、規則正しく踏み鳴らされる足音に変化していく。手に持ったその次走の紙は、熱感を伴わず一瞬で灰燼(かいじん)()す。

 

 周りの景色はすべて(すす)よりも黒い色に塗りつぶされ、すべての光源が消える。

 ほどなくして目の前の視界一色の黒は、紙の上に所々熱源を押し当て、着火して燃え落ちていく。

 

 そして目の前に広がったのは凄惨な光景だった。爆発痕(ばくはつこん)のような大穴と焦げた臭いに包まれ、荒れ果てたレース場。あまりの光景に私の心が強く痛んだ。

 

『――、――――』

 

 青毛のウマ娘は(なげ)きの声を上げ、荒れ果てたスタンドの中央に崩れ落ちていた。他人事とは思えず、私は青毛のウマ娘に駆け寄っていくも――。

 後味の悪いその光景はプツリと終わった。

 

 目を開き身体をゆっくり起こす。嫌な汗をテーブル横のフェイスタオルで拭いた。

 

"――時世故仕方なかったとはいえ、実に不快な内容だ――"

 

 肺の中にあの嫌な空気が残っていそうな気がして、ゆっくりと空気を吐きだし入れ替える。 

 それから程なくして横のベッド、トレーナー君が寝ているほうから激しい音が聞こえた。起こしてしまったのではと振り返る。

 セントラルヒーターが暑かったのか? はたまた隣のベッドで寝ていたトレーナー君の寝相が悪いのか。派手に布団を蹴り飛ばしていた。

 

 彼女は大変満足そうな表情を浮かべ、大の字かつ仰向けにゴロリと寝転がっている。

 風邪を引いてしまうかもしれない。そう思って布団をかけてやると、彼女は幸せそうに(もぐ)りこんだ。

 

 ――のどを(うるお)してこよう。

 

 日常に戻ってこれた安堵感に私は包まれながらベッドを降りる。

 壁掛け時計は午前4時半。時計の横に置かれたデジタルカレンダーの日付は10月6日の土曜日。

 

 今日のスケジュールは午前6時にシャンティイを発ち、パリ市内へと出発。朝と夕方の空いた時間にバ場の確認をする予定だ。

 

 窓に近づきカーテンをめくる。外の景色は日本とは違い、いまだ夜に塗りつぶされた朝焼け前の景色が広がっていた――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+1 10月7日 午前8時半――

――パリ ロンシャンレース場 向正面――

 

 朝の外気がチクチクと私の両頬を軽く突き刺してくる。

 ダウンの白いロングコートに手袋。しっかり着ても深く息を吸い込み過ぎてしまえば、おそらく身体が冷えてしまうだろう。頭上の両耳の先が冷え始めたので、私はゆっくりとした動作でフードを被る。

 

  パリは日本に比べ、ひと月ほど冬の深まりが早く、そして日の出は遅い。

 軽く見上げれば、朝日が通ったのか通っていないのか、よくわからない曇天(どんてん)一色。足元もジトリとしている。強く踏めば粘土質なそれがグチャリと音を立てる。

 

 ――重い。相当に重たい。

 

 新潟で経験した不良のソレとは比べ物にならない。泥交じりのねっとりした土に、水を含んだスポンジのような糸くず根の芝。

 

 ――今日のレースは泥仕合となるだろう。

 

 灰の空から降る光にぼんやり照らされた一帯を見回す。我々と同じように、海外から来た他のウマ娘達とトレーナーが、バ場を確かめ話しながら歩いている。そして右を向けばスタンドが見える。

 

 振り向くと2m離れた位置にトレーナー君が居る。今はまだ設置されていないが、ゲート付近のバ場を気にしているようだ。Moulin de Longchamp(ムーラン・ド・ロンシャン)と呼ばれる風車が、彼女越し1ハロンほど向こうで風を受け、ゆっくりとまわっている。

 

 両腕を組み脇の下に入れて温め、芝と対話していたトレーナー君は私の視線に気づいた。そして寒そうにしながら、やや小さめの歩幅で此方へと寄ってきた。

 

「重というより……これは不良ですね」

「そうだな……君側の作戦の方は思い付きそうかい?」

「なんとか形になりそうですよ。聞かれると厄介だから、会議は控室でやりましょ」

 

 いつもの髪型とスーツにトレンチコート、マフラーに手袋姿の彼女は白い息を軽く(くすぶ)らせながらほほ笑んだ。そして我々は程なく、それぞれバ場の確認へと意識を向け戻す。

 

 下を向いて端から端までゆっくりと

 

      ジグザグに歩き――

            穴はないか?

 ぬかるみはないか? 

      芝は剥がれてはいないか?

 

 普段通り、我々はこのルーチンをこなしていく――。

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+1 10月7日 午後15時45分――

――ロンシャンレース場スタンド 関係者席――

 

 世界一を決めるレースだけあって、今日のロンシャンはどこもかしこも大(にぎ)わい。今年は日本から……まあ私達の事なんだけど、物珍しい挑戦者が来たと話題になっていた。

 

 日本からの挑戦者はルドルフで3人目らしい。ひとりはキングジョージにも挑んでいた『不屈の英雄』。もうひとりは『ある名門』の方だった。

 

 レースが始まるまで手持無沙汰。せっかくだしと配布されていた無料プログラムを開く。

 ルドルフの人気はまずまず。しかしアウェーという事を考えれば十分なものだった。評価が上がってルドルフは機嫌よく喜んでいたしね。まあ良しとしよう。

 

 パドックでルドルフを見送った私は現在別の――内なる強敵と戦っていた。

 そう、『片頭痛』だ。しかもこんな時に限って薬が効かないし何なんだろう。

 


 【片頭痛:Migraine】

  みんな大嫌いなアレ。天気が曇るとやたらと自己主張が激しい。

  原因は色々。研究している人もたくさん。患えばやる気は直滑降。

  歴史を紐解くと、頭痛持ちの有名人が結構な頻度で出てくる。

  ……人類の最大の難敵であるのは間違いないだろう。


 

 おそらく緊張感と気圧が原因で起きたのだろう。ズキズキという痛みと共にこめかみは脈打ち、頭蓋骨が軋むキュルキュルといった嫌な音がずっと響いてる。

 

 この煩わしさから私は歯を食いしばった。エナメル質(歯の表面)()れる嫌な音が響く。

 

『お客様。それは私達のお耳にたーいへんよろしくないので、お静かに。――おチビちゃん頭痛か? お薬飲んだ?』

 

 聞き覚えのある声とともに、何者かによって背後から視界を(ふさ)がれた。私にこんなことを家族とルドルフ以外で仕掛けてきたり、『おチビちゃん』と呼ぶのはあの子しかいない。

 

『またその呼び方で……Afternoon(こんにちは)。薬は飲みましたよ。お気遣いありがとうございます。ところで課題は終わったんですか?』

Hello!(ちわっ) 久しぶりに会いに来たのに、開幕から宿題の確認!? そりゃないよー!』

 

 背後からカラりとした陽気な笑いが響いてきた。そして声の主である『あの英雄』の手がそっと目元から離される。

 

 私がゆっくりと振り返ると、そこに居るのは、小柄な栗毛のウマ娘。――米国史上最強クラスの英雄。元教え子のディーネがとても満足げな笑みを浮かべ、『どうだ、来てやったぞ』といわんばかりに仁王立ちしてた。

 薄手のシンプルなキャメルコート、青いセーターにスラックスを身にまとった彼女は、すっかりパリのハイセンスに染まっていた。

 

 私との契約を解除した後、彼女はフランスの大学へと進学した。そして『私も誰か育てたい』という事で、今度の目標は『最強』ではなく『トレーナー』になりたいらしい。それで毎日勉強で忙し――かったはずである。

 

 まあ、住んでる場所がパリだし来るかなと思ってはいた。……だけど――。

 

『というか、どっから関係者席入ってきたんですか?』

『細かい事はどうでもいいんじゃない? ノープロブレム! オーケイ?』

 

 ディーネは長い尻尾を機嫌良さそうに揺らしながら、右隣に並んだ。そして私が持っている、プログラムの端を軽くつまんで引っ張り(のぞ)き込んだ。

 

『硬度4.3。Collant(粘り気アリ)か。ルドルフは悪路に強いんだっけ?』

『ある程度は。梅雨時に散々鍛えたとはいえ、ここまで粘るバ場は未知数です』

Collant(不良バ場)は8年前の4.6。時計は2分39秒(2M39S)。そしてラビットもいる。予想は?』

『逃げが2ないし3競って、良バ場と同じペース。隊列は縦長の前残り勝負』

『その論拠は?』

『同チームから2名以上。その条件で4集団います。ロンシャン( こ こ )は重たいからといって、ペースが(よど)む事はないですし』

『まあ純粋に世界一のウマ娘の力を測るなら、かっ飛ばすほうが小細工し辛いしね。他には?』

『重バ場に強い子がそこそこいる。その子達は(あし)を余したいからフォルス・ストレートの入り口までは隊列が伸びるんじゃない?』

『なるほどなるほど。というと外を多少回っても、バ群がスリムならそこまでリスキーではないと』

『そういう事です。やることはやったからあとは、信じるしかない……』

『肩の力入り過ぎだよ? そんなんじゃルドルフが勝ったらぶっ倒れるんじゃない? 私のダービーの時みたいに、バタリといって大騒動になりそうで心配なんだけど……』

 

 ディーネは両手を軽く上げて肩をすくませ、呆れたようなジェスチャーを取った。

 

『問題ないです。貴女が支えてください』

『えー……。というのはジョークで、元よりそのつもりだけど』

『ふふふ、お願いしますね』

 

 軽いやり取りを行った後頭の中をまた整理し始める。

 データを見る限り少なくとも4名は重バ場適正がありそうだ。そして、凱旋門賞は毎年夏頃から内ラチの柵の位置を調整し、数メートルほど内バ場を凱旋門賞本番まで保護している。つまり最内から6m以内は、開幕週そのままの真っ新な状態だ。なので外バ場が使い込まれており、外差しで勝つのは非常に難しい。

 

 さらに雨が多かった今年は良い感じに耕されている。……野菜の種を撒いたらいい感じに生えてくるんじゃないだろうか? それを造園課の方々が朝早くから必死にお手入れしていた。――あれは大変そうだった。

 

 そして参加者がやたらと多いのも本レースの特徴だ。今年の参加者は23名だが、故障したファシオの他1名を入れ25名前後でやり合う予定だった。去年は26名で年によりバラつきはあるが、過去10年のデータでは最低17名は出ている。この数が問題となるのは最終コーナー以降だ。

 ここまでにある程度前を取らなければ話にならない。モタつけば下りからの長い平坦で勢い付いたバ群に、あっさりと包み飲まれる。日本のダービーと同じく、そのまま出られないというわけだ。

 

 『馬』だった場合は最終直線前の『False straight(フォルス・ストレート)』も曲者らしいと、前に居た世界で聞いたことがある。少しだけ曲がっているのだが、(ゆる)過ぎて直線と見紛うため偽直線と呼ばれる。この最終コーナ手前の偽直線を『馬』は最終直線だと勘違いし、飛ばしてしまうことがあるそうだ。

 まあ『馬』ならともかくこの世界の凱旋門賞(ここ)を走るのはウマ娘だ。その点の問題はないだろう。ラビットに釣られて行きたがるというのも、私の知る『馬』ではなくウマ娘――賢いルドルフではありえない。

 

 そして何よりも不安なのは虫の知らせのように、繰り返し見せつけられ続けているあの不吉な夢のこと。

 それが『今日の事じゃないように』そんな気持ちを込め、祈るように天を仰ぎ見たくとも――薄曇りの空に黄道の支配者の姿は見えなかった。

 

 視線を左奥の向こう正面に移す。ルドルフは風車近く、スタート位置のポケットでじっとしている。レースが始まったらトレーナーは祈る事しかできない。

 

『今年のレース。勝つのはイギリス校だ』

『ちょっと! フランス校のウマ娘が弱いって仰るの?』

 

 センチメンタルに染まりかけた私を、思わず現実に立ち返らせたのは(にぎ)やかな会話だった。

 

 その発信源はふたりのご年配なウマ娘。ひとりは青いドレスと帽子の素敵な栗毛(くりげ)の淑女で、もうひとりは美しいカラスの羽をイメージした帽子を被り、白いフランスの国旗をイメージしたカラーリングの白いドレスに青いショール。そして赤いブローチの組み合わせ。会話から察するに英仏という随分(ずいぶん)珍しい組み合わせだ。

 トレーナーバッジもないしスタッフにしては派手。なのに関係者席に居るという事は『VIP』か『殿堂入り名バ』(レジェンド)のどちらかだろう。

 

 もうレース直前だというのに、彼女たちはかなり激しめの論戦をやり合っている。あまりの勢いに私の目は点になってしまった。

 

『異論は認めない。というか貴方が騒ぐから、そちらのお嬢さんが驚いているよ?』

『それは言いがかりが酷過ぎるのでは! ――って、まあ! なんて素敵なの』

 

 青毛の淑女が私にぐいっと詰め寄ってくる。勢いに押されて私は思わず後ずさりしかける。

 

Jebel(後輩)からアハルテケの半人半バ(スマグラディ・セントウル)が居ると聞いていたけど、ああー! 本当に髪も瞳も綺麗ね! 日本からフランスにようこそ!』

『ちょっとちょっと、ちょっと! ひいてる! ひいてるって! ごめんねーこの方いつもこうなんだ! こら離れろ失礼でしょ!』

 

 私の両腕を掴んでまるで目当てのお人形を見つけた少女のように、瞳を輝かせたカラス帽子の淑女――興奮気味の彼女を栗毛の淑女が引っぺがした。

 

『あー。ついごめんなさい!』

『えっと、びっくりしましたがお構いなく』

 

 どうしていいか分からず適当に愛想笑いを私は浮かべた。職業柄ウマ娘達に普段から振り回され慣れてるとはいえ、この勢いには驚いて身が固まってしまう。

 

『Madam Grand――貴女の担当してる子のインタビューを拝見させていただきました。走ることで誰かを引っ張っていくって素敵な夢よね。あのインタビューを見て、久しぶりにこの方と来てみたくなったの』

Madam Corbeau noir(マダム コルボノワール)はそういう子好きだねぇ』

『ええ。Lady Blue(レディ ブルー)。昔のわたくしみたいでしょう? ふふ』

『そうだね。君はいつ如何なるい時もずっとそうだった――』

 

 レディ・ブルーと呼ばれた淑女のイントネーションからは、しんみりした雰囲気を感じられる。恐らくJebel(ジェバル)さんを後輩扱いからして彼女たちの世代は――。

きっと厳しい時代だったのだろう。

 

『皆さんレースが始まりますよ』

『あらもうこんな時間!』『ありがとう。後輩たちがどう走るか楽しみだ』

 

 ディーネが気を利かせて収拾をつけてくれた。ありがとうという意思をこめてニコリと彼女に微笑むと、ディーネも同じように笑みを浮かべ揃ってターフに目を向けた――。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+1 10月7日 午後15時57分――

――ロンシャンレース場 向正面――

 

"――『好位置待機。絶対深追いダメ、ダメ絶対、ダメ』か――"

 

 トレーナー君から渡された作戦を頭の中でシュミレーションする。彼女の予想通りならば、ひと息を入れるタイミングが難しいそうだ。

 

Entrez, s’il vous plaît(どうぞ、こちらにお入りください。)

 

 係の者に案内されゲートの中に入る。私が通された2400mの旅路の出発ゲートは23番――大外だ。キングジョージ含めて2回目の外様。ここまで引きが悪いと、私だって運の所為にしたくなる。

 

"――今度からゲート抽選をトレーナー君に引いて貰うべきか? ――"

 

 私を含め2回もダービーウマ娘を引き当てたトレーナー君の事だ。去年も商店街の福引で目当ての『米田(ヨネダ)コーヒー券セット』を1発で引き当てていた。きっと運は良いはずだ。

 

 ゲートの内ラチ側を(のぞ)き込みKGVI & QESでも一緒だった者たちの様子を伺う(うかが)

 21番ゲートの『Trade Treaty』(トレイドトゥリィティ)は、9月に風邪を引いて前哨戦(ぜんしょうせん)をキャンセルしぶっつけ本番。同じように調子が悪そうなのは少し離れた9番ゲートの『Richard Wells』(リチャードウェルズ)――彼女も顔色に疲労感が漂っている。

 

 13番ゲートの『Sunny Princess』(サニープリンセス)は愛想よくカメラに微笑み、その隣の14番ゲートの『Blue Angel』(ブルーエンジェル)は私の視線に気付き、人懐っこさを全開にして手を振ってくれた。折角なので私も小さく振り返す。そして私の隣22番ゲートの『North Heart』(ノースハート)は気合い十分といった様子。

 

 背後を振り返ると入っていないのは残り2名。――そしてその最後のひとりがゲート入りを妙に渋っている。

 我々は時としてゲート入りに対し、どのような性格の者でもなんだか無性に抵抗したくなる時がある。全く以て不思議な現象だ。

 私は振り返るのをやめ、目の前のターフへと意識を向ける。空は相変わらずで風からは湿った土の濃い匂いが漂っていた。

 

『――、Tout est prêt (準備が整いました)

 

 いつも通りスタートの体勢を整え――。

 

『――!』

 

 タイムを数え始める。右手には22名。バ群は水に濡れたマットレスを叩くような音を響かせ、前に前に前に! と勢いよく飛び出していく。

 ハナを切ったのは3名。そこに陣営方針が変わった『Fraoula Road』(フラウラロード)、そして『Trade Treaty』(トレイドトゥリィティ)の2名が喰らい付く。

 

 ――流石にこれは悪手ではないだろうか?

 

  フランスの女王『North Trickster』(ノーストリックスター)は中団に構え始めたので、彼女の前を押さえるつもりで進む。そして前年の凱旋門覇者『All Strong』(オールストロング)は、得意の後方待機か? しかし2000以上かつ稍重以上は厳しいと思い、マーク候補からは外した。

 

 人数が多いので内側に切り込み過ぎないよう、ゆるやかに進路を取り前目の位置に合流を測る。そして中団の前に待機している、先頭から5バ身かつ外にいた『Sage』(セージ)を最有力候補とみて直後をマークし、先頭から6バ身の位置に陣取った。

 

 先頭が最初の交差点を出た。残り2000m(テンの2ハロン)地点で29秒。バ場問わずラビットは飛ばすと聞く。テンの2ハロン(スタートから400m)は位置取りを意識しつつも、スロースタートがセオリーだ。不良で30秒を切るのは早すぎる。

 

 そして水平なこの交差点部を過ぎると足元の地面は上りへと変わる。

 ここからテンの1000m(残り1400m地点)まで、高さ7mの坂が300m、続けて高さ3mを300mほどかけて登りきる。

 

 米国式ダートに寄せた素材靴と芝への慣れ、そして並走相手を2名使い追い通すトレーニングをしてきた。お陰でこのペースにも難なくついていける。

 

 悪路対策を含む地固めは十分だ――今の所何も問題はない。

 

 そして隊列はトレーナー君の予想通り、去年と違い縦長になりそうな気配を見せていた。横に広がりにくいならロスは無いだろう。先頭から7バ身の位置でまだセージの影に隠れ進む。

 

 右の内バ場は駐車場を過ぎ、木々が十数本ほど生い茂る、テンの4ハロン(スタートから800m)地点。最初の高さ7mの坂をから3mの坂に変わり、足元が気持ちだけ走りやすくなる。先頭は53秒で通過。タイムは良バ場と同じ。3名のラビットたちは依然(いぜん)全力カーチェイスを繰り広げている。

 

 現状の確認を行う。

 先頭は三角形のフォーメーションで進むラビットたちがまず3名。

 (GOAL↑)

 

      1番手『Sentinel』(センチネンタル)

         2番手『Knight Servitor』(ナイトサーヴィタァ)

 3番手『Best Princess』(ベストプリンセス)

 入れ代わり立ち代わり、ハナを互いに譲らない。

 

 

 そこから1~1.5バ身後ろ4番手にトレイドゥ――内側半バ身後ろ5番手フラウラ。

 トレイドゥの直後に6番手セージ――内半バ身さがり7番手『Belle Dancer』(ベルダンサー)

 セージの背後8番手私の横には――9から10番手の2名が窮屈(きゅうくつ)そうに横で並走。

 

 外に出せないよう、内側の2名を用心深くブロック。計画的な登山家のようにペースを守りながら坂を上り続ける。

 

 ペースメーカーの1名が後ろをチラリと見やる。彼女たちは激しく競り合いさらに飛ばし4番手以下をぐんぐんと引き離す。

 そして内バ場に数本木がペンペンと生えた位置を横切った。

 

 テンの1000m(残り1400m) 1分05秒。

 ――重より悪い足場で随分と押し込むものだ。

 

 食いしん坊(グルメ)なトレーナー君が考案した『改・栄養補給』(カーボローディング法)の真価は、この状況下でなら(なお)の事発揮されるだろう。私は余裕を悟らせない様表情を消す。

 

 曲がりながら下るカーブ――京都の第3コーナーに似ているが、違うのは下る高さだけだけでない。水平ではなく外ラチ側へと傾いているのだ。その足場の悪い下り坂を8m駆け降りる。こちらも短い水平部を挟んだ二段構えの下り坂だ。

 行き脚を使いたいがまだペースを保たなければならない。私から先頭までの距離は11バ身以上開いていた。

 

 しかしなお先頭の3者は連れ立ち流星群のように坂を雪崩落ちており、

 

 3名の殿から5バ身後ろにトレイドゥが追走。

 

 これを見る様に3バ身後ろにフラウラがぽつん。

 

 フラウラの2バ身後ろにセージはまだじっと待機している。

 私がセージの直後に張り付いていると彼女が一瞬だけ振り向き、そしてすぐさま前に闘志を戻した――。



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『Sire X,1936-1957』Le coeur hérité【後編】

大変お待たせしました。

ルドルフ視点から始まり、
◆◇◇から◇◆◇までがトレーナー君視点です。
その後またルドルフ視点で行きます。


 セージにマークがバレた所で仕掛け合いの始まりだ――!

 

 青い字がかかれた白い看板が左手に通過し、下りが一旦収まった。次は高低差2mの坂だ。少しだけペースを保つのが楽になるだろう。

 

 先ほど通過した林より小さい木立(こだち)が視界に入る。そして後ろに控えていた者がひとり、ついにしびれを切らせた。私、そしてセージを抜いて、短い水平部を利用し『Sunny Princess』(サニープリンセス)は白い勝負服をはためかせ勢いよく前を狙っていく。

 

"――今行けば響くだろう――"

 

 そしてまたコースが交差してる所がある。

 そこを横切り終わる地点が残り1400m(アガリ1000m)の入り口。

 

 ――1分30秒。2年前の重より1秒も早い。ここで焦ったり、調子に乗れば潰れるのは確実。

 

 残り400mから勝負を挑むのを決めチラリと左側を見る。

 外ラチすぐに生えていた森が交差点通過辺りから少し開け、これがまたコースに近づく地点。それがブローニュ池の真横――『フォルス・ストレート』の入り口になる。

 

 早まりそうになる自分に待てと言い聞かせる。バ群はペースを保ち曲率が(ゆる)すぎるカーブに吸い込まれていく。曲がり切り偽直線に入るとセージは位置取りをすべく脚色を完全に変えた。彼女のペースを信頼し同じように私もついて上がっていく。

 

 後ろの者たちも我も我もと前を狙い、ターフを叩く鈍い音が騒がしい。ここで気を抜けば後続に飲まれるだろう――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――同時刻 ロンシャンレース場――

――関係者席――

 

『おや? 彼女ここは初めてなんでしょ? 意外に焦らないねぇ?』

『ルドルフのマークはセージなのかしら?』

 

 お馴染みの双眼鏡を外し肉眼でコースを見やると、青い淑女がルドルフを誉め、カラス帽子の淑女が私にそう尋ねる。そしてディーネは無言で食い入るようにレースを見ている。

 

『ええ、フランスでの試合は初めてです。そしてセージは最優先マークでした』

 

 ターフから目を離さず私はカラス帽子の淑女(しゅくじょ)にフランス語で返答した。

 京都レース場には外回りを通った際、途中内回りの一瞬空いた部分がある。それと似たような部分をぎゅっと圧縮されたバ群が通過していく。途中その内から抜こうと果敢に挑戦する子がいたが、無理だと悟りすぐに引っ込んだ。

 

 内ラチの開いた部分の幅は50m。そこを過ぎると最終コーナーかつ、200m×3(アガリ3ハロン)の入り口となる。タイムは1分50秒。2年前の重バ場よりも2秒早い!

 

 先頭フラウラが小回りを利かせて回り

     少し下がってトレイドゥが内ラチ沿いをまわる。

 

 仕掛け準備をしたセージは一気に加速。(ふく)らむにまかせ高速で突っ込んだ。

    ルドルフは加速しつつもセージの半バ身後ろ、やや内側を器用に曲がって着いて行く。

 

 回転数が上がった蹄鉄の音のように、私の心音が分析を邪魔しそうな勢いで暴れはじめる。

 

"――タフネスこそ全てがEUの常識っていってもこれは!――"

 

 ラビットたちが作り上げたラップは『とち狂った』といっても相違ない。語彙力をぶっ潰してこの状況を例えるなら『全員ぐでんぐでん! 残り3ハロンよーいドン!』だ。

 アガリ1ハロン目(残り600~400m間)は17秒、残り400m(2ハロン)

 

 ――カーブが含まれてはいるがこれは如何(いか)に。フラウラは限界そうではあるが、まだ必死に歯を食いしばって逃げている。

 

    『フラウラ』先頭。

 

 『セージ』が大外の3バ身後ろ。

   1バ身さがって『North Trickster』(ノーストリックスター)

     

 半バ身後ろ『ルドルフ』がこの間を見る。

 

  『North Heart』(ノースハート)『All Strong』(オールストロング)

  その後ろ1バ身からこの横並び2名が豪脚で駆けてくる。

 

"――え。前年度覇者じゃん! 相当後ろにいたのにいつの間に!?――"

 

 凱旋門は魔境なの!? 根性主義者しかいないの?!

 内心突っ込みつつも声にならない悲鳴を心の中であげる。あげた所でどうにもならないんだけど、叫びたくなるがぐっと我慢。

 

"――ここでやらかしたらお養父さまに叱られる!――"

 

 お説教の恐怖にブルリと震えあがってからバ場を見つめる。

 ここでオールストロングが捲りに行こうと内ラチ沿いに加速。その気配を察知したノーストリックスターが、それを受けセージが! ドミノ倒しに溜めていた脚を炸裂させていく。

 

 残り200手前 通過は推定17秒!

 セージがついに内のフラウラを外から抜き去り栗毛のノースハートが直後を追走

 

 ――ルドルフはまだ上がってこない!

 

"――まさか上がった!?――"

 

 私は声にならない悲鳴を内心にぶちまける。顔面蒼白のままがたがたと肩が震えた。

 

 ここまでしてまだ凱旋門賞は遠いのか! 心が折れかける。息を止め両手で両頬を叩いて(かつ)を入れる。

 トレーナーがウマ娘を信じないでどうするんだ!

 そう自分を叱りつける。それと同時に頬に静電気のような鋭い痛みが走った――!

 

「いったああああああ!」

『え? ちょっと急にほっぺ叩いたり一体どうしたの?!』

 

 頬に何かチリリとした痛みを感じ思わず日本語で叫んだ。

 前身の産毛が逆立ち、雷が落ちる前の帯電した状態のように肌の表面をビリビリとした何かが伝っていく。

 

 そしてルドルフの瞳がギラりと揺らいだのは気のせ――いではなく彼女がついに動いた!

 少しでもいいバ場を走ろうとセージとノースハートがインに斜めに切り込み、この一直線に動く2名の左側に空いた場所を狙ってルドルフは突っ込んでいく。

 

 ルドルフは緑の荒海とかした不良のターフを掻き込み、程よいストライドとピッチを組み合わせて一気に突き抜けた――! ターフに走る横ナギ一閃の雷のように進むルドルフを見た私の全身に鳥肌が波打ち、会場は音で砕け散り割れんばかりの熱狂に飲まれる。

 

 ルドルフは現在3位のフラウラを抜き去る!

 私は柵にしがみついて腹の底から何かを叫んだ!

 もう自分が何を言ってるかもわからない!

 

 残り200――先頭まであと2バ身! ルドルフの強襲に前2名の余裕は消えた。

(GOAL←)

   トリック         フラウラ

 セージ

      ルドルフ

 

 ターフビジョンを横切り残り100!

 ルドルフはついにトリックスターを捕まえた!

 英国の時とは違い今度はきちんとゴールの先の獲物に目を向けている!

 音がきこ――意識を――向け――目を見開く――

              オール

    トリック     フラウラ

 セージ           ハート       

  ルドルフ

 

『――! ――! ―――――』

 

    トリック    オール

 セージ          フラウラ 

   ルドルフ       ハート

 

 

 

『――――、――――! ―――――!』

(↓GOAL)

     トリック    オール

   セージ          フラウラ

 ルドルフ         ハート

                ベルダンサー

 

 

 

 

 

  ◇  ◆  ◇

 

――同時刻 ロンシャンターフ上――

 

 

 2分39秒0――半バ、身差で何と、か勝ちを、もぎ取れた。

 息も、絶え絶えで、余裕もなく、思わず妙な、笑い声が、出て、きそう、だった。

 

 減速しながら、私は客席に手を振って、ファンの期待に応える。そして、客席の上の方に――両親と祖父達がいたような、気がした。何だかんだで、見に来てくれて、いたのだろう。

 ――嬉しかった。大好きな両親に認められたような気がして、なんだかね。

 

 息も整ったところでトレーナー君が居るであろう、関係者席を振り返り見る。

 

 ……いない。代わりにディーネと淑女がふたりが大慌てしているのが見えた。嫌な予感がして柵を飛び越えて駆け寄ると――。

 

『ルドルフどうしよう! おチビちゃんがノビちゃった!』

『介抱ありがとう。予想はしていたがこうもその通りになるとは。――トレーナー君、おーい……』

 

 ひっくり返ったトレーナー君をディーネから受け取る。大きな感情の揺らぎがあるとショートしてしまう癖があるらしく、彼女はものの見事に気絶していた。今までにも未遂はあったがこれは困った。

 ぺちぺちと軽い音を立てて頬を2回叩くこと3回。ピクリとも動かないので流石に何かあったのではと心配になる。そしてこの騒ぎを聞きつけたメディアまでやって来て、スタッフも入交り救急車を手配するかという大騒ぎになってしまった。

 

『――ふむ。これで起きなければ』

 

 私が彼女に"――――"と、聞くと絶対に起きてくれる禁句を"ささやく"と――。

 

「――絶対イヤ!」

 カッと目を見開いて飛び起きた。それを想定して頭を離していたお陰で、私の額が正面衝突する事態は避けられた。ささやいた内容が聞こえたのかディーネが困ったような、呆れたような複雑な苦笑いを浮かべた。そして彼女はスタンドのスタッフに『救急車は必要ない。大丈夫だ』と伝えてくれる。

 

『あ――』

 

 私の腕の中で顔を白黒させて動揺していたトレーナー君が今度は真っ青になった。驚き慌てふためいて飛び回る小鳥のような姿に、思わず笑いが込み上げそうになる。

 

『Bonjour いい朝――ではなくもう夕方だね?』

『Bo……Bonjour あはは……ごめん』

『想定内だから気にしないでくれ。立てそうかい?』

『ええ。大丈夫です――ディーネもごめんね』

『気にしないで。おチビちゃんを落っことさなくてよかったよ』

 

 しっかり立てている事を確認し、私とディーネは安堵の表情を浮かべ離れる。両耳には周囲からシャッター音が騒がしく流れ込んでくる。

 

『ルドルフ、優勝おめでとう――何て言ったらいいか、言葉がすぐ思いつかないですね』

 

 勝った瞬間を彼女はきちんと見届けていたようだ。私は

 

『ありがとう。ふふ、私も同じ状態なので、互いに落ち着いてからまた労い合おう。さあ、皆が待ってる――行こうか』

 

 私は彼女と出会い、ルイビルを離れた時のように左手を差し出す。彼女のエメラルドの双眸(そうぼう)は、あの時と同じように潤んでいる。しかしそれは悲しみではなく、喜びの意味合いを含んでいる。手で眼を擦らなくていいように、用意していた白いハンカチを彼女に渡すために一度立ち止まる。受け取ってから『ありがとう、進んで大丈夫ですよ』という彼女をまた連れ立って歩む。

 

 場内には割れんばかりの歓声が降り注ぎ、それらは雨のように地平線に満ち渡る。ロンシャンのレース場からブローニュの森を越え、その一帯へとその熱は伝わっていった――。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年 10月8日 午後19時――

――パリ市内 某所ホテル付近――

 

 迎えの車に乗り込み我々は次の目的地である『祝勝会』の会場を目指している。シャンティイで知り合った方々が好意で開いてくれたのだ。

 

 私は夜会に合わせフォーマルなグリーンと金の刺繍の入ったハイネックドレスにアウター。トレーナー君はTPOに合わせたスーツとシンプルなコート身につけただけであった。『今日くらいドレスコーデでいいのでは?』と彼女に意見した。しかし『仕事中です。そして貴女が主役なのよ?』と断られてしまった。私が着飾った姿を見たいといっても返事は『No』。相も変わらず彼女は頑固だった。

 

"――まあ、そこが良い所なんだがね――"

 

 車窓の外を機嫌良さそうに見つめるトレーナー君の髪型は、いつもの三つ編みカチューシャのおしゃれシニヨンだ。そして今日はその団子の一部に髪飾りが刺さっている。

 

 大春車菊(コスモス)の小さな花束を模し、やや桃色がかった透明な樹脂製のかんざし。かんざしの根元からシャラリと音を立てる長すぎない2本の金のチェーン。それに花びらを模した飾りがついている。あらかじめ買っておいたそれを身に着けるよう、私は全力でトレーナー君に押し付けた。

 

 そして私の説得に応じやっと彼女は折れた。それで、ささやかながらオシャレをしてくれたという訳だ。ダメといったら絶対に譲らない。そんな彼女が私に譲ったというのはある意味大きな戦果だった。

 

 しかし、そうやって身なりに関しては譲らなくてもだ……。

 先程からトレーナー君は嬉しそうに目を輝かせている。きっとパーティと聞き、美味しいグルメにありつけるのでは? と期待しているのだろう。もし彼女にウマ耳と尾があるならばそれはそれは、何を考えているかもっと丸見えになるくらい騒々しい状態になっているだろう。

 

 ――うまうみゃ!

 

 彼女の紺色(こんいろ)のジャケットスーツから通信アプリLEADの着信音が聞こえる。彼女はそれを確認し、ほっとした表情を一瞬浮かる。そしてこちらに顔を向けた。

 

夕餉(ゆうげ)は何が出るか楽しみですね」

 

 トレーナー君は食事について考えていた。笑ってしまうと彼女がヘソを曲げてしまいそうなので、適当に笑顔で誤魔化(ごまか)す。

 

「そうだね。久しぶりに緊張せずに食事が出来る」

「ええ。色々肩の力が一旦抜けたからやっと食事に喉が通るよ。――ルドルフ、ファシオの事なんですけど……」

 

 彼女の口からまさかのファシオの話が出た。思わず私の両耳が大きく反応する。このタイミングで話すのだから悪い知らせではないだろう――そう思いたい。

 

「戻すまで時間はかかるけど――傷病による引退は回避できそうよ」

「そうか! それは朗報だ」

 

 どうやらオルドゥーズ財閥フランス支部の病院の技術力が勝利したらしい。世界一の技術力を持つ医療機関は伊達ではなかった。今までなら選手生命を奪う程の骨折であったが、それが繋がったのだ。奇跡としか言いようがない。

 

「病院スタッフを通じ伝言を預かりました。『"いつかロンシャンで再戦しましょう"と、心に整理をつけて、もう一度鍛えてくるから勝ち逃げしないでね』だそうです」

「なるほど。――なれば我々も迎え撃つ準備をしなければな」

「ええ。あ、会場につきましたよ!」

 

 重い装甲が入ったドアが自動で開き、祝勝会が行われるホテルの前についた。

 先に降りて彼女の手を取りカーペットの上に降りる。出迎えにきたボーイにまず感謝と短い挨拶を交わし、案内に従い夕闇が通り過ぎた中に進む。

 

 白を基調とし所々に淡い色合いのアクセントが入った内装だ。眩しさに目を細めながら見上げると豪華なシャンデリアが煌々と照らしている。そこでズラリと並ぶホテルのスタッフがまず両端に飛び込んだ。私とトレーナー君はスタッフにアウターを預ける。どこかに生花を飾っているのだろうか、自然ないい香りが漂ってくる。

 

 そしてここだと案内されたホールに入ると、さらに強い光が3つある大きなシャンデリアから降ってくる。思わず眩しいと一瞬目をつむりかけた。

 

『おめでとう。どうしてもお祝いさせて欲しくて、勝手に開かせていただきました』

『お気遣い痛み入ります。ご招待ありがとうございます。Jebel(ジェバル)理事長のご厚意に甘え、今日は大いに楽しませて頂きたいと思います』

『ええ。楽しんでいって。来てるのも学生さんばかりだから、あまりマナーは気にせずしっかり食べていきなさい』

 

 私たちが来たことでパーティが始まった。

 会場にはグランドハープによる演奏が流れ、それはとても柔らかく優雅な雰囲気を(かも)し出している。

 

 ――。

 

 隣にいるトレーナー君から空腹を知らせる小さな音が聞こえ、彼女の顔が真っ赤になっている。そこに触れると可哀想なのであえてそっとしておいた。

 

『さて、何があるか楽しみだね――行こうか』

『! はい!』

 

 意地っ張りな彼女を促して料理が置いてあるコーナーに向かう。するとニンジン関係の料理の他様々な料理があって私も心が躍った。用意された馳走の中には本格的な和風の料理も並び、パーティーを用意してくれたJebel(ジェバル)理事長の持て成しの気持ちの大きさがそこから伺える。

 

 現在腹ペコなトレーナー君は前菜コーナーのカルパッチョに目を付けた。

 

 ――赤いのはサーモンだと思うが白身の方は何だろう? 

 

 料理の前に置かれた札を確認するとフランス語で『Daurade Grise』(ドラードゥグリース)、メジナモドキと書かれている。フランスで最高の鯛に近い白身魚はヨーロッパヘダイだ。こちらの言葉で『daurade royale(ドラードゥロイヤル)』とよばれるが、そちらは加熱したほうが美味だと祖父に聞いたことがある。

 

 それを適量盛って会場の所々に設置された、青と白のテーブルクロスの丸テーブルに持って行く。先にこちらへ来ていたトレーナー君が、飲み物に水と白葡萄(ブドウ)ジュースを貰ってきてくれていた。互いに食前の挨拶をかわし、フォークで薄くスライスされた身にルッコラを2枚巻いて口に運ぶ。

 

 レモンの爽やかな香りと共にその酸味が広がる。それとほぼ同時にモチモチとした白身魚の触感と肉質の旨味と甘み。絶妙な塩加減の最後にシャキシャキとしたルッコラの苦味と胡椒の辛みがピリリとくる。

 ――これは当たりだ。もう少し盛ってくれば良かったな。

 

 水で口の中をリセットし、今度はサーモンの方を同じように食べる。

 同じ塩レモンの味付けだが、こちらは軽めにスモークされているらしい。燻製(くんせい)独特の香りが軽く鼻先を掠め、レモンの酸味の後にほろ苦さを感じる。

 

『Evening! 楽しんでる?』

 

 私より少し小さな尾の長いウマ娘、ディーネが声をかけて来た。赤の派手なドレス姿の彼女もここに招待されていたらしい。ニンジンジュース片手にとても機嫌が良さそうだ。

 

『Evening ディーネ』

『Evening.――ああ、やはりグルメの国とだけあって料理がおいしいね』

『うんうん。ところでふたりはメインを食べる準備できてる? 今日は凄いのが来るってさ』

『といいますと?』

 

 トレーナー君は(いぶか)しげに眉を(ひそ)め首を傾げた。私も同じようにそんな話を聞いていたかな? と記憶を軽く辿(たど)ったが出てこない。

 

『メインは旬のLangoustine(ラングスティーヌ)の白ワイン蒸しだってさ』

『それはまた随分な御馳走だ。ふふっ、楽しみだね』

 


Langoustine(ラングスティーヌ)欧州藜海老(ヨーロッパアカザエビ)

 高級食材。単に『Scampi』(スカンピ)とも。手長エビのような外観をした深海エビ。(から)はロブスターみたいに硬い。日本のアカザエビと違い加熱向き。生食の是非は意見が真っ2つ分かれる。旬は10月頃。産地により(から)の硬さや値段が変わるので、あんまり安いのを買うと()き身難易度が爆上がりする


 

『それで―"さっき"から"殺気"のようなものまで感じる―のか』

『? ルドルフの日本語はなんて言ってるの?』

『What do you call cheese that isn't yours? Nacho Cheese.――"Nacho Cheese"が"Not your cheese"と聞こえるように、"殺気"と"先程"が日本語における発音が似てるんですよ』

『なーるほど。"サッキカラ殺気"――か』

 

 トレーナー君は『世界ダジャレ辞典』にも載っていた凡例(はんれい)を出し、私の日本語についてディーネに説明している。

 その間もまだかまだかと会場にいるウマ娘達は、会話を楽しみながらも、ソワソワとメイン料理が出てくるのを待っている。祖父からもそのエビはとても美味しいと聞いていたが、まさかこれ程の人気とは。

 

『ん――ちょっと話してこなきゃいけなさそうな方がいるから、私行ってくるわ』

『エビは良いのかい?』『それまでには戻るよ』

 

 そういってトレーナー君は空になった皿とカラトリーをテーブルに置いた。そして白葡萄(ブドウ)ジュース片手に他の来賓との会話に加わりに行った。

 

『真面目だねぇ――』

『ああ。時々頑固が過ぎて中々手を焼かされるよ』

『そっか。ねぇ――ルドルフはあの子を見てどう思う?』

 

 グラスのニンジンジュースを揺らしてから飲み干し、お道化たように話していたディーネは真面目な質問を突如として向けて来た。

 

『難しいな――。生まれ持った才能が毒であり薬。強いが脆い時もある』

『その答えが出るという事は、あの子の才能に関する話は聞いてるんだね?』

『ああ。まさかあそこまで重い内容とは想像がつかなかった』

 

 ディーネとは普段LEADでもチャットのやり取りはするが、常に飄々(ひょうひょう)とした雰囲気で掴みどころがなかった。

 しかし今回再び直接相まみえた事で、その彼女もついに腹を割って踏み込んできた。彼女もまたトレーナー君の異質な能力に気付いていたのだろう。

 

 きっと送り出す時は心配だったろうなと思いながら、ディーネに返す言葉を考える。すると彼女は会場の隅に視線を向ける。私も釣られて同じように何を見ているのか先を追う。その先にはトレーナー君がいて、上手く会話に加わり何かを談笑しているのが見えた。

 

『最初ルイビルで出会った時は死んだような目をしていてね。結局その原因は話して貰えなかった。そして、それは恐らく解決していない』

『まだ隠している気は薄々していたが、やはりそうか。まあ、彼女が自ら話してくれる日が来ると思うので、気長に待とうと思う』

『なるほど。上手く行ってそうでよかった。もし彼女が苦しんでいたら、勝手なお願いだと思うけど助けになってほしいんだ。抱え込みがちで自分の幸せは全て後回し――そんな不器用な所があるから』

『引き受けた。それに関して出来る限りの事をすると約束しよう』

『――ありがとう』

 

 ディーネは緊張した面持ちから安堵を浮かべた。そしてトレーナー君は会話を切り上げ、ちょこちょこと小走り手前くらいの歩調でもどってきた。

 

『ただいま。エビパーティーは始まってしまいましたか? って、ふたりともなんか雰囲気違うけど、何かありました?』

『え? ああ、難しい相談をしてたんだよ』

『少し難易度が高い内容でね。仲互いなどではないから安心してくれ』

 

 時折妙に勘が鋭い所があるので驚かされる。流石は『無事之英雄』を送り出すGrandといったところだろうか? 私を信頼している彼女は『そうでしたか』といって秋風にそよぐコスモスのように可憐な笑みを浮かべた。

 

 そして会場にはエビの(から)が焼ける香ばしい匂い広がり、温度差でぱちぱちと鳴る音がよく聞こえる私の両耳が捉える。

 

『お。メインが来たね! ふたりとも行こうよ』

 

 ディーネはウインクを私たちに投げて、『行こう』というジェスチャーを片手でして先を歩く。そこにトレーナー君も私も続いた。

 そしてその途中――私は目の前で談笑するある人物に目がいった。

 

『今回はイギリス校でもなく日本でしたね』

『ああ。だけどイギリスは日本の近代化の先生だから、よってイギリスの勝ちだよ』

『何それ卑怯よ。反則じゃない』

 

 コミカルな会話を繰り広げるJebel(ジェバル)理事長くらいの年齢のウマ娘たち。そのうちのひとり、"カラスのブローチを付けた青毛のウマ娘"に何だか見覚えがある気がした。

 

 ――あの方はもしかして。

 

『ルドルフ、どうしたの?』

『いや。すまない。ちょっと見覚えのある方がいたものでね』

 

 気にはなったが、今はエビの確保が最優先。それを食べ終わったら折角だ。色々な方に話しかけてみるのもありだろう。特に先ほどの淑女おふたりには、スタンドでトレーナー君が倒れてびっくりさせてしまっていたし――。

 

 私はあのウマ娘の結末を何となく察し、今は幸せそうにしてることに安堵した。それと同時にトレーナー君がひっくり返っていたあの光景を思い出し、噴き出しかけたソレを微笑みの内に隠した――。




【タイトルの意味】
 Le coeur hérité―心を継ぐもの―という意味です。


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【幕間】天高くウマ"超"ゆる秋の日常

大変お待たせしました。
トレーナー君視点からはじまり、◇◆◇からルドルフ視点です。



――20××年 10月上旬某日 午前12時30分――

――日本 トレセン学園 寮付近――

 

 2度寝は最高の文化。異論は認め……どっちでもいいか。

 

 口の中に入れているリンゴ味の飴を転がすと、カラりと歯に当たって頭に音を響かせる。

 

 ルドルフもそうなんだけど、私の方も帰国してからずっと仕事だった。マネジメント部門と打ち合わせとかまあ色々と山積みになっていた。

 

 久しぶりにゆっくり寝かせてもらって本日は午後出勤。本当は15時から仕事を始めたらいいんだけど、片手には個人的に頼まれたお土産が1袋。これを渡さなきゃいけない。早めにきたことだし、気分転換に散歩するのもいいかもしれない。

 

 今日は久しぶりに悪夢を見ずに寝られた。いつもの時間に習慣で眼が覚めたものの、2度寝までする事が出来て気分は爽快だった。

 

 背中を伸ばしたくて腕と顔を上げる。上へ、上へとタケノコのように伸ばす。そして見上げた青が高い気がした。

 

 頬に当たる風、吸い込む息から乾いた空気を感じ取れる。

 9月はそこそこ雨は降ったが、今月頭は例年と比べれば(スズメ)の涙の方がまだ多いんじゃないか? といったところ。夏にもそんな予感はしていたが、本当に果物や野菜の物価が高騰しそうな感じだった。

 

"――無事なのはお米だけだったかな?――"

 

 台風があまり来なかったお陰でお米は豊作なんだとか。加持祈祷(かじきとう)まじないが主流の昔ならば、今年は旱魃(かんばつ)クラスの少雨だ。灌漑(かんがい)技術の発展がココからうかがえる。

 

 そして次走『菊花賞』は京都レース場で行われる国内クラシックの3冠目。開催日は11月11日――某お菓子メーカが、キャンペーンを打ちまくるこの日の快晴率は高い。

 しかし、5日か6日の降水確率のほうが高く、ここで降ればバ場は多少渋る。稍重(ややおも)くらいは想定して用意しておかないとダメだろうな。

 

 京都レース場――通称"(よど)レース場"。

 日本の地名は地形や災害履歴に由来するモノが数多くある。"(よど)"という地名の由来は"(よど)み"。水()けが悪く水が溜まってる"低湿地"だからこの名が付いた。

 

 京都レース場の建設予定地は中州(なかす)かつ小さな池が点在する地区であった。そのため工事は難航。結局レース場の真ん中に池を残し水神を祀ったのだという。

 

 こんな土地なのでターフの下が砂だとしても、雨が降ればどうなるかは想像に難い。梅雨時はバ場が物凄い事になるため、現在URAは改修を計画していた。

 

 

 小さくなった飴をかみ砕いて飲み込む。そして欠伸(あくび)を手で隠しながら大きくひとつ。校門が近づき右手に美浦寮と栗東寮が見えてきた。何気ない出勤風景だったはずなのだが――?

 

"――あれ? 転入生なんていたかしら?――"

 

 栗東寮の前に"シロネコムサシ"のトラックが1台。そしてそのトラックから大量の段ボールの運び出しが行われている。

 転入生の引っ越しだろうか? とも思ったがそれはおかしい。毎朝起きたらスタッフ用のサイトで、伝達事項を全部記憶してからきている。しかし、ここ数日どころか1ヶ月分の情報にそんな記載はない。

 

 何事だろうかとボーっと見つめていたら――。

 

「お嬢様こんにちは! 今日は昼出勤かい? ってうわぁ何これ!」

 

 フジキセキはこの状況についておそらく何の連絡を貰っていなかったのだろう。私に挨拶をしてくれた彼女は、この光景を目の当たりにして耳も尾も逆立てて驚いている。

 

「こんにちはフジキセキ。あら? 貴女もご存じなかったんですか?」

「知らないよ! 宅急便が来るってのは聞いてたけどさぁ――まさかお嬢様の仕業、いや、今の反応だとでもないかな?」

「ええ。面白そうですが、段ボールまみれにする連絡の一報くらい入れますよ」

「面白そうって……えぇー」

「ふふ冗談ですよ。しかしおかしいですね、転入生も来ていないはずなのに」

「それなんだよ」

 

 首をひねっていると、視界の端にどこか見覚えのあるSPがいた。確かファインモーションの護衛隊長だったはず。私の視線をたどりフジキセキも一緒に振り返る。

 

「お二方こんにちは。寮長殿、驚かせて申し訳ない。行き違いで寮への連絡が遅れました。これらはすべてファインモーション殿下宛と、エアグルーヴ様への荷物なんです」

「こんにちは隊長さん。あーそういう事――了解。いつにも増して量が多いからびっくりしたよ」

「こんにちは。それでこんなに沢山届いていたんですね」

 

 そう言えばエアグルーヴが何かぼやいてたな。前に同室の子の家族から、贈り物が多すぎるとか言ってた覚えがある。フジキセキの言動から考えるに、こんなことは何度かあったようだ。確かにこれは多い。

 

"――というか、あれ全部入れたら、部屋に寝る場所はあるんだろうか?――"

 

 どう考えても箱の数が尋常じゃない。これは突っ込みを入れたほうが良いのだろうか? 仮に全部埋まっても、来客用の宿泊室もあるしと悩んでいると――。

 

「このままだとふたりの部屋を埋め尽くしちゃいそうだなぁ――(あふ)れた分は寮の倉庫に誘導しておくとして、そこを超えるような贈り物は気を付けてくださいね」

「承知しました。ご厚意ありがとうございます」

 

 よかった。これでふたりの生徒が贈り物爆撃によって来客室送りになる心配は無くなった。ほっとして私はふたりに別れを告げ、今度は校門へと向かう。

 

 朝なら門の前にたづなさんがいるが、今は守衛のウマ娘たちだけ。そこを通過し中に入る。両脇には規則正しく街路樹が植わり、路面は長方形のコンクリートを石畳のように組んだ道。ゆったりと通る間、門の外へ向かって楽し気に走る生徒数名とすれ違う。きっとコンビニか寮へと向かうのだろう。

 

 昼休みで活気づいた校内は天気のよさもあり、噴水付近や芝の上でお弁当を広げ合って楽しそうにしている子達も沢山いた。

 

『今日の星座占いは……! 12位……こっこれは……』

『あううう――! 私に救いはないのでしょうかぁ!』

『あるとも!』

『『あるんですか!?』』

『別の占いを見ればいい! きっといいことが書いてあるさ!』

『なるほど! では早速四柱推命で見ましょう!』

 

 噴水の広場のベンチで、お昼を食べ終わったらしいマチカネフクキタルが、中等部の子達と遊んでいた。そのうちのひとりはよく覚えている。入学前のオープンキャンパスでうっかりぶつかって花瓶を倒してしまい、物凄く委縮してしまっていた子――メイショウドトウ。その隣に居るのはテイエムオペラオー。面白い言い回しで話す子なので、何となく印象に残っている。

 

「あ! こんにちはお嬢さま~」

「こんにちは。いい占い結果は出ましたか?」

「はい~! 救いはありました!」

 

 嬉しそうに目を細めて耳をぴこぴこと動かして喜ぶドトウ。花瓶の件でタオルを渡すために声をかけたのが切っ掛けで、見かけるとこうして明るく話しかけてくれる。そして彼女の隣にいるフクキタルも自分の分を占い直したらしく、今日は大吉だと喜んでいた。

 

「おめでとう。よかったですね、フクキタル」

「ありがとうございます! ハッピーカムカム! やりました! あれ? お嬢様、そういえば今日は午後出勤ですか? 珍しいような……?」

「ええ、今日はありがたくも午後出勤になりました。ゆっくり出来てリフレッシュです」

「この頃、冷えてきましたねぇ~。お休みの日にお布団でゆっくりしてると、私もとても幸せな気分になります~」

「うんうん2度寝は最高ですっ! この所ずっとお忙しそうにしていて心配でしたが、ゆっくりできたのなら何よりですね!」

「折角宝石のような髪と瞳を持つのだから、元気でいるほうがより輝いていい! そう! このボクみたいに!」

 

 オペラオーの周りからキラキラとした光が一瞬見えた気がした。この子と話している時物凄く眩しいんだけど、なんでなんだろう? 心の中で私は首をかしげる。

 

「あんまり無理して、身体壊さないでくださいね? お嬢さま~」

「皆さんお気遣いありがとうございます。体調に気を付けながら頑張ります」

 

 心配そうな表情をしていたドトウにお礼を言うと、彼女はぴこぴことまた耳を小さく揺らした。

 

「凱旋門で世界一を戴冠した皇帝と、その名軍師殿の次の獲物は菊の花(MUM)。自信の程ははどうだい?」

「言い表すのが難しいですね。自分のできる事で最善を尽くします。そして、それはどのチームの方も同じで、全選手が努力しています。なので次も気は抜けません」

 

 そう返すとオペラオーは満足げに笑みを浮かべた。

 

「そういった姿勢は素晴らしいと思う! それでこそボクが挑みたい会長とそのトレーナーだ! 嗚呼(あぁ)、ボクも早くスカウトされたいよ」

「ふふっ頑張って下さい。それまでに挑む壁を出来だけ高くしておきますから」

嗚呼(あぁ)、こちらとしても望む所さ! 是非挑み甲斐のある記録を皇帝と共に作りたまえ! はーっはっはっは!」

 

 こんな感じだけど誰に対しても平等で、励ますのが案外うまかったりするのがオペラオーのいい所でもある。彼女と軽口を叩き合ってから3人に別れを告げ、私はお土産を頼んだ本人の待つ部室へと足を進めた――。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年 10月上旬某日 午前13時10分――

――学園本館 ×階 某部室前――

 

 校舎に入り目的地の部屋の扉をノックした。すると――扉が少しだけ空いて聞き覚えのある声が私に小さくささやいた。

 

『合言葉は?』

「……知らないから帰りますね」

 

 そんなものは知らされていない。面倒なので帰ろうとすると、ドアの隙間から手が伸びて来てガシリと私の腕を掴んだ。これだけ見るとホラー映画の一幕にしか見えないし、普通なら驚くがもう"この子"が相手だと慣れた。

 

「まあまあまあ! そう怒んなよ! ほら、いちごミルクチョコ味の"ニンジンの里"やるから。な?」

 

 お菓子を渡され部室にされるがまま引き込まれる。私にお土産を頼んだのは、このひと際大柄なウマ娘――ゴールドシップだ。

 

「茶いる?」

「ありがとうございます。頂きます」

 

 匂いからして今日は罰ゲームなどに使われる、"センブリ茶"などではなく普通のお茶らしい。初見の頃、そのお茶でイタズラされたので少しだけほっとした。

 

 そういえば校則違反が軽微な場合、濃く淹れたセンブリ茶を500mL飲まされる罰則に変わったらしい。あのお茶は身体にいいとはいえ、あんな苦いものを500mlも飲まされるのか。罰則終了まで短時間になったとはいえ、恐ろしい内容である。そして、その改訂案の効果は覿面(てきめん)であった。余程の事が無い限りきちんと決まりを守るようになり、本当に困っている子が見えやすくなったそうだ。

 

「へいおまち! アールグレイだ!」

 

 目の前に置かれた白い湯気が立つカップ&ソーサーからは、柑橘類(ベルガモット)の香りが漂ってくる。私とゴールドシップは、刑事ドラマ風のグレーデスクに互いに対面に座った。そして何故かお茶請けに"雷神おこし"が差し出される。――なぜ紅茶にこの組み合わせなんだろう?

 

 とりあえず断りを入れてから一口味わう。茶葉独特の苦みを少し感じてから、香りが抜けていく。

 

「これが頼まれていたお土産ですね。コスメと尻尾のお手入れセット」

「おうサンキュ! お代はいくらだった?」

「うーん。なんか頼みたいときにそれでチャラでどう?」

「なるほどーじゃあ、何か依頼あればまた頼んでくれよ」

 

 ルンルンでそれらを出して確認しているゴールドシップ。破天荒なイメージばかりだが姿は上背のある美女そのもので、私服のセンスも実は抜群だったりする。

 

「ほんじゃ改めてー凱旋門賞おめでとうございまーす! イエーイパチパチパチ」

「ありがとうございます。前にもっと堂々としていろって言われた意味、最近は少しずつ分かってきたような気がします」

「気にすんなって! アタシはお嬢サマが乾燥地帯でパスタなんか()でてないか! 心配で心配で――夜もぐっすりだったぜ?」

「良質な睡眠がとれていそうで何よりです。でも、フランスにそんな場所在りましたか? 砂漠パスタをやるような場所なんて……」

「あるぜ? ほら」

 

 スマホを起動して少し操作したゴールドシップは、私に画面を見せてくる。

 


La Dune du Pilat(ピラ砂丘)

 フランスの海岸線にある巨大な砂丘。

 観光名所でもある。


 

 説明ページには青い空と海、そして白い巨大な砂丘が波打ち際まで広がっていた。

 

「ああ本当だ。こんな所があるんですね」

「だろー? ここでビーチバレーすっと、すっげー映えるんだよなぁ」

「行ったことあるんですか?」

「まあなー」

 

 今度遊びに行ってみようかなと思いながら、私はそれを記憶する。ゴールドシップはスマホを仕舞い、今度は腕を組みうんうんと頷き目を細めるような表情を浮かべる。そして耳を二度ほどぴこぴこと細かく動かした。

 

「でもって会長が勝ったってのにさ。お嬢サマが派手にぶっ倒れた時には、流石のアタシもびっくりしちまったぜ」

「ああ、あの時のですか?」

 

 ゴールドシップがいう件はルドルフが勝利した時のこと。

 感情がオーバーフローした私は完全に意識を飛ばし、気が付いたらルドルフが近くに居た。しかも飛び起きたので、ウッカリルドルフに頭突きをかましてしまう所であった。もしぶつかっていたら、表彰台で私たちの額が大変な事になっていただろう。

 

「おう。寮の奴らとピザとポップコーンつまみながら見てたぜ? 阿鼻叫喚(あびきょうかん)って感じで凄かったぞー」

 

 楽し気にニシシと笑うゴールドシップ。彼女がこんな風に笑っているという事は相当な騒ぎになっていたのだろう。なんだか申し訳ない気がした。

 

「もう少し強くなりたいですね。精神的な衝撃に。何かいいアイデアありませんか?」

「そりゃー無理だろ」

「バッサリですね」

 

 両手を顔の横に水平に上げ、お手上げって感じにゴールドシップは眼を細めた。

 

「そりゃおめーさ、自分が無理って思うもんになれるかよ。まあいいじゃん? 何もなかったんだしさ。焦らずゆっくりでいいと思うぞ? 性格とかそういうの、変えるのは時間がかかるもんだしよ」

 

 ゴールドシップは珍しくまともな意見で諭した。その意外さにキョトンとしていると、彼女は机に身を乗り出して、対面に座る私の頭をぐりぐりと乱雑に()ではじめる。ゴールドシップはこうして私を時々子ども扱いするときがあるが、不思議とそれが自然に見えた。

 

「そうですね。では、ついでにもうひとつ相談してもいいですか?」

「おお? お嬢サマが相談!? 珍しいなー。厄介ごと2つにして返していいか?」

「ええー……それは勘弁で」

「ジョーダンだよ冗談! で、何だよ相談って」

「ルドルフについての相談になります」

「ほうほう会長の?」

 

 ゴールドシップは目を細めて腕を組み余裕の笑みを浮かべ、うんうんと頷いた。そして紅茶を優雅にティースプーンでひと混ぜして口に運ぶ。

 

「伝説の番組『ダジャレ百連発』に彼女は出たいそうです」

「っ――ゲホッゴホッ はいいいいい!?」

 

 まあルドルフの普段の謹厳実直(きんげんじっちょく)な雰囲気からするとこれは意外よね。あまりに意外過ぎてゴールドシップはお茶を咽てしまったらしい。声をかけてハンカチを手渡すと、彼女は手でありがとうという動作をした後、それで口元を拭った。

 

「サンキュ。ってか何それどういうことだ?」

「最近テレビ取材の打ち合わせをしていたら、ルドルフからそういった希望が出まして。昔から憧れていた番組らしくオファーが来ないかなぁと」

「それお前――」

 

 ゴールドシップは凄く真剣な表情で(うつむ)いた。

 

"――うーん、やっぱりルドルフのイメージ考えたら無茶だったk――"

 

 心の中でそう呟きかけたその時だった。私の隣に素早く回った彼女は膝立ちになり、肩をがしっと掴んで目を合わせる。

 

「お嬢サマは地球を滅ぼす気か!」

「……えええええええ!? え、なんで!? 何でそうなるんですか!」

 

 なぜそうなったのか意味が分からない! 見開いたピンクがかったアメジスト、ゴールドシップの瞳に私の驚いた表情が反射して見える。

 

"――なんで! そんなにルドルフのイメージに合わなかった!?――"

 

 でもそれだけで地球を滅ぼすとかそういう話になる!? 普通ならないよね! 私は全く以てゴールドシップの発言の意図が読み取れなかった。

 

「そりゃ会長のギャグは全てを凍てつかせ氷河期を招くおやじギャグ(エタニティ・ブリザード)だろ! お前まさか気付いてなかったのか!?」

「たまに滑ってるときがありますが、仰るほどでしょうか?」

「おまっマジで――」

 

 耳を垂らしゴールドシップは完全に呆れたように項垂れた。私を見つけると嬉々としてチョッカイをかけてくる彼女にしては珍しい表情。それを受けて私も驚き目を丸くするが、いつもやられっぱなしなので何だか新鮮な気分でもある。

 

「もしかして。お嬢サマ――実はアンタの正体は氷河時代のマンモスなのか!?」

「それウマ娘含むヒト型人類ですらなくなってますよ!」

「じゃあ原人ー! ウッホッホイ!」

「確かに氷河期に居ますし近いけど、えー……」

「とりあえずお嬢サマが相当鈍いってことはよくわかった。マジでそれを叶えるなら、あるぞ? 方法は」

「というと?」

 

 ゴールドシップは呆れた顔をしつつも何か作戦を考えてくれたようだ。若干疲れた顔の彼女は机に両肘をついて手を組み、手に額を乗せている――どこかで見覚えのあるポーズだ。

 

「まあお土産貰ったしこれはサービスしとくか。今の時代は動画配信とかあるだろ? ルドルフとウマチューブのチャンネルでもやって、地道にバラエティ人気を稼いでみ? 多分それで出られるからさ。アタシも既にチャンネルやってるし、何かあれば手伝うぞ」

「ありがとう。凄く助かります! ルドルフが喜んでくれるといいなぁ ふふふ」

「お前ホント会長の事大好きだなぁー」

「ええ。だってルドルフのワガママ聞けるのって、今傍に居る方々ですと私や理事長しかいないじゃないですか」

「ふーん。それだけ尽くされたら走る側も冥利に尽きるってもんだな」

 

 ゴールドシップは微笑みながらそれを適当に流し、私たちはお茶とお菓子を楽しんでいると――。

 

「おーいゴルシーいるか?」

 

 ノックの直後にガラリと横開きの扉を開き入ってきたのは、癖の強い長い鹿毛にゴールドシップと同じ色合いの瞳。制服姿にグレーのニット帽。帽子の穴からお耳がぴょこんと出てるウマ娘――勝負師ナカヤマフェスタだ。

 

「いるぜー。何か用か?」

「ちっと勝負がしたい。大富豪の人数が揃わなくてな。参加しないか?」

「いいぜー。こっちのお嬢サマも連れてくか?」

「それは面白そうだ。いこうぜ」

「え――? なんで私? 午後から仕事なんですけど……」

「お嬢サマが午後出勤の時は15時スタートからだろ? まだ時間あるんだしあそぼーぜ!」

 

 そういって米俵のよう私を肩に抱えたゴールドシップは、ナカヤマフェスタと一緒に大富豪会場まで向かっていった――。

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年 10月上旬某日 午前13時45分――

――学園本館 生徒会長室――

 

 エアグルーヴとナリタブライアンは午後からトレーニング。したがって今はこの部屋には居ない。私は会議用の通信機材をそろえ、生徒会長室の自分の席に座って通信を待っていた。

 

 そして飛んで来た通信に応答すべく、ノートパソコンを操作して応答する。すると――。

 

「――おや?」

『こら! やめなさいオリーブ!』

 

 映っていたのは随分大型のフクロウ――茶色い毛並みにオレンジ色の瞳。そして2本の触覚のような羽角をもったフクロウは、ガシガシとカメラにかじりついている。そしてドアップの顔を披露していた。トレーナー君がいっていた養父のペット、ユーラシアワシミミズクのオリーブ君だろう。

 

 離れるように促されたのもあり、満足したフクロウはカメラから離れた。そして後ろの豪華な止まり木で羽繕いをはじめる。

 

『すいません。大変失礼しました』

『ふふっ。いえ、構いませんよ。夜ですし彼らも遊びたいのでしょう』

『そう仰っていただけると助かります。改めましてGood evening.そちらではGood afternoon.自己紹介は省略して構わないですね?』

『はい。大丈夫です。こんばんは、オルドゥーズ財閥総帥××××殿』

 

 外はねミディアムの"黄金の毛並み"に、深いエメラルドの瞳――アハルテケ由来の血を引き、エメラルドの瞳を持つ半人半バ(スマグラディ・セントウル)の頂点に立つ者。オルドゥーズ財閥現総帥がシンプルだが質の良さが伺える内装を背景に、フクロウの毛が2本ほど散った執務机をはさみ、ゆったりと革張りの椅子に腰掛けていた。

 

 その見た目はトレーナー君聞いていた年齢よりずっと若い。そして、養女の彼女同様に整った容姿をしていた――。

 

『まずは凱旋門賞での勝利おめでとうございます。そして、勝利後に娘がご迷惑をかけ申し訳ないです』

『いえ。嬉しさゆえの事でしたし、ご令嬢が無事で何よりです』

 

 はじめて直接話す財閥総帥の姿勢は低く表情はとても優し気で柔らかい。その雰囲気や面差しはトレーナー君にそっくりで、見知った感覚を受けなんとなくほっとする気がした。

 

『さて、本題に入りましょうか――議題は坂路建設についてでしたね?』

 

 相手方の切り出しで会議は始まる。時折退屈したフクロウのオリーブ君がいたずらをするなどして、場は和みながら意見は大方まとまった――。

 

『これで議題は最後ですね。何か質問や他に頼み事はありますか?』

『大丈夫です。お気遣いありがとうございます』

『では後日正式書面を送らせてもらいます。大体3日後になるかと。ところで――』

 

 これで終わるかと思ったら、財閥総帥は手元で大型のフクロウを撫でつつ、ニコニコと微笑みながら話題を振ってくる。疑問に思い耳を前に向けて謹聴(きんちょう)する。

 

『娘に素敵な髪飾りをありがとうございます。あの子は仕事で相手を威圧(いあつ)する時くらいしか、派手に着飾ってくれません。もっと日本語でいう"着道楽"に走ってくれても私は嬉しいのですが、難しいですね。今回我が子が着飾ってくれた姿をHorsebook越しにでも見れて、大変うれしく思いました』

『彼女の助力もあり二人で得た勝利で私だけで勝ったわけではないです。故にもう少し着飾ってもらいたかったのですが、あれが精一杯でした。そんなにもなのですか――?』

『昔から真面目過ぎる子なんですよ。不安定ながら大人のような立ち振る舞いをする。もう少し子供らしくても良いんですけどね。ははは』

 

 そしてその後、トレーナー君の養父と軽い世間話を交わし、挨拶をして通信を切る。彼女のあの性格や性分は、幼いころからというのだから驚いたものだ。

 

 息を吐きだし立派な布張りの背もたれに、ぐっと身体を預けてくるりと椅子を回しながら天井を見る。

 この後は会議で決まった内容を報告書にまとめて理事長に転送。仕事を振り分けているとはいえ、私にしかできない内容もある。遠征中にテレワークできなかった分を消化するため、今日一日をデスクワークで取っておいて正解だった。

 

 ボーっとした頭で庭を横目で見降ろすと、何やらトレーナー君が皿のようなものを持って徘徊(はいかい)している。

 

"――あれは一体なんだろう?――"

 

 奇妙な光景の理由が気にはなったが後で聞くとしよう。

 しかし、髪飾りをつけただけであれだけ喜ばれることには驚いた。身につけるモノの質は良くても常にビジネスライクな装いなのだろう。

 一度だけトレーナー君が権威を見せつけ実力行使した事はある。しかし、あんな服装をしていたのはあの時以降はない。そして彼女の普段の装いはおしゃれではあるがシンプルだ。

 

"――正月に振袖をレンタルして2人で着てというのも難しいか?――"

 

 休憩がてらコーヒーを淹れるために私は立ち上がり、併設の給湯室へと向かう。

 去年の正月、行き交う者たちにキラキラとした目を向けていた彼女のことだ。きっと全く興味がないわけではない。けれど頑固な彼女をどう説得したらいいだろうか?

 

 頭を悩ませながらペーパードリップ式の器具をセットし、コーヒーを量り入れる。そして水を小さなケトルにいれて火にかけた。

 

"――そうだ。あのアイデアはどうだろうか?――"

 

 両親の代からお世話になっている呉服屋さんが、販路拡大を考え海外展開をしていたのを私は思い出した。その店は押し売りなどはせず、健全な商売をしているし応援したい。私の方にもお店の広告の依頼が来ていた。そしてトレーナー君のHorsebookにはセレブフォロアーが非常に多い。お店の宣伝を兼ねて着てもらえば一石二鳥だ。

 

 きっとそんな理由なら商売人気質で、非常に気立ての良い彼女も引き受けてくれる可能性が高い。彼女は芸能関係者ではないが、肌も綺麗で鼻筋が通っており大粒の宝石のような瞳が大変魅力的。いわゆる"映える"とやらにはピッタリのモデルだろう。そうと決まればアポイントメントだ。私は通信アプリLEADを起動し、お店に連絡を入れた――。

 

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年 10月上旬某日 午前14時30分――

――学園本館 3階――

 

 呉服屋さんに連絡を入れたら是非にとも話がまとまって、コーヒーを味わってからトレーナー君を探しはじめた。アプリで連絡を入れてもよいのだけれど、何となく先ほどの奇行が気になってその真相も確かめたくなった。

 

"――もし着せるなら何色だろうか? 髪色が青みを帯びているし、青……水色を薄くぼかした白も青と緑を引き立てるだろう――"

 

 ダークサファイアの輝きの黒髪に、エメラルドの双眸(そうぼう)には、彼女が産まれ落ちた雪の白がとても似合ってしまう。彼女は髪や瞳に合う青を合わせてしまいがちだが、きっと白をベースにしたカラーリングも似合うだろう。

 

 捕らぬ狸の皮算用。まだ虎穴虎児も得ていないのにと笑われてしまいそうだが、そんなことを考えながら廊下を進む。連絡を入れて待ち合わせてもいいが、気分的に音を探って彼女を探す。敏感すぎる我々の五感はこう言った時に便利だった。

 

 ほどなくして紺色のスーツを着た目立つ髪色のトレーナー君を見つけた。――何故だかホワイトソース? シチューのような匂いを彼女は漂わせている。私は疑問に感じながらも声をかけた。

 

「トレーナー君」

「こんにちはルドルフ。生徒会のお仕事お疲れ様です」

 

 とてもいい笑顔で振り向いてくれた彼女の両手には、なんとラップがかかった皿がひとつ。その中身は――どう見てもホワイトシチューだ。どういうことだと私は耳をくるくると回して考える。

 

「こんにちは。――ところで君は何故シチューの皿を持ってるんだ? 先ほどから中庭の方でもその皿を持って徘徊していたようだが……」

「先ほど生徒さんに誘われてやった大富豪でボロ負けしまして。罰ゲームの内容がシチュー皿を持って校内を回るという"シチュー引き回しの刑"だったんです」

 

 恥ずかしそうにはにかみながら彼女はそう答えた。

 

「シチュー皿を持って校内を回る――それで"市中引き回し"とかけて、"シチュー引き回し"か。あははっ! 随分ユニークなシチュエーションの罰ゲームだ」

「ナチュラルにダジャレ混ぜましたね。いんじゃないんですか? でも、やってるほうは中々恥ずかしいんですよー!」

 

 たしかにタダひたすらに皿を持って歩くだけというのは、奇行だけが目立ってかなり恥ずかしい。仮にも彼女はとても目立つ存在なので余計に異質に見えている。何事かとこっそり耳をそばだてていたウマ娘達は、私たちのやり取りをヤジウマして聞き取り、その奇行に納得したような表情を浮かべている。

 

"――ふむ。大富豪。財閥令嬢……――"

 

 ふと頭に言葉が引っ掛かった。私は腕を組みしばし考えひらめく。パタンと大きく動かしてトレーナー君に即席かつとっておきのこれを披露する事にした!

 

「大富豪で負けるか――それは勝負の風向きが悪かったね」

富豪(ふごう)風向(ふうこう)ですか?」

「ああ。いい出来だろう!」

 

 これは及第点を貰えるはずだ! 私はワクワクしながらトレーナー君の評価を待つ。すると彼女の口元が()を描き勝利を確信した。

 

「いいですね。今日も絶好調そうで何よりですよ」

 

 罰ゲームを恥ずかしがっていたトレーナー君が笑ってくれた。これで気分明るく彼女は午後の仕事に取り掛かれるはずだ!

 

 だが、トレーナー君の肩越しの向こう側――シチュー引き回しの奇行を気にして立ち止まり、状況を見守っていたタマモクロスが、声にならない声をあげ何やら一言を言いたげな視線を私たちに向けていた。

 

 ――何故だろう?

 

渾身(こんしん)のギャグが気に入って貰えてよかった! これで午後もがんばれそうかい?」

「ええ。お気遣いありがとうございます。あと、このシチューは私が食べて言いそうなので、ちょっとした役得感はありますね。ふふふ」

「よく見ると美味しそうだし、恥ずかしいが空腹時には良い罰ゲームかもしれないな? ところでトレーナー君。君に頼みたいことがあるんだ」

「? なんでしょうか?」

「私がお世話になっている呉服屋さんから、広告の話が来ていたのを覚えているかい?」

「ああ、あの話ですね。覚えていますよ」

「それでなんだが。あのお店は海外展開もしていてね。君が私と一緒に着物を着て、Horsebookに投稿してくれたらきっと助かると思う。どうか仕事として引き受けてくれないだろうか?」

 

 トレーナー君に打診すると、彼女は考える間もなく――。

 

「いいですよ。私は芸能面ではただの一般人なので、それ相応のモデル相場で引き受けましょう」

「ありがとう。いいお店だからなんとか応援したくてね。助かるよ」

「ふふ。私としても新しい商売のアイデアに繋がるかもしれません。お仕事のご紹介ありがとうございます」

 

 私の思い描いた通りトレーナー君は色よい返事をくれた。

 連絡先の呉服屋さんも彼女が引き受けてくれるかどうか、とても楽しみにしている。気の良いあのご夫婦に、いい報告が出来そうで思わず笑みがこぼれた。

 どんなふうに着せ替えようか? 想像するだけでとても楽しくなる。妹の服を一緒に選んでいた時のような、まるで童心に返ったかのような気分になる。

 

「では後日改めて日程を決めようか」

「ええ、午後もお互い頑張りましょう。それでは」

「ああ。またね、トレーナー君」

 

 そういって私達は互いにやるべきことに取り掛かるべく、行動を開始した――。




次はレース回になるとおもいます。
できたら1週間半以内にはあげたいかな? といったところです。
それではよいお年を。

変更履歴
寮名が片方脱字。栗東がぬけ美浦寮だけになっていたのを修正。


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ヘ君之後秊三十四『典賞之淀』

 あけましておめでとうございます。
 大変お待たせしました。

 ザックリし過ぎの菊花賞レースプログラム

【挿絵表示】

 国内初長距離です!

 ??????視点の独白の後

 ルドルフ視点から始まり

 ◆◇◇から◇◆◇まで
 スタンドの話がトレーナー君視点

 ◇◆◇からラストまで
 ルドルフ視点です

 それではどうぞ!


 ――背が高いとレースに出られない。

 そう聞かされた時はとてもがっかりしたものでした。

 

 しかし、ルールを変えて下さって競走に出る事が出来ました。

 

 当時は今より交通の便が良くありません。

 そして重くなりすぎた冠により、いとまを頂戴することに。

 

 時代は移ろい、フチュウの景色も大いに変わりました。

 

 そしてついに無敗でクラシック3冠を手にする者も現れた――。

 

 拝啓、四十三年後……否、××の貴方へ――。

 淀の芝はワタクシが走った時のように、重いのでしょうか――?

 

――20××年 11月9日 15時頃――

――京都府 淀城跡公園付近――

 

 

「残り2個。ギリギリでしたねー」

「SNSで評判になると一気に無くなるな。まだあってよかった」

 

 淀城跡地付近のコンビニから出る。

 本日の装いはトレーナー君はいつものスーツに、髪はゆるくクリーム色のシュシュでまとめていた。私は冬服といったところだ。

 11月に入った途端気温が20度台まであがり、京都の天気はグズつきはじめていた。レース前日となる明日の予報は雨。今年の菊花賞は稍重以上の開催が予想されている。

 

 今日はトレーニングは休みで宿泊施設の近所を散歩していた。

 これだけ見ればただの何気ない日常の一幕だが、周りを見回すとテレビカメラにレポーターが幾人か。宿泊所を出たあたりから取材を申し込まれ、所謂密着取材というものを受けている。

 

 そして、目の前のトレーナー君は、今しがた購入した特大肉まんの入った袋を気にしている。きっと温かいうちに食べたいのだろう。

 

「温め直すのは勿体ないな。折角だし食べてしまおうか?」

 

 気を使ってそう告げる。すると満開の山茶花(さざんか)のような笑顔をトレーナー君は浮かべ『はい!』と嬉しそうに返事を返した。

 コンビニの脇の邪魔にならない所に立ち、彼女と私は1つずつ顔面サイズの大きな肉まんを手に取った。

 

 白い紙にくるまれたそれを袋から取り出し、火傷しない様に割ってみる。中からは肉まんのいい香りと共に湯気が立ち昇る。

 

 火傷しない様に少し待ってからひと口かじると、ほくほくした皮とそれにしみ込んだ肉汁の旨味が一気に広がる。

 

「例年より暖かいとはいえ、気温が下がってきたこの時期だからこそ、"温かい物"を食べると"ホッと"するね」

「――"ホット"なだけに?」

「ふふ。ああ、そうだ」

 

 それとほぼ同じタイミングで、目の前のメディアの方々がザワついたような気がした。何かあったんだろうかとも思ったが、それはすぐ収まった。

 

 トレーナー君は手に持った豚まんを熱そうにしている。猫舌気味の彼女には、今すぐかぶり付きたい気持ちと、火傷へのリスクがせめぎ合っているのだろう。目は一気に食べたそうな顔をしているが、食べ方が極めて慎重だった。

 

「美味しいなぁ。やっぱりコンビニっていいですよねー」

「アメリカにも出店しているようだが、やはり珍しいかい?」

「州都を離れると便利なものは無くなります。例え州都にラーメンやお寿司があっても、お高かったり色々と不便なんですよ」

「なるほど。州都は便利とはいえ"舶来"(はくらい)の名店の"把握"(はあく)をするにも大変そうだね」

「その通りです。ふふっ――本日も絶好調そうで何よりです。レースもその調子で頑張りましょう」

 

 言葉が複雑すぎて海外育ちの彼女には滑るかと思いきや、その予想以上にいい反応を貰えた。そして何やら異音を両耳を捉えたので取材の方々を見やる。すると音声らしきスタッフが盛大にこけていた。

 

 ……足元でも凍っていたのだろうか?

 

 それに気を取られていると、今度はトレーナー君から『あ!』っと悲鳴があがった! 何事かと思って彼女を振り向くと――。

 

 まだ半分以上あったはずの彼女の豚まんはなく、ついでに泣きそうな顔をしていた。その原因は落としたのではない事を私はすぐさま察知できた。

 豚まんを奪った犯人の音を捉えて見上げると――トンビが肉まんを鷲掴みにして得意げに飛び去っている。

 

「! 怪我はないか? 賀茂川近辺だけかと思いきや、まさかこのような市街地にいるとはっ!」

「ええ。――肉まんだけさっと取られちゃったので、指とかは大丈夫です……」

 

 トレーナー君は少しずつ食べていたおやつを奪われ、瞳から光が消えるほど完全に消沈していた。あまりの様子に気の毒だと思い、手元の肉まんに目を落とす。割った残り半分はまだ手を付けていないし、冷めきっていない。

 

「――食べるかい?」

 

 残っていたそれを差し出してみる。ぱっと明るくなったが、ゆっくり首を振って彼女は頷かない。

 

「それはルドルフのオヤツだよ? 貰ったら悪いです」

「ふむ、なら」

 

 それをさらに割って、多めにちぎった方を与える。

 

「これなら同じ量くらいだ。先程のトンビが戻ってくる前に食べてしまおう」

「気を使わせてごめんね。ありがとう――いただきます」

 

 受け取って周囲を警戒しながらも、ほっとした顔で食べているトレーナー君。残りの肉まんを口に放り込みつつ両耳でまた音を探る。仲間のトンビを警戒するがそれらしき音は一切しない。一羽でたまたまこの辺りを飛んでいたのだろう。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年 11月11日 15時――

――京都レース場 スタンド――

 

 

 気温は18度。空を見上げれば辛うじて切れ間から蒼穹(そうきゅう)が見える程度。半人半バという消費の大きな身体は糖分を欲する頻度が高い。集中力を切らさない様口に含んでいたリンゴの飴玉をかみ砕いた。

 

 レース場付属の宿泊施設を出た時には雨がパラついていたが、それも今は止んでいる。

 

「珍しくピリ付いているな」

 

 振り返ると白い芦毛に大きな背丈。毎度おなじみイタズラ大好きトリックスター……。

 

 ではなく、赤いフレームのメガネとフカフカした毛並み。そして幅広のウマ耳。右耳に王冠のような金の耳飾りを付けたウマ娘、ビワハヤヒデがそこに居た。あとブライアンも一緒に来ている。

 

 ブライアンが居るのはさぼったわけじゃない。生徒会のふたりが今日仕事を済ませて観戦しに来るという連絡を貰っていたからだ。きっとエアグルーヴもどこかに居るのだろう。

 

 主に食生活について言い争っていることが多いブライアンとハヤヒデだが、このふたりは案外仲が良い。きっとハヤヒデが出かけると知って自分も来たかったのだろう。この日の為に一生懸命準備しているブライアンを想像すると、なんだかほっこりした気分になった。

 

 

「そりゃクラシックの3冠目ですからね! こんにちはふたり共。――あれ? エアグルーヴは?」

「――自分のトレーナーと見るそうだ」

「ああ、東条先輩も来てるんですね」

 

 口に葉っぱを咥えながらブライアンは器用に返事をした。一体どうやって喋っているんだろうか? 腹話術の一種だろうかと不思議に思っていると――。

 

「最も強いウマ娘が勝つと言われるのが本日行われる『菊花賞』。――君が担当するのは、凱旋門とキングジョージで世界のシニア級から勝利をもぎ取った、現在クラシック級最強のシンボリルドルフだろう? それでもまだ君は不安なのか?」

「――ええ。レースに『絶対』はありません。私の仕事は信じることと、抜けが無いか心配する事。それが私の戦い方なんですよ」

 

 ハヤヒデが言うことは最もだった。けれどそれでも私のやる事は『万が一』を考えて抑えることだ。詰めて詰めて詰めて、ひたすらパターンを詰めて。そうやって勝率を上げる事こそが私にとってのトレーナー論だから。

 

「君の辞書に『慢心』の2文字は存在しなさそうだな。よい心構えだと思う」

「ありがとうございます」

 

 本日出るレースは長距離にあたる。ルドルフにとっては初めての距離だが、3000m級のレースを完走できるスタミナが必須といわれる、フランスG1『凱旋門賞』を勝った彼女には十分勝機がある。

 

 ここを勝てば海外含め5冠。凄いウマ娘だとは思っていた。けれど、この戦績は想定を超えている。一体シンボリルドルフはどこまで強くなるのだろう?

 今日も無事に勝てるといいなとか考えていると、ファンファーレが場内に響き始める。私は入場地点に視点を向けた――。

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年 11月11日 15時30分――

――京都レース場 ゲート前――

 

 バ場の一点を見つめ、呼吸を整え精神を統一するルーチンを終え、ゆっくりと瞬きをして息を吐きだした。

 

 この時期にしては高い気温の所為で、中途半端に生ぬるい風吹いている。それがバ場を乾かし、午前中の重は稍重へと変化した。

 私が挑む菊花賞は10R。既に数組以上走った、冬の気配がする(茶色に染まった)ターフからは土の匂い立っていた。湿った風が池の水の匂いを強調し、踏み込むターフからは重たい音が少し響いている。

 

 自分で決めたこととはいえ、レースのローテーションが詰まっている。その状況でバ場が少し軽くなってくれてありがたかった。

 

『雨は上がりバ場コンディションは若干の回復を見せた京都レース場。第10R芝3000m右回り、G1菊花賞は18名の出走です。淀を制し最も強いウマ娘となるのは誰だ!』

 

 若い女性のアナウンサーによって、場内アナウンスが流れ始める。

 

 本日のトレーナー君の注意点は『無理に前に出ずマイペースに走ってよし』であった。

 はじめての長距離走という事で、全員スタミナ切れに注意しながら走る。

 バ場の重さ、私をマークする者が多数だろう。そのためほぼ全員が前残りの作戦を取ると彼女は予想した。

 

 バ群は団子になるか、目の前に壁が出来る可能性がある。無理に外に出して距離ロスを出すくらいなら、内で待機といったものであった。

 

 ただし『ヤケクソ気味に注意』とのこと。一か八かに掛け、とんでもないペースで飛ばしているようならば、そのウマ娘は警戒せよ。指摘内容はそんな所だった。

 

『3番人気はフジミフウウン! 庵原(いはら)の、清見がさきに、朝はれて、富士は秋こそ、見るべかりけれ! 秋の主役はこの子か!』

『2番人気はウエストライデン! 好走が続く秋の昇りウマ娘! 淀を貫くのは彼女の雷霆(らいてい)か!』

『1番人気はシンボリルドルフ! クラシック3冠目もまたこの子が独占していくのか!』

 

 前方に進むと上り坂になっている地面を歩き、ゲートイン――。

 

 クラシック3冠――その栄光まで手が届く位置にやってきた。掛かりかける心を落ち着かせ、スタート体勢を取る。

 

 

『各自態勢整いました』

 

 ゲートが開く音を捉えるために集中する。

 屋根を激しく叩く台風の雨音にも似た歓声が、意識の外に遠ざかる。

 

『――スタートです! 18人全員いいスタートを切りハナを奪ったのは2番ファルコロック、その1バ身後ろにベルマッハが続くが、外まわって16番アローパワーが抜いて2番手先頭を狙う勢い!』

 

 内に近い5番ゲートから出た私は周りの者をまず前に行かせる。

     ひとり

   ふたり 

 34567――。

 

 あっという間に私の前は他の出走者に覆われ、沈み、埋め尽くされた。

 

『先頭から2バ身離れてラッシュソルティ4番手! その内半バ身離れてパミスエデン5番手!』

 

 前半200m(残り2800m)。淀の坂を9割ほど登り切った3コーナー手前の通過は13秒。

 

 "――坂をゆっくり上るセオリー通りのスタートだが、ここからどう出る? ――"

 

 京都の最終直線は東京ほどではないが、約2ハロン(約400m)と長い上に平坦に近い。

 焦らず3000mを3つに割って1000mごとのタイムを出し、中盤1000mのタイムを確認。それから仕掛け時を決めても遅くない。

 

『3コーナーを過ぎバ群は急な下り坂へと雪崩落ちていく! 先頭はファルコロック半バ身リード、外を回ってアローパワー2番手の位置。1バ身半後ろベルマッハ3番手。これを見る様に内ラチ沿いパミスエデン4番手、その外まわって1バ身後ろラッシュソルティ5番手で追走!』

 

 頭の隅で数を数えながら、私は先頭から10バ身以上離れた中団後方の内ラチ側を走り続ける。

 

『おっと下りで勢いづいたか!? 先行集団が団子状態ゴチャついてきた!』

 

 3コーナーの急坂を抜け下りとカーブがゆるくなり、前半600m(残り2400m)の通過は36秒。このままいけば前半1000m(残り2000m)の通過は61秒前後になるだろうか?

 

 私の前にはおよそ10名以上。全員前へ前へと行くものだから、三角形の壁のようになっている。外ラチ側はガラ空き。とても走りやすい。

 

 景色は変わり横右側にはラチではなく、暗緑色の生垣が代わりにお目見えした。そして、塊といっても相違ない先頭は、"かなり勢いがある状態"で4コーナーへ突入。

 よく観察していると大きく広がりながら回った。私も無理せず(ふく)らみながら曲がる。

 

"――4コーナーで先頭を取ろうと揉み合えば今のように『(すき)』は出来る――"

 

 この直角に曲がるような4コーナーは『予習済み』だ。

 

 かつてトレーナー君は私にこんなことを言った――『京都に似た新潟のコーナーを上手く曲がれれば、来年には菊の1等賞が拝めるでしょう』と。

 

 災害クラスの前線が迫る中、不良バ場の中開催されたメイクデビュー新潟。

 下りが無いだけで京都の右側を叩きつぶしたような、急カーブが再現されている。

 

『4コーナーを回ってスタンド正面の歓声がお出迎え!』

 

 頭上の聞こえすぎる耳を貫くように歓声が叩き込まれる――ぐっと我慢だ!

 

 当時は不良での開催かとがっかりした。しかし、それが今ここに経験として血が通い生きている。重以上のアレを経験しているので感覚は掴めている!

 

『人気のシンボリルドルフ先頭から13バ身の内ラチ側の位置! 中団やや後ろから動かない!』

 

"――きっと、行けるはずだ!――"

 

 幼いころ、ただ夢でしかなかったその淡い青写真が鮮やかな色彩を帯びてくる。

 一歩また一歩近づき、その勝利へのグランドデザイン。それとレースプランが並列した思考の中で、克明(こくめい)なものとなった。

 

 スタンド正面中ほどの前半1000m(残り2000m)――タイムは61秒。

 記憶が正しければ、4コーナーからここまで2ハロン、その1ハロン刻みは12秒前後。前はそれほど飛ばしていない。ここにはラビットなど存在しないので、先頭がゴールを狙うなら中盤1000mに息を抜くはずだ。でなければ、力尽き淀の坂に沈む――。

 

 そして足元の(ゆる)やかな下りは終わり、ほぼ平坦といって差し支えない状況となった。

 

『1周目のゴール板を過ぎ、先頭は内ラチ沿いファルコロック2バ身リード。その外からアローパワー2番手まだまだ追いかける! その外まわって3番手オーシャンアビス! ほぼ変わらず内にパミスエデンがこれに並んでいく! ベルマッハ、サーサルトなどバ群が過密気味です!』

 

 ゴール板を過ぎ足元は完全な水平部となる。ここから後半1200m、向正面の上り坂の入り口までは勾配(こうばい)のない道中が続く。

 

『1コーナーのカーブに突入! 半分に切断した正三角形のような先頭~中団までの15名のバ群! 広がり過ぎた子は大丈夫か!?』

 

(↑進行方向↑)

       |内ラチ

     先頭|

    2段目|

  3段目バ群|

4段(内省略)|

      私|

 

 目の前のバ群は渡りを行う鳥のような、三角形フォーメーションで大きく広りながら曲がっていく。

 1コーナーの通過は11番くらいだろうか? バ群が詰まっているから仕方ないからとはいえ、外を回らされた選手の距離ロスは痛いだろう。

 

『1~2コーナーの連続コーナーを抜けバ群は向正面へコマを進める!』

 

 1コーナーを抜けたあたりから数えていたタイムが落ちたのを見計らい、十分にひと息クールダウンを入れ2度目の淀の坂へと体勢を整える。

 

『先頭はファルコロック内側でリードは半バ身! その外1バ身に2番手ラッシュソルティ滑らかなコーナリング! その外3番手ウエストライデンが中団から外を通って一気にアガッてきた!! ものすごい勢いで前を狙っていくぞ!』

 

   マエ前へ、

  マエ前前へ

  前へ、前へ

 前前前前へ!

  まだ待機。

 前には9人――後ろから内ラチ沿いに居る私を外から包み込む様に、さらにバ群が押し寄せてくる。

 

  坂に入る前に良い位置を取ろうとバ群は一気に前に詰まっていく。これを見る様に私はまだ待機を決め込んだ。ここで精神的に(くじ)けて前に出てはいけない。それでいて離され過ぎないよう。いつでもまき直しを図れる状態で追走する。

 

 今回も長距離ということで凱旋門でも使った改・栄養補給法(カーボローディング)をより念入りに行った。そして前半を無理せず進んだため、まだまだ余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といったところ。これなら4コーナー( 4角 )で離され過ぎさえしなければ、十分瞬発力勝負に持っていける。

 

『残り1200! 向正面真ん中あたりを過ぎ、さぁここから3コーナーまで続く淀の坂! シンボリルドルフは中団内ラチ側! これは抜け出せるのだろうか?』

 

"――菊花賞のセオリー通りなら難しいだろう――"

 

 そろそろスタミナ切れで垂れてくる者が出るだろう。そう予想して内ラチを少し開けておく。すると先頭を走っていたファルコロックが下がっていった。

 

『先頭は内にアローパワー、その外にウエストライデンが物凄い脚で駆け上がり、アローパワーをかわし切ってハナを奪った! しかしその外からフォスターソロンがすかさず並んでいく! 坂を上り切る前から激しい先頭争い残り1000mを切りました!』

 

 中盤1000m(残り1000m)の通過は125秒、2分5秒前後。中盤1000mを64秒前後で通っており、前半1000mの61秒に比べ+3秒。

 プランは瞬発力勝負で決まりだ。狙うのは勿論(もちろん)――!

 

 バ群が坂を上り切り足元はまた急な下りカーブとなった。ここで行き脚を使い過ぎてもダメ、それでいて先頭から離され過ぎてもダメ。草原に隠れ獲物を狙う獅子のように、慎重に慎重に前進していく――!

 

 

『残り600ベルマッハ外を回って先頭! その内まわってウエストライデンわずかに2番手! 大外にフォスターソロンが差が無く追走!』

 

 6と書かれた赤と白のハロン棒が視界に横切った――もう何度目かの   あの感覚   (イカヅチが駆け巡る感覚)が両脚、全身を伝っていく!

 

"――今だ!――"

 

 4コーナーを曲がり始めたその時、スポーツカー(Speedstar)のアクセルを一気に踏み込むように加速! 真っ向勝負にでる!

 まず(ふく)らんで空いた2名くらいが通れる間をぬっての3名抜き!

 カーブがきつくなる部分で一旦ふっと力を抜いて小回りを利かせて、植え込みのすぐ横を曲がり切った!

 外にいた幾人かは遠心力で大きくコースを外れてゆく。

 

 スタンド正面を向いたその時前に居たのは――。

 

(←GOAL)

 ライデン

 

       私

 

   ベルマッハ

 

 ライデンとベルの2名のみ! そしてハナまで4バ身!

 

『残り400! 先頭は内を綺麗にまわったウエストライデン! 2番手外にベルマッハ! 3番手はまさかの4角の入り口8番手だったシンボリルドルフ! 内側を綺麗にまわって一気に距離を詰めて来た!』

 

 

 彼女たちの真ん中はメイクデビューよりも広く、綺麗に開いている!!

 坂らしい坂もない! GOAL(獲物)は見えた!

 ならばやる事は1つ――!

 

 一陣の風に乗り、一気にゴール板のその向こう( 幼き日に描いた夢 )へ向かって!

 

『残り200! シンボリルドルフがかわしトップに立った! 外からゴールドロード脅威の末脚で上がってくる!』

 

『ここでまさかのゴールドロード2番手に上がってシンボリルドルフに狙いを定めた!』

 

 私の後ろを中盤までマークしてずっとついて来ていた、ゴールドロードがここにきて急襲を仕掛けてきた!

 

 ――負けられない!

 

 歯を噛み締め、さらにストライドを伸ばし全身全霊を込める!

 しかし相手も迫りくる影のようにピタリと張り付き中々突き放せない!

 

 負けてたまるか! 負けてたまるものか! ここまで来て負けてたまるか!

 

 気持ちに負け振り返れば即奈落! 1バ身以内にまだいる気配がする中ただ只管(ひたすら)に、がむしゃらに駆け抜ける!

 

 

 ――――!

 

 ゴールを切ったのに気付いたのはいつもより遅かった。

 激しく渦巻く歓声と割れんばかりの拍手で我を取り戻し、減速しながら掲示板をチラリとみるとバ身数が表示されている。

 そして一番上に表示された数字は5――私のウマ娘番だ!

 

『やりました! シンボリルドルフ! デビューから10連勝! 無敗のクラシック3冠! そして国内外通算JPG1含むG1、5連勝達成だー!』

 

 観客に手を振りつつ、ブライアンに任せて来たトレーナー君が"また"倒れてないかすぐさま確認した。

 関係者席を確認すると曇天でも輝くダークサファイアの黒髪に、エメラルドの反射光――彼女は泣いているものの無事だ。ちゃんと意識は保っていた。

 私に向けて手を振ってはしゃぐトレーナー君の様子を、ブライアンはやれやれといったようなほっとしたような表情で、葉っぱを咥えて見つめている。

 

 そして、スタンドから発せられる、大瀑布に匹敵する中でもトレーナー君の祝福の言葉がはっきりと聞こえたような気がした――。

 

 

  ◇  ◇  ◆

――20××年 11月11日 22時00分――

――京都レース場 宿泊施設――

 

 寝巻用の赤いジャージズボンに白いダジャレTシャツ姿。大きなガラス張りのホテルロビーのような空間の向こうには、ライトアップされた和モダンな庭園。

 激戦を制しクラシック3冠を達成したこと、ライブの事――様々な要因からくる高揚感。

 

 口に出すのも恥ずかしいのだが、色々あって眠れなくなってしまっていた。

 高まった気分を醒まして眠るため、こうしてひとり庭を(なが)めていたという訳だ。トレーナー君はというと、20分前にLEADで就寝前のちょっとした会話と挨拶をして、今は(とこ)についている。

 

"――今月末には『ジャパンカップ』が控えているというのに、これではトレーナー君から雷を落とされてしまうな――"

 

 年末には有マ記念もある。学園も生徒会も忙しくなる。

 そしてジャパンカップ前々日にも急な予定が入ってしまった。

 体調重視に調整すれば何とかなる。トレーナー君は私の都合をなるべくかなえようと必死に走り回ってくれている。そんな状況で寝不足などと言い出したら、幾ら温厚な彼女でも――タブレットを放り投げて怒るかもしれない。

 

"――まあ、彼女が怒り狂うとしたら『食べ物を粗末にする』ことくらいだろうが――"

 

 それを目撃したのは先月の事。カレーの日にお邪魔して夕飯をごちそうになり、いつも通りトレーナー君の寮に泊まってパジャマパーティーに興じていた際の話だ。

 

 何かの番組で食べ物を粗末に扱っており、不快なのでチャンネルを変えようとした。

 

 その時だった――それを見たトレーナー君の様子が豹変(ひょうへん)したのだ。

 言葉を発したりして騒ぎはしてないが『彼女を本気で怒らせてはいけない』そう思えるほどの威圧感を放っている。あまりの事で理由を聞くと『食べ物で苦労したことがあるらしく、粗末にするのを見ると殺意がわく』とのこと。

 

 確かにそれは行儀のよい事ではないが、彼女の場合その不快感は"殺意”までいくのか――と私は内心(おのの)いた。

 

"――食事を大事にしている姿勢には好感が持てるのだけれどもね? それにしても――"

 

 ――どうして食べ物に苦労した経験があるのだろうか?

 

 赤子の頃から富豪の家で過ごしているのに――?

 

 家庭内の問題は絶対にありえない。先月話をしたトレーナー君の養父は、彼女を実の娘のように可愛がっている。欲しい物は何でも与えたいという溺愛にも等しい状況だ。そんな養父が彼女にヒモジイ思いをさせるとは到底思えない。

 

 おかしい、どう考えても矛盾している。

 トレーナー君は適当な事を私に申し立てる事はあり得ない。一体彼女は"過去"に何を体験したから、そこまでの怒りを感じるようになったのだろうか?

 

 庭を見渡せるようロビーに配置された2人掛けのゆったりしたソファーに背をもたれる。そして天を仰ぐように上を向いた後、息を吐きだして正面を向く――。

 

 その時だった――。

 

「うわぁ!?」

 

 首に冷たい何かが触れた。私が耳も尾も逆立てて驚くと、聞き覚えのある笑い声が聞こえて来た。

 

「いえい! イタズラ大成功です」

 

 匂いの時点でわかってしまったが振り向く。私と似たようなジャージに、プレゼントしたダジャレTシャツを着たトレーナー君が得意げに胸を張っていた。

 

 このところ、出会った頃よりもんどんお転婆さも増してきている。そんな姿に(あき)れて頭を抱えていると、彼女はちょこちょこと寄って来て私の左隣に座った。

 手には未開封のよく冷えた"白に青の水玉柄の乳酸菌飲料"持っており、目の前のモダンなガラステーブルに置いた。

 

「寝ない子はトリック&トリック。どう? 思いっきり冷やしてピタっとしてみたんですが、びっくりしましたか?」

「ああ、驚いたよ――君こそ寝たんじゃないのかい?」

「寝ようと思ったんですけど、来たことが無い施設を冒険したい気持ちが上回りまして」

 

 それでは私の事を咎める資格はないじゃないか!

 首にわざと冷たくした手を当てられ、してやられた私は――。

 

「ほう? 君は先ほど"寝ない子には"といったね?」

「――あ。もう寝ます」

 

 逃げ脚質は使わせない!

 危険回避しようとしたトレーナー君のクビを左腕でヘッドロック。ジタバタと暴れるトレーナー君をしり目に、乳酸菌飲料の缶で手を思いっきり冷やす。

 

「では、遠慮なくトリックを返させてもらおうか!」

後生(ごしょう)です!」

問答無用(もんどうむよう)!」

 

 缶をテーブルに戻し思いっきりトレーナー君の背中に右手を突っ込んだ。声にならない叫びをあげ、ジタバタと3秒ほど暴れた。そしてその後、(しめ)られた魚のように彼女の動きが止まった。

 

 ヘッドロックを解除して離すと、トレーナー君はすぐさま異議を申し立てて来た!

 

「ひどい! 1歳年上の身体に冷たい洗礼を浴びせるなんて」

「それはこっちのセリフだよ。第一、最初にやったのは君だろう?」

 

 ちょっとだけ笑いが(にじ)んだ表情から察するに、これは本気で怒ってない。明らかなフリなので鼻で笑って返し、左手の人差し指でツンとおでこを突く。そして勝手に飲んだら絶対に許してくれない気がしたので、乳酸菌飲料は没収せず返却した。

 

 

 目の前でごめんなさいと謝る彼女に、『こちらも面白かったから気にしないでくれ』といって、返す中――――そう言えば、出会った頃よりも彼女の喜怒哀楽は確実に豊かになっている。

 

 そんな気がした――。




 勝利後、指でやるあの決めポーズは海外勝利数含めると色々変わっちゃう。それはなんかおこがましい気がして無理だったので、本数はご想像におまかせします。


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『20XX-4』JAPANCAP【前編】

 大変お待たせしました。
 13日夜投稿出来たらよかったんですが、14日深夜にズレました。
 (待ってた方ごめんなさい)

 ダービーと同じ府中なんでコースは省略。出走表はこちらとなります。

【挿絵表示】


トレーナー君視点からはじまり、
◆◇◇から◇◇◆までルドルフ視点
◇◇◆以降がトレーナー君視点です

それではどうぞ


――11月23日 午後12時30分――

――トレセン学園 カフェテリア――

 

 

 本日のルドルフは有マに関する打合せで昨日から外出中。

 

 こちらの段取りは全て終わった。

 やる事も無いのに私が出勤しているのは、メディア担当課からの情報をまとめていたから。あとはルドルフにスケジュール打診するだけ。

 

 恐らく前にいた世界で『馬』にあたるウマ娘達。彼女たちはレースという競技だけでなく、ライブや人気稼ぎもしなければならない。

 つまるところ、アスリートと芸能界が融合したような業界にいる。これがスポーツだけだったら、今よりもルドルフや私の負荷は軽かっただろうなと思う。

 

 カフェテリアへ近づくにつれいい匂いが漂ってくる。そして、その途中売店の前を通過すると――。

 

 売店内とその周囲には――ウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマウマ。

 

 菓子パンを求めるウマ娘だらけ。目当ての品を目掛けて突撃するウマ娘達と、それを上手く誘導して販売する熟練店員。ぼーっとしようものならば、圧倒的フィジカルの差で吹き飛ばされる危険がある。

 

『よっしゃあああああ! 焼きそばパンゲットおおおお』

『あーもう! わかったから耳の近くで騒がないでよ!』 

 

 ゴールドシップは目当ての特大焼きそばパンをゲットして上機嫌で大はしゃぎ。しかし、その声が一緒に来ていたトーセンジョーダンの耳には響いたらしく、彼女から文句を言われている。

 

 昼休みのここはいつもこんな感じだ。そんな戦場と化した売店内外を横目にぼちぼち歩いていく。

 

 次のレースは中1週ジャパンカップ。

 ルドルフが勝ちたがっているレースのひとつで、彼女が私を見初めた切っ掛けのレースだった。今の所健康上の問題もなく、昨日のメディカルチェックの結果もいい方。

 

"――ファシオからタイムオブスリープはG1クラスだから気を付けてねと釘を刺されたし、クラウンプリンスは今年だけで米国G1を3勝。未だにピークを過ぎていない――"

 

 海外勢ならこの2人が面倒そうだ。

 そして私がいない間、学園の様子を見てもらっている護衛の子達に意見を伺った。彼女たちは競技にこそ出ないけれどウマ娘。それも私について回った事で、アメリカの一戦級のウマ娘を見ていて目が肥えている。

 そんな護衛たちからは『国内の出走者を気にするべき』と意見を貰った。意見として挙がったのは『ミスターシービー』と『タカオハリエース』この2人。シービーは菊花賞も勝って今年の秋天をレコード勝ち。タカオハリエースはそのレコードタイムの秋天5着だったが、何やら動きがある気配がするという。

 

 ――タカオハリエースと彼女のトレーナーは何か考えているのかもしれない。

 

 秋天は5着だがローテーションも丁度いい。話を聞いてグランドを眺めて敵状視察もしたが、どうも調子が良さそうだった。前目のレース展開中心、中距離の成績は悪くないので要警戒だ。

 

 考えている内に今度こそカフェテリアが見えてきた。

 

"――今日のおすすめは……牛すじとキノコのデミオムライスか――"

 

 黒板を2枚合わせたような小さな看板には、今日のおすすめメニューが書かれていた。

 今日はデミグラスで煮込んだ牛すじとキノコソースが掛かったオムライスらしい。秋にはピッタリのメニューだ。無料の発券機で定食メニューの食券を注文し――。

 

「おすすめ定食下さい」

 

 そう言っておススメ定食券を渡して半券を貰い、サラダなどをお盆に乗せていく。

 温かい麦茶のコップをお盆に乗せたあたりでオムライスは完成していた。それを受け取ってカフェテリア内を見回す。

 

 空いているのは窓際にある対面式のテーブルの端っこ。そこに決めて外が見える様に着席する。

 

「いただきます」

 

 ひとりだけど食事前にきちんと一言入れ、皿の上に目を落とす。そこにあるのは人間の女性が食べる量の5倍くらいはありそうな、ラグビーボールとほぼ同じサイズのオムライス。

 

 その上に細く切ったタマネギ、マッシュルームやシメジなどが入った、茶色いデミグラスソースが全体にかかっている。そしてアクセントで白い生クリームが筋を描き、刻まれたパセリが散らされていた。

 サラダはポテトサラダと海藻サラダ、そしてトマトを丼ぶりくらいのサイズのボールに1杯。

 

 レース前は食欲をなくすことが多いのだけれど、今回はまだリラックスできているらしい。きちんと食べられそうだった。

 

 大き目のスプーンで端っこから切り取り、中のケチャップライスごと掬う。あまり乗せ過ぎると口の周りが汚れるので、一口サイズに収めて口に運ぶ。ケチャップライスのコンソメの旨味とアクセントのレモンの酸味、デミグラスとタマネギのコクの後にキノコの触感と玉子の甘み。

 そしてまろやかな生クリームを感じた所で、パセリの香りがそれを引き締める。噛むたびに程よく煮られた牛筋の旨味がいっぱいに広がる。

 

"――日本に来て一番いいと思ったのはやっぱりこれだなぁ、ご飯――"

 

 前に居た世界は環境的な問題とか諸々重なると、食卓の上がサプリメントとエナジーバーになる事もあった。それが1ヶ月続くのだから栄養が満たされても心が荒む。

 実際問題あの子が食べている草が美味しそうに見えて、かじる位には病んだことがある。その所為か食べ物を粗末にしている光景を見ると妙に腹立たしくなる。

 

 私は食い意地が張ってる訳ではない。食べ物が大好きなだけだと自分に言い聞かせ、また食事に没頭する。

 

 この世界は本当に素晴らしい。そして、こんなに沢山食べても太りにくいのだから、本当に便利な身体だ。

 

 自身が今人生で最も恵まれている事に感謝しながら、9割くらい食べた所で、何の気もなしに外をみる。窓から見える噴水のある中庭には、芝の上にシートを敷いて食べているウマ娘達が沢山いた。

 

 その中にはヒシアマゾンとブライアンが、珍しく一緒に食事をしているのも見受けられる。

 ブライアンはヒシアマゾンに野菜を勧められて、ちょっと嫌そうにしつつもそれを食べていた。そして肉が大量に挟まっている、大きなサンドイッチにかぶりついている。なんだか微笑ましい光景だ。

 

「空いているかい?」

「どうぞ」

 

 窓から視線を戻す前に反射的に言葉を返してしまった。まあ、誰が居るのか想像に難くない――少し低いこの声は多分ハヤヒデだ。

 

「外に珍しい物でもあったのか?」

「そうですね。野菜を食べさせたいヒシアマゾンVSお肉しか食べんぞナリタブライアンの偏食攻防戦が見えました」

 

 私の対面にメガ盛りニンジンハンバーグのお盆を置いて、ゆったりと座ったハヤヒデは振り返って窓を見やる。――そして呆れたようにため息をついた。

 

「また好き嫌いをしているのか……」

「なんというかお肉命ですよね……」

 

 ビワハヤヒデの妹、生徒会副会長――ナリタブライアンはお肉が大好きだ。

 そして野菜が苦手。ブライアンの健康面を心配するハヤヒデは、工夫して野菜を摂取させようとしているようだ。

 

「――正直お手上げの状態だ。そこでだ。もし可能ならば、君に頼みたいことがあるのだが?」

「何でしょうか?」

「ブライアンの野菜嫌いを治すいいアイデアを考えてくれないか?」

「断固拒否って感じですし、何をやっても無理だと思います……」

「そこを何とか」

「えー……」

 

 そう言ってハヤヒデの方に視線を合わせたその時だった!

 

 ――!?

 

 食べ終わって芝の上にゴロンと寝転んでいたブライアンは起き上がっていた。しかも、両耳と顔がこちらを向いた状態で眼力を飛ばしている。私が庭の様子を眺めていたように、姉の姿を見かけた彼女はこちらを気にしていたのだろう。

 

 

 姉の頼みごとを絶対引き受けるな! わかってるな! ――そんな感じで私に物凄いオーラを放っている。

 

"――ちょっ!? これ引き受けたら絶対詰むパターンじゃないですか!――"

 

 肉食獣に睨まれたウサギのように私はブルリと震えた。

 嫌な汗がダラダラと背筋を伝って流れる。私は以前ブライアンに『姉とアマさんから野菜を押し付けられない方法』をブライアンから打診されており、そう言うのは姉妹とか友達間の問題だから難しいとした。

 

 代わりに『最低限の野菜を食べ、肉類からそれ以外の必要栄養素を補うプラン』で妥協してもらった経緯がある。

 

 これはどうしたものかと悩んでいると――。

 

 ――うまうみゃ!

 

 通信アプリLEADの通知が鳴った。ハヤヒデに断りを入れてスマホを開くと――。

 

「――!?」

「どうかしたのか?」

「え、ああ――ごめんなさい。ルドルフに呼ばれました。ご相談はまた後日でもよろしいですか?」

「構わない。君たちが描く明後日のレース、期待しているぞ」

 

 ルドルフから届いたメッセージ内容は、何度も見たあの悪夢とはパターンを変えて同じ結果を招いていた。夢の内容では疲労からくる体調不良だったはず。

 

 だからその芽を確実に摘むため、夏からずっと彼女の体調を気に掛けていた。

 

 足早にカフェテリアを後にして、護衛に行先の連絡を入れ待機している運転手に連絡を入れた。

 

"――あの内容は定められた運命とでもいうの! そんなの理不尽でしょ!!――"

 

 胸中は思いっきり泣いて叫んでしまいたかった。どうしてこうもタイミングが悪いんだと! あまりの理不尽さに怒鳴り散らしたくなる。

 

 どうして、どうして! 夢ですら何度も違う方法を試しても、同じ結末がやってくるのよ!

 万全だと思っていた。けれども避けきれない最後の罠が私たちに襲い掛かってきた。悔しさで歯を鳴らしつつ、私はローターリーでリムジンへ乗り込みルドルフの居る場所へと向かう――。

 

 

  ◆  ◇  ◇

――11月23日 午後13時30分――

――都内某病院 個室――

 

 今日はURA側と打ち合わせを行って、その帰りに外食をして学園に帰って軽めの調整を入れる予定だった。

 しかし、運悪く立ち寄った所で食べたものに当たってしまった。原因は責める気にもなれない些細なミスだった。他のお客さんにも重大な被害はなかったようで、私からお店の方には再発防止に努める事を約束してもらい帰ってもらった。

 

 トレーナー君はというと、連絡を入れてすっ飛んできて、先程から私の手を握って項垂(うなだ)れている。

 

「防ぎきれなくて、貴女を守れなくてごめんなさい――」

「君が謝る事じゃない――。これは偶然が重なっただけで、誰も悪くない」

 

 気怠い身体をベッドの操作ボタンで起こし、トレーナー君を見やる。

 

「――明後日のレースですが」

「それについてはそのまま出る」

「いいえ。だめです!」

 

 ぱっと顔を上げて濡れたエメラルドの双眸を見開いたトレーナー君は、何を考えているんだと言わんばかりに私を止める。

 

 ――これは当たり前の反応だろう。彼女は絶好調とは言えない状況の私をレースに送り出すような鬼畜ではない。何かあってからでは手遅れだからという判断だろう。

 

「君の意見は最もだ。気を使ってくれてありがとう。でも、――私は行かなければならない」

「しかし!」

「――私は挑戦者から逃げるわけにはいかないんだ――頼む! これは私にとっての誇りの問題なんだ。私との戦いを見にくる観客だって待ってる。絶対に無事帰ると約束するから。お願いだ」

 

 そういって片手を握っていた彼女の手にもう片方の手を添えてまっすぐ見つめる。彼女は息を飲んだように目をさらに見開いて、ため息をはいた。

 そして、少し目を伏せた後、ゆっくりと(まぶた)を開き――。

 

「……わかりました。何が起きても私がすべての責任を取ります。――気にせず戦ってきてください」

「ありがとう――こんな辛い決断をさせてすまない」

 

 握った手や声からは彼女の恐れが伝わってくる。

 今にも泣きだしそうなトレーナー君の頭を、握られていないほうの手でポンポンと撫でて落ち着かせる。

 

「メディアへの発表は問題なしとしてくれ。恥をさらしたくない」

「わかりました。――できるだけ伝わらない様にこちらで手配します」

 

 英国で見たあの夢に出てきたウマ娘のように、今の私は同じ立場になってしまった。

 不便な移動での疲労困憊、慣れない異国での生活から身体を崩した彼女も――こんな不安な気持ちの中で戦っていたのだろうか――。

 

  ◇  ◆  ◇

――11月25日 午後15時10分――

――東京レース場 ゲート前――

 

『東京レース場第10Rは芝、左回り2400m。快晴に恵まれバ場は良となりました。今年は日仏英米伊独加新8カ国からの参加者が集い、14名の選手の中から勝利を手にするのは誰だ! スタンド前には新設の大型ターフビジョンも備えられ場内の熱気も最高潮です!』

 

 いつも通り精神統一を済ませた直後だった。

 飄々とした軽快な男性アナウンサーによる実況が場内に流れ、歓声が一層大きくなる。

 

 日本からの参加者はシービーと私の3冠ウマ娘が2名、桜花賞ウマ娘ディアナソロン、宝塚グランプリウマ娘タカオハリエース。

 

 海外バはアメリカのクラウンプリンス、イギリスのタイムオブスリープの2名を要警戒。

 国内はタカオハリエースの陣営は、何か考えがあるかもしれないから警戒せよ。様子が違うとトレーナー君からは助言を受けており。その情報が当たっているのか、耳に覆いがしてあるなど集中しやすい工夫が施されている。そして何より、タカオハリエースの表情は今までにない余裕がにじみ出ていた。

 

 勝利予想投票の人気順位は私が4位。

 どこからか不調の噂が流れそれが響いたのだろう。それでも私が勝つと信じてくれたファンのために、この状況でも勝ちに行きたい。

 

 ――出るからには勝つ!

 

 先にゲート入りして人気上位3名を待つ。

 

『3番人気はアメリカのクラウンプリンス。年内3冠の絶好調! 通算6冠目達成を狙っていく!』

『2番人気はイギリスのタイムオブスリープ 実力は英国G1級との噂だがどうなる?』

『1番人気は前年度日本クラシック3冠ミスターシービー! 今日もド派手に決めてくれるか!?』

 

 私の横には凱旋門賞で一緒だったフラウラロードが同じ7枠にゲートインしている。彼女とちらりと目が合ったが、お互いレース前なのでそのまま前を向きスタート体勢を取る。

 

 

『各ウマ娘揃ったところで――スタートです!』

 

 茶色いターフ蹴りスタートを切る。まず真っ先に出てきたのは、フラウラのさらに内に居た"タカオハリエース"だった。

 

『1コーナー手前、先陣を切ったのは10番タカオハリエース1番手! その1バ身後ろ6番アメリカのヴィクトリー2番手、その内差がなくフランスの2番ノースハート3番手!』

 

 スタンド正面残り2200m(テンの200m)のタイムは13秒。全員様子見して進んでいる。

 

『ヴィクトリーの外半バ身後ろ、14番オーストラリアのプレシドゥーホーク4番手で続きます! さらにその半バ身後ろの外を回って12番シンボリルドルフ5番手で追走! その内に11番オーストラリアのフラウラロード6番手!』

 

 凱旋門賞でも共に戦ったノースハートとフラウラ、そして私も前目のレース運びをし、バ群は1コーナーへ。

 

(GOAL↑)

 

内|タカオハリエース

 |

 |

 |ヴィクトリー

 |

 | ノースハート

 |  私

 |タイムオブスリープ

 |クラウンプリンス

 |フラウラロード

 

  タカオハリエースが単独で飛ばし2番手に3バ身ほどつけている。

 2番手は内にヴィクトリー1バ身後ろ外にノースハート。そして私の斜め後ろ内側にはタイムオブスリープが見切れている。

 

 ――マーク先は私だろう。

 

 先頭のタカオハリエースは逃げ戦法のようだ。――あまり離され過ぎると追いつけなくなる。かといって仕掛け所が難しい。

 

 残り1800m(テンの3ハロン600m)、1コーナーを入ってすぐ。向正面まで続く緩やかな下りカーブのはじまり辺り。その1ハロンごとの通過タイムは12~13秒刻み。

 

 ここからわかるのはタカオハリエースがゴールから逆算し、計画的に逃げているという事だ。

 

"――どちらをマークにするべきか――"

 

 先頭のタカオハリエースは2コーナーに突入し、2番手を5バ身、6バ身とどんどん差をつけている。この様子を見てタイムオブスリープが内ラチ沿いに上がっていく。

 

『6番手クラウンプリンス! 外を回って半バ身後ろ7番手フラウラロード冷静に前を伺っている。その内半バ身ほど下がりウェルネライトが8番手。その外をまわってプレシドゥーホーク。内にバルバロッサ、その外アクティニディア団子状態!』

 

 残り1400m(テンの1000m)の向正面のペースを見てからでも遅くはないだろう。

 内側のタイムオブスリープを先に行かせ、先頭が16と書かれたハロン棒を通過――残り1800m(テンの600m)から残り1600m(テンの800m)のハロン間通過は12秒。

 

『団子の大外からアドバンスドが一気に前を狙っていき。3バ身程離れディアナソロン13番手。そこから3バ身後ろ殿(シンガリ)にミスターシービーが眠れる獅子のようにじっと構えている』

 

 そして2コーナーを抜け向正面へ。先頭から2番手まではおおよそ10バ身以上。先行集団から中団までが、後ろを警戒していてハイペースに見えているだけだ。レースプランを描きながら距離を保って進む目の前のバ群は縦長だった。

 

『テンの1000m61から62秒といったところ。先陣をゆくのはタカオハリエース、リードは6バ身!』

 

 スローだ。ここから息を入れて脚を残し、最終直線になだれ込むつもりだろう。スローならば瞬発力勝負が有利だが、相手は今年の宝塚ウマ娘。宝塚記念ではアガリ1000mを平均12秒台で走る先頭にピタリとスタートから2番手の位置で張り付いていた。その状態でゴール前で加速して優勝している。

 その時もスローだった。距離延長はあるとはいえ前残る実力はあるはず!

 

『2番手ヴィクトリー! その2バ身後ろ3番手ノースハートが好位追走!』

 

 外回りでスタミナのロスが気になるが、これだけ縦長なら何とかなる! そう思いたい!

 下りが終わり足元からは急な上り坂に変わる。向正面の真ん中を通過し残り1200m(12のハロン棒)のタイムは1分13秒。まだ12秒刻みで走り続けている!

 

『その1バ身後ろ4番手アドバンスドがまき直してアガッてきた! ほぼ差がなく内にタイムオブスリープ、大外にシンボリルドルフ激しい競り合い!』

 

 ターフを鋭く切り開く様に逃げコーナーを決めて進むタカオハリエースが、3コーナーに突っ込んでいく。

 そして残り1000m(10のハロン棒)を通過は1分26秒!

 

"――差は13秒コーナー手前でひと息入れたな!――"

 

 8ハロン棒(残り800m)を通過。体感で12秒、タカオハリエースは突き放しにかかっている!

 3コーナーを抜け4コーナーまでまではほぼ直線!

 

"――動かなければ!――"

 

 数えるのをやめて抜け出す準備をはじめると――!

 

『先頭まで20バ身以上ミスターシービー間に合うか! おっとここでイギリスのタイムオブスリープ動いた! シンボリルドルフも続いて動いたどうなる!』

 

 すぐ前を走っていたタイムオブスリープが先に動いた! 前へ前へと詰める中、4コーナーの入り口でやや外目にモタレたヴィクトリーの内の隙間。そこをタイムオブスリープは突いて上がった! ノースハートも最内を通りまだ食い下がっていこうとする。

 同じように最短を内でついていけばスタンド正面を向いた時に面倒だ。ヴィクトリーのすぐ外をまわって追い始める!

 

 内にノースハート、ヴィクトリーを抜き、タイムオブスリープの半バ身後ろを追走。

 

『残り600! 先頭は依然タカオハリエース! まさかこのまま逃げ切ってしまうのか!』

 

 そのまま正面入り口の曲率のキツイカーブへと向かう!

 2番手の内側につけたタイムオブスリープはインに切り込み、私は少し外をまわる!

 ふたりと真っ向勝負に出た!

 

(GOAL↑)

 

内| タカオハリ

 |

 |タイム   私

 |        ヴィクト

 |

 |アドバンスド

 |

 

 コーナーで差を詰めやっと背中が間近に見えた!

 タカオハリまであと半バ身――!

 

  ◇  ◇  ◆

――11月25日 午後15時22分前後――

――東京レース場 スタンド――

 

「頑張って! ルドルフ頑張れ! あと少し!!!」 

 

 心配ではあるがルドルフを信じて私は声を張り上げた!

 担当になってから今一番必死に応援していると思う。凱旋門賞の時よりも、キングジョージの時よりもずっとずっと必死に声を上げた。

 

 のどの痛みが走るも、産まれた時のあの時よりも。どうか彼女の望みが叶うように私は音を目いっぱいこの世界へと叩きつける。

 

 坂を上がってもタカオハリを頂点に内にタイムオブスリープ、外にルドルフとほぼ横並びでデットヒート。

 そして外からはアメリカのクラウンプリンスが物凄い末脚で上がってくる!

 

『残り200を切った! 先頭はタカオハリ! タカオハリエース先頭! タイムオブスリープ、シンボリルドルフ両者ほぼ横並びでここに喰らい付く! 3者3つ巴どうなるこれは!』

 

 首からかけていた双眼鏡を手放し柵に両手をついて身を乗り出し、目を見開く――。

 レース場の喧騒がフェードアウトし、心音だけがうるさく響くが、掴んで投げすて追い出す様に頭から無理やりその思考を投げ出した!

 

 残り100――。

 

 

  タカオハリエースは振り払うように頭を振った後、突き放しにかかり――

 

  ――1/4

 

   ――2/3

 

     半バ身――――。

 

 どんどん引き離されていく――!

 

 しかし、ルドルフの目が一瞬ギラりと強く輝き、タイムオブスリープも魂を燃やし尽くすような様相へと変わった――!

 差し返したふたりとカツラギエースは

 

GOAL|タイムオブ タカオハリ ルドルフ

  |             クラウン

  |    

  |アクティ ヴィクトリー フラウラ      

  |

  |

 

 3者横並びでゴールイン!

 

「ちょっとどっちよ!! 誰が1位よ!」

『シンボリルドルフさんが1位だよね! ねぇ!!』

『気持ちはわかるけどテイオーちゃん、落ち着いて!』

 

 関係者席の柵越しに隣同士で見ていたトウカイテイオーが悲鳴のような声をあげた。保護者としてついてきた彼女の母親がたしなめる様な声を上げるも、視線は掲示板に釘付けだ。

 

 5着争いも団子状態――掲示板にはタイムとバ場状態だけ。やっと灯ったと思ったら今度は『写真』の表示。場内は混迷を極めている。

 

「――見えたか?」

 

 ブライアンは掲示板を見据えたまま結論を尋ねてきた。私は否を示して首を振る。

「さっぱり……エアグルーヴは?」

「わからん。タカオハリ先輩なのか会長なのか、それとも――」

 

 タイムオブスリープ――イギリスのウマ娘なのか――

 



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『20XX-4』JAPANCAP【後編】

 続きです
 トレーナー君視点からはじまり、
 ◆◇◇からずっとルドルフ視点です。


――11月27日 午前5時――

――トレーナー寮 405号室の角部屋――

 

 洗面台の前で髪を首の後ろでひとつに縛り、シュシュでとめる。

 浴室前のランドリールームを出て、玄関の長い鏡で身だしなみをチェック。玄関の隅に置いておいた、タブレットの入ったこげ茶色の革製ビジネスバッグを肩にかけると――。

 

 ――寝起きが苦手で朝は弱いはずのルドルフが、眠そうにしながらリビングから出てきた。

 

「いってらっしゃい。帰りは何時頃になるんだ?」

「うーん。業務量がちょっと多いっぽいから20時くらいになるかも。作り置きとか冷蔵庫や鍋にあるので、きちんと食べてくださいね? お昼と夕方にまた具合を見に来ますから」

「ありがとう。――気を付けて」

「ほいほい。ではいってきまーす」

 

 玄関を出て合い鍵は渡してあるので戸締りをし、エレベーターではなく階段へと向かう。

 

 2日前のレース後から『気持ちを整理したいから部屋を貸して』とルドルフは私に頼んできた。

 学園に帰って来てからはトレーナー寮に泊まっている。

 

 ――まあ、帰り辛いよね。

 

 ジャパンカップの結果はハナ差の負け。

 それも写真をドアップにしてやっとわかるほどの差の3着――惜敗だった。

 

 ルドルフの体調不良がニュースになってしまい、彼女の両親からの連絡もあった。『娘の体調は?』と――。

 

 ライブが終わり次第行ったメディカルチェックの結果は"食当たり"が尾を引いていた。

 まず、体調不良は数日以内に回復するという見通しと状況を伝えた。

 そして不調で出走許可を出したこと、自らの不肖を詫びた。経緯を聞いたルドルフの両親は、ただ――『娘の力になってやってください』など、(はげ)ましの言葉を向けてくれただけだった。

 

 階段をゆっくり降りてマンションの玄関前とたどり着く。そして見上げて自分の部屋をしばらく振り返ってから、学園本館へと足を向ける。

 

 まだ薄暗い晩秋(ばんしゅう)の夜明け前の道。白い息を吐きだしながら、手をトレンチコートのポケットに入れて進む。

 

 まずルドルフが何事も無くて良かったのが一番だ。

 

 ――だけど。

 

"――悔しいな。本当に悔しい――"

 

 私以上にルドルフは今そんな気持ちなんだろう。

 昨日の親御さんの話だとトレセン入学前から、レースも座学も彼女は負けなしだったそうだ。

 

 つまりジャパンカップが彼女のキャリア上初の挫折というわけだ。それで目に見てわかるほどに落ち込んでいるのだが、私は慰めの言葉をかけることは出来なかった。

 

 ルドルフみたいな理想を求めるタイプは、挫折(ざせつ)した際に(なぐさ)めをかけ過ぎれば逆効果となる。

 安易な同情やは、向上心が高い者にとって侮辱的(ぶじょくてき)な気分を与えてしまう。良かれと思った言葉は薬にもなれば毒にもなってしまう。よくある事だ。

 

 ――そして、こんな時だからこそ、傷口をなめ合うなんてことをしたくないだろう。それは余計にみじめになるだけだから。

 

 誰かと接する上で、何が正しいかなんては一様には語れない。そして相手に合った最適な接し方を探るのも大切な指導技術のひとつ。それがひとりの選手を立派に育てるという意味で難しい所でもある。

 

 今回はルドルフ本人が何か投げかけてくるまで、私は待ちの姿勢を決め込もう。

 彼女の今の状態は心配ではある。けど今後を考えるならば、ここで自らの脚で立ち上がってくるのを見守らねばならない。

 

 そしてこの魂と記憶で生きた年数だけ言えば私は老齢だ。

 しかし、はっきりした情緒(じょうちょ)や個を獲得してから刻んだ時間を考慮するとまだ未熟な存在。そんな私によるこの判断が正しいか、そこに不安な点が無いとは言えなかった。

 

 けれどこれは必要な事。そう弱気になりそうな自分に強く言い聞かせる――。

 

 ふと前の街灯の下に反射タスキの煌めきが見えた気がした。その軽く走るような足音は近づいてきて――。

 

「おはようございます。朝早いんですね」

 

 声をかけて立ち止まってくれたのは明るい栗毛が印象的なウマ娘、サイレンススズカだった。東条先輩から走るのが好きで大変だと聞いてはいた。しかし、まさかこんな早朝に走っているのかと私は目を見張った。

 

「おはようございます。ええ、まだこちらに来て2年目ですから。――スズカさんは朝トレですか?」

「ええ、朝の空気はいいですね。どうしても走りたくなってしまいます」

「爽やかな1日スタートって感じで良いですね。お気をつけていってらっしゃい」

「――はい! では」

 

 会釈をしてサイレンススズカは走り去っていった――。

 

 誰も居ない学園の中を進み、総合トレーナー室にたどり着く。

 

 事務机の並ぶその部屋の電気をつけて窓を開ける。

 吹き込んできた風が両頬をすり抜け屋内へなだれ込み、息を白く染め上げた。

 

 そしてコートを脱いで自分のデスクに軽く畳んで置き、併設の給湯室に入る。空にして干してある電気ポッドに水を溜めて所定の位置に置きボタンを押す。

 

 その間に床を掃き()ごみ箱の前へ、ゴミ捨ては用務員さんが夜中にやってくれているので中身は空っぽだ。そこにチリ取りを傾けて終了。

 

 掃除用具を片付けて、ホコリ交じりの空気が流れきったタイミングで窓を閉める。そして暖房のスイッチを入れた。

 

 ――時刻は5時半。早い先輩や教官はこの時刻から来始める。

 

 お湯が入っている事を確認するのもかねてカフェオレを淹れて、自分のデスクに戻って端末と資料をセット。メディア担当課で整理され、こちらで最終判断を下さねばならない業務から、まず片付けることにした。

 

 仕事を捌き始めてから20分ほどが経過したくらいだろうか? 横開きのドアが開いて誰かが入ってきたので顔を上げると――。

 

「おはようございます」

「おはよう。いつも早いわね」

 

 直属の上司にあたるスーツ姿にメガネをかけた、東条先輩がまずやって来た。向いのデスクなので挨拶を返す。次に棒つき(あめ)を咥えて眠そうにな顔でやって来たのは"東条先輩曰く腐れ縁"――ゴールドシップのトレーナーが現れた。その先輩とも軽い挨拶を交わし、彼は給湯室に入っていった。

 

「件の報告はいつにしましょうか」

「他の者もほぼ居ないし、問題ないならばここでやるわ。異論はないかしら?」

「ありません」

「では、出走関連の報告書は出来上がってる? 座ってていいから書類だけ頂戴」

「こちらが報告書です。どうぞ」

 

 デスク越しに今回の出走許可に関する報告書の束を、向いのデスクにいる東条先輩へと渡した。

 

 レース前にご迷惑をかけるかもと、先輩にはあらかじめ話は通しておいたのだ。

 そして案の定、今回の件で私の指導能力不足を疑う声が上がった。それ故に報告書を仕上げなければならなかった。

 

 責任は自分が取るといった以上、厳しい追及や叱責(しっせき)は覚悟しなければならない。私は腹を(くく)った。沈黙が続き、書類をめくる音だけが響いた。デスクの下の手をぎゅっと握りしめ、固唾(かたず)を飲んで彼女の下す決済を待つ。

 

「前日のデータまで全く異常なし。当日早朝の診断書の内容も、出走取消する(ほど)でもない。委員会にも報告は上がっており報連相(ホウレンソウ)に問題点は見当たらない。よって選手本人と望月(もちづき)に非はない。こちらは事故として処理しておくわ。上からはこれ以上咎めはないでしょう」

「お手数おかけします。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 

 私が深々と頭を下げると、先輩は顔を上げるよう指示をした。

 

「こういう時はお互い様でしょ。こちらが困っている時に、快く仕事や雑用を率先して手伝ってもらっているのだから。それとシンボリルドルフ本人からも、私へ出走に関する連絡がきていた」

「ルドルフからですか……?」

 

 礼儀正しい子だとは思っていたけど、まさか上司にまでルドルフが手を回してくれていたとは。驚いて思わず瞳を丸くすると、東条先輩はその様子をみて少しだけほほ笑んだ。

 

「ええ。出走前と後にね。特に後者では貴方を(かば)うような内容だった。これからも選手からの信頼に応えられるよう頑張りなさい。――おそらく次は有マもあることだし、あまり思いつめない様にね?」

 

 珍しく東条先輩が心配した言葉をかけてくれたので驚いてさらに目を丸くしてしまった。それとほぼ同時にコーヒーの入ったマグカップの湯気を揺らしながら、ゴールドシップのトレーナーが先輩側の通路を通りかかった。

 

「おお? おハナさんにしては指導が優しいじゃん」

「……無駄口叩かずキビキビ働きなさい。今月もうお金ないんだから(なお)の事ね」

「ちょっ!? 後輩の前でばらすなよ!」

 

 どうやら彼は東条先輩に今月も飲み代を(おご)ってもらったようだった。

 前々から疑問に感じているのだけれど、彼はどうやって生活しているんだろうか? 寮とカフェテリアの食事は職員も無料。超優良ホワイト企業トレセン学園とはいえ、この先輩の私生活は(ナゾ)に満ちている。

 

 そんな現在スッテンテンの財政破綻まったなしの彼からも、その後励ましの言葉を貰った。職場が良好か否かはウマ関係人間関係次第であり、ここは間違いなく前者であると感じながら私は再び仕事に取り掛かった――。

 

  ◆  ◇  ◇

――11月27日 午後10時――

――トレーナー寮 405号室の角部屋――

 

 2度寝から覚め、Tシャツジャージ姿で寝室からリビングへはいる。加湿器と暖房が時間で作動し、丁度いい具合に暖まっていた。

 

 そこを通過して浴室の鏡で髪型を整えて歯を磨き、玄関からリビングへつながる廊下を渡って戻る。

 リビングルームに入ってすぐ右手にはキッチンがあり、冷蔵庫の前にメモを見つける。

 

 作り置きの内容は昨日はうどんやそば。今日は鶏と玉子の雑炊だった。メモに書いてある作り方は鍋にあるスープを温めて、炊いてあるご飯に掛けるだけ。コンロの火を入れ、壁にかかっていたお玉を取ってかき混ぜる。

 焦がさない様に温めてどんぶりに盛ったご飯にかける。そして冷蔵庫にプラ容器で保管されている、刻まれたネギを追加。乾物が入っていると教えられた深めの引き出しから、袋のりを取り出して千切ってかけて完成だ。

 

 雑炊の器と水の入ったコップ、そしてレンゲをお盆に乗せて、キッチン前のテーブルの上に運ぶ。

 

 誰も居ない空間だが、これを作っておいてくれたトレーナー君への感謝を込めて『いただきます』と述べる。

 

 まずスープをすくってみると、透明な黄色がかった黄金の鶏ダシだった。丁寧に灰汁取りしたであろうそれを口に含むと、(ほど)よい塩加減とダシの旨味、卵の優しい甘みが広がっていく。

 

 それが食欲や空腹感を思い出させてくれて、無心に食べ進める。

 

"――どんなに落ち込んでいても、腹は減るものだな――"

 

 すっきりとしない気分だったが、思いやりを感じられる味付けの雑炊のお陰で幾分(いくぶん)か気は楽になった。

 

 お腹が膨れた所で食器を片付ける。そしてまだ万全でないため食後のコーヒーではなく、冷蔵庫の麦茶をマグカップに注ぎ、レンジで温めてリビング中央の薄型テレビ前へと向かう。

 スリッパを脱いでソファー付きの、分厚い深緑のラグの上に腰かける。そして目の前のテーブルにカップを置いてテレビをつける。

 

 電源を入れてすぐは衛星放送の番組だった。国内の時事のニュースが見たくてチャンネルを回す。しかし、どこの局も前走のジャパンカップ、日本初勝利という内容で持ちきりだった。私はリモコンを操作し無言でテレビの電源を落とした。

 

 そして牡蠣(かき)のむき身をデザインしたクッションを軽く抱き込み、ラグのコーナーソファーにもたれかかる。

 

 

 直前まで万全だったのに、レース前日に(かんば)しくない夢を見てその通り私は体調を崩した。――今思えばあれは虫の知らせだったのだろう。

 

 エナメル質が()れる嫌な音がするまで()み締めてしまった。歯を悪くしてしまうので力を抜く。

 ――悔しくてたまらない。怒りにも似たそれで、他者や物へと当たり散らさないために、トレーナー君に部屋を借りた。心境的にとてもじゃないが寮に帰る気分じゃなかったから。

 

 1か月後には有マがある。わかっていても、わかっていても気持ちが着いて行かない。こんな姿を他の者に見られでもしたら、皇帝()腑抜(ふぬ)けだと揶揄(やゆ)されるだろう。――口惜(くちお)しい限りだ。

 

 そんな気分がまだ冷めやらない。このままでは醜態(しゅうたい)(さら)してしまいかねないので、部屋着にしているジャージポケットに入れていたスマホを起動。通信アプリを使ってトレーナー君に『ひとりになりたい』と連絡を入れる。そして数分内に返信が帰って来てその許可は下りた。私の気持ちに余裕が無い時に、無理に踏み入らないでくれるのはありがたいものだ。

 

 そんなトレーナー君は私が不調で出走したというニュースを聞いた上から、今日叱りを受けるときく。それも私の心を乱す大きな問題のひとつだった。手は打ったしトレーナー君の上司、エアグルーヴのトレーナーである東条トレーナーは手厳しいが理不尽な方ではないと聞く。トレーナー君もバカじゃないきっと大丈夫だろう。

 

 ――そう思いたい。

 

 ソファーの傍にある海藻を模した不思議な形のブランケットを膝に掛け、ゴロリと寝転がる。気分がすぐれず、トレーナー君の処遇も心配で眠れなかった私の思考はすぐに途切れた――。

 

 

 

 

 

 ――次に目が覚めると、辺りは真っ暗だった。家電用リモコンで照明をつけると、丸いシンプルな壁掛け時計は午後19時半を示していた。大分寝すぎたようで両手を上で組んで背中を()ばすと、パキパキと音が鳴った。

 

"――世話になりっぱなしでは申し訳ないし、迎えに行くか――"

 

 当たり前とはいっても、私の為に働く彼女が真っ暗で寒い中ひとりで帰ってくるのは気の毒だった。寝室で冬の制服に着替える。それから髪や尾の身だしなみを整え、アプリで連絡を入れてからトレーナー寮を抜けて学園に向かった。

 

 

 漆黒の空を見上げれば星々が顔を(のぞ)かせ、日はとっぷりと暮れていた。外出制限門限も近くなり、ウマ娘も人もいない門をくぐって進むと――。

 

「おい」

 

 それは聞き覚えのある声だった。三日月(つき)の明かりに反射して見える透き通った黄色い瞳、そして豊かな黒鹿毛を高く結いあげたウマ娘。制服姿のブライアンが機嫌悪そうに立っていた。

 

「――ブライアンか。生徒会の仕事を休養中引き受けてくれてありがとう」

「――その情けないツラを何とかしてさっさと復活してこい。気持ちはわかるがな」

 

 ブライアンの物言いは辛辣(しんらつ)だが、最後の一言に無口な彼女にしては珍しく気遣いの言葉があった。私の様子を気にかけてブライアンなりに声をかけてくれたのだろう。

 眠そうに欠伸(あくび)をしながら『じゃあな』と言いブライアンは立ち去った。

 

 再び誰も居ない学園の中を歩いていると、今度は広場の方から直近での落雷を思わせる凄まじい声量の怒鳴り声が響いてきた。

 何かあってはいけないので様子を見に行くと――。

 

 噴水の広場にある蹄鉄(ていてつ)型の回廊(かいろう)を抜けると音の出所が"あの場所"だとわかった。負けた悔しさをぶつけるために叫ぶあの場所だ。歩みを(ゆる)め、事件性が無いかの確認でそっと(のぞ)き込む。

 

 大きな大木の切り株にできた(うろ)に両手をついて悔しさをぶつけているのは、1年早くデビューしたシービーだった。

 

 ――そして、ふと悔しそうに叫ぶ彼女の素直さが何だか(うらや)ましいと感じてしまう。それは私にはないシービー長所だと思うから。

 そっと立ち去ろうとすると、

 

「うげっ! ルドルフじゃん。――あー、一番見られたくない相手に、情けない所を見られちゃったなぁー」

 

 顔をこちらにあげたシービーとばっちり目が合ってしまった。涙を制服の(そで)(ぬぐ)った彼女は、精一杯の虚勢(笑み)を張った後こちらに近づいてきた。

 

「邪魔してすまない」

「こっちこそ騒音被害だしてたかな。ごめん。――なんか食欲なくてスッキリしたくて来ちゃったわ。それよりルドルフ体調悪いの? 美浦にも帰ってこないしで、寮のみんなが心配してたよ?」

「体調の方は問題ない。――ひとりになりたい気分だっただけで、休養明けには帰るつもりだ」

「そっかー。ルドルフにもそういう時があるんだね」

「私だってそういう時はあるさ」

「じゃ、場所かわる? 今度はアタシがルドルフの叫びを聞いててあげるから」

 

 ぱちんと指を鳴らしてニヤリと笑うシービーに『必要ないよ』と返す。すると、彼女は南国の海を思わせる、"緑がかった明るい青(ターコイズブルー)"の瞳を困惑に染めて眉をひそめ首をかしげた。

 

「え? じゃあルドルフは何でここに居るの? でもってアタシは見られ損?!」

 

 ショックですという顔を浮かべ、シービーは頭を抱え始めた。表情がころころ変わって面白いので、ニヤリと余裕の笑みを浮かべ、ここに来た目的を彼女に明かした。

 

「見られ損確定だね。残業しているトレーナー君を迎えに来たんだよ」

「なるほどミズ・満月の女神(セレーネー)をか。って――うわああ。最悪……しかも今の笑顔めっちゃムカつくんだけど」

「ふふっ表情がコロコロ変わって面白くてね。つい意地悪をしてみたくなったんだ」

「へー。ルドルフがイタズラするとか。ダジャレ以外にもそんな一面があったんだね? 新発見だ」

 

 私の態度にシービーは(ふく)れた後、今度は腕を組みながら(あご)に片手を当ててうんうんと(うなづ)いた。

 

「――ミズ・セレーネーに出会っていい意味で変わったね」

「ありがとう。表情豊かな彼女との日々は楽しくてね。私もついつい引っ張られてしまうんだ」

「そういうルドルフもアリだと思うし、いいんじゃない? ――そんな素敵なルドルフにはきっと有マ記念が待ってるよ」

 

 そう言うや否やシービーは私の顔の前に、握った拳をゆっくりと伸ばしてきた。拳で片目しか見えないが彼女の瞳には激しい闘志が燃え上がっている。

 

「勝負だ皇帝(ルドルフ)。アタシは挑めなかった春天に挑戦した後リーグを変える。タカオハリは有マを以てトゥインクルシリーズから別のリーグに行く」

 

 彼女から向けられた真っ直ぐな気持ちは私の中で(くす)ぶっていた、弱気さを吹き飛ばした――。

 

「あと何度かしかない真剣勝負(ラストダンス)。――第××期組の挑戦、受けてくれるよね? "楽しい"レースをしようじゃないか」

 

 むき出しの感情入交り、シービーは勝負への渇望と恍惚が入り混じるような笑みを、口元目元に浮かべた。

 

 熱だけが残り灰だけになった自らの心にある炉――それが再び点火された。

 目標も大切だが私は何のために走り始めたんだ。

 

 ――勝ちたいからだ! 根本はそこだ!

 

 瞳から迷いを消し、私もその拳に拳を勢いよく合わせる。

 

「無論だ。――絶対を示して見せよう」

「そう来なくっちゃ」

 

 

『ぷぇくしっ!』

 

 回廊の柱の影から随分と派手なクシャミが聞こえた。

 

「ええ!? ルドルフ以外にも居たの!? もー! 覗いてるの誰? 誰かいるの?」

 

 シービーは柱に向かっておどけてみせたが――返ってきたのは。

 

『…………にゃっ、にゃぁー』

 

 

 どう聞いてもバレバレな猫の声真似だった。しかも聞き覚えがあるとかいうレベルの声じゃない事に、私は腕を組み片手で頭を抱えた。

 

「そうかネコチャンか――ってならないよ! その誤魔化し方は使い古し過ぎだし、やるならもうちょっと気合い入れて真似しよう?」

 

 的確な突っ込みを入れるシービーをよそに、私は柱の裏に回り込む。視線の高さには誰も居ないが、下を見るとそこには柱を背もたれにして膝を抱えて顔を青くしたてトレーナー君がいた。膝とお腹の間にバッグとジュースらしき缶を2つ抱えている。

 

「君は半人半バ(セントウル)をやめて猫になったのかい?」

 

 そう質問すると彼女は気まずそうに視線を逸らした。

 

「話しかけるタイミングを見失って立ち聞きになってました。……ごめんなさい。あとこれ、寒いから」

 

 そうやってしゃがんで隠れていたトレーナー君は、コーンポタージュの缶を差し出した。いい塩梅の温度まで下がっており、これなら火傷せずに飲めるだろう。

 

「アタシの分もくれるの?! ありがとう! お、コンポタラッキー!」

 

 もう一つはシービーに渡してくれた。という事は我々がここにきてから買って様子を見ていたのだろう。そして、コーンポタージュを一気に飲み干したシービーは、わざとトレーナー君にジト目を送る。

 

「ごちそうさま! と・こ・ろ・で、ミズ・セレーネー……キミはいつからいたの?」

「ルドルフが来たところからです。――ここに来たのは凄い叫び声だったので、何かあったんじゃないかと思って」

「ほうほう。キミまで見ちゃったわけか――」

「ごめんなさい」

「まあこんな時間に叫んでたらそうなるか。他の人には言わないでね」

 

 トレーナー君が『「ええ、それは勿論です』と返事を返し終わらないうち。それとほぼ同時に盛大にシービーの腹が空腹を主張した。続いて私の腹もそれに同意するかのように鳴り響く。

 

「――あれ? ふたりともご飯食べてないの?」

 

 トレーナー君は心配そうな表情を浮かべた。私は夕飯は一緒にと考えていて取っていないと伝え、シービーは精神的な理由で食欲減退気味だったという。

 

「うーん。ルドルフ、体調は大丈夫? 問題なさそうならふたりを連れて、お外で食事しようかなと。代金は私持ちで」

 

 それを聞いてシービーはスマホを取り出して操作しはじめた。

 

「胃腸の具合は悪くない。ここ3日まともに食べれてない分、しっかりと食事をしたい気分だ」

「決まりだね。寮長には連絡いれといたよ。"いってこい"ってさ――行先はどこ?」

「デカネタで有名な回らないお寿司屋さん。お金の心配とかせずに目いっぱい食べてください」

「いいの!? ありがとう!」

 

 耳を前に向け嬉しそうに尾を振るシービー。私も回らない寿司と聞いて気分が上がった。

 

「門の外に車を回してあります。――行きましょうか」

 

 そうほほ笑むトレーナー君を先頭に、我々は豪華な晩餐を取るべく付いて行った――。

 

  ◇  ◆  ◇

――11月27日 22時半――

――トレーナー寮 405号室の角部屋――

 

 賑やかで楽しい夕食を取り終えた後、シービーを寮へ送ってふたりでまたトレーナー寮へ帰ってきた。

 

 帰宅して先に風呂を勧めたが、トレーナー君に『アスリート優先よ?』と断られた。

 そのためお先に頂いてリビングへ戻っておりテレビをみていた。まだどこの局の番組でもジャパンカップの話が出ているが――気持ちの整理のついた今は見られる。寧ろ次走への、勝利への渇望がみなぎってくるようだった

 

 そして髪を乾かして戻ってきたトレーナー君は、私の様子を見て狼狽(うろ)えた様子を見せた。――真剣な顔でテレビを見ていたからだろう。手招きしてぽんぽんと私の右隣のラグを片手で叩き、動揺を隠せない彼女をこちらへ寄せる。

 そろり、そろりと近寄ってきた彼女はそっとその隣に座って『なんですか?』と首を傾げた。

 

「タカオハリエースは有マを最後に別のリーグへ。ミスターシービーは春の天皇賞の後に同様だそうだ」

「……という事は?」

「――有マはきっと我々も選出されるだろう。――私は有マを勝ちたい。勝って強さを証明したいんだ。休養明けからのトレーニング計画に目を通したい。その準備はいつから出来るだろうか?」

 

 トレーナー君は安堵(あんど)したようにほっと胸をなでおろした表情をした。私の成長を促すために、きっと本心を隠して声をかけなかったのだろう。

 そんな彼女はテーブルの上のタブレット端末を手に取った。

 

 自作のアプリを起動し、トレーニング計画や現時点でわかる出走予定者のリストなど――有マで勝つための全資料を表示して私へ差し出した。

 

「作成済みです。どうぞ」

「前走の敗因とそれの対策についての資料は?」

「別のフォルダに入っています。先に見ますか?」

「そうだな。先に見よう。――いつもながら仕事が早くて丁寧だね。ありがとう、助かるよ」

「どういたしまして。――ではお茶淹れてきますね。飲み物は温かいほうじ茶でいいですか?」

「ああ、頼むよ」

 

 ――心に雨降ったが気持ち()は固まった。

 迷いを()き消し、次走になるであろうグランプリレース"有マ記念"――前年3冠バのミスターシービー。そして宝塚とジャパンカップを制したタカオハリエースをはじめ、投票で選ばれし英俊豪傑(えいしゅんごうけつ)

 

 彼女たちから勝利をこの手に掴むべく、まずは敗因を洗い徹底した分析から始めることにした――。




【ジャパンカップ編あとがき】

 展開は悩みました。
 シンボリルドルフ号ってどんな馬だっけと、年末年始悩んで出したのがこの妄想です。

 この世代を知る方に相談した結果『負けると心が折れる時もある。ルドルフは立ち直る強さを持ってる』と力説していただきました。
 タカオハリエース。古語である地名を冠させた不屈の宝塚ウマ娘。彼女のことも考慮し、惜敗ルートとして書かせて頂きました。

 皇帝も強い。ミスターシービーも強い、タカオハリエースも強い。みんな違ってみんないい。遠征リスク覚悟の上で地平線の向こうから来たウマ娘たち。そして、こんな中に逃げずに挑んだウマ娘ディアナソロンは勇者です。

◆史実と違う点◆
 まずマーク先と体調不良の理由です。
 向正面からの展開と3コーナーからのルドルフの位置を変えています。


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『19-22-29』史上三度目の三強対決

 お待たせしました。なんとか間に合った!
 84年ローテ、有馬記念モデルの有マ記念のお話。

 出走者表。コースイメージはざっくり。

【挿絵表示】

 トレーナー君視点からはじまり、◇◆◇からルドルフ視点です。


――20××年+1 12月4日 午後12時頃――

――トレセン学園 カフェテリア――

 

 古にはこんな格言があるそうだ。"お腹が減っては戦はできぬ"。

 そんな先人の知恵にならい、今日もしっかり食べる事にした。毎回食が細ってばかりだと、ルドルフに余計な心配をかけてしまう。

 

 そして本日のおススメは牛筋たっぷりカレー。本当はこのメニューにするつもりはなかったけど、カフェテリアに入った瞬間に匂いでやられた。カレーの香りは暴力だね。

 

 メニューの説明には『ニンジンと肉の(かたまり)がたっぷり。このカレーには"学生の夢"が詰まってます。しっかり食べてレースやトレーニングを頑張ってね!』とスタッフのメッセージが添えられている。

 ウマ娘基準の超特盛まであるらしく、これ目当てで来ている学生も多い。

 

 無料の発券機で定食券を発行し、それをスタッフに渡す。その間ビュッフェのようなスペースで、ベリー類が乗ったヨーグルトの小鉢、どんぶりサイズのトマトチキンサラダを追加。

 

 すると辺りにいた生徒たちがざわついた。疑問に思って視線を辿り、何気なくカフェテリア側の入り口を見る――。

 

"――ん? ルドルフ?――"

 

 今日はカフェテリアに来たのだろうか――? じっと見つめる。

 しかし、振り返った姿は全く別のウマ娘だった。

 

 鹿毛でどことなく顔つきが似ているから見間違えただけだった。

 そのウマ娘はルドルフより身長が高いし、身ぶり手ぶりが外国系っぽい……。

 服装もトレセン学生服ではなく、グレーのおしゃれなスラックスタイプのスーツ。しかも、トレーナーバッジらしきものも、何故か2つジャケットに付いている。

 

 私以外の『Grand』全員の顔を覚えているがそれとも違う。となると、制度前に2か国でトレーナー資格を取っているウマ娘なのだろうか?

 

 ルドルフのそっくりさんは、フランスのシャンティイ校理事長Jebel(ジェバル)さんの現役時代にも似ていた。

 思い返せばJebel(ジェバル)さんも、どことなく顔つきがルドルフに近い気がする。直接的な血縁もないのに不思議だなぁ。と私は心の中で首をかしげる。

 

 小首をかしげている内に、カフェテリアのスタッフさんが私の番号を読み上げた。

 

 出来上がったカレーを受け取り、今日は真ん中あたりの4人掛けくらいの席に陣取った。お昼になったばかりのカフェテリアの席は椅子取りゲーム。

 いつもよりウマ込みになっているカフェテリアをぐるりと見まわすと、牛筋カレーを頼んでいる学生が圧倒的に多かった。人気メニューも手伝って空いている所は殆どないらしい。

 

 そろそろ売店の方も、菓子パンやプリン、冷凍シュークリームの争奪戦になっているだろう。お昼休みは戦場だ。

 

 落ち着いた所でおしぼりで手を拭いて、水をひと口飲んで口の中を潤す。

 そしてご飯とカレーの境目当たりを、スプーンで(すく)い上げ、そっと息を吹きかけ冷ましひと口含む。ニンジン、タマネギなど、歯で触れると崩れるよう柔らかく煮られた野菜の甘み。それに続いてよく煮込まれた牛筋から旨味が一気に広がる。――空腹のスパイスも手伝って最高だ!

 

「――美味しい」

 

 火傷に気を付けながらもうひと口、もうふた口、み口。

 食べ進めてある程度満足したら、水とラッキョでリセット。さて、今度はトマトチキンサラダを食べて、それからまたカレーかな? 私の心は飽食真っ只中! 幸せいっぱいだった!

 

『ご一緒してもよろしいかな?』

 

 多幸感に満たされていた私に突如それはふりかかった。料理を眺めていた私の前方かつ頭上から、アイルランド語が降ってきた!

 しかも、発音的に社会階級はおそらく相当上! どっかの貴族かもしれない!

 

 そう思った私は反射的に身構えはっとした。非常にだらしない顔をしていたと思うので、仕事モードに切り替えて引き締める。

 

『どうぞ、お掛けになってください』

『ありがとう。それにしても、流暢にアイルランド語まで話せるとは驚いたな』

 

 話しかけてきたのは、先ほどルドルフに似ているなと思ったウマ娘だった。発言からして、このルドルフのそっくりさんは"わざと"アイルランド語を選んだのだろう。

 

 私をびっくりさせた彼女に心の中で思いっきり! チベットスナギツネのような視線を送った。そして試し癖まであるのかな? どっかの誰かさんに益々似ている! と心の中で共通点に目を丸くする。

 

 そして周りは更にざわつくいた。どうやらこのルドルフのそっくりさんは知名度が高い相手なのかもしれない。彼女の胸元のトレーナーバッジは、アイルランドと日本のバッジだ。コソコソと気にしてみていると、私の視線に彼女は気付いたらしい。目の前のルドルフのそっくりさんから小さな笑い声がこぼれた。

 

『ルドルフから聞いていた通り、とても分かりやすい表情だ』

『――どういうことですか?』

 

 訳が分からず私は首をかしげる――。

 するとそのウマ娘は『×××××』((神話由来の名))を名乗った。

 

 それで納得がいった――。『メジロ家』やルドルフの実家など、名門の家庭教師をしている有名なウマ娘だ。ルドルフ本人から指導を受けていた方だと、その名前だけ聞いている。しかし、顔までは確認していなかったので思わず目を丸くする。

 

『その様子だとルドルフ本人から、私の事をある程度聞いているんだね?』

『ええ。欧米に追い付きたい日本の熱意に応え、アイルランドから日本にやって来た。そして、あまたの教え子を育てた優秀な指導者。とても尊敬している先生なんだと、ルドルフ本人から聞いております』

 

 それを聞いて『×××××』((神話由来の名))さんは満足そうに微笑んだ。

 

『ふふ、あの子らしいね。ところで、ルドルフは無事に前走結果を受け止められそうかい?』

『ええ、自分で気持ちの整理をつけ解決しました。また一歩選手として強く成長したと感じています』

『それは良かったよ』

 

 目の前の『×××××』((神話由来の名))さんは入学前とはいえ、私の前にルドルフを前任していた方になる。もしかして、前走の事があるからこうして呼び止められたのだろうか?

 

 そんな疑問は次の瞬間吹き飛んだ。

 

『まあそう身構えないでくれ。――今日ここに来たのは叱責が目的ではなく、別件で貴女と話がしたくてね』

『そうでしたか。それで、別件とは――?』

『ルドルフ本人から貴女の話を聞いてね。何となく世間話をしてみたくなったんだ』

 

 なんだ、そいういう事かと内心ほっと胸をなでおろす。すると――。

 

「トレーナー君と……ん? どうして先生がこちらに?」

「わわ! ルドルフ!?」

 

 いつの間にかルドルフが、私と同じメニューをお盆に乗せ近くに立っていた。緊張感で彼女の接近に全く気付かなかった私は、大きく肩をはねさせ驚いた!

 

「集中してたからびっくりした! どうぞ。生徒会の仕事お疲れ様です」

「ありがとう。ところで先生はどうして学園に? 何か実家から知らせなどでしょうか?」

「今日は個人的な興味でやって来た。私と同じように、"学園全体の底上げを行うトレーナーがいる"と君が言っていただろう? だから同じ志を持つ者として話をしたくなったんだよ」

 

 ルドルフが日本語で話しかけたことで、目の前のウマ娘も言語を切り替えた。普通に話せるじゃん……というか、家庭教師をしているなら当たり前か。

 

 どうやらルドルフは、自分の先生である『×××××』((神話由来の名))さんに、私が学園の子達の為に行っている専門書の翻訳活動や、ケアスタッフ向けの医療機器の使い方の講座を行っている事を話していたのだろう。

 それで『×××××』((神話由来の名))の名は神話上のある土地への初上陸者を表す。その名の通りレースレベルの向上に貢献した"先駆者"である『×××××』((神話由来の名))さんが興味を持った。

 

 なるほど全てがつながった! にしても、ルドルフの家庭教師という事だけあって会話が硬い。

 

「そうでしたか。――トレーナー君、行き成りでびっくりしただろう?」

「ええ、どことなくルドルフにそっくりな先生ですね。色々とビックリしてます」

「あはは、子弟で似たのかな!」

「自覚はないがそんなに似てるのだろうか? トレーナー君、改めての紹介になるが。私の家庭教師をしていた『×××××』((神話由来の名))さんだ。先生、こちらは――」

 

"――日本語の口調や、眉の上がり下がりの動きまで似てるなぁ――"

 

 自己紹介を受けるなか、観察していてそう思う。不思議な事にこのふたり、子弟というより親子にも見える。雰囲気的にはそんな感じだ。

 それは何となくだけど、トウカイテイオーから、ルドルフに近い雰囲気を感じ取った時の感覚のようだ。

 

 そして私に関する紹介が終わってから食事を再開。

 アツアツだったカレーは丁度いい温かさになっていた。火傷のリスクが無い事に安心してひと口。

 

 ――うん、うまい!

 

 そして私たちは、"最近読んでいる本"など、取り留めのない世間話をした――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+1 12月23日 午後15時10分頃――

――中山レース場 スタンド――

 

 双眼鏡を首から下げた今日の私の髪型はいつもと違う――。

 

 シンプルに左側頭部で結んだサイドテール。その根元はシルク製の白いシュシュで止めた。光の反射でわかるように(つる)が織り込まれたシュシュには、長細いペングラム型の鮮やかな赤いガーネットの石飾りが付属している。外してペンダントにすることもできるらしい。

 

 この製品はルドルフから仕事の紹介を受けた、あの着物屋さんが作ったものなんだとか。デザインはルドルフ自身だそうで、作ったものを私にプレゼントしてくれたのだ。

 

 配色は私の青光りする黒髪と合わせて、青と白と赤。この3つの色はキングジョージと凱旋門を制した記念に、この両国とこの国に関連する色から選択されている。

 他にもうひとつイメージがあり、"草木眠る大地を育てる満月の白光。その輝きの源は赤く燃え上がる、胸中に秘めた太陽のような闘志だと"。

 

 それがルドルフから見た私の本質だと、彼女は言っていた。

 

 『これからもずっと、沢山のウマ娘や人間、半人半バ(セントウル)に幸せを届け、その叡智(えいち)で照らしてくれ』

 ルドルフはこれを手渡す時、はっきり私へとそう願った。

 

 以前の私なら心にチクリとくるセリフだ。でも、今は違う。

 この世界に私もできる事をしたい。私の世界の先人の叡智を生み出された願い通り、誰かの幸せに使う決意を持てたから。

 

 そう変えたのは間違いなくルドルフだ――。レースを経て私たちはこの1年でも大きく成長できた。そう思っている。今はルドルフの心身の強さに対し、"いいな、(うらや)ましい"から憧れになった。恥ずかしいのと彼女を守るため、"真実"は言えないけど……心の底から感謝してる。

 

 そして、イングランドで私がルドルフに被せた花冠のお礼にと、控室を出る時にルドルフが私の髪を結ってくれたのだ。鏡で見たそのシュシュは素晴らしい生地の光沢で、動くたびに石も煌めき揺れ気分が上がり調子。

 

 ――いい感じだ。

 

 レース前の高揚感に満たされる中、私の左腕を遠慮がちに引っ張る感触があった。双眼鏡を外し左を見る。

 

「シンボリルドルフさんは……今日は大丈夫だよね?」

 

 不安そうに私を見あげていたのはトウカイテイオーだった。何故彼女がここに居るかというと、ここにいるのが彼女が私へ願った"ご褒美"だったから。

 

 財閥がスポンサーを担当し、所有するトレセン入学前の選手が所属するチーム。そこにトウカイテイオーは所属していた。秋のリーグを前に発破をかけるべく、私はチームにこんな提案をした。リーグ戦を勝てば所属選手全員に、それぞれ"叶えられる範囲で全てお願いを聞く"と――。

 

 やる気を出したトウカイテイオーは、マヤノトップガンと共に参加。そして脱落者を出すことなく見事にチームを率いリーグで優勝。そんな優秀な彼女が願ったのは、有マ記念を関係者席で観戦する事だった。

 

「安心してください。今回は万全です」

「うん……」

 

 手を差し出すとぎゅっと握ってくる。前走があのような結末だっただし、やはり不安なのだろう――。

 

『観客席は豪華な3強対決と聞き満員御礼! さあ、はじまりました! 夢を乗せたファンの1票により、選ばれし猛者たちが11人集いし"グランプリレース有マ記念"!! 選手入場です!』

 

 場内に入場のソングがかかり、さらっとした選手紹介が始まる。4番出走のルドルフはファンの歓声にこたえ軽く手を振った。そして向正面(むこうじょうめん)へと返していく。向正面(むこうじょうめん)の右側のさらに奥。おにぎり型の外周と3コーナーが交差する、その手前100m地点にゲートはあった。

 

 片手で双眼鏡を持ち他の子達の様子を探る。その途中映ったゲート前にたどり着いたルドルフはいつも通り。精神統一を行うよう、彼女はじっとバ場の一点を見つめていた。まるで、嵐の前の静けさのような雰囲気に包まれている――。

 

『史上3度目の3強対決。本日のレースは一体どのようなものになるでしょか!』

 

 年配の男性によりアナウンスがかかる。場内に広がるのは地鳴りのような歓声だ。

 

そして双眼鏡を外した私の視界が一気に開ける。私の右側にいるエアグルーヴとナリタブライアンは、そんな場内の中でも集中していた。ゲート前を彼女たちは食い入るように見つめている。

 

 そんな中、まだ手からはトウカイテイオーの不安げな震えが伝わっていた。

 

「ところでテイオーさん。折角なので宿題を出します。今日のレースをしっかり見て、分析レポートを私に提出お願いします」

「――! ええ! ご褒美なのに宿題出すの!? ぶーぶー!」

 

 トウカイテイオーは不満げに頬を膨らませ、耳を伏せる。

 ずっと不安そうにさせてるのも可哀想。そして折角彼女の後学のために連れて来たのに、このままだとレース観戦に集中できない。だから私はあえて宿題を出した。直接指摘してなだめるよりは、その方が角が立たないから。そうやって気を()らすことにした。

 

「当然です。ルドルフにも見せるつもりなので頑張って下さい。きっとルドルフは貴女を()めてくれると思います」

「うう。――シンボリルドルフさんとお姉さんは、ボクが強くなると思って期待してるの?」

「ええ。ルドルフが特別扱いするのは、滅多にない事ですから。彼女の状況次第ですが、頑張ったら私達と一緒にお出かけしましょう」

 

 そう発破をかけるとテイオーは瞳を輝かせ、震えが止まった。嬉しそうにニカっとテイオーは笑うと――。

 

「私達っていうのは、お姉さんとシンボリルドルフさんってこと!?」

「ええ。そうです。秋のリーグ戦の事、直接貴女におめでとうって言いたそうにしてましたから」

「やった!! ボクはふたりとも大好きだからご褒美2倍だね! 頑張るよ!!」

「ふふ、期待してますよ。ふぁいとです」

「うん!」

 

 優しく頭を撫でるとテイオーは嬉しそうにした後、私の手を取って『もっと撫でて!!』と甘えていた。これくらい元気が出ればもう大丈夫だろう。

 

「さて、レースが始まりますよ? ルドルフを応援しましょう」

「うん!」

 

 私に促されて尻尾を振りながらトウカイテイオーは背伸びしながら(さく)にしがみついて、ゲート前を見つめる。アナウンスは丁度、勝利予想投票の上位発表へと移っていた――。

 

『――3番人気はこの子! "神が(たた)えしウマ娘"以来の春秋連覇に届け! グランプリとジャパンカップ制覇ウマ娘タカオハリエース!』

『2番人気はこの子! クラシック3冠ウマ娘がついに秋をレコードで制し、"神が(たた)えしウマ娘"の背中を捕まえた! ジンクス&常識ブレイカー! ミスターシービー!』

『1番人気はこの子! 無敗クラシック3冠! そして天地開闢(てんちかいびゃく)を求めたグランプリ3連覇ウマ娘"××××××××"の伝説にも登場する英国キングジョージ、そして凱旋門賞の欧州2大中距離を制覇ウマ娘! シンボリルドルフ!』

 

 いつもなら鼓動がうるさい位なんだけど、今日は意外にも冷静に見れている。静かな思考の中私は双眼鏡を構えた――。

 

"――引退したウマ娘たちは後輩に想いを託す。それを他のウマ娘が受け継ぎながらも――"

 

『各ウマ娘整いました――』

 

"――己の夢を叶えるために走る――"

 

『スタートです! 全員綺麗に出ました! 先手必勝といわんばかり! ハナを奪った9番タカオハリエース! 半バ身離れて2番手に1番ベルマッハ! 1バ身はなれた外に5番フジマサペガサス良い位置で追走! 4番手にその内を狙う半バ身後ろ4番シンボリルドルフ! 少し抑えつつ余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)! ほぼ横並びの外5番手に10番ケープネヴアー!』

 

 スタートから300m地点のタイムは18秒。テンの100mまでは7秒のドスロースタートに見えたが、テンの100mから300m間の通過は18-7で12秒台をきってる。

 これをやられると、時計を気にしながらが走るのが苦手な後続ウマ娘は混乱してしまう。

 

 これは簡単なようでこれは難しい。それをあっさりやってのけるタカオハリエースは凄い。

 

 さらにタカオハリエースは差しや先行でも走って勝てる選手だ。瞬発力も十分なので2段階加速してこれる。そして中山は直線が短く勾配のキツイ上り坂まである。そこでまた取り逃がすという事が無いよう、今回は積極的に前に出るということで作戦は合意していた。

 

 双眼鏡を外してみたポケットから3コーナーのカーブの入り口。ルドルフの現在位置は――。

 

(GOAL↑)

タカオハリ |内ラチ

      |1

      |2

      |3

ベルマッハ |4

 フジマサ |5

  ルドルフ|5.5

ケープ   |6バ身

(直後に団子)

(後方に3名団子)

 

 といったところ。ミスターシービーは後方待機でまだ後ろから2番目の位置にいる。おそらく最初は様子見しながら走って、向正面(むこうじょうめん)でロングスパートをかけ一気に位置取りを上げ、最終コーナーの4コーナーで膨らんだバ群の内を突き直線勝負。そんな感じだろうか? 近くなってきたので双眼鏡を外した。

 

『4コーナー手前! 先頭はタカオハリエースのひとり旅! 後続をぐんぐん引き離しその差5バ身! 2番手にベルマッハすこし外目をまわっている。各バ第4コーナーに突入! おっとシンボリルドルフがフジマサペガサスの内を突いて3番手に浮上! 切り込むようなコーナリングで前を狙っていく!』

 

 ルドルフが得意なコーナーテクニックでまずひとつ順位を上げるも――!

 

『それに素早く気付いたベルマッハ! 膨らむも力を抜いた後にフルアクセル! 絶妙なコーナリングテクニックを決め、内に切り込みルドルフを阻止しながら正面を向いた! 先行集団早くも激しいポジション争い!』

 

 ルドルフと同じレースに出走する事が多かったベルマッハ。よく戦法を知っている同士のため、やはり一筋縄ではいかない。

 ベルマッハは力の緩急(かんきゅう)を上手くつけ、カーレースのドリフトのようなコーナリングを決めた。ベルマッハの勝負感は今日もさえている――!

 

『1周目の正面スタンド! 先頭は依然タカオハリエース! 現在6バ身リード! 今日も鮮やかなイリュージョン(脱出術)は成功してしまうのか! これを追いかける2番手ベルマッハ、1バ身離れ3番シンボリルドルフ、熟練登山家のような足取りで坂を上がっていった!』

 

 バ群はスタンドから響く大歓声の嵐を抜け、颯爽(さっそう)と私たちの目の前を横切っていく。蹄鉄が叩きつけられる茶色いターフからは、緑の砂と思わしき粒がバシバシと上がる。芝とダート用素材を組み合わせて作った、新型ハイブリットシューズは上手く機能するだろうか? そんなことを考えながらタイムを考察。

 

 前半の500m(残り2000m)前半の700m(残り1800m)前半の900m(残り1600m)は恐らく12秒前半を綺麗に刻んでいる。息を入れるタイミングは予想通りか。

 

 ゴール板約200m(1ハロン)手前から短い水平部を挟み、1コーナを抜ける手前まで続く登り坂。それ以降の水平部まで坂の影響という回答に隠れペースを落とす。そして残り1200m手前(2コーナーの終わり)から向正面の真ん中まで続く急な下り坂で無理なく加速。

 ――そんな所だろう。向正面(むこうじょうめん)に入ってからじゃ遅い。そこからだと先行組が前に押し寄せてきてしまう。

 

『4番手内ラチ沿いに半バ身後ろにメグロアーネストが冷静にレースプランを敷きながら追走! その外まわって半バ身後ろ5番手ケープネバアー! そのすぐ横内側6番手フジマサペガサス。この集団の1バ身半後ろ内ラチ沿いにダイナーカルレ7番手! バ群は第1コーナーに突入!』

 

 ――タカオハリエースへ一定まで距離を詰め、そして無理なく追うには中山の登り坂しかない!

 苦しいけど頑張れルドルフ! アスコットの地獄坂を制した貴女ならいけるはず! 思わず双眼鏡を握る両手に力が入った!

 

『半バ身離れて8番手ミスターシービー。1バ身半離れてケルストライアンフ9番手追走! 3バ身後ろに後方2番手ダスジェニー! 少し下がってゼダーンレディ最後方!』

 

"――シービーがなんでここで前目にいるの?!――"

 

 眠れる獅子のように後方に控えたレースをするミスターシービー。

 ……そんな彼女がいつもと違う行動に出た――!

 

 2度も同じ失態を晒すものか! そんな気迫を感じ取れるミスターシービーは、1コーナーで縦長に伸びたバ群の大外を通ってくる!

 切り株の前での宣戦布告通り、シービーは強行策を用い全力でこちらをぶっ潰しに来ている! これは想定外すぎて思わず息を飲む!

 

 そんな中ルドルフは作戦通りに動く。カーブでベルマッハを抜きながら1コーナーを通過。順位を1つあげて2番手へ躍り出る――!

 

『各ウマ娘1コーナー抜けそのまま2コーナーへ! 先陣を切るのはタカオハリエース! 3バ身離れ内沿いに2番手シンボリルドルフ! 1バ身半後ろの3番手はミスターシービーいつの間にアガッてきた! その内差がなく4番手ベルマッハ!』

 

 そしてスタンドは――。

 

『いいぞシービー! もっと派手にやれ!』

 

 狂乱というに相応しい大興奮に包まれた! ミスターシービーのファンが様々な歓声を上げ。

 

「逃げろ! 逃げろ! 逃げ切れ前残れ! 主役はお前だタカオハリエース!」

 

 タカオハリエースのトレーナーがすぐ近くで声を張り上げた!

 前半の1000m通過は61秒台でおそらくスロー。ここまで計画通り、差はほとんどなくなった。タカオハリエースの作戦は逃げなら、後半は12秒台の同じペースを刻んでいくだろう。脚を溜めて突き放すのは最終直線に入ってからだ。

 

 勝負の行方に釘付けになった私は、レースを見る事だけに全てを集中させる――。

 

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+1 12月23日 午後15時26分頃――

――中山レース場 向正面(むこうじょうめん)――

 

 残り1000mを通過。足元は2コーナー出口手前からの下り坂がまだ続いている。シービーが想定外のレース展開をプランニングしてきたらしいが、ちらりと振り返るとすぐ近くまで来ていた。

 

"――言葉通り来たか!!――"

 

 驚きや焦りよりも私の心は歓喜に染まる。ここからどうやって勝ちを確実にするか?

 一瞬の内に様々なプランが駆け巡ってゆく! タイムを数えるのをやめ――。

 

『残り800m3コーナー手前! 先頭はいまだタカオハリエース、リードは1バ身! その少し後ろにシンボリルドルフ2番手! その直後にミスターシービー! 今日の仕掛けは抜群だ!』

 

 抜かせまいと徐々に加速しながら3コーナーを鮮やかに駆けるタカオハリ。射程圏内に収めつつ追う私。そして、4コーナー手前。残り600を示すハロン棒を通過!

 

(GOAL↑)

   タカオハリ|内

  私     |直後

シービー    |私とほぼ横並び

 

 おそらく後方は大混雑状態で足音が異様に近い。

 

『先頭はタカオハリエース! ここから2段階加速を見せるのか! そして外を回って並びシンボリルドルフ! その大外にミスターシービー疾風怒濤!並びながら最終コーナーを曲がる! さあ中山の短い直線での決戦はどうなる!』

 

 内からタカオハリ、私、シービー! オリオン座の3連星のように並びもつれ合いながら最終コーナーへ突っ込む!

 Speed Star(スポーツカー)のように鋭いコーナリングを決め――。

 

"――さあ、全力で挑ませてもらうか!――"

 

 内をまわった逃亡者タカオハリをまず捉えるべく、私も真っ向勝負に出る!

 

『凱旋門覇者ルドルフついに来た! シンボリルドルフ来ました! ハナを取った!』

 

 嵐の海のような歓声が吹き荒む中を越え、その先に快晴の光差す青海が開けるように私だけとなる! 残り200m直前! あとは突き放すだけだと脚に力を込める――!

 

 しかし!

 

『なんとシンボリルドルフの影を打ち据えるタカオハリエース! ここにきて火事場のバ鹿力! 息を吹き返し再び差し返す! そして大外から直線一気! ミスターシービーの影が迫る! シンボリルドルフに並んだ! ミスターシービーも喰らい付く! 完全に泥仕合だ!』

 

 タカオハリは私を半バ身突き放しながら坂を登る! 懸命に追う中視界のすぐ左端にシービーまでいる! 歯を食いしばり疾風(ハヤテ)の如く速度を上げこの状況を一閃すべく懸命に駆け抜けた!

 

『そして残り100手前でなんとシンボリルドルフ再び全身全霊を以て浮上! ミスターシービーに抜かれるもやり返す!』

 

 タカオハリを坂の頂上で捉えた! その瞬間視界の端に紫電がチラつき、両脚に一気に力が満ちていく――!

 

『これが凱旋門ウマ娘皇帝の神威か――! 残り100!』

 

 突き放すよう速度を上げゴールの向こうだけを目指して駆ける!

 

『シンボリルドルフ! ゴールイン! 英仏日! その3カ国で格上クラスを3度制し、絶対を再び証明した! 1着シンボリルドルフ! 2着――』

 

 いつも通り歓声に応え掲示板を見やる。レコードの表示に私は思わず笑みがこぼれた。

 

 一通りのファンサービスを行いながらトレーナー君の安全を確認。今日は倒れてはいないが、何を言ってるかわからない位に、ぐちゃぐちゃになって大泣きしてしまっている。

 そんなトレーナー君の様子に、ブライアンは呆れつつも笑みを口の端に湛えていた。エアグルーヴは仕方ないなという表情を浮かべ、それをなだめハンカチを渡している。トウカイテイオーは背を伸ばしてトレーナー君の頭をよしよしと撫でている。

 

 ――そんないつも通りの光景に、私は再び帰ってこれた。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+1 12月24日 午前5時半頃――

――トレセン学園 生徒会室――

 

 朝から走っているサイレンススズカ以外、誰も居なかった庭を抜け校舎に入り生徒会長室を目指す。

 ――眠気の余韻、あくびをひとつまた()み殺す。

 

 そんな私の手には大きなコンビニの袋がふたつ。昨日夜遅くまで学園に残り、クリスマスの準備に追われていたトレーナー君と副会長ふたりの差し入れだ。

 ライブ後学園に取って返し、私も作業をしようとした。しかし、この3名はそれを阻止した。

 『お休みいただけなければ、全権限を行使します!』珍しく強権を振るうトレーナー君と、彼女についたふたりの気迫に押された。私は結局寮に返されて早めに睡眠を取る事に。

 

 そして私の代わりにトレーナー君が、泊まりで頑張るふたりのサポートにまわったというわけだ。自主性を重んじ軽い手伝い以外の干渉を避けていた彼女だが、今回ばかりは本腰を入れて仕事をある程度整理してくれるとのこと。

 

 袋の中身はトレーナー君が好きな食べ物やドリンクも沢山買ってきた。きっと喜んでくれるだろう。そんな表情を浮かべながら私は、まだ3人が寝ているであろう仮眠室を避け生徒会長室に入る。

 

 日の出前の室内は深い海を思わせる黒い青に染まっている。しかし、頬や冬服越しに伝わるその空気に私はまず違和感を覚えた。

 冷えていなければならない室内は何故か暖かかった――。

 

 私には休めと言って明け方まで作業を敢行したのか。気遣いは理解できるしありがたいが、それはどうかと思いムッとなる。

 生徒会長机を目指し、奥に静かに進もうとすると――応接ソファーの影で見えなかった床の上に、白い手がある。

 

 驚いた私はひゅっと息を飲む! 一瞬パニックになるも一旦深呼吸。そして――

 

「だいじ!?」

 

 覚悟を決めて駆け寄り、大丈夫か! そう叫ぶのをやめた。何故なら倒れている本人――市販の青いジャージ姿のトレーナー君は、気持ちよさそうに寝ている。恐らくソファーで寝ており、それで転がって落ちたのだろう。応接ソファーセットのテーブルの上には私が与えたシュシュが置かれ、髪は解かれた状態のノーメイク。

 

 まさかと思うが、副会長ふたりが寝静まったのを見計らって、大量の業務を整理していたのだろうか?

 そしてシュシュの隣にメモ紙があった。気になった私はそれを拾い上げる。メモには『6時に誰か来てたら起こして』という内容と、進行状況が記載されていた。

 

 確認すると予定しているほぼ9割くらいを完了しており、あとは我々3名の決裁と昼間の作業のみとなっている。中山レース場から学園に帰ったのが前日の22時。副会長のふたりが24時に寝たとして、2時間でこなせる量じゃない。ほぼ間違いなくこっそり抜け出して作業を続行したんだろう。

 

「全く……」

 

 袋をテーブルの上に置いて、トレーナー君を抱えてソファーに戻す。そして、しゃがんでつんつんと彼女の頬を突き。

 

「君こそ休まなければならないだろうにね」

 

 眉尻をさげ呆れたその時、トレーナー君の腹の虫が鳴った……。

 

「ファミリアチキン――」

 

 寝言だ。買ってきたファミリアチキンの香りに反応し、腹の虫を鳴かせ寝言を言った――。

 そんな幸せそうな寝姿をみて、なんだか笑いが込み上げてきてしまう。食べる事が大好きなトレーナー君らしいというか、なんというかだ。

 

 室内の棚からシンプルな膝掛けを持ってきて、かけてやる。電気をつけると起こしてしまうからそれはやめた。

 6時まではまだ少し時間がある。それから起こして持ってきたものを朝食にし、ふたりで食べてそれから確認作業をしよう。

 

 朝食にはそうだな――エッグマフィンやサンドイッチ、他総菜やパスタという組み合わせだし私はブラックコーヒーにしよう。トレーナー君は無糖は飲めないらしいので、カフェオレかお茶だな。

 

 私は簡易冷蔵庫に傷んでしまう品物を仕舞い、併設の給湯室へとそっと向かった――。




【史実と違う所】
 1周目の3コーナー以降の展開全て。他の子が強くなったのはトレーナー君が知識や技術を普及しまくったので、全体のレベルが上がってます。
 アプリのポジションキープの仕様、諸々の処理によるポジション仕様は今回はなし。

【レース外主要オリジナルのウマ娘たち】
『×××××』((神話由来の名))さん】◇
 ルドルフに似ている疑惑のウマ娘その2。
 アイルランド出身。鹿毛のウマ娘。日本のレース関係者に指導者として請われ来日。トレーナー資格を持ち、学園の内外の子達を幅広く指導する。
 デビュー前の家庭教師は副業だったのだが今は本業。身体づくりや環境づくりを重視して学園に来る前の子達を指導している。

 ルドルフとはLEADでメッセージのやり取りをよくしている。
 そこでの会話で、自身と同じように同じようにレース技術や、関連の技術や知識の普及に努めるトレーナー君に興味を持ち、久しぶりに学園にも顔を出した。

 ルドルフの元家庭教師。彼女からは先生と呼ばれている。見た目は20代後半だが年齢不詳。面差しがルドルフにとても似ている事を、トレーナー君は不思議がっている。

 名はとある地をはじめに開拓したある神話の民。先駆者。

Jebel(ジェバル)さん◇
 シャンティイ校理事長。ルドルフにどこか似てるウマ娘その1。
 "ある規則"を"圧倒的実力"でねじ伏せ"撤回"させた"フランスの大英雄"の子。
 ジェバル理事長自体も普通に超強い。引退後指導者として更に開花し、シャンティイ校の理事長にまで上り詰めた。

◇神が(たた)えしウマ娘◇
 戦後初の3冠ウマ娘。鉈の切れ味と呼ばれる凄まじい走りで、連続で連対(2着以内のこと)した数は今のところ最高。
 至高の存在で、このウマ娘を越えろというのが戦後のレース回のキャッチフレーズになるほど、伝説的な強さを誇る。学園のみんなの憧れ。

 普通の足元装備では足が血まみれになるため、特殊な靴と蹄鉄を使っていたらしい。西日本のとある中央レース場にはその蹄鉄が飾られている。

◇グランプリ3連覇のウマ娘◇
 英国最高峰レース『キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス』
 凱旋門賞に日本で初めて出走した伝説の英雄。
 ピークを維持できた期間が凄まじく長い。
 有マ記念を2連覇している現時点の唯一無二。
 
 ネットのない時代に彼女とそのトレーナーがヨーロッパで戦い抜き、日本にその記録や情報を持ち帰った。
 資料室でそんな生データを偶然見つけたトレーナー君。その想いを引き継ぎ、参考に加えルドルフの勝ち筋を見出した。


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【幕間】雪のクリスマスと素直じゃない君

 大変お待たせしました。夜を予定しておりましたが、今日は早めに退勤できたので夕方上げとなりました。社畜は大歓喜しております。

 ◆◇◇まではミスターシービー視点
 ◇◆◇からはルドルフ視点です。

 それではどうぞ!


――20××年+1 12月25日 午後13時――

――本校舎 3階廊下――

 

 中庭でクリスマスの(もよお)しがあると聞いた。それに参加するため、アタシはゆっくりと校舎内を進んでいる。眼下の窓を見下ろせば、楽しそうに笑い合うウマ娘たちと、そのトレーナー達がひしめいていた。

 こんな楽しそうなクリスマス一色の雰囲気だけど、アタシは今ちょっとだけ憂鬱(ゆううつ)だった――。

 

"――負けて悔しいし、変な夢のせいでもやもやするし、なんだかなぁ――"

 

 ふわぁっと喉と頭部全体を震わせ欠伸(あくび)が出る。

 お昼には本日のおススメ、すき焼き丼定食でお腹はいっぱい。

 

 ボーっとした思考回路を戻すよう、片手で口元を隠しながら欠伸を()み殺す。そして、ある事柄を思い出した。

 

 ジャパンカップの後、有マ記念に向けルドルフに宣戦布告を行ったその日――。

 回らないお寿司をルドルフのトレーナー(ミズ・セレーネー)から沢山ご馳走(ちそう)して貰った。その日はご機嫌なまま、いい夢見られるかなーって思っていた。

 

 ――だけど、その日見た夢の内容は、よりによって有マ記念で負けるという内容だった。

 

 夢の中でアタシは中山2500mの残り1000mでいつも通りスパート。最終コーナーをインからぶち抜く作戦だった。

 それが4コーナーでバ群にブロックされて沈む。それが悔しくてたまらない。光景があまりに生々し過ぎて。その日は休んで2度寝したくらい落ち込むほどだった。

 

 それから悩んだけど、前目の位置取りが出来ないか自分のトレーナーに相談した。

 するとトレーナーは――。

 

 『ルドルフのトレーナーは追い込みの技術にも詳しい。そしてレース研究に余念がない。つまり、こちらの手の内は知られている状況だ。ここはシービーの提案通り、あえてセオリー外で勝負していく方が良いのかもしれない。やってみよう!』

 

 意外にもあっさり合意してくれて、それで有マに向け猛特訓を重ねた。

 その時(ちまた)ではルドルフの疲労が抜けないからアタシが勝つだろう。なんて意見がテレビで流れてた。けど、その見方はミズ・セレーネーを(あなど)り過ぎているとアタシは感じていた。

 

 ミズ・セレーネーは直接請け負ってる選手数は少ない。米国4冠ウマ娘や、凱旋門ウマ娘を担当できたのも親の七光り、もしくは運が良かっただけというキツイ内容の批判的な評価も聞く。

 だが、彼女はトレーナーという基準では計り知れない。疲労回復をはじめ予防や治療、先進医療に非常に明るいという事が最大の武器。それがあのトレーナーの真価だ。

 

 それを実感したのは去年の春先に、悪化したアタシの脚の状態を治してくれたことがあったから。どこからか状況を聞きつけたのか、ひょっこりと現れたミズ・セレーネー。彼女の提案に乗った自分のトレーナーの紹介で、アタシは治療を受けた。

 

 ――春全休はさけられなかったけど、もう大丈夫だと言われて驚いた。ずっと引きずっていた脚部不安が、綺麗さっぱり無くなっていんだからそりゃビックリもするよ。

 奇跡も魔法もあった。喉から手が出そうなほど欲しかった健脚は、神秘に限りなく近い科学の力で叶った。それはミズ・セレーネーの考案した新技術らしく、これからもっと精度を上げて世界中に普及する予定なんだとか。

 

 そして『保身準備ができてないから、叔父の影に隠れてやっているの。理事側には教えてるけど、ルドルフには安全のためナイショでお願いね』そう、ミズ・セレーネーはアタシに黙っているように告げた。間違いなく彼女は何か重要な技術を持っている。そんな雰囲気しか感じられなかった。

 

 回復不可能な傷病は選手生命の終わり。その深い闇に光を注ぐのは満月の名を冠するミズ・セレーネーだ。おそらくとんでもない技術を知っている彼女はきっと、ルドルフを完璧に仕上げてくる。いや、それ以上かもしれない。あのトレーナーは全く油断できない。ましてコンビを組んでいるのがルドルフなら猶更(なおさら)ね――。

 

 そして満を持して挑んだ有マの結果があんな感じ。あれだけ準備したのにもうショックで(たま)らない。

 

 ――でも、夢の通りにインを通っていたら、今頃アタシは同じようになっていたかもしれない。何だかんだそれが一番不気味だった。

 あれが何なのか意味が分からないけれど、しょ気ている場合ではない。相手は強大だからこそ――。

 

 アタシの口元は自然と歪む――。

 

"――それでこそ(たの)しいレースじゃないか――"

 

 次は恐らく春天での対戦になるだろう。アタシと同じクラシック三冠、強力なライバルにどうやって勝つか、その作戦を考えるのが楽しみだ。

 そして正面玄関に辿(たど)り着き、出口から出るか、出ないかのタイミングだった。

 

『おっしゃー! できた!』

『これはいい感じ。完成度が高いですね』

 

 外から大きな声が聞こえた。多分あの声はゴールドシップかな? と、そんな事を考えながら女神像がある広場に出る。

 

 玄関を抜けるとそこには一面の銀世界――――ここでは珍しい雪が広がっていた。

 

 府中は都内でも寒い土地だが、雪国のように深々積もることは無い。しかし、女神像の周りの芝の上には沢山の雪像がすでに出来上がっている。

 今年、生徒会が企画した『ホワイトクリスマスイベント』。その内容は雪をトラックで持ってきて札幌みたいな雪祭りをしようというものだった。それでこのあり得ない景色が広がっていたと言訳だ。

 

 女神像の右側に立って、先ほど声を上げていたゴールドシップと思われるウマ娘がいる方を見る。何を作ったんだろうかと思い覗き込むが、蹄鉄(ていてつ)型を模した回廊の柱で見えない。

 なので回廊を抜けてもっと近づくと、そこにはゴールドシップだけでなくミズ・セレーネーもいた。

 生徒会長のトレーナーが何故ここに居るかというと、今現在ミズ・セレーネーは生徒会長室に立ち入り厳禁らしい。

 

 今朝方用事があって生徒会長室に行ったら『会長のトレーナーは立ち入り禁止。息抜きしろたわけ』とメモが貼ってあった。気になって用事の(ついで)に聞いた所、ルドルフ曰くの事の経緯はこうだった。

 

 レース直後のルドルフの代わりに23日の夜から、副会長たちふたりのサポートに入ったミズ・セレーネー。彼女は副会長が寝静まった後、こっそり抜け出し徹夜を敢行(かんこう)した。

 ミズ・セレーネーの護衛達も参加し雑用作業はほぼ完了。そして事務手続きなども決裁待ちまで整理してくれたんだとか。

 

 『名付けてサンタクロース作戦!』と、24日の朝エアグルーヴにミズ・セレーネーは力説した。しかし、ものの見事にエアグルーヴから特大級の雷を落とされたんだとか? それで今月27日早朝まで立ち入り禁止となってしまったらしい。

 

 そして彼女の担当ウマ娘のルドルフはというと……。庭から見上げた生徒会長室の大窓の前に立っていた。しかし、片手には白いマグカップを持って庭を眺めるルドルフは、なんだか複雑そうな顔をしていた。

 

"――あの感じ、自分もミズ・セレーネーと遊びたいって、そんな事を考えてるな?――"

 

 そんなに構いたければ、副会長ふたりへ素直な気持ちを伝えればいいのに。

 日頃の行いもあって、生徒会のメンバーは全員ダメとは言わないはず。ちょっとくらい融通してくれるだろうしさ。

 

 ――まあ、ルドルフが素直にいう訳ないか……。

 

 プライドの高いルドルフのことだから、きっとまた本心は黙ったままなんだろう。本当は目に入れても痛くない。もっと話したいし、構ってほしい。ルドルフからあのトレーナーに対する好感度は多分そんなトコだろう。

 

 最初ルドルフのトレーナーが決まったって話を聞いた時には、よかったなって感想しかなかった。

 

 で、興味本位で聞いたらまさかアメリカに迎えに行って、直接契約するという。しかも、選んだ相手はGrandの称号持ちで、学園(ここ)でスポンサーをしてる大財閥の養女()

 苦労して招いたトレーナーをルドルフはとても大切にした。見た感じ話の合う友達みたいな関係だし、きっと嬉しかったんだと思う。

 

 そんな彼女たちをみてアタシやマルゼンスキーはとても安心した。

 あのトレーナーに決まるまで、このままだとルドルフは本心では望まない孤独な道にどんどんと進んでしまう――そんな気がしていたから。ライバルながらアタシはそんな心配をしていた。理想は大事だっていうのはわかるんだけど、それは本人が幸せじゃなきゃ意味がない気がしていたから。

 ミズ・セレーネーはルドルフにいろんなウマ娘を紹介し、ひとりにならないよう努力をしてくれている。このまま彼女が頑張ってくれれば、ルドルフは理想に倒れることは無いだろう。

 

「あ。こんにちは、ミスターシービー。雪像はもう作りましたか?」

 

 考え事をして居る内にミズ・セレーネーがこちらに気付いて声をかけてきた。あんなにもミズ・セレーネーを構いたがってるルドルフには悪いけど、不自然に避けるのもどうかと思った。なので軽く世間話をすることに。

 

「やあミズ・セレーネー。今来た所でまだだよ。あれ? ルドルフは?」

 

 ルドルフが居ない理由には察しが付くけれど、なんとなく聞いてみた。

 

「誘ってみようと思ったんですが、忙しそうだし躊躇(ちゅうちょ)してしまいました。後で折を見て声をかけようかと思います」

「なーるほど。まあ生徒会長だもんなぁ。けど、きっとキミの誘いなら喜んでくれるよ」

「そうですか? ルドルフと一緒に雪だるまつくれるといいな」

「きっと大丈夫。ルドルフは絶対時間作ってくれるよ」

 

 アタシはふとミズ・セレーネーの背後の上――生徒会長室の大窓をチラリと盗み見る。

 するとルドルフの両耳は一連の流れを捉えていたのだろう。ピンと正面を向いていた。ミズ・セレーネーのやる事成す事に興味津々、そんなライバルの本音が丸見え過ぎて、どこまでキミはあの子が大好きなんだと内心(あき)れる。

 

 しかもアタシの視線に気付いたルドルフはこちらへ向かって、唇にひとさし指を当てる。『黙ってて』という風なジェスチャーを取りつつも、その表情は大変満足気だった。

 

 そして彼女はマグカップの中身を優雅に飲み干し窓際を離れた。きっと今から頑張って時間を作るつもりなのだろう。ルドルフも楽しいクリスマスを過ごせるよう、心の中でそっと応援しておく。

 

「ところでこの雪像のモデル……もしかして、SNSでバズったアレ?」

「おー! さっすがシービーわかってるぅ!」

 

 その雪像はニンジンに羽と手足が生えている"化け物"だ。

 ある試験における、英語のリスニングテストでこの化け物が出たらしい。当時、この設問を出オチで目の当たりにした受験生たちを酷く混乱したそうだ。設問を考えた側は、受験生が笑ってリラックスできるといいね! 的な気遣いだったらしいけど、リラックスどころか多くの集中力と腹筋は総崩れ。そんな一連の事件がウマッターでバズってたことがあった。

 

「で、――その隣もゴールドシップがつくったの?」

 

 その隣にも謎の雪像があった。

 どうみても場違いなその"大名っぽい胸像"も、ゴールドシップ作の雪像なのかと思いきや――。

 

「そっちは私が作った雪像ですね。徳川8代目将軍を作りました」

「キミなの!? なんでここで8代目将軍なの!?」

「それは彼がにんじんの神だからです」

「ごめん。流石に何でそれを選んだのかわからないよ……」

 

 右隣にある"羽付きニンジン妖怪"より、アタシはこの雪像チョイスの意味が分からなかった。ルドルフから難しいダジャレを聞かされた時のように、アタシは頭を抱える。

 

「おいおい、お嬢様。それじゃ伝わらなくね? この将軍サマは東洋ニンジンはじめ、野菜の品種改良したって事で有名なんだとさ。だからニンジンの神ってことらしいぞ」

「あー……そういうこと! ってわかりにくいよ!」

「うーん。やっぱりダメか。こっちのほうが良かったかな……」

 

 そういって雪像の裏からお盆に乗せた物体が登場。

 それは根っこが分かれた細い大根みたいな……多分、植物。

 これは――きっとアレだ! 栄養ドリンクのCMで見る朝鮮人参だ。それに凄い形相だけど顔が付いているから、きっとゆるキャラか何かだろう。勢い任せにアタシは思いついたことを答えた。

 

「朝鮮ニンジンのゆるキャラ?」

「うーん! 違います! 植物かつ、架空の生き物なのは正解です!」

 

 ――なんだそれ! アタシはますます頭を抱える!

 するとゴールドシップが目を線のように細めながら、頭の後ろで腕を組みながら答えを示してくれた。

 

「アタシも最初そう思ったけど、これはマンドラゴラだってさ」

「あ――! ゲームで見るやつか! 大根のお化けみたいなやつ!」

「そそ。つか、この顔がいいよなぁー。まさに、引っこ抜きたての新鮮そのもの! 今にもおんぎゃあああああって叫び出しそうだぜ!」

「あはは! 確かにこれは良い表情で傑作(けっさく)だね! でも、何でお盆に乗ってるの?」

「ルドルフにお誘いを却下された場合に備え、冷凍庫に保管しておいて後で見せようかなと。いい出来だったのでつい」

「そういうことか。いい話のタネになるといいね」

 

 絶対面白い事になる予感しかしない。

 この謎の物体を目の当たりにして、あのルドルフがどういう反応をするか見てみたい。そんな衝動を隠しながら、無難な返事を返した。困惑するのか? それともこの意味不明なノリにノルかどちらだろう? そんな好奇心で何だかわくわくしてきた――。

 

  ◆  ◇  ◇

――20××年+1 12月25日 午後19時半――

――トレセン学園 カフェテリア――

 

 この学園の特徴といえば生徒主催のイベントが多いというものが()げられる。

 そして12月に開催されるのはクリスマスと、家に帰らないウマ娘たちの為の年末イベントのふたつ。春先の感謝祭より、流鏑(やぶさ)メや聖蹄祭がある秋から年越しまでの期間が1年で最も忙しい。

 

 何とか間に合わせた生徒会主催のクリスマスパーティーは、心なしか昨年よりも賑わいをみせていた。そして企画が成功したことで、どこか私はほっとした気持ちになっていた。

 

「メリークリスマス! 見事ッ! ハードスケジュールな中、クリスマスパーティー開催をやってのけた!」

「にゃあ!」

「ありがとうございます。メリークリスマス秋川理事長」

 

 穏やかな心持ちで会場を眺めていたら、ニンジンジュースを両手に理事長が近くまで来ていた。理事長の帽子の上にはハチワレの猫が乗っかっている。

 私は理事長から差し出されたグラスをお礼を述べて頂き、軽くその(ふち)を当て乾杯をした。

 

「というわけで吉報ッ! 今日は君にいい知らせがあるッ!」

「いい知らせですか?」

「そうだ。学園に隣接した敷地(しきち)にある施設ができるそうだ。詳しくはまあ、財閥令嬢から話を聞いて欲しいッ!」

「にゃ!にゃあー!」

「トレーナーにですか?」

「うむ! 彼女から説明を受けたほうが早いだろうッ!」

「なるほど。後で聞いてみます」

 

 どうやらトレーナー君が関わっている施設らしい。

 確かに去年の頭から近所で大きな工事をしているなと思っていた。しかし、まさか彼女の実家が関わっていたとは知らなかった。今度は一体何を作ったのだろうと、私は内心首をかしげる。

 

「会長。トレーナーとの待ち合わせが20時と仰っていましたよね? まだ寮にいるでしょうし、迎えに行かれては?」

 

 理事長が去った後、エアグルーヴがスマートフォンで時刻を確認しながら私にそう告げた。

 

「しかし――」

「彼女はこの学園に多大な支援をしている功労者です。それくらい特別扱いしても、バチは当たりませんよ。この役割は会長が一番適任ですから、行ってきてください」

「確かに君の意見には筋が通ってる。では、行ってくる。ここをよろしく」

「はい。では、いってらっしゃい会長」

 

 私は理事長に頂いたニンジンジュースを飲み干し、グラスを回収用のテーブルの上に置いた。

 エアグルーヴは口元に笑みこそ湛えているが、目元は(あき)れた色をしていた。そんな彼女からは『さっさと行ってきてください』と、怒りの声が聞こえてきそうな気がした。私はエアグルーヴの逆鱗に触れない内に素直に従う事にした。

 

 会場入り口で自身のコートを受け取ってこの場を抜け、雪の()き詰められた中庭を通り、トレーナー寮へと向かう。外気は天気予報通りなら恐らくマイナス1度かそれくらいだ。漏れた吐息はどこまでも白く、はっきりと星が見えるほど冷え澄み切った濃紺の夜空とコントラストを成している。

 

 ポケットの中に仕込んだカイロで時々手を温めながら歩みを進める。

 そしてトレーナー君の住んでいる角部屋まで辿(たど)り着きインターフォンを鳴らす。すると、すぐにスーツ姿のトレーナー君が出て来た。彼女の今日の髪型はコメカミから後ろまで大きく編み込まれており、後ろの高い位置でポニーテールにまとまっていた。その根元はこの前プレゼントした、白いシュシュで飾られている。どうやら気に入って身に着けてくれているようだ。

 

「あれ? ルドルフ早いね、どうしたんですか?」

「待ち合わせには早いが、生徒会代表としてオルドゥーズ財閥令嬢を迎えに来たんだ。メリークリスマス、トレーナー君」

「お気遣いありがとうございます。メリークリスマス、ルドルフ。丁度出るところだったから、中へ。玄関で待っててください」

 

 中に通してもらうと室内は玄関まで温められていた。その入り口には私が遊びに来るときに使う、緑でモコモコした高級スリッパが1足。これは私専用にと2回目に来た時以降から用意してくれている。トレーナー君用は同じタイプの白いスリッパだ。

 そして今年も本日から年始にかけ、遊びに来る約束をしている。昨年はトレーナー君と楽しく過ごせたのもあり、今年はどんな話をして過ごそうか、私はこの日を指折りに数えとても楽しみにしていた。

 

 考えている間に玄関に引っかけてあったトレンチコートをトレーナー君は羽織り、彼女のすぐ支度が出来た。準備が出来た所で来た道を戻り連れだって会場へ向かう。

 

 学園から漏れ出た明かりと、青いイルミネーションで飾られた木々に照らされる女神像周辺の庭は、大変幻想的な雰囲気に包まれていた。

 そして、そこには生徒達やそのトレーナーが作った雪像や、雪だるまが所せましと並んでいる。まるで星空の下、雪の精霊が集まり、クリスマスパーティーを楽しんでいるようにも見える。

 

「いつもより女神像前がにぎやかですね」

「ああ、こんなに楽しんでくれたのなら企画して何よりだ。君も何かつくったのかい?」

「ええ。江戸幕府8代目将軍と、あとは寮の冷凍庫内にあるマンドラゴラ。良くできたからルドルフに見せたくて」

「マンドラゴラ? あの大根のような生物を?」

 

 ふと気になって聞いてみたが予想外の答えが返ってきた。私は思わず目を丸くする。特に後者はなぜそうなったのか意味が分からない。思わず私は聞き返してしまった。

 

「ただのニンジンだとつまらないから、ニンジンっぽい何かにしてみました。いい出来なので是非貴女に見せたくて冷凍庫に仕舞ったんです」

「あははっ。なるほど、それでなのか! ではその出来の良いマンドラゴラは後で検めよう。ふふ、どんなものが出来上がったか楽しみだな」

「ええ。結構な再現度だと思います。そこでなんだけどルドルフ、良かったら後で雪だるまを一緒に作りませんか? 作っていて思ったんだけど、やっぱりルドルフの作ったのが無いのは寂しいなと思ったんです。貴女と一緒に作れたら私は嬉しいなと思いまして」

 

 そういった誘いが来るのは、昼間生徒会長室から見ていて知っていた。

 なので時間は作っていたし、トレーナー君が会場に来てからしばらくして抜け出すつもりだった。いつでも行けるよう軽食は済ませてある。彼女さえよければ今からでもいいかと思い声をかけた。

 

「そうだな。私も何か一つ作ろうか。今からでもいいかい? 戻るとまたこちらに来るのが大変そうだから」

「ええ。夕食は少しだけ食べているので、ルドルフがよければ」

 

 静かな庭を通り、トレーナー君が作った8代目将軍の雪像の傍まできた。その雪像は妙によくできており、あまりの傑作(けっさく)ぶりに思わず笑いが込み上げてきそうだった。

 

「これがその雪像か。ふふっとても出来が良いね。兄や姉、妹に見せたら面白いと喜びそうなので、写真を撮ってもいいかい?」

「ええ。どうぞ。ルドルフは何を作る?」

「そうだな。あまり外にいると冷えるし、雪ウサギにしよう」

 

 返事をしながら写真を撮り終えて保存すると、その隣に目がいった。

 

"――ニンジン? まさかこれは……――" 

 

 8代目将軍に目を奪われていて気にならなかったが、よく見るとその隣にもっと奇怪な像が作られていた。それはニンジンに目と口がついてて、羽と手足が生えてる妖怪のような雪像であった。しかし、これには見覚えがある。首をかしげながら、私はトレーナー君に思い当たる回答を述べた。

 

「これは……試験問題に出ていたニンジンの妖怪だな?」

「あら? ルドルフ知ってたんですか?」

「ああ、毎年暇つぶしにその年の試験問題などは目を通す方でね? しかしこれも傑作(けっさく)だな。この辺りだけ変わった雪像が多いのはこの雪像の影響かな?」

 

 ふたりで雪を集めて固めている間辺りを見回すと、餃子ビーナスやら門司港(もじこう)バナナマンやら、随分ユニークな雪像が乱立している。

 この辺り一帯もあとで写真に収めてHorsebookにアップしてみよう。こういった冗談が好きな私の兄や姉妹たちが面白い反応してくれるはずだ。

 

「ええ。ゴールドシップが作ってるのを見た子達が面白さを競ってました。私も東洋ニンジン栽培の功労者を作ってノッテみたんですけど、イマイチ伝わらなくて」

「確かに滝川ニンジンネタはマイナー過ぎて難しいかもしれないな。しかし、これはこれでいい味を出していると思う。――よし、あとは耳と目を付けて完成だ。目はその辺りにある石をもってきて、耳は葉っぱで作ろう」

 

 目の前の地面には、丸々とした白いウサギの身体がふたつ。1匹だけだと可哀想なので2匹作ることにした。ふたりで常緑樹から手頃な葉っぱを持ってきて、刺して完成。

 

「はじめて見ましたが雪ウサギって可愛いですね」

「手のひらサイズで作って盆にのせて、冷凍庫に仕舞えばしばらく可愛さを楽しめる」

「それいいかも……今度はそれをやってみます。あ、写真撮っていいですか?」

「ああ、構わないよ。私の傑作(けっさく)だからね」

 

 トレーナー君は雪ウサギを前に楽しそうに笑っている。そんな姿をみていて、私は子供の頃妹とこうやって遊んでいたことを思い出し、なんだか心が温かい気分になった。

 

「こういった遊びに興じるのも悪くはないね。楽しめたよトレーナー君。誘ってくれてありがとう」

「いえいえ、あ……そうだ。今年もプレゼントがあるんです」

「ほう? どんなプレゼントかな?」

 

 雪ウサギを撮影したり(たわむ)れていたトレーナー君は、唐突(とうとつ)にそんな投げかけをしてきた。

 一体君は何をくれるのかな? と思わず心が躍り口元に笑みがこぼれてしまう。

 

「ひとつは個人的なモノで、これは後で寮に遊びに来てからお見せします。もう一つは――」

 

 トレーナー君はトレセンの敷地の外を指さした。そこには新築の大きな建物が建てられている――。

 

「オルドゥーズ財閥病院フランス支部がファシオの選手生命を守り切ったことが評価されましたよね? あれで都心にあるオルドゥーズ財閥の病院の評判が上がり、東京都内1か所だと全然間に合わなくなりました。なので、オルドゥーズ財閥府中病院はトレセン学園の隣につくってみました。うちは立場的に外資なので偉い人との交渉は難航しましたが、これでまた夢を諦める様な負傷者は減るはずです。私が抱えてる東洋支部研究所もあの院内に移設したので、内職しててもここに戻りやすくなります」

 

 通常病院というものは外資が参入できないような制限がある。

 しかし、トレーナー君の実家が経営する病院のスタッフは非常に腕が良く、設備もいい。その評判を聞きつけた各国のレジェンドウマ娘が協力し、数年前にある条約を締結させた。それによりウマ娘や半人半バ限定の病院や付属の孤児院を、世界中のあちこちに持っている。

 

 その支部が都内にもうひとつ、しかも学園の隣に出来るのだからこれは喜ぶべきことだ。

 

「許可を貰うのは大変だったんじゃないかい?」

「1か所目の許可を貰う時よりは楽だったらしいけど、それなりに。これで怪我とか病気で諦める子達が減るといいね」

「ああ。いつも我々の事を気にかけてくれてありがとう」

「いえいえ。オルドゥーズ財閥はウマ娘の社員たちに支えられている企業ですし、ギブ&テイクの内ですよ」

 

 彼女は裏表のなさそうな綺麗な笑みを浮かべた。私は温かみを感じられるこの笑顔が大好きだ。

 

「さてと、ちょっとお腹空いちゃいましたね。戻ってご飯にしましょうか?」

「そうだな。戻るとしよう。昨年君がマグロ釣りをした際にお世話になった漁船の方から、クラシック3冠祝いという事で立派なマグロが1本届いていた。そろそろメインディッシュとして出てくる頃だから、急いで戻ろう」

「あ! そういえばそうでした! 急がなきゃ争奪戦になってしまいますね」

「ふふ、バ群に囲まれた本マグロを食べられるかどうかの瀬戸際(せとぎわ)だ。――というわけで、どっちが先につくか競争するかい?」

「うわぁ。それ結果が目に見えてますよね……」

 

 トレーナー君は私が勝つのが分かっているのか、あからさまに困惑した表情を浮かべ(うつむ)いた。流石にコレには乗らないかなと油断していると――。

 

「なので……不意打ちスタート! 先手必勝!」

「ちょっと君! それは卑怯(ひきょう)じゃないか!」

「だって絶対追いつけないですもの! ハンデですよハンデプリーズ!」

 

 足下から(きじ)が立つ、窓から槍、そんな感じで彼女はいきなり卑怯(ひきょう)な手を使ってきた!

 (たの)し気な声色で笑いながら走っていくトレーナー君と、慌ててスタートする私。

 

「そんなズルいハンデは認めない! こちらも全力でかからせて貰うぞ!」

「それはイヤー! ルイドルフ! ちょっと大人気ないですよねそれ!」

「私も君もまだ未成年だからな!」

「ええーやだもう本気とかやだー!」

 

 面白がって逃げるトレーナー君を私は本気で追いかける。

 童心がくすぐられような、そんな気分に包まれながら、雪の中をふたりで駆け抜けた――。

 

  ◇  ◆  ◇

――おまけ――

――同日 午後22時 トレーナー寮――

 

「これはまた……ふふっあはは! これは凄い表情だな」

「うわぁ……若干溶けてる。作った自分で言うのも何ですがキモっ! これは酷いですね」

 

 先に風呂を頂きモスグリーンのシルクパジャマの上下に着替え、のんびりとリビングで寛がせてもらっていた。そしてトレーナー君が入浴から戻ってきた後。件のマンドラゴラを見るために我々はキッチンに集合。

 

 だがうっかり冷凍庫ではなく、冷蔵庫で保存してた雪製マンドラゴラは微妙に溶けてしまっていた。そのためマンドラゴラの人面部分が不気味さがより増しており、思わず笑いが込み上げてしまう。トレーナー君もクスクスと笑っている。

 

「出来た時はこうだったんですよ」

「ほう? 元々も出来はいいが、不気味さは今の方が増しているな」

「だよね。面白いからこっちも保存しておきましょう。ふふふ。後で反応が良さそうな子に画像送ってみようかな」

 

 スマホを片手に私に完成直後のマンドラゴラを見せてくるトレーナー君。溶ける前の方が絶叫している感じがよく表れていた。

 

「私も妹に見せていいかい?」

「ええ、勿論(もちろん)。好きに使ってください」

 

 お盆の上で微妙に溶けているマンドラゴラを、自身のスマートフォンで撮影して保存する。妹が見たらきっと笑い転げるに違いない。明日送って見せてみよう。

 

「保存できた?」

「ああ。ばっちりさ」

「というわけで……こっちこっち」

 

 トレーナー君はくいくいっと手招きをして私の片手を引き、キッチンを出てリビング中央、コーナーソファーの方へと誘導した。

 

 ゆるくまとめた髪を右肩の位置でシュシュで止めた彼女は、スリッパをやや雑に脱いだ。そしてふわりと白いシンプルなナイトウェアスカートを動かし、舞い降りるようにトレーナー君は座る。私も続いて隣にゆっくりと腰を下ろす。

 その間彼女はソファーに立て掛けてあった、このオシャレな空間に似合わないであろう、ホタテ貝型クッションの裏から何かを取り出す。それは緑の包装紙でラッピングされた、赤いリボンのかかる長方形のプレゼントだった。彼女は私に勢いよくプレゼントを両手で手渡してきた。

 

「はい、メリークリスマス! こっちが個人的な贈り物ね」

「ありがとう! 早速開けてみたいが、こちらもプレゼントを持ってくるよ」

 

 そういって私も牡蠣(カキ)のむき身クッションの下から、トナカイが印刷された可愛らしいラッピングのプレゼントを取り出す。隠し場所は偶然にも同じ発想だった。

 

「こちらからもメリークリスマス、トレーナー君。気に入ってくれると嬉しいな」

「ありがとうございます。何だろう、楽しみですね。では早速開封しましょう!」

 

 お互い丁寧にラッピングを剝がしていく。先に取り出せたのはシンプルな包装だったトレーナー君の方だった。

 

「ネコちゃん型加湿器とアロマ! これ、すっごく可愛いですね! さっそく後で使わせてもらいます」

 

 私がプレゼントしたのは、三毛猫がじゃれつく毛糸玉の部分から蒸気が出るタイプの充電式加湿器だった。時間を作ってプレゼントを探し回っていた際、偶然このネコ型加湿器と目が合った。

 とても可愛いらしい見た目だし、これにアロマオイルを数本ほどつけて包んでもらう事にした。結果、予想通り雑貨が大好きなトレーナー君はとても喜んでくれているようだ。満面の笑みを浮かべてネコ型加湿器を両手で持ち上げていろんな角度で眺めている。

 

「ふふっ気に入ってもらってよかったよ――ん? これは……」

 

 私の方のプレゼントは意外なモノであった――。



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第3章ー深淵を覗くーシニア期
『新年』笑いあう門からキタルのは


大変お待たせしました。
トレーナー君視点から始まり、◇とかの区切りを挟みルドルフ→トレーナーと交互に変わっています。

厳密に言うと

◆◇◇から◇◆◇までルドルフ視点

◇◆◇から◇◇◆までトレーナー君視点で

◇◇◆以下がルドルフ視点です

それではどうぞ!


――20××年+2 1月1日 午前6時半――

――トレーナー寮 405号室 角部屋――

 

 最高級マットレスのベッドに軽くて暖かいフカフカの羽毛布団。

 

 こんなに幸せな目覚めだけど、両頬には早朝の冷えた空気を感じる。

 ベッドの近くに置かれたサイドボード上から充電していたスマホを取り、一旦顔を温めるために潜り込む。その際一瞬見えた隣のベッドにいるルドルフは、寒さで耳すら布団から出ていなかった。

 

 そして温かいベッドの中からスマホで全部屋の加湿器や空調、電化製品を操作して部屋を暖める。数分もすれば快適な空間になるだろう。そう思いながら今日の予定をさらっと確認してく。

 今日の予定はふたりで初詣に行ったあと、そのまま学園に戻る。そして私は財閥の仕事と、ルドルフの出演スケジュールチェック。あと今月に札幌で行われる新春ライブの調整。ルドルフはそれに向けて生徒会の仕事の整理だ。

 

 年末はお互いどう過ごしたかというと、ルドルフは年末帰らない生徒たちの為のイベントの主催。私はトレーナーとしての仕事だったり、財閥令嬢としてのアレコレが立て込んでたり色々あった。

 やる事が多過ぎて年明ける瞬間の5分前に『あけましておめでとうございます』とルドルフへ発言してしまい、反応に困らせてしまったっけ? まあ、そんなウッカリもあった。

 

 そして私は右手で布団外の室温を確認。

 

 ――うん。大丈夫だ、問題ない!

 

 そっと布団から出て、うーんと天を仰ぎながら背伸びをする。遮光(しゃこう)カーテンを開けると、レース越しにやわらかい朝日が差し込んでくる。

 そして私は振り返って深呼吸。ナイトウェアワンピースの袖を捲り、気合いを入れるために両頬を2度軽く手の平で叩く。

 

「よし、いくぞう!」

 

 ルドルフが同じ部屋に泊まる――それは私の朝が戦場と化す時だった!

 


     ROUND ONE FIGHT!


 

 初手はこちらに背中を向けて寝ているルドルフの肩を、布団の上からまず優しくチョンチョンとつつく。

 

「ルドルフー朝ですよー。起きてくださーい?」

 

 モゾモゾと動く気配はしたが、起きるどころか布団に潜り込まれる。ダメだこりゃ!

 最初のお泊り会までは気付かなかったんだけど、ルドルフは非常に寝起きが悪い。心を開いてくれた今は、こうして起きてくれない時がある。

 

 こうなったらカーテン越しに漏れてきている、柔らかな日光を顔に当てて起こそう! 布団を軽く持ち上げようとしたが、持ち上がらない! 寝ながら器用に手足で布団がはがされないようガードしていた。

 なんて事だ! と私は心の中で盛大に頭を抱えた!

 

「えー、誠に遺憾かもしれませんが、起きてくださいルドルフサン!」

 

 ならば聞き慣れない私の発言作戦!

 コッカイチューケーを見て覚えたナガタチョー言葉を織り交ぜつつ、そっとゆさゆさと揺らす。しかし、私が揺らすのを防ぐため、今度は横向きから仰向けになったようだ。

 

「だめだ……全く起きる気がない……」

 

 途方に暮れる。こうなる位ならルドルフのお姉さんから提案された、対ルドルフ用起床方法を聞いておけばよかった。また聞きとか嫌がるかなと思って、遠慮した自分に今更後悔しはじめる。その間もルドルフは全く起きる気配を見せない。

 

 しかし、仰向けになった事でガードが緩くなった! 隙をみて布団を顔に掛かってる布団を()がす。だが彼女の目蓋は朝日をブロックするためにしっかりと閉じられている。

 

「起きてー。起きて下さーい」

 

 また優しく揺すったりするも幸せそうな寝顔は変わらない。もう先に食事準備をある程度して、後でチャレンジしようかなと思い始めたところ――。

 

 耳がピコっと動いた。あと寝言を言っている。

 何て言ったかわからないけど、なんだか幸せな夢でも見ているのかな? そんな雰囲気の表情だった。

 

 私はベッドに座ってつんつんとほっぺを突いてみる。くすぐったそうにするけど起きない。

 

「……これは中々しぶとい」

 

 頬を(ふく)らませて呆れる私の一方、機嫌よく動くルドルフのウマ耳。困り果てながら彼女の頭上のお耳を、つんつんと突くとピコピコっと動く。

 

「もう、困ったチャンですねー」

 

 まあ、年末頑張ってたし、いっか――。

 

 私は起こすのを諦めた。そしてルドルフと作り貯めておいた、お節料理の仕上げをする前に、そっとウマ耳に両手を伸ばし前に折り曲げ――。

 

「……スコティッシュフォールド。……ふふっ。ライオンじゃなく、ネコチャン完成。1度やってみたかったのよね!」

 

 なんとなく目についたウマ耳で遊ばせてもらった。

 まだ歩けないほど幼い頃。不思議に思って見ていたら、世話を焼いてくれてたマハスティが触らせてくれたっけ? ピコピコ動いてて面白いから見ていて飽きないんだわ。そんな温かい記憶を思い返しながらそっと手を離す。

 

 さあ、ご飯の支度しようかなーなんて考えながら、ベットから離れようとしたその時だった――。

 

 草むらから飛び出してくる獅子の如く、ルドルフが勢いよく起き上がった。私の両肩は驚いたウサギみたいに()ね上がる!

 

"――やっば! 遊んだの見られてた?! ――"

 

 内心は冷や汗ダラダラだ。つい出来心とはいえ、本人の許可なくお耳で思いっきり遊んでた。これはお叱りを受ける! 私はゴクリと喉を鳴らした。

 

 と思ったら上半身を起こしたまま、ぼーっとどこかを見つめてる。

 もしかして、寝ぼけてる?? 首をかしげて『おはようございます』と声をかけたら……。

 

「×××ちゃん……」

「はい?!」

 

 誰ですかそれ! と聞き返したかったけど次の瞬間ぎゅーっと抱きしめられる。正面から抱え込まれた私は、そのままベッドに転がった!

 

「ちょっ! 起きて! 潰れちゃうー!」

 

 ぬいぐるみを抱っこするかのように、ぎゅーっと私のわきの下! 胸部外周にそこそこ強い力がこもる!

 

 重種ではなくルドルフは軽種とはいえ、普段200kgのバーベルをトレーニングで用いているようなトップアスリートだ!

 

 冗談抜きにまずい!

 

 いくらこの世界のヒト型2足歩行生物が、以前いた世界の人類と比べて物凄く頑丈でもヤバイ! 半人半バ(セントウル)でもヤバイ! 正月早々に一発退場なんて勘弁願いたい!

 私はライオンに捕まって鳴いて暴れる草食動物みたいに、ジタバタと騒いで暴れる。

 

「ん……ふかふかしてない……あれ? うわっ!? すまない!! 寝ぼけていた!」

「ふぁっ!」

 

 やっとまともに息が出来るようになったので、大きく深呼吸を繰り返す。慌てたあとルドルフは私が落ち着くまで背中をさすってくれていた。

 

「――うう、寝ぼけてたし仕方ないですよ。おはようルドルフ。……で、×××ちゃんって寝言いってましたけど、あれは何ですか? 一体何の夢を見ていたんです?」

 

 一番疑問に思うあの発言。それを尋ねるとルドルフは照れくさそうに眉をハの字に下げながら、歯切れ悪く口を開いた。

 

「いや、その……。まあ、子供の頃持っていたウサギのぬいぐるみでね。寝ぼけた私は君をその子と勘違いしたようだ」

「なーるほど、そういうことでしたか」

 

 それっぽい抱っこの仕方だと思っていたら、どうやら本当に私はぬいぐるみ扱いされていたらしい。ふかふかしてるってことは、きっと触り心地の良いぬいぐるみなんだろう。

 

 今ではしっかり者のルドルフにも無邪気な子供時代があった。まあ、ご家族ともHorsebookとかでコメントやメッセージのやり取りするけど、あの感じなら納得だ。きっと温かい感じだったのだろう。

 

 幸せな夢から始まる新年って最高じゃない?

 朝から私の胸中はほっこりした気分に包まれた――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 元旦 午前8時――

――トレーナー寮 405号室 角部屋――

 

 寝起きの事件の後――。

 我々はおせちを準備し、30分ほど前に朝食を済ませ、我々は初詣の準備を始めていた。

 今年は話し合いの結果、私とトレーナー君は和服を着ていくことに。そしてその着物の出所は、去年彼女に宣伝を依頼したお店だ。

 

 私がトレーナー君に宣伝の仕事の話を持ち込んだ後、彼女は私を伴い直接オーナー夫婦と話をしにいった。

 そこでどうせなら汎用性の高い製品を作り市場を開拓。そこから文化保護の資金を調達しようと提案し、トレーナー君は流通経路やデザイナーの紹介、職人の紹介と国内の窓口を店主のご夫婦がという話でまとまった。

 

 『日本には素敵なものが溢れている。売れていかないのは言語の問題だけでなく、ただ便利さが知られていなかったり、汎用性が低かったりするんです。そこをクリアさえすれば何とかなる。その為に資金がないならそれを補うだけ。必ず商売にしてみせる』と、彼女は豪語していた。

 

 その後は世界有数の大企業だけあってとんとん拍子に話は進んだ。そして今年の春からブランド展開が始まるんだとか?

 

 投資へのお礼も兼ねてレンタル事業や振袖を貸していただける事になったという訳だ。

 試着のためにトレーナー君をお店に連れて行った時、彼女が物珍しそうにキョロキョロしながら喜んでいたのが印象的だった。生国はこちらでも、彼女の育ちは太平洋の向こう側の米国。きっと新鮮な気分だったのだろう。

 

 そしてトレーナー君はというと、今リビング中央のラグの上に座っている。流石に着付けまでは知らなかったらしく、私が自ら着付けてみた。誰かを着せ替えるというのは、一体いつぶりだろうか?

 そのデザインは白をベースに淡い紫や桃色を組み合せた辻が花。とても高価な品物だが、店主ご夫婦は彼女が初めて着物を着ると知って、かなり奮発してくださったようだ。

 

 ネイルは先ほどシンプルな色合いで整え、ヘアセットも終わった。月下美人を象ったかんざしから垂れる飾りが、彼女がすこし動くたびにキラキラとまとめた髪の元で揺れている。あとはアイメイクとリップだけ。道具を取り出そう近くのテーブルの上に視線を移す。

 

 そのローテーブルの上には、金細工と紺色のビロード生地で構成された、豪華なコスメボックスが置いてある。その中にギッシリ入っているのは、全て彼女専属のスタイリストが選んだ製品だ。女の子の夢が詰まったこのボックスを妹が見たら、きっと瞳を輝かせるだろう。Horsebookでの彼女たちのコメントのやり取りを見る限り気が合うだろうから、いつかふたりを直接合わせてみたいものだ。

 

「さてと、アイメイクの仕上げに取り掛かるから目を閉じて」

 

 私の言葉にトレーナー君は(うなづ)き、深い色合いのエメラルドの双眸(そうぼう)をそっと伏せた。

 

 その(あご)に手を当てて上げさせ、片方の手で筆を持ってまつ毛の色に近い青交じりのラインを目蓋(まぶた)の境目に引く。それが乾いたのを確認し、今度はマスカラを選ぶ。

 長くしっかり生えそろっているので、あまり厚塗りする必要はなさそうだ。綺麗な色を生かして透明なマスカラで仕上げて目元はこれでよし――。

 

 あらかじめリップバームなどで下地を作っておいた唇に、淡い色を乗せて完成。アハルテケ由来の血を半分引く彼女の整い過ぎた造形は、そのままでも十分絶世独立の美女と言える。しかし、磨けばなお輝くのでトレーナー君の髪やメイクを弄るのは私の楽しみでもある。

 

「出来た。目を開けても構わないよ」

 

 汚れてしまわないよう首から肩まわりに掛けていた布を外す。そしてシンプルな折りたたみの鏡を持って、見える位置に掲げる。ゆっくり瞳を開いたトレーナー君は満足そうに微笑んだ。

 

「ありがとうございます。自分でやるのとは違って新鮮ですね」

「そうだな。ふふっ、こちらも自分以外にメイクを施すのが新鮮だし楽しかった」

 

 こんな風に他者の顔にメイクを施しあうのは、姉や妹と、母の化粧品ボックスで遊んだ時以来だ。私の胸中はとても懐かしい気持ちに包まれる。

 

 そして部屋の隅に吊るしておいた、自分用に借りてきた着物に手を伸ばす。

 借りてきたのは(はかま)の上下セット。初詣を終えた午後は学園に戻ってから、理事長や教官方へのあいさつ回りに行くのもあって、私の分は動きやすい物を頼んだ。

 

「そっちは確か……(はかま)?」

「正解だ。良く知っているね」

 

 珍しそうにのぞき込むトレーナー君が見やすいよう、着物ハンガーにかけた(はかま)を見せる。彼女は首を傾げたり、不思議そうだったり神妙(しんみょう)そうだったりする表情を浮かべた後。

 

「その衣装の着せ方は全くわかりませんが、何か手伝えることはありますか?」

「そうだな、じゃあ指定したところを持っていてもらおう。ひとりでも着られるが、その方が私も助かる」

 

 どうやら手伝う事を考えていた様だ。

 私はこの状況でも世話をきちんと焼こうとする彼女の気持ちに対し、微笑ましく思う心情を口元にうかべた。そして記憶力が桁違いな彼女には、まず動画で着方を見せる方が良いと思い立ち、部屋着にしているジャージのポケットからスマートフォンを取り出した。

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+2 1月1日 午前9時――

――府中市内 某神社――

 

 駐車場でリムジンから降りると、既に境内(けいだい)は初詣の参拝客でごった返していた。駐車場でエンジンをかけっぱなしにできない。寒い中運転手を待たせるのは忍びない。私は合流時刻を伝え、一旦近場の暖かい場所で待機して貰う事にした。

 

『あけましておめでとうございます! あの、プライベート中にすいません、シンボリルドルフさんのサイン下さい!』

「明けましておめでとう。構わないよ。書くものはあるかい?」

 

 振り返るといつの間にか沢山の人だかりが出来ていた。

 そしてルドルフは私が運転手と話していた間、集まってきたファンへいつも通りの対応をしていた。こういうのを見るとやっぱスターだなぁとか、なんか凄いなーと思う。

 

"――クラシック期にあれだけ実績を打ち立てていれば、こうもなるよね。うんうん――"

 

 去年もファンと思われる方に声をかけられていたが、今年は段違いにその数が多い。私もファンの方のスマホを預かって写真を撮ったり、内容に気を使いながら質問に対して答えていく。

 そしてしばらくした後、ルドルフは森の木々の隙間から漏れる朝日に、耳飾りを揺らし輝かせながら、私の方を振り返り手を差し出した。

 

「さて、オルドゥーズ財閥令嬢。はぐれない様に、お手を」

 

 (おおやけ)の場でルドルフは私の事をファミリーネームで、もしくはオルドゥーズ財閥令嬢。彼女がそう呼んだ場合は、自分の皇帝(理想像)として振舞(ふるま)っている時だ。

 

「お気遣いありがとうございます。では、参りましょうか」

 

 その意志に応え、こちらもきちんと令嬢らしく振舞い、そっと差し出された手を取る。軽く周囲に社交辞令を述べ終わると同時に、さっと集まっていた群衆が割れ参道への道を譲っていただけた。

 

 不思議な事にルドルフは道を譲ってもらえるというジンクスがあるらしい。そのことでルドルフは周りから避けられてるのではと悩んでいる時があるが、この特徴のお陰で外でウマ込みや人込みに揉まれることがあまり無い。

 

 漏れ出た白い息と対を成す、赤い看板の出店や提灯が並ぶ境内をゆっくりと進む。友達同士、兄弟姉妹、カップルや家族連れ。沢山の人たちの活気に満ちた光景だった。

 

 ――どうかこのまま素敵な世界であって欲しい。

 厳しい並行世界、異界から来て、この光景を眺めている私はそう願わずにはいられない。一体自分には何ができるだろう。そんなことを考えていた私は足元の段差に気付かず、そのまま(つまず)きかける。地面にダイブするかと思いきや、隣を歩いていたルドルフがさっと支えてくれた。

 

「おっと、大丈夫か?」

「ごめんなさいぼーっとしてしまって」

「険しい顔をしていたが、何か考え事でも?」

「――この景色をいつまでも続くようにできたらいいなとか、そのためにはどんな社会貢献をしたらいいかとか、色々と考えていました」

 

 そう答えるとルドルフはほっとしたように眉を下げ、外気よりもずっとぽかぽかするような微笑みを浮かべた。

 

「他者の幸せを守る方法か。なるほど。いい心がけだ。力を持つ側が考えられるのは素敵な事だね」

「ありがとうございます。――こんな込み合ってるときに考え事しているようじゃ、まだ半端者だけど。いつかはそうありたいです」

「ふふ。そんなに謙遜することは無いよ。――我々はまだ子供だ。このまま真っすぐ、ゆっくり成長していけばいい。焦らなくてもまだ時間はある」

 

 私の手を握るルドルフの手に力がそっと込められた。まるるで励まされているような気持ちになり、私も『それもそうですね』と返し、離さない様同じようにそっと握り返す――。

 

 

 お参りを無事済ませた後は、御守りやおみくじの引き換え所へやって来た。先にこちらへ来ていた方々が、次々に熊手(くまで)や絵マ、御守りなど縁起物を求め、お供えの金銭と引き換えに受け取っている。

 

「君も何か欲しいものはあるかい?」

「そうですね。医療に関わってる私が、怪我人が出ることを願ってしまうので商売繁盛の持つのは縁起が良くない。けど、実家になら良さそうだしお養父様へ招き猫を贈ろうかな」

「養父君のオフィスにかい?」

 

 私はその一角にある招き猫を吟味していると、ルドルフは不思議そうにのぞき込んでくる。

 

「ええ。ただ問題はペットのオリーブが激オコになった場合、暴走する可能性があるんですよ。気に入らない置物は警戒して物凄く突きまわすので、色々と大変なんです」

「ああ、あの大きなフクロウだね? 私がウェブカメラごしに君の養父君と話をしたときも、何故だか凄く暴れていたよ」

「えぇ!? またお養父様ったら仕事中にお散歩させてたの!? それは大変失礼しました……」

 

"――何でそういう時に限って、放鳥してるんですかお養父様!――"

 

 私は思いっきり片手で額を押さえた。

 

「問題ないよ。オリーブ君のお陰で場も和やかに進行したし、終始楽し気でよかったよ。いつかまたアメリカに行くことがあったら、是非あのオリーブ君にも会ってみたい」

「ふふ。うちは所有のホテル暮らしで屋敷はないけど、オリーブ君の居る本社でよければご招待しますよ」

「それは冒険のし甲斐がありそうだ」

 

 私とルドルフは顔を見合わせて微笑み合う。

 

「ところで今年の目標や願いについてだが、君は何にしたんだい?」

「そりゃルドルフや家族、社員、そして学園の子達の健康祈願が1番。あと事業成功の他に、個人的なお願いをひとつですね」

「随分と沢山願ったね」

「私は幸せに関しては欲張りですから」

 

 自分の立場を考えるなら、それくらい貪欲でありたい。私は胸を張ってそう答えた。

 

「ルドルフは何をお願いしたんですか?」

「君と同じような事だよ」

「え、ちょっと今のはずるいですよ。はぐらしてませんか?」

「そんなことは無いさ。それで、個人的な願いというのはどんな願いを?」

 

 ルドルフに話題を振り返したけど思いっきり話を逸らされた。しかし、まあ言えないような願いでもないので、そのまま答える。

 

「無理なのはわかっていますが、もう少し身長が欲しいなぁと……」

 

 私は片腕を上に伸ばし手首をまげ、手のひらを頭の上に水平において下から上にあげて見せる。

 

「ふむ、今でも十分だと思うが?」

「うーん。気になってしまうんですよ。海外の人間やウマ娘は身長が高いから、本社の人とお話する際私だけ小さいのが目立つ。ハヤヒデの長身が羨ましい……」

「ハヤヒデが羨ましいか。しかし、私も英仏で同じような事を想ったことがある。君がコンプレックスに感じるのもわかる気がする」

 

 ルドルフが英仏でそんな事を感じていたとは思っていなかった。何故なら謎の皇帝オーラを放つルドルフは、お人形さんというより可愛いぬいぐるみ扱いの私と違い、周りから丁重(ていちょう)に扱われていたから。

 私も彼女みたいな雰囲気を身に付ければ、少しは待遇が大人っぽい感じになるだろうか……。

 

「隣のバ場は良バ場に見えます。身長の成長期カムバーック! よし、周りの方の健康祈願の他、絵マにそれも書こう。ルドルフ絵マを書きに行きましょう!」

「あはは! 面白いとは思うが、本当にそれを書くのかい?」

「ええ。見た方にはもれなく、笑う門にはフクキタルですよ!」『今私の事を呼びましたか!?』

 

 振り返ると巫女服姿のフクキタルが居た! まさかのタイミングに私は目を見開いて驚いた!

 そして私の視界外で、ルドルフが本音を晒して笑っている明るい声をあげた。公の場だと珍しいと感じながらルドルフの方を見ると、彼女は『あはは! ふふふっ』と上品さは感じられる笑い声をあげ、目の端に軽く涙を浮かべてお腹を抱えていた。余程ツボに入ったのだろう。

 

「いやなに。トレーナー君が見る者を笑わせる絵マを書くと言っていてね。それで笑う門にはフクキタルと話していたんだよ。まさかのタイミングで来たね。あけましておめでとう、フクキタル」

「なるほど! それはいいアイデアですね!! あけましておめでとうございます! ルドルフさん! お嬢様!」

「あけましておめでとう。そのタイミングでフクキタルが来たから、やっぱり良い事がありそうですね」

「そう言っていただけると私もハッピーカムカム! な気分になれますね!」

 

 フクキタルは嬉しそうに両手を上げて喜びを全身で表した。巫女服姿という事はここでバイトをしているのだろうか? そう思っているとルドルフがフクキタルに話しかけ始めた。

 

「その様子だと今年も手伝いに?」

「そうです! 神社でお手伝いをすればきっと新年から開運ですからね! 今は休憩中でして! おふたりは御守りを頂きにいらっしゃったのですか?」

「ああ、絵マと一緒にね。丁度いい。フクキタル、君に尋ねたいのだが、去年はタイミング悪く体調不良に見舞われた。というわけで御守りが欲しい。この場合厄除けと健康祈願だとどちらが良いだろうか?」

 

 ルドルフがフクキタルに話を振ると、フクキタルは両手の人差し指で側頭部をくるくるっと。まるでこの前再放送で見た一休さんのような動作で考え始める。

 

「うーん。そうですね! 我々は怪我が兎にも角にも避けたいものですので、それと合わせて健康祈願の方がよいのかもしれません! 脚だけでしたら健脚祈願の御守もあるのですが、それも含めたものになるかと!」

「ふむ。ではそれにしよう。ありがとう」

「いえいえ! お嬢様は何か頂きたい御守りはございますか? もし何かお悩みがあれば開運のご相談に乗りますよ!」

「そうですね。実家に合った招き猫を1体授与して頂きたいのと、あとは……これは解決できるんでしょうか」

「そんなに深刻な悩みなのかい?」

 

 あの悩みは開運でどうにかなるのだろうか?

 そう腕を組んで頭を抱える。するとルドルフが心配そうに私をのぞき込んできた。

 

「ほら、ここ5日間のアレですよ」

「ああ。アレか――相談するだけしてみたらどうだろうか?」

「そうですとも! 困った時は身近な誰かにすぐ相談するのが1番の開運ですよ」

 

 明るい笑顔を浮かべフクキタルはとても良いことを言った。確かにそうだ。悩むより相談しよう。そう決めたその時だった。

 

「会長、お嬢様、フクキタル。あけましておめでとうございます」

「皆、あけましておめでとう。全員和装とは、華やかで素敵ね」

 

 そこに現れたのはエアグルーヴと、彼女のトレーナーにあたる東条先輩だった。ふたりと一旦あいさつを交わし合う。そして私はフクキタルに相談内容を伝える。

 

「あ、相談内容なのですが、お皿に出すタイプの大きなプリンがありますよね? 裏側の爪を折ってプルンってする商品の」

「ありますね! 私も大好きです! ハッピーという名前がついていて気分がハッピーになります! そのプリンがどうしたんですか?」

「それが5日間、ずっとプッチンできてないんです……。4本全部折っても、何個も空けても落ちてこないとか、穴が開かなかったりなんか地味に不幸でして」

「「……え?」」

 

 エアグルーヴと東条先輩の声がハモった。重たい話題が始まったせいで気遣わせてしまったらしく、彼女たちの空気まで変わってしまったのかもしれない。

 

「それはハッピーな気分が激減してしまう由々しき問題っ!」

「私がやるとちゃんと出たのに、トレーナー君がやると出ないんだ。小さなことだが"日々"の不幸の積み重ねが、きっといつか士気にも"響"いてしまう」

「むむむ! そうなると御守りは厄除けですかねぇ。あんまり酷いようでしたら、私の方でお祓いもやりますよ。一応神社の娘なので」

「お気遣いありがとうございます。次こそプッチン出来るといいなぁ」

 

 どうやら重すぎた話題だったらしく、先輩とエアグルーヴは眠たげなマヌルネコのような微妙な表情を浮かべている。新年早々不幸話に巻き込んでしまい申し訳ない気分だ。

 今度お詫びに高級スイーツを先輩のチームに差し入れておこう。そう私は頭の中にあるスケジュール帳にそっと記憶を残しておいた――。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+2 1月1日 22時――

――トレーナー寮 405号室 角部屋――

 

 着物は専用のハンガーにかけ、夕食も済ませトレーナー君も私もナイトウェアに着替えた。

 いつもなら穏やかな雰囲気が流れるこの部屋には今、彼女と私の闘争心がぶつかり合っている――。

 

 我々は互いに背を預け合わせ、新緑のターフのようなラグの上へ座っている。そして視線はどちらも弁天堂のポータブルゲーム機に注がれていた。

 

 コース設定は春。京都3200m。グレード1の天皇賞春。バ場は不良。天候は大雨。

 

 画面内の視界が悪い中、彼女が操作する選手をマークしながらじっと内側でバ群を進み、植え込みを越え内ラチの開いたスペースを利用して詰める。

 そして我慢比べをしながら最終直線へ! 残り200を切った辺りで瞬発力を生かし一気にこちらは突き放しにかかる。熾烈なデットヒートのままもつれ合うようにゴールイン!

 

「もうすこし混乱するよう細工を入れるべきでしたね。――惜しい」

「――勝ったがハナ差か。君はミスをしてくれないから厄介だな」

 

 トレーナー君がクリスマスに私へプレゼントしたのは『ウイニングレース』というゲームだった。

 クリスマス前発売で、初回予約特典は私『シンボリルドルフ』。CMを務めたのは覚えているが、興味はそれ以上わかなかった。

 

 彼女からこのゲームを与えられて初めて知ったのだが、実によく出来ている。

 世界各国のコースや選手が丁寧に再現されており、実際のレースのようにコース取りや、加速地点を自分で選べる。NPCと遊ぶのはイマイチだが、ネットワーク通信を介し、対プレイヤーレースをするのは非常に面白い。視点も使用している選手を第3者視点で見てやるか、本人の視界でやるかの2種類があり臨場感も抜群だ。

 

 それをプレゼントに貰ってふと思いついたのが、トレーナー君とレースが出来るという事だった。

 フィジカル面では現実だと私が圧倒しているが、その差が埋まったらどんなに面白いレースができるだろうか? 彼女は見るもの全てを覚える能力があり、その膨大な知識の海から叩き出されるレースセンスを学ぶ経験になる。彼女にそう申し出ると、予想済みだったのかもう1台予約品を持っていた。

 

 一旦我々はゲームをテーブルの上に置き、私は電気ポッドと急須(きゅうす)で緑茶をふたり分淹れた。彼女はティッシュを広げミカンを()きはじめる。

 

「そりゃ、私は貴女のトレーナーだから、負けてなお強しくらいじゃなきゃ教える事無いでしょ?」

「それもそうだね。はい、君の分のお茶だ」

「お、ありがとう! 丁度ほしかったんだよね」

「その代わり――私もそのミカンが欲しいな」

「えー! そこは自分で()きましょうよ!」

「――ダメかい?」

「もー。しょうがないなぁ。ルドルフ、お口開けて」

 

 トレーナー君は呆れたように苦笑いをしながら、私の口に丁寧に剝かれたミカンを放り込んだ。そのひと粒は自分で()く手間が無い分とても美味しかった。

 

「このゲームをしていて思う事があるんだ。君がレースに出られるウマ娘だったらよかったのにと」

「あはは。そう思ってくれるなら光栄ですね。小さいころはマハスティの真似をして、よく公園の植え込みを飛び越えたりして怒られたっけな」

「あの真珠色のウマ娘だね?」

 

 最初から生まれながらにして神の如く完成された才を持ち、時折ヒトならざる雰囲気を持つ彼女にも、そんな無邪気な時期があったのか。母代わりのウマ娘を追いかけて真似をする彼女を想像すると、なんだかとても微笑ましい気分になった。

 

「ええ。――かつてレジェンドと呼ばれた引退者のみのレース。グラン・ナショナルと同じ設定で1着を取ったその瞬間を、私はお養父様と共に見ていました。その時、選手を育てる道も良いなと。命を救ってくれたマハスティの仲間、ウマ娘のためというのが、この道に進んだきっかけだと――それだけだと思っていました」

「――というと?」

 

 私はその先に、聞かなければいけない、受け止めなければならない。そんな本音があると思い話を進める。

 

「しかし、今思えば瞬時に記憶できてしまうから、誰かを育てたりすることで成長を追体験したかったのも、あるのかもしれません。しかし、選手たちの気持ちをどこまで理解できているか、欠けた私がどこまできちんと導けているのか(はなは)だ疑問で、それが不安でもあります」

「なるほど。本来あるべき通過点が無く、その通過点のすぐ先を理解するのは確かに難しいね」

 

 ついにトレーナー君が本当の意味で心を開き本音を話してくれた。

 これが彼女の抱える苦しみのひとつなのだろう。私は開かれた本心をしっかりと受け止める。きっとそんな不安と戦いながら、私をどう育てるか、どう導くか、きっと誰にも言えずに悩んできたのだ。

 

 感謝を込め、私はやっと見つけた深い胸の内にある、彼女の不安へと慎重に言葉を選びながら触れる――。

 

「理解というのは向き合う努力をすることを指す。そして君は今の所私ときちんと向き合ってくれている。日頃連絡を取る君の前任のディーネも私も、君には大変感謝している。心配しなくても大丈夫だ。それを経験してもなお、すれ違うことだってあるのだから」

「……そうだね。ありがとう」

「どういたしまして。――お礼にはそうだな」

「へ?」

 

 私がいたずら心で付け加えたそれに、トレーナー君は豆鉄砲を食らったような顔をした。思わず吹き出しそうになるが、そこは堪えて言葉を続ける。

 

「ミカンを()いて、私に食べさせてくれ」

 

 彼女は未確認生物(UMA)でも見たかのような表情をし、数秒間をおいた。

 

「どれだけ貴女は、私が()いたおミカンが食べたいんですか……!」

「他のウマ娘が食べているニンジンは美味しそうに見える。その格言通り、誰かが()いたミカンが一番おいしそうだからだ」

「むー……わかりました。お礼に()くミカンは何個がいいですか?」

「とりあえず3つ程」

 

 そんな私の態度にトレーナー君は呆れているけれど、その横顔はどこか胸のつっかえが取れたようなすっきりしたものだった。彼女の指導者たらんとする姿は立派だが、私にも誰かを頼れというのだから時には本音を話して欲しい。

 

 今日はやっと、記憶の秘密を話してくれた夏よりも心の距離感が縮まり、そんな願いが叶った日でもあった――。たまには神頼みをして見るものだなと、私は心の中で独り言をつぶやく。

 私が個人的に神々へ願ったのは、我々の願いをかなえる魔法使いである、君が幸せに暮らす未来だった――。その助けになりたいから、もう少し心を開いて欲しいと。そんな願いであった。

 

 ――うまぴょい♪

 

「ん? 誰だ?」

 

 気の済むまでミカンを食べさせて貰ったタイミングで、通信アプリLEADの着信音が私のスマートフォンから鳴った。発信相手はハヤヒデだった。

 

「どうかしたんですか?」

「ふむ……なるほど。昼間ハヤヒデに出会ってこのゲームを話したら、彼女も持っていたらしくてね。フレンド登録をしたんだよ。オンラインになっているから、声をかけたんだそうだ。タイシンとチケットのふたりも含め、よかったら一緒にレースをしないかと来ている。君も入れてみんなでレースをしないかい?」

「そうですね。皆でした方が楽しいですし」

「決まりだな。返事を出しておくよ」

 

 さて、今夜も楽しい時間を過ごせそうだ。

 私はどんなレースが出来るか心を躍らせながら、ハヤヒデに返事を出した――。



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『旅行』帯広トレセン訪問記

 お待たせしました。
 ルドルフ視点から始まり、

 ◆◇◇から◇◆◇までがトレーナー君視点
 ◇◆◇からあとがルドルフ視点です

 いつも通り人名や名称はなるべく置き換えております。
 (日経賞だけはムリでした)


――20××年+2 1月21日 午前8時――

――札幌市→帯広市 移動中――

 

 昨日は札幌市で1泊しライブを行った。札幌でレースを走ったわけでもなく何故ライブなのか? というのはURAの企画だったからだ。

 

 企画内容は5大都市に前年に活躍したウマ娘が割り当てられ、それぞれのチームに分かれライブを行う。それで派遣された昨夜の札幌ライブでは、海外で踊った曲なども披露し、現地で見る事が出来なかったファンから大いに喜んでもらえた。

 

 今現在は財閥所有の車でまた移動。高速道路を走る車窓の外は一面雪。向かう先は視察先の帯広トレセンだ。私はある理由で勝負服を着用しており、トレーナー君も同じ理由でお嬢さま風のワンピースを着用していた。

 ワンピースのデザインは、上がゆったりとした袖の白ブラウスにボウタイ。高いウエスト部分で切り替わったボトムは、膝が少し隠れる長さのワインレッドのフレアスカート。どちらもひと目でわかる上質な生地を使っており、あとはタイツとブーツの組み合わせ。髪型は乱れない様しっかり編み込んだシニヨンに。

 

 そんないつもと雰囲気の違うトレーナー君の目の前。リムジンのテーブル上には、昨日デパートで買い込んだお菓子が所せましと並んでいた。それをひとつひとつ吟味するように、彼女はペットボトルのホットドリンク片手に一生懸命味わっている。

 

「このお菓子美味しいですね。また買わなきゃ」

「人気のお菓子らしいね? 私もひとつ貰っていいか?」

「どうぞ。"チョコ"1個単位の"ちょこっと"と言わず、一緒に食べましょう」

「ふふっ、ありがとう。その言葉に甘えさせてもらうよ」

 

 手袋を外し、私に取ったのはホワイトチョコの小さなお菓子だった。

 北海道のお土産として人気の品物と言われている、そのお菓子を口に含む。重厚そうな外観だが軽く噛めばサクリとチョコが割れる。まるごとフリーズドライされたイチゴは酸味はキツくもなく、甘みと香りが広がりサクサクとした食感を醸し(かも)出す。そして甘すぎないホワイトチョコが優しくこれを包む様に味をまとめる。

 

「抹茶とも相性が良さそうだ。ふむ、――私も母へこちらを贈ろうか」

「確かに合いそう。喜んでくれるといいですね。そういえばお菓子のカタログを見てたけど、もしかしてお土産を選んでましたか?」

「いいや、これは別件だよ。バレンタインに仕事を受けているだろう? その参考にと思ってね」

「あー! キャンペーンの!」

 

 

 来月2月にはバレンタインがある。

 製菓会社のCMもかねて、人気のウマ娘が自身の手作りチョコを披露する。見比べられるからには負けられない。特にシービーやタカオハリ、マエツはじめ同期のライバルたちにも。

 

「ただ、料理苦手な重賞ウマ娘にとって公開処刑イベントよね……」

「確かに。過去にはやらせではなく、試食で食べたウマ娘を3日間気絶させ、この世のモノとは思えないチョコレートがあったという話も聞くよ。その後の猛特訓で美味しく出来るまでのエピソード付きの回だったな」

「ひえっ! それは怖いけど、薬物に対する耐性メカニズムが複雑なウマ娘を気絶させるなんて……! 一体何が入っているのか気になります。新発見があるかもしれません」

 

 まさかそこに食いつくかと私は目を丸くした。

 ここにあの実験好きなタキオンと、根っからの研究者気質故に担当となり今ではモルモットと呼ばれているタキオンのトレーナー。この2人を引き合わせたら、さぞ興味深い議論が始まるだろうなと想像してみた。

 だがそのメンバーだと有事際に止めるブレーキ役が居ない上に、明後日の方向性へ研究課題がが飛躍しそうだ。しかし、怖いもの見たさもあり興味がそそられる。

 

「あははっ。まさか研究を考えているとは恐れいったよ。そこでひとつの意見として聞きたい。私が贈るならどんなチョコレートがいいだろうか? 君ならどうする?」

「それはルドルフじゃなくて、"皇帝"としてのイメージ?」

「どちらかといえばそうだね。だけれどユーモアを加えても構わない」

「ふむふむ――となるとそうですねぇ……」

 

 トレーナー君はパクパクと2粒ほど、イチゴチョコを食べながら、腕を組んで考え始める。

 

「……ルドルフのイメージなら"Bitter(ビター)"が甘いチョコより"Better(ベター)"かと」

 

 自信満々にそう返して、親指を立てるトレーナー君。

 ――そのベストな回答に対し耳を大きくパタンと動かし私は歓喜した。

 

「いいな。それでいこう!」

「ほっ。ほぼ勢いだったから滑らなくて良かったです」

「英語と日本語、どちらも1文字違いの"ダジャレ"とは随分と"シャレ"たことをしているからね。君はバレンタインに誰かへプレゼントなど贈る予定はあるのかい?」

 

 カタログを閉じて横に置き、ふとした興味で彼女に尋ねると――。

 

「ありますよ。毎年大変なんですよこれがまた!」

 

 意外な答えに目を丸くした私とは対照的に、トレーナー君は指を数え折り曲げながら話し始める。

 

「日本でも親しい方へ贈るんですよね? まずルドルフ、お養父様(おとうさま)とマハスティ。あと叔父様たちと姪っ子、甥っ子。それに創業者一族から社員へのギフト券。何かと忙しいです」

「家族と私へというのは理解できるが、社員へのギフト券とは?」

 

 疑問を持って首をかしげて尋ねると、トレーナー君はニッコリ笑って答えを返してくれた。

 

「はい。日本円にして諭佶(ゆきち)3人分。それで好きなもの買っていただければなと」

「マメに気に掛けることで集団をまとめていくわけかい?」

「そういうことです。我が社は種族構成も複雑。組織の図体がとんでもなく大きいので、一度の士気の低下が命取りになります」

 

 積み重なると凄まじい額の大盤振る舞いになりそうだが、それが士気向上もしくは維持に繋がるならアリなのかもしれない。そういえばバレンタインの起源も、絆や愛を守ろうと奮戦して散った聖者の物語だったような? そんなことを頭の片隅に考えながら会話を続ける。

 

「なるほど。つまるところ、社員ひとりひとりを石垣、城、堀の(ごと)肝要(かんよう)に扱い。情けを味方とし、(あだ)を敵とする。これを地で実行していると?」

「ええ、ウマ娘や半人半バ(セントウル)。どんなに私達が強くても、信頼できる様々な出自の仲間と力を合わせ、共に繁栄を願い合うのが最善です。これらは全てお養父様の受け売りなので、実質的な社訓に近いですね」

 

 私はここであることに気付いた。トレーナー君の養父がどうして、彼女が捨てられた時に日本にいたのか気になっていた。今の一言でひとつの答えを見出せた私は切り出す。

 

「となると養父君は信玄公に造詣(ぞうし)が深そうだね。デリケートな話題だが、君が拾われたのは確か長野の望月だったね? その切っ掛けはもしや――?」

「鋭いですね。先代当主――お養父様の父親は愛妻家かつ、子供たちにも教育熱心だったみたいで、帝王学のひとつとして紹介した偉人が武田信玄でした。先代が亡くったあと、偲びたくなった養父は長野を訪れ、お散歩に出かけた秘書のマハスティが私を見つけて拾ってくれました。拾っていただいた理由も、ただでさえ少ない仲間だからでした。これも何かの縁だから養子にしようとか、そんなことを言っていましたね。ありがたいことです」

 

 普通じゃあり得ない発言に私は耳を疑った。が、冷静に考えてみれば彼女は忘れられない体質だったので、驚きで逆立ちかけた耳や尾の毛が落ち着いていく。

 

「そんな幼いころから記憶があるのか?」

「ええ。産まれた瞬間は覚えていませんが、拾われた後からはずっとです。――音として覚えていた事柄を掘り返して後で見返してみたんですよ」

「なるほどな。相変わらず常識離れした記憶力だね?」

「ふふっそれほどでも~」

「話は変わるが、視察が終わったらウイニングレースの試合がしたい」

 

 美浦寮に帰ってからもイメージトレーニングの一環として、トレーナー君とレース趣味レーションゲームの通信対戦をしている。彼女はGrandの称号持ちだけあって、レースセンスの良さともある。そして規格外の記憶力を武器に、回数を重ねたトレーナー君は今ではとんでもない勝負強さになっている。

 

 絶対があると言われる私のコーチを務めるなら、トレーナー君にも強く絶対的な存在であって欲しい。彼女が強いのは喜ばしい事だ。

 

 ――が、やられっぱなしでは納得がいかない!

 

 今週はトレーナー君の勘が絶好調らしく、全部手を見抜かれてわずかではあるが負け越してしまった。

 ムキになっているのは重々承知。だがあらゆるレースを全て記憶でき、古今東西のレーススキルを使いこなす彼女だからこそ、そんな気持ちになれる。

 

「いいですよ。夕食後にどうですか?」

「決まりだね。設定やコースは任せるよ」

「わかりました。プランを考えておきます」 

 

 トレーナー君は1粒イチゴチョコレートを食べ、手をウエットティッシュで拭いた。そして両手をあげのびーっと背中を伸ばす。

 

「あ、そういえば送り先にあと1名いますね」

「ほう? 身内の方へかい?」

 

 顎に指を当て思い出したように天を仰いだあと、トレーナー君はにこっと微笑んだ。

 

「はちみーが大好きなあの子。トウカイテイオーさんですよ。超セレブがチョコレート贈るならどんなの! って話題になりまして。可愛いから、サプライズで豪華なチョコを送ってみようかなと」

「あはは! 彼女らしいね!」

 

 きっとテイオーは何気なく聞いたつもりだったのだろうな。それに対して本気のイタズラを考えている彼女の気持ちも分からなくもない。こう見えてイタズラするのは私も大好きだ。

 

「よかったらこのドッキリ計画を手伝ってくれませんか? ルドルフも一緒になって選んだとテイオーさんが知ったら、きっと大喜びしてくれるかと」

「そうだな。テイオーに贈るのは手作りと既製品どちらにする?」

「高級食材使った手作りもいいけど、それこそセレブ向けの高級スイーツとかどうでしょう? 一般ルートでの入手が難しいカタログと業者一覧を取り寄せて、府中に帰ってから作戦会議というのは?」

「それでいこう。ふふっ、個人的にもどんなものがあるか楽しみだ」

 

 入手困難になる程の高級な品物。自分が食べたいとき以外に興味を持ってみたことが殆どないが、一体どんなスイーツがあるだろうか? 想像するだけで楽しい気分になる。

 

「そういえば。いつも他校への視察は生徒会と伺うのに、なぜ今回はおひとりで?」

 

 トレーナー君は不思議そうに首を傾げた。確かにいつも副会長の2人や他の役員と行くことが多い。しかも今回は引率付き。そして引率者が私の指名となれば、疑問に思うのは当然の事だった。

 

「ふたりも誘ったが断られた。前年のハードローテーションの疲れを抜くためにも、近場の温泉でゆっくりしてきてくださいと」

「なるほど……」

「まあ、ふたりともトレーナーが決まって気合い十分といったところでね。今は別行動がいいんだそうだ。特にブライアンは私をレースで"ぶっちぎってやる!" とまで宣告してきたよ」

「わー。物凄くバッチバチじゃないですか。――けど、なんだか貴女の今の表情はとても嬉しそうですね」

 

 自覚はなかったがどうやらそんな表情をしていたらしい。トレーナー君に本音を隠す必要はない。私はそのままの思っている事を答える。

 

「ああ、目標とされ追われる立場になれたという事が嬉しいんだ。しかし、勝たせるつもりは一切ないので、昨年以上にしっかり頼むよ?」

「わかりました。――では、どうして私が引率へ指名されたのですか?」 

「それは君を是非、帯広へ連れて来て欲しいと先方からの願いでね」

 

 今回訪問する帯広トレセン学園の主役は、"ばんえいレース"の出走者たち。ウマ娘の中でもトップクラスのパワーを有する重種のウマ娘たちだ。全員がアメコミ女性ヒーローのような肉体美を誇り、着飾るのが好きなウマ娘達が多い。

 

 そのため卒業生には1流ファッションブランドのデザイナーとして、華々しい活躍しているウマ娘も多数。おしゃれに敏感で美しい物に目がない彼女たちは、新たなデザイン開拓へのインスピレーションを得るために、アハルテケの血を引くトレーナー君にも会いたいのだそうだ。

 

 さらに、その選美眼は当然私にも向けられ、勝負服での訪問を強く希望されている。帯広トレセンに存在するファンクラブきっての希望らしい。ファンの要望とあればそれは応えねばならない。

 

「うーん。私、一般的な事しかできないよ? それで喜んでもらえるかちょっと不安です」

「普段通りにしていれば大丈夫じゃないか? 大変な役目だと思うが、中央の広報活動の一環だと思って頑張ってくれ。帯広側は私たちを歓迎するため、ディナーには名産品をふんだんに使ったチーズフォンデュ、名物の豚丼など全て揃えて準備しているそうだ」

「! 名産づくし!? 何て魅力的な響き……!」

「トレーナー君、色々とダダもれだよ?」

「ああ、ごめんなさい。つい」

 

 ぱぁー! ――そんな音が聞こえてきそうなくらい、トレーナー君は甘い果物を前にしたウサギのように瞳を輝かせた。彼女の露骨な態度に内心思わず吹き出しかける。それと同時に食べ過ぎてまた体重計に乗ってオロオロしないか心配だが……。

 

 まあ、そうなれば私と一緒にまた朝から走ればいいだけだ。野暮な突っ込みはしないでおいた。

 

「それと皇帝が来るならばと御前試合と称して、レジェンドクラスの選手による勝負服を着用した模擬レースも開催してくれるそうだ。楽しみだね」

「おお! 動画で見たことはありますが、実際目に出来るのは楽しみです! 実際に初めて見るレースだし光栄だなぁ」

「なにせ文字通り最強を決めるレースだからね。今回は最強と呼ばれる現役選手も出るそうだから、きっと豪華だよ」

「わお! 早く着かないかなぁ、楽しみだなぁ」

 

 掛かり気味に無邪気にはしゃぐトレーナー君。彼女と楽しく過ごす内に、時間は過ぎていった――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 1月21日 午前14時――

――帯広トレセン カフェテリア――

 

 その日、異世界の人類だった私は思い出した。ウマ娘から見たら半人半バ(セントウル)は近しい異種族で――。

 

「食べてるだけなのに本当にちっちゃくて可愛いなぁ……! ケーキもあるよ!」

「ほんと――に可愛い! 髪も両目も宝石みたい! アハルケテの半人半バ(セントウル)って初めて見たけどアリだわ! ねえ、後でネイルいじらせてもらえない?」

 

 長いウエーブがかった金色の髪に水色の瞳の、フランス系っぽい顔貌が特徴的なウマ娘がこちらにぐいぐいと顔を寄せてくる。それを制したのは青毛のひときわ大きな長身のウマ娘。こちらも正統派美人という感じだ。

 

「ダメよ。私が先に髪を見せてもらう約束してるんだから」

「えー! 何それ抜け駆け交渉してたのね! なら、レースで決着つけましょう? 丁度この後シンボリルドルフさんを招いての試合がいくつかあるでしょ?」

「いいわね。先着した方が先でいいかしら?」

「えっ。……あっはい。滞在中であれば問題ないですよ」

 

 お姉さま方(肉体年齢的な意味)に捕まると、ほぼこうなるということを――。

 

 ウマ娘に適度に振り回されながらメンタル面を安定させるのもまたトレーナーの仕事。だけど私は普通のトレーナーと違い彼女たちと年齢が近い。そのためトレーナーというより実質的な遊び相手に認定され、無茶振りが降りかかってくる。

 

 しかし、それは悪い事ばかりでなく、もっと幼いころには逆にトレーナーとして一流に育てようとしてれたりする。思いやりが強いウマ娘達はライバルの垣根を超え、それこそあれもこれもと彼女たちウマ娘は私に必要な事を教え込もうとしてくれた。親しまれるのは良い事だし仕事にとっても有益だ。

 

 私以外に今、この場に居るのは、大多数が華やか系美人のデッカい重種のウマ娘達。陽気かつキラキラしている彼女たちは、とても眩しい存在感を放っている! 

 そして目の前のテーブルクロスが敷かれた円卓には、最高素材のをふんだんに使った軽食や、お菓子、ティーセットが並べられている。

 

 ルドルフと共に帯広トレセンへとやって来ると、私たちは熱烈な歓迎を受けた。午前中はふたりで一緒に案内を受けていたのだが、午後からルドルフはこちらの理事長との話合いに行ってしまった。

 

 ルドルフと離れた瞬間、私は目をキラキラさせたウマ娘達に囲まれた。それで物珍しいアハルテケの血を引く半人半バ(セントウル)。金属のスライムみたいなレア生物と異種族交流したいという、帯広のウマ娘達とお茶会をしている。

 

 始まると同時に我も我もと持参したお菓子を勧められ、それを私はひたすらごちそうになっている形だ。芸能活動のプロじゃないから、期待されてるのにガッカリさせるかもしれない。一抹の不安はあったけど、皆嬉しそうにしているから良かった。

 緊張感もほぐれ、ほっとした気持ちで出された御馳走を楽しんでいる。どれも新鮮でどれも美味しい。クリームチーズに北見タマネギスライス、そしてスモークサーモンのサンドイッチが最高に鮭鮭しくて美味しかった。

 

 これらの御馳走を用意してくれたウマ娘たちが主役のばんえいレース。それはこの国でしか開催されない、世界一のパワーレースだ。

 とんでもない重量のソリをひき、障害物となる坂を越え、ゴールを目指す直線1本勝負。冬季以外のレースでは、ゴール手前に砂場の坂まであるという。

 こんなな感じにとてつもないタフネスが試されるレースに出る彼女たちは、それに相応しい肉体をしている。しかし、だからといって筋肉で丸いフォルムではない。

 

 筋肉は出力出来るパワーに比べれば肥大せずコンパクトに収まっており、近くで見てやっと筋肉質だとわかる。そして何気に腹筋がうっすら6つに割れてたりする。もう人間の身体基準では語れない。医学的に見ると神々しささえ感じる……スゴイ。

 

 彼女たち重種は軽種と比べ大きなスケールを誇っている。

 中央で大きなウマ娘といえばヒシアケボノだが、彼女をここに連れてくればごく普通のウマ娘になってしまう。それくらい大きな娘達が重種には多い。

 

 私の世界の人類でこの境地に至るのは、相当遺伝子をいじくりまわさなければ無理だろう――。

 

 そして学園全体の雰囲気は明るくのんびりとしており、優雅にお茶を囲んでガールズトークを楽しんでいる姿も多く散見される。

 外観もさることながら、内装もオシャレなインテリア、美術品、そして可愛い物が沢山あふれておりオシャレな学園だ。そのため、この世界のばんえいレースはそんな強く、美しい彼女たちによって華麗なる力の祭典と化している。

 

「この足音――お嬢様の担当してる子が帰って来たっぽい。理事長との話まとまったのかな?」

 

 私のネイルを弄りたがっていた金髪のウマ娘が耳をぴこぴこっと動かしている。

 

「え? わかるんですか?」

「うん。足音で。ほら、私らデカいからさ。お嬢さまはそのまま座っててね? ちょっとみんな、少しずつずれてスペース開けよ?」

「おっけー!」

「女子会に皇帝さん1名追加ー!」

 

 陽気なウマ娘たちはルドルフを迎え入れるために少しずつ、自分の席をずらし始める。そして誰かが私の肩をチョンチョンと遠慮がちに触れる。振り向くと少しだけ小柄……といっても私より大きくておっとりした雰囲気の、和風美人な栗毛のウマ娘が微笑んでいた。

 

「シンボリルドルフさんは食べられないものはありますか? コーヒー派? それとも紅茶派ですか? ニンジンとりんごなら、デザートとしてどちらがいいでしょうか?」

「好き嫌い、アレルギーに関しては特にありません。飲み物はブラックコーヒー派。ニンジンとりんご、どちらも美味しそうに食べてくれますが、どちらかといえばリンゴ派かと」

「ありがとうございます。では、用意してきますね」

 

 テキパキとウマ娘達が準備をしていると、ルドルフが戻ってきたのが見えた――。

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年+2 1月21日 午前18時00分――

――帯広レース場――

 

 トレーナー君を探しに来た先で招かれたお茶会を楽しんだ後、私たちは防寒着を着込み、学園近くの帯広レース場へと向かった。時間が少し余った先に他のレースを観戦するのもアリかと思ったが、案内役が来てくれる前に見たりするのは申し訳ない。それに警備の都合があるだろうから、指定時間まで近くのウマ娘に関する資料館を楽しんで今に至る。

 

「レース楽しみだなぁ ふふっ」

「そうだね。応援しながら自分たちも一緒についていきながら見るのがこのレースの特徴でね。込んでいる様だとはぐれてしまうかもしれない。レース中は手を離さないでくれたまえ」

「わかりました! ――あれ?」

 

 可愛いポンチョコートに暖かそうな手袋をしたトレーナー君は、レース場敷地内のあるウマ娘の像の前で立ち止まる。ここが学園推薦の案内役との待ち合わせ場所だった。

 

「立派な像だね」

「この地の方々とばんえいレースの礎を作り上げたウマ娘の像だよ。記念レースにもなっているような偉大な方だ」

「そうなんだ。――うーん、それにしてもどっかで見たような……」

「知り合いに似てるのかい?」

「うん。でも今の話なら他ウマの空似か」「あー! いたいた! 見つけた!」

 

 向こうから薄く積もる雪を蹴散らしながら凄まじい勢いで、重種ウマ娘が突っ込んでくる姿が見える。まるで雪を蹴散らしながら走行する新幹線のようだ。

 

「あ! 船長さん!」「船長!? というと彼女は……」

「お久しぶりお嬢さん。そしてはじめまして、皇帝シンボリルドルフさん。アタシ。じゃなくて! ――失礼しました。私が貴方の無敗のクラシック3冠祝いに贈ったマグロはどうでしたか?」

「――! 学園の者たちと美味しく頂きました。ありがとうございます」

 

 その正体は以前トレーナー君がマグロ釣りに出かけた時の船長だった。それが縁で昨年のクリスマスにマグロを贈ってくれた方でもある。そんな彼女は――銅像のウマ娘にまさに瓜二つだった。軽く名乗った後、青毛の彼女は太陽のように明るい笑みを浮かべ銅像をちらりと見やる。

 

「という訳で、私がおふたりの案内の担当者です。さっきからずーっとお嬢さんが銅像と見比べてるけど、この像と私はそっくりでしょ? 実は私の祖母なんですよ」

「! それでそっくりだったんですね!?」

「なるほど。通りでトレーナー君が似ているという訳だ。偉大な方の御令孫に贈り物を頂き、案内していただけるとは光栄です」

「褒められるとくすぐったいからやめてくださいな。祖母は子だくさんだったから孫も沢山いて、私はすでに現役を退いたそのひとりです。いまはただ、その祖母に似てるのが自慢でして、ほら。写真に画家が色を塗ったやつだけど」

「うわー……本当にそっくりだ!」

 

 それはレトロな写真だった。青毛に文明開化の音がする洋風のドレスを着込み、日傘を差した海外系とわかる顔貌のウマ娘が佇んでいる。確かに目の前の船長と面影どころかほぼ同一人物といって差し支えない程同じだった。思わず目を丸くする私と、大はしゃぎしながらトレーナー君はきょろきょろと写真と船長を見比べてはニコニコしていた。

 

「確かに同一人物かと見紛うほどそっくりですね」

「でしょう? さて、そろそろパドックが開催されるだろう。場内へ入りましょうか」

 

 私たちは船長の先導で中へと案内されていった――。

 

 

 パドックを見終わり敷地内に入ると、観戦場所から少し離れた位置にゲートが設置されていた。それは我々が使うゲートよりも大きい。そしてソリをひき回すためにシンプルだが、それでいてオシャレな勝負服を着込んだウマ娘達が、続々とゲートイン。

 

『さあ出走まであともう少し。最終レースは帯広トレセン学園主催"シンボリルドルフさんご一行様歓迎記念"。ばんえい界のレジェンドを集めたこの豪華なレースを制するのは一体誰でしょうか!』

 

「レース名が凄い事になってる……」

「熱烈な歓迎だね。応えられるよう我々もきちんとした態度で観戦しようか」

 

 このレース名で我々がいると知った観戦者がザワザワとし始める。うっかりだらしない所を見られて、彼ら彼女らの理想像を壊さない様、気を引き締めながら私は佇みスタートを見守る。

 

『スタートしました! 先陣を切ったのは――』

 

 出走者10名の内、一番奥のウマ娘5人がソリを思いっきり引っ張り勢いよく飛び出した。このウマ娘たちは逃げ先行策なのだろう。そして前評判が一番良かった9番ゲートの青毛のウマ娘はじっと見据えるように場を見て、一呼吸置く様に呼吸。そして一歩一歩規格外の重量が乗ったソリをひき、ゆっくりと冷静に最初の台形型の坂を全員が目指していく。

 

 目の前のウマ娘が戦っているコースと違い、凍ってシャリシャリする砂の音を響かせながら、我々もゆっくりそれについてスタンド側を移動して進む。最初の坂をスムーズに超えたのは先行した5名の内3名。2名はソリをひくタイミングが合わず、坂の角に引っかかってしまった。彼女たちは慣れているのか焦らず、一呼吸おいて突破した。

 

「力押しだけでも難しそう……」

「今みたいに引っかかる。落ち着いて登るのも大切になります」

 

 トレーナー君の感想に対し、船長が解説を入れていく。短い距離に坂がたった2つ。知らない者が見たら力押しでクリアできるように見えるが、実際はそのようにやみくもにやってゴール! という一筋縄にはいかない。それがこのレースの奥深さのひとつともいえる。そして青毛のウマ娘は同じペース、どの位置に居ても我関せずといった泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度を崩さない。先頭から3バ身以上ついていても、一定のペースでじっくりと第一の坂をスムーズに超える。

 

 全員が一旦坂を越え、そして我々から見れば短い直線をはさみ2つ目の坂に入る。こちらは第1の坂よりも大きく、先行勢は必死に引き上げようとするがソリが重く中々あがれない。一番高い位置まで踏ん張りながら登っているのは1番ゲートから出た栗毛のウマ娘だ。

 

 そしてここで詰まり先頭から5バ身離れていた最有力勝者候補の青毛のウマ娘が合流。しかし、彼女は坂の前で考えるように立ち止まってから一旦ソリとヒモを確認し、ゆっくりと一歩一歩登ろうとしている。3番ゲート出走の金髪のウマ娘も坂の上手前の良い所まで来ており一体誰が勝つのだろうかという空気に包まれる。

 

 観衆は2番目の坂の前に集まりそれを応援し、膠着(こうちゃく)状態が40秒ほど続く。左手で握るトレーナー君の手にも力が少し加わる。緊張した面持ちの我々はどんどんこの激闘の渦へと引き込まれていく。

 

 そして歯を食いしばり我武者羅(がむしゃら)に引きずり、膝をつきながらも坂の上に辿りついたのは1番ゲートのウマ娘だ! 3番ゲートのウマ娘も咆哮のような雄叫びを上げながら気合の登坂! 1番と3番の2名が一気に坂を登り切った! そして2名は坂を下ったところで息を入れるように3秒ほど立ち止まってから、闘志が満ち満ちた光を宿した瞳をまっすぐに、顔を上げゴールを目指す。

 

 実況はまだ9番の王者と呼ばれる青毛のウマ娘が来ていないと騒ぎ、場内もざわつく! すると9番の青毛のウマ娘もここで瞬間的に力を出して坂を登り切った! 彼女のファンが歓声を上げる!

 先頭は1番、2バ身離れて3番。そしてこの王者が6バ身以上離れている。間に合うのかと思ったのもつかの間、なんと青毛のウマ娘は息を入れずにそのままゴールめがけ、勢いをつけて進んでいくではないか!

 

「えええええ! なんて心肺機能なの……!」

「全くひと息も入れなかったね。これは凄い!」

 

 あまりの身体能力に思わず身震いがするほどの興奮を覚える。

 そしてそのまま青毛のウマ娘は先頭の2名をぶっちぎり3バ身つけ、王者のひく鋼のソリはゴールラインを越えた――。

 

「あんなに強いと思わず息がヒュッってなりますね。凄いなぁ」

「あははっ凄いでしょう? 王者ですら展開次第であの2番目の坂で引っかかったりもするから、だれが勝つかわからないのが見どころなんですよね。さて、次の案内まで時間があります。屋内で温かい飲み物など召し上がり、一旦休みましょう」

 

 船長の呼びかけに頷き、トレーナー君がはぐれていないか振り返る。手もきちんとつないでいるし、ちゃんと居ることを確認し終え、私たちは屋内へと戻っていく――。

 

 私の次のレースは日経賞――菊花賞、有マ記念に続く3度目の長距離レース。そしてここから先にシニア級へ至ったウマ娘達との争いも本格化していくであろう。そのためにも休養は大事。この後は視察をしながら、近場の温泉でゆっくり英気を養いのんびりとした日々を1週間ほど過ごし、中央トレセンへ帰る計画だ。そして万全の状態で次も勝利を掴もう。

 

 場内の熱気や重種ウマ娘達の闘志に当てられた私は、自身の胸の内にそんな心の炎を仕舞い込んだ――。




 北海道はいいぞ!


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『日経賞』たまには別プランを

 お待たせしました。85年モデルの日経賞のお話です

 ルドルフ視点から始まり
 ◆◇◇から◇◆◇の間だけトレーナー君
 ◇◆◇以降ルドルフ視点です

 大雑把に内容をプロットしたのが、この妄想シリーズを書き始めたころくらいなんですが、まさか競馬における昨今の時事を彷彿させるものになるとは……。
 あくまで妄想なので実在団体への批判とかメッセージ性があるものではないです。と念押させてください。(偉そうなこと言えません!)

 出走者表はこちら

【挿絵表示】

 わーお……。
 では始まります。


――20××年+2 3月30日 20時頃――

――美浦寮 自室――

 

 今日はひとりしかいない自室。私はレースに必要なものをスポーツバッグに詰め、邪魔にならない所に置く。ベッドに腰かけて髪にブラシをかけ寝る準備を始めた後、落ちた髪の毛を拾ってごみ箱に捨てる。

 

 ブラシをベッドサイドボードの引き出しに戻す時、ふとその上にある折り畳み式のシンプルなフォトフレームに目が行った。

 

 そっと手に取る。そこにはトレーナー君と私が映った写真が2面飾ってあった。

 

 この写真を撮った時期は帯広に向かう少し前になる。

 今年の1月半ばに行われたURA賞の授賞発表パーティーでのもの。私は紫のロングドレスで、トレーナー君は彼女にとっての勝負服――いつものスーツ姿。そんな私達は笑いあって写っている。

 

 パーティーでは私は最優秀クラッシック級ウマ娘賞を受賞し、年度代表ウマ娘に選出される資格を得た。シニア級の受賞者も含まれるため投票結果は荒れるだろうな。

 

 と思いきや、大変光栄なことに私が年度代表ウマ娘へ選ばれた。

 

 壇上から正面を見たとき、案の定うれし泣きしそうなトレーナー君の姿が目に入った。

 片手の親指をぐっと立てて満天の笑みを浮かべた。きっと嬉しかったのだろう。思わず私も熱いものが込み上げそうになるも引っ込め、同じように返す。その瞬間大きくシャッター音が鳴り響いた。

 

 そして次はウマ娘達を担当したトレーナーの表彰となったのだが、私のトレーナーは担当選手がひとりだけ。そのため最優秀新人トレーナー賞も、最優秀トレーナー賞も選ばれない。

 

 それが残念だった――。

 共に世界を制したのだから、同じように誰かに彼女の頑張りを讃えられて欲しかった。思わず頭上の耳も垂れてしまう。何だか寂しい気持ちがしたから。

 

 すべての表彰が終わった時――ここで急遽URA機関紙の代表と秋川理事長と共に『特別トレーナー賞』が発表された。呼ばれたのは自身のトレーナーだった。

 

 秋川理事長は『感動ッ! 成し遂げた戦績もさることながら、キングジョージと凱旋門での君たちの互いを思いやる絆に心を打たれた者は多かったッ! よって×××トレーナーにも特別賞を贈らせてもらうッ! これからも励み給えッ!』と、トレーナー君に特別賞の盾を差し出した。

 

 ステージの背景にはトレーナー君がキングジョージのレース直後、転びながらも私に駆け寄った時の映像。凱旋門ではレース後にぶっ倒れたトレーナー君に私が駆け寄ってた映像が並べて表示されていた。

 

 トレーナー君は映像に気付いてはっとしたように目を見開き、秋川理事長に振り返りなおして、言葉を失ったように震えた。彼女は両手で口を押えて本格的にこれは泣きそうだった。彼女の涙が零れ落ちる前に――クラッチバッグからレースの白いハンカチを取り出す。

 

 いくら喜怒哀楽が激しくて泣きやすいから水に強いメイクをしているとはいっても、崩れて恥ずかしい思いをするのは可哀想だ。バッグを自分の席に置いて壇上のトレーナー君にそっと近づき『また泣いてしまってるよ』とハンカチを渡した。

 

 そしてその瞬間、取材班のカメラのフラッシュが一斉に切られる。雷雨のように降り注ぐフラッシュと、トレーナー君の瞳から溢れる歓喜の雫。それは彼女と私の歓喜からくる高揚感のように激しい物であった。

 

 結局トレーナー君は泣き上戸のウイニングチケットよりも、何を言っているかわからないような状態に。そのため彼女が得たその勝利の盾は私と一緒に受け取った。

 

 これも我々らしいかな? と、ステージから降り切った時――ふいにトレーナー君へ"ルドルフ"としての笑顔を向けた。それに応えるようニコリと微笑み合う彼女。

 

 2枚目の写真はその時の写真だ。私もトレーナー君も表情が生き生きしているいい写真だと思う。

 

 そして明日はシニア級最初のレース。今年も彼女と共に目標へ向かって頑張ろう。

 写真立てを置いて私は部屋の照明を消してベッドに入り瞳を閉じた。

 

 理想への果てに向かう旅路へ踏み出すために――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 3月31日 15時30分頃――

――中山レース場 スタンド――

 

 今日は折角だからルドルフから貰ったシュシュでポニーテール。そしていつものスーツ。で、見慣れないのは――。

 

 ルドルフが体操服だってこと。

 GⅠレースの勝負服と同じ緑の体操服とゼッケン。久しぶりにトレーニング以外に体操服を着用してるのを見て何だか新鮮だなぁなんて思った。

 

 そして今日はトウカイテイオーは都合が合わずスタンドには居ない。副会長ふたりもトレーナーが東条先輩へ決まったし、今日は私ひとりで観戦かなぁ?

 なんて思っていたら、トレーナーが決まったはずのブライアンが何故か私と一緒にここに居る。疑問に思ったので聞いてみることにした。

 

「そういえばブライアン。東条先輩達と見ないでいいの?」

「――お前がまた倒れないか心配だからと、ルドルフとトレーナーに頼まれた」

「すいません……ご迷惑おかけしてました」

「――気にするな。レースならどこでも見られる」

 

 どうやら私の所為だったようだ。申し訳ない。しかも先輩にまで心配されてた。

 私は思わず頭を抱える。

 

「ここ空いてる~?」

 

 その声に振り返ると、そこに立っていたのは――。

 

「ちゃおーお嬢様とブライアン先輩~」

「こんにちは…お見かけしたので……レース観戦ご一緒してもよろしいですか?」

 

 セイウンスカイとメイショウドトウだった。

 

「こんにちはおふたりとも。いいですよ」

「――構わん」

「わぁーありがとうございます!」

「ほら。話しかけたらおっけーしてくれたでしょ~?」

「はい~」

 

 嬉しそうにピコピコと耳を動かして喜んでいるメイショウドトウ。どうやらセイウンスカイは、私達に声をかけられなかったドトウを見かね行動したのだろう。道理で珍しい組み合わせだと思った。

 

「流石の会長さん相手だと出走回避が多いねぇ~」

「そうですね。開催出来て良かったというレベルです」

 

 本日の中山第11レース『GⅡ日経賞』の出走者数は8人。ルドルフの出走が決まる前は沢山登録者が居たのだが、登録した後から回避者が続出したためこの人数になってしまった。

 

「あまりこんな状態だと、実戦の意味が無くなってしまいます。困りものです」

「むむ……そうなんですか?」

「ええ。経験は大成功のための貯金箱ですからね。人数が違うだけでレースの作戦は大きく変わります。大きなレース程人数が多くなる傾向があるので、人数が多いレースを実際に走ってちゃんと実戦を積み重ねるのが大事になるんです。ドトウも練習したらちょっとずつ作戦が増えたり、自信がつくでしょ?」

「なるほど! 確かに実際のレースで頑張った事はよく身についている気がします」

「ふーん? するとするとぉー……お嬢様と会長は今年も大物狙いというわけで~?」

 

 ドトウの疑問に丁寧に答えていると、セイウンスカイが声をかけた。彼女は名探偵が推理するような感じに、指をあごの下に当てニヤリと笑いおどけた。

 

「そう言う事です。今年もルドルフの年度代表ウマ娘の座を狙わせて頂きますよ?」

「ふふっビンゴ~。どんな大物を仕留めてくるか楽しみだねぇ~」

 

 今はまだ発表しないが、秋のレースプランは大物狙いと決めている。前年みたいなドタバタではなく、今年は慎重にいくつもりだ。

 

「大物といえば~お嬢さまは釣りが大好きだと聞きました~。セイちゃんも釣りが大好きなのでお供にいかがですか~?」

「保護者の方が許可をすれば。そして都合が合えばいいですよ」

「やったぁー!」

 

 これくらいは別にお安い御用だし、特に断る理由も無いのでオッケーをした。するとセイウンスカイは大喜びで私にLEADを交換するための小さなメモを渡してきた。最初からこれが狙いなのかもしれない。

 

「可愛らしいメモですね」

「うんうん! フラワーと遊びに行った時に一緒に買ったんだよね~! いいでしょぉ~?」

 

 デイジーとヒナギクが印刷された明るい図柄のメモをそっと名刺入れに仕舞うと同時に――。

 

『曇り空が続きがちだった空にも久しぶりに晴れ間がのぞきました! 中山11レースGⅡ日経賞の始まりだ! 芝2500m右回りバ場は稍重。春の天皇賞の前哨戦を制するのは一体どのウマ娘か?』

 

 ひょうきんなしゃべり方が特徴的な男性アナウンサーの語り口にノッタ観衆は、大きな拍手や歓声をあげる。そして私たちもバ場の方へと意識を向けた。

 

「入場……始まりましたね!」

「さて、どんなレースになるか楽しみだなぁ~」

 

 本バ場入場紹介が始まった。6番目に紹介されたルドルフは、返しを行いゲートの前まで走る。

 今回のスタート位置は向正面側だ。三角型の外回りコースの途中からスタートし、3コーナーで内回りと合流し内回りを1周半。そんな感じの有馬記念と同じコース取りだ。

 

 そしてゲート前に来たルドルフは、ウォーミングアップのストレッチを行いはじめた。

 

「ところでところで~? 今回の作戦は?」

「それは見てのお楽しみです」

「まあ、わかっちゃうとネタバレだもんね~」

 

 セイウンスカイと軽くやり取りを交わしている内に、ゲート入りは続々と終わり人気紹介へと移る。出走者数が少ない分段取りは早い。そしてアナウンスと共に、3番人気の子と2番人気の子達が次々にゲート入りし。

 

『1番人気。凱旋門ウマ娘王者シンボリルドルフ! シニアシーズン初の出走! 今日もこの子が勝ってしまうのか!』

 

 ルドルフが堂々とした態度でゲート入り。そして――。

 

『各ウマ娘態勢整って――スタートです! 全員綺麗なスタートを決め、まず飛び出したのは内側の5番クガネアスカ! 1バ身さがって6番シンボリルドルフ2番手、前目の位置取り! その外まわって7番クガネクロシオ3番手!』

 

 バ群はルドルフを意識しており前に行きたがらない様子。そして先頭が向正面の延長部分を抜け3コーナーがある位置にまっすぐ入っていくか行かないかの時だった。

 

『おっとシンボリルドルフがハナを取った! これは珍しい展開だ!』

 

 残り2400m(スタートから100m)の通過タイムは7秒前後。ずいぶん遅い。逃げが不在で皆自分の様子を伺っていると察したルドルフは、外からクガネアスカを抜いてハナを奪いマイペースに走る。

 

 今回は過去のレースを見る限りルドルフ以外先行が3人。他は後方からのレース展開が中心――。なら好位置にずっと待機していても仕方がないので、今回の作戦は100m通過時点で逃げが不在なら先頭いきましょうという事で合意していた。私は双眼鏡から目を離し肉眼での確認に切り替える。

 

『バ群はシンボリルドルフ先頭で4コーナーへ! 内側2番手ピタリとルドルフの後ろに張り付きクガネアスカ! その外並んでクガネクロシオ3番手! 内を通り1番キタノユニコーン4番手!』

 

 ルドルフは得意のコーナリングを決め残り2000m地点(スタートから500m)を通過。1ハロン間のタイムは13秒。

 残り2200m地点(スタートから300m)では1ハロン当たり12秒半ばくらいの感覚で、一気にペースを上げたようだがここで少し落とした。コーナーが原因でペースが落ちたのか? それとも落としたのか?ルドルフをマークしている子達のペースの読み合いはかなりやり辛くなるだろう。

 

 大歓声の波を浴びながら、ルドルフ達は4コーナーを抜け最初のスタンド前に入ってきた。

 

 蹄鉄が叩きつけられる音が鈍く響き近づいてくる。ターフはまだ春の気配すらない。その茶色く染まった野芝は剥がれた個所も目立ちコンディションもあまり良くない。彼女たちが近づいてくると共に、土埃臭い匂いが鼻先を(かす)める。見栄え用に撒かれた緑の砂が蹴り上げられ大きく舞う。朝早く来てバ場をチェックしていたら『また"ダート"になっている"だと"?』とルドルフが入って早々ダジャレを飛ばしていたように、これでは芝というよりダートレースだ。

 

 よって今回のシューズチョイスもダート用と芝用の両パーツを組み合わせた、ハイブリットモデル。これで少しは走りやすいはずだ。そしてルドルフ先頭でスローペースのまま、私たちの前をバ群が通過してゆき1コーナーへと向かっていく。

 

「ふむふむ。誰も逃げないから先頭を取ってスローで場を支配すると」

「そう言う事です。今回はバ場が少し重いし長距離ともなると読み合いは難しくなります」

「それってものすっごくやられる側は嫌だねぇ……」

「ええ。今のところ上手くはまっているようだし、このレースに貴方がいなくて本当に良かったと思います」

「おっと? セイちゃんの評価たっか~い!」

「ふふ。勘が良い子はなんとやら~ですよ」

「ヤダ怖い」

 

 セイウンスカイと軽いやり取りをしながらも、バ群を私は目で追っていく。

 

『その外まわって4番マロンバレー5番手! その外を回り8番ケルストライアンフ6番手! 後方2名は少し離れて内に3番ローベルトポート7番手! 最後方2番ウルトラサバンナ8番手! バ群は詰まった状態のまま第1コーナーへ突入します』

 

 スローペースかつルドルフを全員マークしているせいで、バ群はぎゅっと押し固まったままだ。後方へ位置取りする程バ群の中で身動きが取れず、スタミナをかなり削られてしまうだろう。そう思いながら再び双眼鏡を構え直す。

 

『先頭はシンボリルドルフ! 悠然と通り過ぎていく! 外をまわって1バ身半はなれてクガネクロシオ2番手! 1バ身離れてクガネアスカ3番手! そして1バ身離れてケルストライアンフ4番手!』

 

 1コーナーの出口辺り。前半1000mの通過タイムは65秒台だった。

 恐ろしく遅い。超ドスローなのに誰も前に立ちたがらないまま、1コーナーから連続する2コーナーを抜け、バ群は向正面へ入っていった。

 

『先頭から最後方まで8バ身! 全員1列の縦長の展開ながらそんなに間は開いてはいません! そしてバ群は向正面中央を通過し先頭はシンボリルドルフ1バ身リード、その後ろにクガネクロシオ2番手、同じ間隔が続き3番手クガネアスカ、4番手マロンバレー! 以下固まりの超団子状態! 視界は悪い、狭い! 抜け出しにくい! 後方の子達にこれはツライ!』

 

「最後までああなっちゃうと抜けられないですねぇ……外を回らないといけないから大変そうですぅ……」

「ええ。こうなってしまった時はもうどうしようもないですね。ドスローで行けると思ったら前を取った方が良いという実例です。この後さらに後ろから展開した子ほど面倒なことになりますよ」

 

 向正面に出るまでは13秒後半刻みでわざとカーブを曲がっていたルドルフは、残り1000m地点での1ハロン間の通過で12秒刻みのペースを選択したのだろう。ハロン間のタイムはほぼ12秒。脚に十分余裕はあるので、ここから加速して突き放しにかかる計画だ。

 

 ルドルフが少し早く駆けたことで一瞬縦長になったが、そのバ群を待ち構えるのは――。

 

『そして3コーナーへ突入だ!』

 

 3コーナーと4コーナーの連続したカーブだ。中山の連続した狭いコーナーを考えたら、ペースを上げ過ぎたら曲がり切れずに自爆する。だが短い直線を考えれば上げざるを得ない。ルドルフの後ろから、レースを展開してきた子達は厳しい選択を迫られるだろう。

 

 そしてそんな後続の苦労などどこ吹く風といったルドルフは、お得意のコーナリングテクニックでさらにペースを上げていく。私はタイムを数えるのをやめて双眼鏡から再び目を離す。

 

『先頭からシンガリまで7バ身くらいでしょうか? 後方との距離は詰まってきましたが先頭は依然1バ身リードのシンボリルドルフまだまだ余裕の表情! 2番手にはクガネクロシオがピタリと追走! 3番手にケルストライアンフがここで外から上がってくる! バ群は4コーナーへ入り4番手にはマロンバレーこの子も位置を上げてきた!』

 

「あわわ……! スパートが早いです! でもこんなにスピードを上げたら曲がれない!」

「こんな風に良い位置を取られ、今更位置取り争いをしようとしても手遅れになります。メイクデビューでは焦った子が外を回ってコーナーで抜こうとして、そして膨らんで失敗してしまう」

「うんうん。逃げの楽しい所は好きに走れるのと場を支配できること。そして作戦に相手がハマると面白いよね~。それもレースの醍醐味って感じがするわ~」

 

 開花の気配が少し遠い、枝先が朱い桜の木々を背景にバ群はこちら側へと戻ってくる。残り400mを切り4コーナーで後続が追いすがる。ルドルフの外から斜めにふたり並ぶも、ルドルフは引きつけさせず鋭く内側に切り込んで正面を捉えた。

 

 最終直線の入り口から50mもしない内に

 

(↑GOAL) |内ラチ

  ルドルフ |

       |

       |

クロシオ   |

       |

 マロンバレー|

 

 2番手のクガネクロシオへ3バ身つけどんどん突き放していく!

 

『残り200mを通過し坂を登っていく! 先頭は依然シンボリルドルフ! これは強い! 5バ身つけてなおさらに突き放す! 中山の短い直線が東京の直線にすら見える鮮やかな走り! そして坂すらものともしない!! 』

 

 そして荒れたうえに少し重いターフの坂を上がり切ると、ルドルフは大きなストライドを生かし飛ぶように駆け抜け――。

 

『これが世界を制した豪脚一閃! シンボリルドルフゴールイン! 2着クガネクロシオ! 3着マロンバレー!』

 

 豪雪を齎した冬将軍の余韻が残る荒海のようなターフ。激しく上がる水しぶきのような砂の海を突き抜けてルドルフはシニア級シーズンの初陣で初勝利を上げた。

 

 

  ◇  ◆  ◇

――20××年+2 4月6日 15時頃――

――生徒会長室――

 

 レース後の疲労を抜くために今週はトレーニングはお休み。生徒会長室の自分の執務机で、トレーナー君から貰った銀の万年筆で眼を通し終えた書類に記入し終えた。これで今週の分の8割方は終わりだ。内容は新入生関連のもので、ファン感謝祭の準備も重なりこの時期は書類がどうしても積み重なってしまう。

 

 しかも日経賞の翌日に入学式ときた。そんなドタバタスケジュールで迎えたその式典の新入生代表答辞。テイオーが新入生代表としてまさか壇上に上がってくるとは思いもよらなかった。この日の為にかなり頑張ったんだとか。なんとも微笑ましい限りだ。

 

 硬くなった背を伸ばしてからチラリと後ろの大窓を見ると、その目下には1か月前よりも若葉が樹木に茂りはじめ、春の気配が色濃くなっていた。

 

"――今朝登校したときに見上げた桜の枝に花が咲いていたし、花見もいいなぁ――"

 

 去年のようにこじんまりとトレーナー君とお弁当を作り合って、花見をするのもいいかもしれない。 

 

 すると通信アプリが鳴り画面を確認するとトレーナー君から。内容はまず画像から始まっていた。

 

 映っていたのは美味しそうなサンドイッチが三種類、重箱サイズのランチボックスに入っていた。メッセージから察するに具材は、サンドイッチの内容は分厚いたまごサンド、サラダ用に細切りにしたニンジンとエビ&アボカド&スモークサーモンのシーフードサンド、カツサンドのようだ。そして何故かカレーパンが添えられている。

 

 傍に置かれた別の透明プラスチック容器には巨峰やイチゴ、マスカットなどが満載されており、いちごには可愛らしいウサギとライオンのピンが刺さっていた。全てが茶色くなる自身のお弁当と違って、トレーナー君が作ってくれる差し入れやお弁当はいつも色鮮やかだ。

 

 そしてそれは懐かしい思い出を思い出させてくる。

 まだ姉や兄に甘え、妹と遊び、幼馴染とも仲が良かったあの日々を――。

 

 『乙カレーパン! という事で差し入れいる?』とメッセージが表示され、親指を立てたウサギのスタンプが押される。私は『"望月"製のお弁当は"もち"ろん受け取る』返事を返しひとりほほ笑んだ。

 

「どうかなされましたか?」

 

 私の手が止まっていることに気付いたエアグルーヴが自分の机から声をかけてきた。

 

「トレーナー君が差し入れを作ってくれたそうだ」

「――肉はあるのか?」

 

 興味がある事以外全く話しかけてこないブライアンがこちらを向いた。きっと小腹が空いているのだろう。

 

「カレーパンとカツサンドがあるようだ」

「――なら貰おう」

「お前が言うな! 会長が決めることだぞ!」

「――コイツがお嬢サマの弁当や差し入れを断るわけないだろ。それに私や女帝の分も毎回きちんと作ってくれている。なら私の分でもあり決定権も当然あるはずだ」

「なっ!? 会長のトレーナーが優しいからといって甘えすぎだぞ!」

 

 ブライアンはどこ吹く風といった態度でエアグルーヴの説教をかわした。

 

「ふふっ。そう怒らないでくれエアグルーヴ。トレーナー君のお弁当や差し入れは美味しいからね。きっとブライアンも楽しみにしてるんだろう」

「――――」

「無言は"肯定"と取るよ? "皇帝"なだけにね?」

 

 その瞬間何故だかふたりの空気が固まった気がした。が、特に表情が引き攣っていない。きっと感動するくらい私のダジャレの出来が良かったのだろう!

 満足のゆくダジャレも出来てふたりにも楽しんでもらえた。機嫌をよくした私は一旦壁にかかる丸い時計を見やる。時刻は15時を少し過ぎたくらいで休憩するには丁度良い時刻だった。

 

「あと15分くらいで着くそうだから、一旦休憩しよう」

「そっそうですね……」「――ん」

 

 エアグルーヴとナリタブライアンはそれぞれ飲み物を持っていたそうなので、私は自分のコーヒーを給湯室で淹れに向かう。そして戻ってくる間に、ふたりは応接ソファーの辺りを片付けてくれていた。

 

 テーブルの上の私の左隣には、いまから差し入れを持ってきてくれるであろう、トレーナー君の分もいれた数の皿とカラトリーが用意されている。この光景も今ではいつもの日常となっている。

 

 が、いつもより私の右側にセットが1つ多かった――。

 

「ん? これは……」

「先ほど会長のトレーナーがテイオーに張り付かれていたのが窓から見えたもので。恐らく来るかと」

「ふふっなるほど。テイオーならトレーナー君に巻き付いてでも実力行使でここまで来てしまうだろうな」

 

 そろそろ連絡があるだろう。と思っていたら、トレーナー君からひとり連れて来てもいい?という連絡がLEADのメッセージを通して入った。

 

「どうやらそのようだ。許可を出しても構わないかい?」

「もちろん」「問題ない」

 

 トレーナー君に許可を出して短いやり取りを交わし、またアプリを閉じる。

 去年のジャパンカップ以降親しくなったテイオーは、構ってほしいと甘えるほど大胆不敵(だいたんふてき)な態度を見せるようになってきた。構ってやれる時はなるべくそうしているのだが、なかなか難しい。

 するとテイオーはトレーナー君に構ってもらおうとする。まだまだ子供な所がテイオーにはあるので、誰かに甘えたいのだろう。トレーナー君の面倒見の良さもあって、テイオーは彼女をよく(した)っている。

 

 しばらくするとノックが聞こえ、入室を促すとまずテイオーがトートバッグを片手にドアを開け、トレーナー君を中に通した。どうやらテイオーはトレーナー君が持ってきた差し入れを運ぶのを手伝っていたらしい。

 

「お邪魔しまーす! カイチョ―! 会えてうれしい!」

「いらっしゃいテイオー。労いありがとう。君はこちらに。飲み物はあるかい?」

「お姉さんにジュース買ってもらったから大丈夫! 新発売フレーバーのはちみー楽しみだなぁ」

 

 テイオーはトレーナー君にジュースを買ってもらっていたようで、片手にはハチミーの缶ジュースが握られていた。そして私が与えたシュシュで髪は肩の高さの低めのサイドテールにし、スーツ姿のトレーナー君がもうふたつ差し入れが入っているトートバッグ型のお弁当入れを持っている。

 

「お疲れ様です。美味しい食材を食べきれないほど頂いたので、差し入れを作ってみました」

「お疲れ様。忙しい中ありがとう。とてもカラフルな差し入れの画像だったので楽しみにしていたよ。ブライアンもね」

「余計な事を言うな」

「事実じゃないか?」「そうだったじゃないか」

 

 私とエアグルーヴの返事がかぶり、ブライアンはぷいっとそっぽを向きつつも視線はトートバッグの方をちらりと見ている。自分の獲物(おやつ)なのでやはり気になるようだ。

 皆で手伝いながら差し入れの入った重箱を広げると、画像通り美味しそうなサンドイッチとフルーツ盛りが広がった。

 

「すご! この量をひとりでつくったの!? 大変じゃない!?」

「ふふっ。Grandともなればこれくらい朝飯前です」

「何それ万能職業じゃん!?」

「手際が良くて驚かされる気持ちはわかる。最初私も驚いたものだから。さて、召し上がろうか」

 

 私に促されテイオーはどれにしようかなー! とはしゃぎすぎてエアグルーヴに落ち着けと(たしな)められ、ブライアンはカレーパンとカツサンドを真っ先に確保した。私はフルーツを少しずつとたまごサンドを選ぶ。

 玉子サンドを一口含むとフワフワとした柔らかいパン生地と、優しい卵の甘みと丁度良い塩加減を感じた。

 

 そんな穏やかで賑やかで、この玉子サンドの味のようにほっとする。心に広がる余韻を噛み締めるようにまた――ひと口玉子サンドを口に運んだ――。

 




 受賞関係はややこしそうなのでウマ娘寄りのURA賞にしておきました。
 トレーナーの賞の関係は創作です。


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同じ場所へ向かう君と私は

 おまたせしました。前後編になるかなと思ったんですが、1話にまとまりました。

 トレーナー君視点から始まり、
 ◆◇◇◇から◇◆◇◇までルドルフ視点。
 ◇◆◇◇から◇◇◆◇までががトレーナー君視点。
 ◇◇◆◇以降最後までルドルフです

 それではどうぞ!


 深い螺旋(らせん)階段をゆっくり降りていくと、大きな図書館のような場所に辿(たど)り着いた――。

 

 この夢を見る時は、それまでの記憶を意図的に片付けている時だ。

 そもそも夢とはどんな現象か? それは主に起きていた時に記憶した内容を整理するための、その作業の残像だとされているらしい。

 

 そして見た夢も完全に記憶してしまう私――いや、私と同じ調整型人類は、特にこの作業を効率よくこなさないと不調に陥ってしまう。

 

 日々増え続ける莫大(ばくだい)な数の記憶を拾い、適切な記憶場所の(たな)に戻す作業を繰り返す。その中でふと、前の世界についての記憶の前を通る。

 

 懐かしい――以前であるなら絶対に感じないその感情に誘われた私は、その記憶へと触れる。

 

 前の世界の人類は滅亡の危機に直面した。それを乗り切るための結論が人類の遺伝子をいじって生き延びよう! だった。

 

 "遺伝子改良型人類" "調整型人類"

 

 いろんな呼び方があるんだけど、年代別に与えられる役割やテーマに沿って改良がなされる者が一部いる。私は改良型の中でもそんな立場になる予定だったが、それは任せられることは無かった。

 

 本来与えられる予定だったのは科学文明のバックアップ――。

 

 従来よりも記憶能力をさらに強化し、ありとあらゆる叡智を全て詰め込んでそれを使いこなす。人類が激減した場合、残った人たちを導く役目だ。私はその究極の詰め込みに耐えて、単独でその全てを記憶できる唯一の成功体になったものの、平たく言えば頭の良さが天才型に及ばなかった。おまけに時々ウッカリした行動をするらしく、それが守護者の資格足り得ないとされた。

 

 そう思いたくもなる開発側の気持ちはわかる。うっかりしてる者にそんな重要な役割任せるなんて、一体どんなギャンブルなのってね?

 

 ひとりごちってその記憶を閉じて(たな)に戻す。そして床に落ちている情報をまとめ、本にしてまた適切な(たな)を探す。

 

 ――結局科学者たちはひとりに詰め込むことはせず、12人が分野別に分かれて担当することになった。ポンコツだった私は、その世界の『普通の人』として暮らすようになった。

 

 これだけ知識があれば新天地でも楽勝なんじゃない? と思われるこの状況だが、この世界の科学法則に当てはめ、それらをそのまま使う事は難しい。もう少し私の演算能力が優れていれば、状況はまた違ったのかもしれないけれど――。

 

 そして思考の外より、けたたましく響くアラーム音が聞こえた。そろそろ起きねばと思い、目をつぶって再び開く。すると天井が見え、黄色いベルが特徴的な赤い目覚ましが鳴っており止める。その文字盤を覆うガラス板に反射するのは、自身のエメラルドの瞳。

 

 夢の内容の所為もあるが、優しい養父と同じこの瞳の色。それは私の世代名の通称、Emerald Tablet(エメラルド・タブレット)を強く彷彿(ほうふつ)させているような気がした――。

 

 

  ◆  ◇  ◇  ◇

 

――20××年+2 4月前半 ファン感謝祭前日――

―― 午後12時00分頃――

――トレセン学園 中庭付近――

 

 

 ファン感謝祭の準備がひと段落し、食事はどうするべきかと考えながらとりあえずカフェテリアへと向かっている。正門での飾りつけを手伝い終えた私は、女神像のある中庭へと向かう。その途中の道脇の両サイドには、既に沢山の出店が組みあがっていた。段々と完成形に近づくそれらを見る度、日々感謝祭が近づいてくるのが実感できる。

 

 今年も素敵な感謝祭になるといいなと。そう期待に私はふと立ち止まり、その雰囲気に胸を(ふく)らませ、気合いを入れなおし、また歩みを進めようとすると――。

 

「あら、ルドルフお疲れ様! 今からご飯?」

「そんな所だ。お疲れ様ふたりとも」

 

 マルゼンスキーに声をかけられた。そして彼女の(となり)には――。

 

「万能とか言われてるアンタには、疲れる事なんか一切なさそうだけどな」

「こらこら。幼馴染(おさななじみ)同士なんだからそんなこと言わないの!」

「まあまあ。――君からの評価が高くて嬉しいよ、シリウス」

「今のでそうとるのかよ――」

 

 バツが悪そうに髪をかき上げて呆れているのは、シリウスシンボリだった。彼女は私の幼馴染(おさななじみ)だが、今ではこのように嫌味を言われるくらいに価値観がすれ違ってしまっている。しかし、目指す最終地点は同じなので、いつかは分かり合える日が来ると信じている。

 

「今年も来たわねーファン感謝祭。いよいよ明日! 楽しみだわぁ~!」

「ああ。できれば今年は去年よりもさらに、学園の生徒にもファンにも楽しんでもらえる結果になれば上出来だな」

「お堅いな。少しは自分も楽しむとかしないのかよ?」

 

 シリウスはジト目で腕を組み私を呆れたように見つめる。言い方こそきついが、その本心はきっと私を心配してくれての事だろう。彼女の心遣いに少しだけほっとした気分になった。

 

「そうしたいところだが、なかなか難しくてね」

「あーそうかよ。おいマルゼン。そろそろ行かないと、待ち合わせてるシービーの腹と背中がくっついちまうぞ」

「ああ、そうね! 今から私達食事なんだけど、よかったらルドルフも一緒に来る?」

「まだ進捗状況を見て回ってたい。折角だが遠慮させてもらうよ」

「そっかー、じゃあまた誘うわね!」

 

 まだ距離感のあるシリウスをピリつかせ、空気を悪くしたくないので遠慮しておいた。

 手をひらひらとふりながら私から離れていくマルゼンスキー。そして、その後をついていくシリウス。だが、シリウスはすれ違いざまに――。

 

「自分の庭の出来栄えに酔うのは気分は良いだろう。が、今のままだとアンタにとって一番大切なヤツのひとりが、手が届かない場所に行って後悔してもしらねーぞ?」

 

 そうシリウスは私にささやいた。

 

「それは一体どういう意味だ?」

「自分で調べろ。あのポンコツジャジャウマ女にいつか迎えが来て、あの女が月へ帰る前にな?」

 

 意味深な言葉にしばし考えこんでいると、今度は香ばしい香りが鼻先を掠めていった。

 匂いの先に視線を送ると、『ゴルシちゃん焼きそば頒布会(はんぷかい)』と横断幕が掛かっている屋台が目に入る。そういえば試運転もかね、今日からテスト販売すると言っていたな? そんなことを思い出しながら屋台へ近づくと、ゴールドシップと目が合い彼女が声をかけて来た。

 

「会長お疲れちゃん! 焼きそば食ってくか?」

「頂こうか。いくらだ?」

「試供品だから通常200円でいいぞ! 超大盛は500円」

「では超大盛、からしマヨ味で」

「はいよ! 3パックあるからちょっと待ってくれ」

 

 手早く炒めていた焼きそばを()め込み、袋に入れて渡してくれた。

 

「そういえばお嬢様もさっき買ってったわー。今頃プレハブにいるんじゃねーかな? 一緒にゆっくりしてくれば?」

「気遣いありがとう。そうする事にするよ」

「おう。またなー!」

 

 女神像の前を左折して、道なりに進みトレーナー達が個人的に持っている、プレハブ小屋へとたどり着く。最初は本館の部屋を理事長は彼女に用意していたのだが、新人と同じで良いという――表向きの希望でこうなった。

 

 本音は『本館だとひっきりなしに誰か来そうだし、疲れた時にソファーでゴロゴロできないじゃないですか』だそうだ。

 尋常じゃない仕事量を一気にこなし電池切れするトレーナー君は、昼寝や休憩といった時間が重要らしい。体調管理の一環という理由がある以上、これは必要な事なんだろう。私と違い記憶の量も桁違いだろうし、きっと疲れるんだろうなと思いながらプレハブ小屋までやって来た。

 

 ノックしてから鍵を開けて入ると、トレーナー君は簡易給湯スペースで何かを作っていた。スーツ姿ではあるが、今日はゆるりと低い位置で髪をシュシュでまとめた彼女は振り返る。

 

「あら? ルドルフお疲れ様」

「お疲れ様トレーナー君。私もこちらで昼食をご一緒してもいいかな?」

「問題ないですよ。今インスタントのお茶とお味噌汁作ってたんだけど、ルドルフも要りますか? 具はわかめのやつ」

「気遣いありがとう。どちらも頂こう」

「はーい。じゃ、こたつの方で待っていてください」

 

 室内には土足厳禁のため靴を脱いで揃える。一旦移動のためにスリッパに履き替えてから手を洗い、それから上がり畳のスペースへと向かいこたつに入る。何かできることは無いかと思い、彼女の買ってきた焼きそばを私から見て右側に置き、割りばし手拭きなどを設置していく。

 

 暇になり視線をさらに右へ移すと、新聞紙が(すみ)っこに置いてある。

 

 このひとつひとつ、一言一句違わず彼女は見るもの全て記憶できるというのだから大したものだ。そんな独り言を心の中でつぶやきながら1部一番上の記事を取り目を通す。

 手に取った新聞の内容は主に我々を中心としたスポーツ情報だった。メジロ家の本家令嬢が入学したことが一面の見出しだった。確かテイオーと入学生主席の座を争った生徒だったと記憶している。

 

「お待たせしました。何か気になる記事でもありましたか?」

「ああ。今年はメジロ本家から入学生が来ていたなと。実家とも交流があるので気になってね」

「あの子ですか。トウカイテイオーは彼女に負けたくなくて、私に座学の指導をお願いしてきたんですね」

「ほう? 君に彼女は教えを()うたのかい?」

「ええ。絶対入学生代表になって、憧れの貴女に挨拶するんだって凄い気合いでした」

「ふふっ。そこまで頑張ってくれていたとなると、こちらとしても嬉しいな」

 

 そうやって一生懸命追いかけられるというのも悪くない。微笑ましく温かい気持ちに包まれながら、お互い食前の挨拶を交わしゆっくりと食べ始める。

 

 まだ湯気が出ている焼きそばにマヨネーズとからしをかけ、ひと口含む。もやしとキャベツのシャキシャキとした歯ごたえに、タマネギとニンジンの甘みが広がる。少しふやけた揚げ玉の香ばしさとソースの食欲をそそる甘じょっぱい味を、マヨネーズのまろやかさと最後につんとくるからしの刺激がまとめ上げる。うむ、やはり鉄板で焼く焼きそばは格別だ!

 

「屋台ものっていいですね。美味しい。明日の感謝祭が楽しみです」

「そうだな。我々も一緒に回らないかい?」

「うーん。生徒会は大丈夫?」

「それくらい時間を作る。大手スポンサー令嬢のエスコートも大切な事だ」

「あー。確かに対外的な事を考えたら、それがいいかもしれませんね。では、当日よろしくお願い致します」

 

 あからさまに遠慮の色が表情から読み取れたので、私は仕事としての理由を付けると、トレーナー君はあっさり納得した。

 

「特にドーナツの出店が楽しみだなぁ……! あのふたつが無いと、私は生きていけない気がします」

「ふふ。食べ過ぎたらお風呂上りに悲鳴を上げることになるよ?」

「うっ。確かに――うーん、悩ましいけど! 運動頑張るから食べます」

「ほう? そこまでして食べたいのかい?」

「ええ。ドーナツは実家の国民食ですから」

 

 そういえばアメリカからくる留学生の多くも、この組み合わせをカフェテリアで食べている姿をよく見かける。それに関して私の脳裏にある疑問が湧いた。どうして映画にいるアメリカの警察官はドーナツばかり食べているんだと。この疑問は以前からあるもので、金曜夜の映画を見ていた姉妹達と真剣に悩んだ事があった。思い出したからには気になってしまう。私はトレーナー君にその疑問を(たず)ることにした。

 

「そういえば君の育ったアメリカを舞台にした映画では、警察官がドーナツをよく食べているのを見かける。あれはステレオタイプなのか、それとも本当なのか? どちらだい?」

「うーん。どちらもですね。日本だと交番で警察の方は食事を召し上がりますよね?」

「その通りだ。それとどんな関係が?」

 

 まさかの深い話になりそうだった。耳をぴんと前に向け、私はその続きに傾聴(けいちょう)する。

 

「それが原因なんですよ。あちらは交番的なものがないため、食事は警察官が各自買い食いでとります。そしてファーストフード店の多くは、警察官へ無料の食事を提供している。なのでよくドーナツとかバーガーをもぐもぐしているという訳なんです」

「なるほど。それで映画などでドーナツやハンバーガー片手に巡回している風景が」

「そう言う事です。そして朝早く開店し、夜遅くまでやっていたのが主にドーナツ屋だったのも大きいですね。それでもってロサンゼルスの朝はコーヒーとドーナツが定番だけど、この組み合わせは夜食にも向くわけです」

「確かにカフェインで眠気も冷めるし食べやすいね」

 

 思わぬところで興味深い異文化の話が聞けた。新しい知識により好奇心も満たされた所で私に更なる疑問が湧く。

 

 トレーナー君の実家って教育方針が相当自由な上に、庶民(しょみん)的なところが目立つ。それはこの学園のどの令嬢にも当てはまらない位に、自力で生活する事に慣れ過ぎている。

 いくら彼女が麒麟(きりん)児だとしても、護衛以外の使用人が付いて回っていてもおかしくはない。何か特別な理由でもあるのだろうか?

 

「もしかしたら失礼な質問かもしれないが、聞いてもいいか?」

「何でもどうぞ」

「君は大富豪の家に育てられているはずだ。いくら記憶力が良いとはいえ、どうしてそんなに市井(いちい)の事に詳しく、自活して生活するのに慣れているんだ? それは養父君(ちちぎみ)の教育方針かい?」

「あっ……えっと――」

 

 思いっきり視線が左に泳いだ。答えづらい質問だった場合トレーナー君は大体こんな表情をする。

 

「そうですね。一番は――今の暮らしに憧れていたからです」

 

 答えてもらえないかなとおもったら、彼女は真っ直ぐ私の瞳を見た。このパターンはきちんと答えてくれる時だ。私は誠実に向き合おうとしてくれる、彼女の態度に嬉しく思った。

 

「憧れていた?」

「ええ。確かに養父(ちち)庇護(ひご)はとてもありがたいし、感謝してます。でも折角この世に産まれたんです。出来るだけ、自分の足で立って、自分で考えて、自分でふれて、"この世界で生きていきている"という実感が欲しい。そしてこれは私の今しかできない社会勉強で、生き甲斐(かい)なんですよ」

 

 ――うまうみゃ♪

 

 トレーナー君のLEADの着信音が鳴り、彼女はチラリと確認する。

 

「緊急かい?」

「緊急ではないね。アフリカ支社からの緑化事業に関する定期連絡」

「なんだかものすごい所にも拠点があるな」

「うんうん。シマウマ娘&ロバ娘達が中心のとこなんだけどね」

 

 シマウマ娘とはアフリカの大地に住む逞しい娘達だ。軽種カテゴリーのウマ娘の中では最強集団のひとつ。髪や尾の色が黒と白のツートンカラーで、我々と少し耳の形が異なり、どちらかというとロバ娘に近い系統らしい。大雑把にウマ娘としてカテゴリーされているが、厳密には違うのだそうだ。

 

 トレーナー君はその報告が届いているスマホをさらりと眺めてから閉じた。

 

「そういえば、明日はルドルフも競技に出るんですよね? 調整とか大丈夫そうですか?」

「ああ。不調はないよ。参加競技が"借り物競争"とだけあって、走って勝つことには自信があるが、一体なにが指定されるかといったところが不安要素だ」

「去年は借り物の内容に"タコ"とか入ってたんでしたっけ?」

「そうだ。指定された生徒はタコ焼きを持って走るという奇策で回避したが、難題も多い競技だ」

「その手の面倒な奴じゃなくて、指定にニンジンとか当たるといいですね」

「ははは。それなら誰かが確実に持ってそうだ!」

 

 そんなに楽なお題が入っていればいいなと思う。もし『牡蠣(カキ)』などわけのわからないお題があったら、その場で探すか。その場になければ、トレーナー君の部屋から()牡蠣(カキ)クッションを借りてくるしかなくなってしまうだろう。

 変な事にならないようにと祈りながら、私たちはそれぞれ午後の仕事へと取り掛かっていった――。

 

  ◇  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 4月前半 ファン感謝祭当日――

―― 午後10時00分頃――

――トレセン学園 理事長室付近――

 

 

 前日まではここのスタッフとして頑張っていた私も、今日は紺色のスーツではなく白の柔らかい色合いのスーツに、ボトムもスラックスではなくスカート。

 髪はふわりと編み込みハーフアップ。耳にはシンプルな真珠のイヤリング。胸には当主代理のゴッツイダイヤモンドではなく、細工の美しいエメラルドのブローチを装着。メイクはキッチリめに。そして今日はトレーナーバッジはポケットに入れて置いて身に付けない。爪の先から毛先まで全て手入れされ、今日はオルドゥーズの養女として学園を訪問した。

 そして理事長と話を終えた私は、理事長室を出てルドルフと軽い挨拶を交わす。するとその後ろからひょこっと小さな影が現れた。

 

「時間を作ってくるまでテイオーが君の案内をしてくれるそうだ。テイオー、頼んだよ?」

「はーい! 頑張るね!」

「では、また後程」

「ええ。生徒会のお仕事頑張って下さい」

 

 ルドルフを見送る間、じっとテイオーが私の顔をしたから覗き込んでいた。不思議に思って首をかしげるとテイオーはにニコリと笑った。

 

「えへへ。今日は何だかお嬢様って感じ。とっても綺麗だよ! では、オルドゥーズ財閥令嬢、お手をどうぞ?」

「ふふっ。ありがとうございます。では、エスコートよろしくお願いします」

 

 私は軽く会釈してからルドルフのように、私に手を差し出してきたその手を取った。すると意気揚々とテイオーは私に歩幅を合わせてエスコートしていく。一生懸命背伸びをしてルドルフの後ろ姿を追っているのが、なんだか微笑ましく、心がぽかぽかした気持ちになった。ルドルフが大好きでなんでも真似したいテイオーのその姿は、まるで親の後を追う子供みたいだ。

 

 けれど、テイオーにも学友は居るはずだ。ファン感謝祭は同じ学年で仲良くなるチャンスでもある。大丈夫なのか気になった私はテイオーに(たず)ねた。

 

「そういえば……お友達と回らなくてよかったの?」

「会長とお姉さんと一緒に回ったら行くつもり! あと、ボクの事も一緒に回ろうって誘ってくれてありがとう!」

「ふふっ、どういたしまして」

 

 テイオーを誘おうと思ったのは、ルドルフから誘われた後ふと思ったのがきっかけだった。まだまだ甘えたいテイオーを差し置いて、ルドルフを独占するのはどうかと。そう感じたため、ルドルフに(たず)ると別々に時間を作ると言っていたが、それは彼女が大変だと思ったので一緒に回る方向で決定。誘われたテイオーはどちらも大好きだからと大喜びしていた。そして入学して10日以上たった今、テイオーが学園でどうしているか? 気になったので話を振ってみることに。

 

「もう学園には慣れましたか?」

「うん! マヤノも居るし友達も沢山出来たし、毎日楽しいよ! あと――負けたくない子も出来た」

「といいますと?」

「入学前のテストはボクが一番だったのに、入学直後のテストですぐ逆転されたんだよ! マックイーンに!」

 

 メジロ家――。

 目の前のトウカイテイオーはじめ、トレセン学園には様々な令嬢が通っている。その中でも注目されているのがこの家だ。天皇賞制覇に重きを置く家風で、財力や影響力も絶大。トウカイテイオーの学年にいるマックイーンこと、メジロマックイーンは、本学年の注目株のひとり。メジロ本家に久々に生まれたウマ娘らしく、祖母や母を継いで天皇賞3代制覇もかかるメジロマックイーンにかかる期待は大きい。

 

「強力なライバルになりそうですね」

「うん。――勉強でも負けたくないから、また時間がある時に勉強教えて欲しいんだ! ダメかな?」

「LEADに送ってくれれば時間を作って早めに返事するから、いつでも送ってきていいですよ。なんなら私のチームに入りますか? ルドルフも喜ぶでしょうし」

「それはすごく嬉しいけど! うーん……」

 

 トウカイテイオーは視線を左に動かし、なんだか困ったように眉を下げた。

 

「ボク、血液検査が大事なのはわかるけど、どうしても注射苦手なんだ。――それにね」

「それに?」

「会長を越えたいのにお姉さんに力を借り過ぎたら、なんか違う気がするんだ」

 

 良かれと思って誘ったが、どうやらテイオー的にそれは納得できないものらしい。彼女にとってルドルフは憧れで大好きだけど、超えたい相手という気持ちも強いらしい。私はそれを察して言葉を選び直す。

 

「なるほど……。じゃあ、手助けが必要ならいつでも歓迎ですから、その時は来てくださいね?」

「うん! ありがとう! ところで、会長が来るまでどうする?」

「そうですね。私達だけで先に回ってしまうと楽しみがなくなりますし、カフェで時間を潰しましょうか?」

「決まりだね! じゃあご案内先は学園のカフェで」

 

 こうしてテイオーにエスコートされ、カフェで1時間ほど時間を潰した。そしてルドルフが私たちに合流し、3人で楽しく出店などをまわる。

 それからファン感謝祭企画、借り物競争へのルドルフの出走準備を私は手伝い、再び来賓(らいひん)席へ戻ってきた――。

 

  ◇  ◇  ◆  ◇

 

――ファン感謝祭当日 午後15時00分頃――

――トレセン学園 トラック上――

 

 向正面から来賓(らいひん)席をチラリと見れば、財閥令嬢として来ているトレーナー君の姿が目に入った。いつものシンプルな装いも透明感があって好きだが、キッチリメイクして整えた姿も凛として美しいと思える。

 だが同時にそんな姿を見ていると、いつか彼女が自由に言葉を交わせないほど、遠くへ行ってしまう様な不安もよぎる。それはシリウスに忠告される前から、心の中でもやもやとした気分にさせている事だった。

 

 息を吐きだして気持ちを切り替える。レース前だ。集中しなければならない。

 

 そして財閥令嬢としての勝負服できている彼女同様、私もG1ではないが全員ファンのために勝負服。公式な試合ではないとはいえ、レースはレース。凡走など絶対にできない――。私に期待してきているファンがいるのだから。

 バ場の一点をじっと見つめ、いつも通り精神を()ぎ澄ましていく。

 

『さて! 次はファン投票によって選ばれたウマ娘によるダート2000m左回り! 借り物競争です! 出走者は28名の大混戦! 無理難題のお題とバ群の混沌を制し勝利を手にするのは誰でしょうか!』

 

 たづなさんのアナウンスが鳴り響き、生徒たちが正面客席側にお題の入った袋を設置していく。そしてあるものは変なお題に当たらないよう祈り始め、あるものは手に文字を書いて飲み込み始める。勝てるかどうかはたった1通の封筒に支配されるという、異様なレースの開幕だ。

 

 最大で30名入れる超大型ゲートの真ん中あたりへ入り、スタート体勢を整える――。

 

『スタートです! 全員好スタートを切りますが、先に飛び出してきたのは15番シンボリルドルフ! まさかの逃げ切り戦法に場内は大盛り上がりです!!』

 

 バ群に飲まれるくらいならと先陣を切り、まず2コーナーを背に向正面の直線を抜け3コーナーへと侵入。スタンド側からはそれぞれ応援するウマ娘への声援や、ヤジが飛び交っている!

 

『おっと全員ルドルフを追いません! ここは無茶せず慎重策か! 各自3コーナーを抜けそのまま4コーナーへなだれ込み! 先頭から後方まで10バ身! ギチギチで曲がり辛そうです!』

 

 予想通り全員私をマークしてバ群が詰まっている。それを確認できたのでそのままのペースで逃げていく。そして4コーナーを抜け正面へ。封筒は選ばず最短距離の1通を目掛け走っていく。減速分の距離を考えて走り、ファンたちがロープの向こうで大歓声を上げる中――!

 

『最初に封筒を手にしたのはシンボリルドルフ! 一体何を拾ったのでしょう!』

 

 

 書いてあったのはとんでもない内容だった。思わず目を丸くしてしまう。

 

"――誰だこんな指定を書き込んだのは!――"

 

 イタズラが過ぎるそのお題にあきれ果てるが、ルールなのでその紙を正面スタンドに広げて見せた。そして――。

 

「すまない! 通るので前を開けてくれ!」

 

 ファンたちは私の願いを聞き入れてくれて、道を開けくれた。そしてまっすぐスタンド奥のある場所を目指す。

 

「ちょっと! 誰よワカメなんて入れたの! だれか(くき)ワカメとか、ワカメもってませんかー!」

「何これフライパン!?」

「ふなはっしーのグッズをお持ちの方ー! いらっしゃいませんか!」

「よかったサングラス……って今春だし持ってる人いるの!? すいません! サングラス持ってる方ー!」

 

 あとから来たウマ娘も続々と封筒を開けそれぞれ阿鼻叫喚(あびきょうかん)の声や、お題が簡単で安堵している者たちも居た。

 

 来賓(らいひん)席の最前列に居たトレーナー君に声をかけ手招きする。彼女はすぐに駆けつけてくれて、私の手元の紙をみてぎょっとした。

 

「は? お題は"来賓(らいひん)"ですか!?」

「そうだ。という訳で君を抱えさせてもらうよ」

 

 なんと指定されていたのは"来賓(らいひん)"。担いで走れというのかとあきれたが、とりあえず一番軽いのはトレーナー君だろうから、彼女に助力を求めたわけだ。

 

「いえ、手を繋いで走ります!」

「正気かい?」

「足元見てください! 行きますよ!」

 

 走り辛いヒールだろうと思い込んでいたトレーナー君の足回りは、一緒に出店を回っていた時と違い白いローヒールの靴――しかも蹄鉄が打ち付けられていた。スカートからスラックスに替えている。彼女はいつも通り、何かあれば私にすぐ駆けつけられるようにしていたのだ。

 すたすたとスタンドの方に歩いていくトレーナー君に並び、私もコースの方へ戻っていく。

 

「用意が良いね!」

「貴女が走る時はいつもこうですから! 勝ちましょう!」

 

 借りたものは投げてちゃっキャッチするなど販促行為防止のため、触れていなければならない。なので手を繋いで加減を考えながら必死で走る。既にサングラスを手にしたウマ娘が前をいっていた。流石に追いつけるかと思いきや――。

 

 トレーナー君がいつもよりもずっと早いことに気付いた。

 

「気にせず走って!! 砂の上なら私も早いから!」

 

 そうだ――トレーナー君はアハルテケの半人半バだった。アハルテケは砂漠地帯にも暮らし、ダートは彼女にとって地の利がある!

 芝で走った時よりずっと早い脚を使い、まるで水を得た魚のように私に後れを取らず、彼女はしっかりついて来ている! その姿に驚きどよめく者たちやヤジを飛ばす者たちの声がグランドに響く! 

 

「なんでそんなに早いわけ!? アンタトレーナーでしょ!?」

 

 先頭を走っていたウマ娘をトレーナー君の左側に捉えた時、その選手は思わずそう言い放った。

 

「いえ、ただのではなくGrandです! ダートのグランドでは無敵なのかもしれません!」

「いやあああ! ダジャレまで放ってくるしむりいいいいいい!」

 

 トレーナー君のささやきが彼女に突き刺さった! サングラスを持って走っていた栗毛のウマ娘は、絶叫しながら後ろに流れていく。レース中にダジャレで笑わされてしまうなんて可哀想!

 

『おっと謎の失速!? そして再びハナを奪ったシンボリルドルフゴールイン! 借り物のお題は"来賓(らいひん)"でしたが、見事に混沌の借り物競争を制しました!』

 

 安全なところまで抜けて手を離すと、トレーナー君はまだ少し息が乱れているが目を合わせると。

 

「やったね。勝利おめでとうございます!」

 

 といって、拳を差し出してきた。

 

「君がいつも通りで良かったよ。ありがとう」

 

 そういって私も拳を差し出しコツンとぶつける。そしてお互いなんだか可笑しくなって、声を上げて笑いあう。こんなにも無邪気に走って勝ったのは久しぶりだった――。

 

  ◇  ◇  ◇  ◆

 

――ファン感謝祭当日 20時――

――トレーナー寮――

 

 片付けもあったため生徒会での打ち上げは後日行う事とし、今日はトレーナー君の寮に遊びに来ていた。生徒会の作業が終わり彼女の部屋を訪問すると、トレーナー君は沢山の御馳走(ごちそう)を注文して待っていてくれた。曰く出店を回った際、私がセーブして食べていたのを知っていたからだそうだ。

 

 風呂を頂き、ナイトウェア姿でリビングに戻ってくると準備は整っていた。ポニーテールにシンプルなナイトウェアワンピースの彼女が、背もたれ付きのラグの上に座ってニコリとわらい手招きしている。ラグの上のテーブルには料理がたくさん並んでいた。彼女が座っている左横に座る。

 

「随分沢山買ったね」

「多かったですか?」

「いや、お腹が空いているから丁度いいよ。では」

 

 ニンジンジュースをふたり分そそぎ、彼女にも手渡し――。

 

「「乾杯!」」

 

 寿司(おけ)やピザ、そしてフルーツなどを囲み、お互いニンジンジュースが入ったグラスを軽くぶつける。そして感謝祭が大成功の内に終わった事を祝した。

 

「本当になんてもの突っ込むのよね。来賓(らいひん)が私じゃなくて、叔父様が出席してたら厳しかったな」

「ん? 君の叔父君は同じアハルテケの半人半バ(セントウル)では?」

「そうなんですけど、日本支社にいる叔父は運動がすごく苦手なんですよ」

「なるほど。それは厳しそうだな」

 

 その日本支社にいる叔父君は今回忙しくて出席できなかった。それでトレーナー君がオルドゥーズ財閥側の来賓(らいひん)として出席。その結果、一緒に爆走するという前代未聞の珍事が発生。その光景の情報量は多く話題性は抜群。それ故に今年の借り物競争は大盛り上がりで終わった。

 

「それとなんだけど。実家がらみで真面目な話してもいいですか?」

「ふむ。構わないよ。大事な事だからね」

 

 トレーナー君は眉をちょっと寄せて『こんな時にごめんなさい』と言い困った表情をした。その後深呼吸してから私に切り出した。

 

「本年度から財閥令嬢としての私の立場が目立ってきそうなんです。原因は私の成人が近くなってきているのを受け、養父(ちち)達は万一自分たちが居なくなった場合を考えました。それで私が表舞台に立つ事を増やしていく方針になったんです」

 

 先日シリウスが忠告してきたのはこの事かと()に落ちた。どうやらシリウスは何らかの情報網でこの動きを察知したのだろう。私は覚悟を決め慎重に話を進める。

 

「表舞台に立つとは具体的に言うと?」

「今まで開発にあたり叔父に名義を借りていたのをやめます。私名義で来月あたりから、いくつかの発明が世の中に発表されていきます」

「なるほど――すると君以外にいる当主候補は、全員君よりもっと幼い未成年ばかり。当然目立てば悪意ある者も含め君の周りに群がり始めると」

 

 トレーナー君には(おい)がひとりと、(めい)がふたりがいる。その子達はまだ幼い。きっと優し過ぎてしまう彼女はこの3名の事を(かば)うため、それを一手に引き受けるつもりなのだろう。

 

「ええ。それで私たちの周りも以前より騒がしくなります。申し訳ないです」

「君の立場は承知で契約している。なので気にしないでくれ」

 

 そう伝え終わるとトレーナー君の頬が少し緩んだ。きっと私の態度を見て安心したのだろう。

 

 ――だが、無いとは思いたいが、自分の身を捨て石にしようとしているトレーナー君をこのままにはしておけない。それは彼女の幸せすら犠牲(ぎせい)にしかねない選択肢だから。きっと仕事熱心な彼女の事だ。そんなミスは無いとは思うが、自分の事よりも何よりも、ただ彼女の事が心配だった。

 

「それで、本当の所君はどう思ってるんだ? 君の事を大切に思っているがゆえに、生徒やトレーナーという立場ではなく個人として(たず)ねたい。それと、何か手助けできることはあるか?」

 

 だがその決定をするのはトレーナー君だ。私にいまできる精一杯の言葉をそこまで聞いて、彼女ははっとした表情でこちらを見つめた。そして、見たことが無いほど一瞬不安そうな顔を(のぞ)かせたが、ふっと観念したかのようにほほ笑んだ。

 

「その言葉だけで十分です――――」

 

 また私は子ども扱いされてしまうのか――と歯がゆく思っていたその時。

 

「って、トレーナーの立場としてなら私はそう言うでしょう。しかし、個人としてなら、時々相談に乗ってくれると嬉しいです。自分がお世話になっている身だと考えてしまって、どうしても周りには話し辛くて」

「それだけでいいならいつでも。やっと君は今、私に本音を言ったね――」

「――ごめんね、嘘つきで」

 

 眉をハの字に下げ困ったようにそう告げたトレーナー君の(ひたい)をつんと指で突く。

 

「申し訳ないと思うなら、心配をかける前に頼ってくれ。これも君が私へよく言う事だろう」

 

 横でショゲてるトレーナー君をそっと撫でる。そして箸で大トロの寿司に醤油をつけ、トレーナー君に差し出す。

 

「私は美味しい物を食べて笑ってる、そんな君が大好きなんだ。こんな風に優しい日常がこれからも君の周りで続いて欲しい。そのために出来ることは協力するから、出来る限り抱え込まないでくれ」

「ありがとう――」

 

 そしてトレーナー君はその寿司にそのままぱくついた。だけどその両目からはぽろぽろと涙が落ちていく。

 ずっと大人の中で必死になって生きて来た彼女の不安は、私からは想像もつかない。しかし、辛いものが沢山あったと思う。

 

 自身に与えられた愛情には愛情を。それが深いならばそれ相応を。彼女が歩み疲れてしまい、心が砕けて優しさや真心、そして高潔さを見失わない様に。

 

 彼女は満月のようで太陽に似ているけど、月が東から昇りに西へ向かうように――我々は他者の幸福や夢のためという本質は同じ目的地へ向かう月なのだから。

 

 トレーナー君の宝石のような瞳から流れ落ちる、真珠のような涙をラグの隅っこにあったティッシュで拭き、今度は金目鯛と思われる寿司を口に運んでやる。それを食べた後『食べさせられるのは恥ずかしいから、自分で食べる』と彼女は言い始めた。私がまだあげたいと冗談をいうと目を丸くして、からかってるの? と彼女は頬を(ふく)らませる。

 

 その後は他愛ない話をしたり、レース関係の情報交換を行ったり、ウイニングレースで遊んだり色々してから就寝準備へと入る――。

 

 より近く、より本音を話すようになった我々に待ち受けるのは――権威あるレース『天皇賞 春』だ。トゥインクルシリーズにおいて、シービーとのラストダンスとなる本レース。

 勝ち抜けることを祈りながら、瞳を閉じ明日へと歩み始めた。




 次は春天!


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『天皇賞 春』君との決着

 大変お待たせしました!
 昨日に上げたかったのに、緊急出勤で流れてごめんなさい。
 史実天皇賞春モデルのお話です。

 出走者はこちら

【挿絵表示】


 スタートはトレーナー君視点で
 レースが始まる◇◆◇からルドルフ視点です 

 ※ある映画がでてきますが、どっかの半人半バの所為で歴史が変わり、内容がハッピーエンドとなっています※

 それではどうぞ!


――20××年+2 4月23日 13時半――

――トレセン学園本館――

 

 理事長へ叔父からの伝言を伝え、廊下でたづなさんを見かけた。なりゆきでたづなさんから備品運びを引き継いだ私は、台車を引いて保健室へと向かっている。

 ほっとくとたづなさんは私同様、仕事をひとりで抱え込んでしまう。こうやって定期的に手伝っていく必要がある。

 

"――にしても……――"

 

 多い。なんかこの学園の保健室の補充品多くない?

 毎回運ぶの手伝うけどめっちゃストックあってびっくりする。なんでもたづなさんは物凄く心配症で発注を多めにしてしまうのだとか。

 心配な気持ちはわかるけど、これはちょっとやり過ぎ感も否めない。

 

 まあ、やり過ぎといえば――凱旋門前に故障したファシオの事もあったから、"ある子"に塩を多めに送っておいた。私がどっちの味方なのって気はするけど、ルドルフにはもう2度とあんな想いをしてほしくない。既に治療を施し、さらに完全に疲労が抜かれ、健康面で負ける要素のない"あの子"と思う存分戦い、自身の成長としてくれる様私は祈ろう。あと枠順で大外が来ない事も祈りたい。

 

 

 ――なんとかかんとか理由があったから負けた、勝ったなんて、彼女たちの名誉のためにも言わせない。言わせたくない。だって、このレースを最後にあの子は……。

 

「うわぁー……そのいっぱいの荷物、どこにもってくの?」

 

 声を掛けられて物思いを中断。振り向くと、桜色の髪と、桜の花びらのような綺麗な虹彩の小柄なウマ娘が目に入る。

 

「こんにちは、ウララさん。保健室まで持って行くんですよ」

「こんにちは! すぐそこだからウララも手伝うよ! このままだと前が見えないもん」

「ありがとうございます。では、負担にならないよう一番軽いこちらを」

 

 ハルウララ――座学実技共に本来ならトレセンへ入れる成績ではないが、理事長の推挙でこの学園にやって来たウマ娘だ。一生懸命なウララさんを見かねたキングヘイローや、テイエムオペラオーが気にかけたり、夜遅くに一緒に走っていたりする。

 

 そんな姿を見ていると、確かにこの子が理事長に推挙される理由が分かる。

 

「はーい! じゃあウララこれ運ぶね! それとね――この前はありがとう」

「こら。それはお外で言わない約束でしょ?」

「うう、ごめんなさい! でも嬉しかったの……」

「そうでしたか……経過は良好そうですから、大切になさってください」

「うん!」

 

 ハルウララは入学後の検査でずっと走り続ければ、やがて確実に故障に至ると言われた。しかし、この子はそれでも夢を諦めたくないと保険医の静止を振り切ろうとした。

 結果、トレセンの生徒の怪我を治す際に、きちんと理事長に許可を取っていた所為で理事長に泣き付かれた。それでハルウララの脚をよくするために、叔父と共に治療を施していたというわけだ。このまま上手く治療できれば、選抜レースに出るころにはきっと間に合うし、余程の事が無ければ脚部を心配しなくてもよくなるだろう。

 

「そういえばね! 最近お友達に面白い漫画を借りたの!」

「どんなマンガですか?」

「かせんじきで面白い人たちが生活してるマンガ! カッパとかいるんだよ!」

「あー……あの個性的な住民が出てくるあの漫画ですか」

 

 それは丁度私もゴールドシップから借りて読んでいる漫画だった。前に借りた"アフリカの動物が日本でサラリーマンするアニメ作品"ほどではないけど、内容的には混沌としたギャグマンガだったはず。世界観がぶっ飛んでる感じから、想像力の豊かさを感じられて私は好きだった。

 

「うんうん! 色んなのが住んでるのってスゴイよね!」

「確かに。サムライとかシスターの格好した男性といい、毎回いろんな方々が出てくるのが楽しいですね。次はどんな方が出てくるでしょう。ウララさんはどんな人物がくるとおもいますか?」

「うーん……おいしゃさんみたいなカッコウなのに、サングラスかけたあやしい人!」

「あー。確かにその枠はありそうですね。っと、着きましたか。すいませーんお届け物でーす」

「おじゃましまーす!」

 

 保健室の前に着いた私はノックしてからドアを開ける。

 

「ハァーイ」

 

 中にいた人物が挨拶をした。

 

 私は一瞬フリーズした後。

 

 全身の毛が逆立つ感覚を受ける。

 と同時に、部屋に入ろうとしたウララさんを後ろから抱え廊下に戻る!

 そして片手でバンッと音を立ててドアを閉めた!

 

「わー! 今へんなサングラスの人いたね! ああいうのなんて言うんだっけ……」

「――不審者ですね」

「そうそれ! ふしんしゃ! どうする? けいびいんさんにつーほしたほうがいいよね?」

 

 中に居たのは赤くタイトなワンピースに真珠のネックレス、そして白衣。

 そして巻き髪の金髪! どうみてもアンタここの医者じゃないだろ! という出で立ちをした怪しい女性が居た。何となく某有名勝負服デザイナーに似てなくもないけど。明らかに漫画に出てくる河川敷の住民たちに匹敵する、謎の存在感を放つ現実離れした人物だった。

 

 私はウララさんを自分の後ろに(かば)いながら、思考をフル稼働して冷や汗を垂らす。あの姿はどう見てもこの学園のスタッフではない。記憶している全員分を思い出すが全員分一致しなかった

 

"――これは護衛を呼ぶべきだ!――"

 

 ウララさんを降ろしスマホにつけた、金色の渦巻き貝型キーホルダーのロックを外す。そして自動通報装置を引き抜こうとしたその時だった!

 

「待て!」

 

 いつの間にかいた何者かへ止められた。腕を掴まれたことでばっと振り返る。茶色い長い髪に、白い流星、そして桃色に近い紫色の瞳と整った顔が視界一杯に入ってくる。

 

「護衛の即時招集は最終手段だ。とりあえず落ち着いてくれ」

「ルドルフ!? びっくりした……」

 

 あまりに近いのでびっくりして動揺している私をよそに、手を離して貰った。私も護衛招集用のブザーにロックをかけて手を離す。

 

「さてと。君が見たのはつい最近目撃の噂があった"不審者"だ。直接話がしたいので、それを改めてからしかるべきところに通報しよう」

「――そうですね。では、護衛を念のため周りに待機させていいですか?」

「頼んだよ」

 

 私はLEADで護衛に待機招集をかける。場所は保健室周辺。何かおかしな動きがあれば突撃。と指示を出した。すぐにやって来た護衛のウマ娘へウララさんを任せ、私がドアを開け先行して保健室へと入る。その後にルドルフが続く――。

 

 そしてその不審者は、こちらの緊張感などお構いなしに、満面の笑みを浮かべてほほ笑んだ――。

 

「ハァイ~! トレセン学園の生徒会長にして理想は高く、あらゆるウマ娘の幸福を目指すシンボリルドルフ! そして――オルドゥーズの至宝にして"心臓"と呼ばれるご令嬢」

「あら、偉く意味深ですね――――何を、知ってるの?」

 

 警戒の色をにじませながら、生徒には決して向けない表情と低い声を私が出した。不審者はビクリと震えあがった。

 

「ちょっ!? そんなに怖い顔しないで! 妄想よ! 何となくよ何となく!」

「――そうでしたか」

「ところで君は誰だい?」

 

 ルドルフも腕を組んで、眉を寄せ、あからさまに警戒しながらそう尋ねた。すると、不審者は胸を片手の拳で叩きながら自信満々にこう答えた。

 

「そりゃファンタスティックな保健室の先生よ!」

「……トレーナー君。このスタッフの覚えは?」

「一切ありません」

「ふむ、やはりか。君は学園の者ではないね?」

「流石に頭脳派の貴方達は誤魔化せないかぁ~。ざぁ~んねん。じゃあ自己紹介を始めるわね!」

 

 不審者は勝手に自己紹介まで始める。呆れる私は眉間を押さえて顔をもたげたくなるも、その不審な女性はさらに胸を張って堂々と口を開いた。

 

「このあたしこそが! 伝説的な腕を持つ! 至高の笹針師(ささばりし)! 安心沢 刺々美(あんしんざわ ささみ)よ! ワォ! あんし~ん☆」

「むしろ不信感しかないです」

「しっ辛辣(しんらつ)!? お耳を完全に伏せたウマ娘ちゃんみたいに超オコなの!? あたし今、お嬢様に超警戒されてる!?」

「はい」

「が~ぁん!」

 

 どう考えても怪しいし近づきたくない。というかこの人は、何か大事なことを隠している人の顔をしている。まだ気は抜けない私は、正直に言うまであえて辛辣に接することにした。

 

「でもまあいいや、というわけでシンボリルドルフさん! あたしの施術(せじゅつ)受けてみない?」

「待て。そのような話は理事長からも聞いていないのだが?」

「ワォ。こっちもあんし~んな感じじゃない。でもまあ、とりあえずブスッといっちゃう?」

「ダメです。ルドルフの体調管理を一手に任されてる私からすれば許可できません」

 

"―― 一体何を言ってるんだこの不審者は――"

 

 もうわけがわからない。頭痛までしてきそうだ。が、不審者改め安心沢はめげずに食い下がってくる。

 

「そこをなんとか~☆ この針で秘孔的なものをブスッといけば、メキメキのモリモリ! すっごい事になっちゃんだから~!」

「――そこまで言うのでしたら」

「でしたら!?」

 

 ぐいぐいっと安心沢は私に顔を近づけてくる。物凄く期待されている所悪いが――。

 

「成功例はございますか? きちんと具体例があれば採用します」

「やったー!? え、成功例!?」

「はい。今までのカルテをお見せください」

 

 にこやかにそう告げると、安心沢は表情を一変。困ったように冷や汗を流し、人差し指同士をツンツンと安心沢の胸の前でバツ悪そうに突き始める。

 

「えっと……その、師匠は失敗したことが無く」

「貴女のです」

「その……初仕事です」

「ルドルフ。この方たづなさんの所か、もしくは警察へご案内でよろしいでしょうか?」

「そうだな。ひとまずたづなさんの所でいい「まってお願い!!」

 

 安心沢は私の両肩をガシリと掴み、必死の声を上げる。

 

「お茶くみでもう10年頑張ったの! 修業した経験だってあるの! あなたたちのファンだから何か力になりたくて!! これでも手助けに来たのよ!!」

「ファンと言われると無碍(むげ)には出来ないが――困ったな。トレーナー君、君はどう思う?」

 

 ルドルフのファンだと聞いたからには雑な扱いは出来ない。かといって信用できるかといえば全くそんな気はしなかった。ただ、志があるのにもかかわらずお茶汲みでずっと過ごしている。そこは気の毒だと感じたので、私はある提案をすることにした。

 

「うーん。それもそうですね。この感じだと"今の"は嘘はついていないと思うんで、ではこうしましょう。私は半人半バ(セントウル)ですから、まず私に打ってみてください」

「おっけーなの!? いいの!?」

「ええ。私は肩こりが酷いんです。それを治せれば貴女としても、それなりの宣伝効果と実績になると思います。これで如何でしょうか?」

「いやったあああ!! コホンッ! では、そこで服を上だけ脱いで肩の辺りを出してちょーだい! メニューは肩こり解消でいいのね?」

「はい。よろしくお願いします。」

 

 安心沢が大喜びしている反面、ルドルフは不安そうだった。

 

「大丈夫なのか?」

「まあ、何かあっても1日で復帰して見せますよ。少し待っててください」

 

 念のためにルドルフへ護衛への通報ブザーを渡し、保健室のベッドの周りのカーテンを閉める。

 それから肩の辺りが出るように上半身一式を脱いで、渡されたタオルで隠す。そして、ベッドの上にうつ伏せに寝た状態で待っていると、肩の辺りを触って差す場所を決めた安心沢によって患部を消毒され――。

 

「では、力を抜いて~それでは遠慮なく――ブスッとな!」

「っ――――!」

 

 刺された瞬間目がちかちかするくらい痛かった。が、ここで叫んだら大事になるので我慢した。

 

「で! それで! どんな感じ!?」

「――とても信じられませんが、軽いですね」

「ワォ! 大成功~! ほら! 腕がいいでしょ!」

 

 ぴょんぴょんはねている安心沢をよそに、シャツだけ着なおしてジャケットを抱える。カーテンを開けると私が無事で心底安心した表情のルドルフがそこに居た。

 

「君が何ともなさそうでよかったよ」

「ホントに。お気遣いありがとうございます」

「じゃあ次は!」

 

 今度はルドルフをと言わんばかりの安心沢だったが、ガラリと私たちの後ろから音がして。

 

「ああ! また貴女ですね!! 毎回毎回勝手に入って!」

 

 入ってきたのはたづなさんだった。すると安心沢は『あでゅ~☆』と言いながら窓から逃げ出す!

 

「待ちなさーい!」

 

 だづなさんも同じく窓から追いかけていく。そしてその後保健室に突っ込んできたのは、ハルウララと護衛だった。

 

「たづなさん呼んで来たよ! 大丈夫だった!?」

「ええ、ありがとうウララさん。助かりましたよ」

「何か東洋医学のようなものを受けられていましたが、異変はございますか?」

「特にないですよ。何の変哲もないただのハリ治療でしたから」

「そうでしたか。念のために血液を調べますか?」

 

 まあ、毒って可能性はあの様子から見て低いけど。

 

 記憶力が絶対的な恩恵は単に勉強が出来るだけでなく、膨大な経験の蓄積とそれに対する反射的な演算からくる判断力『直感』もずば抜けくる。なので大概の詐欺に引っかかる事も無ければ、騙そうとする相手の雰囲気など手に取るようにわかる。今の人は養父に群がる胡散臭い方々と比べれば、可愛いウソな上にわかりやすい部類だ。

 

 面倒だしどうしようかと悩んでいたら――。

 

「その方が良いだろう。万一とはいえ、遅効性の毒などが仕込まれていたら大変だろう? 彼女の予定はまだ先の時間だ、連れて行ってくれ」

「わかりました。さあ、行きましょう」

 

 うんとかすんとか返す前に、私は護衛に担ぎあげられ学園の隣にあるオルドゥーズ病院へと運ばれていった。

 幸い大事もなくこうして『安心沢刺々美』との邂逅は嵐のように過ぎ去っていった――。

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 4月29日 15時15分頃――

――京都レース場 スタンド――

 

 菊花賞以来となる京都レース場――。

 本日は晴れ空に恵まれ、芝も去年よりは生育が良さそうだった。気温が22度台とそこそこあるので、今日は髪をポニーテールにしてルドルフから貰ったシュシュを付けておいた。服はいつもの勝負スーツである。

 

 しかしまあ、バ場が不良とか雨とか、泥沼の春天でなくて良かったと私はほっと胸をなでおろす。何せ私たちは行く先々で天気にあまり恵まれない。もし今日のコースの状態が最悪だったら、今頃私の心はちょっとポッキリ行きかけてたかもしれない。

 

 この前特別番組で生中継される中行われた春の天皇賞の枠決め。ルドルフに頼まれ私が彼女の代わりに抽選を引いた。すると呪われたかのようにまた大外! キングジョージや凱旋門に続く大事なレースでだ。

 流石に15名出走とはいえ15は無いでしょー! と思わずその場で悲鳴を上げた。

 

 ルドルフは目を丸くしながらも、『"こんな困難"くらい乗り越えて見せるさ』と笑って許してくれたが、なんとなく責任を感じてしまう。このレースが終わったら絶対私はお祓いして貰おう。そう心に固く誓ったのだった。

 

 

「こんにちはー!」

「よう! なんだよ湿気たツラして。大丈夫か?」

 

 振り返ると珍しい組み合わせのふたりが、トレセンの制服姿で立っていた。

 

「こんにちは。ゴールドシップ、バクシンオー。いや、大外引きまくりの古傷が痛むのですよ」

「あのスタミナの化け物みたいな会長なら大丈夫だろ?」

「そうですとも! 何といっても古今無双! あの"英雄"のようにヨーロッパを駆け抜け! 見事世界を制した凱旋門ウマ娘ですよ! もっと胸を張って応援しましょう!」

「ふふっ、それもそうですね。お気遣いありがとうございます。少し気が楽になりました。――ところでおふたりはどうしてこちらに?」

 

 どうしてこの2人がここにきているのだろう? と不思議に思い、首をかしげながら質問すると……。

 

「アタシは会長に頼まれた! おめーがまたぶっ倒れるんじゃないかって心配してたぞ?」

「わたくしは両親の仕事のお手伝いです! 和菓子を作る道具を京都の職人さんから引き取りに来たのと、そのついでにレースを見に来ました!」

「そうだったんですね。ご実家のお手伝いお疲れ様です。すいませんゴールドシップ、お手数おかけします」

「気にすんなよ。お嬢さまとアタシは、ラーメンとメンマみたいな関係なんだから!」

「そっそれは……わかるようなわからないような……うう~ん」

 

 ラーメンとメンマ。イマイチよくわからない例えに私は眉を寄せると、細かいこというなよ~と頭をわしゃわしゃと撫でられた。髪の毛は一瞬にしてぼさぼさになったので、もう一度ポニーテールを結び直す。

 

 

「そういえばお嬢様! あの映画を見て下さりました?!」

「ああ、"幻のウマ娘"ですね。最終的には元気になって走れるようになって良かったなと思いました。いい映画ですね」

「そうでしょうそうでしょう! わたくしと、わたくしのトレーナーさんはあの映画がとても大好きなんですよ! それと……ご存じですか? この映画に纏わるある噂を」

「噂?」

 

 一体何の事だろうかと私が疑問符を浮かべていると、右側の頭上――からゴールドシップの呆れ気味の声が降ってきた。

 

「おめー知らねーのかよ。幻のウマ娘を治療した、謎の深い"幻の医師"。そいつが今トレセンの近くにいるんじゃないかって噂。マエツニシキやシービーの脚の状態が良くなったのはその医者の所為じゃないかって。一言お礼を言いたいってそのウマ娘達の保護者連中が探しまくってるらしい」

「へえっ!? あ、へー……そんな方がいらっしゃるんですね……! びっくりしました」

「何でもとてもお美しい方らしいですよ! まるでお嬢様みたいですね!」

 

 ヒマワリよりも眩しいバクシンオーの無邪気な笑みと共に、グサリと核心的な言葉が突き刺さってくる!

 

"――壁にウマ耳あり、障子にウマ目ありっていうけどさ……噂流れるの速すぎでしょ!――"

 

 遅かれ早かれこうなるとは思ってたけど、彼女たちウマ娘の耳は予想以上に良かったようだ。

 まあ悪い事をしているわけではないので、別にどうこうするわけではないが、学生たちがこうやって探しに来てしまうとは予想外だった。

 

 これは面倒なことになった。今すでに"美人"という特徴が流れているので、どっかの怪しい笹針師にその噂が飛び火して、面倒なことにならなければいいが。

 後で対策を考えねば。それと、どう返答して良いか困っていると、ゴールドシップが腕を組み頭をひねりながら目を細めて発言した。

 

「それだとお嬢様が年齢1桁の時にならね?」

「そうでした! では一体どなたが治していらっしゃるんでしょうね!」

 

 "治して回ってるその本人です"とは言えない私は、内心ほっと息を吐きだした。

 

「きっとよっぽどのお人好しなんじゃね? まあそういう意味だとお嬢様みたいな感じするけどなー」

「――まさか。いくら何でもそこまで化け物染みてないですよ」

「ふぅーん? お? ――そろそろ始まるぜ!」

「どんなレースになるか楽しみですね!」

 

 なんだか引っかかるような雰囲気を一瞬ゴールドシップは漂わせたが、私たちは選手たちが入場してくるバ場へと視線を向けた。

 

 軽い選手紹介と返しを終え、ルドルフはいつも通りバ場のどこか一点を見つめている。

 その横顔は決意に満ち、ターフや勝負服の緑と対を成すような、黄道上に輝く赤き太陽のような深紅のマントをはためかせている。

 

 皇帝というあだ名に相応しい姿にどんどん成長していくルドルフを見ていると、デビューしてから随分長い時間が経ったのを感じる。そして、新潟の時も大嵐が来て彼女は大丈夫なのかとか、あの時も私は狼狽えていたことを思い出す。

 

 気に病んでもしょうがない。あれだけルドルフの前では余裕ぶって作戦披露したんだ。ここでビビってどうする! 私はパチンと両手で喝を入れるように頬を叩く。

 

 すると、ルドルフがこちらを遠く向こう側から振り返った――。そして、大丈夫だというように彼女は一瞬私に向かって微笑んでくれたような気がした。

 

「お前もしかして……M?」

「ちょっ!? 違います!」

 

 私のその様子をみたゴールドシップがわざとドン引きしたような表情を見せ、そして『冗談だよジョーダン☆』とニッと歯を見せて笑った。

 

「怒れる元気を確認! ヨーソロー! ほらレース見っぞ。歴史的瞬間かもしれねーんだからさ!」

「何せクラシック3冠を獲得した王者同士の激突なんて中々無いでしょうからね! さあ! 見届けましょう! 会長は大外になったくらいで負けるような方ではないはずですよ!」

 

 ゴールドシップにぱんぱんと背中を軽く叩かれ、バクシンオーにも励まされるように声をかけられる。それに静かに(うなづ)く――。

 

『快晴に恵まれた京都レース場! 第10レースはGⅠ天皇賞春、芝右回り、3200mという超長距離戦を制し春の盾を(たまわ)るのは一体誰だ!』

 

 若い女性アナウンサーさんの声に合わせ場内はわっと、両頬へ熱気感じる錯覚を覚えるほどに盛り上がる。天皇賞春の3200mは世界でも稀となりつつある超長距離戦。国内G1のなかで権威も歴史も重いレースになる。

 

 ルドルフが凱旋門を勝った事により、このレースは世界にも発信されている。緊張感で思わず生唾(なまつば)を飲み込む。

 

『3番人気はこの子! ゴールドロード! 菊花賞2着! 京都と相性抜群の彼女が勝つのか!』

 

 今の紹介通り3番人気の子の京都での3着以内の確率は約8割、勝利予想人気が高いのも(うなづ)ける。

 

『2番人気はこの子! ミスターシービー! 常識破りのド派手なレースで知られる彼女は、今日はどんなレースをしてくれるだろうか!』

 

 ミスターシービーは今までの事を考えて先行か差しか、その可能性は十分ある。けど、多分長距離だから、後方待機で2週目の3コーナー手前スパートからの早めの進出、そして突き放しに来るんじゃないかとルドルフと私は予想していた。その予感が当たる事を祈りたい。用意したある作戦がそれなら上手く機能するはずだ。

 

『1番人気はこの子! シンボリルドルフ! 春の盾を手にしたものが誰もが夢見た門を持つ彼女が、京都でも勝鬨(カチドキ)を上げるのか!』

 

 作戦が成功する事を祈りながら覚悟を決め、私は正面のゲートへと双眼鏡を向けた――。

 

『全員態勢整いまして――スタートです!』

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+2 4月29日 同時刻――

――京都レース場 向正面――

 

 好スタートを切るも先行とはいえ大外の私は少し後ろ側で待機する。

 前回私にドスローの逃げで騙されたのを知っている者たちは、恐らく前を取らせたがらないだろう。そう明言したトレーナー君は今回先行が多いと見ている。

 

 ロンシャンでのスタートのように、テンの1ハロン手前までの水平部をゆっくり進む。位置取りは先行集団の後ろといったところだろうか?

 きっと4コーナーを抜け1周目のスタンド正面を向くまではゴチャつくはず。マークは超長距離を考慮するなら、後方待機のゴールドロードとシービー、そして好位追走型の私だ。きっとそこまで飛ばさないはず。

 

『スタートしてすぐ向正面の急坂に揃って向かいます! 抜け出してきたのは3番ナンシーエクセル1番手、その外半バ身後ろ5番サーサルト2番手、1バ身下がって内側2番ウエストライデン3番手、その外半バ身下がって11番ノノムラヤマト4番手! 1バ身下がって9番ニューブラウン5番手!』

 

 去年の春よりはしっかり生えそろった、新緑のターフを一斉に蹴り上げる音があたりに響き、草の匂いが巻き上がる。

 

 余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)と言った風にまずは周りの様子をまず見ながら進んだ。

 すると予想通り全員一斉に前を取り始めた。足元は淀の坂の角度を(とら)え始め大よそテンの1ハロンのタイムは13? いや、12秒後半だろう。このスタートダッシュなら――。

 

『その後ろ3バ身! 外を回って13番フロントロウ6番手、ほぼ横並びに内側6番サンゲンコバン7番手! その後ろ1バ身半後ろ、内側1番マルボシ8番手!』

 

 坂の頂点手前3コーナー入り口まで100mのテンの2ハロン目はおそらく25秒。先程よりコンマ何秒早い位の体感。前に居るのは全員スタミナ型ではない。おそらく1ハロン間に刻んだのは12秒前半だ。芝の状態がいいのでこれくらいは出るだろうと思いながら、大逃げされない程度にマイペースにラップタイムを刻んでいく。

 

『1バ身半下がった位置だが、コーナーにもかかわらず下りを利用し、外目をスイスイと上がっていく15番シンボリルドルフ9番手ここに居ました!』

 

 このままいけばきっと潰れる。おそらく出来るだけ前に居てシービーや私に追いつかれまい、末脚すら届かぬ所まで行こうという作戦だろう。

 

 少し位置取りを上げるならスタンド正面の直線だ。それまでじっとマイペースに走りながら、1周目の3~4コーナーの先頭ラップを数える。重力に逆らい過ぎてロスを生まないよう、泳ぐように自然な成り行きに任せ無理せず進む。

 

『その後ろ2バ身外14番メグロモンスニー10番手! その後ろ1バ身半下がって8番ケルストライアンフ11番手! その内半バ身後ろ12番ダイアアイランド13番手!』

 

 3~4コーナーの中間地点になるテンの4ハロン目。その間は横から楕円(だえん)を叩いてストレートにした様な真っ直ぐなコースが少しだけ続く。このスタートから800mの通過は50秒以下。もしくは49秒後半くらいだろう。タイム的にはテンの1ハロン以降、12秒半ば以下をずっと刻んでる。前へと誘うプレッシャーがかかるが、ここではまだ乗らない。

 

『少し下がって1バ身! やや外を回って10番ゴールドロード13番手! 2バ身離れ最後方内からキタノユニコーン! 外にミスターシービー並んでいますが、おっとシービー前に位置取りし始めるか?』

 

 4コーナーを抜け正面までやってきた。そしてテンの5ハロン1000mのタイムは61.9ややスローだ。長距離だという事を考慮すれば先頭の予定ペース配分は、最終的にミドルペースくらいだろう。爆逃げという爆逃げでもない。

 

 視界がぐるりと回ってカチリと照準を定めるように、約400mの直線が目の前に広がる――さあ、ここから良い位置を取らせてもらおうかと、私は引き金を引くように両脚へと力を込める。後方だからと言って(くじ)ける様な精神性を持つ私ではない!

 

『さあスタンド正面に入り大きな拍手が沸き起こる中、先頭はナンシーエクセル、その1バ身後ろ内からウエストライデン、真ん中ニューブラウン、その外サーサルト3名横並びの接戦! その外大きく回って2バ身後ろノノムラヤマト5番手! その後ろ3バ身内側マルボシ6番手、1バ身半下がって外にフロントロウ7番手、その後ろ1バ』

 

 少しペースを上げて前の者たちの合間を()い前へ、前へとぐんぐんと進んでいく。

 

『いやシンボリルドルフまさかのマルボシとフロントロウの間を()縫って前へ出た! 後ろの子達も急ぎ始める!フロントロウの後ろ――』

 

 ここを逃せば良い位置は取り辛くなる上に周りを囲まれる。外を回るリスクが上がってしまう。なら少し距離ロスをするくらいで済むなら早めに前へ移動しつつ――。

 

 チラリと後ろを見るとミスターシービーはばっちりこちらを見ていた。私をマークしている後ろのシービーにプレッシャーを与え、早仕掛けさせるのが一番いい。追い込みを狙い焦らせるためのトリックを私は展開した。

 

 レースの心理戦は奥深いとトレーナー君はある時私へ語った。心理戦で主導権を握った者が、そのレースを勝つと言っても過言ではないとも。

 今回提案された作戦は、正面で私が出れば周りもあせってペースを上げるだろう。もしスローになったら、私がスローと判断して前に行くと見せかけなさいと。すると何人引っかかってくれるはず。

 

 "ミスターシービーは愚かではない。きちんと学習する賢い選手だからこそ、きっとここで順位をあげれば3コーナー手前で菊花賞のように駆けて突き放しに来るはず"と、この策をトレーナー君から託された。追い込みで米国4冠を目指すという偉業をサポートしたトレーナー君は、どうされたら嫌かとてもよくわかっている。

 

 あくまでも直感だからと言ってはいたものの私はそれを信じられた。勘とはすなわち経験からくる瞬間的な演算結果。常人離れした彼女の記憶力という、その"絶対"を信じその作戦を紐解いた私は、あくまでも見かけ上の順位を上げていく!

 

『おっとミスターシービーも早めに動き出す! これは意外な展開だ!』

 

 それは思った通りうまく行った!

 それはミスターシービーだけでなく、幾名か多く引っかかった何名かの足音が早まる気配が音から察せられる。そんな中私はぐんぐんと前を狙っていく。

 

 外側を回り一気に前へ前へといき中山の連続コーナーのような、カーブへと我々は吸い込まれていく。コース取りは大きく外へ出す。そうやって中山とは違い、坂のない連続コーナーが続くだけの水平部の遠心力の影響を、最小限にとどめスムーズに脚を運ぶ。

 

 まるで手にしたワインをソムリエのようにクルリと回す様に鮮やかに。そして専門家のように研究しきったその技術で、スタミナ無駄のないコーナリングを決める。

 

 『改・栄養補給』(カーボローディング法)によってまだまだ体力には余裕がある。レースプランを頭に明確に思い浮かべながら進んでいくと――。

 

『第2コーナーへ続けて入ります。これから2度目の淀の坂越えに備えている様子! 先頭は依然ナンシーエクセル、1バ身後ろ外を回ってノノムラヤマト2番手アガッてきた! 2バ身半離れてサーサルト3番手、その内半バ身下がってニューブラウン4番手! その後ろ2バ身シンボリルドルフ猛烈な勢いでこちらもアガッてきたか!?』

 

(GOAL↑)

   ナンシー|内

 ノノムラ  |

       |

       |

サーサルト  |

   ブラウン|

       |

       |

 ルドルフ  |

   ウエスト|

コバン フロン|

 

 さてと、あとは慌ててやって来るのを待つだけだ。きっと菊花賞でやった様な戦法を取ってくるはず――。

 

 1コーナーから2コーナーを抜けたところだが、この間は体内時計が正しければ13秒台刻み。

 全員が息を入れているので私も向正面真ん中から続く、淀の坂を登る前に、直線でひと息クールダウンを入れる。

 

『その内半バ身下がってウエストライデン食い下がる!その直後内からサンゲンコバン、外にフロントロウ完全に並んで中団大混雑! あッとここでミスターシービーまさかここでアガッてきた! 一体全体どうしてしまった!?』

 

 ライバルは期待通り来てくれた。後は油断せず突き放され過ぎないように着いて行き、自身を見失わず仕掛けるだけだ。

 

『ひとり! ふたり! さんにん! どんどん抜いて! あっと3コーナー手前坂の前だというのに内にサンゲンコバン、外にミスターシービーバチバチの殴り合いだ! そしてルドルフはどこへ行った!』

 

 ミスターシービーは私を追い抜いてサンゲンコバンと争うように、坂を登りながら並びハナを取った。そしてミスターシービーへとマークを切り替えた者たちが、一斉に私の前を包んでいこうとする!

 

 |

 |(バ群)

 |私(バ群)

 |(バ群)

 |

 |

内|コバン シービー

 (GOAL↓)

 

 しかし、ここで焦ってはならない。この争いはきっと長くは続かない!

 

 トレーナー君の予想通りなら、このデットヒートは3コーナーと4コーナーの中間地点までだ。京都の右側を叩き物した様な、直線の後に続く鋭い第4コーナーを曲がるには必ず減速する。きっとここでシービーか私かと一度迷い、勝った事のある私に向くだろうと彼女は告げていた。

 

 そうやってパニックになりリズムが崩れた相手など私の敵ではない!

 

 まさかトレーナー君にレースゲームで散々やられたこの手の心理戦が、こうも面白いほど相手にハマるとは。

 

 ――私は獲物を青々とした草の影から狙う獅子のように、まだ、まだ距離を推し量り確実に仕留められるそこまで構える。

 

『3コーナーに入り淀の坂は下りへと転じた所で、おっとルドルフを包み込んでいたバ群が一世に後退!? これは一体どういうことでしょう!?』

 

 私の気配を察した周りはシービーのマークをやめてまた私に戻った――。

 

 "真面目な子ってさ、とっても可愛いですよね?"

 

 その時、作戦を私に託す際に、ニッコリ笑ったトレーナー君の声が、すぐ耳元で聞こえたような気がしてきた。予想がこうも当たっていくのが、なんとも末恐ろしい方だ。

 

 そしてキングジョージの時と同じように、登りやすく、そして下り負担を減らした京都用モデルシューズ。それで滑るように坂を下り降り、前を走るふたりをマイペースに追いかける。

 

 |(バ群後退)

 |私

 |

 |

 |

 |コバン シービー

内|

(GOAL↓)

 

『さあ、大歓声に迎えられ各ウマ娘第4コーナーへ! 先頭はわずかに内ラチ側のサンゲンコバン、そして差が無くミスターシービー! さてその後ろ見るようにシンボリルドルフまるで SpeedStar(スポーツカー)がドリフトするかのように、鋭い先行しながらコーナリングを決めていく!』

 

 徐々に斜め前から私の方へ近づくシービーの背中を見つめる。1年早くデビューした君へ、私が全く焦りを感じなかったことが無かったとは言えない。

 

 トレーナー(宿命のパートナー)をすぐに見つけ、輝かしい世界へ羽ばたいていった君が羨ましかった。

 先に3冠を達成された時も、秋に天皇賞の盾をレコードで得た時も。

 

 君はいつも私の先を行っていた――。

 誰もが君を"英雄"として(たた)えるに値する走りで。その二つ名はとても似合ってると思う。

 

 そして、このライバルへ"こっそり"塩を贈り、全力の状態で挑めるようしてくれたトレーナー君。

 私の(学園)に居てバレてないと思ってる。嘘つきな警戒心の強いウサギさん("幻の医師")

 

 ――そんな事が出来るのは、この世で君くらいだろう?

 

 私の周りや君の実家の関係施設の近くで、特に私のライバルたちへ次々と奇跡が起きるのは、君が願いを叶えているだからだろう?

 

 私が悲しむ姿を見て、我々に命を助けられた君は鶴の恩返しのように羽を織っている。

 きっとそんな所だろう。

 

 そんな大嘘つきな君へ怒るどころか、私はその心遣いに感謝している――。

 

 この大舞台で、

   ミスターシービー(英雄)のトゥインクル・シリーズ最後のラストランで、

 

 心置きなくライバルと真っ向勝負に出られるという事に!!!

 

 チリチリとした刺激が全身に走る。あの感覚がやって来た――。両脚、目の端々から紫電が駆け抜ける様な感覚を受ける!

 

 右側のラチが生垣(いけがき)へと変わり、そろそろ内側が開く頃になるが少し減速して小回りを利かせようとする気配もする。しかし、私がちらりと見えたふたりは膨らみながらも回る事にしたようだ。私もここは速度を殺さず大きく回る。

 

 そして1周目を走って芝が(えぐ)れた内よりも、外の良いターフの上を選び400m近い長めの直線を駆け抜けることに。そして大きく膨らんできたシービーは私と一瞬視線がかち合う。

 

 

「このシリーズ最後の決着。つけようか――?」

 

 シービーは英雄に相応しい輝くような楽し気な笑みを浮かべた。私もそれに負けじと闘志をにじませた笑みを返す。

 

「望む所だ――!」

 

『おっと内側から雷光一線! ウエストライデン絶妙なスピード調整で植え込み部分を利用してインを取った!』

 

 身体がぶつかるすれすれ、一瞬に交わされたそれを合図に、私たちはそれぞれゴールだけに意識を向けた!

 

『シンボリルドルフミスターシービー! バ体が! ここでバ体が合った! ここであったが有マ以来! と言わんばかりに両者一歩も譲らないデットヒート! 京都の直線には心臓破りの坂もなにもない! ただ力と力がぶつかり合うのみ!』

 

 本当なら割れんばかりの歓声が響いてるはずのこの空間。しかし今は自身の鼓動のみが支配している。まるでローマのコロッセオで戦う者同士へ送る声援のように興奮がこの場を塗りつぶした!

 

 一陣の風が吹くように駆け抜ける! しかし、ミスターシービーは歯を食いしばり、まるで私の影のように迫りついてくる――!

 

『サンゲンコバン、ウエストライデンの一騎打ちと思いきや! 大外からミスターシービーとシンボリルドルフがなだれ込む!』

 

 |

 |

 |        シービー ルドルフ

 |

内|ライデン コバン

 |

(GOAL↓)

 

 それを振り切るために更に加速しようとする。互いに全身全霊でもつれ合うようにゴールを目指し――!

 

『わずかにシンボリルドルフ態勢有利かゴールイン! 春の盾を手にしたのは門を手に入れたシンボリルドルフ! 天皇賞と凱旋門賞! どちらも制したウマ娘! そして"神が(たた)えるウマ娘"以来の国内5冠を手にした!! 今、歴史が塗り替わりました!!』

 

 やった――……。

 やった!! 全力のライバルにも勝ち、今やっと――やっと! 目標だった5冠を手にできた!

 

 冷静を装うが私の心の中は歓喜に満ちていた。

 それに同調するように割れんばかりの歓声が場内を包む。いつも通り手を振り、いつも通りに対応しつつも、そしてチラリとトレーナー君をみる。

 

 すると倒れてなくて安心した。そしていつもみたいに泣いてなくて、私に片手の親指を立てる彼女が居た。なんとなく目が潤んで(うる)る気がしなくもないけど、きっと彼女も私と共に覇道を昇るために強くなろうと努力しているのだろう。

 今までは神が(たた)えしウマ娘の背中を追う日々だった。これからは、私が前バ未到の先を歩むことになる。

 

 ここが自分にとっての新たなスタート地点。そう私は心に言い聞かせた――。

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+2 5月5日 15時30分――

――トレセン学園 プレハブトレーナー室付近――

 

 まだ春の余韻を残し、夏の気配が遠い若葉生い茂る庭を歩いている。木漏れ日がまだ日差しでギラついておらず、丁度心地よい風も吹いているためあちこちで昼寝をしているウマ娘達を見かける。

 私はというと――トレーナー君にちょっとした相談事があって、個人トレーナー室として与えられているプレハブを目指していた。

 

「あ。ルドルフ丁度良かった」

「ん? シービーか。――何か用か?」

 

 後ろから走ってきたシービーが、はいっと渡したのは何やら紙の束だった。

 

「これたづなさんからお嬢様にだって。大変そうだったから私が持ってこうと思って。こっちに行くってことは、今からお嬢様のとこに行くつもりでしょ?」

「ああ。丁度行くところだよ。ありがとう。これは彼女に渡しておくよ」

「こっちこそありがと。あーあ……この前はまたルドルフに負けちゃった。でも、楽しかったよ。この続きはルドルフが同じシリーズへ来てからだね」

 

 そうパチンと指を鳴らしてウインクするシービーに私はこう告げる。

 

「そうだな。そして次も勝つのは私だ」

「いいや、アタシだよ? それとね、伝えといて欲しいんだ――。心置きなく戦えた。ありがとうって、君のトレーナーさんに」

「薄々感づいていたがやはりか」

 

 そのセリフを聞いて予想が核心へと完全に変わった。呆れたように肩をすくめてみせると、シービーは焦ったように言葉を(つむ)ぐ。

 

「あ、お嬢様に怒らないでよ!? というか、流石にルドルフだって気付いてるよね?」

「まあな。穴を掘るのは上手くても、慣れたものが餌をちらつかせれば顔を出したり、お尻が出ているなど随分と隠れるのが下手なウサギさんのようだから」

「それは的確な例えだね。完璧なはずなのに、どこかお人よしで抜けてる。まあ、そんな所があって、アタシたちに対して一生懸命で可愛いと思うけどさ」

 

 シービーと私はクスクスと顔を見合わせて笑い合う。

 

「ふふふ。そうだな。全快状態の君と戦えたのは私としても嬉しいから、彼女を責めたりなんかしない。大方君が脚に爆弾を抱えていたら我々の勝敗にケチが付く。それを避けたかったのだろう」

「そうみたいだった。アタシにもそんなことを言ってたよ。お互い不完全燃焼なんかにならなくてよかったね」

「ああ、レースは目標の通過点でもあるが、強い相手と対戦するのは楽しくもある。今はそう思える。――ファシオの時にそう思い知った」

 

 キングジョージで対戦したファシオは凱旋門直前に故障。あの時のことは今でも未練に思っていた……。ライバルが直前で消えてしまったレース程味気ない物もない。それと同様、故障の余波で全力でレースに出られないというのも実にツマラナイものだ。そう感じていた自分に気付いたのがあの事件だった。

 

「今年再戦するんだっけ? そのファシオと」

「ああ、叶わなかった対決として――凱旋門で戦うつもりだ」

 

 奇跡的な復活を遂げ、復帰の目途が立ったファシオは私宛に挑戦状を叩きつけて来たのだ。

 

 今年、凱旋門で待っていると。そういった短いメッセージだったが、私の心の中に果たされなかった対決への思いを、もう一度起こさせるには十分なものだった。

 

「頑張ってね。次もキミが勝ちますように!」

「おっと? どうしてそんなに応援するんだ?」

「だってアタシが勝ったら自慢できるじゃん! じゃ、アタシはお昼寝してくる。またね~!」

「ふふっ。おやすみなさい」

 

 ミスターシービーが春のさわやかな風を起こし去っていく。

 またひとりになった所で、まだ過ごしやすい日向を散歩するようゆっくり歩く。そして個人トレーナー室のドアにカギを差し込むも、どうやら開きっぱなしのようだった。不用心だなと思いつつも入る。

 右手にはまだコタツが敷かれておりいる。これはそろそろ片付けさせないとなと思いながら、辺りを見回すも誰も居ない。

 

 こういう時は記憶の整理のために寝ている時が多い。

 

 書類を手にしたまま、上がり畳へあがり、壁側の面をのぞき込むと――。

 

「おっと、これはまた――」

 

 髪を解いてジャケットを脱いで、座布団を枕に熟睡してるトレーナー君に、正面から何者かが巻き付いている。今では見慣れたポニーテールのウマ娘、テイオーだった。

 昼に私たちがカフェテリアで食べている間に、こっそり生徒会室で昼寝をしていたテイオーは、エアグルーヴに追い出されてしまっていた。どうやら私に構ってもらえないと見て、トレーナー君に構ってもらおうとやって来たのだろう。

 するとウッカリ鍵をし忘れたトレーナー君が、気持ちよさそうに寝ていた。なので、自分も昼寝をしようと潜り込んだといったところだろうか?

 

 起こしてしまうのも気の毒だったので、私はテーブルの上に書類を置き、トレーナー君の背中側になる右側にそっと入る。身体を起こしたまま顔にかかるふたりの髪を少しどかしてやる。ふたりともくすぐったそうにしているが、起きる気配はない。

 

"――私も午後はフリーだし、少し休むか――"

 

 ふたりを見ていて、おもわず眠気に誘われた私は欠伸をひとつ浮かべた。

 そして、目覚ましをスマホでかけ、隣に潜り込んで昼寝をすることに。

 

 大切なふたりが傍にいる穏やかで優しい幸せに包まれながら、私はゆっくりとまどろみの中に沈んでいった――。

 

 こんな穏やかな日々がずっと続くと――そう、思っていた。




この後引退なんてバッドエンドは夢が無さ過ぎる!
そんな惨い話は嫌なのでこんな感じにしました。
健康体になったシービーさんはこの後も、別シリーズでバリバリ活躍していきます。
という世界線です。

番外

直感とは?
 実は記憶した経験から最適な回答を無自覚に考えてる行動と言われています。(科学的な諸説あり)
 お嬢様はめちゃくちゃ記憶力が良かったですよね?
 つまり本気で疑えば、通常の人類では全く歯が立ちません。ぽややんなのに騙せない相手なんです。そして彼女は普段、精神衛生のためや、学園の生徒にはキツイ目を向けていない。強者の余裕もあり、わざと考えないようにしているそうです。

ルドルフとシービーのナイショ話
 お嬢様の護衛さんたちはルドルフさんとシービーさんのナイショ話にちゃんと気付いています。護衛さんは自分たちも自分自身や家族の命をお嬢様に助けられた過去があり、微笑ましく見守っています。害はない、と判断されているようです。

 もしお嬢様が金ぴか巻き貝の防犯ブザーを抜きますと、あらゆるところから、スタッフに偽装して紛れ込んでるウマ娘が飛んできます。

 そしてお嬢様は身体に特殊な発信器を埋め込んでます。位置情報もバッチリですね!
 護衛構成はアハルテケや汗血バ、重種系、ポニーなど様々です。

 金ぴか巻き貝防犯ブザーをお嬢様は過去に一度だけ、実際に引き抜いたことがあります。

 その原因は誘拐未遂でした。
 幼いお嬢様を誘拐しかけたその有名闇組織は、護衛さんたちによりひとり残らず確保され、警察にポイッチョされ怒涛の逮捕ラッシュとなり地上から一瞬で消えました。悪の組織からオルドゥーズの連中はヤバい、地獄まで追いかけてくると恐れられています。

次回は日常回
次走は……ナイショ


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A kindness is never lost

大変お待たせしました。

スタートはトレーナー君視点で、
◇◆◇◇◇から◇◇◆◇◇までがルドルフ視点
他全部トレーナー君視点です。




 ――A kindness is never lost(情けは人のためならず).

 

 

 

 夜中に見るBBQの動画は、夜食ラーメンクラスの罪深さがあると思う。

 それでお腹が空いてひよこラーメンを作って食べて、そして食休みに本を読んでるうちに寝たのかもしれない。

 

 ここはおそらく夢の中だろう。モノクロの阪神レース場に私はいた。

 

 バ場はあまり良くない。剥がれてる部分もかなり目立つ。これでは事故に繋がってしまいかねないなと、思っていると。

 

 

 そんな中を1頭の"馬"のような影が走ってくる――。

 

 

 危ない! 直感的にそう感じ叫んだ瞬間私は夢から叩き出されるように起きた。

 

 額や背中に汗が伝い、ナイトウェアワンピースを濡らしていく。私は目を思いきり見開き焦点さだまらないまま、落ち着かない心臓に落ち着けと言い聞かせる。

 

 秒針が60回カチカチと動く音を立てるまで、そんな攻防戦が続いた。

 

 いまのは何? なんであんな不吉な夢をまた見るの?

 

 あの黒い馬のような影。

 あの影が受けた悲劇と予想されるそれは、なぜだか私には自分たちに降りかかる気がしてならなかった――。

 

"――ジャパンカップの時のこともあるから、警戒はしておくか――"

 

 時刻を見ると午前4時。LEADが鳴り開くと護衛から通話が届いた。

 

『急激な心拍数の乱れがみられました。如何いたしましたか?』

『夢見が良くなかったの。騒がせて申し訳ないです』

『そうでしたか。すぐ出て下さって安心しました』

 

 

 私は小さいころに誘拐されかけてから、心臓の近くにある装置を埋めてある。それは発信機能が付いているのだけど、それだけでなく生体に異常が出れば即時にわかるようになっている。

 

 きっと外の様子が変わらないから、倒れたと思って電話しつつ急行してきたのだろう。通話の向こう側から響く足音がゆっくりになっていることがらそれが分かる。

 

『ルベウス――』

 

 その名の通り黒に赤い(きら)めきを持つ、通話の向こう側のウマ娘に私は声をかける。彼女は所謂(いわゆる)汗血(かんけつ)と呼ばれるウマ娘で、"赤兎"(せきと)という有名なウマ娘の末裔達のひとりだった。

 

『なんでしょうか?』

『もし嫌な予感がしたとき、それがもし2度目だったら貴女はどうしますか?』

『私ならそうですね――。回避しようとします』

『――そうですね。ありがとうございます』

『いえ。まだ今日は出勤まで時間がありますから、ゆっくりお休みください』

『そうですね。ありがとうございます。では、おやすみなさい』

『おやすみなさいませ』

 

 そう返してお互い通話を切り、私は食器をシンクに置いて水を満たす。そして軽く歯を磨いて布団に潜り込んで2度寝に入った――。

 

  ◆  ◇  ◇  ◇  ◇

 

――20××年+2 5月23日 12時半頃――

――トレセン学園噴水のある中庭――

 

 グランプリレース宝塚記念。それに選出されたルドルフは、トレーニングもそうだけど、学園の夏合宿に向けての調整でも追われている。

 

 休憩用に差し入れに作ったハチミツ漬け林檎入りニンジンケーキを持って行くと、生徒会長室の3名はとても喜んでくれた。

 

 今週末には実際に阪神レース場で試走もできるはず。邪魔しちゃ悪いし、私はそれを渡して撤退。

 

 校舎を出て3女神の噴水を横切り、空いている芝の上を探す。

 すると生徒会長室の大窓から、丁度見える位置の木陰が空いていた。そこへ腰を下ろし、さあ私もお昼にしよう。自分のお弁当の入ったバスケットを開けたその時だった。

 

「お姉さんみっけ!」

「わわっ! びっくりした!」

 

 バスケットの中身に夢中だった私へ、いつの間にか近づいてきたトウカイテイオーが飛び付いてきた。

 

「ねぇねぇ聞いてよぉ! 会長がボクを生徒会長室に入れてくれないんだぁ!」

「このところずっとそんな感じですね。かなりお忙しいのかしら?」

「うん……」

 

 私に抱きついたままテイオーはしょんぼりしている。それをなだめるよう()でる。

 

「そうだ。今週末の金曜日の午後から土曜日にお時間ありますか?」

「うん。あるけど? 今週の金曜日は自習でカリキュラムないし」

「土曜日一緒に阪神へ行きませんか? ルドルフの試走見学へ」

「いいの!」

「ええ。ルドルフはそれで頑張っていたんです。仔細はあとでLEADするから、1泊2日分の荷物をまとめてください」

「うん! やったー!」

 

 私の胴体(どうたい)を抱き締めてるテイオーの腕がぎゅっと強くなる。そして大喜びしてニコニコしていた。

 

 元々ルドルフは最近構ってあげられてない、テイオーのために時間を作っていた。そのルドルフに頼まれていたから、夕方あたりにお誘いの声をかける予定だった。まあ、それが早まっただけで、テイオーを連れていくのはルドルフ本人も承諾済みだ。

 

「待ってるよ! 絶対だよ! あ、今からお昼?」

「はい。今日は外で食べようかなと」

「そうなんだ! でもなんか量が多くない?」

「欲しそうにされちゃうとあげてしまうもので、少し多めなんですよ」

 

 私が外でお弁当を食べていると、大体オグリキャップあたりがじっと見てきたり、ウイニングチケットはストレートにお弁当一部交換してとねだってくる。

 

 誰かにあげたお馴染みのキャロットケーキが話題となり、私の手作り料理を欲しがる子達が沢山いる。だからいつも多めに持ってきている。そうしておけば生徒とも、そのトレーナーとも打ち解けやすい。職場ではそういった関係が時に重要だ。

 

「そっかー! じゃあボクがそれ予約! 急いでお弁当と飲み物買ってくるから待っててね! 一緒に食べよ!」

「ふふ、わかりました。急いで転ばないでくださいね!」

 

 そういって手を振りテイオーを見送った。さて、準備をと手を伸ばすも、またもや視線を感じる。その気配の先にいたのは……。

 

「ふーん。優雅にお昼ってか?」

「そんなところですよ。ご一緒しますか?」

「やめとく。相手が私だと皇帝サマがすねそうだし」

「何故ですか?」

「…………まあいい」

 

 素直に疑問に思ったので首をかしげる。私を見下げるように樹に腕をついて立つシリウスは、あきれたように(ひたい)に頭を当ててクビを振った。

 

「それより気になることがふたつある」

「なんでしょう?」

「ひとつ目は何故キングジョージのデータ。なんで私とトレーナーに渡した? アンタらも"勝者"として行くのに?」

 

 私の近くへ腰掛けたシリウスは、真剣な顔つきで覗き込んでくる。シリウスの炎を背景にしたアメジストのような、赤みがかる紫の瞳に私の姿が反射して映る。

 

「あなたも学園の生徒だからです」

「ハッ! お人好しかよ! んな訳あるか? バカにしてんのか?」

「いいえ。私はルドルフのトレーナーであり、彼女から学園の生徒のフォローをお願いされています。キングジョージ含む、ヨーロッパのデータをお渡ししたのは仕事の一環です」

「あーそうかい。――ふん、余裕かよ。なめられたもんだな?」

「それがルドルフとの契約であり、私が教職、トレーナーである理由です。そして勝つならフェアなほうがすっきりします」

「――なるほどな」

 

 

 それを聞いたシリウスは腕を組み、何やら考えたあと、樹の側に座る私ににじり寄ってきた。

 

 私は困惑し、少し(まゆ)をひそめながら右側の肩のほうの樹に後退する。なんだかジリジリと獲物をねらう肉食動物に狙われた気分だった。だけど最近焦らないのは、ルドルフから時々発せられるプレッシャーで慣れたからだろうか?

 

「――なんですか」

「焦んないのかよ」

「時々わがままで、"猛獣のような方"には慣れてるもので」

「表面上従順そうなのにアイツとは本音でやりあってるってわけか。そして相変わらず小生意気なウサギだな?」

 

 この手の生徒には押されたらダメだ。私は視線を合わせたまま、毅然とした態度を取る。私の方が強いぞと、そういうオーラを漂わせる。

 

「威嚇しても可愛い顔過ぎて凄みがない。まあいい、次の質問だ」

 

 シリウスは私を樹の側に完全に追い込み、片手で私の(あご)を持ち上げ視線をそらさせないように固定した。

 

「何故いつも私がルドルフをボロクソに言っても、仲が良いと言うんだ?」

「――あははっ! 拍子抜けしました。一体それを知って何になるんです?」

 

 なんだ。そんな他愛のない質問か。

 私は思わず笑みを溢してしまった。シリウスはそれをみて不服そうに眉をひそめる。

 

「何がおかしいんだよ?」

「いや、子供らしいなと思いまして」

「アンタも未成年だろ?」

「――目に見えるものだけが真実だと、そう思いですか?」

「どういう意味だよ――」

 

 わざと面食らわせたため、しばらく私たちの間に沈黙が流れる。

 

「ナイショです。理由は貴女の表情や声に、憎しみや憎悪とは違う。どこか寂しい感じがしたから。そんな感じと、ルドルフを心配してるのがなんとなくわかるので」

「バケモンかよアンタ」

「多分そうなんでしょうね。ということは図星でしょうか?」

「やめろ恥ずかしい! もがっ!」

 

 とりあえず大人をからかう悪い子なシリウスへの仕返しに、開いた口にニンジンパウンドケーキを突っ込んでみた。私の(あご)から手を離す程びっくりしたようだけど、まんざらでもない顔でもぐもぐと食べている。

 

「何すんだよいきなり!」

「仕返し。こう見えて私は教職です。からかう子にはお仕置きですよ」

「ったく、本当にそんなジャジャウマで、それでよくアイツの相方が務まるな?」

「ふふ、それに関しては私も不思議に思っています」

 

 わざとぶりっ子ぶってキランみたいな感じにニッコリ笑ってそう答える。すると、シリウスは思いっきり顔を(しか)める。

 

「その余裕ぶった表情だけは皇帝サマに似てすげームカつくわ。ぶっ潰したくなる」

「やれるものなら? というかやっぱりルドルフの事めっちゃ大好きですよね?」

「っち、うっせーわ! 頭来て腹が減ったからもう一切れよこせ」

「横暴」

「聞こえてるぞ妖怪猫かぶり」

 

 しょうがないなと思いながら、もう一切れバスケットから取り出して渡そうとしたはずだった。

 

 その手首をシリウスに掴まれ引っ張られる。遠巻きに野次ウマ娘していた周りから黄色い声とぴえっ!? という声が上がる中、そのまま引き寄せられ手の中のケーキを食べられた。

 

「ちょっと! 何するんですかいきなり!」

 

 びっくりして素が出しながら振り払って離れると、シリウスはお腹を抱えて盛大に笑い始めた。

 

「あっはははは! やっと余裕が崩れたな! 傑作だぞ今の表情っ! ――つか今窓から見えたアイツの顔も最高だな」

「え? アイツ?」

「すぐにわかるさ。じゃあな、"ルドルフ"と仲良くな?」

 

 ウインクして颯爽と逃げるように去っていくシリウスシンボリ。彼女と入れ替わりに、トウカイテイオーが駆け寄ってきた。

 

「ねえねえ! 今の何!? どうしてああなってたの!?」

「私にもわからないです。いきなりからかわれましたから」

「ええ!?」

「うーん。データを渡して機嫌が悪かったのかしら……」

「ええ!? うーん、ボクはそれ違うと思うよ……」

「そうですか?」

「そうだよ!」

「そういうものですかね……あれ?」

 

 記憶を思い返していると、今確かにシリウスは『ルドルフ』と言っていた。普段皇帝サマとしか言わないあの子がだ。それはひょっとして――。

 

「やっぱり、心の奥では嫌いあってないのね」

「む~。どういうこと?」

「いえ、こちらの話です。さて、お昼にしましょうか」

「そうだね! ボクお腹空いちゃった! 今日のお弁当はケーキ以外だと何があるの?」

「食べやすさ重視でサンドイッチですよ」

 

 バスケットを開いて見せると、テイオーは大喜びしていた。

 そしてそこにまた新たな客が現れる――。

 

 

   ◇  ◆  ◇  ◇  ◇

 

 (時は少し戻って――)

 

――20××年+2 5月23日 12時半手前――

――生徒会室――

 

 トレーナー君が出て行ってから、お弁当を食べようとデスクを片付けている。すると先に応接ソファーに座っているエアグルーヴから、突き刺すような視線が飛んでくる。

 

「会長。今週は阪神での試走ですよね? 少し休まれてはいかがですか」

「だからこそ今こなしているんだよ。理解してくれ」

「そんなことを言っていると、またあの方から雷を落とされても知らないですよ」

「それは困ったな――なら、内緒にしててくれ」

 

 デスクを片付け終わりお弁当を取り出して応接ソファーへ。エアグルーヴたちの対面に座りながら私は眉を下げて茶化して誤魔化そうとした。だがエアグルーヴは首を振って眉をしかめる。

 

「茶目っ気を混ぜたら許されると思わないでください」

「むむ。やはりダメか」

 

 私とエアグルーヴがいつも通りのやり取りをしている中、ブライアンは黙ってスマートフォンを操作して何かを見ていた。そして何か見つけたのか大きく耳が動いた。

 

「ブライアン、そんなに驚いてどうした?」

「――アンタのトレーナー君がネットに流れてる」

「ふむ? 彼女に取材が来た覚えはないのだが」

 

 と言うとブライアンは無言でスマートフォンを渡してきた。

 そこにはウマッターのGrand Trainer認定員会公式のアカウントがあり、そこで今年の試験のCM映像にトレーナー君が映っている。

 

 その映像は最終試験の実技試験のひとつ――音楽の項目のLyre(竪琴)による演奏だった。画面の中の彼女はゆっくりとスポットライトを浴びステージに上がる。白いAラインのシンプルなドレスを着用して髪を結った彼女が、試験官の前で演奏するそれは、優雅でそれでいてどこか儚げがあり心を揺さぶるものがある。その音色に聞き入っている我々に沈黙が流れるほどの実力だった。聞いているとどんどん引き込まれていくような、そんな音色だった。

 

「本当に何でもできる方なんですね。ここまで見事な演奏を他の技能と並行して身に付けて10代半ばでこなすとは」

「そうだな。何もかもが規格外過ぎて驚くことが普通になってしまったよ」

 

 しかもひとり目の担当で米国4冠、ふたり目である私が凱旋門とキングジョージ制覇。そして国内クラシック無敗の3冠。そんな順調なトレーナー人生を歩む彼女は我が世の春の真っただ中だろう。いや、それは間違いか常春かもしれない――。

 

"――しかし、これだけ見事ならば、目の前で演奏してもらいたいものだな――"

 

 音楽が好きな私にとっての楽しみがまた増えた。後で時間を作って演奏してもらおうと考えている、私の耳と尾が機嫌よく動いてしまう。

 

 ふとエアグルーヴが飲み物を冷蔵庫へ取り出しに離席したところ、彼女はピタリと大窓の近くで止まった。

 

「珍しい組み合わせのですが、あれは――」

「おや? どうしたんだ?」

 

 エアグルーヴが何を見ているのか気になったブライアンは、大窓の方へ近づいていく。私も近づきそれを眺める。

 

 すると――。

 

「シリウス先輩がお嬢様へちょっかいをかけていますね」

「珍し組み合わせだが、ちょっと表情が物々しいな」

 

 耳を澄ませて外の音を拾う。

 どうやら同じくキングジョージに挑戦するシリウスへ、トレーナー君が情報を与えたことを、シリウスは侮っていると思って怒っているようだった。

 それに対し契約を理由に正面衝突を回避し、そのまま動向を見守っていると――。

 

『――目に見えるものだけが真実だと、そう思いですか?』

 

 そういったトレーナー君の発言に、耳が大きく反応した。それは彼女の絶大な記憶に関する事に対しての事なのか、それとももっと深い意味なのか。

 

 なんとなくその言葉が違和感として残る。

 彼女はもしかしたら、通常の発想ではもっと想像の付かない存在なのかもしれない。そうザワザワとした胸騒ぎが胸の中に残る。

 

 今までにもトレーナー君は時々年相応らしからぬ風格を纏っている時がある。これは完全な想像だが、彼女には――まだ私に話していないことがあるのかもしれない。

 

 そのまま彼女たちの語らいに興味があるので立ち聞きしている。するとシリウスは何故自分と私の中が良いと、トレーナー君がそう思うのか問いただしていた。すると、どうやらシリウスは私の事を完全に嫌っている訳ではない。という事について核心が見られた。

 

 それが何だか嬉しく思った。大切な幼馴染に嫌われてしまったかもしれないと、心の奥底で思っていたから。その安心の後、若干距離が近い彼女たちに、チリチリとした気持ちが湧く。この所好奇心をはじめ、色々と私を満たしてくれるトレーナー君と、満足に話せていないからだろうか?

 

 誰とでも気兼ねなく話せる、スキンシップが取れるシリウスの立場がなんとなく羨ましかった。

 

「――野次ウマ娘も集まって来たな」

「早く行ってきたほうがいいんじゃないんですか? 休憩にもなるでしょうし。14時まで外に行ってきてください」

 

 そしてエアグルーヴがジト目で此方を見つめている。

 今しがた考えていたことが顔に出ていたのだろうか? 完全に私の考えてることを察した彼女は、生徒会室から追い出しにかかっている。ガス抜きをしてこいと言う事なのか。

 

 そんなに態度に出ていたかと疑問に思いながらも思案していると。

 

「いま反撃したな。相変わらず肝が据わっているというか――」

「手元を見ずにケーキを素早く取り出して押し込むとは、中々器用というか何というか」

「とおもったら綺麗にやり返されたな」

 

 その光景に思わず目を丸くした。

 なんとトレーナー君にイタズラを仕掛けたシリウスは、ケーキを掴んだ手ごと引っ張りこんで食べさせて貰う形となっている。

 

 当然びっくりしてるトレーナー君。私もそんなイタズラを仕掛けるほど、シリウスが彼女に対して態度が柔らかい事に驚いた。思わず目を丸くしていると、シリウスはこちらを見てにやりと笑った。

 

"――なるほど。これはしてやられたな――"

 

 結局志の行き先が似るシリウスも、何だかんだいいながらトレーナーという教職としての使命、その深い優しさや一生懸命さに魅かれるのだろう。そしてついトレーナー君にちょっかいをかけたり、意地悪したくなってしまうのだろうなと。

 

 ああ、いつまでも心の奥は変わらないんだろうな。私たちは――。

 

「ふたりとも、迷惑でなければ14時まで休憩してきてもいいか?」

「問題ない。――たくさん食べて眠いから寝てくる」

「ブライアン寝過ごすなよ? ええ。いってらっしゃいませ。私も後輩とお茶してきます」

 

 私たちはそれぞれ生徒会長室を出て、各々休憩に入る。お弁当を片手に校舎を出て、楽しそうにじゃれ合っているテイオーとトレーナー君に声をかけた――。

 

   ◇  ◇  ◆  ◇  ◇

――20××年+2 5月25日 16時40分ごろ――

――宝塚市 阪神レース場――

 

「実際のレース場で練習できるなんてすっごい!」

 

 スタンド側からルドルフが今日の開催が終わった阪神で、バ場を確認したり走ったりしているのをトウカイテイオーと一緒に眺めている。

 

 柵につかまって尻尾を振り、嬉しそうにテイオーは瞳を輝かせていた。

 

「ええ。バ場の状態も確認できますし、阪神は未経験ですからいい経験になりますね」

「うんうん! でも、足元の状態がかなり悪い。カイチョ―大丈夫かな?」

 

 不安げにテイオーは私を見上げる。

 内心あの不可解な悪夢に重なるが、私はその気持ちを隠してテイオーの頭を撫でながら穏やかな笑みを浮かべた。

 

「蹄鉄も靴も調整して、転倒に留意するようお願いしてます。きっと大丈夫ですよ」

 

 もし来るとしたら今日だろう。あれはレース中じゃない。

 あの夢がまた正夢なら今日の実走トレーニングだ。

 

 コースに潜むジャバウォックがルドルフを飲み込まない様、私は祈る気持ちを隠してバ場を走るルドルフを見つめる――。

 

 そしてあの悪夢でアクシデントがあった個所へルドルフは残り2ハロン、残り1ハロンと近づいてきた。

 

 鼓動が激しくなる。喉も乾く。

 そのたった25秒前後の時間がとても長く思えるくらいに。

 

 

 

 

 そして――。

 

「――!」

 

 

 

 

 

 

 

 超えた――! 超えられた!

 

 ルドルフは外目に進路をとって荒れたバ場を回避して走った!

 その結果アクシデントは起きず、わたしはそっと胸をなでおろす。

 

 ゴールの所まで走って確認を終えたルドルフはこちらに戻ってきた。スタンド側の柵越しにドリンクボトルやタオルなどを差し入れる。彼女はありがとうと言ってそれを受け取る。

 

「君が言う通り芝の綺麗な部分を走ったほうがよさそうだ。あれではさすがの私でも危ういね」

「やはりですか。コースデータも取り終えたし、ホテルに帰ったら分析ですね」

「あ、それボクも見てもいい?」

「構わないよ。いいね? トレーナー君」

「ええ。単なる作戦会議だけど、勉強になると思うから」

「わーい! やったぁ!」

 

 ぴょんぴょんと大はしゃぎするテイオーに、ルドルフは『ちゃんと大人しくしているんだぞ?』と言い聞かせている。

 

「さて。上がる準備をして帰ろうか?」

「そうですね。お夕食はどうします?」

「折角だ。街中で食べよう。出来たらそうだな、"お好み焼き"はどうだ? これならふたりの"お好み"にも合わせられるだろう?」

 

 ダジャレも出て絶好調の様子。ご機嫌なルドルフとは裏腹に、ルドルフのダジャレがどうやら苦手らしいテイオーは若干引き気味だった。

 

「ふふっ、わかりました。手配しておきますね」

「カイチョ―。またダジャレぇ?」

「ああ。出来がいいだろう?」

 

 そうやっていつも通りのやり取りをして、借りた控室でルドルフに手入れをする。

 そして私たちは荷物を預け、夕食を取り終えて満足してホテルに帰るだけとなった――。

 

 

  ◇  ◇  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+2 5月25日 20時ごろ――

――大阪市某所――

 

「お腹いっぱい! ごちそうさまお姉さん!」

「いえいえ。評判通り美味しかったですね」

「そうだな。Horsebookにいいダジャレネタも投降できたし」

 

 宿泊先である大阪市内で予約したお好み焼き屋さんのお店は、自分たちで具材を追加して焼くタイプのお店だった。ルドルフは焼きあがったお好み焼きの写真を載せ『お好み焼きはどんな具材がお好みかな?』と、余程気に入ったのかあのダジャレを書き込んでいた。

 

 ウイニングチケットからニンジン! と真っ先にコメントがついており、他にも普段私やルドルフとかかわりのある子達が色々書き込んでいた。それを見てルドルフは嬉しそうにしていたのが私も嬉しかった。

 

 ルドルフの理想を体現するまでの孤独が少しでも和らいでほしいから。

 

 今現在は宿泊先へ向けて徒歩で移動中。その途中、空をふと見上げた。

 夏に近づき日が長くなりつつあるものの、春の空はとっくに濃紺に染まっている。その空へ街の明かりがぼんやりとした白を紺に零し、都会の空気を纏っていた。

 

 そして進行方向頭上の歩道橋の周りには、何だか足場が組まれている。工事看板を見ると塗装と掃除が理由のようだった。

 

 その下を通り抜けようとした時、何か頭上で音がした様な気がして上を向いた。

 

 何かが落下してくるのだけ、

 

 

 スローモーションに感じた――。私はとっさにテイオーだけ突き飛ばし、間に合わないが回避だけ取ろうとした。ふたりは無事だ。多分大丈夫。

 

 走マ灯のように流れる時間の中、ふとある事を思い出した。

 

 こんな時なのに――私、誰かをあの時庇って死んだんだと。目の前に飛んで来た子供をみて、自分をクッションにして。

 

 でもあの時のように今死ぬわけにはいかない。必死で迫る生命の危機から逃れようと、ゆっくりとした時間間隔の中身体を動かし身をよじる。

 

 そしてなんと気付いたルドルフがなんとこっちに引き返してくる。

 

「来ないで!」

 

 そう叫んだのに私の手を引っ張って、助けようとするルドルフ。

 

 そこで大きな音が響き、私は痛みで意識を失った――!

 

 

  ◇  ◇  ◇  ◆  ◇

 

――20××年 6月13日 午後17時――

――個別トレーナー室――

 

 あることが原因で、ここ何日も眠れていない――。

 こたつ布団を片付けた上がり畳のテーブルの上には、『ルドルフ引退か!?』という見出しの新聞。

 ある程度中を見てから、それを見ないように隅っこに片づけて必死に文献を漁る。

 

 事故の所為で私は左肩を亜脱臼。テイオーは受け身を取って無事。ルドルフも軽い左肩の打撲だけだった。

 

 だがメディカルチェックの結果、ルドルフは何の異常もないはずなのに、謎の筋肉痛を訴えている。いくら調べてもその理由が皆目見当もつかづ、いろいろと試しているが効果がない。今手持ちの科学のカートはすべて打ち尽くし手を打ち尽くした。

 

 だけどそれを嘲笑うかのように、謎の筋肉痛の原因は一切特定できなかった。

 

 そのためルドルフは体調不良のため宝塚記念は欠場。

 

 ジャバウォックは私たちを逃がしてはくれなかった。治療がうまく行かないため、引退騒動まで起きている。

 

 もう泣きたい気持ちでいっぱい。だけどルドルフはもっと苦しんでる。あんなに憔悴しきった彼女をどうにか助けなきゃいけない。私以上に落ち込んでいるルドルフの為にも、今頑張らなきゃいけない。

 

 ベソベソな本音のような曇り空からは、霧のような雨が降り注いでいた。

 

 泣いている場合じゃない……。

 

 学園の敷地の外にある病院でさらに詳しく調べようと、タブレットを閉じ棚に仕舞いスマホだけ持って移動準備をする。ガラスに映った自分の顔には酷いクマが浮かんでいた。

 

 疲労感の漂う現実を無視するように首を振り、フラフラと立ち上がり外に出る。

 傘もさすのも面倒で、雨の中を幽鬼のように身体を引きずり歩く。

 

「――」

 

 誰かが声をかけた気がしたけど、心に反応する余裕なんてなかった。するとぐっと痛くないように脇から支えられて抱えられた気がした。

 

「ルドルフだけじゃなくてアンタまで倒れる気か! しっかりしろ!」

 

 私を覗き込んでいる顔は――ルドルフに似た色? でもちょっとつり目――ああ、シリウスかとぼんやり思っていると頬を軽く叩かれて、いつの間にか保健室まで担がれてタオルで拭かれて、ベッドに座らされていた。

 

「とりあえず飲め」

 

 目の前に差し出されたのはコーンポタージュ缶。ぼーっとそれを見つめているも、少し飲む。

 

「まったく。外が野次ウマだらけになる位アンタは慕われてんだから、もう少し身体を大事にしろ。たづなさんにブチ切れられるぞ。つか、ルドルフもアンタも、本当にそう言う所がそっくりで、お似合い過ぎて呆れる」

「……」

「――いつもみたいに反論してこいよ。って、できるわけないか」

 

 心なしかシリウスは少し哀しそうだった。いつも私をからかってばっかりしてくるのに。

 

「ルドルフの容態。そんなに治せないのか?」

「――打つ手は打ちました。だけど全く治らない上に、原因が分からないんですよ。だから、探さなきゃ――」

 

 少し元気が出て、コーンポタージュを飲み干してベッドを降りようとすると、シリウスに押し戻されかける。

 

「落ち着け!」

「だって私の所為だもの! 落ち着けるわけがないじゃない!!」

「アレは偶然の重なった事故だろうが! アンタの所為じゃない!」

 

 私がもっとうまく逃げてたら、私の判断が間違ってなかったら! ルドルフは今頃違った結果を歩んでいた。きっとそうだと私の心は限界だった。

 

「皇帝サマとしてじゃなく、ルドルフにとってアンタは大切なんだ。もっと自分を大事にしろ。――大切な幼馴染の居場所になれた、アンタなんだから」

 

 ボロボロと我慢していたはずの涙が落ちる。その時だった。でっかいズタ袋を抱えたゴールドシップが、保健室にバンっと勢いよくドアを開けて入ってきた。

 

「確保してきたぞっと! ゴルシちゃんからのお届け物だーい!」

「何をするんだゴールドシップ!」

 

 私が押し込められたベッドの端に、ズタ袋が下ろされルドルフが中から出て来た。しかもめちゃくちゃ怒ってる。だけど私の状態を見てルドルフは顔面蒼白になった。

 

「っ――なんで君までボロボロになってるんだ!」

「……探し続けてて。どうしても眠れなくて」

「必ず眠らないといけない体質で、そんな無茶をしないでくれ」

 

 ルドルフは悲しそうな顔をしたあと、ぎゅっと震える私を私を抱きしめていた。

 

「責任を感じているのかもしれないが、アレは君の所為じゃない。もし助けなければ足場の直撃で君は死んでたかもしれない。テイオーだって無傷で済まなかったかもしれない。君が生きていてくれて、私はよかったよ」

 

 私は何て返したらいいかわからず、ただされるがままに撫でられていた。

 

「ったく。おい、いちゃついてる間に助っ人がくるぞ」

「――助っ人とは?」

 

 ルドルフが首をかしげる。するとバツが悪そうにシリウスは視線を逸らした。

 

「まあすぐ来る」

 

 そしてその直後。

 

 カラカラと保健室の窓が開いて、挙動不審な人物が私たちのいる室内に入ってきた。

 

 

 

 

「ワォ~あんし――って全然安心じゃない!? ちょっとちょっと大丈夫なの!?」

 

 その不審者はずずいと私の方へ近寄ってきた。その人物は――。

 

 

 

「でも、あたしが来たからにはもう大丈夫! この天才笹針師! 安心沢刺々美がいるからね☆」

 

 と、ハリを取り出してニコリと笑った――。

 

「――大丈夫なんですか……」

「元気ないけど平常運転なのね~あなた」

 

 と、大笑いしている安心沢だった。彼女は何故か施術の準備をしている。

 

「昔病弱だったヤツら曰く、コイツの師匠は笹針師として有名らしい。で、そいつら全員アンタに夏合宿でも世話になった貸しを返しに、方々探し回ったわけだ。それでこの弟子が派遣されてきた。キングジョージの貸しはコレで治ったらチャラだぞ?」

「でも伝説の笹針師の弟子だろ? 大丈夫なのかこの怪しいの……」

 

 目が横線のように細くなったゴールドシップは、怪しむ様に首をかしげて安心沢を見つめる。

 

「ふふ、それがお嬢様がHorsebookで私が肩こりを治したのを取りあげてくれたおかげで、あたしはちゃんと師匠に修行を付けてもらえたの。だからもうひとり立ちは済ませてるわ」

「なるほどな。――ダメで元々だ。やってくれ。トレーナー君もそれでいいかい?」

 

 笹針に代わる原理の治療はすでに試した。だけど全くもって改善されることもなくといったところだが、ウマ娘の治療は時々古典的な手法の方が予後や治療経過が何故かよかったりすることがある。

 

 まるでそれが既定路線だったかのように――。

 

「お願いします――伝説の笹針師さん」

 

 これがルドルフの未来へ繋がりますように。私は祈る気持ちでそう言葉を紡ぐ。

 

 ササミはニッコリ笑って。

 

「まかせて!」

 

 と腕まくりしてはりきって見せた。

 

 ルドルフはカーテンで囲った隣のベッドに移り、安心沢の治療を受けるための準備をし始める。

 そして程なく数分後――!

 

『――っ!?』

 

 私と同じく痛みをこらえている声がした――。そして……!

 

『――……痛みが……引いた! ありがとう安心沢さん! トレーナー君! 成功だ!』

 

 ルドルフは急いで着替えると、私の方へと飛びついてきた。私は奇跡を目の当たりにして嬉し涙を零すも、何を行ったらいいかなんてわかんなかった。

 

 

「ふふっ! こうも上手くいくと最高ね! さ、次はあなたよ?」

 

 と、泣いている私にハンカチを安心沢は差出し、そのまま隣に誘導してブスっと一発。成功して私の方もちょっと肩が軽くなった。

 

 

 

 そしてこの翌日――。

 

 各社揃ってルドルフ、奇跡の復活を報じると共に、安心沢は次世代の伝説の笹針師として世の中を席巻していくことに。

 

 明けないかもしれない私たちの心の夜に、朝が来た――。




暗い展開なので悩みました。

次回、第2回英国遠征編!

吉報1985年のキングジョージのプログラム手に入れました。
再現性が上がるかも?


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【幕間】同じ夜空に浮かぶもの

大変お待たせしました。いつも読んでくれてありがとうございます。

ルドルフ視点からはじまり

◇◆◇から◇◇◆がシリウス視点

◇◇◆からはルドルフ視点です

それではどうぞ!


 モノクロのあの空間に私はまた来ていた――。

 

 今回はトランプのような観客の影もない。ただ、アスコットレース場のスタンドが閑散と広がっているだけ。

 

 そこを何となく歩き、辺りを見回す。すると最初は誰も居なかった空間に、見覚えがあるようでないようなウマ娘の黒い影がそこに居た。

 

 その影はもやのような煙を立てながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

 何となくだけどそのウマ娘は、多分以前キングジョージの夢を見た際にファンの期待に応えようと、病み上りの身体をおして出場して戦ったあのウマ娘だろう。

 

 その正体は寝物語に両親に聞かされていたウマ娘だ――。

 

 近づいてきたその影は私にレースプログラムを渡してきた。お礼を言いそれを受け取り開くも、案の定謎の文字が時々()らぎながら、紙の上を這いまわっているだけであった。

 

「ありがたいが、この文字を私は読めないんだ」

 

 私がそう伝えると、その影は右手でプログラムを開き文字をその手でなぞる。

 

 すると、14番シリウスシンボリ。ゲート番号13という文字が浮かんだ。だが15名いる選手の中に私の名前はなく、首をかしげているともう一度その影は文字をなぞる。

 

 なぞられたプログラムに項目が追記され16番目の名が追記された。

 そこに16番シンボリルドルフ――ゲート番号14と表記される。

 

「また大外か。――全く、大外枠からの愛が重くて困ってしまうよ」

 

 呆れたように笑うと、その影は困ったように肩をすくめくすくすと笑った気がした。

 

"――貴女なら出来ますよ。だって貴女はわたくしの××を叶えたのだから――"

 

 私は目を見開いた。何故ならはじめてこの空間で出会う存在が口をきいたのだから。

 

"――××からの贈りモノを、手放さないように――"

 

 その影は笑って片手で私の肩を小突くと、空間はパッと光に包まれた。

 

"――シリウスとも、仲良くね――"

 

 するとけたたましく赤い目覚ましが鳴り響く。目を固く閉じた私は手探りでそれを止めるも、まだ目がシパシパする。寝起きで気分がすぐれないため、耳を伏せ掛け布団へと潜り込む。

 

 一体あの夢は何なのだろうと、はっきりしない思考の中考えを巡らすも、何も思い付かなかった――。

 

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 6月30日――

――日本時間 22時 オルドゥーズ財閥専用機内――

 

 私がジャージにTシャツといったラフな格好で、ソファーへ深く腰掛け本を読み寛いでいる。すると視界の端からトスっという音が定期的に響く。音の方向では同じような格好をしたシリウスが設置されていたダーツ台を使って退屈しのぎをしていた。

 

「ロンドン名物とされる霧に見送られ日本を発ったが、今年のアスコットはどんな風になると思う?」

「水とは縁がない堅い地面だと思いますよ。春先は去年と同じです。コンディションは堅良以上ハード未満が予想されます」

「となるとシリウスを堅い地面に慣らしておいたのは正解か。しかし、荒れ地で走る方法を学ぶため、旧第3グラウンドだけでなく、河川敷や土手で練習する程あちらのバ場はハードなのかしら?」

「ええ。日本のレース場は整えられたコーストラックによるレースと例えるなら、イギリスのレースは伝統的なオフロードレースですから」

 

 少し離れた所にあるシンプルながら素材の良いソファー&テーブルで、シリウスのトレーナーである東条トレーナーとトレーナー君は資料を広げながら作戦会議をしている。

 

「なるほど。なら私達にも靴を提供してくれるのはありがたい。けど、それは貴女にとって不利では?」

「いいえ。デメリットは全くありません」

 

 トレーナー君の横顔は軽く眉を上げてにこりと笑みを浮かべた。そして白ベースの中央へ緑色の帯、端に金の細工が施されたティーカップを優雅に持ち上げ一口紅茶を飲んだ。大胆不敵なトレーナー君の態度に、不思議そうな顔をしている東条トレーナーが見える。

 

「それはスポンサーとして平等にという事かしら?」

「そうです。先輩、最悪なのはどちらも負けて帰ったり、高速バ場で選手が大けがをすることです。日本のファンにキングジョージの勝利を持ち帰る。これがスポンサーとしての私の最大のミッションかと。勿論こちらも負ける気はありませんよ」

 

 静かにカップをソーサーに置き、それを優雅な動作でテーブルへと戻すトレーナー君。彼女は前々からシリウスの挑戦するキングジョージについて私に相談していた。

 

 このままいけばきっと怪我をするだろうと――。

 

 心配だった我々は東条トレーナーと打ち合わせ今まで調整してきた。

 去年のように旧第3グラウンドでタイキシャトル、マルゼンスキーを交えて並走したり、河川敷の土手でトレーナー君の特技である、対荒れ地走法を見せ、徹底的に慣らしたりと最善を尽くした。

 

 荒れ地だと自分より速く走るトレーナー君にシリウスは面食らって苦戦していた。しかし、私同様負けず嫌いもありそれを最終的に取得。ボコボコの路面コンディションの中を、スイスイ逃げていたトレーナー君をちゃんと捉えきれるようになった。

 

「そう。ならお言葉に甘えて遠慮なく聞かせて貰うわ。参考までに貴女の展開予想は?」

「おそらくラビットは2名。成績的にペリドットとポーンのふたりかなと。そしてバ場が硬いなら欧州勢は私達が有利だと思うでしょう。去年より早く飛ばし、バテ試合に持ち込む。去年も相当早かったので、今年もレコード想定でペースを組まないと、最後に追いつけなくなると思います。中団待機は前に居る子達よりも瞬発力が優れていないと厳しいので、シニア級入り混じるこの状況でクラシック級のウマ娘でその戦法はしないほうがベターかなと」

 

 次走のレースの通称はキングジョージ――。

 全体はおにぎり型のコースで、スタートから最初のコーナーまでを下り、コーナーを抜ければゴールまで全て登り坂という地獄。

 

 最初に位置取りを失敗すると大きく響く上に、上り坂が長いためあまり後ろに控えているとバテて追いつけなくなる。幅広の葉を持ち剝がれやすい芝が生い茂り、雨が降れば極度のぬかるみ、乾けばコンクリートのような、石灰質交じりのバ場が過酷な上に状況判断が非常に難しいコースだ。

 

 しかもペースメーカー、ラビットという存在がヨーロッパのレースには必ずいる。日本のようにペースに(ゆる)みがなくずっと追いっぱなしのようになる。

 欧州のレースというものは駆け引きだけでなく、私たちの真っ向勝負を期待しているというわけだ。

 

「なるほど――となると内側に居るのはやはり危険なのね。見かけは中距離戦だが、実質的には超長距離戦並みのハードレースといったところ?」

「その通りです。あちらの荒れ地を走る脚づくりは完了していますよね? ニューマーケットではウッドチップではなく、実際に丘陵を並走し体力をさらに伸ばしていきませんか?」

 

 トレーナー君の提案は妥当だろう。日本で作った体力を更に伸ばさなければ、攻略は現実的ではなくなる。いまのシリウスの体力では最終直線半ばまでが、全力を出せるギリギリといったところだろうから。

 

 去年の私ですら勝てたかどうかもわからず意識が飛び、バテて倒れた。

 

 そんなにも過酷なレースだから――。

 

「それがいいでしょうね。そうしましょう。しかし、本当に遠征に慣れているわね」

「あはは……前の子が強烈だったもので」

「というと? どういうこと? 確かに貴女の前に担当したディーネは、1か月にこなせるローテとは思えない位過酷なスケジュールだったけれど」

「あれ。実は勝手にディーネが入れて。私を抱えて勝手に各地を巡ってたんです。止めても全く聞いてくれないし、最後の年以外学園に帰っていた時のほうが少なかったかもしれません」

 

 ディーネはトレーナー君を連れて文字通り大航海時代のように、レース場からレース場を転々としながらずっと戦い続けていたそうだ。頑丈なディーネはレースが終われば勝手に次に出たいレースの出走届を出し、そのサポートを必死でトレーナー君は行った。

 

 問答無用で次のレース場に向かうべく、ディーネの小脇に抱えられる日々だったと。生徒会の仕事もほぼ遠隔で行い、間に合わないと自分まで手伝わされていたと。そうトレーナー君は私にごちっていた時があった。

 

 その様子を想像するとむくれたり、文句を言いつつも、ディーネと楽しそうに全米のレース場と学園を巡る楽しそうな日々。なんだか羨ましいなと思える距離感だが、今の私と彼女もそれに近い関係になりつつある。

 

 最初は従順なだけだったが、喧嘩もすれば小言もいう、徐々に感情のバリエーションが増え豊かになる表情と明かされる彼女の秘密。本当に色々あったし、なんだか最近の事なのに懐かしくなった。

 

 私は話し合いが終わりそうなので、簡易給湯室へ赴き電子レンジであるものを温め始める。ついでにウーロン茶のボトルを取り出し、コップに4つ入れて準備する。

 

 そして電子レンジの音が鳴る。開けた瞬間いい香りが立ち昇る。この香りで恐らくトレーナー君は、私が何をしているかきっと気付くだろう。きっと目をキラキラさせて待っているんじゃないかと思いながら、温めたそれと飲み物をお盆に乗せて持って行く。

 

 するとトレーナー君は、キラキラとした瞳で此方を見つめている。これではどちらが世話を焼いているのかわからないなと、ふと口元に笑みが零れ落ちた。

 

「トレーナー君、お疲れ様。皆そろそろ小腹が空いているんじゃないかと思って持ってきたよ?」

「わー! これ私が大好きな大阪の豚まんじゃないですか!」

「ふふ。この前君が食べたいって言っていたのを聞いていたからね? 通販で買える冷凍品いくつか持ってきておいたんだ」

 

 目の前にいるこの無邪気なトレーナーは、人類全てを凌駕しているかもしれない存在だ。それなのにこんなにも余裕があり、無邪気に過ごすことができる。

 

 柔らかい物腰やその雰囲気は私も見習うべきところがあり、それと同時にその普通で居られる彼女らしさや強さが、羨ましいとも感じてしまう。

 

「皇帝サマがここまでデレデレとはな」

「確かに。君からすれば意外にも思うだろうね?」

「だって豚まんですよシリウス? 美味しいからルドルフだってデレデレにもなりますよ」

「……お嬢サマは通常運転だな」

 

 手拭きとグラスを全員分に配置しながら、ニコニコとそう答えるトレーナー君はズレた返答をシリウスに返す。どうやら頭の中がオヤツ一色のようだ。シリウスは額に手を当てて頭を抱えている。

 

 トレーナー君からすれば、今の私の態度が普通だと思ってるのだろう。が、考え方がすれ違い、互いに頑なになってしまったシリウスからすれば、私のトレーナー君に対する態度は甘いと映る。

 

「シリウス。折角ですし、頂きましょう」

「ああ。そうだな」

 

 渋々といった感じだが、シリウスは手元の最後のダーツを的に投げ、それをど真ん中に命中させてからこちらへやってきた。

 

 こんな形でもシリウスと一緒に食事を食べるのは何年ぶりだろうか。私は内心とても嬉しかった――。

 

 

  ◇  ◆  ◇

 

――20××年+2 7月4日――

――英国時間 19時 ニューマーケットの借家――

 

 お嬢サマ一行と同じ屋敷へ宿泊した。過保護な皇帝サマは自分のトレーナーと同じ部屋を希望していたようだが、私はひとり部屋を希望した。面倒を見ているやつらに泣き付かれて電話に出た時に、トレーナーの迷惑になる。トレーナーは複数の担当を抱えているし、互いに起床就寝時間がバラバラ。だからひとりのほうが気楽だった。

 

 その部屋は2階の出窓からイングリッシュガーデンを見下ろせる、シンプルで木のぬくもりが感じられる部屋だった。まるでウサギの絵本に出てくるような、そんなメルヘンで優雅な一室だ。

 

 隣の部屋に泊まっている自分のトレーナーは今日はいない。何やら用事とやらでロンドンの方に出向いているようだ。明日の夕方には帰ってくるらしい。

 

 そんな中の私はというと、うたた寝した際に見た不吉な夢の所為で眠れなかった――。

 

 夢の中のレースで私は絶望を味わった。遠ざかる栄光、届かぬ先頭、全てに打ちのめされる自分の姿。それはまるで、私がアイツに感じるものよりももっと濃い感情だ。

 

 互いが子どものころにルドルフに会ったとき、アイツは誰より優秀で、追い付ける気がしなかった。

 

 誰より才能があり、誰より強く、自由を謳歌していた。

 ダンスを一緒に踊ったのをきっかけに、幼い私はアイツに憧れた。

 

 だけどアイツは周りの心配なんかお構いなしに、自由を捨て、自分から孤高を貫きはじめる。

 

 友達としてきちんと話聞いてとどまってくれると信じていた。だけどアイツは選んだのは皇帝サマとしての自分だった。

 

 あの時私の手を振り払ったのはお前の癖に――! 今さらヘラヘラ仲良くなんてされても、腹が立つだけだった。

 

 

 そんなアイツがルドルフへ戻る時を最近見かけた。それを向ける相手は皇帝サマのエゴで連れてこられた、学園の筆頭スポンサーの娘かつ、本人も相当な実力で有名な半人半バだった。

 

 ルドルフとして本音で不安を告げ、それに真剣に答えるお嬢サマの姿をみて、なんとなく寂しさとあの頃のアイツがいた安心感が入り交じった。そんな自分が未練がましくみえて、なんだか嫌だった。

 

 お嬢サマの事は今でこそ小生意気だと思う事はあるが、当時の印象はいい方だった。癖が強すぎて見捨てられてもおかしくないウマ娘の手を取り、初任のウマ娘でひとつの国の天下を取り落第寸前のウマ娘を英雄へと押し上げた。

 噂では外ラチに膨らむ癖を治すために、自分の命を天秤にかけるという無謀をしてまで生徒に尽くしたという。

 

 アイツが少しは見習ってくれればいいなと思っていた。

 

 猫かぶりがわかっても心底嫌いになれなくなったのは、中山の売店での出来事だった。皐月賞当日に心ない悪口を言われ、一瞬悲しい顔をしていたのに気付いたから。その内容は耳を塞ぎたくなるほどの悪意に満ち、散々な言われようだった。

 

 どちらかというと金はあってもお嬢サマは持たざる存在だ。だけど、曲がらずあんなにも笑い、惜しみなく思いやりを与えられるのだろうと。そう言う所は私としても好ましかった――。あんな金持ちばっかりだったら、この世の不幸はもっと減るだろうなと。

 

 ルドルフがお嬢サマに惹かれた理由がわかる。孤高のアイツにとっての手本が見つかり、いつか辿り着きたい境地というだけでないんだろう。あれなら、誰もが憧れる――夜空に浮かぶ満ちた月だから。

 

"――だからからかいたくなる。何故だろうか、昔を思い出して懐かしいからだろうか? 自由だった頃のアイツに重なるからだろうか――"

 

 悪夢ごとその戯言を振り払うように首を振って髪をかき上げる――。

 

 水でも飲んでこよう――。

 そう思ってベッドから降りて、1階にあるキッチンへ向かう。廊下は時々きしみ、年月を感じさせる木の音を立てている。

 

 

 月明かりに照らされた室内を通り、黒猫を連れた魔女が宅急便をする映画の劇中で、パイづくりをしたキッチンのような内装のそこにつく――。

 

 適当に水切り籠からコップをひとつとる。片手で冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったボトルを取り出し、コップに注ぎ一気に飲み干す。月明りのみ差す青い室内は静まりかえり、私の喉を潤す音だけが深々と響いているようだった。

 

 気持ちを切り替えるために寝よう。そう思って来た廊下から――。

 

 ――ボテッ

 

 何かが盛大に転んだ音がした。

 

「……」

 

 自分のトレーナーじゃあり得ない。皇帝サマもない。なら――。

 

『いたた……』

 

 予想通り白いワンピースのようなナイトウェアワンピース姿のお嬢サマがすっ転んでいた。暗闇にエメラルドの瞳とカササギの羽を思わせる、青い光を放つ黒髪が月明りに反射していた。間違いない。

 

「明かりも点けずに何してるんだよ……」

「いやー! みられた! やだもう」

 

 近寄って声をかけると、転んだのを見られてぶわっと泣きそうな顔をした。お嬢様に『とりあえず落ち着け』といって手を差し出して立たせてやる。

 

「ったく。アンタは間抜けなんだから電気をちゃんとつけろ」

「すみません……気分的になんとなく……」

「ったく。その気持ちはわかるが、怪我したらアイツも心配するだろう? というか、こんな夜中にコソコソと何してた?」

 

 首を傾げた後、お嬢サマはこう答えた。

 

「うーん。考えすぎて頭が重いから、ちょっと完全防音室で楽器でも弾こうかなと思いまして」

 

 音楽には脳を落ち着ける効果があるという。そう言えば滅多にひと前で奏でることはないという、お嬢サマの楽器演奏の腕前は相当だと聞いた。私も落ち着くのにはちょうどいいだろう。

 

「楽器なんか弾けるんだな。木登りするようなお嬢サマが」

「ちょっと! それ関係ありますか!?」

 

 つい最近、学園にいた時に目撃した出来事のこと――。

 

 木の上にボールを飛ばした奴らがいて、それをお嬢サマが木登りして取って、生徒会3名から大目玉を食らっていたという件があった。

 お転婆が過ぎるとエアグルーヴと皇帝サマに締め上げられ、逃げないようにブライアンが小脇に抱えて持っていかれる様はある意味お笑いだったがな。

 

「お転婆にそれが出来るのかなと? できるなら証明して見せろ」

「なっ!? むー……そこまで言うなら! やってやろうじゃないですか!」

 

 自分から言い出すのはなんだか癪だったから、挑発して思い通りの着地点に持って行く。お嬢さまは頬を膨らませ、プウプウ文句を言うウサギのような状態になっていた。そのお嬢サマに案内されてついていくと――地下室へ通される。そこには防音設備が完備され、ダンスの練習が出来る様な鏡が貼られている。

 まるで劇団が練習できるような立派なスタジオスペースの中には、休憩用のソファーとテーブルの置かれたスペースもあり、そこに座っているよう指示される。

 

 スタジオ内の棚からお嬢サマは楽器の入っていると思われるケースを持ち出してきた。私の隣、少し離れた位置に座ったお嬢サマはケースを開けて楽器を取り出した。

 

 中に入っていたのは通常の竪琴より弦の本数が明らかに多い代物。数えた所おそらく40本以上はある。琥珀色の上質な木で出来たそれには、オルドゥーズ財閥の紋章が装飾として掘られている。

 

「弦の本数が多い気がするが、特注か?」

「ええ。誕生日に作ってもらいました。リクエストはありますか?」

「そうだな、夜に合う曲で」

「――では適当に」

 

 じっと私を一瞬見つめた後、1拍おいてから奏で始めた。

 その音色は優しく、しっとりとしたゆっくりした曲調で、静かな夜を思わせる様な曲だった――。

 

「――」

 

 瞳を閉じてそれに聞き入る。荒んでいた心が少しずつ落ち着いていき、静けさを取り戻していく。不安定な天候の夜空が澄み渡り、おおいぬ座のシリウスすら見える様な――満天の星空が心の中に広がっていく。

 

 そうやって感傷を癒すために浸っていると、1曲終わったような気配の後にそのまま、また別の曲を奏で始める。これは何か言うまで弾くつもりなんだろうなと思い、瞳を開ける。

 

「その腕前ならケイローンのあだ名に相応しいな。ネタで覚えたのか?」

「そうですね。これならちょっとはシャレになるから。――何でもできると、その分面倒なんですよ」

「贅沢な悩みだな」

「そうですね。――ところで演奏料としてお尋ねしたいのですが」

 

 演奏しながらお嬢サマは遠慮がちに切り込んできた。私は脚を組みながらソファーの肘宛にもたれかかりこう答えた。

 

「――今は気分がいいから答えてやらないこともない。なんだ?」

「私にはルドルフと貴女のやっている事の本質が同じに見えるんです。――どうしてそんなに仲が悪いんですか?」

「随分入り込んでくるが、まあアイツのトレーナーなら気になるか。長くなるぞ――」

 

 お嬢サマに思ってることを正直に話した――。

 

 私の心配なんかより、自分のエゴを優先したこと。そしてアイツは自己中心的で、自己満足の為ばかりに行動して、たまに周りが見えてなくてイライラするという事も。

 

「――そうでしたか」

「感想がそれだけかよ」

「いえ。本音を言うと怒るかなと」

 

 竪琴を奏でるのをやめ、視線を泳がせるお嬢サマ。そう言われたら余計に気になってしまう。

 

「言え」

「嫌です」

「アンタが冷蔵庫で大事にしてる、有名パティシエ作のにんじんプリンを全部食べるぞ」

「やめて!!」

「じゃあ吐け」

「……おうぇー」

 

 吐く真似をしててへぺろみたいな表情をしやがった。何故だか物凄くイラっと来るその姿に私は思わず立ち上がった。

 

「――キッチン行ってくる」

「やめて! あれは私のオアシスなの!! あれを食べないと明日から生きていけないの!」

「しがみ付くな! 大げさだな冗談だ!」

 

 ハープを置いて泣き出しそうな顔をしながら、飛びかかってきたお嬢サマを引きはがす。とりあえず落ち着かせる。食べ物を引き合いに出すと危険だから、絶対にするなとルドルフに言われていたが、こういう事かと納得した。

 

「――似た者同士だなと。そう感じただけですよ」

「どこがだ?」

「シリウスのその感情、ルドルフと同じだよ。誰かの在るべき姿を勝手に決めて、断定するのはエゴに他ならない」

 

 思わず毛が逆立ち、瞳を見開いて唖然とした。次に怒りでカッとなりかけたが、冷静に考えればそれは図星だった――。言われて気付いた。この感情は私のエゴだ。ルドルフ、いや、ルナに対して私は自分の考えを押し付けていた。

 

 アイツが独りよがりで行うそれと、何ら変わりない――。

 

「――確かにそうだな。だから、アンタは仲直りでもしろと思うのか?」

「いいえ?」

「は?」

「生徒同士の超個人的な問題に、私が首を突っ込むわけにはいかない。聞いたのは気になっただけです。ふたりとも、誰かを思いやっているのに、どうして喧嘩ばかりするのか不思議だったから――。私は大人の中にずっといるから理解できなかったの。そう言うやり取りが」

 

 真っすぐこちらを見つめてくるエメラルドの瞳に、私の驚いた顔が映っていた。

 

「納得するまで意見をぶつけ合えばいいんです。子供同士なんですから」

「アンタは時々妙に大人ぶって変な事を言うな」

「ええ、史上稀に見る"バケモノ"ですので」

 

 手を口に当ててふふふと笑う目の前の存在は、どこか見た目以上に大人びて見えて不思議に思えた。

 

「強いて言うならばそうですね。夜空を公平に照らし、大地を育てる月がルドルフとしましょう。しかし、その光が届かない影が必ずできてしまう。シリウスは夜空に輝く1等星、自ら輝き光が届かない場所から、地上の方々を見上げさせるカリスマ性がある。導き方が別なだけで、貴女達の行きつく先はきっと同じでしょう。お互いが思うようにやれば、結果損をする方は誰も居ない。それだけは、何があっても忘れないでください。貴女は貴女らしく、ルドルフはルドルフらしく。それぞれ輝いてください。それがいちスポンサーとしての願いです」

「"お嬢様"としての立場を持ち出してくるか。まあいい。筋は通ってる、忘れなきゃ覚えておいてやる」

「そりゃ先輩の担当相手のウマ娘に対し、トレーナーとして発言なんて来ませんからね? ありがとうございます。その輝きが失われないことを、私は祈っていますよ――」

 

 それを言われた時何となく心の奥が軽くなった――。夢では才能の差を見せつけられ絶望している自分が居た。

 

 今の自分でいいのか、今のままで自分は名前の通り、地上から見える星々で最も輝く1等星になれるのか。

 そうやってどこか自問自答していた気がする。

 

 自分のまま勝負すればいいんだ。そうだ、ここで弱気になっても何も意味がない。ここで心が折れたら、普段面倒見ているやつらはもっと希望を失うだろう。

 

 無謀だとしても、結果がどうであれやり遂げて見せる。

 

 それが私の示す道だ。

 

「わわっ!?」

 

 

 私がわしゃわしゃっとお嬢様の髪の毛を撫でると、お嬢様は『何するんですかー!』と抗議の声をあげ、慌てて髪の毛を直し始める。

 

 そろそろルドルフ辺りがお嬢様が帰ってこないのを心配して、探しに来る頃じゃないだろうか?

 うざ絡みされるのも面倒だ。ここはとっとと退散しよう。

 

「おや? ふたりともここにいたのか」

 

 と思ったら来やがった!

 

 マグカップ2つに、クッキーを載せたプレートを持ってルドルフは現れた。

 私が居たのは予想外過ぎたのか目を丸くしている。

 

「明日の打ち合わせでちょっとな」

「なるほど」

「用は終わったし私は寝る。じゃあな」

「ああ、おやすみシリウス」

「――おやすみ」

 

 何となく素直に言いたくなくて、適当な理由を付けて寝室へと戻った。

 ベッドに転がり布団に潜り込み、月明りが群青を切り抜き照らす中ゆっくりと瞳を閉じる。

 

 心に掛かったもやが晴れた。今度またあんな夢を見ても次は頑張れるだろう――。

 

 

  ◇  ◇  ◆

 

 数分戻って――。

 

――20××年+2 7月4日――

――英国時間 20時 借家 防音室――

 

 トレーナー君の足音が聞こえなくなって時間が相当経った。

 護衛達が騒がしくしていないので事件性はないだろう。そっと本を閉じ、白い開襟シャツに、黒のスラックス姿の私は部屋を出る。

 

 まず彼女が一番いそうなキッチンを探すも居ない。次にリビングの窓から庭を見るも居ない。

 

 ここまで音がしないとなると、きっと防音室だろう。

 

 さっきまでうんうん私の隣で唸っていたし、きっとお腹もすき始めるだろう。私はキッチンへと向かった。

 去年もお世話になった隣に住む大家さん、クレアさんが昼間残していったニンジンの形をしたニンジンクッキーがある。それをケースから取り出して皿に盛り、マグカップに牛乳を注いでレンジで温めてからホットミルクを作る。

 

 こちらの夏は少し涼しい位なので、夜はこれくらいでちょうどいい。それらと手を拭くための濡らした布をプレートに乗せ携え、恐らく地下室にいるのではと当たりを付けた私はそちらへと向かう。

 

 ドアをノックしてから開けると――。

 

 そこにはシリウスと髪の毛をワシャワシャとされているトレーナー君がいた。その時のシリウスの顔が久しく見ない楽しそうな顔をしていて、ちょっと驚いた。

 

「おや? ふたりともここにいたのか」

 

 そう声をかけるとシリウスの目が丸くなる。きっといきなり現れたと思って驚いたのだろう。

 

「明日の打ち合わせでちょっとな」

「なるほど」

「用は終わったし私は寝る。じゃあな」

「ああ、おやすみシリウス」

「――おやすみ」

 

 何も言わずに戻るかと思ったら、あのシリウスが今おやすみと言っていた。そのことに驚いて振り向くも、シリウスは部屋の外へとさっさと出て行ってしまった。そしてトレーナー君は竪琴をケースに一旦仕舞って、テーブルの隅に置いた。

 

「まだ作業は続きそうかい?」

「ええ。21時に資料が届くはずだから、22時には寝るつもりで頑張っている所です」

「なるほど。休憩にいいと思って持ってきたんだが、食べるかい?」

「わー! ありがとうございます! いただきます!」

 

 大喜びで飛びついているトレーナー君に続けて、『いただきます』と言って私もひと口かじる。優しくほろりと崩れるクッキーからは、にんじんの甘みが程よく伝わってくる。このクッキーなら牛乳にもよく合った味わいだ。

 

「去年よりも精神的に余裕があるように見えるが、君も私も変わったね」

「そりゃそうですよ。私だって成長するんですから。あ、またあれやりますか?」

「アレとは?」

「お花の冠。もしかしたらいい事があるかもしれませんよ?」

「――ああ、あれか」

 

 去年ここを訪れた時、トレーナー君は花冠を作り私に掛けてくれた。お返しに同じものを作って被せ合う。そんな思い返すとくすぐったくなるような、まるで子供のようなやり取りをした覚えがある。

 

「そうだな。昼間にまたつくろう。それと庭といえば去年出会ったハリネズミ達の事も気になる。先住である彼ら彼女らにも挨拶せねばな」

「ふふふ。ハリネズミさんも元気にしてるといいですね」

 

 トレーナー君がクッキーを食べ終え、手を拭いて満足そうな表情をしていた。

 

「先ほど片付けていたが、竪琴を弾いていたのか?」

「ええ。そこにシリウスさんが同席したという形ですね。また弾きましょうか?」

「それもいいが、そうだな――トレーナー君。ちょっと庭に出ないかい?」

「へ? いいですよ??」

 

 私たちは地下室を抜け片付けるものを片付け、シンプルな外履きを手に庭に出る。

 庭の上には煌々(こうこう)と満月が空の中央に昇っており『おお、見事なくらいまんまる! 綺麗ですね!』とトレーナー君がはしゃいでいた。

 

「本当に綺麗だ。さて、君に私はお願いがある」

「なんですか?」

「毎年毎年、何かしら用事を入れてドロワから逃げ回っている君と一曲踊りたい」

 

 毎年何故かドロワからは逃げ回るトレーナー君。今年こそはと誘おうと思ったら、また用事を入れて逃げる。一度でいいから踊ってみたいと思ったので、外に誘い出したのだ。月明りの元、綺麗な庭を背景にというダンスに誘うには最高の雰囲気だ。

 

「……えー、あの、私。唯一社交ダンスだけがちょっと苦手で」

 

 これは意外な反応が返ってきた――。思わず目を丸くしてしまう私と、気まずそうなトレーナー君。

 何でもできる彼女にも、できないものがどうやらあった。それが社交ダンスとは夢にも思わなかった。通りで毎年ドロワから逃げ回るわけだと心底納得した。

 

「絶対的な記憶力を持つ君にも苦手なものがあるんだな」

「ええ。ひとりとかライブのダンスとかは問題なく踊れるんです。しかし、何故か社交ダンスだけは苦手でして――」

「そう言う事か。大丈夫。私が直々に手取り足取り教えるから」

「ダメ! 絶対足()むし迷惑かけますよ!」

「頼むよ」

 

 トウカイテイオーがトレーナー君にお願いしている時のように、それを真似て眉を下げて頼んでみると――。

 

「そのショボン顔は反則ですよ。もう、テイオーの真似しましたね? ……わかりました」

「よくわかったね? テイオーのあの顔には実は私も弱くて。ふふっ決まりだね」

 

 手を取ってトレーナー君にレッスンを始めるが、どうにも危うい。すぐに転ぶ、()みかける。これは中々骨が折れそうだなと思いながら、しっかりリードして教えていく。

 

「慣れてきたらこっちを向いて、もっと力を抜いて」

「うう――やっぱり怖いですよ」

「大丈夫だから」

 

 ()まれかけるのを察知してよけながら形にしてく。やっと数分続けて、ステップを覚えて顔を上げることが出来たトレーナー君と目が合う。そのエメラルドをはめ込んだような瞳には月が輝き、私が映り込む。

 

「ほら。できるようになってきた」

「ほんとだ――」

 

 少しずつ余裕がでてきて、ステップにアレンジを加えてもついてこれるようになった。どうやら相手を怪我させるんじゃないかという不安が、上達のブレーキになっていた様だった。

 

「よし、これで来年から来てくれるね?」

「へ?」

「へ? じゃない。そうだな――私が次のレースで勝てば、君は私とドロワに参加してくれ。今回の君からの褒美はそれが良い」

「どうして?」

「どうしても。今年は君が実家の行事で不参加だったためシービーと行ったが、君とも行きたい」

 

 踊りながらそっと顔に掛かった髪をどかしてやる。反射できらりと青い光が煌めいた。(すそ)の長く白い上質なシルクのナイトウェアワンピースがはためき、まるでドレスのようだ。

 

「そこまで言われるなら。でもちゃんと教えてくださいよ?」

「ああ、勿論だ。その約束は絶対だからね? 当日になって行事を入れて逃げたら」

「逃げたら?」

養父君(ちちぎみ)に通報する」

「ちょっ!?」

 

 驚きでバランスを崩しかけるトレーナー君を上手くターンで拾い上げる。

 

「毎年逃げ回る君に社交ダンスを教えて欲しいと頼まれていてね。スポンサー依頼でもある。逃げないでくれよ?」

「そんなぁ! お養父さまとルドルフはグルだったんですね」

「ああ。出来たらその姿を録画して届けてほしいとも」

「うう。逃げられない」

「まあやってる内に"だんだん" "ダンス"は上手くなっていくよ」

「ヤダーこのルドルフさん! 上手いダジャレで乗せようとしてくるー!」

 

 ふざけ合ってそして笑い合い、わきの下に手を入れて抱えてターンして下ろす。

 

「"ノリ"がいい君なら"ノッテ"くれるだろう?」

「さらに全身全霊のダジャレでたたみみかけて来たー! わかりましたよ。頑張りますよぅ!」

「ありがとう。ふふ、来年のドロワが楽しみだ」

「ちょっとちょっと、ルドルフ。まだ次のレースの勝敗が手前にありますよ」

「そんなの決まってるじゃないか――」

 

 月の光に青く照らされる木々と芝がそよぐ中、私は1拍おいてゆっくり答える。

 

「私が勝つ――。寝物語に聞く老雄の夢を叶え、私が頂点に立つ。シービーの言葉を借りるが、1番強いと思い続けられるものが勝つ。そうだろう?」

「……そうでしたね。勝利を信じ、共に頑張りましょう」

「ああ。そして全員、ジャバウォックの潜む高速バ場を乗り越え、無事に日本へ帰ろう」

 

 私が差し出した拳に、トレーナー君は自身の拳をこつんと当てる――。

 

「さあ、冷えてしまう前に戻ろうか。明日もトレーニングが待っている。歯を磨いてそろそろ寝よう」

「ええ」

 

 月明りを背にしたトレーナー君に手を差し出す。添えられた彼女の手を握り、そっと引いて私は室内へ戻っていった――。




ちょっと仕事で精神的な余裕がなくなってきていますが。
ゆっくり連載を続けていこうと思います。

絶対に完結させます。いつもおそくてごめんなさいorz

 シリウスさんの複雑な気持ちは予想です。多分大切な友達同士でこっちは心配してるのに、頑なにそっちの道にいったらそりゃ怒るだろうなと。優しくて繊細なシリウスさんなら、そう思うんじゃないかという想像の補間です。二次創作的な解釈なのでお気をつけてください。

次はキングジョージです。
シリウスにとっての因縁のレース。
結末はまだ迷っていますが、しっかり私なりに描いていきたいと思います。


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『宿命』The Star and The Emperor

 大変お待たせしました! 転職で遅くなってしまい申し訳ないです。

 85年キングジョージモデル開幕です。

 開始から◆◇◇までトレーナー君視点で
 ◆◇◇~◇◆◇のレース開始~終盤がシリウス視点
 ◇◆◇から◇◇◆まで、ゴールまでがルドルフ視点
 ◇◇◆のエピローグがトレーナー君視点です

 いつも通り出走選手紹介のレースプログラムもどきです!


【挿絵表示】


 それなので今回はおまけとして……。

 史実のレープロの内容意訳から恐らくこんなんじゃないかなっていう、ウマ娘の紹介をつけてみました。ちょっとシリウスシンボリさん好きな人には、ショッパイ意訳内容でした。


【挿絵表示】


 シリウスさんの部分、原文ママです。
 当時の日本はこんな感じに扱いがちょっと小さかったんですね。前年度のルドルフも多分すっごく辛口だったんじゃないかと思います。

 馬番の仕様はウマ娘番が変わるのが嫌なのであえて無視。最後に出てくる飲食店は実際の史実で慰労会を行っており、イデオロギーとか一切ないです。

 それではどうぞ!


 

 顔を洗いタオルでそれを抑えるように拭いた。

 

 窓の外からは小鳥の囀り(さえず)が聞こえる夜明け直後。朝の気配に染まった東の空が白んでゆく。

 基礎化粧品で整え、いつもよりいいスーツに着替え、バスルームを出る。

 

 2階の部屋に戻ろうとすると、赤いパジャマ姿のシリウスがタオルや化粧水などをもって、上から降りてきた。

 

「おはよう。誰かさんと違ってはやいな」

「おはようございます。ええ、遠征中はルドルフを起こすのが朝の日課になってますね」

「寝起き以外はパーフェクトなんだけどな、アイツ……」

「そうなんですよね。では、少々騒がしくなりますが……。戦ってきます」

「ウッカリアイツの寝相に巻き込まれて、あばらをへし折られるなよ?」

「そうなった時は助けて下さい」

「さあ、どうしようかな? ははは! 気が向けばな」

 

 そうやって軽口を言い合いながらすれ違う。私はシリウスが降りてきた朝日に白く染まった、深い茶色の木の階段を登る。

 

 そう、私がルドルフと同じ部屋になる理由は言うまでもない――彼女の悪癖の所為だ。

 

 童話に出てきそうな廊下を抜け、木のドアを開けて部屋の中に入る。

 起きれるようにカーテンを開けておいたのにそれは全くの無駄に終わった。

 ルドルフは光から逃れるように耳だけ布団の外に出し、完全に潜り込んでしまっていた。

 まだ起きたくない。そう言わんばかりに。

 

「……」

 

 ジャケットをまず脱いで、ソファーに掛ける。そして、腕まくりをしてそっと近寄る。

 

「起きてください」

 

 ゆさゆさと優しく揺するも、軽くむにゃむにゃという感じの寝言を放つルドルフ。

 今度は耳すら出てこないほどに潜り込むと、布団をしっかり持って()がされないようにガードし始めた。

 

「ちょっと! ルドルフ! 流石に今日はレースでしょうが!」

 

 ポンポンと軽く布団を叩いて、そう叫んでも全く動かない。

 

「もー! かくなる上は……!」

 

 こうなったらキッチンから氷を取って来て、首元にピタッと当てる物理作戦にでるしかない!

 力技に出ようとドアへ向かおうとしたその時だった――。

 

 がしっと何かに腕を掴まれる感触と、浮遊する身体は後ろに倒れる。

 そして私はやや大きめのベッドにそのまま仰向けに転がる。

 

 一瞬目を丸くしたが、その犯人は考えなくても察しが付く。すぐ左横をみると、布団から出てきた寝癖だらけのルドルフがクスクスと笑っていた。

 

「ふふ、奥の手の氷だけはやめてくれたまえ。おはようトレーナー君」

「起きてたんですね! もう、何故またこんな事を!?」

「君の驚いた顔が見たくてね。レース前は緊張するから、ちょっとした気晴しさ」

 

 そういってウサギのヌイグルミでも抱きしめるように、ぎゅっと抱き着いてくるルドルフ。

 

「全く、仕方のない方ですね――」

 

 こうなったら満足するまで、されるがままになっておくしかない。半人半バとはいえ単純なパワーならルドルフの方が圧倒的。ジタバタしたところで余計に面白がられてしまうだろう。

 

 なんというか、"皇帝"じゃない時のルドルフは、サプライズやイタズラが好きでお転婆だった。この所慣れてきてるせいで殆ど遠慮が無くなっている。

 

 その所為でルドルフが気に入っている、テイオーと似ているなと思う時が日に日に増えていた。

 

「ん? 今日のフレグランスはラベンダーかい?」

「正解。ちょっとでもリラックスしてもらおうと思いまして」

「ふむ、夏には丁度いい柔らかい香りだ。気遣いありがとう、私も温まった所だしシャワーを浴びてくるよ」

 

 どうやら抱き着いてきたのは、私を湯たんぽ代わりにして、寝起きで下がった体温を上げるためだったらしい。

 すっと起きてバスルームへと向かった――。

 

 呆れつつも私とルドルフのベッドを整え、まず玄関をあけて芝の上にその辺に投げ置かれている、新聞を数部手に取り室内へ戻る。

 

 リビングのテーブルの上に先輩達用の新聞を置いて今度はキッチンへ向かう。

 そして、ノンカフェインのハーブティーを淹れていると――。

 

「おはよう。いつも早いわね」

 

 スーツに着替え終わった東条先輩が、先程リビングに置いておいた新聞を片手に、キッチン入り口に佇んでいた。私は温めるカップをふたつ増やしつつ、東条先輩をチラリと向いた。

 

「おはようございます。先輩もいりますか?」

「折角だから頂こうかしら?」

『――私の分も欲しい』

 

 姿はないがバスルームから聞いていたのかシリウスの声が響く。どうやら彼女も(のど)が渇いていた様だ。

 

「わかりました。では用意しますね」

 

 先輩とシリウスの分のティーセットとお茶()けを用意し、それをプレートに乗せ東条先輩に手渡す。

 

「朝食は1時間後に来る手筈です。それまでゆっくり過ごされてください」

「わかったわ。じゃあお互いまた後で」 

 

 先輩がリビングに去った後、私もお茶()けの準備をする。

 お隣に住んでいる管理人さんから頂いた、ひと口アップルパイとニンジンクッキーをケースから出す。それをジャガイモの花や実があしらわれた、ティーセットの小皿へのせ部屋に戻る。

 

 するとルドルフは髪を乾かし終わっており、レトロなドレッサーの前で基本的な手入れを全て終わらせていた。

 

「ルドルフ。お茶の準備できましたよ。朝食まで休憩しましょう」

「ありがとう。さて、今朝のニュースでどこまで評価が上がったかな?」

 

 部屋の中央のソファーの前のテーブルにそれらを配置する。

 ルドルフは私の隣にいつも座りに来るので、そこに新聞を配置した。

 

 準備が終わるか終わらないかの頃になって、髪にブラシをかけ終わったルドルフはゆっくりと近づいてきた。赤ジャージズボンに『発音が"良い" "En"glish』という、微妙に伝わり辛いダジャレTシャツ姿のルドルフはソファーの右側に腰かけた。

 

 そして『ありがとう、頂くよ』といって優雅にハーブティを楽しんだ後に新聞を広げる。しばらくそれを真剣に眺めた後、彼女は満足げに頷いた。

 

「ふむ。ブラックジョークだらけの辛辣過ぎた評価よりはいいね。英国側も少しは認めてくれているといったところか」

「そうですね。去年は何というかほぼ空気扱いだった気がします」

「ああ。流石にアレはわかっているとはいえ(こた)えるよ――ところで、わたしからのあの希望はどうなった」

 

 

 優雅にニンジンクッキーを摘まみ上げ、ひとかじりしながらルドルフはそう尋ねる。

 私は持っていたティーカップをテーブルの上に置いたあと、ゆっくりと朝日に輝く深い琥珀色の毛並みのルドルフの方へと向く。

 

帯同(たいどう)ではなく、それぞれとして勝負するという話ですね。先輩もシリウスも受諾しました」

「そうか。情報開示についても問題は無いね?」

「ええ。指示通り行いました。しかし、同じ日本代表だからというのはわかりますが、どうしてここまで?」

 

 ルドルフはふとアメジストとピンクダイヤモンドの間くらいの色合いの瞳を伏せた。そして、なにか物思いにふけるように静かに答える。

 

「確かに合同チームで挑めばどちらかが勝てるだろう。しかし、――何となくだ。何となく、今回のレースは同じ条件で勝負したいんだ。私も主役、彼女も主役で勝負したい」

 

 シリウスからすれば好きでも嫌いでもない、昔憧れていた腐れ縁というのがルドルフへの評価だ。だけどルドルフにとっては、自分にはじめて気兼ねなく声をかけてきた"大切な幼馴染(おさななじみ)"。

 

 それは(たもと)を分かっても変わらない。

 

 なら私がやるべきことはこのふたりが納得のいく勝負ができるよう、環境を整えることだ。

 

「いい試合ができるといいですね」

「ああ。――食後、開催前にバ場の確認をしてからが本題だが、君は今日のレースをどう見る?」

 

 ルドルフは脚を組みなおしながら優雅にハーブティーを一口含む中、私は少しだけ『うーん』と(うな)ってから返事を返す。

 

「そうですね。14名の出走でそこまでウマ込みはないとみています。マークは5番ゲートのファインドレインボウで変更なし。ラビットはマーク先のレインボウ陣営の9番ゲートペリドット。こちらを上回る瞬発力を生かしたいレインボウ陣営としては、ペリドットが作戦として牽引するのは間違いないでしょう。ここに前に行きたがる11番のポーン。ポーンが突っ込んでくるとみると、意識はしてても自分の走りをするのが一番いいと思います」

「バテ試合となると結局はそうなるだろうな。コース取りだけ意識しておこうと思う。今回無敗のクラシック女王も出てくるが、君はどうみる?」

 

 今回英国ティアラ路線の子でとんでもないウマ娘がいる。

 無敗で日本でいう桜花賞とオークスを勝ち上がってきたウマ娘がいる。

 

 Celeritas(ケレリタース)――。

 

 その意味は光速。まるで名は体を表すに相応しいクラシック級ウマ娘だ。イギリス国内では去年極東からきたクラシック級無敗のウマ娘、シンボリルドルフに重なり大いにファン層はわいた。巷のテレビ局では連日どちらが強いかで議論されている。

 

 クラシック級で凱旋門賞を制し、シニア級では超長距離レース天皇賞春を制したシンボリルドルフは、今や国内外至る所から挑まれる側の立場となっていた。

 

「確かに強いですが、恐らくスタミナが持たないかと。シニア級相手は少し厳しいのではないでしょうか?」

「そうか。では、タイムについてはどう思う?」

「レコードクラスになるのではないでしょうか? バ場予想は昨年の"Good to Firm"(良バ場)を上回る"Firm"(堅良)。開催中止のHard手前なので、日本と比較しても相当に堅いです。脚への負担は大きくなりますが芝が掘り返されにくくなるため、下りやすく登りもグリップがとても効きます。このため3コーナーの前半1000mで1分を切る可能性もあります。ここでもし1分切ったら坂の真ん中くらいで全員急いで前に出るでしょう」

「となるとインに下手に入るのも危険か……」

 

 予想では絶対3コーナー抜けるあたりからゴチャつくはずだ。坂を上がりながら横を抜き、我も我もときっと前を取ろうとするはずである。何せ3コーナーカーブの中間点以降、全てが登り坂のキングジョージでは距離を稼がせ過ぎてもダメ、配分を間違えてもダメ、という究極のスタミナパワーレースだから。

 

 しかし、それを覆す作戦を私はすでに考えていた――。

 

「それはタイミング次第ですよ。お得意の"アレ"をここでもやってみてはいかがですか?」

「――ああ、なるほど。初心に戻れと言いたいのだね?」

「ええ、そう言う事です」

 

 私とルドルフはニコリと笑い合い。

 そして本題となる作戦を、ルドルフへと提案し始めた――。

 

 

  ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 7月27日 午後15時35分手前頃――

――アスコットレース場 ゲート前――

 

 草の乾く匂いと湿度のない風が容赦なく体力を奪っていく気がした。アイツと私は返しを軽めに終わらせ、互いに離れて木陰の下で涼んでいる。

 

 私が引いたゲート番号は13番。気に入らない事にその外にはアイツがいる。大外を引きやがったのに『どうやら私は大外に愛されてるね』と、枠番のくじ引き会場で余裕をかましやがった。

 

 まあ、挑戦者の私と比べて、前年度覇者かつ、世界一のレースを勝ったアイツからすれば、こんなプレッシャーは前菜程度なんだろうけど。

 

 更に理解できないのはチーム戦を放棄し、お互いに日本からの代表同士として戦おうと言い始めた事だ。

 

 どういう風の吹きまわしか、アイツは『君と対等にレースがしたい』と言って来た。その一言を聞いた時にどこが対等なんだよと言いたくなった。ずっとずっと、私の前ばかりを走ってきたのはお前だろ!

 

 その差が分からないほど――私は愚かではない!!

 

 だが、だからといって、レースを負けるつもりで走りたくない――!

 

 

 ここで勝って、ずっとお前に憧れ続けていた自分を断ち切ってしまいたい。そう思っているから。

 

 

 余裕をぶってるアイツはずっとスタンドのほうを向いていた。良く見えるウマ娘の目でスタンド側をみると、祈るような表情でお嬢様がルドルフの方を見ていた。

 

 去年レース後にルドルフが倒れた事もあって、きっと心配しているんだろう。史上最強の頭脳を持つ半人半バとバケモノ皇帝コンビとだけあって、意見衝突しつつも気が合うのだろう。いつも仲睦まじく熱い事だ。

 

 自分のトレーナーはというと、こちらをじっと変わらぬポーカーフェイスで、その隣から私を見つめている。

 ハナはあまり表情を出さないが、きっと大舞台で不安なんだろうな。眉間にしわが寄ってる。トレーナーは不器用な性格で損ばかりしてる気がする。もっと素直になればいいのになとも思う事がある。

 

"――あのお調子者でも傍に居れば、少しは気が紛れるんだろうけどな――"

 

 ウマ娘の脚を断りもなしにチェックしては、蹴り飛ばされるあの男性トレーナー。アイツは奇行が目立つが、ハナはアイツと話すと楽しそうというか、リラックスした表情をしている時が多い気がしていた。きっと腹を割って話せる仲なんだろう。

 

 日陰に居る私とは違い、ゲートに先に入ったウマ娘達はちょっと蒸し暑そうにしている。

 

 そして、『じゃあお先に!』といってベストプリンセスがルドルフに声をかけてゲートに入り。ファインドレインボウが『今日は先着させてもらうからな?』といってルドルフを(あお)ってからゲートへ。フラウラロードは『ジャパンカップ以来のレースだね、楽しみにしてるよ!』と、ルドルフに話しかけてから通り過ぎていく。

 

 彼女たちは今まで戦ってきたルドルフの欧州戦線上のライバルたちだ。

 それにひとりひとり返事をし、ルドルフは次第に集中している様子を見せている。そして、私の方に顔を向けた。

 

「シリウス。子供の時以来のレースだ。気楽にではなく、――本気で今日はやろうか」

 

 いつもの気楽にやろうという言葉ではなく、"ルドルフ"の表情は真剣だった。

 

「――ぶっ潰してやるからな」

「そうこないとね。私も全力で勝たせてもらうよ」

「もう勝者気取りかよ――」

 

 ああ、やっぱりいつものアイツだった。キザで余裕ぶってて本当に鼻持ちならない。そして、少しだけ喜んでる幼い時の思い出に引っ張られてる自分にも腹が立つ。

 

 先に私がゲートインし、ルドルフがゆっくりと左隣に入っていく。

 そしてゲート内でおしゃべりしていたライバルたちがお互いに言葉を交わすのをやめ、静まり返る。

 

 辺りには大外奥、外周に広がる森の木々の木の葉がすれる音が響く。群衆も日本とは違い黙ってこちらを見守っている。そして、乾いた草の匂いの他、3コーナー内側の池から水辺独特の香りも立ち上ってくるのが分かる。

 

 片足を引き、スタート体勢を取る――。

 

 聞き慣れない河口域英語まじりのアナウンスに注力しつつ、目の前のゲートへ意識を集中させる――。

 

 ――!

 

 金属音が響きゲートが開いた! 蹄鉄を乾いた地面にたたきつける音が一斉に響き渡る!

 最初にハナを取ったのは恐らくペリドットその差をグイグイと引き離していく。

 

 同じチームで来ている『ファインドレインボウに有利な、最終直線でのバテバテの団子状態を狙ってそういった行動をするだろう』そうあのお嬢様が言っていたが、まさにその通りになっている。

 

 その次に2バ身~3バ身と引き離されながら2番手には、Advocatus(アドボカトゥス)が一番内側に。その外にPawn(ポーン)。さらにその外にTwelve and one(トゥエルブエンドワン)の3名が、外に行くほど頭差くらいの差で追いながら、並んで壁になっている。

 

 前方ペースが早いと判断した連中が中団以下でしり込みをしている。残り10ハロン地点を通過しバ群は縦長になった。

 が、ルドルフはマイペースに走りバ群の真ん中あたりの、誰も居ない走りやすい位置に内ラチ沿いに陣取っている。その後ろに私はピタリとついていく。

 

 後方待機も考えたが、それは前日ミーティングでお嬢様とトレーナー両方に強く止められた。今回はペースが早いなら差し先行でいくのがいいだろうと。夢でも確かそれでバ群に()まれ、酷い目に遭ったので今回はルドルフを先に行かせ、垂れウマ対策ですこし外を通る――。

 

 

        |(GOAL↑)

   ペリドット|

        |

        |

        |

     ポーン|(4バ身)

   ベストプリ|(5バ身)

        |

        |

    ルドルフ|(8.5バ身)

   シリウス |(9バ身)

   トゥエルブ|(9.5バ身)

        |

横2~3列のバ群|(11バ身)

    中略  |(この辺ごちゃってる)

     最後方 (13バ身くらい?)

 


 解説ゲスト:マルゼンスキーさんより

 うーん! 結構かっ飛ばしてるわね! 人気のファインドレインボウと樫の女王Celeritas(ケレリタース)は後ろ過ぎない位置に居て前が潰れるのを待ってるわね。良い位置に居るからスウィンリーボトム――テンの800m(スタートから800m)からテンの1000m(スタートから1000m)にあたる3コーナーを抜け、登り坂の真ん中から4コーナーこと、最終直線手前のコーナーまでに、一気に位置取りに来るつもりなんじゃないかしら?

 

 さて、コースについてのおさらいよ!

 アスコットとは路盤の土壌が石灰質で、乾くと硬いからあんまり飛ばすと脚によくないの。

 かといって湿ると日本の芝よりも芝の葉が広いから滑るし、日本のより掘り返されやすい。うっかり顔面に剥がれた芝が直撃しないように注意が必要だわ。

 そして必ず、欧州のレースではペースをコントロールするラビットが居る。だからスローにはなり辛く、スローになる時は全員が単に苦しいだけ。だから日本のスロー展開と同じ戦法が通用するわけじゃないわ。

 

 ヨーロッパはタフネスがありパワーがあり、それでいてスピードもある。そんなウマ娘が勝者に選ばれるの。

 

 特にこのアスコットのキングジョージは、スタミナや悪路への走行性、勝負根性を試される。

 まあ、今日の路盤的にはルドルフやシリウスがちょっと心配。けど、日本から挑戦する娘達にはチャンスがあるって意味で、チョベリグなんじゃないかしら?

 

 さあ、レースの観戦に戻りましょうよ!

 


 

 おにぎり型コースの頂点。3コーナーのスウィンリーボトム部分に入り、足元が下りから水平になった。後ろの気配が狭まってくる気配はないが、ルドルフは下りの勢いを殺さずに綺麗に曲がっていく。

 

 コーナーの真ん中あたり、テンの1000mは57秒! 60秒を切っていた!

 

"――はぁ?! あのラビットどんだけ飛ばすんだよふざけんな!――"

 

 わかっていたとはいえ今回ラビットが作ったペースは腹が立つレベルだ。内心『ふざけんな! サシで勝負しろ!』とブチ切れたくもなる。

 こんな状況なのに周りはまだ焦って前を取りに行かない。ルドルフもじっと同じペースを守って走っている。

 

 3コーナーの内ラチ側の池を右手にバ群は縦長のまま、カーブを抜け切り視界がぐるりと回り直線を向く。目の前に4コーナーまで続く直線かつキツイ登り坂が約600mが広がっている。

 

 

 

 芝がはがれにくいだけマシだが、足元は相変わらず左右にも斜めっていて、悪くてイライラするが耐えるしかない――!

 

 登り坂に入って1ハロン、200mくらい。スタートから1200mを通過したところだろうか? 3番手を走っていたベストプリンセスが日本でいう『無理~!』にあたるような雰囲気の言葉を発しながら内ラチ沿いに垂れていった。

 先頭のペリドットはまだ5バ身程のリードを保ち、ポーンもそれに2バ身後ろから付いて行っている。

 

 そして坂の真ん中テンから1400mを越えたあたりで、ルドルフが位置取りに動いたので合わせてついていく。

 

 

 しかし――!

 

         |(GOAL↑)

    ペリドット|

         |

         |

      ポーン|(3バ身)

         |

    ルドルフ |(4バ身)

    シリウス |(直後)

レイン・ケレリタ |(4.5バ身)

横2~3列のバ群 |(5バ身)

 

 

 私の横からケレリタース、その外からレインボウが一気に上がってきた!

 

         |(GOAL↑)

    ペリドット|

         |

         |

      ポーン|(3バ身)

レイン・ケレリタ |(ルドルフの少し前外)

    ルドルフ |(4バ身)

    シリウス |(直後)

 横2~3列のバ群|(4.5バ身)

 

 しかし、あの前を譲る気なんて全くない。レース中は天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)なあの皇帝サマは、ふたりにあっさりと前を許した。しかも、その口元は抜かれた後笑ってやがった!

 

"――絶対何かたくらんでやがる! ――"

 

 そうは思うが考えている余裕もないほど、自身のスタミナと脚が悲鳴を上げている!

 あのお嬢様に靴を開発してもらえなかったら、ここまで持つか怪しいラインだった!

 

 400mある最終直線手前の4コーナーで一体どうする気だろうか?!

 

 とりあえずじっとルドルフの直後に張り付いて、アイツのコース取りを私はそっくりそのまま真似させてもらう事にした。

 

  ◇  ◆  ◇

 

 ――数秒時はさかのぼって……。

 

――20××年+2 7月27日 午後15時36分頃――

――アスコットレース場 4コーナー手前――

 

 

 ここまでうまく行くと笑いが止まらない。

 思わずウッカリ口元にそんな本音が出てしまった。

 

 その所為かちらりと伺ったシリウスの様子は私の考えに感づいてしまったようだ。まるで私の影のごとくピタリと張り付いている。

 

 ここでポーンが力尽きて内ラチ沿いに垂れていき、続いてレインボウのラビット、ペリドットも沈んでいった。

 1000mを57秒台で走るいい脚で、ほぼ坂上までハナを切り続けたペリドットがラビットでは勿体ないと私は感じた。

 彼女がラビットを担当するという事実、それはヨーロッパは選手層が厚く厳しいという現実を示している。

 

"――1000m57秒台のペースのバテ試合。ならば!――"

 

 ここのコースは坂があるだけでなく内と外で傾いている箇所(かしょ)まである。

 最後の直線、正面を完全に向ききった約400mでは外ラチ側が持ち上がっている。よって内側の方が走りやすい。

 

 そんな所に猛スピードで突っ込んでいく先頭集団のコース取りが、一体どうなるかは察しがつく。

 

 そして左手外ラチ奥の森林は途切れ4コーナーへ突入した!

 

 湧き立つスタンド、私が来ないと見てイケると思ったウマ娘たちの高揚感が伝わってくる――!

 

    ケレリタ |(GOAL↑)

レインボウ    |(2バ身)

     ルドルフ|(3バ身)

    シリウス |(以下直後)

    ペリドット|(内沿いに垂れ中)

団子状態のバ群  |(4バ身)

 

 

"――さあ、無敗の女王。私と真っ向勝負と行こうじゃないか!――"

 

 樫の女王ケレリタースが先頭で大きく外へ広がり、その半バ身後ろを勢いにふらつきながらファインドレインボウがこれがまた広がる。

 

 そして、内ラチとケレリタースの間に、

 

  3名ほど並んでも余裕で通れるスペースが大きく開いた――!

 

 SpeedStar(スポーツカー)のドリフト走行のように、自身の最大の長所である小回りの利く足元で、ありったけのパワーを込めてその合間を貫く!

 

 轟々(ごうごう)と雪崩落ちる大瀑布(だいばくふ)のような音を響かせ興奮する観衆。その中心に居るのは私だ――!

 

 想定外のインを突かれ驚いた顔のケレリタースと視線がかち合うも、すぐに前を向いた!

 

 残り200!

 

 全身全霊で駆け抜ける中、内ラチ沿い右視界に一陣の風をまとった1匹の大きなワタリガラスが飛んでいき、漆黒の羽を陽光に輝かせ先にゴール板の方へと飛び上空へと上昇していった。

 

 まるで私の道を示すかのように――。

 

 チリチリとした感覚が全身を駆け巡り、紫電が視界の周りを(おお)う様な錯覚(さっかく)を受けはじめた。そして左外にはケレリタ―スが喰らい付き、その外からはファインドレインボウが、さらにその外からも誰かが来るのが見える!

 

 ゴールの向こうだけを見つめ私は両脚のストライドを適切な大きさまで伸ばし、一気にピッチを上げた!

 

 まずすぐ横のケレリタ―スを半バ身かわし、そして大外から来た茶色い勝負服のMichigan(ミシガン)と競り合いもつれ合う。

 

 シニアになり体力的に余裕はあるが苦しものは苦しい!

 

 

 だがここで心が折れたら負ける!

 

   歯を食いしばり、必死で脚を動かし坂の向こうのゴールの向こうのみ!

 

 

 

     栄光のみを目指し駆け抜けた――!

 

 

 

 

 

 観衆の興奮がピークに達してから、自分がゴール板を越えた事に気付いた。

 掲示板にはまだ順位が載っておらず――。

 

 前年程のふら付きはないが、それでも息切れが激しい。

 クラシック級で出ていた5名の娘達や、後からゴールしてきたウマ娘達が去年のようにそこらに転がっている。

 この時期の風物詩とまで言われるこの凄惨(せいさん)な光景にも、二度目なので驚かない。

 最後に争ったファインドレインボウも自分のトレーナーから水分を受け取って、タオルを被って日差しをよけている。

 

 ふとその顔がどこかで見た覚えがあるような気がした――。

 

 確か学園に居る――サクラロー……。

 

「ルドルフ! 大丈夫だった!?」

「――ああ、 ギリギリだが、今年は去年よりマシだよ。ありがとう」

 

 その声の主はトレーナー君だった。いつの間にかスタンドの(さく)を飛び超えてきたようだ。

 彼女が持ってきたタオルをお礼を言って貰い汗を拭き、検査前の飲んでも大丈夫な水を飲ませてもらったあたりで観衆の声に気付き振り向く。

 

「うわっ!? なんてタイムなの……!」

 

 トレーナー君が両手を口に当て真っ青な顔で掲示板を見つめ、スタンドは大いに盛り上がっていた。

 それもそのはず。タイムが出にくいアスコットで、"Race of the Centur"(世紀のレース)の2分26秒98に次ぐ2番目のタイムがアタマ差だった1位2位ともに出たからだ。去年ファシオと繰り広げ、そのレースに匹敵する名レースだと称されたのも今では懐かしい。

 

 そして、その伝説にもう少しで手が届きそうだという事に、私は手が震えた。

 

「おめでとうルドルフ! だけど! これちょっと今日はふたり共ガッツリ手入れしないと後々ヤバそうですね……!」

「ははは、まあ君の腕なら私の脚も大丈夫さ。夏は全休して凱旋門直行コースの予定だろう? さあ、2連覇となった表彰式へいこうか? トレーナー君」

 

 トレーナー君の手を片手で取り、寄ってきたスタッフに片手にまとめて置いたボトルとタオルを渡した。表彰会場へと向かった――。

 

 

  ◇  ◇  ◆

 

――20××年+2 7月28日 午後20時――

――ロンドン某所 中華レストラン――

 

 あの後の2人のケアは地獄そのもの。どこもかしこもボッコボコだったから、色々と大変だった。

 ウイニングライブも無事成功して、シリウスも掲示板入り。連日英国のメディアは私たちの戦果に対する話題で持ちきり。

 

 それで今日はルドルフの祝勝会兼日本チームの慰労会となり、『中華といえば横浜や長崎だが、ここも美味しいと祖父と両親に聞いているから楽しみだ』というルドルフの希望でロンドン市内のあるお店に来ていた。そこはウィンダズム劇場に近いこのお店。予約でウッカリ私の名前を出してしまったせいで貸し切りとなってしまった。

 

 偉いのはお養父様なんだけど、他の人から見たら私はその虎の子のようなものだった。そのせいで、さっきからお店の人が全員緊張してしまっている。なんだか申し訳ない気分だ。

 

「皇帝サマの戦勝祝いとか気に入らねぇ」

「私の事が気に入らないのによくついてきたね?」

「ンなもん聞くなよ。そりゃ御馳走(ごちそう)食べ放題って聞いて行かないわけねぇだろ」

「そうかい。今回は君の慰労会(いろうかい)でもあるんだから、楽しんでいこうじゃないか」

「けっ、仕切りやがって。次は()え面かかせてやるから覚悟しとけ」

「ははは、君との次のレースが楽しみだよ。そのためにもしっかり食べなければね」

 

 メニュー表を見ながらいつも通りルドルフとシリウスは小競り合いをしている。この旅を経てふたりが軽口を叩き合うくらいの関係になってくれたようだ。以前のような水と油レベルの言い争いはほとんど起きなくなり、私も東条先輩も安心できるようになった。

 

 ほっこりした気分でそれを眺めていると、ふとシリウスがこちらを見てすごく悪い笑顔を浮かべた。

 

「そうだな。――ならお嬢サマのトレセンの給料吹き飛ばすつもりで食べさせて貰おう」

「ええ!?」

「先着もしくは勝った方が(おご)るルールだろ? 覚悟しとけ」

「その意気だね。では私も遠慮なく」

 

 なんだか八つ当たりされた感がある。

 別にトレセンからの給料を全額吹き飛ばされても大丈夫ではあるんだけれど……。

 

"――なんだろう、仲良くなったのはいいんだけど――"

 

 最近私に対してふたり共全く遠慮がなくなった。

 このままだと教職としての、トレーナーの立場が! と思い悩みそうになる。しかし、このふたりから主導権を握るのはまず無理な気がしたので諦めることにした。

 

「うー。靴の売り上げも順調ですから、好きなだけ食べてください。先輩も遠慮しないでくださいね?」

「ありがとう。未成年の貴女に(おご)らせるのは気が引けるけど……。そうね、今日は自分で運転するわけじゃないし、飲ませてもらうわ」

 

 そうこうしている間にルドルフとシリウスが頼みまくった料理が届いた。

 テーブルの上には豚の角煮やら、大量のアワビの姿煮、真珠とツバメの巣のスープ、北京ダック、飲茶セットなどが大量に並んでいく。

 どうやら学生では普段食べられないものを注文しまくったようだ。

 

 先輩はビール、私たちはニンジンジュースやりんごジュースを注文し、乾杯して宴は始まった。

 

「ふむ。ツバメの巣が意外にも美味しいな」

「それって美容にもいいってやつだろ? 私も追加するか」

「それがいい。きっと君も気に入るよ」

 

 食べ物の事に関しては高確率で意見が一致するらしく、容赦なく注文していくシリウスとルドルフ。

 そして先輩はいい感じに出来上がってきていた。

 上機嫌な先輩は先ほど広報用にSNSへ投稿した内容を開いて確認しているようだったが、途中で顔を(しか)めた。

 

「アイツこういう時だけ連絡早いわ……」

「アイツですか?」

「よく脚触って蹴り上げられるアイツよ。昔から腐れ縁なんだけどほら」

 

 先輩に差し出されたスマホを私が(のぞ)き込むと、そこには祝勝会の様子をあげたウマスタグラムが表示されていた。

 

 そしてそのコメントには……。

 

 『俺の分は?』

 

 と、一番上にかかれたゴールドシップのトレーナーからのコメントと。

 そのコメントにぶら下がるように

 

 『オメーはアタシの焼きそば食っとけ。1皿100万な。お前らお疲れ様! 楽しんで来いよ!』

 

 というゴールドシップのコメントがされていた。

 

「なんていうか、仲がいいですね」

「そうでもないわよ。腕は確かだし、性格もいいし、生徒からの評判もいいんだけど、わたしたちはどこか根本的な所で意見が合わないのよ」

「――それってもしかして」

「ないわよ。いまとんでもないこと考えてたでしょ?」

「そういう関係に見えますもので」

「意外にもマセたこというのね」

「まあ興味がある年頃ですから」

 

 といっても魂の年齢はもうとっくに還暦を越えている。だけれど私の魂が自我として目覚めたのはほんの十数年だろう。なんとも言えない言葉にできない違和感があるが、今はそれをある程度受け入れられている。

 

「さて。今夜は飲むわよー!」

「明日ぶっ倒れないでくださいね」

 

 先輩は空になったジョッキを持ち上げ、店員さんがビールのおかわりを持ってやってくる。

 ふと顔を上げるとルドルフとシリウスが、それぞれ満面の笑みで食事を楽しんでいるのが視界に収まる。

 

 ああ、こんな日もいいなと思いながら夜は更けていった――。




あとがき

 いつも読んでくれてありがとうございます。
 史実IFでも最も重い、実現があり得た回なので物凄く扱いに困りました。

◆史実シリウスシンボリ号との変更点
 シリウスシンボリさんのコース取りを最後方待機ではなく、セオリー通りに中団前目の差しもしくは先行の位置にしました。
 シリウスシンボリさんは不吉な夢に対し、きちんと自分なりに答えを出して、対策が打てる方だと思うのでそうしました。

 これを糧に、シリウスさんは大きく後に成長する。シリーズでは書ききれませんが、彼女はきっと夢を叶えるでしょう。だって夜空で最も輝く1等星なんですから。


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『Wheel of Fortune』運命か、宿命か、必然か、使命か

お待たせしました

ルドルフ視点から始まり

◆◇◇から◇◆◇まではトレーナー君視点

◇◆◇からははルドルフ視点です

それではどうぞ♪


――20××年+2 8月01日 12時――

――合宿所付近の喫茶店――

 

 黒を基調にした和風の喫茶店。合宿所の近くにあるこの店は少し高めの金額設定。しかも、全席個室のため内緒話をするには丁度いい。

 

 すだれ越しの窓の外には鹿威しの竹の音と水音が響く。風に揺れる笹のサラサラとした音だけがこの空間を支配していた。

 

 私はそんな中、アイスコーヒーを片手に報告書に目を通していた。

 

「いつもどーり。会長がいない間もかわりなーし。ヨーソローって感じだったぜ。強いて言うならー……」

「強いて言うなら?」

「テイオーが寂しがってた」

「そうか。彼女にはあとで時間を作っておかなければな」

 

 この報告書をまとめてくれたのは、目の前で赤いシロップのイチゴかき氷を堪能(たんのう)しているゴールドシップだった。彼女は普段学園の事をよく見ているので、前々から仕事としてこれを依頼している。報酬はレーススタンドでのアルバイトの許可書だそうだ。

 

「会長ってホントそういうのマメだよなー」

「ゴールドシップ、君だって気に掛ける子が居ればそうするだろう?」

「そりゃな? アタシには気になるヤツが山ほどいるから、全部回り切るのが大変だけど?」

「意外だな。君にそんなにたくさん気になる相手がいるとは」

 

 ひょうきんな面ばかりが注目されてしまうゴールドシップ。彼女は選手としてみると強く、美しく、そしてどこか孤高そのもの。シービーを思わせる破天荒で豪快な走りとは裏腹に、繊細で優しく、そして王者に相応しい威風を(ただ)わせる事もある。

 

 そんなゴールドシップが気に掛ける相手が沢山いると聞いて、その意外性に耳を疑った。

 思わず書類をテーブルに置き、両耳と顔を前へと向ける。

 

「まあなぁ。自分でもそう思ってるんだ。けど、全員なんかどっかであった事があるような気がしてさ。なんか他人とは思えねぇ。大切な家族みたいな関係だったような、そんな気がしてしまうんだよなぁ……」

「なるほど、それは私がテイオーに感じているものと同じかもな」

「多分なー」

 

 ゴールドシップは目を細めて腕を組んで(うなづ)いた後、スプーンでいちごミルクかき氷に乗っている、アイスをひとすくいして口に含む。すると頭がキーンとしたらしく、両手で自身のコメカミをぐりぐりしている。

 

「うひー頭にくるうう! あ、それと! お嬢様も気になるっちゃ気になるぞ?」

「それはどうして?」

「ああいうお人好し"ニンゲン"は嫌いじゃないからさ。アンタだってそうだろ?」

「――そうだな」

 

 何となく"ニンゲン"とトレーナー君を呼んだ部分に何か含みがあるような気がする。しかし、ゴールドシップのただの気まぐれの可能性もあるので、あえて突っ込まないでおく。

 

「祭りにでも誘ってみたらどうだ? きっとお嬢様も喜ぶとおもうぞ」

「ふむ。誘ってみたいが、今年も目いっぱい生徒会の仕事がある。どうしたものか……」

 

 腕を組んで考え込むと、意外な言葉が目の前から降ってきた。

 

「……ふーん。じゃ、アタシが手伝う」

「できるのか?」

「ゴルシちゃんは万能なんですのよぉ~。どーせそうなると、テイオーあたりも引っ付いてくだろうしさ。一緒に連れて行けばいいじゃん?」

 

 こう見えてゴールドシップは学内でも主席クラスの頭脳を持ち、多才な一面を持ち座学はトップクラスの生徒。こんな風に言ってくる場合は任せても大丈夫だろう。私は目の前で快晴の夏空がとても似合う笑顔を浮かべている、ゴールドシップに微笑み返す。

 

「そうだな。ならばお言葉に甘えて、任せても構わないかい?」

「おう! たまには楽しんで来いよ!」

「ありがとう。恩に着る」

 

 そんなこんなでゴールドシップとその後も戯れのような会話を交わした後、お互いアイスコーヒーを飲み終え、かき氷を食べ終えて会合を解散した。

 

 合宿所の生徒会室へ向かう途中、ふと気になったので浜辺近くのダートコースへ向かう。そこにいるはずの新入生の指導をしているトレーナー君の様子を見に行くためだ。

 

 林道を抜け、模擬レースも行えるダートコースへと入る。すると、見慣れた青い輝きをまとう黒髪の持ち主が、髪をポニーテールにしてビキニ姿で激走している――トレーナー君だ。

 一見模擬レースにしてはふざけた格好だが、このままシャワーなり海になり飛び込めば砂が落ちるとのことで、この格好でトレーナー君は走っているらしい。

 

 追いかけられているのはまだ本格化前の生徒達だ。

 

 『何なのこのトレーナー!?』『むりいいいい!』と叫びながら頑張って逃げている。本格化前という条件であれば、砂漠にも適正があるアハルテケの血と能力を受け継いでいるトレーナー君の方が早い。トレーナー君は少なくともGⅡクラスは勝ち抜けるであろうその俊足で、ハンデで付けた2ハロンほどの距離を見る見るうちに縮めて追いかける。

 

「ワオ! レースならワタシもやりマース!」

 

 と、それを面白がって見ていたタイキシャトルがラチを飛び越えコースに乱入!

 

「いやあああ! なんかタイキ先輩まで来たし!」

「えっ?! ちょっ!? タイキ!? これトレーニングなんだけど!?」

「問答無用デース! 久しぶりに勝負ですヨ!」

 

 もう笑ったりパニックになったり(にぎ)やかな様子だった。あまりにもおかしいので思わず私もふふっと笑いがこぼれてしまう。

 

 トレーナー君は後輩たちを残り200mで大外から抜いた。それをさらに外からタイキシャトルが残り50mでかわし1バ身差にてタイキシャトルが1着ゴール。

 

 勝負は決した。

 

 負けはしたがアスリートではない一介の半人半バ(セントウル)がここまで強いのは珍しい。周りはどよめき、後輩たちはキラキラした目でトレーナー君を見つめている。タイキシャトルは満足そうな笑みを浮かべ、へとへとのトレーナー君へと振り返る。

 

「YES! 久しぶりの勝負はワタシの勝ちデスネ!」

「むぅー! 不意打ちとはいえどやはり差を感じますよ! 完敗ですね。――さて、見た所まだ見直す箇所がいくつかありました。とりあえず合宿最後のチーム戦に向けて、皆さんをビシバシ鍛えますからそのつもりでいてくださいね」

 

 前年トレーナー君によって、補講を担当された子達はメキメキと才能を開花させた。その話は実力を目の前で示すことで真実味を得た。これにより中央の厳しさを知り、合宿前は落ち込んでいた子達は瞳を輝かせて喜んで返事をしている。

 

「ワタシも手伝えることがあれば手伝いマスヨ!」

「それはいいんですが、先輩とのトレーニングはどうするんです?」

「もちろんその合間にきマース!」

 

 思いっきり抱き着いてぎゅーっとハグを決めるタイキシャトルと、軽く潰れかけて変な声を上げるトレーナー君。ここまでいつも通りだ。

 

 トレーナー君がちゃんと後輩たちの心を掴めたのを確認し、私は安心して合宿所の生徒会室へと足を向ける――。

 

 砂浜沿いの道路を歩き、日差しに目を細めながら進んでいると――。

 

『カイチョー!』

 

 今度は後ろからスク水姿にバケツを持ったテイオーと、同じ格好のマヤノトップガンがこちらへ走ってきた。立ち止まって振り返ると、テイオーはバケツの中身を私に自慢してくる。

 

「こんにちは会長さん!」

「やあ。こんにちは。ふたりは何をしてきたんだい?」

「今日はお休みだから潮干狩りだよ! みてみて! こんなに取れたんだよ!」

 

 バケツの中身には半分くらいの高さまでアサリが入っていた。

 

「折角だからこれ、カイチョーも後で一緒に食べようよ!」

「ふふ。気持ちが掛かり気味だよ? 今日中だと砂が吐き切れてないだろう?」

「ああー! そうじゃん!」

「焦らなくても会長は逃げないから大丈夫だよテイオー?」

「うー! わかってるよー!」

 

 きっとテイオーは私の為に掘ってくれたのだろう。その心遣いが何よりうれしいのと、マヤノとテイオーの子供らしいふたりのやり取りにわたしはとても温かい気持ちになった。

 

「あはは! そうだな。マヤノの言う通りだよ? 何事にも塞翁がウマ娘。急がば回れだ。砂の出し方はふたり共わかるかい?」

「うん。調べてるから大丈夫だよ!」

 

 その後ふたりと軽く会話をしながら寮に戻り、生徒会の仕事をこなし、終えるころにはとうに日が暮れていた。宿舎内にはジャージにTシャツ姿の生徒や、館内着の浴衣に着替えたトレーナー達が見受けられ。窓の外からは虫の声と波の音が響いている。

 

 風呂上がりにお気に入りのダジャレTシャツに、ジャージのズボン姿で自室で(くつろ)いでいたが(のど)が渇いてきた。何か買おうと1Fの広間の自販機へ向かう。すると、自販機付近の窓際のソファーの背に後頭部をあずけ、瞳を閉じうたた寝しているトレーナー君がいた。

 

 浴衣姿に後頭部でシンプルにまとめた髪型。そして顔はすっぴんにリップクリームだけで、きちんとメイクしている時の、パリッとした印象はない。その整った顔は普段よりずっとより幼く見える。手にはタブレットを握っているが落ちかけているので、危ないからそれをまず回収して目の前のテーブルに置いた。トレーナー君はヨーロッパ遠征での緊張感も抜け、どうやらお疲れのようだ。

 

 ここは起こさないでおくのが良いのだろう。

 

 ――が、ふと私のイタズラ心に火が付いた。

 

 そっと自販機で自分用にコーヒー牛乳。そしてトレーナー君用にいちごミルクを買う。

 私はいったん自分の缶ジュースをジャージのポケットに入れ――。

 

 ぴたりといちごミルクをトレーナー君の額に当てる。

 

 するとビクリと両肩を跳ねさせ瞳を開く。トレーナー君は何事かとキョロキョロと周りを見渡した後、私の顔を見た。

 

「びっくりしたー! ってルドルフがやったの!?」

「随分起こし甲斐がありそうな姿をしていたからね。あんな格好では風邪を引いてしまうよ?」

「うう。まあだらしない姿をさらし続けるのもよくないですしね。ありがとうございます」

「というのは建前で、ちょっとイタズラをしてみたかったんだよ」

「えええ?! そんな理不尽な……。もう少し労わって下さいよ」

「ふふ、すまないね。お詫びとしてこれを受け取って許してくれ」

 

 ウサギに例えるならぷーぷー鳴いて怒ってるような、そんな表情で頬を膨らませている。

 いちごミルクの缶をトレーナー君目の前のテーブルへ置いて、トレーナー君の隣に座る。トレーナー君は渋々『何だか理不尽な気がしますが、いただきます』といってそれを受け取った。

 

「キングジョージ2連覇。次は凱旋門賞2連覇か……」

「プレッシャーかい?」

「そりゃそうですよ」

「私がいてもか? キングジョージ連覇と凱旋門で昨年勝利を飾った私を担当してもなお、不安というのは随分(ずいぶん)贅沢(ぜいたく)な悩みだね?」

「それなら猶更だよ。――選手にとってレースは一度しかない。次が巡ってくるとは限らないから」

 

 トレーナー君はいちごミルクの缶を開き、それを一気に飲み干した。私も開けたコーヒー牛乳を1口飲む。

 

「言い方が悪いけど私達トレーナー側は巡り合う選手次第で2度目がある。私はそれに甘えたくないんですよ」

「なるほど。君は相変わらず責任感が強いね」

「そりゃそうですよ。選手の命預かってるんですから」

 

 ため息をはいて目をつぶったままゆっくりと上を向くトレーナー君。

 

「――もう、宝塚の時みたいに無力だって思いたくない。今必死でもがいてる所なんですよ」

「そうかい? でも、それはひとりで悩まないで欲しい」

 

 額に掛かった髪を払ってやると、トレーナー君のエメラルドをはめ込んだような瞳が開く――。

 そして私の方を向き、彼女の瞳に私の顔が映る。

 

「ひとりで心配ならふたりで頑張ればいい。それでいいじゃないか?」

「――それもそうですね」

「頼れるところは頼ってくれ。私も君も少しずつ大人に近づいてきているのだから」

 

 そっとトレーナー君のダークサファイアのような黒髪をひと房片手に通す。頑固で甘え下手なのはお互い様だが、言いたいことは言わせてもらう。そうしないとトレーナー君は、どこまでもひとりで駆けていってしまうから。

 

「という訳で、君に時間を貰いたい」

「時間を? ですか?」

「ああ。来週にお祭りがあるだろう? 今年は助太刀があって時間が取れたんだ。一緒に回ってくれないかい?」

「それは嬉しいけど、もうひとり誘った方が良いんじゃないでしょうか? ずっと構ってあげなかったのもあって、きっと()ねちゃいますよ?」

「そうだな。――テイオーも誘おうと思うがいいかい?」

「想定内なので問題ないです」

 

 その後軽い雑談をしたのち、我々はそれぞれの部屋へと戻った――。

 

 ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 8月11日 午後19時――

――合宿所の和室――

 

 更衣室として合宿所の和室を貸し切ったルドルフは、ここで待っているようLEADで伝えてきた。そして先程生徒会のほうを片付けてきた彼女は、先に浴衣に着替えており、たとう紙に包んだあるものを私に差し出した。

 

 中にあったのは上品なデザインの浴衣だった。

 

 ルドルフは前々から私を連れてきたかったらしく、いつの間にか浴衣までレンタルしてくれていたみだいだ。その浴衣は白に朱い金魚の柄がプリントされ、金魚のひれを思わせるデザインの帯は赤。

 

 それらをルドルフは手早く私に着付けてくれた。

 髪飾りも樹脂とワイヤーで出来たガラス細工にも似た、透明で繊細な細工の赤い朝顔のかんざし。それを私の髪を弄っていたルドルフが挿してくれて完成だ。

 

「出来たな。うん、よく似合ってる。やはりこの柄を選んで正解だったな」

「なんだか着付けまでしてもらって申し訳ないですね」

「君だっていつも私を手伝ってくれるじゃないか。それのお返しだよ?」

 

 深い緑に白く笹の柄。帯は白でポニーテールにまとめて飾り(ひも)でくくったルドルフは、満足そうに鏡越しに微笑んだ。

 

「ふたりとも! 準備できた?」

 

 白地に青い朝顔柄に、ピンクの帯のトウカイテイオーが、先程まで遊んでいたスマートフォンゲームを切って軽い足取りで近寄ってきた。

 

「ああ。待たせたなテイオー」

「本当に待ったよ! ふたりともずーっとヨーロッパにいたんだもん……。カイチョ―もお姉さんも今日はボクと遊んでね」

 

 嬉しそうにルドルフに抱き着いた後、私の方にも飛びついてくるテイオー。その勢いでふらつくとルドルフが支えてくれた。

 

「ああ、私たちはそのつもりだよ? さあ、片づけたら行こうか」

 

 浴衣を片付け終わった後、祭りの会場に着くとそこは本当に美しかった。仕事であまり見に来ることはできなかったが、濃紺(のうこん)に染まる空を見上げれば朱い提灯の明かりがコントラストを織り成す。

 

 周りを見れば(にぎ)やかに行き交う通行者たち。

 

 ――本で見た、映像だけで見た憧れの光景だった。

 

 正月の風景とはまた違う、かつての私の世界の過去に似た景色が広がっていた。

 それだけで何だか胸が熱くなり、思わず色々な感情が込み上げ、立ち止まってしまう――。

 

「……? どうしたんだいトレーナー君?」

「――! あ、いえ。なんでもないです。ただ、綺麗だなと」

「ふふ、いつもの感動かな? そんなに喜んでくれて嬉しいよ。ただ、はぐれないようにだけ注意したまえよ?」

 

 そういって左手を差し出してくれるルドルフ。彼女の手に右手を伸ばしそっとつなぐ。

 

「ねぇねぇ! これやろうよ!」

 

 いつの間にかやりたいものを見つけにいっていたテイオーが、ルドルフと私の元へ戻ってくる。

 

「ああ、射的か。懐かしいな」

「カイチョ―は得意なの?」

「そうだな。よし、やろうか」

「折角だからふたりが遊んでいるところ、写真に撮りましょうか?」

「いいの!? わーい!」

 

 実の所射的というか、銃の扱いが壊滅的なのがバレるのが嫌でこそっと撮影に回る。

 まあ、そもそも生徒同士仲良く遊んでいるのだから、私はちょっと引いた位置で見守るほうがいいと思う。

 

 景品はとても魅力的だけど――。

 

 的として並んでいるのはお菓子の類で、玉1発分もそこまで高くない。その中には私の好物の"ニンジンサラダ味のポテりこLサイズ引換券10枚つづり"や、よく行く"喫茶チェーン店のチケット"まであった。

 

 それに見とれている間に、どうやらテイオーとルドルフは獲得した景品数で勝負することにしたらしい。

 

 しかし、何故だかやたらと狙いが被っている。そんなハプニングもありながらも、勝負はテイオーがふたつ、ルドルフが3つ取って勝った。

 

 そして、射的に夢中になって生き生きとしたふたりの写真が取れた。勝負事となると本当にいい表情が撮れるなと思いながら、ふたりを追加したLEADのルームへ送信する。

 

 大人な態度なのに勝負事となると、ルドルフは何だかんだ本気を出してる。そんな所がやっぱり年相応で面白いなと思ってほのぼのした表情でふたりを見つめていると――。

 

「はい! これお姉さんのために取ったんだよ!」

「おっと、同じことをしているとは――? どうりでテイオーと狙いの景品がやたらと被る訳か」

 

 テイオーは"ニンジンサラダ味のポテりこLサイズ引換券"を――。

 

「これは私からだよ」

 

 ルドルフからは"喫茶チェーン店のチケット"を貰った。

 

「貰っていいの? 折角取ったのに」

「気にしないでもらってくれ」

「そうだよ! っていうかお姉さんもやればいいんだよ!」

「え」

「そうだな。君もやってみないかい?」

「えっと――折角生徒さん同士で遊んでいるしそのー……」

 

 視線を泳がせその場を逃げようとした瞬間、ふたりの目がキランと光った気がした。

 

「ほう? その反応から察するに何か隠しているね?」

「ふーん……。はい、お姉さんの分だよ? 何事もチャレンジが大事ってボクに言うよね?」

 

 と、目の前にコルク弾と空気銃をいたずらっぽく笑うテイオーから差し出される。

 

「そ、そうですね!」

 

 といってやってみるものの、5発のコルク弾はすべて明後日の方角へ飛んでいく。どこからか護衛の担当者が『お嬢様……おいたわしや……』と嘆く声まで聞こえ、弾の入った皿は空っぽになった。

 射的、射撃はダンスに続いて私の苦手な分野その2だ――。あだ名が弓の名手ケイローンなのに的当てがド下手糞。笑えない不器用っぷりである。

 

「これは教え甲斐があるね。さて、どこから直そうかな?」

「がんばれーお姉さん! はいカイチョー追加の弾」

「ありがとうテイオー」

「え? 続行するの!?」

「勿論だ。さあ、トレーナー君まずは構えからだ」

 

 とても教え甲斐がありそうだとワクワクするルドルフと、応援モードのテイオーはニコニコして『今度はボクが撮るね!』といってスマホを構えた。

 

 そして満身創痍だがルドルフの指導の甲斐あって。追加20発目でやっと当てられた。しかし、当て方がちょっと不思議でシークレットと書かれた的に当たって跳弾し、もうひとつのシークレットの的をダブルで落とすという離れ業を起こした。

 

 なお、弾代を生徒に出させるわけにはいかないので、最初の分も含めきちんと店主とテイオーへ支払っている。

 店主は苦笑いしながら『おめでとう』といって、本来ならひとつだけのところふたつ渡してくれた。

 

 シークレット景品の内容は

 

「ええええ!? こんな景品だったら狙ったのに!」

「あははっ! これは驚いたな!」

 

 シークレット景品1はルドルフのヌイグルミで、その2は入学前のリーグシリーズのトウカイテイオーのぬいぐるみだった。

 

「じゃあこれは――」

 

 私はルドルフにテイオーのぬいぐるみ。そしてテイオーにルドルフのヌイグルミを渡した。

 

「え!? いいの!? カイチョーの最新ぬいぐるみなのに!」

「おや? 君のはじめての戦利品だろ? いいのかい?」

「先ほど頂いたので、お返しですよ」

「わーい!」

 

 その後も私たちは色々と楽しんだ後、満足したテイオーはマヤノを見つけて同級生と遊び始めた。

 

 遊び疲れた私はその様子を眺めながら、少し離れた芝生で覆われた土手の上に座ってその様子を眺めていた。するとルドルフが隣に来て、ゆっくりと座った。

 彼女の手には露店の袋がふたつ――おそらく匂いから焼きそばが入った袋と、音からしてラムネの瓶だろう。

 

「お疲れ様。休憩にいいと思って買ってきたよ」

「ありがとう。お代は――」

「スポンサーとして、既に私個人も色々頂いているから気にしないでくれ」

「では、お言葉に甘えて。頂きます」

「どうぞ。では私も頂こうか」

 

 ラムネを受け取り左側に置き、右側に座るルドルフから焼きそばを受け取る。

 

 ふたりでのんびり食べていると、遠くではゴールドシップが『アタシが今日の1日生徒会長だー!』とやいのやいのと何やら祭りを盛り上げている。

 会場で何度か見かけたが、やはりやればできる子なのかちゃんと仕事をこなしていたようだ。

 

 

 すると――。

 

「ぬいぐるみは良かったのかい?」

「え?」

「君は欲しくないのかなと。欲しいなら君の分を後日用意させるよ?」

 

 ふと隣のルドルフが声をかけてきた。

 

 どうやらルドルフは、私がテイオーに射的の景品を譲った事を、気にしてくれていたようだ。でも、私は別にまったく気にしていなかった。なのでそっと首を振る

 

「その必要ないよ」

「どうして?」

 

 ちょっとだけ不安そうに眉をハの字にしたルドルフ。私がグッズを欲しがらないのを、ちょっとがっかりしてるのかもしれない。

 

 でもそれには、ちゃんとした理由があるからわたしはそっとルドルフに微笑み伝える。

 

「目の前にいつも本物がいるでしょう? ルドルフ本人が」

「おっと? ふふっ、君は本当に不意打ちで嬉しい事を言ってくれるね」

 

 そうしてまた沈黙が流れる――。

 

「こうやって、穏やかな時間が過ごせるのはあとどれくらいだろうね。君も私も……」

 

 ラムネの瓶のビー玉の音を響かせ、そう告げて沈黙を先に破ったのはルドルフだった――。

 

「そうですね――。本心を言えば……大人になるのが、ちょっと怖いですね」

 

 思わず本音がこぼれてしまった。それにルドルフはそっと目を伏せてから、その桃色がかった紫の瞳を開いて、反応してくれた。

 

「確かに。君の場合、背負うものがとてつもなく重いだろう」

「それをいうならルドルフもではありませんか?」

「そうかい? でも、君は何だか私に隠している事も多そうだ。――そう見える」

 

 

 ――図星だ。ルドルフには私がまだ伝えていないことを色々と見抜かれている。

 

 どうしたものかと困っていると、ルドルフは微笑んでからラムネを一口含んで飲みこちらを向いた。カランとまたビー玉の音が響く。

 彼女の瞳に私の困惑した顔が映り込む。

 

「――無理には聞かない。けれど、これだけは覚えていて欲しいんだ。ひとり孤独にその道を歩むくらいなら、誰でもいいから必ず少しずつ頼って欲しい。約束してくれ」

「それくらいなら――」

 

 けれどそれは、必ずは難しいかもしれない。そう思っていると、ルドルフは続けた。

 

「――ふむ。なら破ったらどうするか決めようか」

「え?」

「ダメかい?」

「いや、いいですけど……。それってどういう内容ですか?」

「君がこの約束を破ったら……そうだな。私は実力行使をさせてもらう」

 

 微笑みが消えて顔が本気になってる。あと凄まじい皇帝オーラまで放ってきてる。

 一体何事だ! 何されるんだ私! と、思わずブルリと震えた。

 

「それはどういう意味なんですか?」

 

 そう聞き返すとルドルフは腕を組んで真面目な顔で少し唸る――。

 だが、いたずらっぽい笑顔を浮かべ、ルドルフは私の額をツンとつく。

 

「ふふっ。そこまで怯えなくても大したことじゃない。――いまは内緒だ」

 

 なんだろう。いつもの優しい笑顔に戻ったけど絶対なんか企んでる。

 獅子に首根っこを軽く咥えられたままの、ウサギの気分だ。嫌な予感しかしない。

 

「君が無茶しなければいい話だ。そこまでビクつかないでくれ」

 

 それもそうだ。まあ、心配させるようなことをするのは良くないし、乗っておいて戒めにしておくのも良いだろう。

 

「わかりましたよ。約束します」

「その言葉、しっかり聞いたよ? その無限の記憶の前に忘れたとは言わせない。言葉を違えないでくれたまえ」

 

 最後に物凄い圧のある言葉を掛けられた――。

 

 そして私の返事に満足してニコリと笑ったルドルフからは、皇帝オーラは引っ込んでいつもの雰囲気に戻っていった。一体どうしてそこまで私の事を気にするのか、ちょっと不思議ではある。

 

 まあ、ウマ娘の中には、元の世界の種族とかで括ってみると、どうやら血が近い一族に強く興味を持つ事があるように思えるから、きっとそれだろう。

 

 例えば汗血バの娘がアハルテケの娘に親近感を抱きやすい傾向がある。だからこそ、アハルテケだらけのオルドゥーズ財閥には汗血バの娘がやたらと集まってくる。

 そして両者とも三大女神の内××××××××神に強い関心を抱く。それは前の世界ではこのふたつの種は××××××××とかかわりが深いとされる。

 

 私のアハルテケの半人半バの血が、もしかしたらルドルフをそうさせているのかもしれない。

 

 ってことは、ルドルフは元の世界でいう××××××××の系譜なのだろうか?

 

 ウマ娘の内、恐らくサラブレットにあたる彼女たちは、元居た世界のように三大女神の末裔たちなのだろうか?

 

 それとも――。

 

 思案しているとドーンという音が夜空に響いた。

 

「トレーナー君、何やら考えているようだが、花火の打ち上げが始まったよ?」

 

 私の方を向いてそう促すルドルフの左顔の側面が花火の光に照らされる。私は『ああ、ごめんちょっと考えごとしてました。ありがとうございます』といって花火を見上げる。

 

 夜空に輝く色とりどりの花火。海外でも見たけど、その品質のいい花火の多くはこの国で産まれるという。その光景は美しく見事なものであった。

 

 私のいた世界でもたまには上がっていたが、今目の前に広がる程の活気はもうなかった。衰退していく世界で如何に永らえるか、如何に生きていくか。そんな世の中だったから、私は創られた命となった。

 

 結局その役目は自身のポンコツさと、亡くなった事で果たす事はなかったけれども――。

 

 土手下ではテイオーやマヤノ、あと彼女たちの同級生のマックイーンなどが(たわむ)れながら花火にはしゃいでいる。隣を見れば、そんな姿を見てルドルフは穏やかな表情を浮かべている。

 

 この子達が生きるこの世界を。元居た世界よりもいい世界線で、守り続ける方法はないか――。

 

 ――そう最近は強く思う。

 

 私はポンコツの遺伝子組み換え人類だったけど、それでも記憶倉庫としての機能はある。なのでこのままいけばどうなるか、今この世界が行く先がどういう状況なのかくらいはわかってしまう。

 

 さっきはあんな風に約束したけど、きっとその約束を破ってしまう未来もあるかもしれない。

 

 世界は違ってしまっても、私はやっぱり誰かが幸せでいてくれるのが好き。この世界で"未来を守る"という本来の使命を果たすことがない方がいいのだけど、そうせざるを得ないのならいつかやるしかないと思う。

 

 私には養父のような天才気質はない、ルドルフのような聡明さや勇敢さもない。

 

 けれど私は――いつかそうならなきゃいけない。

 

 記憶の塊でしかない自分にも出来ることがあるのだから。

 

 もう2度と己の無力さに怯えない自分になりたい――。

 

 私の中に強く何かが芽生えると同時に、大空にひときわ大きな花火が上がった。

 

 ◆  ◇  ◇

 

――20××年+2 8月12日 午後20時――

――合宿所の近くの海岸――

 

「ルドルフから連続して私を遊びに誘うなんて珍しいですね」

「それは私だってまだ学生だよ? 同じ年頃の君といれば遊びたくもなるさ」

「それもそうですね。しかし、何でまた釣りなんですか?」

「なに。ゆっくり遊びながら話をするには丁度いいじゃないか?」

 

 今日は生徒会の仕事もない。そのため、以前トレーナー君が釣りも趣味だと知っていたので、誘うとふたつ返事で行くことが決まった。

 しかし、私が遊びに誘ったことを目を丸くしている彼女だが、そんなに意外だったのだろうか?

 

 堤防に座った我々は手元の小さな照明を元に、仕掛けをつけ軽く投げる。

 

 そして互いが糸を垂らしてしばらくしたころだ。私は耳を大きくパタンと動かし考え込む。

 

"――先程のトレーナー君の反応を察するに、私は未だにお堅く見られすぎているのかもしれない――"

 

 以前より自分は丸くなったと思うのだが、トレーナー君からまだそう感じられているのは何となく不服だ。彼女とは友になりたいのだからもっと親しみを持って欲しかった。

 

 考え込んだ末に私は一つのアイデアを閃き、耳を大きくパタンと動かした。

 

"――そうだ! もう少しダジャレを増やしてフランクに接してみた方が良いのだろうか! ――"

 

「今日は沢山釣れるといいですね」

 

 そして丁度チャンスが巡ってきた。すかさず思い付いたダジャレを披露する。

 

「そうだね。ここは"アナ"ゴ釣りの"穴"場だそうだよ」

 

 本日狙うのはアナゴだ。煮アナゴ、白焼き、てんぷら、釣り上げたら何に加工しよう。沢山釣れればそれを全部試すのもアリかもしれない。そんなターゲットとかけて渾身(こんしん)のジョークをぶつける。

 

 トレーナー君はぷっと笑い声を漏らした後。

 

「上手いと思うけど不意打ちでやられちゃったら、海に色々落っことしちゃうわ」

「ふふっ。それもそうだな。ライフジャケットを共に着用して完璧な装備で臨んでいるとはいえ、危ないね」

 

 どうやらウケたようだ。彼女はクスクスと笑っている。

 そして互いにまた海を眺めた。

 

 堤防の先は長潮のためふたりきりしかいない。先に鈴をつけた竿と我々だけだった。

 

 空を見上げれば私の前髪のような三日月が浮かんでおり、澄んだ夜空の中でひときわ輝いている。

 

 しかしそんな中――

 

  ふとトレーナー君を見ると――何故か一瞬別人ように見えた。

 

   それはまるで

 

 いつ時かの音楽準備室の鏡で見たあの女性のような人影だった。

 

 それに驚き瞬くと、それはただの疲れから見えた幻とわかる。瞬きの先には、いつも通りトレーナー君が、月明りに照らされ、穏やかな表情のまま座っているだけだった。

 私の様子に気付いた彼女は目を丸くして首を傾げた。

 

「ルドルフ?」

「ああ、ちょっと目にゴミが入ってね」

「大変じゃない!? ちょっと待って、目薬いりますか?」

「いや、大丈夫だよ」

 

 何故か嘘をついて誤魔化した。あの幻の姿について、トレーナー君に聞いてはいけない。もし聞いてしまえば、昔話の結末のように彼女がいつか私の前を去ってしまう気がしたから。

 

「ところでトレーナー君、海にまつわるホラーな話は嫌いかい?」

「え? ホラーですか?」

 

 こちらの本心への関心を逸らすため話題を振った。

 ブルリと震えるトレーナー君。彼女はその手の話が苦手だ。

 

「なに。そこまで怖い話ではないから恐れるに足らないよ」

「そうなんですか? では、気になるのでお願いします」

 

 トレーナー君は好奇心と恐怖のはざまでそわそわしているが、どうやら好奇心が勝ったようだ。私の方をじっと見つめてくる。

 

「君はスーパーで見たことはないだろうか? 何故だか我々の名がつく魚がいるだろう? ウマヅラハギという魚を」

「ええ。――ひょっとしてオチが"UMA(未確認生物)ヅラハギ"とかじゃないですよね?」

 

 不意打ちのダジャレに思わずこちらが吹き出してしまう。

 まさかそう解釈してくるとは露にも思わなかったから。

 

「はは! UMAなだけにウマいと言いたいが、話の腰を折らないでくれたまえ。この魚ではなくて、実は夜釣りをしていると」

「していると?」

「ウマ娘の顔をした魚が釣れるのだという都市伝説があるのだよ」

「――意外に怖くないですね。それがどうしたんですか?」

 

 ふーん? それで? という顔をしているトレーナー君。意外にもこの話は怖がっていない。

 

「その怪魚が釣れると、髪や尾の毛がハゲるのだそうだよ。そしてその怪魚が言葉を発した場合は――」

「え……場合は?」

 

 ここでちょっとトレーナー君の顔色が変わる。生唾をごくりと飲み込む音がした。きっと怖いのだろう。

 

呪いのこもった言葉を吐き、怪魚は事切れるのだそうだ」

「なんて言うか、不気味な上に後味の悪い話ですね」

「確かに。だが、釣られた怪魚側からすれば迷惑千万この上ないのだろう。呪いのひとつやふたつかけたくなるだろうね」

「うーん、そうかもしれませんね。――あれ?」

 

 トレーナー君の側の竿がしなり、鈴が激しくなり始める。

 

「こんな話の後に来るなんて何だか嫌ですねって重い!?」

「おや、随分大物だね。タモはわたしがやるよ」

 

 ウツボでもかかったのだろうか? アナゴ用にもってきた竿は折れそうなくらい大きくしなっている。

 私は立て掛けておいたタモを持ち、上がってきたそれを海面に差し込んで掬い上げる。

 

 そしてその魚を引き上げるとトレーナー君は――。

 

「ひいっ!?」

「――!?」

 

 トレーナー君が竿を持ったまま小さく悲鳴を上げたので私も覗き込む。その瞬間タモを持つ私の全身の毛が逆立つ感覚を覚えた――!

 

「よおよお! おふたりさんデートかー! アタシも混ぜてくれよー!」

 

 恐怖に固まる我々ふたりの背後から、空気を読まずにゴールドシップがやってきた。

 

「つか今何か釣れただろ!? ――うわっキモッ?! なんだこれ! 都市伝説のウマヅラハギじゃねーか!」

 

 ビチビチと跳ね回るそれは、青い縁取りに緑の大きな丸い内輪のようなヒレ、胴体の下にはカニのような細い脚のようなものが左右に3本ずつ。胴体は赤で、それはまるでホウボウという根魚の胴体だった。

 しかし、頭にはウマ娘の顔というとても気持ち悪い生き物だ。

 

 あまりの不気味さにひいていた私はまず冷静さを取り戻し、早鐘のように打つ心臓を深呼吸で落ち着かせてタモをよく見る。そしてゴールドシップもスマホを構えて覗き込んでいる。この不気味な魚相手にその度胸、実にあっぱれだと思うが今はそれどころじゃない。

 

 

「――これ、ごみじゃね?」

「そのようだな」

 

 釣り針をペンチで外し、ウマ娘のような顔の部分に手を伸ばす。それはゴム製のマスクで、個らが頭にハマって抜けなくなっていただけのようだ。

 

「おーい。お嬢様ー。心臓とまってないかー。ほら息しろしぬぞー! ひっひっふー!」

 

 完全に顔を真っ青にして固まっているトレーナー君の顔の前で、ゴールドシップは手をひらひらさせてから、肩をポンポンと叩いて何故かラマーズ法で呼吸しろと励ましている。多分冗談を言って和ませようとしているのだけど、肝心のトレーナー君はびっくりして放心状態だ。

 

「ちょっとびっくりしすぎたかも――」

 

 やっと呼吸する事を思い出したトレーナー君は、腰を抜かして竿を置いてトスンと座り込んだ。

 

「つか、ゴミごと魚釣っただけで何でそんなにビビってんだ?」

「それは丁度、私たちはウマヅラハギの怪談を話していたばかりでね」

「あー。それでか。タイミングわりぃーな。で、アタシも釣りに混ざっていい? 退屈でさ」

 

 ゴールドシップは目を細めてうんうんと頷いた後、腕を後頭部で組んでニコリと笑って来た。ゴールドシップの背後には本格的な釣り道具一式が揃っている。多趣味なゴールドシップのことだから、釣りも好きなのだろう。

 

「私は構わないよ」

「私も問題ないです」

 

 そう伝えるとゴールドシップはパチンと指を鳴らして頷く。

 

「よっしゃ決まりだな! ふたりがいるの見えたから、ジュース持って来たぞ。飲むかー?」

「それは心遣いありがたい。ぜひ頂くよ。――とその前にこの獲物を〆てしまわないと」

「ああ。それは釣った私がやっておきます。ルドルフのほうの釣り竿が動いたら対処しますね」

「そうかい? 任せるよ」

 

 私はゴールドシップからジュースを受け取りに近づいた――。

 

「ほい会長。おふたりさんにりんごジュースふたつと。あとニンジンサンドイッチ」

「ありがとう。丁度小腹が空いていたから助かるよ。しかし、こんなにいいのか?」

「いいって事よ! 会長とアタシの仲じゃん! 祭りの一日生徒会長めっちゃ楽しかったしさ?」

「なるほど。私も君が手伝ってくれて助かったよ。ありがとう」

 

 ゴールドシップは先日祭りにおける生徒会長代理を引き受け、とても盛り上げてくれた。お陰でトレーナー君と夏祭りを回る事が出来とても感謝している。大胆不敵なこの芦毛のウマ娘は、今では私にとって何でも気軽に話せるいい友だ。特にトレーナー君の事を彼女には相談しやすい。そうすると率直かつ的確な意見をくれるのがありがたい。

 

 

 良きライバルや友、師へ恵まれ、幸せな学生生活を送っている。そんな自身を改めて実感し充実して満足した気分に浸っていると――。

 

 トレーナー君の方から何かが聞こえ、そしてトレーナー君は息を飲んだあと魚を押し込めてバタンとクーラーボックスを閉めた。

 

「――ん? 何か今聞こえなかったか?」

「トレーナー君、何か行ったかい?」

 

 うしろ向きの姿でクーラーボックスの前にしゃがみ、それに手を突くトレーナー君。何やら震えている気がしていたが、彼女はふっと力を抜いた。

 

「あはは、ごめんなさい。小さい虫が顔に飛んできてびっくりしたんですよ。お騒がせしました」

 

 振り返った彼女は前髪を払うと、小さな虫のようなものが羽音を立てて飛び立った。海岸に虫がいるとは珍しい。

 

「――なーんだ。てっきりウマヅラハギにでも呪われたかと思ったぜ」

「そんな事あったら明日お祓いにいかなきゃいけませんね」

「踏んだり蹴ったりだな。ほら。サンドイッチ食って元気出せよ」

「そうだよトレーナー君。食べれば元気が出るかもしれないよ?」

 

 ゴールドシップのくれたサンドイッチをちらつかせると、ぱっとトレーナー君の顔が明るくなった。泣きっ面にハチの状態だった彼女はどうやら機嫌を持ち直したらしい。

 

 こうして私、トレーナー君、ゴールドシップの3名で楽しく話をしながら外出門限時間まで遊んだ。

 釣果は長潮にしてはホウボウ1、大き目のマアナゴ5匹、尺カサゴ3匹と大漁に恵まれ、機嫌よく我々は合宿寮へと戻っていった――。




次回、凱旋門賞前日談

中の人の引っ越し前のためお時間かかるかも。

※物語はついに終盤へ※
赤ん坊のころから莫大な知識を科学文明によってぶちこまれ、
成長が狂い、自分が圧倒的強者とまだ自覚しないチキンハートなトレーナー。

彼女は少しずつ感情や時を取り戻し、ここまで育ってきました。

が、英雄の卵には試練が付き物でトレーナーもまた、いつか英雄になる存在。
そんな彼女は新たなる難題との闘いが幕を開けます!

元の世界では守護者になる予定だったトレーナーは、ついに自らがその座を望み目指しはじめた。
が、そんなトレーナーに個人としての幸せが無くならないか、本気で心配するルドルフ。

彼女たちの運命は如何に!

物語は終盤へと向かっていきます。


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