ウマ娘の某所に載せた短編集 (つみびとのオズ)
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単発型
オグリキャッププリティースケート


オグリキャップと女トレーナーが伝説のスケートをします


 オグリキャップというウマ娘がいた。地方から生まれながらも、中央の強豪をばったばったとなぎ倒し。芦毛の怪物と呼ばれたウマ娘。

 でも、彼女には純朴とした愛らしさもあって。それを知っている数少ないうちの一人に私が入っているというのは、少し嬉しい気もする。

 アイドルウマ娘、オグリキャップ。今日は私と彼女の二人きり。みんなのアイドルを独り占めできる日なのだ。

 私は大した者ではない。ただ、地方からやってきたオグリに道案内をしたりしていたら、そのまま彼女のトレーナーになった。はっきり言って、オグリは私とじゃなくてもここまでやってこれただろう。ライバルとなるタマモクロス、スーパークリーク、イナリワン……彼女たちの存在の方が、オグリの成長には寄与した気すらする。

 

「なあトレーナー、これはなんだ?」

「ああ、これはね……」

 

 じろりじろり。周りからオグリに向けられる視線をうまく遮りながら、彼女にショッピングモールの案内をしてやる。まさにアイドルのマネージャー、といったところだ。

 彼女は眩し過ぎて、周りの注目を集め過ぎてしまう。……それに都会に弱いから、一人で出かけさせるわけにはいかない。彼女を適度に覆う影。それが私に出来る、オグリのためになることだ。

 ……周りのウマ娘とトレーナーの関係を見て、すこし羨ましくなることもある。もちろん、彼女が私を信頼してくれていることは知っているし、私も彼女を信頼している。

 でも、なんとなく。三年間を通じて、私にできたのはごく当たり前のことだけ。体調管理だとか、出走レース決めだとか、道案内だとか。そんな気がしていた。

 

「トレーナー、これはどうだろう」

「これ……はオグリが着けるの?」

 

 白いヘアピン。素敵だけど、オグリの綺麗な芦毛には白と白で被ってしまうんじゃないか。

 

「……いや、タマにプレゼントをと思って」

 

 ああ、そういえば。もう少しで彼女の誕生日か。……いいな、競い合える仲間がたくさんいるのは。

 

「……タマちゃんも芦毛だから、白はどうなんだろう。いや他との組み合わせかなぁ……」

 

 ぶつぶつ。タマモクロスはオグリによくしてくれているウマ娘の一人だ。その誕生日プレゼント。それをオグリは買ってやりたいらしい。……私と二人の日なのに、なんて。

 そんな感傷は、彼女の周りにいるには似合わない。

 

「うーん……」

 

 タマモクロスへのプレゼント選びは難航していた。あれでもない、これでもないと。時間はゆっくり流れていく。

 

「……あれ、オグリンじゃない?」「サインもらえるかなあ」「トレーナーっぽいのが横にいるし、難しいかも……」

 

 聞こえてる聞こえてる。聞こえてるけど無視してやる。今日のオグリはオフの日なのだ。嫌味なトレーナーさんが、今日だけはオグリを独り占めさせてもらおう。

 それでも人混みはだんだん増えてきて。まずい、このままだとプレゼント選びどころじゃなくなってしまう。

 

「……トレーナー」

 

 と、そこで。

 

「少し掴まっててくれ」

 

 よいしょ、とオグリは私を抱きかかえ。

 

「えっちょっ、オグリ……!」

 

 人の合間を瞬く間に、駆け抜けた。

 どくん。どくん。心臓が強く波打つ。こんな速度で走るのは、ウマ娘ならではで。私には見れない景色で。それを初めて体感して……正直生きた心地がしなかった。

 

「……もう大丈夫だ。トレーナー……降りれるか?」

「ごめん、むりぃ……」

 

 へにゃへにゃ。もう少しで腰が抜けるところだった。膝はガクガクだ。

 

「……すまない。でもトレーナーが、周りの目を気にしている気がして……その……」

 

 それはその通りだ。何かがオグリの邪魔になってしまわないか、気遣うのはトレーナーの役目だ。……待てよ。この言い方だと。

「オグリは私を気遣ってくれたの?」

「……そういうことになるな。トレーナーを心配するウマ娘というのは、変だっただろうか」

 

 確かにそうかも。でも、嬉しい。オグリの身体から降りながら、そのしなやかな身体を見つめる。……そうだ。一つ面白いことを思いついた。私にしかできないこと。彼女なら、少し向いているかもしれない。

 

「トレーナー……ここは?」

「スケート場だよ」

「すけーとじょう」

 

 ピンときていない。よし、それなら教えがいがあるというものだ。昔取った杵柄。私が小さい頃少しだけやっていたスポーツ。フィギュアダンスだ。

 

「ウマ娘は……げっ、専用の靴を購入してください……仕方ない、払うか……オグリ、こっち来て。一応靴のサイズを測るよ」

「わかった。……蹄鉄、とは違うみたいだな」

「そ。これはブレードって言って、氷の上を滑るためのもの。まあ靴にも色々種類があるんだけど、これはフィギュアスケート用の靴。はい」

「……いいのか? 買わなければいけないとさっき言っていたが……」

「いいの! 私からのプレゼントと思ってよ。買い物もしばらくできないだろうし、代わりと言っちゃあなんだけど」

「……! ありがとう、トレーナー。大切にする」

 

 耳がぴょこぴょこ。彼女にひとまず喜んでもらえたようで何よりだ。さて。ここからが大事なのだけれど。

 

「じゃあ、靴を持ってコートに行こう! オグリにスケート適性はあるかな〜?」

 

 ないと困るかも。割と。

 アイススケート。氷上を靴に付いたエッジで滑走するスポーツ。ウマ娘と普通のヒトが、『自らの脚で』同じステージに立てる数少ないスポーツの一つ。

 もっとも靴の規定やらなんやらで、それはカジュアルに限られるけど。

 

「……ト、トレーナー! 足が宙に浮いているみたいで、落ち着かない……!」

「大丈夫大丈夫。姿勢はいいよー。そのままいればまず転けることはないね。……手すりから手を離せるか……」

 

 オグリの脚は震えてこそいないものの、動きはまるっきり初心者のそれだった。貸し切り状態のコートに、私と彼女の声がこだまする。

 前オグリから聞いたことがある。彼女は生まれた時、立つことすらままならなかった経験があるという。それなら逆に言えば。スケート靴をいきなり履いても、不安定な足に順応できるんじゃないかと思ったが。

 

「……おー。……おー! トレーナー! 真っ直ぐ動けた、動けたぞ! ……助けてくれトレーナー! 止まらない、止まれない……!」

 

 ……まずまずと言ったところか。つぃーっと滑って行って、オグリの両手をキャッチする。

 

「……すごいな、トレーナーは……」

「昔やってたってだけだよ。オグリの方が、最初の私よりずっと上手い」

「いや、すごい。トレーナーは流石だ」

 

 そんな真顔で褒められると、照れてしまう。

 

「私も昔はさー、スケート選手を目指してたってほどでもないけど、憧れてたの」

 

 ぽつぽつと。自分の過去が口から漏れてしまう。

 

「それでずっとやってたからそこそこ滑れるけど、センスがなくてさ。そこら辺の上手い人、にすらなれなかった」

 

 センス。才能の差。それは残酷だ。

 

「あの頃は上手い人を見て羨ましがったけど、今は違うってわかるよ。上手い人は上手い人で次元の違う努力をしてたんだって」

 

 才ある者が更に血の滲むような努力をして、漸く成果を紡ぎ上げられる。トレーナーの勉強をして、オグリのトレーナーになったおかげで、わかったことだ。

 

「……トレーナー」

 

 ああ、そうか。なんだ、簡単だ。私はオグリのトレーナーになったことで、彼女の努力を確かに支えられた。

 

「……トレーナー。今更言うのも変だが、いつもありがとう」

 

 手を取り合って。氷上にて、オグリと私は二人でバランスを取っていた。今までのように。

 

「私には、カサマツの人たち。タマたちライバル。そしてトレーナー。大切な人がたくさんいる。私にとっては皆が同じくらい大切で、本当に恵まれていると思う」

 

 他にも大切な人がいるから、彼女は強かったのではない。みんな大切だから、彼女は強かったのだ。

 

「けれど……だからこそ。皆に恩返しができるようになりたい。そう思って走ってきた。それはこれからもだ。だからトレーナー」

「……泣かないでほしい。私のそばにいてほしい。一歩引かないでほしい。同じ夢を、見てほしい」

 

 あれっ。私、いつのまにか泣いてたか。目が熱くなっていることに気づく。同じ夢を見る。それは、彼女のそばに立つ私にしかできないことだった。やっと、気づけた。

 向かい合う好敵手。後ろから支えてくれる人たち。そして、そばに立つ私。その全てが、オグリキャップの力になっていた。私が要らない理由など、どこにもなかった。

 

「ありがとう……オグリ。いつも、本当に」

 

 本当にありがとう。あなたのトレーナーで、良かった。

 

「……それはこちらの台詞だったのだが……」

「えへへ、ごめん。……じゃあ、さ」

 

 彼女の柔らかい腰を抱き寄せる。

 

「曲もないけど、一つ。一緒に踊ってくれないかな」

「……出来るだろうか」

 

 彼女の顔はほんのり紅く。大丈夫。君と私なら。

 

「オグリと一緒に。共に歩む。今までだって、ずっとそうしてきたじゃない?」

 

 貴女と共に歩むこと。それが、私にできること。

 

「それでは、よろしく頼む」

「ぷっ! 固い、固いよオグリ!」

 

 白き氷上を、二人。滑走音だけが、コートに響いた。

 

 

「……あ、そうだトレーナー。これを……」

 

 帰り道、そういえばタマちゃんの誕生日プレゼントはどうしよう、などと考えている時だった。不意にオグリが鞄から包み紙を取り出す。

 

「……これは」

「……本当はタマの分だけ買って帰るつもりだったんだが、どうしてもあれが気になって。でも似合わないと言われたし……」

 

 似合わない、ってなんのことだっけ。包み紙を開ける。……中に入っていたのは、白いヘアピン。あの時オグリが目をつけていた物品だ。

 

「それで、あの時こっそり買ってしまったんだ。トレーナーになら、似合うと思って」

「……なにそれ。先に誕生日でもなんでもない人の分を買ってしまって、タマちゃんはどーするのさ」

 

 でも嬉しい。すごく嬉しい。顔がにやけ切ってしまう。

 

「それは……また明日。当日になってしまうが……もう一度トレーナーと一緒に、タマの誕生日プレゼント選びをしたいんだ。……よければ、誕生日会も一緒に」

「……いいの?」

 

 そんなに何度もオグリと出かけて、バチが当たらないだろうか。

 

「……いや待てよ、タマには一応確認を取らないと……いやそもそも誕生日会がサプライズだったような……」

 

 あらあら。この様子だとサポートは必要そうだ。

 

「任せて、オグリ。私がサポートするからには、絶対成功させるから!」

「そう言ってくれるとありがたい……! トレーナーがいれば百人力だ!」

 

 本当に、嬉しそうに笑う娘だ。

「私はオグリのトレーナーだからね!」

 私も、とびっきりの感情を込めて笑った。

 月の出てきた夜の空。闇に照らされた二人の影は。

 一つに、重なった。

 

 

「……というわけでタマ、誕生日おめでとう!」

「なんでウチは誕生日プレゼントにオグリの惚気を聞かされとるんや……」



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マルゼンスキーから逃げるジャラジャラ

モブウマ娘筆頭ジャラジャラがレースから逃げます


 逃げ。その戦場は他のウマ娘とは違うところに存在する。ただ一人、誰もいない景色が目の前に。争うべきは己のペース。機械のように正確に、影すら踏ませぬ異次元の逃亡。先手必勝、たった一度も前を譲らない。

 それが、理想の『逃げ』で。人々はその独壇場に夢を見る。きっとスター性のある逃げとは、鮮やかに引き離し、誰とも競り合わないもので。

 私の逃げとは、まるで違う。私の選ぶ逃げは消極的で、いつも本物の逃げの後塵を拝している。集団が後ろで固まって、誰も出てこないのを祈りながら走り続ける。引き離すことなんて叶わない、先行バに捕まれば競り合いすらなくあっという間に引き離される。

 それでも、それでも。最初に見れる先頭の景色だけは本物で。私は、ジャラジャラというウマ娘は。それを見るために走っているのだ。

 ……ああでも、一度くらい。大舞台のセンター、獲ってみたいな──。

 

 トゥインクル・シリーズ。ウマ娘にとって、最初の三年間。私のやる気はデビュー戦からこっち沈む一方だった。メイクデビュー、初戦も初戦で私は才能の差を思い知らされた。1秒間だけしか、私の逃げは成立しなかった。

 マルゼンスキー。あまりにも速いその紅は、本物の逃げというものを、私に見せつけた。ぐんぐんと差が開いて、開いて、開き続けて。スターウマ娘への道は、いきなり閉ざされてしまったような気がした。

 未勝利戦でなんとか勝ちを拾い、重賞に向けて実績を積み上げた後も。本物の主役と一緒に走る勇気は、まるで湧いてこなかった。

 本物。マルゼンスキーと走って最初にわかったことだ。あれが本物で、私のようなウマ娘とは何もかもが違うのだと。努力しても、しなくても。結果は変わらなくて、努力は無意味で。それをうっすら感じ取りながら、私は未だに"逃げ"続けている。

 

「スプリングステークス、避けちゃったな」

 

 今日はレースの予定だった。だいぶ前、マルゼンスキーが出走するとわかるまでは。トレーナーも了承した。仕方ない、と。そして練習もなく、目的もなく。こうして近くの駅で、電車を眺めている。

 幸い私には大した数のファンもいないので、下手に外を出歩いても騒がれることもない。まったく、本当に幸せ者だ。

 それでも、やはり他のウマ娘を見ると私自身が反応してしまうもので。びくり、と身体が動く。相手が広告なり喋らないなら問題ないんだけど。

 レースから逃げたという事実は、思ったより私にはショックだったのかもしれない。自嘲気味に苦笑する。

 さて、次はどこへ行こうか。学園にでも行こうか。何も考えずに来た電車に乗る。気が向いたら降りればいいか、なんて。そんなふうに、本当に頭を空っぽにしていた私は。

 

「……こんにちは」

 

 車内に入るなり挨拶されて、軽いパニックになった。

 

「あっひゃっはい! ジャラジャラです!」

 

 聞かれてもないのに答えてしまう。前にいたのは、一人のウマ娘。白い毛が綺麗だった。

 

「ジャラジャラさん……よろしく」

 

 その子は寡黙な感じだったが、にも拘わらず話しかけてきたということは何かあるのだろうか。

 

「えっと、何用でしょうか」

「……?」

 

 ピンと来てない。何用って表現変だったかな。

 

「えーと、何か私にご用件でもありましたでしょうか」

 

 これは流石に慇懃無礼かな。わからなくなった。

 

「……いえ〜。ただ、ウマ娘同士だな〜と思ったもので」

 

 そうか、何も理由はないのか。失礼かもしれないけど、なんだかその覇気のなさが親しみやすくてありがたかった。

 

「……お話しませんか?」

「……それなら、次の駅で降りますか」

 よくわからない誘いに乗る。捉え所のない人だ。レースで会ったこともない。でも、他人を知れば自分の糧になるかも知れない。……それであの怪物に勝てるようになるかは、別だけど。

 しばらくするとドアが開いて、私とその子の二人だけが降りる。何も考えずに降りたら、本当に人気のない駅で降りてしまった。

 空を見上げると、少し赤く滲んでいて。なんとなくあのマルゼンスキーのことを思い出した。そしてそのまま、話を振ってしまう。

 

「えっと、マルゼンスキーさんって、知ってますか」

「……知ってますよ」

「実は今日、マルゼンスキーさんの出るレースがあったんです。……それで、私は出走を回避して」

 

 ぽつり、ぽつり。白い子は黙って話を聞いてくれた。

 

「デビュー戦で、マルゼンスキーさんと私、レースしたんですけど。私は大きく逃げようとして。その日までは誰にも一度も抜かれず、そんなウマ娘を夢見てたんです。イメージトレーニングはばっちりだった。でも、結果は。

 勝てなかった。それだけじゃない、私は逃げたなんて言えなかった。ほんの最初の数歩、枠の差を詰められるまでの一瞬だけ、私は先頭で。そこから先は、マルゼンスキーさんがハナをぶっちぎってって」

「強いですよね、マルゼンスキーさん」

 

 そう、でも。それだけじゃなくて。

 

「違うんです。私にはないものが、あの人には何もかも備わってたんです。逃げ足なら負けないって、その時まで私は信じてたんです。でも、でも」

 

 ぽたり、ぽたり。いつのまにか、涙がでてきた。

 

「今はもう、走るのが怖いんです。逃げても、ハナに立っても。あの人の姿が、ずっと視界に入ってる気がして。私は、その影を追いかけることも叶わない。ただ、怯えながらレースをしてるんです」

 

 勝てない。どうやっても、勝てない。そう思ってしまったから。私は勝てなくなっていた。

 

「……そうですか」

「……貴女は、そういうの。ないんですか?」

 

 走っているうちにわかる才能の差。実感せざるを得ない努力の限界。才あるものが努力をして、初めて栄光はつかみ取れるのだと、思う。そしてその資格は、私には。

 

「……私は、URAファイナルズに出るつもりです。トレーナーと、いっしょに。……まだ、道は遠いんですけど。トレーナーのこと、もっと知らなきゃいけないけれど」

 

 URAファイナルズ。スターウマ娘だけが出走を許される、全てのウマ娘の頂点を決める大会。……私には、夢のまた夢だ。この人も、私とは違うのだろうか。

 

「……貴女は、何故もう諦めているのですか」

 

 誰か恐れるウマ娘はいないのか。その質問に答えることなく、質問を返された。

 

「……私が質問してたんですけど」

「私は、私を選んでくれたトレーナーのために。走ります。絶対、ファイナルズ・チャンピオンになってみせます。……貴女には、何かないのですか。壁ではなく、目標は」

 

 言われて、はっとする。

 目標。目指すゴール。もしかすると私は、その前の壁に気を取られていたのか。

 

「……私は、いつでも。誰が相手でも。ファイト、するだけです」

 

 唐突に。ファイト〜、と彼女は気の抜けた掛け声をあげた。

 

「ぷっ」

 

 笑ってしまう。彼女は私が何を笑っているのかもわからない様子で、きょとんとしている。それも愛らしくて、また笑う。

 でも、その通りだ。私たちウマ娘は、走るために生まれてきたのだから。走りたいのだから。壁があるなら、垂直に走ればいい。そうすればきっと超えられる。ゴールはきっと、その先に存在するのだ。

 

「よし、じゃあ私も! ファイト! しようかな!」

 

 威勢よく、声をあげる。ぱちぱちと、横の少女から小さな拍手が上がった。

 どれだけ大変かは、わからない。辿り着けるかも、わからない。それでも。私たちには必ず、ゴールがあるのだから。

 そちらに向けて、走っていこう。

 

「……大丈夫ですか〜? なやみ、なくなりましたか?」

「うん、なんとか。ありがとね」

 

 電車がちょうど来て。彼女はこの駅でそのまま降りて帰路に着くらしい。短い間だったけど、大事な時間だった。お別れだ。

 

「おっと、そういえば」

 

 電車に乗る前、一つ忘れていたことを思い出した。

 

「貴女、名前は」

 

 私はちゃんとジャラジャラと名乗ったのだから、聞いておかないと。

 

「……ハッピーミークです〜」

 

 最後までふわふわした感じで、ハッピーミークは挨拶し。間もなく扉が閉まって、お別れだった。

 

 連絡先も交換しておけばよかったかな。スマホを取り出して思ったのはそんなこと。トレーナーに次の目標を伝える。新しい目標。マルゼンスキーからハナを奪うこと。彼女の脚より、更に速く。それは途方もない目標だけど、夢を見るのは自由だ。夢を叶えるのも、自由だ。

 私も、彼女も。誰もが。等しく一人のウマ娘なのだから。



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メジロマックイーンが降着した次の日から

メジロマックイーンが秋の天皇賞で降着しました


 走ることは罪だと誰かが決めたのだろうか。生きることは等価ではないと誰かが定めたのだろうか。私は唯、貴顕の使命を果たすべく。前だけを見ていた。

 先の天皇賞、秋。私は一つ、拭い去れない過ちを犯した。レース中の進路妨害による降着。勝利を求め過ぎたが故の失態。メジロの名に恥じることのないよう生きてきたはずの私は、全ての砦を自ずから失った。

 天皇賞春秋連覇を目の前に、託された多くの想いと代々伝わる悲願を胸に私は走った。それは私が生きる理由。そうして私は、知らずのうちに自らの眼を曇らせていた。

 わかっている。これは言い訳で、それこそメジロ家以前に一人のウマ娘としてあってはならない気持ちだ。もし、降着でなかったら、なんて。どこまで厚かましいのだろう。

 だから終わりにしなければならない。

 これ以上を走るのは、生きるのは、罪だ。

 まず矛盾が立ちはだかる。生きることは罪であり、然して己の命を絶つこともまた、罪である。今の私は、針の筵で板挟みになっている。誰にも迷惑をかけたくない。そう願うには、あまりにも多くのものを背負い過ぎた。誰もが私の生に注目するし、誰もが私の死に注目するだろう。でも、でも。

 耐えられない。消えてしまいたい。そう思ってしまうのもまた、罪なのだろうか。既に嫌というほどニュースを見た。嫌というほどウワサを聞いた。もう、嫌だ。

 そんなふうに、全てのものから耳と目を塞いで。寮の皆には泊まり込みのトレーニングだと書き置きをした。そうして、そして。

 私は今、崖の上に一人。佇んでいた。

「……ようやく、着きましたわ」

 そう、誰に言うでもなくつぶやいて、息を吐く。やっと、一人になれた。あれだけ心強かった仲間の存在が、むしろ今は辛くて仕方がない。期待が重い。配慮が苦しい。飛べなくなった天使の翼は、背負い縛る十字架になっていた。

 ふらり。崖に向かって歩を進める。このまま落ちれたらどんなに楽だろうと、思う。でも、きっと駄目なのだ。私は加害者であり、泣く権利すら持ち合わせていない。悲嘆に暮れることなどあってはならない。

 たん。また一歩、地獄へ向かって歩む。それでも、背負った咎を下ろす方法は分からなかった。だって誰も、表立って責めてはくれないのだから。

 ぐらり。片脚を上げて、宙へ放り出してみる。まだまだ安全圏に私の命はある。どうやったら、死なずに生きるのをやめられるのだろう。きっとこれから先、私が走るのは全て罪なのに。ずっとこれから先、私の生きるのは遍く無価値なのに。

 そっと、脚を下ろす。今までの私は、使命感で己を律してきた。ならば、想う。使命感が己を殺すのならば、私はどうすればいいのだろう。

 もしかすると、死にたくないと言う恐怖心が己の心を歪ませているのかもしれない。いや、恥ずべき行為を償う理由が見つからないから、死に逃げているのかもしれない。導を失くした私は、何処へ、何のために。なにも、わからない。

 ぐぅ〜。お腹が鳴った。思わず顔を赤らめる。……そして、それが無意味なことを思い出す。もう自分は、何の価値も無くなった存在で。取り繕う意味も、理由もない。

 

「このまま、終われたら良いのに」

 

 空腹を誤魔化すように、口を遊ばせる。生きることも死ぬことも許されないなら、私は木になりたいとさえ思った。どうしても許されないことに、歪みだけが募っていく。だからもう、赦されなくてもいい。ただ、ただ。

 貴方の隣に居たかった。

 

 私のトレーナーが消息を絶ったのは今朝のこと。貴方はいつも強くて、優しくて。だから、誰にも迷惑をかけたくなかったのだろう。今の私と、同じだ。消息不明ということにはなっているが。そうしてくれと、書いてあったが。遺されていたのは、遺書だ。

 

『ごめん、マックイーン』

 

 そう、端的に本音を書いた後は、この降着騒ぎを穏便に済ませるための言葉ばかりが並べられていた。"責められるべきはトレーナー"なんて。冗談じゃない。

 何度も何度も考えた。責められるべきがあるとしたら、私だと。もっと傲慢な考えをすれば、私たちは一心同体、連帯責任を持っているはずだと。だからこうして、一人。今の私は人気のない場所を巡り、貴方を探し当てようとしている。

 間に合うかは分からない。でも。彼からしたら迷惑かもしれない。それでも。何もかもが間違っているかもしれない。だとしても。

 最良の結果は、何事もなく貴方が帰ってくることだから。そう、私と一緒に気分転換にでも出かけたのだ。そういうことにしてしまおう。

 でなければ、でなくては。私も、潰れてしまう。

 貴方がいなくなってから、数時間しか経っていないけれど。貴方がいないことの痛みは、幾億年にも感じられた。思い詰めて、思い詰めて。

 貴方の思考を辿るように、自分の思考を破滅へと導いて。そして漸く、貴方が消えたくなった理由がわかった。

 でも、本当は違うのだ。私は同時に、結論の過ちにも気づいた。

 

「さて、お腹も空きましたが。貴方を見つけるまでは我慢、ですわ」

 

 私たちは一人じゃない。同じ罪を二人で分かち合える。責めるでもなく、慰めるでもなく。唯一無二の共犯者がいる。

 

「……まったく、トレーナーさん。見つかったら、たくさん奢って頂くんですから」

 

 そして貴方もそれに気づいていて。だから、最後の引き金は引いていないだろうと、信じる。貴方が居るから、私は踏みとどまれた。ならば。貴方もきっと、まだ。

 

「……全く! 次に行きますが。これで帰ったらいつも通り居ました、なんてことにでもなったら、許しませんわよ!」

 

 そう、誰も聞いていない軽口を叩く。己を鼓舞するため? そうではない。

 信じているから。

 貴方とまた、笑い合えることを。

 

 ヒトは生まれながらに罪を背負う。だから、貴方はそれを全て背負おうとした。ウマ娘は、走るために生まれてきた。だから、私は今も走っている。

 少し遠くへ行ってしまった貴方に、追いつくため。いや、それは違う。貴方と私は一心同体。たとえどれだけ離れても、遠くになんか行きやしない。

 

「ここにもいませんわね……」

 

 探す。探している。大した事ではない。私のトレーナーは、強くて、優しくて。だからきっと、この捜索だって徒労に終わる。そうして夜に差し掛かった頃、私が帰路についたら。何事もなく彼は私を出迎えて、そうしたら。

 そうだ。とびっきりのスイーツを奢ってもらおう。体重の事なんて気にしない。食べたい時に食べたって、たまにはいい。我慢して、役割に徹しなくてもいい。そう貴方に教えたいから。

 なんて、理由をつけて。お腹いっぱい食べたいだけだけれど。少し、気持ちがほぐれる。そう、この心持ちがあるべき姿なのだ。ほんのちょっと物騒な書き置きをして、ほんのちょっと遠出をしただけ。私のトレーナーが行ったのは、きっとそれだけ。

 走る。走る。ウマ娘の脚で届かない範囲には、ヒトの貴方は行ってしまっていないはずだ。願う。願う。貴方にもう一度会えることを。

 終わってほしくない。ゴールに辿り着きたくない。そう思いながら走ったのは、初めてだった。

 駅を回り、思い出の場所を巡った。貴方との思い出を噛み締めながら。彼はどんな時も、私を見守っていた。それは彼にとって負担だったのだろうか。私は彼に重荷を背負わせていたのだろうか。

 私は一人になって、初めて冷たい眼差しを意識した。これは、貴方がずっと抱えていたものなのだろうか。私は、貴方の力になれていなかったのだろうか。

 もどかしく、もどかしく。一つ当てが外れるたびに、動悸は激しくなっていく。まるであの天皇賞のようだ、と思う。あの時の私は、きっとひどく緊張していて。進路妨害に気づかないほど、何もかもが見えていなかった。でも今は違う。

 貴方のことが見えるようになったからこそ、胸が張り裂けそうなのだ。

 あり得る可能性から順に潰していって、すぐ見つかると無理矢理軽んじて。結局貴方は、見つからないまま。夜が、来た。

 

「ほんとうに。何処に行ったのでしょう!」

 

 どうしても、大ごとにはしたくない。これが私の我儘。一人で探すのなんて非効率。でも、絶望的な結果を早く見てしまいたくなかったから。

 苛立つように。いつものことだ、というふうに。そういうことにしたかった。日常の一コマであって欲しかった。

 

「……本当、に」

 

 涙が溢れ落ち。もう、止まらなくなった。

 

「……こんな。……そん、なっ……」

 

 認めたくない現実が、地面に散らばっていく。それはとても残酷で、シンプル。

 最後の最後、僻地の僻地まで探し終えても。何処にも彼はいなかった。

 どうしたらよかったのだろう。もっと大々的に探してもらうべきだったのだろうか。そうすれば見つかっただろうか。見つかることは、彼にとって幸福なのだろうか。

 今、私のトレーナーに課せられた咎は一つ。メジロマックイーンの降着の責任の一端。でも、それは。私に非があることで。そうでないとしても、彼1人が背負う責任ではない。

 それを彼に伝えたい。それだけでいい。彼がこれ以上私のトレーナーを務められないと申し出るなら、それも仕方ない。貴方のことを思えば、貴方の意思を最優先したい。

 強いて言うなら。貴方に、一つだけ我儘を言うなら。

 絶対に、死なないで欲しい。

 帰路に着いてしまう。1日が終わってしまう。私はこれから、彼の秘密を何処まで隠し通せるだろう。でもこれが、私と彼が最後に共有する秘密なのだから。ぜったいに守り抜く。

 そう、誓う。

 

「さて、大丈夫ですか? メジロマックイーンさん」

「ご心配には及びませんわ。有馬記念、成し遂げてみせます。抜かりはありませんわ」

 

 あれから、あっという間に年末が来て。私は彼の遺書に沿って平穏なストーリーを組み立てた。トレーナーは実家の身内のために休暇を取って、知り合いのトレーナーに一時担当を預けると。彼は人は良いのだが……

 

「……その他人行儀な口調、なんとかなりませんの……?」

「マックイーンさんは私の担当ではなく、あくまで代理ですから」

 

 そう言って憚らない。正直、そのことは罪の意識を膨らませる。

 彼は結局戻ってこなかった。まさかほんとうに、なんて。信じないけれど。私を見捨てて何処かへ行ったのだ。そういうことにしておこう。

 彼の姿を再び見たくないと言えば嘘になる。けれど、叶わぬ願いを掲げ続けることは耐え難い苦痛を生む。……こうして考えてしまう時点で、永遠に自分のこの思考を否定はできないのだけど。

 

「行ってきますわ。メジロの名を復活させるために!」

 

 そして、貴方の夢を叶えるために。

 

 コースへ向かうと、歓声が大きく、大きく聞こえてきた。ねえ、トレーナーさん。私たち、まだ走っても良いのかもしれませんわよ? なんて。降着騒ぎがあっても走らせてくれるのだから、ファンというのはありがたい存在で。でも、思ってしまう。ファンの思うメジロマックイーンは、貴方がいたから創り上げられたのだと。

 ゲートに入る。さあ、踏み出そう。最初の一歩を。

 どん。走る。走る。少し身体が強張るのは否めない。でも。私と貴方で描いた未来。何処までだって行けそうだったあの頃。皆の期待を背負って、私はそれを翼に変えて羽ばたいた。

 走り続ける。私は諦めない。諦めたって、もう一度。貴方のために、貴方がいたことを証明するために、ただ。今の私の新しい目標は。

 貴方のことを忘れないために、走ることだけだ。

 声援が強く聞こえる。もうすぐ最終直線だ。ここから、ここから。そう思う私の頬を、涙が横切った。それが己のものとわかるまで、戸惑ってしまう。少しペースを崩す。その隙に、狙うべきトップと差を開けられてしまった。

 でもまだ、もう、諦めない。そうして再びスパートをかける。でも、差は縮まらない。もう駄目か。そう思った時だった。

 

「マックイーン! 走れ!」

 

 トレーナーさんのこえが、きこえた。

 幻聴かもしれない。現実逃避のしすぎで病んでしまったのかもしれない。そんな考えを振り払う。今わかるのは、たとえそれが幻だとしても。私の隣にまた彼がいる。そのことだけ。

 差を詰める。詰める。最強をかけて、走る。そして、結果は──。

 

「2着か。惜しかったですね。よく頑張りました」

「……最後にギリギリまで伸びたのは。あれは私の力ではなくて、私は……」

 

 そう、新任のトレーナーに言葉を繋ごうとした。彼は急に任された私のトレーナーを、よくやってくれた。この有馬記念の結果が彼にとって満足いくものであれば良いな、と思う。

 

「ところでマックイーンさん。ご紹介したい人が」

 

 そう、彼が切り出して。何も、私は身構えていなくて。その人影を見た途端。私の視界は眩く滲み、顔も判別できないその人に。

 思いっきり、抱きついた。

 

「……ごめん、マックイーン」

「あの"手紙"と同じことを繰り返すのですね。さて、何から聞きましょうか?」

「とりあえず、彼にお礼を。彼はね、俺のことをトレーナーの連絡網を使って……」

「それはそれは。私が歩き回った甲斐もないというものですわね」

「あと……マックイーン。離してくれないかな」

「……嫌です。このまま話します。私の耳なら貴方の口元にあるでしょう?」

「ううん……それと……2着おめでとう。立派な結果だ」

「私は1着が欲しいですわ。どんな舞台でも」

「……さすが、マックイーンだな。変わらない」

「……発言の意図が汲み取れていないのではなくて?」

「? ……ってちょっとマックイーン……!? うんっ……!」

「……ふぅ。これで、貴方の1着。ファースト。頂きましたわ」

 

 どこまでも広がっていく始まりを。一緒にいこう。

 



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マヤノトップガンと取り留めのない話をするトウカイテイオー

マヤノトップガンとトウカイテイオーが取り留めのない話をします


 恋。それは大人への階段。だから私は、日々"いいオンナ"目指して修行中だ。トレンドだって外さないし、いつでもキミを夢中にさせる準備はできている。ああ、でも。"キミ"はいつ現れるのだろう。ムチューにさせてくれる、ステキな人がきっとどこかに────。

 

「どうしたの、マヤノ? ぼーっとして」

「……うわっ! テイオーちゃん! マヤちょっとオトナな悩みをしてたのに!」

 

 同室のウマ娘、トウカイテイオー。彼女はすっごくキラキラしてる。でもマヤだって負けない! 恋する乙女の力を手に入れられれば、そう! テイオーちゃんにはそれが……ない、はず。……自信がなくなってきた。いつもテイオーちゃんは生徒会長、会長さんのことを喋っている。それってもしかして、もしかすると?

 禁断のコイ、かも。

 

「ねえ聞いてよマヤノ〜! 今日カイチョーがさあ……」

「……テイオーちゃん、会長さんのことが好きなの?」

 

 好奇心。あるいは対抗心。同室の相手はライバルの1人。絶対先にオトナの女になるんだ、そう思っていた相手の1人。恋を知るのは自分が先だと、勝ちたいと思う気持ちはあるけれど。

 恋に恋する乙女として、マヤノトップガンは他人の恋にだって気を配らずにはいられない。

 

「……? 好きだよ? すっごくソンケーしてるんだ!」

 

 もしもそうなら、それは触れてはならぬ恋の形。見てはいけない愛の形。ならば自分は、そっとしておくべきか。

 

「……恋してるわけじゃ、ないの?」

 

 でも、本で読んだことがある。

 

「……コイ? 何言ってるのさマヤノ、ボクとカイチョーはウマ娘同士だよー!」

 

 同性同士の禁じられた愛の形が、確かに存在すると。……テイオーちゃんは、それを知らないんだ。

 

「……あはは、そうだよね! マヤ変なこと聞いちゃった!」

 

 ホントに恋かはわからない。でもなんとなく、テイオーちゃんは隠してるか、わかってないか。何か違うのは、"わかった"。

 

「カイチョーは、ボクの目標! カイチョーみたいになりたくて、そのために。そのためならボクはなんだってできる」

 

 テイオーちゃんの表情が、少し変わる。真剣だった。本気だった。

 

「……マヤノは何かそーいう目標、ないの?」

 質問者が転換する。

 

「マヤは……ワクワクしたい」

 少し考えて。言葉を吐き出す。

「……ワクワク?」

 正確に言えば、きっと。わからない、というのが正解なのだろうけど。

 でも、この気持ちはウソじゃない。

 

「うん、ワクワクして。ドキドキして。そんな気持ちになりたい。……だーかーらー!」

 そう、それには何か、ずきゅんと来るものが。

 

「恋をしたいの! トキメキたいの! ……それで、テイオーちゃんと会長さんのカンケーがそういうのだったら、参考になるかなーって」

 

 そう、ダメ元で直球勝負で聞いてみる。

 

「……えへへ、カイチョーのことは好きだけど、コイってちゅーしたいとか、そういうのでしょ? ボクはカイチョーに褒めてもらえるならそれで……」

「ホントは?」

「……不安になってきた……。マヤノが変なこと言うからだよー!」

 

 間違えたかも。オトナの女がここにはいない。だから恋の何たるかなんて、自分だってわからない。だから聞いてみたけど、テイオーちゃんにもわからない……。どうしよう。

 

「うーん……。でもテイオーちゃんのそれって、単純なソンケーだけじゃないと思うんだよなあ……」

「……マヤノがそういうなら、そうかも……。ああでもっ、ちゅーとかは絶対! ぜったいないから!」

 

 2人でぽく、ぽく、ぽく。自分たちはまだ子供で、何も知らないのだとわかる。真剣に考えても、オトナたちから見ればおあそびにしかならないことしか思いつかないのだろう。

 

「……あーあ、早くオトナになりたいなー……」

「ボクもはやくカイチョーみたいに、かっこよくて、すごいウマ娘になりたいよ……」

「……目標は、具体的な目標はあるの?」

「おお! よくぞきいてくれたまえ!」

 

 怪しい日本語とともに、彼女は一枚の紙を取り出した。そこにサインペンでさらさらと。

 

「目指せ、無敗の、三冠ウマ娘……と! どう!?」

「……デビュー戦もまだなのに、気が早くない?」

「そんなことないぞよ〜! すぐにすごいトレーナーを見つけて、すごいデビュー戦を飾って、あっという間にカイチョーを超えてみせるんだから!」

 

 少し、羨ましいかも。拙いかもしれないけど、確かなキラキラがテイオーちゃんには見えた。

 

「いいなあ、マヤも……」

 

 そこですこし閃く。漠然とした彼方の目標で、まだテイオーちゃんには敵わないかもだけど。

 

「そうだ! 素敵なトレーナーちゃんを見つけて、素敵なランデブーをするの! 飛行機に乗って、窓から綺麗な夜空を見下ろして……」

「……マヤノもすごいと思うよ。……もちろん、ボクが一番すごいけど!」

 

 テイオーちゃんに褒められた。意外だ。

 

「ボクさ、たまに不安になっちゃうんだ。"もし、夢が叶わなかったら"。だから夢がはっきりしてくるのは、ドキドキする。二つの意味で」

「でもマヤノはさ、走ること以外にも楽しみがあるっていうか、いつでもどこでも何かを楽しめそうっていうか」

 

 面と向かってそんなことを言われたら照れてしまう。悪い気もしないけど。

 

「テイオーちゃんは、本当に真剣だね」

 こっちも、褒めたくなる。

 

「……マヤそんなに、一つのことに夢中になれないもん。レースは楽しいけど、トレーニングがつまんないから全然走ってない。テイオーちゃんは、我慢してトレーニングしてるの?」

「それは、違うかも」

 

 やっぱり、モノの見え方が違う。でもそれは、悪いことじゃなくて。伸ばすべき長所なのかも。

 

「トレーニングは、すっごく楽しいんだ。力が湧いてくるって、強くなってるって実感できる。……確かに同じことの繰り返しだけど、結果は毎回違うんだよ? 真剣さが絶対、報われるんだ」

「……マヤは毎回違うことをしたいなーって思っちゃうけど……同じことでも、毎回違うってこと?」

「ふっふーん、マヤノもまだ子供だなあ! ワガハイがこれから教えてしんぜよう〜!」

「授業はつまんないからやだー。……でもさ、やっぱりみんな違うってことかも」

 

 そう、違う。誰一人として同じウマ娘はいない。それがわかった気がする。

 

「……違う、か……。ボクもカイチョーとは、違う。そういうことかな」

「なんとなく言っただけだよ」

「マヤノのなんとなくは当たるじゃん」

 

 そう、みんな違うなら。誰かのようになりたい、という目標も、成し遂げられないものかもしれない。……でも、テイオーちゃんはそうだとしても、あきらめないと思った。走り続けると思った。

 

「……さっきも話したけどさ。夢がもし、叶わなかったら。叶ったとしても、叶った後。ボクたちが、大人になった後」

 

 なんとなく、テイオーちゃんの言いたいことがわかった。

 

「将来って、未来って。どうなるんだろうね。早く大人になりたくても、早くなることはできなくて。ずっと子供でいたくても、子供のままではいられない」

 

 当たり前のことを言ってしまう。でも、これが私たちの同じ悩みなのかも。

 

「デビュー、怖いね……」

「……うん」

 

 夜空を見上げる。夜の空に光る星は、何億年もずっと同じ姿をしているらしい。……それでも、ずっと光っているわけじゃなくて。何億年が終わった後、その星はいのちを終える。その時、どんな気持ちなんだろう。

 

「どうしたの、マヤノ」

「あそこに光ってる星にも、命の流れが、始まりと終わりがあるんだなーって。改めて」

「……すごいスケールの大きいことを考えてるね。……やっぱりマヤノの見てるところは、ボクとは違ったりして面白いなー!」

 

 自分からすればテイオーちゃんの見てるモノも、面白い。それはあまりにも近い着地点すぎて、ぶつかってしまいそうなのに。彼女はそこに向かって、少しもぶれることがなかった。

 

「テイオーちゃんと同じ部屋でよかった」

「ボクも。マヤノと同じ部屋でよかった」

 不意に、互いの存在に感謝する。もし願いごとが叶うなら。ひとつといわず、たくさん叶えたいけど。

 おばあちゃんになっても、ずっと友達で。

 未来に一つ、目標を立てた。



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アグネスタキオンが超高速の架空粒子タキオンの話をする話

アグネスタキオンがタキオンの話をします


「おはよう、モルモット君」

 

 階段を降りると、彼は既に朝食の支度を終えてくれていた。ハムエッグに紅茶。いつも通りだけど、"悪くない"。

 

「おはよう、タキオン」

 

 朝の挨拶が返ってくる。このやりとりも、慣れたものだ。

 

「いただきます」

 

 二人でテーブルを囲い、朝食をつまむ。……砂糖が少ないな。そう思い、席を立って砂糖を取りに行こうとすると。

 

「ああ俺がやるよ、タキオン」

 

 そう言って、彼は私を制止し砂糖を代わりに取りに行った。……この距離感には、未だ慣れない。

 

「はい、どうぞ。砂糖はこれくらいだよな?」

 

 もう、何度も過ごした朝なのに。

 

「ああ、ありがとう」

 

 私が走れなくなってから。

 

「よかった、そろそろ覚えてきたぞ」

 

 何故君は、私のそばに居続けるのだろう。

 かちゃり。とん、とん。食器の金音が、静かに食卓に響く。この関係は、いつまで続いてしまうのだろう。何が、君を私に縛りつけてしまったのだろう。

 幾度目かわからない思考の堂々巡り。私の探求も、彼の未来も。時間が止まってしまったように、動かないでいた。

 

「……時にモルモット君。君は相対性理論についてどれくらい知っているかな」

 

 なんとなく、或いは単に沈黙を破るべく話題を振る。

 

「全然知らない。タキオンが教えてくれたら嬉しいな」

 

 頼られて、すこし緊張の糸がほぐれる。

 

「いいだろう。……まあ今回の本題は相対性理論そのものではないし……そうだね、相対性理論の活用について話そう」

 

 こうしてずっと話していれば、ずっと何も変わらないのだろうか。それとも会話によって、歩み寄れるだろうか。

 

「そもそも相対性理論というものは、いや、理論というものは活用するために存在するのさ。全く内容を知らなくても、どこかでその恩恵に預かっている……ということは非常に多い。相対性理論も然りだ」

 

 彼はまっすぐこちらを向いて、話を聞いてくれている。それ以外に興味はないと言わんばかりに。

 

「極めて乱雑に言えば。相対性理論とはその名の通り、個々の物体は固有の時間を、相対的な時間の流れを持っている。……例えば君と私も、微細だけれど違う時を歩んでいる。その時間の差は、基本的には互いの速度に差があればあるほど遠くなる。……長くなった。ここまではいいかな?」

「違う時間を進んでいる、か。タキオンがレースに出ていた間、俺は同じ速度では走れなかった。隣にいたつもりだったけど、いられない」

「……そういうことじゃ……」

 

 ぐっと掌を握りしめてしまう。誰が、彼をこうしたのか。わかっているくせに。

 

「……安心して欲しい。ウマ娘がレース中トップスピードを常に維持したとしても、わずか1秒の差を生むことすら難しい。結局のところ、基本的には。私たちは皆、同じ時を過ごせるんだ」

「……話が逸れたね。この理論が一般的に活用されているのは……皆が持っているスマートフォンなどに搭載されているGPSだ。GPSの情報は地球上空を秒速数kmで航行する人工衛星から送られている。そしてそれが地球上の私たちに情報として送られるまで。大体1秒間に20億分の1秒ほど、差が起こってしまう。もちろん私たちが気づくには、20億秒かかってようやく1秒体感できるかできないかだが。GPSに頼る電波時計などでは、この差を無視することはできないんだ」

 

 彼はいたって平静に見えた。心の距離も、変わってしまったのだろうか。

 

「この差を見つけ出したのが相対性理論であり、この差を計算して時計データに修正を加えるのも相対性理論、というわけだ……さて、いよいよ本題に入ろう」

「とりあえず、なんとなく理解できたよ。ありがとうタキオン」

 

 その言葉は、嘘か真か。どちらにせよ、心からのものだろうと思った。信じられていると、信じた。

 

「さて。物体が速ければ速いほど、遅い物体に比べてその時間は相対的にゆっくり進む。つまり理論上は、速さに応じて時間の流れは変わるんだよ。

 そしてその速度がもし光の速さに限りなく近づいたとしたら……時間の流れはゼロに等しくなる。そこまで速い存在は現代の科学では極小単位でしか実現できていないけれどね」

 

 仮定の話。もしもの話。あったらいいな、の話。茶飲み話には十分だけれど、本当は。

 

「この話には更なる可能性が含まれている。光の速さで進み続ければ、他の物体よりも時間経過を少なく過ごせる。ゼロにさえできる。未来に往ける。ならば。

 "光の速さを超えたなら、どうなるのか"?」

「……超光速、か……。君の名前が意味するところも、超光速の粒子だったな」

 

 そう。なんの因果だろうか。今の自分が一番求めるものは、己の名に刻まれている。

 

「……理解が早くて助かるよ。超光速の粒子。アメリカの物理学者ファインバーグによって命名された『架空の粒子』。それが、タキオンだ。

 タキオンが仮に存在し、利用できた場合。その時間の歩みはゼロよりも小さくなる。つまり……マイナス。タイムトラベルが可能になる」

「原理の説明に行こう。まず前提として、すべての物体は相対的な時間を持っているだろう?

 そして、光速で移動する物体は時間の進みがほぼゼロに近くなる。

 さらに、光の速さを超える超光速であれば……光速よりも速く、たとえ後から出発したとしても光の速さに追いつくことができる。つまり、つまりだよ」

 

 楽しそうに喋っている自分がいる。本当は必死に絞り出しているのに。

 興味深そうに聞く君がいる。本当はあり得ないとわかっているのに。

 

「光速で進む物体に向けてタキオンを用いて情報を伝達すれば。自分よりも時間の流れが遅く、50年かけて1年しか変わらない光へと伝達を行なった場合。

 その情報は光の速さの側では10年も経っていない、新鮮どころか生まれていない情報になるのさ。

 ……少しわかりづらかったね。語弊を恐れずに言えば、タキオンは時間を逆行できる。そのタキオンに何かを載せれば、載せたものも時間を逆行できる、というわけさ」

「……それで。過去に戻れる」

「その通り。タキオンを利用して移動できる乗り物があれば、それはタイムマシンと言えるだろうね。そこまで出来なくてもいい。情報さえ過去に送れればいい。タキオンを利用して今の私が光の速さで移動する物体へと情報を撃ち出し、その物体からまたタキオンでこちら側に情報を撃ち返せば。

 過去の私は、未来の私からの情報を仕入れられる。そうすれば」

 

 そうすれば。もし、そんな理想が叶うなら。

 

「……まだ気にしてるのか」

「……っ! 当たり前だろう! プランBを遂行できなくなる、だからそいつを選ぶな!

 そう! そう伝えられるなら、伝えられるなら……!」

 

 声を荒げてしまう。……講義は終わりだ。戯れのつもりで始めたのに、本気になってしまった。そんな、そんな。そんなことあり得るはずがないと、わかっていたのに。仮定上の空想。無意味なもしも。

 ……アグネスタキオンというウマ娘が、走り続けられなくなった時。私が、スピードの向こう側にたどり着けなくなった時。

 私には万全のバックアッププランがあった。誰か他のウマ娘に望みを託して、研究の成果全てを注ぎ込む。そのつもりだった。

 だのに。彼は私を縛ってしまった。否、私が彼をとうの昔に縛っていたのだ。自らの身体には細心の注意を払っていたのに、他人の心には気づけなかった。

 彼は言った。私を見捨てることなどできない、私の幸せを一番に考えてくれ──。そんな甘言に、必死の訴えに。私は彼の言葉の通り、レースから身を引き。彼は今まで通り、私をサポートしてくれた。

 嬉しくなかったと言えば嘘になる。嬉しかったから、私は立ち止まってしまった。思いの外、私は彼から離れられなくなっていた。

 でも、その結果が。二人で死ぬまで一緒にいるという選択。そんなのは、あまりにも残酷だと。理屈ではわかっているのに。昔の私なら、避けられたのに。今の私には、彼がいなくなってしまうことは。

 耐えられない。

 

「……なあ、タキオン。わかってるんだ」

 

 彼が口を開く。

 

「俺が君を引き止めたのは、俺のわがままだって。いつのまにか、俺は君の弱みになっていた。それを利用した。君のためにならなくても、君の力になりたかった」

「……そんなことはないよ。君がいなければ、私は走り始めることすらできなかっただろう」

 

 互いに互いを否定する。互いに互いを想うが為。なんて、なんて。

 

「……でも、後悔しているんだろう? 俺のために。俺をトレーナーに選ばなければ、こんな風にはならなかったと」

「……その言い方は卑怯だよ。肯定すれば、私は君のためなら走れなくてもいいということになる。それなのに、こうして今も君と共に過ごしてしまっている。……否定もできないけど」

 

 口を噤む。でも、言葉を止めてはいけない気がした。止まれば、彼が消えてしまいそうな。

 

「……タキオンが実在するならば、本当にやり直すよう、過去の自分に言ってしまえるのに」

「……どうやり直したいんだ?」

 

 話題が戻る。もしもの話をし続ければ、本当になる気がした。

 

「そうだねぇ、まず君にはもっといいウマ娘を見繕ってあげよう。私は脚のことを知って、走るのではなくサポートに徹する。君と君の担当ウマ娘のサポートだってさせてもらうよ」

「……」

「そうして君は優秀なトレーナーとして、キャリアを積むんだ。何年も、何レースも……見届ける」

「それは、確かにいいな」

「だろう? 別に私たちが仲違いするわけじゃない。仲良くする前に、そもそも深く関係を結ばないのさ。それに──」

「でも俺は、タキオンのトレーナーだから」

 

 彼は、そう言って。

 私は、言葉を返せなくなって。

 瞬間。景色が歪み。幾星霜の果ての果て。羽ばたきが舞う、舞う、舞う。

 蝶の残像が最後、頭にくっきりと痕を残した。

 

「おはよう、タキオン」

 

 朝が来て、学園で彼に出会う。

 

「おはよう、トレーナー君」

 

 夢。あれは夢で、私は今日もトレーニングができる。

 でも。夢の中、最後に舞った蝶の翅。

 バタフライエフェクト。胡蝶の夢。本当の"もしも"。

 こちらが現実であることに感謝する。

 

「……どうした? タキオン。調子が良さそうだな」

 

 ……顔に出ていただろうか。まあ、でも。

 

「なんでもないよ、モルモット君! さあ、今日も研究を始めよう!」

 

 いつも通りだけど、"悪くない"。



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ライスシャワーとライスシャワー

ライスシャワーがライスシャワーを夢に見ます


 遠い夢を見ました。私と同じ、ライスシャワーという名前のいのち。その夢を見ました。

 

 長い夢を見ました。ライスシャワーという名前には、しあわせを呼ぶという意味が込められていて。そのいのちが、走りはじめて。おわるまで。時は那由多のように感じられました。

 

 久しい夢を見ました。そのいのちは、勝つために。どんな時でも、どんな舞台でも。信頼を背に乗せ、走り続けました。……いちばんをとったライスシャワーを迎えたのは、非難の眼でした。

 

 怖い夢を見ました。幸せの青い薔薇のようには、なれない。誰もがそのいのちに、悪夢を見ました。……きっと、それは私の、ライスのこと。そんな気がしました。

 

 尊い夢を見ました。それでも、ライスシャワーは勝利を願いました。孤高でも、孤独でも。限界まで、全てをかけて。夢を見ました。だから、そのいのちはもう一度勝利を掴めました。そばに信じるひとがいたから。たとえ、また望まれていない勝利だったとしても。誰の歓声もいらない。ただ勝ちたい。そう、見えました。

 

 脆き夢を見ました。それから先、そのいのちは燃え尽きたように、勝てなくなってしまいました。……ライスは、そこまで夢を眺めて。違うところと、同じところ。その両方を見つけられた気がしました。

 

 黒い夢を見ました。そのいのちは、望まれない勝利を掴んで疎まれ。望まれた時に、勝てなかった。勝ち続ければ、或いは負け続ければ。愛されたのに。そう、黒い心が囁きました。ライスは、お兄さまもいて、ウララちゃんも、ロブロイさんもいて。ブルボンさんやマックイーンさんも、私を祝福してくれて。幸せものだったと、思いました。

 

 暗い夢を見ました。そのいのちは、期待を背負えど。愛されたのは、僅かな人達にだけ。競う相手は文字通り命を賭けていて、ライスたちのように仲良くはできませんでした。でも、それでも。走って、走って。勝つために、走って。私たちのレースとは違う世界が、そのいのちには見えていたように思えました。

 

 光る夢を見ました。同じところは、ひとつ。私とそのいのちは、どちらもライスシャワーでした。しあわせを呼ぶことを、望んでいました。勝つことを、望んでいました。……信頼するひとが、いました。私にとってのお兄さま。だから、走り続けられました。

 

 眩き夢を見ました。そのいのちは、もう一度勝ったのです。その勝利は、ずっとずーっと望まれていて。みんなが、ライスシャワーを祝福したのです。……私は、その姿に。青い薔薇を重ねることができました。きっとしあわせでした。きっとそのお話は、めでたしめでたしで終わったと思いました。……まだ、夢は続きました。

 

 終る夢を見ました。みんなの期待を背負って。そのいのちは、漸く皆から勝利を望まれました。そして、駆け抜けた先に。祝福の雨へと、届くことはできませんでした。最期にそのいのちが願ったのは、信頼するひとが無事であること。そうだったように、思いました。

 

 夢を見ました。始まりから終わりまで、ひとつの物語を。ひとつのいのちを。ぼんやりして、ふわふわして。それでも、確かに。私とそのいのちは、重なり合って見えました。

 

 あなたがいたから、私が生まれた。そんな、そんな物語が、頭に浮かびました。万華鏡のように、おなじいのちの見え方を変えたような。同じように走って。勝ちたいと、願った。そこはきっと、一緒だと思いました。

 

 目を覚まして、頭がぼんやりしているうちに。夢の中身を、日記に書きました。

 むかしむかし、あるところに。そのいのちは、どんな時でも勝とうとしました。祝福されなくても、ただ勝ちたいと願いました。

 夢の記憶は瞬く間にほどけて、日記に記せたのはこれだけ。でも、一つ願いました。私も。そのいのちが願ったように。願われたように。

 しあわせを呼びたいと。

 

 あと、もう一つ。

 すてきな夢を見せてくれてありがとう。



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URAファイナルズに向けてのダイワスカーレット

URAファイナルズに向けて水族館に行ってダイワスカーレットにあの女の話をするトレーナー


「水族館なんて、アンタも気が利くじゃない」

 

 有馬記念で見事一着を取りスターウマ娘になったダイワスカーレット。

 彼女を労う意味を込めて、俺とスカーレットはある日、水族館に寄っていた。

 

「で、誰の入れ知恵なワケ?」

「……流石に隠し事はできないな……話すよ」

 

 ここに来たのには理由がある。

 もうすぐ始まるURAファイナルズに向けて、彼女を一番に、『ファイナルズ・チャンピオン』にするには。

 強力なライバルになるであろう存在のことを、話しておかなければならないだろう。

 同期のトレーナー、桐生院葵。そして、その担当ウマ娘であるハッピーミーク。

 彼女達がすれ違い、紡ぎ合い、二人三脚に至るまでの経緯をスカーレットに話した。

 

「……と、こういうわけだ。ウオッカとの決戦もあるだろうが、それだけに気を取られてはいけない……って、うわっ!」

 

 ずずい。むーっ。気がつけば、スカーレットの真っ赤な瞳が、自分の目と鼻の先で睨みつけていた。

 

「ちょっとアンタ、今まで一言もそんな話しなかったじゃない!」

「いや、すまない……! タイミングがなかったというか、言う理由がなかったというか……」

「わかってるわよ。どうせアンタのことだから、余計な心配をかけさせたくなかったんでしょ。……ありがと」

 

 一転、そっぽを向いて。感謝は本心みたいだが……拗ねてる?

 

「で、このタイミングで打ち明けたのも。『アタシのライバルになるから』、なんて。全く」

 

 そう言うと、スカーレットはため息を一つ。そしてこちらに向き直り、告げた。

 

「今一度、はっきり言っておくわ。アタシのライバルはアイツ……それはきっと変わらない。何を言われてもね。それはURAファイナルズでも変わらないわ。でも。

 アンタのライバルが、その桐生院さん。それはわかった。……漸く、アンタの目指してたものが見えた。

 アンタ、その人に負けたくないのよ。自分の担当ウマ娘が、このダイワスカーレットが。"一番"だって証明したいの」

 

 そうか。そうだったのか。

 

「……目標があるヤツは、強い。アンタの強さの源、やっとわかったわ。

 ……あーでもシャクねー! アンタには散々アタシのこと話したのに。アタシもアンタのこと知ってるつもりだったのに。

 ……アンタの一番は、アタシじゃなかったのかも」

 

 少し寂しそうに。そんなことはない、と否定する。本心だ。すると、ぷっと破顔した。

 

「あはは! ちょっとからかっただけよ。アタシのトレーナーが、アタシを最優先にしてくれてたこと。それは知ってる。でもね、だから。

 "これから先はアンタの夢を叶えるの"。もちろん、アタシを一番にするのを忘れちゃダメだけどね?」

 

 夢の扉は開かれた。そんな、どこかで聞いた言葉が頭に浮かぶ。スカーレットじゃない、自分の夢。

 

「……ありがとう、スカーレット。目が覚めた気分だ」

「……なによ。アンタとアタシは二人で一人。それが担当ウマ娘とトレーナーの模範的な関係、でしょ?」

「……敵わないな」

「……今までそれを教えてくれたのは、アンタだった。覚えてる?

 アイツがダービーに出るって聞いた時、道を見失ったアタシにアンタは指し示してくれた。

 ……URAファイナルズでアイツと雌雄を決する。そこまでこぎつけられたのも、アンタのおかげ。ずっと、色んなことを偉そうに教えてくれたじゃない」

 

 褒められてるのか、貶されてるのか。……信頼されてるのは、確かだ。

 

「……ああ。これからもスカーレットのトレーナーとして、精一杯サポートするつもりだ」

 

 宣誓。そしてそれはもう一対。

 

「そう、そしてアタシはアンタの担当ウマ娘として。精一杯走って、一番になる!」

 

 人差し指をいつものように。彼女もまた、宣言する。

 ああ、そうだった。彼女はいつも、輝いている。でも、その輝きは相当な努力の上に咲き誇っている。

 そしてそれをサポートするのが、自分の仕事だ。いままでも、これからも。

 

「……アタシは一番のウマ娘、ダイワスカーレット。そしてアンタはそのトレーナー。つまり……ううん」

 

 スカーレットはそこで言葉を切る。

 

「……この先は全部勝った後に取っておくわ」

「勝てるのか?」

 

 心配するように、挑発するように聞く。

 

「誰が相手でも、当然!」

 

 ふふん、と彼女は鼻を鳴らす。

 

「アタシが一番なんだから!」

 

 そう、彼女は一番のウマ娘なのだから。



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有馬記念通常エンドの後にハルウララとトレーナーが

有馬記念通常エンドのあとのイベントをふやかしました


 有馬記念に出たい。彼女がそう言った時点で、止めるべきだったのだろうか。

 勝ちたい。彼女が初めてそう思ったのを、へし折るべきだったのだろうか。

 最後方にぽつんとひとり。それでも必死に、他のウマ娘が全てゴールしたあとも、ずっと。ハルウララががんばる姿から、目を覆うことすらできなかった。

 彼女の脚は芝に適していないことなど、分かっていた。彼女の身体は2500mを走れるようにできていないことなど、分かっていた。

 一人のトレーナーとして、当たり前のように分かっていた。それでも。

 彼女には夢の舞台に登る権利がある。彼女には勝利を求める資格がある。

 ……彼女のトレーナーとして、当たり前のように彼女を信じていた。それでも。

 現実は、冷たく。痛々しい。俺はどんな顔をして、ハルウララを迎えればよいのだろう。

 

「はあ〜っ! トレーナー、ただいまっ!」

「おかえり、ウララ」

 

 それでも、彼女は笑っていて。こちらも釣られて笑顔になる。

 

「あのねっ、すごかったんだよ! 走ってる間ずっとね、声が途切れなかったの!」

 

 ウララの走りはいつもみんなを元気にする。今日も、それは変わらなかった。

 

「全部聞こえてたの! ウララちゃんがんばってーって!」

 

 楽しそうに、矢継ぎ早に。その言葉を、噛み締める。

 

「うん」

「それでね、前の子を追い抜こう追い抜こうって、すごくがんばったの!」

 

 前を走るウマ娘は果てしなく遠く。ライバルの背中すら、見えなかったけれど。

 

「走ったの! けどねぇ、すっごく速くてね、追いつけなかったんだあっ」

 

 果たして俺が同じ立場に立ったとして、彼女の見た景色が幸せなものだったと言えるだろうか。

 

「あともうちょっと、わたしの脚が長かったらね、きっと追い抜いてたんだよ!」

 

 夢と現実。その差を知っていたはずの俺は、トレーナーとして止めるべきだったのか。一人のファンとして、俺は彼女の勝利を信じていた。

 

「それでね、それでねっ……」

 

 ウララの目が潤む。桜色の瞳が、無色の泡をぽたり、ぽたり。

 

「ぐすっ……」

 

 この気持ちを知れたことは、ウララにとって得難い経験だっただろう。でもそれは。

 

「あ、あれぇ? へんだなぁ」

 

 この先も、ウララは走り続けるのだから。そのために、彼女はまだまだ成長しなければならないし、きっと成長できる。けれど。

 

「すっごく楽しくて、もっとずーっと走りたいって、ぐすっ、思ってたのに」

 

 大粒の涙が、落ちる。

 無垢な桜の花に、泥の味を教えるその行為は。ヒトとして、許されるものだったのだろうか。

 

「頑張ったな、ウララ!」

 

 ウララを労う。この場に二人、何一つ間違っていない存在は、彼女だけ。だから彼女は尊ばれるべきなのだ。

 

「……っ! うええぇぇ〜ん!」

 

 涙の痕が決壊する。きっと、彼女は今知ったのだ。本気で走るということの意味を。悔しいという感情を。

 間違いなく、成長した証だ。

 

 彼女が落ち着くよう、背中を撫でてやる。泣きじゃくる彼女を、優しく抱き止める。

 彼女は全てをかけて、いのちのかぎり走った。

 そして、心に傷を負った。それでも、走ることを投げ出したりはしないだろう。だけど。

 俺はトレーナーとして、彼女を見届ける権利があるのだろうか。

 URAファイナルズは間近に迫っている。ハルウララは今度こそ、その脚に向いたダートで、短距離で。晴れ舞台のセンターだって夢じゃない。でも。

 そこに至る罪の糸。

 "自分はハルウララを有馬記念で負けさせた"。

 その事実は、赦されないような気がした。

 ……ウララの涙は落ち着いたようだ。彼女は確かに強くなった。それを実感した。

 

「大丈夫か?」

 

 きっと、大丈夫だろう。

 

「……うんっ、ありがとう。トレーナー」

 

 大丈夫じゃないのは。

 

「ライブ、行ってこい。ウララ」

 

 送り出す。ウイニングライブのバックダンサー。有馬記念ともなれば、それも大役だ。

 

「……うん! 見ててね、トレーナー!」

 

 客席へと、自分も向かう。心の靄は、黒く、暗く。

 

「あっ、ウララちゃんのトレーナーさん!」

 

 ステージの客席へ向かうと、ウララをいつも応援してくれた商店街の人たちに捕まった。

 

「お疲れ様でした。ウララちゃんを有馬記念に出走させてくれて、ありがとうございます」

 

 そんなことを言われた。そうだ。ウララが有馬記念に出走したのは、やはり俺のせいなのだ。

 何故、自分は感謝を述べられているのだろう。

 何故、自分は責められていないのだろう。

 何故、自分は赦されようとしているのだろう。

 

「おっ、出てきた! ウララちゃーん!」

 

 わっと周りから歓声が。ライブが始まり、ウマ娘たちがステージに躍り出た。

 もちろん今日の主役はハルウララではなかったし、ファンの数だって決して他と比べて多いとはいえない。

 それでも、いつも皆を元気にする。それがハルウララというウマ娘だ。……そのトレーナーとして、自分は相応しいのか。

 わからなく、なっていた。

 

「……それでね、スペちゃんがね……」

 

 時間はあっという間で。ハルウララと二人、帰路につく。ウララはすっかり元気になっていた。

 けれど、悔しさを忘れたわけじゃないだろう。そしてその道は、皆とは違う。

 ハルウララが有馬記念を走れるのは、きっとこれが最初で最後だった。その一回を、俺は敗北で迎えた。なら、なら。もう俺は─

 

「……トレーナー。少し、お願いがあるの」

 

 その時。ハルウララがそう言って、歩みを止めた。

 

「約束して。どこにも行かないって」

 

「どうしたんだ、急に」

「約束して。ぜったい、いっしょだって」

 

 はぐらかすトレーナーに向けて、わたしは約束だけを言い続ける。

 

「うーん、一人になりたい時もあるしなあ」

 

 わかる。わからないけど、わかる。わかるようになった。トレーナーのおかげで。

 なんとなくヘンだった。このままじゃ、トレーナーがどこかへ行ってしまう気がした。それはぜったいな気がして。でも、そんなの嫌だった。

 

「約束できない……?」

「そうだなあ、わからないなあ」

 

 ウソだ。わかる。わたしでもわかるんだから、トレーナーはきっとわかってる。

 

「……トレーナー、ちゃんと、正直に話して。隠してること、あるよね」

 

 わたしのトレーナー。そう、"わたしの"トレーナーだ。

 

 

「……なあ。ウララは悪いことをしたいと思うか? 誰も見てなかったとしても、だ」

 

 気づけば俺たちは川辺に座り、二人で夜空を見上げ。話を始めていた。

 

「……それは、いやだよ。わたし、悪い子になりたくないもん」

「……じゃあ、悪いことをして、バレなくて。謝ることすらできなかったら、どうする?」

「……あやまったら、だめなの?」

「謝ったら、相手を嫌な気持ちにさせちゃうんだよ。だから、それは悪いことで、謝れない」

「……うーん、むずかしい……」

「ごめんごめん。とにかく謝ったら、悪い子になっちゃう時。謝らなくても、悪い子になっちゃう時。どうしたらいい?」

「……どうしても、悪い子なの?」

「そう、そういうことだ」

 

 これが、今の俺を縛る罪の糸。誰も知らない罪を密やかに積み上げている。

 わかっていて、わからなくて。ハルウララを有馬記念に出走させた。

 負けさせた。

 

「……あ、わかった! ならひとつ、いい方法があるよ。

 ……この答えがあってたら、隠してること。教えてね?」

「ああ、いいよ」

 

 板挟みになって。俺の出した答えは一つだった。"逃げてしまえばいい"。もっと大きな罪を重ねれば、小さな罪は潰れて見えなくなってしまうのだから。

 ウララもその答えが分かったのだろうか。分かったとしたら、俺は正式にウララのトレーナーを辞めることにしよう。全てを伝えて。

 

「……えーっとねー……」

 

 少し、考えている。嬉しい。悩むだけ、俺はウララのそばにいられる。

 

 トレーナーが言っている話は、もしかするとトレーナーが今悩んでいることを、ちょっとだけ言ってくれたのかもしれない。

 力になりたい。わたしはそう思った。だって、今までトレーナーは、わたしの力になってくれたのだから。

 そう、だから。

 答えはひとつだ。

 

「謝られる人が、嫌な気持ちをしなければいい!」

 

 

「……どうかな、トレーナー?」

 

 予想外の答えだった。

 

「でもね、わたし思うんだ」

 

 声が出てこない。彼女の言葉を聞き続ける。

 

「好きな人の言うことなら、なんでもしあわせだって! だから、わたしもトレーナーの言うことなら。なんでも聞いちゃうよ?

 ……ねえ、聞かせて? トレーナーのおなやみ」

 

 ふぅ、と息を吐く。本当に、彼女は。俺が思っていたより、ずっと成長していた。

 

「ありがとう、ウララ」

 

 なら、俺が言うべきなのは。

 

「……実は有馬のことで一生懸命だったから、言わないようにしてたんだが。来年明けにはURAファイナルズがある。覚えてるか?」

 

 "こっちだ"。

 

「ゆーあーるえーふぁいなるず?」

 

 ウララの頭上にハテナが浮かぶ。

 

「そう! ある意味ではGⅠより大変かもしれないな。ウララの得意なダートの短距離。そこで一番のウマ娘を決める! ……それに向けて、これからの練習。それを一緒に考えたいなと思ってたんだ」

「……これから。なら、トレーナーはどこにもいかないってこと!?」

 

「ああ、そうなる─うわっ!」

 

 ウララが横から思いっきり抱きついてきて、痛いほど締め付けられる。気づけば、彼女はまた泣いていた。

 

「……よかった、よかったぁ〜! あのね、トレーナーがなんだかどこかに行っちゃう気がして、なんでかわからないけど、さっきからずっとで……」

「心配ない、どこにもいかないよ」

 

 ……また泣かせてしまったな。いつも笑顔な彼女を、2度も。でも、逃げられない。ひしりと捕まってしまったし。

 ハルウララは俺の担当ウマ娘で、俺はハルウララのトレーナーだ。今まで通り、これからも。

 そう、心の中で描いた言の葉を咀嚼する。

 

「ごめんな、何度もウララを泣かせて」

 

 ぽんぽんと、背中をまた撫でてやる。ウララの小さく力強い身体は、より俺の身体にしがみつく。

 

「……むー。……そうだ! 泣いた分、もういっこお願いを聞いてよ、トレーナー!

 ……眼を、つむってほしいなー……?」

 

 逆らえるわけがない。意図もわからず、眼を瞑る。

 沈黙。どうしたんだろう、でも眼を開けるわけにはいかないし……。一言声をかけようか、迷う。そして、口を開く。その時だった。

 柔らかい感覚が、開かれた口を塞ぐ。声は出せない。驚きで、すこしも動けない。

 感覚は離れて。ウララは何事もなかったかのように、言葉を紡ぐ。

 

「……えへへ、トレーナー! これからもよろしくね!」

 

 月明かりに照らされたその顔は、桜桃のように真っ赤だった。



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ミホノブルボンはほにゃららの夢を見るか?

女トレーナーとミホノブルボンが夢を見ます


「マスター。夢を見ました」

 

 今朝。ミホノブルボンが唐突に、そう話しかけてきた。

 彼女がそんな話をするなんて、珍しい。

 

「いい夢だったの?」

 

 聞いてみる。

 

「……記録メモリには、何も残っていません。何も、殆ど。覚えていません。

 ただ。マスターが出てきたことは、覚えています。

 そして、多幸感を得た記憶もあります。ですから感謝を。……プロセスは遂行されました。退出します」

 

「待って、ブルボン」

 

 呼び止める。問題があったわけじゃない。ただ、彼女の見た夢について。

 ……自分が出てきた、というのが少し気になった。そしてそれが彼女にとって、幸せだったと。

 有り体に言えば。このまま帰られると恥ずかしい。なんだかこちらだけ、幸せな勘違いをしてしまっている気がする。

 

「あー、そうだ。夢に私が出てきた。それは間違いない?」

「はい。それだけは、強く覚えています」

「そして、夢を見て幸せな気分になった。それも間違いない」

「はい。感覚は既に失われていますが。そういう記憶は残っています」

「……じゃあ、私が出てきたから幸せになった……とは限らない。忘れてる夢の内容が、幸せだったのかも」

 

 何を説き伏せているのかわからない。ただ、自分がブルボンの夢に出てきたというのが恥ずかしい。

 

「……その可能性は否定できません。ですが」

 

 ブルボンの薄い表情が、少し寂しそうに変わる。

 ああ、そんなつもりじゃないのに。

 なんと言い訳しよう。

 

「ああ、私が言いたいのはね、ブルボン。

 その忘れてる幸せな夢を思い出せたら、貴女にとって素敵じゃないかなーって」

 

 そうだ、その通り。

 

「了解しました、マスター。ですが。一度ロストした記録を思い出すことは困難かと」

 

 それはその通りだ。何か方法はないものか。

 

「あー、もう一回寝てみるとか」

「オペレーション:眠気取得を実行。1.2.3.失敗です、マスター……」

「あはは、そりゃそうだよ、ブルボン。まずよく眠るための準備をしなきゃ」

「準備、とは一体」

「そうだね、うん。今日はトレーニングもお休みの日だし、気持ちよく昼寝するには……」

 

 一つ案が浮かんだ。これだ。

 

「……一緒にお風呂入ろっか、ブルボン」

 

 

「マスター。ここは機械ばかりで、私には向いてないのでは……」

「大丈夫大丈夫!」

 

 そう言って、手を引く。

 ブルボンを連れ立って、近くのスーパー銭湯へやってきた。

 周りの視線はまあそれなりに。"三冠ウマ娘"のブルボンは有名人だ。

 でも、有名人だって出かける権利がある。ウマ娘だって年頃の女の子なんだからと、私は思う。

 

「さあ、こっちこっち! お風呂で血行を良くしたら、身体があったまってよく眠れるんだから!」

 

 コインロッカーから何まで機械だらけのスーパー銭湯で、未知の光景に目を白黒させているブルボン。

 その手を取って、リードして。服を脱いで、湯船へと向かう。

 

 ミホノブルボンの身体を洗う。別にそこまでする必要はないけど、それが不審に思われている様子はない。

 素晴らしく均整の取れた身体。しかし傷の痕はなく。彼女のトレーニングの成果と、恐れ多くも私の管理能力。その真髄が、彼女の肢体には詰まっていた。

 

「……マスター。すこし、くすぐったい感覚があります」

「ごめんごめん、ブルボン。優しく洗わなきゃと思うと、手が震えちゃって」

「……優しくしていただきありがとうございます、マスター」

 

 律儀にお礼を言われる。すこし、にやけてしまった。

 でも、見えていないから問題ない。

 じゃばー。お湯を背中からかけて、彼女の身体を洗い終える。

 ……これ以上触れるのは、蛮勇だ。

 

「さ、背中はこれで綺麗になったよ。あとは自分で─」

「お待ちください、マスター」

 

 へ?

 

「私はマスターに背中を洗っていただき、"幸せ"でした。

 ならば。マスターの背中を洗えば、マスターを幸せにできると考えます」

 

 ぐい。確かに掴まれて、逃れる術はなかった。

 そういえば、幸せな夢を思い出すために銭湯に来たんだっけ。

 

「……ありがとう、ブルボン」

 

 ブルボンの背中に比べたら、私の背中は貧相だ。それを見せるのすら、恥ずかしい。

 

「マスターの背中は、問題ないと思いますが」

「……声に出てた?」

 

「マスターの口から言葉が出ていたという意味なら、はい」

 恥ずかしい。耳まで真っ赤になる。

 私には、もったいない言葉だ。

 肉体美を褒められるべきは、ウマ娘の役割で。

 "私は、ウマ娘にはなれなかった"。

 

 憧れた。遠い、遠い過去の夢。彼女達には耳が生えていることに気づかなかった。自分には尾が生えていないことに気づかなかった。

 確かに見たその夢は、今も私を導いていて。縛っていて。

 トレーナーという仕事にまで就かせた。

 そしてミホノブルボンに出会い、彼女の夢を支えた。

 夢。今は彼女が、私の夢だ。

 それを見続けている限り、私は幸せだ。

 ああ、そうか。だから恥ずかしかったんだ。私が貴女を見ていて、貴女も私を見ていたら。

 それは、まるで。

 

「……ありがとう、ブルボン。あとは自分で洗うよ。ブルボンも自分の身体を洗っておいで」

 

 そう言って、離れる。

 いつかは、離れるのだから。

 **

「いい湯だね」

「はい、マスター」

「上がったら、眠れそう?」

「……体温の上昇を感知。意識にも眠気が混濁しています」

「それはよかった」

 

 ざぱん。

 

「……そろそろ上がろうか」

「はい、マスター」

 

 そうして、湯船から上がって、浴衣に着替えて。

 ……ブルボンがうっかり触ったコインロッカーが、故障してしまったのは割愛しよう。

 

「……マスター。ねむ、けが」

 

 休憩室。私とブルボンは、折り重なってうつらうつら。

 

「……うんうん、よーく眠りー……」

 

 予定通り、ばっちり眠くなった。私も含めて。

 視界が閉じられ。ゆっくりと互いに互いを沈め。

 眠っていく。2人とも。

 

 白い世界。意識が白に染まって、私は夢の中にいることに気づく。

 ああ、なんて。素晴らしい。

 気づく。夢を見るだけで、私は幸せなのだ。

 それはどんな夢でも変わらない。私がかつて見た夢も。私が彼女に見た夢も。眠る私が見る夢も。

 その側には、この世界は。ウマ娘がいつも、夢を見せてくれるから。

 ごとん。頭を打って、強制的に目が覚める。……おかげさまで、夢の内容を忘れずに起きれた。

 ブルボンを見ると、まだすやすやと。小さく寝言が、聞こえた。

 

「……マス……ター……」

 

 ふふっ。ほんとに私の夢を見てる。彼女は私のことを、どう思っているのだろう。マスター。その言葉に、どれほどの親愛を込めてくれているのだろう。

 

「ねえ、ブルボン。こっそり教えてあげるけど。

 私は貴女の夢を見れて、幸せだったよ。

 頑張り屋さんなところも、ちょっと天然なところも。大好き」

 

 そう、今のうちに吐き出しておく。返事の代わりに寝息が返ってくる。

 最初の三年間を乗り越えて。これから先、ミホノブルボンはきっと走り続ける。

 ……そしていつかは。引退して、家庭を持って。彼女は優しい子だ。きっとみんなに愛される。私がいなくなっても。

 

「おはようございます、マスター」

 

 ぱちっ。ブルボンは目を覚ますと、すらすらと挨拶を述べた。

 

「……夢の内容は、覚えていません……。失敗です、マスター……」

 

 そう申し訳なさそうに述べるブルボンに向けて、違うよ、と首を横に振る。

 

「貴女の夢は、私が見てあげるから」

「それは、どういう」

 

 自分でも言語化できないけど。ミホノブルボンというウマ娘のことを、私はよく知っている。それなら、当たり前のことだったのだ。

 

「だから、大丈夫だってこと!」

 

 なんとなく、根拠はない。だけど当たり前。

 

「……はい、マスター」

 

 彼女はいつも私を信じてくれていた。理屈がなくても、心が戸惑っても、いつも。

 なら、これからも。

 貴女の競争生命の最後まで。

 

「よし、帰ろうか」

 

 そしてその終りの時。貴女がもう、1人で立てるようになった時。

 私の愛は、鉄の如く燃え尽きる。



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アドマイヤベガとスペシャルウィークと星

ダービーウマ娘たちが星を見ます


 私は星が好きだ。輝ける星の煌めきが好きだ。ひとり孤独に、何者にもまつろわぬ一番星が好きだ。この都会でも、一番星は街の灯りに負けず輝いている。その有り様が好きだ。

 

 わたしは星が好きです。輝く星の光が好きです。みんな一緒に、夜空を埋め尽くす流星群が好きです。トレセン学園では、あまり星は見えないけれど。それでも必死に煌めく、そのど根性が好きです。

 

 そうして、人気のない夜の道。空を眺めてふらりふらり。私、アドマイヤベガはダービーをあのテイエムオペラオーから勝ち取った後、ばったり調子を崩してしまった。もう、走る感覚も朧げになっていて。引退も少し頭によぎる。

 

 そうして、人通りのない夜の道。空を眺めて歩いて。わたし、スペシャルウィークは最近いまいち調子が出ません……。グラスちゃんに負けて、前の京都大賞典も。なんだかもう勝てないような、そんな不安も頭をよぎります。

 

「はぁ……」

 

 ため息をついて、私は前を見てなくて。

 

「ふぅ……」

 

 空を見上げて、わたしはぼーっとしていて。

 

 

 どしん。思いっきり、衝突した。互いにうめき声をあげる。この道を人が通るなんて珍しい、そんなことを思った。ただまずは、謝らなければ。

 

「……すみません」

「ごめんなさい……。いたた……」

 

 目の前の娘を見て。わたしは、痛いのも忘れて驚き慌てました。それは、向こうも同じだったようです。また小さく、互いに叫びました。

 

「スペシャルウィークさん……!」

「アドマイヤベガさん……!」

「あの、私。アドマイヤベガって言います。……ダービーの先輩として、尊敬してます。スペシャルウィークさん」

「わたしもです、アドマイヤベガさん! わたしも貴女のダービー見てました! ……あっ、よろしく、スペシャルウィークです!」

 

 目の前の人は、礼儀正しくハキハキと。見ていると元気を貰えるような気がした。こちらも深くお辞儀をする。

 

「あの……星を眺めてたんですか?」

「……うん、ベガさんも?」

「そうです、あの一番星……。歩いても歩いても、場所が変わらないのがなんだか素敵で。私、星を見るのが好きなんです」

「……わたしもです、ベガさん! 子供の頃はね、おかあちゃんと一緒に満天の星を眺めてて……。こっちに来て、星の見える数は減ったけど。星が光ってることは変わらない。おかあちゃんも見てるかな〜って、すこし寂しくなるんです……」

 

 気づけばわたしたちは、河川敷のふわふわした草むらに腰を下ろしていました。まさに星の巡り合わせ。運命的な出会いのように思えました。

 

「秋の星空。綺麗ですね……。本当に、どこでも星は光っている」

「そうですね……。……あっ、今の、流星! 見たみた!?」

「……えっどこですか! ……って、もう遅いですよね……はは。……はぁ。流星、ですか。流星って一瞬激しく輝いて、でも消えてしまうじゃないですか。それが、なんだか寂しく思ってしまいます。……いまの、私のようで」

 

 少し、弱音を漏らしてしまう。ダービーの後の私は、スペシャルウィークさんのそれとは違う。このまま走りきれず、終わってしまうのだろうか。あの流星のように、最後は誰にも見えない暗さになって。

 ふとあの人……オペラオーの姿が頭に浮かぶ。そういえばあの人も、最近はいまいち勝ちきれていないようだ。元気にはしているだろうけど。大丈夫、だろうか。

 

「ベガさん……。……実は、弱気になってるのはわたしもなんです。わたし、最近怖い。走るのが、怖い。この前の京都大賞典なんか、一番人気なのにぼろぼろで。期待を裏切るのが、怖い」

「スペさん……」

「でもわたしには、夢があるから。日本一のウマ娘になるって夢が。だから。今日だけ。今日だけ弱音を吐こうと思って、星を見に来たんです」

「……やっぱりすごいです、スペシャルウィークさんは。私にも夢があったんです。でも。私の夢は、ダービーで燃え尽きてしまった。世代最強にはもうなれない。それは誰かのせいとかではなく、私が走れていないから」

 

 肩を寄せ合い。星を見上げて。今だけ、弱さを曝け出す。わたしたちだけの秘密を、星の前に並べてゆく。

 

「グラスちゃんにね、負けちゃって。負けるのは何度もあったけど、今度の負けは初めてだったんです。なんだか完敗、って感じがしちゃうような。それっきり、一番にはなれないような」

「オペラオーって人が、どんどん強さを見せていて。あの人がシニア級の先輩方にも負けない走りを見せるほど、同世代でオペラオーに勝ったはずの、私の存在が小さくなっていく気がして」

 

 その名を聞いて、少し先輩が反応する。

 

「ああ、オペラオーさん! 前の京都大賞典で悪いことしちゃったなあ……。わたし、全然ダメで。それをマークしてたオペラオーさんも伸び切らない結果になったというか……。わたしのせい、なんて言うのは傲慢ですけど」

「世代最強の一番星。それは多分、あの人のことなんだろうなって。今なら思います。……私じゃ、ない。……私、聞いちゃったんです。黄金世代に比べたら、オペラオーが勝てるのは同世代が弱いだけだって。……一番を目指してたはずなのに、私はいつのまにか一番の足を引っ張るだけに……」

「それは、違うと思う」

 

 世代最強。その言葉は、わたしたちにとっても重いもの。だから、分かる。

 

「たとえば上の世代に憧れる人がいて。その人を目指して、走る。それは素晴らしいことですけど、それだけじゃダメなんです。

 競い合う仲間がいるからこそ。近くにいる相手を見据えてこそ。強く、速く走れるんです。最強は、一人で走って決めるんじゃなくて。レースで決めるんだから」

「誰かと、走る」

「そう! だから。ベガさんもきっといつか、また。一緒に走れるようになります! みんな、みんながライバルなんだから!」

 

 ちょっと受け売りだけど、と先輩は笑って付け足した。でも、確かに染み入った。ライバル。私はオペラオーのライバルだ。そう言うことになっていた気がする。

 気がつけば、すっかり暗くなっていて。そろそろ門限が近い。寮に帰らないと。……明日は少し体調が良くなっていたらいいな。そう思った。その時、横から不意に声がした。

 

「……あっ!」

「……あっ」

 

 釣られて声を上げたのではない。しっかりと、その目の先にあるものを一緒に見たから。1秒間ほど。とても長くて短い時間。星がきらり、明るく燃えた。

 

「……こんど! こんどこそ! ベガさんも見ました!?」

「はい! 見えました!」

 

 俄然、二人で盛り上がってしまって。ベガさんがそんなに興奮するのは滅多にないことのような気がしたので、それもまた嬉しくて。

 

 思わず高揚してしまう。レースに出た時の、一番になった時のそれを思い出すように。二人で感情を分かち合えるのが、とても素敵で。

 

 わたしも頑張らないと。弱音を吐いて、心を見つめ直して。何かが、掴めた気がした。

 

 私も頑張らなくちゃ。誰かとたくさん話すのは、本当に久しぶりだった。また、いつか。

 

「あの、スペシャルウィークさん」

「……? なんでしょう?」

「いつか、一緒に。走りたいです」

 

 それは、出会いに対する最大の賛辞。

 

「……うん! 一緒に。走ろう!」

 

 自分がそんなことを言われる側になるとは、思ってもなかったけど。少しこそばゆいです……。

 

「だから」

 

 そう、だから。

 

「……また一緒に、星を見ましょう!」

 

 今日から、わたしたちは友達です。



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明晰夢を見るセイウンスカイ

セイウンスカイが夢うつつします


 青く。蒼く。空は遠く、広く。

 高く。崇く。天は清く、遠く。

 私の目の前に、澄んだ青空が広がっている。私は翼もなしに、自由に宙を飛び回っていた。進めば進むほど、鮮やかな雲が裂けていく。空を飛ぶのはとても心地がいい。ずっと、こうしていたい。

 やがて大きな雲の中に私は滑り込み、景色は一変する。眼下にあるのは、緑いっぱいの草原だった。少し、降りてみようか。そう思うと、私の身体は緩やかに高度を下げる。ぽふん、と草むらに優しく衝突する。朧げに全身を包まれるのが、また心地いい。

 でも、これだけじゃ足りない。もっと面白くできる。私が思考を彼女たちに向けると、皆次々に姿を現した。そこで漸く気づいた。

 これは、明晰夢だ。

 

「やあみんな〜、と言ってもこれは夢の中で、皆本物じゃないけど。お集まりいただきありがとうございます」

「そんなこと言わないでくださいセイちゃん!」

「そうですよ〜、夢の中なんだから。なんでもあなたの思うまま、です」

 

 これは夢だと私が気づいても、夢は覚めるどころか一層はっきり、くっきりとしてきた。

 

「エルたちと一緒に! 現実ではできないようなすごいことをしまショウ!」

「にゃはは〜、そうかそうか〜。すごいことか〜。迷っちゃうな〜」

「そう言いながら、本当は目的があって呼んだのではなくて? 夢というのは、泡沫のように消えゆくもの。理由がなければ、はっきりした形を持たない」

 

 さすがお嬢様。いや、ここにいるのは影法師。ずっと一緒に過ごしてきた同期の姿と声を、私の記憶が真似たもの。でも、上出来だ。よく寝ていた甲斐があったというものだ。

 明晰夢。人がごく稀に見ることができる、明瞭で、自由で、何者にも縛られない夢のカタチ。そこでは感覚さえ再現されているかのように錯覚する。私の脳がフル回転して、脳みそ自身を騙しているのだ。

 さて。そんな、なんでもできる夢の中で私が望んだものが、これだ。青々とした草原で、同期5人で輪を作る。そしてこの先も、なんとなく読める。いや、それは当然だ。私が見ている夢の内容は、私自身が考えているのだから。

 皆はいつのまにか沈黙して。私の言葉を待っている。この先の筋書きは、こうだ。

 

「あらあら皆さん押し黙っておいでで。ならそんなあなたたちに、私からプレゼント。はい、まずはキング」

 

 いつのまにか大きく大きく、風船のように膨らんだキングヘイローだったものを、私はプスっと穴を開けて破裂させる。……この儀式が、たまらなくやりたかった。

 

「……道は交わらなくなったけど。だからこそ、私たちはライバルだと思うんだ、なんてね」

 

 だから、彼女は偉大に、偉大に見えて。でもそれを倒すのは、きっと私だ。

 

「次はエル……って、今度はうずくまってる。それを……こう!」

 

 私はどこからともなく布を取り出し。エルコンドルパサーの姿をしていたものを覆い隠す。……次の瞬間、薄布を引き裂いて鳩の大群が生まれ出で、天へと飛び去った。

 

「エルとは結局ガチンコ出来なかったな〜ってのが、心残りだったりなんだり。でも、応援してる。だから、私と同じ空を目指して欲しい」

 

 だから、彼女は大翼と大望を掲げて。でも空へ向かうのは、私と一緒だ。

 

「こんにちは〜、スペシャルウィークさんや。……君は姿が変わらない……。でも、迷いはないよ」

 

 私は剣を抜き、スペシャルウィークの人影をまっ二つに斬る。眩い光が分たれたところから迸り、人影は跡形もなく消えた。

 

「ダービーを取られて。菊花賞は取り返したね。それでお互い三冠は成らなかった。でもそこに後悔はない、よね?」

 

 だから、彼女は強くて。内には光り輝く夢があって。でも私は、君と並び立つ。

 

「最後は、グラスだね。覚悟はいい? ……なんちゃって」

 

 彼女の姿は、いつのまにか。私自身のそれへと変わっていた。ぱん、と私は思い切り手を叩く。グラスワンダーから私自身へと変わりゆく途中のどろどろは、一瞬で弾けた。

 

「……ここだけの話。私はグラスちゃんの中に私自身を見てたのかもね。1番、勝ちたい。1番、負けたくない。その気持ちがあったのは、私たち。私たちは、同じ土俵で競っていた」

 

 だから、彼女は私を写して。彼女を鑑と鏡にして、私は勝利へと手を伸ばした。でも私は、君を超える。

 あっという間に儀式は終わった。私が皆をかけがえのない敵であると認める儀式。今更だけど、夢というのはそういうものだ。過ぎ去った過去に今を見て、遠く近くを愛しむ時間。

 儀式を終えると、景色は一変し。薄雲と血の色で染まった空と、荒廃した大地が広がった。これが、私の本当の心象風景。今の私の、空の底のネガティヴ。

 天皇賞、秋。私の脚は、それ以上走ることを拒んだ。これ以上は、やめておけ。怪我ではなく病気。私の衰え。私の限界。その年の有馬記念には、出られない。そういうことに、なった。

 誰も悪くない。誰もが良い人だ。私をお見舞いに来てくれる同期の皆も、誰も悪くない。いつかまた走れると言って、私の代わりに駆けずり回っているトレーナーさんも、悪くない。

 でも、でも。この夢は優しく残酷で。私の抱えたままの闘争心を、剥き出しにした。"本当は、みんなと走りたい"。そう思っていたのを暴いた。私は泣くのなんて下手くそだ。だから走れないことを受け入れたふりを一度、してしまった。だけど、だけど。

 意味のない仮定は多々あれど、その極みだと思う。"私があそこで走りたいと言ったなら"、なんていうのは。そんな仮定をするならば、脚を悪くしない仮定でも立てたら良いのに。なのに、なのに。

 私は毎日、自分はどうして勇気を出せなかったのだろうと。幾度となく思い返している。けれど、言葉にならない。なんでもできる夢の中でさえ、言葉にできない。

 脚に感覚が戻ってきた。……即ち、私の脚は不自由な現実へと戻る。自由に走ることが叶わないあの世界に。嫌だと思った。ずっと夢の中にいたいと願った。

 

「やだ、やだよ。私が思いっきり走れるのは、夢の中だけだなんて。夢なら、醒めないで」

 

 そう願っても、願っても。現実は、私を引きずっていく。最後、開かれていく瞼の裏に私が見たものは。いつか見た現実。トレーナーさんと作戦を練った最初の日。その光景だった。

 

 目は薄く、薄く開かれて。私がいるのは、"いつもの寮の部屋"。そんな気が、した。……病院は? ……先程まで、私が現実と信じていた脚の苦痛は? わからない。夢うつつな感覚は、どちらを現実とも断じてはくれなかった。

 震える手で、スマホを取り出す。曖昧な頭で、いつもの電話先をコールする。トレーナーさんが出るまで、現実が確定するまで。私はこの瞬間を必死に噛み締めていよう。

 夢なら、醒めないで。



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マチカネフクキタルとチームを組みたい

マチカネフクキタルとチームを組みたい女トレーナーです
続くかも


 チーム。ウマ娘をまとめ、サポートするトレーナーの在り方。

 チーム。同じ星の下、互いに高め合い競い合うウマ娘たちの在り方。

 トレセン学園において、トレーナーとウマ娘が協力しあう団体。それが、チームだ。……その命運を決めるため、私は今理事長と対面している。

 

「理事長! 設立したばかりなのに私のチームが解散ってどういうことですか! 彼女とのトゥインクル・シリーズ、確かにやり遂げました。つきましては私には更なるウマ娘たちを担当する権利がある! そう思いませんか理事長!」

「見事! 確かに君には実績がある! 優秀なトレーナーがたくさんのウマ娘を導くのは素晴らしいことだ! ……だが」

 

 トゥインクル・シリーズでの最初の担当ウマ娘との三年間を超えた私は、新たなチームの設立を願い出た。それはちゃんと受理されてたみたいだし、今の反応も悪くない。ノセれたと思ったんだけどな。だが、なんだろう。

 

「不足。チーム結成にはある程度人数を揃えてもらわないと成り立たない」

「ちょっと待ってください。私の担当に加えて更に4人、合わせて5人はいるはずですが」

 

 私と彼女の功績を以てすれば、それくらいは呼べる。呼んだんだけど。

 

「そう、そのはずなのだが。……危機! 君の担当ウマ娘は君のチームには入らないと言っている! ……というわけで」

「えっ、えぇっ! ちょっと待ってください、フクキタルからはそんな話一言も」

「残念……。こちらとしても無念だが、チームの柱となる存在が所属を取りやめるとなって、他のメンバーも脱退を表明。チームは設立直後に空中分解……というわけだ」

 

 マチカネフクキタル。私の最初の担当ウマ娘。私の最初のパートナー。トゥインクル・シリーズでかなりの活躍をおさめた私たちは、次なる野望としてチームを結成することを決めた。フクキタルも快く了承、というか乗り気だったはずなんだけど……。

 

「……私、フクキタルに話聞いてきます。このままじゃ終われないんだから……!」

「制止ッ! まだ話は……」

 

 これ以上に大事な話があるものか。私は急いで部屋を出て、フクキタルを探しに出かける。……しかし、どこに行ったのだろう? それにどうして、チームに入りたくないなんて……。

 

 しゃらん、しゃらん。トレーナーさんが来る前に、願い事を済ませておく。トレーナーさんは、あとどれくらいで来てくれるだろうか? 一時間? 二時間? ……ううん、もっと早くきてくれるはず。ここは私たちの思い出の場所。私の1番大切なトレーナーさん。

 ……たとえ、貴女が赦してくれなくても。

 

「……30分。流石ですね、トレーナーさん」

「そりゃあ、私は貴女のトレーナーだからね。……そんな悲しそうなフクはあまり見たことがないけど」

 

 彼女の口は薄く弧を描いていたけれど。その目に憂いが湛えられているのに、私は気づいた。……理由アリというやつか。

 

「……まあさ、いつもみたいに。とりあえず、普段通りに。お話し、しよっか」

「……トレーナーさんは、いつも優しいですね」

 

 気がつけば、私は当初の目的も忘れて。フクキタルと対面したまま、少しずつ会話を進める。

 

 貴女は私の話に、いつものように言葉を弾ませる。いつものように笑みを溢す。トレーナーさんは、変わらない。なんだか私がわがままを言ってしまっているかのように感じる。いや、きっとその通りなのだろう。なら、私は心を押し込めるべきだ。そうするべきだ。

 

「……ふぅ。ありがとうございます、トレーナーさん」

「お礼を言われるようなことは何もしてないよ」

「いえいえ、私からすれば貴女という幸運のお守りが近くにいてくれるだけで! まさに大吉、宝船に乗った気分です! ……では、帰りますか」

「フクキタル……」

「……実は、チームの件も。運勢的にどうかなーって思っただけなんです。だから、ちゃんと入ります。ご迷惑をおかけしました」

 

 ぺこり。彼女は頭を下げて、顔を上げる。彼女はいつもの元気を取り戻したかのようだった。でも、私には分かる。その顔には、まだ不安が張り付いていることが。

 

「フク」

「はい、トレーナーさん?」

「私は貴女のトレーナー。それはたとえチームを組んでも変わらない。そのつもりだから」

 

 私にはトレーナーさんの言いたいことがわからなかった。でも、彼女が安心させようとしてくれているのは分かった。幸せだった。

 

「……すみません、言っている意味がよく」

 

 言葉にするのは無粋だとしても。言葉にすることが不安を取り払うというのなら。私は何度でも、どんなことを言っても恥ずかしくない。

 

「チームを組んでも。私の1番はフクキタルだ。それを、ここに。神に誓う」

 

 私は告げる。

 

「フクキタル。貴女はきっと、私のことを大事に思ってくれた。この3年で、貴女にそれだけ信頼されたのは嬉しいと思う。でも、だからこそ貴女は怖くなった。大事な人が、自分から離れていかないか。つまりその、あーもう恥ずかしい! 後で責任取ってよね!」

 

 いつのまにか私の頬が紅潮しているのが分かる。フクキタルは口をぽかんと開けて、こちらを見ている。

 

「つまり。貴女は私のことが好きだから! 多分、それで! 好きな人を独り占めしたい心理が! ……この、みなまで言わせるか……」

 

 何故私まで照れているのか。私の方が、秘めた気持ちを口に出してしまいそうだった。もう限界だし。私は誤魔化すためにフクキタルに飛びかかり、彼女の頬を思い切り捏ね回す。

 

「ほぎゃ! トレーナーさん……シリアスな空気がー!」

「うるさい! ああもう、とにかく絶対! 貴女から私は離れないよ、絶対に! チームになっても、心の距離も! ……私も、貴女のことが好きだから!」

「! ……はい……!」

 

 どさくさ紛れに言ってしまう。そもそもチームを結成したかったのも、フクキタルの周りが楽しくなればいいなと思ってのことだったっけ。……貴女の"好き"は、愛ではないだろうけど。

 私の"好き"は、恋かもしれない。引っ張られる形で、自分の気持ちの真意に気づく。そう、本当は。貴女が走るその姿に。皆に愛されるその走りに。ずっと最初から、恋焦がれていた。

 

「……さて。今度こそスッキリした? トレーナーに愛を叫んでもらって」

「はい! いやあトレーナーさんがそんなに私のことを想ってくれていたとは! 相思相愛とはこのことですね! ……はっ! 今日のラッキーアイテムは素敵なお姉さん! これはトレーナーさんのことでしたかっ!」

「……その占い本当?」

 

 などと。いつもの軽口に戻る。……でも、本当は戻っていないものがある。私の気持ちは動き出した。チーム結成を引き鉄に、貴女の可愛らしい拗ね方をきっかけに。私は自分の気持ちのブレーキを外してしまったようだ。どろどろした、ナニカ。

 貴女は忘れてしまっているのだろう。本当は、貴女の方が先に皆の愛を受けていたことを。多くのファンから愛されて、私は貴女のファンの1人に埋没していたことを。だから、振り向かせるためにチームを結成しようとした。結果として、貴女は私を手放さないための行動に出た。それを呼び止め、私はまた貴女の1番に舞い戻る。多少の想定外はあれど、読み通りだ。

 ああ、貴女が悪いんだよフクキタル。そんなに距離が近かったら勘違いしてしまう。勘違いだと分かっていても、もう私は止まれない。止まるつもりもない。

 

「ああそうだ、トレーナーさん! チーム名を決めましょう! 確か、前のは仮決定だったはず」

「……うん、いいかもね。チームの名前は私たち2人で決める。それで今回の件は手打ちにしよう」

「なるほどなるほど! それなら私が、絶好の名前を考えましょう!」

「……あっごめんフクキタル。思いついちゃった」

 

 本当は、前々から決めてある。遅かれ早かれ、ここに終着させるつもりだった。だって私たちを閉じ込める花園になるのだから。その名の共有手順は劇的であるべきだ。

 

「……ふむ。なんでしょうか?」

「チーム<ニビル>。幻想の天体。存在しない惑星の名。人間を生み出した知的生命体の住む所……とっても神秘的だと思わない?」

「……おお〜! スピリチュアルなパワーが湧いてきた気がします!」

「早い、早いよフクキタル」

 

 これはオカルトのソレで、本当はそんな星は存在しない。でもフクキタルにはぴったりだと思ったし、何より。

 ……人間たちのために母なる惑星ティアマトを破壊した罪を持つその名は。背徳的な愛に身を包む私にも合っている気がした。

 けろっとした笑みをフクキタルは投げかける。貴女は本当に可愛らしい。それを汚すのは心が痛む。だから、私は決して貴女を汚さない。芯から染め上げ、甘ったるい蜜で貴女を溶かすのだ。

 

「……さあ行きましょうトレーナーさん! 今度こそ、チーム結成です! ……ああどうしましょう、私が逃げたから皆いなくなってしまったんでしたっけ……?」

「そうだねぇ、大変だ」

「あわわ……急いで戻りましょう! トレーナーさんを悲しませることになったら、シラオキ様の祟りが……」

 

 私はにんまり笑っているけどね。それこそ知られたらシラオキ様に祟られてしまうかも、なんて。さて、帰ろう。チーム結成。もちろん新しいウマ娘達に会えるのは楽しみだ。フクキタルの新しい側面が見えるのも、楽しみだ。

 そんな私たちを待っていたのは、今度こそ想定外の事態だった。

 

「報告! 今度こそ、君に伝えることがある!」

「フクキタルは帰ってきましたし。何か他にあるんですか?」

「……新人ッ! 君たちのチーム……チーム<ニビル>に、しかも空中分解直後の時にッ!

 ……参加希望者が現れたのだ!」

「……なんですって?」

「……許可! 入りたまえ!」

 

 がちゃん。扉を開けて入ってきたのは1人のウマ娘。彼女は大胆不敵に、傲岸不遜に言う。

 

「やあ、僕の未来のトレーナー君、そして偉大なる先輩、マチカネフクキタル君! このボク、次代の覇王テイエムオペラオーが! 君たちのチームに参加することを宣言しよう!」

 

 私とフクキタルなら、誰が来ても受け止めれるつもりだったけど。……こんなキャラが濃いのは想定してなかったな……。

 



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王様ゲームをするチームスピカとチームカノープス

トレスズです


「おす! 一期ネイチャだぜ! ……って何この罰ゲーム!」

 罰ゲーム。チームスピカとカノープスでの交流会を開いたのだが、そこにあったのは地獄の王様ゲームだった。

「……3番と5番、今と違うキャラをしてください」

 そう王様たるスズカが謎の命令を下したのだが、どうもナイスネイチャにはそれが変な形で伝わったようで。

「いっちょやってやんよ! 何も恥ずかしくないぜ!」

 顔を真っ赤にしながら話し続けるネイチャ。ちなみに5番、トウカイテイオーはというと。

「ふん! ネイチャばっかり見ちゃってさ、ボクの事だって見なさい……よね!? よねってなんだ、なんなのー! 恥ずかしいから聞かないでぇ……」

「おいテイオー! こっちの方が恥ずかしいからな! だぜ! ……そんなにだぜって言う?」

 周りは大爆笑。南坂トレーナーも笑いを堪えきれていない……。しかし一体どうして、スズカはこんな命令をしたのだろう。端で神妙な顔をしているスズカに声をかける。

「お疲れ様です、トレーナーさん」

「お疲れ様、やってくれたなスズカ」

 彼女がこんな悪戯をするのは珍しい。そう言うと、クスリと笑って返す。

「復帰戦の時のネイチャさんが、懐かしくて。本当に、また走れて良かった」

「そうか。そうだな。走れて良かった。同感だ」

 走れるということがどれほど彼女たちにとって大切なのか、実感としては得られない。でも、わかる。

「次の王様を決めます……わよ! ちょっとスズカー! これ治してー!」

「はいはい、次の王様は……おっと。スペちゃんかな」

 なんとなく、スズカはこのゲームを支配しているような気がした。何もかもが彼女の言いなり。今だけは。

「じゃあ次は私が! えっと、4番さんと7番さん、ぽっきーげーむ? を……」

「あら、4番は私ねスペちゃん。7番は……誰かしら?」

 スズカが妖しくこちらを睨む。おいおいエスパーかよ。そもそもスペはポッキーゲームを知ってるのか?

「……あー、7番だ。俺だ、参った!」

「降参してもダメですよトレーナーさん。ポッキーゲーム、しましょう?」

「ポッキーならここにありますよスズカさん! これで何をするんですか?」

 説明するのも憚られる。そうしているとスズカは無言でポッキーの片方を口に挟み、目を閉じる。おいおい。なんで乗り気なんだ。全部仕組まれているような気すらした。

「早くしなさいよトレーナー!」「男だろ!」そんなこのゲームを知っているかも怪しい野次に追い立てられ、覚悟を決める。

 スズカはじっと目を瞑っている。周りのウマ娘達は何が起こるかも知らずに……いやあのネイチャの態度、あの子は知ってるな。助けてくれ。

 南坂トレーナーも目を背けている。助けてくれ。

「あー、このゲームは良い子のみんなは見ちゃダメだ。いいか、ゲームだからやるんだからな! こうポッキーの両端を……」

 周りの空気が変わる。間違いを起こすなよ、と言われている気がする。当然だ、と言いたいところだったが。

 ポッキーを食べ進める。あんまりにも動かないのも盛り上がりにかけるかも知れないが、ここは真剣だ。とはいえ食べるのをやめられないのは、瞑った目の前から圧力を感じるから。まさか事故を狙ってないだろうな、スズカ……。

 そう、祈る。祈るように食べ進める。もうここらでいいだろう、そう直感が告げたので打ち切ろうとした、その時だった。

 ぱくん。一瞬何が起こったのか分からなかった。否、次の瞬間には俺はゴールドシップとマックイーンにプロレス技をかけられていたので何も分からないままだった。それも意識を失う勢いで。

 でも、確かに見てしまった。目の前の少女が、口元を両手で押さえるのを。

 その顔は、紅く。春の桜のように色づいていた。



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私の夢はツインターボ

ツインターボの有馬記念2回目です


 年末の中山。そこでは皆の夢が叶う。あなたの夢、私の夢。誰もがその舞台に夢を見る。私たちトレーナーは、夢を叶えるためにいる。ファンの夢と、他でもない担当ウマ娘の夢。そして、私たち自身の夢。

 皆の夢を重ね合わせて、実像を浮かび上がらせる。浮かび上がる場所はそう、ステージのセンターだ。そこしかない。

 さて、あなたに問おう。あなたは誰に夢を託しましたか? 史上初の七冠達成? 誰もに愛される芦毛の怪物? 奇跡の復活を遂げた帝王? きっと、その夢はどれも素晴らしい。どんな夢も、見る権利がある。だから。

 だから。私が見た夢は、この子だ。いつでも自信満々で、いつでも全身全霊で。がむしゃらに、ひたすらに。

 私の夢はツインターボ。前代未聞の大逃げで人々を引っ張る拙い輝き。でも、あなたは紛れもないスターだと。私は信じている。

 

「ターボ今度こそ勝つもん! 絶対一番!」

「あのねえターボ、私は何もあなたに勝たせたくないわけじゃないの」

 

 最初にツインターボから二度目の有馬記念を提案された時、真っ先に否定したのを覚えている。ここ最近は負け続き。そろそろ彼女の距離適性も見えてきたところだ。それに。彼女の脚に衰えが見え始めていたのも、分かっていた。

 勝てる見込みのないレースに無理に出る必要なんてない。それは着実に勝利を掴むためには当たり前のことだった。だったのだが。

 

「ねえお願いトレーナー、もう一回! もう一回有マ記念に出させて! ターボ出たい!」

 

 そう言って聞かない。前回の有マを忘れたわけじゃないだろうに。私だって、忘れもしない。新人だった私と、調子に乗っていたツインターボは3年前、有マ記念への出走を決めた。初のGⅠで年末の中山を選択する。我ながらとんでもない奴らだったと、振り返って思う。根拠もないのに、負ける気はしなかった。

 しかし結果は惨敗中の惨敗。後数百メートル短ければなんてのは、最後の数メートルまで分からない勝負の世界では全く意味のない仮定だ。GⅠという大舞台、その最高峰の洗礼を二人して受けたことになる。

 その上ターボは体調を暫く崩すことになったので、私は大いに反省した。今ではいい思い出……なのだろうか。

 

「……はぁ」

「お? トレーナー諦めた? ターボの勝ち!?」

「なわけないない。まったく、どこに勝ち目があるっていうの」

 

 昔の自分は二つ返事していたわけだが。私はこの4年で良くも悪くも成長した。まあそういうわけだと思って、そっちが諦めて欲しい。

 

「……トレーナーは、悔しくないの」

「悔しいよ。悔しいから、ちゃんと勝てそうなレースを選んで、それ以外は休むべきだって言ってるんだけど」

 

 変わらない、デビューした時から変わらないツインターボに少し苛立ちを覚えてしまう。ツインターボにとっては、きっとそんな私こそ苛立たしい存在で。

 

「……もういい」

「……? どうしたのターボ」

「もういいもん! ターボ一人で走るもん! トレーナーなんかいらない!」

「えっ、ちょっとターボ……!」

 

 ばたん、と勢いよく扉が閉められる。一筋の涙を残して、ツインターボの姿が消えた。彼女は直情的な性格で、泣くのはそんなに珍しくなかったけど。泣きついてこなかったのは、初めてだった。

 トレーナーなんか、いらない。乱雑に残された言葉が、私の心臓に深々と突き刺さる。苛立ちと焦りと戸惑いがない混ぜになる。そんなに、私は必要とされていなかったのだろうか。そう思ってしまった。立ち止まってしまった。

 彼女は寮へ帰ってしまったらしく。その日のトレーニングはお流れになった。独り片付けをして、帰路につく。思えば学園にいる間はいつも一緒で、離れたのは初めてな気さえした。

 

「ターボは全員をぶっちぎって勝つ!」

 

 デビュー戦の前から、スカウトする前から。ツインターボは注目の的だった。……主にその大言壮語と、それに違わぬ逃げ足と、後負けっぷりで。

 

「途中までは本当にぶっちぎってるんだがなあ」「大逃げは見る分には楽しいが……」

 

 それでも時々勝つので、注目されていたのは間違いない。……レースを乱す厄介なペースメーカーとして見られていたかもしれない。……あれ。……なんで私はツインターボのトレーナーに収まれたんだっけ。

 布団の中で、彼女との出会いを思い出す。今でこそいつも一緒にいるけど、私も最初は物珍しく見ていたような。まさかここまで濃い子とずっと一緒にいるなんて、思ってもなかったような……。思考を巡らせる。思い出に胸を馳せる。

 

「はぁ……はぁ……まだ、まだ走れるもん……」

 

 ここに冷たい一言を浴びせたんだっけ。今の私ならそうするな。……記憶を辿ると、そうではなかった。

 

「かっこいい……! ねえ! あなた! 私、感動した!」

「むぅ……トレーナーのひとぉ……?」

 

 昔の私は、貴女に負けず劣らずの勢いがあった。そうだったな。

 

「まだトレーナー決まってないかな……? もし、こんな新人で良かったら、本当に良かったらだけど」

 

 彼女にそこまで焦がれていた自分に笑ってしまう。けれど。三日月を描いた口元に、塩辛い水滴が当たる。私はいつの間にか、泣いていた。

 

「え、いいの……?」

「良いに決まってるじゃない! あんなかっこいい走り、絶対みんな夢中になるよ! 貴女は未来のスターだよ!」

「ふへへ……。ターボ、スターウマ娘になれる……?」

 

 走り疲れて息も絶え絶えな彼女へ、矢継ぎ早に言葉を浴びせていたっけ。今とはまるで逆だ。

 

「そうだよ! ……ねぇ、ツインターボ。貴女、有マ記念って知ってる?」

「それぐらい知ってるもん……」

 

 記憶を辿り、気づく。有マ記念の思い出。

 

「私、有マ記念に出れるほどすごいウマ娘を探してるんだ。そう! 夢はでっかく、年末のグランプリ! ……ツインターボなら、きっといける」

 

 私と貴女の最初の約束。

 

「……! わかった! ターボ有マに出る! それなら、契約してくれる……?」

「もちろん! だってね、有マ記念は凄いんだよ!」

 

 思い出す。私の憧れ、私の夢。

 

「"みんなの夢が叶う場所"! そう、貴女は夢を叶えるウマ娘になるんだよ!」

「夢を叶える、凄い……! ……決まりだもん! 今日からトレーナーとターボで、有マを目指して逃げて逃げて逃げまくるもん!」

 

 そうして、私の夢は。あなたの夢にも、なった。

 

「あはは、号泣してる。だっさいなあ……」

 

 独り言が漏れ、現実に戻る。私の顔は涙でびしょ濡れだった。布団でそれを拭い、物思いに耽る。いつから、いつのまにか。私は夢を見ることを忘れてしまっていた。

 貴女はその憧れを、ずっと覚えていたのに。当の本人が忘れてどうするんだ。……まだ間に合うだろうか。灯りをつけて、書類に目を通す。ウマ娘のための手続きをするのがトレーナーの仕事だ。

 明日、朝一番に。誰より疾く、貴女に謝ろう。また一緒に、夢を見たい。貴女の走りは、沢山の人に夢を見せてくれるのだから。

 

「……あんなこと言って、トレーナー怒ってるかな……」

「……おはよう、ターボ」

「……! トレーナー、寮まで来てくれたの……?」

 

 当然だ。貴女の速さに間に合うには、これくらいじゃなきゃやっていけない。

 

「はい、これ。有マへの出走登録。……ごめんね、ターボ」

 

 それ以上言葉を紡ごうとすると、また涙が出てきた。夜に泣いた分の跡も消えていないのに。

 

「……いいの?」

「いいのって、むしろこっちからお願いしたいくらいだよ。"夢を叶えるウマ娘になる"、だったでしょ?」

「……トレーナー……!」

 

 泣き出していたのは、ツインターボも同じで。抱きついて来る彼女を、私は躱せなかった。躱すつもりもなかった。

「ごめん、ごめんなさい、トレーナー! ターボ酷いこと言っちゃった……」

「ごめんね、ごめんねターボ……。約束したのに、忘れるなんて……」

 やっと、元の二人に戻れた。誰がなんと言おうと、これでいい。これがいい。

 

「緊張してる?」

「そういうトレーナーこそ、緊張してる?」

「私は見守るだけだし。貴女がぶっちぎって勝つところをね」

「ターボは全然緊張してないもん! むしろ緊張してなさすぎて怖いくらいだもん」

「……行っておいで。みんな待ってる。あなたに夢を託した人が、沢山いる。もちろんここにいる私が、一番大きな夢を託してるけど」

「……うん! ターボが速すぎて見失わないよう、気をつけてね!」

 

 とん、と肩を押す。

 私の夢は、元気にパドックへ向かっていった。

 



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セイウンスカイの五百文字作文

五百文字作文を7.8個くらいです


 そろそろ眠いですねえ、トレーナーさん。……時にトレーナーさんは、夜空と青空、どちらが好きですか? 黒い闇に星が瞬くのと、青だけがどこまでも透き通っているのと。

 どちらも素敵で、悩んじゃいますかねぇ……。おや、即答ですか。青空。その心は?

 セイウンスカイのトレーナーだから、って……。トレーナーさん、その発言もう一度考え直した方がいいですよ。セイちゃんが聞きたいこととズレてるし。それに、とんでもないこと言ってますって。……私のことが、すき、みたいじゃないですか……。もう!

 嬉しくないです! 嬉しくない! やめっ、見ないで……すごくにやけちゃってるから……。はあ。トレーナーさん。私の見解を言います。

 私は、どっちも好きです。夜空も、もちろん青空も。……トレーナーさんは、遠く、遠くに広がる青い空も。深く、深くに横たわる黒い空も。どちらも同じ空だって、知ってます? 何を当たり前のことをってそれが大事なんですよ、トレーナーさん。

 表裏一体。一心同体。どちらかの存在が、互いを担保する。まるで、私たちみたいだって。

 ……そうです。青空が私で、夜空がトレーナーさん。だからどっちも好き。理由は結局あなたと同じ。

 私はあなたのことが好き。

 

 **

 

 トレーナーさん、お風呂もらいましたよー。おお、すごい驚いてる。その顔が見たかった。何で部屋にいるんだって顔してますねえ? なんと! セイちゃんはトレーナーさんのストーカーだったのだ!

 というのは冗談。トレーナーさん、鍵落としてましたよ? 多分あれはトレーニング帰りですね。私がめざとく見つけてなかったら、今頃本当にストーカーに……。にゃは。

 まあお礼はご飯を作ってくれてお風呂に入れてくれて寝床を提供してくれるくらいで勘弁してあげます。寮への連絡ですか? またまた〜、セイちゃんがふらふらしてるのなんていつものことですよ。……二人きり。トレーナーさん。私今、タオル一枚ですよ? トレーナーさんは、どうしましょうか……?

 あー今エッチなこと考えてましたねー、へんたいトレーナーさん。いけないんだー。にひひ。

 ……私そんなにニヤニヤしてますか? セイちゃんはいつもにこやかじゃないですか、トレーナーさんったら。

 ふふふ。……トレーナーさんは、私が今すごくドキドキしてるって知ったら、一生懸命アタックしてるんだって知ったら。……受け入れて、くれますか……?

 うん、うんうん。その言葉が聞けたなら今は満足、かな。

 ……なんちゃって、ね。

 

 **

 

 拝啓トレーナーさんへ。この手紙を読んでいる頃には、私はもう……なんちゃって。うーん真面目な手紙なんて書けないなあ。動機は真面目じゃないけど。

 私は今、トレーナーさんへ手紙を書いている。日頃の感謝を込めてなんて殊勝なものではなく、スマホでやり取りするのがめんどくさい! とトレーナーさんに言ったら、なら手紙ならどうだということを言われてしまい。トレーナーさんと文通をすることになったのだ。ちゃんちゃん。

 面倒くさいわけじゃない。どちらかと言うと、照れ臭い。今時手紙って、しかもいつでも会えるのに。なんだよートレーナーさん、セイちゃんからの手紙が欲しいだけなんじゃないの〜?

 なんて。そう思っているのは、私の方かもしれない。他愛無いやりとり。そこに特別な意味を見出したくて、こんな誘いに乗ってしまったのかもしれない。策士策に溺れる。……ちょっと違うか。

 ポストに向かう。胸が高鳴るのがわかる。筆に思わず力が入り、何度も消した不恰好な手紙になってしまったけど。本当の自分がそこには浮かび上がっているような気がした。

 すとん。投函完了。顔が熱く熱くなる。こんなの思う壺じゃないか。

 早く、返事が来ないかな。心がときめく。

 

 **

 

 プールだー! いやートレーナーさんの奢りとは、気が利きますねぇ。流れるプールで浮輪に乗って微睡む! これぞまさに至高の贅沢……。あらあらどうしたんですかトレーナーさん、もしかしてセイちゃんの水着が気になりますか?

 スクール水着じゃない水着なんて滅多に着ないんですから、トレーナーさんだけの特別ですよ? ……なーんて。さあじゃあ着替えてきましょう! お楽しみに。えへへ。

 で。なんですか。私のフリフリにも露出にも目もくれず、流れるプールにも目もくれず。ここ子供用の浅いプールじゃないですか。えっ。今日は泳げるようになるまで帰さない!? 酷い! 鬼だー!

 まずはバタ足ですか。いけますよ、それくらいはいけます。はい、手。絶対離さないで。……はい! どうよ! ビート板か浮輪をよこしなさい! 使わない!? そんなの非効率! あっだめ離さないであぶぶぶぶ……。

 はあ。……折角気合入れて来たのに、トレーナーさんは別方向に気合が入ってるとは……。でも少しも見てもらえないのは、ショックだな……。おや、聞こえてました? あははー参ったな、空回りしてたのがバレちゃった……。

 え? 今から流れるプールに連れてってくれるんですか? ……はい。とっても楽しみです。

 

 **

 

 はいはーい、セイウンスカイでー……ひっく! あっ参ったな……ひっく。いやいや酔っ払ってるんじゃないですよ、トレーナーさん私をどんなワルだと思ってんですか。ひっく! これはしゃっくり、しゃっくりです!

 トレーナーさんはしゃっくりの経験ありますか? 辛いですよね? 苦しいですよね? ……ひっく! わざとじゃないですったら。でもね、人間でもウマ娘でも、しゃっくりの辛さは世界共通! つまり……ひっく。そう! 今日は休むべひっく! です!

 ちょっとなんでニヤニヤしてるんです? 本気でひっく! 困ってるのに……! あーとにかく今日はトレーニングできない……ひっく! つらい、つらいよー!

 黙らないでくださいよ、ひっく。……もしかして、怒ってます? そんな芝居までして、よっぽどトレーニングが嫌なんだな、みたいな……そんなひっく。誤解を……。

 ……きゃっ!

 なにもうびっくりするなあ! 肩を急に掴まないでください! ……ドキドキするじゃないですか……。って、あれ。しゃっくりが止まってる。まさかトレーナーさん、驚かせるタイミングを見計らってた?

 流石、私のトレーナーさん。策士ですね……。えへへ。

 え? さっきの叫び声がかわいかったって……もう! へんたいトレーナーさんめ。

 

 **

 

 ふぉっふぉっふぉ。セイウンスカイおじいちゃんじゃよー。やだ、またわしのこと何か企んでないかと疑っておるな? 今日はいつもセイウンスカイの扱いに苦労しているトレーナーさんへ、豆知識を授けるためにおじいちゃんになっているんじゃよ。

 ではいくぞ。まずわしより先に寝てはいけない。わしより後にも起きてはいけないぞよ。あー今のそんなの無理って顔。前者はいけるでしょ前者は。

 次はのう、おいしいご飯をご馳走してやりなさい。……熱いのはダメじゃ。これは絶対。それと、いつでも身だしなみには気をつけること。トレーナーさんが素敵な人なら、セイちゃんの好感度もぴろぴろぴろ〜っと上がっちゃいますっちゅうわけじゃな。

 さて。……気づいた? 気づいてない? おお、そうかそうか。おじいちゃん口調でカモフラージュ作戦は成功のようだねえ。何のことって? 教えてあげませーん! 今日はセイちゃんの勝ちー!

 あっ、負けたからって何かとかはないよー。ただ今言った通りセイちゃんに尽くしてあげなされということでした。

 まあ、できる範囲で構わないから、ね。

 ……うっ。そうです、関白宣言です……。……こ、これはネタがバレたから恥ずかしがってるだけです! 見ないで……。

 

 **

 

 ご飯を食べると眠くなる。眠くなると、寝たくなる。というわけでねぇトレーナーさんや、たまには一緒に昼寝をしませんか? ……別に深い意味はないですよー。ただただ、昼寝の素晴らしさについて布教したいなーと思いまして。

 これからやることがあるって、そんなの後でいいじゃないですか。……あっそうだ。今日は特別に、セイちゃんが添い寝してあげます! 素敵な特典でしょ? ……そういう時に否定しないの、ずるいなぁ……。

 さてトレーナーさん、こっちにいらっしゃーい。私が子守唄を歌ってあげましょうねー。

 ぎゅっ。……にゃはは。トレーナーさん捕獲作戦、大成功〜! どう、身動き取れないでしょ? さあ参ったと言いたまえー!

 あれ。トレーナーさん、本当に寝ちゃうんですか!? 今の状況分かってます? 担当ウマ娘に捕まって、息苦しくないんですか? もしもし? ……本当に寝ちゃいましたね。トレーナーさん、私より昼寝の才能あるのでは。

 はあ。これからいっぱいドキドキさせるプランを考えてたのに、これじゃ商売上がったりだ。今日は私の負けだね。……こっちばかりドキドキさせられちゃった。

 でも、でも。あなたの寝顔を初めて見れたのは、嬉しい。

 お疲れ様。いつもありがとう。

 

 **

 

 ねえ、あなた。……なーんて、言ってみただけですよー。そんなこと言ってどうするんだって、やだ興味津々じゃないですかトレーナーさんったら。

 そうですねー、まず幸せな世界を想像できるじゃないですか。二人でずっと、のんべんだらりと山奥で釣りをしながら暮らす……。ほら、悪くないでしょう? ……トレーナーさんにしか、こんなこと言いませんから。……なんちゃってー。

 ほらセイちゃんそういうの縁がないですから。かわいげも捉え所もないことに定評がありますゆえ、こうしてトレーナーさんをからかって遊ぶ他ないのです。ちゃんちゃん。

 ……なんですか。私のかわいいところも捉え所もいくらでも言えるって、そういう危うい発言をしていいのはセイちゃんだけですよ。私にしか言わないって、いやいやそういう意味ではなく……。もう! そうやって手玉に取ろうとする! 大人はずるい! 不公平だ! 早く大人になりたい!

 ……その時は、本気で見てくれますか? ……ふふふ、今のは子供のずるさでしたー。さあトレーナーさん、今日は私の勝ちということで。ね。

 

 さりげなく、あなたに手を伸ばす。さりげなく、あなたの手を掴む。今日の目標、達成。



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セイウンスカイの五百文字作文その2

まとめ2号です


 青空はとても綺麗だ。浮かぶ雲は立体的で、あんなにも遠いのに細部まで見て取れる。白と青が混ざり合わずに同居している。じっと見つめて手を伸ばすと、手が届きそうなくらいだ。そこには吸い込まれるような美しさがある。

 私には、それがない。青空の名を冠したウマ娘、セイウンスカイ。その私が憧れる空までの距離は遠いままで、いつになってもたどり着けない。確かに私はたくさんの人に恵まれたと思うけれど。空の青さには到底敵わないな、と思ってしまう。

 たとえばあなたが、青く澄み渡る空を見上げるだけで心が晴れるように。辛い時に、何気なく見れば少し気持ちが楽になるように。私もそうなれないか、なんて。悩んだ時点で、青空の名前は相応しくないのかも。

 ねえ、トレーナーさん。私は皆にとっての青空になれていますか? あなたにとっての、明るく深い青色に。なれていますか? 天気が悪い日でも、あなたの前に現れた私が青空の代わりになれるなら。そうであったら、嬉しい。

 一生懸命、ほどほどに。私はそうやって、どんな時でも、どんな人にも。微かな元気を与えられるなら良いな、と思う。

 太陽のように、輝くことはできないけれど。あなたの心にいていたい。

 

 **

 

 おやおやトレーナーさん。肩、凝ってますよ? ほら、えいっ、えいと。こんなにガチガチです。……ははーんピンときました。肩が凝っても凝っても、トレーナーさんの肩を揉んでくれる人がいない! それでこんなふうになるまで放っておいたんですねえ。いやあ痛みがセイちゃんの方まで伝わるようです。

 んっ……ふっ……気持ちいい、ですか? ……じいちゃんの肩をよく揉んであげたので、力加減には自信があるんです。……っと、意外とがっしりしてますね、トレーナーさん。それとも。可愛い担当ウマ娘に肩を揉んでもらえるとなって、緊張してますか……? なーんて。

 よいしょ……いつもたくさん書類と睨めっこしてますもんね。いつもいつも、私のために色んな手続きをしてくれて。ありがとうございます。だから、これは私からのお礼と思って。甘んじて受け取ってくださいな。

 ……よし、だいぶ楽になったんじゃないですか? はい腕を上に伸ばしてー、横に伸ばしてー。引っ張りすぎですか? でもトレーナーさんはいっつも、よくストレッチしなさいって言ってるじゃないですか。おんなじですよ。

 ……さて。そうだ。……お返し、お願いしてもいいですか? いいですよね?

 今度は私の肩。揉んでほしいです。

 

 **

 

 スカイってモテるよな。そうトレーナーさんが不意に口にしたのを、私は聞き逃さなかった。その上で、聞こえないふりをした。どういう意図で言ったのだろう。どうしてそんなことを言ったのだろう。何故だか気になって仕方がない。

 だってそんな、セイちゃんはめんどくさいし。いつでも捉え所がないし。サボりまくってかわいげはないし。そういうふうにしてても、わかる人は深くまで切り込んでくるから困ったものだけど。

 ともかく一つ確かなのは、私は別に、その。恋人とか、いたことないし。きっと縁もないって思ってるってこと。だって、だって。

 私の想い人は、そんなことを言うくらいに。私の心について他人事なのだから。多分、きっと。あなたのことを好きですって伝えたとして、あなたは笑顔でこう返す。俺も好きだよ、と。宥めるように、最良の答えを返す。

 それは確かな信頼で、幸せだけれど。信頼よりも脆い恋愛に、人は何故憧れてしまうのだろう。

「ちょっとトレーナーさんや、セイちゃんはモテませんよ」

 平静としたふりをして口を開く。こうやって、あなたの手を誘っても。あなたの手は伸びてこない。

 でも。あなたと言葉を交わせるだけで、今はとても幸せだ。

 

 **

 

 ふぁ〜あ……。おはようございますトレーナーさん。よく寝れましたか? セイちゃんは絶賛寝不足です……。夜更かししたわけじゃないですよ。……気になりますか? ちょっとだけ、夢見が良くなくて。それだけです。

 ……はぁ。いくらサボっても心配しないのに、こういう時は心配性なトレーナーさんなんだから。なんのことはないですよ、夢のことだって今はわかってるんですから。夢は夢で、それで終わり。セイちゃんだって現実と夢の区別くらいつきますよー。

 さあ、というわけで。今日はまず二度寝をさせてくださいな。トレーナーさんの部屋をお借りしますねー。……大丈夫ですよ。あそこなら、一番ぐっすり寝れますから。ね。

 夢を見て、嘘をついた。本当は、とても素敵な夢を見た。本当は、夢と現実を混同している。夢の中、あなたと私は二人で仲睦まじく暮らしていて。でも夢の中の私が思いがけないことを言ったので、私の脳みそは混乱した。

 そんな大それたことを言って、その先が夢では想像出来なかった。夢の景色は白く崩れ去り、私は心臓をバクバクさせながら目を覚ました。

 そう。夢に見るほど、私はあなたに恋焦がれている。だから、私は何度も眠る。

 きっと叶わぬ夢を見る為に。

 

 **

 

 どうしたんですかトレーナーさん。見れば分かりますよ。休みに入るのに浮かれてない人なんて、セイちゃんからしたら一番おかしいですから。

 なんでしょう、具体的な悩みじゃないかもですねえ。私には言いたくないことかもしれないし……。でも。今日くらいは、甘えていいんですよ? ほらほら、セイちゃんの気まぐれが収まらないうちに、さあ! こっちへいらっしゃい! ……よいしょ!

 頭を拝借いたしまーす。

 よしよし。いつかの反対ですね、トレーナーさん。あの時は、セイちゃんいっぱい甘えちゃいましたねえ。トレーナーさんはずっと、私のことを支えてくれた。だから、私もあなたを支えたい。……だめ、ですか?

 よいしょ。……どちらにせよ、今日は私のわがままということで。トレーナーさんを癒してあげます。なんでも聞いてあげちゃいます。なんでも……たとえば、こうして。膝枕をしてあげる。セイちゃんの膝はそんなにもちもちしてないので、嬉しくないかもですが。

 そしてこうして見つめてあげる。気持ちが通じ合ってるみたいで、素敵でしょ? ……少し落ち着きました? リラックスして、幸せになれました? 私は緊張してますけど、なんて。

 さて。それではお悩み、聞かせてください。

 

 あらあら泣かないでください……なんて言うと思いましたか? もっと泣いていいんですよ、何があっても平気で飄々としてるなんて辛いですから……なんちゃって。

 私は辛くありません。吐き出せる人がいるから。誰でしょうねー? でもですよ、だからこそ。その人にも吐き出して欲しい。そう思っちゃうようになりました。あなたのことを、もっと知りたい。弱さも、教えてほしい。ただのわがままかもしれません。

 でも、わがままを言えるのが子供ですから。セイちゃんはまだ子供なので、わがままを言っていいんです。そしてトレーナーさんは、セイちゃんのわがままを叶えるために、しぶしぶ弱音を吐くんです。

 どう? 完璧な作戦でしょ? 大人の悩みはわからないですけど。子供が大人の悩みを聞いてあげることはできる。

 ……もし言葉にするのすら辛いなら、思いっきり泣いてもいいんです。大人が泣いたっていいんです。セイちゃんが許してあげます。どこにいても、何があっても。

 トレーナーさんのことを全部知ってるとは言えないけど、トレーナーさんのことを全部受け入れるとは言えますから。

 ほんと、ですよ?

 

 少し元気が出てきましたか、トレーナーさん。それが空元気じゃないことを祈ってます。本心ですったら。……膝疲れないかって、今日はおとなしくセイちゃんに甘えてくださいな。私のわがままとして、私に甘えてもらいますから。

 拒否権なんてありませんよ? お覚悟ー、なんてね。……ねえ、トレーナーさん。トレーナーさんは、私と会えて幸せでしたか? 私はトレーナーさんの初めての担当ウマ娘になれて、良かったと思ってるよ。

 これから先、トレーナーさんは沢山のウマ娘を担当して。私のことは一人のウマ娘に過ぎない存在になっていくとしても。私は、トレーナーさんを応援し続ける。あの時も、あの時も。いつも一生懸命だったあなたが、もっと遠くへ羽ばたけるのだと。

 でも、少しだけでも。私のことが心の隅に有れば、とっても嬉しい……かもね。保証はしませーん。

 ふふふ。ちょっと楽になったかな? まだ、こうしていたい?

 私は……どっちでしょう?



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セイウンスカイと新婚2日目

健全です


 おかえりなさい、トレーナーさん。じゃなかった、あ、な、た。……にゃはは。ねぇあなた、お風呂にする? ご飯にする? それとも……。浮かれすぎって、新婚2日目で浮かれてないんですかあなたは。それはそれでセイちゃんショックかも。なんてね。

 ……ふふっ。いやーでも、寮じゃないところに帰るってだけで新鮮ですね。トレーナーさんがマイホームのために貯蓄してたなんて、思ってもみませんでしたけど。だって私からプロポーズしたのに、それじゃあ待ち構えてたみたいじゃないですか! 策を張って誘い受けするのはセイちゃんの十八番なのに! ずるい!

 今日はどうでした? 新婚なんてみんなに色々言われちゃって、トレーナーとしては肩身が狭いですか? ……まあ私からすれば、のんびり昼寝をしながらあなたを待つ時間だけで、とっても幸せですけどね。

 もちろん家事はしたに決まってるじゃん。……これからずっと過ごしていきたいのに、幻滅されたくなんてないし。無理してないか? それだけで無理って、あなたセイちゃんのことどれだけものぐさだと思ってるんですか。もう。

 覚えてないですか、いつかのバレンタイン。今だから言いますけど、あの時は結構本気だったんだよ? だから丁寧に時間をかけてチョコを作ったし。セイちゃん意外と凝り性なんだから。

 今日のご飯だって……と言いたいところですが。今日は普通のカレーライスです。私の普通の味も、あなたに知ってほしいから。結婚してみて、改めてわかった。お互い知らないことばかりで、二人の関係はこれから始まるんだって。

 ……なんですか。さっきからあなた、セイちゃんの恥ずかしい台詞を聞いてばっかりじゃないですか。冗談めかしてないだけで前と変わらない、とか言わないでくださいよ。……それだけ今まで練習してきたのに、一言言うたびに心臓が跳ねてるのはこっちなんだから。

 さ、カレーは甘口です。セイちゃんの好みに合わせてもらいます。……それに。それに、ね。もし、もしもですけど。もしもこの家に、新しい家族が増えるなら。甘口の方が食べやすいじゃないですか……なんて……。

 あーだめだめ、見ないで! もっと雰囲気を作らなきゃいけないのに、掛かりすぎてる……! 手汗がひどいから掴まないで、やっ、きゃっ……。んっ……ちゅっ……はむっ……ぇぅ……。もう、その気になれば抵抗できるのを知ってて押し倒すのは、ずるいったら……やっ……まだ離さないで……んっ……もっと……れろっ……ふぅ。

 ……もう、トレーナーさんのエッチ。……嫌じゃない、ですけど。さあ、とりあえず。ご飯を食べましょうね。これはあなたのことを思って、ですよ。……私は昼寝もしたし、体力もあります。……つまり、朝まで保ちますから。

 あなたが明日は休みだから。今朝からずっと、そのつもりでした。……周到な作戦、でしょ? ……だから、エッチなのはあなたの方だって。私はその、そんなの初めてだし、本当はすごく怖いし……。あなたはカッコいいし、きっと経験あるだろうなって。だからずっと、その時のために備えてたんですよ。

 ……やっぱり私もエッチかも。でもそれは、トレーナーさんに対してだけですから。あなたのことを愛しているからですから。

 昨日誓った通り、私は永遠の愛をあなたに捧げたい。そして、あなたの愛も独り占めしたい。これはわがままじゃなくて、誓ったことだから。……もちろん家族が増えたら、そっちも愛しますとも。でも恋愛は、あなただけのものです。

 にへへ。もう身体が火照ってきちゃいました……。手を、繋いでくださいな。どきどきしますね。私の胸、ばくばくいってますね。トレーナーさんも、汗かいてきましたね。……それは帰ってきた時からか。

 ……じゃあ、もう一度聞きますね。ねぇ、あなた。ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ、た、し?

 

「はぁ……はぁ……」

「ふぅ……もうすぐ朝ですね、あなた……」

 空はゆっくり明けはじめて。二人の息遣いだけが、暗い部屋の中で反響していた。

「生きてますかー、もしもーし……」

 彼女が俺の腕に絡みついてくる。ギリギリ生きているけど、もう動けない。口がぱくぱくと宙を切る。……すると、間もなくその口が塞がれた。

「はぅ……ちゅっ……んっ……すきぃ……えぉ……」

 息苦しい。肺が幸せで満たされて、息ができない。このまま死んでもいいとさえ思えた。

「ねえ、あなた。あなたに出会えて良かった。今更ながら、セイちゃんは感慨に浸っています」

「……俺もスカイに会えてよかった。君のトレーナーになれて、よかった。君と結ばれて、幸せだ」

「……もう。人の台詞取らないでくださーい。なんて。……ほんとは色々作戦を考えてたのに、全部無駄になっちゃった。いやいやまさか、あなたも初めてだったなんて」

「……言わないでくれ」

 きっとお互い、あまりうまくはできなかっただろう。何もかもがぎこちなくて、本来のそれとは違って笑い声が絶えなかった。でも、それでいいんだと思う。

「これからトレーニングが必要ですね……なーんちゃって。浮気でトレーニングしたりしたらだめ、ですよ?」

 冗談だとしても、破ったら殺されそうだ。破るつもりもない。

「じゃあ、これからも。末永くセイちゃんをよろしくお願い申し上げます」

 そう言うと、セイウンスカイはあっさりと目をつぶってしまった。とても綺麗な顔だ、と思った。惚れているのが多分にあるだろうが。

「なあ、スカイ」

 聞こえているかは、わからない。どちらでもよかった。

「末永く。ここが君とずっと過ごせる世界で、良かったよ。……脚に病気が見つかった時のことを思い出した。走れなくなったら、俺たちの関係は終わってしまうのかってその時思った。その時はこうなるなんて思ってなかったけど、こうなるのを望んでたのかもしれない」

 前に君は言った。自分には才能や輝くものはないから、策を弄するのだと。でも、そこが君の長所で、魅力だ。

「惚れた色眼鏡を承知で言おう。君は、世界一のウマ娘だよ」

 彼女はあれだけ甘い言葉をかけてくれたのに、返す言葉は君が寝静まった後というのは、もどかしい。でも、でも。まだ俺たちの関係は、これから始まるのだから。

 二人で一緒に、ゆっくりでいいから。しっかりと、永遠に。歩んでいこう。



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マルゼンスキーと父親のプレゼント

捏造です


 君が生まれた日のこと。可愛らしい栗毛の尾と、元気のいい泣き声。妻……つまり君のお母さんが、この子は素敵なウマ娘になるとそう言ったのを憶えている。僕にはレースのことはよくわからなかったが、何かを与えられたらいいなと思ったものだ。

 時が経つのはあっという間で、君はすくすくと育った。ただ可愛らしいだけでなく、性格に個性が出てきてますます愛しくなる。君はいつでも本当に楽しそうに走っていた。自分の脚が風を切る感覚。僕ら人間には味わえないそれを存分に楽しむ君は、少し羨ましかった。

 そんなある日のことだった。ガレージに入れていた僕の愛車に君が興味を持ったのは。日本に来て、すっかり走るのを忘れてしまって、ピカピカに磨かれたままでいた紅い外国車。それを見た君は、ぽつりとこぼした。この子はまだ走れるのに、走れないなんてかわいそう。そう、言った。

 違う視点に気付かされた気分だった。僕はそれまで、車を大切にするとは丁寧に手入れをしてあげることだと、そう思っていた。気持ちよく走るのは乗る側のエゴで、乗られる車には関係ないと思っていた。君が、同じく走る者の視点として気づかせてくれたことだった。

 愛車を久しぶりに走らせたのは、しつこく懇願する君を乗せてだった。感覚が蘇り、エンジンをいっぱいに吹かせる。路上で出してはいけないスピードだったかもしれないな。……当の君が車酔いしているのにも気づかず、僕は愛車との走りを楽しんでしまった。

 その後でお母さんには大目玉を食らってしまったが、君はそれでも乗りたがったので困ったものだった。目をキラキラさせて車の中を覗き回る君を見て思った。この子は本当に走るのが好きなんだと。自分にも、彼女のためになることができるのだと。

 今日は父の日だな、マルゼンスキー。父のわがままを聞いてあげると思って、この車を君が受け取ってくれないか。この子は今日から、君の相棒だ。……免許を取っていたのは知っているよ。なに、いいんだ。君は本当に楽しそうに走るから。きっと君なら、この子も楽しませてあげれる。持ち主の僕が言うんだから間違いない。

 運転は少し難しいかもしれないな。それも今から教えよう。手入れの仕方も教えてやる。……もうすぐ一人暮らしを始めるだろう? その前に1日、親子二人の時間が欲しい。それも含めて、僕のわがままだ。

 大きくなったな。本当に、君は大きくなった。君は僕の誇りだよ、マルゼンスキー。きっとこれから、君は大きな舞台で勝ち続ける。誰もに夢を与えるスターウマ娘になれる。けれどそれは、苦悩を伴うものかもしれない。

 みんな楽しく走る、というのは一種の幻想だ。君の望みは日を追うごとに困難なものになるかもしれない。僕も昔は走りの世界に身を置いていたからわかる。……君たちのレースとは違うけどね。

 けれど、こうも思う。ウマ娘は夢を駆ける存在だ。幻想を、現実に。そうすることができる。君なら、できる。だって君は、僕らの自慢の娘なんだから。

 さて。それじゃあこの子の手入れから教えよう。僕じゃなく、マルゼンスキーに合うチューンを見つけないとな。……ああ、そうだとも。とても楽しい。君のおかげで、とても楽しいよ。

 ありがとう。君が生まれてきてくれて、良かった。



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マルゼンスキーの結婚前夜

結婚前夜かはわからないです


 月が香る夜の海。久しぶりに家に帰ってきた娘と共に、光の浮かぶ水面を眺めていた。

 

「ありがと、お父さん。今住んでる家の近くには海なんてないから、これを見るだけで懐かしい気分になれる」

「そうか。今度引っ越す先はどうなんだ? 景色は綺麗か?」

 

 聞くと、マルゼンスキーは黙りこくった。……理由はわからなくもない。まだ父親に未来の夫の話をつつかれるのは嫌なのかもしれないと思った。

 

「……すまない」

「いいのよ、お父さん」

 

 私の娘がトゥインクル・シリーズで輝かしい成績を挙げた暫くあと、彼女は一人の男を連れて家にやってきた。お互い緊張していたが、男同士の話し合いで彼の誠意は伝わった。彼は今、マルゼンスキーを輝かせている根本にある。そう感じた。彼ならば娘を任せられる、そう思ったのだが……。

 

「何か不安か、マルゼンスキー」

「……そうかも。否定はしない」

 

 ゆっくりと、彼女は溜め込んだ気持ちを吐き出してゆく。

 

「あたし、あたしに自信がないの。自分が楽しむのは得意だけど、トレーナー君といればずっと楽しい自信はあるけれど。……トレーナー君を、楽しませられる自信がないの」

「……そうか」

「彼と一緒にいなきゃあたしはダメだけど、彼はあたしじゃない方が幸せかもしれない。そう思ったら、あたし、あたし……」

 

 長年娘を見てきたけれど、弱音を吐く姿を見るのは新鮮だと思った。これも、彼が引き出してくれたものなのかもしれない。

 

「……あくまで、父親でなく。妻を持つ一人の男としてアドバイスだ。乙女心はわからないが、彼の気持ちならわかるとも。いいかい、マルゼンスキー。彼の幸せは、君が幸せであることだよ」

 

 そう言って僕は、手近な石を海面に投げ込む。ぽちゃん。水飛沫が立ち、光の粒が散らばる。

 

「こうやって、誰かが動けば。それがどんなに小さくとも、大きな海すら動かせる。大事なのは、怖気付かずに立ち向かうことだ。君の存在が誰の幸せも生まないなんて、そんなことあるはずない。自慢の娘だ。他ならぬ君の親が保証しよう」

「……でも」

「……確かに、結婚は重大だ。勢いで決めてしまうべきではない。けどね、不安に従う必要もない。結婚は人生の墓場だなんて言うけど、僕は墓に入って良かったと思うよ。お母さんにも会えたし、それに」

「……それに?」

「君にも会えた、マルゼンスキー。そして、君の選んだ素敵な男性にも会えた。みんなで一緒に、一緒の墓に入るんだ。こんな素敵なことはない」

 

 水面が揺れて波紋を描くように、人の繋がりはずっとずっと繋がっていく。だから僕たちは繋がりを求め、作り出す。独りぼっちは寂しいから。

 

「もちろん僕だって、親として。娘の結婚に不安がないわけじゃない。けど、一人のかつて結婚を選択した人として。君が幸せに結ばれることを願うよ。

 何も考えなくていい。君は、君の幸せを考えればいい。それが別の幸せを呼び、みんなが幸せになれる。きっとそうなる」

 

 気がつけば、娘は少し涙を流していた。

 

「ありがとう。……そうね、あたしは間違いなく幸せ」

「なら、今更迷うことはない。……結婚式、楽しみにしてるよ」

「ドレス、似合うかしら」

「もちろん」

 

 少し空気が緩むのを感じた。彼女は親の手の届かないところへ旅立っていく。それは確かに寂しいけれど、子供は巣立つものだ。一人暮らしを始めた時より、もっと上へと羽ばたく。親として、君の幸せが待ち遠しい。

 

「ねえ、お父さん。ドライブに行かない? ……今から」

「今からか。それは気持ちよさそうだ。どっちが運転する?」

「うーん、タッちゃんはもう私の子だしなぁ……」

 

 おいおい、と苦笑する。もうすっかり運転にも慣れたのだろうか。自分たちから生まれた子供に、知らないことが増えてゆく。それはきっと喜ばしいことだ。

 そうやって、まだまだ君は大人になれるということだから。

 



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マヤノトップガン新婚

新婚シリーズ化は未定です


 マヤノトップガンの朝は目覚めのキスから始まる。自分が大人になるまで待っていたのだから、トレーナーちゃんにはご褒美が必要だ。毎日あっても足りないくらい。それで、こうしている。

「おはようございます、あーなーた❤️」

「おはよう、マヤノ。……いつもありがとう」

 あくびをしながらあなたが目覚める。今日のあなたはなんだか眠そう。とってもとっても大好きなトレーナーちゃん。寝ぼけ眼も可愛らしい。飽きっぽい私でも、あなたのことなら永遠に見ていられる。そんな気がした。

 朝食を食べ終え、あなたの服を用意する。出来るオンナはいつ何処でどうするかというのを、結婚を決めてからずっとずっと勉強してきた。あなたはきっと、私に夢中になる。そう思っていたのだけど。

「……む〜ん」

「どうした、マヤノ」

 なんか違う。けど、それを口にすると心配させてしまうだろう。ここは我慢だ。

「……なんでもないよ! それより、今日はどうしよっか」

 そうしてあなたに向き直ると、あなたは少し悩んでみせる。不安。フアン。自分の抱えているものがわかった。不安だ。けれど、不安の原因はわからない。

「今日はそうだな……ゆっくりするか」

 ゆっくり。家で二人きり、仲睦まじく。とってもいいと思った。

「……アイ・コピー!」

 マヤノトップガンの休日は、抜かりなく。あなたのために私はある。

「トレーナーちゃん」

「なんだ、マヤノ」

「呼んでみただけー♪」

「ああ、安心した。今日はゆっくりする日だからな。何事もない方がいい」

 太陽は真ん中を超えて、私とあなたはお昼ご飯を作り始めていた。私の背丈は残念ながらあまり変わらなかったので、家事は二人で分担するのが似合っている。一心同体。以心伝心。私たちは二人で幸福を積み上げていく。

「はい、トレーナーちゃんが先に座って! サンドイッチはー、お互いがお互いの作ったのを食べたらラブラブだと思うの!」

「そうだな、それはいい。……うん、いただきます。……美味しい。美味しいよ、マヤノ」

「やった! じゃあマヤもいただきまーす!」

 夢中になってあなたのサンドイッチを食べる。……ほおにマヨネーズが付いてしまった。拭き取らなければ。

「あっマヤノ、俺が」

「いいのいいの! マヤがこれくらい自分で拭けるから!」

 トレーナーちゃんを制止して私はティッシュを取る。これくらい、そう、これくらいだ。これくらいのことで頼っていてはいけない。私はもう、大人のオンナなのだから。

 ぽつり。不安が少し大きくなる。自分を追い立てるなにかが、迫り来る。不安を振り払うため、私はあなたのそばへゆく。

「トレーナーちゃん、抱きしめてもいい?」

「ああ、もちろん」

 言い終わるのを待たずに、私はあなたの胸へ飛び込む。きっときっと、今はとても幸せだ。あなたがいて、それだけで満たされているから。なのに、何故か胸が痛くなる。いやいやきっと、これはあなたのことを考えすぎたから。

 でも。どうしても、どうしても。不安は大きく広くなってゆく。それで私の口は、言ってはいけないことを口走る。

「ねえ、トレーナーちゃん」

「どうした? マヤノ」

「……マヤ、今幸せだよね?」

 あなたの返事はなくて。私の口は、私の結論へ突き進む。

「どうしてかな、トレーナーちゃん。マヤ、立派な大人になれて、あなたと結婚できて。絶対幸せなはずなのに、何故かとっても不安なの。これから先が怖いの。……なんで、かな」

 暗闇が目の前にある錯覚。暗雲だけが身を纏う幻覚。なにも、わからない。こんなのは初めてだった。

「えっ……くっ……トレーナー、ちゃん……」

 こわくて、こわくて。涙さえも出てきてしまう。もう私はダメなのかもしれない。何もかもを失くしてしまったのかもしれない。大人になったはずなのに、何もわからないようになってしまったのかもしれない。滴る涙を拭うこともできず、ずっと泣き続けてしまう。幻滅されただろうか。そう思った時だった。

「……頑張った。マヤノはひとりでそこまで考えていたんだ。それは、すごいことだ。成長の証だ」

 あなたの腕が私を包んだ。私は言葉の意味を理解できなかったけれど、心が晴れていくのがわかった。あなたは、言葉を続けた。

「不安になる。見えないものは見えないと、わかる。どうしようもないもので、心がいっぱいになる。それは間違いなく、マヤノが大人になった証なんだよ」

「……おと、な?」

 大人は、泣くのだろうか。大人は、わからないことがあるのだろうか。大人は、不安だらけなのだろうか。次々に、疑問をぶつける。あなたはそれに、そうだよと返す。

「わからないことが、わかる。初めての経験だとしたら、それが成長の証だ。……君は、立派な大人だ」

「……これで、いいの?」

「いいとも。……やっとマヤノの顔を全部見れた気がする。君と結婚して良かった」

 よしよしと、頭を撫でられる。子供扱いされた気分だけど、その後に抱きしめられたので。私は今度こそ、幸せになれた。

「夫婦はね、辛いことも分け合える存在なんだ。どんな時でも、むしろ幸せであればそれだけ。辛いことや怖いことが表に出てくる。大人はそういうものがないわけじゃない。見せないようにしてるだけなんだ。……こうして、大事な人の前でだけ、見せてもいい」

 頬を伝う涙は、溢れて、溢れて。

「なあ、マヤノ。きっと君の不安は、簡単には取り除けない。考えてもわからない、未来の話。大人にとっての未来は子供にとっての未来と違って、冷たくて、近い」

「不安は、なくならないの……?」

「……だけど、分け合うことはできる」

 やっと、わかる。不安があなたに吸い込まれていくのが、わかる。抱え込んでいたものは、小さくなっていった。

「……落ち着いたか?」

「……うん」

 涙が乾くまで、トレーナーちゃんは私を抱きしめていてくれた。愛するあなた。あなたを振り向かせた後のミライ。それが今で、そのマヤノトップガンは生まれたばかりなのだ。

「……良かったな……って、うわっ!」

 だから、これからもあなたを飽きさせない。奇想天外変幻自在、段取りなんて捨ててしまおう。

「……トレーナーちゃん、かーくご❤️」

 



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マチカネフクキタルとテイエムオペラオーとチーム

「マチカネフクキタルとチームを組みたい」の一応続きですがなくても読めます


「オペラオーさん、トレーナーさん! 早く早く! おみくじはこっちです!」

「はは、フクキタルったら。初詣でまずおみくじを引きたがる人ってのも結構珍しい気がするけど……あれ、オペラオー? ……フク、オペラオーが消えた……」

「わわっ、こんな人混みの中どこに行ったかなんて……」

「……はーっはっは! 店主よ! よく我が魔眼から景品を守った! 褒美にボクの写真を……」

「いた」

「いましたね」

 

 今日は正月の初詣。我がチーム<ニビル>のメンバーであるマチカネフクキタルとテイエムオペラオーを連れて、神社へやって来た。とはいえすごい人混みだし、ご覧のように私の担当たちは暴走気味だ。アクが強すぎて他のメンバーが寄り付かない、と言われたらぐうの音も出ない。

 

「まず縁日に直行とは、案外可愛いところもあるじゃない、オペラオー」

「……ふっ。トレーナー君は、『魔弾の射手』というオペラを知っているかい? まさにさっきのボクのように、百発百中を謳う射撃の名手の話なんだが……」

「私の目には、最後の一発を思いっきり外したように見えたけど」

「そう、まさにそういう話なのさ! まあまた機会があったら君に話そうと思うけど、図らずも最後に外すことでボクは名作歌劇の再演を……」

「トレーナーさん、ベビーカステラ買って来ましたよ! はい、オペラオーさんも!」

 

 女三人寄れば姦しいとはいうが、まさに今の私たちはそんな感じだ。これ以上も、これ以下も。これ以外のメンバーなんて考えられない。フクキタルに礼を言いながら、チームを結成したあの日のことを思い出す。

 チーム。私がチームを組んだ目的は、自分のキャリアだとかたくさんのウマ娘たちのためだとか立派なものではない。ただただ、担当ウマ娘であるフクキタルを私に繋ぎ止めるための楔としてこのチーム<ニビル>の結成は成された。ハリボテの惑星、存在しない幻の星。チームを組むという名目でフクキタルを嫉妬させ、再度私に振り向かせた時点でその役割は終わり、どうでも良くなったはずなのだが。

 なんとそのまま崩壊するはずだったチームに入団希望者が現れた。それがテイエムオペラオー。彼女は困惑する私たちをよそにあっという間に自分の居場所を作り上げ、輝かしい成績を挙げている。今年の目標は年間無敗らしい。彼女なら出来かねないと思うから、恐ろしい。

 

「さあ、いよいよおみくじを引きますよ〜!」

「どんな運勢でもボクは! 受け入れ! 乗り越えて見せよう!」

「あっ、三人で。お願いします」

 

 がらんがらん。一世一代のおみくじを回し、皆で恐る恐る結果を見る。

 

「……吉……トレーナーさん、もう一回」

「だーめ。おみくじは欲張るもんじゃないでしょ。えーと私は中吉」

「ふっ……大吉……。……大吉だよフクキタル君! 安心したまえ、ボクがこのチームの運勢を一人で支えよう!」

「ははっ、ありがたや〜……オペラオーさんにシラオキ様のご加護が……」

 

 オペラオーの物言いは相変わらずだけど、チームを支える、というのは本当だと思った。彼女は頼れる。しっかりとチームの意識を持っている。相変わらず持っていないのは、おそらく。

 自分のおみくじを再度確認する。大事なのは運勢より、中身だ。……恋愛、危うい恋。なるほどやはり、神様はよく見ている。まあたとえ諦めろと書かれていても、諦められなかっただろうけど。

 私の最初の担当ウマ娘、マチカネフクキタル。彼女は私のことを好いてくれているけれど、私の好きが貴女の好きと違うことには、きっとまだ気づいていない。気づかれるのは怖いけど、後戻りはできない。どうしようもないくらい、愛しい。

 

「……ふむ。このベビーカステラはとても美味しいね。食べないのかい、トレーナー君」

「……ああ、ありがとオペラオー」

 

 意識を現実に戻す。私がお願いして買って来て貰ったのだから、食べないと。ぱくん。ほくほくとしていて、甘い蜜の味が口の中で跳ねる。

 

「はふっ……はふっ……」

 

 フクキタルは一気に食べ過ぎて目をぱたぱたさせている。かわいいなあ。

 

「さて、帰ってお餅でもつまみましょうか。今日はトレーニングなしで、ゆっくり過ごそう」

 

 私たちのお正月は、並一通りに。心の中が捻れていても、時間は平々凡々に過ぎてゆく。

 

「オペラオーさん、ドトウさんが前……」

「ドトウくんと仲が良かったのかい!?」

「そこ驚くところですか……?」

 

 トレーナー室に帰って来て、二人のやりとりを眺めて。私はうとうと、うとうと。休みの日だし、このまま寝てしまおうか。深く、深く。目が覚めたら、もう二人ともいなくなっているかもな。そんなことを思いながらも、意識は薄れてゆく────────。

 

「……トレーナーさん、寝ました?」

「フクキタル君、きっと彼女は疲れている。そんなにつついたら起きてしまうよ」

「ふにゃっ、そうですね……いや、起きない方が好都合というか、実は秘密の相談があるというか……」

「……トレーナー君のことかい?」

「はぎゃっ、分かりますか……」

 

 トレーナーさんについて、私の悩み。心に秘めたもの。どんなに運勢が良くても、この気持ちは落ち着かない気がしている。

 

「……実は、実はですよ? 私、他のトレーナーさんから聞いちゃったんです。その、そのですね……トレーナーさんが、私のことを好きなんじゃ、なんて……」

「それは、いいことじゃないのかい?」

「……違うんです。その人たちが言ってたのは、トレーナーさんはその、担当ウマ娘に恋をしているんだって……。まるで悪い噂みたいに、そんなことを……」

 

 忘れられない。あの、嘲るような笑い声。トレーナーさんをバカにするなんて許せないと思ったけれど、私は何もできなかった。それを否定するのが、怖かった。

 

「……ふむ。禁断の愛、というやつだね」

「そう、なんでしょうか。トレーナーさんは、私なんかを好きになってしまったのでしょうか。こんな、こんなことを考えること自体が、トレーナーさんに失礼な気がして」

「そう思うのは、フクキタル君がトレーナー君のことを大切に思っているからだろうね。……でも。……仮に。それが本当だったとして。それはそもそもバカになんかできない。ボクはそう思う」

 

 少し考えて、オペラオーさんは続ける。

 

「劇的な愛というのは、困難がつきものだからね。理解されない、理解できない。けれど終幕では、観客全員から大喝采で迎えられる。それが異端だとしても。……何故だと思う?」

「大安吉日、夫婦円満。即ち、愛が成就するから……?」

「そうとも! よくわかっているじゃないか! まさにハッピーエンド、二人が愛し合う! そうであれば、性別の差なんて関係ないのさ! ……無論、これは歌劇での話だけれどね」

 

 性別の差なんて。そうオペラオーさんは言ってのけた。私は確かにトレーナーさんが好きだ。でもそれは、性別を超える愛にまでは届かなくて。トレーナーさんとの"好き"のズレが、いずれ破滅を生むんじゃないかと怖がっていた。

 

「もちろんこれは、想像の話に過ぎません。トレーナーさんは私のことなんて、なんとも思っていないかもしれません。……私は、そうであることを、恋なんて存在しないことを望むべきなのでしょうか? それとも、トレーナーさんが私を愛していると、そう望むべきなのでしょうか?」

「望むべき、なんてものはないよ。ボクから言わせれば、自分の信念を貫くこと! それが、覇王たる道だからね!」

 

 信念。信念。私は─────。

 

「……ん。おはよう、フクキタル。オペラオー」

 

 私が目を覚ますと、二人はまだ部屋にいた。目を覚ますのを待っていたのだろうか? ……なんとなく、二人の間の空気が変わった気がする。

 

「おはようございます! トレーナーさん」

「おはよう、トレーナー君」

「なにさ、なにか秘密の話でもしてたの?」

「……秘密です」

 

 フクキタルはそう、そっと指を口に当てる。秘密なら、仕方ない。

 

「……トレーナーさん」

「なあに、フク」

「……やっぱり、少しだけ。私はトレーナーさんのことが大好きです。何があっても」

「ありがと」

 

 その言葉の真意は量れないけれど。貴女が幸せなら、それでいい。

 走り続ければ、道は開けるのだから。



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ハルウララとキングヘイローの恋バナ的な

そんなに恋バナではない


「……はっ! ぅう〜、あたまがもやもやする……」

 

 時計をみると、まだ朝の5時。きょうもわたしはよく寝れなかった。どうしてこんな時間に起きてしまうのだろう。早起きはいいことだけど、わたしはもっと寝て、よく育たなきゃいけないのに。

 

「うーん、もう一回寝たらねぼうしちゃうし……」

 

 ここ最近、わたしはこんなかんじ。ちょっとだけ早起きしすぎてしまう。それだけじゃなくて、眠ってる間もぐっすり眠れていない気がする。……トレーナーなら、わかるだろうか?

 ちくりと心が痛む。これも最近の変なこと。トレーナーのことを考えると、ちくちくする。……もしかして、と思う。夢のなかでトレーナーのことを考えるから、ちくちくしてよく寝れていないんじゃないだろうか。でも、なんでチクチクするかのわけは、結局わからないまま。

 

「……んーっ……おはよう、ウララさん」

「おはようキングちゃん……」

 

 同室のウマ娘、キングヘイローが目を覚ました。ひとつあくびをすると、きびきびと動き出す。わたしはまだ布団の中でむにゃむにゃ。凄いなあ、キングちゃんは。

 

「……ウララさん、何かお悩み?」

「……ぼー……」

「なるほど、最近寝れてないと言うわけね」

「……うん……」

 

 話す。なんとなく、眠れていないような。夢のか中にトレーナーが出てきて、わたしと遊んでいるからじゃないか、とか。トレーナーのことを考えるとチクチクする、とか。全部聞いた後、キングちゃんはぽっと顔を赤くした。

 

「……ちょっと、こんなの恋煩い一択じゃない……!」

「こい、わずらいー?」

 

 むずかしい言葉。キングちゃんは賢いなあ。

 

「ウララさん、えーと……その、多分だけど。貴女は貴女のトレーナーのことが好きなのよ」

「? トレーナーのことは大好きだよ?」

「……ええと、そうじゃなくて! 好きって言うか、好きすぎるって言うか……」

「大好きよりも、好き? 好きすぎると、寝れなくなっちゃう?」

 

 そう聞くと、キングちゃんはまた困った顔をした。

 

「そう言うとなんだか悪いことみたいじゃないの……貴女に限って悪いことなんてあるわけないでしょ、ウララさん」

 

 わからない。というより。

 

「キングちゃんでも、わからない……?」

「……そうね。私には経験がないもの。……貴女の方が、先に大人になったのかも」

 

 ふたりで、悩み続ける。きっと二人ではわからないこと。でも、二人だけで悩むべきこと。

 

「キングちゃんは、キングちゃんのトレーナーのことを考えたら。チクチクしないの?」

「……私とトレーナー!? わ、私はトレーナーのこと好きとか、そんな。嫌いじゃないし信頼してるけど、その」

「そっかー……」

「……でも、私がまだ子供なだけかも。大人になる一歩を踏み出せたのは、貴女」

 

 おとな。キングちゃんはともだちで、おねえさんのような子だけれど。その子から大人だと言われるのはなんだかキミョウだった。

 

「キングちゃんも、トレーナーのこと好きになればいいのに」

「そう簡単なものでもないのよ……想像だけど。……もしかしたら、もしかしたら。もう私は彼のことを好きかも知れない。でも気が付いていないだけかも知れない。その、恥ずかしいけど。信頼しているのは間違いないから。これからだって、ずっと」

 

 二人で、話し続けて。気がつけば、朝の日差しが差し込み始める。今日もトレーナーに会える。そう思うと、また胸がちくり。

 

「……キングちゃん、ありがとう。またお話ししようね!」

「ええ、またお昼にでも」

 

 パジャマから着替えて支度を始める。コイとかアイとかについては、わからないということがわかった。わたしたちは案外似たもの同士なのかも。うまくいかない。けれど、がんばり続ける。

 

「そうだ、ウララさん」

 

 部屋から飛び出そうとするわたしを、キングちゃんが呼び止める。なんだろう?

 

「同じ部屋になってくれて、友達になってくれて。ありがとう」

「……わたしも、キングちゃんに会えてよかった! キングちゃんのこと、大好き!」

「……もう。その言葉は貴女のトレーナーのために取っておきなさいな」

 

 大好きが増えていく。憧れのトレセン学園に入るのは、とても大変だったけど。その分、今はすごくたのしい。皆のことが、大好き。毎日が待ち遠しくてたまらない。

 頑張れば、いつか夢は叶う。心のチクチクも、みんなへの好きも。きっとどれもが素敵な気持ちで、一つとして取りこぼしてはいけない。わたしの夢は、きっと。あなたの夢も、きっと。みんなの夢が、もっと。

 叶いますように。



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メジロライアンとメジロマックイーンのデビュー前

選抜レースよりも前です


「はぁ……」

「はぁ……」

 

 ため息がふたつ。お屋敷で図らずも一緒になったあたしとマックイーンは、図らずも一緒にため息をついた。

 

「……どうしたの、マックイーン」

「ライアンこそ、どうしたのですか?」

 

 やはり気になる。とはいえそれは相手も同じのようで。しばらく発言権の押し付け合いが続く。

 

「……じゃあ、あたしから」

 

 仕方ない。それに、このままでは解決しない気がする。

 

「笑わないでよ? ……実は、女の人は筋肉をつけてもモテないって聞いて……!」

「ぷふっ」

「あっ、ひどいマックイーン!」

「すみません、でもライアンらしいですわね。……ひょっとして、ついに想い人を見つけたとか?」

「わわっ、それはまだあたしには早いよ! ただ、素敵な人がいたらそれは素敵だと思うけど」

 

 顔が熱く赤くなる。あたしは恋に憧れているけれど、恋を手にするには好きな人を見つけないといけない。それに、相手にあたしのことを好きになってもらわないといけない。……後者は、とても難しい。

 

「……はぁ……。鍛える以外に得意なことなんてないのに、鍛えたらダメだなんて……」

 

 それなら、あたしの魅力なんてないんじゃないだろうか。目の前の美少女をちらりと見ながら、またため息をつく。

 

「鍛えてダメなことなんて、ないと思いますけど……何事も積み重ね、努力の先に栄光はあるものです」

「そう思ってたんだけど……こと恋愛においては、身体がすらっとしているのが大事なんだって」

「すらっと!?」

 

 マックイーンの耳が跳ねる。

 

「マックイーンはその点すらっとしてるよねえ……いやいや、羨ましがってばかりじゃ」

「すらっとなんてしてませんわ……」

 

 遮るように、マックイーンが呟く。

 

「私、また太ったんですのよ! 食べた分がお腹にすぐ貯まるんです! 見てください、ほら! ほら!」

 

 おもむろにマックイーンがお腹を出そうとしてきたので、慌てて止める。……マックイーンの悩みはそれか。

 

「あははっ」

「笑っていられるのは今だけですわ! そのうち私は肥えて太ってまんまるころりに……」

「ならない、ならない」

 

 笑いながら否定する。彼女は欠点だと思っているかも知れないが、ついつい誘惑に負けてしまう愛らしさもまた、魅力だと思う。

 

「マックイーンは、綺麗だから。いつかきっと素敵なお嫁さんになるよ」

「なんですか、唐突に。……ライアンだって、ひたむきで、いつも輝いていて。私が殿方でしたら、放っておきません」

 

 互いへの賛辞。それはお世辞なんかじゃなくて、正真正銘の褒め言葉。

 

「こうやって二人で話すのって、なんだか久しぶりかもね」

「そうですわね。……選抜レース、そろそろですもの。あまりお喋りばかりもしていられませんが」

「素敵なトレーナーさんに会えるといいねえ……」

「ええ、お互いに」

 

 あたしたちのデビューはすぐそこで。きっとそれからの日々は、また別のものになる。だからきっと、こうやって二人で仲良く何も考えずに喋れる時間は貴重だ。

 

「……マックイーン、あたし、マックイーンに勝ちたい」

「私は、誰が相手でも。勝つつもりですわ」

 

 肯定と受け取ろう。宣戦布告は為された。

 

「じゃあ、一緒にトレーニングしない?」

「なにが、じゃあ、なのかわかりませんけど。……筋トレはモテない、というのはいいんですの?」

 

 悪戯っぽくマックイーンが言う。

 

「そりゃもちろん、正々堂々選抜レースを受けるためだよ。マックイーンがまんまるころりにならないように」

「……もう」

「それに、気づいたんだ。筋トレはモテない、なんて言われたから辞めれるほど、あたしはお利口じゃないって。あたしにだって、譲れないものがある」

「それは、レースでも。そういうこと、ですわね」

「だからマックイーンもさ。好きなものは我慢せず、食べちゃえばいいんだよ。ダイエット、いくらでも付き合うよ」

「……考えておきますわ」

 

 ぼーん、ぼーん。時計の針が正午を指す。いつのまにかこんな時間だ。……ご飯の前にトレーニングをしたかったな。

 

「素敵なお嫁さん、ですか」

 

 マックイーンがぽつりと呟く。先程の言葉を思い返しているようだ。

 

「あれ? マックイーンもやっぱり、そういうの憧れる?」

「……もう! ……でも、否定はしませんわ。やっぱり少しは、憧れてしまいます。女の子ですもの」

「だよね〜、あたしなんかトレーナーさんが素敵な男の人で、なんてことを毎日考えちゃって……あっ! これは内緒、絶対内緒だよ!」

「……ふふっ。やっぱりライアンは可愛いですわね」

「……初めて言われたかも。どうしよう、ちょっと泣きそう……」

 

 思ったよりその言葉は自分に響いたみたいで。目頭が少し熱くなる。

 

「あたしも、なれるかな。スターウマ娘」

「なれますとも。共に頂点を目指しましょう」

 

 あたしは恵まれているな、と思った。競い合える仲間が、こんなに近くにいる。

 

「負けないよ、マックイーン!」

「こちらの台詞ですわ、ライアン!」

 

 どこまでも、高めあおう。



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セイウンスカイの幸せ

眠るのは幸せです


 終わって欲しい時間と、終わって欲しくない時間がある。例えばレースは、終わりがあるから頑張れる。これは決して私がサボり魔だというわけではなく、ゴールのないレースは仕掛けどころも何もなくてつまらない。そして終わって欲しくない時間は、例えば。

 

「授業お疲れ様、スカイ」

「うん、というわけで椅子借りるねトレーナーさん……すやぁ」

 

 昼寝の時間とか、そういうものだ。先ほどまでトレーナーさんが座っていた椅子に座り、人の温もりを感じて安らぐ。陽気を吸い込み、身体がすぐにぽかぽかしてくる。深く、深く。睡魔の誘いに飛び乗って、夢の世界へと旅立つ。この時間は幸せだ。何故って誰も邪魔しない。私の眠りは、心ゆくまで遂行される。

 微睡の中で、途切れ途切れな思考を巡らせる。例えば、唐突にこの部屋にテロリストが入って来たらどうしようとか。トレーナーさんが私を庇ってしまったらどうしようとか。それとも二人の作戦で、学園中のテロリストを制圧しようかとか。学園中といえば、この学園のウマ娘はどれだけいて、トレーナーはどれだけいて、私とトレーナーさんの組み合わせは何分の一なのだろうとか。

 支離滅裂で突拍子もない、思考の弾みに心を躍らせる。頭がしっちゃかめっちゃかに回る時ほど、眠気を自覚できることはない。昼寝の愛好家として、自分の眠気を計り取るのは面白いものだ。なんちゃって。

 例えば、この時間は終わって欲しくない。永遠に眠りたいと言ってしまうとなんだか物騒だけど、眠りに落ちるまでの一瞬は、永遠にあって欲しいほど心地よい。

 私たちはいつでもあるものをついつい蔑ろにして、少ししか触れられないものを重視してしまう。これもその一環。眠りと目覚めの間、刹那に響くアンバランスな感情を、私は尊んでいる。

 

「おやすみなさい、トレーナーさん……」

「……やれやれ。おやすみ、スカイ」

 

 すとん。意識が落ちる。朧げに。消えゆく私の寸前に。あなたの顔がチラついた。

 

 寝ている間、人は夢を見る。それは意識のひずみにあるなにかを釣り上げる行為。それは遠い記憶の尖った部分にけつまずく行為。それは黒く醜い深層心理を暴き立てる行為。どれも劇的で、脳は自分の脳にダイレクトな攻撃を与える。私たちが生きていられるのは、その夢のほとんどを起きた時に忘れるからにすぎない。

 睡眠とは、かくも恐ろしいものなのだ。けれど私は、眠りをこよなく愛する。安らぎと激情の中で、万能感と失意の中で。狭間にあるものを仰ぎ見て、自分の心の奥底に触れる。

 きっと人が起きた時に元気を出せるのは、夢の中で心を整理するから。身体だけじゃなく、心も休める時間として、人は眠り夢を見る。

 夢を見る。私たちは何も眠らなければ夢を見れないわけではない。人は華々しい何かに夢を見て、あるいは自らの理想に夢を映す。それはきっと素晴らしく、眠って見る夢とは違い忘れられないものになる。

 でも、こうも思う。裏を返せば、私たちは眠るたびに忘れられないほどの体験をしているのではないか。自己防衛のためにそれを忘れて、大切な何かを目の前で封じ込めているのではないか。

 なんて。ここまで小難しいことを私は並び立てて来たが、結局眠りも終わって欲しい、終わりがあるからこその時間だ。目が閉じる瞬間を越えれば、体感的にはただただ時間が飛んでしまっているのだから。もったいないじゃないか。

 え? なら何故私は眠るのかって? 最後にその説明をして、この夢に幕を引こう。眠りが終わる時に起こること。夢が溶けて、記憶の端から崩れ去る。視界は白くなり、すぐさま瞼の裏へと暗転する。目覚め。目覚めるから、眠りが解けるのではない。眠りが解ける最後の仕上げとして、私たちは目を覚ます。

 瞬間。最後の瞬間、私たちは夢見心地で現実と対面する。夢を見ているときの剥き出しの心で、一瞬だけ現実のものを見つめる。……そうして、思う。あなたの姿を瞳に映して、思うのだ。

 ああ、私はトレーナーさんと一緒にいる。それだけ。本当のところ、私がここで眠る理由は、それだけ。

 それだけで、いい。一番幸せな眠りからの帰還に、一番幸せな空間に居られるのなら。極上の幸せだと、私は思う。

 ねえ、今日はあなたも。一緒に寝ませんか?



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スイープトウショウと魔法の友達

イマジナリーフレンド


 人殺しか否か。大半の人がノーと即答するであろうその問いに、アタシは悩んで答えを出す。それは自覚があるかとかではなく、アタシがそれを殺したというのが言葉として正しいのかどうか。あるいは、それが殺せるようなシロモノかどうか。

 アタシが殺したのは、イマジナリーフレンドだ。

 アタシはおばあちゃんの元で育てられた。おばあちゃんは色々なことを教えてくれたけれど、その中の一つが不思議な友達の作り方。不思議な友達。そのフレーズにワクワクした。魔法みたいだと思った。

 やり方は簡単。人形遊びで喋り出すお人形の中身を、"誰か"にしてしまう。さあクマちゃんおままごとですよ、ではなく、さあクマちゃんそちらの人形役をよろしく、といったように。

 

『仕方ないなあ、大魔法少女スイーピーのためなら』

 

 そう言葉がひとりでに動き出せば、頭の中に住む不思議な友達の出来上がり。しもべを作り出した魔法少女はいい気になって、どんどん頭の中に友達を生み出す。いつも仕方ないと言いながら遊んでくれる子、いつもアタシが間違えそうになる時に止めてくれる子、いつも怒っていて、アタシに勇気をくれる子、それから……

 気がつけば大所帯で。大家族の長になったようで、とても楽しかった。大家族はたったの数日で、脆く消え去るのだけれど。

 頭が痛い。すぐに頭痛という形で異変は現れた。頭の中では賑やかな友達がにこやかにアタシに話しかけてきたり、あるいはお互いの意見を交換したり。それらは全てアタシの頭の中で行われるので、アタシはろくに眠れすらしなかった。ひとり立ちした友達が、アタシの脳みそを奪っちゃう─────。そんな不安をおばあちゃんに話したのを覚えている。するとおばあちゃんは少し考えて。

 

「よく眠りなさい、スイーピー。その友達たちは、あなたが起きている間しか生きていられないの。あなたが寝ている間は必死に息を止めて、あなたが起きるのを待っている。だから、ぐっすり寝ればいい」

 

 けどね、とおばあちゃんは付け足す。

 

「その子たちはあなたが思っているより、ずっと儚くて消えやすい。友達として付き合っていきたいなら、しっかり忘れてあげないことよ─」

 

 うんざりだと思っていた。その話を聞く間も彼らはずっと喋っていて、疲れ知らずに思えた。消えるなら、消えて仕舞えばいい。そうとさえ思った。思いっきり、寝る。布団を被り羊だけを数える。友達が話しかけてきても、無視。彼らはおやおやとか、おいおいとか。真剣に困っているようには思えなかった。

 だから、私は間も無く眠りにつき。夢を見ることもなく、次の朝まで寝続けた。

 目を覚まし、寝ぼけ眼で時計を見る。布団から這い出し、朝食を食べに向かう。全部を食べ終わるまで、何かを忘れたことにすら気づかなかった。虚数を失っても、喪失感など起こり得ないのだ。

 そういえば、と。心のうちに思考を巡らせた時、彼が再び現れた。

 

『やっと、思い出したね』

 

 その言葉で気づく。そもそも忘れていたことすら気づかなかった。忘れられている間彼らはどうしていたのだろう。そう問う。

 

『どうもしてない。いなくなっていた。……他の子、呼べる?』

 

 問われて、他の友達を呼んでこようとした時。心臓の中に伸びる手が、手応えがまるでないことに気づいた。

 結論から言えば、これがアタシの人殺し。あれだけくっきりしていた彼らの言葉すら朧げで、どういう人々だったかを思い出せない。間違いなく自分は忘却の海に彼らの身体を沈めて、手遅れになってから引き揚げたのだ。これを人殺しと言わなくてなんと言おうか。

 そうして、そうして。最後に残った彼の感覚も、少しずつ抜け落ちていっていることに気づく。あれだけ騒がしかった頭の中はスッキリして、空っぽで。考えて、考えて。彼を頭の中にもう一度引きずりあげては、沈むまでの時間でまた考える。脳みそを使う行為と脳みそに友達を住まわせる行為を両立できないのは、当たり前のことだった。

 考えなければいいと気づいたのは、もう昼ごはんが近い頃。お腹が鳴って頭が回らなくなった頃。おばあちゃんの作ったランチの匂いが、鼻をくすぐった。

 

『美味しそうだね』

 

 あげないわよ、と心の中で返事をする。あげることなんてできないけれど、そう答えてやれば彼に人間らしさが増える気がした。死んで欲しくない、殺したくない。

 ごちそうさま、と早口で告げて。何も思考の邪魔がないところへ行きたかった。彼と二人きりになりたかった。

 庭へ出て、そこで立ち止まる。壁にもたれて、彼との会話を再開する。全ては心の内で、すぐに消えてしまいそう。おばあちゃんの言っていた儚さというのがわかった気がした。

 彼のことなど、何も知らない。正しく言えば、彼のことを何も決めていない。好きなものも、見た目も。ただアタシの気まぐれで生み出されて、何も為せずに消えてゆく。そんなのは魔法少女のやることじゃない。おばあちゃんのような立派な魔女なら、なんとかできるのだろうか。

 

『どうにもならないよ。君が消えるのを望んでいるから、消える。それだけのことさ』

 

 そんな、望んでなんて。それでも彼は多くを語らずに消える。当たり前のことだった。彼はアタシの中から生まれたのだから、どんなに大人ぶってもアタシより何かを知っていることはありえない。

 そうしてあっという間に最後の一人が消える。さよならすら、言葉にはできずに。アタシは大声で喚いて泣いて、その日はおばあちゃんと一緒に寝た。

 

 季節は巡り、歳をとる。薄情にもそんな頭の中に住む友達のことなど、すっかり忘れた頃だった。

 

『久しぶり』

 

 頭とは面白いもので、完全に忘れたと思っていてもふとした拍子で記憶の箱は開く。今回は何の拍子かわからないけれど、消えたはずの彼がまた出てきた。酷くあっさりした再会だった。

 彼は最近のアタシについて聞いて、次々に相槌を打つ。トレセン学園に入るために頑張っていること、一人前の魔法少女への道は未だ遠いこと。彼の存在は以前より遥かにくっきりしていて、今なら忘れ去らずにずっと一緒にいれる気がした。

 でも。

 

「お別れしましょ」

 

 アタシも少しだけ、大人になって。あの時作った友達の正体を知った。あれはきっと、アタシの中の一部が他人のフリをしているだけなのだ。心を切り離し、自分を切り分けて。感情の別側面を、別人格に見せかけているだけに過ぎない。

 

『ああ、そうだね』

 

 お別れだ。アタシが彼のことを考えるのを止めると、すぐにその存在は霧散する。いいや、正確に言えば自分の心の一部へと、戻る。心の発達はこうして終わった。彼の存在は幼い頃の自分には手に余ったし、少し成長した今の自分には無用の長物だ。だから、さようなら。

 その日のアタシは、一人で泣いた。

 魔法とは、タネも仕掛けもわかっても、不思議なものであると思う。今のアタシが精一杯近づけたのは、このことが一番。すこし不思議な思い出。一人歩きする人形遊び。なぜあの日また彼が浮かび上がってきたのかはわからないけれど、そのおかげでアタシは成長できた。しっかりとお別れを言って、アタシの中に取り込むことができた。

 だから、アタシはこう答える。人殺しなんかしていないと。たとえ彼が人だったとしても、アタシの中で彼は生き続けているのだから。



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セイウンスカイと天国と地獄

闇のセイウンスカイ


 地獄と天国、どっちがいいですか。……なにって、これから行くならどっちがいいかってことですよ。トレーナーさんは行いがいいから天国でも地獄でも選べます。セイちゃんが保証します。もちろんじいちゃんやフラワーも天国に行けるし、スペちゃんにグラスにエルにキングもみんな天国です。みんな良い子で、悪いところなんてこれっぽっちもないから。

 ……私は、私は。もちろん、地獄です。

 普段からサボりまくってたツケがきて、授業地獄とトレーニング地獄に閉じ込められます。……でも、地獄でも良いんです。もう、いいんです。

 ここから降りれば、私は自由になれる。何もかもが色褪せてしまったセカイから逃げ出せる。最後に逃げるのが現実からなんて、洒落が効いてると思いませんか? つまんないって、言いましたよね。本心じゃなかったつもりなのに、いつのまにかわからなくなりました。

 もう一度聞きます。見逃せば地獄行き、捕まえようとすれば天国行き。捕まえたところでセイちゃんは地獄行きなので、一緒にはなれません。じゃあ、さようなら───。あるいは、いつかまた地獄で。

 ……そこまで一気に捲し立てた後、わずかな時間トレーナーさんの言葉を待つ。

 青空は夕立に染まり、雨が降り始めた。

 言葉はなく、目の前の人影はゆっくりとこちらに向かってくる。力尽くで止められるわけがないのに。何か近づいて言いたいならそれでも良い。振り払って、私は地獄へ落ちる。そのつもり、だった。

 叫び声すら上げられなかった。私は背中まで思い切り抱きしめられていた。ちょっとトレーナーさん、セクハラですよと以前の私なら言っていただろう。けれど、今のこれはそんな意図ではなかった。人を愛おしむ感覚は知らなかった。恋にときめく心情などわからなかった。ただ、無言で抱きしめるあなたに応える。やがてぽつりとあなたが口を開く。

 これで、犯罪者だ。

 意味がわかって、糸が解けるような感覚がした。なんだ、そうすればよかったんだ。悪い子に手を出せば、もれなく悪い大人が生まれる。あなたが大人で、私の信頼する人で。そうでなくてはこの図式は成り立たない。

 抵抗はせず、あなたの背に手を回す。雨はやがて土砂降りになって、二人の間にまで水が浸み通るようだった。あなたとなら、共に地獄へいける気がした。

 釣果ゼロ。−1。マイナスだって、歩めないわけじゃない。

 雨が止むまで、服と肌が張り付いて離れなくなるまで。二人の身体が一つに感じられるまで。

 



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ナイスネイチャと胸が張り裂けそうだ

中学生は子供なのか大人なのか


 胸が張り裂けそうだという表現がある。アタシから言わせれば胸が張り裂けそうになるのはレースを走り切った時、つまり物理的に胸が張り裂けそうになるような場合のみであって、そうそう簡単にあの苦しみを比喩で使われてたまるかと思う。

 とはいえこれは悲しみや苦しみで心臓が飛び出そうなことにアタシが出会ったことがないというだけであり、つまりはアタシはまだまだ幸せな子供なのだ。

 きっとこれは、トレーナーさんから見てもそうなのだと思う。いつもアタシは善戦上等、スターダムにのし上がるやる気も勇気もなかった。つまりはレースで負けても胸が張り裂けそうになるのは文字通りの意味であって、ちゃんと悲しいと思えなかったのだ。でも、トレーナーさんは色々なものをアタシにくれた。アタシが一番になれなくても、アタシのことを一番だと思い続けてくれた。

 彼は、アタシが負けるたび。アタシの代わりに悲しみや苦しみを背負ってくれていた。素直なフリをして、素直になれなかった。そんなアタシはきっと、トレーナーさんから見たら子供なのだ。

 大人になりたい。でもアタシが大人になるまでに、トレーナーさんはもっと歳をとってしまう。もしかしたら、素敵な人を見つけてしまうのだろうか。そう考えると、胸がちくりと痛んだ。その感覚に、戸惑う。

 アタシはトレーナーさんを独り占めしたいのだろうか。子供がおもちゃから手を離さないように、一生トレーナーさんから離れられない子供なのだろうか。また、ちくりと痛む。

 子供だから。アタシはトレーナーさんに見て欲しいと思ってしまう。子供だから。トレーナーさんはそれを受け入れてくれる。けれど、本当は。

 本当は。大人になりたい。けれどこの気持ちから手を離さないまま、大人になりたい。既にこの気持ちは大人に憧れる子供の図式から外れているのだ。そう信じたい。泣きそうになる。アタシのこの気持ちは、大切に想っている一番大事な人は。子供の気まぐれに過ぎないのかもしれない。胸がずきりと痛む。

 ああ、胸が張り裂けそうだ。

 トレーナーさんが素敵な人を見つけたとして、アタシは祝福できるだろうか? 大事な人が幸せになっているのに、胸が張り裂けそうになるのだろうか? 或いはアタシのこの気持ちは、取るに足りない子供の背伸びなのだろうか? アタシは無情にも、それを忘れて育ってしまうのだろうか?

 大人にならなければ、きっと見てはもらえない。大人になれば、アタシはアタシでなくなってしまうかもしれない。そんな二律背反に殺されそうになる。胸の痛みはピークに達し、本当に張り裂けてしまいそうだった。

 どうすれば、この悲しみから。なにをしてやれば、この苦しみから。それを考えれば考えるほど悲しみと苦しみが増すような気さえした。

 孤独な戦い。誰もが寝静まった夜、アタシはアタシと戦っている。ひとりぼっちの戦争だった。

 

「……すき……」

 

 胸を圧迫した言葉が、口から漏れ出す。

 

「すき……すき……トレーナーさん、すき……」

 

 祈るように呟く。

 

「すき……すきなの……トレーナーさんのことが、だいすき……」

 

 そうすると力は抜けて、言葉が消えるのと同時に意識も消えていった。

 あれだけ悩んでいたのに、すっかり寝てしまった。思えば何も起こっていないのに、よくあれだけ悩めたものだ。"素晴らしい素質"とは、悩む素質のことじゃないか、などと苦笑する。

 

「マーベラ───ス!!! ……あれ、早起きだね☆」

 

 マーベラス目覚ましより先に起きたのは久しぶりかもしれない。今日は眠れないとまで思っていたのに、頭は冴えていた。

 思う。アタシはウジウジしがちだけれど、ウジウジするのはそう悪いことじゃないんじゃないか。ウジウジしてから目を覚ませば、心は寝ている間に落ち着くことができる。悩みすら持てないよりはその方が幸せかもしれない。

 

「今日もいっちょ、やりますか」

 

 そう簡単に悩みは解決しないけれど、人は悩むことでじりじりと前に進めるのだ。

 ……寝る寸前のうわごとを思い出してトレーナーさんの顔をしばらく直視できなかったのは、また別の話。



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テイエムオペラオーとゼンノロブロイの黙示録

黙示録の四ウマ娘


 大きく息を吐く。これから行われる事の重大さ、心の重さ。それらをすべて背負い、一世一代の勝負に出る。忘れてはいけないことが世の中には多く、けれど人は忘れゆく。未だ終末は来るべくもなく、されど。

 貴方が、終わるべきと云うなら。

「ふむ」

 終末の喇叭を思い切り鳴らした私を、興味のなさそうな目で一瞥する貴方がいる。これはあなたの望んだことで、あなたにできる私の最後のナニカなのに。

 時間だ。黙示録の四騎士、四人のウマ娘がやってくる。

 第一のウマ娘は雪のように白い毛を持ち、勝利の上に勝利を重ねるべく出ていった。支配の栄光は全てを拭い去り、あとには何も残らない。

 第二のウマ娘は燃えるような赤を身にまとい、より激しい戦争を起こすために武器を与える。戦乱は血すらも蒸発するほどの熱気で、屍は山のように積み重なっていく。

 第三のウマ娘は黒い毛をなびかせて、すべてに飢えをもたらすために飛び出す。飢饉はにんじんを絶やしつくし、二度と作物は生えなくなる。

 そして第四のウマ娘が降り立つ。その顔は青白く、彼女は疫病と死をもたらす。───そろそろ聞きたいんだけど、世紀末覇王はいつになったら登場するんだいロブロイくん。え? 出てこない!? 終末を描いておきながら最後の最後にこのボクが出てこなかったら、いったいどうやって世界は終わりを迎えるんだい!? この後にこの四人とボクがウイニングライブをすることで世界が終わりを迎える筋書きかと……。

 ……そういえば冒頭は誰の独白なんだい? いやなに歌劇を嗜む者として、話の気になる点は気になるともさ。……じゃあここを私とオペラオーさんにしましょうって、まさかこの混沌とした物語は君が書いたのかい!? ……覇王ともあろうものが驚いてばかりだ。全く君には脱帽したよロブロイくん。賛辞と共に、『ボクが世界を終わらせるホントの黙示録』の執筆権を君にあげよう!

 まず『貴方が、終わるべきと云うなら』まで遡ってだね、それ以降は新しい神話を書こうじゃないか。ボクが世界を終わらせる役で、ロブロイくんはこの興味なさげな人だ。ボクが喇叭を吹いて、ボクが四人出てくる。そして最後にボクが登場して、ロブロイくんは満足げに終末を語るのさ。さあ、語ってみたまえ!

 ……テイエムオペラオーは私のために世界を終わらせる物語を書きました。それはまさに天上天下唯我独尊、けれどその御世は間違いなく麗しく、私はこれからも彼女と物語を語れることをうれしく思うのでした。めでたし、めでたし。

 なるほどなるほど。……はっはっはっ。はーっはっはっ!! 見事だよロブロイくん。そう、世紀末とは破壊と再生! 生命の輪廻! ボクは世界を終わらせた後に、偉大なる王としてすべての人をよみがえらせるのさ! ……どうかな。いい物語になったかな。時折思うのさ。覇王とは民から理解されないこともある、とね……。君と語らうのが、ボクは楽しかった。君は、どうだったかな。……もし大いに楽しんだのであれば、また共に物語を作り上げよう! では! ありがとう! 次なる誘いを待っているとも!

 ……そう言ってオペラオーさんは去りました。本の中では私が貴方に世界を終わらせてくれと頼んだことになりました。もちろん私はそんなこと望まないけれど。貴方が、終わるべきと云うなら。そう言ったお話も、すてきだと思いました。

 お話についての語らいは、あなたとの作成作業は。新鮮で、楽しくて。話をみんなで考えるのも悪くないと思いました。今度はもっと素敵なプロット、用意してきますね。

 

 



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セイウンスカイと嘘と本当

ちょい暗いです


 自分の心に嘘を吐くというのはよく聞くことだがとても難しい。たとえば私がトレーナーさんのことを愛しているなどと自分に嘘を吐こうものなら、心の中には嘘とホントの心が内在することになる。トレーナーさんのことを愛しているという嘘。トレーナーさんのことを■しているという本当。

 こういう場合の嘘は自分を騙すために吐くわけだが、騙しているのも自分なのだから順当に行けば騙されるわけがない。二つの心を両立することはできない。ではどうやって騙すのか? 方法は一つ。ホントの心と嘘の心を、どっちがどっちかわからないくらいにかき混ぜる。二つの心を持てないのなら、二つを一つにするしかない。そうやって自分でもどっちが本当かわからなくなった時に、漸く嘘を吐けるのだ。

 つまり。私達は嘘の気持ちをあっという間に本当にしてしまう。冗談めかして狂言を紡ぐたび、心は罪深い嘘に染まってしまう。そうして嘘は本当になり、めでたく嘘吐きは正直者に変わるというわけ。

 だから、私は嘘を吐いた。どうしてもどうしても止められなくなる心を、穏便な嘘で封印するため。あなたを愛している。今はそれが本当だ。そういうことになった。それで良かったのに。

 嘘吐き。私を私が苛む。嘘吐き。私に私が貼り付けたレッテルは、私の心が嘘だという事実をずっと覚えている。嘘吐き。私は何のために自分を騙して、何を自分の心に閉じ込めたのか。それはもうわからないけれど、嘘を吐いたという事実だけが残る。

 嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。私は何度も夜中に目を覚ますようになり、あなたとの時間に幸せを感じるほどに、身体を引きちぎられそうな痛みを覚える。何かが違う。お前は愛という嘘で大事な人を苦しめている。恋に染まって盲目になり切ろうとしている。そう私の中で私が囁く。

 嫌だ。今の私は確かにあなたを愛している。もう離れたくない。離れられない。昼寝の時間に飛び起きるたび、あなたは心配してくれる。何度やっても心配してくれる。それがとても愛おしい。これを嘘だなんて思いたくない。

 そう思えば思うほど、自分は何度も嘘を吐くことになる。罪悪感が心臓を捻り潰そうとする。愛していないのだろうか。なら私はどうしてあなたを愛しているのだろうか。思考の支離滅裂は極まり、命が擦り減る音が聞こえる。

 それはある日のこと。なんてことない日に限界を迎えた。ただかぼそく、懇願する。

 

「助けて」

 

 トレーナーさん。

 

「わかってた。でも、俺はスカイに幸せになって欲しかった。あの日走るのをやめて、お前の心が拠り所を失う音が聞こえた。だから、こうなった」

 

 違う。私は。

 

「本当は、憎かった。トレーナーさんに全ての憎悪を向けた」

 

 口が勝手に動き出す。正解を見つけてどす黒く晴れ渡る。

 

「あなたを信頼していたから、走ったのに。あなたが万知万能なら、全ての傷を事前に見つけて治せたのに」

 

 そんな無茶な憎しみを向けた自分を呪った。だから、その自分を嘘で塗り潰して殺した。

 

「俺を憎めばいいって、あの時俺は言ったから。だから、それで良かった。自分で自分を憎んだら、心は壊れてしまう」

 

 私は二重に嘘を吐いた。私を憎悪していた。その気持ちに嘘を吐いてあなたを憎悪した。それらを全て反転させ、あなたを愛した。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 どうしたら良かったんだろう。その言葉は出てこず、ただ嗚咽が漏れる。自分に正直になる。それは簡単に言われるが、とても難しい。ただ、子供のように泣きじゃくる。あなたの胸をぽかぽかと叩いて、愛と憎しみを込め続ける。

 あなたは優しく頭を撫でて、そこには愛があるように見えた。

 悪くない。悪くない。きっと誰も悪くない。理屈ではわかっているのに、誰かに罪をなすり付けたくてたまらない。無実の罪を被せるほどの大罪はないと私は思う。私は嘘を吐いて、あなたに罪を与えた。もうそれ以上、何も言葉は必要ない。私が悪い。私が悪い。きっと私が悪い。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 また、口を開く。

 

「抱きしめてよ。キスしてよ。愛してよ」

 

 あなたは無言でそれに応える。私の身体はあなたの体温を感じ、私の唇はあなたの舌を求める。女は男を求め、男は女を支配する。聖書の言葉だったか。誰もが生まれながらに罪を背負うというが、これがそうなのだろうか? 私があなたを求めるのは、罪なのだろうか?

 それで、それで。しばらくの間、偽りの愛を重ねた。

 満たされたような錯覚を覚える。あなたを愛した嘘は、まだ身体に染み付いているから。ようやく落ち着いた。今までの感情はきっと発作のようなもので、私の本当はやはりあなたを愛している。

 

「なあ、スカイ」

 

 あなたの声が愛しい。あなたの全てが愛しい。

 

「いつか、スカイの言葉を聞きたいな」

 

 きっとそれは、単に言葉を交わすという意味ではないけれど。

 

「いつでもどうぞー」

 

 茶化してしまおう。

 いつか幸せになれるのだろうか。今は幸せではないというのか。幸せになる権利はあるのか。お前は愛する人を苦しめているのに。心のねじれが裏表でくっついて、流れる思考は一秒ごとに食い違う。私はあなたなしでは歩けなくなった。これが私が私に与えた罰なのだろうか。

「ねえ、トレーナーさん」

 

 しばらくぶりにあなたに声をかける。本当か嘘かはわからないけれど、心の底にある声を。

 

「私は、どうすれば良かったのかな」

 

 ようやく。いつか言いたかったことが、言えた。

 

「なあ、スカイ」

 

 不思議と、私の心は落ち着いていた。

 

「どうもできてなくていい。これから。これからでいいんだよ。今までのことは全部忘れるんだ。俺のことを忘れたっていい」

 

 それは別れの挨拶。私があなたから離れるための言葉。

 

「全部忘れて。たとえばなにか新しいこと……釣具屋なんてどうだ。お得意様になるよ」

「……うん、楽しそうかも」

 

 あなたがこの一歩を押してくれること。それはかつての信頼関係を思い出させた。あなたが言うことなら、信じられる。恋愛とは違う親愛のカタチ。

 

「……じゃ、荷造り手伝うよ」

「ううん、一人でやる。独り立ちするんですから」

 

 ……久しぶり、トレーナーさん。お得意様になるって言ってたのに全然来てくれないから、セイちゃんショックでした。

 でも、一人で生きていけました。距離が離れるから、恋でなくなるから。それだけで切り離されるわけじゃないって、感覚で掴めました。ありがとう、ございます。

 でも、久しぶりに会って思いました。やっぱり私、トレーナーさんのことが好きみたいです。心のもやを全部取っ払って、今度こそ本当、です。まあ、もうどっちでもいいんです。大事なのは、自分を信じてあげること。その心が嘘でも本当でも、自分を信じます。だから、トレーナーさん。

 好きです。私と付き合ってください。



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セイウンスカイの最後の日

物騒なタイトル


 私に思いつくことというのは当然あなたにも思いつくことであって、つまり私たちが発想できる範囲というのは皆大して変わらないのだ。ならばどうやって策士は意表を突くのか? そこには必ず油断と錯覚が必要になる。即ちあなたの視野を狭めたり、歪めたり。正しくこちらを見ているうちは、どんな作戦も意味を成さない。だから、手作りのチョコレートというのも。やはりそういう関係性ではない私が意表を突くための一つの策であり、逆説的に私とあなたの間にそういった関係は存在しないことになるのだ。

 けれど、それでよかった。それでいいと思っていた。それ以上なんて思いもしなかった。思えばそれは私が私に張った予防線であり、策士が策に溺れないための一つの手段だった。理解しようとしないことで、理解できないものから逃げようとしていた。手を伸ばせば届くふりをしていた。

 あなたの心は、もう。

 URAファイナルズ。大きなレースに向けて、私とトレーナーさんは残り少ない時間を共に過ごしていた。残り少ない。あなたは自然とその事実を述べた。私もいつものようにのらりくらりと返事をしたはずだ。本当はなんと言ったかさえ覚えていないけれど。

 

「よし、スカイ。いいタイムだ。これなら胸を張って送り出せるよ」

「ありがと〜トレーナーさん。……あの。……ううん、なんでもない」

 

 トレーナーさんは、私を送り出す。それはつまり、あなたと私の契約は終わるということ。新人トレーナーである自分には手が余ると判断したのだろうか。それとも彼の活躍が評価されて、より上のランクのチームを担当することになったのだろうか。どちらにせよ、私はお払い箱なのだ。体のいい厄介払いを、私はどうして受け入れたのだろう。私の心はどうして受け入れていないのだろう。スタンスを決めてロールを演じる。そんな風に過ごしてきたのに、そのスタンスが最後になって定まらない。いや、正確には定めようとしていない。まるで揺れ動く心を殺してしまうのを恐れるかのように、最近の私はぎこちなかった。

 心当たりがないわけではない。最近の異変について、トレーナーさんは多くを語らないけれど。トレーナーさんが同期の桐生院さんと近頃よく会っているのを見かけている。……今までは先に帰っていたから、気づかなかっただけかもしれない。私がトレーナーさんのことをこんな風に考えるようになったのは、本当に今更のことだから。有マ記念を走り切って、あなたから契約の終わりの話を持ち出された時だったから。

 わからなかった。自分がわからなかった。今になって目の前にいた人が離れようとしているのを知り、都合の良い独占欲を浮き上がらせているだけではないのか。そんな悍ましい自分に嫌気がさし、直後に自分は元から高尚な存在ではなかったということを思い出す。側からみれば私の存在は、身の回りに降って湧いた新たな関係性を無造作に警戒する野良猫のようだ。それはたとえば人間からは関係ないもので、同じようにトレーナーさんは私の感情を慮る必要はない。

 私に思いつかなくてあなたに思いつくことがあるとすれば、それはきっと個人的な情感の差。あなたが深く感じ入るものに、私はピンと来ることができない。そうであったら悲しいけれど、そうならば仕方ないはずなのだ。だから、つまり。

 あなたが素敵な人と恋に落ちたとして、私はそれに驚き、祝福する。そうでなくてはならない。

 結局のところ、私はなぜトレーナーさんがもうすぐ契約を終えて消えてしまうのかだとか、なぜトレーナーさんと桐生院さんが会っていたのかだとかについて、全くわからないし聞こうともしないまま決勝まで進んだ。明日がその日で、それを終えればあなたとの関係は終わり。その先が気になるのに、なぜか聞き出せなかった。最後の日も一人、何事もないかのように昼寝をして過ごす。

 目を覚ますたびに、一時間時が進んでいた。何度も目覚めてしまうのは、あなたのことを考えていたから。けど、何事もないのだ。きっとそれはありきたりな理由で、あるいは彼にとっていいことで。そこに言えない理由があるのだとしても、それは喜ばしいことに違いない。

 だって、私の信頼するトレーナーさんが。幸せでいられないなんて、あり得ないのだから。

 

「あなたは、セイウンスカイさん……?」

 

 ピクリと耳が動く。聞き馴染みのない声で自分の名を呼ばれた。誰だろうと振り返り、軽い驚きと納得をする。桐生院さんだった。

 

「こんにちは、いつもトレーナーさんがお世話になっております」

「いえ! お世話なんて、こちらこそ大変お世話に」

 

 彼女の顔が紅くなる。ははあ、わかりやすい。

 

「おやおや〜、もしかしてトレーナーさんにときめいたりしちゃってますか〜?」

「……! いや、その……!」

「ご安心ください、セイちゃんは口が固いですから」

 

 図星のようだ。……大したショックを受けることもなかった自分に、何故か安心する。

 

「いえ、ほんとに。あなたのトレーナーさんは、あなたを大事に思ってますから。だから、色々相談も受けました」

 

 私を大事に思っているからなんだというのだろう。惚気を聞かされているようで、少し苛々する。けれど。

 

「手術。成功するといいですね」

 

 その言葉に、耳を疑った。

 

「……大変難しい手術だと聞きました。もうトレーナーは引退するつもりだとも言っていました。……でも、私も信じています。あなたのことを話す時が、一番楽しそうだったんです。だから、あなたたちは二人三脚で」

「……どうしてよ」

 

 声が震える。心が弾ける。この場にいないあなたに問う。

 

「……どうして言わなかったの、トレーナーさん……!」

「……! すみません、まさか……」

「いや、いいんですよ。桐生院さんは悪くありません。トレーナーさんも悪くありません。私のことを思って言わなかったのはわかります、だから」

「よく、ないです」

 

 今度は、桐生院さんの声が震える。

 

「セイウンスカイさん。私、あなたのトレーナーから教わりました。トレーナーとは、担当ウマ娘と全てを話しあい、分け合うのだと。それなのに、そう言った当人が大事なことを言わないのは、違います。

 きっと、大切に思うからこそ言えないこともあります。私たちがそうでした。……でも。

 真に信頼し合うなら、きっと言うべきです!」

 

 強く、鋼のように。その言葉には重みがあった。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 思考は止まり、また激しく流れる。自分の考えていることはまだわからないけれど、やるべきことはようやくわかった。

 

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 激励を背に。あなたの家へとひた走る。

 

「……私の、負けかな」

 

 そう、後ろで最後に小さく呟く声は。向い風の音でかき消された。

 

「トレーナーさん。今から本気でしか喋らないよ。開けて」

「……どうした、スカイ」

「開けて」

 

 急速に自分の心が解き明かされていくようだった。それは春の雪解けで、夏の陽炎で、秋の落葉で、冬の極光で。あっという間に生まれ落ち、あっという間に消えてゆく。だから、今まで怖かったのかもしれない。

 がちゃり。扉が開いて、あなたは姿を現す。途切れさせない。途切れさせてたまるか。ドアノブを掴む彼の手を取って、強く強く握りしめる。

 

「……ありがとう」

 

 そう言うと、彼は全てを察したようで。

 

「バレちゃったか」

「私のトレーナーさんは、あなただから。全部お見通し。人は誰かに思いつく以上のことはできないんだよ、トレーナーさん。……なんて、桐生院さんから聞いちゃった。責めないであげてよ、素敵な人なんだから」

「……ありがとう」

 

 それはこちらのセリフだったのに。

 何故、私はあなたのことしか考えられなくなっているのだろう。そんな問いに自分で答えを返す。

 

「トレーナーさん、あなたのことが」

 

 ようやくだ。

 

「好きです」

 

 ようやく、私の気持ちは私にわかる。

 

「ずっと、不安だった。あなたがどこかへ行くのが怖かった。あなたが誰かと仲良くするのが嫌だった。あなたの一番になりたかった。それは子供みたいな癇癪かとも思ったけれど、違う。

 本当に苛ついてたのは、一歩を踏み出せない私に対して。今までの関係から先に進めるのかが怖くて、それでいて気持ちだけがうわずって」

「いいのか、俺は」

 

 先がわからない。その言葉を聞く前に、涙と共に気持ちが溢れ出す。

 

「いいに決まってる。あなたじゃなきゃ嫌。あなたと離れるのが嫌なのは、あなたが好きだから。あなたと誰かが仲良くして欲しくなかったのは、あなたが好きだから。私の気持ちは、やっと説明できる。わかったの。あなたのことを想うから、私もこの心を暴き立てれなかった。でも私の信頼の証として、あなたに私の気持ちを見てほしい。受け取らなくて、いいから」

 

 泣いた。涙はどこまでも流れるようで、心はどこまでも澄み渡るようで。

 

「……スカイ」

「……どうです、トレーナーさん。これが、私の"本気"です」

 

 握った手を離す。伝わらなくても、いい。信頼する人に全てを打ち明けるのは、当然のことだから。私たちの関係に策はもう要らない。その結果よりも、そこに濁りがないという過程が大事なのだ。

 

「……じゃあ」

 

 これで、十分だ。踵を返し、去ろうとした。

 

「待ってくれ」

 

 私の歩みは、後ろから抱きしめられる形で止まった。

 

「トレーナーさん、さっきの聞いてた? 本気で勘違いしちゃいますよ?」

「勘違いなんかじゃない。俺もやっと、わかった。君を大事に想うのに、君に何も伝えなかった矛盾の正体に。

 ……俺は、君のことを。担当ウマ娘として以上に見ているんだろう」

 

 それは、まるで。

 

「大事な担当ウマ娘のためだと言い聞かせて言葉を閉じ込めた。けれどそれは、君に拒絶されるのが怖かったから。君に、恋していたから。だから離れるのが怖くて、その真実を言えなかった」

 

 それは、愛を語るに等しく。

 

「トレーナーさん、ウマ娘を力で止めようなんて無茶ですよ。今私がなんで足を止めてるか、分かってます?」

 

 ぐるり。首を振る間も与えず、あなたの身体に寄りかかり、背に手を伸ばす。強く強く、もう離さない。

 

「トレーナーさん、待ってますから。二人でデート、色んなところに行きましょうね」

 

 きっとあなたは帰ってくると。信頼する二人の絆が、それを担保する。

 

「まだ、心臓が心配だって言ってますね。……止まるまで、離しませんから」

 

 そうして、あなたを見つめて。あなたの目に映るものは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたけれど。

 紛れもない晴天。きっと、明日からもずっと。



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サクラバクシンオーの大切な人

大切な人について考えます


 大切な人というのは家族のことであり、仲間のことであり、友達のことである。ならばトレーナーさんはいったいどれに属するのだろうか?

 家族。私の両親は常に私を大事にしてくれた。その恩に報いるには時間がいくらあっても足りないだろう。だから私は走る。スピードとスピードを追い求めて走る! 模範的学級委員長であることこそ、全ての家族のためだから! ならばトレーナーさんは家族なのだろうか? その二つをつなげて口にすると、なんだかくすぐったかった。それは心地よかったけれど、合ってはいないということだろう。学級委員長たる自分の感覚を信じて、次なる選択肢に当たる。

 仲間。仲間というのは辞書によれば、立場が同じで、同じことを一緒にして……例えばフラワーさん。共に走り、競い合う存在といえば彼女だろう。競い合いに勝つために必要なのはスピードであり、だから私は走る。スピードとスピードを超えて走る! 模範的学級委員長こそ、最速最高の存在であるべきだから! ならばトレーナーさんは仲間なのだろうか? 言葉の意味としては二人で一緒にスピードを追い求めているトレーナーさんは、仲間と言うのに相応しいかも知れない。けれど私たちは同じものを見ていても、同じ立場であるわけではない。トレーナーさんはトレーナーだし、私は学級委員長だ。もう一つの選択肢も考えてみよう。

 友達。例えば辛いことを分け合う存在。例えば楽しいことを分かち合う存在。この学園にいるウマ娘全てと友達になるのが私の目標の一つだが、それにはまだまだ足りないものも多い。まずスピード。次にスピード。更にスピード。だから私は走る。スピードとスピードを重ねて走る! 模範的学級委員長は、全ての生徒と友達であるべきだから! ならばトレーナーさんは友達なのだろうか? トレーナーさんはいつも私のそばにいてくれるのは間違いない。いつも私を心配してくれるのも間違いない。でも友達という言葉は、私たちの距離と比べるとあまりに近くて遠いような気もした。他の選択肢に当たってみよう。

 ……おっと。家族でも仲間でも友達でもない、そうなると他には思いつかない。ならばトレーナーさんは大切な人のカテゴリーからは外れてしまうのだろうか。大切な存在ではないということだろうか。悩む、悩む。学級委員長を悩ませるとは、やはりトレーナーさんは侮れない。親愛や友愛と云われる所謂愛する人の中に、トレーナーさんは入っていないとしたら。なんだか自分がとても冷たい人のような気がした。いやいや。私は全生徒の模範として、全てに愛を注ぐはずである。道端の石にさえ慈愛を注ぐ……と、これではトレーナーさんが道端の石ころのようではないか。反省しなくては。

 思う。トレーナーさんを大切な人だと思うのは間違いない。そうでなくては自分を許せないと、第六感が告げている。けれどトレーナーさんとの関係を言葉にするのはとても難しい。私たちにあるのは親愛であり、信頼であり、友愛である。紛れもなく愛する人の一人なのだけれど、そこに適切な言葉を思い付けなかった。

 ……ふと、恋愛という言葉を思い出す。言葉でしか知らないそれは、もしかするとここにぴったりと当てはまるのかも知れない。けれどそれは曖昧で、吹けば飛ぶようなものだとも聞く。ならば、そうでない方がいい。そう思った。私たちの間にあるのは、強固で揺るがせない何かであって欲しい。言葉として表せないのはもどかしいが、複雑でおいそれとは離れないものであって欲しい。

 私の優秀な頭脳とスピードを以ってしても考えはまとまらず、トレーナーさんは私にとってのなんなのかという答えは出ずじまいだった。こんなことは初めてだ。いつもならばどんな問題でも「わかる」か「わからない」の答えがあっという間に出るというのに。けれど、もう少し。不思議とその命題に対する嫌悪感はなかった。心の中でこの感情を食んでいたいと思った。どうしてもわからないことならトレーナーさんに聞けばいいし、それでもわからないなら二人で考えれば良い。何人寄ればなんとやら、というやつだ。全力で走る必要はあれど、焦る必要はない。

 私とトレーナーさんなら、いつか。答えを導き出せるに決まっているのだから。



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有馬記念を目指すハルウララ

「有馬記念通常エンドの後にハルウララとトレーナーが」の前日譚のようで個別で読んでも支障はないです


 わたしはいつも頑張っているとトレーナーは言うけれど、トレーナーはいつももっともーっと頑張っていると思う。だけどそんなトレーナーに、わたしはどうしたらいいのだろう? がんばらなくていいよ、と言えばいいのだろうか? それはなんだかシツレイな気がする。トレーナーのためになるようなことをしてあげたいから、シツレイなのはダメだ。

 わたしがもっと頑張って、がんばって。レースに勝てるようになればいいのかもしれない。けれどそのためにはトレーナーももっとがんばることになるだろうし、そうしたらトレーナーは倒れてしまうかもしれない。トレーナーが倒れてしまったら、タイヘンだ。でも、たとえば。わたしが有馬記念に出れたなら、トレーナーは喜んでくれるだろうか?

 聞いたことのある、すごいレース。みんなが目指すいちばんのレース。わたしはトレーナーがトレーナーになってくれてよかったと思っている。すぐ色んなことをわすれてしまう私が頑張れるのは、トレーナーのおかげだ。いつも優しくて、暖かくて、大好きなトレーナー。トレーナーのことを考えるだけで、心がすこしあったまる。これは秘密だ。

 だから、トレーナーにいつか恩返しができたらいいと思う。びっくりするような恩返し。わたしのトレーナーが、わたしと一緒でよかったと思えるようなプレゼント。……うん、やっぱり。

 有馬記念は、わたしでも聞いたことがあるのだから。きっとすごい、すごいレースなのだろう。スペちゃんやグラスちゃんやセイちゃんもよく言っていた。宣伝も聞いたことがある。

 

『年末の中山では、あなたの夢が叶う』

 

 わたしの夢は、トレーナーが良かったと思ってくれること。ならば、決まりだ。

 有馬記念を見に行こう。トレーナーと一緒に。

 

 大勢のひとがスペちゃんたちを見ている。そこはわたしの知っているコースとは違って、緑の芝が綺麗だった。ダートも楽しいけれど、芝も走ってみたい。そう思った。スペちゃんがこわい顔をしているので、トレーナーに何故か聞いてみる。"キンチョウ"ということらしい。キンチョウすると、楽しいはずのレースが楽しくないのだろうか。一瞬そう思ったけれど、皆が一斉に走り出したのを見てその考えは消えた。

 ものすごい歓声。足と芝の奏でる音はぱかぱかと素敵で、ずっとずーっと聴いていたいと思った。みんなのホンキが伝わってくる。どこまでも、どこまでも。いっしょうけんめいが束になって、本当に夢が叶ってしまいそうだ。

 ちらり。少しだけ、トレーナーの方を見る。トレーナーと目があって、考えることは同じだと思った。大切な人の姿と、このレースを重ねて。何かを考えずにはいられない。きっと、そういうことだ。

 ゴールイン。ずっと続いていたような気分だったのに、時計を見たらあっという間だった。スペちゃんとグラスちゃんが、真剣な目でまた走ろうと約束する。約束。わたしとトレーナーの約束。

 

「一緒に一着、たくさん取ろうね」

 

 なんとなく、だけど。ぜったい、だと思った。有馬記念は、本当に夢が叶うんだ。だから、だから。わたしも、出たい。走りたい。目指したい。トレーナーの思う一着は、ひょっとしたら違うレースだったかもしれない。けれど、一緒なら。わたしは決めた。わたしも、ここで走りたい。息を吸い込み、トレーナーにセンゲンする。

 

「わたし、有馬記念に、でる────!!」

 

 少し迷ったような、驚いたような。そんな顔の後、トレーナーは言った。

 

「……できるか?」

「うん!」

 

 トレーナーはびっくりしている。成功だ。トレーナーは喜んでいる。成功だ。なら、わたしはちゃんとトレーナーのためになれている。つまり、わたしは必ず走れる。

 わたしはトレーナーのためなら、どこまででも頑張れるのだから。



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セイウンスカイとまだ怖い

まだわからない


 誰でも怖いことはあって、怖いことからは逃げたいと思う。私の場合はトレーナーさんが怖い。何を考えているかはわかる。だから怖い。のらりくらりと逃げることだけが、私に許された抵抗なのかもしれない。私の気持ち。私の秘密。そこに手を触れられなければ、怒られたって幸せだ。

 でも、いつかは。そう思ってしまうのは、私のわがままなのだろうな。

 7月に入って、夏合宿が始まった。海辺で遊ぶのが楽しみだ。トレーニングもしっかりするけれど、楽しみではないかも。でも疲れた後にあなたがお疲れ様と言ってくれるのは、少し楽しみ。

 スイッチを入れる。心の跳ね橋を上げる。今からは真面目モードで、目指せ菊花賞制覇。そんな目標をトレーナーさんに伝えたら、少し驚いたような顔をされた。心外……ではないか。日々驚きを与えるために精進しているわけだから。

 私の気持ち。私の秘密。それは、まだ言語化できていないものだ。私が触れられたくない理由は単純で、そこにまだ弱さしかないから。弱みを強みに転じれる作戦が、思い付いていないから。だからそれを伝えてもあなたを驚かせるどころかぽかんとさせてしまうだろう。

 たとえばこの心がカタチになれば、胸を張ってトレーナーさんと向き合えるだろうか? それは魅力的だけど、ちょっと恐ろしい。自分が何を考えているのかわからないのは初めてだから。何を考えているのかわからないのは、相手に見せる顔であって。本当の私は色々なことを純朴に考えているのだ。それを覆い隠すために複雑そうなお面があって、けれどそのお面は皆との距離を取ってしまうものでもあって。

 トレーナーさんは私のお面を透かして見るようなことをあまりしない。当たり前のように罠に引っかかり、当たり前のように直球で話しかけてくる。そうなると私のお面は透かされるより容易く粉々になる。物理攻撃には弱いのだ。

 だから私はトレーナーさんが怖いのかもしれない。いつか、私の全てを捕まえてしまうような。そんな気配。それなのに、私はあなたから離れられない。

 たとえば。私の全てがトレーナーさんのものになったとして、それは私にとってバッドエンドなのだろうか? 考えてみても、ピンとこない。どんな風になるのかが、想像できない。それも恐ろしいのかもしれないけれど、心に浮かんだ感情は恐怖ではなかった。説明することもできないけど。

 でも、と思う。だから、と思う。私は今のトレーナーさんが、心地よい。クラシックを超えて、シニアを超えて。それでも走れるとしたら、あなたのそばにいる時だけ。純然たる信頼が、すでに築かれている。この気持ちはそういうものだと、そういうことにしておこう。

 青雲の芽吹きはまだ若く。真夏の入道雲のように、これから大きくなっていく。



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ニューカレドニアに行きたいセイウンスカイ

天国に一番近い島です


 トレーナーさん。天国に一番近い場所って、どこだと思いますか? いやあよく聞くじゃないですか、天国に一番近い場所、〇〇! この夏はここで決まり! ってね。連れてってくださいよトレーナーさん。行く場所くらいトレーナーさんに選ばせてあげますから。

 たとえば南の島。天国って南にあるんですかね? 行ったことないからわかんないなー。トレーナーさんは? ……冗談ですよ。この言葉は距離的なもんじゃないですよねえ、距離だったら空に行けば一番近いに決まってるんですから。

 いやあでも綺麗な海で魚釣り、楽しそうじゃないですか? 天国に一番近い〇〇はたくさんありますけど、やっぱり島が一番有名ですかね。え? 知らないんですかニューカレドニア!? 連れてってくださいよー、天国に一番近いんですよー? ニューカレドニアも知らないのにそれよりいい場所知ってるんですかー? トレーナーさんの天国知らずー。

 ……温泉は極楽でしょ。宗教の違いで捕まっちゃいますよ。……やじゃ、ないですけど。……あーもう、はいはい。そうですね、セイちゃんはスカイなので天国に一番近いウマ娘ですね! それ褒めてますか? ……怒ってないですよ。ちょっと遠回しすぎたかなって、落ち込んでます。

 ……どーん。今日は罰として、天国に一番近いウマ娘に一番近いトレーナーに任命です。くっついて離れません。トレーニングもできませーん。ふん。……むう。なんで満更でもなさそうな顔するんですか。そういうところで正直さを出さないの! ……トレーナーさんのずる。……正直じゃなかったら、もっと許さないですけど。

 ……にゃはは。どうせトレーナーさんもセイちゃんも異性に縁なんてないんですから、諦めてくっついててください。たとえばトレーナーさんは誰かといい感じになれても、きっとハネムーンなんていけないでしょうし。だって知らなかったんですから。なにを? ……さあ? ……トレーナーさんもこっち、寄りかかってきていいんですよ? 今日は罰なので許してあげます。ね。

 ……まだニューカレドニアの話を引きずるとは驚きましたね。そんなに気になりますか。なら後で、ニューカレドニア 旅行 とかで調べてみたらいかがですか? あんなところ私にだって縁はないでしょうね。やれやれ。私は10年後もトレーナーさんをからかって遊んでます。そしてトレーナーさんはからかわれて嬉しそうなんです。もうセイちゃんなしでは生きていけなくなってるんです。怖い! 恐ろしい! まいったかー! ……ああでも、そうですね。そうなっても、悪くないですね。そこは同感です。ずっと、同じ気持ちだったら嬉しいです。

 なんて、ね。

 



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織姫と彦星とメジロマックイーンとトウカイテイオー

アニメ時空です


「ねえねぇマックイーン、彦星と織姫ってあるでしょ? 一年に一度しか会えないやつ」

「なんですか、急に」

「急じゃないよ、今日は七夕だよー!」

 

 テイオーにそう言われて思い出す。今日は7月7日、七夕の日だった。イベントごとに浮かれるつもりもないが、忘れてしまうのも不覚。

 

「七夕くらい知っていますわ。天の川にカササギが橋をかけ、織姫と彦星が一度だけ出会える日。そして私たちは願いを込めた短冊を吊るして、星に望みを託す日」

 

 対抗するように七夕についての知識を述べる。とはいえ誰でも知っているようなことで、テイオーもさらりと受け流す。どうでもいいことで少しムキになったとこっそり反省する。

 

「でさーちょっと考えたんだけどね、なんで彦星は天の川なんてぴょーんと超えちゃわないわけ?」

 

 ……こういう度肝を抜いてくるような発言については、やはりテイオーに分がある。子供らしい発想というのか、それともやはり天才的な視点なのか。

 

「天の川なんてって簡単に言いますが、テイオーは天の川を渡ったことがあるのですか?」

「……そりゃ、ないけど……」

「きっとそう簡単に渡れる川ではないのでしょう。なにしろ星空に跨るのですから」

「……うーっ、でもさ!」

 

 既に話題は荒唐無稽な分野へ入っているのに、なぜか2人とも譲らない。自分でもそのことが不思議だった。

 

「でもさ、絶対って思うなら。絶対会いたいのなら。絶対渡ってみせるって、ボクならそう思うよ」

「……テイオー」

 

 彼女のその言葉は無茶や誇張などではなく。覚悟に裏打ちされた、決意の証。

 

「……流石、と言いたいところですが。貴女が彦星になったところで、織姫がいませんわね。あら、織姫がいないならどうやって織姫に会うのでしょう?」

「……むー……」

「愛しい人がいて、初めて彦星の気持ちは分かると思いますわ。その点まだまだテイオーはお子様ですわね」

「……なにさ、マックイーンは知ってるの?」

「私にはメジロ家がありますわ」

「……それはなんか違うんじゃない……?」

 

 むう。自信満々で言ってはみたが、違うと言われると確かに返す言葉に困る。愛する人というのは大事な人のことだとして、一年に一度しか会うことは出来ない。そんな状況に置かれた時、私は耐えられるものだろうか。いい例えが思いつかず、織姫と彦星の苦しみは測り取れない。

 

「まあ、ボクもやっぱり分からないかも。好きな人も分からないし、ずっと会えないのも分からない。いつかまた会えると信じて、一年後も好きでいる。そんなの辛いよね、多分」

「いつでも皆に会える私たちは、恵まれているということかもしれませんわね」

 

 自分たちの運命を辿ってみる。それは数奇で、劇的で、容赦なかった。レースに神様がいるとして、決して優しいばかりではないのだろう。何も私たちに限った話ではない。レースが終われば誰かは笑い、誰かは泣く。けれど、それを支える人たちがいる。だから私たちは走り続けることができる。

 

「そうかもねぇ……ボクたちは幸運だよ」

 

 そう言い切った彼女がどんな道を進んできたのか、私は当然知っている。でも本人がそう言うのだから、間違いない。結局のところ、全ての事象は本人でなければ正しい受け止め方など分からないし、本人が受け止めたならそれは全て正しいのだ。

 

「幸運。でも織姫と彦星も、案外幸運かもしれませんわね」

「まぁ、そだね。それだけ好きで、それだけ会いたい人に出逢うことができたんだから」

 

 そういうことかもしれない。まだまだこの世界には知らないことばかり。だから、私たちはどうしても会いたい人を見つけてはいないかもしれない。それは焦っても見つからないものだろう。永遠に見つからないかもしれない。終生の存在というのは、何物にも代えがたい貴重なモノで。

 

「……うーん、決めた!」

 

 少し考えた後に、テイオーが大きな声で言う。

 

「何をですの?」

「短冊に書く願い事だよ! ……願い事があるんだったら、自分で叶えちゃえばいいのにって思ってたんだけどさ」

 

 それは、同感だ。織姫たちには申し訳ないが、一年に一度しか会えない二人は、願いごとをするには少し頼りない気もする。

 

「けど、これは決意表明。織姫と彦星に負けないくらいの幸せ者になるぞーってことを書くんだ! ……きっと、二人は幸せだから。どんな逆境にあっても、次の一年を思うだけで前を向ける。それぐらいの元気をもらえる存在がいたら素敵だよね。……恋人とかは、まだわかんないけど」

 

 なるほど。

 

「それは確かに、素敵ですわね」

 

 理にかなっているのかはわからないが、納得した。

 

「でしょー? あとはちゃんと夜晴れるといいけど。二人が会えなかったら寂しいもんね」

 

 最初は彦星に文句をつけていたのに、今やすっかり二人の恋路を応援しているテイオーに思わず笑みが溢れる。

 

「そうですわね、晴れて欲しいですわね」

 

 満天の夜空に光る織姫星と彦星、そしてその間を渡る天の川。こんな会話をしたおかげで、いまからそれが楽しみになってきた。

 

「……そうだ、マックイーンは何を短冊に書くの?」

 

 そういえば、どうしよう。生半可なことを書いては、テイオーに馬鹿にされてしまう。かと言って思ってもいないことを書いたらバチが当たりそうだ。……よし。

 

「もちろん」

 

 心の底の底。掬い上げた本当の気持ち。

 

「貴女とまた走ること。……勝つことは、願うまでもないでしょう?」

「……負けないよ」

「そのままお返し致します」

 

 それは奇跡や夢だとしても。二人が本気で願うのだから。織姫と彦星の逢引きのように、絶対に叶うのだ。



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セイウンスカイと酔っ払いトレーナー

深夜に書きました


 雨が降っている。暑い。眠れない。そんな時は私にとっての大ピンチ。夜中だからみんな寝静まっていて、当然トレーナーさんも寝静まっている。なのになんとなく電話をかけているのは、まあちょっとした悪戯だ。寝ぼけ眼のトレーナーさんに、天使の声を聞かせてあげよう。なんて。

 

「……おー、おはよーう」

 

 ……様子がおかしい。声が少し高いような気がする。何より調子が変な感じがする。……もしや。

 

「……酔ってます? トレーナーさん」

「……あー、少しな」

 

 当たりだ。トレーナーさんはどうやらひどく酔っ払っている。何かむしゃくしゃすることでもあったのだろうか? まあ聞いてみればいいか。

 

「なんでこんなに酔っぱらっちゃってるんですか、トレーナーさん。悩み事があるならセイちゃん聞いてあげますよ?」

「そうかー。いやー大したことではないんだが、なんだかなあ」

 

 電話口の相手は知っている声だけど、知らない人のようだった。ひょっとして私が電話していることにすら気づいていないんじゃないだろうか。

 

「なー、キミは恋愛したことあるかい」

 

 いよいよ口調が怪しくなってきた。それにしても、恋愛。恋愛かあ。

 例えばの話。私が誰かのことを好きになる、つまり恋愛感情を持ったとして、その対象がトレーナーさんであることは常識的にありえない。トレーナーさんは私のことを見守る大人であり、そんな存在に邪な感情を持つのはいわば信頼関係を壊す行為である。倫理的に問題のある行為である。だから、それはありえない。

 だからまあ、私はトレーナーさんのことを好きではない。けれど他に仲の良い男の人はじいちゃんくらいで。フラワーは……かわいいお友達だしなあ。私が男だったらほっておかないかもしれないけれど。それはそれ、これはこれ。

 

「うーん。なかなか縁がありませんねえ、おかげさまで」

 

 そう返す。トレーナーさんがいるうちは、私はまだまだ幼年期。信頼する大人のそばで、蝶よ花よと愛でられて。真実の愛とやらはまだ触れる権利すら与えられていないのだ。そういう暗黙のルールだし、私もそれに従っている。

 

「そうかあ、スカイはいいお嫁さんになるぞお」

 

 苦笑する。それは親か何かの台詞だろうに。寝ぼけているのか酔っ払っているのか、その両方か。トレーナーさんは未だよくわからない距離感だった。

 

「トレーナーさんは、そういう人。いないんですか?」

 

 聞いてみる。単なる好奇心で、たとえば教師の交友関係を生徒が探るが如し。

 

「俺かあ。俺はなあ、今で十分幸せだよお」

 

 なんだか泣きが入っているように聞こえた。そんなつもりはなかったのだが、トレーナーさんは何かに感動しているらしい。

 

「世界一のウマ娘に出会えたからな。それ以外は要らないよ」

 

 ちょっと真面目そうな口ぶりで、そんな馬鹿げた台詞を吐いてくる。なんだか今日のトレーナーさんはじいちゃんみたいだ。

 

「へーえ、どの辺が世界一なんですか?」

「そうだな、まず頭がいい。一見不真面目そうでいて、その実いつでもひたむきだ。真剣勝負との折り合いの付け方が上手いんだ。あいつなら、俺がいなくてもやっていけるだろうな」

 

 少し沈黙してしまう。褒められているのに、そんなこと言わないで欲しかったと思ってしまう。最後が、引っかかる。雨はまだ降っていて、湿気た空気は熱を閉じ込めていた。

 

「トレーナーさん、何度も助けてくれたのに。そんなこと言わないでくださいよ」

「あいつは俺の憧れだ。まあトレーナーってのは、みんなウマ娘の輝きに魅せられた存在ではあるけどな。俺たちはトレーナーであるために、トレーナーだから。彼女たちの1番のファンであり続けるんだ」

 

 熱に浮かされたようなその声は、初めて聞くあなたの憧れの話。

 

「俺にとってのそれはセイウンスカイ。だから俺は彼女のそばにいたい。けれどこれは俺のわがままで、スターってのは一人でも輝けるからスターなんだろうが」

「……」

 

 とても嬉しそうに語るあなたが、ひどく寂しい。何も言えない。聞こえていようがいまいが、その言葉は誰の答えを求めるものでもなかっただろうから。

 私たちウマ娘は、走るために生まれてきた。勝つために生まれてきた。そしてそれは当然のように、ウマ娘でない者たちの憧れになる。けれどその憧れは身体的種族的差から決して届かない溝に阻まれ、憧れは憧れのまま終わる。

 

「でももしずっといてくれって頼まれたら、いてしまうんだろうなあ。枷にしかならないものに信頼を寄せられていること。少し罪悪感がないわけじゃないよ」

 

 そんなことを思っていたのだろうか。ずっと焦がれて焼かれそうな痛みを背負っていたのだろうか。酒の席の冗談だと言ってくれないだろうか。そんなふうに考えた後に自分を恥じる。吐き出したい苦しみが誰にでもあって然るべきだ。それを封じ込めたいなどと望んではいけない。今の私は、図らずも彼を癒してあげられているのだから。

 

「……トレーナーさん」

 

 私が抱いていた感覚。あなたと私はトレーナーと担当ウマ娘の関係。だから私はあなたを信頼する。その図式は少し違っていた。私はあなたの憧れとして、ずっとあなたを引っ張ってきた。それに応える形で、あなたは私に道を示す。示された道を私は走り、あなたはそれを特等席で見届ける。互いに互いを想っていて、互いに互いを浮かび上がらせる。だから。

 

「私は、トレーナーさんじゃなきゃいやです」

 

 私は、あなたと一緒がいい。

 

「トレーナーさんだから、ここまで来れました。……今だから、こっそり本音を言います。これでおあいこです。……あなたはすぐに忘れてしまうだろうけど。

 ……私、もしかしたら。

 トレーナーさんが好きなのかも」

 

 そんなことはありえない。私を見守る大人に対して、そんな感情を持つことはあってはならない。そう考えていたから、そう考えなかったけど。

 

「なんかこう、なんですかねえ。そんなすごい意味じゃなくて、純粋に。ほんとはまだわからないのかもしれません。私はなんやかんやで子供ですから」

 

 恋には満たない。愛には足りない。でも、あなたのことが好きだから。きっとその感情は名付けられなくて、名付ける意味のないものだ。

 

「トレーナーさんは大人だけど弱いところもあって、私はそれを当たり前と思いたい。あなたの全てが知りたい……というとやっぱり大袈裟かもしれません。でも、だいたいそういうことかな」

 

 名付けられない感情なら、余すところなく語り尽くせばいい。

 

「……今だけの、秘密ですよ? ……だから、自分に代わりがいると思っても、それを否定できなくても。私のそばにいてくださいな、トレーナーさん」

「……ありがとう」

 

 もしかすると、喋っているうちにトレーナーさんの酔いが覚めてしまったかもしれない。雰囲気に酔っているのは私の方かもしれない。けれど、この気持ちは嘘じゃない。誇張でもない。今初めて気付いた本当の気持ち。胸に初めて秘めたもの。

 

「いいなあ、トレーナーって仕事は」

 

 唐突に、あなたが口を開く。

 

「こんなに近くに、夢と希望を見ていられるんだから」

 

 夢と希望。それを叶えるのがウマ娘で、それを支えるのがトレーナーだ。私たちは二人三脚、決して脚は欠けてはならない。

 

「それはどうも。でも、少しだけ違います。もう一度、言いますね?」

 

 心が弾むような感覚。大人と子供の関係は終わり、幼年期のその先へ至る。

 

「私は、あなたが。あなたのことが好きなんです。そこにもう、立場やらなんやらは関係ありませんったら」

 

 顔が熱くなる。勢い任せで言ってしまったが、とてつもなく恥ずかしいことを口走っているのかも。でも、本心とはそういうものだ。お互いに本心を曝け出す、駆け引きのない場所。そうでなくてはこんなこと言えない。本心というものは信じてるとか、触れたいとか、そばにいたいとか。色んな感情がごちゃ混ぜになって、複雑怪奇な形を取る。優雅で可憐でも、歪で不器用でも。その本質は変わらない。取り出すのは難しくて、取り出してしまえばしまうのも難しい。

 

「……」

「……おーい、聞こえてますかー? 聞こえてないなら、それはそれで好都合だけど……」

「そういうことなら。俺もスカイが好きだよ。ずっとずっと、デビュー前からの一目惚れだ」

「……もう」

 

 恋や愛には届かない感情。けれど、恋や愛では語り尽くせない感情。その架け橋が二人の間に繋がっている。互いの方から近づいていけば、きっとすぐに手を繋げるだろう。今日がその日だ。

 雨はいつの間にか止んでいて、黒い青空が星を包んでいた。

 

 

「おはようございます、トレーナーさん。……おやおや、頭を押さえてどうしたんですか」

「昨日は飲みすぎたみたいでな……記憶すら曖昧だ。……おっとこれは秘密だ。誰にも言わないでくれ」

「昼寝一回で手を打ちましょう」

「……仕方ないな」

 

 朝、いつものようにトレーナーさんと挨拶を交わす。あなたは案の定何も覚えてないみたいで、本気で頭が痛そうなその姿を問い詰める気にもならなかった。やれやれ、当分は私の方から近づいていくしかなさそうだ。

 

「……じゃあほら、はい」

「……どういうことだ」

「一緒に寝ましょう? 寝れてなさそうですし」

 

 自分から誘いに乗っていくなんて、ガラじゃないのだけど。

 

「……ありがとう」

 

 あなたの弱さも知ったから、仕方ない。今日は私がリードする番だ。

 

「……スカイはいいお嫁さんになるなあ」

 

 まだ酔っ払っているのだろうか。そう思って顔を覗くと、既に寝言に入っていたようだ。目をつぶって、少し口が空いていて。だから私が悪戯をしたくなるのも自然の摂理のようなものだ。

 

「……んっ……はあ。初めてってやつですねえ……。責任とってもらわなきゃなあ、トレーナーさん?」

 

 これはご褒美。あなたへの、あるいは私への。



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セイウンスカイと量子猫

quantum cat


 ざざーん、ざざん。夜の海は静かだ。聞こえてくるのは波の音だけ。耀くのは白い月だけ。鏤められた星と照り返す海面の光はその他大勢のようなもので、まったくもって煩くない。私と同じだ。文句も言わず、すーっと朝には消えてゆく。私たちの朝は、もう少しで訪れる。

 つまらない。わからない。宝塚記念を終えて、私の中に浮かんだ二つの言の葉。何もかもがつまらなく見えて、何もかもの行方がわからない。わからないことはつまらないし、つまらないこともまたわからない。だから私は考え抜いて策を弄し全てを理解の範疇に置こうとするのであって、その策が届かない域まで来た時点で、もう。

 

「はぁ、なんだかな」

 

 虚空に苛立ちを吐き出す。私が苛立つ相手がいるとしたら、誰だろう。少し考えようとして、やめた。無意味な犯人探しは思考を名乗るに値しない。セイウンスカイというウマ娘が得意とするのは依然としてその思考のみであって、それを無為にすることは許されていないはずだ。まだ私が勝ちたいと願っているなら、の話だが。

 月が真上に来ても、一向に眠気は来ない。私にしては珍しいのかもしれない。あるいは私はもう別人になってしまっているのかもしれない。見た目が同じだけの空っぽの器。それが周りの人たちを惑わせている。例えばトレーナーさん。今日も変わらず私のための合宿特製トレーニングを考えてくれていた。

 

「……私にやる気なんて、残ってないのにね」

 

 無駄なのに。私の気持ちはどこにあるのか、もうわからない。わからないからつまらない。つまらないことをやる意味なんて、ない。私がいつものように"フリ"をしているだけだと思っているのだろうか。仮定を積み重ね、どこかへ消えた本気の私をまだ幻視しているのだろうか。

 もしも、もしも。私がまだ私だとしたら。みんな幸せなのだろうか。そうだとしたら、今の私は存在するだけで皆を不幸にしている。

 がさごそ。思考が暗がりへと向かっていた時、不意に一匹の猫が現れた。野良猫だろうか。此方に寄って来るその子を撫でてやる。この子は皆に愛されているのだろうか。野良猫は得てして人里の邪魔をしかねないものだ。当人はのんびりと暮らしているだけで、あまり気にしていないだろうが。

 

「……っと、それは私も同じ、だったんだけどな」

 

 マイペースに、揺るがず進む。私はそうしてきたから、そうするのが私だ。今、誰かの顔色を窺っている私とは違う。私は結局、トレーナーさんにいい顔がしたくてこの状況に陥った。ギリギリまで失望されないように、いつも通りのフリをする。もう走れなくなった私にできるのは、走る前の準備運動を勿体つけてやることだけなのだ。

 もしも、もしも。また頭にもしもが浮かぶ。何かが違えば、この結末は来なかったのだろうか。どこかで違えば、何かが変わったのだろうか。それこそわからないことだったけど、不思議とつまらなくはなかった。今私に唯一考えられることだった。

 何もかもが、もしも。もしも、違うなら。全ての事象を選択肢として頭に浮かべ、その矢印を切り替える。かち、かち、かちり。片手で猫の喉を掻きながら、もう片方で宙に図を書いていく。

 もしも、もしも。私がまだ、いつもの私だったら。そのシミュレートを始めようとしたところで。

「にゃあ」

 

 と、鳴き声がして。視界は歪み、感覚は宙吊りになった。

 

 

「おはよう、スカイ」

「おはよう、トレーナーさん。今日も暑いですけど、頑張りましょっか!」

 

 私の名前はセイウンスカイ。クラシックで波に乗ったまま、シニア級でも最強世代の先陣を切っている。だからやる気に満ち溢れているし、私は文字通り追われる立場だ。油断もできない。

 

「今度の秋天も、きっとスカイが一番人気だな」

「やめてくださいよトレーナーさん、私は人気薄の時に掻っ攫う方が得意なんですから」

 

 そう、それがいつもの私だ。考え尽くした策には確かな自信を持っている。怠惰の裏に活力の牙を研ぎ澄ませている。何も問題はない。これが正解のはずだ。

 

「よぉし、そこまで。あんまり脚に負担をかけすぎないようにな」

「心配しなくても、無理なんてしませんよ。ちょーっと、頑張っちゃうだけですったら」

 

 爽やかな受け答え。私たちに相応しいのはこれだ。

 

「……はあ、お前のことはよくわからないな、スカイ」

 

 そういえば、昔のトレーナーさんはしきりにそんなことを言っていたな。最近は言われていない。それを思い出した。

 

「なんですか? セイちゃんはいつでもわかりやすいお誘いをしてるじゃないですか、昼寝とか」

「いつかはわかると思ったんだけどな」

「……? トレーナー、さん?」

「君には底知れない強さがある。だけど俺は、君の弱さも知れたらいいと思っていた。でもそんなもの、なかったのかもな。サボりはただのサボりで、悪戯はただの悪戯」

「……やだなあ」

 

 強い私はそれでも飄々としている。誰の指図も受けないし、誰にも依らない存在であるはずだ。

 

「というわけで、お別れだ」

 

 だから。

 

「さよなら、スカイ」

 

 そう言って、あなたの姿が消えても。

 

「……あらら」

 

 それ以上は、なにも言わない。

 心に襲う感情が、後悔であることにすら気づかず。強さと愚かさを履き違えた道化は、誰も見てくれない手品を続ける。

 視界は再び歪み、星空が戻って来る。けれど砂浜は不可思議な感覚のままで、今見たものがなんなのか答えはまだ出せない。でも、わかることは。

 これは、求めたものではない。"いつもの私"だけが私に存在していたら、誰もがその手の内の少なさに飽き果ててしまう。トレーナーさんが、いなくなってしまう。

 そこまで考えて、一つの道筋を見つける。或いは私はもっと貧弱であればいい。どうしようもないくらい、あなたがいなければだめな存在になればいい。また矢印を次々に切り替えて、レールを敷く。

 

「にゃあ」

 

 猫の鳴き声と共に、再び。私の意識は世界を超えた。

 

 

「……おはよう、スカイ」

「……おはよう、トレーナーさん。いつも悪いですね」

 

 私の名前はセイウンスカイ。クラシックで取り返しのつかない故障をしたあと、私は病院での療養を続けている。シニア級に行ったみんなのことが羨ましい時もあるけれど、仕方ない。

 

「……走りたいと、思うことはないか」

「……私は、弱いですから」

 

 どうせ、無意味だっただろう。引退までに積み上げられる功績は大したものではなく、私はこれっぽっちも勝てずに終わる。それならば、その前にこうなっても大した差ではない。だからこれでいい。

 

「俺は、お前のそばにいるよ。お前が復帰できるまで、ずっと」

 

 先程とは違う。あなたはもうずっと、私のそばにいてくれるらしい。

 

「……嬉しいです」

 

 私も強がらずに、本心だけを述べる。嬉しい。幸せでなくても、嬉しい。

 

「……まだ、スカイは走れるさ」

「……いいんです」

 

 嬉しい。そのはずなのに。

 

「そんなことない」

「……いいんですったら!」

 

 私のどこかが逆撫でされて、何故か私はあなたに攻撃する。

 

「私は、もう嫌なんです。走って負けるのが、怖いんです。復帰したって勝てるわけありません。それでも勝ちたいと願うなら、それはトレーナーさんのエゴです」

 

 酷い言葉を次から次へと撃ち出す。弱音の形をしたナイフが、避ける気のないトレーナーさんの心臓を抉り取る。

 

「私は! トレーナーさんがいなかったら走ることもなかった! 勝利の幻想なんて持たなかったし、届かない夢を見ることもなかった!」

「……そうだな」

 

 それは確かに正しい。

 

「あなたがいなければ」

 

 あなたがいなければ。

 

「私は、こんな目に遭わずに済んだ」

 

 私は、どんな夢にも逢えなかった。

 ……わかった。これも違う。漸くわかった。なにが正しいか。間もなく全てが消えて、全てが現れる。

 

「にゃあ」

 

 また、猫が鳴いた。

 

 全ての景色が現実へと戻る。星空が、砂浜が。海が、私が。ざらついた感覚はまさしく潮風のそれだ。

 私は夢を見ていたのだろうか。あれは可能性の話で、夢というには私に近かったかも知れない。けれどわかること。正しい道筋は思ったより近くにある。全ての矢印を元通りに直し、私は立ち上がる。行先は一つだ。

 既に空は明け始め、小鳥が囀る。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

「……おお、おはよう、スカイ」

「トレーナーさんは、私のこと。どう思ってますか?」

「……何かあったのか」

 

 何となく察するあたり、やはりトレーナーさんは私のことをよくわかっている。私は強さと弱さをどちらも知られている。全てを握られている。だから、だからだ。

 

「私は面倒な女なので、欲張りです。トレーナーさんを振り回したいけど、振り回されたい。一進一退、ずっと変わらない距離感でありたい。……なんてね」

 

 遠すぎて、離れてしまうのも。近すぎて、汚してしまうのも。どちらも嫌だ。

 

「……いつも振り回されてばかりな気がするが」

「ご冗談を」

「実は突拍子もないことをして、スカイの本心を暴き出そうと思ってたところではあるな」

「ほら、やっぱり」

 

 そうだ。手を伸ばせば繋げる程度の距離。手を伸ばさなければずっと隣に浮かぶ程度の距離。地球と月、その程度の距離。どちらがどちらかはわからないけど。

 たとえば気持ちは色々なものが重なっていて、それを言葉にするまではどういった感情かはわからない。私が思ういつも通りの皮を被った私も、私の中にある弱く毒々しい私も。常に重なっていて、どちらも私だ。その感情同士に矛盾があろうが構わない。あの猫が見せてくれた二つの可能性は、どちらかだけでは私が成立しないことをよく示してくれている。

 

「にゃあ」

「おっと、どうしたんだその猫。新しい友達か?」

「……えへへ、そうですね。どっちかといえば恩人……いや恩猫……?」

「なんだそりゃ」

「秘密です、秘密」

 

 夏の夜に見た世界が二つ。それが重なり合って、本当の私がある。だからあれはどちらも正しい。それぞれ50%くらいずつ正しい。合わせて100%、文句なし。

 

「さて、トレーナーさん」

 

 手を差し出す。手を繋げば、私たちも重なり合えるから。

 重なれば、それは決して混ざらない事象でも。一つになるのだから。

 



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セイウンスカイと空に堕ちれたら

くらいうんすかい


 もし、私が空に堕ちていけるなら。脚を離せば宙へと転じ、浮遊感が私を赦すなら。

 あの青空に浮かぶ雲のように。私の名前の通りに。堕ちて。堕ちて往きたい。

 どうしようもない空間。取り返しのつかない過去。ありえない未来。物事は時間軸と重力に支配されて、私は何処へも逃げれない。

 ただ、空を見て思うのだ。どうして雲は、いつでも浮かんでいるのだろう。どうして雲は、どこまでも堕ちずに進むのだろう。

 河川敷に独り。担い手を失った私はただ、ただ。ありえない空想に縋るように、届かない現実に浸るように。青から藍へと変わる空、夕焼けに染まりかけの刹那の青空を、ただ。

 ああ、空に堕ちれたら。あの青が、手に届きそうなほど遠く感じる。そこに飛び込めば、またあなたに逢えるのだろうか。とん。久方ぶりに脚を跳ねさせてみても、空への感覚は掴めなかった。

 空は綺麗だ。私にとって、青空は常に憧れだった。あのようにありたいと思っていた。憧れという言葉は、手の届かないものには不適切だとも知らずに。

 どれだけ想いを馳せようと、どれだけ愛を語ろうと。空には決して届かない。吸い込まれるように消えてゆく。私はシニカルを気取っていながらその実夢見る少女だったというわけだ。

 でも、今でも想ってしまう。視界の半分上側に、常に広がる絶景に。消えゆく人を想うように、消えない青に心を染める。

 もし、もし。空へと言葉が届くなら。愛する蒼空が聞く耳を持っているのなら。私はなんと言えばいいだろう。素敵な名前をありがとう? 素敵な景色をありがとう? あなたのようになりたい? あなたのことが愛しい? それらはもう遠くに消えた何かで、今の私が述べるには拙すぎる。

 今の私は、今のあなたに。もしも、言葉が届くなら。

 どうして。

 それだけ。それだけ。今度、もう一度声を聴きたいなんて願えない。今度はしっかり愛するなんて言えない。最高の景色を、今度は。そんなのは、もう。今度なんて、もうないのだから。

 青は藍から黒へと変わり、夜がやってくる。あなたはまだ黒い青空の中にあるだろうか。夜の闇はあなたにとって束の間の安らぎなのだろうか。わからない。わからないとも。

 永遠に。

 流星のある夜空はあなたにとって、或いは青空よりも素敵な輝きだったかもしれない。そうだとしたらそれでもよかった。空色は千紫万紅で、きっと私だけでは掴み切れないほどの魅力がある。だから。まだ見ていたかった。

 幸せになるあなたが見たかった。素敵な人と笑うあなたが見たかった。私はそこへ涙を以って祝福を授ける。空に浮かぶ雲のように、明瞭だけど触れられない。あなたにとってそういった存在であり続ける。

 例えば10年後。笑って最初の憧れを語られる。そしてこっそり私も語る。あるいは騙る。どちらか掴めない私の雲のような振る舞いは、その時になっても変わらないのだ。

 例えば20年後。私もあなたも幸せを掴んで、それぞれの子供達に囲まれている。皺の増えた顔を笑い合い、これから先のいのちを語る。あるいは駆ける。永遠に揺らめく私の雲のような振る舞いは、きっとあなたの力になれる。

 例えば。1秒先でもあったなら。何かが変わっていたりしないだろうか。雲というのは一瞬だって同じ形をしていないし、空というのは一刻だって同じ色をしていない。

 あなたが空で、私が雲。そう思って、想い続ける。

 私の心は、まだあなたへと堕ちたまま。



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セイウンスカイと夜更かし気味

深夜テンションで変なことを口走る


 夜の空を切り裂いたら、裂け目から青空が出てこないだろうか。ふと、そう思う。

 けれど私に持てるナイフは短くてあまりに鈍。刃は決して天辺まで届かない。

 逃げ惑うことは得意だけれど、差し切ることは私の頭には向いていないのだ。

 明日を待つしか、青空を見る方法はない。

 明日を待つしか、あなたに会う方法はない。

 愚かにも昼寝を満喫してしまった私は眠れないでいた。とはいえ普段は昼寝時間に構わず眠るのだが、今日は心が落ち着かない。

 落ち着かなければ、明日は来ないのに。

 

「何か時間を潰すしかありませんねえ……」

 

 でも、こんな時間にテレビをつけるわけにもいかない。こんな時間に外を歩くわけにもいかない。寮の生活は健全潔白。私のようなサボりと逃げに満ちた存在には相容れない。それでも仕方なく、ただ思考を求る。

 セイウンスカイという存在は、思考によって生かされているのだから。

 眠気の来ない目蓋を閉じて、思い浮かべるは楽しい昼間。夢を見れないなら、夢を思い描く。

 たとえば明日、あなたに会ったら。まずどんなことを言ってくれるだろう。おはよう、とかそういったものも嬉しい。何気ない言葉の端々に、私を気遣う錯覚を覚える。

 錯覚であっても、オロカモノの私はそこに夢を見るのだ。現実は夢に比べて、あまりにも短くて尊い。私には掴めない。寝ている間、逢えない間。ただ、私の頭の中にある夢の影。

 それが身近な幸せで。私にとっての最高なのだろう。私には才がないとも。私には勇気がないとも。私には、何もないとも。だから、だから。

 あなたの隣に居られるのも、通り過ぎる時の僅かな狭間だけ。いつでも一つだけ、平気そうな仮面だけ。私に使える表情はそれだけ。

 ただ、罪と知りながら。届かない光と知りながら。私は一つ、夢を描く。あなたと二人、どこかに二人きり。狭くても、あなたとなら幸せだ。暗くても、あなたとなら歩ける。

 そこまで思って、想っているのに。どうして私の心は刃を持てないのだろう。あなたを包む神秘の闇を切り裂いて、あなたの心のホントが見たい。

 それは、夜に於ける青空のような。見たくても、見れないもの。だから、夢に描くだけ。

 

「……す、き」

 

 呟く。たった二文字。私はそれだけの言葉すら、手元に煌かせられない。

 

 本当に眠れなかった。これではあなたに怒られてしまうな。まさか理由なんて言えないし。目元の隈を指摘されて、バツの悪そうに笑う私。現実はもう見えていて、夢よりもはっきり色褪せている。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

「おはよう、スカイ。……おっと、どうした」

 

 ほら、やっぱり。これが現実。予想外なんて万に一つも────。

 

「……泣いてたのか? 目元が赤いぞ。……その、俺でよかったら。

 なんでも言ってくれ。俺はお前のトレーナーである以前に、頼られる存在でありたいし」

 

 まさか、まさか。目元を反射的に触ると、また涙が。

 

「……あらら」

「スカイ。本当に、なんでも言ってくれ」

 

 その言葉こそ涙の元だよ、トレーナーさん。でも。

 

「なんでも、ですか」

「遠慮しないでいい。頼ってくれ。信頼してくれ」

「じゃあ、ですね─────」

 

 たった二文字。いっても、いいですか?



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トウカイテイオーと私の8月32日

ぼくなつ


 ────ジリリリリリリリリ。

 

 クロックワーク・カウントスタート。

 

 ────きゅるるるららららら。

 

 奇怪に鳴るマクガフィン。

 

 ────かちっ。

 

 あなたのためのオーバーカウント。

 

 少女と少女。その話。

 

 あつい。熱い……暑い。身体が燃え上がっているような感覚。身体が湿り切っているような錯覚。

 

「うーん……」

 

 矛盾した二つに挟まれ、すり潰されるような幻覚でわたしは目を覚ました。

 

「ああ、目を覚ましたのかい」

「おはよう、◼️◼️ちゃん」

「……おはよー……、おじーちゃん、おばーちゃん……」

 

 そうだ、わたしは確か……夏休みの最中。おじいちゃんとおばあちゃんの家にひとり旅に来て、泊まっている。いつまでもいれるわけじゃない。夏休みの終わりまで、わたしはこの田舎に軽い引っ越しをしているのだ。

 

「今日は……えーっと」

 

 何日だっけ。少しギラギラした陽の光だけに照らされた部屋を見渡し、一寸の後真新しい日めくりカレンダーを見つける。目を凝らすとそこには日付が。そうそう、そうだった。簡単なことなのだ。昨日が8月の31日なのだから。

 今日は、8月32日。そうに決まっているじゃないか。

 顔に水を叩きつけ、眠気を覚ます。早く遊びに出かけよう。お気に入りのワンピースに身を包み、とっときのポーチを肩から提げる。今日もきっと、幼馴染のあの子が待っている。

 

「いつかちゅーできたら……なんて」

 

 えへへ。目の前でそんなこと、口には絶対できないけど。夏休みに会った、気になる男の子。当然夏休みが終わったらさよならだ。

 でも、まだ大丈夫。まだ時間はある。

 まだ、夏休みは終わらない。

 

 走る、駆ける。わたしは走るのが好きだ。自分の脚で何かを進めている感覚。とっても未来に近い感じがする。

 

「気をつけるんだよ〜」

「うん、いってきまーす!」

 

 突き抜ける青さの空。青々とした草むら。車も滅多に通らない砂利道。しゃわしゃわと鳴くセミの声を風切って、私は走る。

 どれをとっても最高な日が、今日も始まる。

 

 痛い。苦しい。なら、走れない。でも、走りたい。

 ボクは◼️◼️が大好きなのだから。

 

 少し行ったところにある公園と、その中心の大きな樹。それがわたしと◼️◼️のいつもの遊び場で、わたしはこの待ち合わせに密かにデートを重ねている。

 いた、いた。いつも光り輝くような笑顔。彼がいた。

 

「おはよう!」

「おはよー! 待たせちゃったかな……ごめんね」

 

 あなたに会えて、心のときめきが少し膨らむ。

 

「ああ、それなら心配なかったよ。他の人と一緒に遊んでたんだ。……そうだ、三人一緒に遊ぼう」

 

 ……なんだって?

 わたしとあなたの二人きりのじかんは? むっとして、もう一人の人影を探す。……いや、探すまでもなかった。人間とは違う耳。尻尾。そして瑞々しい顔立ち。あまりにも、目立つ。

 

「……こんにちは! ボクの名前はトウカイテイオー! 今までこの子と一緒に遊んでたんだー!

 よろしくね!」

 

 わたしにとって初めての、恋敵が現れた瞬間だった。

 

「それでねー、ボクは……」

「へえ、さすが……」

 

 むー。先程から一緒に遊んではいるものの、三人というのは一人があぶれるようにできている。それはわたしのことで、お似合いの男の子と女の子が仲良く語らっているのをじっと睨むことしかできない。

 わたしの◼️◼️なのに。

 

「◼️◼️はさー、はちみつすき?」

「うん、好きだな」

 

 言葉尻を聞いてドキッとしてしまう。すき。すき。このままじゃ、このままじゃ。……我慢、できない。

 

「……ねえ、テイオー」

「……どうしたの、◼️◼️」

「……勝負して。わたしが勝ったら、二度とわたしたちの前に現れないで」

 

 その提案は、苛烈なものだったと思う。けれど。

 

「……うん、いいよ」

「……よし、じゃあ俺が審判をやろう」

 

 反対する者はいなかった。だからそうなる。もちろん負けるつもりはない。もう、気づいているから。

 

「……ほんとにかけっこでボクに勝つつもり?」

「かけっこじゃないよ、マラソン。ずーっと、あそこからあそこまでぐるりと回ってここに戻ってくるの」

「ウマ娘相手に脚勝負とは、さすが◼️◼️だな!」

「……えへへ。そうでしょ」

 

 褒められた。わたしは勇敢ということかもしれない。嬉しい。無謀に見えるこの勝負にも、勝ち目はある。

 

「じゃあ、言った通りルール無用だから。それだけよろしく」

「……ボクは負けないよ。負けられない理由があるからね」

 

 彼女も真剣だ。やはり彼女は◼️◼️を奪ってしまうのか。負けられない。

 

「位置について」

「よーい、ドン!」

 

 彼の掛け声とともに、二人で並んで駆け出した。

 

 走る、疾る。普通に走っている限り、あっという間に差は開いていくだろう。しかしそうではない。そうならない。その確信がある。

 

「……やっぱり、脚が悪いみたいだね」

「……よく気づいたね」

 

 ずっとあった違和感の正体。彼女の重心は脚を守るような姿勢だった。無論歩けるくらいではあるのだろうが、全力疾走は不可能。それに持久走ならば、さらにその歪みは大きくなるだろう。

 

「だから、この場所で出来るだけ長い遠回りのコースにした。絶対に、負けたくないから」

「……◼️◼️が好きだから?」

「……!」

「悪いけど、ボクも負けられないんだ。好きな人のために」

「……! それって……!」

 

 十中八九、彼のことじゃないか。それなら尚更負けられない。この勝負は、恋の勝負。想いの強い方が、勝つ!

 

「……はあ、はぁっ……」

「……はーっ、まだ、ボクが……」

 

 決めたコースは思ったよりもずっと長く、7割を過ぎたあたりで二人ともバテてしまっていた。彼女には脚のハンデがあるはずなのに、食らいつかれている。これがウマ娘と人間の基礎スペックの差か。いや、それなら五分五分。あとは気持ちの問題だ。

 

「……負けないよ、ボクは」

「……テイオー」

「ここでは止まれない。まだ、先がある。だから……!」

 

 何故か彼女の言葉を聞いて、猛烈な反感が芽生える。

 

「……だめだ、だめなんだよ。諦めて、なんで諦めないの」

 

 だって、だって。

 

 トウカイテイオーは、三冠ウマ娘の夢を断たれたばかりじゃないか────。

 

 え?

 自分の中に沸きたった思考に戸惑う。

 あれ?

 何故わたしは走っているのだっけ。

 たしか、たしか。

 コイガタキ、ダッタヨウナ──────?

 

 その瞬間。遠くで見守る◼️◼️の姿が弾け、世界がモノクロのモザイクで包まれた。

 

 ──諦めない。

 ──ボクは夢を諦めない。

 

 ──諦めて。

 ──私に幻滅してもいい、だから諦めて。

 

「ねえ、◼️◼️」

 

 最後の言葉がモザイクに包まれていたことに、今になって漸く気がつく。

 

「……トレーナー」

 

 モザイクが剥がれる。

 そう、私はずっとそう呼ばれていた。おじいちゃんおばあちゃんの影も、幼馴染の姿も。みんな、私をトレーナーと呼んでいた。この空間における呼称には、およそ似つかわしくないというのに。

 

「……ここは多分、私への罰なんだよ。テイオー」

 

 恐らく。なんの法則も持たないであろう空間で推理するのは無駄かもしれない。でも8月32日に居たあれらの人々は、私自身が記憶から作り出した影法師。それは間違いない。だからあれらは、すべて私だ。私は私だけの空間で、永遠に夏を過ごしていた。唯一の例外一人を除いて。

 

「……テイオーにさ、菊花賞。走らない方が良いって言っちゃったじゃん」

「……そうだね」

「怪我した脚で走るなんてあり得ないし、よしんば治ったとしても病み上がりで勝てるわけないって。そう言っちゃったじゃん」

「……うん」

「……でさあ、そんなこと言った後に後悔しちゃった。あなたと喧嘩して、菊花賞なんてずっと来なきゃいいって願っちゃった。とんでもない大悪党だよ」

 

 トウカイテイオーはきっとまだ走りたいのに。それを絶った。あまつさえそれを永遠にしようとした。治った先のことすら願わなかった。一瞬さえそう思ったのだから、私はトレーナー失格だ。

 

「……トレーナー、ありがとう」

「なんで、感謝されるのさ」

「ボクに走るなって言えるのは、トレーナーだけだから。一人だったら絶対無理して、もう二度と走れなくなってもいいって思いながら菊花賞に出て、それで」

「買い被りだよ」

「違うよ、ボクにはトレーナーがいなきゃダメなんだ。だから、こうして逢いにきた。たとえ脚が軋んでも、走った。……トレーナーのためだから、大好きなトレーナーのためなら」

 

 いつも快活なその顔が、うるうると涙を溜め込んで。

 

「だから。お願い、トレーナー。

 ボクともう一度、走ってください」

 

 伸ばされた手を自然と取る。もう言葉は要らない。視界もいらない。耳もいらない。何もいらない。二人だけいればいい。二人ならどんな苦難も乗り越えられる。

 

 感覚はゼロに変わる。閉じて、閉じて。

 

 ────ジリリリリリリリリ。

 

 クロックワーク・オーバーカウント。

 

 終わりを告げるマクガフィン。

 

 

 目覚ましが鳴って、私は目を覚ます。夏合宿でのリハビリを終えたが、トウカイテイオーはやはり菊花賞には出られない。このままだと、そうなる。

 でも。

 

「……頑張ろっか」

 

 なんとなく、変わった気がする。私は何かいい夢でも見たのだろうか。生憎覚えていなくて、いくら考えても思い出せない。でも、間違いなく前を向いていける。今度こそ、未来へ進める。

 

「……おっと」

 

 出かける直前、合宿中放置していた日めくりカレンダーを一気に千切る。日付は……そう。昨日が8月の31日だったから。

 今日は、9月1日。そうに決まっているじゃないか。

 



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セイウンスカイよ微睡みたまえ

たまえ


 微睡みたくて、微睡みたくて。夜、灯りなく眠るより。昼、陽射しを受けながら眠る方が。体内時計に反旗を翻し、生活の摂理に逆らって眠る方が。

 目蓋が閉じるか否かのせめぎ合い。その激動の中で、私はついに朧げな睡眠を得ることができる。

 我よ、安らかに微睡みたまえ。

 

 何度も眠る。何度も起きる。眠るたびに微睡みを通り、起きるたびに微睡みを通ずる。昼寝の真髄はそのアンバランスな安らぎにあって、通りすがりにおける一瞬が那由多に感じられる。

 現実と夢幻、まさにその間の夢現。アンリアルをリアルの感覚で受け止め、リアルをアンリアルの感覚で受け止める。そこには苛烈な激情が混ざり、目覚めた時に恥ずかしさで潰れてしまいそうなほど。けれど、感情の発露は心地よい。私はいつも逃げてしまうから。心の内で、声を発さず思い切り叫ぶ。あなたのことを。

 我よ、安らかに微睡みたまえ。

 

 微睡みは夢を生む。半端な脳の覚醒は、私を眠りに沈み込ませない。現実の絵の具で塗られた景色は、現実を素材にしていながら少しも現実的ではない。あるところには泥のような絵の具の塊が置かれ、あるところには極彩色の大パノラマが敷かれている。

 そして私の夢において大抵大きなスペースを取っているのは、あなたを想わせるアイテムの数々。ここにあるねじれが、あなたへの私の感情。ここにある歪みが、あなたへの私の行動と内面の差。そういったものを表している。

 我よ、安らかに微睡みたまえ。

 

 そうして私の意識は徐々にはっきりとする。夢の中で意識がはっきりとするというのは、つまりまるっきり前後不覚であるということだが。あなたの形をしたものが現れる。私とあなたはいつのまにか一糸纏わぬ姿になっているけれど、互いにそれを恥ずかしがることはない。

 ただ、触れる。脳があなたに触れた感覚を再現しようとするけど、現実の私は指一本あなたと交わしたことがない。だからその感覚はざらついた粘土のような奇妙なもので、それでも私は微睡みの中でついにあなたと触れ合える。

 我よ、安らかに微睡みたまえ。

 

 肌色と肌色。私たちは互いにうごめく一色に変わる。私のような口下手でも、心の奥底にあるここならば愛を叫べる。ただ、言葉にもならない色を口から吐き出す。心臓から撒き散らす。

 でも、駄目なのだ。夢は現実を反映してしまう。どれほどかけ離れていても、現実に想像できないことは夢では起こらない。あなたは柔かに笑うけれど、あなたは決して答えない。抱き合うことすら許される夢の中であっても、私の想いは届かない。消える。消えてゆく。

 我よ、安らかに微睡みたまえ。

 

 目覚めなければならない。もう、何もかもが無に帰した。終わりを告げる合図に等しい。夢を見るほど疲労することはない。自身の心を暴き、情け無い願望をはちきれんばかりに噴き出す。

 疲れ果てないように、私は目を覚ます。何度も微睡むうちに、現実へと目覚める方法も何となく掴んできた。手脚の感覚を隅々まで意識して、目蓋に力を込める。そうして何より。早く目覚めたいと、願う。あなたに会うため。また、会うために。

 我よ、安らかに目覚めたまえ。

 

「ふぁ〜あ……。おはよーございます、トレーナーさん……おや?」

 

 返事がない。ついに見捨てられてしまっただろうか。

 

「……トレーナーさーん……あら、なるほどね」

 

 書類に包まれて寝ていた。私がソファを占有してしまっているからちゃんと横になれないのだとするなら、少し申し訳ない気もする。布団は……ないしなあ。

 

「……風邪、引いちゃいますよ……」

 

 起こそうか、それとも。とりあえず近づいて、その時だった。

 

「……スカイ……」

 

 あなたの、微睡み。その典型的な発露の一つである寝言。どういう文脈なのか、それとも文脈など彼の夢にも存在しないのか。わからないけれど、わかることは一つ。

 あなたの夢に、私がいる。

 

「……はいはーい、ここにいますよ……なんて」

 

 あなたにかける布団は見つからないままだけど、ひとつだけ暖めてあげる方法を思いついた。

 椅子の後ろからやさしく、ふわり。包み込むように半身を抱く。頬をあなたの首筋に当て、全身で。先程まで見ていた夢の渇望が、ほんの少し私に勇気をくれたらしい。あなたは寝ているのだから、大丈夫。

 それに、あなたの微睡みもまた安らぎに満ちているならば。その手助けとして、夢に現れ、現実にて抱き止められるならば。あなたのためになれて、嬉しい。

 君よ、安らかに微睡みたまえ。

 



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運命の出会いはセイウンスカイ

まだだめよ


「まだ」

「まだだめですよ、トレーナーさん」

 

 俺をトレーナーと呼ぶ見知らぬ少女は、そう告げて。

 

「ここはあなたの幸せ空間。私にとってのナイトメア。でも、トレーナーさんのためなら。終わらなくたっていいと思う」

 

 言っている意味がわからない。確かに周りは遥かに伸びる壁と細く長い一つの道だけで、悪夢だというのなら筋が通った光景だが。

 

「君は……誰だ?」

「……誰、でしょうね?」

 

 芦毛のウマ娘。それは当たり前のようにわかるけど、それ以上は何もわからない。

 

「……じゃあ、始めましょう。まだ、まだなのですが。まだ夜は、少ししか溶けていないのですが」

 

 彼女は指を交差させ、口元で妖しくバツを作る。

 

「いけない夜の、はじまりはじまり」

 

 二人きりのナイトメア。二人だけの幸せ。

 

 

「ルールはひとつです。あなたが私を捕まえられたら私の負け。そしてその逆。トレーナーさんなら、簡単ですよね」

「……とても簡単には思えないけど……」

 

 常識的に考えてウマ娘と追いかけっこをして勝てるわけがない。ずっと続く一本道を進むたび、どうしようもないと理解するだろう。

 

「……そんなことないですよ」

 

 そう、彼女は顔色ひとつ変えずに。

 

「これがただの悪夢なら、ずっと届かないと思いますけど。トレーナーさんはいつだって、私の予想も期待も超えてくれるから」

 

 まるで試すような言動。彼女の目的はなんなんだろう。

 

「なあ、君は一体何のために」

 

 ここにいるのか。それを聞こうとする前に、口は彼女の人差し指で塞がれて。

 

「まだ」

「まだだめですよ、トレーナーさん」

「朝はきっと来るけれど。それまでは終わらないのが、ナイトメアですから」

 

 相変わらず、要領を得ない。

 

 

 虚数に沈む空無き空間。悪夢を名乗る少女のカタチ。まるでわけがわからないけれど。

 

「……選択肢はそれしかないのなら。よし、乗った」

「……さすが、かっこいいや」

 

 彼女は小さく呟いた。そこに込められた何かの感情には気づかないふりをする。

 彼女はくるりと背を向けて、遅れた尻尾がふわふわと浮かぶ。

 

「じゃあ行きますよ、トレーナーさん」

「……ああ、絶対に捕まえてみせる」

「……嬉しいなあ。とはいえ、私も逃げには自信があります」

 

 じゃ、と短く言って。彼女はゆっくりと走り出す。突然のことでぼーっとしてしまっていると、はにかむような笑顔がこちらを向いた。

 

「はやく来てくださいよー」

「……おっと、ああ!」

 

 自分も脚を動かす。驚くほどに身体は軽く、これなら本当に追いつけるかもしれない。

 ……そう思えたのは最初だけ。全くペースを崩さず軽い調子で走り続ける少女と、それにだいぶ距離を置かれながら食らいつくのが自分。

 これではいつになっても追いつかなくて、悪夢は本当に終わらないのかもしれない。そう思った自分を見かねてか、あるいはただ暇を持て余してか。前を行く少女が話しかけてきた。

 

「トレーナーさんって、どんなウマ娘を担当したいとかありますか?」

 

 トレーナー。自分はつい先日新しくトレーナーになったばかりで、誰とも契約を結んだことはない。けれどずっと話していると、彼女との会話はしっくり来る。……若い勘など当てにならないが。

 

「……うーん、そうだな。きっと色んな子がいるからなあ。誰でもいい、って言ったら失礼だけど」

「サボり魔で才能もない、口ばっかり達者な子とかでもいいですかー?」

 

 おちゃらけた口調が前から聞こえる。確かにそれは難儀そうだが。

 

「そんな子がいるなら、むしろほっとけないかもな」

「……へーえ、その心は」

「きっとその子も勝ちたいからだよ。素直じゃないから担当しない、なんてのはトレーナーとしてはだめだ……なんてのは新人だから言えることなんだろうが」

「勝ちたい、勝ちたい……一番でいたい。逃したくない」

 

 代わる代わるの言葉を述べて、前の動きが止まる。……今のうちか? ……いや。

 

「……ボーナスタイムのつもりだったんですけどねえ。トレーナーさんは女の子には触れないタイプですかー?」

「考えごとをしてる時に捕まえるのはフェアじゃないよ」

「フェア。ふーん……じゃあ次の質問です」

 

 また彼女は駆け出して、しばらくして言葉が飛んでくる。

 

「あなたの担当ウマ娘が、回りくどいことしかできない卑怯者だったらどうしますか?」

 

 なるほど。

 

「例えば考えごとをしていたら容赦なくそれを捕まえて、得意げに突き出します。悪びれることなんて万に一つもなくて、いつも小細工ばかりを使おうとします。……どうです?」

「……うーん、案外相性は悪くないと思うけど」

「……その心は」

「俺がいっつもこうなのは不器用だからだしな。そりゃいつも小細工ばかりなら、その子も不器用かもしれないけど。お互いの苦手を補えるなら、不器用同士だって悪くない。むしろいいコンビになれるだろうさ」

「……さすが、なーんて」

 

 少しだけ、二人の走る距離が縮まる。

 

 

「では次の質問。もし人生をやり直せるとしたら、またトレーナーになりますか?」

 

 これは正直、自信がない。

 

「……なる……と言いたいところだが。実は俺、そんなに頭の出来がいいわけでもなくてさ。なんとか資格を取れたような程度だから、またなる! というかなれる! と言うには少し自信がないな」

「……なるほど。たまたま、というような」

「……まあ、な」

「……それなら、あなたのパートナーになるウマ娘は幸せですね」

「……どうしてだ?」

 

 意図が分からず、聞き返す。

 

「だって、100回やって1回あるかの運命の出会い、みたいなもんじゃないですか」

 

 100回中1回というほど試験合格できないわけではないと思う……多分。そんな俺の心中を見抜いたのか。

 

「……ああ、お相手のウマ娘が真面目にやる気を出したなら、と言うもう一つの前提がありますから」

 

 先程から例に上がっているサボり魔のウマ娘は、暫定俺の初めての担当ウマ娘らしい。

 

「なるほど。滅多なことではどうにもならない同士が巡り会えたなら、それは確かに運命かもな」

「ですねえ」

 

 そんな出会いができるなら、確かに素晴らしいと思った。

 だんだんと、近づいていく。

 

 

「更なる質問です。好きな食べ物は」

「またまた質問。小さい頃の将来の夢」

「もっと質問。担当ウマ娘にされて嬉しいこと」

 

 次々と大小の問題が投げかけられ、それに答えるたびに走る間隔が狭くなってゆく。気がつけばお互い僅かに息を切らしながら、手を伸ばせば届く距離。

 

「……それでは、最後の質問です」

「ああ、最後まで付き合うよ」

「やさしいですね、トレーナーさん……。では」

「あなたは、目を覚ましたいですか?」

「そう来たか」

「私と、お別れしたいですか? 現実に戻り、素敵なウマ娘に出逢いに行きますか?」

 

 これは、きっと。悪夢を名乗る彼女が決めた、悪夢の取り払い方、あるいは。

 

「もちろん望むのなら、ずーっと寝ててもいいんですよ」

 

 文字通りの、悪魔の誘い。それはひどく魅力的に思えた。彼女とならば、ずっとずっと退屈しない気がした。

 

「二人きりのナイトメア。数億人の現実世界。私一人と、世界のすべて。どちらを選んでくれますか?」

 

 二者択一。だが、でも。

 答えはそれだけじゃない。

 

「俺は」

 

 選ぶのは。

 

「目覚めるよ。……現実の君に会うために」

 

 か細くてもいい道。それしかあり得ないから。

 

「……何を言ってるんですか。私が現実にいて、あなたがそれに会って。それでもって意気投合。……どんな低確率だと」

「運命なら、それもあり得る。いや」

「それしか、あり得ない」

 

 彼女の語った運命の出会い。それが俺たちを結ぶのならば、何があっても会うことができる。

 

「……参ったなあ……」

「……嬉しくないならやめておく」

「さっすが、トレーナーさん。今のはずるいですね」

 

 完全に彼女は足を止める。振り向いて、俺の目と鼻の先に立つ。

 

「ありがとうございます。また会いたいって、言ってくれて。これで心置きなく、私は役目を終えられます」

「……役目?」

「悪夢の中だから言っちゃえるんですけど。ほんとうは、お別れのために来たんです。遠く遠くから、あなたをちゃんと幸せにするために。二度と、私と会わなくて済むように」

「……それは」

「だからさっさと幻滅してもらって、私に追いつくのも諦めてから夢を出て欲しかったんですけど。……やってみたらめちゃくちゃで、失敗しちゃいました」

「……失敗なんてしてないよ。君のおかげで、これから俺は君に会える。君が何故会わないほうがいいなんて言ったのかは分からない。でも、そんなことないのはもう分かる。君と俺とは、きっと運命なんだ」

「……にゃはは。本当に、敵わないなあ」

 

 彼女の瞳はいつのまにか、光り輝いて見えた。

 上を見ればいつのまにか、青空が光っていた。

 

「……じゃあ。またね、ですかね」

「きっと、また」

「私ももう少し頑張ってみます。あなたのために」

 

 そうすれば、きっと幸せが掴めるはず。

 

「俺も、まずは君に会わないとだな」

「……どちらにせよ、悪夢はこれっきり」

「今の君とは、もう会えない」

 

 それだけは少し寂しい。

 

「もう、じゃないですよ」

 

 そう言って、彼女はまた口元に両人差し指を添えて。

 

「まだだめなだけ、ですから」

 

 刻が進めば、また会える。

 朝が来る。夜を食んで、朝が来る。

 おはよう。

 

 

 長い夢を見ていた気がする。その感覚とは裏腹に思考は冴えていて、よく眠れたような気がする。少なくとも悪夢にうなされていたわけではないらしい。

 

「今日こそ、担当ウマ娘を見つけるか」

 

 まだお眼鏡に適うウマ娘には出会えていない。お眼鏡というのは相手側からの話だ。新人の自分にはまだまだ選ばれる側が似合っていると実感する。

 荷物を軽くまとめて、今日もトレセン学園へ向かう。空は雲が僅かに浮かんだ青空で、朝からいい気持ちだと思った。

 時間が過ぎるのはあっという間で、すぐに昼の12時を回った。トレーナー室で作業に追われ、結局誰かに声を掛けたりはできなかった。仕方なくキーボードを打ち、未だ片付ききらない書類を一枚一枚処理していく。

 

「……ふぅ」

「……おつかれみたいですねえ」

 

 ……え? 誰もいないと思って吐いたため息に、反応があった。驚いて前を向くと、そこにいたのは一人のウマ娘。眠そうに欠伸をしている。

 そして。

 

「君は……」

 

 なぜかはわからない。

 

「なあ、君」

 

 一千年を超えて逢えたような錯覚があって。

 

「……なんですかー?」

 

 夜から覚めても、心に残った影があって。

 

「……俺の担当ウマ娘になってくれないか。……せめて、名前だけでも」

 

 誰かの想いを、確かに果たせた感触があって。

 

「私? 奇特な人ですねえ、まあ契約は置いといて名前を、とりあえず」

「私の名前はセイウンスカイ。これからも末永く……なんちゃって。ま、よろしくです」

 

 だから、この出会いは運命だ。



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セイウンスカイとあなたを想いたい

憧れと


「お疲れ様、スカイ。もうすぐ夕暮れだし今日はここまでにしよう」

「……ふう、お疲れ様でした」

 

 いつもの時間、いつもの場所。いつもの二人でトレーニングを終える。ふとトレーナーさんの方を見ると、掌で日差しを避けながら空を眺めていた。

 

「……そーいえば、トレーナーさんっていつも晴れの日は早めに切り上げますよねえ。なんでです?」

 

 それなりに一緒にいるけれど、まだまだトレーナーさんについては知らないことが多い気がする。あなたの癖、あなたの心。まだ大枠しか掴めていない。

 

「あー、別に早く帰りたいとかそういうわけじゃないんだが……」

 

 あなたは少し言葉を濁す。

 

「サボりかと思いましたよ。いやはや私も頭が固くていかんですなあ」

「君の頭が固かったら、俺の頭は動いてないのと同じだよ」

「にゃはは」

 

 ここで踏み込めないのが、私の弱さ。言葉に詰まり、あなたと同じ方を見る。

 空が広がっていた。もうすぐ茜色に染まり始めるか否か。青から藍に、そして紺へと変わるか否か。絶妙な滲みを孕んだ青空が、広がっていた。

 

「……うわあ」

「……綺麗だろ」

「そう、ですねぇ……。とっても、とっても素敵な青い空……」

 

 私には芸術のなんたるかはまるでわからないが、これは一つの芸術かもしれない。雲の生み出すグラデーション。陽の生み出す変幻自在。ずっと広がる青空は、目を瞬かせるたびに少しずつ姿を変えてゆく。

 

「この空が好きなんだ。ずっと、ずっと昔から。子供の頃から、こうやって移ろいゆく青空の終わりが好きだったんだ」

「なるほど。私をスカウトしたのも名前に惹かれてだったりして」

「……正直、半分当たってるかもな。君の名前を見つけられたのは青空のおかげかもしれない」

 

 半分。偶には私もあなたの心を言い当てられるのだな。少し心を通わせられたようで、嬉しくなる。

 

「でも、スカイと会えてから。この空を見て、他にも思うことが増えたよ」

「……ふむふむ」

「青空にも色々あるけれど。気まぐれで深い色を湛えているこの空は、まさに君のようだなって。一瞬一瞬で移り変わって、目を離せないこの空が」

「トレーナーさん、そーとー恥ずかしいこと言ってません?」

 

 本当に。先程から心臓の拍動が止まらない。

 

「いいんだよ、たまには」

「たまには、ですか……。まったくトレーナーさんはずるいですね」

 

 幼い頃からの憧れに重ねてもらえるなんて、私はなんて幸せ者なのだろう。

 

「……だから俺は一人の時でも、この青空を見るたびに君を思い出す。思い出せる」

「……もう。続けるんですかー?」

 

 続いてほしい。ずっと、ずーっと。

 

「悪い悪い。ちょっとクサすぎたかもな」

「……私も、そういうのがほしいですねえ」

「そういうのって?」

「そりゃこの流れなら、私もトレーナーさんを思い出すアイテムが欲しいってことですよ。だってトレーナーさんばっかりじゃ不公平じゃないですか」

「俺のことなんてそんなに思い出さなくてもいいだろ」

「私だったらいいんですか」

 

 私の人生は薄っぺらで、あなたに重ねられる憧れはない。あなたと同じくらいの、なんて。

 

「……お、そろそろ夕焼けに染まり切るな」

「……もう」

 

 これ以上恥ずかしいことは言えないとばかりに、トレーナーさんは話を逸らしてしまう。

 

「綺麗ですね、本当に」

「……そうだな」

 

 でも、赦してしまおう。

 だって青空が、こんなにも。

 

 

「じゃあ、また明日」

「はいはーい、また明日」

 

 暗くなり切った空を背に、明日に向けて私たちは別れる。もう夜だ。もう明日は近い。すぐに明日は来る。だけど、だけど。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

 

 ふと、呟くだけ。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

 

 なんども、なんども。

 

「空が黒くても。雨が覆っても。私はいつでも、あなたを想ってしまいます」

「明日が来るまで、布団にくるまって。掌の上にあなたを浮かべています。

 ねえ、いつかは。私の憧れも語れるのかな」

 

 明日が来るのは、とっても先のこと。青空がまた見れるのは、一夜が千夜のように感じられた後。あと何度、一夜千夜を重ねたら。

 あなたに言えるのだろう。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 何億回目。言の葉の上にあなたの幻影を載せる。

 

「すき、だよ」

 

 吐き出す言葉が、いつか本当に告げられると信じながら。



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セイウンスカイがトレーナー室のドアノブを壊して極小の楽園を作る話

たまには分かりやすく


「トレーナーさんが悪い。悪い。……なーんて、どう言い繕っても悪いのはセイちゃんの方ですよねえ……はあ」

 

 窓の閉じたトレーナー室、暗がりには俺と担当ウマ娘であるセイウンスカイの二人きり。唯一の脱出口であるドアノブはひどくひしゃげていた。

 ……つい先ほど、他ならぬセイウンスカイの手によって。

 

「なあスカイ……手、大丈夫か?」

「……来ないでください」

「……すまん」

 

 何故彼女はいきなりあんなことをしたのか。先ほど無言で部屋に入ってきたスカイは、今までに見たことがないほど追い詰められたような表情をしていた。そして思い切り、ドアノブに拳を叩きつけた。

 

「トレーナーさんが悪いんです」

 

 そう、一言を付け足して。

 けれど今の彼女は、ついさっきの激情からは考えられないほどしおれてしまっていて。彼女に閉じ込められているという状況であっても、彼女を心配せずにはいられない。

 俺が悪いのなら、俺がなんとかするべきであるだろうし。

 

「ねえトレーナーさん、雲ってあれで重いんです」

「ふわふわ浮かべるのは、一生懸命に身体を広げて。薄くうすーく心を分散させて。そのおかげで。それを一点に閉じ込めたら、あの爽やかな空にはいられなくなっちゃうんです」

「だから、もう私は動けない。心はもうガチガチに縛られて、虜になって」

 

 ぽつり、ぽつり。少し涙混じりの声が聞こえてくる。

 

「……でも」

 

 彼女は血濡れた掌を眺めて、いつものそれに似て非なる笑みを浮かべて言う。

 

「この傷は、私が悪くて。私が勝手に傷ついてることの象徴なんですよね」

「……スカイ」

「……聞きましたよ。教えてくれないなんて水臭いじゃないですか」

「結婚する、だなんて」

 

 そう呟いたのち、彼女はゆっくりと立ち上がる。

 

 赤く、黒く。青空は暗く彩られていく。

 

「……まだお見合いの話が出ただけだよ。俺なんかが結婚できるかわからないし、その……。いや、ごめん」

「……トレーナーさんが結婚できないわけないですよ。幸せになれないわけ、ないですよ」

「私みたいな、あなたに一度だって触れたことのない人が何か言うなんてお門違いかもしれませんが」

「……いや、スカイは俺をよく見てくれてるよ。だから、きっと正しいよ」

 

 答えはなく、ため息が返ってくる。

 しばしの沈黙。彼女の手から滴る赤は、小さく水溜りを作っていた。

 

「……包帯、出すよ」

「……いいですよ」

「いいから」

 

 彼女の痛みをわかってやれないとしても、彼女の痛みを癒してやらなければ。

 

「……ほら、手を出してくれ」

「……トレーナーさん」

 

 思えば俺は本当に馬鹿だった。

 

「策士の間合いに丸腰で近づくのは、厳禁ですよ──?」

 

 そこまで行っても、気づいてやれなかったのだから。

 

 

「ちょっ……スカイ……!」

「痛い、痛い……。トレーナーさんに触れると、傷口が擦れて痛い……」

 

 私はトレーナーさんのことをずっと見ていた。

 

「でも、痛みで漸くわかります。漸く私は、逃げてないんだって」

 

 私はトレーナーさんのことをずっと見ているだけだった。

 

「……だから、トレーナーさんも逃げないでください……?」

 

 気付いてくれないのが嫌だった。

 

「……もう……絶対……はむっ……ちゅっ……」

 

 そのことに甘える自分が憎かった。

 

「ぷはっ……ぇぉっ……ちゅぱっ……」

 

 いつもは愚かに回る私の舌は、今はただあなたを貪る。

 

「……ぜっ、たい……」

 

 逃がさない。逃げない。離さない。離れない。

 いまの私なら、涙で万里を埋め尽くせる。欲望で浄土を穢し尽くせる。でも、でも。

 

「ふぅ……はーっ……。もう遅い、ですか?」

「今から、今更。愛してるって言ったら、卑怯ですか?」

 

 本当に、私は馬鹿だった。全てが終わった後の暴走は、取り返しのつかない死を招くだけなのに。

 

「……スカイ」

「やめて、ください。何も言わないでください。もう少しだけ、私を生かしていてください」

 

 身体が跳ねるほどに待ち遠しかったあなたの声が、処刑を告げる無慈悲なものに感じられる。ドアは壊れている。窓は閉じている。部屋は暗く、青空すら私達を見てはいない。

 ここを二人のエデンとして、死ぬまであなたを求められるなら。

 あゝ、どんなにか幸せなのだろう。

 

「……にゃはは、トレーナーさん。やっぱりなんだかんだで、コーフンしてきましたか……?」

 

 あなたの生体反応。心を得られないからって、そこにあなたを求めるのは醜い行為だ。でも、私はもう穢れきっているのだから。

 

「……拒否権なんて、ないんですから」

「どんな方法でもいい。もう策なんてないんですから」

 

 あなたのズボンに手をかけた、その時。

 

「……ダメだ!」

 

 ああ、ダメだ。

 私はやっぱり、あなたには逆らえないや。

 

 

「俺が悪い。その通りだったよ、スカイ」

 

 言葉は選ばなければならない。

 

「こっちこそ、今更だ。それで許してもらえるなんて思わない」

 

 だけど、言葉を繕うわけにはいかない。

 これはスカイの、愛しい人の心に迫る行為なのだから。

 

「……好きだよ、スカイ」

 

 愚かでもいい。口下手でもいい。汚くてもいい。君のためなら、どんな悪党にだってなろう。

 

「君の真面目さが好きだ。君の強い心が好きだ。君の誠実さが好きだ」

「……どれも私には合わないと思いますけど」

「そんなことない。俺には分かる。君のことが好きだから。君が自分を嫌いになっても、俺は君を好きでいる。もう自分の心を誤魔化さない。……今更、だけど」

 

 のしかかっていた重さが、徐々に離れていく。

 

「今更同士、ですね」

「なら、タイミングはバッチリだな」

「……そうかもしれませんねえ」

 

 自分が悪い、あなたは悪くない。互いにそう想うのならば、互いに互いを愛するが如く。

 そう、誰も悪くない。

 

 

 私の愛はどこから違えていたのだろう。私の生来の気性がよくなかったのかもしれない。その結果手は血塗れ、顔はべちゃべちゃ、心は歪んでくしゃくしゃだ。でも、でも。

 あなたになら、どんな私を見せたって構わない。あなたを想う気持ちだけは、間違いだなんて言わせない。

 

「やっぱり、もうちょっと」

 

 ぎゅっ。扉を開けてしまうのは、もう少し後にしよう。

 

「トレーナーさん」

「愛して、ます」

 

 誰が見たって正しくなくても、私たちから見れば正しいのだから。

 今だけは、私たちだけの空間で。願わくば、これからもずっと私たちは一緒で。青空の全てがブラックホールに呑まれ、大地の全てが粉々に崩壊したとしても。

 あなただけ、いればいい。

 それはまるで、この部屋のように。

 

 

「なあ、スカイ」

「……ふふふ、なーんでーすかー?」

「お見合いのこと、悪かったな」

「……許してますよ、とっくに。今、トレーナーさんが私を愛してくれるので」

 

 今、そうならば。私は死ぬまであなたを愛おしむとも。

 

「……決めたよ。いや、当たり前だけど。お見合いの件は親に突き返す。俺には愛する人がいるんだって言ってくる」

「……それはそれは」

 

 なかなか茨の道だろうなぁ。中等部の担当ウマ娘にそんな情熱を向けるなんて、とんでもないやつだ。

 

「悪い人ですね、トレーナーさんは」

「スカイの方が悪いよ。スカイが可愛すぎるのが一番悪い」

 

 そう言って、あなたは。

 

「……んぅ!? はー、にゃっ……。んぷっ……れろっ……」

 

 ついに自分から手を出した。まったく本当にとんでもないやつだ。まったく、まったく。

 ああ、まったく。

 ……だいすき。

 



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セイウンスカイとはじめてのお出かけ前日

トレーナーさんとお出かけするまえ


 楽しいこと。好きなもの。それは何個あってもありすぎることはない。私の場合は海辺。今いる場所。青空。今見ているもの。釣り。今していること。

 その他にも昼寝やらいくらかあるが、今はとりあえずこんな感じ。トレーニングもお休みで、私は一人のんびりと水面に竿を垂らしていた。うん、充実したお休みだ。

 人生の充実は暇潰しにあると、昔誰かに聞いたか自分で言ったことがある。おそらく真理だ。どう生きていたってやらなければならないことはあるのだから、それ以外のところに自由を求めた方が良い。

 じゃぽん。魚の跳ねる音を聞き、なかなか釣れない釣竿を尻目に。私はひとつ欠伸をする。そしてこう思う。

 ああ、釣れなくても釣りは楽しいなあ。

 負け惜しみではなく、心の底からそう思っているとも。ゆっくり焦らず、徐々に仕掛けが獲物を追い詰める。その徐々に、の部分が肝であり、こうして日がな一日必要なこともあるというわけ。

 この海辺はひとりぼっちの空間だけれど、ひとりぼっちが必要な時もある。これも誰かか私の格言。全くもって正論であり、私は今それなりにシリアスな考え事をしている。

 

「……お出かけかあ」

 

 珍しくトレーナーさんがトレーニングの代わりのリフレッシュを提案してきた。二人でどこかへ行くらしい。そう、二人で。正直なところ、一人が嬉しかったりするかもしれない。いやいやそんなことを言ってはトレーナーさんに失礼なのだが、誰かに見張られてのリフレッシュなどできるだろうか。

 別に、嫌と言うほどではないのだが。

 うーん。釣竿が首をこくこくと下げるのと共に、私の頭もこくこくと動く。嫌でもないが、嬉しいというほどでもない……という塩梅なのだろうか。自分でもよくわからない。もちろん信頼しているし、それなりの好意は持っている。それにトレーニングの代わりなのだから当然見張っている必要はあるし、私のような面倒なウマ娘とはコミュニケーションを取る必要だってあるだろう。

 だけど、だけど。理屈ではわからないモヤモヤが、暗雲のように心を覆う。それは大袈裟か。

 

「……お、かかった」

 

 おっと、閑話休題。

 とりあえずこいつを釣り上げてからにしよう。

 

「いやー、釣れた釣れた」

 

 大物だ。釣りなど手慣れた何度も繰り返したものだが、それでも大物が釣れたらいつだって嬉しい。ゆっくり針を抜いて……いたっ。

 あらら。傷ついた親指をぺろりと舐める。今日はもうやめておけということだろうか。釣りも、思考も。暇潰しは大切だが、必死になって暇を潰したら本末転倒だ。

 持ってきたビニールバケツに暴れる魚を入れて、私は昼寝の体勢に入った。起きた時に逃げ出していたら私の負けだな、などとよくわからないことを思いながら。

 

 うとうと、うとうと。昼寝というのは完全に眠れるものじゃない。耳には周りの音が入るし、目には太陽の光が瞼越しに入り込む。そもそも体内時計はこの時間に起きろと煩く言ってくる。それでも私が眠るのは、心を落ち着けるため。

 眠らない心はきっと疲れて走れなくなってしまうから。大事な時に、大事なものを逃してしまうから。

 明日は大事な日だ。なんだかんだ言って、初めてトレーナーさんと二人で息抜きをするのだから。息抜きの達人であるセイちゃんが、あらゆることをトレーナーさんに教授してあげる番だ。あなたには、いつもお世話になっているもんね。

 ありがとう。少し寝ぼけた心は、そんなことを脳裏に口走る。あなたに会えなかったら、私はどこにも行けなかった。万年サボり魔、才覚はからきし。私のようなウマ娘が一丁前に勝とうと願えるのは、きっとあなたのおかげ。

 多分自分はまだ気づかないふりをしているだけで、あなたに会うのを嫌がっているだけ。あなたに会うとどきどきしてしまうから、緊張して休めないのを誤魔化しているだけ。私はきっと、本当はあなたのことが大好きだ。小賢しい脳みそがそう囁いている。

 あなたにべったりと甘えたいと思っているし、わしゃわしゃと頭を撫でてほしいと思っている。

 でも、まだ。まだそんなことを言ってはいけない。なんとなく、そう思う。これはトレーナーさんを慮ってのことではなくて、おそらく私があなたから好かれたいという気持ちの現れ。

 それではいつのまにか逃げられてしまうのかもしれないけれど、私はちゃんとあなたと仲良くなりたい。一方的な好意を押し付けるのではなく、贅沢にも蕩けるような甘い恋をしたい。

 私の狙いは大物だ。あなたという一番の大物。それを見つけて焦っているのが今で、今からやりたいのはそれを釣り上げること。

 まずはシチュエーションを凝りたい。最初のデートは明日。あなたに楽しいと思ってもらいたい。私といて楽しいと感じてもらいたい。だからいろんなプランを考えてあるし、それに誘う準備だって万端だ。

 次のデートからは仕草だって凝りたい。あなたの一挙一動を目に焼き付けたい。私の全てを見て欲しい。いつか、いつかのはなしだけど。きっと手繰り寄せて見せる。

 それが悠長な仕掛けだとしても、私の狙うはあなたとの大恋愛なのだから。

 

「ん〜、よく寝ましたね……おっと。ちゃんと逃げてない」

 

 今回の釣りのようにそう上手くいくかはわからない。上手くいかなかったらなりふり構わずあなたに愛を叫ぶ羽目になるかもしれない。それでも、それはそれでロマンチックかもしれない。

 

「じゃあ、明日も早いし」

 

 帰りますか。明日は目下一番楽しいこと。目下一番好きなものと一緒だ。

 明日はデートだ。はじめての。



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セイウンスカイ「なんでトレーナーさんは、死んでしまうんでしょうね」

無限の未来が広がっています


 現実の出来事は唐突だ。それでいて物語より劇的だから始末に負えない。私がトレーナーさんから余命について告げられた時、最初にそう思ったのを覚えている。

 一年。前後するかもしれないがな、などと課題の提出期限をごまかすかのようにあなたは言った。私がなんと返したかは覚えていない。

 現代医学ではどうにもならない難病。私たちが全霊を賭けて得た栄光を注ぎ込んでも、存在しない治療法にお金を払うことはできない。二人なら無敵だとさえ思っていた私の幻想は、無慈悲で不条理な現実に叩き潰されたのだ。

 それから数日。大切に噛み締めるべき、或いは何かしらいつものように策を練るべき時間を既に無為にしてしまった。これから何日間私はその事実を引きずり、そのために逃してはならないものを逃すのだろう。

 まだ、最初の恋すら言の葉にできていないのに。

 今日もベッドで蹲り、後悔を重ねる。何故今まで、何故あの時。私の時はあの日から止まっていて、でもあなたの時はずっと動いている。時の進みが交換できればどんなに良かったか。現実にはそんなアイテムはないし、あったとしてもきっとあなたは笑顔で断るのだ。

 さりげなく、あっさりと。どうしても心配をかけてしまうとしても、できるだけかけないように。無駄に頭の回る私は、あなたの態度からそんな気配りばかり勘づいてしまった。

 私たちはもう気の置けない仲だと思っていた。私の心にすら気付かれているのではないかとびくびくしていたものだ。それなのに、それなのに。

 現実の私たちは、本当の弱さを曝け出し合えていない。そしてそのまま全ては終わる。そういうことに、なってしまう。

 

「……やだよ」

 

 そんなのは、嫌だ。私は漸く起き上がって机に向かい、一つ真っ新なノートを取り出す。表紙をめくり、白い砂漠に願いを並べる。あなたと行きたい場所。あなたとしたいこと。あなたに伝えたいこと。あなたに、あなたのために。

 あなたが死ぬまでにやりたいこと。

 よし、これが私の最後の作戦だ。

 

 *

 

 朝は早く起きる。これからの鉄則だ。もうすっかり筆跡と涙でぐしゃぐしゃになったノートを机から手に取り、鞄へ詰め込む。荷物はこれだけ。

 

「おお、スカイ。今日は早いな」

 

 久しぶりのトレーニング。こともなげにあなたは言う。

 

「おはようございます、トレーナーさん。これからは毎日早いですよ」

 

 決意を込めて私は言う。

 

「さあ、行きましょう」

 

 手を取って。引っ張って。未だ現世にいるあなたを握りしめて。

 

「今日から、私たちは恋人です」

 

 こんな形でなんて、なりたくなかったけど。

 

「……恋人?」

「トレーナーさん、いるんですか?」

「いないな」

「じゃあいいじゃないですか」

 

 ああ、こんなに簡単に聞けてしまうんだ。

 

「……スカイが言うことなら。ありがたく気持ちを受け取るよ」

「……それでよろしい」

 

 本当の関係にはもう二度となれないかもしれない。強引で、情緒のない。まるで契約したての私たち。それでも。

 

「……これから、毎日幸せにします。ずーっと、死ぬまで」

「……死ぬまで、か」

 

 私程度の存在でも、あなたの最期を彩るくらいはできると信じたい。

 

「さあ行きますよ! まずは遊園地! 恋人と行く鉄板スポットでーす♪」

 

 あなたのいのちのために。私のいのちを燃やし尽くそう。

 

 *

 

「お客様、何名様ですか?」

「幸せカップル! 二人です!」

「まあ、それはそれは。楽しんでいってくださいね」

「……スカイ」

「……老い先短いんですから、これくらいどハッピーにいかなきゃダメですよ、トレーナーさん?」

 

 入場チケットを購入し、煌めく遊園地へ二人で足を踏み入れる。私の元気の裏には今にも泣き出しそうな素顔が潜んでいるのだが、仮面を被るのには慣れている。

 

「何から行きます? ジェットコースター? 狭いから嫌ですね。観覧車? ガラス張りならいいですよ。コーヒーカップ? ラブラブカップルの定番ですよね、あとは」

「……スカイ、無理してないか」

「……二度とそんなこと言わないでくださいよ」

 

 そんなことを言うなんて、信じられない。

 

「……ああ、悪い」

 

 ずっと無理していたのはあなたの方なのに。無理させていたのは、鈍感を極めた私の方なのに。

 

「……はい、じゃあ全部行きましょうか! 本当は苦手なのもありますけど、でも」

「トレーナーさんとなら、幸せですよ」

 

 これが、紛れもない私の本心だ。

 

「……はぁ、はぁ……洞窟を通るなんて聞いてない、あんなにガチガチに固定するなんて聞いてない……」

「ずっと悲鳴あげてたな、スカイ」

「そりゃ、それがジェットコースターの正しい楽しみ方でしょう。トレーナーさんは楽しまなさすぎですよ」

「そんなことないよ。スカイの可愛い声が聞けて楽しかった」

「……本当ですか?」

「本当、本当」

「なら許しましょう」

 

 楽しい。

 

「思ったよりは狭くないですけど……見つめ合うのってドキドキしますね」

「これから20分はこの中で二人きりだな」

「……うーん、狭いところを嘆くべきか、恋人との密着を楽しむべきか……」

「密着ってほど密着してないと思うが」

「……これから、密着するんですよ……おりゃ」

「うわっ!?」

「どきどきしますねえ……」

「びっくりしたよ……」

 

 楽しい。

 

「さあさあウマ娘の本領発揮! 誰にも負けない速度で回しますよ〜!」

「おいおい! ちょっと速すぎる……!」

「……あー、目が回ってきました。まだ回しますけど」

「ちょっ、スカイ!?」

「……冗談でーす♪ それ、ぐるぐる〜」

「俺の方が目が回りそうだ……」

「ありゃ、大丈夫ですかトレーナーさん」

「……冗談だよ」

「だと思った。トレーナーさん、まだまだ修行が足りませんなぁ」

 

 本当に、楽しい。

 時間の進みはやはり残酷で、あっという間に日は暮れる。また1日、大切なあなたが消えてゆく。

 

「……お疲れ様でした」

「楽しかったな」

「……でしょう? トレーナーさんにも死ぬ前に恋人ができて良かったですね」

「……まったく、本当だな」

 

 出来るだけあなたの死を軽く受け止めたいのに、そんな想いを込めた言葉は上滑りして虚空に消える。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

「……なんだ」

「こんなにいい雰囲気なんだから、やらなきゃまずいことがあるんじゃないですか?」

 

 周りにはネオンや電飾が光り、私たちを夢の世界に誘ってくれている。

 ここならば、永遠を約束できる。

 そっと、顔を近づける。

 

「……トレーナーさん」

「……いいや。やっぱりダメだ」

 

 なんで。

 

「怒られるかもしれないけど、君に無理をしてほしくない。俺に情けをかけてくれるのは嬉しいけど、それは君を傷つける行為だ。どれだけ君のそれが真摯な想いでも」

 

 なんで。

 

「だから、恋人ごっこは今日きりにしてくれ。……すまない、こんなキツい言い方するつもりは……」

「なんでそんなこと言うんですか!」

 

 初めて、あなたに怒りをぶつける。

 

「私はあなたのことが好きです。好きだから恋人になりたかったんです。それの何がおかしいんですか。

 情け? 馬鹿にするのもいい加減にしてくださいよ。ごっこ? 気持ちをぞんざいに扱うのも大概にしてくださいよ。

 あなたの私への信頼とかって、そんなものだったんですか? 私の抱えてた気持ちって、その程度だったんですか?」

「……スカイ、ごめん」

「……謝らなくていいですよ。謝ったって、なんにもならない。私はそれがわかってるから、こんな話したくなかったのに」

 

 もう、駄目だ。あなたの言う通りの薄っぺらな恋人ごっこは、粉々に砕けて剥がれ落ちる。

 

「ごめんなさい。今まであなたとの時間を無駄にしてきてごめんなさい。相手の気持ちも考えられなくてごめんなさい。ごめんなさい。あなたの貴重な人生を私なんかに費やさせてごめんなさい」

 

 今の自分の顔がわからない。気持ちはぐしゃぐしゃ。どれが私の表に来ているのか。

 

「恋人になりたいなんて言って、ごめんなさい」

 

 くるり。踵を返す。踏み込んで、駆け出す、逃げ出す。あなたが追いかけたって間に合わないくらい、速く。もう二度と、会えないように。

 

「スカイ!」

 

 何度も呼ぶ声もあなたの追いかける足音も聞こえないふりをして、私は一人で寮へ帰った。

 

 *

 

「うっ……うぇぇん……ぐすっ……もう、なんで……」

 

 寮にある暗い個室で、どうしようもなく泣き叫ぶ。

 あなたの幸せ。そのためだけに生きるつもりだったのに、私はひとしきりあなたを罵って消えていった。

 救いようがない。10分泣けば後悔が涙を後押しし、20分泣けば罪の意識が鼻を刺激した。

 おそらくあなたは、これからこのことを後悔して生きてしまう。最期まで、私なんかに心を占有されたまま生きてしまう。私の方もあなたを一生忘れなければ釣り合いが取れるだろうか。いや、取れるわけがない。

 私なんかが100人いたって、あなたの価値には敵わない。これから送るべきあなたの幸せを刈り取った大罪人。あなたがいなくなった後、あなたのことを想う権利すらない。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 もう届かない謝罪をひたすらに続ける。

 

「……スカイ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 あなたの声が聞こえてきた。そんなはずないのに。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 もう全てが手遅れなのに。

 

「……スカイ!」

 

 ……え?

 

「スカイ、聞こえるか? 寮長のヒシアマゾンに頼んで入れてもらった。許可はあるってことだ。開けてくれ」

「開けたらどうするんですか」

「どうもしない。話がしたい」

「……そうですか」

 

 もう一度だけ、あなたに会えるのかな。そう思って、戸を開ける。

 開けた瞬間。

 あなたは部屋に飛び込んで、私の全身を思い切り抱きしめた。

 

 *

 

「……なっ……なんで?」

「スカイのことが好きだからだよ」

 

 わけがわからない。離さまいと抱きしめられるわけが。

 

「あんなに、酷いことしたのに? 酷いこと、言ったのに?」

「俺の方が酷い。君を置いて先に逝ってしまう。……本当は怖い。死ぬのは怖い。文字通り死ぬまでもがき苦しむ。だから、それを和らげようとしてくれた君には感謝しなきゃいけなかったのに」

 

 わけがわからない。愛を込めて抱きしめられるわけが。

 

「本当に、俺は弱い。最後まで一人になろうとした。君の言う通りだ。信頼を軽んじ、気持ちを踏み躙り。全部の手を振り払って、地獄へ堕ちようとしていた」

「やめて、そんなこと」

「……そうだ。だから止めるよ。もう君を裏切ったりしない。ずっと、だ」

 

 そうしてようやくわかる。私たちは互いの弱さを見せ合えた。互いの全てを知りたいから。知って欲しいから。だから、私たちは愛し合える。

 

「ねえ、トレーナーさんは。なんでトレーナーさんは、死んでしまうんでしょうね」

 

 少し落ち着いて。あなたの匂いを鼻水まみれの鼻で嗅ぎながら、どうしようもない疑問をこぼす。

 

「……スカイ」

「こんなに優しいのに。こんなに愛してるのに。神様なんていないんですかね」

 

 もしも神様がいるならば、こんなに素敵な人に死神を送りつけるだろうか。現実は理不尽。どこにも見えざる手を感じない。

 

「俺も確かにそう思った。なんで俺が死ななきゃならないんだって。神に見捨てられたとはこういうことかと思った。でも、今ならわかる。神様はいるよ」

 

 うそだ。こんな残酷な。

 

「いるんだ。そいつは俺を君に会わせてくれた。だから、俺は幸せな人生だったよ」

 

 そうか。それなら仕方ない。私の存在が、あなたの人生の理由になれたなら。

 

「そんなことを言えるなんて、トレーナーさんがきっと神様ですね」

「……それは大変だ。神様なのに一人のウマ娘に恋までしてしまった」

「……私、罪深い女ですね」

 

 罪は背負おう。あなたのためなら。私のためのあなたのためなら。

 あなたが私の、私だけの神様。それくらい、それくらいの気持ちがあるとも。

 

「トレーナーさん、私のどんなところが好きですか?」

「いくらかあるよ。いくらでも言える。言えば言うほど新しく思いつく」

 

 ああ、それはどんなにか素晴らしい。

 

「私も言えます。トレーナーさんが好きって、今度こそ」

 

 けれど、今は。今はとりあえず。

 

「スカイ」

「トレーナーさん」

「「愛してる」」

 

 この言葉だけでいい。

 私たちは、世界一幸せだ。

 

 *

 

「私、トレーナーさんのこと。ずっとずーっと覚えておきます。何もかも、匂いまで。そうすればトレーナーさんは、私がおばあちゃんになって死ぬまで、一緒に生きてるのと同じです。人が死ぬのは、誰も覚えていなくなった時ですから」

「ありがとう。でもいつかは俺を忘れてもいいんだぞ? 亡くした恋人に引きずられるなんて……いたた!?」

 

 相変わらず自分を大事にしないトレーナーさんに、裁きのぎゅー。

 

「私はトレーナーさんとの思い出で、一生分幸せになってみせますよ。その自信があります。……これから、いっぱい思い出作りましょうね?」

「……ああ、もちろん。俺だって負けない。死ぬ気で生きてやる。なんだかそんな気が湧いてきた。余命なんて決まってるもんじゃないさ」

「その意気、その意気」

 

 そう、現実は物語より唐突で劇的だ。ひょんなことから治療法が見つかって、すっきり健康になれるかもしれない。ここまで語った決意は全部無駄になって、二人で穏やかな老後を過ごすのだ。子供や孫もたくさんに囲まれて……。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 そうだ。ピンときて、力をぐっと込める。

 

「うわっ……と、どうしたスカイ、急に倒れ込んで!?」

「トレーナーさん? これは、押し倒す、って言うんですよ?」

 

 目の前の神様も、私のことなら許してくれるだろう。他には誰も見ていない。……まあバレたなら、それはそれ。

 

「覚悟、です☆」

 

 死ぬまでにやりたいことリスト、一つ開始。



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セイウンスカイは寝込みを襲わない

襲わないいい子


 寝ている。私じゃなくて、トレーナーさんが寝ている。私も寝ようかと思ったが、なんとなく抵抗がある。その、一緒に寝るのはむず痒いというような。別に添い寝をするわけでもないのだが。

 なのでその間私が考えているのは、トレーナーさんが起きた時何をしてやろうかということだ。派手に驚かせて、一生セイちゃんの前で無防備な姿を晒せないように後悔させてやろうかな。

 でも鉄則として無理矢理起こしたりはしない。昼寝愛好家としてもっとも恥ずべき行為だし、いつもトレーナーさんはそんなことしないしね、なんて。

 さて、嫌がらせというよりは気持ちよく起きれたほうがいいだろうか。寝ぼけ眼の隙を突いて、いつもはできないようなことをしてしまおうか。このタイミングならいきなり抱きついたって受け止められそうだ。……しないけどね。

 悩み、悩み。あなたの顔を眺めて、じーっとしたり、うろうろしたり。落ち着かない。あなたはものすごく安らいでいるのに不公平だと思う。

 ……私も眠くなってきたな。時計を見るともう1時間経っている。ずいぶんぐっすり寝てますねえトレーナーさん。日頃の疲れが溜まってるのかなー? ……そこには私がかけている疲労もあるだろうわけで、それには少し罪悪感。

 本当ならその、好きな人には負担をかけたくないものだけど。私は困らせることでしかあなたの気持ちを分けてもらえないだろうから。

 ……あーあ、どうしよっかなあ。このままずっと起きないんじゃないかって気もしてきたな。もどかしい。あなたのことをいつもより近くで見れるのは嬉しいけど、あなたの声が聞きたい。

 ……私が寝ている時、あなたも同じように思っていてくれたらなんていうのは。高望みなんだろうな。私とあなたの心は通じているのに、私とあなたには気持ちの落差がある。

 そこがいつか埋まってくれるだろうか。あるいはどうにもならない差で、私たちはいつか、いつか。

 私にはどうにもできないかもしれない。けれど、あなたを頼れることではない。無力な私はいつもあなたにおんぶに抱っこで、策を以って必死に穴埋めしている。

 策、策。この場で取れる何かの策。寝ているあなたの起きがけに、何をしてやれば一番あなたに近くなれるだろう。心の距離も、いのちの距離も。

 うーん。悩んで悩んで、答えは出なくて。でも心は不思議と幸せで。これはきっとあなたを想うから。あなたの幸せそうな寝顔を見ながらあなたのことを考えるのだから、私は全部があなたのものなのだ。なんちゃって。

 

「……うーん……」

 

 おっと、起きてしまう。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう……そうだ。

 ぷにっ。

 

「……んー、おひゃようしゅかい……ん?」

「おはようございますトレーナーさん。ねぼすけトレーナーさんには、ほっぺたぷにちゃんの刑です。えいえい」

「にゃんだそりゃ」

 

 ぷにぷに。人差し指をあなたの頬で弾ませる。これくらい。私たちの今の距離は、きっとこれくらい。昔は指先ひとつ触れることすらなかっただろうから、それに比べたら大進歩だ。

 だからいつかはこの指が、あなたの手に収まりますように。



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メイショウドトウはネガティブシンデレラ

ドトウ!ドトウ!


 人生という物語の主役は自分自身だと聞いたことがある。けれど私の人生を振り返っても、自分が主役になれたことがある気がしない。

 オペラオーさんやアヤベさんにこんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないけど。トレーナーさんになら、言ってもいいのだろうか。

 幾度の闘いを超えても、私は。

 私に似ている物語があったりしないだろうか。その主人公の心を読み取れば、私もそれを真似できるかもしれない。

 ……そう思って、少し恥じる。誰かの真似じゃない、私には私の長所があるのだとトレーナーさんは言ってくれた。アヤベさんの代わりではなくなった。オペラオーさんに憧れていただけの私ではなくなった。

 貴方は言ってくれた。だから貴方を拠り所にするというのは、それこそ間違っているのだろうけど。

 私の勇気。勇気というものは限界が高くなるほど更に越えようとする気持ちであって、今の満ち足りてしまった私には不釣り合いかもしれない。

 ただ、今の私に満足できないことがあるとしたら。

 貴方の心を惹きつけたい。育った心は春を知り、初めての恋を呼ぶ。

 

「はあ……今日は、今日こそ」

 

 目を覚ましてベッドから上体を起こす。意識がはっきりする前に独り言が漏れる。今日こそ、なんなのか。いつもドジをしないようにと思っているうちに、これが口癖になっていた。

 けれど今の私は昔とは違う。確かに強くなったと、自分ですら思える。

 今の私が今日こそ、と言うことがあるとしたら。なんとなく、最近になって思うこと。少しだけ、もやもやが膨らんでいること。

 トレーナーさんにとっての私はなんなのだろう。私にとってのトレーナーさんはなんなのだろう。そんな高邁な問いが頭をよぎり、すぐに吹き抜けていく。

 今日こそ、その問いの答えを見つけたい。そんな気持ちさえ、まだ吹けば飛ぶようにか細く。

 

「……よし」

 

 チェック完了、全部をカバンに詰め込んだはず。手の届かない想いを除いて。まだ寝ているシャカールさんに小さくおじぎをして、部屋を出る。

 巡る想いは怒涛の如く、手に取るには未だ荒々しい。

 

 *

 

「おはようございます、トレーナーさ〜ん」

「おはよう、ドトウ。……しかしドトウはほんとに変わったな」

「えへへ〜、そうかもですねぇ〜」

 ここで以前の私なら、条件反射でそんなことはない、と返していた気がする。その変化こそが私の成長を如実に表している。

「よし、じゃあ今日もトレーニングだ。オペラオーに完勝する! これが次の目標だ」

「はい!」

 ぎゅっと拳を握り、次の目標を見据える。次の目標。私のそれは、トレーナーさんとは少し違う。今まではずっと同じものを見てきた。それはそれで幸せだけど。

 互いと互いで見つめ合いたい。そう思ってしまうのは、成長なのか否か。

 コースを周回する間、遠くに貴方を見てしまう。トレーニングの最中、ついつい余所見をしてしまうほどの余裕がある。……それでこけてしまうこともまだあるのだが。

 ちらり、ちらり。どうしても、視界の端に貴方を捉えてしまう。今までだって居たはずの存在が、とても大きく輝いて見えるような。まるで、魔法にかけられたような。

 トレーナーさんが私の手の届かない場所に行ってしまわないか、少し不安になる時もある。

 なんだかんだと言ったって、トレーナーさんが居なければ私はここまでの成績を残せなかった。

 だから例えばトレーナーさんが居なくなれば、私は元のドジでグズなウマ娘に逆戻り。そこまで極端ではないかもしれないけど、やはり貴方が居なくてはダメだ。

 ……まだまだ私が子供で、駄々っ子のように親離れできないというだけなのかもしれないけど。それでも子供でも、絵本くらいは読める。灰被りの少女が、素敵な王子様と結ばれるお話。私でも読んだことがある。

 彼女はきっと、そのお話の中で成長した。王子様が落ちぶれたから結ばれたのではなく、少女が勇気を出したから結ばれたのだ。

 天井にあるものを超え、成長できたのは彼女自身の力なのだ。

 それが、物語の主役というものであって。私とは違う。そう思わずには居られないけど、そう思いたくない気持ちもある。

 ……勇気を出して、手を伸ばす。私も、私だって。

 だって諦めが悪いのが、私の長所なのだから。

 

 *

 

「はぁ、はぁ……」

「よし、お疲れ様ドトウ! ……んー」

「ひぃっ! なにか不満がありましたでしょうか、トレーナーさぁん……」

 

 夕を超えた空に、いつものように不安が浮かぶ。返ってきた返答は予想外のものだった。

 

「今度、久しぶりにどこかへ出かけようか」

「……へ?」

「いやなに、タイムは申し分ない。ドジだって昔に比べたら随分と減ってきた。だけど……君の顔がな」

 

 そう言って、トレーナーさんは己の口元を指さす。

 

「それなりにドトウと一緒にいて、君の気分とかが読み取れるようになってきたんだ。口元で、君の調子は大体わかる。今は少ししょぼくれてるんだ。他のところに問題はないのに、な」

 

 そうだったのか。トレーナーさんが自分をしっかり見てくれていたという事実が、僅かに心を暖めてくれる。

 

「……だから、リフレッシュが必要なのかなと思ったんだけど。……どうかな、ドトウ。嫌なら──」

「ぜ、ぜんっぜん! 嫌じゃないですぅぅぅ!!」

 

 嫌じゃない、ということを全力で表現する。それ以上さえ伝えられるように。

 

「そうか、よかった。ならとりあえず、今日はここまでだ。また連絡するよ」

「……はい! 楽しみにしてますから!」

 

 トレーナーさんとお出かけ。その事実が、心の隅まで染み渡る。今の私が求めるものは、ここにある。

 広がる想いは怒涛の如く。限りなく波打ち限りなく深まる。

 

 *

 

 足を跳ねさせながら帰路につく。少し転んだくらいじゃ今の気持ちに傷はつかない。貴方と私、私、私……。

 

「はぁ、やっぱり私でいいんでしょうか〜……?」

 

 前言撤回。私の不安は期待と同じくらいに大きいようだ。もちろん貴方にそんな意図はないだろう。いつものように、二人でいるだけ。でも、私にとっては初めての。

 二人の時間が何事もなく終わることを望んでしまうけれど、本当に望むべきはもっと上にあって。いつも志の低い私には、高望みは難しい相談だ。

 

「……はあ、ただいま……」

「……どうした、ドトウ」

 

 寮に帰ってきてシャカールさんに挨拶すると、いつもはなかった返事が返ってきた。結構この人は優しい……と思う。

 

「……じ、実は──」

 

 話す。初めてのこと、初めての気持ち。それを初めて、誰かに話す。

 

「……なあ、ドトウ」

 

 そのはずだったのだが。

 

「それって本当にただのリフレッシュじゃねえか?」

 

 あれ。

 

「……そ、そんなことは……! ある、かも……」

 

 考えてみると、全ての気持ちは私が勝手に抱えているもので。それを抜いたら、特別な要素なんて何もないんじゃないか──?

 

「……ふう、生憎とオレもそういうことには疎いからな……だがまあ……」

 

 シャカールさんにとっても苦手分野だろうな、こういうの……。それでも考えてくれるのは少し嬉しい。

 

「……よし、デートはいつだ? 明日か? 明後日か? ちょっと知り合いに色々掛け合ってくる」

「でででで、デートぉぉぉ!? そ、そんな大それたものじゃ……」

「何言ってんだ、バカ。大それた目標だとしても、目印を立てなきゃそこへの道筋は見えねえぞ。……ほら、いつなんだ」

「1週間後、日曜日です……」

 

 気弱にただ従うだけ。本当にこれでなんとかなるのだろうか。知り合いに掛け合うというのは何のことなのだろうか。

 

「……まあそれくらいあれば、アイツなら何とかしてくれるだろ。オレは気休めを言うのは苦手だが、アイツなら。……待ってろ」

「……はい。ありがとう、ございます。……いつも」

 

 シャカールさんが同室でよかった。そこまで言ったら怒られてしまいそう。

 

「……フン」

 

 そこまで。いつもぶっきらぼうに会話を区切るけど、本当に得難い友達、だと思う。

 だから私も頑張ろう。誰にとっても、得難い存在と思われるように。

 そして、その日はやってくる。あっという間に、とても長い夜の後に。待ち望むものは日が進むほどに時を永く感じさせる。最後の夜なんて、やっぱり殆ど眠れなかった。

 

「……んー……」

「起きたか……今日だぞ」

「はっ、はいい! もちろん、昨日のうちに準備は……ふわぁ」

「おいおい、準備にかまけて寝てなかったら本末転倒じゃねえか」

「はい、すみませぇ〜ん……」

「謝るならオマエのトレーナーに謝りな。楽しみすぎて寝れなかったですってな」

 

 そんな恥ずかしいこと言えるわけがない。私はいつも臆病で、ネガティブで……。きっと今日もそんなことしか口にできないのだ。

 

「……と。オレも約束のモンを調達してきた。……これだ」

 

 シャカールさんが差し出したのは、一つの瓶。中には透明な液体が入っている。

 

「これは……?」

「コイツは知り合いから貰ってきた、『ネガティブな感情をいいコンディションに変換する薬』だ。オマエにぴったり。とんだマクガフィンだろ」

「……まくが、ふぃん」

「……まあそこはいい。要はこいつを飲んでりゃ、ネガティブ思考が出るたびに逆に身体の調子が良くなるってシロモノだ。……ただし、逆も然りらしいがな」

 

 つまりポジティブな考えをすればするほど、私の身体にダメージがあるというわけか。……私に限って、そんなことはなさそうだが。

 

「つーわけで、用法適量を守って使うんだな、ほら」

「ありがとうございます。……よし」

 

 意を決して蓋を開け、中身をぐいっと飲み干した。……味はしない。まるで水のようだ。

 

「よし、じゃあ行ってこいドトウ。態度がネガティブなら、見た目を磨けばいい。その薬が今日いっぱい効いてるから、日が落ちる頃には見違えるようになってるだろうさ。……そこを、こう……」

「……こう?」

「……後は自分で考えやがれ!」

 

 シャカールさんに追い出されるように、私は寮を出る。天気は曇り、仕方ない。そう考えると少し元気が出てきた気がする。矛盾しているようだが、これが薬の効果なのだろう。

 なら、私に負けはない。ネガティブならお手の物だ。

 来たる想いは怒涛の如く。乾いた陸地が海で潤う。

 

 *

 

 いまだ早朝。シャッターの閉まった小さなお店が立ち並ぶ商店街で、私とトレーナーさんは待ち合わせをする。いつもは私がどこかでドジを踏んでしまうから、貴方を待たせてしまうけど。

 今日は、今日こそは。貴方より早く、貴方を待とう。

 

「よし、よし、よし……。ここだ」

 

 間違いない。この通り、このお店。今日はちゃんと、間に合った。……早過ぎるかもしれないけど。

 心がウキウキしそうになるのを、必死に堪える。きっと、それでは足元を掬われる。だっていつもそうだった。だから期待しないようにした。今日だって、きっと。でも。

 今日こそはと思ってしまうのは、私のわがままなのだろうか。

 

「おはよう! 今日は早いな、すごいぞドトウ」

 

 貴方が来た。

 

「……おはようございます、トレーナーさん」

 

 貴方を見た。

 

「……こんな早くに来ても、どこも開いてないぞ?」

 

 ならば、貴方に勝とう。

 

「……また、ドジ踏んじゃいましたか……?」

「……実はそう思って早く来たんだが、杞憂だったな。今日のドトウは元気だ」

「えへへ、そうですか?」

 

 私の名前はメイショウドトウ。類稀なる怒涛王なのだから。

 

「……で、どうする? 散歩かな……そんなのでいいか?」

「いいですよ〜……きっと楽しいですから」

「そうか、それなら良かった」

 

 貴方となら。

 少し冷えた風が吹き抜ける、人通りのない商店街。電灯もようやく仕事を終えたばかりで、まだ虫が張り付いている。普段なら寂しいと思ってしまうだろうけど、今は人の少なさが幸せだ。

 とん、とん、とん。二人の足音が鈍く響く。本当ならロマンチックかもしれないけれど、まだまだ私たちはそこには至らない。

 ただ、隣を歩くだけ。手も繋がず、心も微かに触れ合う程度。

 

「……なあドトウ、これでいいのか?」

「いいですよー、これで。何も起こらない……うわっ!?」

 

 どしーん。転けてしまって、少し心がしょぼくれる。……でも、その分幸せになれるのだっけ。例の薬のことを思い出し、気持ちを立て直す。

 

「大丈夫か?」

「……はい、慣れっこですし」

「それでもいつもヒヤヒヤするよ。……ほら」

 

 貴方の手がこちらに伸びる。それを掴んで、握って。

 

「……ドトウ?」

「転ばないように、手。……お願いしてもいいですか?」

 

 私にしては上手い言い訳だ。

 

「……ああ」

 

 このまま、ずっと朝でもいい。

 

 *

 

 早朝は儚く、短くて。くるくると鳴く鳩の声を合図にしたかのように、次々と商店街のシャッターが開いていく。同時に人通りも僅かずつ、確かに増えてゆく。まるで川の流れのように。

 最初から川に溜まっていた私たちは、そろそろどこかへ流れていくべきなのかもしれない。

 

「トレーナーさん、どうしますか?」

 

 少し、手に力を入れて。

 

「……うーん、公園の方にでも行ってみるか。たまにはドトウの話が聞きたい」

 

 握り返される手が、嬉しくて。

 

「そういえばトレーナーさんは、朝何を食べたんですか?」

「バターを塗った食パンだな。あとはヨーグルト。ドトウは?」

「……私は、大したものは……」

「俺だって大したものは食べてないじゃないか。聞かせてくれ」

「……今朝は早かったので、何も」

「それは本当に食べてないやつだな」

 

 本当は勇気の出る薬だけ飲んだのだけど。公園に向かって、着いた後も。私たちはずっとお喋りしていた。なんでもないことだけど、滅多にないことだ。

 そして、時は巡る。不安はまだある。でも、それが最後に花開くらしいから。シャカールさんから貰った薬は、確かに私に勇気をくれている。

 

「……ドトウ」

「……はい?」

「……なんだか見違えた気がするな。いつも成長してるけど、今日は特に」

 

 もう薬の効果が出てきたのだろうか。ネガティブな私には本当にぴったりだ。こんなに幸せなはずなのに、私はまだ不安を捨て去れていない。未来は私にあるのだろうか。誰にもない何かが、私にあるのだろうか。

 

「ありがとうございます……。今日はリフレッシュ、ですし……。できてるのかもしれませんね」

「そうか、それなら良かった」

 

 リフレッシュ。建前にしてしまいたいけど、まだできない。何か次に取れる手はあるだろうか。そう思った時、不意に。

 ぐう。

 

「あうう……すみません、お腹空いてきた、みたいです……」

 

 恥ずかしい。しゅんとなってしまう。すると貴方は少し考えた後、素敵な提案をしてくれる。

 

「よし、ご飯食べに行こうか」

「……はい!」

 

 お腹が鳴ったことさえ、今日は幸運に変えられる。ひょっとして、救いはあるのかも。

 浮き立つ想いは怒涛の如く。まだ、まだまだ終わらない刹那がある。

 

 *

 

 二人手を取って、向かうは小さな洋食屋。なんだか私たちの小さな幸せを表しているみたいで、これからを示してくれているみたいで。

 店内にはオレンジ色のランプが灯り、ピアノの音が流れる。静かで落ち着いた雰囲気が私に似合っている、というのは傲慢だろうか。

 

「……さ、今日は俺の奢りだ」

「……いいんですか?」

 

 そうは言ったが、断る理由はない。

 

「そりゃ、レディーファーストだからな」

 

 そう、これはデートなのだから。

 

「ハンバーグを一つ」

「じゃあ私は、このスパイシーカレーを」

「かしこまりました」

 

 店員さんは丁寧で礼儀正しく、まるでお姫様に仕える従者のよう。だから私たちはお姫様と王子様。……トレーナーさんはともかく、私は違うか。また少しネガティブ。

 

「ドトウって、辛いの本当に好きだよな」

 

 暫く料理を待つ間、トレーナーさんが話しかけてくる。今日はたくさん話せて、本当に嬉しい。後で揺り戻しが来たらどうしよう。

 

「はい、大好きです」

 

 そう、軽く口にした後。

 私の頬が燃えるように赤くなったのに、トレーナーさんは気づいていただろうか。

 料理が来て、お互いゆっくりと口に運ぶ。舌を迸る辛さがちょうどいい。美味しいカレーだ。貴方の方をちらりと見ると、目があいそうになって思わず逸らしてしまう。気づかれなかっただろうか。いやいや気づかれるべきだっただろうか。

 そんな悩みをもやもやと抱え、結局あまり進めない。私が目下頼れるものは、シャカールさんに貰った薬と自分の諦めの悪さ。

 

「ふう、美味しかったな」

「……はい」

 

 お腹いっぱい。心もいっぱい。ああ、このまま何もなければいいな。自然とそう思う心はまだ臆病で、踏み込むことをよしとしない。

 ご飯を食べて、少し眠くなってきた。寝ている間はドジを踏まないので、私にとっては幸せな時間だ。近くにベッドがあったなら、すぐにでも寝てしまいそう。

 

「……ふわ〜ぁ……」

「……確かに眠いな」

「あっ、いえ、すみません!」

「いやいやいいんだ、存分に気を抜いてくれ」

 

 まるで貴方との時間が退屈なみたい。そうではなくて、どきどきしすぎて疲れてしまっただけなのに。

 

「そうだな……近くのベンチで休むか」

 

 ベッドにするには足りないけど。眠気というか、疲労というか。もう限界だ。

 

「……そう、ですねぇ……」

 

 それに貴方になら、寝てる姿を見せても構わないかも。

 揺蕩う想いは怒涛の如く。大きく湧き上がり、滑らかに滴る。

 

 *

 

 そこからどうやってベンチに着いて、いつの間に眠ったのかは覚えていない。

 ただ、夢の内容は僅かに覚えている。灰被りの少女が魔法にかけられ、憧れの王子様へと会いに行くのだ。夢の中の私は少女の役で、王子様が貴方。目が覚めない方がいいとさえ私は願うけど、12時を迎えると魔法と共に夢は醒めてしまった。

 

「……おはようございます……あれ」

 

 目を覚ますと、肩に重みが。ゆっくりとそちらを向くと、貴方の頭が寝息を立てていた。

 

「……ふふっ」

 

 疲れていたのはお互い様か。貴方もどきどきしていたからなら、いいな。少しだけ貴方の頭を撫でると、髪についたワックスの存在に気づいた。……もしかして、ほんとに貴方もデートのつもり? ……ありえないけど、絶対偶然だけど。

 そうだったら、いいな。

 貴方が起きる頃には、少し日も翳ってきた。貴方に悪いと謝られるのは、なんだかいつもとあべこべだった。

 このままずっと、変わらず歩き続ける。変わったのは、手を繋いでいること。その繋がりが、心にまで染み渡っていること。

 

「……えへへ」

「……上機嫌だな」

 

 そうかもしれない。すると心臓がどきりとする。……そういえば、薬のもう一つの効果。ポジティブになると、体調が悪くなるとか……。でも、私がポジティブになることなどあるだろうか。グズで、ドジで……。そう考えるだけで心臓の揺れは治り、また調子が戻ってくる。

 ああ、ならこれでいい。これはあくまでやはりリフレッシュなのだ。

 

「いつも休みは何してるんだ?」

「トレーナーさんは、なにしてるんですか?」

「そういえば、前──」

「オペラオーさんが──」

 

 ひとつひとつは取るに足りない、一枚の紙に収まるような会話たち。けれどそれが積み重なれば、大きな大きな山ができるような気がして。

 たった一人で、天頂まで射抜くことはできないけど。見上げるほどに高いこの山は、私たちが組み上げたものなのだ。

 気がつけば、空は茜色。蛍の光が浮かび上がって、みんながお家に帰る時間。でも、シンデレラの時間はこれからだ。

 刻む想いは怒涛の如く。しなやかに語る胸の内、密やかに辿る心の奥。

 

 *

 

「さて、そろそろ」

 

 そう、時は来る。

 

「……今日は楽しかったです」

「すまないな、もっと面白い話ができたら良かったんだが」

 

 最後に、終わる前に。魔法が解けるその前に。はち切れそうなほど心臓が痛い。でも、痛いのは怖くない。今怖いのは、貴方がどこかへ行ってしまうこと。不安、不安。不安を力に変える薬、それが今日の私に掛けられた魔法。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

 漸く分かる、この薬の本当の使い道。

 

「……?」

 

 口を開くたびに、身体が悲鳴を上げていた。

 

「私、綺麗ですか?」

 

 本当はずっと、幸せの絶頂へと向かっていた。

 

「……ああ」

 

 陽光を受けて、軋む身体を揺らす。

 

「綺麗だな……」

 

 幸せを痛みでさえ計り取るのが、本当の使い道。

 我が身を投げてでも感じ取るものが、最も重要な幸せの在り方。

 

「ありが、と──」

「……! ドトウ!」

 

 白く、光が世界を包んでいった時。駆け寄ってくる貴方が目に焼き付いた。

 

 *

 

「おい、結局あの薬はなんなんだ? まさかあんな都合の良い性質の薬、あるわけねえだろ。……ふん、オマエを信頼してて悪かったな。信頼を裏切るオマエだとは思ってないが。

 ……内容はミネラルウォーターとプラシーボ効果……って、ハハッ。

 いやいや、オレでも出来るがオレには思いつかないな。コロンブスの卵ってやつだ。……助かったよ。今回切りだがな。

 ん? 当のドトウ本人なら──」

 

 *

 

 知っている場所。この天井には見覚えがある。

 

「……ドトウ!」

 

 そうか、私は。

 

「……ごめんなさい、トレーナーさん……」

 

 病室にいた。また、迷惑をかけてしまった。最後の最後で、結局花開けなかった。

 

「……綺麗だった」

「……え?」

「夕陽を背にしたドトウは、とっても綺麗だったよ。君しかいないって、また思えた」

「……そんな、勿体ない……」

 

 私なんか。やっぱり今日も、勝手に舞い上がっていただけだ。

 

「いや、違うよ。君しかいないんだ。勿体ないなんてありえない。誰かの代わりなんかじゃない。君しか」

 

 ふと、灰被りの少女の結末を思い出す。魔法が解けた少女は、ぴったりのガラス靴を履くことで王子様に見つけてもらえる。

 

「……私、しか」

 

 大きく力強い覇王でも、小さく輝く一番星でもない。私の存在が、貴方にはぴったりなんだ。

 

「……そうだ。だから、君を選んだ。当然じゃないか」

「……うぅ」

 

 ぽつ、ぽつ。すぐに滝のように流れ出した涙は、まさに怒涛の勢い。私が嬉し涙を流すなんて、本当に珍しい。ネガティブもポジティブもぐちゃぐちゃだけど、幸せなことだけは分かる。

 

「……大丈夫か、ドトウ」

「えへ、えへへ」

 

 まさしく泣き笑い。戸惑う貴方も私は好き。

 やっと、抱いた感情を言葉にできる。ずっと昔から知ってはいたけど、私には縁がないと思っていたもの。けれどわかった。この気持ちに理屈はない。どれほどの存在でも貶めて、丸裸にする恐ろしい感情。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

 

 誰でも抱くことができる感情の極み。

 

「……どうした」

 

 甘酸っぱい、人に魔法をかけるもの。

 

「今、私は何を考えてるでしょう……?」

 

 この気持ちを、恋と呼ぶ。



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退廃に堕ち、肉欲に沈む雲。

セイウンスカイ死んでない リメイク


 孤独だけは何人も逆らえない。

 気ままな浮雲を気取っていた私も例外ではない。もっともそれに気づいたのは、とんと時間が経ってから。経ち過ぎてから。愚かに頭を回す私は、脳の児戯が人を生かすのだと信じ込んでいた。

 例えば今天井に浮かぶフィラメント。

 例えば今天頂に浮かぶ雲。

 それらのものが極小の繋がりによって成立しているように、私のいのちも繋がりによって成立していることを分かっていなかった。

 

 繋がり。私たちは誰しも繋がりを必要とし、繋いだ手をチューブにして呼吸する。息をするのが苦しければ、より深い繋がりが必要になる。心を分かち合い、苦しみと幸せを共にする。

 例えば嘗ての私とトレーナーさん。

 例えば最近とんと連絡を取っていない同期のみんな。

 心の繋がり、それは神聖で純粋だ。だから強く、維持できるのならきっとそれが理想だった。

 

 でも、それはそう簡単なことではない。何もかもに疲れ果て、息をするのにも飽き飽きして。いわば心が死んでしまった状態。そんな状態で互いに歩み寄るほどの気力があるだろうか? 私にはその勇気がなかったのだろう。

 

 だから、そこの繋がりに別の意味を上書きした。大切でかけがえのない繋がりというのは、互いの努力無ければ沈み込んでしまう。心が死んでしまえば、相手がどんなに手を伸ばしてもその手を取れやしない。

 

 即ち私が生き延びるのに必要なのは、沈み込んだ先にあるどろどろの関係性。暗く、埋没する。欲求だけに支配された従属節。傷を舐め合うことを目的とし、それどころか舐め合いによる触れ合いを本質としてしまうような、薄っぺらい蜘蛛糸で出来た繋がり。

 

 そう。私はトレーナーさんが垂らしてくれた蜘蛛の糸を自分の方へ引き摺り込み、それで新しい偽りを編み込んだ。小綺麗だった今までの関係に縫い針を何度も刺してズタズタにした。

 そして傷の上に張られた色付きの紋様は、ギラギラした汗の照り返しと仄暗い肉欲の繋がりを表している。

 

 ちょうど、今私たちが終えたような。

 

「……ふぃ〜。お疲れ様でした、トレーナーさん」

 

 胸板の上に寝そべりながら労いのような形を述べる。本当はもう彼は私のトレーナーではない。ただ、今の関係はその頃より一歩だって進んでいるわけでもない。だからそれ以上の呼び名も見つからず、こうしている。

 

「……ああ」

「おっと、どうしました控えめに。トレーナーさんがしたいなら、もうちょっと延長してあげてもいいですよ? 料金はタダ。思い出払いということにしてあげましょう」

 

 そう戯けて言う私に、思い出の面影が残っているのかもわからない。心は死んで、肉体だけが連続性を持つ。ゾンビと何も変わらない。

 

「……いいよ」

 

 曖昧な返事に少し苛立ってしまう。この人は未だに聖人君子であろうとしているのだろうか。こちらを労ることで何かが積み重なって元の世界へ届くのだと、そう夢見ているのか。

 

「……そんなこと言わないでくださいよ──」

 

 身体を擦り寄せ、脚と脚を絡めて。汗に濡れた尾を巻き付け、精一杯の。

 

「"あなた"」

 

 このフレーズが私たちのトリガー。いつからかそういうことになっていて、おそらくいつまでもそれ以外のものにはならない。

 必然声をかける私から毎度誘うことになるし、それで現状彼が不満そうにしているようにも見えない。……そもそもトレーナーさんの感情なんて、もうずっと見ても見えてもいないけど。

 

 跳ねる感覚と共に再び心は閉ざされ、繋がっているという情報的事実だけを貪り食う。暗闇に包まれた部屋において目は要らず、水音と布擦れだけが私たちの湿気った焚き木になけなしの火をくべる。

 下腹部でうごめく肉塊は、熱く求めていたはずのものなのに冷え切っていた気がした。

 退廃。堕落。私たちの今を端的に表した言葉はこういったもので、さながら逆位置のタロットのように悪いことづくめだ。

 

 小一時間。語るほどの価値も無くなってしまった行為を終える。ぐっしょりと濡れた布団の上で、少し重なってぐったりとする。愛も欲も見えないほどに薄く、故に喘ぐように必死に求める。何もかもがなくなれば死んでしまうことだけは分かっているから。

 

 死んでしまうのは怖いから。まだ、怖いから。

 

「じゃあね、トレーナーさん。また今度」

「……また。よろしく、な」

 

 次回があるというのは素晴らしいことだ。何においても終わらないことは美しくて、だからトレーナーさんもこの関係に同意したはずだ。

 

 セイウンスカイというウマ娘が走れなくなった時、何故当初のトレーナーさんが私を見捨てなかったのかはよくわかっていない。まだ私に未練があったのか。そうだとして、その未練がどういう意味合いを孕んでいたのか。或いはやはり、トレーナーさんは聖人君子だったのか。私を見捨てることを考えるだけで心が痛んだのか。

 

 とはいえそんな清く正しいトレーナーさんも、既にセイちゃんと同じ底なし沼に浸かっているのだが。

 トレーナーさんの家を出て、手持ちの合鍵で戸締りをしてやる。ここだけ見れば、私たちはどこにでもいる浮ついたカップルだ。

 

 それなりに運動した。だからそれなりにご飯も美味しいだろう。最早行為は惰性と疲労によってのみ構築されている。それはつまり私が生を感じるのも惰性の中にあり、疲労した肉体もまた私に生を訴えているということ。生きることは三大欲に支配されているというのは至極その通りだと思う。

 

 寮を離れた私は一人の家を持っている。頼めばトレーナーさんは自分の家に住まわせてくれたかもしれないが、それは最後の理性が邪魔した。今の私にはこの狭い一坪が合っていると思うし。

 

 

 冷たい床に座り、低いテーブルに買ってきた惣菜を広げる。特に変わったところのない揚げ物、昼の売れ残りの弁当。夕暮れという半端な時間に昼食とも夕食ともつかない食事を取るのも、私の堕落の一つだ。

 味付けは濃くて、咥内で蠢いた後の感覚の削れた舌に合う。ただ漏れるだけの喘ぎで乾いた喉には生温い水道水を流し込む。

 

 ここまでがこのルーティンの流れで、この程度のことでも極楽を少し感じられる。ああ、人生は充実していると。錯覚を呼べる。

 

「あとはこのまま横になれば、三大欲求完全制覇だなぁ」

 

 機械的に人間の本質がどうたらと言ってしまうなら、今の私は何一つ不足なく満たされていることになる。生きるために必要なものはこれだけで、私の命はシンプル・イズ・ベスト。コンパクトにまとまっている。

 

 片付けもせず着替えもせず。床に寝そべり、眠気を待つ。当然こんな寝方をすれば明日には身体が痛いのだが、もはや私の身体は資本と呼べるものでもない。

 さて、明日は。どうすれば生き延びられるだろうか。意識だけが僅かに前を向いたまま、私は眠りに落ちていった。

 

 青空は色褪せ、白に光る雲も萎びている。

 

 *

 

 look at me. 私を見て。私があなたに恋焦がれているなら、私を見てほしいと願うはずなのだ。私に魅力を感じて欲しい。触れて欲しい。求めて欲しい。けれど、そんな感情は私の中に存在しない。私にあるのは、肉体の欲求に従うだけの脊髄反射だけ。

 それを満たす方法として、彼を選んでいるだけ。もしかすると昔は私にも心の動きがあったのかもしれないが、もうわからないくらい昔だろう。

 

 愛や恋は信頼よりも深く、脆い。矛盾と欺瞞を孕んだ人の弱さの象徴。それを分かりきった上で人々は自ずから溺れていくのだから、滑稽だと思う。だからと言ってそれを選ばなかった自分が利口だとは、口が裂けても言えないけれど。

 

 嘗ての策士は、そんな剥き出しの悪意を街行く男女に向けながら独り歩いていた。行く先も当てもなく、さながらいつまでか愛好していたサボりのように時間だけを潰す。昔と違うのは、これが本物の逃避であることだろう。もっとも止める人もいない。今の彼は私が呼んだ時にただ受け入れるだけの存在だ。それ以上を私が求めないから、そうなっている。

 

 連日は流石に迷惑だろうか。なんとなく暇な気分が抜けないので、発散してしまいたくなる。もうすっかり錆びついた関係なのに、相手のことを道具として割り切れない。少しばかり慮ってしまう。これはきっと死にかけの心が呼吸するかの如く私の中を這いまわっているから。今の私からは異物でしかなく、穢らわしいとさえ思う。

 

 でも。反対に。彼の心にまだ私を想う何かがあるのなら、それは少しだけ嬉しいかもしれない。人は誰しも傲慢で、自分にはすぐ絶望するくせに他人には冀望を求めるよう命じてしまう。憎い相手を殺すより先に己の命を絶つように、他者の心を見ることを怠り無条件で都合の良い解釈をする。これもその一環。

 

 つまり私は、まだ人なのかもしれない。

 

「あの〜、そこのお姉さん」

 

 お姉さん。周りを見ても他に反応しそうな人はおらず、振り返る。私を捕まえてお姉さんとは。そこには優男風の男が立っていた。髪は薄く染めていて、小綺麗な服装。

 

「はい、なんでしょう」

 

 だいたいわかる。経験はないけど。

 

「良ければそこらでお食事でもしませんか、暇だったらでいいけど」

 

 だんだん口調が砕けてきて、気さくな雰囲気を醸し出す。

 

「……お兄さんの奢りで、お願いしますね?」

 

 交渉成立。ギラついた欲望を隠さないのはむしろ心地良いくらい。どうにでもなれというより、どうなるか考えるのすら面倒だ。

 こうして、晴れて私はナンパされた。

 

「へぇ〜、スカイちゃん結構いいとこまで行ったんだ」

「まぁ、そうですねぇ。私にしてはまあまあいい線行けましたね」

 

 近くにあったチェーン店のファミレスに入り、ドリンクバーとデザートで口を満たす。生きるための水分と心を溶かすための甘味があれば、この人が求めるような話はできる。彼とはもうろくに喋らないから、まともに誰かと会話するのは久しぶりだ。

 この男の人はレースのことについて殆ど知らなくて、そう言った人に解説してやるのは少し楽しい。私が昔いたところは、結局私よりも物事に詳しいか、知らずとも頭が回る人ばかりだったから。

 

「……で、そのトゥインクル・シリーズの途中でドロップアウトしたうちの一人が、私セイウンスカイというわけです」

「ふーん、じゃあ今何してるの? バイト?」

「……何もしてないですねぇ」

 

 何も。本当に何もしていなかった。ただ息をするのに必死で、生きる欲求を保つのに必死で。

 

「お金とか困らないわけ?」

「……お金が尽きたら、その時がその時ですよ。走るのをやめた時点でロスタイム。そういうことになってるんです」

 

 そんなウマ娘ばかりではないだろうけど、そんなウマ娘は私だけではないだろう。走ることも勝つこともできなくなれば、本能は生を閉ざすことを求める。それに別の本能が抗い死にたくないと叫び続けて、生き永らえる。

 絶叫と恐怖が支配する非論理的な生物。そこには本能の段階ですら矛盾しかない。

 

「……ふーん。実は割りのいいお仕事があるんだけどさ。カメラの前でちょっと喋ったりすれば五万円。継続可」

 

 五万円。今の私には大金だ。でも金額より、那由他に広がる暇を殺せることが魅力的だった。

 

「……怪しいですねぇ」

「嫌だったら途中でやめてくれて構わないからさ、話だけでも、ね? 君みたいな子が生活できなくて死んじゃうなんて勿体無いよ」

 

 あからさまな罠だったのに、男の最後の言葉に少し心を動かされて。私は結局、誰でもいいから求められたかったのかもしれない。

 昼下がり、青空の翳り。グラスに残った氷が溶け切るのと同時に、私たちは席を立った。

 

 

 

「じゃあセイウンスカイちゃん、こっち座って。……名前とか個人情報は適当に隠してもらって構わないから」

 

 連れ出されて案内されたのは、寂れたホテルの一室。ホテルというものは昼間から入るようなところではないが、ここはおそらくこの男のテリトリー。

 清潔を装った空気がギラギラと張り詰めていて、明らかにそういうことをするという感じの部屋だ。会話だけで済むわけがない。でも、流されていく。

 カメラが回る。私に向けられる久しぶりのカメラ。穢れた目線は今の私に相応しい。

 

「じゃあ、質問していくね。まず─何歳?」

「元中等部、ということで」

「オッケー、じゃあ次」

 

 明確に答えてはいけない。その時点でこのインタビューはお遊びで、前戯だ。それに私はあの頃から一歩も時を進めてないのだから、あながち間違いではない。

 

「彼氏とかはいるのかな?」

 

 少し言葉に詰まる。トレーナーさんは、私にとってなんなのか。必死に肉を削いで繋ぎ止めているだけで、もう心の繋がりなどというものは断絶されているのではないか。迷う私を察してか、男は言葉を継ぎ足す。

 

「あー、複雑な関係があるんだねえ。いやいやわかるよその気持ち。俺も沢山の女の子の悩みを聞いてきたからね」

 

 私は遊び人です、みたいなことを聞かされても全く安心できないのだが。それでも不思議と心は安らぐのだから、この男の話術というのは小賢しい私のものとはレベルが違うのだろう。とうとう最後の取り柄すら無くなってしまった。

 

「うーん、それじゃあ次」

「上、脱いでくれない?」

 

 予想の通り。私は地獄へ堕ちていく。

 

「綺麗だね」

「……あはは、ありがとうございます」

 

 まだ触れない。触れさせない。仄かな反抗心が私を守っていた。誰に対する義理を立てられるものでもないのに。今私が守っているものは、誰でもなくなった彼に、誰でもなくなった私が繋がれていられるための道具。そうでしかない。

 守ると言っても上半身は使い古した下着だけになって、もう時間の問題なようにしか思えないけど。逃げる気すらない。この先にあるのが地獄なら、私は堕ちるべくして堕ちている。とっくの昔に青空からは堕ちたのだから。

 

「その男の人、ずいぶん君のこと大切にしてくれてるんだねえ」

「……トレーナーさんのことは、いいじゃないですか」

 

 その男の人。考えるより先に、触れてほしくないものへの発露を口にしてしまう。

 

「……へえ、トレーナー。つまりは在学中からそういう……」

 

 墓穴を掘った。策士にあるまじき失態。冷静さが、消えてゆく。死んだはずの心に、業火が巻き起こる。

 

「……違いますよ」

「へー、じゃあトレーナーさんはそういう気を君には持ってなかったんだ。寂しいねえ」

 

 その時になって初めてわかることというものが世の中にはいくらかある。

 

「……そうかもしれない」

「いやでも、学生を辞めたら手を出したんだからそうでもないのかな? あはは」

 

 そのうちの一つに。

 

「……そうだとしても」

「あなたなんかにトレーナーさんのことをとやかく言われる筋合いは、ない」

 

 己の逆鱗。触れてはならぬ怒りのスイッチが存在する。

「帰ります。別に下着見られたくらいで訴えませんから、さようなら」

 

 乱雑に荷物を手にして、被るように上を着直して。

 

「……ちょっと、ごめんって……!」

「どいてよ」

 

 手を出すまでもない。己のうちに眠っていた勝負師の気迫を解放する。殺意まで込めて睨みつける。ぺたん、と尻餅をついた男の横を、振り返りもせず立ち去った。

 行く先は決まっている。

 

 *

 

「昨日ぶりですね、トレーナーさん」

「……何かあったのか?」

「聞いても面白くないですよ」

 

 流石に察しがいい。とはいえ息を切らしながら部屋に転がり込んできた私を見て、異変を感じない方がおかしいか。

 

「トレーナーさん」

「……スカイ。それはダメだ」

 

 その言葉を無視して、身体を寄せる。先程乱雑に着たばかりの上を脱ぎ去り、肌同士が擦れ合う場所を探る。

 

「"トレーナーさん"。"トレーナーさん"が、抱いてください」

 

 架空の"あなた"。顔のない恋人の代理ではなくて。本当のあなたから、求められたい。そうすれば、私たちの最後のタガは外れて、濁流と濁流は分かれ目が見えなくなるまで混ざり合える。

 それがきっと理想だった。愛し合うのとなんら変わらない。恋の結末と一寸の差もない。だから最初からこうするべきだった。今更、今更私は気づいたのだ。だからあなたも気づいて欲しい。取り返しのつかなくなる前に、この関係を永遠に続けるために。

 それなのに。

 

「ダメだ……スカイ!」

 

 びくん。強引に押し倒そうとした私は、叱られて我に返る。

 

「……俺が悪い。そうだ、俺が悪い。お前のためと嘯いて、お前が甘えられる土台に成り下がっていた。最後まで導いてやるべきだったのに。

 でも最後の一線は守る。お前のトレーナーは、お前には手を出さない。これは俺のわがままかもしれないし、そもそも建前に過ぎないかもしれない」

 

 そうだ、そうだとも。"あなた"と私は、もう飽きるほどに乾いた愛を営んだはずだ。私が"トレーナーさん"と戻れるわけがない。私は"あなた"と奈落に進むしかない。今更。

 

「今更そんなことを言うんですか」

「今更でいい。いつからでもやり直せる。それをお前に示す必要がある。トレーナーは担当ウマ娘を導く存在だ」

「それこそ、今更じゃないですか。いつの話をしてるんですか」

「いつからでも、やり直せるんだ」

 

 互いに一歩も譲らない、言葉と心のぶつけ合い。死んだはずの心から、生きた言葉が飛び出してゆく。浅ましい肉欲だけで出来ていた関係は、加速度的に色付いて。失ったはずの全てが、甦るように空に浮かび出す。

 

「私にとってトレーナーさんは」

 

 その続きが言えない。酷い言葉を告げてやろうと思うのに、喉についた私の逆鱗が邪魔をする。頭の中にあるのは、ただ、ただ。

 私にとって。

 

「……だいじな、ひと、だから」

 

 無理だ。どうしても本音が出てしまうな。

 

「……スカイ」

 

 目頭が熱くなっていることに気づく。頬を触ると、熱い水滴が垂れていた。

 

「にゃはは、ダメだな私」

 

 どうしても、なんとしても。身体で繋ぎ止めてでも、私はトレーナーさんと離れ離れになりたくなかった。本当は、それを心の底から伝えれば。一緒にいる理由としては充分すぎるくらいだったのに。

 

「ねえ、"トレーナーさん"」

「……どうした」

「ぎゅって、してください」

「……いいよ」

 

 かたく、かたく。ほんとうの私がトレーナーさんにお願いできるのはこれくらいだ。でも、これだけあれば千里を駆けれる。そうだ。また走れるとも。

 

「ありがとう、ございます」

 

 ひとりぼっちの青色は、そばに揺蕩う雲を見つけた。

 

 *

 

「ふふっ、トレーナーさん。今日から毎日私がご飯作ってあげますよ」

「料理できるのか?」

 

 けろりとした会話。なんてことない会話。いつぶり、だったか。

 

「あー、ひどい! バレンタインチョコだって手作りだったのに! 忘れたんですか?」

「忘れるわけないだろ、あんなにかわいいスカイのこと」

「かわっ……もう! 私たちはそういう関係じゃないってこと、思い出してくださいよ!」

 

 今までの関係は全てご破算。つまり私たちは担当ウマ娘とトレーナーの関係に逆戻りだ。

 もっとも、私自身はあなたの言葉が大変満更でもない。振り向けばにやつき切っているのがバレてしまうだろう。

 かつて私は、あなたが垂らした蜘蛛の糸をこちらに引きずり込んだ。どうしても、それだけは離したくなかったから。蜘蛛糸で編まれたつながりに、愛がなくても構わないと思っていた。

 けれどそれは違った。確かにあなたは、蜘蛛糸に愛を編み込んでくれていたのだ。あなたの伸ばした手を、私は取ることができていたのだ。

 

 ああ、夢のようだ。色褪せた青空に、再び浮かぶ雲があるなんて。

 堕ちて、堕ちて、何度も堕ちて。それでも堕ちた場所から、まだ青空は見えていた。そして私には、目指すところへ導いてくれるトレーナーさんがいる。あなたの編んだ掌を、私は掴み返した。

 それをまた、見つけた。

 今更だけど、今からだから。だから。

 全ては、私とあなたと。私たち、次第なのだ。



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キングヘイローがセイウンスカイをカラオケに誘うよ

誘う


「ねえ、スカイさん。今暇かしら」

 

 ある昼下がり。いつものように暇を堪能していた私の元に、同期のキングヘイローがやってきた。

 しかしこの問いはシンプルにして難しい命題である。キングは私と禅問答がしたいのか、と疑うくらいである。

 私セイウンスカイにとって、暇はいくらあってもありすぎることはない至福の時。所謂なんにもない時間というのは、歳を取れば取るほど得難くなってくるからだ。

 つまり暇というのは並大抵の用事で潰してしまうべきではなく、キングには果たしてその覚悟がありや、なしや──と。

 

「暇そうね。カラオケ行くわよ」

 

 え。

 私が述べた詭弁の数々は、お嬢様の心には全く響かなかったらしい。

 

「誰か他に来るの?」

「……私たち二人だけよ。いいでしょ、偶には」

「……それなら乗ってあげよう。可哀想だし」

 

 そんなこんなで。

 

「ららんらーんらん♪」

「スカイさん、結局ノリノリじゃない……」

 

 私たちは今二人でカラオケにいる。交互に歌うわけでもなく、今のところずっと私が歌っている。……というのも。

 

「キングもそろそろ歌ったら〜?」

「……いえ、いいえ! 私は大トリを飾るんだから! そう、そのために体力を温存、喉を整えておかないと……えほん、えほん!」

 

 可愛らしい咳払い。誤魔化しているのがバレバレだ。……というわけで、何故かキングは自分が歌うのを避けている。自分から誘ったくせに。それにしたって尻尾や耳のそわそわが尋常じゃないし、一体何を考えているのだろう。

 

「ふぅ、じゃあ次かなあ……よし」

「スカイさん、疲れたら休憩するのよ。ずっと歌いっぱなしだし」

「あっひどーいキング、一人で歌ってるのは誰のせいだと」

「……むっ、それは……その」

 

 右手で曲選択のタッチパネルを操作して、左手は冷えたソフトドリンクを仰いで喉を休める。

 

「んっ……んっ……ふぅ」

 

 気づけば首筋には汗が。結構歌ったな。

 なんだかんだで私も歌うのは好きだ。その理由の大きな一つにウイニングライブがあって、ウイニングライブが好きだから歌うのが好きになった、というウマ娘は多いと思う。

 そういう意味ではキングだってウイニングライブは経験しているはずなのに、歌うのを嫌がっているような素振りはなんなのだろう?

 ……試してみるか。

 

「じゃあキング、はい」

 

 マイクを渡す。

 

「えっ、ちょっとスカイさん!? 勝手に私の歌う歌を入れたわけ!?」

「そんなことないよ。……半分はね♪」

 

 そう言って、私はもう一つマイクを手に取る。

 

「……まさか」

「そう、まさかです」

 

 イントロダクション。キングだって知ってそうな歌を選んだ。というより同世代故、私が知っている歌を選べば自ずとそうなるのだが。

 

「デュエット。お付き合いいただけますか、お嬢様?」

「……もう。いいでしょう」

 

 彼女はマイクを握りしめて。

 

「私と一緒に歌う権利をあげるわ!」

 

 気分は絶好調だ。

 

「さんねんめーのうわきくらーいおーめにみーろよー♪」

「開き直るその態度が気に入らないのよ!!」

 

 本気で怒られてる気がする。こんなにマッチするとは思わなかった。

 

「スカイさん、この選曲は……?」

「有名でしょ、それだけそれだけ」

 

 疑問を抱くには堂に入りすぎてると思うけれど。

 ともかく息はぴったり。見事に二人で歌い上げた。やっぱりキングは歌が上手い。感情が篭りすぎてるくらい籠っていたし。

 

「……はぁ、ありがとう」

「おやおや、キングが感謝なんて珍しい気がしますね」

「……実は、不安だったの」

 

 おっと。漸く彼女の悩みを聞けそうだ。

 

「……実は今度、二人でカラオケに行くことになって。私、彼の前で一人で歌うなんて緊張してそれだけで……あっ」

「『彼』。聞き捨てならないですなあ」

 

 全部聞き捨てならないワードだったけど。

 

「トレーナーよ。……きっと、あちらにはそんなつもりないんでしょうけどね。……私はトレーナーのことが好き。だから、失敗したくない。それで」

「それで、セイちゃんを指名したと。トレーナーさんの代わりの練習相手に」

 

 少し嫌味を。

 

「……ごめんなさい」

「いーよ」

 

 好意の裏返し。それはわかっているから。

 

「じゃあ、そうとわかれば」

「……?」

「本腰入れて練習しなきゃね。あまっあまのラブソング。二人の距離を近づける方法。カラオケボックスという密室で、お嬢様が如何にハメを外すか」

 

 私にできるのはそれくらい。

 

「……ありがとう」

「いいのいいの、他ならぬキングの頼みじゃない」

 

 その言葉に、嘘偽りはない。

 

 歌と熱に浮かされた閉鎖空間の中で二人きり。空気を冷ますものはなく、喉を潤すために偶のドリンクバーに出向くか、延長の電話が鳴り響くか。

 その二つがなければ、熱を出して倒れてしまいそうなほど。

 私は浮かれていたし、キングも浮かれていたと思う。

 もう緊張もギクシャクもなく、二人でずっと交互に、あるいは同時に歌う。

 デートの予行練習なのだから、こうでなくては。

 

「キング、これでデートでも歌えそう?」

「……なんで抱きつかれながら歌わなきゃいけないのよ!」

「にゃはは〜、でもトレーナーさんに抱きつかれたいでしょ? それも想定、想定」

「……それは、そうだけど」

 

 こういうところで真面目に答えてしまうのだから、この子はとてもいい子だと思う。騙されてないといい……なんてのはキングのトレーナーさんなら杞憂だろう。このお人好しの相手に相応しいお人好しだったと思う。

 相応しい。そう、だから。彼女には幸せになってほしい。でも、けれど。

 ぷるるるるる。思考を遮る何度目かのタイムコール。……そろそろ二人とも疲れたし、幕を引くべきだろう。

 これ以上は、蛮勇だ。

 

「帰ろっか。もう大丈夫でしょ、キング」

「……ええ、きっと。……歌の練習、アピールの練習、色っぽく見える汗の拭き方の練習、そして告白の練習……」

 

 キングは今日の『練習』の数々を思い出している。やれやれ、ちょろい。

 

「……うう、まだ……いえ、流石に……」

 

 キングはまだ悩んでいる。けど。

 

「いいんだよ、キング。きっと大丈夫」

 

 流石に、これ以上はやめておくべきなのだ。

 

「……そうだ」

「……スカイさん?」

「……最後におまじないをしてあげるよ」

 

 軽い、軽いおまじない。

 

「目を瞑ってみて」

「……わかったわ」

 

 悪戯好きの少女の前で、素直に目を瞑る少女。本当にお人好し。

 安らかに目を閉じたその顔を見つめる。手入れされた髪、艶やかなまつ毛。弾みそうな頬、そして柔らかい唇。こんな顔をされたら、誰だってイチコロだろう。

 そして私は。

 

「……きゃっ!」

 

 軽く、軽くおまじないをした。

 

「おまじない、だよ。……今日の授業料ともいうかなー?」

 

 彼女の額に、一瞬。私が触れていい限界まで、触れた。

 

「……初めてはトレーナーさんにとっといてあげよう」

「……もう! ……なんて、ありがとう」

 

 述べられるのは感謝。彼女が私に抱ける最大限の親愛。

 

「……じゃあ、帰ろっか」

「……ええ」

 

 私はあなたの幸せを祈ろう。

 愛する人の、幸せを。



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セイウンスカイと浴衣デート

夏の終わりの話


 こつん、こつん。午後6時、まだ茜に染まらない空を眺めながら下駄を鳴らす。

 身体を包む暑苦しさは消え、汗ばむ鬱陶しさも消えた九月の始まり。私たちをまだ夏に留まらせてくれるのは、永く続く青空だけ。

 早く、あなたも来ないかな。いつもはあなたを待たせているのに、今日は早く来すぎてしまった。でも仕方ないと思う。今日は私とあなたのお出かけの日。かつてはなんてことなかった、今は心を昂らせる約束の日。

 そして、私とあなたの終わりの日。最後の思い出の日。

 

「……おお、すまんスカイ。……その、目を疑ったというか……いや、似合ってるよ」

 

 少し息を切らせてやってきたトレーナーさんは私をちらちらと。あなたはいつもよりラフなTシャツと薄手のズボンなのに、お相手がこれじゃ驚くか。

 でも、これでいい。今日私が着るのは、この"浴衣"がいい。私にできる精一杯の晴れ着。口元に袖を持っていって、くすりと笑ってみせる。

 

「あらあらトレーナーさん、緊張してますか?」

 

 本当に緊張しているのは、私の方だけど。久方ぶりに高鳴る心臓は、湧き上がる血液を用済みの全身へ送り込む。

 

「じゃあ行きましょうか、季節外れの浴衣デートに」

 

 嘘がある。デートと思っているのは私だけ。

 嘘がある。まだ季節外れじゃない。夏はまだ。

 

 少し前なら夏祭りをやっていたはずの大きな神社。今はただ神を想う静かな場所に、私とトレーナーさんは一歩ずつ入ってゆく。

 まだ立ち並ぶ木々は青々としているけれど、通りを吹き抜ける風はからからとしていて。涼しくて快適な気温が、却って物悲しさを感じさせる。ああ、夏は終わりを告げようとしているのだ。そう思わずにはいられない。

 

「……静かな神社って新鮮だな」

「そうですねえ、我々一般人はお祭りにしか興味がありませんから」

 

 イベントごとがなければ、神社に立ち寄る人間は数少ない。それでもこの独特の空気は、ここがただの人気のない場所ではないことを私たちに感じさせる。

 神様が見守っているのだと、そんな気にすらさせる。今の私は三女神様には見捨てられたと思っていたけれど、ね。

 

「……ゆっくり歩いてくださいな、トレーナーさん。私、下駄ですよ?」

「……ああ、悪い」

 

 こつん、こつん。おそらくトレーナーさんが速く歩いているのではなく、私がゆっくり歩きすぎているのだけど。私の歩みが遅いのは、下駄を履いて浴衣を着て。おめかししているからなのだろうか。

 どうにもならない時間の流れに抗いたくて、あるいは歩みを進める行為そのものを拒絶したくて。じっと二人で立ち止まっていられたら、どんなにか。

 それでも確かに、歩んでいく。全ては終わらなければならないから。

 

「……おっ、大きな門ですねぇ。この先に境内があるのかな」

「確か、そうだな。これが一番大きい門のはずだ」

「流石トレーナーさん。デートの下調べは万全ですね」

「……さすが、か。俺は君のトレーナーだからな」

 

 揶揄うように、喘ぐように。逢引きという言葉をあなたに刻み込めないだろうか。今からでもそうはならないだろうか。もう全てが遅いとしても、最後の一度をそれにできないだろうか。

 そんな私の気持ちにはきっと気づかれない。私はおそらく、そういうのを隠すのに慣れすぎたから。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 一つ、思い立つ。これは私にとっての儀式で、あなたにとっても少なからずの思い出になるだろう。

 

「……ここで。写真、撮りませんか?」

 

 だから。その記録を留めたい。

 お願いだから。一生のお願いだから。

 スマートフォンを取り出し、トレーナーさんに手渡す。貴重品を手渡すという行為に、自分なりの親愛を込めてみる。

 

「ああ、じゃあ撮るよ」

 

 二つ返事。トレーナーさんは私のスマホのロック画面からカメラを起動し、こちらに向けるけど。

 

「ダメですよ、トレーナーさん。……私が頼んだのは、

 "撮ってください"じゃなくて、"撮りませんか"ですから。

 ……一緒に写りましょう?」

 

 とん、とん、たん。下駄を弾ませ、ゆるりとあなたの肩に近づいて。あなたの手に、私の手を自然と添えて。

 

「……ほら、下から下から。門と、私たち。全部が写り込むように」

「……スカイ、近くないか?」

「必要経費ですよ、トレーナーさん」

 

 ぱしゃり。あなたと私が写り込んで、小さな画面に閉じ込められる。本当にそうだったらいいけど、ここにあるのはあくまでただの画像。でも、得難いものだ。

 

「……ありがとうございます」

「いやいや、こちらこそ」

「写真送っておきますから、いつでもセイちゃんを思い出してくださいな」

「……なんだ、そんな今生の別れみたいに」

 

 あなたは冗談めかしてそんなことを言う。……うん、やっぱりトレーナーさんは冗談を言うのが下手だ。私自身と比べるのが間違いなのかもしれないけど。

 本当にあり得ることは、冗談にしてはいけないのだ。

 青空は、徐々に秋茜に染まってゆく。

 

 少しずつ、冷えてくる。季節外れの浴衣では少し肌寒いかもしれない。空気が冷え切る前に帰るべきなのだろうが、私の心はそれを拒む。最後が永遠に続けば、終わりは来ないのだと幻視する。

 それでも足を進める限り、必ずゴールに辿り着く。ウマ娘として嫌というほど知ったことだ。そう、必ずゴールに辿り着く。

 たとえ脚が鉛のように重くなり、かつて走り抜けられた距離が那由他のように感じられるようになっても。でもそれは、地獄だった。

 春の天皇賞、復帰戦。一着なんて取れるとは思わなかった。それでも逃げを撃ちペースを作って、善戦とは言わずとも健闘はしたかった。できる、そう自惚れていなかったといえば嘘になる。

 結果は残酷だった。私はすぐに先頭を譲り、二周目の途中で早々に失速して。逃げを名乗ることすら烏滸がましかった。一着と12秒の差をつけられての最下位。誰とも競うことのできなかったゴールは、汚泥の味がした。

 そうして出走予定を全て回避し、脚を壊して夏合宿にも行けず。セイウンスカイというウマ娘は今ここにいる。

 ……と、そこで。私たちの"ゴール"が見えてきた。

 

「……あ、賽銭箱ですね」

「本当だ。願い事をしないとな」

「……今、ですか? 正月でもないのに」

「今だから、だよ。……行くぞ、スカイ」

 

 今の私に、願えることが何かあるだろうか。思いつかない。そこまで思考がたどりつかない。

 ちゃりん。ぱん、ぱん。トレーナーさんの隣で、彼の真似をして願う。どうしても思いつかなかったけど、ひとつだけ私にも願う資格のあることがあった。

 

「トレーナーさんが、幸せになれますように」

 

 そう、心からの願いを込めて。口には出せない想いを、願いという形に変えた。

 そして。

 

「トレーナーさん、願い事はできましたか?」

「ああ。……スカイは?」

「もちろん。秘密です」

「じゃあ俺も、秘密だ」

「……えへへ」

 

 そして、そして。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 ひらり。私は揺れながら、あなたに言葉を投げかける。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 くるり。浴衣を羽根のように。空を飛べない雲が舞う。

 

「いままで、ありがとうございました」

 

 にこり。心の底まで騙して、笑顔を作り出して。

 

「────私、引退します」

 

 せめて晴れやかに、終わりを告げる。

 

「……いつから考えてたんだ」

「優しいですね、否定しないんだ」

「……いいから。頼む。教えてくれ」

「……決定的に壊れちゃったのは、合宿に行けないって決まった時、かな」

 

 私にとって、再起する可能性があるなら。それはいつかの宝塚記念の後のように。あなたが海に入り込んでまで私を助けてくれた、あの夏のように。夏だからこその心の触れ合い。それだけが頼りな気がしていた。

 だから、今年の夏が最後のチャンスだと思っていた。だけど。

 

「……やめといた方がいいってなったじゃないですか。脚を痛めちゃって、しかもそれはトレーニングできないくらいだってなったら仕方ないんですけど」

「……スカイ」

「でもさ、それって……例えばあの有マの時ならなんとかなってた話じゃないかな、なんて。

 ……つまり、私はもう寿命なんですよね」

 

 そう言って、私は浴衣をひらひらさせる。この浴衣は、今年買ったもの。

 

「まだ私が走れると思い込んでた頃。天皇賞の前。今年の夏合宿は、今年こそはと思って張り切って浴衣買っちゃったんですよね」

「……それで、今日着たかった。……今年こそは、何があったんだ?」

 

 鋭い。鈍いけど。今日着てやって来た時点で気付いて欲しいものだ。

 

「……まあそれは置いといて。……でも、この結果。今年の私には、夏すら来なかった。この浴衣だって滑稽なだけ。自分の力量すら測れなくなって、空回りした私の象徴」

「……そんなことないさ。とても素敵だと思う」

「……やっぱりトレーナーさんは、優しいですね」

 

 そう、この人は優しい。だから、私をまだ見捨てていなかった。だから、私は見捨ててもらわなければならない。だから。

 

「……今日は、そのために来たんです。お別れのために、来たんです。

 ……お願いです、トレーナーさん。私にレースを辞めさせてください。引退。契約解除。だって、だって」

 

 そこまで耐えて来たはずの涙腺が、突然決壊する。……だめだな。これくらいの芝居すらできなくなってたのか、私。

 

「……だってトレーナーさんは、トレーナーさんは……。

 ひっく……私みたいなウマ娘だって見捨てなかった、優秀なトレーナーさんで……すてきな、ひとで……」

 

 わたしの、はつこいで。

 

「だから……! えぐっ……わたしを、すてて。しあわ、せに……なってほしいの……」

 

 そこまで言って、私は地面にへたり込んでしまう。浴衣の脚に土がついて、袖には涙と鼻水がついて。ああ、せっかくの晴れ着なのに。感情はそんなことだけを言葉にできて、残りは言葉にならない呻き声を上げさせるばかり。

 

「……スカイ、ごめん」

 

 そこで、あなたはゆっくりと。考えを巡らせた後、意を決したように声を発する。ごめん。それは拒絶なのだろうか。私はだめなことをしてしまったのだろうか。

 私は。でも、言葉は出ず。ただ子供のように泣きじゃくり、あなたを待つだけ。

 

「それは無理だよ。いくら君の頼みでも。

 ……君を置いて幸せになるなんて、冗談じゃない!」

 

 ……え?

 

「確かに君の言う通りだろう。君との契約は解除して、新しいウマ娘の担当に集中する。それがキャリアを積むってことだろうな。

 でも。……これは理屈じゃないのかもしれない。甘い考えなのかもしれないけど。ウマ娘を不幸にして、何がトレーナーだ。約束する。君を幸せにしてみせる」

「……なんですか、それ……かなり恥ずかしいこと言ってますよ、トレーナーさん……」

 

 浮ついた告白じみてるけど、この人は本気で言ってるんだろうな。ある意味誠実。でもズルいトレーナーさんだ。

 

「恥ずかしくなんかないよ。さっきの願い事も同じことを願ったばかりだしな。神様に恥ずかしいことなんて言えないさ」

「……ばか」

 

 更なる涙が溢れてくる。でも、わかる。これはきっと、嬉し涙だ。

 空はすっかり茜に染まり。夏の終わりを告げるオレンジ色が私たちを照らす。

 

 *

 

 九月ももう半分が過ぎて。夏は残滓すら見えなくなって来た頃。

 結局私は引退を決め、トレーナーさんは新しいウマ娘の担当を始めた。なんやかんやと言ったって、それが正しいルートというやつだろう。

 少しだけ、正しくないルートに変わったことがあるとすれば。

 

「……あ、トレーナー。愛しのスカイさんが来ましたよ〜」

「……バ鹿。……おう、スカイ。今日もわざわざ遠くからすまないな」

 

 私がトレーニング中の"元"トレーナーさんと今の担当ウマ娘を見つけると、二人もめざとくこちらを見つけた。……聞こえてますよ。

 今の私はトレセン学園の寮を離れ、新しい住まいで一人暮らしを開始中。つまり本来ならもうここの関係者ではないのだけど。

 

「……いえいえ、ここに来られるのを感謝してるくらいですから。トレーナーさんが直談判してくれたおかげですよ」

 

 そう。トレーナーさんは私のレースでの功績や走りにおける知識を理由にして、なんと引退した私を自分専属のトレーニングサポーターにしてしまったのだ。……結構すごいことを理事長に熱弁してたのは、聞いてるこちらが恥ずかしかった。

 新しい担当ウマ娘の子もいい子で、すぐに私たちと打ち解けた。結構積極的に私とトレーナーさんの仲を聞いてきたり、秘密の情報を教えてくれたり。その方面については私より長けているかも。

 

「……じゃあ今日も頑張りましょうか、"あなた"♪」

「……トレーナーさん、でいいよ。確かにもうスカイのトレーナーじゃないが……流石に変だ。むず痒い」

「トレーナーにむず痒いと言う概念があったとは……」

「お前は茶々を入れない」

「ははは」

 

 ああ、なんだか幸せ。ふとそう思った。そう、幸せ。

 あの夏の終わりに誓ったお互いの幸せを、今の私たちは実現できている気がする。

 

「ねえ、あなた。……私今、とっても幸せですよ」

「……奇遇だな、俺もだ。何故ってやっぱり、スカイが幸せだからかな」

 

 かつての私のように元気良く走る担当ウマ娘を眺めながら、ふと互いに口を開く。

 

「そうですか、そうですか。私はこれから先、まだまだ幸せになれちゃいますけど。協力してくれます?」

「どんとこいだ。なんでもやるさ」

 

 そうか。なんでもやるのか。言質は取れてしまったな。なら仕方ない。

 

「じゃあ──」

 

 ちゅっ。

 

「……スカイ……!?」

「……にゃはは♪」

 

 夏の終わり、茜色の空。私の頬も恋色に染まる。



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外宇宙的脅威に対するSAN値チェックに失敗したサイレンススズカが狂気と恐怖の狭間でトレーナーの監禁を実行した話

です


 目を覚ますと、明かり一つのみの天井だった。身体を起こし、そこで気づく。

 この部屋は自分の部屋ではないこと。

 この部屋には一つも窓がないこと。

 この部屋の主は、目の前に立っている俺の担当ウマ娘、サイレンススズカであること。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

 何もわからず戸惑っている俺とは反対に、彼女の顔は安心しているように見えた。

 幾月ぶりの笑顔だった、とさえ思う。

 

「見ての通りの地下室です。賞金には手をつけていませんでしたから。地下室自体の場所は……何処、でしょうね?」

 

 そう、目の前の少女は含むような笑いを見せて。本当に、久しぶりに笑っている。

 害意は感じない。拘束もされていない。しかし、スズカが俺のことをこの部屋に閉じ込めたのは間違いない。

 

「気になるものがあったら、自由に見てもらって構いませんよ」

 

 口を動かしながらも彼女は足が落ち着かないようで、ぐるぐると左旋回を始める。サイレンススズカのいつもの癖だ。

 けれど、俺はそれを見て感動してしまう。涙さえ流してしまいそうになるのを必死に堪える。

 だって、数日前まで彼女はずっと。

 

 ※

 

 秋の天皇賞を終えた後のこと。彼女は脚に不調を感じながらもゴール板を駆け抜けた。それはつまり彼女に未来の輝かしいレース生命が約束されたということであり、俺とスズカは確かに次のステージへ行けるということでもあった。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

「おはよう、スズカ。次のレースなんだが」

「次。……ふふふ」

 

 その時、確かにサイレンススズカはサイレンススズカだった。

 

「嬉しいか?」

「私たちだけの景色。天皇賞に代わる新しい目標。とっても、嬉しいですよ」

 

 その時までは、彼女は誰よりも走ることを愛する少女だった。

 

「そうか……なら次を早く発表しようか。次はな」

「はい」

 

 厳密に、彼女に異変が起こったのは。

 

「アメリカ遠征。俺と君で海外に行こう、スズカ」

 

 明確な将来を設定した、その時だった。

 ぴくん。彼女の耳が何かを感知した。はっ、と。何かに触れて息を呑む音が聞こえた。あるべき返答はなく、彼女の瞳は何かを捉えたように。

 理解できないものを、知覚したかのように。

 

「……やだ」

「スズカ?」

 

 一歩、前へと脚を進める。明らかな異変。心ここに在らずといった表情。彼女の脚はざわめくように震え、後退りを試みるも。

 

「あっ……」

「スズカ!」

 

 そのまま彼女はバランスを崩す。体勢を整えるべき腕は、何かを求めるように空を仰ぐ。

 

「……大丈夫か、スズカ!」

「トレーナー、さん……」

 

 無我夢中で彼女を抱き止めると、漸くその瞳が安定して来る。けれど彼女の意識は朦朧としていて、瞼はまもなく閉じられた。……大変だ。

 そうして医務室までサイレンススズカを抱え込む。不穏な空気は無かったはずだった。彼女は刹那の間に何かを切り替えてしまった。

 そのことから、目を逸らしながら。

 

 

 地下室へと思考を戻す。

 今この異常な空間に於いて、サイレンススズカはその異常から復帰しているように見えた。

 

「スズカ……治ったのか?」

「……治る?」

「あの日君が倒れた時、正確にはその少し前から。君は何か様子がおかしかった。だから、入院することになって。スペちゃんや、その同期の子。他にもたくさん、見舞いに来てくれた。その甲斐があったのかな」

 

 そう信じたい。身体の不調ではないとのことだったが、サイレンススズカはその日からまともに歩くことすらできなかった。

 正面の何かから目を背け、後ろの脅威を錯覚し。ごめんなさい、といつも以上にか細くスズカ。

 リハビリの前に、原因を解明しなければいけないということになった。

 もちろん、サイレンススズカの元には多くの見舞いが来た。中でも熱心なのは同室のウマ娘、スペシャルウィーク。毎日時間を作っては訪れ、スズカと共に走る夢を語ってくれた。

 

「みんな、優しかった。いつか、また。そんな事を言ってくれた」

「そうだ。俺だって同じ気持ちだ。君がいつかまた──」

「いつか、また。将来。この先。……無いんですよ」

 

 彼女の眼は理性的だったと思う。自分たちとは違う何かを知っているから、訳の分からない言動をしている。そのことに気づく。

 

「スペちゃんには、これから先出るレースがある。たくさん、ある。でも」

「君だって、あるさ。治ったじゃないか。二人で一緒に走れるよ」

「治る。トレーナーさんはまだ、これが病気だと思いますか? トレーナーさんは、毎日私のそばにいた。みんながレース本番で来られない日も、絶対に。……だから、分かりますよね」

 

 きっとその言葉は、わかっているだろう、という確認ではなく。

 わかってほしい、という懇願で。

 

「俺は、君と同じ景色を見ないといけないものな。君の視界が恐怖に侵されたなら、それを共有する。それがサイレンススズカのトレーナーだ」

 

 思考と記憶をまとめ、彼女を覆うものを類推する。狂気をもたらす何かに触れた思索など、理解できるわけがないとしても。

 

「スズカ。君がおかしくなったのは、アメリカのことを告げた時だった。つまり、俺の発言が君の何かを変えてしまったのかもしれない」

 

 けれどそれだけでは、理屈は通らない。

 

「……アメリカ行きが怖いとして。君がそんな子じゃないのは知っているけど、そうだとして。……それで立ち眩むわけがない」

 

 目の前の少女が、どこまで知っている少女なのかはわからない。けれど彼女はサイレンススズカ。不安を乗り越え、天皇賞を駆け抜けたウマ娘だ。

 

「……私が怖がるとすれば、なんだと思いますか?」

 

 彼女が恐れるもの。狂気が価値観を変転させてしまったとするなら簡単だが、狂気に順応できないからこそ彼女は苦しんでいる。そう思った。

 

「……正体はわからない。けれど、君をそこまで追い詰めるものがあるとすれば。……走ることが、出来ない。許されない。永遠に、走れない。……そういうものだと思う」

 

 理解よ、彼女に寄り添え。

 

「"何か"。誰よりも開けた空間が好きな君を、この地下室に閉じ込めさせた何かがある。……あの奥の扉、何重にもかけられた南京錠。俺を閉じ込めるだけなら、あんなには要らない。……あれは、君自身を閉じ込めるためのものだ。まだ走りたいと願う、君自身を」

 

 理不尽で残酷な結論だとしても、他ならぬスズカにわかってほしいと願われたなら。俺にはそれを理解する必要がある。俺はサイレンススズカのトレーナーだから。

 

「まるで、自分の足元がいきなり消えたような。まるで、自分の視界が根こそぎ黒で塗り潰されたような」

 

 彼女は答え合わせをするかのように、ぽつぽつと恐怖を言語化する。

 

「……スズカ」

「なんとなく、わかってしまったんです。あの時、将来について明確なビジョンが見えたはずの時」

「俺のせいだな」

「違います。気づいたのはその時でも、恐らく取り返しがつかなくなったのはもっと前。……天皇賞の時、です」

 

 秋の天皇賞。栄光の日曜日。彼女の念願が叶った日。何を、間違えたというのか。

 

「間違いは、わかりません。でもあの時から、ずっと不安なんです。外にいて、生きているのが。とてつもなくいけないような気がして。だからここにいると、安心します」

「君を閉じ込めるために、この部屋を作った。……外を自分が生きるのは、許されないように思えたから」

 

 こくり。彼女は頷いた。

 

「生きるのが、怖い。でも、死ぬのもすごく怖かった。どちらにせよ、自由がない狭い場所に閉じ込められたみたいで。永遠に開かないゲートのような」

 

 永遠に開かないゲート。今の彼女は、そこに閉じ込められている。これから先の走るべきレースはなく、ただ狭く苦しいゲートの中。

 

「この部屋にいるのも、やっぱり辛いんじゃないのか? 君はあの日から、何かに追い詰められ、追い立てられ。板挟みに合っている。……こんなところに閉じこもるなんて、その実演じゃないか」

「……そうですね。あの日からの私は、独りがとても怖い。生きているのは独りでいるようなもので、死ぬのはまた独りになるようなもので」

「……なら」

 

 俺がいる。死ぬまで一緒だと。それを口にする前に、その結論はとうに彼女がたどり着いた物だと気づいてしまう。

 

「そうです、トレーナーさん。トレーナーさんとなら、私はここで生きていける。狭い場所でも、貴方は一緒にいてくれる。トレーナーさんは、私と同じ景色を見てくれる」

 

 にこやかに、彼女は精一杯笑って。頬に熱い水滴を滴らせながら、恐怖と狂気を振り払うために。己の本心から、言葉を発するために。

 

「トレーナーさん、私と死んでください」

 

 これが、彼女の今の気持ちなのだろう。

 

「この世界で生きてはいけない、独りぼっちで死ぬのは怖い。その感覚が、君をずっと苦しめている。……やっぱり、ここにいても辛いんじゃないか。死にたいくらい、辛いんじゃないか」

 

 いつのまにか、彼女の左旋回は止まっていた。閉じ込めても尚、運命という脅威が彼女に迫っている。

 

「……スズカ、よく頑張ったな」

 

 近くに寄り添う。そして、泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。君は独りじゃない。誰も理解できないとしても、俺は理解するために側にいる。

 

「トレーナー、さん」

 

 震える声。少しでいい。スズカの抱える何かを知りたい。

 

「トレーナーさんとなら、怖くない。……そう言いたいのに、やっぱり怖い。そう言うために、閉じ込めたのに」

「俺が力不足だったとしたら、これほど後悔することはないよ」

「でも、やっと。未来が見えたんです。今、やっと。間違いを直す方法が」

「……聞かせてくれ」

 

 それはきっと、他所から見れば残酷なのだろうけど。彼女の出した答えだ。たった一つの。

 

「この部屋で、二人で手を繋いで。同じように、天井を見上げて。同じように、目をつぶって。夢を見るままに、待ち、死に至る」

 

 天寿を二人で迎えるならば、二人で共に天へ向かえるだろうか。狂気と恐怖に呑まれた彼女を、独りぼっちにしないで済むのなら。

 

「……あとどれくらいだ?」

「……わかっちゃいますね。もちろんトレーナーさんが嫌なら、扉を開けて空気を交換するつもりだったんです」

 

 そう、この地下室はもう空気が薄い。恐らく密閉されていて、先はそれほど長くない。

 

「みんなには、怒られちゃうな」

「書いておくよ。俺のせいだって。君は確かに、何かに気づいたのかもしれない。でもそれが悪いことだなんて言わせない。承諾したのは俺だ」

 

 外的恐怖。内的狂気。その狭間で苦しんだ彼女を、せめて誰かが少しでも理解してくれることを願う。

 

「トレーナーさん」

「……少し息苦しくなってきたな。手、繋いどくか」

「……はい」

 

 不思議と怖くない。彼女もそうであるといい。彼女の細い指を握り、そんなことを願う。

 

「トレーナーさん」

「……どうした?」

「やっぱりまだ怖いので、もう少し寄ってもいいですか?」

 

 返答を待つまでもなく、スズカはこちらに身体を寄せる。

 

「トレーナーさん」

「怖くないか?」

「あと、少しだけ怖いです」

 

 少し、沈黙を置いて。

 

「トレーナーさん」

 

 いつのまにか、耳元に彼女の唇が。

 

「好き、です」

 

 サイレンススズカの声色は、密やかに明転した。



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頂点

だーれだ


 一番人気だったアイツは言った。

 

「もう、私は走れないかもしれない」

 

 そうか、そうか。お前は悲劇のヒロインか。いつもいつも孤独を嘯き、不調を理由にリベンジもしないのか。過去ばかりを振り返り、道を閉ざしてしまうのか。

 

 二番人気だったアイツは言った。

 

「はーっはっは! 見事栄冠を分け合うことになったね!」

 

 そうか、そうか。お前は悔しさを見せてはくれないのか。アタシはあの時悔しかったよ。いつもいつも孤高を気取り、次は当然勝つかのように。未来ばかりを見据えて、道無き道を往ってしまう。

 

 まさかの敗北。まさかの勝利。三番人気に対してかける言葉としては随分とご機嫌だ。まあそんなことはいい。気に食わないのはお前達だとも。お前達がしっかりと勝敗に固執するならば、アタシはそれで充足するのに。お前達は何故敗北を受け入れるのか。お前達は何故別の場所を見ているのか。

 アタシが勝ったのは、"今"だ。

 がりっ。何度も何度も爪を噛みながら、アタシは未だに勝利を噛み締められないでいる。

 ベッドに横たわり、だらしなく過去を思い返す。噛みちぎられた爪だけが、目の前に転がる。

 皐月賞。皐月賞は確かにアイツが勝った。忘れるわけがない。それを忘れないからこそ今があったのだ。あの末脚は次元が違うと思った。何度も何度も夢に見て、涙を流した。どうしてアタシにあれがないのか。センターに立てなかったのは、実力よりも戦略よりも。そう思えば、どうしようもない差が広がっているのがわかった。

 だから最も"速い"ウマ娘は、アイツなのだ。

 ダービー。ダービーで勝ったのはアイツだ。間違いなく僅差だったのに、ギリギリでアタシは負けたはずなのに。何度も何度も思い描いても、勝つイメージが途切れていく。大外から規格外の輝きが抜き去っていく。責められるのは自分だけだった。トレーナーさんだって悪くない。アイツらの強さが悪いはずもない。負けた理由は一つなのだ。勝負とはシンプルなものだから。

 だから最も"運のある"ウマ娘は、アイツなのだ。

 けれど、だから。だから。

 だから最も"強い"ウマ娘は、アタシだ。そう声に出してみる。少しだけ勇気が湧く。強がっているだけで、声が震えているのが自分でもわかってしまう。それでも、奮い立つ。誰もアタシの勝利を見ないのなら、アタシがアタシを見てやるのだ。誰も、分かち合う者がいないのなら。

 そんな深夜。誰もが寝静まって一人夜を見やる時、電話が鳴った。

 

「……ああ、トレーナーさんか。こんな時間にどうしたんだい」

 

 なんでもないと彼は言うけれど、なんでもない奴がこんな時間に電話をかけてくるはずがない。言い訳が下手を通り越している。

 

「ん。お前は良くやってたよ」

 

 今までごめん、だなんて。仮にも今は勝利に浸るべきだろうに。アタシはまた爪を噛む。苛立ちなのか、それとも落ち着きから現れたルーティンなのか。ともあれ、少し胸の高鳴りはおさまってきた気がする。

 

「……そうだとも。アタシはね、負けについては忘れてないからね。あれだってあれだって、アタシの力不足だよ。……でも、今回はアタシ"たち"の勝ちなんだ。だからさ」

 

 だから、なんだろう。自分の言葉に問う。アタシたちの勝利は確かに、それなりには祝福されている。でもそれなりだ。もしかしたら、これからもそれなり止まりなのかもしれない。例えばアイツがこのまま引退すれば、「もし現役ならば」そう言われて生涯比較されるのだろう。例えばアイツがこれから勝ち続けるなら、「ライバルではなかった」そう言われて比較すらされないのかもしれない。

 レース生命は残酷だ。一時期並び立とうとも、ずっと並び立てるわけではない。でも、だから。だから。だから、アタシたちは走り続ける。……そして。

 

「だからさ、トレーナーさん。これからも……ね」

 

 なんだか照れ臭くなって、その続きは口から出てこない。ああ、やっぱり自分には闘争心が足りないのかもしれない。悔しがることばかり達者で、自責ばかりを積み上げる。でも、確かに何かを積み上げている。

 

「アタシと獲ろうよ。"頂点"」

 

 そう言うと、あちら側から笑い声が聞こえる。……涙混じりなのは聞き逃さなかったが。少し考えて口にしたのだから、それなりに感銘を与えられたなら嬉しい。悔しがるのはアタシの役目で、トレーナーさんには喜んでいてほしい。

 

「全く。悲願のGⅠだったんだろ? そりゃアタシにとってもだけど、トレーナーさんの方がアタシより長いこと我慢してたんだからな。もっと喜びなよ。……そうでなきゃ、アタシだって喜ぶ気が失せるってもんさ」

 

 そう言うと、また謝られる。……調子が狂うなあ。かりっと、また爪に歯を立てる。これは少し苛立ちかもしれない。貴方が優しい人だというのは、わかっているのだが。それがわかっているから、アタシの胸は安らいでいるのだが。

 

「そういえば、電話の要件は? ……なんでもないなんて、今更そんなこと言えるのかよ」

 

 そうそう、それを忘れるところだった。何かしらあるから電話をかけてもらえるのであって、本当になんでもないのにこんな夜中に電話できるような仲ではない。少なくともアタシにその勇気はない。

 暫しの沈黙。その後、トレーナーさんは咳払いして言葉を打ち明ける。

 ……ああ、なーんだ。

 

「こちらこそ、菊花賞おめでとう」

 

 何度も何度も自分で噛んだつもりの言葉なのに、貴方に言われるだけでこんなにもスッと飲み下せる。分け合うこと。記し合うこと。それが人にとって大切なことで。どうやらアタシには、孤独も孤高も似合わないらしい。

 

「……じゃ、また明日」

 

 そう言って、しっかりあちらからの言葉も聞いて。確かな繋がりを感じて、また布団に入る。……もう噛める爪は無くなってしまった。なら眠ろう。明日からも、アタシたちの道は続いているのだから。

 

 

 ああ、朝が来た。また一日過去から遠ざかり、また一日未来へ進む。アタシの得た敗北も勝利も、一つ一つ遠ざかっていく。それでもいい。アタシは貴方と歩んだ道を、振り返ることもなく全て覚えている。そしてこれから貴方と歩む道も、全て。

 寮を出て青風を肌に受ける。少し肌寒い秋の風だった。季節の巡りはあっという間に冬になり、クラシック級での争いはいよいよ大詰めだ。有馬記念ではついにシニアのバケモノ達との闘いが始まる。それにアイツらとの勝負だってこれで終わったつもりはない。まだアタシ達は三冠をバランス良く分け合ってしまっている。たとえこの先差がつくとしても、決着を付けなきゃ気が済まないというものだ。

 ……決着。どうやって決着を付けるべきか。最も速い、最も運のある、最も強い。それは決まったはずなのに、それだけでは全ては決まらないらしい。……折角ならアタシに有利な条件にしてしまおうか。

 そういえば、いつだったかトレーナーさんが言っていた。アタシの持ち味は長期の粘り。それ故に3000の長さで勝ち得たのなら、それなりに正しい言説なのだろう。なら。

 

「どれほど眩い一等星より、どれほど気高い覇王より。アタシが一番永く、走り続けてみせようじゃないか」

 

 碧空と未来に言葉を告げて。"トップロード"はひた疾る。頂点へ。



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ベタ惚れなのを口にだけは出さないメジロドーベル

久しぶりですみません


 おはよう、トレーナー。これくらいは言えるはず。

 あのさ、今日。これは絶対、言えない。

 しかし気持ちは逸るばかりで、もう既に用意だけはしてしまった。だから後はアタシの気持ちの問題。……と、もちろん相手側の気持ちの問題もある。

「"メジロドーベル"は強いウマ娘だ」

 もう一度、頭の中であなたの声を響かせて。

「うん、アタシもあんたのこと」

 頭の中で、返事をした。

 

 

 俺の担当ウマ娘であるメジロドーベルは……正直まだわからないことも多い。けれど三年間を共に歩んで、確かな信頼を得たと思った。つっけんどんな態度の中に、彼女なりの気持ちが込められている。

 思えば最初にまともな挨拶をされた時はかなり驚いてしまい、思いきり睨まれてしまったような……。そう、その挨拶が問題なのだ。

 こんこん、とトレーナー室のドアが叩かれる。少し前から、この後がおかしい。それより前は流石に慣れた様子だったのに……。

「お、おはよっ! トレーナーっ」

「おはよう、ドーベル」

 やはり今日もおかしい。声のうわずりは、緊張……とは違う気がする。かつて観客の声に緊張し、不安を抱えていた彼女のテンションとは真逆だ。……主に耳と尾の跳ねかたが。

「っ……って、何を、じろじろ見てるわけっ」

「ああごめん! つい」

「……否定、しないんだ」

 後半はぼそぼそと独り言のようだったので、聞こえないふりをしておこう。……今更否定するまでもなく、俺は彼女をずっと見守り続けるつもりだし。

 とはいえこのように、最近のドーベルは若干……いやかなり……当たりが強い。いつもそれなりに当たりは強いが、最近はなんとなくそれまでとは違う気がするのだ。

「で、どうしたんだ? 今日は朝練はない予定だったと思うけど」

「……朝練がなきゃいちゃいけないの?」

 まずい。この感じは本気でイラッと来た時の声音だ。

「いや、まさか! ああそうだ、ドーベルがいるとアロマのいい匂いがするしこちらとしてもやぶさかでは」

「っ、バカ!」

 ……おかしい。今のは褒めていたはずだ。結局さっさと部屋を出ていってしまったドーベルの後ろ姿を思い返しながら、果たして俺は彼女の口振りと耳の揺れのどちらを信じるべきか悩み続けるのだった。

 

 

 バカ、バカ、ばか! 結局おはようすらまともにいえなかったじゃない! こんなんじゃ『これ』、渡せるわけない……今日渡さなきゃいけないのに。でも、でも!

 そうだ。アタシは諦めない。そうあなたと約束した。だから諦めない。

 渡すのだって。その先、だって。

 

 

「こほん。お疲れ様、トレーナー」

「……ああ、お疲れ様ドーベル。さっきはごめん」

 授業が終わって帰ってきたドーベルは、落ち着いて……あるいは気合を入れてきたように見えた。

「……い、いいのよそれは。そうね、許す。……あー」

 なんだか言葉に詰まりながら、彼女は考え事をしているようだ。

「あー、そうね。お詫び。今、今思いついた」

 何か合点がいったのか、彼女は持ってきたポーチから何かを取り出す……何かのチケット?

「これが……お詫び?」

「うん、お詫び。……よし、よし。そ、そういうことだから、ほら」

 そう言って彼女は近づいてきて、こちらにその手を伸ばす。促されるまま、手のひらを掴んだのだが。

「……ばっ! い、いや……そうよね、そ、アタシについてくるのがお詫びだから。……離しちゃダメ、だから」

 何かただならぬ葛藤を抱えたメジロドーベルに連れられて、横に並んで歩けと脅されて。

 たどり着いたのは、街中にある映画館だった。

「これ、2人ぶん。今日のチケット。これを無駄にしないために付き合うのが、お詫びのメインイベント」

「……それ、俺からの詫びになるのか?」

 少し気になったので聞いてみると、彼女から先程までの威勢が消えきょとんとしている。

「だってさ、ドーベルと一緒に映画を観るなんて。俺が得してる気がする」

「……ほんと、ずるい」

「え?」

 ずるかっただろうか。騙してしまったような形になっていたので確認したかったのだが。

「いいの! これはアタシだって、いや違う……そう! 観たかった映画だから! 大人なんだからそれを見張ってなさい」

 なんだか腑に落ちないが、二人で劇場へと入っていった。……恋愛映画か。ここでドーベルらしい、などと言ったら怒られてしまうだろうな。

「……隣同士の席だから」

「ありがとう。楽しみだな」

 チケットをドーベルから受け取る。記された席に座ると、間もなく劇場が暗くなっていく。

「……ねえ、トレーナー」

「どうした?」

「今のアタシは……っと、始まるよ」

 だから、言葉はそれきり。

 

 

 あなたはアタシのことを、"メジロドーベル"として認識している。最初から、今までずっと。アタシ自身が他の誰かのようになろうとした時も、ずっと。だからきっと、あなたのおかげでアタシはアタシでいられたのだ。

 けれど、こうも思う。あなたが強いと言ってくれたのは、信頼してくれるのは。"メジロドーベル"という存在がそれらしくあるから。いじっぱりで、刺々しくて、負けず嫌いなアタシの中に、素敵なものをきっと見出してくれているのだ。

 だから逆に言えば、今のアタシは。あなたが大好きって気持ちを、油断すれば溢れそうなくらい抱えてしまった恋する乙女は。あなたが信頼してくれた"メジロドーベル"じゃ、なくなってしまったのかもしれない。

 まるでかつて観客の期待を裏切りたくなかったように、それより何千倍もあなたのことを裏切りたくない。

 だから、アタシはアタシらしく振る舞おうとする。まだいじっぱりで、刺々しくて、そうあろうとする。だって好きな人には、いい格好をしたいものだから。

 好き。また頭の中で。

 大好き。口にだけは、出さないで。

 愛してる。毎秒毎分、枯れずに湧き立つ言葉を紡いで。

 笑ってしまいそうなくらい、ベタ惚れだ。

 



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コナハトの女王、ファインモーション

同人誌作業をしてたので滅茶苦茶久しぶりになりました
大変すみません


「むかしむかし、あるところに」

 

 幼い頃、私の世界を形作ってくれたものの一つが物語だった。アイルランドに伝わる伝説は全て……とは言えないだろうけれど、あの箱庭で手に取れるものはあらかた読んでいると思う。

 

「ひとりのじょおうさまがいました」

 

 そして、その中で特に私の印象に残っているお話。きっと未来永劫、初めて読んだあの日からずっと。ドルイドの呪いのように刻み込まれた、原初の『思い出』。

 

「じょおうさまはわがままで、よくばりで」

 

 傲慢で強欲な、悪女を体現したかのような或る女王のお話と。

 

「そんなわるいじょおうさまは、やがてせんそうをおこして」

 

 そうして迎えた、悪に相応しい因果応報の末路まで。

 

「さいごはあたまにチーズをぶつけられて、しんでしまったのでした──」

 

 

「で、そんな話をオレに聞かせてどうなンだよ」

「別に? ただちょっとは反省してくれないかなーって」

「はァ?」

 

 少しお昼からは外れた時間の食堂で、2人でテーブルを囲んでいるのは私ファインモーションと、その素敵な友達のエアシャカール。今はなんのことはないとりとめのない会話をしているところ。

 

「だってシャカール、いつも私のことを好き放題言ってるじゃない。わがままでよくばりだとか、その他諸々」

「好き放題やってンのはオマエだろ……その評価も適切ってやつだ」

「それならシャカールは、私がチーズで死んで当然の悪いやつだって言いたいの? おとぎ話に出てくるような、わがままよくばり女王様だって」

「前半はともかく、後半はその通りだろ。女王様なところまで全部事実だ……だがな」

 

 だが。こういう突き放すような物言いの後、彼女は少なからずそれをフォローしがちだ。それは単なる癖なのか、それなりの思いやりなのか。どちらであっても私にとっては救いになるだろう。

 

「まァ結局、フィクションの悪役、それも今じゃ型落ちの価値観で書かれたような古臭い話だろ? ガキの頃に読んだおとぎ話を思い出として取っとくのは結構なコトだがな……」

「もちろんわかってるよ、心配してくれてありがとう」

 

 心配してもらえた事実が重要なのだ。ロジック……理屈はとうの昔に自分自身で解っているのだから。それでも言いようのない不安があるから、放出することでもがくというだけで。……一瞬の間の後、スマホの振動音が対面から聞こえる。

 

「……悪りィなファイン、オレのトレーナーからの呼び出しだ」

「ううん、いってらっしゃい」

 

 そんな、そんな顔をしないでほしい。その程度のことで申し訳なさそうな顔をされると、却って意識してしまうじゃないか。手に入れようとはしてはいけないものまで、手に入れたくなってしまうじゃないか。私からキミを奪うその人を、憎むべき敵だと認定したくなってしまうじゃないか。

 強欲に、傲慢に。かの女王が暴走した果てを思い出しながら、今の私は同じ場所へと突き進んでいる。

 ああ、キミが欲しい。

 

 

「じょおうさまは、にくいにくいてきをころすため、たくさんのしかくをさしむけました」

 

 シャカールとそのトレーナーを引き離したい。その欲求が明確に浮かび上がったの自体はついさっきのことだったかもしれない。きっとその気持ちの源泉を辿れば、純粋無垢でちっぽけで。

 けれど一度そう思ってしまった以上、次に自分の中に浮かんだものは不純の極み。素敵な人、特別な人。それの中でも一番なのは、私であって欲しいということ。傲慢かつ強欲、そんなことはわかっているけれど。けれど、シャカールもそんな私を肯定したのだから。それをどんなに突き詰めても、貴女は私を貫けないはずなのだ。私を否定することは、出来ないはずなのだ。

 

「おはよう、ファイン」

「おはよう、トレーナー♪」

 

 私のトレーナー。『ファインモーション』という存在を、普段よりもうちょっとわがままにさせてくれる人。私独りでは運命を越えられなくても、彼となら。そう思わせてくれる人。

 

「……で、何の用かな」

「流石。トレーナーは私の悩みも、なんでもお見通しかな〜?」

「流石にそこまでじゃないけど、訳ありなことくらいはわかるよ」

 

 あの物語の女王様は、目的の為ならどんな刺客でも差し向けた。家族、親友。それすら成し遂げる非情さと、それでも叶えたい願いがあった。

 

「……トレーナーって、シャカールのトレーナーさんとお話できたりする──?」

 

 なら私もそれに倣おう。きっとその女王様と私は、どこまで行っても似たもの同士だから。何も手に入れられない末路さえ、そっくりそのままだとしても。

 

 

「こんにちは、ファインがいつもお世話になってるみたいで」

「こちらこそ、シャカールはよくファインモーションさんの話をしていますよ」

 

 無人のトレーナー室で、私はイヤホンを嵌めてその会話を聞く。今日は先日トレーナーにお願いした作戦の決行日だ。一つ、シャカールのトレーナーさんとトレーナーで、二人きりで話をしてもらうこと。一つ、その会話の内容をこっそり私に聞かせること。

 気になっていることを端的に言えば、シャカールとそのトレーナーさんはどのような信頼関係を築いているのか。それを別に崩すつもりはないし、崩したくもない。ただ私がシャカールにとって一番特別なものになるためには、それを超える必要がある。そんな焦燥感がひたすらに全身を駆け巡っていた。結論が欲しくてたまらなかった。たとえどちらに転んだとしても、終わるのは私だけだというのに。

 

「それで、今日はどういったご用件で」

「ああ、大したことはないんです。ただファインがエアシャカールさんと仲良くしているようなので、その縁で俺たちも親睦を深められたらと」

 

 ……自分自身の独断で、という体裁を申し出てきたのはトレーナーからだ。私はそれに甘えてしまったのか、逆らえなかったのか。自分の力で決断できない王は、王たる器を持つのか。それすら今の私にはわからない。わかりたくさえないと、思っているような。

 

「じゃあ、何から話しましょうか。担当のアピール合戦でもします?」

 

 ……っと。少し考え込んでいたうちに、沈黙が破られていた。トレーナーは、私の思う通りに動いてくれる。女王様の仰せのままに、そういう立ち回りなのかもしれない。キミが手足となってくれるなら、愚かな女王も何かを成せるだろうか? それが、取り返しのつかない過ちだとしても。

 

「そうですねえ、シャカールはいい子ですよ……いえ、トレセン学園に通うウマ娘はみんなそうなんですけどね」

 

 そこからシャカールのトレーナーさんが話し始めたのは、二人が契約を結ぶに至る話。二人だけの、思い出。多分、あるべき『ファインモーション』はその思い出に対してそんな感情を抱いてはいけないのだろう。底なしの強欲。それは浅ましくて醜くて、他者の思い出を汚してしまう最もおぞましいものだ。そんなこと、内心ですら許されない。

 それなのに。私はそれなのに、そこに踏み入ろうとしている。それなのに、他人を操って世界を侵略しようとしている。それなのに、自分はまだ清純を気取ろうとしている。それなのに、もう。それなのに、どうしても。それなのに──。

 

「……エアシャカールさんのこと、お互いに大切に思ってらっしゃるんですね」

 

 私のトレーナーの言葉で、我に返る。大切という言葉が、耳の中で響いたから。その声音から、微かに彼の想いを汲み取れたから。だから、その続きに聞き入れた。

 

「俺も同じ……ではないかもしれないですけど。ファインモーションという存在にとって、大切な人というのは数えきれないほどいます。エアシャカールさんたちトレセン学園のウマ娘。そしていつか帰るべき、アイルランドの人たちみんな。彼女にとって、俺はそのうちの一人です」

 

 そこからの私は。トレーナーがする『ファインモーション』の話。シャカールとそのトレーナーさんの話とは、きっととても違うその話。その話に、聞き惚れていた。初めての話だった。

 

「でも、ちょっと心配なこともあったんです。こっちにいる間、彼女の指導者は俺です。けど俺は何か彼女に与えられるんだろうか、って。もちろんレースに関しては力になれたと思います。自分は彼女のトレーナーとして相応しい働きをした……でも」

「わかります。芯が強い子の担当って、こちらが教わることばかりで」

 

 きっとトレーナーは、私がこの話を聞いていることを忘れてしまっている。だって。

 ……そんな話、普段は絶対しないから。

 今日だってわがままでよくばりな私の言いつけを、当たり前のように受け入れている。この態度が当然だって、私にはその裏を見せようともしない。そんな自分の不安なんて、どこにもないふりをして。『ファインモーション』が当たり前のようにかけてしまっているであろう重圧と責任に、弱さを見せず振る舞うなんて。そう、キミだって。私の思い通りになってなんかいない。

 

「でも、最近いいことがあったんです。本人には良かったねなんてとても言えないんですが」

 

 ダメだ。そんな話聞き逃すわけにはいかない。私には見せてくれない裏の話、そんなの誰のでも気になってしまう。私は、全てを思い通りにしたいから。ああ、でも。

 

「……実は彼女、あなたに嫉妬してるみたいなんです」

「私にですか!?」

 

 嫉妬、かあ。そう一言で乙女心を説明してしまうのは、確かに正面から言われたら傷ついてしまうかもしれない。独り占めしたいとか、理想と思考が一致しないとか。王家の崇高な悩みなんかじゃなく、思春期のありがちな悩み、だなんて。

 最早最初のお約束ごとなどそっちのけで、トレーナーは事の顛末を喋り始めた。シャカールを独り占めしたくて私がやきもきしていたこと、私がシャカールとそのトレーナーさんの仲を調べるようにお願いしてきたこと。……詳しく言ってないはずのことまで直接聞いたように喋るのだから、やっぱりトレーナーは私の悩みなんてお見通しだったんじゃないか。そんな素振り、やっぱり見せてくれてなかったくせに。

 そしてそれを一通り聞いて、シャカールのトレーナーさんが一言。

 

「ああ、それは確かに良かったというか、安心してしまいますね」

 

 酷い話もあったものだ。私についての赤裸々な話を聞いてすっかり意気投合している。とはいえ他人の口から私のやってきたことを具に語られると、自分自身も冷静にそれを見つめ直してしまうものがあり。そういう意味では、きっと聞いていてよかったのだろう。

 

「……ああ、まだちゃんと子供なんだなって。なんだか失礼な物言いですけどね」

 

 ……つまりは、そういうことで。きっと簡単。このうえなくシンプル。だからこそ、誰にでも起こりうること。

 

「あたくしのそばにいるおとこは、あたくしよりもすばらしくないといけない」

 

 私そっくりの女王様は、本の中でそんなことを言っていたっけ。彼女は完璧だけれど、それすらも受け入れられる存在を求めた。誰かに甘えて、わがままを聞いて欲しかった。

 彼女は求婚を断り続け、終ぞ本当の理解者を得ることはできなかったけど。

 私にはいるじゃないか。普段よりもうちょっとわがままな『ファインモーション』を、存在させてくれる人が。

 降って沸いた嫉妬の正体は、シャカールがトレーナーさんと築いている関係そのものへの羨望。あるいは単に、それをダシにしてキミにわがままを言いたかったか。あるいはその両方か、もっといろんなことが混じった言葉にできないもの。……いずれにせよ、ちょっと反省しなくては。私らしからぬ態度だったかも。反省から、私らしさそのものだって。きっと見つめ直すことができるだろう。

 

「多分、ファイン本人は後で今回のことを反省したり後悔したりすると思うんです……でも」

 

 それもお見通しか。ずるい。

 

「でもそういうのは大人になる上で大事だし、タイミング的にも……あ」

「どうしました?」

「しまった。この会話ファインに筒抜けだった」

 

 さらにずるい。今更気づくな〜。

 

「……と、こういうタイミングでしたので」

「なるほど」

 

 その後二人は大事な部分を筆談か何かで済ませてしまうので、聞いてるこちらはもやもやが募るばかりだった。もやもやして、本当に居ても立っても居られなくて。先程までのもやもやとは、随分と彩りを変えたものだったけど。

 

「多分早く帰ってファインにお叱りを受けなければいけないので、これで……」

「なんだかこちらばかり話を聞かせてもらってしまいましたね」

「いえいえ、また会いましょう」

「はい、また」

 

 ……またの機会があるなら、今度はちゃんと内緒話させたいな。私も流石に恥ずかしいもの。まあ、でも。

 今日は、聞けてよかったな。それはきっと、一つ目の贈り物だ。

 

 

「つーん」

「悪かったよ、ファイン」

「女王の命令だったんだよ〜?」

「命だけはご勘弁を」

「……なら、条件が二つ」

 

 帰ってきたらとりあえず説教タイム。ちょっと御機嫌斜めなふうを装っていたら、すかさず謝られた。許すには一つじゃ足りないし、もしかしたら二つでも足りないかも。まあでも、情状酌量の余地はあるよね、うん。

 

「一つ」

「はい」

「さっきから後ろ手に持ってるものを大人しく出しなさい」

 

 そう言うと、堪忍したようにトレーナーは一つの袋を開けた。そーっと、丁寧に。大切なものを扱うように。

 

「貢物とは殊勝な心掛けだねトレーナー、その心は」

「もちろん、誕生日ケーキ」

 

 ……日付くらい覚えていても、たとえ未来の結末に近づく一歩だとしても。

 顔が綻んでしまうのは、仕方ない。だってそれは、大切な人が私をわかってくれているってことだから。

 

「誕生日おめでとう、ファイン」

「……チーズケーキでちょい減点だけど、ギリギリセーフ」

「あれ、チーズケーキ嫌いだった!?」

「そんなことないよ? でも今回は乙女の複雑な心とかアイルランドの由緒正しい伝説とか、諸々に引っかかるよ」

 

 私のトレーナーともあろうものがまだまだアイルランド文化への造詣が浅いとは、由々しき事態である。多分チーズと女王様の取り合わせに反応するのは私くらいだけど。私のことなら尚更知って欲しいものである。全く遺憾だ。いかんいかん。

 

「そしてもう一つ」

「はい」

「こほん」

 

 咳払いをして、一回転。さっと鼻先に顔を近づければ、キミはもう私の虜。

 

「これからも、ファインモーションをよろしくね?」

「……もちろん」

「嫉妬するし、お子様な時もあるけど」

「大歓迎だよ」

「よろしい」

 

 また一つ、キミがわかった。これが多分、一番の贈り物。この先がどんな色でも。未来や運命に、何があろうとも。まだ見ぬ世界も、キミとなら。

 ねえ、連れていって!

 

 

 次の日になってまず思い立ったのは、シャカールになんと謝るべきか、そもそも何をどう説明するべきか。勝手に嫉妬してシャカールの大事なトレーナーさんにまで牙を剥こうとしたのだから、なんとかしなくちゃいけない。そう思って放課後シャカールを呼び出すと、なんと開口一番に述べられたのは謝罪だった。あのシャカールが。

 

「いや、悪い。呼び出した理由はわかる。マジで知らなかったんだ」

「むう。シャカールも私の考えがお見通しだったんだ」

 

 つくづく私は幸せ者だ。誰一人として手放したくない。

 

「その、アレだ。……誕生日、おめでとう」

「……え?」

「いや昨日なのは分かってる! トレーナーから、正確にはオマエのトレーナーからの又聞きだけど聞いたんだよ」

「……ぷっ、あははっ!」

 

 嬉しいのとおかしいので、堰を切ったように笑いが止まらない。シャカールって、そんなこと気にしてくれるんだあ。これも新しい発見。私の周りは、まだまだ知らないことでいっぱいだ。

 

「オレだって知り合いの誕生日をスルーするほど薄情じゃねェよ」

「知り合い? 友達でしょ、酷いなあシャカールは」

「……分かった。今日はオレに落ち度がある。今日一日はそれを認めてやるよ」

「ありがとう、シャカール! そうだそうだ、誕生日プレゼント代わりに今から付き合ってよ」

「……今日はな」

「これからも、だよ」

「フン」

 

 その日一日中シャカールを連れ回して、また一日が終わる。誕生日の次の日は本来なんの記念日でもないけれど、記念日にしか特別な思い出を重ねられないわけじゃない。特別なことは少なくなきゃいけないなんて、誰も決めてなんかない。じゃあ私は、昨日も今日も、明日からも。そうして大切な人たちの思い出を、まだ知らない世界とすべてのキミを、何もかもを見つけたいんだ。

 一日一日。一瞬一瞬。過ぎゆく時全部を抱きしめたいってわがままを、私は欲する。

 だって私は、わがままでよくばりな女王様なのだから。



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凶星の運命

幻覚


 必ず帰ってくる、と彼は言った。私はそれを信じている。信じているから、この家で彼を待ち続けている。玄関先から見上げる何度目かの青空は、短く切り揃えられた私の髪を見下ろしている。もうそろそろ、見飽きただろうに。こんな髪の毛にしたのは誰のせいだったか。そうやって、今日も自然に思い出す。

 いつも豪胆で、嘘なんか吐いたこともない。正々堂々とか馬鹿正直とか、そういう言葉が服を着て歩いているような男だった。実際そういった性格のおかげで異国でもやっていけたんだろうと思う。隣で歩いていた私には、そんな愛想はなかったし。……強いて欠点を挙げるなら、それこそ女の趣味は悪い。あれだけ周りの評判も良く、肩書きや実績も充分。実際びっくりするほどの有名人と親しげにしていた時もあった。それならわざわざどうして……なんて思ってしまうのは、彼にとっては失礼かもしれない。

 

「We won」

 

 私たちは勝った。あの時彼がそう言ったように、私たちは二人揃って『私たち』なのだから。

 

 

 いつのまにか、髪の毛は肩まで伸びていた。非常事態において月日の巡りという感覚は薄まっていく。不揃いな髪だけが、私と彼の間に横たわる時間の長さを教えてくれる。あの日から、必ず帰ってくると聞いたあの日からの、残酷で無常な。

 今日も、思い出す。忘れないように、途切れてしまわないように。

 最近思い返すのは、それなりに昔の出来事ばかり。たとえば昔の私のこと。図体ばっかり大きくて走るのが下手だった私は、見掛け倒しと評判だった。自分で言うのもなんだが性格にも難があったし(それは今でもかもしれない)、本当に彼は趣味が悪い。言伝でかつてのトレーナーから異動を言い渡され、言われるままに向かった先。そこにいた彼が発した言葉はこうだった。

 

「うん、思った通りだ」

 

 思った通りと言ったように、彼はそもそも私と会ったことがなかった。私と会うどころか写真すら見ず、レース嫌いで大柄で気性難、そう言った評判だけ聞いて私との契約を決めたらしい。一体どこに惹かれる要素があったのだろうと思ったし、なんなら今でも思っている。とはいえその後になされた提案こそ、もっと私を驚かせるものだった。ファーストコンタクトもそこそこに、彼が私に示したもの。

 

「早速で悪いが、俺はトレーナーじゃない。強いて言うならパートナーだ。どうだ、俺とバ術をやってみないか」

 

 初対面でパートナーと言ってのけるのは、つくづくあの男に許された特権だと思う。おかげで本題のバ術について聞くまでに一悶着あったが……それはさておき。

 バ術。それはレースとは違う形で、ウマ娘が魅せる世界。ウマ娘とトレーナーがペアになって踊り、その芸術性を競う競技。確かに理には適っていた。私の脚はレース向きじゃない。それは自分自身でよくわかっていて、それはつまり他の競技なら道があるかもしれないということではある。それを拒むものがあるとすれば、捻くれきった私の根性だった。

 端的に言えば自信がなかった。それを覆い隠すために、何もかもに悪態を吐いていた。一番信じられないものは自分だったのに、それを他人のせいにしていた。でも、逆に言えば。

 

「大丈夫だ。君は俺が信じるよ」

 

 それを一目で見抜かれたというだけで。私にとっては、十分な理由になったのかもしれない。……そこまで回顧したところで。

 少し、雨が降ってきた。

 

 

 独り、広い屋敷をあてもなく歩き回る。掃除でもすればいいかと思い立ったのは、大体一時間くらい経ってからだった。箒を手に取って部屋を回っていると、本当にこの屋敷は広い、と感じた。私独りには広すぎる、そう思った。

 だからリビングの隅、タンスの中にしまわれたあれを探してしまうのも、仕方のないことだった。かけがえのない思い出。私の方に残された、消えない証。埃まみれになった手でそれを手に取る。「私たちが勝った」ロサンゼルスオリンピックの金メダルを、うっすらと両手で握りしめる。

 それでも私の脳裏に浮かぶのは、最後の日のこと。輝かしい栄光ではない。その先にある、私と彼の最後の会話。

 

「必ず帰ってくる」

 

 戦地に赴くというのに、そう言う彼がいて。私はいつも通り、彼を信じることしかできなくて。そんな私に一つだけできたことがあったとすれば。

 

「これ、持ってってよ」

 

 髪の毛を切ったのはその時のこと。背中まで伸びていたそれをばっさりやったから、流石の彼も驚いていた。手早く結んで小さくまとめて、御守りの袋に入れて渡してやる。これくらいは、できた。

 それが、最後の記憶。そこより先は感極まってしまって、あまり覚えていないけど。必ず帰ってくる、と彼は言った。私はそれを覚えている。覚えている限り、信じ続ける。

 

 

 このところ体調が良くない。玄関先で彼を待つのも、もう何日も出来ていない。彼はもう帰ってこないんじゃないか、なんて。そういった考えが頭に浮かぶたびに必死に拭い去る。彼が私を信じて、私が彼を信じる。だから私たちは生きていられる。たとえ病に臥せろうと、たとえ死地にて闘おうと。そのはずだと、信じていたかった。

 単純な思考の組み替えは、どうにもならない結論を導いてしまうこともある。二人が互いを信じていれば生きていられるのなら、互いが同時に命を落としてしまえば辻褄が合うのではないか? 彼の後を追うように亡くなる、そんな悲劇的な『運命』の物語。そう定まっている気がした。してしまった。だから。

 

「うっ……ひぐっ……うぇぇ……」

 

 決壊した涙腺は、かろうじて保っていた心の檻を粉々にする。もう彼とは会えない。互いを想いながら、同時に召される運命。それは確かに美しいと思ってしまう。それでいいか、そう諦めそうになる。この運命を受け入れることへの障害はもうないだろう。なら、ならば──。

 その瞬間。意識と視界が、光に染まった。

 

「……ここは」

 

 再び鮮明になった視界は、澄み渡る青空と草原でいっぱいだった。死後の世界というものかもしれない、そんな馬鹿げた考えが一番現実的に思えるくらい、非現実的な展開だった。草原の先から、何かが近づいてくる。白く光る何か。輪郭さえわからないそれは私に話しかける。問いかける。

 

「アナタは、どうしたいですか?」

 

 その問いで直感する。この存在は私を掌の上に乗せている。運命を操っている。……なるほど、そうか。

 

「あなたが私の運命そのもの。さながら伝説の三女神ってわけだね」

 

 返答はない。もっともここは夢かあの世か、どちらにせよまともな世界じゃない。つまり私がただ返事するだけでは、きっとこいつには何も届かない。ああ、だけどおあいにく様。

 

「悪いけど、あなたの手を借りるつもりはないよ」

 

 運命より何より、信じるべきものが私にはあるから。私自身すら信じられなくても、ただ一人のことだけはずっと信じていた。たとえ、たとえ運命にすら嘘を吐かせたとしても。

 

「私は彼を信じてるから、終わるわけにはいかないんだ」

 

 彼の言葉と、彼が信じる私。それを嘘にしてしまうことだけは、許されない。

 

「さよなら、私の運命。女神様さえ見放したとしても、私は私たちで生きていくよ」

 

 そうして、光は閉じる。

 

 

 目を覚ますと、体調はすっかり良くなっていた。全てが嘘だったみたいに。記憶にはしっかり残っているから、あれはただの夢でも嘘でもなかったのだろうけど。やり方はどうあれ、私はきっと運命から解き放たれた。ひょっとしたら本当に三女神様の仕業かもしれないな、と思った。そうだとしたら私は神から施された手を振り払ってしまったことになる。酷く大それたことをしてしまったが、元はと言えば彼のせいだ。彼を信じるために運命に嘘を吐かせたのだから、責任は取ってもらおう。

 その次の日から、また待ち続ける。もう一日だって、迷うことはなかった。

 運命に勝つのは私だけじゃない。「私たち」が勝つのだから。

 

 

 それからほんの数ヶ月で戦争は終わった。国中を包んでいた空気は一気に様変わりしたけれど、私がやることは変わらなかった。待って、待って、待ち続けて。三年が経っても、待っていられた。元通りになった髪の毛を指先で弄りながら、独りぼっちの屋敷で彼を待つ。街の復興を手伝う中で、帰ってきた兵隊さんは多く見かけた。もちろん、その逆も。覚悟はしている。現実を突きつけられたら、きっと耐えられないだろうけど。それでも、待てる。だって私は──

 

「……ただいま」

「約束通り、帰ってきてくれたね」

 

 ──私たちは、嘘なんて吐かないから。「必ず帰ってくる」と言ったのなら、それを待つようにできているのだ。

 

「負けてしまった」

 

 あらあら、意気消沈。せっかくの伊達男が台無しだ。陸軍中佐ともなると、ただ無事に帰ってきて良かったね、とはいかないのだろう。ただ、それでも。

 

「違うよ、『We won』だとも。国の威信ではなく私たちが勝った、そうあのオリンピックで言ったのは誰だったかな?」

「参ったな。暫く会わないうちに逞しくなったんじゃないか?」

「そうかもね、今のキミよりは。なんならキミの爵位を剥奪して、私がバロネスを叙爵させてもらおうかな」

 

 そう軽口を叩いてやると、彼は緊張が解けたように破顔する。まったく手間のかかる男だ。異性の趣味に対して、私も人のことは言えないかもしれない。ひとしきり大笑いした後、彼は思い出したように提案する。

 

「そういえば、ウマ娘のレースも再開されたらしい。なんでも今時はレースが終わった後に歌って踊るらしいぞ。レースは君の趣味じゃないかもしれないけど、踊りは結構興味あるんじゃないか? ロサンゼルスオリンピックバ術金メダリストウマ娘、ウラヌスとしては」

「バロン、それはデートの誘いかい? 確かにキミにそう誘われたなら、並みの女の子ならイチコロだろうね……でも」

「でも?」

 

 やれやれ、順序というものを忘れてしまったのだろうか。過酷な戦場にいたのだから無理もないのかもしれないが、これから平々凡々な生活を築くのは骨が折れそうだ。とはいえせっかく帰ってきたのだから、最初に言うべきはこれに決まっている。

 

「おかえりなさい。私たちの家へ」

「……ただいま」

 

 手を取って、いつかのペアダンスのように。多分オリンピックで見せたそれより、ずっとずっと拙かったけど。

 これから二人で手に入れるものは、メダルよりも素晴らしく、得難いものだから。



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チェンジリング

ひさびさのリハビリです


「ねえシャカール、『チェンジリング』って知ってる?」

 

 目の前の殿下サマがそんなことを聞いてきたのは、いつものように愛想を浮かべながらのことだった。唐突な話題の振り方も、いつものことだ。

 

「流石、アイルランドの伝承にはお詳しいことで」

「あっ、知ってるんだ! じゃあじゃあ、どんな話か教えてくれる?」

「オレを試すな。お前が振ってきた話なんだから自分で説明しろ」

 

 そう突き返すと、ファインは嬉々として説明を始める。そんなに愉快な伝承じゃないクセに。

 チェンジリング。日本語に置き換えるなら『取り替え子』。生まれたばかりの人間の赤子を、妖精が自分の国に連れ去ってしまう。そして代わりに自分の子供を置いていく。こうして残された妖精の子が『チェンジリング』と呼ばれる。こんな非科学的なものが、かつてはまことしやかに信じられていた。もちろんそうなった理由はある。反吐が出そうな理由だ。

 

「長々と説明してもらったが、要するにアレだ。自分の子供が不出来なのを、架空の存在に責任を押し付けるための物語。本当の子供はむしろ出来が良すぎたから、不幸にも妖精に目をつけられてしまったんだって。この子は血が繋がってないし、むしろ子供を連れ去った憎むべき相手の置き土産だって」

「可哀想な話、だよね」

「不幸に納得するための話だ。そもそも自分の子供を不幸と断じるべきじゃねェだろうがな」

 

 そんな話はある意味『論理的』だ。非科学的なものの実在を信じる世界なら、理不尽にも全て理由がつけられる。今から見ればどんなにバカバカしくても、当時はそれが生きる知恵だった。そうすることで、悲劇を誰でも乗り越えられた。運命の読み替えさえできたのだから、現代人より利口かもしれない。

 

「で、そんな話がなんになる」

 

 けれどそれはあくまで昔の言い伝え。オレたちは知恵を持っている。そんなのはまやかしだと知っている。それでは悲劇を説明できない。だから、運命を受け入れるしかない。それなのにファインが言い出したのは、突拍子もない仮定だった。

 

「ねえシャカール、チェンジリングは幸せなのかな」

「はァ? 今の聞いてたか? 子供を捨てる言い訳みたいなモンだ、誰も幸せになんか」

「妖精の国に連れて行かれた子は? 妖精から見れば自分達と違う容姿、違う力を持ってるんでしょう? 期待されて連れてこられて、祝福されて育てられる。そういう話でもあるんじゃないかな」

「いいかファイン、それは架空の話だ」

「御伽噺の非実在なんて、誰にも証明出来ないでしょう?」

 

 これは伝承を大切に思う愛国心か、はたまた伝承を暴き立てる好奇心か。どちらにせよ、付き合ってやらなきゃ黙ってはくれないらしい。これ見よがしにため息を吐いてから、思考を尖らせる。架空論理による思考実験も、たまには悪くないだろう。

 

「なるほどな。確かに取り替えられた人間の子は、さぞちやほやされるだろう。だがそれだけとも限らねェな。チェンジリングは頻発していた。『妖精の国に連れて行かれた人間』は一人だけじゃねェんだよ」

「たとえば妖精の国の王になれるのは、一人だけ。けれどそれを期待されて連れて行かれた子供はたくさんいる」

「そうだ。するとどうなる? てめェでもわカンだろ」

「ただ一つの席を巡って、争いが起きちゃうね」

 

 すなわちそういうことだ。期待されて祝福されて優秀で、それでもそういう奴ら同士で鎬を削らなきゃならない。

 

「元の家にそのままいたなら、普通の人生を送れたかもしれねェ。その運命から逃れたばかりに血みどろの争いに身を投じなければならないとしたら、それは幸福と呼べるのか? いくら期待され、祝福され、愛されていたとしても」

 

 二人きりの空間に、沈黙が走る。運命を尊ぶ殿下サマには、少々酷な質問だったかもしれない。普通の人生と縁のなかったファインモーションには。そう思っていたのに。

 

「……シャカールは、幸福だと思う?」

 

 予想に反してケラケラと笑いながら、目の前の少女は問うてくる。無邪気で純粋な笑み。試すように、誑かすかのように。けれどその意図の深層がわからなかった。

 

「今言っただろ、幸福とは呼べねェって」

「違う違う、いつものロジックじゃなくてさ」

 

 そう言ってまたけたたましく笑う。バカにするように、心底愉快そうに。立ち上がって、腹を抱えてさえいた。その態度を崩さないままの言葉だった。

 

「まだ気づいてない? だってこれは──」

 

 そこで漸く気付いた。背景はずっと、全て白一色の書き割りだったと。目の前で笑うヒトガタは、ファインモーションではなかったと。

 歪み消えゆく視界と、宙を舞う感覚の中。最後に刻まれた記憶は、妖精の嗤う声だった。

 

 

 目覚ましより早く起きるのは初めてではなかった。全身にじんわり汗をかいたまま、ベッドから起き上がるのも。シャワーを浴びなければいけないな、と思った。そうすれば僅かな脳裏の残滓ごと、洗い流せるだろう。夢なんてものは所詮自分自身の一部に過ぎないのだから、憶えていて良いことなど何もない。アレはファインモーションじゃない。あの姿に語らせる話としては、随分悪趣味だったが。だってあれは。

 あそこで問われた幸福は、チェンジリングについてなんかじゃない。運命に沿うか解き放たれるか、どちらにせよもがき続ける祝福されし異形共。そんな見立てだ。本当に、バカにしている。

 ……ここまでにしておこう。どうせ夢は自問自答で、そのくせ大抵は自分を苦しめる問いばかり。それに脳のリソースを割くのはバカバカしいことだ。もう既に極彩色の悪夢たちは、頭の容量を散々に食い荒らしている。これ以上一つだって増えてほしくはない。

 だから忘れた。だからそこで終わり。迷信では幸福にはなれないと、自分で自分に告げているのだから。



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ミホノブルボンは貴女の夢を見るか?

リメイクしたら倍になったので新作です


「マスター。夢を見ました」

 

 取るに足らない、なんてことのない朝だった。担当ウマ娘であるミホノブルボンが唐突に、私にそう話しかけてきたこと以外。なんてことない日だけど、それは今日だけの少し興味深い違い。夢について、なんて。彼女がそんな話を私にするのは珍しい。眠っている間のプライベートタイム。それを私に見せてくれるなんて。

 

「いい夢だったの?」

 

 いい夢だったか。私としては、やっぱり気になることだ。いい夢について教えてくれるならきっと嬉しいし、悪い夢についてなら私はその怖さを祓ってあげなきゃいけない。だって、私は貴女のトレーナーなんだから。

 

「……記録メモリには、何も残っていません。何も、殆ど。覚えていません。ただ。マスターが出てきたことは、覚えています。そして、多幸感を得た記憶もあります。ですから感謝を。……プロセスは遂行されました。退出します」

「待って、ブルボン」

 

 呼び止める。別に曖昧な返答だからって、そこに問題があるわけじゃない。夢なんてしっかり覚えていられなくて当然だ。ただ、彼女の見た夢について。自分が出てきた、というのが少し気になった。そしてそれが彼女にとって、幸せだったと。それだけは、覚えていたと。有り体に言えば、このまま帰られると恥ずかしい。そこだけ聞いてしまったら、私にはとても真似できないようなストレートな言葉。それを貴女の声で伝えられてしまえば、私はとても幸せな勘違いをしてしまう気がする。

 それは、訂正されるべきだ。

 

「あー、そうだ。夢に私が出てきた。それは間違いない?」

「はい。それだけは、強く覚えています」

「そして、夢を見て幸せな気分になった。それも間違いない」

「はい。感覚は既に失われていますが。そういう記憶は残っています」

「……じゃあ、私が出てきたから幸せになった……とは限らない。忘れてる夢の内容が、幸せだったのかも」

 

 何を説き伏せているのかわからない。他人の曖昧な記憶に突っ込みを入れるなんて、悪質な尋問みたいじゃないか。それでもそんなふうに聞いてしまったのは、多分彼女の夢に私が出てきたことが恥ずかしかったから。だからそのこと自体はせめて、取るに足りないのだと。幸せになれたのは、夢の内容の主軸が他にあったからだと。照れ隠しと他のナニカが、そう言えと私に促す。

 

「……その可能性は否定できません。ですが」

 

 ブルボンの薄い表情が、少し寂しそうに変わる。……ああ、そんなつもりじゃないのに。貴女の幸せな夢を壊したいわけじゃない。ただ、ただ。

 

「ああ、私が言いたいのはね、ブルボン。その忘れてる幸せな夢をはっきり思い出せたら、貴女にとって素敵じゃないかなーって」

 

 そうだ、その通り。それがきっと、私が貴女にできること。

 

「了解しました、マスター。ですが。一度ロストした記録を思い出すことは困難かと」

 

 しかしそれもその通りだ。何か方法はないものか。彼女にとって私は姉のようなもの、勝手ながらそう思っている。つまり私は、それなりに彼女に色々教えられたら嬉しい。担当ウマ娘としてだけじゃなく、一人の可愛らしい妹分へ。それが距離を詰めることだとしても、少しだけ。そうして、とりあえず提案してみる。苦し紛れでも、貴女の導になりたくて。

 

「あー、もう一回寝てみるとか」

「オペレーション:眠気取得を実行。1.2.3……失敗です、マスター……」

「あはは、そりゃそうだよ、ブルボン。まずよく眠るための準備をしなきゃ」

「準備、とは一体」

「そうだね、うん。今日はトレーニングもお休みの日だし、気持ちよく昼寝するには……」

 

 一つ、案が浮かんだ。ほとんど口から出まかせだけど、多分そんなに悪くない案。まあ、私のサポートは必須だけど。それくらいは許して欲しい。

 

「……一緒にお風呂入ろっか、ブルボン」

 

 ぱちくり、と。瞬きだけで困惑しているミホノブルボンの手を取って、いざ。

 

 

「マスター。ここは機械ばかりで、私には向いてないのでは……」

「大丈夫大丈夫!」

 

 そう言って、また手を引く。ブルボンを連れ立って、トレセン学園近くのスーパー銭湯へやってきた。普段はそれぞれの寮の集団浴場があるから、ブルボンも私も来たことはない。なるほど来てみれば確かに、ブルボンの天敵たる機械仕掛けがいっぱいだ。マッサージチェアから自販機、よく考えたら脱衣所のコインロッカーだって。うん、着いてきて正解。

 そして、もう一つ気になることがある。周囲の目だ。少し見渡しただけでも、周りの視線はまあそれなりに。"二冠ウマ娘"のブルボンは有名人だ。いつも近くにいる私は慣れてしまっているだけで、そこにいるだけで風格が漂っているとかなんとか。それ自体は少し我が事のように誇らしい。悪いことであるはずがない。けれどそれはそれとして思うのは、有名人だって出かける権利があるということだ。たまには有名であることも、ウマ娘であることさえも忘れて。ブルボンだって年頃の女の子なんだからと、私は思う。

 

「さあ、こっちこっち! お風呂で血行を良くしたら、身体があったまってよく眠れるんだから!」

「ちょっと、マスター。危険です、ここは危険です」

「大丈夫、私がついてるよ」

 

 未知の光景にただ立ち尽くしている彼女の手を取って、脱衣所に入る。入場チケットはさっき買ってきたし、タオルやその他諸々もしっかりついでに購入した。今日はブルボンの手を一切煩わせず、思う存分休んでもらいたいからね。

 脱衣所にはやはりというべきか、他のウマ娘の姿なんてない。ウマ娘お断りな訳はないんだけど、トレセン学園から少し離れるだけでこうなるとは。当たり前みたいに生活に溶け込んでいたウマ娘だけど、やっぱり特別な存在なのだと。

 久方ぶりに。あるいは、いつものように。そう思った。

 

「ほら、ブルボン。恥ずかしがらないの」

「恥ずかしい……その項目は問題ありません、マスター。ですが、ロッカーが」

「……ああ、そうだった。待ってて、私が開け閉めするからさ」

「……すみません」

 

 やっぱり何気ないやりとり。だけど心の奥に突き刺さり、心臓を抉り出されるような。私に貴女のその姿を見せるより、私に気を遣わせる方が彼女にとっては心配ごとであるということ。それはつまり。いや、やめておこう。私の立ち位置は、彼女のサポート。今日もそれを忘れてはいけない。

 がらがら、と戸を開けて。湯気立ち込める浴場へ、ひたりひたりと入っていく。裸足の二人は足音なんて立てないから、静かな行進だったけど。きっと少しは揃っていたと、私はそう思いたい。それくらいは、思わせて欲しい。

 

 

 湯船に浸かる前のマナーとして、先に二人でシャワーの前に座る。とりあえず彼女に先に浸かって欲しいからと言って、私はミホノブルボンの身体を洗う。別にそこまでする必要はないけど、それが不審に思われている様子はない。すっと、その白い背中を眺める。彫刻のように素晴らしく均整の取れた身体。その筋肉の一筋一筋に、途方もない努力の積み重ねがある。しかしどこにも傷の痕はない。がむしゃらな努力だけではなく適切なサポートがあったと、私の主観を抜けば見て取れる。彼女のトレーニングの成果と、恐れ多くも私の管理能力。その真髄が、彼女の肢体には詰まっていた。

 

「……マスター。すこし、くすぐったい感覚があります」

「ごめんごめん、ブルボン。優しく洗わなきゃと思うと、手が震えちゃって」

「優しくしていただきありがとうございます、マスター」

 

 律儀にお礼を言われて、すこしにやけてしまった。でも彼女には見えていないから問題ない。彼女の背に隠れているのだから、世界の誰だって見てはいない。じゃばー。お湯を背中からかけて、彼女の身体を洗い終える。

 ……これ以上触れるのは、蛮勇だ。

 

「さ、背中はこれで綺麗になったよ。あとは自分で」

「お待ちください、マスター」

 

 へ? そんな声が出るのだけは、我慢した。ぐるりと半回転して、私の担当ウマ娘が言う。

 

「私はマスターに背中を洗っていただき、"幸せ"でした。ならば。マスターの背中を洗えば、マスターを幸せにできると考えます」

 

 ぐい。確かに力強く腕を掴まれて、逃れる術はなかった。そういえば、幸せな夢を思い出すために銭湯に来たんだっけ。幸せ、かあ。貴女の夢を探しにきたのに、私の幸せまで語ってしまっていいのだろうか。

 

「……ありがとう、ブルボン」

 

 そう言って、大人しく攻守交代。ブルボンの背中に比べたら、私の背中は恐ろしく貧相だ。何も覆うものがないそれを見せるのすら、恥ずかしい。

 

「マスターの背中は、問題ないと思いますが」

「……声に出てた?」

「マスターの口から言葉が出ていたという意味なら、はい」

 

 更に恥ずかしい。耳まで真っ赤になる。ブルボンがそういうことに気づかない子であってくれて良かったと、少し思ってしまった。だってそれは、私にはもったいない言葉だ。肉体美を褒められるべきは、ウマ娘の役割で。憧れを見せることは、私にはできなくて。だって、当たり前のことだけど。特別な存在は私じゃないって、大昔にわかってたことだけど。

 ──こう思うのは、久方ぶり。あるいは、いつものように。

 "私は、ウマ娘にはなれなかった"。そう、思うのは。

 憧れた。遠い、遠い過去の夢。彼女達には耳が生えていることに気づかなかった。自分には尾が生えていないことに気づかなかった。いつかあんな風に、そう憧れてしまった。諦めなきゃいけないとわかったのは、割とすぐのことだったけど。諦められないのは、永遠に続く呪いの始まりだった。かつて確かに見たその夢は、今も私を導いていて。縛っていて。トレーナーという仕事に就くほどに、私はずっと導の糸に縛られて引き摺られている。

 そしてミホノブルボンに出会い、彼女の夢を支えた。もちろん彼女たちウマ娘の夢が全て叶うわけじゃないと、憧れだけじゃない現実を知った。それでも憧れ続けた。だから、私はブルボンのトレーナーでいられている。私がウマ娘に見た夢は、形を僅かに変えていた。彼女のことを私自身のように、そう喜ぶようになった。今は彼女が、私の夢だと。それを見続けている限り、私は幸せだと。諦められない理不尽の先に見た、一つの答えが貴女だった。ずっと貴女を見ていたいとさえ、希ってしまう。ああ、そうか。だから恥ずかしかったんだ。私が貴女を見ていて、貴女も私を見ていたら。

 それは、まるで。

 

「ありがとう、ブルボン。あとは自分で洗うよ。ブルボンも自分の身体を洗っておいで」

 

 そう言って、彼女の手を優しく振り払う。離れる。僅かに止まる手があったけど、やがてお互い別の場所に行く。

 多分いつか、いつかはわからないけど確実にあるその時のように。未来のように、離れていく。

 

 

「いい湯だね」

「はい、マスター」

「上がったら、眠れそう?」

「……体温の上昇を感知。意識にも眠気が混濁しています」

「それはよかった」

 

 ざぱん。ざぱん。多分これも、今だから。結局今日ここに来て同じ湯船に浸かっているのも、トレーナーと担当ウマ娘の関係だから。憧れと、それを支える者。そこに逆転は起こらず、だからこそ強固。そして解体もしやすいのだ。つまり、それが正解。それ以上の答えなんて、どこにもあるはずがない。

 

「……そろそろ上がろうか」

「はい、マスター」

 

 居心地が良さそうに思えても、ずっと同じところにいたら湯あたりしてしまう。だから適度な時間で、少し名残惜しいくらいがいい。そこに別れの哀しさがあるとしても、それも含めて正しい。やっぱり私は、ここを超えない。貴女にも、超えさせない。

 そうして、湯船から上がって、浴衣に着替えて。……最後にブルボンがうっかり触ったコインロッカーが故障してしまったのは、割愛しよう。

 

「……マスター。ねむ、けが」

 

 涼しい風と、畳が柔らかい休憩室。私とブルボンは、折り重なってうつらうつら。うん、当初の目的は達成だ。肩に感じる彼女の重みを、やっぱり嬉しく思ってしまうけど。

 

「……うんうん、よーく眠りー……」

 

 予定通り、ばっちり眠くなった。私も含めて。視界が閉じられ。ゆっくりと、互いに互いを沈め。眠っていく。2人とも。底なしの幸せへ。

 白い世界。意識が白に染まって、私は夢の中にいることに気づく。ああ、なんて素晴らしい。味気ない空間に感動している自分がいて、漸く気づく。夢を見るだけで、私は幸せなのだ。それはどんな夢でも変わらない。私がかつて見た夢も。私が彼女に見た夢も。眠る私が見る夢も。その側には、この世界には。ウマ娘がいつも、夢を見せてくれるから。だからきっと、これから先も。きっと幸せを新しく見つけられると、前向きそうな答えを見た。

 ごとん。頭を打って、強制的に目が覚める。……おかげさまで、夢の内容を忘れずに起きれた。たとえ何もなくても、夢そのものが幸せなんだ。そう、貴女がきっかけで知れたこと。きっと、ずっと忘れない。傍のブルボンを見ると、まだすやすやと。私の肩からずり落ちそうなので、少し支えてやる。小さく寝言が、聞こえた。

 

「……マス……ター……」

 

 ふふっ。ほんとに私の夢を見てる。彼女は私のことを、どう思っているのだろう。マスター。その言葉に、どれほどの親愛を込めてくれているのだろう。

 

「ねえ、ブルボン。こっそり教えてあげるけど。私は貴女の夢を見れて、幸せだったよ。頑張り屋さんなところも、ちょっと天然なところも。大好き」

 

 そう、今のうちに吐き出しておく。返事の代わりに寝息が返ってくる。私と貴女で、最初の三年間を乗り越えて。これから先、ミホノブルボンはきっと走り続ける。私だけじゃないたくさんの人の憧れに、彼女はもうなっているのだから。そしていつかは。そしていつかは引退して、家庭を持って。ウマ娘として走ることをやめた先に、まだ新しい幸せが待っているはず。だって貴女は、とっても素敵な女の子なんだから。きっとみんなに愛されると、強く強く信じている。いつか自分の道を往き、その側に私がいなくなっても。絶対そうでなきゃいけない。そうじゃなきゃ、三女神様だって許さない。

 

「おはようございます、マスター」

 

 ぱちっ。きれいな瞳が開かれる。ブルボンは目を覚ますと、すらすらと挨拶を述べた。そして、いきなり謝った。

 

「……夢の内容は、覚えていません……。失敗です、マスター……」

 

 そう申し訳なさそうに述べるブルボンに向けて。私はそれは違うよ、と首を横に振る。

 

「大丈夫。貴女の夢は、私が見てあげるから」

「それは、どういう」

 

 自分でもうまく言語化できないけど。ミホノブルボンというウマ娘のことを、私はよく知っている。だから、私は貴女を見ている。夢だって、いつものように支えてあげる。それが私の、トレーナーの役目。それなら、当たり前のことだったのだ。

 

「だから、大丈夫だってこと!」

 

 なんとなく、根拠はない。だけど当たり前。互いを信じるとは、そういうことだから。

 

「……はい、マスター」

 

 だから、貴女が大丈夫だとわかる。彼女はいつも私を信じてくれていた。理屈がなくても、心が戸惑っても、いつも。なら、最後まで。貴女の競争生命の最後まで、いつか新しく飛び立つ始まりまで。それが、私から貴女に贈れる最大限。私も貴女を信じていると、そう示す最良の手段。

 

「よし、帰ろうか」

「はい。マスター、よろしければまた」

「……うん。また、一緒に来ようね」

 

 また。また貴女が悩みを抱えたら、私はまた貴女とここに来る。そうしてまた一つ、貴女を大人にできる。一つ一つ解決に向かって、成長して。永遠に同じことが続かないからこそ、人は幸せでいられる。かつて走ることに悩んだように、いつか走り終えることにも悩むだろう。でも、それでいい。悩んだとしても、私は絶対に貴女の背中を押してあげるから。そして。そしてきっと、終わることが正解になる未来に辿り着く。終わりはきっと、何かの始まり。だからそれもやっぱり祝福すべきことで、その時も貴女が踏み出せる手助けが出来たらいいと思う。心から、それだけを願っている。だって、貴女が大好きだから。

 だから、その時。貴女がもう、一人で立てるようになった時。

 私の愛は、鋼の如く燃え尽きる。



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大人になりたい子供の二人

やっぱりリメイクです


 恋。それは大人への階段。恋。きっと、いつかアタシの未来にあるもの。だからマヤは、日々"いいオンナ"目指して修行中だ。トレンドだって外さないし、いつでもキミを夢中にさせる準備はできている。ああ、でも。"キミ"はいつ現れるのだろう。未来のマヤと巡り合う、運命のキミ。マヤをムチューにさせてくれる、ステキな人がきっとどこかに────。

 

「どうしたの、マヤノ? ぼーっとして」

「……うわっ! テイオーちゃん! マヤちょっとオトナな悩みをしてたのに!」

 

 ベッドの上でごろごろしてたところに、聞き馴染みのある声がやってくる。同室のウマ娘、トウカイテイオーだ。彼女はすっごくキラキラしてる。多分アタシにはないものを、きっとたくさん持っている。でもマヤだって負けない! 恋する乙女の力を手に入れられれば、そう! テイオーちゃんにはそれが……ない、はず。はず、なんだけど。

 

「ねえ聞いてよマヤノ〜! 今日カイチョーがさあ……」

 

 はず、だよね? 自信がなくなってきた。いつもテイオーちゃんは生徒会長、会長さんのことを喋っている。それってもしかして、もしかすると?

 禁断のコイ、かも。

 

「……テイオーちゃん、会長さんのことが好きなの?」

 

 好奇心。あるいは対抗心。同室の相手はライバルの一人。絶対先にオトナの女になるんだ、そう思っていた相手の一人。恋を知るのは自分が先だと、勝ちたいと思う気持ちはあるけれど。恋に恋する乙女として、マヤノトップガンは他人の恋にだって気を配らずにはいられない。

 

「……? 好きだよ? すっごくソンケーしてるんだ!」

「……恋してるわけじゃ、ないの?」

 

 でも、でも。もしもそうなら、それは触れてはならぬ恋の形。見てはいけない愛の形。ならば自分は、そっとしておくべきか。応援した方がいいのだろうか。いつかアブナイ本に書いてあった、同性同士の禁じられた愛。それ、だとしたら。

 

 

「……コイ? 何言ってるのさマヤノ、ボクとカイチョーはウマ娘同士だよー!」

 

 テイオーちゃんは、知らないんだ。そんな禁忌の愛の形なんて。なら安心。いや、もしかしたら気づいてないだけ? だってテイオーちゃん、そういうの鈍そうだし。そうだとしたら、ほっといた方がマヤに有利? そうすれば、先に大人になるのはアタシ。でも、マヤだけなんて。テイオーちゃんを、置いてけぼりにする。それはなんだか、ちょっとだけイヤだった。

 

「……あはは、そうだよね! マヤ変なこと聞いちゃった!」

 

 やっぱり、ホントに恋かはわからない。でもなんとなく、テイオーちゃんは隠してるか、わかってないか。何か違うのは、"わかった"。今はそこまで。でもいつか、もっとわかるかな? そうだったらいいと思う。

 

「カイチョーのこと、すっごく好きだよ。

 ボクの目標! カイチョーみたいになりたくて、そのために。そのためならボクはなんだってできる」

 

 そう語るテイオーちゃんの表情が、少し変わる。真剣だった。本気だった。気持ちのホントがわからなくても、それが迷いなはずないって。そう、思えた。

 

「……マヤノは何かそーいう目標、ないの?」

 

 そう、トーンを変えて。質問者が、こちらからあちらに転換する。アタシ。マヤには、キラキラがあるのかな。そう、少し考えて。

 

「マヤは……ワクワクしたい」

 

 そして、しっかりと。言葉を吐き出す。だいぶんふわふわした内容になっちゃったけど。

 

「……ワクワク?」

 

 やっぱりはっきりしてないよね。正確に言えばきっと、わからない、というのが正解なのだろうけど。

 でも、この気持ちはウソじゃない。生まれてすらないホントの気持ちを吐き出しているのは、テイオーちゃんが自分のそれを見せてくれたから。私たちは、まだオトナじゃない。

 

「うん、ワクワクして。ドキドキして。そんな気持ちになりたい。……だーかーらー!」

 

 だけど、だからこそ。子供でいられるこの今は、きっとそれも必要なもの。大人になりたいからこそ、子供は頑張らなきゃいけない。そう、それには何か、ずきゅんと来るものが。

 

「恋をしたいの! トキメキたいの! それで、テイオーちゃんと会長さんのカンケーがそういうのだったら、参考になるかなーって」

 

 そう、ダメ元で。先程曖昧だったものを、今度は直球勝負で聞いてみる。正確には、参考に、というより。対抗心とか応援したい気持ちとか、お節介のない混ぜだけど。

 

「……えへへ、カイチョーのことは好きだけど、コイってちゅーしたいとか、そういうのでしょ? ボクはカイチョーに褒めてもらえるならそれで……」

「ホントは?」

「……不安になってきた……。マヤノが変なこと言うからだよー!」

 

 うーん、間違えたかも。オトナの女がここにはいない。だから恋の何たるかなんて、自分だってわからない。だから聞いてみたけど、テイオーちゃんにもわからない……。どうしよう。

 

「うーん……。でもテイオーちゃんのそれって、単純なソンケーだけじゃないと思うんだよなあ……」

「マヤノがそういうなら、そうかも……。ああでもっ、ちゅーとかは絶対! ぜったいないから!」

 

 2人でぽく、ぽく、ぽく。自分たちはまだ子供で、何も知らないのだとわかる。真剣に考えても、オトナたちから見ればおあそびにしかならないことしか思いつかないのだろう。どきどきと動く心臓は、自分たちが成長するために頑張っている。そうやって毎日大人に近づいてはいるけど、今すぐにはなれない。

 

「あーあ、早くオトナになりたいなー……」

「ボクもはやくカイチョーみたいに、かっこよくて、すごいウマ娘になりたいよ……」

 

 互いのベッドにそれぞれ寝転んで、二人の気持ちが重なって。大人になりたい二人の子供は、ウンウンと悩み続けていた。二人なら大人の考えに届くだろうか。たとえそうではないとしても、同じことを考えていた。同じ時間を過ごしていた。

 

「目標は、具体的な目標はあるの?」

 

 ふと、呟いてみる。大人になるための目標。テイオーちゃんの、夢。そんな少しの未来の話を、ちょっと聞いてみたくなったから。

 

「おお! よくぞきいてくれたまえ!」

 

 怪しい日本語とともに、彼女は一枚の紙を取り出した。そこに、サインペンでさらさらと。

 

「目指せ、無敗の、三冠ウマ娘……と! どう!?」

「デビュー戦もまだなのに、気が早くない?」

「そんなことないぞよ〜! すぐにすごいトレーナーを見つけて、すごいデビュー戦を飾って、あっという間にカイチョーを超えてみせるんだから!」

 

 少し、羨ましいかも。目標の高さはとてつもなくくっきりはっきりわかっていて、それでもその上に夢を見ている。拙いかもしれないけど、確かなキラキラがテイオーちゃんには見えた。

 

「いいなあ、マヤも……そうだ!」

 

 そこで少し閃く。漠然とした彼方の目標で、まだテイオーちゃんには敵わないかもだけど。負けるつもりはないから。

 

「素敵なトレーナーちゃんを見つけて、素敵なランデブーをするの! 飛行機に乗って、窓から綺麗な夜空を見下ろして……」

「それ、なんか具体的すぎない?」

「テイオーちゃんの方がよっぽど具体的だよ? すごいと思う」

「マヤノもすごいと思うよ。……もちろん、ボクが一番すごいけど!」

 

 さらっとテイオーちゃんを褒めたら、褒め返された。意外だ。内心敵わないと思いながら、こんなことを言ってたのに。

 

「ボクさ、たまに不安になっちゃうんだ。"もし、夢が叶わなかったら"。だから夢がはっきりしてくるのは、ドキドキする。二つの意味で。でもマヤノはさ、走ること以外にも楽しみがあるっていうか、いつでもどこでも何かを楽しめそうっていうか」

 

 面と向かってそんなことを言われたら照れてしまう。悪い気もしないけど。マヤはテイオーちゃんがキラキラしてるって思ったけど、テイオーちゃんから見ればその逆。そうだとしたらくすぐったい。子供らしいないものねだりにすぎないとしても、心が温まる音がして。

 

「テイオーちゃんは、本当に真剣だね」

 

 そしてそうやって、褒められたら。こっちも、更に褒めたくなる。

 

「……マヤそんなに、一つのことに夢中になれないもん。レースは楽しいけど、トレーニングがつまんないから全然走ってない。テイオーちゃんは、我慢してトレーニングしてるの?」

「それは、違うかも」

 

 違う。私とキミはやっぱり、モノの見え方が違う。でもそれは、悪いことじゃなくて。それぞれの伸ばすべき長所、なのかも。

 

「トレーニングは、すっごく楽しいんだ。力が湧いてくるって、強くなってるって実感できる。……確かに同じことの繰り返しだけど、結果は毎回違うんだよ? 真剣さが絶対、報われるんだ」

「……マヤは毎回違うことをしたいなーって思っちゃうけど。同じことでも、毎回違うってこと?」

「ふっふーん、マヤノもまだ子供だなあ! ワガハイがこれから教えてしんぜよう〜!」

「授業はつまんないからやだー。……でもさ、やっぱりみんな違うってことかも」

 

 そう、違う。誰一人として同じウマ娘はいない。そんなそれこそ子供でも知ってそうなことだけど、それがよくわかった気がする。大人の階段を、二人一緒にまた一つ。

 

「……違う、か……。ボクもカイチョーとは、違う。そういうことかな」

「なんとなく言っただけだよ」

「マヤノのなんとなくは当たるじゃん」

 

 そう、誰もがみんな違うなら。それはもちろん、いいことでもある。けれど誰かのようになりたい、という目標も、成し遂げられないものかもしれない。……でも、テイオーちゃんはそうだとしても、あきらめないと思った。走り続けると思った。これは勘じゃなくて、それなりの付き合いからの経験則。

 

「……さっきも話したけどさ。夢がもし、叶わなかったら。叶ったとしても、叶った後。ボクたちが、大人になった後」

 

 なんとなく、テイオーちゃんの言いたいことがわかった。だから、自然と引き継いで、言葉にする。

 

「将来って、未来って。どうなるんだろうね。早く大人になりたくても、早くなることはできなくて。ずっと子供でいたくても、子供のままではいられない」

 

 当たり前のことを言ってしまう。でも、これが私たちの同じ悩みなのかも。大人になりたい、子供でいたい。そんなわがままを、今ここでなら口に出せる。そうして声にすることが、きっと何より意味があって。

 

「デビュー、怖いね……」

「……うん」

 

 そんな弱音も、きっと意味がある。成長したいけど、成長は怖い。勇気もやる気もあるとしても、待ってる間はとっても怖い。だからこうして、支え合うのかもしれない。大人になってもそうだったらいいな、そう思った。

 ふと窓から夜空を見上げると、キラキラの星が瞬いていた。夜の空に光る星は、何億年もずっと同じ姿をしているらしい。それでも、ずっと光っているわけじゃなくて。何億年が終わった後、その星はいのちを終える。その時、どんな気持ちなんだろう。そんなふうに息を呑んでいたら、テイオーちゃんが不思議そうに聞いてきた。

 

「どうしたの、マヤノ」

「あそこに光ってる星にも、命の流れが、始まりと終わりがあるんだなーって。改めて」

「……すごいスケールの大きいことを考えてるね。やっぱりマヤノの見てるところは、ボクとは違ったりして面白いなー!」

 

 自分からすればテイオーちゃんの見てるモノも、面白い。デビューして、無敗の三冠ウマ娘になって、憧れの人を超える。そんなどこまでもはっきりして、鮮やかな夢。それはあまりにも近い着地点すぎて、ぶつかってしまいそうなのに。彼女はそこに向かって、少しもぶれることがなかった。うん、やっぱり。

 

「テイオーちゃんと同じ部屋でよかった」

「ボクも。マヤノと同じ部屋でよかった」

 

 不意に、互いの存在に感謝する。そうして、二人で同じように夜空を見上げる。同じことを考えて、同じ時間を過ごして。どこまでも、同じように。

 きっと子供の自分たちは、これから成長していく。そうして、互いの違いがわかっていく。時には噛み合わないことすら見つかるかもしれない。でもきっとそうやって誰もが違うから、誰かと一緒にいる意味がある。この関係もそうだったらいいな、そう思う。デビューしても、夢が叶っても、大人になっても。数億年もの間同じように並んで光る星たちのように、そうであったら嬉しい。

 そうだ。もしあの星に祈れば、願いごとが叶うというのなら。もちろんひとつといわず、たくさん叶えたいけど。一つ、今思いついたものがある。今日はそれをお願いしよう。これから先、とっても先の話だけど。やっぱり自分にとっての目標は、ワクワクでいっぱいなとびきり先の話がいい。

 おばあちゃんになっても、ずっと友達で。

 未来に一つ。夢よ、煌めけ。



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セイウンスカイのあなたが死ぬまでにやりたいこと

リメイク


 現実の出来事は唐突だ。それでいて物語より劇的だから始末に負えない。私がトレーナーさんから余命について告げられた時、最初にそう思ったのを覚えている。

 一年。前後するかもしれないがな、などと課題の提出期限をごまかすかのようにあなたは言った。私がなんと返したかは覚えていない。現代医学ではどうにもならない難病。私たちが全霊を賭けて得た栄光を注ぎ込んでも、存在しない治療法にお金を払うことはできない。二人なら無敵だとさえ思っていた私の幻想は、無慈悲で不条理な現実に叩き潰されたのだ。

 それから数日。大切に噛み締めるべき、或いは何かしらいつものように策を練るべき時間を既に無為にしてしまった。これから何日間私はその事実を引きずり、そのために逃してはならないものを逃すのだろう。

 まだ、最初の恋すら言の葉にできていないのに。かつて私に優しい熱をくれたそれは、今は冷たく心臓を締め付ける。これがあるから苦しいのかもしれないとさえ、思う。それでも、どうしても手放せなかった。それが私のエゴイズム。たとえ、他者を想うものだとしても。

 今日もベッドで蹲り、後悔を重ねる。何故今まで、何故あの時。踏み込めなかったのか、あるいは離れられなかったのか。永遠だと根拠なく信じていた。だから、ずっとこのままの関係でも幸せだった。そうして、時間を止めていた。あなたの時間はそんなこと関係なく、終わりへと動き続けていたのに。時の進みが交換できればどんなに良かったか。あなたの代わりに、私が。未来を恐れる私に未来は要らない。ならば、せめて。そんなことすら考えてしまうのに、現実にはそんなアイテムはない。そして、あったとしてもきっとあなたは笑顔で断るのだ。だって、あなたはあの日もそうだったから。

 さりげなく、あっさりと。どうしても心配をかけてしまうとしても、できるだけかけないように。無駄に頭の回る私は、余命についてすらすら口にするあなたの態度から、そんな気配りばかり勘づいてしまった。私たちはもう気の置けない仲だと思っていた。私の心にすら気付かれているのではないかとびくびくしていたものだ。それなのに、それなのに。私は、まるであなたを知らなかった。曝け出すほどの信用がなかったとしても、大切だから配慮されていたとしても。そして私もきっと、あなたに伝えられないまま。そのまま全ては終わる。そういうことに、なってしまう。このまま、止まっていたら。

 

「……やだよ」

 

 そんなのは、嫌だ。私は漸く起き上がって机に向かい、一つ真っ新なノートを取り出す。表紙をめくり、白い砂漠に願いを並べる。何度もシャーペンの芯を折りながら、それでも心が折れないように。あなたと行きたい場所。あなたとしたいこと。あなたに伝えたいこと。あなたに、あなたのために。

 あなたが死ぬまでにやりたいこと。

 これが、私の最後の作戦だ。

 

 *

 

 朝は早く起きる。一つ目に書いてある、これからの鉄則だ。もうすっかり筆跡と涙でぐしゃぐしゃになったノートを机から手に取り、鞄へ詰め込む。荷物はこれだけ。それも決めたこと。とびっきり速く走ってあなたに会いに行く。それもやっぱり、あなたのために決意したこと。

 

「おお、スカイ。今日は早いな」

 

 久しぶりのトレーニング。こともなげにあなたは言う。

 

「おはようございます、トレーナーさん。これからは毎日早いですよ」

 

 覚悟を込めて私は言う。今日。毎日。どちらも、絶対無駄には出来ないから。

 

「さあ、行きましょう」

 

 会話もなく唐突に、けれどしっかり手を取って。少し強めに、離すまいと引っ張って。未だ現世にいるあなたを握りしめて。

 

「今日から、私たちは恋人です」

 

 さらり。いつか言ってみたかった言葉だ。こんな形でなんて、なりたくなかったけど。でもそれも昨日までの話。今日からは、これも心からやりたいこと。

 

「……恋人?」

「トレーナーさん、いるんですか?」

「いないな」

「じゃあいいじゃないですか」

 

 ああ、こんなに簡単に聞けてしまうんだ。これだけのことが、今まであんなに遠くて。それを詰めるために、数年すら覚悟していた。でも、そんなゆったりとした語らいはもう叶わない。

 

「スカイが言うことなら。ありがたく気持ちを受け取るよ」

「……それでよろしい」

 

 本当の関係にはもう二度となれないかもしれない。強引で、情緒のない。「やりたいことリスト」の通りに、私は事を進めていく。ぎこちないそれは、まるで契約したての私たち。それでも。

 

「これから、毎日幸せにします。ずーっと、死ぬまで」

「……死ぬまで、か」

 

 それでも。恋愛のいろはもわからない私。あなたの苦しみに気づいていなかった私。何もかもが、遅すぎた私。そんな私程度の存在でも、あなたの最期を彩るくらいはできると信じたい。

 

「さあ行きますよ! まずは遊園地! 恋人と行く鉄板スポットでーす♪」

 

 繋いだあなたの手を引いて、晴れやかに青空の下へ飛び出す。

 あなたのいのちのために。私のいのちを燃やし尽くそう。

 

 *

 

「お客様、何名様ですか?」

「幸せカップル! 二人です!」

「まあ、それはそれは。楽しんでいってくださいね」

「……スカイ」

「……老い先短いんですから、これくらいどハッピーにいかなきゃダメですよ、トレーナーさん?」

 

 入場チケットを購入し、煌めく遊園地へ二人で足を踏み入れる。私のこれはもちろん空元気。その裏には今にも泣き出しそうな素顔が潜んでいる。でも、仮面を被るのには慣れている。それにたとえ慣れていなくても、あなたといられるなら幸せだ。あなたが理由で泣いたって、それもきっと幸せだと。そう、そうしたいと決めたのだから。

 

「何から行きます? ジェットコースター? 狭いから嫌ですね。観覧車? ガラス張りならいいですよ。コーヒーカップ? ラブラブカップルの定番ですよね、あとは」

「……スカイ、無理してないか」

「……二度とそんなこと言わないでくださいよ」

 

 そんなことを言うなんて、信じられない。ダメだ。それだけは、言わせたくない。

 

「……ああ、悪い」

 

 ずっと無理していたのはあなたの方なのに。無理させていたのは、鈍感を極めた私の方なのに。あなたはこれから先、一つだって背負うべきじゃないんだから。それは私の仕事だ。あなたの終わりに、一緒にいること。それだって、「やりたいこと」。

 

「……はい、じゃあ全部行きましょうか! 本当は苦手なのもありますけど、でも」

 

 うん、それは本当。我ながら好き嫌いが激しい。

 

「トレーナーさんとなら、幸せですよ」

 

 けれど。あなたが一番好きだから。好きな人となら、なんだって。

 

「……はぁ、はぁ……洞窟を通るなんて聞いてない、あんなにガチガチに固定するなんて聞いてない……」

「ずっと悲鳴あげてたな、スカイ」

「そりゃ、それがジェットコースターの正しい楽しみ方でしょう。トレーナーさんは楽しまなさすぎですよ」

「そんなことないよ。スカイの可愛い声が聞けて楽しかった」

「……本当ですか?」

「本当、本当」

「なら許しましょう」

 

 楽しい。

 

「思ったよりは狭くないですけど……見つめ合うのってドキドキしますね」

「これから20分はこの中で二人きりだな」

「……うーん、狭いところを嘆くべきか、恋人との密着を楽しむべきか……」

「密着ってほど密着してないと思うが」

「……これから、密着するんですよ……おりゃ」

「うわっ!?」

「どきどきしますねえ……」

「びっくりしたよ……」

 

 楽しい。

 

「さあさあウマ娘の本領発揮! 誰にも負けない速度で回しますよ〜!」

「おいおい! ちょっと速すぎる……!」

「……あー、目が回ってきました。まだ回しますけど」

「ちょっ、スカイ!?」

「……冗談でーす♪ それ、ぐるぐる〜」

「俺の方が目が回りそうだ……」

「ありゃ、大丈夫ですかトレーナーさん」

「……冗談だよ」

「だと思った。トレーナーさん、まだまだ修行が足りませんなぁ」

 

 本当に、楽しい。

 時間の進みはやはり残酷で、あっという間に日は暮れる。また1日、大切なあなたが消えてゆく。

 

「……お疲れ様でした」

「楽しかったな」

「でしょう? トレーナーさんにも死ぬ前に恋人ができて良かったですね」

「……まったく、本当だな」

 

 出来るだけあなたの死を軽く受け止めたいのに、そんな想いを込めた言葉は上滑りして虚空に消える。あなたはせめて、少し重荷を下ろせただろうか。

 

「また明日からも、たくさんデートしましょうね」

「トレーニングはいいのか?」

「サボり魔だからいいんです。本当に、まだまだやりたいことはいっぱいあるんですから」

 

 明日からも。あなたの人生は幸せだった、そう今からでも思えたなら。私のトレーニングに付き合ったのが最後だなんて、そんなのは私が私を許せない。「やりたいこと」はいくらでもある。もしかしたら、全部は出来ないかもしれないけど。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

「……なんだ」

「こんなにいい雰囲気なんだから、やらなきゃまずいことがあるんじゃないですか?」

 

 黒い空。光る星。周りにはネオンや電飾が光り、私たちを夢の世界に誘ってくれている。ここならば、本当の永遠を約束できる。そんな気がした。現実より、夢に近い気がした。今だけは、そう思いたかった。

 立ち止まって、あなたの瞳を見つめて。そっと、顔を近づける。

 

「……トレーナーさん」

 

 これで、きっと。幸せな夢を見られる。あなたはせめて、そうであってほしい。そう思ったのに。

 

「……いいや。やっぱりダメだ」

 

 なんで。近づいたはずの二人が、離れてゆく。

 

「怒られるかもしれないけど、君に無理をしてほしくない。俺に情けをかけてくれるのは嬉しいけど、それは君を傷つける行為だ。どれだけ君のそれが真摯な想いでも」

 

 なんで。私はあなたの眼を、見ていられなくなる。

 

「だから、恋人ごっこは今日きりにしてくれ。……すまない、こんなキツい言い方するつもりは……」

「なんで。なんで、そんなこと言うんですか!」

 

 そして。初めて、あなたに怒りをぶつける。ノートがびりびりに破けるような、そんな音が心の奥から聞こえた気がした。

 

「私はあなたのことが好きです。好きだから恋人になりたかったんです。それの何がおかしいんですか。情け? 馬鹿にするのもいい加減にしてくださいよ。ごっこ? 気持ちをぞんざいに扱うのも大概にしてくださいよ。あなたの私への信頼とかって、そんなものだったんですか? 私の抱えてた気持ちって、その程度だったんですか?」

「……スカイ、ごめん」

「……謝らなくていいですよ。謝ったって、なんにもならない。私はそれがわかってるから、こんな話したくなかったのに」

 

 もう、駄目だ。あなたの言う通りの薄っぺらな恋人ごっこは、粉々に砕けて剥がれ落ちる。わかっていた。きっとずっとわかっていた。指摘されるまで見ないふりをしていた。そういう意味で、私の覚悟はニセモノだった。

 

「ごめんなさい。今まであなたとの時間を無駄にしてきてごめんなさい。相手の気持ちも考えられなくてごめんなさい。ごめんなさい。あなたの貴重な人生を私なんかに費やさせてごめんなさい」

 

 今の自分の顔がわからない。気持ちはぐしゃぐしゃ。どれが私の表に来ているのか。批難、激昂、悲哀、恋慕。どれにしたってみっともなくて、私は無価値だということはわかる。

 

「恋人になりたいなんて言って、ごめんなさい」

 

 くるり。踵を返す。踏み込んで、駆け出す、逃げ出す。あなたが追いかけたって間に合わないくらい、速く。もう二度と、会えないように。カバンに入れたままのやりたいことリストが、空しくその中を動き回る音がした。どこにも行けない、私と同じだった。

 

「スカイ!」

 

 何度も呼ぶ声もあなたの追いかける足音も聞こえないふりをして、一人で寮へ帰った。独りにならなきゃいけなかった。

 

 *

 

「うっ……うぇぇん……ぐすっ……もう、なんで……」

 

 寮にある暗い個室で、どうしようもなく泣き叫ぶ。あなたの幸せ。そのためだけに生きるつもりだったのに、私はひとしきりあなたを罵って消えていった。救いようがない。十分泣けば後悔が涙を後押しし、二十分泣けば罪の意識が鼻を刺激した。

 おそらくあなたは、これからこのことを後悔して生きてしまう。最期まで、私なんかに心を占有されたまま生きてしまう。私の方もあなたを一生忘れなければ釣り合いが取れるだろうか。いや、取れるわけがない。私なんかが百人いたって、あなたの価値には敵わない。これから送るべきあなたの幸せを刈り取った大罪人。あなたがいなくなった後、あなたのことを想う権利すらない。むしろ必死に忘れなければ、生きる資格だってない。むしろそうして代わりに命を捨てれるなら、全てが解決してくれるのに。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 もう届かない謝罪をひたすらに続ける。

 

「……スカイ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 あなたの声が聞こえてきた。そんなはずないのに。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 もう全てが手遅れなのに。

 

「……スカイ!」

 

 ……え? トレーナーさんの、声だった。二度と会えないようにしたはずの、声。扉の外から、その声は続ける。

 

「スカイ、聞こえるか? 寮長のヒシアマゾンに頼んで入れてもらった。許可はあるってことだ。開けてくれ」

「開けたらどうするんですか」

「どうもしない。話がしたい」

「……そうですか」

 

 もう一度だけ、あなたに会えるのかな。もう一度あれば、せめて本当にお別れできるかな。そう思って、扉を開ける。開けた瞬間。

 あなたは部屋に飛び込んで、私の全身を思い切り抱きしめた。

 

 

「……なっ……なんで?」

「スカイのことが好きだからだよ」

 

 わけがわからない。離さまいと抱きしめられるわけが。

 

「あんなに、酷いことしたのに? 酷いこと、言ったのに?」

「俺の方が酷い。君を置いて先に逝ってしまう。……本当は怖い。死ぬのは怖い。文字通り死ぬまでもがき苦しむ。だから、それを和らげようとしてくれた君には感謝しなきゃいけなかったのに」

 

 わけがわからない。愛を込めて抱きしめられるわけが。

 

「本当に、俺は弱い。最後まで一人になろうとした。君の言う通りだ。信頼を軽んじ、気持ちを踏み躙り。全部の手を振り払って、地獄へ堕ちようとしていた」

「やめて、そんなこと」

「……そうだ。だから止めるよ。もう君を裏切ったりしない。ずっと、だ」

 

 トレーナーさんの、弱さ。それが、ようやくわかる。独りを選ぼうとして、それが愛する人のためだって。そんな恥ずかしい台詞が、本人の口から語られる。私たちは、互いの弱さを見せ合う。独りになりたい弱さと、一緒にいたい弱さ。それはちぐはぐで噛み合わないとしても、互いの全てを知りたいから。あなたに知って欲しいから。あなたを知りたいから。だから、私たちは愛し合える。

 

「ねえ、トレーナーさんは。なんでトレーナーさんは、死んでしまうんでしょうね」

 

 少し落ち着いて。あなたの匂いを鼻水まみれの鼻で嗅ぎながら、どうしようもない疑問をこぼす。現実の話だ。吐きたくなかった弱音も、今ならあなたに零せるだろう。

 

「……スカイ」

「こんなに優しいのに。こんなに愛してるのに。神様なんていないんですかね」

 

 ぎゅっと、背中を抱きしめて。もしも神様がいるならば、こんなに素敵な人に死神を送りつけるだろうか。現実は理不尽。どこにも見えざる手を感じない。やっぱり、どうしようもない。

 

「俺も確かにそう思った。なんで俺が死ななきゃならないんだって。神に見捨てられたとはこういうことかと思った。でも、今ならわかる。神様はいるよ」

 

 それなのに、あなたはそんなことを言う。うそだ、と思った。こんな残酷な、現実なのに。

 

「いるんだ。そいつは俺を君に会わせてくれた。だから、俺は幸せな人生だったよ」

 

 でも、そう言われてしまえば。それなら仕方ないと、そう思ってしまう。私の存在が、あなたの人生の理由になれたなら。それが神様の手引きだと思うほどならば、私はそれを否定なんかできない。

 

「そんなことを言えるなんて、トレーナーさんがきっと神様ですね」

「……それは大変だ。神様なのに一人のウマ娘に恋までしてしまった」

「……私、罪深い女ですね」

 

 罪は背負おう。あなたのためなら。私のための、あなたのためなら。あなたが私の、私だけの神様。それくらい、それくらいの気持ちがあるとも。きっと、愛とはそういうこと。

 

「トレーナーさん、私のどんなところが好きですか?」

「いくらかあるよ。いくらでも言える。言えば言うほど新しく思いつく」

 

 ああ、それはどんなにか素晴らしい。嬉しいし、いくらでも聞きたい。

 

「私も言えます。トレーナーさんが好きって、今度こそ」

 

 私もその通り。いくら言っても飽きないだろう。けれど、今は。今はとりあえず。

 

「スカイ」

「トレーナーさん」

「「愛してる」」

 

 この言葉だけでいい。

 私たちは、世界一幸せだ。

 

 

「私、トレーナーさんのこと。ずっとずーっと覚えておきます。何もかも、匂いまで。そうすればトレーナーさんは、私がおばあちゃんになって死ぬまで、一緒に生きてるのと同じです。人が死ぬのは、誰も覚えていなくなった時ですから」

「ありがとう。でもいつかは俺を忘れてもいいんだぞ? 亡くした恋人に引きずられるなんて……いたた!?」

 

 相変わらず自分を大事にしないトレーナーさんに、裁きのぎゅー。これくらいの力加減で死ぬことはないだろう。だってまだまだ、これから生きてもらわなきゃいけないんだから。

 

「私はトレーナーさんとの思い出で、一生分幸せになってみせますよ。その自信があります。……これから、いっぱい思い出作りましょうね?」

「……ああ、もちろん。俺だって負けない。死ぬ気で生きてやる。なんだかそんな気が湧いてきた。余命なんて決まってるもんじゃないさ」

「その意気、その意気」

 

 そう、現実は物語より唐突で劇的だ。ひょんなことから治療法が見つかって、すっきり健康になれるかもしれない。ここまで語った決意は全部無駄になって、二人で穏やかな老後を過ごすのだ。子供や孫もたくさんに囲まれて……。それが夢か現実かなんて、未来は誰にもわからない。時間は止まらず、常に動いているのだから。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 そうだ。ピンときて、あなたの肩に力をぐっと込める。

 

「うわっ……と、どうしたスカイ、急に倒れ込んで!?」

「トレーナーさん? これは、押し倒す、って言うんですよ?」

 

 目の前の神様も、私のことなら許してくれるだろう。他には誰も見ていない。……まあバレたなら、それはそれ。既成事実、というやつだ。

 

「覚悟、です☆」

 

 あなたが死ぬまでにやりたいこと、一つ開始。



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シュレディンガーのセイウンスカイ

リメイク何度目か


 ざざーん、ざざん。夜の海は静かだ。聞こえてくるのは波の音だけ。耀くのは白い月だけ。鏤められた星と照り返す海面の光はその他大勢のようなもので、まったくもって煩くない。私と同じだ。文句も言わず、すーっと朝には消えてゆく。私たちの朝は、もう少しで訪れる。

 宝塚記念を終えて、私とトレーナーさんは三年目の夏合宿を迎えていた。そしてそんな大事な時期の深夜、ゆっくり休むべき時間に私は海辺を歩いている。明日の寝不足にも構わず夜更かしをして、自分を大切にしていない。そうする理由は単純で、そうしないとつまらないから。真面目にやるのなんてつまらない。勝てなくなった勝負なんて、つまらない。

 

「はぁ、なんだかな」

 

 虚空に苛立ちを吐き出す。曖昧な独り言だけど、それが苛立ちだと自分には認識できた。私が苛立つ相手がいるとしたら、誰だろう。無意味な考察。本来セイウンスカイというウマ娘が行ってよい思考は、次を勝つための策謀だけ。それを外れてしまった時点で私は私じゃないかもしれないのに、苛立つ先を求めてしまう。たとえば私より輝いている同期のみんな。たとえば私なんかを信頼してくれるトレーナーさん。そんな泡沫を頭上に浮かべて、捩れた思考の矛先を向けてみて。その瞬間に脳裏に走る嫌悪感は、私にそんな考えができない証。私が私を許せない証。つまり、私が苛立てる先があるのなら。

 それは、私自身だけ。真上に浮かぶ月の白さが、そんな残酷な答えの正しさを証明している気がした。

 そこまで自分を卑下して、また砂浜をくしゃくしゃに歩いて。時間がどれだけ経っても一向に眠気は来ない。昼から寝るのが大好きだった私にしては珍しいのかもしれない。あるいは、私は。私はもう、昔の私とは別人になってしまっているのかもしれない。そんな馬鹿げた考え。けれど馬鹿げた思考を続けることこそ、私が変わってしまった証左だった。もう私は私じゃないから、自分自身を憎みさえできる。見た目が同じだけの空っぽの器。それが周りの人たちを惑わせている。死んだ誰かのガワを被って、かつての繋がりに縋っている。たとえばトレーナーさんは、今日も変わらず私のための合宿特製トレーニングを考えてくれていた。トレーナーさんは、私がいつものように"フリ"をしているだけだと思っているのだろうか。それとも私が変わってしまったと気づいた上で、元に戻ってくれると信じているのだろうか。「作戦のうち」とか、「きっとまた勝てる」とか。そんな仮定を積み重ね、どこかへ消えた本気の私をまだ幻視しているのだろうか。

 

「……私にやる気なんて、残ってないのにね」

 

 無駄なのに。私の気持ちはどこにあるのか、もうわからない。勝ちたいとか逃げたいとか、そういうことをどうやって考えていたのか、わからない。わからないから、つまらない。過去をなぞって「セイウンスカイ」の行動を再現しても、どこにも空しさだけしかない。そして、それなら。そんなつまらないことをやる意味なんて、ない。それが私の結論で、他に頼れるものなんてなかった。あるとしたら、これも仮定の話。今の私が唯一逃げれるのは、もう、「もしも」だけ。

 もしも、もしも。私がまだ私だとしたら。そうすれば、みんな幸せなのだろうか。私自身も含めて、噛み合ったままだっただろうか。そうだったなら、きっと嬉しい。私が幸せを与えられるなら、それは願ってもないことだったはずだ。けれど、同時に。もしそうだとしたら、今の私は存在するだけで皆を不幸にしている。皆から「セイウンスカイ」を奪い去り、そこに居座り同じ待遇を求める。そしてそれに誰も文句は言わない。悪様にできるのは、私自身だけ。

 いつのまにか砂浜の端で座り込んでいた。細かな砂が下ろした腰にまとわりついていた。そうして視界も下ろして足元を見て、思考も暗がりへと向かっていた。夜より朝が近くて、朝の日差しが私を消してしまわないか怖かった。そんなふうに怯えていた時、だった。

 がさごそ。不意に一匹の猫が現れた。まだら模様でやせ気味で、首輪もつけていない。野良猫だろうか。此方に寄って来るその子を撫でてやる。この子は皆に愛されているのだろうか。野良猫は得てして人里の邪魔をしかねないものだ。だから誰からも愛されない可能性はあるし、当然逆に地域に溶け込む可能性もある。当人はのんびりと暮らしているだけで、どちらにせよあまり気にしていないだろうが。

 

「……っと、それは私も同じ、だったんだけどな」

 

 一人気ままに生きながら、緩やかに他者の影響を受ける。そんな野良猫のような振る舞いに、かつては親近感を覚えていた。マイペースに、揺るがず進む。誰かの真似をするでもなく、自然と私はそうしてきた。だから、そうしていたのが私だ。今、誰かの顔色を窺っている私とは違う。猫のような振る舞いを、などと型にこだわる私とは違う。そうやって過去との同一性を求める時点で、私は既に私じゃない。なのに、こうしている。

 私は結局、トレーナーさんにいい顔がしたくてこの状況に陥った。変わってしまった私がいて、それでも私が持っていた関係性は失いたくなくて。かつての私に求められていたものを再現できるなら、誰も見捨てたりなんかしない。ギリギリまで失望されないように、いつも通りのフリをすること。もう走れなくなった私にできるのは、走る前の準備運動を勿体つけてやることだけなのだ。時間をかけて、引き伸ばして。永遠にさえ、なって欲しいと。

 もしも、もしも。また頭にもしもが浮かぶ。もしも何かが違えば、この結末は来なかったのだろうか。もしも私が今の私にならなければ、そんな選択肢はあったのだろうか。それこそわからないことだったけど、不思議とつまらなくはなかった。今私に唯一考えられることだった。散々羨んだ、昔の私に近かった。

 何もかもが、もしも。もしも、違うなら。夜空のように広がる全ての事象を選択肢として頭に浮かべ、その矢印を切り替える。かち、かち、かちり。片手で猫の喉を掻きながら、もう片方で宙に図を書いていく。

 もしも、もしも。私がまだ、いつもの私だったら。あそこで負けなくて、あそこで勝っていて。そうやって、きらきらしていたあの頃と変わらなかったら。そのシミュレートを始めようとしたところで。

 

「にゃあ」

 

 と、鳴き声がして。視界は歪み、感覚は宙吊りになった。

 

 

「おはよう、スカイ」

「おはよう、トレーナーさん。今日も暑いですけど、頑張りましょっか!」

 

 私の名前はセイウンスカイ。クラシックで波に乗ったまま、シニア級でも最強世代の先陣を切っている。だからやる気に満ち溢れているし、私は文字通り追われる立場だ。油断もできない。けれど、これ以上ないくらい充実している。

 

「今度の秋天も、きっとスカイが一番人気だな」

「やめてくださいよトレーナーさん、私は人気薄の時に掻っ攫う方が得意なんですから」

 

 そう、それがいつもの私だ。考え尽くした策には確かな自信を持っている。怠惰の裏に活力の牙を研ぎ澄ませている。何も問題はない。これが正解のはずだ。トレーナーさんの信頼も、これなら裏切ることはない。

 

「よぉし、そこまで。あんまり脚に負担をかけすぎないようにな」

「心配しなくても、無理なんてしませんよ。ちょーっと、頑張っちゃうだけですったら」

 

 爽やかな受け答え。私たちに相応しいのはこれだ。軽くていい。浮ついていてもいい。だって「セイウンスカイ」は、最初からそういうウマ娘だったのだから。

 

「……はあ、お前のことはよくわからないな、スカイ」

 

 そういえば、昔のトレーナーさんはしきりにそんなことを言っていたな。最近は言われていない。それを思い出した。それはきっと安心したから。ずっとここまで勝ち進んできて、変わることのない私を見て。これで全部わかったのだと、わかったから。

 

「なんですか? セイちゃんはいつでもわかりやすいお誘いをしてるじゃないですか、昼寝とか」

「いつかはわかると思ったんだけどな」

 

 だから、私にはわからない。いつかはわかる。その言葉の意味が理解できない。ゆるっと勝って、いつでも気楽で。それと契約したのだから、それが全てでいいじゃないか。今あなたにわかっているものが、あなたにわかることのできる全てだ。私は当初の印象通り、強いウマ娘であっただけ。それ、だけ。

 

「トレーナー、さん?」

「君には底知れない強さがある。だけど俺は、君の弱さも知れたらいいと思っていた。でもそんなもの、なかったのかもな。サボりはただのサボりで、悪戯はただの悪戯」

「……やだなあ」

 

 強い私はそれでも飄々としている。誰の指図も受けないし、誰にも依らない存在であるはずだ。そうやって、何があってもいつものまま。

 

「というわけで、お別れだ」

 

 だから。

 

「さよなら、スカイ」

 

 そう言って、あなたの姿が消えても。

 

「……あらら」

 

 それ以上は、なにも言わない。心に襲う感情が、後悔であることにすら気づかず。強さと愚かさを履き違えた道化は、誰も見てくれない手品を続ける。きっと他のトレーナーを見つけて、何食わぬ顔で走り続けて。どこかで負けたとしても、心の底から「次があるさ」なんて言ってしまって。誰もが私の表面を見てくれる。誰もが印象を変えない。私自身も、私の表面だけしか見えていない。

 

「にゃあ」

 

 その声と共に、ぐにゃり。視界は再び歪み、星空が戻って来る。ギラギラと眩しくて、ホンモノじゃないような気がした。触れる砂浜も不可思議な感覚のままで、今見たものがなんなのか答えはまだ出せない。単なる夢か、願った「もしも」か。それはわからない。でも、わかることはあった。これは、求めたものではない。"いつもの私"だけが私に存在していたら、誰もがその手の内の少なさに飽き果ててしまう。トレーナーさんが、いなくなってしまう。強さだけを見せる私は、本当の意味で私らしくなんかない。

 そこまで考えて、一つの道筋を見つける。あるいは私はもっと貧弱であればいい。どうしようもないくらい、あなたがいなければだめな存在になればいい。今の私が呑み込めない嘆きを、肯定してしまえばいい。思考の矢印をまた次々に切り替えて、新しいレールを敷く。

 

「にゃあ」

 

 猫の鳴き声と共に、再び。私の意識は世界を超えた。

 

 

「……おはよう、スカイ」

「おはよう、トレーナーさん。いつも悪いですね」

 

 私の名前はセイウンスカイ。クラシックで取り返しのつかない故障をしたあと、私は病院での療養を続けている。シニア級に行ったみんなのことが羨ましい時もあるけれど、仕方ない。それを悲しみ嘆く時間は、もう越えているのだから。

 

「走りたいと、思うことはないか」

「……私は、弱いですから」

 

 どうせ、無意味だっただろう。引退までに積み上げられる功績は大したものではなく、私はこれっぽっちも勝てずに終わる。それならば、その前にこうなっても大した差ではない。だからこれでいい。そう思えば、全てに納得がいく。

 

「俺は、お前のそばにいるよ。お前が復帰できるまで、ずっと」

 

 どこかで見た「もしも」とは違う。あなたはもうずっと、私のそばにいてくれるらしい。私の弱さは、あなたを引き止めることができている。

 

「……嬉しいです」

 

 私も強がらずに、本心だけを述べる。嬉しい。幸せでなくても、嬉しい。私の弱さを認めてもらえるのは、とても嬉しいことだった。

 

「……まだ、スカイは走れるさ」

「いいんです」

 

 嬉しい。弱さを認めるだけで、嬉しい。だから、それ以外は。

 

「そんなことない」

「……いいんですったら!」

 

 私のどこかが逆撫でされて、何故か私はあなたに攻撃する。いいや、理由はわかっている。逆撫でされたもの。私の理不尽な感情。

 

「私は、もう嫌なんです。走って負けるのが、怖いんです。復帰したって勝てるわけありません。それでも勝ちたいと願うなら、それはトレーナーさんのエゴです」

 

 酷い言葉を次から次へと撃ち出す。弱音の形をしたナイフが、避ける気のないトレーナーさんの心臓を抉り取る。弱さだけで人格を作るとは、そういうこと。一方的に攻撃して、それでも反撃はなされない。励ましを求めながら、それでも励ましを拒否する。これもやっぱり、誰との繋がりも求められない。

 

「私は! トレーナーさんがいなかったら走ることもなかった! 勝利の幻想なんて持たなかったし、届かない夢を見ることもなかった!」

「……そうだな」

 

 それは確かに正しい。

 

「あなたがいなければ」

 

 あなたがいなければ。

 

「私は、こんな目に遭わずに済んだ」

 

 私は、どんな夢にも逢えなかった。そうして世界は黒に転換し、思考回路だけの空間が全身を覆う。あなたがいなければ、どうなっていたか。変遷の根本にあるものが、そんな「もしも」だと理解する。いつもの私のような強さだけを求めれば、あなたは離れていって。今の私のような弱さだけを願えば、あなたさえ拒絶してしまって。そうして大きく回り道をして、漸くわかった。なにが求めるもので、なにが正しいか。間もなく全てが消えて、全てが現れる。

 

「にゃあ」

 

 また、猫が鳴いた。

 

 

 全ての景色が現実へと戻る。星空が、砂浜が。海が、私が。ざらついた感覚はまさしく潮風のそれだ。五感全てが、世界へ帰っていた。

 今見た二つの何か。強い私と、弱い私。私は夢を見ていたのだろうか。あれは可能性の話で、夢というには現実の私に近かったかも知れない。それくらいしかわからない。けれど、そのおかげでもう一つわかること。正しい道筋は、思ったより近くにある。全ての矢印を元通りに直し、私は立ち上がる。行先は一つだ。

 既に空は明け始め、小鳥が囀る。朝は、私を消し去らない。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

「……おお、おはよう、スカイ」

「トレーナーさんは、私のこと。どう思ってますか?」

「……何かあったのか」

 

 朝一番、寝ぼけ眼のトレーナーさんの元へ。そんな眠そうな顔でも何となく察するあたり、やはりトレーナーさんは私のことをよくわかっている。私は強さと弱さをどちらも知られている。全てを握られている。きっと、それこそずっとわかっていたはずのこと。いつもの私は強がりで、ついつい見落としてしまうこと。さっきまでの私は弱虫で、どうしても頼れないこと。でも、今の私なら。

 

「私は面倒な女なので、欲張りです。トレーナーさんを振り回したいけど、振り回されたい。一進一退、ずっと変わらない距離感でありたい。……なんてね」

 

 遠すぎて、離れてしまうのも。近すぎて、汚してしまうのも。どちらも嫌だ。曖昧で観測しきれない、それが本当の私らしさ。どんな結果が観測されるとしても変わらないものは、私があなたと一緒にいたいということ。

 

「……いつも振り回されてばかりな気がするが」

「ご冗談を」

「実は突拍子もないことをして、スカイの本心を暴き出そうと思ってたところではあるな」

「ほら、やっぱり」

「でも、その必要はないみたいだ。今の君なら、な」

「トレーナーさんのおかげですよ」

 

 私が立ち直れたのは、トレーナーさんのことを考えたから。それは気恥ずかしくてとても言えないことだけど、きっとはっきりわかること。つまらなくなんか、一生だってならないこと。手を伸ばせば届くくらいの距離。ずっと、そこから変わらない距離。月と地球、そのくらいの距離。そんな距離を保つには、私の強さと弱さは同居しているのがぴったりだ。

 たとえば気持ちは色々なものが重なっていて、それを言葉にするまではどういった感情かはわからない。だから先程までの私が何もわからなかったのは当たり前で、それを解消するためにあの「もしも」があった。私が思ういつも通りの皮を被った私も、私の中にある弱く毒々しい私も。常に重なっていて、どちらも私だ。その感情同士に矛盾があろうが構わない。あの猫が見せてくれた二つの可能性は、どちらかだけでは私が成立しないことをよく示してくれている。確かにその二つは矛盾して、相容れないものだけど。矛盾があれば重なり合わないなんて、そんなことは誰にもわからない。実証してみれば、あり得ないはずの論理だって成立してしまうのだ。

 

「にゃあ」

「おっと、どうしたんだその猫。新しい友達か?」

「えへへ、そうですね。どっちかといえば恩人……いや恩猫……?」

「なんだそりゃ」

「秘密です、秘密」

 

 夏の夜に、猫の鳴き声と共に見た世界が二つ。強い私と、弱い私。それらが完全に重なり合って、本当の私がある。だからあれはどちらも正しい。それぞれ50%くらいずつ正しい。合わせて100%、文句なし。

 

「さて、トレーナーさん」

「なんだ、スカイ」

「女の子が手を差し出したら、男の人がやることは一つですよ」

「仕方ないな」

 

 差し出した手に、あなたの熱が伝わる。引っ張って、引っ張られて。何度も強さと弱さが入れ替わるから、手を繋いだ二人は歩くことができる。だから強さと弱さがどっちも必要なのは、なにも個人だけの問題じゃない。私たちが共に歩くためには、強さと弱さを見せ合う必要があるのだ。どんな「もしも」があっても、前提にはあなたの存在があったように。あなたがもしこの先弱さを持っても、その側に私が居ればいいな、と思った。

 手を繋いで、二人で朝日に輝く砂浜に躍り出て。私とあなたの距離を、再確認する。やっぱり、手を伸ばせば届くくらいの距離だった。だからこうして今、手を繋いでいる。手のひらが、重なりあっている。これで十分。重なっていれば、それは決して混じりあわないはずの事象でも。

 一つに、なるのだから。

 



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幸せナイトメア

リメイクです


「まだ」

「まだだめですよ、トレーナーさん」

 

 俺をトレーナーと呼ぶ見知らぬ少女は、そう告げて。目が覚めた時にはそういう状況だった。身体は立ち尽くしていて、青い瞳の彼女と見合っていた。

 

「ここはあなたの幸せ空間。私にとってのナイトメア。でも、トレーナーさんのためなら。終わらなくたっていいと思う」

 

 そう、意味深な言葉を続ける少女。俺には彼女が言っている意味がわからない。確かに周りは遥かに伸びる壁と細く長い一つの道だけで、悪夢だというのなら筋が通った光景だが。けれどそれでは、彼女の言葉の意味は通らない。幸せも、終わらなくていい、も。少し考えても何もわからず、まずは素朴な疑問を口にする。

 

「君は……誰だ?」

「……誰、でしょうね?」

 

 問いはかわされる。目の前で自分と問答している存在は、誰なのか。芦毛のウマ娘だということは当たり前のようにわかるけど、それ以上は何もわからない。そして、教えてくれることもない。これが悪夢だというのなら、答えのない迷宮は当然のものかもしれない。

 

「……じゃあ、始めましょう。まだ、まだなのですが。まだ夜は、少ししか溶けていないのですが」

 

 また、一方的に会話は切り替わる。その言葉と共に彼女は指を交差させ、口元で妖しくバツを作る。

 

「いけない夜の、はじまりはじまり」

 

 二人きりのナイトメア。二人だけの幸せ。二人はまだ、目覚めない。

 

「ルールはひとつです。あなたが私を捕まえられたら私の負け。そしてその逆。トレーナーさんなら、簡単ですよね」

「とても簡単には思えないけど」

 

 常識的に考えてウマ娘と追いかけっこをして勝てるわけがない。ずっと続く一本道を進むたび、どうしようもないと理解するだろう。そんな不条理な勝負も、悪夢ならではということだろうか。

 

「……そんなことないですよ」

 

 そう、彼女は顔色ひとつ変えずに。少しだけ変わったのは、瞳にこもった感情だろうか。彼女のことを何も知らない自分には、その深層はわからないのだが。

 

「これがただの悪夢なら、ずっと届かないと思いますけど。トレーナーさんはいつだって、私の予想も期待も超えてくれるから」

 

 まるで試すような言動。彼女の目的はなんなんだろう。この短い時間で、何度もその疑問は浮かんでいる。負の御都合主義を張り巡らせるナイトメアに、人並みの理屈を求めてしまう。

 

「なあ、君は一体何のために」

 

 ここにいるのか。それを聞こうとする前に。すーっと、少女はこちらに近づいてきて。目と鼻の先まで、その顔を近づけて。

 

「まだ」

「まだだめですよ、トレーナーさん」

 

 煙に撒くようなその言葉を、リフレインして。今度は俺の口元に、人差し指の敷居を立てた。

 

「朝はきっと来るけれど。それまでは終わらないのが、ナイトメアですから」

 

 相変わらず、要領を得ない。ふらりふらりと誑かし、彼女はこちらを一方的に誘導し続ける。虚数に沈む空無き空間。悪夢を名乗る少女のカタチ。その状況も登場人物も、まるでわけがわからないけれど。地平線の果てまでか細く続くこの世界に、終わりが来るのか来ないのかだって。それでも、自分に出せる答えは一つだ。

 

「選択肢はそれしかないのなら。よし、乗った」

「……さすが、かっこいいや」

 

 彼女は小さく呟いた。そこに込められた何かの感情には気づかないふりをする。感情の存在には気づいても、やはり自分は彼女をよく知らない。だからきっと、まだ足りない。まだ、だめなのだ。やがて彼女はくるりと背を向けて、遅れた尻尾がふわふわと浮かぶ。初めて見た彼女の背中から、もう聞き慣れた声がする。

 

「じゃあ行きますよ、トレーナーさん」

「ああ、絶対に捕まえてみせる」

「……嬉しいなあ。とはいえ、私も逃げには自信があります」

 

 じゃ、と短く言って。彼女はゆっくりと走り出す。緩やかに切られたスタートに面食らってしまっていると、はにかむような笑顔が一瞬こちらを向いた。

 

「はやく来てくださいよー」

「……おっと、ああ!」

 

 自分も脚を動かす。驚くほどに身体は軽く、これなら本当に追いつけるかもしれない。……などと、そう思えたのは最初だけ。全くペースを崩さず軽い調子で走り続ける少女と、それにだいぶ距離を置かれながら食らいつくのが自分。悪夢は正の方向には都合良くなどならなくて、ウマ娘とヒトの身体能力の差を当たり前のように再現している。これではいつになっても追いつかなくて、悪夢は本当に終わらないのかもしれない。そう思った俺を見かねてか、あるいはただ暇を持て余してか。前を行く少女が、今度は振り向くことなく話しかけてきた。

 

「トレーナーさんって、どんなウマ娘を担当したいとかありますか?」

 

 勝負には関係ないはずの問い。けれどそれをすんなり受け止め、荒い呼吸に思考を混ぜる自分がいる。トレーナー、という言葉。彼女の俺への呼称。自分はつい先日新しくトレーナーになったばかりで、誰とも契約を結んだことはない。なのにずっと話していると、彼女との会話はしっくり来る。若い勘など当てにならないが、前を行く少女にトレーナーと呼ばれる感覚は、悪くない。とはいえそんな言葉は、おいそれと口から吐き出せず。

 

「……うーん、そうだな。きっと色んな子がいるからなあ。誰でもいい、って言ったら失礼だけど」

「サボり魔で才能もない、口ばっかり達者な子とかでもいいですかー?」

 

 おちゃらけた口調が前から聞こえる。確かにそれは難儀そうだが。先程の自分の答えは曖昧だが、その問いにはもう少し明瞭なものを返せた。

 

「そんな子がいるなら、むしろほっとけないかもな」

「……へーえ、その心は」

「きっとその子も勝ちたいからだよ。素直じゃないから担当しない、なんてのはトレーナーとしてはだめだ……なんてのは新人だから言えることなんだろうが」

「勝ちたい、勝ちたい……一番でいたい。逃したくない」

 

 代わる代わるの言葉を述べながら、前の動きがぴたりと止まる。追いかけっこを忘れたように、何か別のものに想いを馳せる。追いかけるなら、今のうちか? ……いや。結局そのまま、彼女がまた話しかけるのを待っていた。二人で、立ち止まっていた。

 

「……ボーナスタイムのつもりだったんですけどねえ。トレーナーさんは女の子には触れないタイプですかー?」

「考えごとをしてる時に捕まえるのはフェアじゃないよ」

「フェア。ふーん……じゃあ次の質問です」

 

 そう、少しだけ会話があって。その後また彼女は駆け出して、しばらくして言葉が飛んでくる。この問答が、悪夢と自分の間に許されたただ一つの語らいなのだろう。少し見慣れてきた背中をまた追いかけ始めながら、次の言の葉に耳を澄ませる。

 

「あなたの担当ウマ娘が、回りくどいことしかできない卑怯者だったらどうしますか?」

 

 なるほど、そう来たか。

 

「例えば追いかけてる相手が考えごとをしていたら容赦なくそれを捕まえて、得意げに突き出します。悪びれることなんて万に一つもなくて、いつも小細工ばかりを使おうとします。……どうです?」

 

 それは先程の自分の態度を踏まえての質問。少し意地悪な問いで、やはり彼女は悪夢そのものなのかもしれない。自分と思考の合わない相手を、認めることができるのか。一見難しい問い。けれど、答えは浮かんでいた。

 

「……うーん、案外相性は悪くないと思うけど」

「その心は」

「俺がさっき律儀に君を待ったのは、単に不器用だからだしな。別に同じことをしない誰かを苦手になんかならないさ。そりゃいつも小細工ばかりなら、逆にその子も不器用かもしれないけど。お互いの苦手を補えるなら、不器用同士だって悪くない。むしろいいコンビになれるかもな」

 

 これが自分なりの答え。きっと青臭い、新人丸出しの答え。だけどそれなりに真摯に答えたつもりだ。それこそただ不器用故だとしても、この問答に嘘を混ぜ込みたくなかったから。一人のトレーナーとして一人のウマ娘を、などと言うにはとてもトレーナーとしての経験が足りないのだが。

 

「……さすが、なーんて」

 

 けれど、その言葉は受け止められる。たん、たたん。果てしない壁に反響する足音が、少し音色とリズムを変える。少しだけ、二人の走る距離が縮まる。

 

「では次の質問。もし人生をやり直せるとしたら、またトレーナーになりますか?」

 

 そして、次の質問が投げかけられる。これは正直、自信がない。理由は単純。

 

「なる、と言いたいところだが。実は俺、そんなに頭の出来がいいわけでもなくてさ。なんとか資格を取れたような程度だから、またなる! というかなれる! と言うには少し自信がないな」

「なるほど。たまたま、というような」

「まあ、な」

「……それなら、あなたのパートナーになるウマ娘は幸せですね」

「……どうしてだ?」

 

 赤裸々な自分の答えに対して、彼女は少し不思議なことを言う。その意図が分からず、聞き返す。

 

「だって、百回やって一回あるかの運命の出会い、みたいなもんじゃないですか」

 

 百回中一回というほど試験合格できないわけではないと思う……多分。そんな俺の心中を見抜いたのか。

 

「……ああ、お相手のウマ娘が真面目にやる気を出したなら、と言うもう一つの前提がありますから」

 

 先程から例に上がっているサボり魔のウマ娘は、暫定俺の初めての担当ウマ娘らしい。彼女の先程の発言は、それを前提にしていたのか。

 

「なるほど。滅多なことではどうにもならない同士が巡り会えたなら、それは確かに運命かもな」

「ですねえ」

 

 滅多に受からないだろうトレーナーと、滅多にやる気を出せないだろうウマ娘。けれど二人は不器用なだけで、ひょっとしたら二人なら噛み合うかもしれない。そんな出会いができるなら、確かに素晴らしいと思った。

 また、言葉と共に。だんだんと、近づいていく。

 

「更なる質問です。好きな食べ物は」

「またまた質問。小さい頃の将来の夢」

「もっと質問。担当ウマ娘にされて嬉しいこと」

 

 次々と大小の問題が投げかけられ、それに答えるたびに二人が走る間隔が狭くなってゆく。気がつけばお互い僅かに息を切らしながら、手を伸ばせば届く距離。そろそろ、終わりだった。そこまで来て、小さな背中がまた話しかけてくる。ここまで近づいて、肩を切らせるのが見えて、そこまでして。ようやくその背中が、得体の知れないものではないとわかった。そんな本当に小さな背中が、最後に問うものは。

 

「……それでは、最後の質問です」

「ああ、最後まで付き合うよ」

「やさしいですね、トレーナーさん……。では」

 

 少し息を入れて、僅かにもったいぶった沈黙の後。

 

「あなたは、目を覚ましたいですか?」

 

 最後の問いが、形造られる。

 

「そう来たか」

「私と、お別れしたいですか? 現実に戻り、素敵なウマ娘に出逢いに行きますか?」

 

 これは、きっと。悪夢を名乗る彼女が決めた、悪夢の取り払い方。役目を終えた夢の跡が、自らを終わらせる方法。……あるいは。

 

「もちろん望むのなら、ずーっと寝ててもいいんですよ」

 

 文字通りの、悪魔の誘い。まだ、が永遠に続く、終わらないナイトメアへの手招き。それはひどく魅力的に思えた。彼女とならば、ずっとずっと退屈しない気がした。

 

「二人きりのナイトメア。数億人の現実世界。私一人と、世界のすべて。どちらを選んでくれますか?」

 

 二者択一。それが悪夢から示された、終焉と永遠の手引き。俺に問われているのは、そのどちらを選ぶのかということ。ここまでの会話でようやくわかり始めた彼女と、これっきりで終わるのか。あるいは現実にある全ても未来も捨てて、始まらない永遠に身を委ねるのか。そのどちらか。なるほど、確かに悪魔の誘いだ。一見、そう見えた。でも。

 

「俺は」

 

 ゆっくりと、吐き出す。俺が、選ぶ答えは。

 

「目覚めるよ。……現実の君に会うために」

 

 答えは、もう一つだ。この路地のように、か細くてゴールが見えないとしても。その答えしか、あり得ないから。

 

「……何を言ってるんですか。私が現実にいて、あなたがそれに会って。それでもって意気投合。……どんな低確率だと」

 

 確かに彼女の言う通り。理不尽の権化であるべき悪夢の弁論としては、筋が通り過ぎているくらいに。彼女は夢の中の存在で、それなら現実にいるはずがない。それが万一現実にいるとしても、そしてトレセン学園にいるとしても。そこまでもしもを重ねても、出会えるなんて限らない。けれど。

 

「運命なら、それもあり得る。いや、それしかあり得ないんだ」

 

 彼女の語った運命の出会い。それが俺たちを結ぶのならば、何があっても出会うことができる。それが俺の結論。自分なりの、答えだった。

 

「……参ったなあ……」

「嬉しくないならやめておく」

「さっすが、トレーナーさん。今のはずるいですね」

 

 彼女の幸せを取るなら、彼女と永遠にいるべきなのだろう。自分の幸せを取るなら、この悪夢に幕を引くべきなのだろう。それを両方取ろうとしたのだから、確かにずるいのかもしれない。

 

「……でも、それが正解です」

 

 完全に彼女は足を止める。振り向いて、俺の目と鼻の先に立つ。ちょっと前に二人で走り始めた時と同じような場面なのに、全ての関係性が変わっていた気がした。

 

「ありがとうございます。また会いたいって、言ってくれて。これで心置きなく、私は役目を終えられます」

「……役目?」

「悪夢の中だから言っちゃえるんですけど。ほんとうは、お別れのために来たんです。遠く遠くから、あなたをちゃんと幸せにするために。二度と、私と会わなくて済むように」

「それは」

 

 幸せにするために、会わなくていいように。最初に彼女が述べた言葉と似通っていた。これは彼女にとっての悪夢であり、俺にとっての幸せのためのもの。ようやく、その意味がわかった。残酷な真実だとしても、わからないよりずっといいと思った。

 

「だからさっさと幻滅してもらって、私に追いつくのも諦めてから夢を出て欲しかったんですけど。……やってみたらめちゃくちゃで、失敗しちゃいました」

 

 引き離すために近づくという矛盾。未来から過去にやってくるというタイムパラドクス。二重に矛盾を孕んでいたら、誰だってうまく計画通りにはいかないだろう。ただ一人、目の前の少女を除いては。

 

「……失敗なんてしてないよ。君のおかげで、これから俺は君に会える。君が何故会わないほうがいいなんて言ったのかはわからない。でも、そんなことないのはもうわかる。君と俺とは、きっと運命なんだ」

 

 目の前の芦毛のウマ娘は、確かに己の運命を繋いだ。どちらか一人しか幸せになれないという二律背反さえ超えてみせた。ならば俺に出来るのは、その運命のバトンを繋ぐこと。彼女が走るのがここまでなら、その先を代わりに走ること。未来から過去へ、運命は逆説的に紡がれる。

 

「……にゃはは。本当に、敵わないなあ」

 

 そう、諦めたような口調だったけど。彼女の瞳はいつのまにか、光り輝いて見えた。上を見ればいつのまにか、青空が光っていた。まるで、閉じた目蓋を見開いたかのように。

 

「……じゃあ。またね、ですかね」

「きっと、また」

「私ももう少し頑張ってみます。あなたのために」

 

 そうすれば、きっと幸せが掴めるはず。これはきっと運命の話。まだだめだとしても、いつか。闇の中でも、二人なら。それを確かめるための、終わりの近いナイトメア。

 

「俺も、まずは君に会わないとだな」

「……どちらにせよ、悪夢はこれっきり」

「今の君とは、もう会えない」

 

 それだけは少し寂しい。過去と未来の交差は、夢の中でしか許されない。だからやっぱりこの悪夢は幸せで、終わらないとしたらそれはそれでいいものなのだろうけど。

 

「もう、じゃないですよ」

 

 けれど。そう言って、彼女はまた自らの口元に両人差し指を添えて。ばってんの裏から、最後の一言を添える。

 

「まだだめなだけ、ですから」

 

 その笑顔は、今度は晴れやかだった。

 まだ、まだ。崩壊していく景色に最後に反響する言葉は、それだった。時間の流れが足りないだけ。時空は少し超えられたとしても、結局は泡沫に消えるナイトメア。まだ、逢うことはできない。けれど、まだだめなだけ。刻が進めば、また会える。いつかはまだ見ぬ朝が来る。夜を食んで、朝が来る。

 さあ、おはよう。悪いお夢は、これっきり。

 

 

 布団の中で、目が覚める。いつものトレーナー寮の自室だった。いつもと違う感覚があるとすれば、長い夢を見ていた気がする。内容は全く覚えていないのに、心を動かされるような夢を見ていたような。けれどその感覚とは裏腹に思考は冴えていて、よく眠れたような気がする。少なくとも悪夢にうなされていたわけではないらしい、そう思えるくらいにすっきりとした目覚めだった。

 

「今日こそ、担当ウマ娘を見つけるか」

 

 トレーナーとしてトレセン学園にやってきてから数日、まだお眼鏡に適うウマ娘には出会えていない。お眼鏡というのは相手側からの話だ。新人の自分にはまだまだ選ばれる側が似合っていると実感する。荷物を軽くまとめて、今日もトレセン学園へ向かう。空は雲が僅かに浮かんだ青空で、朝からいい気持ちだと思った。

 そしてそんな決意をしてから時間が過ぎるのはあっという間で、すぐに昼の十二時を回った。トレーナー室で作業に追われ、結局誰かに声を掛けたりはできなかった。仕方なくキーボードを打ち、未だ片付ききらない書類を一枚一枚処理していく。

 

「……ふぅ」

「おやおや、おつかれみたいですねえ」

 

 ……え? 誰もいないと思って吐いたため息に、反応があった。驚いて前を向くと、デスク越しにいたのは一人のウマ娘。眠そうに欠伸をしている。短めの芦毛と青い瞳が、なぜか酷く印象的だった。唐突な出会いで、彼女の目的はわからない。それこそ興味本位で鍵の空いていたトレーナー室に忍び込み、ちょっかいをかけに来た。それだけのことで、この部屋から彼女が出ていけば終わる関係かもしれない。少なくとも普通なら、そうだろう。

 けれど。

 

「君は……」

 

 なぜかはわからない。なぜか話しかけずにはいられない、惹かれるものがあって。

 

「なあ、君」

 

 一千年を超えて逢えたような錯覚があって。

 

「……なんですかー?」

 

 夜から覚めても、心に残った影があって。

 

「俺の担当ウマ娘になってくれないか。せめて、名前だけでも」

 

 誰かの想いを、確かに果たせた感触があって。

 

「私? 奇特な人ですねえ、まあ契約は置いといて名前を、とりあえず」

 

 きっとここには、全てのきっかけがあって。

 

「私の名前はセイウンスカイ。これから先、どうぞ末永く……なんちゃって。ま、よろしくです」

 

 だから、この出会いは運命だ。



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恋敵、トウカイテイオー

りめ


 じりりりりりりり。少女はまだ、目を覚さない。

 きゅるりりるらら。マクガフィンが、けたたましく奇怪に鳴っているのに。

 ──かちっ。そうして、マクガフィンは世界を形造る。

 マクガフィンが歌うのは、少女のいる世界。マクガフィンが語るのは、世界に挑む少女。始まりゆくオーバーデイ。あなたのための、例外的一日。

 始まるのは、二人の話。少女と少女。その話。

 じりりりりりりり。やがて、もう一度鳴り始めるマクガフィン。今度こそ、少女が目覚めるように。

 そうして、幕を開ける。

 

 

 ──じりりりりり。あつい。熱い……暑い。身体が燃え上がっているような感覚。身体が湿り切っているような錯覚。とにかく、あつい。

 ──じりりりりり。それだけならいいのに、うるさく鳴り続ける目覚まし時計。それのせいで、わたしは完全に目を覚ましてしまった。こんなものセットしただろうか。とりあえずいまいちすっきりしない目覚めの中で、なんとか目覚ましを叩いて止める。汗まみれの身体でぐったりしながら伸びをしていると、わたしが起きたのに気づいた声があった。

 

「ああ、目を覚ましたのかい」

「おはよう、◼️◼️ちゃん」

「……おはよー、おじーちゃん、おばーちゃん……」

 

 寝ぼけ眼で二人に返事するわたし。だんだんと目が覚めて、今の状況を思い出す。そうだ、わたしは確か……夏休みの最中。おじいちゃんとおばあちゃんの家にひとり旅に来て、泊まっている。いつまでもここにいれるわけじゃない。夏休みの終わりまで、わたしはこの田舎に軽い引っ越しをしているのだ。寝起きというのはふしぎで、何もかもを忘れている。まるでさっきまで見ていた夢の中が本当で、今ある現実がニセモノな気さえしてしまう。そんなはずないのにね。起きてしばらくすればわかることだ。

 

「今日は……えーっと」

 

 何日だっけ。まだぼやけた頭はそれすら思い出せない。夏休みにおいて残り日数ほど大事なものはないから、日にちを忘れるわけにはいかないのに。全開の窓から差し込む少しギラギラした陽の光だけに照らされた部屋を見渡し、ちょっとの後真新しい日めくりカレンダーを見つける。目を凝らすとそこには日付が。そうそう、そうだった。簡単なことなのだ。昨日が8月の31日なのだから。

 

「8月32日」

 

 今日は、8月32日。そうに決まっているじゃないか。カレンダーにもそう書いてあるのだから、きっと間違いないだろう。

 

「じゃ、いってきまーす!」

「はいはい、気をつけてね」

「暗くなる前に帰ってくるんだよ」

 

 顔に水を叩きつけ、一気に眠気を覚ます。さっきからぽやぽやしすぎだから、しっかりしなくちゃ。しっかりしたら、早く遊びに出かけよう。お気に入りのワンピースに身を包み、とっときのポーチを肩から提げる。あいさつまでしっかりして、わたしはおばあちゃんたちの家を飛び出した。いつもの夏休み。いつものあそこなら。今日もきっと、幼馴染のあの子が待っている。

 

「いつかちゅーできたら……なんて」

 

 えへへ。目の前でそんなこと、口には絶対できないけど。夏休みに会った、気になる男の子。当然夏休みが終わったらさよならだ。

 でも、まだ大丈夫。まだ時間はある。まだ、夏休みは終わらない。

 そんな当たり前のことを頭で考えながら、脚は思いっきり走る、駆ける。わたしは走るのが好きだ。自分の脚で何かを進めている感覚。とっても未来に近い感じがする。かけっこなら誰にも負けない。男の子にだって負けない、わたしの自慢だ。

 突き抜ける青さの空。青々とした草むら。車も滅多に通らない砂利道。しゃわしゃわと鳴くセミの声を風切って、私は走る。

 どれをとっても最高な日が、今日も始まる。このまま終わらなくてもいいかも、なんてね。そう思っちゃえるほど、ステキな夏だった。

 

 

 ──じりりりりり。目を覚ますと、知らない場所だった。自分を叩き起こした音の原因さえ、どこにも見つからなかった。でも、やるべきことはわかっていた。何故なら、脚の痛みはそのままだったから。何故なら、心が苦しいのは変わらなかったから。何故なら。

 何故なら、ボクは◼️◼️が大好きだから。

 

 

 青空の下、どこまでも続きそうな地面を走って走って。家から少し行ったところにある公園と、その中心の大きな樹。それがわたしと気になる男の子、◼️◼️のいつもの遊び場。そしてわたしはこの待ち合わせに密かにデートを重ねている。もちろんそんなこと、絶対ヒミツなんだけど。近づくにつれて、心臓が高鳴る気がする。とくん、とくん。運命の相手を見つけたから、だったりして。その姿がだんだん近づいてるのがわかるから、だったりして。

 大きな樹の下に、いつものように。いた、いた。いつも光り輝くような笑顔。彼がいた。声が届くようになったあたりですぐ、元気な挨拶が聞こえた。

 

「おはよう!」

「おはよー! 待たせちゃったかな……ごめんね」

 

 すぐにわたしも樹の下に来て、息を切らせながら挨拶する。あなたに会えて、心のときめきが少し膨らむ。そんな気がして、それだけでふわふわ。なのに、◼️◼️が言ったのは予想外の一言だった。

 

「ああ、それなら心配なかったよ。他の子と一緒に遊んでたんだ。……そうだ、三人一緒に遊ぼう」

 

 ……なんだって? わたしとあなたの二人きりのじかんは? そんな質問はやっぱり言えないので、ただむっとしてもう一人の人影を探す。……いや、探すまでもなかった。樹の裏に一応隠れてはいたけれど、どうしたって目に留まる。ぴんとはねた、人間とは違う耳。ふさふさして揺れ動いている、尻尾。そして女として敗北を認めざるを得ない、かわいらしい顔立ち。あまりにも、目立つ。こちらが目を向けるとすぐに、その子は勢いよく挨拶する。わたしたちの中でもいっとう、元気よく。

 

「……こんにちは! ボクの名前はトウカイテイオー! 今までこの子と一緒に遊んでたんだー! よろしくね!」

 

 わたしにとって初めて見る、ウマ娘という存在。わたしにとって初めて現れた、自分よりかけっこの速い女の子。そしてわたしにとって初めて現れた、恋敵、だった。

 

「それでねー、ボクは……」

「へえ、さすが……」

 

 むー。そんな自己紹介を終えて先程から一緒に遊んではいるものの、三人というのは一人があぶれるようにできている。今回の場合はそれはわたしのことで、お似合いの男の子と女の子が仲良く語らっているのをじっと睨むことしかできない。ずるい。わたしの◼️◼️なのに。そんなえらそうなことを言えないのはわかっているので、ただただ二人の会話に耳を澄ませるだけ。なんとか割り込めないだろうかとか思いながら。

 

「ねえ、◼️◼️の好きな子のタイプって?」

「そうだな、元気な子かな」

 

 たとえばそんな会話。元気といえばさっきまではわたしだったのに、今じゃそれはトウカイテイオーのことだ。そんなことをあけっぴろげに聞けてしまうあたりで、敗北感を味わう。

 

「◼️◼️はさー、はちみつすき?」

「うん、好きだな」

 

 他にはそんな会話。なんでもないはずなのに、言葉尻を聞いてドキッとしてしまう。すき。すき。私は、それが聞きたいのに。だけどこのままじゃ、このままじゃ。このままじゃ、終わっちゃう。夏休みの初恋が、終わってしまう。それはイヤだ。ステキな夏は、まだこれからなのに。……我慢、できない。ついにわたしは、口を開く。

 

「ねえ、テイオー」

「……どうしたの、◼️◼️」

「勝負して。わたしが勝ったら、二度とわたしたちの前に現れないで」

 

 その提案は、苛烈なものだったと思う。唐突なものだったと思う。けれど、わたしはそれを望んでいた。この夏を守るためだった。

 

「……うん、いいよ」

「よし、じゃあ俺が審判をやろう」

 

 そして、反対する者はいなかった。◼️◼️も、テイオーも。唐突で苛烈でも、全員が受け入れた。もちろん仕掛けたからには、負けるつもりはない。勝負の方法を告げると、テイオーは少しだけ驚きながらも了承した。この勝負は通常なら、公平どころかこちらが不利でさえあるけれど。わたしはもう、気づいているから。

 

「……ほんとにかけっこでボクに勝つつもり?」

「かけっこじゃないよ、マラソン。ずーっと、あそこからあそこまでぐるりと回ってここの樹の下に戻ってくるの」

「ウマ娘相手に脚勝負とは、さすが◼️◼️だな!」

「えへへ。そうでしょ」

 

 あらかた勝負の方法を説明すると、さすが、と褒められた。わたしは◼️◼️から見てかっこいいということかもしれない。嬉しい。それだけでも脚で勝負する理由にはなるんだけど、それだけじゃない。無謀に見えるこの勝負にも、勝ち目はある。それでも勝負をテイオーに受けられたのだから、きっとあちらも負けるとは思っていないのだろうけど。

 

「じゃあ、言った通りルール無用だから。それだけよろしく」

「……ボクは負けないよ。負けられない理由があるからね」

 

 彼女も真剣だ。負けられない理由があるなんて、そんな表情は今まで見せなかった。やはり彼女は◼️◼️を奪ってしまうのか。夏に、終わりを告げてしまうのか。それならこちらこそ、負けられない。

 

「位置について」

 

 木の枝で引いたスタートラインに、わたしとテイオーで足を揃えて。

 

「よーい、ドン!」

 

 彼の掛け声とともに、二人で並んで駆け出した。走る、疾る。普通に走っている限り、ウマ娘とヒトの間にはあっという間に差が開いていくだろう。しかしそうではない。そうならない。今、二人の間隔はわたしがリードしているくらい。やはり、思った通りだ。

 

「やっぱり、脚が悪いみたいだね」

「……さすが、気づくんだ」

 

 ずっとあった違和感の正体。出会った時から今までずっと、彼女の重心は脚を守るような姿勢だった。無論歩けるくらいではあるのだろうが、全力疾走は不可能。それに持久走ならば、さらにその歪みは大きくなるだろう。後ろを見れば、びっこを引くように。彼女は片脚のステップで無理やり走っているように見えた。

 

「あなたはまともに走れない。今だって、見ればわかる。卑怯な勝負だとしても、わたしは負けられないんだから!」

「◼️◼️が好きだから?」

「……そうよ! だからあなたに◼️◼️を取られて、夏休みがそれで終わりなんていやなの!」

 

 わたしにとっての夏休みは、◼️◼️と遊ぶこと。その邪魔なんて、夏の終わりなんて、誰にも。そう一生懸命に告げると、テイオーも言葉を返してきた。彼女なりの戦う理由、それは。

 

「悪いけど、ボクも負けられないんだ。好きな人のために」

「そ、それって……!」

 

 十中八九、彼のことじゃないか。それなら尚更負けられない。この勝負は、恋の勝負。想いの強い方が、勝つ! それだけ言いあって、走る、走る、ひた走る。長い長い道のりを、ずっと二人で走っていた。

 

「……はあ、はぁっ……」

「……はーっ、まだ、ボクが……」

 

 決めたコースは思ったよりもずっと長く、7割を過ぎたあたりで二人ともバテてしまっていた。彼女には脚のハンデがあるはずなのに、食らいつかれている。これがウマ娘と人間の基礎スペックの差か。いや、それなら五分五分。あとは気持ちの問題だ。気持ちの問題。酸素が減ってきた頭で考える、本当の気持ち。わたしの気持ちは、◼️◼️を振り向かせること。テイオーの気持ちも、◼️◼️を振り向かせること。多分、きっとそう。そのはず。……何故か違和感があるのは、走り疲れてまともに考えられないからだろうか?

 

「負けないよ、ボクは」

「……テイオー」

「ここでは止まれない。まだ、先がある。だから……!」

 

 何故か彼女の言葉を聞いて、猛烈な反感が芽生える。一滴の違和感が生んだ波紋が、さらにうねりを持って広がる。わたしが彼女に反感を覚えた理由。敵意を持って、排除しようとした理由。

 

「……だめだ、だめなんだよ。諦めて、なんで諦めないの」

 

 だって、だって。夏が終わるのは、よくないことじゃないか。◼️◼️に会えなくなる? いいや、それだけじゃない。秋が来れば、その先に進んでしまえば。ここで、止まらなければ。そうだ、これはあなたのためなんだよ、テイオー。だって、ここで諦めれば。この時間が、永遠になれば。

 トウカイテイオーが菊花賞に出走できないなんて事実も、永遠に来ないじゃないか──。

 え?

 自分の中に沸きたった思考に戸惑う。菊花賞。知っている単語だ。さっきまでは知らなかったそれが、当たり前のように記憶に刻まれていることに気づく。まるで、夢から目覚めるかのよう。

 あれ?

 何故わたしは走っているのだっけ。恋敵を討ち倒すため? 夏休みの思い出の男の子? それは確かに覚えているけれど、"十年以上前の話"。わたしは、いや、私は。かけっこ好きの女の子だった私は、中高で他人の走りをサポートすることに目覚めて。それが高じてトレーナーになった。そうだ、そしてトウカイテイオーと契約して、そして、そして。そんな思考が濁流となり、勢いよく爆ぜた瞬間。遠くで見守る◼️◼️の姿が弾け、そこから吐き出されたモノクロのモザイクが世界を包み込んだ。

 8月32日が、解けてゆく。

 

 ──諦めない。

 ──ボクは夢を諦めない。

 

 ──諦めて。

 ──私に幻滅してもいい、だから諦めて。

 

「ねえ、◼️◼️」

 

 世界が全てモザイクになって。今までずっと、何かの呼称がモザイクに包まれていたことに、今になって漸く気がつく。テイオーの声が、クリアに聞こえる。

 

「……トレーナー」

 

 そうやって、モザイクが剥がれる。そう、私はずっと「トレーナー」と呼ばれていた。おじいちゃんおばあちゃんの影も、幼馴染の姿も。みんな、私をトレーナーと呼んでいた。この空間における呼称には、およそ似つかわしくないというのに。だからきっと、私はそういう空間を作った。私がトレーナーとしてふさわしくない空間を作って、トレーナーという呼称にもやをかけて聞こえないようにして。私の夢の庭は、そうやって出来ていた。二人きりになった世界で、もう一人に話しかける。私なりの、結論。

 

「……ここは多分、私への罰なんだよ。テイオー」

 

 誰がどうやって作ったかもわからないけど、そのことはわかった。なんの法則も持たないであろう空間で、その意味を考察するのは無駄かもしれない。でも8月32日に居たおじいちゃんもおばあちゃんもあの子も、私自身が記憶から作り出した影法師。それは間違いない。今の私なら、それが過去に私の周りにあったものだとわかる。だからあれらは、すべて私だ。私の脳みそから作り出された人格と、私本人と。それだけだから、全てが私。私は私だけの空間で、永遠に夏を過ごしていた。唯一の例外一人を除いて。

 

「罰なんて、トレーナーが受ける必要ないよ」

 

 きっとテイオーは、それを伝えるためにこの空間に入り込んだ。だから正確には、私への罰の是非を確かめる空間、なのかもしれない。このテイオーが私の記憶から生み出されたものでないことは、何故だか確信が持てた。だからその言葉も、きっと本物なのだろうけど。

 

「そんなことない。私、テイオーにさ。菊花賞、走らない方が良いって言っちゃったじゃん」

「……そうだね」

「怪我した脚で走るなんてあり得ないし、よしんば治ったとしても病み上がりで勝てるわけないって。そう言っちゃったじゃん」

「……うん」

 

 罰を問うというのなら、審判のための情報が必要だ。私は私の罪を並べ立てていく。テイオーも、否定はしない。

 

「……でさあ、そんなこと言った後に後悔しちゃった。それで夏合宿の終わりにあなたと喧嘩して、菊花賞なんてずっと来なきゃいいって思っちゃった。とんでもない大悪党だよ」

 

 トウカイテイオーはきっとまだ走りたいのに。それを絶った。あまつさえそれを永遠にしようとした。治った先のことすら願わなかった。一瞬さえそう思ったのだから、私はトレーナー失格だ。それがきっと、私が私を許せなかった理由。言葉通り永遠の夏に閉じ込めて、夢幻の中でその永遠の継続を願わせる。テイオーを突き放すところまで、きっと私が願った夢だ。愚かな思考に自らを拘泥させることで、愚かな結末を実証する。自らを操れるのは、夢想の特権だから。そうして罪状が並べられ、審判の場には暫しの沈黙が流れる。モザイクと二人の少女だけの世界は、綻びながらもまだ永遠であろうとしていた。やがて、テイオーが口を開く。判決が下される。

 

「……トレーナー、ありがとう」

 

 そこまで罪を重ねたのに、述べられたのは感謝だった。やっぱりやさしいなあ、なんて。

 

「なんで、感謝されるの」

「ボクに走るなって言えるのは、トレーナーだけだから。一人だったら絶対無理して、もう二度と走れなくなってもいいって思いながら菊花賞に出て、それで」

「買い被りだよ」

「違うよ、ボクにはトレーナーがいなきゃダメなんだ。だから、こうして逢いにきた。たとえ脚が軋んでも、走った。……トレーナーのためだから、大好きなトレーナーのためなら」

 

 そこまで、勢いよく言って。そこでつっかえたように言葉を止めて、顔を伏せて。もう一度顔を上げると、いつも快活なその顔がうるうると涙を溜め込んで。つーっと透明な筋を垂らしながら、彼女はゆっくりと手を伸ばして。

 

「だから。お願い、トレーナー。ボクともう一度、走ってください」

 

 伸ばされた手を自然と取る。彼女の言葉を裏切る罪だけは、絶対私には出来ないから。それきり互いの会話はなく、世界を覆うモザイクの崩壊が始まる。もう、言葉は要らない。モザイクが増殖し、両眼もその先に映る空間全ても消し去ってゆく。大丈夫、視界もいらない。世界を覆うモザイクの蠢きが激しくなり、じりりりりといつか聞いた音でいっぱいになる。きっと、耳もいらない。何もいらない。二人だけいればいい。二人なら、どんな苦難も乗り越えられる。

 感覚はゼロに変わる。閉じて、閉じて。夏よ、閉じてゆけ。

 

 

 じりりりりりりり。少女は漸く、目を覚ます。

 きゅるりりるらら。マクガフィンが、役目を終える。

 ──かちっ。そうして、マクガフィンも本来の世界に戻る。

 マクガフィンが謳うのは、他愛もない一日の始まり。マクガフィンが騙るのは、世界に不思議はありふれているということ。終わりを告げるオーバーデイ。私とあなたの、元通りの日常。

 始まるのはやはり、二人の話。少女と少女、ではないけれど。

 じりりりりりりり。やがて、もう一度鳴り始めるマクガフィン。今度も彼女が目覚めるために、だけど本当にそのためだけに。

 そうして、幕は降りる。

 

 

 ──じりりりりりり。目覚ましが鳴って、私は目を覚ます。叩き伏せた目覚ましの感触は、なんとなく既視感があったけど。それ以上にはならない。もしかすると夢の中で同じようなことをしたのかもしれないが、今日夢を見ていたのかも定かではなかった。まあ、夢の話はいいだろう。それより大事なのは現実、私の担当ウマ娘トウカイテイオーの話。夏合宿でのリハビリを終えたが、トウカイテイオーはやはり菊花賞には出られない。このままだと、そうなる。そのことについて喧嘩したのが、夏合宿の最後だったけど。どうにもならない、二人の間のひずみだったけど。

 でも。

 

「頑張ろっか」

 

 なんとなく、変わった気がする。気持ちの持ちようが、あの時の喧嘩の後悔から進んでいた気がした。多分昨日の夜までは、菊花賞のことばかり悩んでいたはずなのに。今も菊花賞のことは考えているけれど、何故だか前向きに思えている。理屈はわからない。けれどはっきりしているのは、テイオーに謝らなきゃいけないこと。そして、私にはあなたがいないとダメなこと。それがわかっているから、私はこの先へ進める。あなたと共に、未来へ向かえる。

 

「おっと」

 

 今日の支度をして出かける直前に、一つ気づいたことがあった。合宿中放置していた、寮の自室の日めくりカレンダー。それを一気に千切る。今日の日付まで、一気に。日付は……そう。昨日が8月の31日だったから。

 

「9月1日」

 

 今日は、9月1日。そうに決まっているじゃないか。それにたとえ、カレンダーがそう書いていないとしても。私たちの走る道に、間違いはない。

 



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虚数の魔女

リメイクです


 人殺しか否か。大半の人がノーと即答するであろうその問いに、アタシは悩んで答えを出す。それは自覚があるかとかではなく、アタシがそれを殺したというのが言葉として正しいのかどうか。あるいは、それが殺せるようなシロモノかどうか。

 アタシが殺したのは、イマジナリーフレンドだ。空想、仮定、けれど生きている。そういうモノを、アタシは手にかけた。これは随分と昔の話。トレセン学園で大真面目に魔女を目指していた頃よりも、更に。けれど忘れられない、今でも大切な話、だ。

 トレセン学園に入る前、アタシはおばあちゃん……グランマの元で育てられた。グランマは本物の魔女みたいで、アタシはそれに憧れた。とんでもないわがままだったはずのアタシはグランマの前では素直で、なんでも素直に教わろうとしていた。そんなアタシにグランマは色々なことを教えてくれたけれど、その中の一つが不思議な友達の作り方。不思議な友達。そのフレーズにワクワクした。魔法みたいだと思った。

 やり方は簡単。人形遊びで喋り出すお人形の中身を、"誰か"にしてしまう。さあクマちゃんおままごとですよ、ではなく、さあクマちゃんそちらの人形役をよろしく、といったように。アタシと人形の間に、別の誰かを挟み込む。そうしてやれば、アタシから人形の中身は離れて見える。正体がわからないくらいに。

 

『仕方ないなあ、大魔法少女スイーピーのためなら』

 

 そしてその距離が、ひとり立ちの合図。言葉がひとりでに動き出せば、頭の中に住む不思議な友達の出来上がり。アタシの思い通りなのに、アタシじゃないみたいな誰か。理想の友達。あるいは魔女にふさわしい、使い魔ともいうべき幻想。そんなしもべを作り出した魔法少女はいい気になって、どんどん頭の中に友達を生み出す。いつも仕方ないと言いながら遊んでくれる子、いつもアタシが間違えそうになる時に止めてくれる子、いつも怒っていて、アタシに勇気をくれる子、それから……。慣れてしまえば生み出すのは簡単で、アタシの頭の中は気がつけば大所帯。いつも誰かが喋っていて、いつもアタシはその中心にいる。大家族の長になったようで、とても楽しかった。そんな大家族はたったの数日で、脆く消え去るのだけれど。

 そうやって生み出したイマジナリーフレンドとの日常は、その頃のアタシが保たせることは不可能なものだった。すぐに頭痛という形で異変は現れた。単純な話で、アタシの頭は四六時中休みがない状態になっていた。頭の中では賑やかな友達がにこやかにアタシに話しかけてきたり、あるいはお互いの意見を交換したり。アタシが全ての中心である限り、それらは全てアタシの頭の中で行われる。自分のしもべの行動を制御できなくなり、アタシはろくに眠れすらしなかった。ひとり立ちした友達が、アタシの脳みそを奪っちゃう─────。ずきんずきんと頭を鳴らしながら、そんな不安をグランマに話したのを覚えている。するとグランマは少し考えて。

 

「よく眠りなさい、スイーピー。その友達たちは、あなたが起きている間しか生きていられないの。あなたが寝ている間は必死に息を止めて、あなたが起きるのを待っている。だから、ぐっすり寝ればいい」

 

 けどね、とグランマは付け足す。

 

「その子たちはあなたが思っているより、ずっと儚くて消えやすい。友達として付き合っていきたいなら、しっかり忘れてあげないことよ──」

 

 うんざりだと思っていた。その話を聞く間も彼らはずっと喋っていて、疲れ知らずに思えた。消えるなら、消えてしまえばいい。自分の友達だったはずなのに、いなくなってほしいとさえ思った。グランマが付け足した忠告なんて、自分の場合は関係ないのだと思っていた。ふかふかのベッドに飛び込み目を瞑り、思いっきり寝る。布団を被り羊だけを数える。友達が話しかけてきても、無視。彼らはおやおやとか、おいおいとか。真剣に困っているようには思えなかった。こちらが真剣に無視してしまえば、眠るくらいは容易い距離感だった。だから、私は間も無く眠りにつき。夢を見ることもなく、次の朝まで寝続けた。どんなに偉大な魔女から教わった魔法でも、その魔法が複雑で、生活の根幹まで揺らがすほどの強大なものでも。魔法を解くのには、一夜もあれば十分だった。

 次の日。久しぶりに眠れたアタシは気持ちよく目を覚まし、そのまま首だけ動かして寝ぼけ眼で時計を見る。もうこんな時間か、と布団から這い出し、朝食を食べに向かう。そうして、当たり前のように普通の朝を過ごしていた。何も考えずに、誰も頭の中に生み出さずに。全部を食べ終わるまで、何かを忘れたことにすら気づかなかった。虚数を失っても喪失感など起こり得ないのだと、今のアタシならそのイマジナリーを判断できる。けれどその時はまだ幼くて、虚の脆さなど知らなかった。やがて少しだけ気付けたとしたら、朝食を済ませてから数時間後。そういえば、と。心のうちに思考を巡らせた時だった。「どこにいるの」、と問うまでもなく。思考さえ届けば、距離の先にある彼が再び現れる。最初に生み出したイマジナリーフレンド。虚数にあれど、友達だったはずのモノ。顔のない彼はようやく喋り出す。真剣さなど感じさせない口調まで、昨日までとまるで変わらずに。

 

『やっと、思い出したね』

 

 その言葉で、アタシは気づいた。思い出さなければ、彼らは存在しない。グランマが言っていた通り、寝てしまうだけで全てが変わったのだと。だから、今まで出てこなかった。正確には出てこれなかった。虚数に遊ぶ存在は、引き摺り出されなければプラスには転じない。どうしようもなく、儚く脆い。そう言葉にはできないけれど、幼心にわかってしまった。忘れられている間彼らはどうしていたのだろうと、心の中で彼に問う。幼い未熟な魔法少女には、自らの魔法が解けてしまったこともわからなかったから。

 

『どうもしてない。いなくなっていた。……他の子、呼べる?』

 

 また頭の中で、声にならない声が問う。そう彼に言われて、言われるままに他の友達を呼んでこようとした時。自らの心臓の中に手を伸ばしても、手応えがまるでないことに気づいた。心に沈んだ友達の手が、伸ばし返してきたりはしないことに。

 結論から言えば、これがアタシの人殺し。うんざりするほどにくっきりしていた彼らの言葉すら朧げで、どういう人々だったかを思い出せない。間違いなく自分は忘却の海に彼らの身体を沈めて、手遅れになってから引き揚げたのだ。これを人殺しと言わなくてなんと言おうか。たとえ虚なもやに過ぎなくて、生命と呼べる実体がなくても。そこに人格を与えたのも奪ったのも、紛れもなくアタシだった。

 そうして、そうして。友達を消してしまったことを嘆く間も、その重大さに幼い頭で気づく間も無く。それより先に、最後に残った彼の感覚も少しずつ抜け落ち始めていることに気づいた。忘れてしまわないようにとグランマが言っていたのに、その時のアタシにはそれができる能力がなかった。あれだけ騒がしかった頭の中はスッキリして、空っぽで。

 そんな誰もいなくなった脳みそで考えて、考えて。この状況を一生懸命に処理しようとした。最後に残った彼を消すまいと今更のように悩んだ。彼を頭の中にもう一度引きずりあげては、沈むまでの時間でまた考える。ずっと引き上げることはできなかった。脳みそを使う行為と脳みそに友達を住まわせる行為を両立できないのは、当たり前のことだった。

 そもそも考えなければいいと気づいたのは、もう昼ごはんが近い頃。お腹が鳴って頭が回らなくなった頃。グランマの作ったランチの匂いが、鼻をくすぐった。匂いに誘われ食卓に着くと、もう遠く離れてしまった気がする昨日のように、彼はアタシに話しかける。

 

『美味しそうだね』

 

 あげないわよ、と心の中で返事をする。実体を持たない彼に食事をあげることなんてできないけれど、そう答えてやれば彼に人間らしさが増える気がした。死んで欲しくない、殺したくない。そう願いながらする食事は、きっと誰も体験したことがないものだろう。

 ごちそうさま、と早口で告げて。多分グランマはそんなアタシが何をしようとしているかなんてお見通しだったから、何も言わずに見送ってくれたのだろう。どこへともなく走り抜けるアタシを、ただ見送ってくれていたのだろう。アタシはそんな気配りには気づかず、自分と彼のことばかりだった。ランチを食べてもう一度頭に余裕ができた今、少しでも思考と彼の存在を両立しようとした。何も思考の邪魔がないところへ行きたかった。彼と二人きりになりたかった。庭へ出て、そこで立ち止まる。壁にもたれて、彼との会話を再開する。全ては自分の心の内で、すぐに消えてしまいそう。グランマの言っていた通り、彼らは儚く消えやすい。友達として付き合っていくことは、幼いアタシには不可能だった。それを必死に否定しようとしていたのが、その時のアタシだった。

 たとえばアタシは、彼のことなど何も知らない。正しく言えば、彼のことを何も決めていない。好きなものも、見た目も。ただアタシの気まぐれで生み出されて、何も為せずに消えてゆく。彼らがどこまで行っても虚なのは、アタシが何も決めていなかったから。半端な魔法で何かを生み出し、失敗作として殺してしまう。そんなのはアタシが目指すような魔法少女のやることじゃない。グランマのような立派な魔女なら、なんとかできるのだろうか。

 

『どうにもならないよ。君が消えるのを望んでいるから、消える。それだけのことさ』

 

 そんな、望んでなんて。それでも彼は多くを語らずに消える。それも、当たり前のことだった。彼はアタシの中から生まれたのだから、どんなに大人ぶってもアタシより何かを知っていることはありえない。語れないようにしたのは、アタシ自身だ。

 そうしていくらかの会話を繋げてみたけれど、あっという間に最後の一人が消える。さよならすら、言葉にはできずに。消えた感覚すら、実体がないそれは明確ではなくて。ただ、思い出せない。ただ、あの時の距離はもうないから。そうして、アタシの人殺しは成立して。アタシは大声で喚いて泣いて、その日はグランマと一緒に寝た。もう一度、ぐっすり寝た。どんなに悲しい魔法でも、一夜もあれば解けてしまうのだから。

 

 

 季節は巡り、歳をとる。幼い頃はすぐ泣いてしまうし、一生ぶん悲しんだつもりでもそれを忘れてしまう。その時のアタシはちょっと前よりは少し成長していたけれど、まだそんな幼いままだった。だからやっぱり、忘れていた。薄情にもそんな頭の中に住む友達のことなど、すっかり忘れた頃だった。いつかの庭で、心の中に響く声があった。

 

『久しぶり』

 

 頭とは面白いもので、完全に忘れたと思っていてもふとした拍子で記憶の箱は開く。今回は何の拍子かわからないけれど、消えたはずの彼がまた出てきた。何度も死体を引き上げようとして、虚を捕まえられず諦めた彼が。アタシにとっては劇的なことだとわかっていたのに、酷くあっさりした再会だった。

 彼は最近のアタシについて聞いて、次々に相槌を打つ。トレセン学園に入るために頑張っていること、一人前の魔法少女への道は未だ遠いこと。それを面白がって聞く彼の存在は以前より遥かにくっきりしていて、今なら忘れ去らずにずっと一緒にいれる気がした。実像は結べないけれど、それくらいにはアタシは成長していた。それは単純な脳の容量の話かもしれないし、前とは違う精神的成長なのかもしれない。今にして思えば、やはりその時のアタシもまだまだ幼かったのだけど。それでも当時のアタシには、なんとなくわかった。今なら彼を友達にすることは、不可能ではないのだと。

 でも。

 

「お別れしましょ」

 

 アタシも少しだけ、大人になって。あの時作った友達の正体を知った。イマジナリーフレンドは、なぜ虚な存在なのか。あれはきっと、アタシの中の一部が他人のフリをしているだけなのだ。心を切り離し、自分を切り分けて。感情の別側面を、別人格に見せかけているだけに過ぎない。自分の一部と距離を置いて、外側から見ているからそう見えていただけ。だから。

 

『ああ、そうだね』

 

 だから、今度もやっぱりお別れだ。アタシが彼のことを考えるのを止めると、すぐにその存在は霧散する。いいや、正確に言えば自分の心の一部へと、戻る。消し去ったわけではないと、今度のアタシはしっかりわかっていた。心の発達はこうして終わった。彼の存在は幼い頃の自分には手が余ったし、少し成長した今の自分には無用の長物だ。だから、さようなら。そう今度こそ、しっかり別れを告げた。

 その日のアタシは、一人で泣いた。

 魔法とは、タネも仕掛けもわかっても、その上で不思議なものであると思う。今に至るまでのアタシがそんな魔法に精一杯近づけたのは、このことが一番かもしれない。幼い頃、トレセン学園に入るよりも前。すこし不思議な思い出。一人歩きする人形遊び。アタシを切り分けて、アタシ以外のふりをする虚数。そこまで理屈がわかっているのに、なぜあの日また彼が浮かび上がってきたのかはわからない。だから、やっぱり不思議な思い出。一度消え去り思い出すことで、この思い出はアタシにとって本当に大事なものになったのだろう。

 このことはトレセン学園に入ってからも忘れていなかったから、幼い頃の思い出というのは捨てたものではないと思う。

 そしてトレセン学園で、本当に友達が出来て。魔法少女を目指していたのは、やっぱり幼いアタシの延長線上だったけど。友達を大事にできたのも、やっぱりその思い出を延ばした先にある。幼少期のことごとくを人は忘れてしまうとしても、何もなかったことにはならないのだと。更にその先にいる今のアタシは、はっきりとそう言い切れる。

 過去の過ち。幼少の驕り。それらは確かに大人になって振り返れば、行き止まりか回り道。平たく言えば失敗で、時には恥ずかしい思い出かもしれない。けれど、こうも思う。行き止まりや回り道には、きっといつも何かがあった。魅力的なそれは、かけがえのない価値を人にくれる。夢と魔法そのものが手に入らなくても、夢と魔法を追いかけた事実は手に入っている。

 だからもしアタシが、人殺しか否かと問われた時。あれから十数年も経った今になって問われたとしてもやはり悩むけれど、決まってこう返すだろう。

 アタシは誰も殺していない。彼も含めた全ての過去は、アタシの中で生き続けているのだから。



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ニシノフラワーの乳歯が抜ける話

久しぶりにまともに短編を書いたと思います
まともな短編じゃないかもしれません


 歯が抜けた。それに気づいたのは、朝起きてすぐのことでした。昨日寝た時にはなかった感覚が、今日の私にはあったからです。目を覚まして咥内にある違和感に気づいて、同時に布団に出来ていた赤いシミにも気づいて。慌ててベッドの中を探してみれば、根元にあった歯茎の肉ごとわたしからちぎれていったばかりの小さな白が赤いシミの端っこに見つかりました。最近はぐらついて上手く磨けていなかったから、すこし歯垢が溜まってしまっていた乳歯。幼い時からずっと私と一緒にいただろうそれは、僅かの痛みを伴いながら私から離れていったのだと。昨日の私と今日の私は、少し違ってしまったのだと。その時ようやく、実感しました。

 とりあえずブルボンさんが起きてきた時に心配されてしまわないよう、血のついたシーツはさっさと畳んでしまいました。それなりに大きなシミを作った私の血は、今も少しずつ口の中を染め上げていきます。欠けた感覚のある場所を唾液のついた舌でちろちろとなぞると、なぜたところからぴりっとした刺激が身体に走ると共に、黒くて濃い鉄の味がしました。

 歯が抜けるのはもちろん初めてではないけれど、最初の数本ほど大きいわけでもないけれど。少し無理矢理引き剥がされてしまったそれは、いつもよりちょっとだけ大きな傷をつくっていました。だからずっと、仄かな痛みが染み渡っていました。それなのに不思議と、不快感はありませんでした。シーツを片付けた、裸のベッドに寝そべって。抜け落ちた歯を指先で転がし、そこにくっついていた乾いた血と、まだ水気を含んだ肉の破片で手を汚して。私に起こった喪失を、確かに口の中にある痛みと刺激で理解して。

 また一つ大人になれたんだ、そんなふうに思いました。

 けれど、いつも通りの生活があることには変わりません。私が本当に大人になれるのは、もっと先のことだから。それまではトレセン学園での日常があって、私はそれを大事にしたい。だからもちろん微かな違和感を抱えていても、いつもと同じように登校しなくちゃいけません。いつもの制服に着替えて、いつもの教科書とノートを鞄に詰め込んで。いつもと違うのは、私の歯が一つ抜けていること。

 鏡の前で唇を裏返して確認したところ、抜けたのは下の前歯でした。口を大きく開いたら目立ってしまうな、などと思いました。これでだいたい六本目か七本目くらいなのでしょうか。よくは覚えていないけれど、まだ生え変わり切っていないことはわかります。だからまたいつか今日のように、少しの喪失と共に大人に近づく日が来る。それは待ち遠しいけれど、今すぐ来て欲しいわけじゃない。一つ一つを丁寧に大切にしていきたいと、私は心からそう思います。

 制服、鞄、教科書、ノート。それはいつもの持ち物で、いつもと違うのは私だけ。……おっと、正確にはもう一つ。昨日までは私だったけど、今日はもう私じゃないもの。それをティッシュに包んで、私は寮の扉を叩きます。朝日に染まり濃さを増していく青の空、空の切れ目にも見える薄い雲。それらを網膜に映してみると、また歯茎の隙間にぴりりと刺激が走りました。私が空気を吸い込んだ、その証でした。学園に向けて風を切って駆け出した、それが理由でした。

 自分でも、上手く説明のできない感覚。まだ口の中は血で満たされているし、あったものがなくなった違和感も未だに強い。空の下を駆けてゆくほどに、すーすーとした歯抜けの感覚はより私を包んでゆく。どうしようもなく、変な感覚。ひりひりと痺れる口元の違和感は、それに嫌悪すら抱いても不思議じゃないものなのに。

 どうしようもなく、気持ちよかった。何故だか、そんな気がしました。

 

 

 授業はなんとか乗り越えられました。とりあえず午前中は、だけど。口の中は血がだんだんと溜まってくるので、時折それは飲み込むしかない。出来るだけ口を濯いで済ませたいところではあるけれど、授業中だとそうもいかなかった。そんな未だ止まらない血の源泉を、ついつい舌で刺激してしまう私も悪いんですけど。ちくちくと柔らかい舌の先っぽで突いてみると、ぐにぐにとした感触が返ってくる。昨日まではそこに硬いものがあったのに、今は剥き出しになっている。歯の方に片割れを残してしまった肉のちぎれ目に触れると、ちょっとぴりっとした感触がある。ぴちゃりとほんの少しの水音が耳に響いて、口の中から全身が優しく侵食されるような。私以外誰も知らない、私の内側から。それが少しだけ、気持ちいい。……あまり良い遊びではないのだろうけど、そんな悪いことをしているかのような感覚も、今は一種のスパイスでした。

 さて、それはともかく。午前中が終わって昼休みになれば、必然昼食を取らなくてはいけないわけで。皆が食堂に行く中私は教室で椅子に座ったまま、一人でうんうんと悩んでいました。弁当は昨日のうちに作ってしまっていたので、歯が抜けることなんて考慮したメニューにはできていませんでした。恐る恐る、結果の最初からわかっている弁当箱を開きます。開けたら順に中身をチェック。ご飯粒にトマトにタコさんウインナー、ここまでは良いのだけど。大きく右半分に陣取っている肉じゃがが、今回の曲者です。曲者というか、汁物です。何が問題かと言うと、沁みます。歯抜けには、沁みます。

 とりあえず肉じゃがを見ないふりをして、ちまちまとご飯粒から処理していきます。少しずつ、歯の抜けた穴には触れないように。それでも人は慣れ親しんだやり方をそう簡単に変えることなどできなくて、ついつい噛む場所を間違えて血まみれのご飯粒を作ってしまうのですが。今はもう無い歯で噛もうとして、代わりに血をべっとり付けてしまう。もちろんべっとりというほどではないのはわかっているけれど、その後の味わいは血の味しかしなくなります。ごめんなさい、せっかく作ったのに……。

 そうやってなんとか、ご飯粒を片付けます。「片付ける」という思考の時点で、若干料理に失礼なことは否めないのですが。とはいえ感覚として今口に入れたものはなんでも違和感の原因になってしまう、そちらに気を取られてしまうのは仕方ないことでした。そしてそれすらも、なんだか気持ちいい気がしてしまうのも。ああ、本当に悪い子みたいですね、これじゃ。まあでも、仕方のないことではあります。未だ流れ出る血の味、慣れる気配のない空いた口元、そして昨日よりも大人になれた私。……少し気持ちが高揚してしまうのは、だから仕方のないことです。

 さて、そうして残りのおかずも片付けて。ぴりりぴりりと自分で自分の痛覚を刺激しながら平らげて。残るは汁気たっぷりの肉じゃが。もちろん食べ残しなんてするつもりはないのですが、どうしましょう、これ。……いや、覚悟を決めるしかないですね。

 ぱくり。じわり。ぴりり。三段階の最後に、全身に痺れが走ります。美味しいから、ならよかったんですけど。いやもちろん、頑張って作ったのでそれなりに美味しいといいんですけど。滴る汁気が傷口に入って、その先にある痛覚の神経まで届いてしまう。もはやぴりり、じゃなくて、ずきり。一口一口それだったので、まともに味は分かりませんでした。代わりに噛み締められたのは、私からなくなったものがあるという事実。それを肌で、痛みで感じました。私が、私の成長が付けた生々しい傷跡から。改めて。きっと、今日はしばらく。

 

「……ふう、ごちそうさまでした」

 

 小さく手を合わせて、私は私に感謝した。お弁当を作った昨日の私と、それを食べる今日の私は、きっと違う存在だと思ったからです。それはちぎれてほどけた歯だけじゃなくて、それに伴う痛みだけでもなくて。それだけじゃないとそう思えることこそが、きっと何よりの進歩なのだと。私は、大人になれているのだと。そう思いました。そう、思うことができました。

 だから、もう少しだけ。もう少しだけ、この違和感に浸っていよう。唇の奥の痛覚から伝わるじんわりと甘い痺れも、どろりと口に溜まってこびりついてしまいそうな血のにおいも。もう少しで、終わるのだから。もう少しが終われば、別れの儀式があるのだから。

 

 

 午後の授業も乗り切れました。一度先生に当てられたけれど、多分歯がないからって変な喋り方にはならなかったと思う……多分。口の中にはまだじんわりとした感覚は残っているけど、だいぶ違和感は薄れてきて。慣れてきた、ということかもしれないです。

 それでも何度か舌で赤く腫れた歯の跡を舐めてしまって、その度にえも言われぬ鈍くて少しだけ尖った痛みが身体を駆け巡る。ちくちくと、じゅくじゅくと。それを繰り返す。慣れてきて、癖になってしまったということでもあるのかもしれない。傷口を抉る自傷行為だ、みたいなことを言われてしまえば、確かに返答には困るのですが。でもたとえば爪を噛むようなものだと思う。いや私が爪を噛む癖があるわけではないのだけど、それにちょっと近いのではないかというか。自分の身体を少しだけぞんざいに扱うことで、そんな場所も自分にあるのだと確かめるという意味で。

 自分の中の綺麗なところだけではなく、ざらざらした荒れ地のような私を舌でなぞる。誰にも見せたことのない私の中身を、もしかしたら誰にも見せられないようなものかもしれない私の血と肉を。つーっと優しく、けれど確かな痛みと共に。そういうことを、今の私はしている。校舎の外、人気のない壁際で。この違和感が消えてしまう前に、それを愛しんでいる。消えてしまわないようにとまでは、思わないけれど。

 上を見上げる。広く遠い空より手前に、薄べったい校舎の屋根が見えた。だいぶ高いけれど、思いっきり投げればきっと届くだろう。空までは届かないけれど、あの屋根までなら。

 一人ぼっちの空間で、私は密やかに鞄を開いて。今日の私は一人でした。ブルボンさんもスイちゃんもスカイさんもいない、一人でした。一人で、痛みを抱えていました。大事に大事に、だけどいつか手放すために。ノートや教科書とは別のポケットに、朝ティッシュに包んだ大事なもの。もう血は乾いて肉片も干からびていたけど、もう私の一部ではないけれど。

 それでも私にとって大事な、私の歯。その小さなひとかけらを、薄い紙の膜から取り出しました。

 

「乳歯が抜けたら、下の歯なら上に投げればいい。そうすれば、綺麗な永久歯が生えてくる」

 

 そんなおまじないは、割と有名な話だと思います。もっとも効果の実証はできないただのおまじないで、そんなことは誰もが知っていて。だけど、きっと多くの人が行う儀式。それはきっと、まだ子供だから。子供だから、おまじないを信じられる。子供だから、大人になりたいと願うことができる。そういうものだと、私はそう思うのです。

 だから。

 

「……えぇいっ!」

 

 ぶんっと振りかぶって、思いっきり空に向かって。少し叫んで、心の限りが届くように。大切な大切な私の歯を、手放すために投げました。投げる時に力むと、また歯の抜けた赤い隙間から痺れが伝わる気がしました。柄にもなく大声を出して、それも少し歯抜けの間抜けな声だったかもしれません。けれど、それでも私は。

 それでも私は、大人になりたい。そう、祈るのです。

 おまじないは、子供のためのもの。だからそれに頼った今の私は、きっと子供のままの私。どれだけ勉強してもそれだけで大人にはなれないのだと、トレセン学園に来てわかったことでした。だから子供の私は、大人になれるようにと祈るのです。たとえば歯が抜けてその痛みを癖になるまで転がして、そしてお別れのおまじないをして。そうやって子供の方法で、大人に近づいていくのです。私は子供だから。大人になりたいけれど、まだ子供だから。そして子供の時間を大切にしなければ、きっと大人にはなれないから。だから私は、今はまだ子供です。それだからいいのだと、思えています。

 たとえば乳歯はいずれ抜け落ちて、永久歯に生え変わるもの。ぽろぽろと溢れていく乳歯と、堅牢で強固な永久歯。それなら誰もが一度はこう思うのではないでしょうか。最初から永久歯が生えていればいいのに、と。最初から大人ならいいのに、と。

 だけど、きっとここには理由があるのです。医学的なことはわからないけれど、それ以外のことならわかります。乳歯は、永久歯を育てるためにあるのです。いずれ大人の自分が外に出ていくために、それまでの時間を子供で過ごすために。そして痛みを伴う別れを子供のうちに経験して、大人の歯は大切にしようと思えるように。大人の私を育てるために、私は今、子供なんだ。

 昨日の私と、今日の私は違う。それは当たり前のことだけど、昨日から今日へと伝えられることはある。空いた歯もいずれ埋まるけれど、そこをかつて埋めていてくれたもののことは忘れない。そこにある感覚も痛みも全て、あの時の私を教えてくれるから。

 きっと、これはこれから何度もあること。一度満開になった花びらが一つ一つ散ってまた次の季節に咲くことを繰り返すように、私たち子供は何度も大人になれたと錯覚してはまた成長を経験するのでしょう。それは苦しい道のりかもしれません。もしかしたら、終わりがないのかもしれません。大人になっても間違えることはある、それもきっと当たり前だから。

 それでも、きっと。きっとこれだけは間違いないと、私が唯一胸を張って言えるのは。

 私は昨日より、一歩大人になれている。喪失と流血を乗り越えて、それでもここにいるのだから。

 それが、歯が抜けて私が思ったこと。次に歯が抜ける時、私は何を感じ入るのだろう。次に大人に近づく時、私は何を得るのだろう。それはわからない。わかることがあるとすれば、今日と同じことは思わないだろうということ。それがわかる理由は、とってもシンプル。

 昨日の私と、今日の私は違うのだから。子供は少しずつ、大人になるのです。



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セイウンスカイとファム・ファタアルの誘惑

滅多に書きませんこういうの


「ねえ、キスしようよ」

 

 昼と夜の境目、刹那を染めるマジックタイム。そんな茜差すトレーナー室で、トレーナーさんは私にそう言った。洋画でも滅多に見ないような、でたらめに綺麗なプラチナブロンド。ビロードのようなそれを空の朱色に透かして、逆光を後光みたいに背負いながらそう言った。白金の髪とは対照的な小麦色の肌を陰に染めて、青空よりも混じり気のないコバルトブルーの大きな瞳でそう言った。

 その切れ長のまつ毛の端っこまで私の顔に向けられていて、その薄い唇が僅かに舌をはみ出させるのを見て。だから私はこの人が本気でそう言っているのだと、私を求めているのだと思ってしまった。

 そんなわけないのに。

 ファム・ファタアルの甘い誘いは、人を堕落と破滅に誘うものなのに。

 

 

 私のトレーナーさんは、とても目立つ外見の人だ。腰まで伸びた白金色の髪の毛と、これまた日本人離れしたきらきらと青く輝く瞳。長いまつ毛の一本一本まで外人さんみたいなのに、肌の色だけは少し濃いくらいの黄色人種の色。だけどその普通さが、他の異常さを際立たせる。街を歩けば誰もが振り向くだろうな、私でもそう思うような女の人だ。

 そして更に困ったところが、その性格。立ち振る舞い。何かあればすぐけらけらと笑うくせに、たまにその極めて整った顔に一切の感情を乗せずこちらを見つめてきたりする。目と髪を抜けば顔だけは日本人の顔をしているくせに、なんでもない時に私の指に指を絡めてくるような距離感は日本人のそれじゃない。ハーフだからだよ、でそれを全部済ませてしまうのも含めて、本当に困った人。まあ人をからかう趣味については、私セイウンスカイも人のことはとやかく言えないのだが。

 

「トレーナーさんって、とびきりモテそうですよね」

 

 だから、そう聞いたのだ。たとえば私の隣を歩いてる時、周りの視線が気になるし。それなのに何かあったら私の前で子供みたいにはしゃぎ出すし。見た目が美人というだけじゃない。その振る舞いは一言で言えば、危うい。だからまあ、我ながら優しく心配してやったわけだ。悪い男に引っかかってないか、と。そんなふうに気を回してやったのに、トレーナーさんの返答はこうだった。

 

「残念ながら、そんなにモテてはないよ。なんせ中高大は女子だけで、だから相手も女子だけだもん」

 

 そんなふうに言って、またあどけない笑みで綺麗な顔をくしゃくしゃにして。その発言が既に異常だと、恋の一つも知らない私は心底怖くなったものだ。だってその言い方は、複数の女性とそういう関係になったという意味以外にあり得ないから。トレーナーさんにそういう趣味があったとは、流石の私もびっくりだった。そんなふうに驚きを隠せないでいると、蜘蛛糸みたいな髪の毛を揺らしながらあなたは言う。こんなの別に普通だよ、と。

 

「スカイも恋をしてみればわかるよ、きっと」

「女の子を取っ替え引っ替えしてた人間に恋の素晴らしさを説かれても、上滑りしてよく聞こえますね」

「あっひどい、私はちゃんと好きな人としかしないよ、キスだって」

「はあ、それって結局誰でも好きになるってことじゃないですか」

「そんなことないよ、特別な人とだけ」

「じゃあ今まで何人」

「……それはノーコメントで」

 

 そんな会話を続けるうちにも、何故だかこの人は当たり前のように距離を詰めてくる。身につけた薄い香水のにおい、少し胸元のきつそうなスーツのにおい。そんなあなたのにおいが、私の鼻腔を責めてくる。多分こうして人を狂わせてきたんだろうな、と思った。

 そして、そのままトレーナー室で二人きりの時間を過ごした。別にトレーナーさんがそういう気があると知っても、不思議と私の態度は変わらなかった。風にたなびくプラチナブロンドの髪がどれだけ綺麗だと思っても、なんでもない会話の途中で不意に軽く抱きつかれても。その柔らかい身体の一番柔らかい膨らみを押し付けられても、不思議と至って平静でいられた。

 だからもしかしたら、業を煮やしたのかもしれない。あるいは単にいつものように、私をからかいたかったのかもしれない。

 けれどどちらにせよ、トレーナーさんは極めて唐突にその言葉を切りだした。夕暮れ深まる狭間の時間、華やかにはにかむ白金の君。

 

「ねえ、キスしようよ」

 

 そうして私は、トレーナーさんを見つめた。

 深く、甘く、底の底まで。

 

「好きな人とだけって、聞きましたけど」

「スカイのことは好きだよ? 私の大切な人」

「キスは多分、恋人じゃなきゃしちゃいけないと思いますけど」

「もう、こういう時だけ固いんだから」

 

 そう言ってまた子供のようにくすくすと笑って、そのままゆっくりとにじり寄ってくる。私が寝転んでいたソファに、そこにある私の唇に。距離が限りなくゼロに近くなるまで、そのまま顔を近づけてくる。そうして私は、直感する。

 逃げられないこと。拒めないこと。ファム・ファタアルの囁きを、受け入れてしまっていること。

 そうして、まもなく。見方によれば、あっさりと。

 私の初めてのキスは、トレーナーさんに奪われた。本当に檸檬の味なのかなんて、そんな拙い知識の正誤はさっぱりわからないまま。恋も知らない初心の小娘は、そうやって魔性に魅入られていく。

 

「んっ……ちゅっ……跳ね除け、ないんだ」

「ぷはっ……はあっ……嫌じゃ、ないですから」

 

 あっという間に、何度も重ねた。啄むようなキス。ちゅっ、ちゅっと、わざとらしさもある音の鳴る小鳥のキス。けれどその実態は唇を貪り合う、情欲に塗れた淫靡なやり取り。相手を求め、求め返されることに悦びを感じる。ちゅっ、ちゅっ。いたずらを仕掛け合うような、甘い、甘いキスの音。どちらかが拒めば簡単に終わるのに、どちらからも求めてしまう。好きな相手としかやらない、特別なこと。それを私はしていた。本当にただのいたずらみたいに、あなたに初めてを奪われた。

 ちゅっ、ちゅっ。そんな強引な始まりを迎えた口付けなのに、あなたが仕掛けたそれは互いに求め合う形だった。きっとそれが好きなのだろう。愛して愛されるのが好きなのだろう。誰とでも、そうしてきたのだろう。そうわかっているのに、求め返すのを止められなかった。小鳥のキス。愛し合うキス。初めてのキス。どれも、私の知らないもの。小一時間そうやって、リップノイズだけが虚なトレーナー室に響き渡っていた。そしてそれがもう少し進展するのには、あなたが次を求めてくるのには。

 そして私がそれに応えてしまうまでには、それほど時間はかからなかった。

 

「んっ……ねえ、スカイ」

「ふぅ……なんですか、今度は」

「もうちょっとだけ、させて」

 

 今度は、有無を言わさなかった。強引に、その薄い唇を強く押し付けられる。唇と唇、先ほどまでの先端を貪りあうものとは違うキス。口紅の味がして、舌が触れたことに気づいた。強く強く他人の味がして、多分これは深い関係でないとしないようなものなのだろうなと思った。歯と歯がかちりと音を立ててぶつかる。驚いて舌を引っ込める。唇の裏と唇の裏が、厚さの違う自分ではない人の剥き出しの身体が、私の奥まで触れてくる。先ほどまでとは違って、ほとんど音はしていなくて。だけどその分丁寧に、丁寧に全てを貪り尽くされている気がして。どこまでも、絡め取られていた。

 

「……ふぅ。ごちそうさま」

「本当にやらしいですね、トレーナーさん」

「好きな人とだけだよ」

「相手の気持ちは」

「嫌だった?」

「……嫌じゃない、ですけど」

 

 そうやって、全てを終えた顔をするトレーナーさん。照れの一つも浮かべずに、最後まで手玉に取って。ああそうですねトレーナーさん、それならあなたの勝ちになりますね。私を指先で転がして持ち上げて、舌先に乗せて遊んでいる。そんな敏感な場所を曝け出しても、あなたならちっとも嫌じゃないって感じで。そんなアンバランスを孕んだ魔性が、私を引き摺り込んだ。

 いい気になっているのだろう。己の危うさを長剣のように人に傷をつけることに使って、そのくせつける傷はきっと真摯に愛してしまう。そんな己の在り様を、きっと存分に肯定しているのだろう。これが私なのだと、きっとそうやって振る舞うことに悦楽を覚えているのだろう。

 でも。あなたが、そのつもりでも。

 私はもう、本気になっちゃったよ。

 

「ちょっと、スカイ!?」

 

 がたん、と床に倒れ込む。私の上に覆いかぶさっていたあなたを跳ね除けて、バランスを崩して倒れ込ませる。強引に、けれど優しく。無理矢理だけど、あなたの望みを引き出すような。そうしてできた一瞬の戸惑いの隙に、私とあなたの立ち位置は逆転していた。

 冷たく冷えたリノリウムの床、その上に乗せられた人肌のぬくもり。そんな哀れにもがこうとするあなたの上に、しなだれかかるように体重を乗せてやる。軽くてきっとまだ瑞々しい、恋を知ったばかりの少女の肢体を。

 丸くて柔らかくて甘いにおいのする、トレーナーさんの身体ともつれるように一つになって。スーツの下のタイトスカートからはだけたその生の脚に、私の裸足を絡め合わせて。両の指がその丸みを帯びた背中の裏で合わさるくらい、強く強くあなたのことを抱き締めて。私とそれほど背丈は変わらない、むしろ耳の分だけ私の方が背が高い。そんなちっぽけな身体だったのだと、抱き締めながら密着して気づいた。

 その柔らかい身体が、また私を包もうとするけれど。彼女の女性らしい膨らみもすらりと長くて柔らかい二の腕も全て、その包容力を発揮しない。今は逆に、私があなたを包んでいた。がっちりと、あっさりと。ウマ娘と成人女性の膂力の差が歴戦としていることなんて、小学生でも知っている。

 あなたはもう、逃げられない。

 

「トレーナーさんが、いけないんですよ」

 

 床に散らばる白金の髪。宝石の糸みたいに見えて、今までで一番素敵だ。もう少しで私の眼とぶつかってしまいそうな、サファイアみたいな青の瞳。肉感的な色合いな肌とは酷くアンバランスで、どうしようもなく劣情を煽る。どれもこれも、一寸前より数段魅力的に見える。理由は簡単、理屈も簡単。けれど、今一番欲しいのは。だからこそ、今あなたに求めるのは。

 

「だめっ……んっ……それ、はっ……」

「そんなこと言って、抵抗しないじゃないですか。……はむっ」

 

 あなたの唇。そして、その先だ。

 私は、あなたを虜にしたい。世界の中心にいると思い込んでいる女郎蜘蛛の、驚きに満ちた顔が見たい。それだけだ。今まで見たことのないあなたが見たい、恋を知った私が願うのはそんなこと。

 情緒のないキスなら深く想われないだろうなんて、あなたはきっとそんなことを考えていたのだろう。けれど私はこうやって、あなたという存在を愛おしみ求める。なら今度は、おかしいのは私かもしれない。あなたの深く深くを暴き立てたいと、全てを手のひらに乗せたいと。そんなふうに思うほうが、きっと歪でおかしいのだろうけど。

 まあ、お互い様だ。唇をこちらから重ね合わせる瞬間、あなたもやはり拒まなかった。

 

「れろっ……ぇぉ……ぷはぁ……んちゅっ……」

「あむっ……んっ……ちゅぷっ……ぁぅ……」

 

 ぴちゃり、くちゅり。今までで一番淫らな水音。背徳的で、退廃的で。深い、深いキスの味。固い固い歯の門をこじ開けて、その奥にあるあなただけのプライベートゾーンに侵入する。そしてそんな冒涜的な舌先は、あなたの舌との触れ合いさえを求めていく。味覚を司る、人の身体で一番敏感な場所の一つ。そこに閉じ込められた神経は鋭敏で、ひとつ撫ぜてやるだけで腕の中の身体がぴくりと跳ねた。唾液で粘ついた舌が絡み合うたび、ぴちゃり、くちゅりとまた水の音が鳴る。

 きっと、今までで一番いけないこと。こんなふうにしているなんて誰にも言えない、甘い、甘い罪の味。けれど一番、幸せだ。私はあなたを好いてしまった。ならば私も、あなたを好いてみさせよう。これまでで、一番。誰よりも、一番。私なしでは、生きられないくらい。

 

「……んっ……ちゅっ……まだ出来ますよね、慣れてるんだから」

「はあっ……はっ……こんなところまでなんて、滅多に……んむっ」

 

 そんな思いを込めて、また唇を貪る。強引にその言葉を塞いで、それを発するはずだった喉の奥までちろちろと蹂躙する。「滅多に」、だなんて。この期に及んで、他のひとのことを思い起こさせるなんて。多分これは嫉妬、呆れ、そして独占欲。どうやらまだ、躾が足りないようだ。

 上顎の下をつーっと舌でなぞる。再び跳ねる身体を抱き締めて押さえつける。上顎の下を逃げ回る細長い舌を無理矢理絡めとる。また、水音がする。こんな狭い場所じゃ、どこまで行っても逃れられない。必死に力を逃そうとする腕の先まで、指の一本一本まで絡め取って離さない。

 ほら、これもあなたがいつもやっていることでしょう? この口付けだって、あなたが始めたことでしょう? それなのになんで、そんなに悶えて。私なんかよりずっと慣れているくせに、すっかり受け入れてしまったくせに。それなのにどうして、あなたの身体はぴくぴくと反応しちゃってるんですか? 

 ああ、でも聞けないし、答えられないか。唇は互いの唇で繋がっている。言葉は紡げないし、きっと要らない。貪り合う事実だけで、互いの愛は確かめられる。だって、キスとはそういうものだから。あなたが私に、そう教えたのだから。

 責任、取ってくださいね──? 

 

「んっ……ぷっ……どうですか、トレーナーさん」

 

 そうして一時間ほど、互いの唾液を互いに吸い尽くすまで唇を重ねていた。秘め事を終えた私は顔をわずかに離し、あなたに向けてくすりと微笑む。返答はなく情けなくパクパクと口を動かされるだけだったけど、先程の意趣返しができているのはあなたの顔を見ればこれ以上ないくらいに分かった。

 りんごみたいに赤く染まった頬、絶え間なく息を切らせる荒れた肩。掻き乱されたプラチナブロンド、それの張り付いた小麦色の肌。上気して荒れた息遣い、そしてこちらを見遣るコバルトブルーの瞳に込められた色彩。

 やっぱり現実離れしたような美人だったけど、そこに纏う雰囲気はいつもの捉えどころのないものとはまるっきり変わっていた。私が、変えてしまったのだ。

 マジックタイムが終わった部屋、夜の熱気がこもった空間。だけど魔法は終わらないし、ここにある熱気もむしろ心地いい。少なくとも私はそう思っているし、あなたもそうだったらいいなと思う。

 そうでなければ、許さない。私をこんなふうにしたのは、あなた以外にあり得ないのだから。そう思うように変えたのはあなたなのだから、あなたには同じことを想う責任があるのだ。互いを求めるとはそういうこと。恋人とはそういうこと。

 だって私は、あなたに恋をさせられたのだから。

 そして少し眼を逸らそうとするあなたの顔を、横からするりと覗き込んで。その潤んだ眼と自らの眼を重ね合わせた瞬間、私は確信する。確信すると同時に、理解する。

 ああ、この人は私の虜なのだと。

 私もまた、魔性のファム・ファタアルだったのだと。

 迫り来る夜に舌なめずりをしながら、そう思ってしまったのだ。

 



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酔い闇のあなたとセイウンスカイ

リメイクです


 暑い。眠れない。そんな夏の深夜というものは、私にとっての大ピンチ。おまけに今日は雨も降っている。ざあざあ、ざあざあと見えない窓の外から水の鳴く音が聞こえる。というわけで、私はかなり暇している。そんなに気分の良くない夜を、一人寂しく過ごしている。

 そして夜中だからみんな寝静まっていて、たとえば当然トレーナーさんも寝静まっている。それが深夜一時ちょっと過ぎの今。手早く眠れた人だけが雨にも気づかずぐっすりできて、明日の朝になれば雨は止んでいる。その間に起きてた人の苦労なんて知りもしない。それはちょっと嫌だと思ったのが、数少ない娯楽たる睡眠を暑さと雨音に奪われた私ことセイウンスカイの、我ながら可愛らしい悪戯の発端だ。

 ぷるるるる、ぷるるるる。私のスマホのスピーカーから小さく震え出す、電話をかける音。ブルーライト混じりの画面表示は、私の目にトレーナーさんの電話番号を表示している。最近ようやく聞き出せた、トレーナーさんの私用ケータイの電話番号だ。これなら今はトレーナー寮でぐーすか寝ているだろうあなたにも届く。そういう心算だ。

 

(出て、くれるかな)

 

 ぷるるるる、ぷるるるる。少しだけ、胸が苦しくなる。あるいは高鳴り、どきどきする。理由は至極真っ当で、なんせこんな時間に叩き起こすような電話をかけるのだから、こっぴどく怒られてもおかしくない。多分、そういう緊張。そういうことにしておこう。だけどそれでも、スマホを握る手はじっと動かないまま。これまた緊張で、少し汗が滲んでいる。いやあ、怒られるのは怖いですねえ。

 

 

(長い、な……)

 

 ぷるるるる、ぷるるるる。まあ結局、私が電話をダメ元でトレーナーさんにかけているのは、別にただただ起こしたいわけじゃない。寝ぼけ眼のトレーナーさんに私の声を届けられたなら、普段は聞けないような返事を聞けるんじゃないか、って。天使の声と勘違いして、素直な言葉を返してくれるんじゃないか、って。まあ、そんな感じだ。

 だからここにあるのは、ダメ元だけど、確かな期待を未知のあなたに寄せる気持ち。あるいはその可能性が低いからこそ、そこに奇跡を錯覚したい乙女心。私がのんびりあなたが電話を取るのを待てるのは、それくらいの理由。それくらいあれば十分は待てる。もう少し待たせるのなら、別のご褒美が欲しいけど。

 ぷるるるる、ぷるるるる。さあ、この先にはどんなあなたが待っているのだろう。やがて雨音は遠くなり、暑さもふわふわ雲に浮かぶ。液晶に表示されるなんの感情もない11桁の数字だけが、私の身体をぽかぽかと暖める。まったくこんなに暑いのに、トレーナーさんのせいでこうなってしまった。

 そして。そして、待ってみればあっという間に。

 

「00:01」

「通話中」

 

 世界が変わる一秒目、それが始まった合図が画面に写った。さあ、なんと言おうか。なんと言えば、私はあなたを望み通りに動かせるだろうか。そんな企てを進めるより先に、仕掛けてきたのはあちらからだった。手汗でじんわり濡れたスマホから、聞き馴染みのある声が聞こえる。

 

「……おー、おはよーう」

 

 ……様子がおかしい。そもそもこんな時間に電話をかけられて、「おはよう」とはどういうことだ。寝ぼけているということか、それとも。他にも異変はあって、たとえば声が少し高いような気がするし、何より調子が変な感じがする。聞いたことがあるけど、聞いたことのない声。初めて聞くかたちをした、あなたの声。

 ……まあ、そんな所に浸るのは要らなくて、それよりも私は第一声でこの状況を看破してやらねばならない。そうしなければ優位に立てないし、優位に立たなければ悪戯の意味がない。というわけで私はトレーナーさんの現状について、拙い推理を並べていく。調子が違うとはいえ、電話には出てくれた。私からの電話だから起きたのか、元々起きていたのか。前者ならちょっぴり嬉しいけれど、後者の可能性にも当たるべきだろう。つまりトレーナーさんが起きていた理由がある、というパターンだ。こんな時間まで一人寂しく、独身男性が起きている理由。可愛い教え子からの電話を、罠とも知らず迂闊に取った理由。

 ……こう言ってると、なんだか自分がとんでもなく悪いことをしているような気がしてしまうのだけど、それはともかく。そんなガードの甘い、普段とは少し違うトレーナーさんが今電話の先にいる理由。そんな理由について、この僅かな時間で私は一つの答えを弾き出した。当たる可能性はそこそこで、間違っていたらそれはその時。仕掛けが一つ外れたくらいで、おしまいになる関係でもないだろうし。少なくとも私は、あなたのことをそう思っているし。

 というわけで私は、画面の向こうに指を突き立て、一つの仮定をあなたにぶつけた。

 

「酔ってます? トレーナーさん」

「……あー、少しな」

 

 当たりだ。心の中でガッツポーズ。仕掛けにかかった魚を見ているような気分だ。トレーナーさんはどうやらひどく酔っ払っている。だから起きていて、だから変な感じだ。それにしてもそんな、やけ酒するような人だったのか? いや、やけ酒と決まったわけではないのだけど、もしそうなら今後の付き合い方は考える必要があるのかも。家に帰ってから何かむしゃくしゃすることでもあったのだろうか? 今日のトレーニング中はいたっていつもの真面目なトレーナーさんだった気がするが。

 まあそれくらいのことなら、素直に直接聞いてみればいいのだけど。たとえばあなたに悩みがあってこんな体たらくに陥っているのなら、この際その原因まで聞き出してみればいい。そうすれば私は、それを弱味としてシラフのあなた相手に握ってやったり、もしくは出来るだけ、あなたのその悩みを取り払えるよう寄り添おうとするだろう。

 そのどちらか、確率は半々、さながらコインの裏表のごとく。……どちらにせよ本質は変わらないことも含めて、コインの裏表に等しい、なんてね。

 

「なんでこんなに酔っぱらっちゃってるんですか、トレーナーさん。悩み事があるなら、セイちゃん聞いてあげますよ?」

「そうかー。いやー大したことではないんだが、なんだかなあ」

 

 電話口の相手は知っている声だけど、知らない人のようだった。ひょっとして私からの電話だということにすら気づいていないんじゃないだろうか。そんな想像が現実味を帯びてくるほどに、あなたは私に知らない顔を見せてくれていた。

 きっと熱を帯びたあなたの顔。きっと見たことのないあなたの表情。それがどんなものかここまで近づいても少しもわからないのは、ほんのちょっとだけ悲しいことなのかもしれない。知らない顔を見ることはできているけれど、全てを見ることは叶わない。それは悲しいことなのに、何故だか私の心は心地よい熱に満たされていて。満ち足りて、いて。

 そんな私のセンチメンタルな気持ちなどさっぱり関係なく、酔っぱらいと化したトレーナーさんはこちらに向けて話しかけてくるのだが。ますます持ってこちらを私だと認識していないんじゃないか、そう思ってしまうような突拍子もない問い。

 

「なー、キミは恋愛したことあるかい」

 

 いよいよ口調が怪しくなってきた。それにしても、恋愛。恋愛かあ。こんなのシラフじゃ絶対聞かれないな、などと思いつつ、真面目にそれに向き合う私がいた。なんといっても我が担当トレーナーからの問いなのだから、きちんと答えなければいけない、などとは多分微塵も思っていないのだが。だからきっとこれについて考えるのは、ミリグラムの好奇心によるものなのだろう。

 たとえばの話、あくまでたとえばの話として聞いてほしいのだが、私が誰かのことを好きになる、つまり恋愛感情を持ったとして、その対象がトレーナーさんであることは常識的にありえない。たとえトレーナーさんがいくら立派で身近な尊敬できる異性だとしても、ありえない。なぜならトレーナーさんは私のことを見守る大人であり、そんな存在に教え子の立場で邪な感情を持つのはいわば信頼関係を壊す行為である。倫理的に問題のある行為である。だから、それはありえない。

 だからまあ、私はトレーナーさんのことを好きではない。当然の帰結である。けれど他に仲の良い男の人はじいちゃんくらいで、他は当たり前のように女の子の知り合いばかりである。私が男だったらほっておかないかもしれないような子はいるけれど、それは多分男だったらそもそも出会う機会がないような子ばかりなのだろう。トレセン学園とは、そういう場所。頼れる大人しか異性はいなくて、頼れる大人は異性として見てはいけない。そういうふうに、決まっている場所。

 

「うーん。なかなか縁がありませんねえ、おかげさまで」

 

 そう返す私の声は、やっぱりどこかに幼さを残しているのだろうと思った。トレーナーさんがいるうちは、私はまだまだ幼年期。信頼する大人のそばで、蝶よ花よと愛でられて、真実の愛とやらはまだ触れる権利すら与えられていないのだ。そういう暗黙のルールだし、私もそれに従っている。そこに不満はない、それも当然の話。

 

「そうかあ、スカイはいいお嫁さんになるぞお」

「ふふっ、なんですかそれ」

 

 立ち位置のまるでわからないトレーナーさんの言葉に、思わず笑みが溢れる。それは親か何かの台詞だろうに、と。その笑みは苦笑か失笑か、はたまた。トレーナーさんは未だよくわからない距離感で、やっぱり酔っ払っているだけじゃなくて寝ぼけているのかも。だとしたらさっさと会話を進めて終わらせて、大人しくすやすや寝させてあげようか。そうするのが気遣いというものなのだろうけど、何故だかそんな気分にはならなかった。

 単なる好奇心で、たとえば教師の交友関係を生徒が探るが如し。そんな質問を、あなたの微睡む瞳にぶつけられたら。サウンドオンリーの境界の前では、あなたの視界を横切ることすら叶わないのだけど。

 けれど、それでも私は問いかける。単なる好奇心から、あるいは少しあなたを攻め立てたい気持ちで。策士の策は、第二段階に移行する。

 

「トレーナーさんは、そういう人。いないんですか?」

「俺かあ。俺はなあ、今で十分幸せだよお」

 

 できるだけあっさりと聞いてみた質問には、なんだか素っ頓狂な答えが返ってきた。泣きが入っているようにも聞こえた。そんなつもりはなかったのだが、トレーナーさんは何かに感動しているらしい。そんなことよりちゃんと質問に答えるべきじゃないか、まったく。ここで「彼女と飲んでる」と言われたら、すぐに電話を切るくらいの配慮はするのに。そんな存在のことなど、気配すら感じさせてはくれなかった。

 そして感極まったトレーナーさんは、そのままなだれ込むように言葉を繋げて。

 

「世界一のウマ娘に出会えたからな。それ以外は要らないよ」

 

 ちょっと真面目そうな口ぶりで、そんなバカげた台詞を吐いてくる。世界一のウマ娘、って、なんだか今日のトレーナーさんはじいちゃんみたいだ。いや、じいちゃんでももう少し厳しかったぞ。指導者がそんな甘々でいいのか、トレーナーさんや。

 などと茶化してやらないとまともに受け止められないような、本当にバカげたセリフだった。世界一、かあ。お酒は人の本性を暴き出すというが、そんなふうに思われていたのが本性なのだろうか。そりゃもちろん悪い気はしないけど、耳の奥までくすぐったくてたまらない。責任を取ってほしいくらいだ……なんて、多分そんなことを今言えば本当に取られてしまいそうなのでやめておく。そこまでずるくはなれない私は、なんだかんだで真面目なのだ。

 

「へーえ、どの辺が世界一なんですか?」

 

 というわけで、他人事を装う。多分本人の前では言わないことだから、そうやって聞いてやるのが一番だろう。素直に吐き出させるのが、きっと今の私の役目だから。

 鳴っているはずの雨音が本当に遠い、不思議な夜だった。湿気た熱と私だけが、部屋の中で一人閉じ込められていた。そしてやっぱり気恥ずかしい直球の褒め台詞を、透明なガラスと色のない電波越しに聞いた。一本の電話だけが、外の世界と繋がっていた。

 

「そうだな、まず頭がいい。一見不真面目そうでいて、その実いつでもひたむきだ。真剣勝負との折り合いの付け方が上手いんだ。あいつなら、俺がいなくてもやっていけるだろうな」

 

 その言葉尻に、少し沈黙してしまう。これ以上ないくらいに褒められているのに、そこだけでそんなことを言わないで欲しかったと思ってしまう。最後が、引っかかる。慌てるように、言葉を継ぎ足してしまう。

 

「トレーナーさん、何度も助けてくれたのに、そんなこと言わないでくださいよ」

「あいつは俺の憧れだ。まあトレーナーってのは、みんなウマ娘の輝きに魅せられた存在ではあるけどな。俺たちはトレーナーであるために、トレーナーだから、彼女たちの一番のファンであり続けるんだ」

 

 熱に浮かされたようなその声は、初めて聞くあなたの憧れの話。トレーナーを目指した理由と、その答えを私に見たということ。そんなしどろもどろでわやくちゃな、普段のあなたなら抱えても私には言わないような言葉。それを、私の前で話していた。そうやって私に直接憧れを告げるのなら、その言葉はきっとこう分類される。

 

「俺にとってのそれはセイウンスカイ。だから俺は彼女のそばにいたい。けれどこれは俺のわがままで、スターってのは一人でも輝けるからスターなんだろうが」

 

 告白、と。

 とても嬉しそうに語るあなたが、ひどく寂しい。遠く遠くにあるからこそだと願うあなたが、ひどく眩しい。何も言えない。言葉に詰まった。それに、わかっていた。聞こえていようがいまいが、その言葉は誰の答えを求めるものでもなかっただろうから。

 私たちウマ娘は、走るために生まれてきた。勝つために生まれてきた。そしてそれは当然のように、ウマ娘でない者たちの憧れになる。けれどその憧れは身体的種族的差から決して届かない溝に阻まれ、憧れは憧れのまま終わる。

 だからこそ、あなたが秘めていたものなのに。それなのに、今のあなたは白を告げていた。きっと正常な判断じゃない、だからこそ正直なのだとわかってしまうような、雲のような白。それを、私に告げていた。私に、告白していた。

 

「でももしずっといてくれって頼まれたら、いてしまうんだろうなあ。枷にしかならないものに信頼を寄せられていること、少し罪悪感がないわけじゃないよ」

 

 そんなことを、ずっと思っていたのだろうか。あの日もあの日もずっと、焦がれて焼かれそうな痛みを背負っていたのだろうか。酒の席の冗談だと言ってくれないだろうか、そんなふうに一寸考えた後に自分を恥じる。吐き出したい苦しみが誰にでもあって然るべきで、それを封じ込めたいなどと望んではいけない。今の私は、図らずも彼を癒してあげられているのだから。悩みは誰しも持つもので、だから私もあなたも人間なのだ。

 そう、人間だ。同じように苦しむ心を持っているのだから、私たちは同じ人間だ。それはきっとトレーナーさんもわかっていて、だからこそ普段はその憧れを口にしない。もしそれを口にすればそのまま私の悩みになるのだと、大人のあなたは人を慮ることができるから。

 だけど、今の私はあなたの悩みを聞いてしまったのだから。それなら、私がやるべきことは。

 

「……トレーナーさん」

 

 私が抱いていた感覚と、あなたの抱いていた感覚、その二つを擦り合わせて、同じものにしてやることだ。私の感覚。あなたと私はトレーナーと担当ウマ娘の関係、だから私はあなたを信頼する。その図式は少しあなたのものとは違っていた。あなたの感覚。私はあなたの憧れとして、ずっとあなたを引っ張ってきた、だからあなたは私に尽くそうとする。

 そのどちらも正しくて、ならばどちらも尊重したい。そう思った私から、出せる答えは一つだけだ。

 

「私は、トレーナーさんじゃなきゃいやです」

 

 私は、あなたと一緒がいい。

 

「トレーナーさんだから、ここまで来れました。今だから、こっそり本音を言います。これでおあいこです。……あなたはすぐに忘れてしまうだろうけど」

 

 あなたは私に憧れ、だから私に道を示す。そして示された道をあなたに見せることで、私はあなたに夢を届ける。互いが互いを認め合い、互いが互いを導にする。それがきっと、私とあなたの繋がり。この電話一本の繋がりが全ての世界を変えてしまうのは、それまでの繋がりがあってこそだ。

 そう、それならば。私はようやく、私に気づく。

 

「今気づいたことなのか、ずっと思ってたことなのか、あんまりわかってないんですけど。……いいですか?」

「……いいぞ」

 

 そんな時だけ真面目な声で返されたら、ちょっと躊躇ってしまうかも。まあでも、ここまで来たら。あなたが私に秘めた気持ちを告白したのなら、私の方からもあなたに告白しなければならないことがある。憧れだろうか、罪だろうか、それとも。

 

「私、トレーナーさんのことが好きなのかも」

 

 恋だろうか、愛だろうか。夏の暑さを込めた息が、閉じ込めていた気持ちと共に一斉に口から飛び出ていく。澄んだ空のように、清々しい気持ちだった。

 トレーナーさんのことが、好き。そんなことはありえない。私を見守る大人に対して、そんな感情を持つことはあってはならない。そう考えていたから、そう考えなかったけど。もしかしたら、そう考えていなかっただけで、ずっと感じていたことなのかもしれない。夜中に電話をかけたいと思うほどに、ずっと。今目覚めたばかりの気持ちが、生まれたままの姿で口から飛び出ていった。

 

「なんかこう、なんですかねえ。そんなすごい意味じゃなくて、純粋に。ほんとはまだわからないのかもしれません。私はなんやかんやで子供ですから」

 

 恋には満たない。愛には足りない。でも、あなたのことが好きだから。きっとその感情は名付けられなくて、名付ける意味のないものだ。

 私はこの気持ちを、このままあなたに伝えたい。拙いまま、他の誰にも見せられないまま、あなただけに想う感情のままでいたい。愛や恋にもしたくないなんて、わがままが過ぎるかもしれないけど。

 けれどきっと、大丈夫。そう思えるほどに、口から言葉が溢れてくる。名付けられない感情なら、余すところなく語り尽くせばいいのだ。それができないというのなら、できるまでずっと一緒にいればいい。あなたは私の好きな人で、私はあなたの憧れなのだから。

 

「トレーナーさんは大人だけど弱いところもあって、私はそれを当たり前と思いたい。あなたの全てが知りたい……というとやっぱり大袈裟かもしれません。でも、だいたいそういうことかな」

「言って、よかったのか」

 

 そう言われると、確かに返答には困る。もっと段階や情緒を踏んでしかるべき、なのかもしれない。でも、今はこれでいい。今だけ伝えられることなのだから、今はきっと、これでいい。

 

「……今だけの、秘密ですよ? だから、自分に代わりがいると思っても、それを否定できなくても。私のそばにいてくださいな、トレーナーさん」

「……ありがとう」

 

 もしかすると、私がべらべら喋っているうちにトレーナーさんの酔いが覚めてしまったかもしれない。雰囲気に酔っているのは私の方かもしれない。酔った勢いで言うことなど、信用しないほうがいいのかもしれない。それはあなたの言葉もそうで、私のこれもそうなのかもしれない。けれど、私にはわかるんだ。この気持ちは嘘じゃないし、誇張でもない。今初めて気付いた本当の気持ち。

 胸に、初めて秘めたもの。

 

「いいなあ、トレーナーって仕事は」

 

 唐突に、あなたが口を開く。先程までの口調と似ていたけれど、少しだけ落ち着いたような口調で、紛れもなく私に向けて、言葉を投げかけていた。私があなたを直視したから、あなたも私を見ていてくれる、ということかもしれない。

 

「こんなに近くに、夢と希望を見ていられるんだから」

「それはどうも。でも、少しだけ違います。もう一度、言いますね?」

 

 夢と希望。それを叶えるのがウマ娘で、それを支えるのがトレーナーだ。私たちは二人三脚、決して脚は欠けてはならない。それは、トレーナーさんの言う通り。だけど私の結論は、あなたより先に至っているのだ。大人と子供の関係を超えた、幼年期のその先へ。

 

「私は、あなたが。あなたのことが好きなんです。そこにもう、立場やらなんやらは関係ありませんったら」

 

 かーっと、顔が熱くなる。多分耳まで赤くて、ぴこぴこ忙しなく動いている。勢い任せで言ってしまったが、ひょっとしたらとてつもなく恥ずかしいことを口走っているのかも。ここまで言ってそう思っても、多分手遅れなのにね。でも、本心とはそういうものだ。なかなか言えない、だけど常に抱えているもの。お互いに本心を曝け出す、駆け引きのない場所でなくてはこんなこと言えない。そして言える時は、きっと必ず言ったほうがいいものだ。

 本心というものは、信じてるとか、触れたいとか、そばにいたいとか、色んな感情がごちゃ混ぜになって、複雑怪奇な形を取る。優雅で可憐でも、歪で不器用でも、その本質は変わらない。取り出すのは難しくて、取り出してしまえばしまうのも難しい。

 

「……おーい、聞こえてますかー? まあ聞こえてないなら、それはそれで好都合だけど」

「そういうことなら、俺もスカイが好きだよ。ずっとずっと、デビュー前からの一目惚れだ」

「……もう、ばか」

 

 恋や愛には届かない感情。けれど、恋や愛では語り尽くせない感情。その架け橋が二人の間に繋がっている。今までは毎日距離を置いていたけれど、互いの方から近づいていけば、きっとすぐにゼロ地点で手を繋げるだろう。今日がその日だ。

 

「1:06:47」

「通話終了」

 

 一時間と少し。それだけあれば雨が止むように、世界もすぐに変わるのだ。そしてそれはこれまでの積み重ねがあるから。私たちがいつも悩みを抱えていたからこそ、それをこの瞬間に言葉にできた。生まれたばかりの気持ちでも、育んでいたのは今までずっと。だから、大切だとわかるんだ。だから今、こんなに幸せなんだ。

 窓の外を見れば、黒い青空が星を包んでいた。たまらなく胸はざわついているのに、今からならぐっすり寝れそうな、そんな気がした。

 

 

「おはようございます、トレーナーさん。……おやおや、頭を押さえてどうしたんですか」

「昨日は飲みすぎたみたいでな……記憶すら曖昧だ。……おっとこれは秘密だ。誰にも言わないでくれ」

「昼寝一回で手を打ちましょう」

「仕方ないな」

「……ところで、やけ酒ですか」

「違うよ」

「じゃあなんですか」

「いいだろ別に」

「むー、けち」

「……スカイ、なんか変じゃないか?」

「そんなことないですよ、二日酔いのトレーナーさんよりはよっぽどいつものセイちゃんです」

 

 朝、いつものようにトレーナーさんと挨拶を交わす。あなたは案の定何も覚えてないみたいで、本気で頭が痛そうなその姿を問い詰める気にもならなかった。そういや飲んだくれの理由も聞いてなかったなと思ったのだが、すっかり普段の調子で聞かせてはくれなかった。

 はあ、と心の中でため息を吐く。やれやれ、当分は私の方から近づいていくしかなさそうだ。

 

「……じゃあほら、はい」

「どういうことだ」

「一緒に寝ましょう? 寝れてなさそうですし」

 

 とんとん、と手のひらで軽くソファのスペースを叩いてやる。私はもう座っている。それにしても、自分から誘いに乗っていくなんて、ガラじゃないのだけど。私の弱音を叩き直すのがあなたの仕事だったのに。

 

「……ありがとう」

 

 あなたの弱さも知ったから、仕方ない。今日は私がリードする番だ。そう思って、あなたの手を取った。眠気の篭った熱を帯びた、優しくて大きな手のひらだった。

 

「……スカイはいいお嫁さんになるなあ」

 

 まだ酔っ払っているのだろうか。そう思って横に転がる顔を覗くと、トレーナーさんは既に寝言に入っていたようだ。じーっと、その顔を眺める。目をつぶって、少し口が空いていて。そんなどこにでもあるけど、今までは見せてくれなかった弱い顔。そんな顔を、私に見せてくれていた。だから私が悪戯をしたくなるのも、自然の摂理のようなものだ。

 

「……んっ……はあ。初めてってやつですねえ……。責任とってもらわなきゃなあ、トレーナーさん?」

 

 これはご褒美。あなたへの、あるいは私への。

 いつか素顔のあなたに、この気持ちを届けられますように。



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初期設定のマンハッタンカフェ
初期設定のマンハッタンカフェ


血に飢えた猟犬のようにの方です


「ねえ、早く連れて行って」

 

 マンハッタンカフェと初めて会った時、何処へでもなく彼女が呟いたのを覚えている。祈るように、待ち構えるように。飢えた獣が懇願するのは、その渇きを満たすことのみ。

 女優としても活躍していた彼女のことはトレーナーを志す前から知っていた。レース以外に華々しい舞台を持つ彼女は、走らなくても満たされているのだと思っていた。そもそも自分にとっては関係のない世界の人物で、決して交わらない平民と貴族のような。だから、彼女がトレーナーを探しているという噂が立った時は驚いた。マンハッタンカフェは度々選抜レース場に出没し、走らずに帰っていく。それも大勢のトレーナー候補が押し掛けるので、俺のような新人には姿を見ることすら叶わなかったのだ。

 目を疑った。学園からの帰り道、闇に紛れるように歩く彼女を見た。帽子を深く被り、ロングコートでシルエットを隠したマンハッタンカフェは、いつもテレビで見るような姿ではなかったけれど。

 安っぽい言葉で言えば、オーラがあった。確かに彼女はそこにいた。闇に紛れるようにか細く、けれど夜に光るようにしっかりと。分かってしまった。彼女に今、声をかけねばならないと。まるで本能が叫ぶように、俺はマンハッタンカフェに話しかけた。

 

「なあ、きみ……」

 

 その時。その時に、彼女は一言。静かに叫んだ。

 

「ねえ、早く連れて行って」

 

 何処へ連れていくのか。そもそも俺に向けた言葉なのか。こちらに気付いていたかもわからなかったのに、俺は焦るように言葉を繋げる。

 

「わかった」

「俺が君を連れていく」

 

 手を離したら、何処かへ消えてしまいそうな気がしたから。

 返答はなく、彼女はくるりと踵を返す。こちらに近づいてくる。言葉はなく、横を通り過ぎていくのを黙って待ってしまう。……いいやダメだ!

 

「あの、明日またここで」

 

 そう言った時、わずかに彼女の脚が止まった気がした。

 

 私は物語が好きだ。皆私にない輝かしい人生を語るからだ。幼い頃の私はどうしても彼らのようになりたくて、女優を志した。演じるのではなく、彼女たちに私が"なる"。私は鏡であり、薄い台本の上にあるヒトガタを舞台へ映し出すのだ。その役割の中で、わずかに私は退屈さを忘れられる。たとえば情熱的な恋を間近で見れば全ての景色が色づくように錯覚する。たとえば憎悪に身を焦がす殺人鬼を模せば流れる血がとても綺麗に見える。人生は退屈すぎて、それぐらい一生懸命に何かに打ち込まないと楽しめないのだと思う。きっと、彼も。彼女も。何かにその身を捧げているから幸せに生きている。

 私には、それがない。だから私はつまらない。本能から満たされない。

 自殺を考えたことはない。いくら生きるのがつまらないといっても、死はもっとつまらないからだ。それは永遠に続くのだから。代わり映えもなく、孤独の中で全てを後悔し続ける空間になる。だから私は生を求める。生き続ける先に、答えがあると信じて。

 私にレースの話が舞い込んできたのは、マネージャーの指図だった。あのマンハッタンカフェがデビューすれば大きな話題になると。馬鹿馬鹿しい。私は話題になるために女優をやっているわけじゃない。けれど少しの期待を求めて動いてしまうのは、飢えた獣の性なのだろう。選抜レースを見届けて、彼女たちの見る景色に想いを馳せる。風を切るのはそんなに楽しいだろうか。脚を早く回すのはそんなに興奮するだろうか。わからない。演じるように、自分に彼女たちを映し出す。何かもどかしい感覚があったけれど、それ以上には届かなかった。

 いつものように変装して、私は学園を出る。とはいえオフの私を目ざとく見つける人などそういない。私に映された物語には色が付いているけれど、私自身は真っ黒な黒子に等しいのだ。演技がない私には、つまらない人生を送る一人のウマ娘という記号しか残されていない。

 ああ、いっそ。何か罪を犯す殺人鬼の気持ちがわかればな。一人、その心をシミュレートしてみる。たとえば私は世界の全てが憎たらしい。誰でもいいから人の命を台無しにしてみたい。だって羨ましいから。手が届かないから。そうして殺人を達成した後、私は一躍時の人になる。今度は誰もが理解できない、埒外の人間に躍り出る。誰からも相手にされない無欲の人は、誰からも憎まれる全ての敵になる。うん、悪くない。そうして最後、断頭台へ連行されることが決まった時。私はうっとりと呟くのだ。

 

「ねえ、早く連れて行って」

 

 そこまで思考を巻いた時、誰かの声が聞こえた。最初は私に声をかけているなどとは思わなかったし、私の心は宙に浮いていた。けれど。

 

「俺が君を連れていく」

 

 こちらの台詞に反応したのだろうか。独り言に対して会話しようとは殊勝な人だと思った。ゆっくりと声のする方を見る。……思えばその時にはもう。私の命は、始まりを告げていたのかもしれない。

 言葉はなかった。聞き間違いだったかもしれない。私を断頭台へ連れていってくれる人などいない。そこはある種のゴールで、物語が幕を閉じる場所だけれど。私にはゴールがない。そういうことなのだろう。

 その男の人はどこかで会っただろうか。もし知り合いだったなら、礼儀作法は通さなければ。芸能界の付き合いに興味はないけれど、無理に嫌われる筋合いもない。そう、ゆっくりと近づいて。通り過ぎようとした時に、彼の言葉がナイフのように突き刺さった。

 

「あの、明日またここで」

 

 その時。明確に。心臓が止まるような感覚があった。血が流れ出すような幻覚があった。脚を進められなくなる錯覚があった。私は確かに殺された。そんなふうに思った。けれどそれは一瞬。すぐにつまらない人生が戻ってくる。だけど。色鮮やかな血染めの世界を、その一瞬私は垣間見た。

 そんなふうに昨夜のことを思い出しながら、今日の予定を確認する。……夜は、空いている。なら。

 もう一度行ってみようか。そうして、もう一度。今度はしっかり乞うてみようか。

 ねえ、早く連れて行って。

 楽園への道筋は、未だ方角すら見えず。



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初期設定のマンハッタンカフェとの出会い

初期設定のカフェ


 対峙する。何度も相見える。決闘のように、逢引きのように。夜にただ二人、人気のない道先で会うのが私たちの日課になっていた。姿を見せて、立ち止まって。君がまた明日と言う。それだけの関係。その先には至らない。永遠に至れないとしたら、それはまた退屈なはずなのに。私は今日もここに来ている。

 ねえ、早く連れて行って。

 

「あっ……」

 

 彼は私を目ざとく見つける。変装している私に気づく人間など一握りだ。女優のベールを外せば、私と言う存在は虚空に等しい。それなのに。

 

「こんばんは、カフェ」

「……こんばんは。毎日飽きませんね」

 

 こうして僅かな会話を交わすようになるまで、それなりの日をかけた。本当によく飽きないものだ。私というつまらない存在に、君は何を見ているのだろう。

 

「……なあ」

「……では、さようなら」

 

 それで終わり。いつものことだ。わざわざこの会話をするために、彼は何分待っていたのだろう。

 

「また明日」

「……はい」

 

 そうして私は。何度向かうのだろう。

 

「明日も夜は空けておいて下さい。では」

 

 マネージャーに何度目かの連絡をしてベッドに入る。灯りのない暗い闇の中に私はいて、それは本当に退屈な世界だ。私は誰も顧みないし、誰からも顧みられない。たとえば主役となる登場人物には、何かしらの深い人間関係が欠かせない。私にはそれがない。どれもがきっと薄っぺらくて、女優の仕事は私を物語を語るための道具として使うのみだ。

 飢えるような感覚。明日が待ち遠しいと、自然に思ってしまう。ねえ、早く。時間が早く進んで欲しいと乞い願う。時間の流れは永遠ではなく、どこかにゴールがあるのだと。そんな、あり得ないモノを幻視する。……まずは眠ろう。眠れば、明日は来るのだから。

 

「ねえ、カフェさん。今夜お茶しませんか」

「……先約があるので。失礼します」

 

 次の日、ルーティンと化した仕事を終える。社交辞令を切り払い、またいつもの場所へ一人で向かう。足早に、振り向くこともなく。君を迎えに私は征く。こつ、こつ。己の靴音だけが耳の中に残る。他は全て雑音で、あの空間での会話だけが価値を持つ。ねえ、早く。

 

「……おや」

 

 その日、いくら待っても。君は来なかった。

 

 マンハッタンカフェというウマ娘がいる。女優としても名高く、けれどプライベート等について多くを語らない。彼女は言う。私はただの鏡だと。物語を映しとる鏡。それ以外に価値はないと言わんばかりの口ぶりが、ひどく印象に残っていた。

 

「なあ」

 

 俺の担当ウマ娘にならないか。その一言が言えない。彼女はやはり俺にとっては高嶺の花で、どうしても合わないと思ってしまう。けれど彼女に会い続けているのは、最初の会話があるから。

 ねえ、早く連れて行って。

 彼女は確か、そう独り言のように言っていた。祈るようなその言葉は、彼女に妙に噛み合っていた。もちろんマンハッタンカフェからすればただの演技の練習だったかもしれない。その真意はわからない。だけど、真意というのは得てして本人の与り知らぬところにあるものだ。自身にもわからない本当の気持ちが、どこかで顔を出すかもしれない。なんとなく彼女から目を離せずに、そんなことを思っていた。

 

「……っ」

 

 その日、俺は熱を出し。望まずして彼女との約束を破った。

 

「昨日は連絡遅かったですね、どこに行っていたんですか?」

「……別に」

「……今日も夜、予定は入れてないですよ」

「……ありがとう」

「そろそろトレーナーさんが見つかるといいですけどね!」

 

 マネージャーは私がトレーナー探しのために毎晩出歩いているのだと思っているらしい。とんだ勘違いだ、と思ったが。もしかしたら彼はトレーナーかもしれないのか。あの時の言葉。彼は、私の言葉に対してこう返した。

 俺が君を連れていく。

 ともすればスカウトのようにも聞こえる言葉だ。自分は彼のことを何も知らない。同じように、彼も私のことを何も知らない。それなのに、毎日のように会っていた。……昨日で、その連続記録は途切れたのだが。今日も私は行くのだろうか。今までは毎日約束をしていた。それがないのだから、会う理由もないのではないか。そうして永遠に、再び会うことはない。それでいいはずだ。

 ぽつり。雨が降ってきて、ますます会える可能性は低くなる。君はまだ来ていない。まだ、来ていない。永遠ではないと信じる。だって、そうでなければ。退屈すぎるのだから。

 傘を持っていなかったので、いつのまにかコートがずぶ濡れになっていた。これでは風邪をひいてしまうかも。それでも、待つ。待つことは渇くが如し。されど、渇くは求めるが故に。どうしても得られなかったものを、私はようやく得られるのだ。

 

「……はぁ、はぁ」

 

 いくら待ったかは忘れてしまった。その姿を見てからの時間の方が、圧倒的に長く感じられた。自分でも自分の行動が理解できなかった。声のする方へ、獰猛な猟犬のように飛びかかる。抱き締めて、離さない。

 

「……ちょっ、カフェ……!」

「……ああ、よかった」

 

 また会えた。それだけのことが、ひどく幸せ。

 

 なんとなく、予感がした。俺と彼女は住む世界が違うと思っていたけれど。この予想が当たっていたら、案外俺たちは同じ思考を持てているのかもしれない。だから、もしまた会えるなら。今度はしっかり、伝えよう。

 

「……なあ、カフェ」

「……はい」

「……俺が、君を連れて行くよ」

「……はい」

「……俺の担当ウマ娘になってくれないか」

「……はい」

 

 その返答はとても不器用で。スターダムにいる少女とは思えなかった。声の代わりに、身体を締め付ける力が強く強くなる。……柔らかいものが上半身に当たって、こそばゆい。でも離れてくれとは言えなかった。今度こそ、離してはいけない気がしたから。

 

「……それでは、マネージャーに連絡いたしますので。今日からよろしくお願いします……トレーナーさん?」

 

 力を一気に抜いて解放した後、事もなげに彼女は言う。返答は一つだ。

 

「よろしく、マンハッタンカフェ」

 

 契約は成立した。楽園への道筋は、遂に方角を定める。黒い光条が今、飛び立つ。

 



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初期設定のマンハッタンカフェ登場!

シリーズなのかもしれない


 今日からマンハッタンカフェとのトゥインクル・シリーズが始まる。未だに実感はあまり湧かない。彼女は女優として活躍する、既にスターの座にいるウマ娘であって。そんな彼女が何故レースに出ることを決めたのか、俺を選んだのか……。いやいや。俺は決めたんだ。

 早く連れて行って。

 そう言った彼女に、俺が君を連れて行く、と。その言葉が、俺たちを繋いでいる。

 ……しかし遅いな。何かあったのだろうか。……電話するのは気まずい。やはり有名人だし……。そうくだらない躊躇をしている間にも時間は過ぎる。ええいままよ! 決心して聞いていた電話番号にかける。通話中だったらどうしようか。いや忙しいしその可能性が高いんじゃないか。そう悩んでいると電話が繋がる。

 

「……はい、トレーナーさん。遅くなって申し訳ありません。今向かっているところですので、もうしばらくお待ちを」

 

 ……一方的にそう告げられ、電話は途切れた。……そう言われたら実際返す言葉もないのだが。

 

「……着替えるのに少し手間取りました。さあ、トレーニングを始めましょうか」

 

 そう言って現れたマンハッタンカフェは、真黒のコートに身を包んでいて。……これは、勝負服じゃないか。

 

「……あー、カフェ? 今日は体操服でいいぞ……目立つだろ」

「……目立つのには慣れていますが。トレーナーさんがそちらがいいと言うなら、そうするしかありませんね」

 

 少し寂しそうに言って、彼女は更衣室へ向かう。……言い回しが何かずれている気がする。

 

「……今度こそ。始めましょうか」

 

 艶やかな黒髪は、体操服姿でも目立つ。少し見惚れてしまい、慌ててその考えを拭い去る。俺はトレーナーで、担当ウマ娘に変な気を起こすなんてご法度だ! 首をぶんぶんと振っていると、彼女はゆっくりと口を開く。

 

「……どうですか、トレーナーさん」

「……どう、って……?」

「……似合って、いますか?」

 

 そういうことはカフェの方が詳しい気がする。俺はファッションなんてよくわからないし、そもそも体操服にファッションの何があるのかもわからない。

 

「……やはり、勝負服に」

 

 ひょっとして、そういうことか……?

 

「あー! いいんだよカフェ、似合ってる。今日はこれが正装だからな」

「……はい」

 

 ……なんだかわからないが、服が似合っているかが気になっていたらしい。やはり女優というのはプライベートでも服装に気をつけるものなのだな、と感心する。

 

「さて、まずは芝を1周だ!」

「……はい。早く、レースに出たいですね」

 

 早く。その言葉にどきりとする。ねえ、早く連れて行って。その約束は、まだ。

 

「……そうだな。早く、だな」

 

 けれど俺は契約したのだ。この漆黒のウマ娘を、まだ見ぬ先へ連れて行くと決めたのだ。だから。その手を取る義務がある。

 走り出すマンハッタンカフェを見て、思う。彼女もやはり、一人のウマ娘なのだと。だから、勝たせてやりたい。センターに立たせてやりたい。あるいは誰かは言うかも知れない。女優がレースをやるなんて、馬鹿げている。馬鹿にしている。けれど、俺は知っている。

 彼女の眼には、一分の遊びも映っていないことを。本気だから、勝てる。

 楽園への道筋は、一歩の歩みから。



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初期設定のマンハッタンカフェのメイクデビュー

短編集詐欺みたいになってきてるのでちょっと悩みます


 いよいよマンハッタンカフェのメイクデビュー当日だ。彼女が待ち望んでいたレースへと、ついに連れてくることができた。

 

「さて……ようやくですね」

 

 マンハッタンカフェは控え室でコーヒーを嗜んでいた。淹れたてで湯気が出ているそれを苦もなく飲んでいる。ごく、ごく。コーヒーとはそんなに勢いをつけて飲むものだっただろうか? 黒い湖面に柔らかい唇を沈め、腕を持ち上げて少しカップをあおる。黒い髪と対照的に白い喉が、流れ込む液体の熱さにも構わず蠕動する。彼女はその熱さすら楽しんでいるようで、少し脂汗が浮かぶ。黄金色に輝く眼をゆっくりと閉じて、艶やかな睫毛が顔を覆う。喉がごきゅり、ごきゅりと音を立てて、彼女は一気にコーヒーを飲み干した。カップをテーブルに置き、こちらに向き直る。水分を含んで黒い彩を湛えた上唇だけが、残滓のように残っていた。

 

「……? どうしましたか、トレーナーさん」

 

 ……見惚れてしまった。

 

「ああいや、よく飲むなと思って」

「……私の飲みっぷりはそんなに関心高いものでしたか……? ふふっ、おかしなトレーナーさんですね」

 

 彼女は少し、くすりと。……緊張が解けたのなら何よりと思おう。

 

「さあ、カフェ。頑張ってこい」

 

 初戦。だけど彼女は微塵も油断など見せず。あるのは強者たらんという欲求。

 

「ええ……お任せを。血に飢えた猟犬のように、レースを制してみせましょう─────」

 

 ゆっくりと、彼女はパドックへ向かう。狩りが始まるのだ。

 

 血が沸るという表現では足りない。私の全身は何処を切っても噴水のように鮮血が溢れそうなほど。それほどまでに、血が疼く。けれどまだ足りない。レースは一人で走るものではない。同じように熱狂の中にあるウマ娘達を差し切る。喉笛に食らいつき、血祭りに上げるように。そうしてこの黒い身体を紅く血に染めてこそ、楽園への道は開かれるのだ。

 

「……あの、マンハッタンカフェさん!」

「……?」

 

 声のする方を見れば、一人のウマ娘が。

 

「サイン、お願いできませんか!?」

「……ああ」

 

 珍しいことではなかった。ターフの上で頼まれるのは初めてだったが。

 

「……レースの後でもよければ」

「……! ありがとうございます!」

 

 そう言って彼女はゲートへ向かっていった。……ファンであろうと手加減するつもりはない。ここは狩場。闘技場。あるのは喰われるもの同士の喰い合い。それだけだ。

 さて。平等に皆、血を喰らわせてもらおう。

 ゲートに入り、開幕を待つ。ようやくだ。ゴールを目指して、ようやく駆動する。

 

「スタートしました!」

 

 ぱん、という破裂音に合わせて、一斉に走り出す。後方に位置して全体を見渡す。終盤のスパートまでは、ゆっくりと獲物を見張るのだ。……あのウマ娘が先頭か。ちょうどいい。彼女をマークして最後に差す。そこに意識を向けて、身体を風に任せる。気持ちいい。空の青さと芝の緑。その間を吹き抜ける風は、心臓の鼓動を加速させるようだ。きっと皆、同じなのだろう。ターフを走る者は皆、命の輝きをあらんかぎりに響かせる。……そして。

 

「マンハッタンカフェ、ここで一気に抜け出す!」

 

 その輝き全てを狩る。この私が。

 

「マンハッタンカフェ、差し切ってゴール!」

 

 最高だ。久しぶりに、退屈しない。

 

 恐ろしいと思った。テレビで見るのとは違うとか、そういう次元じゃない。走り切った時、ゴール板の奥でその顔を見た。嗤っていた。眼を細めて、口を歪ませて。舌なめずりをしたようにすら見えた。サインなんて、頼めなかった。

 

「……ふう」

「お疲れ様、カフェ」

「……いえ。……おっと、少し目眩が」

 

 ふらふらと、マンハッタンカフェは脚を崩す。危ない! だから思わず駆け寄ったのだが。

 がしり、と掴まれる。ふらついたはずの脚は俺の脚を絡めとり、しっかりと捕まえている。

 

「カフェ、何を……つっ!」

 

 鋭い痛みが首元に走る。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。痛みの奥にある柔らかい感触。少し尖ったものがちくりと刺す。暖かく滑りを伴ったものが俺を舐めとる。……これは、血……!?

 

「……んっ……あむ……ぇぉ……っ」

 

 マンハッタンカフェは、俺の肩に噛み付いていた。……それも、僅かに血が出るほどに。

 

「……ふぅ。トレーナーさんの味、ですね」

「……何を、急に……」

「ちゃんと吸いましたから、すぐに止まります。……絆創膏で隠したりなんて、やめてくださいね?」

 

 確かにもう痛みは引いて、甘い痺れのようなものだけが残っているが。……カフェは一体何を考えて……。

 

「さて。ではライブの準備があるので。……次のレース、計画しておいてください」

 

 そう言って、彼女はまた離れていく。でもその実力は本物だ。彼女なら、きっと求めている物を手に入れられる。それが何かはわからなくても、行くべき道はわかっているのだから。

 楽園への道筋は胎動する。



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初期設定のマンハッタンカフェとメイクデビューを終えて

しばらくこれかもしれない


「ライブお疲れ様、カフェ」

 

 マンハッタンカフェ、最初のライブ。そして最初のレースが終わった。彼女とのトゥインクル・シリーズは、ここから始まるのだ。

 

「……演技の舞台とは、また違う熱狂。血湧き肉躍るとはこのことですね」

 

 ふう、と息を吐く。流石の彼女も少し息が上がっている。……露出の多いライブ衣装も相まって、すこし扇情的だ。

 

「どうかな、カフェ」

「……どう、とは」

「君の望む、なにか。そこに少しは近づけたかな」

 

 そう聞くと、カフェはすこし表情を緩める。

 

「……ああ、そうですね。……不覚にも、少し忘れていました。それだけ、私は熱中していたのでしょう。……退屈を忘れられるなんて、本当に久しぶり」

「それならよかった」

「……走り続ける限り、退屈せずに済みそうです。……ええ、おかげさまで」

 

 彼女はそう言って、じっとこちらを見上げてくる。……距離が近くないだろうか。

 

「次」

「……ああ、次。次だな。そうだな、弥生賞はどうだろう」

「……はい」

 

 クラシック戦線の登竜門的存在。そこから目指すはクラシック三冠だ。……立ち向かうことになるであろう強力なウマ娘の存在は聞いているが、それでも彼女なら。

 

「お望みとあらば」

「……任せてくれ。俺が、君を連れて行く」

 楽園へ。それが何で、何処にあるかはわからないけれど。

「……では。そろそろ帰らなければ。明日も仕事があるので」

「大変だな」

「ええ、思いのほか疲れました。次はスケジュールを考えなければいけませんね」

 

 彼女を楽園へ連れて行く。そう約束したのだから。

 

 次の日。カフェは仕事なので、今日は作業に費やそう。そう思っていた時だった。コンコンと、トレーナー室の扉が叩かれる。

 

「お邪魔するよ」

 

 一人のウマ娘が入ってきた。透き通るような瞳を兼ね備えた、少しシニカルな感じのウマ娘。……まさか彼女の側から出向いてくるとは思わなかった。

 

「アグネスタキオンだ。よろしく」

 

 アグネスタキオン。レース界でも高名な家に生まれた異端児。……今のうちから既に、クラシック三冠は確実とさえ言われている有力ウマ娘。

 

「よろしく。……タキオンは、どうしてここに?」

「いやなに、ライバルの偵察というやつだよ。有力なウマ娘を探すことは、後々のためにもなるしねえ……」

 

 後半が少し引っかかったが、それよりライバルという単語だ。

 

「もしかして、弥生賞に」

「ご明察だね。おっと出走回避はやめておくれよ? 嫌味ではなく、これ以上避けられると流石にレースが成立しなくなってしまう。……ところで、マンハッタンカフェくんは?」

「……今日は仕事だよ。彼女は女優業とレースを両立しなければいけないんだ」

「ふぅン……」

 

 アグネスタキオンはその言葉を心底興味深そうに受け止めていた。侮るでもなく、恐れるでもなく。ただ純粋に。

 

「なるほど。カフェくん……いやカフェは女優だったのか。これは驚いた。そういった立場からレースを見ると、どういった世界が見えるんだろうねえ……いやはや面白い」

 

 カフェのことを知らないとは、驚いた。誰もが一言目には、「あの」マンハッタンカフェだと彼女を指さすのに。……これは、彼女にとって新鮮な体験になるかもしれない。

 

「……弥生賞、出るよ。君が出るんなら尚更だ、タキオン」

 

 勝てるかはわからない。けれど、一度の勝敗が全てを決めるものではない。

 

「……いいね。楽しみにしているよ。私もモルモット君に念押ししておこう。マンハッタンカフェの情報を集めておけとね」

 

 そう言って、タキオンは去っていった。カフェにとってライバルとなるかもしれない相手の登場。楽園には一筋縄ではたどり着けないということか。

 

「よし、やるぞ」

 

 そのまま勢いでカフェに電話する。……すぐに繋がった。ひょっとして俺は専用の番号でも教えられたのだろうか。いやいや、カフェがそこまでする筋合いはないか。たまたまだ。

 

「……はい、トレーナーさん。まだ傷は痛みますか?」

「カフェが血を吸ってくれたおかげで、なんとか生きてるよ。それより、弥生賞に強敵が出る。三冠確実とまで言われているウマ娘、アグネスタキオンだ」

「……ふむ。なるほど。つまり、その人に勝てば良い。そういうことですね」

「……流石カフェ。理解が早い」

 

 こうして、狙いを弥生賞に定めて。マンハッタンカフェとのクラシック戦線がスタートする。動き出す闇の引力は、超光速を捉えられるか。

 楽園への道筋に、波乱が迫る。



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初期設定のマンハッタンカフェの弥生賞

全部終わったあたりで分割したい


 何も恐れることはなかった。君が見ていてくれるなら。何も違うことはなかった。君が見ていてくれるなら。私の舞台はどこにあっても変わらない。何個あっても変わらない。だから大丈夫。きっと楽園へ辿り着ける。

 君が見ていてくれるなら。

 そう、そのはずなのだ。だから、あり得ない。どこかで何かを盲目的に信じていたけど、信じていたものが何かわからない。それを暴いたら、取り返しがつかない気がする。だからわからない。わかることはただ一つ。

 

「アグネスタキオン一着! マンハッタンカフェは四着に終わりました!」

 

 その結果は、揺るがない。ドラマにやり直しはあっても、現実にやり直しはないのだから。

 

「うん、いいタイムだ。この調子だカフェ」

「……はい。すみません、最近撮影が忙しくて」

 

 弥生賞は着々と迫っている。それなのにレースのために割ける時間が限られてしまうのは心苦しい。君は全てを捧げてくれているというのに。

 

「いいんだよ、カフェにはカフェのやるべきことがあるんだから」

 

 やるべきこと。トレーナーさんはよくそのフレーズを使う。だから、私は何かを投げ出すわけにはいかない。

 

「まあ、正直なところ。次の相手はベストでも勝てるか分からない。だから……いや、そんなことを言ってはトレーナー失格だな」

「アグネスタキオン……ですか」

「そうだ」

 

 アグネスタキオン。未来の三冠確実とさえ言われるウマ娘。彼女の出走を受けて既に弥生賞は出走回避が続出し、私は数少ない出走者の一人となっている。

 

「……以前、トレーナー室に来たと言っていましたね」

「ああ。ライバルの視察だと言っていたな。その後会ったりしてないのか?」

「……いえ」

 

 アグネスタキオンを名乗るウマ娘が会いに来たという話はマネージャーからも聞いていない。私を見たいなら私に会いに来るはずなのに。それなら何故、彼女はトレーナー室に? ……まさか。

 

「……トレーナーさん」

「……? どうした、カフェ」

「……いえ」

 

 心に湧き上がる何かを言葉として処理できず、問いかけは中断される。

 

「よし、今日はこの辺にしよう。お疲れ様」

「……お疲れ様です」

 

 これが不安だとすれば、何に対する不安なのか。答えは導き出せず、ただ日数が過ぎる。

 

「……負けるわけにはいかない。君が命ずる通り、私は全てを喰らう」

 

 そう何度も、何日も。願うように口にする。ただ、君が見てくれるなら。それが私の祈りなのだから。

 

 わからない。意識をここまで巻き戻しても、この結果を認識できない。

 

「ふゥ……お疲れ様だね、カフェ」

「……そのように親しげに呼ばれるような覚えはありませんが、アグネスタキオン」

「それは申し訳ないね。……時に君」

「……なんでしょう。敗者に情けの言葉でもかけるのですか? それなら結構。私は──」

「これが情けだと取られてしまうなら申し訳ないが。……その調子じゃ春いっぱいは無理だね。休暇をトレーナーに嘆願した方がいいよ。……おっと、副業もあったかな。それもだ」

「……! なに、を」

 

 何を馬鹿な。何をわかっているというんだ。何を、なにを。言葉は空を切り、ただ己の身体を鑑みる。力は、明らかに入り切っていなかった。でも、私に休むなんて。

 

「助言の類ではなく、警告だよ。……走れなくなっては元も子もない、だろう? こういう目については一家言あるのさ」

「私には、トレーナーさんとの約束が」

 

 楽園へ行く。そのためには、一歩だって止まるわけには。

 

「……とにかく療養することだね。走れる刻は永遠ではないとしても、その時間を伸ばすことは重要だ」

 

 そう言ってアグネスタキオンは立ち去る。私はただ、それを見ているだけの黒子だった。

 

「……お疲れ様」

「……気休めは要りません。全力を出せなかったが故の結果です」

「そんなことは……!」

「……少し、一人にさせてもらえますか」

「……わかった」

 

 トレーナーさんを追い出して、控え室に一人。私は敗北を噛み締められなかった。私の牙は勝利のためにだけ生えていて、挫折を飲み下すようにできていなかった。

 

「うまくいかなかった。だから私のこの生活には、無理がある」

 

 そういうことだ。アスリートと女優の両立。そんなものは不可能なことで、まだ密室殺人の方がありふれている。

 

「……違う」

 

 違う。それが出来ないのは、己が無力だから。もっと、もっと。退屈を埋めるほどのワーカホリックが、私の見る世界には必要だ。それに身体が耐えきれないとしても、そんなの。

 

「……もしもし。休暇を取ります。よろしくお願いします。……何と噂を立てられようと、構いません」

 

 マネージャーへ休暇の連絡を入れる。文句を言われても構わない。どうせ事実だから。私が耐えられなかったのは、事実だから。

 

「……それでも、レースは」

 

 休みたくない。完全に休むべきだとしても、こちらは手を離したくない。全身の疲労は、数日分一気にのしかかってくる。でも。

 

「……皐月賞を、目指す」

 

 よろめいてしまうのは、今回の疲労のせい。まだ、私は喰らいつける。さあ、トレーナーさんに心配をかけた。何事もなかったかのように出ていかなければ。

 ……そこで、意識は途切れた。

 

「……これは、過労ですね。しばらく休ませた方がいい」

「……わかりました」

 

 こえがきこえる。あなたのやさしいこえ。

 

「……トレーナー失格だな、俺は」

 

 なかみはわからないけれど。あなたのこえは、あんしんする。……また、ねむくなってきた。

 

「……ごめんな、カフェ」

 

 そうだ。わたしもあやまることがあったのだ。

「タキオンとのレースのことばかりで、君の体調管理を忘れるなんて」

 

 まけてしまってごめんなさい。

 

「……次があるなんて思わないよ。お別れをしよう。君をレースに連れ出すなんて間違ってた」

 

 つぎは、かちます。だから──────。

 楽園への道筋は閉ざされた。



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初期設定のマンハッタンカフェと皐月賞を見る

見ます


 私たちの道のりはまだ始まったばかりだ。ようやくオープニングが終わるところなのだ。開幕戦を終え、ライバルとなるべき相手を見つけた。だからまだ走る理由はある。そうであるべきだ。そうでなくてはいけない。

 

「……ここは」

 

 白い天井。身体に力が入らず、状況を把握できない。私は弥生賞でアグネスタキオンに負けて、それで。

 

「ここは、病院だよ。……カフェは控え室で倒れてて。運んできた」

「……それは、申し訳ありませんでした。ありがとうございます」

「……申し訳ないのはこっちのほうさ」

「……」

「医者は過労だって言ってた。働きすぎたんだ。頑張りすぎてたんだ。俺が止めるべきだった」

 

 否定の言葉を発するほどの元気もなかった。頭にも身体にも血が足りない。喰らう獲物を失って、みすぼらしく飢えている。

 

「……だからさ、カフェ。これで終わりにしよう」

「それは、どういう」

「君には大事な仕事がある。今まで培った生活がある。俺とのよくわからない約束なんかに惑わされず、レースは辞めよう」

「……!」

「それが、俺からできる最後の指導だ」

 

 なんで。どうして。答えの分かり切っている問いは、口から出て行こうとしない。

 

「……じゃあ、これで。さよならだ」

 

 私の沈黙を肯定と受け取って。君は病室から独りで出ていった。

 

「ねえ」

「連れて、行ってよ」

 

 一つとして、言葉は届かない。

 

 それから。病室に来たのは、共演していた俳優だとか、マネージャーだとか。そういう人たちばかりで、レースと私の縁は途切れてしまったようだった。でも、忘れられない。血を求める感覚は、私の中で強く強く。そんなある日のことだった。

 

「……こんにちは、カフェ」

「……あなたですか、アグネスタキオン」

 

 本当に求めている人ではなかったけれど。あの世界と私がまだ繋がっている気がして、少し嬉しかった。

 

「……今度の皐月賞だけど」

「……出れません。出ません。私は走れない」

「そんなことは知っているよ。だからお見舞いに来たんじゃないか」

 

 クククっと、アグネスタキオンは笑う。けれどその深層に、愉快そうな感情は見えなかった。

 

「残念だったなどと言うつもりはないよ。そういったお節介は聞き飽きているだろうしねえ……」

「要件は。皐月賞に何か」

「私は皐月賞に出る」

「……ああ、そんなことですか」

 

 分かり切ったことだった。弥生賞を勝っておいて出ない選択肢もあるまい。そして彼女がその後のダービー、菊花賞を勝ち取るのさえ。分かり切ったことだ。けれど。

 

「君には見てほしい。できれば君のトレーナーにも……と思ったのだが。居ないようだね」

 

 その口ぶりは真剣なもので。まるで、できたばかりの硝子細工を触るかのように。壊れかけの硝子細工を愛おしむように。そんな印象を与えた。

 

「……わかりました。トレーナーさんも呼んでおきます。まだ連絡はできますから」

「……何かあったのかい」

「……これは私の問題です」

 

 私が耐えられなかったから。弱き獣には何の権利もないのだ。

 

「……ふゥん。それなら今すぐ呼んでくれるかな。君の問題だと言うのなら、トレーナー君は何の問題もなく元気にしているのだろう? きっと暇をもてあましているに違いない」

「……その通りですね。お任せを」

 

 手荷物の中から一つの携帯電話を取り出す。

 

「流石女優だねぇ。連絡用とプライベート用で通信機器を分けてあるのか」

「……これは」

「これは?」

「……いえ」

 

 これは、君専用の電話。君の番号だけが閉じ込められた優しい牢獄。だけど今はもう、飛び去ってしまった。

 

「……もしもし」

「……お久しぶりです。マンハッタンカフェです」

「久しぶり」

 

 心臓が熱くなる。再び血が流れ出すような。

 

「……今度の皐月賞。一緒に見ませんか」

「……いいのか」

 

 いいも悪いもない。

 

「……続きは、その日に」

 

 私が生きていくのには、君が必要なのだ。

 

「……そろそろです」

「……タキオンが君に言ったんだったな。皐月賞を見てくれと」

 

 久々に君と話せるだけで、嬉しい。彼女には感謝しなくては。

 

「各ウマ娘、スタートしました! 断然人気のアグネスタキオン、光を超える素粒子の名を冠するウマ娘はどう出るか!」

「……まさに好位追走だな」

 

 アグネスタキオンは中団、先行バとして理想的な位置からレースを進めていた。彼女にはおそらく勝利の可能性が眩いほどに見えている。

 

「……彼女の見る景色とは、どのようなものなのでしょうね。確実に勝てるとさえ言われ、その重圧をも跳ね除ける」

 

 本物のスターダム。星より疾い超光速の景色が、彼女の眼前に。

 

「……君にだって、見える」

「私には見えませんよ」

 

 君が、連れて行ってくれなければ。

 

「……アグネスタキオン抜けた! アグネスタキオン一着! アグネスタキオン、まず一冠です!」

 

 やはり、彼女は勝った。これを見せてどうなると言うのか。彼女は走れて、私は走れない。その現実を突きつけたかったのか。

 その疑問は、すぐさま明らかになった。

 

「私はダービーには出走しない。未来の三冠ウマ娘のインタビューが聞きたかった諸兄は残念だが、これはもう決めたことだ」

「……なん、で」

 

 耳を疑う。そんなこと一言も言っていなかったではないか。彼女が扱っていた硝子細工は、彼女自身だったとでも言うのだろうか。

 

「……きっとこれを見てくれている彼女に、Bプランを託す。追って詳細は発表しよう。では」

 

 騒然となる会場を後に、アグネスタキオンは去っていった。……ライブにすら彼女は現れなかった。脚に異常があったということだろう。でもそれ以上の覚悟が、彼女の語気には込められていた気がした。

 

「Bプラン」

 

 その詳細は不明だが、その託す先はわかる。

 

「……トレーナーさん」

 

 私にまだ走る理由が、走らなければいけない理由が生まれた。

 

「……あなたがなんと言おうと、私はまた走ります。協力して貰えますか」

 

 そして、そのためには。

 

「……わかった」

 

 君がいてくれなくてはいけない。

 ここより始まるのは、最初の約束を忘れたかのような一方的な契約。その形は歪んでいて、壊れている。でも、私を見ていてくれるなら。私は、それでいい。

 失楽園の漆黒は、閉ざされし闇を喰らう。



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初期設定のマンハッタンカフェとの夏合宿

重い感情がほしいです


 今日から夏合宿。俺の担当ウマ娘であるマンハッタンカフェも、合宿からは復帰できるということで待っていたのだが……。

 

「……遅いな」

 

 このままではバスに乗り遅れてしまう。電話をかけようか、と携帯を取った途端着信があった。……相手はカフェではなく、アグネスタキオンだ。彼女から電話をかけられるのは初めてのことではない。カフェのことについて、タキオンは都度連絡や提案をしてくる。彼女が皐月賞で言ったBプランというものにその理由が隠されているのだろうか。

 

「……というわけで、夏合宿中はスタミナの強化を……聞いてるかい?」

「ああ、ごめんごめん」

「……やれやれ。まあ私がやっているのもお節介に過ぎないし……。まあ、夏合宿中はカフェのために尽くしてあげることだね。彼女は君にご執心のようだからねえ……それじゃあ」

 

 そう言ってタキオンは電話を切る。……俺なんかがカフェのためにできることは少ない。だからタキオンのアドバイスも何も言わずに聞いている。

 

「カフェが俺に執心している、か」

 

 それは冗談のようなものだとしても、実際彼女は何のためにまた走っているのだろう。俺は約束を果たせる人間ではないと分かったはずなのに。……本人に聞くことはできない。それは彼女に気遣わせてしまう結果になるだろうから。

 

「……電話は終わりましたか」

「……ああ……って。……カフェ、か……?」

 

 振り向いた先にいたのは、幻想のような。

 

「きっと暑いと思ったので、服を新調してきました。……どう、ですか?」

 

 思えば、いつも着替えてからか変装して練習に来る彼女の私服を見たのは初めてかもしれない。……いやこれは私服なのか? 大きな麦わら帽子に純白のワンピース。露出は少ないけれど、薄い生地から少し身体のラインが見え隠れしている。

 

「珍しいものを見るような目ですね」

 

 どきり。思わず見つめてしまっていた。慌てて焦点をずらし、なんとか平常に対応する。

 

「あーそうだな、みんな制服だからな。確かに珍しい。うん。まあでも問題はないだろうな」

「……そう、ですか」

 

 うん、制服じゃないといけないこともないだろう。それに。

 

「これだけ似合ってるのに、脱がせるなんて可哀想なことは誰もしないよ」

 

 そう口走ると、僅かにカフェの頬が緩んだ気がした。

 

「……では、行きましょう。そういえば電話がつながらなかったのですが、どなたと電話を」

「ああ、タキオンと電話をしてたんだ。いつものことではあるんだが、タイミングが良くなかったな……カフェと被ってしまった。すまない」

「……そうですか」

 

 それだけ。珍しく質問をしてきたと思ったけれど、その返答は淡白でよくわからない。もっと彼女のことを知りたいと思う心は、間違いではないと信じたいのだが。

 ……ともかく、カフェのリハビリを兼ねて。また勝ちに行く、その願いを込めて。夏合宿が、スタートした。

 

「よし、上々だな」

「……はい」

「目標は、菊花賞。長距離を走るスタミナをつけるんだ。菊花賞はただの復帰戦じゃない。重賞初勝利だ!」

「……菊花賞」

 

 クラシック三冠の最後の一つ。少し前までは、あのアグネスタキオンが確実に取ると言われていた。それを、マンハッタンカフェは射抜く。

 

「……あの」

「どうした、カフェ」

「……この後、時間があれば」

 

 ある、と答えた俺に伝えられたのは、予想外の仕事だった。

 ざざん、ざざん。砂浜に二人。本来なら休憩時間なのだが、マンハッタンカフェにはもう一つの仕事がある。女優業はしばらく休んでいたカフェだが、今度写真集を出すらしい。曰くそういうもので収入を持続させることが大事なのだとか。……というわけで。

 

「……えっと、こんな感じか?」

「……んっ……」

「ああ、悪い!」

「……いえ、なんの問題も」

 

 俺はカフェの背中に日焼け止めを塗っていた。彼女はトレーニング用のスクール水着とは違い、パレオのついた可愛らしい水着を身につけている。……その格好で日焼けしないようにするのが、俺の仕事だ。

 

「……なあ、同室のユキノビジンとかに頼むのは」

「これも仕事の範疇です。友達の時間を割くわけにはいかないでしょう」

 

 確かに俺は友達ではないが、いかがなものか。そんなことを口に出したりはできず、丁寧に……薄目で確認しながら。色白の肌は、光を反射するようで。闇を孕んだ髪の毛とは対照的だった。生唾を飲み込みそうになる自分を、すんでで止める。ただただ、綺麗だと思った。

 

「……なあ」

「なんでしょう」

 

 ほんとに触っていいのか、などと馬鹿なことを聞きそうになる。代わりの質問を捻り出す。

 

「どうだ、調子は」

 

 ありきたりすぎる。

 

「……ええ、それなりに。おかげさまで」

 

 おかげさまという言葉が少し刺さる。結局俺は彼女に特別何かできたわけではないと思う。彼女が走るからそれを助けられるだけであって、彼女が走れない時の助けにはなれなかったのだから。

 

「さて、こんなもんだ。ところで撮影は」

「それも、トレーナーさんが」

 

 えっ。

 

「身近な人が撮るありのままの姿、がコンセプトなので。カメラはここに」

 

 あまりに平然と言うので、やはり女優というのは常識が少し違うのかもしれない。そう思った。

 

「はあ、流石に疲れた……おやすみカフェ」

「……はい、おやすみなさい」

「一応鍵を渡しておくから、何かあったら起こしてくれ」

「……はい、ありがとうございます」

 

 そう言って俺は寝室に帰る。この夏合宿、彼女は強くなれただろう。けれどそれは彼女の功績で、俺の力ではない気がする。無力さに打ちひしがれながら布団に入る。彼女と契約したのがもう遠い昔のような気がした。あの頃の俺は何も知らなかったのだろう。今は知っていて、だから何もできない。だとしたら。

 

「……もう一度、できるようにならないと」

 

 彼女との契約は理由がどうあれ続いている。彼女に相応しい存在になれるように努力しなければいけない。彼女が走ることを、間違いでないと証明したい。そんな決意とともに。俺の意識は闇に沈んでいった。

 

 憎いという表現は適切ではない。そもそも感情を真に一言で表すのは不可能に近い。文章に起こされた動作の中から書かれていない感情を描き出す。その所作を何度もやってきたからわかる。思い出す時点で感傷は欠落していて、その時得た感覚は不完全にしか復元できない。

 トレーナーさんがあのアグネスタキオンといつも電話していたと聞いた時に抱いたものは、なにか。何か暗いものであり、焼けるように熱いものであり。純白のおめかしが一瞬で色褪せてしまったような気がした。君の存在を閉じ込めたいという願望はどこかにあるかもしれない。けれどそれは本当に言葉にするならまた違う形であり、だから実行できない。たとえば肉体的接触で君を手に入れることができるのだろうか? 私の肌に触れた君は何かを感じただろうか? 少し満ちた気分はあったけれど、まだ満たすには足りない。渇き、飢える。たとえば写真に姿を閉じ込めれば、その人の姿は手に入る。君は私の写真を撮って、私を手に入れられただろうか? そうであったら嬉しいけれど、君は私を求めてはいない気がした。

 もやもやと、曖昧に。眠れないという結果が積み重なり、感情は論理を求めない。ただ発露されることだけを渇望する。

 だから。私は今、トレーナーさんの寝室にいる。退屈で、退屈で。それを満たして欲しいから。君だけが、私を満たせるから。 

 

「……すぅ……」

 

 何も知らずに寝ている君を、眠るように殺すことは容易いだろう。そう考えるとぞくぞくしたけれど、それは本当に求める何かではない。君の生殺与奪の権利を握っていることを、もっと実感したい。君がいなければ私が死んでしまうように、私がいなければ君は死んでしまう。そういうふうに、したい。

 ゆっくりと、近づく。その顔を眺め、闇の中で堪能する。……そういえば、スタミナだったか。どれだけついたか、試してみようか。

 

「……すーっ、はむっ……」

 

 それは口付けではなく、息と息を繋げる行為。肺と肺を口で繋げて、君が吸うのに合わせて、私は吐く。

 

「……ふーっ、すーっ……ふーっ……」

 

 乾いた君の唇に、私の唇から水分をもたらす。君が起きる気配はない。私が息を止めれば、君は死んでしまうのに。

 

「……ふぅ……あむっ……はー……」

 

 いつまで続けられるだろう。僅かに体温が移り変わり、熱っていく。口は片時も離さない。この時間が、永遠だったらいいのに。生まれて初めてそう思った。

 

「……んー、よく寝たなあ」

 

 寝間着が汗でびっしょりだが、なんだか気持ちのいい睡眠だった気がする。唇がやけに暖かいような。けれど心当たりもなく、寝ぼけ眼で部屋を出る。……カフェがいた。

 

「……おはようございます」

「おはよう、カフェ。よく眠れたか?」

「……眠らないように頑張っていました」

「えっ?」

「……冗談です。さあ、最後まで。頑張りましょうか」

 

 最後まで。その言葉を、最後まで聞けるようにしよう。そう思う。彼女はまだまだ走れるのだから。

 失楽園の漆黒は、真夏の闇に揺蕩う。



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初期設定のマンハッタンカフェの幕間てきな

外伝?


「何を読んでいるんだ?」

 

 トレーナーさんが私に聞く。

 

「今度やるホンの原作です。ミステリーなのですが、実は」

「ああその先は言わなくていいよ! ドラマで楽しむから」

「そうですか。……そうですか」

 

 少し嬉しい。予想していなかった。

 

「本当だ。実を言えばカフェの出るドラマは今まであまり見たことがなかったんだ。でも最近は古いやつも見てるぞ。……カフェのことを少しでもよく知れればいいなと思って」

「演技から私が見えますか?」

 

 私はただの鏡なのに。

 

「見える……と思う。たとえばあんな顔をあの時もしていたな、とか」

「……同じように演技しているだけかもしれませんが」

「それは、信じるしかないなあ」

「信じる、とは」

「カフェが俺の前で本心を出してくれてるって、信じる」

 

 そんなふうに言われたら、どうしようもない。

 

 

「……トレーナーさん、ファンレターです」

「……やけに嬉しそうだな」

「……そうですか? 私としては見慣れたものですが」

 

 そうではない。

 

「トレーナー室に届いたってところが重要なんだろ?」

 

 流石トレーナーさん、よくわかっている。

 

「……まあ、そうですね。私の"走り"へのファンレター。きっとそれは、大切な初めての」

 

 思えば、女優として活動し始めた時も。最初のファンレターは得難い希望に見えた。今では滝のように降ってくるそれも、どれもに心がこもっている。

 

「……ちゃんと読まなければなりませんね」

 

 今まで貰ったものも。初めて貰ったものも。どちらもマンハッタンカフェへのファンレターなのだから。

 

 

 雨が降っている。雨が創る物語というのはなぜ悲しいものばかりなのだろう。雨雲は不安と不吉を予感させるからか。雨の後の虹は爽やかな別れを連想させるからか。

 

「……はうぅ、ライスがお祈りするといっつも雨だ……」

 

 道すがら、一人のウマ娘を見つける。彼女も雨に頭を悩ませているのだろうか。

 

「……あの」

「……はい! ……って、マンハッタンカフェさんですか!? あの、私あの映画観ました! 『幸せの青いバラ』……」

 

 私がナレーションをやった映画だ。

 

「そうですか、ありがとうございます。……あなたは、雨は好きですか?」

「……えっと、ライスは……その。嫌いじゃないんですけど、いつも降らせてしまってるのが迷惑かけてるかな……って」

「……そうですか。あなたが好きでいられるのなら、雨もきっと応えてくれますよ。あなたの世界の主人公はあなただから、あなたは何者にでもなれる。迷惑だなんて思ってはいけません」

 

 現実と物語は違うのだ。全てに因果があって、全てに因果がない。

 

「ライスも、ヒーローに……」

「お名前を聞いていませんでしたね。覚えておきます」

「……はい、私の名前はライスシャワーです!」

 

 祝福の名を冠するウマ娘。彼女の創る雨は、悲しくない気がした。



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初期設定のマンハッタンカフェの菊花賞

レース描写むりー


 息をする。私は二酸化炭素を口の中から捨てて、新しい酸素を取り込む。息をする。私はこの場に広がる空気を吸い込み、そこに自らの空気を撃ち出す。息をする。まるで血を啜るかのように。息をする。狩場に蔓延る獲物たちへと口を開く。脚は自然と動く。ゆっくりと、ゆっくりと。後方に位置して様子を伺う。心は牙を研ぐ。既に狙いは定めている。集団から抜けて一人逃げている彼女。わかる。彼女はきっと、勝つ。皆に勝つ。私以外の、皆に勝つ。だから。

 私は彼女さえ捕らえればいい。レースとは時にシンプルだ。徐々に、徐々に。集団が前へと移動し、私はその中でゆっくりと位置を進める。菊花賞。3,000mという距離は、あらゆるレースの中でも随一の長さだ。長距離のレースで勝つにはスタミナが必要。それは私も夏合宿で言われたことだし、きっと今走る皆が知っている。けれど。

 私はもう一つ、この距離での勝利に必要なものを知っている。そしてそれについて、私は負けるつもりはない。この場の誰にも、いや。全てのウマ娘にも、だ。勝ちたいというのがウマ娘の本能。だから私たちは走る。そう言われている。でも、私は。ずっと走らなかった。走ること以外の人生に身をやつし、人生の退屈さをどこか他で埋め合わせしようとしていた。私にはもしかするとその本能が備わっていないのかもしれない。レースの話を聞いても、血湧き肉躍ることはなかった。面倒だ、とさえ思った。

 そんな私が今走っているのは。君が。君が、私を連れて行ってくれるから。私はその命に従って、走り出す。楽園へと黒く羽ばたく。

 

「さあいよいよレースも終盤! 先頭から二番手以降は4馬身ほど離れています! マンハッタンカフェは中団から徐々に上がってきました!」

 

 もうすぐ、もうすぐだ。全ての敵を喰らい尽くし、私が屍の頂点に座する。瞳孔が開き、薄く笑みを浮かべる。マンハッタンカフェにとってのレースは狩りに等しい。首を掠め取るように抜き去り、一瞬で喰らい尽くす。命奪に必要なのは刹那の切れ味なのだ。

 私が、長距離において負けないと自負する理由。それは────。

 

「内からマンハッタンカフェ! 内からマンハッタンカフェ! 差し切るか! 躱せない! マンハッタンカフェゴール! 菊花賞の栄光はマンハッタンの手に!」

 

 長い雌伏の時を知っているから。目の前の勝利を渇望することはできても、視界の外にあるゴールを目指し続けることは難しい。そこは本能の埒外で、誰もが集中力を切らして苦しみに耐え抜けない。でも、私は違う。私は今も苦しみの中にいる。常に遠い遠いゴールを目指している。その中でたった3000を走り切ることなど雑作もない。いや、雑作もなくてはいけない。

 ワアアアァ──────。

 大歓声が私を迎える。……息を整え、スタンドに向き直る。彼らは私を見ている。私自身を見ている。その感覚は新鮮で、得難いものだと思った。……ここが、楽園に近いのだろうか? この歓声を浴びる一着の場。そうであるなら、嬉しい。楽園への道はまだ閉ざされていない。君はもう私を見限って、ただ言われるまま私に着いてきてくれるだけなのかもしれない。それでも、そうだとしても。今日のこの勝利は、私と君のものだ。

 

「マンハッタンカフェさん! 重賞初勝利、それも菊花賞で! おめでとうございます!」「マンハッタンカフェさん、女優業との両立についてインタビューを是非」「マンハッタンカフェさん、何か一言」

 

 ……やれやれ、せっかくの気分が台無しだ。喜んでもらえるなら結構だが、これは誰かと分かち合うための勝利ではない。胸の内を明かす相手など必要ない。

 

「……次は」

「次は有馬記念を目指します。では」

 

 この一言で、充分だ。

 

「……お疲れ様、カフェ」

「ありがとうございます、トレーナーさん」

「……すごいな。あんまり息が上がってないみたいだ」

「……ええ。でもそろそろ、喉が渇きました」

「ああ、それなら……」

 

 かぷり。

 

「……っつ……!」

 

 ちゅう、ちゅう。

 

「カフェ、いた、痛い……」

「……痛いですか?」

 

 それはいい。首筋の噛み跡を新しいものに上書きする。溢れ出る血で喉を潤す。

 

「これで。傷が疼くたび、私のことを思い出せますね」

 

 唇の血を舐め取り、口角を持ち上げる。気分が安らぐ。君に勝利を捧げられる、そこに私の価値はある。

 

「……それより、カフェ。次は有馬記念って、本気か?」

「……不服ですか?」

「いや、まだ信じられなくて。でもそれだけの力はあるよなあ、うん、うん」

 

 信じられない、という言葉がピンとこない。私は実力不足に感じられるということだろうか。少し気落ちしてしまう。するとそれを察してか、トレーナーさんが発言を訂正する。

 

「ああいや、そうじゃない。俺が有馬に出走できるようなウマ娘の担当になれるなんて信じられない、と思って。……ありがとう、カフェ」

「……いえ、それほどのことは」

 

 私は本当に、大したものではない。

 

「トレーナーさんがいてくれたからですよ」

「……そうか」

 

 私の言葉はどうして君に届き切らないのだろう。歯痒さが身を包むけれど、どうすることもできない。

 

「……まあ、そうと決まれば。時間は短いが、頑張らないとな」

「……ええ、お任せを」

 

 こうして、次なる指針は定まる。傷だらけの船はその傷を闇で覆い、血を流しながらもまだ進んでいる。

 失楽園の漆黒は、闇より目覚める。



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初期設定のマンハッタンカフェと菊花賞を終えて

終えて


 有馬記念。一年の最後を締め括る大レースであり、シニア級とクラシック級のウマ娘が一堂に会する。つまりマンハッタンカフェにとってはシニア級チャレンジの登竜門となるべきレースなわけだ。

 

「……やあ、こんにちは。まずは菊花賞おめでとう」

 

 電話をかけてきたのはアグネスタキオン。今年の皐月賞を勝った強力なウマ娘であり……今はレースから身を引き俺とカフェのサポートをしてくれている。

 

「ありがとう、タキオン」

「……で、次はどこを射抜くんだい?」

 

 次の勝利。アグネスタキオンにとっては手に入りそうで手に入らなかったもの。どんな気持ちでその言葉を紡いでいるのだろう。

 

「次は有馬記念だ。カフェがそう言った」

「へェ……。彼女にも一厘の積極性が見えてきたかもねえ」

「彼女はいつだって真剣だよ」

 

 彼女から逃げたのは俺の方だ。

 

「……いや、いやまあいいか。姑役をするために君たちに関わっているわけではないし……ふむ」

 電話の外からぱらぱらと紙を捲る音が聞こえる。

「さてさて、君はシニアの有力ウマ娘を知っているかい? 有馬に出走するなら当然同世代だけに注目していてはいけない」

「特に注目しなきゃいけないと思ってるのは……二人だな。ライバル関係にあり、一着二着を独占してシニア級を暗黒で染め上げたというウマ娘たち」

「……さすがだねえ。君もカフェのために努力を惜しまないというわけか」

 

 そうでもない。俺が彼女のために出来ているのは最低限のことだけだ。全力を尽くしても何にもならない。彼女の道標という最低限の役割すら果たせているか怪しい。

 

「……テイエムオペラオーと、メイショウドトウ。少し衰えが見えてきているとはいえ、他の追随を許さない存在だろう。スターウマ娘に近しい」

 

 世紀末覇王と怒涛王。二人の王がシニア級の壁として立ち塞がる。勝てなくても仕方ないとすら言える。……けど。

 

「勝てるかはわからないかもしれない。でも。勝てなくても仕方ない、って思うのはもうやめたんだ」

「ふぅん……」

「俺は、今でも。カフェなら君に勝てたと思ってるよ。タキオン」

「……それは仮定の話、だね」

「過去の話さ。体調管理をしっかりしていれば、今日のパフォーマンスが出せるなら。カフェは誰にも負けない」

 

 負けるとしたら、全て俺が悪い。

 

「それが君の信頼の形」

「そうだ」

「……なら見せてもらうよ。私の幻影を追いかけるというならそれでもよし。なんであれ勝利すればいい……じゃあ」

 

 電話が切られる。勝利。そのために、必要なものは。

 

「ふぅ。ウイニングライブというのは体力を使いますね」

 

 センターに立つのはメイクデビュー以来か。観客の数は段違いだったけれど、私にとっては差がない。どちらも君が見てくれている。その一点が重要だ。

 

「んっ……ごくっ……ふぅ」

 

 黒塗りのコーヒーをじっくりと飲み、疲れた身体に鞭を入れる。一人の空間は落ち着く。昔はこれが一番好きだった。今はもう少し好きな空間があるけれど。

 私の独奏。人生は独りによって動かされるものだと思っていた。揺れ動く何かをあくまで自分が捉え、それを命の糧にする。退屈を噛み殺すには自分から動かなければならない。獲物を捕らえるには自分の働きが必要である。

 私の独創。だから、私は私でいる。私にしか創れない人生があって、それはつまらなくても私の価値を担保する。他者とは違う、他者とは関わらない。それが私を生かしている。

 けれど。今の私には。君とのデュエットが必要だ。君と二人で創る何かが必要だ。そうでなくては退屈だというのは、私に課せられた呪いなのかもしれないけど。この呪いは心地よいのだから構わないと思う。獣であるためには私たちは餌を多く喰らわねばならない。二人でいる方がより多くの餌を得て強い獣になれるというのなら、私は喜んで二人になる。しかしそれなら果たして。餌を分け合うことが弱さに繋がるとしたら、私は君と分たれるべきなのだろうか? 

 

「……いけませんね」

 

 今日は勝利に酔うべき日だ。それなのに不穏なことばかり考えてしまう。偶像の蠢く未来ばかりを描いてしまう。しっかりしなければ。君の隣に立つのに、相応しくならなければ。

 

「……カフェ、入っても大丈夫か?」

「ああトレーナーさん、どうぞ」

 

 そう言ってトレーナーさんを招き入れる。部屋に二人きり、その状況は少し心を揺らしてくれるけれど。まだ、私は相応しくない。

 

「有馬記念、警戒すべきはテイエムオペラオーとメイショウドトウだ。歴戦のウマ娘で、実績も実力も申し分ない」

「……なるほど」

「でも」

「勝つのはカフェだ。それを伝えに来た」

「ええ、お任せを」

 

 当然だ。君がそう言うのだから、私は勝つ。今の私の行動指針は、全て君の中にある。

 

「……トレーナーさん」

「……なんだ」

「……まだ、連れて行ってくれる?」

「……ああ。約束したからな」

 

 約束した。君は私を楽園へと連れて行く。それを脅迫材料にするかのように、今の私は君を繋ぎ止めている。きっと君の心は私をもう見たくない。でも、私は君に見て欲しい。君のためを想うには、私は弱すぎる。君を求めなければ直ぐに死んでしまう。

 

「……じゃあ、帰るか」

「……トレーナーさん、もう一つだけ」

「……いいぞ」

「……今日は、独りになりたくない。朝まで、手を。繋いでいてくれませんか」

 

 これも脅迫のようなものだ。きっと求めるほどに、君は私に恐れ慄く。心は離れていく。

 

「……わかった」

 

 それなのに、君は私を赦してくれる。私はいつまで君に甘えられるだろう。きっとこれも永遠ではなく、いつかは退屈極まりない私の存在を見限る時が来る。

 

「……ここが私の家です」

「……なあ、大丈夫なのか」

 

 私の家はトレセン学園の寮とは離れたところにもう一つある。女優業ばかりをしていた頃の古巣だ。

「……なんですか。今更手を離したりはしませんよ」

 君の手は私の掌の中に。

 

「……言いましたよね? 朝までって」

「言ってしまったしなあ。……カフェが大丈夫なら、いいよ」

 

 勿論。

 

「ではいらっしゃい。風呂とご飯を用意しますから、寛いでいてください」

 

 ぎぃ、と扉を開いて。一瞬、愛の巣という言の葉を幻視する。そうでなくても、この時間は誰にも邪魔されたくない。

 失楽園の漆黒は、闇へと手招きするが如く。



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初期設定のマンハッタンカフェとお泊まり

お泊まりです


「大きな家だな……」

 

 マンハッタンカフェの別荘は大きな一軒家で、彼女が人気女優だという事実を再確認させられる。

 

「私は狭くて暗い家でも良かったのですがね」

 

 カフェはそう言う。この家は彼女の好みで選んだものではないのだろうか? 

 

「ただ、広い空間で独りになりたい時もありますから。開放的なようでいて、牢獄のようであって。退屈を殺すためには、様々のものを体験しないといけません」

 

 ぱち、ぱち、ぱち。明かりのスイッチを入れて、カフェは奥の部屋へと入っていく。

 

「……とりあえず、着替えさせてもらいます。……トレーナーさんは」

「ああ、俺はいいよ! そうだな、そこで座って待ってる」

 

 着替え部屋に誘うなんて、冗談でもどきりとしてしまう。しばらくすると、彼女は装いを変えて出てきた。ルーズな部屋着。少し緩い雰囲気は、今までの彼女にはなかったものだった。

 

「では、食事を用意しますね。ごゆるりと」

「……ああ、ありがとう」

 

 そのまま彼女はキッチンに消え、間もなく包丁でまな板を叩く音が聞こえる。……カフェと包丁の組み合わせはなんだかマッチしている気がした。

 カフェの家をぐるっと見回す。彼女の私物が全面に広がっていて落ち着かない。

 

「……気になるものがあったら、ご自由に手に取ってください」

 

 そうキッチン越しに言われたので、大人しく目に付くものを見てしまう。

 

「……大きな本棚だな」

 

 ずらりと小説が並ぶ。演技の本などもあるし、果ては犯罪者のプロファイリングや実在の事件をまとめた本まで……これは一体。

 

「……ドラマは現実ではないですが、作中の人間は現実にいてもおかしくない思考を持っていなければなりません。それは悪役でも然り。私はそれを映し出す鏡ですから」

「……君にとっての女優業は、フィクションに現実を憑依させること?」

「……ご名答。さて、続きはシチューと共に」

 

 いつのまにか彼女は鍋に入ったシチューを机に置いていた。家の中を回っている間にそれなりに時間が経っていたようだ。

 

「いただきます」

「……召し上がれ」

 

 彼女と二人、食卓を囲む。今夜は一人になりたくないと彼女は言った。だから俺はここにいるけれど、彼女はどれほど俺を信頼しているのだろう。期待外れなトレーナーでしかないはずなのに、俺は彼女を縛ってしまっているのか。

 

「……美味しいな」

「それはよかったです」

 

 身体の芯から温まる。彼女の得意料理なのだろうか。

 

「……女優について。私は女優であることを、物語の鏡になることだと思っています」

「……鏡」

「限りなく物語を落とし込み、私から私を消し去る。それが役割で、だから私個人には何の色もついていない。白黒の無価値。そう思っていました」

 

 それは何となく、初めて誰かに話すかのような。

 

「……でも、今日の菊花賞。歓声は私に向けられていた。私自身に向けられていた。……初めての世界でした」

「……そうか、それは」

「トレーナーさんのおかげです」

 

 虚をつかれた思いがした。

 

「……トレーナーさんがいたから、連れて来てもらえたんです」

「……違う」

「俺なんか、足手まといだろう」

 

 そうに決まっている。そう言うと、それ以上の言葉は交わされなかった。

 

「……これ、私のお気に入りのコーヒーです」

「……ありがとう。いただくよ」

 

 悪いことをしただろうか。彼女は未だに俺に幻想を抱いているのだろうか。それでも、それでも。彼女が走る理由は俺にある。そうだとしたら、俺のするべきことは。

 

「……さて、お風呂はもう湧いていますが。どうしますか、トレーナーさん」

「……? どうって……」

「……入りますよね?」

 

 正直いくら担当とトレーナーの関係だとしても、女性の家で風呂まで借りて良いものなのだろうか。

 

「……安心してください。風呂場で襲いかかったりしませんよ。……先、いただきますね」

 

 それは冗談のはずなのだが、そうは聞こえなかった気がする。

 彼女が風呂に入っている間、一人先程の言葉を思い返す。俺がいたから走れたと彼女は言った。俺なんか足手まといだと俺は言った。どちらが正しいのだろう。ここに噛み合いがないことは、俺たちにとって致命的なことなのだろうか。いくつか漠然とした疑問は浮かぶが、答えは出ない。答えを出したくないのかもしれない。俺にだけ落ち度があれば、それは俺の問題になる。そこに疑問を挟み込みたくない。そういうことだ。

 連れて行く。俺が彼女を連れて行く。その約束をまだ彼女は握りしめている。それは既に壊れたる幻想なのかもしれないけど、確かに彼女を生かしている。

 

「……先、いただきました」

 

 もう少しだけ、考えてみよう。俺たちのことを。

「……ああ、ありがとう……」

 

 そんな考え事をしていたので。

 

「……あっ、まだ振り向かないでくだ……きゃっ!」

「……あっ、ご、ごめん!」

 

 あられもない白い肢体が目に焼き付くのを、必死に堪えた……。

 

「……着替えは外に用意してあります」

「……ごめん、カフェ……」

 

 風呂のドア越しに会話が為される。ここは自分の家ではないのに、気を抜きすぎていた。……そもそも何故カフェは俺を自らの家に誘ったのだろう。やはり、それだけの信頼が寄せられているのだろうか。理由があるとすれば、結局トレーナーである自分との契約に帰結する。

 ずらりと並ぶコンディショナーの列から、ボディーソープとシャンプーを取り出す。当たり前だが美容には気を遣っているようだ。彼女が女優だから……というのもあるだろうが、それ以前にマンハッタンカフェは一人の少女だ。完全無欠な存在をイメージしていたがそんなことはない。それを知る。

 湯船に浸かり、身体の疲れを取り払う。……ここにカフェも入ったのか。そう思うと何だか落ち着かなくて、さっさと上がる。風呂から上がるとそこには一枚のバスタオルと……バスローブがあった。見てみれば先程脱いだ服は皆洗濯機の中でぐるぐると回っている。やられた。

 

「……お風呂、ありがとう」

 

 バスローブ姿でそんなことを言う。カフェもバスローブに着替えていて、テーブルでまたコーヒーを飲んでいた。

 

「……ああ、トレーナーさん。こちらへ」

 

 とんとん。カフェが自分の膝を叩く。疲れた頭は意図も読めず、ふらふらと言うがままに。

 すとん、と頭を優しくおろされる。彼女の膝から上半身に目を向けると、カフェは耳掻きを手にしていた。ローブの隙間から見える鎖骨が艶かしい。……いや、そもそも。今俺が寝かされている脚には根元まで何も……。

 そこまで気づいた頃にはもう遅い。身体をうまく抑え込まれ、力が入らない。

 

「……じっとしていてくださいね」

 

 そうして。

 耳の中をゆっくりと、じっくりと。寝かしつけられているような体勢は、自然と心を安らげる。

 

「……今日は、お礼がしたかったんです」

 

 かり、かり。少しずつ掻きながら、彼女は語る。

 

「私には、表現の仕方がわかりません。物語に出てくる人々は、言葉で全てを解決できるのに」

「でも、どうしても。今日の勝利は二人のものだから。トレーナーさんが、私を連れて行ってくれたから。だから、お祝いされるべきは私だけではない」

 

 熱い息が当たる。彼女の顔は見えないが、今までで一番近づけている気がする。

 

「……それで、わざわざ家に誘ってくれた。……ありがとう」

「……ふふ」

 

 しばらくの間、言葉が途切れる。薄い布を互いに一枚纏い、それだけの境目を以って関わり合う。耳掻きの擦れる音と、布の擦れる音。二つだけが響く静かな空間。

 

「……では、こちらを向いてください。反対側も耳掻きしますから」

 

 ぐるりと、彼女の身体側に顔を向ける。なんとなく身体が熱くなってくるのは気のせいではない。彼女の身体が熱くなっているのも気のせいではないだろう。肌と肌の密着が、少しの布で仕切られている。それを取り払って仕舞えば。

 

「……いいんです」

「……カフェ」

「……トレーナーさんなら、いいです、よ?」

 

 それが、彼女の言うお礼だとすれば。それを受け取らないのは、シツレイナノカモシレナイ。

 けれど。

 

「駄目だ」

「まだ、俺の役目は終わっていない」

「だから、カフェ。まだ君は走れるよ。有馬がある。その先にはシニアと、URAファイナルズがある。どちらも大きなレースがたくさんだ。俺はそこへ、君を連れて行く」

「……トレーナー、さん」

「だから。俺を繋ぎ止めようとしなくていい。俺は君のそばにいるよ」

 

 ずっとあった違和感。俺はカフェの足手まといだと思っていた。けれど、カフェからすれば逆だった。俺と離れたくなくて、怖くて。不安ではち切れそうだった。

 ぽたり、ぽたり。熱い雫が、俺の頬に落ちる。

 

「……しばらく、こっちを見ないでください」

「……ああ」

 

 穏やかに、互いの熱が解けていく。

 

「……こちらが来客者用のベッドです」

「すごいな、俺の家のやつの倍はある」

「……そしてこれが、ダブルベッド」

「……なんのために?」

「広々と寝るためですが、今日は違います」

 

 こともなげにカフェは言う。

 

「……一人で寝るのは、嫌ですよ?」

 

 そう言って、彼女は少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 朝が来るまで手を繋いで、目覚めた時には抱きつかれていた。彼女は存外甘えん坊なのかもしれない。今日から有馬記念に向けてのトレーニング。立ち向かう敵は強大だが、今度こそ大丈夫だ。再び繋がりあえたような感覚。ひとつ、ひとつずつ。心の糸を結べた気がした。二人で一人、二人三脚で。そうありたい。

 失楽園の漆黒は、光に照らされる。



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初期設定のマンハッタンカフェと有馬記念

有馬記念です


 心臓から血が流れている。気分はそれなり、レース前にコーヒーを一杯嗜む。血とコーヒーが混ざり合い、私は黒と紅に染まる。身体の内で液体が煮えたぎる。

 走れるから私たちは走る。勝ちたいから私たちは走る。走ること、勝つこと。それがウマ娘の本能だから。はるか昔にどこかで聞いたその言葉の意味が、今ならわかる。

 そして。私はこの瞬間も、走り続けている最中だ。まだ届かない、楽園へ向かって。君と私の理想郷へ向かって。

 今日のレースは有馬記念。おそらく最も有名なレースであり、世代を超えた猛者が集う。私が今からやらなければならないのは獅子の狩りではなく、王者の首を掻き切る大物喰いだ。

 

「……テイエムオペラオーに、メイショウドトウ、ですか」

 

 その戦績はまさに比類なく。彼女達の見る景色がどんなものなのか、興味が湧いた。私は常に追い立てる猟犬であり、追われる者の立場には立てていない。最初に追ったのはアグネスタキオン。……彼女にはまだ、追いつけていない。私はまだ走らなければならない。そうでなくては、追いつけない。追い越せない。

 部屋を出て、少し外を見て回る。トレーナーさんはまだ来ていないのだろうか。ありえないとは思うが、もし君が来ないとしたら。私はどうすればよいのだろう。この舞台は、君に捧げる舞台なのだから。私は君がいなければ、走れないのだから。

 

「……おや。そこにいるのはマンハッタンカフェ君じゃないか」

 

 名前を呼ばれ、振り返る。

 

「……あなたは、テイエムオペラオーさん」

「……実はボクも君のファンの一人でね。いやなに、君は女優ながら歌唱力も素晴らしい。そのことを純粋に称賛していた。だから、君のトゥインクル・シリーズへの参戦には驚いたよ」

「……そうですか、ありがとうございます」

 

 彼女が見ているのもまた、私を包む情報だけなのだろうか。そう思った。

 

「でもね」

「……?」

「君を今見て、それまで構築していた勝手なイメージはすぐに崩れ去った。……君は、王の首を狩りかねない逸材だ。その目。闘志。わかるとも。済まなかったね、正直侮っていたかもしれない」

「……こちらこそ、申し訳ありません。その王位は見せかけのものかと勘違いしていました」

「……はっはっは! ……いいね。そう、人は余りにも現実離れしたモノを目の当たりにすると、それを歌劇や戯曲、誇張や幻想だと思いたくなるものさ。でも、ボクは違う。世紀末覇王は此処に在る。……そして。君も紛れもなく、"本物"だ」

 

 瞬間、彼女の眼差しが強くなる。それはまさに、威光と呼ぶに相応しく。

 

「……オペラオーさ〜ん、どこですかぁ〜?」

「おっと。ドトウが呼んでいるみたいだ。……彼女も強いよ。侮るべきではない……なんてアドバイスは不要かな。では」

 

 そう言って、テイエムオペラオーは去っていった。その風格はまさに老王。全盛期を過ぎて尚、立ち振る舞いに衰えはない。

 

「……それでも。私がやることは変わりません」

 

 走れる限り、走る。胸を借りるつもりなどと生半可な覚悟ではない。胸に食らい付き、心臓を食い破る。それが私の楽園への覚悟だ。

 

「……カフェ? どうしたんだ、控え室から出て」

「ああ、トレーナーさん……いえ、少し暇潰しを」

「……緊張してるのか?」

「……何故?」

「いや、落ち着かないから出歩いてたとしたらそうなのかなって。なんてったって有馬だからなぁ」

 

 確かに、少し。気分は落ち着いていないかもしれない。昂っていて、滾っている。

 

「……そうかもしれません。……と、いうことで」

 

 思い切り抱きついて、胸に顔を埋める。引けていく腰を掴んで離さない。すーっ、はーっ。深呼吸をする。君の匂いを身体に取り込み、私の匂いを君に擦り付ける。

 

「……ふぅ、これで。では、いってきます」

「……ああ。いってらっしゃい」

 

 今なら、本当に。楽園に手が届く気がした。

 

 

「年末の中山、有馬記念! あなたの夢、私の夢は叶うのか!」

 

 私の夢。あなたの夢。それは私たちにとっては同じものだ。私と君は、同じ夢を見ている。

 

「ゲートイン完了、各ウマ娘一斉に」

 

 だから。ここが夢を叶える舞台なら。

 

「スタートしました!」

 

 夢を束ねている私たちが、負けるわけがない。

 割れんばかりの大歓声。彼らは誰に夢を託しているのか。先行している二対の王が、やはり今年の大本命。テイエムオペラオーとメイショウドトウ。私を呼ぶ声は決して一番大きくはない。

 中団から全体を見渡す。蹄鉄の音が鳴り響く空間。残りは遠くの歓声と、己の息の音だけ。それはここに走る全てのウマ娘にとって平等で、だから私には王座へ喰らいつく資格がある。

 幾千の風を切り、集団が徐々に速度を増していく。一人、また一人。一度抜き去った相手には二度と抜かれるつもりはない。だから私の走りは獲物を捕らえるが如く。

 

「最終コーナーを抜けて、テイエムオペラオー徐々に進出!」

 

 これなら、

 

「……ふーっ……」

 

 いける! 

 だん、と思い切り地面を踏む。抜く、抜く、喰らう、鏖殺する。速度の先にある、退屈を射抜いてくれる刺激。その快感に嗤ってしまう。そう、誰が相手だろうと。私の走りには何の関係もない。皆平等に狩るのみ。

 

「マンハッタンカフェが外から一気に突っ込んでくる! 追い縋る子たちは届かない!」

「マンハッタンカフェ、ゴール! 一着はマンハッタンカフェ! 年末のグランプリを制しました!」

 

 君がいれば、私はどこまででも走れる。

 

 

「……おめでとう、カフェ君」

「……ありがとうございます、オペラオーさん」

「……はーっはっはっ! まさに完敗! ……いよいよ我が御世も終幕ということかな、ドトウよ」

「えぇっ、私ですかぁ!? ……えっと、とりあえずおめでとうございます、マンハッタンカフェさん」

「はじめまして、メイショウドトウさん」

 

 メイショウドトウは自信なさげなウマ娘だったが、その走りは本物だった。私は強敵たちに打ち勝ったのだと今になって実感する。

 

「……実はね、ボクたちはこのレースを以て引退することにしたよ」

「……それは」

 

 引退。アグネスタキオンのことが頭をよぎる。

 

「……うん。これからは君たちの時代だ。君は新時代の幕開けを告げるウマ娘となるだろう」

「……どうして、ですか」

 

 まだ、走れるはずなのに。走り続けるのがウマ娘だ。私たちは永遠であるはずだ。

 

「……ボクは強かった。けれど、それは永遠じゃないからさ。それに今日、勝つことはできなかったけど」

 

 一拍置いて、テイエムオペラオーは続ける。

 

「確かに、走り続けたことへの答えを見たからね。……それ以上は、幕引きを誤る行為だよ」

「……私もオペラオーさんと一緒に引退します。私はオペラオーさんのライバルですから。同じ時間を過ごしたい」

「……お疲れ様でした。そういう他ないのでしょうね」

 

 答え。私には答えが見つかっていないけれど。答えが、楽園が見つかれば。私も走る理由を完結させるしかないのだろうか。

 ライバル。私にはライバルがいない。私は孤独に戦い続けるのだろうか。……もう永遠に勝てない一人のウマ娘が、頭を掠める。

 楽園に一番近い位置まで来た私は、もうすぐ終わりなのだろうか。永遠は退屈だ。だけど、今の私はこの時間に終わってほしくない。

 

「おめでとう! カフェ!」

 

 トレーナーさんが自分のことのように私の勝利を喜んでくれる。トレーナーさんの方から抱きついてくるのを、逃さず捕らえる。私と君が一緒にいて、とても幸せだけど。この関係は楽園への契約だ。ならば。私が辿り着いて仕舞えば、終わる関係なのだろうか。

 それなら、私は。

 連れて行って欲しくなんか、ない。

 失楽園の漆黒は、光の陰にある闇を望んで。



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初期設定のマンハッタンカフェとイチャイチャ

イチャイチャします


「そういえば、カフェはどれくらいの数服を持っているんだ?」

「……服、ですか?」

「ああいや、女優はやっぱりたくさん持ってるのかなって、なんとなく」

 そう聞くと、彼女は少し笑みを浮かべて。

「……見に、来ますか?」

 

 乗り気にさせたからには、断るわけにはいかない。

 

「……服はだいたい部屋一個に収まる程度です。ドラマで着る衣装は借り物ですし、私自身が持っているのはこれくらいで。大した数ではありませんね……ですが」

 

 十分多いと思ったが、カフェは言葉を続ける。

 

「服装には理由があります。別の服を着れば別人になるというのは比喩ではありません。私たちは服と共に、ペルソナを付け替えるのです……勝負服もそう、ですね」

 

 そう言って、一つ服を手に取る。

 

「例えばこの服。愛らしい少女が着るべきもので、普段の私には合いません」

 

 確かにその明るい色は、彼女のイメージとは違っている。

 

「……でも」

 

 その服を手前に持って、彼女がくるりと一回転する。顔を伏せ、また持ち上げる。

 起き上がった顔に浮かんでいたのは、満面の笑み。不意を突かれてどきりとしてしまう。

 

「……と、このように。服を変えれば気分は変わり、人は変わります。……今のは変えすぎですが」

「……さすがだな」

「私はただの鏡。普段が無色で無感情故に、これを天職としているだけです」

「……うーん、そうかなあ」

「カフェは結構感情あると思うけどな。……ほら、今ちょっと笑った」

 

 かぷり。返答の代わりに、首元に甘い痺れが走る。

 

「……んっ。もう」

「そんなことを言ってくれるのは、トレーナーさんだけですね」

 

 

「……む」

 

 ある日のこと。トレーナー室にやってきたカフェは少しご機嫌斜めのようだった。

 

「……どうしたんだ?」

「……いえ、メールが五月蝿くて。知っていますか? ──、という方なのですが」

 

 その名前を聞いて驚く。

 

「知ってるも何も、最近売り出し中の人気俳優じゃないか。その人がどうしたんだ?」

「……社交辞令だと思って連絡先を伝えたのですが。何度も何度も暇な日を聞いてきます。この方は暇なのでしょうか?」

 

 ああ、それは。芸能界ともなればそういうこともあるだろう。カフェはピンときていないのだろうか。

 

「多分あれだ。口説こうとしてるんだよ。俺も男だからわかるぞ、カフェは美人だからな」

「……私をですか」

 

 その表情はなんだか感情が入り混じっていて、少し奇妙に歪んでいた。

 

「そうそう、まあ人付き合いだからな。断るにしても穏便に……」

「興味はない、さようなら、と」

 

 遅かった。

 

「ちょっとカフェ、それは流石に身も蓋もなさすぎないか……?」

「もう送信してしまいましたし。それに」

 

 少し向き直って。

 

「私にはトレーナーさんがいるじゃないですか」

「それは少し語弊があるような」

「私が美人だと、俺も男だからわかると。言いましたよね」

「まあ」

「言いましたよね?」

 

 今日のカフェは先程までのメールで苛立っているのだろうか。語気が強い。

 

「そうだな……もちろんだ。でも俺は君のトレーナーだ。だから、男である以前にわかることがあるぞ。君の魅力はそんなもんじゃないとも。君のひたむきさ、ストイックさ。俺は知ってる。それに意外と寂しがり屋だ。そこだって可愛い、素敵なところだと思う。だから」

 

 誰かいい人が見つかるといいな、と言う前に。

 幾度目かの古傷に噛み跡をつけられ、言葉は遮られた。

 

 今日は雨が降っていて、トレーニングはお流れだ。トレーナー室でカフェと二人で雨宿りをしている。彼女はずっと外を見ていて動かない。コーヒーを啜る音と雨音が部屋で混じり合う。

 

「何を見てるんだ?」

「もちろん、雨ですよ」

 

 振り向かずに彼女は答える。そんなに気に入ったのだろうか。

 

「……ああ、動かないでください」

「……なんで?」

「なんでもです」

 

 窓の外を見ているのに俺が移動するのがわかったのか。不思議だなと思いつつも、問い詰めるような内容ではない。

 

「……ふわぁ」

「……くすっ」

 

 すっかり気を抜いて欠伸をしていると、カフェが笑うのが聞こえた。そんなに外の雨は面白いのだろうか? 

 

 窓に映る君の姿。まるで四角い箱に閉じ込めたようで、すこしぞくぞくする。普段の君は私の前では油断してくれない。だから、もう少し。雨が続くといいな。

 

 

「ねえ、前から気になっていたのだけど」

「どうした、タキオン」

 

 カフェの指導について、タキオンと会話をしていた時。藪から棒にタキオンが問う。

 

「キミ、カフェについてどう思ってるんだい? いやあんまり私もトレーナーとウマ娘の関係について詳しいわけではないけど、君たちの距離感が正直よく分からなくてね……」

「ああ、それなら」

 

 それなら答えは簡単だ。

 

「俺は彼女と約束したんだよ。彼女を、連れて行く」

 

 だから、例えるなら。

 

「そうだな……俺はカフェが羽ばたくための翼の一部になれたらいいと思ってる」

 

 付かず離れず、己の身体のように扱って欲しい。

 

「俺の意思はいらない。彼女が思うように動くために、俺はいる」

「……なるほどねえ」

 

 飛び立つための翼。それは白だとすれば、彼女の黒とは普通なら決して相容れない。でも。俺がその継ぎ接ぎを担えば。彼女に翼を与えられる。

 

「……身体の一部、か。それで満足なのかな」

「ああ、もちろん」

「ふゥん……果たしてそのスタンスはどうなるのか……興味深いと言っては少し失礼かな」

「だから、そのためならなんでもするさ」

 

 彼女が目指す楽園へは、まだまだ程遠いのだから。

 

「まあ私としても協力は惜しまないとも。カフェは優秀だ。そして君も、優秀だと思っている」

「俺はカフェのためにいる唯一のトレーナーだ。俺に優秀なところがあるとしたらそれだけで、あとはへっぽこの半人前だよ」

「……なるほど。……私も久しぶりにモルモット君の様子でも見に行くかな……。じゃあね」

 

 そう言って、アグネスタキオンは部屋から出ていった。

 

「トレーナーと担当ウマ娘の関係、か」

 

 元はといえば、俺とマンハッタンカフェは全く別の世界の人間だ。少し前まで俺はトレーナーですらなかったし、彼女は芸能界で輝くスターだった。それが何の因果か、こうして契約を結んでいる。途方もない存在である彼女に対して、俺ができることは何か。それを考えて、考え尽くして。きっといつか、彼女を楽園へと連れて行く。そして、辿り着ければ。

 役目を失った羽根は焼け落ち、朽ち果てても構わない。



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初期設定のマンハッタンカフェの夢忘れず

夢日記


 夢日記をつけてみようと思う。きっかけは単純で、私が夢を見て飛び起きたというだけ。精神の不安定に繋がるとも聞いたが、上等だ。私は危うい地点に立って、安寧という退屈からはかけ離れていたいのだから。

 寝ぼけ眼は擦らない。普段起きたら必ず行うであろうルーティンは一つも実行しない。何故か? 私が夢の内容を覚えているためには、私が寝ていた時の脳を出来るだけ弄ってはいけないからだ。脳が目覚めれば瞬く間に記憶の回廊が動き出し、行き場を失った夢の思い出はその大移動に揉まれて粉々になってしまう。

 さて、今日見た夢を文字に起こす。断片的に書き連ねる。「私は化け物を殺戮する存在だった」「私は人型の生き物に会った」「憎悪に駆られて何度も殺した」「繰り返していると突然私は崩れ去った」「粉々のブロック状に切り分けられた」「殺した生き物は私をせせら笑いながら蘇った」

 覚えている限りを散文的に書き留める。心伝う奈落とそこにあった恐怖をなんとか生かそうとする。支離滅裂であったとしても、夢は一人の空想が作り出した物語なのだから。私は物語に消えて欲しくないと願う。

 しかし、やれやれ。もう書くことは無くなってしまった。しかもここに連続性を感じられているのは未だ夢の感覚が私に残っているからに過ぎなくて、明日になればこの記述は文字通り行間にあったナニカを失ってしまう。そんな行為に意味はあるのだろうか? 頭の4割を微睡みに支配されながら、途方もない行方もない哲学に思いを馳せる。

 夢は何らかのメタファー、あるいは単に現実のオブジェクト化。そういうものだとも聞く。この夢は現実の何かしらに自分が意識を向けていることを示唆するものなのだろうか? 

 私が現実で、こちら側で重要に見ているもの。それは言われずともわかる。レースと、女優。別々の私を創り出し、退屈から救い出してくれるものたち。そして、トレーナーさんだ。……この3つの中に、私が殺した夢化け物の本質があるのだろうか。そこにあったのは嫌悪で、どれにも相応しくない気がする。掠れ始めた記憶をゆっくりと炙り出す。

 恐怖があったはずなのだ。蘇り嗤う怪異に対して。諦めがあったはずなのだ。どこかで無駄だと思っているから、その願い通りに夢は運ばれる。夢というのは時折恐ろしい光景を見せてくるが、そこにある感情は常に「ああ、やっぱり」という絶望で。夢で起きることは、想像と想定の範疇を絶対超えないようにできているのだから。

 言い換えれば、私が弱気だから夢の中の化け物に打ち勝てなかったということになる。……私が弱気。そういえばそんなことは考えたことがなかったな。でも、心当たりはある。私が今恐れているもの。

 私を拒絶する、トレーナーさん。夢の中の脅威を、そう結論づける。まだ頭は起きていない。もう少しだけ、夢を探ってみよう。

 様々の手段を夢の中で講じた。その恐怖すべき対象を討ち滅ぼすため。戦法、道具、心構え。けれど全ては平等に無に帰して、悍ましい人型はそこに立っていた。これはどうしようもないということの表れというより、私が全て無駄だと思っていることの表れだろう。夢の中に本来不可能はない。可能性は自分自身にしか閉じられない。

 私を拒絶するなら。別れを告げられるなら。私は君を恐れずにはいられない。君だけが、私と君を別れさせることができるのだから。そんなことはないと表では信じているが、心の裏にはそのことへの恐怖があった。これはつまり、私は君を信じ切れていないということだ。そのような可能性を頭に残しているという事実は、そんな弱い自分を曝け出す。

 また、眠気が襲ってくる。夢日記はいよいよ文字の形すら怪しくなってくる。つけ続けるべきなのだろうか。私の弱さを明らかに出来るだろうか。明らかにしたいだろうか。

 まだ少しだけ、夢の感覚が残っている。人型を見つけた時に覚えた使命感。殴り削り血が出なくなるまで傷をつけ続けたときの焦燥感。当たり前のようにブロック状の死体が再び人型となって立ち上がった時の諦観。

 私にはやらなければならないことがある。そして、私にはそれをやらなければ大変なことになるという不安がある。最後に、私はどうやってもその不安が現実化するのを抑えられない。そう夢を抽象化して心の動きだけを取り出すと、答えはシンプルに近かった。

 トレーナーさんが私を拒絶することへの恐怖。それは、去りゆく時間に対する畏れに等しい。タイムリミットがどこかにあって、今の日々は永遠ではない。いつかどこかで別れが来てしまう。私自身が永遠という退屈なゲームを望んでいないのだから、永遠を信じられない夢が浮かび上がるのも当然のことだ。

 或いはそれは真逆かもしれない。君を信じられなくなる私が、またどこかに潜んでいる。今の私を嘲笑うために巣食っている。あるいは嘆きながらのさばっているのだ。

 でも。不安とは全て、期待の反転。紙一重の同位体。思考の揺れが、この感情をポジティブに活用してくれるかもしれない。だから。私は私自身を全て映す鏡として、この感情たちを捨て去らないようにしよう。

 勇気は恐怖からしか生まれないのだから。君のために、君に立ち向かおう。いずれ、別れを告げる時が来るとしても。



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初期設定のマンハッタンカフェの自己矛盾

朝の続き


 夢日記を記そうとすれば不思議と夢を見れなくなるもので、ページは一向に進まない。とはいえ夢を見ようとして睡眠の質を落とすのは馬鹿らしい。しかし一日だけでも収穫はあった。夢として現れた自分の奥底にある恐怖。それを忘れることなく過ごせている。

 夢を見つめることで、己を剥き出しにする。寝ている間は無防備なものだが、それは思考も変わらない。私には珍しいくらい感情の起伏が出来上がる。だから気づけなかったはずの思考回路にも気づき得る。

 私はトレーナーさんが怖い。君が私の前から去るのが怖い。もう君なしでは生きていけないのに、そんなことを思ってしまう。もし楽園へと辿り着いたなら。君と私の繋がりはそこで終わってしまうのだろうか。そんな不安が最近止まらない。

 引退という言葉がいつかは私にも迫り来る。その時の私はもう、トレーナーさんを必要としていないのだろうか。それは成長だとしても、私はそれが嫌でたまらない。この感情を過去にしたくない。全て持ったまま、歩んでいきたい。一つだって捨てていいものはないのだ。恐怖さえ、私は背負うと決めたのだから。

 それはきっと矛盾を孕む。私は己で己を傷つける。だとしても。別れを恐れて何がおかしいだろうか。立ち止まることを恐れて何か間違っているだろうか。私は普遍的な感情を持っているに過ぎない。その深度が病的と言われようとも、その方向はありふれているはずだ。

 自己矛盾。私が夢から得た見識が、それ。私は確かに君と歩んでいきたいと思っている。私はそれでも歩みの先にある別れを拒絶している。これが大元の矛盾だが、無数の板挟みが他にも散りばめられている。つくづく醜い存在だと自嘲する。

 美しい個別のパーツを気にするあまり、その全体像はグロテスク極まりない。それが自己矛盾の先にある人物像で、私はそうなることを受け入れてすらいるかもしれない。ああ、でも。

 そうなってしまっては、君の横にいるのは相応しくないかもしれないな。私はあくまで、君の隣に居続けたい。永遠に。永遠というものをつまらないと散々嘯いていた私は、ここでまず大きな矛盾を露出する。あまりにも滑稽。醜悪。見せ物にすらならない。

 私はどうすればいいのだろう。虚空に石を投げ込んでも、一つの波紋も浮かばない。私はどうしても、もう無駄なのかもしれない。順当にどこかで立ち止まり、楽園に辿り着けず。摩天楼の頂上へは至れず。そして君と離れ離れになる。既に私の運命はそう決まっているような気すらした。

 追い縋れば。例えば君に追い縋れば、君は私と一緒に居続けてくれるだろうか。走ることは出来なくなって、一緒に居る意味を失って。それでも、私を看取ってくれと頼んだら。全てを棒に振って、君は私と共に暮らしてくれるだろうか。

 そうであってほしいと黒い囁きが聞こえる。君にはずっと、私を見ていてほしい。絆や信頼、そんな綺麗な言葉ではない。でも、かけがえのない存在になりたい。君なしでは私が生きていけないように、私も君の心臓を掴んでいたい。

 そんなことは赦されないと、わかっているのに。私たちは楽園へと行くために契約した。私はその景色を見たいと願っている。それは今も揺るがない。揺るがせてはいけない。そのはずなのに、どうして正反対の欲求が呼び覚まされるのだろう。

 今すぐ自分の脚を粉砕して、君に車椅子を押してもらいたい。私の一部は、確実にそう願っている。



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初期設定のマンハッタンカフェと初詣

初詣です


「生放送お疲れ様でした〜」

「お疲れ様でした」

 

 今日は1月1日。新年の特別番組のゲストとして、久しぶりに女優としてテレビに出た。

 

「……あれ、マンハッタンカフェさん? その格好で帰るんですか?」

「……ええ、これは私物ですし。問題はないと思いますが」

「……流石に振袖は目立つどころじゃないと思いますよ……? なんの撮影かと勘違いされますって!」

 

 それぐらいでなくては困る。君の目を釘付けにしてやらなければならない。

 

「……問題ないですね。では、お疲れ様でした」

 

 そう言って、私は街へと繰り出した。

 

 

「……ふう、まだカフェは来ていないかな」

 

 俺は担当ウマ娘であるマンハッタンカフェと神社で待ち合わせをしていた。今年からシニア級。それに向けて、初詣で願掛けをするのだ。

 

「……それにしてもすごい人だ」

 

 神社の入り口にはものすごい人だかりができている。今からあそこに入り込まなければならないのかと思うと、すこしぐったりしてしまいそうだ。とはいえ、それでも掛けたい願いがあるからこそ皆ここに来るのだろう。俺たちも同じだ。彼女の走りを更に研ぎ澄ませるためここに来ている。

 目の前の人混みが割れ始める。中から誰か出てくるようだ。……こちらへ向かって? 

 

「……はい、失礼します。……ありがとうございます、また今度」

 

 分たれた人混みは一人の少女によって先導されているように見えた。集団を纏う彼女は華々しい晴れ着を着ていて、その雰囲気はどこか幻想的ですらあった。

 

「……カフェ?」

「……遅くなりました。少し人混みに捕まってしまって。……あけましておめでとうございます、トレーナーさん」

 

 黒く咲き誇る一輪の花は、艶やかに。芸術品のような姿が、そこに立っていた。

 

「……あけましておめでとう、カフェ。……すごいな。すごく……その、綺麗だ」

 

 彼女の口元は綻ぶことを惜しまない。周りの目は俺たちに集中していたけれど、見られていようが関係ない。俺の目には彼女しか入らない。

 

「……ありがとうございます。……ふふ、では」

 

 すっと、彼女は俺の手を取る。白い指が、黒い花に差す光の筋のようで。

 

「……いきましょう、トレーナーさん?」

 

 また一つ、歳を経て。彼女は更に美しくなった。

 

 

 こつん、こつん。どくん、どくん。どれほど周りに人の声がしようと、私には己の足音と心臓の音しかわからない。それほどまでに胸は高鳴る。君に触れている限り、私は無敵だ。何が相手でも負けることはないだろう。

 

「……さて、参拝をしましょうか」

「カフェ、恥ずかしくないのか……? よく考えたらこんなに人が多いところで変装もせず……」

「いいんですよ」

 

 誰もが見ている。それの何が問題なのか。君だって見ているのだから、私は幸せだ。

 私たちが歩を進めると自然と人は避けていき、あっという間に賽銭箱の前までたどり着く。小銭を入れ、願い事をする。願いは、そう、私の願いは。

 楽園へ行くこと。そう思考すると、邪な何かが混ざり来る。お前はそれでいいのかと。何があっても永遠に、楽園に辿り着きたくはないのではないかと。辿り着かなければ、ずっと一緒にいられる。

 ちらりと横を盗み見る。トレーナーさんは目を閉じ、真摯に何かを願っていた。私とは正反対で、私たちの心は離れてしまうのかと不安になる。

 君の手を握る力が強くなる。今の私が、迷いなく願えるとすれば。

 

「……よし。カフェは何をお願いしたんだ?」

「……トレーナーさんと、一緒です」

「俺が何を願ったかわかるのか?」

 

 わからない。けど。

 

「トレーナーさんの願いが叶いますように。これが、私の願いです」

 

 それだけは、変わらない。

 

「……ありがとう」

 

 返答の代わりに、更に君の手に指を絡める。

 

 

 初詣を終えトレセン学園へ向かうと、道すがらアグネスタキオンと出会った。彼女も俺たちと同じく初詣に行くらしい。

 

「……意外だと思ったかい? たまには私も神に祈るさ。人事を尽くして天命を待つ。それしかやりようはないからね」

 

 彼女にも何か考えることがあるのだろう。あるいは再び走り出すための。

 

「……それにしてもカフェ……キミはどうしてそんな格好をしているんだい? 勝負服より目立つぞそれは」

「目立つのには慣れていますから」

「まあ、余りトレーナー君を困らせないようにするんだよ……。やれやれ、君も大変だねぇ」

「心配には及ばないよ」

 

 俺は彼女を楽園に連れて行く礎となるのだ。彼女の全てを肯定してみせよう。

 

「破れ鍋に綴じ蓋……いや私も人のことは言えないかな? ……なんてね」

 

 ひらひらと手を振って、アグネスタキオンは去って行く。その姿を見て、予感するものがあった。彼女はまだ、走ることを諦めてはいない。カフェのサポートをこれまで行ってきたのも、自分自身へフィードバックするためでもあったのだとしたら。

 

「……カフェ。今年は大変かもしれないぞ」

「……大変、とは」

「ライバルだよ。きっと、現れる」

 

 でも、彼女は負けない。そのために俺はいる。まだ燃えることができる。まだ焼けることができる。だから、彼女は飛び立てる。

 

 

 不屈であることは罪ではない。立ちはだかることは罪ではない。阻むことは罪ではない。罪を重ねていくのは、それに負けた己の方である。華やいだ気分は徐々に戦慄し、私はまだ飢えねばならない立場になる。それでも私は走らねばならない。

 楽園へと征くため? 君と一緒に居続けるため? どちらなのか、答えは出ない。ただ君を信じるしかない。私の意識は消え入りそうで、君が動くから私は動く。追い立てられるように、誘われるように。

 前へ進むことが正解なのかすら、分からなかった。

 失楽園の漆黒は、闇を喰み影を尊ぶ。

 



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初期設定のマンハッタンカフェとバレンタイン

これのためにR-15にしました


「はい、トレーナーさん。バレンタインですから」

 

 そう言ってマンハッタンカフェが手渡したのは、銀紙に包まれた市販の板チョコ。任務完了と言わんばかりに、渡した後はコーヒーカップに手を戻す。

 

「ありがとう」

 

 彼女の多忙を考えれば、わざわざ俺の分まで買ってくれただけでもありがたいというものだ。大切にいただこう。そう思って懐にしまおうとしたのだが。

 

「……おやおや、トレーナーさん。それでは溶けてしまいます。すぐに召し上がってください、ね?」

「それなら仕方ないな」

 

 目の前で食べて欲しいということかも知れない。少し特別な存在になった気分だ。きっと彼女は大量の義理チョコを顔も知らない相手に渡す立場にあって、その中の一人から抜け出せるのは嬉しい。

 そうして、チョコレートを口にす───硬い。それに。

 

「……! これ、全然甘くないというか、苦い……!」

「カカオ99%のチョコレートです。お気に召しましたか?」

 

 まさか吐き出すわけにもいかず、一生懸命に一口飲みこんだかけらを噛み締める。

 苦味だけしかない後味が強烈に残る。漸くかけらを飲み込んだが、破片はまだ口の中でその香りを充満させていた。

 

「……少し苦かったかも知れませんね。……今ミルクを用意しますから」

「……ああ、頼む」

 

 彼女は顔色ひとつ変えずにコーヒーを飲み続けていた。立ち上がり、コーヒーミルクを取り出す。……コーヒーミルク? 

 

「はい、口を開けて」

「……それしかないのか」

「口を開けて」

 

 従うしかない。だらしない格好で口を開け、垂らされるコーヒーミルクを受け止めようとする。

 声は出せない。ただ言いなりになる。口を閉じることすら許されず、渇きが喉へとやってくる。

 

 

 ここまで凡そ計画通り。君はもう私の口の中にいる。あとは、白と黒を溶け合わせよう。

 

「はむっ……!」

 

 あなたの唇を思い切り貪る。舌を絡めて口内に通路を開き、思わず逃げる腰へがっしりと手を添える。

 口の中を満たしていたブラックコーヒーを君の中へと流し込み、舌を使ってミルクとコーヒーを混ぜ合わせる。

 蹂躙の始まりだ。

 

「……んっ……んっ……ちゅっ……」

 

 逃げる君の舌を捕らえ、舐め回してはまた逃す。口の中に広がる黒い海。そこを二人きりで泳ぐ艶かしいピンクの肉塊。空気すら邪魔できない最高のプライベートビーチだ。

 

「んっ……ぅむ……ぇお……」

 

 ただ、全てを貪る。既に数分が経っていて、君の必死な鼻息が顔に当たる。そのまま窒息してしまうのだろうか。そうだとしたら、とても素敵だ。だってそれなら。君が最期に見るもの、最期に味わったものが私であるということになるのだから。

 

「ちゅぷ……っちゅ……」

 

 ぴたり、ぴちゃり。上顎の裏をつーっと舌でなぞる。形を覚えるまで、何度も、何度も。混ざり合った粘膜と液体が、甘く蕩けるよう。君の膝がガクガクと震え出す。気持ちよくなってくれているのだろうか? それならもっと。更に。

 優しく地面に腰を下ろしてやる。君は未だに舌で抵抗しようとしているけど、それがくすぐったくていじらしくて、ますます興奮してしまう。すっと腕を抱きしめて、脚を絡めて。君はもう口しか動かせないし、口もただ気持ちよくなることにしか使えない。

 

「ぁむ……はっ……ちゅるっ……」

 

 コーヒーを飲み込みそうになる君の口から吸い出し、再び送り出す。これは二人で作った大切なカフェオレ。白と黒が混ざり合うことを証明してくれるもの。そう簡単に飲み干してはいけない。君の舌を何度も捕らえ、愛おしむ。それを繰り返して漸く、君の方からも舌が伸びてくる。求める。求め合う。どんなチョコレートより、君が美味しい。

 片時も離さない。歯茎の隅まで互いに貪り、その度に粘膜が絡み合う。淫靡な音がただ、ただ。誰も邪魔できない黒の庭。果たしてどれほどの時間が過ぎたのか見当もつかない。どれほど重ね続けても飽きることはない。永遠でないとしたら、せめて那由多に続いてほしい。

 少し角度を変えて、君の喉の奥まで舌を伸ばす。君の身体が少し、跳ねる。味わえる限り、君を味わいたい。だから、限界まで。色のない私を、君に染めて欲しいのだ。

 

「んっ……む……あぅ……」

 

 漸く私も息切れしてきた。まだ終わりたくないけど、これ以上は君に嫌われてしまうかも知れない。そんなことを考えて、舌を引いて。唇を離そうとした時だった。

 

「……むっ……んんっ……! ……れろっ……」

 

 君の腕が私の後ろに伸びてくる。君の舌が名残惜しむかのように口の中を這いずる。私たちは抱きあう形になって、まるで本当に愛し合う二人になったかのようだった。

 たちまち力が抜けて、今度は君の蹂躙を一身に受ける。強く強く抱きしめられ、私は答えるように舌を絡める以外に術を持たない。

 君の少し渇いた唇が、私の唇に思い切り押しつけられる。唇の重なる感覚が心地いい。限界まで二人の間隔を縮め、ゼロ距離で愛し合う。ああ、幸せだ。

 挿し込まれる舌を優しく手招きし、咥内へと誘う。私は君を喰らったのだから、君にも私を堪能する権利があるだろう。歯の裏や隙間まで、私以外の生き物が触れるのは生まれて初めてだ。

 口付けという行為には特別な意味がある。今まで物語における知識でしか知らなかったそのことを、己の身体で教えられる。異物の侵入がこんなに心地いいなんて。求めたものが受け入れられることがこんなにも素敵だなんて。

 そのまま静かな水音と共に、溶け合うまで。

 

 

「……どうでしたか、バレンタインのお味は」

「……いや、その。恥ずかしいというか」

 

 完全に彼女に魅了されてしまっていた。後になって自分はとんでもないことをしたのではないかと思いはじめる。でも。

 

「ありがとう、カフェ」

 

 でも、彼女の誠心誠意がこれだというのなら。距離感は少し近すぎるかも知れないが、そこに悪意はないのだから。

 

「……こちらこそ、ありがとうございます」

 

 少し彼女の頬が染まる。……流石に恥ずかしかったようだ。

 思う。彼女はきっと見た目より純粋で、抱く感情も激しく揺れ動く。そんな彼女は普段の生活を仮面を被って乗り切っていて、それを外せる数少ない場所がここなのかも知れない。それなら。俺にできるのは、彼女が深層まで心を開けるようにサポートすること。どこにいても、誰とでも。たとえ、俺がいなくても。

 彼女には彼女にしか見れない景色があるのだから。そこにたどり着いたあと、1人で歩けるように。もしかしたら彼女は望まないのかも知れない。けど、望ましいのはそれだ。

 黒は一滴でも濁れば黒ではなくなってしまう。そのためには何も触れないか、強くあり続けるか。俺は彼女が強くなるまで、彼女が澱んだ色に触れないようにする責務がある。そう感じた。

 君は俺にとって大切な存在だから。だから、俺に縛られないで欲しい。

 失楽園の漆黒は、光射す方へ導かれる。



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初期設定のカフェと罪と捕食者

独白です


 我々の走りが捕食者の歩みだとすれば。1人抜き去るたびにその喉笛を掻き切り、最後の勝利は血みどろと屍の上に成り立っているとすれば。それでも走り続けられるだろうか。

 捕食者は罪を重ねる。殺さなければ生きていけないから。自らの生を他者の生よりも上だと断じたから。血を啜ることが我々の美徳であり、草を食むだけに飽き足らない者と己を説いているのだ。

 けれど誰か一人。最後に一人だけ生き残るとすれば、それは捕食者ではない。肉を食らう以上必ず一人では生きられない。老いれば捕らえられず、そもそも獲物がいなければ飢えるしかない。

 だから私は、限りある生を生きるのだ。誰も捕まえられない捕食者に価値はなく、その後に生きる意味はない。生殺与奪を握るが故に、儚い炎を瞬く間に燃やす。

 追いつけないほど速い獲物もいる。例えば光を超えるそれには追いつけない。たとえ私の黒が光すら飲み込む闇だとしても、超光速はその重力すら脱するのだ。だからそれを追いかけるのは無駄なのだろうと、私は密かに思い込んでしまっている。

 それでも、我々捕食者には掟がある。常に飢え続け、必ず追い続けよ。そうでなくてはどこかで満足し、あっという間に命を枯らしてしまう。私に止まることは許されていない。

 そうして鏖殺の罪を重ね、捕らえきれない逃亡者を目の当たりにし。絶望と失意の中で無為に帰すのが定め。そういうことになっている。だから。

 だから、そんな大罪と敗残に包まれた私が楽園を目指すなどというのは。太陽に焦がれて身を焼かれたイカロスのような話であって、烏滸がましい思い上がりなのかも知れない。

 それでも私は楽園を目指している。何故か? 当然。君がいてくれるからだ。私一人では届かず失墜するしかない天上の園に、君がいるから手を掛けられる。私は哀れな捕食者の定めから、赦しを得て解き放たれる。救済を得て、楽園へと羽ばたける。

 そう信じている。そうでなくてはいけない。何故なら君がそう信じている。ちっぽけな私を、連れて行けると言ってくれている。君が掲げる大翼は、罪深い私さえも拾い上げられるに決まっている。他ならぬ君の願いが、叶わないはずがないのだ。

 でも。もし。私が楽園に届かないとしたら。あり得ないと信じているけれど、もし。そうであるなら、それは私の罪悪だ。私が抱える罪を過少に信じていたからで、断じて君を過剰に信じていたからではない。

 救えないほど罪深い捕食者が哀れなのであって、救えないモノを救おうとした君が愚かなのではない。だから私は、これ以上罪を重ねるわけにはいかない。つまり、誰かを抜き去り悲しみに暮れさせるべきではないのかも知れない。他者の競走生命を一撃の下に奪い去るべきではないのかも知れない。

 そうだとしたら、私が走ることは間違っていたのだろうか? 私の走りは捕食者の歩み。殺戮と死の頂点に座する。誰もが持つ夢を踏み躙る。あるかもわからない楽園への糧と嘯き、咎を重ねる。

 まだ、時折言われる。女優として既に生活を得ているのにも関わらず、レースに身を投じることの強欲さ。二兎を追い、得ようとする傲慢さ。謂れのないバッシングとは思わないし、全てに目を通している。

 それでも私に正しさがあるとすれば、君の行動を肯定していることに尽きるだろう。だから私には、君がいなくてはいけない。君が連れて行ってくれなければどこにも行けない。独りでは煉獄にすら辿り着けない。

 偶に、不思議に思うことがある。君はどうして私の傍にいてくれるのか。私は醜く、浅ましく、穢らわしい。何度も何度も君の存在を求めてしまう。普通ならとっくに飽き飽きしているはずだ。私だけが、飽きずに同じことを繰り返そうとしている。

 それほどまでに君を何かで縛り付けて、動けなくしているのだとしたら。喜ばしいことなのだろうか。常識と理性は反論するが、私の獣性はそれを悦ぶ。ああ、君はまだいてくれる。君のことなら、骨まで喰らえそうだ。

 そう、そうだ。私の本性は。優しく寄り添う君のカイナを、骨ごと噛んで飲み干そうとしている。あまつさえ、かけがえのない存在まで。ただの餌としか見ていない。喰らい、砕き、血を吹き出す様を見たいと願っている。

 なんて、救いようがない。

 これが愛だというのなら、獣欲を愛だと名乗るなら。私はもっと情けなく叫び、弱さを晒さなければならないのに。いつまでも捕食者を気取り、欲求を満たす道具としてだけ君を使い尽くす。

 だから、本質的に。根本的に。弱さも強さも持たない私は、人を愛する権利のない獣なのだ。私が抱える最大の罪。何人の夢を砕こうと届かない。欲に欲を重ねても見劣りする。

 君を愛してしまったこと。それ以上に、獣の抱える罪はない。



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初期設定のマンハッタンカフェと出演作品を見る

見ます みじかい


「死ね! 死ね! ねえ! はやく死んでよお!」

「なぁカフェ……」

 

 ある日のこと。

 

「なんですか?」

 

 担当ウマ娘であるマンハッタンカフェと共に、彼女の出演したドラマを観ていたのだが。

 

「あは、あはは。やった、やっちゃったあ……」

 

 画面に映るのは、血糊をべったりとつけた女優マンハッタンカフェの姿。

 

「……いや、ちょっと怖いな……」

「トレーナーさん、これはフィクションですよ」

 

 正確には、隣に座る少女がなんの意図でこれを俺に観せているのかわからないのが怖い。ズタズタにされた男がもし自分だったらなどと思ったりはしないが……。

 

「これで、あたしはひとりぼっちだ。やっと、やっとひとり」

「結構お気に入りの役だったので、見てほしいと思ったのですが」

 

 隣から少し気落ちしたような声が聞こえる。その変化は僅かだが、もうこれくらいなら声色の差を感じ取れるようになった。

 

「……うん、でもこの子の気持ちはよくわかる。難しい役だろうに、さすがだな」

 

 やっとひとりぼっち。そう言った画面内の少女からは、晴れやかな感情が読み取れる。でも。

 

「……この子は誰か、わかってくれる人が欲しかったんだ。それがあの芝居だけで伝わった」

「……ええ、その通りです」

 

 一見すれば、このドラマに出て来るマンハッタンカフェは愛と血に狂った少女の役だ。男の存在にうんざりして、殺してしまった。

 

「……台本から逸脱しない程度に、細かい色を付けていく。演技における醍醐味ですから」

 

 本当は誰も愛せなかった。愛してもらえなかった。そんな情景が、彼女の演技によって色付いていく。

 

「……すごいな、カフェは」

「お褒めいただき光栄です。……そうだ」

 

 カフェが目の前へやって来る。黄金色の瞳が、吸い込むように見つめる。

 

「……今度、歳上の男性に恋する役をやるんです。そのきっかけとなる事柄が一つあるのですが、経験がなくよくわからなくて」

「俺が力になれるのか?」

 

 彼女の演技は研ぎ澄まされたもので、俺に何か手を加えられるだろうか。

 

「……簡単です。頭を撫でて、えらいぞと」

「……なるほど」

 

 少し気恥ずかしいが、それくらいお安い御用だ。

 

「……偉いぞ。よく頑張った」

 

 さすり、さすり。艶やかな黒髪を撫でると、彼女の耳がぴくぴく動く。緊張でぎこちなく、俺にはやはり演技は向いていないようだ。カフェはというと目を閉じている。演技に活かすため、感覚を集中させているのだろうか。

 

「……カフェ、どれくらい撫でたら」

「もう少し。もう少し、しばらく。お願いします」

 

 本当はすこし、嘘をついた。そんな役の話など回ってきてはいない。

 そのまま、幾億の時が経って欲しいような。目を閉じていれば、永遠にすら続きそうな気がした。



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初期設定のマンハッタンカフェと生徒会長

生徒会長と会話します


 放課後、熱く黒いコーヒーを嗜む。いつもの通りのルーティンだが、今日は二つ違うところがあった。一つはここが生徒会長室であること。そしてもう一つは、目の前で同じくカップに手をつけているトレセン学園生徒会長、シンボリルドルフの存在。

 

「よく来てくれた、マンハッタンカフェ」

「流石に会長さんのお呼び出しとあらば、出向かないわけにはいきませんよ」

「……なかなか君を捕まえるのには苦労させられたがな……」

 

 おっと。そういえばトレーナーさんと会っている時は、他の連絡手段は全て電源を切っていたっけ。

 

「……それは申し訳ない」

「いや、こちらこそすまない。忙しい中、感謝する。……さて」

 

 シンボリルドルフはカップを置いて、向き直る。此方に向けられるその風格は皇帝と呼ぶに相応しいものだった。気を抜けば喰われるのはこちらの方、そんな気がした。

 

「今度、君が春の天皇賞に出走すると聞いてね。……まずはそのことについて激励を」

「わざわざ会長さん自らの応援とは、痛み入ります」

「君が挑戦しようとしている記録は、難攻不落の巨大な壁だからね」

「……記録?」

「おっと、これは失礼。まずは説明からかな」

 

 少し以外そうな表情をされる。私は走れればそれでいい。君と走れればそれでいい。何か大記録に手が届きそうだなんて思いもしなかった。その記録に届けば、楽園にも手が届くだろうか。届いてしまうだろうか。

 

「中央におけるGⅠレースのうち、最も距離の長い三つ……京都3000m、菊花賞。中山2500m、有馬記念。そして京都3200m、天皇賞(春)。これをクラシックからシニアにかけて連闘し、三連覇を成し遂げる」

「……なるほど」

「長距離重賞の最高峰を総なめし、最強のステイヤーとしての功績を打ち立てる。この記録は現在、ただ一人のウマ娘によってしか達成されていない」

「その一人とは」

「私だよ」

「……自慢話ですか」

 

 そう皮肉を突き刺すと、シンボリルドルフはそれを笑って受け止めた。

 

「ふふっ、そうだな。そう捉えられても仕方ない言い回しだった。……ああ、でも。これが偉業だと言うのなら、達成したことを誇りに思うし、また達成されることを心待ちにしているとも」

「……貴女の後に続いて欲しい。それが今回の話の肝ですか? もしそれだけなら、大した話ではなかったですね」

 

 私が誰のために走るか、何のために走るか、なんて。それは変わらず、決まり切っている。

 

「……いや、もう一つ話があってね。こんな昔話だけで君を退屈させたりはしないよ」

「……ほう」

 

 私を退屈させないと宣言するなんて。面白い。

 

「もし、もしだ。レースに絶対はない。勝った後の話をするのは愚かしいことだ。そうだとしても、もし。君が春の天皇賞を獲ったなら」

 

 ゆっくりと、彼女は言葉を吐き出す。重く、強く。

 

「君には、私を超えて欲しい」

 

 その言葉には、僅かに切実さが込められていた。

 

「……超える。七冠バの貴女を?」

「……問題なのは強さだよ」

 

 強さ。それは記録では測れないものだろう。

 

「マンハッタンカフェ。私にも不可能だったことがあるんだ。日本で幾ら勝利を重ねても、終ぞ」

 

 彼女は少し拳を握る。悔しさというものを、無敵の皇帝から初めて感じ取る。

 

「海外、ですか」

「……そう。運や巡り合わせもあっただろう。それでも私は二度、確かに失敗した。遂に最後まであの門を拝むことすら叶わなかった。……世界最高峰のレース、凱旋門賞を」

 

 凱旋門賞。私でも聞いたことがある。

 

「……確か、日本から出走したウマ娘で勝った者はいない」

「そうだ。我々の悲願。尤も私は挑めてすらいないけどね。……今でも偶に、夢に見るよ。おっと、それはともかく」

「マンハッタンカフェ。君が天皇賞で勝ったなら、君は紛れもなく世代最強だろう。そして私と同じ道を歩むことに成功し、更にその先へと行ける」

 

 世代最強。そのフレーズを聞いて僅かに頭を掠めるものがあった。私はその称号に、本当に相応しいのか。けれど。

 その先にいけるなら。まだ、私たちはゴールに辿り着かない。楽園への道筋が続き、君との時間を重ねられる。そうしていられる。

 

「……分かりました。……勿論、勝ってからですが」

「……応援しているよ。心から」

 

 空気は緩み、今度こそ解れる。けれど心の内の黒は濃く、深く闇を増していく。

 本当は、凱旋門賞にそれほど興味があるわけではない。けれどそこには、まだ誰にも到達できていない何かがあるという。それならば、私たちが向かうべき楽園に近い。前代未聞、荒唐無稽。果てなく空に浮かぶは天の庭。私たちは楽園に向かう。その道筋はまだ終わらない。

 私の願い。君との楽園。海の先にそれがあるというのなら、千里を越えてみせようじゃないか。

 ねえ、早く連れて行って。

 失楽園の漆黒は、灼き尽くすような光へと冀望の翼を掲げる。

 



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初期設定のマンハッタンカフェと心の動き

タイトルなんだこれ


 ただ黒い夜。私はコーヒーを一杯飲み下す。一杯、また一杯。勘違いしないで欲しいのだが、コーヒーを飲んでいるから眠れないのではなく、眠れないからコーヒーを飲んでいる。

 今日も蒸し暑い。外は雨が降っていて、せっかくの星も見えはしない。眠れない夜ほど退屈なものはないのに、僅かな星見の楽しみさえ奪われてしまっている。

 すこし、少し考えて。私はぽつりと独り言を発する。

 

「……外を歩いてみましょうか」

 

 雨の中を歩むそれは、或いは狂人の歩みに近い。それならば上等だ。何もなくてつまらないなら、芝居の糧にでもしてやればいい。

 真黒の傘を刺し、真黒の私は真黒の空へと歩みを進める。木々は影しか見えなくて、黒に塗り潰されているかのように錯覚する。

 ぽつ、ぽつ。雨音は少しまばらだったが、決して無視できない程度。傘を持ってきていたのは正解だろう。そうして、夜の道を歩み出す。

 私の別荘はトレセン学園とは離れたところにあって、当然門限などもこちらにはない。最近は寮で過ごすことが多かったので夜に出歩くのは久しぶりだ。

 いつぶりだったか──逡巡し、思い当たる。

 ねえ、早く連れて行って。

 あの時。

 まだトレーナーになっていないトレーナーさんが来るのを一晩待ったあの日。そうだ、と思い当たる。あれから少し月日は流れた。私たちの関係は順調に堅く強いものになった……とはとても言えない。私の罪。君を愛する傲慢の大罪。それは時間が経つごとに、根深く太くなっていく。

 雨の中、ふと傘を閉じてみる。冷たい水滴はそう、あの日のようで。

 あの、二人の契約が始まった日のようで。傘も差さずに抱きついて、どうしようもないくらいに言語化できない感情を溢れさせた。あの日確かに見えたなにかが、私たちを引っ張っているのか、それとも。縛っているのか。

 答えはまだ、見つからない。楽園に行かなければ、全ての正答はわからない。

 私の中には心が二つ。それは一つに混ざりながら分かたれている。

 君と共に楽園へ。使命感か、私の本質か。羽ばたく天使の如く、私に翼は生えているのか。それとも。

 君と共に奈落の底へ。諦観か、私の願望か。囁く悪魔の如く、私は君を永遠に縛ろうとしているのか。

 ここで走るのをやめて仕舞えば。私はきっと、永遠に君と。でも。永遠は退屈で、もしかしたら君にすら飽きてしまうのかもしれない。己の飢えが、君すら無価値と断じてしまうのかもしれない。それも怖い。なにもかも、怖い。

 私は、私は。君と離れたくないから走るというのなら。そこに楽園の実在性は必要なのか? 

 或いは、君と離れたくないという感情自体に過ちがあるのか? 優先すべき信仰は一つのみで、残りの異端は廃するべきか? 

 私は、私は。

 虚数空間に浮かぶ虹を幻視して、私の旅路はひとまず終わった。

 血に飢えた猟犬には、己の血すら通っていなかった。信ずる人と心を通わせ、通った心を喰らい燃やして。漸く一人の生きたいのちへと変わっていった。そうでなくては生きていけない、無機質で無感動な無色の少女。

 今、迷う。それは彼女の心の存在証明。願いは理想を目指すものか、欲望を目指すものか。

 失楽園の漆黒は、闇の空に虹光を視る。



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初期設定のマンハッタンカフェのアバンタイトル

エピソードぜろ


 朝一番に飲むコーヒーは、私の目を醒ましてくれる。夢や惰眠の幸福に引き摺られる私を、明瞭な現実へと引き戻してくれる。だから、私は朝のコーヒーを欠かさない。

 どれだけ退屈でも、現実は得難く。泡沫に消える夢の世界と違って、一つのものが永遠に続く。砂糖の全く入っていないこのコーヒーのように、ただ黒一色の苦々しいものに思えなくもないけれど。

 その苦さが、今までの私を生かしている。

 今日は休日だ。久方ぶりの休日。それは羽根を伸ばす時間であり、心を癒す時間であり、退屈に殺される時間でもある。

 等しく黒い湖面を持ったさまざまのコーヒーがあるように、人それぞれ等しく24時間の自由がある。何もしなければ黒のまま、何かをすれば口を付けて、その黒における闇を垣間見れるような。同じに見える休日という一杯。けれど、人によってその味は細かく違うのだ。

 

「……今日は本でも読みましょうか」

 

 一つ手に取り、一つ文章を読む。物語に生きる人々はその思考回路さえ我々読者に晒している。そのことを少し可哀想に思う時もある。彼らの人生はどんなに美しくても見せ物として描かれ、彼らには休日という概念は存在しない。

 常に蠢くその日常に平穏は全くなく。それはそれで、退屈そうだ。

 女優という仕事をする上で、凡ゆるヒトガタを自分に映した。激情的に、冷淡に、怠惰に、真剣に。それらを憑依させることは私にとって苦ではなく、それは私自身に色がかけらもないからだと思う。

 鏡は光と映り込みを以ってのみそこに色を持てるのだ。誰かが照らし、誰かを取り込む。そうしてやっと、私は私というつまらない存在を生かしてやれる。

 即ち、普段の退屈な私は生きていないのと同義だ。物語の登場人物を見せ物の人生とは言ったが、結局のところ彼らはそれだけ魅力的な存在ということでもあって。無色透明の私は、何処にも、誰にも。

 プルルルル。思考を徐々に現実に慣らしているところで、電話が鳴った。……マネージャーからだ。

 

「おはようございます」

「おはようございます、マンハッタンカフェさん。……早速ですが、あの件どうですか」

「……ああ、レースでしたっけ」

 

 あの件とは他でもない。一介のウマ娘である自分が、いよいよもってレースの世界に身を投じるべきだという話。それは単なる人気取りの一環なのか、私の存在を何か変えるものなのか。マネージャーにとっては戦略の一部なのだろうが、その一杯を私がどう味わうかは自由だ。

 今までの私の人生は物語になれない。私は退屈に殺されそうなほど味のしない毎日を送っているから。けれど物語とは、何もその存在の生まれから始まるものとは限らない。

 ここから、先に。どこかに、往けるだろうか。私一人ではやはり無理な気がした。けれど私は孤高を気取り、誰にも彼にもつまらなさそうな態度を取る。

 本当につまらないのは、私自身以外あり得ないのに。

 

「カフェさん聞いてます〜?」

「……ああ、すみません」

「もう一回言いますね。……今度、トレセン学園に行ってきてもらうことにしましたから。入学届とかそーいうのです。寮生活、学園生活! ……どうです?」

「……したことがないので、わかりませんね」

 

 集団生活、か。物語に於けるそれは人同士の群像劇ではなく、大抵主人公の周りに息遣いを感じさせるための道具である。どんなに生きているような演技をしても、その名前はA、とかB、とか。そういった記号以上にはならない。

 けれど現実は違う。良い言い方をすれば全員が主人公で、悪い言い方をすれば全員等しく価値がない。そこに差はなく、思い思いに生きている。そしてそれは基本的に波紋を作らない。影響され合う立場にいながら、結局他人の力で動くほどのものにはならない。

 それでもなんとなく飢える感覚はある。今の生活を退屈と断じ、それ以上を求める感覚はある。それは傲慢か、懇願か。どちらにせよ私が変化を求めていることには変わりはない。存外私はこのレースというものに乗り気なのかもしれない。

 ……少しだけ。少女のような夢を見る。どこかに劇的な出会いがあって、全ての私が色づくような。そんな、形すらない夢を見る。

 顔も身体も見えない君は、確かに私に手を伸ばし。私はその手を取って、強く強く握る。絶対に離さない。血が溢れて私の掌を染めるまで、力を込め続ける。

 そして私は、嗤うように呟いた。

 ねえ、早く連れて行って。

 

 これが私の物語の始まり。正確には、私と君の始まり。終わらない言葉を何度も繰り返し、それでいて終わりへ突き進む。終わらない物語も楽しいが、終わるからこそ物語は美しいのだから。

 刻一刻。紡がれよ。私と君の愛が為。



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初期設定のマンハッタンカフェのファン感謝祭

全部終わったらシリーズで別分けする気がします


 夢を見た。マンハッタンカフェは春の天皇賞で勝利する。それは驚くべき偉業でありながら驚くことはかけらもなく、私と君はその先へと準備を進める。それが運命。それが定められた道。そういう夢。

 運命。春の朝がもたらす柔らかな陽射しで夢から目覚めた私の頭をよぎったワードは、季節に反して冷徹で普遍的で。そして残酷。

 今まで全てのレース結果。マンハッタンカフェというウマ娘が通るレースと、その結末。それは順位どころか一挙一動のレース展開までずっと運命によって定められていた。そんな物語が頭に浮かぶのだ。

 だから、私の中身が私でなくても。トレーナーさんと私が出会わなくても。運命に従い、マンハッタンカフェは春の天皇賞まで駒を進める。私たちの出会いは運命などではなく、我が名が背負うものだけに運命があった。

 そして。

 満を辞して参戦した凱旋門賞でマンハッタンカフェは惨敗し、その後に脚の不調でターフを去る。

 そこまで。これが、私に見えた夢の話。

 あまりにも、惨い。許しがたい。こんな夢は正夢にしてたまるか。だって、私が私でなくても。トレーナーさんがトレーナーさんでなくても。

 必要なのはマンハッタンカフェとそのトレーナー。彼女たちが必要な努力をすれば、全ての勝利と敗北は運命付けられる。あの日の出会いも、あの日の勝利も、あの日の涙も。必要性も絶対性も存在しない、なんて。

 そんな、そんなのは。

 神による、ヒトへの冒涜だ。

 だから私は楽園へ向かおう。夢の先に見たものが、破滅の未来だとしても。あの灼熱の太陽が、私の身を焼くとしても。

 神がいるなら、運命を定めた存在がいるなら。その存在はきっと楽園に居て、全てを見下ろす傲慢たる。そして私は、その神へと叛逆するために楽園へ向かうのだ。だから。

 

「ねえ、早く」

 

 君が、連れて行って。

 今日はファン感謝祭。他のウマ娘からは慣れないことかもしれないが、私からしたらファンサービスは慣れたものだ。

 勝負服を着てファンと握手をし、すらすらとサインを書いてファンに手渡す。

 気が気でなかった夢の痕は、心温まる交流でだんだんと薄れていく。まるで私の狩場から逃げるように。不安を追い立てる根拠のない夢など忘れるに限る。

 そんな常識があるはずなのに、私は夢への恐怖を捨てきれない。夢への憎悪を捨てたくない。

 

「……大丈夫か?」

「……! ……トレーナー、さん」

 

 ごった返す人混みをわざわざ割って入ってきたのは、私のトレーナーさんだった。ずっと私が、私の運命だと信じている人。私は君とでなければ楽園へと行けないと、そう確信している人。

 

「……すみません、ちょっとうちのマンハッタンカフェは体調が優れないみたいなので、休憩を貰います」

 

 そう言って、トレーナーさんは。

 

「……あっ」

「しっかり掴まっててくれ」

 

 ぎゅっ、と私の手を掴んで。引いて、引いて。私は惹かれて。二人だけの逃避行。そんなフレーズが、頭の中で揺蕩う。

 

「……ふう、ここなら人も来ないだろ」

「……どうしたんですか、急に」

 

 建物で出来た日陰、祭の熱気から離れた場所へ辿り着く。

 平然なフリをして、私は聞くけれど。

 

「そんな思い詰めた表情をしてる君を、ほっとけるわけないだろ」

「……さすが、トレーナーさんですね」

 

 私の表情変化など、誰も。私さえ気づいていなかったのに。私のことを全て知られているような気がして、ゾクゾクする。

 

「何かあったんだろ」

 

 でも、ここは。

 

「夢を見たんですよ」

 

 この夢の話は。

 

「天皇賞の春。その夢です。流石に緊張して、何度も負けるイメージを見てしまいました」

 

 運命の車輪を、君には背負わせたくない。

 

「……そうか。カフェなら勝てるよ」

「私なら、ですか」

 

 "マンハッタンカフェなら"、勝てる。それを私は直感してしまった。

 

「トレーナーさん……」

「……どうしても不安なことはあると思う。天皇賞だけに限らない。今までだってあった。……でも、君は生き残ってるんだ。

 それに、俺がついてる」

 

 そうだ、そうだ。君がいる。君となら、私は楽園に行ける。そこに間違いがあるはずがない。私は私たちの正しさを証明するために走っている。断じて運命を回すために走っているのではない。

 想いは昂り、激情は恋情と混ざり合う。

 

「……って……! いや……わかった。俺でよければ、いくらでも使ってくれ」

 

 言葉もなく、思い切り。君の胸に飛び込む。ボタンが引きちぎれるほどに強くシャツを掴み、露出した胸板に顔を埋める。涙だけは出せない。芝居で培った小手先の技術で、感情の発露をギリギリで抑え込む。

 

「このまま。今日はファン感謝祭ですから。

 ……一番のファンの、トレーナーさんに」

 

 感謝を込めて。君を離したくない。与える愛と求める愛、アガペとエロスが混じり合った抱擁。

 互いが死ぬまで、互いの肉を貪りたいとさえ願う。楽園への道筋はまだ続いていて、運命によって唐突に閉ざされることはないと信じる。

 楽園に辿り着く目的が、漸く明確になった。私が私の運命を超える。君の手を借りることで、届かない場所へと届く。

 そういうことだ。

 だから。

 

「────マンハッタンカフェ、春の天皇賞を制しました!!」

 

 決まった結果。それを目の当たりにしても、まだ私たちは止まれない。

 ここは天。なら、楽園は天の先にあるのだから。太陽が我が身を焼く前に、君と私が離れ離れになる前に。全てのウマ娘へ、運命を超えられることを実証してみせよう。

 失楽園の漆黒は、自ずから闇の底へと向かう。



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初期設定のマンハッタンカフェとタキオンエンカウント

それくらい


 天皇賞を終え、夏合宿までの僅かの間にある何もない日のこと。トレーナー室でトレーナーさんと私が二人でいると、唐突にアグネスタキオンが扉を開けた。

 

「久しぶりだね、カフェとそのトレーナー君。……いや君にはカフェのトレーニングについてよく電話をさせてもらっていたか……」

 

 その言葉を聞いて少し腹の中に煮えるものがあったのは否定しない。まさか目の前の女性が横から君を掠め取ってしまわないか──なんてことを考えてしまい、すぐさまその強欲さを恥じる。

 

「……それで? なんの御用でしょうか、タキオンさん」

 

 努めて冷静に。仮面を被るのは私の日常であり、己を無に変換することはなんの苦痛もない。

 

「いやなに……たまには我がBプランへの賛辞を送らねばならないと思ってね……

 此度の春の天皇賞、勝利おめでとう。そして……その先」

「ご存知とは、流石ですね。……そう、私のゴールはここにはない。私たちは凱旋門を獲ります。難攻不落の頂点へ、必ず」

「……いやなに、君のトレーナーから聞いたんだけどね」

 

 また、心が熱く熱く。熱で焼けた仮面をもう一度付け直す。努めて、私は冷静に。

 

「……そうですか」

「……いつもありがとう、タキオン。カフェがここまで来れたのは、君の助力も大きい」

「私の全てを託すつもりだった存在だからね。開始前によく吟味する代わりに、一度開始したプランは必ず成功に導く。それが私のモットーなのさ」

 

 ……二人は私をよそに、談笑する。私と君のための空間に、違和感なく滑り込んだ異物。

 

「……タキオンさん。どうもありがとうございました。では、そろそろ」

 

 ここから。

 

「……む。私はまだ肝心な用を済ませていないけど」

「……は?」

 

 するとアグネスタキオンは、一つの小瓶を取り出した。一歩、引かざるを得ない。

 

「……また怪しげな薬品ですか? 私にもトレーナーさんにも、そんなものを飲ませるつもりはありませんよ」

 

 警戒を発すると、彼女はクックッと笑い声を上げる。

 

「……ああ、違う違う。これはボトルメッセージさ。海の向こうのマンハッタンカフェというウマ娘に届けてやってほしい」

「……やれやれ。相変わらずあなたは持って回った言い回しをしますね。……要はあっちに行ってから開けろ、と」

 

 タキオンはこちらに返答する代わりに、続けて一つの注意を述べる。

 

「……それともう一つ。"開けたくなるまで、開けてはいけないよ"」

 

 また煙に巻くような発言。この人は本気で何かを伝えようとしているのだろうか? 

 

「……それなら永遠に開けませんが、悪しからず」

「……構わないさ。……では、邪魔したね」

 

 そう残して、アグネスタキオンは嵐のように去っていった。……全く。いつのまにか私の抱えた嫉妬を冷ましてしまったのだから、つくづく侮れない。

 

「……トレーナーさん、この瓶は預けます。今は夏合宿のことを考えたいので」

「ああ、わかった。……そうだな、海外に向かうための最後の夏合宿。君を、ようやくどこかに連れて行ける」

 

 どこか。おそらく君のいうそれはあの門を潜ること。私の見るそれは、そこにある運命を超えること。

 夢に見たあるはずのない未来。マンハッタンカフェは凱旋門賞で惨敗し、その競争生命を終える。

 そのイメージは日に日に鮮明になる。まるでカウントダウンするかのように。まるで、最後に現実になるかのように。

 

「……ええ、お任せを」

 

 運命を越えなければならない。楽園はその先にあるのだから、私たちのやることは変わらない。

 

「血に飢えた猟犬のように、最期まであなたの命に従いましょう────」

 

 たとえ私が愛という罪を孕むとしても。

 たとえ私が楽園を終点とすることを望んでいなくても。

 たとえ私が破滅の運命の輪に逆らうドン・キホーテだとしても。

 君が私との楽園を望むのなら、私は征かねばならない。

 

 失楽園の漆黒は、断頭台へとまた一歩。



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初期設定のマンハッタンカフェと夏合宿3年目

凱旋門に向けて


 電車に乗ると、周囲の目線がこちらに集まってきた。これは動物として自然な反応で、それなりにリラックスした空間に入り込む余所者を誰しも警戒してしまう。やはり、人は獣の一種に過ぎないのだ。

 それでも理性は目を逸らさせ、すぐに全ての人は自分の空間に戻るのだが……。

 おや。どうにもこちらを見る視線は収まらない。職業柄目線には敏感になっているが、それでなくてもこれだけの視線は誰でも気にしてしまうのではないだろうか?

 ……確かに今の自分の格好は、少し目のやり場に困るかもしれないが。それでいい。

 今日から2度目の夏合宿。君のためにおめかししたいというのが乙女心だ。

 君と私の運命を超えるため。最後の追い込み。あるいは最後の夏。

 

「……おっ、あれはカフェだな」

 バスを待ちながら、遠くに黒い長髪を湛えた彼女の姿を見る。今日からマンハッタンカフェとの夏合宿が始まる。去年の夏合宿を思い出すと、なかなか波乱があったような……。白いワンピース姿で現れ、私物の水着を着たカフェに日焼け止めを塗り……。

 一見静かで大人しそうでいて、意外とカフェは有無を言わせない行動を取ることがある。とはいえその力強さが彼女をここまで連れてきた。今ならわかる。

「凱旋門賞、か……」

 これから俺と彼女が挑むのは、難攻不落の凱旋門。誰一人として日本のウマ娘はその頂を獲れていない。前代未聞の偉業へ向けて。その呪いを、彼女なら。

 ……と、ゆっくり歩いてくるマンハッタンカフェの姿が徐々に近づいていた。制服ではなく、今年も少しお洒落をしてきているような──。

「あれ……カフェか……?」

 近づくにつれて、その人影がよく知る少女であると信じられなくなる。あまりにも、普段のイメージと違う。今までもそんなことは何度かあったが、今回は特別違う。

 一言で言えば、快活で、扇情的な服装だった。上はノースリーブのトップスで、胸のすぐ下で布は途切れている。下はミニスカートだけで、色白な肢体が惜しげもなく曝け出されている。

「おはようございます、トレーナーさん」

 彼女は確かにそう言ったのだけど。

「……ああ! おはよう、カフェ」

 目が泳ぎ、答えに躊躇ってしまう。……やはり彼女は人気女優なのだと、久しぶりに思い出す。このような服でさえ着こなしてしまうのだから。

「……ふふ。見惚れてしまっていましたか? ここに来るまでもそうでしたので、隠さなくてもいいですよ」

 そう、妖しく笑う少女は。少女と言い切るには余りにも艶やかで。

「……いや、その……目のやり場に困るかもだが。似合ってるよ、すごく素敵だと思う」

「……それなら良かったです」

 けれど薄く浮かべた笑みは、今度こそ少女のそれで。危ういバランスの上に成り立つものの美しさというものを、初めて目の当たりにした気がした。

 

 

 そうして、夏は過ぎていき。海外のレースは全てが未知の領域。相対する者も、走るべきターフも。だけど、見えない目標に向かって走るのには慣れている。私はまだ、君に連れて行かれる最中なのだから。

 今日の夜はトレーナーさんと祭りに行くことになっている。ミニスカートと薄手のトップスに身を包む。学園指定の水着よりよっぽど露出が多いかもしれないな。

 だけど、君の目は捕らえられたから。これはきっと間違いじゃない。

 トレーナー寮に向かうと、示し合わせたようにトレーナーさんが出てきた。こんなタイミングの一致すら運命を感じさせて、心がときめいてしまう。

「……おお、カフェ。……夏とはいえ、それ寒くないか?」

「……そうですね、少し寒いかも」

 そう言って、私は。

 ぎゅっ、と。

「……俺の腕はそんなに暖かいかな」

「ええ、もちろん」

 だって君に抱きついていれば、それだけで私の身体は灼かれるように熱くなるのだから。

 祭囃子が鳴り響く屋台通り。ずっと、身体で君の腕を包んでいる。

「そこのお熱いカップルさん、こっちはどうだい!」

「ああいや、俺たちは……」

 そんなふうに否定したって、人の見る目は変わらないのに。顔を赤くして必死に説明する君を見て、さらに身体を擦り付けてやる。

「……人が多いと目立つな」

「目立つのには慣れていますが」

「俺は慣れてないよ……」

 そういうことなら仕方ない。人気の無い所で二人きりというのもいいものではあるし。

 祭りの中心から少し離れた高台に行く。……人は少ないけれど、其処にいたのはカップルばかりだった。おやおや困ってしまうな。

「ここなら目立ちませんね、トレーナーさん?」

「……そ、そうだな……」

 周りに倣うように、手すりに二人並んで腰掛ける。啄むような口付けさえ、今の私達には叶わないけれど。

「……そういえば、今年は女優の仕事はどうなんだ?」

 ふと、トレーナーさんが口を開く。今年か。確かに去年は心配をかけてしまった。周りにも、君にも。

「マネージャーが色々と配慮したスケジュールを組んでくれたので。それなりに両立できていますよ」

「マネージャー、か。そういえばカフェのマネージャーさんの話、ちゃんと聞いたことないかもな」

 マネージャーの話。彼女は誠心誠意、私のことを考えてくれているのだと思う。時に厄介な案件を持ってくるけど……例えば。

「レースなんかは、マネージャーの指図でしたね。女優としてのキャリアのために……と。女優のための副業のはずだったこちらにかまけている今は、彼女の本心からすれば怒られてしまうかもしれませんね」

 全く難儀なのは私の元来の性格で、それに怒る気力など残っているだろうか。

「なるほど……ならマネージャーさんには感謝しないとな」

 ……はて。君は意外なことを口にする。

「だって、それならマネージャーさんのおかげじゃないか」

 瞬間。

 ぱぁん、と打ち上がり。ひゅるるる、と上り。

「俺が君に会えたのは。一緒にレースに向かえるのは」

 どかん、と花火が咲いて。君と私を鮮やかに染めた。

 光華爛漫。君と私を照らす夢。

「……そうですね、彼女のおかげかもしれません」

「いつか、会わなきゃな。君を支える者同士として話してみたいよ」

「……では、凱旋門での勝利を手土産にしましょうか」

「……ああ」

「……綺麗ですね」

 私の眼は、君の瞳に映る華を見遣り。

「……そうだな、すごく綺麗だよ」

 君の眼は、私の瞳に落ちる影を映して。

 二人の影は。生み出す闇は。一つに重なる。

 失楽園の漆黒は、夜の闇に咲き誇る。



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初期設定のマンハッタンカフェとパリ最後の日

です


 一つ、やはり夢を見て。わかりきった内容なのに、何度目覚めても忘れられない。マンハッタンカフェという存在は、凱旋門賞で敗北する。架空の記憶に過ぎないそれは、パリにやって来てから更に現実に近づいた気がする。

 1週間の滞在はあっという間。こちらの馬場にもある程度慣れて、体調も悪くない。何もかもが順調なはずだ。だから、私の心臓に起こる迷いはきっと誤りで。

 凱旋門賞を明日に控え、今日は一人での休息の日。だけど、君に会いたい。君と会えば心臓の迷いは取り払える気がする。君と会えばまだ進める気がする。君となら、楽園へ。運命の先へ。

 そう、想うだけ。そうやって断頭台へ連れられるのをただ待つだけだった私を、誰かがどこか別のところへ連れて行ってくれるとしたら。その誰かは、君しかいないのだろう。

 

「……もしもし、トレーナーさん。寂しくなりましたか? ……冗談ですよ、おはようございます」

 

 トレーナーさんからのモーニングコール。トレーナーさんから言い出してくれたことだけど、私が密かに望んでいたことだ。君は私のことを日に日に理解してくれている気がする。思い遣ってくれている気がする。

 

「明日に向けて、今日はお休みの日ですから。……え? ……ええ、もちろん」

 

 リラックスできているか。そんな質問に、当然だと返す。嘘を吐く。君の声を聞くまで、不安ではち切れそうだった。君の声を聞いてから、疼きが止まらない。

 

「……えっと。……おっと、いえ。トレーナーさんから、どうぞ。……はい、はい。エッフェル塔に9時……? それって」

 

 それって。逢引きという言葉が口を突いて出そうになる。だって、今日はトレーニングではない。リフレッシュのためのお出かけの日でもない。本当の、休息の日。かけがえのない休息を、誰かと過ごすなら。

 

「いえ、なんでもありません。……もちろん行きます。部屋に居たって何にもならないというのは同感ですから。……では」

 

 電話を切る。素っ気なすぎただろうか。君からのデートの誘いだというのに。わからない。私が愛しているほどに君が愛してくれる保証はどこにもない。何度も演じた愛の告白は、その時になって私の口から飛び出していけるだろうか。わからない。

 わからないけど、わからないからこそ。私は君を追い求めよう。

 寝間着を脱いで、装いを吟味して。まるで少女のように、私の心臓は高鳴る。否、今はきっと本当に少女なのだ。運命に縛られた哀れな道化ではなくなるのだ。

 たとえ、明日私の競争生命が終わるとしても。明日までは、私は生きていられるのだ。

 さあ、行こう。

 

 

 冷たい朝。……急に呼び出して、よくなかっただろうか。待ち合わせの時間が近づいて、俺の不安はどんどん大きくなる。

 

「……まったく」

 

 しっかりしなければ。これくらいの不安、マンハッタンカフェは何度も何度も経験してきただろう。撮影を目の前にして、レースを目の前にして。俺には見えないものを見ていただろう。

 ならば、それを和らげること。それだけが、俺に可能なことなのだ。

 今日の待ち合わせは、トレーナーとしては越権行為に近い。アンタッチャブルな担当ウマ娘のオフの日を、レースの前振りとして使ってしまっている。それだけなら到底許されない。

 けれど、一人の人間として。彼女に夢を見る存在として。力になろうとするならば、許されるのではないだろうか。

 無論、許されなくても構わない。それが彼女のためになるのなら、俺は喜んで劫火に身を投げよう。

 そして、時間は進み。

 遠くに、彼女の姿を見た。

 

「……トレーナーさん、お待たせしました」

 

 薄い桃色のセーターに、黒いロングスカート。落ち着いた格好のマンハッタンカフェが、此方に向かって駆けてきた。

 

「おお、おはようカフェ」

 

 しゃなり。彼女は薄く笑う。レース場の彼女は煮えたぎるほどの黒を背負っているのに、今の彼女は柔和な雰囲気を漂わせている。演技ではなく、本当に安らいでいるのだと思う。

 

「……エッフェル塔で、と言われて。それだけではどこで待ち合わせるのかわかりませんでした」

「ああ、それはごめん!」

「……もう、それくらいで怒りませんよ」

 

 パリの街を周るコースは考えたのだが、実際に見てみると全く勝手が違う。

 今自分たちの横に聳え立つエッフェル塔は、とてもとても高く大きくて。これを人が作ったなんて信じられない。

 

「……こうして見ると、さながらバベルの塔ですね」

「……バベルの塔?」

「そうです」

 

 バベルの塔。聖書に出てくる大きな塔……だったか。それ以上の知識がなくピンと来ていない俺を察したのか、カフェは説明を始める。

 

「かつて人は皆、一つの言語で繋がっていました。団結し、協力する。それができていました。そうして大勢の人達が一緒になって造り上げた塔の名前が……バベルの塔」

 

 あくまで宗教上の伝説ですがね、と彼女は付け足す。

 

「この塔の目的は、神のいる場所まで到達することだったのですが……それに神は怒りました。神の怒りで全ての人は言語を分たれ、塔は未完成のまま。……傲慢なお話ですよね」

 

 傲慢。おそらくこれは、人が神へと到達しようとする傲慢を罰する説話なのだろうが。

 

「なるほど、確かに傲慢な神様だな」

「ご名答。我々は信徒ではないですからね」

 

 神の傲慢。全てを掌に乗せようとすること。運命に逆らうことを許さないこと。その傲慢に対する怒りを、確かにマンハッタンカフェから感じ取った。

 

「……大丈夫。俺も君と同じ気持ちだ」

「……ありがとうございます」

 

 カフェが何処へと行くのか。何を射抜くのか。それがどのような大それたことであっても、俺の役目は彼女をその先へ連れて行くことなのだから。

 

「……さあ、じゃあ行こうか。意外と時間はないんだ」

 

 そう言うと、彼女は無言で此方へ手を伸ばす。……甘え上手になったものだ。

 

「……よし、行こう」

 

 手を取って、ゆっくりと。パリの10月は寒い。温まりながら行くことは間違いじゃない。

 

 

 

「ここが、ノートルダム大聖堂だ」

「……写真で見たことはありますが、やはり肉眼では違いますね」

 

 小一時間歩いて、最初の目的地であるノートルダム大聖堂に着く。煌びやかなバロック建築に、カフェは目をキラキラさせている。

 

「曰く、この建物は様々の苦難に遭ったそうです。芸術品である以前に、政治的、宗教的立ち位置も持っていた。それ故にここまで偉大な建造物となったはずですが、それ故に何度も破壊と略奪に見舞われた」

「……よく知ってるな、カフェは」

「パリに来るのが楽しみで、沢山調べていました。……冗談ですよ」

 

 くすりと笑い、彼女は話を続ける。ステンドグラスの下を歩く少女は、その舞台と一体化したようだった。

 

「……それでも、立ち直る。何度壊れても、焼かれても。もしこの大聖堂が現代において再び大規模な破壊に遭ったとしても、きっと立ち直るのでしょう……真の強さとは、そういうことかもしれませんね」

「……君は、そうじゃないのかな」

 

 なんとなく、羨むような口調。けれど俺は、目の前の彼女にだって立ち直る強さがあると思う。あの超光速の名を持つウマ娘が、立ち直らんとしているように。

 

「……私は立ち直れたと思いますか? 弥生賞の時から、ずっと闇の底に沈んでいると。そうは思いませんか?」

 

 失楽。彼女の強さが飢えと渇望にあるのだとしたら、ずっと足りないものを求めて苦しんでいるというのは間違いではないかもしれない。

 けれど。

 

「君は、間違いなく成長してるよ。俺が保証する。……俺じゃ足りないかもしれないけど」

 

 俺の全身を懸けて、君の存在を保証する。闇に沈むというのなら、そこから這い上がるための踏み台となろう。

 

「……いいえ。トレーナーさんが言うなら間違いないのでしょう。私自身よりも、私を一番見ている人なのですから」

 

 厳かな雰囲気の下、二人の繋がりを確かめ合う。相手が沈むなら、代わりに己が沈む。そういう繋がり。

 まだ、二人の時間は終わらない。永遠ではないとしても、今は時間を忘れよう。

 失楽園の漆黒は、闇と光を溶かし合わせる。

 



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初期設定のマンハッタンカフェとパリお食事

ギリギリ1000


「どうだ、美味しいか?」

 

 レストランでトレーナーさんと二人、小さなテーブルを囲んで昼食を取る。

 

「トレーナーさんと同じ料理を頼んだんですから、トレーナーさんが美味しいなら私も美味しいですよ」

 

 そう、言って。私はトレーナーさんが頼んだコースと同じコースを頼んだ。メインは寒い時期にぴったりのポトフ。たとえメニューの一つでも、お揃いというのは心が躍るから。……でも。

 

「……カフェ、周りが気になるか?」

「……ああ、すみません。やはり外国の方というのは見目麗しいものですから」

 

 本当は。きっとあそこの二人も、遠くの二人も。所作から恋人だとわかること。私たちはそうではないこと。それが少し、狂おしい。

 

「カフェだって綺麗だよ。自信を持ってくれ。なにせ日本代表で凱旋門賞に挑戦するんだからな」

 

 冗談めかして言われるその言葉はきっと親愛で、情愛ではないのだろう。嬉しい言葉だけれど、苦しい。切ない。でも、それが正しい。間違っているのは私で、私に君を愛する資格はないのに。

 だけど、求めてしまう。だから、私は明日勝たねばならない。君に漸く報いることができるとすれば、それは私が敗北の運命を超えたときに相違ない。

 

「……と、ごめん。ちょっと席を外すよ」

 

 唐突に、君が席を立つ。……なるほど。わざわざ言葉を伏せてくれてはいるが、手洗いに駆けてゆく君の姿が見えた。

 ……と、そこで。ほんの少し、思いつく。いじらしく、おぞましく。ホンを読む上では登場人物の恋心ゆえの行動にも論理を求めてしまうが、実際にはそこに理屈など存在しない。そう自らの行動から思い知らされる。

 

「おまたせ、カフェ。わざわざ食べずに待っててくれたのか」

「ええ、一緒に食べたいですから」

「いつも気を遣ってしまわせてるな」

 

 そんなことはない。今さっきの行動だって、全て己のためだとも。

 

「……さ、早く」

「そんなに見なくても」

「トレーナーさんが食べたのを確認したら、私も食べ始めますから」

 

 そう言うと、トレーナーさんは食べかけのポトフに銀食器を挿し入れる。……ああ、たまらない。気づかないだろう。気づくわけがない。

 "まさか、皿を入れ替えられているなんて"。

 

「さ、カフェも食べなよ」

「……! ……ええ、ええ」

 

 ……君の指示で、君を求めるなんて。向かい合って、互いを喰らうことの幻視。ああ、まるで。

 たとえ罪に手を濡らすとしても、私はそこに幸せを見てしまうのだ。

 かち、かち。銀食器の擦れる音は、布擦れの如く。



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初期設定のマンハッタンカフェと自転車

パリのレンタル


 歩く、歩く。ゆっくりと、トレーナーさんと手を繋いで。それだけで私は幸せだけど、どうも先ほどからのトレーナーさんはしきりに腕時計を見ていて落ち着かない様子だ。

 

「……やっぱり……いや、これくらいなら想定内だ」

 

 今日の"お出かけ"のコースはトレーナーさん主導だ。次はどこへ連れて行ってくれるのだろうか。そう、私が心を弾ませていると。

 

「よし、カフェ。ここら辺で徒歩は終わりにしよう。その、間に合わない」

 

 む。

 

「私と歩くのは嫌になりましたか……?」

 

 そうではないとしても、そう言いたくなるのが乙女心というものだ。

 

「いやいや! そう、ここからは自転車を借りようかなと」

 

 むう。君との触れ合いがなくなってしまうのは忍びない。……しかし。

 

「約束する。絶対君を最後まで連れて行きたいんだ。そのために」

 

 彼の言う最後とは、この道の終わりか、はたまた。

 

「……わかりました。トレーナーさんを信じましょう」

 

 そう、決めた。ずっと前から決まっている。

 

 パリにはヴェリブという市が提供する貸自転車システムがある。景観を損なわない程度に自転車置場とレンタル待ちの自転車がそこかしこに並んでおり、最初の30分は無料。つまり街中で出発地点から目的地まで30分以内に移動してしまえば、レンタルの料金はかからないという寸法だ。

 けれど、一つ問題があって。

 

「……じゃあ、私は並走しますから」

「いいのか、トレーニングでもないのに。……ほら、これだけ空きはある。ちゃんと二人分あるんだ」

 

 問題というのは。

 

「……その、自転車は」

「自転車は?」

「……乗ったことが、なくて……」

 

 私は自転車に乗った経験がない。子供の頃から部屋の中で過ごすことが多かったし、走れば移動には困らなかったから。現に今だって、自らの脚を使えばなんの問題もないだろう。

 だけど。

 

「……そうか、そう言われるとその可能性はあったな……。しかし、カフェを一人走らせるというのは……」

「トレーナーさんには、私を連れて行きたい場所があるんですよね」

「ああ、そうだな……。確かにそのためには、急がないと」

「……それなら、尚更。……トレーナーさんと同じ目線を持ちたいです」

 

 だから。

 

「私も乗りましょう。……体幹ならそれなりに鍛えていますから。初めて、ですが」

 

 他愛もないことだけど、君の手で。君の手で、初めてを経験するのだ。それはどんなにか素晴らしい。そう、想う。

 

「……っと、止まると転けてしまいますね」

 

 サドルに跨り、ペダルに足をかけ。まるで生まれたての子鹿のように、よろよろと動き回る。

 

「……さて、行きましょうトレーナーさん」

「……よし、カフェが勇気を出してるんだしな」

「ふふっ、大袈裟ですよ」

 

 並んで、走り出す。戸惑う私を、君がリードする。まだ手を引かれているような幻覚。何度も丁寧にこちらを確認する君は、きっと優しいのだと思う。そうして視線が合うと、私は少し笑ってみせる。

 あくまで私は君を捕える者だから、強者の余裕を誦じるのだ。たとえ、心は既に君に囚われているとしても。

 

「……っと」

 

 気は抜けない。確かに走るよりは楽だけれど、操縦はなかなか難しい。ハンドルに汗が滲んでいる気がする。

 

「うまいぞ、カフェ」

「ありがとうございます……。……っ!」

 

 不意に。

 がたん。気の緩みからペダルを踏み外し、バランスを崩す。危ない。維持を諦め、そのまま倒れ込もうとしたところで。

 

「カフェ!」

 

 横から飛び込んできた人影が、私を包んで引っ張る。倒れゆく方向は反転し、暖かいクッションが私を包んだ。

 がしゃん、と二台の自転車が倒れる。それと同時に、私の心臓が跳ねる音がした。

 トレーナーさんが、私を抱きしめている。私が倒れるのを庇って、そのまま地面に己を引き摺り込んだのだ。私の身体に一分の痛みも走らないように。その気遣いを理解しただけで、私の心臓は切り裂かれたように血を流す。

 熱く、熱く。君にそのつもりはないのだろう。きっと万一が私に起こらないように、思わず体を投げ出しただけ。それでも、それでも。

 

「……カフェ、ごめん……。大丈夫か……?」

 

 言葉を使うことなく、こっそりと君の背中に手を回して。愚かと言われようと、やはり。

 私は君の身体に触れるだけでときめいてしまう。私は君の心が触れてくるだけで色付いてしまう。だって、だって。

 私は、君のことを愛してしまっているから。

 日はまだ陰らない。まだ、私はこれを逢い引きと幻視できる。

 



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初期設定のマンハッタンカフェとルーブルとエトワール凱旋門

ひさびさ


 我々ウマ娘は運命の担い手である。神に選ばれ、鉄のレールをひた走る。決まりきった栄光と、その先の滅亡へ向かって。

 それを直感した。それを夢に見た。私と君の歩んだ道は、己の手で切り拓いたものではないということを突きつけられた。

 ならば、私の行くべき楽園は。神と運命の掌の上で、そこにさえ自由がないとでもいうのだろうか。

 凱旋門賞を明日に控え、今日は君が私をエスコートしてのお出かけだ。とても楽しい。とても幸せ。進むほどに、明日が怖くなる。

 芸術に富んだパリの都は様々のインスピレーションを人々に齎すと言われている。それは神からのメッセージなのか、己の底にある更なる可能性なのか。どちらにせよ少なくとも今の私は、まだ完成されていないと信じる。今日何かを見つけて、また、まだ進めると祈る。

 君は私の勝利を信じているのだから。私が破滅を予感していたとしても、私よりも君が正しいのだから。

 さあ、次に向かうのはルーブル美術館。人々は芸術に夢を託し、人々は芸術から希望を見出す。それはさながらウマ娘のレースのようなものかもしれない。我々は誰しも夢を背負う。最低人気でさえ、誰かのために勝利を求めて突き進む権利がある。

 たとえここに飾られた素晴らしい絵画のように完成されたものでなくても、だからこそウマ娘は人の願いとなれるのだけど。

 

「ふう、すごい人だな……」

 

 膝に手をついて。トレーナーさんは若干息が上がっている様子だ。レンタルの自転車を使っているとはいえ、美術館内を今まで練り歩いてきたのはなかなか堪えたのだろう。

 

「……手を貸しましょうか?」

 

 言って、私は手を差し伸べる。何度も何度も君と触れ合ったけれど、幾度経験しても胸がはち切れそうだ。

 

「ありがとう、カフェ」

 

 君も素直に手を伸ばす。心や命さえ、繋がる気がした。

 

 

 ルーブル美術館。そこに展示されている芸術品は、紛れもなく全てが至高の逸品だ。……それであっても、その中に更に格付けのようなものは存在してしまう。全員平等とはいかない。

 他の絵画が平均凡そ4秒しか観覧されないのに対して、その約13倍。50秒もの間人の目を釘付けにしてしまう絵画がルーブルには存在する。

 いわば大本命、断トツの一番人気。万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが手がけた真に"完全"たる柔和な微笑み─

 

「お、カフェ! あれだ、あれがモナリザだよ」

「……そうですね」

 

 モナリザだ。彼女には何の罪もない。私とは違って。彼女には永遠がある。私とは違って。

 だから、私はああはなれない。だけど、私は明日栄光を手にして見せよう。

 我々はあそこで柔和に微笑む『完璧な存在』とは違い、そのおよそ1/13の刹那しか目に留めてもらえないかもしれない。

 それでも、私と君はここまで積み重ねてきたのだ。確かに明日、凱旋門に立ち向かうのだ。

 そう、だから。

 客全ての注目を集める美の象徴を、憎悪さえ込めて睨みつける。傲慢と言われようと、大罪と言われようと。

 君に勝利を捧げるための全てが、誤りだとだけは言わせない。私と君がたどり着いた場所が、運命に仕組まれたものなどとは言わせない。

 

「十分見ました。行きましょう」

「大丈夫か、カフェ」

 

 やはりトレーナーさんは鋭い。私についてはもう隠し事はできない気がする。もしかしたら明日の敗北を予感してしまったことすら知られているのかもしれない。

 

「もちろんです」

 

 それでも、私は前へ進む。楽園へと連れて行ってくれるのは、君の手によってだから。それを証明するために、運命を否定するために。信じるように、手を更に強く握る。

 

「明日、勝とう」

「ええ。凱旋門の栄光は私たちのものです」

 

 完全なるモナリザはあらゆる人の目を奪ってしまう。しかしそれは、他の絵画には価値がないということなのか? そうではない。

 五番人気、マンハッタンカフェ。私も決して一番人気ではない。敗北が目に見えている。だから走る意味はないのか? そうであるはずがない。

 広大な美術館の外に出ると、すっかり日は翳っていた。もうすぐ、明日が来る。けれど、まだ明日は来ていない。

 

「……よし、急ごう。今日のゴールはもうすぐだ」

「なるほど。楽しみにしています」

 

 そう言って、二人で自転車の方へ向かう……が。君は明らかに息を切らせていて、見ているだけで心配だ。

 

「トレーナーさん」

「どうした……って、うわっ、カフェ!?」

 

 よっ、と。腰を落として、全身でトレーナーさんを持ち上げる。所謂お姫様抱っこと言うには、あべこべな立ち位置かもしれないが。

 

「これで行きましょう。トレーナーさんは疲れていますから」

「わっ、ちょっ……その、いくらなんでも目立つ……」

「さて、目的地を教えてください。ゴールに向けて走るのは我々の役目ですから」

 

 私の身体も燃えるように熱い。けれどおくびにも出さず、君の指示を待つ。

 

「……凱旋門。エトワール凱旋門、だよ」

「了解しました……お任せを」

 

 だん。コンクリートの上を、軽く駆けてゆく。藍に染まり、星が見え始めるパリの空。その下で、黒翼の摩天楼が風を切る。シャンゼリゼ通りを突っ切れば、すぐ、ゴールだ。

 

 

 パリの中心、雄大に聳え立つエトワール凱旋門。皇帝ナポレオンが、アウステルリッツの戦いに勝利した記念として建てられたものだ。

 ……凱旋門といえば、一般的にはこれを指す。そうでなければ、あるいは。パリはロンシャンレース場に於ける凱旋門賞。未だに日本から勝利者は出ていない難攻不落の門。

 

「ここ、ですね」

 

 地下道を通り、外に出ると。そこには仰ぎ見るほどに巨大な門が建っていた。

 

「……ああ、凱旋門でゴールしなきゃ締まらないだろ?」

「トレーナーさんも粋なメッセージをくださいますね」

 

 二人で、自然と手を繋いで。数秒の沈黙と共に、凱旋門を見上げる。

 

「カフェ、君なら勝てるよ」

「当然のことです。勝つつもりでなければ、走る意味がない」

「……でも、君は震えてる」

 

 まさか。そう言われて自分の手を見ると、細かく震えていた。その程度のことも隠せないなんて。

 

「恥じることじゃない。勝てる、というのは必ず勝つって意味じゃないから。俺に君の恐怖がわからないのはもどかしいけど」

「恐怖……そこまで見抜いていましたか」

「俺は君のトレーナーだからな」

 

 怖い。一人で神に叛くのは、怖い。運命が決めた破滅に飛び込むのは、怖い。君を信じて走るけれど、私自身にはなんの取り柄もないようなもので。凱旋門賞での敗北と引退。それが真実なら、私の命は今日までなのと等しい。

 

「そこでだ。……カフェ、目をつぶってくれないか」

「目、ですか……?」

 

 唐突な提案に面食らう。けれど疑う余地はない。君の言うことなのだから、私はすっと目を閉じる。

 ……髪を少し引っ張られる感覚。数瞬の後、止まる。

 

「目を開けてごらん」

「……ん、はい」

 

 恐る恐る、目を開ける。何も変わっていない? ……と、君は思い出したように手鏡を私へ差し出した。手に取って、示されるままに自分の顔を確認する。

 そう、した。

 

「これ、は」

 

 曇りのない眼でそれを見れたのは一瞬だった。瞳から涙が流れるのを認識するのすら遅れてしまった。白い羽根を模したヘアピンが、髪に留められていた。

 泣いた。意図を推し量るより前に、理解してしまったから。

 

「俺も君と一緒だ。君の翼になって、一緒に走るよ。君は、一人じゃない」

 

 言葉を返せない。喉が詰まって、息が苦しくなる。

 

「だから、明日。勝とう。一緒に、勝とう」

 

 言葉に出来ない。幸せに呑み込まれ、胸が陽光に灼かれるようで。

 

「マンハッタンカフェ。君は最高のウマ娘だとも」

 

 君は最初から、私の恐怖を見抜いていた。私は独りぼっちじゃなかった。孤独に戦う必要なんてなかった。

 確信した。運命を垣間見ても尚、私は確信できる。

 君と私は、明日勝てる。間違い、ない。

 

「だから……つっ!」

 

 君の胸元に飛び込み、首元に噛みついた。瘡蓋の上から傷をつけ、吹き出す血をまた舐めとる。私の舌が、紅く染まる。君に、染まる。

 

「勝ちますとも」

 

 少し口を離して、耳元に囁く。

 

「トレーナーさんの、命ならば」

 

 私は君の猟犬だから。

 

「……今日は、ありがとうございました」

 

 そこまで言って、また泣きじゃくるように君に齧り付く。暫く、一時。それが刹那であろうと、那由多であろうと変わらない。私と君にとって、時の流れは無意味に等しいのだから。

 そこにあるのは、時空を貫く愛の華。

 失楽園の漆黒は、闇の空に光を齎す。



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初期設定のマンハッタンカフェと凱旋門賞

じっけん


「注目のマンハッタンカフェ、ゲートに入ります」

 

 馬場は良く、枠番も悪くない。それでも存在する圧倒的なアウェー。最早現実と見まごうほど鮮明に脳裏を蝕むようになった敗北の運命。マンハッタンカフェは凱旋門賞で惨敗し、その時の怪我で競走生命を終える。

 だから走るな? 見えた破滅に飛び込むな? 灼日に身を投げるのは愚行であり、可能性のない挑戦は何も生まない。だから。

 それは正しい。正しい。だが、だからこそ。私は最初から罪科の黒に手を染めている。私は髄まで咎罰の闇に脚を漬けている。

 故に私にとって正しさとは相容れないものであり、また受け入れる必要もない。私が邪道を走り続ければ、運命さえも捻じ曲がると信じている。

 そう信じてくれている人が、いる。

 

「ゲートイン完了」

 

 君と私は、ここから始まる。スターティングゲートの先には、漸く届く楽園が。そこが神の座だというのなら、神殺しを為して楽園を手に入れよう。

 歓声。ゲートオープン。踏み出した一歩目。どれが最も早かったか、或いは同時だったか。大した差はなかった。待ち侘びて弾けるそれぞれのタイムラグはゼロに等しい。

 わかるのは、はっきり一つわかるのは。私は、マンハッタンカフェは。抜群のスタートで飛び出したということだ。

 そう、思わず笑みを溢してしまうほどに。昂りが頬を緩ませた。或いは引き締め、その歪みを口元に浮かび上がらせた。

 ……と、掛かってはいけない。ペースメイクを行う先頭が固定されると、私は好位に付けて追走する。気持ちの昂りはレースに於いてままあることだが、自分でも異常なほどに興奮している。

 だが、それで瞳を炎に曇らせることはない。冷静に、獰猛に。全ての狂気は刹那に於いて解放されるべきだ。刃物の切れ味は殺せなければないのと同じだ。だから、更に研ぎ澄ませなければ。

 坂を越えた先の第3コーナー。ゆるやかだが着実な下り坂は、春天や菊花賞で淀の坂を越えた後の下りを思わせる。……いや、それよりはるかに難しい坂だ。一歩の幅、ペース配分、踏みしめるは慣れないロンシャンの芝。どれも緩やかにこちらに牙を剥いてくる。

 だが。私がやることは、君をゴールへと連れて行くこと。君がここまで連れて来てくれたのだから、私はそれを継ぐしかない。そのためにいる。

 それ以外は、いらない!

 ぞくり。身体を、全身を何かが迸る。手ごたえが、あった。見えた。視界を埋めていた絶望が、眩い光に染め返されて行く。運命よりも強い、勝利の糸が私から伸びている。

 第4コーナー手前の300m。ロンシャンレース場最後の難所、フォルスストレート。偽りの直線、偽りの終わり。それに遮られるものがあるとしたら、きっと我々の繋がりも偽りなのだろう。

 けど、違う。ここまで来た。ゴールは見えた。抜かなければいけないウマ娘の数などどうでもいい。私が走れば、全て抜き去れる。全て、鏖す。

 だか、ら─────

 

 

 

 がくん。

 その感覚は、体験したことがなかった。恐らくほぼ全てのウマ娘は知らない。知っているわけがない。

 知ってしまったら、走れないから。

 だめだ。

 

 だめだ。

 

 なにが? 私は脚が折れても走ると決めたじゃないか。私には君がいるじゃないか。私はトレーナーさんを、裏切るわけにはいかない。だから、文字通り死んでも走るのだと!

 そう、脚に告げるのに。脚は、脳より先に全てを理解してしまった。運命のレールに、両脚が沿う。私の意志から、離れていく。

 ぷつん。

 その時解けたのは、勝利の糸か、緊張の糸か、あるいは。

 

 

「大丈夫か、カフェ!」

 

 トレーナーさんが駆け寄って来る。私はしっかり両脚で立っている。演技もしていない。それなのに、何を心配して……。声が出ない。確かに自分の顔が涙を流し、満面の笑みを浮かべているのはわかるのに、それ以上がわからない。まるで内側と外側が区切られてしまったかのよう。

 

「……とりあえず、病院に行こう」

 

 その声が、私に向けてのものだとわかるのに。私には、届いていない気がした。

 

 

「屈腱炎です」

「そんな、それって……」

 

 屈腱炎。あのアグネスタキオンもだったな。ウマ娘が一生走れないといえば大体これだ。

 

「……それより、問題かもしれないのは」

「屈腱炎より……?」

 

 医者はこちらに向き直り、ジロジロと観察する。流れる涙が邪魔で相手が上手く見えない。引き攣るように裂ける口元がだらしなく唾液をこぼすのも、ついついそのままにしてしまう。

 

「マンハッタンカフェさんは、確かにレース中脚の故障に気付いたようです。途中で様子がおかしくなったので、恐らくその時。それゆえに、最小限の故障で済ませることができた……ですが」

「……」

 

 私は何も言わない。言葉の動かし方を忘れてしまったから。端的に言えば失語症だ。潤い続ける瞳と、開き続ける口と。私の何もかもが、歪んでしまったようだ。それを見る心も含めて。

 

「マンハッタンカフェさんは、深い傷を負いました。なにより、心に。それを助けてあげられるとしたら……トレーナーさん」

「俺に、できますか」

「……」

「……昔だったら、こんなふうに何も言わないカフェを珍しがりもしなかったと思う。でも、今は君の少しの異変だってわかる。……今の君なんて、目を覆いたいくらいおかしいだろうな」

「……」

 

 私の顔は変わらない。私の心は俯瞰している。身体の中の繋がりが全て、途切れたような。

 

「敗北のショック……君がそのせいでこうなったとしたら、君をここまで連れて来た俺には責任がある。当然だ。君をスカウトして、勝たせて来た責任がある。……だから、カフェ」

「……」

「俺が、君を連れて行くよ」

 

 その言葉が、確かに。僅かに。密かに。強かに。

 

「……ねえ」

「早く連れて行って」

 

 私に、響いた。呼応するように、開け放たれた口から語句が漏れた。

 それきりで、マンハッタンカフェの肉体は再び焦点の合わないヒトガタへ戻る。私の心は正常でありながら無感動で、そもそもマンハッタンカフェの身体と心が切り離されている異常を理解出来ていない。

 ただ、結果として。凱旋門賞の後に残ったのは。

 13着という結果。失語症と精神の錯乱と脚の故障を抱えた、マンハッタンカフェという"終わった"ウマ娘。

 そして、何を考えてるのかもわからないトレーナーさん。

 はて、私は何に立ち向かい、愚かにもこの結果を得たのか。黒すら失った無色の私には、何も思い出せなかった。

 

 

 少女は壊れた。運命の車輪を越えられないことを証明したことで。だが、なら運命は変えられないのか? そう、決まってしまっているのか?

 魂に刻まれた運命の先。光速で世界を描く運命を捕まえるもの。

 光の先、そこにいるのは。そして、並び立てるのは。たとえ一度斃れたとて、翼が焼かれたとて。それは挑戦をやめる理由にはならない。

 さあ。

 楽園へと、羽ばたこう。



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初期設定のマンハッタンカフェと運命を超えて

こえる


 マンハッタンカフェというウマ娘がいる。女優として活躍していて、レースの世界とは関わらなかったウマ娘。それが一人のトレーナーと契約して、ターフへと足を踏み入れた。楽園へと向かうために。しかしその道は決して楽ではなかった。惜敗を喫し、リベンジの機会も与えられなかった。

 勝利の後には孤独を感じた。それでも夢を空に見て、朧げな翼で羽ばたき続けた。苦難の中で、確かに実績を積み上げた。それを、俺は見ていた。骨身を焼いて捧げ続けた。彼女が一人で歩けるようになるために、我が身を滅する覚悟だった。

 なのに。

 凱旋門賞。レース中での故障と、惨敗。

 屈腱炎の発症と、精神的なショックによる失語症。マンハッタンカフェはそれきり糸が切れたようになってしまった。あらゆる異変よりも、彼女の魂が抜けてしまったようなそれこそが取り返しがつかない気がした。俺は結局何もできていなかった。以前の俺なら、そう思って止まっていたかもしれない。

 けれど、今は違う。俺は彼女を信じる。彼女が信じて、着いてきてくれた己という存在がいる。俺はマンハッタンカフェのトレーナーだから、彼女が信じてくれた自分自身を信じるのだ。言葉を失う前に、彼女が最後に告げてくれた言葉。

 俺に、答えてくれた言葉。

 

「ねえ、早く連れて行って」

 

 最初に彼女が告げた言葉と同じ。走ることを決意した言葉と同じ。だから、まだ彼女は羽ばたける。羽ばたく意思がある。

 

 ※

 

「おはよう、カフェ」

「……」

 

 彼女の介護と療養のためもあり、俺たちはまだパリにいる。彼女の心はこのパリに囚われているのだと思う。だからまだ帰るわけにはいかない。

 

「ほら、カフェ。朝ごはんを食べに行こう」

 

 今日もホテルのビッフェへマンハッタンカフェを連れて行く。抵抗はない。彼女は何も喋らない。彼女に宿っていた何かが立ち消えてしまったかのように。もう、そこにマンハッタンカフェはいないかのように。

 脚の不調もある。ゆっくりとテーブルへ連れて、食事も全て代わりに取ってやる。これくらいしかできないのがもどかしい。だけど必ず彼女を取り戻してみせる。

 レースを司る三女神が存在するというのなら、彼女にもう一度。もう一度翼を授けて欲しい。そう、願う。

 

「美味しいか?」

「……」

 

 返答はなくとも、心は繋がっている。言葉をかけるたびに、彼女の心をこちらに引いてこれるはず。非現実な発想だとしても、その虚な瞳と曖昧に開く彼女の唇を見て何かしないわけにはいかない。

 部屋に戻ってやることは、彼女に本を読み聞かせること。何もしなければ、本当にマンハッタンカフェは死んでしまう。脚より先に、心が骸に堕ちてしまう。だから俺は必死にもがく。彼女が今まで闘ってきたように、そのトレーナーとして闘うのだ。

 

「……」

 

 それでも時間は無常で、何事もないかのようにただ過ぎていく。引退。きっとそれがマンハッタンカフェが辿るべき運命で、俺がやっているのはそのレールを違えることなのだろう。

 それでも、それでも。諦めるわけにはいかない。

 そう思った時だった。

 不意にマンハッタンカフェが立ち上がる。暫くぶりに意思を持って、よろよろと歩き出す。

 

「カフェ!」

 

 咄嗟にそれを支える。倒れそうになる彼女を抱き止める。カフェに変化があった。その理由を逃さないように周りを見渡す。彼女の震える眼が何を捉えているのか。その先を、見る。

 ……一つの小瓶が置かれていた。これは。

 

「……タキオンからの贈り物、だったな」

 

 凱旋門に向かう前、アグネスタキオンから渡されたボトルメッセージ。あの時は激励の意図を込めたものだと思っていたが、結局開かずに凱旋門賞は終わってしまった。

 これを渡した時のタキオンの言葉を思い出す。

 ───開けたくなるまで、開けてはいけないよ。

 そう、カフェに向けて言っていた。……まさか。

 

「開けたいのか?」

 

 それを渡された時とはまるで変わってしまった彼女に問う。返答はない。カフェはうめくように両手を宙で泳がせている。

 

「……わかった」

 

 なら。

 

「開けるよ」

 

 今が、その時なのだろう。

 

 

 小瓶の中には折り畳まれた紙が入っていた。恐る恐る、それを開く。

 

「これは……アドレス?」

 

 恐らくアグネスタキオンが立ち上げたwebサイトのURL。それが小瓶の中のメッセージ。

 いつものカフェがいたら、「やれやれ、相変わらず回りくどいですね」などと言っていただろう。

 藁にも縋る思いでそのURLを手元のパソコンに打ち込む。……そこにあったものは。

 

「これは……タキオンの言っていたBプランか。カフェに思いを託し、あらゆる手段でサポートする」

 

 URLの先は、そのデータベースのようだった。スクロールするたびに膨大な情報が目に入る。

 

「……彼女もカフェのために全力を尽くしてくれていた」

 

 今更ながらそれを思い知る。今のカフェを見たら、タキオンは何を思うだろうか。そうしてその情報を見続けていたが、途中で手が止まる。妙なリンクを見つけたのだ。

 

「ENTER……か」

 

 悩んでいると、いつのまにか隣にカフェが来ていた。これこそが彼女へのメッセージだとしたら、一緒にこのリンクの先を見るべきだろう。

 

「いいか?」

「……」

 

 返答はない。でもきっと。

 

「開けるよ」

 

 かちり。クリック音が、確かに響いた。

 

 ※

 

 

「えー……この動画を観ているのはカフェか、はたまたそのトレーナー君か……」

「これは……タキオンが撮った動画か」

 

 画面に映ったのは白衣のアグネスタキオン。いつもと変わらず妖しい笑みを浮かべている。

 

「私は長々と説明してもいいんだが、カフェはきっとそういうのはお気に召さないだろうからねぇ……手短に言うよ」

「……」

 

 名前を呼ばれて、僅かにカフェが反応した気がする。そう思いたい。やがて画面の中のタキオンが、ゆっくりと口を開いた。

 

「年末の中山で待つ」

 

 ……なんだって?

 

「私は運命を超えた。不可能と言われた復帰を果たす。……復帰戦で討つのは、世代最強のウマ娘、マンハッタンカフェだ」

 

 ライバルだ。あらゆる理屈より先に、その語句が頭を掠める。

 

「……親愛なるBプランへ。君は間違いなく強い。私が全身全霊でサポートしたのだから当然だがね。……でも、スピードの向こうを見るのは私だよ」

 

 アグネスタキオンは、確かに競走生命を終えるとあの時宣言したのに。

 運命が、姿を変えた。ならば。

 

「……カフェ」

「カフェ」

 

 画面の中のウマ娘と同時に、俺は彼女に語りかける。

 

「私と走ってくれないか」

「俺と走ってくれないか」

 

 言葉すら重なる。けれど、その意味はまるで違うだろう。それでいい。

 

「……わた、しは」

 

 彼女の瞳に闇が宿る。口元が少しずつ、意思を持つ。

 

「俺と」

 

 そう言って、考えるより先に華奢な身体を強く抱きしめる。……彼女と契約した時の真逆だ。奇しくも外の天候も、あの時と同じ雨。

 

「俺と行こう。もう一度!」

 

 やっとわかった。彼女を連れて行くということの意味。彼女のためになるだけでは足りない。それはマンハッタンカフェというウマ娘と、手を繋ぐことを意味していて。

 手を繋いでいるなら、互いに互いを引っ張りあって。いつかは、並んで歩くのだ。そう、それが真に楽園へ行くのに必要なもの。

 

「運命は、私を運命の通りに処刑しました」

「誰にも運命なんてわからないよ」

 

 マンハッタンカフェに、魂が宿る。

 

「栄光は全て、運命の通りだと思っていました」

「そんなことない。君だから、君と俺だから勝てたんだ」

 

 彼女の両手を、強く強く握る。

 

「……屈腱炎は絶望的な故障です。まず年末には間に合わない。その先ずっと、走れないことだって」

「アグネスタキオンは復活した。そのライバルが、これくらいの絶望で挫けるわけがない。……いや、挫けさせないよ」

 

 そう、だって。

 

「君は、俺と」

「私と、トレーナーさんは」

「「楽園に行くんだから」」

 

 そう、遥か昔に契約したのだから。

 

「……ご心配をおかけしました」

「心が治っても、脚も治さなきゃいけない。……時間は短い」

「それでも、行かねばなりませんね。あのアグネスタキオンに宣戦布告をされたのだから」

 

 爛々と輝く黄金瞳。深闇を湛える真黒の長髪。そしてなにより、心に秘めたる焔の座。

 漆黒の摩天楼が、ここに帰還する。

 最愛の人と、楽園へ向かうために。

 



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初期設定のマンハッタンカフェと楽園

take me to paradise.


 屈腱炎。ウマ娘が一生走れなくなるような病気で、レース引退の原因としてはポピュラーだ。幻の無敗ウマ娘アグネスタキオンも例外ではなかった。運命には逆らえなかった。はず、だった。

 しかし彼女は再び走り出す。光を超え、運命さえ超えた。復帰戦は今年の有馬記念らしい。一年以上ぶりのレースが年末の中山とは、つくづく馬鹿げたウマ娘だとは思うけど。それならば、宣戦布告を受けた私も馬鹿げていなければならないだろう。

 日本に帰国してからの2ヶ月。この極めて短い期間で私も屈腱炎を克服するのだ。まだ凱旋門での敗北も、そこで気づいてしまった脚の違和感も色濃く覚えている。でも、その先の道へと私たちは一歩足を踏み出した。

 全てが激しい向かい風の中だとしても。それでも、前へ。前へ。

 そう、前へ。

 

 

「ふっ……!」

 

 トレーニングマシンを使って、脚に負担をかけないように全身を慣らしていく。早期に気づいた故に私の脚はまだ軽い炎症で済んでいるらしい。それならば、次の一度さえ我慢すれば─。

 そんな思考をすぐさま止める。君が抱きしめてくれた時の熱い身体と心臓を思い出す。私だけなら壊れ果ててもいいかもしれない。でも、私たちは無限に羽ばたくのだ。果てなく続く楽園への道は、漆黒と純白の二重奏によってのみ踏破される。

 君のためにいることが、私の存在意義で。私のためにあることが、君の存在意義だと。私たちはそれぞれの役目を、相思相愛となんら変わりないものだと見つけたのだ。

 求むこと。与うこと。それらは等しい。貪られることを望むが故に差し出し、噛み砕くことを望むが故に捧ぐを受ける。だから。

 

「どうだ、カフェ」

「おや、トレーナーさん。トレーナーさんにも調べることがあるのでは?」

「……すまん、君が気になって」

「私もです。……来てくださって、嬉しい」

 

 私たちは、互いだけを見ていていい。

 

「出走登録なんだけどさ、当然脚の不調は隠せないし、治る、走れると言えるようになってからにしなきゃいけない」

「当然のことですね。私の惨敗はきっとこちらでもニュースになっていたでしょうし、脚の不調も知れ渡っている。……以前なら、苦痛くらいは隠して走れたのですが」

「もちろん、俺はそんなの許さないよ。君の細かい表情から、痛みを隠してたとしてもそれを見逃さないつもりだ」

「でしょうね。トレーナーさんにはバレてしまいます」

 

 もちろんあらゆる治療は受けているが、走行途中の違和感はまだ拭えない。そのことに私が気付けば、トレーナーさんはすぐさま走るのをやめさせる。私の未来を慮ってくれているから。

 

「でも、出ますよ」

「……ああ。君は有馬記念二連覇を成し遂げるんだ」

 

 心の一致。これ以上に優しく強い力なんてない。だからそれは必然。脚を治す時間がなくとも、相手があの超光速の粒子でも。

 私たちが再び頂点に座するのは、必然なのだ。

 

 

 まず一枠一番───。

 

 誰かの名前が挙げられるたびに、大歓声が巻き起こる。当然、ここに並び立つのは並大抵のウマ娘ではないからだ。

 

 五番人気は───。

 

 ああ、ならば血湧き肉躍るとも。我が本質は大罪の獣。血に飢えた猟犬なのだから。

 

 復帰戦とは思えない抜群の仕上がり! 一番人気、アグネスタキオンの登場です───。

 

 これまでで一番の歓声。私を追う立場に立ったといいながら、結局貴女が一番人気か。私の唇から苦笑が漏れる。

 

 そしてこちらも注目のウマ娘! 目指すはライバルの打倒か、二連覇か! マンハッタンカフェ!

 

 ワアァァァァァ───。

 

 パドックに、私が立つ。私が目指すもの。否、私たちが目指すもの。愚問だ。そんなものはあの日、三年前のあの時からずっと変わらない。

 楽園だ。それ以外には、何も要らない。

 だからその前に立ち塞がる敵は、牙を以って罪科に溶かすのみ。

 輝く闇に身を包んだ少女は、光る羽飾りに触れながら一人想う。たとえ一人で舞台に立とうとも、既に彼女は独りではないから。

 運命は姿を変えた。この先の勝負の行く末は、誰にもわからないだろう。

 翼を広げて。彼女に今見えているのは、運命でもゴールでもない。そういった決まり切ったものは、既に役目を失った。

 黄金色の瞳が捉えた、楽園への道標は。唯一ずっと変わらないものは。

 

「さあ各ウマ娘、揃ってゲートに入ります」

 

 君しかいない。君が、連れて行ってくれるのだから。

 

「スタートしました!」

 

 運命の外へと、駆け出そう。

 

 

 アグネスタキオンは先頭集団に付けている。私は後方内側で、どちらもきっといい位置なのだろう。私がマークするとすればやはり、彼女しかいない。

 中山レース場のコーナーは六つ。内側を回っていけばそれだけ有利になる。そういった知識はアグネスタキオンも持っているだろうが、私には去年の経験がある。依然、有利だ。

 しかし、それでも警戒せねばならない。いくら復帰戦でも、初めてのコースでも、相手はあのアグネスタキオン。光と運命を超えたウマ娘なのだから。

 

「ふーっ……」

 

 息を入れる。徐々に前方に進出し、スパートのタイミングを見極める。中山ラストの直線は310mで、決して長くはない。差しの戦法を取る私はここで勝負を決める必要がある。……行こう。

 四つ目のコーナーを曲がり、バ群が出来て来た。……ここまで来たなら、内側を走り続ける必要はない!

 だっ、と大外へと向かう。刈り取る体勢に入る。ステイヤーとしての私の素質は、この距離でもそれなりに余裕を持って走り続けさせてくれる。……そして、アグネスタキオンは。

 

「アグネスタキオン、抜け出した! この距離からロングスパートをかけるか!」

 

 ちっ。早めにねじ伏せてしまうつもりか! 彼女には先行バの中では負けるはずがないという自負があるのだろう。故に、警戒するべきは私のような差しウマ娘のみ。だから早めにスパートをかけ、距離を取ってしまうのだろう。……だが、なら。やるしかない。

 私だって、この程度の早仕かけに耐えられないような脚はしていないのだから。

 

「おっと! マンハッタンカフェ、大外から猛追! ぐんぐん伸びていきます!」

 

 貴女が力でねじ伏せるというのなら、私はそれ以上の力を振おう。

 集団から抜け出して、二人の一騎討ちが始まる。こんなにも早く勝負を仕掛ければ、それだけスタミナ切れのリスクを背負わなければいけないけれど。

 

「私は貴女に負けるわけにはいきません……アグネスタキオン」

「ふぅン……。同感だね、カフェ!」

 

 宣戦布告を受けた手前、勝負しないのはあり得ない。激しく競り合い、そのまま直線へともつれ込む。

 

「……はあっ……はあっ……!」

「アグネスタキオンにマンハッタンカフェが追いついた! しかしアグネスタキオンも差し返す! これは意地だ! かつて世代最強と言われたウマ娘と、"今"世代最強と言われたウマ娘の意地だ!」

 

 思えば彼女が居なくては、私はここまで辿り着けなかった。さまざまなサポートを受けた。挫折からの立ち直りに於いて、彼女の助けは必要だった。そして、最後。この瞬間。

 

「二人とも失速しない! 衰えない! 最強がここで決まるのか!」

 

 もう、一、回!

 

「おっと僅かに、僅かにマンハッタンカフェ! まだ脚が動く、動いている! そのまま───」

 

 ありがとう、アグネスタキオン。貴女のおかげでまた、私は未来を目指せる。

 

 

「……ふぅ」

「はっ……はーっ……」

「お疲れ様、カフェ」

「そちらこそ、タキオンさん」

 

 芝の上に寝転がり、互いを労う。

 

「……やはり早仕かけはまずかったかな! 私としたことが……早く走りたくってたまらなかったんだ」

「おやおや、負けた途端に言い訳ですか?」

「これは手厳しいね。……でも、やっぱりいいものだね」

「……ええ」

 

 レースでしか得られないもの。その最後のピースを、ライバルを。漸く私たちは見つけられた。

 

「また走りましょう」

「ああ、勿論だとも」

 

 やがて意識がはっきりしてくる。二人の会話は、称える大歓声に覆われていく。

 

 

「カフェ! その、その……」

 

 地下に戻ると、トレーナーさんが出迎えてくれた。言葉に詰まるのを見るのは初めてだ。でも、私も告げられる言葉がない。……ああ、一つあった。

 

「ねえ」

「私は、辿り着けた?」

 

 息も絶え絶え。思考も拙い。それでも、これだけはずっと揺るがない言葉だ。

 

「ああ」

「俺たちは、互いをここまで連れて行ったんだ」

 

 そう、返答があった。側から見れば意味のわからない会話でも、私たちにとってはこれ以上ない。

 そのまま、倒れるように君に抱きついて。君も、私を抱きしめてくれて。

 

「……トレーナーさん」

「おめでとう」

「そうですね、ここだったんですね……楽園は」

 

 魂が満ち足りる場。二人の場所。それはつまり二人で互いを見つめながら居るならば、何処であろうとも。

 

「漸く、しっかり口にできることがあります……いいでしょうか」

「もちろん。カフェの頼みなら」

 

 かぷり。君の舌に噛み付いて。吸い尽くすように貪って、唇を離した後に言の葉を紡ぐ。

 

「好きです、トレーナーさん」

 

 それは何度も咀嚼した気持ちだったけど。きっとそれを初めて告げた私の顔は、くしゃくしゃの笑顔で染まっていたのだ。

 ずっと、本当の永遠。楽園は、私の傍に。

 



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This is my love song.

 ねえ、早く連れて行って。
 その言葉から私は始まった。或いは君も、そこから始まったのかもしれない。
 私という心なき獣は、確かに咎を重ねていった。他者の希望を踏み躙り、己の欲だけを満たさんとした。そのままではきっと、辿り着くことは叶わなかっただろう。
 ああ、でも。
 君が連れて行って、くれたのだ。
 君の傍という、楽園へ。

 ─────This is my love song.


 トゥインクル・シリーズ最初の三年間。俺の担当ウマ娘であるマンハッタンカフェは輝かしい成績をおさめた。無論そこにあった苦難も忘れられないものだが……でも、確かに。

 確かに彼女は今、ここに居る。俺の傍で、微かに笑みを浮かべている。

 

「美味しいですね、このコーヒー」

「そうか。カフェが言うなら間違いないな」

 

 労う意味も込めて、彼女と一緒に人気の喫茶店へやってきた。正直カフェの方がそういったことには詳しいのではないかとも思ったのだが、彼女曰く俺が場所を選ぶことに意味があるらしい。

 

「……そういえば」

「どうした?」

 

 そう聞くと、ずずい。カフェは目と鼻の先に顔を寄せてくる。

 

「……あの時の、返事。あれはレース後の気の迷いではないつもりなのですが」

「うっ……」

 

 わかっている。そうだとも、覚悟を決めなければなるまい。選択肢は実質一つだし、決まりきっているし。……しかし。

 

「トレーナーさん、私では……」

「まさか! そんなわけない!」

 

 むしろ魅力的すぎるくらいだ。だが、とかしかし、とかそう思ってしまうくらいに。ええい邪魔するな倫理観。自分に正直になって……。

 

「そうだ。……こほん」

 

 よし、よし。

 

「カフェ」

 

 彼女の眼を、見て。

 

「俺も、君を愛してる。……ああ、ずっとだ」

 

 告げる。

 

「最初会った時を覚えてるか? あの時は正直、有名人のカフェのことなんて俺とは関係ないと思ってたよ。でも、今ならわかる。俺たちじゃないと、だめだ。俺と君と、そうでなきゃここまで辿り着けなかった」

 

 だから。

 

「だから、そう。もう俺は、とっくに君がいなきゃダメになってるんだ。……頼む。ずっと一緒にいて欲しい」

「永遠でも、いいですか? 退屈しないと思いますか?」

「当たり前だ。見飽きることも、話疲れることもないとも」

「……宜しい」

 

 問い詰めるような金の瞳は、愛おしむような輝きに変わる。……もちろん、ここまで言ったのだから責任を取らねば。

 

「だから、明日からもよろしく」

「……そうですね……もう少し、物足りないですね」

 

 えっ。何が足りないのだろう。そう、言葉に発する前に。

 

「……んっ」

 

 かぷ。最早何回目かもわからない甘い痺れが、血液と共に肩から吹き出す。傷痕を重ね、愛を重ねる。

 

「ふぅ。……やはり私は、言葉だけでは愛し足りないようです」

 

 妖しく、うっとりと笑みを浮かべる。それを見て、沸き立つ心に想う。

 ああ、俺は。彼女の全てを愛している。

 

  ※

 

 アダムとイヴは、知恵を得たことで互いを求めるようになった。

 純粋無垢な神の似姿から、欲と罪に塗れたヒトへと堕ちた。

 楽園を追放され、楽園を切望し続ける罰を得た。

 それは原罪。我々ヒトが愚かであるという神話。

 ……けれど、こうも思うのだ。

 互いを求めなければ、私は君とは出会えなかった。罪を重ねなければ、私は何処へも行けなかった。何も知らなければ、運命への叛逆も成らなかった。

 知ることが罪であり、罰であるとしても。無知で純粋な三年前より、強欲で低俗なのが今だとしても。

 私は、君に逢えて良かった。

 楽園へ、君と往けて良かった。

 ねえ、愛してる。

 

 ─────これが私の、あいのうた。



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EXtra Scene

外伝


 私は、見知らぬ場所にいた。場所という表現が適切かはわからない。何しろそこは非現実を極めた光景で。

 万華鏡のように光が散らされた空と地面。幻想色の車輪がゆっくりと廻り、夢幻色の窓たちが底すら見えず揺らめいている。

 誰かの夢だというのなら、筋が通っているかもしれない。それほどまでにアンリアル。あるいは誰かにとっての心安らぐ場所なのかもしれない。謂わば、そう。

 楽園のような。

 

「……どなた、ですか……?」

 

 おっと。この舞台の主であろう声が私に呼びかける。如何なる状況でも礼儀というのは大切だ。そう思い、振り返って挨拶をしようとしたところで。

 

「おや」

「……アナタは……」

 

 そこにいたのは、私と瓜二つのウマ娘。見た目だけではない、何もかもが同じに感じられた。あり得ないことだけれど、その感覚を受け入れた。

 

「……アナタは……『お友だち』……では、ないですよね」

「貴女は自らと同じ姿を見て、鏡以外に心当たりがあるのですか?」

「……そう言うアナタも、鏡を見たような反応ではないですが」

「そうかもしれませんね。職業柄自分の姿を眺めることは多いですし、鏡とは自分自身のことですから」

 

 風景はまだ夢想の中。そこに居るのは私と、もう一人の私。何かは確かに違うけれど、間違いなく同じものがある。

 

「……ここに誰かが"入ってくる"ことは……初めてかもしれません」

「ここは貴女だけの場所。そうだとしたら、お邪魔してしまいましたね」

「……いえ……あの子も。『お友だち』も、居ますから。……あるいは私よりも、ずっと」

「『お友だち』、ですか。ひょっとしたらこの邂逅も、その子の差金なのかもしれませんね……少し、話をしましょうか。ここで会ったのも何かの縁」

「……縁、ですか……実はその言葉について考えたことは何度かあります」

 

 ほう、興味深い。無言で続きを促すと、己の写身のような少女は語り始めた。

 

「何処か、繋がるべき定めがあって。我々ウマ娘という種は、運命というものを色濃く印す種族なのではないか」

「運命、ですか。私もそれを感じたことがありますね。……憎たらしいほどに、我々を縛る」

「……そうですね。思えば私も、ずっとあの子に縛られているのかもしれません。追いつき、追い越す。それを目指すのも、運命故なのかもしれません」

「追いつけるはずの無いものを追いかける。それが貴女の目標ですか」

「……おかしい、でしょうか……」

 

 無論。

 

「いいえ。我々が目指すのは寓話や神話でなければなりません。……素晴らしいじゃないですか」

「……私が追いかける程、あの子は速くなります。さらに、さらに。追いつけないからこそ、追いかけるのです」

 

 なるほど寓話のようだ。物語は役割の下に進行して、常に何かを教えるもの。

 

「なるほど。私の場合と似ているかもしれません」

「……アナタも、誰かを……?」

「私の場合は、『楽園』でした」

 

 その言葉について説明するのは初めてかもしれない。でも彼女になら、伝わる気がする。

 

「何処までも、果てなく続いていく楽園へ。方角は知れど、距離はわからない。遠すぎて視界に入れることすら叶わない。……けれど、必ず辿り着くと」

「……似ているけど、違いますね」

「ほう」

「……私はいつまでも追いかけます。ずっと背中が見えるからこそ、『お友だち』を追いかけます」

「そうですね。私は遥か先を求めた。未だ道筋すら判らず、それでも動かぬ楽園を求めた。……永遠に届かないなんて、退屈が過ぎますから」

「……今は、届いたのですか……?」

「一人では叶いませんでしたよ」

 

 そうだとも。君が連れて行ってくれた、場所だ。

 

「……でも、貴女は永遠に追い求めるのでしょう。そこに、幸せを見るのでしょうね」

「私とアナタは結局違う。そういうことかも、しれませんね」

 

 黒の長髪。金の瞳。その奥に潜む魂さえも同じに見えたけれど。

 

「……アナタにあの子は見えないし、私に楽園は見えません……けれど、それは悪いことではない」

「我々には差異がある。故に、我々のどちらかが消える必要はない、ですか」

「……随分と、物騒なことを考えるのですね……」

「これは失礼。けれどドッペルゲンガーとは、本来相手を呪い殺すものでしょう」

「……逆説的に、私たちは幽霊や怪異ではないのですよ。……互いに、一人のウマ娘なのです」

 

 奇妙で奇怪な出会いだが、結論は随分と現実的だ。うん、悪くない。

 

「……そろそろ、夢が明けるようです」

 

 目の前の彼女がそう言うと、呼応するように視界が歪む。

 

「さようなら。恐らくきっと、これきりですね」

 

 私がそう言うと、更に世界は途絶えていく。

 

「種の巡り、神の思し召し。……私とアナタの出会いもまた、そう言ったものだったのでしょうか」

「運命や神に左右されるのはそれほど好きではありませんね。それより、私たちの手で掴んだものがいい」

 

 消えて、光は白くなって。

 

「……ならば、またの出会いも掴みます……少なくとも私は、そういうウマ娘です。……マンハッタンカフェさん」

「なるほど、やっぱり私たちは似たもの同士ですね。私が辿り着いたものも、同じです。……さようなら、マンハッタンカフェさん」

 

 そうして、終わった。

 

 

 

 そういえばタキオンさんが言っていた。並行世界というものはそれほど非現実な話ではないし、カフェなら非現実だとしても別世界と巡り逢い得るのではないか、と。

 目標の差、魂の在り方。それらは違いを見せ、同一性を思わせる。光と運命を超えた先に、この出会いがあったのかもしれない。

 私と私の、出逢いが。

 今度会ったのなら、彼女のいう楽園で。あの子と私と、更なる私とで。そう未来に想いを馳せた。

 静かなる陽射しを受け、夜から目覚める。

 今日も、『お友だち』を追いかけるのだ。それがマンハッタンカフェというウマ娘なのだから。



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「仇敵」

うほ


 アグネスタキオンというウマ娘がいる。高名な一家に生まれた異端児だとか、あるいはトレセン学園で謎の研究を繰り返す問題児だとか。とにかく私というウマ娘は、奇異や恐れの目で見られているというわけだ。

 別に他人からの評価を気にするタチではないが、私からすればウマ娘という種族そのもの、いわば『普通のウマ娘』を標榜しているような者達の方がよっぽどおかしいとすら思ってしまう時がある。例えば我々はなぜ走るのか? 走るのが本能だから? ならばなぜ走れなくなった私は自死を選ばずのうのうと生きているのか? そういった疑問はことごとく連鎖し、戯れのはずの思考はあらゆる支障を及ぼす。

 つまるところ暇つぶしに考えを巡らせるだけなら、適当なところで止めるのがいい……というわけだ。

 さて。師走も中頃のこの日、私が時計台の下で長々と暇つぶししているのは、レースから身を引いて暇を持て余したヒマ娘となってしまったから……というのも多分にあるが、ちゃんとそれなりに真っ当な理由がある。白い息を吐きながら街中の目立つところで突っ立っている理由が。

 ……やれやれ、『彼女』はまだ来ないのか? 待ち合わせ場所を間違えているのではないか、そう思い見渡して、目を凝らす。

 

「……あ」

 

 少し離れたところに立っていた、帽子からコートまで黒一色に身を包んだ少女と目が合った。……まったく。

 

「おいおいカフェ、仮にもデートなんだよこれは。なんでそんなに目立たない格好で来るんだい? そのまま見落としたら今日を丸々棒に振ることになるだろうに」

「"仮にも"デート、ですか。そんなこと一言も聞いていませんが。周りにいるのはカップルばかりですが、我々はそうではないでしょう」

 

 そう、薄い表情を崩さず答える少女。彼女が今日誘った待ち合わせの相手であり、近々我が世代の代表として有馬記念に挑むウマ娘……マンハッタンカフェだ。

 

「ハッハッ! 相変わらず冗談が通じないねぇ……だが私が君を見初めたのは事実だよ?」

「そうですね。私は貴女の被験体の一人ですから」

「そういうことだとも、親愛なるプランB。……さて、今日もその一環だ。なに、君はきっと息抜きが足りないと思ってね」

 

 そう言うと、マンハッタンカフェは少し首を傾げる。

 

「トレーナーさんにはそれなりに休息を頂いていますし、たまに一緒に外出もします。貴女にお節介を受ける筋合いは」

「あのねえカフェ、これでも私は君のサポーターだよ? その休息が副業の女優業に費やされていることぐらい知っているよ……。ましてやトレーナーとのお出かけなんてとても君がリラックスできているとは……おっと」

 

 危ない危ない。露骨に目付きが鋭い。せいぜい仲良くしていきたいものだが、カフェからすると私はそうでもないらしいな。

 

「……わかりました」

 

 しばしの沈黙の後、呆れ顔で眼前のウマ娘は言う。

 

「私の息抜きも、私のサポートをする貴女の仕事。そういうことなら、来たる有馬記念に向けて万全の状態を整えるためには断れないですね」

「いやあ理解が早くて助かるよ!」

「理解の早いモルモットは好みですか?」

 

 ……ふぅン。

 

「答えたくないなら、構いませんよ」

「……そうだね。じゃあ今は、お言葉に甘えるとしようかな」

 

 誤魔化すように、マンハッタンカフェの手を取る。……感情の機微を弄ぶことについては、彼女に一歩分がある、か。

 

 

「……で、水族館ですか。本当にデートと勘違いしているのでは?」

「カフェ! 見たまえ! 生命の源泉、それは大地ではなく海なんだよ。つまり地を駆ける我々ウマ娘にとっても海の神秘は切っても切り離せないものであり」

「……はぁ」

 

 いやあ実に興味深い! それなりに時間は持て余しているが行く機会がなかった場所、そういうところは何かに理由をつけられるならその時に行くに限るねぇ……。

 

「そんなに面白いですか?」

 

 おっと。真横に来るまでついついカフェのことを忘れていた……今日のメインパーソナリティなのに。

 

「随分つまらなさそうだねえ」

「まあ、ロケでそれなりにこういうところには来ますからね」

「じっくり見るわけではないだろう? 魚の動き、構造、解説……そういうものは見ないだろう」

「水族館での逢瀬というのは、こと雰囲気を楽しむものですよ。水槽に囲まれ、生命の動きを目の端に捉える。それがロマンチックだったりするだけであって、本質は愛し合う二人が並んで歩くことですから」

「ハッハッ! なんだ、私より水族館に詳しいんじゃないかい?」

「メロドラマの定番スポットですからね。流石に最近はあまり見ないかも知れませんが」

 

 まあ、そういうことなら。

 

「……じゃあ、行こうか」

「……? 何を……っと!?」

 

 私はぐいっ、と彼女の掌を掴み、引っ張って歩き出す。何事も経験。だから、デートの作法があるならばそれに則ろうじゃないか。

 こつ、こつ。足早にならないように気をつけているつもりだが、なにぶんウマ娘というものの本能は走ることだ。故に歩を進めるだけで気分は高揚し、ぐいぐいとカフェを引っ張ってしまう。……まあ、彼女も見飽きているらしいしこれくらいは──

 

「ちょっと」

 

 ぐいっ。

 おや? と思ったのも束の間、私の腕は逆方向に引っ張られる。

 

「……どうしたんだい、カフェ」

 

 引っ張ってきたのはもちろんマンハッタンカフェ。相変わらず意図の読めない端正な顔でこちらを見つめてくる。

 

「はあ……息抜き、デートと言ったのは貴女でしょう」

「ああ、そういえば」

 

 すっかり忘れていた。このままでは息を抜くまでもなくあっという間に終わらせるところだった。

 

「ならば。もう少しゆっくり行きますよ、タキオンさん」

 

 そう言ったきり、彼女は繋いだ手を離す。まるで先程まで手綱を握られていたかのようだな、と思った。

 それを離したのだから、我々は対等なのかもしれない、とも。

 

 

 そうしてゆっくりと館内を巡ると、それなりに時間は経っていく。……紅茶が飲みたいな。

 

「ねえカフェ、そろそろ休憩しないかい」

「いいですよ。ちょうど水筒は持ってきてありますから……ほら」

 

 彼女の鞄から、水筒が差し出される。……うーん。

 

「……時にカフェ」

「はい」

「それの中身は」

「コーヒーですが」

「……彼はもう少し気が利いたものだが……はぁ」

 

 大きくため息をつくと、カフェも小さくため息をついた。

 

「貴女の嗜好なんて知りませんよ……では我慢してください」

「むぅ……そうだ」

「何か思いついたようですが、碌でもない企みなら協力は」

「ここ、喫茶店があったはずだよ」

「……ほう」

 

 カフェの目の色が変わった。チャンスだ。

 

「そうだそうだ、これでもリサーチというものをしておいたんだ……出口付近にあるはず」

「では」

「行こうか」

 

 意気投合は完了した。……普段からこれくらいスムーズな会話ができればいいのだけど。

 

 

「いいですね、ここのコーヒーは」

「それはわからないが、この紅茶は美味しいねぇ」

「それだけ砂糖を入れておいて味を語るのは正気とは思えませんが」

 

 やれやれ、私から見ればブラックコーヒーなどそれこそ狂気の沙汰だが。

 

「……それにしても、今日はどうして水族館へ?」

 

 お互い半分ほど飲んだ後、向かいテーブルの少女が沈黙を破った。

 

「ああ、そんなことか……個人的に興味があってね」

「やはり息抜きだなんだは建前で、そういうことですか」

 

 そう言われても否定はできない。否定するようなことでもない。

 

「前から少し、考えていたんだよ。幸せに整えられた水槽の中で、泳ぎ続ける彼らのことを」

「……なるほど」

「極論を言えば、あの中にいる限り移動する必要はない。何処へ行っても何処にも行けない、それがここの生物達の一生だ。

 ……なのに、彼らは目まぐるしく泳ぎ続ける。輪を描き、何度も輪廻する……何かに似ていると思わないかい?」

「我々がターフを駆けるように、ですか」

「正解だよ、カフェ」

 

 そう。ウマ娘が走るのは何故か? 本来脚は移動の為に生えており、無意味な周回を繰り返す必要はあるのか? 結論から言えば必要はない。いや、正確に言えば。

 我々ウマ娘は、走ることそのものに必要性を感じているのだ。その運命のようなものから、誰しも逃れられない。

 

「……君と二人きりで話をしたかったのも、嘘じゃない。私の現状は知っているだろう? 走れないウマ娘は、それ以外の数多の娯楽、世界を知ってなお満たされない」

「それは……」

「おっと。同情を求めに来たわけじゃないよ。結局のところ私を突き動かすのは好奇心だ。例えば今まで走ることを選択していなかったウマ娘が、どんな世界を見ていたか。

 走ることを選択しないウマ娘の一人として、他のウマ娘がどうやってその世界に価値を見出していたのかを知りたいのさ」

 

 だから、こうやって。かつてのマンハッタンカフェは何を見て生き、今は何を求めているのか。それを知りたい。

 静寂の中、互いのカップを啜る音だけがしばらく響く。……思考をまとめたのか、マンハッタンカフェはゆっくりと話し始めた。

 

「私は……ええ。かつての私は、この命の退屈さを必死に噛み殺していました。己の怠惰を殺し、女優としての研鑽を積む。息をする間を限界まで削り、死を想うことで生を喰む」

「それは、幸せだったかい?」

「幸せ、ですか。側からみれば満ち足りていたと思いますが」

「……なるほどね」

 

 つまり、足りなかった。ならば。

 

「ならば、今は幸せかい?」

「かつての私とは何もかも違います。他者に迷惑をかけ続け、本性を剥き出しにして」

 

 でも。

 

「……でも、私は。飢えを間近に感じる今こそ、より近づけた気がしています……幸せには、まだなれませんが」

「……なるほどね」

「走らない幸せの回答を期待していたなら、申し訳ありません」

「言っただろう? 気休めや同情ではなく、好奇心だと」

 

 そこで言葉を切り、また紅茶に口をつける。相対する彼女も、コーヒーを喉へと流し込んだ。

 

「さて、そろそろ行きましょうか」

「今日はありがとう、カフェ」

「それはこちらの台詞ですよ」

 

 席を立ち、片付けを終えて。店の外はすぐ水族館の出口だ。あっという間の時間だったが、なかなか興味深かった。

 ……ああ、そうだ。

 

「そういえば、カフェ」

「……はい?」

「二人でお出かけまでしたのだから、私と君は……そう、『友人』ということでいいのかな?」

 

 たまには歩み寄りというものが必要だろう。柄にもない発言だが、悪い気はしな──

 

「いいえ」

「……は?」

「私達の関係は、ずっと変わりませんよ。逢瀬の真似事をしようと、それで仲良しこよしになる類の人種でしたか、貴女は」

「ふぅン……いいだろう。なら、君は私達の関係をどう捉えているのかな?」

「仇敵です」

 

 即答だった。

 

「……フフフ、ハッハッ! そうかそうか、なるほどねぇ……今までもこれからもずっと、我々は仇敵なのか」

「ええ。変わらず、これからもです」

「結構……ああカフェ、先に帰っててくれるかい? 急用が出来た」

「やれやれ、相変わらず無軌道な行動ですね……では」

 

 そう言って去る彼女の口元は。あるいはそれを見送りながら、古い連絡先を辿る私のそれは。

 同じように、薄い月を浮かべていた。



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