学園お抱え装蹄師の日常  (小松市古城)
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1:造蹄

 

 

 薄暗い工房内で、金属を叩いたときの、高く、硬く、重さのある音が一定のリズムを刻み、響いている。

 

 その男は鉄を叩いていた。

 

 赤く熱した鉄の棒を、左手に持ったヤットコ鋏でつかみ、右手に持ったハンマーで叩いて思い描いた形に変えていく。

 

 鉄の棒の持ち方を変え、思う部分に曲げを加えながら、叩き、冷やし、また熱して、整形していく。

 

 ある程度形を整えて、左手の道具を持ち替える。

 平面を穿って模様を打ち込み、また形を整え、表面を削り慣らしていく。

 

 10分前には一本の鋼棒であったものが、みるみるうちに形を変え、目的の成形物の姿を現しつつあった。

 

 それから5分ほど、男はさまざまな角度から眉間にしわを寄せつつ眺めては、鉄をたたいた。

 最後に大きめの水を張ったバケツにしっかりと沈めて熱を取り、布で水気を取って台に乗せた。

 

「っと、こんなところかな…」

 

 ガラン、と重たい音を立てた台の上には、20分前の鉄の棒から姿を変えた、蹄鉄が横たわっていた。

 

 

 男は背伸びしつつ工房から出る。

 薄暗い工房に慣れた目に外の世界は眩しく、目を細める。

 

「…!…!」

 

 遠くから、年頃のウマ娘のランニングの掛け声が聞こえてくる。

 

 男が工房を構えるそこは、「日本トレーニングセンター学園」、通称トレセン学園の敷地内にあった。

 広大な敷地を誇るトレセン学園の中でも、火を取り扱い、また作業音が響く彼の工房は、人のめったに来ない奥まった場所にあった。

 

 日が傾きかけた、ややオレンジ色に世界が色づく時間帯、男はその日初めての他人の声を聞いた。

 

「こんにちは。いい音がしてましたね。造蹄ですか?」

 

 声をしたほうを見ると、そこにはこの学園の理事長秘書を務める緑のお姉さんこと駿川たづなさんが眩しい笑顔をこちらに向けていた。

 

「ええ。ひさしぶりに時間があいたので、手慰みに叩いてみたんです」

 

 工房入り口にある古ぼけたベンチに腰を下ろした男は、あいまいな笑顔を浮かべながら言った。

 

「そうですか。今は造蹄からされる装蹄師の方も少なくなってきていますから、あなたのような若い方が技術を継承してくださると、我々としてもありがたいです」

 

 たしかに蹄鉄を素地の材料から作る装蹄師は減ったが、それはスポーツ用品メーカーが製造する量産品の蹄鉄の品質が向上してきたからに他ならない。

 

 つまり、彼の作る蹄鉄は、伝統技能の継承というほかにはあまり意味のないものになりつつあるということの裏返しでもあった。

 

「まぁ、今はウマ娘たちのつける蹄鉄もシューズと一体化して、蹄「鉄」といっても素材も多種多様。昔のような、職人がカスタムメイドでイチからつくるものが流行ることは、もうないでしょうね」

 

 事実、彼の今の仕事は装蹄師と言われてはいたが、実態は量産品のシューズや蹄鉄の調整、補修を主な生業としていた。

 

「蹄鉄やシューズはウマ娘の命を預かる大切な部分ですから…これからもよろしくお願いしますね。それでは、私はこれで」

 

 それだけ言うと、たづなさんはにこやかな笑顔を湛えたまま、立ち去った。

 

 男は、たづなさんを見送ると、ふるぼけたベンチの背もたれに体を預け、胸ポケットにしまっていた紙巻き煙草を咥え、火をつけた。

 

「おい、旨そうなモン吸ってるじゃねえか」

 

 今度はよく聞き知った声がする。

 今日は来客の多い日らしい。

 

「一本どうだ?」

 

 装蹄師の男は声のしたほうに、煙草の箱を差し向ける。 

 

「やめとくよ。娘どもは匂いに敏感なんだ」

 

 キャンディーを咥えた男は、同年代の沖野トレーナーだ。

 

 年齢もほど近く、彼が最初に担当したウマ娘の蹄鉄に問題が発生した時、対応にあたった時からの付き合いである。

 稼業違いではあるが、仕事自体はウマ娘を通じてつながっているため、お互い気安い同僚、といった関係だ。

 

「どうしたんだ。まだ娘どものトレーニングの時間帯だろうに」

 

「今日は少し早めに上がりだよ。ここのところ、練習が上手くいきすぎててな。ちょっとみんなオーバーワーク気味なんだ」

 

「ほーん。そんなこともあるのか」

 

「あるよ。まあ年頃の娘たちだ。調子の上下はそれなりにある。ここ最近はたまたまうまく噛み合ってるのさ」

 

「そんなもんかね」

 

 男は紫煙を細長く吐きだす。

 沖野トレーナーは羨ましそうに、口の中の飴をかみ砕いた。

 

「そういやさっき、久しぶりにいい槌音が響いてたな。なんか直してたのか?」

 

「…? あぁ。ひさしぶりに蹄鉄を打ってみたんだ」

 

「…蹄鉄を?」

 

「あぁ。鉄の棒から叩き起こした」

 

「お前、そんなことできたのか?」

 

 心外である。

 

「一応これでも装蹄師なんだぜ」

 

「そりゃ知ってるが…そんなこともできるんだな。ちょっと見せてくれよ」

 

 咥え煙草で工房に入り、沖野に手渡す。

 

「…見事なもんだなぁ…」

 

 沖野は蹄鉄をゆったりと、だが真剣な目で眺める。

 まだたたき上げたばかりの粗い表面だが、量産品にはない一品物の重み。

 手作業で叩いた跡が規則的に並び、蹄鉄の柔らかで立体的な曲面が芸術性すら感じさせる。

 

「いいなぁ…綺麗だ…」

 

 沖野は蹄鉄を手に取り、角度を変えて眺めながら、ため息をつくように言った。

 

「今時鉄製の蹄鉄もないもんだが、たまにはつくらないと、腕が鈍るんでね。もっともウマ娘に使ってもらうアテはないから、文鎮みたいなもんだ」

 

 咥えていた煙草を灰皿で揉みつぶす。

 

「仕上げしたら、やるよ。ペーパーウェイトにでも使ってくれ」

 

「いいのか?」

 

「あぁ。これは作ることが目的だったからな。目的は果たした」

 

「じゃあ仕上がり、楽しみにしとくよ。そいつのかわりといっちゃあ安いかもしれないが、今度一杯おごらせてくれ」

 

 男は、作った蹄鉄が沖野に評価されたことが素直に嬉しかった。




湿度あげるにはどうしたらいいんですかね。


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2:鉄のおっちゃん

書くのも投稿するのも初めてなんで、リアクションもらえるのがこんなに嬉しいとは知りませんでした。

次の話できちゃったんで、書いて出ししていきます。

書き散らしで恐縮です。


 

 たづなさんと沖野トレーナーが立て続けに来た翌日。

 

 基本的にウマ娘の足回りに関しての調整、修理、補修が生業の工房に、来客は多くない。

 せいぜい、一日に数人来れば多いほうで、一人も来ないなんて日も珍しくはない。

 

 ウマ娘のシューズや蹄鉄は、多くのメーカーから多種多様なモノが発売されている。入手についても他のスポーツ用品と同じく今は普通に店舗や通販で手に入る。

 

 男は入学したてのウマ娘たちにシューズや蹄鉄に関する講義も受け持っているが、それもガイダンス的な講義を入学直後に3時限程度、行うだけだ。

 

 トレーニングやレースを通して、足回りに問題を抱えるウマ娘は少なくないが、それはだいたいトレーナーの段階で解決され、男のところまでたどり着くことはあまりない。

 

 トレセン学園に雇われ、敷地内に工房をかまえているといっても、今となってはそれはウマ娘たちのさまざまなものが手に入りづらかった過去から続く因習によるもの、という気がする。

 

 そんな認識をもちながらも男は、市井の装蹄師として生業を立てることが難しい昨今において、今のように遇されることに感謝して、日々工房を開いている。

 

 

 男は朝から、昨日打った蹄鉄の仕上げ磨き作業をし、概ね満足のいく仕上がりにするために午前中を費やした。

 

 

 出来上がった代物を木箱におさめて一息ついていると、工房に今日初めての来客の声が響いた。

 

「鉄のおっちゃーん、いるー?」

 

 入口に立っていたのはウマ娘の中でもひときわすらりとした長身が目を引くウマ娘だった。

 

「ん…ゴールドシップか。どうした?」

 

 入り口から男のいる作業台までずかずかと入り込んだゴールドシップは、両手にひとつずつもった蹄鉄を差し出した。

 

「ちょっと蹄鉄がゴルシちゃんのパワーに負けちまってよー。このままじゃゴルシちゃんの熱い走りに差し支えるから直して欲しいんだZE!」

 

 トレセン学園が今も男を雇い、工房を維持し続けているのは、こういったウマ娘たちの足元の不具合に迅速に対応する役割を期待されてのことだ。

 

 ゴールドシップが差し出してきた蹄鉄を手に取る。

 

 アルミ合金製の競技用蹄鉄だが、歪みと深めのキズが目立つ。

 

「んぁ…結構がっつり歪んでんな…お前どこ走ったんだ…?」

 

 しっかり計算しつくされて製造・販売されている量産品の競技用蹄鉄だ。芝やダートを走った程度でこんなことになることはまずない。

 

「そりゃおめー、海辺の岩場だよ!」

 

「!?」

 

「昨日トレーナーが早く練習終わりにすっから、そのままひとっ走り行って海辺でお宝探ししてたんだよ!」

 

 なるほど。

 

「夕暮れの岩場でワカメみてーなのと鯛をざくざく狩ってたらこうなっちまったんだよ。なぁおっちゃーん、直してくれよー」

 

 なるほど。

 ゴールドシップの珍行動は学園内でもつとに有名だ。

 奇妙なことを言っているように聞こえるが、概ね事実なのだろう。

 今更驚くこともない。

 

「競技用の蹄鉄だからな…岩場じゃあ蹄鉄が負けんだよ…ていうか、岩場じゃ滑りやすいんじゃないか?」

 

 ただでさえパワフルなウマ娘、その中でも無尽蔵とも言われるスタミナを持つゴールドシップである。

 蹄鉄メーカーが想定するとは思われない、凹凸の激しい硬い岩場での酷使に、競技用蹄鉄では耐えられなかったのだろう。

 

「歪みはとってやるけどキズは深すぎて無理だ。それに一度歪んだ金属は強度が落ちる。今日の練習くらいには耐えられるだろうが、そのあとはもう交換しかないぞ。あと海辺にこの蹄鉄はやめておけ。滑って怪我するぞ」

 

 蹄鉄を金槌で軽くたたきながら、歪みを取っていく。

 

「わかったよーおっちゃん…今度から気を付けるからさぁ…あ、今度スゲェ頑丈な蹄鉄つくってくれよ!岩場でもガシガシいけるようなやつ!」

 

「遊び用じゃねぇか…」

 

「たまにはいいだろー!ゴルシちゃんスペシャル仕様の蹄鉄!なぁおっちゃーん…」

 

 まぁ、たまにはいいか。

 新しい要素に挑戦するのは、刺激にもなる。

 

「わかったよ。岩場でも滑りにくくて怪我しないようなやつ、考えておく。それまでは無茶すんなよ」

 

 と、会話をしている間に修正が終わった。

 

「ほれ。できたぞ。早いうちに新しいのに変えるんだぞ」

 

「おっちゃんサンキューな!」

 

「あ、ちょっと待て」

 

 修正した蹄鉄を受け取ってそのまま走り去りそうなゴールドシップを呼び止める。

 

「これ、おまえんとこのトレーナーに渡しておいてくれ」

 

 さきほど蹄鉄をおさめた木箱を渡す。

 

「なんだぁ?コレ。お宝か??」

 

 ゴールドシップは木箱を受け取ると、黙っていれば怜悧な美女に見える顔に幼子の好奇心の塊のような表情をつくり、中身を知りたがった。

 

「文鎮だよ文鎮。暇にあかせてつくったんだ」

 

「文鎮~?あれか?投げて投擲距離を競うやつか?」

 

「それは砲丸。これはペーパーウェイトだよ。誰かさんたちのための書類仕事が多いお前んとこのトレーナー様への献上品だ。丁重に運ぶんだぞ」

 

「おう!ゴルシちゃんまかされたZE!ゴルシちゃんのスペシャル蹄鉄も楽しみにしてっから、よろしく頼むぜ!んじゃな、鉄のおっちゃん!」

 

「おう。頼まれた」

 

 つむじ風のような来襲となったゴールドシップを工房の入り口まで見送ると、外のふるぼけたベンチに腰掛け、煙草を一本取り出し、火をつけた。

 

「お遊びとはいえ、あいつが怪我しねぇもんつくってやんねーとなぁ…」

 

 「鉄のおっちゃん」と呼ばれた男は、ゆっくりのぼっていく煙草の煙を目で追いながら、ゴールドシップから与えられた課題に思索を巡らせた。

 




なんかゴルシでてきちゃった…


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3:珍しい来客

 

 ゴールドシップの来襲からさらに数日。

 

 男は通常業務であるウマ娘たちの蹄鉄の加工・修理を行いつつ、ゴールドシップ専用の海の岩場スペシャル仕様の蹄鉄の試作に勤しんでいた。

 

 通常業務のフローは、一日朝晩の二回、トレセン学園事務局を通じて工房係という、いわゆる日直のようなシステムで担当になった生徒が補修希望の蹄鉄やシューズを届けてくれる。

 

 工房の外には依頼用と返却用のボックスがあり、たいていは依頼品は依頼用のボックスにそっと置かれ、作業が終了したものを納めた返却用ボックスから物を台車に積み替えていくだけなので、工房係の生徒とのコミュニケーションはあまりない。

 

 依頼品にはひとつひとつに作業依頼伝票が付され、その依頼内容に沿って作業を施し、作業終了とともに作業内容とコメントを伝票に書き入れ、事務局を通して依頼主に返却されていく。

 

 金銭のやり取りが発生するわけではないので、もちろん工房への直接持ち込みでも対応可能だ。

 伝票は学園側が男の業務量を把握し、修理履歴を保存しておくための存在なので、実態は依頼者と作業者のコミュニケーションツールといった側面が強いものだ。

 

 ちなみにゴールドシップのスペシャル仕様に関しては伝票発行されていない。

 そもそも学園側が関知する範疇のモノではないし、男の個人的な趣味で受けたようなモノだからだ。

 

 今朝も工房に、その日の工房係の生徒が依頼品を届けに来たようだ。外で蹄鉄が箱の中でひしめき合う金属音が響く。

 

「おはようございます」

 

 工房の入り口から声がする。

 栗毛の美しい髪をのぞかせた声の主は、サイレンススズカだ。

 

 デビュー前のトレーニングから好タイムを連発し、学内で評判となり、デビュー戦でも鮮烈な逃げ切り勝ちでその評判を確たるものにした。この世代をリードするであろうひとりである。

 

 人との交流が少ない男であっても、その評判は耳に入っていたので、相当なものであることは想像に難くない。

 

「あぁ、おはよう」

 

 男は声を返す。

 たまに丁寧なウマ娘が届けにきたときに挨拶を入れてくれることはあるが、割と珍しいことだ。

 もっとも男がいなかったり、作業をしていて気づかないこともあるから、そのせいなのかもしれないが。

 

「あの…」

 

 サイレンススズカは入り口でもじもじしている。

 

「ん…どうかした?」

 

「ちょっと、見ていただきたいのですが…」

 

 男はサイレンススズカに近づいた。

 

「どうかしたの?」

 

 彼女は競技用の蹄鉄を差し出した。

 

「その…最近、上手くレースで結果が出せなくて…それで…その…」

 

 彼女は鮮烈なデビューを飾った。

 しかしその後、思うような結果を出せずにいた。

 

「最近…うまくいかなくて…走り方もわからなくなって…それで…」

 

 言葉を選ばずに言えば、薄幸の美少女というたたずまいの彼女の表情から、薄く残った幸すらも消えていくようだった。

 

「ちょっと見せてもらうよ」

 

 男は伝票のついていない彼女の蹄鉄を受け取る。

 

「時間はあるの?」

 

 男が聞くと、彼女はコクリとうなづいた。

 

「じゃあ、ちょっとそこで待ってて」

 

 工房の隅にある低い間仕切りで仕切られたスペースにある古ぼけた応接セットへ彼女を促し、冷蔵庫からペットボトル入りの人参ジュースを取り出し、手渡した。

 

 

 作業台に蹄鉄を置き、ライトを引き寄せ、蹄鉄を照らし出す。

 

 男は作業台からいったん離れ、伝票の控えが整理されているファイルを開く。確か前に一度、彼女の蹄鉄がここに送られてきたことがあるはずだった。

 

 伝票はすぐに見つかった。

 

 彼女の字と思われる几帳面な字で、歪みのチェックをお願いします、と書かれている。

 

 それに対し彼は

 

・軽い歪みがあること

・摩耗が進んできていること

・左右非対称な摩耗となってきていること

 

 を指摘事項として記入しており、

 

・軽い歪みの修正

・左右の摩耗の違いは高いほうを切削し合わせる

 

 の作業を施した、と記録してあった。

 

 欄外に、左右の摩耗の違いが続くようならシューズ、ソールの再検討を、という注記をして、返却していた。

 

 対して、今日持ち込まれた蹄鉄を見る。

 

 歪みもなく、キズも少ない。

 比較的最近の製造ロットが打たれているメーカー品だが、ハードなトレーニングをこなしてきていることを象徴するように、摩耗は進んでいる。

 しかし、以前あったような左右の摩耗差はほとんどない。

 

 歪みがなく、キズが少ないのは安定したフォームで走れていることを意味している。

 左右の摩耗差がなくなったということは、今まで利き足のほうが推進力を強く出力していたために発生していたことが、トレーニングによって筋力の均衡がとれ、正しいフォームによって左右均等に出力されていることを意味する。

 

 レースという結果がすべての場では思うようにはなっていないかもしれないが、結果を求めるための手段として速さを研ぎ澄ませていく段階において、彼女は正しい努力をしていることを蹄鉄は示していた。

 

 低いパーテーションの向こうにある応接セットにちょこんと座る彼女の様子をうかがう。

 

 人参ジュースの封もあけずに両手で包み込むようにもち、不安と所在のなさゆえか、硬い表情だ。

 

 さて、どうしたものか。

 

 事実を述べるのは簡単だ。

 だが、その事実は、彼女のうまくいかない現実とは不整合な事実だ。

 

 この学園でもトップの成績を誇るリギルというチーム。その次世代を担うと期待されている彼女。

 

 そしてリギルは徹底的な合理主義と東条トレーナーの統率の上に勝利を積み重ねていくスタイルで運営されている。

 

 蹄鉄が示していることは、リギルの合理主義に基づいたトレーニングは確実に成果を生んでいることを示すのだ。

 

 しかしそれをうまく結果につなげられないということが、彼女本人にはどれだけ堪えることだろう。

 

 勝負師であることを運命づけられたうら若き彼女たちに背負わせるには、あまりにも重たいものでありはしないか。

 

 決めた。

 

 これは、大人の仕事だ。

 

「ちょっとこれ、預からせてくれないか。明日届けるから」

 

 男は彼女にそう言い、一旦彼女を帰すことにした。

 

 




なんかすごい硬派な展開になってしまっているんですが…


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4:大人の仕事

また書いて出し。

だってアクセス増えたりコメントいただいたりがすごくうれしいんだもの。
仕方ないね。


 

 

 サイレンススズカが蹄鉄を持ってきた日の夜。

 

 いつもならすでに店じまいしている時間だが、この夜、男は、工房で人を待っていた。

 

 待ち人は、チームリギルの東条ハナトレーナーだ。

 

 男と沖野トレーナーのように、東条トレーナーとも仕事上浅からぬ縁を持つ男は、今夜、工房に彼女を呼び出していた。

 

 夜に鉄粉で薄汚れたこの工房へ、名声高い妙齢の女性トレーナーを呼び出すなど、あまり褒められた行動ではないな、とは考えた。

 しかしサイレンススズカを帰した後、SMSで簡潔に要件と来訪を請う旨を伝えると、業務終了後に伺う、といかにも彼女らしい素っ気ない返信があったのだった。

 

 普段は工房内では煙草を吸わない男が、この時ばかりは炉の上に据えられた換気扇の下で三本目の煙草を吸い終えて、もみ消そうとしたとき、待ち人は来た。

 

「遅くなったわ」

 

 疲れなど微塵も感じさせない凛とした硬質の声とともに引き戸を開けて入ってきたのは、疲れた表情までは隠し切れていない東条ハナであった。

 

「悪いね、こんなところに呼びつけて」

 

 鉄粉と脂でやや黄色くなってしまった蛍光灯のあかりのせいなのか、東条ハナの顔色はあまり良くは見えなかった。

 

「いいわよ。あなたからの話なんて珍しいこともあるもんだわ」

 

 彼女はいつもトレーニング中に片手に備えるタブレット端末をソファに放り投げ、続いて彼女の身も、古ぼけたソファに倒れこむように放り出した。

 

「ビールとチューハイならあるが、どっちがいい?」

 

 倒れこんでうつぶせのまま、一言。

 

「ビール」

 

 男は、今朝は人参ジュースを取り出した冷蔵庫から、今度はビールを1本取り出して、そっと彼女の前のテーブルに置いた。自分の分はアルコールではなく、缶の緑茶だ。

 

「ビール、開けて」

 

 彼女はソファに身を横たえたまま、普段の振る舞いからは想像もつかない甘えた言葉を発した。

 

「よほどお疲れですな。気ぃ張りっぱなしで、大変なんだな」

 

「お気楽な鍛冶屋に言われたくないわね」

 

「装蹄師といってくれよ。一応そこにはプライドがあるんだ」

 

 彼女の缶ビールをあけてやる。

 プシュッと気の抜ける音が耳に心地よい。

 その音が合図だったように、彼女は身を起こしてソファに座りなおした。

 そこから軸線を少しずらした相対に、男も腰掛ける。

 

「相変わらず飲まないのに、アルコールは常備されてるのね」

 

「まぁ、おハナさんか沖野か、数少ない仕事仲間をもてなすために、多少は」

 

「用意のいいことで」

 

 それぞれの缶同士を軽くぶつけ合い、それを合図に二人とも一口、喉を潤した。

 

 男は緑茶缶をテーブルに置くと、彼女に煙草の許可を求め、彼女はそれに鷹揚に頷いた。

 

「煙草、やめないのね」

 

「最近じゃあ吸えるところも減っちまって、止め時だとは思ってるんだけどね。どうも、この悪いことしてる感じがやめられない」

 

「いつまで高校生みたいなこと言ってるのよ」

 

 呆れと諦めが混じり、それでも優しさが隠し切れない笑み。

 昔から変わらないな、と男は懐かしくなった。

 

 男と沖野、そして東条ハナの出会いは、男がトレセン学園に関わるようになった頃まで遡る。

 

 沖野とは、沖野が男の師匠格の装蹄師を訪ねたことからつながりが生まれ、同世代として親しくしてきた。

 彼女はその後しばらくして、沖野が男と約束していた飲み会の席に連れてきたのだった。

 その当時は2人ともまだ新人トレーナーとして自らのチームを持たず、サブトレーナーとして研鑽を積んでいた時期で、男も装蹄師の丁稚、というような頃である。

 

 数少ないトレセン学園内での同世代である3人は、だいたい沖野が音頭を取って集まり、時には夜通し呑み明かすような関係であった。

 もっとも男は下戸であり、いつも歩様が怪しくなった二人を送り届ける役回りではあったが。

 

 そのころからはお互い立場も変わり、昔のように気安く集まり酒を呑む回数は減ったが、若いころから続く関係性を互いに「戦友」だと思う気持ちは変わっていない、と思う。

 

「で、今日はどういう風の吹き回しなのよ。スズカの件って、何?」

 

 ほどよく力は抜けたまま、それでも眼鏡の奥からの眼光は鋭く、彼女は本題に切り込んできた。

 

「これなんだが」

 

 男は蹄鉄を作業台から持ってきた。

 

「これは…スズカの?」

 

 男は頷く。

 

「今朝、工房係の当番だったみたいでね。来たんだよ。で、これを見てほしいって、伝票なしで持ってきた」

 

 彼女は鋭い瞳を閉じて、背もたれにもたれかかり、天を仰ぐ。

 どうやらスズカの抱えている問題は、彼女としても重く捉えているようだ。

 伝票なしで持ち込んだ、というところにも、スズカ自身がトレーナーに知られることを避けた、と思われる節があることを感じ取ったのだろう。

 

「…それで?」

 

 天を仰いだまま、彼女は続きを促す。

 

「仔細に調べたよ。前にも一度蹄鉄の修正を依頼されたことがあったから、そのときの伝票と見比べてね」

 

 男は新たな煙草に火をつけ、二口ほど吸うと、続けた。

 

「前よりも確実に、彼女の走りは良くなってる。前はあった左右の摩耗差も消えて、歪みもなく綺麗なもんだ。かなり走りこんで蹄鉄がこの状態なら、フォームも筋肉のバランスも、ほとんどおハナさんが描く最良のバランスに近いんだろう?」

 

 じりり、と煙草の紙巻き部分が爆ぜる。

 

「現状、うまく走れていると思っていない彼女に、コレは俺が彼女につたえるべき話じゃないな、と思ったからさ。今や高名天下に轟くリギルの総帥にご足労願った」

 

 天を仰いでいた彼女が、大きくため息をついた。

 

「…うまくいかないのよ。スズカの能力自体は疑いないんだけど…」

 

 チームリギルの総帥が、凛とした声の張りを少し、弱めた。

 

「あの子は天性のものを持っている。それこそ、これまでのレースを過去のものにしてしまうような、絶対的な速さを狙える脚よ」

 

 缶ビールを呷る彼女は、それで勢いをつけているような雰囲気があった。

 

「…でもね、そのままではただの速さ。私が求めているのはどんなレース展開でもゴールで勝ち切れる、強さ」

 

 これこそが、リギルの真髄。

 最強チームの看板を名実ともに背負って、戦い続ける闘将の信念。

 

 

 男は、言葉を紡ぐごとに鋭さを増した彼女の瞳を真っすぐに見つめかえす。

 

 

 どのくらいそうしていただろうか。

 灰皿に差した煙草はフィルターまで燃え、嫌な匂いを漂わせた。

 

 

「…それだけじゃ、ないでしょう?」

 

 男は表情を変えずに、でもどこか気の抜けた声で問うた。

 

「……付き合いが長くなると、こういう時が嫌ね」

 

 そういうと、彼女は傍らに放り投げていたタブレットをとり、なにやら操作を始めた。

 

 男は一息つくと立ち上がり、冷蔵庫からビールをもう一本、彼女の前にことりと置いた。  

 タブレットを操作し終えると、男に手渡し、彼女自ら二本目の缶ビールを開けた。

 

「スズカの直近1か月の2,000m走のタイムよ。どう思う?」

 

 日付時間、天候、気温、バ場状態、1,000m通過タイム、2,000mゴールタイムがずらっと並ぶ。

 

「…これ…は…」

 

 ところどころ、太字や色付きで強調されているタイムがある。

 

 強調されたそれは、シニア級のG1、それもレコードタイムから1秒以内にまで肉薄した記録だった。

 

「このタイムが練習で、その頻度で出てしまうのよ。それが何を意味するか…わかるわよね?」

 

 マズい。

 非常にマズい。

 

 男は嫌な汗が背を伝うのを感じながら、彼女を見る。

 

「このままじゃスズカの脚は、速さで、潰れてしまうわ」

 

 そう告げる彼女の瞳は、いつもの怜悧な光が消えうせ、悲しみにくれているように見えた。

 

 






肩の力を抜きなさい>私


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5:幻のウマ娘

 ウマ娘が走るのは、本能故と言われている。

 

 ウマ娘の起源そのものについては、さまざま研究はされているが、今でもはっきりしたことはわかっていない。

 しかし壁画に残る古来の昔から、人間の友として共に暮らし、生活を支えあってきた。

 

 現代においては人間と同じ市民権を持ち、パワーの差はともかく、その生活自体は食に関する嗜好の違い以外は、大きなものはない。

 

 ただ、速さを競うという彼女たちの本能を生かしたエンターテイメントが興業の側面を持って経済的に確立されたのは比較的最近と言っていい。

 

 その華やかな陽のあたる世界が創造されるまでには、人間の歴史と軌を同じくして陰、闇といわれる部分も多くあるのは確かだ。

 

 そして現代のレースの世界でも、華やかな部分が明るければ明るいほど、陰もまた濃くなるものなのだ。

 

 

 

 朝、男は工房の隅にある6畳ほどの畳敷きの小上がりで目を覚ました。

 

 生活用の部屋は学園によって用意されており、トレーナー寮の一室が与えられているが、昨夜の東条ハナとのやり取りのあと、どうにも帰る気になれずに工房で夜を明かした。

 

 工房に備え付けのシャワー室で熱めの湯を浴び、昨日のおハナさんの言葉を思い返す。

 

 スズカの蹄鉄の返却について、おハナさんに託してしまおうかと考え、それを伝えたとき。

 

「…あなたが相談を受けたのなら、あなたが返しなさいな。スズカが縋った大人は私じゃなくあなた、なんじゃないのかしら?」

 

 縋った、というのはいささか想像力が先行し穿った認識だとは思うが、道理ではあると思った。

 

 シャワーを浴びて自らの思考にリセットをかけた気分になったあと、男はふと思い立って工房の裏にある倉庫に向かった。

 

 ここは以前使われていた工房で、築年数ははっきりとわからない古さであった。レンガ造りの重厚な建物で、工房を建て替えるときにも取り壊さず、そのまま倉庫に転用したものだ。

 

 中は薄暗く、土間の床に最低限の照明があるだけの空間で、今は段ボールや木箱が後付けのスチールラックに雑然と納められている。整理があまり得意ではない男は、行き場に困り、捨てる決断もできないものをこの倉庫に無思慮のまま放り込むことがよくあった。

 

 倉庫の最奥のラックで、目的のものを探す。

 

 相当な年代物の木箱の中から、油紙に包まれた塊を取り出す。

 中を開くと、いくらかさびは浮いているものの鈍い光を返す、一対の蹄鉄が出てきた。

 

 蹄鉄の裏側の隅に小さく「ミノル」と刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 「幻のウマ娘が、いた」

  

 その話を聞いたのはいつだったか。

 男の師匠格だった老公は、その人生の最後期において、男を装蹄師として独り立ちさせるべく日常の作業に、ウマ娘のレースの現場にと、精力的に連れまわした。

 

 ある日、ジュニア級のレースに老公と立ち会った日のこと。

 そのレースは次世代を嘱望されるウマ娘が複数人出場することもあり、その日のメインレースではないものの、目端の利くファンらが数多く詰めかけていた。

 

 そのレースはスタートで多少のばらつきはあったものの、距離を経るごとにバ群がかたまり、その世代での拮抗した力を持つウマ娘が3コーナー手前から間隔を詰め、鎬を削りだした。

 

 4コーナーでほとんど密集といっていい状態で駆け抜けようとしたその時だった。

 

 ひとりのウマ娘が集団からはじき出されるようにアウトへ飛び出した。

 

 態勢をくずしたそのウマ娘はそのまま転倒、彼女は競争中止となった。

 

 老公は手近にいた関係者をつかまえ、落ち着いた後でかまわないから容体を自分に伝えてほしい、と頼んだ。

 

 

 その日の予定を終え、老公とともに帰路につこうとする頃、先ほどの関係者が老公を見つけて駆け寄り、耳打ちをした。

 

 そうか、と頷いただけだった。

 

 その夜、男は老公を自宅まで送り届けて帰宅しようとすると、老公の奥方に呼び止められ、書斎に通された。

 

 来客用ソファに座らされた男は、なにか粗相があってのお説教か、と嫌な汗をかいたが、老公は戸棚の奥からウイスキーを取り出し、男のための緑茶缶を差し出しながら、

「一杯付き合え」

 と言い、自らのグラスにウイスキーを注ぐと、語りだした。

 

 

 

 最近は健康のためだのなんだのと家内がうるさくてな。酒も煙草も満足に呑ませてもらえんのだよ。もうお迎えなんてとっくに来ていてもおかしくない歳なんだ。今更だとは思わんか?

 

 あぁ、今日の競争中止の子、命に別状はないそうだよ。

 今は医療技術もずいぶん発達したからね。今頃精密検査を受けているはずだ。 脚の様子はまだ気になるが、命あっての物種だからね。

 

 ところでな。「幻のウマ娘」というの、聞いたことがあるか?

 

 知らなくても無理はないよ。

 私が君くらいの頃の話だ。

 

 私はそのころ、ちょうど君のような立場でね。師匠について回って、日本全国を回りながらありとあらゆる技術を吸収しようと必死だった。

  

 まだ戦後の混乱から抜けきらない時代だ。モノも足りない、技術レベルも今と比べれば格段に低い、ウマ娘の待遇も低い、栄養も足らない、ありとあらゆるものが未熟か、足りないか。今思えばそんな時代だった。

 

 そんなときに、ひとりのウマ娘がレースの世界に現れたんだよ。

 

 体格はまわりの子より大きく、たくましく、特にトモの部分は娘らしい丸みというよりも筋肉で発達したしっかりしたものを持っていた。

 

 ちょっと難しい性格をしていたようだが、デビュー戦ではレースがスタートしてしまえばするすると先頭に上がって、そのまま引き離して1着。しかもその当時のレコードタイムで、だ。

 

 当然そのまま出るレース出るレース連戦連勝。

 

 とんでもない娘が現れたと思ったよ。

 新しい時代を拓く娘が来た、とね。

 

 ところが、結果だけ見れば華々しいが、どうやらそうじゃなかったんだ。

 

 彼女がデビューから無敗で皐月賞をとった後、私の師匠のところに彼女の関係者が来てね。

 様子を見てほしいと言うんだよ。

 関係者と一緒にすぐに、師匠と私は一緒に彼女のところに行ったんだ。

 

 彼女、脚をひきずって歩いていたんだよ。

 

 当時は医療器械も薬も少なかったし、原因はすぐにはわからなかった。

 ダービーも控えていたし、彼女の状態について知恵を集めて考えた。

 今なら情報が漏れないようにがっちりガードされるんだろうが、当時はおおらかな時代だったからね。

 

 ダービーを回避する案も出たが、それは彼女自身のどうあっても走りたいという強い希望で却下された。

 とにかくダービーまでに、どうやったら彼女が走れるか、方々から集められた人間と知恵を絞ったよ。

 

 当時のシューズは柔らかい革製の足袋のような形状のものでね。靴底や全体構造のために部分的に木や金属で補強を入れて、そこにさらに蹄鉄を打って使っていた。合成樹脂なんてものはないからね。

 

 師匠が彼女の脚をみたところ、右足に靴擦れのような傷を見つけた。

 

 右足を引きずっていて、彼女自身が痛みを感じているのは脛のあたりだったから、靴擦れが原因ではないと思うと彼女も医者も言っていたが、師匠はシューズから蹄鉄にかけて手を入れる提案をした。

 

 専属の装蹄師と一緒に、型取りからやり直してシューズの密着度をあげて、足をできるだけ一体化できるようにして、靴底の部分はクッション性を期待してフェルトをぎっちり仕込み、蹄鉄も軽量化を施して脚への負担を減らす仕様を作ったんだ。

 もちろん私は師匠の下働きさ。専属の装蹄師のイメージ図面をもとに必死に鉄を叩いて、1gでも軽く、剛性のあるものを作ろうと寝る間も惜しんで叩き続けたよ。

 

 医師団の頑張りもあって、彼女の脚は奇跡的に回復したよ。

 

 私たちが作ったシューズと蹄鉄も、レースの前日の調整に間に合って、彼女に履いてもらった。

 

 練習コースを一回りして、彼女は不安げに見ていた我々のところまで来て、深々と頭を下げて、とても美しい笑顔で言ったんだ。

 

「私はこれを履いて明日、ダービーを勝ってきます」

 

 その時の私は師匠についていくことに必死だったから、ウマ娘たちを異性のように意識したことはなかったけど、そのときばかりは、心を打ちぬかれたようになったよ。

 

 

 …あぁ君、この話は妻にもしたことはないんだ。

 わかっているね?

 私が死んだあと、故人を偲んで話す、なんてこともないように頼むよ。

 

 

 そのあとどうなったかって?

 

 うん。

 彼女は、勝ったよ。

 スタートこそ失敗したが、向こう正面で先行した娘たちを抜き去って、そのまま譲ることなくゴールまで押し切った。

 レースレコードのおまけつきでね。

 

 

 そしてそのまま、彼女は姿を消したんだ。

  

 あとで聞こえてきた話では、回復したと思っていた脚がまた悪化して走れなくなったとか、賞金を稼ぎ切って故郷に帰ったとかいろいろあったが、結局は行方知れずだ。

 

 そして誰が言ったか、ついた二つ名が「幻のウマ娘」というわけだ。

 

 ダービーを勝つために生まれてきた幻のウマ娘だ、とね。

 

 

 あの時、私たちは自分たちのできることを精一杯、やったと思う。

 

 でもそれは、年端もいかぬ彼女に対して、我々がするべきことだったのだろうか?

 

 正解は、ないよ。

 それでも、今でも今日のような光景を見ると思い出すんだ。 

 

 

 ダービーを勝ったあとの彼女の歌声は、今でも夢に見るよ…。

 

 

 

 

 

 男の手には、鈍い光を返す「ミノル」の刻印がある蹄鉄がある。

 ずしりとした手応えは、時を経ても重さでその存在を伝えてくる。

 

 老公の叩いたこの蹄鉄をつけて、幻のウマ娘は、ダービーを勝った。

 

 そして、消えた。

 

 男はその蹄鉄を懐に忍ばせて、スズカのもとに向かった。

 

 

 

 





永田雅一リスペクト回かなと思って書き出してみたらなんか違う感じになりましたことをここにご報告させていただきます。

尚、今更ではございますが、わたくしは現実競馬等には全く造詣はございませんことを申し添えさせていただき、全てはポンコツ脳内妄想垂れ流しとご理解くださいますよう読者諸兄に平にお願いを致す次第です。


妄想を続けるにも熱量って大事ですよね。


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6:アクセルとブレーキ








 

 男は学園内を歩いていた。

 時間はまだ昼前。

 ウマ娘たちは昼までは座学があるので、敷地内は閑散としている。

 もうあと数十分もしたら座学は終わり、昼食のあとはトレーニングの時間となる。

 

 サイレンススズカに何をどのように伝えるのか思索を巡らせながら、特に目的地なく歩いていく。

 

 おハナさんの話によれば、スズカは本能的に走ることが好きなウマ娘の中でも、飛びぬけているらしい。

 その程度は、暇さえあればランニングに出かけてしまうほどだという。

 オーバーワークの懸念があるため、トレーナーとしては自主的なトレーニングさえ制限しなければならない状況のようだ。

 そしてレースでは控える走りを指示され、スズカはさらにフラストレーションを溜めていく。

 悪循環に陥っているといえた。

 

 理論派で通るおハナさんの冷徹なまでの分析は、スズカの脚が限界に近いことをあらゆるデータから導き出していた。

 

 男もその見立てが間違っているとは思わない。

 

 しかし彼女の走りへの情熱、しかもやや偏執的ともいえるこだわりを理屈で納得させることは、頭が理解していても心がついていかない、という次の苦しみを生むことが懸念された。

 

 そもそも男とスズカとの会話は、昨日の朝だけのことだ。

 

 よく考えてみれば年齢は倍ほども違う、(ほぼ)異性と言える彼女に、なにかを伝えることができるのだろうか。

 

 その思考に行き着いた時点で頭を抱えかけた男は、敷地内に響いた座学終了の鐘の音を聞いて、職員用に敷地の端に設置されている喫煙所に針路を定めた。

 

 

 ニコチンによる現実逃避を試みてみても、よい話題、よい案は浮かばなかった。

 

 おハナさんにはトレーニング時間中に返却にいくこと、すこし中断させて時間をとらせてもらうかもしれないことはあらかじめ伝え、了解をとってあった。

 

 結局は、出たとこ勝負になるか…。

 

 男は諦観を軸にした覚悟を決め、トレーニングトラックに向かった。

 

 よく手入れされたトラックに生徒たちが集まってくる。

 

 男はスタンドの隅で立ち見用のバーに体を預けながら、チームごとの練習の様子をどこに注目するでもなく、眺めていた。

 

 その中には東条ハナや、沖野の姿も見える。

 

 それぞれにチーム員を従え、リギルは体育会系そのものの規律のある動き、スピカは…なぜか沖野がプロレス技を受けている。ちょっと嬉しそうに見えるのは男の視力による錯誤なのか現実か。

 

「あの…蹄鉄の先生…?」

 

 背後から声をかけられる。声の主は、サイレンススズカだ。

 

 不意打ちに驚いた表情を隠せずにいると、

 

「鉄の匂いが、したので…」

 

 そうだった。

 彼女たちは並の人間より相当レベルで嗅覚が鋭い。

 男自身はシャワーを浴びたとはいえ工房に置いてある着替え用の服では、洗濯済みであってもその匂いを隠せはしないだろう。

 決して彼自身の匂いでない、と思いたい。

 そもそもここに来る前に煙草を吸っている時点で、という話ではあるのだが。

 男は己の不明を恥じた。パイルドライバーを決められるべきは己だ。

 

「申し訳ない…」

 

「いえ、こちらこそ、わざわざご足労いただいて…」

 

「少し、話せるかな?それほど時間はとらせないと思う」

 

 スズカはこくん、と頷いた。

 

「まずは、コレを返すよ」

 

 蹄鉄を手渡す。

 

「結論から言うと、その蹄鉄には何の問題もないよ」

 

 彼女の表情は手にした蹄鉄を見つめたまま、動かない。

 

「依頼にはなかったけど、以前蹄鉄を預かった履歴とも比較させてもらった」

 

 彼女はびくり、と体を震わせた。

 

「以前よりも減りのバランスが劇的によくなってる。おそらくだけど、走り自体には何の問題もないんじゃないかな?」

 

「…わかってるんです。自分が確実に速くなってる、ということは…」

 

 彼女はぽつぽつと、話し始めた。

 

「…でもレースを指示通りに走ろうとすると、集中できなくて…」

 

 どうやら本人自身も、なぜレースになるとうまくいかなくなるのか理解しかけているようで、答えにたどり着いていないようだ。

 レースでのやり方を変えればまた違った視点も開けるのかもしれないが、そこはチームリギルの掟に反する。

 ましてや、それは仮初の理由に過ぎず、本当の理由は、彼女が限界を超えたときの…考えたくもない事態を懸念した東条トレーナーの心配りだ。

 彼女にどう説明したものか。

 対人スキルも経験も、装蹄技術にすべてポイントを振り替えてしまった男は、どう話すべきなのか、話を聞きながら頭をフル回転させていた。

 

 

「なら一度、大逃げを打ってみるってのはどうだ」

 

 突如、聞きなれた、やや軽薄さのある声がした。

 

「速く走りたい。その気持ちを素直にレースにぶつけてみろよ」

 

 声の主は、いつの間にか背後に立っていた沖野だ。

 

「あなたは…スピカの…?」

 

 突然の乱入者に、男は一瞬、めまいがした。

 非常にややこしい。

 が、沖野の目を見て、スッと心が落ち着いていく。

 声のトーンとは裏腹に、こいつ、真剣に言ってやがる…!

 

 そして沖野のはるか後方、物陰から様子を伺っているゴールドシップ。

 

 こちらに思いっきりピースをくれている。

 

 

 男が懐に忍ばせた古い蹄鉄がちり、と音を立てた。

 

 

 正解は、ないよ。

 

 

 老公の声が蘇る。

 男は今、その言葉の真意を少し、理解できた気がした。

 

 

 そして沖野の言葉に戸惑っているスズカに、男はこう告げた。

 

「…今は悩めばいいと思うんだ。東条トレーナーが君に指示することも、沖野トレーナーが言うことも、それ以外の方法もあるかもしれない。でも、走るのは、君だよ。君のレースを、走ればいい」

 

「私の…レース…」

 

「ひとりではどうにもならなくなったり、困ってしまうなら、その時は相談したらいい。東条トレーナーでも沖野トレーナーでも私でも。我々は、そのためにいるのだから」

 

 スズカはこくん、と頷いた。

 

 

 

 

 その日の夜、少し遅れ気味になっている業務をこなしていると、がらりと入口の引き戸が開いた。

 

「おーっす。精が出るなぁ」

 

 軽薄な声の主は、いささかテンション高く工房に乱入してきた。

 無視して蹄鉄の修正の槌を入れ続ける。

 

 コンビニの袋をぶらさげた沖野は作業台に近寄り、少し離れた位置からこちらの手元を見ている。

 

 治具で固定した蹄鉄に金テコを当てながら、仕上がりをイメージし修正打を入れていく。

 工房内には硬く冷えた金属音が響く。

 

 しばらくして、納得のいく仕上がりとなり、工具を作業台に置く。

 男はようやく、沖野に向き合った。

 

「昼間は割り込んでわるかったな」

 

 意外にも沖野は、謝罪の言葉を口にした。

 

 

 聞けば、沖野はゴールドシップに言われてスタンドへ来たらしい。

「鉄のおっちゃんの匂いがするぞ!事故の香りがする!」

 そんなことを言って駆け出したとか。

 沖野も後を追ったらスズカと男が話していて、聞くでもなく話を聞いたようだ。

 

 男も、昨日からの経緯を沖野に話す。

 なるほどねぇ、と頷きながら、コンビニ袋から出したチューハイを呷った。

 

「おハナさんらしいや。おハナさんがスズカにブレーキをかけていたんだとすれば、俺はさしずめアクセルを床まで踏み込んだってとこかもしれないな」

 

 その通りだった。

 懸念は、ある。

 だがそれを乗り越えていくところに、彼女たちがファンを虜にするような輝きがあることもまた、事実だ。

 

「でもまぁ、それもひっくるめて、彼女たちの夢を叶えるサポートをするのが、トレーナーの仕事なんだよな」

 

 沖野という男のこういった懐の深さには、時々男もはっとすることがある。

 チームの娘たちに気安くプロレス技をかけられるのも懐の深さ故なのかはわからないが。

 

 男は一口煙草を吸って、少し言葉を選んで、言った。

 

「なんだかんだ言って、助かったよ。俺一人ではうまく伝えられたかどうか」

 

 沖野は笑った。

 

「おっちゃん口下手だから絶対事故る!ってゴールドシップが言ってたぞ」

 

 あいつ鋭いな…。

 今回はゴールドシップにも助けられたわけだ。

 あいつのスペシャル蹄鉄、しっかり仕上げてやらないとな。

 

 沖野はとりあえず、スズカのこともできる範囲で気にかけてくれるという。

 これで男は役割を果たせたか、とひと心地つき、その日は自室に帰ることができた。

 

 

 

 





アニメでのスズカさんの移籍って、現実世界での騎手の乗り替わりの流れの置き換えなんですかね。書いてて気づきました。



ガリガリ書くの楽しいんだけど、時間が足りねぇ…


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7:進路相談

誤字訂正いただいた方、ありがとうございました。
推敲苦手マンなので大変ありがたいです。




 

 

ひとつの役割を果たした心の軽さで、男は自室のあるトレーナー寮へ向かい歩いていく。

 

 工房から徒歩十分程度の場所にあるトレーナー寮は学園の裏門付近に存在する。

 鉄筋コンクリート造りの3階建て、外構の設備類がいくらか省略されている小規模なマンションといった趣だ。

 家族持ちには学園から少し離れた場所にファミリータイプのものがあるので、名称こそトレーナー寮だが、職種や業務によって職住近接が望ましい施設の整備担当なども学園の許可があれば入居できる。さながら独身寮のような扱いであった。

 

 それなりに入れ替わりの激しい職場であるので、特に近所づきあいもなく、また住人同士の生活サイクルも違うことから、並みの住宅よりはよほどの防音性を備え、入居者向けの駐車場も完備されているトレーナー寮の住み心地は、男にとってなかなか良いものだった。

 

 学園敷地内でも照明の少ないトレーナー寮の入り口付近が見えてくると、そこに人影が見えた。

 

 いや、なにか違う。

 男が少し目を凝らすと、ばさりと揺れる尻尾の影が見えた。

 

 こんな時間にウマ娘がトレーナー寮の周りにいることは珍しい。

 彼女たちは学園正門から道を挟んで反対側にあるウマ娘専用の寮で基本的に暮らしており、門限もある。 自主トレのついでにトレーナーに用があるとしても、この時間帯にはまずいるはずがないのだ。

 

 だんだんと近づくと、うっすらと寮の入り口の照明に照らされたウマ娘のシルエットがはっきりと像を結ぶ。

 

 ウマ娘もこちらを見つめている。

 

「なんだ、ルナか」

 

 そこに居たのはトレセン学園の生徒会長かつ現役ウマ娘の生ける伝説、シンボリルドルフであった。

 

「なんだとは、ひどい出迎えもあったものだね、せ・ん・せ・い?」

 

 私服姿でメガネ姿のルナと呼ばれた少女は、年相応の少し悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

 

 

  

「今日の昼、トラックに来ていただろう?ちょっと懐かしくなってね。久しぶりにせんせいの鉄分を補給したくなったんだ」

 

 とりあえず人目もあるので、男はルナを部屋にあげる。

 

「なんだ、気付いてたのか」

 

「せんせいの匂いはわかるよ。煙と鉄の匂いがする」

 

「そりゃ面目ない…配慮が足らなかった」

 

 一昨日ぶりにリビングの照明を点ける。

 

「…相変わらず殺風景な部屋だな…」

 

 男の部屋には一応の簡易なリビングセットのほか、特になにもない。

 独身者には十分な1LDKの部屋は、少し広めのリビングと、続きの部屋に寝室がある。

 

「まぁ、寝て起きるだけの部屋だからな。これでも俺にはもったいないくらいだ。飯はもう食ったのか?茶ぐらい出してやるよ」

 

「ありがとう、せんせい」

 

「なんだよさっきからその、せんせいっていうのは…」

 

 

 

 

 

 現役ウマ娘で、伝説と化したシンボリルドルフ。

 すべてのウマ娘の幸福に暮らせる時代を目指して、己が規範であろうとする皇帝。

  

 だが彼女にもプライベートはある。

 男との時間はそのひとつだ。

 

 

 関係は彼女の幼少時代に遡る。

 

 男と彼女は、師匠格の老公とルドルフの生家の関係があり、男が老公についていた時代からの付き合いがあった。

 

 ある日、ルドルフの両親が彼女を伴い師匠を訪ねてきたときに、手持無沙汰な彼女を連れ出して相手をしてやったことがあった。

 使用済みの蹄鉄を輪投げのように投げて点数を競う遊びだったと思う。

 

 はじめてやったときは男が圧勝。

 

 その時の彼女の悔しがり方は尋常なものではなく、今にして思えばウマ娘の競争本能、また勝負師に必須の負けず嫌いを持っていたのだと思う。

 

 それからというもの、彼女はその遊びを好むようになり、男は時々、彼女の挑戦を受けたりもして、会えば遊んだり話したり。男は元気なウマ娘の彼女を子供として可愛がっていた。

 

 

 

 

 

「皇帝をもてなすには質素に過ぎる部屋で、申し訳ないな。ついでに飲み物もこのくらいしかないが…」

 

 そういって男はストックの缶コーヒーを手渡す。

 

「急に来たのにすまないな。ありがとう」

 

 ソファに行儀よく座った彼女を見ながら、男はダイニングの椅子に座る。

 

「ここに来るのも久しぶりだな。どうだ、忙しいのも少しは落ち着いたのか?」

 

「あぁ、おかげさまでね。生徒会もエアグルーヴたちが頑張ってくれている」

 

 リラックスした顔で微笑む彼女。

 

 あぁ、あのころから変わっていない部分もあるんだな。

 

 男は皇帝と呼ばれる彼女の、柔らかな笑顔に安堵した。

 

「それならよかった。その笑顔は昔のまんまだ」

 

 

 

 

 

 幼少期のルナとの日々は断続的に数年間続いた。

 

 その後、男は老公からの推薦を受け、学園に就職。

 

 それ以降は会うこともなかったのだが、男が数年の悪戦苦闘を経て学園生活に慣れたころ、今度は彼女がシンボリルドルフという名前で学園に入学してきたのだった。

 

 彼女が入学してきた頃にはすでに、男は装蹄師として教壇に立っていたから、彼女の授業も行った。

 

 しかし男は、ルナに気づかなかった。

 

 彼女は数年の間に大きく成長を遂げ、見目麗しく堂々たる体躯の、レースを闘うウマ娘に変化していたのだった。

 

 

 

 

 

「そういうことを言う割には、君は入学したての私に気づかなかったじゃないか」

 

 彼女は拗ねたように表情を曇らせた。

 

「そりゃあその…悪かったよ」

 

 この話題になると男は分が悪い。

 どう言い訳してもあまりいい流れにはならないから、早々に撤退するしかない。

 

「まぁいいさ。あの頃があったから、今もこうして昔のように気楽に話すこともできる」

 

 表情を戻した彼女は、一息入れて、言った。

 

「実はそろそろ次の道を考えようと思っているんだ」

 

 

 

 後進も育ち、URAもますます人気を高めている。

 エンターテイメント性の向上においても、絶対的なレース運びにおいても、彼女は現在の隆盛の立役者だ。

 同時に生徒会の運営統治能力にも絶大な信頼を置かれ、大きな自治権を持って生徒たちを導いている。

 

 そしてレースで闘い続けるウマ娘としての彼女のキャリアは、今やもう終盤と言える頃に差し掛かっていた。

 

 理事長からも次の道としてURA運営委員への委嘱や、その上部団体である日本中央ウマ娘レース会の理事への就任など、さまざまな道を打診されているという。

 彼女のレース界での洋々とした前途は、すでに約束されていた。

 

 

 

「理事長も私の処遇を色々考えてくれている。未だもう少しレースをしていたいとは思っているから、今すぐに、というわけではないが…」

 

 そういうと彼女は少し口ごもった。

 

「私は、すべてのウマ娘の幸福に暮らせる時代を目指しているんだ。レースの世界に居続けることがその目標に近づくことになるのか、悩んでいる」

 

 レースという興行の世界。

 それはこの学園に入学した生徒たちの、およそ世界のすべてといっていい。

 彼女はその世界と地続きである運営側へ進むことは、後に続く者たちへの世界を広げることにはつながらないのではないか、そう言った。

 

「そりゃあ確かに、ルナほどの知名度と能力があればもっと選択肢はあるだろうな…」

 

 男は継ぐ言葉を探して、思いついたことを言い出すべきか、逡巡した。 

 そして、言った。

 

「君をルナと呼べる俺からすれば、もっと別の道もあってもいい気がするけどな」 

 

「というと?」

 

 男は話した。

 

 彼女の目標は理解できるし、力を持ったものの崇高な使命であるとも思う。

 ここまで培ったシンボリルドルフの力を、社会に役立てられればなによりウマ娘たちの力になるだろう。

 しかし、彼女自身の幸せ、という視点ではどうだろうか。

 社会的な役割を果たし栄達の道を歩むだけでは、得られないこともあるのではないだろうか。

 

 抽象的にしか表現できない男は多少の歯がゆさを覚えながら、なんとか話をまとめた。

 

「私自身の、幸せ…か…」

 

 彼女にとってはあまり考えたことのない視点なのか、思案顔だ。

 

「正直、俺は一般人だからよくわかんないけどな」

 

 思いついたことを言っただけだ、と男は放り出した。

 

「いや。君はいつも私に新鮮なものを与えてくれる。私ひとりでは得られない知見だよ。さすがはせんせいだ」

 

「だからなんだよその先生ってのは」

 

「今日、スタンドでサイレンススズカと話していただろう?蹄鉄の先生、と呼ばれて」

 

 確かに彼女は男のことをそう呼んだ。

 

 まさかスタンドとトラックの距離で、ささやくようなサイレンススズカの声が聞こえていたとはさすがに思えない。

 誰か人づてに話を聞いたのだろうか。

 

「私にとっても君は、兄のようでもあり、先生のようなものさ」

 

「まぁ近所のにいちゃんみたいなものだったな、確かに」

 

「その兄さんは、自分自身の幸せについてはどう考えているんだ?」

 

 そう言われて、はたと考える。

 

「…あんまり考えたことないなぁ…」

 

 だけど、と男は続けた。

 大きな野望こそないけれど、レースで走るウマ娘たちを見るのは好きだ。それは勝ち負けではなく、一生懸命走る姿に、感じるところがあるんだ。

 修業時代に折れてしまいそうなときも、大観衆の声援を受けて走る彼女たちに何度も救われた。

 そして今、間接的とはいえ彼女たちに関わり、時として起こるドラマを構成する一要素となっている。

 

「ルナの成したことに較べれば、ささやかかもしれないけど、自分の今に満足しているよ。もちろん、仕事にはいつも全力を尽くすし、悲しいドラマの一要素になるつもりはないけど」

 

 ほう、と彼女はため息をついた。

 

「…なんだか君の話を聞くと、自分がとんでもなく強欲な人間に思えてくるよ」

 

 そんなことはない、と男はかぶりを振る。

 

「ルナはそれだけのコトを成し遂げた力があるんだ。それ相応の夢を追う力もあるよ」

 

 そういうと、男は皇帝の中に見える少女の面影を懐かしく感じながら、頭を撫でてやった。

 

「さあ、近所のにいちゃんの進路相談は今日は店じまいだ。門限も近いんだから帰りなさい。送ってやるから」

 

 ルナと呼ばれた皇帝は、不承不承といった面持ちながらも立ち上がり、男と部屋をあとにした。

 

 寮の敷地へ入る直前、彼女はひとことぼそりとつぶやいた。

 

「…また、相談してもいいだろうか?」

 

 男は少し、影を感じる彼女の表情に驚きながらも

 

「何をいまさら。俺で良ければ遠慮なんてするなよ」

 

 そう返す。

 彼女の顔に、少し血色が戻った気がした。

  

「ありがとう」

 

 ルナは、シンボリルドルフとなって寮に戻っていった。

 

 

 





難産でした。

行き当たりばったりで書いてるからいけないんですけど。


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8:〇〇が戦車でやってくる

皆様いつもありがとうございます。

なんだか急に読んでくれている人が増えたようで少々面食らっておりますが、滔々とこれまでと変わりなく、受信した妄想怪文書の類を多少の恥ずかしさを堪えて開陳してまいりたいと思います。

これからもよろしくお願いいたします。


 

 

 

 

男はその日も蹄鉄を叩いていた。

 

 今日は通常業務を早めに片づけていき、時間を捻出、ゴールドシップから依頼された「海の岩場スペシャル仕様」を組み上げていく。

 

 ゴールドシップのパワーとスタミナに耐えるよう、蹄鉄の素材から見直し鋼材の強度を上げて叩き出し、リブを追加して強度を上げて蹄鉄を形成。

 通常よりも重くなった蹄鉄に、強度を損なわないように穴をあけ、軽量化してバランスをとり、穴の一部を利用して滑りにくいようスパイクを装備。

 スパイクの効きも、足首への負担を抑えるように後ろ方向に蹴り出すときに最も強く効くようにする。同時にスパイクの配置と形状に工夫を入れ、脚の構造的に無理な方向へはスパイクの効きが弱くなるようにセッティングしていく。これでスパイクのグリップが原因で怪我をする可能性を出来るだけ減らす。

 

 通常では使わない脳の部分を極限まで働かせ、作業をしていく。あまり経験のないオーダーへの対応だけに、想像力を働かせて情報を補完し、思い描く性能を蹄鉄に落とし込み、組み上げていく。

 

 最後に左右の重さの違いを余白部分を削って合わせ、一応の完成とする。

 

 あとは実際に履いて試してもらい、調整すればいいだろう。

 

 男は箱に収め、試作であるから試してみてほしい旨のメモを入れ、外箱にゴールドシップ宛と記入。

 工房係の返却用の箱に入れた。

 伝票のないやや不審な箱だが、行先がゴールドシップとわかれば、何の疑問も持たれずに彼女の手元に届くだろう。

 

 男は一仕事終えた達成感をつまみに、煙草の味を楽しんだ。

 

 

 ゴールドシップの蹄鉄を仕上げてから数日後。

 

 夕刻、工房にはオレンジ色の光が差し込み、男はそろそろ今日の仕事の手仕舞いを始めようかと思っていた時分だった。

 

 入口の引き戸が勢いよく開いた。

 

 驚いてそちらをみれば、瞳に一目で狂気を感じさせる色を宿したアグネスタキオンであった。

 

「蹄鉄担当の君!あれはどういうことだ!」

 

 いつもは泰然自若、たとえ教室が己のせいで爆発しようとも驚かず動じないと評判の彼女が、文字通り血相を変え瞳に狂気の炎を相当なカロリーで燃やしたままの勢いで問い詰めてきた。

 

 男は一見、何事もないかのように彼女をただぼんやりと眺める。

 その実、彼女の勢いに気圧され、そのままの状態で堂々と腰を抜かしていただけなのだが。 

 

「…あれ、の主語が欲しいんだが」

 

 ようやくのことで間の抜けた返しをすると、彼女は彼が座っている作業机を目指し、ずんずんと踏み込んでくる。

 

「ゴールドシップ君がつけている蹄鉄だ!」

 

 作業机を勢いで叩きかねない勢いで、彼女は言った。

 

「あぁ…あれ、か。見たのか?」

 

「見たとも!なんなんだあれは!」

 

 彼女が言うには、こうだ。

 

 彼女はあまり積極的に練習するわけではないが、「ウマ娘の肉体における可能性の追求」というテーマで独自研究を続けていると聞く。それを可能にするために様々な薬効を追い求め怪しげな薬を生成し、時には自らも試し、他人に試させたときにはなぜか副作用で七色に光ることで有名である。

 

 今日も今日とて、彼女は練習するウマ娘たちを観察し、新たな気づきや発想を得るためにフィールドワークに出ていた。

 

 そこで、普段聞くことのない、奇妙な足音を聞いた。

 

 それが、スペシャル仕様の蹄鉄を装備したゴールドシップだった、というわけだ。

 

 

 あいつ、校内で使いやがったのか…。

 

 

「ゴールドシップ君に見せてもらって、その足でここに来た!あれは一体なんなんだ?」

 

 男は、使用環境の注釈をつけるべきだった、と後悔した。

 ゴールドシップの性格上、手に入れた玩具をすぐに使いたがることは想像に難くなかったのに。迂闊というべき失策だった。

 

 そして、それを見たマッドサイエンティストと名高い、普段あまり活発なイメージのない彼女がここまでエキサイトしてる姿を現出させた。

 

 厄介が戦車でやってきたようなもの、だ。

 

「あの蹄鉄は、ゴールドシップのオーダーでつくった海の岩場スペシャル仕様、だよ」

 

「…なんだそれは?」

 

 ことの次第を説明する。

 あまりにも珍奇な話ではあるが、思えば彼女もベクトルは違えど同類といえるかもしれない。

 それゆえか、おとなしく頷きながら話を聞いている。

 

「…というわけで、あれは本来トラック用のものではないし、もちろん競技用でもない。あいつは面白半分に着けたのかもしれないが」

 

「…どういうものかは今の説明で理解した。理解したところで、君に相談がある」

 

 マッドな光を瞳に宿したままの彼女。

 ほらきた。

 バカが戦車でやってきて…いやいや、彼女もここの生徒ではあるのだ。一応話は聞くべきなのだろう。

 目で先を促す。

 

「私がウマ娘の可能性を追求してあれこれ研究していることは知っているね?ぜひ、その研究について君にも協力を仰ぎたい」

 

「お断りします」

 

 一分の隙もない声音で、男は言った。

 

「何故だ!あれほどのものを創り出す君の技術と私の知識を組み合わせれば、君の蹄鉄を活用した物理面からの底上げと、私の得意分野の創薬による肉体の強化、両面からのアプローチによって、今よりもずっと速くウマ娘たちがターフを駆けることだって…」

 

「ちょっと待て」

 

 男は掌を彼女の眼前に突きだし、言葉を制止した。

 

「アグネスタキオン、君がウマ娘の可能性を追い求めて研究してることは知ってる。人づきあいの少ない俺のとこまで聞こえてくるくらいには有名だからな」

 

 できるだけ落ち着いた、冷静な声音を装い、男は言った。

 内心はまったく逆であった。

 

 「今より」も、「ずっと速」く、「ウマ娘たち」が。

 

「だけどな、道具によって、蹄鉄によって速く走ることは、俺の信条として容認できない。その手前に、そもそもレギュレーションで縛りがあることくらい、知らんわけではあるまい?」

 

 

 

 怪我の懸念はいつも、いつの時代でもある。

 

 先のおハナさんとサイレンススズカの例を挙げるまでもなく、この競技はいつだって怪我のリスクを、もっと言えば命を懸けて走る競走競技である。

 怪我して治るならまだマシ、そのまま競走能力を失ってしまうこともあるし、命を落とした例だってないわけではない。

 

 先人たちの教訓から、今ではウマ娘たちのシューズや蹄鉄にもかなり細かいレギュレーションが設けられている。

 

 シューズの外観についてはショーアップの観点から空力特性を追い求めるのは禁止されている。同様のルールは勝負服にも設定されている。

 

 このルールがなければ、スピードスケート競技のような画一的なウェアになってしまうだろう。それでは彼女たちが引き立たない、という興業的な理由だ。

 

 シューズの構造については基本的なことはルール化されているが、素材、加工法等にはある程度の裁量がある。

 

 蹄鉄についても市販のものを使用する場合は協会の認定品と定められている。

 カスタマイズなどの加工、さらには叩き出しのオリジナルも使用は認められるが、レースに使用するには事前に協会の技術委員会の承認を得なければならない。

 

 つまりは、ウマ娘たちのそれぞれの身体的・運動的な個性に合わせられる程度の調整・開発は認められるが、そこで大幅な競争力を稼げないように枷がはめられている。

 

 当然といえば当然だった。

 

 注目されるべきは彼女たちが肉体的・精神的研鑽を積んで競い、闘う姿であり、その過程の物語であるべきで、その結果として速さがある。

 

 間違っても、限界性能を追い求める装具の技術開発競争の果てに得られる速さ、ではない。

 

 また、混走競技である特性上、速度が増すことは危険性が増すこととほぼ同義といえ、それはURAにおいても社会的にも看過されるべきではない要素といえた。

 

 

 

「…そういう話を、入学直後の俺の授業でかなりの時間を割いて説いているはずだがね」

 

 男自身は努めて冷静に、しかし聞く者には底冷えした何かを感じさせる声音で結んだ。

 

「…そう…だったな…すっかり熱くなって、失念していたよ…私としたことが…」

 

 彼女の瞳のマッドな炎は消え失せ、自身が口にした言葉の意味の重さに気付き、すっかり耳がしょげてしまっている。

 

 男はさすがにやりすぎた、と彼女に対する憐憫の情が湧き出した。

 気が動転し、取り繕うように、本来ならば言うつもりのない本音が口からこぼれてしまう。

 

「…だからこそ、俺のような奴がこの学園の禄を食んでるんだぜ」

 

 ふぅ、と息と体の力を抜き、男は続けた。

 

「トレーニングもレースも、少なくとも装具においては万全に近づけるための、それ以外でもウマ娘たちに思いつく限りのサポートを行う体制が、この学園にはある」

 

 彼女は目の奥に、うっすら光を灯した。

 

 何事にも100%はなく、事故はいつだって、どうしたって起こる。

 練習中でも、レース中でも関係なく。

 それは競技の性格上、避けられないことだ。

 避けられないことだからこそ、万全を目指し続けられる体制が必要なのだ。

 その理想を追求し、具現化されたのがこの学園だ、と男は信じていた。

 

「君だって、ここの生徒である以上、その例外じゃないんだ。だから、俺の微力でよければ研究上の相談だって受け付ける。だがその用い方は、よく考えてほしい」

 

 あれ。なんかお断りと矛盾したこと言ってないか。

 

 男はそう思ったが、最低限の釘は刺したし、口にした以上は仕方ないか、とすぐに諦める。

 それに彼女にも、生徒としての権利があるのは紛れもない事実だ。

 

 彼女はうつむいて、髪に隠れた表情を伺うことはできない。

 

 しばらく、沈黙の時が続いた。

 

 先にそれを破ったのは、男だ。

 

「…どうしt「…クククククッ…」

 

 彼女の様子を伺おうと声を発した男に被せるように彼女はくつくつと笑い出した。

 

「ハーッハッハッハッハ!なるほどそういうことか!」

 

 なにがそういうことなのか。

 男にはわけがわからなかった。

 

「今ほどこの学園に入学したことを感謝した瞬間はないよ!」

 

 晴れやかな、それでいて狂気の炎を取り戻した瞳で彼女は言い放った。

 

「私は私の研究に、この学園を使えるというわけだな!君すらもその例外ではないと!君はそう言ったんだな!」

 

 …まぁ、間違いではない。捉え方次第ではあるが。

 ただ、さらなる釘の刺し増しは必要に思えた。

 

「義務を果たして、生徒である立場さえ違えなければ、な…」

 

 男は絞り出すように、付け加えた。

 

「まぁそれは追々どうにか考えるとしよう。今日のところは君の言質が取れただけで十分だ。邪魔したね。失礼するよ!」

 

 妙にねっとりした口調を取り戻し、言いたいことだけ言うと、アグネスタキオンはさっと踵を返し、去っていった。

 

 

 

 入口くらいは閉めていってほしい。

 

 

 

 男は重たく感じる体に気合を入れて立ち上がると、引き戸を閉めるついでに外に出る。

 

 ひときわ重たいため息をつき、煙草に火をつけた。

 

 厄介な事柄を追い払うことはできた。

 

 が、その実は、厄介な奴の戦車に燃料を入れただけではなかったか。

 

 

 

 煙草の先と男から立ち上る紫煙は、さながら魂が抜けていくさまを想像させた。

 

 

 





七色に光るゲーミング怪薬、とても飲んでみたい。


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9:バブルと整備と鯛と

タイトルをいじりました。
タイトルから受ける印象と中身がかみ合わないような気がしないでもないですが、まぁ改良ということでひとつ。

作者自己満足趣味回。


 男はひさしぶりに、目覚まし時計によらない自然な目覚めを迎えた。

 

 部屋の時計に目をやると、時刻は朝6時過ぎを指している。

 

 今日は休日だった。

 

 男は本来ロングスリーパー気味の体質だったが、年齢のせいか、ここのところ続いた本来の業務以上の気がかりな案件のせいか、もっと眠りたいのに目を覚ましてしまう日が多くなっていた。

 

 しばらくの間、再び意識が途切れることを期待して布団で粘っていたが、空腹感とともに頭が順次起動してしまい、再び夢の国へ戻ることをあきらめざるを得なくなったことを自覚すると、寝床から這い出す。

 

 アグネスタキオンほどではないが、自分で自分の面倒を見ることにあまり興味の持てない質である男は、とりあえず無意識にシャワーを浴びて、徐々に意識を取り戻す。

 

 休日を過ごすにあたり、特に他人との交遊にもあまり興味の持てない男は、しばらく放置していた趣味の時間に費やすことを決め、手早く着替えると、いつもの仕事用の道具一式と、古めかしい鍵を持って部屋を出た。

 

 トレーナー寮の駐車場、その最も奥に男のクルマはあった。

 停めにくいスペースであったが、男の業務上も生活上も、クルマを使うことはほとんどなく、置きっぱなしであるためむしろ好都合といえた。

 男のクルマはそこに、カバーを被されて置かれていた。

 薄汚れたカバーを剥ぐと、一見、何の変哲もない、すでに車名も消滅してしまった旧い国産の1300㏄のコンパクトカー、いわゆる「おばちゃんのお買い物車」が現れた。

 

 男が乗り込み、キーを差して一段一段、確かめるように回していく。

 普段乗らない分、バッテリー上がりを心配したが、特に問題なくいつも通り通電し、セルを回せば2クランキングでエンジンが目を覚ました。暖機のため数分そのままアイドリングさせたあと、クラッチを踏んでギアを入れ、ゆっくりと駐車場から車を出した。

 

 公道に出、車の各部を暖めるようにゆっくりと走らせる。

 

 学園のある街をゆっくりゆっくり流していく。

 

 この街の公道は、いたるところにウマ娘レーンなるものが設置されている。

 水色で強調された、車道の端にある2mほどの幅のそこは、ウマ娘たちが制限速度内で駆けることを認められている。

 

 ウマ娘レーンがある山へと続く道を、男は暖まったエンジンの回転数を少し引っ張り気味に唸らせながら、朝のランニングで駆ける娘たちを追い越していく。ある娘はペースを上げて男の車に軽く競りかけながら、ともに山を登っていく。

 

 少し走ったところにあるコンビニの駐車場へ車を滑り込ませ、端に停める。

 

 朝昼兼用の食物と、工房のアルコール補充分、そして煙草を買い込み店を出ようとすると、聞き知った声に呼び止められた。

 

「あ、鉄のお師匠さんじゃな~い。ひ・さ・し・ぶ・り」

 

 振り返るとそこには、ややバブリーな雰囲気を纏った私服姿のマルゼンスキーがいた。

 

 店外の駐車場を見ると、男が入った時にはいなかった真っ赤な平べったいスーパーカーが駐車されていた。彼女の趣味のクルマだ。

 どうやら彼女も休日のドライブ中、ここに立ち寄ったらしい。

 

「車、戻ってきたのか?」 

 

 男は以前、学園周辺で彼女が車を路肩に停めて困っていた場面に出くわしたことがある。

 内容を聞くだに故障原因はなんとなく推測がついたが、男には手に負えない内容だったので、男の旧知であった変な車を得意とするショップに連絡、回収の段取りを取ったことを思い出した。

 

「ええ!しっかり直してもらって、一昨日戻ってきたのよ。今日は絶好調のタッちゃんのテストドライブに出かけようと思ってね」

 

 いつも笑顔が映える彼女の表情が、より一層輝く。

 

「お師匠さんが直してくれたらもっと早く乗れたのに…紹介してくれたお店の店長さんもそう言ってたわよ?ねぇ、今度から私のタッちゃんの主治医、お願いできない?」

 

 彼女は両手で手を合わせ、拝んでくる。

 

「嫌だ。俺の専門はウマ娘の脚回りだよ。そもそも国産車の一部しかわからんしな。タッちゃんみたいな「魅惑の設計、疑惑の製造」の代表格みたいなクルマは手に負えねーよ」

 

 彼女はふふっ、と笑って

 

「そうよねぇ~、まぁそこがタッちゃんのカワイイとこなんだけど!」

 

 彼女はこれから休日のサーキットドライブを楽しんでくるらしい。

 

「また一緒にサーキット行ってよね!今度はお師匠さんに負けないんだから!」

 

「…また助手席でキラキラ噴出さないように胃でも鍛えておくんだな」

 

 男の言葉にさすがに苦笑いを浮かべたが、お姉さん然とした爽やかな笑顔とバブルの残り香を男に残し、彼女は去っていった。男も車に乗り込み始動させると、彼女とは逆方向の、学園へ戻る道を辿り始めた。

 

 

 

 彼女があの車を入手したばかりのころ、彼女と仲の良く男の趣味を知るシンボリルドルフの仲介で3人連れだってサーキットへ行ったことがあった。

 初心者向けでサーキット走行入門にちょうどいい、最高速度はさほど出ないコーナー主体のミニサーキットだったのだが、そのフリー走行のタイム計測においてマルゼンスキーのスーパーカーを差し置き、男とおばちゃんの買い物車の組み合わせで秒単位で速い時計をたたき出してしまったのだ。

 

 タネをあかせば、彼女のスーパーカーは国際規格のフルスケール・サーキットでこそ真価を発揮するタイプのクルマであり、男のそれは、一見は旧いおばちゃんの買い物車の皮をかぶった、超軽量コンパクトを最大限に追求した草レース仕様だった。

 

 申し訳なく思った男は今回のコースが初心者向きの小さなコースであること、彼女のクルマとの相性とその特性、そして男のクルマとの相性について説明をした。

 それを聞いても彼女は怒るでもなく、悔しさと男への敬意をない交ぜにした姿勢を変えなかった。

 

 それ以来、男は彼女から一目置かれたような関係になってしまっている。

 

 でもそれは、彼女を助手席に乗せてサーキットを走った際、男のクルマの異常な旋回速度に酔った彼女を自身のキラキラまみれにさせてしまったためかもしれない。

 

 

 

 男は学園に戻ると、裏門からそのまま学園の敷地内をゆっくりと工房へ向けてクルマを進める。

 

 学園の敷地内は基本的に車両の進入はできないが、資材の搬入などの都合上、男のクルマは構内進入許可を降ろしてもらっている。もっとも実際には学園の作業用軽トラをいつでも借りられるので、男がこの車を業務に使うことはほぼないのだが。

 

 工房に隣接した舗装された敷地の隅に車を停める。

 男は倉庫から整備用の工具と取り寄せた部品を展開し、クルマをジャッキで上げてスタンドに乗せ、旧いお買い物車の整備を始めた。

 

 物言わぬクルマの整備は、頭を使いながらも同時に、最近起きたさまざまなことに思いを馳せる時間だった。

 

 

 サイレンススズカの調子についてはメンタルの問題で、彼女はいつか乗り越えるだろうし、心配しても仕方ないだろう。第一、その領域は俺の専門外だ。

 

 ルナの今後については気がかりだが、聡明なことにおいては疑いようもない彼女のことだ。おそらく考え抜いた末にきちんと結論にたどり着けるだろう。

 

 アグネスタキオンはまぁ、マッドであるにしろ彼女なりの目的や目標に、大した熱量で挑もうとしていることは確かだ。そこは認めて付き合えばいい。

 

 

 手を動かしながら近頃の出来事に整理をつけていく。

 

 普段外からの刺激があまりない男は、ここ数日の怒涛の刺激にやはり少し疲れていたのかもしれない。

 男はスタンドで上げたクルマの下に潜り込んで、作業用の背板を敷いて寝姿勢で作業をしていた。しかし適度に暗く、狭いその場所で、男はいつのまにかそのまま眠りの世界に引き込まれてしまった。

 

 

 

   

 ふいに、足元にどさりと何かが落ちてきた。

 その衝撃で意識が戻った男は、なにごとかと背板を滑らせてクルマの下から這い出す。

 

 すると眼前には上からのぞき込むような姿勢でも銀髪が美しく輝くゴールドシップが。

 足元にはビチビチと跳ねる魚が…これは…鯛?

 

「おうおっちゃん!お礼にきたZE☆」

 

 

 

 クルマの下で眠りこけていたら、いつのまにか夕刻になっていたらしい。

 あたりは夕日の色に染め上げられていた。

 

「今日はウチのチームも全休日だったからよー。朝からおっちゃんの蹄鉄試しに海いってたんだよ。そしたら今日はお宝ザックザックでな!」

 

 そんなわけで蹄鉄のお礼がてら、おすそ分けに来てくれたらしい。

 

「ここで捌いてやるからさぁ~工房の水場貸してくれよぉ」

 

 気が付けば朝から大したものも口にしていない。

 ありがたくゴールドシップの厚意を受けることにした。

 

「…ゴールドシップ、鯛さばけんの…?」

 

「あったりまえだろ!ゴルシちゃんに任せとけ!」

 

 彼女を水場に通し道具一式を託すと、さっそく手早く鱗を落とし始めた。

 

 男はその間にクルマまわりを片付け、工房内のテーブルを拭き、飲み物を用意しておいた。

 

「お、おっちゃん気が利くじゃねーか!」

 

 捌いた鯛を手にしたゴールドシップが現れる。

 たまたまあった大皿には、それは見事な鯛のお造りが盛られていた。

 

「…すっげーな、お前…」

 

 男は彼女の意外性にやられ語彙力が低下し、ただただ彼女を褒め称えた。

 

「まぁな!ゴルゴル星の義務教育主席卒業のゴルシちゃんに不可能はないんだZE☆」

 

 彼女が捕獲し捌いた鯛は、締まった身がほの甘く、二人で歓声を上げるほどの美味だった。

 

「んまいなぁ…久しぶりにこんな旨いもん食ったよ。ありがとうゴールドシップ」

 

「いやあおっちゃんのスペシャル蹄鉄、もうバリッバリにゴキゲンなグリップで、ビックリするくらい漁がはかどっちまったからよぉ。この鯛も半分はおっちゃんの手柄だぜ!」

 

 自慢げに鼻をこするゴールドシップは、本当にあの蹄鉄を気に入ったようだ。

 

「そこまで気に入ってもらえるとつくったもの冥利に尽きるよ」

 

 ふっと真顔に戻ったゴールドシップは、少しの間、男を観察するように眺める。

 切り替えるように美しい微笑を浮かべて、彼女は言った。

 

「まぁ生きてりゃいろいろあるけどよ、うめえもん食ってまた明日も面白く生きようぜ」

 

 おちゃらけながらも全てを見通したようなゴールドシップの言葉は、休日でも今一つ緊張が抜けきらなかった男の心を、鯛の甘味とともに緩めたのだった。

 

 

 

 

 





ゴールドシップ姐さん状態。


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10:特別講義

仕事イソガシイネ








 

 今日も男は工房で槌を振るう。

 

 だいたい一日のサイクルは決まっているが、今日はその予定をいささか前倒して進めている。

 

 朝イチにきた工房係を珍しく入口で出迎え、今日の依頼物をその場で中に引き入れ、整理し、すぐに作業に入り、数を稼いでいる。

 いつもなら入れる途中の休憩も今日は省略し、とにかく午後に時間をあけられるように意識した。

 

 昨夜、たづなさんからの連絡があった。

 

「急で申し訳ないのですが、明日の午後、編入生への特別講義をお願いしたいのですが…」

 

 聞けば時季外れだが、編入生が入ってくるらしい。

 男の講義は入学式の直後にまとめて行うから、その編入生はなにもしなければ今後も受ける機会はない。

 なのでその補講をしてほしい、という依頼だった。

 

 もちろん男はここの職員であり、一も二もなく承諾する。

 

 ただ業務の都合上、教室ではなくこの工房で行うことにした。

 

 今日の粗方の仕事に目途を付けた午後2時過ぎ。

 工房の入り口がガララ、とゆっくり開かれる音がした。

 

「失礼しまーす」

 

 声の主はボブカットと白い前髪が特長的なウマ娘だった。

 

「こんにちは。君が編入生?」

 

 男は無表情に応えると、彼女は元気いっぱいに答えた。

 

「は…はい!スペシャルウィークっていいます!よろしくお願いします!」

 

 緊張しているようで、入り口でつまづいて転びそうになったところをなんとかこらえる。

 

 男は作業台の横に彼女の席を設け、着席を促した。

 

「それじゃああまり時間もないし、始めようか」

 

「はい!」

 

 いつもは3コマほどを使って展開していく講義だが、今回は一対一ということもあり、圧縮して今日だけで仕上げる予定になっている。

 

 スペシャルウィークと名乗った彼女は、はきはきと話し、最初は緊張していたようだが、真剣な表情で男の話をよく聞き、時にコロコロと表情を変えた。

 

 最初は装具の重要性、特にシューズや蹄鉄について、基本的なことから確認していく。

 作業台に教材用のシューズや蹄鉄を出し、ひとつひとつ解説していく。

 編入するにあたり彼女は事前にある程度予習していたらしく、理解は早い。

 

 シューズや蹄鉄のレギュレーションを主だったところをなぞりながら、何故そうなったかの理由付けや、ルールを定める発端となった過去の事例を交えて解説する。

 時に、それは過去の暗い事例にも触れていくことになる。

 その時の彼女の表情はわかりやすく硬く、青くなり、それを教訓とするルールの成立でほっとした表情を見せる彼女。

 感情が見て取れる素直な表情は、男を密かに楽しませた。

 

「さて…大筋はこんなところで、ここからは割と実践的な話をするよ」

 

 男は蹄鉄の装着されたシューズの裏側を示しながら、彼女に問うた。

 

「この蹄鉄の接地面で、君たちは砂や芝を踏み、蹴って、推進力を得る」

 

 蹄鉄を指先でなぞりながら言葉を続ける。

 

「 た っ た これだけの面積でその力を受け止める。この意味、わかるかな?」

 

 彼女は緊張の面持ちで、ごくりと唾を飲み込む。

 

「…蹄鉄が、走る力を地面に伝える、唯一の部分ってことですか…?」

 

「…そうだ。これだけの面積、こんなちっちゃな鉄の欠片で、君たちは駆ける」

 

「…すごく、大事な部分ってことはわかります…!」

 

 良い瞳をしている。

 男はそう思った。

 彼女は真剣に話を聞いている。

 

「君たちの行うトレーニングには大まかに分けて2つの軸があると思う。

 ひとつは走る能力を上げるためのトレーニング。

 もうひとつはそれを正しく出力するためのトレーニング、だ」

 

 言葉を切る。

 ここからが本当に男が伝えたいことだ。

 

「だが、俺はもうひとつの軸を持ってほしいと思ってる。それはなんだか、わかる?」

 

 彼女は考え、可愛らしい唸り声を上げる。

 男は問いかけはしたが、彼女に正答を求めてはいなかった。

 

「それはね、自分の身体の変化をよくわかるようになるトレーニング、という軸だ」

 

 彼女は目を見開いた。

 

「君たちは誰よりも速く走って、勝つためにここに来た。だからトレーニングも、速くなることを第一に考えて行っていくだろう。

 それは、理解しているし、第一の目標だ。

 でもね、それによって体からの出力を上げていけばいくほど、身体に負担を与えていくことになる。その行きつく先は…」

 

「…怪我、ですか…」

 

 気弱な声で応える彼女。

 

「そうだ。

 筋力はトレーニングによって強化できるが、骨はなかなかそうはいかない。もちろん強くなってはいくが、もともと持っている体質に影響される要素も大きい」

 

 先ほどの事例紹介でも、不適切なシューズのフィッティングや、不適切な蹄鉄の装着や使用による怪我の事例をあげていた。

 彼女はそれを思い出したようで、再び表情が硬くなる。

 

「だからこれだけは忘れないでほしい。

 君の身体は君が一番よくわかるはずだ。

 だから自身の状態を常に客観的に監視し、異常があれば無理はしない。

 おかしな部分があればトレーナーに相談すること。

 シューズや蹄鉄に原因がありそうならば、俺でもいい」

 

「…はいっ!」

 

 真っ直ぐな、意志の強い瞳でスペシャルウィークははっきりとした返事をかえす。

 それを見た男は、しっかりと思いが伝わった、と安堵した。

 

「さぁ、講義はざっとこんなところだ。ぶっ続けで疲れただろう。居眠りせずに最後まで聞けた良い子にはご褒美だ」

 

 冷凍庫からとっておきの人参アイスを取り出し、彼女に差し出す。

 

「わぁ…!ありがとうございます!」

 

「他の娘たちには内緒だぞ」

 

 いささか子ども扱いな気がしないでもないが、喜んでくれたので良しとする。

 

 男はそんな彼女をみて思わず眩しく感じ、目を細めてしまう。

 

 

 

「ところで、もうチームは決まったのか?」

 

「…それがまだ、これからで…」

 

 アイスを口で溶かしながら、彼女はもごもごと言った。

 男は蹄鉄を直す作業を再始動させ、槌をこつこつと叩きだす。

 

「そうか。君はどんな夢を持って、学園に来たんだ?」

 

「…お母ちゃんと、約束したんです。日本一のウマ娘になる、って…でも、学園に来てみたら、私なんかより速そうな娘がいっぱいいて…」

 

 話すうちに、耳が力なく折れ曲がり、スプーンを咥えたまま、やや気落ちした表情を浮かべる。

 

「…こんなところで私、やっていけるんでしょうか…」

 

 聞けば彼女は幼いころ母親を亡くし、母親の親友である女性を第二の母親とし、北海道の片田舎で育ったらしい。

 この学園に来るまで、ウマ娘の友達もいない環境で育ってきたという。

 テレビでウマ娘たちのレースを興奮して観ていた彼女を見て、育ての母親が彼女に特訓を施し、編入願書を提出、この学園に来た。

 

「…この学園に来る娘たちの夢は、皆同じようで…皆少しずつ違う、と思う」

 

 男は槌を振るいながら、最近関わった娘たちを思い出す。

 

 誰よりも速く走りたい、と願うサイレンススズカ。

 

 レースを通じて、ウマ娘全体の幸福を願い、叶えようとするシンボリルドルフ。

 

 ウマ娘の可能性、その先を追い求めるアグネスタキオン。

 

 ゴールドシップは…きっと刺激的な日々を求めて走り、楽しんでいる…のかな?よくわからないけど。

 

「ひとつの共通点が、レースだ。皆それぞれのアプローチで、レースを競い合っていく。もちろん勝つことは重要だ。だけど、それだけじゃない」

 

 彼女はしょんぼりと折れ曲がっていた耳をぴょこん、と立てる。

 

「何が君とお母さんの日本一かはわからない。

 だけど君の夢の過程にあるレースを走る仲間が、ライバルが、ここにはたくさんいる。

 その中で君の夢は、磨かれていくんだろうね」

 

 彼女は、ほわっとした不思議な表情を浮かべている。

 

「夢が…磨かれる…」

 

 彼女の手元のアイスカップの雫が、ぽたりと落ちる。

 

「無事是名バ、ということわざもある。君のお母さんは、君が元気でいてくれたら満点だろう。

 そのうえで、お母さんは君が君の夢を叶えてくれたら、という夢と希望を君に、託したんだと思うよ。

 それをどう磨いて、輝かせるかは君次第だ」

 

 彼女は耳を立てて聞き、最後に表情を引き締めた。

 

「…私、頑張ります!」

 

 ガタっと椅子から立ち上がり、良い顔をして勢いよく宣言した。

 

 

 

 

「…アイス、溶けちまうぞ」

 

 

「あぁっ…はわわわわわわ」

 

 

 

 

 溶けかけたアイスをあわててかきこむ彼女は、やはり年相応の元気な少女、といった趣きで、男に穏やかな笑みをもたらした。

 

 

 

 

 

 

 





アイスが美味しい季節になりましたね。


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幕間 トレセン学園 史料課研究員による報告書



幕間、といいつつ、話の流れにはがっちり入っちゃってますけど時空がアレです。


モウソウタノシイネ










 

 

 

 

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園の地下には、過去からの膨大な資料が眠っている。

 

 それはこの学園に在籍し、URA支配下のレースで戦ったウマ娘たちの教育、トレーニング、日記そのほか、この学園にかかわったウマ娘たちのありとあらゆる記録、実物や残骸たちである。

 

 基本的には個人情報であるため公開されておらず、学園の史料課に所属する研究員がその全てを管理、外部からの問い合わせや取材に対応するため、資料として活用することがある程度だ。

 

 ある時、古い年代の資料のメンテナンス・整理を行っていた研究員が、当時在籍していたと思われる生徒の日記を発見した。

 

 膨大な資料の中でもデジタル化されていない、生徒の個人的なものと思われるそれらは、今日のURAを語るにおいて欠かせない、輝かしい業績をのこしたウマ娘たちのものもあり、史料的価値が極めて高いと思われた。

 

 発見した研究員から、内々に初期段階の調査結果がまとめられた報告書が理事長の手に渡ったのは、その日の夕刻の迫る時刻であった。

 

 

 

--------------------

【報告書式 史004-2-206x-2】

 

書庫での発見についての調査報告書(第二報)

 

 

 

 先の書庫での発見報告(報告書式 史004-2-206x-1)の続報として本調査報告を行う。

 

(1)前文 諸注意

 

 発見した日記はウマ娘界においてそれぞれ輝かしい業績を遺された方々であり、内容においては本人の名誉のためにも公開に適さない内容も含まれていると考えられ、取り扱いには細心の注意を払う必要があるものと思われる。

 よって本報告書においては一切の複写・複製等を禁じ、製本した報告書は本書1通のみである。

 

 

 

(2)史料の保管状況 解読状況について

 

 原資料については紙に直筆で書かれており、経年劣化が著しい。

 また紙・インクの劣化により一部判読の難しい部分があることをご了承いただきたい。 

 今後も解読に務めていくが、史料の重要度が増した場合には分析機関等の活用による解読を検討すべきかもしれない。

 

 

 

(3)内容の一部 

※現時点で判明している一部。◇印は判読不能文字。それぞれは同一文字を意味しない。

 

 

〇サイレンススズカの日記 より

 

 

 ◇◇◇先生に、アドバイスをいただきました。

 

 工房の外で先生をお見掛けすることは珍しく、いつもの作業着とは違うお姿で、印象は違いましたが、◇の香りだけは変わりませんでした。

 

 

 私の悩みを◇◇から読み取っていただいたみたいでした。

 

 あれだけの情報で、私の状態があそこまでわかるものなのですね。

 

 今まで、◇◇をあまり気にしたことがなかったので、本当に驚きました。

 

 

 スピ◇のトレーナーさんの言葉は、私の心に残りました。

 

 レースに、私の気持ちをぶつける。

 私は、そんなことをしてもいいんでしょうか。

 

 でも、私はかわりたいと思っています。

 

 誰よりも速く走りたい。

 先頭は誰にも譲りたくない。

 

 私はそんな、私のレースをしてみたい。

 

 でも、理論やセオリーを無視しても、私は走り続けられるのでしょうか。

 

    

 ◇の香りは、何故だか落ち着きます。

 

 あの香りの中でなら、私は自分の気持ちに、素直になれるでしょうか…。

 

 

 

 

〇シンボリルドルフの日記 より

 

 

 今日は久しぶりに◇さんに会いに行った。

 

 昔と変わらず、素っ気ない。

 でも、あの雰囲気は変わらない。

 

 練習トラックのスタンドでのサイレンススズカとの話の内容は◇◇◇◇◇◇、あの温厚篤実な◇さんのことだ。最近伸び悩んでいる彼女になにかヒントを与えたのだろう。

 

 スズカが使っていた先生、という呼び名を使った時の狼狽ぶりは、なかなか見られないものだ。スズカのおかげで良いものが見ることができた。

 

 今日の私の◇さんへの相談は、なかなか誰にも打ち明けることができない問題だった。

 しかし彼は和風慶雲といった趣で、見事に私の心を晴れやかにしてくれた。

 

 悩むべき要素が増えたことも確かだが、新たな視点はさらなる高みへと臨む私にとっても、必要なものとなることだろう。

 

 また、今夜のような機会を持ちたいものだ。

 そう遠くないうちに、今度はもっとゆったりと語りあいたい。

 そのためにも、明日も鉄心石腸、励むとしよう。

 

 

 

 

〇アグネスタキオンの日記より

 

 

 今日は新たな発見があった。

 私の研究を進捗させる、新たな◇◇◇が見つかったのだ。

 

 彼は実直で、真摯で、研究を志すものとはまた違う、一種の職人としてのプライドを高く持ったモルモ…◇◇◇。

 

 この学園にはプライドばかりが高いものは多くいるが、今まで接してきたどれとも違う、ある種高潔なまでの理想とそれを実現する技術を持ち合わせている。

 

 ◇◇◇◇シップ君が付けていた◇◇、それを示す何よりの証拠だ。

 

 観察対象としても実に興味深い。

 

 あぁ、彼の技術、彼の腕が心底◇◇◇。

 

 私の研究はそれにより、より一層の進展を果たすだろう。

 

 しかしそのためには、彼の言っていた生徒としての義務を果たさねばならない。

 

 そのための時間が惜しいのは事実だが、私の見積もりによればおそらくそれを上回るであろう成果が期待できる。

 

 よって私はこの学園において、研究のみならず競技も行うべきである。Q.E.D

 

 

 

 

(以上、内容の一部を抜粋)

 

 

 

(4)考察

 

 上記3名の日記は、いずれも近しい日付を示しており、公式記録には残っていない当時のウマ娘たちの学園生活や競技に向ける思いなどが赤裸々につづられていると推測される。

 

 また判読不明部位にはそれぞれ違う人物の記述ながら一部に近い、あるいは同じ意味合いを示すと思われる文脈もあり、これが判読できれば考察は推進するであろう。

 

 また同時期の生徒のものと思われる日記も他に発見されており、これらの解析も進めている。

 

 いずれにせよ、これらの史料の分析を進めることにより、もはや神話となりつつある時代のウマ娘たちの様子をこれまでより詳細に伺い知ることができると確信している。

 

・付記

 現在のURA隆盛の基礎をつくった彼女たちの功績を讃え、歴史と伝統の確立のためにも、本研究の継続と拡大の検討を願うものである。

 

 

 

【理事長限】※但し理事長の許可した者を除く

 

 

 

【日本ウマ娘トレーニング学園 学園管理本部 施設統括管理部 史料課】印省略 

 

---------------

 

 

 この報告書を手にした理事長は、多忙な時間帯だったが理由を告げず、1時間ほど理事長室に誰も近づかせないように言いつけた。

 

 夕日が理事長席の背後から差し込んでくる中、ゆっくりと丹念に、読み込む。

 

 やがて読み終わり、背後の大きな窓から外を眺める。

 遠く、オレンジに染まる空を眺め、継いで遠くトレーニングトラックを走るウマ娘たちを眺める。

 

 しばらくそうした後、部屋の壁の一面に飾ってある歴代のURAファイナルズウィナーの蹄鉄たちに歩み寄る。

 そして目的のひとつを見つけると、それをいとおしそうに撫でた。

 







今まで書いてた中で一番面白かったかもしれん(自己満足的な意味で)


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11:アイスと情報

皆様いつも見ていただきありがとうございます。
誤字報告も大変ありがたく、正座して拝見しております。
今後ともよろしくお願いいたします。









 

 

 

 

 

 

「おっちゃーん、ニュース!ニュースだぜ!冷凍庫の奥にある人参アイスくれよ!」

 

 工房の引き戸が勢いよく開く。

 こんな呼び方をするやつは決まっている。

 ゴールドシップだ。

 

「…人参アイス…なんのことだ…?」

 

 スペシャルウィークにあげたアレのことだろうか。

 なぜそれを彼女が知っているのか。口止めが甘かったか、アイスだけに…。

 

「あんだよーここには人参アイスが常備してあるって聞いたぜ!ケチケチせずに出せよ~」

 

 …まぁ、いいだろう。

 この間は新鮮な鯛を御馳走になっているし、なんだかんだで世話になっている。

 男は冷凍庫から人参アイスを取り出した。

 

「お!ホントにあるんだな!サンキューなおっちゃん!」

 

 言うが早いか、彼女はすごい勢いでアイスを食べ始める。

 …そして、動きがピタリととまり、しかめた表情をつくった。

 

 あ…

 

 彼女はかの「アイスクリーム頭痛」というやつにおそわれていた。

 

 男は改めてゴールドシップを凝視してしまう。

 顔をしかめても美人ではある。

 

 その後もたびたび動きを止めながらも人参アイスを完食した彼女に、熱めのお茶を入れてやった。

 

 

「…でな、ニュースってのは…」

 

 生気を取り戻した彼女が話し出す。

 

「…なぁんとおっちゃんが口説いてたスズカ、スピカに移籍することになったんだぜ!うちのトレーナーも手癖が悪いよなぁ…おっちゃんが口説いてたのに寝取るなんてよぉ!」

 

 口説いてはいないぞゴールドシップ。

 ここではそういう軽口もいいが、他所で寝取るとか言うなよ。

 

「どうして移籍するんだ?」

 

 問うと、キラッと瞳を鋭く輝かせた。

 

「ヤッちまったんだよ、スズカのやつ!」

 

「!!!!!?????」

 

 あまりの言い回しに男は目を白黒させる。

 

「こないだウチのトレーナーがスズカに言ってた大逃げ。あれをやってみせたんだよ。そりゃあもうすげーもんだったぜ。スタートでハナ切ったあとはもうそのまま。ゴール板で7バ身差つけてやがったぜ…」

 

 なるほど。

 この間沖野が言っていたやつだ。

 そして、彼女は敢えてレースで実行し、結果を示してみせた。

 

「で、スズカはおハナさんの指示を聞かなかったカドで、リギルに居づらくなったんじゃねーかな。まぁゴルシちゃん諜報網によれば、トレーナー同士の話はついてるらしいから、遺恨とかはなさそうだZE★」

 

 それは良かった。

 まぁ方向性は違えど二人ともウマ娘たちのことを親身に考えている。

 片やガチガチ管理型の冷血女傑、片やゆるゆる放任主義の熱血漢という真逆の性質で時には折り合いを欠くこともあるが、ウマ娘たちの幸せを願っていることだけは疑いようもない共通項だ。

 

 大方、いつものバーで決着したであろうことは想像に難くなく、なんなら男にはそのやりとりすら鮮明に想像できた。そしてその想像とほぼ寸分違いないであろうことも確信できる。

 ウマ娘たちのためであれば、時として憎まれ役まで背負えるあたり、東条ハナという女性は末恐ろしい大人物といえた。

 

 移籍自体は珍しくないが、スズカについては周りの評価もある分、年頃の娘たちにあらぬ噂の餌とならないかが心配だが、大人の二人が話し合って双方移籍を承諾しているのなら、コトの経緯はどうあれ、大丈夫であろう。

 

「沖野んとこも、これでまた更に賑やかになるな」

 

「ったくよーとんだ浮気者ハーレムトレーナーだと思わねぇか?この超絶絶対美少女ゴルシちゃんがいるってのにウオッカだ、スカーレットだ、それで今度はスズカと編入生まで捕まえてきてよー…」

 

「編入生?」

 

「あぁ、もうひとり入ったんだよ。スペシャルウィークって奴」

 

 あぁ…これで合点がいった。

 ここで人参アイスを振舞ったのは彼女だけだ。 

 ゴールドシップはそこから、ここにアイスがあることを知ったのだろう。

 げに恐ろしきウマ娘の連なり。

 

「でもこれで5人で、ようやくチームの体裁が整ったわけだ。よかったじゃないか」

 

「まーなー。あとはマックイーンだなー」

 

 どうやらこの超絶絶対美女奇行種ウマ娘は、あのメジロ家の令嬢すら狙っているらしい。

 

 男はゴールドシップを通じて想像したチームスピカの喧騒に、眩しい青春の輝きを見た気がした。

 

 

 

 

 

 翌日、男は朝から工房の設備を点検、整備していた。

 

 昨日来たゴールドシップが、帰りがけに気になることを言っていたのだ。

 

「そういえばよー、タキオンのやつ、なんかおっちゃんにちょっかいかけてねぇか?なんだか怪しい動きしてるみたいだぜ」

 

 なんでも、自身の研究のために学園を巻き込んだプロジェクトをつくろうとしているらしい。

 

「難しい話はよくわかんねぇんだけどよ、どうやら学園側も無碍にはしないような雰囲気だってーから、たぶんそのうちなんか発表とかあるんじゃねーか?」

 

 彼女の研究への協力には以前釘を刺した形ではあったが、どうやら何か搦め手の策を動かしているらしい。

 

 ゴールドシップからは特にそれ以上の話はなかったが、敢えてそれを言ってきたということはアグネスタキオンが工房に来襲したことも知っているのだろう。

 

 まぁ、元はといえばゴールドシップが学内でスペシャル仕様の蹄鉄を履いたからなのだが。

 

 タキオンとの個人的な協力関係であれば、通常業務プラスαの中で対応していくのでそれほど気にはならないが、学園そのものが絡むとなると大事になる恐れもある。タキオンとの前回のやりとりもあり、男は備えておく必要を感じた。

 そういうわけで男はこれまで不定期に行っていた工房の設備点検を始める決意をしたのだった。

 

 工房の設備の中で特に重要なのは鉄を熱するための炉と、それを叩いて加工していくハンマー類だ。

 基本的には手仕事であるため、機械化されている部分は多くない。

 炉に関しては古く、人間のカンにより温度含めて運用されるタイプなので、炉の体躯を確認してヒビや欠けがみられる部分を耐熱充填材で補修する段取りを組む。

 

 ハンマー類はだいたい手作業であり手工具だが、唯一機械化されているのが、熱した鉄を叩く際にごくまれに用いる機械式のハンマーだ。

 モーターでベルトを介してハンマーを上下させ、それによって鉄を叩くことができる機械だが、あまり男は好んで使うことはない。

 細かな力の調整ができず、単純な打撃ゆえに叩きながら繊細な形をつくっていくことが難しいからだ。

 

 とはいえ鉄を鍛錬する必要があれば手数が必要になり、その場合は使わないわけではないので、念のため駆動ベルトを在庫してあった新品に交換しておく。

 

 他にも仕上げ用のサンドブラスト機材や細かな加工に使うエアツール、それらを駆動するためのコンプレッサーなど、地味ではあるがないと困る数々の機材を整備、足りない部品や資材については在庫分も含めて多少の積み増し発注を行っていく。

 

 

 

 結局、工房が十全に機能するための段取りがだいたい済んだのは、昼も過ぎて日が傾きだす時刻だった。

 

 男は工房の外の古びたベンチに疲労感に任せて崩れかかり、煙草をくゆらせる。

 

 ゴールドシップの話から想像した展開が杞憂であることを願う気持ちと、タキオンのもたらす新しい刺激を期待する気持ちが男の中でせめぎあっていた。

 

 煙草の煙を吸い込み、目を閉じ、考えを巡らせながらゆっくり紫煙を吐きだす。

 

「…まったく…学園内で喫煙なぞ…」

 

 怜悧で硬い質の言葉が響く。

 

 ゆっくり目をあけると、そこには容姿端麗学業優秀の才媛、エアグルーヴ。

 声音と表情は冷ややかで隙がなく、職員であろうがほとんどの男性を貴様呼びしてしまう女帝だ。

 

 そしてその半歩後ろに微苦笑を浮かべたシンボリルドルフ。

 

「やぁ、こんな僻地の工房へ。どのようなご用向きで?」

 

 彼女たちが普段執務をする生徒会室は、まさに学園の中心。校舎内でも心臓部といえるような部分にある。

 それにくらべれば卑屈な意味ではないが、この工房のある位置は学園内の僻地といえた。

 

 男はエアグルーヴの声から敏感に感情を拾い上げたゆえに、疲労感にまかせて嫌味な言い回しをしてしまったことを悔いた。

 

「…生徒会として、貴様に話がある」

 

 さっそく来たか。

 

 男は表情を消したまま煙草をもみ消し、二人を工房の応接へ通した。

 

 

 







ちょっと作者ガス欠気味であります。
またご感想などいただけると大変嬉しくこころ暖まります。
引き続きよろしくお願いいたします。


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12:エアグルーヴお嬢ちゃん

みなさま燃料ありがとうございます。
人様に晒すのドキドキしながらも、淡々と綴って参りますので引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。
誤字修正も毎度大変助かっております。ありがとうございます。








 

 

 

 

 

 工房の安普請な応接に2人を通す。

 

 エアグルーヴの額にはうっすら青筋が浮かんでいそうな雰囲気で、耳も攻撃的に傾けられている。

 もともとあまり綺麗とはいえない工房内にあって、先ほどまで整備のために様々な設備をひっくり返していたこともあり、やや埃っぽい空気感がその不機嫌さをさらに助長しているのかもしれない。

 対称的に、シンボリルドルフは昔ここによく来ていたこともあり、気にも留めない様子だ。

 

 おもてなしとしては些か子供騙しかもしれないが、ペットボトルの人参ジュースを出してやる。

 

「あぁすまない。ありがとう」

 

 シンボリルドルフは柔らかい表情で受け取ってくれるが、エアグルーヴは愛想の一つもない。まぁいいだろう。

 2人の対面に腰を下ろす。

 

「で、要件は?」

 

 シンボリルドルフが口を開こうとするが、エアグルーヴがそれを制止し、一冊に綴じられた書類を差し出してくる。

 

「貴様にこれに目を通して欲しい」

 

 表紙には「ウマ娘の可能性追求に関する合同研究プロジェクト(案)」とある。

 

 パラパラとめくりながら斜め読みしていく。

 

 座組みとしては生徒会が中心となり学園を母体としたプロジェクトをつくり、ウマ娘の身体的強化の研究に取り組み、競技、レースの魅力向上を目指していく、という趣旨となっている。

 

 役割分担として事務局部分を生徒会が担い、研究の方針策定やディレクション、統合は生徒会、学園理事陣、「生徒代表研究委員」の三者が行なうことになっている。

 その下に研究の実働部隊として学園組織の実務部門、また外部のスポーツ用品メーカー、製薬メーカーなどの名が配されている。

 生徒代表研究委員、のところがアグネスタキオンが入る部分だろう。

 ゴールドシップの諜報網はおそらくこれを嗅ぎ付けていたと思われる。

 全く、どういう仕組みかはわからないし知りたくもないがアイツの情報収集能力には恐れ入る。

 

「これは…?」

 

 書類に目を通しながら素知らぬ体で男が尋ねる。

 

「見ての通り、生徒主体のウマ娘に関する研究体の企画書だ」

 

 エアグルーヴが冷徹そのものの声で答える。

 

「そこに、貴様も参加してもらいたい」

 

「それは、正式な依頼か?」

 

「そう思ってもらって構わない」

 

 ふう、と男はため息をついた。

 シンボリルドルフを見やる。

 相変わらず微苦笑を浮かべている。外側の眉が下がり気味なところを見るとやや状況に困っている部分があるのだろうか。

 

 資料は基本的によくできている。

 座組みにしてもある程度納得できるし、方向性が曖昧なところはあれど、目指している向きは概ね文句もつけようはない。端的にそつなくまとめられている。

 さすがは女帝の名をとるエアグルーヴだ。学業優秀の才媛という評判も伊達ではない、と思わされる。

 

「…よくできてる、と思うよ。さすがは女帝、エアグルーヴだ。この資料は、君が?」

 

 男は絞り出すように、エアグルーヴを見つめながら言った。

 

「そうだ」

 

「この話は、どこまで通ってるものなんだ?」

 

「これから順次、理事長や理事会を通して、公式にしていくつもりだ」

 

「何故、その前に俺のところに来た?」

 

「…アグネスタキオンが貴様のところに来ただろう?」

 

「あぁ。俺に自分の研究に協力して欲しいと言ってね」

 

「この企画は、彼女から生徒会に持ち込まれた研究企画だ。生徒会として検討し、大いに賛同する部分があったため、公式化していくことで彼女の活動を後押ししようというものだ。無論、行き過ぎを抑えるための足枷の意味もあるがな。貴様は彼女に、生徒の立場を違えなければ協力する、と言ったのだろう?」

 

「…彼女を生徒と見て、協力はする約束をしたな」

 

 アグネスタキオンの素質はルドルフも認めるところだ。

 だが、研究を優先するあまり、競技者としての道に関しては等閑に付してきたということも聞いている。だからこそ、以前彼女が来たときに、生徒の立場を違えなければ協力する、と男は述べた。

 しかしそれはあくまで個人的なレベルで、だ。

 

「ならば、貴様はこの件に関しても協力する、ということでいいのだな?」

 

 焦れた様子で結論を迫ってくるエアグルーヴ。

 

「…今は答えられないな」

 

 そう言うと、男は資料をテーブルに置き、背もたれに体を預けた。

 

「何故だ!?」

 

 鼻白むエアグルーヴ。いよいよ額に青筋が見える。

 ルドルフは相変わらずの微苦笑。どうやら男の反応も含めて、展開が読めているらしい。

 そういえば、ルドルフにも同じような流れで対応したことがあった。

 

「立案もいいだろう。資料もよくできてる。タキオンの研究を生徒会としてきちんとした形にしよう、という志も買おう」

 

「ならばなぜ答えられないんだ!?」

 

 語気を強めたエアグルーヴ。

 

 男は失礼、と言って非礼は承知で、煙草に火をつける。

 

「…筋が違う、といえばわかるかい? 女帝エアグルーヴ お 嬢 ち ゃ ん 」

 

「なっ……!」

 

 一瞬にして白磁のような彼女の肌が紅潮し、血管が青く浮き上がる。

 ルドルフは表情を引き締め、目を瞑り、押し黙ったままだ。

 

「君たちがやろうとしていることは一見、正しい。アプローチもいいだろう。学園も自由な校風だし、生徒会に大きな自治権もある。だがそれは、あくまで学園が最終的な責任を負える範囲だ」

 

 灰皿に差した煙草がジリジリと燻らす一筋の煙を横目に、続ける。

 

「学園そのものを動かすような話や、外部も巻き込むような話であれば、それ相応の筋ってもんがあるだろう?」

 

 エアグルーヴの整った顔立ちに宿った怒りを見やる。耳は絞られ、握った手まで赤く、震えている。

 ウマ娘の力は成人男性の数倍はくだらない。今ここで感情を爆発されたら、男はひとたまりもないだろう。正直、恐怖心に支配されそうになる。

 震えそうになる指先を、煙草の力で誤魔化し、抑えつけながら続ける。

 

「…初っ端に話を持ってきてくれるのもいいし、相談にも乗るのも吝かじゃない。だけどな、俺は学園の職員で、そもそも俺にも上司ってものがいるんだぜ」

 

 事実であった。

 学園の敷地内に一隅を与えられ、業務もほぼ自由裁量で行える身の上であったが、男の所属は学園の「服飾部脚部課装蹄班」ということになっている。班、といっても今は男ひとりしかいなかったが。

 

「前向きな話は歓迎するし、タキオンに個人的になら協力する。これは変わらないが、コトを大きくして組織化するなら話は別だ。根回し程度なら構わないが、今ここで結論を出せ、といってくるのは筋が通らない上、俺を買い被り過ぎだ」

 

 そこまで言い切ると、男は再びソファに身を預けた。

 

「…エアグルーヴ、わかっただろう?」

 

 ルドルフが優しげな声で取りなす。

 

「…ことを成すには、それ相応の段取りを踏んでいく必要がある。既成事実を積み上げるだけでは、どこかで壁にぶつかる。昔、私もこの人に教わったことだ」

 

「会長、も…ですか?」

 

 男を射抜かんばかりに睨みつけていたエアグルーヴの表情がさっと、潮が引くように戻っていく。

 

「お前、展開読んでたのに黙ってただろ…」

 

 男はルドルフの言葉を聞いて緊張を解いた。

 

「…エアグルーヴにも体感して欲しかったんだ。生徒会では、時として学園の政治的な部分に踏み込まざるを得ない時がある。自分たちが正しいと思っても、違う視点からすればそうではないこともある。いい機会だから、それを学んでほしいと思ったんだ。この人相手ならきっとそれを学ばせてくれると思ったから、引け目はあったが任せたんだ」

 

「会長…引け目なんてそんな…」

 

 エアグルーヴはルドルフの深慮に気付き、自分の行動を省みているようだ。

 

「全く…買い被り過ぎだよルドルフ。教育したいならあらかじめそう言ってくれ。真剣勝負してたんじゃ俺の身がもたん」

 

 緊張による疲労で脱力し切った姿勢で男が力なく抗議する。

 

 するとルドルフは皇帝の表情に悪戯っぽい笑みを添えて、言った。

 

「申し訳ない。この埋め合わせはいずれ、しよう。いくぞエアグルーヴ」

 

 エアグルーヴはバツの悪そうな表情でこちらをチラリと見たが、それ以上継ぐ言葉を見つけられない様子で軽く頭を下げ、ルドルフの後を追っていった。

 

 

 2人が去った後、ソファで脱力したまま男は煙草に火をつけ、疲労感に苛まれたまま

「女帝にお嬢ちゃん、は言い過ぎだったかな…」

 と、ひとりごちた。




たわけ、と言わなかっただけエアグルーヴさんはわきまえていたと思わないでもない。


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13:筋と始末

できたんで投下します。













 男はその日、レース場にいた。

 今日は平日だが、工房には本日休業の札をかけてきている。

 

 生徒会のトップとナンバー2が来襲した次の週の平日、学園の所属部署を通して、URAの技術部会からの招集を受けたのだ。

 学園の上部団体にあたるURAはウマ娘たちのレース興行を一手に担う団体で、成立背景は複雑だが、現在は政府の関与も受けるなどして、ただの興行だった昔に比べれば公的性格も有するようになっている。

 

 今でこそ国民的エンターテイメントとして確立された感のあるウマ娘たちのレースではあったが、ここに至るにはさまざまな紆余曲折があった。

 障害や問題が起こる度に何よりもウマ娘たちの本能を大切に考えた人々、さらには彼女たちの地位向上に資する仕組みとしてのこのレースという形態を生み出し、連綿とヒト、ウマ娘双方によって努力を続けられた結果が今日の隆盛である。

 もっともURAをして、規模が大きくなるにつれて発生するさまざまな方面との調整と称した利害分配装置、という側面も否定できなかったが、利害がさまざまな軋みを生んでいるとしても、概ねうまくいっているということは全国にまるで空港のターミナルかのような巨大なスタンド施設を備えたレース場を建設し、維持していることが何よりの証明といえた。

 

 平日でレース開催のない今日はこの広大で壮大な施設にも人影はほぼなく、施設の維持管理のための人員をまばらに見かける程度である。

 

 その中を男はいつもの作業着ではなく、スーツ姿で歩んでいた。

 

 グランドスタンドの上層階に設られた会議室へ向かうと、いくつかの会議室をぶち抜かれてセッティングされている会議場、と表すべき広さの空間に、ざっと100人は下らないだろう人の群れ。よく見ると同業の装蹄師たちの集団がひとかたまり。さらに見回すと、勝負服やシューズのデザイナーや縫製担当、コースや施設の設計や施工、整備担当など、およそ技術的なことを統括する主だった人物が来ているようだった。チラホラと大手どころのスポーツ用品メーカーの社員の姿も見える。

 

 学園にいるとあまり人混みに出くわすことのない男は所在なさげに装蹄師のかたまりに近づく。すると男に景気良さそうに声をかけてきたのは、壮年期に入ろうかというがっしりした風体の、大黒様のような福々しい見かけの同業者だった。

 時期は違うが同じ老公に師事し、男の兄弟子に当たる人物だ。

 

「ヨォ。元気そうじゃねーか。ちょっと老けたか?」

 

「ご無沙汰してます。まぁ、歳は皆平等に取りますから…そちらもお変わりなさそうで」

 

 そう言って男は兄弟子の、以前会った時より後退したと思われる額に目線が引きずられる。

 

「おう。こっちはこっちでのんびりやらせてもらってるよ。最近のメーカー製の蹄鉄もだいぶ良くなったんで、手間がかからねぇ」

 

 男の目線も気にせずカラカラと笑う兄弟子は、以前は学園の工房にいたこともあったが、今は彼の両親の介護など家庭の事情で、URAが管轄する地方のレース場を中心に現場装蹄師として活動している。

 

「しっかしまぁ、府中くんだりまで呼び出して、こんだけ色んな裏方集めて、今日は一体何が起こるってんだ?」

 

 兄弟子の疑問は当然といえた。

 技術部会からの呼び出しや会議は珍しいことではないが、大体が装蹄師単位だったり、広げても脚部課レベル、さらに上位の服飾部での会合に至っては年に1回程度だ。

 

「ちょっとねぇ…うちの生徒がご迷惑をかける話、かもしれません」

 

 男はタキオンとエアグルーヴの話を思い出しながら、男は言いづらそうに言った。

 

「あ?学園の子たちが?ほぉーん。まぁいいじゃねえか。俺らは嬢ちゃんたちに食わしてもらってるわけだしな!」

 

 男は先日のことを思うとキリリと胃が痛み、大黒様のご利益がありそうな笑みにも苦笑するしかなかった。

 

「失礼します」

 

 会議開始時刻の定刻ちょうど、会議場の前部上手の扉が開かれる。

 学園理事長である秋川やよい嬢が先頭を切り壇上に上がり、次にシンボリルドルフ、エアグルーヴと続き、最後に扉を開けていた緑のお姉さんことたづなさんが扉を閉め、上手側の司会ポジションにおさまる。

 場内の照明が絞られ、壇上はスポットを強めて照らし出した。

 

「本日は急な招請にもかかわらず、多数お集まりいただき、誠にありがとうございます。本日、日本ウマ娘トレーニングセンター学園より、全国のウマ娘競技関係者の皆様にご協力のお願いがあり、ご参集をお願いいたしました…」

 

 たづなさんの司会により会が始まっていく。

 

 同時に裏手から学園の生徒たちが数人、会議場に入室し、三々五々に座っている参加者たちに資料が配られていく。

 

 男の手元にも資料が手渡される。

 題字は予想通り、以前に見たものだ。

「ウマ娘の可能性追求に関する合同研究プロジェクト(案)」

 男は自然と厳しい表情となる。

 

「おっちゃん、今日はキマってんじゃねーか。このあとゴルシちゃんとデートでもいくか?おっちゃんのオゴリな」

 

 耳打ちにはっとして資料を渡してきたウマ娘を見上げれば、神出鬼没珍行動絶対美女、ゴールドシップである。

 

 しかめた顔がふっと緩む。男の緩んだ顔を見てゴールドシップはビシッと親指を立ててニヤリと笑い、資料配りに戻っていった。

 

 壇上後方にルドルフと並んで立つ、エアグルーヴと目線が合う。

 緊張からか地顔なのか、いつもの怜悧な表情を崩さない。

 男は口角をあげ、ニヤッと笑ってみせた。

 エアグルーヴは少し驚いた様子で、目線を逸らした。

 

 壇上ではたづなさんの前口上が終わり、ちびっこ理事長…もとい秋川やよい理事長が中央に登壇した。

 

「発表!我々トレセン学園は、生徒からの自主的な発案による本プロジェクトの検討を始めることとする!」

 

 いつもの達筆な扇子を拡げ、堂々たる宣言。

 

「本プロジェクトは日本のウマ娘の才を一身に集める我が学園の責務として、業種の垣根を越えた協力体制を得て、レースの振興を軸にしながらもウマ娘たちのより良い将来、より良い未来をつくるための研究として取り組むことで、業界全体の底上げをも期待できるものと考えている!どうか諸兄の叡智を、我々に貸して欲しい!」

 

 そこまで言い切ると、壇上で理事長が深々と頭をさげた。

 予想外の行動だったのか、ルドルフとエアグルーヴも慌てて頭を下げる。

 関係者の視線はその異様な光景に一瞬、ざわめく。

 

 男は理事長の頭上の猫が踏ん張って耐えている様子が可笑しく、つい吹き出しそうになった。

 

 理事長の後を受け、シンボリルドルフが生徒会としての意義を説明し、エアグルーヴが本案の詳細を説明していく形で今回の案の全容が明らかにされていく。

 

 男のところにきた資料は以前よりも遥かにブラッシュアップされており、より広範にリスクも含めて詳細に検討された痕跡が窺えた。

 

 目指すべき成果と方向性は以前男の手元に来た時よりも明確化され、速さの追求もさることながらそれに伴うリスクに対する研究、それらを包括的にバランスをとりながら行っていくとされており、研究成果を得たとしても、それを実用に供するかどうかにも慎重を期すシステムが構築されている。

 そして現状の目標としてはこれまで個々に散らばっていた運営要素、技術要素に横串を刺し、現状での最適解を検証するところから始めたい、とされていた。

 

 よく言えばかなり地についた内容といえるし、悪く言えばドラスティックな変化を避けたともいえたが、学園がそれを発起した、という点が今回のポイントだろう。

 

 会議場では、提案は驚きをもって迎えられ、概ね好意的といっていい反応を示した。

 

 今日のところは主だった面々へ提案、という形で簡単な質疑応答を行い、各セクションへ持ち帰ってもらい正式な反応をもらっていくことを参加者が了承し、会議は終了した。

 

 

「…なかなかやるなぁ、学園の嬢ちゃんたちも。わしらもうかうかしてられんわい」

 

 兄弟子は大黒様そのものの笑顔で話しかけてきた。

 

「また先輩の経験と知恵も貸してやってください。あの子たち、頭も情熱も、本物ですから」

 

 男は大黒様に手を合わせると、鷹揚にうなづきながら

 

「まぁもう歳だし、今のうちにきっちり恩返しせにゃあと思ってたんだ。いい機会ってもんだよ」

 

 じゃあまたな、といって飄々と兄弟子は去っていった。

 

 

 1人残された男は人もまばらになった会議場で、各個の質問に対応し終わり手が空いたエアグルーヴと目があった。

 手元を片付け、彼女に近づいていく。

 エアグルーヴは真っ直ぐにこちらを見つめながらも、耳を絞り身構えているようでもあった。

 

「…よくやったじゃねえか」

 

 男が声をかけると、彼女の鋭かった瞳がふっと見開かれ、尻尾がばさり、と揺れた。

 

「…理事長に頭を下げさせたのは、私としては痛恨だった…」

 

 目を伏せながら、拳をぎゅっと握る。

 

「いいんだよそんなん。お偉いさんの頭は下げるためにあるんだ」

 

 ふるふると弱く震えながら、彼女は弱々しく言った。

 

「私は…己を過信していた…今回の資料も、私一人ではできなかった…会長やブライアンの力も借りなければ、到底、完成させられなかった…今日も、そうだ…これだけの関係者に支えられていることを…私は…」

 

 顔を上げた彼女の瞳は、充血し、うっすらと潤んでいるようだった。

 

「先日の非礼を詫びたい…許して、もらえるだろうか…」

 

 彼女の意外な言葉に、男は驚いた。

 

「許すも許さないもないよ。よく筋を通したな。やっぱお前は女帝だよ」

 

 男はそういって、少し油断をした。

 

 エアグルーヴの頭がちょうどいい位置にあったものだから、慰める意味で、反射的に撫でてしまったのだ。

 

 [カシャシャシャシャシャ!]

 

 スマホの連写音が響き渡る。

 音の主は、会場に紛れ込んでいたゴールドシップだった。

 

 

 

 

 アグネスデジタルに高く売れるとほざき倒すゴールドシップにデータを消させるために、男は図らずも大枚をはたき夕飯をおごらされることとなった。

 

 

 

 




今週はちょっと仕事が忙しいので間隔が開くかもしれません。


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14:夜の工房にて

今日も元気に毒電波受信。
妄想を垂れ流してまいります。






 

 

 

 

 

 学園主催の会議により、関係各所に合同プロジェクトの協力が要請されたあとのこと。

 

 男の仕事はいささかの変化を見せていた。

 

 書類仕事が増えたのだ。

 

 形式ばった書類が増えたわけではなく、合同研究プロジェクトを進めていくにあたり、まずは各々の状況、技術レベルを集約するという名目で、さまざまな切り口の資料提出を求められていた。

 

 もちろん服飾部からの指示により整理、細分化されたのちに資料制作の指示が下りてくるのだが、それは本来は一本独鈷の職人の撚って束ねて組織化したに過ぎないという性質から、かなりの難航を強いられていた。

 

 このところは男は朝から日中は工房に詰めて通常業務を行い、日が暮れたころから机での資料作成に追われる、というサイクルで過ごしている。

 

 これまでの職人の暗黙知を共有知として体系化していく作業は相当に難易度が高い。それがゆえに資料価値が高いともいえたが、書けば書くほど、これで伝わるのだろうか、と男を悩ませた。

 

 そして今日も、日も暮れあたりは真っ暗になり、いくらかの常夜灯が弱々しくあたりを照らす時間になったが、工房の灯は消えることなく煌々としていた。

 

 男は鉄を熱する炉のために設置された換気扇をぶん回しながら、煙草の煙をもうもうと吐きだし、頭をかきむしりながらPCに向かう。

 その姿は水中の生物が無理やり陸上で生活させられているような、一種の不自由さを感じさせた。

 

 

「やぁ、精が出るねぇ」

 

 男がその夜も煮詰まっていたころ、妙にのんびりした声で工房を訪ねてきたのは、ここ最近の変化の元凶、アグネスタキオンその人であった。

 

「やぁ。ひさしぶりだな」

 

 男は疲労感の濃い表情ではあったが、にやりと笑みを浮かべて彼女を出迎えた。

 

「ひどい顔だね君ぃ、疲労感満載の表情に無精髭と咥え煙草とは、不摂生かつ不養生、自傷行為が徒党を組んでいるようだよ」 

 

 男は力なく笑う。

 手近な椅子を勧めると、彼女はゆったりとした足取りでその椅子に掛けた。

 

「おのれの能力の無さに嫌気がさすくらいには自傷行為を謳歌してるよ」

 

 嫌味ではなく本心であった。

 実際のところこうして頭を使うのは嫌いではない。得意ではないというだけだ。

 

「しかし、ずいぶんと大きく出てくれたな」

 

 彼女がここに来たのは、例の合同研究プロジェクトの含みだろうから、軽く本題に切り込んでみる。

 

「空気を入れたのは君だろう?それに応えて弾けてみせたまでさ」

 

 彼女は悪びれずに余裕たっぷりの微笑とともに応じる。

 

「いい弾けっぷりだと思うぜ。相当、考えたんだろう?」

 

 彼女は耳をぴくりと反応させ、にやり、と笑った。

 

「私自身の研究の進捗は短期的には犠牲になったがね…結果的に私は、自分の研究の推進力、代替策、そして進めていくうえでの保険を手に入れることができそうだよ」

 

 やはりそうか。

 狂気の研究者に見えていた彼女だが、その才は研究だけに及ばず、構想力や調整力、つまり政治的な才も備えているようだ。

 

「…それにね、エアグルーヴ君もちょうど、生徒会副会長としての実績を欲しがっていた。我々の利害が一致した結果、こうなったというわけだ。まぁ、私の研究に鈴が付けられた、という面はあるにしても、得られるもののほうが大きい」

 

「それならいいじゃないか。誰も損してない」

 

 すっきりとした表情で男は煙を吐きだした。

 

「…なんだ、てっきり仕事が増えたことに対する恨み事を言われる覚悟で来たんだがねぇ…」

 

 彼女は尻尾をばさりと振りながら、意外そうな顔をして男を見つめた。

 

「…見損なうなよ。お気楽な鍛冶屋だなんだと言われることもあるが、腐ってもこの学園のお抱え装蹄師だぜ」

 

 ウマ娘たちのためなら多少、いやそれ以上のことでも場合によってはする覚悟はある、と続けようとしたが、いかにも蛇足と思い言葉を切った。

 

「それに、ここらで一旦きちんとそれぞれが持つ技術をテーブルにあげておいて悪いことはない。これまでのウマ娘に関連する積み上げられてきた知見は、技術系統ごとに独立している感がある。それぞれにとっては当たり前のことでも、他所から見たら目新しいってこともあるからな」

 

 彼女は興味深げに男を眺めながら、聞いていた。

 

「…その心がけのわりには、だいぶ苦労してるようだね」

 

「俺は学究の徒ってわけじゃないからな。論理的に体系立てて文字や数値に落とすノウハウは中学生レベルしかねえんだよ」

 

 もともと男の知識体系はわりと混濁している。老公のもとで修業はしたものの、きちんと学問として学んだわけではない。

 好奇心は自分の興味の対象に限定して人並み以上であるので、関連・隣接したものも含めて知識豊富ではある。

 しかしその内実は興味のままに組み合わされた知識にすぎないので、継ぎ接ぎだらけであり偏っていた。

 男がここに納まっているのは、たまたま老公との出会いがあり、自分の興味範囲にハマっていたものだからここまで流れ流れてたどり着いた、という偶然の産物に近い現象だった。

 

「ふぅン…職人とは経験こそが重要だ。得てしてそんなものだよ、君」

 

 彼女は悠然とした笑みを浮かべている。

 

「まぁ、しばらくは俺たちも苦労するだろうが…お前が考える方向性からすれば、俺たちは保険や備え、といった部分だろう?

 そういう意味では、現状より確実に安全方向に振れて良くなるし、それは俺の願いとも合致する」

 

 最初に彼女からの話を聞いた時も、いたずらにスピードを求めることへの警句を告いだ。

 だがここまで話を大きくした結果、先日の発表時にはリスクもきちんと認識した形でのプロジェクトとなっていた。

 仕組みがきちんと機能すれば、研究はおのずと安全から順番に担保されていく形となり、男の目指すべき方向性は達成される。

 男にとっても、損な話ではないのだった。

 

「私個人は、君には保険や備え、といった以上のモノも求めていきたいんだがね…」

 

 今までの余裕たっぷり、という表情から、わずかに憂いのある陰を浮かべ、彼女は男を見た。

 

「…というと?」

 

 彼女は瞳を瞑り、息を入れ自分を落ち着かせるように振る舞いながらも、尻尾は緊張を隠せずに不規則に揺れた。

 

 

「…私は、種族の可能性を越えたい。

私は、私の脚で、種族の可能性を越えたい…そう願って、研究を続けているが…ここまでの研究の結果は…

 

…私の身体は、どうやら他の娘より速く走れる可能性がある。

 

そして私の脚は、どうやら他の娘より脆いようだ。

 

…といったら、君はどうする?」

 

 

 男は無表情に眼を細め、新たな煙草に火をつけた。

 

「…それは、本当の話なのか?」

 

 フフッと笑って、彼女は

 

「さぁ、どうだろうねぇ」

 

 彼女はそういって煙に巻き、男は煙草を咥えたまま唸るしかなかった。

 

 

「ところで君ぃ、あの会議では随分とお楽しみだったようじゃないか」

 

「…?」

 

「こうして見ると、工房で不摂生を友とする探求肌の渋い職人とはとてもみえないねぇ…」

 

 そういって彼女の取り出したスマホに表示されていた画像は、先日のエアグルーヴのナデナデ写真。

 

「…お前…どこでそれを…あいつか…」

 

 椅子から崩れ落ちる男。

 

「フッフッフ…ウマ娘ダークウェブにはなんだってあるとも…!まったくエアグルーヴ君は役得だねぇ。尤も、私からしてみれば今の君の姿のほうが余程魅力的だが…」

 

 男には紅潮した顔で滔々と続ける彼女の声は既に耳に入らない。

 

 ただただ恥ずかしさと、自身の油断への後悔と、エアグルーヴを巻き込んでしまった懺悔の気持ちがない交ぜになったまま、天を仰ぎ煙を吐きだすのだった。

 





ちょっと心が折れかけるようなこともありましたが、なんだかんだで元気です。

ちょっと心が折れかけるような予定も控えていますが、書くことで現実逃避している節があります。


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15:朝の工房にて

 

 

 

 

 朝であった。

 工房の窓からは周りに生い茂る木々の葉からの木漏れ日で不規則な光が差し込んでいる。

 そよ風に揺れる葉により明るさや範囲をゆらゆらと変え、鉄粉と埃にキラキラと乱反射させながら室内を照らし出していた。

 

 工房の片隅に設けられた事務用デスクの上では、電源が入りっぱなしのPCがお仕着せのスクリーンセーバーを稼働させている。

 デスクの上は書類の紙や資料、雑多に積まれたファイルなどが散乱し、傍らの灰皿は高額納税者の証とばかりに山盛りだ。

 

 そしてその混沌としたデスクに倒れ込むように、薄汚れた作業着姿で男は突っ伏していた。

 

「……もう食べられ…ない…よ……」

 

 資料作りに明け暮れた末の机上での往生にしては男は幸せそうな寝言を呟き、日の当たらない工房の片隅で資料の山と一体化していた。

 

 

 

「……失礼します」

 

 そんな時、控えめな声で工房の入口をくぐったウマ娘がいた。

 手には小さな鉢植えを持っている。

 

「…誰か…いらっしゃいませんか…?…おかしいな…鍵は開いているのに…不用心な…」

 

 恐る恐る、彼女は工房内に足を踏み入れる。

 鉄と煙草の匂いを感じる。

 鉢植えは入り口近くにある、安普請な応接セットのテーブルに一旦仮置きする。

 

 日の光が塵に反射しキラキラする様に目を細めながら雑然とした工房内を見回すが、動くものは見当たらない。

 

「…全く…この雑多なのはどうにかならんのか…っっ…!」

 

 工房内を見回しながら進むと、立てかけてあった工具に足がかかり、ガチャリと重たい音を立てる。

 彼女は倒れかけたそれを、慌てて姿勢を崩し手をかけて支える。

 

「…っ…重い…」

 

 鈍い錆色をした長いマジックハンドのような2対の棒は、彼女の想像を超える重さだ。

 足位置を直し、倒れかけたそれをどうにか元の位置に戻す。

 

 顔を上げると正面に炉が目に入る。

 

 煤で黒く汚れ、古ぼけているが、まるで制御された火事の後のような様は、ここでの作業の熱を想像させるには十分な迫力だった。

 

 ぴちょり、と炉の横にある小ぶりな流しで蛇口から水滴の滴る音がする。

 

 自然の光がランダムに差し込みながらも薄暗く静謐な工房に、彼女は一瞬、神々しさを感じた。

 

 奥の雑多に書類や資料が積まれた山が崩れたのは、その刹那後のことだった。

 

「…っっ!」

 

 彼女はその物音に驚き、肩を竦め身体を硬らせる。

 山が崩れた一瞬後、山の向こうでさらに大きな重量物が倒れ込む音がした。

 

「っってぇ…!」

 

 男の声だ。

 

「そこに誰かいるのか!?」

 

 怜悧な鋭い彼女の声が誰何する。

 

「…いってぇ…なぁんだぁ…」

 

 彼女は声の元に駆け寄る。

 そこには椅子から転げ落ち、紙と煙草の灰にまみれた工房の主が半身起こした状態で、寝起きのような顔で眩しそうに目を細めてキョロキョロしていた。

 

「大丈夫か…?」

 

 男は声の主を見やる。

 

「…エアグルーヴ…?」

 

 間の抜けた声で自分の名前を呼ばれた彼女は、困ったような、情けないような、慈しみを覚えるような、なんともいえない複雑な自らの感情に強い戸惑いを憶えながらも結局、やれやれ感たっぷりのため息をつくことしかできなかった。

 

 

 

 男はふらつきながらもエアグルーヴの手を借りて散らかったデスク周りをとりあえずの形で整え、共に居場所を応接セットに移した。

 

 「なんかすまん…」

 

 男は冷蔵庫から人参ジュースを差し出した。

 

「全く…この間はここで堂々と説教を垂れたというのに、今日のザマはいったいなんなんだ…?」

 

 エアグルーヴの声音は呆れ、というよりは幾分か戸惑いと柔らかさを含んでいた。

 

「いやぁ…資料作りながらいつの間にか眠り込んだらしい…みっともないとこ見せたな。あー腰いてぇ…」

 

 ソファにどっかと腰をおろした男は、気怠げに伸びをする。

 無精髭も更に濃くなっており、目には隈がうっすらと浮かぶ。

 

「それで貴様はあんなところで寝ていたのか…こちらにも原因がある話だ。早速スケジュールを見直さなければならんな」

 

 彼女はいつも通りのクールな表情で考え込む仕草をしてみせた。

 男は手を振ってそれを否定する。

 

「その必要はねぇよ。こっちが能力不足なだけだし、もう目処はついてる」

 

 後半は嘘だったが、そうでも言わないと本当に自分が理由でスケジュールが動きかねない雰囲気だ。

 流石にそれは男も気が引けた。

 

「しかし、これが原因で身体を壊されても困る。貴様はタキオンいわく、計画の重要なピースなんだそうだからな」

 

 彼女は極めて真剣だ。

 

「そんな柔な身体じゃねえ、と言いたいところだけど、まぁ今の調子がずっと続くんならマズいな。当面のスケジュールはともかく、関わっている人間たちはみんな普通に日常の通常業務はあるからな。今後はそこら辺も考慮に入れてくれるとありがたい」

 

「わかった。今後はもう少し余裕を持つように組もう」

 

 どうやら彼女はそれで納得してくれたらしい。

 真剣な眼差しが少し和らいだ。

 

「それはそうと、この間は悪かったな」

 

 男は話題を切り替えた。

 

「…なんのことだ?」

 

 エアグルーヴはまだスケジュールのことが頭の片隅にあるのか、思案顔だ。

 

「…ゴールドシップに写真撮られた時のことだよ…」

 

 彼女の表情がハッとする。 

 思い出しているのか、黙ったまま、しかしみるみるうちに顔色が変わり、白磁の肌が朱に染まる。

 

「俺もちょっと油断してしまった。迂闊だったよ」

 

 女帝と呼ばれる彼女が、顔を朱くしたまま、瞳に涙を浮かべて口を固く結び、耳はふるふると震えている。

 男はその表情を不思議と冷静に見つつ、綺麗だな、と思っていた。

 自分にはSっ気があったのだろうか、とも考えている。

 

「…貴様は、よく知りもしない異性の頭を無思慮で撫でるような軽薄な輩なのか?」

 

 表情を辛うじて取り繕った彼女が絞り出すように問うてくる。尻尾はばさり、ばさりと揺れていた。

 彼女の心は、ざわついていた。

 

「…いや…基本的には異性には縁のない人生だがね。あの時はなんだか…昔、妹分の子と似たようになった時を思い出してしまって」

 

 嘘ではなかった。

 

 彼女は少しの間を開けた後、一息、深いため息をついた。

 

「今回は、許す。私も、悪かったのだ。全く余裕を失ってしまって…らしくない振る舞いだった」

 

 耳はしゅんとしてしまい、伏目がちに言った。

 

 エアグルーヴは今この瞬間、自分に正直ではなかった。

 先ほどの男の姿を見た時の複雑な心境や、あの撫でられた時に湧いた感情、その正体を自分でもはっきりと理解できないでいた。

 謝罪に応じて口に出した質問も、胸の内がそうじゃない、言いたことはそういうことじゃない、と発している。

 しかし女帝としての仮面が、自分の心の中を直視することを妨げていた。

 

「…その妹分とは、今も仲良くしているのか?」

 

 まとまらない思考を巡らせ、制御不能に陥りかけた彼女の脳内は、明後日の方向へボールを投げてしまった。

 男は少し思案した後、答えた。

 

「うーん…今でも兄のように扱ってはくれるがね。向こうはもう、妹扱いするには申し訳ないような高みに登ってしまったよ」

 

 ふとその表現に、引っ掛かりを憶えた彼女は、更に問いを重ねる。

 

「その、妹分というのは今…」

 

 その時、工房の入り口の引き戸が勢いよく開いた。

 聞き覚えのある声が大音量で満面の笑顔とともに響く。

 

「おっちゃーん!!こないだの写真額装して…き……た………ぜ?」

 

 珍奇行動悪戯大好絶対美女ゴールドシップは応接に向かい合って座るエアグルーヴと男を視野に入れ、笑顔の行き先を無くし、自ら断首台に飛び込んだ自覚をするまで、わずかコンマ数秒。

 

「…ヤッベ」

 

 ゴールドシップは小脇に抱えてきた風呂敷包の平たいものを放り出すのと背を向けるのが同時、ゲート難という噂は嘘であると断言できる逃げ足スタートダッシュを決めた。

 ここで会ったが百年目と言わんばかりのレスポンスで追って駆け出すエアグルーヴ。

 

 蹄鉄の着いていないローファーであってもあの速さ。

 もはや男の稼業の終焉は近いかもしれない。

 そう思わせる迫力とスピードであった。

 

 

 

 ゴールドシップが持ってきたA4ほどの平たい包みを解くと、消させたはずの涙目エアグルーヴよしよしショットが引き伸ばされ、フォトフレームに入れられていた。

 男は思わず眉間に指を添えて苦悶の表情を浮かべてしまう。

 そして応接テーブルの上にあるものに気がついた。

 

 エアグルーヴが持ってきたと思われる鉢植えだった。

 

 凛々しく青い色合いの、小ぶりな花が連なるように咲いている鉢植えだった。

 

 後で調べたところ、サルビアという花らしかった。

 

 






今週は忙しくてちょっと投稿ペースを崩してしまいました。
出張帰りに飛行機内で書こうとしたんですが、飛行機乗るとテンション上がってしまう&仕事からうまく切り替えられずでロクに進みませんでした。

おうちが一番ですね。


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16:皇帝の仮面をはずす時

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 感想から気づきをいただいたり、展開の発想を得たりして皆様に支えられながらなんとか書き続けられております。
 また、誤字訂正等ありがとうございます。
 本当に助かります。
 書き上がったら勢いであげちゃうの悪い癖ですが、抱え込むと挙げられなくなっちゃうチキンハートなのでこれからも何卒よろしくお願いいたします。








 

 

 

 

 男は眠っていた。

 

 その日は休日で、工房ではなく自室にいた。

 ダイニングテーブルにはPCと資料が、どうしたらこのようになるのかと思われるほどに散らかされている。

 エアグルーヴに大見得を切った手前、遅延は許されなかった研究関連の資料をぎりぎり昨晩、提出した。

 リビングのソファで行き倒れのように事切れ、眠り込んでいても許される境遇といえた。

 デスクの隅で鳴動しているスマホに気づかなくとも、仕方のないことだった。

 

 

「おかしいな…電話にも出ない…」

 休日の学園の校舎は静まりかえっている。

 生徒会室でひとり、スマホを眺める。

 スマホから目線をあげ、窓の外を見やると、練習用トラックへ向かっていく生徒が見える。

 コールバックもないスマホを手にしたまま、皇帝はひとり、つぶやく。

「…何がそんなに気になるのだろうな、私は…」

 シンボリルドルフは、自らの考えを整理するべく、そのまま目を瞑り、沈思黙考といった風体となる。

 その姿を観る者がいたなら、それはさながら肖像画に描かれるような、高尚な思索に耽っている皇帝の姿そのものだと賞賛したであろう。

 

 しかしその内実は真逆の、極めて個人的な感情をもてあそんでいた。

 

 兄と慕う男のことだ。

 ここのところ、学園の生徒から彼のことを聞く機会が増えた。

 いわく、不振にあえいでいたサイレンススズカに脱出の糸口を与えた、とか。

 いわく、あのアグネスタキオンの奇人と誤解されがちな才能に、皆に役立つ方向性を与えて昇華してみせた、とか。

 自らにも他人にも厳しいエアグルーヴでさえも、彼から受けた薫陶に影響されたことを自覚し、感謝とある種の敬意を抱いていることは彼女もその現場を目の当たりにしたし、男がエアグルーヴの頭を撫で、彼女も満更ではなかったことはしっかりと目撃してもいた。

 

 それらの話を耳にするたび、胸の内のどこかに違和感を感じることを自覚したのは、いつからだろうか。

 

 彼のことだ。

 相談事が持ち込まれれば最初こそ面倒そうに振る舞いながらも、最終的にはなにか相手の役に立つような助言や回答をするだろう。

 もともと彼は人付き合いが上手くないだけで、人嫌いなわけではないのだ。

 でもそれは、私だけが知っている彼の内面だと思っていた。

 彼はこの学園の職員で、生徒の数は膨大だ。大人として、年長者として当然の義務を果たしているに過ぎないことは理解している。

 

 それを理解してもなお、なんとも言えない異物感を心に抱えてしまうのは、何故だろうか。 

 

「…こんな雑念に苛まれるとは、私もまだまだ鍛錬が足りないようだ」

 

 シンボリルドルフは、雑念を振り払うために少し走ることにして、先ほど生徒たちが向かう姿が見えた練習用のトラックに向かうことにした。

 

 

 その日の練習トラックでのシンボリルドルフの走りは、鬼気迫るものだったと目撃者は語る。

 背後に張り付かれた練習中のウマ娘たちは気迫に負けてラインを譲り、競りかけるものも容赦なく千切る姿はレースの本番さながらか、それ以上だと畏怖の念とともに語られた。

 他の取材でたまたま居合わせたスポーツ新聞の記者の計時によれば、例えば2400m走のタイムは過去の彼女が持つレースタイムの記録を秒単位で上回るものだったという。

 もちろん手元の計時であり正確さには欠けるが、皇帝の健在ぶりを示す証として誌面を賑わせることになるのは数日後の話であった。

 

 

 結局、彼女は走っても雑念を振り払うことができなかった。

 日が暮れて、気がつけば男の住むトレーナー寮の前に立っていた。

 結局スマホにコールバックはなく、昨日から送っているメッセージにも既読はつかず、反応もない。

 最終的には、もしや男の身に何か起こったのではないかという心配という名のもっともらしい言い訳を自分自身に与え、ここへ足を運ぶことを許した。

 

 しかし、インターホンを押しても反応はない。

 

 部屋に灯がついていることは、玄関のスコープから知ることができた。 

 こうなるといよいよ、自分をここに運ばせる言い訳だったはずの心配が、現実味を帯びてシンボリルドルフを苛む。

 意を決してドアノブにかけた手は、皇帝でも生徒会長でもシンボリルドルフでもなく、怯えるルナが顔を出して、弱く震えていた。

 

 かちゃり、とあっさりドアは開いた。

 鍵はかかっておらず、玄関には男の靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。

 男の部屋の匂いに、一瞬脳がくらりとする。

 短い廊下の先のリビングは扉が薄く開いており、中から照明の光が漏れている。

 

「兄さん、いるのか?」

 

 近所の手前もあるので抑えた声で呼びかけてみるが、反応はない。

 

「…入らせてもらうぞ」

 

 そっと身を差し込み、玄関の扉を閉じる。

 この先で男がどうなっているのか。

 一歩進むごとに濃くなる男の匂いに、彼女の中の一部分が変質していく感覚がする。

 もはや皇帝の仮面を脱ぎ捨て、シンボリルドルフではなくルナに還りつつある少女の尻尾はせわしなく揺れ、耳はどんな音も聞き逃すまいと緊張でピンと張り詰めていた。

 リビングの扉を開けて中を覗き込むと、資料が散乱したダイニングテーブルが視界に入る。

 その惨状を目にして少しずつ冷静さが蒸発していき、剥き出しのルナが彼女の内部を占めていく。

 そして奥のソファの端から、足が飛び出しているのを認識する。

 男の足だ。

 そう確信した瞬間、彼女のルナへの還元は完了した。

 

 

 瞼を閉じていてもわかる明るさの変化、頭を抱かれる柔らかい感触。石鹸系の心地よい香り。

 柔らかな何かに自らの頭を抱かれている、と認識するに至り、男は暗闇から急速に意識レベルを取り戻していった。

 額に一滴の水が滴ったように感じる。

 水…?

「…ん……?」

 男はうっすらと目を開く。

 そこにはおおきな双眸になみなみと水分を湛え、耳をふるふるとひくつかせながら心配そうに自分を覗きこむルナの顔があった。

 

 

「…まぁ…なんだ、その…すまん…」

 男とルナはリビングの床に向かい合って座り込んでいる。

 男は気恥ずかしさから顔を上げることができなく、制服姿のルナの膝あたりに目線を落としがちだ。

 対するルナは瞳のまわりをあかくしたまま、目尻にたまった涙を拭おうともせず、男をまっすぐに見つめていた。

「…本当に、ただ眠っていただけなんだな…?」

 心底心配そうに見つめてくるルナに、男は罪悪感すら憶える。

「本当だ。ようやく研究資料の提出を終えたところまでは覚えてるんだがな…そのままここで寝てしまったらしい」

 男は時間を確認しようとスマホを探してあたりを見回すが、見当たらない。

 このままルナと向かい合っている気恥ずかしさにも耐えかね、スマホを口実に立ち上がりあたりを探す。

 目的のものは、資料の山に紛れるようにしてあった。

 時間よりも先に、メールと着信の通知が目に入る。

 そのほとんどがルナからのものだ。

「ずっと連絡くれてたんだな…」

 彼女が何かを思い出したように、ハッとして表情を変える。

「それはその…この間の埋め合わせのことを話そうと思ってだな…」

「心配かけちまったみたいだな。ごめん」

 ふっと彼女の表情から、力が抜け、微笑が宿る。

「…まぁ、来てみた結果、心配は杞憂で済んで良かったと思うよ…その、シャワーでも浴びてきたらどうだ?少しは目も覚めるだろう」

 男は気づく。そういえば昨日から風呂に入っていない。匂いに敏感な彼女には、流石にどうかと思える醸した状態だろう。

「そうさせてもらうよ。冷蔵庫にあるものは好きにしてくれていい。ゆっくりしてて」

 

 

 男が浴室に去ったのちも、座り込んだままのルナは動けずにいた。

 顔の上気が抜けることはなく、男の残した匂いに陶然としている。

 男をシャワーに誘導できたのは、辛うじて平静を装うことができた最後の理性の成せた技だった。

 この部屋の、男の香りに、高揚と落ち着きが同居する複雑な感情を抱いてしまう自分。

 浴室から響く水音に呼応して高まる心音を脳内で因数分解を解くことで鎮め、彼女はようやくのことで立ち上がることができた。

 

 改めて部屋の惨状を確かめ、ダイニング周りに散乱した資料をせめて整えようと手をかける。

 おびただしい紙束をとりあえずまとめて積んでいくと、その中にひとつ、異質なものがあることに気づいた。

 裏返ったフォトフレームだった。

 思わず手を取り、表に返してみる。

 

 その写真を目にした瞬間、彼女は抑え込み、燻らせていた自らの獣心が激しく熱量をあげたことを自覚した。

 

 

 男が浴室から出るとダイニングの書類は整えられ、部屋の惨状は事件前の状態に復していた。

 しかしいたはずのルナの姿はどこにもなく、男を目覚めさせた石鹸の爽やかな香りがほのかに残っているだけだった。

 リビングのテーブルには、ゴールドシップが持ち込んできたエアグルーヴと男の写真が入ったフォトフレームと、ルナの几帳面な自筆で

「ゆっくり休んでくれ。また来る」

 と書かれた書き置きが残されていた。

 

 男はフォトフレームの写真に気恥ずかしさと苦々しさを覚え、それをどうするべきかを逡巡したが結局いい案は思いつかず、そのままにした。

 ルナに心配をかけたことへの申し訳なさと、シャワーを浴びてもなお残る疲労感に自らの年齢を感じつつ、部屋の片付けの礼をメールでルナに送り、深く考えることを放棄してベッドへ再び倒れ込んだ。

 

 





 キャラクター各々をきちんとらしく描けているのかが不安で不安で仕方がありません。


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17:鉄のウマ娘のつくりかた(上)

書いたものから出していくんじゃ精神で、長くなり過ぎている話を分割して投稿いたします。


 

 

 

 

 この数日間、男は熱した鉄を叩き続けていた。

 

 連日、炉に火を入れ、取り寄せた特殊鋼材を加工方法を探りながら、一つの目的を念頭に叩き出していく。

 

 工房の隅には、ここ数日で作られた特殊な蹄鉄がうずたかく積まれている。

 

 それらはどれも普通の蹄鉄とは違い、蹄鉄の水平方向に切り目がいれられ、接地面が板バネのようにしなり、たわむ構造となっている。

 また、足側のシューズへの取り付け面に関しても足裏の接地面に合わせるように拡げられ、足裏のより広い範囲で力を受け止められるように工夫されている。

 

 しかしうずたかく積まれたそれらは、どれも失敗作であった。

 

 今回の目的のために選び、多めに発注していた特殊鋼もすでに尽きかけており、昨日さらに追加発注を入れている。

 

 炉の火を絶やさぬため、工房内の空気は換気扇では追いつかぬ熱量をため込み、灼熱と化していた。

 

 それでもかまわず男は赤く輝く鉄を叩き続ける。

 

 イメージ通りに仕上げるには、もう少し試行錯誤を重ねる必要があった。

 

 

 

 

 

 男がこのようなものに取り組むには、それなりの理由があった。

 

 合同研究プロジェクトに一通りの基礎資料を提出し終わって数日が経ったころのこと。

 

 突如服飾部シューズ課長を務めるシューズのチーフデザイナーと男が理事長より呼び出しを受けた。

 

 理事長室にはいつも通りの理事長、緑のお姉さまことたづなさん、そして生徒会長シンボリルドルフ、副会長エアグルーヴ、ナリタブライアンの姿もある。入室するなりアグネスタキオンがこちらを見てニヤリとしたあたり、研究がらみのなにかと察せられる。

 

 呼び出された側は男たちのほかに、研究プロジェクトに参加している初老のウマ娘専門医、理学療法士の姿もある。

 

「皆さんお揃いのようですね」

 

 たづなさんが場を仕切る。

 すると理事長が席から立ち上がり、扇子を構えた。

 

 

「発令!脚の弱いウマ娘でもトレーニングを続けられるシューズを開発せよ!」

 

 

 例によって明瞭かつ簡潔に勢いよく用件が述べられる。

 

 そしてたづなさんにより補足説明という名の本体解説がなされていく。

 

 学園の入学に関しては理事長指揮のもと全国から幅広く情報が集められ、各地にスカウトが派遣されて一本釣りするほか、一般から願書が集められ選抜試験なども実施され、学生が集められる。

 

 今回、スカウトが見つけてきた有望な生徒の中に、入学前の身体検査で脚の状態がよろしくない生徒が見つかった。

 

 日常生活や学生生活では問題がないため、学園の身体検査にかかるまで発見されずにいたが、専門医いわく脚部不安でレースには耐えられない可能性が高い。

 

 原因は足首関節付近の炎症。

 

 厄介な部類で、治療期間が長くかかるうえ、治癒したとしてもレースで戦えるレベルのポテンシャルとなるかどうかは見通せない状況だという。

 この手の怪我は治療次第で治ることもあるが、ウマ娘の競走能力を奪い、引退に追い込まれる原因となることもある。

 

 当事者は自分の脚の状態は薄々気づいており、今回発覚したことも冷静に受け止めているという。

 そのうえで、自らを厳しく律しながら、レースの世界で戦いたいと願っている。

 

 身体能力としては脚の問題さえなければ有望といえる人材であり、合否については理事長が一旦預かった形とした。

 理事長自身はこれを奇貨とし研究プロジェクトの一部にしてみてはどうか、ということのようだ。

 

「難しいことは承知しているが…この課題に成果を出すことができれば、学園の生徒も、それ以外のウマ娘たちも等しく恩恵があると考える。どうだろうか。テーマとして取り組んでもらえないだろうか?」

 

 たづなさんの説明の後を引き継ぐ形でシンボリルドルフが後押しをする。

 どこからどう見ても生徒会長のシンボリルドルフで、男の前で見せるルナの片鱗はみつけられない。

 

「医学、薬学面からのアプローチは私が指揮を執るよ。まぁ、ちょっとした副作用は我慢してもらわねばならないかもしれないがねぇ…」

 

 ククッ、と含み笑いを抑えきれないアグネスタキオン。これにより合法的に実験体が手に入るのだから、笑みもこぼれようというものだろう。男はタキオンの様子を見ながら苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

 もちろんこの面子でこういう前向きな取り組みに異論をはさむ余地もなく、男たちはウマ娘専門医をリーダーに、理学療法士とシューズ課長、男の4人で装具チームを組むことなり、各々に当事者の資料が配られる。

 

 翌日にどのようなアプローチで取り組むか検討することとなり、その日は散会となった。

 

 

 

 

 その日の夜、男はシャワーも浴び、自室のソファで伸びながら、配られた資料を読み込もうとしていた時、スマホが鳴動した。

 相手はシンボリルドルフであった。

 部屋に来たいというので、門限の延長申請を出したうえでなら構わない旨を伝えると、ものの15分ほどでやってきた。

 私服のラフな格好で、眼鏡をかけている。

 

「夜分に済まない」

 

 余裕のある微笑を湛えたその佇まいは、ラフな格好であっても皇帝、あるいは生徒会長の風格を消しきれずにいた。

 

「構わんよ。まぁ俺の部屋に来たってなにもないけどな」

 

 そういってストックから人参ジュースを出してやる。

 

「…ありがとう…

 …いつも兄さんの部屋にはウマ娘用の飲み物があるのか…?」

 

 妙なことを聞いてくるシンボリルドルフ。

 すこし微笑がぎこちない気がするが、気のせいか。 

 

「こないだルナが来たときは缶コーヒーだったろう?さすがに夜更けにアスリートにカフェイン摂らすのもどうかと思ってな。また来た時用に、と思って」

 

 ルナはそれを聞いて、手元の人参ジュースのペットボトルを心なし強く、握る。

 

「私のために用意してくれたんだな…ありがとう」

 

 柔らかく微笑みながらすっと目を瞑り、呟く。

 しかし男はテーブルの資料に気を取られ、その表情を見逃している。

 

「で、わざわざ門限の延長申請してまで俺の部屋に来て、どうしたんだ?」

 

「うん…その資料の件について、だ」

 

 ルナの表情がシンボリルドルフに戻るように引き締まる。

 

「まだ斜め読みした程度だが…どうかしたか?」

 

 パラパラとめくる。

 当事者の名と写真がある。

 

 「イクノディクタス」

 丸眼鏡で理知的な線の細いお嬢様、といった風情だ。

 彼女の身体検査時のスペックや、脚の状況が細かく記されている。

 理事長室での説明の通り、足首関節部の炎症は本人の自覚は薄いようだが、あまり良い状態とは言えないようだ。

 

「…どうにか、してあげられないものだろうか…?」

 

 憂いをにじませた表情は真剣そのものだ。

 

「…なんともいえんな。この手の怪我は症例こそ山ほどあるが、完治するかどうかは個人差が大きすぎる」

 

 男は資料をめくりながら思索を巡らす。

 

「今までもたくさんのウマ娘たちが、怪我で夢をあきらめざるを得なかった。今回の事例で少しでも糸口が見つかれば、そういったことも減らすことができる」

 

 火のついていない煙草を横に咥えながら、男は資料から目線を上げる。

 真剣な瞳に、まるで射抜かれそうだ。

 瞳の奥には、彼女の夢への決意の強さが宿っている。

 

「そうだな…それがルナの夢にもつながっている、か…」

 

 彼女はふっと息を抜く。

 

「…そうだ。すべてのウマ娘が幸福に暮らせる、その目標に資する案件だと思っている」

 

 男はその真剣な眼差しにあてられているのを自覚した。

 

「私にできる協力は惜しまない。だから、どうか…彼女を救う方策を、見つけ出して欲しい」

 

 男は苦笑しながら応じる。

 

「…大丈夫。仕事に手抜きはしないよ。ルナの夢の一助になるのであれば、余計にな。もっとも、俺一人ではどうにもならんのだけど…」

 

 そう返しながら男は脳内で自らにできるアプローチを整理していく。

 

 要は関節の負担を抑えられるシューズと蹄鉄の組み合わせがあればいい、そういう方向性のはずだ。

 蹄鉄は走る推進力を受け止め、地面に伝える要であり、受け止めているからには脚に相当の負担をキックバックしている、ということにもなる。

 

 走るうえでエネルギーの総量は変わらないが、シューズと分担してどのようにキックバックを分散させるか、というところが肝になるか…

 

 気が付くと、男はルナの脚を凝視し、観察しながら思考に耽っている。

 

 彼女は男から自分の脚に向けられる視線に気付き、ぞくりとする。  

 

「…七冠獲った脚ってのはもっとごついのかと思ってたが…」

 

 男が独り言を呟く。

 思わず顔が熱を持つのを感じる。

 尻尾が落ち着かず、動いてしまう。

 

「兄さん…その…視線が…」

 

 彼女の言葉に男は我に返る。

 

「あ…?…すまん…考え込んでた…ちょっと、立ってみて、フォーム通り踏み込む感じの姿勢してくれないか?」

 

 立ち上がって言われた通りの姿勢をとってみる彼女。

  

「蹴り込みの姿勢で静止するのは意外と難しいな…」

 

 彼女の独り言にも気づかず、男は床に這いつくばりながら、足裏の地面とのインパクト部分を様々な角度から観察する。

 

 私服のジーンズ姿だからなんとか許容できるが、これが制服のときなら…とあらぬ方向に想像を膨らませてしまった彼女は全身が熱くなるのを感じる。

 

「…その資料にあるイクノディクタスとは体格もフォームの癖も違うから、参考程度にしかならんと思うぞ」

 

 さすがに気恥ずかしさの限界に達しつつある彼女は、それとなく男に今の状況の是正を促す。

 

「…うーん…これならなんとかなるか…?」

 

 男はなにか閃いたようだ。

 少年のような表情で彼女を見上げ、輝くような笑顔を見せる。

  

「ん…ありがとう。ヒントが見えたような気がする…」

 

 そう告げる男の真剣な表情を見たとき、彼女は気恥ずかしさを覚えていた自分自身に、恥ずかしさを感じるのであった。

 

 

 





正直医学的、技術的な部分はふんわり、ご都合で書いてるのでかなり怪しいです。
その部分がうまく伝わるようにかけてるのかもイマイチ自信がもてないので、そんなもんなんかなの精神で寛大にお読みいただきたく、お願い致す次第です。


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18:鉄のウマ娘のつくりかた(中)

上下でまとめようとしたらまとまんなくて中になってしまいました。


 

 

 翌日の打ち合わせはリーダーである初老のウマ娘専門医の意外な一言から始まった。

 

 曰く、炎症している関節にかかる力をコントロールできれば、トレーニングしながらの症状の改善は可能、というものだ。

 

 過度な刺激は炎症の悪化を招くのは間違いないため、今の状態でのトレーニングは良い結果をもたらさないが、これまで日常生活が問題なくこなせていることを考えると、おそらく適切に関節にかかる力をコントロールできれば良い方向に持っていける可能性がある、という見解だった。

 

 おそらくこの見解に至るために過去の症例をひっくり返し、検証してきたのだろう。専門医の表情はいくらかやつれ、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。

 

 男の上司であるシューズ課長は最近の練習用シューズを数種類持ち込んできている。男と考える方向性は同じようで、素材や構造を工夫して足首の負担を減らす方策を捻りだしたいようだ。

 

 

 男は朝早く、工房の倉庫に立ち寄っていた。

 朝目覚めたとき、以前聞いた師匠格の老公のエピソードを思い出した。

 

 サイレンススズカと話すとき、老公の話に出てきた「幻のウマ娘」と呼ばれたトキノミノルの蹄鉄を持ち出していた。

 あの倉庫のどこかに、シューズそのものも現存するのではないか、と思われたのだ。

 

 朝から倉庫をひっくりかえしたため埃まみれになり、ここに来る前に再度シャワーを浴び着替えをする羽目になったが、持っていた蹄鉄がぴったりと嵌る、話に聞いた通りの革製で足袋型のシューズを無事見つけ、ここに持ち込むことができた。

 

 そして男は、それを会議机の上に取り出した。

 師匠格の人間から聞いた話ですが、と前置きして、「幻のウマ娘」の話を簡単に話した。

 もちろん老公との約束通り、プライベートな心情の部分を除いて。

 

 ウマ娘専門医の初老の男はその話を知っていたようで、しきりに頷いていた。

  

「なるほどね…つまりは今の技術で、目的をレースではなくトレーニングを行えるに変えて、ということか…」

 

 シューズ課長が要点をまとめる。

 彼はひび割れた革製の足袋を丁寧に持ち、さまざまな角度から眺めた。木箱に収められていたため、光による劣化などは少ないようだが、ところどころ脆くなっている為、丁寧な手つきだ。

 

「しかしお前、よくこんなもんあったな…レース博物館級の代物だろうが…」

 

 上司がそういうと、初老の専門医も頷く。

 

「私もかなり昔だが、その話を聞いたことがあるよ。トキノミノルはダービー優勝ウマ娘として歴史にもしっかり名が残っている。今は参考にさせてもらうにしても、その後はしかるべきところで保管されるべきだろうな…」

 

 シューズの処遇はあとでたづなさんに相談するとして、話はトキノミノルのシューズからイクノディクタスの脚にどのようなものが合うかに移っていく。

 

 理学療法士が言うには特段彼女のフォームになにか特長があるわけではなく、それが原因で関節を痛めているわけではないと思われる、という見解が述べられる。

 

「ということは、やはり足裏からの衝撃を足首に悪影響を与えないようにしつつ、走行に支障がないような形のシューズ、ということになるね」

 

 シューズ課長が話をまとめていく。

 普通のシューズではなく、脛のあたりまでを覆うような形状で、衝撃を分散させるイメージのシューズを手際よくスケッチしていく。

  

「力を外からの装具で分散させると、受け止めるのが足首より上の脛の皮膚だから、その部分の養生はこちらで考えよう」

 

 専門医が一部を引き取る。

 

「シューズの内部構造のほうは、できるだけ衝撃のエネルギーを時間軸伸ばして分散できるような素材を検討します。となると、蹄鉄部分では…」

 

 シューズ課長が構造のポイントとなりそうな部分に印をつけていく。

 

 踏み込み、蹴り出す瞬間に脚に最大限の負荷がかかる。その一瞬のピークを、一瞬ではなく数瞬、というふうに分散できれば全体の負荷は同じでも、ピークを抑えられる、というアプローチだ。

 

「…蹄鉄部分では、足裏へ接する部分の面積を増やして分散させることと、蹄鉄が接地する爪部分に板バネ形状を取り入れようかと…」

 

 ほう、とシューズ課長が反応する。

 

「できるのか、そんなこと」

 

「できるにはできるんですが、問題がありまして…」

 

 男は蹄鉄とシューズ裏の接する面積を増やすことはソールの設計とセットでやればさほど難しくないことを説明。

 問題は爪部分のバネだった。

 

「踏み込みでバネが縮んで衝撃吸収するのはいいんですが、そのままだと縮んだバネは反発します」

 

 つまり、衝撃吸収が目的なので、そのあとすぐに反発することでエネルギーを開放してしまえば、彼女の走り方にも影響が出る。

 関節へ過大な力を加えてしまう可能性もあるし、これから競技をしようという娘には、走り方に変な癖をつけてしまうことになる。

 

「理想は、踏み込むときに衝撃吸収をして縮んだバネを、同じ力で一気に反発させるんじゃなくて、ゆっくりと戻していく形なんですが、そこがちょっとアイデアが出ないんですよ」

 

 うーん、と一同頭を抱えてしまう。

 

「つまり、蹄鉄にクルマのサスペンションのバネとダンパーの組み合わせと同じような機構を、ということですよね…」

 

 理学療法士が口を開く。車になぞらえて理解しているようだ。

 

「まぁ仕組みとしてはそういうことですね。まさか反発抑えるためにシリンダ状の油圧ダンパーをつけるわけにもいかないし…」

 

「板ばねの裏にゴム付けるとか…」

 

「弾性をさらに加えてどうするんですか」

 

「いや、普段は鉄側が勝るようなセッティングで、うーん、難しいか…」

 

「…あぁ、じゃあこういうのはどうだ。低反発系の伸縮素材の糸を編んで、ゆっくり戻るような強度に編み方で調整して、蹄鉄の板バネとシューズのソール部分を結んで制御するようなアプローチ」

 

 シューズ課長がアイデアを出す。

 今度は男が聞く番だった。

 

「できるんですか、そんなこと」

 

 シューズ課長はニヤリとして返してきた。

 

「お前、シューズ屋舐めんじゃねえぞ」

 

 曰く、糸の特性や編み方で、硬さや伸縮性、剛性感を調整するというのはシューズの世界ではよくあることらしい。

 相手が鉄、しかもバネの弾性を備えるというところが未知の領域ではあるようだが、使える繊維の種類も今はカーボンから化学繊維と強度のあるものもさまざまあるため、目算が立たないわけではないようだ。

 

「じゃあ、そこはそういう役割分担で、一度試作をしてみようじゃないか」

 

 初老の専門医が話をまとめると、各々は散会し自分のパートの作業に向かった。

 

 

 

 そうして今日も男は工房で蹄鉄の試作を重ねている。

 

 イメージは固まっているが、どうにも加工の段取りがうまく噛み合わない。

 

 形状を叩きだすときに熱し過ぎたり手数をかけすぎたりすると強度や耐久力が落ちてしまい、手数をかけないとイメージ通りの形状まで持っていけない。

 

 形をつくったあとにさらにバネ加工や足裏への接地面積向上の補助プレート溶接加工を施すのだが、これは叩き出し時に定まった強度からも影響を受けるため、同じように作ったつもりが最終的に思った性能にならなかったりする。

 

 すでにダンパーの役割を任せる繊維は数種類試作が届けられており、調整の必要はあるものの概ね狙った効果は得られそうなことは確認ができている。

 

 男の蹄鉄も数日間取り組み続けたおかげで、素材の癖や加工法による性能変化などのおおよその傾向は見えてきているが、納得のいく完成形まではまだまだ手を動かして理解を深めていく必要がありそうだった。

 

 

 

 夕刻、男はいったん休憩をとることにし、工房の外のベンチに崩れかかるように腰掛けた。

 

 天を仰ぐように煙草の煙を吹き上げた後、がっくりと顔を伏せる。

 

 今までは金属の弾性を極力排除し、軽量と剛性を主軸に、ただただ強い蹄鉄を造ってきた。 

 そういう意味では今回は新たな挑戦で覚悟もしていたつもりだが、思った以上に上手くいかず、苦しい。

 

 今更ギブアップするつもりもなかったが、男は少し精神的に追い詰められていた。

 

 ふと、目の端に青い花をつけた鉢植えが目に入る。

 

 エアグルーヴが持ってきた、サルビアの鉢植えだ。

 炉に火を入れると工房内がとんでもない気温になってしまうので、ベンチの横に避難させていた。

 

「花買う余裕はお金ではなく心の余裕、か…」

 

 男はサルビアをぼんやりと眺め、咥え煙草の煙を燻らせながら、その昔誰かに聞いた言葉を思い出し、呟く。

 

「…それは買ったものではないんだがな」

 

 声の主を振り返ると、エアグルーヴが腕を組んでの仁王立ち。

 

 男は予想外の彼女たちの登場に理解が追い付かず、思わず目をしばたたかせる。

 

「花が心の余裕、というのはその通りだとは思うが…そのサルビアは私が育てたものだ」

 

「…そんな大事なものを忘れていったのか?」

 

 この間来た時は最後に乱入してきたゴールドシップを勢いのまま差しに行き、ついぞこの鉢植えの正体は聞けなかった。

 男もその後、忘れ物として届けないとな、と思いつつも、忙しさにかまけてそのままになっていた。

 

「忘れ物ではない。貴様に詫びの印として、株分けをして持ってきたんだ」

 

 怜悧な表情に少し、羞恥のような揺らぎが浮かぶ。

 

「おお、そうだったのか…じゃあ今、俺を癒してくれているこのサルビアはまさしく女帝エアグルーヴからの賜りものだったのか…」

 

 ありがてぇありがてぇ、と男はうやうやしくサルビアに手を合わせる。そのやや時代がかったコミカルな動きに、エアグルーヴの男への印象もやや揺らぐ。

 

「全く貴様という奴は…大人物のようにも、小物のようにも見えて全く正体が掴めんやつだ…」

 

 初対面時こそ派手に説教をぶちかましたものの、公の場では油断して軽率な行動をとることもあり、次に会えば机で眠り込んで転がり落ちる。

 そして今は頬まで煤けてやつれたボロボロのなりで、花に手を合わせている。

 

「大人物ってのがそもそも過大評価だな。お前さんが言ってくれるほど出来た大人じゃねえよ」

 

 男はそういって力なく笑う。

 この間お嬢ちゃん扱いして大見得を切った手前、男のささやかなプライドが邪魔しなくもなかったが、今現在上手くいっていないことを取り繕う気にもならないほどには憔悴していた。

 

「…苦労してるようだな。イクノディクタスの件か」

 

「あぁ。アイデアまではいいんだが、形にして使えるようにするにはなかなかな…」

 

 これまで何度も妥協が頭をよぎっていた。

 例えば蹄鉄じゃなくソールで同じ機能を持たせる方向にすることで、男がラクになる道もないではなかった。

 

「なんか、これ乗り越えないと負けた気がするからな…もう少し粘ってみるわ」

 

「ふん…きちんとサルビアに水をやることを忘れるなよ」

 

 エアグルーヴは踵を返し、良い姿勢で歩み去っていく。

 尻尾だけが、いつもの優雅なゆったりとした振りでなく、落ち着かなそうにせわしなく揺れていた。

 

 

 

 

 




次でなんとかまとめ切りたい。


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19:鉄のウマ娘のつくりかた(下)

なんとかまとめられました!

この上中下はコメント欄でいただいたイクノディクタスのリクエストなどから組み立てることができたお話です。
皆様、ありがとうございました。




 

 エアグルーヴのサルビアに癒された翌日。

 男は一旦、現在位置を整理した。

 

 

 素材の特殊鋼を叩いて鍛え、目標の弾性を出す加工法まではたどり着いた。

 作業条件、加工条件の明確化により、どうすれば求める性能が実現できるかは確定したのだ。

 

 あとは、その加工を加えていく過程において、イクノディクタスに合わせた蹄鉄のサイズ、形状を正確に叩き出すことができれば、完成する。

 しかし男は導き出した叩き出しの条件の回数内で、サイズと形状を整えきることができていなかった。

 

「要は俺のウデってことか…」

 

 改めて己の未熟さを恥じる。

 

 もうこうなれば、数をこなして経験値を上げ、自分で感覚を掴んでいくしかない。

 

 男は槌を振るい続けて筋肉痛と疲労感が抜けない右肩を叩き、気合を入れなおした。

 

 炉に火を入れ、温度をあげていく。

 昨日の夜、追加の特殊鋼も届き、追い込む環境はできている。

 きっちり向き合ってやる。

 そう覚悟をかため、今日最初の素材を火にかけた。

 

 

 

 昼過ぎ、工房外のベンチで男はぐったりと伸びていた。

 

「…ダメだぁ…」

 

 午前中をめいっぱいかけて10セット分、計20脚分を打ったところで、男は折れた。

 

 加工条件の回数内でどうしても正確に形状を叩き出せない。

 頭を抱え悶える。

 煙草の味が苦い。

 

「いかん…いかんぞ…」

 

 男の折れた心をつゆ知らず、サルビアは今日も青い。

 まるで凛としたエアグルーヴの立ち姿そのものだ。

 それを見て、昨日のエアグルーヴの凛々しい後ろ姿を思い出し、それと対比して自身の情けなさにさらに自己嫌悪が深まる。

 

「ぁぁぁぁぁ…」

 

 

「…レーダー受信…レーダー受信…」

 

 悶える男をよそに、奇言を呟きながら歩み寄るゴールドシップ。

 

「なんだぁおっちゃん、煤けちまってるけど暇なのか?アタシがおっちゃんの人生面白くしてやろうか?」

 

 至近距離で顔を覗き込んでくるゴールドシップは、相変わらず天真爛漫珍言奇言大炸裂だが美女である。

 

「…今面白い返しをする余裕がねぇよ…」

 

 男はがっくりと項垂れる。

 

「あんだよーノリ悪いなぁ…なんか悩み事あるんだったらゴルシちゃんが聞いてやるZO★」

 

 男は逡巡した。

 が、よく考えてみればこのプロジェクト自体、秘密というわけでもない。

 そして彼女は珍言奇行に覆い隠されてはいるが、根本的には聡明であることは疑いがない。

 

「…実はな…今こういうことをやっててな…」

 

 男は彼女に自分がつくろうとしている蹄鉄のことを話し始めた。

 彼女は時折相槌を入れながら聞いてくれている。

 

「なるほどなー…こないだつくってもらったゴルシちゃんスペシャル仕様とは全然ちげーことやってんだな!すげえじゃねぇか!」

 

 一通り話を聞き、飲み込んだ彼女は目を輝かす。

 

「できてねーんだからすごくねーんだよ…」

 

 男は項垂れる。

 しかし彼女はそんな男の様子もかまわず、上機嫌で続ける。

 

「おっちゃんよー、アタシ雑学大好きゴルシちゃんなの知ってっか?話聞いてたら蹄鉄つくる工程、見てみたくなっちゃったぜ!今からやるなら見せてくれねーか?」

 

「え…まぁそりゃいいけども…」

 

「よっしゃあ!そうと決まったら早速!」

 

 彼女は工房の引き戸を勢いよく開ける。

 

「うわぁっっあっちぃ!」

 

 工房内に溜まった熱風に当てられ、たたらを踏むゴールドシップ。

 彼女は工房内の過酷な環境に耐えられるのだろうか。

 

 

「火の粉とか飛び散って火傷するから、ちょっと離れたとこで見とけよ」

 

 彼女は親指をぐっと立てる。

 額に汗を浮かべながらも彼女は引くこともなく、すこし離れたところからじっとこちらを見ている。

 

 長いヤットコで素材の鋼棒をつかみ、炉に入れて赤く輝きだすまで熱する。

 

 それを取り出し、金床に当てながら叩く回数をカウントしつつ、整形していく。

 

 金床のアールを使いながら曲げ、伸ばしを繰り返し、鉄の赤い輝きが薄くなれば再度、炉で加熱し、また叩く。

 

 ものの15分ほどで、一本の棒が蹄鉄に形を変えた。

 

 しかし細かな調整がもう一歩、というところで、男は槌を振るうのをやめ、蹄鉄を水に沈める。

 

「これ以上は、叩けないんだ」

 

 

 改めて加工条件の上限を説明する。

 これ以上叩くと、目標としている弾性から外れてしまうこと、耐久性が落ちることなどをぽつぽつと話す。

 

 その間に水に沈めた蹄鉄はしゅわしゅわと音を立てながらさわれるくらいまでに温度を下げた。

 ゴトン、と重たい音がして、作業台に水揚げされる。

 

 男は強度を無視して正確なサイズ、形状に仕上げたものと比較する。

 叩いて詰め切れていない分、サイズも形状もやや大雑把になってしまっている。

 

「較べてみるとわかるだろ。決められた手数の中でこの見本と同じにできないといけないんだ」

 

 彼女に手渡すと、ふたつを見比べて唸っている。

 

「うーん…おっちゃんの悩みはわかったぜ…むずかしいことやってんだな…」

 

 熱のせいか、色白な肌をしているゴールドシップの顔が赤い。呂律もおかしく、目の焦点が怪しい。

 

「お前…すぐ外に出ろ!」

 

 男が声をあげると同時にゴールドシップの長身がふらりと揺れる。

 

「っ…!…おっも!」

 

 倒れかけた彼女をすんでのところで支え、工房外に連れ出し、ベンチに座らせる。熱で目を回してしまったようだ。

 冷凍庫から男が火傷したときに使う保冷剤を大量に持ってきて、額と首に当ててやる。

 

「ぁぅ~…」

 

 いつも元気に身の回りを面白くしてしまう彼女が、今は嘘のように大人しくなっている。

 

 …ひょっとしてこの姿を写真にとればエアグルーヴとの写真が帳消しになり、かつアグネスデジタルに高く売れるのでは…と邪な考えがよぎる。

 

 ぐったりと伸びた絶世の美女を前に、大人としてはどうかと思われる葛藤をもてあそんでいるうちに、ゴールドシップは正気を取り戻した。

 

「大丈夫か?」

 

「あー…おっちゃんの熱気にあてられちまって金星あたりまで旅しちまったぜ…」

 

「すまん。配慮が足らなかったな」

 

 男はアイスを差し出しながら、体を冷やすよう彼女に促す。

 

「おぉ、助かるぜ…アイスのお礼じゃないけど…ゴルシちゃんのヒラメキをおっちゃんに授けてやるZE★役に立つかは保証しねーけどな…」

 

 さすがスタミナ自慢のウマ娘。まだちょっと口調に力がないが、立ち直りが早い。

 

「なぁおっちゃん…あれ以上叩けないなら、すこーしだけ大きめにつくってから、削って正確なモノにしちゃいけねーのか?」

 

 男は膝から崩れ落ちた。

 

 

 男はこれまで、槌一本で鉄を叩き出し、ほとんど修正を加えなくても良いくらいの精度で蹄鉄を造りだすことを至上として取り組んできた。

 

 しかし叩く手数に制限を付けられたとき、途端にその技術が通用しない世界になった。

 

 男は真正面からそれに対抗しようとして苦しんでいた。

 

 このゴールドシップというある意味天才なウマ娘は、蹄鉄を叩き出す工程を一度見ただけで、単純な解決策を見抜いてみせた。

 

「…お前、天才か…?」

 

 かろうじて男が絞り出せた言葉は、視野が狭まりその方法に思い至れなかった自分への絶望、彼女の頭脳への羨望、完成への希望などがないまぜになった複雑な感情を含ませつつ、素直に彼女を讃える言葉だった。

 

「だっろー?☆ゴルシちゃんにたい焼き1年分おごってくれてもいいんだぜ!」

 

 今の男はそれすら唯々諾々と呑みかねない心理状態だったが、すんでのところで理性を取り戻した。

 

「…協力者としてお前の名前も出してもらうようにするよ」

 

「アタシもついに歴史に名を刻むんだな!悪くねぇ気分だぜ!」

 

 復活した彼女は工房の冷凍庫にあった人参アイスを食い尽くし、満足気に工房を後にした。

 

 

 

 ゴールドシップのヒラメキにより最後のピースが嵌り、ついに男は目標としていたスペックの蹄鉄を安定して完成させることができるようになった。

 

 このアイデアの唯一の欠点は、鋼棒から完成に至る工程で叩き出しのあとに切削が入るため、当初予定の倍の作業時間がかかることだ。

 しかしそれも大量に作らなければいけないわけではないので、問題とはならなかった。

 

 折よくシューズ課長のほうも専門医が担当した部分も含めて完成させており、さっそく使用試験を行う日程が設定される。

 

 シューズと蹄鉄の試験はなんと、アグネスタキオンが自ら走るという。

 

 曰く

「新しいものはまず試したくなる性質なんだよ」

 と含み笑いしながら言い放った。

 それなら薬もまず自分で飲めばいいのに…と周りの人間は皆、同じ感想を持ったらしい。

 

 試験はアグネスタキオン考案の関節への衝撃を計測するセンサーが脚の各部に取り付けられ、まずは通常のシューズと通常蹄鉄の組み合わせ、次に今回の試作シューズと試作蹄鉄というふうに交互に比較データを取りながら進められた。

 

「いいねぇ。とてもいいよ。フィーリングはトレーニング用としては十分以上の出来だよ」

 

 事実、数値データとしても衝撃吸収、分散効果ははっきりと表れ、芝やダートなどの条件によっても変わってくるが、概ね30%前後の負荷軽減を示していた。

 

 しかしネガな部分も当然あった。

 基本的にはシューズも蹄鉄も使い古された技術の応用と組み合わせで構成されていた。

 それゆえに職人技が存分に活用されており、結果的に異常に複雑かつ精緻なつくりとなっていた。

 そのため大量生産はできず、かつ耐久性というより性能維持のため、一定以上の距離を走行したのちはメンテナンスを行い、性能維持のために消耗部分を交換、調整していく必要があることがわかった。

 

 とはいえ、それはトレセン学園内で使用するのであればフォローできる体制はあり、通常のトレーニング量からすれば1か月程度は問題なく使うことができるため、今回の件への対応には特段問題とはならないことも確認された。

 

 運用面は使用者であるイクノディクタスの身体管理を通常より細やかに行い、脚の経過観察を怠らないことでフォローできる。

 これはトレーナーと専門医、理学療法士が意思疎通を強化することで対処していくことでクリアすることが出来そうだ。

 

 

「成功!皆よくやってくれた!」

 

 かくして、ひとりのウマ娘の未来が拓かれることが決まった。

 

 彼女が自身の努力と周囲の協力で作り上げた身体管理術と長期にわたる現役生活の末に、「鉄の女」の称号を得、ウマ娘界にある種の金字塔を打ち立てることになるのは、もう少し先の話である。

 



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20:おハナさんの忠告

 

 

 

 

 男のスマホが鳴動したのは、今日の業務を切り上げ、工房の片付けにかかっていた夕刻のことだった。

 

 取り上げてみるとショートメッセージが届いている。発信者はトレーナーの沖野だ。

 中身は今夜久しぶりにおハナさんと三人で飲まないか、というものだった。

 

 特段用事のない男は了解の返事を送り、片付けを加速させた。

 

 

 

「よぉ。遅かったじゃないか」

 

 指定された店、といっても沖野とおハナさんが行きつけのいつものバーだったが、男がたどり着いた頃には2人はすでに飲み始めていた。

 

「あら、最近いい仕事をしたと評判の鍛冶屋じゃない」

 

「初っ端から手厳しい。まぁ、周りの協力をいただいてなんとかね…」

 

 男は席につきながらジンジャーエールを注文し、煙草に火をつける。

 

「まぁまぁ、今をときめく話題の装蹄師様のご登場だ。まずは乾杯といこうじゃないか」

 

 三人でグラスを合わせ、一口飲む。

 

「…そんなに大それたことかね?」

 

 男は普段工房にこもっているため、世情に疎いところがある。

 

 今回の研究成果についても、対外発表の記者会見には一応立ち合ったが、その後のことはあまり気にしていなかった。

 

「…控えめにいって、私たちトレーナーにとってはひとつの革命ね」

 

 おハナさんの言葉に、沖野も頷く。

 

「どんなに気をつけたって怪我は起こる。そんな時に頼れるものはいくらあっても困らない」

 

「…まぁ役に立つと思ってもらえるなら本望だよ。あぁ、お前んとこのゴールドシップのおかげで完成したんだぜ、アレ」

 

「はぁ?ゴルシが?」

 

 驚愕の沖野をよそに、男はかくかくしかじかと説明する。

 

「あきれた…とも言えないわね。伊達にルービックキューブこね回してるわけじゃないのね、ゴールドシップ」

 

「…何考えてるかわからないやつだが頭は切れるし、なにより優しいとこあるからな、あいつ」

 

 おハナさんも沖野も、普段の奇行はともかくゴールドシップには一目置いているようだ。

 

「それに生徒会の面々も大活躍ですよ。シンボリルドルフもエアグルーヴも。やはりおハナさんのエリート教育の賜物かね?」

 

 男は自分だけ持ち上げられるのがくすぐったく、おハナさんを持ち上げてみせる。

 

「…あの子たちは自分達で大きくなったのよ…私がああだこうだ言う前にね…」

 

 そういうおハナさんは少し寂し気だ。

 

「まぁ、勝手にたくましくなってくもんだよな。あいつらは、さ」

 

 沖野も遠い目をして言う。

 トレーナーの親のような視点からすると、彼女たちの成長はとても早いのだろう。

 

「そういやサイレンススズカの件も、このバーのこの席で学園屈指の名トレーナーであるお二人が雌雄を決したんだろう?俺を道化に使って」

 

 男はかねてから抱いていた疑問を放り込んだ。

 ふたりは気まずそうに目を伏せた…と思ったらおハナさんはふふっと不敵に笑った。

 

「…スズカを傷つけずに新しい環境に送り出す絵を描いたのは私よ。あなた、私が思ってたよりも上手にピエロになってくれたじゃない

 

 妖艶な表情で微笑むおハナさん。

 言い方がやや黒いが、性癖によってはこういうの興奮する人もいるんじゃないかなぁ、とか男は思ってしまう。

 

「俺はその話に乗ったんだ。スズカに目を付けていたところだったしな。ゴルシの援護がなければ乗り損ねるとこだったが…」

 

 対する沖野も正直に吐露する。こういうところで嘘がつけないのがこの男のいいところだ。

 

「…まぁ別にかまわないんだけどさ。事前に言ってくれれば俺の心理的負担も少ないんだけどねぇ…」

 

 深く吸い込んだ煙をため息のように吐きだしながら男は呟く。

 

「あら。モテモテの装蹄師さんが心理的負担?誰かに妬かれて困ってるの?」

 

 悪戯っぽく笑いながらおハナさんがからかい調子で男に振る。 

 男は眉間に皺を寄せて「何いってんだコイツ」という表情だ。

 

「あぁ?モテモテの装蹄師って誰だよ」

 

 沖野が反応する。   

  

「学園の装蹄師といえば一人しかいないでしょうよ」

 

 笑いながらおハナさんが沖野をあしらう。

 

「どういうことよ、おハナさん…」

 

 男は降参という風体で両手をあげた。

 おハナさんは冷たく鋭い視線で男を射抜いてくる。

 

「あなた…ほんとに身に覚え、ないの?」

 

 手を上げたまま首を振る。

 

「呆れた…。これじゃ彼女たちも浮かばれないわ…」

 

 沖野もおハナさんの後ろで何かに気づいたような顔をしている。

 

「そういやうちのチームでも…お前の話が出てたのを聞いたことがあるぞ…」

 

「スピカでも?どういうことよそれ」

 

 おハナさんが顔色を変える。

 

「スズカとスペが話してて…お前、スペにアイス食わしただろ。それをスズカがものすごく羨ましがってな…普段食い物に執着しないあのスズカだから、印象に残ってる」

 

 沖野はなにかを確かめるようにゆっくりと話した。

 なるほど。ゴールドシップはそれを聞いていて工房に来襲したのだろう。

 

 おハナさんは眉間に手を当ててため息を吐く。

 

「うちではシンボリルドルフとエアグルーヴよ。いつもは師弟のような関係だけど、最近二人で並走させているととんでもない張り合い方をするときがあるわ…あなた…思い当たる節、あるんじゃない?」

 

 サイレンススズカとスペシャルウィークの話はまだ平和な気がする。スペシャルウィークには確かにアイスを食べさせた。

 

 しかしシンボリルドルフとエアグルーヴに関しては身に覚えがあるものの、さりとて男がなにか因果となるようなことをしたかといえば、そうではない。

 男はわけがわからない、という風に首をひねった。

 

「ワケワカンナイヨー」

 

 お道化てみせても二人からの疑わし気な視線は収まらない。

 

「いや…ホントに…シンボリルドルフとは子供のころから知ってる仲だし、エアグルーヴには説教かましたことはあるけど…そのあと詫びにサルビアの鉢植えもってきたくらいだよ…」

 

 おハナさんは驚いた顔で男を二度見する。

 そして何でもない顔をしている男を見て、再び深いため息をつく。

 

「アンタね…鈍いにもほどがあるわよ…」

 

「俺なんか娘たちからなんかもらったことすらねーぞ。たかられるばっかりだ」

 

 沖野が茶々を入れるが、それはスピカだからではないだろうか。

 

「まさかあんな見目麗しく高名な方々が、俺みたいなふつーのおっさんにどうこうはないだろうよ。気の回し過ぎだよ」

 

 男はおハナさんが言うようなことなど、夢にも思ったことはない。

 それゆえに、おハナさんに言われたことはどこか別の世界の出来事のように感じていた。

 

「まぁ、そう思いたいならそれでもいいわ。でも、彼女たちを傷つけるような真似だけはしないで頂戴ね。その時は私、許さないから」

 

 そう言い切ったおハナさんの表情は本気で、なまじ美人であるだけに迫力が違った。

 

 男と沖野は悪いことをしてないのに背中に嫌な汗をかくことになった。

 

「お前…刺されるようなことするなよ」

 

 沖野の一言が、すでに不穏だった。

 




読んでくださる皆様のおかげで、初投稿から1ヶ月、なんとか書き続けることができました。
本当にありがとうございます。

今後ともよろしくお願いします。


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21:女帝と逃亡者

ご無沙汰しております。
いつもお読みいただきありがとうございます。
自分で書いていながらなかなか仕上がらんな、と思っていたらいつもよりだいぶ文字数多く書いてしまっていました。
今回もよろしくお願いいたします。


 

 

 

「あんたたまにはレース場にも顔出しなさいよ。全然レース観てないでしょ、最近」

 

 おハナさんに先の飲み会で男が言われた言葉だ。

 

 最近は研究に時間を取られたことのほかにも思うところがあり、レース場からは距離をとっていた。

 

 学園の装蹄師という立場上、特定のウマ娘にファン的なものでも思い入れが入ってしまえば普段の業務にも影響しかねない、と考えていたのだ。

 

 男もレースという「競う」ことを見るのもやるのも大好きだったからこそ、目にしてしまえば熱くなってしまう自分を自制するためにそうしてきた。

 

 とはいえ、ここ最近は距離を取り過ぎているのも事実だった。

 今年レース場に行ったのは会議目的が唯一である。

 

「たまには見てみるかね…」

 

 そう思うと男はいてもたってもいられなくなったが、そう都合よく近隣のレース場で開催されているわけでもない。

 

 結局、男はその日の依頼を手早く片付けると、以前の反省から一度寮へ戻り、シャワーを浴びて着替え、とりあえず学園の練習トラックでも眺めにいくことにした。

 

 服装は悩んだが、いつもの作業着というわけにもいかず、結局数着持っているスーツの中からできるだけカジュアルなものを選び、ネクタイはつけずに装蹄師バッジをつける。

 業務時間内ではあるし、学園をうろつくからにはある程度体裁も気にするべきだった。

 

「あれ…」

 

 シャツを着ると肩回りが妙にきつい。

 太ったか、と思ったが、鏡を見ると原因が分かった。ここのところの造蹄作業量が膨大だったため、胸、肩、腕と利き手の右側だけ妙にたくましくなってしまっていた。

 

「バランスわりぃな…」

 

 左側も同じように鍛えるべきかと思ったが、運動自体はあまり好きではない男はとりあえず現状を放置することにし、観察用の双眼鏡をもって練習用トラックに向かった。

 

 

 

「よ。めずらしいじゃねぇか」

 

 トラックのスタンドに上がろうとしたとき、声をかけてきたのは沖野だった。

 

「どうしたんだそんなスーツ姿で」

 

「こないだおハナさんにたまにはレース場に来いって言われたからさ。そう都合よくやってないんでとりあえず練習でも見に来た」  

 

「そりゃあいい心がけだ。俺たちの仕事はここで結果を残すことが到達点のひとつだからな。で、その見たことのないバッジはなんだ」

 

 男の襟に着けられた蹄鉄を象ったバッジを指さす。

 

「これ知らないの?URA支給品の装蹄師バッジ」

 

「知らねえよ初めて見たぞ。トレーナーバッジよりレアもんだろそれ」

 

 URA所属の装蹄師は全国で数十人ほど。この学園には男一人だけだ。この業界のエリートの象徴であるトレーナーよりも絶対人口が少ないことは間違いない。絶滅危惧種並みである。

 

「そのうち絶滅するかもしれないから大事に扱ってくれよ」

 

「言ってろ。今日はこのトラックと隣の坂路でうちとリギルが練習予定だから、ゆっくり見てってくれ」

 

 そういうと沖野はスピカの面々が集うトラック端に歩んでいく。

 チームの輪に入ろうとする沖野だったが、横合いからゴルシちゃん号に乗ったゴールドシップが轢きにかかり、沖野の悲鳴が響いた。

 

 

 男はスタンドの警備員に会釈しトラックを眺めている人が散見される上段にあがり、一望する。

 

 芝が青々と鮮やかで、男のいるスタンドには気持のいい涼やかな風が吹いている。

 

 欄干にもたれかかりながら双眼鏡でスピカを覗き込めば、ゴールドシップは詰将棋を指しており、ウォッカとダイワスカーレットはトラック上を張り合うように走りこんでおり、スペシャルウィークはサイレンススズカと外周をランニングしている。

 

 反対側ではリギルの一同がおハナさんの前に整列し、今日のメニューを確認しているようだ。

 双眼鏡の中で、おハナさんと目線があった気がした。

 

「あの…」

 

 男に呼びかける声がかかり、双眼鏡を外す。

 いつの間にかグレーのスーツにトレーナーバッジをつけた気弱そうな優男、という風体の若い男がいた。

 

「トレセン学園の装蹄師の方、ですよね…?」

 

 男は声を出さずに頷く。

 

「あぁ良かった…私、南坂といいます」

 

 名乗った優男は、曖昧な笑みを浮かべている。

 

「…不躾にすいません…すこし、お話させていただいてもよろしいでしょうか?」

 

 男はこくんと頷く。目の前の南坂と名乗った優男の意図がよくわからず、反応が取れない。

 

「…この間発表されたトレーニングシューズの製作チームの方、ですよね?」

 

「…あぁ。その件ですか」

 

 男はようやく声を出す。

 南坂は遠慮がちだった笑みが大きくなる。

 

「えぇ…実は私、この間までトレーナーをしながらスカウトの仕事もしてまして。あのシューズの使用者の娘をスカウト対象に学園に話をあげたのは、私なんです」

 

「イクノディクタスを?」

 

「ええ。そうしたら入学前の身体検査であんなことになってしまって…ですので、今回の件のお礼を言いたくて」

 

 男は笑って首を振る。

 

「お礼をいわれるようなことは、なにも。強いて言うならあなたの運とタイミングの良さ、理事長の胆力、生徒会の奮闘、あとついでにアグネスタキオンの奇才ぶりに感謝するべきです」

 

 通常ならば、イクノディクタスの入学を許可されていたかどうかはかなり怪しい。

 その点、今回はアグネスタキオンと生徒会のやりだしたことと、理事長の業界を巻き込む器量、そしてタイミングががっちり噛み合って実現した、ある種の奇跡であり、幸運といえた。

 男たちはそのあつらえられた舞台に、ちょっとした小道具を提供したに過ぎない。男はそう考えていた。

 

 南坂もほっとした表情で、確かにそうかもしれません、と笑う。

 

「…私、これからチームをつくろうと思います。まだまだこれからですが、また相談に伺うこともあろうかと思います。その時はよろしくお願いします」

 

 南坂は男に丁寧に頭を下げた。

 

「普段は学園の奧の工房にいますんで、いつでも」

 

 南坂はありがとうございます、と言うと、スタンドを降りていった。

 

 南坂の後ろ姿を見送りながら、男は自分の仕事が役に立ったことを実感として受け取ることができ、すこし心が熱を持つような気がした。

 

「…少しは顔が売れてきたみたいじゃない、鍛冶屋も」

 

 男の心に冷や水をぶっかけるような声音で入れ違いに登場したのは、おハナさんだ。

 

「…俺は顔売れないほうがいいんだけどなぁ。村はずれのあばら家で何してるかわかんないようなおじさんになりたいんだよ」

 

「なに世捨て人みたいなこといってんのよ。珍しいじゃない、こんなとこにちゃんとした格好で。ジャケットぱっつぱつだけど」

 

 おハナさんは男の背中をバシンと叩く。

 男はおハナさんと並んでコースを眺めながら、この間おハナさんに言われたから出てきてみたこと、怪しまれないようにきちんとした格好をしてみたら、身体のサイズが大きくなってしまっていたことなどを手短に説明した。

 男の説明を聞き、せせら笑いながら欄干にもたれかかるおハナさんはいつもとかわらずビシッとスーツで決めており、もたれ掛かる様子は艶やかという他ない。男は思わず目線が胸元あたりにつられそうになる。

 

「なら、今日はちょうどいいわね。宝塚記念が近いから、いろんな想定したレースシミュレーション、やるわよ」

 

 男は無表情の中に自分の不埒な揺れを覆い隠す。

 

「リギルからは誰が出る?」

 

「エアグルーヴが出るわ。ファン投票1位だもの」

 

 ほう、と男はため息をつく。

 

「まさに今をときめく女帝だなぁ。めぼしいライバルは?」

 

 おハナさんは自分の目線の先を示す。

 

「サイレンススズカも出るのか。同門対決…いや、元、同門か」

 

「スピカに移ってからのスズカは強いわよ。悔しいけど」

 

 そう語るおハナさんの横顔はどこか嬉しそうでもあり、一抹の不安も含んだ表情だった。やはり、スズカの脚が気になるのだろうか。

 

「あなたが見てるってわかったら、エアグルーヴももっとやる気出すかしら」

 

「おっさんに見られてどうこうなるようなタマかよ、女帝さんは」

 

 男は無意識に煙草を取り出そうと胸ポケットをさぐり、今いる場所を思い出し、やめる。

 

 トラックでは芝コースの内側をシンボリルドルフやエアグルーヴがレースシミュレーションで走り、外側をスピカがランニングという風に使い分けられている。

 ちょうど、リギルが数名で宝塚記念を想定した走行を始めた。

 スターターはグラスワンダーで、旗が振り下ろされ、エアグルーヴとヒシアマゾンがスタートを決める。

 

 タイキシャトル、シンボリルドルフ、フジキセキをコース上に配置し、後方からエアグルーヴが差しにかかる駆け引きをシミュレーションするようだ。

 

 男は双眼鏡を覗き、観察する。

 エアグルーヴが宝塚記念になぞらえたコースを実戦さながらに走っていき、後ろからヒシアマゾンが煽るようについていく。

 

 それぞれの待機ポイントでエアグルーヴが近づいてくると走り出し、それぞれの脚質に合わせて本番さながらの鍔迫り合いが行われていく。

 

 3コーナー手前では先頭にタイキシャトル、そのあと少し開いて4人が一団となって駆け引きを繰り広げながら4コーナー、そして最終直線へ入る。

 

 先頭からタイキシャトル、シンボリルドルフ、フジキセキが固まり、エアグルーヴは少し後ろから前に出るラインを探して外側に寄りながら加速していく。

 

 最後の50mを切ったあたりで4者が並び、大外からヒシアマゾンが追い込んでくる

 

 最後は粘り切ったシンボリルドルフ、差し込んだエアグルーヴ、まくってあがってきたヒシアマゾンがほぼ同着でゴール板を通過した。

 

 おハナさんは表情を変えずに、データを手元のタブレットに入力していく。

 

 ふと気になった男は、独り言を呟くように言った。

 

「おハナさんさ…ひょっとしてフジキセキって脚あんまり強くない?」

 

 おハナさんのタブレットを触る手が止まる。

 

「…正直、強くはないわね…わかるの?」

 

 男は首をひねる。正直なんで自分でそう思ったのか、うまく言語化することができない。

 

「いや、今見ていてなんとなく…カンみたいなものかな」

 

「なんなのよ一体…気色悪い」

 

 ターフの上ではリギルの面々が上がった息を整えている。

 なかでも実戦と同じ距離を走ったエアグルーヴは顔も赤く上気し、荒い息を抑えながらシンボリルドルフのアドバイスを聞いている。

 

「しっかし、スピカも同じ場所で練習してるのにレースシミュレーションなんてよくやるね、おハナさんも」

 

「…相手がスズカなら、こっちの手の内晒したところで彼女の求道者のような走り方に変わりはないわ。むしろこちらが見られる状況をつくることで、うちのチームの闘志を高めてるのよ」

 

 こういう考え方こそが、切磋琢磨という言葉の本質なのだろうなと、男は感心してしまう。

 

 そうしている間にも、サイレンススズカは芝コースの外周をラチに沿って黙々と周回を重ねていた。

 コースの向こう正面に見える坂路では、ゴールドシップがダンボールに乗って滑り降りている。

 

 それからも男はスタンドからリギルのシミュレーションの様子やスピカの無軌道なトレーニングを眺めつつ、彼女たちの足元を仔細に観察したりして小一時間ほど過ごしてから、スタンドから離れた。

 

 工房に戻り、夕刻の色合いの中、外のベンチで煙草に火をつける。

 

 今日見たものを頭の中で整理しながら、サルビアに水をやる。

 

 あれやこれやと思索にふけりながら、2本、3本と煙草を吸い続けていると、工房へ連れだって向かってくるウマ娘が視界にはいった。

 

 ジャージ姿で男の目の前に立ったのは、エアグルーヴとサイレンススズカだった。

 

「少し、いいか?」

 

 エアグルーヴの瞳はいつもと少し違う柔らかさを持っている。

 サイレンススズカと一緒だからだろうか。

 

「なんだ?」

 

「私と、スズカの蹄鉄を見てほしい」

 

 男は頷いて工房を開け、二人を中へ入れる。

 

 彼女たちの蹄鉄を受け取り、作業台へ置く。

 

「ちょっとそこでゆっくりしてて。点検ってことでいいかな」

 

 二人は頷いて応じる。

 

 男は応接ソファに彼女たちを座らせ、自らは作業台で点検を始める。

 

 二人の蹄鉄は、その脚質と脚に合わせてずいぶんと対照的だ。

 

 サイレンススズカのものは全体的に細く、エッジが効いたデザインで、接地面積は小さめのものを使用している。駆け引きはせずに速いペースを保って走り続けるため、全体的に無駄がなく、言い方を変えれば余裕のない、攻めた蹄鉄だ。

 

 エアグルーヴのものは反対に、やや大ぶりで線が太く、接地面積も大きめに取られている。レース後半に瞬間的な爆発力で加速し差しに行く特性上、蹴り出しの強大な力を受け止め、地面にしっかり伝えられるようにできている。当然強度と耐久性も高めに設られたものだ。

 

「ふたりとも、これでレース出るのか?」

 

 作業台越しに問いかける。

 

「私は、使い慣れたこの蹄鉄を勝負シューズに打ち換えて使おうと思っています…」

 

 蹄鉄と同じように細いが芯のあるスズカの声。

 

「私は同じモデルを新調して、慣らしをして使うつもりだ」

 

 凛としたエアグルーヴの回答。

 

「お前たち、次の宝塚記念でライバルなんだろう?個別に話したほうがいいか?」

 

 二人は二言三言、言葉を交わす。

 

「私たちは構わない。貴様の所見を聞こう」

 

 男は作業台から立ち上がり、二人の蹄鉄を手に応接セットへ移動する。

 

 ソファに浅く腰掛けると、蹄鉄をテーブルに置き、やや前かがみの姿勢をとる。肩から背中あたりにシャツの窮屈さを感じる。

 

「じゃあまずスズカからだ」

 

「はい…」

 

 細い足を綺麗に揃え、膝の上に重ねた手をぴくりとさせる。やや不安げな面持ちで、耳がすこし力ない。

 

「全体的に均等に減っているし状態も悪くない。だけどエッジの鈍りもかなり進んでいるし、今からで間に合うなら新品おろして慣らししてもいいかもしれないな。新品の立ったエッジがどのくらいアドバンテージ稼ぐかはわからんが、準備はしておいたほうがいい」

 

「はい…ありがとうございます」

 

 スズカは真剣な眼差しで男を見つめてくる。

 その表情はたとえるなら研ぎ澄まされた日本刀のように、切れ味に特化した純粋な鋭敏さを感じさせる。

 

「次にエアグルーヴ」

 

 視線をエアグルーヴに移すと、耳がすっと立ち、怜悧な印象をさらに強くする。

 

「新調するほうがいいだろうな。これだけ太いリブが入ってるのにところどころ歪んだり、欠けもある。今回はもうこのタイミングだから慣れたものを新調でいいだろうが、今後はちょっと素材から検討してもいいかもしれない。もちろんフィーリングが変わるから、そこらへんは試行錯誤があるかもしれないな」

 

 エアグルーヴは少し、考え込む。

 

「…新しいものに、貴様に少し手を加えてもらうことはできるか?」

 

 なにか考えがあるようだ。

 

「できるよもちろん。ただレース前のこのタイミングだから、あまりお勧めはしない」

 

「少しだけだ。明日朝、新品を持ってくる」

 

 エアグルーヴの思い詰めたように見えた表情に、男はゆっくりと頷いて応えた。

 

「あとは二人に共通していることがひとつ。蹄鉄のシューズへの取り付け部の釘に関してはしっかり確認しておいてほしい。受け側のソールもな。わかってるとは思うが釘の打ち加減でシューズとの一体感も変わってくる。二人とも、蹄鉄側の釘穴が少し削れ気味だ。たぶん走行中にちょっと動いてるぞ」

 

 二人は自分の蹄鉄の釘穴を覗き見る。

 

「わからないわ…」

 

「スズカの方は進行方向に少しだから、さほどってとこだ。釘を深めに打てば問題ない。エアグルーヴの方は全体的に少し広がってる。たぶん瞬間的なトルクの差だな」

 

「蹴り出す力のことか」

 

 エアグルーヴが応える。

 

「そう。脚質の差なんだろうな。エアグルーヴは差しだから、加速の瞬間に出してくる一歩の蹴り出しエネルギーが大きいんだろう。踏み出し、右脚だろ?右の方が削れ具合が大きい」

 

 エアグルーヴが驚き、瞳を丸く見開く。

 それを見て、サイレンススズカがふふっと笑う。

 

「……!」

 

 自分の変化をスズカに見つかったことに気づき、エアグルーヴの肌に朱がさす。

 

「…ごめんなさい。エアグルーヴの瞳があまりにも素直なものだから。先生ならそのくらいはお見通しなのよ」

 

「スズカ…!」

 

 エアグルーヴはスズカを咎めたいようだが、うまく言葉が出ずに口をぱくぱくさせる。

 男にはやりとりが理解できていない。

 

「ほら、ここの釘穴見てみ…」

 

 エアグルーヴの手元にあった蹄鉄の釘穴を指し示すべく、テーブルに身を乗り出した時に、男の身から一気に布が裂ける破裂音のような音が響いた。

 二人の耳がビクッと立ち上がる

 男は窮屈に感じていた肩周りが、急に緩まり、肩から背中に解放感と清涼感を感じていた。

 

「…裂けた…」

 

 男は脱力してソファに沈み込む。

 

 二人は下を向いてフルフルと震えながら我慢していたようだが、遂に笑い出した。

 

「貴様は…本当に面白い男だな!」

 

「笑っちゃ失礼よエアグルーヴ…ふふふっ…ごめんなさい!」

 

 最近、なんでこう締まらないのだろう。

 

 男は漫然と宙を見つめながら心の中で呟き、煙草を取り出して火をつけずにただ、咥えた。

 

 

 




ムキムキになってしまった。。。


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22:女帝の葛藤 皇帝の懊悩

金曜夜のテンションで、蒸し暑いエアコンのない部屋で脳を茹でるように書くとこんな怪文書を紡ぎ出してしまうらしい。


 

 

 

 

 工房での珍事をひとしきり楽しんだ後、エアグルーヴとサイレンススズカは寮に戻った。

 

 エアグルーヴは自室で、明日朝に工房に持ち込む新品の蹄鉄を取り出す。

 

 どのようなオーダーをするべきか、机の上の蹄鉄を眺め、思案する。

 いくらか補強を入れてもらう方向で考える。

 具体的な補強位置は男に任せるとしても、どのようなフィーリングを求めているかのイメージくらいは伝えないといけない。

 

 しばらく思案に耽った後、ふと机に置いてある青いサルビアの小さな鉢が目に入る。

 

 それは、男に鉢植えとして渡したサルビアと同じ株のものだった。

 

「…我ながら小賢しい真似をしたものだ」

 

 そう独り言ちると、少し自分の気持ちに素直に向き合える気がした。

 

 本当は蹄鉄に男の手を加えてもらう必要など、ないのだ。 

 

 男の指摘を受けたとき、彼女の聡明な頭脳はひとつの閃きを導いた。

 

 男が手を入れた蹄鉄で、レースを走ることができる。

 

 意味を認識した瞬間、それはとても魅力的で甘美な思い付きに思えた。

 

 だからとっさに、手を加えてもらうことができるか、問うてしまった。

 

 お勧めしない、という男の言葉も、少しだけだ、と押し切った。

 

 エアグルーヴは戸惑っていた。

 

 今までの自分であれば、このようなことを言い出すはずがない。

 

 言い出すとしても、まずはトレーナーに相談して自分の状態とすり合わせ、次のレースへの戦略、戦術にどうプラスになるか、分析し整理してから決めるはずだ。

 

 どうかしている。

 

 いつから自分がそうなったのだろう。

 

 

 

 男に自分のプライドを打ち砕かれて。

 

 ひとつのケジメをつけて、頭を撫でて褒められて。

 

 まるで子供のような、情けない姿を見せられて。

 

 苦悩する男の姿を眺めて。

 

 

     

 一般社会からは隔絶されたトレセン学園というひとつのちいさな世界の中で、異質な存在といえる装蹄師の男は、いつしか彼女の中の一定の場所を占める存在となってしまっている。

 

 エアグルーヴは己の心の内を、はっきりと認識した。

 

 しかしそれを一方で、否定し、追い出すべき感情だとも考える。

 

 レースを戦う上で、このような邪な考えを抱いて勝利を掴めるほど甘い世界ではないと、彼女の冷静な部分が叱咤する。

 

 いかに女帝と呼ばれて持て囃されようとも、勝負にストイックに向き合い、突き詰めて、自らを厳しく律していかなければすぐに足を掬われる。

 

  

 己はなんのためにここにいる?

 

 尊敬する母と並び、それを追い越すためだ。

 

 尊敬するシンボリルドルフと志を共にし、実績でも並ぶような存在を目指すためだ。

 

 ならばこのような己の児戯のような感情に何の価値がある?

 

 エアグルーヴは闇へと引きずり込まれそうな思考を自らの頭を振ることで中断させ、気分を変えるために寮にある共用のリビングスペースへ向かうことにした。

 

 他のウマ娘の気配が感じられるスペースに、伏し目がちに眉間を押さえながら入る。

 

「どうしたエアグルーヴ。顔色がずいぶん悪いようだが」

 

 視線を上げればそこには、部屋着姿のシンボリルドルフがいた。

 

「会長…」

 

 ルドルフはエアグルーヴの表情をじっと見つめる。

 

 そうして、エアグルーヴのただならぬ憔悴を見て取ると、少し話をしよう、と自らの部屋へ誘った。 

 

 部屋の扉を閉じると、何か飲むか?とシンボリルドルフはエアグルーヴを気遣う。

 

 エアグルーヴのいつもは凛々しく屹立している耳も今は力なく、まるで魂が抜けかけているかのようだ。

 

「申し訳ありません…会長を煩わせるようなことは…何も…」

 

 いつものエアグルーヴらしくない歯切れの悪い物言いに、ますますルドルフの心配は募る。

 

「…エアグルーヴにはいつも負担をかけている。そんな君に困ったことがあれば、私はいつでも力になろう」

 

「いえ…会長のご心配には及びません。極めて個人的なことで…」

 

 エアグルーヴは伏せた目をあげようとしない。

 

「…ふむ、私では力不足ということか…」

 

 エアグルーヴははっとし、慌てて言葉を紡ぐ。

 

「決してそのようなことでは!そのようなことでは…」

 

 ルドルフは眉を下げ、微笑む。

 

「…話してくれるな?」

 

「…はい…」

 

 そこからエアグルーヴはぽつり、ぽつりと話していく。

 

 尊敬する生徒会長であり、自らのチームの中心であるルドルフに、自分で邪であると理解している心情を吐露するのは相当に勇気がいることだった。

 

 しかしエアグルーヴは、ここまで心を砕いてくれるルドルフに隠し立てすることこそが信義にもとると思いなおし、今日の練習後の工房での一連の出来事と、自らの心のうちを明らかにしていく。

 

 

 この時、エアグルーヴの話を聞くシンボリルドルフの表情は、話が進むごとに少しずつ、難しく、硬く、ときに曇っていった。

 しかし自らを表現することにキャパシティのすべてを使い果たしているエアグルーヴは、ついぞそれに気づくことはできなかった。

 

 シンボリルドルフは適度に相槌を挟むことを忘れず、エアグルーヴの自室での葛藤までを聞き終え、自らの中にあるひとつのスイッチを切り、表情を切り替えた。

 

「…なるほど。つらい気持ちは、よく伝わってきたよ」

 

 ルドルフは「理解したよ」という言葉を差し出してやれない自分の狭量さを自覚し、心の中でエアグルーヴに詫びる。

 

「次のレースに悪影響を及ぼす可能性があるのは、私としても不本意だ。だからひとつ、提案をしてみても良いだろうか」

 

 エアグルーヴはいつになく気弱な表情で、尻尾すらも力なく下がった状態のまま、ルドルフの次の言葉を待っている。

 

「蹄鉄は加工してもらうといい。でももう1セット、新品を用意するんだ。どちらを使うかは、試してからでも遅くない」

 

 エアグルーヴの耳に、わずかに力が戻る。

 

「今のような心情を落ち着けるのは難しいかもしれないが、少なくともひとつ、望んだものが手に入ると考えれば、少しは君の心のよりどころになるのではないか?気持ちの整理は、時間に追われてするものではないよ」

 

 シンボリルドルフは言葉を紡ぎながら、思っていた。

 うまく伝わっているだろうか。

 うまく隠せているだろうか。

 

 エアグルーヴの表情を読もうとする。

 少し明るくなっているだろうか。

 

「…ありがとうございます。会長に、皇帝にこのような助言がいただけて、私は果報者ですね…」

 

 どうやら試みはうまくいったようだ。

 シンボリルドルフは安堵した。

 

 エアグルーヴはいくらか生気を取り戻し、シンボリルドルフに礼を述べると、自室に戻っていった。

 

 部屋に一人となったルドルフは緊張の糸を切らして、ため息を吐く。

 

 ベッドに身を投げ出し、枕に顔を埋めて、自らに問う。

 

 これでよかったのか?

 

 

 

 学園の工房に棲まう、かつてより兄と慕う装蹄師の男。

 

 それは彼女がルナと呼ばれていた時代から今まで、彼女の心の中で重要な位置を占め、揺らぐことのない、初恋の相手でもあるのだった。   

   

 

 

 



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23:蹄鉄にまじないを

 

 シンボリルドルフに相談して妙案を得たエアグルーヴは、翌日朝、約束通り工房を訪ねた。

 

「で、どうするんだ?」

 

 男は昨日とは打って変わった普段通りの作業着姿でエアグルーヴを迎えた。

 

 やはりこの方がこの男らしいな、とエアグルーヴは心の中で納得する。

 

「蹄鉄の前半分をもう少しだけ、剛性を上げてほしい」

 

 一晩経てエアグルーヴの表情はすっかりいつもの通りだ。

 その実、内心は昨日はっきりと自覚した自らの気持ちが表に出ていないかと、平常心を保つためにリソースが割かれていたが。

 

 男は彼女の言葉を聞いて、3枚の簡単なスケッチを取り出した。

 

「そういうと思って、案を用意してある」

 

 昨日帰ってから検討したんだが、と話し出した男は三つの案を説明していく。

 

「この案は剛性は上がるが他にしわ寄せがいく可能性がある。こっちは剛性と接地面積も一緒にあげるが、使いこなすにはコツがいるかもしれん…」

 

 エアグルーヴは男の案を聞きながらも、内容が頭に入ってこない。

 男が、自分のために昨夜、この案をわざわざ起こしてくれた。

 もちろん、競技者としてのエアグルーヴに、装蹄師としての男が、というプロ同士が果たすべき役割を果たしている形のことであることは理解している。

 しかしそれでも、彼女の一部分が、自分のためにわざわざこれを用意してくれたことへの嬉しさを感じずにはいられなかった。

 

「聞いてるか?エアグルーヴ」

 

 向かい合った男が怪訝な顔をする。

 

「あ…あぁ、すまん。今まであまりこだわってこなかった部分なので、正直理解が追いついていない」

 

 咄嗟に口をついて出た言葉は嘘だ。既製品を何種類も試し、今のものにたどり着いていた。

 走り方もこの蹄鉄を使いこなせるようにフォームの微調整をしたほどだ。

 

「仕方ねぇなぁ。ま、簡単に言うと一番フィーリングが変わるのがこれ、一番変化が少ないのがこれ」

 

 二つの両極端の案を提示される。

 

「フィーリングが変わる方はかなり攻めた仕様だが、うまく使いこなせれば接地時の滑りロスは減らせるかもしれない。さて、女帝さんはどうする?」

 

 顎に指を当て考える仕草をとるエアグルーヴ。

 今日もしっかりと鮮やかなアイシャドウが引かれ、理知的な顔立ちにシャープで華やかな印象を添えている。

 

「実は昨日、会長にも相談したんだ」

 

 エアグルーヴは徐に口を開く。

 

「次のレースは、今日作ってもらうものと無改造のものを比較して、合う方を使うつもりだ。悪く思わないで欲しい」

 

 男はそれを聞いて、真剣な表情で応える。

 

「そんなん思うわけないだろ。走るのはお前だ。お前が納得する蹄鉄でいけるのがいいに決まってる」

 

 男としては当たり前の反応だった。試みられるものが全て、良い方向に向くとはかぎらない。

 己の精神、肉体から、勝負服、シューズ、蹄鉄。自分で変えられる要素ですら無数にあるのに、加えて天候、気温、バ場状態、ライバルの動き…自分にはどうにもできない要素も加味されて、何がベストなのかは神の領域だ。

 

「真剣勝負を運なんて言葉で簡単に片付けたくはないが、どうしたって勝負のアヤはあるさ…だからこそ、できる準備は、考えられる備えは怠らない。それはレースを走るお前も、俺たち裏方も一緒だ。お前は自分が一番良い状態にもっていければ、それでいいんだ」

 

 

 あぁ、もう…この人は…この人たちは…。

 

 エアグルーヴは胸がグッと締め付けられる感覚に襲われる。

 

 シンボリルドルフと企画書を持ってここを訪れた時も、筋が違うと諭されながらも内容は認めてくれた。

 男に叱責されてから、企画を公式にしていく過程で関わった関係者たちも、皆快く賛同してくれて。

 私たちが本能として競うことを肯定し、生きる糧としての舞台装置を作り上げ、支え続ける人たち。

 

 男の言葉に、エアグルーヴの脳裏には裏方を一堂に集めて研究に協力を求めた会議場の、関係者たちの温かい表情が思い起こされる。

 

 走るのは確かに自分かも知れない。

 でもその周りにはたくさんの人々が影に日向に、彼女たちを支えている。

 これまでの様々な出来事が瞬時につながり、組み上がり、彼女の底からこみ上げる得体の知れない何かを必死に抑えつける。

 

 

「もう1セット慣らして持ち込むなら、手を入れる方は少し冒険するって策もとれるな」

 

 投げかけられた声に、胸の締め付けを宥めながら目の前の課題に意識を戻す。 

 男はスケッチを見比べながら、新たにもう一枚書き起こしている。

 

 エアグルーヴは男の書き上げていくスケッチに、自分のイメージを重ねる。

 

「…貴様のこの案をベースに、こことここにも少し肉厚を足してくれ。コーナーで仕掛ける場合、今回のコースにも合うと思う」

 

「そうきたか…なるほどな。やってみよう」

 

 かくして、蹄鉄は男とエアグルーヴの共同案で作ることになった。

 男は午後までに作業を終わらせ、夕方には試走できる仕様で届けてくれるという。

 レースで使用するには技術委員会での現物審査と資料の提出が求められるため、その書類の作成も男が行う。

 試着のフィーリングで判断し、レースで使用する可能性がある場合は速やかに認証が取れるように段取りを打ち合わせる。

 

「貴様の仕事を無駄にはしない。必ず、勝利を届けてやる」

 

 エアグルーヴは自分にも言い聞かせるような力強い言葉を男に残し、工房を後にした。

 

「さっすが女帝。貫禄が違うねぇ…」

 

 男は煙草に火をつけ、暢気に呟いた。

 

 

 

 

 

 男はエアグルーヴに無事納品を終え、その日の仕事を終わらせて寮に戻った。

 

 

 夕飯は適当に買い置きのパスタを適当に塩とニンニクでやっつけてしまおうと頭の片隅で考えていると、スマホが震える。

 相手はシンボリルドルフだ。

 晩飯を問われ、正直に話すと不機嫌な声で30分ほど待て、と言われて一方的に通話が切られた。

 

「まったく兄さんは…もう少し自分のことを労ったらどうなんだ」

 

 仕方がないのでシャワーを浴びて時間を調整していたところに食材を抱えたシンボリルドルフが現れたのは、通話が切れてから20分後のことであった。

 

「独り身の中年なんてそんなもんだろ…」

 

 男は悪びれる風もなく応える。

 ルドルフはキッチンに入ると、もってきた食材を手早く刻み始めていた。

 

「少しだけ待っていてくれ。今日の夕飯を少しくらいはマシにしてみせるよ」

 

 男は料理をするルドルフの姿をカウンター越しに眺めながら、出会ったばかりのルナを思い出してぼんやりと時の流れの早さを思った。

 

 

 ものの20分ほどで男の前に出されのは、ポトフベースのスープパスタだった。

 ゴロゴロと大きくカットされた野菜がたっぷりで、トマト缶でとろみがつけられている。

 うっすらとしたバターの香りが食欲をそそる。

 二人用の小さなダイニングテーブルで、向かい合う。

 

「すごいな…うまそうじゃないか。いつの間に料理、覚えたんだ」

 

 ルナは眉を少し下げながら、寮生活なら多少はね、と謙遜する。

 

「エアグルーヴも色々世話になってるみたいだからな。お礼としてはささやかに過ぎるが…」

 

 ちくり、とルドルフとしての良心が痛む。

 ルナの立場とルドルフの立場を自儘に使い分け、ましてや昨夜、エアグルーヴの胸の内を知りながら、今こうした時間を作っていることに呵責さえ感じる。

 

「いやいやそれは仕事だからな。でもありがたく、いただきます」

 

 男はルナを拝むように手を合わせ、食べ始める。

 

「口に合うと良いのだが…」

 

 そう言いながらルナは男の様子を伺う。

 

「うん!うまいよ。皇帝の手料理食べてるとか俺もう明日ファンから刺されても文句言えねぇけど、それでも本望なくらい美味いわ」

 

 男は照れ隠しで周りくどく表現してしまうが、素直に美味しかった。

 

「そうか。良かった…」

 

 ルナは心底ホッとして、男の食べる姿を眺めながら自らも食事を進めた。

 

 

 

 

「いやあ満足だわー。いつもは空腹にならなければいい、くらいの食事じゃダメだなやっぱり」

 

 食後、男は久しぶりに食事に幸せを感じつつ、普段の食生活の酷さを反省した。

 

「普段どれだけ酷いんだ…もう少し、食事には気を遣ってくれよ、兄さん…」

 

 あはは、と誤魔化すように男は笑いながら、ルナにお茶を差し出す。

 

「ところで次の宝塚記念、エアグルーヴはどうなんだ?」

 

 男はルナに問うと、一瞬間があり、ルナがルドルフの目付きに戻って応える。

 

「…楽なレースにはならないだろう。メジロ家で勢いのある娘も出てくるし、何より今のスズカは完成の域にいる。だからこそ、彼女も負けるわけにはいかない。能力的には勝てない相手ではないよ」

 

「そうか…気負い過ぎなければいいんだがね。しかしレースファンにはたまらんな。久しぶりに観にいこうかな」

 

 ルナの耳がぴくり、と反応する。

 

「ならばクレデンシャルパスを用意する」

 

 男はかぶりを振る。

 

「いや行くにしてもプライベートにするよ。関係者としていくと仕事になっちまうし、現地の同業に余計な気を遣わせるのもな。ってかそもそも行くかもわからん。阪神遠いし、おハナさん怖いし」

 

 出張申請すれば普通に仕事としていくことはできるが、行ったところでレース場付の装蹄師がいるので男の出番は特にない。

 行くとしても自由に行動できる方が良かった。

 

「…ここまでエアグルーヴに肩入れしたんだ。見届けてやるのが兄さんの立場じゃないか?」

 

 すると男は心外そうな表情を浮かべる。

 

「別に、どの娘からでも相談されれば、俺は仕事としてやる。エアグルーヴだからやったわけじゃないぞ」

 

 途端、ルナの耳がしゅんとする。

 

「そうだった。私の失言だった」

 

 男はフォローするように、努めて明るい声で続けた。

 

「まぁでも、たまには遠出もいいかもな。のんびりフラフラ阪神詣で、ってのも悪くない」

 

「兄さんの気紛れに任せるが、来たなら連絡の一つも欲しいものだな」

 

 自分の思いを素直に言葉にすることが、どれほど難しいことか。今改めて、ルナはそれを感じていた。

 

 来てほしい、私と一緒に観て欲しい、というのが素直な彼女の気持ちだった。

 正直、今回のエアグルーヴのレースはかなり厳しいものになる、と予想していた。

 もし、望む結果が出せなかった時の彼女を自分が受け止め切れるかは、自信が持てなかった。

 尤も、彼女も女帝の二つ名を持つ身だ。

 どのような結果となろうとも、自身で受け止める器量はあるはずだが。

 

 自分で気付かぬうちに難しい顔をしていたルナは、男に頭をクシャりとやられて我に還った。

 

「いつもありがとうな。今日は久しぶりに幸せな飯をたべたよ」

 

 男は他意なく、ルナへ感謝の言葉を伝える。

 

 ルナは動揺を悟られないように顔を俯けながら頭を撫でられる。

 表情を隠すことはできてもでも、尻尾の揺れは隠すことができなかった。

 

 

 



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24:西行の助手席で眠るウマ娘

 宝塚記念を週末に控えた金曜日。

 

 昼過ぎにスマホにおハナさんからの着信がある。

 すでにおハナさんとエアグルーヴは今朝、阪神レース場入りしており、現地のチェックや調整に入っているという。

 エアグルーヴに託した蹄鉄は無事認証を取得し、レースに使える状態になったとのことだ。

 

「ところであなた、あの蹄鉄にどんなおまじないをかけたの?」

 

 どういう意味だ、と問い返せば、

 

「あの子のメンタル、目に見えて落ち着いたわ。それどころか、絶好調ね。秘めたる闘志と、冴えた頭脳。あれこそが女帝、って感じ」

 

 私のトレーナーとしての立場がないわよ、と冗談めかす調子の声音で、おハナさんも機嫌が良いようだ。

 

「…品物にご満足いただけましたら、これからもこの寂れた鍛冶屋をご贔屓に願いますよ。東条の女将さん」

 

 男は男なりに健闘を祈る台詞で通話を終えた。

 

 

 その日仕事を片付けて、寮へ戻る。

 男の心は週末を迎える解放感、久しぶりにレースに合わせた競技用蹄鉄をつくった高揚感とその結果への興味と、ひさしぶりに楽しみが多くある気分だった。

 

 そして特に日曜の宝塚記念への興味は、最初は男の心の片隅にあっただけだったが、時間を経るごとに段々と大きくなってきていた。

 ルドルフにエアグルーヴの蹄鉄の製造者責任を求められたことも理由かもしれない。

 

 寮へ戻った男は、シャワーを浴びてリビングでだらけても、どこか落ち着かなかった。

 

 ふと部屋の時計を仰ぎ見れば、時刻は23時過ぎ。

 

 男は週明けの業務への影響を懸念して抑え込んでいた自分の欲求に素直になることにした。

 むくりと起き上がると、出張用のカバンに適当に着替えを放り込み、車の鍵を持って部屋を出る。

 

 しばらく動かしていなかった一見古ぼけたおばちゃんの買い物クルマこと男の愛車は、キーを一捻りするといつもと変わりなく目覚めた。

 

 改めて、運転席のバケットシートに身を埋めると、男は煙草に火をつけてギアを1速にそっと入れ、西へと向かう高速道路を目指した。

 

 男の車はその見た目に違わず、元々シティコミューター的キャラクターのクルマであるからして、高速道路の高速巡航などという芸当の性能は格下の軽自動車とも大差がない。とりあえず不足なく走れる、程度のものだ。もちろんなりふり構わずアクセルを床まで踏めば話は別だったが。

 

 男は交通量の少ない西へ向かう高速を、大型トラックよりは少し速い程度のペースで淡々と走っていく。

 

 前車にゆっくりと追いついては右車線に出、追い越せば戻り、常に後ろを気にしながらも道路のアップダウンを読みながらアクセルを加減するその単調な作業は、男に最近起こった様々なことに考えを巡らせる余裕を与えていた。

 

 全ての始まりはゴールドシップに遊び用の蹄鉄を頼まれた頃からだろうか。

 あれから、スズカが訪ねてきて、ゴールドシップに蹄鉄を作ってやればアグネスタキオンが押しかけて来、うまくあしらったかと思えば、最終的には業界を巻き込む大きな話になってしまった。

 

 その結果、男は業界の隅っこで代わり映えしない日々を送っていたところから大きく変化した。

 それが良かったのかどうかは男にとっては正直、どうでもよかった。

 

 しかし少なくとも以前より張り合いのある日々に変化した、とは感じていた。

 

 

 それにしても、と男は思考を仕切り直す。

 

 

 おハナさんの言う、彼女たちを傷つけるようなこと、とはなんなのだろうか。

 

 頭の片隅で思考をもてあそびつつ、右車線で大型トラックの隊列をかわしていく。ふとミラーで後ろを確かめると、遥か後方から猛然とパッシングをくれながら距離を詰めてくるクルマがあることに気づく。

 このままではトラックの隊列を抜き切る前に、後ろに張り付かれてしまう勢いだ。

 

 男は呼吸をするようにギアをひとつ、ふたつと下げ、アクセルを開ける。

 しかし必死の加速も虚しく、あっという間に距離が詰まる。

 

 ようやくのことでトラックの隊列を抜ききり左車線に飛び込むように戻ると、右からは再び咆哮のようなエギゾーストノートを奏で、張り付かれていた赤いクルマに抜き去られる。遠ざかり際、道を譲った礼なのかハザードを3回焚いて、あっという間に遠ざかる。

 

「…あれ、あのクルマ、どこかで…?」

 

 どこかで見たことのある赤いクルマは、照明のない中央道の山間部を甲高い排気の響きを残し、走り去った。

 

 

 

 一度給油に寄ったほかは、ほぼペースを一定に西へと走り続けた男は、夜明けまでまだいくばくかある午前4時ごろ、阪神レース場までの道のりの6割程度を消化していた。

 

 出発時のテンションもやや落ち着いてくるこの時間、どこか静かなパーキングエリアで仮眠でも取ろうかと思いながら流していると、電光掲示板に「この先 故障車あり 注意」の表示を見かけた。

 

 この時間帯は交通量も少なく、中部と関西を山間部を貫いてつなぐこの道は新しいため道幅も広く、見通しも良い。

 

 男はどんなクルマがトラブってるのか見てやろうと、ややペースを落とした。

 

 数キロ走ると、発煙筒の明かりが見え始める。

 

 発煙筒の規制を気にしながら、さらにペースを落とすと当該のクルマが見えてきた。

 すでにレッカーが到着しており、積載作業にかかっている。

 よく見覚えのある、赤いクルマがトラックの背に乗せられている。

 

「…さっきのあれ…やっぱり…」

 

 男はハザードを焚いてスピードを徐々に落としながら路肩に寄せ、積載車の後ろにつける。

 男のクルマのヘッドライトに照らし出されたのは、積載車の横で心配そうにクルマを見つめるマルゼンスキーと、ぐったりした様子のシンボリルドルフだった。

 

 

 

 

「ほんっとうに助かっちゃった!さっすがお師匠さんね!でも私はタッちゃんに付き添わなきゃいけないから、ルドルフちゃん頼むわね!」

 

 マルゼンスキーはそれだけ言うと、自分はさっさとレッカー車の助手席に乗り込み、発進させる。

 このままどこかの修理工場まで運んでもらうらしい。

 

「兄さん、すまないが、よろしく頼む」

 

 流石にこの時間帯で眠気を抑えきれない様子のルドルフを助手席に収容し荷物は後席に放り込み、男は再び走り出す。

 

「今日の生徒会の仕事とメディアの取材が押してしまってね…明日朝からURAのイベントに出なくてはいけないのだが、新幹線の最終を逃してしまったんだ」

 

 それを聞きつけたマルゼンスキーが私の出番とばかりにクルマを出してくれたらしい。

 まぁその善意も虚しく、このザマではあるのだが。

 

「相変わらず忙しいんだな。あんまり無茶すんなよルナ。身体壊すぞ。後ろに毛布があったはずだから、それ掛けて少し寝ておきな」

 

 この間のルナ手製の夕飯がいかに豪華なことだったのか、男は思い返す。

 

「ちゃんと朝までに阪神レース場に届けてやるから、今はしっかり休むんだ」

 

 思えばこの世界は、どれだけの重荷をこの皇帝に背負わせているのだろう。

 彼女がそうあろうと自ら抱え込んだ業であるとしても、ちょっと重すぎやしないだろうか。

 

 とりあえずルナにシートを少し倒し、休むことを促す。

 

「何から何まで済まない…な…」

 

 男は右手でステアリングを軽く支え、視線は前に向けたまま、謝り通しのルナの頭を左手でクシャりと撫でてやる。

 

 心地よさそうな吐息とともに、ルナが微睡みはじめるのがわかる。

 

「…兄さんは、なんでいつも私の困ったときにあらわれて、助けてくれるんだろうね…」

 

 やや緊張気味だった彼女の耳は頭を撫でてやるうちに段々と力が抜けていく。

 

 眠気のためなのか普段の声音からは想像もつかぬほど柔らかいルナの声だったが、運転中の男はルナのその言葉に、上手く反応することができない。 

 

 たまたま、といってしまえば冷たく感じてしまうし、かといって普段からなにかをしているわけでもない。

 

 強いていうなら昔からの親戚みたいなものなのだろうが、それだけかと言われると違うような気もする。

 

 男が適当な言葉を探り当てる前に、ルナの規則正しい寝息が聞こえてきた。

 

「全く…夢と責任感に潰されちまうぞ…」

 

 男は改めて多忙なルナの生活の一端を目の当たりにし、なんとかならないものかと思い致す。

 

 しかし彼女が自ら進んで今の立場に君臨する以上、どうにもならなそうだ。

 

 とりあえず今だけは彼女に安らかな仮眠をとってもらおうと、男は運転により慎重を期すことにした。

 

 

 

 朝方、阪神レース場に着くと、関係者用通用門に直接乗りつける。

 警備員に助手席のルナの寝顔をちらりと見せるだけで、顔パスだ。

 

 地下駐車場へ車を滑り込ませ、エンジンを止めると、異変に気付いたルナが小さく呻いた。

 

「着いたぞ。控室まで荷物もってってやるよ」

 

 まだ眠りから覚めず、うにゃうにゃ小声で呟くルナは、まるで昔の幼子の頃の昼寝明けとかわらない。

 

「ん…父さん…起こして…欲しい…」

 

 どうやら父と混同しているらしい。

 小さな頃の夢でも観ているのだろうか。

 

「…仕方ないな…」

 

 助手席でルナを眠らせたまま、男はそっと車外に出、おハナさんに電話をする。

 

 起こしてしまうことになるかと思いきや、1コール鳴りきる前に彼女は出た。

 

 事情を説明し、今日のルナの控室を聞き出す。

 

 彼女も近隣のリギルの定宿にいるようで、すぐにこちらに向かってくれるようだ。

 

 男は助手席をそっと開けると、毛布に包まったルナを横抱きに抱える。ここのところの造蹄作業で鍛えられた男の身体には、ルナの身体は思ったよりも軽かった。

 

 横抱きにされても力なくだらけたままの耳の様子といい、男の腕の中ですぅすぅと心地よさそうな寝息を立て続けている。

 

 男は地下駐車場の警備員に来意を告げ、ルナの控室までの先導を頼む。

 控室のソファに彼女を寝かせたところでちょうど到着したおハナさんに後を任せ、部屋を出た。

 

 

 

 東条ハナは男の去った部屋で安らかな寝息を立てるシンボリルドルフを眼前に、深いため息をついた。

 

「こういうところなのよね、アイツ…」

 

 行きがかり上仕方なかったとはいえ、傍目にも複雑な状況が現出したような気がしている。

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴがどこまでお互いの状況を理解しているかはわからないが、エアグルーヴの耳に入れば明日のレースにも影響があるようなことではあるだろう。

 

 どうするべきか、東条ハナの冷徹な部分が計算を巡らせる。

 さらにそこには自身の私情も挟まれ、さらに複雑化していく。

 

 結局、考えをこねるだけこね、出した結論は黙っている、であった。

 

「全く、ヒトの気も知らないで…いい気なものね」

 

 再びため息をついた彼女は、今頃喫煙所でくしゃみをしているであろう男の姿を思った。

 



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25:逃亡者と女帝の宝塚記念

 

 

 

 宝塚記念の日。

 

 男は朝からスタンド上部に陣取り、1Rからレースを眺めていた。

 

 男はレースが好きだ。レースそのものが好きだ。

 勝負が織りなす舞台が好きだ。

 なんなら弱いウマ娘が好きだ。

 伸びしろしかないからだ。

 これから彼女たちが挑む道は、ドラマに溢れ、見るものの感情を揺さぶることになるだろう。

もちろんすべてのウマ娘たちが成功を掴めるわけではない。

 だが、その過程で見出した様々なことが、彼女たちのその後の糧になるように、と男は願っている。

 かつての自分がそうであったように。

 

 

 その点で考えれば、今回の宝塚記念はまた違う趣がある。

 ある意味ですでに完成された者同士の戦いだからだ。

 選出基準がファン投票ということもあり、ファンに印象を残したウマ娘たちが出走することになる。

 彼女たちが織りなしてきたドラマやファンに魅せた夢が、投票によってここで交錯する、というわけだ。

 

 今回の出走者の中では、男が関わったサイレンススズカとエアグルーヴがいる。

 サイレンススズカ躍進のきっかけに男は関わり、それが見事花開いた。おハナさんの道化だったとしても、男は役回りを演じきってみせた。

 

 対してエアグルーヴはまた違う関わりだ。

 叱咤して突き放すという最悪の出会いから、立場は違えど同じ目標を共有し、今は男の手の入った蹄鉄を履きこの闘いに挑もうとしている。

 

 これまでも、今回ほどの関わりの濃さはなくとも、関わった娘たちがレースで戦うことはあった。

 

 しかし今日のレースは何かいつもと違うものを感じている。

 その正体はなんだろうか。

 

 男の数少ない交友関係の中にいる沖野トレーナーと東条トレーナーが雌雄を決するレースという側面もあるだろう。

 

 しかし直接的な原因は、今回のレースの一番人気と二番人気のふたりがこのレースを見据えて男の工房に来訪し、二人並んで蹄鉄のアドバイスを求めるということがあったからだろう。

 

 あの時の二人はとても仲良く、お互いの情報を隠そうともせずにいた。

 

 その二人が、今は同じレースの出走を待っており、これから雌雄を決するというのだ。

 

 勝者はひとりしかいないのがレース。

 

 この残酷さが彼女たちをより、輝かせるのだろうか。

 この残酷さが、ファンを惹きつけるのだろうか。

 

 男は正解のない思考をぐるぐるとさせ、正体のわからない感情を抱えたまま、ターフを眺める。

 

 気が付けば今日のメインレース、宝塚記念のスタンド本バ場入場が始まっている。

 

 視界の隅ではゴール板の前に陣取ったスピカの面々がわいわいとしている姿が見える。

 男のここしばらくの騒動の裏に常にいるゴールドシップは、神妙な面持ちでルービックキューブをこね回している。

 それはなにかを念じる美しい魔女のようなオーラを放っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 東条ハナはエアグルーヴの控室で、落ち着き払ったエアグルーヴとともに、呼び出しの時を待つ。

 

 やれることはすべてやった、と思う。

 タブレット上のチェックリストはすべてマーク済みだ。

 直前の変更で懸念点だったシューズと蹄鉄の相性も問題なく、装着状態に関してもいつもの二重チェックを三重に増やし万全を期している。

 繰り返して言うが、やれることはすべてやった。

 しかしそれは「トレーナーとして」という但し書きが付く。

 

 走るのは、彼女だ。

 今私の目の前にいる女帝、エアグルーヴ。

 

 懸念点としてはここのところの生徒会関係の業務の激増による調整不足だろう。

 

 ここのところ、生徒会副会長として、彼女が主管となるプロジェクトも一定の成果を収めつつあったが、一方彼女自身の競技者としての仕上がりにはトレーナーとして一抹の不安があった。 

 

 だが、それが悪いことばかりとも言い切れない。

 

 プロジェクトの活動を通して彼女の視野は間違いなく広がっていて、改めてレースで走ることへの意義と価値を高めることができている。

 

 また、プロジェクトの過程で得た心理的な支えの効果は絶大だ。

 

 エアグルーヴは、彼女と装蹄師の男でアイデアを出し合った蹄鉄を装着して、今回の宝塚記念を走る。

 

 蹄鉄そのものの出来は私も納得するものであったし、フィーリングも想定通りのモノができあがっている。

 そしてなにより、彼女のために装蹄師によって手が入れられた、という点だ。

 

 私の見立てでは彼女は装蹄師の男に特別な感情を抱きつつある。そしておそらく本人もそれを自覚している。

 時にその感情が枷となることもあるだろう。

 しかしそれが推進力となることもあるだろうことは、私自身も経験のあることだ。

 

 そういう意味で蹄鉄はモノとして彼女の足元を支えるだけではなく、今や彼女の精神的支柱だ。

 

 これまでとは違う要素を手に入れた彼女は、今や求道者と化したサイレンススズカに、打ち勝つことができるのか。

 

 勝負事にはどんなに準備をしても、常に不安がつきまとう。

 それでも、私はこの子に夢を託す。

 

 

 本バ場入場の呼び出しがあり、地下通路をエアグルーヴとともに歩む。

 

 私ができるのは、ここまで。

 

「…リギルの名に恥じぬよう、勝ってきます」

 

 完全に勝負師の表情となった彼女に、私はただ頷く。

 それで充分のはずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の阪神レース場は晴れ渡っております。

 

 さぁ本年もあなたの夢、私の夢が走ります。宝塚記念。芝2200で争われます。今年の栄冠を手にするのは果たしてどのウマ娘か。

 

 スタンドを埋め尽くす大観衆はウマ娘たちのゲートインを歓声を上げて見守っております。

 

 場内ビジョンに映りますのは本日の一番人気、サイレンススズカ。

 

 控えめな性格そのままに、小さくスタンドに向けて手を振り歓声に応えています。しかし秘めたる闘志は求道者そのもの。ここのところのレースでは圧倒的な逃げにより勢いに乗っております。

 

 次に女帝、エアグルーヴも姿を見せました。

 その堂々たる出で立ちは二つ名に恥じない威厳を放っております。今日も母親譲りのアイシャドウがクールです。

 おや、なにやら跪いてシューズに手を当て目を閉じ、じっと集中しております。新しいルーティーンでしょうか。

 

 

 さあスターターが上がりましてファンファーレです。

 

 …大観衆の歓声が響き渡り地鳴りのようなうねりとなっております、阪神レース場。 

 

 いよいよ各ウマ娘、奇数番からゲートに収まっていきます。

 

 あっと、メジロブライト、ゲート入りを嫌がっています。現在4連勝中のウマ娘、これは気合が合わないか。

 

 先に入っているサイレンススズカ、ゲートインを待つエアグルーヴは泰然自若という様子で待っております。

 

 …メジロブライトは外枠に回されて改めてゲートインが進んでまいります。

 

 さぁ偶数番も収まりまして各ウマ娘ゲートイン完了。

 

 

 大歓声の中ゲートが開きました!

 各ウマ娘一斉にスタート!

 

 まず正面スタンド前に入ってまいりますが…やはりサイレンススズカ。サイレンススズカが外からじわっと内に入りながら先手をうかがいます。

 サイレンススズカ、ぐんぐんスピードをあげて後方と2バ身、3バ身とリードを拡げます。

 

 2番手以降は5番、9番、8番…

 

 ファン投票1位選出のエアグルーヴは中団です。

 

 サイレンススズカが引っ張るバ群は縦長の展開だ。先頭から最後方までおよそ15バ身。

 

 向こう正面の直線に入ってまいりますが相変わらずサイレンススズカ一人旅。2番手以降を大幅に引き離しております。その差7~8バ身から10バ身くらいあるでしょうか。3コーナーにかかっていきますがその走りはまさに最速の機能美、ひとりタイムアタックの様相を呈してまいりました。

 

 800を切りまして後方集団がペースを上げて差を詰めてくる。

 

 内からキンイロリョテイそして外にはエアグルーヴが前を狙っているぞ。

 

 大歓声の中まもなく4コーナーから出てくる。

 まだまだ先頭サイレンススズカ。

 しかし後続も黙ってはいない。先頭に追いすがる。リードは約5バ身!

 

 最終直線に入って未だサイレンススズカ先頭、しかし後続がつっこんでくる!メジロブライトは後方集団に呑まれ大ピンチ!残り400標識を通過!

 

 後続が先頭を捉えにくる。サイレンススズカに迫っていくぞ。サイレンススズカまだ粘る。距離が縮まる!エアグルーヴ突っ込んでくる!間合いを一気に詰める。栄光まで200!

 

 先頭サイレンススズカ変わらない!キンイロリョテイとエアグルーヴたたき合いながら差を詰めるが先頭サイレンススズカ、サイレンススズカ、サイレンススズカだ!エアグルーヴ届かない!

 サイレンススズカ、今先頭でゴール!

 

 逃げ切ったサイレンススズカ!期待のエアグルーヴは3着!

 

 サイレンススズカ逃げ切り成功!

 サイレンススズカ、これまでの勢いそのままに見事に宝塚記念を制しました…!

 

 

 

 

 

 

 



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26:東行の助手席で涙が溢れるウマ娘

 

 宝塚記念のゴール後の歓声。

 男はスタンドの圧倒的な熱量とレースの輝かしさと残酷さの混ざりあった迫力に圧倒されていた。

 

 改めて思う。

 

 自分にとってはこれはただのショーではなく、自分が関わり、生きている世界なのだと。

 

 全てのレースが終わり、ウイニングライブの準備が進むなか、人の流れに逆らい、男はスタンドをあとにする。

 

 ルドルフを送り届けた礼とばかりに男に与えられた地下にある関係者駐車場へと向かう。

 

 愛車のバケットシートに収まり、エンジンはかけずに煙草に火をつけると、男は深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐きだしながら、今日の宝塚記念を脳内で反芻した。

 

 地下駐車場まで上で行われているウイニングライブの大音響が響いていた。

 

 

 

 

 シンボリルドルフは悩んでいる。

 

 今日、サイレンススズカに敗れたエアグルーヴのことだ。

 

 眼前のウイニングライブこそ気丈に敗けたことなど全く関係ないかのように振舞っているが、心中穏やかでないことは想像がついた。

 

 ましてや気位の高い彼女のことだ。

 敗戦そのものだけではなく、チームに、そして今回の場合は彼女の蹄鉄を拵えたあの兄に報いれなかったことを思うに違いない。

 

 そして彼女は今日、ここで兄がレースを見ていたことを知らない。

 

 おそらくもうしばらくすれば、兄はひっそりと帰京の途につくであろう。

 

 公としてのシンボリルドルフは、これ以上ない信頼できる右腕としてのエアグルーヴに、なんとか彼女の心を救済する手を差し伸べてやりたい。その方法として、私が兄と慕う男の助手席に彼女を乗せてしまうという方法を思いついている。彼女の複雑な思いの告白をうけた身からすれば、それは最も効果的な手法と思えた。

 

 しかし私の部分であるルナは、それが自らの兄に対する想いと相反する行いであると警鐘を鳴らす。

  

 ぎりり、と奥歯を食いしばる。

 

 結局、ルドルフはウイニングライブも終わりに差し掛かる頃、総帥である東条トレーナーを会場外に誘い出し、公としてのシンボリルドルフの顔で相談を持ち掛けた。

 

 

 

 ルドルフの相談を受けた東条ハナは、思案を巡らせる。

 チームと別行動を許容することも好ましくなかったし、ましてや男の車に同乗させるなど、事故などのリスクの観点からしても本来であれば許可しない。

 

 しかし今回の敗戦はエアグルーヴにとって、良きライバルであるサイレンススズカに敗けたこと、このために蹄鉄を誂えてもらったにもかかわらず結果を出せなかったこと、という二重の意味での精神的ダメージがあった。

 

 ましてや彼女はチームのエース格である。

 

 メンバーから形式上の慰めを受けながら殻に閉じこもるよりは、男の手に委ねメンタルの再生を図ってもらったほうが一石二鳥ではないか、という考えもよぎる。

 

 男に関しては、なんだかんだと言いながらも信頼はしている。

 あの鈍さであるから間違いが起こることもあるまい。その点でも問題はなかった。

 東条ハナ本人の私情や提案してきたシンボリルドルフの心情にはまた別の問題はあったが、それはそれで今は見過ごすことにする。

 

「…いいわ。あなたの提案通りにしましょう。ただ、チームの皆には別の理由を立てるわよ。あなたや私は事情をわかっているからともかく、あまり外聞のいい話ではないしね」

 

 提案しておきながら難しい顔をしているシンボリルドルフの心中を慮りながら、彼女はスマホを取り出し、男にコールした。

 

「今、まだ駐車場にいる?ちょっと頼みがあるんだけど…」

 

 

 

 

「…えぇぇ……人乗せると運転の疲労倍増なんだけど…新幹線なら2時間半でつくでしょ…」

 

 男は思わず否定的な反応をしてしまうが次の瞬間、己の不用意さを後悔する。

 電話の向こうで、聞こえるはずのないおハナさんの怒りのスイッチが入った音がした気がしたのだ。

 

「あなたねぇ!男なら責任取りなさいよ!」

 

 ここだけ切り取られたら男の職業生命が瞬時に燃え尽きかねないパワーワードを繰り出される。

 そもそも何の責任があるというのだろうかと思わないでもなかったが、こうなっては押し黙る他ない。

 ゴソゴソと向こうで何か音がしている。

 

「…兄さん、私だ。私が頼んだんだ」

 

「ルドルフ…?そりゃまたどうして…」

 

 シンボリルドルフモードの時にしては珍しく、何やら言い淀んでいる。

 

「その…エアグルーヴは今日の結果に落胆しているが、兄さんに対しても責任を感じていると思う。できれば、ゆっくり話を聞いてあげて欲しい。それには兄さんの助手席に彼女を乗せるのが一番じゃないかと、そう考えたんだ」

 

 一応、話の筋は通っていると思った。

 

「なんとか頼めないだろうか。エアグルーヴはストレスを溜め込むタイプだ。私としては彼女に今回の結果を引きずってほしくない」

 

 他ならぬルドルフからの頼みに、男は渋々だったが承諾するしかなかった。

 

 

 

 

「クルマを用意しているというから何かと思ったら…貴様、来ていたのか…」

 

 地下駐車場にやってきた制服姿のエアグルーヴはレースのことなどなかったかのように、いつも通りだった。

 

「こんな古ぼけたクルマで女帝には申し訳ないな。まぁ気分転換だと思っておじさんに付き合ってくれや」

 

 男はつとめてフラットにエアグルーヴを迎え入れる。

 荷物を受け取り後席に放り込むと、助手席のドアをあけて彼女を乗せる。

 助手席に乗り込む彼女をそれとなく観察すると、いつもはスッと立っている耳が今はいくらか力なく、折れているのが目に入った。

 やはり態度はいつも通りでも、心情はいつも通りとはいかないようだ。

 

「さて、ちょっと長旅だ。楽に過ごしてくれ。寝てくれても構わない」

 

 男はそれだけ言うと、クルマを出す。

 駐車場の警備員は行きはシンボリルドルフ、帰りはエアグルーヴの乗せて出ていくクルマに目を白黒させていたが、エアグルーヴの鋭い眼光に射抜かれたのか、最敬礼で送り出してくれた。

 

「……?……」

 

 走り出してしばらく無言が続く。

 気まずい空気というわけではなく、なぜかエアグルーヴが落ち着かない様子でキョロキョロしているのだ。

 信号で停まったタイミングで男が話しかける。

 

「どうかしたか?」

 

「このクルマは…その…貴様の、個人の持ち物、なんだな?」

 

 やや言いづらそうにしている。何か気に食わないことでもあったのだろうか。

 男は頷きを返事の代わりに返す。

 

「…プライベートな領域でこんなことを聞く事を、気を悪くしないでほしいのだが…この車内からとても会長の匂いがするのは、どういうわけなのだろうか…?」

 

 あぁ…と男は苦笑いをする。

 どこから説明したものか迷ったが、結局阪神までの道のりで起こったことを話すことにした。

 宝塚記念を見ようと思い立ち、衝動的にこのクルマで西を目指したこと。

 道中、どこかで見たことのある赤い爆速のクルマにブチ抜かれたこと。

 数時間後、そのクルマが故障して停まっていたこと。

 マルゼンスキーとぐったりルドルフがいて、ルドルフを収容して阪神レース場まで送り届けたこと。

 

「そんなことが…土曜の朝会った時には多少疲れた様子だったが、気付かなかったぞ」

 

 男はははは、と乾いた笑いをたてる。

 

「ルドルフもお前さんがいなくて調子が狂ったのかもしれんな。その助手席でよく眠ってたよ」

 

 会長が眠っている姿を見たことがないエアグルーヴは、その光景を想像するがうまくいかない。

 それに気づいた時、エアグルーヴの中で男に対し解けなかった疑問がひとつ、思い出された。

 

「そういえば、前に貴様に聞きそびれたことがあったな…」

 

 なにかあっただろうか。男は記憶をたどってみるが、いまいち思い出せない。

 

「私が工房にサルビアを持っていって、ゴールドシップを追いかけていったので話が尻切れになったときのことだ。あの時、高みに登ってしまった妹分がいる、と言っていたが、あれは…会長のことなのか?」

 

 彼女の耳がやや後ろ目に引き絞られているが、運転中の男は気付かない。

 男はそういえばそんなこともあったな、と思い出すと同時に、エアグルーヴとの写真のことも思い出されて赤面しかける。

 

「あぁ、そうだよ。ルドルフのご両親と俺の師匠格の人間が関わりがあってね。ルドルフとは幼いころからの知り合いだ」

 

 エアグルーヴの引き絞られていた耳は、力が抜ける。

 

「そうか…そういうことだったのか。会長が妙に貴様を信頼している訳がようやくわかった」

 

「今はもう皇帝と呼ばれるまでに登り詰めちまって、もはや妹分なんて軽々しく言えねえよ」

 

 男は苦笑いで茶化す。

 しかしエアグルーヴは果たしてそうだろうか、と思う。

 蹄鉄のこと、男のことを会長に吐露したときの会長は、妙にすんなりと話を呑み込んでくれた。

 そしてその解決策も、あらかじめ持っていたかのような鮮やかさで示されたように思う。

 私の直感が間違っていなければ、これが意味するところは…。

 

 クルマはいつしか高速に乗り、スムーズな運転で一路東へ向かっていた。

 車窓に流れる夜景は綺麗だったが、エアグルーヴの胸の内はその色とりどりの光が混濁したような有り様だった。

 

「…今日は、惜しかったな」

 

 男は前へ向けた視線をぶらすことなく、ほどよく力を抜いてステアリングを握ったまま、ポツリといった。

 脱力していたエアグルーヴの耳がぴくり、と動く。

 

「今日のスズカは完璧だった…私の完敗、だ…」

 

 流れる車窓を眺めたまま、エアグルーヴの怜悧だが細い声が男の耳に届く。

 

「済まなかったな。勝ってくるなんて大見得を切っておいて、貴様も期待をしてくれたから観に来てくれたんだろう…なのに…こんな…不甲斐無い結果…で…」

 

 エアグルーヴの視界が僅かに歪み、夜景が滲んでいく。

 

「…むしろ俺はお前に礼を言わせてもらいたいよ。いいものを見せてもらった、なんて言ったら怒られるか」

 

 潤んだ瞳を見られまいと窓の外を眺めていた彼女が、予想外の言葉に思わず男の方を向く。

 男の視線は変わらず前方に向けられたままだ。

 

「お前がゲートイン直前にシューズに触れてくれた時、俺もレースを戦うひとりのような気がした。

 最後の直線で必死にスズカに追い込む姿を見た時、誰にも贔屓をしまいと決めていた心が揺れた。

 俺が、お前たちが競い、ファンを虜にするこのレースの世界の一員であることを、誇りに思った」

 

 男の紡ぐ言葉に、エアグルーヴの瞳からはいよいよ許容量をこえた涙が頬を伝う。

 熱を持った顔で、男の横顔を眺める。

 しかし前方だけを注視している男はそれに気付かない。

 

 男は窓を薄く開け、煙草に火をつける。

 男から立ち昇る煙が、車外に吸い出されていく。

 今のエアグルーヴには、その煙すらも愛おしかった。

 

「…勝者はひとりしかいない。確かに結果は大事だ。でもな、勝とうとする、そこに至る過程こそが眩しい輝きを放って観ているものを虜にする、そんな見方もあるんだよ。もっともそれがお前の慰めになるわけじゃない…か…」

 

 男はエアグルーヴとの間にある純正の灰皿で煙草を揉み消し、役割を終えた左手を5速に入りっぱなしのシフトノブに添える。

 

 エアグルーヴはたまらず、その鉄と煙の香りがする左手をとって、自らの頬に添わせる。

 

「!?どうした…って、お前…泣いてるのか?」

 

 手を引っ込めるなど急な動きをして、エアグルーヴを傷つけるわけにもいかず、男は手を彼女にされるがままにする。

 

「たわけが。こちらを見るな。危ないだろうが…」

 

 エアグルーヴの細い指が、男の手を柔らかく包む。

 

「この間みたいに、撫でて良いんだぞ…」

 

 弱々しい声音とは裏腹に強がった言葉で彼女は男に要求する。

 

 

 それに応えて男は手探りで、エアグルーヴの頭をくしゃりとやる。

 耳が柔らかく力が抜け、心地良さそうにひくひくとうごめく。

 

「私が眠るまで、こうしていて欲しい…」

 

 か細い声でそう告げると、彼女は頭を男の手に預けた。

 

 男は前方から目を離せず事態も把握できぬまま、左手でエアグルーヴをあやしながら、ひたすらにクルマを東へ走らせることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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27:生徒会室の攻防

 

 

 宝塚記念が終われば、学園はいよいよ夏休み期間を間近に控え、学内がにわかに騒がしくなる。

 トレセン学園の夏休みといえば強化合宿だ。

 この夏を経て実力を付け、本格化に至るウマ娘たちも少なくない。

 しかしトレセン学園在籍の生徒が一斉に合宿に入るとなるとその事務作業も膨大なものとなる。

 つまり生徒会室は今日も大量の決裁書類と相談事と調整事と、とにかく多忙を極めていた。

 

「全く…ブライアンのやつはどこへいったんだ…」

 

 エアグルーヴはいつものように副会長としての調整業務、また合宿にかかる補正予算の立案を進めている。

 会長席ではシンボリルドルフが書類に目を通し、決裁事務を執っている。

 その姿は一見、いつもと変わりないように見える。

 しかし、あの宝塚記念以降、エアグルーヴと相対するシンボリルドルフは時々だが、どこかよそよそしく感じられる瞬間があった。

 

 机の上のタイマーが鳴る。作業を始めて1時間半が経ったことを意味している。

 

「会長、そろそろ休憩のお時間です。今、お茶を用意しますので…」

 

 エアグルーヴが立ち上がろうとすると、シンボリルドルフが手で制す。

 

「今は二人きりだ。たまには私が用意しよう。君は座っていてくれ。少し雑談でもしようじゃないか」

 

 いつにもまして強い意志の宿ったシンボリルドルフの瞳に、エアグルーヴはぞくりとした。

 

 

 

 

(今日こそは、兄となにがあったのかを聞かねば…)

 

 シンボリルドルフは手元の資料に目を通しながら、その明瞭な頭脳の半分で業務を処理しつつ、あとの半分は眼前の自らの右腕であるエアグルーヴに意識を取られていた。

 

 自ら提案したこととはいえ、宝塚記念からの帰りにエアグルーヴと兄を一晩二人きりにしたのはシンボリルドルフ自身の中にそれなり以上の重みを遺していた。

 

 翌日学園で顔を合わせたエアグルーヴが敗戦の余韻は残るものの、妙にすっきりして生気漲る表情をしていたこともシンボリルドルフに重ねてダメージを与えていた。

 

 それからここまで、それをうちに秘めたまま過ごしてきたが、時間を経ても薄まることなくむしろ濃度をあげていく兄とエアグルーヴとの関係への疑問は、ついにひとりで抱えたままでは空気を入れ続けた風船の末路を予感させる状況に至っていた。

 

 幸いに今は生徒会三役のもう一人、ナリタブライアンもいない。

 紅茶を淹れながら、今日こそはこの抱え込んだ感情の処理に突破口を見出す、と決意を新たにした。

 

 

 

 

 

 紅茶とお茶うけのクッキーが2セット置かれたテーブルを中心に、シンボリルドルフとエアグルーヴが向かい合う。

 二人の表情はまるで、レース前のゲートインのように張り詰めている。

 休憩という体裁であるが、それは名ばかりの、見るものがいたならば逃げ出しそうな緊張感に包まれた空間であった。

 

 ゲートが開き、エアグルーヴが口火を切る。

 

「会長…改めて、宝塚記念は申し訳ありませんでした。チームの皆にも申し訳なく思っています」

 

 シンボリルドルフは鷹揚に頷く。先を行くものとしての心得には自信がある。

 

「気にやむことはない。だが最近のサイレンススズカには目を瞠るものがあるな」

 

「…正直、心のどこかに油断があったのかもしれません。スズカには一度勝っていましたから、今回も同じように、と…」

 

 エアグルーヴは目をふせ、レースを思い出しているのだろう。表情が強張る。

 

「…油断はよくないが、競いあうライバルが居てこそのレースでもある。これを糧にさらに高みを目指す。その過程こそが輝き、観るものを虜にすることもある。負けるのも悪いことばかりではないさ。もちろん我々は負け続けるなど、我慢ならないが」

 

 エアグルーヴの耳がぴくりと反応する。

 装蹄師の男と同じ言葉が、シンボリルドルフの口から語られたのだ。

 耳と瞳が、驚きを隠しきれない。

 

「…阪神からの帰り道、同じ言葉をいただきました…その…装蹄師の先生、に…」

 

 今度はシンボリルドルフの耳がびくりと反応する。

 レースの駆け引きのような展開に呑まれそうになる。

 見開かれたシンボリルドルフの目は、白磁の肌にやや赤みをもたせ、伏し目がちに話すエアグルーヴの姿を捉えていた。

 

「…会長の昔からのお知り合いだったんですね…車中で伺いました」

 

 エアグルーヴがシンボリルドルフを窺うように仕掛ける。

 

「あぁ…両親と彼の師匠が交流があってね…私が幼いころからの、兄のような人だ。今では私を幼名で呼んでくれるのは両親と、あのひとくらいだよ」

 

 シンボリルドルフはどっしりと構え、動揺を内に覆い隠す。

 

「会長は宝塚記念に行くとき、送ってもらったそうですね」

 

 エアグルーヴはさらに話題を切れ込む。

 

「新幹線の最終を逃してしまってね。マルゼンスキーに送ってもらうはずだったんだが…途中で彼女のクルマが故障してしまったんだ。そこにたまたま通りかかったのが兄さんだった…という訳でね。お陰でそこから阪神までは、ゆっくり眠って移動することができたよ」

 

 それはマルゼンスキーの助手席を逃れたからなのか、男の助手席だったからなのか。

 おそらくはその両方なのだろうが。

 

「君は帰りのクルマでは…その…どうだったのだ?」

 

 シンボリルドルフは今日の核心を突きにいく。

 うまく質問を設定できないのは内部のルドルフとルナが折り合いを欠いているが故だ。

 

 エアグルーヴはみるみるその顔を赤くしていく。

 どう言葉にしたものか、思い返すだけで沸騰しそうになる頭を必死に回転させる。

 いくらでも逃げた表現はできそうに思えたが、既に会長には自らの心情を開陳してしまっている手前、中途半端のぼかしたところで失礼に当たるだろう。しかし事細かに説明するのも彼女の品格に合わない。適切な言葉を探すが、今の状況でそれを思いつく余裕もない。まるで差しに行くコースを塞がれたような展開だ。

 

 しかしただごとでない顔色と表情を浮かべるエアグルーヴの雰囲気に、シンボリルドルフも思わず息を呑み込む。

 

 

「…お、大人の…慰めを…いただきました…」

 

 

 沸騰したエアグルーヴの頭脳がチョイスした言葉は、それが持つ破壊力に発言した者、聞いた者双方に甚大なダメージをもたらした。

 エアグルーヴは赤みが差した瞳を潤ませてただふるふると震え、シンボリルドルフは掌で顔を覆って、動かなくなる。

 

 すでに二人とも、競争能力を喪失していた。

 

 

 その時、がちゃりと生徒会室の扉が開く。

 

「見回り、終わった…ぞ…」

 

 生徒会室で向かい合ったまま燃え尽きていた二人の第一発見者は、ナリタブライアンだった。

 

 

 

 

 

 

 

「ぶえっくしょい!!」

 

「なんだぁおっちゃん、おっさんみたいなくしゃみして、風邪か?」

 

 工房の外でゴールドシップが海で獲ってきたサザエを七輪で焼いていた男は、くしゃみとともに突如悪寒に襲われた。

 

「なんだろう…突然悪寒がね…」

 

 思わず七輪に手をかざす。もちろん季節的に気温が寒い訳ではない。

 

「おっちゃん夜に腹でも出して寝てるんじゃねーのか?ゴルシちゃんが寝る時暖めてやろうか?」

 

 サザエを掴むトングをカチカチさせながらゴールドシップがニヤニヤしている。

 珍奇な言動さえなければ小悪魔的魅力を持った美女ではあるのだが。

 

「えぇ…なんかお前寝相悪そうじゃん…なんなら寝ながらプロレス技決められそう」

 

 団扇で炭を少し扇いで火力を上げる。

 

「寝ててもプロレス技キメんのはマックイーンだな!ゴルシちゃんは末端冷え性まで治す高性能カイロとしても有名なんだZE☆」

 

「もう医療用器具ゴールドシップとして厚生労働省に申請でも出せよ…」

 

 

 その夜、男はおさまらない悪寒とともに悪夢にうなされた。

 

 

 

 

 




あくまでタイトル通り、淡々とダラダラと妄想を書き連ねていこうと思います(改めての決意表明


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28:火種は消えず、ふつふつと

いつもお読みいただきありがとうございます。
前回がやや物議を醸しましたが、ぐりぐりと妄想を進めてまいりたいと思います。
皆様どうぞ引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願い致します。






 

 

 

 

 

 男はその日、以前の研究完了以来落としたままであった工房の炉に火を入れた。

 

 この間の宝塚記念はいい刺激になった。

 

 その刺激を受けた故、無性に鉄を叩きたくなっていた。

 

 しかし男は、目的のないことをするというのがどうにも苦手な性質だった。

 クルマを運転することは好きだが、目的を定めずにドライブすることも苦手なほどだ。

 従って、蹄鉄をつくるにせよ、目的を必要とした。

 

 炉の火加減を調整しながら、目的を考える。

 

 先に観た宝塚記念を考えれば、やはりサイレンススズカの圧勝劇が思い起こされる。

 

 ふと思う。

 

 ここ最近のサイレンススズカの快進撃。それは良いが、おハナさんの危惧していた彼女の脚の限界、という面ではどうだろう。

 

 直近のレースを全て観ているわけではないが、似たようなレース展開での快進撃だとすれば、彼女はほとんど駆け引きをせずに、ただただタイムアタックのようなレースを展開していることになる。

 つまりそれは「加減をする」ということのない、剥き出しの彼女の全力ということなのか。

 

 男は炉の火をじっと見つめながら考えを巡らせる。

 

 やがて、ふと顔をあげると、炉の火を消した。

 

 一人で考えていても仕方ない、と男は工房に外出の札をかけ、校舎へ向かった。

 

 

 

「珍しいモルモッ…もといお客さんが来たと思ったら…突然何を言い出すんだ君ぃ」

 

 男はアグネスタキオンの研究室を訪れていた。

 

「まぁ沖野に話しても良かったんだがな…この間の研究のテーマとつながってるような気がして、まずはタキオン先生のご意見を賜ろうと思いついてしまったわけだよ」

 

 ふぅん、と微笑とともに思案顔のアグネスタキオン。口角の上がり具合からして、悪い気はしていないようだ。

 

「まぁほかならぬ君から頼られたなら応えなければなるまいねぇ…そうだね、まずは一般論から入ろうか」

 

 アグネスタキオン曰く。

 

 この研究を始めて以降、自らの薬学にこだわらず全体の視点を広く持った結果いくつかのことに気付いたという。

 それはウマ娘のこと競技に関する医学的なサポート面についてだ。

 

 どのスポーツでもそうだが、怪我はつきものだ、という前提のもとに全てが考えられすぎているのではないか、というのだ。

 

 つまり、怪我をした場合にフォローするための医学はそれなりの進歩を見せているが、予防するという観点で考えるとまだまだ未開拓だ、ということである。

 

 特にウマ娘の場合はスピード競技という特性上、最高速度付近でトラブルが発生した場合、脚以外の強度が人間とさしてかわらない構造故に大惨事になりやすい。

 

 もっと怪我を未然に防ぐ医学的アプローチが体系立てて整備されるべきではないか、という意見だ。

 

「…例えばそれは定期的な脚部の検査とか、そういうことか?」

 

 タキオンの話に必死についていこうとする男は、無意識のうちの煙草を口に咥えている。だがさすがに火をつけることはしない。 

 

「たしかにそういうアプローチもあるだろうねぇ。だが、たいていにおいて今の医療体系では怪我を事前に察知することは難しい」

 

 うぅむ、と唸るしかできない。

 

「君の言うサイレンススズカ君の件にしても、今は大丈夫だが明日同じことをして何も起こらないという保障はない。しかしこれは誰でも同じだ。私も長く私自身の脚のデータを取っているが、どこで限界を迎えるのか…あるいは種族の可能性を超えることができるのか、わからないんだよ」

 

 アグネスタキオンは紅茶色の瞳に憂いを湛えながら、その耳はやや前傾で真剣さが伝わってくる。

 

「…できることはあるんだろうが、茫洋とし過ぎてるな…俺の領域に落とし込むとするなら、なんなんだろう…」

 

 今度はタキオンが唸る。

 

「そうだねぇ…この間のトレーニングシューズと蹄鉄のアプローチは良かったと思うんだが…より積極的な方向で考えるなら、どうしたら故障しやすい部位を鍛えられるか、というベクトルもあるかもしれないねぇ。しかしそうなると蹄鉄というよりは私の領域だろうねぇ…」

 

 どうにも男一人でこなせる領域に落とし込むことができない。やはりこういうことには、課題に対してさまざまな領域を見渡して考えることができるディレクター、プロデューサー的な立場の人間が必要になる。

 

「まぁそういった役割は生徒会に期待したいところだねぇ。もしくはそれ相応の頭脳を集めた組織でも良いかもしれない」

 

 タキオンは微笑を浮かべながらこちらを意味ありげに見詰めてくる。

 

「そういえば君ぃ、最近生徒会であったちょっとした事件について、なにか耳にしていないかい?」

 

 はて。なんのことだろう。宝塚記念からこっち、特に生徒会のメンバーとの行き来はない。

 

「なんでもあの謹厳実直が服を着て歩いているようなエアグルーヴが瞳に涙を浮かべ、向かい合っていたシンボリルドルフ会長が青ざめた顔で凍りついていたというのだよ。まぁゴールドシップ君の情報だから、多少は割り引いて聞いておいた方がいいのだろうがねぇ」

 

 …なんだそれは。一体どういう状況なのだろう。

 男にはその光景の想像すらつかない。

 

「まさかあの二人のことだ、痴情のもつれとかそういったことでもない限り、冷静さを失うような事態というのは想像がしづらいのだよ」

 

 志を同じくするあの二人が仲違い、というのも考えづらい。

 

「まぁいかな皇帝と女帝の組み合わせといっても、世間知らずな部分も多分にあるだろうからねぇ。…勿論かくいう私も人のことは言えた義理ではないのは自覚しているよ」

 

 タキオンは耳をピコピコと動かしながらにやにやと笑い、楽しそうに話す。

 

「なんだかイヤに愉快そうに話すじゃないか」

 

 男の言葉に、タキオンは意味ありげに含み笑う。

 

「なに、人はパンのみに生くるに非ず、というじゃないか。我々ウマ娘もレースのみに生くるに非ず、ということさ」

 

 なにやら含蓄ありそうな言葉だが、その実何を言っているのか男にはさっぱり理解できなかった。

 その困惑した男の様子を、アグネスタキオンは怪しさを湛えた瞳で観察していた。

 

 

 

 

 

 

 

 生徒会室は、今日も今日とて多忙である。

 

 しかしナリタブライアンの見るところ、ここのところのシンボリルドルフとエアグルーヴの間にはいささか違和感を感じていた。以前のような打てば響くというような関係性から少々、ぎくしゃくしているようにも感じられる。

 業務に差し支えるほどでないところには彼女たちの意識の高さを感じるが、あまりいい雰囲気でないのは確かだ。

 

 これは以前見かけた二人の異様な茶会が影響しているのだろうか。

 

 しかし現状のこの雰囲気では、生徒会として開かれたスタンスとはとても言えないのではないか?

 

 そう思ったブライアンはシンボリルドルフ、エアグルーヴと個別に話をしてみたが、それぞれに顔を赤らめ、

「なんでもないんだ…」

 というばかりで話にならない。

 

 どうしたものか、と静かに困り果てるナリタブライアンを意に介さずに業務は粛々と進んでいく。

 

 雰囲気が動いたのは、エアグルーヴがシンボリルドルフにある課題を投げかけたときだった。

 

「会長、アグネスタキオンから例の研究プロジェクトについての意見書が届いておりますが…」

 

 ありがとう、と手に取り、読み始めるシンボリルドルフ。

 内容は男とアグネスタキオンが交わした会話をベースに多少、脚色されたものだ。

 主に怪我の予防についての総合的な知見の集積を行い、研究開発の方向性を見出すべき、という趣旨である。

 

「…なかなか意欲的な内容だが、方向性を纏めるのは一筋縄ではいかないな」

 

 書類を読んでいくシンボリルドルフの目は鋭く、冴えた頭脳が回転している様子がうかがえる。

 

「はい…まずは関係者へのインタビューから端緒をつけていきたいと考えますが…会長のご意見を賜りたく」

 

 エアグルーヴは一見いつも通りに見えるが、耳の先が落ち着きなく動き、尻尾も不規則にひくひくと動く。

 

「そうだな…ん、これは…」

 

 文章の末端にシンボリルドルフの目が留まる。

 

【 尚、この意見書は本稿執筆者であるアグネスタキオンと学園所属の装蹄師との会話より提起されたものである。 】

 

 シンボリルドルフはエアグルーヴを仰ぎ見る。

 

 目が合うとエアグルーヴの表情はわずかに紅潮し、視線を逸らす。

 

「…まずは起案者の二人に話を聞かねばなるまいな。エアグルーヴ、セッティングを頼めるか」

 

 シンボリルドルフはエアグルーヴを試すように指示をする。

 

「…はい。では会長のスケジュールを調整の上、お時間を設けるようにします」

 

 エアグルーヴは普段より緊張感を含んだ声音で応じた。

 

 

 そのやりとりを静観していたナリタブライアンは、思い返せば二人の秘密の一端を見つけたのはこの時だ、とのちに姉に語ったという。

 

 

 



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29:三者面談@アグネスタキオン

 

 

 

「この間珍しく装蹄師の彼が訪ねてきてねぇ。この間の宝塚記念を見て、思うところがあったようなんだよ」

 

 個別に意見書についての話を聞くべく、まずはアグネスタキオンの研究室にシンボリルドルフとエアグルーヴは訪れていた。ナリタブライアンは同行していない。

 

「私も彼と最初に会った時、こっぴどく叱られたんだが…彼は我々ウマ娘のレースにおける安全性について、もっと言うと怪我についてひどく敏感な面があるのは知っているね?」

 

 二人は頷く。 

 

「どうもこの間のサイレンススズカ君のレース運びを見て思ったようだよ。あの脚がどこかで限界を迎えてしまうのではないかとね。まぁレースを戦う我々ウマ娘には付いて回る問題で、今更過ぎる着眼点ではあるのだが…」

 

 タキオンの目の奥に光が灯る。

 

「ちょうど私も、今の医療体系を整理していて同じ課題を見出したところでね…それが、怪我の予防はどうあるべきか、という問題だ。今現在、思った以上に手薄で分散した領域だと考えている。トレーニング法から普段のケア、疲労管理、医者の領域での経過観察等、裾野は広いがそれぞれの狭い領域で試行錯誤、といったところだろう」

 

「…それを、この研究プロジェクトでまとめよう、ということか?」

 

 長くなりそうな話をエアグルーヴが後を引き取る形でまとめる。

 

「いかにも。このテーマで全体を見渡せる人間が必要だ。かくいう装蹄師の彼も、怪我の予防に対して自分ができることがなんなのか、という点に悩んで私のところに来たんだ」

 

 装蹄師の彼、という言葉にエアグルーヴの耳がぴょこりと反応する。

 アグネスタキオンはそれを目の端で捉え、口角の片側をにやりと上げた。

 それにシンボリルドルフが気づく。

 

「…話の筋はもっともだな。予防というのは成果が見えづらい。利を主目的としない集合体でないと、継続的に取り組んでいくことは難しいだろう」

 

 シンボリルドルフは生徒会長らしい大局からの視点で頷く。

 

「人材や方法については理事会と相談して考える方向ですね、これは」

 

 実務に長けたエアグルーヴは早速段取りを考えているようだ。

 

「いやぁ、やる気になっていただけたようで何よりだよ。これで装蹄師の彼にもいくらか報いることができる」

 

 またエアグルーヴの耳がぴくりと反応する。

 そしてタキオンはそれをニヤニヤと眺めている。

 

 ルドルフは言葉の端々に装蹄師の男を絡めてくること、意見書の端書もあわせて、どうやらタキオンに含むところがあることを確信する。

 

 困ったな、とでも言うように眉を下げると、小さくため息をついた。

 

「タキオン…意見書の端書にも装蹄師のことを書いていたのは、何か意図があってのことなのだろうか」

 

 シンボリルドルフは少し崩した面持ちで問いかける。

 それを聞いて(釣れた!)とばかりに笑みを大きくするタキオン。

 

「特に意図などないよぉ。事実、彼との話の中から生まれた話だからねぇ。それともなにかい?そこに何か特別な意味でも見出したのかい?君たちは」

 

「それは…」

 

 エアグルーヴがわかりやすく顔を紅潮させてしまう。

 

「…私の情報網から得たところによれば前回の宝塚記念、行きはそちらの会長さんが、帰りはそちらの女帝さんが彼のクルマの助手席に納まっていたそうじゃないか。彼となにかあったのかい?」

 

 反応を楽しむように、的確にポイントを突いていくタキオン。

 

「…私が帰りに同乗したのは…じ、事実だが…」

 

 言葉に詰まるエアグルーヴを横目に、シンボリルドルフは顔色を変えない。

 

 いや、変えられなかった。

 

 アグネスタキオンがどこまで何を知っているのかわからない上、何を目的としてこの話題を持ち出したのかもわからない。

 

 そのうえ、シンボリルドルフは信頼する右腕にすら知らせていない事実を抱えている。

 

 帰りにエアグルーヴを助手席に送り込んだのはほかならぬシンボリルドルフ自身の提案だったが、そのことはエアグルーヴには知られていない。

 あくまでおハナさんの配慮ということになっている。

 

 アグネスタキオンの謎の攻勢の前に、自らのエアグルーヴへの気遣いすらも爆弾と化していることにシンボリルドルフは頭が痛くなる。

 

 ここはなんとかうやむやにしたいところだが、タキオンの粘りのある差し足の前には難しいだろうか。

 

 

「しかし彼も隅に置けないねぇ。皇帝と女帝をかわるがわる、とは。ファンたちにしてみたらスキャンダルもいいところだよ、これは」

 

 煽るタキオン。

 

 しかしこの一言は悪手だった。

 兄と慕う男を妙な表現で下げたともとれる言葉。

 シンボリルドルフの冷静な頭脳が揺さぶられ、通常は泰然自若としている感情の領域が動き出す。

 

「…アグネスタキオン、君は私が兄と慕う彼を愚弄しようというのかな?」

 

 声音の変化にぞくりとしたものを感じたエアグルーヴが、隣のシンボリルドルフを覗き込む。

 

 その瞳はいつもは慈悲深い薄い桜色をしていたはずだが、その色が紅く変化しているように見えるほど瞳孔が窄まり、色が濃くなっている。

 

「か、会長…」

 

 レースの終盤にトップを捉えようとする猛禽のような視線より強く感じる瞳の炎は、長い付き合いであるエアグルーヴですら竦ませる。

 

「おぉ怖い…そんなに凄まないでおくれよ。なにも君たちを脅そうってわけじゃないよ。ただ、今後の研究のキーマン足り得る彼も、君たち二人にも仲違いしてもらったら困るんでねぇ…どうなんだい?大人の慰めをしてもらったエアグルーヴ君?」

 

 シンボリルドルフの気迫に、口調こそ変わらないがアグネスタキオンに汗が滲む。エアグルーヴは既に刺激と情報量が多すぎる事態に顔面が青白くなっている。

 

「あ…あれは、大人の包容力をもって、私の敗戦を慰めてくれた、という意味で、決してやましい意味ではないぞ!」

 

 エアグルーヴが顔を再び紅くして強弁する。

 もはやこの間のルドルフとの会話の内容がタキオンに把握されていた事を、気に留める余裕もない。

 

「ほうほう…しかしその表現では些か想像力を掻き立てられてしまうねぇ…具体的にはどのような慰めがあったのかな?」

 

 踏み込んでいくアグネスタキオンに、シンボリルドルフは気勢を削がれると同時に自らの興味も惹かれてしまう。

 その証拠にルドルフの耳はエアグルーヴの方に向きっぱなしになっており、それに気づいたタキオンはひと心地着く。

 

 二人からの視線に耐え切れず、か細い声でエアグルーヴが自白する。

 

「…ぁ…頭を…撫でてもらった、だけだ…」

 

 エアグルーヴは自沈した。

 耳をふにゃりとさせ、女帝の影もないほどに瞳を潤ませ、震えている。

 

 シンボリルドルフは改めてショックを受けていたが、目をつぶってこらえている。

 しかし引き絞られた耳と、なにかに耐えるように組まれた腕、そしてその腕を痕が残りそうなほど強く握っている指は隠すことができない。

 そしてその姿をアグネスタキオンは見逃さない。

 

「なるほどねぇ…それはとても甘美な時間だったんだろうねぇ…いやなに、君の表情を見ればよくわかるよ。おや、シンボリルドルフ君、どうしたんだいそんなに強く腕を握り締めて…」

 

 シンボリルドルフははっとして手を緩めたが既にくっきりとその柔肌に痕が残ってしまっている。

 

 

「その様子だと君も彼のことを…?先ほど、彼のことを兄と慕う、と言っていたが…」

 

 ずっとアグネスタキオンのターンだ。

 ルドルフはもはや主導権を奪い返すような思考回路を動かす余裕もない。エアグルーヴも自沈した今、何を守り、何を捨てるべきなのかも判断がつかなくなっている。

 

 タキオンは黙して語らない、あるいは語りだすきっかけを掴みかねていると見て取ったルドルフの様子に、新たな仕掛けを切った。

 

「…かくいう私もね、彼には少なからず好意を抱いているんだよ。彼から叱責を受けたときに、なにかスイッチが入ってしまったんだろうねぇ…研究者としては余計な感情だとは思うのだが、正直、先ほどのエアグルーヴ君の話には羨ましさすら感じてしまったよ…」

 

 やや芝居がかった物言いのため、いつもの胡散臭さが抜けないが、そう語るタキオンをエアグルーヴは目を丸くして見つめている。

 

「さぁ…君はどうなんだい?彼はただの兄なのかい?」

 

 ここにいる三人のうち、二人が胸の内を明かしたこの状況。

 見方にもよるが、気づけばルドルフはレース終盤のスパートでエアグルーヴとタキオンに出し抜かれた形になっていることに気づく。

 

 兄への想いで負けるわけにはいかない、とルドルフの内側で何かがスパークした。

 

「…私の初恋の相手が彼だ、と言えば、私の心情を理解してもらえるだろうか…」

 

 かくして皇帝、シンボリルドルフも自沈の道を選択した。

 



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30:三者面談…?@工房

皆様いつも感想コメントや誤字報告修正ありがとうございます!
皆様のリアクションを燃料になんとか書き続けられております。
気がつけば30をこえてきまして、ここまで失踪せずに続けられてることに自分でも驚いております。
今後ともよろしくお願い致します!


 

 

 

 男はアグネスタキオンを訪ねた後、数日間にわたりもやもやしたものを抱え続けていた。

 しかし自分にできるウマ娘たちの怪我の予防になるようなひらめきが降りてくることもなく、淡々と日々の業務をこなしている。

 

 しかしすこしだけ、生活には変化が生まれていた。

 

 業務時間後、しばしば七輪を引っ張り出してその日の夕飯を焼くという行動にでるようになったのだ。 

 

 以前ゴールドシップが持ってきたサザエを七輪で焼いてみたところ妙に旨く感じ、それ以降クセになってしまっている。

 

 工房は幸い学園の最奥にありヒトもウマ娘もあまり来ないという立地で、七輪での焼き物で煙を出しても苦情が来ないという非常に都合の良い事情も味方した。

 

 そんなわけで今日も自室から食材を工房に持ち込んでおり、業務終了とともに外へ七輪を引っ張りだして燃料に着火する。

 

 近隣のホームセンターの安い木炭の為着火に多少の難があるが、男は装蹄師の修業時代に木炭を燃料とする炉の管理をしていた経験があったため、特にこの手の作業は苦ではない。むしろ火の管理こそ仕事の質に直結するため、得意分野ですらあった。

 

 ほどなくして木炭は白くなり徐々に下面に赤い熱の塊がゆらめきだし、熱源の準備が完了する。

 

 男は工房の中から網と冷蔵庫にしまっておいた食材を取り出すと、ひとり晩餐の準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

 アグネスタキオンの研究室を後にしたシンボリルドルフとエアグルーヴは、二人きりで気まずい思いをしながら歩いている。

 

「…会長の初恋の人、だったんですね…」

 

 エアグルーヴが耳をしょんぼりさせながら独り言のように呟く。

 

「黙っていて、済まなかったな…」

 

 シンボリルドルフの耳も、エアグルーヴと同様にしょんぼりしている。

 

「…いえ…私の身勝手で、会長には不快な思いをさせてしまったかもしれません…」

 

 冷静になったエアグルーヴはこれまでの経緯とシンボリルドルフの心境を慮り、落ち込んでいる。

 

「いや…人を想う気持ちは等しく尊いものであるはずだ。誰がどういう想いを持とうが、自由だ。気に病む必要はないぞ、エアグルーヴ」

 

 ルドルフはエアグルーヴを気遣う。

 ここまでずっと内心は複雑だったが、さっきのアグネスタキオンの尋問に答えたことで、今はいくらかほぐされていた。

 エアグルーヴに対する嫉妬心がないわけではないが、一番強くルドルフを縛っていたのは自らの気持ちを押し隠すことだったのだと今更ながら理解したのだ。

 

「…会長の…その…お気持ちは、彼は知っているのですか?」

 

 ルドルフは苦笑しながら首を横に振る。

 

「学園に入学して彼の講義を受けたとき、彼は私の存在に気がつかなかったよ。その後も私は生徒、彼は職員だ。兄妹のような付き合いはできても、それ以上は望むべくもないさ」

 

 さすがに彼の自室にまで行ける関係であることまでは言えない。そこまで行っても関係性は兄妹であることに変わりはないのだが。

 

「どうやら私たちは、ターフの外でもレースをしなければならないのかもしれないな」

 

 シンボリルドルフはそう言って、エアグルーヴに向き直る。

 その表情は凛々しい笑顔で、まるでゲートに入る前に観客に向けるような余裕と気合いの入ったもののようだ。

 エアグルーヴもそれに応じる。

 

「皇帝に挑む権利をいただけて光栄です。しかしこのレース、私も負けるわけには参りませんので」

 

 向かい合う二人の間を、風が通り抜ける。

 その風が、彼女たちの嗅覚に異変を伝えてきた。

 二人同時に、眉間にしわをよせる。

 

「…?…この匂い…なにかが焦げているような…」

 

 風上の方向を確かめ、二人は目を合わせる。

 

「まさか…火事か!?」

 

 彼女たちは駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「おっちゃーん!ちょっとニンジン焼かせてくれよー」

 

 男が七輪で干物をじっくり焼いていると、聞き知った声がした。

 

 顔をあげると絶世の珍行動美女ゴールドシップと、そのとなりにどこかでみたような可愛らしいウマ娘がひとり。背中になにか背負っている。

 

「七輪で焼いたものが旨いって話してたらさー、七輪でニンジン焼きつくりたいって食いついてきたんだよ。なぁスペ?」

 

 ゴールドシップの言葉で男は思い出す。

 

「あぁ…お前はたしか、スペシャルウィーク、だっけ」

 

 ボブカットの可愛らしい頭をぴょこんと下げる。

 

「この間はお世話になりました!その…ゴールドシップさんの話聞いてたら、七輪でニンジン焼いたらいつもよりももっと美味しいんじゃないかって思って…」

 

 それでゴールドシップに連れられてやってきたらしい。

 

「なぁいいだろおっちゃん。おっちゃんにも分けてやるからよ!」

 

 ゴールドシップも焼きたくてたまらないようだ。

 

「別にいいけど…野菜の焼き加減は俺わかんねえから、自分たちでうまくやれよ」

 

「さっすが話がわかるおっちゃんだぜ!」

 

 そういうと、さっそく七輪に取り付くゴールドシップ。スペシャルウィークは背中に背負っていたものを降ろす。

 どうやら背負子のようなものに段ボールを一箱くくりつけていたらしい。

 

「実家のお母ちゃんが送ってくれるニンジンです!すっごく甘くておいしいんですよ!」

 

 中身は段ボールいっぱいのニンジンだった。

 

「よっしゃー焼くぞー!」

 

 ゴールドシップは気勢をあげている。

 もはや炭火でじっくりゆっくり、みたいな雰囲気ではなく、テンションはバーベキューのそれだ。

 

 男は焼き上がった干物を引き揚げると、出してあった紙皿に分け、二人にも出してやる。

 

「ほれ。少なくて悪いけどこれでもつまみながら、ニンジン焼けるまでつないどきな」

 

「わぁ!ありがとうございます!」

 

「おおー!ホッケの干物じゃねえか!うめえんだよなぁ」

 

 男は煙草に火をつけ、七輪でわいわいとニンジンを焼く二人を少し離れたベンチに腰掛け眺める。

 

 心地よい風と、適度に満たされた胃袋のおかげで眠気が襲ってくる。

 

「出してある食材、食いたかったら食っていいぞ」

 

 男はそれだけ言うと、自分はベンチでうとうとし始めた。

 

 

 

 

「やっぱ七輪で焼いたニンジンうめーだろ!」

 

「はい!炭火で焼いたスモーキーな感じとホクホク感のあるニンジンの甘味がたまりませんね…!」

 

「今度はおっちゃんのモチも焼いてみようぜ!」

 

「あ、鶏肉もありますよ!」

 

「おいスペ!ニンジン焦げてるぞ!」

 

「あぁ〜!炭みたいになっちゃってる!」

 

「け、煙が…ごふっ…」

 

 

 

 

「おい!そこで何をしている!」

 

 低めのよく通る凛とした美声に、男ははっと目を覚ます。

 

「会長さんとエアグルーヴさん!」

 

 見ると、煙の立ち昇る七輪を間にゴールドシップとスペシャルウィーク、シンボリルドルフとエアグルーヴが対峙していた。

 

「すすすすいません!ニンジン焼いてたら焦がしちゃって…」

 

 スペシャルウィークが慌てている。

 

「あーごめんごめん。俺がちょっと目を離しちゃったんだ」

 

 男が割って入る。

 男がベンチでうとうとしていたことに、シンボリルドルフとエアグルーヴは気づかなかったようで、突然現れた男に驚いている。

 

「この子たちが七輪でニンジン焼きたいっていうから焼かせてたんだけど、ちょっとそこでうとうとしちゃって」

 

 そう言いながらトングで煙を吹くニンジンを火消し壺に放り込み、消火する。

 

「ほら、もうこれで大丈夫」

 

 いつのまにかスペシャルウィークとゴールドシップは男の後ろに隠れるように動いている。

 

 火消し壺の蓋を閉じて顔をあげればそこには腕を組み仁王立ちのエアグルーヴ。表情まで仁王様である。

 顔立ちが端正で切れ味鋭い美人であるが故に迫力が違う。

 シンボリルドルフは後ろに控え、苦笑いを浮かべている。

 

 男はがっくりとひざを地面につけ、大仰に土下座をしてみせる。

 

「まことに申し訳ございませんでした…」

 

 エアグルーヴは自らの足元に土下座する男に、思わず赤面してしまう。

 

「全く貴様という奴は…男子たるものそう軽々に土下座などするものではない!」

 

 決め台詞のようにエアグルーヴの声が響く。

 同時に、いつかも聞いた音が響く。

 

[カシャシャシャシャシャシャシャシャシャ]

 

「よかったなおっちゃん、許してくれるってよ」

 

 いつのまにか少し距離を取っていたゴールドシップが要らぬ半畳的なセリフとともにスマホを連写モードでシャッターを切っている。

 

 事態を理解したエアグルーヴの仁王フェイスがみるみる赤らみ、今度こそ本物の仁王像と化す。

 

「ゴールドシップ…また貴様かぁぁぁぁぁぁ」

 

 抜錨したゴールドシップは砂塵を巻き上げて逃走を図り、エアグルーヴがプライドを賭けて差しに駆け出した。

 

 

 七輪の周りには土下座したままの男、シンボリルドルフ、スペシャルウィークが残された。

 

 顔をあげた男は、苦笑したままのシンボリルドルフに声をかけた。

 

「ニンジン焼き、食べてく?」

 

 スペシャルウィークは男の声に呼応するように、新たなニンジンを七輪の網にのせた。

 

 

 



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31:おハナさんの尋問

書いて出しです。
幕間回のような、そうでもないような。。
文量少なくてごめんなさい。


 

 

 

 

 男はある日の夜、おハナさんに呼び出された。

 場所はいつもの、ちょっと敷居の高そうなオーセンティックバーだ。

 

 さすがに工房の作業着というわけにもいかず、一度自室に帰りシャワーを浴び、着替えて店に向かう。

 

「女を待たせるなんてあなた、どういう教育受けてきたの?」

 

 先に来ていたおハナさんはもうカクテルグラスを手にしている。

 

「生憎女性の扱い方なんて丁寧な必修科目がある学校に通っちゃいないんでね…」

 

 男は酒が飲めない体質の為このバーに一人で来ることはないが、おハナさんや沖野が常連であるため、その連れ合いとしてマスターに認識されている。

 そのため注文をしなくても自動的にジンジャーエールが出てくるので、非常に助かっている。見た目にも酒でないことがわからないので更にありがたい。

 

「…今日もお疲れ様」

 

 乾杯の格好だけとり、グラスをお互い少し持ち上げる。

 

 一口飲んで煙草に火をつける。

 

「…で、今日はどうしましたかな?リギルの総帥。恋愛相談なら俺より沖野のほうが適任だと思うけど」

 

 サッと顔を赤らめるおハナさん。

 鉄の女のように思われているリギル総帥をこんな風にいじれる特権を持っている奴はそうそういないだろうな、と男は思う。

 

「なっ…そんなんじゃないわよ!」

 

 耳まで赤らめておハナさんは慌てている。

 これはなにかあるのか?と掘り下げたくなったが、まずは奇襲に成功したことで良しとする。

 

「…私じゃなくて、あなたの件よ。今日聞きたいのは」

 

 男は首をかしげる。

 

「とぼけないで。この間の宝塚記念の帰り、あなたエアグルーヴにどんな魔法をかけたの?」

 

 曰く、おハナさんの見立てでは先の宝塚記念の敗戦はエアグルーヴをよく知るおハナさんでも、立ち直るのに1週間程度はかかるだろうと見込んでいたというのだ。

 

 それがどういうわけか、翌日には彼女の持つ責任感ゆえの謝罪はあったが、精神的には次のレースに向けてより闘志を燃やしているような様子すらうかがえたという。

 

 教え子たちに対して、実績というデータの積み重ねで定性的な部分にまでかなり正確に予測がつけられる自信があった名トレーナー、東条ハナのプライドが大いに傷ついた、という訳だ。

 

「私のプライドはこの際どうでもいいわ。彼女たちがいい状態であるのに越したことはないんだから。でも、あなたという不確定要素がどう作用したのかは知っておく必要があるわ」

 

 理路整然と男に説明を求める理由を立てるおハナさんの目は、アルコールが入ってより鋭さを増しているようだった。

 

「…うーん…」

 

 煙草を深く吸い込んで、考え込む。

 

「…あんたまさか、あの子になんかしたんじゃないでしょうね…」

 

 頼まれごとを期待以上でこなしたというのになんという言いがかりだろうか。

 これはちょっと反撃しておかなければいけない。

 

「…なんかって、何?具体的にどうぞ」

 

 男はできる限りクールに返してみる。

 こういうときの演出に煙草は有効だ。

 

「………!」

 

 おハナさんは再度顔を赤らめて、黙り込んでしまう。

  

「別に言えないようなことはしてないぞ。ただ改めて話すとなるとこっぱずかしいような話なんよ。しかも俺、シラフだしね」

 

 頭を撫でてやっただけだ、と言えば済むのだが、少し焦らしてみる。

 

 おハナさんはカクテルグラスの中身をぐっと飲み干すと、同じものを再度注文した。2つ。

 

 2つ?

 

「…ならアンタも飲みなさい」

 

 そう告げたおハナさんの目は座っている、というかキマっていた。

 どうやら男が来る前にすでにそれなりに飲んでいたようである。

 

 ほどなく同じ色の液体が注がれた2つのカクテルグラスが差し出される。

 

「マスター、俺、酒飲めないの知って…」

 

 差し出してきたマスターと目線を合わすと、男にだけわかるようにウインクしてくる。

 男は事態を理解した。

 

「…仕方ないなぁ。一口くらいで勘弁してよ、おハナさん」

 

 おハナさんと男は再び、グラスを少しあげて乾杯した。

 マスターは男には同じ見た目の、ノンアルコールドリンクを仕込んでくれていた。

 

 

 

 男が質問に答えたり答えなかったりのらりくらりと会話を続けて小一時間、おハナさんはバーのカウンターに沈んだ。

 

「助かりました。ありがとう」

 

 男はそういうと、マスターは微笑みとともに本来の男の飲み物である辛口のジンジャーエールを差し出した。

 

「お客様のことを話すのは本来ご法度なのですが…東条様、ここのところだいぶお疲れのようですよ」

 

 でしょうね、という感想を述べる。

 

 常勝集団リギルを運営していくのは並大抵のことではないのは想像に難くない。しかもここのところスピカに追いまくられて、そのプレッシャーはさらに高まっている。

 

 隣であられもない姿でバーで眠り込んでしまっているこの東条ハナという女性は勝負の世界の最前線で、常に戦い続けているのだ。

 

 少しいじわるが過ぎたかな、と男は少し罪悪感を抱く。

 

 仕方ない。

 せめてもの贖罪に、家まで運んでやろう。

 

 男はマスターに勘定を頼むと支払いを済ませ、リギルの総帥を背負って徒歩10分の彼女の部屋を目指すことにした。

 

 

 

 東条ハナという女性は、背負ってみると意外と軽い。

 

 コースサイドやレース場のスタンドで放つ存在感は、物理的なものではなく放つオーラでつくられている、と改めて感じる。

 

「おい鍛冶屋、あんた…一体どういう…つもり…なのよ…」

 

 男の背で目を覚ました彼女は、寝言のようなことを言っている。

 どういうつもりもなにも、昔たびたびあったように部屋に納めるだけである。

 

「はいはい。お部屋まで連行しますからねー。おとなしくお部屋で寝てくださいねー」

 

 あえて子供をあやす様に揺すってやる。

 すると背中で再びおとなしくなる。

 

 そうこうしているうちに彼女の部屋にたどり着く。

 昔来た時と部屋の中は変わっておらず、相変わらず質素ではあるが機能的になっていて、あまり女性を感じさせる部屋ではない。

 

 彼女をベッドに降ろし、任務終了である。

 

 このまま眠ってしまうであろう彼女に、最後の情けとして眼鏡を外し、サイドテーブルに畳んで置いておく。

 

「じゃ、俺帰るからね。聞きたがってた話は、そのうちおハナさんがシラフの時にでも」

 

 そう言って部屋をあとにしようとすると、彼女が薄目を開けて一瞬意識を取り戻した。

 

「…人の気も知らないで…わたし…だって…女なんだから…ね…」

 

 この後に及んでこの勝負師の女はなにと張り合おうというのだろうか。

 

「おハナさん、いったい何と戦ってんのよ…」

 

 男は首を傾げて問うてみるが、すでに彼女は再び意識を手放し、健やかな寝息を立てていた。

 

 

 

 

 

 

 



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32:夏の準備

先ほどいただいたコメントで0.5話しかストックがないと返信を書いたのですが、その0.5を増やすことに成功しましたので書いて出しします。

もともと不定期といいつつ2~3日に1本はなんとか上げてこれたのですが、来週のお盆あたりはすこし更新が停滞するかもしれません…。






 

 

 

 

 

 

 おハナさんとのバーでのやりとりがあってから数日後。

 

 男はその日、朝から工房の前にワンボックス車を横付けして、作業をしていた。

 

 4ナンバーのやや古いハイエースはトレセン学園の所有車両で、普段はコースや学園の植栽整備等を司る部門所属の1台だが、学園のウマ娘たちが夏合宿を行うこの時期1ヶ月限定で、男の工房に貸与される。

 

 ウマ娘たちは合宿をしていれば蹄鉄はじめ練習用具などにトラブルが起きることがある。

 そこで服飾部のいくつかの班など、ウマ娘たちが使う用具に関わる部門にはこの時期だけサポート用のサービスカーが臨時に配置され、何箇所かに分散しているウマ娘たちの合宿地を巡回してフォローすることになっている。

 

 もっとも今は皆、個人の装備は予備も含めて数セットは用意して行っているので、緊急性のある修繕要望などは滅多に起こらなくなっている。

 

 現在は現地に行ってサポートついでに男であれば蹄鉄やシューズに関してのアドバイスをしたり、ちょっとした講義をしたり、といった具合に合宿のアクセントとして機能していたりする。

 

 男に貸与されているハイエースは、普段から伐採した植物の運搬やそれらを行う機材等を運んでいるため適度に傷んでいて、男の鍛冶屋道具も気兼ねなく積み込める。その車内容積を活かして毎年電気式の小さな炉まで搭載しており、作業効率と精度は工房の作業よりは劣るものの、やろうと思えば一からの造蹄すら可能である。

 

 しかし毎年の機材の積み下ろしは一苦労で、年数を重ねるごとに積載の工夫と機材の効率化を図っているものの、毎年の憂鬱な作業のひとつではあった。

 

 午前いっぱいをかけて8割ほどの作業を終え、あとは消耗品類の積み込みと車内の機材配置の調整、固定作業を残す。

 すこし休憩と、男は工房脇のベンチに腰掛けて煙草に火をつけた。

 気がついてサルビアの鉢に水もくれてやる。

 

「おお。今年もやってるな」

 

 声をかけてきたのは沖野だ。

 

「珍しいな、今をときめくスピカの親方」

 

 苦笑いする沖野。

 

「この間の宝塚記念、見事だったじゃないか。おめでとう」

 

 沖野もベンチにどっかりと腰を降ろし、ああ、ありがとうと返してくる。

 しかし表情にはどこか翳りがある。

 

「まぁ宝塚記念は良かったよ。でも、いよいよおハナさんとお前の懸念に向き合うタイミングかもしれん、と思ってな」

 

 男は突然の沖野の言葉に、二の句を告げずに黙り込む。

 

「…ここのところのスズカは体のバランスを取りつつここまで速さを磨いてきたが、どうにもそろそろ身体能力を超えた走りになりつつあると思ってる」

 

 沖野はベンチにもたれて天を仰ぎ、呟く。

 男が差し出した煙草を今日は一本とり、咥える。火をつけてやる。

 

「で、どうするんだよ沖野トレーナーは」

 

 深く吸ってゆっくり吐き出す。今日は風もなく、煙はゆっくりと沖野にまとわりつきながらのぼっていく。

 

「今すぐに何か、ということはないと思う。しばらくは様子をみるつもりだ。本人の意思を尊重してサポートしていく方針はギリギリまで維持するつもりだ…」

 

 ここのところ上り調子のスピカといえど、順風満帆とはいかないようだ。

 

「彼女が…サイレンススズカが怪我をするとしたら、どこだ?」

 

 男が問いかける。

 沖野の目は競走するウマ娘の才能を見抜く能力はズバ抜けている。

 理論に裏打ちされているというよりは様々な情報を暗黙知として彼の中で統合し、ひらめきを得るタイプの、ある種天才的な勘が働くタイプだ。

 

「多分だが、骨だな。足首から脛あたりのどこか、だと思う」

 

 そうか、と男は飲み込む。

 

「…沖野、生徒会や理事会がやってる研究プロジェクトの件は知ってるな?」

 

 男は新たな煙草に火をつけ、もう一本を沖野にも勧める。

 

「実はこの間の宝塚記念、俺も現地に行ってたんだが、彼女のことが気になってな。戻ってきてからアグネスタキオンに相談したんだ。怪我の予防に対する研究をテーマにすることと、俺の分野で何かできることはないか、とね」

 

 まぁ自分でできることが思いつかなかったから相談してみたんだが、という本音の部分も添える。

 

「話した時点で、タキオンも同じところに課題を持っていた。今は領域を横断した怪我の予防策がない、と言ってたよ。そのあとたぶんタキオンが生徒会になにか話をあげたんだろう。この間シンボリルドルフとエアグルーヴがここに話を聞きにきた」

 

 男は肺を煙で満たし、ゆっくりと吐き出す。

 

「沖野お前、スズカの話を研究テーマにねじ込め。スズカは現役の競走ウマ娘だし、生徒会のエアグルーヴはライバルだしでかなり扱いが難しいとは思うが、悪いようにはされないはずだ」

 

 沖野は額に手を添え、考え込んでいるようだ。

 

「…リギルの時でさえ、ちょっとした行き違いが不調の原因になったからな…正直、スズカ自身が研究対象として周りから見られることに耐えられるかどうか…」

 

 沖野の言うことも理があった。

 

「…まぁ今すぐにどうしろとは言わんよ。でも、困った時には頼るところがあるってことを覚えておいてくれたらいい」

 

 男の言葉に沖野は頷きを返す。

 

「ところで、夏合宿のサポート巡回はいつ来るんだ?今回ウチは海で合宿の予定なんだが」

 

「多分後半だと思う。前半は山で合宿してる所属チームのない子たちのところをまわって点検やら講義やらやる予定だ」

 

沖野はうちのとこに来たら新しいメンバーも増えたから紹介させてくれ、と言いつつにやりと笑う。

 

「そういえばこの間、おハナさんがひどい二日酔いでトレーナー室に来たことがあってな…お前、何か知らないか?」

 

 男は沖野の様子を見ると、おそらくこれは何かのアタリを付けられてるな、と察する。

 

「お前が思うような色っぽいことはないぞ。いつものバーに呼び出されて絡まれて向こうが勝手に潰れただけだ」

 

 男は素っ気なく返す。

 

「ほほう…学園装蹄師サマは今、モテモテらしいからなぁ。俺んとこにもいろんな噂が入ってきてるぞ」

 

 男は天を仰いで煙を吐き出す。

 

「勘弁しろよ…お前が知ってるってことはだいたいみんな知ってんじゃねぇか。どんな噂か知らねぇけど、だいたいこんなおっさんに年端もいかない娘との色恋話があるわけないだろが」

 

 沖野は人の好い笑みを浮かべる。

 

「まぁお前さんはなんか間違いしでかすようなタイプじゃねえから、こうやって安心して噂話にできるわな。謹厳実直、職人気質、堅物で仕事の腕も確かときた。たしかに俺らはもうおっさんになっちまったが…でもなぁ、中にはそういうのが好みの奴もいるのかもしれんよ」

 

 はぁ、と男はため息をつく。

 

「俺、そういうの全くピンと来ないんよねぇ。昔はクルマ、今は蹄鉄をいじってしばいて、気づいたら今だからね…沖野みたいに夢を追ってるわけでもないしな」

 

 沖野はその言葉を聞いて驚いた表情を浮かべる。

 

「夢なら追ってるじゃねぇか。ウマ娘たちを怪我のないように、あれこれやってくれてるのもひとつの夢、だろ?」

 

 男は煙草を咥えたまま、唸る。

 

「んー…それはなんていうか…夢ではなく贖罪、かな…」

 

 沖野は男のその言葉を聞いて、表情を硬くする。

 

「そうだったな…悪い」

 

 男はかぶりを振る。

 

「別にいいさ。事実だからな。尤も、ここの娘たちには関係のない話だし。俺の個人的な事情だよ」

 

 二人は沈黙の中、改めて煙草をゆっくりと味わった。

 

 

 

 沖野が去ったあと、男は作業を再開する。

 

 機材類は粗方積み込みを終了したので、それらを車内でレイアウトを工夫し、出張先で展開しやすいように調整し、余ったスペースに補修用資材やサービス展開用のテントなどを積み込む。

 

 だいたい納得いく形に収まったころには、日が長いこの時期でも暗くなり始める時間であった。

 

「やぁ兄さん。声をかけてくれればこのくらい手伝ったのに」

 

 ハイエース車内をごそごそしていた時に声を掛けてきたのはシンボリルドルフだった。

 鞄を持っていて、もう今日の仕事は終わって寮へ戻る途中らしい。

 

「こんな力仕事に生徒会長の御助力なんて勿体ない。妹よ、君の能力はもっと生かすべきところがあるはずだ」

 

 男が多少芝居がかって返すと、シンボリルドルフはちょっと傷ついたような表情で、耳をしょんぼりさせる。

 

「まぁそうしょんぼりするなよルナ。帰りに寄ってくれたのか?」

 

 ルナと呼ばれたルドルフは、わかりやすく耳をぴょこんと復活させる。

 

「あぁ。ここのところ忙しかったからね。久しぶりに鉄分を補給したくなったんだ」

 

 男はルナが昔からたまに言う「鉄分の補給」という言葉にいまいちピンときていない。

 

「そりゃいろいろあるよなぁ。こないだの話も、忙しいのにここまで来てもらって悪かったな。今度からは呼んでくれたら出頭するから」

 

 男は先日エアグルーヴがゴールドシップを追って掻き消えたのち、スペシャルウィークがかいがいしくニンジンを焼いてくれる七輪を挟んで、アグネスタキオンの意見書について話を聞かれていた。

 その際はスペシャルウィークが居た手前、ルナではなくシンボリルドルフのたたずまいであった。

 

「この間はスペシャルウィークにも緊張させてしまって、申し訳なかったな…」

 

 ルナは苦笑いしながら言う。

 彼女はシンボリルドルフとしての自分が人にある種の威圧感を与えていることを自認している。ゆえに、本人はイメージを柔らかくするためあれこれ取り組んではいたが、それはあまり功を奏していない。

 

「ちょうどいいや。もう終わりにするから、飯でも食いに行くか?」

 

 夕飯の当てのない男は、片付けたらこのままハイエースで食事にいくつもりであった。そこにたまたま来た妹分は、道連れにするには適任と思われた。

 

「…同行して良いのか?」

 

 ルナはこのところ男に対する自分と自分を取り巻く人間たちの心情ががらりと変わったことを思い、それに起因する良心の呵責を感じながらも、男に対してこれまで通りの反応をしてしまう。

 

「いいよ。たいしたもんじゃないけどちゃんとおごってやるぞ。兄だからな。ちょっとそこで待ってて」

 

 男はにこやかにそう話しながら工房を閉め、ハイエースも整えていく。

 

 その姿を見ながら、ルナは自分たちが彼に対する想いを様々に巡らせていることも知らずに、ただ変わらずにいる男を頼もしく思うと同時に、この危ういバランスがどこまでも続くとも思えず、その見通せない先の時間軸に怖さをも覚えた。

 

 男との夕食のひとときは、そんな懸念を心の片隅にしまうシンボリルドルフを置き、ルナとして安らぐことができたひとときとなった。

 

 

 



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33:未来の鉄の女と斜に構えた少女

皆様ご無沙汰しております。
なかなかここのところ時間が取れず大幅ペースダウンを強いられております。
しばらくはこのような状況が続くかと思われますが気長にお付き合いいただければ幸いです。
引き続きよろしくお願いいたします。


 

 

 

 男は学園から三時間ほどハイエースを走らせ、山の中にあるトレセン学園の合宿所を訪れていた。

 

 そこは標高もいくらか高い場所にあり、車から降りれば暑い日差しはそのままだが、空気はいくらかひんやりとしていることが感じられる。

 

 合宿所の管理人に挨拶をし、駐車場の隅にクルマを移動すると、例年通りのサービスポイントを展開する。

 

 ハイエースを中心にテントを張り、出店のように道具を並べ、金床や炉の準備をすれば、そこはシューズと蹄鉄に関して大抵ののことはできるサービス拠点だ。

 

 だいたいの準備が終わったのちに、合宿施設の裏にあるトレーニングトラックに顔を出し、顔見知りのトレーナーに挨拶をしていく。

 

 この合宿施設に集められているのはまだ所属チームのないウマ娘たちで、同じくチームを持たないトレーナーが生徒をいくつかの班に振り分け、指導にあたっている。

 

「おや…あなたは…」

 

 トラックを見て歩いていると、ファイルボードを手にしたグレーのスーツの男。

 

「あ…南坂さん、でしたっけ」

 

 男は思わぬ顔に出くわした。

 この暑いさなかにトレーナーとしての矜持なのか、スーツ姿なのはたいしたものだ。

 

「はい。用具系のサポートが来るとは聞いてましたが、あなただったんですね」

 

 汗一つかいていない爽やかな風体の南坂は、以前スタンドで会った時と同じような笑顔だ。

 

「南坂さんも、こっちの合宿所だったんですね。今日から数日、お邪魔します」

 

 男は頭を下げる。

 

「こちらこそよろしくお願いします。あ、そうだ。いい機会なんでちょっと私の班のトレーニング、見ていきませんか?今回、トレセン学園に入学予定の子にも参加してもらっているんです」

 

 南坂はそういうと、視線でトラック上の集団を示す。8人ほどのウマ娘たちがトラックの外周を走りこんでいる。

 

「もうすぐペース走を終えて、レース形式で走りますので、是非」

 

 男は南坂の誘いに乗り、少し見学させてもらうことにした。

 

 南坂は戻ってきた娘たちに指示を出し、全員でレースをシミュレーションする形式で走るように指示を出すと、男のもとに戻ってきた。

 

「どうです?今回の合宿は」

 

 男は場つなぎというわけでもないが、まずは南坂に印象を聞いてみる。

 

「今回の合宿はなかなか面白いですね。私がチームをつくろうとしているのもあるんですが…担当している子たちがなかなか個性派揃いでして。だからぜひ、見ていただきたかったんですよ」

 

 南坂の視線は娘たちに向けられたまま、にこやかに答える。

 

 娘たちは横一線に並び、スタートの構えで、南坂に注目している。

 

 南坂が手を上にあげ、スタートの合図に振り下ろす。

 

 彼女たちは一斉にスタートを切る。

 ハナを取ったのは青い髪が印象的な小柄なウマ娘だ。トップスピードまで加速し続け先頭に立ち、そのままどんどん進んでいく。

 

「面白い子でしょう?いつもああなんですよ。最初っから全力がいいといって聞かないんです」

 

 南坂が解説を入れてくれる。

 先頭を走る娘はあっというまに後続と差を開いていく。後先考えない全力の逃げが清々しい。

 

「後ろから三番目の栗毛の子、どういうふうに見えますか?」

 

 先程までの笑顔からは打って変わった真剣な表情の南坂からの問いかけに、男は少々面喰らいながら言われた娘に注目する。

 

 傍目には普通に走っているように見える。

 やや前傾姿勢気味で走るフォームが特徴的で、踏み込む脚もしっかりしている。

 栗色の三つ編みの髪を靡かせながら眼鏡の奥に光る知性を感じる瞳で、隣を走る同じく栗毛で赤と緑の耳カバーをつけた娘と前走者の様子を窺っているようだ。

 

「…トレーナーじゃないのでこれといった特徴はわかりませんが…踏み込みもしっかりしてるし、いいんじゃないですかね」

 

 南坂はそれを聞いて、ほっとしたように力を抜いて、笑顔に戻る。

 

「隣の子もすでにかなりの実力なんですが、それと遜色ないくらい走れているあの娘が…イクノディクタスです」

 

 

 

 

 走り終わった娘たちが休憩しているところに南坂は歩み寄り、指導をしている。

 

 イクノディクタスは終盤追い込んできたものの、並んで走っていた娘にわずかに先着されてしまっていた。

 しかし彼女はまだ入学前のはずで、それで在校生と張り合って走れるポテンシャルというのは先々が楽しみな存在と言える。

 

 彼女の足の状態も気になったが、あの様子であればおそらくは良い方向に向かっているのだろう。

 

 男は思いがけず見ることができた仕事の成果に密かな満足感を憶えながら、自らの仕事場に戻った。

 

 

 

 その後2日ほど細々とシューズや蹄鉄の補修作業依頼をこなしたり、班ごとのミニ講座の依頼がきて生徒たちの足回りチェックをかねて講義をしたりしながら過ごし、この合宿所での最終日の夜。

 

 男は日中に舞い込んできた作業依頼をこなすため、日が暮れたあともサービスポイントで作業をしていた。

 

 日中は日差しもありそれなりの気温になるこの合宿所も、日が暮れれば山から吹き下ろす風と標高でややひんやりとしている。

 

 こつこつと槌音を鳴らしながら蹄鉄の微修正をしていく。

 

 まだまだ本格化がこれから、というウマ娘たちはフォームが安定しなかったり技術的な面も発展途上なため、速さやパワーはまだまだでも蹄鉄を痛める頻度は高い。また蹄鉄の打ち方も下手だったりすることもあり、シューズを痛めてしまうなどのトラブルも発生しがちだ。

 

「遅くまでご精が出ますね、装蹄師の先生」

 

 がさり、とコンビニの袋の音ともに声がかけられた。

 

 振り向くと、栗色の髪を後ろで二つに結んだもふもふな髪型のウマ娘。

 どこかで見たような気がするが、すぐには思い出せない。

 

「…よかったら、これ飲んで一休みでもしてくださいな」

 

 袋から缶コーヒーを手渡される。

 

「ありがとう。君、名前は…」

 

「あ、ナイスネイチャって言います。南坂トレーナーの班です」

 

 そう言われて男は思い出した。

 初日に見た南坂の班のレース形式の走行で、最後にイクノディクタスを差し切って先着した娘だ。

 確かさっき、ナイスネイチャのタグが付いた蹄鉄も歪みを修正したはずだ。

 

「修正、できてるよ。持っていく?」

 

 男は作業済みの箱からナイスネイチャの蹄鉄を探し出し、渡す。

 

「あ、ありがとうございまーす」

 

 男は蹄鉄を渡した手で缶コーヒーを開け、ひとくちいただく。

「俺がここにきて初日に、君が走ってるとこ見たよ。キレの鋭い差し足、見事だったね」

 

 苦笑い、といったどこか困惑した笑顔のナイスネイチャ。

 

「…見られちゃいました?あははは…お恥ずかしい…練習ではそこそこ走れるんですけど、学園の模擬レースや選抜レースじゃなかなか…パッとしなくて」

 

 赤地に緑のリボンのついた耳カバーごと、耳をぴくんぴくんとさせて、表情が曇る。

 男は作業用の椅子を勧めると、彼女はおずおずと腰掛けた。

 

「地元のみんなに目一杯応援されて期待されて、この学園に来たんですけどね…走れども走れども善戦止まりで…」

 

 はぁ、と彼女はため息をつく。

 

「キラキラした主人公みたいな才能を持ったウマ娘に石を投げたら当たるほど居るこの学園で、やっぱり私みたいなモブキャラじゃあどうにもならないかなーって…ああああ、なんかダークな私の話ばっかり、つまんないですよね!ごめんなさい…」

 

 男は煙草に火をつける。

 

「んー…なんか俺がいうのもおこがましいけど、ちょっと気持ちわかるかも…いや、善戦するだけでもスゴいけどな」

 

 ナイスネイチャは地面に向けていた視線を男に向ける。

 男はテントの外の星が瞬きだした空に向けて煙を細く吐き出している。

 

「俺も昔、学生の頃に競走するスポーツやってたことがあるんだ。だけど1位は一回も取ったことなくて…勝てる奴らはやっぱり強豪の学校で磨き抜かれたような奴らでさ。俺らみたいなノウハウもカネもない弱小の学校の人間じゃ、表彰台なんて夢のまた夢…って思ってた」

 

 ネイチャから貰った缶コーヒーをひとくち。

 彼女はそれでそれで、と先を促してくる。

 

「だから俺ら最高学年で最後の年に、自分たちの勝負する大会をひとつに決め込んで、そこにばっちり合わせ込んだ計画で追い込んで…それでなんとか、その競技やってて初めてまともに勝負してるって言えるとこまではいけた…それでも結局、1位は取れなかったけどね」

 

 男は苦笑しながら缶コーヒーをまたひとくち。

 ネイチャははーっと息を吐く。

 

「はぁ…やっぱり、勝つって簡単なことじゃないんですねぇ…アタシ、挫けちゃいそ」

 

 ちょっと斜に構えたナイスネイチャというウマ娘は冗談めかして笑う。

 

「簡単じゃないさ。だからトレーナーや俺たちや学園は全力で君たちの夢をバックアップするんだ。みんなが勝者になれないとしても、悔いだけは残さないようにね。まあ学園はURA傘下だから、マッチポンプ的な側面もあるのは否めないが」

 

 男もできるだけ柔らかな表情を保ちながら話す。

 

「…まぁとりあえず…私みたいなパッとしないウマ娘は、まずはトレーナーと契約してもらうところからなんですけどねー。南坂トレーナーみたいな人、見つかればいいんですけどねー」

 

 男は缶コーヒーを飲み干す。

 

「缶コーヒーご馳走になった礼ってわけじゃないが、それならひとつ役に立つかもしれないことを教えてやるよ。君の班の南坂トレーナー、近々チーム作る気でいるぞ。君がその気なら、一度聞いてみるといい」

 

「え…!でも、私なんかと契約しても…お荷物抱えさせちゃいますよ…」

 

 ネイチャは急に弱気にもじもじしだす。

 

「ここに来てる時点でみんな原石なんだよ。輝くまで磨くのがトレーナーの仕事だ。今トレーナーのアテがなくて、南坂トレーナーと合いそうだと思うなら、相談しても損はないと思うよ」

 

 耳もしょぼんとさせながらうじうじしていたネイチャだったが、男の言葉に腹を括ったようだ。

 作業椅子からこぶしを握って立ち上がる。

 

「…よっし!もしフラれちゃったら後々気まずくなるし、最終日に当たってみます!いいお話ありがとうございました」

 

 ナイスネイチャは男の蹄鉄を手に、合宿所へ戻っていく。

 

 男はその後ろ姿を見送りながら、残りの作業を片付けるべく再び槌を手に取った。

 

 

 

 

 南坂がチームトレーナーとしてカノープスが旗揚げされるのは、もう少し先の話である。

 

 

 

 

 

 

 



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34:浮かび上がるキズ

 

 

 

 

 

 男は山の合宿所を後にし、数カ所を数日ずつ転々とした後、最後に海辺にある合宿施設にたどり着いた。

 

 そこは東条ハナ率いるリギルと沖野が率いるスピカ、他にも数チームが合宿を行なっている、いわゆるチーム専用の合宿エリアだ。

 

 いくつかホテルや旅館があり、そこにチームごとに分かれて宿泊している。

 

 男は昼前に現地へ到着すると、ホテルや旅館が共用で使用している駐車場の片隅にこれまでと同じようにテントを張り、サービスポイントを設営する。

 

「やっときたか」

 

 まだ関係者に挨拶にまわる前から、早速沖野がやってきた。

 

「早速のところで悪いが、ちょっとチーム全員のシューズの様子を一通り点検してくれないか。合宿もぼちぼち終盤だし、脚の状態も把握しておきたいんだ」

 

 駄賃とばかりに冷えた缶コーヒーを手渡されるのを、設営で汗だくの男はありがたく封を切る。

 

「…スズカの様子が気になるのか?」

 

 男は煙草に火をつけながら沖野に問う。

 

「正直な話、な。だから今日は早めに切り上げて点検名目でシューズ回収してチェックしておきたい」

 

 それと、と沖野が付け加える。

 

「先にお前のスケジュール押さえないと、モテモテの装蹄師サマはお忙しくなっちゃうだろうからなぁ」

 

 その言葉を聞いた男は煙草が苦く感じる。

 

「なんだかわからねぇけど、めんどくさいのは勘弁してほしいね…」

 

 男は煙と共に感想を吐き出した。

 

「今日の練習終わりにシューズ届けさせるから、頼んだぜ」

 

 それだけ言い残し、沖野はトレーニングに戻っていった。

 その背中を見送り、男も作業を再開した。

 

 

 

 

 夕刻、仕事のための展開を終えたテントでベンチに腰掛けひと息ついていると、まばらに今日のトレーニングを終えたと思しきウマ娘たちが宿に戻ってくる姿が遠目に見える。その中からひときわ長身のウマ娘と数人の集団ががこちらに向かってきた。

 

「おーいおっちゃーん!」

 

 聞きなれたその声はゴールドシップだ。

 

「来たか。シューズ持ってきたか?」

 

 するとゴールドシップが不思議そうな顔をして頭上にはてなマークを出す。

 

「シューズ?なんのことだ?アタシはおっちゃんの匂いがしたからみんなを紹介にきてみただけだぜ!」

 

 男も頭上にはてなマークが出る。

 

「…ひょっとしておっちゃん、ウマ娘のトレーニング後のシューズフェチとかいう特殊性癖持ちだったのか…?アタシのトレーニング後のかぐわしいシューズであんなことやこんなことを…そうならそうと言ってくれればゴルシちゃんの使用済みシューズくらいおっちゃんにいつでも…」

 

 ゴールドシップの妄想が脳から直で垂れ流されている。これはあらぬ方向に話が行きかねない。

 止めなければ、と思ったところで小柄でスレンダーな芦毛のウマ娘が、ゴールドシップにアイアンクローを決める。

 

「…トレーナーさんが点検のために装蹄師の方にシューズ提出するように仰っていたの、忘れましたの…?」

 

 アイアンクローを解かれて悶えるゴールドシップをよそに、スレンダーな芦毛の娘は男に向き直る。

 

「自己紹介が遅れまして申し訳ございません。私、メジロマックイーンと申します。以後お見知りおきを。シューズは後程まとめてお届けいたしますわ」

 

 軽く礼をする姿に男もつられて頭を下げる。

 ジャージ姿でも気品溢れる立ち姿はさすがメジロ家の令嬢といったところか。そういえば前にも沖野にプロレス技をかけているところを見たような気がする。

 

「君がトレーナーが言っていた装蹄師?ボクはトウカイテイオー。未来の三冠ウマ娘だから、よくおぼえておいてよね!」

 

 マックイーンに割り込むように男の目の前に立ったのは溌剌としてボーイッシュなイメージのトウカイテイオー。その素質については前から学園内で噂になっており、男もその話を耳にしたことがある。なかなか所属チームを決めなかったとは聞いていたが、沖野のところに納まっていたらしい。なぜか彼女は男を値踏みするように頭の先からつま先までをじっくりと眺めまわしている。

 

「…スペとスズカはおっちゃん会ったことあるよな。あとふたりいるけど、張り合って追加トレーニングしてるから、またそのうち紹介しにくるぜ…」

 

 アイアンクローの痛みを引きずっているゴールドシップがよろめきながら復活してくる。

 

「早めに取りまとめて持ってきてくれ。今夜中に点検して明日の朝にはフィードバックしてやるよ」

 

 男はそういうと、トレーニングで疲れた彼女たちを宿に戻って休むよう促した。

 

 

 

 男は早めの夕飯を宿でとった後に再びサービスポイントに戻り、静音型の発電機を稼働させて夜間用の照明を灯し、点検作業を開始した。

 シューズからくぎ抜きで蹄鉄を固定している釘を外し、蹄鉄とシューズを分離する。

 多人数のものを一気に作業していくため、シューズと蹄鉄は対に揃え、持ち主の名を書いたタグを付して整理していく。

 

 次に蹄鉄をひとつずつ綺麗に洗浄する。

 水気を切ってよく乾かしたら、ここからは普段は行わない、探傷剤を使った作業になる。

 

 ひとつひとつに溶剤系の洗浄液を使いウエスで拭き上げたのち、赤色の特殊液剤を全体に塗布してまた拭き取る。そののち、白色の現像液を吹き付ける。すると、キズやヒビのある部分に赤色が浮かび上がって見えるようになる。

 普段は工房の慣れた照明で作業を行うためにあまりこの手法を使うことはないが、出先での作業となるといつもと環境が違うために微細なキズや割れ、ヒビを見逃さないようにするための処置だ。

 

 合宿はレースではないため何か異常があればすぐに止まることもできるためにあまりシューズや蹄鉄由来のトラブルは多くはないが、なにかの兆候が現れる場合もあるので慎重にひとつひとつを観察し、カルテ代わりのメモに記録しながら判断をつけていく。

 

 幸いにもダイワスカーレット、ウオッカ、メジロマックイーン、スペシャルウィークまでは蹄鉄に問題は見られない。シューズのへたりもそこまでではなく、この合宿は問題なく乗り越えられそうだ。

 

 ゴールドシップの蹄鉄はスピカメンバーの中でもひときわ大ぶりで頑丈なタイプで、全く問題はないが何故か他のメンバーよりも塩水のものとみられるサビが多い。

 

 未来の三冠ウマ娘とのたまったトウカイテイオーのものは蹄鉄というよりシューズとソールのへたりが激しい。おそらく足首や足の指、足裏全体が柔らかくシューズそのものを大きく変形させながら走れる柔軟性の持ち主であろうことが推測される。走る姿をきちんと見たことがないのでわからないが、おそらくフォームもストライドが大きく、一歩の推進力がかなり大きいのではないかと思われる。あの小柄な体格を考えると、体への負担がどの程度か心配になるところではある。

 

 そしてサイレンススズカ。

 一見するところ何の問題もなさそうだが、探傷剤を使ったがゆえにところどころにヒビがあることが分かった。そのヒビも左右の蹄鉄で同じような位置に数か所ある。

 おそらくはフォームが安定しているがゆえに左右均等に同じような症状が現れるのだろうことは推測できるが、問題はヒビの原因だ。

 本来、蹄鉄は大きい力が繰り返し加わった時に折れるのではなく、歪み、曲がる。

 しかし歪んだものは蹄鉄の釘を打ちなおしたり締めなおしたりすれば、ある程度は元に戻すことができる。

 それを繰り返すとだんだんとひびが入り、最終的には折れる。

 スズカの蹄鉄にはおそらくそれが原因と思われるヒビが入ってきているのだ。

 そしてそもそも蹄鉄はそう頻繁に歪むほど柔らかくはできていない。

 蹄鉄にそれほどの力が繰り返し加わっているということは、本人の完成度が高く出力が大きいことの証明ではあるが、同時に体の負担もかなりのレベルであることがうかがえる。

 沖野の不安はこの時点で、正鵠を得ているということになる。

 筋力の出力に身体、具体的には骨や関節が耐えうるかどうかが問題となるからだ。

 

 沖野の取りうる策はなんだろうか。

 スズカのフォームを改造して脚への負担を減らす策を模索するか。

 あるいはこれに耐えられる脚をつくる方策を考えるか。

 どういう方針をとるとしても、スズカ本人とよく話し合う必要があるだろうし、骨の強化となると医療スタッフの手を借りてもきちんと効果のある形を実現できるかどうか怪しい。

 

 こうなると、前にアグネスタキオンに話していた怪我の予防策の体系化についても急がなければいけなくなる。

 

 この手の話には時間と膨大なデータが必要になる。

 この間のイクノディクタスのシューズはイメージ通りのモノをつくることが出来れば物理的に解決することができたが、今度はそうはいかないだろう。手段を見つけ出す過程自体が未知の領域となれば、仮説を見つけ出すこと自体に膨大な手数がかかってくる。方針を決めて取り掛かってみないとわからないが、すぐに結果がでる類のものではないだろう。

 

 いろいろわかってくればくるほど、あれもこれも足りないと思わざるを得ない。

 そして、それでもサイレンススズカのレースはやってくるし、時間は進んでいくのだ。

 

 男は思考を整理するために手を止め、煙草に火をつけた。

 

「おやぁ。遅くまでこんなところでなにをしているんだい?」

 

 ゆらりと暗闇から現れたのはアグネスタキオンだ。どうやらここの合宿に参加していたらしい。

 

「お、ちょうどいいところに。今、タキオンのことを考えてたんだ」

 

 男の言葉に彼女はちょっと怯んで耳をぺたんとさせ顔色を変えるが、男の前にあるものがサイレンススズカの蹄鉄とわかると元に戻る。

 

「君はいきなり何を言い出すんだまったく…この間の件のこと、だね?」

 

 男は煙を吐き出しながら頷く。

 

「骨を強化する薬か、時間の流れをゆっくりにする薬か、俺たちの頭がとんでもなく良くなる薬、ないもんかね」

 

 男は腕を組んで煙草を咥えたままテントの天井を見上げ、呟く。

 

「君も真面目だねぇ…しかしそうも視野が狭まってはいいアイデアも浮かぶまいよ」

 

 タキオンはそういうと作業台と兼用のアウトドアベンチに腰掛ける。

 

「正直、テーマのスケール的に俺の手に余るんじゃないかとは思ってるんだけどね。知っていて何もしなくてコトが起こってしまうのでは寝覚めも良くない」

 

 男は素直に心情を明かす。

 タキオンが相手だとどこか沖野やおハナさんと話す様に同年代とのやりとりのようになってしまう。

 

「つくづく律儀な男だねぇ君は…これも自分たちがやっているビジネスの一部、とは割り切れないものかい?」

 

 タキオンの言葉に、男は少し傷つく。

 

「ビジネスっちゃあビジネス、仕事ではあるんだが、そう言っちまったら身も蓋もロマンもないな。俺はお前たちを商売の道具と割り切れるほどドライな人間じゃないつもりだよ」

 

 ウマ娘によるレースが興行であり興業であることは否定しないが、それでも男はウマ娘たちの純粋な勝ちたいと思う気持ち、それに向かって努力する姿勢を飯のタネだと思うほどにはスレていなかった。過去に自分自身が種目こそ違うが競技をしていた経験も影響している。

 

「自分が挑戦したい、勝ちたいって思う舞台が見つけられたウマ娘たちの助けになりたいと思う。だがな、それを叶えられる競技者としての寿命は生命寿命と比較すればひどく短い。なら、競技者を全うして次のステップに無事に進めるようにしてやるのも、俺たちの仕事のはずだよ」

 

 タキオンは俯き加減で光の当たらない暗い瞳で、左手の煙草から立ち昇る煙の向こうにある男の思案顔を観察する。

 

「クックック…君はこういう話をするとき、実に良い表情をするねぇ…そういうところに、生徒会のトップ2もコロリとやられてしまうのかねぇ?」

 

 男はタキオンからの思わぬ言葉に片眉をあげる。

 

「いやいやなんなんだよ最近…いろんな奴からイロコイ的な話されるが、こんなおっさんに浮いた話のひとつもあるわけないの、わかるだろうに…」

 

 タキオンはフフッと笑うと困ったような表情を浮かべる。

 

「いやはや本人がこうも鈍感というか神経が通っていないような有様だと、周りも苦労するわけだよ。まぁ私が特にどうこう言うわけにもいかないが…」

 

 男はタキオンが全く意味不明なことを呟くのを聞き流しながらスズカの蹄鉄を手に取り仔細に観察する。

 

 しかし見事に蹄鉄の限界性能を使いこなし、それがゆえに起こったキズやヒビは、それ以上に男になにかヒントを与えてくれることはない。

 

「まぁとにかく今は焦れても仕方ないか。タキオンの方も引き続き予防策の具体化、考えてくれよ。お前の研究目的とも合致するんだろう?」

 

 男は蹄鉄の探傷剤をひとつひとつウエスで拭き取り始めながら言った。

 

「もちろん考えているよ。生徒会も動きだしているし、理事会の方もこの研究テーマに対するディレクターを置こうかと考えているようだ。コトと次第によってはもう少し話が大きくなるかもしれないね」

 

 それならそれでもいいが、時間はかかるかもしれないな、と男は思う。すでにサイレンススズカの状態を課題としてとらえている身としては、時間が惜しいが、物事はそう簡単には進まないことも理解している。

 

「ある程度形になるまで何も…何もなければいいんだがな…」

 

 タキオンは頷くとおもむろに立ち上がり、男の頭に手を置く。

 

「…?なんだ?汗で汚れてるから触らないほうがいいぞ?」

 

 男の言葉も気にせず、タキオンは男の頭を撫でる。

 

「なに…抱え込みすぎている君が、少しは癒されないかと思ってね。人の手のぬくもりは落ち着くものだろう?」

 

 男はよくわからずにタキオンに撫でられている。夜風が涼しい海風を運んできて、不思議な空間だ。

 

「…よくわかんねぇけど…頼りなく見えたんなら申し訳ないな。生徒のお前にまで気を遣わせちゃって、すまん」

 

 おや、という顔をするタキオン。どうやら男はウマ娘たちの前ではあくまで大人であろうとしているらしいことを理解し、手を引く。

 

「差し出がましいことをして済まなかったね。まぁ私は私でいろいろやってみるとするよ」

 

 タキオンはそれだけ言い残すと宿舎であるホテルに去っていく。

 

 尻尾だけがせわしなくばさり、ばさりと揺れていた。




大変ご無沙汰して申し訳ありませんでした。
ちょっと書く時間が取れない日々が続いてしまい、品質も不安定ではありますが再開いたします。
細々と続けて参る所存ですので、またお時間のある時にお付き合いいただければと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。


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35:夜間作業と朝の皇帝

タキオンが去ったあと、男は預かった蹄鉄をシューズにセットしなおしていく。

 

 シューズに打ち付ける釘もただ打てばいいというモノではなく、きっちりと蹄鉄と釘、ソールを合わせ、隙間のないように精度を高めて打ち付ける必要がある。

 どういったものでもそうだが、組み付けの精度で性能も使用感も大きく変わる。ここを疎かにするとフィーリングが大きく変わったり、予期していた性能が出ないなんてことも珍しくないのだ。

 

 精度が出ない場合は蹄鉄側で調整したり、アウトソール側で調整したりと状況によって変わるが、手を入れる必要がある。

 

 トレーニング用で精度を詰める必要があるかは本人の好みにもよるが、男は自分が手をかけたものに関しては用途を問わず妥協せずに組み上げることにしている。

 

 さらにスズカの蹄鉄のヒビに関しては補修も行っていく。

 

 丁寧に作業をしたためだいぶ時間をかけてしまい、メンバー全員のシューズが仕上がる頃には日付がかわるまであと少し、という時間になってしまった。

 

 男はシューズを箱に収めると、それぞれのシューズに点検メモを添付し、スピカが泊っている宿の彼らのトレーニング機材が集められている一角に置いておく。これでもし彼女たちが朝練に出ようとしてもシューズを履いて出ることができる。  

 それとは別に作成しておいたメンバー全員分の点検レポートを沖野の部屋へドア下から滑り込ませておく。何か気になることがあれば聞きに来るだろう。

 

 そこまで済ませて男は再びサービスポイントに戻り、後片付けを始める。

 駐車場の隅に設けたそこだけが煌々とあかりが灯っている。

 

 機材や工具類を整理し、ハイエースの中に収め、鍵をかける。

 発電機を止め照明を落としてしまうと、周りはリギルの泊るホテルとスピカの泊る旅館のあかりが少し遠くにあるものの、それ以外は月明かりにぼんやり照らされるだけだ。

 

 男は暗がりに目を慣らすためにアウトドアチェアに座り、煙草に火を点けしばしくつろぐ。前の合宿地からの移動、展開、シューズと蹄鉄の分解点検、組み付けと一日こなしてきた疲労がどっと押し寄せる。

 

 先ほどのアグネスタキオンとのやりとりを思い返し、焦っても仕方ないと想いながらも取り留めのない思考が頭の中を巡ってしまう。

 

 本来ならばどこかで、サイレンススズカのレース出走そのものを止めるべきなのだろうが、男にそのような権限はないし、起こるかもしれないことで走ることこそが存在意義のような彼女からレースを取り上げて、彼女が幸せでいられるとも思えない。

 

 結局のところ沖野が腹をくくりつつあるように、行けるところまで行ってみるほかないのかもしれない。

 

 そうなると、はなはだ不本意ではあるが、何かが起きてしまった後のことを今から準備するほうが適切なのか。

 

 時間軸が一方通行なのと同じように、戻ることのできない道ならば、その先を予測して備えるという手もなくはないが、それにしても今の男のできることは限られているように思われた。

 

 それは男の視野の問題なのか能力の問題なのか、判断がつかない。

 

 どちらにしても今の自分が考えている問題には力量不足ではあるのだろう。

 

 ならばもっと自らを変えねばならない。

 流されてここまできた身の上だが、どうやらここから先、自分がやらなければならないことは流されたままでは実現できない。それだけは確実なようだ…

 

 男はそこまで考えると、暗い駐車場の片隅でアウトドアチェアに腰掛けたまま、海から吹く涼しい風を心地よく感じて襲い来る眠気に抗えず、眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 生ける伝説、皇帝と呼ばれるシンボリルドルフの朝は早い。

 

 体調を整えることやトレーニングの成果としての筋肉を得るために睡眠は欠かせないが、競技者としてだけでなく生徒会長という公の顔を持つ彼女は時間のすべてを自らのために使うというわけにはいかない立場だった。むしろ今は公としての時間が競技者としての時間を圧迫しつつあり、さらに言えば私で居られる時間などほとんどない。

 

 そんな状況であっても精神の平衡を保ちつつ自らを厳しく律し続けられるのは、ひとえに丈夫な体に産んでくれた両親からの恩恵と本人の持つ意思の力、そして彼女のすべてのウマ娘が幸せに暮らせる世を、という目標ゆえであった。

 

 所属しているチームの一員としてこの夏合宿に参加している今は、学園に居る時にくらべれば少しだけ公の時間を減らすことができ、競技者としての時間を取り戻すことができる。

 

 その時間をすこしでも有効に使うため、彼女はできるだけ早い時間に睡眠を取り、雑事に煩わされることのない朝の時間を活用することにしていた。

 

 すでに明るくなってきている朝5時前、彼女はベッドから起き上がると、ルームメイトを起こさないように静かに手早く身支度を整えて朝のランニングに出かける。

 

 軽く準備運動をして体を起こして温め、ホテルから出て浜辺をランニングしていく。

 

 この時間は風向きが変わり、山から海へと涼しい風が吹く。

 ほどなくしてその風のなかに彼女のよく知る、ここにあるはずのない香りが混じっているのに気づく。

 

 彼女は不思議に感じながらもその香りを辿るため、ランニングのコースを変更することにした。

 

 

 香りのもとを辿っていくと、リギルが宿泊しているホテルの裏手にある駐車場に出る。

 宿泊者たちのクルマが並んでいるが、そこに彼女が気をひかれるものはない。

 駐車場を進んでいくと少し離れた大型バス用の駐車場の隅に見慣れたURAロゴ入りのワンボックスが1台とそれに寄り添うように出店のようなテントが張られていることに気づく。

 

 ランニングのペースでそこに近づき、スピードを緩める。

 ワンボックスには誰も乗っていないが、荷室を覗き込めばそれがどうやら彼女が兄と慕う男の巡回サービスカーであることに気付くことができた。

 

 今年も兄が合宿にやってきてくれたのだな、と彼女は思わず頬が緩み、耳も力が抜ける。

 

 しかし本人がいないのにここまで濃く兄の匂いがするのはなぜだろう。

 不思議に思い車体の後ろにあるテントを覗き込む。

 

 そこには彼女が慕ってやまない初恋の男が、くたびれた姿で座って眠り込んでいた。

 

 シンボリルドルフは男を認めた瞬間に驚き、尻尾がびくんと跳ねる。

 

 まさかここで行き倒れているわけでもないだろうが、慎重に足音を立てずに近づき、わずかに動く胸の動きから男の呼吸を確認する。

 

「…全く、兄さんは…」

 

 普通に寝ているだけなのを確認するとシンボリルドルフは男の向かいにあるベンチに座る。

 

 深くアウトドアチェアに沈み、首を傾げて眠る男の姿をゆっくりと観察する。

 

 無防備で安らかな男の寝顔はずいぶん昔、まだルナだった自分に見たきりかな、と思ったが、よく考えればわりと最近に彼の部屋で眠りこけていたところを倒れていると勘違いして抱き上げたことがあったな、と思い至る。

 

 男の部屋で本当に倒れていると思い心配して泣きそうになっていた自分のその時の行動を思い返し、シンボリルドルフは誰が見ていたわけでもないのに赤面してしまう。自らの膝に抱いた男の頭のしっかりとした重さは、今でも陶然と反芻することができる。

 

 そしてあの時彼女の理性を飛ばしかけた男の匂いは、今は野外であるためあのときほど濃くはないが、彼女の鼻腔をくすぐり続けている。

 

 シンボリルドルフは自分が何のために早朝から外に出たのかもすでに忘れ、寝ている男を起こさぬように音を立てずに立ち上がると、ゆっくりと男ににじり寄る。

 

 安らかな寝息を立てる男の顔に、ゆっくりと顔を近づける。

 

 鉄や煙草の混じった男の匂いが、彼女の高機能な鼻を通じて容量の大きな肺を満たし、彼女の脳に甘美な信号を送りつけてくる。

 それは彼女が本能の部分で求めてやまない何かを満たし、さらに彼女の奥底にある欲求をかきたてる。

 

「…!」

 

 彼女の知らないなにか異質な、人工的な香りをわずかに、ごくわずかにだが感知したのは、男の髪のほうへ鼻を利かせたときだった。

 

「…んぅ…」

 

 ちょうどその時、周囲が明るくなり眠りが浅くなってきたのか、男が身をよじる。

 

 驚いたシンボリルドルフは一瞬尻尾をびくりと逆立て、一歩距離をとる。

 

 そして冷静さを取り戻したルドルフは、男を起こすことにした。

 

「…兄さん、こんなところで寝ていちゃダメだよ」

 

 耳元で囁くと、男は薄目をあける。

 

「ん…ルナ…か…?」

 

 男の気の抜けた声に、ルドルフは思わず耳をぺたりとして腰を落とし、下から男を見上げるような姿勢になる。

 

「ああ…おはよう、兄さん」

 

 まだ目の覚め切らない男は、薄目のまま手を伸ばし、ルナの頭を優しく撫でる。

 それはまだルドルフがルナだったころ、昼寝をしていた男を起こした時のいつもの動きだった。ルドルフは寝ぼけていて雑な撫で方の男の手が懐かしく、目を細める。

 

「…朝練とは、熱心だな…さすがは皇帝…」

 

 男はすこしずつ意識レベルをあげつつある。

 ルドルフは自らの頭を撫でる男の手を取ると、指先でマッサージするように撫でる。

 

「兄さんこそ、仕事熱心なのはいいがこんなところで野宿じゃ、体に毒というものだ」

 

 男はようやく目を開き、体を起こす。ルドルフが手を引いてやるとゆっくりと立ち上がった。

 

「んぁぁ…ありがとう。昨夜、ちょっと遅くまで作業しててな。片付けて一息ついたら寝ちまったよ」

 

 伸びをするとバキバキとどこからか音がする。しっかり凝り固まってしまったようだ。

 

「部屋に戻ってシャワーでも浴びるといい。兄さんが来たからには、リギルの面倒も見てもらわないと。午前は少しは体を休めてくれ」

 

 そういうとルドルフは意識を切り替えランニングに戻るべく、男に背を向ける。

 

「あぁ。起こしてくれてありがとう。」

 

 ルドルフは名残惜しそうに耳をへにゃりとさせたまま、後ろ手で男に手を振りながら走り出した。  

 



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36:夏合宿のとある朝

 

 

 

 

 チームリギルはホテルの会食場に全員揃っての朝食を摂る。

 シンボリルドルフが男に遭遇した朝も、いつも通りの朝食風景だ。

 

 朝起きてそのまま朝食会場に現れる者もいれば、それぞれ個別に朝練をこなして現れる者もいて纏う雰囲気はそれぞれ違うが、リギルにおいては朝食の場がそのまま朝礼の場にもなるため、チーム全員とトレーナーである東条ハナも顔を合わせる。

 バイキング形式の朝食をそれぞれに摂り、東条ハナから今日一日のチームスケジュールの通達、個々に合わせた練習メニューの連絡が終わった後は、練習開始時間まで個々にアップをしたり、コミュニケーションを取ったりする時間だ。

 

「エアグルーヴ、少しいいか」

 

 シンボリルドルフは朝食の片づけをしているエアグルーヴに声をかけ、耳元でささやくように話す。

 

「黙っておくのもフェアではないと思うのでな、伝えておくぞ。装蹄師の巡回が来ている。今のうちに例の蹄鉄の点検なり、気になることを依頼しておくと良いだろう」

 

 ルドルフが微笑みながら小声で伝えると、エアグルーヴは顔を紅潮させる。

 

「か…会長はもうお会いになったんですか?」

 

 エアグルーヴの問いにシンボリルドルフは微笑みに悪戯っぽさを含ませる。

 

「ああ。早起きは三文の徳、というのは本当だな。朝のランニング途中に野外で眠っているところを見つけたよ」

 

「野外で…ですか…?」

 

「兄は毎年、駐車場の隅に作業場を設けるだろう?あそこで夜遅くまで仕事をして、そのまま眠ってしまったらしい」

 

 シンボリルドルフは朝の男の様子を思い出し、一人くすりと笑う。

 

「それはなんというか…あの人らしい話ですね。私も一度、朝に工房を訪れて、眠り込んでいる姿を見たことがあります…」

 

 エアグルーヴは自らの脳内に浮かんだ過去の光景を思わず口にしてしまう。

 シンボリルドルフの耳はぴくり、と反応した。

 

「兄さんの寝顔をすでに見ているとは。なかなかやるじゃないか」

 

 柔らかい言葉の中に少し冷たいものを含んだ声音で呟くと、シンボリルドルフは音もなくエアグルーヴの許を離れた。

 

 

 エアグルーヴの反応を見るに、どうやら兄の髪からしたわずかな異物の香りは彼女ではないようだ。今、彼女に近づいたときも近い香りはしなかったことだし、まず間違いない。

 

 だとすると、誰が接触したのだろう?

 

 ルドルフはエアグルーヴに伝えたものと同じ情報を東条ハナにも伝達したが、そこでも男からした匂いの探索は空振りに終わる。

 

 一体誰が、何の目的で兄に近づいたのか。

 あまつさえ、どのような理由で兄の髪に触れたのか。

 

 今日のトレーニングも重要だが、それ以上にルドルフの思考はその疑問に掛かってしまっていた。

 

 

 エアグルーヴが恋敵として名乗りをあげ、アグネスタキオンも時折怪しげな言動を繰り返しているし、直接確認することは難しいが自らのトレーナーである東条ハナも兄との関係性は同僚以上の何かを感じることがある。

 

 さらによく工房に出入りしているらしいゴールドシップや、エアグルーヴとともに宝塚記念の前に兄の許を訪れているサイレンススズカ。

 

 気が付けば兄の周りには、自分が気づくだけでこれだけのウマ娘たちが群がってきているのだ。

 

 これまでは自分は兄との距離が最も近く、付き合いも長いと自負していたが、ここ最近の関係の密度という点で考えたらどうだろう?

 

 そこまで思考が至った時点で、実は自分が持っているアドバンテージはすでに失われつつあるのではないか、という現実に行き当たる。

 

 それに気づいたとき、シンボリルドルフはぞわりと肌が粟立つ感覚をおぼえ、顔からの血の気が引けていく。

 

「ルドルフ、体調悪いんじゃない?顔が真っ青よ」

 

 その声にはっと我に返る。どうやら少し前から黙考する様子をマルゼンスキーに見られていたようだ。

 

「体調がすぐれないなら少し部屋で休んだら?この合宿に来るために相当無理して生徒会の仕事してたんでしょ」

 

 いつも付かず離れずの距離感のマルゼンスキーは宝塚記念前後からこの合宿に至るまでのシンボリルドルフの生徒会におけるハードワークを理解していた。

 

 ルドルフにしてみれば顔色が悪いのはそのせいではないのだが、今は思考を整理するために時間が欲しいと思ったので、マルゼンスキーの誤解を利用させてもらう。

 

「あぁ…ちょっと朝練で飛ばし過ぎたかな。すこし休ませてもらうよ。合宿に来てこの有様では、本末転倒だ」

 

 マルゼンスキーにおハナさんへの言付けを頼むと、シンボリルドルフは朝食会場を後にして一旦自室に戻ることにした。

 

 

 シンボリルドルフは改めて自分の身の上を思い返す。

 学園に入り、理想を持ち、理想を実現する手段としてレースを勝ち続け、皇帝と呼ばれるほどに登り詰めて学園の生徒会長としての顔までもつ自分。

 

 その立場あってもなお自身の理想を叶えるにはまだほど遠く、生徒たちからは孤高の存在として畏怖の対象となり、一番近い存在のはずのエアグルーヴは今や恋敵だ。

 これまでは学園で悩みがあれば兄に相談してきたが、今は悩みの中心が兄で、そうなると当然、本人に相談するわけにもいかない。

 そう思うとルドルフは男への想いとは別の、ある種の孤独感をさらに重たく感じて暗澹たる気持ちになってしまう。

 

 ひとりでベッドに腰掛け、しゅんと耳を項垂れていた時、彼女の部屋のドアをノックする音がした。

 

「入るわよ〜…ルドルフ、大丈夫?耳、しょんぼりしちゃってるわよ」

 

 マルゼンスキーはいつもと変わらない世話焼きなお姉さんの雰囲気で、そっとルドルフの前に座る。

 

「ホントは体調悪いんじゃなくて悩み事かな〜?私に話してみない?」

 

 ルドルフは悲観的な思考にハマるあまり、すっかり彼女の存在を忘れていた。いつでも適度な距離感でルドルフの周りにいてくれるマルゼンスキー。彼女に救われたことはこれまで枚挙にいとまがない。男がいつもルドルフが困った時に現れるように、マルゼンスキーもまた男とは違った局面でルドルフが困ったとこにそっと助けてくれる存在だ。

 そして今も、先ほどの表情を読んでルドルフの抱えるなにかを敏感に察知して気遣い、部屋まで来てくれたのだろう。

 

「…マルゼンスキーにはお見通しだったか」

 

 他ではあまり見せることのない気弱な笑みを浮かべるシンボリルドルフの表情にマルゼンスキーはにっこりと笑顔で応じる。

 

「さっきエアグルーヴになにか囁いてたでしょう?一瞬すごい怖い表情してたわよ〜?なにかあったんじゃないかと思って」

 

 マルゼンスキーは同時にエアグルーヴの顔が紅潮していたことも気付いていたが、それには触れない。

 二人の感情にプラスとマイナスといえるほどの差があり、そこにルドルフの悩みがあるのではないかとアタリをつけていた。

 

「よく見ているな…さて、どこから話したものか…」

 

 ルドルフはしばらく黙考したのち、共通の知り合いである装蹄師の男との関係から簡単に説明を始めた。

 そして直近、マルゼンスキーも一部関わっていた宝塚記念前後にあったことを時系列で追ってゆく。

 エアグルーヴが恋敵として名乗りをあげたこと、自らの初恋の相手が男であること、ここのところ男の周りが気になること、今朝男と会ったところ、感じたことのないウマ娘の香りを感じたこと…。

 

「…ふぅん…ルドルフもついに乙女の本格化、ってわけね」

 

 マルゼンスキーは艶然とした笑みでルドルフを見つめる。

 

「しかしそのお相手が鉄のお師匠さんとはね〜。昔からの知り合いとは聞いていたけど…ずっと好きだったの?」

 

「自分の感情をはっきりと認識したのはこの学園に入ってからだな。自分の理想を追い求めるが故、周りからは浮いてしまうことが多い立場になってしまったが…それでもくじけずにここまで進んで来れたのは、兄さんが近くで見ていてくれたからだ」

 

 ルドルフは遠くを見るような瞳で呟くように話す。

 

「なら、これからルドルフが進んでいくためにもお師匠さんは欠かせない人なのね」

 

「それは私にとってはそうだ…が、兄が同じように思ってくれるかは…それに、その…つ、付き合うとか恋人とか、恋愛の関係性である必要があるのかというと…それも…」

 

「もう!煮え切らないわね〜…ルドルフは、他の子がお師匠さんとイチャイチャしてたらどう思うの?」

 

 ルドルフの瞳の瞳孔がぎゅっと窄まる。

 

「…それは…それ…は…」

 

 想像してみたルドルフは、心拍数が上がり息が詰まりそうになり、指先が冷えていくような感覚に襲われる。

 額には脂汗が浮かび、胃がせり上がり先ほどの朝食が逆流するような気がして思わず手で口を塞ぐ。

 

「あぁーんメンゴメンゴ!ちょっと意地悪すぎる質問だったわね!」

 

 マルゼンスキーは青い顔をして虚空を見つめるシンボリルドルフを抱きしめ、背中をさすって落ち着かせる。

 同時にルドルフの思い詰め様と想いの強さを感じ、マルゼンスキーは思案する。

 

「…恋がいつも成就するとは限らないけど、応援してるから…いつでも相談してくれていいからね…」

 

 マルゼンスキーは息の上がったルドルフを抱きしめながら、落ち着くまで優しく背中をさすり続けた。

 

 

 

 

 

 エアグルーヴは練習開始時間前に浜辺に出て、身体を今日の練習に向かわせるべくストレッチを開始していた。

 身体を念入りにほぐしながら、朝にシンボリルドルフから伝えられた内容を思い返している。

 それにしても遅くまで仕事をしてそこで寝込んでしまうというのはどうなのだろうか。

 たしかに生徒会主導の研究プロジェクト立ち上げ時には仕事場で眠り込んでしまう男を見かけたことはあったが、合宿先でまでそのような仕事量を抱えてしまうことがあるものだろうか。

 つらつらと考え事をしながら身体をほぐしていると、騒々しいウマ娘たちの声が近づいてくる。

 あの騒々しさはスピカのメンバーのようだ。

 聞くでもなく会話が耳にはいってくる。

 

 

「…なんか、シューズが新品みたいにシャキッとしてますね、今日…」

「…そりゃオメー、鉄のおっちゃんが昨日の夜にきっちり組み直してくれたんだから当たり前だろうが。スペ、感謝しろよ」

「ゴールドシップさんのもじゃないですか、チーム全員分やってもらったんですから…普段、いかに自分が蹄鉄をいいかげんにつけてたのか…反省しなくちゃ」

「さすがに先生と呼ばれる方ですわ。蹄鉄の締め方だけでこんなにフィーリングがかわるだなんて…もっと我々もこだわらなければいけませんわね」

「アタシはおっちゃん直伝で付け方きちんと習ったからな。おっちゃんお手製のゴルシちゃんスペシャル蹄鉄も作ってもらったことあるんだZE!」

「えーいいなぁ。それでレース走ってるんですか?」

「いや、レースには使えねーやつを作ってもらったんだよ!海の岩場専用スペックだぜ」

「なんですかそれ〜装蹄師の先生の無駄遣いじゃないですか〜」

「遊び用の蹄鉄を先生に造らせるなんて道徳に反しますわよ」

「それつけて獲った海の幸をおっちゃんにも届けてるんだからWINーWINの関係だろ?…」

 

 

 話しているのはゴールドシップとスペシャルウィーク、メジロマックイーンのようだ。

 奇しくもエアグルーヴが考えていた男のことを話題にしている。

 話の内容からして、どうやら昨夜男が外で眠り込んでしまった理由はスピカにあるようだ。

 

「あ、エアグルーヴさんおはようございます!」

 

 スペシャルウィークとメジロマックイーンが礼儀正しく挨拶をしてくる。ゴールドシップは軽く手をあげる。

 

「あぁ、おはよう。みんな朝から元気がいいな」

 

 エアグルーヴはいつも通りのクールさで挨拶を返す。

 

「昨日装蹄師の先生にチームのみんなの蹄鉄を点検してもらって、組み直してもらったのが今朝返ってきてたんです。履いてみたらフィーリングがすごくよくなってて、なんか私テンションあがっちゃって…!」

「競技者として恥ずかしくないよう、こういった身の回りのものもきちんとしていかなければいけませんね…」

 

 スペシャルウィークは弾けんばかりの笑顔でシューズの感触を楽しんでおり、メジロマックイーンは改めて装具の大事さを痛感しているようだ。

 

「そういや、エアグルーヴもおっちゃんに改造してもらった蹄鉄持ってたよな。どうなんだアレ。レースで使ったんだろ?」

 

 最近の悪戯から対立することが多いゴールドシップだが、悪びれる風もなく問いかけてくる。

 

「あぁ…素晴らしい出来だぞ。私が不甲斐ないせいでレースは勝てなかったがな…」

 

「ん?エアグルーヴの最近のレースって…」

 

 とぼけているゴールドシップの横で、スペシャルウィークの表情が硬くなり、マックイーンは徐々に青ざめていく。

 

「ゴールドシップさん!その…宝塚記念…!」

「この間のスズカさんが勝ったレースですわ!」

 

 二人が小声で気まずそうにゴールドシップに教えている。

 

「気を使わなくていい。私の完敗だったからな。今のスズカは本当に速い」

 

「まぁなーちょっと今のスズカが負けるところが想像できないよなー」

 

 エアグルーヴとゴールドシップのやりとりをヒヤヒヤしながら眺めるスペシャルウィークとメジロマックイーン。

 

「でも、おっちゃんの勝負鉄で勝ちたいだろ?」

 

 ゴールドシップがニヤニヤしながらエアグルーヴを煽る。

 

「勝ちたいな、造ってもらった蹄鉄でも、スズカにも」

 

 普段冷静で表情が動かないエアグルーヴがわずかに顔を赤らめているのにメジロマックイーンが気付き、一歩後ずさる。

 ゴールドシップがさらに仕掛ける。

 

「勝って、またこのあいだみたいにおっちゃんに頭撫でてもらうんだろ?このこのぉ〜」

 

 一気にエアグルーヴの顔が額まで紅潮し、スペシャルウィークもその変化に気付き、二歩あとずさる。

 ゆっくり目を伏せ、小刻みに震え出すエアグルーヴ。

 

「…貴様…言わせておけば…今日こそは許さんぞ…」

 

 エアグルーヴは顔の熱さに俯きながらも、耳が鋭利な刃物のように尖る。

 その耳の意味を認めてスペシャルウィークとメジロマックイーンは逃走のスタートを切る。

 

「あ!スペ!マックイーンも!ズルいぞ!」

 

 ゴールドシップは遅れて逃走行に駆け出し、間髪を入れずにエアグルーヴもスタートを切った。

 

 ゴールドシップ、今日も出遅れてのスタートです。女帝エアグルーヴの猛烈な追撃から逃れることができるのでしょうか…。

 後から来て途中からやりとりを眺めていた沖野が脳内実況をつける。

 

 沖野は遠くでエアグルーヴに捕獲されたゴールドシップを眺めながら、学園に帰ってからの練習メニューにゲート練習を加えるべきか、とぼんやりと考えていた。

 

 いやそれよりも。

 あの鈍い装蹄師、そろそろ本当に刺されるかもしれん。

 タチが悪いのが、一見とっつきづらそうに見える職人だが、ひとたび関係ができてしまえばあいつは基本的に優しいのだ。

 勝負の世界で身も心も厳しい環境におかれるウマ娘たちだ。そのギャップにハマる者は多いだろう。

 そして一番悪いのは、あいつはそういうウマ娘たちの心理には無頓着だということだ。 

 

「そろそろはっきり言ってやんないとかね…」

 

 沖野は男の作成した点検レポートに目を通しながら、沖野の気になるポイントがきっちり押さえられていることに唸る。

 

「…こういうとこ、だよなぁ。良くも悪くも」

 

 口に含んだ飴を転がしながら、沖野は天を仰いだ。

 

 

 

 




なかなか難産な局面が続いております。
投稿間隔が長くなりがちで申し訳ございません。


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37:トレーナーと装蹄師の葛藤

 

 

 男はシンボリルドルフに起こされた後、宿の自室に戻りシャワーを浴びて仮眠を少しだけとり、9時には作業場のテントに戻っていた。

 納めていた道具類を広げ、始業準備を整える。

 散発的に来るウマ娘たちの依頼をこなしつつ、空き時間は少しうたた寝したりしながら時間が過ぎていく。

 沖野が作業場を訪れたのは昼過ぎ、チームによっては午後の練習が始まろうかという時間帯だった。

 

「昨日は遅くまで作業させちまったみたいで悪かったな」

 

 沖野はそういうと、眠気覚ましとばかりに缶コーヒーを差し入れてくる。

 

「さすがにあの数の分解清掃整備は時間かかりますよ…おかげでここで寝ちまって、朝方通りかかったルドルフに起こされた」

 

 ルドルフ、の名前を聞いて沖野がぎょっとする。

 

「ルドルフって…シンボリルドルフか…?」

 

「そうだよ。他に誰がいるんだよ」

 

 沖野は頭を抱える。

 

「お前、スピカのせいでとか言ってないだろうな〜…」

 

「言ってない言ってない。寝ぼけてたし」

 

 沖野から見てもシンボリルドルフは今のURAの現人神のような存在であり、生徒会長という肩書も含めてトレーナーからも頭の上がらない、雲の上の存在である。

 

「…で、レポートに気になるところでもあったか」

 

 沖野が来たということはあのレポートについて話したいことがあるのだろう、とアタリをつけて男が問いかける。

 沖野に出したレポートは蹄鉄の状態についての事実のみを記載し、私見は一切書かなかった。

 

「まぁな。スズカの蹄鉄の状態はわかったが、それを踏まえてお前の見解を聞きたい」

 

 沖野はストレートに切り出した。

 

「まぁ走りそのものについては専門外だし、多分に主観だけども…サイレンススズカの走力はもう、かなり行くところまでいってるんじゃないかと思う。使っている蹄鉄は細身で攻めてるやつだから、耐久性はあまり期待できないタイプだけど、それにしてもあのヒビ、クラックの出方は異常だと思う。はっきりいって蹄鉄が負けてきてる」

 

 男はそこまで一気に言い切ると、煙草に火をつける。

 

「蹄鉄が負けるほどの走りをしているとなると、当然体への負担はとんでもないだろう。疲労の蓄積とかそんなレベルでなく筋肉、腱、関節、骨それぞれの耐久性というのか…まぁそこは沖野、お前さんの専門領域だと思うけど、俺は素人なりに心配だね」

 

 深く吸い込んで煙を吐き出す。

 

「…どうするんだ、沖野」

 

 男は俯きながら言葉を発しようとしない沖野に問う。

 

「…スズカはアメリカ遠征を計画している。そのために、もういくつか国内で走る予定を立ててる」

 

 枯れ気味の声になっている沖野は缶コーヒーをひとくち飲み、一息いれて続ける。

 

「秋は毎日王冠、天皇賞秋、ジャパンカップと比較的タイトなローテでいくつもりだ。そこで結果を出してアメリカへ、というのがアイツの希望だ。今のところ俺は、スズカの持っているその夢を止める気は、ない」

 

 男は苦虫を噛み潰すような表情で思わず煙草のフィルターを噛む。

 

「蹄鉄が負け始めてるくらいにはっきり出てるんだ。せめてローテーションに余裕を持たすとか考えないのか」

 

「…それぞれの持つ夢をサポートして実現させるのが、トレーナーの役割だと俺は思ってる」

 

 そう話す沖野の内心にも葛藤があるのが苦悩の表情からも伺える。 

 

「だとしても、怪我の可能性を感じているからお前も悩んでるんだろう?」

 

 沖野は俯き、地面を見つめ続けている。まるでそこに答えを探すかのように、一点を見つめ、動かない。

 男は自身の過去の経験と、今のスズカと沖野の関係を重ね、危機感を募らせながらふつふつと怒りの感情が湧きはじめる。

 ここまでわかっていながら、対策もしないというのか。

 

「…そうだ…だが可能性だけで彼女の夢を摘むことも、俺にはできない…」

 

 煮え切らない態度でぐずぐずとしている沖野。

 男の感情は沸点が越え、沖野の胸倉を男が掴んで持ち上げ、声を荒げて問い詰める。

 

「スズカは走りたいのか?勝ちたいのか?結果が破滅であるとしても、それでも?お前はその危険性をわかっていながら、そのままにするのか?トップスピードで骨が砕けでもしたら、最悪命を落としかねないんだぞ!それでもやるっていうのか!」

 

 男の強い言葉に、沖野は今日初めて男に視線をあわせて言い返す。

 

「…そんなことはわかってる!でもな、学園に夢と希望を持って入ってきて、血の滲むような努力をして這い上がってきてここまで走ってきた奴らだぞ!いまさら命を引き合いに出してその夢を捨てろなんてことは、それこそ俺たち大人の横暴じゃねぇか!」

 

 男は沖野の胸倉を突き放す。沖野はふらつき、力なく俯いたまま呟いた。

 

「…できるだけのことはするさ。俺はあいつのトレーナーだからな。スズカのメディカルチェックの頻度を増やして、今まで以上にコンディションには気を配ってやっていく。万が一なにかあっても、俺が責任を取る。だから、これからも協力してくれ」

 

 沖野は冷静な声音に戻り、立ち上がって身なりを整えると、テントから出ていった。

 

 男は沖野の後ろ姿を見送り、苛立ちを抑えきれずに作業台にひと蹴り入れると、がっくりとアウトドアチェアに腰を下ろし自らの心を落ち着けるべく、新たな煙草に火をつけた。

 

 

 

「…とんでもないところ、見ちゃったわね…」

 おハナさんがぽつりと呟く。

 

 東条ハナとエアグルーヴ、シンボリルドルフ、マルゼンスキーは昼食のあと、それぞれの思惑を持って各々、装蹄師の男のもとへ向かった。

 しかしテントの中に沖野という先客がいたために少し離れて彼らの視界に入らないところに控えていた。

 そのうちお互いを認めた彼女たちは自然と寄り集まり、テントの中の男と沖野のやりとりを見守る形になっていた。

 

 二人のやりとりの激しさと内容の重さに、彼女たちは一歩も動けなくなっていた。

 

 東条ハナは三人のウマ娘に目配せをすると、踵を返して静かにその場から離れる。

 三人とも、おハナさんにつづいて静かに離脱した。

 

 おハナさんはトレーナーとしての立場からしても沖野の気持ちも理解しつつ、スズカのこの問題を最初に共有した男がここまで気にかけていてくれたことに感謝もしており、相反する要素に複雑な心境だった。

 もし私が沖野の立場だったらどうするだろう。

 おそらく装蹄師の男と同じような結論を導き、安全に振って指導し、夢の方向を少しずつ変えようとしただろう。

 しかしそれがサイレンススズカの幸せとは限らない。

 現にその考え方が彼女の不振を生んでいたのだ。

 その点、沖野はそこのリミッターを外し、見守るスタンスを取ることでここまでスズカの能力を引き出し、伸ばしてみせた。

 そしてここに至ってもなお、沖野は最大限、スズカの夢を叶えようと、叶えるためのトレーナーであろうとしているのだ。

 その姿勢と覚悟には敬意を表するが、正しいのかといえばそれは解釈の分かれるところだろう。

 

 スズカは自らの手を離れたとはいえ、教え子のひとりである。

 私にできることは、なにかあるだろうか。

 午後のトレーニングを指導しながら、頭の隅で考え続けた。

 

 

 

「兄のああいう姿は、初めて見たな…」

 

 シンボリルドルフの呟きに、エアグルーヴが反応する。

 

「会長でも見たことのない姿だったんですか…」

 

 シンボリルドルフは苦笑いを浮かべる。

 

「私だってなんでも知っているわけではないさ。いや、むしろ知らないことの方が圧倒的なはずだ。なにせ彼は私に対しては兄の態度を崩したことはないからな」

 

 エアグルーヴはそれでもシンボリルドルフが羨ましい、と感じた。すくなくとも自分よりはさまざまな男の顔を知っているシンボリルドルフ。兄と呼べることもそうだが、超え難い、過ごしてきた時間の壁を感じる。

 

「しかし沖野トレーナーもあれでなかなか、芯の強い男だな」

 

 シンボリルドルフは先ほどの光景を見て、沖野というトレーナーのことを見直した。普通のトレーナーであればあそこまで深くは考えず、行けるところまで行って怪我をしたら残念だったな、と言うだけだろう。装蹄師の男と安全に対する方向性は違えど、ここまで気配りをしながらそれでもなお自らの覚悟を固めてウマ娘に寄り添い続けようとする態度は、並大抵の覚悟でできることではない。

 

「あのスピカのメンバーを率いていますから、私ももうすこしいい加減かと思っていましたが…あそこまで考えてもらっているスズカは、幸せ者ですね」

 

 エアグルーヴはライバルとトレーナーの関係を少しばかり羨ましく感じる。

 その感情による僅かな表情の揺らぎをマルゼンスキーは見逃さない。

 

「あらぁエアグルーヴ、ひょっとして沖野トレーナーにときめいちゃった?」

 

「…スズカは幸せ者だとは思いますが、私の好みではありませんね。トレーナーとの関係は、ドライな方が私には合ってます」

 

 マルゼンスキーの茶々も正面から打ち返すエアグルーヴ。

 

「それにしても…話の内容も気になるし、兄の様子も気になるな…エアグルーヴ、少し時間をあけて夜にでも、話を聞きに行こう」

 

 同じ場所で同じ光景を目にしてしまった以上、エアグルーヴを出し抜くようなことができるはずもない。

 シンボリルドルフはエアグルーヴとともに、生徒会でホールドしているタキオンからの命題も絡めて、夜に改めて男に聞き取りに行くことにした。

 

 

 



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38:リギルの会議室で囲まれる男

 

 

 シンボリルドルフは装蹄師の男に話を聞く場をセッティングするための方法を思案した。

 しかし正面からぶつかって沖野との話を聞いてしまったことを持ち出すわけにもいかず、かといって合宿中である現在、なんの脈絡もなくアグネスタキオンとの研究の話を持ち掛けるのも不自然であり、どうするべきか悩んでいた。

 悩んだ結果、沖野と男が言い争う現場を一緒に見ることになった自らのトレーナー、東条ハナに助力を請うことにした。

 

 東条ハナも男と話す必要性を感じていたらしく、リギルとして装蹄師の男と打ち合わせをしたいという建前をつくり、そこにルドルフやエアグルーヴも同席するという形で呼び出すことを提案してくれた。

 

 シンボリルドルフはその提案に乗り、夜にホテルの会議室をおさえて場をつくった。男と沖野のやりとりを一緒に目撃することになったマルゼンスキーにも声をかけたが、人数が増えるとこういう話はうまく聞き出せないものだ、と彼女は同席を遠慮するとのことだった。

 

 

 そのような経緯とは知らずに男は夜、東条ハナからリギルの宿泊するホテルに呼び出されていた。

 さすがに日中作業したままの格好で行くのも気が引けたため、自らの宿に戻りシャワーを浴びて着替えてから、指定の場所に出向く。指定された場所は会議室で、てっきりまた以前のように酒でも飲みながらの軽い打ち合わせと思っていた男は多少面喰らいながらも、どこかに移動でもするのだろうと軽い気持ちで入室する。

 

 ところが会議室に入ってみれば、そこには東条ハナとシンボリルドルフ、エアグルーヴがいた。

 

「あれ…まだ来るの早かったか?」

 

 リギルの打ち合わせの中に来てしまったかと思い、男はとぼけた様子で東条ハナに問う。

 

「いいのよ。この2人にも同席してもらうから」  

 

 トレーナーとの話をする上で生徒が同席するのは不自然ではあったが、そもそも大人の領域に片足以上突っ込んでいるシンボリルドルフとエアグルーヴである。男はさしたる疑問も抱かず席に着く。

 

「で、リギルとしての依頼ってのはどんなことなんだ?」

 

 開幕一番この間のバーでのおハナさんの酒乱ぶりをいじりたい気持ちもあったが、会議室という空気とシンボリルドルフ、エアグルーヴという生徒の前であることから自制する。

 

「あなた、スピカの全員分のシューズと蹄鉄の点検をしたんでしょう?ぜひそれをうちのチームでもやってほしいのだけど」

 

 男は頷く。もっともスピカに比べればリギルは全体的に優等生でまとまっており、シューズや蹄鉄の管理についても同様であろうと予想された。引き受けたところで、あまり男の出番は多くないだろう。

 

「やるよ。だけど全員一気にってのはちょっと時間が厳しいから、半分ずつ、2日に分散してくれると助かる。それなら練習終わってから夜間に作業して、翌日朝には戻せる。量を抱えて作業中に力尽きて朝、ルドルフに見つかるのはさすがにアレだからな」

 

 男はそう言ってルドルフを見やると、彼女は苦笑いのような表情を浮かべている。

 

「なにか特に注意しておいてほしい点とか気になる点があれば、持ち込み時にでもオーダーしてくれればそこは重点的に見る。おハナさん的に気になる娘はいるのか?」

 

 東条ハナはふぅ、と一息入れる。

 男の仕事のスタンスは今のやりとりで概ね理解できた。スピカにも同じようなクオリティでやりとりしているだろうことも推測できる。

 

「…そうね…グラスワンダーとフジキセキに関しては少し注意してもらいたいわ。それ以外は今のところ脚部不安はないけれど、私が気づかないような癖が出ているようなら、それは報告が欲しいわね」

 

 男はコクリと頷く。

 

「じゃあ、早速明日からかな。話は、それだけ?」

 

 昨夜の睡眠不足もあり、早々に話を切り上げようとする男に、シンボリルドルフとエアグルーヴは慌て、東条ハナは男を手で制止する。

 

「待って。その…まだ聞きたいことがあるのよ」

 

 男は浮かしかけた腰を椅子に戻す。

 

「…ま、そうだろうな。これだけの面子がいて、話がこれだけってこともないか」

 

 男は胸ポケットから煙草とライターを取り出し、卓上に置く。無意識に行った行動だったが、腰を据える意思表示のようなものだった。

 

「…気を悪くしないで欲しいんだけど、聞いてしまったのよ。昼間の貴方と沖野との話をね」

 

 東条ハナはバツが悪そうに視線を逸らしながら告げる。

 男はため息をついた。

 

「そうか…聞かれちまってたか。どうする?URAにでも報告をあげるか?」

 

 トレーナーはURA主催のレースに出場登録のあるウマ娘たちの状態について、健康状態やトレーニング記録、競争能力についての報告義務を負っている。

 基本的には自らのチームのウマ娘たちに対してその義務をこなした上で各レースへの出走登録を行なうなど、各種手続きを行っていくのだが、トレーナー全般に共通する基本的な義務として、ウマ娘たちの健康管理がある。これは自分が担当であろうがなかろうが関係なく、全トレーナーがすべてのウマ娘に対してもっている基本的なものである。

 しかしチームを持つようなクラスのトレーナーの場合はそれはほとんど建前と化しており、他チームのウマ娘に対しての報告を行うことは越権とみられる雰囲気がある。お互いの利害が直接衝突するような関係性であるため、不文律として他チームのウマ娘のことで気づくことがあっても報告をあげることはまずない。せいぜいがトレーナー同士の信頼関係に基づいて、情報交換と称してこっそりと伝え合う程度だ。

 

「まぁそれは最後の手段ね…もっとも、私が報告をあげたところで、今のスズカの人気を考えれば握りつぶされるのがオチでしょうけど」

 

 URAは興行組織だ。営利団体ではないことになっていて、法律で規定されている存在である。

 それは未成年のウマ娘たちをレースで競走させ、歌い踊らせるという普通に考えればなかなかに際どいことを開かれた形で行うために、彼女たちの本能的な競走本能と学校教育、さらにはウマ娘という存在の社会的地位を向上させるという目的のもと、文科省と厚労省が捻り出したウマ娘振興基本法という法律に基づいて設置された特殊法人がその存在の元締めだ。

 レース開催に伴う興行収入やグッズ販売などから得られる収入はさまざまに分配され、トレセン学園の運営やレース場の運営、ウマ娘社会の振興などに役立てられ、最終的には一定割合が国庫に納付されるという仕組みで、現代版のパンとサーカス、そのサーカスの部分といえた。

 サイレンススズカはそのサーカスにおいて現在最も注目されている一人であり、人気商売であることを自覚しているURAが根拠薄弱な報告をもとに何か措置を取るかと言えば、URA側もなかなかに難しい判断となり、すぐに動くことはないだろう。

 

「…ここにルドルフとエアグルーヴがいるってことは、お前たちも聞いたのか?」

 

 男の問いに、ふたりはこくりと頷く。

 

「その…沖野トレーナーに詰め寄る姿は、なかなか雄々しくて勇壮だったぞ」

 

 シンボリルドルフは何故か頬を赤らめながら褒めてるんだかなんだかわからないコメントを繰り出してくる。

 

 男は天を仰いで、無意識に煙草に手を伸ばす。

 ここは禁煙ではないようだったが最低限の配慮をして、席を立ち窓際に寄り、窓をあけて火をつける。

 エアグルーヴが会議室の隅に固められている備品の中から灰皿を取り出すと、窓辺の男に差し出してくれた。

 

「恥ずかしいところを見られちまったってのはこの際置いておくとして、その上で、俺に何を聞きたい? スズカのことはおハナさんが懸念してたことが現実化しただけだし、それ以上のことは今のところ考えられるリスクについて沖野と俺が見解の相違を起こしてるだけだ。他チームのことだし、ここで何かを語るのもあまり行儀のいい話とは言えないぜ」

 

 男は不機嫌とまではいかないが、あまり探られたくないところを探られるのを警戒してしまい、口調は少し斜に構える格好になる。

 

 東条ハナは窓際で外を眺めながら煙を細く吐く男に向き直り、口を開いた。

 

「…この子たちの前で話すのも気の引けることはあるのだけど…ドライにいえば、勝負の世界に生きてるウマ娘も、私たちトレーナーも、さまざまなリスクをとって戦っているわ。怪我は避けられない定め、身体の作りも、足の強さも、生まれ持った体は才能の一部、という言葉で片付けて、ある意味運任せにしている部分があるのは否定しない」

 

 おハナさんはいつもの冷徹そのものの表情で語る。

 

「でもね、彼女たちが競技者として輝くのは生まれてから死ぬまでの長い時間の中の、ほんの僅かな期間だけ。そこに全てを賭けて、引退後の日々に支障が出るような怪我、ましてやレースで命を失うなんてことは当然望んでいない。だけど、ほんの僅かな期間がものすごく濃密であるからこそ、後悔させるような選択もしたくない。いつもその狭間で揺れて、悩んで、眠れなくなるのがトレーナーという職業の一側面よ」

 

 冷徹に見えるその表情、その印象をさらに強くしているのが眼鏡だが、実はその奥にある彼女の瞳は、はっきりと憂いを湛えて男に視線を向けている。

 

「沖野はメンタルコントロールの難しいスズカをよくここまで導いてると思うわ。正直、私にはできないことをやってくれて、感謝しているのよ。これまでの経緯も含めて、怪我のリスクを踏まえてスズカを導こうとしてると思う。怪我を恐れてはレースはできない。それは貴方もわかっているはず。それでもなお…沖野と対立してでも止めようとするのは何故?」

 

 男は灰皿に煙草を揉み消し、二本目に火をつける。

 東条ハナ、シンボリルドルフ、エアグルーヴはその男の背中を見つめている。

 

 少しの間静寂が流れ、男はぽつり、と呟いた。

 

「ダブるんだよなぁ…今の沖野と、スズカ。昔の俺と、俺が怪我させちまった後輩と、さ」

 

 簡潔に話すのが難しいから、ちょっと長くなるけどいいか?と男が問う。

 三人は言葉を発せず、代わりにこくりと頷いた。

 

 男はこれまで、沖野以外には話したことのない自分の過去について話し始めた。

 

 

 男が装蹄師の師匠格である老公と知り合う前の話だった。

 学生時代に男が取り憑かれたレースは、ウマ娘のレースではなくクルマで行うレースだった。

 

 男はクルマのレースがしたかったが故に、大学に入学するなり自動車部に入部した。

 部活動を通して車両整備やレースカー製作を学んでいきドライバーとしても活動したが、運転の腕は同期の中でも真ん中かやや下で、どちらかといえばメカニックや車両製作の領域を得意とした。

 鉄の加工の基礎はこの頃の経験が元になっている。

 部は弱小かつ少人数であり、大会に参加することは楽しかったが、成績は常に参加賞レベルという状況だった。

 男はやるからには勝ちたいという思いを募らせていった。

 

 最終学年時には大会を絞って取り組んだおかげでどうにか入賞圏内に入る結果を残せたが、それでも表彰台には届かず仕舞い。

 悔しい思いをしたが、弱小でもやりようで勝負ができるという背中を後輩に見せて、引退。

 

 しかし男は部活にのめり込みすぎたが故に留年してしまい、時間を持て余した結果、翌年も部にアドバイザーのような立ち位置で関与していた。

 男たちの代の奮闘を見ていた後輩たちは、その意思を引き継いで活動していく中で、その年の大会参加スケジュールは男たちが結果を残した大会も当然参加予定だった。

 

 ある日、後輩の主将から、相談を受ける。

「どうしても今年、あの大会で勝負しに行きたいんです。勝ちたいんです」

 男はその熱意を買い、積み上げてきたノウハウも全て後輩たちに伝え、その上でさらに攻めた車両製作の指揮を執った。

 

 作り上げた車両は攻めたといえば聞こえはいいが、その実態は極限まで耐久性を犠牲にした超軽量マシンだった。

 

「…そのクルマで後輩たちをレースに送り出したんだよ、俺は」

 

 結果はマシントラブルによるリタイヤならまだよかったが、実際は競技中にボディの剛性不足でメンバーが裂け、足回りが脱落してクラッシュ。

 ドライバーはコントロール不能になったクルマで、そのままサーキットの壁に激突。

 その時ステアリングを握っていた後輩は一時は生死の境を彷徨い、奇跡的に一命は取り留めたが後遺症が残った。

 後輩は二度とステアリングを握れない体になってしまった。

 

「いける、いけるはずだ、なんとかレース中は持ってくれ…そんな運を天に任せたクルマを作ってしまった。

 リスクをかなり取って競争力を高めている、本当にギリギリ、いや、超えちゃいけない一線を超えたクルマだった。

 それでも勝ちたいという欲求に抗えずリスクを取って、後輩たちを送り出した。

 その結果が、これだよ。後悔してもしきれない」

 

 男はすっかり燃え尽きてしまった煙草に気づかず、涙こそこぼさぬものの目を赤くしていた。

 

「怪我はつきもの、だよ。どんなスポーツでもな。だが、それは偶発的な出来事で、安全にどれだけの万事を尽くしても防ぎようがなかった上で、納得するための言葉だと思う。沖野とスズカの今の姿は、あの時の俺と後輩そっくりで、見てられないんだよ」

 

 男は一息ついて新たな煙草に火をつける。

 

「その後、何もやる気が起きなくてしばらくフラフラしてたところを、人づてに紹介された装蹄師の老公に拾われて今に至ってる。なんの因果か、中身は違えどレース関係、しかも生身が走る競技ときた。ならば今俺にできることは、同じ間違いを犯さないようにすることだと思ってやってるよ。長くなったけど、これが俺の答えだ」

 

 会議室に静寂が訪れる。

 

 東条ハナは眼鏡を外し、左手で目を覆うようにして動かない。

 シンボリルドルフは切なげな表情で、耳をしおれさせていた。

 エアグルーヴはいつもの怜悧な表情を崩していなかったが、瞳からボロボロと涙を流している。

 

「…別に御涙頂戴で話したわけじゃないぞ。だいたい、こんな話はごまんとあるだろう。この世界でも」

 

「…聞いていて、私も過去の教え子のことを思い出してしまって…」

 

 東条ハナは目元を拭う。幸せな結末ばかりではない勝負の世界でここまで実績を残し続けるには、それなりの修羅場もくぐってきているだけに似たような経験を男よりも数多くしてきたはずだ。

 

「…沖野には私からも話してみるわ。何よりもスズカの意思が大事だけれど、沖野にスズカとコミュニケーションさせることも含めて私の仕事ね」

 

 おハナさんは眼鏡を掛け直すと、表情を引き締めた。

 

「私も…スズカと…話してみよう…数少ない友人を不慮の…事故などで失いたくはない」

 

 エアグルーヴは涙を拭いつつ、えぐえぐしながら申し出る。

 普段感情を表に出すタイプではないが、男はここ最近、随分と彼女の感情の振れ幅を目にしている気がする。

 泣き顔のエアグルーヴはいつもの美形が引き立ち、美しいなと男は場違いな感想を抱いた。

 

「それなら私は、URAへの働きかけとタキオンの研究のさらなる加速に尽力しよう。志を同じくする兄さんの悲しい過去を聞いたなら、その思いを無碍にするようなことはあってはならないな、妹としては」

 

 綺麗事ばかりでは済まないことを知りつつある立場のシンボリルドルフは、今こそ力の使い時と考えた。

 もちろん男の思いを形にしたいという感情もあったが、それ以上に己の願うウマ娘たちの幸福のためにも、取り組むべきだと思った。

 

「まぁ…とはいえ、一番はスズカがどうしたいか、だろうな…」

 

 彼女たちの助力を得ることで、安全に万事を尽くすことはできるだろう。

 それでもレースを走るサイレンススズカは、男が積み上げる状況証拠で歩みを緩めるとは思えなかった。

 

 一同はサイレンススズカの行く末を思い、共有した悩みをより一層深くした。 

 




みなさまいつもお読みいただき、コメント、誤字修正等ありがとうございます。
なかなかバキバキに硬い展開で恐縮です。
そのうちまたしっとりしたりもするはずなんで、引き続きよろしくお願いいたします。


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39:ゴールドシップは鋭い

皆様いつもコメントや評価ありがとうございます。
大変励みにしております。
また相変わらずプロットなど作らずに書いている手前、先々のイメージづくりでも助かっております。
話が一本道で作られる都合上、皆様のご期待の展開にならないこともあろうかと思いますがそこはご容赦いただきつつ、引き続きご笑覧いただければと思います。
今後ともよろしくお願いします。


 

 

 

 

 リギルの面々と会議室でのやりとりがあって翌日。

 男は今日も駐車場の隅にしつらえた作業場で、汗を流しつつ作業に取り組んでいた。

 ちらほらと舞い込む分解整備や蹄鉄の補修、修正。

 改造相談もあったが設備が十分でないここですぐには対応できないものもあり、それは改めて学園で依頼をうけるようにしたりと、なにかとこまごま依頼が舞い込み、その手が暇になることはなかった。

 手を動かしながらも、ここに来てから昨夜までの一連のやりとりを思い返す。

  色々多方面とのやりとりはあるものの、結局自分にできるのは蹄鉄をつくったりいじったり、それから気づくことをフィードバックすることだ。

 ウマ娘たちのメンタルやフィジカルに直接関わって、「レースを闘うウマ娘」そのものをプロデュースする能力があるわけではないし、そういう訓練もしていない。

 

 男の視点はひとつのパーツに先鋭化させた知見を持つ職人としての視点であり、そこから得られるデータやフィードバックは大きな価値はあるだろうが、それは所詮部分最適に過ぎない。競技者としてのウマ娘をひとつの個として全体最適を見るべきトレーナーや、レースそのものあるいはウマ娘のレース界全体としての視点からすると構成要素のほんの小さな一要素だ。

 

 その立場にどうにも歯痒い思いがあることも確かだが、残念ながら男は自分に対して全体最適を見るべきポジションに乗り出していく能力があるとも思えないし、勇気もないという評価を下している。

 ざっくり切り捨ててしまえば、今の男の言うことは所詮は外野があれやこれや吠えてるだけではないか、という冷めた見方もできるな、と思っている。

 

 いかんいかん。また思考の沼にはまっている。

 

 男は手を止め、睡眠に休憩にとすっかり定位置となっているアウトドアチェアに座り、沈み込む。

 

 煙草に火をつけて一息吸い込めば、混濁した思考がいくらか鎮静される。

 

 それでも頭の中を駆け巡るあれやこれやという雑音のような思考が消えることはない。

 

 んがあぁぁぁ!と頭を掻きむしっていたところに声をかけられる。

 

「おっちゃーん!…なんだ?頭に虱でも沸いたのか?」

 

「ちげーよ!」

 

 ここに来て初日にスピカのメンバーを紹介しに来てくれて以来の絶対的異才美女、ゴールドシップだ。

 

「なんだーそんなに頭ぐちゃぐちゃしてたら貴重な髪が減っちまうぜー。ストレスと刺激は良くないんだゾ☆」

 

 そういえばここ数年白髪も増え、髪も細く、密度も若干低下したような気がする。30を越えてから、ぼんやりとだがそんなことを気にするようになった。

 

 ただでさえ普段身なりに気を使うほうではないからあまり深くは考えていなかったが、生活習慣はともかく食生活はシンボリルドルフに引かれる程度にはひどい。

 気がつかないうちに、頭髪が寂しいことになってきていたとしても不思議ではなかった。

 

「………」

 

 ゴールドシップの言葉に、無言で自らの髪の毛を触って毛量を確かめる。しかしこういうのは自分ではわからないものだ。

 

「…髪、減ってるかなぁ?」

 

 思わずゴールドシップに聞いてしまう。

 

「さーなー。フラッシュあたりに数えさせてみたらわかんじゃねーか?」

 

「実数聞いたところで増減はわからんですよ…」

 

 男はふぅ、とため息をついた。

 

「なんかくれーなー。悩み事か?」

 

「まぁいろいろと、ね…」

 

 いかに気安く話せるゴールドシップとはいえ、今回の件は彼女の所属しているチームのことでもあり、安易に口にするのは憚られた。

 

「…あててやろうか」

 

 ゴールドシップの口調がいつものふざけた口調ではなく、すこしトーンが落ちて真剣味を帯びた。

 男はその変化に少し身構えてしまう。

 

「……そうだな…スズカのこと、だろ」

 

 普段見ることのない落ち着いた瞳で、男は射抜かれるように見詰められる。

 

 男は降参を示す様に両手をあげた。

 

 …まったく、この天衣無縫絶対美娘なゴールドシップという娘は、どこからこのような情報を得ているのだろう。

 いい機会だから、聞いてみることにする。

 

「正解だけどさ、一体そう言い切れる根拠はなんなんだ?」

 

 するとゴールドシップはんー…と唇に手を当てて考える仕草をして、答える。

 

「コレ、っていうのはねぇんだよ。ただ、スズカは絶好調でチームもいい雰囲気なのに、トレーナーの表情にはどこか陰があるんだよな、それに…」

 

 曰く、彼女があげたポイントはこうだ。

・練習中にリギルの東条ハナの視線を感じるが、偵察というよりはなにかを抱えてこちらを見ているふうだと感じる。

・生徒会長も副会長も、なにやらバタバタ落ち着かない雰囲気。

・普段はなにかと騒いでいるアグネスタキオンが、ここのところぱったりと静かだ。

 

「それに、こないだトレーナーの指示でおっちゃんに点検してもらったろ?あのあとからトレーナーの様子がより一層おかしいんだよナ」

 

 指折り数えて気になる点を挙げていくゴールドシップ。

 

「それでおっちゃんまで何かに悩んでるとなれば…全員に共通する何かがあると仮定すれば、浮かび上がるのはスズカくらいじゃねーかな、と思ってさ」

 

 誰にでも見ることのできる普段の姿から情報を拾い上げることは普段の訓練からある程度できる。

 しかしその情報の解釈に推測を積み重ねれば実像はどんどんぼやけるものである。

 だがそこにひとつの共通点を見いだせれば、仮説の上での必然を導くことは可能だ。

 

 そんなスパイじみた観察術と思考術をなんてこともなく意識せずこなしてみせるウマ娘。

 

 それがゴールドシップという奴なのだ。

 

 男はぞくりと背筋が寒くなる気がした。

 

「…降参だ降参!お前、おっそろしいヤツだな…」

 

「なんだよーつまんねーなぁこのくらいちょっと考えれば誰にだってわかるだろーによー。大げさだって」

 

 誰にだってわからないし大げさでも何でもない。

 意識してやるならともかく、無意識に無造作にこれをやれてしまうのはまさしく天の与えたもうた才能であろう。

 敵にだけは回したくないウマ娘である。

 

「まぁ、中心にスズカがいるってことはわかっても、内容まではわかんねーよ。スズカは今絶好調だし、今のアイツが負けるなんて考えられねーような状況なのに、みんな何悩んでるんだろーなー…負けるわけないのに…負けるとすれば…」

 

「ゴールドシップ、それ以上いけない」

 

 男は慌ててゴールドシップの思考の深堀りにストップをかける。このまま彼女の頭で掘り続ければ、おそらく完全に当たらずとも遠からずな結論に至るだろう。それを問い詰められれば男も嘘は言えない。

 

「…ってまぁ、そんなことはどーでもいいんだよ!」

 

 彼女は真剣な表情から一転、ひときわ明るい笑顔を見せる。

 

「おっちゃんもトレーナーたちも生徒会も、なんとかみんなこの世界を良くしようとして頑張ってくれてるんだろ?そんなことはこのゴルシちゃんよくわかってるからさぁ!」

 

 彼女はニコニコと男を見つめてくる。

 

「だから分かってるけど分かってないアタシみたいなのと話せば、おっちゃんの暗い顔してんのも色々気を遣わずに少しは気晴らしになるかなーってさ!」

 

 ゴールドシップ…なんていい娘なの…。

 男は思わず、生徒であるはずのゴールドシップの気遣いに感涙しそうになる。

 

「……こぉらぁゴルシ!なぁにサボってんだー!」

 

 …沖野の怒声と彼女がサボりでなければ、間違いなく落涙していただろう涙は瞬時に引っ込む。

 

「やっべ!トレーナー見つけんの速えぇな!あと10分くらいは稼げるハズなのに…さてはウデを上げたな!」

 

 沖野の声に反応してゴールドシップは騒々しく立ち上がる。

 

「あぁおっちゃん、言い忘れてたけど」

 

 ゴールドシップはシューズをトントン、と地面に打ち付けて整えながら言う。

 

「スズカはスズカの、トレーナーにはトレーナーの、おっちゃんにはおっちゃんの、それぞれの考えがあるのはわかるぜ。でもな、アタシたちレースを走るウマ娘は挑戦してナンボなんだぜ!じゃあまたな!」

 

 …どうやら彼女は男の悩みの内容まで、大筋で見抜いていたらしい。

 

 決め台詞をカッコよく男に遺すと、陽にきらめくような芦毛の尻尾と後ろ髪を靡かせて、彼女は気持ちのいい蹄鉄の音を駐車場のアスファルトに響かせて駆け去っていった。

 

 

 男はあっけに取られてその姿を見送ったが、彼女の置いていった決め台詞を反芻する。

 

 そして昨夜のやりとりを思い起こす。

 ガラにもなく身の上話をしてしまったが、あの経験から得た安全への志は、自体は今を生きる男の信条であることに変わりはない。

 

 ならば、今の自分の能力に自ら限界を設け、諦めてただ眺めるのではなく。

 自分の仕事に自分で枷をハメて割り切るのではなく。

 専門領域をさらに深め、限界を超えて、領域を拡げてこそ、自らの存在意義だろう。

 

 そこまで考えて、ゴールドシップの言葉を再度反芻し、男はハタと思い至る。

 

 なんだ。そうか。

 

 俺も、あの娘たちと、ウマ娘たちと一緒じゃないか。

 

 挑戦してナンボ、だ。

 

 男は混濁した考えにひとつ、光明が差した気がした。

 



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40:過去と現在の交錯点

 

 男は、学園に戻ってきた。

 

 現場でのリクエストにはほぼフィードバックを済ませたが、夏合宿中に起こったさまざまなことに対応する準備も必要だったため、生徒たちより一足早く引き上げてきたのだ。

 

 なにより、最近高稼働が続いていた工房の設備をそのままにして夏合宿に出てしまったため、これからまた起こるであろう酷使に備えてのメンテナンスも行わねばならない。

 ある程度自らの裁量で仕事ができるとはいっても、のんびりしていられるとは思われなかった。

 

 夏合宿仕様のハイエースの積載物については帰着日に荷解きを終え、洗車して返却を済ませる。

 翌日は工房の掃除から始めた。

 

 手を動かしながら、サイレンススズカの件も頭の隅で考えを巡らす。

 

 今の蹄鉄が明らかに耐えられていない状態であるからして、本来であれば別の蹄鉄やシューズの組み合わせを模索し、提案するのは男のひとつの仕事と言えた。

 すくなくともシューズ周りの信頼性を上げることで、レース中の破断や落鉄に起因するトラブルの可能性は下げられる。

 

 しかし一方で、現在絶好調のスズカである。

 

 シューズ周りを見直すことで当然少なからずフィーリングは変わってくるし、調子を崩すことも考えられる。

 

 うまくいっているときこそ次の一手は難しいものだな、と男はひとり呟く。

 

 頭の一部分で考えを行ったり来たりさせながら、工房の設備類のメンテナンスや足りないものの手配など、再稼働させる準備を整えるには、夕刻までかかった。

 

 久しぶりに工房の外のベンチに沈み、煙草を吹かしながら、ウマ娘たちのいない静かな学園の片隅で、スズカの蹄鉄に関してさらに思考を進める。

 

 スズカの蹄鉄はかなり先鋭的なデザインで名を馳せる海外のメーカー品だ。

 

 そのメーカーはとにかく「レースに勝つ」ことをテーマにウマ娘用の装具を製造しており、同じ名前を持つスポーツカーメーカーとは資本関係こそないが、創業一族の祖業であるらしい。

  

 スズカが採用しているそのメーカーの蹄鉄は、彼女の逃げという脚質に沿ったものだ。

 スタートしてスピードにのり、トップスピード付近で長く走れるように無駄を削ぎ落され、接地面はあくまでシャープに、全体的な構造も必要最低限でレギュレーションに適合するギリギリの軽さとなっている。

 

 差しや追い込みの展開を可能にするような瞬間的、爆発的なトルクを受け止めることはあまり考慮されておらず、駆け引きしながら走るレースには向かない。すっぱりとスピードに割り切った仕様だ。

 

 おそらくスズカはシューズもセットで、重心も含めて好みに仕上げてあるはずだ。

 

 そう考えると蹄鉄の改良だけでは片手落ちだと思われた。

 

 男は久しぶりに自らの上司に連絡を取り、翌日に打ち合わせ時間を設けてもらうことにした。

 

 

 

「なんだ、いい具合に焼けてるな。山に海に、満喫してきたか?」 

 

 久しぶりに顔を合わせるシューズ課長は男から夏合宿の土産である菓子折りを受け取りながら、悪戯っぽく笑った。

 

「いやぁ行ったら行ったで色々ありましてね…あ、イクノディクタスの走りを見せてもらいましたよ」

 

 この間取り組んだ成果をさっそく見ることができたと伝えると、課長は来年の入学が楽しみだ、と我がことのように喜んだ。

 

「で、色々あったほうのことで、相談があるんだろう?」

 

 課長は話題を切り替えた。

 さすがに男が丁稚の頃からの付き合いだけあり、話が早い。

 

 男はサイレンススズカの蹄鉄の状態とトレーナーが気にかけていること、この秋にはタイトなローテーションが組まれることを話した。怪我の懸念に関しては言及しない。

 

「…そんなわけで、スズカの勝負シューズを研究用に都合できないかと思いまして」

 

「そりゃあまぁ、研究名目で用意するくらいわけないけどな…ローテに関しては沖野さんも危ない橋渡るなぁ」

 

 課長はすこし思案顔で、事務所内を見回す。

 夏季の合宿期間中であるため、服飾部内も交代で夏休みをとっているようで人は疎らだが、それでも彼らの話し声を聞くことができる距離で数人、それぞれの職務に励んでいる。

 

 課長は立ち上がると、無言で人差し指で天井を指差し、屋上へ男を誘った。

 

 

 屋上はじりじりと遠慮なく照りつける日差しで焼けるような暑さだった。

 課長は屋上にわずかにある日陰に隠すように設置されているベンチに腰をおろす。

 

 課長は煙草に火をつけると、男にも一本勧めた。

 男は自分のがありますので、と自分の煙草を取り出し、咥える。

 

「建前はわかった。で、本音の方は?」

 

 課長は男にそう言うと、眩しさに目を細めながら煙を吹かす。

 

「…沖野はサイレンススズカの脚の故障を予感しています。しかし彼女の希望を汲んで、いけるところまで行く覚悟のようです」

 

「そんなことだろうと思ったぜ。まぁ今のあの娘の勢いじゃ無理もないがね。蹄鉄とシューズで起こるかもしれない脚の故障をどうにかできないのかって思ってるのか?」

 

「それができればと思ってますが、難しいでしょうね。まぁまずは負けてる蹄鉄をどうにかして、落鉄なんかのマイナートラブルを減らして少しでもリスクを下げられれば、程度で考えてます」

 

「難しいのは俺も同意見だな。蹄鉄やシューズいじって調子くずさせるわけにもいかないし、提案するにしても悩みどころだな。トレーナーからの正式な依頼ってわけでもないし」

 

「沖野はスズカの夢を叶えるために、よほどのことがない限り抱え込むと思います。まぁスズカの前トレーナーの東条トレーナーや生徒会なんかには事情がバレちゃってますが…」

 

「なんだお前、バラしたのか?」

 

「バラしたというか…見られちゃったんですよね。沖野とのこの件でのやりとり」

 

 あぁ…と課長は苦笑いする。

 

「お前、懐かれてるもんなぁ。あの娘たちにも、おハナさんにも」

 

 ここのところいろんな形でいろんな関係者からこのことを言われるが、まさか上司まで言い出すとは思っておらず、男は喫驚した。

 

「…なんにもないですって。たまたま今年に入って妙に絡みが多いだけで」

 

 果たして本当にたまたまなのかはここのところ少し男にも思うところがあったが、とりあえずそういうことにしておく。

 

「まぁなんとなく事情は周辺情報も含めてわかったよ。今絶好調のサイレンススズカを題材にして、我々も大人の自由研究といこうじゃないか。もっとも夏は過ぎつつあるがね」

 

 課長は人の善い笑顔を浮かべながら、上機嫌で煙をはきだした。

 

 

 

 男はシューズ課長を味方につけられたことに安堵して工房に戻る道を歩む。

 何をするにしても味方は多い方が良いし、いかに業務上の裁量が大きいとはいえ勝手にやるよりは上が知っていた方がなにかと便利である。

 

 刺すような日差しを浴びながら進み工房が見えてくると、入り口付近に緑のスーツ姿の人影がサルビアに水をやってくれているのが見える。

 男は夏合宿中のサルビアの水やりについて施設管理部署に依頼していたが、今それをしてくれているのはまさかの理事長秘書である駿川たづなさんその人であった。

 慌てて駆け寄り、お礼を述べる。

 

「装蹄師さん、夏合宿の巡回お疲れ様でした。今日は管理部も人が手薄で、たまたま私が見回りのついでに対応していただけですから、大丈夫ですよ」

 

 いつもの穏やかな笑みを崩さないたづなさん。

 この日照りの中でも汗ひとつかいていない。

 お礼というわけではないが、せっかくここまでご足労いただいているので冷たいお茶でもお出しすることにして、たづなさんを工房の応接へご案内する。

 

「助かります。こうも暑いと水分補給してもすぐに喉が渇いてしまいますものね」

 

 応接セットで向かいあい、しばしの雑談タイムとなる。

 時折訪れるたづなさんとの会話は、男にとっては学園の動きを知る貴重な時間でもあった。

 たづなさんとの会話の中で、男はふと、相談事があったことを思い出す。

 ちょっと待っててくださいね、と男は工房の奥から古めかしい木箱を持ってきた。

 

「この間の理事長特命のシューズ研究の時に倉庫から見つけたモノなんですが…これの処遇をご相談したいんです」

 

「あら。足袋型のシューズとは、相当な年代物ですね…」

 

 たづなさんはそっと、高価な装飾品を扱うような手つきでシューズを持ち、眺める。

 どこから話をしたものか、と男は逡巡したが、レースやウマ娘愛にはただならぬ熱量と評判のたづなさんである。

 きっと受け止めてくれるだろうと思い切って話すことにした。

 

「たづなさん、トキノミノル、ってウマ娘、ご存知ですか?」

 

 たづなさんの柔らかな表情が一瞬、固まったように見える。

 男はそれに違和感を感じながら続ける。

 

「…戦後、それほど経っていないころの皐月賞、ダービーを獲ったウマ娘のものです。私の師匠格の装蹄師が保管していたもののようで、倉庫から見つかりまして」

 

 彼女の表情が変化していく。

 いつもの笑顔がまるで仮面であったかのようにかき消え、眉が下がり、口はへの字に曲がってなにかを堪えているようだ。

 シューズを胸元に引き寄せたまま、じっと瞳を閉じている。

 

「たづなさん…どうかしましたか…?」

 

 問いかけにもこたえず、やがて彼女は瞳を閉じたまま、口元をひくつかせたまま、ほろりと涙を零した。

 

「…ったづなさん?ど、どこかお体の調子でも…」

 

 中腰になって身を乗り出し焦る男に、指で目尻を拭いながら、たづなさんは苦笑いとともにようやく口を開いた。

 しかし言葉も、シューズを持つ指も震えている。

 

「…すいません…つい、胸がいっぱいになってしまって…うぅっ…」

 

 そこまで言葉を紡いだところで、ついに彼女は抑えきれず、子供のように泣き出した。

 

 

 

 差し出したタオルに顔を埋め、男が背中をさすってもなお、彼女がおちつくまではしばらくの間を要した。

 

「…ほんとうに…すいません…もう、大丈夫です…」

 

 男は何をしてしまったのか、全くわからなかった。

 しかしトキノミノルが、たづなさんのなにかに触れることだけは確かなのだろう。

 

「…理由をお聞きしても?」

 

 彼女はこくりと頷く。

 男はタオルから顔を上げたたづなさんと目が合い、ごくりと唾を飲み込む。

 

「トキノミノルは…私の祖母、なんです…」

 

 男は驚いた。

 確か、老公の話ではダービー以降のトキノミノルは行方知れず、と言っていたはずだ。

 

「私は一人きりの孫で、とても可愛がってもらいました…私も祖母が大好きで…思わず思い出してしまったんです…驚かせてしまって、ごめんなさい…」

 

 聞けば、たづなさんの父方の祖母がトキノミノルであるとのこと。

 トキノミノルは結婚し男子、つまりたづなさんの父を産んだが、直後に夫が病死。

 ひとりで息子を育て、その息子の子がたづなさんだという。

 

「祖母がダービーウマ娘であることは、ほとんど誰も知らなかったと思います。父はあまりウマ娘のレースに興味がなかったらしく、祖母が亡くなるまで、よく知らなかったそうです」

 

 彼女は愛おしそうにシューズを眺める。

 

「私は幼少の頃からウマ娘のレースが大好きで、でもテレビで見ているだけでした。そんな私を祖母は一度だけ、レース場に連れていってくれたことがありました」

 

 ターフを眺めるトキノミノルの瞳と表情に、いつもと違うものを感じたたづなさんは、尋ねた。

 するとトキノミノルは優しい表情で一言だけ、たづなさんに告げた。

 

「…私もすごく昔に、走ったことがあるんだよ」

 

 観客席から遠く眺めるターフが、急に近くなった気がしたんです、とたづなさんは言った。

 

「祖母はそれからしばらくして、亡くなりました。遺品の中にも、レースを走っていたときのものは残っていなくて…ただ、古いお菓子の缶の中に1枚だけ、こんな写真がありました」

 

 たづなさんは手帳から、1枚のセピア色の写真を取り出して、見せてくれる。

 ウイニングサークルで関係者に囲まれて記念撮影をした1枚。

 よくみると、老公の若かりし頃と思しき人物も写っている。

 

「祖母の一言が無ければ、今の私はただ、ひとりのファンとしてレースをみていただけだったでしょうね」

 

 たづなさんはトキノミノルの言葉とこの写真を頼りに、祖母のレースを戦うウマ娘としてのことも色々調べたという。

 記録としては皐月賞、ダービーを獲ったということはすぐにわかり、幻のウマ娘という二つ名があることまでは調べられたが、そのまま引退となってしまった事情や当時の空気感など、祖母の足跡を辿るのは相当に難しかったという。

 

「もちろん私は今のようにレースも好きでしたから、趣味としてレース場などに足を運んだり、祖母にまつわることをURAにいろいろ問い合わせたりしているうちに、先代の秋川理事長とご縁がありまして…」

 

 なるほど。

 それが今のたづなさんのポジションにつながっていったわけだ。

 男は人の縁が繋がっていくドラマに、壮大さを感じずにはいられなかった。

 

「ここに就職してからも、祖母の足跡を探し続けていたんです。それでも、祖母がこの世界にいた証を、記録と当時の新聞以外に見つけることはほとんどなくて…だから、これが祖母のモノだと言われた瞬間、胸がいっぱいになって…」

 

 そうだろう。

 たづなさんの幼少期からの探し物が突然、出てきたのだ。

 そんなものであれば、俺がたづなさんの立場でもやはり泣くだろう。

 たづなさんは話しながらふたたび涙ぐんでいる。

 

 ふたりでしんみりしていると、たづなさんのスマホが鳴動する。

 

 取り出して、男にことわるように頭を下げると、たづなさんはスピーカーで通話ボタンを押した。

 

「たづなっ!今どこにいるんだ!次の予定は…」

 

 相手はあのちびっk…理事長だ。

 

「理事長、申し訳ありません。思わぬモノに出会いまして…」

 

 たづなさんがことの次第を理事長に説明する。

 一通りのことを聞いた理事長は、一言。

 

「収蔵!たづな、ウマ娘歴史館をつくるぞ!」

 

 理事長はシューズの価値を評して、スマホの向こうで即断した。

 

 

 

 

 




みなさまいつも感想コメント、誤字修正、評価等ありがとうございます。

更新遅くなりまして申し訳ございません。
月末月初は仕事が立て込みますね…時間と体力が(能力も)足らない…

今回は以前置いてきた要素の回収を実施致しました。

引き続き不定期更新で恐縮ですが、お付き合いいただければと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。


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41:秋の始まりと感謝祭への助走

 

 

 

 夏合宿が終わり、学園に徐々にウマ娘たちの声が戻ってきた頃。

 

 秋のG1戦線はもう少し先で、暑さの残るこの季節、トレセン学園では「秋のトゥインクルシリーズファン大感謝祭」が開催される。

 

 トレセン学園の学園祭を大きくしたもので、地元の商店街なども巻き込みそこそこ大きなイベントとなっている。

 

 学園内からはチームにより出店をだしたり、有志によりイベントを開催したり、純粋に参加者としてお祭りを楽しむこともできる。

 

 もちろんレースに向けてのトレーニングが怠られるわけではないが、彼女たちはアスリートであると同時に学生でもあるわけで、学園のイベントは彼女たちにとって息抜きの意味合いもある。

 

 準備期間中は男はいつもよりも日常業務が若干減ることもあり、例年は学園祭に関連して鍛冶仕事の依頼もこなしたりする。

 

 例えば特設ステージを作る際の溶接作業や、展示物製作の技術的な支援など、学園の職員の立場として彼女たちの活動を支援するのだ。

 それゆえこの時期の男はウマ娘の装蹄師というよりは、さながら鉄工所のオヤジといった風情となる。

 

 そして今日は、生徒会からの依頼で臨時に設営されるステージの造作手伝いに向かっている。

 

「すまんな。今回のステージングにおいて、急遽現地で造作が必要となってしまった」

 

 男に依頼をし、当日出迎えたのはエアグルーヴだ。

 生徒会はこの大感謝祭のために日々激務に追われているため、彼女の顔色はやや悪い。

 そしてエアグルーヴの隣には、学園内では見たことのない、よく日焼けしたスキンヘッドのいかつい男が控えている。

 

「まぁそういうこともあるわな。大丈夫よ、今日は鍛冶屋さん大道具さんやるから。で、何をしたらいい?」

 

 男はスキンヘッドを極力意識に入れないようにしながらエアグルーヴに話す。

 

「東京レース場から舞台技術チームが来てくれている。彼らの指示に従ってほしい」

 

 男は頷くと、エアグルーヴは傍らのいかついスキンヘッドを舞台監督として紹介してきた。

 

「ホント助かるわぁ!じゃあ早速こっちにきて!」

 

 男は背筋がぞくりとした。

 

 舞台監督と呼ばれた男は年齢不詳のスキンヘッドで妙に日焼けした肌をテカらせており、極彩色のシャツを纏っている。そしてその見た目とはまったくそぐわないおねえ系の話し言葉を発している。

 

 視覚情報だけでも相当な存在感を放っているのに、そのうえ話し言葉までこれではさすがに情報が渋滞してしまう。

 

 舞台監督と呼ばれた男は、エアグルーヴから装蹄師の身柄を引き受け、歩みだす。

 

「トレセン学園の装蹄師さんなんでしょ?こんな荒事に巻き込んじゃって申し訳ないわねぇ…」

 

 舞台監督はそのいかつい風体に似合わず、装蹄師の男に本当に恐縮しているようだった。

 

 普段男が接することのない人種で、奇抜な格好をしており妙に距離感が近いのが気になったが、レース場のウイニングライブを担当している舞台監督といえば、国民的スポーツであるウマ娘のイベントを支える裏方の中でもトップクラスの才能である。

 そんな才能の持ち主であるから、当然個性も強烈であろう。幸いに人格的には悪い人物ではなさそうでもある。

 男はそう納得することにして、舞台監督についていく。

 

 連れられていく先は学園内にいくつかある練習用トラックのうちのひとつだ。

 近づくにつれ、いつものウマ娘たちの姦しさとは違う、工事現場のような喧騒が伝わってくる。

 

 スタンドをくぐってトラックに出てみると、コース内側の普段はグラウンドのようになっている平地に仮設のステージが組まれている。

 仮設といってもかなり大規模で、いわゆる野外フェスなどで目にするような本格的なステージだ。

 コース上はターフを傷めないよう、保護目的の樹脂のマットが敷かれ、大規模にお客を入れられるようになっている。

 

 全体の規模感は学園で行う感謝祭のステージとしては不釣り合いなほどのものと言えた。

 

「大きいなぁ…」

 

 男は思わずステージを見上げて呟く。

 

 隣にいたおねえ系舞台監督はくすりと笑った。

 

「ホントはね、府中のステージをまるまる持ってきたかったんだけど…あちらは常設だからそう簡単にはいかなくて。これでもだいぶ妥協したんだから」

 

 舞台監督は肩を竦める。

 

「…今回、感謝祭の依頼を受けたときに思ったのよね。普段はこういうステージで、成績のいい娘しかスポットライト浴びれないじゃない?今回は大感謝祭っていうテーマアップだからレースに関係なく、純粋に年頃の彼女たちをキラキラさせてあげられるいいチャンスなんじゃないかって」

 

 さすがウマ娘のもうひとつの顔であるライブパフォーマンス、そのステージングを監督する立場の人間である。見た目の奇抜さはともかく、ウマ娘たちに向ける愛情は本物だ。

 

 見渡せばステージ周辺のあちこちに技術チームの人々が動き回り、照明のセッティングやスクリーンの設置、音響関係の設営などが進んでいる。   

「その気持ちを意気に感じてくれた府中の技術チームがすごく頑張ってくれてるんだけどね、ちょっと仮設ステージの経験不足で、いろいろと足りない部分があって…現場合わせで溶接とかの作業が必要になっちゃったのよ」

 

 男はこくりと頷く。

 

「そこまで彼女たちのことを考えてくれて、これだけの人数が動いてるんですから…私もできる限りお手伝いしますよ」

 

 おねえ系監督はいかついスキンヘッドからは意外なほどの爽やかな笑顔で右手を差し出す。

 男は誤解せずに差し出された右手に握手を返した。

 監督はおねえがかった口調とは裏腹に、力強く男の手を握り返した。

 

 

 

 

 仮設ステージの現場作業は男の想像以上に過酷を極めた。

 

 基本的に全体構造はレンタル機材の組み合わせなのだが、随所に舞台監督のこだわりが入り、ありあわせの資材だけでは演出に必要な照明などの機材セッティングが出せずにワンオフでその場で造る必要のある金物が多数あった。

 また現場の進行に合わせ作る舞台装置も人手不足でうまく進んでおらず、男は溶接に資材の切り出しに板金にと、持てる技術のすべてを絞り出させられるような過酷さだった。

 

 要望に応じて溶接や溶断など荒っぽい作業を繰り返した結果、目途が立つ頃には男は普段の工房での作業以上に疲弊し、体中を煤と鉄粉だらけにしていた。

 

 設営も終盤に近付き、男は手があいたところでステージ全体を見渡せる本部テントの片隅で、ぼろ雑巾のようにぐったりとしていた。

 

 本部テントの真ん中では、スキンヘッドおねえ舞台監督がトランシーバーであちこちと連絡を取り合い、タブレット端末や紙の図面とにらめっこしながら進行指示を飛ばしている。

 

 ときおり、おねえ言葉が崩れ男の声でどやしつけたりと、ひとり二役以上の人格を操りながら舞台を仕上げていく監督は、まるで鬼気迫る芸術家といった風だな、と男はぐったりしながら思った。

 まぁたまにはこんな刺激も悪くない。

 男はここのところ詰まり気味だったスズカの件も含めていい気分転換と思うことにし、状況の推移を気だるげに見守っていた。

 

 

「お疲れ様です。こちらの進捗はいかがですか?」

 

 聞き知った声がしたと思ったら、その声とともに本部テントの雰囲気が変わる。

 

「これは…シンボリルドルフ会長!わざわざご足労いただいて光栄ですぅ!」

 

 舞台監督がおねえの声音をさらに猫なで声にして応える。

 

「こちらこそ、監督。我が校の感謝祭にこのような立派で煌びやかなステージを組んでいただいて、ありがとうございます」

 

 威風を漂わせたシンボリルドルフが監督を握手を交わす。傍らにはエアグルーヴも付き添っている。

 

 男は端で目立たぬようにぼろ雑巾然としながら、その光景をただ、眺めていた。

 

 舞台監督と話をしているシンボリルドルフは普段の男が目にするルナと呼ばれる少女ではなく、URAにおいて確固たる地位を自らの脚で築いた皇帝、シンボリルドルフそのものだった。

 

 自らの知る彼女とのあまりの違いに、同一人物という認識を持てないでいる。

 

 疲労も手伝って男はそれ以上の思考を諦め、いたたまれないような心持ちでただ茫然と、作業が進むステージに視線を移した。

 

「…大丈夫か?だいぶ疲弊しているようだが」

 

 いつのまにか男のそばにきていたエアグルーヴに声をかけられる。

 

「あぁ。ちょっと疲れただけだ」

 

 男は不意の問いに、不覚にも複雑な胸中を声音に表してしまう。

 

「…不機嫌だな…今日の私の依頼は装蹄師のプライドに傷をつけてしまったか…?」

 

 エアグルーヴは耳をわずかに力なく倒している。

 男は火をつけていない煙草を咥え、もたれかかっていたパイプ椅子を立ち上がる。

 

「違うよ。そういうんじゃない。ただ疲れているだけさ」

 

 男は意識して優しい声を出し、エアグルーヴをその場において煙草を吸いにテントを離れた。

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフは舞台監督と一通りの会話をし、計画は遅れながらもなんとか帳尻を合わせられるところまできているところを確認した。

 

「エアグルーヴ、どうしたんだ?」

 

 テントを見回すと、隅で耳を力なく曲げた状態でひとり佇むエアグルーヴに気がつき、声をかける。

 

「いえ…このステージ造作の支援を装蹄師の先生に依頼したのですが、どうやら機嫌を損ねてしまったようで…」

 

 意気消沈した表情で力なく述べるエアグルーヴに、シンボリルドルフも戸惑う。

 

 依頼は毎年のことであるし、原因は違うところにあるのではないかとシンボリルドルフは感じていたが、エアグルーヴは少し気に病んでしまっているようだ。

 

「大丈夫だろう。兄は仕事で機嫌が変わるような人間ではない。疲れていたか、別のことでも考えていたのだろう」

 

 シンボリルドルフはエアグルーヴを気遣うように話す。

 エアグルーヴはシンボリルドルフの確信を持った言葉に、ある種の感動と羨望を感じざるを得なかった。

 

 いったいどれほどの時間を、どれほどのやりとりを積み重ねればそのような理解をできる境地に至れるのだろうか。

 

 エアグルーヴは彼女の言葉に慰められて少し気を取り直しながらも、内側に湧いた新たな感情に、別の重さを感じることになった。

 

 

   




ちょっと展開妄想に詰まっているので、別の引き出しを開けてみました。
しかし投稿間隔開き気味なのが申し訳ないです…。


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42:メイクデビュー

もうちょっと煮詰めたほうがいいんだろうとは思うんですが、思いついちゃったので書いて出しします。


 

 

 男は本部テントから少し離れた、ステージ作業の人間向けに臨時に設営された喫煙所に赴く。

 

 さすがに作業も終盤となり日も暮れてきたことから人はおらず、男はそこで煙草に火をつけた。

 

 喫煙所からでもステージ全体が見渡せ、今は各機材の動作チェックに入っている様子が伺える。色彩豊かにステージ上を照らし出す照明はとても鮮やかで、眩しい。

 

「…こんなところで油売ってたのね。作業は終わったの?」

 

 ステージの煌びやかさに目を奪われて、暗闇から近づいてきた東条ハナに気が付かずに、突然聞こえてきた彼女の声に面食らう。

 

「…さんざんこき使われて、ぐったりだよ。だいたい俺の役割は終わったんじゃないかな」

 

 男は驚いた内心を隠すかのように、胸ポケットから取り出した煙草の箱を差し向け、なんとなくおハナさんに煙草を勧めてしまう。

 

「…たまには1本くらい、いいかしら」

 

 意外にもおハナさんは男の差し出した箱から一本抜き取り、咥えた。

 

「ん」

 

 彼女は煙草を咥えたまま男に煙草の先端を差し向ける。

 

 まさか吸うとは思っていなかったのでさらに面食らいながら、咥え煙草を差し出す彼女を茫然と眺めてしまう。

 

「んっ」

 

 二度目の催促に男は我に返り、差し出された煙草に火をつける。

 

 彼女は満足そうににこりとして、煙草を軽く吸い込み火を行き渡らせた後、ゆっくりと吸い込む。

 

「っ…!」

 

 久しぶりの煙草に眉間に皺を寄せ、細い煙を吹き出す。

 

「…あんたこんなキッツいの、良く吸ってるわね…体に毒よ」

 

 クールビューティーを地で行く東条ハナの表情の変化を一連楽しんだ男は、力なくにやりと笑って苦情をやり過ごした。

 

「…なんかあったの?腐ってる雰囲気だけど」

 

 男に水を向ける東条ハナも、ステージ上に目を向けている。

 

 付き合いが長くなるとこういうところでも変に気取られてしまうな、と男は苦笑する。

 

「…なんかねぇ…さっき、本部のテントでさ、ルドルフが生徒会長の顔で舞台監督と話してるのを見てさ…」

 

 自分の知っているルドルフと違う、成長した皇帝の姿を見て、なんだかすこし寂しく感じたということを、男は少し婉曲に話した。

 

「…あんたねぇ…今頃そんなことに気付いたの?」

 

「知ってはいたさ。俺だってこの世界で飯食ってるんだしな。ただ、それはテレビの中の話みたいに感じてたんだろうな、今まで」

 

「あっきれた。別にルドルフじゃなくても、誰でもいろいろな顔を持っているものでしょうに。あなたは今までそういう顔を持つ必要がないほど社会性に乏しい生活を送っていたのでしょうけど」

 

 おハナさんの後半の指摘が耳に痛い。

 

「…沖野みたいに裏も表もないようなのもいるけど…あの娘たち、その中でも特にルドルフは脚と頭脳で大きな夢を追って…いくつもの顔を持たなきゃいけない立場なのよ…」

 

 煙草に慣れてきたらしい彼女は、細く長い指先で器用に煙草をもてあそびながら、一筋の綺麗な紫煙をはきだす。

 

「まぁ…それは頭ではわかるんだけどさ…なんか複雑なわけですよ…」

 

 男はステージと、ステージから離れたPA卓で何やら相談しているシンボリルドルフを視界に捉えながら呟く。

 

「…あなたはルドルフの兄のようなもの、っていうのはわかっているけど、その言葉を聞くと、兄というよりは父親みたいね」

 

 彼女の指摘に、そうかもしれないな、と思いなおす。男のシンボリルドルフを見る目の原点は、赤子ではないものの幼少期の、ルナと呼ばれていたころの姿なのを思い出す。

 

「…父親だったらもう少し素直に、立派になった娘を喜ぶだろうよ…俺はほんとに、なんなんだろうな…」

 

 男はすっきりしないものを抱えたまま、乾いた苦笑いをするほかなかった。

 

「そういえば」

 

 男はふと、思い出したことを口にする。

 

「リギルは感謝祭で執事喫茶の模擬店、やるんだろう?」

 

 話の突然の転換に、おハナさんもきょとんとしている。

 

「…ええ、そうだけど」

 

 きょとんとした表情のまま、彼女は応じる。

 

「…ってことは、おハナさんも執事のカッコすんの…?」

 

 男はステージのほうを向いたまま、彼女の執事姿を想像する。

 うん。わりと似合うんじゃないか。

 

 

 おハナさんの表情がきょとん顔のまま赤くなり、赤くなったことに自ら気づいて恥ずかしさを含ませて苦々しい表情をつくり、次の瞬間持っていたタブレットの角を男の後頭部に打ち付けた。

 

「…いってぇ!」

 

「…ファン感謝祭でトレーナーが仮装してどうするのよ、まったく…」

 

 頭を抱える男をよそに、東条ハナは煙草を灰皿に投げ捨てると、ヒールの踵を鳴らして立ち去った。

 

 

 

 タブレットの一撃に煙草一本分の時間悶えた男が気を取り直したころ、ステージ上では音響も含めた機材チェックに移行していた。

 

 ステージ上では何人かのウマ娘が曲に合わせて一部のパートを踊ってみたり、それを追うカメラの動作チェックなども行われている。

 

 聞いている話では本格的なリハーサルは明日以降とのことだったから、今はアタリを取りながらの調整時間といったところだろう。

 

 男はPA卓がみえる位置に移動し、ミキサーを含めた音響設備とステージ上の映像演出のスイッチング機材を眺める。

 機械が好きなので、こういったものは裏側が気になってしまう性質なのだった。

 

 舞台監督と一緒に機材のすぐ後ろでなにやら会話を交わしているシンボリルドルフ、エアグルーヴの姿も目に入る。

 

 しばらくして舞台監督が男の姿を認めるや、生徒会の二人を伴って近づいてきた。

 

「装蹄師の先生!今日はありがとうございましたぁ!おかげさまでなんとか間に合いそうですぅ」

 

 いえいえ、と男は苦笑する。

 

 舞台監督は今回の演出プランを簡単に説明してくれる。なかなかに凝ったもののようで、それに呼応して生徒会のほうでも出演者に工夫を凝らすようだ。

 

「…いつもは同じチームから同じレースに出走させるのを避けたりすることもあるし、脚質や距離適性の違いでステージ上ではまず共演しないウマ娘たち、というのがあるだろう?今回は敢えて、そういう組み合わせをステージにあげてみようと思うんだ」

 

 エアグルーヴが今回の感謝祭ステージの香盤の工夫について教えてくれる。

 

「それはいい。ファンたちだってここに来た特別感があるな」

 

 男は普段それほどウイニングライブを気にしていないが、エアグルーヴが説明してくれた狙いは確かにワクワクするものを感じる。

 

「…そうだ、兄さん。今日のお礼というわけではないが、なにかリクエストはないかい?」

 

 シンボリルドルフが男に申し出る。

 

「今はテストの最中で、私もこの後ステージに立ってみるつもりだ。兄さんのリクエストなら、応えてみせよう」

 

 傍らで聞いていた舞台監督が目をひん剥いて驚いた顔をしている。それを見た男は本当はそんな予定などないに違いない、と思った。

 

 しかし先ほどから抱えるもやもやした気持ちもあって、少し意地が悪いリクエストを思いついてしまう。我ながら性格が悪い、と思いながらも、リクエストを口にしてみることにした。

 

「…Make debut! できるか?」

 

 世界広しといえども、登り詰めた皇帝にこんなことを言える人間はそう多くないだろう。その証拠にエアグルーヴも舞台監督も、絶句している。

 

 男はウイニングライブを気にしてはいなかったが、シンボリルドルフがデビューし勝利したときにライブで歌ったこの曲、その姿だけは、鮮烈に覚えていた。

 

 皆、この曲を初勝利の歓喜とともに歌い、それぞれの挑戦へ乗り出していく。

 

 その原点の曲を、男は改めて彼女の声で聴いてみたくなったのだ。

 

 しかし登り詰めた皇帝にするリクエストとしては、デビューしたての娘が歌う曲であるからして、明らかにどうかと思われる曲でもあった。

 

「…いいだろう。少し、待っていてくれ」

 

 シンボリルドルフは不敵ににやりと笑い、ステージ下手へ向かって歩み出す。そのあとを、慌てた様子でエアグルーヴが追いかけていった。

 

 舞台監督は顔色を変えて音響に楽曲の準備を命じ、トランシーバーで撮影班に簡単な撮影プランを伝え、照明、舞台美術と指図を繰り出す。

 

「装蹄師さん、あなた、一体…何者なんです?」

 

 一通りの指示を出し終わったあとも気忙しくあたりを見回し続ける舞台監督ははたと、あの皇帝シンボリルドルフにとんでもないリクエストをぶち込んだ男を思い出し、問うた。

 

「ただの学園の装蹄師ですよ。シンボリルドルフとは昔からの知り合いってだけで」

 

 男はPA卓の前に陣取り、先ほどまでの疲れ切った態度とは一転、どうと構えてその時を待った。

 

 準備ができたようで、会場の照明が落とされる。

 

 アカペラの歌いだしとともにスポットライトがセンターのシンボリルドルフを浮かび上がらせる。

 

「~♪」

 

 2ndポジションにはエアグルーヴ、3rdポジションには何故か勝負服でキメキメのゴールドシップといった布陣で、男が観たシンボリルドルフの初勝利の時のMake Debut、そのままの初々しさで歌い上げた。

 

 以前と違うのは、シンボリルドルフがステージ上からまっすぐ、視線を男を射抜くように合わせていたことだろう。

 

 もっとも、それはエアグルーヴ、ゴールドシップも同じであったが。

 

 

 男はMake Debut!を歌い上げるシンボリルドルフの姿に、自らの持つルナとしての彼女との架け橋を見出し、ひとり安堵したのだった。

 

 

 

 

 後日、この様子を録画したデータを入手したアグネスデジタルがあまりの衝撃に保健室に運び込まれる大量出血をしたのは、また別のお話である。

 

 

 

 

 




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…ホントに神アプリをありがとうございます…!



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43:夏休みの宿題と慰労会と

 

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフ、エアグルーヴ、ゴールドシップの一度限りのスペシャルステージを観た翌日。

 学園では大感謝祭の準備が進む中、男は工房を開いていた。

 

 始業の準備を整えながら、昨日はとても刺激的な一日だったな、と思い返す。

 普段とは違う仕事をすることは新鮮だったし、良い気分転換になった。シンボリルドルフ達には意地の悪いことをしてしまったと罪の意識もないわけではなかったが、結果としてシンボリルドルフの初々しいパフォーマンスを見て安心した自分を自覚してもいた。自分でもなぜあのような感情の揺れがあったのかまではわからなかったが。

 

 しばらく手を動かしながらさまざまなことを思い出したりまとまらない思考をもてあそんだりしている間に一通りの準備が整い、頭を切り替える。

 

 遅れてやってきた夏休みの宿題に取り組まなければならない。

 

 手元にはサイレンススズカの勝負シューズがある。それは昨日のうちに工房に届けられていた。

 宿題の共同作業者であるシューズ課長がサイレンススズカの予備シューズをURAに管理されたストックからなんやかんやと理由をつけて引っ張り出し、こちらに回してくれたのだ。

 

 それを仔細に観察しながらイメージを作ろうとするが、今のところゴールの設定もできていないために有効と思えるアイデアも降りてこない。

 

 男はそれなりに理屈っぽい思考回路の持ち主であるため、目標や目的が定まらないことに対して想像力が働き切らない。

 そのため、観察しながらまずは仮の目標を設定することにする。

 

 とりあえずはサイレンススズカが使いこなしその限界まで使い切っていると思われる蹄鉄、そこをスタート地点として蹄鉄起因のトラブルを防ぐことが第一。次に、フィーリングをできるだけ損なわず接地面を増やし、ソールとの接触面も増やして脚への負担を分散させることを目指す。

 

 だが、これは根本的な解決にはならない。あくまで最適化レベルであろう。

 

 最終的な目標である怪我を防ぐということを目指すのであれば、部分最適で荒っぽく考えて彼女の速度を下げるような細工をすることも一瞬頭をよぎる。しかしおそらくスズカのことだから気づくだろうし、そこでさらに無理をすれば結果としてより怪我に近づくだけ。即却下である。

 

 やはり先ずはスズカが使用しているメーカー品蹄鉄を解析し理解し、それに近いものを自らの手で叩いて造り、理解を深めるしかないな、と今日の目標を仮置きし、炉に火を入れる。

 炉の中の色がオレンジ色に変化していくのをじっと眺め、少しずつ色が明るく輝き温度が高まっていく様子を確認し、今日一本目の鋼材を炉に差し入れた。

 

 

 午前いっぱいを使いいくつか蹄鉄を叩きあげ、造形に関してはだいたい模倣できるようになる。

 

 しかし、鉄というのは大変奥深いもので、ただ同じ形をつくるだけでは同じものとは言えない。

 加工時の温度や冷却法、再加熱などのいくつかの工程を経ることによって硬さ、しなやかさなど、全く違った仕上がりになる。

 

 つまり、男が午前をかけてたどり着いたのは、ただ形をつくることができるようになった、というだけのことだった。

 

 ここから先の蹄鉄の味付けとも言える肝の部分に関しては、メーカーに問い合わせても企業秘密であるので答えを得られる類のものではない。そこはこれまでの男の経験値でカバーし、だいたいのあたりをつけて合わせるしかない。試作したものの詳細な評価は、アグネスタキオンにでも依頼するしかないだろう。

 男は今後の進行を頭の中で描きながら、工房の外に出た。

 

 男はいろいろと考えを巡らせながら咥え煙草でエアグルーヴのサルビアに水をやっていると、背後から声をかけられる。

 

「お疲れ様です、装蹄師さん。ちょっとお時間よろしいですか?」

 

 わざわざこんな僻地の工房に訪ねてきたのは駿川たづなさんと、その後ろに控えるのは…

 

「感謝!ウマ娘たちのためにいつも職務に精励してくれているな!」

 

 トレセン学園理事長として辣腕を振るう秋川やよい理事長だった。

 

 

 男は突然の学園トップの来襲に驚き、一瞬狼狽えたが、とりあえず工房の応接に案内することで落ち着きを取り戻そうとした。

 

 しかし工房内は炉を稼働させていたこともあり灼熱であった。

 

 男に続いて理事長が一歩工房内に足を踏み入れようとしたとき、その熱さに驚いた頭上の猫が理事長の頭にツメを突き立て、

「※▲あ%#*うっ…!」

 と理事長がしゃがみ込んでしまう珍事が発生し、男は緊張よりも笑いが先に立ってしまい、強張りを解くことができた。

 

 仕方なく、いつも座っているベンチにお掛けいただくこととして、男は工房の中から合宿で使用していたアウトドアチェアを出してきて、二人にはよく冷えたお茶の缶を差し出した。

 

「む…かたじけない。しかし、装蹄師というのは過酷な職場環境であるな…」

 

 冷えたお茶の缶を赤子のように両手で包み込んで飲みつつ、理事長は呟いた。

 

「まぁ暑いですけどね…相手が鉄とあっては、人間の心地よい環境ではどうにもなりませんから。それに、裏方はみんな過酷でしょう。コース整備とか、施設系とか…」

 

「同意!そこで今回、この感謝祭でいつも苦労をかけている関係者向けに、慰労会と前夜祭を兼ねパーティーを開催することにした!」

 

 秋川理事長がびしっと扇子を決めて、たづなさんが隣から男に封筒入りの書状を差し出す。

 

「こちらが招待状です。今回は初めての試みなので、学園関係者や感謝祭関係者の方々、それに合同研究プロジェクトの方々や近隣で学園運営を支えていただいている方々に絞ってお招きしております。是非、ご参加ください」

 

 学園内では時々慰労会という名目の飲み会などはあるが、今回は感謝祭に合わせて対象範囲を広げ、大々的にやるようだ。

 

「慰労!これは生徒会のエアグルーヴ君の発案でな。彼女も合同研究プロジェクトで方々に協力をもらっていることで、普段彼女たちを支えてくれている方々になんらかの形で恩返しを表現したいようなのだ。是非君も顔を出してもらいたい!」

 

 ほう、エアグルーヴが。

 男は催しそのものもそうだが、そこにさらに驚きを禁じ得ない。

 初めてここに来た時にはそんな配慮を微塵も感じなかった彼女の発案である。

 この短期間の精神的成長が著しいことを感じるとともに、その視野の広がりは女帝の名を冠するに相応しい気遣いに思えた。

 

「そういうことなら。生徒からの発案、というのは我々としては嬉しいものですね」

 

 理事長はこくこくと頷き、たづなさんは本心からのニコニコ顔だ。

 

「それともうひとつ、今日は装蹄師さんにお願いがあるんです」

 

 たづなさんが表情を変えずに切り出す。

 視界の端では理事長がさっと懐から新たな扇子を取り出すのが見えた。

 

「懇願!ウマ娘たちの怪我を、なんとか防いでほしい!」

 

 先程の話題からの大きな落差に男は頭の切り替えがおいついておらず、理事長の言っている意味がよく飲み込めない。

 

「…装蹄師さんたちが、サイレンススズカさんの件であれこれと動いていただいていること、私たちの耳にも入ってきています。学園としては、今現在の制度ではレースの公平性の観点から、特定のウマ娘に関して起きていないことを理由に何らかの指示や介入を行うことはできません…」

 

 たづなさんは滔々と原則論を述べる。その内容を男は背筋に寒いものを感じながら聞いていた。

 

 基本的に学園やURAはレースを開催する機構としての存在であり、ウマ娘たちひとりひとりの単位でレースの内容を左右する存在ではない、そういうことだろう。

 その原則論に従うのであれば、男の行っていることは特定のウマ娘に肩入れするような動きとも取られかねず、かなり危険な橋を渡っていることになる。

 

「反面!我々の最終的な理想はウマ娘たちの健全なる育成と競走である!」

 

「…サイレンススズカさんの活躍はURAにとっても学園にとっても喜ばしいことです。しかし限界を超えて怪我をしてしまうようなことがあれば、それは学園の理念としても忸怩たることなのです…」

 

 理事長とたづなさんの話を交互に聞いていると、どうも建前と本音、ということのようだ。そして理事長は、熱い理想を持っていることは疑いようがないが、基本的には公職側、建前側の人間だ。

 そこまで考えて男は口を開く。

 

「…つまり、理事長たちは動きたいけど動けない、と。そういうことですか?」

 

 視線をちびっk…もとい理事長に向けると、帽子の庇で瞳が隠れてしまうほど俯いている。

 

 たづなさんはその様子の理事長を見て取り、言葉を継ぐ。

 

「…彼女たちはアスリートではありますが、同時に年端も行かぬ娘たちでもあります。現実と理想の狭間で板挟みになってしまうこともあるでしょう。それを導くのも、我々大人の役割、と思っていただけないでしょうか…」

 

 どうにも奥歯にモノが挟まった物言いという感想を拭えないが、要約すると

「お前が清濁併せ吞んで暴走を止めろ」

というところだろうか。

 

「…ご心配はよくわかりました。できるだけのことはするつもりです。その代わり、多少のことは目をつぶっていただければ」

 

 男がそう話すと、理事長は俯いていた顔を上げて視線を合わせてきた。なにかをこらえるように表情で、引き結んだ口元のまま、うむ、と頷く。

 たづなさんもニコニコとしていることから、大筋ではそれでよいのだろう。

 

「邪魔をしたな…」

 

 いつもの朗々たる様子から想像のつかない落ち込んだ雰囲気で踵を返す理事長。

 たづなさんは苦笑いを浮かべながら、ご相談があればいつでも、と言い残して理事長の後を追っていった。

 

 どうにも本意の掴めないところがある会話だったが、理事長の様子を見るに、あれが立場上精いっぱいの意思表示だったのかな、と男は考える。

 

 そこまで思考が行き着くと、先ほど渡された招待状は実は違うところに意図があるのではないか、とも勘ぐってしまう。

 

「…まぁエアグルーヴの発案とあっちゃあ、意図はどうあれ行くしかないけどね…」

 

 男は自らに語り掛けるようにひとり、呟いた。

 

 

 

 

 

 翌日夕刻、男はスーツに身を包み招待状に記されたパーティー会場に向かう。

 

 受付を済ませて胸に名前入りの胸章をつけられる。会場である学園一の広さを誇る講堂に入ると、普段の学園ではありえない光景が広がっていた。

 

「ヒトが…ヒトがいっぱいいる…」

 

 中等部・高等部合わせて数千人のウマ娘を擁するトレセン学園である。当然主役は彼女たちであるので、普段はヒトがこんなに集まる光景は見たことがない。

 

 いつもは全校集会などが開かれる広々とした講堂に、立食パーティーのような空間がつくられ、壁面にはウマ娘たちの模擬店が軒を連ねている。

 

 普段ならケータリングは学園の食堂が対応し、フル稼働していたりするのだが、今日は学園関係者向けの慰労会でもあるため、学園外からのケータリングと大感謝祭用の模擬店を使用してウマ娘たちが来客を接待してくれるような形式であるらしい。ゴールドシップ印の焼きそばの屋台も出ている。

 

「やぁ兄さん、来てくれたか」

 

 男を見つけて声を掛けてきたのはシンボリルドルフだ。

 

「なんだかすごいな。短期間でここまでやったのか?」

 

 ルドルフはふふっと笑う。

 

「エアグルーヴが機転を利かせた企画を立ててくれてな。明日からの感謝祭でも出店を移動してそのまま使えるから、見た目ほど大変でもないさ」

 

「ふうん。それにしても大した人数だな。エアグルーヴ発案の関係者向け慰労会を兼ねてると聞いたけど…どこからこんなに来たんだ…?」

 

「あぁ…今回このような催しをするにあたって、今回は小規模にスタートするつもりで近隣の関係者をリストアップしてみたんだが…これが結構な人数になってね。兄さんは学園関係者だから、参考までにこれを渡しておこう」

 

 手渡された冊子は今回の招待者の名前、所属、職業が記されたリストだ。手渡されてそのまま、パラパラと目を通す。

 

「はぁ…なるほどな。そういうことか…」

 

「別に意識してこうしたわけじゃないんだ。だがこうしてリストアップしてみると、身に染みてよくわかるものだね」

 

 リストをめくると、招待客の四分の一は学園関係者や合同研究プロジェクトのメンバー、さらに四分の一は今回の感謝祭に協力してもらっているURAの舞台チームや商店街の人間、そして残りの約半分は普段はあまり馴染みのないように思われる医者などの医療関係者、弁護士、保険関係の人間もいるようだった。 

 

「この学園を運営するにおいて、どれだけの人力を尽くされているか、わかっているつもりだったが…我々がアスリートであるために、レースを戦うために、あらゆる事態を想定して、あらゆる事故に即対応できるような体制が整えられていることを思い知ったよ」

 

 シンボリルドルフが深く息を吐く。

 

「ここまでウマ娘たちのレースが隆盛したのも、過去の失敗から学んで、走る側も観る側も、レースを楽しむっていう行為に、なにが…どれだけ必要なのか、真摯に向き合って築いてきたからさ」

 

 男は普段と変わらぬ語り口で告げる。

 シンボリルドルフはふふっと妖艶に微笑む。

 

「記録をつくるのはたったひとりのウマ娘かもしれないが、そのウマ娘を支える多くの人々がいて成し得るもの、だな」

 

 シンボリルドルフは皇帝の威風たっぷりにそう語ると、ゆっくり楽しんでいってくれ、と男から離れた。

 

 

 男は会場で合同研究プロジェクトでイクノディクタスのシューズを一緒に開発した専門医に再会し言葉を交わしたり、南坂トレーナーにチーム設立の進捗を聞いたり、ゴールドシップに無理やり焼きそばを食べさせられたりしたあと、一服するために会場の外へ出た。

 

 すっかり暗くなって、講堂の喧騒がうっすら聞こえ、愉快そうな人影が見える。皆楽しんでいるようで、喫煙所には誰もいなかった。

 

 男はふう、と息を吐き、煙草を咥えて火をつける。ゆっくりと吸い込んで煙を吐きだすと、慣れない人込みで緊張していた体から少し力が抜けた。

 

「あの…蹄鉄の…先生…?」

 

 どこかか細い、聞いたことのある声に呼ばれたような気がして、男はあたりを見回す。

 

「ぁ…私です…サイレンススズカ、です…」

 

 講堂の明るい光を背景に、歩み寄ってきたのは今の男の脳内でぐるぐると回っている遅れてきた夏休みの宿題、その提出先であるサイレンススズカであった。

 

 



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44:学園の協力者たち

 

 

 

 

 

「あの…蹄鉄の…先生…?」

 

 どこかか細い、聞いたことのある声に呼ばれたような気がして、男はあたりを見回す。

 

「ぁ…私です…サイレンススズカ、です…」

 

 講堂の明るい光を背景に、歩み寄ってきたのは今の男の脳内でぐるぐると回っている遅れてきた夏休みの宿題、その提出先であるサイレンススズカであった。

 

 

「お疲れ様です…先生。楽しんでいただけてますか…?」

 

 喫煙所に現れたサイレンススズカは、いつもの品の良い笑顔を湛えている。

 

「あぁ…人込みは久しぶりなんで、ちょっと人当たりでね…ここで一服、休憩しようと思って」

 

 フフフ、と微笑むスズカの横顔が講堂から漏れてくる光に照らされ、美しい。

 

 男はスズカを気遣い、煙草の煙が流れないように風下に回る。

 

「スズカもここの手伝いに来ていたのか?」

 

「ええ。エアグルーヴに誘われて…私もたくさん、皆さんにお世話になっているので…少しでも役に立てればと思って」

 

 そう告げるスズカの顔はとても晴れやかで、初めて工房に訪ねてきたときの陰のような暗さは見られない。

 

「そうか。意外だな。こういうところはあまり得意じゃないように思ってたよ」

 

「先生はなんでもお見通しなんですね。たくさんのお客さんにご挨拶をたくさんいただいて、一緒に写真を撮ってくれってお願いをされて…私もちょっと疲れて出てきちゃいました」

 

 ちろりと舌を出すサイレンススズカ。

 疲れたと言ってはいるが、どちらかというと招待客たちにスターとして扱われることへの照れが混じっているようだ。

 

「そういえば、遅くなったけど宝塚記念はおめでとう。久々にレースをちゃんと観たけど、圧倒的だったな」

 

「ありがとうございます。現地で見ていただいたんですよね。後から聞きました」

 

「あぁ。初めて会った頃がウソみたいな圧勝劇だったな」

 

「…最近、とても調子がいいんです。気力も、体力も充実していて…もっと速く、もっと先まで走れそうで…」

 

 走ることが心底好きなのだろう。語るスズカは綺麗で、瞳がキラキラと輝いて見える。

 

「私の幸せが…私の見たかったスピードの向こう側の景色が、もう少しで見えそうな気がするんです…手ごたえを感じてるんです…」

 

 本当にこれからの挑戦を心待ちにしているのだろう。話す横顔がいくらか上気しているようにすら感じられる。

 

「…エアグルーヴから聞きました。先生が私の脚を心配してるって。でも私はこれからの秋のレースを走りぬいて、アメリカに挑戦しようと思ってるんです」

 

 男はスズカの言葉に驚く。

 すでに彼女の視線は国内だけでなく、海外も視野に入っている。

 大した自信だとも思ったが、今のスズカの充実ぶりなら夢や野望というよりは、より現実的なステップなのだろう。

 

「だから…これから先も、私は夢を叶えるために、走り続けて…途中で負けるつもりはないんです。自分にも、他の娘にも」

 

 そう語るスズカの決意に満ちた横顔は、既に幼さの残る美少女ではなく、道を究め頂点へと登り詰めようとする挑戦者そのものだ。

 

 

「…そう瞳を輝かせて話してくれること、すごく嬉しいよ。スピカでスズカは、生まれ変わったんだな」

 

「…はい。先生のおかげで…スピカに移ることができて、私の道が開けたんです」

 

 とても充実した表情でここまで言い切られると、男はこれから彼女に話さなければならないことが非常に切り出しにくい。

 

 確かに、今の彼女は学園の中庭にある三女神にも愛されたかのような活躍ぶり。

 

 しかし今、男が抱えている彼女への懸念が、ただの懸念で済むのならば、だ。

 

 勝負の女神たちはいつだって気まぐれなのだ。

 

 どう話すべきか、と無意識にシャツの胸ポケットの煙草を探る。

 

 と、その時、ジャケットの内側に収めていた、シンボリルドルフから受け取った招待客リストがばさりと落ちた。

 

「ぁ…」

 

 男が反応するより早く、スズカが拾い上げる。

 スズカが拾ってくれたものを、男は受け取らずに煙草を取り出す。

 

「…なぁ、スズカ」

 

 男は視線を講堂に向けながら、話しかける。

 

「今日の招待客さ、なんであんなに楽しそうだと思う?」

 

 男の言葉に、スズカも講堂のほうを向く。

 煌びやかな灯りが見え、楽しそうに賑やかな声が聞こえてくる。

 

「…パーティーだから、ですか…?」

 

 スズカは招待客リストを持ったまま、なぜそんなことを訊くのか、と不思議そうに顔をかしげる。

 

「…まぁ、そうなんだが…今日の招待客、どんな人たちか知ってるか?」

 

「学園の人たちや、近隣のご協力いただいてる関係者の皆さん、と聞いています」

 

 うん、と男は頷くと、先ほどスズカが拾ってくれた冊子を指し示す。

 

「今日の招待客リストだよ。職業欄、見てごらん」

 

 スズカは薄明かりの中、リストを追い始める。

 

「近隣の関係者はとにかく学園の運営に普段から多大な協力をしてもらってる人たちからリストアップしたそうだ」

 

「…お医者さんが、多い…?」

 

 男は頷く。

 

「そうだ。君たちウマ娘に学園生活でもレース中でも、いつ何があっても対応できるように。医者だけじゃない。弁護士や保険屋までいる。何があっても、君たちを守るために。そこまで考えておく必要があるスポーツが、レースだということさ」

 

 男は煙草にかちり、と火をつける。 

 二本目の煙草は、妙に頭をクラクラさせた。

 

「見てみなよ、あの連中を」

 

 講堂に集う招待客は、皆思い思いに輪を作り、歓談したり写真撮影をしたり、楽しんでいる。

 その輪の中心にいるのは、この学園のウマ娘たちだ。

 

「自分たちがレースを走るわけでもないのに…楽しそうだろう?…何故だと思う?」

 

 スズカは指を顎に当てて思案顔だ。光に照らされたその横顔を、男は眺めている。

 

「…なんでなんですか?」

 

「…自分が走るわけじゃないけど、走ってるんだよ、彼らも。君たちと同じレースに参加してるんだ。協力することによって…ね」

 

 スズカは男の声を聴き、パーティーで楽しんでいる人々を見つめている。

 

 なにかを考えているようだった。

 

 これで、少しは伝わっただろうか。

 男はいくらか緊張を解く。 

 

 幾ばくかの間、二人は並んで、言葉をかわすことなく喧騒を見つめていた。

 

 男は、間を埋めるように深く煙草を吸い込む。

 その刹那だった。

 男の視界は急に狭く、靄がかかったように暗くなった。思わずよろけてしまう。

 

「…っ!」

 

「…先生?」

 

 隣にいたサイレンススズカが男の異変に気付く。

 

「…大丈夫…だ。ちょっと立ち眩み、かな…」

 

 男はなんとか気力で倒れずに踏みとどまる。

 しかし背筋にぞくりと悪寒を感じ、冷や汗が噴き出るのがわかった。

 

「先生…顔色が…?」

 

 男は似合わない微笑を無理やり浮かべる。

 

「…ちょっと疲れてしまったみたいだ。今夜はこのまま引き上げるよ。エアグルーヴにもよろしく言っておいてくれると助かる」

 

 男はつとめてゆっくり、体調の変化をサイレンススズカに気取られないように告げると、踵を返して暗がりに向かって歩みだす。

 

「…先生!ありがとうございました!」

 

 男はサイレンススズカの声を背中で聞き、左手を上げて応えるのが精いっぱいだった。

 

 

 

 

 



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45:それぞれのファン感謝祭、その断片

 

 

 

 

 

 

「はぁ…まいったなぁ…」

 

 パーティーの翌日未明、男は自室で天井を見上げていた。

 

 昨夜はあまり記憶にないものの、どうにか暗い学園の中を辿り、自室にたどり着いてベッドに倒れこんだ。

 

 念のために測った体温は平熱とはかけ離れた数値を表示しており、気のせいにするにはあまりにもありありとした不調に客観的な理由付けをしてくれていた。

 

 そのまま悪心と眩暈におそわれつつ、浅く眠ったり起きたりを繰り返すうちに、外は明るくなり始めていた。

 

 

 小康状態の体調の中、昨夜、サイレンススズカに話したことを思い返す。

 夏合宿の言葉通りエアグルーヴが話していてくれたようで、こちらの心配は彼女に伝わっていた。

 そのうえで、やや婉曲な表現にはなったがパーティーの招待客を引き合いに出し、彼女たちがレースを走るうえでの彼女たち自身のリスクを示したつもりだった。それが少しでも、彼女の心の碇となることを願って。

 果たして効果は見込めるか。そこまではまだ、わからなかった。

 

 しかしそれはそれとして。

 

 偉そうにあんなことをのたまった直後に自分がこのような状態に陥ってしまっていることはまったく不細工なことこの上ない。

 

 思えば今年に入ってから一日しっかり休日、という日は数えるほどしかとっておらず、さらに宝塚記念以降はなんだかんだと抱え込んだまま走り続けていた。

 

 もともと身体が強いほうではない上に、こと生活面を軽視する傾向の強い男は、ここにきて身体が限界を迎えてしまったこと自体には何の疑問もなかった。スズカの夢のように大仰なものではないにせよ、のめり込んだら寝食を忘れてなにかに打ち込んでしまうところは年齢を考えればそろそろ自重しなければならないところである。

 

 幸いにも今日から2日間は感謝祭期間で、通常の学園運営状態ではない。工房を開く必要もないタイミングだった。

 

 たづなさんと上司である課長にメールで体調不良の旨を伝えたうえで、今日のところは工房を開けない旨、メールを入れておく。

 

 こうしておけば学園内のイントラネット掲示板にその旨の通知が出て、全校に知れ渡る。工房を開けないことに関しては2~3日であれば特に不都合は生まれないだろう。

 

 男はそこまで段取りをなんとか取り、冷蔵庫に大量に在庫してあるパウチタイプのエネルギーが取れるらしいゼリーを1つ、時間をかけて飲み込むと、再びベッドに横たわった。

 

 

 

 

 

「…なんだこれは」

 

 早朝、エアグルーヴが生徒会室の鍵をあけ、その日の準備を始めつつ学園内のイントラネットで各種の更新情報をチェックしていた。

 

 昨夜、スズカから男が来ていたこと、疲れた様子で先に帰ったことは聞いていた。

 

 その時はエアグルーヴ自身もパーティー自体を切り回すことに忙しく、気にはなったがそれ以上の動きを取ることはできなかった。

 

 一夜明けて感謝祭当日を迎えてみれば、その喧騒に隠れるように工房の休業の知らせ。

 

 ここのところの男の動きは間接的にしか知らなかったが、おそらくあの性格だ。スズカの件で抱え込んでいたことは間違いないだろうし、さらにそこに感謝祭のステージ造作応援など、彼女自身も男に仕事をねじ込んでいた。

 

「…っ…無茶をさせていたのは、私じゃないか…」

 

 エアグルーヴは自身の責を感じる。

 以前にも合同研究プロジェクトで無理をさせてしまったことがあったというのに、一度ならず二度までも同じ間違いを犯してしまっている。自分を責めずにはいられなかった。

 

 今すぐにでも、様子を見に行きたい。

 

 しかしエアグルーヴ自身も感謝祭の本部業務に自身のチームの執事喫茶のシフトも組み込まれ、特別ステージの進行もあるため今日のスケジュールには一分の隙も無い。

 

 身動きの取れない身の上にどうにもやるせない焦れた思いを抱えながら、エアグルーヴは担当業務に忙殺されるほかなかった。

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフはいつもどおりの優れない寝起きを迎えた後、身支度を整えながら目を通したスマホで、工房の休業を知る。

 

 こういった休業は前もって予告されることが通例で、当日に告知がなされるということはあまりない。

 

 昨夜会った時には変わった様子はなかったというのに、一晩のうちになにかあったのかと訝しむ。

 

まぁあの兄のことだ。この間のように根を詰めた結果、体調を崩したのであろうことは想像に難くないのだが。それにしても大丈夫なのだろうか。

 

 普段あまり寝起きのよくないシンボリルドルフだったが、既に寝起きであることを忘れて頭が回転し始めるほどには男の身体の心配が先に立った。

 

 しかし今日はファン感謝祭当日であり、シンボリルドルフは生徒会長として、学園の顔役としての役割が多くある。

 

 私事で公的な予定を捻じ曲げるほどには自らに甘さを許していないシンボリルドルフは、思うところをこらえ、支度を整えると部屋を出る。

 

 生徒会室へ歩む間、ふと以前男と交わした会話を思い出す。進路に関する相談をした時のことだ。

 

 男はシンボリルドルフ自身の理想を追う姿勢を認めながらも、もう少し彼女自身の幸せを追ってもいいのではないか、そんなようなことを言っていた。

 

「…このようなときの自儘に動けない身の上というのは、考え物なのかもしれないな…」

 

 シンボリルドルフは自らの夢と、自らの求める心の在りどころとのバランスについて、なにかに気づきそうな予感を感じた。だがその閃きを得る前に、生徒会室に着いてしまう。

 

 しばしその扉を開くのを躊躇い、廊下に立ち尽くす。

 

 しかし今日は感謝祭当日なのだった。  

 精密に組まれたスケジュールに穴をあけるわけにはいかない。

 

 時間という誰にでも平等な流れに圧され、扉を開いてしまえば、いつもの皇帝、シンボリルドルフとならざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 朝方に再度寝入った男が次に目を覚ましたのは陽もだいぶ落ちた夕方だった。

 

 寝汗をしっかりとかいて酷い有様だったが、おかげで身体はかなり軽くなっている。怠さがまったくないわけではなかったが、少しくらいであれば動けそうだった。

 

 起き上がり汗にまみれたシャツやシーツをまとめて洗濯機に放り込んで回し、シャワーを浴びる。

 

 洗濯済みの部屋着に着替えれば、昨夜に比べればかなり身体が復調に向かっていることが実感できた。

 

 ベッドのシーツを張り替え、水分を補給しスマホを確認すれば、数件のメッセージが届いていた。

 

 シンボリルドルフやエアグルーヴからは体調を気遣うメッセージが来ており、以前のように心配をかけるわけにもいかないのでただ少し疲れが出ただけの旨、簡潔に返信しておく。

 たづなさんはどうやら寝ている間に差し入れを持ってきてくれたようで、ドアの外側に袋がかけられていた。

 東条ハナからもメッセージが来ていたので、おハナさんの執事姿が見られないことを悔やむ返信を送って煙に巻く。

 

 

 煙草片手にベランダに出てみれば、いつしか風は涼しくなっており、秋の気配を感じさせる。

 

 遠くに特設ステージで奏でられるライブの音がうっすら聞こえてきた。

 

 男が煙草に火をつけようとすると、下から声がする。

 

 声のしたほうを見やると、なにやら多くの品物がたっぷりパンパンに詰め込まれた袋を手にした見知った顔があった。

 袋を掲げ、差し入れに来たというような身振りを見せる。

 

 男は苦笑いを浮かべ、部屋にあがってくるように、と指し示し、玄関の鍵を開けるために咥え煙草で部屋の中に戻った。

 

 

 

 

 

 

 東条ハナは怒っていた。

 ほかでもなく、自分自身への怒りだった。

 

 今日、装蹄師の男の工房が臨時に閉まっているという情報は、朝の段階で知った。

 チームの模擬店の準備で東条ハナ自身も模擬店に顔を出しており、チームの娘たちで困ることがあればと手助けしているうちに、シンボリルドルフから伝えられた。

 

 彼女自身、男が疲労を溜めていたことは知っていたのだ。

 それなのに自分は何もできなかった。

 それどころかいつものようにあいつを便利使いしていた。まぁ、それがトレーナーの仕事でもあるのだが。

 

 東条ハナと鍛冶屋の男の関係は、一方的ではあるが呼び出して酒を酌み交わしたり、個人的な話もまずまず踏み込んで話せる仲だ。

 

 気の置けない仕事仲間といえばカラッとしているし、対外的にはそういう関係といえば説明がついてしまう。だがそう一言で片づけられるほどには軽い付き合いというわけではなかった。

 

 しかし彼女自身、常勝集団であるリギルを率いているというプレッシャーを抱えながらトレーナーという孤独な職業で生きている。

 

 生きていくうえで、自身の仕事上は地続きでお互いの立場は分かりながらも利害が絡まない相手というのは貴重であった。

 

 結果として彼女自身、リギルのトレーナーという役回りを演じ続ける東条ハナという個人、それを支える一要素として、いつしか男を組み込んでいたのだ。

 

 その片務的な関係の意味合いに、色恋的な感情が絡むのかと問われれば、正直なところよくわからない。

 

 しかしシンボリルドルフやエアグルーヴが温度感や立場の違いはあれ、装蹄師の男に懸想していることに関しては些かの焦りも感じるのは確かだ。

 だからこそ呼び出して彼女たちとの状況を聞き出そうとしたこともある。結果的には私が酒に吞まれてしまうことになったが。

 

 たまに男からの粘ついた視線を感じてもいたし、おそらく男も自分のことを憎からず思っているのだろう。そんな根拠の薄い考えを依り代に、男に甘えていた部分があるのも確かだ。

 

 現に今も、男からの空とぼけたメッセージに男の配慮を感じてしまっている。

 

 なぜ、もっと気を配ってやれなかったのだろう。もっと素直に労わってやれなかったんだろう。

 

 東条ハナは自らへの怒りをうちにおさめつつ、苛々とした態度は隠し切れぬまま、一日を過ごして夕刻を迎えていた。

 

 

 

 

 

 感謝祭は多少のトラブルがありながらも、なんとか事前計画通りに進んでいた。

 

 生徒会は生徒会室と会場に設けた前線基地としての本部テントを使い分けながら、職員たちと分担しつつ現場を切り回している。

 

 その本部テントの指揮実務の中心はエアグルーヴであり、シンボリルドルフは来賓対応などの外交的業務を主に、ナリタブライアンは会場内での機動的な対応にあたっている。

 

 リギルの執事喫茶の出番も交代でこなしながら、なんとかここまでそつなくこなしている。

 今は特設ステージのウマ娘たちのミニライブの時間帯で、今回の場合はステージングについては普段ウイニングライブを担当しているスタッフが揃っている為、ライブが走り始めてしまえば多少の余裕が生まれた。

 

 すでに陽は傾き、夕暮れ時を迎えようとしている。

 

 エアグルーヴは生まれた余裕を最大限に生かすべく、本来ならば今日のプログラムをすべて終えてから取り掛かる明日の感謝祭の調整事にかかっていた。

 

 この業務をこの時間帯に圧縮して済ませられれば、夜にはいくらかの余裕が生まれるはずだった。

 

 そうすれば、男の様子を見に行くことも可能になるはず。

 

 朝に送った様子伺いのメッセージには先ほど返信が来ていて心配無用とのことだったが、安心したのは返信ができる状態であるという事実だけで、内容に関してはそのまま鵜呑みにはできない。

 

 猛然と業務をこなすエアグルーヴ。

 途中から、来賓への対応が終わったシンボリルドルフもそれに加わる。

 

 二人は今朝、顔を合わすなり業務が多忙になる前に、とお互いの心中についてすり合わせを行っていた。

 

 本来ならばすぐにでも男の様子を見に行きたいという欲求と、それが許されない二人の今日の状況は一致していた。

 

 ならば協力してコトにあたるほかあるまい、というのが二人の出した結論であった。

 

 共通の目的を見出した二人の業務を捌いていく様は切れ味鋭く、図らずも文武両道を旨としてエリートが集うトレセン学園、その生徒の質の高さを裏付けるものとして関係者に強く印象付けることとなった。

 

 

 

 

 

「いいかエアグルーヴ、これからの目的だが…」

 

 すべての業務を片付け、暗くなった学園内を歩むシンボリルドルフとエアグルーヴ。

 彼女たちの手には食材や飲料などのほか、彼女たちの遠征用のバッグまでもって、しかもルドルフの手には男の部屋の合鍵までもが握られている。

 ルドルフと男の関係を知るたづなさんから、あれやこれやと理由をつけて借り出すことに成功していた。

 

 そして着替えまで携え、二人とも必要とあれば夜を徹しての看護も辞さない用意を整えていた。

 

「承知しております会長。あくまで我々は学園職員の見舞いにいくのです」

 

 シンボリルドルフは鷹揚に頷く。

 

 彼女にとっては通い慣れた道で、目的地も入り慣れた兄の部屋である。

 そこに自分以外のウマ娘を入れることに抵抗がないといえば嘘になる。ましてや同じ相手に好意を抱いている相手ともなれば。

 

 しかし今日、このタイミングで兄の部屋を訪れることができるのはエアグルーヴの協力、それも獅子奮迅の活躍があってこそである。

 

 本来であれば夜もURA幹部との会食が予定されていたが、エアグルーヴの機転で予定を組み換え午後の茶会で義理を外さず収めてくれていた。

 

 公私の別はあれど、お互いの胸襟を開いて接した結果、そこまでの配慮を見せられてしまえば、さしもの皇帝も気持ちよく度量を示すことができた。

 

「夕方にメッセージも来ていたし、それほど大事ではないとは思うが…ここのところ疲労は蓄積されたままだろうからな」

 

「はい。せめてしっかり休養を取っていただかないと。そのためには、快適な環境と十分な栄養が欠かせないかと」

 

「料理は私が。エアグルーヴは部屋の整理を。お互いの得意分野で、兄さんの負担にならないようにできるだけ静かに、短時間で済ませよう」

 

 共通の好ましい目的の前で、もはや二人に日中の激務による疲労感はなかった。

 

 これが俗にいう掛かりというやつか。

 

 シンボリルドルフはエアグルーヴを傍らに、夜の学園の敷地をやや速足で歩んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




しばらくのご無沙汰でした。
ちょっと自分の書いているものに自信が持てなくなって迷子になっておりました。
まぁいつも迷子なんですけども。。

いつも感想や誤字修正ありがとうございます。
今後とも引き続きよろしくお願いいたします。


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46:祭りの後の悶着

 

 男は夜には食欲も戻り始め、差し入れられたゴールドシップ謹製の焼きそばを平らげた。

 

 リビングでなにをするでもなく、過去のレース映像がまとめられたDVDをテレビに映しだして眺めている。

 

 持ってきた人物は差し入れを男に押し付けると、見舞いの言葉もそこそこに勝手にシャワーを浴びたのち、持ってきた酒を呷りながらレコーダーでこのDVDを再生しだしたのだった。

 

 男に対しDVDを見ながらひとりごととも議論ともつかないあれやこれやをぶつけてひとしきり熱く語った後、リビングの続きの間にある寝室にずかずかと入り込んでシーツを張り替えたばかりの男のベッドに倒れこむとそのまま寝てしまった。

 

 どうやら相当に疲労しているようで、また心労も並大抵ではなかったのだろう。

 

 事情がわからなくもない男は特に責める気にもならず、放っておくことにした。

 

 男は一人リビングのソファに取り残され、何を見るでもなくテレビを眺めていた。

 あれだけ睡眠をとったにも関わらず、次第に睡魔が襲ってくる。

 

 まだ、体調が完全に復したわけではないことを自覚した男は、そのままソファで微睡みはじめた。

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴは男の部屋の鍵穴に鍵を差し込み、音がしないようにゆっくりと回す。

 

 かちり、と音を立てて解錠されたことを確認すると、極力音を立てずに玄関に滑り込んだ。

 どうやらリビングではレースの映像を再生しているようで、音が漏れ聞こえてくる。

 

「兄さん、起きているのか…?」

 

 呼びかけるが返事はない。

 

 シンボリルドルフは微かな違和感を感じる。違和感の理由はわからない。

 

 リビングの灯りはついたままで、それを目指し短い廊下を侵攻する。

 

 先頭はシンボリルドルフ、後続にエアグルーヴだ。

 

 リビングのドアをゆっくりと開けると、ソファに横たわる男が目に入った。

 

 安らかに寝息を立てている。

 

 シンボリルドルフは安らかな表情で眠る男を見て安堵し、少し遅れてシンボリルドルフの肩越しに男を確認したエアグルーヴもため息を漏らした。

 

「…とりあえずは起こさぬように予定通り行動しよう。エアグルーヴは寝室の掃除を頼めるか?」

 

 エアグルーヴはこくりと頷くと、初めて入る男の部屋に些か緊張しながら、慎重にあたりを見回しながら歩を進める。

 

 

「…!?」

 

 エアグルーヴが寝室への引き戸に手をかけたとき、中から人の寝息がすることに気づいた。

 

 驚きのあまり悲鳴を漏らしそうになるが、男を起こすまいとしてぐっとこらえる。

 

 シンボリルドルフに伝えようにも、彼女はキッチンで手を動かしており、声を出さずには伝えることは難しそうだ。

 

 警戒心が高まり、耳が引き絞られる。

 指向性を持たされたエアグルーヴの耳に確かに届く、規則的で深い寝息。それに狙いを定めるかのように、静かに聴覚を集中させていく。

 無意識のうちにその寝息と呼吸を合わせ、意を決して、ゆっくりと引き戸を開けた。

 

「…?」

 

 暗がりに目を凝らす。

 

 濃縮されたかのような男の匂いにくらりとしながら、そこに混じる知らない匂いに、エアグルーヴは自らの心臓が一度、大きく脈を打つのを感じた。

 

 暗がりに目が慣れると、乱れた寝具の中にうっすらと素肌の肢体が浮かび上がる。

 

 素肌…?

 服を、着ていない…?

 

 エアグルーヴの脳に衝撃が走る。

 刹那、彼女の許容量を大幅に超える妄想が爆発した。

 

「ぁ……っ」

 

 顔を真っ赤にしたエアグルーヴは、膝から崩れ落ちた。

 

 

 

 それなりの質量を持った身体がくずおれた音に、男は目を覚ます。

 

「ん…?」

 

 男が半身を起こしたところで、目に入るのはカウンター越しにキッチンに立つシンボリルドルフ。しかし視線は男にあっておらず、違う方向を見つめている。

 

「あ…ルナ、どうしたんだ…?」

 

 シンボリルドルフは男の声に反応し視線を行ったり来たりさせながら、焦った様子だ。

 

「い、いや…見舞いに来たのだが、その…」

 

 ルドルフの視線の先を追うと、寝室の入り口でがっくりと膝をついて顔を俯けているエアグルーヴがいる。

 

「…エアグルーヴまで。心配してきてくれたのか…?」

 

 男はソファから立ち上がり、しゃがみこんで動かずにいるエアグルーヴの頭にポンと手をのせる。

 

「どうしたんだ…?」

 

 引き絞られたままの耳も気にせず、膝をつき俯いたままの優しくエアグルーヴの頭を撫でる。

 

 が、その手は力強く払われた。

 

 そして顔を上げたエアグルーヴは、顔と瞳を真っ赤にしたまま、こぼれかけるほど涙をためて、男を睨みつける。

 

「…このっ…不埒者!」

 

 次の瞬間、男の右頬にエアグルーヴの平手が飛んだ。

 

 バシッという芯を食った音とともに、予期していなかった男は元居たソファまで吹っ飛ばされる。

 

 エアグルーヴは男を一顧だにせずに玄関へと駆け、そのまま出て行ってしまった。

 

 一連の一瞬の出来事に、シンボリルドルフはなすすべもなくその一部始終をただ茫然と眺めていた。

 

「…なんだぁ…どうしたんだ…?」

 

 物音を聞いて半裸のまま寝ぼけた表情で寝室から顔を出したのは、沖野トレーナーだった。

 

 目にしたのはソファでめり込み、気を失って伸びる装蹄師の男、キッチンでエプロンをつけかけたままの姿で固まるシンボリルドルフの姿だった。

 

 今度は沖野が悲鳴を上げる番だった。

 

 

 

 

 

 エアグルーヴは薄暗い学園内を駆けた。

 

 行く当てもなく駆けるその足音は、夜の学園内に響き渡る。

 

 祭りの後で学内に人気がなかったことは、涙を溢れさせながら走る彼女にとっては幸いだったかもしれない。

 

「…エアグルーヴ!」

 

 たった一人、自分の所属チームのトレーナーに見咎められてしまったことは、彼女にとっては予想外であったが、同時に幸運でもあったかもしれない。

 

 エアグルーヴの泣き顔を見た東条ハナは、驚きを隠せずそのまま表情に出してしまっていたが、それはお互い様というところだった。

 

 

 

「…で、何があった?」

 

 東条ハナの胸でエアグルーヴはひとしきり泣いた。

 落ち着いた後、手近なベンチで二人並んで座り、エアグルーヴは耳を垂らしてしょんぼりとし、泣きはらした瞳はおハナさんのハンカチで覆われていた。

 

「…話したくなければ、話さなくていい」

 

 おハナさんは優しくエアグルーヴの背中を撫でる。

 エアグルーヴになにがあったかは気になったが、それよりも、いつも気丈という以上のプライドを持ち、レースに負けても感情をあまり見せることのない彼女の泣き姿にただならぬものを感じていた。

 東条ハナはエアグルーヴの余程の感情の動きそのものに驚いており、それ故に今は彼女を落ち着かせることを最優先としていた。

 

 エアグルーヴの横顔を見ながら、東条ハナは自分に問う。

 

 いつからか彼女のように泣くことはできなくなった。

 それは自らの精神が鈍磨した結果だろうか。

 それとも、それだけ擦れた大人になってしまったということなのだろうか。

 

 ぼんやりと自分がエアグルーヴくらいの年頃のころはどうだったろうかと思い返すが、うまく思い出すことができない自分に愕然とした。

 

「…装蹄師の先生の部屋に、行ったんです…会長と、お見舞いに…」

 

 エアグルーヴがゆっくりと、話し出す。

 

 この娘たちは今日、ファン感謝祭にあたってとてつもない量の業務に忙殺されていたはず。

 それでも時間を捻出するべく、相当の努力と工夫を重ねたのだろう。

 

 自らの教え子たちのいじらしさに、東条ハナは感動すら覚える。

 

 一方で、今日一日をだらだらと苛々を募らせたまま不機嫌に過ごした自分のいかに惨めなことか、とも内心で反駁せずにはいられない。

 

「…そう…あいつ、大丈夫だった?」

 

 東条ハナの何気ない問いに、エアグルーヴは頷く。耳はいまだにしおれたままだ。

 

「先生は、リビングのソファですやすやと眠っていました。私は寝室の掃除をしようと、そっと戸を開けたんですが…」

 

 エアグルーヴが泣くほどに酷い有様だったのだろうか。東条ハナが過去に沖野と訪れ、知っている男の部屋は基本的に殺風景で、特にひどくなるような要素もないように思われた。 

 

「…ヒトが、寝ていたんです…その…裸、で…」

 

 …?

 

 東条ハナはエアグルーヴの唐突な言葉に理解が追い付かない。

 言葉を発したエアグルーヴは再び顔を俯かせ、ハンカチで瞳を覆う。

 

 東条ハナが知る男に、果たしてそのような甲斐性があったであろうか。

 東条ハナは男のイメージとそぐわないエアグルーヴから告げられた情景に、クエスチョンマークしか浮かばない。

 

 そして仮にエアグルーヴが思い込んでいるような状況であったとして、なぜ同衾せずに男がリビングのソファで寝ているのか。 

 

 そこまで考えて、はたと一つの可能性に思い至る。

 

 過去にそんな情景を見たことがあったのだ。

 

 

「…エアグルーヴ…寝ていたのはだれか、見た?」

 

 エアグルーヴは顔を伏せたまま、首を横に振る。

 

 東条ハナは自分の仮定に確信を抱いた。

 

 

 さて、どう誤解を解いたものだろうか。

 

 あるいは解かずにおくべきか。

 そんな後ろ暗い考えも一瞬脳裏をよぎったが、ここは教え子たちのいじらしさに敬意を表すのも大人の仕事だと、東条ハナは思いなおす。

 

「落ち着いたら、一緒に行くわよ」

 

 東条ハナはエアグルーヴに声をかける。

 エアグルーヴは彼女の意外な言葉に、顔を上げる。

 

「男の部屋に。ちゃんと現実を見せてあげるわ」

 

 

 

 

 

 

 男の部屋のリビングでは、男と沖野が正座をし、仁王立ちのシンボリルドルフが二人を睥睨していた。男の右頬にはくっきりとエアグルーヴの平手痕が残っていたが、意識は回復している。

 

「…つまり沖野トレーナーは見舞いに来て、自らもまた疲労で眠り込んでしまった、と。そういう訳だな」

 

 酔いもさめた沖野はがっくりと項垂れている。

 

 男も訳も分からず、しかしなぜか一緒に沖野の隣に正座させられていた。

 

 リビングには虚しく過去のレースのテンションの上がった実況が流れている。

 

「…後続から抜け出す!そのまま誰も寄せ付けずにぐんぐんと突き放す!シンボリルドルフ、まさに皇帝の走り!一部の隙も無い完璧なレース運びでそのまま先頭…今、ゴールイン!…」

 

 後背で流れるそれは、偶然にもシンボリルドルフが皇帝と呼ばれるようになった理由のG1七冠、そのうちのひとつのレース映像だった。

 

 男はちらりとそのテレビ画面を見やる。

 

 画面の中のルドルフは勝負服姿も凛々しく、走り終わったばかりの上気した顔でスタンドに手を振っている。

 

 視線を現実に戻せば、そこには制服にエプロン姿で、何故か手にはお玉を持ったまま仁王立ちのシンボリルドルフ。

 

 その姿のギャップに、男は思わず吹き出しそうになり、肩を震わせる。

 

 シンボリルドルフはそんな男の様子を見て取ると、視線をより厳しくする。

 

「…何が可笑しいんだい?兄さん」

 

 男は笑いをこらえて唇を波打たせたまま、テレビを指さす。

 

 そこには堂々たる皇帝の姿でレース後のインタビューを受けているシンボリルドルフの姿が映し出されていた。

 

 それを認めたシンボリルドルフは男の言わんとすることを理解し、顔が赤くなる。

  

「…全く。紛らわしいことをするからだぞ。そこで反省しているように」

 

 ルドルフはバツが悪いのか、捨て台詞のようにそう言うと、踵を返しキッチンに戻ろうとする。

 そのタイミングでがちゃり、と玄関の開く音がした。

 

 シンボリルドルフが玄関へ出迎え、新たな来客とともにリビングに戻ってくる。

 

 東条ハナとエアグルーヴだった。

 泣きはらした瞳をしたエアグルーヴは東条ハナの肩越しに、正座する男と半裸の沖野を視認した。

 

「ほら、ね。これで納得した?」

 

 エアグルーヴは再び、膝から崩れ落ちた。

 

   

  

 



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47:悶着のその後

 

 

 

 男は部屋のリビングで、シンボリルドルフが料理してくれたうどんを食べている。

 

 小さなテーブルを床に座って囲んで、皆で食べている。

 

 皆とは、エアグルーヴ、東条ハナ、沖野、シンボリルドルフ、そして男である。

 

 どうしてこうなったのか。

 時間は少し遡る。

 

 

 

 

 沖野と男が正座をし、エプロンを着けた皇帝陛下に睥睨されているとき。

 

 男に平手を喰らわして駆けだしたエアグルーヴは、東条ハナに連れられて部屋に戻ってきた。

 

 そして上半身裸のまま正座している沖野を見て、己の誤解を悟り、膝をついた。

 

 幸いにもエアグルーヴはさらなる誤解をせず、深々と頭を下げ、自らの非礼を詫びた。

 

 女帝、二度目の心からの男への謝罪であった。

 

 男は苦笑いしながら頭を上げるように言い、視線をエアグルーヴに合わせ、特に責める気はない旨を告げた。

 

 エアグルーヴはその言葉を聞きながら、男の頬のくっきりと赤い己の手の痕を眺めていた。

 罪悪感を感じつつ、言い知れぬぞくりとした心の疼きを感じていた。

 

 

「…なんで沖野が寝てたのよ」

 

 エアグルーヴと男のやりとりをぶった切るように言葉を放ったのは、皇帝に負けず劣らずの存在感で男二人の前に仁王立ちになっている、東条ハナだ。

 

「…いやぁ…昨夜こいつが体調崩してたみたいだってスズカが話してて。見舞いにって話も出たんだが、うちの奴らは騒がしいからな。それで俺が名代で見舞いに…」 

  

 リビングのテーブルには下戸の男が飲むはずがないチューハイの空き缶が無造作に並んでいる。

 

「…大方、いつものノリであんたが飲んで騒いで勝手に寝入ったんでしょうよ。ご丁寧にシャワーまで借りて。それがお見舞いに来た人間のすることなの?」

 

 冷静に言い放つ東条ハナに容赦の欠片もない。

 

「…それは…まあ…その…すいませんでした!」

 

 沖野は勢いの良い土下座で完全降伏である。

 この姿はさすがにスピカの面々には見せられまい…と男は途中まで考えたが、そもそもチームメンバーたちにプロレス技を掛けられる日常がスピカであるので、配慮の必要はなかった。

 

 とはいえ、自らのお見舞いに来てくれたことは事実であるので、適当なところで沖野を救ってやりたいと思った男は、割って入る。

 

「まあまあ…俺たち、ある意味では共通の悩みを持ってるわけでさ。そりゃみんな、心労も積もるもんだから…ねぇ、おハナさん、そこらへんは汲んでやってよ、この通り」

 

 男は苦笑を浮かべながら沖野を庇い、頭を下げる。

 

「…全く、男ってのは…どうしてこういうとき、妙な相互扶助に走るのかしら。あなたたち、覚えておきなさい。こういうのはロクなもんじゃないんだから」

 

 東条ハナのこの言葉に、シンボリルドルフとエアグルーヴは妙な説得力を感じてしまう。

 シンボリルドルフなどはそこからさらに発展して、どんな経験をすればおハナさんはこんな説得力を持った言葉を吐けるのだろうと深く考えかけて、慌ててその思考を捨ておいた。

 

 いろいろうやむやになった間合いを見計らって、シンボリルドルフが助け舟を出す。

 

「皆…うどんを茹でたのだが…食べないか?」

 

 

 

 

 

 かくして、皆でシンボリルドルフ手ずからの料理、うどんを食している。

 

 それは具沢山の豚汁うどんの体裁で、沖野が持ってきたスペシャルウィークからの差し入れのニンジンをたっぷり入れた、野菜の甘みが優しく感じられる一品だ。

 

 ふと、男は我に返る。

 

 シンボリルドルフ手製のものを、このメンバーで食べている。自分の部屋で。

 

 しかも皆が自分を気遣い、この忙しい時期の夜半に時間をつくって、殺風景極まりない何の面白みもない男の部屋という空間に集まってくれている。

 

 普通ならあり得ない、不思議な光景だった。

 

 それに今日はたづなさんからの差し入れもあり、ゴールドシップ謹製の焼きそばも食べ、このうどんにはスペシャルウィークからの差し入れのニンジンが入り、食後のデザートにはメジロマックイーン秘蔵のスイーツまであるという。

 

 男はこれまで、あまり自己肯定感というものを高く持ったことがなかった。というより、高く持つことは恥ずかしいことだと考えているところがあった。

 

 しかし様々な行きがかりが交錯しての結果であるとしても、今日の一連の出来事が男を心配してくれた結果で、今の光景であることは間違いがなかった。

 

 男は自分の部屋のリビングをまるで俯瞰しているかのような錯覚に陥る。

 

 沖野とおハナさんの何気ない会話にシンボリルドルフやエアグルーヴも時折加わり、ぎこちないながらも和やかな雰囲気だ。

 

 その光景は男の心を不思議と暖かい気持ちにさせ、無意識のうちに少し、弱々しかった自分を信じる気持ちを補強していた。

 

「…なにニヤニヤしてんのよ。気持ち悪いわね」

 

 おハナさんの言葉に、男はさらに笑みを大きくしてしまう。

 

「いやぁ…なんか、この光景が不思議で」

 

 男は汁を啜る。腹の底から温まるようだ。

 

「しかし皇帝手製のうどんとは…お前、当然のように食べてるけど、俺の語彙力では言い表せないくらいの貴重な体験だぞ、これは」

 

 沖野はそう言いながら丼にがっついている。

 

「…それはお前がルナを、皇帝シンボリルドルフと見てるからだろ。ルナだって飯も食えば睡眠も取る。普通に生活してる一人のウマ娘には違いない」

 

 男の言葉に、ルドルフの耳がぴくりと反応する。

 

「…兄さんの言う通りだ。普段、なかなか接しづらい、面白みのないウマ娘だと思われているが…もう少し、親しみを持ってもらいたいと思っているのだがな…」

 

 少し物悲し気に語るルドルフだが、今の格好は制服にエプロンの幼な妻仕様である。

 

「…大丈夫よルドルフ。あなたはいい奥さんになれるわ。私とは違って、ね…」

 

 東条ハナがしみじみと話す。

 

「…なんか妙に実感こもってますね…さっきの言葉といい、昔になにかあったんですk…」

 

「エアグルーヴ、それ以上いけない」

 

 東条ハナの冷気に気づいた男はエアグルーヴの言葉を遮り、空気感を察知した沖野は背後にあったコンビニ袋をまさぐり、強めの度数が売りの缶チューハイを器用に片手で開栓し、東条ハナの眼前に置く…前にそれをおハナさんが奪い、ぐっと飲む。

 

 ある種のコンビネーションに呆気にとられる生徒会の二人。

 

「まぁ…大人にゃあ色々あるんだよ…」

 

 沖野がフォローにもならない言葉を口にし、その場をおさめた。

 

 

 男の体調はその翌朝には頬のくっきりとした赤み以外、全快していた。

 




皆様いつもコメントや評価や誤字修正、ありがとうございます。
最近テンション下がり気味でしたが、たくさんいただいた反応をガソリンに今回は短いですがざくざくかけました。ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。


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48:転換

皆様しばらくのご無沙汰でした。






 

 

 

 

 

 

 男は翌日の早朝、ファン感謝祭2日目を迎える学内を抜け、工房へと歩いた。

 

体調は昨日の休養のおかげか昨夜のエアグルーヴによる一喝のおかげか、すっきりとしている。

 

 今日の感謝祭の準備をするウマ娘たちとすれ違い、その中の幾人かには頬の赤みを二度見されるが、気づかぬふりを貫く。

 

 視線を感じながら、人の少ない時間帯でこれであれば今日はあまり出歩かないほうがよさそうだ、と男は考えていた。

 

 工房でいつもの作業机に腰掛け、ひと心地着いてあたりを見回すと、たった一日工房をあけただけだというのに、とても久しぶりな気がした。

 

 とりあえず昨日工房を休んでしまったことで、量は少ないながらも滞留してしまっている仕事に手を付けることにする。

 

 

 

 昼前に男のスマホがメッセージの着信を告げるバイブレーションを起こす。

 

[ 昨夜の詫びに模擬店で昼食を御馳走したいと思うのだが、都合はどうだろうか ]

 

 エアグルーヴからの誘いだった。

 

 しかし鏡で見る男の顔は、頬の赤みは引いておらず、なんならより指の形がくっきりと浮き出てしまっている。 

 

 この状態では朝のように衆目を集めてしまうだろうし、なにより工房まで学園内の喧騒が聞こえてくるほどには盛況の様子だ。

 当然、スター揃いのリギルの執事喫茶など、入場制限されていてもおかしくはない。

 そんなところに頬を平手で赤くした男が現れても、それはそれで対外的に迷惑というものだろう。そもそも模擬店どうこうより、今日もっとも忙しいはずなのがエアグルーヴの立場だ。要らぬ気遣いや心配をさせてしまうのも気が引けた。

 

 誘い自体には感謝の言葉を述べ、ありがたいけれど仕事が溜まっているから、と書きかけ、しばし逡巡した後にエアグルーヴもあまり無理しないように、と付け加えて返信する。寝込んでいた自分が言えた義理ではないのだが。 

 

 

 

 午前のうちに滞留業務を片付け、改めて夏休みの宿題に取り掛かる。

 

 とりあえず試製の蹄鉄を課長から提供されたスズカのシューズにフィッティングし、重量バランス等を取りながら仮組みをする。

 

 蹄鉄の余分な部分をわずかに削りながら、左右、前後、上下の立体方向の重さ、シューズの密着などを考慮しながら全体のイメージを膨らませていく。

 

 バランスを取る微調整については、ことウマ娘の場合、本人の身体の筋肉の付き方や好みの要素が大きく、装蹄師だけでは正解が出せない。なのですべては仮で、一般的な状況に近づけていくにとどめる。

 

頭の中で重心位置を想像しながら調整していく作業を男はとても好んでおり、しばらくすると集中力が高まり、いつしか没頭していた。

 

「病み上がりだというのに熱心だねえ…熱心過ぎるから倒れたりするのだろうが」

 

 突如背後から声がする。粘ついた声の主はアグネスタキオンだった。集中していたためにいつの間にか背後に回られていたことすら気づかなかった。

 

 タキオンは驚いて固まっている男の顔をまじまじと興味深そうにのぞきこむ。

 

「…どうしたんだいその顔は。さては昨日の休業は体調不良ではなく痴話喧嘩が原因かい?」

 

 遠慮のないコメントに、男は苦笑するしかない。

 

「…痴話喧嘩するような甲斐性があるように見えるなら、それはそれで結構だけども…実際は体調不良に起因した不幸な事故、といったところかな」

 

 男はポリポリと頬を指でかきながら言う。

 

「相変わらずモテモテだねぇ…それはさておき、ずいぶんとご無沙汰じゃないか。自分が言いたいことだけ言って、私の研究室には顔も出さないとは、あんまりじゃないかね?」

 

 そういえば宝塚記念後に話をして以来、アグネスタキオンとの直接のコミュニケーションは夏合宿の夜にごく短時間あったきりだ。スマホのメッセージではちょくちょくやり取りがあったのだが、ごく事務的な内容やちょっとした依頼事だった。

 

 苦笑いして言葉を発しない男を尻目にタキオンはため息ひとつ漏らした後、言葉を続ける。

 

「あれから色々怪我の予防に関してリサーチをしてみてはいるんだがね。やはりなかなか難しいよ。身体症状を自覚できるタイミングもまちまちだし、なにより自覚症状があっても走ることをやめることが精神的に難しい。ウマ娘が走るのは本能だからね」

 

 タキオンは作業机の隣の椅子に腰かけ、白衣の袖をぐるんぐるんと振り回す。

 

「あと、依頼されていた蹄鉄の情報だがね。スズカの使っている蹄鉄メーカーの製品で破損や異常摩耗のような報告は基本的になさそうだよ。まぁ国内ではマイナーなメーカーの話だからサンプルの数が少なくて、情報の信頼性については保証できないが」

 

 男はタキオンにスズカの蹄鉄メーカーの製品に関しての情報収集も依頼していた。製品になにか問題があってスズカの蹄鉄が負けているのであれば、それはまた別次元の問題であるからだ。

 

 しかしどうやらその部分については杞憂であるらしい。

 

「となるとやっぱり、スズカの走りに耐えられる、近しい特性の蹄鉄を造るしかないってことだね」

 

 男は以前叩き出した形状のみ既製品に近い蹄鉄を作業台に置く。

 

「そういうことになるかねぇ。それができれば少なくともシューズ起点でのリスクは下げられる。怪我の予防、というにはさらにプラスアルファが欲しいところだが…」

 

 タキオンは白衣の袖を振り回すのを止め、思案顔だ。

 

「なにをプラスアルファすればいいのかがわからんのが目下の問題だな。そもそも蹄鉄だけでどうにかできることなのかも相変わらずわからん」

 

 男は煙草を咥えるが、火はつけない。

 

「…走るために使うエネルギーが一緒だとすれば、蹄鉄でなんらかフォローした分、身体のどこかに負担のしわ寄せがいく。つまり原因は変わらず、結果が移動するだけだ。足先に起こるはずだった怪我が別のところの怪我に、となっては意味がない」

 

 男は何の気なしに、これまでつらつらと考えてきたことを口にする。

 

 そこまで聞いて、タキオンははたと気づいた。

 

「…蹄鉄の視点から積み上げて考えても、やはり一部分だけの改善ではどうにもならない、というわけだねぇ」

 

「そうだな。あちらを立てればこちらが立たず、なんてのはよくある話だが」

 

 男は同意する。

 

「生徒会や理事会も動いてくれてはいるが公式化には時間がかかる。ならばいっそ、君が私的な勉強会でも開催してしまえばいいのではないかな?」

 

 タキオンの言葉に、男は眉間に皺を寄せる。

 

「…えぇ…?」

 

 正直喉元まで「めんどくさい」という言葉が出かかったが、なんとかそれを大人のプライドで押しとどめる。

 

「なにもそんなに難しく考える必要はないよ。この工房に顔を出す人間たちの知恵を集めるだけでも、この課題に対する勉強会は成立するだろう?」

 

 確かに、実力は折り紙付きどころか証明済みのウマ娘たちに、その娘たちを育てたトレーナー、この件に協力的な男の上司に、上手くいけばこの間の研究で知己を得た専門医なども巻き込めるだろう。知恵を集いたい範囲としては十分以上だ。

 

 しかし少数で話すならともかく、自らをハブとして組織めいたものをつくり、動かすことに抵抗を感じる。いつも一人で作業することが肌に合っている職人気質といえば格好もつくが、単に男の好みではない、という側面もあった。

 

「この際、君の好みかどうかは問題じゃない。今は宿題という言葉で遊びを持たせているが、成果を出すにも時限性のある問題だろう?なら、なりふり構っている場合かい?」

 

「俺の心を読むなよ…」

 

 ここまで放っておかれた恨みか、タキオンの言葉は男の心を抉る辛辣さを含んでいたが、指摘されていること自体は事実だった。

 

「そうだねぇ…一度集めてみる必要はあるかね…」

 

 タキオンに押されるがままに、男は曖昧に答える。

 

「秋のシーズンはもう始まるんだ。そう時間はない。悠長に構えている場合ではないよ」

 

 タキオンは男にトドメを刺した。

 

 男は火のついていない煙草を横に咥え、腕組みをしたまま唸り続けた。

 

 

 

 

 

「…で、私たちが呼ばれたってわけ?」

 

 

 男は夜、東条ハナと沖野を工房に呼び出していた。

 応接セットのテーブルには幾多のアルコール飲料が並べられている。

 

「昨夜に引き続き悪いな。まぁ昨日のお礼の意味も込めてアルコールは用意させていただきました。そして相談に乗ってほしい」

 

 男は二人に正直に話した。

 

「まぁ相談っていっても鍛冶屋だけが抱える話じゃないでしょうよ。スズカの様子はどうなの?」

 

 沖野は缶チューハイを呷る。

 

「どうっていっても…特に変わらないな。相変わらず内に闘志を秘めて淡々とやってるよ。身体的な問題は今のところ無し、だ」

 

 東条ハナは沖野を睨みつける。

 

「…淡々と、とんでもない量の走り込みしてるのが想像つくわ」

 

「あんまりトレーニング軽くすると隠れて走りかねないからな。手加減するわけにもいかん」

 

「脚の心配については話してるの?」

 

「まぁそれは伝えてるし、体調の変化にも気を配らせてる。まぁ、ほっといてもスペが常時見張ってるようなもんだ。それに、そっちからも手回ししてくれてるみたいだしな」

 

 男は頷く。

 エアグルーヴ経由で心配している旨が伝わっていることはパーティーの夜に確認が取れていた。

 

「まぁ、そこで俺の相談なんだけどね…」

 

 男は沖野の話の後を継いだ。

 

 午後にアグネスタキオンと話したことを総合して、予防に関しての医療的アプローチはすぐには具体化できなそうなこと、蹄鉄起点で問題解決しようにも、故障が別のところに及ぶ可能性があること、現状では自分の領域だけでは解決策が思いつかないことを簡潔に伝える。

 

「で、理事会やらで組織化を待って何かに取り組むというのも先の長い話で、今すぐどうこうはできない。毎日王冠、もうすぐだろう?」

 

 毎日王冠はリギルからも出走があるだろう。トレーナー二人にとってはなかなかセンシティブな話題である。

 

「だから、あくまで私的な勉強会として人を集めて、知恵を募るべきじゃないか、とアグネスタキオンにケツを蹴られたわけだ」

 

 東条ハナはため息、沖野は既に赤い顔でキョトンとしている。

 

「その勉強会はトレーナーも含めた形にしたい、ってことね」

 

「ご明察。というかトレーナーに居てもらわなければ話にならんからね」

 

 男は煙草に火をつける。

 

「二人とも忙しいとこ悪いんだけどさ。そういう趣旨で参加してほしいのと、もしこれがある程度役に立つなら、沖野からスズカにアウトプットしてもらうことを期待するわけだけど、やってもらえるかって話だ」

 

 あえて直截な表現で沖野に伝える。

 沖野はキョトンとした顔のまま、動かない。

 

 基本的にはトレーナーはそれぞれの信念や哲学に基づいてウマ娘たちを鍛え、育てていく。

 

 そこに、こちらの私的な勉強会の考えを入れて指導してもらうというのは、ある意味でトレーナー自身の能力に疑いを抱いていることになりはしないか。プライドを傷つけはしないか。

 男は沖野という人間を信頼してはいたが、その点を心配していた。 

 

 男と東条ハナからの視線を一身に集めて動じるする様子もなく、たっぷりと間をあけてから沖野は口を開いた。

 

「…そりゃあ、あいつらのためになるんならなんだってしてやるよ。だけどな…そのためには、あまり小難しいこと言われても困るぜ。俺がわかるような内容でないと」

 

 沖野はあっさりと言ってのける。

 

 そうだ。こいつもウマ娘たちの為ならなんだってする。自分は草を食べてでも、収入のほぼ全てを彼女たちに注ぎ込んでなお飄々としていられる性質の男だった。

  

 東条ハナは沖野をみて、安堵した表情をみせている。

 

「でもさ…この話、おハナさんだったらどうした?」

 

 沖野は突然鋭い視線で、刃をおハナさんに向ける。

 

「…どうかしら…迷うことは確かだわ。即断できるあなたの潔さに、正直ホッとしたのと、見直したわ」

 

 男の予想通り、トレーナーのプライドにはかなりギリギリの提案ではあるようだった。

 

 東条ハナは続ける。

 

「でも、私たちトレーナーが相談できるような場所がないのも事実よ。だから皆、一人親方のような状況で、自らの人脈と才覚の中でしか彼女たちを育ててあげられない、という見方もあるのかもしれないわね」

 

「まぁなぁ…抱え込んで過労でぶっ倒れるトレーナーもいるし、結局超人的な奴しか生き残れないのがこの世界だなぁ…」

 

 沖野の超人的な部分と言えば、ヒトの何倍かわからないウマ娘たちのパワーで繰り出されるプロレス技を受けてなお平然としていられる部分だろうか。

 

「最初から期待を高められても正直応えられるかはわからないけど、なんにも結果が出せないってことにもしたくないね。やるからには」

 

 男は頬を指でポリポリと搔きながら呟く。頬は赤みは引いてきたが、アザのように青くなり始めている。

 その様子を見た東条ハナが言う。

 

「そういえばその頬、エアグルーヴにやられたのよね?」

 

 確認のように問われる。そういえばおハナさんは男が頬を張られた現場は見ていないのだった。

 

「ん…ああ。俺もよく覚えてないんだけど。ソファまで吹っ飛んでのびてたみたいね」

 

 男も経緯は意識を戻したあとにルドルフに聞いたので、自分の身に起きたことだが割と他人事だ。

 

「その頬のアザ以外には、身体はなんともないの?」

 

 そう言われて改めて男は自分の身体のあちこちを順番に動かしながら検分してみる。

 

「…いや…なんともないね。それが何か?」

 

 東条ハナはほっとしたような表情で一息つくと、男と沖野を交互に見比べた。

 

「…あなたたちがウマ娘たちに情熱を燃やすのと同じくらい、身体が頑丈でよかったわ…それもこの仕事をしていく上で必要な才能なのかもしれないわね」

 

 男と沖野は東条ハナの言葉の意味を理解できず、きょとんとした表情をしていた。

 

 

 

 





まだ失踪しませんよ。


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幕間2:トレセン学園 史料課研究員の災難

皆様いつもご覧いただきありがとうございます。

いつのまにやら50話目に達しました。
三日坊主を自認する私がここまでつらつらと書いてこれたのもひとえに皆様の暖かいコメントや評価や誤字修正等の支えによるものであります。

本当にありがとうございます。

そんなひとつの区切りだというのに、多分あまり評判はよろしくなく需要もないであろう(とUA数から判断している)幕間回が今回であります。まことに申し訳ございません。でもやりたくなっちゃって書いちゃいましたので投稿いたします。お許しください。

だいぶ前の幕間回からの続きとなっておりますので、お読みいただけるけど前のなんて覚えてないよという方はこちらからどうぞ。





 

 

 

 

 

 トレセン学園の敷地は時代を経るに従い少しずつ拡張し、存在する街を取り込むように拡大していった。さらに周辺の土地には飛び地となっているグラウンドや施設などもある。

 

 学園管理本部 施設統括管理部はその大仰な名前の通り、土地からその上に立つ数々の施設を横断的に管理し、短期的な修繕から長期的な施設の更新までを一手に引き受ける組織だ。

 

 そしてその組織の末端に連なる史料課は、学園本校舎の地下に広大な資料庫を有し、これまで長年の歴史を積み重ねた学園に在籍していたウマ娘たちのありとあらゆる教育、トレーニング記録、日記などを保管している。

 

 長年積み重ねられたそれらはまさに歴史の断片であり、研究の対象でもある。

 

 そう表現すれば重みも感じられるだろうが、実際のところは数名の研究員という肩書が与えられた課員が配置される、サラリーマンの左遷先として言われるような社史編纂室的な存在でもあった。

 

 地下の資料庫にあるさまざまな記録たちや収蔵物も、価値があるものはレース場併設の資料館や博物館に展示されており、ここにあるものはまさに残骸と言えた。

 

 そんな部署であるから、華やかなウマ娘レース界にあっても地味であること極まりなく、その日もメディアからの問い合わせに回答する資料などを探したり作成したりしながら、何事もなく過ぎていくはずであった。

 

 昼過ぎに課長席の内線が鳴り、食事後の午睡を邪魔された課長が不機嫌に二言、三言対応し当たり散らすように電話を切ると、下っ端の研究員が呼び出しを受けた。

 

 課長曰く、電話は学園管理本部の本部長からで、学園本校舎奥の、朽ちるに任せてある掘っ立て小屋のような建物のある土地を整地し、新たな倉庫を立てる計画が持ち上がっているらしい。

 

 しかしその小屋の素性がわからず、往生しているという話だ。

 

 課長はどうやらその掘っ立て小屋の調査をしてこい、と下っ端に言いたいらしかった。

 

 下っ端は下っ端で、理事長あてに定期的に報告を入れている、最近書庫から見つかった往年の名バたちの日記について報告書を執筆しており、中断させられるのはあまり良い気分ではなかった。

 

 しかし彼は下っ端である。

 ほかの数名の研究員たちも、話は聞こえているだろうが助け舟を出す気配もなく、息を殺している。

 皆、面倒事は御免なのだった。

 

 それと悟られぬようにため息をつき、承知した旨を伝えると、下っ端は施設系の資料を揃えて件の現場へ向かった。

 

 

 下っ端は現場のおおよその場所は把握していたが、歩きながら持ち出してきた学園の詳細地図を確認する。

 

 目的の場所は本校舎裏へ回り込んでさらに奥へ進み、森のようになっている学園裏手の土地の深部に位置していることを確認する。

 

 本来は記入されているはずの施設名は持ってきた地図にはなにも書かれておらず、ただそこに建物があることだけが記されていた。

 

 本校舎は10年ほど前に数年かけて旧本校舎を解体、建て替えを行っており、その時にも特に手をかけられなかった建物であろうことが伺えた。

 

 しかし、こんなところに新たに倉庫を建てて一体何に使うというのだろう、という疑問が湧くような場所である。

 

 

 目的の場所に近づくにつれ、道はあまり手入れされておらず、軽トラがやっと、というような申し訳程度に草が刈りはらわれた道を辿ることになった。周りの木々は大きく成長しており、昼であっても道は薄暗い。

 

 そして指示された建物にたどり着いて全体を見渡してみれば、周囲の鬱蒼とした森が建物を飲み込もうとするかのように緑に侵食されはじめており、あと10年も放置すれば崩落し、跡形もなく草木に飲み込まれてしまうのではないか、そう思われるような有様であった。

 

 一言でいえば、紛うことなき廃墟だった。

 

 ぐるりと見える範囲で周囲をうかがうと、奥にはさらに古いレンガ造りの建物があり、手前の廃墟よりさらに緑に飲み込まれかけているが、まだなんとか軽い草刈りで入り口までたどり着けそうだった。

 

 そしてその手前には見たこともないような古い小さな車が一台、苔と錆に覆われて錆の涙を流しながら鎮座していた。

 

 下っ端は作業着を着てくるべきだった、と後悔しつつもすぐに入れそうな手前の建物に足を踏み入れることにした。

 

 正面に戻り入口と思われる引き戸の前に立つ。脇にはすでにフレームのほかは大地に還ってしまったと思われるベンチの残骸があり、そのかたわらには青い野生のサルビアが群生している。

 

 下っ端が入り口の把手に手をかけて少し力を入れると、見た目に反して思いのほかスムーズにその引き戸は開いた。

 

 入り口そばにある古ぼけた照明のスイッチを入れてみると、既に国内では生産終了となって久しい蛍光灯が幾たびか瞬きながら、かろうじて明かりを灯した。

 

 明かりが灯ってもなお暗い室内を見回す。

 一応窓はあるが、草木に覆われて既に日光はほぼ差し込まない。

 

 しかしそのおかげか、錆のような匂いの立ち込めた埃っぽい室内だが、意外に保存状態は良好なようであった。

 

 一見したところ、雑多なその室内が一体なにをするところなのかすぐには理解できなかった。

 

 入口をはいってすぐのところには昭和の古い映画でしか見たことがないような安物の応接セットが朽ちかけており、低いパーテーションで区切られた向こうには作業机と思しき頑丈そうな木製の机、そして大ぶりな工具類が雑多に散乱している。すこし空間をあけて、金床が数種類あり、その向こうには炉のようなものも見える。   

 

 奥に進み作業机を見てみると、手のひらの大きさほどもある錆びついたU字形の鉄の塊が数片、置かれていた。    

 

 よく見るとそれがたびたび資料で見たことのある「蹄鉄」というものであることを理解し、ようやくこの建物がなんであるかが分かった。

 

 ここはかつて、蹄鉄の工房であったのだ。

 

 

 現在でも蹄鉄の形状はウマ娘たちを象徴する形状として、学園内のそこここに飾り物としてのモチーフが存在しているし、制服のデザインの一部としても存在している。

 

 しかしウマ娘たちのレースで鉄製の蹄鉄が使用されなくなって久しく、今はそういった意味での「本物の蹄鉄」は、博物館などで展示されている往年の名ウマ娘たちの記念品などで見ることはあっても、身近に存在するものではなくなっている。

 

 作業机に無造作に置かれている錆びついた蹄鉄を持ち上げてみる。

 

 そのズシリと伝わってくる重みに、下っ端は戸惑った。

 

 角度を変えて細かく観察してみると、どうやら持ち主らしい名前が刻まれている。

 

 下っ端の知らない名前のようであった。

 

 作業机から幾分か離れたところに書棚のようなものがあり、雑多にファイルが積まれている。

 

 背表紙にはおそらく年代が記されており、それはおおよそ40年ほども前の西暦が記されていた。

 

 下っ端が興味を惹かれたのは、ここに来る直前に書いていた報告書、その内容に近い年代が目に入ったからだ。

 

 ひとつを手に取って開いてみると、作業記録をファイリングしたもののようである。

 

 ファイルに綴じられていたそれは意外にも保存状態が良く、手書きで蹄鉄の持ち主と作業をした日付、ひとつひとつにどのような作業を施したかが記されていた。

 

 しかし略号で書き込まれたそれを判読することはできない。

 

 したがって理解できるのは持ち主の名前程度であった。

 

 作業記録をめくっていくと見知った名前を見つける。

 

 下っ端の書いている報告書にも出てくる、歴史に名を遺している名バの名前だ。

 

 彼女の脚を支えた蹄鉄も、どうやらこの工房で造られたか、手を加えられたかしていたらしい。

 

 嫌々押し付けられた仕事とはいえ、意外とつながるものだな、と下っ端は新たな発見に心が少し明るくなるような気がした。

 

 唐突に声がしたのはその時だった。

 

「そこでなにをしているっ!」

 

 思いもよらぬ鋭い声に、下っ端はびくりと身を震わせる。

 

「貴様どこの所属だ?まさか学園外からの侵入者ではあるまいな?」

 

 入り口から下っ端に向けて凛と響く声は女性のもので、聞くものを威圧する冷徹さを感じさせる。

 

 ん?

 でも、この声、どこかで…。

 

 入口は逆光になっていて、問いかけてくる女性はシルエットにしか見えなかった。

 

 下っ端は両手を上げて所属と名前を告げる。

 

「ん?その名前、どこかで…」

 

 入口から数歩、入り込んできた人物の素性を、下っ端はようやく理解した。

 

 トレセン学園の現在の理事長であった。

 

「ここにはまず人はこない。警戒して怒声を出してしまって済まなかったな」

 

 理事長はいつもはスッと立って美しい耳をややしおれさせながら詫びの言葉を口にする。

 

 下っ端はまずこの距離でまみえることのない、雲の上の存在である理事長の存在感に緊張を感じた。

 

「君の名前はどこかで目にしたことが…そうか、書庫で発見した古い日記の調査報告をあげてくれているな?」

 

 下っ端はコクコクと頷く。

 

「その君が、どうしてここにいる?」

 

 言葉こそ厳しめだが、口調は先ほどと打って変わって柔らかい。

 

 下っ端はかくかくしかじか、とここに来た経緯を説明した。

 

「…なるほど。ここには触れるな、と常々言っているんだがな。学園管理本部には私から一言入れておくから、君はもう戻って良い」

 

 

 スーツ姿で凛とした立ち姿の年齢不詳容姿端麗な理事長は、アイシャドウを引いた瞳を少し伏せ、人差し指を軽く顎に当てて何やら思案している様子だ。

 

 戻って良いとは言われたものの、入り口に向かうには理事長に近づかねばならず、その近寄りがたいオーラに圧されて下っ端はその場に立ち尽くしていた。

 

「戻って良いと言ったぞ。なにをぼーっとしている…ん…だ?」

 

 理事長は作業机上に開かれたファイルに気づき、視線を向けていた。

 

 下っ端は慌てて言い訳をする。今書いている報告書の年代と近かったもので云々…。

 

「別にここにあるものを持ち去ったりしなければ、見るのは構わん。ましてや君は、職務上それを見る権利くらいはあるだろう」

 

 意外にも寛大な言葉に、思わず下っ端は恐縮してしまう。

 

 そして少し冷静な思考を取り戻した頭は、現状に違和感を感じだした。

 

 よく考えてみればなぜこの自然に飲み込まれかけた工房に理事長が現れ、なんらかのこだわりがあるかのように振舞っているのか。

 毎日大量の書類が上がってくるであろう理事長が、下っ端の書いたものを覚えているというのも、違和感を感じずにはいられなかった。

  

 下っ端は素直に、それを問うことにした。

 

「…それを知りたければ、今度の報告書は君自らアポイントを取って、私に直接提出しに来るといい。秘書に話は通しておく。だから今日のところは、もう戻ってくれ」

 

 下っ端のような男には恐れ多いことを、いつもの凛とした印象からはかけ離れた陰のある、それでいて艶っぽさすら感じられる口調でそう告げる理事長は、どこか寂しそうに感じられた。

 

 

 

 先に工房を出て史料課に戻る道すがら、理事長の姿を思い返しながら、次の報告書提出は必ず直接行おう、と心に決めた。

 

 

  



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49:深まる悩み


 皆様前回は幕間回への感想をたくさんいただきましてありがとうございました。
 思いのほか好意的なコメントいただきましてほっと胸をなでおろしております。書きながら書いてる本人は面白いんですが、なにせ地味だなぁ…と…。
 またアイデアが上手く熟成できたらやりたいと思いますので、その時はよろしくお願いいたします。

 というわけで今回は本編に戻らせていただきます。

 今後ともよろしくお願いいたします。


 

 

 沖野と東条ハナを工房に呼んでの相談の数日後、アグネスタキオンに蹴られたことに端を発した男の私的な勉強会は開かれた。

 

 メンバーはあくまで男の交友範囲内となり、以前イクノディクタスの件でチームを組んだウマ娘専門医、理学療法士、男の上司であるシューズ課長は一も二もなく賛同し、参加を表明してくれていた。

 

 それに加えてトレーナーからは東条ハナ、沖野。

 現役でレースを走っているウマ娘として、東条ハナ配下となるシンボリルドルフ、そしてバランスをとるためにエアグルーヴではなく沖野配下のゴールドシップに白羽の矢が立った。アグネスタキオンは現役のウマ娘ではあったが、立場としては専門家寄りの立ち位置での参加である。

 

 基本的に男がハブの立場であるため、まず勉強会の始動をしなくてはならないのが苦痛であった。

 

「…勉強会、と銘打ってはいるけど、要は俺の相談事を皆さんの知恵をお借りしたい、というのが本音です」

 

 工房に集まった面々を前に、男はこれまでの経緯を説明する。

 サイレンススズカの脚への不安に端を発して見出した課題であること、装蹄・装具技術では限界があると思われること、将来的には怪我の予防技術の発展を目指したいが、目下のところはサイレンススズカに怪我をさせないことが短期目標であることを、できるだけ飾らずに伝える。適宜アグネスタキオンが補足というか口を挟んでくれるので、専門家の方々にも焦点ははっきりさせることができている。

 

「扱う事象が現役の、しかも今最も注目を集めているウマ娘のことなので、ここでの話は厳重に秘匿したい、という要素もあることを忘れないでいただきたい」

 

 男は結びに敢えて厳しい口調で述べておく。基本的にここにいるメンバーは信頼してはいるがゴールドシップだけがやや不安であった。

 しかし彼女の表情を見る限り、真剣そのもので男の心配は杞憂であることが理解できた。

 

「とはいえよーおっちゃん。話が漠然とし過ぎててどこから手つけていいかわかんねーよ」

 

 真剣な表情ではあったがゴールドシップの口調はいつも通りだ。しかし彼女の指摘は聡明そのもので、あっさり芯を捉えてくる。

 

「ゴールドシップ君の言う通りだ。だからまずは今日はブレスト形式で自由に話してみて、いろんな種を見つけてみるところから入るというのはどうかね」

 

 そういって、アグネスタキオンは携帯型のプロジェクターとスクリーンをどこからともなく取り出した。

 

「怪我を予防する、となると、まずは怪我の原因を探らなくてはいけないね。これは学園の資料VTRから見つけた基礎的な走行フォームに関する研究映像なのだが…」

 

 どうやらアグネスタキオンもこれまで進めていた自らの研究を問うてみたかったらしく、自説を交えながら話題を提供してくれ、話が進んでいく。

 

 いったん話が走りだせば、そこは志を同じくした者たちの集いであるから、男は特に何を意識せずとも話が展開していくのだった。

 

 アグネスタキオンはフォームの話から筋肉の話に展開していき、そのあたりから専門医や理学療法士も本格的に参戦してくる。

 

 東条ハナは積極的に発言するわけではないのだが、飛び交う情報にはトレーナーにはない視点が多いのか、しきりにメモを取っている。

 

 男はその様子を眺めながら、案外これは画期的な試みに発展していくのでは、と漠然と感じていた。

 

 

 

 

「…これはトレーナーももっと勉強しないといかんな…」

 

 勉強会がいったんお開きになり、メンバーが三々五々引けていった後、残っていた沖野はぽつりと呟いた。

 

 終わってみれば2時間半、息つく暇もない激論が交わされ、様々な角度からもたらされる情報量は膨大なものとなっていた。

 

「あん?トレーナー、自信喪失しちまったか?」

 

 ゴールドシップがからかうが、沖野の表情は真顔のままだ。

 

「そんなんじゃねえけどな。まだまだできることがたくさんある手ごたえは感じた。みんなお前みたいに頑丈じゃねえからな」

 

「あんだよーまったく。こんな華奢な乙女捕まえてなんて言い草だよ。今日の呼び出しは高ぇからな!」

 

 ゴールドシップは手荒い言葉で沖野を責めるが、それは仲間を大切にするゴールドシップの照れ隠しのようでもあった。

 

「今まで経験則的なカンで指導してきたところが多いからな…それだけじゃあ足りないってことが身につまされたよ」

 

 沖野は男にそう語ると、片手で手荒くじゃれつくゴールドシップをあしらいながら帰っていった。

 

 

「…兄さん、今日はお疲れ様」

 

 最後まで工房に残ったシンボリルドルフは、男に語り掛けながら茶を手渡してくれた。

 

「ありがとう、ルナ」

 

 作業机にもたれかかりながら、男はそれを受け取る。

 脱力して思わずため息が漏れてしまう。

 

「…こんなんで、何か変わるんだろうか…」

 

 男は思わず本音を漏らしてしまう。

 

 それを聞いたシンボリルドルフは苦笑いしながら、言葉を選んでいるようだ。

 

「…使い古された言葉だが、千里の道も一歩から、というところだろうね。それに、さっきの沖野トレーナーの言葉も、おハナさんのメモを取る様子からも、発展の余地がある手応えはあっただろう?」

 

 ルドルフの言う事はその通りなのだが、男の根底にあるのは焦燥感だった。

 

「兄さんの焦りも理解できる。でも結局、それは本人とトレーナーがどう考え、判断するかだろう。冷たいと思うかもしれないが勝負の世界では結局、自分次第だ」

 

 男はルドルフの言葉に、己の置かれた立場との違いを見出した。

 

「結局そこなんだろうな。そういう意味では所詮俺は、外野だ」

 

 男は気分が沈んでいくのを感じた。

 今やっていることは自己満足なのではないか、という疑念が内心で大きくなっていく。

 

「…そこまで卑下する必要はないだろう。かかわり方は人それぞれあるものだし、立場に囚われすぎる必要もない」

 

 ルドルフは自らも茶を飲みながら、尻尾を悠然と揺らし、耳は落ち着きなくピコピコとうごめいている。

 

 男はそんなルドルフの姿には気づかず、言われたことを反芻していた。一回り以上年下の娘に諭されているという現実を忘れてしまえるほどには貫禄を感じていた。

 

「…すまんな。愚痴だった。どうしても、スズカをなんとかしたくてな。だけど、ここで迷うようなら、やっぱり置いていかれるだけなんだってわかったよ」

 

 男は椅子の軋みも気にせず、反り返り、目をつぶって天井を仰ぎ見るように伸びをした。

 

 ルドルフは立ち上がり、上から男の顔を覗き込むように立つ。

 

 目の前が暗くなったことに気づき、男が目をあけると目の前には、眩しい蛍光灯を背に、見下ろしてくるシンボリルドルフのシルエットが浮かび上がる。   

 

「……?…ルナ…?」

 

 急に距離が近くなったルドルフに戸惑いながら、男は問う。

 

 返事の代わりに、男の髪にルドルフの手がふわりと触れた。

 

「…少しだけ…少しだけ、私にも兄さんを分けてくれ…」

 

 彼女は男の頭をかき抱くと、自らの顔を男の頭髪に埋めた。

 

 

 

  

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。

 

 男は力を抜いて、言葉を発することなく彼女の好きなようにさせた。彼女の優秀な心臓は、男にもはっきりわかるくらいの力強さで、規則正しい鼓動を伝えてきていた。

 

 シンボリルドルフは胸いっぱいに男の匂いを満たし、抱いていた男の頭をそっと解放した。

 

「…どうしたんだ?ルナ…」

 

 しばらくぶりに男の視界に捉えられた彼女は顔をやや赤く、耳をしおれさせたまま瞳は潤み、アルコールに酔ったような表情をしていた。 

 

「…たまには、鉄分を補給したくなったんだよ」

 

 すこし躊躇うようにそれだけ言うと彼女は踵を返し悠然と工房から退出した。

 

 

 

 

 シンボリルドルフは夜も更け人気のない学園を、火照った顔を夜風に当てて冷ましながら足早に歩いていく。

 

(エアグルーヴ、許せ…)

 

 抑えきれずにしてしまった行動に、罪悪感を感じてしまう。

 

 今夜の勉強会の話をおハナさん経由で聞いた時、エアグルーヴは表情にこそ出さなかったが唇の端はわずかに戦慄き、何故自分が呼ばれないのか、そう思っていることが見て取れた。

 

 あろうことかその状況を利用してしまった自分への自己嫌悪も、そう簡単に拭えそうにはなかった。

 

 

 以前ならこうした悩みはなかったんだろうな。

 

 

 歩くうちに少し頭が冷めて、自らと男を取り巻く環境という俯瞰した思考を取り戻すと、いつのまにか歩む速度が緩む。

 

 シンボリルドルフはまたひとつ、自らの手で悩みを深くしたことを自覚せざるを得なかった。 

 

 

 

 

 






トップページにも書かせていただきましたが、本作の良き理解者(被害者)であらせられますzenraさんが、本作をベースに三次創作を執筆されております。
別角度から描かれる(浮き彫りにされる)おっちゃんの姿が新鮮で、かつ豊富な現実競馬知識に裏付けされたストーリーはとても美味しい感じに仕上げられておられます。
ぜひこちらも何卒、お楽しみいただければ!

三次創作 とある装蹄師に自覚と反省を促す取材記録
https://syosetu.org/novel/270326/



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50:女帝の閃き



ついに本編も50本目を迎えました。
よくここまで続いたなぁ。長けりゃいいってもんじゃないんですけどね笑

あ、今回の本編、通常の2話分くらいの文量になってしまいました。
お手数お時間頂戴してしまいまして恐縮です。
良い区切りポイントを作れませんでした。。。




 

 

 シンボリルドルフが顔を紅潮させ、校内を早足で歩いていた頃。

 

 エアグルーヴは自室でまんじりともせずに、早めに入ったベッドで寝返りを繰り返していた。

 

 男の工房で勉強会が開かれている時間帯、どうせ落ち着かないのであれば、ここのところの多忙による睡眠不足を補う意味でも眠ってしまえばいいとベッドにもぐりこんだまでは良かった。

 

 しかし結局眠りに落ちることはできず、益体もない考えが浮かんでは消すことに苦労する、そんなことの繰り返しであった。

 

 自分が呼ばれなかったことに関しては、おおよそ納得のいく説明は受けている。

 

 そもそも職員や関係者など、生徒ではない人々が主体の勉強会であるし、生徒のほうも生徒という立場というよりはアスリートであるウマ娘として、という側面が強い。

 そういう意味ではリギルから2人出すよりも、今回のメンバーである沖野トレーナー率いるスピカからもウマ娘を出すほうがバランスも良く視野も広がるであろう、ということだった。

 

 その理屈に納得はしていた。

 

 しかし最後に男と会ったのが彼に張り手をくれてしまった夜であること、その翌日の模擬店の誘いを多忙を理由に断られてしまったことが脳裏によぎり、遠ざけられているのではないか、という不安に苛まれる。

 

 結果、理屈ではわかっていても感情をどうにも消化できずに抱えたまま、ベッドの中で寝返りを打ち続けるほかなかった。

 

 

 

 私は彼に対する失点を取り返したいのだろうか。

 

 

 

 失点を取り返すために自らの出番を求めているのであれば考えが浅い、拙いと言わざるを得ないだろう。

 

 彼の考えや意思に賛同し、自分だからできる視点で協力をすることができてこそ、もっとも好ましい貢献ではないか。

 たとえ感情的な動機が不純であったとしても。

 

 ならば今自分にできることはなんであろうか。

 

 男の考える「怪我、故障の予防」を自分一人で考えることは難しい。それは勉強会に任せるとしても、他にもなにかできることがあるのではないだろうか。

 

 翻って、我らが生徒会長がいつも言っているのは、「すべてのウマ娘たちが幸福でいられる社会」だ。

 

 その主語は大きすぎるとしても、ウマ娘個人と社会の間には幾重にもさまざまな領域があるのではないか。

 

 その中のひとつとして、私たちが挑むレース、競走というものがある。

 広くエンターテイメントとして定着し、ウマ娘たちの特長を表現した競技として、彼女たちが社会に溶け込む一助となっている媒体。

 

 私的な勉強会というフォーマットで検討されているのは、あくまで競走するウマ娘自身をどうするか、という考え方だ。

 

 ならば会長の視座と装蹄師の男の視座の中間にある、レースというひとつの流れの中で考えれば、なにか見つけられるのではないか?

 

 エアグルーヴはそこまで考えたところで閉じていた瞳を開いた。

 

 自分にも提案できることが、きっとある。

 ヒントは既に、あの男からもらっているではないか。

 

 エアグルーヴは同室であるファインモーションを起こさぬようにそっと起き上がると、机に座り、ノートに何事かを書きだし始めた。

 

 

 

 

 

 

 同じメンバーで勉強会を数度行った後、とりあえず今のところの結論めいたものが見えてきた。

 

 まず、スズカに対してはこれまで以上に徹底した身体管理が必要との結論に至る。

 

 これは彼女の怪我を予防するという視点と今後どうなるにしろ、彼女の身体の経緯が重要なデータとなりうるという、両面での意味で必要とされた。

 

 そして現役のウマ娘たちから主に下半身の主要ポイントを設定し、骨に着目して骨密度データを新たに取り、その中でスズカの身体的特徴を分析していく取り組みを行う。

 

 人間のアスリートであっても、骨密度と足回りの怪我には相関が認められている。未だに謎の多いウマ娘たちであっても、同じような傾向がみられるであろうことまでは予測が立つ。

 

 絶対数が少ないがゆえにウマ娘に関して大規模な調査がなされたことがないようで、今回の取り組みを通して何かヒントが得られるかもしれないという。

 

 靭帯や腱に関しては議題には上がったが、今のところ有効な強化策はメンバーの知識領域の中からは見つけることができなかった。

 

 ここはアグネスタキオンの薬や栄養に対する知見を拡げていく方向性としてフロンティアとなるのではないか、という希望と期待を込めた研究方針を取ることになった。

 

 

 ハード面となる蹄鉄、シューズは現行のレギュレーションが許す範囲での軽量化とバランス取りで身体への負担減を目指すことになる。

 

 特に身体への負担減には衝撃減が有効だろうとされ、これを行うことにより長期的な蓄積ダメージを減らすことが期待された。

 

 つまり、勝負シューズ、勝負鉄だけではなく、普段のトレーニングシューズからの品質向上が必要であり、全体的な底上げが目標だ。

 

 そして装具全体の管理精度向上により、不慮のトラブルの可能性を減らすことも副次効果として狙っていくことになる。

 

 決定打こそ見いだせなかったが、とりあえずの取り組みとしては及第点であろう、というところだった。

 

 

 

 

 

「やはり、金槌一本で解決とはいきませんねぇ…」

 

 男は勉強会の後、シューズ課長と工房前で煙草を吸いながら呟く。

 

「それは最初から分かってたことだろ。最初からシューズと蹄鉄じゃあ難しいって予測はしてたはずだ」

 

 課長は何を分かり切ったことを今更言っているのだといった雰囲気だ。

 

「まぁそうなんですけどね。やっぱり悔しいじゃないですか。己の腕一本でなんとかしてやるとか、カッコいいと思ったんですけどね」

 

 男は本気とも冗談ともつかないトーンで話す。

 

「まぁそりゃあ職人としては理想だけどな。現実にはそんなうまくいくもんじゃねぇ」

 

 課長はうまそうに紫煙を吐き、煙草をもみ消す。

 

「それに、あの既製品を再現して耐久力あげつつ軽量化って、それだけでも相当だぞ。まずはきっちり、目の前の目標超えないとな。頼んだよ」

 

 課長は男の肩を軽く小突くと、背中越しに手を振りながら校舎の方へ帰っていった。

 

 そうなのだ。課長の指摘通り、スズカの蹄鉄の再現だけでもかなりの難題ではあるのだ。

 

 男は二本目の煙草に火をつけると、蹄鉄の加工法について思いを巡らせながら、工房の片づけをし、部屋に引き上げる準備をしていった。

 

 

 

 

 

 男が部屋へ戻る道を思案しながら歩む。

 

 歩み慣れ過ぎた道は、視覚情報がありながらもそれを意識的に認識することはなく、ほとんどロボットが自動で道を辿るようなもので、前を見ているようで脳は視界に入るものを知覚していない。

 

 その分の空いた脳のリソースを蹄鉄の焼き入れ法の検討に使用しながら部屋への階段を上る。

 

 部屋がある階に上がり、自室のドアが見える廊下に立った時、この帰宅路で初めて視覚情報に異常が生じた。

 

「…?」

 

 すぐにはなにがあるのか知覚できない。

 

 薄暗い廊下の先にある自室の部屋の前に、なにかドス黒いオーラを放つ塊がある。朝、部屋を出るときにはあんなものはなかった、と思う。 

 

 歩みを緩めてにじり寄ると、足音に反応し、ぴくりと物体の頂部が跳ね上がった。

  

「あ…ん…?」

 

 よく見れば、その塊はトレセン学園の制服を纏って体育座りをしているウマ娘であるようだった。

 

 さらに近づくと、そのウマ娘は抱えた膝に埋めていた頭をむくりと上げ、男を視認すると一言言い放った。

 

「…遅いではないか、たわけ」

 

 彼女の傍らにある食材が詰め込まれた袋ががさり、と音を立てた。

 

 

 

 

 

 男はとりあえず一も二もなく慌ててエアグルーヴを部屋の中に引き入れる。

 

 今は日中はそれなりに気温があるが、日が落ちれば冷え込んでくる季節だ。

 

 そんな時期に冷えたコンクリートの上でどのくらいの時間、制服の短いスカート姿で体育座りをしていたというのだろう。

 

 彼女の身体が冷えてしまったであろうことが男には一番気掛かりだった。

 

「風呂にでも入るか?すぐに沸かすぞ」

 

 男は慌てたままでエアグルーヴの顔もろくにみることなく、どたどたと風呂の準備を始める。

 

 男の言葉を聞いてエアグルーヴの冷え切っていた身体が一気に心拍数を増し、熱を帯びる。

 

「ま、まて!そういうのはまだ、心の準備が…!」

 

「あぁん?体冷えちまっただろうが。何だか知らんがこれで体調崩さしたら俺がおハナさんに殺される」

 

 エアグルーヴの顔は紅潮から一気に白く冷める。  

 

 いつだってこの男はこうであったのに、どうして私はこの男のことになると掛かってしまうのだろうか。

 

 このたわけが!…と吼えたい気持ちを必死に収め、エアグルーヴは深呼吸して心拍を整えた。そうそう早とちりばかりしていたら彼女の心は持たないのだ。

 

「身体の冷えならば養生しているから問題ない…それより、また食事を疎かにしているのだろう?私が食事を作ってやるから、食べて落ち着いたら私の話を聞いてほしいのだが」

 

 エアグルーヴは冷静な声音を装い風呂場で格闘する男に告げると、自身はキッチンへ向かい食材を取り出しはじめた。

 

 

 

 

 男はとりあえず勢いのままに風呂の掃除を終えて沸かす段取りを整えリビングへ戻ると、すでに食欲をそそる香りがそこを占拠していた。

 

「すぐに支度ができる。すこし休んでいてくれ」

 

 エプロン姿のエアグルーヴは男に一瞥もくれずに狭いキッチンの中で忙しく立ち働いている。

 

 料理をほぼしない男には手伝えることもなさそうで、男と目線もあわせようとしないエアグルーヴの雰囲気に圧されて身の置き場もなく、男は黙ってリビングのソファに座り、煙草に火をつけた。

 

 しかし、アレである。

 

 部屋の前でエアグルーヴを見つけた驚きで、帰宅路であれやこれや悩んでいたことが吹き飛んでしまった。

 

 しかも当然のように部屋にあげてしまっているが、この間のシンボリルドルフだけではなく、今はエアグルーヴがエプロンを着けてキッチンにいるのである。自分の部屋で。

 

 それを平然と受け入れてしまっている自分もどうかと思うし、改めて考えてみればなかなかに奇妙な光景である。

 

 このまえ沖野がつぶやいた「貴重な体験」とやらが徒党を組んで押し寄せるかのように短期間で頻発しているのは、一体なんの偶然であろうか。

 

 このことに思考を寄せれば、いつしかおハナさんや沖野が言っていた刺されるだの刺されないだのという話をつながりそうな気がしてきてしまう。

 

 まぁ、まさかな。

 いやでもしかし。

 

 様々な仮定が男の頭の中を去来する。

 

 しかしこのような思考がめぐるとき、男はいつも決まった思考に収斂する。

 

 刺されるなら、それはそれでいいか。

 

 これまでの人生においても流されるままにここにたどり着いたのだ。

 そのうえどこまでも自身に頓着がない。

 結局、いざというときもまた、流される覚悟だけはできているのであった。

 

 

 

 

 

 エアグルーヴが拵えた夕餉はサバの味噌煮に肉じゃが、味噌汁、卵焼き、白米と、純和風に仕上げられていた。二人用のダイニングにきちんとマットを引いて整えられていた。

 

「…寮であらかじめ仕込んでおいたものを温めただけだから簡素ですまないな。あ…味の方は、悪くないはずだ…」

 

 そう告げるエアグルーヴの表情は硬く、頬が赤い。

 

 やはり風邪をひかせてしまったのではないか、と男はハラハラしていた。

 

「…いただきます」

 

 二人で手を合わせ、食事に取り掛かる。

 

 サバの味噌煮はよく味がしみ込んでおり味噌の甘みと鯖の脂がうまみを引き立て、青魚特有の臭みもきちんと抜けていて白米ととても合う。

 肉じゃがもほんのりとした優しい甘みが感じられ、どちらも絶品といえた。

 

「…うまいな!」

 

 男は思わず感想を漏らす。

 

 そのままがっついたように勢いよく食べる姿を見て、エアグルーヴは小さくホッと息を吐き、緊張を緩めた。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまだったな」

 

 二人ほぼ同時に食べ終わると、男は立ち上がって皿を片付け始める。

 

「あ、片付けは私が…」

 

 エアグルーヴは焦って立ち上がり、男に告げる。

 

「飯作ってもらって片付けまでさせちゃあさすがに家主としてどうかと思うわ。俺がやるからエアグルーヴは一休みしておいてくれ」

 

 そう言われてしまえばエアグルーヴも無理になにかをすることはできず、ストンとダイニングに腰を下ろすしかなかった。

 

 カウンター越しに男が洗い物をする姿が見える。

 

 エアグルーヴは何をするでもなく、それを眺める。

 なるほど。これが生活というモノなのか。

 寮住まいのエアグルーヴの生活とはまた違う、男の生活の風景を覗き見ているような気分になる。

 

 これはこれで、イイものだな…。

 

 男は手元に集中し、エアグルーヴの視線に気づかない。

 

 エアグルーヴはいつしかうっとりと、男の姿を眺めていた。

 

 

 

 

 

 男は手早く洗い物を片付けてしまうと、ウマ娘用のニンジンジュースと自らのお茶を手に、リビングに戻った。

 

「で、聞いてほしい話ってのはなんだ?」

 

 男は窓をあけて煙草に火をつけながら、エアグルーヴに問いかける。

 

「…あれから、私なりに考えてみたんだ」

 

 そういうと、一冊のノートを、男に手渡す。

 

 男は渡されたノートを1ページ、めくる。

 

 エアグルーヴ直筆の、性格をそのまま文字にしたような几帳面な筆致だ。

 

「私なりに、怪我や故障に対して何かできることはないかと考える中でひとつ、レース中の事故の対処できないか、と思い至った。これはその私案だ」

 

 ウマ娘たちの怪我はトレーニング中にも起こるが、レース中にも多く発生する。

 

 トレーニング中であればすぐに対処することもできるが、レース中だとなかなかに厄介だ。

 

 レースはウマ娘たちが限界以上の能力を発揮してくるし、真剣勝負の真っ最中。

 周りも殺気と勢いに満ちていて、簡単に止まることもままならない。  

 

 結果、トップスピードで一人で転倒するだけでも生死にかかわることもあるというのに、後続を巻き込んでの大惨事という事例もあるのだ。

 

「レースそのもののフォーマットはどうすることはできない。けれど、まさか重量のあるプロテクターを着けて走らせるわけにもいかない。だが過去のレース中の故障シーンを見るに、改善できるところがあると思ったんだ」

 

「そして対応策が、この私案というわけか」

 

 エアグルーヴはこくりと頷いた。

 

 ノートの1ページ目には、端正な文字でこう記されていた

 

 

【レースにおけるオフィシャルウマ娘の追走案】

 

 

 内容は要約してしまえば次のようになる。

 

 レーススタートから数秒後に、怪我の応急手当に関する知識を持たせたウマ娘たち数人をオフィシャルウマ娘としてスタートさせる。

 

 競技参加者最後尾から10バ身程度離れて追走させ、競走中にウマ娘たちにトラブルがあればこれに対処し、救急車等支援が到着するまでこれを継続する。

 

 メリットは故障発生から対処までの時間を極小化できることがある。

 

 さらに、可能であればオフィシャル役をデビュー前後のウマ娘とすることができれば、例えばであるが間近でレースを見て疑似的に体験することができる。

 それはモチベーションアップと経験値アップが望めるだろう。

 

 デメリットはあまりないが、強いてあげるならば故障発生時の対処が上手くいかなかった場合にオフィシャルウマ娘たちにトラウマを残す可能性があることが記されている。

 

 男はエアグルーヴの提案を読み込みながら、昔を思い出す。

 

 夏合宿のときに彼女たちに話した、間接的に男が引き起こしてしまった部活の競技中の事故。

 

 あの時も、オフィシャルの現地到着に時間がかかり、じりじりとした思いで待つしかなかった。

 

 火災こそ起きなかったためまだマシであったが、ドライブしていた後輩を救出するまで随分と時間がかかり、それが後輩に後遺症を残す一因ともなった。

 

 

 翻って、ウマ娘たちのレースでも同じことは幾度となくあった。

 

 全周が見渡せるコースで行われる競技であるため、トラブルが起きれば救急車が出されるが、現場到着まではそれでも数分を要する。

 

 トラブルがあっても基本的に競技は続行されるため、競技長判断により安全が確認されてからの出動となるし、発生地点によっては救援が必要とされる場所まで1キロ近い距離があるためだ。

 

 それが、身体能力的にもほぼ同等といえる救護技術をもったウマ娘たちが、ごく近くを追走し有事に対応するとなれば、救援までの時間は数十秒にまで短縮されるであろう。

 

 そして医師などが到着するまでの長くて5分ほどの時間を、最良の応急処置で対応することができれば。

 

 レース中に故障発生があったとしても、大幅に予後が良くなるはずであった。

 

 

「…すごいじゃないか、このアイデア…」

 

 男はノートから顔を上げ、一息つくと、そう呟いた。

 

 エアグルーヴは緊張が一気に抜け、ほっと胸を撫でおろした。     

 

「こんなことができれば、より安心して競技に集中できるし、応急手当ができるウマ娘が増えれば普段の練習だって安全度が増す。これは革命だぞ…」

 

 男の言葉に、エアグルーヴは耳をぺたんとさせ、俯いてしまう。

 

「…先生が…話してくれたから、だ」

 

 エアグルーヴはぽつりと言った。

 

 男はなんのことだかピンと来ず、ただエアグルーヴの艶めく髪を見ている。

 

「…夏合宿の夜、話してくれただろう?先生が、安全に心を砕くようになった理由。あれがヒントだった」

 

 ふるふると小刻みに震えるエアグルーヴは、両手を白くなるほどに強く握りしめている。

 

「私にとって、スズカは大事な友人だ。そして彼女の挑戦も、同じ競技者として止める気になれない…そして私は、会長のように広い視野まで持つことができる器ではない。なら、せめて私にできることは…」

 

 震えながら強く握りしめる手に、透明の液体が一滴、二滴と滴る。

 

「…お前、優しいヤツだな」

 

 エアグルーヴは、いろんな思いを抱え込んで、このアイデアに昇華したに違いない。

 

 それは決して、器の大小や立場の違いなどではなく、仲間を想う気持ちがこのアイデアを引き寄せた。

 

 それこそ、彼女の優しさの成せた偉業だろう。

 

 男はエアグルーヴの頭をそっと撫でてやる。

 彼女はいよいよ声を上げて泣き始めた。

 

「明日、理事長に会いに行こう。あの人なら、きっとお前の想いを形にするために、力を貸してくれる」

 

 男は泣き崩れるエアグルーヴの背中をさすってやる。

 

 思いのほか小さく、頼りないその背中に男は驚く。

 

 だからこそ、この小さな背中に秘めたる想いの強さを感じざるを得なかった。

 

 男は改めて、自らが背負う課題の重大さを認識し、背筋が伸びる思いだった。  

 

 

 










 今回を書くにあたり(普段もめっちゃ読み返してますが)皆様からいただきました過去のコメントを総ざらいしたりして参考にさせていただいております。

 これまでたくさんいただいたコメントは本当に私にとって宝物で、このSSを書いていく燃料でもあり、いろんなことに気づかされる知恵の木のようであり、本当ににありがたいです。

 もうひとりで書いてるっていうより皆さんと書いてるって感じなんですよ本当に。

 いつも皆様ありがとうございます。



 そんなわけで、今後ともよろしくお願いいたします。


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51:理事長の懐

 

 

 

 翌日朝、男はたづなさんを介して理事長にアポイントを取った。

 

 とにかく多忙かつ多動で有名な理事長なのだが、その日の夕方に面会の設定がなされた。

 

 これほどまでにすんなりと面通りが叶うのは、ひとえにエアグルーヴの生徒会での功績がモノを言ったのだろう。

 

 その日の夕方、指定時間に男とエアグルーヴは理事長室前に居た。

 

 中では前の時間帯の来客とのやりとりがつづいているようで、廊下で二人並んで呼び出しを待つ。

 

 エアグルーヴは昨日の泣き顔の残滓はまったく感じられず、表情はいつものクールビューティーそのものだ。

 

「今更緊張…はしないか」

 

 そんなエアグルーヴの姿を見て男は呟く。

 

 むしろ緊張しているのは男の方かもしれなかった。

理事長やたづなさんは気安く話してはくれるので壁を感じさせないが、所属する組織の頂点にいる存在である。

 男から見れば完全に雲の遥か上に突き抜けた存在であり、理事長室のドアの重厚さが端的にそれを示していた。

 

「…先生でも、緊張はするのか…」

 

 エアグルーヴがぼそりとつぶやく。

 

 気が付けば横目で男の様子を伺っていたようだ。

 

 男は照れ隠しのように苦笑いするしかできなかった。

 

 そのとき、長い廊下に力強く駆ける足音が遠くから響いてくるのを知覚する。

 音源のほうを見てみれば、ものすごい勢いでこちらに駆け寄ってくる影がひとつ。

 

 見惚れてしまうような流麗な芦毛をたなびかせて男の前に急停止すると、鼻先がつかんばかりの至近距離で一気にまくし立てる。

 

「あ、やっぱりおっちゃんじゃねーか!こんなところで何やってんだ?さてはついに工房燃やして理事長から呼び出し喰らったとか!」

 

 どこからともなく疾風そのものに現れたのは絶対的想定不能ウマ娘であるゴールドシップだ。

 

「燃やしてない燃やしてない」

 

 どこから来たのかは考えることをやめ、とりあえず彼女の妄想を否定しておいてやる。

 

「…おい、廊下は走るなといつも言っているだろうが!ここをどこだと思っている!」

 

 エアグルーヴがある意味、いつものようにゴールドシップを叱責する。

 

「げ!おっちゃんの陰で気が付かなかったぜ…」

 

 エアグルーヴを視認すると一歩たじろぐゴールドシップ。この牽制関係は未だ健在のようだ。

 

 その時、重厚なドアが音を立てて開く。

 

「…お忙しいところ取材に応じていただきありがとうございました。またよろしくお願いいたします」

 

 理事長室から出てきたのはどうやら雑誌かなにかのライターのようであった。

 

 出てきたところで、エアグルーヴとゴールドシップ、そして男という妙な組み合わせに出くわす。

 

「…これはエアグルーヴさんにゴールドシップさん!これから理事長とお話でしたか。少し時間が押してしまって大変申し訳ありません…」

 

 うやうやしく頭を下げる。

 

 そして男のほうに、好奇の視線を向ける。

 

 トレセン学園で男という存在はなかなかに珍しい。しかもトレーナーでもなく、作業着姿の男がエアグルーヴとゴールドシップというそこそこ以上に有名なスターウマ娘たちと肩を並べているというのは奇異に映るのも無理はない。

 

「そちらも仕事でしょうから構いませんよ」

 

 エアグルーヴは先ほどまでのゴールドシップとのじゃれあいから切り替えて、冷静な口調で返す。

 

「ありがとうございます。次の取材のときはまたよろしくお願いいたします…。ところで、ひとつ伺っても?」

 

「なんでしょう」

 

「こちらの方は…?」

 

 話の矛先が男の方に向いた。

 

「知らねーのかよ!学園の装蹄師といえばこのおっちゃんだぜ!」  

 

 ゴールドシップが極めて雑な紹介をしてくれる。

 男は軽く会釈をした。

 

「学園の…装蹄師…ん…どこかで聞いたことがあるような…?」

 

 ライターさんは何か脳内を検索し始めたらしく、思案顔となる。

 中性的な顔立ちは性別が判別しにくく、年齢もそう若くなさそうだということ以外はよくわからない、不思議な雰囲気を纏っている。

 

 対する男は元来の社会性の無さ、平たく言えば人見知りを発動してしまい無表情のまま特に自分から何かを説明しようとはしない。

 

「お待たせしました、エアグルーヴさん。装蹄師の先生も、どうぞこちらへ」

 

 その謎の空間に終止符を打ったのはたづなさんの呼び込みだった。

 

 それでは失礼します、とエアグルーヴはライターに一言告げ理事長室へ。男もそれに続く…が、ゴールドシップをこのままにするとライターにあることないこと話しそうな気がしたので、これ幸いとゴールドシップも理事長室に連行した。

 

 不思議そうな顔のライターを廊下に残したまま、理事長室の重厚な扉は再び閉じられた。

 

 

 

 

 

 結論から先に言えば、エアグルーヴの提案はあっさりと理事長に受け入れられた。

 

 といってもそのまま採用というわけではなく、ウマ娘をレースでのアクシデントに積極的に活用していくという大枠の部分でのアイデアについての採用だった。

 

 特に故障への対応という点においては経験や精神的なタフさも求められるため、メイクデビュー前後のウマ娘では精神的負担の大きさが懸念される部分もあり、その選定基準やチームの組成に関しては教育的な配慮も必要であろうということで、そこは学園側の仕組みも含めて対応が必要との認識に至った。

 

 またレースでの運用については学園の裁量を越え、URA管轄になることもあり、提案自体はなんらかの形で実現させることを理事長は約束してくれたが、追走に関しては専用路かコース大外、あるいはいくつかコース上に救援ウマ娘待機ポイントを置くなど、運用上の工夫が入る余地があるだろうとのことだった。

 

 理事長はエアグルーヴの提案にいたく感激していた。

 

 むしろなぜもっと早くこのような安全対策を講じることができなかったのか、発想する者がいなかったのかを恥じ入るという一幕もあり、この提案についてとにかく激賞していた。

 

 早速明日から動くぞ!と勢いよく言い放ち、次の瞬間にはたづなさんにあれこれと指示を飛ばし出していた。

 

 

「…あの様子なら、実現まではえらい早いぞ、きっと」

 

 理事長室を出て、エアグルーヴとゴールドシップに挟まれて歩く男はぼそりと呟く。

 

「…あぁ。毎度、あの人のバリキには驚かされる…しかし、面倒を呼び込んでしまったようで、済まなかったな」

 

 エアグルーヴは提案が通ったというのに、浮かない顔だ。

 

 というのも、エアグルーヴの提案の話が一区切りついたタイミングで突然、理事長が男に告げたのだ。

 

「強制!装蹄師は一週間の休暇を命じる!」

 

 理事長からの突然の強制休暇命令が発せられたのだ。

 

 聞けば、男の働きぶりは承知しているが、ここのところの過重労働ぶりが目に余る、とのことだった。先日体調を崩したことや、その後の勉強会などが耳に届いているようだった。

 

 理事長はウマ娘たちはとても大事ではあるが、それと同じくらいにここで働く人間も大事に思っているが故の決断だ、と宣った。

 

「まぁおっちゃんとにかく働きづめだもんな。よっしゃ!ゴルシちゃんが魅惑の無人島ツアーに連れてってやろうか?金銀財宝掘り当ててリフレッシュしようZE☆!」

 

「それも楽しいかもな~…でもなー今はそれどころじゃないからな…せっかく理事長も丸めこめたんだし、それは先の楽しみにとっておくよ」

 

 男は理事長の強制休暇命令に抗った。

 

 自分が今取り組んでいる課題はエアグルーヴの提案と根を同じくするモノであるから、今手を止めるわけにはいかないのだ、と真正面から抵抗し、休暇命令自体の撤回までは至らなかったが、休暇までの時間を稼ぐことには成功した。

 

「私も、先生の身体は心配している…できればあまり、無理はしないでほしい…といっても、今は仕方のない時なのだが…」

 

 エアグルーヴも状況が理解できているだけに、どうにもならない状況に顔を曇らせる。

 

「お前たちにまで心配させてるようじゃ、俺もまだまだだなぁ…」

 

 男は二人を前に、自らの至らなさに苦笑いで恥じるしかなかった。

 

 




ここ2週間ほど私の胃を痛めつけていた仕事をなんとか乗り切り、ようやくまた書き始められました。
まずはリハビリじゃないですけど、話の整理から。

ライターさんは…あれ?どこかで会ったことありましたかね…?


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52:スズカの疑問

 

 

 

 男は翌日、倉庫から古びた設備を引っ張り出した。

 

 昔は蹄鉄を現場合わせで造ることが多かったため、可搬性のある炉として熱源にコークスを使用し、耐火レンガを組み合わせたものを使っていた時期があり、その頃のものだ。

 

 尤も男がこの学園に来た頃にはそのような仕事はほぼなくなっており、なにかの理由で炉が使えない場合の予備設備として、普段は倉庫にしまい込まれている。

 

 工房の中に運び込み、火力を上げるための空気を送り込むブロワーなどの動作チェックを行い、実使用に耐えるように整備していく。

 

 昨日の理事長とのやり取りからしても、サイレンススズカの次のレースからしても、男に残された時間はあまり多くない。

 

 男は焦りとともに造蹄作業、その最初の工程に着手する。

 

 

 

 男はサイレンススズカの足元を少しでも故障から遠ざけるため、通常では考えないような蹄鉄を構想していた。

 

 接地面についてはあくまで硬く、シャープに地面を蹴ることができる特性を。

 シューズへの取り付け面においては鋼にしては軟らかく、蹴り出しの衝撃をわずかに変形させて対応できるような特性を。

 

 蹄鉄の厚みの中で、素材に2種類の特性を持たせることによって剛性を損なわず、それでいて一定以上の力は柔らかく対応させることによりクラックなどが入ることなく信頼性を向上させることを狙っている。

 デザイン的にもスズカの使う海外製品と近い形状にすることができるはずだった。

 

 

 

 これを実現するにあたり、工数があまりにもかかるため、当初は案からは外していた方法で蹄鉄を造ることにした。

 

 まず2種類の特性の異なる鋼材を用意する。

 

 ひとつは硬度が高い鋼材。

 ひとつは硬度はそれほどでもないが弾性に富む鋼材。

 

 これらを「鍛接」と呼ばれる手法で一体化させる。

 

 赤く熱した鋼材同士を叩いてつなげ、物理的に一体化させるのだ。

 

 そうして蹄鉄の素材となる鋼棒をまず、作る。

 

 そこから蹄鉄を叩き出し、さらに熱処理を加えて強度や耐久性を高め、仕上げる。

 

 いわゆる鋼材からのオーダーメイド仕様だ。

 

 これは日本刀の製作技術からの転用だった。

 

 この方法は、男が今回の件で必要とした性能の蹄鉄を造りだす上で真っ先に考えた方法ではあった。

 

 しかし、とにかく時間と手数がかかるし数を造ることができない。さらに言えば鍛接の工程においてすらある程度の割合で失敗することが見込まれる。

 

 公平性を考えるならば簡単には他のウマ娘たちに作ってやれないような手法は採用するべきでないと考え、取り掛かるには二の足を踏んでいたのだ。

 

 だが、他の手法として検討していた単一の鋼材で熱処理を工夫し、蹄鉄の中に柔剛を作り出すというやり方は、狙った性能を出すまでに試行錯誤を繰り返す必要があり、実現までに時間がかかり過ぎる見込みが立っていた。

 

 反面、鍛接を活用した手法は技術的・工数的に相当にハードルが高いが、鍛接した鋼材の機能性はある程度読みやすく、男の狙う性能は出しやすいはずだった。

 

 時間がないからこそ、時間はかかるが性能の見通しが出しやすい方法を選択したのだ。

 

 

 男はまず炭に着火しブロワーで空気を送り込み、炭の熱を利用してコークスに点火する。注意深く状態を見ながら、炉の温度を上げていく。

 

 そのうちに炉内が赤からオレンジに色が変化し、輝度が増してきた。

 

 

 男は選び抜いた鋼材を用意し、鍛接に使用する薬剤も手近に準備した。

 工具を確認した後、伸びをして顔を叩いて、自分に気合を入れた。

 

「よし、やるか」

 

 ヤットコで最初の鋼材をつかみ、炉に差し入れた。

 

 

 

 

 

 工房内に槌音が響き渡る。

 

 工房の入り口も開け放ち、換気扇を全開にして空気の流れを作ってもなお、抜けきらぬ熱量にどんどん室温が上がっていき、汗すら流すそばから蒸発してしまう有様だったが、男は構わず槌を振るい続け、鍛接した鋼棒を量産していく。

 

 鍛接という作業も男自身、久しぶりということもありカンが鈍っていた。

 作業中の手応えですでに失敗がわかるような場合もあり、作業の成功率はおよそ6割といったところだった。

 

 しかし目指すゴールは鍛接した鋼材を得ることではない。

 

 思い通りの蹄鉄を造ることだ。

 

 ひとつひとつの失敗を糧に随時作業をアップデートしつつ、とにかく蹄鉄がある程度まとまった数を造れるほどの鋼材をつくるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 数時間の黙々とした作業ののち、男は応接セットのソファに倒れこんだ。

 

 鍛接作業に失敗し使い物にならないスクラップの山を築きながらも、なんとか目標とした数量を叩きあげ、炉の火を落とし、力尽きた。

 

 いつもなら一も二もなく火をつけたであろう煙草を咥える気力も残ってはおらず、ただただソファに身を横たえている。

 

 窓から差し込む夕陽が容赦なく顔に当たっていたが、それにも構わず男はそのまま、工房の入り口から入る常温の風を涼しく感じながら、しばしの微睡へと引き込まれていった。

 

 

 

 

 どれほどそうしていただろうか。

 ふと、顔を照らしていた夕陽が陰ったような気がして、男は徐々に意識を引き戻す。

 

 薄目をあけてみると、誰かの影が日差しを遮ってくれたようだった。

 

「あ…起こしてしまいましたか…」

 

 声がして、男が目をゆっくりと開けば、男は心配そうに顔を覗き込まれていた。

 

 控えめにささやくような声の主は、サイレンススズカだった。 

 

 

 

 サイレンススズカは訪れた工房に異変を感じていた。

 

 普段は鉄の匂いに満たされているはずが、今日は石炭の独特な匂いも混じり、それがいつもと違う雰囲気に感じたのだった。

 

 そして、工房に入るなり倒れて眠り込んでいる装蹄師の男。

 

 煤にまみれたその姿は、とてつもないエネルギーを絞り出し、激戦の果てに行き倒れた戦士のように、スズカには感じられた。

 

 

 

 男はソファからのっそりと身体を起こすと、スズカに応接セットの対面を勧め、自分は立ち上がり冷蔵庫からニンジンジュースを取り出し、スズカに手渡した。

 

「さっきまで炉をガンガン焚いてたから、ぬるくなってたらゴメンな」

 

 そう言いながら、先ほどまで寝ていたソファに座りなおし、スズカに向かい合う。

 

「で、今日はどうした?」

 

 男は微睡んでいくらかの体力回復を実感しながら、スズカに問うた。

 

「これを…」

 

 サイレンススズカはテーブルの上に、摩耗した蹄鉄を置いた。

 

 男は無言でそれを手に取って、観察する。

 

「夏合宿の点検のときに見ていただいて、すぐに新しいものに交換したんですけど…」

 

 つまり新品から半月もしない状態だということだ。

 

 蹄鉄の摩耗度合いは激しく、本来は接地面はシャープにエッジの効いた形状のはずが、すでに鈍磨しており、端の部分は欠けが発生して、中心に向かってクラックもいくつか見受けられる。 

 

「…エアグルーヴと買いに行こうと思ったんですが、一度先生に相談するように言われて…」

 

 不安な面持ちで、スズカはそう説明した。

 

「…脚の方は、なんともないか?」

 

 男は静かに蹄鉄を置き、スズカを見据えた。

 

「はい…色々ご心配いただいて…検査もいつもより詳しく、定期的に」

 

 勉強会で定めた方針通り、沖野はスズカの脚についても管理を精密に行ってくれているようだ。

 

「あの…なぜ、私にここまでしてくれるんでしょうか…その…私のため、なのかわかりませんけど…先生たちが夜な夜な集まって勉強会をしてるって話、聞いて…私…どうしたらいいのか…」

 

 男は一息つく。

 

「…沖野やエアグルーヴ、ゴールドシップあたりからなにか聞いてる?」

 

 スズカはこくり、と頷く。

 

「みんな、私の脚を心配してくれていることは…わかっています。この間の、パーティーの時の先生の言葉の意味も…理解しているつもりです」

 

 男はソファに預けていた身をよじり、上背を起こす。

 

「スズカのことは、きっかけに過ぎない、と俺は思ってる」

 

 男は勉強会の概要を話した。

 スズカの脚についての不安は第一だが、そもそもは怪我や故障を予防するためにできることがないか、と考えたところが原点であり、そこに思い至る源流は、スズカがリギル在籍時に出していた練習でのタイムであることを告げる。

 

「タイムを見て、おハナさんも俺もスズカがウマ娘の出せる走行能力の限界近くにいる、と分かった。その頃から、考えていたんだ。限界を超えた時に、なにがおこるのかを」

 

 スズカはじっと聞いている。

 

「スズカだけじゃなく、レースを走るウマ娘たちにどうか無事に走ってほしいというのは俺たちの基本的な願いだ。だから、今目の前にいるスズカを無事に走らせるために知恵を出すことで、よりその願いに近づけると考えている」

 

 こんなところで理解してもらえるだろうか。

 話し終えた男は、これがすべてだと言わんばかりにソファに再び身を委ねた。  

 

「…私には…話してくださらないのですか…?」

 

 俯き加減のスズカは、ぽつりとつぶやく。

 

 男には、言葉の意味がわからない。

 

「エアグルーヴは…先生には、私たちの安全に心血を注ぐ理由がある…と言っていました。ですが、その理由までは、教えてくれませんでした。もし知りたければ、直接聞いたほうがいい、と言って…話してくれるかは、わからないけど、って…」

 

 男は思わず渋い表情を浮かべる。

 

 好んでする話ではないし、ましてや今のスズカと照らし合わせるには最悪の話だとすら思う。

 

 しかし、スズカは紛うことなき現在進行形の当事者である。

 

 男の持つ理由、それが自身の過去の傷であっても、彼女はそれを聞く権利があるような気がした。

 

「自分語りみたいで、気が進まないが…」

 

 男は渋面を浮かべたまま、ぽつぽつと話し始めた。

 

 

 

 男の話を聞いているスズカは、男がスピードを競うレースをしていたという話には目を輝かせて聞き入り、そのあとの後輩とのくだり、そしてクラッシュの場面では瞳を瞑り、耳をしおれさせて聞いた。

 

「…とまぁ、そんな訳でね…そういう経験があるから、スポーツの安全には万事を尽くすべき、というこだわりをもっているわけだ」

 

 男はできるだけ話をコンパクトに、悲壮感が漂わぬようにつとめて平坦に話したつもりだった。

 

「…そんなことが…あったんですね…すいません。私、無神経に、そんな話を聞かせろだなんて…」

 

 男はかぶりを振る。

 

「いや…聞く権利、あるよ。しかもそんな俺の個人的なこだわりを、スズカにぶつけてるんだから…迷惑だよな。申し訳ない」

 

 男は頭を下げる。

 

 実のところ、男もずっと胸に引っかかっていた。

 全体の流れとしては間違っていないと今でも思っている。

 しかしそれを現役の最前線にいるスズカを対象とすることには、スズカ自身の夢や沖野の立場を慮るまでもなく、要らぬお節介というやつなのでは、という危惧は常に頭の片隅にあった。

 

「そ…そんなことないです…頭をあげてください…」

 

 スズカの慌てた声に、男はゆっくりと姿勢を戻す。

 

「その…わからなかったんです、ずっと…どうして、私はただ、私の夢を追っているだけなのに、って…」

 

 胸に手を当てながら、スズカは細い声音で言葉を探しながら、紡いでいく。

 

「でも…リギルからスピカに移って、トレーナーさんが私の夢を認めてくれて…私に憧れている、って言ってくれるスペちゃんが現れて…私を信じてくれる人たちがいて、少しずつ周りが見えるようになってきたんです…」

 

 スズカは一旦言葉を切り、次に続く言葉を探しているようだった。

 

 やがて、再び躊躇いがちに話し出す。

 

「…パーティーの夜、先生に言われたことも…あの場にいたお客さんのことも…私たちが、何をしているのかも…ようやくわかって…でも、なんで先生が身を削ってまで、そこまでしてくれるのか…知りたかった…」

 

 スズカはホッとしたような顔をして、男を見つめてくる。

 

 同時に男も、彼女に受け入れられたような気がして、緊張が解けていく。

 

「…俺にできることは、精々が蹄鉄をどうにかしてやること、くらいだ。ちょっと待ってて」

 

 男はソファから立ち上がり、作業台置いてあった形状だけスズカの蹄鉄に真似た試作品と予備のシューズ、先ほど叩き出した鋼棒を手に、スズカの許に戻る。

 

「これは…私のシューズと蹄鉄の新品…?」

 

 スズカが試作品を手に取る。

 

「シューズは服飾部が保管している予備だ。蹄鉄はただ形状だけ真似て作っただけの試作。そいつを、この鉄で造る」

 

 数時間前に打ったばかりの鋼棒の断面をスズカに示す。

 

「2種類の鋼を一体化させた素材で蹄鉄を造る。今のスズカの蹄鉄のフィーリングはそのままに、耐久性や強靭さは飛躍的に上げる。シューズとのバランスも取り直す」

 

 スズカの速さをかさ上げするというより、足元の不安を出来る限り排除するための調整だ、と説明する。

 

「自分の仕事に限界をつけるわけじゃないが、今、スズカの脚にしてやれる精いっぱいをここに注ぎ込む」

 

 男はスズカを真っ直ぐ見据える。

 

「…履いて、もらえるだろうか」

 

 スズカの瞳は男の目を覗き込むかのように、真っ直ぐに見つめ返してくる。

 

 やがて、にっこりと笑った。

 

「…よろしくお願いします」

 

 男はふっと息を吐く。

 

「いよいよ私…負けられませんね」

 

 いやいやそれは、と男は言いかけて、スズカはさらに笑みを大きくした。

 

「これだけ多くの人に支えてもらって…信じてもらって…これで私、無事に帰ってこられないようなことがあれば…それこそ、皆さんをがっかりさせてしまいます。必ず…必ず走り抜けてみせます…!」

 

 サイレンススズカは美しい笑みとともに、そう宣言した。   

  

 男は明日の造蹄作業を思い浮かべながら、スズカの笑顔を眺めていた。

 

 これが吉と出るか凶と出るかはわからない。

 

 しかし、やれるべきことはすべてやる。

 男にそう決意を新たにさせるには十分な笑顔だと思った。

 

 毎日王冠は、もうすぐだった。

 

 

 



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53:宿題の完成

 

 

 

 サイレンススズカが工房に来た翌日。

 

 男は鍛接した鋼棒から蹄鉄を打ち起こした。

 

 丁寧に3セットほどを打ち起こし、削ってだいたいの姿を作り上げ、熱処理を施し、7割がた完成というところまで作業を進める。

 

 さらに翌日。

 

 時間のかかる熱処理を夜間のうちに終え、削りだして最終形態まで完成させた。

 

 ほぼ突貫で作業をして3日ほどの工程となった。

 

 生産性もなにもあったもんではないが、通常業務と並行していたこともあり、鍛接の部分などを外部に委託することができればいいのかもしれない、と男は作業しながら感じていた。

 

 基本的にモノがつくれるということと、現実的な時間やコストでモノをつくることはまったく別の技術であると今回の件を通じて認識を改めることになった。

 

 男は職人であるがゆえに生産性の概念には疎いところがある。

 

 学園の装蹄師という安定した収入がある立ち位置であるためにこのような取り組みができるが、もし本気で今回のような技術でウマ娘の足元に対しての安全性を高めることを目指すならば、そう遠くない未来に生産性についても検討する必要があるな、と男はぼんやり考えていた。

 

  

 

 

「なんだこれ…見たことねえぞ、こんな蹄鉄…」

 

 シューズ課長の下に出来上がった蹄鉄を持ち込んだ時、言われた言葉だ。

 

 せっかくだからと表面を磨き、仕上げを工夫した。持ち込んだ蹄鉄は、厚さ方向に色が二層に別れ、接地面とシューズ面が違う種類の鋼であることが見て取れた。

 

「まぁ厚みもあまりないんで、日本刀みたいに刃紋みたいなのは出ませんけどね。裏表は間違いづらいかもしれません」

 

 男は苦笑いしながら応じる。

 そもそも裏と表では全くデザインが違うので間違うことはもちろんないのだが。

 

 男はシューズ課長と、普段のスズカの勝負シューズ、勝負鉄のバランスを参考にしながら、予備シューズと今回の蹄鉄でバランスを取っていった。

 

 シューズに取り付ける釘にも重量差があるため、釘自体も予備も含めて厳選し、打ち付ける場所まで指定して完成となる。

 

 軽量化もほぼ目標値に達し、あとはスズカが試着、試走してから最終的な調整を施せば完了だった。

 

 

 

「やり切ったな、夏休みの宿題」 

 

 課長と屋上で煙草を吸う。

 

「ですねぇ…これでいいのかはわかりませんけど」

 

 課長には一通り、スズカとのやりとりでシューズに関しての本人承諾を得たことは話していた。

 

「これでどれだけの効果があるのかはわからんな…運動に関する専門家かなにかが、物理的な分析でもしてくれれば数値化できてわかりやすいんだが」

 

「そこは次の課題でしょうね。アグネスタキオン博士にでも渡りをつけてもらいましょうか」

 

「まぁ、そこらへんは今夜の勉強会ででも、相談してみようか…ところで」

 

 課長は男の、煙草を挟んだ指を示した。

 

「それ、どうしたんだ?」

 

 男は煙草を挟んでいた右手を、左手で握る。

 

「いやぁ…なんか昨日あたりから時々震えるんですよね。ここんとこ詰めてやってたから、疲労ですかね」

 

 左手で手首を掴んで震えを止める。

 

「…お前、早めに病院行けよ。あと休み取れ。そろそろ理事長からかばってやるのも限界だぞ」

 

「スズカのシューズの最終的な調整が上手くいったら休みますよ。あと少し、お願いします」

 

 課長は仕方ないな、と呟きながら、男の右手を気にしていた。

 

 

 

 

 夜の勉強会は前回より少し時間が空いていた。

 

 そのため、前回の方針についての報告が主な内容となった。

 

 沖野からはスズカの身体データの共有と、ここ最近の変化について述べられた。スズカ自身がここで話し合われている内容について趣旨を理解し、協力的な姿勢でいてくれることで精度は向上しているようだ。

 

 専門医からはウマ娘の骨密度データの収集状況についての報告があり、学園理事長からの手回しもあり地方レースに参加しているウマ娘たちのデータも入るようになり、思った以上にデータの母数が大きくなりそうだ、という嬉しい悲鳴が聞かれた。

 

 アグネスタキオンからは靱帯や腱に関する情報収集は進んでおり、いくつかの製薬メーカーから情報提供も受けているとのことだった。効率的に栄養補給をして強化を促すことができるかどうかについては、いくつか検討段階に入っている物質があるという心強い報告があった。なお、副作用としてなぜか強化部位が光るという話である。わかりやすくて良いかもしれない。

 

 そしてシンボリルドルフからは、この勉強会とは直接関連しないが、という前置きで、エアグルーヴ提案のレースにおいてオフィシャルウマ娘運用について、現実的な検討段階に入っている旨が報告された。

 いくつかの運用案について試験準備を進めている段階であり。秋のG1シーズンにはあくまで試験という名目で実施される計画であるという。

 また、それに伴うトレセン学園内でのカリキュラム追加も実施される予定であり、来年からはすべてのウマ娘の必修科目として怪我の予防や対処、応急手当などの科目が追加されるという。

 

 

 それぞれの報告を聞き、男は圧倒されてしまっていた。

 

 急速に、様々なことが変わりつつある。

 

 男が蹄鉄を造ったことは、小さなことだった。

 

 しかしそこに込められた願いは、ひょっとしたら何か、起こるはずだった結末を変えるかもしれない。

 

 男は漠然としてはいるが、しかしかすかな希望を見出しながら、参加者の話を聞いていた。 

 

 

 

 

 勉強会を締め、いつものように参加者たちが雑談をしながら、散会していく。

 

 男はひとつ伸びをし、片付けでもしようかと立ち上がりかけたとき、意外な人物から話しかけられた。

 

 ウマ娘専門医として参加している医師だった。

 

 男がきょとんとした顔をしていると、失礼、と一言言って男の右肩を触った。

 触診のような手つきで、男の腕を探っていく。

 

「会議中、ほとんどずっと手が震えてたのが気になりましてね…最近、だいぶ無理したでしょう。あの蹄鉄の件ですか?」

 

 専門医は声を潜めながら、男に問う。

 

「ええ、まぁ…だいぶ手数が必要だったもので」

 

 専門医は難しい表情をしたまま、男の腕を探っている。

 

 その指で的確に、男の肩から腕にかけての違和感のあるポイントを探り当てており、そのたびに男は表情を微妙にゆがめてしまう。

 

 専門医はその様子も含めて確かめるように探り終え、一息ついた。

 

「私は人間は専門外ですので、はっきりしたことは言えません。ですが出来るだけ早く、病院で上半身全体を検査してもらってください」

 

 専門医はそれだけ言うと、メモに何事か書付け、男に渡した。

 

「ここならば、紹介状も必要ありません。私が話を通しておきます。早めに連絡を」

 

 それだけ言うと、専門医は退出していった。

 

 男に渡されたメモは、普段トレセン学園の職員が健康診断に通う、このあたりで一番大きな病院の神経科と、医師の名前が記されていた。

 

 取り残された男は渡されたメモを持ったまま、しばし茫然としていた。

 

 

 

 

 

 





あれ。ウマ娘出てこない…


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54:ゴルゴルタクシー、爆走す

なんかライターさんがねっとりしちゃうのは何故。


 

 

 

 

 

 

 

 勉強会のあった翌日午前。

 

 男はウマ娘たちが登校し終えた時間を狙って工房から簡易的な鍛冶道具を軽トラへ積込み、学園内を移動していた。

 

 校舎から離れた練習用トラックに着くと、軽トラをコーススタンドのピロティ的な空間にそっと停める。

 

「おう、こっちだ」

 

 出迎えたのは沖野と、サイレンススズカだった。ほどなくしてシューズ課長もやってくる。

 

 

 今日は急遽、完成したシューズと蹄鉄の最終調整を行うことになったのだ。

 スズカの新しい足回りに慣れさせるために少しでも時間が欲しい、という沖野からの要請だった。

 

 あまり人目につかないほうがいいだろうと理事長と沖野の間で話があったらしく、授業中の時間帯である午前に行われることとなった。

 

 すでにシューズと蹄鉄の結合は終わっており、スズカの脚に履かせて課長が最終調整中だ。

 

「じゃあ、準備してきます…」

 

 ほどなく調整も終わり、スズカは着替えに向かった。

 

「急に調整に呼び出して、申し訳ない」

 

 スズカがいなくなったタイミングで、沖野は課長と男に頭を下げる。

 

「構いませんよ。我々の宿題の成果、早く試してもらいたいですから」

 

 課長はそう沖野に応じると軽トラの荷台に搭載してきた煙缶を開いて、煙草に火をつけ男とともに一服する。

 

 沖野はそれを羨ましそうに眺めていた。

 

 

 

 

「…で、なんでスズカ、キメキメに勝負服なの?」

 

「そのほうが気分が出るんだとよ」

 

 着替えから戻ったサイレンススズカは、普段はG1でしか着ることのない勝負服姿でばっちり決めていた。

 

 今はトラック外周を流して走り、体を温めている。

 シューズ的には、最初の慣らしといったところだった。

 

「しかし彼女の走りは、まさに機能美って感じがですねぇ…」

 

 沖野でも課長でも男でもない声が、急に三人に降りかかる。

 

 驚いて振り向けば、どこかで見た顔で、カメラを構えている人間がいた。

 

「あっと、驚かせてしまいましたか。私、こういうモノでして…沖野トレーナー、ですよね」

 

 カメラの構えを解いて、沖野に名刺を差し出している。胸にはしっかりプレス向けの入構許可証が下げられている。

 

「ははぁ…ライターさんでしたか。驚かせないで下さいよ」

 

 沖野は参ったな、とでも言うように後頭部を掻いた。

 

 男はどこかで見た顔だな、と思いながらそのやりとりを眺めている。

 

 そのうち、記憶に思い当たった。

 

「…あ、理事長室の前で会った…」

 

「あぁ!エアグルーヴさんとゴールドシップさんと一緒にいた装蹄師の先生、でしたね」

 

 にやりと笑う性別不明、年齢不詳のライターは、不意にカメラを構えるとパシャリ、と男を撮った。

 

「そちらは服飾部のシューズ課長さん、でしたか。お久しぶりですね。すっかり出世なされて」

 

 ライターは今度は課長に向けてシャッターを切る。

 

 課長はあやふやな、どちらかと言えば苦々しい表情をしていた。どうやら会ったことがあるらしい。

 

「…今日はなにをされているんですか?サイレンススズカさんは勝負服姿ですが…」

 

「…今日は、新しいシューズの慣らしです。一応、念のためにシューズ課長と装蹄師にもご足労願ってます」

 

 嘘は言っていないが必要以上に情報も与えないよう、沖野は慎重に言葉を選んで答えた。

 

「なるほどぉ…では私も少し見学させていただきましょうか」

 

 ライターは少し遠慮したように男たちから離れ、それでも遠すぎない距離でサイレンススズカを眺めていた。

 

「まぁ、害はないだろ…特に珍しいことをしているわけでもないし」

 

 沖野はサイレンススズカを呼び寄せると、テストを始めるよう告げた。

 

 

 

 

 次の毎日王冠、そのあとに続く天皇賞秋を想定しながら、沖野はスズカに8割程度の力で走るように言い、試走をこなしていく。

 

 スズカが走るたびに男たちにフィードバックがあるが、今のところは調整の必要はなさそうだった。

 

 むしろ以前使っていた蹄鉄のフィーリングとほとんど変わらないため、驚かれたくらいである。

 

 さらに数度の試走のあと、男は少し気になることがあり沖野とともにサイレンススズカをピロティに向かわせた。

 

「どうしたんですか?」

 

 不安そうなサイレンススズカに、男は告げた。

 

「このコンクリートのところを、向こうから普通に歩いてきてくれるか?」

 

 たっぷり余力を残した試走を繰り返しているため、特にスズカに疲れはみられない。

 

 こつん…こつん…と蹄鉄の音がピロティに響く。

 

「ん…もう一回、お願い」

 

 男はスズカの歩く音に集中する。

 

 こつん…こつん…

 

 男はうんうんと頷き、スズカにシューズを脱ぐように告げた。

 

「…どうしたんだ?何か不具合か?」

 

 沖野は不思議そうに尋ねてくる。

 

「いや、たぶんだけど、スズカの脚の長さ、左右で少し違うんだよ。だから、左右で蹄鉄の高さを少しだけ調整してやろうと思って。少し、右足の接地でつっかかるだろ?」

 

 スズカは目を丸くし、不思議そうな顔をしたあと、こくんと頷く。 

 

 男はバッテリー式のリューターを使い、わずかに片側の蹄鉄の接地面を撫でる。

 

「そんなん音でわかるのか…」

 

「まぁ、なんとなく…カンですな」

 

 ほら、とスズカにシューズを戻す。

 

 スズカはシューズを再び履いて、左回りにぐるっと一周歩く。

 

 

「…すごい…いつもなら、新しい蹄鉄をつけると最初は右足がちょっとだけ突っ張る感じなんです…それは、しばらく走るとなくなって、馴染むんですが…今はもう、馴染んだあとみたいになってます」

 

 いつもなら走った摩耗で自然と調整されていたものを、男が見抜いて合わせたようだった。

 

「お前…すげえのな…そんなの俺でもわからんぞ…」

 

「そうなのかな?老公はよくやってたよ、こんなこと。まぁ手作りで品質が揃わない蹄鉄の時代だからかもしれなけどね」

 

 男は特別なことをしたという意識はなく、淡々と道具を軽トラの荷台に戻した。

 

 

 

「職人技とは、たいしたもんですねぇ…」

 

 少し離れたところでライターがその一部始終を捉えていたことには、誰も気が付かなかった。

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、無事調整は終了した。

 

 男は軽トラでちらほらとウマ娘が行き交う構内をゆっくり走り、工房に戻ってきた。

 

 搭載した工具を片付けたあと、作業机にどっかりと座り、ひと心地着く。

 

 右手が気になった。

 

 やはり、震えている。

 

 じっと手を見つめていると、ふっと視界が暗くなり、身体が持ち上げられる。

 

「…!」

 

 驚きのあまり言葉も出ないが、宙に浮いているらしい足をじたばたさせる。

 なにかに担ぎ上げられたような感覚だ。

 

「おーし!11時46分、おっちゃん確保!スペ!工房の戸締りは頼んだぜ!ゴルゴルタクシー、しゅぱぁーつっ!」

 

 男は事情を解さぬまま、俵のように担がれている体に加速Gを感じた。

 

「おい!ちょっ…まっ…て…!!」

 

 どうやらゴールドシップに担がれていること以外全く理解が出来ぬまま、男はスピカの部室に連行されたことのあるウマ娘たちの経験談を思い返した。

 

 

 

 

たっぷりとゴールドシップのパワフルさを体感し、もうどうにでもなれ、と諦観に支配されてからどのくらい経っただろうか。

 

 不意に、どさりと降ろされて視界が開けた。

 

 明るくなった眩しさに目がついていかないが、そのうちに慣れて視界を取り戻す。

 

「どうよ!ゴルゴルタクシーの乗り心地は。快適だったろー?」

 

 視界一杯にいるのは走りで顔をいくらか赤く上気させた肌でドヤ顔をしているスタミナ上等天才美ウマ娘、ゴールドシップだった。

 

「あぁ…麻袋のチクチクしたのさえなければ快適だったんだがな…」

 

 途中気が付いたのは、どうやら手加減してくれているというか、揺らさないようにかなり気を使ってくれているのだろうということだった。

 

 麻袋を通じて風音が聞こえてくるくらいにはスピードを出していたはずなのに、揺れは恐ろしく少なかった。

 

 男のクルマのガチガチに固められているサスペンションよりも、よほど上等な乗り心地と言える。

 

「で、ここは…?」

 

 男はあたりを見回す。

 周囲からは好奇の視線が集まっていたが、今はそれを無視する。

 

「おっちゃーん、昨日センセイに言われたろ?病院いけって。だから連れてきてやったんだZE☆」

 

 そこは昨日、ウマ娘専門医に紹介された病院、しかも指定された神経科の待合だった。

 

 トレセン学園からは5~6キロは離れているはずで、時計は12時5分ごろを指している。

 

「もうトレセン学園から連絡入ってるから、ここで待っとけばいいらしいぜ!しっかり診てもらってこいよな!」

 

 言いたいことだけ言うとゴールドシップは、腕時計なんか嵌めていないのにわざとらしく手首を見て、「あ、バイトの時間だ!」とひとりごちて駆け去った。

 

 男は色々なことを諦め、周囲から寄せられる好奇の視線に目を閉じて耐え、呼び出しの時を待った。

  

 

 

 

 

 

 夕方、男は学園の敷地内にある自室に戻ってきていた。

 

 病院では問診に始まり、MRI、CTといった検査機器を一通り巡らされ、いくらかの運動機能の検査をさせられたところで、診断は明日、と言われて帰されてしまった。

 

 病院を放り出されたところでスマホを見るとたづなさんからメッセージが来ており、今日の直帰と明日の病院の診察を強く指示する内容が記されていた。

 

 まだ日の明るさがある時間帯に自室にいるのは不思議な感覚がする。

 

 問題の右手の震えは収まっていなかった。

 

 午前のシューズ調整の時には、いくらか握力がおかしいことも自覚した。槌を振るう必要がなかったのは偶然とはいえ、運がよかったと言える。今の状態で、狂いなく槌が打てたかどうか。

 

 男はソファに身を沈めて、オレンジ色に染まる室内に焦点の合わない視線を遊ばせる。

 

 自分の身体になにがあったとて、今更自分自身はそれほど気にはならない。

 

 気掛かりなのは、今取り組んでいるさまざまなことが滞らないか、ということだ。

 

 しかしそれも、ルドルフとタキオンとたづなさんあたりに託せばなんとかなるような気がした。この世に替えの利かない役割なぞ、そうそうあるものではないのだ。

 

 そういった意味では自分はもう、役割を果たしたのかもしれない。

 

 替えの利かないサイレンススズカの脚に、精いっぱいのことをしたはずだ。

 

 そこまで考えて、男は思わず笑ってしまう。

 

 まだ何かわかったわけでもないのに、病気の疑いだけでひどく弱ってるじゃないか、俺は。

 

 男は煙草を咥え、かちりと火をつける。

 

 一口吸って、灰皿からまっすぐに立ち昇る煙をじっと見つめて、動かなかった。

 

 傍らでスマホが鳴動していることには、気が付かないでいた。





 皆様、割と暗くて地味な前回のお話に連載始めて以降最高のコメント数、ありがとうございました。

 おっちゃんの愛され度合いがすごくて、とても驚きました。

 比較的ここまで色がつかない感じの人物として書いてきたつもりでいたので意外でしたが、とても嬉しかったです。

 また、今回はコメントでいただいた様々なアイデアをパク…活用させていただいております笑
 皆様重ね重ねありがとうございます。

 そろそろ区切りも見えてきた気がしないでもないですが、相変わらず無計画に書き綴ってまいりますので、引き続きよろしくお願いいたします。




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55:診断

 

 

 

 

 

 

 ルドルフは勉強会の後、自室に戻った。

 

 部屋で夜のルーティンを一通り終え、日記もつけ終わって、あとは眠るのみだ。

 

 しかし現在、落ち着かない気持ちを抱え、眠れずにいる。

 

 

 勉強会のあとの男と医師とのやりとりを、ルドルフは聞いてしまったのだった。

 

 人間の聴力では彼らのやりとりを聞き取ることは難しい状況であっただろう。それなりに離れていたのだ。

 

 しかしウマ娘の人間に比べて大きくて集音能力に優れる耳は、しっかりとそれを捕捉していた。

 

 そしてそれは、その場に居合わせたアグネスタキオン、ゴールドシップも同様であり、彼女たちの耳の向きがそれを示していた。

 

 

 

 一人部屋で眠れずに、かといって何かをするわけでもなくただ漠然とした不安に尻尾を揺らしていた時だった。

 

 スマホがメッセージの着信を知らせた。

 

 取り上げてみれば、アグネスタキオンからだ。

 

 SNSのメンバー限定グループチャットへの招待リンクが貼られており、グループ名は「鉄の会」とされている。

 

 不審に思いながらもそっと参加をタップする。

 

 そこはアグネスタキオンをルーム主催者としてゴールドシップ、エアグルーヴが参加していた。

 

[やぁ、生徒会長さん。もう眠っているかと思ったが、さすがに素早いねぇ。このルーム名はそれほどまでに効果的なのかな?]

 

 アグネスタキオンの煽りメッセージが飛び込んでくる。

 

[おっすおっす]

 

[会長、お疲れ様です]

 

 シンボリルドルフの登場に、ゴールドシップとエアグルーヴも反応し、グループチャットが賑わう。

 

[今日の勉強会後の話、君も聞いていただろう?装蹄師の彼と、専門医の話のことだよ]

 

 アグネスタキオンがシンボリルドルフに問いかける。

 

 この集いがなんであるかはグループ名でおおよそ見当がつくし、面倒な前置きはなしということらしい。

 

[…ああ。ウマ娘の耳というのはこういうときに便利だな]

 

 しかし、知らないうちにこのようなウマ娘間の繋がりが持たれていたとは。しかも兄を中心として。シンボリルドルフは驚き、目が覚めるようだった。

 

 特にエアグルーヴとゴールドシップは犬猿の仲とまでは言わないが、性格的に反りの合わない部分があるはずなのに、この「鉄の会」という主題から想定される括りの前には、この二人が糾合されてしまうというのは興味深かった。

 

[この中で彼と一番付き合いの長いシンボリルドルフ会長に問おう。彼はおとなしく医者の助言に従って病院に行くと思うかい?] 

 

 アグネスタキオンの問いにシンボリルドルフは瞑目し、兄のイメージを脳内に作りシミュレーションをする。

 尤も、考えるまでもなく答えは決まっている。

 

[…行かないな。あれほど自分に無頓着な人間は、そうお目にかかれるものではない]

 

 ルドルフは苦笑しながら答えを打ち込む。

 

[よっしゃあ!じゃあアタシのプランB、実行でいいよな!]

 

 ゴールドシップの声が浮かぶようなテンションで発言が返ってくる。

 

[…心外だが、致し方あるまい]

 

[そうだねぇ。今回は悔しいが、ゴールドシップ君の案に乗ろう]

 

 元居たメンバーでどんどん話が流れていく。

 ルドルフは、自分が参加する以前の流れもなんとなく想像がついたが、一応確認しておく必要を感じた。単純に興味といったほうが正しいかもしれない。

 

[…きちんと説明してくれるだろうか]

 

 シンボリルドルフの発言を潮に、流れが止まる。

 

[…恐れながら、ご説明申し上げます]

 

 ここでは生徒会の上下関係なぞ関係ないのだがな、とシンボリルドルフは苦笑しながら、エアグルーヴの入力を待つ。

 

 説明は簡潔かつ明瞭になされた。

 

 今夜の勉強会で現場にいたアグネスタキオンも、ウマ娘専門医と装蹄師の男のやりとりを目撃したところから始まる。

 

 最初は単に、スズカの蹄鉄を仕上げた男を労っているのかと思ったが、どうにも様子がおかしい。

 専門医の手つきは、ウマ娘の脚の故障を探るそれだと気が付いたのだ。

 

 聞き耳を立てていると、専門医が男に受診を勧めていることがわかったアグネスタキオンは、工房を出たところでウマ娘専門医を捕まえ、問いただしたという。

 

 専門医は、専門外であることと個人情報であることを理由に明言は避けたようだが、なにもなければそれでいいのだから、診察は早急に受けるべきだろう、とだけ言ったらしい。

 

 それを受けてアグネスタキオンは同じく事情を察していたゴールドシップとコンタクトを取り、エアグルーヴも取り込んで、いかに男に病院にいかせるかを検討していたというのだ。 

 

 アグネスタキオンはエアグルーヴの心中を知る立場でもあるわけで、なにかを企むにおいても絡めておいたほうが彼女の立場上も得策だろう。

 さすがの知恵に長けた彼女らしい采配と言えた。

 

[それで、プランをいくつか練っていたというわけか…ちなみにプランBとは、どのようなものなのだ?]

 

[アタシがおっちゃんを拉致して病院にお届け!「芦毛のゴルシの宅急便!」プランだぜ~]

 

 ゴールドシップは平成初期あたりの黒猫系宅配便のCMサウンドロゴを流用した節回しでお道化てみせる。残念ながら文字だけではエアグルーヴあたりには伝わるまい。

 

[多少手荒くなりますがこの際、致し方ないかと。病院の方にはたづなさんを通じて手回しをする手筈です]

 

 エアグルーヴがフォローを入れる。下地もしっかり整えるあたり、実務に長けるエアグルーヴらしい。

 

 シンボリルドルフはやり方はともかく、彼女たちの頼もしさに思わず笑みがこぼれると同時に、自らの役割のなさに心に重みを感じる。

 

[…会長、どうでしょうか。許可…というのも可笑しな話ですが、ご賛同いただけますか?] 

 

 エアグルーヴが問いかけてくる。

 

[いいだろう。委細任せる。完了したら、ここで報告してくれ。頼んだぞ、ゴールドシップ]

 

 

 

 やり取りを終えたシンボリルドルフは、ため息を吐く。

 

 今は自らの心境よりも、兄の身体だ。

 

 ライバルが多いことは歓迎できない事態ではあった一方で、悩みをひとりで抱え込まなくてよい、ということのありがたさに、これまでにはない暖かな感情が灯るのを感じた。

 

 

 

 

 

 翌日午前、断続的にゴールドシップからグループチャットに報告が入る。

 

[トレーナーとスズカが午前中、授業を抜け出してシューズと蹄鉄のテストをするらしい]

 

[了解だ。こちらは現在たづなさんに事情説明をしている]

 

[おっちゃんも立ち会うみたいだから、一人になったところを狙う]

 

[誰にも見られるな。誰にも悟られるな]

 

[相棒としてスペを確保。人参焼き3本で契約したから支払いは生徒会で頼む。作戦名は「ゴルゴルタクシー」に変更。行燈も用意した]

 

[生徒会予算を私的流用はできない。行燈は捨てろ。目立つな]

 

[スズカのシューズ試走は無事終了。おっちゃんは工房に戻る模様。一人になったところで作戦を決行する]

 

[丁寧に扱え。安全運行だぞ]

 

[作戦完了。報酬はスイス銀行の指定口座に]

 

[生徒会予算を私的流用はできない。何度も言わせるな、このたわけが]

 

 いちいち突っ込むのも野暮なのではと思い、見るにとどめていたシンボリルドルフだったが、いちいち律儀に反応し返信するエアグルーヴは実はゴールドシップと相性が良いのではないか、と思うようなやり取りだった。 

 

 これで、経緯はともかく、兄を受診させることはできたのだ。

 

 ルドルフは一人、胸を撫でおろした。

 

 

 

 

 

 男へはグループチャットのメンバー各々から病院はどうだったのだ、と探りを入れていたが、診断は明日だ、という情報以上を引き出せたメンバーはいない。

 

 それどころか、一通り返信が返ってきて以降は、誰も既読がつかないという状態になっていた。

 

 グループチャットでのやりとりは各々が心配し、やりとりを重ねるにつれてお互いに感情を高めあってしまっていた。

 最終的には部屋を訪ねてみるべきでは、という話にまでなっていたが、シンボリルドルフは一言、今は兄さんを信じよう、というメッセージを入れて鎮静化させた。

 

 土台、彼女たちが心配をして押しかけたところで、事態が好転するはずもない。

 

 シンボリルドルフの一言は、聡明な彼女たちにそれを想起させ、またそれを理解させた。

 

 図らずも彼女たちも、男と同じようなじりじりとした夜を過ごすことになった。

 

 

 

 

 

 男は翌日、今度は自らの足で病院を訪れていた。

 

 男を診察室に通した医者は、座るなり困ったような表情で、切り出した。

 

「装蹄師、さんなんですよね、ウマ娘の」

 

「…はい」

 

「その…金槌を振るったり」

 

「はい」

 

「鉄を、叩いたり」

 

「はい」

 

「腕を、使う仕事なんですよね」

 

「はい」

 

「力いっぱい?」

 

「力いっぱい」

 

 医者は困ったようにため息を吐いた。

 

「…大変申し上げにくいのですが」

 

「はい」

 

「肘が、ですね」

 

「はい」

 

「剥離骨折しています」

 

「…は?」

 

 男は、自分は今とても間抜けな顔をしているのだろうな、とどこか他人事のように考えていた。

 

 

 

 

 医者の説明は要約すると以下のようになる。

 

 おそらく金槌での打撃を繰り返したことで肘関節の一部が筋肉の収縮に耐えかね剥離骨折状態になった。

 

 しかし長年仕事で鍛えてきた筋肉のおかげか、他の部位がフォローするように働いているようだ。

 

 損傷部位が神経に触っているのか、はたまた炎症が作用しているのか、詳しいことは分からないが、筋肉に作用し震えが出ているのだと思われる。

 

 

 

 

「痛みとかはないんですよね…?」

 

 医師は不思議そうな顔をして男に尋ねる。

 

「特には…違和感程度、でしょうか…」

 

 医師はますます不思議そうな顔をする。

 

「本来、痛いはずなんですがねぇ…これ、本来なら野球選手とかに出るような怪我なんですよ…でもちょっと、あなたの場合は特殊ですね…」

 

「はぁ…」

 

 お互い間の抜けたやりとりが続く。

 

 医師もしきりに不思議がる状況の中、ぴしゃりと一言だけ、断定された言葉があった。

 

「とにかく、しばらく金槌は振るえませんので、そのつもりで」

 

 

 

 

 

 困ったことになったな、と男は病院からの帰り道をとぼとぼと歩いていた。

 

 金槌が振るえないのでは、仕事にならない。

 

 懐には、学園に提出するように言われた診断書があり、内容は封印するまえに確認したが、1か月は金槌等右腕を使う業務の休養を要す、と書かれている。

 

 しかも医師が言うには1か月は目安で、状況を観察しながらさらに延長となることもあるらしい。

 

 そして元のように金槌を振るえるかどうかは、わからない、とも。

 

 スマホには、昨日と同じようにたづなさんからメッセージが入っている。

 

 診断書を持って理事長室に来るように、と昨日と同じ調子の強い指示が書かれていた。

 

 

 

 

 男は学園に帰る道すがら、今はめっきり少なくなった煙草屋を見つけ、気分でいつもより強い煙草を買い求めると、その軒下でかちり、と火をつけた。

 

 ゆっくりと煙で肺を満たし、吐きだす。

   

「…まぁ腕の一本くらい、安いもんだな」

 

 もっともその精算が済むのはサイレンススズカが天皇賞秋を無事に走り切ってからだが、と内心で付け足す程度には、煙草による鎮静効果が効き始めていた。

 

 

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。

いつもいつも思いつくままに書き散らしてロクに推敲もせずアップしてしまうので誤字修正いただいている点が稚拙過ぎて申し訳なく感じております。

悪癖とは自覚しておりますが書いたら出したくなってしまう性分が直りそうもありませんので、これからも皆様のお力添えをいただければ幸いです。
いつも誤字修正ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。


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56:教育機関

 

 

 

 

 

 

 男は学園に戻り、理事長室で秋川理事長、駿川たづなさんと向かい合う。

 

 理事長の机の中央には封印を解かれた診断書がある。

 

 男の肘にはサポーターが巻かれ、可動域が制限されていた。

 

「怪我は私の不徳の致すところで、まことに申し訳ありません」

 

 男は理事長の正面に立ち、頭を下げた。

 

 理事長は椅子に座り、腕組みをして瞳を閉じ、硬い表情のまま黙考している。

 

 理事長の机の傍らに立つたづなさんは、職務規定のファイルを手にしていた。

 

「…とりあえずは工房はしばらくお休みということで…通常の補修や調整などの業務の方は、府中レース場付の装蹄師の方にお願いしますので、安心して休んでください」

 

 たづなさんがにこやかに応じる。

 

「そのことでご相談なのですが…」

 

 男は感情を伺わせない無表情で告げる。

 

「私の怪我のことは伏せていただけないでしょうか。そして私は研修か何か名目を付けて、しばらく学園から離していただきたく。できれば、新しい学園の装蹄師を手配いただいたほうが良い。必要ならば、こちらも」

 

 男はテーブルの上にもうひとつ、封筒を差し出した。

 

 退職願、と記されている。

 

 男が新たに取り出したものに理事長は瞳を開き、見つめる。口は真一文字に結んだまま、動揺した様子は見られない。

 

 頭上の猫は気怠そうにひとつ、あくびをした。

 

「装蹄師さん、これは…」

 

 たづなさんが笑い顔にわずかに困惑の表情を浮かべる。

 

「…私の腕は元に戻るかどうかわかりませんし、技術的に満足のいかないものをウマ娘たちの脚元に使うわけにもいかない。それに、私の怪我で彼女たちに影響を与えるのも本意ではありませんので」

 

 男はゆっくりと述べる。

 

 理事長は口を真一文字に結んだまま、小刻みに震えている。

 

 たづなさんは焦ったように、視線を理事長と男の間を行ったり来たりさせていた。

 

「…君は随分と、自己評価が高いようだな?」

 

 無表情に震えたまま、ぽつりと理事長が言った。

 

 頭上の猫は相変わらず微睡んでいる。

 

 理事長はおもむろに立ち上がると、扇子を開かずにびしっと男を指し示して言い放った。

 

「却下!すべて却下!当面の強制休暇と蹄鉄工房の一時閉鎖を命じる!休暇後は新たな業務を命じる!退出し、自室で療養していろ!」

 

 その身の小ささ故、男は理事長に迫力を感じられなかったが、たづなさんのおろおろした様子を見るに、どうやら理事長は激昂していた。

 

 男は理事長の指示は表面上は理解できたが、理事長の言葉の真意を測りかね、その場に立ち尽くしていた。

 

 理事長は椅子に座り、くるりと半回転し窓の外を眺めている。

 

「言ったはずだ!退出しろ!詳細は追って伝える!」

 

 理事長の強い口調とは裏腹に、頭上の猫の惰眠を貪る表情が印象的だった。

 

 とりあえず、自らの要望が受け入れられないことだけを理解した男は、理事長室を退出した。

 

 

 

 

 理事長は酷く傷ついた表情で、なにかについて歯を食いしばりながら耐え忍びつつ、窓の外を眺めていた。

 

 そしてたづなさんはその理事長の様子をただ黙って、眺めていることしかできなかった。

 

「たづな!情報を流せ!当面の間、工房の閉鎖と装蹄師の休養!当面の蹄鉄のメンテナンスに関しては府中に委託に出す!URAにもその旨通告を出せ」

 

 秋川理事長はしばらくの黙考ののち、たづなさんに指示をした。

 

「理事長…しかし…」

 

 たづなさんは理事長の考えを図りかねている。

 

「わからんのかたづな。今のあいつは怪我をしたウマ娘と同じだ。競走能力を喪失したと思っているのだ。しかし苦難の末にそれを乗り越えた先達がどれだけいると思っている?」

 

 頭上の猫はまた、つまらなそうにあくびをする。

 

「温情などではないぞ!今、あの男以上に生きた教材はいない!ここはトレセン学園だ。ウマ娘をより良き未来に導き、教育するための教育機関なのだ!レースはその一手段に過ぎん!それを忘れるな!」

 

 理事長は窓の外、眼下に練習用トラックに向かうウマ娘たちの姿を認めながら言った。

 

 

 

 

 

 

 

 男は理事長室を出ると、一度工房に向かい、閉鎖に備えて私物を持ち出そうと試みた。

 

 しかし男が工房にたどり着くよりも早く、工房の入り口は施設管理部署の手によって鎖で閉鎖され、いくつもの錠がかけられていて、入ることは叶わなかった。

 

 男は仕方なく、自室に戻った。

 

 ソファにどっかりと崩れると、煙草に火をつける。

 

 なぜ理事長は申し出を受け入れてくれなかったのだろうか。

 

 装蹄師としての能力は発揮できなくなる可能性が高く、職能によって雇用されている自分の存在意義は既に学園にはない、と考えていた。

 

 そして、腕を壊した自分が存在することで、サイレンススズカが自責の念を持つのではないかと危惧した。

 

 そのリスクを排除することは彼女のスター性をことのほか大事にしているURAと利害が一致するはずだった。

 

 すでに男が出来ることは成した後であるし、彼女に悪影響が出るくらいなら男は消えてしまったほうが早い、と考え退職願まで用意した。

 

 しかし理事長は憤然とそれを却下した。

 

 なんなら男の仕事まで保証してみせたのである。

 

 男には理解できなかった。

 

 

 

 

 

 煙草を一本吸い終える頃、男のスマホが狂ったように連続して着信を告げてくる。

 

 なんだなんだと手を伸ばせば、メッセージが次々と受信されていることがわかる。

 

 ここのところ関係の多いウマ娘たちや沖野、東条ハナからも何事か届いているようだ。

 

「やられた…」

 

 男は内容をみて呟いた。

 

 学内のイントラネットに工房の一時閉鎖連絡がアップされたのだ。

 

 それを見ての反応が男に押し寄せている。

 

 男はなにもかもが面倒になり、鳴り続けるスマホの電源を強制的に切ると、ソファに横になり、フテ寝を決め込むことにした。

 

 

 

 

 

 

   

 生徒会室では日常業務を終え、自主練習を行うためにナリタブライアンが退出した後、重苦しい空気に支配された。

 

 男からは特に連絡も返信もなく、それに焦れたシンボリルドルフは表情こそいつも通りだが、感情を抑えかねるように尻尾をせわしなく振り、そしてエアグルーヴも耳をしょげさせたまま沈黙していた。

 

 工房がしばらく閉鎖されることと、装蹄師が当面の間休みとなる事実のみ、たづなさんから連絡が来ていた。

 

「…どうするべきなのだろうな、我々は」

 

 シンボリルドルフは誰に問うわけでもなく、呟いた。

 

 エアグルーヴは表情を変えない。

 

「…診断が出たことでの理事長判断が出たことは事実だと思いますが、公式にはそれ以上の情報の入手は難しいです。装蹄師の先生とは連絡がつきませんし…」

 

 淡々と事実を並べることしかできず、エアグルーヴも内心、焦れていた。

 

「…兄さんの身になにかあったのは確実として、それがどの程度のものなのかもわからない、というのはな…」

 

 シンボリルドルフは表情にこそ出さないが、落胆していた。

 

 せめてそのくらいは本人から教えてくれてもよさそうなものなのに、と思っている。

 

 鉄の会のメンバーであるアグネスタキオンやゴールドシップもコンタクトが取れていないらしく、グループチャットにも新たな情報はない。

 

 以前なら、単独行動で男の部屋に向かっていただろうが、公式発表がないことはそれなりの理由があるはずだった。

 その隠された情報を直接暴きにいくという行為に、自らの立場上も後ろめたさを感じてしまうがゆえに、彼女たちの行動を制約していた。

 

「…もしや、なにか公にはできない病気とか、そういうことなんですかね…」

 

 エアグルーヴが呟く。

 

 シンボリルドルフはぞくりと背筋が震える。

 

「…あまり想像したくはないな…」

 

 二人の間には再び沈黙が流れた。

 

「…やはり、直接聞くしかあるまいねぇ」

 

 生徒会室では普段聞くことのない、新たな声が響いた。

 

「…いつの間に…」

 

「普通にノックしたが、返事がなかったもので勝手に失礼したよ」

 

 いつの間にか、アグネスタキオンが生徒会室に現れている。

 シンボリルドルフもエアグルーヴも思考の沼に入り込むあまり、気が付かなかったようだ。

 

「何をそんなに迷っているんだい?わからないなら本人に聞くしかないじゃないか。どうせここで君たちが考えたところで、なにかが変わるわけじゃないだろう?」

 

 アグネスタキオンはそうまくし立てると、二人についてくるよう促した。

 

 

 

 



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57:三者三様  

 

 

 

 

 

 夕刻と言うには陽が落ちすぎた時間帯。

 

 激しく鳴るインターホンの音に男は叩き起こされた。

 

 何事かと部屋の扉を開けば、シンボリルドルフ、エアグルーヴ、アグネスタキオン。

 

 三者三様の表情を浮かべているが、共通項はなんだろうか。男にそれを見出すことはできない。

 

 どうにも最近、自室に押し掛けてくるハードルが低い気がしないでもないが、今更それを言ったところで彼女たちは既に、この部屋に立ち入った実績が豊富だ。

 

 今更断る理由も見当たらず、男は仕方なく部屋に入れることにした。

 

 

 ルドルフは男のリビングに足を踏み入れると、先ほどまでソファで眠っていた男の濃い匂いを敏感に感じ取り、尻尾をばさりと蠢めかせた。

 

 男はそんなルドルフの様子に気づきもせず、冷蔵庫からごそごそとニンジンジュースを取り出し3人に渡し、自らは目覚ましにブラックコーヒーの缶を開ける。

 

 窓を開け、煙草に火をつける。

 

「で、3人も雁首揃えて、今日はなんだ?」

 

 寝起きで寝ぼけた様子を隠そうともせず、男は彼女たちに問うた。

 

「…なんだとはご挨拶だねぇ。君のその右腕に巻かれた異物の件に決まってるじゃないかぁ」

 

 アグネスタキオンはよく見る昏い笑みを湛えた表情で、いつも通りの調子だ。

 

「あぁ…これか。見ての通りだ」

 

 男は腕に巻かれたサポーターを見ながら、なんだそんなことか、といった調子で返す。

 

「その…どの程度、悪いのだろうか」

 

 エアグルーヴが怯えるような、探るような口調で切り込む。

 

「んー…医者はとりあえず剥離骨折という診断だった。学園に提出した診断書にもそうある。まぁ痛みとかはないんだがな」

 

 剥離骨折、という言葉を聞いて、三人ともびくりと耳を立てる。

 

 彼女たちの脚にいつでも起こりうる身近な故障であり、病名の表現する範囲は広いが、コトと次第によってはウマ娘であれば引退につながることもある大きな怪我と言えた。

 

 男は震える手をうっとうしがり、煙草を左手に持ち換える。

 

「…腕の震えは故障部位が神経に触っているかららしいが、詳しいことは医者もわからないらしい。この腕が元に戻るかも、な」

 

 男は煙草の煙を室外へ吐きだす。

 

「そんなわけで、理事長に診断書を提出したら休養を申し付かった。ついでに工房にも入れない。別の装蹄師を手配してくれとは言ったんだがな…」

 

 彼女たちはまた、ぴくりと反応する。

 

「別の装蹄師、とはどういう意味だ?」

 

 ルドルフが真剣な表情で尋ねる。

 

「…まぁ装蹄師くらい、いくらでもいるからな。新たに手配するのに欠員がでなきゃならないのなら、と思って退職願も出したが、理事長にどやされちまったよ」

 

 男のどこか投げやりな説明に、ルドルフは脈が速くなり、血圧が上がっていくのを感じていた。

 

「今この時期に俺が怪我をしたってのは、サイレンススズカの件を考えても、どうにもあまりいい影響を与えない気がしてな。なら学園の装蹄師をさらっと入れ替えて、トレセン学園の日常をそのまま続けてもらったほうがいいんじゃないかと思ったんだが…おえらいさんの考えることはわからん」

 

 刹那、耳を尖らせたシンボリルドルフが勢いよく立ち上がる。

 俯き、こぶしは硬く握られ、震えている。

 

「…兄さんの見識はそんなものだったのか…?」

 

 ルドルフの豹変ぶりにエアグルーヴは固唾を呑む。

 

「…確かに装蹄師という職能としての代替は可能だろう、可能だろうとも。しかし学園に籍を置き、生徒を指導する存在としては考えたことがあるのか?それは簡単に替えの利く部品のような存在ではないはずだ…」

 

 シンボリルドルフの言葉を聞くアグネスタキオンは、いつもの微笑が表情から消えている。

 

「教育というのは職能のみならず、その人格を以て行うものであると、私は思っている。そうであるからこそ、先生と呼ばれる存在は慕われ、尊敬される存在なのだ。だからこそ、あの蹄鉄の工房には悩んだウマ娘たちが相談に訪れ、それに応えて今まで数多の悩みを解決してきたのだろう?」

 

 ルドルフは俯いたまま、時折声を震わせながら、男に問いかける。

 

「…それを自ら否定するなど、兄さんを信じてきた生徒たちは…私たちは、どうなるというのだ!」

 

 彼女は瞳に溜めた涙を振り払い、慟哭するかのように男に言葉を投げつける。

 

 紅潮した顔で男をじっと見たルドルフは、踵を返し憤然と尻尾を揺らしながら、部屋を出て行ってしまった。

 

 男はルドルフの剣幕に驚きながら、少し気落ちして、取り繕うように煙草を吸い込み、吐きだす。

 

「…まぁ、会長の言う事は尤もだねぇ…」

 

 ふふふ、と昏い微笑を復活させたアグネスタキオンが、ルドルフの退出によりぽっかりとあいた空間を埋めるように言葉を投げた。

 

「…だがねぇ…君の挫折もわからないでもないよ」

 

 タキオンはそういうと、自らの脚をひと撫でする。

 

「…かくいう私もガラスの脚…というやつでねえ…それが、私の研究の動機のひとつではあるんだよ」

 

 男は昏い瞳をしたタキオンを眺める。

 

「…あの話、本当だったのか」

 

 合同プロジェクトが動き始めた頃、男は研究の基礎資料としてさまざまな切り口の資料提出が求められ、夜な夜な工房で提出資料の作成に追われていた。

 

 そんな日が続いていたある夜、ふらりとタキオンが訪ねてきて、例え話としてそんなことを言っていた記憶が甦る。

 

「…だから、君が元来志向している安全性を高めるアプローチの延長上に、怪我や故障の予防という概念を持って相談に来てくれた時は、正直心が躍るようだったよ」

 

 タキオンの表情は、いつものどこか昏い微笑ではなく、光明を見出したときのような明るさを宿していた。

 

「そこにたどり着いてくれた同志を、言っては悪いがこれくらいのことで失いたくはないねぇ。何も、君の装蹄師としての腕だけを頼りにしたことではないのだよ、これは」

 

 そこのところも含んでおいてくれると嬉しいねぇ、とねっとりとしたいつも通りの口調で言い終えると、タキオンはゆっくりと立ち上がった。

 

「私が君に伝えたいのはそれだけだよ…じゃあ、あとのことは副会長にでも任せるとしようか」

 

 部屋の隅で耳をしおれさせていたエアグルーヴはびくりと跳ね上がるが、それにかまわずアグネスタキオンもまた、部屋を出ていった。

 

 エアグルーヴと男が残され、二人減ったリビングは妙に広く感じられた。

 

 男は床に座り、エアグルーヴと向かい合う。

 

 生徒会室にいるときは疑問点だらけだったことも、この短時間で氷解してしまった。

 

 エアグルーヴ自身もあれやこれや、もやもやと抱えていたモノがあったはずだが、シンボリルドルフの激昂とアグネスタキオンの唐突な告白の衝撃に、もはやなにを自分が考えていたのか覚えていないほどに頭の中は真っ白だった。  

 

 男は無表情で、何を考えているのかわからない。

 エアグルーヴのほうを向いてはいるが、焦点は定まらない様子だった。

 

「わ、私はあの二人のように、叱咤激励するような話はできないが…」

 

 エアグルーヴは居ずまいを正して言った。

 

「…腹は、減ってないか?」

 

 エアグルーヴの問いかけに、男は焦点を定めた目で、彼女と目線を合わせた。

 

「…よく、私の父が言っていたんだ。落ち込んだ時はまず、温かい食べ物で腹を満たせ、と。そして、心行くまで眠れ、とね」

 

 エアグルーヴはいつもの怜悧な表情からすこし恥ずかしそうに頬を赤くし、言った。

 

「だいたいの悩みはそれで軽くなる、そう教えられたんだ」

 

 耳はほどよく力が抜かれ、父のことを思い浮かべているらしい表情をする。

 

「…そしてそれはだいたいの場合において、事実だったよ」

 

 そこまで言うとエアグルーヴは立ち上がり、瞳に優しい色を浮かべると、男をそのままにキッチンへと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフは紅潮した顔のまま、自室ではなく生徒会室に戻っていた。

 

 夜の校舎は静まり返り、昼間の喧騒が嘘のようだ。

 

 生徒会室もルドルフのほかには誰もおらず、いつもより広く感じられる。

 

 自らの席に座り一人、部屋にかけられた額を見上げる。

 

 

[ Eclipse first, the rest nowhere. ]

 

 

 唯一抜きんでて、並ぶものなし。

 

 ウマ娘としてレースを走るうえでの理想としてスクールモットーに掲げられた言葉だ。

 

 そしてこれは教育の場としてのトレセン学園のモットーでもある。

 

 それぞれのウマ娘たちが、それぞれの幸せに向かい、唯一の存在となれるような教育。

 

 たとえそれが、レースでなくても。

 

 トレセン学園は競走を中心とし勝利を目指す場所。

 しかし勝利を得られず、夢破れるものも多い。

 

 それでも仲間と競い合い、支え合い、この時代が輝いていたと言える学園生活を。

 

 それがきっと、彼女たちの後の人生の幸福につながる。

 

 シンボリルドルフはそう、信じていた。

 

  

 そこまで考えて、彼女はひとつのことに思い至る。

 

 つまりは、解釈の問題なのだ。

 

 兄はウマ娘の蹄鉄という一つの領域で、唯一抜きんでた存在となりつつある。

 

 その過程で故障し、心まで折れかけてしまっている。

 

 私たちはまだ、故障したとてこの学園という器の中で、励まし合い、支え合う仲間がいる。

 

 しかし兄はどうだろうか。

 

 この学園でただ一人の装蹄師として、孤独そのものではないか。

 

「…私は…わかっていたというのに…」

 

 わかっていたというのに、最も兄に近い一人であるはずの私が、あのような態度を取ってしまったならば。

 

 シンボリルドルフは自らが兄に指弾した事柄の苛烈さに青ざめる。

 

「…駟不及舌…とはまさにこのことだな…」

 

 シンボリルドルフは力なく耳を項垂れさせたまま、一人きりの生徒会室で、先ほどとは意味合いの違う涙をはらはらと零した。

 

 

 

 







例によって一発書き…
…無計画に書いてきて、この先も無計画だからすっごく舵取りが難しいゾ☆


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58:一本の電話

皆様いつもご覧いただきありがとうございます。
なかなか舵取りの難しい局面で賛否あるかと思います。
いただいておりますコメントも参考にさせていただきつつ、引き続き脳内妄想を垂れ流して参りますのでよろしくお願い致します。





 

 

 

 

 何か料理を作る、とキッチンに入っていったエアグルーヴ。

 

 冷蔵庫の中を見てしばし悩んでいたようだったが、作るものが決まったのかテキパキと動き出す。

 

 部屋の冷蔵庫には幾ばくかの食材が入っていたが、生憎料理をほとんどしない男が適当に済ませられる程度のものしか入っていない。

 

 男はキッチンで忙しく立ち働くエアグルーヴにかける言葉が思い浮かばず、好きにしてもらうことにしてリビングでただじっとしていた。

 

 

 

 

 

「待たせたな」

 

 気付けば30分ほど経っており、エアグルーヴに声を掛けられて我に返った男は、招かれるがままにダイニングテーブルへと立ち上がる。

 

 そこにあったのは卵の半熟加減が食欲をそそる、親子丼であった。

 

「あった材料を勝手に使わせてもらって済まないな。さっと作れるものはこれしか思い浮かばなかった」

 

 あの貧相な冷蔵庫の中身で手早くこれだけのものを作れれば大したものだ。

 

「…ありがとう。悪いな、気を遣わせて」

 

 男はやっとのことで言葉を絞り出し、テーブルに着く。

 

 二人で両手を合わせて、いただくことにした。

 

「…うまいな」

 

 そう呟く男をエアグルーヴは見る。

 表情に柔らかいものが浮かんでいることを認めると、心が少し軽くなった。

 

「そうだろう。なにせこの女帝手ずから作ったんだからな。多少調味料が足りない部分もあったが、味は悪くないはずだ」

 

 エアグルーヴは怜悧な表情は崩さずに、それでも口元が緩むのは止めることは出来なかった。

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 男はゆっくりと食べ終えると、両手を合わせた。

 

「お粗末さま、だったな」

 

 エアグルーヴは、男の顔から力みがすっかり抜けたことを確認する。

 やはり父の言っていたことは間違いじゃないな、と心の中で呟いた。

 

 食後の茶を飲みながら、エアグルーヴはゆっくりと話し出す。

 

「しかし、先生が怪我となると…スズカの例の蹄鉄は大丈夫だろうか」

 

 今ならこの懸念も答えてくれるだろう、と話題を切り出す。

 

「…あぁ。それなら問題ない。予備は2セット作ってあるし、いざとなれば予備の材料も準備してあるからそこそこの腕の装蹄師なら作れるだろう。そもそも耐久性はかなり上げてあるから、3レースくらいは使えると思うよ」

 

 男は火のついていない煙草を咥えて、言った。

 

「…しかし、ルドルフにあんなふうに叱られたのは初めてだ。まいったな…」

 

 男はすこし整理がついたのか、ややしょんぼりした様子で先ほどのことを話しだす。

 

 エアグルーヴは少しトーンを落として応じる。

 

「私もあんな会長の姿は初めてだ。凄みを感じることはあっても、あんな風に感情を剝き出しにすることはない」

 

 だが、とエアグルーヴは次の言葉を継いだ。

 

「会長が言う事も正しい。怪我くらい、といってはアレだが、我々にも付き物なことだ。それに、色々な新しい取り組みをここまで引っ張ってきてくれたのは先生じゃないか。辞めるなんて軽々しく言わずに、見守って欲しいと思うのは当然だろう。タキオンの話は言うに及ばずだ」

 

 エアグルーヴの口調は彼女にしては軽く、本人も努めて男を責めるトーンにならぬよう、注意を払いながら話した。

 

 男は少し意外そうな、そして困ったような顔をしながら、やがてため息をひとつ、吐いた。

 

「…買いかぶり過ぎだと思うがねぇ…ただ、鉄を打つしか能のない男ですよ、俺は」

 

 そういうとダイニングから立ち上がり、窓辺に立って煙草に火をつけた。

 

「ところで、エアグルーヴの出したレースのオフィシャルウマ娘案のほうはどうなってるんだ?」

 

 煙を器用に室外に吐きだしながら、男はエアグルーヴに問うた。

 

「あれはURAのほうに話が上がっている。提案の時に理事長室であれこれ話したように、形は変わるだろうが何らかの形で実現するだろう。実証実験も始まっているが、思いのほかオフィシャルウマ娘側に走力が必要でな。誰でもできるほど簡単ではなさそうだ」

 

 ほうほう、と男は頷いて聞いている。

 

「まぁ秋のG1シーズンには、試験的にやってみることになると思う。何も起きなければただレースを追うだけのことだから、比較的実施のハードルは低そうだ」    

 

 エアグルーヴはそこまで言うと、ふっと息をつく。

 

「そっちの方もとてもいい流れだな。間違いなくレースを走るうえでの安心感は高まる」

 

 男はエアグルーヴを褒める。

 

「…私は気づいたことを案にまとめて出しただけだ。動いているのはURAや理事長だ」

 

 男は頭を横に振る。

 

「いやいや、現役ならではの発想だよ。大したもんだ」

 

 エアグルーヴが少し照れ臭そうにはにかんだとき、ダイニングテーブルに置いていた男のスマホが鳴動した。

 

「ん…気にするな。出ていいぞ」

 

 エアグルーヴは男のスマホを手に取り、窓辺に持ってきて差し出してくる。

 

 このスマホに登録のない番号からかかっており、発信元表示が数字の羅列だ。

 

 ここ数日、時々かかってきているが出ずに無視している番号だった。

 

 せっかくエアグルーヴがスマホをもってきてくれたことだし、出てみるか、と男は気乗りしなかったが応答を押した。

 

「あ、やっとでた!もしもーし!」

 

 妙に陽気な若い男の声がした。

 

「…はい?」

 

 男は相手が誰だかわからず、怪訝な反応を返す。

 

「あれ?先輩ですよね?俺ですよ俺ー!かわいい自動車部の後輩ですよー」

 

 そこまで言われて一瞬で記憶が甦る。

 

「お前!ひっさしぶりだな!元気にしてたか…っていうか身体の調子はどうなんだよ!」

 

 電話の相手はかつて男が指導し、レースでクラッシュし大怪我をしてしまった後輩だった。

 

「まぁなんとかやってますよ!いやー先輩をネットのニュース記事で見かけて、懐かしくなって電話かけてたのに、なんで出てくれないんスか!」

 

 なんで後輩からの電話が番号表示なのだろう…と考えて、ふと思い当たる。修業時代、スマホを造蹄作業中に落とし、全損させていた。データはその時、引き継げなかったのだ。

 

 それよりネットのニュース記事とはなんだ。

 ニュースになるようなことをした覚えがない。

 

「悪い悪い。忙しくてな。っていうかなんだよネットのニュース記事って」

 

「サイレンススズカの試走記事に、先輩が出てたんですよ!俺、ビビッて三度見しましたもん!」

 

 あの時、確かにプレスパスを着けたライターもいたな、と思い出す。

 

「今注目株のサイレンススズカの記事見てたら、よく見知った先輩が写ってるんですもん。驚きますよー。今、ウマ娘のレースに関わってるんですか?」

 

 懐かしい声を聴きながら、後輩のことを色々と思い出す。

 

 そういえばこの男の入部動機が変わっていた。

 

 ウマ娘のレースが好きすぎて、自分でもレースをしたくなったが残念ながら陸上競技をするような身体能力はない。だからクルマでレースをするのだ、と言っていたのを思い出す。

 

「いやー羨ましいやら懐かしいやらで、先輩と話したくなっちゃったんですよ!」

 

 過去、あれだけの怪我をした、させてしまった関係であるにも関わらず、後輩はどこまでも明るかった。

       

「なるほどな。まぁ電話してもらったとこでアレだけど俺も今、怪我しちまって休業中なんだよ」

 

「は?怪我って、どうしたんですか?てか先輩そもそも仕事何やってるんです?」

 

 相変わらず質問が多い。これも昔から変わらないな、と苦笑いしてしまう。

 

「装蹄師だよ」

 

「そうていし?」

 

「ウマ娘の蹄鉄、つくってんだよ…」

 

 

 

 男は窓際でスマホを耳に当て電話をしている。

 エアグルーヴはダイニングからその姿を眺めながら、耳はその優秀な聴力で、しっかりと通話相手の音も捉えていた。

 

 最初は相手が女性ではなかったことに安堵し、盗み聞きは良くないと思ったのだが、聞くでもなく耳に入ってくる会話内容は、どうやら男の旧知の相手らしいことを伺わせた。

 

 

 

「あー先輩、昔から板金得意でしたもんね!じゃあ、あの記事にあったサイレンススズカの蹄鉄も作ったんですか?」

 

 男は煙草に火をつけて、通話を続けている。

 

「ん…まぁ、いろいろあって作ったんだよ。だから、試走に立ち会ってたんだ」

 

「なるほどー!いいなー超うらやましいなー…今度見学に行ってもいいっスか?」

 

「お前ね…ここは学校なのよ、そう簡単に部外者の立ち入りはできないと思うぞ…多分…」

 

 男は後輩に言い淀みながら、エアグルーヴをちらりと見る。

 

 目が合い、エアグルーヴは盗み聞きが気づかれたか、とびくりとする。

 男はちょんちょん、と自分の頭、エアグルーヴの耳のあたりを指さして、聞こえているんだろう?とジェスチャーする。

 

 どうやら、聞かれていることは先刻承知のようだ。

 そのうえで、今の後輩の問いの答えをエアグルーヴに求めているらしい。

 

「…先生が身元を保証するなら…許可は出ると思うが」

 

 エアグルーヴが男に言う。

 そのエアグルーヴの声も、スマホは拾っていた。

 

「…?女?オンナの声?先輩、今オンナと部屋にいるっスか!?彼女?彼女なの?しかも学園内の?」

 

 後輩が謎にテンションアップしているのが電話越しでもわかる。

 

「違う違う違う。俺が女に縁がないのはお前、良く知ってるだろうが…たまたまた、今目の前にいる子が答えてくれただけだ」

 

「は?子ってなに子って。しかも先生とか言ってたっスよ?教え子?先輩は先生なの?わけわかんねぇっスよ!説明説明!」

 

 男はわめき倒す後輩の声に押され、スマホから耳を離す。

 

「うっさいなぁお前…そういうとこ変わってないな…俺は学園の装蹄師(休業中)で、目の前にいるのは学園の生徒。彼女じゃない」

 

「装蹄師の先生が!学園の生徒と!…ってなんスかその夢のような境遇は!」

 

 テンションがどこまでも吹き上がっていく後輩に、苦笑いとため息が出てしまう。

 

「…お前、やっぱり見学は無理だわ、たぶん」

 

「ちょま!まってくださいよ!いい子にしますから!」

 

 とりあえず相談してみるから、と様々な言葉で後輩をなだめ、またこちらから連絡する約束をして、男はどうにか通話を切った。

 

 通話が切れたスマホを眺め、男はふう、とひとつため息を吐いた。

 

「悪かったな」

 

 男はエアグルーヴに詫びる。

 

「構わないが…今の電話の相手は…」

 

「あぁ、前に合宿で話した、レースで事故った後輩だよ」

 

 男の言葉に、エアグルーヴの耳がぴん!と立つ。

 

「クラッシュの後は車椅子生活だと聞いていたんだが…もともと車でレースをしてたのも、ウマ娘のレースが大好きだったことが動機のやつでな…」

 

 男の通話での表情は今までに見たこともない、学生のような雰囲気だったな、とエアグルーヴは思い返す。

 

 これはひょっとすると、通話相手の後輩が今の男の気分を変えてくれるかもしれない。

 

 エアグルーヴはそう、直感した。

 

「見学の件については会長や理事長へ、渡りをつけてみよう。なに、先生は今まで様々な貢献をしてくれているんだ。このくらいの便宜を図ってもバチはあたるまい」

 

「なんだか悪いな…まぁ、そう言ってくれるなら、頼む」

 

 男は申し訳なさそうだが、しかしどこか嬉しそうだ。

 

 この機を逃す手はない。

 

 気分さえ変われば、きっとまたいつもの先生に戻るはずだ。

 

 新たな煙草に火をつけた男を眺めながら、彼女の聡明な頭脳はすでにフル回転していた。

 







正直今回難しくて幕間回(未来の時間軸)にぶっ飛ばして色々有耶無耶にしようかとも考えましたが、悩んだ末に真正面から書いてみました。
半分くらい書いた幕間回は無事お蔵入りです笑


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59:後輩、来襲(1)

 

 

 

 

 

 後輩のトレセン学園見学の許可はあっさりと降りた。

 

 もともと全寮制のトレセン学園は、生徒たちの血縁による見学の要請が後を絶たない。

 

 その大半は春秋に行われる志望者向けイベント時などに消化されるのだが、さまざまな都合でその時期からはずれた通常期になることも少なくはなかった。

 

 職員の関連による見学、というのはそれにくらべれば数は多くないが、働くものにとっては何かと過酷となりがちな環境であるトレセン学園において、職員たちのプライベートサイドの人間たちにも理解を得ていくというのは、ある種の人員確保、離職防止という面において欠かせない施策でもあった。

 

 今回はその職員向け施策枠での見学許可ということで、理事長はあっさりと書類に判を押して裁可し、男の許に入校許可証とともに書類を寄越した。

 

 そこには様々な決まりごとが書かれていたが、いわゆる世間一般の常識の範疇を越えないものであり、特段気にかけるような内容はなかった。

 

 しかし一点、書類の最後に手書きで追加された文言があることに気が付いた。

 

 

「校内見学ののち、見学者と理事長室に必ず来ること(秋川やよい印)」

 

 

 達筆な筆文字で書かれており、立派なフルネームの角印が少し傾いてバチン!と押されていた。

 

 理事長とは休養を言い渡されて以来、顔を合わせていない。

 

 そもそも普段からそう交流があるわけでもないのだが、見学者とともに来るようにというのはどういう意味なのだろうか。

 

 少々訝しみながらも、まぁ挨拶に来いという程度のことだろうと男は一人、納得することにした。

 

 

 

 後輩に許可が出た旨を伝えると、電話越しでも伝わる純粋な喜びの雄たけびが聞かれた。

 

「持つべきものはデキる先輩っスね!テレビやレース場で客として見る側でしかなかった俺が、こんな風に内側を見学できる日が来るなんて…!」

 

 遠足か修学旅行を控えた子供か、と言いたくなるようなテンションである。

 

 幸か不幸か男も休業中で暇であるため、近い日程を定めて、当日は男が駅まで迎えに出る段取りとした。

 

 

 

 

 

 見学の当日朝、男は駅のロータリーで後輩を待った。

 

 約束の時間通りに後輩は現れた。

 

「ちわ!今日はよろしくおねがいします!」

 

 見た目は現役時代とほとんどかわらない後輩が、その記憶通りのそこそこのイケメン顔でよく言えば爽やか、悪く言えば軽薄な表情で男に挨拶をする。

 

 その姿を見た男は絶句した。

 

 最後に会った時は退院し、彼が実家に戻るときだった。

 

 車椅子姿が痛々しく、両親に連れられ迎えの車に乗り込む姿を、他の現役部員たちと一緒に見送った。

 車椅子というあまりに厳しい状態を目の当たりにし衝撃を受けていた男は、あまり言葉を交わした記憶はない。

 

 それ以来、たまに人づてに話を聞くことはあったが、男が修行生活に入り部活自体と疎遠となっていったこともあり、行き来はこの間の電話まで途絶えていた。

 

 だが、電話での様子は現役時代と変わらずの様子で男を慕ってくれていた。

 

 そして今、目の前に現れた後輩は車椅子姿ではない。

 左膝に装具をつけ、杖をついていたが自らの力で立って、歩いて現れたのだ。

 

「…おお…お、お前、歩けるのか…?」

 

 男は、驚きの余り言葉が上手く出てこない。

 

「あれ?言ってませんでしたっけ?なんとか歩けるようになったんスよ。まぁさすがにクラッチは踏めないんすけどね」

 

 後輩は少しはにかみながら笑う。

 男はそう言って立つ後輩の姿を見ながら、胸の奥が少し熱くなった。

 

「…って先輩、まだコレ乗ってたんですか。モノ好きですねぇ…」

 

 後輩は懐かしそうに男の車を見ると、杖でバンパーをつつく。

 

 男は苦笑いしながら胸の奥の熱を悟られないように大学時代の関係そのままに振舞い、後輩を助手席へのせ、杖と荷物をリアハッチに放り込んで出発した。

 

 

 

 

「懐かしいなー。車外は静かなのに車内がアホほど煩いのも変わってないっスねー」

 

 後輩はクルマに乗っても上機嫌だった。

 

 男のクルマはマフラーは純正品だったが、軽量化のために遮音材やアンダーコートの一切を取り払ってしまっており、強化エンジンマウントの影響で車内は煩く、振動も酷い。

 

「外がうるさいクルマは嫌いなんだよ。他人様に迷惑だろ」

 

「今でもコイツで走ってるんスか?」

 

「今はちょっと近所流すくらいだよ、気分転換に」

 

「俺たちも歳食っちゃいましたもんねー。丸くなっちゃいますよねー」

 

 男は信号待ちで右腕の可動域制約のために不自由そうに煙草を取り出すと、器用に咥えて火をつける。

 

「そういえば先輩、怪我で休業とかいってましたけど、その腕っスか?」

 

 男は窓をあけて車外に煙を吐きだしながら言った。

 

「そうそう。剥離骨折だと。痛くはねぇんだけどね、震えがあって。自分では気が付かなかったけど仕事関係の医者が気づいてくれた」

 

「装蹄師って先輩から聞いて色々調べたりしたんすけど、やっぱあれっスか。鉄の打ち過ぎっスか」

 

 後輩も煙草に火を点け、うまそうに吸う。

 吸っている銘柄は二人とも学生の頃から変わっていなかった。 

 

「多分な。ちょっと忙しくて無理したらこれだよ。弱っちいよなー俺」

 

「なに言ってるんすか、昔からそんなんばっかじゃないですか先輩。ほら一度、作業中にミッション落ちてきたの受け止めてあばら折ってたのに、レース出たことあったでしょ。あんたバケモンですよ」

 

 そういえばそんなこともあった気がする。

 

「まぁ怪我なんて治りますし。死ななきゃなんとでもなりますよ」

 

 狭い助手席で装具をつけた左足を上下にピコピコさせ、後輩は自信たっぷりに言う。    

 

「お前が言うと説得力違うなぁ…」

 

 男は苦笑いしながら、クルマを学園へ進めた。

 

 

 

 

 学園に着き、一旦男の部屋に後輩を連れていく。

 

 まだ時間は午前で、学園の生徒たちは授業中の時間帯だ。

 

 今のうちに見学の心構えなどを一通り、説明しておく。

 

「…まぁ、いろいろ言ったけど俺と一緒に居て煩くしなけりゃ大丈夫だ。入校許可証は下げておけよ」

 

「うっす。承りましたっス。しかしまぁ、殺風景な部屋っすねー」

 

「基本、寝るだけの部屋だからな。だいたい職場の工房にいつもいる。まぁ今は立ち入り禁止にされちまってるが」

 

「イイっスね。職場が秘密基地みたいじゃないすか。憧れるわー」

 

 男は大学生時代の部活の雰囲気を思い出し、懐かしさと嬉しさで久しぶりに自分がリラックスできていることを感じていた。

 

 しばらくお互いの近況報告が続く。

 

 後輩は実家に戻ったあと、家業を継ぐべく親が経営する会社に入り、今はそこそこのペースで働いているらしい。

 

「うちの実家は案外太いんスよ」

 

 昔からことあるごとにこう軽口を叩き、ボンボンであることを公言していた。

 

 これが嫌味に聞こえないくらい誰にでもフレンドリーな人柄であるため、後輩は愛されキャラとして部に欠かせない存在であった。

 

 そんな後輩を男はいつも眩しい思いで眺めていて、そして男は何故か、よくこの後輩になつかれていた。

 

 二人はひとしきり語らった後、少し早いが学園のカフェテリアで昼食を摂ることにした。

 

 

 

 まだ午前の授業終了前であるため、学園のカフェテリアは閑散としている。

 

 男はあまりここで食事を摂ることはないが、基本的には職員でも利用可能であり、食事代もかからない。それは来訪者に関しても同じであった。

 

「さすが設備がとんでもなく整ってるっスね…大学の学食みたいなのかと思ってましたが、これは…」

 

「まぁさすが中央トレセン学園ですよ。俺も初めて来たときは驚いた」

 

 二人は思い思いのメニューを取ると、片隅のテーブルで食事をはじめた。

 

 すると、校内にチャイムが響き渡る。

 

「…来るぞ…」

 

 男がぼそりと呟く。

 

「は?何がっスか?」

 

 後輩が返すその瞬間、遠くから地響きのような足音が迫ってきた。

 

「お昼だぁぁぁぁぁ!」

 

 姦しい黄色い声とともにお腹を空かせたウマ娘たちがカフェテリアに殺到する。

 

「おおぉっ…!」

 

 後輩がウマ娘たちの大群に思わずたじろぐ。

 

 その中でひと際目立つ芦毛のウマ娘が急ブレーキをかけて二人の前で止まった。

 

「うぇっ!?おっちゃんじゃねーか!こんなところにいるとか珍しすぎだろ!今日は槍でも降るのか!?午後はフルアーマーゴルシちゃんでトレーニングしなくちゃだな!」

 

 目敏く男を見つけるのは絶対美人奇行ウマ娘、ゴールドシップである。後輩には目もくれず男に食って掛かるように絡んでくる。

 

「てか腕は大丈夫なのか腕はよー!」

 

「大丈夫大丈夫。痛くないから。震えるだけだから。このあいだ病院連れてってくれてありがとうな。今度はもう少し優しくしてくれると助かる」

 

 男は食べながら答える。

 そういえばゴールドシップに拉致されて病院にいったが、お礼ができていなかった。そのうちなにかきちんとしてやらなければ。

 

「ったくよー早く治してくれなきゃ困るぜー。ゴルシちゃんの脚元任せられるのはおっちゃんだけなんだからよー…って、コイツ誰?」

 

 ようやく後輩に気づくゴールドシップ。

 

「こいつ、俺の大学時代の後輩。トレセン学園見学したいんだって」

 

「ほ…ホンモノのゴールドシップさんだ…!」

 

 後輩はゴールドシップを間近に見て、ワナワナ震えている。

 

「おう、ゴルシちゃんだZE☆なんだーアタシのファンかーしょうがねーなー!デコでよければサインしてやるZE☆」

 

「え!いいんですか?」

 

 後輩は手提げをゴソゴソし、マッキーを取り出して額を差し出す。

 

「デコはやめたれやデコは。ゴールドシップや、まだこいつは見学に来たばかりだ。サインは欲しいみたいだからあとでちゃんとしたもんに書いてやってくれ」

 

 男は冷静に止めに入る。

 

「先輩!止めないでください!せっかくのチャンスなんですから!」

 

 後輩は何故か書いてもらいたがっている。額に。

 正気かコイツ。

 

「お前…せめてシャツとかにしとけよ。これから校内回るんだぞ」      

 

 男のとりなしにより、ゴールドシップは後輩のシャツにサインをしてくれた。

 

「おっちゃんにもなんか書かせろよ!あ!せっかくのその肘のサポーターになんか書いてやるよ!」

 

「あ!ちょっ…あ…」

 

 ゴールドシップは制止する間もなく男の手を取ると、ささっと何事かを書き付けた。

 

「これでよし!じゃ、昼飯食べてくるわ!またあとでな!」

 

 いつも通りやりたい放題して、ゴールドシップは嵐のように去っていった。

 

 男はサポーターに書きつけられた何事かを確認しようとするが、肘の裏側に書かれているためにうまく見ることができない。

 

「なぁ、これなんて書いてあるの?」

 

 後輩に腕を差し出し、見てもらうことにする。

 

「え…これは…まぁ…自分で見たほうが…」

 

 いつも明朗活発な後輩が言いよどむ。

 

「なんだよ。言えよ」

 

 それでも後輩は何故か顔をやや紅くさせて言を左右にしてぼかし続け、ついぞ書かれた内容を伝えてはくれなかった。

 

 

 サポーターにははっきりくっきり大きな文字で、

 

「ゴルシちゃんの!」

 

 と書かれていた。

 






なんだか訳わからないテンションと状況になりつつありますが、全ては私の脳内妄想なので仕方ないですね(開き直り)


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60:後輩、来襲(2)

 

 鉄の会のグループチャットに、久しぶりに新たなメッセージが投稿された。

 

[ターゲットとカフェテリアで接触]

 

 通知を見たメンバーたちは各々の頭脳を回転させ始めた。

 

 

 

 

 

 

「さて、飯も食ったし、どこいくかね」

 

 男は混みだしたカフェテリアをウマ娘たちに席をあけてやるために早めに切り上げ、校舎内を歩いていた。

 

 後輩はオグリキャップのトレイに山盛りになっている昼食の量にビビり、スペシャルウィークの食後の腹の様子に驚き、スイーツを前に無言で涙を流すメジロマックイーンの姿に引くなど、様々な衝撃シーンを立て続けに目撃し、すでにテンションが突き抜けてしまった様子だ。

 

「ちょ、ちょっとあまりにもスターが多すぎて感情が追い付かないんで…どっかで一服させてください…」

 

 杖をつきながら歩く後輩は休憩を要求していた。

 

「じゃ、一服するか」

 

 食後の一服を求めていたのは男も同じだった。

 

 二人は服飾部などがはいる校舎からは少し離れた職員棟の屋上へ向かった。

 

 

 

 

 

「…ふぅ~…落ち着くぅ~…」

 

 男と後輩は屋上の喫煙所で紫煙を空に向けて放出していた。

 

「いやーテレビで見るスターたちも、普段は年頃の女の子と一緒なんスね。なんか安心しましたよ~」

 

 ベンチで左膝を伸ばした姿勢で後輩が言う。

 

「なんかおっさんくせえコメントだな。なんだかんだ言ってあの娘たちは紛うことなき年頃の女の子で間違いねえよ」

 

 男もベンチで空を見上げながら煙草を燃やす。

 

「まあもう我々もいいおっさんっスからね…しかしゴールドシップさん、テレビで見るよりすげぇ美人っスよね…先輩仲いいんですか?」

 

「仲いいっていうか…まぁ要所要所で助けられたりしてるな。アイツなんかすげえんだよ、頭いいし。足速いし。俺を拉致して病院に連れていくし」

 

 男はサポーターに書かれたゴールドシップの書き込みを見ようと格闘しているがうまくいかない。

 

「病院行けって言われたのに行かなかったからでしょー。ま、先輩らしいっスけどね」

 

「うるせえな。忙しかったんだよ」

 

 二人で軽口を叩き合っていると、屋上のドアががちゃりと開いた。

 

「やはりここにいたか」

 

 姿を見せたのはエアグルーヴだ。

 

「よくここがわかったな」

 

 男が手を挙げて応える。

 

「ゴールドシップから連絡があったからな…先生なら、カフェテリアで昼食を食べたらここで一服するだろうと思ったんだ」 

 

 エアグルーヴは男とやりとりをしながら、後輩に視線を走らせた。

 

 後輩はエアグルーヴの姿をベンチから見上げ、固まっている。

 

「…エアグルーヴだ。先生にはなにかとお世話になっている」

 

 後輩に向けていつもの怜悧な外向きの表情で簡潔な自己紹介をする。

 男はそれを見て、元々のエアグルーヴに抱いていた、とっつきづらいという印象を思い出した。

 

 今のように色々と関係が出来てから改めて外向きのエアグルーヴの態度を見ると、実はただの人見知りなのではないかと思われたが、それを口に出しはしない。

 

「お前、エアグルーヴに感謝しろよ。見学の根回しとか段取りを通してくれたのはこの子だ」

 

 後輩はエアグルーヴの射抜くような視線に緊張している…かと思いきや、男の言葉を聞いて拝み始めた。

 

「かの高名な女帝にそのような労を取っていただくなど…恐悦至極に存じます!」

 

 大の大人に拝まれているエアグルーヴは少し居心地が悪そうに、怜悧な表情を崩す。

 

 そして後輩はエアグルーヴを拝みながら、ひとつのことに気が付いた。

 

「先輩…まさか俺が電話した時にそばにいた子って…」

 

「…ん?あぁ、エアグルーヴだ」

 

 後輩が男とエアグルーヴを何度も何度も交互に見る。そしてその目つきはだんだんとなにかを疑うようなそれに変わっていく。

 

 エアグルーヴはその視線の意味に気づき、頬をだんだんと赤くしていく。

 

 男は煙草を吸っていて気が付いていない。

 

「おい貴様!その絡みつくような視線はなんだ!…先生、どうにかしてくれ!」

 

 あ?と男が後輩を見ると、ニヤついた表情でこちらを見ている。

 

「…いい子にするって言ったよな?」

 

 男は後輩を軽く威圧すると、後輩はテヘペロ顔である。

 

「…まったく…いい性格しているな、先生の後輩は」

 

 男とエアグルーヴは苦笑いしてため息をついた。

 

 しかし後輩は諦めていなかった。

 表情を切り替え、エアグルーヴに訴える。

 

「女帝エアグルーヴ様!この先輩、すでに所有権ついてるみたいなんですけど、いいんですか?先輩!ちょっと立って!後ろ向いて!」

 

 男は後輩にまくしたてられ、わけもわからず立たされて二人に背を向けさせられる。

 

「ほら!ここ!」

 

 後輩はエアグルーヴにある一点を指し示した。

 

「…これは…!」

 

 エアグルーヴは血相を変える。

 

 後輩は悪い顔をしてエアグルーヴに囁いた。

 

「…エアグルーヴさんも主張しなくていいんですか…?」

 

 耳元でささやかれゾクリとし、さらに顔を赤くするエアグルーヴは、照れが混じった表情で後輩を睨みつける。

 

 後輩は悪い顔のまま、無言でサインペンを差し出す。

 

 エアグルーヴは無言で、そのペンを取った。

 

「先生、ちょっと失礼する」

 

「え?なに?ちょ…」

 

 エアグルーヴは男の右腕をつかみ、後ろに引いて動きを封じ、そのままゴールドシップが書いた文字の横に何事かを書き付けていく。

 

 後輩はそのエアグルーヴの姿をニヤつきながら眺めていた。

 

「…これでいい」

 

「あ、こっちにもサインお願いします!」

 

 後輩は抜かりなく、エアグルーヴにシャツの背にサインをするようねだった。

 

 

 男はエアグルーヴから右腕を自由にされると、二人に向き直る。

 エアグルーヴが後輩のシャツにサインをしているところだった。

 

「おい、何書いたんだよ…」

 

 またも肘の裏側、ゴールドシップが何事かを書いた付近にエアグルーヴも書いたようで、男からはよく見ることができない。

 

 エアグルーヴも男の声を聞こえぬふりをして無視を決め込んでいる。

 

 後輩はただただこちらを向いて、意味ありげにニヤついていた。

 

「ありがとうございます女帝!家宝にします!」

 

 後輩はエアグルーヴに一礼し、彼女も鷹揚に応じる。

 

「見学中、何か不自由があったら連絡するといい。出来得る限りの便宜は図ろう。その脚ではなにかと大変だろうからな」

 

「ありがたくあります!」

 

 エアグルーヴは満更でもない表情を浮かべると踵を返す。向きを変える瞬間、男をちらりと流し見て、そのまま屋上から去っていった。

 

「お前、エアグルーヴに何吹き込んだんだよ…」

 

「いやべつになんでもないっスよ!サインお願いしただけっす」

 

 はぁ、と男は息をつく。

 しかしこうやって遊ばれるのも昔を思い出して悪い気分はしない。

 

「まぁいいけどさ…もう一本吸ったら練習用トラックでも見に行くか」

 

「いいっスね!走ってるとこ見れるんスか!最高っスね!」

 

 男は後輩とやりとりをしながら、スマホで今日のトラック練習チームの予定を確認することにした。 

 

 

 

 男のサポーターにはゴールドシップの書きつけの横に、達筆な文字で

 

「女帝の右腕」

 

 と書かれていた。

 

 

 

 




ちょっとワンパターンで恐縮です…

ぜんらさんのところでゴールドシップさんのおっちゃん拉致時の様子が詳報されております。こちらも是非。
https://syosetu.org/novel/270326/21.html


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61:後輩、来襲(3)

今日も元気に毒電波受信!






 

 

 

 鉄の会のグループチャットに、さらにメッセージが投稿された。

 

[ターゲットと職員棟屋上で接触。ゴールドシップに対抗してしまった。大人げないことをした]

 

 メッセージを見たシンボリルドルフとアグネスタキオンは、エアグルーヴがなにをしたのかが気になったが、ある意味いつもどおりエアグルーヴが掛ったのだと判断して、返信も入れずに放置した。

 

 二人はそれぞれ、自らの策を練り始めた。

 

 

 

 

 

 後輩は男の斜め後ろについて校舎を歩きながら、話を切り出すタイミングを図りかねていた。

 

 実は、今日見学に来たのはただ、トレセン学園を見学したいがためばかりではなかった。

 

 もちろん見学それ自体は大きな目的であり、楽しみにしていたことでもある。

 

 しかしそれとは別に、装蹄師の男に会って話をする必要が彼にはあった。

 

 それは、男とともに過ごした大学生活の最後の時期、その帰結に関することであった。

 

 自らの人生をも変えてしまった競技中の事故。

 

 後輩が伝え聞いているところによれば、すべては自分の責任だと言い、後輩の親だけではなく、大学関係や統括団体にも謝罪して回っていたという。

 内定が出ていた会社への就職も辞退し、その姿は見るに堪えないほど憔悴しきっていたらしい。

 

 もちろん、学校の部活で起こったことであり、学内での形式的なペナルティはあったものの、そもそもは学生がその責を負うようなことではなかった。そのようなリスクも含めての活動であるから当然のことであった。

 

 しかし男はそうは取らなかった。

 

 その後そう間を置かず、装蹄師の男は後輩の前のみならず、当時の部活関係者の前から姿を消したのだ。

 

 そして誰も、彼と連絡がつかなくなった。

 

 後輩がそれを知ったのは、男が姿を消してからかなり時間が過ぎてからであった。

 

 

 

 後輩は、あの事故についての当事者でありながら公の場で、状況を語ったことがほとんどない。

 

 話せる状態になったころには、すべて決着がついていて、責任の実態は装蹄師の男にあるという話が出来上がってしまっていたのだ。

 

 しかし、事故に関しては後輩自身しか知り得ぬ、別の側面があった。

 

 後輩はその後もそれを胸に秘めたまま、今に至っていた。

 

 もし、あの時のことを十字架として先輩が背負い続けているのであれば。

 

 偶然とはいえ記事の中に先輩を見つけ、後輩の中に眠っていた胸のつかえが目を覚ました。

 

 さらに偶然が重なり、男と連絡を取ることが叶った。

 

 この決着は、つけねばなるまい。

 

 後輩は、現役時代とさして変わらぬ雰囲気の先輩について歩きながら、そのことについて胸に秘めたままでいた。 

 

 

 

 

 学園の廊下に降り注ぐ秋の陽ざしは今日のやや冷えた空気の中では暖かく感じられる。

 

 後輩はその暖かさを感じ、今日という日の非日常、そのここまでを振り返る。

 

 ひとつ気が付いたのは、先輩はここでも変わらないな、という安心感だった。

 

 それはやや口幅ったい言い方をすれば、義侠心のある男ぶりである。

 

 昔から何を考えているかわからない、無表情で近寄りがたい雰囲気を醸し出す人物ではあったが、ひとたび懐に入ってしまえばこれほど面倒見の良い人物もそうそうお目にかかれるものではない。

 

 装蹄師の男は学生時代もそういう先輩であった。

 

 それはこの学園でも遺憾なく発揮されているようで、その証拠に先ほどのエアグルーヴ、その前のゴールドシップと、どこへ行っても誰かしらと会話があることからも伺える。

 

 それは一見普通なようで、そうではないと後輩は思う。

 

 見たところ、このトレセン学園は仕組み上、女子高のように男性が極端に少ない。

 

 そして仲がよさそうに見えるウマ娘たちではあるが、レースでは互いに鎬を削り合う仲でもある。

 

 ただ学園に通うのみならず、彼女たちは命をかけてレースで競いあっているのだ。

 

 ただの仲の良いだけの友人関係というわけではない。友情が成立しうるライバル関係でもあるのだ。

 

 そのような背景のあるこの学園で、年頃のウマ娘たちが自らの競技のために、装蹄師である男と関わりがあったら、どうなるだろうか。

 

 先輩はあくまでも、当然のこととして彼女たちを助ける。それが仕事だからだ。

 

 しかし、相手は年端もいかぬ娘たちである。

 仕事だという切り分けは大人ほどドライではないはずだ。

 

 おそらくゴールドシップにしてもエアグルーヴにしても、彼女たちの脚元に関して男が係わりをもっているのだろう。

 

 そして彼女たちにとって男との係わりはそれなりに大きなもので、確実に彼女たちに影響を与えるようなものだったのだ。

 

 だからこそ、あのような言葉を肘の裏面に書く。

 

 この想像が間違っていなければ、これから先も行く先々で予想を裏付けることが起きるはずだ。

 

 それがどのような性質のものなのか、見極めてみよう。

 

 後輩は気のいい笑顔の中に含みを持たせながら、これからの道中に楽しみをひとつ、追加した。

 

 

 

 

 

 

「さーて、じゃあ練習用トラックにでも行きますかね。お前、運がいいな。スピカもリギルも今日はトラックにいるみたいだぞ」

 

 男は後輩と廊下を歩いていく。

 

「ってことはあれっスか。例のサイレンススズカも見れるかもしれないってことっスか?」

 

「そうだな。まぁスズカの走ってる姿を見るのは珍しいことじゃないが…いつも走ってるからな。お前サイレンススズカのファンなの?」

 

 男は後輩に問いかける。

 

「特定の娘だけファンって感じじゃないんスよね…なんかこう、レース見てるだけで楽しいタイプなんで…確かにサイレンススズカは注目してみてますけど」

 

 ほう、と男は感心する。

 

「なんかわかる気がするな。目立つ娘に注目しがちだけど、勝ちきれなくて善戦続きの娘とかも熱いもんがある。まぁ本人たちにしたら勝ちきれないのはたまったもんじゃないが…」

 

「さっすが先輩。わかってますね。俺らの昔見てるみたいで、逆にそういう娘のほうが応援したくなっちゃったりするもんじゃないスか」

 

「あるなぁ、そういうの。苦しんでるからこそ輝くみたいなのは確かにな…まぁ俺は特定の娘に肩入れはできない立場なんだけどね…」

 

 男の最近の会話相手と言えば学園内のウマ娘やトレーナーたちだったがゆえに、無意識のうちに利害関係を踏まえた話し方になってしまう。

 

 その点、後輩との会話はファン目線、純粋に趣味としてレースの会話だ。

 

 男はそこに新鮮味を感じる。

 

「最近だと、印象に残る娘とかはいるか?」

 

 男は後輩に問いかける。

 

 もし自分とつながりがある娘ならば見学できる可能性を高めてやることくらいは何とかなるかもな、とは考えている。

 

「そうですねぇ…アグネスタキオンですかね。あれ、かなりの逸材なんじゃないかと。なんかヤバい目をしてる気がするんスけど、それがちょっと普通とは違う雰囲気があるというか…」

 

「あいつかぁ…まぁ、言うとおりちょっと変わってるな…」

 

 後輩のペースに合わせすこしゆっくり歩み、話しながら廊下を進んでいくと、ふと後ろから声がした。

 

「おや、私の噂話かい?」

 

 二人が歩いてきた廊下、その死角からぬるりと白衣のウマ娘が現れた。

 アグネスタキオンだった。

 

「…ちょうど噂をしてたところだ」

 

 男は苦笑いで応じ、後輩は突如現れた自身の注目株に目を白黒させながらも、やはりこれは予想の通りなのか、と頭の一部分が冷静に状況を捉える。

 

「やぁやぁ…腕の様子はどうかな?そちらのお方は?」

 

 相変わらずの照りの無い昏い瞳で、後輩を観察している。

 

「腕の方はなんとも。こっちは俺の大学時代の後輩。今日は学園を見学したいとやってきた」

 

 まじまじと後輩を観察するアグネスタキオンは、後輩の左膝を無遠慮に観察する。

 その様子に男はまぁ、タキオンなら興味があるだろうな、と納得する。

 

「そうかい。君の友人なのだね。君に友人がいたなんて、驚きに満ちた発見だよ。よかったら、少し私の研究室で話さないかい?なぁに、お茶くらい出させてもらうよ」

 

 男は後輩にどうする?と聞くと、コクコクと頷いている。

 

「じゃあ、ちょっとだけお邪魔しようかな」

 

 妖しく微笑んだアグネスタキオンは、二人を先導するように歩いて自らの研究室へといざなった。

 

 

 

 

 研究室に入ると、得体のしれぬケミカルな香りがほのかに香り、奥のほうではなにやら妖しく光る液体が並べられている。

 

 男は何度か来ているので今更驚きもしないが、後輩は外の学園の雰囲気との落差に怖気すら覚える。

 

「タキオンはまぁ、ご覧の通りいろいろ研究しててな。あの白衣も伊達じゃない」

 

 男が極めて雑に後輩にタキオンを紹介する。

 

「装蹄師の先生とは、まぁ研究仲間といったところでねぇ。いろいろご助力願ってるんだよ」

 

 そういうとタキオンは適当な椅子を勧め、自らは研究室の奥へと消える。

 

 しばらくするとタキオンは三人分の紅茶を手に、戻ってきた。

 

「今日はいい茶葉が手に入ってねぇ。君たちは運がいいよ」

 

 後輩は紅茶から香りたつ匂いをふっと感じる。

 

「キーマンっスね…これ、グレード高いやつ…貢茶…くらいっスかね?」

 

 紅茶を香りながら後輩が呟く。

 

 タキオンは驚いた表情をしている。

 

「君の後輩は何者なんだい…?」

 

 男はさっぱりわからん、という風でタキオンに応じる。

 

「さぁ…実家は金持ちでボンボンらしいが」

 

 後輩は紅茶を一口含むと答えた。

 

「実家ね…商社なんスよ。大きいわけじゃないですけど、小回りが利くタイプの。紅茶も扱ってますんで、一応たしなみ程度にはわかりますよ。俺、煙草吸うんでまぁ、だいたいってとこスけど」

 

 タキオンがほぅ、とさらに興味深そうに後輩を覗き込む。

 

「正解…と言いたいところだが、今淹れたのはもうひとつグレードが上さ」

 

 後輩が思わず茶を吹き出す。

 

「…おい、大丈夫か。そんな大層なもんなのかコレ」

 

 後輩は零さぬようにティーカップを置くと、後ろを向いて一通りむせたあとにタキオンに訴える。

 

「…一番上のグレードじゃないスか!キーマン紅茶の特貢っていったらもう、政府要人の贈り物とかそういうレベルっス!こんな理科室みたいなところで出てくるようなもんじゃないっス!」

 

 タキオンは動じることなく紅茶を啜る。

 

「まぁ…これでも研究で海外とのやり取りも多くてねぇ。これもそちら方面からの頂き物だよ」

 

 後輩はティーカップに残る紅茶を見つめ、なにやら呟いていた。

 

 男はいまいちその凄さがわからず、ただ紅茶を楽しんだ。

 

 

 

 

 

「…で、君のその膝はどうしてそうなったんだい?」

 

 後輩はレース中の事故で、とだけ告げる。

 男はタキオンと視線を合わせ、それ以上は聞くなとアイコンタクトを送る。

 

「…その様子じゃ事故直後は車椅子で、リハビリをかなり頑張ったんだねぇ。ちょっと見せてもらっても?」

 

 後輩はかまわないっス、と軽い調子だ。

 

「…なるほどねぇ。すこしあっちにある検査機器で見せてもらえるかい?」

 

 そういうとタキオンは立ち上がり、後輩はそれに続いた。

 

 男はひとり、取り残された。

 ヒマにあかせて男も立ち上がり、色とりどりに発光しているビーカーや試験管を観察して時間を潰すことにした。

 

 

 

 

 後輩は研究室の奥にある筒状の検査機器に左足をつっこみ、タキオンはなにやら機器を操作しながら呟いた。

 

「ふぅむ…君の膝の回復過程には興味があるねぇ…どうだい?その身を私の研究に捧げる気はないかい?」

 

 アグネスタキオンは昏い瞳で後輩をねっとりと眺める。

 

「いや、さすがにあの怪しげな薬は…どこかの記事で見たことあるっスよ、タキオンさんのトレーナーが怪しげに光ってるの。時々テレビにも映りこんでるっス」

 

 タキオンは妖しい笑みを浮かべてくつくつと笑った。

 

「気分的に光りたくなったらお願いするっス」

 

 タキオンは残念だねぇ、と笑みを消すことなく言った。

 

「それよりタキオンさん、先輩のこと、どう思ってるんスか?」

 

 男とは距離が離れていて聞かれる心配がなさそうなことを確認した後輩は、アグネスタキオンに仕掛けた。

 

「どうって言われてもねぇ。研究の仲間でもあり、同志だよ」

 

 アグネスタキオンは相変わらずニヤついた微笑のまま、答える。

 

「…それは、先輩の肘の書き込みを見ても変わりません?」

 

 後輩は後ろ姿の装蹄師の男に視線を送りながらタキオンに言った。

 

[ ゴルシちゃんの! ]

[ 女帝の右腕 ]

 

 タキオンはふぅん、と思案顔になる。

 確かにエアグルーヴくんは大人げないねぇ、と呟く。

 

「タキオンさん、ついでという訳じゃないんですが、シャツにサインをお願いしたく」

 

 後輩はおずおずとサインペンを出す。

 

「…なるほどねぇ。君もなかなか用意がいい。ますますモルモットになって欲しいねぇ」

 

 タキオンは後輩からペンを取ると、後輩のシャツにすでに書かれたゴールドシップ、エアグルーヴのサインの隣にさらさらとサインを記す。  

 

 そうしてそのまま装蹄師の男に歩み寄ると、手を出す様に言った。

 

「私はこそこそするのはあまり趣味じゃないからねぇ。正々堂々と書かせてもらうよ」

 

 きょとんとした男をよそに、タキオンは男の腕を覆うサポーターの男からよく見える内側にしっかりはっきりした文字で書き付けた。

 

 

 

「投薬済み」

 

 

 

 男は今日、三人目のウマ娘からの記入を受けたが、初めて読み取れたことが少し嬉しく感じられた。

 

 それと同時に、先ほどの紅茶に何か入れられていたのか?と懸念する。

 

 表情で察したタキオンが機制を制した。

 

「さすがに先ほどの紅茶には何も入ってないよ。なに、これはマーキングのようなものさ」

 

 そう言われた男は安堵し、書かれた内容はどうでも良くなっていた。 

 

 

 



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62:賞品は装蹄師の男

 

 

 

 男と後輩はアグネスタキオンの研究室を辞去し、改めて練習用トラックへ向けて歩いている。

 

 もちろん二人はその前に学園敷地端の喫煙所へ向かう。

 

 二人は煙草に火をつけるとひと心地ついた。

 

 後輩の目にはいよいよ書き込みが激しくなってきた装蹄師の男の肘サポーターが視界に入っている。

 

 ここまで3人。

 書き込まれるメッセージは三者三様だったが、ゴールドシップに端を発した男への彼女たちの拘り具合は、やはり後輩の見立てに間違いない様子だった。

 

「…先輩ってホント好かれてますよねぇ…ウマ娘たちに…前世でどんな徳積んだらそんなになるんですかね…」

 

 杖に寄りかかるようにしながら後輩に呟く。

 それを聞いた男は怪訝な顔をする。

 

「なんだよ急に…」

 

「だってもうアレじゃないですか。ゴールドシップさんといいエアグルーヴさんといい、あの妖しい雰囲気のアグネスタキオンさんも、めっちゃ先輩好きじゃないですかアレは」

 

 後輩は男を問い詰めるように畳みかけていく。

 

「そりゃーまぁ仕事上、いろいろ関わりがあるから嫌われはしないだろうけど…でもそれはライクのほうだろ」

 

 男は煙をゆっくりと吹き上げる。

 

「悪い男ですねぇ先輩は。あのくらいの娘たちにそんなことの区分けがしっかりつく訳ないじゃないですか。ラブもかなりの分量混じってるに決まってるッスよ。ちゃんとしてあげないとかわいそうですよ」

 

 後輩は苦笑いしながら応じた。

 

「…ないんだよ」

 

 細く呟く男の言葉を後輩は聞き取ることができずに、聞き返した。

 

「…わからないんだよ。どうしたらいいのか」

 

 男は煙草を吸いながら虚空を見つめて、ぽつりと話す。

 

「…腕も壊れて、この先仕事がどうなるかもわからない。気が付けばもう、若くはない歳だ。それに生活力にも疑問符を付けざるを得ない煙草で生きてるようなダメ人間の俺が、だよ?」

 

 煙草を胸いっぱいに吸い込み、ニコチンを吸収しながら話を続ける。

 

「あのキラキラした娘たちからまかり間違って好意を寄せられたとして、何を返してやれる?返してやれるようなものなんか、何もないよ」

 

 そこまで言い切って煙を盛大に吐きだした。

 

 後輩はその姿を見て思わず苦笑してしまう。

 自己評価と他者評価は全くの別物であるというのに。

 後輩はそう言ってやりたかったがかろうじて飲み込む。

 

「…そういうことじゃないと思うんですけどねぇ…先輩、ホントこじらせすぎでしょう…なんかこう、うまく言えませんけど」

 

 これだから童貞は…と後輩は心の中で呟く。まぁ本当に童貞かは知らないのだが。

 

 その時、いたたまれない雰囲気の二人の無言を埋めるように、装蹄師の男の携帯が鳴った。

 

 取り出して画面を見ると、発信元は東条ハナだ。通話をつなげる。

 

「…もしもし?」

 

「あんた今、どこにいるのよ?」

 

 初っ端から東条ハナは突っかかってくる。

 

 電話口から漏れ聞こえる声が女性であることに後輩が気づき、やれやれといった表情を浮かべた。

 

「敷地の端の喫煙所だけど」

 

 おハナさんは電話口で小さくため息をついた。

 

「あんたねぇ…今日、見学者が来てるのは聞いてるけど、なにやったの?」

 

「なにって…見学者の後輩とカフェテリアで飯食って煙草吸ってタキオンとこでお茶ごちそうになって煙草吸ってるだけだけど」

 

 男は答えながら二本目の煙草に火をつける。

 

「ゴールドシップとエアグルーヴと、何かあった?」

 

「二人とも会った。肘のサポーターに何か書かれた」

 

 おハナさんは再び、今度は盛大にため息をついた。

 

「たぶんそれが原因ね…今、ゴールドシップとエアグルーヴがバチバチやってて、大変なのよ。もしかしたら、と思って電話したんだけど。彼女たち、今からレースで決着をつけるみたいよ」

 

 男は電話口ではぁ?と間の抜けた声を出す。

 

「なんだってそんなオオゴトになってるんだ?ってかおハナさんも沖野もそんな勝手させちゃうの?」

 

「まぁ、たまの息抜きにはいいんじゃない…あんたが手をかけた蹄鉄履いてる娘と、その娘たちと走りたいコたちが走ることになりそうよ。あんたが原因なんだったら、早く来なさい」

 

 そういって通話が切れる。

 

 男は事情を後輩に説明した。

 

「ほら、いわんこっちゃない…まぁ俺としてはすげぇ豪華な模擬レース観られそうでワクワクしちゃいますけどね!」

 

 能天気な後輩の笑顔を見ながら、男は自らの胃の痛みを自覚し、無意識に左手で腹を撫でた。

 

 

 

 

 男と後輩はおハナさんに指定された練習用トラックへ向かうと、そこはすでにどこから聞きつけたのか、制服姿のウマ娘たちがスターたちの模擬レースを見ようと集まり始めていた。

 

 コース上には普段は片付けられている練習用のスターティングゲートまで引っ張りだされつつある。

 

「…やっときたわね…」

 

 腕にサポーターを巻いた男と杖をついた男の二人組は観衆の中でも存外目立つらしく、厄介事を抱えた表情の東条ハナと沖野にすぐに捕まった。

 

「いったい何がどうしたんだよ」

 

 男は二人に問うた。

 

「ったく…リギルのお嬢様がたはもうちっと冷静かと思ったんだがな…どうもこうも、お前の右腕だよ、原因は。ちょっと見せてみろ」

 

 後輩は沖野の言葉に呼応し、装蹄師の男をくるっと後ろ向きにさせた。

 

 東条ハナと沖野はまたも盛大にため息をついた。

 

「ねぇ、なんて書いてあるの?」

 

 男は未だ書いてある内容を知らず、すっとぼけた声で二人に問う。

 

「…まったく…説明するのもバカバカしいが…」

 

 沖野は事の次第を説明しだした。

 どうやらゴールドシップが最初に書いた書き込みがおおもとの原因らしい。

 

 

 

 

「ゴールドシップ!あの落書きはなんだ!」

 

「あんだよー!そっちだって書いたの知ってるんだぞ!」

 

「…それは貴様が書いたのを見たからだな…!」

 

「へへーん。あの右腕はゴルシちゃんの蹄鉄のためにあるんだZE☆」

 

「それを言うなら私の蹄鉄だって…!」

 

 

 

 

 この練習トラックで顔を合わせたゴールドシップとエアグルーヴが、このような罵り合いで次第にエキサイトしてしまったらしい。

 

「で、アレだよ…」

 

 沖野は視線を遠くに投げた。

 男と後輩はその視線を追った先にいたのは、コースの設営を指揮しているシンボリルドルフだった。

 

 沖野のあとを東条ハナが継いだ。

 

「ルドルフが揉めてる二人に割って入ったのよ。ならばトレセン学園の生徒らしく走りで決着をつけたらどうだ、って」

 

 確かに酷いことになっているな、と男はどこか他人事のように呟く。

 

「…あんたのせいよ」

「…お前のせいだろ」

「…先輩のせいッス」

 

 三人が口を揃えて突っ込んだ。

 

 男はその言葉を茫然と聞き流し、ウォーミングアップをしているウマ娘たちを眺めた。

 

「…どうせなら、おハナさんも走る?」

 

 沖野がいらぬ一言を東条ハナの耳元で囁く。

 次の瞬間。真っ赤になった東条ハナが見事な回し蹴りで沖野の膝裏を撃ち抜いた。

 

 

 

 

「しかし、誰が走るんだ?」

 

 男は大地と一体化した沖野を捨て置き、おハナさんに問う。

 

「スピカからはゴールドシップ、サイレンススズカ、スペシャルウィーク。うちからはエアグルーヴ、マルゼンスキー、シンボリルドルフ」

 

「…本気で走らせるの?」

 

 男は彼女たちの脚を気にしていた。

 

「…このメンバーで手加減なんてできると思う?」

 

「まぁ、無理だな…」

 

 もはや当初の目的やこのレースが白黒つける手段であることなどどうでも良いのだった。

 ことここに至って、走るとなれば勝ちにいくのが彼女たちだ。それが彼女たちの剥き出しの本能に他ならない。

 

 競う以上は勝ちに行く。

 

 そういう意味では彼女たちのロジックは明快だった。

 

 

 

 

「やぁ、兄さん」

 

 ウォーミングアップを済ませたシンボリルドルフがやってくる。

 

「…ルドルフ…」

 

 男は一応は笑みらしきものを浮かべながら、なんとも複雑な表情で応える。

 

 シンボリルドルフはその表情から、男の内心を誤解なく読み取った。

 

「まぁ、兄さんが気に病む必要はないよ。あくまで私たちの私闘というところだ」

 

 シンボリルドルフはそう言ってくれるが、これまでの経緯とトレーナー二人、そして後輩による自覚を促す流れにより、さすがに原因は間違いなく自分である、と鈍い男自身も認めざるを得ない。

 

「まぁ仮にそうだとしてもだ。お前たちの磨き抜かれた、商売道具でもある脚で勝負を付けようという話で、俺が原因ならば知らん顔しているわけにもいかん」

 

 男はもっともらしいことを口にするが、かといってこの場を収める解決策も思いついてはいない。ルドルフの顔を見ながら男の頭はフル回転していた。

 

「…そういってくれるなら、兄さんにレースの賞品でも提供してもらいたいな」

 

 ルドルフは少しいたずらっ子のような表情をしながら言った。

 

 ルドルフが男になにかを求めることはあまりない。そうであるがゆえに、男は反射的にその要望に応えるつもりで反応する。

 

「…例えばなんだ?」

 

「…ひとつは、1位のウマ娘に兄さんを1日自由にできる権利。ふたつめは…そうだな、今日の夜にスピカとリギルの和解の食事会の費用を出す、ってところでどうかな?」

 

 シンボリルドルフは笑ってそう言った。 

 

 しかし東条ハナ、沖野、後輩の三人は固唾を呑んでそのやりとりを見守りながら、瞳の奥にある獰猛な光にぞくり、と皇帝の威圧を感じた。

 

 男はそのシンボリルドルフの視線を正面から受け止め、それが刺激となったのか先ほどまで昼行燈を決め込んでいた男の頭脳がかちり、と音を立てるように閃きをもたらした。

 

「いいだろう。その条件、呑むよ。そのかわり、勝ち負けの決め方はこっちで定めさせてもらう」

 

 男は先ほどまでのぼんやりとした様子からは打って変わり、細められた鋭い目でルドルフを見返した。

 

「ルナ、出走者を集めてくれ。おハナさん、沖野、ちょっと」

 

 口調まで鋭さを感じさせるトーンで、男は東条ハナと沖野を呼び寄せた。

 

 

 

 ルドルフが出走者を集める間、男は東条ハナと沖野と円を描くように向かい合った。

 

「レース距離は2,000でいいんだよな?それぞれのチームの出走者のベストタイムを教えて欲しい」

 

 男は二人に言う。

 

 それぞれ違うチームであるため、情報の秘匿のために手元のメモに数字を書き込み、男に渡した。

 

 男はそれを見比べて、二人に相談した。

 

「こういうことで、どうだろう」

 

 二人のトレーナーはそれならば、と胸を撫でおろした。

 

 

 

 

「兄さん、メンバーを集めたぞ」

 

 一見乱雑な並びに見えるが、どうやらウマ番順に並んでいるらしい。

 

1番:エアグルーヴ

2番:サイレンススズカ

3番:スペシャルウィーク

4番:マルゼンスキー

5番:ゴールドシップ

6番:シンボリルドルフ

 

 整列した彼女たちの後ろには、スピカとリギル、それぞれのチームメンバーが集っている。

 

 男は彼女たちの正面に立ち、仁王立ちだ。

 

 後輩はその少し後ろで、並んだウマ娘たちのメンバーの豪華さ、壮観さに恐懼感激していた。

 

 並んだ彼女たちは、ウォーミングアップも終えて今にも獲物を捕獲しに飛び掛かるような獰猛な瞳で、男を見据えていた。

 

 男は彼女たちの放つ威圧感に圧倒されそうになるが、踏みとどまり、両足をしっかりと据えた。

 

 男がおもむろに口を開く。

 

「お前らなぁ…」

 

 男は一息置き、腹に力を込める。 

 

「私闘で商売道具の脚を無駄遣いするんじゃねぇ!」

 

 男は彼女たちを一喝した。

 

 彼女たちはその大声に一様に耳と尻尾をビクっと立たせ、数瞬おいて言われた意味を理解し、耳がしなだれる。

 

 男はふっと体の力を抜くと、表情も崩れたものになった。

 

「とはいえ、こうなったのは俺にも責任がある。ルドルフから聞いているだろうが1位には俺の一日占有権、今夜の会食は俺の奢り、これはその通りでいい」

 

 そこで一旦話を区切る。

 

「2,000m、2分30秒だ」

 

 男はゆっくりと告げた。

 彼女たちは言われた言葉の意味がわからず、一様に怪訝な表情を浮かべている。

 

「2分30秒。速くても遅くてもダメだ。最も2分30秒に近い者が1位、それ以下の順位もタイムが近い順とする。このルールでやってくれ」

 

 

 

 

 男の頭脳は、彼女たちに怪我をさせるようなことを出来るだけ避けつつ、かつ競うことによってフラストレーションを発散させること、これを両立させる最適解を探っていた。

 

 メンバーがメンバーである。

 

 実績は間違いなく、それこそシンボリルドルフを筆頭に彼女たちの重賞勝ち星を積み上げればとんでもない数になってしまうスター揃いであり、またこれからもその数が増えていくであろうメンバーだ。

 

 自分の身と財布が差し出されることはもはやどうでも良く、彼女たちが競え、そして最後に笑い話になればそれがベストだと考えた。

 

 その結果ひねり出したのが、彼女たちのこの練習トラックでの2,000mのベストタイム、その8割程度の力で走り切るタイムレースとすることでそこそこにやった感を出せ、かつある程度運任せにしてシャレで済んでしまうこの方式だった。

 

 トレーナー二人も彼女たちが全力以上の力を出してしまうこと、それによるリスクを懸念していたがこの案によりいくらかの安堵を得ることができた。

 

   

 出走する娘たちも、その後ろに控える両チームの娘たちも前代未聞のレース形式に困惑し、ざわついていた。

 

 男は黙ってその様子を眺めている。

 

 しかし、今日の賞品かつ今夜の食事のスポンサー自らがそれでやれというのだ。

 

 最終的には否も応もないのであった。

 

「発走は15分後だ。行ってこい!」

 

 男は堂々と言い切り、困惑した表情を浮かべる彼女たちをスターティングゲートへ送り出した。

 

 

 





欲求に耐えきれずキャラガチャして爆死したんですよ。


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63:2分30秒

さすがにこの話をふたつに分けるのは不誠実であろうと思いました。
文字数がまた多いのですが、なにとぞお付き合いください。







 

 

「…しっかし、よくあんな競技形式を咄嗟に思いつきましたね」

 

 後輩は男に話しかける。

 

 ゴール前には装蹄師の男、後輩を中央に、その両端に東条ハナと沖野が陣取る。

 

「アベレージラリーってあんだろ。アレだよ」

 

 男はこともなげに答える。

 後輩も、あぁ…と納得する。

 

「何それ。ウマ娘の競技にはないわよ」

 

 東条ハナが会話に参加してきた。

 

「クルマの競技でね、ラリーってあるでしょ」

 

「あの、土埃あげて派手に走るやつ?」

 

「そう。あれは今でこそいかに速く走るかを競ってるけど、昔は指定区間を指定時間どおりに走る競技形式が主だったんだよ。で、誤差秒数ごとにペナルティを与えて、一番ペナルティが少なかった奴が優勝、っていう。今回のやり方はそれだよ」

 

 へぇ、とおハナさんと沖野が感嘆する。

 

「…こんなことであいつらの脚に負担かけてなにかあったら、俺が土下座切腹しても何の足しにもならんからな…とはいえ思い付きだよ」

 

 男は欄干にもたれかかり、ため息をついた。

 

「…誰が勝ちますかね?」

 

 後輩の言葉に男とトレーナー二人は唸り声を上げる。

 

「…うちだとこういうのが得意そうなのはルドルフとエアグルーヴだけど…精神的にも強いのはルドルフね」

 

 おハナさんはやはり、レース巧者の絶対的皇帝への信頼が勝るようだ。

 

「やったことねえからなぁ…ただ、俺たちにも思いつかないような奇策でいい線までいくとすればゴールドシップだな。スペは自爆、スズカは周りに惑わされなければあるいは、とは思うが」

 

 沖野は個性が強いスピカの面々をそう分析してみせた。

 

「先輩の予想はどうなんっスか?」 

 

 後輩は男の横顔を窺った。

 

「…はっきりしてるのはな、俺の1日が消えることと預金残高が減ることだけだ」

 

 そこには先ほどまでスターウマ娘相手に一喝をくれていた堂々たる姿はなく、達観した仙人のように遠くの空を見つめる男の姿があった。

 

 

 

 

 

 スターティングゲート前では、出走するウマ娘たちが思い思いに身体を動かしたり、ストレッチをしたりしている。

 

 シンボリルドルフは仁王立ちのまま瞑目し、レースのシミュレーションをしているようだ。

 

 ゴールドシップはコース脇のアリの巣を眺めている。

 

 エアグルーヴとサイレンススズカ、スペシャルウィークは輪をつくり、言葉を交わしていた。

 

 どうにもこの風変わりな競技形式に戸惑っている。

 

「どうやって走ろうかしら…いつものペースでは大幅に早着になってしまうし…」

 

 サイレンススズカは人差し指を顎にあて、悩ましそうに考えている。

 

「まずは自分が思う通りに走れること、そしてそれが2分30秒に近ければ近いほどいいわけだが…それほど遅いタイムというわけでもない、スローペースで進めても最後に合わせるのがどうか…」

 

 エアグルーヴが前提条件を整理し、自らの脚質と合わせて走り方を詰めていく。

 

「…あ!いいこと思いついちゃいましたよ!」

 

 ここまで静かだったスペシャルウィークが突如、声を上げる。

 

「…みんな一緒にゴールしちゃえばいいんじゃないですか!?」

 

 その言葉を聞いたスズカとエアグルーヴは固まる。

 

「そうすれば2分30秒からのタイム差がみんな一緒、同着ってことになって…みんな1日占有権がもらえちゃうかもしれませんよ!」

 

 私の占有権はスズカさんに進呈しますね!と満面の笑みで話すスペシャルウィーク。

 

 ほんの刹那、それも一理あるかと思いかけるエアグルーヴ。

 

「あらぁ~スペちゃん、その話、あの人にできる~?」

 

 話を耳にして割って入ったのはマルゼンスキー。

 

 目線の先には仁王立ちのまま瞑目しコンセントレーションを高め、既に赤黒いオーラを発し始めているシンボリルドルフの姿。耳がこちらを向いている。

 

 スペシャルウィークはその姿を見ているだけで冷や汗が背中を伝い、その感覚に意識を醒まさせられる。

 

「あ…あははは冗談ですよ冗談!あははははh…」

 

 青くなったスペシャルウィークは慌てて手を振って先ほどの提案を打ち消した。

 

「そろそろゲートにお願いしまーす」

 

 スターティングゲートを仕切るフジキセキの声が響く。

 

 無情にもスタート時刻は近づいていた。

 

 

 

 

 

「そろそろスタートだな」

 

 ゲートに収まっていくウマ娘たちがスタンドから見える。奇数番から収まり、偶数番もうちから順に入っていく。

 

 おハナさんも沖野も冷静そのものだが、そもそもがこの二人も勝負の世界に生きる勝負師である。ターフを見つめる真剣さはいつものレースと少しも違いがない。

 

 後輩は二人のその様子を見て、ぞくりと背筋を震わせた。しかしそれは怖気ではなく、ある種の憧れを抱くような感情だった。

 

 クラッシュして怪我をして以降、競技をすることはなくここまで生きてきた。

 

 しかし、家業を継ぐために仕事をしてもそこには自ら競技をしていたときのような緊張感はなく、延々と続いていく少し張りのある日常に過ぎなかった。

 

 いつしかその心にある欠けた部分を埋めるように、再びウマ娘たちのレースにのめり込んだ。

 

 しかし自らが競技をする前から好きだったウマ娘たちのレースも、観ているとどこかでもどかしさを感じるようになっていた。

 

 自らが競うことの楽しみ、くやしさ、苦労、それらをすべて包括して得られる充足感。

 後輩は自らも競技をすることで、その愉しさを知ってしまっていた。

 そしてそれは観客側として観る立場では得られないものだった。

 

 ウマ娘たちのレースを観ても、あくまで近くでその雰囲気を感じとるだけ。

 

 そしてそれは自らの中に残っているレースへの渇望をいつでもちくりと刺していたのだ。

 

「お前は誰が勝つと思うんだよ」

 

 スターティングゲートを遠くに眺めながら自らの内側に意識を落としかけていた後輩が、装蹄師の男の声で我に返る。

 

「そうですねぇ…いちファンとしてはやはりこういう時でもシンボリルドルフの横綱レースを観てみたいものっスけど…こういう時は意外と冷静そうなマルゼンスキーさんあたり、一発あるんじゃないスかね」

 

 ほう、と意外な目線に声を上げるトレーナー二人。とくにおハナさんは見落としていた観点のようだ。

 

 スタート30秒前、というフジキセキの声が遠くに聞こえる。  

 

 4人はゲートに視線を集中させた。

 

 

 

 ガシャン!とゲートが開く音が響き、ウマ娘たちが飛び出した。

 

 一斉にスタートを切ったように見えた…が。

 

「あ…?」

 

 先頭に勢いよく飛び出したのがサイレンススズカ、それを追うようにスペシャルウィーク、少しあいてマルゼンスキーとエアグルーヴが並び、それを睥睨するようにシンボリルドルフが悠然と追走していく。

 

 …ひとり足りない?

 

 装蹄師の男と後輩はあれ、と呟く。

 

「…ゴールドシップが出てない!」

 

 沖野が双眼鏡を覗きながら声を上げた。

 

 スタンドで様子を眺めていた周囲のウマ娘たちもざわつく。

 

 ゴールドシップは開いたゲートから微動だにせず、目をつぶって腕を組み、じっと立っている。

 

「ゴールドシップはレース放棄?そんなタイプじゃないと思うけど…」

 

 おハナさんはストップウォッチと彼女たちの進行を交互に確認しながら呟いた。

 

 沖野は様子を伺っている。

 

「……あいつ、やりやがったな!出るぞ!」

 

 沖野は叫んだ瞬間、ゴールドシップが駆けだした。

 

「さっき、自分のこのコースの自己ベスト確認しにきたんだよ。あいつ、全力で走る気だ!」

 

 

 

 

 サイレンススズカは悩んだ結果、先頭で走ることを決断し、いつも通り抜群のスタートを決めた。

 

 走り方を乱した結果不本意な結果に終わるよりも、まずはいつも通り出てみて先頭を譲らない程度のペースで走り、最終直線での調整を考えることにしたのだ。

 

 しかし走り出してみればスズカに憧れるスペシャルウィークがぴったりとついてきており、これはこれで走りにくい。

 

「スペちゃん…」

 

「スズカさんの走り、間近でしっかり目に焼き付けます!」

 

 すでにレースの目的が賞品ではなくスズカと走ることになっているスペシャルウィークは、そうであるがゆえにサイレンススズカがイメージしていたペースを混乱させ、自然とペースが上がっていった。

 

 

 

 その様子を少し後方で展開を窺うエアグルーヴとマルゼンスキーは眺めていた。

 

 エアグルーヴは少しずつペースが上がっていくスズカとスペシャルウィークの関係を推測し、少しずつ距離が開いていくことに安堵していた。

 

 とりあえずあの二人は気にしなくていい。

 

 いつもより絞り気味にしていた自らのペースを信じ、淡々と脚を進めた。

 

 

 

 シンボリルドルフはさらに後ろに構え、先を行く4人の動きを視界に捉えながらも、それよりもさらに重視するものとして自らのペースを管理していた。

 

 今回はつまるところゴールの着順には意味がなく、道中のポジションにもさほどの意味を見いだせない。

 持つべき視点は自らの計画したペース通りに走り、他者に惑わされずにいること。道中のポジションはそれを可能にする位置にいることが重要となり、計画に従うべき要素だった。

 

 ルドルフは脳内でスタートまでの短い時間、このコースを自らがベストで走ったときのシミュレーションと、それを80%にペースダウンしたときのシミュレーションを組み立てていた。

 

 自らの体内時計に誤差を見込むにしろ、走り込んだこのコースであればある程度補正が効くはずだった。

 

 逸る気持ちを理性で抑えつけ、あくまで目的のために、定めたことを定めた通りにこなしていく走り。

 

 それは皇帝の身体能力と頭脳を以て、長年熟成させてきた装蹄師の男への想いを形にする初めての試みかもしれなかった。

 

  

 

 

 マルゼンスキーは考えていた。

 私があの、装蹄師の先生に教えてもらったことはなんだったかしら。

 

 もともと脚部不安を抱えていた彼女は、競走ウマ娘としてのキャリアの中ではたびたび男へ相談することはあった。

 

 しかしそれよりも印象的なのは、彼女が趣味のクルマを手に入れて以来の彼との付き合いだった。

 

 憧れて手に入れたクルマであったがその維持は想像を絶する難易度であり、難儀していたときに手を差し伸べてくれたのが男だった。

 

 念願だったサーキット走行も彼の手引きにより実現し、今では立派に彼女の大好きな趣味となった。

 

 初めてのサーキット走行の時、男がとにかくこれだけ守っておけばそう酷いことにはならないから、と教えてくれたことがある。

 

「後ろを見ろ。ミラーでとにかく後ろの状況を常に把握しろ」

 

 前は無意識にでも見ているから凝視しておく必要はとりあえず、ない。しかし後ろは意識しないと認識できない。鳥瞰的に自らと周囲の状況を把握し続けろ。それがトラブル回避につながる。

 

 そういうことだった。  

 

 その教えのおかげで、彼女はコース上では大きなトラブルに巻き込まれたことはない。

 

 ふとそれを思い出し、改めて周囲をうかがう。

 

 先頭は依然、サイレンススズカ。追いかけるスペシャルウィーク。それを見る私、隣にはエアグルーヴが難しい顔をして走っている。気配を感じる位置にシンボリルドルフ。

 

(あら…) 

 

 ゴールドシップがいないことに気づいたのはこの瞬間、マルゼンスキーだけであった。

 

 

 

 

 

 ゴールドシップは開いたスターティングゲートの中で黙して動かず、ただ瞳を閉じて数を数えていた。

 

 もともとの脚質は追い込みであるし、ごちゃごちゃした中を走るのは性に合わない。

 

 道中での駆け引きにもそこまで興味はなく、自らが熱くなれるレースでさえあればいい。

 

 タイム縛りがあるなら、その中で自分を追い込んでしまえばいい。アタシはアタシの走り方で、2分30秒に近づいてみせる。

 

 ゴールドシップはそう考えた。

 

 自らのベストタイムと2分30秒の間。

 コンディション的にベストが出るとは限らないからそこに補正値を適当にいれたカウントを数える。

 

 焦れた気持ちでカウントダウンをこなし、ゴールドシップは全力で、猛然と駆けだした。

 

「スタンドで首を洗って待ってろよおっちゃぁぁぁぁん!」

 

 

 

 

 

 何事か奇声を上げて駆けだしたゴールドシップの姿はスタンドでもよく見えた。

 

「うわぁ…」

 

 後輩がその気迫に思わず杖を持つ手が震える。

 

「秒数的にはどうなのよ。ゴールドシップのスタートのタイミングは」

 

 おハナさんは沖野に問う。

 

「…あいつが全力で走れば2分30…プラマイ2秒ってところじゃないか」

 

 その差異がどれだけなのか、あくまで相対的な差が順位となるために今はわからない。

 

 しかし猛烈な速度で後ろから迫ってくるゴールドシップは少なからず前を走るウマ娘たちにも影響を及ぼすだろう。

 

「やっぱ見てて飽きさせねぇなぁ、アイツは」

 

 沖野は感心し、かつ呆れたようにゴールドシップを眺めていた。

 

 先頭を走るスズカはすでに裏の直線、その3分の1ほどの位置だ。スペシャルウィークから突かれるような形で、ややオーバーペースかもしれない。

 

 先の行程でのペースの作り方にもよるが、やはりここからどうにでもできる位置を占めて単騎で行くシンボリルドルフが本命か。

 

 見るものは先の見えない展開に手に汗を握る。

 

 

 

 

 サイレンススズカは完全にペースがわからなくなっていた。

 

 スペシャルウィークの足音に気を取られ過ぎ、自らのペースも上げてよいのか下げたほうが良いのか、完全に判断がつかなくなっている。

 

 さらに周囲を探りながら走るという慣れない走り方で、頭はパニック寸前にまで追いやられていた。

 

 当然そうなると後ろに続くエアグルーヴにも影響が出る。広がったり縮まったりするサイレンススズカとスペシャルウィークとの間隔に戸惑いを覚え、自らの行き脚の調整にも不安を感じ始める。

 

 こうなるとこの時点で比較的正確なペースを刻んでいたのはシンボリルドルフだったが、こちらはまだ距離はあるものの、とんでもない速度差で迫ってくるゴールドシップを認識することで、少しずつ感覚に狂いが生じ始めていた。

 

 

 4コーナーを最初に回ってきたのはサイレンススズカで変わらず、スペシャルウィークは相変わらず追走、そして後ろを走っていたエアグルーヴも差が詰まってきてやや外へ持ち出す。

 

 後ろから迫るゴールドシップは3コーナーを回りはじめたところだ。

 

「だっしゃーーーい!全開でいくぜぇぇぇぇ!」

 

 ゴールドシップが吼えた。

 

 もうその声は前を走る彼女たちにも届く。

 

 そして自らのペースに疑心暗鬼になっていた彼女たちを更なる混乱に陥れるに十分だった。

 

 たった一人、ゴールドシップの作戦を見抜いたマルゼンスキーを除いて。

 

 

 

「来たぞ…!」

 

 4コーナーを立ち上がり駆けてくるウマ娘たち。

 

 先頭はサイレンススズカだったがいつもとは様子が違う。

 

 すでにスタミナを切らしているかのように汗をかき、後ろについているスペシャルウィークのギラついた視線に炙られてしまったかのようだ。

 

 少し遅れてエアグルーヴが二人の外を狙うかのようにラインを取る。さらに加速しようと脚を踏み込んだ。

 

 シンボリルドルフもエアグルーヴに続くように駆けてくる。

 

 マルゼンスキーは内をあけ、あえて大外にラインをずらしていく。

 

 まだ脚は溜めてある。

 

 後ろから迫るゴールドシップとの間合いを図りながら徐々に加速し、最後は彼女と並走するくらいのつもりでゴール板を駆け抜けるイメージを作っていた。

 

 すでにシンボリルドルフも先に行き、4コーナーを回ってくるゴールドシップとの距離を慎重に図りながら脚を進めていた。

 

  

 

 地響きにも似たターフを蹴る力強い足音はタイムレースという状況でもいささかも変わることなく、迫力たっぷりに直線を駆けてくる彼女たち。

 

 その姿を男は固唾を呑んで見守る。

 

 頼むから、無事に走り切ってくれ…!

 

 結果よりもその一念だった。

 

 レースペースは意図した通りかなり落とせており、本人たちの精神的な部分を含めたスタミナの消耗はともかく、故障の発生の可能性は低いだろう。

 

 それでも、男は彼女たちが無事に帰ってくることだけを祈り続けた。

 

 

 次々にゴール板を駆け抜ける彼女たち。

 

 そのたびにストップウォッチのラップが押され、電子的な音を立てていた。

 

 表面上の着順は以下のようになった。

 

1着 スペシャルウィーク

2着 サイレンススズカ

3着 エアグルーヴ

4着 シンボリルドルフ

5着 ゴールドシップ

6着 マルゼンスキー

 

 しかしこの競技形式では表面上の着順に意味はない。

 

 基準タイムの2分30秒に対する差異が着順を決めるため、すぐに結果がわかるわけではなかった。

 

 ゴールした彼女たちがターフ上で息を整える。

 

 結果として全力で走ったゴールドシップはターフ上に大の字に寝転んで、その立派な双丘を大きく上下させていた。

 

 ほどなくして、レースタイムが書き込まれたメモ用紙がゴール前で計測していたダイワスカーレットから男に手渡された。

 

 男の手元をおハナさんと沖野が覗き込む。

 

 そのタイミングで、男のスマホが着信を告げた。

 

「…そろそろ、理事長室へお越しいただけないでしょうか」

 

 通話の相手は学園を司る緑の人、駿川たづなさんであった。

 

「わかりました。伺います」

 

 男はそれだけ告げて通話を切ると、結果の書かれたメモ用紙を沖野に押し付けた。

 

「結果発表と食事会の店の手配、頼む。呼び出されたから、行ってくる」

 

「おい!行ってくるって、何処に!」

 

「理事長室だよ」

 

 男は後輩についてこい、と促すと、踵を返して歩き始めた。

 

 

 

「で、結果はどうだったの?」

 

 おハナさんの問いに、沖野はメモを差し出す。

 

「あら、これは…。まだ一波乱ありそうね」

 

 優し気な微笑でため息を吐く東条ハナ。

 

 

 

 メモに書かれていたタイムレースの着順は、このようになっていた。

 

 

 

 

1位 マルゼンスキー   +0.3秒

2位 ゴールドシップ   -0.5秒

3位 シンボリルドルフ  -0.9秒

4位 エアグルーヴ    -1.5秒

5位 サイレンススズカ  -2.4秒

6位 スペシャルウィーク -2.9秒   

 

 

 

   

 

 

 




書いて出しで恐縮です。
皆様コメントありがとうございます。
同着もいいかな、と心が揺れましたが当初案でまとめてみました。

いつも修正いただいている皆様、大変感謝しております。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。


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64:改心

深夜に書いたモノを眠気に負けて更新を諦め、翌朝冷静に見直しながら完成させるのはこっぱずかしさがハンパではないですね。


 

 

「り、理事長室っスか?俺も?なんで?どうして?」

 

 熱戦の雰囲気冷めやらぬ練習トラックを背に校舎に向けて歩きながら、後輩が男に問う。

 

「お前の見学許可の条件だったんだよ。校内見学ののち、理事長室に顔を出せって。お前同伴で。わざわざ理事長個人のハンコまで押してあったんだぞ」

 

「えぇ…なんか怖いんスけど。俺なんかマークされてるんスか?」

 

「お前じゃねえよ。俺だよ」

 

 男は後輩に最近の理事長との経緯を説明する。

 

 右腕を怪我したこと、治るかわからないこと、この学園には装蹄師が自分しかいないこと、別の人間を手配するのに自分が辞める必要があるのではないかと思い、退職願を出したことをかいつまんで話した。

 

「はー…先輩、辞表叩きつけてる状態なんすか…よくそんな状態で俺呼んでくれましたね」

 

「電話の時に目の前にいたエアグルーヴが手引きしてくれたからな。辞表はまぁ…それが生徒たちの役に立つならそうしてくれ、って感じだったんだけどな。ちょっと俺も短絡的だったわ」

 

「…というと?」

 

「まぁ、その話はたぶん、このあと理事長室ですることになるだろ」

 

 二人は理事長室に向けて校舎内を歩く。

 

 陽は既に傾いてきており、陽当たりの良い廊下はオレンジ色に染め上げられつつあった。

 

「ここだ」

 

 後輩に理事長室を示す。

 

 重厚な扉に閉ざされたそこは、この学園の背負うものの重さを感じさせる。

 

「…お前、失礼な態度取るなよ」

 

 男は真剣な表情で後輩に釘を刺しながら、ドアをノックする。

 

「んなことするわけないじゃないっスか!あぁ緊張する…」

 

 後輩は果たして、この錚々たる学園の理事長室にはどんな貫禄の人間がいるのか、と身を固くした。

 

 中からどうぞ、という声とともにたづなさんがドアを開けてくれる。

 

 男と後輩は理事長室に入室した。

 

 夕陽に照らさられて外を眺める理事長はシルエットとなり神々しく見える。

 

 後輩はその後光の差す眩しさに目を細めた。

 

 理事長はゆっくりとこちらに振り向いた。

 

「歓迎!君が装蹄師くんの後輩か!」

 

 後輩は振り向いた理事長の姿に、ごくりと唾をのみ込んだ。

 

 イメージしていた理事長像とかけ離れた姿に混乱する。

 

 隣を見れば男は恭しく頭を下げている。

 

 後輩もあわててそれに追従した。

 

 男は頭を下げたまま、理事長に言った。

 

「今回は見学許可、ありがとうございました。また、先日は私の自覚が足りず、誠に申し訳ありませんでした!」

 

 理事長は一瞬、驚いたような顔をした後、満面の笑みでうんうん、と頷き、頭上の猫がひと鳴きした。

 

 

 

 

  

 応接セットで理事長とたづなさん、装蹄師の男と後輩が向かい合って座る。

 

「今日の校内見学はいかがでしたか?」

 

 たづなさんがいつもの微笑みとともに後輩に問うた。

 

「…今まではひとりのレースファンとして外から見ているだけでしたが…彼女たちの生身の姿を観て、やっぱり年頃の娘さんたちなんだな…と印象が変わりましたね」

 

 後輩がいつもの口調を封印し、外向きのしっかりとした話し方で応じる。

 

 そのやりとりを理事長はにこにこと眺めている。

 

「質問!装蹄師は学園の生徒たちとどのような関係だと君の目には映ったか、教えてほしいっ!」

 

 理事長は閉じた扇子でびしっと音がするような動作を繰り出し、後輩を指す。

 

 突然の理事長の振りに、後輩は面食らう。

 この独特な話し方の幼女を理事長として崇めるこの空間に馴染めていない。 

 

「どのような関係…ですか。憧れのセンセイ、って感じですかね…このヒトの一日占有権懸けてのレースであの出走者って、ちょっとオカシイっスよ」

 

 後輩は情報量の多いこの空間に対応することに脳のリソースが割かれ、受け答えが素に戻ってしまっている。

 

 しかし理事長はそれを意に介す様子はなく、後輩の答えを腕組をして聞き、満足そうに頷いた。

 

「慧眼!私も常々そう思っていた!裏を返せばそれは、装蹄師がそれだけの仕事をし、その存在を以て彼女たちに大きな影響を与えているということだ!」

 

 装蹄師の男は小さくひとつ、ため息を吐く。

 

「…私が浅はかでした。私は自分の腕でできることだけを考えていましたが…自分がこの学園に居る意味を、改めて考えさせられました」

 

 男は渋面を浮かべて、認めざるを得ないという風体だ。

 

「…ここ最近の装蹄師さんの活躍は、単に蹄鉄に関することだけではありません。彼女たちの安全性の向上について大きな貢献をいただいています。仮に装蹄師の業務が難しくなっても、引き続き貢献いただける業務はあるのではないかと思います」

 

 たづなさんはあくまでにこやかに告げる。

 

 男は照れたように頷き、理事長とたづなさんに後輩を示す。

 

「…安全へのこだわりは、コイツとコイツの脚が気づかせてくれたことです。今日、この学園に居る意味を気づかせてくれたのも、そうです」

 

 男は一旦言葉を区切り、後輩の脚を見る。

 

「なんとか私も装蹄師の業務に復帰したいと思います。多少時間はかかるかもしれませんが。それだけでなく、今日気づかされたことを糧に、自分にできることをする覚悟です。理事長、たづなさんには色々ご心配をおかけして、本当にすいませんでした」

 

 男は改めて二人に頭を下げた。

 

 理事長とたづなさんはホッとしたように表情を緩めた。

 

「もうこれは、必要ないな?」

 

 理事長はどこからともなく装蹄師の男の退職願を取り出すと、畳んだ扇子を鋭く振り、真っ二つに切り裂き、にこりと笑った。

 

 理事長の頭上の猫がまた、一鳴きした。

 

 後輩の男は茫然と、その一連のやりとりを見守っていた。

 

 

 

 

 

 理事長室を後にし、沖野からメッセージが入っていた店に向かう。

 

「理事長、姿はあんなっスけど…見えてるモノが違うって感じっスね」

 

 道すがら後輩が呟いた。

 

「この世界においては得難い人物だよ、間違いなく。自らが必要と信じるならば惜しみなく札束でヒトを殴ってでも本懐を遂げるって話だ。しかもポケットマネーで」

 

 後輩が感嘆の声を漏らす。

 

「やはり情熱がないとやっていけない世界なんすねぇ…」

 

 後輩は何かを感じ取り、考え込んだようだった。 

 

 食事会の会場はトレセン学園からほど近い商店街の中にある個人経営の飲み屋、その2階と指定されている。

 

「俺も行っていいんスか?」

 

 後輩は男にお伺いを立てる。

 

「イイも何も今日のだいたいの流れ、お前のせいだろうがよ。今さら何遠慮してんだ」

 

 男は当然のように答える。

 

「せっかくなんだからお前がいつもテレビで見てるスターウマ娘にお酌でもしてもらえや」

 

「えぇ…いいんスかねそんな贅沢…俺もう今日、刺激あり過ぎていっぱいいっぱいなんスけど…」

 

 店に着くと、店員の案内に従い男と後輩は二階に上がり、引き戸を開ける。

 

「お、やっときたか。こっちだ」

 

 会場の奥から沖野が声をかけてくる。

 

 座敷の小規模な宴会場のようなそこには、スピカとリギル合わせて総勢20名に近いウマ娘たちが入り乱れて詰め込まれており、既にわいわいと会食というよりは何かの宴会のような勢いで食事が始まっていた。

 

「おっちゃーん!こっち肉4人前追加してー」

 

 男の登場に気づいたゴールドシップがすかさずおかわりをぶち込んでくる。

 

「あ、こっちもお願いします―」

 

 別卓ですでに腹を膨らませ始めているスペシャルウィークもそれに追随する。

 

「…こっちは8人前、追加だ」

 

 ナリタブライアンが静かに、しかし強い意志を持って告げてくる。

 

「わかったわかった。好きなだけ食えー。ほかの追加注文はこのお姉さんに言うんだぞー」

 

 男は苦笑いしながら応じ、案内してくれた店員に追加発注を繋ぎつつ、自らのウーロン茶と後輩のビールの発注もついでに行う。

 ひしめくウマ娘たちの尻尾を踏まないように慎重に歩み、後輩とともに奥のおハナさんと沖野が構える卓にたどり着くだけで一苦労である。

 

「しかし2チーム合同だと、ぎっちぎちじゃねえか」

 

 男は苦笑いで沖野に告げる。

 

「ここは安くてウマ娘も満足する量が出てくる最高の店なんだぜ。急に言ったのに場所あけてくれたんだから、ちったぁ感謝しろよ」

 

 ほどなくして二人の飲み物が届けられた。

 

 とりあえずお疲れさま、と4人は乾杯した。

 

 おハナさんと沖野は頬が血色良くなっており、既にアルコールの影響を受けつつあるようだ。

 

「…理事長のほうはどうだったの?」

 

 座るなり、おハナさんは切り口上だ。

 

「理事長はなんでもないよ。俺が悪かったんだ」

 

 男は経緯を説明し、腕の診断が出たタイミングで退職願を出していたことを明かし、そのうえで謝罪してきたことを告げた。

 

「はぁぁぁぁ?そりゃああんたが悪いわ。今日の野良レース観てもわかるでしょう。どれだけの娘があんたを頼りにしてるか!」

 

 ガンっと手荒くジョッキを置きながら、おハナさんが吼える。

 

「だから悪かったって…理事長にも頭下げて、その場で退職願を斬られたよ、扇子で」

 

「どおりでルドルフの様子がおかしいわけよ…あとでちゃんとフォローなさいな」

 

 目の据わったおハナさんに、男は口答えせずに頷いた。

 

「しかし今日は面白いもん見られたな。後輩くんも運がいい」

 

 沖野は雰囲気を変えようと、後輩に話を振る。

 

「ああいうのって珍しいんっスか?」

 

「野良レースなんて滅多なことじゃやらないさ。トレーナー同士で意図して特定の相手と並走トレーニングとかはたまにあるが」

  

 沖野はおハナさんをチラ見しながら話す。

 

「…なによ、またウチの誰かとの並走トレーニング狙ってるわけ?」

 

 あまりご機嫌麗しくないおハナさんは沖野に睨みを利かす。

 

「そりゃあ天下の東条トレーナーの愛バさんたちから学ばせていただきたいことはたっくさんありますよ。今日のルドルフの精密なレース運びも、マルゼンスキーさんの機を見るに敏な走りも、うちの連中じゃあなかなか…」

 

 滔々とお世辞、というわけでもないのだがおハナさんを持ち上げて見せる沖野。

 

「…それを全部、奇抜な演出でブチ壊してくれたのはそっちの奇才、ゴールドシップじゃないの」

 

 にやりと妖しい笑みを浮かべながらおハナさんが応じる。

 

「(ノ∀`)アチャー。やっぱり?この天才トレーナー沖野サマが手塩にかけた愛バ、ゴールドシップちゃんだから!あいつほんっとに天才でしょう?伊達にルービックキューブ捏ねてないんだよなぁ!いやぁ褒められちゃうと照れちゃうなぁ~」

 

 沖野は見た目より酔いが回っていたらしく、得意げにゲラゲラと笑いだす。勝負の結果はともかく、痛快にやってみせたゴールドシップを本当に誇りに思っているのだろう。

 

 おハナさんは一人愉快になっている沖野の様子にイラつき、酔いながら怒りに震えだす。今にも手にしているジョッキを投げつけんばかりだ。

 

「おーう!調子乗ってんなぁトレーナー!誰が天才トレーナーだってぇ?」

 

 ゴールドシップは音もなく背後から沖野に忍び寄り、腕を首に絡ませる。

 

「あぁぅっ…ご、ゴルシ…や…やわらかい…締まってる…締まって…る…」

 

 ほどなく沖野ががっくりとこと切れる。

 

「ったく…天才を自称するならゴルシちゃんの作戦くらいきちんと授けやがれってんだよな。だから今日も勝ちきれねーで惜敗しちまったんだよ!いっつも好きに走れとしか言わねーんだからよ!」

 

 鮮やかに締め落とされた沖野は、敗戦の怒りが収まらぬといった様子のゴールドシップにより軽々と部屋の隅に運ばれ、壁にもたれさせられてそのまま放置された。

 

 

 

 それからは沖野が排除されて出現した空間に、かわるがわるウマ娘たちが訪れた。

 

 後輩はビールに次いで現れた、おハナさんの今日の気分でチョイスされたらしい日本酒の熱燗に付き合わされ、加減を知らぬウマ娘たちから次々と注がれてしまい次第に酔い加減が加速している。

 

「エ…エアグルーヴさん、恐縮です」

 

 後輩は今、女帝が隣に座り、徳利に並々と大人のハイオクを注がれている。予想通りの得難い経験、光景であろう。

 

「先生は酒が飲めないという話だが、学生時代もそうだったのか?」

 

「…先輩はですねぇ…ほかの大学の自動車部との合同飲み会で上級生から無理やり飲まされて、コマ劇前の広場で校歌歌いながらゲロぶちまける芸が有名でした…」

 

 注がれたハイオクを勢いよく飲み干した後輩がエアグルーヴの質問に見当違いの答えを出力している。

 

「おいお前…」

 

 止めに入ろうとするが熱心に正座をして後輩の話を聞くエアグルーヴが健気で、男は介入を諦める。

 

 卓の対面ではおハナさんとシンボリルドルフが深刻そうな表情でなにやら話し合っている。

 

「…今日の敗因は自らの精神的な部分をコントロールしきれず、ペースの誤差を補正しきれなかったことにあります…」

 

「それでも目標タイムとの誤差0.9秒は大したものよ」

 

「コンマ1秒を争う身としては、見過ごせない誤差です。百連成鋼、これからもご指導よろしくお願いします」

    

 美しき哉師弟関係。

 今日の敗戦がよほど堪えていると見えるルドルフは、耳を弱々しくヘタらせたまま、おハナさんに酌をしていた。

 

 

 

 

 男はしばらく座敷の様子を眺めたあと、煙草を吸うために一階に降り店の外へ出た。

 

 かちりと煙草に火をつけて、一息大きく吸い込む。陽が沈んで冷えてきた空気が心地よく、煙草の旨味を一層引き立てるように感じた。

 

 今日一日を振り返ると、実にいろいろなことがあった。

 

 久方ぶりの後輩との邂逅、ウマ娘たちとのやりとりから、それらの結晶のようなレース。

 

 それらを通して自分の役割に気づかされた。

 

 今まではそれに近いことを感じることはあっても、敢えて気が付かないフリをしていたが、ここまでありありと形にされてしまえば、認めざるを得ない。

 

 その証拠に、肘にはさまざまな、落書きというにはしのびない彼女たちの不器用な思いが書きこまれている。

 

 治さなければ。

 治して彼女たちの期待に応えなければ。

 男はそう、自らの気持ちを改めた。

 

「隣、いいですか?」

 

 いつのまにかそばに来ていたサイレンススズカに声をかけられる。

 

「あぁ。満足するまで食べたのか?」

 

 男は煙草をスズカの反対側に持ち替えた。

 

「はい。たくさんいただきました。スペちゃんたちはまだまだ食べられるみたいですけど…」

 

 そう言ってスズカは微笑む。

 

「…今日は、不甲斐ない走りで申し訳ありませんでした。先生に作ってもらった蹄鉄、今、すごく馴染んでて…いつもの通りのレースなら、負ける気はしなかったんですが…」

 

 スズカは少し沈んだ笑みで、話してくれる。

 

「今日のルールじゃスズカにはちょっと不利だったかもな。スペシャルウィークにマークされて、しんどかっただろうに」

 

「スペちゃん、最近どんどん速くなって…私も負けていられないなって、いつも思うんです」

 

 胸に手を当て、真剣な表情で心情を吐露するように話す。

 

「だからこそ、先生に作ってもらった蹄鉄で、秋のレースをしっかり勝っていきたいんです…毎日王冠、観に来てくれますか?」

 

 男はそうか細い声で話すスズカの、どこか心細そうな姿を横目に認めて、こくりと頷く。

 

 スズカは男の頷きにほっとしたように表情を緩めた。

 

 



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65:後輩の決着

 

 

 

 

 食事会は終了した。

 

 最終的にはスピカの大部分が膨らんだ腹を揺すりながら歩くハメに陥り、その食のペースにリギルも引きずられてだいぶ食べ過ぎてしまったようであった。

 

 座敷の奥では沖野は気を失ったまま睡眠に移行したようで、安らかな寝息を立てているのをスピカメンバーがどこからともなく取り出した麻袋に収納し、沖野の部屋まで運ぶ手立てとなった。

 

 そしてもう二人、おハナさんと後輩もリギルメンバーの加減を知らぬお酌の連荘の果てに酔いつぶれていた。

 

 こちらも膂力に不足のないリギルメンバー、具体的には寮への言い訳が効きやすいシンボリルドルフとエアグルーヴに担がれ、男の部屋へ搬送される手筈となった。

 

 腕を負傷していた男はこうなると無力であった。

 

「なんかすまんな…大人二人も担がせて…」

 

 ルドルフはおハナさんを、エアグルーヴは後輩を軽々と背負いながら歩いてく。

 

「我々も認識不足だった。普通の飲み物のようにどんどん飲ませてしまったからな…。こういう場での所作というのも、これから覚えていかねばいけないな」

 

 生真面目なルドルフらしい答えが返ってくる。

 

「未成年に酌させてんのがそもそもアレなのよ…そういうの覚えるのはもう少し先でいいよ」

 

 情けない大人の玉砕姿を学生に晒しているのが申し訳なくなりながら、男は部屋への道を歩んだ。

 

 部屋につくと二人をリビングに適当に転がして水を飲ませてくれた。

 

「何から何まで申し訳ないな。お前らも一休みしていってくれ」

 

 男は二人にニンジンジュースを手渡し、自らは転がされたマグロ二体をよけて窓際で煙草に火をつけた。

 

「しかし今日はなかなか楽しかったな。あのようなルールは新鮮だったし、新たな発見もあった。勝負に負けたのは悔しいが、いい経験ができたよ」

 

 ルドルフが殊勝に今日の感想を述べる。

 

「私も久しぶりに会長にお手合わせ願えて、良い経験ができました」

 

 エアグルーヴはルドルフを真っ直ぐに見つめて言った。

 

「エアグルーヴは前ばかり見てたじゃないか」

 

 笑いながらルドルフは応じる。

 

「ええ…そのおかげですっかりペースを乱してしまいました。自分に足りないものがなんなのか、ヒントになった気がしています」

 

 エアグルーヴは真摯な表情で続ける。

 

「その点、結果的にタイムにズレが出てしまったとはいえ、基本的にはペースを守り続けた会長の精神力には感服しました」

 

 男は二人のやりとりをなんとはなく眺めている。二人のやりとりが微笑ましいとさえ思えていた。自分の思い付きのレース形態だったが、無駄な時間とはならなかったのはなによりだ。

 

 まるでここが生徒会室になったかのようなやりとりが続くかと思いきや、思わぬ伏兵が口を挟んだ。

 

「…そう…ペースを守るの…大事なんスよ…」

 

 突然、後輩が回らぬ舌で会話に参入する。 

 寝転がっていたはずが、いつのまにか半身を起こして正座した。

 

「あの時も…あの時もそうだったんです…俺が…指示を破ってペースを上げたばっかりに…」

 

 そこまで言うと、後輩は正座したままボロボロ涙を流し始めた。

 

「俺がクラッシュしたレース…先行してるクルマを追いかけて熱くなって…先輩からの事前の指示よりもペース上げて先行車を追いかけにいっちまったんス…」

 

 男は初めて聞く話だった。

 

 ルドルフもエアグルーヴも、経緯を知っているために後輩の独白に聞き入っている。

 

「クラッシュする前の周、先行車と詰めようとしてイン攻めすぎて軽く縁石ひっかけてて…それでハンドリング怪しくなってたんスよ…

 

 それに気づいて、足回りやったかもしれないって思ってたのに…わかってたのに…ピットにも入れたのに…まだ大丈夫だって勝手に判断して走り続けて…

 

 結果、あのクラッシュだったんスよ…」

 

 突然、後輩は男に向き直り、不自由な脚を無理に曲げながら土下座した。

 

「…先輩は!何も悪くないんス!

 あれはドライバーだった俺の判断ミスの結果のクラッシュなんです!

 

 ずっと黙ってて…先輩に全部背負わせてしまって…本当にすいませんでした!」

 

 男は煙草を吸うのも忘れて、しばらく茫然と後輩を見下ろしていた。

 

 吸わずに燃えて灰になった煙草が、ぽとりと落ちて気を取り戻す。

 

 後輩は頭を床につけたままだ。

 

「…おい、頭上げろ」

 

 後輩は顔をゆっくり起こす。

 

 その顔は爽やかイケメンも形無しの、まるで幼子のような泣き顔だった。

 

「…お前、つらかったな…」

 

 男は後輩の表情を見つめながら、話す。

 

「…別にそんなこと、もともと気にしちゃいねえんだよ」

 

 後輩はうっすらと目を開く。

 

「お前のドライビングがそうだったとしても、俺がそういうクルマを作った事実は変わらねぇし、お前が怪我したことも変わらねえ。

 

 俺に謝る必要も、罪の意識を抱く必要もない。お前は既にその代償をその脚で払っただろ。責めを負うべきはなんの償いもできなかった俺だよ」

 

 後輩は目を見開いて訴える。

 

「でも!先輩はちゃんとスタート前に俺に指示してくれたじゃないですか!速いけど弱いクルマだから荒い乗り方はするなって!

 

 俺、その指示を守れなかったんス…俺のせいなんです!」

 

 男は後輩の話を聞いて薄く笑った。

 

「そんなもん、仕方ねぇだろ。やってたのは競走、レースなんだ。勝ちたかったんだろ、勝ちたかったよな、俺たち。

 

 そりゃあ無茶もするさ。

 

 それに耐えられるような、本当に勝つに相応しいクルマを作れなかった俺の負けなんだよ。

 

 悪かったな。そんなもん背負わせちまって…。今まで誰にも言えずに、背負ってきたんだろう?つらかったよな…」

 

 後輩は男の言葉を聞いて、身を再び伏せた。

 そして、大の大人がどうかと思われるほどに慟哭した。

 

「うわぁぁぁぁせんぱいいいぃぃ…ほんとにすいませんでじだああああああ…」

 

 男はわかったわかった…と号泣している後輩の背をさすってやった。

 

 そのうち、後輩はその姿勢のまま泣きつかれたのか酔いが抜けきっていなかったのか、そのまま寝息を立て始めた。

 

「…泣き上戸かよ…まったく…」

 

 男は後輩が落ち着いたのを見て取ると、視線をルドルフとエアグルーヴに戻しながら告げる。

 

「すまんな…いい年したおっさん同士がこんなみっともない真似…」

 

 見ると、エアグルーヴはダイニングテーブルに突っ伏してすすり泣いており、シンボリルドルフは優し気な表情を浮かべたまま瞳に涙を溜めて、鼻を赤くし、唇をヒクつかせている。

 

 ふと後輩と反対側を見れば、おハナさんもいつの間にか目を覚まして聞いていたらしく、ハンカチで顔を覆って泣き顔を隠しているようだった。

 

 男は無言で立ち上がると、窓際に戻り、再び煙草に火をつけた。

 

「…なんなんだよ、今日は一体…」

 

 口を突いて出た言葉は、自らの照れを隠すような言葉だった。

 

 それでも満更ではない気分で、深く煙草を吸い込んだ。

 

 

 

 

 

 



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66:URAの不夜城と静かなる朝

なんか前話で自分の中で一区切りつけてしまった気がして、いやいやいかんいかんと手を動かしてみた話です。


 

 

 東京都港区新橋の一角に、豪奢に聳えるビルがある。

 

 ビルのエントランスに飾られているのがウマ娘がモチーフとなっている銅像であるあたりで、このビルの持ち主が察せられる。

 

 上層階に入るURA本部は、常日頃ウマ娘のレース開催に関わる様々な業務だけにとどまらず、ウマ娘が健全に育成され、資質、能力の向上へ取り組み、それによる魅力ある競走とライブステージを提供するべく日々、多くの職員たちがそれぞれの立場で奮闘していた。

 

 職員の中には元、競走ウマ娘である者も在籍しており、文字通りそこはヒトとウマ娘たちが種族の垣根を越えて協力し業務にあたるというひとつの理想郷、その建前が達成されているとされる職場であった。

 

 しかしそのビルの最上層階、そのひと区画にあるある男の個室では、些か様相が異なっている。

 

「だからどうしてこの案ではいけないんですか!」

 

 耳を力強く跳ね上げ、前向きに倒して敵意を剥き出しにしたウマ娘が吼える。

 

「過去からの歴史と伝統、先達たちへの敬意、レースの公平性の担保、持続的な発展。これらを総合的に勘案しての判断だ」

 

 吼えるウマ娘の上司の上司、一般企業であれば役員クラスとなる小役人のような風体をした中年後期の年齢に属する男は、その迫力に怯むことなく淡々と言い放った。

 

「上が決めたことだ。私に楯突かれてもどうしようもない。提案は部分的には認められて、その分の予算稟議が通ったんだ。今日のところはそれで聞き分けなさい」

 

 話はおしまいだ、とでも言うように手を振り、退出を促す。

 

 興奮冷めやらぬウマ娘は、傍らに立つ直属の上司である女性に宥められて部屋を出た。

 

 

 

 

 

 URAの中に、不夜城と呼ばれる部署がある。

 

 先ほど役員に食って掛かっていたウマ娘が在籍し、それを宥めた女性が率いている部署を指す言葉だった。

 

「総合企画室」

 

 そう銘打たれた部署は、URAの中でも一際、浮いた存在ではあった。

 

 特定の定型業務をほとんど持たず、そうであるがゆえに自由に発想し、ともすれば現在の隆盛にあぐらをかき、進歩をとめてしまうかもしれないURAにおいて、常に新しい風を吹かせることを目的としてつくられた部署である。

 

 定時を随分と過ぎ、閑散とした中で、キーボードを叩き続けていたのは、室長である女性であった。

 

 先ほど憤然と役員クラスの男に食って掛かったウマ娘は既に帰しており、今夜不夜城の灯りをともし続けているのは彼女が指を動かし続けるが故である。

 

 傍らには、彼女たちが創り上げた提案書があった。

 

「ウマ娘競走総合研究所(仮称)設立に関する提案書」

 

 室長の女性はキーボードを叩く手を止め、その表紙を眺める。

 

 この提案書の顛末は、先ほどの役員室でのひと悶着であった。

 

 まだまだ上を動かすには時間も労力もかかる。

 

 そうこうしているうちにトレセン学園は自らの裁量で取り組みを加速させている。

 

 秋川理事長からの矢のような催促もあり、一旦形を纏めてURA理事会に上程してみたものの、その反応はあまりはかばかしいものではなかった。

 

 彼らの動きに枷をはめ、URAの管理下に置いてしまうべきか、あるいは協調してさらに推進してやるべきか。

 

 彼女自身は取り組みを応援してやりたい。

 

 そう考えていたが、組織全体の流れは保守的で、新たな投資に対しては懐疑的であった。

 

 これ以上何を求めるというのだと言い出す理事すら存在した。

 

 レースやイベント、ライブなどの興行収入の一定割合は国庫に納められる仕組みとはいえ、ここのところのURAは連続して出現したスターウマ娘たちの存在でURA自体の運営規模は拡大しており、上層部はそれに気を良くしている。

 

 それがゆえに、ウマ娘たちが背負う影の部分に対する意識が相対的に低下していた。

 

 その雰囲気に、彼女は危機感を感じている。

 

 同じ雰囲気を感じ取った秋川理事長、さらに言えばURAに大きな影響力を持つ秋川家の後押しを以って作られたこの部署。

 

 それを預けられた彼女は、学園から続々と届けられる報告書や連絡に励まされ、それ糧に業務をなんとか進めているような状態だった。

 

 

 一息ついて華奢な身体を椅子の背もたれに預けると、ふと思い立ってポケットからスマートフォンを取り出す。

 

 電話やメールの着信を示す知らせはなく、あるのはインストールされているアプリが彼女の気を引こうとしている通知のみであった。

 

「まったく…連絡のひとつも寄越さない…」

 

 彼女はスマホのロックを解き、通常の写真とは別フォルダに保存してある一枚の写真を画面に表示させた。

 

 それは彼女が最も幸福であった時期の一断面を捉えたものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ぶえっくしょい!…いってぇ!」

 

 後輩がアルコールの勢いを借りて今回の来訪の目的を果たした翌朝。

 

 男はリビングのソファで毛布一枚という状況で寒々しい目覚めを迎えていた。

 

 昨夜の後輩の独白からの号泣からの睡眠となった後、彼をシンボリルドルフ、エアグルーヴ両名の手を借りて男のベッドへ放り込んでもらった。

 

 目を覚ましたおハナさんは涙を湛えたまま、

 

「盗み聞きしたみたいで悪かったわね。でも、あなたが救われたみたいでよかった」

 

 という言葉を残し、ウマ娘二人とともに帰宅していた。

 

 いつもどおりの一人のリビングは、まるで昨日一日の喧騒が夢だったかに思えるような、静かな朝だった。

 

 男は昨日の一連の出来事が夢だったのではないかと疑いつつ、半身を起こして煙草を一本取りだし、火を点けた。

 

「…オハヨウゴザイマス…」

 

 夢ではなかった証拠である後輩は、男が二口ほど煙を楽しんだ後によろよろと姿を現した。

 

「…お前、大丈夫か?」

 

 後輩の顔色は目に見えて悪く、明らかに二日酔いの様相を呈していた。

 

「…大丈夫っス…お手数おかけいたしました…って、なんで俺先輩の部屋で寝てたんスか?」

 

 胃か胸の具合があまり良くないのであろう後輩は、自らの手でそのあたりをさすっている。

 

「エアグルーヴがお前を担いでここまで運んでくれたんだよ。俺は腕がコレだしな」

 

 男の話を聞いた後輩はびくりとする。

 

「は…まさか…エアグルーヴさんが……俺、エアグルーヴさんの背中で…?」

 

「寝てたよ。お前、昨日はたっぷり堪能したな…」

 

「…マジすか…なんて貴重な体験を俺は覚えていないんだ…」

 

 後輩はがっくりと項垂れる。

 

「…てか、覚えてないの?昨夜のこと」

 

「なんか…先輩に土下座したのは覚えてるんスけどね…ちょっといろいろ記憶があいまいで…ってきもちわりぃ…あたまいてぇ…」

 

 後輩はよろよろとした足取りでトイレに向かっていった。

 

 あの様子だと、昨日この部屋での話も覚えているんだかどうなんだか。

 

 男は苦笑しながらため息をつく。

 

 しかしそれを問いただすのも野暮というモノだろう。あいつが抱えていて、それを吐きだせたのならそれでいい。

 

 男はそう考え、何処まで本当かはわからないながらも後輩の告白を蒸し返すことなく、心に仕舞うことに決めた。

 

 

 

 

 後輩と近くのファーストフードで適当な朝食を摂り、駅に送っていった。

 

「次は毎日王冠観に来るんで!その時はよろしくお願いしまっス!」

 

 毎日王冠て、すぐじゃねぇか…。

 

 男のそんなツッコミも届かぬほど、見事な杖捌きで健常者よりも速い足取りで雑踏に消えていった。

 

 クルマを出す前にふと見たスマホには、たづなさんからのメッセージが届いていた。

 

[ 明日を以て工房の閉鎖を解除します。引き続き蹄鉄の整備は府中へ依頼しますが、その選別は先生にお任せしますので、できる範囲で業務を再開してください ]

 

 どうやら休みは終わり、ということらしい。

 

 男はセルを回し、愛車が機嫌よく目覚めたことを確認すると、クラッチを踏んで丁寧にギアを1速へ入れ、学園へと戻る道を辿りだした。

 

 

 

 




 
前半部分はこちらから着想をいただいております。 
https://syosetu.org/novel/270326/15.html


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67:邂逅

 

 

 

 

 男は朝、久しぶりに工房をあける。

 

 施設管理部署による工房の封印もすでに解かれており、男はいつもの鍵で開けることができた。

 

「しばらくあけただけで、ひでぇな…」

 

 換気もなにもなかった工房内はあっというまに埃にまみれ、ひどい有様だった。

 

 男は戸と窓を開け放ち、箒を取り出してくると、まずは積もった埃を払うことから始めた。

 

 

 

 

 

「兄さん、今日から再開すると聞いたが…ゴフッ」

 

 早朝にもかかわらずシンボリルドルフが顔を出してくれた。 

 

 しかし掃除中の工房内の埃にさっそくやられてしまう。

 

「あぁ…すまん。大丈夫か?」

 

「大丈夫だ。こちらこそ急にすまない」

 

 シンボリルドルフにお茶を差し出しながら、工房の外へと誘った。

 

「悪いな、気を遣って顔出してくれたんだろう」

 

 男はルドルフをベンチに座らせ、自身は煙草に火を点けた。

 

「気になったから、というのもそうだが、もうひとつ話しておきたいことがあってね」

 

 ルドルフが茶で喉を潤しながら話してくれたところによると、今日、学園にURAから職員が来るらしい。それもいつも関わりのある部署の人間ではなく、聞いたことのない部署の部長クラスであるという。

 

「どうやらエアグルーヴが理事長経由で提出したレース中に救護できるウマ娘を走らせる案について、予算がついたようでね。その打ち合わせとのことだ」

 

 なるほどな、と男は納得する。

 

 URAという規模の大きい組織はいわゆる官僚組織である。

 合理的、合法的かつ権威を基礎に統率が行われる。

 

 その中で何かを成そうとするならばまずはその趣旨が認められ、そのための予算を勝ち取らねばならない。

 

 予算措置が取られるということで、ようやく実働できる。

 

 まどろっこしいと思われるかもしれないが、先人たちが苦心の末に国の外郭団体として成立させ、ウマ娘たちのレースとライブを興行として行っていくための知恵の結晶と言えた。

 

「まぁ動きが遅いのは仕方ない。レース自体、国家事業みたいなもんだからな。それにしちゃ今回の件は早い方だろ。今年度いっぱいは検討で、来年予算に盛り込むから待ってろ、なんて言われてもおかしくないからな」

 

 ルドルフも理解はしているようで、神妙に頷いている。

 

 そんなやりとりをしているうちに、今日の工房係のウマ娘が補修希望の蹄鉄を届けに来てくれる。

 

「さあて、じゃあできることからやりますかね」

 

 男は工房係から今日の分を受け取ると、ルドルフと別れて仕事に取り掛かることとした。

 

 

 

 男は腕をかばいながら作業場に蹄鉄を運び込み、選別作業を始める。

 

 現状の状態の男でも補修ができそうなものに関しては自ら作業をし、手に余るものは府中に送る。

 

 たづなさんから送られてきていたタイムスケジュールによれば、10時ごろには府中からの引き取り便が来るので、それまでに終えなければならない。

 

 なんとか時間までに選別を終え、取りに来た府中の職員に蹄鉄を託すと、男は自分の作業分にかかることにした。

 

 左手で槌を握り、歪みの修正作業を行っていく。

 

 過去にも怪我などの理由で左手で槌を握ることがあったが、その経験から言えば作業精度は右腕の半分以下、といったところだった。

 

 手数も時間もかかるが、男は今自分にできることに取り組む。

 

 それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

 そのうち、府中の装蹄所にも詫びがてらに挨拶に行こう。

 

 そう思いながら、男は手元に集中した。

 

 

 

 

 夕刻、男は作業をなんとか終えて、外のベンチに座り込む。

 

 久しぶりの作業ということもあるが、それにしても予想以上の疲労感を感じていた。

 

 全然、思うように仕事ができなかったのである。

 

「まいったねぇ…」

 

 煙草に火を点けて独り言ちる。

 

 全く仕方のないことではあった。

 

 左腕の精度が落ちることは覚悟の上であったし、右腕がこの先治ったとしても、前と同じように動くかわからない。

 

 それを考えれば、いつかは通る道であり、それが今日からであっただけなのだ。

 

 それに、と思う。

 

 少なくとも、出来不出来を理解する目と、指の感触は鈍っていない。

 

 それだけでも、今の男に残された要素としては十分以上に価値があるはずだ。

 

 そう自らを励ましつつも、落胆してしまう感情はどうしようもなかった。

 

 ため息を吐きながら地面を見つめていると、そこに人影が被さる。

 

 誰か来たのか、と男は顔を上げる。

 

 そこには隙なくスーツを着込んだすらりとした女性と、後ろには朝以来のシンボリルドルフ、そしてエアグルーヴが控えていた。

 

 男と視線を合わせ、表情に乏しい女性は言った。

 

「全く。連絡ひとつよこさないとはどういうことですか」

 

 乏しい表情、感情の出ない語り口の中にも、男は彼女の心情を見出すことができる。

 

 そしてその心情は、怒りだと理解できた。

 

「理子。なんでここに?」

 

 男はその怒りに怯むことなく、平常心で応じる。

 

「どうしてと言われても。私もURAの職員ですから。学園に来ることもありますよ」

 

 そうかぁ。と男は敢えてのんきな声で返した。

 

「貴方、私に話すこと、ありますよね?」

 

 彼女の視線は男の肘に刺しこまれている。 

 

 男は曖昧に、あるような、ないような…と呟きながら煙草を吹かした。

 

「折角です。貴方の工房で話しましょう。ゆっくりと」

 

 そういうと、URA総合企画室室長、樫本理子はシンボリルドルフとエアグルーヴを従えて工房内に入っていった。

 

 

 

 煙草を吸い終わって工房内に入ると、既に三人は応接セットに座っていた。

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴの視線がやや厳しい気がするのは気のせいだろうか。きっと気のせいだろう。

 

 男は冷蔵庫から缶入りの茶を取り出すと、三人にそれを差し出し、席に着く。

 

 妙な緊張感に包まれた安普請の応接セット。

 

 誰一人口を開こうとはしない。

 

 まるでお互いの間合いを探り合っているかのようだ。

 

「…昨日まで、後輩が見学に来てたんだ」

 

 その妙な緊張感に耐え切れずに口を開いたのは装蹄師の男であった。

 

「…そう。最近は元気にしてるって話は聞いていたけれど」

 

 冷静な語り口とは裏腹に、樫本理子は缶のプルトップを引ききれずに手元がせわしなく動いていた。

 

「かわんねぇなぁ…ほら」

 

 男が缶を奪い取り、開けてやる。

 

「…ありがとう」

 

 そのやりとりを眺めていたシンボリルドルフが、たまらず口を開いた。

 

「兄さん、水を差すようで悪いんだが」

 

 エアグルーヴがその声にびくりと耳を反応させる。

 

「…樫本さんと兄さんは、どういう関係なんだろうか」

 

 あー…と男が間の抜けた声を出す。

 

 樫本理子は動じる様子はない。

 

「大学時代の後輩で…そうだな…まぁ、恩人ってところか」

 

 男はちらりと理子を見るが、彼女は目を伏せたままだ。

 

 そこに少し、悲し気な影があることに気づいたのは、エアグルーヴだった。

 

「…生活をしていました。一緒に。半年ほど」

 

 静かに、しかしきっぱりとした口調で、樫本理子は言った。

 

「まぁ…装蹄師の修行に入る前の話…だな。随分と時間が経ったもんだ」

 

 男も茶を口に含み、ほんの一瞬、懐かしい気持ちになる。

 

 その様子を、二人のウマ娘はじっとりとした視線で観察していた。

 

「で、今日はなんでまた」

 

 男が理子に話を振る。

 

「予算が付いたのです。エアグルーヴさんが提案した件で」

 

 男はあぁ、とすべてを理解した。

 

「そうか。理子のとこの仕事なのか。じゃあついにレースでも?」

 

「ええ。まずはオープン競走から順に、今のところはGⅡまで。GⅠでの採用はその運用実績を見てから、ということで。見栄えもありますから」

 

 男はうんうん、と頷いた。

 

「なるほど。妥当な線だろうな。お前の仕事ならまぁまず、間違いは起こらないだろ」

 

 はぁ、と理子はため息をつく。

 

「貴方、それ以外にもいろいろやってるみたいですね」

 

「やってるってほどじゃないが、まぁ私的なお勉強程度だよ」

 

「貴方らしい。でも、くれぐれも無理はしないでくださいよ。貴方の身体は見てくれほど強くないことは、私も良く知っていますので」

 

「わーってるよ」

 

「それに、あのコたちにもきちんと連絡を」

 

「それはそうなんだが…まぁ、あんまり心配かけたくねえんだが…」

 

 

 

 

 夫婦のような会話が続いている。

 

 エアグルーヴはそこで紡がれる会話のひとつひとつが衝撃となって積み重なっている。

 

(子…子ってなんだ。子って…)

 

 あまりにも家庭的な単語に、眩暈がしてきそうなほどに脳のリソースが食われていく。

 

 そしてその様子をただ無表情に眺めているのはシンボリルドルフだ。

 

 しかし纏う雰囲気は先日のタイムレースもかくや、という濃色の赤黒さをもったオーラを隠し切れずにいる。

 

(まぁ…いい…あとでゆっくり話を聞こうじゃないか…)

 

 ルドルフの耳は、男と樫本理子の会話を一言も聞き漏らすまいと屹立していた。

 

 

 

 

 

 




三次創作の設定を積極的に奪っていく二次創作↑

ネタ元はこちら↓ 
https://syosetu.org/novel/270326/15.html
zenraさんの寛大なご許可と情報提供をいただいております。


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68:それぞれの憂鬱

しばらく間があいてしまい申し訳ありません。
ちょっと酷い突き指してしまいまして…普段から書き物する仕事なので、生業こなすのにも四苦八苦しておりました…(言い訳)




 

 

 

 

 

 

 

 学園からURA本部に戻った樫本理子は、今日の報告書をまとめている。

 

 予算が付いたことで、URAとして正式に学園との調整を始めることができる。

 

 URAはレース運営についての実務的な面を取り仕切るため、理子の仕事はこれからはエアグルーヴの発案したトラブルに対応するためのウマ娘をレース中に走らせるというアイデアを実現させるためにURAのさまざまな部署に話をねじ込み、調整し、実現へのステップを踏んでいく。

 

 学園はその器に合わせた人材選定、教育、訓練の準備をはじめていく。

 

 いわゆるハードウェアとソフトウェア、その両面からのアプローチの調整役を樫本理子が担うのだ。

 

 予算が付いたことでようやくスタートラインに立った、そんなところであろうと彼女は改めて気を引き締める。

 

(しかし…)

 

 立ち寄った蹄鉄の工房では、ひさしぶりに男に直接、会うことになった。

 

 怪我をしたこと、それにより業務が府中へ委託されていることは知っていたが、印象的だったのは彼を取り巻くウマ娘たちの様子だ。

 

 特に何かを意図したわけではなく、生徒会室での打ち合わせの後、工房に立ち寄ると言った自分に同行したシンボリルドルフとエアグルーヴの様子。

 

 そして男と自分の会話を一言も漏らすまいと聞き入るその姿。

 

 基本的に他人の感情にそこまで関心を払うことのない自分であっても、異様な雰囲気を感じ取れた。 

 

(気になりますね…)

 

 樫本理子は頭を切り替えてこれまでの作業を一旦仕上げ、その後改めて、学園のさまざまな記録や報告書に目を通していく。

 

(なるほど…そういうこと…)

 

 その中でも目に留まったのは、リギルとスピカより提出されていたトレーニング記録だ。 

 

(色々、噂は聞こえてきたけれど…ここまでとは)

 

 樫本理子はこれまでも折に触れ、学園からの報告書の端々に男の存在をうかがわせる記載を見つけては、その振る舞いについてなんとなく想像はしていた。

 

 しかし今日、本人の実態を久しぶりに目の当たりにし、かつ男の肘に書き込まれていた数々の言葉から、想像以上に男が生徒たちから好かれていることを現実のものとして認識した。

 

 そしてこのトレーニング記録。

 

 一見するとスピカとリギルが模擬レースをした、という記録だ。

 

 しかし出走者が異様である。

 

 すでに実績のあるメンバーで、今更模擬レースをするまでもない、いわゆるドリームレースのような出走者。

 

 そしてタイムレースという普段あまり見られない競技形態。

 

 記録上はそういうトレーニングを試行した、という形でリギル、スピカ双方で口裏を合わせたような表現になっている。

 

 しかし男の肘に書き込まれていた数多のメッセージとその書き込み主を考えれば、関連性は明らかだ。

 

(もう少し…状況を掴む必要がありそうですね)

 

 点と点を繋ぎ合わせれば面ができる。

 

 朧気ながらもその面を認識し、その重心を男に見出した樫本理子は、スマホを取り出し、ある所へ電話をかけ始めた。

 

 

 

 

 

 工房の前で樫本理子と別れ、生徒会室に戻ったシンボリルドルフとエアグルーヴは、重苦しい空気のまま、生徒会室の応接セットで黙考していた。

 

 何がどう、というわけではないのだが、先ほどまで目の前で繰り広げられていた会話が頭から離れない。

 

 そしてそれは彼女たちの心を重くするに十分であった。

 

「…先生は、ご結婚されていたんですかね」

 

 エアグルーヴが呟く。

 

「まぁ…それはないと思うが…子供がいるような様子のやりとりがあったな」

 

 シンボリルドルフは外の風にあたり冷静さを取り戻しており、先ほど工房内で放っていた赤黒いオーラはかき消えている。

 

「まぁ過去は過去、今は今と考えればいいのかもしれませんが…」

 

 エアグルーヴがテストで解けない方程式を諦め、別の問題に取り掛かるように頭を切り替えようとする。

 

 しかしシンボリルドルフはあくまでこの問題に拘泥するようだ。

 

「時間軸としては兄と私が知り合うよりさらに前の話だ。この間の兄さんの後輩とも、つながりがあるようだったな」

 

 その部分はエアグルーヴも気になった点だった。

 

「…ヒトに歴史ありとはいうが、わからないものだな…」

 

 シンボリルドルフはため息をついた。

 

 考えてみれば当然のことでもあった。

 

 自分が出会ったころにはすでに男は大人であったのだ。

 

 すでにある程度、現在の男の雰囲気を纏っており、その頃からルドルフの中で大きく印象が変わったわけではない。

 

 つまり、出会った時点でほぼ完成されていたのだ。

 

 それを自覚した瞬間、シンボリルドルフの中でこれまでもやついていた感情の断片が音を立てて組み上がり、像を結ぶ。

 

 そしてその像を自分の中で眺めた時、自らの中に激しく嫉妬と言える感情が湧きあがった。

 

 それはエアグルーヴやそのほかの、この学園の中で兄を慕う他の誰かの影を感じた時とはまた違う性質のものだ。

 

 今の兄が完成するための一部分を、あの樫本理子という女が担ったのだ、そう直感する。

 

 胃が蠕動するのを感じる。

 

 その心地悪さに、瞑目していたシンボリルドルフはわずかに表情を歪める。

 

「…どうするべきか、なにを知るべきか、知らずにいるべきか…難しいものだな、心というのは…」

 

 そう呟くシンボリルドルフを眺めるエアグルーヴは、ルドルフの内心を推し量りつつ、応えた。

 

「知らないよりは知っていたほうが、と思うのは傲慢でしょうか」

 

 ルドルフはふっと息を抜くように薄く笑う。

 

「…どうだろうな。知らないほうが幸せということも多々あるのだろうが…この件に関しては、どうにも知りたい、知らずには居られないという感情が勝ってしまうのは…我々が掛かってしまっているから、かな」

 

 その言葉にエアグルーヴも苦いものを感じながら、微笑を浮かべずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 男は工房で再び一人になった後、久しぶりに七輪を引っ張り出して夕餉の焼き物をしていた。

 

 そして隣には焼き物の香りに導かれたのか、ゴールドシップがいる。

 

「なぁ、おっちゃんよー」

 

 ジャージ姿のゴールドシップはベンチにもたれながら気だるげにイカの身を齧っている。

 

「あんだ?」

 

 男も硬く焼けてしまったイカの足にとりつきながら応じる。

 

「その腕、いつ治るん?」

 

 男はイカの硬さに悪戦苦闘しながら唸る。

 

「どうだろなぁ…俺もあんまり実感ないし、よくわかんねぇんだよな」

 

 治る、というのが怪我の完治という意味なのか、装蹄師としての腕としてなのかでも変わってくるが、どちらの意味でも今の時点では先が見えていない。

 

「まぁ…この落書きされたサポーターが外れるのはそんなに先じゃないだろうよ。ただ前みたいに金槌振れるかっていうと、どうなんだろうなぁ」

 

 ゴールドシップはふーん、といって何かを考え込んでいる。

 

「…この右腕は、俺のだからな。お前にはやらんぞ」

 

 ゴールドシップに書かれた文言の意趣返しとばかりに、男は悪戯っぽく笑う。

 

「その右腕はおっちゃんについてるから価値があるんだろー。ゴルシちゃんはおっちゃんにくっついてる右腕が欲しいんだZE☆」

 

 相変わらずわかるようなわからないような言葉を投げつけられ、男は曖昧に笑って流す。

 

「そういえばこないだのレース、お前、最っ高に面白かったな」

 

 男はゴールドシップに焼けたソーセージを与えながら言った。

 

「だろー?ゴルシちゃん天才だからなー。ちょーっとだけ力が入り過ぎちまったみたいで、速く走っちまったけどな」

 

 ゴールドシップのタイムは正確ではないものの、ベストかそれをやや上回るくらいのタイムが出ていたはずだと沖野が推測していた。

 

「でもな、お前俺があのタイム設定した意図を無視してんのはいただけねぇぞ。怪我しないようにあのタイムなのに、結局全力で走っちまって…なんかあったらどうすんだよ。俺の土下座切腹じゃ追いつかねぇぞ」

 

 焼けたソーセージを頬張るゴールドシップに、男は軽くチョップを入れる。

 

 ゴールドシップは機敏にその手を捕まえ、ソーセージから口を離し悪戯っぽく笑った。

 

「それは悪かったって。でも、最っ高にアツいレースが出来てアタシも楽しかったぜ」

 

 ゴールドシップは男の手を離さない。

 

「それに、もし何かあったら、おっちゃんアタシのこと弟子にしてでも食い扶持つくってくれるだろーなって。だからアタシ、安心して全力で走れたんだぜ」

 

 男はため息を吐く。

 こうまでこの絶対的天才美女ウマ娘に言われてしまえば返す言葉もない。

 

 男はそれでも悪い気持ちはせず、ゴールドシップを手荒く撫でてやった。

 

「…もうあんな無茶するんじゃねーぞ。俺たちはお前たちが練習でもレースでも無事に帰ってきてくれることを祈ってるんだ。順位はその後なの、忘れんな」

 

 ゴールドシップはあーい、と気の抜けた返事をしてソーセージに再びかじりついた。

 

 

  

 

 

 

 

 

 



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幕間3:トレセン学園史料課研究員の推測

 今回は久しぶりの幕間回です。

 幕間がサイドストーリーのようなつくりになってしまってきていて、幕間は幕間で前回、前々回からのつながりをもっております。

 本編が遅々として進まずにもやもやされている方には申し訳ございません。

 今後とも何卒お付き合いの程をよろしくお願いいたします。



・幕間1
https://syosetu.org/novel/260592/11.html

・幕間2
https://syosetu.org/novel/260592/50.html


 

 

 蹄鉄の工房であった廃墟を探索してから1週間ほどが経った。

 

 トレセン学園 学園管理本部 施設統括管理部 史料課の下っ端研究員は今日も変わらず、資料庫にもぐり当時の資料を漁っている。

 

 資料庫には当時の在校生の日記やトレーニング記録、理事会の議事録等、大まかに5年刻み程度の年代別に収蔵エリアが決められている。

 しかし決して整理されているとはいえず、当該の年代の範囲内で雑多に資料ごとに箱詰めされ、ラックに収められているといった加減であった。

 

 下っ端研究員がその中でも最近、比較的好んで見るのが、保存されている雑誌だ。

 

 ことウマ娘のレースに関しては年代ごとに媒体の盛衰はあるものの、いくつもの出版社から発売されており、その時代を知る貴重な資料となっている。

 

 特に、今現在下っ端研究員が調べている年代はスマートフォンが普及期から成熟期に入ってきたころで、紙媒体は衰退しつつあったが、まだかろうじてその命脈を保っており、URAおよびトレセン学園は取材対象として協力を行った雑誌に関しては必ず1冊は保管用にこの資料庫に収められていた。

 

 下っ端研究員は何かを調べる切り口を探したりする際、雑誌を手に取ることを好んでいた。

 

 電子媒体は調べたいことが明確であるか、キーワードを掴んでいる場合には検索性に優れ、とても便利な代物だったが、漠然とした大きいテーマを大掴みで理解しようとした場合は情報の粒度が揃わなかったり細かすぎたりして却って難しい場合がある。

 

 その点、人の手によって丁寧に編集され、情報の粒度がある程度揃えられて整理された情報としてまとめられる雑誌はおおむねその発行時期前後の様子をコンパクトに総覧することができ、その当時の空気感まで想像することが可能になる。

 

 そこで得たキーワードをもとに再び史料を当たっていくと、物事の表と裏を立体的に理解できたり、さらに研究を進めていく切り口が閃いたりと、仕事をしている達成感を感じることができる。

 

 このような事柄から、下っ端研究員はこの仕事についてからというもの、改めて情報の在り方や読み方についての認識を改めることとなった。

 

 そして今日も、目当ての年代のラックからひとつひとつ、ダンボールを取り出しては中身を確認し、気になるものがあれば折り畳みコンテナへ納め、校舎1階北端にある史料課の部屋へ持ち込み、詳細に検討していく、という作業を飽きもせずに繰り返す。

 

 それが彼の日常だった。

 

 

 

 下っ端研究員はたっぷり時間をかけて折り畳みコンテナ3つ分の資料を台車に満載した。

 

 エレベーターで地上階へ戻ると、史料課に与えられた校舎の1階の最深部にある行き止まりの部屋、陽当たりが良いとは言えない場所へと目指して歩いていく。

 

 史料課の部屋が騒然としていることに気づいたのは、教室と同じつくりの引き戸を開けた時だった。

 

 史料課単独の部屋として与えられたそこは、半分ほどは研究員たちが執務するいわゆる普通の事務机が島を作っており、残りのスペースのうちの半分は雑多な資料類が収められたラック群、そして空いたスペースには安っぽい応接セットが設けられている。

 

 騒然としている原因は、パーテーションで仕切られた先にある応接スペースのようだった。

 

 下っ端研究員が戻ってきたことを、青くなった顔色でこちらを認めた先輩が認識した。

 

 焦った様子で手招きされる。

 

 普段から下っ端仕事を押し付けられる立場にある研究員は、敢えて先輩を無視してそれなりの重量となっている台車を所定の場所まで押していき、車輪のロックを丁寧に掛けたのちに先輩のもとへとゆっくりと歩んだ。

 

「お前にお客様だ。今、課長が時間稼ぎしてるから、早くいけ!」

 

 先輩は顔面の顔色同様に焦った小声の声音で、応接スペースを指し示した。   

 

 

 

 

「…彼がなにか、粗相でも致しましたでしょうか…」

 

 定年まであと数年に迫っている課長は、弛んだ身体を出来る限り小さく見せようとしているかのように縮こまり、その年齢相応に広くなってしまった額に浮き出た汗をしきりに拭っていた。

 

 現在対面している相手には、先日下っ端研究員を工房へ向かわせた件で厳しく叱責されていた。

 

「そういうことではない。ただ、私が少し、彼と話をしたいだけだ。迷惑でなければここで待たせてもらう」

 

 タイトなスーツに身を包んでシャープな印象を与える装いと、アイシャドウを引いた瞳に無表情な相貌で、見る者に冷たい印象すら与える年齢不詳の元競走ウマ娘は、それだけ言うと瞳を閉じて腕を組み、じっと動かなくなった。

 

 課長は、理事長がそのように仰るならば云々、ともごもごと聞き取れない何事かを告げると、静かに立ちあがり、突きつけられた刃物から逃げ出すように応接間から退散した。

 

 下っ端研究員と課長はスペースの入り口で鉢合わせる。

 

 冷や汗でびっしょりとして見るも無残な様相となった課長は、下っ端研究員の肩を弱々しく叩き、恨みがましい目つきで俺は知らんぞ、と吐き捨てるように言うと、自らは愛用の胃薬を求めて席に戻っていった。

 

 入れ替わりに応接に入ると、気配を感じた理事長が瞳を開いた。

 

「君、いつまで経っても私のアポイントを取りに来ないじゃないか。待ちきれずにこちらから出向かせてもらった」

 

 理事長が下っ端にそう告げた調子は、この間の蹄鉄の工房の最後の会話と同じように、陰があり、それでいてどこか艶っぽさを感じさせる声音だった。

 

「ここでは話しづらいこともあるだろう。どこかほかのところでも構わないぞ」

 

 下っ端研究員は、低いパーテーションの向こうで聞き耳を立てているであろう課長以下先輩たちの気配を感じ、資料を持って15分後に理事長室に伺います、と応じた。

 

 

 

 

 

 理事長室に下っ端研究員が足を踏み入れたのは、今回が二度目であった。

 

 一度目はこの学園に就職が決まり、初めて学園に職員として出勤した当日。

 

 まだ理事長は先代のころであり、現理事長となってからは初めてだった。

 

 この理事長室の内装については旧校舎取り壊し時に丁寧に解体され、新校舎が建設されたときに旧校舎の内装を再利用し、出来得る限り元の雰囲気を再現したものと言われている。

 

 扉ひとつとっても重厚そのもの、内装に至っては今の流行りでこそなかったが、歴史と伝統を感じさせる落ち着いた、一種の威厳すら感じさせる設えであった。

 

 研究員は入室して扉を閉じ、二歩ほど進んだところで足を止めた。

 

 壁面に飾られた歴代のトゥインクルシリーズウィナーの蹄鉄たち。

 

 それに目を奪われている。

 

 歴代の並べられている蹄鉄は、ある時を境に本物の蹄鉄ではなく、蹄鉄をモチーフにした作り物に切り替わっていることに気づく。

 

 研究員はそれを興味深く眺め、そして今みずからが調べている年代の頃のものを探した。

 

「…貴様、煙草を吸ってきたな?」

 

 音もなく研究員の背後へ回り込んでいた理事長が、イメージ通りの怜悧な声で呟く。

 

 研究員はつい緊張しまして、一本だけ、と応じた。

 

「責めているのではない。煙草の香りが懐かしくてな。窓際で窓を開けて吸うのなら構わん。灰皿も出してやる。本来は禁煙なのだが…今ここには君と私しかいない」

 

 それだけ言うと理事長は、自らの執務机の後ろの窓を開け、一番下の引き出しから灰皿を用意してやった。

 

 綺麗に磨かれてはいたが長年の使用感のある灰皿は、およそ理事長のイメージとはかけ離れた代物だと感じた。

 

「今時紙巻きの煙草を吸う者もそうはいないがな、ここはそのような客が来ることもあるのだ」

 

 理事長は研究員の視線から何かを感じ取ったのか、そう説明をした。

 

 研究員は執務机の椅子に座った理事長に、まだ未完成ですが、と報告書の要約を手渡した。

 

 このように理事長から急かされることがあるのではないか、と工房でのやりとりから予見し、あらかじめ研究の進捗に合わせて作っていたものだった。

 

 精査中の事柄、研究員の予測を含めたメモのようなものだが、彼が今どこまで調べがついていて、どこから先が未確認であるかがわかるようにはなっている。

 

 そしてそれを理事長が読み込む間、下っ端研究員は手持ち無沙汰となり、やはり緊張を強いられることになった。

 

 年齢不詳の理事長。

 

 おそらく実年齢はまだ20代の研究員と倍ほども違うであろうが、それを感じさせない彼女は陽に照らされて美しく、スーツに包まれるシャープな肢体と対照的な双丘の張り出しは立派の一言であった。

 

 左耳に着けられた黄金のチェーンの飾り、その先端の小さな蹄鉄が、彼女の耳の揺らめきに応じてきらりと光る。

 

「そう見つめられると、気になる」

 

 トレセン学園というある意味では女の園のような空間に居るにも関わらず、業務上ほぼ彼女たちと接点がない研究員は、女性やウマ娘にも慣れていない。そしてその免疫のなさゆえか、理事長の放つ妖艶な雰囲気故か、いつのまにか理事長の美貌の象徴足る怜悧な瞳に見惚れていた。

 

 研究員は自分は今、ずいぶんと間抜けな顔をしているに違いないと思い、顔が熱くなるのを感じた。

 

 研究員は取り繕うように視線を外し執務机の向こう側、理事長が手ずから用意した灰皿の前に立つと、失礼しますと言って煙草に火を点けた。

 

 窓から流れ切らずに薄く流れてくる煙草の香り。

 その香りが、理事長の脳の奥底に刻まれて忘れることのない記憶の一部分を呼び覚ましてくれるような錯覚にに陥る。

 

「懐かしいな…」

 

 理事長のその呟きは研究員の耳にも届いていたが、それは報告書の内容によるものだろうと誤解した。

 

 

 

 

 

「なるほどな。よく調べてある」

 

 男が煙草を吸い終わり、ぼんやりと外を眺めているところに、理事長が声をかけた。

 

「調べ出したきっかけは、当時のウマ娘たちの日記を見つけたことだったな?」

 

 研究員はこくりと頷いた。

 すでに報告書で上げた、サイレンススズカ、シンボリルドルフ、アグネスタキオンの日記のことを指している。

 

 下っ端研究員はその日記の判読不能部分に注目していた。

 

 トレーナーではなく、先生と呼ばれる人間がいたこと。

 工房と呼ばれる場所と関連する人物であること。

 普段は作業着を着ていたこと。

 何らかの技術を持っており、それが職人的な腕前であること。

 

 この人物がサイレンススズカ、シンボリルドルフ、アグネスタキオンと、同じ時代に走っていたウマ娘たち共通の存在であることまでは伺えた。

 

 この人物が、判読不能文字部分の、ヒトを指す部分に入るとすれば、整合性が取れるのではないか、そう考えていた。 

 

 そしてこれは偶然の産物だったが、おそらくこの間足を踏み入れた蹄鉄の工房が、サイレンススズカの日記にある工房であろうとあたりをつけていた。

 

 埃に沈み、もう長い間使われていないそこで、下っ端研究員も確かに鉄の香りをかいだ。

 

 そしてその傍証として、この間足を踏み入れた時に彼女たちの名前が記載されている作業記録を見ることができた。

 

 この工房の主人たる人物について、研究員はあれやこれやと記録を漁ってみてはいるものの、どうも今のところ判然としない。

 

 工房がいつまで稼働していたかの記録も今の学園内の情報では見当たらず、当時は個人情報に厳しくなってきていた時期でもあり、当時の職員名簿も彼が目にすることができていなかった。わかったことは彼の職業名が装蹄師というものであること。

 

 この装蹄師の男の存在は、下っ端研究員に俄然、興味を湧き立たせた。

 

 それからというもの、もっと大きな視点で当時の情報を集め出した。

 

 現在に残っている記録映像を掘り起こして日記の彼女たちの出場レースも見るには見たが、やはりレースシーンが中心とあっては、そこに至る日常の積み重ね、つまり学園での生活を想像することは難しかった。

 

 だからこそ今日、改めてその年代を捉えなおすために、地下の資料庫で雑誌を集めていたのだ。

 

 

「君は、この日記を読み解いて、何を調べようとしているんだろうか」

 

 

 理事長の口から出た言葉は、優し気な声音であったが、彼のとりとめのない研究の痛いところを突いていた。

 

 実は調べているうちに、何度もその目的を修正している。

 

 最初は、名バの日記を読み解くことで当時の生活やどのようにして神話のような業績が作り上げられたか、そのような切り口で研究を纏めようと考えていた。

 

 しかしパズルのピースを少しずつ埋めていくほどに、彼女たちの背後にいた人物、具体的には装蹄師の男が少しずつ、あるいは大きく影響を与えたのではないか、というイメージが出来てきた。

 

 それがトレーナーであるならば、公式記録や当時のメディアにも取り上げられて物語となっており、わかりやすいストーリーであっただろう。

 

 しかし下っ端研究員はそのわかりやすい物語だけではない、さらに何かがあることを日記を読むことで推測するに至った。

 

 調べていくうちに、いくつかの雑誌記事にも、なにかトレーナーとウマ娘、さらにそこに影響を与えた人物がいるかのような言い回しがあったりと、それらしいことが読み取れる部分がいくつもあることに気づいてもいた。

 

 特に雑誌や書籍に残っている、当時二大勢力と言われたチームリギル、チームスピカのトレーナーインタビューにおいてはそれが顕著だ。

 

 そして時代的なことで言えば、調べれば調べるほどにこの時期を境にウマ娘レースにおいてさまざまな変化が起きている。

 

 例えば今や当たり前になっているレース中の故障に迅速に対応するための伴走者たち、いわゆるレスキューウマ娘の最初期の試行が行われたのもこの時期だ。

 

 すべてがつながっているのか、そしてキーマンとして浮かび上がった装蹄師の男がどこまで関わっているかはわからなかったが、おそらく歴史の記録には残らない部分で、なにかがあった。

 

 それを今は掘り起こしてみようと考えている。

 

 

「それを知って、どうする?」

 

 

 理事長の、少し冷たい響きを含んだ問いかけが研究員の心に刺さる。

 

 確かに、調べたところですぐに何かの役にも立ちそうなことではない。

 

 下っ端研究員は理事長の問いかけにやや動揺し、落ち着きを求めて新たな煙草を取り出した。

 

 火を点け、肺を煙で満たす。

 

 歴史と伝統、そして彼女たちによってつくられた神話によって現在も隆盛を誇るURA。   

 

 しかしその栄光の陰に埋もれた先達たちの努力によって今日があることを忘れてはならないと研究員は思う。

 

 そして今の彼に薄くぼんやりと見え始めている工房の男の姿は、大学の歴史学部をそこそこ優秀な成績で卒業したにも関わらず。競バの世界に魅せられて引き寄せられるようにこの世界に足を踏み入れた下っ端研究員がこれからトレセン学園の職員として歩もうとする、決して陽の当たらない道、そのロールモデルであるようにも思われたからだ。

 

 だが、このような個人的動機だけでは俸給を得てまでしている研究としては落第であろう。

 

 そう思いなおした研究員は、とってつけたように付け加えた。

 

 きちんとまとめ上げることができれば、府中にあるURA競バ博物館の企画展として世に出すこともできますよ。

 

 

「…君の思いは理解した」

 

 

 理事長は煙草の香りに、胸の奥をじりじりと焦がされるような思いを抱きながら応じた。

 

 目の前の若者が、あの時の空気を知ろうと、理解しようとしてくれている。

 

 長い時間を経て、もはや関係者の思い出の断片に埋もれ、消滅しようとしているあの喧騒の日々。

 

 そこに光を当てようとする者が出現したことに、安堵しているのかもしれなかった。

 

 そしてそこに、確かに自分も居たことに改めて誇りのようなものを抱き、そして目の前の若者にそれを暴かれるかもしれない、という気恥ずかしさもないではなかった。

 

 

「…研究を続けるといい。但し、経過報告は欠かさないように。期待しているぞ」

 

 

 話は終わり、研究員は退出のために理事長室の扉まで歩むと振り返り、外を眺める理事長に向かって告げた。

 

 

「研究が進んだら、今度はゆっくり当時のお話をお聞かせください。エアグルーヴ理事長」

 

 

 

 

 

 




 いつも皆様お読みいただき、感想をお寄せいただき、文言修正をいただきありがとうございます。

 気が付けば前回が70本目でした。

 もともと終わりを決めていなく、またこんなにちゃんと続けられるとも思っていなくて始めたのに、ここまで書き続けていられるのは皆様に読んでいただけていると実感できるアクセス数字であったり、感想コメントでありまして、本当に感謝しております。

 そろそろ話の畳み方を考えることも増えてきてはいるのですが、そこにたどり着くまでにはまだまだいろいろ書きたいことも出てきそうです。

 ちょっと仕事も忙しい時期に入ってきておりますんでこれまでよりも更新間隔はあき気味になるかとは思いますが、続けていく所存ですので、今後ともよろしくお願いいたします。


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69:毎日王冠の夜


引き続き積極的に三次創作から設定をいただいて拡げております。
ネタ元はこちら
https://syosetu.org/novel/270326/15.html


 

 

 

 

 

 ウィナーズサークルでの写真撮影を終えて、ウイニングライブまでの少しの間、サイレンススズカはレース後の取材を受けていた。

 

「サイレンススズカさん!まずは今日のレースの感想を聞かせてください!」

 

 まだ汗が引き切らないサイレンススズカは記者に囲まれ、フラッシュが浴びせられている。

 

「え…と…そう…ですね…多くの方に…応援していただいて…ありがとうございます…」

 

「宝塚記念から夏を越えて、さらにスピードに磨きがかかったようにお見受けしますが、なにか夏の間に変わったこととか、あったんでしょうか?」

 

「そうですね…夏合宿は…チームのみんなとしっかりトレーニングを積みました…あ…合宿で…アドバイスを…いただきました…」

 

「それはどのようなアドバイスだったんですか?」

 

「…蹄鉄が…あまり合ってなかったみたい…で…その…新しい蹄鉄に変えて、今日が初レース、だったんです…」

 

 記者たちがどよめく。

 

「その蹄鉄とは、どんなものなんですか?」

 

「えっと…学園の…装蹄師の先生が…作ってくれたもので…これまでのものより…しっくりくるというか…安心して走れる…感じがします…」

 

 記者たちはサイレンススズカの言葉を聞きながら、早速記事の見出しを思案し始めた。

 

 

 

 

 

 毎日王冠の日の夜。

 

 

 装蹄師の男と、予告通り昨日から男の部屋に泊まり込みで観戦に来た後輩は、スピカの祝勝会に少しだけ顔を出したあと、ひと気の少なくなりつつある商店街を歩いていた。

 

 隣で杖をつきながら歩く後輩は、酒もいくらか入って上機嫌だ。

 

 

 今回の毎日王冠はリギルからはこれまで無敗の超新星であるエルコンドルパサー、ジュニアチャンピオンなれど怪我に泣いての10か月ぶりのターフに立ったグラスワンダー、そしてスピカからは今絶好調のサイレンススズカと、注目株揃いのレースとなった。

 

 それゆえGⅡというレースグレードながらもGⅠ並みかそれ以上の観客を集めていた。

 

 スターティングゲートが開いてみれば、わかりきった展開としてサイレンススズカが飛び出して、それをどこまでグラスワンダーやエルコンドルパサーが追い込んでいけるか、という展開予想そのままにレースは進行、3コーナーから4コーナーにかけて差が詰まり、最後の直線での勝負になるか、と観衆を沸かせた。

 

 しかしそこからはサイレンススズカがさらに伸びて後続を突き放し、圧勝。

 

 今現在でのトゥインクルシリーズでの圧倒的な実力を、天皇賞秋へのステップレースでも証明してみせた。

 

 

「いやぁ凄かったっすねぇサイレンススズカさん…」

 

 後輩は隣で、先ほどから同じ言葉を繰り返している。

 

 先ほどのスピカの祝勝会で写真を撮ってもらい、杖にサインまで入れてもらって今日を満喫したといえる。

 

 しかし装蹄師の男はどこか複雑な表情だ。

 

「なんすかーせっかくスズカさん勝ったってーのに、浮かない顔っスね先輩」

 

「ん…まぁな…」

 

 男は今日の第2レースで起こった出来事を思い返していた。

 

 今日は第1レースからレスキューウマ娘の試験運用が入っており、まずはコース大外に引かれた白線外を訓練を受けたウマ娘たちが最後尾よりさらに後ろを走るという形で行われた。

 

 第2レースはメイクデビュー戦で芝1800mのレースだったのだが、3コーナー途中で3番手を走っていたウマ娘がアウト側に滑り転倒、早速レスキューウマ娘が活躍することとなった。

 

 外側から先頭を狙う体制であったことが幸いし、巻き込まれた娘はいない。

 

 転倒した当人は軽い脳震盪をおこしたようだったが、レスキューウマ娘たちの迅速な展開と担架による収容が功を奏してか、大きな怪我などはないようだった。

 

 こういう事態を想定しての仕組みで、それが有用に機能したことは良いことだったが、それ自体を素直に喜ぶことはできなかった。

 

 対照的な様子でふらふらと歩く二人に、背後から声がかかる。 

 

「…貴方たち二人をセットで見ると、ここがトレセン学園の近くだってことを忘れそうになりますね…」

 

 男と後輩が振り向くと、そこには二人に共通の知人、男にとっては恩人で、後輩にとっては自分のお目付け役であった同級生が神妙な面持ちで立っていた。

 

「り、理子ちゃん…?」

 

 後輩は突然の樫本理子の出現に驚きを隠せない。

 

「おお、お疲れ様。今日は大変だっただろう」

 

 男は大した驚きもなく、理子を労う。

 

「貴方に折り入ってお願いが…」

 

 いつにもまして表情が険しい樫本理子は、装蹄師の男に懇願するように呟く。

 

「その…ちょっと今日は体力的に厳しくて…貴方の…部屋で…か…みん…を…」

 

 すべてを言い終わる前に樫本理子は頽れる。

 

 装蹄師の男はとっさに左腕で抱えるように支えた。

 

「…ったく、相変わらず軽いなぁ…」

 

 男は左腕で担ぎ上げる。

 

「…先輩…俺…いろいろ聞きたいことがあるんスけど…」

 

 男は軽くため息をついて頷くと、とりあえず気絶した樫本理子を担いだまま、後輩を伴って自室に戻ることにした。

 

 

 

 

 部屋に戻って男の肩に担いでいた樫本理子をベッドに転がすと、男と後輩はリビングで一息ついた。

 

「…で、なんで理子ちゃんが急に現れたんスか?」

 

 男はかくかくしかじか、と経緯を説明した。

 

 樫本理子はURAに就職しており、現在は結構なお偉いさんであること、体力が全くないのは相変わらずであること、この間、後輩が帰った翌日に学園で久しぶりに会ったこと、今日のレスキューウマ娘のテスト運用の仕掛け人は彼女であること…などだ。

 

 さすがに後輩の事故に起因して、廃人状態の装蹄師の男が樫本理子に養われていた半年間の話はしない。

 

「んでまぁ、今日の2Rでトラブルがあった時、早速レスキューウマ娘が活躍したろ。あれでおそらくその後のなんやかんややってて、理子は力尽きたんだろうな…」

 

 ははぁ…と唸る後輩。樫本理子の体力の無さも知悉しているだけに、納得してくれたようだ。

 

「しかし俺、理子ちゃんと会ったの卒業以来かもしれないっス。まさかURAに就職してたとは…風のうわさで、仕事が忙しいらしいくらいの話は聞いてましたけど」

 

「まぁ、忙しくしてたのはそうだよ。あいつ、トレーナー資格も取って、一時期トレーナーやってたしな」

 

「うへぇ…お勉強できるのは知ってましたし何度もそれに(主に単位の取得的な意味で)助けてもらいましたけど…あんな超難関資格まで持ってるんスか…って、そういえばもうひとつ、理子ちゃんの噂思い出したっス」

 

 なんだ、と装蹄師の男は後輩に先を促す。

 

「なんか…子供がいるとかなんとか…しかもウマ娘の…」

 

 男は飲みかけたお茶を吹き出した。

 

「…っお前、それをどこで…」

 

 後輩は男のおかしな挙動に首を傾げる。

 

「いやぁ、噂ですよ噂…なんか同輩がどこかで見かけたとかって話を聞いただけっス」

 

 そこまで知っていれば男と樫本理子の関係も大学時代の仲間内で噂になっているのかと思いきや、そこまでではないようであった。

 

「いやぁしかし懐かしいっスねー…みんなでバカやってたのに、今やこうしてみんなそれぞれに仕事してるとかちょっと感慨深いモノがあるっス…」

 

 後輩は突如現れた樫本理子という旧い仲間に、懐かしい思いに囚われている。

 

 装蹄師の男のスマホが鳴ったのはそんなときであった。

 

 発信元はシンボリルドルフだ。

 スマホには「ルナ」と表示されている。

 男は特に気負うことなく受話のアイコンをタップした。

 

「はい…今日もお疲れ様……ん?ああ、別に構わんぞ。ちょうど今、理子は俺の部屋で寝てるが…あ?おいちょっと…もしもーし!」

 

 装蹄師の男が気が付いた時には、すでに通話が切られた後であった。

 

「…何だったんスか?」

 

「ルナ…もといシンボリルドルフがエアグルーヴと、今日の話ってか反省会みたいなのをしたいから今から来てもいいかって…。URAサイドの理子もいるからちょうどいいかと思って、理子いるぞって言ったら電話切れて…」

 

 後輩はあちゃー、と頭を抱えた。

 

「先輩ねぇ…言い方っスよ…寝てるのは事実っスけど…それ…事後の言い方っス…」

 

 男は後輩の指摘にはっとして、失言を取り繕うべくシンボリルドルフにコールバックした。しかし電話がつながることはなかった。

 

 

   

 

 言ってしまったものは仕方がないと装蹄師の男は開きなおり、シャワーでも浴びようかと思ったが、もしシンボリルドルフが来た場合、余計に誤解を助長すると主張する後輩の助言を受け入れ、落ち着かぬまま二人の到着を待った。

 

 そうしているうちに樫本理子が起き出してきて、これからシンボリルドルフとエアグルーヴが来るらしいことを告げておく。

 

「そうですか…ところで貴方は、ウマ娘をそんなに頻繁に部屋にあげているのですか…?」

 

「…そういえばそうっスね…先輩、どうなんスか…?」

 

 装蹄師の男は、これまでの無頓着が積もり積もった故の事故が現在進行形で起こりつつあることをついぞ自覚し、頭を抱えた。

 

 

 

 



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70:部屋の主権

 

 

 

 

 

 装蹄師の男は自分の暮らす部屋であるにもかかわらず、全くもって自らの居場所を失ってしまっている現状について考えていた。

 

 現在のリビングには今夜もともと泊まる予定であった後輩、古くからの付き合いである樫本理子、妹分として可愛がってきたルナことシンボリルドルフ、そしてルドルフの良き相方であり、なにかと世話を焼いてもらっているエアグルーヴがいる。

 

 男は所在なく窓辺に寄り、薄く開けた窓から煙草の煙を吐きだし続けていた。

 

 それにしても異質な空間である。

 

 樫本理子は無表情を貫いており、エアグルーヴもいつもどおりの怜悧な表情を崩さずにいるのは後輩や理子がいるからであろうか。

 

 そして一人、どす黒いオーラを隠そうともせずに不機嫌に鎮座ましましているのは皇帝、シンボリルドルフだ。

 

 とりあえず来るもの拒まずの姿勢で、いや正確には拒んだらもっとややこしいことになるぞという後輩の助言に素直に従い部屋にあげてみたはいいものの、室温が数度は下がったかというような雰囲気を作られてしまっては男としてもどのようにこの場を回すべきなのか、判断がつかなくなってしまっている。

 

 遂には部屋の隅でコンパクトに立ったまま、煙草で脳を痺れさせるという無意味な行動に身をやつすしか思いつかなくなっていた。

 

「…そうそう、エアグルーヴさん、今日は段取りいただいてありがとうございました。おかげでしっかり観戦できたっス」

 

 この沈黙に耐え兼ねたのか、最初に口を開いたのは後輩だった。

 

「大したことではない。あそこはいつも空いていて、持て余しているようだったからな。レースを楽しめたのならなによりだ」

 

 エアグルーヴは今日の後輩の観戦にあたって、後輩の身体を慮ってスタンド上部の多目的優先席席を手配してくれていた。

 

「いや、ほんと助かったよ。なんせ今日はヒトが多かったからなぁ…さすがの注目株対決というべきか…」

 

 男もエアグルーヴに感謝を述べる。

 しかしそれに対するエアグルーヴの反応は冷淡といって差し支えないものだ。

 

「…それはいいんだが…先生、その…いいづらいんだが、この状況を説明してくれないか…」

 

 おそらく決意が必要であったであろう言葉を、さしものエアグルーヴもやや言いづらそうに、それでもはっきりと述べてくれた。

 

 その言葉をきっかけに男は思いなおし、腹を決める。

 

「…まずは理子向けに説明するぞ」

 

 いいか理子、良く聞け、と男は樫本理子に向き直った。

 

 シンボリルドルフ、普段はルナと呼んでいるが、装蹄師の修行中からの付き合いだ。俺の師匠格の老公と、彼女の実家が懇意だった関係で、彼女が幼名で呼ばれていた頃からお互いを知っている。

 俺にとっては…そうだな、妹のような存在だ。今や偉大な皇帝として君臨しているが、俺は今でもそう思っている。

 

 エアグルーヴはルナの右腕のような存在で、うちの理事長が関係者を集めての合同研究プロジェクトの話をブチ上げた、あれの前段からの付き合いだ。最初はとっつきづらくて衝突したこともあったが、打ち解けてみれば情が深くて良いヤツだ。今日の後輩のこともそうだが、何くれとなく面倒をみてくれているような関係だ。

 

 もちろん学園で装蹄師をしている以上だれかを贔屓したりなんてことはしていないつもりだ。だがとにかくこの二人にはとにかく世話になってる。

 

 俺が熱で倒れたときも看病に来てくれたり、普段でも俺の食生活を気にしてくれて、夕飯を共にすることもある。今の生活では、彼女たちに大いに助けられているよ。

 

 職員と生徒という関係からは逸脱してる部分があるのかもしれないが、まぁ、俺の手が後ろに回るような関係ではないことは確かだ。

 

「…以上だが、何か質問は?」

 

 樫本理子はふぅ、と息を吐いた。

 

「…貴方、相変わらずですね…まぁそれが良いところでもあり、悪いところでもあり、ですが…」

 

 公私の境があいまいになってしまっていることを悪いと言われるのは致し方ないが、とりあえず、納得はしてもらえたらしい。

 

 後輩は皇帝、女帝というスター二大巨頭からのあからさまな好意を寄せられてもなお、こう言ってのける装蹄師の男の鈍さと境遇に、羨望と呆れの相半ばする感情とともにあんぐりと口をあけて眺めていた。

 

 思わぬ形で装蹄師の男の中の自分自身を聞くことになったウマ娘二人は、率直に嬉しくもあり、自らが望むポジションよりもう一歩二歩足りていない男の中での地位とのギャップに苦しさも覚えて、複雑な感情を抱いている。

 

 にやけるべきか顔をしかめるべきかわからず、静かに身悶えていたが、尻尾と耳の落ち着かぬ様子は隠しきれていなかった。

 

「今、丁寧に解説してくれたお陰で、この間のリギルとスピカの謎のタイムレースの報告書、謎が解けた気がしますよ…」

 

 そういうと樫本理子は薄く笑った。

 そこまで調べられていたか、と今度は男が苦い顔をする番であった。

 

 

 

 一息入れて男は気を取り直し、居ずまいを正した。

 

「次はルドルフ、エアグルーヴ、お前ら向けの説明をする」

 

 さきほどまで身悶えていた娘たちはその一言で、正気に戻り、耳をピンと立てて一言も聞き漏らすまいと姿勢を改める。

 

 いいかふたりとも、良く聞け。

 

 半年ほど理子と一緒に生活してたってのはこのあいだ聞いて、知ってるな?

 

 俺が大学を出て、一時期おかしくなっていたとき、フラフラしていた俺を拾って社会復帰まで支えてくれたのが理子だ。

 あの時がなければ俺は今頃その辺のホームレスにでもなっていただろうから感謝している。大恩人だ。

 

 それからな後輩、ついでに言っておくが理子がウマ娘の子供がいるとかいう噂。

 

 あれは理子がウマ娘の子を事情があって引き取ったからだ。実子とかではないぞ。

 

 理子のとこで俺が世話になっていた時に、俺もその子たちと一緒に住んでたわけだ。うん、もちろん可愛がっていたとも。

 

 その後俺は回復していろいろあって師匠格の老公に拾われて今に至ってるわけだ。

 

「…ふう…こんなもんか?なにか質問は?」

 

 二人は男のあまりにもあけすけな説明に呆気に取られている。

 

 気になっていた子供の件は、事情を聞けばさらに気になるところもあったが、樫本理子の平然とした様子を見る限り、事実のようだった。

 

「あ、俺、質問いいスか?」

 

 思わぬ方向から来た質問に、男は思わずお前向けの説明じゃねーよ、と苦笑いをする。

 

「いやいや、理子ちゃんに養われるようになった原因って俺っすよね?まぁ今更それをどうのこうの言っても仕方ないんでそれは置いとくとしてもっスね…」

 

 男は敢えて触れなかったところを当人からあっさり看破され当惑するが、どうやら聞きたいことはそれではないらしいことに安堵する。今そこまで触れていたらややこしすぎるし、いまさら詮無きことでもある。

 

「…結局のところ、理子ちゃんと先輩って付き合ってたんスか?」

 

 安堵から一転、とんでもない爆弾を放り込むものである。

 

 後輩はたぶんそれが一番聞きたいところっスよね?とエアグルーヴにアイコンタクトを取る。これは今日の礼だ、と後輩は思いを込めた。

 

 エアグルーヴは少し驚いたような表情をしながら、目を伏せて肯定の意を返した。

 

 男は樫本理子と視線が合ってしまう。

 

「そういう関係ではなかったと思う」

「そういう関係ではなかったですね、残念ながら」

 

 残念ながら?

 残念ながらって言ったか今?

 

 男は理子と被った回答の中に添加された差異にやや動揺する。

 

「…知っての通り、私は虚弱体質ですし、事情があったとはいえ突然幼子を抱えて生活を回すのに苦労していたんです。だから、生活のための人手があるのは私にとっても渡りに船だったんですよ」

 

 樫本理子が当時の状況を補足した。

 

 男は引っかかるものを感じながらもそれを何とか飲み込んだ。

 

「まぁ…そういうことだから、俺は未だに清い身体だ」

 

 動揺が収まりきらぬ男は要らぬ情報まで加えてしまっていた。

 

「先輩…その情報は要らないっス…」

 

 後輩の無慈悲な一言がやけに大きく感じられた。

 

 

 

 

 男は斯くして部屋の主権を取り戻した。

 

 ここまで人数が集まったのだ、ピザでも取ろうなどという気回しをし、注文したものの到着まではお茶などを振る舞い、場の空気感を和ませようとする努力を忘れなかった。

 

 古来から、空腹と睡眠不足は人もウマ娘も同様に機嫌を悪くする。

 

 男はそのような原則に基づき客人の腹を満たしつつ和やかな場を後輩の力を借りて創り出し、どうにか気持ちよく解散させることに成功したのだった。

 

 

 

 

 

 

「まぁ…悪くなかった始末のつけ方だと思うっスよ。ただ、理子ちゃんはともかくあの娘たちはもうちょっとなんとかしてあげないと…しかし先輩モテるっスね…」

 

 生徒会コンビを寮へ帰し、樫本理子をクルマで家まで送り届けたのちに戻った部屋で後輩からそのような助言とも羨望ともつかない言葉を送られ、男は無意識に眉間に皺を寄せた。

 

「そうはいってもなぁ…」

 

 どうすればいいのかわからない、という風体で応じる男は、その態度からしても間違いなく清い身体の持ち主であった。

 

 

 

 

 

 

 エアグルーヴはシンボリルドルフと別れ自室に戻り、夜のルーティンをこなしてあとは眠るだけとなった時、部屋に備え付けの机に向けて書き物を始めた。

 

 最初は明日作成しようと考えていたレスキューウマ娘の実施報告をまとめる要点をメモ書き程度に書いていた。

 

 しかし次第に、エアグルーヴの頭の中は男の部屋で起こったことの反芻に占められていく。

 

 あのような形で、男の心の中の自分を語られるのは初めての経験であり、恥ずかしさが先行したが、聞いてみれば概ね好意的な評価であったのは安堵した。

 

 それに、シンボリルドルフとまとめた形ではあったが「彼女たちに大いに助けられている」という表現。

 

 今現在の自分は尊敬するシンボリルドルフと同じ土俵に立てている、そう確認するに十分な言葉であった。

 

 すくなくとも、後手に回っているわけではない。

 それを確認できただけでも収穫といえた。

 

 

 

 それにしても、と思考の角度を切り替え、スマホを手に取る。

 

 ロックを解除して表示されたそれは、今日の毎日王冠のニュース、レース後のサイレンススズカのインタビュー部分であった。

 

[サイレンススズカ、特注蹄鉄で天皇賞へ視界良好!] 

 

 そう見出しに打たれた記事は、サイレンススズカの言葉を文字起こしする形でまとめられていた。

 

「…学園の装蹄師の先生が作ってくれたもので、これまでのものより安心して走れます」

 

 胸の奥がずきりと痛む気がした。

 

 自分が宝塚記念で勝利していれば、この言葉は自分が話せていたのではないか。

 

 そう思うと、宝塚記念の敗戦がより重く感じられる。

 

 しかし勝っていれば装蹄師の男のクルマに乗せられて帰京することもなかったことを考えれば、負けたことが悪いことばかりとも言えない、そう思いなおした。

 

 そして一瞬置き、そのような考えを抱いた自分に愕然とする。

 

 自分は今、何を考えたのだ。

 

 負けてもいいことがあった、と思ってしまった自分に気づいたのだった。

 

 勝利への貪欲さを否定するような考えであるといえる。 

 負けていい勝負なんてあるはずがない。

 

 走るからには勝ちに行く。

 

 それが競技者としてのあるべき姿のはずだ。

 

 自らの緩みをと断定した感情を抱えたまま、エアグルーヴは憤然とノートを閉じた。

 

 

 

 シンボリルドルフは一人、寮の屋上で夜風に吹かれていた。

 

 兄に対して抱えていた疑問が氷解し、すっきりとした気分であった。

 

 それにしても、人の来歴とはいろいろあるものだ、と改めて思う。

 

 ここに来る生徒たちも人それぞれ、様々な生い立ちがありこの学園に来ている。

 

 これまでは生徒たちばかりに意識が向いていたが、身近な大人である兄ですら、あのように複雑なものを抱えて現在に至っていると聞くと、そればかりでは視野が足りないのでは、と思わざるを得なかった。

 

 学園は生徒だけで成り立っているものではない。

 

 ここで働く皆を含めて成り立っている場所なのだと考えれば、どれほどの複雑に人生が折り重なっている場所なのだろうと考えさせられる。

 

 そして自分もその中の一人だ。

 

「全く、兄さんはいつも新鮮なものを与えてくれる…さすがは私のせんせい、だよ…」

 

 シンボリルドルフは自分に改めて聞かせるように、独り言ちた。

 

 

 



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閑話:マルゼンスキーの権利行使1

 投稿間隔あきまして申し訳ございません。
 どうにも込み入った話が続いている気がして、書いては消し書いては消ししておりました。
 ここのところ無邪気に楽しめる話でもなかった気がしたので、ちょっと横道に外れてみることにしました。
 外れてみたらそれはそれで、趣味全開で長くなる感じになってしまったので一旦できたとこまで上げてみます。
 気分転換ということでお許しいただけますと幸いです。



 

 

 

 マルゼンスキーは悩んでいた。

 

 装蹄師の男の発案によるタイムレースに勝利し、思わぬところで手にした男の一日独占権。

 

 しかし彼女の知る限り、それを手にしたいと願っていたウマ娘たちはそれなりに数が多い。

 

 シンボリルドルフ、エアグルーヴ、サイレンススズカ…スペシャルウィークはまぁいいとしても、ゴールドシップは奇策を仕掛けてはきたが、あれは本気で勝ちに来ていたと思う。

 

 マルゼンスキーはシンボリルドルフからは直接、彼への想いを聞いていたし、エアグルーヴのことも間接的にではあるが知っている。

 

 サイレンススズカは元チームメイトとして気にかけていて、今や男の手によるワンオフの蹄鉄を履いて走るに至っていることからしても特別な関係であろうし、ゴールドシップとは直接の絡みはないが頻繁に工房へ出入りしているのは知っているので、彼女もまぁ、男へ思い入れがあるのは確かだろう。

 

 対してマルゼンスキー自身はどうかといえば、装蹄師の男とはそれなりに付き合いも長いが、彼女たちが抱く装蹄師の男への想いとはベクトルが違う。

 

 いうなれば、趣味の道の師匠といった趣きなのだ。

 

 その趣味の師匠を独占して趣味に付き合わせることはマルゼンスキー自身も楽しく、彼にも楽しんでもらえるだろうが、それは別に二人きりである必要はないように思えた。

 

 ここまで考えたところで、マルゼンスキーはひとつ、閃いた。

 

「…たまにはみんなで息抜きするのも悪くないんじゃない?」

 

 そう独り言ちたマルゼンスキーは、スマホを取り出してなにやら検索を始めた。

 

 

 

 

「で、俺は何処へ拉致されようというんスか?こんなレアなデカブツまで引っ張り出して…」

 

 助手席に座る後輩は眠そうな表情を隠さない。

 

「仕方ねえだろ。こないだのレースの勝者サマ、マルゼンスキーの権利行使だ。お前もおまけで呼び出されてんだよ」

 

 装蹄師の男の肘には、この間のタイムレースの引き金となったサポーターはすでになく、自由に動かせるようになっていた。

 

 マルゼンスキーに怪我の回復具合を確認された上で勝者の権利行使を告げられた男は、彼女から指示された通りに行動していた。

 

 まずは世にも珍しい、車両を3台積めるキャリアカーを伝手を辿って借り出した。旧普通免許で運転できる最大サイズの積載車である。

 

 そして夜とも朝ともつかない午前3時、学園で自分のクルマを積み、マルゼンスキーの愛車であるタッちゃんを積み、そしてあらかじめ休みを取らせておいた後輩の自宅を急襲し、後輩の愛車も積み、ついでに後輩も助手席に積んだ。

 

 まだ夜の明けきらぬ東名高速を西へ向かって走らせる装蹄師の男は、めんどくさそうにしながらも後輩の目には上機嫌に見えた。

 

「俺ぁ関係ないと思うんスけどね…まぁこの間はいいモノ見させてもらったし、あのマルゼンスキーさんのご指名とあっちゃあ、是非もないスね」

 

 後輩はあらゆる意味でバブリーなマルゼンスキーの姿を思い出しながらニヤついている。

 

「しかしお前、イイクルマ乗ってんじゃねえか」

 

 3台積んだ車両のうち、ぶっちぎりでお高いのはマルゼンスキーのタッちゃんであったが、後輩のクルマはそれに及ばないとはいえ、一昔前の国産最速クラスである。

 

「なんたって俺、ボンボンっスからねぇ。それにほらこのクルマ、セミATじゃないすか。クラッチは機械任せなんで俺でも乗れるんスよ。いやー最近のクルマはよくできてますわ」

 

 後輩は懸命のリハビリにより歩けるようになったとはいえ、クラッチが満足に踏めるわけではなかった。  

 

「まぁなぁ。もう今となっちゃあ出来のいいATならMTより速いまであるからな…」

 

 装蹄師の男と後輩はそんな話をしながら、東名高速を御殿場で降りる。

 

「あぁ…懐かしいッスねぇ。よく大会で来た道順っス。ということは目的地はあそこっスか」

 

「そうそう。我々が通いなれたあそこだ」

 

 男は朝日に照らされる富士山を望みながら、幅広で重心の高いトラックを慎重に操り市街地を抜け、登り勾配の道をゆっくり上っていく。

 

 人家が途切れがちになり、別荘地のような雰囲気の道を15分も走れば、男と後輩が見慣れたメインゲートに到着する。

 

 目的地は霊峰富士の麓に広がる、世界でも珍しい1.5キロものストレートを持つ、国際レーシングコースであった。

 

 

 

 ゲートを予めマルゼンスキーから渡されていたパスで通過し、広大な敷地内を走って指定されていた朝7時ぴったりに、本コースの外側にあるショートコースのパドックに入る。

 

 そこでは呼び出した当人たるマルゼンスキーを中心に東条ハナ率いるチームリギルの面々、そして沖野率いるスピカの面々が待ち受けていた。

 

「やっほーお師匠さん!しっかりクルマ持ってきてくれたわね!」

 

 朝からマブしい笑顔で迎えてくれるマルゼンスキー。

 

 その姿はいつもの見慣れた制服でも、ましてや勝負服でもなく、レーシングスーツであった。

 

「さぁ、今日は息抜き、楽しみましょ!」

 

 

 

 マルゼンスキーの立てた装蹄師の男一日独占計画は、以下のようなものであった。

 

 まずマルゼンスキーはこの案を思いついてすぐ、このサーキットのコースのひとつであるショートコースを予約し、抑えた。

 

 次に彼女の愛車の整備を請け負ってくれているショップの伝手を辿り、レンタルのレーシングカートを1ダースほど用意。

 

 そして東条ハナと沖野を巻き込み、前回のタイムレースメンバーを中心にスピードと駆け引きに関するトレーニングと銘打って、参加者を募る。

 

 結果として、スピカとリギルそれぞれのメインメンバーがほぼ参加することとなり、トレーニングという実益を建前に、自らの趣味と装蹄師の男の独占権の利益分配まで行うという形で企画を成立させたのだった。

 

 装蹄師の男に実車を持ち込ませたのは、コースを借りるついでに夕方の本コースの走行枠も確保しておいてタッちゃんを走らせようという魂胆だ。

 

「これが今日のタイムスケジュールね!」

 

 マルゼンスキーが渡してきた紙に目を通す。

 

「げ…お前これ本気でやるのかよ…」

 

8:00~9:30 練習走行

 

9:45~10:15  予選

        →予選1位・予選最下位、予選2位・下位から2位…といった調子で組み合わせ、ペアを作る

 

11:15~12:15  ペア耐久レース(60分)

 

12:15~15:00 昼食、休憩、本コース走行準備等

 

15:00~16:00  本コース走行枠

 

 終了後、撤収

 

「うわぁ…ゲロ吐きそうなタフなスケジュールっスねこれ…」

 

「後輩さんも経験者でしょう?ハンドブレーキ付きのカートも用意したから、強制参加だからネ!」

 

 後輩が苦笑いしながら青ざめる。

 

 マルゼンスキーが手配したスタッフの手により、すでにレーシングカートたちの暖機運転が始められていた。

 

 

 

 7時45分、コースの職員によるドライバーズミーティングという名の初心者向け講習が行われる。

 

 これもマルゼンスキーの手回しなのか、普段の皆の勝負服イメージに合わせたカラーリングのレーシングスーツに身を包んだウマ娘たちがずらりと並び、壮観である。

 

「いいですかー。右足がアクセル、左足がブレーキですよー!エンジンにはセルスターターがついてますから、エンジン止まったらブレーキを踏みながらキーを回して再始動してくださいね」

 

 初めて乗る者が多いため、そこからの説明である。

 

「ったく、心配しなくてもジョーシキだよなぁ!」

 

 すでにサーキットの雰囲気とレーシングカートのエンジン音にテンションが上がり切っているウオッカが呟く。

 

「アンタのジョーシキがみんなに通用するわけないでしょ!」

 

 ダイワスカーレットは今日もウオッカに張り合っているが、根が優等生であるためメモを取りながら聞いている。

 

 コース上で振られるフラッグや緊急対処(前車がスピンした場合などステアリング操作で避けようとせずにとにかくブレーキで止まる)等、通り一遍の知識を説明される。

 

 皆、普段のレースとは少し趣きの違う体裁に戸惑いながらも、さすが競走本能が発達しているウマ娘たちである。瞳に怯みなどない。

 

「思ったよりみんなずっとマジな目してんな…こりゃ、俺らドンケツかもしれんぞ」

 

「…そりゃあ先輩、あっちは競技は違えど現役のアスリート、俺らは中年に差し掛かったオッサンすよ。勝とうと思うほうがどうかしてるんじゃないスかね」

 

 装蹄師の男も後輩も、四輪の腕には少しばかり覚えがあるだけに、今日はプライドまでズタズタにされそうであった。

 

「…ったく、お前らはまだいいよ。俺たちまで巻き込まれてどーなるんだよこりゃ」

 

 沖野はボヤいているが、きちんとレーシングスーツを着させられている。

 

「…あとでちゃんと乗り方レクチャーしなさいよね。教え子の前で恥かくわけにはいかないんだから…」

 

 レーシングスーツを着用してもなおスタイルの良さが隠しきれない東条ハナであったが、こちらも追い詰められているのか、目がマジである。

 

「はいそこの人間の方4人、おしゃべりしないでちゃんと聞いてくださいねー」

 

 コースの職員に注意されてしまった大人4人は、思わず顔を赤くして小さくなる。

 

「普段はウマ娘の皆さんと人間が対等に競うことは難しいですが、モータースポーツならばそれが可能です。今日用意されているレーシングカートは皆さんの最高速度と同じくらいの、およそ70km/hが最高速度ですが、体感速度はそれよりも速いです。安全に気を付けて、思う存分、同じ土俵で競い合って楽しんでいってくださいねー」

 

 

 

 

 ドライバーズミーティングが終われば練習走行タイムである。

 

 参加者総勢18名なので身長が近い者ごとに2人に1台が割当てられ、残りは予備車とする配分が取られた。

 

 身長により装蹄師の男は沖野とのペア、後輩と東条ハナがペアとなったため、まずは男と東条ハナでコースインすることにした。

 

 男は自前のフルフェイスヘルメットを着用し、おハナさんに顔を近づけて「まずは2周、ゆっくり走るからフィーリング掴んで。そのあと、ペース上げるから出来るだけついてこい」と告げる。眼鏡越しに瞳に不安を宿らせているおハナさんは、こくりと頷いた。

 

 勝手がわからずまごついている娘たちを尻目に、男とおハナさんはコースインしていく。それを見て慌てるように娘たちも慌ててピットアウトしはじめた。

 

 

 

 沖野と後輩はピットから様子を眺めていた。

 

「沖野サンはあとで俺が先導するんで、まぁまずは慣れてくださいっス」

 

「あぁ…助かるよ、よろしく頼む。しかしあの男の速さって、どんなもんなんだ?」

 

 後輩はうーん、と腕を組む。

 

「うーん…一発の速さなら、俺のほうが上なんスけどね…先輩は一発の速さというよりも…うーん…もう現役退いて長いっスから、どうでしょうね…」

 

 コース上ではおハナさん向けのゆったりとしたペースの完熟走行を終えて、男がホームストレートに戻ってくるところだった。

 

 

「なんでぇ。どいつもこいつもカルガモみたいに付いてきやがって…」

 

 気が付くとコース上では男を先頭におハナさん、シンボリルドルフ、エアグルーヴ、ウオッカ、ゴールドシップ…と行儀よく並んで付いてくる。

 

 それぞれのヘルメットに特注のカラーリングまで施されており、マルゼンスキーの念の入った下準備が伺える。

 

 予告通り男は2周目終わりのホームストレートで手を振って後続のおハナさんにサインを送ると、アクセルを踏み込んだ。

 

「さあて、それじゃあちょっと小手調べしてみましょうかね…」

 

 装蹄師の男は速度を上げながらホームストレートを駆けた。

 

 

 

「…お、ペースアップしたぞ」

 

 これまでバラついていたエンジン音が吼えるような連続音に変わる。

 沖野は飴を加えながら呑気に呟いた。

 

「さてさて、ウマ娘の皆さんはどんなもんっスかね」

 

 コース上では男が一人で逃げ出し、後ろはおハナさんが付いていけずに団子状態…から、前方の異変に気づいたウマ娘たちがわれ先にとおハナさんをパスし始めていた。

 

 

 東条ハナの後ろについていたウマ娘たちは、最初の2周は先行する装蹄師の男の走行ラインに注目していた。

 

 そして出来るだけ後ろについて男のラインをなぞりながら走らせることがとりあえずの正解である、と理解した。

 

 そして曲がるにもグリップの限界があること、普段走っている競走バのコースに較べて複雑であることもこの2周で本能的にわかり始めている。

 

「これは気合いだけでは攻略が難しい、な…」

 

 シンボリルドルフはペースをあげた装蹄師の男を追いかけながらステアリングと格闘する。

 

 後ろからはエアグルーヴがせっついてくるが、抜き方がわからないのか様子を見ているのかギクシャクしながらルドルフの背後につけたままだ。

 

 しかし自らの脚で走るより旋回スピードが速く、加速もスピード感も高いこの乗り物。

 その分難易度も高いが、乗りこなせれば相当に心地いいものだろう。

 

「…マルゼンスキーがくれた今日という機会…ならば存分に楽しませてもらおうじゃないか…!」

 

 シンボリルドルフの瞳に、闘志が宿った。

 

 

 

「…さっすが、現役ウマ娘の皆さん、飲み込み早いっスねぇ…」

 

 数周もすると娘たちは走行ラインはともかく、快音を響かせてコースを周回しだした。

 

 ゴールドシップなど、最終コーナーをアクセル全開で豪快にドリフトを決めながらクリアし、ホームストレートをかっ飛んでいく。

 

「…おハナさんもなかなかやるじゃないの。だんだん速くなってる」

 

 沖野は負けてらんねぇ、と密かに闘志を燃やす。

 

「あのー…」

 

 後輩は声をかけられたほうを向くと、そこにはスペシャルウィークを初めとするスピカの面々がいた。

 

「私たちの番になったら…今みたいに、最初はゆっくりで、引っ張ってもらってもいいですか?」

 

 スペシャルウィークの素朴で素直なお願いと表情に、後輩は一も二もなくうなづく。

 

「いいっスよ。じゃあ最初はゆっくり、だんだん速くしますから、できる限りついてきてください。でも、無理しちゃだめっスよ」

 

 コースを見ていたリギルのウマ娘たちが、あぁっ!と声をあげる。

 

「…調子乗ると、ああなるっスから」

 

 ゴールドシップに競りかけたウオッカが、スピンして後ろからクラッシュパッドにめり込んでいた。

 

 

 







今回のエントリーリストと身長(全員出てくるかは不明)
リギル:
1:シンボリルドルフ 165
2:エアグルーヴ  165
3:マルゼンスキー 164
5:フジキセキ     168
6:ヒシアマゾン    160
7:グラスワンダー   152
8:エルコンドルパサー 163
9:東条ハナ      168

スピカ:
10:サイレンススズカ  161
11:スペシャルウィーク 158
12:ゴールドシップ   170
13:メジロマックイーン 159
14:トウカイテイオー 150
14:ウオッカ     165
15:ダイワスカーレット 163
16:沖野        180

17:装蹄師の男  175
18:後輩     170


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閑話2:マルゼンスキーの権利行使2


 皆さま投稿間隔があきまして申し訳ございませんでした。

 生業の方がとんでもなくしんどい時期を迎えておりまして、とはいえストレス発散も兼ねましてスキマ時間でなんとか仕上げました。ちょっと粗が目立つかもしれませんが、ご笑納ください。

 





 

 

 

 

 

 ウオッカの救出のために一旦コース上には赤旗が振られ、コースに出ていた面々はピットに戻ってくる。

 

 ウオッカもオフィシャルの手によりすぐにカートごとクラッシュパッドから引き出され、自走で戻ってきた。

 

 うまくパッドにハマったおかげで怪我もなく、マシンの損傷もないようだった。

 

「こら!遊びで怪我するようなことするんじゃない!」

 

 沖野が幼い子供を躾けるような口調で叱る。

 

「すんませーん…ゴールドシップ先輩を追いかけようとしてスピンしちゃいました…」

 

「おうおう!ゴルシちゃんについて来ようとするなんて5年早いZE☆!」

 

「アンタなんでそんな無茶ばっかするのよ…こういうのは少しずつ慣らしていかないと怪我するわよ!」

 

「あぁぁぁん!オレだってカッコよくドリフトキメてえよぉ…ゴールドシップ先輩!コツ教えてくださいコツ!」

 

「ウマ娘は度胸だぁっ!」

 

 コースを走った面々はテンションが上がってワイワイやっている。

 

 リギルの面々はこれを期にドライバー交替とばかりに、早速次の番の娘が乗り込み始めていた。

 

 こういうところにチーム色が出るなぁ…とヘルメットを脱ぎながら男は眺めていた。

 

「処理終わったんでコースあけますよ!」

 

 オフィシャルがコントロールラインでグリーンフラッグを振り、ピットレーン出口の信号も青になる。

 

「沖野サン、出るっスよ~」

 

 後輩が先ほどまでグダグダしていたスピカ陣から沖野を引っ張り出してカートに押し込み、軽く打ち合わせをしたあとピットアウトしていった。

 

 

 ドライバー交替したウマ娘たちを、今度は後輩が引っ張って走行していく。

 3周ほどすると後輩は後ろに合図を送り、装蹄師の男の時と同じように加速して皆が自由に走り出す。

 

 装蹄師の男はそれをピットウォールから眺めていた。

 

 それにしてもやはり、ウマ娘たちは現役のアスリート、しかも走ることを生業にしているだけのことはある。

 

 程度の差はあれど、みるみるうちに乗りこなしてペースを上げ始める。

 

 今走行している中ではマルゼンスキーが図抜けて上手いものの、ヒシアマゾンやグラスワンダー、サイレンススズカやダイワスカーレットなどもうまくリズムを掴んで鋭いコーナリングを見せたり、ラインの読みが今日初めて乗ったとは思えないほどに冴えだしている。

 

 ただ、レース中に減速するということが基本的にないウマ娘たちだけに、ブレーキングだけは苦労しているようだった。

 

「…兄さん、ちょっといいかな」

 

 気が付けばピットウォールでコースを見つめる男の隣にシンボリルドルフが来ていた。

 

「どうかしたか?」

 

「練習走行の時間中だが、今のうちに一度みんなを集めて、コース攻略を解説してくれないだろうか。どうにも皆、闘争心のほうが前に出てしまっていて、無茶をしがちに思える」

 

 確かに、ブレーキングもバラバラ、後ろを見ているのかどうかもわからず、後ろから来ているのを譲るにも怪しげな動きが散見される。

 

「わかった。とりあえず一巡しただろうから一回皆に入ってもらおうか」

 

 

 

 オフィシャルに話をし、一旦区切りのよさそうなところでチェッカーを出してもらい、皆がピットに戻ってきたところで全員を集めてもらう。

 

「よーし揃ったな。みんな一通り乗ってみたと思うけどどうにも危なっかしいから、基本的な解説をするぞー!」

 

 男はコントロールタワー脇のコース図の横に立つと、一席ぶち上げた。

 

「まず、タイヤ。これが、君たちで言うところの蹄鉄! カートのフレーム、これが君たちでいうところの骨!」

 

 彼女たち自身になぞらえて、各部の役割を簡単に整理させる。

 

「そんで、コーナー回るときの基本はアウトから入ってインをついてアウトに出る。だけどどこで一番インにつくかでアクセル全開にできるポイントが変わる。そこを頭使って考えられる奴が速くなる」

 

 速くなる、という言葉に娘たちの耳がぴくん、と反応する。

 

「…もっといえば次のコーナーまで考えてクルマをどこにもっていくか、そのためにアクセルをどれだけあけられてどれだけブレーキ踏んで…とコースを順番に考えていくと、おのずと一番速く走れるラインは絞られてくる。君たちがレースで位置取り駆け引きしてるようなもんだ」

 

 娘たちの瞳が鋭くなる。自分たちの経験と引き合わせて考えているようだ。

 

「そしてそれを正確に操作して実現できる体力と腕、冷静に周りの状況、路面、カートの状況を把握し適切な判断を下せる冴えた頭!これが大事だ」

 

「要は熱い心に冷たい頭脳!どれが欠けてもうまく走れないぞ!」

 

 装蹄師の男は檄を飛ばすように強く言い放つ。

 

「あと、お前ら抜くのも抜かれるのも下手すぎ。抜かれるやつは進路を譲れ。じゃないとクラッシュだ。よく後ろを見ろ。抜く奴は無理に仕掛けないで安全に抜けるポイントを狙え。今から実演してやるからよく見とけ」

 

 そういうと男は後輩とマルゼンスキーに声をかける。

 

「3周限定で模擬バトルやるぞ」

 

 マルゼンスキーはうふふ、そうこなくっちゃ、と笑いながらヘルメットを被った。

 

 

 マルゼンスキー、後輩、男のカートをホームストレートに並べる。

 

 先頭にマルゼンスキーとし、男と後輩はハンデとばかりに15mほど後ろに並ぶ。

 

「お師匠さん、そんなにハンデくれちゃっていいのかしら♪」

 

「どうかな…そうだな、マルゼンは最後の1周まで逃がしてやる。それまではコイツと遊ぶさ」

 

「お、先輩言ってくれるっスね。マルゼンさんとバトるのはこの俺っスよ」

 

 後輩もニヤニヤしながら乗ってくる。

 

 

 コース全体が見渡せる場所で見ているウマ娘たちにも、やりとりは聞こえていた。    

 

「コース取りと抜き方、抜かれ方をしっかり理解しなくちゃね…コレ、私たちのレースにも役立つんじゃない?」

 

 ダイワスカーレットは隣のウオッカに話しかける。

 

「熱いハートだけじゃ速く走れねぇかぁ…」

 

 ウオッカはさっきの男の話に、気合だけでは通用しないことを学んだようだ。

 

「レース勘ってやつだよな…センスだとかいってふわっと片付けるところもあるけど、紐解けばそういう状況判断力ってのは、お前らのレースでも変わらず必要なものだぞ」

 

 沖野が二人のやりとりに補足を加える。

 

「沖野トレーナーの言う通り…だが、それらを踏まえた上で熱いハートが最終的に勝負を分ける…どれかひとつ欠けても、勝敗はついてしまうものさ」

 

 シンボリルドルフがコース上に視線を定めたまま、呟いた。

 

「さっすが、カイチョーの言葉は重みが違うネ!」

 

 トウカイテイオーが茶々を入れる。

 

「あ、そろそろスタートするみたいだよ」

 

 フジキセキがシグナルに赤が灯ったのを見て、言った。

 

 

 

 

 シグナルに青が点灯し、3台はエキゾーストノートを高まらせてスタートした。

 

 マルゼンスキーが悠々と1コーナーに突入しコーナリングしていく中、後輩と装蹄師の男は互いに一歩も譲らないまま、インに後輩、アウトに男のままブレーキングに差し掛かる。

 

「アウトで粘っても無駄っすよ!」

 

 後輩はインをキープしたまま器用にハンドブレーキをコントロールしコーナリングしていく。装蹄師の男はセオリーに従ってぴったりと後ろに付けてコーナーを立ち上がった。

 

「先輩はほっといてマルゼンスキーさん追いかけるっス!」

 

 後輩は猛然とペースを上げる。

 

 マルゼンスキーはさすがに慣れている、どころかカートの腕も磨いているため、メリハリのついたドライビングで2つ先のコーナーを悠々と駆け抜けていた。

 

 

 

「蹄鉄の先生、様子を伺ってるのかしら…」

 

 サイレンススズカが呟く。

 先ほどから装蹄師の男は後輩とはラインをずらし、常にコーナーでインに飛び込める体制を作りながらも差しに行かない、という走りをしている。

 

「…プレッシャーをかけながらも、後輩クンにマルゼンスキーを追わせてるんじゃないかしら…」

 

 東条ハナがスズカに応じる。

 

「抜くに抜けない、ようにも見えるが…あのように先生に後ろから突かれながらもミスをせずにマルゼンを追い続けられるというのも、なかなか図太いな…」

 

 エアグルーヴが意図を図りかねている間にも、後輩と男は鍔迫り合いをしながらマルゼンスキーとの差を詰めはじめている。さきほどまでコーナー2つあった差が、すでにコーナーひとつ分まで減った状態で、最終コーナーにさしかかってくる。

 

「もう、後ろ二人はベッタリ張り付いてますわね…」

 

 メジロマックイーンは後輩と男のカートの連結されているかのような距離感での最終コーナーからの立ち上がりに釘付けになっている。

 

「センセイはスリップストリーム使ってストレートで並ぶつもりだなぁ」

 

 ゴールドシップがさりげなく解説を繰り出す。

 

「なんですの?その…すりっぷ…?」

 

「スリップストリーム!タイキシャトルさんとのトレーニングで習いました!」

 

 スペシャルウィークが天真爛漫な答えをしている間に、男がストレートを半分ほど来たところでイン側に振り出した。

 

「ブレーキング勝負だ!いっけぇぇぇ!」

 

 ウオッカがテンション高めの声で叫んだ。

 

 装蹄師の男はインに振りつつハードなブレーキングで姿勢を乱しそうになる車体を小刻みにカウンターを当てながら流して1コーナーに突っ込み、マルゼンスキーとの差まで詰めていく。

 

 後輩は装蹄師の男の突っ込みをブロックすることなく行かせ、自分は無理なく1コーナーをアウトから切り込んでラインをクロスさせ、早めのアクセルオンで今度は装蹄師の男にぴったりと張り付いた。

 

「ギリギリの勝負…ですね…まるで、刀の切っ先で踊るような…」

 

 じっと駆け引きを見守るグラスワンダー。

 

 マルゼンスキーを先頭に、電車ごっこをするかのように連なってコースを行く3台のカートに、ウマ娘たちは釘付けだ。

 

「…これはマルゼンもちょっとプレッシャーかかってきちゃったね」

 

 フジキセキが爽やかに微笑みながら隣のヒシアマゾンに囁く。

 

「マルゼンと先生のタイマン!だな」

 

 しかし最後尾の後輩も装蹄師の男にぶつからないのが不思議なくらいの張り付き方でぴったりと追走していく。

 

 結局1コーナーから最終コーナーまで、びたびたに張り付いたまま2周目のホームストレートに戻ってくる。

 

 マルゼンスキーを先頭にスリップストリーム三重連となった一団がホームストレートを駆ける。

 

 最初に動いたのは最後尾の後輩だった。

 先ほどの男と同じようにイン側に振り出し、ブレーキングで前に出るのを狙う姿勢だ。

 

 それに間髪入れずに装蹄師の男はアウト側に出て、マルゼンスキーを真ん中に3台並んでブレーキングに入っていく。

 

「エキサイティング!スリーワイドデース!」

 

 エルコンドルパサーがこぶしを振り上げ、周りのウマ娘たちは一触即発、ステアリングの一振りで接触してしまうギリギリの勝負に息をのむ。

 

 スリーワイドでのブレーキング勝負はイン側の後輩が競り勝ち先頭へ出、アウトから入った装蹄師の男はコーナー後半でマルゼンスキーとラインクロスして加速で前に出た。

 

 観覧ウマ娘たちから思わず感嘆のため息が漏れる。

 

「あれ…マルゼンスキー先輩、怖くないのかしら」

 

 ダイワスカーレットが冷静な声音で、それでも興奮を隠しきれずにひとりごちる。

 

「…信頼、してるんでしょうね…お互いの腕前を…」

 

 東条ハナがバトルを見て熱くなっている娘たちを横目にため息まじりに応じた。

 

 

 

 

「はぁ~…もう、ヤになっちゃう!スリップの先頭なんて貧乏クジ引かせて…」

 

 模擬バトルを終えたマルゼンスキーがヘルメットを脱ぎながら苦笑いをしている。

 

「すまんすまん…でもあのブレーキング勝負、真ん中で引かずに張り合ってくると思わなかったよ。ウデ上げたなぁ」

 

 装蹄師の男が楽しそうに笑いながらマルゼンスキーに応じる。

 

「いや…先輩えぐいっスわ…最初のプレッシャーのかけ方、性格悪いっス…」

 

「みんな見てたか?要は無茶な動きはしない、抜きにかかられたら無理に競りかけたりブロックせずにいかせる、そして後ろから次の機会をうかがう、これを意識してるだけで無駄なクラッシュはだいぶ減るぞー」

 

 模擬バトルというオーバーテイクショーを見せられたウマ娘たちは、一様にテンションを上げつつも、熱い心に冷たい頭脳、という男の言葉を胸に刻んだ。

 

 

 

 




今回はとりあえず一言でも全員しゃべらせてみる試みです笑
むずかしいですね…


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閑話3:マルゼンスキーの権利行使(予選結果と決勝準備)

ご無沙汰しております。
ようやく仕事が少しだけ落ち着きましたので投稿再開いたします。
これまでで一番長いこと時間をあけてしまったので、若干内容・文体ともおかしな点があるかと思いますがリハビリにお付き合いください。

引き続きお付き合いの程、よろしくお願いいたします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男たちによる模擬バトルのあと、練習走行で走るウマ娘たちのスキルはみるみる向上した。

 

 さすがというべきか現役アスリートであるウマ娘たちである。スピードに慣れ、理屈を体で理解してしまえば、習熟は早い。

 

 練習走行後にほとんど間をあけずに行われた30分間の予選結果が、彼女たちのポテンシャルを示していた。

 

 

 

【予選結果】

 

 

PP:マルゼンスキー

2:後輩

3:トウカイテイオー

4:装蹄師の男

5:シンボリルドルフ

6:サイレンススズカ

7:グラスワンダー

8:フジキセキ

9:ウオッカ

10:ダイワスカーレット

11:ヒシアマゾン

12:エルコンドルパサー

13:沖野

14:エアグルーヴ

15:東条ハナ

16:メジロマックイーン

17:ゴールドシップ

18:スペシャルウィーク

 

 

 1/1000秒まで測られる計測システムであるから、残酷なまでに順位の上下として表現されてしまうが、ポールポジションを獲得したマルゼンスキーがそこそこの経験者であるにもかかわらず、1周1分もかからないこのコースで、トップからドンケツまでのタイム差は3秒を切っていた。

 

「先輩、これレベル高ぇっすよ…この娘ら、ほんとにみんな初心者なんスか?」

 

 後輩が掲示されているタイムを見ながら頭を抱えている。

 

「もうちょっとこう、速いとこ見せつけてカッコつけれると思ったのに、俺全然余裕ないっスよ。全力っスよ」

 

 装蹄師の男もまさかこれほどまでに彼女たちが飲み込みが早いというのは想定外であった。

 

「やっぱすげーわ、ウマ娘…」

 

 装蹄師の男もこの結果には脱帽であった。

 

 

 

 予選順位がついたからには決勝レースのペアも決まってくる。

 

 それを整理すると次のような組み合わせになった。

 

 

 

【決勝 ペア耐久60分レース 出走ペア】

 

PP:1/18 マルゼンスキー / スペシャルウィーク 

2/17 後輩 / ゴールドシップ

3/16 トウカイテイオー / メジロマックイーン

4/15 装蹄師の男 / 東条ハナ

5/14 シンボリルドルフ / エアグルーヴ

6/13 サイレンススズカ / 沖野

7/12 グラスワンダー / エルコンドルパサー

8/11 フジキセキ / ヒシアマゾン

9/10 ウオッカ / ダイワスカーレット

 

 

「…なんか既視感のあるコンビがちらほらいるなぁ」

 

 コントロールタワー下に張り出された組み合わせ表を見ながら沖野が呟く。

 

「ちょっと競バ新聞みたく短評つけてみてよ。トレーナー目線で、ネ♪」

 

 マルゼンスキーが沖野に水を向けたところ、ウンウンと唸りながらもさらさらと書いていく。

 

 

PP:マルゼンスキー / スペシャルウィーク 組 

 卓抜した技量で逃げるマルゼンスキーに天性の素質で尻上りに調子を上げるであろうスペシャルウィーク。レース中盤以降にスペが感覚を掴み切った後の爆発力に期待。

 

2:後輩 / ゴールドシップ 組

 速さと経験は折り紙付きの後輩氏と奇抜卓抜天才ウマ娘ゴールドシップ。ゴルシが予選タイムで振るわなかったのはドリフトして遊んでいたから。後輩氏が御しきれればペアでの速さはピカイチか。

 

3:トウカイテイオー / メジロマックイーン 組

 天才的な順応性で予選上位に食い込んだトウカイテイオー。ステイヤー気質のマックイーンが安定した走りでラップを刻めば上位フィニッシュも見えてくる。

 

4:装蹄師の男 / 東条ハナ 組

 まさかまさかのヒト同士の組み合わせ。並みいる強豪ウマ娘たちを知り尽くした東条ハナの冷徹な分析力でレースでも活路を見出せるか。

 

5:シンボリルドルフ / エアグルーヴ

 生徒会コンビがサーキットでも神威を見せつける。普段からの息の合ったコンビネーションで耐久レースもお手のモノ?

 

6:サイレンススズカ / 沖野

 今を時めくURAのスター&トレーナーコンビ。お互いを知り尽くした師弟コンビでサーキットでも先頭の景色は譲らない!?

 

7:グラスワンダー / エルコンドルパサー 組

 同級生でライバルの二人がここではペアでレースに挑む。グラスの冷徹無比な一閃とエルのパワフルな攻めの走りでトゥインクルシリーズ世代交代の時を告げるか。

 

8:フジキセキ / ヒシアマゾン 組

 期せずして寮長ペア結成。フジキセキの魔法のように洗練された走りと、情熱溢れる特攻姐さんヒシアマゾンのワイルドなまくりで寮生たちに威厳を見せるか。

 

9:ウオッカ / ダイワスカーレット 組

 普段から競い合うライバル同士が手を組んだ!予選でも競り合って仲良くタイムが並んでしまう珍事発生。両者力量が揃っているのはペアレースでは有利!

 

 

 

「ふむ…上手いものだな」

 

 沖野が書き上げた短評をシンボリルドルフが読んでいる。

 

「は…恐縮です」

 

「おおぉ!トレーナーやめても記者で食っていけそうな切れ味だなぁ?」

 

 ゴールドシップは軽く沖野を揶揄う。

 

「…カンベンしてくれよぉ。この仕事を取り上げられるくらいなら、一切この世界から足を洗うさ」

 

 そう沖野は返すと、サイレンススズカとレースの打ち合わせをするべく、その場を離れた。

 

「さてエアグルーヴ、レース運びはどうしたものかな」

 

 シンボリルドルフは傍らに控えていたエアグルーヴに問いかけた。

 

「そうですね、ルールでは連続走行は15分まで、と定められていますから、最低でも3回は交代が必要ですし…」

 

 エアグルーヴはレギュレーションに定められた内容を考慮し、常識的な作戦を立てる。

 

 レギュレーションは至って簡易なものであった。

 

・ドライバー1人の連続走行時間は15分まで。15分以上連続走行した場合は1分につき1周減算のペナルティ。

・ドライバー交替はオフィシャルに申告、確認の上安全に行う。

・ピットアウト指示は他車との接触など偶発事故を避けるため、オフィシャルが行う。

・給油は指定された場所でオフィシャルが行う。

・給油できるカートは2台まで。それ以上に指定場所に並んだ場合は待たなくてはいけない。

・給油量は指定することができるが、事前申告が必要。申告なき場合は満タンまで給油される。

・タイヤ交換等必要な場合はオフィシャルに申告、作業を依頼することができる。

 

 簡易なルールで、1台に1人付けられるメカニックが各チーム付のオフィシャルを兼務することになっているため、タイヤ交換以外の不意のトラブルにも対応できるような仕組みになっていた。

  

「…走るペースはともかく、ピットでのドライバーチェンジと給油でタイムロスすることは避けたいですね。仮にドライバーチェンジが1分のロスタイムと仮定して考えると…」

 

 エアグルーヴが簡易に走行時間を書き出す。

 

スタート→15分+1分→31分+1分→47分+1分→ゴール

 

「ここに、給油が入るのかもしれませんが、それが必要になるタイミングがわかりませんので…仮に30分経過時に入れるとすると、以降がそのロスタイム分後ろに倒れることになりますから…」

 

「…最終ドライバーの走行時間が減るな」

 

 エアグルーヴの滔々とした説明を聞きながら、シンボリルドルフは整った顔に知性を宿らせている。

 

「はい。二人ペアで交互交代ですから、予選タイムに優れる会長でスタートしていただければ、3回交代ならば会長に30分の走行時間をフルに使っていただくことができます」

 

「ふむ…スタートドライバーを10分にして、変則にしてみると…ピットが混む前に交代していけるのでは?」

 

 エアグルーヴは打てば響く頭脳の持ち主だ。シンボリルドルフの意図を汲み早速戦略を練り直す。

 

 スタートまで少し間のあるこの時間帯、あちこちでどのように走るかの打ち合わせがそれぞれのペア同士で行われていた。

 

 

 

「…で、私たちはどうするわけ?」

 

 男は積載車から降ろした自分のクルマにもたれかかりながら、少し離れたところでそれぞれに打ち合わせをするウマ娘たちを眺めていた。

 

 そして煙草を吸いつつペアとなった東条ハナと向かい合っている。

 

 おハナさんは着慣れているはずのないレーシングスーツ姿でも、些かメリハリの付き過ぎた肢体を惜しげもなく披露していた。

 

「どうもこうも、ねぇ…勝ちたい?おハナさん」

 

 男は煙草を吸い込みながら横目で東条ハナを見る。

 

 彼女はどこか思いつめたような表情に見えた。

 

「身体能力で及ばないのは仕方ないけど…トレーナーとして情けない順位にはなりたくないわね」

 

 東条ハナはこのメンバー唯一のヒトの女性であり、走行シーンを見るとやはり体力的に華奢であった。

 それでも予選でビリとはならないあたり、物事に順応する能力はかなりのものと言えた。

 そして今はトレーナーとしてのプライドか、教え子たちに無様な姿を見せたくない、という思いからくる不安で表情を曇らせていた。

 

「…勝ちたい、とは言わないんだねぇ」

 

 男はゆっくり煙を吐きだす。

 

「…これでもリギルを率いているのよ。遊びとはいえ勝てない戦いで勝つなんていうほど、無責任でもないわ。彼女たちの走るレースなら、それを実現するためのトレーニングやレース戦略のノウハウもあるけれど…ここでは私も初心者よ」

 

 東条ハナはそう言うと、はぁ、とため息をついた。

  

「おハナさんが勝ちたいっていうんなら、勝たせるけど」

 

 東条ハナは男のその言葉に厳しい視線を向けた。

 

「…どう考えても私が足を引っ張ってしまうわ。無責任なこと言わないで頂戴」

 

 装蹄師の男はため息をつくと、クルマからノートとペンを取り出しておハナさんに説明し始めた。

 

「ルールはこうだろ。だからドライバーチェンジをこういうふうに回していって…」

 

 男は頭の中で組み立てていたプランを図にして説明して見せる。もちろんペアが東条ハナであることを要素に加えたプランだ。

 

「…まぁ正直綱渡りだし、ギャンブル性が高い。それでもこれをこなせれば、勝機はあると思うんだけどね」

 

 男は一通り説明すると、新たな煙草に火を点けた。

 

「あなた…大人げないわね…」

 

 東条ハナの言葉に、男はにやりと笑って答えなかった。

 

 

 




閑話がなかなか終わらず大変申し訳ございません。
次くらいでまとめ切りたいところです。


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閑話4:マルゼンスキーの権利行使(決勝レースその1)



次でまとめるといったな!


あれは嘘だ!




…すいません私の趣味丸出しで書いていたらとんでもなく長くなってしまっておりまして。
取り急ぎ、ご笑納ください。。。



 

 

 

 スタート10分前にはコースがオープンになり、グリッド上に各チームのマシンが並べられる。

 

 グリッドに揃うウマ娘たちは、彼女たちの競走本能に従い、遊びと言えども一様に真剣な表情を浮かべている。

 

「まったく、この娘たちは底知れないわね…」

 

 東条ハナは彼女たちのその表情を見て、呟く。

 

「いいじゃないか。まっすぐで、純真で、勝負に真剣。だからこそ、彼女たちのレースはヒトを惹きつけるんじゃないか?」

 

 装蹄師の男は普段、学園ではまず見ることのできない機嫌の良さで、東条ハナと並んでその光景を見ている。

 

 男の数少ない趣味である四輪での競技に、少年のように目を輝かせている、そのように東条ハナには映った。

 

「羨ましいわね。彼女たちを見ていると、私たちがどこかに置き忘れてきてしまったものを見せつけられている気分だわ」

 

 やや浮ついている男を尻目に、東条ハナは明日か明後日に出来するであろう筋肉痛を懸念する表情でため息をついた。

 

「…そういえば、俺らのペアだけ平均年齢が異様に高いもんなぁ…」

 

 男はそういうと、粘度の高い視線で東条ハナを頭の先からつま先まで、じっくりと舐めまわすように見つめた。

 

「…その視線だけで、本来であれば裁判したら勝てそうね」

 

 咎めるような言葉ではあったが、声音は柔らかい。

 

「へへっ…そういうなよ。似合ってるぜ、おハナさん」

 

 装蹄師の男は若返ったかのような溌剌とした笑顔でごまかす。東条ハナも他ならぬ男から似合っている、と言われれば悪い気はしない。

 

「…ま、いっちょ大人の力量ってやつを見せつけてやるとしようか。おハナさん、事前の打ち合わせ通りで」

 

「…わかったわ」

 

 ヘルメットを被ったおハナさんとレーシンググローブ越しにがっちりとした握手を交わすと、男はおハナさんを残しグリッドを離れた。

 

 

 

 

「…まったく、見せつけてくれるじゃないか」

 

 装蹄師の男の斜め後ろのグリッドについていたシンボリルドルフが耳をヒクつかせる。

 

「ええ…おハナさんといえども…あのポジションで居られるのは、その…複雑な気分になりますね」

 

 ヘルメットを被って用意を整えていたエアグルーヴも、シンボリルドルフに同意する。

 

「まぁ、兄さんが楽しそうなのは何よりだが、な…さすがにペアを狙うとしても予選順位まではコントロールしきれないな」

 

 シンボリルドルフはここのところの思うようにはいかない装蹄師の男との距離感、そして今日も今のように微妙に当てられているかのような光景を見せつけられてしまっていることに苦笑いをせざるを得ない。

 

「…我々は負けることには我慢なりませんからね。せめてこの鬱憤は、レースで晴らすほかないでしょう。たとえ先生が相手だとしても」

 

 エアグルーヴは諦観にも似た無表情ながらも、その瞳には静かな闘志を宿して応じた。

 

「ならばやはり、負けられないな。頼むぞ、エアグルーヴ」

 

 生徒会コンビは突き出した拳を合わせて、健闘を誓った。

 

 

  

 装蹄師の男がピットウォールに戻ると、スタートドライバーではないウマ娘たちが一様に並んでコースを見つめていた。

 

「あれ。先輩、スタートやらないんスか」

 

 後輩が話しかけてくる。

 

「あぁ。ってお前もかよ」

 

 後輩もヘルメットを被らずにこちら側にいるということは、セカンドドライバーになっているということだった。

 

「ゴールドシップさん、スタートのゴタゴタが楽しいんだろーって聞かなくて。まぁお遊びレースだし、譲ったっス」

 

 男はそれを聞いて苦笑する。

 いかにもゴールドシップらしい話ではあるが、男はひとつ懸念を思い出す。

 

「あいつのスタート、めっちゃ下手だぞ多分。なぁ、沖野」

 

 男はすぐ隣に居た沖野に水を向ける。

 沖野は聞こえぬふりをして明後日の方向を向いていた。

 

「えぇ…マジっすか…やらかしたかも…」

 

 後輩は心配そうにグリッドを見やる。

 レースのスタート手順は粛々と進んでいた。

 

 

 

 コース上では各車エンジンスタートの指示があり、スタート前に一周のフォーメーションラップが入る。

 

 ゆっくりとフィーリングを確かめるように各車1周回って戻ってくると再びグリッドに着く。

 最後尾がグリッドに着き、停止したことをオフィシャルが確認すると、最後尾でフラッグが振られる。

 

 ほどなくシグナルにひとつめの赤ランプが灯った。

 スタートシグナルはF1式だ。

 

 赤ランプがひとつひとつ灯るごとにエキゾーストノートが高まる。

 

 5つの赤ランプがすべて点灯し、消灯。

 

 各車一斉にスタートを切った。

 

「あぁ~っ!」

 

 後輩の叫び声が虚しく響く。

 2番グリッドのゴールドシップが派手にタイヤスモークを上げてホイールスピン、出遅れた。

 後ろはわかっていたかのように綺麗に避けていき、特に問題はないようだ。

 

 東条ハナも綺麗にアウト側に避けて1コーナーへ飛び込んでく。

 ポールショットを奪ったのは予想通り、マルゼンスキーだ。

 

 以下、トウカイテイオー、サイレンススズカ、エアグルーヴ、東条ハナ、グラスワンダー、フジキセキ…と続いていく。ゴールドシップは最後尾まで落ちた。

 

「さすが、サイレンススズカのスタートの集中力はピカイチだな」

 

 男は呟く。ゴールドシップのスタート失敗があって乱れたとはいえ、抜群の集中力で3つもポジションを上げている。

 

「おいおい、人のことよりそっちはいいのか?おハナさんズルズル下がってるぞ」

 

 沖野は相変わらずキャンディを加えながらコースを見つめている。

 

「まぁ、大人だからさ。じっくりいくよ」

 

 装蹄師の男は不敵に笑うだけだった。

 

 

 最終コーナーを回って1周目のストレートを駆けてくる。先頭はマルゼンスキーだが2位3位のトウカイテイオーとサイレンススズカは最終コーナーでサイレンススズカがインを突き、ホームストレートを2台で並んで駆けていく。

 

「スズカ、いけぇっ!」

 

 沖野はこの時ばかりはチームトレーナーとしての立場を忘れてスズカを推していた。

 

 その沖野の言葉に応えるように、サイレンススズカはストレートエンドのブレーキング勝負でテイオーに競り勝ち2位に浮上するのみならず、マルゼンスキーを猛追していく。

 

 東条ハナはスタートからポジションを落として、グラスワンダーの後ろにぴったりと付けていた。

 

「兄さん…手加減しているつもりかい?」

 

 シンボリルドルフが男に話しかける。

 

「まさか。おハナさんは言ってもヒトの女性だからね。身体的負担がデカいカートじゃ、なかなか厳しい。でも、ルナたちにあっさり負けるつもりはないよ」

 

 装蹄師の男は上機嫌に笑いながら、饒舌に語る。そして人差し指で自らの頭をトントン、と指し示して見せた。  

 

「…なるほど。頭で勝負という訳か。楽しみにさせてもらうよ」

 

 男の言葉にそう返すとルナではなく皇帝、シンボリルドルフの表情で余裕たっぷりに微笑んだ。    

 

 

 コース上で東条ハナは襲い来るGと格闘しながら、グラスワンダーの後ろにぴったりと付け、様子を伺っている。

 

 男からのオーダーはさして多くない。

 自分の力量でついていける相手を探して、引っ張ってもらえ。

 

 その打ち合わせの時に男が目安として挙げたのがグラスワンダーだった。

 

 男が言うにはグラスワンダーの走りには無駄がない。

 

 予選タイムも目立ちはしないがしっかり上位に食い込んでおり、走行ラインも安定していて練習走行時からタイムのブレ幅が少ないというのがその理由だった。

 

 そして何よりも、彼女はエネルギー効率がいい走りをしているらしい。

 

 すなわちそれは、無駄にブレーキを踏まず、無駄にアクセルを踏んでいない。

 

 それこそがこのレースの肝になる部分だ、と男は言っていた。

 

 上位陣は抜きつ抜かれつのバトルを繰り広げていることが、ホームストレートを通るたびにかわる順位表示から知れる。

 

 ことモータースポーツ初心者である東条ハナは、男の指示を信じて淡々とこなしていくことに徹していた。

 

 

 

 レーススタートから数分。

 ホームストレートの電光掲示板は5周の経過を示し、現在の順位は以下のように表示していた。

 

1:サイレンススズカ

2:マルゼンスキー

3:トウカイテイオー

4:エアグルーヴ

5:ゴールドシップ

6:グラスワンダー

7:東条ハナ

8:ウオッカ

9:フジキセキ

 

 1位から3位までは常にバトルを繰り広げており、周回するごとに習熟度を増すウマ娘たちの能力がフルに発揮されていた。

 

 4位以下は最下位から猛チャージで順位を上げていくゴールドシップ以外は比較的淡々と走っていたが、各車先頭とのタイム差を見ながら離されないようにしているようだ。

 

「さて、そろそろかな…」

 

 男は備え付けのサインボードを準備し、ヘルメットをかぶる。

 

「HANA PIT ←」

 

 その動きに気づいた後輩が寄ってくる。

 

「え、先輩、もう交代っすか?」

 

「まぁな。おハナさんじゃスタートの緊張感から15分はキツいだろ」

 

「はぁ…そういうもんすかねぇ…捨てレースにしてももうちょっと作戦あるもんじゃないですか?」

 

 男はヘルメットの中でにやりと笑う。

 

「誰がレース捨てたって言ったよ。まぁ見とけ」

 

 男はホームストレートを通過するおハナさんにサインボードを出す。

 

 東条ハナは手を軽く上げて了解の合図を示した。

 

 男はオフィシャルに次の周でのドライバー交替を告げ、待機に入る。

 

 

 まだレース開始から5、6分でピットに入ってきたカートを見た一同はざわついた。

 

 男が東条ハナの手を引いて立ち上がらせ、お疲れさん、とばかりに背中を軽くたたく。

 

「トップは熱くなってやりあってるみたいね。コース上は今のところ異常なしよ」

 

「了解。しっかり水分とって休んで。一応コース上の経過タイム見てるけど、15分経つ前にサインは出して」

 

「わかったわ。気を付けてね」

 

 ヘルメットをぶつけんばかりの近さでコミュニケーションを取っている二人に周囲の好奇の視線が集まっている。

 

 しかしそれには気づかず男はさっとカートに乗り込むとオフィシャルの指示に従いカートを発進させた。

 

 それを見送って東条ハナはヘルメットを脱ぐ。

 

 いつもはポニーテールでまとめられている後ろ髪が艶めいておろされ、中から滅多にみることのできない大量の汗を流している東条ハナが現れる。

 

 オフィシャルから手渡されたよく冷えた水のペットボトルをごくりと一口飲み込むと、唖然と彼女たちを見ていたウマ娘たちの存在を認識した。

 

 シンボリルドルフが耳をひくつかせていることに気づく。

 

 自らの今しがた行われた男との極近距離のやりとりを客観的に思い出し、走行により赤らんでいた顔がさらに上気する思いがした。

 

 

 

 男はピットアウトし本コースに合流しながら後ろを見た。

 

 ロスタイムはほぼ事前の予想と違わないようで、合流加速をする横をトップ争いをしている3台と、その後ろで少し間を取っていたエアグルーヴが追い越していく。

 

 ちょうどトップから1周差となり、ピットインの段階で半周少し差を付けられていたことからするとほぼ計算通りのポジションとなった。

 

 もちろん順位としては最下位だ。

 

「よしよし。競り合え競り合え」

 

 上位の競り合いを後ろから見ながら、男は半周ほどでマシンの感覚を掴みなおすと、ストレートでキャブレターのノブを少しだけ回して調整を施し、前を走るエアグルーヴと間合いを図りだした。

 

 

 レーススタートから13分を経過した頃、ピットはにわかに騒がしくなる。

 

 連続走行は15分までの規定に則り、皆が交代の準備に入ったのだ。

 

 各ペア、ピットインのサインを出し、あわただしくヘルメットとグローブを装着し、ピットインを待つ。

 

 皆が同じように動いた結果、上位4台が連なったままピットになだれ込んでくる。

 

 そしてそれぞれのピットで交代をしているときに、さらに後続がピットイン。

 

 ピットインとピットアウトが交錯し、オフィシャルが発進を制止するマシンまで出る。

 

 混乱しながらもドライバー交替を終えたマシンたちがコース上に復帰していく。

 

 各車ピットインでクリアになっているコース上を駆ける装蹄師の男。

 

 全車がピットインを終えた時、最後尾にいたはずの男の順位は4位まで回復していた。

 

 

 

「これはまずいかもしれないぞ…」

 

 最初に気づいたのは沖野だった。

 

 セオリー通りに15分刻みの交代を計画しているが、先ほどのピットの混乱でのタイムロスは無視できない。

 

 しかもこの先、残燃料も気にしながら、必要があれば残る2回の交代タイミングのどちらかで給油しなければならない。

 

 ドライバーチェンジのタイミングだけでなく、給油タイミングでも混雑してしまえば、最初からセオリーのタイムスケジュールから外してきた装蹄師の男と東条ハナのペアをその間悠々と走らせてしまう。

 

 この事実を踏まえて作戦を組み立てなおさないと負けるかもしれない。

 

 そこまで気付いたまではよかったが、今現在、沖野はセカンドドライバーとしてコースを走らせていた。

 

 スズカも当然、次のピットタイミングは15分後として休憩と準備をするだろうし、戦略の変更をするにしても伝達手段がなかった。

 

 つまり計画をいじるとしてもレース後半の30分に入ってから。

 

「これはちょっとナメてかかり過ぎたかもしれんぞ…」

 

 沖野はステアリングを握り、アクセルを踏みつけながら焦り始めていた。

 

 

 

 装蹄師の男は淡々と周回を続けている。

 

 ホームストレートエンドに設置された電光掲示板ではコントロールラインを通過したタイムが表示される仕組みになっており、前の周回のタイムを確認しながら走ることができる。

 

 男のペースは決して速いわけではなかったが、遅いとも言えない、トップから約1秒落ちのラップを刻んでいる。

 

 そしてそのタイムが、男が毎周コントロールラインを通過してもほとんど狂わないことに気づいたのはゴールドシップだった。

 

「おっちゃんやべえよ!これで5周も1/10秒単位で同じタイムで走ってるぜ!アイツ腹ん中に時計でも埋め込んでんのか?」

 

 いつも通りルービックキューブをこねくり回しながらピットウォールで騒ぎ立てる。

 

 絶対的天才美ウマ娘ゴールドシップはせわしなく指先を動かしながら思考を巡らせる。

 瞬時、脳内である予測が組み上がる。

 

「…やっべ!このままじゃ絶対負けんじゃねーか!」

 

 組み上がらないルービックキューブを放り出したゴールドシップはサインボード代わりのホワイトボードに大書きして、ストレートを走る後輩に迫力たっぷりに提示した。

 

 

[ 死ぬ気で飛ばせ! ↑ じゃないと負ける! ] 

 

  

 サインを見た後輩は一瞬戸惑ったが、前周でチェックしていた装蹄師の男のラップタイムが変わっていないことにストレートエンドで気づく。しかし周回数カウントだけは、ひとつ増えている。

 

「…くぁ~…先輩、いきなり乗ったクルマでもこの芸当、できるんすか…まっずいなぁ…ゴールドシップさんもよく気付いたなぁ」

 

 後輩はゴールドシップからのサインを誤解せずに理解し、猛然とペースを上げた。

 

 

 ピットではゴールドシップのところにウマ娘たちが集まっている。

 

「だからぁ!おっちゃん完全に計算ずくでレースしてんだよ!おハナさんのラップタイムもピットロスもぜーんぶ計算にいれて、自分は時計みたいに正確にラップ刻んで!このままだと負けるぜ!そうなんだろ!東条トレーナー!」

 

 ゴールドシップの元に集まっていたウマ娘の視線が一斉に東条ハナに集中する。

 

「…私にはわからないわ。私は、あの人の指示に従って走るだけよ」

 

 東条ハナは無表情に返す。

 

「…つまり、ウサギとカメ、というわけか…」

 

 エアグルーヴがぼそりと呟いた。

 

「…なら、全力で走り続けるウサギの方が速いって証明しなくちゃね♪」

 

 マルゼンスキーがペースアップ指示のサインボードを用意しだす。

 

「ウマ娘が速さで負けちゃあ、ダメだよね!」

 

 トウカイテイオーもそれに応じる。

 

 瞬く間にピットウォールからのサインは、一様にコース上を走る娘たちに対してペースアップ指示一色となった。

 

(…どうするの…あなたの計画はレースの三分の一でバレちゃったわよ…)

 

 東条ハナは動揺しながらも、それを悟られまいと振舞いながら近づく交代のタイミングに備えてヘルメットとグローブを装着し、その時に備えた。

 

 




レース書いてると辻褄合ってるのか不安になりまくりで大変難しく…
たぶん気付かぬ粗もあるかと思いますが、まぁそんなもんかの精神でよろしくお願い致したく…。


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閑話5:マルゼンスキーの権利行使(決勝レースフィニッシュ)

 

 

 

 

「アンタの計画、バレちゃってるわよ!」

 

 スタートから22分ごろにピットに入ってきた装蹄師の男の手を掴んで引っ張り上げ、ヘルメットを近づけて東条ハナは声を張り上げた。

 

「あぁん?気にすんな!おハナさんは予定通りに、運動エネルギーを無駄にしないように走ってくれれば、あとはこっちで何とかする!」

 

 男はそれだけ伝えると、東条ハナを送り出した。

 

「さすがに15分は堪える…」

 

 ヘルメットを脱いだ男は汗だくだ。

 

「先生、やってくれたわね~」

 

 楽し気に話しかけてきたのはマルゼンスキーだ。

 

 よく冷えたミネラルウォーターを投げてよこす。

 

「ありがと。さすがにカートはしんどいわ…」

 

 キャップを捻り、500mLの水を一気に飲み干す。

 

「みんな、カメには負けないって強気のペースアップよ」

 

 ピットに入る数周前、一斉にペースアップ指示が出たことは男もコース上で確認していた。

 

「おう。飛ばせ飛ばせ。俺がやってるのは弱者のレースだよ。ウサギとカメならぬウマ娘とニンゲンがどうなるか、結果はお楽しみだな」

 

 男はそこまで告げると、コントロールタワー脇に設けられた灰皿に向かって歩き始めた。

 

 

 

 男は一服しながらレースを眺める。

 

 もうすぐスタートから30分。皆は2度目のドライバー交替に入る。作戦によってはここで給油するチームもあるだろう。

 

 男たちが2回、それ以外が1回のピットをこなしたところで、順位は

 

1:シンボリルドルフ

2:マルゼンスキー

3:沖野

4:後輩

5:メジロマックイーン

6:東条ハナ

7:ダイワスカーレット

8:ヒシアマゾン

9:エルコンドルパサー

 

 となっていた。

 

 ピットタイミングで出入りが交錯し割を食う形となったエルコンドルパサーが順位を下げ、またピットからのアウトラップで気合が乗り過ぎハーフスピンを喫したヒシアマゾンが浮上のきっかけを掴めずにいる。

 

 トップではマルゼンスキーとシンボリルドルフが鍔迫り合いを続けながらも予選タイムに迫る勢いでラップを刻んでおり、その後ろでなんとか食いついている沖野を後輩が抜くタイミングを伺っていた。

 

 少し離れてメジロマックイーンは東条ハナをパスして5位に浮上し、おハナさんはダイワスカーレットにもつかまりそうな気配だ。

 

「まぁ…想定の範囲内かな…」

 

 1周あたりのラップタイムはトップの2台からおよそ2秒から3秒離されている東条ハナ。

 このペースで15分走るとこのコースで約16周走ることができ、その間にトップと離れる秒数は最大でも48秒ほどとなる。

 

 装蹄師の男はこれを十分に挽回可能な範囲と踏んでいた。

 

 むしろ今、男が気にしていたのは次の交代時にどの程度、タイヤが消耗しているか。

 

 しかしそれも、外から見る限りアドバイスを忠実に守って走ろうとしてくれているおハナさんを見る限り、問題はなさそうだ。

 

「あとは俺次第、ってとこかね…」

 

 男は煙草を煙缶の縁でもみ消すと、ピットに足を向けた。

 

 

 ピットでは通常のタイムスケジュールだとドライバー交代のタイミングであるスタートから30分を目前に控え、各ピットではヘルメットを被ったウマ娘たちが準備を整えつつあった。

 

 男とおハナさんのペアは今回はおハナさんに15分引っ張ってもらう計画で、次の交代はスタートから36~37分ごろに予定されており、今しばらく余裕がある。

 

 ピットウォールから眺めるウマ娘たちの走りは、今朝初めて乗った者が大半とは思えぬほど研ぎ澄まされた走りに昇華されてきており、彼女たちの底知れぬポテンシャルを感じさせる。

 

「こりゃーそのうちニンゲンのレーシングドライバーも凌ぐヤツが出てくるなぁ…」

 

 男はその様子を眺めながら上機嫌にニヤついていると、コース上から続々とウマ娘たちがピットになだれ込んできた。

 

 ドライバーチェンジも手慣れたもので、それぞれが補助し合いながらひらりと乗り込み、ある者はそのままコースに戻り、ある者は給油ポイントまで進めて給油を受ける。

 

 タイミング悪く給油ポイント2台分が埋まってしまって待たされるマシンも出てきてしまっていた。

 

 それでもうまく切り抜けてロスなく出ていったと思われるのはシンボリルドルフ/エアグルーヴ組と、後輩/ゴールドシップ組だ。

 

(やはりこいつらとの勝負になるか…)

 

 男は戦況を眺めながら、彼女たちがホームストレートへ戻ってきて順位が定まるのを待った。

 

 2回目のドライバー交替と給油を終え、順位が整理されると、以下のようになる。

 

 

・スタートから34分経過

1:東条ハナ     トップとの差

2:サイレンススズカ  +15秒  

3:ウオッカ      +18秒 

4:フジキセキ     +25秒 

5:マルゼンスキー   +27秒 給油済み 

6:ゴールドシップ   +28秒 給油済み

7:エアグルーヴ    +32秒 給油済み

8:トウカイテイオー  +44秒 給油済み

9:グラスワンダー   +46秒 給油済み

 

 2回目のピットインで給油しなかった下位チームが上位に浮上し、上位を走っていたチームが給油で時間を食って順位を下げた格好になっていた。

 

 このうちマルゼンスキー/スペシャルウィーク組と後輩/ゴールドシップ組、そしてシンボリルドルフ/エアグルーヴ組の3台は給油量を指定していたため満タンほどには給油時間がかからずピットアウトすることに成功している。

 

 そしてなにより驚くのが、ここまで30分レースを戦ってきて、どのペアも周回遅れにならず、接戦を演じ続けていることだ。

 

 恐るべきウマ娘たちの順応力、さすが中央トレセン学園に在籍している優駿たちだけのことはある。

 

 男はそんな彼女たちを相手にしていることに改めて恐怖し、そして畏敬の念を抱きながら、自らが今後予定している展開と現実を脳内ですり合わせた。

 

 無事に戻ってきてくれさえすれば、そこからの男の持ち時間15分が勝負の分かれ目になる。

 

 ラップモニターを見ながら思索に耽っていると、不意に声をかけられる。

 

「…本気の兄さんの走りと、直接バトルはできないようだね…」

 

 降りてきたばかりで輝く汗が美しい横顔を男にみせつけるように、シンボリルドルフがラップモニターを見つめながら呟いた。

 

 確かにルナとコース上でまみえる時間は少ない。

 しかしそれはこのレースの仕組み上、仕方のない話ではあった。

 

「確かに直接はそうかもしれんけどな…レースに対しては最初っから全力で本気だぞ」

 

 男はにやにやしながらルドルフに返す。

 見れば、いつもの兄が見せる表情とは違う、まるで競走を楽しむ子供のような表情。

 シンボリルドルフはよく見知ったはずの男の中に、これまで知らなかった表情を見つける。

 

「…今度は私と二人で勝負してくれるかな?」

 

 シンボリルドルフは今度はモニターではなく、装蹄師の男をしっかりと見つめて言った。

 

 ルナの表情こそ、いつも相対するときと変わらず、優雅な雰囲気を醸していた。

 しかし瞳からは、切なくなるほどに懇望するような色が浮かんでいる。

 

 男はルナの瞳の色に、心拍がひとつ大きくなるのを感じた。

 

 慌てて目をそらす。

 

「…皇帝に挑戦されたとあっちゃあ男子たるもの、否応もあるまいよ…そもそも、妹の願いは可能な限り聞くようにしてるんだ、俺は」

 

 視線をそらしたままぼそぼそとそう言い、ヘルメットを被ってチンストラップをDリングに片手で器用に通し、グローブをはめる前の手でシンボリルドルフの髪をくしゃりと撫でてやる。

 

 そのまま男は身を翻し、所定のピットへと向かった。

 

 そのシーンを少し離れたところで目撃した沖野と後輩は、二人で顔を見合わせたのち、天を仰いだ。

 

 

 

 

「おハナさんお疲れ!よくやってくれた!」

 

 ピットに戻ってきた東条ハナの腕をとってひっぱりあげて立たせ、男は声をかける。

 

 さすがに15分の連続走行は厳しかったと見え、腕は小刻みに震えていた。

 

「あと1回、最後8分くらいだけ乗ってもらうから、なんとか回復しておいて!」

 

 息も上がり切って返事もままならない様子の東条ハナをオフィシャルに託し、男はピットアウトしていく。

 

 給油は無しだ。

 

 走りながら残燃料を確認する。

 

 残りは35~40%といったところ。

 

 エンジンはやや過熱気味で、それは先ほど男の乗っていたタイミングで燃費を伸ばすためにキャブのセッティングをいじり、燃料の混合比をやや薄めにしたことが影響している。ただ、パワー感には変化は感じられないから、まだもう少し無理が効くだろう。

 

 それにおハナさんは男のオーダーをしっかり守ってくれたようで、タイヤは十分に残っている。

 

 順位は交代により下がり、7番手。トップとの差は約25秒といったところ。さきほどの男の想定になおせば、40秒ほどのロスで戻ってきてくれたということになる。

 

 これならば、十分に勝ち負けするレベルに持っていける。

 

 男はモードを切り替え、猛然とコーナーを攻め始めた。

 

 

「なぁ…アイツ、ペース上がってきてねえか?」

 

 ウマ娘たちとラップモニターを見ながら沖野は後輩に尋ねる。

 

「…上がってきてるっスね…さっきのスティントよりコンマ5くらい上げてきてるような…」

 

 装蹄師の男がホームストレートを6位のエアグルーヴにぴったり張り付いて駆け抜けていき、タイミングモニターが更新される。

 

「…うっわ。前の周回より2秒上げてきたっス!3秒あったエアグルーヴさんとの差が…もう…ない…!」

 

 沖野は咥えていたキャンディを思わず嚙み砕く。

 

「野郎…!三味線引いてやがったな!」

 

 後輩はふと、気づく。

 

「でも沖野サン、先輩、給油してないっス。もう1回、交代ありますし…」

 

 後輩は沖野をなだめるように伝えた。

 

「…アイツ、さっきのラップの刻み方といい、今のペースアップといい…全部計算づくなんだろう?まさかとは思うが、給油なしなんてことは…」

 

 沖野の指摘に、後輩は青ざめる。

 

「…あり得ない…あり得ないとは思うっスけど…あるいは、先輩なら…やってしまう、かも…」

 

 沖野は後輩の言葉に頭を抱え、周りでやりとりを聞いていたウマ娘たちも凍り付く。

 

「…先輩、昔から一発の速さはそこまででもないんスけど…耐久レースには滅法強いというか…最高効率で作戦組み立てて、その通り走っちゃうんスよね…」

 

 シンボリルドルフが腕を組んだまま、後輩に向き直った。

 

「それは…つまり、どういうことなんだ?」

 

 後輩は皇帝の威風に気圧されながらも、言葉を探しながら答える。

 

「…うまく言えないんっスけど…走るときに、自分をクルマのひとつのパーツのようにできる、とでも言うんですかね…

 

 エンジンのワンストロークでどのくらいガソリンが入って、どのくらいの効率で燃えてるか…今のタイヤがどんな状態で接地して、どんなふうにグリップが変化していって、あとどのくらいで限界を迎えるか…それこそ、クルマのどこが今一番壊れそうで、それを労わるためにはどうしたらいいかまで、自分の手足みたいにわかるみたいなんス。

 

 まぁ、今回は今朝乗ったばっかりのこのカートで、先輩といえど昔みたいにそこまでのことができるわけねーだろ、ってタカくくってたんスけどね…」

 

 ふむ、とシンボリルドルフが息を吐く。

 

「つまり、身体能力とセンスに勝る我々と、経験と研ぎ澄まされたカンに基づく職人のような兄との闘い、というわけか…」

 

 シンボリルドルフの冷静な言葉を聞きながら、皆の視線がコース上に注がれている。

 

 装蹄師の男は既にエアグルーヴをパスし、その前に居たゴールドシップを今まさにブレーキングで差さんと並びかけていた。

 

 シンボリルドルフは皆の視線がコースに注がれていたことに感謝した。

 

 意中の男の意外な才能を発見することが、これほど心躍ることだとは。

   

 シンボリルドルフはここに居る者でただ一人、勝手に緩みだしてしまう表情を理性で抑えつけるのに必死であった。

 

 

 

(燃料が減れば軽くなる…軽くなれば速くなる…!)

 

 宇宙を支配する物理の基本法則を唱えながら、装蹄師の男は猛然とマシンを攻め立てた。

 

 男が唱えていることは事実ではあったが、このレースを勝つうえでは非常に危ういものをはらんでいることもまた事実であった。

 

 なにせ、のこり10分ほどの持ち時間で最後に走ってもらうおハナさんがロスする分までリードを稼ぎ出し、かつ60分走り切れるだけの燃料を残さねばならない。

 

 全神経を集中させて無駄なくクルマを動かし、時にオーバーアクションな体重移動をさせてまで徹底的にタイヤを使いこなしながら、前へ前へと斬り込んでいく。

 

 マルゼンスキーの背後に迫り、最終コーナーを心持ち間隔をあけてホームストレートに突っ込んでいく。

 

 スリップストリームを使ってホームストレートで抜く算段は半周前から決めていたが、あえてべったりとつけないことでスリップを使ったまま車速を伸ばすスペースを作り、追い越しをラクにする。

 

 スリップに入られることに意図に気づいているマルゼンスキーはホームストレートをイン寄りに走り、1コーナーのインを譲らないつもりだ。

 

(さすがマルゼンスキーと褒めてやりたいところだが…今は遊んでる場合じゃないんでねぇ…)

 

 男はストレート中盤過ぎでマルゼンスキーのアウト側にぴったりつけるように持ち出すと、手を伸ばせばお互いが触れられるような距離を保ったまま並走、彼女のアウトへのライン変更を封じ、スリップで伸ばした車速そのままにするすると前に出ていく。

 

 さらにブレーキングで1車身分の差をつけ、軽さを存分に生かした旋回速度の高さを保ったまま、教科書通りのアウト・イン・アウトのラインを描いて抜けていく。

 

 小憎らしいことに軽く右手をあげてマルゼンスキーに挨拶をし、そして置き去りにした。

 

 

 

 予選でポールポジションを奪った腕前のマルゼンスキーでさえこの有様であるから、このパートをドライブしていたウマ娘たちは、のちにこの時のことをこのように語っている。

   

「いつ抜かれたのかもわからないわ。後ろに居た、と思ったらもう背中を見せられていたんだもの」

 

「気が付いたら後ろにいて…まるで鋭利ななにかをつきつけられているような…後ろに居るのに、私の先頭の景色を侵食してくるような…初めての感覚でした」

 

「世の中には鉄の先生みたいなおじさまがたくさんいるのかしらね~。そうだとしたら私、今度から公道走るときは認識を改めないといけないわ」

 

「おっちゃんは魔法使いなんだと思うZE☆魔法使いの意味?それはおっちゃんがあの歳まで(以下録音不鮮明)」

 

 結局、装蹄師の男は45分過ぎから始まった最後のドライバー交代までに、トップを走っていたサイレンススズカの真後ろにつけるところまで上り詰めた。 

 

 

 

「やるだけのことはやった…あとは任せた!」

 

 スタートから52分のところで最後のピットに戻り、東条ハナに手を引かれ、勢いでカートから転がるように降りた男は、息も絶え絶えにそれだけ告げて倒れ込んだ。

 

「よくもまぁあんな無茶な走りできるわね…あとはそこで祈ってなさい!」

 

 東条ハナはそれだけ言うとピットアウトしていく。

 

 ヘルメットを脱ぐこともできぬほど疲労困憊した男は、そのまましばらく微動だにしなかった。

 

 ピットインまでに男が稼ぎ出した2位との差はちょうど1周。

 

 ピットロスを考えればセーフティーリードとは言い切れない差だった。

 

 

 

 東条ハナがピットアウトしたときには、男が稼ぎ出したリードの半分ほどが消え失せ、2位との差は約半周となっていた。

 

 2位にはエアグルーヴからチェンジしたシンボリルドルフが進出しており、マルゼンスキーからバトンを渡されたスペシャルウィークが3位、そして4位には後輩が追走している。

 

 給油無しで走り切るプランは事前に聞かされていた。

 もちろん東条ハナには燃料を気にしてレースをすることはできない。

 男が自分のパートでコントロールし、最後まで走れる燃料を残す、というプランニングであった。

 

 ならばそれを信じて走り切るしかない。

 

 東条ハナはこれまでの劇的なレース展開の最終幕を背負い、ゴールまで突き進む覚悟を決めた。

 

 

 

「全く…先生は大人げないんだから…」

 

 大の字になっている装蹄師の男を上から見下ろしているのはマルゼンスキーだ。

 

 棘のある言葉とは裏腹に、表情は晴れやかだ。

 

「リギルの総帥を担いで、みっともない負け方はできねぇからな…場を乱して悪かった、許してくれ」

 

 大の字になったまま苦笑いで応じつつ、男はどこからともなく取り出した煙草を咥える。ピットであるから、火はつけない。

 

「鬼神のような走り、とはまさにあのようなことを言うのだろうな…まさか先生からそれを見せられるとは思わなかったが…」

 

 エアグルーヴはクールな表情の中に、敬意の眼差しを織り込んで男を見つめていた。

 

「なぁマルゼンスキー…、迷惑ついでに、お願いがあるんだが…」

 

 男はむくりと起き上がると、改まった表情でマルゼンスキーに耳打ちをした。

 

「それ、いいわね♪そうしましょ♪」

 

  

 

 レースは残り3分を切り、最終局面を迎えようとしていた。

 

 トップは未だに東条ハナが守っているが、後続は装蹄師の男が築いたリードを文字通り火花を散らしながら削り取りにかかっていた。

 

 やはり予想通り、2位につけるはシンボリルドルフ。3位には後輩、そして4位にはメジロマックイーンが上がってきていた。スペシャルウィークは後続のプレッシャーに耐え切れずにコーナーでヨレたところをばっさりと差されてしまい、後退している。

 

 東条ハナと2位の間にあった半周の差はみるみるうちに縮まり、今やコーナー3つ分程度にまで縮まっている。

 

 しかしここまでの追い上げで後続のタイヤの消耗も激しくなってきており、差が縮まるペースは鈍ってきていた。

 

 特に3位を走る後輩は、速いのは速いがマシンのシバき方もハンパではないゴールドシップが振り回していたため、もうコーナーで勝負できるグリップ力が残っておらず、立ち上がりの度に暴れるマシンを抑え込むのに精いっぱい、といった様子である。

 

 ワンミスで3位と4位が入れ替わる雰囲気で、実質東条ハナと勝負権を持っているのはシンボリルドルフ1台に絞られたかに見えた。

 

 コントロールライン付近にある経時はまもなくスタートから59分を指そうとしており、あと1周か2周、というところである。

 

 装蹄師の男は今やできることはなく、ピットウォールからコースを見つめている。

 

(燃料…なんとかもってくれよ…)

 

 東条ハナがホームストレートに戻ってくる。

 

 ストレート通過中、全開走行で連続していた排気音が一瞬、ばらついて途切れ、また復活する。

 

「あ」

 

 経過時間は59分10秒過ぎを指している。

 

 ということは、これがファイナルラップ。

 

 2位のシンボリルドルフとの差はストレート3分の2ほど。

 

(おハナさん…頼む…なんとかこらえてくれ…!)

 

 ガス欠の初期症状を音から感知した装蹄師の男は、祈るようにコース上をみつめていた。

 

 

 

 

 スタートから60分が経過した。

 

 オフィシャルがチェッカーを手に、コントロールラインに待機する。

 

 みるみるうちに東条ハナとシンボリルドルフの差は詰まっていく。その後ろの後輩もあきらめていない。そしてメジロマックイーンまでも一緒に上がってきている。

 

 最終コーナーはその進入から4台がほぼ差がなく連なり、立ち上がってくる。

 

 3台目の後輩がやけくそとばかりに早めのアクセルオンで派手に横滑りしつつ加速し、東条ハナを先頭にイン寄りに立ち上がって並びかけるシンボリルドルフ、アウトから噛みつこうとする後輩のスリーワイドだ。

 

「会長!あとひと伸びです!」

「よっしゃぁぁぁ全開でこーい!」

(…頼む…!)

 

 3台ほぼ同時にチェッカーをくぐる。

 

「誰だ!誰が勝ったんだ!」

 

 固唾を呑んで、タイミングモニターの更新を待つ。

 

 

 

 

 

1:東条ハナ

2:シンボリルドルフ

3…

 

 それを見ていた一同が、おぉ…と止めていた息をはきだしながら、感嘆の声を漏らす。

 

 装蹄師の男はホッと、胸を撫でおろした。

 

 

 





次回は温泉&反省会!
それでようやくこの閑話を締められます。

そりゃ本編から逸脱し過ぎって意見もごもっともなんです…笑
でも書きたかったから…すいません…笑


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閑話6:マルゼンスキーの権利行使6(温泉と帰り道)






 大変ご無沙汰しておりまして申し訳ございませんでした。
 前回話をあげた後、某生食海産物に当たりまして…

 体調の戻りの悪さで年末の仕事も超絶効率悪く、こちらも夜な夜な書いておりましたが遅々として進まずで、大変お待たせいたしました。

 ようやく閑話の締めまでたどり着きました。
 
 年末のお忙しい時期でしょうが、息抜きにご笑納いただければと思います。




 

 

 

「よし!撤収!午後の予定はキャンセル!宴会を別の場所でやるぞ!」

 

 レースの興奮冷めやらぬウマ娘たちに装蹄師の男は勝者のある種傲慢な振る舞いとばかりに号令をかける。

 

 レース終盤、男はマルゼンスキーと打ち合わせをし、午後の本コース走行のキャンセルと、そのかわりの提案をした。

 

 結果、意外とあっさり提案は受け入れられ、午後の予定を変更することに成功していた。

 

 変更した予定のために表彰式はせずに撤収準備をさせ、各チームの移動車にマルゼンスキーが手配していた弁当付きでウマ娘たちを押し込む。次の目的地への移動時間程度はこれで空腹も持つであろう。

 

 マルゼンスキーと後輩は積載車から降ろした各々のクルマで指定した場所に向かうように指示する。

 

 マルゼンスキーはすぐには出発せず、愛機タッちゃんの暖気中に後輩となにやら打ち合わせていた。

 おそらく指定場所へのルート通りに乙女峠を行かず、途中で脇道へ入り長尾峠へでも寄り道するつもりのようだ。そちらのほうはノータッチで後輩の任せていると、マルゼンスキー先導で出発していった。

 

 皆が乗り忘れなく撤収したのを確認し、男もクルマを2台降ろして軽くなった積載車を出発させる。

 

 

 

 富士山麓を降り御殿場市街を抜け乙女峠を登り、トンネルを抜けて日本有数の温泉エリアに踏み入れた一行がたどり着いたのは、その土地に屹立する某温泉テーマパークであった。

 

 装蹄師の男がレースで自分の出番を走り終えたのち、思ったのは「もう疲れたから温泉でも入ってゆっくりしたい」という、若さを通り過ぎてしまった感想。昔ならば本コース走行も意欲的にこなしたであろうが、正直、もう身体がついていかないな、という悲しき現状認識もあった。

 

 そこで、昔立ち寄ったこの場所を思い出したのだった。

 

 とりあえず言ってみるかの精神でこの思い付きをマルゼンスキーに耳打ちしたところ、あっさり受け入れられてしまったので、出発前に大慌てでこの施設に連絡を入れていた。

 

 

 到着して駐車場まで進む道すがら、車寄せをかすめてみれば入り口には手際よく

 

[ 歓迎  リギル スピカ 御一行 様 ] 

 

 とある。

 

 男が積載車で駐車場に乗り入れてみれば、すでに先着していたリギルとスピカの面々、そしてマルゼンスキーと後輩はテーマパークの制服に身を包んだ数人に誘導されている。

 

 男はトラックであるため他車の迷惑にならぬように入り口からやや遠い観光バス向けの駐車場の片隅に駐車したところで、こちらにも従業員が駆け寄ってくる。

 

「駿川様から言付かっております。どうぞこちらへ」

 

 意外な人物の名前が聞こえてくることに吃驚せざるを得ない。

 

 案内される道すがらどういうことかと従業員に聞けば、男から連絡が入った後、ウマ娘たちが1ダースとちょっとも来るということでテーマパーク内にざわつきがあり、それを聞きつけた気の回る支配人が念のためにトレセン学園へ照会を入れた模様であった。

 

 一応学園へは今日のイベントもトレーニングを建前としていたために必要な申請一式は行われており、そのためにたづなさんの把握するところであったのだろう。

 

 即座に我々だと判断したたづなさんは、装蹄師の男あてに後できちんと経費申請、精算をするように、と言づけてきた。    

 

 もとよりここの費用は自分で持つつもりでいた男であったが、あまりの手回しの良さと学園の気風の良さに、これは理事長やたづなさんにお土産でも買っていかないといけないな、と苦笑いするしかなかった。  

 

 従業員に連れられて男は大広間に通される。

 

 が、そこには彼女たちの荷物が片隅に固められているほかは、沖野がぐったり倒れ込んでおり、そのそばで後輩が窓際で煙草を吸っているだけだった。

 

「あ、先輩お疲れっした。みんなレンタル水着を選びにいっちゃいましたよー。一服したら俺らもひとっぷろ浴びましょー」

 

 後輩は気楽そうな表情を見て、男は脱力したため息をひとつつくと、自らも煙草に火を点けた。  

 

 

 

 きゃぴきゃぴと水着を選ぶウマ娘たちは、年頃の娘たちらしく大いに盛り上がっていた。

 

 

「おいすっげーなコレ!スカーレットが着たらはちきれんじゃねーの?」

 

「なによ!あんたなんかスクール水着で十分でしょ!」

 

「いいな~…ボクも成長したらスカーレットみたいになるかなぁ?ねぇマックイーン」

 

「…み、水着になるということは…混浴ですの?」

 

「まぁ温泉になってるプールみたいなモンらしいZE☆ゴルシちゃんの悩殺水着スペシャルが発動しちゃうかもな!」

 

「グラス!これなら気になるところもしっかりカバーできるデース!」

 

「…ちょっとそちらでお話ししましょうか、エル」

 

 

 盛り上がる彼女たちを見ながら、シンボリルドルフとエアグルーヴは頭を悩ませていた。

 

 温泉テーマパークであるから水着を着てほぼプールのような空間で温泉を楽しむというコンセプトなのはわかるが、当然混浴である。

 

 無論、装蹄師の男たちも来るであろうから、レンタルとはいえ水着のチョイスは慎重にならざるを得ない。

 

「…先生はどんな水着が好みなのでしょうね…」

 

 エアグルーヴがドストレートの疑問をシンボリルドルフに呟く。

 

「さぁな…それがわかれば私もここで茫然とはしていないのだが…」

 

 今日、このような場所に来ること自体が想定外であるため、シンボリルドルフといえども頭が上手く回らない。

 ちらりとエアグルーヴを見る。

 

 悩んでいるらしいエアグルーヴではあるが、シンボリルドルフから見れば彼女はとてつもない武器を持っている、と思う。

 

 その胸に抱えた双丘は果たして兄に有効かどうかはわからないが、少なくとも一般的には男を狂わせるに十分な得物であろう。

 

(私もそれなりのものではあるはずだが…)

 

 それでも彼女と較べるとどうにも分が悪い、そのような印象は否めなかった。

 

「なーに暗い顔しちゃってるのよ、おふたりさん♪」

 

 彼女たちの雰囲気をまるで斟酌することなく、いや斟酌したからこそなのだろうか、あえて空気を読むことなく屈託のない笑顔でマルゼンスキーが介入してくる。

 

「二人とも、もうちょっと今日という非日常を楽しんでもいいんじゃない?あ、悩んでるんだったら私が水着、見立ててあげちゃうわよ~?」

 

 ほら、こっちこっち…と急かすマルゼンスキーに流されるように、シンボリルドルフとエアグルーヴも水着選びをするウマ娘集団に溶け込んでいくのだった。

 

 

 

 

「ヴォァァァァ…生き返るっスねぇ…」

 

 沖野と後輩、装蹄師の男は、男性ならではの気楽さでちゃっちゃと水着に着替えると、シャワーで汗を流し、早速温泉に浸かっていた。

 

 見回せば、さすがに温泉テーマパークというだけありあちらこちらに趣向を凝らされた大小の温泉がある。

 なんと中心部にはウォータースライダーならぬ温泉スライダーまであった。

 

 幸いなことに平日の昼過ぎであるため、客は閑散としている。

 

「うぁぁぁ…たまにはこういうのも…悪くないねぇ…」

 

 沖野も引き締まった身体をゆったりと伸ばし、くつろいでいる。

 普段からウマ娘たちの指導に世話に公私を擲っている男だ。この男にも今日はいい気分転換になったらよいのだが。

 

 装蹄師の男はそのようなことを考えながら、レースの緊張で凝り固まった身体を湯に融かすようにゆっくりと温まった。

 

 

 

 

 三人の男がじっくりと身体を温めていると、黄色い声が姦しい集団が近づいてくる。

 

「あ、いたいたトレーナーさーん!」

 

 沖野を見つけたのはスペシャルウィークだ。

 

「どうですか水着!レンタルですけど!」

 

 屈託のない笑顔と健康的な身体が眩しい。

 

「おぉ。いいじゃないか。それよりスペ、またちょっと太ったんじゃ…」

 

 沖野はトレーナーの目を瞬時に取り戻し、普段通りの対応をする。

 

「全く、トレーナーさんにはデリカシーというものがありませんの?」

 

「そういうマックイーン、お前もちょっと…」

 

「ねぇトレーナー、ボクはボクは~?」

 

 堂々と誇示するように立つダイワスカーレットと並んでいるテイオーが割り込んでくる。

 

 沖野は思わず、見比べてしまった。

 

「テイオーはまだまだ…これからだな」

 

「イマナニトクラベタンダヨー!!」 

 

 スピカの面々はいつも通り賑やかである。

 

 それを目を白黒させながら傍観していた後輩がゆっくりと沖野から離れ、装蹄師の男に近づいてくる。 

 

「…センパイ…っ…コレは…」

 

「騒ぐな。動じるな。勃たせるな」

 

 男は囁くようにそう告げると目を瞑って腕を組み、平常心を保つように心掛ける。後輩の顔が赤くなっているのは温泉の熱にやられての顔色だろうか。

 

「ワタシハ…ワタシハドコヘオカネヲハラエバイイノデショウカ…」

 

 すでに口調が半角になってしまうレベルで動揺を隠しきれない後輩。

 

 今日の費用はこいつに払わせても罪にはなるまい、という益体もないことを装蹄師の男は考えながら沈思黙考の構えを崩さずにいた。

 

「兄さん…」

 

 しかし男の無関心を装った冷静さを打ち崩してきたのはほかでもないルナであった。

 

「…私も隣に入って、よいだろうか…」

 

 男は目を瞑ったまま、こくりと頷く。

 

 後輩がごくりと唾を飲み込む音が聞こえ、反対側からはルドルフが入ってくる水音がする。

 

 ルドルフが湯に入り姿勢を落ち着けた雰囲気を感じ取ってから、ゆっくりと目を開いた。

 

「ぉぉぅ…」

 

 髪が湯に着かぬよう結い上げたルナが斜め前に居た。

 

「兄さんと風呂に入るなんて、子供の頃以来だな…行きがかりとはいえ、今日はとても驚きに満ちた日だ」

 

 うっすらと上気したルドルフは男の目にも綺麗だった。

 

「…立派に育ったなぁ…」

 

 無表情に男から出た言葉はそれだった。

 

 男の言葉にルドルフは照れたように微笑む。

  

 後輩は最早言葉を失い、存在感すら消している。

 

「今日はマルゼンスキーに感謝しなくてはいけないな。皆との交流も深められ、真剣勝負を楽しんで…実に実りの多い一日だ」

 

 温泉に浸かりながらもルドルフは公衆の面前ということもあり、ルナではなくルドルフモードのようだった。

 

「…こっちも場の空気も読まずに大人げなくやらせてもらったんで、俺も楽しかったよ」

 

 ルドルフは柔らかい表情を崩さずにいる。

 

「あぁ…兄さんの作戦は見事だったよ…常に速さを求める我々からしてみたら奇策にも見えたが…あのレースの本質を考えれば…まさに王道、だったな」

 

 どうやらルドルフは装蹄師の男がどのように考え、あの策を取ったかを理解したらしい。

 

「あぁ…おハナさんも良くやってくれたよ。もう少し計算から外れていたら、あるいはルナたちが速いレースを展開したら…成立しなかった」

 

 男はルドルフを正視しないように視線を少し遠くに置きながら話す。

 

「…全く、あんな針の穴を通すような作戦、普通立てないしやらないっス」

 

 後輩が気を取り直して話題に参戦してくる。

 

「うるせーな。やりたくなったんだから仕方ないだろう。勝とうと思ったらあれしか思いつかなかったんだよ」

 

 男はついいつもの調子で後輩に切り返す。 

 

「いやいや~先輩、正直に言ってくださいよ、ルドルフさん筆頭に彼女たちにいいカッコしたかったんでしょ?でしょでしょ?」

 

 後輩は負けた悔しさからか、突っ込んでくる。

 

「それはお前だろうが。まぁ正直ゴールドシップがあそこまでシバいたタイヤで最後に最終コーナーで勝負かけたのはさすがだったし、ヒヤヒヤさせられたけどな」

 

「でっしょー先輩!あんときはマジ死ぬ気でアクセル踏んでやりましたからね、俺」

 

 後輩、渾身のドヤ顔である。

 

「うるせーよ調子乗ってっと沈めんぞ」

 

 やりとりの一部始終を見ていたルドルフがついに声を出して笑い出す。

 

「…あ」

 

 後輩と男はその声に素に戻る。

 

「あぁ…済まない。二人とも仲が良いんだな。それにその、兄さんのそんなくだけた姿はなかなか見れないものだから、な。つい可笑しくて」

 

「先輩、ルドルフさんの前だとカッコつけるんスよねー」

 

「うるせえ。年上として見栄くらい張らせろや…」

 

 男はすっかり毒気を抜かれて、湯に沈んだ。

 

 

 

「あらーあっちは盛り上がってるみたいね~混ざらなくていいの?」

 

 少し離れたところで湯に浸かるマルゼンスキーとエアグルーヴ。

 

 並んでいる彼女たちの視界にはシンボリルドルフたちが盛り上がっている様子が捉えられていた。

 

「…今は、会長のターンですので」

 

 冷静な声音ではあるが、なにかを堪えるような表情は抑えきれないエアグルーヴ。

 

「まぁルドルフちゃんは先行タイプだものね♪ならば女帝の差しが炸裂するのはこの後かな?」

 

 脚質に例えて茶化しながらも、マルゼンスキーはエアグルーヴにけしかけることを忘れない。

 

「…今日のレースはとても参考になりました。速さだけが勝負では…ないはずです」

 

 エアグルーヴはそれだけ言うと、何かに耐えるようにぎゅっと目を瞑った。

 

 

 

 せっかくだからほかの風呂も楽しもうと三々五々館内に散っていく中、後輩は露天風呂に向かい、装蹄師の男はサウナに向かった。

 

 木で装飾されたドアを開けるとそこには誰もおらず、男は熱源に近い奧に腰を降ろす。

 

 目をつぶって腕を組み、今日のレースを反芻する。

 

 最後の最後でガス欠を起こさせてしまい、東条ハナにウイニングランを周回させてあげられなかったことが悔やまれる。

 

 どんな順位であっても、耐久レースでチェッカーを受けたあとの一周は特別な感慨がある。

 

 オフィシャルがすべての旗を振り、完走を祝福し、それに応えて手を振り返したりして、様々な人の支えによってレースをさせてもらったことの感謝が沸き起こるのだ。

  

 普段は祝福する側の東条ハナであるから、たまには自らが祝福される側になってみてほしかった。

 

 男は目をつぶってそんな思考をめぐらせていた。

 

 ドアが開き、一瞬外気が流れ込み熱が逃げる感覚がする。

 

 男は目を開かず、じっとそのまま動かずにいた。

 

 誰かが入ってきて、男の向かい側あたりに座ったのを感じ取る。

 

 入ってきた相手も座って以来動かず、熱が再びこもりはじめたところで男は瞼に流れる汗を腕をほどいて拭い、目を開いた。

 

 

「ぉぉ…」

 

 男は思わず嘆息した。

 

 眼前にはタンキニタイプの水着を着用した東条ハナが血管が透けるような白さの肌で鎮座ましましている。

 

 眼鏡をかけていないおハナさんは珍しい。

 

「…あんただったの」

 

「…悪かったな、俺で」

 

 どうやら中に居たのが装蹄師の男であることはわからずに入ってきたらしい。確かに裸眼ではあまり目が良くないらしいことは知ってはいたが、これほどとは思わなかった。

 

「レース終わった後、せわしなくて悪かったな。お疲れ様」

 

 男は東条ハナをねぎらいつつ、彼女の目が悪いことをこれ幸いといつもと違う姿の東条ハナをじっくりと眺める。

 

「…視力のせいで見えてるわけじゃないけど、あんたがいやらしい目つきで見てるのは感じ取れるわよ」

 

 そう言葉で釘をさしてくる東条ハナではあったが、顔を赤らめて言うのでは説得力がない。とはいえそれはサウナの熱のせいであろう、と男は思い、視線を逸らす。

 

「最後、一周ウイニングランさせてやれなくて申し訳なかったな」

 

 男はさきほどまで考えていたことを口にした。

 

「…彼女たちを相手に回して勝たせてくれたんだもの。感謝こそすれ、謝られるようなことはないわよ」

 

 おハナさんの声音はいつもと変わらず感情の機微を感じ取りにくい、ともすれば冷徹に感じられるトーンであった。

 

「…まぁ感謝されるのは悪い気分じゃないが、たまにはおハナさんが勝者の祝福を受ける経験をしてほしい、と思ったのは俺の傲慢だったかね」

 

 男はやれやれといった感じで肩の力を抜く。

 

「傲慢とは思わないけれど…まぁ、そこまで考えてくれていたという事実だけで十分よ」

 

 それだけ言うと、東条ハナは両腕を上にあげ、大きく伸びをした。

 

 男はその姿を正視するわけにもいかず、身の置き場に悩みながらやや顔を明後日の方向に向けつつ、視界の隅に捉え続けた。

 

「…このままここに居たら宴会の前にぶっ倒れちまいそうだから、先に出るわ」

 

 熱さゆえか普段と違う東条ハナの姿に当てられたのか、男は東条ハナにそう声をかけると立ち上がり、サウナから出ていく。

 

 一人残された東条ハナはひとつ、ため息をついた。

 

「…意気地がないわね…まぁ、それは私も、か…」

 

 東条ハナはしばらくそのままサウナの熱に炙られながら、自らの胸の内を落ち着けるために時間を使った。

 

 

 

   

 風呂を楽しんだ後は最初に通された大部屋に食事が用意され、少し早い夕食兼打ち上げのような宴会になった。

 

 途中で沖野が表彰式をやる、と言い出し、なんとなくそれっぽいセレモニー的なことを行うことになったが、表彰台を独占した3組によるうまぴょい伝説を踊らされそうになったのには装蹄師の男も後輩も参った。

 

 しかしそこは歌もダンスも指導できる東条ハナである。

 

 2位のシンボリルドルフ、エアグルーヴ、3位のゴールドシップと4人できっちり歌って踊ってみせ、場は大いに盛り上がった。

 

 

 

「さて、帰りますかね…」

 

 すっかり日も暮れて解散となったウマ娘たちは、テーマパークの駐車場でそれぞれのチームの移動車に乗り込んでゆく。

 

 ここからトレセン学園までは渋滞がなければ2時間くらいだろうか。そろそろ出発すれば寮の門限には間に合うであろう。

 

「先輩、今日はありがとうございましたっス。今度はスズカさんの天皇賞見に行くんでよろしくお願いするっス」

 

「マルゼンスキーとおいたして帰りに捕まるんじゃないぞー気を付けてなー」

 

 後輩は自分の言いたいことだけ言うと愛車でそのまま引き揚げていった。

 

 マルゼンスキーと椿ラインから湯河原に抜け、西湘経由新湘南BP、圏央道ルートというコースで帰るらしい。二人してタフなものだ。

 

 男も駐車場のはずれに止めた積載車に乗り込み、エンジンをかける。

 

 煙草に火を点け、暖気がてら帰りの道を思案していると助手席ドアがこつんこつんと叩かれ、開いた。

 

 暗がりに栗毛の髪が艶めいて見えた。 

  

「あの…帰り、乗せてもらってもかまわないでしょうか…」

 

 サイレンススズカと、その後ろにエアグルーヴが控えていた。

 

 

 装蹄師の男も学園に帰るのでもちろん構わないのだが、煙草を吸うがいいのか?とだけ問う。

 二人はこくんと頷くと、乗り込んできた。

 

「おお。運転席の後ろにベッドスペースまであるんだな」

 

 室内を覗き込み、エアグルーヴは運転席と助手席の後ろにある仮眠用のスペースを見つける。

 

 4トンワイドの車格の積載車であるから、当然そのようなスペースもある。本来ならば真ん中の補助席に座ってもらって乗車定員3人なのだ。

 しかしエアグルーヴは乗り込むと靴を脱いで短いスカートから覗く太腿を男に眩しく見せつけながらベッドスペースへもぐりこんだ。

 

「私はここでゆっくりさせてもらう。スズカは助手席に座るといい」

 

 男は正直、ほっとした。

 真ん中の座席に座られるとシフト動作時に間違って眩しい太腿に触れかねない。

 後ろにエアグルーヴがいるというのもなかなか緊張感があるが、運転操作に緊張感を強いられるよりはいい。

 

 サイレンススズカは助手席にちょこんと座り、シートベルトをかちりと締めた。

 

 エアブレーキのタンクが溜まったようで、プシュッといい音がしてコンプレッサーが止まり、エンジンの回転数が少し下がって落ち着く。

 

「んじゃ、帰りますか」

 

 男は姿勢を正すとギアを2速にごくんと入れ、ゆっくりと発進させた。

 

 

 夜の箱根の町をゆっくりと走る。

 

「わぁ…いい眺め…」

 

 いつもより視界が高くて広いトラックキャブからの景色が、サイレンススズカには新鮮なようだ。

 

 男は同乗者二人を意識して丁寧にシフトを操り、排気ブレーキまでも巧みに駆使しながら峠を下ってゆく。

 

「おお…なんというか、漢らしいな…」

 

 車幅ギリギリの道端を大胆にかすめるように動かしていく装蹄師の運転姿をエアグルーヴは後ろからかぶりつきで観察しながら驚嘆の声を上げる。

  

「普段、トラックなんか乗らないもんな。ちょっと面白いだろ」

 

 エアブレーキをプシュプシュ言わせながら大きなステアリングを抱え込むように切り、ヘアピンを曲がる。

 

「あぁ…これはこれでアトラクションのようだな」

 

 運転席と助手席の間、男のヘッドレスト付近にエアグルーヴの吐息を感じ、その甘い香りに男は一瞬、どきりとする。 

 

「そ…そういえばなんで二人、こっちに乗ろうと思ったんだ?」

 

 気をそらすように、男は二人に話題を振った。

 

 サイレンススズカがゆっくりと話す。

 

「…さっき、エアグルーヴとふたりで話していて…今日のレース、先生は何か、私たちと違う次元で戦っていたような気がして…」

 

「先ほどの宴会は楽しかったが、じっくり話を聞く雰囲気ではなかったからな。ならば帰り道に聞くことにしようと思ったのだ」

 

 確かにさっきはおハナさんがうまぴょいを踊る程度には大盛り上がりであったから、その判断も頷ける。

 

「ふーんそうか…で、歴戦のあなた方とは違う次元と感じたってのは…どういうところで?」

 

 男は排気ブレーキのレバーを入り切りしながら話を続きを促す。

 

「その…言葉にするのが難しいのですが…より速く…という走り方ではなかったのが…どうしてなのか…と」

 

 スズカが訥々と、言葉を探しながら問うてくる。

 

「あぁ…それならそんなに難しいことじゃない。いつものウマ娘たちのレースは、レース距離が決められてるだろ?」

 

 スズカがこくんと頷く。

 

「でも今日、決められていたのは?」

 

「…時間、でした」

 

「それが答えだよ」

 

 スズカがキョトンとしている。

 

「…いつもの私たちのレースなら、決められた距離をいかに速く走り抜け、相手に競り勝って勝つかだが…今日は…」

 

 エアグルーヴが噛み砕いていく。

 

「…今日は、60分の中でいかに多く走るかが勝敗を分けるレースだった、と、そういうことだろうか?」

 

 男は頷く。

 

「さすがだな。それだよそれ。その考え方でレース戦略を立てたんだ。だから、瞬間的な最速である必要はどこにもなかった。それがスズカが感じた違いだと思う」

 

「最速である必要が…ない…」

 

 スズカは考え込んでいるようだった。

 

「競っている相手とコース上で1秒差をつけるのと、ピットで1秒稼ぐの、どっちが簡単だと思う?」

 

「ピット…ですよね…」

 

 スズカは今日の経験から、即答する。

 

「そう。だから今日はコース上での絶対的な速さを追い求めずにそこそこで走って、その代わり給油をカットすることで大胆に時間を稼いだのさ。まぁ絶対的な速さを追いきれないからこその弱者の戦略かもしれないけどな」

 

 エアグルーヴはふむ、と吐息を漏らす。

 

「…そうか…我々は普段のレースに囚われすぎて、今日の競い方の本質を見誤っていたのかもしれないな」

 

 男は窓を少し開け、煙草をくわえる。

 

「そうとも言い切れないさ。速さがあるのなら当然、その分多く距離を稼げる。正攻法でいいんだ。だがこれが60分ではなく120分、あるいはもっと長かったら、どうかな?クルマのレースでは24時間耐久なんてのもあるんだぜ」

 

「24時間…今日のレースの…24回分…」

 

 スズカが息をのむ。

 

「…これをひとつのレースと考えるか、24回分のレースと考えるか…耐久レースは人生の縮図だ、なんて例え方もあるくらいだ」

 

 いつしか三人を乗せた積載車は峠を降りきり、夜になってもお土産屋街が煌びやかな箱根湯本の駅前や小田原市街を抜けて高速に入っていく。    

 

「…耐久レースの戦い方の考え方そのものが、私たちのアスリート人生の縮図、と捉えることもできるな」

 

 エアグルーヴが凛々しい声音で言う。

 

「そうかもしれない。レースを勝つのは至上の目標だとしても、どう戦うのか、そのためにどうトレーニングするのか、どういう生活をするのか。どれだけ走りたいのか、どこを走りたいのか。考えることも、アプローチの仕方も無数にあるさ」

 

 スズカは目を閉じて、考えている。

 

「私は…できるだけ長く…たくさんのレースで…先頭を走っていたい…」

 

 うとうとと寝言のように呟きながら、こっくりこっくりと首を傾かせていた。

 

 エアグルーヴはその様子を見て、男の運転席のヘッドレスト、その裏側に額を当てた。

 

「…こんなもんでいいか、エアグルーヴ」

 

 男はエアグルーヴの体温すら感じられそうな距離感を感じ取り、視線は前に向けたまま小声で声をかける。

 

「あぁ…少しは今日の経験が、スズカの競技生命を永らえてくれる方向にいくといいんだが…」

 

 ことん、ことんと高速道路の継ぎ目を乗り越えるたびに起こる定期的な振動と、至近から香る男の香りを感じながら、エアグルーヴは流れていく夜景をしっとりと眺めていた。  

 

 

 





ここしばらく大変横道に逸れてしまい申し訳ございませんでした。

皆さんの暖かい励ましや感想コメントをいただきましてなんとかこれはこれでまとめ切ることができました。
ありがとうございます。
本当にコメントや評価がありがたくて、いつも書く時の着想だったり書き続けるエネルギーだったり助けていただいております。感謝です。

次回から本編に戻りますが、引き続きよろしくお願い申し上げます。


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71:記者へのレクチャー


たいへんご無沙汰しております。
実験回っぽいのができましたのでお送り致します。



 

 

「はぁ…困りましたねぇ…」

 

 理事長室で笑い顔のまま眉を下げていたのは緑の支配者こと駿川たづなさんそのヒトであった。

 

 目の前にはある特定の書式に則った書類が山積みとなっている。

 

 そのどれもが、似たり寄ったりの内容のものだった。

 

 部屋の主は現在不在で、戻るまでにこれらの書類の処理方針を定めておかねばならない。

 

 しかしこの書類を処理するには、ある人物の協力が欠かせない。

 

 そしてそのある人物は、彼女の知る限りこの案件の処理についてあまりいい顔をするとは思えなかった。

 

 目の前にある書類はトレセン学園あてに直接集まってきたものであるが、URAにも同様の申請書類が届いているという。

 

 こうなればURAと協同でことに当たらねばならないだろう。

 

 彼女はいまいち気乗りしないながらも、理事長室備え付けの電話を手に取り、ある所へ通じる番号を押した。

 

 

 

 

 

 

「全く、上はなにを考えているのやら…」

 

 樫本理子は頭を抱えていた。

 

 目の前にはファイリングされた申請書類が山と積まれている。

 

 そのどれもがほぼ同一内容であった。

 

 内容の要約は簡単だ。

 

[ サイレンススズカが毎日王冠勝利後にコメントしていた蹄鉄について、装蹄師に取材をさせろ ]

 

 取材申請については基本的にはURAの広報部の所管であり、樫本理子の率いる総合企画室の取り扱いではない。

 

 しかし普段はウマ娘やトレーナーに対する取材申請がほとんどで、裏方への取材申請がこれだけ集まるというのは前代未聞のことであった。

 

 取り扱いあぐねた広報部からURA上層部への相談があり、総合的な判断という名のもとにこの案件は樫本理子の手元に降ろされてきた。

 

 上層部としては今期突如頭角を現してきたサイレンスズカ、そのスター性を最大限利用してさらなるレース界の隆盛を企図している。

 

 一方で、毎日王冠からの天皇賞秋のローテーションは余裕のあるものではなく、サイレンススズカにメディア対応の時間を過大に割かせることで調子を崩させるようなことはしたくない。

 

 しかし世間を賑わせているスターの話題を絶え間なく供給することで、世間の話題をさらに集めたい。

 

 その話題のピースのひとつが、学園装蹄師のつくった蹄鉄の話題という訳だった。

 

 樫本理子に課されたミッションは学園と連携を図り、サイレンススズカの蹄鉄に関するなんらかのニュース材料をメディアに提供すること、とされている。

 

 すでに目の前にある取材申請と同様のものはトレセン学園にも集まりつつあるという。

 

 連携を取って対応すること自体はそれほど難しくはないだろう。

 

 だが問題は、装蹄師の男だ。

 

 あの人見知りをちょうど良い塩梅でメディア対応させるというのは、その人となりを知っているがゆえに少し難しそうに思える。

 

 すでに何度か書面での返答を要する取材対応を回してみたのだが、

 

[ 技術委員会の公開資料を参照のこと ]

 

 と一言書いて返してくるだけなのだ。

 

 確かに、レースに使用する蹄鉄はURA技術委員会が認定した量産品を使用するか、改造品やワンオフ品を使う場合には技術委員会の認定を受け、使用できるとするレギュレーションがある。

 

 サイレンススズカの蹄鉄に関しても技術委員会の現物審査と書類審査を経て、使用が許可されているものだ。

 

 そしてそれはレースの公平性の観点から、審査内容と現物写真、提出書類など一切のものがURA技術委員会からネット上に公開されている。

 

 メディアはそれらを確認することもせず、すでに公開されている事柄を質問してきている場合も多く、装蹄師の男は質問書面を見て既に嫌気がさしているであろうことが窺えた。

 

 要するに装蹄師の男は、最低限の公開情報すら勉強してこないメディアに対して、嚙んで含んで解説するようなことをする気はない、と言って寄越しているのだった。

 

「とても…とても厄介ですね…」

 

 じっと目を細めて書類の山を睨みつけていた樫本理子のデスクの電話が鳴ったのは、その時であった。

 

 

 

 

「…で、こういうことになるわけですか…」

 

 装蹄師の男は工房で駿川たづなさんと樫本理子を正面に据え、手元には一枚の資料を渡されていた。

 

[ 学園装蹄師による蹄鉄レクチャー開催の件 ]

 

 資料の題字にはそう書かれている。

 

「ええ。樫本さんとも相談しまして、取材形式よりはレクチャーとしたほうが堅苦しくなく、伝えるべきことが伝えられると考えました」

 

 たづなさんはそうにこやかに告げる。

 

 駿川たづなと樫本理子はこの件に当たるにあたって、一計を案じた。

 

 取材形式でメディアからの質問に答える形にすると主導権をメディア側が持つことになり、五月雨式に打たれる質問に都度答えていかなければならない。

 

 レク形式にすることで、まず前提をこちらから提示することができ、場の主導権もこちらがコントロールできるはずだ。彼女たちはそう考えた。

 

 そしてなにより、山と積もった取材依頼を一度に処理できる。

 

 さすがさまざまな修羅場をくぐっていたトレセン学園裏の統治者である駿川たづな、装蹄師の男より若干年下ながらURAの堂々たる管理職である樫本理子だった。

 

 二人の謀議の末、三方一両損ならぬ三方一両得と思われるこの策が編み出された。

 

「レクチャーの司会は私が行いますので、先生は内容のほうをこちらの資料に沿って整理、ご説明いただければと思います」

 

「…レクチャー内容に関しては資料作成含め私が支援します。よろしいですね?」

 

 笑顔ではあるものの有無を言わさぬ雰囲気を醸すたづなさんと、無表情ながらも有無を言わさぬ樫本理子の表情に、装蹄師の男は拒否権がないらしいことを悟る。

 

「…わかりました。やりますよ…」

 

 安物のソファに身を預け、諦めるように男は言った。

 

 

 

 

 各社に送られたレクチャーの案内状は報道各社でちょっとした話題となった。

 

 各社取材申請をしていたがなかなか回答がなかった件で、もともと舞台裏を探られることを良しとしないトレセン学園からの突然ともいえるその案内は驚きを与えるに充分であったのだ。

 

 各社取材ではなく合同レクチャーとなったことに関しては一部で不満の声もあがったが、なにも行われないよりは余程マシである。

 しかも現状のURAの中で最も話題となっているサイレンススズカの足元を担う存在である学園の装蹄師が表舞台に出てくる。

 

 それはそれなりに読者の需要が見込める、ある意味売り上げが見込めるコンテンツ足り得る、と各社は判断した。

 

 その証拠に平日夕方という微妙な時間で案内されたレクチャーに対し、メディア各社はエース級の記者、もしくはそれなりの立場にある者が出席予定として窓口であるURAに返事を寄越していた。

 

「…これはちょっと想定外ですね…」

 

 樫本理子はずらりとならぶ参加予定者名簿を目に、困惑していた。

 

 メディア担当専門ではない理子ですら名前を記憶しているほどの記者や編集長クラスの名前がずらりと並び、ほぼ思いつく限りの媒体名が列挙されている。

 

 これまでにウマ娘たちの装具、とりわけ蹄鉄にこれだけの注目が集まるなど、記憶にない。

 

 ウイニングライヴのステージ衣装や歌唱楽曲などに関してはそれなりにファッション媒体や音楽媒体が興味を持って取材してきたりと普段付き合いのないところが来たりすることはあるが、それでも散発的なものである。

 

 これがサイレンススズカの人気によるもの、というのは当然わかるのだが、その影響の大きさを改めて感じざるを得ない。

 

 和やかなレクチャーという形でそこそこに情報提供して、ちょっとした記事やニュースになればいい程度の効果を見込んでいた樫本理子は、想定を修正せざるを得ない。

 

「…これはいい加減な対応ではいけませんね…」

 

 中指で眼鏡を直すと、樫本理子は猛然とキーボードを叩き始めた。 

 

 

 

 

「ちょっと会場、大きすぎやしませんかね…」

 

 装蹄師の男がレクチャー当日呼び出された会場はトレセン学園ではなく、いつぞや理事長が関係者に頭を下げた府中レース場の大会議室であった。

 

「思いのほか参加希望者が多かったので、トレセン学園では収まりきらなかったのです…」

 

 たづなさんが笑顔のまま、困った様子で汗を浮かべている。

 

「貴方…その格好で出るつもりですか?」

 

 やや険のある表情で男を見つめる樫本理子。

 

「俺のユニフォームじゃまずいか?現場感が出るしいいかと思ったんだが」

 

 男はいつもどおりの作業つなぎであり、大人数の部外者の前に出るにはどうか、と思えるほど汚れてもいた。

 工房からそのまま来たライブ感はあるにはあるが、綺麗にオフィス然と整えられた会議室には不釣り合いではある。

 

「…そんなことだろうと思ったよ、兄さん」

 

 声をした方を振り返ればシンボリルドルフとエアグルーヴ。

 

「先生、控室に服飾部の方をお呼びしております」

 

 エアグルーヴが冷徹な声で告げた。

 

 

 

 控室には理事長と服飾課の課員が来ていた。ハンガーラックに10着ほどのサイズ違いのスーツとたづなさん用と思しき緑のスーツが3着ほど吊るされている。

 

「驚愕っ!さすがにその姿はどうかと思うぞ!」

 

 理事長が装蹄師の男の姿を見て断罪する。

 

「先生こちらに。すこし調整するだけで着れるはずですので」

 

 エアグルーヴが男を指定位置に立たせる。

 エアグルーヴのいつもの冷静な話し方に従うままにされていると、服飾課員が男の身体を簡単に採寸する。

 測り終えると迷うことなく近しいサイズのスーツを取り出され、丈が一瞬のうちに調整されていく。

 

 その間にシンボリルドルフとエアグルーヴはシャツとネクタイを並べて見比べていた。

 

「…そのスーツならシャツはこれだな」

 

「ならばネクタイはこちらでよろしいですか、会長」

 

 装蹄師の男が何も声を発せぬまま、どんどんコトが運んでいく。

 

「よし、兄さんはこっちに座ってくれ」

 

 ドレッサーの前に座らされると、シンボリルドルフ手ずから櫛を取り、男の髪を梳きはじめる。

 

「兄さんは座っているだけでよいからな」

 

 男はもう、どうにでもしてくれという思いで目を閉じた。

 

 

   

 

「…よし、これで良いだろう」

 

 気が付くと装蹄師の男の髪はきっちりとセットされ、スーツ姿でネクタイまで締められていた。

 

「驚嘆!マ子にも衣装だな!」

 

 理事長、たづなさん、樫本理子、シンボリルドルフ、エアグルーヴが揃って満足げに男を眺めている。

 普段は作業着姿である男をきっちり整えてみれば、元より普段の業務で鍛えられていて締まっている為、まるで別人のような見栄えである。

 

 エアグルーヴがつかつかと歩み寄り、男の胸元を凝視してきた。 

 

「…ネクタイが少し…よし、これでいい」

 

 エアグルーヴがほっそりした指を男の胸元に寄せ、ネクタイを修正して満足げに微笑んだ。   

 

 その時、控室のドアがノックされたのち、開かれた。

 

「…もう記者たちが集まってきてるわよ…って、ええ!?」

 

 男のスーツ姿をみて素っ頓狂な声を上げる東条ハナ。    

 そのあまりに決まり過ぎた姿に、いつも冷静である東条ハナにしても驚きを隠せない。

 

 男の瞳のハイライトはすでに消えていた。

 

 

 

 

 たづなさんの司会の元、レクチャーは淡々と進んでいく。

 

 男は記者席の後ろに陣取るシンボリルドルフ、エアグルーヴの生徒会コンビと東条ハナ、理事長、そして何故か来ている沖野とゴールドシップを眺めていた。

 そのさらに後方には学園関係者たちも聴衆として参加しているようで、夏合宿以来の南坂の姿もある。

 ゴールドシップはなぜか上機嫌な顔でしきりにこちらにぴすぴーす!とアピールしていた。

 

 せいぜいが会議室で数人の記者を前に蹄鉄談義程度のことを考えていた装蹄師の男は大勢の記者たちに戸惑いを隠せなかったが、彼女の屈託のない笑顔によりいくらか心の余裕を取り戻すことができていた。

 

 樫本理子が作ったプレゼンテーション資料が男の背後のスクリーンに大写しになっており、男はそれをベースに訥々と解説を入れていく。

 

「…とまぁそういうわけで、サイレンススズカの使用していた蹄鉄はデザイン、機能は申し分ないが、彼女の脚を支えるには耐久性不足であったわけです」

 

 勉強会でなされた議論がもともとの根底にはあったが、その座組みから解説してしまえばひとりのウマ娘にそこまでするのか、という点で問題が出る。

 

 たとえ勉強会の目的がさらに先にあるにしても、都合よく切り取られてしまえば無用な議論を呼びかねないため、あくまで夏合宿で気付いたことをきっかけに改善に取り組んだ、というストーリーが採られている。

 

「そこでデザインや機能性はある程度踏襲しつつ、材質改善で耐久性を担保しつつ、脚への負担は軽減するという目的で今回のような蹄鉄を作成いたしました」

 

 あえて技術的なアプローチはぼかしたまま、今回作成した蹄鉄の目的のみをを告げる。

 

 ほとんど技術委員会から公表されている資料の言い換えであり、新しい事実は含んでいない。

 

 そこを質問で抉られるのであれば本望ではあるが、装蹄師の男はそこまで期待してはいない。

 

 自らの仕事はあくまでレースを走るウマ娘たちの添え物であり、自分たちが主役ではないのだ。

 

 男はそう考えて、淡々と構造的、材質的な特長と狙いを解説し、自らの仕事はここまでだ、という風にたづなさんへマイクを返した。

 

「…それでは質疑応答にうつりたいと思います。質問のある方は挙手の上、わたくしが指名いたしましたらご質問ください。質問の前に媒体名とお名前をお願いいたします…」

 

 大人数相手のため、たづなさんの進行がすでにレクチャーではなく記者会見方式になってきている。

 

「…それではそちらの方」

 

 後方で声を出さずに煩い仕草で挙手アピールをしているゴールドシップをたづなさんは無視しながら、比較的前の方に座っている中年男性を指名した。

 

 

 

 

「…うむ。順調だな」

 

 エアグルーヴとともに見立てたスーツを身にまとい壇上で話す装蹄師の男はいつもとは違う雰囲気ながらも凛々しく、アメジストの瞳でそれを見つめるシンボリルドルフは満足げに口角が上がっていた。

 

「…問題はここからよ。今日来ている記者たちはそれなりにクセのあるのも混じってるわ」

 

 東条ハナはシンボリルドルフにそっと告げる。

 

 メディア対応はいつも難しい。

 輝かしい世界であるがゆえに常に陰ができるもので、さらに見目麗しいウマ娘たちが主役であるのだ。

 ゴシップ的な記事が出ることもあるし、ウマ娘たちが存在的にも年齢的にも守られるべき対象であるがゆえに、トレーナーや関係者に穿った目線が向けられることも珍しくない。

 その点は東条ハナも沖野も過去に少なからず経験がある。

 

「うまくたづなさんが捌いてくれるといいんだがな…あいつ、真正面から答えようとしちまうだろうし、その割に言葉足りないとこあるし、なんせアイツ、バカにはすげえ厳しい対応するときあるからな…」

 

 沖野はいつものように飴を転がしながら呟く。

 

 彼らの会話を聞いてエアグルーヴはぞくり、と背筋に冷たいものを感じた。

 

 

 

 

 たづなさんのコントロール下に置かれながら質疑応答は続いていた。

 

「…東京ウマ娘通信のスズキです。この蹄鉄、ずいぶんと画期的なものとお見受けいたします。特許の取得等はお考えになられているのでしょうか?」

 

 男は延々と続く質問にいくらか辟易としてきている。

 少し調べればわかりそうな質問が続いていることに苛立ちも感じていた。 

 

「これが特許が取れるようなものかはともかく、一般論として特許の取得というのはすでに公知のものである事柄には申請できないと認識しております。技術委員会から使用許可を得ている時点でおそらく公知の状態かと思いますので、今からの出願は不可能ですし、もとよりそのような発想はありません」

 

 このような発想を特許を取得して独占してどうしようというのか。一攫千金を狙うにしても市場が小さすぎる。そもそも学園の管理下で開発されたものであるから、厳密には男の権利になるものですらないだろう。

 

 

「バ事通信社のサトウです。今回の蹄鉄ですが、サイレンススズカさんの競争力向上にどの程度貢献しているものなのでしょうか?」

 

 やはり来たかと思いつつ、想定問答にある回答をする。

 

「…直接の競争力向上は公平性に反するので、あくまでも耐久性を上げたことの信頼性の向上に資する仕様としております。速さに直結するような仕様とはなっておりません」

 

 たづなさんが仕切り、次の質問へ移ろうとするが、先ほどの質問者が遮る。

 

「それでも特定の競技者に対しこれだけの労力を注ぐという行為自体が公平性を損ねているのでは、という考え方もできると思います。その点についてはどのようにお考えでしょうか?」

 

 やや挑発的な物言いで記者が畳みかけてくる。

 

 たづなさんがちらりとこちらを見る。

 笑顔ではあるが、困っているようだ。

 

「…どうでしょうね。私はその時に最良と思われる蹄鉄を造るだけなので。近年はスポーツ用品メーカーさんが製造販売されている蹄鉄もかなりのレベルです。それこそふた昔前には考えられないほどの高性能な蹄鉄が手に入ります。そういう意味では今回は珍しい例外なのは間違いありません」

 

 男は滔々と答える。

 

「公平性の観点では、おっしゃられるように量産品のみの使用に制限するようにレギュレーションを変更する必要があるのでは?」

 

 記者はさらに煽る。

 

「…それはイチ装蹄師である私が考えることではありませんね。その素晴らしい思い付きは、然るべき筋に然るべき方法で訴えられた方がよろしいのでは?」

 

 これ以上バカには付き合えない、そう言外に含みを持たせて男は質問を切り捨てた。

 




年内もう一本くらい書きたいけど明日から帰省だしどうかなぁ…


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72:装蹄師の手



あけましておめでとうございました。
あわただしい年末年始、皆さんいかがお過ごしでしたでしょうか。
旧年中は思いつきで書き始めたこのお話にお付き合いいただき、たくさんの感想や評価を賜りありがとうございました。おかげさまで新しい趣味として楽しんでいけそうで、本当に皆様には感謝しております。

今年もだらだらと妄想を垂れ流してまいりますので、引き続きよろしくお願いいたします。



 

 

 

「うまく助けられずに申し訳ありませんでした…」

 

 記者レクがあった翌日、たづなさんは装蹄師の男に詫びるために工房へと足を運んでいた。

 

「いえ…こちらのほうこそ気が短い上に気の利かない応対しかできずに申し訳なかったです」

 

 男も昨日の対応を詫びる。

 

 昨日の記者レクチャー時の質疑応答で、剣呑なやりとりが生じたことについてだった。

 

 装蹄師の男は蹄鉄を造る立場でありルールの運用や思想まで口にすべき立場ではなかったため、あのような受け答えになるのは必然ではあるにせよ、取材を受ける立場としてはいささかどうかと思われる態度であったことは間違いない。

 

 そして駿川たづなは本来であればあの場を丸く収めるような立ち回りをしなければならなかったが、それは上手く機能しなかった。

 

 結果としてメディアへの対応としては問題が残ってしまい、レクの主催であるURAには当該のメディアから抗議に近い苦言が呈されたと樫本理子から連絡があったのは昨日夜遅くのことだ。

 

 そしてそれ自体は事故のようなものだから気にする必要はない、とも同時に伝えられていた。

 

 

 それを除けば記者レク自体は概ね成功裏に終わり、記事自体はトレセン学園とURAへ事前に記事を提出、内容確認を経て掲載が許可されるという仕組みのためまだ世に出始めてはいないが、既に数件の記事が内容確認を求めて提出されてきているらしい。

 

「概ね好意的な記事となるとは思いますし、学園側もそのように努力はいたしますが、ひょっとしたら意図しない内容の記事も出てしまうかもしれません」

 

 たづなさんは少し気落ちしているように弱々しく笑った。

 

「別に私の方はかまいませんよ。ただ、今回は取材の主語にサイレンススズカがついている話なので…なんとかスズカには傷がつかないようにだけ、お願いします」

 

 昨日樫本理子にも電話口で頼んだ内容をあらためてたづなさんにも話す。

 

 装蹄師の男としてはほかの部分はどうでもいいが、スズカのことだけが気に掛かっていた。

 

 たづなさんは男の言葉にはっとしたように目を開き、強い決意を感じさせる眼差しで頷いてくれた。

 

 

 

 

 リギルのトレーナー室の主である東条ハナは、今夜もチームのトレーニングを終えてデータの整理に勤しんでいた。

 

 データ整理を行い、明日のスケジュールを確認したのち、今日メディアから発信されたニュースを総覧して自らに情報をインプットしてから業務を終了するのがいつものルーティンである。

 

 情報を入れるだけ入れておけばあとは頭の中で勝手に整理されるし、そのあとに僅かながら設けられる個人としてのリラックスタイムにこそ、インプットした情報をベースにした何らかの閃きがおきるものだと、彼女は固く信じているところがあった。

 

 尤も、僅かに設けられる個人としてのリラックスタイムが本当に文字通りの意味の時間なのかと言えばおおいにあやしい。

 

 しかし、仮に文字通りの意味でなかったとしても、それが苦にならないほどには仕事に没頭できており、結果がある程度出せている以上はこれが天職というものなのだろう、彼女は自分自身に対しそう判断していた。

 

 

 東条ハナが日々閲覧する主要なウマ娘関連メディアについてはいつも巡回コースが決まっており、今日もそのコースに従いヘッドラインから気になったニュースをピックアップしていく。

 

 ちらほらと先日の装蹄師の男のレクチャーに絡んだ記事が出始めており、そちらも合わせて読み込んでいく。

 

 内容は「サイレンススズカの速さの秘密」とストレートに記事にしたものから「蹄鉄の歴史と現状、そして最先端」といった蹄鉄にスポットを当てたマニアックなものまで切り口は様々であった。

 

 その中で、いつもならば優先順位はそれほど高くないWEB媒体のひとつの見出しが目に留まる。

 

 開いて読み進むにつれ、自らの眉間に皺が寄るのを東条ハナは感じた。

 

「やられたわね…」

 

 眼鏡を外し机にそっと置き、ただでさえ復元力に自信を持てなくなりつつある肌を労わるように細い指で眉間をほぐすと、ためいきをついた。

 

【 今こそ問う! URAの贔屓体質! 】 

 

 無記名の記者コラム的なサイトに載ったその記事は、具体的な取材内容を明らかにせずに抽象化することで読者の想像を煽りつつ、記者の主観を明らかにする形で構成されていた。

 

 いわく、とある装具に関する取材過程において製作者から話を聞く機会があったが、あるひとりのウマ娘にとてつもない労力をかけているのは明らかで、競走の公平と機会の平等という観点で見た時、これは著しくバランスを欠いているのではないか、というものだ。

 

 おそらくあの記者レクの現場にいた人間ならばこれがあの時の装蹄師と記者のやりとりの内容を指すものだ、とわかるだろう。

 

 URAやトレセン学園からの掲載前の確認を回避して発表するために、対象が抽象化されており具体的なウマ娘の名前などが出てこないという巧妙さで、ある意味そこが不幸中の幸いではあったが、それでもスズカの記事を追っているファンからすれば推測のつく書き口ではあった。

 

 このような批判的な記事が出回るのは別に珍しいことではないし、なにか問題やトラブルを叩くのであれば、その対象は庇護されるべき立場であるウマ娘ではなく周囲の関係者にする、というのは暗黙の了解であった。

 

 それがゆえにこの手の批判的な記事であってもある種の紳士協定に基づくプロレス的な部分があるのも確かだ。

 

 しかし厄介なのは今回の記事は最低限その暗黙の了解が守られているような書かれ方であっても、抽象化して書かれている分、内容は尖っているし、容易にどのウマ娘にまつわる話なのか解ってしまう筆致となっていて、ある意味では直接的に批判するよりタチが悪くなってしまっていることだ。

 

 おそらくトレセン学園かURAからは掲載したメディアに対してなんらかのアクションが起こされるであろうが、この書き方であるからしてのらりくらりと言い訳されてしまうことも間違いない。

 

 唯一の救いは発信元が大手というわけではなく、乱立しているWEBメディアの中でも比較的小規模に類されるサイトであることであろう。

 

「…今のところ打つ手なし、ね…」

 

 東条ハナは一通りの思考を巡らせてそう結論付けると、このことを頭の片隅に留め置いてPCを閉じ、いつものバーへの道順を思い浮かべた。

 

 

 

 

「やはりあの時、滅しておくべきだったのではありませんか、会長!」

 

 エアグルーヴは生徒会室で静かに、しかし怒気をはらんだ声で訴えた。

 

 「あの時」の主語は記者レクチャー時の剣呑なやりとりを指しており、今朝がたその記事を見つけ、共有したシンボリルドルフとエアグルーヴは、その対応について考えを巡らせていた。

 

 部屋の主であるシンボリルドルフは自席で腕を組み、瞳を閉じたまま黙考して動かない。

 

「何を今更。それを言ってもどうにもならないだろう」

 

 ナリタブライアンはソファで気怠げに脚を組み、意に介す様子もなくエアグルーヴを諫めた。

 

「…世に出てしまったものは仕方ない。それに、我々がどうこうできる問題でもないのだ、エアグルーヴ」

 

 シンボリルドルフは目を瞑ったまま静かに言った。

 

 もちろん、彼女の内心が言葉通りであるはずはない。

 

 何かできたのではないか、あるいは今からでも打つ手があるのではないか。

 

 そう思いながら脳を全力で働かせている。

 

 彼女の信念であるすべてのウマ娘たちが幸福に暮らせる世界を、という考え方において公平や平等といった観点は欠かせない。

 

 しかし公平や平等を旨としすぎるのは、競走の世界に生きている彼女たちと本質的に相容れない問題でもある。

 

 自らの生身を以て走り、速さを競う彼女たちにとっての公平や平等というのは、せいぜいが機会の平等、競技上の取り扱いの公平というレベルであって、生きとし生けるものすべてに存在する個体差までを是正するべきという話ではもちろんない。

 

 つまりは議論されるべき階層の違いを認識したうえで考えていく必要のある問題であり、今回の記事にあるような前提をロクに整理もせずに雑に公平、平等などとのたまうような質のモノではない。

 

 そのうえで、この安易な記事をどうするべきかを考えるわけだが、原理原則はともかく心情的に複雑に過ぎるのが問題であった。

 

 ストレートに考えれば兄をかばうための行動を起こしたいと思いつつ、自身の立場を考えればまずサイレンススズカについて何らかのフォローが必要なように思われる。

 

 公私の別の問題もあり、どのような手を取るべきかについて、あるいは何もしないという選択肢も含めて、シンボリルドルフの脳内は混濁していた。

 

「…エアグルーヴ、サイレンススズカはこの記事に目を通しているのだろうか」

 

 シンボリルドルフは問うた。

 

「…わかりません。普段からあまりこういうことを気にするタイプではないので、見ていないのではないかと想像はしますが、実際のところは、なんとも」

 

 エアグルーヴは率直に答えた。

 

 その答えを聞いて、シンボリルドルフが抱いているサイレンススズカ像とあまり違いがないことを改めて確認したうえで、今のところ何も思いついてはいないがとりあえずの意思表示をしておくべきだ、とは思った。

 

 

「とにかく、この記事を認識していることと、憂慮していること自体は理事長たちとも共有しておく必要があるだろう。エアグルーヴ、ブライアン、理事長室まで付き合ってくれ」

 

 皇帝の雰囲気を纏ったシンボリルドルフはいつにも増して厳しい表情のエアグルーヴと、不承不承といった雰囲気のナリタブライアンを伴って生徒会室を出た。

 

 

 

 

 装蹄師の男は治りかけの右腕を試すように使いつつ、日常業務を行っていた。

 

 先日の記者レクとそれにともなう記事が世に出て以降、なんとはなしに接する人々から話題として話が出ることはあったが、そもそも普段から他人との交流が多くない男にとっては、話題がひとつ増えた、くらいのものである。

 

 もちろん批判的な記事が出たことも承知していたが、原因は自分の対応のまずさであると認識していたし、むしろ迷惑をかけてしまっているだろうことに責任を感じるという表現では生ぬるく、はっきりと罪の意識を感じていた。

 

 彼女たちウマ娘を輝かせるための自らの仕事であるはずなのに、請われたとはいえ自分が出ていった結果、余計な面倒を惹起したとなればなおさらである。

 

 加えて全国に散る同業者にまで迷惑が掛かる可能性があると思えば、胃が痛いどころの話ではなかった。

 

 とはいえあのレクチャーの結果、世に出た蹄鉄関係の記事は基本的に好意的なものがほとんどではあった。

 

 あの記事による公平とやらに即して考えるのであれば、9対1で好意的、あるいは単なる情報として供される記事が多いのであるから、あまり気にする必要はないといえばその通りであるような気はする。

 

 とはいえ刺された内容はそれなりにとがっており、気にするなというには刺激的過ぎるとも思う。

 

 そのような状況であるから、いかにあの時剣呑な雰囲気のやりとりがあったからといって直接的にそれを責められることはないという今の状況は理解できなくもなかった。

 

 むしろ褒められることの方が多かったから始末に負えない。

 

 昨夜もいつぞやの会議ぶりに大黒様のようなみかけの装蹄師の兄弟子から電話がかかってきて、明らかにイイ感じに酔っぱらっている調子で

 

「よくやった。お前は今の装蹄師界の誇りだ」

 

 とまで言われてしまえば、もはや心情の置き所がよくわからなくなってしまっていた。

 

 

 

「…体調でも、優れないのですか?」

 

 そんな調子であるから作業机でじっと蹄鉄を見つめたまま固まっていて、サイレンススズカから声をかけられるまで、彼女の来訪に気づくことが出来なかった。

 

「あぁ…いや、別にそういうわけじゃないんだ」

 

 装蹄師の男は固着していた身体を動かし、特に意味もなく元気さをアピールしてみる。

 

「それならばよいのですが…先生、すこしお話、よろしいですか?」

 

 サイレンススズカは真っ直ぐな緑色の瞳でそう話し、装蹄師の男を誘った。

 

 

 

 安物の応接セットへスズカを座らせると、男はふと、あることを思い出した。

 

 それはスペシャルウィークが編入してすぐ、この工房で蹄鉄に関する特別講義をしたことがある。

 

 時期外れの編入だったために正規のカリキュラムが受けられず、それを補うためにここで最低限のことを教え込んだのだ。

 

 終わった後にスペシャルウィークにアイスを出してやり、それをサイレンススズカに話したところ、スズカが羨ましがっていた、という話。確か沖野から聞いた話だ。

 

 すでに夏は過ぎていたが、それを思い出して冷凍庫にひとつだけ残っていた人参アイスを出すことにした。

 

「ありがとうございます…!」

 

 アイスを手渡すとスズカの顔がぱぁっと明るくなるような気がした。

 

「スペシャルウィークがここで食ったやつと同じものだ。たまたま残りがあったんでな」

 

 普段あまり表情の動きが大きいほうではないスズカだが、どうやらアイスには心を動かされるらしい。耳と尻尾もせわしなくピコピコしている。

 

 男はそんなスズカの姿を見ながら缶コーヒーを啜っていた。

 

「スペちゃんがここでアイスをいただいた話を聞いて、何故だかすごく羨ましかったんです」

 

 上品に少しずつアイスを掬いながら、スズカは嬉しそうにそう話した。どうやら彼女にもその時の記憶はあったらしい。

 

 ゆっくりとアイスを食べすすむサイレンススズカを眺める。

 

 こうしてみるとスズカは年頃の美しいウマ娘にしか見えない。

 

 アイスの甘みに目を細め、耳をピコピコさせている目の前の彼女が今のトゥインクルシリーズを代表するスターウマ娘であるというのがいまいちピンとこない。

 

 男はそう思いながらも、アイスを食べるスズカを、その美しい緑の瞳をテレビの中に映る美少女のように眺めていた。

 

 やがて彼女はアイスを名残惜しそうに食べ終えると、小さく「ごちそうさまでした」と手を合わせ、居ずまいを正した。

 

 視線が合う。

 

「…そんなにじっと見つめられると、恥ずかしいです…」

 

 サイレンススズカはそっと視線を外し、頬のあたりを紅潮させた。

 

「あ…ごめん。なんかずっと見ちゃってた…」

 

 こういう時に動じなくなったのは、自らが年齢を重ねて図太くなったからだろうか。

 

 すくなくともおハナさんに指摘されるようないやらしい視線とは言われなかったことに安堵はしたものの、安心はできないな、と自らを戒めた。

 

「…で、今日はどうしたの?」

 

 男はスズカに問いかけた。

 

「あ、えっと…その…この間のレース後のインタビューのせいで、先生にはご迷惑をおかけしてしまったかもしれないって思って…」

 

 伏し目がちにたどたどしく、彼女は言った。

 おそらくスズカのインタビューが発端となって記者レクが開かれたことの一連の流れをどこかから聞いたのだろう。

 心底申し訳なさそうに、目の前のスズカは縮こまってしまっている。

 

「あぁ…そんなこと気にしてくれてたのか。大丈夫大丈夫。むしろあのあとこっちが記者レクやったのが記事になって、逆にスズカに迷惑だったんじゃないかって思ってて」 

 

「いえ…決してそんなことは。私、あまり外で言われることとか、興味がないので…」

 

 なんだかどちらも謝り合うような展開になってしまって視線が合う。

 

「…っふふっ…」

 

 しばらく視線を合わせていて、どちらからともなく吹き出した。

 

 柔らかな笑顔で、口元を隠しながらスズカは微笑む。

 

「その様子なら、本当に大丈夫そうだな。いや、本当に心配だったんだよ…」

 

 男はスズカの様子を見て、安堵した。

 

「その様子なら、天皇賞秋も万全ってところか」

 

 スズカに話を振れば、細めていた瞳を開いて、口角をあげてニコリと笑う。

 

「…正直、不安がないわけではないですが…レースの前はいつものことですから…」

 

 ちょっと思案顔を見せるスズカ。栗毛が艶めいてさらりと肩から落ちる。

 

「…先生、ちょっと手を見せてもらっても…いいですか?」

 

「…手?」

 

 男はスズカに請われるがままに、テーブルの上に両手を差し出す。

 

 これまでの幾多の作業を経て、火傷の痕に鉄粉が刻み込まれ、模様のようになってしまっている。節くれだったごつごつとした手だ。

 

 お世辞にも綺麗な手ではない。

 

 しかし、これまでの男の経験が刻み込まれた手だった。

 

 スズカは華奢な指でそこにそっと触れ、ごつごつとした男の指を握る。

 

「…私には先生がこの手で誂えてくれた蹄鉄があります。必ず、無事に帰ってきます」

 

 瞳を閉じて、静謐な雰囲気で願を掛けるようにそう呟くサイレンススズカ。

 

 それは誓いや願いといった趣ではなく、自らに言い聞かせるようにも聞こえた。

 

 

 しばらく男の手の感触を確かめるように握った後、そっと手を離す。

 

 サイレンススズカは呆気に取られて固まっている装蹄師の男を見てふふっと笑うと、立ち上がった。

 

「天皇賞、必ず観に来てくださいね」

 

 サイレンススズカはそう言い残し、固まっている男をそのままに工房を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

  




ようやくアプリのスズカストーリーを見終わった結果、ちょっと甘くしたくなりました(下世話な感じで)


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73:決戦の朝

 

 

 

 装蹄師の男は後輩を伴って東京レース場に居た。

 

 ここに来る道中、街中には今年最注目ウマ娘であるサイレンススズカが刷られた広告があちこちにあり、その期待度の高さがまざまざとうかがえる。 

 

 装蹄師の男はターフを駆けるサイレンススズカが一際大きく飾られているレース場入口の壁面広告の前で立ち止まる。

 

(こないだ、この子が俺の指握ってたんだよなぁ…)

 

 握られていた指を反対側の手で無意識に握り、ぼうっと巨大なスズカの横顔を見つめる。

 

 

 思えば初めてスズカとまともに話して以来、ずいぶんといろんなことが変わっていった。

 

 自ら変えた部分もあれば、周りから変わっていった部分もある。

 

 それでも漫然と、特に誰に使ってもらうあてもなく手慰みに蹄鉄を打っていた頃から比べると、隔世の感すらあるほどに、男の世界は広がった。

 

 そういう意味では、彼女に感謝する立場であろう、と男は思う。

 

 そしてそれはどのようなことがあったとしても、何らかの形でこれからも続いていくだろうし、その中での失敗や挫折もまた、あるだろう。

 

 それでも装蹄師の男は、サイレンススズカという稀代のスターに連れられるように、今までとは違う景色を見ることになるのだろう。

 

 今日のレースはまだ、彼女の夢の途中。

 

 それは装蹄師の男にとっても同じで、未だ頂の見えない装蹄師の道の途中であった。

 

 

「…なに感傷に浸ってんスか、先輩」

 

 急にスズカの横顔を見上げて立ち止まった装蹄師の男を、その眼差しから何かを察して我慢強く待ち続けた後輩だったが、いい加減たまりかねて声をかける。

 

 その声で現実に引き戻された男は、少し儚げに笑うと再び後輩とともに歩き始めた。

 

 

 

 

 今回の観戦場所は後輩自らが手配し、男を誘ってきた。てっきりまた手配を頼まれると思っていた男はそれを伝えられたとき、いささか拍子抜けしたものだ。

 

 曰く、いつも男やエアグルーヴに気を遣ってもらって手回ししてもらうのは気が引ける、とのことである。

 

「まぁちょっと、親のツテってのもあるんスけどね」

 

 そういうと後輩はスタンド上部席へのエレベーターへ装蹄師の男を誘導した。

 

「…俺、こんな身体になっちゃいましたけど、悪いことばかりでもなかったんスよね」

 

 ぽつりと後輩が言った。

 

「なんだかんだで親には世話かけちゃいましたけど、親父は結果的に俺が実家に戻って家業を手伝うようになって、嬉しかったところもあるみたいで。親なりに先輩にも恩義を感じてるところがあるんスよ」

 

 後輩の両親とは数度会っただけだが、事故後に退院するときに、男が直接謝罪する機会があった。

 

 だがその時でも後輩の父親は、装蹄師の男を責めることはなく、ただじっと男の謝罪の言葉を聞いていた。

 

 そして装蹄師の男が頭を下げると、ぽん、と男の肩を叩き、一言、

 

「いいんだ。君もつらかっただろう」

 

 とだけ言われたことが印象に残っている。

 

「…親父もこの間の先輩の蹄鉄関連の記事を見たみたいで、あの時の青年が立派にやってるんだな、って嬉しそうだったっス」

 

 そんな経緯があり、普段から親父さんの会社が得意先の接待用に抑えているというボックス席を今回は後輩に譲ってくれた、という経緯らしい。

 

 今日の府中、それも全体を睥睨できるスタンド上部の個室ボックス席となればとんでもないプラチナチケットである。

 

 それを譲ってくれたという好意は、後輩の父が抱いている装蹄師の男に対しての感情を誤解する余地はなかった。

  

「ならば今日のお礼に、親父さんになにか考えないとな」

 

「なら、先輩が作った蹄鉄の失敗作でももらえたら嬉しいっスね。きっと会社の応接にでも飾りますよ」

 

 さすがに失敗作というわけにもいかないが、自らの手のモノであればなにかは算段できるだろう。

 

 男はそう考えながら、はるか下にターフを眺める4人用のボックス席へ腰を降ろした。

 

 

 

 

 今日の天皇賞秋ではついにG1レースでレスキューウマ娘が走る予定になっていた。

 

 そのために、樫本理子は現場を仕切るURAサイドの人間としてレースコントロールが行われる管制室にいる。

 

「…一応、伝えておくべきかしらね…」

 

 朝の準備が行われていく中、片隅に与えられた管制席で段取りを確認しながら、樫本理子は頭の片隅であることについて考え続けていた。

 

 

 今週、天皇賞秋に走らせるレスキューウマ娘についてひと悶着あった。

 

 G1という大舞台において彼女たちを走らせるにあたり、相応の経験を積んだウマ娘であるべきではないか、という問いかけが競技長よりもたらされたのだ。

 

 具体的には、G2、G3に関してはG3出走経験があればよしとするが、G1に関してはG1出走経験がある者を求める、ということであった。

 

 急遽、レスキューとして走らせるウマ娘たちについて戦績を再度精査し、出走レースを組み替えて対応することとしたが、メインレースであるG1、天皇賞秋を走らせるレスキューウマ娘3名のうち、どうしても1名が実績を持つものがおらず、埋まらなかった。

 

 困り果て、トレセン学園に相談したところ、それならば私が、ということでエアグルーヴが立候補してきた。

 

 彼女はこの制度の原案を作った存在であり、実際に企画を形にしていくにあたりウマ娘たちの教育や運用についてまで関わっており、なにより昨年の天皇賞秋の勝利者である。

 

 これ以上はないほどの適任であった。

 

 そのような流れで彼女をレスキューとしてエントリーしたところ、今度は別のところから声があがる。

 

 現役かつ前年の優勝者がレスキューを走ることで、観客のレースへの集中が削がれるのではないかという意見だ。

 

 それはそれでもっともな指摘ではあった。

 

 改めて今日の朝、エアグルーヴたちと打ち合わせをしたところ、それならばメンコで顔を隠せばよかろう、ということになった。

 

 エアグルーヴ曰く、レスキューはあくまで黒子であるべき存在で、レースに集中してもらうことは悪いことではない、という。

 

 エアグルーヴ自身のプライドが高いことは方々から聞いていたが、目的のためならば己の存在すら消すことを厭わない姿勢に、樫本理子は彼女への認識を新たにした。

 

 そしてひとつ、樫本理子が気になったのは、エアグルーヴの想い人であろう装蹄師の男に彼女が出走するという事実を伝えるべきかどうか、だった。

 

 樫本理子の見るところ、あの男は旧知であるシンボリルドルフのみならず、エアグルーヴとも相当に深い関係を築いている。なにせ、ほかならぬあの男自身が理子に対して関係を説明したのだ。

 

 問題は男自身がそれを自覚していないところであり、それはとてつもなく罪深いことでもあると女性である樫本理子は判断していた。

 

 当然、エアグルーヴにしてみれば今日、彼女が走ることを装蹄師の男に知って欲しい、見てほしいと思うだろう。

 

 一方で、彼女自身が言っていたように今日の主役はレースを走るウマ娘であり、さらに言えば装蹄師の男が精魂を傾けた蹄鉄で走るサイレンススズカに注目が注がれるべきである、とも言えた。

 

 第三者である自分が伝えることは余計なお節介であるとも言えるし、エアグルーヴ自身が望んだものでもないのであれば余計にそう思えた。

 

 それでも、と彼女の感情の部分はなおも訴え続けた。

 

 鈍感なことこの上ない男の内面に自らの居場所を作ることに苦労した経験者である樫本理子は、エアグルーヴにも同じ様子を見て取っていた。

 

 ならば彼女のために私ができることは、と思わざるを得なかったのだ。

 

 結局、樫本理子は自分らしくないとは思いながらも、レース管制室の片隅でスマホを取り出し、装蹄師の男あてに簡潔なメールを送信した。

 

 

 

 

 サイレンススズカは与えられた控室にひとりきりで居た。

 

 勝負服はテーブルの上に用意されており、各部のチェックを終えた。

 

 蹄鉄を確認も兼ねて締めなおすため、シューズを持ち上げて改めて各部をチェックする。

 

 控室に冷たい金属音が響く。

 

 緩みもなく、キズや歪みもない。

 

 昨夜磨き抜いた蹄鉄は、鈍い輝きを放って彼女に存在を示していた。

 

 そっと指で、なぞる。

 

 装蹄師の男の節くれだった指が思い出された。

 

 心身ともに、これまでで最も良い状態。

 

 加えて、自分のために造られ、最も自分に合った蹄鉄。

 

 どこにも不安はない。

 

 しかし不安がないことが逆に不安を煽るという状態でもあった。

 

 先頭の景色を譲る気はないが、もしその神聖な空間を侵されたら。

 

 以前の自分であれば、そこに大きなプレッシャーを感じていただろう。

 

 今はその気負いがなくなったわけではないが、以前に比べれば軽い。

 

 ファンの期待は肌で感じられる。

 

 メディアにしてもそう。

 

 そしてそれは自分を支えてくれる、数多の存在だということを感じられるようになっていた。

 

 そしてその感受性を自分に与えてくれた男の鍛えた得物が、自らの手にあった。

 

 瞳を閉じ、シューズごとかき抱く。

 

 金属のひんやりとした冷たさが存在を主張し、その主張が反対にスズカの心の中はじんわりと暖まるようであった。

 

 

 

 控室のドアがノックされる。

 

 瞑目してのトリップから瞬時に目を覚ましたサイレンススズカは、はい、と控えめな返事をした。

 

 失礼する、と声がして開いて入室してきたのは、レスキューウマ娘のユニフォームを身に着けたエアグルーヴであった。

 

 その姿を見て、サイレンススズカは瞳を見開いて驚きを隠せない。  

 

「レース前に済まないな。今日の天皇賞、私がレスキューウマ娘として走ることになった。一応、話しておこうと思ったのだ」

 

 エアグルーヴはそう、スズカに告げた。

 

「…勝負服ほどじゃないけど、その衣装もよく似合ってるわよ、エアグルーヴ。今年は貴方と走れないのが残念だと思っていたけれど…」

 

 にこりと、エアグルーヴに微笑む。

 

「エアグルーヴが後ろにいてくれたら、私も安心して思いっきり走れるわね」

 

 エアグルーヴはそのスズカの微笑みにほっとしたように、口元を緩める。

 

 そしてふと視線を下におろしたエアグルーヴはスズカが左手で自らの脚を撫でていることに気が付いた。  

 

「…スズカ…その、左足になにか不安でもあるのか?」

 

 エアグルーヴに問われて、サイレンススズカは初めて自分が無意識に自らの左足を撫でていることに気づいた。

 

「いえ、何も…」

 

 口を真一文字に結んだエアグルーヴは真剣な表情のまま、スズカを見つめている。

 

「ホントよ?エアグルーヴは心配性なんだから…」

 

 そう言うとくすくすとスズカは笑った。

 

 エアグルーヴはため息をつき、それならばいいのだが、と呟きつつ、自分が神経質になり過ぎているのかもしれない、とスズカの笑顔をみながら身体に入り過ぎた力をリラックスさせようとした。

 

 

 

 

「おやおや、ここにいたのかい。探しても見つからないはずだよ」

 

 装蹄師の男と後輩のコンビに後方から声をかえたのは、アグネスタキオンだった。

 

「あ、タキオンさんこんちわっす。見学のときはありがとうございました」

 

 後輩がタキオンに挨拶する。

 

「いやいやこちらこそ。あのあと君が送ってくれた紅茶はとても気に入ったよ」

 

 どうやら後輩はあれからタキオンに紅茶の贈り物でもしたらしい。さすが、こういうことには如才ない男である。

 

「なんだ?俺たちのこと探してたのか?」

 

「なんだとはご挨拶だねぇ。これだけ一緒に知恵を絞った仲間じゃないか。その帰結を仲間と一緒に見届けようと思うのは当然のことだとは思わないかね?」

 

 アグネスタキオンはいつものねっとりとした言い回しで装蹄師の男に詰め寄る。ハイライトの無い昏い瞳は男を冷たく見据えていた。

 

 婉曲に表現されてはいるが、要はなぜ自分も誘ってくれなかったのだ、と言いたいようだった。

 

「タキオンさん、どうぞここ座ってください」

 

 後輩がタキオンに席を勧める。

 

「いいのかい?悪いねぇ助かるよ」

 

 そう言ってタキオンはさらりと自らの居場所を確定させた。  

 

 男はなおも拗ねた表情をこちらに向けているアグネスタキオンの視線を流し、コース全体をぼんやりと見つめていた。

 

 スタンドからの歓声が聞こえる。

 

 メインレースはまだ先だが、今日のレースプログラムが走り始めたのだ。

 

「なぁ…タキオン」

 

 装蹄師の男は、視線はコースに向けたまま、ぽつりと呟いた。

 

「なんだい?」

 

 タキオンは男の横顔を見つめた。

 

 無表情に遠くを眺めるその姿から、なにかをうかがい知ることはできない。

 

「…俺たちは精いっぱい、できることをやったよな?」

 

 問いかける男の声に、アグネスタキオンはかすかに、縋るような響きを感じ取った。

 

「…精いっぱい、やったとも。不安なら、君の右腕に聞いてみるといい」

 

 男はそれを聞いて、たまらず目を閉じた。

 

 アグネスタキオンのその言葉は、どこか慰めるような響きが含まれていた。 

 



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74:天皇賞 秋

 

 

 

 

 

 

「さぁ本バ場入場が始まっております天皇賞秋…地下バ道を通って続々と、今日の主役たちがターフに現れます」

 

 スタンドからの視線が集まる中、今日のメインレースである天皇賞秋を走るウマ娘たちが現れる。

 

 それを遠くスタンド上部から、装蹄師の男たちは眺めていた。

 

 ひときわ大きな歓声が上がる。

 

「そして今日の本命、サイレンススズカの入場!スタンドが揺れるような歓声がこの府中に響き渡ります」

 

 注目度の高さはそのまま、歓声の大きさとなって現れる。

 

 サイレンススズカのそれは、はっきりと群をぬいていた。

 

 アグネスタキオンは再び装蹄師の男の横顔を盗み見る。

 

 表情からは、やはりなにも読み取れるものは浮かんでいなかった。

 

「あれ。先輩、コレ…」

 

 後輩がスマホを男に差し出す。

 

「…?…あぁ…ん?」

 

 後輩のスマホ画面に表示されていたのは樫本理子からの簡潔なメールであった。

 

[天皇賞秋 レスキュー 出走変更 エアグルーヴ]

 

 男は部屋に備え付けの双眼鏡を覗き込み、スターティングゲート後方に待機するレスキューウマ娘3人を見つける。

 

「…あれ、か…」

 

 3人は頭部全体を覆う目出し帽のようなメンコを付けているが、そこからすっくりと優美に伸びた耳と、レスキューパックを背負っても腕を組んで堂々と立つその姿勢は間違いなくエアグルーヴだ。

 

 男は双眼鏡をおろすとほっと一息ため息を吐いた。

 

「…みんな、できることをできるだけやってるんだな」

 

 遅ればせながら後輩のスマホあてに届いたメッセージを見たアグネスタキオンは、男の言葉にいくらかの安堵を見出した。

 

 

 

 

「…

 

さぁスターターが位置に着きました。ファンファーレが鳴り響きます東京、府中レース場。13万以上の観衆、割れんばかりの拍手に送られて枠入りが順調に進んでおります、12人のウマ娘たち。

 

 エルコンドルパサー、ヒシアマゾン、ウイニングチケット、メジロライアン、ナイスネイチャ、キンイロリョテイ…。

 

 やはり注目は1枠1番サイレンススズカ。圧倒的1番人気に推されております。果たして彼女を捕まえることができるのか。すでにゲートに収まりじっとその時を待っております…。

 

 さあ全ウマ娘スターティングゲートに収まって態勢完了です。

 

 今、スタートを切りました!サイレンススズカ、一番いいスタートを切りました!

 

 スーッと伸びてまずは1番サイレンススズカ、すでに後方と3バ身4バ身と引き離していく。2番手の位置にはエルコンドルパサーが行きます。

 

 サイレンススズカ、さらに後方を引き離す。なんというスピードだ!後続とはすでに大きな差。

 

 3コーナーを見据えていくが、すでに後方とは何バ身開いているのかわからないほどだ。2位エルコンドルパサー、メジロライアン、キンイロリョテイと続いていく。

 

 まもなく1,000m、前年は58秒5で走ったサイレンススズカ、今年は一体どんなタイムで走るのか。

 

 今、1,000m通過!

 

 なんと…56秒台!56秒9で過ぎていった!

 

 とんでもないスピードだ!

 

 敵は己自身、サイレンススズカ!これは後続もとてもついていけないラップを刻んでいく!

 

 大欅を越えていく。快速を保ったまま4コーナーに入っていきますが後方とは約15バ身。逃亡者サイレンススズカを追ってエルコンドルパサーも加速する。さらにキンイロリョテイ、メジロライアンと続いていくぞ。果たして捕まえることができるのか。

 

 先頭サイレンススズカ、リードを保って直線に入ってくるが後方との差がちょっと詰まってきたか。

 

 後続が迫ってきているサイレンススズカ!距離を詰めるエルコンドルパサー!その差はもう10バ身を切ってさらに縮まる!

 

 しかし逃げて差すサイレンススズカ!今回もその差し脚が炸裂するか!

 

 残り400の標識に向かっていくサイレンススズカ!いっぱいになったか!いつもの差し脚はまだこないか!

 

 後続が迫ってきているぞエルコンドルパサー、猛烈な追い上げ!

 

 残り400を切った!メジロライアン、キンイロリョテイも一緒に上がってくる。サイレンススズカとの距離は詰まっているぞ!

 エルコンドルパサーとの差はもう4バ身!

 

 サイレンススズカ、伸びない!苦しそうな表情を浮かべているぞ!大丈夫かサイレンススズカ!エルコンドルパサーが並びかけていく!

 

 サイレンススズカ、ついに捕まった!エルコンドルパサーがあっさりと前に出た!失速!失速です、サイレンススズカ!

 

 残り200!…サイレンススズカが後続バ群に呑まれていきます!変わって先頭に立ったのはエルコンドルパサー!

 

 メジロライアンも続くがキンイロリョテイが突っ込んでくる!

 

 先頭エルコンドルパサー!キンイロリョテイ届かないか!エルコンドルパサー、エルコンドルパサーです!今1着でゴールイン! 

 

 勝ったのはエルコンドルパサー!見事毎日王冠の雪辱を果たした!2着キンイロリョテイ!

 

 圧倒的1番人気サイレンススズカは連勝ストップ!これは大波乱!着外に沈みました!

 

 ああっとゴール後、サイレンススズカが倒れ込んでいるぞ!レスキューウマ娘たちが駆け寄っていく…

 

…」

  

 

 

 

 約2分間のレースの間、装蹄師の男たちのボックスは、誰一人声を発せずに固唾を呑んで見守っていた。

 

 サイレンススズカの絶好のスタートから、1,000m通過タイムによる観客の歓声、4コーナーを先頭で駆けてきたスズカにさらにスタンドは沸き、そのまま絶頂を迎えるかに思えた。

 

 そして異変に気付き静まっていく歓声、続くどよめき。

 

 その歓声の変化が、どこか別の世界のことのようでもあり、3人の内心を表しているようでもあった。

 

 ゴール後のターフの上ではサイレンススズカにレスキュー姿のエアグルーヴが駆け寄り、担架を持ってくるように指示を飛ばしているように見える。

 

 ほどなくしてコース脇のポストから担架が用意されるが、サイレンススズカはそれに乗ることを拒否しているようだ。

 

「…サイレンススズカ、倒れ込んでいましたが今、レスキューウマ娘の肩を借りて立ち上がります…表情はどうでしょうか…」

 

 場内実況もスズカの状況を気にしている。

 

 それに気づいた彼女は、エアグルーヴの肩を借りながら気丈にも笑顔を作り、スタンドに控えめに手を振り、静かにターフから去っていった。

 

 その様子を見て、装蹄師の男はようやく息を吐いて、脱力し席にもたれた。

 

 後輩とアグネスタキオンは、かける言葉が見つからずに、空間に満ちる重苦しい空気をただ、共有することしかできなかった。

 

 

 

 

 レースの後、いつ後輩たちと別れ、どこをどう歩いてきたものかは記憶になかったが、気が付けば男は工房に居た。

 

 すでに日は暮れており、工房の中は暗い。

 

 そこで男はいつもの作業机に座って机上の作業灯をひとつだけつけていた。

 

 目の前には予備のさらに予備として手元においてあったサイレンススズカ用の蹄鉄。

 

 なにがあったのか、なにが起こったのか。

 

 ここまでやってきたことは、果たして正しかったのか。

 

 蹄鉄を見つめながらじっとして、先ほどから考えても答えの出ない問答を脳内で繰り返していた。

 

 師匠格の老公から聞いたトキノミノルの話を思い出す。

 

 ダービーに勝って消えた、トキノミノル。

 

 老公は言っていた。

 精いっぱいやった、と。

 

 だが、それが彼女に対しての行いとして、正しかったかどうかは、わからない、とも。

 

 物事の正誤はいつだって、捉え方でどうとでも変わる。

 物事に絶対はない。すべては相対的な問題なのだ。

 

 そこまで思い至った時、ふと我に返る。

 

 そういえば随分と煙草を吸っていない。

 

 男はポケットから形状の崩れかけたパッケージを取り出し、曲がってしまっている煙草にも構わず咥え、火を点けた。

 

 肺に染み渡ったニコチンが全身に運ばれていくのをじっくりと感じ取る。

 

 これだから煙草はやめられないのだ、と誰に対するでもなく喫煙を肯定したところで、そういえばスマホを見ていないことにもようやく気が回り、取り出した。

 

 不在着信やメッセージがおびただしい量、来ていたようだった。

 

 しかしそれをどうにも直視する気になれず、男はそのまま机の上に放り出した。

 

     

 

 

 翌日のスポーツ紙の一面は天皇賞秋の勝者であるエルコンドルパサーが飾った。

 

 前走の雪辱を果たしたという彼女の名声はいよいよ高まり、凱旋門賞も視野に入る彼女の活躍をどの紙面も讃えていた。

 

 そして裏一面には、サイレンススズカの大敗、そして故障と思われる結末に対し、各紙さまざまに書き立てていた。

 

 レース後、深夜にはサイレンススズカの故障について公式発表がなされていたが、翌日朝刊の締切には間に合わなかったのだ。

 

 スズカの敗因や故障個所の推定を行うメディアも多かったが、その中で触れられていた要素のひとつとして使用実績の少ないオリジナル蹄鉄がよくなかったのではないか、とする指摘があった。

 

 当然といえば当然の指摘だった。

 

 前走毎日王冠をその蹄鉄を使用して勝っているとはいえ、実戦使用は2戦目。実績不足は否めないし、なにか思いもよらない事態が起きても不思議ではない。

 

 だがそれはあくまで予測された要素のひとつでしかなく、本来であれば正確な情報があきらかになっていく時間経過によって埋もれていくはずの要素だった。

 

 

    

 しかしURAの理事会はそうは捉えなかった。

 

 これからレース界を引っ張っていくはずのサイレンススズカがこのような結末を迎えたことをとても重い事態として認識していたのだ。

 

 これからもさらにサイレンススズカを軸として盛り立てていこうとした矢先の出来事で、世間の関心も高い。

 

 その関心はレース翌日のみならず、しばらく続きそうな気配だった。

 

 事実、メディアからは取材の要請が殺到しており、URA上層部にもさまざまなルートからの要請、要望が引きも切らず、遂にはURA本部前での出待ち取材を試みるメディアが多数出る事態に至っている。そしてそれはトレセン学園でも同様であった。

 

 

 日に日に高まるサイレンススズカの故障に関する原因究明を求める声に、遂にURA理事会は折れ、原因について調査するよう各所に指示を出したのはレースの3日後のことであった。

 

 

 世論に押されURAが動いた、とメディアは喧伝した。

 

 

 

 

 URAの技術委員会から装蹄師の男に呼び出しがかかったのは、レースから1週間後のことであった。   

 

 

 

 

 



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75:幕間4:トレセン学園史料課研究員は調べる

ついに幕間が本編へ合流してしまいました。


 

 

 トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課の下っ端研究員である男は、学園の敷地内片隅にある寮に暮らしている。

 

 築年数は相当古い建物だが鉄筋コンクリート造りのしっかりとした建物で、内外装ともにこまめにメンテナンスされている為、言われなければそれほど古さは感じさせない。

 

 駐車場も一室に1台分ついていて、寮費は光熱費込みで2万円でおつりがくる安さ。

 

 大学の学費を半分ほどを返済が必要な奨学金で賄った彼にはこれ以上ない好待遇といえた。

 

 しかもかれの自室は歴代喫煙者に割り当てられる部屋らしく、中は綺麗にリフォームされているものの、彼の室内での喫煙も咎められないという願ったり叶ったりの環境なのであった。

 

 そしてその部屋で下っ端研究員の男は明日が休みなことを良いことに、静まり返った夜の伴として持ち帰ってきた資料をゆっくりと煙草を吸いながら眺めている。

 

 このところのライフワークとなっているサイレンススズカ、シンボリルドルフ、アグネスタキオンの日記を見つけたことに端を発する当時の研究は、進捗に難渋する局面に陥っていた。

 

 整理してみてわかったのは、やはり当時は良くも悪くもサイレンススズカの時代であったということだ。

 

 現在でも、彼女の名前はトゥインクルシリーズにおいて伝説とともに燦然と名を遺している。

 

 彼女の名声が高まったのは金鯱賞から続いた連勝と、頂点を極めんとする当時最強と謳われたメンバーがこぞって出走してきた毎日王冠での圧倒的な勝ちっぷりにある。

 

 そして続く天皇賞秋での劇的な敗退。

 

 これは当時、相当な衝撃をもたらしたらしく、メディアも相当騒いだことが伺える。

 

 実はトップを快走中にに左足大腿骨に軽いヒビが入ってしまったらしく、それに気づいた彼女は後続も来ていたためにスピードを徐々に落としつつゴールまで運んだ、ということがのちに明らかになっている。

 

 その後彼女は治療と休養を経て、翌年の宝塚記念から戦線に復帰した。

 

 続く毎日王冠、天皇賞秋からのジャパンカップという前年に描いていたローテーション通りに出走し、そのすべてで完璧な勝利を掴んでみせ、彼女の名声を不動のものとした。

 

 特に今でも語り継がれるのは、その年最後、そして国内最後の出走となったジャパンカップである。

 前年に引き続き参戦したスペシャルウィークとのチームスピカ同門対決となったこのレースは、今でも伝説として語り継がれている。

 

 

 下っ端研究員はノートを読み返し、煙草をひと吹かしする。

 

 それにしても、である。

 

 継続して残っている週刊誌、月刊誌を中心に読み込んで当時の世相をイメージしているのであるが、どうにも妙なのである。

 

 金鯱賞からの連勝、そして天皇賞秋へと駆け抜けるサイレンススズカは、間違いなくスターであり、メディアの扱いもそうなっている。

 

 そして敗退、故障という道を辿る彼女は悲劇のヒロインとして伝えられ、休養に入ってからは本人や周囲の意向もあってか動静を伝える情報はぱったりと途絶える。

 

 それでも昨年の快進撃と圧倒的な強さを忘れられないファンからの投票が集まり、宝塚記念へと選出され、彼女はトゥインクルシリーズに復帰する。

 

 しかし復帰した際のメディアでの取り上げられ方が不自然に少なく、穿った目で見ればまるでヒールのような扱いなのだ。

 

 それは怪我の後、極端にメディアへの露出を嫌うようになった彼女の姿勢によるもの、という部分もあるだろう。

 

 それでも、まるで求道者のようにストイックに走り続け、ついぞその年は一度も先頭を譲ることなくジャパンカップまでを駆け抜けた彼女は、ついぞこの年メディアの取材に公式の場面以外で応えることなく、アメリカへと戦場を移してしまったのだ。

 

 まるで彗星のような存在だ、と下っ端研究員は思う。

 

 そしてなにが彼女をそうさせたのか。

 

 肝心の日記は毎日王冠の後あたりで途切れており、倉庫をいくら探しても続きは見つけられていない。

 

 日記から得られた情報は、おそらく彼女はあの打ち棄てられた工房で造られた彼女専用のオリジナル蹄鉄を履いており、それで毎日王冠を勝ったこと、そしてレース後のインタビューでそのことを話したこと、まで。

 

 心情も少なからず日記に綴られていたが、不鮮明でうまく読み砕くことができずにいた。

 

「…うーん…」

 

 下っ端研究員は唸り、煙草を吹かす。

 

 インプットは十分なはずなのに、何もアウトプットできないのは大抵、なにか見落としているからなのだ。

 

 彼は自分自身にそう言い聞かせ、気分転換に散歩に出ることにした。

 

 

 

 夜の学園は静かだ。

 

 ゆっくりゆっくりと、これまでのインプットを検証しながら歩く。

 

 トレセン学園は広大な敷地を持ち、散歩道には事欠かない。

 

 気分を変えるために、下っ端研究員は舗装が整備された校舎方面ではなく、あえて裏の雑木林のような敷地を歩いていく。雑木林の中も舗装はされていないがある程度整備されており、ところどころに街灯もある。何も不自由はなかった。

 

 考え事をしながら歩くうち、気が付くと下っ端研究員は、引き寄せられるように打ち棄てられた工房の前にいた。

 

 なんとはなしに眺めるその工房に、微かな違和感を感じた。

 

 

 

(…明かりが…灯っている…?)

 

 

 入口の引き戸のすりガラス、その奥に薄っすらと明かりが灯っているように見える。

 

 周りを見回すが、特に反射しそうなものは見当たらない。

 

 下っ端研究員は意を決してその引き戸に手をかけ、ゆっくりと開いた。

 

 中を覗くと、奥の作業机のあたりに誰か座っており、すっと立ったウマ耳の片方がこちらを向く。

 

「…誰だ?」

 

 聞き覚えのある声の誰何がある。

 

 下っ端研究員は名を名乗った。

 

「…なんだ、貴様か…」

 

 声の主はひょんなことから知己を得ていたエアグルーヴ理事長である。

 

「…見回りにしては、ラフな格好だな」

 

 下っ端は明日が休みなのでちょっと夜の散歩を、と言葉少なに告げた。

 

 エアグルーヴ理事長はこんな時間であるというのにスーツでビシッと決めており、作業机のあかりだけを灯して椅子にゆったり脚を組んで腰掛けていた。

 

 がさり、と机の上の袋が音を立てる。

 

 そこには理事長のイメージとは不釣り合いなコンビニの袋と、その中に入った発泡するアルコール飲料が3本ほどあった。

 

「…まぁ折角だ。少し付き合え」

 

 理事長は下っ端に、対面にある錆びついたパイプ椅子を勧める。

 

 今にも崩れそうなそれに腰をおろすのは勇気が要ったが、理事長自らハンカチで座面を拭いてくれたとあれば座らぬわけにもいかなかった。

 

 下っ端の男が座ると、見た目に違わぬパイプ椅子はギシリと軋んだ。

 

 エアグルーヴ理事長はほのかな灯りの中で、下っ端の男に袋の中から缶を一本差し出した。

 

 うやうやしくそれを受け取ると、缶を開ける。

 

 カシュっと気の抜ける音が開栓を告げた。

 

 缶を軽くぶつけ、静かに乾杯の仕草を取った。

 

「難航しているようだな」

 

 うっすらと浮かび上がる魅惑的な唇を潤すように一口飲んだあと、エアグルーヴ理事長は問いかけた。

 

「…サイレンススズカを軸に追っていたんですが、どうにもわからなくて」

 

 下っ端研究員の男は素直に口にした。

 

「スズカか…彼女の当時の記録では捉えづらいだろう」

 

 エアグルーヴ理事長はさりげなく、作業机の隅にあった灰皿を差し出してきた。

 

 ありがたく煙草に火を点ける。

 

「なんというか…怪我をする前と後で、まるっきり別人になってしまったような印象ですね」

 

 下っ端の男から見てエアグルーヴはあかりを背にしており、表情がうかがいづらい。

 

 耳飾りの小さな蹄鉄が耳の動きに応じて時折、きらりと光を男にもたらしてくる。

   

「…その印象は間違っていない。なぜそうなったのか、あたりはついているのか?」

 

 それがまだよくわからない、と正直に答える。

 

 サイレンススズカが現役を引退してから、彼女の競走ウマ娘としての生涯をまとめた本は何冊も出版されていた。

 

 手に入る範囲で数冊読んではみたが、研究員の男としてはどれもしっくりくる内容ではなかった。

 

 それらの書籍には、サイレンススズカは初めから内向的で気難しく、ほとんどメディア対応をすることがなかった、とされていたからである。

 

「…理事長は、サイレンススズカさんとは友人関係でしたよね?」

 

 探るような様子で研究員の男は問う。

 

 エアグルーヴは耳をぴくり、とうごめかせた。

 

「あぁ…友人だ。戦友と言ってもいい」

 

 エアグルーヴ理事長は消え入りそうな小さな声で、呟いた。

 

 その力のない様子に下っ端研究員の男は二の句が継げず、煙草の煙だけが立ち昇っていく。

 

「…ひとつ、ヒントをやろう」

 

 ごくり、と大きめの一口を飲み下し、エアグルーヴ理事長は告げた。

 

「トゥインクルシリーズのレギュレーションの変遷と、当時のURAのプレスリリースを調べてみろ。そこに手掛かりがある」

 

 ヒントにしてはいやに具体的だな、と研究員の男は思ったが、言われてみれば盲点であった。

 

 いつの時代でも一次資料は最も重視すべき情報ソースだ。

 

 これまで世相を追うためにメディアが出していた二次資料を中心に当たっていたが、誰かを媒介した情報というのは媒介者の主観が少なからず入り込み、編集され、時にどうしたらそのようになるのか、という論調で世に出されることがある。

 

 下っ端研究員の男は考えを巡らせ、ひとりでうんうんと頷いていた。

 

「そこを調べて、貴様なりの見方を私に提出しろ。出来次第では、次のヒントを与えてやる」

 

 それだけ言うとエアグルーヴ理事長は缶の残りを飲み干し、立ち上がった。

 

「…たまには気楽に話すのも良いものだな。次に会う時を楽しみにしているぞ」

 

 それだけ言うとエアグルーヴは袋に一本残ったアルコールを男に押し付け、優美な尻尾を上機嫌に揺らし、ヒールの踵の音を響かせながら工房から退出していった。

 

 

 

 下っ端研究員の男は新たな煙草に火を点け、出されたヒントを解く手順をゆっくりと整理した。       

 



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76:大人たち

 

 

 

 

 

 天皇賞秋の結果は多方面に波紋を呼んでいた。

 

 メディアは今季の絶対的なスターであったサイレンススズカの怪我について書き立てた。

 

 そしてレースの翌々日には、大手メディアが彼女の怪我の原因について明らかにするべきとする社説を掲載し、大きな反響を呼んだ。

 

 反響の種類は多種多様ではあったが、レース前に書かれた弱小媒体のURAへの体質を問うた無記名記事はこの時点で改めて脚光を浴びることとなった。

 彼ら弱小媒体は、過去最大のPVを更新し続けるその記事を出発点に、さらなる戦果拡張を試みた。

 

 それからは、読者の興味を引くテーマがあればどれだけ綺麗ごとを掲げようともそれを追うのが資本主義者たる商業メディアの本懐といえる報道合戦となり、各メディアがそれに続いていった。

 

 こうしてURAに批判的な世論は見事に形成され、その包囲網は確実に狭まりつつあった。

 

 

 

 ウマ娘レース界の総元締めたるURAは、その世論、世相の変化を敏感に感じ取っていた。

 

 そして日々強まる逆風に、このままでは国民的エンターテイメントとして確立されていたこの興行が崩壊しかねない、と危惧するに至る。

 

 URA上層部に名を連ねる人々は、普段は君臨するのみの存在で、現場のことは現場で、とする名誉職のような人々ではあった。しかし彼らの正体は機を見ることに長けたが故にそのポストを得た、URAよりもさらに上の組織にバックグラウンドを持つ人々の集まりでもあった。

 

 そして、URAが直面している世論からの好まざるスポットライトが、彼らのバックグラウンドである管轄省庁、つまり行政までをも巻き込みかねない状況と見て取ると、即座に行動を起こした。

 

 緊急招集された理事会は世論に対する回答を出し、彼らの組織の安寧を取り戻すべく、原因究明指示の発出をすること、そして原因究明を始める意思を対外公表を決意するに至った。

 

 

 

 

「厄介どころの話ではないですね、これは…」

 

 URA本部、総合企画室のあるじである樫本理子は、いつもの無表情のまま誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

 尤も、その声を耳にするものは誰もいない。 

 

 今日も不夜城を守るのは彼女一人であるからだった。

 

 彼女は、本日午後に開催された理事会にオブザーバーとして臨席した。

 

 そこで繰り広げられた議論と導き出された結論は、天皇賞秋のサイレンススズカの怪我の件に関する原因究明を行うとする理事会決議となって正式化された。

 

 発言権を持たないオブザーバーである手前、彼女は眼前で淡々と手続きに沿い進められていくその様子を、絶望とともにただ見つめていることしかできなかった。

 

 興行として円滑に回っているうちは、上層部はたいていのことには目を瞑り、現状維持プラスアルファ程度の成果で満足していた。

 

 そして志ある者たちの提案についても、余裕のある組織はかくあるべしといった様子で、彼らの裁量の範囲を越えない部分では寛容であったと思う。

 

 しかし彼らは所詮、平時を謳歌する貴族でしかないのだった。

 

 ある意味での戦時へと変化した今、彼らは茫然と、しかし確実に逃げまどい、責任の回避を第一の目標として猛進し始めた。彼らの人間としての本質、その正体を現したと言っていい。

 

 このように市井におもねる姿勢を取ってしまえば何らかの結論は発表せねばならず、そしてそれが中途半端であればまた更なる窮地に陥ることになる。

 

 つまり、結論はそれなり以上の説得力を持つ必要があった。

 

 それが意味するところは、ひとつ。

 

 

 

 樫本理子は今日の流れを何度辿ってもたどり着くその結論にうんざりとして背もたれに身を預け、眼鏡をはずし、深いため息をついた。

 

 今回、そういう結論に至ってしまうのは最早止めようがないように思われた。

 

 しかしトレセン学園サイドが自助努力として行っている取り組みまで止めてしまうような事態にはならない線で、なんとか食い止めたい。

 

 そこまで考えを進めて、樫本理子ははたと、理路整然とした脳の回転を止める。そのかわりに、胸のあたりにある別の思考回路がうごめきだした。

 

(いや…それが私の本音では…ないですね…)

 

 自らもまた建前で物事を考えていることに気づく。

 

 建前の部分も嘘ではない。

 

 しかしそう考える根源的な部分は、ただただ純粋にウマ娘たちの未来を思うがゆえ、というわけでもなかった。

 

(ここまで這い上がってきたあの人を…ここでまた、振り出しに戻すわけには…)

 

 そう思う心こそが、彼女の本当の本音であった。  

 

 

 

 

「たづなっ!なんとかならんのか!」

 

 秋川やよい理事長は、たづなさんに八つ当たりしていた。

 

 苛々しげに理事長室をちょこまか歩き回る。

 

「あれはっ!あれは…ただのレース中の怪我だろうが!」

 

 今日何度目かわからない言葉を呟く理事長。帽子の上の猫は振り落とされそうな勢いだが、それに構う様子はない。

 

 見た目通りの幼な子のように振舞う理事長であったが、その実、彼女の内面は常人には及びもつかない速さでさまざまな可能性を並行して検討していた。

 

 たづなさんはこのような態度を取るときの秋川やよいの癖を知っていたから、宥めるでもなく曖昧な笑顔を浮かべてただ、その様子を眺めている。

 

 駿川たづな個人の心情としては、理事長に全く同意していた。

 

 

 

 たづなさんは日々のメディアチェックも仕事のひとつであったから、天皇賞秋後の世論の変転を肌で感じながら危惧を抱いていた。

 

 そしてURAが緊急に理事会を招集したという話を聞くに至り、危惧は現実の危機となることを悟った。

 

 先代理事長に仕え出した時から、この世界は外から見るほど夢と希望と輝きに満ちた世界ではないことは、少しずつ見聞きし、知るようになった。

 

 それは彼女の祖母であるトキノミノルの生涯とも、どこかでつながっている、と感じることも数多とあった。

 

 この仕事にのめりこみ、それなりの時間が過ぎた今は、その陰影ははっきりと形として認識できるほどになっている。 

 

 これまでも案件によって陰の濃淡はあれど、運営サイドと現場サイドの本質的な部分での軋轢というものは存在した。

 

 それを理想論や根性論でなんとか体裁を整えて乗り越えてきたことはこれまでも数限りない。

 

 極度に一般化して考えるならば、誰にでも立場はあり、誰にでも正義はあり、そしてそれは他の誰かと共有できるものでは必ずしもない、ということなのだろう、と勤め人としてそれなりの時間を経てきた駿川たづな自身は解釈していた。

 

 そのような見識から全く個人的な見解を述べるならば、今回このような事態に至る前、タイミングとしてはサイレンススズカの怪我の程度を発表する段階で、これはレーシングアクシデントである、とはっきり言い切るべきだったのだ。

 

 彼女たちの肉体をいくら鍛えて、事前準備や身体検査に万全を期そうとも、起こるときは起こってしまう。

 

 それが競技、スポーツの世界である。

 

 しかしその機会を逸し、ましてや世論に押されて態度を決めてしまった今、出すべき結論までも定められたと言っていい。

 

 

 この時、駿川たづなは期せずして樫本理子と根本的には同じ結論に至っていた。

 

 しかし樫本理子と駿川たづなが違っていたのは、頼るべき味方が少なくともひとり、目の前に居ることだった。

 

(それにいざとなれば、前理事長に御出馬願うという切り札も…)

 

「…づなっ!たづなっ!」

 

 理事長が自分を呼ぶ声に、我に返る。

 

 気が付けば目の前には秋川やよい理事長が仁王立ちで、駿川たづなを見上げていた。

 

「…案ずるな、たづな!私たちにできることはきっとある!」

 

 理事長はいつも笑顔を絶やさぬたづなさんが深刻な顔をしていることに気づき、気遣いめいた言葉を口にした。

 

(自らも苦悩の渦中にあるというのに、まったく大した御方なのだから…)

 

 この愛すべき理事長を心配させてしまった己の至らなさを恥じるとともに、ぎこちなくもなんとか笑顔を取り戻した駿川たづなは、頷いた。

 

 理事長室の電話が鳴ったのは、その直後であった。

 

 

 

 

 装蹄師の男は天皇賞秋の翌週も、通常通り工房を稼働させていた。

 

 しかし現在、世間から一身に注目を浴びてしまう身であるため、またトレセン学園周辺では常にメディアが張っている状態であったため、学園敷地外への外出は極力控えるように、との達しが出ている。

 

 もとよりそれほど外向的というわけでもない男はそれほど不自由することなく生活をしていた。

 

 食事に関してはカフェテリアを使うこともできたし、食材の調達も今日び、ネットスーパー等を使えばなんとでもできる。意外と普段の生活はどうとでもなるのだった。

 

 しかし生活面はそうであっても、行動に制約が出ることによる不満というのも、ないわけではない。

 

 例えばサイレンススズカの見舞いにすらいけていない、というのもそのひとつであった。

 

 沖野を通じてコミュニケーションはとれているものの、昨今の世論はスズカの耳にも届いており、その刃が装蹄師の男に向いているということを知った彼女は酷く気落ちしている様子だった。

 

 他方、当の本人、装蹄師の男はというと、それほどショックを受けてはいなかった。

 

 全く何も感じない、といえば嘘になる。

 

 結局何もできなかった、サイレンススズカに予想通り怪我をさせてしまった、ということに対する責任はもちろん感じている。

 

 天皇賞秋の夜、一人で黄昏てしまったのは確かだ。

 

 しかしそのまま工房奧の小上がりで眠り、やがて朝日が差し込んで目を覚ました時、気が付いた。

 

 たかが技術が及ばなかっただけではないか。

 

 ないものは作ればいい、という精神でここまでやってきた。

 ならばこれからも作り続ければいい。

 

 ウマ娘の脚元を支えるために、蹄鉄はあるのだ。

 イクノディクタスの時も、サイレンススズカの時も、ないものを創ってきたのだ。

 

 以前腕の怪我により退職届を出した時、ルナに叱咤されたときのことが思い出される。

 

 すでに肩まで浸かってしまったこの世界で、彼女たちも走り続けるしかないのと同じように、男もまた、彼女たちと伴走し続けるしかないのだ。

 

 行く道を決めたら、進むしかない。

 

 幸いサイレンススズカの怪我が重大ではなく、半年ほどの時間がかかるとはいえ復帰はほぼ問題ないという診断結果は男にとっても救いとなった。

 

 彼女も、また自分も、まだ道の途中なのだ。

 

 男はそう自らに言い聞かせ、工房を稼働させていた。

 

 

 

 

 工房で、その決意がわかるほどに精力的に働く装蹄師の男の姿を見た駿川たづなは、虚をつかれた。

 

 そしてその男の内心にある、サイレンススズカの件を経てもなお前を向く姿勢が、これから伝えなければならない事柄と全く相反するものであったからこそ、胃が捩れるような思いを抱かざるを得ない。

 

 それでも駿川たづなは自らのプロ意識に従い、淡々と工房の応接で男に告げた。

 

 URA技術委員会からの、学園お抱え装蹄師である男への出頭要請だった。

 

 出頭時間は指定されており、それは明日の午後3時となっている。

 

「…内容については、私たちにもはっきりとは聞かされていないのですが…」

 

 たづなさんは言いづらそうに、男に告げる。

 

「まぁ、とりあえず話を聞こうってとこじゃないですかね」

 

 たづなさんの表情に、いつもと違うものを感じた男は、彼女への配慮からいつもより少し、饒舌だった。

 

「大丈夫ですよ。手続きには則っているし、レギュレーション上の問題はないはずです」

 

 装蹄師の男はそう言うと、たづなさんを気遣うように笑ってみせた。

 

「だといいのですが…私たちもURAの意図については情報収集はしていますので、それをまとめて明日、お持ちします。それでも世論がこの状況ですから…くれぐれも…」

 

「大丈夫ですよ。もう逃げたりしませんから」

 

 男は以前の退職願の一連の顛末を引き合いにブラックジョークともつかぬ物言いで、たづなさんを煙に巻いた。

 

 

 

 

 




ちょっとずつでも進めていくんだ(さぐりさぐり)


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77:技術委員会

 

 

 

 

 

 URA本部で行われた装蹄師の男に対する技術委員会の聞き取り調査。それは淡々と進んだ。

 

 技術委員会は服飾、シューズ、装蹄などの個人装備の専門家のみならず、バ場の管理をしているURAの土木技術の人間など、多方面の人員で構成されている。

 

 彼らがずらりと並び、視線は装蹄師の男に集まっていた。

 

「…まぁ、楽にしてください。なにもあなたを責めようというのではないのだから」

 

 技術委員長というネームプレートが前に置かれた老人と言っていい年齢の男は、穏やかな声で言った。

 

「とはいえ、緊張するなというほうが無理でしょうね。これだけの人数の強面があなたに視線を向けているんだ」

 

 委員長の言葉に、思わず他の委員からの苦笑が漏れる。

 

 委員会の性格上、そのほとんどが職人上がりであるため基本的に皆、愛想がないことに由来してお世辞にも人相が良いとは言えない。

 

 まぁ、自分も同じような顔をしているのだろうな、と男は内心で自嘲した。 

 

「…あなたにお越しいただくにあたり、こちらで把握しているこれまでの経緯については今日午前、再精査しました。手続き上については、何ら問題がないことを先に申し伝えておきます」

 

 委員長はそう言うと、一旦言葉を切り、そして続けた。

 

「…そのうえで、手続きに至る前段階でどのようなきっかけからこの蹄鉄を造るに至ったのか。手続きに含まれないこの部分について、今日はお話を伺いたい。まずはサイレンススズカさんとの出会いから、話を始めてもらってもよろしいかな?」

 

 委員長はそう述べると、装蹄師の男の発言を促した。

 

 

 

 

 同時刻、生徒会室には静かな、しかし不穏な時間が流れていた。

 

 装蹄師の男がURA本部に呼び出されていること、技術委員会でなんらかの調べを受けていることは生徒会でも把握していた。

 

 しかし生徒会の威光が通じるのは学園内まで。

 

 URAという上部組織に対してはレース運営まではなんとか主張ができる程度で、それ以上となると隔絶された世界である。

 

 競技者であると同時に生徒でもあり、生徒会の面々は実績からいってもそれなりの発言力はあるが、政治力となるとまた別なのであった。

 

「こういうときは、己の無力さが身に染みるな…」

 

 自席で腕を組み瞳を閉じたまま、シンボリルドルフが呟いた。

 

「高い理想を掲げてはいるが、それを実現するにはまだまだ、足りない…我々の為に尽力してくれている人一人、助けることができないのだから」

 

 今回の件に関して理事長サイドと生徒会は、メディアへの発言は控えることで合意していた。

 

 現在の論調の中ではどのような態度をとってもメディアに曲解される危険性があったし、その場合の世間に対するイメージ低下が避けられないだけでなく、トレセン学園の生徒たちへの影響も無視できないことになる可能性があるからであった。

 

 今のところ生徒たちは、一枚岩ではないだろうが動揺している、というほどでもない。

 

 生徒たちにとってもサイレンススズカはスターであったし、その怪我についてはそれぞれ思うところがあるのは事実だが、それは自分自身に起こってもおかしくないことであり、それがレースで起こったというだけのことだ。

 

 怪我の原因がどこにあるかということが容易にわかることではないことも、彼女たち自身が競技者であるため、理解の次元が世間とは異なる。

 

 サイレンススズカの蹄鉄が彼女の為につくられた一品物であったことも、特別なこととは捉えられていない。

 

 ルール上そういうことが可能であることは装蹄師の男の授業で皆が知っていることであったし、そもそも生身で危険な速度域で走る彼女たちは、蹄鉄やシューズの重要性は身に染みており、基本的にはそれらが原因でなにかトラブルが起きることは自己責任であるからだ。

 

 だから皆、自らの身体の一部としてそれらを取り扱い、程度の差こそあれメンテナンスを自ら行う。

 

 メディアや世間が騒ぎ立てる蹄鉄への関心は、何を今さら言っているのだ、というレベルの話であった。

 

「…我々の居るこの世界はレースやウイニングライブという華やかな一側面でだけ、社会一般と繋がっています…建設的に考えるならば、我々の日常や、我々の居るこの世界というものの理解の促進は、今後欠かせないものかと…」

 

 エアグルーヴは個人的な感情をその内に押し留め、現在の状況から得られる教訓を口にする。

 

「…我々の常識が世間に浸透していなかった結果、今回のことが引き起こされたのは事実だな」    

 

 ナリタブライアンが珍しく意見を口にする。

 

「尤も、見る方の自由というのもある。レースをエンターテイメントとしてのみ捉えられているうちは、改善しないだろうな」

 

 ブライアンが続けた言葉に、シンボリルドルフの耳が反応する。

 

「シビアな見方だがその通りだな、ブライアン…」

 

 シンボリルドルフの内心には、もう遠い昔のことに思える、装蹄師の男へ進路相談した夜のことが思い出される。

 

 あの時兄は、私個人の幸せをどう考えるか、と私に問うた。

 

 しかし、私個人の幸せを守るためにはさらなる力が必要だ、と今現在突きつけられている。

 

 私個人の幸せ、その一部分は彼が担っているのだから。

 

 それに思い至った時、うっすらと自らの進むべき道が靄の中に浮かんできた気がした。

 

「やはり、兄さんはいつも新鮮な刺激を与えてくれるな…」

 

 小声でそう呟いたシンボリルドルフは場違いに晴れやかな表情で、微かに笑っていたと、のちにエアグルーヴは懐述することになる。

 

 

 

 

 技術委員たちを目の前に、装蹄師の男はサイレンススズカの蹄鉄に取り組むことになったきっかけを淡々と述べた。

 

 はじまりは彼女の相談から。

 

 サイレンススズカの能力については前チーム時代から疑いがなく、怪我の危惧は常にあった。

 

 それに関して担当トレーナーとも協力し解決策を模索していたこと、怪我の回避を目的に多方面の協力を得ていたこと、最終的に蹄鉄をつくることになったのは既製品ではすでに対応できない走行能力となっていることが確認された故。

 

 簡潔にまとめてしまえばそれほど難しいことでもなかった。

 

 技術委員の中にはトレセン学園が関係各所を巻き込みぶち上げた研究プロジェクトに多少なりとも関わりのある人間もおり、話の筋の理解は概ね得られているようだった。

 

「…なるほど。よくわかりました」

 

 委員長は一通りの男の話と、委員たちから出たいくらかの質問を捌き、一息入れた。

 

 窓のないこの会議室では時間の流れが感じづらかったが、男がちらりと腕時計を見れば、すでに開始から2時間が過ぎている。そろそろ外も暗くなり始めた頃だろう。

 

「…今日の会合はここまでとし散会としますが、今後の見通しについては共有しておきたいので、申し訳ないがこの後、私の部屋にお越し願えますかな?」

 

 装蹄師の男は委員長の言葉にこくりと頷いた。

 

 

 

 移された場所はURA本部の最上階、その一隅にある技術委員長の部屋であった。

 

「…やぁ、今日は済まなかったね」

 

 技術委員長の老人は、装蹄師の男を迎え入れながら応接セットへの着席を促した。

 

 先ほど委員会を仕切っていた時とはオーラが違い、今は二回りも小さなただの老人に見える。

 

「君も遠慮せずに吸うと良い。緊張のあとの一服は格別だ」

 

 そう言うと老人は昔で言う二級たばこのパッケージを取り出し、一本くわえてマッチで火を点けた。

 

 装蹄師の男も遠慮せず、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、一服付ける。

 

 二人は無言で向かい合ったまま、しばし煙草の紫煙にじっくりと燻される。

 

「…要は、政治なんだ。私は君のしたことが間違っているとは思わないし、手続き上にも何ら問題はない。君は確実に、彼女たちにとって良い仕事をした」

 

 ゆっくりと一本の煙草を楽しんだのち、短くなった煙草をもみ消しながら、老人は言った。

 

「…だが、振り上げたこぶしのおろしどころは作らねばならない。不幸にもそのこぶしの真下に居る君の希望に、私は出来得る限り沿いたいと思っている」

 

 穏やかな態度とは裏腹に、先ほどの委員会でのやりとりよりも、よほど厳しいことを老人は言っていた。

 

 そして装蹄師の男も、その意味を誤解しなかった。

 

「どのくらいの時間をいただけるのでしょうか」

 

 老人は少し考え込む。

 

「そうだな…1か月、というところだろうか」

 

 思ったよりも時間があるのだな、という冷静な感想を抱けたことに、男は安堵した。

 

「そうですね…願うのは、彼女たちにより良い未来を。私の身分は…まぁ、どうとでも。どのようになりそうかの情報だけは、随時いただけると助かりますが。いざというときに慌てるのは、どうにも」

 

 老人は一瞬、驚いたような表情をにじませたあと、口角を上げた。

 

「噂には聞いていたが…なるほど。欲がないな、君は…。わかった、約束しよう」

 

 技術委員長である老人は愉快そうに笑った。

 

 

 

 

 樫本理子はもやもやとしながら、その日の業務を終えた。

 

 今日は装蹄師の男が本部に来ていたはずだがガードが固く、ついぞ顔を合わすことができなかった。

 

 メールでの問いかけにも、男からの返信はない。

 

(全く…自分の立場をわかっているのですかね…)

 

 明日になれば議事録が手に入るだろうが、今日のところはこれ以上職場で粘ったところで、新たな情報は得られそうになかった。

 

 身支度をし、念のためのメディアを避けて通用門から退出する。

 

 どうやらメディアのほうは杞憂だったらしく、いつも通りのルートを辿り駅へと家路を歩む。

 

 やたらと古い綽名で自分を呼ぶ声を認識したのは、本部ビルに沿って角をひとつ曲がったところだった。

 

「…ぴーん、りこぴーん♪」

 

 行き脚をとめ、あたりを見回す。

 

 見知った顔が、反対側の歩道に居た。満面の笑みで、手招きをしている。

 

 この状況をわかっているのかしら、と思いながら、樫本理子はその手招きに応じた。

 

「りこぴん、今日もお疲れ!」

 

 装蹄師の男の後輩は、何の悩みもなさそうな笑顔を崩さぬまま、理子にねぎらいの言葉をかけた。

 

「全く…先輩といいあなたといい、変わりませんね…」

 

 無表情のまま、静かに樫本理子は言った。

 

「まぁまぁ。クルマで家まで送るからさ、ちょっと話聞かせてよ。俺も先輩のこと、心配なんだよ」

 

 昔と変わらぬ軽薄さのまま告げられた言葉に、樫本理子ははぁ、とため息をついた。

 

「…帰りの道中、だけですよ」

 

 口調はともかく、彼の言葉に嘘がないことは理解した樫本理子は、後輩のクルマ、その助手席に座ることを決めた。

 

 

  




ちょっとずつでも進めるんだ(2回目


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78:思惑、それぞれ

 

 

 

 

 

 技術委員会での聞き取りの後、男はURA本部からクルマを誂えられ、地下駐車場から人目を忍ぶようにトレセン学園へと戻された。

 

 

 本来の筋で言えば理事長には報告を上げるべきではあったが、疲労を理由にたづなさんへは明日午前に変更を申し出てあった。

 

 

 部屋に戻り、明かりもつけずにリビングへ進む。

 

 普段着ないスーツのネクタイを解くと、緊張の糸が切れてしまいソファに沈んだ。

 

 何を見るでもなく、殺風景な部屋を眺める。

 

 大した家具やモノもなく、愛着と呼べるほどの記憶もないこの部屋とも、あと1か月ほどの付き合いとなるのだ、と思う。

 

 否、記憶ならあった。

 

 ルナがこの部屋を訪ねるようになってからの、なんでもない会話たち。

 

 ここ数か月、幾度となく理由や形を変えて行われたここでの同僚やウマ娘たちとの食事。

 

 エアグルーヴのビンタを喰らったりなんていう記憶もあるが、まぁ笑い話であるし、ファンからしたら垂涎の経験ですらあるだろう。

 

 今回の騒動にどのような結末が待っているかは、まだわからない。

 しかしどうやら自分はそれらの騒々しくも愛すべき日々からは居場所を変えることになりそうだ。 

 

 

 装蹄師の男は煙草を取り出し、火を点ける。

 

 

 世間の様子にそれほど気を配って生きていない男は、天皇賞秋の後の状況について、知覚はしていたが、それだけだった。

 

 それを今日、どれほどのスケールで物事が動いているのかをはっきり認識することになった。

 

 今の事態を自らの身の不幸、とは思わない。

 

 様々な思い付きや偶然が折り重なるようにして連鎖し、動き、流れ着いた先が今日だというだけだった。

 

 もちろんさまざまな壁に当たりもしたし、苦悩することだってあった。

 

 しかしそれらはすべて周りにきっかけを与えてもらってのことだ。これまでの人生と同じように、流されてきたとの認識から少しもズレることはない。

 

 だとすれば、これまでと同じように、これから向かう結末も、唯々諾々と受け入れることができるだろう。

 

 そう。

 いつものことだ。

 

 

 

 右腕が、不意にびくりと動いた。

 

 もう治ったはずの右腕が、何かを主張したようだった。

 

 また、蹄鉄を打てるようになったのに、な。

 

 左手で右腕を撫でる。

 

 その瞬間、自らの内面を冷静に覗くことになった。

 

 今、自分はこれまでのような諦観でもって、自分自身を納得させようとしている。

 

 しかし、本音はまた、違うところにあるのだ。

 

 じっと自分と向き合ってみる。

 

 

 

 できればずっとここに居たい。

 彼女たちの脚を、支え続けていきたい。

 自分もレースを走るひとりで、ありたい。 

 

 

 

 

 今まで自らの奥底に押し留めていた意思の箍が、緩んでいく。

 

 装蹄師の男は久方ぶりに触れる自らの剥き出しの感情に驚き、思いを噛みしめた。

 

「…なんで…いつも…」

 

 続く言葉をぐっと、奥歯を噛みしめてかき消した。 

 

 言葉にしてしまえば、僅かに残った自らの形を支える見栄すらもなくしてしまいそうだった。

 

「…っ……」

 

 外の街灯がほのかに照らす部屋の中で、装蹄師の男は俯いたまま、じっと動かなかった。

 

 

 男の中で何かが、変わりはじめていた。

 

 

 

 

 

 

 アグネスタキオンは自らの研究室に籠っていた。

 

 研究室のテレビでは、繰り返し繰り返し天皇賞秋のレース映像が流されている。

 

 サイレンススズカについて集めていたデータはすべて纏め、たづなさんに託した。必要があればどこへでも出向き、説明する用意があることも伝えてある。

 

 

 天皇賞秋のあと、装蹄師の男とその後輩と別れて以来、ほとんどの時間を研究室で過ごしていた。寮へ帰るのは門限ぎりぎりであり、朝も日が昇る前には研究室に戻ってきている。

 

 

 彼女の聡明な頭脳は、レース中にサイレンススズカの故障を直感で予測していた。

 

 あくまで可能性のひとつではあったが、それをはっきりと感じたのは1,000mの通過タイムだ。

 

 集めていたスズカのデータから、バ場状態、当日レース時刻付近の天候、気温、湿度、気圧という彼女自身がどうしようもない要素まで組み込んで概算した結果の1,000m通過タイムとレースタイムの予測を立てていたのだ。

 

 しかし1,000m通過時点で、アグネスタキオンの予測したタイムよりも大幅に上回ってきていた。  

 

 タキオンの予測タイムは57秒4。

 しかしスズカが実際に走ったタイムは56秒9。

 

 まったくもってアグネスタキオンの予測モデルからは外れたタイム、しかも速いほうに、となれば、可能性のひとつとして瞬時に怪我が浮かぶことは、これまでの研究テーマからしても必然であった。

 

 まだまだ謎の多いウマ娘の身体能力であるとしても、スズカは間違いなく新しい次元へ足を踏み入れかけていたことは疑いようがない。

 

 そしてそれはこれまでの常識では想定以上の、肉体への過大すぎる負荷であり、念には念をいれてきた脚、そのなかでも対策が一番手薄であった大腿骨で破綻した。

 

 彼の蹄鉄がない状態のスズカがあの走りをしたとすれば、彼女はあの府中のコースにおいて大欅を越えられたかどうかすら定かではない。しかもそれは大腿骨のヒビなどといういくらでも救いようのある怪我などではなく、もっと破滅的な結末を迎えていただろう。

 

 しかしそれは研究を重ねてきたゆえのアグネスタキオンの直観でしかなかく、証明することはできない。

 

 

 

 そして、それから繰り広げられた世間からのバッシング。

 

 日々過熱していくそれらを見て、彼女はいっそ手元に集めたデータを公開してしまおうかとも考えた。

 

 しかしこれらのデータの意味を読み解き、誤解なく自分と同じ結論に至れる人間が大衆の中にいるはずもない。

 

 データ自体はたづなさんを通じてURAにも届いているだろうが、もはやコトの真相などどうでもいい状態に至ってしまっていることは、タキオン自身にも理解ができていた。

 

 事態は質量の大きな船が行き脚が付き過ぎているようなもので、その大きな運動エネルギーを打ち消して止めるためにはサイレンススズカの怪我以上の途方もなく大きなエネルギーが必要な状態だった。

 

 

 

 装蹄師の男との最初の出会いを思い出す。

 

 ひどく冷ややかな目で、暴走する私を一刺ししてみせた、あの男。

 

 出会いとしては最悪であったが、その後彼の理解を得てからは、同じ目標を共有する同志として、お互いに良い刺激を与えあえていた、と思う。

 

 何なら間接的に彼女の研究環境や学園内の立場まで、劇的な改善までしてみせたのである。

 

 トレセン学園を中心に対外的なネットワークが組まれることになった研究体は、機材も、知見も滝のようにアグネスタキオンに注がれてくる構造となっている。

 

 そして学園内での扱いは、これまでは校舎の一室を占拠する変人扱いであったところから、一介の研究者としての地位を確立するまでに状況が変化している。

 

 それだけの変化を得てもなお、今の装蹄師の男を救えそうにないことが、彼女の心を重くしていた。

 

 しかし、確かにあの装蹄師の男は、サイレンススズカを救ったのだ。

 

 その過程で、自分までも。

 

 今も研究室のテレビでは、繰り返し繰り返し天皇賞秋のレース映像が流されている。 

 

 

 今やURAまで動き出している。

 

 世論は止められない。

 

 止められない。

 

 止められない…。

 

 止められないの、ならば…。

 

 

 アグネスタキオンは、ピクリと耳を震わせる。

 

 脳のどこかで、なにかが電気的につながる感覚があった。

 

 ぴくりと震わせた耳がセンサーのようにそれを知らせ、彼女の聡明な頭脳の中を覆っていた靄を切り裂いて思考を走らせる。

 

 止めることが目的では、ないのだ。

 

 装蹄師の男は、スズカも、自分も、止めたわけではない。

 

 走らせたのだ。

 

 そのアプローチを、行き先を、少しだけ変えて。

 

 ならば。

 

 

 アグネスタキオンは傍らに起動させたままにしていたPCへ向かいなおすのももどかしそうに、猛然とキーボードを叩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 罪の意識に苛まれている沖野。毎夜その酒量は増え続けていた。

 

 

「…ちょっと…いい加減にしないと…」

 

 いつものバーで顔を合わせていた二人だが、東条ハナは見ていられない、という風である。

 

「…呑まずには…いられないんだよ…」

 

 胡乱な目をした沖野はここのところの世相において、なんとも形容しがたい、気味の悪い立場に置かれていた。

 

 本来であればサイレンススズカの怪我に対し真っ先に責任を負うべき立場であるのだが、その矛先はURAと装蹄師の男に向いてしまい、沖野の周囲は不思議なほどに無風、あるいはやや同情的ですらあった。

 

 おかげで沖野はスズカやチームメンバーのフォローに専念できたし、それはそれでありがたいことではあったが、一方で日々過熱していく世論に苦々しく思っていた。

 

 沖野自身はウマ娘たちのために痛覚を超越してみせた男であるから、自らが痛めつけられることに関しては慣れているし、耐える自信もある。

 

 しかしそれは他者の痛みに対しても鈍感になれる、ということを意味しない。

 

 ましてや彼の愛バに並々ならぬ情熱を注いでくれた同僚が世間からの槍玉にあがっているとなれば、穏やかではいられるはずもなかった。

 

 しかしそれをチームの娘たちにさらけ出すわけには当然、いかない。

 

 勢い、酒量が増えるという循環から、しばらくは抜けられそうになかった。

 

 

「気持ちはわかるわ…でもあなたがお酒に逃げても何も改善しないわよ」

 

 そういう東条ハナの酒量も普段からだいぶ増えている。

 

「おハナさんだって…心中穏やかではいられないでしょ?」

 

 じろりと東条ハナをねめつける沖野の目は、酷く濁っている。

 

「それは…ね…だから、あちこちから状況は把握するようにはしてるし、何も考えていないわけではないわよ」

 

 東条ハナはグラスを傾ける。

 

「…アメリカの友人がね、連絡してきたのよ…」

 

 東条ハナはリギルのトレーナーとなる前、トレセン学園所属のまま1年ほど、アメリカへ研修に出されていた時期があった。

 

「…向こうのウマ娘たちはこっちよりもパワー重視、加速力命の娘たちがたくさんいるのよ。おまけに日本よりも硬いバ場。怪我はこっちの比じゃないわ。今回の騒動は向こうでも話題になってるみたいで、スズカの履いていた蹄鉄のデータを見たい、ってね…」

 

 沖野は話の重要さを即座に理解する。

 

「おハナさん…まさかそれって…」

 

 東条ハナは静かに瞳を閉じて、続ける。

 

「ええ…送ったわよ、もちろん公開されているデータだけだけれど。向こう、乗り気よ。もし本人にその気があるのなら、こちらはいつでも大歓迎だ、なんなら迎えの人間を差し向けるとまで言ってきてる」

 

 そこまで言って東条ハナはグラスに残っていたカクテルを飲み干した。

 

 沖野はその様子を酔いの覚めた目で見ていた。

 

「…はぁ…私もアメリカ、いっちゃおうかしら」

 

 アルコールに火照った肌の色とは対照的に、全く酔っていない瞳で東条ハナは呟いた。

 

 

 

 

 

 URAから樫本理子の家へ、後輩は夜の都内をスマートにスムーズにクルマを走らせていた。

 

 助手席で現状を話す樫本理子の声はあくまで淡々と、事実と推測をきっちりと分けながらこれまでの経緯を説明してくれていた。

    

「なんだよそれ…りこぴん、どうにかならないの?」

 

 後輩は樫本理子の家に向かいながら、呟く。

 

 URA上層部のその場しのぎともいえる判断に、後輩は装蹄師の男の身内としての立場で不満の声を上げた。

 

「…世の中、単純ではありません。善と悪の二元論で語れるわけじゃないことくらい、あなたも理解できる程度には社会経験を積んできたでしょう」

 

 樫本理子の冷静に諭しているような叱っているような物言いが、後輩をひどく懐かしい気分にさせる。

 

「まぁ…伊達に歳は食ってきてないけど…りこぴんに叱られると、昔に戻った気分になるな。うん」

 

 後輩はあくまで丁寧に、まるで美術品を運んでいるかのような運転で都内を縫うように走っていく。

 

「今日の技術委員会でのあの人の受け答えを踏まえて、今後、落としどころが探られていくことになりますが…すべてが元通り、ということだけはないでしょう」

 

「…つまり、最悪は先輩がクビになる、ってこと?」

 

「クビ程度で済むなら、まだ最悪ではないでしょうね。装蹄師資格の取り消し、追放が最悪のシナリオでしょうか…」

 

 そう口にする樫本理子の顔は、血の気が失せて白くなってしまっている。

 

「ままなりませんなぁ…大きな組織というやつは」

 

 その様子をちらりと横目で認めた後輩は少しおどけて口にする。

 

 樫本理子は少しため息を吐き、後輩の配慮に気づいてごくわずかに、口角を上げた。

 

 それからまもなく、後輩はクルマを停める。

 

 樫本理子の住まうマンション、そのエントランス前だった。

 

「おかげでラクに帰宅できたわ。ありがとう」

 

 樫本理子はクルマを降りる。後輩もクルマを降りた。

 

「あ、ちょっとまって」

 

 立ち去ろうとする理子を呼び止め、後輩はリアドアを開けて、小さな包みを取り出して差し出す。

 

「ま、大変だろうけど無理しないようにね。これ、お嬢さんたちと」

 

 樫本理子を捕まえる前に買い求めていたケーキだった。

 

「…あなた、こんな気が利くタイプではなかったと思いますが」

 

 後輩は軽薄な笑顔を浮かべる。

 

「まぁ、そのくらいは大人になったってことかな。また、なんかわかったら教えて」

 

「…今夜の話は、他言無用ですよ」

 

 一言、後輩に釘を刺して身を翻した樫本理子は、ひらひらと手を振る後輩を背に、エントランスの中に消えていく。

 

 その姿を見送りながら、後輩は煙草を取り出し、火を点ける。

 

「ままならない、大きな組織。だからこそスキがあるってもんでしょうね…」

 

 後輩は樫本理子から得た情報を頭の中で整理しながら、紫煙を吹き上げた。 

 

  

 

 

 




85話の感想で腹痛さんから頂いたコメントを参考にさせていただきました。ありがとうございます。


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79:親子の宿願

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男はソファの上で、部屋に差しこむ朝日によって目覚めた。

 

 昨日URA本部で技術委員会の聞き取り調査を終え、委員長の老人からこの学園での残り時間を告げられた。

 

 部屋に戻ってから改めてその事態の重さを実感し酷く落ち込み、そのままいつしか眠ってしまっていたようだった。

 

 傍らに落ちていたスマートフォンを見れば、時間は7時前である。未読のメッセージが数多溜まっているのが通知から見て取れたが、今はそれを開かずにおくことにする。

 

 男はシャワーを浴び、目を覚ました。

 

 酷く気落ちしていたとはいえ、それなりの時間をしっかりと眠った頭はそれなりにすっきりと働きだす。

 

 そういえば良い食事と良い睡眠が大事だ、と最近聞いた気がする。

 

 少し思い返してみれば、エアグルーヴに言われたのだった。

 

 彼女に言われた言葉は、もう若くはない今だからこそ身に染みる。

 

 彼女の言葉に従うのならば、次に行うべきは栄養補給だった。

 

 冷蔵庫を覗くが、ロクなものは入っていない。

 

 男は身形を整えると、今日の朝食は学園のカフェテリアで摂ることに決め、部屋を出た。

 

 

 

 

 カフェテリアは朝でもそれなりにウマ娘たちが居る。

 

 熱心な娘たちは朝練ののち登校し、ここで二度目の朝食を摂ることもあるからだ。

 

 職員たちへの朝食はそのついでといったところだったが、装蹄師の男のように自分に無頓着な人間にはありがたいサービスである。

 

 しかし、ここに来てそれなりの年月が経ったが、未だにここで食事を摂ることには慣れない。

 

 どうにも自分が場違いな世界にいる印象が拭えず、気恥ずかしくなってしまうのだ。

 

「蹄鉄の先生、おはようございます~」

 

 それでも彼女たちは男のことを認識すると、このように挨拶をしてくれる。

 それはこの学園に来てすぐの時期に少なくとも数時間は彼の授業を受けており、生徒によっては覚えていてくれているからだ。 

 

 それがどんな意味を持つか、ここに居られる刻限を定められた今ならば、はっきりと理解することができるような気がした。

 

 朝食にしては意識してカロリー高め、肉多めのメニューをチョイスし、カフェテリアの隅で黙々と体内に取り込んでいく。

 

 徐々に栄養が回り始めた男の脳は、昨夜意図せずに多めに休息を取ったおかげか、順調に回り始めた。

 

 

  

 自分は技術委員長に言ったのだ。

 彼女たちにより良い未来を。

 

 その希望に嘘はないし、それを願ってこの学園で禄を食んできたのである。 

 

 ならば、自らもそれに沿って為すべきことがあるはずだ。

 

 栄養補給によって導き出された答えはそれであった。

 

 まずは、理事長へ昨日の報告を済ませてしまおう。

 

 そのうえで、やるべきことを整理し、取り掛かる。

 

 悩んで立ち止まるほどの時間の贅沢な消費は、今や男には残されていないのだった。

 

 

 

 

 

 

「なぁおい、なんとかなんねーのかよぉ」

 

 ゴールドシップは生徒会室でシンボリルドルフとエアグルーヴ相手にくだを巻いていた。珍しく、アグネスタキオンもこの部屋にいる。

 

 チャットグループ「鉄の会」のメンバーがリアルで勢ぞろいすることは珍しい。

 

 もちろん、共通の話題である装蹄師の男の置かれた状況があるからであった。

 

 

 先ほど理事長室で、昨日の顛末を直接、装蹄師の男から聞くことができた。

 

 生徒会の面々は理事長の配慮から参加を許され、直接話を聞くことができた。そこには東条ハナや沖野、アグネスタキオンの姿もあった。

 

 そこにゴールドシップも紛れ込んでいたことには、もはや突っ込む者もいなかった。

 

「…署名活動やURAへの嘆願はいつでも出せるように準備しているが…下手にURAに直訴することで、逆に状況が悪化する可能性も考慮しなければならん」 

 

 エアグルーヴは努めて冷静に状況判断を告げた。

 

 エアグルーヴとゴールドシップは決して仲良く馴染む関係ではなかったが、この状況に臨むにあたっては同じ目線、同じ立ち位置で無力感を味わっていた。

  

「我々も手をこまねいているわけではない…正直悩んだが、私の実家やメジロ家にも話を通して、こちらの意思表示はしてある。どう動くかは、わからんが…」

 

 シンボリルドルフがそう言って、ゴールドシップを宥める。

 

「しっかしよー、世の中なんかおかしいんじゃねえか?ルールに沿ってやってるのになんでこーなっちまうんだよ!やっぱここはゴルシちゃんが一発テレビで演説するしかねぇんじゃねえか?」

 

 いつものように本気とも戯れともつかない口調でゴールドシップは生徒会席に堂々と陣取り、その立派な胸を反り返るように張り出した。

 

「全国民に告ぐ!今すぐ弾圧を止めよ!サイレンススズカの脚は現在、おっちゃんの手で黄金で造り替えられつつある!まもなくトゥインクルシリーズをその黄金の脚で席巻し、皆はサイレンススズカの脚元にひれ伏すことになるであろう…!皆のモノ、崇めよ!讃えよ!」

 

 どこかの地球軌道上での演説の如く振舞うゴールドシップは今日も奇言で皆を惑わせる。

 

 しかしその堂に入った演技と、それを敢えて行う彼女の心意気に、ここのところ暗くなりがちだった生徒会のメンバーは救われる思いだった。

 

「そういえば、サイレンススズカくんの様子はどうなんだい?」

 

 アグネスタキオンがゴールドシップに話を振ると、彼女は突然素に戻る。

 

「どーってもよー…世間で騒がれるほど重大な怪我って感じでもねーんだよな。割と病院の先生も楽観的だぜ」

 

 それを聞いてアグネスタキオンは安心したようにため息をついた。

 

「それは重畳だねぇ。まぁ彼女の心肺能力なら血流量も問題ないだろうから、意外と早く治るかもしれないねぇ」

 

 そのやりとりを聞き、シンボリルドルフとエアグルーヴもホッとする。

 

 仲間の怪我は残念ではあるが、それが軽度で済んでいるとなれば、また駆けられるようになる日も来るのだ。

 

 そして、そうであればこそ、今彼女たちが取り組むべき課題はより明確になる。

 

「ならば、あとは兄さんに我々が何をできるのか、だな…」

 

 シンボリルドルフは、自らの奥底にあるルナの部分の感情を原動力に、皇帝の頭脳を働かせ始めていた。 

 

 

 

 

◆   

 

 

 

 

 東京都心、京橋にほど近い銀座の裏路地にひっそりとある9階建ての雑居ビル。

 その上から3フロアほどに収まっているのが後輩の実家が営む会社だ。

 

 世間的には全く無名と言える企業だが、取引関係のある会社からの評判は、良心的な同族が穏やかに君臨統治する手堅く良心的な老舗商社、という評判であった。

 

 

 

 

 後輩の男は部活の大会中にクラッシュし大怪我をして以降、実家に戻り、大学を休学ののち復学、樫本理子たちの手助けもありなんとか卒業した。

 そしてしばらくフラフラとした日々を送ったのち、代々の家業であるこの会社に就職した。

 

 後輩自身が現社長の実子であり、さらに怪我によるハンディキャップもありということで、当初、周囲は腫れ物に触るような扱いであったのは間違いがない。

 

 しかし彼は、その持ち前の愛すべき軽薄なキャラクターで、誰とでも分け隔てなく接することができる人柄の良さから、年上からは可愛がられ、年下からは頼られるという大学時代と変わらぬ円滑な人間関係を会社でも築きあげていった。

 

 そして能力においても、さすがオーナーの血筋と周囲が認めざるを得ない片鱗を随所に発揮し、いつしか仕事においてもいくつかの成果をもたらし、このまま順調にいけば将来の社長としての器に育つであろうことを周囲に忖度なく抱かせる存在となっている。 

 

 現在は帝王教育の一環として部長職にあり、日々業務に当たっていた。

 

 

 

 

 商社というのは売り手と買い手を繋ぐ存在であるから、常に情報を収集し、分析し、必要な情報を選り分けた上で顧客に提供し、売り買いを仲介することで利益を上げる。

 

 五大商社の情報収集能力は一説によれば国家の情報機関を凌ぐレベルという見方もあり、それほどまでに情報が彼らの商いの本質と言える。

 

 後輩の実家の家業である商社は、いわゆる五大商社のような規模では全くなく、存在感からすれば零細から中堅といったところであった。

 しかし特定の業界においてはめっぽう強い老舗、困った時の駆け込み寺という評判を確立している。

 

 その評判を支える実態は、創業初期から続いている少数精鋭部隊の情報収集能力であり、現在後輩の男が率いる特務部門がそれであった。

 

 

 後輩の男は、定時もだいぶ過ぎて誰も居なくなってしまった自部署の島で、続々と送られてくる報告に目を通していた。

 

 

「若、少し休まれてはいかがですか?」

 

 この会社で長く番頭役を務めている専務に声をかけられる。年のころは70代で、後輩の男の祖父のような年齢のはずだが、見た目は50代にしか見えない若々しさを備えている。

 

 「若」という後輩の男の綽名は決して嫌味ではなく、自他ともにその能力を認められているからこその社内呼称だった。

 

「ありがとう。でも俺の個人的な興味について調べてもらってるから…そうもいかないんっスよね」

 

 後輩の男は社長である父親にあらかじめ断った上で、会社の調査能力、その一部を今回のURAの騒動についての情報収集に振り向けていた。

 

 樫本理子に接触して得た情報をもとに、URA内部、外部問わず今回の騒動の原因からその流れ、キーマンたちの動きを纏め、これからどうなっていくのかの予測を立てる。

 

 樫本理子の情報をベースに調べ始めたため、情報源の秘匿などの観点からいくつかの緩衝役を挟んで指示を出し、そのレスポンスを得ている。

 

 その為に情報の確度については若干のズレを意識しなければならないが、これまでの調査ノウハウから定性情報の補正をかけつつ、予測精度を上げていく。

 

 積み上げた情報は、未だURA内部において混乱が続いていることを示していたが、日を追うにつれ少しずつ方向性を定めつつあるように見えた。

 

「若も…そろそろ、頃合いですかね」

 

 後輩の男の様子を眺めていた専務が言った。

 

「そうかも…しれないっスね。今調べているこれが、そうなればいいな、とはとは思っていんですが」

 

 彼の家には代々続く決まりごとがある。

 

 それは「一代一領域」の家訓として、これまで連綿と続いてきたものだ。

 

 明治期に創業したこの会社は、最初は米穀商からその業歴をスタートさせた。

 

 そして二代目が米穀商をベースに石炭を取り扱いはじめ、本当はその流れで鉄鋼や金属を取り扱いたかったようだが、当時すでに財閥が形成されつつあり、資本の差や当時の政府統制によりそれが叶わず、三代目は石炭から生み出される化学産業に注目、領域を拡大することに成功した。

 

 四代目は戦前、戦中、戦後の激動期を生き、戦前から電気部品等を軍へ納めることでさらに事業を拡大させ、5代目である彼の父は2代目の宿願であった金属の分野に、希少金属で進出を果たした。

 

 そうして取り扱い領域を拡大して今日があるのだが、決して平たんな道のりであったわけではない。

 

 それでも現在、こうして銀座に古いながらも自社ビルを構えていること自体、彼ら一族がいかに手堅く商いをしてきたかを示していた。

 

「何をそんなに熱心に調べられているんです?」

 

 専務は資料を覗き込んでくる。

 

「まぁ、ちょっとURA関係をね…大学の先輩やら同期やらが、今の騒動に巻き込まれてるんです。もうけを出したきゃ火の粉が飛んでくるくらいにいるのがちょうどいいかと思って調べ始めてみたんですが、どうしようかと…」

 

 資料をざっと眺めながら番頭は呟いた。

 

「ほう、ウマ娘ですか…昔、大旦那様とまだ幼かった旦那様と、見物にレース場に出かけたことがありますなぁ…」

 

 大旦那様というのは後輩の祖父を指しており、旦那様は当代、つまり後輩の父のことを言っていた。

 

「トキノミノル、と言いましたか。当時のスターを一目見たいと、旦那様が仰ったものですから…それはすごい人気でしたよ」

 

「へぇ…親父が。意外だなぁ」

 

「ウマ娘の皆さんは見目麗しいですからね。それは今も変わらないでしょう?」

 

「先輩のツテでこの間トレセン学園を見学させてもらったんスけどね…それはもう。今も変わりませんよ」

 

 番頭と若は顔を合わせて笑いあった。

 

「…昔、旦那様もURA…当時で言う日本中央ウマ娘レース会に食い込もうとしたことはあるんですが…うまくいかなかったのです。若がそれを実現すれば、親子二代の宿願を果たすことになりますな」

 

「…まぁ商いとしてはスケールはそれほどにはならないと思うっスけど…一度食い込めば長く続けられるのがこういうところと取引する旨味でもありますんで。ちょっと絵図を描いてみようかとは思ってるんスけどね」

 

 若と呼ばれた後輩はそう、番頭に告げる。

 

 番頭はそれを、たくましく育った孫を見るような優し気な瞳で見守っていた。

 




九州、中四国の方は地震、大丈夫でしたでしょうか…


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80:陰謀はお家芸

いつもコメントや校正、ありがとうございます。
皆様のお声を励みになんとか書き続けられております。



 

 

 

 新橋にあるURA本部ビル。

 その最上階、最奥にあるのが理事会専用の大会議室だ。

 

 陽も落ち、都心の煌びやかな夜景が浮かび上がり始める時刻、荘厳さと重厚さを醸し出す石がふんだんに使われた会議室で、その部屋の主たちは顔を合わせていた。

 

「…首尾はどうなのだ、技術委員長」

 

 壁面にウマ娘の横顔をモチーフにつくられているURAの紋章を背に座る男は、最も下座に座る技術委員長に問いかけた。

 

「手続き上の問題はなにも、ありません。世間の常識は我々の非常識、或いは我々の常識は、世間の…というところでありましょうか」

 

 理事たちは一斉に唸る。

 

「…本人の申し開きはどうなんだ?」

 

 ナンバー3の位置に座る男が静かに疑問を呈する。

 

「そうだ。結局はあ奴のスタンドプレイ、それが今回の結果の本質ではないのか?」

 

 合いの手を入れるのはさらに下位の男だ。

 

「…特にこれといって不自然な点はありません。サイレンススズカの能力が同世代どころか、歴代のウマ娘として図抜けているのは間違いのないところで、それをかなり早い段階から彼らは見抜いていたようです。だからこそ、あのような蹄鉄が必要になった、と…」

 

 技術委員長は淡々と応じる。

 

「…施行担当として申し上げるならば、あの日のあのバ場で出る1,000mの通過タイムを見る限り、これまでの想定上限を上回る走りをサイレンススズカがしていたことは間違いありません。彼女の能力には疑いはないかと」

 

 理事会の中にも少数ではあるが、現場を理解している人間が居る。だが、その席に座れるということは、それなりに政治に長けた人間であることも確かだった。

 

 先の施行担当理事の発言も、サイレンススズカ自身を擁護こそすれ、それ以上の意味を読み取れるのは現場のことを知悉している人間でなければ難しい。

 

 つまり下には恩を、上には追従を。

 今この場では何の意味も持たない、見事に無意味な発言であった。

 

「蹄鉄そのものはどうなのだ。世間が言うような大層な代物なのか」

 

 上座に近い理事が新たに問う。

 

「モノ自体は、確かに独創性に溢れた蹄鉄であることには疑いはありません。高耐久、高剛性を実現しながら二層構造を取ることで鋼に柔軟性を持たせ、脚への負担を軽減しています。加工法自体は古くからある技術ですが…現代であれをやろうと思うようなものではないのは確かです。まぁ量産品では現実的な価格では実現不可能、という意味では、一般的なものではありませんな」

 

 技術委員長は事実を淡々と述べる。

 

「…ですが、そこを咎とすることは難しい。我々は定められた規則に則ってその蹄鉄を審査し、適合を確認し、それが特別に高い競走能力をもたらすものではないことを確認して使用許可を出したのです」

 

 その言葉に、理事たちからはため息が出る。

 

「…君はつまり、規則そのものが問題だ、と。そう言いたいのか?」

 

 ナンバー2の位置に座る副理事長が問う。

 

「そうは申しておりません。ただ、規則通りのモノだと申しておるのです」

 

 そして規則内の創意工夫でもって、サイレンススズカの怪我はあの程度で済んだのだ、と内心で呟くが、口に出しはしない。

 

 それは証明のできない事柄であるからだった。

 

「…とにかく今はどのように世論に答えを出すか。それこそが最も重要なことなのだ」

 

 最も上座に座る男が、一同を睥睨するかのように鋭い視線を走らせる。

 

「…我々はエンターテイメントを提供しているのだ。そのことを忘れてはならない。世間に波風を立てることは本分ではないのだ」

 

 理事たちは一様に押し黙り、この場の最上位者に向けて静かに同意を示した。

 

 流れの見えない今、ここで不用意な発言をして権力者の不興を買うことは避けたい。

 誰しもそう思っていることが場の空気感から伺えた。

 

 

 

 この日の理事会も、これといった進展は見せないままに散会となった。

 

 

 

 

 

 

 

 東条ハナはすべての業務を終えたあと、いつものバーに足を向けた。

 

 ここのところ、バーで夜を過ごす日が増えている。

 

 ここであれば沖野の動向を知ることができたし、ひとりでゆっくり思考を巡らせることもできる。それに、潰れてしまってもなんとか家まではたどり着けるからだった。

 

 しかしその日は、バーに先客がいた。

 

「…確か鍛冶屋の後輩、だったわね。何しているの?こんなところで」

 

 装蹄師の男とともに顔を合わせることはあっても、東条ハナと二人で向かいあうことは今まであまりなかった。存在を認識しながらも、きっかけがなかったのだ。

 

「いえね、ちょっと先輩のことで、東条さんとお話したいと思いまして」

 

 後輩は言いながら、自らの席の横を示した。

 東条ハナは怪訝な顔をしながら後輩の横に腰を下ろした。いつもの飲み物を注文する。

 

 後輩は、学園内で装蹄師の男に具体的に手を差し伸べられるのは理事長と東条ハナ、とアタリを付けていた。そのアタリは配下の調査組織からのフィードバックで裏付けが取れていた。

 

「…何なのよ一体。内部情報なら話せないわよ」

 

 東条ハナは突然プライベートスペースに現れた異物に警戒していた。たとえそれが自身が懸想する男の後輩という、間接的に繋がる人間であっても、だ。

 

「…東条さんは忘れてらっしゃるようですが、俺は先輩に大きな恩のある人間ですよ。なんか悪いこと企むわけないじゃないっスか」

 

 東条ハナの切り口上に怯むことなく後輩は言った。それでも少し傷ついたような表情は隠し切れない。

 

「…そう、だったわね…。ごめんなさい。ここのところ、少し気が立っているものだから」

 

 東条ハナはバーテンダーから出てきた一杯目を受け取りながら、謝罪した。装蹄師の男の部屋で、酔いの勢いにまかせながらも土下座し、泣きながら罪の告白をする目の前の男の姿を思い出していた。

 

 プライドの在りかは人それぞれであろうが、装蹄師の男以外にウマ娘たちや自分までもがいるあの部屋で、過去の自らの罪の告白をする後輩の男はそれだけで大したモノと言えた。アルコールに力を借りていたからこそであっても、その評価が下がることはなかった。

 

「気が立っているのは先輩のこと、で間違いないっスか?」

 

「…そうよ。他にも色々あるのだけど、おおもとはそれね」

 

 二人はグラスを軽く掲げて乾杯の仕草をすると、湿らせる程度に口にした。

 

 後輩はその東条ハナの仕草にそこはかとない艶と同時に、生来の勝負師の持つ凛々しさを感じ取る。

 

 なるほど。先輩も意識するわけだ。

 

 後輩は琥珀色の液体をさらに体内に流し込みながら、横目で東条ハナを観察してひとり、内心で呟いた。

 

「…で、何を話したくてここに来たの?私はひとりでゆっくり考え事をしたいのだけど」

 

 再び凛々しさ、というよりも一線を引くような厳しさを前面に出し、東条ハナは問うた。

 

「その考え事に、一枚嚙ましてもらえないかと思いましてね」

 

 後輩は自らの名刺を東条ハナに差し出した。

 

「はぁ…あんた、ちゃんと働いていたのね」

 

 後輩は苦笑いする。

 確かに平日であろうが休日であろうがランダムに顔を見せるという感じであったから、自由業かなにかの人と思われていても仕方はない。

 しかし東条ハナにしてみればさらに下の、装蹄師の男のなんだかよくわからないツレと思われていたらしいことを知るとさすがにヘコむ。

 

「まぁこれでも一応…いいとこのボンボンなんスよ」

 

 後輩はそう呟くと、琥珀色の液体のおかわりをバーテンダーに告げた。

 

「それで、なんだかよくわからない会社のなんだかよくわからない部署の部長さんが、何の用なわけ?」

 

 後輩の会社の屋号は祖業の米穀商のころから苗字しかついておらず、それに現代の会社法に合わせた表記をしているため、株式会社と彼の苗字だけの社名だった。

 

 部署名についても現代風ではない呼称の「特務部」としか書かれていない名刺は、東条ハナにとって唯一、彼の肩書しか理解できないような代物となってしまっている。

 

「あぁ…説明不足っしたね。有り体に言えば、おこがましくも俺は先輩を今の状況からなんとか助けたいと思っている、といえばおわかりいただけるっスかね…」

 

 おかわりを差し出された後輩は、受け取るとそのままぐっと飲む。

 

「…今のところ、外部の人間にできることはないような気がするけど。内部に居てすら、よくわからないのに」

 

 東条ハナは名刺を眺めながら、呟く。

 

「そうなんっスよ。どこをどう調べてみても、すべてが「よくわからない」のが今なんスよね」

 

 後輩はそう応じた。

 

 調べれば調べるほど、今回の事態はメディアに端を発する「雰囲気」にすべてが押し流されているように思えた。

 

 複数以上のルートからURA上層部に関しても探りを入れていたが、どれもがふわふわとした話ばかりで、確たる対処方針が出された形跡が見えてこない。

 

 さまざまなバックグラウンドを持つ人間たちが集まって、とりあえず世論に応じてこぶしを振り上げてみたというだけのことであり、もともと何かの信念があってのことではないのではないか、と後輩は思い始めていた。

 

 URAに影響力を持つウマ娘界の名家に関しても、なにをどうしたものか、という風である。

 その中では唯一、ルドルフの生家であるシンボリ家に関しては、装蹄師擁護の構えが見て取れた。しかしそれとて積極的になにかしようという雰囲気ではなく、状況によってはそのような旗幟を鮮明にするつもりだ、というようなニュアンスである。

 

 要するに誰もが当事者意識が薄く、なにかしなければいけないがそれが何かはわからない、といった状況が浮かび上がっていた。

 

「まぁ、そんなわけで、ならばこっちが絵図を描いても意外とハマるんじゃないか、とか思う訳っスよ」

 

 詳細は伏せつつも全体像のイメージはできるように、巧みに言葉を選びつつ説明した後輩は、そう言葉を結んだ。

 

「…あんた、何者なの?」

 

 東条ハナは繰り出される後輩の話を驚きとともに受け止めつつ、根本的な部分を問う。

 

「…祖父の代までは後ろ暗い商いも色々あったみたいっス。今でもちょっと調べれば、祖父の名前がいろんな歴史の本に顔を出す程度にはあちこちに顔を利かせてたみたいっスね。それを親父の代でだいぶ…そうっスね、膝が浸かる程度にまでは持ち直して。俺の代では、せめて足裏をひたすくらいまでにはしていきたいと思ってるんスよ」

 

 抽象が過ぎて理解されるか不安に思いながら説明をしてみたが、どうやら東条ハナには伝わったようだ。

 そういえば先輩は昔から、頭の良い女性が好みだったな、と思い出す。

 

「つまり、陰謀を巡らせるのはお家芸、というわけ?」

 

 東条ハナは呆れたように口にする。

 

 後輩は東条ハナとの諧謔に富んだ会話に、とニヤリとしてしまう。

 

 こりゃあ先輩が妙に粘ついた視線を走らせるのも理解できる。

 

「状況ってのは作り出すもんだ、ってのが代々の信条ってヤツみたいでして」

 

 これだけ頭の切れる美人と酒を飲みながら理知的な会話、というのはどうにも難しい。

 俺はもう少しぼんやりした子のほうが好みだな、と思いながら、自分が喋り過ぎていることを自覚する。

 

「率直に言えば、当たりたくないんスよ、東条さんと。そんなわけで、一枚噛ましてもらうというよりは、こっちの話に乗ってくんないかな、と。そんなご相談をしたかった訳っス」

 

 後輩は煙草に火を点けながら、降参だ、と言わんばかりに今日の本当の目的を明かす。

 

 普段、そこそこ大きな商談でもこうはならないな、と思いながら男は背中が汗で冷たくなるのを感じていた。

 

「…そうね…そこまでモノが見えているなら、考えないではないけれど」

 

 カクテルグラスにつける唇が、妙に色っぽい。

 目が離せなくなりそうになるのを、後輩は煙草でごまかしながらその先を待った。

 

「…最後はアイツに決めさせること。貴方の陰謀に、アイツが巻き込まれて使い捨てにされるような絵なら、私は別の手を打つわ」

 

 おやおや、これは…。

 

 後輩は想定していたよりウェットな東条ハナの回答に、どんだけモテるんスか先輩、と心の中で呟いた。

 

「そりゃあ、もちろん。そこは俺の先輩への敬意と恩を信じていただいて。ビジネスの側面があることは否定しませんがね。昔から言うでしょ、商売ってのは三方良しが大原則だ、って」

 

 後輩はふぅっと高く、煙草の煙を吹き上げた。      

 

 

 

 




なんかなかなかウマ娘が出てこない展開が続いておりますが、今しばらくご辛抱のほどを…。。

引き続きよろしくお願いします。


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81:事態の進行

 

 

 

「…工房の…閉鎖、ですか…」

 

 駿川たづなはURAから伝えられた通達を理事長から告げられ、絶句した。

 

 URAからの通達を見せてよこした秋川やよい理事長は、席に身を埋めたまま背を向け、窓の外を眺めて振り向く様子はない。

 

「…あくまで一時的に、という話だが…おそらく恒久的な措置になる。そのようにURA理事会は動いている」

 

 秋川理事長は背中越しに告げた。声はわずかに震えている。

 

「いつからなのですか。装蹄師の先生の処遇は…」

 

 たづなさんは絞り出すように理事長に問う。

 

「通達は…即時発効だ。既に工房の封印措置はURA職員の手によって行われた。彼については、処遇が決まるまでは自宅待機、とのことだ…」

 

 駿川たづなは学園の中のことでは知らぬことはないと自負していた。しかしそれでも、ここはURAの傘下組織であるトレセン学園であり、URAの指揮権が優越することをこの時改めて認識させられた。

 

「それは…どのように捉えればよいのでしょうか」

 

 駿川たづなは、ある程度答えの予測がついていたが、訊かずにはいられなかった。

 

「詳細は…まだこれからだとは言われている。だが、この学園の蹄鉄工房は事実上、なくなる。それだけは動かないだろう」

 

 たづなさんは沈痛な面持ちでそれを聞いた。

 秋川やよいもおそらく、それ以上に痛々しい表情をしているだろうことは、想像することができた。

 

 

 

 

 工房の閉鎖は、前夜遅くに装蹄師の男に伝えられていた。 

 

「URAは現在、ウマ娘たちにこれまで以上に公平な形で蹄鉄に関するサービスを提供する新たな枠組みをつくろうとしている。今は一時的にこういう形になるが、了承してほしい」

 

 それが技術委員長から伝えられた言葉だった。

 

 装蹄師の男は、ウマ娘たちのよりよい未来を願った。

 そのためであれば、自分の処遇は二の次だ、とも。

 

 疑問はありながらも、今は技術委員長の言葉を信じるしかない、というのが装蹄師の男の立場だった。

 

 それでも長年勤めた工房を片付けることもできず、一時的な措置だとはいえ締め出されることになったのは不本意ではあった。

 

 早朝に様子を見に行った時にはすでに工房は閉鎖、封印されてしまっており、忍び込むこともできなかった。

 

 装蹄師の男はその様子を見て何もできず、部屋に戻った。

 

 しばらく途方に暮れたのち、仕方なく自前のPCを立ち上げ、ここのところ纏めを進めていた、学園に残すべきノウハウの文書化を進めることにした。

 

 

 

 

 夕刻までたっぷりと時間をかけて残すべき事柄に関して書き物に取り組んだが、進捗ははかばかしくなかった。

 

 もとよりデスクワークはあまり得意ではないので致し方ない部分はあるのだが、どうにも気分は晴れない。

 

 仕方なく、気分転換に部屋を出る。

 トレセン学園敷地外に出ることは未だに止められているが、校内を歩くことまでは禁じられてはいなかった。

 

 

 すでに陽も落ち始め、トレーニング終わりのウマ娘たちとすれ違う。

 

 きらきらと輝く彼女たちを見ていると、なんとも不思議な気分になった。

 

 これまでは何気ない日常のひとコマであったこの景色も、次元を区切られれば違って見えてくる。

 

 敢えてその不思議な気分を掘り下げぬようにしながら、装蹄師の男はあてどもなく歩き、気が付けば練習用のトラックを眺めるスタンドに上っていた。

 

 居残り練習と思しきウマ娘たちがコースを走ったりストレッチをしたりしている。

 

 遠くからぼんやり眺める彼女たちの姿は、夕暮れに映える。

 

 装蹄師の男は素直に、その彼女たちを綺麗だと思った。

 

「…あの娘たち、みんな選抜レースでもいいとこ見せられなくて、所属チームがまだ決まらないコたちなんです」

 

 音もなく、男の隣に立っていたのは動きやすそうなパンツスーツ姿の女性であった。

 

「あぁ…突然すいません。私、こういうもので」

 

 差し出された名刺を受け取る。

 

[ 月刊トゥインクル 記者 乙名史悦子 ]

 

 と書かれていた。蹄鉄型のペンダントがきらりと光る。

 

 

「サイレンススズカさんの蹄鉄のレクチャー、拝聴いたしておりました。大変、感銘を受けました!天皇賞秋は、残念でしたが…」

 

 そこまで言って声を沈める。

 

「…その後のことは、メディアの人間として、どう申し上げてよいか…」

 

 装蹄師の男は表情を動かさない。 

 

「…大変申し訳ありませんでした!」

 

 乙名史と名乗った女性は腰を折り、頭を下げた。

 

「私は…我々、月刊トゥインクルこそは、あなたの蹄鉄こそがサイレンススズカさんの脚を護ったのだと声高に訴えるべきでした!しかし今はもう、それも叶わぬまま…で…」

 

 乙名史悦子の声は消え入るようにトーンダウンしていった。

 装蹄師の男はどうしてよいやらわからず、ため息をついた。

 

「とりあえず頭をあげてください…もうこうなってしまってはどうにもならないことくらいは、承知しているつもりです」

 

 男はそう声をかけることが精いっぱいであった。

 

 肩を落としている乙名史悦子は、小さな声で続けた。

 

「…URAの動向は別の者が取材しているのですが…どんどん悪い方向にいっている気がしていて。それに今日、学園の蹄鉄工房が一時的に閉鎖されたと聞きまして…」

 

 さすがに記者だ。耳が早い。

 

「…どこまで、取材でわかってるんです?」

 

 男はそれとなく、乙名史記者に逆取材を試みる。

 

「いえ…まだそれ以上のことは…URA理事会は少しずつ方向性を定めつつあるそうですが…」

 

 乙名史記者は少し俯きながら、話し出す。

 

「どうも…技術委員会はあなたを擁護しているようですが…理事会は譲らないようで…新しい仕組みに置き換えることで世論をかわそうというような方向性、とは聞いています」

 

 乙名史は取材状況を明かすことに罪悪感を感じつつも、目の前の男への贖罪意識から、言葉を選びながらぽつりぽつりと話してくれた。

 

 男は彼女の言葉に曖昧に首肯した。

 

 内心では、昨夜伝えられた技術委員長の言葉に嘘がなかったことに安堵しているし、政治的に難しい立ち位置であるのに擁護してくれているというのは感謝するべきなのだろう、と思う。

 

 同時に、自分の身がどうなるかわからないということにも確信を抱く。おそらく、自分個人にとってあまり良いことにならないであろうことも。

 

 装蹄師の男が委員長に申し述べた通り、委員長はコトを運んでいく材料に自分の身柄を使うだろうことは想像に難くない。

 

 それでも、と男は思った。

 

「…これを奇貨に、彼女たちがより良い環境を得られるのなら、それはそれでいいことじゃないですか」

 

 男はトラックを眺めながら、なにかを噛みしめるように、ゆっくりとそう言った。

 

「…す…す………」

 

 乙名史記者が声を詰まらせるように何かを言いかける。

 

「…素晴らしいですっ!」

 

 瞳に涙を溜めて、彼女はそう叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 乙名史記者と別れて部屋に戻る道を辿る。

 

 今の身の上でメディアと接触することはあまり好ましくはなかったが、得るものはあったことが装蹄師の男の気分を軽くしていた。

 

 乙名史記者は少なくとも、不用意なことは書かないであろうことが感じ取れた。メディアの人間と縁のなかった男が、あの世界にもそのような人物が居ることを知ることができたのは収穫だった。

 何より、このような状況下であっても約束を守ろうとする人間が居ることを知るのは悪い気分ではない。

 

 男は久しぶりに幾分か晴れがましい気持ちで施錠せずに出た部屋のドアを開けた。

 

 同時に、いかにも食欲をそそる香りが漂ってくる。

 

 足元を見れば、ウマ娘のローファーが4足ほどあった。

 

 部屋を間違えたかと思い、慌てて外の表札を見るが、間違いなく自分の部屋番号である。

 

「…自分の部屋でなにをキョロキョロしているんだ。邪魔しているぞ」

 

 リビングの方からエアグルーヴが顔を覗かせていた。

 

 

「兄さんがロクなものを食べていないんじゃないかとエアグルーヴが心配するのでな。来る前に連絡はしたんだが…」

 

 リビングに入ると、シンボリルドルフとエアグルーヴが揃ってキッチンに立ってなにやら料理をしている。

 

 装蹄師の男は気分転換に外に出る際、スマートフォンは自宅に置きっぱなしにしていた。

  

「あー…悪い。スマホ持たずに散歩出ちゃってた」

 

 皇帝と女帝がが自室のキッチンにエプロン姿で並んで立っている姿は改めて見るまでもなくなかなかのインパクトである。

 

 これまでどちらかがキッチンに居る、という姿はこれまでにも例があったが、二人揃ってというのは、彼女たちの公の立場も相俟ってさらにギャップが凄い。

 

 

「おっちゃーん!どこいってたんだよー退屈したじゃねーか」

 

 そしてリビングのソファでだらけているのはゴールドシップとアグネスタキオンだ。

 

「やぁ…相変わらず不精と言うのか不用心というのか…部屋の鍵が開いていたので勝手に上がらせてもらったよ」

 

 いつからここは女子学生の溜まり場になったのだ、と言いたくなるような雰囲気である。

 しかも皆、いつもの制服姿だ。

 

 男は曖昧に頷きながらそのままベランダに出て、煙草に火を点ける。

 

 室内の雰囲気はここのところ人との接触が減っていた男には少々刺激が多く感じられた。冷静になる必要を本能的に感じていたのだ。

 

 心配してきてくれたであろう彼女たちの心根に感謝はもちろんしている。

 しかしその優しさによって現出した制服姿かつタイプの違う美ウマ娘たちが醸す妖しげな雰囲気が充満した自室の雰囲気は異様だ。

 

 また、彼女たちが自室に居るのを妖しげな雰囲気と捉えてしまう自身の状態について、やはりそれなりに精神的に参っているのだと自覚もする。

 

 もちろんこの面子と間違いを起こす気など、ない。

 

 ないのだが…この光景をもし知られでもしたら。

 

 先ほど会った乙名史記者を思い出す。

 彼女は涙ながらに装蹄師の男のウマ娘への姿勢を絶賛してくれていたが、この光景を見たらどんな感想を漏らすのであろうか。

 おそらくは氷点下まで冷えた視線を私に寄越すのではあるまいか。

 その視線の温度こそが一般的な世間の評価なのは間違いがないように思われた。

 

 煙草の力を借りながら冷静にそこまで思考を運んだとき、ベランダにシンボリルドルフがひょっこりと顔を出した。

 

「…無断で立ち入ってしまって済まなかった…その…怒らせてしまっただろうか…?」

 

 ルドルフは耳をしょんぼりとさせながら聞いてくる。

 

 室内からは三人の不安そうな表情が見えた。

 

「いや…それはかまわない、いやかまったほうがいい気もするがそれはともかく…沖野を呼んでも、いいかな?」

 

 男は少し困ったような笑顔を浮かべ、煙を吐きだしながらルドルフに訊ねた。

 

 

 

 

 持つべきものは理解のある同僚、ということだろうか。

 

 沖野は残務を切り上げて駆けつけてくれたようで、連絡からものの15分ほどで部屋にやってきた。

 

 …やってきたのだが、東条ハナまで来てしまった。沖野曰く、トレーナー室を出るところで呼び止められたらしい。

 

 差し入れがてら酒だのなんだのまで持ってきてくれたのはありがたい反面、おハナさんの加入でより妖しい雰囲気が上がってしまう気がした。

 

「…まぁ、保護者役が二人もいれば大丈夫…だろ?」

 

 沖野はバツが悪そうに笑いながら言う。

 

「…いや、君たち飲むでしょ。俺飲まないでしょ。最終的に正常なオトナって俺一人なのでは」

 

 沖野にそう返すも、キッチン方面に気を取られているフリをされて無視された。

 

「…今日はルドルフたちの手前もあるし、呑み潰れたりしないわよ」

 

 おハナさんはそういうが、彼女もリギルメンバーの加減を知らぬお酌攻勢により飲み潰れ、この部屋に運ばれた前科があるため男的にはイマイチ信用ならない。

 

 それに色気の濃度が上がってしまうという装蹄師の男個人に帰属する問題も解決から遠ざかってしまっている。

 

 とはいえ、眉目秀麗かつ制服姿という誰しもが視線を向けてしまう存在4人に自分の目が引きずられそうになった時、おハナさんに視線を向けて逃がすことができる。

 

 それは程度問題であるにせよ犯罪性をやや下げることができ、さらに自らの目には美味しい状況には違いない、と装蹄師の男は無理やり自分を納得させた。

 

「もうすぐ料理ができるぞ。テーブルの上を片付けてくれ」

 

 エアグルーヴがキッチンから呼びかける。

 

 装蹄師の男はそれ以上考えることを止め、そういえば朝からロクなものを食べていないな、と空腹に意識を切り替えた。 

 

 

 

 

「いただきまーす」

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴが作ってくれたのはハンバーグを中心とした洋食セットだ。

 

「うひょぉ~旨そうだな!」

 

 沖野が開幕でがっついていく。

 

 装蹄師の男もメインであるハンバーグを器用に箸で切り、口に運ぶ。

 

「…うっま」

 

 肉汁が見事に閉じ込められたハンバーグはしばらく忘れていた装蹄師の男の食欲をかきたてる素晴らしい味であった。

 

「若干だがおかわりもある。しっかり食べてくれ」

 

 エアグルーヴは無表情ながらも優しい瞳で装蹄師の男を見つめながら言った。

 

「副会長おかわグフっ!」

 

 間髪入れずにおかわりを申請したゴールドシップは隣に座るエアグルーヴに肘でド突かれていた。

 

 

 

 

 食事の片付けも終わり、沖野と東条ハナはアルコール、アグネスタキオンは紅茶、シンボリルドルフ、エアグルーヴと装蹄師の男はコーヒーとそれぞれの好みの飲み物を口にしながらまったりとしていた時だ。

    

「…それで、これからどうするんだい?」

 

 アグネスタキオンはねっとりとした視線を装蹄師の男に向けながら言った。

 

 マグカップ片手に窓際で煙草を吸っていた男は苦笑いしつつ、唸った。

 

「まぁおおよそは、この間理事長に話した通りで…工房が急に閉鎖されるのは想定外だったけど、俺がどうなるかはまだわかんないな…」

 

 ふぅん、とタキオンはにやりと笑みを浮かべる。

 

「…なら、私の紹介で蹄鉄を扱っているスポーツ用品メーカーにでも転職しないかい?なに、待遇は今よりいいことは保証するさ。そのくらいの恩は売ってある会社はいくらでもあるんだ」

 

 へぇ、と横で聞いていた沖野は声を上げる。

 

「あら…それなら、もっと貴方を高く買ってくれるところがあるわ。私のアメリカ時代の友人が腕のいい装蹄師を探してて…」

 

 東条ハナが何事かを言い出したが、それに被せるようにゴールドシップが進出する。

 

「おいぃ!おっちゃんが英語しゃべれるわけねーだろ。おっちゃんはゴルシちゃん専属の装蹄師になって毎日漁に出るに決まってんだろ!」

 

 最早装蹄師を専属にする意味がわからない。

 

 専属、という言葉にピン!と耳を伸ばしたのはシンボリルドルフだ。

 

「なに!専属契約ができるのであれば是非シンボリ家に…もちろん他所からの仕事を受けてくれてもかまわない。工房も本家の敷地に構えるくらいの余裕はある」

 

 話の流れに焦ったエアグルーヴも口を開く。

 

「な、ならば私は父の会社で、先生を…」

 

 当の本人を他所に突如火が付いた装蹄師の男オークションは次第に熱を帯びていく。

 

 それを窓際で煙草を吸いながら、装蹄師の男はひとり冷静に眺めていた。

 

 内心、彼女たちからの誘いはとても嬉しい。

 

 居場所を喪いそうな自分を必死にどうにかしようと知恵を絞ってくれているのだ。

 

 ここまで流されて装蹄師になり、師匠格の老公のツテで学園に抱えられた経緯からして、この先も道がつながった先に歩むのも悪くはない、とは思う。

 

 しかしこの学園で、彼女たちや他のウマ娘、またトレーナーたちとの交流を通して、気づいてしまっていた。

 

 自分は、このレースの世界を愛している、と。

 

 だからこそ、分かれ道に立っている現在、望めるのであればより制約がなく、彼女たちにとってより良い世界になるための一助となりうる道を選びたい。

 

 そう考えていた。

 

 

 

「おいおっちゃん!おっちゃん自身はどーしたいんだよぅ!」

 

「スズカはあいつの蹄鉄じゃなきゃ走らねぇって言ってんだぞ!あのスズカが、走らねぇって言ってんだぞ!」

 

「そうだ!兄さんの意志はどこにあるんだ?」

 

「貴方が英語が話せないなら、私が一緒に行って…!」

 

「あの装蹄技術が広く活かされてこそ、ウマ娘界の幸福の総和をより大きくできるとは思わないのかい!」

 

 突然皆の注目が装蹄師の男に注がれた。

 

 部屋が、彼女たちの息遣いと男が指に挟む煙草が小さく爆ぜる音だけに支配される。

 

 その刹那、インターホンが来客を告げた。

 

   

 

 

     




いつもお読みいただきありがとうございます。
例によって書いて出しなわけですが、これちゃんと話繋がってるのか…?
見直ししろって話なんですが読んでるうちにわけわかんなくなるんですよね(低知能)


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82:後輩の絵図  

 

 

 

 

 

 インターホンに呼び出され、男が玄関を開ける。

 

 そこには顔色悪く、目の下にクマをつくって疲労困憊といった様子のスーツ姿の後輩がいた。

 

「おう、どうした…?」

 

 装蹄師の男が心配そうな声をかけると、後輩は苦笑いしながら顔を横に振る。

 

「あぁ…いや、俺も先輩に用があってきたんスけど、そこでこの娘たちに会っちゃって…」

 

 後輩は装蹄師の男の視野の外に視線を向ける。

 

「先生、こんばんは!」

 

 そこに居たのはスペシャルウィークと、

 

「…こんばんは、先生」

 

 松葉杖をついてやや気まずそうに微笑む、サイレンススズカであった。

 

 

 

「スズカ!退院してきたのか!」

 

 三人をリビングに通して最初に声を上げたのはサイレンススズカの親友といって差し支えないエアグルーヴであった。

 

「ええ…今日の午後。心配かけちゃってごめんなさい」

 

 サイレンススズカは松葉杖姿こそ痛々しいが、制服姿のスカートから覗くギプスはそれほどガチガチなものではなく、顔色も良い。

 

「お前…今日は寮でおとなしくしてろって言ったろう…」

 

 沖野は苦い顔をしているが、自分がここに居る手前、あまり強くは言えないようだ。

 

「トレーナーさん、すいません…でも、どうしても我慢できなくて、スペちゃんについてきてもらっちゃいました」

 

 スズカはダイニングの椅子に座ると、装蹄師の男を見据えた。

 

「先生…」

 

 サイレンススズカの呼びかけに皆、静まり返る。

 装蹄師の男は彼女の真剣な眼差しに射竦められたような気分になった。

 

「その…私、約束…守れなくて…。無事に…帰ってこられなくて、すみませんでした」

 

 スズカは目を伏せ、俯く。

 

 長い睫が本当に綺麗だ、と男は場違いな感想を抱いた。

 

 後輩は二人の様子を見て、なにも口を開こうとしない装蹄師の男を小突いた。

 

「…あぁ。でも、ちゃんと帰ってきたじゃないか。それだけで十分、だ」

 

 本音であった。

 

 無事とは言えなかったが、帰ってきたのだ。

 

「…天皇賞のレースで…最後の直線で加速しようと踏み込んだ時、脚にうまく力が入らなかったんです…痛みは、感じなかったんですが…その瞬間、冷静になって…」

 

 部屋にいる全員が、スズカの言葉に集中していた。

 

「先生とのやり取りを思い出して…帰らなきゃ、って思ったんです…」

 

 そう語るサイレンススズカは、いつのまにか頬が真っ赤に紅潮し、耳はへにゃりと力が抜けて前倒しになっている。

 

 はぁ、と沖野がため息を吐いた。

 

 沖野のため息で我に返った男は、顔を紅くして俯くスズカから視線をはずし、周囲を見回す。

 

 シンボリルドルフは耳を力強く立てたまま、凛々しい顔で硬直している。

 エアグルーヴは口を半開きにして焦点の定まらない瞳でスズカを眺め、微動だにしない。

 東条ハナは眉間に皺を寄せてチューハイの缶を震えながら握りしめている。

 アグネスタキオンはにやついた口元をひくひくと痙攣させながら虚空を見つめ、ゴールドシップはルービックキューブを3面揃えたところで停止しており、スペシャルウィークはサイレンススズカの横で真っ赤な顔をして口をアワアワさせていた。

 

 沖野はそっと装蹄師の男の肩に手を回し、男の耳元で囁いた。

 

「…ま、そういうわけだから…今、お前に装蹄師を辞められると困るんだよなぁ…」

 

 どういうわけだ、と言い返す力はなく、男は、自らの置かれている状況が飲み込めないまま無意識に煙草を銜えた。

 

 

 

◆ 

 

     

 

 

「…で、お前はどうしてきたんだ?」

 

 装蹄師の男は心底不思議な表情で尋ねる。

 硬直したり別世界に旅立っていた面々も、そういえば、という感じで意識を取り戻す。

 

「いやぁ工房が閉鎖されたって聞いて…先輩連絡しても出ないんっスもん。とりあえず来てみるかって」

 

 装蹄師の男のスマホは帰宅してからも、異様な空間となった自室に面食らい続けるあまりずっと部屋の隅で放置されていた。

 

「しかし、お前耳が早いな。俺だって伝えられたの昨夜だぞ。どっかのサイトでニュースででも情報が流れたのか」

 

「いやいや先輩、俺の情報網を侮ってもらっちゃ困るっスよ。俺をなんだと思ってるんスか」

 

「あん?親のスネかじりのボンボンじゃねえのか…?」

 

 不思議そうな表情のまま装蹄師の男は再び尋ねる。

 

 一瞬、お互いを見つめ合う間があった後、「あ」と後輩が間の抜けた声を出した。

 装蹄師の男と後輩は突然再会して以来、その身の上について改めてきちんと話したことはなかった。

 

「先輩…俺、今、家業の手伝いではありますけど、こんな仕事してるんス」

 

 後輩が名刺を差し出した。

 東条ハナに差し出したものと同じである。

 

 後輩の苗字のみの株式会社名に、特務部 部長、とある。

 

「…ぜんっぜんなにしてんだかわかんねぇ名刺だな…」

 

「あ、会社案内もあるっス…」

 

 後輩は鞄からパンフレットを差し出す。

 

 装蹄師の男はそれを受け取るとパラパラと斜め読みしていく。後ろから、沖野やゴールドシップが覗き込んでいた。

 

「結構な大店じゃねえかよおい…」

 

 沖野がぼそりと呟いた。 

 

 確かに老舗と言える歴史があり、資本金からしても中小企業ではなく、分類上は大企業になるような規模だ。

 

 そして代表的な取引先にあげられている会社は世界に名だたる大企業がずらりと並んでいる。

 

「お前の実家、すげえのな…」

 

 装蹄師の男の言葉に、何故か後輩はドヤ顔だった。

 

 

 

 

「で、今日はなんの集まりだったんスか?なんの悪だくみ?」

 

 後輩が悪びれる風もなくフラットに尋ねる。

 

 皆は一様に押し黙っている。

 

 先ほどまでの装蹄師の男オークションに冷や水を浴びせられ、かつ突然のサイレンススズカの登場と天皇賞秋の内幕、特に彼女の内部にある、ある種の先頭の景色は譲らないブッチギリのアピールを目の当たりにしたのだ。無理はなかった。

 

 仕方なく装蹄師の男が口を開く。

 

「…まぁ、ルドルフとエアグルーヴがこんな状況を心配して飯作りに来てくれて…今後の俺の身の振り方をみんな考えてくれたりしてたんだよ」

 

 おお、と後輩が感嘆を漏らす。

 

「なんだ~そうだったんスか。そういう話だったら俺っちも呼んでもらわないと!というかちょうどよかったっス」

 

 東条ハナが眉間に指を添えて俯き、シンボリルドルフが後輩の言葉に反応する。

 

「…ということは、兄さんへの提案があるということだろうか?」

 

 後輩はぐっと親指を立てる。

 

「もちろん!」

 

 装蹄師の男は怪訝な顔をした。

 

 

 

 

  

 じゃあちょっと長くなるっスけど…といって後輩は話し始めた。

 

 俺は今週あちこちを飛び回りながら情報収集と事態の収拾について絵図を描いてみたんスよね。ほんとここ3日はほとんど寝ずにあれこれしてたっス。

 

 で、まずは現状を整理してくっスよ。

 ひとつめは、URA理事会について。

 

 今回のドタバタで世間からド突かれまくって、こぶしを振り上げたはいいけど振り下ろし先はわからないし、事態にどう落とし前をつけていいのか腹が定まってないっス。これは理子ちゃんの情報をもとに弊社の優秀な情報収集部隊が集めた情報なのでほぼ間違いないっス。

 

 そんで、周辺事情。

 

 まずメディアはもう、仕方ないっスね。誰かが仕組んだり、悪意でこういう風になったというよりかは読者のPVがいいニュースがこれだった、ってことで。

 

 あることないことを書いて読者の気を引こうとして、ここまでのことになってしまったっス。これは今更無理に火消しに走ったりしても無駄なパターンというかもっとおかしな方向に行く可能性もあるんで、さわらずにおくことにするっス。

 

 それでいろいろ組み合わせて考えると、理事会はなんらか手を打たなきゃいけないけど打ち方がわからない。メディアも納得するような形であればなんでもいい、となっちゃってるっス。

 

 実際、スズカさんの怪我のことはあれど先輩の作った蹄鉄に手続き的に問題はない。

 でも世間にはなんらかの調査結果の報告が必要で、それなりに悪モンというかスケープゴートが必要な感じになってきてるしで、理事会もその線でまとめようとしている。

 

 ここまではいいっスね?

 

 じゃあ続けるっス。

 

 どうやら技術委員会は先輩を擁護してるっスけど、理事会は先輩をスケープゴートにすることに決めているみたいで、でも悪いことしてないから決定打がない。

 

 ここが延々と平行線なんですよ。

 

 理事会に筋が通ってないから、どうやっても無理筋なんですが、もう後には引けなくなっちゃってるんスね。

 

 そんな状況なんで、技術委員長はコトを動かしていくためになんらかの、新たな仕組みと置き換えてしまうことで公平性と透明性を確保しながらウマ娘の皆さんへの装具のサービス向上を考え出した、という訳で。

 

 あぁ、先輩が技術委員長に頼んだんスか。

 えぇ?自分の身はどうでもいいから、って?

 

 ったくもう、そういうことは教えといてくださいよ。でもこれでまたひとつ、つながったっス。

 

 ただ、問題なのは技術委員会はルールをつくったり見直したりすることを技術的見地からすることはあっても、組織からどうこうすることを考えるのは苦手なんですよね、もともと職人さんの集団っスから無理もないっスね。

 

 そこで不肖、俺っちが描いた絵をですね、技術委員会と、比較的話の分かる理事数人に流し込みつつ、俺は俺でそれを実現させるために日夜走り回ってたって訳っス。

 

 …で、俺の絵っていうのはっスね…。

 

 

 

 

 

 

 後輩の描いた絵図はこうだった。

 

 今後、競技用蹄鉄やトレーニング用蹄鉄に関しては学園とURAが一括管理するレギュレーションをつくる。

 

 そしてそれを新たに作る装蹄所で一括で管理を請け負う。

 

 装蹄所は蹄鉄を造るスポーツ用品メーカーとURA所属の装蹄師が入り、運営はURAと後輩の会社の折半出資の新会社を設立し、URAからの委託を受ける形で運営をする。

 

 装蹄所の店子として各スポーツ用品メーカーを入れて活動させる形式をとるのだ。

 

「この形式なら、蹄鉄に関して各メーカーが切磋琢磨して技術的な質も向上するでしょうし、メーカー同士の情報交換もある程度行われるっス。それを仕切るのはURA所属の装蹄師たちですし、URAサイドからは技術委員会の紐付きにしてもらえば今回みたいなことは起きづらくなるっス。透明性も公平性も高められるし、サービスの供給量も増えるので、ウマ娘の皆さんの損にはならないと思うんスよね」

 

 そしてそこに装蹄師の男が入り込むために、後輩は後継者不在のため廃業する予定だった小さな蹄鉄メーカーの買収準備を整えていた。 

 

「で、先輩には店子の会社に行ってもらって、そこを通じてサービスを提供すれば、まぁ今迄みたいに学園内で自由気ままに、とはいきませんが、これまでどおり彼女たちに蹄鉄を供給してもらうことはできるっス。どの蹄鉄を選ぶのかは、個々のウマ娘さんたちやチームトレーナーとの相談で決めていく事っスから」

 

 

 

 

 

 そこまで話し終えて、後輩は沖野の持ち込んだチューハイの蓋を勝手に開け、ぐびぐびと呑んだ。

 

「…お前、なんだか壮大な悪だくみしてんな…」

 

 装蹄師の男はため息をついた。

 

「いや…しかし兄さん、これならば今の仕事をつづけることができるぞ?」

 

 シンボリルドルフがどこからともなく取り出した眼鏡をかけて、後輩が取り出した資料を精査している。

 

「なんというか…言い方は悪いが、王手がかかって詰んでいたはずの将棋盤に、もう一枚盤をくっつけて、逃げたような絵だな…」

 

 エアグルーヴがよくわからない例えを言い出すが、理解できなくもない。

 

 それほどまでに後輩の描いた絵は悪く言えば荒唐無稽であったし、良く言えば創造的であった。

 

「これなら、先輩はトレセン学園やURAからは距離を取りつつ、あなたたちへの蹄鉄サポートは続けられると思うっス。ここまでガラッと仕組みを変えてしまえば、世間のよくわからない文句もかわせると思うんスよ。どうっスかね?」

 

 一同は後輩の描いた絵図をそれぞれの立場で検討しながら、唸った。

 

 

 

 

 



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83:計画的失踪

 

 

 

 後輩の計画は、皆が口々に賞賛した。

 

 それぞれと等距離で、これまで通りとはいかないが自分たちと縁をもってもらえるという形が、彼女たちに安心感を与えた。

 

 特にアグネスタキオンなどは、装蹄師の男が外部人材になることによって得られるメリットなどを計算しだしたりするなど、それぞれに思い描くことがあるようだった。

 

 装蹄師の男の行く末に一定の方向性が見えたことで、その日は和やかな空気のまま、寮の門限もあり、散会となった。

 

 

 

 部屋には装蹄師の男と後輩、東条ハナと沖野という大人4人が残された。

 

「…あんたがこんな壮大な構想を持っていたとはね…この間聞いた時は、いったい何を考えているのかと思ったけれど」

 

 東条ハナはそこそこにアルコールが入った赤い瞳で、後輩を見やる。

 

「まぁあのときはまだおぼろげだったんスけどね…思いのほか事態の進みが早い気がして、大急ぎで仕上げたんス」

 

 後輩は眉を人差し指で搔きながら答える。

 装蹄師の男は後輩の顔色の悪さを気にしつつ、眺めていた。

 

「理事会とか抑えて、すべてを決裁させて正式決定化するまでは、まだどうなるかわからないんじゃないか?」

 

 沖野は酔っている風の表情をしているが、その口調は冷静そのものだ。

 

「そこらへんは…沖野サンの言う通りっス。ですが、まぁこういうことの根回しにはいろいろ方法があるんスよ」

 

 後輩は苦笑いとそれ以上は聞かないほうがいい、という表情を浮かべた。

 

 東条ハナはこの、後輩の持って回った言い回しと表情に、この間のバーでの彼の言葉を思い出した。

 

 後ろ暗いことを、せめて足裏をひたすくらいまでには…。

 

 おそらく、ウマ娘たちには聞かせられないような手練手管を駆使して、彼の計画の確実性を高めている、そんなところだろうと東条ハナはアタリを付けた。

 

「…お前、まだ隠してること、あるだろ」

 

 装蹄師の男がおもむろに口を開く。

 

「お前が助け舟を出してくれるのはありがたいが…そう簡単な話には、俺は思えないな。何か、まだ俺に言ってないこと、あるだろ」

 

 後輩はまた、眉を搔きながら苦笑いする。

 

「…それだよそれ。お前、なんか隠しているときはいっつも眉、痒くなんだろ。その癖、昔っから変わってないな」

 

 そう言われて後輩は指をとめた。

 

「…付き合いが長いと、やっぱり隠し事はできないっスね」

 

 後輩はゆっくりとした動作で懐から煙草を取り出し、一本取りだして火を点け、そのままソフトパッケージとライターを懐に仕舞わずに装蹄師の男の前に置く。

 

 一口目をしっかりと吸い込んで、深呼吸するように吐きだした。

 

「…今、外にクルマを待たせてあります。行先も、既に決めてあるっス」

 

 東条ハナと沖野は、怪訝な顔をして後輩を見つめる。

 

 後輩は懐から、一枚の封筒を取り出し、テーブルに置いた。

 

 装蹄師の男はその封筒の中身にさっと目を通すと、元に戻してテーブルの上に置きなおした。

 

「…もう、ここには居られない。そういうことか?」

 

 装蹄師の男からの問いかけに、後輩はこくりと頷いた。

 

「…あの娘たちへの説明は、どうしたらいい?」

 

 装蹄師の男の脳裏には、彼女たちの安心して帰っていく表情が浮かんでいた。

 

 後輩は首を振り、ゆっくりと、真剣な表情で話す。

 

「…できないっス。さっき説明したことに嘘はありません。でも、口止めはさせてもらうっス。先輩の行先や次の所属先も含めて明かすことはできませんし、接触することも容認できないっス。そこが、どうしても彼女たちの前では話せなかった…あとでどんな責めを負うことも、覚悟してるっス」

 

 装蹄師の男は後輩との視線を外さず、頷く。

 

「お前のメリットはなんだ?とんでもないカネが動いてることは、世間知らずの俺でもわかる。なぜそこまでしてくれる?」

 

 後輩はやや傷ついた表情を浮かべる。 

 

「先輩への敬意の現れ、だけでは正直じゃないっスね…内幕を話せば、URAに関わることは、親父の悲願でもあったようなんス。なんでも…トキノミノル? を子供の頃に見てからの。だから、俺はこの絵図を描いて、先輩からもらった蹄鉄を見せて、親父に話しました。この計画には親父の力も借りたっス」

 

 装蹄師の男はその言葉にため息を吐く。 

 

「…理事会の要求は、なんなんだ?」

 

 後輩の男は、初めて緊張した面持ちを見せる。

 

 東条ハナと沖野も、固唾を呑んで後輩の言葉を待った。 

 

「……先輩が、消えること。これが、URA理事会から出された要求であり、この絵図の最後のピース、って言ったら、怒りますか?」

 

 東条ハナと沖野は、後輩のその言葉を聞いてぞくり、と背筋を震わせた。

 

 装蹄師の男はしばし沈黙した後、後輩が男の前に置いたソフトパッケージから一本を取り出し、この部屋での最後の一本に火を点けた。

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男の部屋で書置きが見つけられたのは、翌日の夕刻だった。

 

 施設管理部署に装蹄師の男の部屋の鍵が返却されたという報告を受け、不審に思った駿川たづなは部屋を訪ねたのだった。

 

 

[ 一連の騒動の一切の責任を取り、トレーニングセンター学園専属の装蹄師の職を辞することといたします。これまでお世話になり、ありがとうございました。 ]

 

 

 書置きを装蹄師の部屋で発見し、中身を見た駿川たづなは、顔色を失った。

 

 その足で駆け込んだ理事長室では、報告する駿川たづなを秋川理事長は平然と、しかし無言で受け止めた。

 

 駿川たづなよりも早く、URAより退職手続きについての確認が来ていたことで、彼女よりも早く事態を知ることとなったからだった。

 

 また、別ルートでは秋川本家がこの件に関与していることも伝えられていた。

 

「理事長…本当に…これでいいんですか?」

 

 苦虫を嚙み潰すような表情を浮かべる秋川やよい理事長は、椅子をくるりと回して駿川たづなに背を向ける。

 

 頭上の猫が寂しそうにひと鳴きした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、いつものバーで東条ハナと沖野はカウンターに並んでいた。

 

 並んでいても、二人の間に会話はない。

 

 それでも二人が考えていたことは、同じだった。

 

 

 

 

 

 昨夜、大人だけで話した一連の話のあと、ゆっくりと、静かに最後の煙草を吸い切った装蹄師の男は、煙草を確実にもみ消すと、東条ハナと沖野に向けて話した。

 

「迷惑をかけてしまうことになるが、それでも俺は、彼女たちに求められるならば、蹄鉄を造り続けたいと思っている。突然失踪したようになるが、彼女たちのフォローとこの部屋の後始末、引き受けてもらえないだろうか」

 

 これまで、普段は昼行燈といわれるほどうすらぼんやりとしていた装蹄師の男の瞳が、真剣に二人を見つめていた。

 

 どれだけの時間、沈黙していただろうか。

 

 最初に口を開いたのは、沖野であった。

 

「…スズカの蹄鉄は、供給してもらえるんだな?」

 

 後輩は頷く。

 

「先輩を表舞台に出すことはできませんが…それは必ず。俺がお約束するっス」

 

 東条ハナは迷っていた。

 

 今ここで承諾してしまえば、目の前にいるこの装蹄師の男が、永遠に手の届かないところに行ってしまう、そう感じていた。

 

「…どのくらい、身を隠さなければならないの」

 

 東条ハナはぎりぎりのところで理性を保った質問を絞り出した。

 

「そうですねぇ…すべてが歴史になるまで、といったところっスかね…」

 

 歴史になるまで。

 

 東条ハナには、それは永遠にも等しく感じられる時間表現だった。

 

「すくなくとも、今のURA理事長や副理事長が居るうちは、ちょっと。ただ、連中も火消ししたあとは思い出したくもないでしょうから…まぁ、理事会が代替わりすることも考えて、最短で数年ってトコかと。それだけあれば、新しい仕組みも馴染んできていると思いますしね。すんません…すべてが丸く収められれば、よかったんですが…」

 

 心底申し訳なさそうに項垂れる後輩を、東条ハナは無感動に眺めながら、その言葉を受け取るしかなかった。

 

 

 

 

 装蹄師の男の身支度は、恐ろしいほどにあっけなく終わった。

 

 まとめてみればスーツケース2つ。

 衣料品はほぼ作業着であるし、本当に必要なものはノートパソコンとスマホがあれば事足りる。

 

 男の一人暮らしなんてそんなもんだよ、と装蹄師の男は言う。

 確かに生活感の薄い男ではあったが、そんなものだろうか、と東条ハナは訝った。

 

「先輩、コレは…?」

 

 後輩がリビングに残された写真立てを持ってきた。

 エアグルーヴの頭を撫でている男の写真だ。

 

「今となっては、これも懐かしい思い出だけどなぁ…」

 

 苦笑いというにも複雑な表情を浮かべる。

 

「…これは、エアグルーヴに進呈したら、怒られるかな?」

 

 装蹄師の男は東条ハナに笑いながら問いかけた。

 

「…預かるわ。こうなってしまっては、彼女にとっても貴方の居た証になるかも、ね…」

 

 思い返せば、ウマ娘たちには蹄鉄があり、装蹄師の男とのつながりはそこに求められる。

 

 しかし自分には何も、なかった。 

 

「まぁ、もし忘れ物とか、あとであれが欲しいとかあれば回収の使いを寄越しますから。先輩はとりあえず生きていくために必要なモンだけで」

 

「そんなこといったら、俺は煙草代だけあれば大丈夫だよ。仕事道具は行った先で用意してくれるんだろう?」

 

 装蹄師の男と後輩のやりとりは進んでいく。

 東条ハナはそこに割り込むべきかどうか、判断がつかなかった。割り込むにしても、なにを、どのようにしてよいものかもわからない。

 

「あぁ、そこはご心配なく。手に馴染むには時間がかかるかもしれませんが、学園の工房よりかは設備は整ってると思うっスよ」

 

「そんなら、まぁ」

 

 装蹄師の男はちょっとそこまで、といった出で立ちで部屋を出ていく。

 

 裏手の駐車場に出ると、そこには黒塗りにスリー・ポインテッド・スターをあしらった、今時珍しい正統派の大型セダンが待っていた。

 

 運転席からスーツ姿で短髪の、ガタイの良い若い男が降りてきて、後輩の指示を仰いで手早くスーツケースを積み込む。

 

「まるでヤのつく職業の方に拉致られるみたいだな」

 

「今時のヤッチャンはベンツなんか乗りませんよ。国産の最高級ミニバンってトコっスね」

 

「あれは、持っていけないのか?」

 

 装蹄師の男は自分のクルマに視線を向ける。

 

「申し訳ないっスけど…あいつはちょっと目立つんで、諦めてください」

 

「住民票とかはどうすんだ?」

 

「あぁ…念のため、とりあえずは北海道の原野にでも飛ばすつもりっス。もちろん、そこに住んでもらう訳ではないっスけど。あとで、スマホも処分してもらうっス」

 

「そんなら、今やるよ。解約手続きは任せるぜ」

 

 男はほんのすこし躊躇った後、スマホを工場出荷状態に戻すコマンドを実行した。きちんと機能したことを見届けてからSIMカードを抜き、それをぱっきりと割る。

 

 東条ハナはいともあっさりと装蹄師の男とのつながりが断たれていく様を見守っていた。

 

 夜風が妙に冷たく感じたが、寒さを感じる余裕はない。

 

 男がこの車に乗り込んでしまえば、そのまま暫しの、しかしどのくらいか想像がつかない別れが訪れる。

 それだけは脳の冷静な部分が認識していた。

 

「面倒をかけて申し訳ないな。後のことは頼むよ」

 

 装蹄師の男は感情が伺えない表情で、東条ハナと沖野に告げる。

 男にしても言いたいことがないわけではなかったが、それを口にしてしまえば、ここを離れるにはつらくなりすぎる。

 その思いが、男にあえて乾いた態度を取らせていた。

 

「まぁ、落ち着いたら連絡してくれよ。スズカにも、手紙くらい書いてやってくれ。ゴルシは…まぁほっといてもお前の場所を嗅ぎ付けそうだな」

 

「手紙なぁ…俺、字めっちゃ汚ねぇから書きたくねぇなぁ…ゴールドシップに見つかったら、まぁその時は観念するよ」

 

 装蹄師の男は沖野が差し出した手を取り、がっちりと握手を交わした。           

 

「おハナさん…」

 

 装蹄師の男が何事かを口にしようとする。

 

 眼鏡の奥でぎゅっと目を瞑っていた東条ハナは、カッと目を見開くと装蹄師の男の胸倉を掴み、ひきずっていく。

 

「…ちょ…ちょっとどうした…!?」

 

 東条ハナは沖野と後輩から見えない木陰まで装蹄師の男を引きずっていくと、振り向いて胸倉をつかんだまま、ぐっと顔を引き寄せた。

 

「私以外のオンナにあのセクハラギリギリアウトの視線を送ったら…承知しないわよ」

 

 装蹄師の男の視野いっぱいに、おハナさんの潤んだ瞳が睨みつける。

 

 装蹄師の男が二の句を継げずにいると、おハナさんの手は男の両頬をほっそりとした指で動けぬように挟み込み、そして瞳を閉じてゆっくりと近づいた。

 

 

 

 

 

 

「…もう、いいのか?」

 

 沖野はニヤつきながら、戻ってきた装蹄師の男に問うた。男の唇には、紅いものが僅かに残っていた。

 

「まぁ…。おハナさんのことも、頼むわ」

 

 男は紅いものが残っていることも気づかず、沖野に苦笑いとともに告げる。

 

「お前なぁ……まぁ、元はと言えばスズカのことで、こんなことになっちまったんだ。引き受けてやるよ」

 

 貧乏クジだ、と言わんばかりの表情で、沖野は頷いた。

 

「じゃ、行きますか」

 

 後輩のその言葉を合図に、短髪スーツの若人がドアを開けた後席に、男は乗り込んだ。

 

 男を乗せた車は、絹のように滑らかな排気音を僅かに高めると、静かに駐車場を出ていった。

 

 

 

 

 

 バーでいつものようにカクテルグラスを傾けながら、東条ハナは昨夜のことを反芻していた。

 

 あまりにも劇的で、幻想的で、夢であったらよかったのに、と思うような別れ。

 

 しかしそれが夢ではないことは、隣で酔いつぶれかけている沖野が証明していた。

 

 おそらく明日になれば、娘たちも異変に気付くだろう。

 現に、たづなさんからは先ほどから何度も、着信が来ていた。

 

 しかしそれに出る気にはなれずに、先ほどからただ、無言でカクテルグラスを干し続けている。

 

「…おハナさ~ん…元気出してよ~…」

 

 隣で沖野は壊れたように顔を赤くしながら、それでも自分を慰めることを忘れずにいる。

 

「…仕方ないわね…今日は、奢ってあげるわよ」

 

 明日になれば、可愛い愛バたちも異変に気付くことだろう。

 

 その時、私は彼女たちにどう答えるべきなのだろうか。

 

 どれほどグラスを干しても、その答えは出そうになかった。

 

 

 

 

 

   

 




例によって一発書きであがったやつを容赦なく投稿するスタイルです。

以前、曇らせタグをつけるべき、とコメントで指摘をいただき、すぐにタグを追加しておりました。
ご指摘通りつけといてよかった!と心底思いました。  
   


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84:幕間5 トレセン学園史料課研究員の休日

 

 

 トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課に勤める下っ端研究員の男は、休日の朝を迎えていた。

 

 昨夜から一睡もしていない。

 気が付いたら、朝が向こうからやってきたのだ、そんなふうに思っている。

 

 傍らには高額納税者の証である煙草の吸殻が山となっており、資料のコピーが散乱し、かろうじて確保されている作業エリアは断片的なメモと、研究をまとめているノート、そしてPCがバックライトを煌々と輝かせて稼働していた。

 

 就職して初めての給料で買い求めた、中古で旧いが造りの良いワーキングチェアに思い切り寄りかかり、伸びをする。軽い軋みとともに背もたれが後ろに倒れた。

 

 背もたれにべったりともたれ、天井を見上げたまま、新たな煙草に火を点ける。

 

 現在取り組んでいる研究に関して、すでに勤務の概念が消失するほどにのめり込んでいる。

 

 今日が休日であることを良いことに、昨夜夕食と風呂を済ませたのち、この椅子に腰を据えて様々な資料を読み込みつつ、思索に耽ってしまっていた。

 

 エアグルーヴ理事長から直々に研究の進行を指示されているから、業務時間中も空き時間はこの研究にたっぷりと時間を割くことが可能になっている。

 以前、理事長が突然史料課を訪れてからというもの、上司である課長も研究に取り組む下っ端の男を咎めることはできなくなっていた。

 

 その状況を都合よく利用させてもらっているのも確かだが、研究員の男にしてみれば、それも表向きの理由だった。

 

 理事長にヒントを与えられて以来、様々に角度を変えて情報収集をするうちに、今まで見えなかった部分が見えてきた。

 

 今の研究員の男の頭の中には、これまで見えなかった部分が形作られつつあり、しかもそれは、捉えようによっては壮大なスケールの、ある種の陰謀めいたものであるように思われ始めていたのである。

 

 率直に言って、この研究が面白くて仕方がない。

 

 すでに歴史の一頁となりつつある事柄に、埋もれていた裏側があるのだ。

 

 この発見にどれほどの価値があるか、なんてことはどうでも良い。

 見えてきた関係者があまりにも大物ばかりであるため、公表できないかもしれないが、それでも良い。

 

 下っ端研究員の男は業務ではなく何より純粋に、好奇心の虜となっていた。

 

 

 

 エアグルーヴ理事長がヒントとして与えてくれたプレスリリースを時系列にさらっていくと、この時期、URAにおいては新たな取り組みへの試行と細かなレギュレーション変更がたびたび起きていることがわかった。

 

 現在では当たり前のレスキューウマ娘の存在も、このころから試行が始められている。

 

 そして初めてG1でレスキューウマ娘が導入されたのがその年の天皇賞秋。

 

 サイレンススズカが大敗を喫した、ある意味で伝説のレースだ。

 

 この時、どういう経緯かはわからないが現役競走バだったエアグルーヴ理事長がレスキューウマ娘として出走しており、レース後にサイレンススズカに肩を貸して退場していく映像が残っている。

 

 レスキューウマ娘のアイデアも元をたどれば当時の生徒会の発案であったようで、当時の生徒会と言えばシンボリルドルフ会長、エアグルーヴ副会長、ナリタブライアン副会長という布陣で、その名は今の時代から見ても神々しいことこの上ない。

 

 URAのプレスリリースにある断片的な記載から、おそらくエアグルーヴ理事長もかなりの深さで関わっていたのだろうことが窺えた。

 

 そしてこのレースで怪我をしたサイレンススズカは長期休養に入るが、この時に使っていた蹄鉄がメディアの間で問題とされる。

 

 絶対的スターであったサイレンススズカの怪我とあって世間の関心も高く、またその原因が蹄鉄に起因するのではないかというメディア側の論調、そして世論の高まりもあり、対処に困ったURAは内部調査を命じた。

 

 そして2か月後、その調査結果と今後の対策が公表された。

 

 当時発表されたプレスリリースの要旨はこうなっている。

 

………

 

【 天皇賞(秋)におけるサイレンススズカの怪我について 】

 

・サイレンススズカにおいて、当日の体調に一切の問題は見られなかった。

 

・レース中の驚異的な中間タイムについては彼女の能力、その十全を発揮した結果である。

 

・一部指摘のあった蹄鉄については、手続き上の問題はなかったが、その製作経緯においては一部、技術的な試み、いわゆる冒険が行われたことは事実である。

 しかしそれと怪我の因果関係については確証が得られるものを見つけることはできなかった。

 

・上記を鑑み、今後もオリジナル蹄鉄を製作、使用することを不可とはしないが、その製作においては着手前に事前審査を行う許可制とし、完成検査を厳格化するルール改正を行う。

 

・並びに、蹄鉄管理に関しより透明性と公平性を高めるため、中央トレセン学園の蹄鉄工房を発展的に廃止し、新たに蹄鉄に関するサービスを主業とする装蹄所を新設する。

 

・装蹄所はURAの所管とし、その運営管理はURAと民間の折半出資による新会社に委託し行われるものとする。

 

・装蹄所にはURA所属装蹄師が配置され、各蹄鉄メーカーの出張所が設けられる。装蹄所において協業を行っていくことでこれまでよりもさらに安全な蹄鉄の研究開発及び修繕等においても高いレベルでサービスが提供されることを企図している。…   

 

………

 

 おそらくエアグルーヴ理事長はこのあたりの事実を自分に認識させたかったのだろう、と思う。

 

 きちんと順序を踏んで公式情報と照らし合わせれば、調べている事柄についてある程度の構造は理解できるものだ、という感想を抱く。

 

 後年から見れば一見、無味乾燥にも思えるこのプレスリリースだが、よくよく考えてみれば当時の関係諸氏にとってはとてつもなく大きな事態であったことは想像できる。

 

 なにせ、この工房の主は、かのスターたちの日記に出現する、彼女たちにとっての重要人物であるのだから。

 

 

 

 

 装蹄師の男がキーになることを改めて認識するまではよかったが、さすがにURA公式のプレスリリースには一介の装蹄師の人事については出てこないし、これ以上調べようもないかと思われた。

 

 しかし下っ端研究員の男は丹念に、さらに前後のURA発信のプレスリリースを調べていった結果、興味深いものをふたつ、見つけることができた。

 

 

 

 ひとつは、時系列的にはサイレンススズカの怪我よりも前になるが、脚部不安を持つウマ娘向けに衝撃吸収機能を持ったトレーニング専用シューズが開発された、というリリースだ。URAが配信元ではあるが正確には中央トレセン学園発のニュースである。

 

 リリースにはその開発に携わったのが学園服飾部シューズ課の人間、学園専属の装蹄師、そして外部人材としてウマ娘専門医や理学療法士が関わっている。

 

 さらに、今なお高名を天下に轟かせているアグネスタキオン博士の名前やゴールドシップというG1を気まぐれに6勝している戦績は名バだが珍奇行動のほうが後世に伝わっている伝説のウマ娘の名前まで、開発に貢献した者として名を連ねている。

 

 

 そしてふたつめは、サイレンススズカの調査報告を発表したのち2年後に出されたプレスリリースだ。

 中央トレセン学園が保有していた蹄鉄関係の権利が売りに出されていたことがひっそりと発表されている。

 

 内容に関しては権利関係の面から公表されておらず、ただ、蹄鉄関係に関して保有している各種権利、となっている。売却金額も譲渡先の希望で非公表となっていた。この時売却された事柄に、先のトレーニング専用シューズまで含まれているかはわからない。

 

 そしてそのリリースの中で唯一の具体的な情報としてそこに記載されていた譲渡先は、ネットで調べても出てこないし現代に存続しているかも定かではない、小さな蹄鉄メーカーであるようだった。  

 

 

 

 

 下っ端研究員の男はまとめた資料を読み返し、頭の中を整理する。

 

 おそらく渦中にあったのは蹄鉄であり、学園お抱え装蹄師であった男だろう、という確信はある。

 

 ならばそろそろ、その蹄鉄をきちんと体系的に知る必要があるように思われた。

 

 時計は8時過ぎを指している。

 

 下っ端研究員の男は、休日に行こうとアタリをつけていた場所に外出するべく、準備をすることにした。

 

 

 

 

 シャワーを浴びて学園の敷地外に出た後、目的地へ向けて徒歩で向かう。

 

 途中のファーストフードで朝食を摂り、運動不足解消がてらゆっくりと歩いて着いたところは府中にある東京レース場であった。

 

 しかし、下っ端研究員はスタンドへ向かう観客の流れから逸れ、閑散とした敷地を歩いていく。今日の目的はレースではなかった。

 

 目的の場所は東京レース場に併設されているURAレース博物館である。

 

 色々な資料を当たっているうちに、どうやらここにはプレスリリースにあったトレーニング専用シューズが収蔵されているらしいことが分かったのだ。

 

 ほかにも、博物館というからには蹄鉄に関してなにがしかの知見が得られるだろう、そう期待しての訪問だった。

 

 

 博物館のエントランスには三女神の像のレプリカが中央にあり、その周りにはこれまでの主だった年度代表ウマ娘、その銅像が飾られている。

 

 研究員の男が調べている世代で言えば、ミスターシービー、シンボリルドルフ、オグリキャップ、トウカイテイオー、サイレンススズカ…そして現在、自身の所属組織の長として君臨するエアグルーヴのものもある。

 

 さすがに知っている人物の銅像というのはなかなかお目にかかれないので、研究員の男は失礼かもしれないという認識は持ちながらも、ついついマジマジと眺めてしまう。

 

 当然のことながら全盛期の彼女がモデルであるわけで、勝負服で駆けるエアグルーヴ理事長の姿は鬼気迫るものがありながらも気品に溢れている。

 

 そしておそらく、今も現役当時とほとんど変わることのないスタイルを維持していると思い至り、下っ端研究員の男は不覚にも心拍数が高まり、背徳感を覚えずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 徹夜明けのテンションで理事長の銅像は妙な気持になってしまうということが分かったところで、改めて下っ端研究員の男は博物館を巡っていく。

 

 これまでのウマ娘レースの歴史や彼女たちの装具の工夫、実寸大のスターティングゲートの模型やレース編成など、さまざまな角度から資料とともに展示がある。

 

 中にはウマ娘視点でのターフを駆ける映像とともにその風圧を体感できるアトラクションや、脚質別のレース戦略をシミュレーションできるゲーム形式の展示、また子供向けには勝負服を自由にデザインし、CG合成であたかも着ているかのように撮影できるコーナーなど、さまざまに趣向の凝らされた展示が随所に見られた。

 

 博物館内の順路の終盤にはウイニングライブの映像を360度スクリーンで体感できるミニシアターまであり、ファンにはたまらない展示ボリュームと言える。

 

 これだけの展示の充実度を誇りながら、その割にはこの施設の知名度はあまり高くないのか、来客は閑散としていたのが印象的だった。

 

 気が付くと、下っ端研究員の男は順路を回り終えて出口に着いてしまった。

 

 今日の目的であるトレーニング専用シューズの展示が見つからぬままである。

 

 思い出してもそれらしい展示を目にした記憶がなかったため、受付に座る見目麗しいウマ娘に聞くことにした。

 

 用件を伝えると、受付ウマ娘はその耳をピンと立て、研究員の男の目的の場所へ案内してくれた。

 

「…ここは時々、中央トレセン学園のエアグルーヴ理事長も訪れるんですよ。何か、思い入れがあるようで…」

 

 曖昧に相槌を打ちながら、やはりそうなのか、と研究員の男は納得する。

 

 案内されたコーナーはなぜか通常の順路からやや外れた、目につきづらい場所にあった。

 

「こちらです。ごゆっくり」

 

 美しいウマ娘はにっこりと微笑むと、自らの業務に戻っていった。

 

 あまり広いとは言えない蹄鉄に関する展示コーナーは、他の空間とは少し違い、時の流れからは外れた、良く言えば落ち着いた、悪く言えば打ち棄てられたかのようなトーンの雰囲気を纏っていた。

 

 下っ端研究員の男の時代では、既に蹄鉄がレースで使われなくなって久しく、代わりに高機能樹脂製の蹄鉄(鉄ではないので正確には違うものなのだが)が標準となっており、さらに今はシューズ一体型のものの使用も許可されている時代である。

 

 その観点で言えば、蹄鉄は彼女たちを支えた重要な一要素ではあるものの、国民に広く親しまれるエンターテイメントを主たる訴求要素とする現代のレース界においては、歴史という部分を強く感じさせる展示はいささか馴染まないのかもしれない。

 

 下っ端研究員の男はそんなことを思いながら、展示をひとつずつ、つぶさに見ていく。

 

 三面を囲まれたパネル展示は蹄鉄の歴史から製法、そして材質が樹脂に置き換わるまでの経緯を簡単に解説していた。 

    

 そして中央に置かれたガラスケースには過去の名バが実際に使用した様々な種類の蹄鉄が展示されている。

 

 中にはゴールドシップが趣味で使用したとされる妙にゴツい蹄鉄や、シンボリルドルフやエアグルーヴが使用したとされる既製品に改造を加えた蹄鉄、トウカイテイオーの度重なる怪我ごとにコンセプトが見直され、変遷した蹄鉄が順を追って展示されているなど、研究員の男が注目している時代のものもいくつか見つけることが出来た。

 

 そしてガラスケースの片隅に、今日ここに来た目的のものを見つける。

 

 解説パネルには使用したウマ娘の名前も記されており、その名をイクノディクタスと言うらしい。

 

 簡潔な解説によれば、入学前から脚部不安があり、それを憂えた当時の秋川理事長が開発を指示、メイクデビューを飾るまでのトレーニングの間に使用されていたもの、と書かれている。

 

 イクノディクタスはメイクデビュー後、G1での勝利こそ叶わなかったもののトゥインクルシリーズで51戦に出場し、引退まで一度も怪我をせずに9勝を挙げたとされていた。

 

 装着されていた蹄鉄は叩き出しの荒々しさが残る一品で、他の蹄鉄と較べても非常に凝った造りであることが見て取れる。板バネのような形状とそれに絡みつくように編まれた糸が特徴的だ。

 

 手造りの精緻さに食い入るように研究員の男は見つめ、じっくりと観察する。

 

 一体、どれほどの鍛錬を積んで、どれほどの時間をかければこのようなものを創ることができるのだろうか。

 

 先ほど見た製法の展示パネルを思い返してみても、さっぱり見当がつかなかった。

 

 そしてその隣にひっそりとある、足袋型のシューズに装着されていた蹄鉄は、どうやらさらに昔に造られ、トレーニングシューズ開発時の参考になったものらしい。

 

 戦後すぐのダービーにおいてトキノミノルというウマ娘がこれを履き、優勝したと書かれている。

 

 記録からすると、連綿と続いてきた蹄鉄技術はこのトレーニングシューズが開発されたり、サイレンススズカ向けの特注蹄鉄が造られたころがピークであったのではないだろうか。

 

 このあと10年ほどして現在の樹脂蹄鉄につながる流れが生まれ、急速に置き換わっていった先が、下っ端研究員の男が生きる現在である。

 

 今でも鉄製の蹄鉄はトレーニング用や入門用として僅かに残ってはいるが、おそらくこれらがなくなるのも時間の問題であろう。

 

 現在まで続く流れを知る下っ端研究員の男からすれば、それは古代から続いてきた技術が失われ、ロストテクノロジーと化す直前の最後の輝きを今、目の前にしていると感じられた。

 

「…随分熱心に見ているねぇ…そんなに珍しいかい?」

 

 声をかけられて振り向くと、趣味の良いスーツとハットに身を包んだ、杖をついた老人が立っていた。

 

「あぁ…えぇ…ちょっと今、このあたりのことを調べてまして…」

 

 老人はほほう、と感心するような表情を浮かべた。

 

「あんちゃんみたいな若いヤツが珍しいこともあるもんだなぁ。若者、このあと時間はあるか?どうだ、ちょっとこの爺ぃに付き合わんか」

 

 爺ぃと自称した老人は人の好さそうな笑みを浮かべ、下っ端研究員の男を誘った。 

 

 

 

 




いつもコメントや校正ありがとうございます。
皆様のご支援で書き続けていられます。
引き続きよろしくお願い致します。


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85:幕間6 トレセン学園史料課研究員の休日 2

できたてほやほや
現実逃避してたら書き上がりました。


 

 

 

「君が調べているのは大学かなんかのレポートとか、そういうことなのか?」

 

 身なりの良い老紳士にいざなわれるままに博物館を後にした下っ端研究員の男は、杖をついて歩くペースに合わせてややゆっくりと歩む。

 

 片足は悪いようだがそれ以外の部分は存外元気らしく、杖を器用に使って歩く老人はとても姿勢が良い。

 

「えぇ…まぁそんなところで。きっかけはまたちょっと別なのですが、調べ物に興味を抱いてくれている人がいまして」

 

 研究員の男は曖昧に返事をした。

 

「…なるほど。その興味を抱いてくれているヒト向けに、あれやこれや調べ物をしてるってわけか」

 

 老紳士の言葉に研究員は少し考え、応じた。

 

「いや、そういうわけでは。調べたものをそのヒトに喜んで欲しいという気持ちも嘘ではないですが、一番は自分の好奇心、ですかね」

 

 研究員は偽らざる本音を端的に表現した。 

 

「なんだ、てっきりコレのために頑張っておるのかと思ったぞ」

 

 老紳士はいたずらっぽい笑みとともに小指を突き立てていた。

 

「あぁ…いや、その方とは立場もなにもかも違いすぎますから」

 

 そう言いながら研究員の男はエアグルーヴ理事長を思い浮かべた。

 

 普段は謹厳実直、時には冷徹とも感じられる雰囲気を纏っており、理事長という雲の上の立場にいるが、ここ最近の一対一のやりとりで感じられたのは金属のような硬い態度の裏側に、寂しさや脆さのようなものが見え隠れする瞬間があるということだった。

 

 そしてその瞬間に研究員の男が艶めかしいものを感じたことも事実だ。

 

 しかし見た目はそれを感じさせないながらも、研究員の男とは親子ほども年齢差があり、さらに組織のトップと下っ端という立場の差もある。

 

 研究員の男個人の嗜好として彼女のことを女性として観ることはあるにせよ、それは恋愛感情というよりも憧れと言ったほうが良いものなのだろうな、と結論付けた。

 

「…あんちゃん、今オンナのこと考えてたな?顔が赤いぞ」

 

 老紳士からずばりと指摘され、研究員の男は慌てた。

 

「まぁまぁそう慌てなさんな…しかしあんちゃん、ちょっとやつれてるな。ちゃんと飯食ってんのか?よし、爺ぃの飯につきあえ。良いところがあるんだ」

 

 

 

 老紳士は東京レース場とトレセン学園の中間あたりにある商店街、その裏通りへと研究員の男を連れて行った。

 そして下っ端研究員の男のような若い男にはややハードルの高い、良く言えば年季は入っていたが小綺麗な雰囲気の、悪く言えば場末のスナックのような空気感の店の前で立ち止まった。

 

「ここだ」

 

 老紳士は慣れた手つきで扉を開けた。

 

「あ、いらっしゃい。今日はまだ仕込み中…って、社長サンか」

 

「もう社長は引退したって言ったろ。今日は若い連れがいるんだが、いいかい?」

 

「社長サンは社長サンでしょ。ってか本名知らないし…大したもんはつくれないけど、それでよければ。どーぞ。はいって~」

 

 店の中から聞こえてくる優し気な声に導かれるがままに、老紳士に続いて店内に入った。

 

 

「狭いとこだけどどーぞ、ってホントに若い子連れてきたね…いいの~?こんなオバちゃんのお店に」

 

 入るとそこはカウンターのみの8席ほどしかない、どこか懐かしい雰囲気を湛えた空間だった。

 

 声の主は妙齢のウマ娘。艶やかな鹿毛が電球色の店内照明によく映える。

 

 老紳士に手招きされるままカウンターに腰掛ける。

 

「なんか栄養のあるもん食わしてやってくれ。俺はいつものやつ、な」

 

「栄養のあるものって、戦後すぐじゃないんだから…って言っても、どうしようかなぁ。好き嫌いとか、ある?」

 

 研究員の男は首を振る。

 

 もとより食への興味が高いほうではないので、とりたててこれが好きというものもないが、食べられないほど嫌いというものもない。

 

「じゃあ、おまかせでチャチャっと作っちゃいますね~。それまでこれで持たせといて」

 

 そういって二人の前には小鉢の突き出しが置かれ、老紳士にはウイスキーと思しき琥珀色の液体、研究員の男にはウーロン茶が入ったグラスが置かれた。

 

 老紳士はグラスを差し向けてきて、それに合わせて研究員の男もグラスをかちり、と鳴らした。

 

「で、社長サン、この子とはどういう関係なの~?まさかお孫さんとか?」

 

 カウンター越しに妙齢のウマ娘が老紳士に話しかける。

 

 研究員の男は盗み見るかのように妙齢のウマ娘を観察するが、年齢はよくわからない。若々しいがこなれた感じというか親しみを感じさせる可愛らしい雰囲気で、矛盾を承知で表現するならばいささかとうが立った看板娘、といったらしっくりくるだろうか。

 

「ん、さっき東京レース場の博物館で行き会った若者だよ。蹄鉄のコーナーで、真剣な目をして長いこと見とった」

 

 へ~え、と老紳士の話を聞いて受け答えする間も、彼女の手はカウンターの下で手を動かし続けている。

 

「ってことは、初対面?お兄さんも変なおじいちゃんに捕まっちゃったね~」

 

 研究員の男は苦笑いする。

 半ば強引にここまで連れてこられていたが、不思議と悪い気はしていなかった。

 

 入ってきたときには気が付かなかったが、店内のほの暗さに目が慣れてくると、背後の壁面には蹄鉄と、レースを駆けるウマ娘の写真が飾られていることに気づく。

 

「これは…」

 

 男が思わず凝視すると、老紳士がにやりと笑った。

 

「このウマ娘なら、ホレ、今、目の前に居るぞい」

 

 老紳士がカウンターにちらりと目線を流す。

 

「もう社長サンやめてよー。もう昔の話なんだから」

 

 写真のど真ん中に映る、ターフを先頭で駆けるクリスマスカラーのような勝負服のウマ娘は、紛れもなく今カウンターで研究員の男の食事を準備している、彼女だった。

 

 

 

「あんちゃんが見ていた蹄鉄やシューズの時代、現役だったのがこの娘さ。歴史の証人だぞ」

 

 社長サンと呼ばれていた老紳士はグラスの中の琥珀色の液体を舐めるように吞みながら、悪戯っぽく笑う。

 

「もうずいぶんと時間が経っちゃいましたね~…まだまだ気は若いつもりではいるんだけど。やだやだ言い回しまでオバサンになっちゃって…」

 

 そういうとカウンターの中で苦笑いをする彼女。

 

「…私がいっくら真剣に走れども走れども、いっつも三着。もう、やんなっちゃうよね~」

 

 その言葉とは裏腹に、飾られている写真は先頭を駆けている。

 

「…それでも一度は、G1取ったじゃないか」

 

 老紳士は穏やかな笑みとともに彼女を讃えるように言った。

 

「残念でした~その頃はまだG2だったんです~そのレース」

 

 彼女は少し恥ずかしそうに、それでもどこか誇らしげに微笑んだ。

 

「って、社長サン、お節介かもしれないけど、こんなところで油売ってていいの?またお付きの人が探しに来ちゃうんじゃない?」

 

 彼女がそう言った刹那、店の扉が勢いよく開いた。

 

「…会長!困りますよ勝手に消えて…!」

 

 黒いスーツにサングラス、短髪オールバックというおよそ堅気には見えない男2人が息を切らして老紳士に詰め寄る。

 

「ホラ~。あんまり部下の人困らせちゃ駄目だよ~」

 

「急いでください!次の予定が…」

 

「仕方ねぇなぁまったく…あんちゃん、ゆっくりしてけ。ここの肉じゃがは絶品だぞ」

 

 老紳士はそれだけ言い残すと、研究員の男を置き去りに、黒スーツにつまみ出されるように連行されていく。

 

「ねえさんすいません!お代、ここに置いときますんで!」

 

 もうひとりの黒スーツがカウンターに万札を数枚置き、慌てて老紳士の後を追っていった。

 

 

 

「あれ。お代多いよ~…って聞こえてないか。あわただしいなぁ…ゆっくりできるときに来てくれたらいいのにね~」

 

 カウンターの中のウマ娘は苦笑いしながら、研究員の男に話すでもなく呟いた。

 

「…あの人はよく来られるんですか?」

 

「時々ね。夜だったり今日みたいに昼だったり。でも、来るたびにいつもこんな感じで帰っていくんだ~」

 

 そういえば研究員の男は、あの老紳士の名前すら聞いていないことに気が付いた。

 研究員の男は老紳士の名前を、カウンターの中の彼女に訊ねてみた。

 

「あぁ~…実は私も知らないんだ。どうも、レース関係者みたいなんだけどね。たまに一緒に来るURAやトレセン学園の人から社長って呼ばれてたから、私も社長サン、って呼んでるんだ。あ、お兄さんはそのまま待っててね。もうすぐできるから」

 

 既にキッチンからは食欲のそそる香りが立ち昇り始めており、研究員の男は香りに反応して胃が蠕動し始めるのを感じていた。    

 

 

「はい、おまたせ~。あり合わせで申し訳ないんだけど…味は、悪くないと思うからさ」

 

 御盆に載せられて定食のような体裁で出てきたのは、山盛りの白米と人参がたっぷり入った肉じゃが、きんぴらごぼうに味噌汁という、独身かつ彼女もいない下っ端研究員の男からは一番縁遠いメニューであった。

 

 研究員の男は手を合わせていただきます、と告げ、勢いをつけて食べ始めた。

 

 

 

 

 

 ご馳走様でした、と手を合わせる。

 

「はい、お粗末様でした~。ほぇ~綺麗に食べたねぇ。オバさん嬉しくなっちゃうな」

 

 手早く下げられたお盆と引き換えに、温かいお茶と灰皿が出てくる。

 

「食後の一服して、ゆっくりしてね~」

 

 食器を手早く洗いつつ、彼女は夜の仕込みなのだろうか、調理の手を止めることはない。

 

 気遣いに有り難く煙草を取り出し、火を点けた。

 

 改めてゆっくり店内を見回すと、先ほど話題になった写真の横に飾られている蹄鉄に目が留まる。

 

 研究員の男は立ち上がって、蹄鉄に目を凝らした。

 

 先ほど博物館で見た蹄鉄と、どことなく似た雰囲気を感じる。

 

 量産品にはない槌痕がはっきりと残っており、生々しささえ感じるその蹄鉄は、彼女の走りをしっかり受け止めたのだろう。接地面は磨り減ってしまっている。

 

「その蹄鉄を履いて、その写真のレースに出てたんだ。私史上唯一のG1勝利…ってその頃はG2だったんだけどね」

 

 先ほどの老紳士との掛け合いは、彼女にとって今は持ちネタのようなものなのだろう、と研究員の男は思った。

 

「…私、ずーっと勝てなくてさ…おっきなレースで三年連続三着とか嬉しくない記録まで作っちゃって…もう勝てないのかなー…なんてちょっと腐りかけてたところに、その蹄鉄が届いたんだ」

 

 気が付くとカウンターの中の彼女は手を止め、蹄鉄を眺める研究員の男の背中に語り掛けていた。

 

「送り主はわからなかったんだけど…たぶん、一度だけ話したことのある装蹄師の先生だと思うんだ。試しに着けてみたら、最初はちょっと変な感じだったんだけど、だんだん馴染んできて」

 

 研究員の男は蹄鉄から視線を離さぬまま、背中越しに彼女の話に聞き入っていた。

 

「その蹄鉄を着けて走った3戦目、だったかな…作戦がぴったりはまって、蹄鉄の感触も良くて…たぶん3年ぶりくらいに、私、レースで勝てたんだ」

 

 振り向くと、彼女は暖かみを感じる微笑みを湛えていた。

 

「あ、ごめんね。オバさんの昔語り。ウザいよね~こういうの」

 

 研究員の男を見て我に返ったのか、急に取り繕うように苦笑いを浮かべる。

 

「いえ、思いがけず貴重なお話が聞けて…今凄く驚いていて」

 

 研究員の男は、慌てて自らのトートバックの中を探りながら話し始める。

 

「今、ずっと調べていることがあって…これ、なんですが…」

 

 研究員の男は今朝までの進捗メモを出力した紙束を取り出し、手渡す。

 

「その、一度だけ話したことのある装蹄師の先生、というのが…が、学園の装蹄師のひと、なのではないかと思いまして…」

 

 研究員の男が手渡したこれまでの研究サマリーを、カウンターの中で彼女は手早く斜め読みして、内容を把握してくれた。

 

「…この、スズカの蹄鉄をつくった装蹄師を探してるってこと?」

 

 探してるのか、と問われればそうなのだろう。

 だが、研究員の男に装蹄師の男と直接会う、という発想はなかった。

 彼が何を成し、彼女たちとどういう関係で、今わかっていることの裏にどのようなことがあったのか。それが彼の興味の対象だった。

 ある意味、完全に歴史として扱っているのだった。

 

「…残念だけど、私も会話したのはほんとに一度きりなんだ。今はどこで、何をしているのか…この資料にまとめられてることがあったのは事実だし、その時、先生が巻き込まれたのも知ってるけど…」

 

 耳をしおれさせながら、うーん、と彼女は唸る。

 

「…そう。思い出してきた。確か、突然いなくなっちゃったんだ。学園の工房が閉鎖された、そのすぐあとに…」

 

 彼女は研究員の男にペンを求め、資料に書き込んでいいか確認を取った後、時系列にまとめられた資料に綺麗な字でいくつか書き込んだ。

 

 それは工房の閉鎖時期と、装蹄師の男が消えた時期、そして彼女に蹄鉄が届いた時期である。

 

「私が先生についてわかるのは、これくらい…かな」

 

 そういうと、紙束を整えて研究員の男に戻した。

 

「まぁ、その蹄鉄が先生のかどうかは、わからないんだけど…たぶん、そうなんだと思う。先生と近かったウマ娘のところにも、時々同じように届いてたみたいだから」

 

 研究員の男は紙束を受け取ると、再び、蹄鉄に注目した。

    

「その、先生との一度きりの会話ってのも…ね、所属チームが決まらなくて、集団の夏合宿に行ってた時の夜で…アタシの悩みを聞いてくれて、先生も、自分の話をしてくれて…その合宿のときにたまたま指導役だったトレーナーがチームをつくるつもりだ、ってこと、こっそり教えてくれて」

 

 彼女は懐かしそうに瞳を細めた。

 

「…その話を聞いて、合宿最終日にトレーナーにアタックして…なんとかチームに入れてもらったんだ。そのおかげで、デビューできて、レースにも、たくさん…成績はパッとしなかったけど、目いっぱい走らせてもらえたんだ…だから、さ」

 

 彼女は唐突に言葉を切る。

 研究員の男は振り向いて、彼女と視線が交わった。

 

「もし…もし、装蹄師の先生に会うことができたら、その時は…ここにも連れてきてくれないかな。いっぱい…めいっぱい、サービスするからさ」

 

 そう研究員の男に話す彼女の瞳は、うっすらと涙を湛えているように感じられた。

 

 

 

 

「お代はいーよ。社長サン、いっつもあんな感じで帰るから、お金いっぱい置いてってくれるんだけどお釣り渡すタイミング無くてさー。結局、社長サン貯金がたまっていく一方なんですよ」

 

 代金を払おうとする研究員の男に、彼女はそう言って受け取ろうとしない。

 

 そういえば、あの老紳士にも礼を言わねばならないが、どうしたらよいだろうか。

 

 彼女に訊ねてみても、どうやら連絡先もわからないらしい。

 

「まぁでも社長サン、時々ここに来るから。お兄さんも気が向いたらまた来てよ。そしたらまた、会えるかもよ」

 

 なんとも飲み屋らしい彼女の返事に、研究員の男は少し大人になったような気がした。

 

 店を出ると、すでに夕方近い。

 

[ 喫茶&スナック ブロンズ ]

 

 おいしいものが食べたくなったら、またここに来よう。

 

 研究員の男は未だ慣れぬこの街にひとつ、通うべき場所を見つけた気がした。

 

 

 

 




今回の話はもともとイメージしていたものから、皆さんのコメントを参考に色々要素を追加して書かしていただきました。

いつもコメント、文字校正、それに評価まで多数の方にいただいており、励みになっております。
いつもありがとうございます。

  


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86:山奥にて

 

 

 夜陰に乗じてトレセン学園の敷地を後にした大型セダンは、装蹄師の男が過ごした街を静かに、滑るように通り抜け、離れていく。

 

「…で、俺をどこに連れていくんだ?」

 

 装蹄師の男はセダンの後席に深く座り込んで腕を組み、まっすぐ前を向いて動かない。

 

「…とりあえず、身を隠してもらうっス。仕事は続けられる設備のあるところを用意したっス」

 

 装蹄師の男はふん、と鼻を鳴らして、そのままじっと窓の外を眺めていた。

 

 

 

 中央高速を走り、東京と山梨の県境あたりで一般道に降りたセダンはそのままひと気のない山奥へと進んでいった。

 

 さして広くない峠道を横幅の広いセダンをするすると操り登らせていく運転席の若者は、よほど後輩の仕込みが良いと見える。すでに道には街灯もなく、頼れるものはヘッドライトの灯りのみというような道だ。

 

 それにしても随分とひと気のない場所まで来たものだ。

 

「…このまま山の中に俺を埋めようってんじゃねぇだろうな?」

 

 装蹄師の男はさすがに気になって、口を開いた。

 

「やだなぁ先輩。そんなわけないじゃないっスか」

 

 そんなやりとりをしている間に、クルマは舗装された峠道を逸れ、未舗装の林道のようなところに入っていく。 

 

 こうなるとさすがに装蹄師の男も冷や汗が出てくる。

 

「あ、ここっスね」

 

 速度を落としたクルマのヘッドライトがなにか、旧い工場のような建物を照らしている。

 ゆっくりとそこへ近づくと、運転手はクルマを止めた。

 

 運転手の男はクルマを降りて建物に近寄ると、建物のあかりを灯し、電動シャッターを開ける。

 

「お…おぉ…」

 

 外観は古い廃工場のようだったが、中はそれなりに綺麗で広い。まるでコンクリ打ちっぱなしの体育館のような空間だった。

 

 運転手の男が戻ってきてクルマごと中に乗りつける。

 

 中ほどまで入ったところでクルマはとまり、後輩と装蹄師の男はクルマを降りた。

 

 奥には軽トラとワンボックスが1台ずつ停められており、その横には男の作業スペースと思われる空間があった。

 ガス炉や金床、ベルトハンマーなどの機材がずらりと設えられている。

 

「すっげぇな。秘密基地みたいじゃねえか」

 

 装蹄師の男は目を瞠る。

 

「設備の方は廃業した野鍛冶の工房から根こそぎ移植したんスよ。建物は、その昔林業で使ってた作業場の転用で」

 

 そういうと後輩は運転手の男に指示し、装蹄師の男の荷物をクルマから降ろさせると、奥へと誘う。

 

「奥に生活用の部屋をつくったんで、生活に不自由はないと思うっス。そこの2台のクルマも自由に使ってください」

 

 後輩が部屋をあける。

 

 工場の建物の中にさらに部屋を建てた、という出で立ちの外観だったが、中はしっかりと住居用のスペースとなっており、後輩の配慮なのだろうか、これまで男が住んでいたトレセン学園の寮と全く同じ間取り、大きさが再現されていた。家具も全く同じとはいかないが、ほとんど似たようなものが置かれている。

 

 部屋から運転手の男をさがらせ、後輩は冷蔵庫からビールと茶を取り出すと、茶を装蹄師の男に差し出す。

 

 装蹄師の男はついさきほどまで居た空間に戻ってきたかのような錯覚を覚えるが、僅かに香る新築の建材の匂いが、その願望のような錯覚を打ち消した。

 

 二人はダイニングチェアに腰を下ろし、煙草に火をつけ、一服する。

 

「…で、これからどうしようってんだ?」

 

 装蹄師の男は改まって後輩に問うた。

 

「…とりあえず、先輩にはここで仕事をしてもらうっス。これからURAと詰めますが、そう間をおかずに先輩の仕事には問題がなかったというプレスリリースが出ます。同時に、URA管轄の装蹄所を新設する、という内容も発表される手筈っス」

 

 装蹄師の男は煙を吹きあげながら続きを促した。

 

「装蹄所はウチとURAの折半出資の会社に運営が委託されるっス。そこに蹄鉄メーカーを店子として入れて、URAの装蹄師とともに彼女たちに蹄鉄に関するサービスを提供するっス。まぁこれまでとは違ってスポーツ用品メーカーの宣伝という側面が出てきますが、まぁそれは彼女たちへのサービスの対価という奴で」

 

 後輩はビールの缶を開けるとぐびぐびと呑んだ。

 

「で、先輩の方は俺が出資する匿名投資組合が買収する潰れちまいそうな蹄鉄メーカーの事業所、つまりココで仕事をしてもらうっス。表面上は、装蹄所の運営とは何の関係もない、そういうことになるっス。そしてもちろん、その蹄鉄メーカーは装蹄所の店子でもある、という訳で。彼女たちへのアクセスは装蹄所を通じて、可能っス」

 

 そこまで聞いて装蹄師の男は煙草をもみ消し、次の煙草に火を点ける。

 

「それ、商売になんのか?お前が赤字垂れ流すことになるんじゃねえのか?」

 

 装蹄師の男の指摘に後輩は薄く笑う。

 

「…商売の基本って、知ってるっスか?」

 

 装蹄師の男はきょとんとして首を振る。

 

「三方よし、っていうんスけどね…自分良し、相手良し、世間良し、っていうヤツなんすけどね。俺んとこはURAに関係持って良し、先輩は仕事を続けられて良し、ウマ娘の皆さんはサービス向上して良し、世間も納得して良し…あ、これじゃあ四方か…とまぁ、幸せの総和が大きければ大きいほど、良いっていう考え方っスね。これができていれば、まぁ利益の方はあとから付いてくるもんっス」

 

 まぁ、親父の受け売りっスけどね、と後輩は苦笑いを浮かべた。

 

「…ただ、ひとつだけ、俺はよしにできなかったコトがあるんス。それはどうしても、先輩の力を借りなければいけないことなんスよ」

 

 後輩は改まった口調で装蹄師の男に迫った。

 

「…なんだ?それは。できることはやるぞ」

 

 装蹄師の男は煙草に火を点けながらこともなげに言った。

 

「…つくづく鈍いっスね、先輩も…。今日、誰と最後の晩餐を囲ったんスか?」

 

 「?」というマークが頭上に出ているかのような表情の装蹄師の男。

 

 ここまですっとぼけられるのも才能だな、と後輩の男は思った。

 

 

「今夜、あの部屋に集まったウマ娘たち。彼女たちの心だけは、俺ではどうにもできないっス。先輩が彼女たちに誠意を見せないことには、この一連の計画も立ちいかないっス」

 

 装蹄師の男の煙草がじり、と音を立てた。

 

「…とはいえ、俺には鉄を打つことしかできんよ」

 

 装蹄師の男はある種の諦観を浮かべた表情で呟く。

 

「…なら、それでいいんじゃないスかね」

 

 後輩はにこりともせずに続けた。

 

「先輩がそう言うなら、彼女たちを想って鉄を打ってやってくださいよ、彼女たちのために。それなら、きっと伝わると思うんスよ。良いじゃないですか、それがこの工房での最初の仕事っス」

 

 後輩は出資者の顔でそう、装蹄師の男に告げた。

 

 

 

 




皆さまご無沙汰いたして申し訳ございませんでした。
 仕事が大変に大変な状況でしてここしばらく全く手がつけられない日々でした。
 とりあえずは一山超えましたので短いながらも投稿を再開させていただきます。

 引き続きよろしくお願いいたします。


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87:山奥での目覚めと後輩の覚悟

大変お待たせいたしました。
大変な難産でありました…

引き続きよろしくお願いします。


 

 

 

 

 後輩に新たな工房に連れてこられた翌日、男は部屋に差しこむ朝日の明るさで目が覚めた。

 

 起きて部屋を見回してみても、昨日まで居た部屋によく似ており、一瞬どこで目を覚ましたかわからない。

 

 しかし所在地の標高からくる底冷えと、窓から見える景色が全く違っていたことで、昨夜のことは夢ではなかったことを改めて認識した。

 

 新品の建材の匂いのする部屋で今日の一本目に火を点け、遠慮なく煙を吹かしながら、ぼうっと考える。

 

 後輩は自身の遠大な計画を商売の基本になぞらえて説明した。

 そこまでの気配りをしてもなお、満たせなかったものがある、とも。

 

 そしてそれは、本来であれば、装蹄師の男自身が対処するべきことである。

 

 装蹄師の男は煙草を吸いながらベランダに出た。

 

 山の空気は冷たく、その分濃く感じられる。

 

 その空気で肺を満たすと、遠く山の下方に見える平野を見渡す。

 

 朝靄に遮られたその先では、今日も彼女たちが、それぞれの夢に向けて走り出しているはずであった。

 

(あいつらのために、か…)

 

 煙草を数口吸って部屋に戻り、短くなった煙草をもみ消すと、持ってきた荷物の中からノートとPCを取り出し、彼女たちひとりひとりを思い浮かべながら、蹄鉄をスケッチしイメージを書き出した。

 

 装蹄師の男は時間をかけ、とりあえずの思い付きをノートに表現しつくしてしまうと、今度は部屋を出て、新たな工房の中を巡ることにする。

 

 昨夜はさっと見ただけだったが、良く見てみれば部屋と同じように、設置されている設備もおおよそ学園の工房に準じたもののようであった。

 

 炉やベルトハンマーなどの形式や古さ、くたびれ具合まで同じようなものが揃えられている。もちろん、その見た目に反して整備は完璧に行われていた。

 

 廃業した野鍛冶の工房から移設した、と言っていたが、それはおそらく後輩の気遣いであろう。

 

 工房の入り口付近には資材庫が備えられており、中を改める。

 

 おおよそ普段、造蹄に使用する副資材はもとより、さまざまな種類の鋼材が整理されてラックに収められ、すぐに使用可能な状態で揃えられている。

 

 棚には後輩の会社の特殊鋼部門の人間の名刺が貼り付けられており、連絡すればそう間を置かずに資材を届けてくれるらしい。

 まさに至れり尽くせり、といってよい環境であることを改めて確認した。

 

 これだけのものを集め、準備するには相当な苦労があったに違いない。それを昨夜、さらりとあのように流して表現してみせた後輩の気持ちが、今更ながらに伝わってくる。

 

 そして私財をなげうって装蹄師の男本人の社会的な問題だけでなく個人的な関係までも背負い込む覚悟で、この状況をつくりだしてくれている。

 

 全く、とんでもない借りを作ってしまったものだ、と思う。

 

 同時に、自身も後輩の絵図のピース、その中のひとつにすぎない、という乾いた認識もあった。

 

 そこまで考えて、ウェットな部分とドライな部分を兼ね備えてバランスをとってみせた後輩という人間の大きさを改めて感じざるをえない。

 

 ならば自分は自分で、身の丈にあったスケールで応じるしかないな、と自らに言い聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男が新たな工房で決意を新たにした翌日の午後、後輩はトレセン学園の生徒会室に居た。

 

 周りには、あの夜に装蹄師の男の部屋に集っていたウマ娘たちが揃っている。

 

 装蹄師の男とあの夜以降連絡がつかないことに気づいたシンボリルドルフが男の部屋を訪ね、そこはもう男の棲み処ではないことに気づいたことが発端であった。

 

 駿川たづなはシンボリルドルフの問い合わせに関して昨日一杯はごまかし続けたが、その翌朝には部屋に集っていたウマ娘が顔を揃えて理事長室に押し掛けた。そうなってはもう、ごまかし続けることはできなかった。

 

 理事長室で装蹄師の男の退職を知ったウマ娘たちは、それぞれの感情をその場ではどうにか押し留め、事情を知るであろう沖野、東条ハナ、そして後輩にそれぞれ連絡を取った。

 

 しかし沖野はただ、あいつを信じてやれというのみで埒があかず、東条ハナは気丈に振舞ってはいたが、その瞳からは光が消えており問いただすのも気が引けるほどに血色がなかった。

 

 エアグルーヴからの連絡を受けた装蹄師の男の後輩だけが、いつものように軽やかに今からそちらへ向かう、と受け答え、そう間を置かずに生徒会室に姿を現したのだった。

 

 

 

「…どういうことだか、説明してもらえるだろうか」

 

 エアグルーヴが代表するように、心まで凍るような声音で言った。

 

 部屋の主たるシンボリルドルフは、あの夜とは打って変わった皇帝そのものの威厳を放ち、生徒会長の席に座り後輩の男を射抜かんばかりに見据えていた。

 

 その傍らにはエアグルーヴが立ち、席の正面にあるソファにはアグネスタキオン、サイレンススズカが感情の感じられない瞳で後輩を見つめている。

 

 唯一、ゴールドシップだけがその雛壇からやや距離を取り、コトの成り行きを見守っていた。

 

「…先輩には、消えてもらったっス」

 

 こともなげに後輩は言った。

 

「…つまり、貴様が先生を連れ去った、と?」

 

 エアグルーヴは耳を前に倒し、今にも襲い掛からんばかりの気迫を内に秘めたまま、言った。

 

「ええ。それが計画に必要だったものっスから」

 

 エアグルーヴの気迫を感じながらもそれに動じることなく、あくまでも世間話のような様子で受け答えをしていく。

 

「貴様が我々に語った話は、嘘だったのか?」

 

 後輩の男は苦笑いを浮かべると、首を振る。

 

「嘘ではないっス。先輩にはあの絵図の通り、小さな蹄鉄メーカーに移ってもらいました。ただ…」

 

「ただ、なんだ?」

 

 アグネスタキオンが先を促す。

 

「…先輩にはあくまで、行方不明になってもらわないといけないっス。それが先輩が仕事を続けるための唯一の条件なんス」

 

 そこまで一気に言ってしまうと、後輩はソファにもたれ、傲慢に脚を組んだ。

 

 ウマ娘たちは彼の言葉の真意を測りかね、黙り込んだ。

 

 それまで瞑目し、だまって聞いていたシンボリルドルフが瞳を開く。

 

「…それが理事会との約束。そういうことか」

 

 シンボリルドルフがゆっくりとそう問いかけ、沈黙を破った。

 

 後輩はシンボリルドルフから刺さる視線を痛いほど感じ、そして覚悟を決めた。

 

「…学生の身分であるあなたがたが知る必要のないこと、っスね」

 

 後輩は彼にできる、できるだけ尊大な態度で、あしらうように言い放った。

 

「なんだかんだ言って、現実ってぇのはきれいごとばかりじゃないんスよ。大金が動き、利権があり、群がる人間がいて。コンテンツを提供する側と消費する側、その間にいる人間が差益を得る。レースという書き割りで綺麗に整え、見せたいものを見せていく。エンターテイメントって、そういうもんじゃないスか?」

 

 煙草を銜え、火を点けずに杖を使って立ち上がり、シンボリルドルフの机に歩み寄る。

 

「あなた方は整えられた舞台の上で精いっぱい、踊ってくれればいい。対価は賞金だ。そしてそのための労は惜しまない人たちが、それを支える。良いじゃないスか、それで。それ以上何をお望みなんスか?」

 

 後輩は皇帝の威圧感に敢えて挑みかかるように畳みかけた。 

 

 しばし視線を交わし合ったのち、後輩は背を向け、ドアに向かって歩いた。   

 

 ドアノブに手をかけ、呟く。

 

「…これからも先輩からの必要な支援はあなたがたの手元に届くっス。今はそれで、我慢してください」

 

 それだけ告げると、部屋から退出した。

 

 

 

 

 後輩が退出した生徒会室は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 

 誰もが、装蹄師の男が居なくなり、再び彼女たちの目の前に現れることはないという現実を噛みしめいていた。

 

 俯いていたサイレンススズカが、しゃくりあげながら静かに泣き始めるまで、そう時間はかからなかった。

 

「…私の…せい…です…ね…」

 

「それは違うぞ!」

 

 サイレンススズカが告げた言葉を、エアグルーヴは即座に否定する。

 

「いいえ…私が…怪我さえしなければ…」

 

 俯いたスズカのスカートに、ぽつぽつと涙の染みが浮かぶ。

 エアグルーヴが歩み寄り、静かにスズカを掻き抱いた。

 

「…会長、このままでいいんですか?」

 

 エアグルーヴは腕にスズカを抱いたまま、シンボリルドルフに問う。

 

 シンボリルドルフは腕を組んで、動かない。

 

「…まぁ、後輩クンの言う事も一理ある。それでも我々は走るしかない、そういう役回り、さ」

 

 アグネスタキオンは力なく、諦めを含んだ微笑を浮かべながら言い放った。

 

「…私は…私は今の気持ちでは、レースなぞ走ることはできない…」

 

 エアグルーヴは苦い表情で呟く。

 

「おや、では引退でもするというのかい?装蹄師の彼が居なくなったくらいで。君のレースへの情熱はその程度だったのかい?女帝ともあろうものが、嘆かわしい」

 

 タキオンがエアグルーヴを揶揄うように応じる。

 

「…アグネスタキオン…貴様…」

 

 エアグルーヴがぎり、と奥歯を噛みしめる。 

 

「おいおいやめねーか。そんなことしてもおっちゃんは喜ばねーと思うぜ?なぁ会長」

 

 ゴールドシップが止めに入る。

 話を振られたシンボリルドルフは、ゴールドシップがこちらを不自然にニヤニヤと眺めていることに気が付く。

    

「…なるほど。ゴールドシップにもそう見えたか」

 

 シンボリルドルフは引き絞られていた耳がもとに戻っていく。

 

「あぁ。間違いねーよ、ったく、さっすがおっちゃんの後輩ってだけあるぜ。一瞬アタシもあれが本音かと信じそうになっちまったもんな!」

 

 シンボリルドルフはくすくすと笑いだす。

 

「…あぁ…私にあれだけ睨まれて引かないというのは、彼も大した男だとは思うよ」

 

 ゴールドシップはさきほどのシンボリルドルフの眼力を思い出し、背筋が冷やりとする。

 

「会長もヒトが悪いなぁ。だったら助けてやればよかったじゃねーか」

 

「いや、私も可能性のひとつとしては思い浮かべていたがな…どうにも感情のほうが勝ってしまっていた。まだまだ鍛錬が足らないようだ」

 

 二人のやりとりを聞いていたアグネスタキオンも笑い出す。

 

「くっふふ…やはりそうなのか。後輩クンもあれでなかなか、芯の強い男だねぇ…」

 

 彼女たちのやりとりを聞いていたエアグルーヴは、わけがわからずに三人を見回す。

 

「…ど、どういうことですか会長!スズカもここまで泣いているというのに、何が可笑しいんです!」

 

「鈍いなーベロちゃん!」

 

 ゴールドシップが悪ノリしてエアグルーヴの綽名を口にする。

 

「すまんすまん…まあ、後輩の彼も本気だということ、だよ。そしてさっきのあれは、彼なりの私たちへの気遣いが生んだ演技さ」

 

「え、演技…ですか…?」

 

「そう。演技だ。彼の言ったことに嘘はないさ。おそらく、彼の描いた絵図通りに、兄さんは学園を離れて、新たなところで蹄鉄を打ち続けるのだろう。そして我々が兄さんと逢うことができなくなるのも、そうなのだろう。だが、後輩氏は我々にすべてを話してURAと対立させたりしたくはなかった。だから…さっきの演技で、私たちが彼を憎むように、仕向けたのさ」

 

 エアグルーヴは絶句している。

 

 そしてサイレンススズカは、泣きはらした瞳でシンボリルドルフの言葉を聞いていた。

 

「だからスズカも泣くこたーねーんだぜ。おっちゃんはおっちゃんなりに、私たちのことを考えて、こうしたってこった」

 

 ゴールドシップは荒っぽい言葉遣いとは裏腹に、優し気な声でサイレンススズカの頭を撫でる。

 

「だから、エアグルーヴ…私たちが彼らに報いるためにはどうするべきか…わかるな?」

 

 シンボリルドルフはエアグルーヴに柔らかな声で問いかけた。

 

 エアグルーヴは芯の強い瞳で、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 





■本作を楽しんでくださっているSkyjack02さんが装蹄師のおっちゃんキャラをベースにした装蹄師さんを出演させてくれております(20話~)。そちらも是非何卒、よろしくお願いいたします!

「トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない」
https://syosetu.org/novel/273727/


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88:超光速の粒子になるために

いつもお読みいただきありがとうございます。
コメント、誤字修正、評価と大変ありがたく、日々励みにしております。
今後ともよろしくお願いします。


 

 

 

 

 

「せぇんぱあい~…こ゛わ゛か゛っ た゛て゛す゛よ゛~…」

 

 夜、後輩は山奥の工房に突如現れ、運転手の若い男を引き連れ、部屋にずかずかと上がり込んで持ってきた缶ビールを一気飲みするとそう言って涙ぐんだ。

 

「…なんだなんだ。一体何があったんだ…きたねぇ泣き顔だなオイ…」

 

 最後の晩餐を囲んだウマ娘たちの蹄鉄についてPCを覗き込みながら考え込んでいた装蹄師の男は面食らう。

 

「うぐっ…呼び出されたんスよ…先輩を拉致った件、あの娘たちにバレて…それで…」

 

 大の男が涙目になるほどか?と装蹄師の男は訝しむ。

 

「…ルドルフさんの目、マジで●されるかと思ったっスよ…」

 

 装蹄師の男は煙草を吹き上げて笑う。

 

「そりゃあまぁ…伊達に皇帝と呼ばれちゃいねぇからな…」

 

 そうは言ったものの、当の装蹄師の男はルドルフからそのような視線を送られたことは幸いにして、ない。

 

「まじでチビるかと思ったっスよ…西アフリカにヤバいブツ買い付け行った時に現地ゲリラに拉致られたヤツより怖かったっス…」

 

 後輩は何かとんでもないことを言ってるような気がしないでもないが、装蹄師の男は聞き流す。

 

「あんな娘たちに懸想されてる先輩って…しかもあの人数…立ち振る舞い間違ったら刺されますよ…」

 

 そういえば前にも似たようなことを言われた記憶がある。沖野だったか、おハナさんだったか…と装蹄師の男は懐かしい気持ちになった。

 

「…これ、あの娘たちに対する俺の立場もあるんスからね…ちゃんとあの娘たちに気持ちが伝わるような蹄鉄打ってくださいよ…じゃないと今度こそ…俺…心臓止まっちまい…ますよ…」

 

 ぐだぐだと述べる後輩はすでに酒がまわりきり、眠り込んでしまいそうな雰囲気になっていた。

 背後には運転手の若い男がもう夜半であるというのに黒ずくめのスーツ姿に微塵の乱れもなく、直立不動で立っている。

 

「…コイツいつもこんななんです?ご迷惑おかけして申し訳ない…」

 

 装蹄師の男は運転手の男に詫びる。

 

「いえ!とんでもありません!先生のお噂はかねがね伺っております!お言葉を掛けていただき光栄であります!」

 

 運転手の男は慌てた様子で、しかししっかりとした明らかに体育会系の仕込みを感じさせる受け答えを寄越した。

 どうやら彼が本気でそう言っているらしいことは理解できる。一体普段、どんなことを吹き込んでいるのやら、と装蹄師の男は不安になる。

  

「もう遅いから泊ってってよ、君も…おっさんに管巻かれて、大変だねぇ…」

 

 装蹄師の男は寝室とリビングに部屋に備えられていた客用布団を手早く用意してしまうと、運転手の男にも酒を勧めた。

 

 

 

 

 翌朝、後輩を送り出すと、装蹄師の男は倉庫からいくつかの鋼材を取り出してきて、炉に火を入れた。

 

 昨日のうちに工房の機材においては確認作業を終えており、工房としての機能に問題がないことは承知していた。

 

 この工房に据えられた炉は学園の工房のものとよく似ていたが、火力や熱の入り方はクセというのか、とにかく工房の炉とは異なっており、まずはその特性の把握もしていく必要がある。

 

 とはいえ蹄鉄を打つことにはそこまで影響しない。たいていはそこまで厳密に炉のクセを知らずとも、装蹄師の男が鉄の熱し具合をきちんと把握すればいいだけのことだからだ。

 

 鋼鉄の棒を炉に差し入れ、しばらくすればそれが赤くなり、さらに熱するとオレンジから黄色く輝き出す。

 

 頃合いをみて炉から鋼棒を取り出し、右手に持った槌で叩き、伸ばし、折り曲げて再び炉で加熱する。

 

 再び黄色く発光するまで熱した鉄を金床に引き出し、先ほどと同じように叩いて伸ばし、折り曲げる。

 

 その作業を幾度か繰り返し、最終的に鍛錬した鋼の棒を作り出す。

 

 一度冷水で冷やした後は、しばらく寝かしておく。

 

 そうして素材からさらに鍛錬を施した鋼棒を10本ほど、午前のうちにつくりだした。

 

 

 

 午後はいよいよ、蹄鉄を打つことにする。

 

 最後の晩餐を囲んだ彼女たちを思い浮かべて、アイデアを練ってはいたが、一番最初にまとまったのはアグネスタキオンの蹄鉄だった。

 

 実のところ、彼女に関して知っていることはそう多くない。

 

 彼女と装蹄師の男はいつも、彼女以外のウマ娘のことを考えて行動していたからだった。

 

 しかしそこから間接的に知ることが出来たのは、彼女の脚はそう頑丈ではないからこその研究である、ということだ。

 

 いわば強烈なエンジンを持ちながらも足回りが耐えられない、アンバランスなところが彼女の個性と言える。

 

 そしてレースを戦っていく上では弱点であった。

 

 そうであるがゆえに彼女は研究によってそれを克服することを願い、怪しげな取り組みに手を染めていったのだ。

 

 そうであるならば、彼女自身に客観的な指標となる蹄鉄を造ろう。

 

 装蹄師の男が考えていたのは、ある一定の力を越えると走行中でも安全に壊れる、練習用の蹄鉄であった。

 

 

 

 

 

    

 アグネスタキオンの手元には日々、様々なものが届く。

 

 海外から取り寄せた研究のための資材や試薬、よくわからない成分を抽出したよくわからない粉末や錠剤、時には何を測定するのか見当もつかない研究機材もある。

 

 それに混じって、見た目よりも重量感のある木箱が届いたことにアグネスタキオンが気づいたのは、到着日の翌々日の夕刻であった。

 

 木箱で送られてくるようなものを注文した覚えはないが、あて先はたしかにトレセン学園の彼女あてとなっており、発送元はタキオンが付き合いのある蹄鉄メーカーだった。

 

 あけてみると、その中はおが屑のような緩衝材がぎっしりと詰められており、それにおそるおそる手を差し入れると、中にひやりとした金属の感触を感じる。

 

 すくいあげてみれば、それは槌痕もなまなましい、一対の蹄鉄であった。

 

 基本に忠実なスタイルの蹄鉄であるが、丁寧にかたちづくられ、表面はナシ地の艶消し仕様に仕上げられている。

 

 気になったのは、蹄鉄を留める釘と釘との間がくりぬかれ、中空構造となっているところだ。

 

 軽量化のためならばほかにいくらでも削るところがあるはずなのに、なぜか最も力のかかる部分の肉厚を薄くしているのだろうか。これでは壊れやすくなるではないか。

 

 アグネスタキオンはその蹄鉄の構造を訝しんだ。

 

 蹄鉄が収められていた箱に目をやると、詰められた緩衝材の中に一枚の紙が顔をのぞかせていることに気づいた。 

 

 彼女はその紙を手に取る。

 

 お世辞にもうまいとは言えない、大層なクセのある文字が書かれている。

 

 

 

 用途:練習で本気で走るとき用

 仕様:一定以上の力をかけると壊れるリミッター付

 特徴:安全に壊れる。君の脚が壊れる前に。

 慣らし必須、調整は装蹄所の装蹄師に依頼すること

 

 

 

 タキオンはそれを見て、この蹄鉄の送り主と意図を理解した。

 

「なるほど…これで客観的に自分の脚の出力を理解しろ、というわけだね…」

 

 これまでも様々な計測機器を使いながら脚のデータを取ってきてはいたが、これほどまでに直接的な脚へかかる力の判断方法はなかった。

 

 そしてなにより、直接的に話したことはほとんどないはずの彼女の脚について気にかけてくれ、それに対する彼なりのひとつの回答を寄越してくれたことが嬉しかった。

 

「でも…これじゃあ壊してしまったら終わりじゃないか…先生も深慮が足らな…」

 

 足らない、と言おうとしたところで、紙の裏側にさらに、走り書きがあるのを見つける。

 

[ この蹄鉄が壊れたら、立ち止まれ。良く脚を点検しろ。そして発送元に連絡を。]

 

 それを読んでタキオンはひとつ、ため息を吐く。

 

 おそらくこれが壊れたことがひとつのステップとなって、次の蹄鉄が送られてくるのだろう。

 

 つまりこの蹄鉄は彼女のリミッターであり、段階的に、慎重に彼女の能力を上げていくための道標なのだ。

 

「…まったく…その技術が憎らしいよ。まるで私の走りが先生の掌の上じゃないか…」

 

 そう言いながら、これまで研究にかまけてロクに走ってもいない自分が、この蹄鉄を壊す日を少し楽しみにし始めていることを自覚し、薄暗い研究室でひとり、微苦笑を抑えきれなかった。  

 

「…いいだろう。私の名に恥じぬ、超光速へたどり着いてみせようじゃないか…」

 

 アグネスタキオンは照りのないその瞳の奥に、微かに青白い炎を灯らせた。

 

 

 

 




今回はちょっと短めでしたね…
相変わらずの一発書きで、今回はかなり短時間だったのでいつもより粗い出来かもしれません…申し訳ございません(言い訳)


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89:速さは、孤独か

 

 

 

[ 早速届いたよ!先生からの蹄鉄が! ]

 

 久しく沈黙していた鉄の会のチャットルームに、アグネスタキオンのコメントが書き込まれた。

 

[ 私の方にはまだ来ていないが。]

 

[ 会長もですか。私のところにもまだ… ]

 

[ あんだよーなんでゴルシちゃんとこにまだこないんだよー ]

 

 瞬時に沸き返るチャットルーム。

 

[ アグネスタキオン、君のところにはどんなモノが届いたんだ? ]

 

 シンボリルドルフからの冷静な質問が入る。

 

[ 練習用の蹄鉄なのだけれどね。一定の力以上がかかると破断するのさ。安全にね。そうなることで私は自分の脚の能力向上と同時に負荷の増大に気づくことができるという仕掛けさ。一種の安全装置だね。これは彼が私の脚をそれだけ気遣っているという証拠のようなもので、造りこそシンプルだが蹄鉄にかかる力を正確に見抜けなければ設計すらできないし、さらに加工となると素材の鍛錬度合いから推定して応力の限界点とせん断ひずみエネルギーを直観的に見抜いて造られたまさに私のためだけに造られた一品だよ。いやぁウマ娘冥利に尽きるねぇ… ]

 

 明らかにテンションがブチ上がっているのがぎっしりと詰め込まれた文字の羅列から推測できる。

 今のアグネスタキオンは完全に舞い上がっているようだ。

 

[ それで君が走る気になるのなら、兄さんも喜ぶだろうな ]

 

 

 

 冷静にそうコメントを入れたシンボリルドルフの心中は、いかばかりか。

 

 

 自らもまた、焦燥感に身を焼かれるような思いに駆られながらも、エアグルーヴは静かにシンボリルドルフの心中を慮った。

 

 

 

    

 

 

 

 

 装蹄師の男はアグネスタキオンの蹄鉄を仕上げた翌日、早速次の蹄鉄の仕込みに入った。

 

 いくつかの鋼材を資材庫から取り出し、組み合わせを考える。

 

 次に造るのは、サイレンススズカの蹄鉄だ。

 

 以前造った蹄鉄も試行錯誤の末に生まれたが、今回は以前のコンセプトはそのままに、さらに進化させるつもりでいた。

 

 そのためには、これまで以上に下準備が欠かせない。

 

 装蹄師の男は二種類の鋼材を鍛接するために使用する薬剤の製作にたっぷりとその日を費やした。

 

 

 

 翌日、選び抜いた鋼材二種類を並べて熱し、昨日用意した薬を接合面にさっと振りかける。

 

 薬剤は溶けてガラスのような様相となり、そこに鍛接するもう一種類の鋼材を乗せ、槌で叩いて接合させていく。

 

 接合面の薬を追い出すようにしっかりと叩き込み、二種類の鋼材を一体化させ、伸ばしていく。

 

 昨日の薬づくりに新たな手法を取り込んだこともあり、以前製作した時よりも鍛接の成功率は向上させることができた。

 

 以前の怪我のこともあるので、ペースは落とし気味に作業することにして、その日は鍛接した鋼材を5セットほど仕上げたところで打ち止めとした。

 

 

 

 3日目にしてようやく、蹄鉄自体の製作に入る。

 

 鍛接した二種類の鋼材に慎重に熱を入れ、慎重に蹄鉄を叩きだしていく。

 

 今回イメージしているものは、ただ二種類の鋼材を使い弾性と剛性を兼ね備えるだけでなく、さらに工夫をくわえ、蹄鉄を形作る構造そのものにも衝撃吸収機能を設けよう、という試みだ。

 

 それを精緻に実現するためには、これまでの経験だけでは足りなかった。

 

 イメージを形に落とし込むことを可能にしたのは、イクノディクタスの蹄鉄で悩んでいた時に天才珍奇美ウマ娘ゴールドシップ神が授けてくれた「大きく叩き出し、削って合わせる」手法があってこそである。

 

 じっくりと形状を詰め、80%程度の精度で叩き出したところで終わりにして、次の蹄鉄に取り掛かる。

 

 そうして用意した鋼材で蹄鉄もどき5対を仕上げたところで、その日の作業は終了した。

 

 

 

 4日目、叩きだした蹄鉄を削り、大きさや形状を狙い通りに仕上げていく。

 

 ひとつずつが鍛接した素材から手作業であるため、蹄鉄ひとつひとつが2種類の鉄の厚みに僅かな違いがある。それもこの局面でできるだけ品質を揃えていく。

 

 目標のイメージに一番近いものをマスターとし、他の叩き出し蹄鉄はそれを目標に切削することにして、まずはマスターモデルを完成させるまでに午前一杯かけていく。

 

 午後はそのマスターに沿って他の蹄鉄もじっくりと調整を重ねて仕上げる。

 

 以前のモデルならばここでほぼ完成となり、表面仕上げなどの詰めに入るところだが、今回はさらにもう一工程入れるため、ほどほどのところでその日の作業を切り上げた。

 

 

  

 5日目は、未知の領域に着手した。

 

 昨日まででほぼ完成した蹄鉄に、さらに剛性をコントロールし、衝撃を和らげるように機能させるための横穴をあけていく。

 

 軽量化と左右の重量合わせのために穴をあける加工をすることはこれまでもあったが、蹄鉄自体に適度なしなりを持たせることを目的として穴をあけることはこれまではあまりしてこなかった。

 

 また、この手のセッティングは本来であれば個人の好みも入ってくる部分であるため、コミュニケーションが重要になる部分でもある。

 

 しかし今の装蹄師の男の立場ではそれは叶わぬことであるし、第一サイレンススズカ自身は怪我で療養中であった。蹄鉄に関して走って試せる状況ではない。

 

 なのでここは開き直って、あくまで装蹄師の男がイメージする剛性感と衝撃吸収能力を与えることにする。

 

 また、スズカが走れるようになる日を彼女自身が心待ちにするような、美しく、彼女の緑の瞳に映えるような蹄鉄に。

 

 そんな感情を込めて、装蹄師の男は鉄の粉にまみれながら蹄鉄に穴を穿ち、磨き上げていく。

 

 慎重に、熟慮を重ねて行う作業に男は時間を忘れて作業に没頭した。

 

 

 

 すべての蹄鉄を研磨して鏡面に磨き上げ、仕上がる頃には6日目の陽が空に昇りはじめていた。

 

 

 

 

 

 

「スズカさーん、なにかお届け物が届いてますよー」

 

 夕方から夜と呼ぶべき時間帯へ移ろおうとするころ。

 

 トレーニングから帰ってきたスペシャルウィークが木箱を抱え、部屋に戻ってきた。

 

 静かに読書をしていたサイレンススズカは、スペシャルウィークを暖かな笑顔で出迎えると、その木箱を受け取った。

 

 木箱に貼られたラベル、その発送元はサイレンススズカとは縁のない、大手の蹄鉄メーカーの名が記されている。

 

「これは…?」

 

 ずっしりとした重さが感じられる木箱を丁寧に開ける。

 

 中には緩衝材に埋もれて、蹄鉄がおさめられていた。

 

 緩衝材を払い、目線に持ち上げてよく観察してみる。

 

 となりで見ていたスペシャルウィークが感嘆の声をあげた。

 

「わぁ……」

 

 その蹄鉄は磨き上げられ、普段目にする蹄鉄とはあきらかに違う雰囲気を放っていた。

 ところどころに穿たれた穴の中まで、隙なく鏡面に仕上げられ、鈍い光を放っている。

 

「スズカさん、これって…」

 

 スペシャルウィークはスズカの手元を覗きこむと、目を丸くする。

 語り掛けられてもそれが耳に入らぬほどに、サイレンススズカはその蹄鉄に魅入っていた。

 

 今年の彼女の快走を支えた二種類の鋼を接合してつくられていた蹄鉄。

 

 そのくっきりとした二層に分かれる側面の紋様はそのままに、不規則に穴が穿たれて鈍く光るさまはある種の有機的な、洗練された生物のような機能美と力強さを纏っていた。

 

「…綺麗……」

 

 サイレンススズカは自らのエメラルドグリーンの瞳が表面に映りこむほどに近づき、眺める。

 

 鋭さと柔らかさ。

 

 一見相反する要素を兼ね備えた蹄鉄であることは、同じ人物の手で造られた蹄鉄を履いて走ったスズカ自身が一番良く知っている。

 

 そしてそれを履いて走ったレースの、胸のすくような気持ちのよい走り心地もまた、彼女だけが知る感覚だった。

 

 蹄鉄の温度を指先で感じたまま瞳を閉じれば、その感覚はすぐに思い出せる。

 

「…先生…」

 

 その蹄鉄を造った人物の表情を思い出す。

 

 不愛想で不器用でとっつきづらく、いつも何を考えているかわからないようなひと。

 

 でも、話してみれば返してくれる言葉は多くないけれど、その奥に暖かな安心感を抱かせてくれる存在。

  

 そして先生と話した工房の、あの空間。

 

「…っ…」

 

 今や永遠に喪われてしまった。

 その事実に思い至り、ぎゅっと胸が締め付けられるような苦しさを覚える。

 

 

 それでも…それでも、あの空間の主が新たに私に与えたもうたのは、あの工房で生み出された蹄鉄よりも、さらに洗練された、この蹄鉄。

 

 それが今、自分の手の中にある。

 

 

 表面の、ひんやりとして滑らかな肌触りの奥にある、芯のしっかりとした、硬く、それでいてどこか安心感を与えてくれる重さ。

 

 それは、あの時触れた装蹄師の男の指を思い起こさせた。 

 

「…スズカさん…」

 

 ここ最近の様々な思いに浸るように瞳を潤ませるサイレンススズカを、スペシャルウィークはそっと気遣う。

 

「…大丈夫よ、スペちゃん」

 

 目じりの涙をそっと指でぬぐい、サイレンススズカは微笑む。

 

「…でも、走りたくなっちゃうわね、この蹄鉄を着けて、早く…」

 

 スズカのその言葉に、スペシャルウィークは顔色を変える。

 

「まだダメですよ!スズカさん!焦っちゃダメなんです…!」

 

 スペシャルウィークの狼狽ぶりも、今のスズカには微笑ましい。

 

「冗談よ、スペちゃん。この蹄鉄をしっかり使いこなせるように、まずはちゃんと治さないと、ね」

 

 胸に蹄鉄をかき抱くと、締め付けられていた苦しさが和らぎ、静かに、小さく、しかし熱量の高い炎が宿る気がした。

 

「私の速さは、孤独なんかじゃないって…もう…解かったから…私、もっと速く、駆け抜けてみせますっ…」

 

 サイレンススズカは瞳を閉じて、蹄鉄に誓いを立てるように、呟いた。 

 

 

 

 



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90:老舗の火付け師

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後輩の男は、自らの会社が入るビルの屋上で煙草を燻らせている。

 

 金曜の夜、既に社内に残っている人間もほとんどおらず、彼につけられている社用車の運転手兼ボディガードの若者も、帰してしまっている。

 

 自身の席があるフロアにも喫煙ブースは設けられていたが、社内でそこそこの立場にある者が、金曜のこの時間に落ち着かぬ様子で煙草を吸い続けているというのも他の者に迷惑がかかる。

 

 見栄を張るのも楽じゃないな、と肌寒さに震え出しそうになりながら、昏くなった空を眺めた。

 

 

 会社が入るビルは昭和後期に建てられた自社物件ではあったが、周囲の再開発に取り残される形で埋もれてしまっており、屋上とはいえそう眺望は良くない。

 

 建てられたばかりのころは線路を挟んで反対側にある丸の内界隈まで見通せたようだが、今ではせいぜいが数ブロック先の日本一地価が高い交差点のあたりの灯りが見える程度である。

 

 すっかり冷たくなった夜風を感じながら、煙草を燻らせているのは、時間を潰しているためだ。

 

 ある人物からの連絡を待っているからだった。

 

 もう何本目かもわからない、次の煙草に火を点けようか迷って手持無沙汰な時間をしばし過ごした後、諦めて火を点けて一口吸い込んで吐きだすと、待っていた連絡が来たことをスマートフォンが振動して知らせた。

 

 

 

 

「遅くなりました。待たせてしまいましたね…」

 

 URA本部の裏手に停めた後輩の男のクルマ、その助手席に乗り込んできたのは樫本理子だった。

 

「お疲れさんだねぇ、りこぴん。週末はゆっくり休めるの?」

 

 後輩の男は樫本理子の虚弱といっていい体力を慮り、労う。

 

「…日曜はレース場に出ねばなりませんが、明日は一日休養に当てるつもりですよ」

 

 後輩はそれを聞くと少しほっとしたように、息を吐いた。 

 

「なら、すこーしドライブに付き合ってよ」

 

 樫本理子を乗せたクルマは、右ウインカーを出してゆっくりと走り出した。

 

 

 

 

 夜の都内を流しながら、後輩の男は樫本理子と話す。

 

 クルマの中というのは不思議な空間だ。

 

 面と向かっていると何を話したらよいかわからない相手であっても、車窓に向かい並んで座っていると、自然と会話が弾んだりすることがある。

 

 後輩と樫本理子はそこまで気を遣う間柄ではなかったが、ここ最近起こったことを考えるならば、話題はあるが、お互いにどのように話したらいいか、距離感が掴みづらいところがあった。

 

 心中に重たいものを抱えていた後輩は、今日は樫本理子と面と向かって話す勇気は持てず、仕事の後にドライブに付き合ってほしい、という口実で彼女を呼び出していた。

 

「いやぁ…仕事終わりに悪かったね。お腹空いてない?」

 

「昼食が遅かったので…大丈夫ですよ」

 

 ちらりと助手席に座る樫本理子を見る。

 

 無表情に車窓を眺める姿は、後輩の記憶にある大学時代の彼女と少しも変わりがなかった。

 

「今回のことさ…怒ってる?」

 

 理子の表情からなにかを伺うことができなかったため、後輩は敢えて直球の質問を放つ。

 

「いえ、そんなことは。ただ、私が話したことがきっかけ…だったんでしょう?」

 

 返してくる理子の言葉も直截的な表現だ。

 後輩は否定せず、頷いた。

 

 

 後輩の男は樫本理子から得た基本的な情報をもとに、自らの会社組織を使ってさらなる情報収集を実施、今回の動きをするための基礎的な環境を見出した。

 

 そしてそこから、ぼんやりとしていた自らのイメージに具体性をつけ、URAの核である理事会へのアプローチ、トレセン学園とのバランス、世間への対処方針をつくりあげた。

 

 それをもって、方針の定まらない理事会に先回りする形で装蹄所を新設するアイデアを要路にいるURAの人間たちに流し、実現性を探りつつ各所との調整項目、そのひとつひとつ物陰から意図する方向へ誘導するように支援して物事をコントロールしてきた。

 

 

 しかし、すべてが意図通りに運んだわけではなかった。

 

 その一番大きな部分が、学園の工房の廃止と装蹄師の男のURAからの退職を引き換えとせねばならなかったことだ。

 

 後輩自身の計画では学園の工房の廃止は回避できなくとも、装蹄師の男の身分はURA所属のまま、装蹄所に異動する線で納めてもらう方向で調整していた。

 

 しかし理事会はかたくなに装蹄師の男を排除することを要件から譲ろうとせず、結果的に妥協せざるを得なかった。

 

 

「理子ちゃんに縁切られても仕方ないようなことをした、とは思ってるんだよ、これでも」 

 

 トリッキーなことで悪名高い首都高速中央環状線を、それなりの速度で流しているにもかかわらず、樫本理子は全く恐怖を感じない。そのような運転技術をさりげなく発現させつつ、後輩は呟く。

 

「…あなたらしいというか…律儀ですね」

 

 理子は言葉少なに答える。

 

 

 結果的に今の形に収まったが、後輩の心の中には後悔という言葉では言い表せないものが鬱積していた。

 

 あくまで結果論でしかないが、今回の結末を見るならば自分は装蹄師の男を売った、とも取れるからだ。

 

 装蹄師の男本人からの感謝の念はひしひしと感じられた。形はどうであれ、彼の求めた彼女たちの為に蹄鉄を打ち続けたい、という要望は満たすことができていたからだ。

 

 しかし彼と引き離されたあのウマ娘たちにしてみたらどうだろう。

 

 呼び出された生徒会室で凄まれて委縮したわけではない。

 

 だが、大人の論理に振り回された一番の被害者は、彼女たちではなかったか。

 本来そこに居るべき庇護者から引き離された彼女たちの心細さはいかばかりか。

 

 

 そこに疑問を持ってしまえば、この絵を描いた自分自身にも疑念をもたらす。

 

 この画を描けたのは、尊敬している装蹄師の男の窮地を救いたい、という思いがあったことは間違いない。

 

 しかし本当に自らを動かしたのは、URAに食い込むチャンスと見込んだ自分の我欲ではなかったか。

 

 我欲があったからこそ、あのような絵図を描くことができ、それが資本の動員すら可能にした。

 

 資本の論理、大人の政治を持ち込んだ結果を、幸せの総和を大きくすることなどという三文小説のような建前を付けて得意げになっていただけではなかったか。

 

 後輩の心中にはそのような考えが澱のように溜まっていた。

 

 

「…あなたにできることをしたんでしょう、最大限」

 

 樫本理子がそのような思考に囚われている後輩を察したのか、口を開く。

 

「…俺の力じゃないよ。カネの力、さ」

 

 後輩は力なく呟く。

 

 樫本理子は薄く、笑うような息遣いをした。

 

「随分と青臭いことを言うんですね。それも含めて、あなたの力でしょう」

 

 僅かに、なにかを面白がるような声音で樫本理子は続ける。

 

「それに、見事でしたよ。突然現れたあなたの言う言葉にURAの上層部が続々と信頼を示し、あなたの提案を追認していく様は。まるで、魔法でも見せられているかのようでした」

 

 後輩は苦笑する。

 

 それを実現するための事前工作は、とても樫本理子の前で口にできるような内容ではなかった。

 

「まぁ…官僚上がりの年長者とコトを構えるともなれば、正面突破というわけにはね…いろいろと、手の込んだことをする羽目にはなったよ」

 

 後輩の言葉の意図するところを樫本理子は理解し、心持ちは側溝の底を覗き込んだような気分になる。

 

「…で、さ。贖罪ってのとはまたちょっと違うけど…」

 

 後輩の男は視線を前方に定めたまま、ドアポケットから書類を取り出して樫本理子に渡す。

 

「そんなことしていれば、まぁ…外に出たら良く燃えるような…いわゆる「薪」は、暖を取るのに困らないほどたくさん手に入るわけでね」

 

 樫本理子は書類をめくる。

 

「あなた…これ…」

 

 それは、後輩がURA上層部に対して施した裏工作の数々、それをまとめたものだった。

 

「俺、うちの業界でつけられてる綽名があってね…老舗の火付け師、って呼ばれてるんだ」

 

 後輩は煙草に火をつけながら、自嘲気味に笑う。  

 

「ごめんね、理子ちゃん。巻き込むつもりじゃなかったんだけど…。俺のできることはもう、このくらいしか思いつかなくて」

 

 自嘲の笑みはいつしか、懺悔の表情となっていることに、樫本理子は気が付いた。

  

「…こんなものが世に出たら、あなただってタダじゃ済まないでしょう」

 

 ざっと斜め読みをしただけでも、醜聞というくくりでも処理できるかどうか、というような内容が記されている。

 

「まぁ、それはね。でも、こちらは資本の論理が働く世界にいるもんで…まぁ、火傷くらいはするだろうけど、もみ消してみせるさ。でも…そっちの理事会は、どうかな?」

 

「…私に、URAを吹き飛ばしてみせろとでも言うつもりですか?」

 

 後輩は笑いながら首を振る。

 

「そこまではさすがに。でも、組織の自浄作用ってものは機能するべきだとは思うんだよね。今、寂しい思いを抱えている彼女たちの未来のためにも」

 

 薄く開けた窓に、後輩の吐きだす煙が吸いだされていく。

 

 助手席の樫本理子はその煙の残り香を感じ、行方の知れぬかつての同居人のことを思う。

 

 装蹄師の男の行き先は運転席に座る男に巧妙に隠されており、URAの内情に精通している樫本理子ですらアタリすらつけられていない。

 

 全てを片付けても、彼が再び表舞台に立つことを望むかどうかはわからない。

 

 彼を知る樫本理子が考えるに、おそらくそれは望まないだろう。

 もとより名声には興味がなく、彼女たちを支えるために蹄鉄を打つこと以外にはおよそ人間としての欲を忘れてしまったようなひと。

 

 樫本理子が装蹄師の男に抱く印象は、そのようなものだった。

 

「…この薪の使いどころは、任せてもらえるんです?」

 

 

 

「それはもちろん。一度に火をつけて盛大に燃やすも良し、一本一本じっくり使ってあちこちでボヤを起こすのも良し。任せるよ」

 

 胃が痛むような気持ちで、樫本理子はため息をついた。

 

「大学で単位を落としそうになって泣きながら私に縋ってきていたあなたから、こんなお返しをいただくとは…人生はわからないものですね」

 

 後輩はにやりとし、そして声を上げて笑い出した。

 

「本当に…その軽薄な笑い声は変わっていないのに…いや、変わっていないからこそ、ですね」

 

 そうなのだ。彼に渡されたものは、彼が解き切れなかった複雑怪奇な数式、その残滓でもあるのだった。

 

 

 車窓に流れる東京タワーを眺め、後輩の笑い声を聞きながら樫本理子は何かが足りない、と思った。

 

 そうだ。

 

 いつも一緒だった、装蹄師の男。

 彼の声が足りないのだ。

 

 そう気づいたが口には出さず、今日もどこかで鉄を打ち続けていたであろう装蹄師の男を思った。

 

 

 



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91:冷えた工房の床で

 

 

 

 

 

 

 

      

「はっくしゅっ…!……あーくそ」

 

 後輩と樫本理子がトレンディな雰囲気で泥のように重い話をしている頃。

 装蹄師の男は工房に備品のように配されていた軽トラをジャッキスタンドにあげ、車体の下に潜り込んでいた。

 

 すでに山奥の工房は肌寒いを通り越し、下界より一足早く純粋な寒さの季節が到来している。

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男は蹄鉄製作に行き詰っていた。

 

 ゴールドシップに贈る蹄鉄については方向性を見出していたが、残る二人であるエアグルーヴ、そしてシンボリルドルフに贈るべき蹄鉄について、良いテーマを思いつけていない。

 

 彼女たち二人は、すでに己のスタイルを確立している存在である。

 

 今更それを変えるような蹄鉄を提案することにも気が引けたし、彼女たちへ願う装蹄師の男の気持ちもまた、既に彼女たちが手にしているレースでの栄達ではなかったからだ。

 

 ならば自分にできることはなんであろうか、と考えれば考えるほど、何も浮かんでこない。

 

 結果、行き詰った男はこの山奥の工房に来て以来、初めて蹄鉄から離れる時間をつくることにした。

 

 とはいえ何をするということも思いつかず、困っていたところに目に入ったのはこの工房に配されていた2台のクルマであった。

 1台はハイエース、1台は軽トラ。

 

 目をひかれたのは軽トラである。

 

 今や軽自動車を製造することを諦めてしまった元飛行機メーカーの作った軽トラ、その最終型であった。 

 

 ここに装蹄師の男を連れてきた後輩が意図したものかどうかはわからなかったが、もし意図的なチョイスだとしたらなかなかのものだ。

 

 装蹄師の男はにやつく表情を抑えられず、軽トラのドアを開けた。

 

 

 

 暖気がてらしばらくゆっくりと峠を流した後、念のため後輩の男に連絡を取る。

 

 後輩の話によれば、舗装された峠道から分岐して工房に至る未舗装路は私道であるらしい。しかもその私道は工房を通りさらに奥まで続いているとのことだった。

 

『私道なんで好きに走って構いませんけど、崖から落ちても助けなんか来ないっスからね…ホドホドにしてくださいよ』

 

 そんなありがたい御忠告もいただいた。

 

 試走してみると、私道は峠道から別れ工房の前を通り、最終的には4キロほど山中を蛇行して行き止まりになっていた。

 

(ちょうどいい峠のダートコース、だな…)

 

 装蹄師の男は久しぶりに、クルマのアクセルを全開に踏み込んだ。

 

 

 

 3往復ほど、『ホドホド』のペースで軽トラを走らせて工房に戻った。

 

「た、楽しい…………けど…」

 

 煙草を味わいながら、軽トラの走り、その想像以上の爽快感に感動すら覚える。

 

「……めっちゃ…遅ぇ……」

 

 一方で、その遅さに驚きもする。

 

 軽自動車規格では64psが自主規制上限であるし、軽トラは作業車両であるからそれよりも出力は低く、トルクを高めにとってある。そもそも速さではなく実用一辺倒のトラックであるから、当然ではあった。

 

 しかし、「楽しさ」と「速さ」は、必ずしもリンクするものではない。

 

 それは学園に置いてくることになった元愛車にも言える特性だった。

 

 装蹄師の男はなにか閃きそうな気が喉元まで来ているがそれがなにかわからず、煩悶に頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 夜の工房は冷える。

 それがコンクリ打ちの床に背板を引いているとはいえ10センチ程度の高さのところで身を横たえていればなおさらである。

 

 装蹄師の男はそれを感じつつも、軽トラの下に潜り込んであれこれいじるのをやめる気はなかった。

 

 何かが閃きそうなときほど、何か別のことに没頭していたほうが閃くことがあることを、彼は経験的に知っていた。

 

「…あ」

 

 あえて目の前の整備に没頭して1時間余り。

 

 閃いた。

 

 背板を急いで転がし、軽トラの下から這い出ると、装蹄師の男は部屋にあるノートに向かう。

 

 ノートが汚れるのもかまわず、閃いたアイデアを忘れないうちに、断片的なそれを白紙のページに書き込んだ。

 

 そうなのだ。きっとこれが伝えたいのだ。

 

 彼の頭の中で突如として散らばっていた発想の欠片が組み上がっていた。

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴ、彼女たちに自分が示したいもの、それをつらつらと書き連ねていく。

 

 速さは関係ない、走りの爽快感。

 安全に、彼女たちの走る本能を満たせる蹄鉄。

 それが、次の道を見据え始める彼女たちに自分ができる贈り物だと、装蹄師の男は考え始めていた。

 

 キーワードとそれに紐づく要素、そして構造や形状など、思いつくままに紙に出力していく。

 

 シンボリルドルフからは過去に進路に関して相談を受けたことがある。エアグルーヴもそう遠からぬうちに同じ悩みを抱えることになるはずだ。

 

 そのときに、彼女たちに原点と、行く道を同時に指し示せるような、そんな蹄鉄。

 

 レースで戦っていくための蹄鉄を打ってきた身としては発想の転換が求められる。

 しかし彼女たちに自分が健在であることを示すためにも、そのような新たな挑戦に取り組まなければならないような気がした。

 

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフは生徒会室でエアグルーヴと差し向かい、紅茶を嗜んでいた。

 

「今日もお疲れ様でした、会長」

 

 エアグルーヴは毎日シンボリルドルフと顔を合わせているが、最近ふとした瞬間に物憂げな表情をしていることが気にかかっていた。

 そしてそれは今この瞬間も、である。

 

 紅茶をひと啜りしてため息をついた後、シンボリルドルフはおもむろに口を開いた。

 

「…もう、兄さんが居なくなって、どのくらい経ったかな…」

 

 シンボリルドルフは少し遠くを見つめるような瞳で、耳は力なく折れてしまっている。

 表情と話題のリンクに、物憂げな表情は、装蹄師の男を想ってのことであったのだ、という確信にかわる。

 

「…元気に…されているのでしょうか、先生は…」

 

 かくいうエアグルーヴの心中もシンボリルドルフと同じく、いつもどこかで装蹄師の男のことを気にしていた。

 

 しかし装蹄師の男の後輩の手配だということが分かり、この部屋で彼を詰問して以降、二人の間で装蹄師の男について改めて語り合うことは一種の禁忌のような雰囲気があった。

 

「…あの一件以来、つくづく我々は護られている存在なのだということを折に触れて痛感するよ」

 

 ルドルフは気持ちをエアグルーヴと共有できたことにすこし安堵したのか、苦笑いのような表情を浮かべながら柔らかな声音でそう語った。

 

 事実だった。

 

 学園の工房が閉鎖されたというのに、蹄鉄のサポートは手厚くなる方向であちらこちらが動いていたし、これを嚆矢として様々なことが変わり始めている。

 発端となったメディア対応についても一段とURAや学園は気を遣ってくれており、急速にその体制を変えつつある。これまでもウマ娘ファーストの学園ではあったが、その傾向がさらに強まっている。

 

「後輩の彼は、我々を学生の身分だ、と言った。それは、悔しいが正しいと思う。我々は、レースを走ること以外は、まだ子供…というより、大人になりかけの存在だ」

 

 エアグルーヴはこくりと頷く。

 同意せざるを得ない。

 今回の騒動に際し、彼女たちにできることはなかった。

 

 その結論に至るまで、何度も秋川理事長や駿川たづなさんとの激論があった。

 自分たちの名が通っていることを利用して、メディアを通して反論することもできたであろう。しかし今回の騒動はメディアが発端であり、それを考慮すれば誰を信用していいのか判断が出来ない中で発言することは余計な波紋、意図しない反応を呼び起こし、さらに事態を悪化させることにもなりかねなかった。

 

 結局、沈黙せざるを得ない。

 その答えには納得していた。

 

「エアグルーヴ…大人になるということは、どういうことだろうか」

 

 シンボリルドルフは真剣な表情でエアグルーヴに問いかける。

 

「…経済的に自立し、社会的な責任を果たすこと、でしょうか…」

 

 突然の問いに、エアグルーヴはたどたどしくもそれらしき回答をする。

 

「…なるほど。それはたしかにその通りだな。でも、私はそこにひとつ、自分なりの定義を追加したいと思ったんだ」

 

 エアグルーヴは聞き返す。

 

「自分なりの定義、ですか…?」

 

 シンボリルドルフはこくりと頷いた。

 

「私はウマ娘の幸せを願い、それを実現するべくここまで走ってきた。それは今も変わらぬ目標だ。だが、今回のことでよくわかった。一個人の私としては、愛する者を護る力を手に入れなければ、大人とは言えないような気がしたんだ」

 

 エアグルーヴは真剣な眼差しでそう語るシンボリルドルフに、ごくりと喉を鳴らす。

 

「…それは…つまり…」

 

 この世の中にこんな熱量を持つ告白があるのだろうかと、エアグルーヴは思う。

 

「…今さらだ、とは思わないでくれよ、エアグルーヴ。もちろん兄さんへの想いがあってこそ、気づくことができたのは事実だが…」

 

 シンボリルドルフは言葉を区切る。

 

「…レースに勝つだけではない、大人としての力。今回の件で、身近な大人たちが見せてくれた背中は、それだけのものだっただろう…?」

 

 エアグルーヴは身近な大人を思い返した。

 

「…おハナさんもそうですし…URAの樫本室長も…」

 

「あぁ…それに、兄さんの後輩の彼だって、そうだ。彼らなりに、私たちを護ろうとしてくれた。それが、どれだけ尊く、ありがたいことか…」

 

 エアグルーヴはその名を聞いて、この間、この部屋で繰り広げられたある種の茶番を思い浮かべた。

 

「あの時の会長はヒトが悪かったですよ…あの視線でよく、後輩氏は歩いて部屋を出ていけたものです…」

 

 シンボリルドルフは苦笑する。

 

「…いつか、あの日の非礼を詫びねばなるまいな。まぁそれは、私が彼らと対等に話ができる大人になってからでも良いとは思うが」

 

 エアグルーヴはシンボリルドルフの話を聞いて、焦りと哀しみを感じる。

 

 自分はこの一件から何も学べていない。

 何をするべきかもわからない。

 ただ鬱々としていただけではないか。 

 

「…会長…私は…私は…」

 

 うまく二の句が継げずにいると、優しい瞳でシンボリルドルフが頷いた。

 

「エアグルーヴ…焦ることはないんだ。ただ、我々は今目の前にあることをしっかりとこなしながら、次の道を模索していけばいい。我々が道を誤らず歩んでいければ、また兄と出会うこともあるはず、だ…」

 

 語尾が弱くなってしまうあたり、私もまだまだだな、とシンボリルドルフは思った。

 しかし今は、一足先に当面の結論を出した自分が、エアグルーヴの背中を押してやるときだと信じていた。

 

 エアグルーヴは俯き加減で、瞳に涙をためている。

 

 その様子を見て、シンボリルドルフは微笑を浮かべ、立ち上がってエアグルーヴの隣に腰を下ろした。

 

「会長…どうしたんで…っ!」

 

 シンボリルドルフはエアグルーヴの肩に手を乗せ、自らにぐっと引き寄せた。

 

「だから、また…兄と逢うまでは…我々のレースは休戦だ。これからもよろしく頼むぞ、エアグルーヴ」

 

 エアグルーヴはシンボリルドルフの体温を感じ、これまで感じていた焦りや寂しさが霧消するように安堵し、頬に涙を一筋、伝わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 





 しばらく間隔があいてしまいまして、大変お待たせいたしました。

 本当は100話記念になんかちょっとした気の利いた話でも書けたらよかったんですが、例によって無計画でして、いつも通りの淡々とした話で恐縮です。

 だらだらと続いていますが、引き続きよろしくお願いいたします。 


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92:それぞれの行く先を案じて

 

 

 

 リギルのチームルームに届けられていた木箱は、エアグルーヴに宛てられたものであった。

 

 エアグルーヴは自主的な朝の練習のためにチームルームに赴いた際、それが届けられていたことを認識していた。しかしながら、それをすぐに開けるようなことはしなかった。

 

 その日の授業とトレーニングを淡々とこなし、生徒会室での執務を行った。日課である花壇の手入れや水やりを行う間も、その木箱はチームルームに置かれたままであった。

 

 エアグルーヴはその木箱を手に取ったのは、その日に自らに課したスケジュールをすべて消化したのち、寮へ帰る道すがらにチームルームに立ち寄ったときであった。

 

 誰もおらず、明かりもつけていない、窓から月明かりが差し込むだけの、薄暗いチームルーム。

 

 そこでひとり、隅に置かれていた木箱を手に取った瞬間、自らの気分が高揚するのを感じた。

 

 この高揚感はその昔に体験したことがある、とエアグルーヴは思った。

 

 しばし自己の内部を思い返し、その昔の体験に思い至る。 

 

 それは自らが幼き頃、両親に連れられて玩具屋で欲しいおもちゃを買ってもらい、持ち帰るときのような言い知れぬ満足感と早く開封したいという焦りにも似た気持ちがないまぜになった高揚感。

 彼女が感じていたのはそれと同じ気持ちだった。

 

 まさか幼き頃の高揚感をこのような形で思い出すことになるとは、とこみ上げる微苦笑を抑えきれずにいる。

 

 しかし一方でそれほどまでに待ち焦がれていたことは事実であった。そしてそれを造ったヒトが、それほどまでに思慕の念を募らせる相手であることも再確認させられる。

 

 薄暗い空間でひとり、その高揚感に酔いしれる。

 木箱そのものが愛おしく、エアグルーヴはほっそりとした指で木箱を撫でていた。

 

 当初の彼女の予定では、この木箱を部屋に持ち帰ってからゆっくりと開封しようと思っていた。

 しかし同室のファインモーションに指摘されるくらいには、表情が緩んでしまうであろうことは予想された。

 

 結局彼女は予定を変更し、この場で開けてしまうことにした。

 

 

 

 緩衝材に指を差し入れると、ひんやりとした感触が彼女の脳に伝わってくる。

 それは待ち望んだ感触であり、甘く脳を痺れさせた。

 

 埋もれていたものを慎重に取り出すと、月明かりに照らされた蹄鉄は鈍い光を返してきた。

 

 見てみれば、宝塚記念のために造ってもらった既製品の改造蹄鉄をモチーフに、さらにブラッシュアップされた叩きだしの一品物であることがわかった。

 

 レースの中盤から伸びていく彼女自身の脚質を具現化するようなデザインといえる。

 スピードに乗ってから粘り強く、さらに加速していくために地面を捉え続けられるよう、接地面が瞬間的なグリップを確実に得られるように細工が施してある。

 

 そして全体の体積のわりには少し重めで、強度と耐久性を高めた構造であることも感じられた。

 

 装蹄師の男が彼女の走りを考えて、その理想を越えていけるように拵えられた一品であることがよく伝わってくる。

 

 エアグルーヴは月明かりの中で、その蹄鉄を触覚で感じ入るように指先で艶めかしくなぞっていく。自らの顔が熱く上気しているのがわかったが、指先は蹄鉄の感触を求めて不随意に表面を撫でまわしていた。

 

 陶然とそれを繰り返すうち、本来は滑らかなはずの側面で、繊細な触感が伝わってくることに気が付いた。

 

 エアグルーヴは指を止め、月明かりにかざしてよく観察する。

 

 指が感触を感じたそこには、美術品かと見紛うばかりの花の装飾が彫り込まれていた。

 

 それを認識した瞬間、自らの感情を制御する間もなく目頭が熱くなり、溢れ出る涙は最早止めようもなかった。

 

「…たわけ…が…」

 

 思わず蹄鉄を握りしめ、エアグルーヴはひとり、肩を震わせる。

 

「…っ…これでは…使えない…だろう…が…」

 

 いったいこれほどのものを仕上げるのにどれだけ時間がかかったのだろうか。

 

 繊細なタッチでこまやかに、見事に彫りこまれた花はガーベラであった。

 

 エアグルーヴは胸の内で、ガーベラの花言葉を唱える。

 

「常に前進」 「希望」

 

 エアグルーヴは蹄鉄に込められた装蹄師の男のメッセージを誤解なく受け取った。

 そして一人で心行くまで涙を流した。

 

 ひとしきり泣いたあと、エアグルーヴはその腫れぼったい瞳で、再び月を見上げる。

 

 この月は、装蹄師の男にも見えているだろうか。

 

 エアグルーヴはその蹄鉄を胸に抱き、静かに、しかし激しく燃えさかる闘志を自覚した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフの手元にも、木箱が届いた。

 

 発送元は名の知れた蹄鉄メーカーであるが、これまでのサイレンススズカやアグネスタキオンの話から、これが装蹄師の男からのものであるということは到着時に気が付いていた。

 

 ルドルフは生徒会室でひとりでいるときにたづなさんが届けてくれたそれを受け取ると、そのままカバンにそれを仕舞い込んだ。

 

 本音のところでは、今すぐにでも開けたいという気持ちではあった。

 

 すでに装蹄師の男が姿を消してから1か月が過ぎている。

 

 待ち焦がれていたことは事実だが、実際のところは渇望感にすでに慣れてもいた。

 そして待たされたが故に、自分のところに兄からのものが来たら、プライベートな時間にゆっくりと向き合って開けたいと考えていた。

 

 カバンの中に待ち望んでいたものがあると思うと、逸る気持ちを抑えるのにも苦労した。

 しかしその状況で取り組む生徒会長としての執務は、いつもよりも冴えわたるような感覚でもあった。

 それが逆説的に、装蹄師の男からの待ちわびた便りへの期待感を証明していた。

 

 

 

 その日の執務がすべて終わり、エアグルーヴも生徒会室を辞去したのちのこと。

 誰もいない生徒会室は、その夜に限ってひどく広く感じられた。

 

 片付けられた机の上は広く、木箱を開梱するにはなんの支障もなかった。

 

 シンボリルドルフは傍らに置かれていたカバンから、改めて木箱を取り出した。

 

 それを目の前にして瞳を瞑り、数度、深呼吸をする。

 

 そっと手を添え、丁寧に開梱した。

 

 緩衝材の中から現れた蹄鉄は、見たことのない形状をしていた。

 

 ゆっくりと手に取る。

 

 それは、これまでに手にした蹄鉄のどれよりも圧倒的に軽かった。

 

 装蹄師の男が手ずから打った蹄鉄であることは残された槌痕から理解できた。そうして形作られた蹄鉄から、トラス構造を作り上げるように規則的にくりぬかれ、骨組みのようになった蹄鉄であった。

 

 もちろん装着できるようになっているし、見た目ほど華奢でないこともわかる。

 しかしその蹄鉄は、あきらかにレース用ではなかった。

 

 シンボリルドルフは、この前衛的ですらある蹄鉄の真意を測りかねた。

 

 見れば見るほど不思議な雰囲気を醸し出しているこの蹄鉄をじっと、時間を忘れて眺めていた。

 

 彼女のスマホが着信を告げたのはその頃合いだった。

 

 発信元は非通知と表示されている。

 

 いつもならばそのようなコールには出ないが、その時ばかりは不思議な蹄鉄を目の前にしていたためか、なにかの答えを求めるように応答をタップしてしまった。

 

「もしもし…」

 

 自らの声が誰もいない生徒会室に響き渡るようだ。

 

「…ルナ、か?」

 

 スマホから聞こえてきたのは、夢に見るほどに渇望していた、装蹄師の男の声、そのように聞こえた。

 

「…兄さん、なのか…?」

 

 驚きと喜びが同時に押し寄せる。

 自分でも理解しがたい感覚に支配されながら出せた言葉は、まずは信じられないことを信じたいと思って言わせた問いだった。

 

「あぁ。元気にしてるか?」

 

「元気に…なったよ。今、ね。兄さんは元気にしてるのかい?」

 

 未だに信じられない。

 後輩氏の話では、連絡を取ることは叶わない、という話だったような気がする。しかし今、ルドルフは今、夢にまで見た装蹄師の男と通話をしていた。いや、もしかするとこれ自体が夢なのかも、とも思う。

 目の前にある奇妙な蹄鉄もまた、現実離れした感覚をルドルフに抱かせていた。

 

「お陰様で健康的な毎日を送っているよ。まぁ学園に居る頃のような刺激はないけどね…そろそろ蹄鉄が手元に届いたころかと思って」

 

 そういう装蹄師の男の声は、どこか気恥ずかしそうに聞こえる。

 

「あぁ、ちょうどいま、開梱していたところだ。なんというか…芸術品のような蹄鉄だな、これは」

 

 前衛的、と言わずに抑えたシンボリルドルフはかろうじて理性を保っていた。

 

「…まぁ、奇妙な出来だろう。だから、趣旨を説明しないといけないとは思ってね。ホントは不味いんだが、連絡させてもらった」

 

 ルドルフは装蹄師の男の声が耳に心地よく、先を促した。

 

「…俺がルナに願うのは、皇帝の名を恣にした君が競うだけでなく、永く、いつまでも気持ちよく走っていられるように、だ。だから蹄鉄も、軽快に、速く、より遠くへ走れるように造った。ただ硬いだけじゃない、適度な剛性感と軽さ、そしてバランスの精緻さで一体感と爽快感を追求したランニング用の蹄鉄だ」

 

 装蹄師の男の言葉に、ルドルフは胸が詰まったような感覚を覚える。

 

 ある夜に装蹄師の男に進路相談をしたことが、遠い昔のように感じられる。

 あれから半年ほどしか経っていないはずなのに、兄は触れることのできないところに行ってしまい、ルドルフ自身もまた、競技者としての終焉に近づいていることを実感していた。

 

 装蹄師の男自身が居場所を追われてもなお、あの夜に示してくれたルドルフ自身の幸せを願って、この奇妙な蹄鉄を贈ってくれた。

 

 

「まぁ…見た目が多少奇抜なことは目を瞑ってもらって、一度試してもらえると嬉しいよ…ルナ、聞いてる?」

 

「…あぁ…聞いているとも。兄さんの心遣いが嬉しくて、胸がいっぱいでね…」

 

 電話の向こうで息を吸い込む声が聞こえる。

 おそらくまた、煙草でも吸っているのだろう。

 

「…いつか兄さんが言ってくれた、私自身の幸せ、か…それを見つけるためには、まずは兄さんの居場所を突き留めないといけないな」

 

 ルドルフは悪戯っぽく笑いながら、冗談のように口にする。    

 

「まぁ今はそっとしておいてくれ。時期が来て、それでもルナが俺の居場所を知りたがれば、後輩がつなぐはずだ。あいつ、ルナに凄まれたって泣いてたぞ」

 

 笑いながら装蹄師の男は言った。

 

「あれは…後輩氏の名演もなかなかのものだったよ。軽くエチュードのように合わせるつもりが、興が乗ってしまっただけさ」

 

 本当は後輩の態度を演技と見抜き切れずに皇帝 シンボリルドルフが降臨してしまっていたのだが、さすがにそうも言えず苦しい言い訳をしてしまう。

 

「まぁあいつもあいつなりに良くしてくれてる。だからまぁ、大事にしてやってくれ」

 

 ルドルフはあぁ、と応答する。

 それじゃ、怪我には気をつけてな、という言葉をしおに、通話は一方的に切れた。

 

 

 ルドルフは切れてしまったスマホを机の上に置くと、蹄鉄を握り締めてじっと目を瞑った。

 

 久しぶりの装蹄師の男の声を聴いて、鼓動が速くなっている心臓とは逆に、心の中は不思議な安堵感に満ちている。

 

 瞳を瞑ったまましばらくその余韻に酔いしれたのち、シンボリルドルフは蹄鉄にそっと唇をつけた。

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男は部屋に差しこむ朝陽で目覚める。

 

 その日も、いつもと同じであった。

 

 およそ時間という概念をあまり気にする必要のない山奥の気侭な自営業といった風の生活を続けていた結果、自然とそのような生活リズムになってしまっていた。

 

 そういえば今日は後輩がくるという連絡があったな、と思い出し、起き出して身支度を整える。

 

 身支度と言っても誰と接することもない山奥の生活であるから、小綺麗にはしているのもの無精ひげも伸びておよそ仙人のような風体になりつつあった。

 

 朝食を摂って食後の一服を関東平野を眺めながら優雅にキメていると、さっそく工房の外から声がした。

 

「せんぱーい、きましたよー」

 

 いつもの運転手の若者を伴って、時代錯誤な大型セダンが工房のシャッターを開けて入ってきた。

 

「おはようございます。早速ですけど、例のモノできてます?」

 

 後輩は早朝だというのにビシッとスーツを着込んで隙が無い。いや、いつもと変わらぬチャラい態度が隙といえば隙なのかもしれない。

 

「あぁ。出来てるよ」

 

 工房の隅の作業机を顎で示す。

 後輩から頼まれた試作品の蹄鉄数セットが箱に収められていた。

  

 どこぞの蹄鉄メーカーからの依頼だという試作品製作は、いくつかの前提条件とデザイン制約のもとで性能目標が設定されており、それを満たす試作品を求められていた。

 

「いやー助かるっス。URAの装蹄所に蹄鉄メーカー買って潜り込ませたまでは良かったんスけどね。あんまり表に出ると目立っちゃうんで、しばらくはOEMとか試作の仕事で裏方に回って、あちこちに恩売ってるとこなんスよ」

 

 以前の後輩の説明によれば、装蹄師の男が所属している蹄鉄メーカーは歴史こそあるものの有名であったわけではなく、URAの装蹄所にその蹄鉄メーカーが入ってくるということになって、何故この零細が入れたのか、というのはちょっとした話題になったらしい。

 

 敏感にその風向きを察知した後輩は、装蹄師の男からの蹄鉄を供給されるウマ娘たちに対して、直接の供給は諦め、大手の蹄鉄メーカー各社に帳合を付けて経由させ、供給する方式を取った。

 

 大手の蹄鉄メーカーにしてみれば一流のウマ娘に自分たちが蹄鉄を供給しているという実績になり、後輩としても他メーカーに恩が売れ、そして今のような継続的な仕事にもつながるという仕組みを短期間で作り上げたのだった。

 

 

「あぁ、そういえば、工房の入り口にこんなもんが置いてあったんスけど…なんか知ってます?」

 

 後輩の男は運転手に指示すると、なにかを装蹄師の男の許に持ってきた。

 

「あぁん…?」

 

 目の前に来たものは、竹ざるに山と盛られた真鯛の干物であった。

 

「…お前…これ…」

 

 装蹄師の男は口をぱくぱくさせる。

 

「え、どうしたんスか?」

 

「…こないだお前に託したゴールドシップの蹄鉄、もうあいつに届いてるんだよな?」

 

「あぁ、はい。おそらく一昨日くらいには手元に行ってるハズですよ。ゴールドシップさん割り振ったメーカーの担当者、すげービビッてたっスけど」

 

「…ったく、あいつ…傘地蔵じゃねえんだから…おい、ゴールドシップにここバレてんぞ」

 

「え。どうして…どうしてそれわかるんスか?」 

 

 後輩は青ざめる。 

 

「俺、あいつに海の磯遊び用の蹄鉄のグレードアップ版送ったんだよ…こんなことすんの、アイツしか考えらんねぇだろ…」 

 

 ま、あいつのことだからバラしたり喋ったりはしねーだろーけどな、と装蹄師の男は付け加えた。

 

「お前、ここバレたら困るんだから、気を付けろよー。後ろ付けられてたり…な」

 

 冗談の口調でそう話す装蹄師の男の言葉を聞いて、後輩はこの冷えた工房の中だというのに額に汗を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 




・というわけで平常運転で101本目です。
 皆さま100本のお祝いのお言葉などいただきまして、ありがとうございました。
 ここまでやってこられたのはひとえに皆様のご支援の賜物です。本当にありがとうございます。
 今後ともよろしくお願いいたします。

・ルナさんの進路相談に乗った回はもう、随分昔になってしまいました…
https://syosetu.org/novel/260592/7.html


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93:賽は投げられた

 

 

 

 

 

■樫本理子は困った

 

 

 

 樫本理子は困っていた。

 

 原因ははっきりしている。

 

 あの夜に後輩の男から自らの組織に関わるとんでもない火種を譲られたからだ。

 

 彼はこの火種を「薪」と呼んだ。

 しかし詳細に読み込んでみれば、それは過小な表現と言わざるを得ない。彼女にとってみれば薪どころか人道的に使用が躊躇われる、途上国やならず者国家が国民の生活を犠牲にしてでも開発に邁進してしまうあの兵器のようなものだ、と表現すれば不謹慎であろうか。

 

 もっとも、客観的な世間一般には薪かもしれない。しかし樫本理子の所属する組織にとってはとてつもないレベルのインパクトはあるはずだった。

 

 正直、握らされた情報のあまりの重さに薪の使い方を考えるどころか、持っているだけでも胃が痛くなる。

 

 しかし薪は薪でもこの薪には鮮度というモノがあり、使わなければ時間とともに腐り、価値がなくなってしまうこともわかっている。使う前に標的の任期が満了してしまい、そのまま退任されてしまえば元も子もない。

 

 樫本理子は虚弱な身体の代償に神が彼女に与えた明晰極まりない優れた頭脳を用い、難しさを感じる感情とは別の回路で冷徹に、この薪の活用法を探し続けていた。

 

 

 

 

 

 

■樫本理子は考えた

 

 

 

 理事会を構成するメンバーを社会的に抹殺することができるこの薪に、わざわざ火を点ける必要はないのではないか。

 

 持っている、ということを相手に知らせるだけで十分な抑止力になりうる。

 

 彼女の冷徹な頭脳はそのような可能性に気が付いた。

 

 そう思い至ったところで、薪の提供元である装蹄師の男の後輩に相談したところ、微妙な顔をされてしまった。

 

 後輩の男は理子に任せるとは言ってくれたものの、派手に炸裂させることを期待していたらしい。

 

 彼と自分の性格の違いなのだろうが、理子はあくまでも冷静であり、彼のようなお祭り志向ではなかった。

 第一、派手に燃やしてしまえば理子自身が所属する組織にまでダメージが及ぶし、面倒事が多くなりすぎる。

 

 ウマ娘たちへの愛情に不足がないどころか満ち溢れているが故に、個人的にも将来の競走ウマ娘を養う身である彼女は、組織そのものが燃え尽き、ウマ娘たちの活躍の場さえ失うかもしれないリスクは冒せない。そのように装蹄師の男の後輩に告げる。

 

 樫本理子の理路整然とした話を無駄口を叩くことなく聞き切った後輩の男は、彼女の言い分ももっともであることを認めた。そしてその上で、それではこういうのはどうだろう、とひとつの提案をした。

 

 見せしめにひとりだけ、ということでどうだろうか。

 

 樫本理子はそれならば、まだ…なんとかなるかもしれない、と思う。そして頭の片隅の冷徹な部分がさらに活発に働き、後輩の提案を実行することで残りの手持ちの薪の価値が上がることも認識した。

 

 こうして、薪の使い方、その方針は決せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■後輩は暗躍する

 

 

 

 樫本理子に渡した薪の活用方針が決まってからというもの、後輩は予め予備的に行動させていた関係者を集めてこちら側の対応策を達することにした。

 

 関係者といっても、彼の運転手兼実務担当者の男と、自社が抱えているハウスエージェンシーたる広告代理店の担当者、気心の知れているフリーランスのウマ娘系ライター、そして業務を委託している弁護士法人と税理士法人からひとりずつ。 

 

 樫本理子の動きに呼応してそれぞれが動き出す手筈になっている。

 

 具体的には今回の事態の発端となったメディアへの裁きが、後輩サイドの主目的だった。

 

 ハウスエージェンシーの担当者が大手広告代理店を通じて業界の風聞を収集したところによれば、件の弱小媒体は今回の件でこれまでの取材対象であるURAに対し存在感を上げ、かつ同業者からの評価も上がり、これまでよりも2ランクほど広告単価もあがるという業界内での小さなシンデレラストーリーを実現した存在として扱われているという。

 

 彼らメディアはそれが商売であるから、かれらの行ったことに対しては殊更どうの、という感想は後輩の男にはない。

 

 しかしある意味で後輩の男が崇拝すらしている装蹄師の男をこのような事態に追い込んだこと、つまり彼らの扱った事象については感想を異にする。

 

 それ自体は交通事故のようなものだ、と言ってしまえばそれまでではある。

 しかし交通事故であったとしても過失割合は算出されるものであるし、その割合に応じた責任は果たさねばならない。それができない人間に、天下の往来で文明の利器を操る資格はないのだ。

 

 後輩はその点において、寛大な処置を認めるほど達観した人間ではなかった。

 

 全く。何のために保険がこの世に存在していると思っているのだ。あれこそ持たざる者のためのセーフティーネットだというのに。

 

 仮にも中立であるべきメディアが特定の、悪意のない個人を叩くのであればそれなりの正義がなくてはならない。

 

 しかし彼らはそれを怠った。

 自分たちの商売を優先するあまり、やり過ぎたのだ。

 そのような相手に掛ける慈悲を持ち合わせてはいない。

 

 畜生、きっちり教育してやる。

 

 後輩の男は信頼している彼の私兵たちを前に、改めて決意を固めていた。

 

 

 

 

 

 

 

    

■樫本理子は狙いを定める

 

 

 

 樫本理子はじっくり資料を読み返しながら、不幸なひとりを探す作業を夜な夜な行っていた。

 

 それは自らが神にでもなった錯覚を呼ぶ。

 気が付けば彼女の暗い部分は、その作業に興奮すら覚えるようになっていた。

 

 そんな時にふと、頭を装蹄師の男のことがよぎる。

 

 過去に僅かな時間とはいえ暮らしを共にしていた、この件の被害者たる装蹄師の男が、この姿を見たらなんというのだろう。

 

 そんな悪魔みたいな真似はやめておけ、とでも諫めてくれるのだろうか。

 

 あの不器用な男が自分の許に身を寄せていた時期が懐かしい。

 そして自ら居場所を見つけ、出ていったときは随分と寂しい思いをしたものだ。

 

 彼は自分自身で選んだ道を自分自身の力で歩き、幸運にも才能もありそれが認められ、もちろん彼自身も努力をしたのだろう、この世にひとつしかないトレセン学園お抱え装蹄師という地位にたどり着き、活躍し、目覚ましい功績を残した。

 

 彼の人生と最も近づいた時期から、離れ、また近づきつつあると樫本理子自身が思っていたその時に、今回の事件が起きてしまった。

 

 これは個人的な復讐ですね、と樫本理子は呟く。

 

 

 やがて彼女は、ひとりに狙いをさだめた。

 

 

 

 

 

■樫本理子はリークする

 

 

 

 樫本理子が休日の日。

 

 彼女は普段ならあまり近づかない街の喫茶店に身をおいていた。 

 

 街に集う年齢層は若く、ちょうどトレセン学園にいるウマ娘たちくらいの年齢の男女が溢れかえっている。

 その街中にある比較的落ち着いた雰囲気の店構えが特徴のコーヒーチェーンの一隅に、樫本理子は居た。

 

 狙いを定めた樫本理子は、昨日の夜、電話で後輩にそれを告げていた。

 一番デカいとこ選んだなぁ、と後輩の男は嬉しそうに呟いていた。

 

 そしてこれから彼女が手を染める行為は自らの所属組織に対する反乱であり、表立って話すこともできないし、成功したとて褒められることでもない。

 

 それでも彼女は自らが決めたことを粛々と行っていく。それが装蹄師の男への自分のできることだと思っていたし、これからも続いていくウマ娘たちの世界へ対しての、今現在大人である自分が果たせる責任だ、とも思っていた。

 

「お待たせして申し訳ありません」

 

 不意に声がかけられる。

 

 樫本理子の前に現れたのは乙名史悦子であった。

 

 トレセン学園やレース場、時にはURA本部に現れる神出鬼没の雑誌記者。彼女の所属する月刊「トゥインクル」はレース界の発展を願い、堅実な誌面づくりで業界では評価が高い。

 それを支えているのが彼女のような、地道な取材を欠かさずこの世界の表も裏も熟知している存在だった。

 

「いえ、こちらこそお呼びたてして申し訳ありません」

 

 樫本理子は慇懃に頭を下げる。

 

 乙名史はウェイトレスにコーヒーを頼むと、いつものようにノートとペンを取り出した。

 そして好奇心の塊のような瞳を理子に差し向ける。

 

 樫本理子は乙名史の好奇心の瞳、その奥にある僅かな狂気に内心気圧されながら、それを気取られぬように二つの無地の封筒をテーブルの上に差し出した。

 

 ひとつの封筒は薄く、もう片方の封筒はそれよりも明らかに厚い。それは中に収められた資料の情報量に差があることを意味していた。

 

「こちらの薄い封筒を、例のメディアに。こちらの厚い封筒は月刊トゥインクルさんで。ただし、トゥインクルさんは例のメディアが一報を出して、少し間をあけて続報という形で追随してください。まぁ、匙加減はそちらの編集長さんなら読み誤らないでしょうが」

 

 乙名史はごくり、と息を吞んだ。

 

「情報の出所についてはお答えできませんが、裏付けの取材は自由にしていただいて結構です。トゥインクルさんの資料はそれが可能なようになっています」

 

 そこまで言うと樫本理子は自らを落ち着けるために、コーヒーに口をつけた。既にぬるくなってしまっている。

 乙名史のコーヒーが届けられたのはその時だった。

 

「資料を…ここで拝見しても?」

 

 乙名史が問う声に樫本理子は答えずに、伝票を手に席を立つ。

 

「…ごゆっくり」

 

 樫本理子は背を向けると、会計を済ませて店を出た。

 

 これ以上乙名史と同じ空間に居れば、いずれ自らの心のうちまで見透かされてしまう。これが個人的な復讐であるということまで。樫本理子はそれを恐れた。

 

 しばらく歩いてタクシーを捕まえ、車内に乗り込んではじめて、樫本理子は一息ついた。そして後輩に電話をかける。2コールも鳴りきらないうちに彼は出た。

 

「…賽は投げられました」

 

 いつもと変わらぬ硬い声音で樫本理子は伝える。

 

 いいねぇ。スパイ小説みたいだ。

 

 彼女の言葉に応える後輩の男の声はどこまでも明るく、まるで状況を楽しんでいるかのような声であった。

 

 

 

 

 

 

 



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94:賽は転がる

 

 

 

■乙名史悦子は妄想する

 

 

 

 樫本理子がいなくなったあと、乙名史悦子は好奇心に負けてその場で資料を読み込みはじめた。

 

 途中で、この内容を不特定多数が出入りするこの場で読むことの危険さを理解し、身の竦む思いがした。

 しかし一刻も早くこの資料の全容を掴みたいという好奇心が勝ってしまった。気が付けばコーヒーのおかわりは2杯目に突入している。

 

 途中までノートにメモを取り、整理しながら読んでいたが、あまりの内容であるため万が一メモを紛失し、誰かに拾われでもしたら困ったことになることを考慮に入れ、彼女が操ることのできる言語の中で一番日本と縁の薄い言語でメモを取っている。それほどのものであった。

 

 

 樫本理子から渡された資料は二種類。

 

 ひとつは装蹄師の男の騒動、その発端となった弱小WEBメディアに乙名史の持つルートで情報をリークしてほしいと言われている。

 

 そちら向けの資料はあくまで速報用の表面的な事実関係と、いくつかの裏側につながる未確認情報がちりばめられている補足資料で構成されていた。

 

 そして月刊トゥインクル用に用意された資料はそれにプラスして、全体的な実情が把握できるように網羅的に作成された資料である。

 

 

 

 渡された資料は、URAのナンバー2、副理事長がURAに対し背任行為を働いている、というものだった。

 

 出所は分からないが、あらゆる角度からの証拠が揃えられており、これが出れば背任を働いていた副理事長はひとたまりもなく逮捕されるような出来だ。

 

 一体誰がどのような目的でこれを調べ上げ、樫本理子に託したのか。気にはなったが、この圧倒的な資料の前では二の次以下の話であるように思われた。

 

 

 

 IP戦略を担当する副理事長はレース場などで販売されているグッズ関係などを一手に握っているが、それらの製作にあたり業者からバックリベートを得ており、その額は火遊びというには過大な金額となっている、と資料冒頭にある。

 

 本来、グッズの売り上げはURAに入った後、他の売上金も含めて収支が合わせられ、利益の一定割合を国庫に納入した残りは、ウマ娘社会の振興などに役立てられていく。

 

 その上前をかすめ取っているとなれば、正義を振りかざすには十分であり、またしても例のメディアは大いにPVを稼ぐネタとなるであろう。

 

 例のWEBメディア向けに用意された資料はここまでだ。

 

 だが月刊トゥインクル向け資料には続きがある。 

 副理事長がある意味では横領していたその資金の行く先と使途であった。

 

 WEBメディアへリークされる内容がすべてであればURA自体は大ダメージを受けるし世間的にもバッシングを受けるであろうが、それだけだ。

 副理事長がお縄になるだけで、この間の装蹄師の男と同じように蜥蜴の尻尾を切り落とすだけで終わる。

 

 しかし今回はそれでは終わらないように仕掛けられている。

 

 月刊トゥインクルが手にする情報は、その資金の流れる先が副理事長個人の懐に収まらず、その出身母体であるURA監督省庁、つまり国家公務員の人間へ流れていることまで証拠付きで収められていた。

 

 つまり、URAは表舞台に過ぎず、さらにその奥にある政治的な利権構造までをもごっそりと告発できる内容となっている。

 

 危険という一言では言い表せない、下手に関われば命の危険すら覚悟せねばならない情報といえた。

 

 樫本理子とは浅からぬ付き合いだが、なぜ彼女がこんな情報を2番手以降に公表できる条件付きとはいえ、私に寄越したのか。

 

 乙名史悦子はいつもの爆発的な妄想力を以て、その意図を理解しようと試みた。

 

 

 そして樫本理子とは方向性は違うながらも、負けず劣らずの聡明さを持ちあわせている乙名史悦子の頭脳は、たちどころに意図を理解する。

 

(これは…装蹄師の先生の…弔い合戦、ですね…)

 

 さらに妄想を爆発させる。

 

(そして樫本さんは…これで一気にURAの浄化を目論んでいる…これを糺せば、ウマ娘たちのために使われるはずだった資金まで、取り返すことができる…それは…ひいてはウマ娘たちに還元されることになる…)

 

 乙名史悦子の資料を持つ手が震える。

 

 そして我慢しきれなくなった彼女は、小さく呟いた。

 

「…素晴らしいですっ!」

 

 

 

 

 

 

■後輩は延焼させる

 

 

 

 樫本理子が賽を投げたと同時に、後輩は自らの私兵にあらたな指示を飛ばす。

 

 検察への告発だ。

 とはいえ、表立ってできることではない。

 

 これも私兵集団の中にいる、彼の会社の法律事務所が実務を担う。

 完璧な書式・体裁を持ちつつ、告発者は不明の投げ込みとして情報を検察に放り込む。同時にいくつかのルートで検察に話を流し込んでおけば、彼らは静かに動きだす。

 

 そのうち、例のWEBメディアがこちらから情報を掴まされたことも理解できず、正義感で嬉々として特ダネを放つ。

 もちろん、本音は装蹄師の男の件で上がった立場をさらに上に押し上げるためだ。彼らは純粋に、彼らの欲望に忠実だ。

 

 各メディアが装蹄師の男を叩いたように追随すれば、否が応でも世間はまた、騒ぎ出す。そして検察もそれを無視はできない。なにせ内容が内容だ。

 

 特ダネを放ったWEBメディアは取材でも先行しているはずだから、事件の背後にあるカネの行先情報を掴んでいると周囲から思われる。そして副理事長の後ろにいる監督省庁で甘い汁を啜っている連中からも目を付けられる。

 

 おそらく彼らの口を封じようと様々な手を使って、WEBメディア対役人の暗闘という構図が出来上がる。

 いや、この段階では後輩の男が暗躍してそのような構図を創り出す。もちろんURAも巻き込まれる。タダでは済まない。

 

 そしてその構図の中で、例のWEBメディアを広告代理店も動員して揉み潰しにいく。

 週刊文〇でもあるまいし、権力と戦う気骨があるわけでもない彼らはたちどころに干上がりかける。どこの誰に追い詰められているかもわからぬまま、だ。

 

 そして、頃合いを見計らって月刊トゥインクルが独自取材の結果を公表し、横合いから殴りかかる。司直が先か月刊トゥインクルが先かはわからないが、彼の知る月刊トゥインクル編集長、そして乙名史悦子であればそうなるはずだ。

 

 検察は既に動いていたわけだから、月刊トゥインクルが先手を打ってしまっても、最終的には問題ない。その先の手続きを彼らの手で行っていくだけだ。確実に検察の得点になる。なんならもっと積極的にこちらから検察に情報を流し込んでやってもいい。

 

 かくしてURAの理事会からは装蹄師の男を葬った主要人物のひとりを血祭りにあげることができ、コトの発端となったWEBメディアには責任を取らせる。

 

 残った理事会のメンバーも、残りの任期を怯えて過ごすことになる。

 

 

 

 しかし問題がないわけではない。

 

 件の副理事長に装蹄所の設立の件で後輩の男自身も接待攻勢をかけている。その過程でこの壮大な背任話を掴んだのだ。もちろん自社の情報網とそれなり以上の費用をかけ、その全容を把握する労力を傾けた。

 

 そして彼自身も装蹄所の件で食い込んでいくために、副理事長に賂いを積んでいる。

 副理事長が手を染めていた背任に比べればささやかなものだが、それでも罪は罪だ。余罪が追及される過程で、それも明るみに出る可能性は低くないと考えられた。

 

 だが、そうであるからこそ、この情報の出元として疑われる可能性は低い。

 

 損得勘定としては難しいところだった。

 

 ビジネスに携わる者としては失格であろう。

 なにせ賭け金の一部は彼自身ではなく、彼の家業とはいえそれなり以上に大きい会社なのだ。

 

 後輩の男自身もそれを十分に認識している。

 

 それでも、彼はこの賽を投げた。

 

 個人的な動機ではあったが、少なくとも彼の崇拝する装蹄師の男の仇を討つことはできる。

 

 そして彼の願った、ウマ娘たちのより良き未来、その一助になるはずだ。

 

 後輩の男は自分の持つ様々な要素を天秤にかけ、そう結論していた。

 

 

   

 

 

 

 

 

■東条ハナは揺さぶられる

 

 

 

 

 東条ハナは上機嫌であった。

 

 彼女たちの棲む世界の上部組織であるURAでは、例のメディアから再び、今度は理事会をターゲットに据えた糾弾を受けつつあり、大きな騒ぎとなっていることは知っていた。

 

 しかしそのような渦中にあってもトレセン学園の中は秋川理事長の統治の許に平穏を保っている。東条ハナ個人としては装蹄師の男が受けた仕打ちを考えればURAの上層部がダメージを受けることに関して、いい気味だとすら思っている。

 

 報道の真偽は定かではないが、仮に本当だったとしても彼女たちが日々邁進している真剣勝負の世界は揺るがないし、それだけ真摯に日々のトレーニングに、そしてレースに取り組んでいる。

 

 それだけの自負があった。

 

 

 

 

 装蹄師の男が彼女の前から気楽に、と思えるほど簡単に姿を消し、しばらくは落ち込んだ日々を過ごした。

 しかしこれではいけない、と奮起して日常を取り戻してからいくらか時間が経った。

 

 

 装蹄師の男たちと近しかったウマ娘たちに続々と蹄鉄が届きだすと、彼女の知らないところで、装蹄師の男が順調に仕事をしていることが知れた。それは東条ハナ自身もさらにトレーナー業を邁進しなければならない、と励みにもなった。

 

 一方で、装蹄師の男が消えた夜、あれほどのアピールをしたというのに自分には何の便りもないことに、一抹の寂しさを感じていたことも事実であった。

 

 そんな複雑な心境ながらも、全般的には前向きに過ごしていたなんでもないある日。

 

 見慣れない会社名の発送元から小さな小包みが届いた。

 

 その日のトレーニングを終えて一人きりのトレーナー室。届いてそのままにしておいたのを思い出し、何の気なしに開けてみれば、中に収められていたのは蹄鉄をモチーフに造られたプラチナ製と思しきピアスであった。

 

 精巧につくられたそれは、蹄鉄の頂点に小さなものではあるが彼女の誕生石であるダイヤモンドらしきものが嵌められている。  

 

 そして明らかに装蹄師の男の手によるものとわかるのが、蹄鉄がプラチナとゴールドの木目金となっている点だ。

 装蹄師の男がサイレンススズカのために創り上げた技術が、彼女の許に届いたピアスにも活かされていた。

 

 それに気が付いた時、東条ハナの鉄面皮がこのときばかりは赤らみ、そして緩む。

 

 一人の時で良かったと東条ハナは何かに感謝しながら、いそいそとそれを右耳に着けていた時、トレーナー室でつけていたテレビがニュース速報の電子音を鳴らした。

 

 地震でもあったかしら。私はなにも感じなかったけれど。という気持ちでそれを見る。

 

[ URA本部に強制捜査 幹部らに背任行為の疑い ]

 

 目を疑った。

 

 

 URAとは。

 

 私たちの、URAなのだろうか。

 

 

 あまりの衝撃に、東条ハナはピアスを取り落としてしまった。

 

 ほどなく彼女のスマホが鳴動する。

 

 それは理事長秘書である駿川たづなからの緊急招集通知であった。

 

 

 

 

 

■何も知らない装蹄師の男

 

 

 

 

 今日も今日とて山奥の工房は平和である。

 

 後輩がどこからともなく受注してくる開発案件をこなしつつ、余暇として軽トラをいじりつつ。

 ダメ人間にならずに過ごせているのは、やはり適度に「やらなければいけないこと」が入ってくる効果が大きい。

 

 その日も適度の業務を終わらせて、部屋でゆっくりとしていた頃。

 そろそろサイレンススズカも復帰に向けてトレーニングを始める頃だろうか、などと考える。それならまずはリハビリ用の蹄鉄でも打ってやろうか、そんなことを考えながらテレビを眺めていた時だった。

 

 鋭い電子音が、ニュース速報の発信を告げる。

 

 内容が表示された瞬間、装蹄師の男は言葉を失った。

 

 画面には、彼がつい先日まで所属していた組織、その本部に強制捜査が入ったことを伝えていた。

 

 いったい何が起きているというのだ。

 

 装蹄師の男は煙草を口に銜えたまま、火を点けることも忘れ、暫し茫然としていた。

 

 

 

 

 

 



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95:延焼の帰結

 

 

 

■父親の矜持

 

 

 

 後輩の会社が入るビルの最上階のひとつ下。そこにはいわゆる役員室があるフロアだ。

 

 そのフロアの最奥の部屋で、時代を経てすっかり眺望の悪くなった外界を眺めている、老いつつはあるが風格を感じさせる男が居た。

 この会社の社長を務める、後輩の父親である。

 

 

 先ほどまでこの会社の番頭であり、彼の片腕でもある専務取締役から、彼の息子である後輩の男の暴れっぷりについて報告を受けていた。

 

 会社の代表であるという立場から、専務の報告に対しては厳しい表情で臨んだ。

 

 しかし内心の、父親としての彼は全く逆の感情を持っている。快哉を叫びたい気分だ、といえばわかりやすいだろうか。

 

 彼の息子が、動機はどうあれここまで世の中をかき回してみせたその手腕。それに父親としての喜びを感じていたし、男子たるものかくあるべし、と社長としての立場でも、そう思われたからであった。

 

 後ろ暗い行いをしてきたことも含めて、そのくらいの気概がなければ切り拓くことのできないことは多くある。

 それはこの会社をここまでの大きさにした代々の先代たちを見ても同様だったし、今社長の椅子に座っている自分にも、目の前で行状を説明している専務にも、そのような行いも含めて商売を拡大してきた、という自負も負い目も併せ持っている。

 

 勿論、彼の息子の行いは今の世相では褒められることではないことは承知している。法律に照らしてみても、かなり黒寄りのグレーであるという判断もしている。

 しかし商社の商売というモノは綺麗ごとだけでは収まりきらない。清濁併せ呑んでこそ、目的を達することが出来る。

 後輩の父親は自らの経験からも、そう考えていた。

 

 

 

 しかし、と思い返す。

 

 大学時代の先輩に、これほどまでに恩義を感じていたとは。

 

 息子が在学中にレースで怪我をし、後遺症が残ってしまったことは、親として忸怩たる思いがある。

 

 だが、彼個人の認識としては大学生であれば既にほぼ大人であり、部活の競技中の出来事であるのだから、誰の責任でもない。

 彼の息子が選択し、行い、その結果起こってしまった事故だと考えている。

 

 そしてその事故で、息子の先輩だというひとりの男は、責任の在りかは自分にあると言い、彼なりの責任を取ったことははっきりと記憶に残っていた。

 

 

 

 思えば義務教育の頃から、少々どころではない跳ねっかえりであった息子。

 

 甘やかしすぎたのではないか、と思うこともないわけではなかった。

 高校時代は家にも寄り付かず、方々を遊び歩いていて警察から連絡が来たこともある。

 

 しかしそれも大学に入ったあたりから少し落ち着いてきたか、と思ったところでの事故であった。

 

 そんな息子も、このときばかりは素直に実家を頼った。

 そしてそこから障害が残る身体ながらも周囲の支えを得てなんとか大学を卒業し、家業においてもイチから謙虚に修行を重ねていった。息子は人が変わったようだ、と思ったものだ。

 

 この大学時代の経験が息子を変えたのだ、と理解したのは、だいぶ時間が過ぎてからのことだった。

 

 だとすれば、父親の自分は、事故の責任を取った息子の先輩とやらに、彼が取った責任以上の恩義を感じるべき立場だった。

 

 最近になってその先輩との交流が復活したことを嬉しそうに話す息子の表情は、ここのところ社長と従業員としての会話しかしていなかったことを反省するほどに生き生きとしていた。

 

 

 

 

 そして、今。

 

 自分が父親として息子に何かをしてやることのできる最期の時期に差し掛かっていると自覚しはじめていたときに、今報告を受けているやんちゃでは済まされない騒ぎである。

 

 これまでの経緯はかなり早い段階から専務を通じて把握していた。

 

 公人としての自らの立場は勿論あったが、私人としての彼はハラハラしながらも息子の行動を見守り、父親としての責務を果たすべく、出番を待っていた。

 

 専務の報告を一通り聞き終えて、外を眺めている後輩の父親でありこの会社の社長は、自らの手をどの段階で差し伸べるべきか、それを考えていた。

 

 それをどこかで観察していたかのようなタイミングで彼の机の内線が鳴る。

 

 専務が受話器を取り、一言二言応答すると、受話器が差し向けられた。

 

 電話をしてきた相手は、昔から馴染みのある与党の代議士であった。

 

 

 

 

 

 

 

■密談は料亭で

 

 

 

 

 後輩の父親は電話を受けた晩、赤坂のはずれにある隠れ家のような料亭、その一番奥の間に足を運んだ。

 

「お待たせして済まない」

 

 後輩の父親は先に来ていた相手、先ほど電話をしてきた男に頭を下げる。

 

「いやいやこちらこそ。お忙しいところ急にお呼びたてしてしまって…ご足労いただき恐縮です」

 

 てらてらと脂光りする坊主頭をハンカチで拭う大黒様のような男は、赤紫のモールに金色の菊花模様を配した議員バッジをつけていた。

 

 後輩の父親は、議員がまだ独り立ちする前に議員秘書をしていた時代から付き合いがある。

 年齢はいくらか後輩の父親のほうが上で、昔はよく連れだって飲みに出かけたものだ。接待に役立つ店も、夜の街の作法も教えた、いわば東京の兄貴、弟といったような間柄だった。

 

 それから年月が経ち、議員の方は順調に当選を重ね、今や政権与党でそれなりの要職を担い、大臣の椅子もそう遠くないと言われている。

 

 勿論、彼が出世街道を駆け上がるにあたり、後輩の父親は有形無形の支援をしていた。人の好さそうな大黒様のような見かけだが、その見た目と違わぬ人柄から大変な艶福家でもあり、過去には彼の女性関係の始末をつけてやったことすらある。 

 

「今日はうちの愚息の件かな?君の、ではなく。細君は息災かね?」

 

 後輩の父親は先制攻撃を放つ。

 

「あぁ…ええ…その節は大変お世話になりました。お陰様でなんとか夫婦円満にやっております」

 

 議員は当時の有力政治家の子女を妻として娶り、入り婿となっていた。

 

「…えぇと…あぁ…そうです。御子息の件で。URAのほうで、色々とあるようで、その件でご相談したかったのです」

 

 初っ端から過去の女性問題を絡められては、当代の大物議員もさすがにたじたじとなっていた。良くも悪くも新聞記者に愛人の数を問われて一人少ないことを指摘し、記事は正確に書くべしと宣った古き良き時代の政治家のようなおおらかさとユーモアとは無縁である。ある意味、現代的な感覚の持ち主ではある、と言えるかもしれない。

 

「…一体、御子息はどこまで情報を掴まれているのでしょうか?」

 

 先制が見事に決まってしまって気勢を削がれた議員はおずおずと尋ねる。

 

「さぁ…どうでしょうな。どちらにしろ、既に司直の手に委ねるべき問題なのではないかな?」

 

 後輩の父親はほぼすべて把握していたが、あえてそらとぼけてみせる。

 

「えぇ…確かに、すでにそのような段階ではあるのですが。このまま司直の面々が自らの職務に忠実に精励しますと、最終的にはおそらく二人ほど大臣のクビが飛ぶ、という次第でして」

 

 後輩の父親はカラカラと笑い声をあげた。

 

「結構なことじゃないか。君がその、空いた席に座ることになるんだろう?」

 

 議員はしきりに吹き出す汗をハンカチで拭っていた。

 

「いえ…そうなってしまえば、おそらく現政権は持たない、というのが我々の見立てでありまして…。またぞろ、あなたに選挙の資金協力をお願いすることになってしまいます。そして、その選挙で勝てるかどうかは…」

 

 なるほど、と後輩の父親は内心、頷いた。

 どうやら彼の息子の火遊びは想定していなかったような延焼の仕方をしてしまっているらしい。

 議員の男は、おそらく今のあまり民衆に人気があるとはいえない政権中枢が遣わせた火消し役、そういう役回りのようだった。

 

「…私にどうしてほしいのかな?私は今までも、君には最大限、協力してきたつもりだが」

 

 大黒様のような見かけの議員は、その柔和な瞳の奥にしっかりと芯を持った視線を後輩の父親に差し向けた。

 

「…御子息が、これ以上検察に情報を流すことを止めていただきたいのです。それさえしていただければ、あとはこちらで。御子息のURAへの工作も、こちらで不問に付します。御子息の目的はわかりませんが、それで納めていただけませんか」

 

 後輩の父親は無表情のまま、しばらく議員を見つめ返す。

 

「…あれは、性根は優しい子なんだ。過去に受けた恩を忘れずに、それを今、あの子なりに返している」

 

 議員はさらに汗の量を増やしている。

 

 どうやら彼にとってこの話は相当に重要な任務のようだ。その証左に、座布団から降りて居住まいを正している。このまま放っておけば彼の得意技である土下座でも繰り出しかねない勢いだ。 

 

「…私も…社長から受けたご恩を忘れたことはございません!それは…これからも…!」

 

 後輩の父親は腕を組んで、考え込む風を装う。

 

「どうか…どうか…!」

 

 ついに議員は畳に両手をつき、頭を傾け始める。

 磨きこまれた球のような頭皮に、部屋の景色が映りこむようだ。

 

 頃合いかな、と後輩の父親は思った。

 

「頭をあげて。わかりました。将来の大臣に土下座させたとあっては、私も立つ瀬がない」

 

 ありがとうございます!と大声で感謝の意を述べる議員の頭は、既に畳についてしまっていた。

 

「この御恩は必ず…必ずお返しいたしますので!」

 

「なに、相身互い、という奴だよ。君も一度、時間を作ってレース場に足を運んでみると良い。若きウマ娘たちが真剣に走り、競う姿は、我々のような者にこそ背筋の伸びるような感動を与えてくれる。私の息子は、それらを護りたかっただけなのだ」

 

 議員は再び、せわしなく汗を拭いながら、後輩の父親の話に耳を傾けていた。

 

 

 

 

 

 

■樫本理子は責任を感じる

 

 

 

 樫本理子はURAに強制捜査が入った日からしばらくは、捜査のためにひっくり返されたオフィスの片付けに追われていた。

 

 正直に言えば、今すぐにでも逃げ出したい気分であったし、もしそれが許されたならば、誰もいないところでひとりで泣き崩れたいほどの心境だった。

 

 日が経つにつれ、つくづく自分の振った賽、その出目の大きさに身が竦んでいった。

 

 そんな彼女の様子を電話口で察したのは、賽を握らせた張本人たる後輩の男だった。

 

 彼女の精神状態を案じた後輩は、休日を合わせ彼女をドライブに連れ出した。

 

「…どこに、向かっているのですか…」

 

 助手席に座る樫本理子の声よりも張りが失われている。

 

「まぁ…りこぴんをそう気落ちさせたままにもしておけないと思って。サイコロ握らせたのは、俺なわけだし」

 

 後輩の男は首都高4号線から中央高速を西へ向けて走らせる。

 

 道中、二人は言葉少なにやりとりを交わすが、盛り上がらない。樫本理子は後輩を責めることはしなかったが、自らが定めたターゲットが逮捕されるに至り、その是非というよりもURAが、ウマ娘たちが営々と築き上げてきた誇り高きエンターテイメントの世界が汚されてしまったことに責任を感じている、という様子だった。   

 後輩が操るクルマはいつしか高速を降り、山中深く分け入っていく峠道を登った。

 

 途中で道を逸れ、未舗装路をゆっくりと進む。

 

 山を切り開いて造られたと思われるその道は、わりと最近造られたものとわかる。道の両脇にある伐採された木の切り口がまだ真新しい生木の色をしていた。

 

 しばらく行くと、広場のような場所に出る。

 後輩はそこでクルマを端に寄せて止め、クルマを降りた。

 

 広場からは遠く下に登ってきた峠道がところどころ見えており、その向こうには関東平野が広がっていた。

 

「いい景色だろう?」

 

 煙草に火を点けながら後輩は樫本理子に声をかける。

 

 山の空気は澄んで冷たく、長くクルマに揺られて火照り気味だった肌に気持ち良い。

 

「…ええ…とても良い眺めです」

 

 ここのところ張りつめていた精神が、いくらか緩むような気がした。しかし一方で樫本理子の冷静な頭脳は、これが一時しのぎの現実逃避に過ぎないことも理解している。

 

「実はさぁ…りこぴんにサイコロ振らせた件、あっちこっちから怒られちゃって。まぁ、もとはといえば先輩の件のときに、もうちょっと俺が上手く立ち回れたら、りこぴんにもこんな苦しい思いさせずに済んだのかもしれないけど」

 

 後輩の男と樫本理子は並んで関東平野を眺めている。

 

 どこからか、峠道を登ってくるバイクの排気音だろうか、甲高いエキゾーストノートが遠くで響いていた。

 

「だからさ、お詫びってわけじゃないけど…ここに連れてきたんだ」

 

 樫本理子は怪訝な表情で後輩の男を見る。

 

「ここが…お詫び…とは…?」

 

 甲高いエキゾーストノートが山々のこだまでなく、近くまで迫っていた。

 

 後輩の男の向こうに見える、ここまで辿ってきた未舗装路から、土煙が上がっているのが見える。

 バイクのようなエキゾーストノートの正体が、姿を現す。

 

 派手な排気音と車体に不釣り合いな大径タイヤを履いた、バギーのように改造されつくした軽トラだったものが、ドリフトしながら蹴り上げた小石を後輩のクルマにぶつけながら、真横でくるりと回って止まった。

 

「…?」

 

 呆気にとられる樫本理子と、苦笑いの後輩。

 

 中から降りてきたのは、フルフェイスヘルメットを被った作業着姿の男。

 

 ヘルメットを被っていても、樫本理子には誰であるかがわかった。

 

 

 

 

 



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96:元 学園お抱え装蹄師の日常

 

 

 

 

 装蹄師の男は週末を迎える金曜日、早めに仕事を切り上げることがある。

 

 その日も、前日から業務を詰め気味に調整し、午前のうちに出荷するべきものを仕上げ、ワンボックスに積み込んで山を下り、いつもの宅配便の営業所に持ち込んでしまう。

 

 そしてそのまま、スーパーに買い物に出かける。

 

 時々ふらりと現れては、一人暮らしにしてはどうかと思われるような量を買い込む客として店ではちょっとした有名人だったりする。もちろん本人はそんなことを知る由もない。

 

 山奥の工房に戻り、食材を整理する。必要に応じて買い替えていった冷蔵庫は段々と大きくなり、最終的には業務用サイズに達していた。

 

 今日は久しぶりにここに顔を出す者もいることだし、とみんなでバーベキューでもするつもりで買い込んだ食材は、健啖家たる今日のメンバーを考えて買い込んだ結果、業務用サイズの冷蔵庫でも収まりきらぬ有様だった。

 

 メンバーが集まればすぐにでも始められるように、装蹄師の男は火や飲み物の準備、食材の下ごしらえなどを進めていく。

 

 それは学園お抱え装蹄師の職を辞して3年を経た彼の週末の日常、その一断面であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほらー、早くしないと置いてっちゃうっスよー」 

 

 後輩はトレセン学園の裏口に横付けした高級ミニバンの脇で煙草を吹かしていた。

 

「なぁ~もう置いてっちゃおーぜー。そしたらいつもより人数少なく楽しめるだろー」

 

「それはいいアイデアだねぇ。もっとも、彼女たちのことだから…別の手段で追いついてくるだろうが」

 

 先に車内に納まっているゴールドシップとアグネスタキオンは口々に好きなことを宣っている。

 生徒会の仕事に追われ気味のシンボリルドルフとエアグルーヴは、集合時間5分前を切っているが未だに姿を現さない。

 

「まぁまぁ。彼女たちもいろいろ忙しいんスから…もうちょっとだけ、待つっスよ」

 

 先ほどは急かしていた後輩が手のひらをぐるんぐるんさせながらゴールドシップたちをなだめる。焦れているのも本心だったが、彼自身、過去にシンボリルドルフに凄まれたときの迫力を忘れてはいない。

 

 

 

 

 サイレンススズカの件に端を発し、装蹄師の男が学園を去ってから3年の月日が流れていた。

 

 その間、URAの背任事件の発覚があり、それにともなうURAの体制再構築など、ウマ娘レース界を取り巻く状況はがらりと変化した。

 

 自身が仕掛けたこととはいえ、良いことばかりだったわけではない。それなりの代償を支払う事にもなった。主に彼の父親が、だったが。

 

 しかし彼の父親は喜んでそれを支払い、形式的に彼を叱りはしたものの、言葉とは裏腹に、彼への支援を強化すらしてくれた。それはまるで、この世間の荒波を切り裂いて進むための先人の知恵を一子相伝の秘術として彼に遺そうとしているかのようだった。

 

 結果、背任事件のドタバタをうまく利用した後輩の男はURA内部にさらに食い込み、樫本理子の立場はさらに強化され、装蹄師の男を葬った理事会は空中分解させるに至った。

 

 月刊トゥインクルに掴ませたネタを不発にさせるのはいくらか苦労したが、それも新たに月刊トゥインクルを中心としたメディア主導のレースシリーズを企画、開催するという建設的な方向の提案に巻き込んでいくことで、彼らは矛を収めてくれた。

 

 結局のところ彼らはネタやゴシップが欲しいわけではなく、立場や関わり方は違えど装蹄師の男や樫本理子、シンボリルドルフやエアグルーヴたちと同じく、ウマ娘たちの幸せを願う同志であったことが、このような解決策を導くことができた要因だ。

 

 幸いにしてその新たな取り組みも好評であり、新生なったURAの基盤を将来的にさらに強固なものにしていくことに貢献してくれるだろう。

 

 

 

 

「遅くなって済まない。来期のトゥインクルスタークライマックスの打ち合わせで、押してしまった」

 

 物思いに耽っていた後輩に声をかけたのは、いつのまにかそばにやってきていたシンボリルドルフとエアグルーヴだ。

 

「待ってたっスよ。さあ乗って乗って」

 

 後輩は二人を笑顔で迎え、乗車を促した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 装蹄師の男は下準備を終えてしまうと、手持無沙汰となった。

 なんの気無しに、工房内をぼんやりと眺める。

 

 3年前、ここに来たときは片隅にある鍛冶道具類以外はがらんとしていて、体育館のような空間だった工房。

 そのうちに、後輩が取ってくる蹄鉄の開発案件などをこなしていくことも多くなり、それにともなって機材や設備が増えている。

 

 試作品製作のためのCADシステムや3Dプリンターを導入し、近年の開発案件の複雑化や蹄鉄以外の加工品の依頼もあり、今ではフライス盤やマシニングセンタまでも設備として有するようになっていた。

 

 また、最近では異素材での蹄鉄開発にも取り組んでおり、カーボン素材を切り出すためのカッティングプロッターや、それを焼くための小規模なオートクレーブも導入している。

 

 それでも余っているスペースは自由にしていいと言われた結果、仕事とも趣味ともつかないあれやこれやでモノが増えていた。

 

 後輩が持ち込んできたエンジンやミッションなどのクルマのパーツも一角に積まれていたし、クルマの整備機材もそこらの街の整備工場以上のものが揃えられている。

 そのそばには後輩がどこからか掠め取ってきた中古のGT300マシンがジャッキスタンドであげられており、装蹄師の男が暇を見つけてはオーバーホール作業をしていた。

 

 奥の装蹄師の男の部屋があるプレハブも来た時よりも規模を拡大している。いくつかのモジュールが追加されて装蹄師の男の住環境にいくつかの部屋が追加されていたし、いつのまにか2階が増設されて宿泊客が来ても良いように整えられていた。

 

 この3年間、外の世界の変化とはまた別の変化が、この工房内でも起きていたのだった。

 

 

 

 

 

 

「それでは、皆様のトゥインクルスタークライマックスの健闘を祝して!乾杯っス!」

 

 後輩が調子よく音頭を取って、バーベキュースタイルの宴会が始まった。

 

 集まったのは後輩が連れてきたシンボリルドルフ、エアグルーヴ、ゴールドシップ、アグネスタキオン、そして遅れてあと数人、ここに来るはずだった。

 

 

 

「おーいおっちゃん、持ってきた干物も焼いていいか?」

 

「おー好きにしろ。ちょっと火力強いかもしんないから気をつけてな」

 

「今日の為に昨日から仕込んでた一夜干しだぜ~ゴルシちゃんがしっかり仕上げてやるから楽しみにしてろよな!」

 

 

 装蹄師の男を追いやったURA理事会が崩壊してからしばらくの後、様子を見つつ後輩の男が慎重に情勢を見極め、最終的にウマ娘たちの要望を聞き入れてこの工房の存在を明かした。

 

 

 

「先生、頼んでおいた試作品のパーツはできているかな?」

 

「あぁ、バイオメタルのあれか…一応作ってはみたけどな、タキオンの設計意図通りにはなかなか動かんぞ…。あそこに置いてあるから動かしてみ」

 

 

 

 それからというもの、ここは彼女たちの溜まり場のような場所になりつつある。

 

 彼女たちもレースやトレーニングがあるため、装蹄師の男が学園に居た時ほど頻度が高いというわけではなかったが、入れ替わり立ち替わり誰かがこの工房を訪れており、装蹄師の男が一人で週末を過ごすということはあまりない。

 

 尤も、彼女たちの立場の変化もそれを可能にしている。

 

 ゴールドシップは気まぐれにレースに出ては場をかき回し、神出鬼没の存在としてトゥインクルシリーズをまだまだ盛り上げるつもりでいるようだ。スピカの良いムードメーカーであり、時に冴える精神的な支柱として沖野の片腕となりつつある。

 

 アグネスタキオンはメイクデビューからG3、G2弥生賞と順当に勝ち進み、皐月賞もあっさりと勝ったところで一旦研究に専念という名の休養に入った。

 それまでのトレーニングとレースで収集したデータから約1年の時間をかけて自らのガラスの脚に向き合い、改善を施したのち、シニア級でもレースに出れば鮮烈な勝ちをもぎ取るという戦いぶりをみせている。今ではウマ娘版の「走る実験室」という異名まで得て、特異なファン層を形成しているとかなんとか。

 

 

 

「先生、相変わらずタキオンに変なものを造らされているのか…たまには、こちらの相談に乗って欲しいものだが…」

 

 そうぼやき調子で話しかけてきたのはエアグルーヴだ。

 

「あぁん…?こんな仙人みたいなオッサンになんの相談だ?いいぞいつでも聞いてやるぞ。でもまぁエアグルーヴの抱くような悩みなら、アイツの方が適任じゃねえか?」

 

 装蹄師の男は後輩のほうを顎でしゃくって示した。

 

 エアグルーヴ自身もそれは薄々感じていたが、それでも頬をやや赤らめ、目をそらしながら粘る。

 

「…たまには私の話を聞いてくれてもバチは当たらないだろうが…たわけ…」

 

 装蹄師の男は、ん、と煙草を銜えたまま、エアグルーヴの頭をくしゃりと撫でてやった。

 

 

 エアグルーヴは今年一年を挑戦の年とし、来年早々のトゥインクルスタークライマックスへの参戦を表明している。本人曰く、自らの競技生活の集大成の一年としたい、とのことだ。

 

 そしてその意向は、エアグルーヴの良き手本であり師と言えるシンボリルドルフの動向が影響している。

 

 

 

「兄さん、ちょっといいかな…」

 

 後輩が焼きあがった肉を皆に分配している光景を、少し離れたところで煙草の煙を燻らせながら眺めていた装蹄師の男に、シンボリルドルフから声がかかる。

 

「ん、なんだ?」

 

 彼女に煙が向かわないように配慮しながら、装蹄師の男は応じる。

 

「卒業後の進路を、決めたんだ」

 

 ルドルフは意を決したように告げる。

 

 シンボリルドルフは今年初開催のトゥインクルスタークライマックスの初代王者を獲ったのち、トゥインクルシリーズからの引退を表明していた。

 

「卒業後はURAに、いち職員として改めて入ろうと思う」

 

 装蹄師の男はルドルフの意外な進路に、片眉をあげる。

 

「ほう。そりゃまた、殊勝な」

 

 シンボリルドルフはその言葉を意に介さず、眼下に暮れゆく関東平野を眺めながら続けた。

 

「私も、兄さんや後輩氏、樫本室長のように、皆を護れる大人になりたい、と思ってね」

 

 ここ3年の様々な出来事が、彼女に影響を与えたことは間違いない。

 そして彼女は、我々大人たちが決して清廉潔白ではないことも知っている。

 

「私がなりたい大人たちと近い立場で、同じ苦労を共有し、経験したいんだ。これまでの学生として、競技者としての立場ではなく、一兵卒の職員として」

 

 それは無理だろうな、と装蹄師の男は思う。

 なにせ、シンボリルドルフは皇帝と呼ばれる、生ける伝説といえる存在だ。

 今更一兵卒で、という扱いを周囲もできないだろう。

 

「もちろん、私が歩もうとする進路では、今の名声が邪魔をすることもあるだろう。だが、そうであるからこそ、本当の大人になるためには必要なことだと思ったんだ」

 

 装蹄師の男の思考を察したようにルドルフは言った。

 

 ルドルフらしい考え方といえる。

 万端怠りなく、着実に歩んでいくために。

 彼女の夢を叶えるためには必要なことだと、積み上げて到達したい彼女が描く高みのための土台を造るのだと、彼女はそう言っていた。

 

「…いいんじゃないか?まぁ綺麗ごとばかりじゃないし、幻滅することもあるだろうがね」

 

 ルドルフは覚悟を決めた瞳のまま、くすりと笑う。

 

「で、兄さんに改めて相談なんだが…」

 

「…?」

 

 装蹄師の男は急に声の小さくなったルドルフの声を聞き取ろうと、耳を差し出して近づく。

 

 ルドルフは顔をやや赤らめ、耳をややへにゃりとさせながら、小さな声で囁いた。

 

「トレセン学園を卒業することだし…その…私も、ここに住んでよいだろうか」

 

 男はその姿勢で固まり、やや間があって吸い込んでいた煙草を咽るように咳込みながら吐きだした。

 

「URAの仕事をするなら…ここでは不便というか通勤できないだろ…そうだな…まぁ別荘くらいの扱いにしておけ…」

 

 装蹄師の男の回答に、ルナモードのシンボリルドルフはやや不満そうな表情を浮かべながらも、それでもなんとか納得してくれたようだった。

 

 

「抜け駆けとは貴方らしくないわね、ルドルフ」

 

 密談を交わしていた二人に冷や水をぶっかけるような声音で存在をアピールしたのは、東条ハナだ。仕事終わりに自ら運転してやってくる予定になっていた。

 

「お、着いたか。まぁ食え。まぁ飲め」

 

 装蹄師の男は手慣れた様子でクーラーボックスから缶ビールを開けてやり、差し出す。

 

「やぁ、おハナさん。抜け駆けとは人聞きが悪いな…兄さんはほっとくと食生活が怪しいから、これを機に健康にも気遣ってもらおうと思っただけだよ。まぁ、独占力が私の得意スキルであることは否定しないが」

 

 東条ハナが不機嫌そうに缶ビールを呷っているところに、ルドルフは雄弁に反対論の陣を張った。東条ハナの耳には装蹄師の男の手になる蹄鉄のピアスが鋭い光を放っている。

 

「なら私もトレセン学園を辞めて、ここでフリーのトレーナーとして開業しようかしら。幸いコイツの作った林道コースもあることだし、トレーニング環境としては申し分ないわ」

 

 最初から全開の、大人の余裕が感じられぬ東条ハナの張り合い方にはルドルフも既に慣れたものだ。

 

 3年前に装蹄師の男が忽然と姿を消した時の東条ハナの落ち込みようと言ったら、今にして思えば目も当てられない落胆ぶりであった。

 

 そこから立ち直り、その後に装蹄師の男の居場所が分かって以降、彼女は昔のように自分の気持ちを隠し、偽るようなことはしなくなっていた。

 

「ふむ…それなら私はURAから出向してそこの常駐職員となればここに定住することも可能になるな…」

 

 ルドルフは東条ハナに調子を合わせて、さらに乗っかってくる。

 

「それなんてチームリギル…?みんなしてちびっ子理事長とたづなさんが泣いちゃうようなこと考えてちゃダメよ…」

 

 装蹄師の男は思わず呟いた。

 

 

 一通り食事も飲み物も行き渡り、ゴールドシップの干物に舌鼓を打ちつつのんびりとした時間が流れ始めた頃、1台のシルバーのミニバンが入ってくる。

 

「おーっす。遅くなってすまん」

 

 現れたのは沖野である。

 

 そして、助手席からはキャップを目深に被った、すらりとした娘が降りてくる。

 

 一瞬、誰だか分らぬ彼女に注目が集まり、不穏な空気が流れかける。

 

 それを打ち破ったのはゴールドシップだった。

 

「スズカ!スズカじゃねーか!」

 

 キャップを目深に被った娘はくすりと笑うと、キャップを脱いでサラリと艶めかしい栗毛の髪を背におろした。

 

 ゴールドシップとエアグルーヴがスズカに駆け寄る。

 

「スズカ!元気だったか!アメリカでの活躍はこっちにも轟いていたぞ!」

 

「なんだよー帰ってくるなら一言言ってくれよー!みずくさいぜ!」

 

 うふふ、と微笑むサイレンススズカの雰囲気は、最後に会った時と変わっていない。

 

「…ようやく、向こうでのレースも区切りがついて…どうしても、会いたくなってしまったものだから」

 

 ゴールドシップとエアグルーヴにそう呟くと、サイレンススズカは少し離れて様子を見守っていた装蹄師の男に歩み寄った。

 

「…ただいま…もどりました」

 

 にこりと微笑む翠色の瞳は、真っ直ぐに装蹄師の男を射抜いていた。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 










 皆さまいつもお読みいただきありがとうございます。
 また前回からだいぶ時間があいてしまいました。申し訳ございません。

 というわけで、本編は今回が最終回となるのかな、と思います。

 初めてこういうものを書いてきたので、締め方が全く分からなくてですね。なんか足りてない気もするのですが、とりあえずかなり初期に設定したゴールイメージにはたどり着くことができました。

 これもひとえに皆様のご支援・ご声援コメントのおかげです。本当にありがとうございます。

 本編は一旦ここが区切りとなりますが、幕間で書いている後世に生きる下っ端研究員くんのお話がまだありますので、あといくつかはここに書いていく予定です。
 気が向いたら(ネタが思いついたら)この物語をベースにいくつかの小話も考えてはいるのですが、今のところ今後は未定です。

 そんなわけで締まったのか締まらないのかいまいち書いている本人はよくわかっていませんが、ここまでついてきてくださり本当にありがとうございました。

 あとちょっとだけ続くお話も、引き続きよろしくお願いいたします。

 


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(97):幕間7 トレセン学園史料課研究員は倒れ込む

 

 

 不思議な老紳士との出会い、慣れぬ街で居心地の良い食事処を見つけてから、しばらくの時が経った。

 

 トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課に勤める下っ端研究員の男は、この一か月は資料目録の作成に追われる日々を過ごしていた。

 

 トレセン学園においては、理事長直轄のメディア室という部門がメディアの一次対応を行い、資料が必要になった際に研究員の男が所属する史料課に問い合わせが来る仕組みになっている。

 史料課はそれに効率的に対応するため、日々集まってくる雑誌などの刊行物や様々な資料などを一元的に管理、目録を作成しメディア室と共有することになっていた。

 

 しかしそれは建前の話であり、実際のところは半期に一度程度の割合で半年分を一括で目録を作成し、提出している。

 

 なにせ集まってくるものは膨大であり、それらを逐次処理していては日常業務が覚束ない。

 そこで、月次での目録は簡易作成とし、集中的に処理する期間を設けることで対処する、ということになっていた。

 

 いわば、情報の決算処理に下っ端の男は追われていたのだった。

 

 

 

 

 研究員の男は陽が落ち、ひと気のなくなったトレセン学園の本校舎、その屋上にいた。

 

 トレセン学園の敷地は来訪者向けに設けられたいくつかの喫煙所を除いて、禁煙である。

 しかしその中でも例外的に喫煙が認められていたのが、生徒の使用が禁止されている本校舎の北側屋上であった。

 

 夜風が心地よい季節から肌寒い季節に移ろいつつあるこの時期。

 トレセン学園の練習用トラックはナイター用の照明が灯っている。その恩恵で校舎屋上も自前の灯りを必要としない程度には、ほのかに明るい。

 

 屋上には、いつ置かれたか定かでない古ぼけたベンチがある。それに腰掛けると、研究員の男は煙草を銜え、火を点けた。一服吸い込むと、ここのところの激務による疲労の為か、頭がクラクラした。

 

 半期に一度のとてつもなく激務な日々がようやく終わりを告げた。それを乗り切った自分へのご褒美として屋上にやってきて煙草に火を点けてみたが、些かご褒美が小規模に過ぎる気がした。

 

 やはりここは自分を労うべく、あの喫茶兼スナックへ行くべきであろうか、と迷う。

 

 おそらくあの妙齢なのに可愛らしく、面倒見の良さが母性とも姉感ともとれる、こなれた雰囲気が心地よいウマ娘が、落ち着いた笑顔で自分を癒してくれるだろう。

 そう考えながらも妙に身体が熱いような寒いような、よくわからない体調の悪さを感じていたが、疲労の為だろうと無視を決め込む。

 

 煙草の味も今一つおいしく感じないな、と思いながら、研究員の男はこのところ停滞していたライフワークのことを頭に思い描きだした。

 

 

 

 エアグルーヴ理事長が暗示した資料にも蹄鉄が絡んでいたこと、正体不明の老紳士と博物館の蹄鉄コーナーで出会ったこと、そしてあの店でのナイスネイチャさん(名前は後日、調べた)との会話…と、自らの調べ物が一人の装蹄師の男に引き寄せられつつあるような気がしていた。

 

 そしてここ1か月、別の業務に追われていたことで考察に冷静さが添加され、視野は広がっていた。

 

 

 

 学園お抱え装蹄師が学園から消えてしばらくのち、URAは大規模な背任事件が発覚し、逮捕者をも出す騒ぎとなった。

 社会的にもその名誉に著しく傷を付けてしまった結果、URAは体制を大きく変えての再出発をしている。ある意味ではウマ娘レース界が第二の揺籃期を迎えたと言っていい。

 

 そう間をおかず、メディア主導のトゥインクルスタークライマックスという新たなイベントが施行され、そこからのURAの再生と復活、今日の隆盛。

 

 その象徴となったのが、トゥインクルスタークライマックスで初代王者に輝き、それを潮に競走ウマ娘を引退したシンボリルドルフだった。

 引退後、職員としてURAに入り、そのあとをエアグルーヴも追った。  

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴは新生URAの象徴的存在として、内部の機構改革を推し進めた。そして彼女たちの名声と才能を存分に活かして世間を味方につけ、時間をかけた結果、URAの立て直しに成功した。

 

 その努力の延長線上に結実した姿が現在のトレセン学園であり、彼の職場である。

 老紳士と喫茶ブロンズとの出会いの後、彼が睡眠時間を削って捉えなおした現代に続くアウトラインは、概ねそんなところであった。

 

 

 

 

 物思いに耽っていたところで、不意に顔面を眩しい光で照らされる。

 

「…なんだ君か。こんなところで何を黄昏れている」

 

 フラッシュライトを光源として下っ端研究員の男を照らし出したのは、トレセン学園の理事長、エアグルーヴであった。夜の校内の見回りでもしていたのだろう。そのままこちらへ歩み寄ってくる。

 

「もう夜は冷える。そんなところに居ては風邪をひくぞ。それに、顔色も良くない」

 

 言われてみれば夜風はそれなりに冷たいはずなのに、身体が熱い。

 パンツスーツ姿のエアグルーヴ理事長は、屋上のほの暗さの中でも美しい。

 下っ端研究員の男はそんな場違いな感想を抱いていた。視界がゆっくりと揺らいでいく気がする。

 

「おい、聞いているのか」

 

 エアグルーヴ理事長の少し冷たい声も耳に心地よい。

 疲れた身体に染み渡るようだ。

 

「おい。しっかりしろ!どうしたんだ…おい……!」

 

 下っ端研究員は、エアグルーヴの声を聴きながらゆっくりと意識が遠のき、ベンチに力なく頽れた。

 

 

 

 

 

 

 

 下っ端研究員の男はとても暖かいものに包まれる夢を見ていた。

 

 揺蕩うような揺れが心地よく、いつまでもここに居たいとすら思った。

 

 ソファのような、柔らかくも安定したところにそっと降ろされたタイミングで、下っ端研究員の男は朦朧とする意識を取り戻しつつあった。しかし身体は鉛のように重く、身じろぎする気にもならない。

 

 すぐ近くで、控えめに抑えられた声がする。

 

「…あら…その男の子は…どうしたの?」

 

「…学園の職員なのだ。見回り途中で私の顔を見た瞬間、倒れてしまってな。ここのところ彼は激務だったのは私も把握していたのだがな…対処が行き届かなかったようだ」

 

「大丈夫かしら…」

 

「これは私の出番かもしれないねぇ。どれ、ちょっと脈を診てみようか」

 

「妙な真似をして光らせたりするんじゃないぞ。大事な我が学園の職員なのだ」

 

「なに、ちょっとくらいはどうってことないさ。それで体調が回復するなら安い代償だろうに」

 

 どうやら自分の身を取り囲むように会話が進んでいるようだ。

 

「ただの若者ではないぞ。先般、皆にシェアした研究の中間報告書、その執筆者だ」

 

「…私たちの日記から始まって、装蹄師の先生にたどり着きかけている、あの…?」 

 

「そうか、あの報告書の彼なのか。ならば大事にせねばなるまいねぇ。先生の業績に光を当ててくれる若い世代が、ついに現れたのだ」

 

「そんな呑気な話でもあるまい。綺麗な話ばかりでもないのは皆、知っているだろう」

 

 そこまで聞いて、下っ端の男は目を開いた。

 

 下から見上げる三人のウマ娘と思しき影。

 

 照明を背負っている為にシルエットとなっており、ひとりはエアグルーヴであることはわかるが、あとの二人は誰であろうか。

 

「お、気が付いたようだねぇ、青年」

 

 ねっとりとした声音は、どこかで聞いた覚えがあった。ゆっくりと身を起そうとすると、エアグルーヴ理事長が身を支えてくれた。

 

「すいません理事長…お手を煩わせてしまったようで」

 

 起き上がるとそこは、理事長室であると知れた。

 エアグルーヴ理事長が心配そうに至近距離で顔を覗き込まれて、下っ端の男は体調ではない部分で心拍数が上がるのを感じた。

 

「構わん。気分はどうだ。顔色はだいぶ良いようだが」

 

 気が付けば先ほどまでの暖かいものに包まれた感覚で、すっかり気分は良くなっていた。

 

 改めて周りを見回し、研究員の男は絶句する。

 

 彼を取り囲んでいたのは、彼がライフワークとして取り組んでいる研究の中に存在する対象、伝説の存在であるサイレンススズカとアグネスタキオンであった。

 

「おや…また顔色が白くなってしまったねぇ」

 

 アグネスタキオンが視界の隅でククッと笑った。

 

 

 

 

 サイレンススズカが淹れてくれた紅茶が下っ端研究員の男に差し出される。

 それをニヤニヤと眺めるアグネスタキオン。

 エアグルーヴ理事長は腕を組んで未だ心配そうにこちらを見つめていた。

 

「ありがとうございます…」

 

 ようやくのことで下っ端研究員の男が絞り出した声は弱々しく、かすれていた。

 

「ほらぁ、彼が怖がってるじゃないか…。その圧迫感のある態度を改めたまえよ」

 

 エアグルーヴをからかうアグネスタキオン。エアグルーヴは虚を突かれたのか、慌てつつ赤面している。

 

 サイレンススズカが淹れてくれた紅茶はほのかに甘く、冷えていた身体に染み渡るようだった。

 

「…今日の業務はもう、終わっているのだろう?付き添ってやるから自室に戻ってゆっくり静養するといい」

 

 エアグルーヴは優し気な声で男に言った。

 

「…はい…いや…でも…ですね…ええっと…」

 

 下っ端研究員の男は混乱し、ただパクパクと口を動かしているが意味のある言葉を発せない。

 

 これまで、誌面や映像データなどでしか見たことのない存在が、倒れる前にぼんやりと考えていたストーリーの中の彼女たちが、実像として目の前にいるのだ。

 

 こんなチャンスはそうそうあるものではない。

 

 そう思う反面、自らの体調もよくわからず、置かれている環境も理事長室という非日常の空間であり、さらに見目麗しい伝説級のお三方に囲まれて…という状況は彼の冷静さを奪っていた。

 

「…どうした?まだ具合が悪いのなら、私がおぶって病院に連れて行くぞ。なに、現役を引いて長いとはいえ、脚の方はまだ錆びついてはいない」

 

 エアグルーヴが研究員の男の内心とは別の方向へ爆走している気がする。違う、そうじゃない、と言いたいが、うまく言葉にできない。そしてエアグルーヴ理事長におぶられるという誘惑もさらに脳を混乱させる。

 

「なんなら私のラボで精密検査でも受けてみるかい?なに、そう遠くないし並みの病院より設備は整っている。ヒトのデータはそう多く蓄積されているわけではないが、そう大きな問題はあるまい」

 

 アグネスタキオンがなぜか話を複雑にしてくる。

 そしてサイレンススズカはその様子を微笑みとともに眺めている。

 

「ふたりとも、ちょっと待って…困ってるのよ、私たちに囲まれて」

 

 そうでしょう?とサイレンススズカが柔らかく暖かな笑みを研究員の男に向ける。

 

 その翠色の瞳はこれまで幾度となくモニター越しに眺めていた。見慣れているつもりだった。

 だが、研究員の男はモニター越しのそれとは比較にならぬ美しさに、吸い込まれそうになる。

 

 このまま倒れ込みたい、意識を失ってしまいたいと思う。

 

 しかし、実体としての彼女たちと相対している今、この研究に着手した動機について、自らの最も恥ずかしく愚かな部分について話してしまうべきだ、と彼は思った。

 

「…最初は、興味本位でした…」

 

 研究員の男はぽつぽつと話し始める。

 

「サイレンススズカさん、アグネスタキオンさん、シンボリルドルフさんの日記を、書庫で見つけて…」

 

 この研究のとっかかりは、まさにその部分だ。最初に、彼女たちのプライベートを覗いたところから始まっている。

 

「ボクにとっては…貴方たちは、歴史上の…URAの歴史に輝く伝説の存在、そのように思っていて…興味本位で、その日記を読んでから、調べ始めたんです…」

 

 静かで、弱々しく話す研究員の男を不憫に思ったのだろうか。

 エアグルーヴがごとり、と灰皿を差し出してくる。

 

「…もし体調が良いのであれば、そして君が話しやすくなるのであれば、吸うといい。なに、君のことは彼女たちも先刻承知だ。話を聞いてやることも吝かでない。そのくらいの器量は年齢とともに備わってきている」

 

 そう述べるエアグルーヴを観察していたアグネスタキオンは、ふふっと笑う。四角四面な物言いにサイレンススズカも苦笑いだ。

 

 ありがたく差し出された灰皿を手に取った下っ端研究員の男は、そのまま立ち上がって窓際に寄った。

 

「座ったままでも構わないんだぞ」

 

 そう言うエアグルーヴに軽く頭を下げ、窓際で下っ端研究員の男は煙草を取り出す。

 

「全く。気にしないと言うのに、律儀な男だな」

 

 そういうとエアグルーヴも立ち上がり、下っ端研究員の男の傍らに立った。

 

 そして研究員の男が手に持つソフトパッケージから、細く美しい指先で一本抜き取った。

 

「…ごくたまにな、吸いたくなるのだ、私も」

 

 エアグルーヴはそういうと、下っ端研究員の手からライターを奪い、火をつけて深く吸い込む。

 そうして、形の良い口元を僅かにすぼめるようにしながら、真っ直ぐに煙を吐きだした。

 

「…君と私の秘密、だぞ」

 

 驚いたまま固まる研究員の男の手に差された煙草はじりじりと燃えて長い灰となり、ぽとりと落ちた。

 

 

 アグネスタキオンとサイレンススズカはその様子を離れたソファで見届けながら、時に顔を見合わせ、苦笑いの表情を浮かべていた。

 

 

 

 




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 皆さま完結お祝いのコメントを多数いただき、誠にありがとうございました。
 改めて皆様にささえられて、一緒に最後まで走っていただけたからこそここまでたどり着けたんだなぁ、と感慨ひとしおでございます。

 これまでロクに物語を書いたこともない私の、文章表現の品質も稚拙極まりない拙作を楽しんでいただき、励ましていただき、文字校正も丁寧にいれていただき、ご意見も頂戴しながらの有形無形のご支援いただきながらで、物語ひとつでこんなに様々な方に反応いただけるというのは本当に幸せなことだな、と改めて思う次第です。本当に皆様ありがとうございます。


 さて、完結の舌の根も乾かぬうちに下っ端研究員編を投稿させていただきました。

 例によって書き出すとあちこち寄り道したくなる性分でして、早速やや目標から逸脱し始めており、さらにこれのオチもまだ決めずに見切り発車でありますので右往左往して長くなるかもしれませんが、引き続きお付き合いいただければ幸甚です。

 引き続きよろしくお願いいたします。


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(98):幕間8 アグネスタキオンはかく語りき

 

 

 トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課に所属する下っ端研究員の男はその日、学園組織における命令系統、その遥かなる頂点である理事長から命じられ、外出をしていた。

 

 勿論その業務命令は理事長自ら発せられ、学園管理本部を管掌する理事から学園管理本部長、施設統括部長、史料課長という歴々を経由したうえで本人に達せられた正式なものである。

 

 正式なものであるからして、外出に当たっては学園の公用車の使用が許可され、命令を受けた当人が必要と思えばあらゆる便宜が図られる。

 

 しかし何のことはない、業務命令書にあった行先は電車で二駅、駅前からは徒歩10分ほどの場所であり、下っ端研究員の男は必要以上の気遣いを見せる史料課長や施設統括部長からの勧めを断り、普通に電車で移動した。

 

 行先は、URAの下部団体であるウマ娘総合研究所である。

 

 下っ端研究員の男も知識としてそのような団体があることは知っていた。

 しかし就職時に受けた説明によれば、URAの組織図に載ってはいるものの、その所在地等はほとんど秘匿されており、形式上はURA本部の中にあるということになっている、と聞かされていた。もちろんその組織の代表者の名前も明かされていない。

 

 理由は様々あるようだが、特に聞かされていたのは膨大なウマ娘のデータを一手に預かり研究に供する場所であるから、ということであり、企業がデータセンターの所在を明かさないのと同じことであり、代表者を公表しないこともメディアの取材対象にされないため、という。

 

 下っ端研究員の男は指定された最寄り駅で降り、教えられた住所に向かいスマホの地図に従い歩いていく。

 

 どうやら目的の場所は大きな公園のような場所にあるらしい。周囲の住宅やらが密集している1ブロックを6つほども束ねたほどのひろさを持つ土地が、出発時に渡された住所そのものを示している。

 

 果たしてこの広大な敷地のどこから入ればよいのだろうか。

 

 着々と目的地に近づいていくスマホの地図を時折眺めながら、下っ端研究員の男は先の心配をしていた。

 

 

 

 

 

 

「やぁ、遅かったじゃないか。どこかで迷子になってしまったかと思ったよ」

 

 下っ端研究員の男は通された応接室で、アグネスタキオンと対面している。

 

 どうにかたどり着いた研究所は、地図の印象通りの公園の敷地内にあり、その奥の管理エリアに紛れるように存在していた。

 

「…もう少し手が込んでいたら見つけられませんでしたよ」

 

 公園の管理棟か何かかと思われた入り口には何の説明書きもなく、ただ普通の鉄扉があるだけであった。そのドアに、URAのウマ娘の横顔をモチーフにしたマークが小さく描かれていて、知らぬ人間であれば、見過ごしてしまうだろう。

 

「まぁそのほうが雰囲気があっていいだろう?」

 

 ドアを開けると、少しだけ長さのある廊下と小さな無人の受付があり、URAのシンボルが大きく描かれたカウンターがある行き止まり。そしてそのうえにぽつんとボタンの無い電話が置かれていた。

 

 受話器を取るとどこかに通じ、来意を告げればカウンター奧、一見ただの壁にしか見えない隠し扉から案内のウマ娘が出てくる、という仕掛けであった。

 

「それで、もう体調の方はいいのかい?」

 

 アグネスタキオンは現役当時と変わらぬ照りの無い瞳で下っ端研究員の男を覗き込むように距離をつめてくる。ふわりと紅茶のような甘い香りと、微かに薬品のような人工物の香りを研究員の男の鼻腔が知覚した。

 

「ええ…お陰様で。その節はご迷惑をお掛けいたしました。なんだかみなさんの折角の時間のお邪魔をしてしまったみたいで…」

 

 下っ端研究員が学園の屋上で倒れた晩、結局エアグルーヴ理事長付き添いのもと、下っ端研究員の男は部屋に帰された。

 どうやら何らかの理由があってアグネスタキオンとサイレンススズカの両名がエアグルーヴの許に訪れていたようだったが、なんの会合かはわからずじまいであった。

 

「ふふっ…なに、大したことじゃあないんだよ。良い口実が出来たんで、旧交を温めようと集まっていただけなのだ」

 

 良い口実、という言い回しが気になったが、それを問いただせるほどには下っ端研究員の男の肝は据わっておらず、アグネスタキオンにも慣れてはいなかった。

 

「まぁ、君もせっかくURAが誇る秘密研究所に来たんだ、私自ら案内しよう。そして見聞を広めてくれたまえ」

 

 そう言うと袖が長すぎる白衣を纏ったアグネスタキオンは立ち上がり、ヒラヒラと下っ端研究員の男をいざなった。

 

 

 

 

 

 

 アグネスタキオンと下っ端研究員の男は研究所内をめぐる。

 

 所内には普通に人間も居ればウマ娘も居て、それぞれが一体のチームとなって職務に精励しているのが見て取れた。人数はそれほど多くはないように思われるが、そもそもがこの研究所のワンフロアあたりの面積は不必要に思われるほどに広く、さらに取り扱い領域も広い。地上3階、地下3階の6フロアある案内板にはこうある。

 

3F 室内トレーニング設備 / 食堂・カフェテリア

2F VRウマレーター設備 / 機器開発本部

1F 執務フロア / 応接室・会議室

 

地下1F 駐車場・搬入口 / 医療・創薬研究本部

地下2F 身体検査設備 / リハビリ設備

地下3F BSL3実験・研究施設

 

 さすがに地下3Fにあるバイオセーフティーレベル3規格の実験施設は立ち入りに関し厳格な制限があるため、地下2Fに存在する入り口までの案内であった。  

 

 地下1階の半分ほどは駐車場であり、スロープを使って外部から自走で入り、大型の機材なども搬入できるように各階へ車両用と思しき荷役用の大型エレベーターまで備えられている。

 

 地下階はおおよそ医療・創薬に関わる必要な設備が並みの大病院以上のスケールで揃えられ、機器も最新鋭の設備を常に揃えているらしい。

 

 そして高名天下に轟くアグネスタキオン博士の専門分野である医療・創薬に関する事柄だけが研究所の全貌かと思いきや、2Fに設置された機器開発本部においては工学的な研究・実験・試作設備までも揃えられ、スタッフの数も多い。

 

 曰く、彼女のアプローチを外部的な機器を使って実現するための、新たな融合分野として成果を上げているという。

 

 ウマ娘総合研究所という名に負けることなく、その研究領域はウマ娘の身体能力に対し総合的、網羅的であり、それぞれの領域の深耕に必要と思われるものが概ね揃えられている。そして驚くべきは先を見越して造られたこの研究所にさらなる拡張の余地がある、という部分だろう。

 

 現在の敷地は公園として一般開放している部分も含めてすべてURAの所有であり、研究所のある立ち入り禁止の管理エリアの敷地も余裕があり、同じ建物をもう1つ建てられるほどだという。 

 

 アグネスタキオンから一通り案内され、ところどころにおいて詳細な説明も行われたが、その口調はとてつもなく早口であり、専門用語も多い。下っ端研究員の男はおおよそ話の半分程度理解できるかどうか、といったところであった。

 

 最後に行きついたのは1F最奥部にある部屋だ。

 

 いくらか上質感のある木製のドアには「所長室」とある。

 

「さぁ、所内ツアーは一通り終了だ。積もる話はここでしようじゃないか」

 

 開かれた扉の先の部屋は、これまで案内されていた研究所内にある「未来感」や「清潔感」とは隔絶された世界であった。

 

 

 

 

 

 

 …とはいえ、所長室内が汚いとかそういうことではない。

 

 広い空間に応接セットとアグネスタキオンの名が彫られた木製の名札に学園の理事長室にあるような重厚な机、そしてそれには似つかわしくないPCのディスプレイが4枚、アームに支えられて…と、ここまでは研究所の持つイメージ通りである。

 

 しかしその脇には理科室のひと隅を再現して詰め込んだような空間があり、薬品棚がひとつの壁面を埋め尽くし、妖しく光る様々な蛍光色の液体が並べられている。

 

 そして応接セットと執務机を挟んで反対側にはケミカルな雰囲気とは真逆の、暖色系でまとめられたカフェスペース。

 

 ざっとみたところ40畳ほどもあろうかという広い一部屋とはいえ、3つのコンセプトが詰め込まれた部屋は、下っ端研究員の男を混乱させた。

 

「こ、この部屋は…」

 

 アグネスタキオンはたじろぐ下っ端研究員の男を見て愉快そうに笑う。

 

「私がこの職を引き受ける条件だったのだよ、この空間は。まぁ若かりし頃への憧憬を再現したと言えば、些かセンチメンタルに過ぎるだろうかねぇ」

 

 アグネスタキオンは妖しげな笑みを浮かべながら言った。

 

「まぁもうお分かりだろうが、もろもろが非公表になっているこのウマ娘総合研究所所長が私、アグネスタキオンだ。君が私たちの日記を起点に、あの時代のことを調べていることはエアグルーヴ理事長から聞いている。なんなりと知りたいことを訊くと良い」

 

 そう言いながら腕を組んで胸を張るアグネスタキオンは、昏い瞳の中に何か面白がるような雰囲気を湛えて下っ端研究員の男を見据えていた。

 

 

 

 

 アグネスタキオンはエアグルーヴから、研究員の男について、依頼を受けていた。

 

 おそらく研究員の彼は、現在の研究に対して方向性を見失っている、エアグルーヴは彼女から見た私見として、そのようにアグネスタキオンに告げていた。

 

 エアグルーヴ自身は自らが方向を指し示してやることもできたが、それでは業務命令に等しく、彼の自由な発想と研究を妨げてしまうかもしれない。エアグルーヴは彼に対し、どのような方策を取るべきかを悩みに悩むことになった。

 

 そのような時期に、理事長室に別件でアグネスタキオンとサイレンススズカが来ていた。そしてその時、旧交を温めるまえに、と日課の学園の見回りを実施した結果、研究員の男を文字通り、理事長室に担ぎ込むことになった。

 

 その時の研究員の彼の表情を見て、エアグルーヴはひとつ、閃いたのだ。

 

 十分に研究員の彼が当時の知識をため込んだ今ならば、当時の仲間たちの話を解することができるに違いない。

 

彼の研究に出てくる当時の仲間たちには以前に彼の報告書を共有していたから、エアグルーヴがしたのは彼の研究の助力を請うことだけだった。

 

 それに面白そうだと最初に反応を寄越したのがアグネスタキオンである。

 

 反応を受け取ったエアグルーヴは、アグネスタキオンならば、畑は違うが研究者であり、彼を導いてくれるかもしれない、そう考えた。

 

 エアグルーヴはアグネスタキオンとスケジュール調整の上、研究員の男に業務命令を発したのだった。

 

 

 

 

 

 

「君の研究の中間報告書はエアグルーヴ理事長から見せてもらったよ。我々の現役時代について、さまざまな角度から調べているのだろう?」

 

 どのようなコミュニケーションが望ましいのかと頭をフル回転させている下っ端研究員の男を尻目に、アグネスタキオンは口火を切る。

 

 研究員の男はアグネスタキオンに圧されるようにコクコクと頷いた。

 

「私の日記を見つけたのだろう?些か覗き見というのか…趣味的にどうかとは思うが…学園の書庫に残っていたとはね…さすがの私も過去のプライバシーに関しては抜かりがあったようだねぇ」

 

 ニヤニヤとしたアグネスタキオンの視線を研究員の男は痛く感じ、苦々しい表情を浮かべる。

 手に取ったこと自体はまだいいが、歴史上の偉人としてとらえていたがゆえに読むこと自体にはその当時、抵抗感を感じなかった。だからこそ研究員の男は報告書まで書くことができた。

 

 しかしこうして現在、当人を目の前にしては本来保護されるべき彼女たちのプライベートを覗いてしまったという罪悪感からは逃れられない。

 

 しかも彼女たちが当時の美貌を時間の概念を無視したかの如く保っているともなれば、その自らの行いに羞恥心はさらに募る。結果として下っ端研究員の男は自らの性癖が軋る音を自らの内部から聞いた。

 

「それについては…お詫びのしようもございません…」

 

 アグネスタキオンは愉快そうにさらに含み笑いを大きくする。

 

「別に君を責めたりはしないさ。それにもうだいぶ昔の話だからね。実のところ何を書いたのかも朧げな記憶しか残っていないよ」

 

 アグネスタキオンはそう研究員の男に言ったが、それは嘘であった。

 

 かれが最初の報告書に転載した日記は、装蹄師の男と出会った当時のことが書かれていた。あの冊子自体にはそれほど恥ずかしいことを書いた記憶はない。しかしそれ以降の数冊は装蹄師の男と勉強会を通じてやり取りを重ねていた時期であり、さまざまな感情が渦巻いて、今にして思えばだいぶ正気を失っているような記述をしている。

 

 もっとも、後年になってエアグルーヴが理事長となった時に無理を承知でトレセン学園にねじ込み、当該の部分が含まれる冊子は書庫を漁って回収していたから、アグネスタキオンとしてはこの報告書を見たとき、心底安堵したものである。

 

「エアグルーヴ理事長に最近提出した中間報告によれば、最初の報告書にあった読み解けない部分に装蹄師の先生が嵌るということに、確証を持っているんだろう?」

 

 アグネスタキオンは下っ端研究員の顔色を面白がるような視線でなぞる。

 

「それはまぁ…エアグルーヴ理事長からの示唆もあって、大まかなアウトラインは認識しています。ですが、その裏にある一人一人の心情までは窺い知ることはできないんですよね…」

 

 研究員の男は懊悩を表情に浮かべながら独り言のように呟く。 

 

「ふむ…君はそのような、我々の機微まで研究対象としたいと?」

 

 そう言われるとなかなかに繊細な話題である。

 

「まぁ…そういうことになります。ウマ娘の皆さんの感情の深さというのか…本能的な部分の強さというのは、今の社会での活躍においてもエネルギーの根幹の部分ではないかと思うので」

 

 それを聞いたアグネスタキオンはほう、と表情の色を変える。

 

「なかなか鋭い指摘だねぇ…感情がどれだけ競走成績に影響するか、という形で私のテーマにもあるのだよ、そのような考え方は」

 

 アグネスタキオンはにやりと笑う。

 

「…装蹄師の先生と私は、最初は最悪の出会いだったよ。もちろん、後から考えれば、アレは私が悪かったんだがね…」

 

 アグネスタキオンは昔を懐かしむように話し出す。

 

「彼が造った蹄鉄を校内で着けていたウマ娘が居てねぇ。私の研究にきっと役に立つと思って、勢い込んで彼の工房に駆け込んだんだ」

 

 ククッと彼女は笑う。

 

「彼の装蹄技術と私の知識を組み合わせれば、もっとウマ娘が速く駆けることも可能になる、私は熱にうかされるように、そう言った。彼はなんと答えたか、君は分かるかい?」

 

 アグネスタキオンの視線は興味深そうに下っ端研究員の男を見つめてきた。男は少し俯き、じっと考える。 

 

 これまで調べてきたものの中に、直接的に装蹄師の男が出てきたものはごく少数しか存在しない。

 

 それは装蹄師の男がトレセン学園から姿を消すことになったサイレンススズカをめぐる騒動、その発端となった蹄鉄のレクチャー記事だ。媒体によって筆致というか論調が異なるという珍しいものに仕上がっていたのが印象的である。

 

 そこから推測される装蹄師の男のキャラクターを、研究員の男は脳内で組み立てて検討し、さらに蹄鉄やレースにまつわるレギュレーションの変遷も踏まえて、回答を出す。

 

「…怒られた、とかですかね…」

 

 レースの高速化はいつの時代も難しい問題だ。

 時代が進むにつれ彼女たちウマ娘側の肉体的、走行技術的進化が積み重ねられて高速化するのみならず、環境も良くなり、蹄鉄をはじめとした装具類も進化し…となれば、元が速さを追求する競技であるから、高速化を止めることなど出来はしない。

 

 出来はしないのだが、それ相応の対策も同時にとられなければ、事故が起きた時の悲惨さはエンターテイメントとして許容できる枠を超えてしまうし、それはひいては彼女たちの世界、URAの死をも意味することになる。

 

 直接走りに関わる部分を担当する装蹄師という立場では、安易な高速化は許容できなかったのではないか、そう下っ端研究員の男は推測した。

 

「…ククク…よく調べているねぇ。その通りだよ。怒られたさ。それはもう、こっぴどく。この私の浮かれたテンションを地の底まで叩き落とすような辛辣なものだったよ」

 

 心底可笑しそうにアグネスタキオンは笑う。

 

「でもねぇ、彼はただ私を叱るだけではなかった。ちゃんと私を見て、私のしたいことを彼らが認められる形でならば手伝ってやってもいい、そう言ったんだ」

 

 彼女は下っ端研究員の男を口角を上げながらも真剣な瞳で射抜く。

 

「…彼のその言葉が、この研究所となって結実していると言えば、要約が過ぎるかい?」

 

 アグネスタキオンは妖しげな笑みを絶やさず、下っ端研究員の男を見つめている。その瞳は彼を通して、次元の違うどこかを見つめているかのように、研究員の男には感じられた。

 

 

 

 




皆様お久しぶりです。ご無沙汰してしまい申し訳ありませんでした。

まぁ本編完結してるからゆっくりやろうという甘えた考えと、迎えてしまった決算期の押し寄せる業務、加えてメジロ讃歌なる前から温めてたネタが活かせそうな公式からの燃料で別の話を書き始めたり(未完成かつ未公開)で時間が空いてしまいました。全て言い訳です。すいません。

で、今回の話も肝心なことが聞けてない気がするんですよねぇ…




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(99):幕間9 研究員の報告書 ~アグネスタキオン~

 下っ端研究員の男はウマ娘総合研究所の訪問に関する報告書を提出した。

 求められたわけではなかったが、このような機会を設けてくれたエアグルーヴ理事長へ対する礼儀だと思われたのだ。

 

 

 

 アグネスタキオンは、あのあとも滔々と話し続けた。

 

「…彼の言葉が、この研究所となって結実していると言えば、要約が過ぎるかい?」

 

 その要約の過ぎる言葉の解説を、もてなしに出された紅茶の甘さ同様にカロリーたっぷりに語ってくれた。

 

 しかし彼女の多くの言葉も詰まるところは、彼女のあの所長室に象徴され、集約されていたように思う。

 

 トレセン学園での彼女のさまざまな経験や育まれたやや奇妙な友情、そして研究者としての原体験。

 それを彼女なりに生涯を掛けて拡張し続けた結果が、あの研究所である。

 

 そしてその核となり、原動力となる部分には装蹄師の男が居た、ということだ。

 

 アグネスタキオンは装蹄師の男との交流の中で、一人でできることの限界を知った。

 

 装蹄師の男は職人としての分限を知っており、与えられた課題を一人で解決できないのなら誰を頼り、どのようなことをすれば何ができるのかというスタイルで、博物館の片隅に収蔵されていたイクノディクタスのトレーニング用蹄鉄を造り上げたという。その彼の仕事への向き合い方が、孤独に研究を続けてきたアグネスタキオンの姿勢に影響を与えた。

 

 職人としての腕と、本人の無意識なプロデュース能力を目の当たりにし、彼女自身は関係者の一人でありながらもそれを冷静に眺めることが出来たおかげで、彼女は装蹄師の男のスタイルを取込み、消化し、彼女の培ってきた能力と掛け合わせた結果、彼女の研究効率は著しく向上した。

 

 一人ではカバーしきれない領域を、少しずつ信頼できる研究者を仲間として取り込み、プロデュースし、自身の研究と掛け合わせ、さらに拡張していく。それを怠りなく行い続けた。

 

 その結実した姿がウマ娘総合研究所であり、現在も多大なる成果を生み出し続けるイノベーターとしてのアグネスタキオンの姿であった。

 

 

 

 一方で、ただ装蹄師の男から仕事の在り方を学んだ、というだけなのかということに関しては、疑問が残る。

 

 

 これらを嬉々として語るアグネスタキオンの瞳には噂に違わぬ狂気の光があったが、それだけではないように感じられたのだ。

 

 それが何かを見抜くには下っ端研究員の男の経験値は大いに不足していたけれども、純粋な装蹄師の男への敬意だけが彼女を突き動かしたとはとても思われない。

 

 彼女は利に動かされるようなタイプにも見えなかったが、そうであるがゆえに彼女の行動原理はもっとシンプルかつ個人的なものであるように思うのだ。

 

 もちろん、彼女自身の口から語られた、自らの脚の脆さも理由のひとつではあるだろう。

 

 しかし装蹄師の男に敬意とともに向けられた、彼女の口からは語られていない部分の感情もまた、無視できないほどには影響を与えたのではないか。

 

 そんな疑問を書き添えて、エアグルーヴ理事長への報告書は結ばれていた。

 

 

 

 

 

 

 誰も居なくなった宵の口、ひとり理事長室で報告書を読んだエアグルーヴは、インタビュー内容とは別にまとめられた下っ端研究員の男の主観を多分に含んだ結びの部分を読んで、愉快そうに口角を上げた。

 

 なかなか鋭いじゃないか、とひとりごちる。

 

 研究員の男をアグネスタキオンの許に送り込んだのは正しかったのだな、と思う。

 

 これまで、アグネスタキオンやサイレンススズカはもとより、シンボリルドルフ、そして自分自身がここまでの栄達を果たしたのは、間違いなく装蹄師の男があってこそだ、と考えていた。

 

 もちろん装蹄師の男の後輩が果たしている役割も小さいものではない。

 

 しかし私たちの中心は常に装蹄師の男、そのヒトであるように思われた。

 

 特に何が目立つわけでもない装蹄師の男に、なぜ我々は惹かれ続けるのであろうか。

 

 トレセン学園を卒業してからこれまでの、競走ウマ娘から退いた後に経過した時間において、異性との交流がなかったわけではない。

 

 周りには見た目が良い男ならそれこそいくらでもいたし、何なら見た目だけでなく中身まで備わっている男もまた、数多といた。

 

 自慢というわけではないが、私のような明らかにとっつきづらいウマ娘に果敢にアタックしてくる男も居なかったわけではない。試しに、とばかりに付き合ったことすらある。もちろん長続きはしなかったが。

 

 結局のところ私だけではなく、他のウマ娘たちもすぐそばに居る縁のありそうな男たちには満足することはなく、装蹄師の男を目指した。

 

 果たしてそれは何故なのか。

 

 あるいは、多感な時期に装蹄師の男に関わってしまったが故の呪いとでも言うべきものなのだろうか。 

 

 エアグルーヴ自身、過去に何度も自分に問うていたが、答えが出たことはない。

 

 

 あるいはこの研究員の男が、その答えにたどり着くのかもしれない。

 

 

 多分に他力本願であることはエアグルーヴ自身もよく、理解している。

 

 そしてもし、彼が答えにたどり着くのならば、その過程において自分自身に、インタビュー形式の刃が向けられることも覚悟しなければならないだろう。

 

 果たして研究員の男は、我々の胸のうちまでたどり着き、踏み込んでくるだろうか。

 

 踏み込まれた時、私はどう答えるのだろうか。

 

 ぼんやりとそんなことを考えながら、エアグルーヴは無意識に机の引き出しを開ける。

 

 そこには使い込まれた灰皿とシガレットケース、そしてライター。

 

 すこし躊躇いながらもそれを取り出すと、窓際に灰皿を置き、細い指でシガレットケースから一本取り出し、さらに数瞬の躊躇いのあと、火を点ける。

 

 エアグルーヴは時々思い出したように1本だけ嗜む煙草の煙を感じながら、悪癖だとはわかりつつも、今のところはその習慣を改める気にはならないでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




短くて恐縮です。
仕事がアホ程忙しいという言い訳もありつつ、そもそも方向性が迷子です笑


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(100):幕間10 払暁のサイレンススズカ

 

 

 

 払暁の朝靄の中、一人のウマ娘が駆けていく。

 

 まだ陽が昇り始めたばかりの時刻に、地を蹴るリズミカルな足音はその音を耳にした者の目を奪う。

 

 尤も、最速の機能美と謳われてレース界を席巻した、観る者を陶然とさせる走りを目にすることが出来た幸運なものは、朝が早すぎる老人か、近頃絶滅危惧職種となっている新聞配達員くらいのものであった。

 

 

 河原の土手の上、よく整備されたランニングコースはサイレンススズカがトレセン学園の生徒であったころと少しも変わっておらず、朝の静謐な空気の中を駆けていけば、まるでタイムスリップしたかのような懐かしさを感じさせてくれる。

 

 彼女がターフを去ってから長い時間が過ぎたが、走ることへの情熱は些かも衰えてはいない。

 

 毎朝、夜も明けきらぬ時間からひとりでゆっくりと流すひと時は、モーニングルーティンとして定着し、彼女の幸せな日常の一部を形成していた。

 

 

 明後日にはまた、今の棲み処である米国へ戻る予定にしている。

 

 従ってこの懐かしさを味わえるのも、今日と明日のみ、ということだ。それに一抹の寂しさを感じるが、今は日々のスケジュールがどうにもならぬほど立て込んでいるという立場でもない。また来たくなったらいつでもここに来ればいいことだ。

 

 一歩一歩を確かめるように走ると、しっかりと脚に馴染んだシューズが頼もしく反応を返してくれていることに満足する。

 

 明るくなり始めた河原で、心地よい風に栗毛を靡かせながら、サイレンススズカは気持ちよく駆け続けていた。 

 

 

 

 

 

 

  

 夜も明けきらぬ時刻、下っ端研究員の男は眠い目をこすりながら缶コーヒーと煙草という出で立ちで公園のベンチに居た。

 

 昨日夜にアグネスタキオンから連絡があり、今のこの時間、この公園で煙草を吸って待つように、と一方的に用件を告げられ、電話は切れた。

 

 訳も分からずにそれに従った理由は自分でも理解していなかったが、強いて言うならば今日が土曜日であり、彼は休みであったから、というところだ。

 

 昨夜も遅くまで調べ物をしつつ、律儀にも指定時間に間に合うように目覚ましをかけ、そのまま机で事切れていた自分がここまでこられたのは幸運だったと言っていい。

 

 アグネスタキオンの目的も不明なまま家を出、道すがら彼女に指定された煙草をコンビニで買い求めた。ついでに買ったブラックのコーヒーには目覚ましの効果を期待した。

 

 しかし結局、その効果はあまり見られなかった。ほぼ徹夜明けといっていい下っ端研究員の男の頭はぼんやりとしたまま、指定された公園のベンチに腰掛け、ただ煙草の煙を空に立ち昇らせていた。

 

 早朝の街もまた、未だ眠りから覚めやらぬといった雰囲気であり、人の気配はほとんど感じられない。

 

 トレセン学園からそれほど離れていない、河川敷近くにある指定された公園は夜とも朝ともつかぬその時間、彼だけの独占物であるかのように思われた。

 

 早朝の静謐な、密度の詰まったような空気の中で吸う煙草はとても美味しい。

 アグネスタキオンから指定されたゆえに普段彼が吸っている銘柄とは違うものだが、その味の違いも新鮮だった。近年の煙草にはない、ずっしりと重いタールが心地よい。

 

 耳をすませば、遠くに河川敷のランニングコースを走る足音が聞こえる。完璧に調律されたかのような一定のリズムは、だんだんと近づいてくるように感じた。

 

 その足音がいくらかピッチが上がる。目を閉じて銜え煙草でそれを聞いていた下っ端研究員の男は、公園のすぐそばまで近づいてきた音を感じていた。

 

 こんな朝早くに走っているウマ娘もいるのだな、とぼんやりと思った。

 

 そしてそれは、彼の座るベンチの横を通り過ぎようとした瞬間、唐突にペースを緩め、止まった。

 

「…おはようございます」

 

「あぁ…はい……おはようございます」

 

 声をかけられたことで初めてその存在を認識したかのように、下っ端研究員の男はそのウマ娘の顔を見た。

 

 先ほど買い求めたのは酔うようなものを含まないブラックコーヒーであったはずだが、と手元の缶を再度眺める。

 

 間違いなくブラックコーヒーを手にしていた。

 

 となれば、目の前の光景は現実なのであろうか。

 

 少し上気し、透けるような白い肌を赤らめて息を整えている目の前のウマ娘。

 

「…ふふ…会うのは二度目、ね。トレセン学園の研究員さんは、こんな時間に何をしてるのかしら」

 

 サイレンススズカは艶然とした微笑みとともに、下っ端研究員の男を興味深そうに観察していた。

 

 

 

 

 

 

 

「懐かしい香りがしたから、つい…引き寄せられちゃった…」

 

 サイレンススズカは下っ端研究員の男に断りを入れ、隣に腰を下ろした。

 

 彼女からはほんのりと、ここまで走ってきた熱を感じる。それは冷えていた朝の空気とは明らかに違う、ウマ娘の生の熱量を感じさせた。

 

「懐かしい香り…ですか?」

 

 彼女はこくんと頷くと、研究員の男が手にしていた煙草を指した。

 

「昔…お世話になったヒトが吸っていたものだから」

 

 微笑みながら話す彼女はすっかり息を整え、落ち着きを取り戻しているように見える。

 以前生徒会室で見た時のままの、研究員の男が画面の中で見続けたサイレンススズカそのものだった。

 

「お世話になったヒトというのは…装蹄師の先生のこと、ですかね…?」

 

 どぎまぎしながら研究員の男は話題を転がすことを試みる。

 

「そう…装蹄師の先生も、同じ煙草を好んで吸っていたわ」

 

 研究員の男が手に持っていたパッケージに視線を寄せながら、サイレンススズカは答える。

 

「…そうだったんですか…」

 

 アグネスタキオンからの煙草の指定の意味が、解けていく。

 

 おそらく彼女はこの時間帯、サイレンススズカがこのあたりを走ることを知っていて、研究員の男と引き合わせるために煙草を指定したのだろう。

 

 粋な引き合わせ方のような気もするし、偶然に頼り過ぎている心許ない方法のような気もしたが、そこに怒りなどは沸かなかった。

 

「…装蹄師の先生というのは、一体、どのような方なんですかね…」

 

 研究員の男はぽつりと呟く。

 

 それはサイレンススズカに対する問いというよりは、単純な疑問が口を突いて出た、という類の問いだった。

 

「…うーん…一言では、難しいのだけれど…」

 

 彼女は形の良い顎に人差し指を当て、少し考え込んでいる。

 

「…私にとっては、神様のひとり、かしら…」

 

 サイレンススズカはゆっくりと、言葉を紡いだ。

 

「…神様、ですか?」

 

 あまりにも大きな存在を示す言葉に、研究員の男は思わず首を傾げる。

 

「えぇ…私の走りには、いつも先生の蹄鉄があったから」

 

 サイレンススズカは穏やかな笑みを浮かべて話を続けた。

 

「先生が学園を…去ったあとのことよ。怪我で療養中の私に蹄鉄を贈ってくれたの。不思議な形の…すごく綺麗で、美しい蹄鉄」

 

 指を胸先で組み、その時のことを思い出すように瞳を閉じて、サイレンススズカはゆっくりと語る。

 

「私のせいで、学園を追われるように去った後も…先生は私のことを案じて、私の脚を信じて…再起を疑う様子もなく、治った後の私に、期待してくれたの」

 

 彼女の表情はどこまでも穏やかだ。

 

 まるで祈りのように組んだ両手の内に、愛しい思い出を包み込んでいるような顔つきをしていた。

 

「私はその想いに応えたくて…治療もリハビリも、その一心でやり遂げることができたわ」

 

 彼女はそっと瞳を開くと、その翠色の瞳で遠くを眺める。

 

「そして復帰して、レースに出て…前年、走り切れなかったローテーションを今度は全部、勝って…アメリカに渡ったの」

 

 遠くを眺める彼女の瞳は、どこかに憂いがあるような気がした。

 

「私…許せなかった。自分だけレースの世界に戻って…悲劇から復活したヒーローのように扱われているのに…先生は、舞台裏に消えたまま…そんな世界も、その世界で走っている自分も許せなかった…」

 

 研究員の男は煙草のソフトパッケージを無意識に握り込み、潰れかけたパッケージがかさりと音を立てた。

 

「…吸って、いいのよ?」

 

 サイレンススズカは研究員の男に微笑む。その瞳は、むしろその煙草の香りを欲して、せがんでいるかのようだった。

 

 研究員の男はその期待に応えるように、新たな一本に火を点けた。それを見届けて、彼女は目を細めてにこりとした。

 

「あの、ひとつ、聞いても…?」

 

 研究員の男は煙を漂わせながら、口を開いた。

 

「なにかしら」

 

「その…アメリカでも、先生の蹄鉄を?」

 

 彼女は頷く。

 

「私、日本から逃げ出したのに…先生は、アメリカのバ場データを取り寄せて、それに合わせたものを送ってくれたわ。信頼できる現地の装蹄師やアフターフォローをしてくれる蹄鉄メーカーの段取りも。それがなければ、アメリカで結果を出すことは、難しかったと思う」

 

 サイレンススズカは視線を落とし、自分の膝元を見つめていた。

 

「……どうして、装蹄師の先生は、そこまでスズカさんのことを想っていたんでしょうかね……」

 

研究員の男は呟く。

 

「さぁ…私には、わからないわ」

 

彼女は小さく首を振ると、空を見上げた。

 

「ただ……そう思うと、やっぱり……神様みたいなヒトなのかしら……」

 

そう言いながら彼女は立ち上がり、軽くストレッチを始める。

 

「…そういえば」

 

 サイレンススズカはふと思い出したように研究員の男に視線を寄せる。

 

「今、履いているこのランニングシューズにも、先生の手が入っているの。先生は引退した私の脚を、今も支えてくれているわ」

 

 彼女は足元に視線を落とすと、足踏みをしてみせる。

 

 それはまるで、装蹄師の男への感謝を全身で表現しているかのようにも見えた。

 

「…装蹄師の先生は、今はどこに…」

 

 研究員の男がぽつりと漏らす。

 彼は装蹄師の男について、あまりにも知らなすぎた。

 

 しかし、サイレンススズカが装蹄師の男を語る姿は、彼が彼女に残した足跡の大きさを物語っていた。

 

 サイレンススズカはふふっと微笑むと、少し照れくさそうに頬を染めた。

 

「…そうね。あなたになら、教えてもいいかもしれない」

 

 サイレンススズカはそう言うと、研究員の男の耳に唇を寄せた。

 

「でも、今はまだ、ダメ。エアグルーヴに怒られちゃうわ」

 

 耳打ちされた言葉に、研究員の男は目を大きく開く。

 

「…エアグルーヴ理事長に…?」

 

 思わず漏れ出た声に、サイレンススズカがくすりと笑う。

 

「…そろそろ、戻らないと」

 

 サイレンススズカは悪戯っぽく笑みを浮かべると、その場でくるりと踵を返した。

 

「また会える日を楽しみにしているわ、研究員さん」

 

 彼女はそれだけを言い残し、美しい翠色の流し目を研究員に送ると、駆け出していく。

 

 彼女の残り香は甘く、そして爽やかに彼の鼻腔をくすぐった。

 

 サイレンススズカはあっという間に遠ざかっていき、その姿は見えなくなった。

 

 残された研究員の男はひとり、ただぼんやりとしていた。

 

 彼女の姿が視界から消えると同時に、煙草はフィルターまで燃え尽き、灰が地面に落ちた。

 

 

 

 



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(101):幕間11 研究員と老紳士の邂逅

 

 

 下っ端研究員の男はある休日、レースを観に来ていた。

 

 レースといっても、普段からかかわりのあるウマ娘のレースではない。

 

 数少ない旧知の友人に早朝というには早すぎる時間に拉致されるようにクルマに押し込まれ、連れていかれたのは霊峰富士に抱かれるようにある、国際格式のサーキットであった。

 

 数少ない友人が言うには、今日このコースで開催されるのは国内最速のフォーミュラカー、いわゆるF1のような形状のマシンのレースだという。

 

 出ているチームやドライバー、レースのレベルの高さのわりに観客が少なく、ゆったりと観られるのが良いのだとは友人の弁だ。

 

 確かに友人の言う通り、広大な敷地ではあるが人はまばらで、グランドスタンドも空席が目立つというよりヒトが疎らにしかいない、という有様だった。

 

 ウマ娘のレース場の雰囲気を基準に考えれば、あまりにも寂しいと言わざるを得ない。

 

 メインゲート入場時に渡されたパンフレットに記されているタイムスケジュールによれば、フォーミュラマシンによるメインレースは午後だが、それまでにフリー走行や他のカテゴリーのレースなど、ぽつぽつと走行スケジュールがあることがわかる。

 

 今日の最初の走行は、メインレースの前座となる、軽自動車によるワンメイクレースの練習走行のようだ。

 

 下っ端研究員とその友人は、指定された駐車場にクルマを止めたのち、メインスタンド脇に設けられた喫煙所で一服しつつ、コースを挟んで反対側にあるピットで整備や暖気運転をして走行準備に余念のないマシンたちを眺めていた。

 

「……?」

 

 気が付くと下っ端研究員とその友人しかいなかった喫煙所に、音もなく歌舞伎町の黒服のようなスーツ、サングラスといった出で立ちの男が3名現れていた。遠巻きに彼らを囲むように現れる。

 

「…おい、お前なんか悪いことでもしたんか」

 

 友人が下っ端研究員にこそこそと話しかける。

 

 研究員はふるふると首を振る。そもそも君と一緒にここに来たばかりではないか。

 

 さすがにこの状況では居心地はよくなく、研究員と友人は無言のうちに煙草を消して喫煙所を出ようとした刹那、黒服の一人が声を駆けてきた。

 

「トレセン学園史料課の方ですね?プライベートでお越しのところ大変申し訳ございませんが、我々とご同行願えませんでしょうか」

 

 言葉こそ丁寧だが、どうみてもカタギではない迫力に、研究員とその友人はそれを拒否する選択肢を思い浮かべることすらできなかった。

 

 

 

 

 

 

 黒スーツにサングラス、短髪オールバック×3人というおよそ堅気には見えない男たちに連行されて、グランドスタンド下の地下道を通り、関係者パスがなければ入ることはできないピット裏パドックに彼らの顔パスで通過したのち、さらにいくつか、警備員がクレデンシャルチェックをする検問を通り過ぎ、最終的にピットビル上層階にあるプライベートラウンジに放り込まれた。

 

「こちらでしばしお待ちください」

 

 黒服はそう言って部屋を出ていき、入れ違いにケータリングサービスの女性がお茶を出していった。

 

「おい…一体どうなってるんだよ。お前の知り合いでもいるのか?」

 

 友人は下っ端研究員に問う。しかし研究員は首を振る。そもそもウマ娘レース界の端に身をおいているだけで、自分の属する業界においても伝手らしい伝手はない。それが畑違いのモーターレーシング界に関わりなどあろうはずもない。そもそもこのサーキットだって友人に連れられて初めて訪れたのだ。

 

 部屋のコース側は床から天井までガラス張りになっている。天井からは大型モニターが3面吊り下げられており、ラップモニター、場内中継が常時表示されていて、快適にレースを観戦できる配慮が行き届いていた。

 

「こういう部屋があるのは知ってたけど…入るのは初めてだ…」

 

 友人曰く、サーキットは紳士の社交場という側面もあり、レースチームなどがスポンサーをもてなすためにこのような部屋が用意されていているのだという。  

 

 ごく一部の関係者が招待されるか、一般客が何らかのイベントなどに当選するかなどしないとなかなか立ち入ることのできない場所、ということらしい。

 

 友人の勢いのある興奮した解説に、URAのレース場にもたしかにそのようなエリアは存在するな、と研究員の男は一人、この空間に納得した。  

 

 しかしここに連れてこられた理由は相変わらず判然としない。

 

 自らがトレセン学園の人間であることを黒服は知っていた。

 

 しかしあくまでも友人とプライベートで訪れただけのこの場所で、声を掛けられる理由がわからない。

 

 研究員の男は真下のピットでのレーシングマシンの暖機運転の爆音すらささやくような音になるほどに完璧な防音を施された部屋で、考えを巡らせた。

 

 そして黒服の一団、その記憶にたどり着いたとき、ラウンジの扉が再び開かれ、仕立ての良いスーツとハットに身を包み、杖をついた老紳士が入ってきた。

 

「おぅあんちゃん、また会ったな」

 

 それは府中のウマ娘博物館で出会い、喫茶ブロンズで拉致されていって別れた老紳士であった。

 

 

 

 

「俺んとこの若いモンがあんちゃん見かけたって言うんでな。探させたんだ」

 

 部屋のソファに腰掛けて、帽子を取りながら老紳士は煙草を取り出し、くつろいだ様子だ。両脇には先ほどの黒スーツが二人、棒を飲み込んだような直立姿勢で立っている。

 

 対面に研究員の男とその友人は座り、事情の分からぬ友人は突然の貫禄ある老人、しかも取り巻きが黒スーツ一団という様子から顔色を悪くし、若干冷や汗のようなものまで浮かべている。

 

 その様子を見て老紳士ははたと気づいたらしく、懐に手を入れる。

 

「そういやあんちゃんにも自己紹介してなかったな。連れの兄ちゃんも、そんな緊張すんな。俺はこういうもんだ」

 

 研究員と友人の前に、懐から取り出した名刺を滑らせてくる。

 

 会社名、役職名、名前が毛筆のような書体で書かれている。

 

 会社名はURA関係者なら知らぬものが居ないほど縁が深い大企業の名前、役職は代表取締役会長、とある。その名刺を見た瞬間、下っ端研究員とその友人は椅子ごとひっくり返りそうなほどの衝撃を受けた。

 

「お……おおお、大企業の会長さんじゃないですか……!」

 

友人が叫ぶ。

 

「そうだぞ」

 

老紳士が鷹揚に答える。

 

「ええええええ!?」

 

「おぉ、いい反応するじゃねぇか、そっちの若いの」

 

「あの、どうしてここに」

 

「そりゃあ、ウチに関係が深いチームが出るからな。まぁ俺は名代みたいなもんだが。あんた、クルマのレースは好きかい?」

 

友人はこくこくと頷く。

 

「そりゃあよかった。まぁ今日このサーキットに来てるんだからそうだよな。よし、二人ともついてきな」

 

 

 老紳士が立ち上がると、ついてくるように二人に促した。

 

 

 

 

 ピットビルを降りてピット裏を歩く。

 

 各チームがここまでマシンや機材などを運んできたトレーラーを付けており、機材やタイヤが所せましと並べられ、関係者が行き交い、ところどころで談笑したりしている。

 

 老紳士についていくと、ひとつのピットに入った。

 

「あ、会長!お疲れ様です!」

 

 そこには老紳士に最敬礼で声をかける、ウマ娘が居た。レーシングチームのピットシャツを身に着けているあたり、このチームの関係者のようだ。

 

「おお、忙しいところ悪いな。ちょっと見させてもらっていいか。俺の客だ」

 

「モチロン!あ、でも手は触れないようにお願いしますね。危ないものもありますし、いま最終調整中なんで…って、釈迦に説法か」

 

 そういってモデルのような肢体のウマ娘はこちらをちらっと見て微笑む。

 

「会長のお孫さん…とかです?」

 

「違うわ。あ、お前さんもちょっとは関係あるかも知らんぞ。トレセン学園の職員サンだ」

 

「え!ちょっとじゃないじゃないですか!私卒業生ですよ!挨拶させてくださいよ!」

 

 老紳士は苦笑いしながら研究員とその友人に向き直る。

 

「あー、こいつはこのチームの監督、元競走ウマ娘で元レーシングドライバーの…」

 

「ブレイクランアウトです!主な勝利レースは共同通信杯です!さあ、どうぞどうぞ」

 

 ペコリと頭を下げるブレイクランアウトと名乗ったウマ娘は、ピットの中に誘う。

 

 後ろをついていくとパーテーションで仕切られた先に、研ぎ澄まされた刃物のように美しいレーシングマシンが佇んでいた。

 マシンに取りついて調整を施しているメカニックたちの中にも数人、ウマ娘がいる。

 

 カラーリングは施されておらず真っ白な車体に、いくつか小さくスポンサーロゴが急ごしらえのように添えられている。研究員の男はその中にURAのロゴがあることに気が付いた。

 

「うちは今年から、1台だけでの参戦の新参チームだから、バタバタしちゃってねー」

 

 ブレイクランアウトと名乗ったウマ娘が耳をぴこぴこさせながらニコニコと話す。

 

「小さな所帯で悪かったな。仕方ねえだろ、急にアレが思いついちまったんだから」  

 

 老紳士は苦笑いしながらブレイクランアウトに苦言する。

 

「この会長さんのお友達がね、ウマ娘の可能性を拡げるひとつの挑戦として、レースにでも出てみたらどうだ、って言うものだから。ちょっとお力をお借りして、ここまでたどり着きました」

 

 研究員の男は先ほどゲートでもらったパンフレットを見直す。

 確かに、エントリーリストの末尾に

「ウマ娘レーシング」

 というなんとも捻りの無いチーム名のエントリーが記されていた。

 

 確かに引退後、レーシングドライバーに転向したウマ娘も居るというのは知っていたが、チームオペレーションからウマ娘、というのは聞いたことがない。

 

「おいおい国内トップフォーミュラだぜ…伊達や酔狂でできるもんじゃない…」

 

 友人はぶつぶつと小声で囁いてくる。

 

「まぁまずは出て、チームとして鍛えて。そのうちウマ娘の育成ドライバーを乗せて勝つから、応援してくださいね!」

 

 ブレイクランアウトは艶然と、しかし愛嬌たっぷりの笑顔で彼らにそう告げた。 

 

 

 

 

 

 

「…とまぁ、そんなわけで、俺はあのチームの後見人のひとり、ってとこだ」

 

 パドック端の喫煙所で、老紳士と研究員は煙草を吹かしている。友人はこれ幸いとピットに張り付いて、人手不足らしいウマ娘レーシングを手伝い始めた。

 

「で、あんちゃんはどうなんだ。あのあと、調べは進んでるのか?」

 

 研究員の男はアグネスタキオンとサイレンススズカに会ったことを話す。そしてどうにも、装蹄師がカギだということを話した。

 

「なるほどな…あの女帝サマが見込んだ通りみたいだな、あんちゃん」

 

 女帝サマ、という単語に研究員の男は引っかかる。少し考えて、その単語がエアグルーヴ理事長とつながることに思い至った。

 

「エアグルーヴ嬢ちゃんとは昔からの付き合いでな。話してなくて悪かったが、あんちゃんがエアグルーヴにあげてる報告書の内容もある程度は知ってる。そしてたぶん、あんちゃんが調べてることと俺も、無関係じゃあねえんだよなぁ…」

 

 遠くを眺めながら話す老紳士の横顔を眺めていると、遠くからレーシングマシンとはまた別の、ヘリコプターの音らしき大気を叩くような音が聞こえてくる。

 

「ほら、来なさったぞ。あんちゃんの調べ物の鍵を握っている重要人物が」

 

 老紳士の視線の先に居たヘリコプターはみるみるうちに近づき パドック脇にあるヘリポートに降りてくる。

 

 着陸と同時にヘリの扉が開かれ、黒スーツの男の次に降りてきたのは、スーツに身を包んだスタイルの良いウマ娘。

 

 遠目にもはっきりわかるそのオーラに息を呑む。

 

 生ける伝説であり、ウマ娘界を支える名家のひとつ、シンボリ家の現当主。

 

 シンボリルドルフであった。

 

 

  

 




 

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いつもお読みいただきありがとうございます。
おまけシリーズがだらだらと続いておりまして申し訳ございません。書いてる本人も(完結したはずなのに何故…?)となっております。。

引き続きだらだらとお付き合いいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。



ブレイクランアウトさん(元競走ウマ娘・元レーシングドライバー)のエピソードはこちらからヒントをいただきまして組み立てております。
ZENRAさんありがとうございます。
https://syosetu.org/novel/270326/2.html


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(102):幕間12 老紳士の告白

 

 

 

 

 サーキットで見かけたシンボリルドルフは多忙を極めていたようだった。

 

 ヘリコプターというおよそ常人には必要のない交通手段で来場し、彼女が移動するときにもさまざまな人間から声をかけられ愛想と威厳が両立する態度で応じ、用意された部屋に入ってからもそこへは来客が引きも切らない様子。

 

 無理もないことだ、と研究員の男は思う。

 

 生ける伝説であるシンボリルドルフの競走ウマ娘時代の偉業は言うに及ばず、彼女の引退後のキャリアについても、トレセン学園の下っ端研究員である男でも一般常識のように知っている。

 

 引退後、URAの職員となって早々に頭角を現し、背任事件で地に堕ちた組織イメージの回復に尽力。

 自らが初代王者となったトゥインクルスタークライマックスを中心に、これまでのG1レースを頂点とする競技スタイルから、通年でのポイントにより争われるというシリーズ戦という見どころの軸を新たに定着させた功労者である。

 

 しかも、彼女の伝説はそこに留まらない。

 

 URAの改革を5年ほどかけて実行し、周囲の期待以上の成果を出してひと段落したのち、彼女は国政に進出したのだ。

 

 彼女自身の絶大な名声と、URAやそれを支える各名家、そしてウマ娘たちといった支持母体をバックに、彼女は無所属で衆院選に立候補し、見事にウマ娘初の国会議員として議席を獲得した。

 

 その後も当選を重ねて今は押しも押されぬ中堅の国会議員であり、ウマ娘を含めた社会の幸福の追求という理想を掲げて邁進している。

 

 現役時代の綽名である「皇帝」は、国会議員ともなると洒落にもならないが、自らの掲げた理想と目標に邁進する姿は、紛れもなくウマ娘界の皇帝でありつづけていた。

 

 そんな生ける伝説が老紳士と研究員の男の近くを通り過ぎようとしたとき。

 

「よぉルナちゃん。相変わらず忙しそうなこって」

 

 老紳士は気楽に、またこともあろうに彼女の幼名で声をかけた。

 

 その声に気づいたシンボリルドルフはお付きの黒服が慌てるのも気にせず、こちらに進路を変えて近づいてきた。そしてシンボリルドルフと老紳士はどちらからともなく握手をする。

 

 研究員の男が間近に見るシンボリルドルフは、腰まで届く栗毛は輝くようにつやめいていて、タイトスーツの身を包んだ姿は些かの隙もないように感じるが、適度に表現されている女性らしいボディラインが美しい。

 表情は自信と余裕の成せる業か、多忙でもそれをを感じさせない威風と慈愛に満ちた瞳が印象的だった。    

 

「こんなところで顔を合わせるとは奇遇…ではないな。そうか、君が名代というわけか」

 

「忙しいのにわざわざ開会宣言のセレモニーに来てもらって悪かったな。これでウチのチームの顔も立つってもんよ」

 

 シンボリルドルフは老紳士と旧知の間柄らしく、親し気に話しながら、ちらりと流し目で研究員の男を見る。その視線に射抜かれた気がして、研究員の男はびくりと身を震わせた。

 

「はて…君に子か孫なんていただろうか。こちらの若者は?」

 

「…聞いて驚け。エアグルーヴの例の報告書、その執筆者だ」

 

 一瞬、シンボリルドルフのアメジスト色の瞳孔が窄まったように見え、そして彼女の瞳は真正面に研究員の男を捉えた。

 

「そうか、君が…」

 

 ルドルフが何事かをいいかけたタイミングで、お付きの男が割って入る。どうやらスケジュールが押しているらしい。彼女はほんの少しだけ苦笑いを浮かべると、鷹揚に頷いた。

 

「…一度、君とゆっくり話をしたいものだな。いずれ、近いうちに」

 

 シンボリルドルフは皇帝の威信たっぷりの、それでもどこか柔らかさを感じさせる笑顔で研究員の男にそう告げると、付き人とともに足早に去って行った。 

 

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフを見送った後。

 ピットビル屋上の片隅の喫煙所で、研究員の男は老紳士とともに喫煙に興じる。

 コース上では前座レースが行われているが、会話を妨げるほどの爆音はしない。軽自動車のワンメイクレースは、それは静かに、しかし熱く、ホームストレート上でスリップストリーム合戦が繰り広げられていた。

 

 いつのまにやらブレイクランアウトと同じピットシャツを身に纏っている友人もそこに合流すると、老紳士は喫煙所に似つかわしいこぼれ話として、シンボリルドルフがここに来た経緯を解説してくれた。 

 

 

 今日のレースは全日本格式という、国内ではトップカテゴリーのフォーミュラ選手権である。その参戦枠をひとつ、しかもウマ娘主導のチームをねじ込むにおいて、主催者側とはひと悶着あったらしい。

 

 その見目麗しい外見はともかく、膂力に優れるウマ娘であるからして、ヒトが競う自動車レースにおいては同じようには競えないのではないか、という懸念だ。

 

 とはいえもともとモータースポーツの世界では男女の区別はなく、ヒトにおいて性差なく興じることのできる数少ない競技でもある。

 それであればウマ娘であっても参戦が許可されてしかるべきだが、さすがに国内限定とはいえ最も格式高く、高度なカテゴリーであるため前例がなく、議論は紛糾した。

 

 そうして喧々諤々の議論の上で示された参戦条件のひとつとして出されたのが、ウマ娘界の頂点であるシンボリルドルフの後見が欲しい、という要望であった。

 

 シンボリルドルフの理想である「すべてのウマ娘が幸福になれる時代」とは、まずもってヒトとの垣根を限りなくなくしていくことにある。そしてこの参戦企画の仕掛け人が旧知の人間であったことから、あっさりこの要望はシンボリルドルフの承諾するところとなった。

 

 そしてシンボリルドルフは後見人としての任を果たすべく、またルドルフの名声を活用したいというレース主催者からの要望に応えるべく、普段から分刻みであるスケジュールを豪快に3時間ほどこじ開け、このレースの開会宣言をするためにヘリで駆け付けた、という次第であった。

 

「なるほどですねぇ…まぁこれまでも、ウマ娘がル・マン24時間出たりとかしてましたけど、賞典外での出走でしたもんねぇ…確かあれも日本のチームでしたけど…」

 

 研究員の友人は老紳士の話に合いの手を入れる。

 

「あぁ。アレも俺たちの仕掛けだぜ。あれはル・マンの主催者の懐が広くてよ。話題にもなるってんで二つ返事でOKだった。まぁさすがに耐久となるとドライバーの体力がモノをいうのと、諸々の出場資格が怪しかったもんで賞典外ってことになったんだがな。ブレイクランアウトも2回、ルマンを走ってる」

 

 研究員の男もあれこれ調べる過程で、現役引退後に自動車レースの世界で活躍したウマ娘が居たことは知っている。朧気な記憶だったが、ブレイクランアウトのほかにも数名、居たはずだ。

 

「ま、それもこれもあんちゃんが調べてる人間の趣味みたいなとこもあるんだけどな」

 

 思わぬ言葉が老紳士から飛び出し、研究員の男が耳を疑った。

 

「…装蹄師の方が、ですか…?」

 

 老紳士はにやりと笑って、穴という穴から紫煙をもうもうと吹き出した。

 

 

 

 

「…あんちゃんが調べてる装蹄師な、俺の大学時代の先輩で…ビジネスパートナーで…まぁ人生の師匠みたいな人なんだ」

 

 最初に連行されたピットビルの部屋で、老紳士は楽しそうにコース上を眺めながら呟いた。

 

 コース上では前座レースが終わり、いよいよウマ娘レーシングが参戦する今日のメインイベントのスタート進行が始まっている。

 

 スターティンググリッドは最後列となったウマ娘レーシングの白いマシンは、観客によるピットウォークの時間帯、初めての参戦とは思えぬほどの観客を集めている。

 

 その輪の中心には、レースクイーンのポジションと思しきウマ娘がふたり、立っている。ストレートの芦毛とふわりとした栗毛、両者ともスタイルは文句なく抜群、それぞれ赤系の勝負服のようなコスチュームを纏った長身が映え、パラソルをさしてマシンに華を添えている。遠目にもモデルのような思うようなオーラが察せられる美ウマ娘の至近で、友人はその中にしれっとスタッフ面をして混ざり、生き生きとファンたちの整理をしていた。 

 

 それを眺めながら研究員の男は老紳士に訊ねた。

 

「装蹄師の先生って、一体どんな人なんでしょうか」

 

 これまでのアグネスタキオンやサイレンススズカとのやり取りを踏まえ、それでもなお茫洋としてイメージがつかめない装蹄師の男を、研究員はこれまた茫洋とした質問で尋ねた。

 

「…本人曰く、村はずれで何してるかわかんないようなおっさんになりたい、って言ってたな。まぁ結果的に、見事にその夢を叶えたおっさんになったな。もう爺さんって歳だな」

 

 そういうと杖でコース上のマシンを指し示す。

 

「あれも、先輩のアイデアや技術があちこちに組み込まれてる。もちろんレースのレギュレーションをきっちり守った上でな」

 

 あの、グリッド上でスタートを待っているレーシングマシンにも…?

 

 いよいよ訳が分からなくなる。

 

 装蹄師というからには蹄鉄の専門家であるはずで、その職人がレーシングマシンに何をするというのだろうか。

 少し考えてから、やはりイメージがつかなかった研究員の男は、まとまらない疑問を老紳士にぶつけた。

 

「あー…そうか。まぁつながらんよな」

 

 老紳士は笑って少し逡巡したあと、言葉を繋いだ。

 

「まぁ、もともとはクルマというか、メカに強いヒトだったんだがな。色々あって装蹄師に弟子入りして、いつのまにやら装蹄師生を生業としたんだ。その過程でウマ娘の為に尽くすようになった、と言えばいいのか…なんつーかなぁ…改めて聞いたことはないが、あのヒトはウマ娘たちに自分の人生を救われた、と思ってるんだろうな」

 

 老紳士はそう言うと、少し間をあけて、考えるような風になる。 

 

「…だから、ウマ娘のために自分が出来ることなら、寝食忘れて没頭しちまう。それに、世間体とか気にしない仙人ぽさがあるというか…まぁ、ヒトとして何かが欠けてるといえば、そういう面もあるかもしらん」

 

 老紳士は自らの内部と対話するかのように、言葉を選びながらゆっくりと話していく。

 

「…良くも悪くも、あのヒトは自分の腕でもって、シンボリルドルフの理想、<すべてのウマ娘が幸福になれる時代>、その一翼を担おうとした、と俺は思ってるよ」

 

 どうやら装蹄師の先生というヒトは、とんでもない大人物であるらしい。老紳士の抽象的な語りの中に、研究員の男は人物像の一端を垣間見た気がした。

 

 しかし同時に疑問も湧き上がる。

 そのような人物であるなら、何故調べても何も出てこないだろうか。

 

 ウマ娘界の舞台裏については定期的に各種媒体などで紹介されており、ウマ娘界を裏方で支える人たちは一種の畏敬の念をもって見られることが多い。

 

 レース自体が国民的エンターテイメントと称されて久しく、そこから生み出される様々なドラマから、スターウマ娘が生まれれば、そのトレーナーは名伯楽として世間に名が知られている。ウイニングライブの楽曲なども広く世間に浸透した結果、ウマ娘界発で著名になっていく作曲家や作詞家、さらには舞台監督や振付師などもいる。

 

 そのウマ娘たちの根本である脚元を支える装蹄師、というのはもっと注目されてしかるべきであるように思われた。その存在はいかにも通好みではあるかもしれないが、本の一冊や二冊出ていても不思議はないし、例えば老紳士と出会ったあの博物館で、しっかりと取り上げられてもいいはずである。

 

 研究員の男は拙いながらもその疑問をなんとかまとめて口にし、老紳士に問うた。 

 

「…あんちゃん、天皇賞秋のサイレンススズカの怪我のこと、知ってるだろう?」

 

 研究員は頷く。

 

「あの時、サイレンススズカの怪我は先輩の造った蹄鉄が原因じゃないかってんで、世論がヒートアップしちまってな。もちろん、先輩が造った蹄鉄はレギュレーションに則ったもので、URAも使用を許可したもんだ。なのにURAは世論に日和って、こともあろうに先輩を蜥蜴の尻尾のように切り落とそうとしたのさ」

 

 コース上では観客が退去しはじめ、いよいよレース前の緊張感漂う様相を呈し始めていた。

 

 そこから目を離さずに、老紳士は続きを語る。

 

「そこで、先輩を護るために俺は一計を案じた。だいぶグレーな手も使った。結果的にURA上層部で逮捕者が出たりなんだりした、あの事件につながったわけだ」

 

 まるで罪を告白しているようだ、と研究員の男は思う。

 そしてその印象はきっと、間違いではない。

 今この時、目の前にいる老紳士は自らの罪を懺悔し、独白するように語り、聞かせている。

 それを自覚した研究員の男は、歴史の裏側にある何かを今まさに覗き込んでいることに、軽い興奮を覚えていた。

 

「…まぁ別にURAの上層部に逮捕者が出たことについてはなんとも思っちゃいない。連中、それだけのことをしてたからな。だが結果的に、手を回した俺の会社はURAに食い込んで日の目を見て、先輩を歴史の裏側に封じてしまうことになった…といったら、あんちゃん信じるかい?」

 

 老紳士は微動だにせず、コース上を見つめたまま研究員の男に問いかけた。

 

 先ほど老紳士が差し出した名刺の書かれていた社名は、ウマ娘レース界では知らぬものはいない。

 

 URAの公式パートナー企業であり、ウマ娘のシューズや勝負服、コース設備やグッズなどを一手に取り仕切る企業だ。

 

 本業は商社であり、企業としての実態はそちらの方がはるかに大きい。それゆえかウマ娘関連からの収益はURAへの協賛やウマ娘社会への還元事業といった方面へ費やされており、ウマ娘関連の事業はほぼ慈善事業のような様相を呈していることでも有名である。

 

 その端緒が装蹄師の男だったのだ。

 

「…俺の会社が今の立場を築いたのも、その先輩を俺が囲ったから、という面がある。だが、それをしたが故に、先輩を慕っていた娘たちに呪いをかけちまった、というところもある。あいつら、口に出しはしないが、恨んでるだろうな、俺を」

 

 呪い、とはなんとも穏やかではない。

 慕っていた娘たち、というのはアグネスタキオンやサイレンススズカを指すのだろう。もしかしたらシンボリルドルフや、エアグルーヴ理事長も、呪いをかけられたのかもしれない。

 そう考えると、エアグルーヴ理事長がことのほか自分の独自研究を気にかけてくれていることと符合するような気がした。

 

「その頃はうちの会社は、まぁ小回りの利く中堅商社、ってくらいのもんだった。URAに関わるようになってからは、そこから上がる利益はほとんど何らかの形で還元しちゃいるが、うちの本業にもとてつもない追い風になった。彼女たちが提供するエンターテイメントにはそれだけの影響力がある」

 

 端的に表現してはいるが、実際にそうなのだろう、と研究員の男は思う。

 

 URAとの長年のパートナーとしての信頼と実績は、即ち国民的エンターテイメントの提供者としての顔を持ち合わせている、ということだ。

 ビジネス面での好影響は、並みのスポーツへの協賛とは比較にならぬほどの信頼と広告効果を老紳士の会社にもたらしたことだろう。

 

 場内放送では、君が代が流れている。それが終わるとグリッドの先頭でシンボリルドルフによる開会宣言の音声が流れてきた。

 

 彼女の短くも威厳に満ちた開会宣言により、各車のパワーユニットに火が入る。とはいえ現代のレーシングマシンは電動であるから、昔のように内燃機関の爆音がするわけではなく、静まり返ったサーキットにインバーター由来の磁励音が響くのみである。

 

「その先輩ってのは功名心も野望もないヒトでね…今の樹脂蹄鉄や蹄鉄一体型シューズの基礎も先輩の手になるものなんだが…ただウマ娘が安全に、安心して駆けられればそれでいいってんで、日々の寝食と煙草代、それにいくらかの趣味が楽しめればそれでいいってんで、ロクにカネも受け取ろうとはしない。困ったもんだ」

 

 その話を聞いて、研究員の男は老紳士が装蹄師の男を示して「仙人」といった意味を理解する。

 

「ま、だからこうして趣味に大金突っ込んで無茶もできるってもんだがな」

 

 どうやら趣味というのはこのレースへの参戦のことも含んでいるらしい。

 そうこうしているうちにコース上では先頭のマシンからゆるゆる動き始め、スタート前のフォーメーションラップが始まる。

 

 ゆっくりと走り出すレーシングマシンを眺めながら、研究員の男は、自分の感情もまた、動き出すような思いを抱いていた。

 

 ここまでの老紳士の話を聞いて、いよいよ装蹄師の男に会う必要性を感じる。研究の為、という側面ももちろんあったが、会ってみたくなった、というのが素直な心境であった。

 

 そして老紳士が言うところの「歴史の裏側」に封じられた装蹄師の男の生きざまを世に伝えるのが自分の役割ではないか、と思い始めていた。

 

「…装蹄師の先生に会うことは、可能でしょうか」

 

 この部屋で話し始めて初めて、老紳士が研究員の男の方を向く。

 

 老紳士の瞳は研究員の男を見定めているような色がありながらも、どこか、縋るような感情があるように感じられた。

 

 コース上にはフォーメーションラップから戻ってきたマシンたちがスターティンググリッドを埋めていく。

 

 煩くない程度に聞こえてくる場内実況がスタートを煽るような文句を謳い、シグナルが点灯、カウントダウンするかのようにひとつひとつ消えていき、最後のひとつが消灯すると、マシンが一斉に飛び出していく。

 

 老紳士と研究員の男は、並んでマシンが整然とスタートを切り、1コーナーに消えていくのを見送った。

 

「…まぁ、まずはあんちゃんはシンボリルドルフと話すんだな。彼女の御眼鏡に適えば或いは、会えるかもしれん」

 

 研究員の男は、さきほどのシンボリルドルフの威風に満ちた姿を思い出し、思わず背筋が伸びた。

 

 場内実況は初出場のウマ娘レーシングが無事に1コーナーをクリアし、早速先行勢に襲い掛からんとしている状況を伝えている。

 

 ウマ娘たちはまたひとつ、新しい挑戦の扉を開いたのだな、と研究員の男は思った。

 

        




なんか妙に時間(日数)かかるなと思ったら、文字数いつもよりだいぶ多かったんですね…。



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(103):幕間13 シンボリルドルフの黙考

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフは一日の予定を終え、自宅へと向かうクルマの後席で思索を巡らせていた。

 

 先日の、偶然のようで必然である出会いをどう生かすべきかについてだった。

 

 エアグルーヴから、我々がトレセン学園在籍時のことを調べている史料課研究員の話は聞いていたし、その人物が書く報告書も受け取っていた。

 

 当時の自分たちの日記がトレセン学園の資料庫から発掘されたことがその発端になっていることにも驚いたが、これまで自分がのこしてきた蹄跡を現代から見るならば、確かに目に留まっても仕方がないだろう、と考えていた。

 

 決してこれまでの歩みを自画自賛するわけではないが、それにしてもあの頃思い描いていた未来、理想に近づくためにここまで着実に歩んでこれた、という自負はある。

 

 もちろん満足のいくものか、と問われればまだまだだ、と答える。

 

 しかしそれはこれまで成してきたことを否定する材料という訳ではなかった。

 

(思えば遠くに来たものだな…)

 

 シンボリルドルフは流れゆく夜の車窓を眺めながら、ひとつ溜息をついた。

 

 

 

 シンボリルドルフの自宅はトレセン学園からそれほど離れていない府中の地に、かなりの広さをもった土地とともにひっそりと構えられていた。

 

 ここに居を構えたのは、国政に進出した時に支持者をURAやトレセン学園をバックボーンとした事情も理由のひとつだったが、なによりも現在に続く彼女の基礎を創り、思い出が詰まったこの地が離れ難かったことが大きなウエイトを占めている。

 

 独立した地に土地の所有を伴ったそれなり以上の規模の居所を構えることについてはシンボリ本家から横やりが入らぬではなかったが、支持者などの周囲からの後押しと彼女の社会的立場も考慮され、最終的には折れてくれた。

 

 

 

 

 クルマを自宅の門の前で降り、運転手にも暇を告げ帰してしまうと、彼女はひとりきりの住まいには大きすぎる邸宅の門をくぐり、自宅へと入った。

 

 今の立場の相応しい邸宅を建てるに至ったのは、比較的最近のことではあったが、そこには彼女なりの計画があってのことだった。

 

 帰宅すると彼女は一人で過ごすには広すぎるリビングに向かい、一息つくようにソファに腰を降ろす。

 

 間接照明の照らし出す、ほのかな暖かみのある光の中で、車中で考えていた回想を改めて辿った。

 

 そしておもむろに立ち上がると、リビングの隅のサイドボードの前に立つ。

 

 その上には彼女が気に入った写真が数点、選び抜いたフォトフレームに収められ、飾られていた。

 

 すこし悩んで、一点を手に取る。

 

 しばし眺めて写真を目に焼き付けると、瞳を閉じてそれが撮影された時のことを思い返した。

 

 

 

 

 写真はシンボリルドルフが現役を引退し、URA職員として立ち働いていた頃の終盤時期に撮影したものだ。

 

 場所は東京レース場の出走者控室で、現役を引退しているというのにシンボリルドルフは現役当時の勝負服に身を包み、傍らには作業着姿の装蹄師の男。

 

 写真の中の男は、火のついていない煙草を銜えて座り、気の抜けた表情をしている。そこに無理やりルドルフが身体を寄せて撮影したものだった。

 

 

 

 その日は集客の一環としてトゥインクルシリーズOGを集めてエキシビジョンレースを開催する予定になっていた。もちろんその時、企画者であるシンボリルドルフは主催者側でありながらも自身も出走することになっていて、トレセン学園の感謝祭もかくやというようなハードスケジュールであった。

 

 イベントの為に前日からOGのウマ娘たちを東京レース場に集め、ブランクもあるために現地での試走などを行っていたのだが、そのただなかにトラブルが起き、蹄鉄のリセッティングを必要とするウマ娘が出てしまった。

 

 急遽、それに対応するために装蹄師の手配が必要となったのだが、装蹄所の人員は大半が通常のレース進行に駆り出されており、仮にも集客のためのエキシビジョンレースに出場するような名の売れたウマ娘たちに満足のゆくサービスを提供できる装蹄師に空きはなかった。

 

 そこで無理を承知でシンボリルドルフは装蹄師の男に連絡を取り、府中のレース場まで出向いてくれないか、と依頼を持ちかけた。

 

 当時の装蹄師の男はURAとの一連のトラブルから時間も経過し、既にURAやトレセン学園と断絶している必要はなくなっていたが、それでも業界のあちこちに残る当時の関係者やメディアなどに姿を捉えられることで要らぬ火種となることを懸念し、URA配下の施設に姿を現すことを避け続けていた。

 

 しかし事態が事態であり、ほかならぬシンボリルドルフからの依頼とあって、装蹄師の男は府中レース場に姿を現した。

 

 

(あれは…ちょっとした騒ぎになってしまったな)

 

 

 当時の記憶をたどり、シンボリルドルフはひとり、くすりと笑う。

 

 期せずしてレース場に来ることになった装蹄師の男は用件だけを済ませてすぐに引き上げようとしたのだが、彼の存在を文字通り嗅ぎ付けた彼と縁の深い出走者たちに捕まり、これ幸いとあれやこれやと蹄鉄に関するオーダーを出されてしまったのだ。

 

 結局、エキシビジョンレースぎりぎりまで作業が立て込んでしまい、当初のトラブルとは別の意味で参加者全員の出走が危ぶまれるという別の問題が発生してしまうという余談が生まれることになった。

 

 勿論、装蹄師の男の御前のレースとなったエキシビジョンは、シンボリルドルフも含めた一部のウマ娘たちの気合が現役時代もかくやというようなレベルに達し、それはそれは東京レース場を盛り上げることとなった。

 

 レース後、プログラムにはないエキシビジョンレース出走者のウイニングライブも急遽開催され、ある意味での観客へのアンコールにも応えたのちの控室。

 

 いくつかの蹄鉄をほんのちょっと修正するだけで帰るつもりだった装蹄師の男が、精魂尽き果てるまで使い倒されてしまった後に撮られたその写真は、シンボリルドルフの宝物であった。

 

 

 

 そしてその男の存在を、事情を知らぬ第三者に語るべき時が近づいている。

 

 シンボリルドルフは一日の疲労感も忘れ、彼についてどのように語るべきか思案を巡らせた。

 

 それはインタビュアーによって引き出されるものであることは彼女も承知していたけれども、その前の自分自身にとって彼がどのような存在であるかは整理しておく必要がある、と思ったのだ。

 

 個人的な関係においては、シンボリルドルフ自身は彼を独占してしまいたいと幾度も願ったが、ついぞそれは今まで、叶っていない。

 

 しかし手の届かないところにいってしまう、ということもまた、なかった。

 

 いつも彼女が手の届く場所に存在し、彼女自身の行く道をそれとなく支え、時に手を差し伸べてくれる存在であり続けた。

 

 すべてのウマ娘たちが幸福でいられる社会の実現という理想を掲げた彼女が、真正面から正攻法でその道筋を歩む傍らで、装蹄師の男自身が出来る形での伴走をしてくれていた。

 

 もっともそれは彼自身の趣味も大いに関係している事柄が多数であった。いつだったか、俺はお前たちを出汁に大いに楽しませてもらってる側の人間だ、と笑いながら話していたことがある。

 

 そしてそれに関わったウマ娘たちが、「ウマ娘史上初」という冠を手にして社会に溶け込んでいくきっかけを多数、創り出してきたという歴史があった。

 

 その功績を考えるならば、個人的な関係においても社会的な貢献においても到底、ただの装蹄師として語るような人物でないことは明らかであった。

 

 

 

 

 何事にも怠るということのないシンボリルドルフは、そこまで考えたところで思考を止めた。

 

 おそらくこれを題材に語り出せば、これまでの思い出も含めてとめどなく、何時間でも、何夜でも語ることができるだろう。

 

 そしてそれを行うには、一人ではあまりにも味気ない気がしたのだ。

 

 シンボリルドルフはジャケットの内側からスマホを取り出すと、現役時代からの盟友と呼ぶべき存在にメッセージを送った。

 

 

 

 





ご無沙汰しております。
間隔あいておりまして大変申し訳ございません。
ちょっと横道にそれたりしておりました。
こちらも時間はあきますが続けてまいりますので、引き続きよろしくお願いいたします。

   
■横道に逸れた件
本作の設定をまるっと流用して、山奥に蟄居した装蹄師&現役を引退したウマ娘の話を別作品として書いています。時間軸としては本作の本編完結以降から幕間までのぽっかり空いてるところを使ってる感じです。もしご興味あれば、こちらもよろしくお願いいたします。

「空を飛びたいウマ娘と山奥の装蹄師の話」
https://syosetu.org/novel/286483/
 


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(104):幕間14 伝説の男が語る伝説の男

 

 

「お前さんかぁ、いろんなところで昔の話を掘り返してる酔狂な若者ってのは」

 

 トレセン学園史料課の下っ端研究員の男は終業後、屋上の喫煙所で煙草を吸っていたところで妙に声の良い男に声を掛けられた。

 

 振り返ってみると黄色のシャツに黒いベスト、髪を後ろで結んで束ねた姿で棒付きキャンディを銜えている男がこちらを眺めている。

 

 時々校内で見かけることもあるし、資料でも何度もその姿を目にしているが、彼の風貌は30代の半ばで止まってしまったかのように若々しいままだ。

 

 思わぬ有名人の登場に、研究員の男は固まってしまう。

 

「隣、失礼するぜ」

 

 研究員の男が座るベンチの隣に腰掛けて足を組むと、トレーナーとして生ける伝説と化している男はじろりと研究員の男に横目で視線を寄越す。

 

「しかし今時珍しいなぁ、紙巻き煙草なんて」

 

 そういうと羨ましそうに研究員の男の指先に視線を走らせる。

 

 研究員の男は煙草を一本勧めてみることにした。

 

「いやぁ、あいつらが嫌がる…って、まぁ今日はもう帰って寝るだけだし、いいか。それじゃ、ありがたく頂戴するとしよう」

 

 トレセン学園の生ける伝説トレーナーである沖野は研究員の男から煙草を一本受け取り、銜える。研究員の男はてのひらで風除けをつくりながら、ライターで火をつけてやった。

 

「…っくぅー…染みるなぁ…」

 

 普段は香りに敏感なウマ娘に接する仕事だけに、煙草を控えているのだろう。沖野は実に旨そうに煙草をゆっくりと味わっていた。

 

「…で、今さら昔の話を掘り返してどうしようってんだ?まぁ、あれだけの成績を残したアイツ等のことだ。興味が湧くのもわからなくはないが…」

 

 沖野は不意に視線に鋭さを宿し、研究員の男に問うた。

 

 おそらくエアグルーヴ理事長から話を聞いたのだろう。いや、そういえばサイレンススズカのトレーナーは、沖野であったから、その線もありうるか。

 

「…誰から聞いたんだ、って顔だな。まぁ、スズカとは今でも行き来があるからな。この間帰国したときにチラっと聞いたんだ。あの頃のことを調べてる学園の職員がいる、って」

 

 なるほど、と研究員の男は納得する。

 

「…最初は、あの世代のほとんど伝説になっている皆さんの戦績以外の面をまとめられたら、と思っていたんですけどね。調べていくうちに、彼女たちの裏にもっとこう、大きな存在がいたんじゃないか、と思うようになりまして…」

 

 研究員の男は今の研究で行き詰っている部分について口にする。

 

「あいつのこと、だな…」

 

 代名詞が指し示すのは装蹄師の男のことだ、と研究員の男は悟り、頷く。

 

 沖野は深く吸い込んだ煙草をふぅっと吐きだした。

 

「まぁ、イイ男だぜ、男の俺が言うのもなんだが。ちょっと以上に世事や他人に疎いところもあるが。ああいうのを生粋の職人っていうんだろうなぁ」

 

 沖野が率いていたスピカの隆盛期と、学園に蹄鉄の工房があった時期はほぼ一致している。ましてやサイレンススズカという優駿を通じて沖野も付き合いはあったことだろう、と研究員の男はひとり、納得する。

 

「俺はあいつらに夢を見て、あいつらの夢を叶えるトレーナーって仕事をやらせてもらってきた。あいつも立場は違えど、そういう男さ」

 

 その語り口からして沖野自身も装蹄師の男とは関係がそれなりに深いらしい。

 研究員の男は失礼とは思いながらもそのあたりに踏み込んでみた。

 

「まぁ、ほとんど同年代だからな。この学園に来た頃から良くつるんでた。サイレンススズカが途中でうちに移籍してきただろ。あれの仕掛けもあいつが関わってるぞ」

 

 研究員の男は絶句する。

 どうやら彼が調べている装蹄師の男というのは、相当に深くこの時代のウマ娘に関わっている、ということを改めて認識する。

 

「それからあれこれあって、スズカの天皇賞秋までの快進撃、そしてその後の復活劇…全部、アイツがいたからこそ、だろうな」

 

 沖野は短くなった煙草を水の張られた消火バケツに放り込む。

 

「俺がスズカにしてやれたことなんて、大したことじゃない。スズカの走りを支えたのは間違いなく、アイツだ」

 

 沖野は自嘲したような、少し憂いのある微笑を浮かべている。

 

「…頼んだぜ、若者。ちゃんとあいつの蹄跡にも光を当ててやってくれ」

 

 沖野はそういうと研究員の男の肩をポンと叩くと、ごちそうさん、とベンチを立ち、後ろ手に手をひらひらとさせながら立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エアグルーヴからメールの添付で資料が届いたのは、少し前のことだった。

 

 時間があるときに読んで欲しいと添付されてくるPDFファイルは、ルドルフやエアグルーヴ、サイレンススズカやアグネスタキオンの現役時代について調べたものらしい。

 

 

 

 それから不定期に時々届くそれらを、装蹄師の男は夜の時間に読むのがささやかな楽しみのひとつになっている。

 

 

 報告書の体裁を取り、トレセン学園の史料課研究員が記しているそれは、在りし日の彼女たちの現役時代や学園内での生活ぶりを淡々と描き出していた。

 

 そして末尾に付加されている執筆者が遭遇したアグネスタキオンやサイレンススズカの近況の様子も、新鮮に感じる。

 

 何を思ったか、執筆者の研究員は東京レース場の博物館にも訪れたようだ。そこで蹄鉄に関するコーナーを見つけたらしく、彼が書いた歴史的な側面から見た蹄鉄の考察はなかなか読みごたえがあった。

 

 そしてその報告の末尾では蛇足として、装蹄師の男が良く知っている人物と遭遇した話も記されている。

 

 どうやら執筆者をウマ娘がやっているスナックとも喫茶店ともつかぬあやしげな店に連れていったらしく、そこに記されていた店主のウマ娘の名前には記憶があった。

 

 

 これを送ってくるエアグルーヴのメール本文には特に送付する旨以上の内容が記載されているわけではないため、何故この報告書が彼女から不定期に送られてくるのか、その意図についてはよくわからない。

 

 ただ、共通の思い出となるような時代のことだからなのか。

 

 それとも、彼女たちの輝かしい蹄跡の裏にあった物語について、今のうちに語っておくべきだ、という意図なのか。

 

 装蹄師の男は医者から禁じられている煙草を手に取り、少し手の中で遊ばせた後、一本取り出して銜え、火をつけた。

 

 一口吸い込むと、染み渡るような感覚がする。

 

 そしてこらえきれずに、激しく咳き込んだ。

 

 

 

 

 

 装蹄師の男は現在、山奥の工房はそのままに、住居は山から降った街中のマンションに移している。

 

 数年前から体調を崩しがちになり、病院にかかることが多くなっていたことが理由だった。

 

 山奥の工房の周りは移転してきた当時と比べれば、付帯設備やら温泉やらトレーニングコースやらができて様変わりし、賑やかになっている。

 

 しかし基本的に人里離れた山奥であることにはかわりない。体調を崩しがちな装蹄師の男が山奥の工房で気侭な暮らしを続けて、もし倒れでもしたら救急車も早々来ないような場所であるから助かるものも助からない。

 

 そのような装蹄師の男の体調は旧知であるアグネスタキオンを通じて関係の近いウマ娘たちに知れ渡った。

 

 装蹄師の男を取り巻くウマ娘たちはそれを聞いて騒然とし、直接、間接を問わず、彼の今後の暮らしについての様々な申し出があった。

 

 しかし装蹄師の男はそのすべてを感謝とともに断り、ビジネスパートナーである後輩の折衷案とも思われる提案を呑んで、棲み処を彼の会社が所有する社宅扱いのマンションへと移すことにしたのだ。

 

 それからというもの、病院に通いながら仕事を続ける生活スタイルに変化している。

 

 

 

 

 医者からは若いころからの不養生と過労を続けた結果としてのものと言われており、今のところ致命的な病は幸いにしてないものの、いくつかの臓器においては相当に弱っていると言われている。

 

 これ以上悪化した場合は入院による身体管理が必要になる可能性がある、という脅しめいた言葉まで頂戴していた。

 

 

 あれやこれやと厄介そうなことを言われた装蹄師の男は、つまり老化だよな、と単純に受け止めている。

 

 とはいえ、それを理由にして療養に専念してしまえば暇すぎて精神的に良くないし、老け込むにはまだ早い年齢であることも確かであったから、住居こそ移したが仕事は体調の許す限り続けている。

 

 尤も、蹄鉄も樹脂素材を活用した形に転換されてされて久しく、もはや鉄を鍛えることも打つこともない。

 

 今はその過程で得た様々な素材の知見を横展開するような技術コンサルティングのような仕事が主である。

 

 相変わらず個人事業のような形態ではあるが、後輩の商社を通じたネットワークのおかげで仕事の依頼は数年先まで埋まっているらしい。

 

 そのあたりのマネージメントも含めて後輩の手のひらの上であるので、実際のところは装蹄師の男自身もよくわかっていなかったが、仕事が途切れることはないのは確かだった。

 

 仕事に関する報酬は受け取っているのだが、興味がないので管理も後輩に任せきりである。

 

 先だって一度、自身の持つ権利関係やそこから得られる収益に関して後輩に男が改まって説明されたことがあったが、やはりさほど興味は湧かなかった。内容についてはなんとなく聞き流していたが、どうやら老後の心配をする必要はなさそうで、それどころかその気になれば老人ホームそのものを建ててしまうことができそうなことが分かった時点で後輩の説明を止めさせた。

 

 装蹄師の男自身はもとから金銭に興味はないが、その現実感のない数字は、自らの生み出したものの結果とはいえ、自分の稼ぎだとは全く感じられなかったからだ。

 

 土台、後輩の会社が造った仕組みに乗ったおかげで益を生み出しているという自覚がある。

 

 名実ともに装蹄師であった時代、自ら鉄を鍛えて蹄鉄を拵えていた時にもたびたび当たる壁として、作れることと量産できることは別の技術であることがあった。

 

 つまりその延長線上で考えて、装蹄師の男の技術を金に換えるにはまた別の技術や努力を必要とする。

 

 つまりは自分は周囲に恵まれたおかげで、後輩という優秀なビジネスパートナーに支えられた結果として、わかりやすくカネという形でその成果が見えているに過ぎない。

 

 そして、カネという成果の形を装蹄師の男が求めたことはなかった。

 

 

 

 

 思索にひと段落がついたところで、それを見ていたかのように手元のスマホがメッセージの着信を知らせてくる。

 

 いつもの相手からの、いつもの生存確認といった趣だ。

 

 装蹄師の男はいつも通りだという返信を打つと、瞬時に既読がつく。

 

 近いうちに一緒に食事でもしたいという相手からのメッセージに、装蹄師の男は多忙の相手を慮り、余計な気は使わなくても大丈夫だ、と返し、その夜は床についた。

 

 

 

 

 

 

 

 




ご無沙汰しております。
気が付けば1か月ちょっと経ってしまいましたが更新させていただきました。

この1か月の間は本作の空いた時間軸で遊んでいる別作を訥々と書いておりました。
そちらのほうもどうにも更新ペースが上がらなくてもう少し自由な時間が欲しい今日この頃です。

もう一本のほうともども、引き続きよろしくお願いいたします。
 
「空を飛びたいウマ娘と山奥の装蹄師の話」
https://syosetu.org/novel/286483/
  

   


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(105):幕間15 装蹄師の男の退院

 

 

 

 

 

 シンボリルドルフはその日、久方ぶりのオフであった。

 

 国会議員ともなれば完全な休息日というものはほとんどなく、いつも分刻みのスケジュールを強いられる日々である。

 

 しかしこの日は無理を言って一日をこじ開けてあった。

 

 もっとも、一般的な国会議員であってもゴルフに興じたりする日があったりするわけで、スケジュールが常に詰まっているのはシンボリルドルフが仕事人間であること、また他の議員に比べて名声が異常に高いが故のことではある。

 

 この歳になっても寝起きはよくないシンボリルドルフだったが、この日ばかりは目覚まし時計を頼りに正確に目を覚ます。

 

 服は普段よりもカジュアルだが、その分さりげなく彩りを取り入れ、華美にならぬ程度に華やかなものを悩んだ末に選び抜き、念入りに身支度を整える。

 

 姿見で全身をチェックし、自分が思い描いた姿であることを確認し、ほっと一息ついたところでインターホンが鳴った。

 

 シンボリルドルフは鳴らした相手が誰であるかを確認はせず、昨夜のうちの買い求めておいた花束を手に、玄関を出た。

 

 

 門の前にはエアグルーヴが同じようにカジュアルだが魅力的な出で立ちで自身の愛車の横に佇んでおり、歩み寄ってくるルドルフを認めると恭しく頭を下げた。

 

 

 

 

 

「退院おめでとう、兄さん」

 

 シンボリルドルフとエアグルーヴが連れ立って訪れた先は、装蹄師の男が入院している病院だった。

 

「ただの検査入院だってのに大げさな…でも、ありがとう」

 

 入院している病室で花束を受け取る装蹄師の男は照れたように顔をゆがめる。それが笑い顔だというのはそれなりの付き合いがなければ解することは難しい。

 

「外に出たらしたいことはあるかい?」

 

 ルドルフはつとめて明るく、そう問いかける。

 

「んー…まずは煙草が吸いてえ。ま、その前に医者に検査結果を聞かなきゃ帰るに帰れねえんだが」

 

 装蹄師の男は折よく現れた看護師がルドルフとエアグルーヴの姿を認めて驚いているところを、唇に指を一本立てて宥めた。

 

「禁煙する気はないんだな、先生は」

 

 エアグルーヴの言葉にも男は力なく首を振る。

 

「俺ぁ意思が強いんでね」

 

 不敵に笑う男を目に、ルドルフとエアグルーヴは溜息をついた。

 

「…寿命と引き換えだとしたら、どうします?」

 

 そう言って会話に入ってきたのは看護師に続いて入室した医師であった。

 

「煙草で死ぬんだとしたら…そこが俺の寿命でしょうねぇ」

 

 人を食ったような男の言葉に、壮年の医師はルドルフとエアグルーヴに倣ったかのように、溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

「…まぁ医者としては喫煙は止めたいところなんですが、どういうわけか心肺は元気なんですよね…」

 

 一旦病室を出ようとしたシンボリルドルフとエアグルーヴを男は「こいつらは身内だから構わない」と言い、病室に留めたところで、医師が話し出した。

 

「ただ、肝臓、腎臓あたりはあまりよくありませんね。お酒を吞まれないのにこの数値はちょっと…」

 

 検査入院することになったのは、ここのところ男の立ち眩みが多くなったことに端を発する。

 

 顔色も良くない日々が続いていて、目にも濁りがみられることからいよいよ体調を心配されることが多くなり、後輩の手筈によって1週間の検査入院と相成った。

 

「この状況だと、全身の倦怠感とかがあったんではないですか?」

 

 医師の言葉に装蹄師の男が苦笑する。

 

「生憎鈍くて。骨折も自覚が無いくらいなもんでして」

 

「…まぁ日常生活で何ができるという性質のものでもないのですが、規則正しい生活と節制された食事、でしょうかね。経過はこれからも通っていただいて記録をつけていくしかありません。あまりにも数値が悪くなるようなら、人工透析も検討しなければならなくなります」

 

 装蹄師の男は確かに、入院中検査のために透析を受けたところ、一時的に日々感じていた疲労感が抜け、体調がよくなった自覚があった。

    

「その…腎臓はそんなに悪いんでしょうか」

 

 ルドルフが遠慮がちに質問をする。

 

 医師は相手が現職の国会議員かつ伝説のウマ娘であることは理解しつつも、それを態度に出すことなく答える。

 

「普通の人間の半分程度しか機能していない、と説明すればイメージしていただきやすいかと思いますね」

 

 それを聞いてエアグルーヴの表情はやや青ざめる。

 

「…なんて顔してんだ。老化だよ老化。おまえらもじきにそうなるんだ。覚悟しとけよ」

 

 彼女たちの我がことのように心配する顔色を見て、装蹄師の男は苦笑いしかできなかった。 

 

 

 

 

 

 

「で、退院出迎えはありがたいが、どうしたんだ、お忙しい二人が雁首揃えて」

 

 道中で軽い昼食を摂り、昨日のうちにエアグルーヴに完璧に掃除された男の部屋に戻った3人は、食後のコーヒーを楽しんでいた。

 

「そろそろいいかな、と思ってね」

 

 そう言うとシンボリルドルフはエアグルーヴに視線をやり、それに応えてエアグルーヴが書類を取り出す。

 

「…これは…例の報告書の束か」

 

 装蹄師の男は煙草に火を着けながら流し見る。既にエアグルーヴから送られてきていて目にしたものもあったが、初めて見るものもあるようだった。

 

「この執筆者に私も一度、会っているが…いい目をした若者だよ」

 

 シンボリルドルフがそう言うと、エアグルーヴが後を引き取り、続ける。

 

「私のところの研究員なわけだが、勤務態度も実直そのもの。ちょっと鈍いところはあるが、粘り強さは本物だ。なにせ、彼が書いてきたこの膨大な報告書を繋ぎ合わせれば、公式記録にはほとんど残っていない先生の足跡がくっきりとと浮かび上がってくる」

 

 男は銜え煙草のまま、報告書の束に目を落としたまま話を聞いてる。ほとんど微動だにせず、紙をめくる職人らしい草臥れてはいてもどこか頼もしげな指と煙草の煙の動きだけが二人から見える男の動きで、表情から内心を窺い知ることはできない。  

 

 二人はしばらく男をじっくりと眺める。

 

 それは、長い時間を経てもなお彼女たちの心の中の重要なポジションで居続けている男に対する複雑だが純粋な想いを確認する時間のようでもあった。

 

「…彼に会ってやってくれないか、と思ってね」

 

 男の手が止まった。

 

「先生が学園を去ることになった事件をきっかけに、公の露出を極端に避けてきたのは理解している。記録に残るようなことも徹底してしていないことも」

 

 ルドルフの言う通り、学園を去ってからこれまで、装蹄師の男は公の露出についても自分の名前が残るようなことも徹底的に避けて生きてきていた。

 

 それこそ仕事の関係で権利関係を明確にしなければいけない特許関連の部分でさえ、後輩の会社を隠れ蓑にしたり、出願前に既に他社に権利ごと譲渡してしまったりして名前を徹底的に出していない。

 

 しかし研究員の報告書は、装蹄師の男らしい影が見えるものを徹底的に調べ上げていた。

 

「…ここまでされちゃあなぁ…」

 

 装蹄師の男は紙から顔を上げ、ルドルフとエアグルーヴに苦笑いを投げかけながら短くなった煙草を灰皿でもみ消す。

 

「…これ、俺だもんなぁ…」

 

 研究員の男が資料として提出した雑誌記事のコピーがルドルフとエアグルーヴに示される。

 

 もう遠い昔、ゴールドシップに頼まれて、鳥ニンゲンカーニバル出場用に彼女自身が漕いで空を飛ぶ機体をつくったことがあった。

 

 その時のゴールドシップのインタビュー記事の一文にマーカーが引かれている。

 

[この機体は同志チーフデザイナーの作品です]

 

 研究員の男は、その言葉が指し示す人間が装蹄師の男なのではないか、と問いかけている

 

 

 光が照らす対象があり、対象がつくる影の中に居る装蹄師の男の姿を、研究員の男がくっきりと捉え始めていることを感じさせた。

 

 

 

「…私もこの件で、研究員の彼からアポイントを打診されていてね。まだ回答は待ってもらっているが」

 

 ルドルフの言葉を聞きながら、装蹄師の男は伸びをする。不摂生の塊のような体はあちこち軋むような鋭い痛みを知覚した。

 

「おそらく、かなり直截に兄さんのことを訊かれることになるだろう」

 

 そこまでくれば、遠からぬうちに装蹄師の男に辿りつく。それは影のような見えない存在ではなく、実体としての装蹄師の男に。

 

 シンボリルドルフは問われれば、曖昧に答えるつもりはなかった。仮に、彼女の個人的な想いに関する質問であっても。

 

 

 装蹄師の男はうーん、とひと唸りして考え込んで、ひとつ溜息をついた。

 

「…まぁ、いいんじゃねーか」

 

 装蹄師の男は新たな煙草を銜えながら呟いた。

 

「ただ、学園を離れて以降の仕事についてはほとんど何も話せないけどな。なにせ、俺はなにもしてないことになってる」

 

 苦笑いしながら男は煙草に火を着け、深く吸い込んで紫煙を立ち昇らせた。

 

「しかし、物好きな奴もいるもんだねぇ…こんなおっさんの影を追って、何が楽しいのやら」

 

 装蹄師の男の言葉に、シンボリルドルフとエアグルーヴが思わず顔を見合わせる。

 

 男の自己評価の低さは今に始まったことではないが、こう言われてしまうと、その彼に人生の大半、心を奪われ続けている私たちはなんなのだ、という思いも湧いてしまう。

 

 しかし装蹄師の男と積み重ねたこれまでの思い出が、一瞬にして彼女たちのふとした自問を霧散させた。

 

「兄さん、今日はこのままここで皆で夕食を食べないか?昔みたいに」

 

 ルドルフがふと、そんなことを口にする。

 

「…?ああべつに構わんよ。ってかお前らいいのか、いろいろ忙しいだろうに」

 

「たまには昔を懐かしんでもいいだろう?エアグルーヴ、沖野トレーナーやおハナさんにも声をかけてくれないか」

 

「承知しました」

 

「そうと決まったら食材の買い出しにいかねばならんな」

    

 俄かに動き出した彼女たちを眺め、装蹄師の男はどこか懐かしく感じる。

 

 そういえばこの部屋の間取りは、学園に住んでいた時のあの部屋とよく似ていた。

 

 だから彼女たちも懐かしくなってしまったのだろうか、と口には出さずに、美しく歳を重ねた二人を眺めていた。

 

 

 

 





ご無沙汰しております。

こちらはすごく長い時間あいてしまいまして申し訳ございません。
ちょっと煮詰まっているうちにもう一本のほうをコツコツと書いて、そっちばっかりになってしまいました。

この設定の世界観で遊べるだけ遊んでいきたいので、まだちょっとずつ書いていくつもりです。

もう一本のほうともども、引き続きよろしくお願いいたします。
 
「空を飛びたいウマ娘と山奥の装蹄師の話」
https://syosetu.org/novel/286483/  

 

追記
おっちゃんの病状について表現を一部修正いたしました。


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(106):幕間16 喫茶ブロンズ

 

 

 

 

(

 

 

 

 

「だいぶ核心に近づいてきたねぇ」

 

 明るい声音でそう告げたのはカウンターの中に居る可愛らしい雰囲気の年齢不詳ウマ娘だ。彼女の手元には、ここのところ進んだレポートの束がある。

 

「でも、そっかー…あれから先生もいろいろあったんだねぇ。でも、あちこちに影が見えるあたりが、先生らしいというか…」

 

 日曜、ふらりと訪れた喫茶ブロンズで遅めの昼食を摂った後、食後の一服をつけている下っ端研究員の男は、ナイスネイチャの言葉に苦笑いを浮かべた。

 

 謎の老紳士にここに連れてこられて以来、下っ端研究員の男は時々この店を訪ね、偏りがちな栄養の補給と暖かな時間を過ごさせてもらっていた

 

 下げた食器を手早く洗い終えたナイスネイチャはカウンターから出て、下っ端研究員の男の隣に腰を降ろす。夕方から夜にかけて地元の商店街の面々やトレセン学園関係者が集うこの店は、今の時間は下っ端研究員の男以外の客は居なかった。

 

「君がここに来るようになってから、私も当時のことを思い出したり、仲間と話したりしてみたんだけど、私の周りでもやっぱり先生の仕事の影みたいなのがあちこちに見えてさ。改めて偉大だったんだなーって」

 

「…それは、どのようなものなんです?」

 

 聞き流すには惜しい情報のような気がして、下っ端研究員の男はその話題を掘り下げにかかった。

 

 カウンター奧の小さなテレビでは、控えめな音でウマ娘のレース中継が流されている。

 

「んー…どうも、私のチームのトレーナーと装蹄師の先生、いくらか行き来があったみたいなんだよね。そのトレーナーは、もともと将来トレセン学園に入学しそうな娘のスカウトみたいなこともしてたらしいんだけど…」

 

 ナイスネイチャ曰く、そのトレーナーがスカウト時代、有望なウマ娘を見つけたが、学園の入学前の身体検査で脚部不安が判明したらしい。 

 

「で、そのトレーナーは自分が発掘した有望株ってこともあって、思い入れはひとしおだったみたいなんだけど、このままでは入学は難しいかも、って状況だったみたい」

 

 ふんふんと下っ端研究員の男はメモを取りながら、カバンからタブレットを取り出し、収めているデジタルデータの一覧を呼び出す。

 

「でも、トレーナーが言うにはほんの1か月かそこらで、そのウマ娘にあったトレーニングメニューやフォロー、医学的なバックアップ体制や栄養メニュー、それに特製のトレーニングシューズまで揃えられて、入学が許可されたんだって」

 

「そのシューズって…これじゃないですか?」

 

 研究員の男はタブレット端末の中の意中のデータを画面に表示させ、ナイスネイチャに提示する。

 

 それは府中の博物館で展示されているのを見つけたものの画像だ。

 

「そうそうこれ!なっつかしいなぁ~!イクノがいつも大事そうに抱えてたっけ」

 

 ここでもまたひとつ、点と点であったものが繋がっていく。

 

 調べたものがこのように裏付けが取れ、そのものを知っている人が懐かしんでくれることは研究員の男にとって嬉しい出来事である一方、どこか胸の奥にざわつきを憶えることでもあることに、最近気が付いた。

 

 なにも自身の研究自体、悪いことをしているわけではないのだが、装蹄師の男の影を追っているとどうしても、得体のしれない大きなものが覆いかぶさってくる感覚が否めず、その正体の掴めなさに研究員の男は時々背筋が寒くなる思いがする。

 

「…いったい、どんな大人物なんですかね、装蹄師の先生というのは。影響を与えた範囲が広すぎて、正直身の竦む思いなんですよ、最近」

 

 この店に通ううちにナイスネイチャにも人慣れした研究員の男は、自らの心持ちをぽつぽつと話すことはあったが、こうもストレートに自らの胸の内を話すことは初めてだった。

 

「なに~?怖くなっちゃった?」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべたナイスネイチャは、揶揄うような声音で応じる。

 

「怖くない…といえば噓になりますよ、さすがに。この話を追い始めてから、エアグルーヴ理事長、アグネスタキオン博士、サイレンススズカさん、大企業の会長、果てにはあのシンボリルドルフさんまで…子供でも知ってるような大物にまでつながってしまったんですよ」

 

 下っ端研究員の男は自ら口にして、改めて自らの立場に慄いた。いかに自分がトレセン学園の職員とはいえ普通ならば交わりようもない当代の大物たちが、自らに視線を送っているのである。正確には、自分の記す研究レポートに、だが。

 

「そんな怖がることないって~。取って食われるわけじゃなし、そもそも今名前が挙がった人たちも、そんなに怖い人たちじゃないし」

 

 確かにナイスネイチャの言う通り、取って食われるようなことはないだろう…多分、ないだろうが、なんというか歴史の証人たちの断片的な話を聞くたびに補強されていく装蹄師の男のイメージ像は、既に彼女たちの中で神格化されつつある何かであり、その傍証が普段の人間関係の中ではあまり見ることのない、彼女たちの熱量や思いの深さ、強さである。

 

 勢い、レポートを筆致を間違えば取って食われるのではと思えてくるのも、あながち間違いではあるまい。

 

「頭では理解しているんですけどね…なんというか…関係者の方々の…底知れぬ熱量というか、湿度のようなものを感じることが多くて…それに…」

 

 研究員の男は冷めたお茶を一口飲むと、パッケージから新たな煙草を取り出し、火をつけた。

 

「…その…好意の熱量とは裏腹に…罪、とでもいうんでしょうかね、装蹄師の先生に負い目のようなものを感じている方も居て。なんというか、一筋縄ではいかないものを感じるんです」

 

 そのように不安を告げる研究員の男を見て、ナイスネイチャは期せずして背筋にひやりとしたものを感じる。

 

「まぁ…あの時期はいろんなことがあったから…たぶん、私たち生徒の知らないところで、いろんなことがあった…とは思うよ」

 

 当事者とは言えないが、あの時代を現役の競走ウマ娘として過ごしたナイスネイチャ自身、思うところはある。

 

「社会的にも、いろいろ逆風っていうか、よくないニュースとして報じられることもあった時期だし…でもね」

 

 ナイスネイチャはゆっくりと、記憶を反芻しながら言葉を紡いだ。その声は、どこか暖かさを感じるものでもあった。

 

「私もなにもかも知っているわけじゃないけど…あの時を境に、きっといい方向に進んだんじゃないかな。結果として、今のウマ娘レース界はあの頃よりもさらに人気が高まってるし、私たち自身も昔よりずっと生きやすい社会になってると思うし」

 

 研究員の男は、あぁ、彼女もまた、直接間接問わずに装蹄師の男の影響と恩恵を受けた一人なのだな、と納得する。

 

 ナイスネイチャの言葉はこれまでの不安を打ち消すように、研究員の男を優しく暖めた。 

 

 

 

 カウンターの奥のテレビは、レース中継の合間のテレビCMが流れていた。それは中継局の別番組のCMで、「今年も開催!ウマ娘鳥ニンゲンカーニバル!」と勢いの良いナレーションとともに、往年のウマ娘たちが自作の機体で空を飛んでいく様子が流れている。

 

「あー…私、コレ好きなんだよねぇ。自分の脚で空、飛んでみたいなぁ。何度か、チーム員としてはお手伝いしたことはあるんだけどね」

 

 何の気になしに呟くナイスネイチャに、研究員の男はぼそりと合いの手を入れる。

 

「…アレの第一回大会にも、その装蹄師の先生が関わっているとかなんとか…」

 

「えぇ…!マジ…?」

 

 下っ端研究員の男はこくんと頷くと、タブレットで装蹄師の男を示していると思われるゴールドシップのインタビュー記事の一端を示した。

 

「うわぁ…ほんとだコレ…」

 

 ナイスネイチャはくすりと笑って、店の壁にかけられている自らが現役時代の蹄鉄に視線を送る。

 

「なんかこーしてみるとさ、先生が偉大過ぎて、私なんかに蹄鉄が来たのもすっごい幸運だったんだなって思うよ」

 

 頬杖をついてそう呟くナイスネイチャの横顔は、在りし日を懐かしむようでもあり、満ち足りた様子でもあった。

 

「…前にもちょっと話したことあるけど、私、たくさん走らせてもらえたけど、戦績としては決して満足できるようなもんじゃなかったんだよね」

 

 だからお店の名前もブロンズだし、とお決まりの持ちネタを忘れないナイスネイチャ。

 

「でもさー、時間が経つと、それすらも愛おしいっていうか…今でも悔しい思いももちろんあるんだけど、思い出されるのはそれだけじゃなくて、その時のひりついた空気だったり、仲間の声援だったり…もっと言うと、いつものトレーニングだったり、その後の仲間とのバカ騒ぎだったり…とにかく、全部ひっくるめて、楽しかったなぁって思い出なんだよね」

 

 研究員の男は、語るナイスネイチャの横顔を煙草を指に挟んだまま、じっと観察しつつ話に聞き入っている。

 

 満ち足りた表情のナイスネイチャは、並んで座るカウンターの奥、そのさらに向こうのどこかに視線を飛ばしているようだった。

 

「あ、ゴメンゴメン。おばさんの自分語りがしたいんじゃなくって…ええと、言いたいことは…」

 

 ふと我に返った彼女はやや赤面して手で自分の顔を仰ぎながらわたわたしている。

 

 その様子もなんだか可愛らしく、年上にも関わらず研究員の男は幼子でも見るように目を細めてしまう。

 

「…先生もその周りの人も、過去に色々あったとしても、それも含めて今は良い思い出なんじゃないかなぁって思うんだ。だからさ、君もそんな深刻にならずに聞けばいいんじゃないかなぁ、って」

 

 そこまで言うと、ナイスネイチャは研究員の男に視線を向ける。

 

「…って、そこまで達観するほどの歳じゃないよね、君は。ゴメンゴメン。おばさんの独り言と思って流して」

 

 お茶のおかわり入れるね、と席を立つナイスネイチャ。

 

 彼女の言葉に、研究員の男はじっと考え込む。

 

「はーい、お茶。ごめんねぇなんか私の話につき合わせちゃって」

 

 いいえ、といってお茶を受け取り、研究員の男は自分が何を告げるべきか、悩んでいた。

 暖かいお茶を一口飲んで、彼女の言葉がふと腹に落ちるような気がした。

 

「その…ありがとうございます」

 

 その言葉を聞いたナイスネイチャは、自分の気持ちが伝わったことを理解した。

 

「いいえ~。ちょっとは君の背中、押してあげられたかな?」

 

 彼女はカウンターの中で、少し照れくさそうに、柔らかく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 






 
久しぶりの更新です。
誠にお待たせして申し訳ございません。
仕事や生活が一難去ってまた一難といった案配で…

今後も気長にお待ちいただければ…放り出すつもりはないので…(多分)。
 
  


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