顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで (東京競馬場)
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ちょっぴり卑屈なネイチャさんがトレーナー契約を結ぶまで
ネイチャさんと謎の迷い人


ふっと自分のネイチャ見たら育成回数33回だったので記念。


「うげ、マズったぜこりゃ……」

 

 その呻き声をナイスネイチャが耳にしたのは、ちょうど商店街での晩御飯の買い物中のことだった。

 

 たまの自炊がマーベラス、だのとやけに語呂のいい同居人の駄々が祟って外出を余儀なくされた夕暮れ時。

 

 ぴくりと動くクリスマスカラーのイヤーカバー。

 右耳についたリボンが少し動いて髪を撫でる感触とともに、彼女はその声の方向を振り向いた。

 

 おせっかいというのならそうだろう。

 けれどここは馴染みの商店街。

 自分にとっては庭のような、実家のような温もりを持つ場所で。

 そこに彼女の気質が合わされば、無視するという方が難しい話であった。

 

 視線の先、商店街のストリートのど真ん中で、1人の青年がスマホを片手に頭を掻いていた。

 ずいぶんとアンティークで、一抱えほどの大きさがあるキャリーケースを脇に置いているところを見ると、どうやらご近所の人というわけでもなさそうだ。

 

 購入物を詰めてもらっていた魚屋の店主に一言だけ断りを入れ、彼女は買い物バッグを提げたままふらりと青年の正面へ。

 

「そこな人。何かお困りです?」

「んぁ?」

 

 顔を上げた青年と目が合う。身長はそこそこ高く、ナイスネイチャを見下ろす形。

 彼は少し驚いたように視線を彼女の頭部へと持って行き、それから小さくため息をついた。

 

 なんとも失礼な初エンカウントである。

 

「あの」

「あー……悪ぃな嬢ちゃん。こんな道のど真ん中で」

「え、あ、いえ。別にそーゆークレームではなくてですね?」

「ただ俺も色々と神経すり減らしちまってな、それこそ水切りにちょうどいい石くらいには摩耗しちまって、人の視線を気にするような気力さえ残ってねえっつーかな?」

「はあ……さいで……」

 

 なんだか妙なやつだぞぅ、と内心で三頭身ネイチャさんたちが腕組み足組み会議中。

 とはいえ、話しかけてしまったのは自分の方だ。

 どれだけ疲れているのかは知らないが、困っているのは確かなようだし、と彼女は少し思案して。

 

「何かお困りなら、話くらいは聞きますヨ?」

 

 腰に手を当て、いつもの気さくさでそう尋ねれば。

 やけに疲れた表情の彼は、たった今詰めて貰ってる鯖よりも死んだ目でナイスネイチャを見据えて、ぼやくように「そうか」と呟いた。

 

「話聞いてくれんのか。んじゃまあ、語るも涙聞くも涙の一席でも」

「あ、長くなるならそこで買ったもの回収してからでいいですかね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……要はただの迷子じゃないですか」

 

 その御大層な話とやらを聞いた結論はそれだった。それでしかなかった。

 

「送られてきた地図ファイルが破損してた。いやまあそこまでは分かりますけども。ウキウキで回した商店街の福引の抽選結果がティッシュだったくらいのテンションダウンはありますけども。で、どうしたって言いました?」

「仕方ないから駅を出て、ウマ娘の多い方に向かった」

「はいそれがもうおかしい」

「???」

 

 初対面だということも忘れてツッコミを入れるナイスネイチャ。

 首をかしげたいのはこっちの方だと、小さくため息。

 

「初めて来る旅行先なら、他に色々あるでしょ……。地図アプリを開くとか、駅員さんに目的地聞いてみるとか」

「駅からは、そう迷う場所でもないって聞いてたんだよ。あとはまあ、その、なんだ」

「なんですか」

 

 胡乱げな視線を送る彼女に対し、青年はどこかばつが悪そうに頬を掻いた。

 

「その時、ふとひらめいた! って感じで……ウマ娘の学校行くんだから、駅の周りに居たウマ娘たちの多い方行けばいいじゃんって……」

「えぇ……」

 

 典型的な、自分の発想に自信を持ってしまったが故の失敗例であった。

 

「あの、もしかしてアタシの耳見てため息ついたのって」

「それひょっとして最初か? ……そりゃ気ぃ悪くさせちまったな。ウマ娘は視線に敏感、ったあよく言ったもんだが、おおよそ想像通りだ。ウマ娘見つけてついてって、を繰り返してたら夕方になっちまってたからな……」

 

 おばかさんなんですかねこの人は、と内心ぽつり。

 

 果たしてナイスネイチャの人生で、ここまで手のかかる大の男が居ただろうか。

 いや、いない。

 

 頭を掻くと、彼女のふんわりとしたツインテールが軽く揺れる。

 

「えーと? じゃあトレセン学園に行きたいってことでいいんです?」

「ああ。正確には、行きたかった、だがな……目標未達成、か……」

「既に諦めてらした??」

「朝十時の約束なんだ」

「七時間遅刻はちょっと聞いたことないですね……」

 

 ナイスネイチャの心の中で、"なんだこいつ"判定がどんどん膨れ上がっていく。

 

「あの、電話とかしません? 普通」

「ふっ」

 

 哀愁漂う表情で見せたスマホの液晶は真っ暗だった。充電切れということだろう。

 

「ホテルの場所も判らねえからな。今日の枕は硬ぇや……」

「キャリーケース撫でながら悲しいこと言わないで貰えません??」

 

 今日何度目になるかわからない溜め息とともに、ナイスネイチャは首を振った。

 どうせこれから寮に戻るのだ。

 少し時間を食ってしまったが、今日は同居人に夕飯をふるまう約束がある。知らないうちに他の部屋からアイコピーして突っ込んでくるノンストップガールが居ないとも限らないし、早いとこ人数を把握して調理に入りたい。

 

 トレセン学園を経由するのは多少の寄り道にはなるが……。

 

「仕方ない……。よかったらトレセン学園まで案内しますけど、どーします? 約束があったなら、まぁ充電器くらいは貸してくれると思いますヨ?」

「い、いいのか?」

「帰り道ほぼ一緒みたいなもんですし」

「そうか……それは有難い……」

 

 かみしめるようなつぶやき。

 しかし次の瞬間、はっとしたように彼は顔を上げて言った。

 

「だが年頃の女の子が知らねえ奴についてくのは危ねぇから気をつけろよ」

「あの」

「ん? なんだ?」

「今、あなたに常識を諭されるのはちょっと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マーベラスな出会いなのー?」

「やー、どーかなー。どっちかっていうとコンフューズかなー」

 

 その日の夜のこと。

 食器の洗い物を済ませて人心地ついたナイスネイチャは、ベッドに転がるマーベラスな同居人もといマーベラスサンデーとともにのんびりと歓談に興じていた。

 

 毎日顔を合わせていれば、話題というものは消耗品だ。

 取り立てて話したいことでもなかったが、変わったことであったのは確か。

 ある程度の話題が尽きたころ、軽い気持ちで今日の出来事を繰り出してみれば。

 その大きな黒の二房とともにマーベラスサンデーの頭が揺れて小首を傾げた。

 

「でもでも、それが新しい出会いから、深いつながりになればとってもマーベラス!」

「えぇ……また会いたいなんて話でした……?」

「んー」

 

 と、そこで。

 当たり前のようにナイスネイチャのベッドに転がっていたもう1人の小柄なお友達が、マヤ分かっちゃった、と呟いて。

 

「それ新しいトレーナーの人じゃない? マヤのトレーナーちゃんが言ってたよ」

「ならネイチャのトレーナーさんとの出会いなのー★」

「マテマテ。マヤの言ってることがほんとだったとしてだ」

 

 ノリノリの二人を慌ててその手で制して。

 ナイスネイチャは思い返す。

 

 シンプルにただの迷子だった若い男。

 ウマ娘についてくついてく……からの伝説の七時間遅刻。

 控え目に言ってただの不審者である。

 

 逆に言えば、そんな男をトレセン学園まで案内した辺りに彼女の優しさがあり、彼に対して殊更バカにした台詞が思いつかない辺りも彼女の人の良さがうかがえるのだがそこはそれ。

 

 トレーナーになって欲しい欲しくない以前の問題であると、彼女は考える。

 トレーナーとしての才覚も、あの程度の話ではくみ取れるはずもなし。そもそも出会いと呼べるほどたいそうなものでもなし。

 

 それに、だ。

 たとえ今回のこの一件とも呼べないような小さな出来事が、マーベラスサンデーの言うような劇的で衝撃的で"マーベラス"なものであったとしてもだ。

 

「いくら最初に会ったからと言って、アタシのトレーナーなんかにはなりたがらないっしょ。同期にテイオーが居るんだもん、猶更ね」

 

 脳裏をよぎるのは無敗のテイオー伝説序章。ついぞ背中に追いつくことが出来なかった幾たびもの模擬レース。

 まざまざと見せつけられた、主人公とそうでない者の差。

 

 もしもたとえば、自分が物語の主人公なら――二人の言うように小さな出会いからストーリーが始まったりするのかもしれない。

 

 けれど既にナイスネイチャは達観したあとだった。このトレセン学園に入学して気づいてしまった、才能の壁。己はしょせん善戦がせいぜいのモブなのだと突きつけられて。

 

 だから。

 

 てへへと笑う彼女の卑屈な表情を見て、顔を合わせた目の前の二人が何を考えていたかなんて、彼女には分からなかった。

 



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ネイチャさんと凄いらしいトレーナー

 

「様々な観点から検証した結果――」

 

 しゃがみ込んでいた青年が立ち上がり、振り返る。

 その先には棒キャンデーを咥えた長身の男が居て、至極真面目な視線を彼に送っていた。

 

「――沖野サンが破損ファイル送ってくんのが悪ぃわ」

「まだ引っ張るかその話」

 

 一気に真面目なツラが渋面に変わる、沖野と呼ばれた男。

 すらっとして清潔な身なりに、束ねた後ろ髪がチャームポイントの彼は、先ほどまでしゃがみ込んで芝をいじっていた青年に告げる。

 

「結局全部丸く収まったんだからいいじゃないか。だいたい、電話しても出ないしこっちだって心配したんだ。理事長もたづなさんも仕方がないってことで納めてくれたわけで、これ以上いじけられても……困る」

「ぐっ……」

 

 七時間迷った原因の大半が、ウマ娘についていくなどという無意味な閃きによるものにも拘わらず、この沖野という男は寛容だった。

 困惑の顔色は、押し黙った青年の様子を見て笑みへと変わる。

 

「はは、しかしそういう子供っぽいところは変わってないんだなあ」

「うっせぇっすよ。あんただって良いウマ娘の脚見たら我を忘れて飛びつく癖に」

「それはトレーナーとしての職業病だからな」

「誇ることではねーよ少なくとも……」

 

 ぽりぽりと、その濡れた烏のような黒髪を搔く青年は、目の前の沖野に対してどこかやりにくそうだった。半面、沖野の方はまるで弟を諭すような雰囲気を隠そうともしない。

 

「それより、話を戻そう神谷。改めて芝を見た感じはどうだ?」

「めちゃめちゃ良い芝だなーって感じ。まあ少なくともフランスのとは全然違ぇわ」

「だろうな。……それで?」

 

 問いを投げる表情は、先ほどとは打って変わって真面目なもの。もとい、最初の話題はこちらだった。

 神谷と呼ばれた青年も質問の意図は把握しているようで、その瞳を細めてターフを睨む。

 

「正直、チーム組むのは無理っすわ。芝1つとっても、シャンティイでやってきたノウハウそのままってわけにはいかないってハッキリ分かる」

「そうか。残念ではあるけど、理事長には断りを入れておこう。だがそう言うってことは、トレーナーとしては仕事が出来そうってことで良いんだな?」

「1対1なら、問題ねぇかな? 沖野サンの顔に泥塗らねえくらいには」

「俺の顔はそんなたいそうなものじゃないさ」

「けど、俺を紹介したせいで滅茶滅茶言われたんっすよね?」

「それは……」

 

 言葉を失う沖野。

 

 神谷は一度目を閉じる。

 昨日、自分が大遅刻をかました中央トレセン学園への転属手続きの際のこと。

 大半が遅刻そのものへの指摘ないし問題提議ではあったが、彼らの目はありありと、日本でのトレーナー経験がない人間が最初から中央でトレーナーを行うことへの不満を謳っていた。

 

 そして事実、沖野とともに夕食にありついたタイミングで色々と言われたものだ。

 

 最初からチームを組むなど言語同断であり、そもウマ娘1人を預かることが出来るかも怪しいものであると。

 

 神谷自身、それに対してとやかく反論したりはしなかった。

 彼らの言い分も分かる。そもそも国によって芝やダートの質も全く違う以上、練習内容どころか心構えからすべてに至るまで事情が異なる。

 フランスでやってきた流儀のまま日本で指導などしてみれば、待っているのは担当ウマ娘の破滅。

 

 彼らはそう思い、あくまでウマ娘の為を思って提言したのだろうし、この人事に対する不満も致し方がないこと。

 現状の神谷は、日本でのトレーナー免許こそあれどペーパー同然。

 

 むしろ最初からチームを持つよう言い放った理事長の方が異端なのだ。

 

 だが、それはそれ。

 神谷にだって事情はあった。

 なにせフランスで少々やらかした自分に対し、次の場所を用意してくれたかつての先輩が今目の前にいる。

 

 結果で応えるべきと考えるのは、至極当然。

 

「良いウマ娘見極めて、しっかり結果出す。だからまあ、沖野サンも気張れよ? 久々に会ったら元気ねーんだもんよ」

「……そう、だな」

 

 昨日軽く話した時に、聞いていた。

 沖野もまた、トレーナーとしてあまり上手くいっていないと。

 実際、そんな沖野が呼んだことで余計に批判に拍車がかかっているのかもしれないが――もしそうだとしたら、なおさら沖野の名誉のためにも戦わなくてはならない。

 

 もしかしたら自分を引っ張り込んだ背景には、沖野自身への発破も含まれているのかもしれないと、そんなことを思いつつ。

 

「自分の目で見て、探すさ。まずは1人、すげえウマ娘を見つけてスカウトして、すげえ成績を叩き出す。もちろん俺の生き残りにも大事だし、沖野サンの望みでもあるっしょ?」

「ああ。お互い頑張ろう」

「おいっすー」

 

 互いにウマ娘に魅せられ、導く存在になりたいと誓った学生時代のように拳を交わし――しかし夢だけで語れないのが現実というもので。

 

「まあ、大半のすげえウマ娘はもう、チームに所属してるだろうけどな」

「それを言うなよ沖野サン……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんでも新しいトレーナーは、フランス競バで数々の実績を叩き出していたとか。

 そんな噂が広まったのは今日のお昼のことだ。

 

 女子社会の例に漏れず、ここトレセン学園も噂の伝播は早いもの。

 トレーナーが新しく増えるという話は、その話題にしてはそこそこの盛り上がりを見せていた。

 

 いくら中央トレセン学園が国内最高峰の学園で、トレーナーもその名誉に恥じない人材が集められるといってもだ。

 最高峰の学園に通うウマ娘だけで2,000を超えるというのに、トレーナーが10だの20だので足りるはずもない。

 

 トレーナーが増えるというのは案外と日常的なものであったし、引退もまた日常茶飯事。

 

 だがそのトレーナーというのが海外から戻ってきた人材であることと、日本での経験がないにもかかわらずチームを組織するかもしれないという話はやはり題材として美味しい代物だった。

 

 まだ昨日着任したばかりで憶測ばかりが先行しているのも、話題性に一役買っていただろうか。

 

 ウマ娘たちがそれぞれ信頼するトレーナーたちからの評判はあまりよくなく、しかしフランスでの実績は本物。

 このトレーナーが理事長の抜擢に値するほどの腕利きか、あるいはトレーナーたちの言うように肩書ばかりの見掛け倒しか。

 

 お昼休みのカフェテリアは、その話題の色に染まりあがっていた。

 

「……わー。なんかすごいことになってるなー……」

 

 ナイスネイチャは肩を落とし、参ったとばかりの苦笑いを浮かべて円卓を囲む面々に目をやった。

 

 同じ中等部のマヤノトップガンとマーベラスサンデー。ヒシアケボノにカレンチャン、はてはトウカイテイオーまで混ざっての食卓は、ナイスネイチャの目を焼くに十分なキラキラを放っていた。

 

「フランス帰りのトレーナーかー」

「テイオーちゃんも興味あるのー?」

「ん-。まぁカイチョーが気にしてたからねー」

 

 その一言に、ナイスネイチャの耳がぴくりと動いた。

 そして、トウカイテイオーの放ったその発言が気になったのは、彼女だけではないらしい。同じ食卓を囲む彼女らはおろか、周囲のテーブルに着きこの話題を楽しんでいた生徒たちの耳さえ、明確にこちらを向いている。

 

 どこ吹く風なのはテイオーだけ。ウマ娘たちに囲まれても、全く気に留めずに己のスタミナ定食を進めているときた。

 

「あー、テイオー?」

「ん、どしたのネイチャ。なんかボクの顔についてる?」

「や、じゃなくて。カイチョーってシンボリルドルフ会長だよね? 気にしてたって、何か言ってたの?」

 

 そう問うと、こてんと小首を傾げるトウカイテイオー。

 

「そのトレーナーの話?」

「そうそう」

 

 どうやら彼女の中では、もうすでに片付いた話だったらしい。

 ネイチャの肯定に、まるで周囲のウマ娘全員が同じように頷き続きを促しているようだった。

 

「なんかねー。カイチョーはその人がチーム組むのに賛成らしいよ? でも、ボクがそのトレーナーを逆スカウトした方がいいかって聞いても答えてくれなかったんだー」

「まあ、そりゃね……良いとも悪いとも言えないよね……」

「無敵のテイオー様のトレーナーになれるんだったら、喜ぶと思うけどなー」

「……でも、なんでルドルフ会長はそのトレーナーさんに肯定的なんだろ。結構否定的な人も多いって聞くけど」

「あー、それはね」

 

 フォークをふりふり、同時に彼女のしっぽもふりふり。

 

「その方が、『ウマ娘の幸福に近づくだろうから』……だってよ」

 

 よくわかんないけどねー、と言葉を〆て、トウカイテイオーはニンジンをぱくついた。

 

「……なんか」

 

 ぽつりと、ナイスネイチャは呟いた。

 

 昨日のあの青年とはいまいち一致しない人物像。

 もしかしたら別人かもと考えて――うん、きっとそうだと頷く。

 

 聞くだに、その新しいトレーナーは凄い人のようだ。良くも悪くも、着任するだけでこれだけの話題を搔っ攫う人物で、なによりルドルフ会長が認めているときた。

 

 ひょっとしたら、これからしばらくの話題を占有する凄腕トレーナーとして名をはせたりしそうなものだ。

 

 そんな人は、これまたきっと自分のようなモブとは縁はなさそうだし。

 

 もしかしたら、こうして「いまいちよくわからないなー」というような顔をしながら目の前で周囲の視線も気にせずご飯を進めるトウカイテイオーとでもコンビを組んで、それこそ伝説を築いたりするのかもしれない。

 

 だから、昨日会った人とは別人だろう。

 

 別に昨日の青年に思いを馳せるわけではないが、それでも。

 そんな凄い人なら、最初に会う相手が自分というのは……やっぱり違う気がするし。

 あと変な人だったし。

 

「遠い世界の話ですなー」

 

 何かをごまかすように、そうしてナイスネイチャは小さく笑った。

 

 



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皇帝と新人トレーナー

 

 

「さーて、問題は」

 

 栄えある中央トレセン学園新米トレーナーとなった神谷は、一つ伸びをして広い練習場を眺めて言った。

 

「――思ってた五倍くらい避けられてるってことだな!」

 

 ほとんどのトレーナーに否定的な感情を持たれている現状、既にチームに所属していたり専属トレーナーを持つウマ娘たちに避けられることは覚悟していた。

 

 彼女らの担当トレーナーが、自分のことを悪く言うことは想定していたからだ。

 

 だがこれはどうにも、まだどこにも属していない子たちにまで噂が波及しているように感じられる。

 

「走りを見ようにも、俺のこと気になるみてえだし……」

 

 どんな風に広まっているやらと、頭を掻く。

 

 ベテランスカウトでもあるまいし、こうしてちらちら様子を窺われると居心地が悪い。

 様子見なんてのは短い距離だから出来るのであって、こうも遠くからでは脚質の分析もろくに出来やしない。

 

「んあー……あの子、芝よりダートのが向いてそーだなー……」

「ほう。では語りに行くのかな?」

 

 と、背後からの声に気づく。

 なんでこんなところにいらっしゃるのやら。

 

「……いつから居たよ、生徒会長」

「最初からさ」

「最初……?」

「む。こう言うのがお約束と聞いたが、どうやらハマらなかったようだ」

「さてな。国外が長いせいで、俺にゃ判別できねー」

「そうか」

 

 隣に並び立つ生徒会長――シンボリルドルフ。

 皇帝の名に恥じない、学園最強のウマ娘。そして、すべてのウマ娘の幸福を目指してやまない求道者。

 

 軽く挨拶を交わした程度だが、数多く居るトレーナーのすべてを丁寧に記憶しているというから頭が下がる。

 理事長を悪く言うわけではないが、学園のトップにすら相応しい人望と力量を秘めた人物と言えた。

 

 なのに、だ。

 ちらりと見れば、その耳が少し寂しげに下がっていると来た。

 ままならないものである。

 

「悪ぃって。マジでネタがわからんだけだ。邪険に扱ったつもりはねえ」

「いや、こちらこそすまない。確かに私が配慮に欠けていた」

「……それで、なんでわざわざこんなところに。散歩ってわけでもねーだろ」

「むしろキミにこそその台詞は返したいが?」

「あ?」

 

 どういうことだ、と眉をひそめて。

 あくまで友好的で穏やかな笑みを崩さないシンボリルドルフと見合うこと数秒。

 

 何かに気づいた神谷は、思わず彼女から目をそらした。

 

「……あー。俺はスカウトを待つウマ娘を探しに競技場に来たんだが……なんかやらかしてる?」

「ここは今日、複数のチームが借りている競技場だね」

「つまりここにいるウマ娘はみんなチームに加入済、と」

 

 そう納得を示せば、鷹揚に頷くシンボリルドルフ。

 またやっちまったと呻いて、神谷は空を仰いだ。

 

「……少し、地の利に疎くてな」

「ああ。七時間も予定がずれたからよく知っているとも」

「沖野サンめ……」

「すべて沖野くんのせいにするのはいささか無理がないだろうか」

「ぐっ……」

 

 ぐうの音も出なかった。

 

「いや、悪かった。それじゃ俺は未加入の子たちが居る競技場に行くよ」

「……少し待ってくれないか?」

「んぁ?」

 

 振り向けば、彼女は変わらず笑みのまま。

 ふとそこで気づく。そういえば妙に彼女は最初から、友好的な態度を崩さなかったと。

 

「話がしたいんだ。まだ私のチームが練習をする時間にはなっていなくてね。それなら、キミと話すのが私にとっては一番有意義なんだよ」

「そりゃずいぶんとまた……」

「もちろん、対価は用意しよう。私にできることであれば、融通を効かせると約束する」

「……」

 

 そう言われては、なかなか無下にもしづらいのは事実。

 対価がどう、というよりも、そうまでして話したいと言ってくれる相手をないがしろにするのは気が引けた。

 ましてや、相手が新人トレーナーなどより圧倒的に多忙な生徒会長ともなればなおさらだ。

 

「対価は……ああ、じゃあこれでどうだ?」

「なんだろうか」

「……俺の目指す練習場への道案内がてら、話を聞くってので」

 

 そう言うと、彼女は先からの笑みに和やかな色を加えて頷いた。

 

「もちろん引き受けるとも」

 

 

 

 

 

 

 

 

「話ってのは?」

「簡単に言えば、キミという人間を知りたい……が適切だろうか。話題の切り出し方は多岐に渡るが……」

 

 広いトレセン学園の外苑を歩く二つの人影。

 一つはこの学園に通う誰しもが知る皇帝にして生徒会長。

 逆にもう一つは、この学園でまだ最も知名度が低い男だった。

 

 ゆったりとした歩みはウマ娘から見れば亀のような遅々としたもの。

 けれどだからこそ、語らうには適していた。

 

「じゃあ俺から聞いてもいいか?」

「ああ、歓迎しよう」

「やけに親しげに感じるのは気のせいか?」

「ああ、気のせいではないよ」

「……その理由を聞いても?」

 

 顎に手を当て、肯定するように頷く彼女。

 

「キミのことは、ある程度調べさせて貰った。キミに限らず、トレーナーとしてこの中央トレセン学園に所属する者についてはいつもそうさせて貰っているが……それで、少しばかり嬉しくなったんだ」

「……俺の経歴は、日本人のトレーナーにしちゃ珍しいかもしれねえが」

「ああ違う。フランスで為したことが、だよ」

 

 神谷の目が僅かに細まるのを見て、シンボリルドルフは少し眉を下げる。

 

「あまり触れてほしくない話題だろうか」

「いや……予想外のとこ来たなと思っただけだよ。気遣いは受け取っとくけど」

「ありがとう。キミはフランスのシャンティイトレセン学園にて、サブトレーナーとしてチームの面倒を見てきた。その中で、担当したウマ娘たちに共通する事項があった。それは、皆が皆キミと出会うまで燻っていたウマ娘であったということだ」

 

 そう告げられて、思わず神谷は足を止めた。

 どうかしたのかと首をかしげるシンボリルドルフに、呻くように額に手を当て神谷は言う。

 

「いや、いやいやいやいやいや。……ちょっと待ってくれシンボリルドルフ」

「待つとも」

「そうかありがとよ。……じゃなくて。え、どんな資料読み込んでんだ? どうやったらそんなことまで分かんの? ってかむしろ1人のトレーナー調べる労力えぐくない?」

「? 無論、資料に『みんな燻ってました』などと書いてあったわけではないが」

「そゆことじゃねーよ」

 

 どうやらシンボリルドルフは自分がどれだけのことをやってのけているかを理解していないらしいと知って、盛大に嘆息する神谷。

 

 だってそうだ。

 このトレセン学園に在籍するトレーナーたちが神谷を軽んじる理由は件の資料を見たが故のこと。

 同じ情報からこうも違う視点で価値を見出すかと――それも、情報から得た知見が少なからず的中しているともなれば、神谷も開いた口が塞がらない。

 

 資料ないし履歴書に記載されている彼の情報は、十を数える程度の担当ウマ娘たちがそれなりの重賞を勝利したことと、そして引退したことだけのはずだ。

 

「ただ履歴書見てるだけかと思ったら、きっちり自分の目で分析……? んなこと出来る目もすげーけど……こう言っちゃなんだが、生徒会長って暇じゃねーだろ? それに、ここまでする理由っつか、必要も無いはずだ」

「確かに暇とは中々言い難い日々を送っていることは認めよう。ただ、必要か不要かで言えば、必要なことだと感じている。この学び舎に通うウマ娘にかかわる問題だからね」

「……お前、すげえな」

「ふふ、ありがとう」

 

 素直に心の底からの敬意が零れ、それを受け取るシンボリルドルフも嬉しそうに頬を緩めた。

 

「だがキミも大したものだ。キミの担当したウマ娘の経歴は、キミのチームに入ると同時に劇的に変化した。見違えるほどのタイムと、華々しい重賞の輝きがキミの担当ウマ娘を彩っている」

「……」

「彼女らは間違いなく幸せを手に入れたことだろう。違うかな?」

 

 ああ、だからこそシンボリルドルフは目の前のトレーナーに期待していると言えた。

 挫折を知り、心も足も歩むことを諦めてしまった、悲しみを背負ってターフを去ったウマ娘を数多く見てきたシンボリルドルフであればこそ、目の前のトレーナーが持つ経歴を眩しく思っているのかもしれない。

 

 ウマ娘、もとい皇帝ではなく、トレーナーという立場からだから出来るアプローチ。

 それを期待しているのも嘘ではない。

 

 そんな想いを胸に彼を見れば、中等部のセイウンスカイ辺りがやりそうな、人を食ったようなとぼけた笑みとともに言った。

 

「やー、どーかな」

「……ふむ、それはどういう意味かな?」

「……隠すほどのことでも、ねーんだけどさ」

 

 後頭部で組んでいた手をだらりと下げ、力なく神谷は笑う。

 

「幸せってのは人それぞれだろ?」

「その切り出し方から察するに、すべてのウマ娘がダービーをとることは不可能だ、というようなことが言いたいのかな?」

 

 神谷の言葉を受けて、シンボリルドルフの口を突いて出たのは自らが抱える悩ましい命題だった。

 すべてのウマ娘の幸福を目指す。その目標を掲げるうえでぶつかる、越え甲斐のある障害と認識している。

 

 だが、神谷は緩く首を振った。

 

「確かにお前の言ってることは間違いねえ。すべてのウマ娘にダービーは取れねえ。でも俺はそれ、だからこそダービーってのが尊いもんだと思うし、俺の夢を預けることが出来るもんだとも思う。ほんと……眩しくて、最高だよな。ダービー」

「ああ」

 

 純粋無垢な子供のようにダービーを語る神谷の口ぶりに、母性と栄誉がないまぜになったような感情を覚えるシンボリルドルフ。自らが勝利を飾った重賞を、そうも輝く目で見て貰えるというのは誇らしいものだ。

 

 だが、だからこそその瞳が曇った時、次の言葉に籠る感情に気づいてしまう。

 

「ウマ娘がそうであるように、トレーナーにも色んな奴が居る。これはスタンスの話なんだけど……俺の場合は、一緒にすげえことやりてえって感じなのな」

「すげえこと……か。ふむ」

「だから、俺が担当してきたのはそういう奴らだった」

 

 おおよそ、言葉の節々と調べた情報から、シンボリルドルフは神谷の言いたいことが見えてきた。

 一緒にすげえことがしたい。その言葉に嘘はないだろう。だが、何となく分かった。

 彼はきっと、自らを必要とするウマ娘を育てるのが得意なのだ。

 

 逆に、放っておいても目標に邁進し、その道を舗装してやれば良いだけの相手とは合わない。トゥインクルシリーズを歩んでいた時期の自分ともあまり合わないだろうと、シンボリルドルフは察する。

 

 もしかしたら今は合うかもしれない。1人では達成できない目標を掲げ、突き進んでいる今なら。――ただこの夢はレースとは異なる代物で、トレーナーだからどうこう出来るとは限らないが。

 

 そして、彼と相性の良いウマ娘というのがきっと、フランスで引っ張り上げてきた"燻っていた"子たちなのだろう。

 

 けれど。

 

「なんつーかな……その」

「思ったよりも、その燈火には蝋が少なかった」

「……めっちゃ上手い言い方するな。かっけえ」

「ふふ、ありがとう」

 

 やはり、楽しく組むことが出来そうではある。そんな内心はしまい込み、シンボリルドルフは続けた。

 

「キミの担当したウマ娘たちは、薪を枕に臥し胆を嘗めるような日々を送っていたが故に、キミが手を差し伸べた。彼女らを伸ばす才覚がキミにはあった。だが、彼女らの幸せとキミの幸せは違った……といったところだろうか」

「……まーそうな」

 

 軽い肯定。

 そして、神谷はどこか達観したように呟いた。

 

「満足するのは、良いことだと思うんだけどな。だから、お前の言ってたことは合ってる。あいつらは多分みんな、幸せになったよ」

「ままならないものだな。ウマ娘は幸せでも、トレーナーはそうではなかったか」

「痛ぇこと言うなよ。それがどんなに間違ってることかは、俺だってよく分かってる」

 

 トレーナーはウマ娘の杖だ。導き、そして支える存在。

 それ以上でもそれ以下でもないというのは、トレーナーとしての心得を学ぶ場で叩き込まれるこの世界の真実だ。

 

「お前は、燻ってるっつったけど。俺にとってあいつらは皆、どいつもこいつも良い素質を持ってたんだ。ただちょっと、自分の使い方を分かってなかったり、知らなかったりしただけで」

「いや、それでもキミという存在と出会わなければそのままだっただろう。キミは数多くのウマ娘を救った。その事実は私の中では変わらない」

「……そか。ありがとよ」

 

 ただ、それでも。

 

「――俺は結局、自分のためにトレーナーやってんだよ。自分が、すげえウマ娘を見たくて、やってるんだ。だから……俺の中ではまだまだ目標未達成だってのに、満足してシリーズの終わりを迎えちまう奴らを見てて……」

「見ていて?」

「や。それがなーんも言えなかった」

 

 ウマ娘にぶつけるべき感情ではないと分かっていた。

 彼女らが満足したときに、それでもと引っ張るエゴは持ち合わせていなかった。

 

 シンボリルドルフには分かった。自分のためにトレーナーをやっていると嘯くこの青年は、どうしようもなく"ウマ娘のためのトレーナー"であることが。

 

「マジでなんも言えなかった。笑えるくらい。俺とだからここまでやってこれたって言われて……んな満足げな笑顔見せられたら……なんかわかっちゃうんだよな。ああ、もうこいつはターフでぎらぎらした顔は見せてくれねーんだなーってよ」

「神谷くん……」

「でまあ、ちょうどそんくらいのタイミングでメインのトレになるように言われて。ここで問題が起こった。いやまあ、向こうからしたら当たり前の話なんだけど……」

 

 少し躊躇い、そしてシンボリルドルフを気遣うような視線。

 彼女はゆっくり顎を引いて、自分から言った。

 

「もっと良い状態のウマ娘を担当しろ、とでも表現しようか」

 

 正しくは、もっと良いウマ娘を担当しろ。だ。

 だがそんな言い方は、決してこの皇帝を愉快にさせはしない。

 

「ああ、それで良い。もとからちゃんと1人で立ってるウマ娘を担当して、さらに良い感じにしろ、みたいな。まあ言いたいことは分かる。俺がそれこそ燻ってるように見えた子ばかりを担当させられてたように見えたのか……」

 

 CをBに引き上げてばかりいた、実績の申し分ないトレーナーであればこそ。

 これからはAをSにしろと言いたくなる気持ちは、決して分からなくはない。

 

「でまあ、3人くらい新しく、お見合いというか向こうから委任される感じで託された」

「……結果は知っているさ」

「ああ。全員チーム辞めた」

 

 結局のところ、神谷本人が自覚している通り、担当するウマ娘との相性というものが存在した。

 

「まあまあ手痛いフラれ方でな。もともと邦人で、決して立場がいいわけじゃない。向こうでも才能あるウマ娘ってのは発言力っつか権力も強くてなー。労働ビザも危ういなーってなってところに、沖野サンから連絡あって帰ってきた感じ」

「耳の痛い話だ」

 

 渋い顔をするシンボリルドルフであった。

 自らもまた、発言力の強いウマ娘であることを理解しているが故に。

 

「だが……安心したと言えばいいのかな」

 

 と、緩く笑みを作るシンボリルドルフに、神谷は首をかしげる。

 

「何がだ?」

「それでもキミは今また、新たな担当ウマ娘を作ろうとしてくれている」

「仕事だから、って割り切れたわけじゃねーけど。日本の競バは面白ぇからな。お前のダービー最高だったし」

「そうか!」

「嬉しそうな顔しやがって。事実だから良いけどよ」

 

 沈着冷静ながらも、喜色はあえて隠そうとしない彼女の声に神谷も緩く笑みを返して。

 

 すると彼女は、その表情を真面目なものに戻して、視線を先に投げて言う。

 

「この先にあるのが、まだスカウトを待つ子たちが自由に練習を行う競技場だ。実に……ああ、実に有意義な時間を過ごせたこと、礼を言おう」

「着いたか。いや、これは俺も礼言わないといけねえな。この距離1人で歩くのは退屈しそうだ」

「ふふ。キミは果たしてまっすぐたどり着けたか怪しいところだが」

「んだと」

 

 キレやすい現代の若者は、しかしシンボリルドルフの穏やかな瞳の奥に灯された熱に、わずかに気圧される。

 

「――神谷くん」

「なんだよ、改まって」

「そうだね。改めてキミの人となりを知ることが出来て良かったと思う。そして、だからこそ言いたいことが二つ。最後に聞いて欲しい」

「……いや、今更頼まれるまでもねえけど」

 

 想像していたよりも遥かに親しくなったこともある。

 一つや二つの頼みを嫌がる理由も見つからないし、それが話を聞くだけともなればなおさらだ。

 

 彼女を見つめれば、少し間を開けたあとにゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「一つ。――ようこそ、中央トレセン学園へ。私は心からキミを歓迎したい。現状、多くのトレーナーはキミに否定的であるし、日本でのキミの実績が零であることは厳然粛々たる事実だ。だが、私はキミの指導を信じたい」

「……おう。その信頼に応えるさ。そうじゃなきゃ普通にクビだしな」

「ああ」

 

 そしてもう一つ、とシンボリルドルフは続けた。

 

「キミの夢は、きっとここで叶うと信じている」

「……それは」

「フランスの競バを貶すつもりは毛頭無い。だがそれでも私は、この中央トレセン学園のウマ娘たちが持つ飽くなき熱を信じている。だからこそ、キミの夢もまた叶うと信じられる。そう、だな」

 

 一瞬、顎に手を当てて。それから、突き差し示すように、指をウマ娘たちの練習する競技場の方へとまっすぐ向けて。

 

「唯一抜きん出て並ぶ者なし。そう在るまで走り続ける……逸材たち。差し詰め、キミの育ててきた"良い素質"をも超えるウマ娘をキミが導き、キミ自身の夢をも叶えられる。私がそう保証しよう」

「……そうか」

「ああ、そうだとも」

 

 もしも本当に、そんなことがあるのなら。

 神谷は思う。

 

「もしも、あいつらを超えるような、素晴らしい素質って奴があるのなら」

 

 その時、少しだけシンボリルドルフの目が見開かれて。

 

「――もう一度だけ、夢を見てみようか」

 

 遠い目をして、夕日が彩る空を睨んで。

 

「私は、キミの夢を肯定する。トレーナーがウマ娘を幸せにするのなら、その逆があってもいいはずだ」

 

 並び立つシンボリルドルフの頼もしさに、神谷は笑った。

 

「皇帝の肯定か。そいつは頼りになるな」

「ぶふっ」

「あ?」

「ふ、ははははははは!! 確かに!! 皇帝の肯定だとも!! ははははははは!!」

 

 

 

「は?????」

 

 

 今までのすべてが台無しだった。



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ネイチャさんとまた会った迷い人

 荒い呼吸を整えて、膝に付いていた手を気合と共に持ち上げる。

 反動を利用して仰いだ空は夕に暮れて、なんだか己の心と同じ哀愁を思って嫌になった。

 

 けれどダメだ。それで心の底からの悔しさをそのまま吐き出す訳にはいかない。

 胸の奥からこみ上げる熱い激流を無理くりに飲み下して、「はっ」と自嘲と共に頭を掻く。

 

「やー、速いですねーご両人」

 

 認めたくない感情を押さえつけ、スタートからついぞ背中しか見せてくれなかった面々の足を称賛する。

 自分は今、ちゃんと笑えているだろうか。

 

「いえーいマヤちん大勝利ー!」

「称賛は素直に受け取っておこう。ただ、やはり踏み込みの角度を誤ればそのまま追いつかれることが分かった。2000メートル右回りの最終コーナーは歩幅から見直すべきかもしれないな」

 

 マヤノトップガンとビワハヤヒデ。

 ようやくこちらを振り向いてくれた二人を目にして、やれやれと少女は首を振る。

 こっちは全部が全部全身全霊込めて走っているというのに、片方はまだまだ元気そうにぴょんぴょん跳ねているわ、片方はあくまで試走は試走と割り切って次に活かそうとしているやら。

 

 悔しいという思いすら、おこがましいのかもしれないとさえ考えて。

 

 中距離芝2000メートル。

 自主練最後の一走に付き合ってくれたお礼を告げて、少女は疲労に震える足を引きずるように、その練習場をあとにした。

 

「……」

 

 緊急時には貯水池にもなるこの練習場は、ぐるりと四方をなだらかな坂に囲まれている。

 その一方から伸びる石の階段を踏みしめる度、重たい太ももが悲鳴を上げた。

 

 情けない話だと眉を下げる。

 今日はこれ以上走れないってくらい、いつもいつも走り込んで練習して。

 それでも届かない、届く気配すら見えない"キラキラ"。

 

 練習場を振り返れば、今も彼女らは楽しく眩しく輝いているように見えて、1人自分の立ち位置に納得する。

 "キラキラ"を反射する夕焼けに、舞台袖がお似合いだと突きつけられている気がした。

 

「ふぅ……疲れたまってきたし……アタシなりに今日もやったし? 元気に帰りますか」

 

 いっちょ前に凹めるほど、自分は頑張れていない。

 なのに届きたくても届かないものに蓋が出来るほど、大人にもなれない。

 

 締め付ける胸の痛みを、体力が無い故の呼吸困難だと言い張って、中途半端な自分を笑うことで誤魔化して、彼女は1人帰路を歩んだ。

 

 そんな卑屈で熱意があって、強くないのに弱くもなれない少女の名を、ナイスネイチャといった。

 

 

 

「……! ……!」

 

 

 

 ふと、顔を上げたのはトレセン学園の門を潜ろうかという時。

 下校途中に耳に入ってきたのは、複数人の話し声だった。話し声というには少々盛り上がりを見せていて、楽しそうな黄色い声に思わず視線を向けてしまう。

 

 その先は、校門から学園へと続く通りの傍――芝生に設けられたベンチだった。

 

 ベンチを囲む少女たちの尻尾は楽し気に揺れていて、よくよく見ればその中心たるベンチそのものには1人の男が腰かけていた。

 

「では良いですか? 次のレースでは――」

 

 その男の胸にはトレーナーバッジが輝いて、彼を囲む赤いジャージの少女たちに熱心に語りかけている。

 

 なんてことはない、チームを率いるトレーナーと、その所属するウマ娘たちの会議だった。

 

「――うん?」

「あ、やば」

 

 ふと目が合ってしまって、慌てて視線を逸らし足早に校門を潜り抜ける。

 

 別に逃げる必要はないのだが、他チームのスパイだなんだと疑われても嫌だったし――とそこまで考えて首を振った。

 

 違う。もっと単純な感情だ。

 なんとなく居た堪れなくなったのだ。

 

 彼女はまだ、トレーナーを付けなくても良い時期のウマ娘だ。

 トゥインクルシリーズを走り始めるまで、トレーナーは必要無い。

 

 だが、たとえば同期のトウカイテイオーなどは複数のトレーナーから既に声を掛けられているし、先ほどトレーニングをともにしたビワハヤヒデやマヤノトップガンは既に専属のトレーナーと共に在る。

 

 トウカイテイオーの場合は自分に合うトレーナーを自ら探すべく、彼女に声をかけた面々を品定めしているようだが、その他のウマ娘からすればずいぶんと贅沢な話だ。

 

 そしてそれは、ナイスネイチャにとっても同様だった。

 

 何度か開かれた模擬レースで、ナイスネイチャは殆ど実績を残せていない。

 否、正確には全てが3着だ。

 これが本番であれば掲示板に入ることが出来る入着である――などと自分を誇ることなど彼女には出来なかった。

 

 それはそうだろう。模擬レースなど半分以上は試走の域を出ず、トウカイテイオーのように全勝を遂げている者ですらどうなるかわからないのがトゥインクルシリーズだ。

 

 模擬レース如きですら1着を取れないのが今の自分であり、その状況が変わる未来すら霧中にぼやけているのがナイスネイチャの正直な心境だった。

 

 つまるところ、現状彼女に声をかけたトレーナーは1人も居ないという話に帰結する。

 

「……あー、やめやめ!」

 

 両手で頭を掻いて、雑念を振り払うように天を見上げる。

 

 こんなことで気落ちできるほど、自分は努力を重ねただろうか。

 

 あがいてあがいてあがいてそれでもダメで――何かのきっかけを掴み立ち上がる『主人公』ならいざ知らず。

 

 己のようなモブにとっては、これも贅沢な悩みでしかないと言い聞かせる。

 

 凡人ならば1つ1つを積み重ねるしかないのだと。明日も明日で、皆に追いつくために努力を重ねるしかないのだと。

 隙を見せればすぐに鎌首をもたげるこうした"雑念"に、いつの間にかナイスネイチャ自身が得た対処法がこれだった。

 

「アタシがちゃんと結果を出せればいいだけの話。そうでしかない。劇的に何かが変わったりはしない。そーゆーのは諦めろっての。主人公じゃないんだから」

 

 そうして続けて、どれくらいの時間が経っただろう。

 周囲がどんどん前へ前へと進む背中を、見続けてどれくらいの時間が経っただろう。

 

 次第に焦りへと変わる熱意の感情に、見て見ぬふりをして。

 

 変わらない明日にまた望みを託す毎日――それが、彼女の日常だった。

 

 

 

 

「しまった、ここはどこだ」

 

 

 

 

 体から力が抜けたナイスネイチャを、責める者は居ないだろう。

 栗東寮を目の前にして、思わず彼女は足を止めた。

 

 今までの、自分なりに辛い現状と格闘していた鬱屈とした想いはどこへやら。

 物凄い虚脱感と共に、見覚えのある背中に声をかけた。

 

「あの……ここ、トレセン学園の生徒の寮ですヨ?」

「生徒の寮……!? 沖野サンめ、トレセン学園の地図にそんなもの無いじゃねーか……!」

「や、ここもう学園の外ですし」

「外!? 学園って普通壁で内外を隔ててるもんじゃ――ってあれ。嬢ちゃん昨日の」

 

 もちろん学園は内外を壁で隔てているし、門を通らなければ外に出ることは出来ない。

 なのにどうして気づかぬうちに学園の外に出ているのか、それは誰にも分からない。

 

 しかし目の前のこの意味不明な男は、ウマ娘の寮の前をうろちょろする不審者である以上に、昨日顔を合わせた迷子であった。

 

 ナイスネイチャは仕方なく、溜め息交じりに事情を聴く。

 心身ともに疲労を訴える中でもこうして手を差し伸べてしまうのは、ひとえに彼女の生来の優しさだった。

 

「はいはいそーですよー。昨日も会いましたね迷子の人」

「ぐっ……いや、まだ迷子と決まったわけじゃ」

「じゃあ女の子しかいない寮の前に何か用事がある人ですか?」

 

 そう問えば、彼は苦渋の表情を浮かべることしばし。

 

「…………俺、これどう答えればまともな人間でいられる?」

「手遅れじゃないかなぁ……」

 

 ぼやかずにはいられないナイスネイチャだった。

 

「……でも、そうか。やっぱ生徒だったんだな」

「へ? ああ、今日は制服ですからね」

 

 まじまじと自分を見つめる視線に、スカートの裾をつまんで答える彼女。

 スクールバッグを肩から提げて、紫を基調とするその制服に身を包んだ彼女はまごうことなきトレセン学園中等部の生徒である。

 

 思えば、昨日の道案内は私服であった。

 

「昨日はマジ助かったわ。おかげで遅刻で済んだし、屋根のあるところで寝ることも出来た」

「それはなんともまた、切実な感謝で……」

「切実も切実よ。野宿なんてやりたくてやるものじゃねーからな」

「経験者の言い方ですよねそれ」

「でも日本は治安良いから良いよな、うん」

「会話になってない……」

 

 なんの納得だろうか。

 

 頭をおさえて首を振るナイスネイチャに、しかし青年はあっけらかんとしたものだ。

 思いついたように「そうだ」と口にして、彼は続ける。

 

「トレセン学園の生徒ってんなら、どこかでちゃんと礼が出来そうだ。なんか困ったことあったら言ってくれよな」

「それは……まあ、困ったことがあれば」

 

 困ったこと。果たして何かあっただろうかと思い浮かべて、パーソナルな事情ばかりが顔を出すナイスネイチャの脳内。

 

 どれもこれも、ただの道案内の対価には出来そうもないし、しようとも思わないものばかりで、小さく首を振った。

 お気に入りの、クリスマスカラーのイヤーカバーがほつれたりしたら、その時くらいに頼ってみよう。

 

「うし、んじゃまあ今日はもう諦めて飯にでもするかな」

「学園の中に用事があったんじゃないんですか?」

「時間的にもう間に合わないんだな、これが」

「あ、あはは……」

「ってことで、昨日の商店街でなんかおいしいものでも物色するとするよ。ああいう雰囲気は久々で、ちとテンション上がったんだ昨日」

 

 確かに、トレセン学園の付近にあるあの商店街は今時珍しい代物だ。

 デパートなどに取って代わられることの多い、時代の名残とでも呼ぶべきか。

 

 それでもあそこは今も活気にあふれ、賑わっている。

 自分のことではないけれど、誇らしい気持ちになるナイスネイチャであった。

 

「そですか」

「ああ。そいじゃまたな」

 

 ニカ、と口角を上げれば、悪くない顔立ちだ。

 挙動のおかしい迷子という認識でしかなかったが、トレセン学園で何かしらに従事する人間ならいつしか噂になりそうだ。

 

 と、そこまで考えてナイスネイチャは声を上げた。

 

「あの!」

「ん?」

 

 振り向くその青年に、彼女は大きくため息を吐いた。

 

 

「……商店街は逆方向(あっち)です」

 

ナイスネイチャのやる気が下がった。



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ネイチャさんとふわふわ自主トレーニング

 

 

「ついてきてくれなくても良かったんだぜ?」

 

 夕暮れ時は遥か、すっかり日の沈んで街灯たちがちらほらと出勤し始めた頃。

 

 なんのロゴも入っていないビニールの提げ袋を片手に、神谷が後ろを振り向いた。

 

 するとそこには、呆れたような半眼の眼差し。

 

「……まぁ、確かに? アタシがついてくる理由はありませんでしたけれども」

 

 嘆息と共に頭を掻くと、髪質がそうさせるのか、その柔らかそうな二房がふわふわと揺れる。

 暗がりで、昼ほど鮮やかに表情をくみ取れるわけではないけれど、この感情豊かな声色の少女が何を思っているのかは神谷にもおおよそ想像がついた。

 

「んな心配しなくとも二回も同じ場所で迷子にゃならねーよ。こう見えてお前さんより十近く年上なんだぜ?」

「はいはい。年上の方にあらせられては、なるべく大通りを選んで通っていただければと存じますー」

「あ、バ鹿にしてるな??」

 

 生まれも育ちも商店街という名の大家族とあって、年上の面倒臭い絡み方にも慣れたもの。そういわんばかりのナイスネイチャの所作に、神谷は不敵な笑みさえ見せる。それが不敵というより不適であることには、ついぞ気づかない男ではあるが。

 

「この場合年上ってのは文字通り人生経験が豊富って意味じゃあない。んな説教くせえことするのはおっさんだからな」

「はいはいそうですねー」

 

 自らをおっさんと認めるか否か、危うい年齢に差し掛かる神谷は熱弁する。

 

「いいか嬢ちゃん。この場合の俺の年上発言の意図、それはだな」

 

 割とどうでもいいと思いつつ、ナイスネイチャは隣に並び歩いて顔を上げた。

 そこそこの身長差がある神谷は、いっそ朗らかなまでに開き直って、自慢にもならない自慢を言い放つ。

 

「この年まで生きてこられたってことだ!! たとえ嬢ちゃんの道案内がなくとも!!」

「……はぁ。蹴りたいなあ」

「はっはっは、これが正しく論破と――マテマテマテマテ後ろを向くな!! 地面を掻くな!!」

 

 機嫌の悪いウマ娘の後ろには立つなと、そんなものはトレーナーでなくとも知る常識である。

 ましてや機嫌の悪いウマ娘に後ろを向かれるなど、ただの自殺行為だ。

 

 あの強烈な後ろ蹴りを受けて鼻血で済むような人間を、神谷は1人しか知らない。

 

 慌てた神谷の挙動に少し溜飲が下がったか、ナイスネイチャは肩を落として告げた。

 

「迷子になったくらいで死にはしませんよそりゃ」

 

 もし本当に迷子になったくらいで死ぬような環境があるとすれば、それはそんな場所で1人で行動する方が間違っているわけで。

 

 ただ、そう。

 

 いくらお人よしの少女とて、初対面にほど近い相手にここまで世話を焼く理由は本来無かった。

 この男が、結局ナイスネイチャの道案内なしではまともに商店街に辿り着けなかったであろうということを加味してもだ。

 

 さんざん迷い掛けた挙句、こうしてあっけらかんと申し訳なさの欠片も見せない相手に、それでもこんこんと説教をかましてしまうのは、きっと。

 

 

「でも道に迷って、さ」

 

 

 そう零した言葉に、その言葉の表面以上の感情がこもっていることを、気づかない神谷ではない。少しばかり先ほどまでのふざけた表情をかき消して、彼女の顔を窺えば。

 街灯に上から照らされる、影のある表情。

 

 

「焦ったり心細くなったりすることはあるでしょ。どこに行けばいいんだろうってわからないまま……このままだったらどうしようって、なってさ。そういうのって、すり減るものじゃん。ただの迷子だって、ようやく目的地に辿り着けたからさっきまでのくじけそうな心も全回復ー! ……とはならないでしょ」

「……まー、どーだろな」

 

 それは無意識にまろび出たものなのだろう。

 彼女の言うことは至極尤もで、神谷とて彼女の語った感情に心当たりがないわけではない。道に迷う度、取るべき手段を失う度、どうしていいか分からなくなる。心細くて、明日の無事を祈るほどに寂しくもなる。

 

 でもきっと、彼女がこの言葉を吐いた"本当"はそこに無い。

 ただの迷子の話などでは、きっと無い。

 

 気づけばそれなりに気を使っていたはずの敬語さえ抜け落ちるほどに、ありのままの彼女がそこに居た。

 

「どーだろな、なの?」

「案外、道に迷ったからこそ嬢ちゃんとも会えたし――なんて嘘嘘、そんな面倒臭そうな顔すんなって!」

 

 ははは、とこの空気を打ち消すように神谷は笑って。

 

「いや、悪かった!」

 

 参拝でもするかのように手を合わせ、頭を下げる。

 何を急に、とわずかに身構えてしまうナイスネイチャを前に、神谷は言った。

 

「そーだな。俺がどうあれ、だ。迷子になってそんな想いをするかもしれねえっていう、そういう純粋な優しさを無碍にしたのは俺の落ち度だ」

「や、別にそこまでじゃ」

「ほぼ赤の他人みてーな俺を、マジに心配してくれたのは事実だろ? いい奴だなーお前」

「やめっ、やめてちょっと。なんか、なんかむかつくしハズい!」

「そう言うなって。マジこの街来て初めて会ったのがお前で良かったわー」

「だからやめてってば!! ……~~っ! じゃ、じゃあもうアタシはこれで!!」

 

 ざっと踵を返し、居た堪れなくなったこの場所を立ち去ろうとする彼女。

 年頃の少女らしいその照れ隠しに緩く口元に弧を描いた神谷は、その背に声をかける。

 

「よう、どこ行くんだ?」

「自主トレ!!」

「あー、そうか。ウマ娘だもんな」

「ウマ娘ですから!」

 

 今日の疲労が残る足ではある。

 だが口を突いて出てしまった言葉は、やはり日頃の焦りを表してしまっていて。

 

 自主トレと、その言葉を聞いて改めて目にした彼女の脚に神谷はふと思いついた。

 逸材ばかりだと言っていたシンボリルドルフの言に偽りは無い。

 彼女もまた凄まじい才を持つウマ娘だと察した神谷は、笑う。

 

 

「じゃあせっかくだから今日のお礼っつか、悪いことした詫びに少しその自主トレ見ててやるよ」

「……はい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 よいではないか、よいではないか。

 あれよあれよという間に、自主トレを行う公園に辿り着いてしまったナイスネイチャ。

 寮に一度寄って、ジャージに着替えて。門限までの時間を確認して。

 

 あまり長くは出来ないから、実戦形式の練習は難しいと判断した。

 

 それでも、珍事に巻き込まれたおかげで少し脚は休まっている。

 いつもと変わらない自主トレ。一つだけ違うことがあるとすれば、それは広いトラックのある公園を物珍し気に眺める青年が居ることだけ。

 

「……あの、見てるだけ?」

「トレーナーじゃねえしな。メニューに口出しするのは違ぇだろ。まあ、邪魔にはならないからその辺にそっと置いといてくれ」

「まあ、いいですケド」

 

 よく、分からない。彼曰く、これは今日付き合わせたお礼のようだが。

 お礼がただ自主トレを見ているだけというのも理解がし難い。別に、人が見ている方が集中や熱意が増すタイプというわけでもないのだし。

 

 とはいえ、やることはいつもと変わらないのだ。

 少しばかり切り替えに時間を要したが、ナイスネイチャは先端に時計のついたポールにトレーニング用のゴムを括り付け、タイヤ引きの要領でぐっと足を逆ベクトルに踏み込んだ。

 

 一歩、また一歩と踏みしめる。蹄鉄が地面を駆る感覚と共に、加速力を鍛えるトレーニングだ。

 

 差しを得意とするウマ娘に必要なこと。

 トレーナーでなくとも、ウマ娘は日頃の授業で学んでいる。

 要求されるパワーの鍛え方として適切なその教科書通りのやり方は、決して間違ってはいない。むしろ、教科書に載っているやり方よりも優れた練習方法などほぼ存在しない。存在してしまったらそれはむしろ、教科書の存在意義が問われるからだ。

 

 だからあとは、自らの体に適しているかどうかの話。

 

 それは或いはそれぞれの得意不得意であったり、段階であったり。

 

 歯を食いしばりがむしゃらに歩むその足は、その練習を可能とするほどの境地に達しているのか、どうか。

 

 ――そんなこと、分からない。トレーナーのいないウマ娘が自分で分析をして、正しいトレーニングのロードマップを組むなんて、20にも満たない少女にできうるはずもない。

 

 数少ない例外が生徒会室に居るけれど、例外は例外だ。

 

 

 

「お、やるじゃんすげえなここまで出来んのか」

「な、に……?」

 

 

 ただ、それを指摘するつもりは神谷には無かった。

 彼女のトレーナーではない。ただ、自主トレーニングを手助けするだけ。

 それが今日の、神谷という男の存在意義。

 

 必死にトレーニングを続けるナイスネイチャは、ひょっこりと横から顔を覗かせた神谷の相手をする余裕はなかった。

 置物扱いしておけと、そう告げられて。それからしばらく、汗をしっかりかくほどの時間が経過して。ようやく動いた彼の言葉は、なんてことのないただの賞賛だった。

 

 ぐ、と体が背に持っていかれそうになる。ゴムの反動が無理やり体を引き戻す。

 それを必死に耐えて――さすがにもう無理だと思ったから一度戻ろうとした、ちょうどその時だ。

 

 

「これだけ根性ある奴はそうそう見ねえな。俺も結構ウマ娘見てきたが。同年代でお前と同じくらいやれるのは、5人くれえかなー……」

「…………」

 

 

 指折り、過去を思い出すようにそう告げる彼の言いぐさに。

 ほんの少し対抗心が出たのは、仕方のないことだろう。

 

 歯がみして、無言でもう一歩。

 

「え、マジ?」

 

 その心底驚いたような顔が、気分がよくて。

 

「これ一番メジャーな(ゴム)だよな? 中央トレセンだけちょっと強度甘かったりしねーよな?」

「共通の、やつ……!」

「いや、うん。分かってんよ俺だって。ちょっと目の前の現実についていけなかっただけだ。しかし、マジか。すげえ奴だったんだなお前……って、この状態で止まってられんの?」

 

 言われてみればその通りだ。限界の限界まで踏み込んだこの状態は、維持するだけでも一苦労だ。けれど、維持することにはあまり意味がない。

 このトレーニングの肝は、一歩踏み込んだ時の力強さを鍛えること。

 

 だから、もう。

 

「……なあ」

 

 一度切り上げようとした、その時。彼は顎に手を当て、真剣な表情で。

 彼女の前を少し、10㎝くらい開けて立った。

 

「お前、ここまで来られるか?」

 

 何を無茶苦茶なことを。

 

「無、理……!」

「いや言うてあとちょっとだぜ? 一歩の間隔は確かに短い。このままじゃ踏み込みづらいかもしれねえ。だから半歩下がって、もう一歩だ。どうだ、無理か?」

「……」

 

 そう言われると、確かに分からなかった。

 半歩下がることが許されるなら、10㎝深く踏み込むくらいは、どうだろう。

 

「俺の知ってる、無茶苦茶根性ある奴の記録がここだったんだ。あと10㎝ってとこまで来られるとよ。つい頑張れねえかって思うのは人情じゃねえか」

「下がっては……みる……から……!!」

「よっしゃ!! 頼む!! 来い!!」

 

 嬉しそうに言うものだから、息を吐いてゆっくりと左足を外すようにひっこめる。一歩であの位置まで踏み込まなければならないのだ。ならそれ相応のところまで。

 

 案外と足を戻す動作は簡単で、ナイスネイチャは歯を食いしばって神谷の待つ10㎝のところまで右足を無理くり進ませた。

 そして、その足で地面に杭を打つように、ぐんとゴムに引っ張られた上体を負けじと引き戻す。

 

「……おぉ……りゃぁ……!!」

「おっしゃ!! 本当にやれっと思わなかったわ!! すげえ!!」

「へ、へへ……どう、だ……!」

「完璧な記録だな……よし、いったん戻った方がいい。耐えるだけってのは足壊す」

 

 ナイスネイチャの手を取って、一歩一歩ゆっくりと足を戻すサポートを行う神谷。

 ポールのところまで戻ってみて、改めて屈伸してもう一度と意気込む。

 と、そこで難しい顔をした神谷が「ちょっといいか」と呟く。

 

「はあ、はあ……なに?」

「実はな……高等部の合格ラインってのが、ちょうどここらしいんだ」

「……えっ」

 

 そうして示したのは、自分が踏み込んだ場所よりも少し浅いところ。

 知らないうちに、合格ラインとやらを越えていたらしい。

 

「で、ここが高等部の授業で10貰えるライン」

「……!」

 

 それは、先ほどナイスネイチャが踏み込んだ――その5㎝ほど先。

 

「いやこれ……その、さ」

「分かった分かった分かりました! やってみるから!!」

「合格ライン越えてる時点ですげえんだぜ? 俺から要求することなんざ出来ねえって」

「あと5㎝でしょ! 踏み込む間隔さえ変えれば、なんとか行けるかも」

「おいおい本気かマイシスター」

「誰があんたの妹か」

 

 乗せられているような気は、していた。

 

「ぐ、……うう」

 

 踏み込みは、やっぱりきつい。

 だってそうだ、さっきはその遥か手前でもう十分だって引き上げていた。

 なのに。

 

「間隔ばっちり、天才かよ……おい、あと一歩。あと一歩だ。行くのか? いっちまうのか……!?」

「い、っちまう……から……!!」

 

 見てろ、とばかりに食いしばった歯を、その口角を吊り上げて。

 自分があとほんの5㎝頑張るだけで、"凄い"なら。

 

 踏みしめる足が悲鳴を上げる。一歩踏み込み、もう一歩と続けてきた。もう無理だと、全身が押さえつけられるけれど。

 それでも踏みしめ、踏み込んだ。

 

 5㎝。そのほんの少し先まで。

 

「い……いったああああ!! すげえなお前!!」

「へ、へへ、っととと!?」

「おっととと下がるのは一歩ずつな、一歩ずつ!! ここまで来れる奴見たのひっさびさだわ!! ちょっと俺の中でウマ娘の歴史が動いちまったよ、は、なんだお前加速の天才か!?」

「ちょ、ちょっとちょっと!! もう暗いから! 声大きいって!!」

「知るかバ鹿野郎! 俺が一番嫌いな日本の言葉は『勝って兜の緒を締めよ』だ!! すげえこと成し遂げたんだ喜んで何が悪い!! お前最強!!」

「ちょ、ほ、ほんとやめてって……!」

 

 また一度、ゆっくりポールの下まで戻ってきて。

 

「はーー、お前のトレーニング見てんの超楽しいな。普通こんなん出来る? 全国のウマ娘がしくじるわ」

「そ、そこまでじゃ、ないでしょさすがに……」

 

 当人よりもテンションを上げられたら、もう笑うしかない。

 でも、と改めて踏みしめた蹄跡を見据えれば――きっちりと神谷によって引かれたラインが目に入る。

 あと10㎝と、そう言われて。それからさらに5㎝と言われて、力を振り絞ってつま先分くらいそのラインを踏み越えた。

 

 知らない間に、ナイスネイチャの届いた全力の全力、そのつま先分の達成したラインも神谷は綺麗に線を引いていた。

 

 20㎝弱。今日一日の、目に見えるステップアップ。

 

「もう、ちょっとやってみようかな」

「それは確かに。俺もテンション上がって吹っ飛んじまったけど、さっきのはひょっとしてまぐれの可能性も……」

「言ったな?」

 

 一度できたんだ。

 もう一度頑張ろう。確かめよう、今の自分の実力を。

 

 向き合うことさえ嫌だった、そんな普段の心を今だけは忘れて。

 乗せられた感情そのまま、上がりに上がったやる気を叩きつけるように。

 

「まぐれなんかじゃねえ……モノホンだ……!!」

「み、さらせ……へへ……!」

 

 そのあと、5度。

 

 同じことを繰り返し、繰り返すことが出来た達成感と共に。

 

 ふわふわした気持ちのまま、ナイスネイチャはその日の自主トレに幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もうちょっと、と気張ろうとするナイスネイチャを制したのは、見ているだけと言っていたはずのあの青年だった。

 

『ばっかお前、苦しんだらその分凄い奴になれんのか? 努力の分だけ実りがあるのか? 現実はそんな甘くねーよ。追い込みすぎたらケガするし、力込めすぎたら壊れちまう。それよか』

 

『こうして気持ち良いくらいの疲労を感じて、しっかりケアして充実させる方が良いのさ』

 

『帰ったらしっかり手入れしとけよ。なんて言うまでもねえことだとは思うが。それとも寝る前に歯は磨かないタイプ?』

 

 

 あんなことまで言われたら、妙な怒りと共に入念にケアをするしかない。

 

 気づいたら、お風呂を上がって、マッサージをして、体を伸ばしていて。

 

「……なんか」

 

 ふわふわした良い心地。それを充実感と呼ぶのだと、その時の彼女は知らなかったけれど。

 

「ネイチャ、おかえりなさい! 自主トレお疲れ様ー★」

 

 ベッドでストレッチをしていたら、ちょうど入ってきたのが同室の楽しそうな少女だった。

 

「ありゃ、マーベラスも帰ってきてたんだ。うん、おつかれー」

「そーそー、今日もとってもマーベ……あれ?」

 

 こてん、と首を傾げる彼女は、上から下までナイスネイチャを見やってから。

 

「なんだかとってもマーベラス!! ネイチャもマーベラスな一日だったのね★」

「うぇ? ……いや、どーかな」

 

 マーベラスな一日というには、いつも通り口の中はずっと苦くて、どこに行けばいいのか、何をすればいいのかも定まらない霧の中に居た気がする。

 

 でも、確かにマーベラスサンデーの言う通りのことが一つあるとすれば。

 

 今日という日を思い出す時に真っ先に飛び込んでくる光景は、自分が踏みしめたはっきりとした記録。たまたま"見ていただけ"の青年が、地面をなぞって描いたライン。

 

「楽しかった」

 

 知れず、言葉が零れていて。

 まじまじと自分を見つめる、いつもの輝かしい瞳に気づく。

 

「……?」

「え、あ、あれ?」

 

 慌てて口を押えて、ナイスネイチャは。

 

「アタシ今なんて言った?」

「マーベラス!」

「いやいやそれはない」

 

 ないけれど。

 もし今、心に宿る感情をそのまま口にしていたなら。

 

 そんなトレーニングはいつぶりだったろうと、焦がす想いが未だに熱を持って胸の内を温めていた。

 

 




[rêvons ensemble]神谷サラ (SSRトレーナーカード)

【発生イベント】
すげーなお前(追加の自主トレ時)
・やる気アップ
・ランダムでスキルP+3


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ダイワスカーレットとトレーナーの信頼するトレーナーさん

 

 

「どうだ、そろそろ慣れてきたか?」

 

 聞き慣れた声が響いたのは、朝の学園練習場の1つ。

 振り返ればそこには案の定というべきか棒キャンディーを咥えた男が立っていて、神谷は軽く手を挙げて応じた。

 

「慣れたってのが芝の状態とかコースの狭さとかって話なら、だいぶ慣れたな」

 

 この中央トレセン学園に着任して早数日。

 きちんと目にした日本の録画レースの数もフランスに居た頃の比ではないし、改めておさらいした日本でのレースの定石や、それを利用したレースもある程度の数をいった。

 

 とはいえ、いまだに担当ウマ娘も決まらないし決まる道程も見えないのは変わらない。

 そういう意味では、慣れたというのは過言だろうと考えて神谷はそう嘯いた。

 

 しかし、どうもその答えは目の前の男のお気には召さなかったらしく。

 緩くその申し訳程度のポニーテールを振りながら、彼は言った。

 

「いや、地理的な問題の話なんだが」

「それなら最初からしっかり把握してる」

「見え透いた嘘をつくなよ……」

 

 大きなため息とともに額に手を当てる彼に、神谷は軽く鼻を鳴らして。

 それから、男の隣にたたずむ少女に目をやった。

 

「よ。沖野サンの担当かい?」

「は、はい!」

 

 目を惹くのは、赤いジャージ姿に不釣り合いなほど煌びやかな青のティアラ。

 そして大きく結った二つの髪房と――不躾と分かっていながら目線が行きそうになる豊満なプロポーション。

 

 とはいえそこはトレーナーたるもの、そうした部分についてのトレーニングはこなしている。

 努めて穏やかに笑ってみせれば、男――沖野とのやり取りに少々呆けていた彼女は社交的な笑みとともに頷いた。

 

「ダイワスカーレットと言います。トレーナーさんのもと、チームスピカで活動させていただくことになりました!」

「そうか。俺は神谷ってもんで、沖野サンの後輩にあたる。沖野サンはちゃらんぽらんで説明不足なとこもあるが、努力家っぷりと夢にかける情熱はモノホンだ。どうか見捨てないでやってくれ」

「そうですね……本当に……」

 

 微妙な表情は、神谷が説明した沖野の人物像に思い当たる節があったからか。

 呆れたような、それでいてうっすらと信頼が垣間見える瞳を向けられて、沖野はばつが悪そうに頬を掻いた。

 

「なんだこの空気は……。いやまあ、そうだな。ちょうどお前が見えたから、一応報告にな。俺の方は、それなりに今年頑張れそうだってな」

「そりゃ良かった。いい担当に恵まれたな」

 

 それは心からの安堵だった。

 神谷自身の問題は決して片付いてはいないが、沖野の現状もまた神谷の心配事の1つであったからこそ。

 自分のせいで沖野の立場が危ういのは先刻承知。何か出来ることはと考えても、結局それは神谷が神谷自身の問題である担当ウマ娘を見つけるのが最優先。

 となればろくに沖野のチーム再建を手伝うことも出来ず、歯がゆい思いがあったことは否定できない。

 

 沖野のチーム事情が改善されそうだという話は、もろ手を挙げて歓迎する吉報だった。

 

「ああ。うちのゴル……ゴールドシップのおかげでな」

「ゴールドシップ……」

 

 少し考えて、ああ、と納得する。

 

「知ってるのか?」

「知って……るんですか?」

 

 きょとんとした沖野の隣で、恐る恐るといった様子のダイワスカーレット。

 二人に頷き、神谷は言った。

 

「俺が昨日、河原で腹減ったなあと思ってたら明石焼きの屋台が通りかかってよ。その店主がゴールドシップだったんだ」

「えぇ……あ、あの、なんか変なことされませんでしたか……?」

「いや? ああでも明石焼き食ってたら磯辺焼きが醤油と海苔で焼くだけで海っぽさが全然ねえって話で盛り上がってそのまま海まで行って、手分けして魚醤と海塩集めて、餅がねえってことが発覚した時は二人して絶望したな……」

「は、はあ」

「でも気づいたんだよ、磯辺焼きって別に餅って名前ついてねえし、餅じゃなくてよくねって」

「……」

「したらゴルシが『それだァ!』ってめちゃめちゃ俊敏な動きでつみれ用意してくれてな。春前の海はクッソ寒かったが、ちゃんと磯辺で食った磯辺焼きは最高だったな……気づいたら居たジャスタウェイと3人で、もうこれ以外磯辺焼きって認めねえっていう磯辺焼き園の誓いを結んで帰ってきた」

「…………」

「どした?」

 

 当たり前のようにゴルシって呼んでるとか。

 頭のおかしいエピソードをさも温かい思い出話のように語っているところとか。

 

 色々言いたいことはあるが、ダイワスカーレットが察したのは1つの事実であった。

 

「そうか。ゴルシはめちゃめちゃなとこもあるが、良い奴なんだよほんとに」

「ん-まあ、俺とは相性よくねえかもなとは思った。ブレーキが居ねえ」

 

 ここに誰も、あの奇行種を咎める人間が居ないということだ。

 無類の信頼を向ける沖野も、当たり前のようにトレーナーの観点で話をしている神谷もだ。

 

「――え、ええっと。トレーナーさん、アタシ朝トレがしたいのだけれど……」

「あ、ああすまん。そうだったな。神谷は何してんだ?」

「俺か? 俺は今ちょうどあの子たちを見てるとこだ」

 

 思えば、1人で練習場にただ突っ立っているだけというのもおかしな話だ。

 神谷があの子たち、と指を差した方向には2人の少女。

 

「マヤノトップガンさんと、マーベラスサンデーさん」

「そうそう。なんか、見ててって言われたから見てる。ほんと才能の塊みてえな子たちだわ。ダイワスカーレットも混ざってくると良い。キミの脚もすげえっぽいが、あの子たちと競ったらタレるかもだぜ?」

「っ……! おほん。トレーナーさん、ちょっと行ってきますね?」

 

 その優雅な語り口とは裏腹に、ずんずんと突き進んでいく彼女の後ろ姿を眺めて。

 

「おうおう、煽る煽る。ああいう性質の子だって見抜いたのか?」

「そんな特殊能力みてえな言い方すんな。沖野サンを慕ってる子があんな聞き分けの良いただの優等生なはずがねえだろ」

「優等生なのは本当だ。あいつは、意地だけで走れるウマ娘だ」

「そいつぁ……」

「悪いが、先に俺がスカウトさせてもらった」

 

 うらやましいことだ、と言おうとしたのがそれこそ見抜かれて。

 強気というより誇らしげな笑みはきっと、ダイワスカーレットを信頼していればこそ。

 

 意地だけで。

 それは目標や目的に囚われず、ただ"負けたくない"から走れるという資質。

 心が折れない限り決してその脚を休めることがない、求道者ともいえるその素質は、どんな"理由"を抱えた相手と並んでも絶対に負けない不屈の心を併せ持つ。

 

 担当ウマ娘のコンディションを保つことに長けた神谷にとっては、相性の良い少女だ。

 

「ま、他の子の遠征の時とかは面倒見るよ。それ目的で俺に会わせたんだろ?」

「ああ。ダイワスカーレットを預ける時は、お前が良い」

 

 担当ウマ娘を複数持つトレーナーにとって、レースでトレセン学園を離れることは珍しい話ではない。それがGIなどの大一番ならいざ知らず、オープン戦などにまで他の担当全員を連れていくのも非効率だ。

 

「スピカにサブトレでもいりゃあ話は別なんだろうが」

「そんな贅沢を出来る状況に無いからな……。それに、トレーナー相手こそ信頼が必要だ」

「まあ、そうな」

 

 それが例えば、ここまで信を置く神谷にも"ダイワスカーレットだから"預けると告げたことからも明白だ。

 沖野はきっと他のやむを得ない理由がなければ、たとえばゴールドシップを神谷に預けることはないだろう。

 

 育成するウマ娘が違えば、その子に必要な手札(サポート)も変わる。

 それだけの話だった。

 

 マヤノトップガンたちと話が纏まったのか、走り始める彼女を眺めながら沖野は呟く。

 

「それで、めぼしい子は居たか?」

 

 問われた神谷が力なく首を振ったのを見て、沖野の表情が渋くなる。

 

「それはさすがにハードル高すぎないか?」

 

 中央トレセン学園に数日詰めて、スカウトしたい子が皆無というのもまた選り好みな話だ。それがたとえ、有望な子はすぐにトレーナーがつく傾向にあるといってもだ。

 

 早くも頭角を現し始めた子や、突き抜けた1個の特技を持つ子は、確かに有望だと皆に噂される。だが、そうでない子が決して無能だというわけではない。

 

 中央トレセン学園は、そこまで甘い場所ではない。

 

 だが、神谷は一瞬呆けたあと、沖野の言葉の意図を察して首を振った。

 

「ああ、逆逆。どいつもこいつも磨けば光る奴ばっかりだ。シンボリルドルフが言ってた通り、逸材だらけってのはマジらしい」

「――そうか」

「なんでアンタが嬉しそうだよ。……いや、気持ちは分かるけどな」

 

 ふう、と息を吐く。

 

 神谷はこの数日、幾人ものウマ娘と引き合わされた。

 その裏には理事長のごり押しの他にも、シンボリルドルフの後ろ盾があったりもして、少なくとも学園サイドからは神谷というトレーナーに相当な期待をしているというポーズが出来上がっている。

 

 各トレーナーたちがそれをどう思うかは別にして、着任当初よりもウマ娘たちからの風当たりが弱まったのは事実だった。

 そしてその流れの中で出来上がったのが、まだ担当トレーナーのいないウマ娘たちのトレーニングを神谷が見守るという流れ。

 

 チームの入団テストほどガチガチではない、ある種の体験コース。

 担当トレーナーが居る生活を実感してみよう! という程度の軽いノリで触れ回ったそのキャンペーンは、やはりというべきか評判は良かった。

 

 神谷のトレーナーとしての腕がどうこう以前に、やはりトレーナーの有無でどうトレーニングが変わるのかを肌で実感するのはこれからのウマ娘たちにとっても必要なこと。

 

 理事長とシンボリルドルフが神谷という特例を得て協賛したからこそ出来上がった事例ではあったが、シンボリルドルフ自身はこれから先も何人かのトレーナーを使ってこの体験講座は続けていく腹積もりのようだ。

 

 ともあれ神谷にとってもこの一連の流れは都合がよく、あわよくばスカウトを申し出ようと考えていたのだ。

 だが出来なかった。それは決して沖野のいうように見るべきウマ娘が居なかったからではなく、皆が皆才能に溢れていたからである。

 

「そんなかでもこれは! って子は居ないのか?」

「難しいな。沖野サン以外が不親切すぎて、どの子がもう担当居て、どの子がまだフリーなのかも分からねえ。それに、変に声かけておいて「やっぱ別の子にするわ」ってなるのもあまりにな……」

「やっぱりチーム組む方が早いんじゃないか? フランスでのお前の実績は――」

「言いっこなしだぜ沖野サン。俺は日本競バを舐めちゃいない。本当にちゃんと1人のトレーナーとしての役割をこなすにゃ、まだ複数の担当持つのは無理だ」

「そうか……」

「それに」

「ん?」

「……あーいや、やっぱなし」

「えぇ……」

 

 どれだけ日本競バに期待しているか、と聞かれれば、まだそこまでだ。

 というのは決して、彼女らの実力を疑っているわけではない。

 

 誤解されがちだが日本競バは世界でもトップクラス。

 であればこそ、自らの腕を振るうに決して不足しないし、全力を尽くしてなお厳しい世界であることはよくわかっている。

 

 だから、口を突いて出ようとしたのはそうした話ではなかった。

 

 数日前シンボリルドルフに、話の流れで吐いてしまった己の心のうち。

 もし今、フランス競バと同じくらいちゃんとトレーナーとしての職務を全う出来たとして。きっと出来ることは、ウマ娘たちの切実な悲願を叶えさせること。

 

 ただ、状況はフランスとは異なる。

 

 自分のノウハウの半分以上は死んでいて、だからこそ担当を持てるとしたら1人だけ。

 だが実績を残さねばならない。そうならなかった時に飛ぶのは己の首1つではなく、沖野にまで累が及ぶだろう。

 

 そう、できれば。

 

 『こいつとなら一緒にすげえことが出来る』と心の底から思える、それこそシンボリルドルフがいうところの"良い素質"を超えた、素晴らしい素質の持ち主が欲しかった。

 

 選り好みという勿かれ。

 だってこんなにもこの中央トレセン学園は、才能に溢れたウマ娘たちに満たされている。

 ならそのうちの1人、自分の求める条件に合う子が居たっていい。

 否、いてほしいと願うのは普遍の人情だった。

 

 とは言いつつも。

 

「理事長から話は聞いたか?」

「ああ。……俺と沖野サンの胃を焼き焦がしたいのかあの人は」

「そう言ってやるな。ウマ娘のためになることなら多少のリスクお構いなしって心情は、俺もお前も同じことだ」

「尊い犠牲だな俺たちは……」

 

 遠い目をしてぼやく神谷の視線の先に、ダイワスカーレットと並んで楽しそうに走るマーベラスサンデー、そしてその前をゆうゆうと逃げていくマヤノトップガンの姿。

 先行二人に逃げるマヤノトップガンの姿を見て、そういえば彼女らと一緒によく遊んでいるもう1人の子が先行バだったと思い出す神谷。

 

「模擬レース、今週末だって?」

「ああ。表向きはいつも通り、トレーナーに魅せる普通のトライアルレースだ。チームを持たないトレーナーとウマ娘の出会いの場、だな」

 

 チームを持つトレーナーは、自分のチームを宣伝して丁寧に入団テストを行うところも多いが、そうでないトレーナーにとってはこの模擬レースこそがウマ娘を見定める場となり得る。

 

 決して不思議な話ではない模擬レースの開催はしかし、この急遽決定したこととこれまでの神谷の扱いから、明確な"圧"、もしくは作為的なものを感じてしまう。

 

「そろそろ担当を決めろということだろ。他のトレーナーたちも焦れてきたのかもな。誰をお前が選ぶのか、相当注目されていると見た」

「うーん……」

「妨害されることも考えておけよ。レースでお前の担当ウマ娘に勝つでも、お前より自分を選ばせるでも、要はお前というトレーナーを否定出来ればいいって考える奴は居る」

 

 大多数のトレーナーは、神谷というトレーナーの腕を疑問視している。

 だが共通見解なのはそこまでで、神谷に対しどういうアプローチをするかはそれぞれだ。

 

 1人のウマ娘を与え、その様子を窺おうとする者も居れば。

 それすら1人のウマ娘を不幸にするとして、早々に追い出してしまおうと考える過激な人間も居る。

 逆に、あえてチームを組ませて破滅させようと考える者も居て、結局のところそのどれも直接的な行動には起こされていないが、それでも。

 

 この模擬レースという舞台が整った以上、どうなるかは分からない。

 

「――まあ、でも。あれだ」

 

 顎に手を当て、神谷は言う。

 

「俺の足を引っ張るのも結構だが、そいつらだって自分のウマ娘を活躍させられなければ死んでいく。育てやすいウマ娘をスカウトするのが普通だろ」

「……なるほど。じゃあお前は」

 

 得心がいったというように、沖野は頷く。

 果たして神谷の真意はと言えば、沖野の思った通りで。

 

「ああ。俺は自分のスカウトを変えない。俺のことを必要としてくれるウマ娘を選ぶ」

「それがたとえ、これまでと変わらなくても、か」

 

 もしかしたら、自分と一緒に夢を追ってくれないかもしれない。

 「それで満足なのか?」と口から零れてしまいかけるほどに、彼女たちは神谷の知らないところで幸せを見つけ、礼を言って去ってしまうかもしれない。

 

 それでも神谷はトレーナーだ。

 ウマ娘の幸せを作り上げるのが、彼の仕事だ。

 

 ただ、少し神谷は目を細めて呟く。

 

「……俺にとっては、そうだ」

「?」

「ただ……言われちまったからな。信じてみようとも思ってる」

 

 皇帝シンボリルドルフは、日本競バを――ひいてはこの中央トレセン学園を、逸材の宝庫だと言い放った。

 

 この場所で、神谷の夢は叶うと言った。

 

 だからこそだ。だからこそ、神谷は選ぶウマ娘を変えない。

 

 こいつとなら、と思った相手の手を取って、きっとその先へ越えていけると信じて。

 

「今週末。……楽しみにしてるよ」

「そうか。お前がそう言うなら、いいさ」

 

 笑う沖野が目を細めた先で、ぼこぼこにされたダイワスカーレットが、二人の少女に向けて負けじと二本目を要求していた。

 

「次は1800m……って言ってるくね?」

「あいつさてはマイルなら勝てると踏んで……!?」



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ネイチャさんと案の定トレーナー

 1600mのレースだったらどうだったか分からない。

 それが、精一杯の沖野のフォローだった。

 

 地団駄を踏んで「特訓よ!! 付き合いなさい!!」とネクタイ引っ掴んでずんずん帰っていったダイワスカーレットは、もはやそこに優等生の皮を被って絡んでいたもう1人のトレーナーが居たことすら頭から吹き飛んでいただろう。

 

 これが、或いはトレーナーの有無の差というものなのか。

 

 ダイワスカーレットの素質は決してマヤノトップガンやマーベラスサンデーに劣ってなど居ない。だが2人には既に数月を共にしているトレーナーが居て、ダイワスカーレットはこれから磨かれる原石。

 

 だとしたら、それは凄まじいことだと神谷は思う。

 

 決してトレーナーの存在を軽視しているとか、或いは過剰に評価しているとか、そういう話ではない。

 

 神谷が接してきた数多くのウマ娘。それぞれに優劣というものは、やはり明確に在った。

 

 世の中というものは残酷で、誰しもが一番になれるわけではない。

 中距離では一歩譲るが、マイルでならトップをとれる――なら、どんなに良かっただろう。

 現実は、中距離もマイルも、果ては長距離も同じ1人のウマ娘に誰も届かないなんてこともざらだ。

 

 頑張ってトレーナーと歩んできたウマ娘が、ひょっこり現れたルーキーに全ての面で及ばないことだって、ままある。

 

 

 だからこそ、先ほどまで3人が走っていた芝の競技場を見て神谷は思うのだ。

 

 トレーナーのもとで必ず強くなってくれる、綺羅星のような原石たち。

 

 素質では優劣の付けられない逸材の宝庫。

 

 これが中央トレセン学園か、と。

 知ってはいたが、こうしてちょっとしたことを目にする度に改めて自覚する。

 

「マーベラース★」

「おうマーベラース★ すげえマーベラスな走りだったな」

「ありがとー!! もっともーっとマーベラスに、これから世界を染めていかなきゃ!」

「壮大な改革計画だな。お前のトレーナーが羨ましいぜ」

 

 本心からの言葉をかければ、嬉しそうにほほ笑むのは小柄な少女。

 小柄な割にスタイルはよく、また大ボリュームの黒髪の自己主張が凄まじい。

 だが彼女の中で最も目を惹くのはその煌めく美しい瞳だろう。

 

 思わず神谷も「マーベラス★」と呟いてしまう、これからが楽しみなウマ娘だ。

 もう少し体が出来たら、いよいよメイクデビュー出走といったところだろうか。

 

「ねえねえマヤはー? ちゃんと見てたー?」

「おうマヤノトップガン。すげえ楽しそうに走ってるもんだから、見てるこっちまで笑顔になっちまったぜ。名前からも思ったけど、戦闘機思い出すな。かっけえわ」

「えへへ。ちゃんと見ててくれたんだね! 許してあげる!」

「ありがとよ」

 

 もう1人はおしゃまで溌剌な少女だ。名をマヤノトップガン。

 小柄な体躯から繰り出される力強い動きには、ひょっとしたらどんな走り方も出来てしまうのではないかという末恐ろしさがある。

 実際にやらせてみないと分からないが、そんなことを神谷の口から言うわけにもいかない。

 

 神谷が彼女たちに出来るのは、せいぜいケガをしないよう見張っていることと。

 

「やー、二人ともすげーわ」

 

 これは本当にただの正直素直な感想でしかないが、そうした賞賛を口にすることくらいだった。

 

 神谷の胸元程度しかない身長の二人が、わちゃわちゃと至近距離でじゃれているのは大変微笑ましい。

 爺のように緩く笑って見守っていると、しかし二人は神谷の賞賛に合わせて不気味なアイコンタクトを交わした。

 

 瞳と瞳の間に桜色の電光が奔るが如くのそれに、神谷は気づくことがなく。

 

「でもでもー、なかなか勝てないんだよねー。ネイチャに」

「そなのー、アタシもネイチャがとってもマーベラスだと思うの!!」

 

 ふむ、と顎に手を当てる神谷。

 興味を持って耳を傾けている風の彼を置き、マヤノトップガンとマーベラスサンデーは楽し気に会話を進めていく。

 

「そんなネイチャにトレーナーさんが付けば、世界はもーっとマーベラス★」

「うんうん、マヤもそう思う!」

 

 

 

 神谷は戦慄した。

 

 

 

「……なんてこった、マジかよ。そんな奴が居るなんて」

 

 先ほどまでの自分の考察は何だったのか。

 この才気煥発なウマ娘たちの中でも、"居る"のか。そうした絶対の王者が。

 

 マーベラスサンデーもマヤノトップガンも素晴らしい走りを見せるウマ娘だ。

 彼女らにトレーナーがいなかったら、沖野辺りは脚に頬ずりかましていても不思議ではない。否、ひょっとしたらそのままべろべろと嘗め回すかもしれない。

 

 妖怪足舐めキャンディーマンの話はさておき、トレーナーのいないウマ娘がこの二人にそこまで言わせるとはと、神谷は生唾を飲み込んだ。

 

「そのネイチャって子は知らないが、俺はお前ら応援してっからな。担当トレーナーの許可取れたら、いつでもなんでも教えるから」

「え?」

「あれれー?」

 

 おや、と神谷は首を傾げるが、先に傾げたのは二人の方だった。

 

 かわいらしく二人で顔を見合わせて。それから困惑したような顔で、眉を下げてマヤノトップガンは神谷を見やる。

 

「……ネイチャだよ? ナイスネイチャ」

「有名な奴なのか。いやすまん、言ってなかったけど俺ここ最近着任したばかりでな」

「知ってるけど……」

「知られてたのかよ」

 

 嵐のごとく突撃してきて、走るから見ててとだけ言われ。

 そうして今に至るまで、素性も何も知ったものではなかった。

 ああいや、名前は名乗られたが。

 

「……マヤ分かっちゃった」

 

 なんだかわかりたくもないような渋い顔で、マヤノトップガンは唇を尖らせた。

 

「どうしたのマヤノ?」

「んー? えとねー、びっくりするくらいネイチャがへたれ」

「全然マーベラスじゃないね……」

 

 続いてがっくりと肩を落とすマーベラスサンデー。

 おいて行かれているのは神谷ただ1人だ。

 

「でもネイチャ、この前すっごくマーベラスな感じだったのに」

「珍しく練習の話をさ、自分からするくらいさ、楽しそうだったのにさー!」

 

 ぶつくさと文句を垂れる二人の文脈を、神谷は全く理解できないままではあったが……とりあえずそのナイスネイチャというウマ娘はものすごく強いのにトレーナーが不在ということらしいと判断して、二人の会話に割って入る。

 

「よー分からねえが。そいつはトレーナーが欲しいのか?」

「んー、トレーナーが欲しいというか……」

 

 指を唇に当て、思い悩むようにマヤノトップガンがぼやく。

 その横に居るマーベラスサンデーも似たような雰囲気だ。

 

 しかしどうも、トレーナーが欲しいというわけではなさそうだと神谷は受け取って。

 求められることを重視する神谷の感想は、決して彼女らの欲しいものではなく。

 

「まあ事情持ちで才能ある凄い奴なら、きっと沖野サンがほっとかねえだろ。ちょっと話でもしてみるわ」

「あ、じゃあネイチャめちゃくちゃ遅いよ、全然すごくない」

「うんそれならネイチャ全然マーベラスじゃない」

「は?」

「マヤノ君、これは第2回マーベラスネイチャ会議が必要だー!」

「アイコピー! それじゃ一旦――」

 

 

『テイクオーフ(マーベラース)!!』

 

 

 練習直後とは思えないとんでもない加速力で、足をぐるぐるさせる勢いでちんまい二人組は去っていってしまった。

 

 巻き起こった土埃を払い、神谷は呟く。

 

 

「なんなの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつから習慣になったのかは、はっきりと覚えている。

 

 この数日間変わらない、彼女の夜の自主トレーニング。

 

「――あと、3本やってこう。……や、4にしとこ。なんか、あと3回っていうのもちょっとアレだし」

 

 ぐっと腰に巻いたゴムを調整して、軽く膝を休めるために屈伸を挟んで。

 それからまた歯を食いしばって、自らが引いた"あの日"のラインを目指して遅々と歩む。

 

 ――楽しかった。

 

 口を突いて零れた言葉を、結局彼女は覚えていた。

 

「ふっ、うっ……」

 

 トレセン学園に入るまで、きっと自分もキラキラしていた。

 物語の主人公だと疑いもしなかった。府中のスタンドから眺めたウイニングライブのセンターを自分と重ねて、いつかあの坂を誰よりも早く突き抜けるんだって夢想した。

 

 脚が速いのは自慢だった。

 小学校の頃から、クラスどころか学校でも誰にも負けなかった。

 商店街のみんなに自慢した。

 ネイちゃんは早いねと、みんなが笑顔で見守ってくれた。

 

 中央トレセン学園に入る時だって、胸を張って報告出来た。

 

 けれど――そこまでだった。

 続いていた主人公としての道は、そこまでだった。

 

 

「い……よしっ……! 行った……!」

 

 あと3本。

 自らの心のうちでそうカウントを進めて。

 また、最初からやり直し。

 淡々とした自主トレーニング。

 それこそがきっといつか実を結ぶと信じて。

 

「もういっちょ……」

 

 実を結ぶと、信じて。そのうち、何がどう"実を結んだ"と、成功したと言えるのかも分からなくなった。

 

 中等部に入ってそれなりの時間が過ぎた。

 同室のマーベラスサンデーに最初こそ抱いていた対抗心もすっかり薄れた。

 あっという間に置いていかれたと思ったのは、やはり専属トレーナーが付いたと知った時だろうか。

 

 仲良しの面々はチームに入ったり、トレーナーを見つけたりと既に羽ばたく準備を進めている。

 

 ――チームリギルの入団テストを受けたのは、きっと焦りからだった。

 

 最初は憧れていた。自分もあそこにと願った。

 けれどもう、その時にはきっと心は折れかけていたのだろう。

 

 もし入れなかったらどうしよう。その時自分の物語は終わるのではないかと――そんなはっきりと自らの感情に説明をつけていたわけではないけれど。

 

 でも多分、振り返ればそういうことだ。あの時感じた怖さ、腰が引けた理由はきっとそうなのだ。

 

 なのに、受けた。

 マーベラスサンデーや、マヤノトップガンがトレーナーを見つけたあとに。

 

 そして落ちた。それはもうあっさりと。

 それなりに練習を重ねて、レースに向けて色々自分なりに勉強して、入団テストの時のレース運びなんかも研究して。

 

 結果は、3着。

 

 同室のマーベラスサンデーに、申し訳なくなった。

 数日間、夜にずっと自分のデスクの灯りを付けっぱなしにしていた癖に、結果は一切伴わなかった。

 

 そのあとのマーベラスサンデーの顔は、いまいち覚えていない。

 ただ、入団テストのことに触れてこなかったのは、知らなかったからではなく優しさなのだろうとは気づいている。

 

 情けなくて涙が出そうだった。

 

 専属トレーナーを見つけるための模擬レースに出始めたのはそのあとで。

 笑えるくらい3着ばかりを取り続けた。

 

「っし。あと、2本」

 

 驚くほどしっかり脚が動く。無理だ無理だと思っていたのは自分だけで、あの日に彼と行ったトレーニングはまぐれなんかじゃなかったと教えてくれる。

 

 でも、何日続けても、伸び自体は悪かった。あれから、1㎝もその先へは進めていない。

 

「でも続けるだけ。続ければ……」

 

 きっと実を結ぶ――だろうか。疑問が鎌首をもたげる。

 

 彼を思い出す。

 

 自分の方が、よっぽど迷子だった。

 

 道が分からない。がむしゃらに頑張ったって、何がどう変わったかも分からない。

 足掻いて、足掻いて、足掻き続けて。トレセン学園に入学した時から、自分は一歩も動けていない気さえした。

 

 楽を、してしまった。

 

 お馴染み3着、なんて笑って言って、その時ふっと身体から力が抜けた。

 肩の荷物を降ろしてしまったような感覚だった。

 

 もしかしたらここで良いのかもしれないって、迷った末に見つけた場所が、ゴールなのかどうかも分からないけれど。

 それでも見つけて、ほっと一息ついてしまったのだ。3着という、居場所。

 

 3着で良い。キラキラしているのは一握り。

 斜に構えて、マーベラスサンデーやマヤノトップガンの勝利を祝う。

 

 その時の二人の表情も……やっぱりいまいち覚えていない。

 

 そして。きっと、とどめはアレだろう。

 

 

『テイオーって……トレーナー居なかった、の……?』

『居ないよー? 無敵のテイオー様のトレーナーになりたいって人はいっぱい居るけど、カイチョーがちゃんと選べって言うからさー』

 

 だからちゃんと選ぶんだ。無敵のテイオー様に相応しいトレーナーを。と。

 

 そんな風に言われたら。もう、ダメだった。

 

 選ばれることに必死になっていた自分。選ばれすらしなかった自分と同じ学び舎に、トウカイテイオーが居る。

 

 模擬レース全勝。トゥインクルシリーズ出走を今か今かと待っている、ナイスネイチャの人生でもっとも大きな壁。

 

 口にしたくなかった、認めたくなかった――この世界の主人公。

 

 

「……アタシにしては、やれてるはずだから」

 

 あと1本。

 きついきついと思いながら、それでもこなすのは何故だろうか。

 

 ああ、やっぱり。楽しかったからだ。

 

 届きたくても届かなかったなにもかも。

 

 練習を、走ることを、走りに紐づく何もかもを、久々に素直に楽しいと感じられたから。

 

 この世界の主人公が自分ではないと突き付けられて、それでも続けていたトレセン学園への在籍。

 

 惰性だと己を嘲笑っていた。

 あらゆるすべてを言い訳にした。

 

 でも、もし。

 

 もし、まだ迷っているだけだというのなら――久々に見えた、道こそがあの20㎝先のラインだったから。

 

「っし、ラスト1本……!!」

 

 脚を伸ばす。懸命に。今日も自分で引いた、あの日と同じ距離。

 

 あの日のように心を支えてくれる"何か"は無い。

 けれど、心のうちを温めてくれた不思議な感覚を忘れたくもない。

 

 ――トレーナーなのか聞いておけば良かったかな。

 

 ――でも「礼をする」って言ってるタイミングでトレーナーかどうか聞いたら、卑怯な逆スカウトみたいに思われないかな。

 

 ――もし、"あの"トレーナーだったらどうしよう。そうじゃないといいな。

 

 

 渦巻く感情に、蓋をする。

 

 だって。

 

『そう言うなって。マジこの街来て初めて会ったのがお前で良かったわー』

 

 自分でマーベラスサンデーに言ったではないか。

 

『いくら最初に会ったからと言って、アタシのトレーナーなんかにはなりたがらないっしょ。同期にテイオーが居るんだもん、猶更ね』

 

 もしもあの人が、噂になっている"あの"トレーナーなのだとしたら。

 キラキラした人は、そういう人同士が結ばれる。ブスの片思いなんて通らない。

 

 そう、自らに言い聞かせるのが嫌だから。

 

 だから、"あの"トレーナーじゃないといい。

 

『トレーナーじゃねえしな。メニューに口出しするのは違ぇだろ』

 

 とは言っていた。あの日はバッジも付けていなかった。

 だからといって、違うと決めつけるにはあまりにも――ウマ娘に対する理解が深かったようにも思えてしまって嫌になる。

 

 悶々とした気持ちを持つこと自体も、分不相応だと言い聞かせて蓋をした。

 

 あの日の思い出を胸に、それなりにまた頑張る。それでいいじゃないかと、それが"らしい"じゃないかと、言い聞かせ続けているのに、顔を出すのは何故だろう。

 

 その答えを、己の中に未だ燻り続ける強く激しい炎を、今の彼女はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へへ、ここは知ってる、知ってるぜ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その声に、弾かれたように顔を上げた。

 反動で腰から上がゴムの勢いに持って行かれそうになって尻もちをついて、そのままポールのところまでお尻ごとずささささと引っ張られてしまったけど、危うく頭をポールにぶつけるのは耐えた。耐えきった。

 

「なんかすげえ叫び声聞こえたんだけど!? ぎゃああああ!? とか! おいどこだ誰だ何があった!!」

 

 あまりの羞恥に絶対今出ていきたくないと思った彼女。

 

 だが現実は非情である。

 

「……なにしてんだお前」

「あ、あはは……よ、よく会いますね?」

「全くな。でもやっぱここか。へっ、俺ここは知ってるんだ……!」

「……ここからの帰り道は?」

「……………………」

「目ぇ逸らすなおーい……」

 

 はあ、と溜め息。声のトーンが少し上に滑ってしまっている自覚を必死に頭から追い出して。

 差し伸べられた手を受け取って、立ち上がってお尻についた土を払う。

 

「しかし自主トレか。精が出るな、お前も」

「やー……まぁ? アタシもウマ娘ですし?」

「ふーん。それにしても大層なもんだと思うが。こうやって誰も見ねえところで頑張れる奴が、最後に笑ったりすんだよな」

「あーあーあー! そーゆーのほんと良いから!」

 

 耳心地が、良すぎるのだ。

 気づけば心の炉に薪をくべられているようで。

 何かの魔法かと言いたくなる。

 

 だから、ついうっかりこちらも口が滑るのだ。

 

「良かったらちょっとまた、"見て"って貰えたり……しま、せんかね!? ああいや、色々予定とか無ければでいいんですけど、全然!」

「おうもちろん。こっちから頭下げて頼みたいくらいだ」

「さ、さいですか……」

「ふらふら散歩した甲斐があるってもんだぜ」

「ほんとに散歩なんですかねぇ……」

 

 じとっと目を向ければ、露骨に逸らされる。

 それがおかしくて小さく笑った。

 

「じゃ、見てるだけ見てっから。頑張れ」

「はーい。頑張りますよー、アタシなりにー」

「お前なりって、相当修羅だよなこれ……」

「いいから!!」

 

 思わず手で顔を扇いで。

 

「はぁもー……あっつー……じゃあ行きますのでぇ……」

「おう」

 

 息を吐いて、一歩を踏み出す。

 数日間変わらないトレーニング。

 正確にはもう少し前からやっていたけれど、明確に目標が出来て毎日同じメニューを繰り返しているのは数日だ。

 

「しかしこの修行編って感じがたまらねえよな。動画残しといて引退式で流せば全米が泣くぜ」

「アタシ、なんかで……!?」

「何言ってんだお前だからだろ。普段は商店街であんなかわいいかわいい持て囃されてる奴が実は裏でこんだけ頑張ってて、掴み取った栄光は街のみんなの応援があったからとか最高のヒロインじゃん」

「~~~~!! やめて!! やめろ!! ハズイって!!」

「しかも毎日毎日ステップアップしてるわけだ。コマ送りの漫画だってもうちょい尺使うぜ」

「んなこと……」

「だってこれ、この前より距離長いだろ?」

「――え?」

 

 彼が指さすラインは、記憶によれば同じ程度の距離。最初こそ記憶頼りだったが、メジャーを持ってきてちゃんと測ったのだ。

 それが、ズレているとは思えないが。

 

「バ鹿言え、俺がちゃんと記録を示したんだろが。俺が間違ってるはずがない」

「嘘……」

 

 じゃあ、ひょっとして今まで自分は。

 

「日々成長する怪物か? なんだお前アタシは大したウマ娘じゃありませんみてえな顔しといて。メイクデビューで百バ身差つける布石か?」

「そんなこと出来ませんけど!?」

「まあいいや、頑張ってみろよ。まさか何日も同じことやってるわけもなし、毎日ちょっと先まで行っちまうみてえな化け物っぷり発揮してんのか?」

「え、いや、どーだろね……あはは……」

 

 自分でそう笑っておいて、しかしナイスネイチャの表情は少し変わった。

 もしも彼の言う通り、少し距離が伸びていたのだとしたら。

 

 それを毎日繰り返してきた自分は、あとちょっとくらいは足を伸ばせたりするのだろうか。

 

「……アタシ」

「え、やる気? なんなの、俺が来るまで盛り上がり残してくれてたの?」

「待ってない!!!!!!!! ……あっ。いや、待ってないです」

「なんだそのリアクション。でもちょっとおい、伝説回来るのか? 全国のトレーナーさん申し訳ねえ、俺だけの独占生放送っぽいぜこれ」

「乗り出すな乗り出すな」

 

 できなかったらどうするんだ、という言葉をなんとか飲み込んで。

 レースのスタート前のように、ぐっと構えて、一歩を踏み出す。

 

 気持ち大股で、ゆっくり一歩一歩確認しながら。

 

「澱みねえ動きだな……序盤のゴムの反動なんざそよ風にもなってねえ」

「……」

 

 うるさい、という気持ちもまた、飲み込んで。

 

 集中すれば、自らが引いたラインもはっきり見える。

 

「そこもうちょい行けるか!?」

「えっ……うん!」

 

 と、一歩踏み込もうとした時に声。気持ち踏ん張りを強め、深く踏み込む。

 

「行けんのか……マジか……」

「自分で言った、くせに……!?」

「や、まあまあ良いじゃねえか、すげえのには変わりねえんだ」

 

 悪びれすらしないこの男。

 だが――ふと気づく。

 

「……あれ」

「どうした?」

「や、なんか」

 

 脚を伸ばせば。

 本当に、あれだけ毎日届かなかった部分に届きそうで。

 

「思ったより簡単……」

「て、天才はいる……悔しいが……」

「やめろぉ!!」

 

 本気で戦慄したような顔をされると、なんか恥ずかしくて。

 

 それでも自分で言ったことは本当で。

 

 すっと伸ばせば、

 

 

 ラインを越えた。

 

 

 それはもう、あっさりと。

 

 

 

「えー、全国のトレーナー諸君。世界で最も幸福なトレーナーというものにですね、恥ずかしながらワタクシが――」

「やめてやめてやめてってば!!!」

 

 

 

 

 

 ――思い返せば。

 

 今日もまた、あっという間に乗せられていたんだと気づく。

 

 果たして、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかも分からないけれど。

 

 それを問いただすことに価値などない。

 それに、と彼の方を見れば。

 

「いやほんと、ウマ娘の進化って奴は計り知れねえというか、単にお前が天才なのかどっちだと思うよ……」

「前者!」

 

 叫ぶ彼女はしかし、眉を下げる。

 本当に嬉しそうだから質が悪い。ともすれば、あれだけ数日間乗り越えることのできなかった壁を乗り越えた自分よりも。

 

 だから、ふうと一息ついて。

 

「ありがとう……ございました」

 

 一言、礼を告げた。

 

「あ? いやいや礼を言うのはこっちだろ」

「いやなんでだ」

 

 思わずツッコミよろしく手が伸びてしまうナイスネイチャに、しかし青年はどこ吹く風。

 

「頑張ってるとこを見るのが褒美みたいなとこあるからな、俺らみてえな人種は」 

「……」

 

 俺らみてえな人種。その発言に、いよいよナイスネイチャも目を閉じる。

 その直前視界に入ったのは、気づかず見ないようにしていた彼の胸元。

 

 買ってもらったスポドリをちびちび両手で傾けて、ポールに背を預け小さく呟く。

 

「今度、模擬レースがあるんですよ。急に決まったんですけどね」

「げほげっほ」

 

 なぜむせるのかは、よく分からないけれど。

 

「そうじゃねえかとは思ってたけど、トレーナー付いてなかったのか」

「あはは、ウマ娘と一緒に勝ちたいトレーナーがアタシなんかを担当するわけないじゃないですか」

「んなことねーよ、全世界のトレーナーが」

「そのくだりはもうよろしい」

 

 調子のいいことを言うこの男に、思わず言ってみたくなる。

 

 じゃあ担当してくれますか。

 

 なんて。

 

 ……でも。

 

「アタシに恩があるって言ってましたっけ……」

「そんな嫌そうな顔で言う???」

 

 道案内を、恩と言ってくれるのは嬉しい。

 そのおかげで出会えた。

 

 それに、振り返って思えばやっぱり今日も――楽しかった。

 

 でも、その恩のせいで口にできない。

 

 負い目に付けこむようなことは、したくない。

 

「……えっと。結局聞けてなかったんですけど、貴方は、その」

 

 トレーナーなのかと言いかけて、ふと気づく。

 

 そんなことよりも前に、いくら何でも交わしておくべき礼儀があったことを。

 

 ぽりぽりと頭を掻いて、らしくもない非礼に自分に呆れながら彼女は言う。

 

「そういえば、名前すら名乗ってなかったかー。……アタシ、ナイスネイチャって言います」

「そっか。なるほどな」

「なるほどなとは??」

 

 予想外の返しに困惑するのもわずかな時間。

 

 笑った青年は、告げる。

 か細い恒星の輝きにうっすら反射するトレーナーのバッジとともに。

 

「俺は神谷。新人のトレーナーだ」

 

 ああ、やっぱりと、胸の奥にすとんと落ちる感情。

 納得と、それから何だろう。落胆だろうか。

 

「ひょっとして、フランスからお帰りになられたばかりという?」

「ナイスネイチャも知ってたか」

「まあ、はい」

 

 そうではないかとは思っていた。

 そうでないといいとも思っていた。

 

 敏腕というのも、分かった。

 ひょっとしたら、先ほど自分で言い聞かせていたように、この思い出を胸に頑張っていくべきなのかもしれない。

 

 それこそトウカイテイオー辺りと契約を結んで、それはもうトゥインクルシリーズの歴史に名を刻むコンビになって。

 

 その時にきっと、商店街のお客さんなんかにひっそりと自慢するのだ。

 最初にあのトレーナーに指導してもらったのは、実は自分なのだと。

 

 チームを組むという噂が一縷の望み。

 

 それでも付いて貰えたらいいなと思うだけで高望みだろうか。どうだろうか。

 

 3人くらい募集していたら、それならぎりぎり望みがありそうか。

 

 しかし、そう。

 

 やはり目の前の男は、トレーナーと呼ばれる存在だった。

 

「トレーナー……さん」

「おう」

 

 口を突いて、意識の外で零れ落ちた言葉に、響く返事があって。

 

 ――ああ、いいな。

 

 つい、そう思ってしまって。これは欲だと、ナイスネイチャの心は叫ぶ。

 でも、星明かりの中でその欲張った問いを吐き出した。

 

「模擬レースで……担当を?」

「ああ、そのつもりだ」

「そう、ですか」

 

 

 そうですか、と。自らの心に、週末の日付を刻んだ。

 

 

 

 模擬レースまで、あと3日。

 



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トウカイテイオーとやべーやつ系トレーナー

マーベラスサンデーの笑い声はちゃめちゃに可愛くて好き


 

 

 生徒会室の窓から覗く庭は夕日に照らされて、ガラス越しに見える景色は美しい。

 

 軽く手を添えてみれば、今日はこれからが本番とばかりに気合を入れる生徒たちの声がそのまま心身に響くようだ。

 

 緩く微笑み、積みあがった書類の山に目を戻す。

 

 既に提出の準備を終えたそちらは、庶務の少女がもうじき運びだしていくだろう。

 だから、生徒会の長たる彼女の視線はその山の向こう、生徒会室への可愛らしい来客に向けられていた。

 

「それで、今日はどうしたのかな」

 

 いつもの優しくも雄々しい語り口。

 それはこの学園の頂点に君臨する者としての当然の振る舞いであると、彼女は考えている。

 

 皇帝シンボリルドルフは、いつ如何なる時も絶対であると。

 

 そんな彼女に憧れる者はあとを絶たないが、その中でも目を瞠るべき逸材が居るとすればそれは今彼女の目の前に居る元気な少女だった。

 

「いやぁ、ボク今日どこ行けばいいのかなって思って……」

 

 てへへ、と頭を掻く快活な少女。ポニーテールがよく伸びて、また額に差す鮮やかな一筋の白が彼女の明るさを後押ししているそんなウマ娘。

 

 重たすぎない前髪が幼さと活発さを併せ持たせる、見ているだけで微笑ましい彼女だが――その実、中等部に入学してから現在に至るまで、一度も負けたことがないという凄まじい実績を持ち合わせている才媛だ。

 

 全勝さりとて、たかが模擬レースというなかれ。

 

 トゥインクルシリーズを控え、トレーナーを得ようと奮闘する"これから"のウマ娘たちもまた、トゥインクルシリーズに負けない必死さを併せ持っている。

 そのうえ、こう考えることも出来るのだ。

 トレーナーの手に触れていない自然なものであればこそ、純粋な才能勝負になり得ると。

 その中で全勝ということの意味を、シンボリルドルフが分からないはずもない。

 

 ただ、一方で。

 その才を十全に活かす場に苦労しているように見えるのもまた事実だった。

 模擬レースにいくら勝利したところで、結果が伴わなければ宝の持ち腐れ。

 

 その結果というのはつまり、彼女もまたトレーナーに恵まれないウマ娘の1人だということだった。

 

 自らがトレーナーという杖を酷使するほどに使い尽くし、その上で7冠という栄誉の座に輝いた自覚があればこそ。

 

 自らを目指し、どこか不思議と自分と重ねることもあるこの少女には、良いトレーナーと良いライバル、ひいては良いトゥインクルシリーズを歩んでほしいという願いがあった。

 

 まるで親心のようだと、自らの担当したトレーナーに笑われたこともあるがそこはそれ。

 

 似たようなものかもしれないとは、本人も思っている。

 

「そうか。今日は」

「うん、カイチョーが一昨日教えてくれたでしょ?」

 

 思い出すのは外ならぬ彼女との会話。

 未だトゥインクルシリーズへはばたく準備が整う気配のない彼女に勧めたもの。

 

「第三練習場だ。そこに今日、"彼"は居る」

「あ、そだ第三練習場だ! ありがとーカイチョー!!」

 

 ぽんと手を打って、頭の靄が晴れたように弾んだ声を上げる彼女。

 

「カイチョーが気にするほどのトレーナーなら、少し考えてあげてもいーかなって!」

「ふっ。彼がどう言うかは分からないが、きっとその出会いは悪いものにはならないさ」

「むー。別にボク、そのトレーナーに組んでってお願いしても良いんだけど」

「いや。私に勧められたことを決定打にはしないで欲しい。キミには何度も言っていることだが、トレーナー選びというものは」

「今後の人生を左右する、でしょ? 分かってるよ! だからカイチョーのおすすめでいいんだけどなー」

 

 その信頼が重いというわけではなかった。

 分かっていると、彼女は言った。それを分かっていないと頭ごなしに告げる理由はない。

 

 知らないものは仕方がないのだ。

 

 ある種――ああ、認めようとシンボリルドルフは内心で1つの命題に答えを出す。

 

「今回のトレーナー体験は……キミの為を想ってのことだ、テイオー」

 

 決してそれだけが理由ではない。そんな私利私欲のために公権を振るえるほど、シンボリルドルフは安くない。だがそれでも、彼女の為でないと言い切ることは出来なかった。

 

「えっ!? カイチョーがボクの為にしてくれたの!? なーんだぁ、じゃあやっぱりそのトレーナーで良いよ!」

「いや、違うんだ。よく聞いて欲しい」

「?」

 

 諭すように、彼女は告げる。

 

「きっと今回のことはキミのこれからの糧になる。担当がどう、というよりもまず、1人のトレーナーと向き合ってみてほしい」

「……」

 

 彼女の才を十全に活かせるとは言い難いトレーナーたちが数多く集まって、スカウトの奪い合いをした過去を知っている。

 

 どのトレーナーも似たような口説き文句で、煩わしくなってしまったトウカイテイオーが半ばトゥインクルシリーズに出るための半券代わりにトレーナーという存在を使おうとしていたことも知っている。

 

 そんな彼女を押しとどめ、トゥインクルシリーズ出走を遅らせた責任の一端が、自分にあるとシンボリルドルフは思っている。

 

 だからこそ。

 

「トレーナーも人間だ。テイオーが、無敵のテイオー伝説を作り上げたいという欲を持っているように――彼らにもまた欲がある。それは決して否定されるべきものではない」

 

 トウカイテイオーをスカウトしたトレーナーたちが悪いとは言わない。

 けれど、彼らの行いがトウカイテイオーの心に、トレーナー否定の感情を植え付けたこともまた事実。

 自分のところの副会長の存在がそれに勢いをつけたことも否定しないけれど。

 

「だから、この人となら付き合っていけると、胸襟を開いて語れる相手を見つけるんだ。きっとそのやり方を、今日の出会いが教えてくれるはずだ」

「……分かったよ」

 

 ふてくされているのとは違う。

 ただ、先ほどよりも元気がなくなっているのはきっと、『自分がシンボリルドルフの言っていることを理解できない』ということへの苛立ちに近いものかもしれない。

 

 何を言っているのかよくわからない。これがシンボリルドルフ相手でなかったら、面倒になって逃げだしているくらいだ。

 

 けれど、1つだけ彼女に理解できたことがあるとすれば、それは今からとりあえずにでも第三練習場に行けば良いということだけ。

 

「じゃあ、行ってきます」

「ああ」

「てひひ。またね、カイチョー!」

 

 ただ目的を忘れただけでわざわざ生徒会室、ひいては生徒会長シンボリルドルフを頼るなど、副会長のエアグルーヴからしたら言語道断の行いかもしれないが。

 

 可愛い後輩の頼みともなれば、シンボリルドルフに断る理由はない。

 むしろこうした気安い憧憬は嬉しくもあった。

 

「……テイオー」

「ん? なぁに、カイチョー?」

 

 扉を押し開き、外へ出ようとするトウカイテイオーを呼び止める。

 

 少し言葉を選ぶように口元に手を当てて、それからシンボリルドルフは告げた。

 

「唯一抜きん出て並ぶ者なし。キミが素晴らしい優駿となれることを心より楽しみにしている。トゥインクルシリーズを楽しんで欲しい」

 

 その言葉に、トウカイテイオーはこてんと首を傾げて。

 それから期待されていることを、それだけを理解して嬉しそうに頷いた。

 

「うん、任せてよ!! 無敵のテイオー伝説はこれから始まるんだ!!」

「ああ」

 

 駆けて出ていくトウカイテイオーが、たまたますれ違ったエアグルーヴに怒鳴られているいつもの日常に頬を緩めて。

 

 それから、複雑な思いを胸に窓の外へともう一度想いを馳せた。

 

「願わくば――良きトレーナーと良きライバルに恵まれ、彼女が幸福なウマ娘としての生を歩めることを」

 

 呟いて、ふ、とおかしくて笑みが零れた。

 

「幸福、か――惜しいな」

 

 チームを組むことはない。

 "彼"が断言したそれを、シンボリルドルフはそう独り言ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三練習場に来たトウカイテイオーがまず目撃したのは、チームスピカのやべえ葦毛ことゴールドシップの姿だった。

 

 

「5メガネ!!!!!」

 

 

 ずらっと芝に5つのメガネを並べるゴールドシップと相対する人影が1つ。

 

「なんの!! わりばし!!!!」

 

 必死の形相で割り箸を掴み掲げたのは、まさかとは思うが――否まさかとも思いたくないが、トレーナー、なのだろうか。トウカイテイオーの眉が悲し気に下がる。

 

「な……フェイントだと!? じゃあこの明太子は使えない!」

 

 悔し気に明太子を懐にしまうゴールドシップを前に、件の青年は死に際に目的を果たしたヤクザの如き獰猛な笑みを浮かべてスチール缶を手にした。

 

「そしてこのウーロン茶で俺のコンボは完成する」

「しまった、暗黒コンボか!!」

 

 驚愕の表情に歪むゴールドシップが叫ぶ。

 

「仕方ない!! ここで雑巾を発動だーーー!!!」

「バカな、2枚もだと!? コイツ正気か!? ――ちいいっ!!」

「アイルトンセーナー!!」

「くっ……俺の5目半負けか……!」

「フチなしのメガネだったらアタシがヤバかった……」

 

 なんだろう、これは。

 膝をつく青年と、腕を組み口角を吊り上げるゴールドシップ。

 

 何が起きているのかと周囲を見れば、他に3人ほどウマ娘が居ることにトウカイテイオーは気づいた。

 頭を抱えている2人は、見たことがある。ダイワスカーレットとウオッカだ。

 そしてもう1人緊張した面持ちで戦いの行方を見守っているのが、特徴的なニット帽。ナカヤマフェスタだ。

 

 そんな確認に一瞬目を離した隙に、青年の方が頭からウーロン茶を浴びている。

 

「アンチルールによりウーロン茶をかぶるぜ。次はお前がステージを決める番だ! 領収書を切れ」

「領収書は切らねー。使い方分かんねーし」

「バカな自殺行為だぞ!?」

 

 目を見開く青年を前に、不敵な笑みを見せたゴールドシップは自らの握るレンズを見せる。 

 

「メガネがあればそれでいい」

「なるほどヒットポイント回復に当てるってことか……!! なら俺はセカンドコートからいくことにするぜ、ククク……!」

「くっ、外道が!!」

 

 

「わかんねええええええええええええ!!!」

「あいつら何してんのよおおおおおおおおおお!!」

 

 叫ぶウオッカとダイワスカーレットの前で、腕組みをしていたナカヤマフェスタが勝負師のような笑みを見せる。

 

「ゴルシの奴が雑巾を使ってなかったらスピカは解散させられてたな」

「そーなの!?」

「なにを賭けてくれちゃってんのよ!」

「ゴルシの覚悟って奴だ」

「とばっちりでオッズにされたこっちの身にもなりなさいよ!!!」

「むしろ賭けの台に乗れたことを誇りに思えスカーレット院」

「スカーレット院って誰よ!?!?!?」

 

 トウカイテイオーは、チームスピカって怖いな、と思った。 

 

 そんな間にも、視線の先に居るゴールドシップと青年はといえば。

 

「六本木六本木」

「モスコミュールモスコミュール」

 

「……ちょっと目を離しただけで何をやってるのかさっぱりだ」

 

 よくわからない動きに、ウオッカが目をもんで呻く。

 こんなもの、どんな名実況だってなんて言っていいか分からないだろう。

 

「あのぉ……ねえここってカイチョーが言ってたトレーナー体験の場所だよね……?」

 

 いやいや問いかけるトウカイテイオーの内心は、嘘であってくれと叫んでいる。

 しかし彼女に反応したナカヤマフェスタはまるで何でもない世間話のように頷いた。

 

「ん? ああ。今は私の番さ」

「じゃあなんでこんなところに居るのぉ!?」

「熱い勝負が目の前にあるんだ、シラけた真似する方が間違ってんだろ」

 

 その真剣な表情で見つめる先にあるのはしかし……。

 

 ゴールドシップが持っていたメガネを、勢いよく縦にする謎の動きだけで。

 

「メガネえええ……ガネメ!!!!」

「なに!? テクニカルコンボ御用達のガネメじゃねえか!! いったいどんなコミュニケーションなんだ!?」

 

 拳を握りしめる青年の前で、ゴールドシップはメガネをポイ捨てすると、彼の後ろに回って抱きすくめるように抱え込んだ。

 

「あれぇ!? メガネ使わないの!? ねえ使わないの!?」

「ガネメーーーーーーーーーーーー!!」

「ぐわああああああああああああああああああああ!!!」

 

 渾身のバックドロップが青年を襲う。

 

「決まった!! 葦毛真拳奥義地獄百舌落としだ!!!!」

 

 まるで勝負に勝ったようにガッツポーズをかますナカヤマフェスタ。

 

 煙が晴れた先で転がっている彼に、もはや青ざめるしかないトウカイテイオーである。

 

 恐る恐る、ウオッカが問うた。

 

「勝負あったのか……!?」

 

 へへ、とナカヤマフェスタは笑う。

 

「ウマ娘にバックドロップ食らって勝てる奴が居るかよ」

「ただの暴力じゃない!?」

 

 叫ぶダイワスカーレットは、流石にゴミのように転がったトレーナーもどきは見過ごせないらしく駆け寄って。

 

「だから言っただろ……俺じゃお前を育てきれねえって……」

 

 倒れ伏したまま彼は顔を上げて、自らを見下ろすゴールドシップに笑って言った。

 なぜ笑っていられるのかは、ダイワスカーレットには全く分からなかったが。

 

「へっ。だがソウルは届いたぜ、神谷トレーナー。もし何か困ったことがあったらいつでもお前を助けてやる」

「そりゃ……光栄、だ……」

 

 がく、と気力が尽きたか頭を芝に打ち付ける青年を背に、ゴールドシップは満足げに鼻の下を擦って去っていった。

 

 

 一部始終を見届けたトウカイテイオーは思わず叫んだ。

 

 

「カイチョーから聞いてた話と温度差で風邪ひきそうだよぉ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールドシップと同じく満足したらしいナカヤマフェスタが帰ったあと。

 

「いてて……んでお前は?」

 

 呆れるダイワスカーレットに手当をして貰った腕を回しながら、青年は顔を上げた。

 

「知らないのぉ!? ……いや、知らないの? ボクを?」

 

 先ほどまでの空気がそうさせたのか、つい大きな声を漏らして慌てて口をふさぐトウカイテイオー。

 改めてふふんと胸を張り、彼女は高らかに宣言する。

 先ほどまでのかわいそうなツッコミ役などどこにもいない。いないのだ。

 

「ボクは無敵のトウカイテイオー! トゥインクルシリーズで無敗の三冠ウマ娘になるつもりだから、よろしくね!」

「ほう……無敗の三冠ウマ娘か……」

「うん、スカウトしたくなった?」

「ん? そりゃもうめっちゃしたいよ。かっけえじゃん無敗の三冠ウマ娘」

「え、う、うん。ありがと」

 

 あれ? と首を傾げるトウカイテイオー。

 シンボリルドルフの話を聞いたトウカイテイオーは、もっと他のトレーナーと違う反応が返ってくると思っていた。

 

 自分をスカウトしたいというのであれば、それで話は終わるのだが。

 

「まあ、とはいえお前に見合ったトレーニングが出来るかは分からねえからな」

「ほほう、ボクに見合った――」

 

 何をするのかと考えて、やはり焼き付いてしまっている先ほどの奇行エクストリームバトル。

 

 口角をひくつかせながら、トウカイテイオーは問うた。

 

「あの、さっきのアレって結局なんだったのさ……」

「さっきのアレ? ああ」

 

 これで「なんのことだ」とか言われたらこの世の終わりだなあ、などと遠くに思いを馳せていたトウカイテイオーだが、いくら何でも流石に記憶には焼き付いているらしい。

 

 ほっと一息ついたトウカイテイオーに、彼は答えた。

 

「ゴルシに合わせようとしたらまあ、ああなるわ。沖野サンすげーよマジで」

「あ、合わせようとしてあそこまでやったの!?」

「そりゃな。常日頃からアレやってたらただやべーやつだろ」

「もう十分やべーやつだよ! ウーロン茶浴びてたし!」

「ん? ああ、確かに」

 

 言われてみれば頭からウーロン茶のにおいがする、などと今更なことを言う目の前の男。

 しかし彼は、でも、と一言挟んで、いっそ穏やかなくらいの笑みを浮かべて言う。

 

「俺もゴルシも楽しかったからな」

「へ?」

 

 その言葉自体は決してただのおかしい奴などではなくて。

 

「他の誰にどー思われても、担当するウマ娘とトレーナーってのは対等に頑張れねーと。レースで隣に居られねえ分、猶更な」

「……ふーん」

 

 口だけ、とはとても言えない。合わせる難易度が自分よりも高いであろうあのゴールドシップを前にあそこまで頑張られては。

 

「じゃあボクのトレーニングも、楽しくやれるってこと?」

 

 トレーニングを楽しいと思ったことはないけれど。

 少しだけ興味が沸いて、トウカイテイオーは目の前の青年にそう問うた。

 

 彼は笑って、袖をまくると。

 

「んじゃ無敵のテイオーサーガ序章メイクデビュー前黎明編、幕開けと行こうか」

「テイオーサーガ序章……なんかかっこいい!」

「そりゃかっこいい伝説の幕開けは極限までかっこよくなきゃダメだろ。ってことでその幕開けを手伝えるかどうか、軽くトレーニング受けてみるか?」

「いーよ! ついて来られるか見せてもらうから!」

「こりゃ、きつい仕事になりそうだぜ……!」

 

 軽く口角を上げる彼に、首を振る理由はなかった。

 

 

 

「テイオーサーガ序章メイクデビュー前黎明編って、何回プロローグするのよ……」

 

 呆れたダイワスカーレットの呟きは、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつ以来だろう。

 こんなに、"らしくもなく"頑張っているのは。

 

 1人で進める、自主トレーニング。

 

 あの日までは、もしかしたらただのポーズでしかなかったかもしれない。

 「アタシなりに頑張っているんだ」という誤魔化しでしかなかったのかもしれない。

 

 けれど今、明確な目標をもって、そのために全力を賭けて練習をしている。

 

 今日は、隣にその影は無いけれど。

 またもう一度頑張ってみようと思えた心の起爆剤。

 

 先ごろから降り始めた雨はさあさあと耳に音を響かせるほどになっていて、普段なら引き上げるような篠突く雨。

 

 けれどなぜか、不思議と帰ろうとは思わなかった。

 

 このくらいの雨の中でやるレースもある。もし週末の模擬レースがこういう状態だったら、良い予行練習ではないかとも思った。

 

 風邪をひいて当日出られないなんてバ鹿げた真似だけはしないように、あとでお風呂はしっかり体を温められるくらいゆっくり入るとして――ああ、ついでに湯舟で出来るケアはしてしまおう。

 

 そんなプランも、するすると頭の中に入ってくる。

 

 気力十分、やる気は絶好調と言えた。

 

 重いバ場状態を想定して踏む芝。つるりと滑りそうになるのも、この数日のトレーニングが自信に変わって、勇気を持って一歩を進めることが出来る。

 

「良い感じ……」

 

 門限ぎりぎりなのが惜しいくらいに。

 

「……やれるかな、アタシ」

 

 その、常なら弱気にも取れるつぶやきも、自然に口元を緩ませていて。

 

 弱気ではなく、期待と言えた。

 

 もう10回以上開かれた模擬レースは、ウマ娘たちの努力のお披露目の場だ。

 そして、トレーナーの付いた子やチームに入った子はわざわざ参加してくることはない。

 それでも入着がぎりぎりだった自分を想えば、決して驕ることは出来ないけれど。

 

 その度々開かれてきた模擬レースに何度も出た経験だけはある。

 決して良い記憶とは言えないけれど、走った記憶はしっかり焼き付いている。

 

 エントリーしたのはいつもと変わらない芝2000m右回り。

 

 バ場状態は確かに分からないけれど、出来る限りの準備はするつもりだ。

 

 こんなに本気になれたのも"らしくない"と言えばそうだけれど。

 

「っし。なんか心なしか疲れも減ってる気がする! ……気がする、だけかな。あはは」

 

 不安と期待は、いつも通り。不安の方が大きいし、自分を信じることなんて出来はしない。

 

 けれど、今自分の足元を支えているなけなしの自信は、人から貰ったもの。

 貰ったものは、大事にしたい。

 

 少しだけ、柔らかく目じりを下げて。

 それからもう一本、励もうとしたその時だった。

 

「あー! ネイチャだー!!」

「……え、マーベラス?」

 

 ばしゃばしゃと水たまりもお構いなしに駆けてくる、遠くからでもシルエットが強烈な少女。ルームメイトのマーベラスサンデー。

 

 ずいぶんと楽しそうに傘を振り回しながら走ってくるものだから、思わず苦笑いが零れ出た。

 

「マーベラース★ ネイチャ、頑張ってるんだ!」

「あ、はは。まあね。……ごめんね、もしかして迎えに来てくれた?」

「マーベラース★」

 

 彼女が楽し気に懐から差し出すのは、間違いなく自分の傘だ。

 

 わざわざ自分を探して、こうして傘を持ってきてくれたことを申し訳なく思いつつ。

 有難くもあるけれど、珍しいなとも思った。

 

「ありがとね。でもなんでわざわざ」

「最近ネイチャったら門限危ないの。今日は雨も凄いし、アタシがお風呂でマーベラスにしてあげる!」

「な、なんだそりゃ……」

 

 ただ、門限が危ういのは事実だった。

 もう切り上げなければいけない時間。

 後ろ髪をひかれる思いはあるけれど、それで許してもらえないのが学園の規則というもので。

 ましてや模擬レースが控えている今、ルールを破って出られませんでしただなんてバ鹿を見るようなことはしたくない。

 

「よし、帰ろっか。ありがとマーベラス。なんか作ってあげよっか」

「ふふふふふっ! それはとってもマーベラスだけど、ちょっと取っておこうかな!」

「……」

 

 少し目を見開いて彼女を見れば、変わらず天真爛漫な笑みを浮かべたまま。

 その裏を決して見せようとしない彼女の額を、軽く指でこづく。

 

「ひゃん」

「生意気なー。……ありがとね」

「マーベラース★」

 

 なんてことはない。気遣われているだけだ。

 今は模擬レースに集中しろと。

 

「……ごめんね。アタシがこんなんだから」

「ネイチャは何にも悪くないの。だいたいマーベラス計画に必要なんだから、もっともーっと頑張ろー!」

「そっか。……今日も少し、遅くなっていいかな」

 

 それはいつかと同じ。

 同室の彼女に断りを入れて、夜遅くまでコースの研究に没頭していた――チームリギルの入団テスト。

 

 思い出したくないはずの記憶も、今は必要とあればすぐにでも引き出せる。

 だから、口から吐くことも出来て。

 それをまた、マーベラスサンデーは嬉しそうに頷くものだから、かなわないと苦笑いしてしまう。

 

「マーベラス★ 芝2000mのお勉強ね! マーベラスはね、ベッドに入るとね、どうなると思う!?」

「え、あー……なんだろ」

「マーベラスな夢を見るの! ふふふふ!!」

「……良い奴だなー、マーベラスはー」

「マーベラスなやつなのー!」

 

 さあさあと降りしきる雨が、傘に響いて音を奏でる。

 

 一瞬の無言に、マーベラスサンデーが懐から一枚の紙を取り出した。

 

 心当たりのないそれを見つめる彼女の瞳は、少しだけ細まって。

 

「……ネイチャ」

「ん?」

「アタシもマヤノも、毎日ここで頑張ってるネイチャのこと知ってるから」

「うぇ!? こ、ここで!?」

「うん。言ってなかったけど。マーベラース★」

「マーベラスじゃない……!!」

 

 何を見られていたかによって、どんな反応をすればいいかも分からない。

 

 けれどなぜだろう。そんなことを言い出した理由に、一瞬見当がつかなくて。

 

 その勢いのままに「はい」と渡された紙を、なんだろう、と受け取った。

 

 

 

「……がんばれ、ネイチャ」

 

 

 

 マーベラスサンデーの優しい声色は、出会って以来一番切実で力強くて、そして何より――本気の応援だった。

 

 

 

 本年度第12回中等部所属ウマ娘模擬レース第10レース

 芝右回り2000m(中距離)11人

 出走登録者一覧

 

枠順 ウマ番 登録選手名
8 トウカイテイオー
9 ナイスネイチャ

 

「……えっ」

 

 ――模擬レースが、来る。



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第0R トレセン学園 芝 2000m(中距離) 右

 その日は朝から賑わっていた。

 模擬レース当日というのは、重賞レースの開催される競技場ほどではないにせよ、トレセン学園内が沸き立つ日であることは間違いない。

 

 そのレースの果てにチームへの招待状を手にした者や、そのレースの果てに1つの出会いを得た者にとってはこれから生まれる後進という名の脅威を目にする機会であるし。

 

 学園側にとってはどう転ぼうとただの得だ。誰が勝とうが負けようが、優れたウマ娘が輩出されるならそれで良し。何の憂いもなくレースを観戦できる立場である。

 

 無論、出場するウマ娘にとってはこれが人生の転換点になりうるし、応援に来た彼女らの友人知人もまた、それぞれの良き未来を願ってギャラリーを彩っている。

 

 難しいのはトレーナーたちだろうか。

 "これから"を共に出来るかもしれない優駿を見極める。未だスカウトに関してはドラフトなどの合意を待たずトレーナー個人個人の裁量に任されているあたり、歴史の浅さを感じなくもないが――今はそれがルールなのだから、従うしかない。

 

 早い者勝ちの癖に、欲しいウマ娘が見つかるかは未知数。

 ただこの日に限っては注目株は決まっていた。

 

 ――トウカイテイオー。

 

 全勝の彼女がまた模擬レースに出るということの意味。

 それはきっと彼女がスカウトを欲しがっているからであるというのが、学園側の解釈であった。

 

 あながち間違ってもいない。

 そも、ただ走りたいだけのウマ娘が模擬レースに出ることは推奨されていない。

 ここはれっきとした審査の場であり、目的がある。

 "全勝"を記録しているトウカイテイオーとて、公の場でスカウトを求めているのでなければこの芝の上には現れない。

 単にこれまで、彼女の求める水準に見合うトレーナーとの出会いがなかったというだけの話だった。

 

 誰が彼女を獲得するのか。

 

 トウカイテイオーのエントリーが決まった時点で、話題の中心はそこから逸れることはなかった。

 

 

「はー……キラキラしてるなー、相変わらず」

 

 模擬レースは7レースを終え、自らの出番まで残り2つを挟むのみとなったナイスネイチャはそう独り言ちた。

 既に体操着の上からゼッケンを付け、体を温めるべくストレッチに勤しみながら遠くへと視線を投げる。

 

 そこにはちょうど着替えを終えて出てきたばかりのテイオーが、まるでそこを己のパドックとでもするかのように胸を張り、観衆の注目に自信という名の笑みで応えていた。

 

 話しかけに行くつもりはない。

 

 思えば本当の本当に最初の頃は、緊張をほぐす傍ら同レースに出走する顔見知りに声をかけたりもしただろうか。

 別に緊張に対して逆効果だったとは思わない。けれど、なんというか。

 それはきっと思い返せば、慢心の表れだったのかもしれない。

 

 気軽に話しかけて、ゆるっとやってこー、と笑顔を振りまくような余裕はもう無くて。

 周りが走り続ける中、1人だけその場から踏み出せない焦燥と恐怖に縛り付けられて、ただ目の前のレース1つにしか意識を向けられなくなっていった。

 

 このレースで必ず。このレースで必ず。

 そう必死になり続けた結果、こうして今も同じ場所に停滞し続けている自分。

 

 しかし不思議なもので、いくらか久しぶりのこのレースはそこまで悲壮感を覚えていなかった。

 やれるだけのことをやってみたいと。この数日の充足感がそうさせていたのだと、彼女は明確に答えを出せたわけではないが。

 

 トウカイテイオーに声をかけないのは、いつものような鎖の焦燥からではなく。

 

 単に、今の自分の全力をぶつけてみたいとそう思えたから。

 

 

 

 唯一ほんの少し胸の内で燻る疑問があるとすれば。

 

 

 ――なんで、トウカイテイオーがこのレースに出る気になったのか、だけ。

 

 

 でも、それを今聞きに行くのもなんだか嫌で。

 聞きたくないとばかりに垂れる耳を、ナイスネイチャは自覚していなかった。

 

 

 けれど、その耳が軽くぴんと張った。

 

 

 ざわめく会場の一方向に視線を向ける。

 するとそこに、居た。

 

 1人の青年が――って

 

「あぁれっ……!?」

 

 思わずナイスネイチャは呻いた。

 

「マーベラース★」

「おう、マーベラース★」

「違う違う、もっともーっとマーベラース★」

「なるほど、マーベラース★」

 

 

「……なにしとんじゃあの2人。ていうか、やっぱり知り合いだったのかぁ……」

 

 見覚えのありすぎる少女と一緒に、見覚えのある動きを繰り返す1人の青年。

 

 思わずやる気が下がりそうになるのをぐっと堪えて――しかし、ざわめきの理由はもちろん彼らなどではなかった。

 

 

「やあ、神谷くん。今日の模擬レースはどうかな」

 

 

 "皇帝"が、そこに居た。

 

 悠々とした歩みで並ぶのは、1人のトレーナー。

 その光景に皆が皆理解する。何も知らなかったウマ娘たちでさえも知るだろう。

 

 きっとあの、マーベラスマーベラスしている一見間抜けな男こそが、噂の"フランス帰り"なのであると。

 

 レースを控えたウマ娘たちが、みんな彼を見ている。

 

「あの人が」

「へえ……じゃあつまり」

「声かけて貰えるかどうかが勝負かも」

「知らなかったの? 体験行かなかった?」

「知らないけど、あんたの反応で腕は分かるね」

「……まけない」

 

 ざわざわと、にわかにざわめく会場。

 

「……ま、そうだよね」

 

 思わず零れた声は、斜に構えたいつもの呟き。

 分かっていたことだ。あの人が例のトレーナー(そう)じゃないと良いと願っていた理由はもちろん"これ"で。

 

 そうであったなら、こうなることは分かっていた。

 

「……負けたく、ないなぁ」

 

 なんて思うのは、モブには傲慢すぎると心の底でもう1人の自分が叫ぶけれど。

 それでも今日まで頑張ってきたのは、この模擬レースの為なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「ようシンボリルドルフ。マーベラース★」

「む?」

 

 首を傾げるシンボリルドルフに、青年の後ろからひょっこりと大きな黒の二房が顔を出して同じように笑う。

 

「マーベラース★」

「マーベラスサンデーと一緒だったか、神谷くん」

「おう、ほらシンボリルドルフもマーベラース★」

 

 笑顔のままに催促されては、案外とノリの良い皇帝が断るはずもなく。

 というより、日頃から厳格たる自分が他のウマ娘から距離を開けられていると自覚しているが故に――

 

「待て待て待て貴様!! 会長に何をさせるつもりだ!!」

「おうエアグルーヴ。マーベラース★」

「……貴様」

「マーベラース★」

「……そんな顔したって生徒会一同は絶対にそんな挨拶しないからな」

「マーベラース……」

「いつから貴様の鳴き声はマーベラスサンデーのまがい物になったのだ……!!!」

 

 供に連れてきたエアグルーヴのやる気が下がり続ける横で、ふふ、と小さく笑ったシンボリルドルフは一言。

 

「マーベラス、だな」

「会長!??!?!」

 

 これにはマーベラスサンデーもにっこり。

 

「マーベラース★ ルドルフ会長もマーベラスだね!!」

 

 嬉しそうなマーベラスサンデーに一度頷いてから、シンボリルドルフは少し表情を真面目なものに戻し青年を見やった。

 

「さて、神谷くん。答えを聞いていないが」

「そうだな。挨拶が終わったんだ、返事はしねえとな。いや中央トレセン学園すげーわ」

「ふふ。だろう?」

 

 当然と言えば当然のこと。

 青年――神谷は、この模擬レースを第1レースからすべて見ていた。

 だからこそ実感するのだ。

 優駿たちの卵とも言うべき存在である彼女らが、誰も彼も逸材の可能性を秘めたウマ娘であることを。

 

「いっそのこと全員担当出来りゃあなあ」

「なら今からでもチームを組むよう打診しようか」

「勘弁してくれ。妖怪足ペロキャンディーマン経由ならともかく、お前から理事長に話が行ったら理事長特権でマジでやらされそうだ」

「私としては、それでも構わないと思うが」

 

 難しいものだと顎に手を当てるシンボリルドルフに、隣のエアグルーヴは眉にしわを寄せて呟く。

 

「会長はどうしてそこまでこの男を……」

「エアグルーヴ。キミもトレーナーを持てば気づくことがあるさ」

 

 そう言われてちらりと神谷を見ると、マーベラスサンデーとじゃれていた。

 

「……いや、しかし、よりによってこれは」

「シンボリルドルフ。今度また生徒会室でジョーク研究しような」

「貴様ァ!!!!!」

 

 これ扱いされた神谷のインターセプトに、本気で頭痛を耐えるように額に手を当てるエアグルーヴであった。

 よく理解していないシンボリルドルフは、首を傾げながら約束の日取りを調整している。

 

「この前タイキシャトルの奴がアツアツのコーヒー飲んだあとに言ったんだよ」

「ほう?」

「『()ーすがワタシは早くレースがしたいれーす!』 ってさ」

「ははははははは!! それは凄いな!! 舌が、そうかなるほど、やけどでふふ、ははははダメだ笑いが止まら、止まらない!」

 

 エアグルーヴのやる気が下がった。

 

「エアグルーヴ」

「なんだ……」

「笑いのセンスというのは日々磨かれるもんだぜ。誰だって最初はうんちで笑うんだ。それをそれぞれの人に相応しいものにもっていくのは、一歩一歩の知識と驚きさ」

「いや、しかし……」

 

 呻くエアグルーヴの横でマーベラスサンデーがきらきらした瞳と共に顔を出す。

 

驚き(マーベラス)!?」

「そうマーベラス。……あれこれひょっとして俺が世界マーベラス計画に知れず手を貸してしまった……?」

「マーベラース★」

「ふっ、全部お前の手のひらの上だったよマーベラスサンデー……」

「マーベラース★ その気づきもまたマーベラスだよね!! うふふふふふっ!!」

 

 苦渋の決断のもと、生徒会室でのジョーク研究が許されたのはそのあとの話である。

 下がり続けるやる気を代償に、未来の可能性を選んだエアグルーヴであった。

 可能性は、人を熱くする。

 

 

 

 

 

「――なんだあの一団」

 

 思わずナイスネイチャが呟いたのも無理はない。

 レースとレースの間隔はそれなりに空くからこそ、歓談の余地もあるのだろうが……それはもうめちゃめちゃに目立っていた。

 

 特にエアグルーヴがまともにトレーナーと会話をしているように見えるのが大きい。

 実際はどうあれ、やはり知らないところで外面の判断というのはされるものだ。

 

 なんならこの状況で一番株ないし格を上げたのはそこに平然と混ざっているマーベラスサンデーだったりするのだがそこはそれ。

 

 マーベラスサンデーはふとナイスネイチャの視線に気づくとぶんぶん手を振り始めたので、曖昧な笑みと共にひらひらと振り返しておいた。

 

 そしてそこで気づいた。

 思いのほか、自らの体が硬いことに。手を1つ振るにも違和感。

 もう少ししっかりアップをするべきかと考えて、否定。入念に丁寧に行っているはずであるし、何よりこれ以上緊張をごまかすように動いてしまったらスタミナに支障をきたす。

 

 皆が皆トウカイテイオーに注目しているのは言われなくても分かっている。けれどこれは自分にとっての大一番。

 

「ふぅ……この時間早く終わってくれないかなあ……」

 

 ばっと走ってしまいたい。

 と、そんなことを考えていた時だった。

 

 

「カイチョー!! あとおまけでトレーナー(・・・・・)!!」

 

 

 思わずそちらを振り向いたのは、無理のないことだろう。

 

 楽し気にシンボリルドルフの居る方へ駆け寄っていくそのさまは無邪気な子供。

 彼女たちが親しいことは周知の事実であるし、駆け寄ることに疑問の余地はない。

 

 ただ、そのあとに彼女が言ったセリフ。その真意はいったい。

 

 少なくともレース前に特定のトレーナーと話をすることは基本的にはマイナスだ。

 当たり前のことだ。スカウトの可能性を自ら狭める行為になる。

 

 けれどトウカイテイオーにとってはそんなもの関係ないのだろう。

 世の中の色んなしがらみを、知らないとばかりに天真爛漫な笑顔と共に突っ切っていく姿は、たまらなく"キラキラ"していて。

 

「――よう、昨日ぶりじゃねえか未来のレジェンド」

「未来のレジェンドかー。うーん、テイオー伝説の方が好きかなー」

「じゃあThe legendは?」

「なにそれめっちゃよさそう!!!」

 

 なんの違いがあった、と頭を押さえるエアグルーヴを置いて。

 

「カイチョー、今日の模擬レースしっかり見ててね! ボク、頑張っちゃうから!」

「そうか。……それは良かった」

 

 穏やかな笑みを浮かべるシンボリルドルフは、ちらりと横目で隣の神谷を一瞥する。

 どんな形であれ、こうしてトウカイテイオーがレースを心待ちにしているという状況そのものが彼女にとっては好ましかった。

 

「マーベラスも見に来てたんだ。そういえばネイチャも走るもんね。負けないよー?」

「マーベラス★ 頑張ってねテイオー!」

「うん。でもマーベラスだけなんだね。マヤノは?」

「マヤノはトレーナーさんとデートなんだって!」

「えー、もう、友達甲斐がないなー」

 

 唇を尖らせるトウカイテイオーに、マーベラスサンデーは少しためらったように俯く。

 逡巡すること少し、顔を上げて彼女は笑った。

 

「結果は分かってるから、って言ってたよ」

「そっか! ふふん、そうだろーね!」

 

 ころころと機嫌が変わる彼女の笑顔は微笑ましい。

 

 遠目に見ていたナイスネイチャの肩の力が抜ける。

 詳しく何を言っているかは聞き取れないが、それでもシンボリルドルフからエールを貰い、神谷とも親し気なことは見て取れた。

 

 ――まあ、そうだよね。

 

 変に気合を入れる自分がバ鹿らしく思えてきてしまうけれど。

 

 その想いには今だけ蓋をする。押しとどめて、拳を握る。

 やれるだけのことはやるんだと、見て貰えるだけチャンスじゃないかと。

 

 せめて。

 

 そう、チームにぎりぎり入れるくらいには――

 

 

「えーー!? チーム組まないのぉ!?」

 

 

 その声に、ナイスネイチャは凍り付いた。

 

 

「そっか。ま、いいや。じゃあチームのエースじゃなくて、専属だね!」

「はは、じゃあ走りを見させてもらおうか」

「ふっふー、見ててよ、れーめーへん!!」

「ああ、黎明編だな」

 

 

 その笑顔は、トウカイテイオーに、まっすぐ、向けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本年度第12回中等部所属ウマ娘模擬レース第10レース

 芝右回り2000m(中距離)11人

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぞくっ、とした寒気はしかし一瞬のことだった。

 それはきっと脅威とは感じられなかったということなのだろう。

 無敵のトウカイテイオー伝説にとっては、たとえ序章であろうとも些事でしかなかった。

 

 よく分からないが、かといって気にする必要もない。

 

 それよりしっかりみんなが見てくれているかを確認して、トウカイテイオーはゲートに入った。

 

 そしてその外、9番に入ったナイスネイチャは自らの背でゲートが閉まる音を聞いてはっと我に返った。

 

 

「っ……」

 

 それまで何を考えていたのかを、覚えていない。

 頭が真っ白になる、というのはきっとこういうことなのだろうと知った。

 

 きっと今まで考えることを避けていた。

 3着で良いと思い始めた頃から癖にはなっていたのかもしれない。

 思いもしなかった。

 

 今自分が何をしているのか。何をしようとしていたのか。

 

 隣の気配は、誰よりも大きい。

 

「アタシ、は」

 

 今、トウカイテイオーと同じものに手を伸ばしている。

 

 たった1つしかないものに。

 

 

 

『……がんばれ、ネイチャ』

 

 

 

 

 その言葉の意味を、今ようやく理解した気がして。

 

 

 ゲートが、開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「きれーなスタートだな。それ専用の訓練でも積んでるのかってくらいに」

「もちろんゲート練習はみんなしているとも」

「や、もうここまでくると集団行動だろ。担当つく前の中等部生なんざ、普通半分は出遅れるぜ」

「それは言い過ぎだろう?」

「さーな」

 

 後頭部で手を組み、見据える先は良バ場を駆け抜けていく11人。

 メモを構える様子がないのは、記憶力への自信からか。

 あるいは、今のところ誰も"これは"と記録するつもりがないからか。

 

「へー、気持ちいいくらいの大逃げだな、4番。スタートも良かったし」

「オイシイパルフェか。彼女は最近脚質を見直して逃げを試し、成績を上げていると聞く」

「……生徒会長すげえなおい」

「私ではなく、目に留めなければならない1人1人のウマ娘が素晴らしい……と、キミは分かっていそうなものだが」

「じゃあお前もすげえウマ娘の1人なんだよ」

「ふ、そうか。ならば今だけは私より、彼女らをしっかり見てあげてくれ」

「言われなくてもな」

 

 ハナに立った4番が1人悠々と逃げていく中、ぐんぐんと縦に伸びていく展開。

 

「先行集団と後方はっきり分かれたな」

 

 位置取りには少々粗が目立つが、そんなものはこれから先に努力するべきこと。

 最初は、先行だから前に行く、差しだから押さえる、それでいいと神谷は思う。

 

 無言で見据えるレース展開に、しかし外野は盛り上がりを見せていく。

 やはり動向が気になるのはトウカイテイオーだろう。

 これが本当のレースなら、まごうことなき一番人気だ。

 

「トウカイテイオーは外に付けたな」

「巻き込まれるのを嫌ったか?」

「いや、しっかり展開が見えているんだろう」

「まさか。感覚でこなしてるだけだろうさ。それができるから天才なんだ」

「しかしこのままではトゥインクルシリーズでは通用しないな」

 

 

 やいのやいのと、自らの考察を述べディスカッションを進めるトレーナーたち。

 本来ならあの輪に収まっているべきなのだろうかと疑問が鎌首をもたげるが、隣を見ればこの学園の"皇帝"が腕を組みレース展開を見定めている。

 

 ならこんな好位置をわざわざ外れる理由もないかと、神谷はレースに目を戻した。

 

 確かに現状トウカイテイオーの素質は図抜けている。

 位置取りのうまさというよりは、むしろその足捌きとでも表現しようか。

 巧みなステップが自分の体を勝手にいい位置に向けてくれている。ゆえにスタミナにも不安がない。ゆうゆうと自分のペースで走ることが出来ている。

 

 ――そう、自分のペースなのはトウカイテイオーだけだ。

 

「……4番の子、掛かっちゃってるな」

「ああ。ただもともとスタミナが売りだった少女だ。それで後半の伸びに期待が出来ないからこそ逃げを打つという方法をとった。テイオーのプレッシャーでペースを乱しているかもしれないが……」

「なるほど。それでも展開としては悪くないのか。いいな、頑張り屋さんだ」

 

 追込を狙うほど完全な後方に控えているウマ娘は居ない。

 全体的にトウカイテイオーを基準としたハイペースに巻き込まれ、逃げは想像以上に逃げを打ち、先行バは"トウカイテイオーは先行バである"という認識から無理やりついていき、後方の差しウマ娘はなんとか最終コーナーまで離されまいと必死に食らいついている。

 

 ただこのペースでは、最後に足が残っているかどうか怪しいところだ。

 

「トウカイテイオーはすげえな」

「ふむ。どうだろう、キミの担当にするつもりは?」

「そりゃ出来るなら伸ばしてやりてえが……」

 

 悩むように、ぼやくように神谷はトウカイテイオーの走りを見据えた。

 先行してバ群の中に居るのに、悠々と1人で走っているようなその姿が目に焼き付く。

 

「笑ってるな」

「ああ、いつも笑っている」

「……シンボリルドルフは、トゥインクルシリーズで笑ってたか?」

 

 マーベラスサンデーにも、エアグルーヴにもこの会話の真意はいまいち掴めなかった。

 けれどきっとこれこそが答えだったのだ。

 シンボリルドルフのこれまでの動き、そして神谷というトレーナーに期待したもの。

 

「いや、私は」

 

 目を細め、トウカイテイオーの走りに己の過去を重ねるように呟いた。

 

「笑う余裕なんてないくらい、楽しかったからな」

「……そうか。そうだな。お前のダービー最高だった」

「ありがとう」

 

 シンボリルドルフは、自らの日本ダービーを思い出す。

 おそらくは人生で最も、「勝ちきった」という感情が自らの身を焼いたレースであることは間違いない。

 そして、それに不可欠だった要素があるとすれば。

 

 ――スズパレード。ビゼンニシキ。

 

 二人のウマ娘の顔を思い出し、シンボリルドルフは首を振った。

 

「走ることが楽しい――それは間違いない」

 

 けれど。無敵のテイオー伝説を築くなら、もうそろそろ。

 

 "本気"になる取っ掛かりが必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る、走る、走る。

 

 耳に響く蹄鉄の音がやかましい。

 

 11人という決して多い人数ではないこのレースで、その音を煩わしく思ったのは何故だろう。

 このうるさい胸の鼓動をも無視出来ていないからだろうか。

 

 歯を食いしばり駆ける足が、明確に"掛かって"いることに気づけないほど、ナイスネイチャはバ鹿ではない。

 

 ただ、どうしようもない焦りが自らの心を掻きむしっているのは確かだった。

 明らかなオーバーペース。

 

「でもそれはっ……!!」

 

 周りを見据え、そして何より前を睨む。

 

「あんたたちだって同じでしょッ……!!!」

 

 吐き捨てるように呟くのも致し方のないことだ。このふざけたハイペースは自分だけではない。皆がそうだからそうなるのだ。

 

 まるで、たった1人の逃げウマ娘に全てを支配されているような感覚。

 

 だが原因は違う。はっきり分かっている。

 

 見られるものなら見てみたい。

 今彼女が、どんな顔をしているのか――。

 

 前を行く"8"のゼッケンを見据えて思う。

 あるいはこれは徹底マークにも近い動きなのかもしれない。

 どのウマ娘もみなトウカイテイオーを意識し、彼女の一挙手一投足に気を遣って駆けている。

 

 思わず口角が歪んだ。

 それはきっと、ウマ娘に限った話ではないのだと。

 

 みんながみんな、トウカイテイオーを見ている。

 彼女の走りを見ている。

 

 分かっていたはずなのに。知ってる知ってる、そう自らに言い聞かせてきたはずなのに。

 

 諦めていたはずなのに。彼女には勝てなくても、と思っていたはずなのに。

 

 

 なのに。

 

 

 なのにどうして、こんなに視界が潤むのか。

 

 

 こんなに胸が苦しいのか。

 

 

 

 

「よーし」

 

 

 

 

「そろそろ」

 

 

 

「無敵のテイオー様の実力」

 

 

 

 

「見せちゃおっかなー!」

 

 

 

 

 まって、と声にならない声を漏らした。

 

 

 今何mだと思ってるんだ。

 

 どれだけみんなもがいて走っていると思ってるんだ。

 

 

 たった今踏み越えた視界の端に映る数字(ハロン棒)は8。

 

 

 

 残り、800m。

 

 

 

 なのにどうして、

 

 

 どうしてお前は、

 

 

 

 

「そんなっ――」

 

 

 前掛かりの姿勢になっている――?

 

 

 

 

 

 

 

「うっそだろあいつ!?!?」

「最終コーナー前からスパート。相当足を溜められたな」

「いやすげえわ、これは無敵のテイオー様だぜ」

「スカウトは決めたか?」

「確かに、まあ最終レースだしな。そろそろ――」

 

 

 

 

 

 惜しみない賞賛は決して耳には届かない。

 届かないけれど。

 

 届かないからこそ、潤んだ視界は諦めという晴天を簡単にくれはしないのだ。

 

 

「う、ぁ――」

 

 脚が、動く。

 

 

 脚だけは、動く。

 

 

 いやだ。その一言が頭を真っ白に染め上げる。

 

 

 気づけば、その姿勢はテイオーと同じ。

 

 

 

「待って――」

 

 

 

 歯を食いしばる。

 

 

 

「待ってよ――」

 

 

 

 踏みしめる脚は、その加速だけは、いつもよりずっとずっと力強く。

 

 

 

 むーりー!! と叫ぶバ群を切り裂く超加速。

 

 

 見えない、何も。

 ぼやけた視界には前を進むウマ娘の番号も分からない。

 追い越すウマ娘の顔も分からない。

 

 ただ、コースを形作る内ラチだけを頼りに、必死に脚を回し続ける。

 

 その先、ちっぽけに見える――たった今逃げのウマ娘を追い抜いた、あの背中。

 

 

 

「置いてかないでよ――」

 

 

 

 ああ、そうだ。

 

 置いていかないで欲しい。

 

 3着で良いって、言い訳していたくらいに嫌だったんだ。

 

 現実を突きつけられるその光景が。

 

 キラキラは、自分の前には無いんだって。

 

 誰かに見せつけられるのが――嫌だったんだ。

 

 

 

「トウ、カイッ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

『トレーナー……さん』

『おう』

 

 

 

 

 

 

 

 

「――テイオーーーッ!!」

 

 

 

 

 

 それだけは。そのキラキラだけは、アタシだけの――

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あいつだ」

「ん?」

 

 思わず呟いた神谷の声に、トウカイテイオーが盛り上げに盛り上げた喧噪の中でも1つだけ反応があった。

 

 穏やかな雰囲気を崩すことのない、余裕と期待。

 その表情が、レースを前にしたウマ娘には相応しくないほどの母性を感じさせるものであることにすら、神谷は気づくことがなく。

 

 視線は駆ける最終直線に固定されたまま、本能で理解した『一緒に凄ぇことが出来るウマ娘』の番号を見ようと目を凝らして――

 

 

 それより先に彼女の瞳を見て思い出した。

 

 それが、どのウマ娘だったかを。

 

 

「そっか……あいつか」

「嬉しそうだな」

「そうか? そりゃな。でも」

 

 振り返り、神谷も笑みを隠さずに片眉を上げた。

 

「お前も笑ってるぜ?」

「私が?」

 

 驚いたように、シンボリルドルフは頬に手を当てて。

 

「ふむ……そうか」

 

 納得と共に。

 

「そうだろうな」

 

 楽しそうに、頷いた。

 

 

 

 

 

 直後競技場は、この日一番の大歓声に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

「はあ……はあ……ぐっ……うぅ……」

 

 肩で息をして、徐々に引き戻される現実。

 歓声はそれこそ、重賞レースなどには遠く及ばない代物ではあるけれど。

 

 それでも嫌でも耳に入るのは――

 

 

「テイオー!! 凄いぞテイオー!!」

「あんな凄い走り模擬レースで見られるなんて!!」

「見に来て良かったよー!!」

 

 沸き起こるテイオーコールだった。

 

 そして。

 

 ――3着。

 

 それが彼女の現実だった。

 

 トウカイテイオーどころか、大逃げを打っていたウマ娘にすら追いつけず、彼女の模擬レースは幕を閉じた。

 

 

「いえーい!! 見たかー! これがテイオー様の実力だー!!!」

 

 わあああああ!!

 と、押しかけていた多くが盛り上がる競技場。

 その彼女の背に、脚が耐えきれず倒れ伏すウマ娘たちが何人もいることなど――きっと誰も気にはしない。

 

 それが悪いとは言わない。

 もともとそういう世界だと分かってこの場所に足を踏み入れた。

 複数で1を競うのだ。涙を呑む者の方が多いに決まってる。

 

 ただ、それでも。

 

 その多数の側に置かれるのが悔しくて辛くて、それから逃げるように心を守る手段が、斜に構えてヒネたそのメンタリティだったから。

 

 

 

「そ……」

 

 

 震える唇を整えるように、一度仕切り直して。

 

 

「……そううまくはいかないかー。あははー」

 

 

 

 最初から分かっていたことではないか。

 

「まぁ? アタシにしては頑張った方じゃあないですかね? 自主トレくらい年頃のウマ娘としては当然のことと重々承知ではありますけども、それでも……」

 

 それでも、頑張った。

 あの日、一縷の希望が見えたと思った。

 

 たった20㎝。今日走ったのがその何千何万倍の距離だったとしても、あのほんの一歩の距離が希望だった。

 

 1人で、その希望を擦るように頑張って。

 

「それでも、さぁ……」

 

 ああそうだ。

 

 無我夢中できっと、抑え込んでいた心はもう。

 

 考えないようにしていた感情は、見るも無残にむき出しにされて。

 

 はっきりと意識してしまったらダメだった。

 

 

 その20㎝と、たった少しの夜のトレーニングだけが。

 

 

「頑張ったと……思う、んです……よ……」

 

 

 最後に自分に残された、"キラキラ"だった。

 

 

 潤んだ視界が、そのままだったら良かったのに。

 

 

 

 

 彼女が見たのは、勝利の余韻そのままに"トレーナーさん"にじゃれつく主人公だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪い、テイオー様」

「ん? どしたの??」

「黎明編の終わりは最高だった。俺も諸手を上げて喝采したいとこなんだが」

「え、う、うん」

 

 ぽんと頭に手をのせて、神谷は笑う。

 

「――その続き、激闘編の準備をしにいかなきゃならん」

「げ、激闘編!?」

 

 だ、と走り出す速度は、ウマ娘に比べたらずっとずっと遅い。

 

 ただその方向に走り去る遠い小さな人影に、トウカイテイオーは気づいた。

 

 そしてなんとなく察した。彼が何をしようとしているのか。ほんの少し残念ではあるけれど。

 

「お、追いつけるわけないよ! 誰か呼んでもらった方が」

「はっはー、追いつけるから追いかけるわけじゃねえんだよ! ……いつか分かるさ」

「なんだよそれカッコつけー!!」

 

 

 しかし決して、その遅々とした走りはただの無謀ではなかった。

 

 

 

 突如競技場に突っ込んでくる明石焼きの人力車屋台。

 

 葦毛のイケメンが、親指で屋台を指して言い放つ。

 

「助ける約束だからな。――乗ってけ」

 

 

 

 

 

「さんきゅーゴルシ愛してる!!」

「おうよ、愛の分だけぶん回してやらぁ!!!」

「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」

「はいじゃあここでドキドキじゃんけん! 何回愛してるって言ったでしょーか!!」

「億万回分だぜ♡」

「かー、そういうの求めてないんでー」

「じゃあもう撤回っ!! そんなこと言うなんて!!」

「嘘だよハニー愛してるぜー!!」

 

 

 

 びゅーーーーん。

 

 瞬く間に小さくなっていく明石焼き屋台に、取り残された多くの面々。

 

 不安そうにその先を見つめるマーベラスサンデーと、

 

 

「何回? 撤回……ふ、ふふふはははは!!」

 

 

 

 今日は良い空気しか吸ってない皇帝が盛大に笑い転げていた。

 

 それは案外と何も考えていないように見せて、何も心配などしていないからかもしれない。

 




 第0戦 模擬レース
 トウカイテイオー 1着
 ナイスネイチャ  3着

 トゥインクルシリーズ通算成績 0ー0


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ネイチャさんとトレーナーさん

 模擬レース開催が、授業終わりの放課後であったことは、ある種の幸いだっただろうか。

 

 荷物はまるまる、置いてきてしまった。約束していたわけではないけれど、みんなにまた明日を言い忘れた。しまいには、体操着どころかゼッケンも付けっぱなしだ。

 

 でも、それが殊更目立つことはないだろう。

 

 みんなの目は主人公に向いていて。自分たちには誰も見向きをしていなくて。

 ちょっと個人的な面倒が残っただけで、学園には何の迷惑もかけていない。

 

 だから、行く当てもなく飛び出したこの脚を咎めるのは、自分だけだ。

 

 荒い呼吸を整えるように、勝手に走り出した足をなだめるように、なんとか一歩また一歩と歩幅を緩め、速度を緩め、視界の端に流れる景色がようやく止まる。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 肩で、息をする。

 走っている間は頭が真っ白で、それこそ何も考えなかったせいで、この静かな場所がどこなのかも分からないけれど。

 

 呼吸が穏やかになる度に、脚の感覚が戻ってくる度に、情けなさがこみ上げる。

 

「はぁ、もうっ……」

 

 情けないし、悔しいし――悲しいし。

 何より。1人の、あの学園の生徒として。

 

 よろけそうになる上半身を衝立のように支えていた、膝を抑える両手が震える。

 

 

「おっそいなぁ……!! この、脚っ……!!」

 

 

 どん、と殴りつける自らの太腿。離してしまった右手、殴りつけられた右足、ただそれだけで崩れそうになる身体が嫌になる。

 

「ふ……ぅ……うっ……」

 

 ぽたり、とその拳に零れたひと雫。

 

 泣くな。止まれ。理性が叫ぶ。

 そんなもの、モブがやっても惨めなだけだ。

 

 悔しがれるだけの努力をしたか?

 負けないと思えるほどの理由があったか?

 誰もが認める惜敗だったか?

 

 この涙を糧に立ち上がれる――主人公か?

 

 

「う、うぁ……うああ……!」

 

 砕けた感情、罅から溢れる抑え込んでいた自己否定。

 

 分かっている。どれでもない。

 分かり切っている。だから誰も言わないで。言われるまでもなく、身の程は弁えているから。

 

 そう――みんなにも分かるように、伝えてきたではないか。

 

 

 なのに、これはなんだ?

 

 

 みっともなく泣き腫らして。届かないものに手を伸ばして。バカみたいに自分に言い訳して。無理だと分かっている勝負に、恥も外聞もなく――ましてや何ら下バ評を覆す秘策もなく飛び出して。

 

 

 何より、分かっていたのだ。

 

 

 その、届かないもの。欲しいもの。手を伸ばした一等星は、決して自分だけのものなどではないと。

 

 

 

『ねーねーネイチャ! トレーナー体験講座だって! きっとマーベラスな出会いが待ってるよ!』

『……あー、アタシは、いいかな』

『えーなんでなんでー? マヤもトレーナーちゃんに別れ話ごっこして一緒についてってあげるよ?』

『や、それはトレーナーさんを大事にしてあげてくださいほんと……』

『ネイチャ』

『え、な、なに?』

『へたれー』

『はい!?』

 

 

 

 

 ある日の夕暮れ時。なんだか企み顔で迫ってきたちんまい2人組からの誘いを断ったのは――見たくなかったからだ。

 

 そうでないと良いと思っていた現実が、壁を隔てた目の前にあると知って。

 トレーナー体験講座として、誰かが行っているだろうトレーニングを見るのが嫌だった。

 

 現実を見たくなかった。

 

 

『――かー、そんな簡単に出来ちゃったらトレーナーなんていりません!! 俺帰っていいか!?』

『えー、いやいやオレってば昨日まで全然できなかったんだってばー!』

 

 

 聞きたくなかった。

 

 

 

 結局全部、自分のエゴ。

 心の奥底ではきっとアレは最初から"自分だけのキラキラ"で、そうじゃないと分かっていながら、教えてくれる現実から目を背けた。

 

 知ってしまえば自分は絶対に1番にはなれないと、分かっていたから。

 

 

 なのに。

 

 

「なのに……!!」 

 

 

 舞い上がっていたのだろうか。

 もしかしたら、なんて。チームにさえ入れれば、なんて甘い考えで居たから、こんなにも手酷いしっぺ返しを食らうことになったのだろうか。

 

 ああ、やっぱり。

 

 

「アタシ如きが」

 

 

 身の程知らずな願いを口にするなんて。

 

 心も。見栄えも。 

 

「痛い……だけじゃん」

 

 

 こんなことなら最初から出会わなければ、夢なんて見ずに済んだのに。

 

 もしかしたらまだ、自分にもほんの少しの"キラキラ"が残されているかもだなんて。

 

 身の程知らずに浮かれることなく済んだのに。

 

「ほんと……」

 

 バ鹿みたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――バカ言えもう大丈夫だ、俺はここには詳しいんだ。ここへの来方と帰り方を知らねえだけでな。――なに、渡し賃は六文? この牛乳瓶の蓋でいいか? ……じゃあ新品の靴下留めてる奴も2つおまけしてやる。OK交渉成立だ、沖野サンも泣いて喜ぶさ」

 

 

 

 

 

 ざ、と芝を踏む足音。

 

 

 

 暗がりで見えない。

 星明かりは今日に限って雲間に消えて、第10レースは思ったよりも夕暮れで。

 

 そういえばもう、この時間はいつもなら――自主トレに歯を食いしばっている時間だった。

 

 はっとして、慌てて目を擦る。

 どうせ迷子だ。それにしたって、こんな時に道案内だなんて神様もずいぶん意地悪なものだと思う。

 

 

 ――思えば、最後に競技場で目が合ってしまったような気がするが。

 

 それこそ気のせいだろう。トウカイテイオーの相手をしている時に、自分なんかに気持ちを割く理由がない。思わず逃げ出してしまったのは、そう。たとえるなら、ただの一方的な失恋だ。

 

 だからせめて、もうこれ以上みっともない姿だけは見せたくない。

 そのくらいの誤魔化しの矜持くらい、ただのモブにも残されていていいはずだ。

 

 

「よく……会いますね?」

 

 だから、言えた。なんとか震えを押し殺した、色の無い声。

 

「そうだな。今日の俺は偉い。迷わずに目的地まで来られたんだからな」

「……目的地?」

 

 直前まで誰にどう案内してもらっていたかを一切語ることなく、自信に溢れた笑みで神谷は頷いた。

 

 その口ぶりに辺りを見渡して、ナイスネイチャはようやく気付いた。

 

 自分が無我夢中で走ってきてしまった場所が、どこであるかも。

 

 あまりの恥ずかしさと未練がましさに顔から火が出そうになるのをぐっと堪えて、相手ももうはっきりと顔色が見えるほど周りは明るくないからと自分に言い聞かせる。

 

「――あー、ひょっとしてテイオーの自主トレ、ですかね? 確かに、出会った日からトレーニングってストイックさはアタシも見習わなきゃなりませんなー。そいじゃアタシはこれで……」

「お前が毎日一生懸命練習してたって知ってる場所を別の奴とのトレーニングで乗っ取りにくる俺最低すぎね?」

「それはおっしゃる通り! 最低な人ですね!」

「俺が最低な人みたいになったな??」

「あ、あははっ……」

 

 もう自分で何を言っているのかも分からなかった。

 ただ改めて周囲を見渡して気づいた。

 

 人の気配は、目の前の彼以外には無い。

 自分と彼だけの、いつもの公園。

 

 それを昨日まではどんなに心待ちにしていたかを考える度、自己嫌悪で苦しくなる。

 あまりに愚かで惨めで身の程知らずだ。

 片や、あのトウカイテイオーが求めシンボリルドルフが認めるフランス帰りのトレーナー。

 一方で自分は、並べるのもおこがましい舞台袖の住人。

 

 どうせ、目的地についたというのも、迷子をごまかすための嘘だろうとナイスネイチャは結論を出した。

 

「あの」

 

 でも居た堪れなくなって、顔を見ているのも嫌で。

 決して彼が悪いわけではないけれど、それでも今だけは1人にしてほしくて、彼女は言う。

 

「アタシ、自主トレしたいんですけど」

 

 表情から色が抜け落ちた、彼女にしては初めて壁を感じさせる台詞。

 けれど一方の神谷はと言えば、ただただ目を瞠って。

 

「ストイックすぎねえ!? あのレースの直後でもう練習しようってのかお前!?」

「え、ああまあ、はい。それくらいしか、やることないですし」

 

 肩を落とし、自嘲の笑みを浮かべる彼女。

 実際に練習をするつもりもなく、そんな用具を持っているはずもない。

 それでも、彼を遠ざける言い訳を考えるうちについ口を出たのが"練習"というのが彼女の精神性を物語っているが、ナイスネイチャ自身がそれに気付く理由もなかった。

 

 一瞬、神谷の表情が緩んだ。それをナイスネイチャが察するよりも先に、彼は珍しくウマ娘の言葉に首を振った。

 

「その向上心は見上げたもんだし、あのレースの悔しさをバネにってのは正直めちゃくちゃかっけえとは思うが」

 

 殊更真剣な表情を作って、神谷は言う。

 

「それでも今日は止めといた方がいい。だいぶ脚に無理させてんだ。良いことねえぞ」

「っ……」

 

 唇を噛んだ少女の、一瞬吹き荒れた感情を。

 神谷は諦めたように眉を下げながら、それでも引くことはない。

 

「言ってましたよね、自分で」

「ん?」

 

 分かってはいても。

 悔しさと、悲しさと。辛い感情で埋め尽くされた年頃の少女の想いを受け止めるのは、トレーナーという生き物にとって最も難しく、心が痛む仕事である。

 

「――トレーナーじゃあ、ないって」

「ああ。だから練習メニューにゃ口出さねえ。確かに言った」

「なら、さあ……!」

 

 キッ、と睨み据える瞳の奥。

 そのすべてを理解することは出来ないが、それでも神谷はトレーナーだ。

 今日のレースの結果は、あの"主人公"と彼女の話だけに絞れば"大差"。

 話にならない。勝負の土俵にも立てていなかった。

 それを、必死に、負けたくないと感情をむき出しにして無茶苦茶に脚を振るって届こうとした彼女の想いを、何も理解できないほどバ鹿ではない。

 

 これまでの彼女のことはよく知らない。

 でも、ターフを駆けたあの時の彼女は、確かにレースの先に、誰にも譲りたくない何かを求めていた。

 

 そしてそれが、叶わなかった。

 

 努力の果てに突き付けられた現実にさえ、斜に構えて笑っていられるような年頃のウマ娘を、神谷は知らない。今後も知ることはない。

 

 

「トレーナーじゃないんだから、口出さないでよ……!」

「……」

 

 それがきっと、決壊の合図だった。

 

「頑張ったって届かなかったんだよ!! 仕方ないじゃん!! アタシだって分かってるよ!! 今までずっと何やってたんだって――でも!! でもさぁ!!」

 

 荒げた声。張り裂けそうな胸の内。

 潤む視界が、相手の表情を窺う余裕さえ拒む。

 

「欲しかったものが、あったんだよ……! 頑張ればいけるかもしれないって、ようやく……ようやくやるぞって気持ちになれてさ……それすら手遅れで……あんなにも遠いって思い知らされたら、さあ……」

 

 もう、と立ち尽くして。

 涙を隠すことも出来ず。

 

「……もう、何もかも遅くたって。もう二度とこんなことがないようにさ……この先にあるかもしれない"何か"のために、それが何かすらわかんなくても、頑張らなきゃ……また手遅れになるだけじゃん……」

「……お前さ」

 

 あまりにも救われない、その涙の真意を全て慮ることは出来なくても。

 頭を掻いて、神谷は言う。

 間違いがないのは、今の彼女が見ていられないということだけ。

 

「それ、結局また"迷子"じゃね」

「っ……」

「あんなに俺に親身になってくれたんだ。それを誰より嫌がってるってことくれえ分かるよ」

 

 一歩、踏み進める。

 

 芝を踏む優しい音に、叫ぶ。

 

「来ないで!!」

 

 予想以上の拒絶に思わず顔を上げる神谷に、一瞬申し訳なさそうな顔を見せる彼女の生来の優しさが垣間見えて。

 それでも明確な拒絶の理由に、神谷は必死に心当たりを探る。

 

「もう……来ないでください。お願いだから」

「……」

「身の程知らずが舞い上がって勘違いしちゃうから。ほんとに」

「――勘違い?」

 

 考えろ、考えろと神谷は頭を回す。

 普段よりもはるかに神谷に余裕がないのは、ただ目の前の様子のおかしいウマ娘を想えばこそ。

 そしてウマ娘は感情に敏感だ。

 だからこそトレーナーはウマ娘に負の感情を見せないように振る舞うし、彼女たちのメンタルケアの為なら己を捨てる。

 

 ただ、その聞き心地の良い台詞がこうして、不安を生むこともあって。

 

「ここで、練習見て貰えたの、楽しかったです。アタシでも少しは出来るのかなって思えた。……だからもう、十分です」

「……ひょっとして、俺が嘘ついてたと思ってる?」

「冷静に考えたら、アタシがなんかの記録を越えられるはずないじゃないですか。あの時は乗せられちゃって、おかげで自己ベストは更新できましたけど……でも」

 

 それでも、自分なんかを引き上げられる、それだけ優秀なトレーナーなら。

 

「思い出にして、頑張っていくので。夢を見せて貰えてうれしかったですから」

 

 いっそ美しいまでの儚い笑顔は、本人が指摘されたら真っ赤になって否定するかもしれないが。

 

 その表情があまりにも星明かりの下に綺麗で、一瞬呆けた神谷は息を吐く。

 

 そして頭を掻いて、しばし考えて。

 

「……あのさ」

「はい」

「俺がここに来た理由って分かってる感じ?」

 

 たぶん迷子だろうと、ナイスネイチャは頷いた。

 

「まじか……」

 

 空を仰いで。呻くように。やけに辛そうに、神谷は言った。

 

 

 

「すまんゴルシ。すまんシンボリルドルフ。すまんマーベラスサンデー」

 

 なんでその3人の名前が出てくる? と首を傾げる彼女を前に、彼は。

 

 意味不明な台詞を吐いた。

 

 

「俺、フラれちまった……」

 

 

 

「……え?」

「え?」

 

  

 

 星明かりの下、静かな沈黙が場を支配して。

 

「あーどーっすっかな……流石にもう誰も残ってねえよな……みんな今日良いレースしてたもんな……クビかなあ……」

「ちょ、ちょちょちょちょっと待って!?」

「ん……? ああそうか、最後にお前がちゃんと自主トレせずに帰るか見張るって仕事があるか……」

「いやそんなこの世の終わりみたいな顔されてもですね!?」

 

 フ、フラれ? とうわごとのように繰り返しながら、顔真っ赤なネイチャさんは言葉の真意を探るべく目の前のトレーナーを問いただす。

 

 何か、ここでちゃんと話を付けておかないと人生に関わると、そんな予感でもあっただろうか。

 

「まだワンチャンあるかもしれねえが、どーだろな。実は今回の模擬レースって、俺の為に理事長がごり押したみたいなとこあってな」

「は、はあ……」

 

 住む世界が違う、"期待"の中に生きる者たちの発言に閉口するナイスネイチャ。

 

「結構他のトレーナーから睨まれてることもあって、俺は今回のレースが事実上のタイムリミットだったんだわ。担当を見つけるっていうミッションのな」

「え、なんで」

「俺が実績出さねえと、俺を呼び込んでくれた先輩にも泥塗ることになっちまう。けど流石に俺もチーム組めると思うほど驕っちゃいない。だから才能あふれる中央トレセン学園でも最高の素質を見つけようと、今日この日まで引っ張ったんだ」

「なる、ほど……?」

 

 そこまで言って、神谷はナイスネイチャを正面から見据え、告げた。

 

「で、今フラれたとこ。もういいか? フラれた女に告白の解説すんの、結構辛い」

「ちょっと待ったーーーー!!」

 

 言い方ぁ、と熱い頬を扇いで必死に思考を冷静に持っていきながら、ナイスネイチャは彼の言葉の意味を必死に探った。

 そして、あり得ないと断定したい1つの可能性に行き当たる。

 

 それを、自分の口から言うのは本当の本当に勇気がいるものだ。

 今日そうやって頑張って勇気を振り絞った結果としてここに惨めな自分が居るのだから猶更だ。

 

「ち、チーム組まないってことは、専属ってことでしょ……?」

「ああ」

「それで、その」

 

 間違っていたらどうしよう。困惑の表情などされてみろ、今度こそ立ち直れなくなる。

 

「専属で1人しかできないのを、今日まで誰にしようか考えて……で、え? て、テイオーじゃなくて……」

「ああ」

 

 それはずいぶんとさらっとした、日常の延長のような流れで放たれた言葉だった。

 

「テイオー様じゃなくてお前が良い。いや、良かった、か。じゃあな」

「いちいち消えようとすんな!!!! じゃなくて……!」

「じゃなくて?」

 

 眉根を寄せる神谷に、胸いっぱいの感情をなんとか抑えて。

 今にも泣きだしそうな嗚咽と堪えて、彼女は言う。

 

「待って、お願い……!」

 

 服の裾をつまんで、涙ながらに見上げられては立ち止まらない選択肢はない。

 頬を掻いた神谷は呻く。

 

「……なんかフラれたのこっちなのに、俺が捨ててるクソ野郎みたいな空気になってない?」

「フッてない!!!!!!!!」

「えっ?」

 

 フッてなど、いない。

 

 ただ、そう。意味が分からないだけで。 

 

「聞き間違えじゃなければ……」

「ああ」

「ほんとのほんとに、アタシが舞い上がってるだけじゃなければ」

「ああ」

「ほんと、頭おかしくなってニュースで捕まる人みたいに認識捻じ曲げてなければ」

「どんだけ予防線張るんだお前」

「張りますよ!! ……そりゃ張りたくも、なるよ」

 

 ちょん、とつまんだ裾はそのままに。

 目を合わせたくないのか、うつむいたまま。

 

「……アタシを、スカウトしようとしてたっていう風に、聞こえて」

「そう言った」

 

 と告げてから、神谷は1つ息を吐く。

 

「そうだな。確かにはっきり言ってなかったから、混乱させたとしたら俺のせいだわ」

 

 そんなことない、と言いたいのに、ナイスネイチャの喉は引きつったまま。

 反して神谷は、努めて明るく笑顔を見せる。

 

「この公園に走ってきたお前を追いかけて、他の誰も見向きもせずに、トレセン学園に居る全部のウマ娘のスカウトチャンスを棒に振って、俺はお前をスカウトしに来た」

 

 俯いているのなら、しゃがみ込もう。

 目を逸らすなら回り込もう。

 どんな誤解も与えないように、正面から叩きつけよう。

 

「ナイスネイチャ、俺と一緒に2人ですげえことをしよう。――俺は、そうしたい」

「……っ」

 

 震える口元。

 悪い夢なのか、良い夢なのか分からない。

 ただ少なくとも目の前で起きている都合の良すぎる出来事が現実だと、素直に受け入れられるような人生を、彼女は歩んできていない。

 

「で、俺はやっぱりフラれるのか?」

「……なん、で」

 

 ごめんなさい、と心のうちに罪悪感が募る。

 なんて面倒なことをさせているのかと、モブのくせにまるでヒロインでも気取っているのかと、そんな申し訳なさが胸の内を埋め尽くす。

 

 でも、それでも聞かずにいられなかった。

 意味が、理由が、分からなかった。

 

「アタシ今日……3着、ですよ? それも、あの大差で。もう全然元気でみんなにわーわー言われてるテイオーの後ろで、息絶え絶えでくたばってたモブですよ?」

「……」

 

 顔を見たくなかった。

 

 ああそうなんだ、じゃあやっぱりいいや

 

 だなんて思われていたら。落胆を如実に顔に浮かべていたら。

 それこそ、ここから逃げ出してしまいそうで。

 

「見てたでしょ? テイオー伝説とか言って……仲も、良さそうだったじゃないですか。テイオーってほんと、トレーナーは自分で選ぶっていうくらい人気で、自分から話しかけにいくなんてそうそうなくてですね」

「……」

 

 ドロリとまろび出てしまった感情はもう、歯止めが利かない。

 

 自分とトウカイテイオーを比べたら、誰だって。

 否、比べられる土俵にすら立てていないって、分かっていて。

 

 でも、分かってはいるけど、言われたくはなくて。

 先に言ってしまえば言われないからって――そうやっていつも、自分を守っていた。

 

 でも。

 

「ああそうだな。専属にならねーかって誘われた」

「っ……」

「でもお前が良いから断った。ま、テイオー様には俺より最高の相棒が居るさ」

「~~~~っ」

 

 嬉しくて。でもそんな言葉に喜んで、舞い上がる自分が許せなくて、何も言えずに唇を噛む彼女に神谷は続ける。

 ただただ、正面から。

 

「んでもって、俺にはお前しかいないと思った」

「どう、して」

 

 自主トレをしていた時は、そんな素振りは欠片もなかった。

 向こうから誘ってくることもなかった。凄いとは言ってくれたけれど、それはきっとこの中央トレセン学園のどのウマ娘にも言っていることでしかなくて。 

 

 

「アタシはっ……アタシは。結局善戦が良いとこって言われてて。もうほんと、笑えるくらいお馴染み3着って感じで、ずっとずっと3着止まりで」

「へえ」

「1着なんか……自分で言うのもなんですけど、入学して1度だって取れてなくて。どこのチームも、どこのトレーナーも拾ってくれなかったのに……今更、アタシが良いって言われたって……」

「……」

 

 きゅ、と神谷の袖を掴む手の強さが増した。

 

「わかんないよ……」

 

 そのか細く、迷子のような声色に。

 

 神谷が1つ息を吐き、空を見上げた。

 重かった雲間が晴れて、ちらほらと星が顔を出す。

 

「ずっと3着ねぇ。周りのレベルが上がって、みんな必死さ増して、成長していく中でずっと3着か」

「なんとでも言える慰めじゃないですかっ……いくら何でもそんなの、1着2着だって、いつも居たのに……」

「でもお前、諦めなかったんだろ?」

「はい……?」

 

 何を、と思えばまっすぐな瞳。

 

「お馴染み3着、善戦入着で構わねえって本気で思ってるなら――なんで最終直線あんな走ったよ」

 

 今日のこと。彼女にとって思い出すことも苦痛な、あのレースを持ち出して。

 分かり切ったような顔で、神谷は笑う。

 

「後ろとのバ身差は8。気づいてたか?」

「8っ……!?」

「……なかったよな。テイオー様しか見てねえもん。入着で良いならもう手ぇ抜いてていい状況で、ぶっ壊れかねない脚の回し方したのは全部――お前の言う"あの大差"を、最後まで追っかけてたからだ。なあナイスネイチャ」

 

 言わないで、とも思った。

 でも、今だけは言われたいとも思った。

 

 ようやく顔を上げたナイスネイチャに、神谷は。

 

「お馴染み3着って、一番言われたくねえのはお前自身だろ」

「……そ、れは。でも」

「トレーナーだからな、流石にあの状況から物理的に逆転出来ねえことくらいは見て分かった。ほんとにお馴染み3着で良いなら、適当に流して終わればいい。おめでとう入着だ。……でもお前は、走った」

 

 思わず「あいつだ」と声を漏らしたのは、その走りを見た時だ。

 

「嫌だって言ってた。このまま終わりたくねえって言ってた。その叫びの大きさだけは、間違いなくこの中央トレセン学園で俺が聞いた中で1番だった……んでそれが」

 

 俺は、と胸を張る神谷。

 

「俺が1番育てたくて、1番育てられる素質だ」

「アタシ、は……」

「善戦じゃ嫌なんだろ。3着じゃ嫌なんだろ。名脇役じゃ終われねえんだろ。本当はお前が誰よりも主人公でありたいんだろ」

「っ……」

「そのギラギラした感情で、きっとすげえことが出来る。だから、俺と来い」

 

 その理由が、どうであれ。

 まっすぐに自分を見つめる瞳に嘘はないと、分かった。

 分かってしまった。

 

 ここまで恥じも照れもなく正面から想いをぶつけられてしまったら、いくら彼女でも逃げ場はなかった。

 

 重く長い息を吐いて。

 そっと、裾を掴んでいた手を離した。そのまま、目元をそっと拭って、なんとか作ったいびつな笑い顔と一緒に言う。

 

「ぎ……」

「ぎ?」

「ギラギラは……ちょっと違うかな……」

「へえ、じゃあなんて言う?」

「……笑わない?」

「ああ」

 

 もう、ここまで来たら目の前の"トレーナー"を信じる他なかった。

 照れくさくて、似合わなくて、誰にも見られたくないけれど。

 

「……キラキラ、かな」

「へぇ。……それは、どんなものだ?」

「色んな子が持ってるよ。たとえば……テイオー、かな」

「なるほどな」

 

 トウカイテイオーになりたい――なんてはずがない。

 それはきっと彼女の原初の望み。欲しくてたまらなくて、それでも届かないと突き付けられた最初の記憶。

 

 今はナイスネイチャに告げる必要はない。

 神谷は自らの心の中に、キラキラの正体――その答えをしまい込む。

 

 そして。

 

「俺がお前を、そこまで導いてやる」

「本当に?」

「俺は嘘は吐かねえ。お前に関わることは、絶対に。だから、そうだな。そんなに3って数字に縁があるなら、良いじゃねえか」

 

 何を言うのかと首を傾げるナイスネイチャに、神谷はキラキラの為の最初の一手を示す。

 

「まずは俺と一緒に取りに行こうぜ。3冠」

 

 目を瞠る彼女。

 これまで燻っていた底辺から、最も遠いところにある至宝。

 普段ならきっと、遠い遠い夢の話としか思えない、見て見ぬふりをしていた――確かなキラキラだ。

 

 それを、否定する気になれないのはどうしてだろう。

 この夢心地の中に居るからか。

 

「アタシにも……出来る、かなぁ……?」

「出来るさ。お前は、模擬レースで1着を取るのをめちゃめちゃ重要視してたみてえだが……それは、トレーナーには関係ねえ」

「えっ?」

 

 そんなことは、本来無い。同じトレーナーたる東条ハナなどは、きっと彼の言葉を否定する。沖野は「お前はそう言うよな」と苦笑いをするかもしれない。

 

 それぞれにそれぞれの得意なことがある。それだけの話。

 

「どれだけ頑張れるかが、お前の仕事だ」

 

 だからきっと、彼女にとってのトレーナーだ。

 

「1着を取らせるのは、俺の仕事だ。やろうぜ、ナイスネイチャ」

 

 神谷も、この言葉がどれだけの重さを持つかは分かっていないだろう。

 

 1着を取れなくても。これまで頑張っていたことが最も大きな要因で。

 かといって決して未来でも1着を求められないということではなく。

 

 これまでがあったから、これから必ず羽ばたける。

 

 

 それはつまり――これまでの彼女への全肯定。

 

 

「うん……うんっ!」

 

 頷くと、不思議と頬に零れる何か。

 慌てて拭って、見られていないかと前を見れば。

 背を向けた彼がのんびりと伸びをしていて。

 

「……ありがとね」

 

 思わず呟く一言に、しかし返事はなく。

 

「うーっし、何とかフラれずに済んだかー」

「ちょっとちょっと、ずっと思ってたけど言い方ほんと気を付けてくれませんかね!?」

「トレーナーにとってはそのくらい重要なんだっての」

「かといって、その、告白とか、フ、フラれた女とか……ああもうっ」

「俺、結構モテるんだけどなぁ。こんなひやひやしたのは初めてで――」

「ふんっ」

「ぐぇ」

 

 隣に並び立って、一歩を踏み出す。

 

「もー。締まらないなあ……」

「おーいて。脇腹は拙いよ脇腹は」

「懲りないからじゃん……。…………あのさ」

 

 彼の正面に、踊るように顔を出して。それはまるでお出かけでもするかのような気楽さで、そうでいながら幸せそうで。

 

「これから宜しくね、トレーナーさん(・・・・・・・)!」

 

 笑ってそう呼んでみれば、

 

「おう」

 

 彼は当たり前のように頷いた。

 

 ――きっと神谷が知らないことが唯一あるとすれば。 

 

 その返事こそが。

 今日まで、何よりも欲していたものだということで。

 

 

 

 

 

 

 思い返せば、それは。

 

 

 

 

 

 

 

「締まらないところばっかりだったけどさ。アタシなりに劇的な出会いだったと思うわけですよ――乙名史さん」

 

 遠い未来、URAファイナルズ優勝記念インタビューにて。

 素晴らしすぎてヘドバンする美人記者が目撃された。




ってことで序章おしまいです。くぅ疲。
ネイチャさん可愛すぎてついつい書いた話にここまで高評価いただけて有難い限りです。

ここからはここまでガチガチじゃなく、ぽつぽつと短編っぽくしながら話を前へ前へ進めていきます。最初の区切りはトゥインクルシリーズ1勝目までかなーと。

改めてここまでの応援ありがとうございました。
高評価、ご感想いただける方に感謝を。


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そこそこ元気なネイチャさんがメイクデビューを果たすまで
ネイチャさんと初めてのトレーニング


アニメ1期の時系列を整理しつつ、アニメ2期に向けて話を整えてアプリ版のレール(メイクデビュー)に乗せる、くらいのイメージです。
史実だとアニメ1期(98年クラシック)よりアニメ2期(91年クラシック)の方が後だったりするし、作中で何年経過してるんだみたいな話もあるのですが、そのあたりはふわっと。

分かりやすく言うと、ここから組んでトレーニング開始してから、どのくらい時間経ってメイクデビューするのかみたいなのは触れない方向でやります、という話です。アプリみたいに12ターンきっちりみたいなことはしないっす。


 

 彼女の自室には、素敵な目覚ましがある。

 

「マーベラス★」

 

 と、このように跳ね起きるウマ娘だ。

 

 おかげで学園に遅刻したことはないし、なんだかんだ重宝してしまっている気がしなくもないが、それを認めるのは少々納得がいかないのも事実だった。

 

「ネイチャ、おはよー! ……ネイチャ?」

 

 ベッドをばんばん叩かれては二度寝どころではない。

 普段のナイスネイチャならば、なんとか彼女をなだめすかし、そのうち何となく睡魔がどこかへ逃げていって、仕方ないからベッドから重い腰を上げるのが常。

 

 休息はバッチリ! とはいかない原因はこんなところにあったのである。

 

 とはいえ、その日に限っては様子が違った。

 

「ああ、うん。おはよ」

 

 そっと目元を拭い、晴れやかなまでの笑顔は実にマーベラス。

 だが、次の瞬間。

 

 陽光差し込む窓の外へと視線を投げたナイスネイチャは、穏やかにぽつりと呟いた。

 

「良い……夢だったなぁ」

「ネイチャ!? ネイチャ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――」

 

 無言の棒立ち。

 ジャージに着替え、練習場に顔を出したナイスネイチャは茫洋と虚空を見つめていた。

 

 彼女の前には、ストップウォッチとクリップボードを握った青年が首を傾げている。

 

「どうした?」

「…………あれ? えっと。テイオーはあっちですよ?」

「俺この期に及んでフラれんの????」

 

 その"フラれる"というワードに彼女の脳裏がスパークした。

 駆け巡る現実味の無い記憶。夢と断定してしまうほどの想い出。

 

 大事にしまって、今日から頑張ろうなどと考えていた朝食時の自分。

 あのマーベラスサンデーが真顔で「あのさぁ」と呆れていたこと。

 

「夢じゃ、ない……?」

「は?」

「夢じゃない……!!」

「おっかしいな。こいつゴルシと同じ類だったか?」

 

 ぽりぽりと頭を掻く神谷に、なんだかはっとした様子のナイスネイチャが、はっきりと目線を合わせて、迫真の表情で

 

「――トレーナーさん!!」

「おう」

「~~~!」

 

 何かをかみしめるように身体を震わせる彼女。

 

「……そっか。……そっか」

 

 何故だか嬉しそうに拳を握りしめる姿に、神谷は考えるのをやめた。

 

 まあ担当ウマ娘の気持ちが上向いているなら別になんでも良かろうと。

 

「んじゃ1つ1つやってくぞ。今日はめちゃめちゃ地味だが、挨拶代わりとでも思って欲しい。これからメイクデビューに向けて、どんな相手にも負けない力を付けていく――まあ、最初の記録作成だ」

「記録作成……」

 

 アルバムのようなものだろうか。

 首を傾げるナイスネイチャに、神谷は軽く口角を上げて笑う。

 

「数字ってのは絶対の指標だ。どれだけ成長できたかをはっきり目で見えるってのは思ってる以上に楽しいぜ?」

 

 なるほど、とナイスネイチャも納得した。

 特に自分のように、根拠のない自信が持てないウマ娘にとっては、はっきりと数字で見える実績というのは勇気の支えだ。

 

 けれどそれは諸刃の剣だとも、ナイスネイチャは思う。

 耳が少しだけ垂れて、愛想笑いと一緒に頬を掻く。

 

「そっか。……あーでも、数字伸びなかった時凹みそうだなー……」

「はっはっは、バカにすんな」

「えっ?」

 

 ぽんぽんと、クリップボードで自分の肩を叩きながら。

 神谷は言う。それこそ、何でもないことのように。

 

「お前の仕事は頑張ること。お前が頑張れば、その分だけ俺が伸ばすさ」

「……トレーナーさん」

「じゃなきゃトレーナーの存在価値って何なんだって話だぜ」

「……」

「物事にはなんにでも理由がある。トレセン学園が俺らトレーナーに高ぇ給料払ってるのは、それだけ俺たちに価値があるからだ。自分を信じられねえなら俺を信じろ。俺を信じられなきゃ、トレセン学園の実績を信じろ」

 

 ちょっとアレな話だが、と神谷は言葉を切って。

 

「お前は、お前の身体に責任取る必要はねえ」

「それって、どういう」

「お前の身体は俺のもんだ」

「言い方ぁ!!」

 

 思わず赤面して叫ぶナイスネイチャに、神谷は呵々大笑。

 まったく恥じらう様子のない彼を恨みがましく睨む視線に、しかし神谷は動揺することもなく。

 

「ま、とりあえず二週間だ。二週間俺に身体預けたと――そう睨むな。じゃあ俺の操り人形になったとでも思って、やろうっつったことやってくれよ。どうだ?」

「そりゃ……」

 

 まあ、とその少しもふっとしたツインテールに触れて。

 目を逸らすのは照れくささからか。

 ただ、ああしてずっとストレートを撃ち込まれれば、口が滑るのも無理のないことで。

 

「今更、疑ってませんけども……。そもそも」

「ん?」

「……」

 

 そうだ。そもそもの話。

 

「こう、したかったわけですし……?」

 

 全部を口に出すのは、幾ら何でも恥ずかしかった。

 

 こうしたかった。

 トウカイテイオー相手にあんな無様な走りを見せるほど。

 届かなかったと勝手に思い込んで勝手に飛び出すほど。

 しまいには、あまりの悔しさに惨めと分かっていて泣き出すほど。

 

 こうして今、芝の上で。

 トレセン学園の生徒たちがじろじろと見てくる中で、二人で練習することを心待ちにして――

 

 

 ……じろじろ見てくる中????

 

「あ、あの、と、トレーナーさん!」

「ん? どした?」

「なんかめっちゃ見られてませんかね!? アタシこんな注目されんの初めてなんだけど!」

「何言ってんだ、1番人気が指定席」

「根も葉もないあだ名!!!」

 

 他のトレーニング中の、同じような1対1のトレーニング中の生徒とトレーナー。

 チームで動いているウマ娘たちや、それを束ねるトレーナー。

 

 そこかしこから感じる視線が、凄まじい。

 

「ばっ、場所もよくないとネイチャさんは思うんですよ! なんでこんなど真ん中に!?」

「お前がふらふらっとここ来たからだが。メンタルトレーニングでもすんのかなー、ストイックだなーって思ってたが?」

「そ、それはそのトレーナーさんが――」

 

 当たり前のように自分のトレーナーのような振る舞いを見せていたことに呆けていただけで。なんてことはもちろん言えず。

 

「――にゃああああ!!」

 

 頭を抱えて叫ぶナイスネイチャである。

 

「てーか、注目(それ)についちゃ昨日言ったばっかじゃねえか。俺がまともな指導出来んのかってよ」

「……あ」

 

 言われて思い出すのは、彼のおかれている状況。

 住む世界が違いすぎると、そんな風にぼんやり考えていただけだったけれど。

 

 目の前に居るのは、理事長や生徒会長の期待を一身に背負ったトレーナーであった。

 

 そして、専属で1人だけウマ娘を担当するという話も当然広まっているはずで。

 

 ――それが、自分であるということにようやく気付く。

 

「え、うわ。あれ、……これアタシ、なんだこれ。知らない間に社交界デビューみたいになってない??」

「早くも舞台袖からセンターに躍り出たな。こりゃウイニングライブの練習も徹底的に仕込まなきゃならねえぜ。今日はセンターのダンス練習にしておくか?」

「あの惨敗の翌日にセンター踊る練習できるほど胆は据わってないんですよネイチャさんは!」

「そうか。まあ、最初はちょっぴり慣れてないのも叩き上げ感あっていいよな。社交界デビューか、うまいこと言ったな。ナイスネイチャの進化の軌跡、ちゃんと録画してドキュメンタリー作ってかねえとな……」

「やめてってば!! というか、えぇ……アタシなんて、下女がせいぜいじゃないですか……」

「そういえばシンデレラも三女だったな。完璧じゃん」

「なんでもかんでも3絡めて持ち上げればいいってもんじゃないんですよ!?」

 

 あーもう、と真っ赤な顔を扇ぎながら。

 きっ、と神谷を睨むナイスネイチャ。

 

「……ていうか! それならトレーナーさんは王子様ってことになるんだけど!?」

 

 そこはどうなんだ、とばかりに朱に染まった頬と共に見据えれば。

 難しそうに腕を組み、唸る。

 

「実はフランス人ってことにしちまって、給料はたいて爵位買えばワンチャンあるか? ナイスネイチャ姫に見合った王子になれるよう、俺もメジロ家辺りに礼儀作法叩き込んでもらって」

「本気にすんな!!!!!!!」

「騎士の礼に関しちゃなぜか向こうで叩き込まれたんだ。まずこうやって姫の前に跪いてだな」

「だからみんな見てるんだってば!! も、もう、トレーニングでも計測でも良いから始めよ!? ね!?」

 

 泣きそうな顔で手を合わせ、お願いだからという彼女に、流石に神谷も頷いた。

 

「承った、マイプリンセス」

「そろそろネイチャさんキレちゃおっかな」 

 

 満面の笑みに、額の青筋。

 

 気づけば、視線を受けるプレッシャーは消えていた。

 

 

 

 初めての練習は慌ただしくて、そしてずいぶんと多くの記録を取る大変さもあって。

 

 疲れ果てた充足感と共に、ナイスネイチャは眠りにつくことになる。

 

 流石に二日も続けばはっきり分かる。

 

 ――これは、夢じゃないんだって。



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ネイチャさんと日々の頑張り

「……あのさ、トレーナーさん」

「ん?」

 

 夢ではなかった。

 

 ――専属トレーナーと担当ウマ娘。

 

 そうした間柄になって早数日。

 以前と見違えるような充実した日々を送っていることは、もはや疑いようもない。

 

 今日も今日とて、ホワイトボードを前に気合の入ったスーツに身を包んだ神谷が教鞭をとっている。本人曰く、形から入るタイプだとか何とか。

 

 レジュメと称して手渡される本日のメニューには、必ず練習内容とその練習で得られる経験と狙いが仔細に記入されており。

 こうした座学の時間には、神谷お手製の『天才ナイスネイチャ育成理論』などとデフォルメされた彼女が描かれた冊子まで配られる始末だ。

 

 器用なことだと思わず緩む頬はさておき、内容は極めて真剣な代物。

 この座学の狙いは『レース中絶対に焦らないようにする』という長期的目標を見据えつつ、今回は『バ群内での立ち回り(初級編)』を学んでいる最中だ。

 

 学園の授業と異なるのは、それが完全にナイスネイチャに最適化されていること。

 分かりやすい段階ステップ式の講座は、何を理解すれば次に進めるのかが事細かに記されている。

 読み終えた時には確かな手応えがあり、しばらくしたら小テストまであるというから徹底している。

 

 だんだんと彼のやり方はナイスネイチャにも理解が出来てきた。

 とにもかくにも"達成感"というものを突き詰めて与えてくる。

 

 座学も実践もそうだ。

 

 この冊子1つ1つが薄いのもきっとわざとだろう。いちいち表紙のデフォルメネイチャの動きが毎回違うのが、妙に楽しみになってしまうのもきっとわざとだ。そうに違いない。

 

「どうした。何か疑問点があったら聞くが。今回の狙いはそこに書いてある通り、後方で囲まれた際に自然にステップでブロックを回避できるよう、まずは頭で学ぶことを目的としている。頭で分からんことを身体でやれってのは、お前の天才性を引き出すには効率がよくねえ」

「ああうん……天才性はおいといてですね。なんというか、アタシって今の走り方変える必要とかないのかなって思って」

「どうして……もったいない……」

「凹むとこ!?」

 

 いちいち調子が狂わされ、頭を押さえるナイスネイチャ。

 

 ただ、彼女の疑問は尤もだった。

 

 これまでぼんやりと、差しっぽい動きに慣れていたからそうしてきた。

 ただそれはあくまで自分の中でやりやすいと思っていたからに過ぎず、たとえばウマ娘の中にはトレーナー付きになってから走り方を変える者も少なくない。

 

 むしろ多いと言えた。

 

 その理由として、やはり多くのウマ娘を見てきたトレーナーの目で見た時に、向き不向きが判断できるということがある。

 

 或いはいくつもの走りを試させることで、その脚質の得意苦手を本人の身体に叩き込ませる、なんていうパターンもある。これはつまり、格闘ゲームなんかと同じ理由だ。対戦相手が使う技を自ら使ってみることで、その特性を肌で理解する、というケースである。

 

 また、癖になっている走り方を矯正するというパターンもあった。これは野球の投手などが近いだろう。きちんとしたストレートをもう一度学ばせる、というような要領で、フォームを矯正し――その結果として走りやすい作戦が変わるケースがあるという話だ。

 

 あとはその方がトレーナーが育てたという実績になる、なんて利己的な理由もあったりするが、トレーナーとて人間であり生活が懸かっているのだから、そう責めることは出来ない。

 

 いずれにせよ、彼女のこれまでの走り方そのままに成長方針を固めている神谷に対して、疑問があったという話である。

 

「結論から言うと、要らねえ」

 

 がっくりとうなだれていた神谷はその状態から復帰すると、ネクタイをきゅっと弄って咳払いした。完全に教師になりきっている彼に、小首を傾げるナイスネイチャ。

 

「っていうと?」

「俺があの走りに惚れたから」

「……」

「そんな可愛い目で睨むんじゃねえよ。実際アレは天性のもんだ。なんでだろうな、3着で負けそうになったからみたいなのもあるのかねえ……要はあの時のお前の走りってのは他の奴には真似出来ねえ代物だった」

「なる、ほど……?」

「追込試してみても良いが、俺だったら逃げや先行にするのは勿体ねえと思うわ」

 

 もっとも、と内心で神谷は考える。

 たとえば逃げが5人、先行5人なんて状況が仕上がってきたら話は別だ。黙って後ろに付けるより、先行集団に紛れていた方が良い場合もある。

 

 模擬レースを見つめ、『最初は先行だから前の方、差しだから押さえる、それでいい』と考えていたことにも繋がる話だ。

 

 先行寄りの差し、差し寄りの先行、追込寄りの差し――逃げ集団の後ろに付ける先行。

 

 ただ、それこそまだ学ぶには早い。それはレース展開というものをちゃんとレース中に理解、把握出来うる賢さを得てからでいい。

 

「そうだな、理由を付けるとしたら……」

 

 顎に手を当て、思案するようにして。

 

「お前があのすげえ走りをした時、後ろのこと全く考えられてなかっただろ」

「え、あ、うん……まあ」

 

 あの模擬レースで4着と8バ身差をつけていたことは、言われるまで知らなかった。

 トウカイテイオーしか見えていなかった。

 或いは、その先のキラキラ――とそこまで考えてトレーナーと目が合って、ナイスネイチャはふいっと目を逸らした。

 

「特に逃げってのは逆に常に後ろを意識して走るもんだ。それは、ナイスネイチャの良さを最大限に活かせねえ」

「アタシが逃げ向いてないって言えばいいんじゃ……」

「んなもんお前に合わない逃げが悪い」

「めちゃくちゃだこの人……!」

 

 でも、とナイスネイチャは思った。

 ただ褒めちぎってくるだけではないのだな、と。

 

 頬杖を突き、ホワイトボードにあれこれ書き直す彼の横顔をぼんやり眺める。

 

 トレーナーとして優秀。

 別にそこを疑っていたわけではない。

 

 ただ、こうしてはっきりと向かないものは向かないと否定してくれたことがむしろ、普段が普段だけに"ちゃんと見てくれているんだ"という気持ちにさせたというべきか。

 

「ってわけで追込は今度試すかもしれねえが……うーん」

「トレーナーさん?」

「俺の経験上、多分向かねえとは思う。まあこれは感覚的なもんだから、お前が作戦変えたいってんなら付き合うが……」

「……んーん。いい、遠慮しとくよ」

「そうか?」

「トレーナーさんを信じましょう!」

 

 ほんの少し言葉尻が強まってしまったのは照れ隠し。

 けれど、本心だった。

 

 この数日でどれだけの信頼を積む時間があったかと言えば、無いけれど。

 フランスでの彼の実績を調べたのかと言われれば、そういうわけでもないけれど。

 それでもやっぱり、と目線を落とす。

 

 この冊子の三頭身ネイチャを見れば、分かることもある。

 どれだけちゃんと考えてくれているのか、とか。

 

 そういう感情が大事だったりする時もあるのだ。

 

「ったく、調子の良い奴め。いつも俺のことなんざ信じてねえ癖によ」

「えっ。割と心外なんですけど」

「ナイスネイチャは至高の資質」

「あ、全然心内でしたわ、ちーっすお疲れ様でーっす」

「やっぱメイクデビューで分からせるしかねえな……!」

 

 これさえなければなあ、とも思うけれど。かといって、これがなかったらどうなっていたか。もどかしさで、知れずにやける口元を手近なところにあった自分の髪で隠した。

 

「とりあえず、座学はこのくらいにして実践と行こうか。頭で理解する。身体に馴染ませる。無意識に出来るようになる。これがトレーニングだ」

「はーい。……鍛えるだけじゃないんだね、やっぱり」

 

 これまでの自分のしてきたことが、どれだけ非効率だったかを思い出す。

 けれど、神谷は首を振る。

 

「鍛えるってのは、下地をどれだけ作れるかって話だぜ。ひょろがりもやしが初手からベンチプレスなんざ出来るわけねーだろ。1つずつ1つずつバーベルの重さを変えるように、トレーニングのレベルも上げていく。そうすりゃどんどん伸びていく。それは、どこの世界でも不変の理屈だ」

「……じゃあ、担当が居ない間の自主トレは」

「教科書に載ってる練習ってのは、それをやってることがレースで決してマイナスにならないってものだけだ。たとえばそうだな、それこそトレーナー無しでのベンチプレスがなんで禁じられてるか分かるか?」

「なんかその流れだと、危ないからってだけじゃなさそ……」

「スピードが落ちるからだ」

「……へぇ。あー、まって分かってきたかも」

 

 とんとん、と自分の頭を小突きながら考える。

 つまり、中等部で生徒が自由に使えるトレーニング用具の性能が低いのは。

 それにみんなが不平不満をこぼしても、一向に改善されないのは。

 改善ではなく、改悪につながるから。

 

「物事には何にでも理由がある。これは例えばの話だが、多少スピード落としてもパワーが必要だと判断したらベンチプレスもするだろう。それはトレーナーの判断だ」

「なるほどねぇ……」

「ま、何が言いたいかってーと。お前のやってきたことは全然無駄じゃねえよ」

 

 笑って、ナイスネイチャを見る彼の顔には一切のクマや疲れはない。

 

「こうやって俺がメニュー1つ組むのが楽なのも、お前のこれまでの頑張りあってこそだ。フランスん時に比べても、ここまで最初から優秀だった奴なんてほとんど――」

「あーあー!! もういい! もういいですから!! む、無意識にステップできるまで頑張っていきましょー!」

「さて、どのくらい掛かるものやら。普通1月は要するんだが」

「うっ……さ、三週間くらいで出来るようになれたらいいなぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

 三日後。

 

 

 

 

 

「やはり……天才か?」

「1月って方が噓なんだ!!! そうに違いない!! トレーナーさんめぇ!!」

 

 授業での練習で完璧な(本人曰く『期待に応えられないのは嫌だから1月以内に覚えられるようすごく頑張って習得した』)足捌きを披露したにも拘わらず、感慨も何もなくトレーナーの方へ駆け寄って喚く少女の姿が目撃された。

 




本作での固有スキルやトレーニングレベルの解釈と、しれっとイナズマステップ習得回。


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ネイチャさんとトレーナーの交友関係

 

 

「トレーナーさんってさ」

「ん?」

 

 ある日の練習後。

 今日も今日とて、そこそこ以上に体力を消費するトレーニングと、心地良いくらいの疲労を感じさせる頭脳トレーニングとで早くも眠気が襲う夕暮れ時。

 

 まだ身体の方は動ける気はするけれど、頭の方がダメだった。

 瞼があまりにも重く、そのままベッドに飛び込んだら眠れてしまいそう。

 

 トレーナーが付いてからというもの、練習後の脚のケアまでしっかり行ってくれるものだから、本当にご飯食べたら寝て良い状況になってしまっているのが性質が悪い。

 

 これが彼流の『無理な自主トレをさせない練習メニュー』だというから、なるほど優秀なものだと思う。

 少なくとも、この眠気と戦って自主トレに勤しむくらいなら、誰もがさっさと寝て朝早く起きることを選ぶだろう。

 

 と言いつつ。

 明日は初めて、練習の休みを言い渡された日であった。

 

「お休みの日って何してるの?」

「俺なら普段は学園居るぜ?」

「えっ? アタシが休みじゃなくて、トレーナーさんの休みの日だよ?」

「ああ、だから学園居る」

「ええっと……学園で何してるの?」

「色々あるんだぜ、男の子にもよ」

「はぁ……」

 

 ぺた、と彼女の耳がヘタった。

 理解できないものを見るような目に、神谷は笑う。

 

「これは俺じゃなくて、先輩の持論なんだが。一度教える側に回っちまうと、まるで自分が物事の全部理解しちまって、勉強する必要が無くなったと、勉強をクリアしたんだと勘違いしちまうんだと。そんな自分を戒めるために、日々の学びを怠るなって話でな」

「ふぅん。でも……あんまりピンとこないかも。トレーナーさんの勉強って」

「そうか? 色々あるぜ」

「たとえば?」

 

 興味が出てきたのか、徐々に耳が活力を回復し始める。

 見上げる視線は楽し気で、先ほどまでの眠気が嘘のよう。

 

 神谷は内心、有難いことだと少し安堵した。

 トレーニングではなくトレーナーにそれなりに興味が出てきたということは、トレーニングへの不満の類は今のところ心配しなくて良さそうだと。

 

 不満はないか? などと正面から聞いたところで、ウマ娘の多くは年頃の少女だ。そう簡単に本心を打ち明けてくれるなら難しいことなどない。

 だからこそ様々な彼女らの言動行動から日々のトレーニングへのモチベーションを探るのは一流トレーナーの最低限の能力と言えた。

 

「たとえば、学会発表纏めたレポート作成。それから毎日更新されてる論文集積サイトのチェック――特にウマ娘の医療とスポーツ科学関係な。あとはトレーナーたちが出してる育成論とか、そういうのはやっぱ見てる。専門家みてえにその医学論文の穴を見つける能力が必要だったり、学会でスライド作ったりする必要だったりとかはねえからその辺はそう難しいことはしてねえけど、育成論関係はそこそこ素人質問(・・・・)ぶつけて遊んだりしてるな」

「わぁ……」

「お。思ったよりちゃんと勉強してるって思った? 最近はゴーストオブツシマやってるけど」

「なんで急に上げて落とすかなあ……。あれ、でもそういう論文とかって、日本語?」

「日本語のものも増えてきたし、翻訳もマシになってきたが……まだどうしてもそれだと一手遅れるから、ドイツ語か英語で読むのを推奨されてるな」

「待って待ってトレーナーさん、フランスで暮らしてたんだよね……?」

 

 ひょっとして、トリリンガル……? と驚きを含む瞳のナイスネイチャに、神谷は笑って首を振った。

 

「まーさか。フランス語こそまともに喋れるが、ドイツ語と英語に関しちゃ全然だ」

「え、でも今論文はその2つ推奨って」

「中央トレセン学園に居るようなトレーナーは全員そうだと思うが、『論文に書いてあることくらいは読めるようになってる』が正しいな。ウマ娘の論文に書いてあるような言葉と最低限の文法は把握してるっていうか。その上で初めて出てきたような知らねえ単語は調べて読む」

「ええ……どう違うの……?」

「日本語だって、論文に書いてある言葉と日常で使う言葉は違うだろ? 俺は英語で『ウドンはオカズやァ!』さえ、なんて翻訳すんのか知らねえし」

「いやうどんはおかずじゃないでしょ……」

 

 でも、なんとなく理解した。

 彼を始めとしたトレーナーたちは英語とドイツ語が話せるのではなく、論文を解読する能力があるということ。

 

 それでも十分すぎるし、おまけに目の前の男はフランスでウマ娘に指導をしていたわけで。

 そう考えると余計、自分なんかを担当している意味が分からなくなってくるのだが。

 

 ぼんやりと頭を掻けば、彼は横から見下ろすように、楽しそうな笑顔で言うのだ。

 

「そういう勉強も全部、お前の為な」

「荷が重いっつーの!」

「論文読むのに必要な色んな経費も学園が持ってくれてるし、きっちりトレーナーには個々の部屋与えられるし、何より育て甲斐のある奴が居るし、労働環境としては最高だなここ」

「最後のだけちょっと分からないですね」

「いや労働環境としては最高だろ……?」

「そこじゃないそこじゃない」

 

 ぱたぱたと否定の意味を込めて手を振りつつ。

 聞けば聞くほど、トレーナーという存在が必要とされる理由についても分かってくる。

 もしも神谷の言うことがすべて本当だとしたら、このトレセン学園に務めるトレーナー皆がそうした能力の持ち主なわけで。

 

「……トレセン学園のトレーナーって、本当に一握りしかいないって聞いてたけど」

「ん? 縁故採用みてえな感じで海外から出戻ってきた癖に急にでかい顔してる新人に周囲が冷たい理由が分かった?」

「急にネガってきた!? や、まぁ……目に見える形で凄いことやってるのが分かると……はい。トレーナーってほんとにそういうエリートなんだなあって」

「最も話題性のあるエンターテイメントスポーツで、世界を見据えた最高峰のアスリートが集う学園だぜ? そりゃ変な奴居られねえよ」

「ゴーストオブツシマやってるのに?」

 

 カッコつけた自分のトレーナーに対し、いたずらっ子のような笑み。

 そもそもこんな状況でむしろよくゲームが出来るなと感嘆もあるのだが、だからこそのからかいでもあった。

 

 ただ、そんなネイチャさんの目論見に、ぽんと手を打った神谷は。

 

「おっとそうだった。ほっとくとグラスワンダーの奴に全クリされちまう。急いで帰らんと」

「………………は????」

 

 ぐいっと、先を行こうとした彼の服の裾を掴んでしまったのは仕方のないことだろう。

 

 なんだか知らない奴の名前が聞こえた。

 否、正確には、知ってはいるのだが。

 

「え、ちょ、ちょーっと待って貰えます?」

「ん? いや心配しなくても俺はお前以外に目移りしねえよ?」

「っ~~!! じゃ、じゃなくて! そういうことが聞きたいんじゃないんですよ!!」

 

 そういうことを聞くつもりだったけれど。

 だからと言ってラリー一発目でそんなストレートをぶつけなくてもいいではないかとむくれながら。

 

「あれ、そうだったのか。なんだ、一緒に蒙古殺す?」

「どんな誘い文句ですかね……。ええと」

 

 調子が狂う。

 一瞬で霧散してしまったやり場のない怒りとは別に、やはりもやもやとした感情が胸の内で燻っている。

 だって、トレーナーの自室でゲームをしていると来たものだ。

 

 自分はまだ、行ったこともない。

 

「あの、どうしてグラスと……?」

「あいつの所属してるチームリギルのトレーナーから呼び出し受けてな。その時呼びに来たのがグラスワンダーだったんだわ」

「はあ」

「んでちょうどそん時ゴーストオブツシマやってて。なんか物珍し気に後ろからのぞき込んでくるもんだから、武士(もののふ)がウマ娘と一緒に護国の為に戦うゲームだけどやる? って言ったら案外乗り気で」

「ぐ、グラスってそういうキャラだったんだ……」

「なんか東条トレーナーとの話終わって帰ってきたらまだやってたから、ハマったん? って聞いたんだけど。今はただ己が許せませんとかなんとか。仕方ないからその日はずっと俺が後ろで見てた。負けず嫌い過ぎて練習のやる気下がってた気がしなくもないが……」

「……で、それからしばらく?」

浮世草(サブクエ)とかも結構回収したからなー。そうな、一週間くらい。さっきSNSで一言「いざ」って来てたから本気でそろそろクリアされちまいそうかも。やれるもんならやってみろって煽っちまったし」

 

 ついやる気に満ちたウマ娘を焚きつけちまうのは俺の悪い癖だ、と神谷は内心で呻いた。

 

「なにやってんだか……」

 

 コトゥン(ラスボス)は絶対俺が殺す……などと呟いている神谷を横目に、小さくため息。

 グラスワンダーもグラスワンダーだ。何もこのトレーナーと一緒にやらなくても――とも思うのだが、それはわがままな感情なのだろうか。

 

 彼女にとっては、ただたまたま面白いゲームを提供してくれた相手だろうし。

 ゲームをするなら、話題を共有できる相手と。その考えも理解できる。

 

 ただ、そもそもグラスワンダーとトレーナーの間に接点があったことすら知らなかったのが、やはり喉元に小さく引っかかっていて。

 

「まあ、じゃあトレーナーさんの部屋行きましょーか」

「あ、来る?」

「急いでるんでしょ? 迷子になられても困りますからねー」

「ぐっ」

「そ・れ・に。道すがら、色々聞きたいなって。思えばトレーナーさんの交友関係とか全然知らないわけですから」

「俺もここ来たのお前と初めて会った日だから、そんなに知り合い多くねえけど……それでいいなら」

 

 別に話して困ることなど何もないとばかりに、神谷は頷いた。

 

 

 

 

 

 

「はい、それじゃトレーナーさん。ずばり、他に仲の良いウマ娘は居るんですか!?」

「ナイスネイチャって子が最高だな――分かった分かった後ろ向くな、沖野サンじゃねえんだ普通の人間は死んじゃうんだぞ」

 

 廊下を歩む道すがら。

 じとっと睨めば、神谷は真面目くさった顔でスマホを開くと、連絡先一覧を眺めながら。

 

「接点というか、まあ連絡先持ってるウマ娘で言うとマルゼンスキーかな」

「……また意外なところを。そりゃまたどうして」

「一緒に峠攻めたんだよ」

 

 早くも頭痛がしたナイスネイチャであった。

 

「マルゼンスキーさんって確か、車持ってたっけ……え、二人で乗ってったの?」

「まさか。助手席なんて自殺行為だ。俺も商店街のおっちゃんにハチロク借りて突っ込んだぜ。そら盛り上がったのなんの。そのハチロクがもう、完璧に走り屋仕様でな。その夜はちょっとした祭りになった」

「……あれ、ちょっと待って? 商店街のおっちゃんのハチロク? つかぬことを聞きますけども、どのおっちゃん?」

「豆腐屋」

「商店街最速かあ……」

 

 

 ――なんというか。

 

 

「あとはビコーペガサスか」

「ほんとに全然接点が分からない……グラスにマルゼンスキーさんにビコーペガサス……?」

「ヒーローごっこしてたから、ちょっとしたノリで怪人の真似して話しかけたんだよ。ゴセパ(俺は)ザバギンバシグラ(破壊のカリスマ)、ゴ・カミヤ・バ()ギギ(いい)ゲゲルビ(ゲームに)ギジョグ(しよう)ボギ(こい)、ビコーペガサス って」

「なんて????」

「したらめちゃめちゃ歯を食いしばって、絶対倒すっていう強い意志とともにキャロットマンキック食らった」

「ちょいちょいちょい!? 大丈夫だったのそれ!?」

「本当に怪人が現れたかと思ってびっくりした、って興奮気味に言われて、俺も楽しかったから連絡先交換した」

 

 

 ――思っていたのとは全然違うというか。

 

 

「それからエルコンドルパサーだな」

「うわ……もう読めた……」

「俺のブレードランナーさえ入ってりゃ今頃ベルトは俺のもんだったんだがな……エスペランサ食らってふらついてるところに正調式デスティーノで完璧に沈められたわ。ダートシューズ(レフェリーの)沖野め……3カウントが早ぇんだよ……」

「ウマ娘とプロレスするな!」

 

 

 ――そうツッコミを入れて、改めて思ったのは。

 

 

 

「いややりたい放題すぎない???」

「あとゴルシ――あれ、ゴルシ連絡先交換してねえ。まあいいや、どっかで会うだろ」

「このあとにゴールドシップさんとのエピソード聞く元気はないかな……。あはは」

 

 

 

 ――気づけば、心の奥底に妙な安心感が芽生えていることだった。

 神谷の言っていることに嘘はないのだろう。連絡先には確かにウマ娘の名前がそこそこあって、それに対して思うところはあったけれど。それでもこうして話を聞くうちに、変な感情は萎んでいって、代わりにあるのがその妙な安心感と、ただこうして練習後にのんびり話すことが出来ている単純な楽しさ。

 

 

 こんなにうまいこと乗せられると、これもウマ娘と付き合う秘訣なの? と問いたくなってしまう。

 

 そんな言葉が口を突いて出ようとする時に、彼は「ああ」と思い立ったように呟くのだ。

 

「良かったら明日、沖野サンと一緒に東京レース場行くけど来る?」

「えっ」

「割と張り切ってたから、何かしでかすつもりらしい。せっかくなら、俺とお前の決起集会も兼ねようかなーって思ってたんだが、迷惑じゃなければどーよ」

「明日――あ、そうか。お休み」

「そうそう。だからちょっと誘うか悩んでたんだけどな」

 

 そんな言い方をされたら断れないし、もとより断る理由もなかった。

 

 他のウマ娘と仲良くしている話を聞いた直後なら、なおさらだ。

 

「もー。トレーナーさん、その言い方はずるくない?」

「だから気ぃ遣ったんじゃねえか。頼む! このとーり!!」

「それはもう気ぃ遣ってないし!」

 

 あはは、と思わず笑って。

 

「しょーがないですなー。じゃあお休み返上して、決起集会と行きましょー」

「ふー耐えたー。フラれずに済んだぜー」

「また言う!!」

 

 お互い笑い合って、気づけばただ楽しいだけの雰囲気の完成だ。

 明日も楽しみ。これからの未来も、ちょこっとだけ希望が持てている。

 

 少しだけ、口元が緩んだその時だった。

 

 

 手をかけようとした扉越しにグラスワンダーの「やりましたぁ!!」という声が響いてきて神谷が膝から崩れ落ちた。

 



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ネイチャさんとトレーナーの先輩

 

 

「この前来た時は確かこの角曲がったんだよな」

「はいストーップ。おかしいよね、明らかにレース場と反対だよね」

 

 呆れたような声と共に、人の流れに身を任せようとした男の手を掴む少女の姿。

 

 良い天気だ。

 府中本町、東京レース場。府中レース場とも呼ばれる大きな会場へと足を運んだ二人は、さっそく迷子の第一歩を踏み出そうとしていた。

 

「はぁ……やっぱり迎え行って正解だよ……薄々そんな気はしてたもんなー」

「おいおい、大通り歩いてる人たちみんなあっち行ってるじゃねえか」

「あれ別の駅に行く人たちだから。そのまま違うとこ行っちゃうから」

 

 これさえなければ、とがっくり肩を落とす少女の名はナイスネイチャ。

 ぱたぱたとそのふわふわした毛質の尾を揺らしながら、呆れたように見上げる先は隣の青年である。

 

「そうなのか。じゃあ目的地はどこだ? まーた降りる駅からして間違えたのか?」

「間違えてないって。そうかしまったこの人、迷子になりすぎてどこまで自分の順路が正しいのかもわかってないんだ……」

「あ? まあどっかまでは合ってんだろ」

「そしてこの危機感の無さ……!!」

 

 こりゃダメだ、と溜め息を1つ。

 

「トレーナーさん、待ち合わせの約束があるんだからさあ……もう少し気を付けようよ……」

「こ、こんなに待ち合わせの時間に厳格なの日本だけだし」

「七時間遅刻はちょっとどこの国も許してはくれないんじゃないですかね」

「ぐぬぬ」

 

 それに、と思う。

 もしも自分のレースなどで大遅刻をかまされたりしたら溜まらないと。

 けれど、それをそのまま口に出す勇気はない。

 無いとは思うけれど。本当に無いとは思うけれど。このトレーナーなら、絶対にそんなことは言わないと分かってはいても、もしも。

 

 自分のレースに遅刻してほしくないと言って、あっさり流されたり、軽く扱われたりしたら傷つくだろうから。

 

「――フランスに居た時はレースどうしてたのさ」

「向こうは基本的に車移動だったからな。てか、こっちでも担当ウマ娘が出場するレースなら普通にバスが出るし、そう迷うこたぁねえよ。あ、そうじゃなくても別に迷ったりしないんだけど」

「どうしてそんなウソが通ると思ったの???」

 

 でも、そうかと納得した。

 自分のレースの時はバス移動。それが聞けただけでも、少し安心する。

 緊張に少しだけこわばっていた表情が緩むのを見て、神谷は僅かに眉を上げた。

 

「じゃあ、レースじゃない時は?」

「ん? ああ、あんまり電車使わなかったな。路線図とかよく分かんねえし」

「そーなんだ?」

 

 なんとも、少しばかり物足りなさそうなナイスネイチャの視線。

 神谷はその反応を見て、出すつもりのなかった台詞を漏らす。

 

「……じゃなくても中々、1人で行動することもなかったしな」

 

 ぴこん、と彼女のクリスマスカラーの耳が立つ。

 

「それは、えっと。スタッフさんとか?」

 

 敢えてここで担当ウマ娘かと聞かない辺りが彼女らしさであったりするのだが、神谷はさらりと言葉を返す。

 

「いや、チームの子たち。俺が迷うだのなんだのと」

「あはは、分かってるじゃんその子たちも。そりゃあトレーナーさんと一緒にどこか行くって話の時に、行方不明にでもなられたら楽しい休日どころじゃありませんからねー」

「んなこたぁねーよ。あいつらは俺が居なくなったらなったで、俺名義の領収書切って好き放題買い物しやがるさ」

「ふぅん……」

 

 少し、何かを考えるように俯くナイスネイチャ。

 と、そこで神谷は近くの小道に足を踏み入れる。

 

「ありえないっつーの! トレーナーさん、そんな道の先に競バ場があるわけないでしょ!?」

「東京によくねえことがあるとしたら、この道の細かさだな……」

「いやいやいや。……あー、フランスだとそんなこともなかったり?」

「少なくともシャンティイ――俺の居たトレセン学園の近くはな。そうじゃなかったらいくら俺でも七時間遅刻なんて、流石にそう、何度もやることはねえよ、うん」

「初犯じゃなさそうだぞこの言い方ぁ……」

 

 半眼で隣を歩く青年を見上げて。

 少しばかり口が開いたり閉じたりして、それから。

 

「あー、じゃあさトレーナーさん。アタシ、この辺りは地元だし……良かったら見ててあげよっか。ほらその……担当ウマ娘なわけですし!」

「良いのか? そりゃ迷子にならないとはいえ、迷惑じゃなきゃ詳しい奴が居るに越したことはないが。迷子にならないとはいえ」

「二度も言った……。ああいや全然迷惑ってことはないけど。お邪魔じゃなければ? トレーナーさんを迷子にすることはないんじゃないかなー」

「おいおい、俺は迷子にならねえから、それはただのデートだぜ?」

「でぅぅ……!? せ、専属トレーナーさんを迷子にしたくないという担当ウマ娘の気持ちってやつかなーあははー!」

「でぅぅって何?」

「うるさいなあ!!!」

 

 怒りに感情が一度発散させられて。

 ふと我に返ったところで、自分の言ったことに改めて羞恥がぶり返す彼女に。

 神谷は笑って頷いた。

 

「んじゃ宜しく頼むわ。休日もお前駆り出すのは結構申し訳ねえと思って、あんま言い出すつもりなかったから」

「え、あ、うん……。お願い、します」

「それ言うの俺じゃね?」

「にゃああああ!!」

「仕方ねえな、お前が迷子にならねえよう俺も頑張るわ――へいへいキューティガール、後ろ向くのは無しだぜ?」

 

 真っ赤な顔を見られたくないからか。やり場のない怒りを発散するためか。

 彼に背を向けた彼女の真意は、そんな1つの理由で片づけられるほど単純なものではなかったけれど。

 

「トレーナーさん」

「ん?」

 

 まだ熱の残る頬と、額に浮かんだ青筋と。

 それから、怒りを抑える笑顔とともに、ナイスネイチャは親指で背後を指さした。

 

「レース場はこっち」

「そうか。行くつもりだった」

「嘘を吐くな!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――嘘だろ」

 

 思わず咥えていた棒キャンディーを落としそうになった沖野の視線の先。

 きょとんと首を傾げたナイスネイチャはしかし、彼の次の台詞にひどく納得した。

 

「約束時間前に神谷が来た……?」

「あーですよねーそういう反応になりますよねー分かるわー」

 

 しみじみ頷くナイスネイチャ。

 横で不服そうなトレーナーが居るのをよそに、軽く彼女は頭を下げた。

 

「初めまして。ええと、神谷トレーナーから話は色々聞いてます。担当ウマ娘のナイスネイチャです」

「おう」

 

 軽く手を上げ、気楽な挨拶。

 黄色いワイシャツに黒のベストが似合う長身痩躯の男――沖野は、きさくに笑って頷いた。

 それから、何やら悪いことでも思いついたような顔で続ける。

 

「俺は神谷の先輩トレーナーの沖野だ。こいつはちゃらんぽらんで説明不足なとこもあるが、努力家っぷりと夢にかける情熱はモノホンだ。どうか見捨てないでやってくれ」

「どっかで聞いたセリフだと思ったら俺がダイワスカーレットに言ったのまんまじゃねえか」

「あ、はは……」

 

 頬を掻くナイスネイチャを、じっと見下ろす視線。

 神谷もそれなりに長身だが、沖野はそれよりも少し高かった。

 なんだろう、と首を傾げる彼女が呆然と見つめ返すことしばらく、沖野は小さく頷いて告げた。

 

「……そうだな。神谷と出会ってくれてありがとう」

「え゛」

 

 急に何、と身構えて、助けを求めるように神谷を見れば。

 

「俺と出会ってくれてありがとう!」

「しまったこういう時助けてくれる人じゃない!」

 

 コミカルなペアに、くつくつと笑った沖野は言う。

 

「俺がキミに出会ってたら、多分数秒でこいつを紹介してた。もしこいつがフランスから帰ってきてなかったら……正直、歯痒い気持ちでいっぱいだったかもしれない」

「それは、どういう」

 

 その彼女の問いの答えは、背後から。

 

「そりゃ俺が一番育てられる素質だからだよ。言ったことなかったけ」

「あるよ!!!! ……あっ。いや、うん。あった。ありましたねそんなことも、あはは」

「そうか。覚えててくれてありがとな」

「……」

 

 忘れるわけがない。忘れられるわけがない、と口に出すのも、あまりにも恥ずかしくて。

 

 押し黙ってしまった彼女をよそに、沖野は続ける。

 

「神谷が育てられる素質、か。まあそういう言い方も出来るな」

「――沖野サン」

「何も文句を言うつもりはない。ただ、その様子だとお前からは絶対言ってねえと思ったからな。案の定そうみたいだし。これだけは言っておかねえと」

「……」

 

 なんだか意味ありげな会話だった。

 ナイスネイチャも聞いたことがないほどの、先の神谷の釘をさすような語気の強さは気になって――けれど振り返って見上げた神谷はいつも通りのちゃらんぽらんだ。否、少しばかり、困ったような目の色をしていた。珍しく。

 

 そして沖野はといえば。

 こちらの瞳に浮かぶのは、後悔だろうか。

 

「俺もこいつも、まあちょっと色々ウマ娘を育てる時にトラブルがあってな」

「うちの担当にあんまり不安植え付けねえでくれるかなァ……」

「でも必要なことだ。――ナイスネイチャ」

「あ、えと、はい」

 

 少し、怖くもあった。

 何を言われるのかと、身構えもした。

 けれど、神谷の警戒とは裏腹に沖野の声色はずいぶんと優しいものだった。

 

「お前のトレーナーは、正直かなり珍しい奴だ。自分がどれだけ特別な奴なのか、こいつは絶対言わないだろうけど」

「え、っと」

「俺は一時期トレーナー業から離れてたから、日本のトレーナーすべてを知っているというわけではないが、それでも1つだけ言わせてほしい」

 

 ナイスネイチャには見えないところで、音もなく神谷はため息を吐いた。

 がりがりと掻く後頭部、目に見えた不機嫌さは決して彼女の前では出さない代物。

 

 それはある種の沖野への信頼との裏表ではあるのだが。

 そんな彼の動向に、少しだけ沖野は表情を緩めて。

 

「――きっと、こいつ以上にお前を引き出してくれる奴は居ない。だから……たとえばもしこの先、こいつの指導で納得いかなかったり辞めたいと思うことがあったら、縁を切ったりする前に俺に連絡してほしい。その時は必ず、俺がこいつと話を付けるから」

 

 その瞳は真摯なものだった。

 

 そして、なんというか。

 少しばかりの納得が、胸の奥できれいにすとんと落ちた。

 

 今まで自分をスカウトするトレーナーが居なかったこと。それはやはり彼らに見る目がなかったわけではない。単純に、自分自身に魅力がなかっただけなのだ。

 

 当たり前のことを、当たり前として改めて再確認して、ナイスネイチャは頷いた。

 

「はい。――でもきっと、自分から辞めたいって思うことはありませんよ」

「……」

 

 ようやく見えた一縷の希望を、ぽいと捨ててしまえるほど。

 恵まれた人生を歩んできたわけではない故に。

 

「そうか。……いや、うん。それなら、良いんだ」

「はー……」

 

 大きなため息は神谷から。

 

「そんなに悪いことじゃなくない? アタシはその……良かったよ、トレーナーさんがアタシなんかの専属になってくれてさ」

「バカ言え。お前ほどの素質見つけて担当にならねえ理由がねえよ」

「はいはい、そうなれるよう努力しまーす」

 

 神谷は、さっさとこの会話を切り上げたいのか、沖野の方へ視線を投げて告げた。

 

「それで、沖野サンの言う見せたいものってなんだよ」

「ああ、それか」

 

 東京レース場の全体を見下ろすことの出来るギャラリー。

 その欄干に両腕を引っかけるようにして、眺める先には用意されたパドック。

 

「見ててくれ。この次のレースの大外18番――サイレンススズカだ」

 

 



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ネイチャさんとトレーナーたち

 ――サイレンススズカ。

 その名前は、流石のナイスネイチャも聞き覚えがあった。

 

 ターフを駆けるその姿は最速。美しいまでに洗練された動きに見惚れるファンも多かったという彼女。

 

 だが確か、彼女はトゥインクルシリーズ始まってしばらく、ひどく調子を落としているという噂もあった。

 

「サイレンススズカさん、だっけ。殆ど話したことはないけど……その人を、沖野トレーナーが?」

「ああ、少しな」

「なるほど……あれ?」

 

 首を傾げるナイスネイチャの横で、口角をひきつらせた神谷が言った。

 

「ってーかリギルじゃねえか。何やってんだアンタは」

「……ま、その辺オハナさんには自分でけじめ付けるさ」

 

 良い笑顔でサムズアップするものだから、ナイスネイチャとしても何も言えなかった。

 明確な越権行為、それもレースで試させると来た。

 ヘタをすれば、今後のローテにも響くことになる選択を、外部のトレーナーが行う。

 

 これがどんなに重たいことなのかを、もちろん沖野本人が知らないはずもない。

 

 腰の引けるナイスネイチャの横で、しかし神谷は笑った。

 

「相変わらずやりやがるな。さっきのことと言い……見てられねえと思ったらどんな道理もぶち抜くんだもんな」

「自慢じゃないが、理事長からクレーム付けられたことはない!」

「だろーな。あの人もアンタも、ウマ娘の為になるなら何しても良いって人種だ。ウマ娘にとっては良いトレーナーだし俺も尊敬してるけど、同業者にとっては寄生虫だよな」

「寄生虫!?」

「聞いたぜ? この前も他のチームの入団テストに偵察乗り込んだんだって?」

「そりゃ、育ててやれる奴が居たら育ててやりたいからな。ダスカとウオッカもその時スカウトした」

 

 胸を張って堂々と言い放つ沖野。

 決して褒められた行為ではないが、かといって結果を出し続けているのだから賛否両論で済んでいる。

 

「あれ、ひょっとして俺の評判が悪いのって九割は沖野サンの紹介だからなんじゃね?」

「何言ってんだ。お前は俺と同じ寄生虫フレンズだろうが」

「それもそうだわ」

 

 凄いトレーナーというのはやはりどこかおかしいのだろうか。

 どうしてあの流れでお互いに笑い合うのかが、ナイスネイチャには理解できなかった。

 

 気のせいでなければ先ほど、自分のことで少し雰囲気が悪くなっていたようにも感じたが――それも消し飛んでいるようであるし。

 

「男の子って分かりませんなぁ」

 

 こめくいてー、くらいのテンションでぼやくナイスネイチャである。

 

 

 

「まだレースまで少し時間がある。ちょっと話したいことがあるんだが、いいか?」

 

 と、少しばかり表情を真剣なものに戻した沖野がそう告げたのは、それからしばらく談笑が続いたあとのことだった。

 

「あー、ひょっとしてアタシは居ない方がいいですかね」

 

 思えば、今日は沖野と神谷だけの約束であったはず。勝手についてきたのは自分であるからして、そう遠慮しようとするナイスネイチャ。

 ただ、沖野はちらっと神谷を見るばかり。判断は任せるということだろうと見当をつけた神谷は、緩く首を振って告げた。

 

「別に俺はナイスネイチャに隠すことなんて何もねえからな」

 

 あっけらかんと告げる神谷を一瞥した沖野は、少しばかりもの言いたげではあったものの。

 それでも、今のところこれ以上神谷の教育方針に首を突っ込む気はないらしく、笑ってナイスネイチャに頷く。

 

「許可が出たなら、助かる。俺も男二人より、これからが楽しみなウマ娘に居て貰えた方が嬉しいしな」

「言いやがる。……で、まあだいたい要件は分かってるが」

「ああ、テイオーのことだ」

 

 ぴん、とナイスネイチャの耳が立った。

 

 ぼんやりとレース場の方を眺めながら、沖野は告げる。

 

「――暫定的に、今はスピカの練習に混ざって貰ってる」

「へえ。まあ、沖野サンとこに居るのがあいつにとっても一番良いだろ」

「そう思うか?」

「俺はアンタより良いトレーナーを知らねえからな」

「よせよ。そう簡単な話じゃねえんだ」

 

 ひらひらと手を振る沖野。

 大人の会話だ、とぼけっとしても居られなかった。話題はあのトウカイテイオー、誰よりも彼女が意識している相手である。

 

「テイオーに言ったらしいな。『俺じゃお前を活かしきれない』だったか」

「ああ。テイオー様の素質は俺よりもアンタの方が伸ばせる」

「はぁ……いやまあ、言うよなぁお前はなぁ……」

 

 乱雑に頭を掻くと、そのウマ娘の尻尾のようなポニーテールがぴょこぴょこ揺れた。 

 苛立ちと諦めと、それからほんの少しの嬉しさもあるだろうか。

 やるせなさそうに沖野は言う。

 

「テイオーはそれを、単にナイスネイチャを担当するための口実だと思ってる。割と渋い顔してるぜ? 本当にナイスネイチャの担当としてお前が動いてるの、何度か見てるみたいでな」

「ああ知ってる。普通に手ぇ振ってたし」

 

 そーなの!? と衝撃の事実を知るナイスネイチャであった。

 

「え、練習中にテイオー居たの? うっそアタシ気づかなかったんだけど」

「それだけ練習に対する集中力が高いってことだろ。誇るべき長所だぜそれは」

「あー……いや、えーっと」

 

 昔はそんなことなかった、と言ったところで。成長がどうこうと言われてしまうのは目に見えている。

 それに何となく今自覚してしまった。あまりに練習が楽しいから、確かに最近は周囲の視線も気にならないのだ。ちょっぴり、照れくさい。

 

 ――理由はどうあれ。彼女が現在、かなりの集中力を持って練習に臨んでいることだけは単なる事実ではあるのだが。

 

「まあ、要は何が言いたいかってーと。あいつにとってお前は、初めて自分と他のウマ娘を比べて他のウマ娘を選んだトレーナーってことでな」

 

 沖野が唸ったように、彼女の認識はある意味で不正解だ。

 確かに比べたか比べないかで言えば前者なのは間違いないが、それは単にトレーナーとしてどちらをより高みへ育て上げられるかという一点だ。

 彼女の思うような実力の優劣など、ここに居るような本物のトレーナーたちにとっては些事なのだが――如何せんそれを理解してもらえるほどの環境に、今のウマ娘たちは居ない。

 

 テイオーをスカウトしようとしたトレーナーの数を考えれば、それは自明だろう。

 

 ただ、その勘違いに対しての神谷の反応は、それを正そうとするものではなかった。

 

「ほーん……それで、どうなん?」

 

 なんだその問いは、と疑問符を浮かべるナイスネイチャの横で、しかし分かり切ったことのように沖野も頷く。

 

「ああ。そのままでいいか?」

「ええっ!?」

 

 思わず声を上げるナイスネイチャに2人の視線が突き刺さり、思わず耳がへたれねいちゃ。

 

「え、あーいや、その。どんな話ですかこれは」

「んな難しく考えんな。単純に、そう思ってた方が沖野サン……っつか、テイオーにとって都合が良いって話だろ」

「良し悪しで言えば微妙なとこだ。だからこうしてお前に相談持ちかけてるわけだしな。じゃなきゃお前の許可なんて要らん」

「ほんとこのウマ娘キチはよぉ……俺のことなんだと思ってやがる」

育成備品(トレーナー)

育成備品(沖野)サンさぁ……」

 

 似たり寄ったりの二人であった。

 

「それで……どうだ、神谷」

「……」

 

 この振りでいったい何が分かるんだ、と困惑するナイスネイチャをよそに、真剣に考えている様子の神谷。

 彼はしばしの沈黙のあと、ちらりとナイスネイチャを見やった。

 首を傾げてみれば、小さく笑う。その笑みがずいぶんと勝ち気で――あの日の夜と重なるようで。うっかり見とれてしまった自分の首を慌てて振っていると。

 

「良いと思うぜ」

「良いんだな? テイオーの熱を冷まさないでくれるってことで」

「ああ」

 

 つまりは、そういうことであった。

 比べられて、自分を選ばなかったという現状は、それなりにトウカイテイオーのモチベーションを上げてくれている。

 だから勘違いを正さない。

 

 しかしそれは諸刃の剣だ。

 

 その、トウカイテイオーよりも選んだ方のウマ娘が。

 

『なんだ、大したことないじゃん』

 

 でトウカイテイオーの心の決着が済んでしまえば、彼女のモチベーションは逆に大きく下がるだろう。絶不調も良いところだ。

 

 だから沖野は問うたのだ。

 お前の選んだそのウマ娘は、トウカイテイオーとやり合って、トウカイテイオー(俺の担当ウマ娘)に熱を用意してくれるような強いウマ娘になってくれるのか、と。

 

 そして神谷の答えは当然のYESだった。

 

 ここで交わされたのは、それだけの話だ。

 

「えっと、トレーナーさん……?」

「おう、どうした未来のウマ娘界の至宝」

「なんだそりゃ……。えっ、二人してその目は何? せめて冗談で言ってる空気出してよ、えっ、あれ!?」

「――お前がそこまで言うのか、神谷」

「沖野トレーナー、しんみりしないで貰えます? どんなに持ち上げられたってネイチャさんはしょせんネイチャさんなんですが?」

「ああ分かってるぜ。天はナイスネイチャの上にウマ娘を作らず、だろ?」

「なにが????」

 

 もげんばかりに首を傾げたナイスネイチャを置いて、沖野は口角を吊り上げ神谷を見やった。

 

「なら、俺も改めてテイオーをスピカに招待する。お前らに負けないようにな」

「おう」

「話は付いたみたいな空気のところ申し訳ないんだけど!! これ当事者はアタシだよね!? 知らない間にテイオー相手にライバル宣言みたいなことになってない!?」

 

 慌てたのはナイスネイチャである。

 先ほどまでの話を総合すれば、とても自分に無関係だとは思えない。

 わたわたする彼女を前に、しかし神谷は余裕を崩さない。

 

「そんなに驚くことかよ。どのみちトゥインクルシリーズではぶつかるんだ。俺の予定ではその時には、ナイスネイチャはテイオー様に勝てる準備が出来上がってた」

「…………っ」

 

 信じない、とはもう言えなかった。

 そうなれるならどれだけ良いかとも思った。

 

「ただまあ、沖野サンがトレーナーか。あの人マジ化けもんだからな。チームスピカはもうすぐ、リギルに並ぶチームになる」

「……じゃ、じゃあやっぱり」

「だから、俺が付くナイスネイチャと沖野サン付きのトウカイテイオーだと――マジでどっちに転ぶか分からねえ勝負になりそうだ。……わくわくしてきたな」

 

 その強気な笑みに、ナイスネイチャは思わず口を噤む。

 

 『勝てる』と断言しないところが、妙にリアリティに溢れていた。

 

 そうすると逆説的に、彼の言う全てにリアリティが生まれる。

 それは先の、『テイオー様に勝てる準備が出来上がってた』というところもだ。

 

 もしかしたら本当に、トゥインクルシリーズ出走時にはそのくらいになっていたかもしれない。なれていたかもしれない。

 

 それなら――沖野とトウカイテイオーを相手に勝つか負けるかは、自分次第ではないか。

 

「……ふぅ。荷が重いなあ」

「軽々しく捉える奴より何十倍も良いじゃねえか。めいっぱい緊張して、悔いのねえように練習する。今の俺たちに出来るのはどのみちそれだけだ」

 

 思えば神谷は、今日は決起集会だと言っていた。

 今日出走するウマ娘にこれといってナイスネイチャの縁ある子が出ているわけでもないのにだ。

 だとすると、ひょっとしたらこの話については最初から聞かせるつもりだったのかもしれない。

 

 強気な笑みを崩そうともしないこのトレーナーが、どこまで考えているのかは分からないけれど。

 それでも、頼もしいと思えることだけは変わらなかった。

 

「沖野トレーナー、凄い人なんだね」

「ん? そうでもねえぞ?」

「えっ」

 

 だからこそしんみりと呟いたセリフに降りかかる否定。

 顔を上げれば、神谷は「あれあれ」と指を差す。

 

 

「えぇ……?」

 

 示された先に、彼女が視線を向ければ。

 上京したてのような雰囲気の、リュックを背負った少女を相手に。

 

「うーん……トモの作りも良~いじゃないかぁ~」

 

 嘗め回すようにその脚をべたべた触る沖野の姿があった。

 

「しかしそうか、トウカイテイオーを沖野サンが……。――負けられねえな、俺も」

「あ、あの状態の人相手にそんな雰囲気出されても……」

 

 

 視線の先で、後ろ蹴りを食らった男が大の字に伸びていた。



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幕間:トレーナーたちの夜

 その日の夜のこと。

 ナイスネイチャを寮まで送り届けた神谷は、改めて沖野を呼び出して外へと繰り出した。

 

 向かう場所については特に考えてはいなかったが、沖野自身の提案で、彼の行きつけのバーが目的地と相成った。

 

 その方が都合が良いということだったので深く考えもせず向かった神谷だが、沖野に連れられて店に入ったところで選択を早くも後悔することになる。

 

「おいおい、俺は沖野サンと話がしたかっただけなんだが……?」

「そう言うな。お前の呼び出しの方が後だ。冷静に考えりゃ分かるだろ」

「――まぁ、な」

 

 カウンターには既に1人、長髪の美人が腰かけていた。

 スーツをぴしりと着こなしたその背中はしかし、抑えきれない怒りと共にある。

 

 神谷とて知らない仲ではない。

 東条ハナというそのトレーナーは、学園最強のチーム"リギル"のトップであり。

 そして何より、今日沖野が余計なことをやらかしたサイレンススズカのトレーナーであった。

 

 そりゃあ、話をしなければ筋が通らない。

 

「――来たわね」

 

 そう振り向いた彼女の表情は決して酒の色に溺れることなく、怜悧な印象を崩さないまま。

 沖野の後ろから顔を出した神谷を目にして、その眉をひそめた。

 

「援軍を連れてくるなんて、なるほど? アンタも懲りないのね」

「ああいや勘違いしないでくれオハナさん。こいつぁこいつで俺に話があるとかで」

 

 へら、と笑う沖野の後ろで、神谷も頷いた。

 

「ああ。俺が沖野サンを守る理由は1つもねえ。好きにしてくれ。あとで話す口さえ残ってりゃそれでいい」

「……そう」

 

 納得と、それからある種の決意を持って。

 沖野を見据える東条の瞳が、細まった。

 

 

 

 

 

 

 

 サイレンススズカは今日、驚くほどの圧勝を手にした。

 

 それはここ最近の彼女の停滞ないしは惨敗ぶりと比べても、色鮮やかに映った勝利と言っていい。

 何より、走っている時の彼女がどれだけ楽しそうで、自由で、美しかったか。

 

 初めて上京してきた少女が、その走りに一瞬で魅せられたという点を見ても彼女の"大逃げ"は大成功と言ってしかるべきだろう。

 

 だが、かといってそれを外部のトレーナーが為すことは褒められたことではなく。

 筋を通すのであれば少なくとも事後承諾では罷らない。

 

 ――ただ、先に言って同じようにサイレンススズカがあの走りを可能としたかと言えば答えは否であることも、東条トレーナーは理解していた。

 

 事前にそんな話を振られたところで、確かに許可はしなかっただろう。

 

 逃げは、勝利の定石ではない。

 その理屈は、ああしてサイレンススズカが勝利を手にしたあとでさえ覆らない。

 

 ならば。

 

 サイレンススズカはいっそ、沖野に預けよう。

 

 そういう決断を下せるのが、やはりウマ娘の為を想い行動できる一流のトレーナー東条ハナという女だった。

 

「はー、東条サンもバカだなー」

「それを言うなら、ここにはバカしかいないわね。違う? 神谷トレーナー」

「それーなー」

 

 たとえ神谷が東条の立場だったとしても、サイレンススズカを手放す選択を取るだろう。

 

 だがそれは、己が有能であればこそ取れる選択肢だ。

 

 自分よりも優秀な者に仕事を振り分けていった結果、自らの手に何も残りませんでした、ではトレーナーは立ち行かない。

 誰よりも自分が育てられる素質というものがある――その確固たる自負があればこそ、その行動を可能とするのだ。

 

 ほんの一握りにのみ許された選択。

 そうでない人間はトレーナーを辞めるべきかと言えば、そうではない。

 

 この3人だけで、中央トレセン学園を回すことは出来ない。

 才というものは希少で、得難いのはウマ娘もトレーナーも変わらない。

 それだけの話である。

 

 

「まあそれはそれとして、沖野サンは東条サンに借り作ったな」

「うっ……まぁ、それはそうだな……。オハナさんに何かあれば、俺がなんでも引き受けよう」

「ええ。是非そうして貰いましょうか」

 

 不敵に微笑む東条と、頭を掻く沖野。その隣に並んでソルティドッグを傾ける神谷は、頬杖を突いて少しばかり酒精に感情を任せながらぼやいた。

 

「そろそろ良いか、沖野サン」

「――ああ、まあおおよその話題は把握してる」

「なに? この男は神谷トレーナーにも何かやらかしたの?」

「そうなんだよ東条サン。ちょうどいいから聞いてってくれや。アンタにも、トレーナーとして思うところはあるはずだ」

「へえ?」

 

 興味深げにロックのブランデーを揺らす東条も、そろそろ酔いが回ってきたか。

 美人が頬を朱で彩るのは目の保養だなどと思いつつ、神谷は口火を切った。

 

「俺の担当……ナイスネイチャってんだが。俺はアイツが最高のモチベ維持し続けられるように色々手ぇ尽くしてんだよ」

「モチベーション、ね。あまり私はそうした感情の信奉者ではないけれど……トレーナーとしてウマ娘に気を遣っているということは理解したわ」

「結構大事なんだぜ、調子って……いやまあ、育成論を戦わせるより沖野サンボコす方が先だわ。この野郎あろうことか俺のウマ娘のやる気削ぎやがった」

 

 じろ、と睨めば。

 沖野はそれでも静かにバレンシアを口にするばかり。

 その目は遠くを眺めているようで、決してふざけているわけではないのだろう。

 ただ同時に、謝る気もなさそうだった。

 

「何があったの、神谷トレーナー」

「特別なのはナイスネイチャじゃなくて俺だとか言いやがってな」

「――事実だろ」

「おい」

 

 謝罪どころか、意見を曲げる気がないと沖野は神谷へ目をやった。

 

 据わった瞳の神谷と視線を交え、しかし沖野は動じない。

 

「――お前、フランスで何であんなことになったのか、分かってないのか?」

「それとナイスネイチャは関係ねえ」

「そうなる可能性は、たとえ今のナイスネイチャが気落ちすることがあったとしても、今のうちに消しておかなきゃならねえ。でもお前は絶対にやらねえ。なら俺がやらなきゃ、ナイスネイチャは大成しないまま終わるかもしれねえ」

「あのさぁ……たとえもし"そうなった"としても今はアイツにとって大事な時期だって分からねえかなぁ……」

 

 これは決して、ウマ娘の前ではできない会話だった。

 だからこそ神谷も改めて席を設けたし、この場にトレーナーだけしかいないのもそれが理由だ。

 

 トレーナーである以上、担当の前では見せられない姿というものはある。

 

「……話が見えないわね、二人とも。神谷トレーナーがフランスでやらかしたという、貴方が懸念する事態というのは何?」

 

 とんとん、と人差し指でカウンターを小突く爪の音。

 取りまとめるような東条の言葉に、沖野は一息。

 

「簡単に言えば、ウマ娘が神谷の言うことを聞かなくなるんだ」

「……モチベーション、制御……なるほど、そういうこと」

「なんで分かるの? アンタもたいがいおかしいな???」

「リギルのトレーナーを舐めるな若造」

「いやそんな歳かわら――」

 

 東条が指で己の年齢を示す。

 

「見た目わっっっか!? マジ!? 全国の男が放っておかねえ!!!」

「興味ないわね。……それより。要はウマ娘の自己肯定感を強めた結果、その代償として神谷トレーナーは存在価値を疑われることがあると、そういうことね?」

「……」

 

 憮然とした様子の神谷を、東条は鼻で笑う。

 

「やはりモチベーションなど、そう必要な話ではないということ」

「おいコラ、ウマ娘の精神環境をもとにした練習効率上昇のデータとか見ねえのか?」

「それよりも、多数の優秀な者同士での切磋琢磨を繰り返すことで、彼女ら同士に繋がりを作ることの方が意味があるわ」

「ぐっ……てめえで作り上げた環境をフルに使いやがって……」

 

 リギルのメンバーで行われる友情トレーニング。

 空恐ろしいものを感じて頬をひくつかせる神谷だった。

 

 そしてそこに油を注ぐ沖野である。

 

「ま、全部体力消費を抑えて怪我させねえようにした、単純な練習数を増やすことで得られる経験量にはかなわねえんだけどな」

「んなもん押さえすぎても効果が薄れるだけだろが」

「バカの1つ覚えのように練習を繰り返すより、休みの間に得られる知識を組み合わせた方が効率的よ」

 

 やいのやいの。

 結局トレーナーが三人も集まればこんなことにもなるのだが。

 

 ひとしきり騒いだところで、一息ついた沖野は言う。

 

「――話戻すけどな。お前は正直、俺やオハナさんには育てられないような子を、高みに連れていく力がある。もちろんスズカのことがあるように、俺とオハナさんだってタイプは違うが……お前のそれは、そうだな」

「日の目を見ねえウマ娘、とでも言いてえんだろうが、それでも俺にとっちゃ」

「神谷トレーナー。隣の芝は青いと言うけれど、己の長所というものは得てして己にとっては何でもないようなものに感じられるもの。私だって、もっと多くの生徒を育てたいとは常々考えているわ」

 

 だが、東条にはそれは出来ない。

 才能を自覚し、自らの力でそれを見出したウマ娘にどんな状況でも戦えるよう仕込むやり方こそ、東条ハナの進む道だからだ。

 そして沖野はまた、やりたいようにやるその熱意を力に変えるタイプのトレーナー。

 

「迷っている者に道を示すその在り方は、ひとたび彼女らが道を見つけてしまえば不要なものになるかもしれない。でも結局彼女らの本質は変わらない。なのに本人たちでそれに気づくことは難しい。……沖野のしたことは、間違ってる?」

「……………………」

 

 ぐ、とカクテルを飲み干して。

 神谷は呻くように言う。

 

「分かってんだよ別に。でも今じゃなくたって」

「自信がない、結果も出せてない、そういうとこからお前と一緒に這い上がる。その前に言うから意味があるんだ」

「…………ちっ」

 

 そんなやり取りに、少し東条は口元を緩ませて。

 

「あんたがわざわざフランスから呼び戻した理由が分かったわ。得難いトレーナーね」

「ああ。自慢の後輩だ」

 

 笑い、応える沖野。

 ただ、と眉を下げて彼は続けた。

 

「お前、担当ウマ娘に刺されないようにしろよ」

「んぁ?」

 

 なんの話だ、と顔を上げる神谷に、東条も眉を寄せる。

 

「聞き捨てならないわね神谷トレーナー。モチベーション維持のためにまさかうまぴょいしてるわけじゃないでしょうね」

「うまぴょいってなんだどういう意味だコラ。担当に気持ちよく走ってもらうために全力尽くすのはトレーナーの義務だろうが」

 

 東条に睨み返せば、沖野が言葉を継ぐように。

 

「レース場でお前言ってたじゃねえか。ナイスネイチャに隠すことなんて何もねえ、とか。その様子じゃ、ウマ娘のことで嘘は吐かないみたいなことも言ってんじゃねえか?」

「言ってるが??」

 

 片眉を上げ、当然のように言う神谷。

 沖野は小さくため息を吐いて、あのな、と言葉を漏らした。

 

「俺もオハナさんも、お前にウマ娘預けようって話をしてるんだ。うちのダイワスカーレットしかり……」

「うちのグラスワンダーも、頼むことがあるでしょう。彼女のもう一歩の伸びは、正直あなたに期待したいところよ」

「……とまあそういうわけだ。普段のお前の練習だと……」

「んなもん心配すんな。俺だって向こうじゃチーム組んでたんだ。練習のノウハウは死んでるとはいえ、ウマ娘が互いに持つ対抗心とかは理解してる」

 

 特に、神谷の受け持つウマ娘は今も昔も雑草魂が強烈故に。

 

「俺は覚えてるぞ神谷ぁ……フランス渡った後、お前の電話にウマ娘が出たの」

「変なことばっか覚えてんなアンタ。フランス語喋れねえアンタがわたわたした話だろ?」

「いやそもそもなんで他人がお前の電話取るんだよ……携帯だぞ……」

「そいつは元々男のトレーナーに不信感があるって話だったから、俺に隠すことなんてなんもねえって鍵とか全部渡してたからな」

「――神谷トレーナー、さては頭がおかしいわね?」

「なんでだよ。んなことでストレス溜められたらそっちのが面倒だろ」

 

 肩をすくめてみせる神谷は思う。

 本当に見せたら拙いような代物は隠しているからいいではないかと。

 たとえば男ならば誰しもが抱える夜の諸々をインストールした専用のスマートフォン。

 たとえば別名義で用意しているスイスの銀行口座。

 たとえばいざという時に行方を眩ませる為の伝手。

 

 そんなもの一流のトレーナーなら誰でも持っているし、ウマ娘であるか否か問わず誰にも教えることなどない。

 

「女は秘密が多い方がモテるが、男は嘘を吐かない方が印象が良いんだぜ?」

「誰にも嘘だと分からなければ嘘にはならない、か。なるほど、言うものね」

「オハナさんも何を納得してるんだ……じゃあウマ娘関係でトラブルになったことは今のところ無いんだな?」

 

 妙な念押しだなと首を傾げつつ、頷く神谷である。

 

「ああ、未来永劫ねえよ。っつーか昔から恋愛的な意味でモテるのは沖野サンの方だろ」

「……だからこその忠告なんだよ」

「んぁー、これは何かありましたね東条サンや」

「薄々察しては居たもの。まあ、男でトレーナーをやる以上、それは甘んじて受けるべき覚悟が必要なものよ」

 

 しみじみと頷きながら、青のジョニーウォーカーをしれっとパーフェクトサーブしている東条トレーナー。

 

 その横で平然とシャンディガフを注文する神谷。 

 

 混沌のバーカウンターに唖然としつつ、溜め息を1つ吐く沖野である。

 どうやら二人とも、自分の過去に胸を痛めてくれるつもりはないらしい。

 

 つまみのナッツをかじりながら、既に神谷の話題はまた次だ。

 

「最初の頃は俺もぼんやり、いつか担当ウマ娘と結婚する未来もあんのかなーとか思ってたけどな。男のトレーナーって、要は高校運動部の女子マネみてえなもんじゃん?」

「……まあ、当人がそういう認識なら否定はしないけれど。職務を全うする上で、組織内で人気を博し、近しい誰かと結ばれる。そういうケースは多いし。神谷トレーナーが、今更自らの職務を軽んじていないと信じたうえで頷いておくわ」

「論点はトレーナーの存在価値についてじゃねーしな。環境の問題っつか。恋愛目的でトレーナーやってる奴が居るくらいにはもう常識みてえな話だし。これ」

 

 実際男のトレーナーはモテる。

 ウマ娘がそもそも女性しかいない以上、やはり女性への理解という意味で女性のトレーナーに一日の長がある中、結果を出し続ける男のトレーナーというのは希少だ。

 

 レースに憧れることに男女の違いは無いとはいえ、トレーナーというのはレースへの憧憬だけで出来るものではない。

 

 二人三脚で夢を追ううち、そういう感情になることを殊更否定はしない。

 

 ただ。

 

「案外、そういう風にはならねーんだなってのが俺の長くねえトレーナー歴での感想。単純にさ、夢に向かって頑張るのに、全然関係ない目標(恋愛)なんて邪魔なだけなんだよな、多分。あいつらはギラギ……あー、キラキラすることに集中してて、それを一緒に叶えることに俺も沖野サンも全力なわけで」

「……さて、どうでしょうね」

「あ、ひょっとして俺が恋愛対象になり得ない的な方面? 清潔感? 顔?」

「違うわ」

 

 緩く首を振って、東条は言う。

 

「むしろ逆。あなたたちのようなトレーナーばかりだから、男性トレーナーはモテるわけで……なぜ食われてないのか不思議なくらい」

「お世辞でも喜んどくぜ。言い方はマジどうかと思うが」

「ふっ。そうしておきなさい。……それに、案外と恋愛(そういうもの)だって邪魔にならないものだったりするのよ。誰かの一番になりたいという気持ちは、ウマ娘の場合レースに顕れたりするものだから」

「へー。見たことねえやそんな論文。エビデンスあんの?」

「エビデンス? そうね……」

 

 自らのチーム、リギルでも最強最高の"皇帝"を生み出した、東条自身も敬意を抱くトレーナーを思い出し、小さく笑う。

 

「そんなもの、誰も文面なんかに起こしたがらないわ。文字に起こすことが出来るほど、安くないのよ?」

「へー。案外ロマンチストなんだな、アンタ」

「ただのリアリストにトレーナーが務まるとでも?」

「違いない」

 

 からん、となんとなく互いのグラスを掲げて笑う。

 

 神谷にとって、新たなトレーナーとの絆が生まれた日であった。

 



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ネイチャさんとこの二週間

「おい!! おいナイスネイチャ!! 見ろ!!」

「ちょ、ちょちょ何ですか急に!!」

 

 ゴール板を駆け抜ける度、心地よさが増す。

 練習を繰り返す度、楽しさが心を弾ませる。

 疲れ切った身体が翌朝になってまた練習する気力を取り戻していると、それだけで少し嬉しくなる。

 

 充実した日々の中で、今日もまた芝を疾駆した彼女を待っていたのは、やけに興奮した様子のトレーナーだった。

 

 慌てて思わず半歩下がってしまうのは、自らの汗が匂わないかと気にしてしまうからで。しかしそんなことはお構いなしに、トレーナーは自らの持っていたクリップボードを彼女にも見えるように傾けた。

 

「えーっと、これはいつもの……」

「そうだ、お前の記録だ! っしゃあ!!」

「そんなガッツポーズ決められてもですね、ネイチャさんには何が何だか……」

 

 いつもの調子に、もはや周囲で練習している他の面々も慣れたもの。

 また始まった、と呆れる一団があれば――真剣な眼差しを送るトレーナーやウマ娘もちらほらと。

 

 こうして専属となったトレーナーと練習を繰り返すうち、彼女も気づいたことがある。

 それは彼が喜ぶ時は、ナイスネイチャ自身が何かを成した時であるということ。

 

 たった数㎝でも記録を更新すればこうして報告してくれるから、それは確かに彼女としても嬉しかった。たったこれだけのことで、と己を叱咤する内なる自分もいるけれど――目の前のトレーナーがこれだけ喜びを露わにしていると、そんなネガティブな感情も萎んでしまう。

 

 最初の日に、疲れ果てるほどに幾つも取られた記録。それを1つずつでも更新すればこうして喜んでくれるとあって、ナイスネイチャとしてもやりがいを強く実感していた。

 

 だからつまり、今日も。

 

「えぇと……何か、ちょぴっとはアタシも成長出来ましたかね……?」

 

 頬を掻いてそう問えば。

 待ってましたとばかりに、そのずっと見ていたい満面の笑みがさらに深くなって。

 

 

 全ての始まりから、今日でちょうど二週間。

 

 

「――ついに、初日のすべての記録を一度塗り替えたぜ」

「まじ!?」

 

 思わず、彼女の尻尾までピンと張った。

 

 だって、それは幾ら何でも。

 小さなことでも喜んでくれる神谷でなくとも。

 誰がどう見たって、明確な成長だから。

 

「俺はお前のことで嘘は吐かねえ。いつも言ってんだろ?」

「うん……うんっ……」

「――よく俺を信じてここまで頑張ってくれたな。ありがとよ」

「ちょ、やめてよそんな、しんみりしちゃってさぁ……」

 

 どれだけ、目に見える成長を望んだだろう。

 結果が出なくて、必死にもがいて、もがいて、もがき続けて。

 

 どんなに負け続けても、己に賭け続けるしかなかった人生で。

 ごまんと居るウマ娘の中で、頂点に立てないと絶望して、己に強く失望して。

 

 目に見えないゴールを求めてさまよい続けた先に見えた一縷の希望。

 

 それは決して間違いではなかったと、たった今証明されたのだ。

 

「……っし!」

 

 ぐ、と拳を喜びに握りしめるナイスネイチャをよそに。

 

「ちょっとそこのお前ら聞いてくれ!! うちの担当が――」

「う、うわあああああ何してくれてんだあああ!」

 

 ストレッチ中のウマ娘たちにだる絡みを開始した自分のトレーナーを、必死に連れ戻す彼女であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「もぅさー。ほんとさー……」

 

 昼食時の食堂で、ぶちぶちと文句を垂れるウマ娘が1人。

 しかしその耳はピンと張って、尻尾は実に後ろの通行の邪魔である。

 

 テーブルを共にする二人の少女は顔を見合わせ、愚痴る彼女をよそに議題を立てた。

 果たしてこれは、文句と言えるのかどうか、と。

 

「や、まあね? アタシが自分のこと全然信じてないのは認めるよ、認めますよ? そういう意味じゃトレーナーさんはホントにアタシのこと良く分かってるというか、こうやって今日まで頑張ってこられたのはトレーナーさんのおかげではありますけども? でもちょっとオーバーというか、やりすぎな感じがするといいますか」

 

 頬を掻く彼女の目じりは完全に下がっており、てれてれとした表情にはどう見ても苦情の色は無いのだが。それでも当人はこれを愚痴と言い張っているからして、ただの友人たるトウカイテイオーはぐでっと上体をテーブルに乗せるのみであった。

 

「マヤノー……いつまで続くのこれー……」

「ダメだよテイオーちゃん。オトナのオンナはこうやってオトコの話をするものなんだから!」

「うぇえ!? そ、そういう話なのこれ!?」

「マヤもデートの話とかしたかったんだー。トレーナーちゃんがこの前、海に連れてってくれたこととかねー」

 

 それが目的であると言って憚らないもう1人の少女――マヤノトップガンは楽し気だ。

 

「ネイチャちゃん!!」

「ん? 分かってくれる?」

「うん、すっごく分かるよ! やっぱりネイチャちゃんはあの人とくっついて大正解だったんだね!」

「く、くっついたっていう言い方は少しこうアレなんだけども」

「んぅ? でもそーしそーあいでしょ? マヤと一緒!」

「ちょ、ちょっと!?」

 

 愚痴のつもりがあらぬ方向へ話題がかっ飛び、慌てて顔を上げるナイスネイチャ。

 その朱に染まった頬を見て、トウカイテイオーの目がきらりと光る。

 

 ここまでさんざん惚気に付き合わされたのだ。せめて一矢報いねば気が済まない。

 

「確かにボク、神谷トレーナーにフラれたしなー。最強のボクの誘いを断ってネイチャに行くんだもん、そーゆーことだよねー」

「テイオーちゃんダントツだったはずなのにねー。トレーナーちゃんはネイチャちゃんに一目惚れだったってことだね!」

「あれ、レースの日マヤノいたっけ」

「その日はトレーナーちゃんと海デート!」

「?????」

 

 何を言ってるんだ、とばかりに首を傾げるトウカイテイオー。

 ニコニコと楽しそうなマヤノトップガンは、彼女の疑問を全く意に介している様子はなく。

 

「ねーねー、ネイチャちゃんは初デートどこ行ったの?」

「ふーん。専属で楽しそうにしてるんだー」

「ちょ、ちょっと待った!」

 

 慌てて制止するナイスネイチャの顔は赤いまま。ただ、その眉を少しだけ垂れさがっていて、照れの中にほんの少しの寂しさのようなものが垣間見えた。

 

「た、確かにトレーナーさんは、アタシと一緒に頑張ってくれるって……その。言ってくれた。でも、マヤノが言ってるようなのじゃなくて、ほんとにトレーナーさんはアタシが頑張れると思ってくれてて……」

 

 だから、その。

 そう口ごもる彼女の抱く感情は複雑だ。

 嬉しいというのが、一番強い。それはそうだ。でも、一切それ以外の感情が無いかと言えばまた別で。

 

「テイオーよりアタシを選んでくれたのは……そーゆーのじゃなくて。アタシの脚を信じてくれたからで」

 

 あの日の熱を、不純なものにしたくないという想いがある。でもそれとは別に、一切無いと本人から否定されるのは、それはそれで少し傷つきそうだという想いもある。

 

 あの人は、レースに本当に真剣で――。

 

「ってこれじゃあアタシが真剣じゃないみたいじゃん。違う違う。そういう意味でアタシを選ぶなんてこと、ないないあり得ないから。あはは」

 

 だから自分から言ってしまおう。それが、いつもの自分だから。

 

「むー、それ余計に腹立つなー! トレーナーにネイチャと勝負の予定組んで貰おーっと!」

「ええ!?」

 

 かといってそれが周囲の納得に繋がるかと言えば答えは否だ。

 

「だってそーじゃん、ボクの方が強いんだぞ!」

「あ、はは……こいつめ、相変わらずキラキラしてんなー……」

「ボクよりネイチャを選んだことが間違ってたって教えてやるー!」

 

 宣言は強気も強気。けれど表情は勝ち気で笑顔。

 先ほどまでのぐでっぷりはどこへやら、そのまま立ち上がってトレーを片付けに駆けていくテイオーを、ナイスネイチャは見送った。

 

 その時、どんな顔をしていただろう。

 

 トレーナーが間違っていたと思われるのが嫌?

 違う。そんなことはない。

 自分でも間違っていると思っている。今でも、トウカイテイオーより自分を選んだことに対しては疑問が募る。

 それを人から突き付けられたから嫌だったのか。それもまた少し違う。

 少なくとも、当事者であるトウカイテイオーに言われる分には、仕方がないと納得も出来る。

 

「ネイチャちゃん!」

「うおびっくりした、どうしたマヤノ」

 

 ぐい、とテーブルの上に上体を乗せて、ナイスネイチャの眼前にまで顔を寄せるマヤノトップガンは、とても楽しそうに笑っていた。

 

「マヤ、わくわくしてきちゃった! ネイチャちゃんのその顔好きだよ!」

「え……どれ?」

「もう無くなっちゃった」

「なんだそりゃ……」

 

 肩を落とす。

 相変わらずというべきか、マヤノトップガンの感性にものを言わせた言動には振り回されっぱなしだ。

 そのキラキラした瞳はいつも眩しくて、見ている分には本当に眼福だけれど。

 

 不思議と最近、マヤノトップガンやマーベラスサンデーが、自分たちでキラキラするよりもこっちを見ていることの方が多くて困惑する。

 

「ちょっと前まで、ネイチャちゃんあんまりわくわくしなかったけど。ネイチャちゃんのトレーナーちゃんが出来てから、マヤもすっごく楽しいよ! 今度Wデートしようね!」

「だからデートするような間柄では――」

 

 

『ああいや全然迷惑ってことはないけど。お邪魔じゃなければ? トレーナーさんを迷子にすることはないんじゃないかなー』

『おいおい、俺は迷子にならねえから、それはただのデートだぜ?』

 

 なんか思い出したナイスネイチャ。

 

「――ぅあ」

「デートだね!!」

「……練習に、差し支えない範囲で……はい……」

 

 縮こまる彼女が小さく頷くと、マヤノトップガンは嬉しそうに両手を振り上げるのだった。

 

 

 

 

 テイオーの発言に、つかえた胸のしこり。

 それを自覚した時が彼女のメイクデビューとなることを、今の彼女はまだ知らない。

 

 



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副会長さんと貴様

 エアグルーヴは最近、バファリンとEVEの味の違いが分かるようになった。

 

 

「で、そん時東条サンが言ったんだよ。不敵で怜悧な表情で、『違うか、神谷トレーナー』って」

「ふむ、それで?」

「ああ、だから俺は頷いてこう言ったんだ。『それーなー』ってな!」

「ふはははははは!!」

 

 今日の天気は雨。

 頭痛はきっと気圧のせいだ。そうに違いない。

 

 断じて、敬愛する生徒会長に妙なものを吹き込み続ける宮廷道化が増えたからではない。

 

「しかし恐れ入るよ神谷くん。なるほど確かに、1人で完結するジョークというのは限界がある。会話の中で自然に受け答えの中に馴染ませる。それはきっと、さぞ和やかな歓談を生み出してくれるに違いない」

「結局ジョークだってコミュニケーションの1つだもんな。笑う側と笑わせる側にきっちり分かれる必要なんてねえんだ。それすら与えるばかりじゃあ、与えられる方も自立出来ねえしなー」

 

 正直、エアグルーヴはこの男を扱いあぐねていた。

 決してただのバカではない。会長に馴れ馴れしいのは腹立たしいが、知性の低い会話をするわけではない。

 会長自身が客として認めていることもあり、強く出られないのが実情だった。

 

「さて。楽しい話も良いが、こうして生徒会室にやってきたのは何か用事あってのことだろう? 今日はどうしたんだ?」

「俺としちゃお前とずっとこうして話してても楽しいからそれでも良いんだが」

 

 

 やめろォ! と内なるエアグルーヴが叫んだ。

 

 

「まあ、お前ほどじゃねえけど俺もやることあるし。つまりお前はアホほど忙しいし。邪魔しに来たわけじゃねえよ。雨でやること減ったからちょうどいいと思って、改めて報告にな」

 

 雨がばらばらと窓を打つ音が、少しばかり耳に心地良い。

 向き直った神谷の表情は柔和で、穏やかで。相対するシンボリルドルフもまた、長年の友を前にしたような笑みを浮かべていて。

 

 これだ、とエアグルーヴは思った。

 この静謐な空気感に、割り込むことが出来ない。この時にだけ、きっとこの二人は同じ視座でものを語っている。

 

「――おかげで、出会うことが出来た。同僚にも恵まれた。チームを組むのは無理だとしても、俺は俺の為に全力を尽くす」

「そうか。残念だという想いは払拭されると信じていいのかな」

「ああ。たとえ1人しか育てることが出来ないとしても、トレーナーの仕事はそれで終わりじゃない。あいつと一緒に駆け抜ける、同じレースを共にする全てが、きっとかけがえのない想い出を抱くことが出来るよう尽力する。あいつとなら、一緒にすげえことが出来る」

「必要なもの、場所。あれば何でも言ってほしい。私に出来ることは、なんだってしようじゃないか」

「それは……マジに心強いな」

 

 ふ、と互いに口元が緩んだ。

 片や己の抱く夢の為。片や全てのウマ娘の為。

 スケールの違いに、一見手を取り合うことはないように見えるその二つは、決して道を違えてはいない。

 

「――あのレースの日。キミが見定めた彼女のことを、私も信じてみよう」

「ああ。きっとあいつは、誰よりも……そう。キラキラ出来る」

「ほう」

 

 敢えて彼女なりの言い回しをしたのは、彼女の夢を己の夢と定めているが故か。

 

「まだ夢の途中で、あいつ自身自分がはっきり何がしてえのかはまだ見定められてねえ感じだけど。でも、あいつの走る姿は……そうだな。誰よりも多くのウマ娘に希望を与えることが出来る。そんな気がするんだ」

「誰よりも、とは大きく出たな。私も、負けていられないな」

「ああ。……そうだな、いずれお前とあいつが走るレースが、その夢の体現になるんじゃないかと思ってるぜ」

 

 ――きっと彼女が本当に輝くことが出来れば。

 

 それはきっと、『自分なんて』と膝を折った全てのウマ娘への希望になり得る。

 才能に圧し潰された過去。それでも足掻くことをやめられない心。

 

 それが――はっきりと目に見えたあの時の走り。

 

 神谷は自分なりに、あの日彼女を選んだ理由を分析し終えている。

 

 本当の敵は、諦めだ。

 

 "皇帝"に抱く素直な憧憬とはまた別の、誰しもが自らを重ねることが出来る希望。

 

 それがきっと、彼女にはある。

 

「ナイスネイチャ。彼女とレースで競う日を、心から楽しみにしている。そう伝えておいてくれ」

「ああ。…………いやうん、いずれな。今は無理。流石に潰れる」

「その今を、潰れない未来に変えることが出来るキミを、私は信じて待っていよう」

「そうしてくれ」

 

 満足げに頷いたシンボリルドルフに、神谷も笑う。

 

 もしも今のナイスネイチャにこの話をしようものなら、あまりのプレッシャーに圧し潰されるだろうことは目に見えている。

 けれど。

 

 きっと未来はそうではない。

 自信がつき、実績を手にした彼女はきっと、照れくさそうに『勝てるといいなあ』などとぼやきながら、皇帝の進撃のその先を、求め焦がれ走ってくれるはずだ。

 

 

 実際のURAファイナルズで彼女が吐く台詞は、

『そこで見ててね。……アタシの、トレーナーさん』

 だったりするのだが、今の彼らにそれを知る由はない。

 

 

 

「待て、神谷」

「んぁ?」

 

 シンボリルドルフとの話を終え、湿気を帯びた廊下へと足を踏み入れた神谷の背に、生徒会室の前まで出てきたエアグルーヴの声が響いた。

 

 振り向けば、少し悩むような表情ながら、一歩一歩と神谷の前に歩み出て。

 

「会長のお考えは大変立派なものだ。これまで大言壮語を吐く輩は幾らでも居たが、その全てを会長は笑ってお許しになられてきた」

「そりゃまあ、そうだろうな」

「だが貴様はなんだ」

「……フランスから縁故採用で出戻ってきた癖に生徒会長と理事長の手厚いサポートを受けているいけ好かない新人トレーナー、か?」

「自己分析が完璧なようで何よりだ…………」

 

 思わず額を抑えるエアグルーヴ。バファリン飽きたから次はEVEにしようかななどと痛む頭の片隅で考えつつ、彼女は首を振った。

 彼の言うことは間違いないが、だからこそ意味が分からないし――それだけではないことは、ほかならぬ彼女自身が理解している。

 

「会長が、あんな風に話をする相手を――少なくともウマ娘以外では私は知らない」

「んー……」

 

 顔を上げれば、まじまじとエアグルーヴを見つめる視線がそこにあった。

 

「何がしたいのお前」

「どういう意味だ」

「答え知って納得がしたいみてえな言い回しだけど、なんかそれが全部ってわけでもなさそ」

「……それを、貴様に言う理由は」

「ねえけど。言わない理由がないなら、言ってもいいんじゃね? 良い感じの距離感だと思うよ、俺ら」

「……」

 

 良い感じの距離感。

 近すぎず、遠すぎず。言われてみれば確かに、エアグルーヴにとってもあまり無い立ち位置の知人であることは間違いなかった。

 

「俺はお前との話を誰かにベラベラ喋るタイプじゃねえしな。なんだったら誓約書を書いたっていい。お前と今日ここで話した内容誰かに言ったら自害しますって」

「……そこまでは」

「でもそのくらいしときゃ、お前も溜まったもん吐き出せるんじゃねーの? それなら別になんだっていい。そもそも誰にも言わねえんだ、死ぬこともねえ」

「はぁ……」

 

 少し躊躇って。生徒会室の看板を見上げて、一度目を閉じたエアグルーヴは言った。

 

「……来い」

 

 背を向け、向かう先は分からないが。

 ぽっけに手を突っ込んで、えっちらおっちらと神谷は付いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 向かった先が給湯室であったことは神谷にとって少なからず意外なシチュエーションであった。

 この後の仕事に備えてカフェインを摂取しようとするエアグルーヴの動作は慣れたものであり、彼女はそのまま神谷の手元に紙コップのお茶を差し出した。

 

 温かく湯気の立ち上るそれには、きちんとやけど防止にスリーブが巻かれている。

 

「2つしか残っていなかった。間の良い男だな貴様は」

 

 気遣いに感謝し、神谷は素直に礼を告げた。

 

「エアグルーヴのレアスリーブ……」

「死にたいらしいな」

「間違えた。ありがとう」

 

 シンクに背を預け、座る椅子もなく二人で熱いお茶を傾ける。

 

 しばらくの沈黙を切り裂いたのは、エアグルーヴのぼやきにも似た呟きだった。

 

「会長は」

 

 ちらりと視線を向ければ、ぼうと白い壁を見つめて目を細める彼女。

 

「いつかに比べれば、我々にも頼ってくれるようになった。私自身、誰よりも会長の支えになれているという自負はある」

「あの会長相手にそんだけのこと思えるんだから、すげえことだと思うけどな」

「……だが、そこ止まりだ」

 

 その一言がずいぶんと重く感じて、神谷は熱茶を一気にあおった。

 喉を焼く感覚が心地良い。

 

「要はアレだ。俺はそうじゃねえと思ったってことか?」

 

 その問いは半ば答え合わせのようなものであり。

 エアグルーヴは頷く代わりに、熱茶で誤魔化した胸の内の燻りを吐き出すように呟く。

 

「……トレーナーという生き物には、私に見えていないものでも見えているというのか?」

 

 本音を言えば、誰よりも会長の力になりたいのだろう。

 支えにはなれている自負はある。だが、きっと今の"信頼"では物足りないし、シンボリルドルフに頼られるには至らない自分に自覚もある。

 もどかしい想いが、ひしと感じられる。

 

「見えてなきゃトレーナー失格だな」

「それは……私の疑問に対する肯定だと思って良いんだろうな」

「あいつと俺が分かり合ってるっていう、お前の表現はちょいと正確じゃない」

「……」

 

 不愉快そうに、鋭い眼光を向けるエアグルーヴ。

 もちろんそれに動揺するようならそれこそトレーナー失格で。

 

「要は単なる協力関係だ。俺はあいつほどすげえ大望を抱えてるわけじゃねえしな。あいつは全部を見てて、俺は今のとこ1人しか見てねえ」

「……それはどういう」

「でも結局やってることは一緒なんだよな。俺はトレーナーで、あいつはウマ娘だから」

 

 渋い顔のエアグルーヴを一瞥して、神谷は空気を変えるように笑った。

 

「別に、『この先はお前自身が気付くべきだ』なんて、ひと昔前のクソみてえな攻略本めいた言い回しをするつもりはねえんだ。先に答えを知ってから過程を知ることにだって十分意味はある」

「……その答えというのは、なんだ」

「あいつは全てのウマ娘の幸福を望んでる。俺は別にその手伝いをしてるわけじゃない。ただ……俺の担当ウマ娘ならそれを成し遂げられるって知ってるだけだ」

「私とて、会長の大望を知らぬわけでは」

「あいつに言わせるなら、"同じ視座"に立ってるかどうかだろ」

 

 エアグルーヴがシンボリルドルフの望みを知らないはずはない。

 ただそのうえで彼女がシンボリルドルフの隣に並び立てていない理由は、つまりそういうことなのだろう。

 

 一緒に目指す必要はない。手を取り合う必要もない。

 

 ただ。

 

「なんだろ。エアグルーヴは"ソレ"なんだと思う?」

「なに?」

 

 要は多分、そこなのだ。

 

「お前は多分そのシンボリルドルフの夢を素晴らしいとは思ってんだろーけど……お前がお前の望むお前になりたいなら、もう一歩踏み込むべきなんじゃねえかなあ」

 

 俺はお前のトレーナーじゃないから、迷わせるようなことはしたくねえけど。

 そう前置きして続けた神谷の言葉は不思議と、エアグルーヴの心にすとんと落ちた。

 

 感銘を受けたわけではない。

 敬意を抱いたかと言えば、それも正確ではない。

 

 そこにすとんと収まるような、納得があった。

 

「――多分、シンボリルドルフにはもう道筋は見えてて、答えも持ってる。全てのウマ娘の幸福は、どうすれば成し遂げられるのか。まあそれはきっとあいつだけじゃなく、あいつのトレーナーと一緒に見つけたもんなんだろうが」

「っ……なぜ、そう言い切れる?」

「でなきゃ(トレーナー)をあそこまで信じちゃくれねえよ。自分で全部出来てたならトレーナーなんざ要らねえからな」

 

 きっとそれこそが。

 エアグルーヴが、トレーナーを不要と切って捨てた理由そのもので。

 シンボリルドルフが、そう在る彼女にトレーナーが必要だと言った理由でもあるのだろう。

 

「……私は」

「シンボリルドルフが持つ道筋に必要なものを、あいつが教えてくれりゃ"支え"られる。お前の悩みってそういうことだろ。難しいよな。他人の夢なんざ、どれだけ言葉を尽くしたところで完全に理解することは出来ねえ」

「なら貴様はどうして会長とあんな話が――」

 

 そこまで言ってエアグルーヴは、目の前でいそいそと熱茶のお代わりを入れ始めた男を見て気づいた。

 

「協力関係、か」

「気づいた?」

「ああ。気付けないことに気付いたさ」

 

 道理で、分からないはずだと。

 

 バカらしくもなった。

 他人の夢は、どんなに言葉を尽くしても理解することなどできない。

 けれどそれが、自分の夢の話なら。

 結局この男と、自身が心より敬愛する会長は最初から、お互いに自分の話しかしていないのだ。

 

「――お前は、なんだ?」

 

 その問いは奇しくも、最初と同じ。

 だが。

 

「俺は、担当ウマ娘と一緒にすげえことがしたいだけのトレーナーだよ」

 

 答えは先ほどとは違うもの。

 時と場合――この感じはきっと、エアグルーヴの理解に合わせて返答を変えたのだと彼女は察して、無性に腹が立った。

 

 自分の夢は、なんだろうか。

 見つければもしかしたら、本当に理解が出来るだろうか。

 その思考がそもそも間違っているのか――そうか。だから"自分で気付く"が大切なのか。

 ぐるぐると巡る、これまでのこと。

 

「担当ウマ娘――ナイスネイチャ、か」

 

 彼女と一緒なら出来る凄いこと。それがきっと、全てのウマ娘の幸福に繋がると目の前の男は確信している。

 これまで、少なくない数のウマ娘を幸福に導いてきたという男が言うのだ。説得力もある。

 

 そこまで考えて思わず、笑みが零れた。

 

「私は貴様が嫌いだ」

「俺はお前のこと好きだぜ。オークス最高だったし」

 

 ふ、と。彼女は珍しく柔らかい表情で。

 

「黙れ、トレーナー」

 

 ナイスネイチャ。彼女がもし、魅せてくれるというのなら。

 それを楽しみにしていよう。その時はきっと、特等席――同じ芝で。




育成備品「会長と副会長がお前と一緒に走りたいって」
ねいちゃ「!??!???!??!?!??!?!??!?」


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ネイチャさんとキラキラ

 

「これは……ちょうど、いいか」

 

 ストップウォッチの音がカチリ。音とともに呟いた青年の言葉は、風に乗って掻き消えた。

 

 たった今ゴール板を駆け抜けた少女は、ゆっくりと速度を落としていった先でUターンすると、ラチに寄りかかっていた青年のもとへと戻ってきた。

 

 近づきすぎないぎりぎりのラインは、火照る身体を落ち着けるため。そして、変な匂いがしないかと気にせんがため。

 

 世界を熱狂の渦に叩き込むウマ娘という存在は、ゴール板を境に突然その姿をアスリートから少女のそれへと変えるのだ。

 

「えっと……どうですかね、トレーナーさん」

「フォームもばっちり、体幹もブレてねえ。無理はするなと言ったのは俺。……ナイスネイチャ」

 

 なんだろ、と小首を傾げる少女は、渡されたタオルで頬を拭いながら青年を見上げる。

 思考と共にクリップボードへとペンを走らせていた彼は、ちらりと彼女――ナイスネイチャを一瞥して問うた。

 

「マイルも走ってみたいか?」

「えっ? いや、どーかな。急に聞かれてもですね」

「まあそうか。簡単に言えば、軽く鍛えればマイルでも勝てるウマ娘になれるぞって話だ」

「ええ!?」

 

 それは想像だにしていなかった提案。

 確かに、これまで何度も色んな距離を試してきた。

 短距離は元々苦手だったから、それをわざわざ伸ばそうとはしていなかったが。

 

 1600mから、果ては3600mまで。

 

 試すことは試したのだ。どっちも別の意味でしんどかったが、彼女はトレーナーの育成方針には素直だった。

 

 実際、トレーナーたる神谷自身も"試すならシリーズ手前の今しかない"との判断で。

 

 そしてその結果として案の定マイルの適性はあまり高くないというか、数字が思ったように伸びなかったのは、ほかならぬナイスネイチャ自身もよく知るところだったのだ。

 

 だからこそ、自身の担当トレーナーのこの提案は意外だった。

 

「えっと」

 

 少し悩んで、それからナイスネイチャは頬を掻く。

 

「……何を失えばいいんですかね?」

「幸せの総量に限界があるみたいな理論やめろや」

「や、だって! だってですよ!! マイルに勝てるだなんて、そんな話は今まで全然……」

「可能性の無いうちに言って変に期待だけ持たせるわけないだろが」

「うっ……」

 

 そういえば、目の前の男はそういうことをしそうな男であった。

 

 クリップボードをぽんぽんと肩叩きのように扱い、優しい目をこちらに向ける神谷。

 

 期待を抱かせるだけ抱かせて、やっぱりダメでした――なんてことは許しそうにない。

 そうした信頼感だけはもう胸いっぱいで、だからこそこのマイル戦への提案は悩ましいものとして映った。

 

「そりゃ……」

 

 勝てるレースがある、自分でも活躍できるレースがあるのだとしたら出たい。

 

「出られるものがあるなら出たいけど」

 

 でも、と唇を尖らせる。

 そんなに、美味いだけの話があるはずがない。

 そもそも自分がまともにレースで――たとえオープン戦であっても勝てると胸を張って言えるかどうかは分からないままなのだ。

 

 自己ベストは次々更新できているから、充足感こそあるけれど。

 

 神谷から、周囲の成績については聞くな話すな、と厳命を受けていることもあり。

 

 不安は未だ、胸の中に根強く残っている。

 

「ナイスネイチャ」

「なに?」

「――そろそろ、メイクデビューの日取りを決める時期だ」

「っ」

 

 メイクデビュー。

 

 言われてみれば、今回もまた多くのジュニアクラスが出走して久しい。

 この前など、あの東京レース場での観戦日に出会ったスペシャルウィークが弥生賞で輝かしい勝利を手にしたばかりである。

 

 自分の出番が、順番が刻々と近づいていることは、彼女自身にもよく分かっていた。

 

「お前がどうなりたいか、どうしたいかを俺は知ってるつもりだ。だから、これはただの"出来る"という提案だけ。何を以て、お前が"キラキラ"したウマ娘になれたと思えるかどうかだ」

「――トレーナーさんは」

「ん?」

 

 縋るような目を、神谷に向ける。

 ぎゅっとジャージの裾を両手で掴んだまま、おずおずとその口を開いて。

 

「トレーナーさんは、どう思ってるの?」

「俺は、"まずは3冠"を目標においてるぜ? お前は、それが出来るウマ娘だ」

「っ……」

 

 ぽん、と可愛らしいクリスマスカラーのイヤーカバーの間に手を置いてから、神谷は改めて腕を組む。

 

 羞恥にへたった耳と、見上げた視線が捉えたのは遠ざかっていくトレーナーさんの手。

 

「だからあとは、お前自身が後悔しない選択だ。何も俺は、クラシック3冠だけが"キラキラ"の条件だとは思っちゃいない。それは、お前だってそうだろ?」

「――うん。クラシック3冠が取れたか取れないか、じゃ、ない。でも」

「ああ、それが出来るに越したこたぁねえがな。だがそりゃ、逆に言えばお前のやりたいことは何も中長距離の重賞レースだけにあるってわけでもないってことだ」

「……」

「マイルで走りたい、何か求めるキラキラがあるというのなら。それもまた俺が導くべき代物だ。そして――その選択が出来るのは、あともう少しの間だけだ」

「今、言ったのは」

「可能性があるほどに、お前が才能に溢れていたからだ」

 

 

 少し黙って。

 ナイスネイチャは、「ちょっと考えさせて」と、この話を保留にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思えば、選択権を委ねられたのが初めてだった。

 

「朝日杯フューチュリティステークス、阪神ジュベナイルフィリーズ、桜花賞、NHKマイルカップ……G1だけでも、まだまだいっぱい……」

 

 重賞の名を並べれば、その分だけ栄光を手にしたウマ娘の名前も出てくる。

 彼女らの得た"キラキラ"も、胸を打つ憧れだ。

 

 だからこそだろう。こうして悩んでしまっているのは。

 

 廊下を歩きながら、ナイスネイチャは独り物思いに耽っていた。

 

 ――悩んでいい、と神谷は言った。

 

 不思議なもので、あそこまで彼女の体調や精神状態を気にしてくれるトレーナーにそう言われると、意外と練習には響かない。

 

『悩んでいても練習に支障はないし、スケジュールに罅を入れたわけではない』

 

 そう言われるだけで、随分と気は軽くなるものだと知った。

 

 悩んでも構わないほどにマイルでも活躍できるウマ娘だと太鼓判を押された、そんな風に思えたことも気が軽くなる理由だったのかもしれないが。

 

 それに、誰に相談しても良い、とも言われた。

 その悩みはきっと、トレーナーではなくウマ娘に話した方がいいこともある、だなんて。

 

 夕日の差し込む窓にふと目を向ける。

 今頃多くのウマ娘が練習に打ち込んでいるのだろう――そう思うと、かつての自分は焦りに駆られて自分もと身体を虐めていたような気もするが。

 

『明日は休養日です。身体を休めると、ナイスネイチャは進化する』

『あ、はい』

 

 今は。

 自分の身体に責任を取るのは、トレーナーさんだ。

 その台詞が、彼女の胸に安心を宿していて。

 

『鍛えるってのは身体壊してるのと一緒だからな。その壊した身体が修復されて初めて強くなるってもんよ。勝手にお前の身体壊したら俺許さねえからな』

『分かったって』

『お前の身体は今俺のものだ』

『分かったってば!!!』

 

 冷静に振り返ったら、あれを"分かったってば"と返したのもちょっとどうかと思いもするが。あとのまつりである。

 

「あーもー……」

 

 少し熱くなった頬を冷ますように手で扇いで――思わず足を止めた。

 

「やあ」

「うぇ!? あ、ど、ども……」

 

 視線の先。

 はっきりと正面から見据えられて。

 明らかに自分に向けた挨拶だと、他に誰もいない廊下で意識させられて。

 

 一介のモブには相応しくない、まっすぐに1対1で向き合う状態。

 

「どこかへ向かう途中かな?」

「え、あ、いえ……」

 

 何を言っていいのか分からない。そんな彼女に、正面の人物は少し困ったように眉を下げた。

 

「そう身構えないで欲しい。これでも神谷くんとは、親しい間柄だ。キミのことも聞いているし、機会があれば話したいと思っていたんだよ」

 

 まさかその機会が、こんなに早く巡ってくるとは思っていなかったが。

 そう苦笑して彼女はナイスネイチャの目の前までやってくると、並ぶように窓へと視線を投げた。

 

 夕焼けが優しく、校舎を照らしている。

 

「改めて、シンボリルドルフだ」

「さ、流石に知ってますって、会長……」

「そうか? 初対面のようなものだろう? 挨拶は大事だ」

「あっ」

 

 そこで何かに気付いたように、そして自分に失望したように肩を落として。

 申し訳なさそうにナイスネイチャは続けた。

 

「ども、ナイスネイチャです。名乗りもせずに」

「ありがとう。とはいえ、キミが私を知らずとも、私はキミをよく知っていた」

「逆では……?」

 

 生徒会長のことをモブが知っているのは理解できても、モブのことを知っている生徒会長の概念は理解できないナイスネイチャである。

 

「いいや? ――知っているとも」

 

 その実感のこもった言い方と、向けられた微笑み。

 心当たりがなさ過ぎて、ナイスネイチャは言葉を返すことも出来なかった。

 

「キミが頑張っていたことも、今まっすぐ頑張れていることも知っている」

 

 担当トレーナーどころかチームにも引っかからず、がむしゃらに頑張ることしか出来なかった彼女のことを、シンボリルドルフが知らないはずもなかった。

 

 そして、知っていながら何も出来なかったという歯がゆさも。

 

 ナイスネイチャに限った話ではない。

 そういう、不幸なウマ娘を1人でも減らすのが、シンボリルドルフの至上命題なれば。

 

 もっとも、シンボリルドルフは既に神谷を使ってトレーナー体験講座を行い、多くの"ナイスネイチャと似たウマ娘"を片端から救っているので、その辺りは流石の手腕であるのだが。

 

 むしろナイスネイチャの方に『神谷の体験講座に行きたくない』という極めて個人的な事情があったせいで、シンボリルドルフの救済の手を逃れてしまった不慮の事故があっただけだ。

 

 そしてその先で神谷とトレーナー契約を結び、彼自身がシンボリルドルフのもとにやってきて「こいつとなら凄えことが出来る」と宣言したこともよく知っている。

 

 むしろ、いつか一緒に走りたいというシンボリルドルフの望みを知らないのは目の前の自称モブ娘プリティダービーだけである。

 

「だから、この奇遇奇貨は嬉しい誤算というものだ」

 

 緩く口元に弧を描く、穏やかな表情のシンボリルドルフ。

 話が見えないナイスネイチャは、頬を掻いて「あー」と声を漏らした。

 

「トレーナーさん、凄い人ですからね!」

「ああ、そうだね」

 

 ここで、「だから選ばれたキミにも期待している」と言っても良かった。

 ただ、シンボリルドルフは喉から出かけたソレをひっこめた。

 あのトレーナーが相当に精神状態に気を遣っている少女だ、プレッシャーになり得ることを口にするべきではないだろう。

 

 自分をモブだと思っている少女は、気づけば誰よりもお姫様のように扱われていた。

 学園で最も敬意を集める、目の前の生徒会長からでさえも。

 

「そ、それでその。そんな凄い人に担当されちゃってるアタシみたいなラッキーガールに……お話とは」

「今のところは、そう大した話題はない。ただ、親しくなっておきたいと思っただけだが……」

「えっと?」

 

 小首を傾げる彼女に、シンボリルドルフは少し目を細める。

 

 ナイスネイチャ自身に告げるつもりはないが、もともとシンボリルドルフは声をかけるつもりも無かった。

 それは神谷に気を遣ってということもあるが、ああして"いつか"を楽しみにした以上は自分という存在で相手に重圧をかけたくなかったからだ。

 

 けれど、こうして廊下を歩く中で。

 

 物思いに耽り、窓の外を眺めている可愛らしい少女を見つけては声をかけずにいられなかった。

 

 その立ち姿、憂うような表情はとても絵になるけれど――それでも浮かない顔をしたウマ娘を放っておくのは信条に反したのだ。

 

「神谷くんには言えない悩み事……かな?」

「うぇ!? あーいや、あはは。そう見えました?」

「そうだね。彼がキミの悩みを放っておくはずがないと考えれば、自然と」

 

 だから、とシンボリルドルフは努めて柔らかな笑みを見せると。

 

「もしも私で力になれることがあるのなら、話して貰えないかな」

「いえ、そんな。会長の時間を取らせるようなことじゃ」

「そうか、それは困ったな」

「え?」

「このままでは、私はキミのことで頭がいっぱいでこの後の仕事が手につかなくなる」

「……うわぁ」

 

 ナイスネイチャは、思わず口角をひくつかせた。

 なるほど、という得心があったのだ。

 

「……トレーナーさんと仲良しっていうのが、ちょっと理解できちゃった」

「それは光栄だ」

 

 はあ、と一息ついて。

 ナイスネイチャは、小さく一言目を呟いた。

 

「悩んでいいって言われたんですよ」

「……なるほど。敢えて彼が悩ませているのか。なら、私はキミの悩みに答えを出すのは控えるが……寄り添い、協力することは出来る」

「あはは、ありがとうございます」

 

 

 それじゃあ、と話すのは、マイル戦を走るかどうか。

 メイクデビュー前に決めておきたいと、そう告げられたこと。

 

 しばらく話を聞いていたシンボリルドルフは、なるほどと小さく顎を引いて。

 

「キミ自身に、"どうしたいか"というのがあまり定まっていないということかな」

「そう、ですね。……そう、なんですよ」

 

 だって仕方がない。

 そもそも、中長距離だって戦えるかどうかわからない。

 なのに、マイルにまで手を伸ばして――後悔しないだろうか。

 

 どうしたって浮かぶのはネガティブな発想。

 

 そしてもし、それらを全部神谷がカバーしてくれたとして。それだけの信頼をおいたとして。

 もし失敗した時に、神谷のせいにする自分なんて、もう、死んだ方がましだ。

 

「……なるほど」

 

 一通り、話を聞いたシンボリルドルフは一言頷くと。

 

「キミに答えを教えるのは簡単だが……ふっ。ああ、そういうことか。……ふふふ」

「えっと……会長?」

 

 嚙み殺すような笑み。

 

「よもや私が、誰かのトレーナーを羨ましいと思う時が来ようとは。ああ、本当に……」

 

 まっすぐ見つめる先には、ナイスネイチャ。

 今すぐに言ってやりたい。これからのキミに期待していると。

 

 ただ、それを言うわけにもいかない。

 メイクデビュー前に、ナイスネイチャ自身がどれだけ優れているのかを教える気が神谷には無いのだから仕方がない。

 

 マイル戦でも勝てる。それはきっと、ほかならぬ事実だ。

 もしも彼女がマイル戦も挑むのだと言えば、そちらで多くの重賞を勝利することで彼女の目標は果たされる。

 

 そして、挑まないと言えば。

 

 きっとそれは、彼女にとって"キラキラ"が明確なものとなる。

 

 

 神谷がさせたかったのは、マイル戦に挑むかどうかという二択ではない。

 

 彼女自身が、何をもって"キラキラ"とするのか。それを自覚させたいのだ。

 

 彼女が一番、勝利への達成感を得るために。

 

 トゥインクルシリーズが始まり、レースに勝利するたびに、『今、自分は"キラキラ"出来ている』と自覚させるために。

 

 何をもって彼女が心の底から喜べるのか、それをはっきりと認識させようとしている。

 

 

 もしも、その目論見が成功すればどうなるだろうか。

 ああきっと、もっともっと勝利へ、レースへ懸ける想いは強くなる。

 その想いが強くなる度に、きっと彼女は人々の目を奪う存在になる。

 

 

「神谷くんのためを思うなら、キミは確かに勝利を手にするべきだろう。だが、こう問おうか。神谷くんへの信頼を大事にして、勝てるレースを勝つのがキミの目的か?」

「……目的、ですか」

「ああ。目的だ。多くのレースを勝ったウマ娘こそが、キミの理想なのか。或いは、別の何かがあるのか。キミがなりたいのは、どんなウマ娘だ?」

「なりたいウマ娘だなんて、そんな」

 

 あのシンボリルドルフを前に、なんの実績もないウマ娘が何を言えるというのだろう。

 

 そんな風に思ってしまって、苦笑いを浮かべるナイスネイチャ。

 

 けれど、シンボリルドルフの言葉そのものは強く胸に刺さった。

 

 色んなウマ娘が持っている"キラキラ"。

 そのどれもが羨ましくて、どれもが眩しかった。

 

 でも、そのどれかになりたいかと問われたら、答えに窮するのも事実だった。

 

 

 ――あの夜、主人公になりたいと訴えた。

 

 

 その夢を叶えてくれると、手を差し伸べてくれた人が居る。

 

 でも。

 

 ああ、確かに。なりたいものも漠然としたまま、その夢さえその人に任せるのは違うだろう。

 

 

 少し瞑目したシンボリルドルフは、悩むナイスネイチャを前に言った。

 

「――テイオーは、無敵の3冠ウマ娘になると私に言った」

「うわー……流石……」

 

 それをシンボリルドルフに宣言するところまで含めて、流石だとナイスネイチャは思う。

 でも。

 

 同時に去来する感情がある。胸を突く想いがある。

 

 それはあの日、遠く遠く届かなかったあいつの背中。

 

 いつだって、その眩しさに焼かれていた自分の瞳。

 

「ああ、そっか」

 

 

 

『ボクよりネイチャを選んだことが間違ってたって教えてやるー!』

 

 

『マヤ、わくわくしてきちゃった! ネイチャちゃんのその顔好きだよ!』

 

 

 

 

「アタシ、」

 

 ずっとずっと前から。

 そして今、前よりもずっと。

 

 

「テイオーに勝ちたいんだ」

 

 

 その、思わず零れた呟きに。

 

 シンボリルドルフは、心の底から嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 ナイスネイチャのキラキラは、トウカイテイオーで。

 

 斜に構えて心に蓋をしていた彼女が、キラキラ出来たと心の底から感じるためには。

 

 あの天真爛漫な主人公に勝利することが、史上命題なのだ。

 

 

 しかしナイスネイチャは知らない。

 

 

「神谷くんに申し訳ないな」

 

 苦笑するシンボリルドルフの前に立つ、今しがた拳を握りしめた少女が。

 

 きっと彼女の担当トレーナーが見たことのあるどんな彼女よりも、"キラキラ"していたということを。

 

 



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ネイチャさんと趣味

どうやってもアニメ1期にネイチャさんがレース出てることの説明がつかない不具合。スズカさんのせいだ……。


 

 

 マイル戦には出ない。

 

 それよりも、中長距離で更なる高みへ。

 

「アタシ……テイオーに勝ちたい」

 

 彼女の澄んだ瞳に、神谷は小さく頷いた。

 

 マイルへの適性をそれなり(C)から、一線級(A)にすることも出来た。

 

 だが彼女はそれを選ばず、中距離長距離を最高峰(S)の仕上がりにすることを求めた。

 

 今までの彼女の気持ちでは、難しかった領域でも。

 目標を明確に定め、その為に走るのだと決めた今なら、出来ないことではない。

 

 選んだのは出場レースではなく、走る目的。

 

 ならば彼女は迷いなくまっすぐに努力を積み重ねてくれるはずだ。

 

 出来ることのためにではなく、したいことのために。

 

 

 顔には出さずとも、神谷は強い手応えを感じていた。

 

 

 なにせ、あの大敗を喫した相手にもう一度勝負を挑む気概を彼女の方から宣言したのだ。

 それはきっとこれまで自分が自分で感じ取ってきた成長への達成感と、未来に見えた希望が故のこと。

 

 トレーナーへの信頼と、努力への決意。

 

 これで勝てなければ嘘だろう。

 

「じゃ、もうマイル戦の話はしないからな」

「うん」

 

 返事は短く、それでいて力強く。

 きゅっと結んだ口元は、来るかもしれない後悔への恐怖を耐えるため。

 

 メイクデビュー以降はもう、選択を巻き戻すことは出来ない。

 その理由も明白で、変更の利かない大きな岐路。

 

 弱い自分はいつか、「あの時マイル戦を選んでおけば」と思うかもしれない。

 そうした恐怖は、たった1つこの日の覚悟で拭えるようなものではない。

 

 記録こそ伸びて、今までよりずっとずっと充実した毎日を送れている自覚はあるけれど。かといって、メイクデビューまでに誰かと併走をした記憶もなければ、誰かのレースの記録と比べたこともない。

 

 不安要素をあげろと言われれば、幾らでも指を折ることが出来る。

 

 それでも。

 

 こうして決断を委ねられて、それを拒まず自分で選ぶことが出来たのは何故だろうか。後に来る悔いを怖がっても、今を必死に頑張ると決められたのは何故だろうか。

 

 ――あんな、遠い遠い主人公に。身の程知らずにももう一度、挑もうと思えたのは何故だろうか。

 

 

 

 それは、とおずおずと顔を上げる。

 まっすぐに、ほんのわずかに揺れる瞳で見上げる。

 

 すると、手を伸ばせば触れられる距離に居る自分のためだけのトレーナーは、あっけらかんと笑って、なんでもないことのように言うのだ。

 

 

 

 

「分かった、勝たせてやる」

 

 

 

 

 

 努力をするのは、自分の仕事。勝たせるのは、トレーナーの仕事。

 

 それをいつかと同じく堂々と告げる彼に、一瞬呆けた彼女は。

 

「あ、……うん。……がんばる」

 

 そう、後ろ手を組んで、顔を逸らして頷いた。

 

 メイクデビューまで、あと少し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たとえ腕を奪われようと、己が信念の為ならば不退転……暗殺術そのものはあまり好きにはなれませんでしたが、良いお話だったと思います。宜しければ」

「お、ありがとな! これめっちゃムズイって話だったけど、すげえな!」

「ふふ。いえ、大したことでは。少し……エルには悪いことをしてしまいましたが」

 

 トレセン学園内部、神谷の与えられたトレーナー室。

 おすすめだというゲームのパッケージを神谷に手渡しているのは、たまに預かるウマ娘であるグラスワンダーだった。

 

 楚々とした仕草で、おかしそうに口元に手を当てながら。

 彼女の談では、夜な夜なそのゲームをやっては同室のエルコンドルパサーをおびえさせてしまっていたとか何とか。

 

 そんなに怖いゲームなのかな? と首を傾げる神谷だが、実際のところはコントローラを握るグラスワンダーが怖いというベクトルの話である。

 

「忍びか、武士か。どちらかと言えば、私はやはり武士(もののふ)が好きなのだと再確認することも出来ました。こちらに出てくる武将も、侍の猛き心を宿す勇士ばかりで」

「へー……噂にゃ聞いてたから、がっつりやらせて貰うわ」

「はいっ」

 

 嬉しそうな、弾むような返事。

 ぱしんと手を合わせるその仕草もまた可愛らしく、殺伐としたゲームの貸し借りにはとても思えない1シーン。

 

「しかしまさか、グラスワンダーがそんなにゲームを気に入るとはなぁ」

「あまり、触れたことのない文化ではありましたが……これも今を形作る日本文化の1つ。きっかけをくれたトレーナーさんには、感謝しているんですよ?」

「そかそか。そいつぁ良かった」

 

 得心がいったというように頷く神谷。

 

 文化というものは、なんであれ入り方が最も難しい。

 無知に踏み込めば、やれ礼儀知らずであったりマナー違反であったりと総スカンを食らうこともままある。逆に自分の方が全く嬉しくない文化に無理やり迎合させられたり、最初に触れた文化が最も評判の悪い代物であったり、地雷要素は様々だ。

 

 そんな中で、勝手を知る人間から指南を受けることの出来る恩恵は計り知れない。

 

 これもまた、その一例というだけの話であった。

 

「では今日はこれにて。……ああ、そうでした」

「ん?」

 

 帰り際、思い出したように振り向く彼女は言う。

 

「来週は宜しくお願いしますね」

「ああ、そうだな。んじゃ、それまでにこれ終わらせておくわ」

「ふふっ。きっと、歓談も尽きない良い日になりそうですっ」

 

 来週。東条が別のウマ娘の遠征に帯同する関係で、神谷がグラスワンダーを預かることになっている日があった。

 ゲームの話題を共有できる相手というのも、そうはいないのだろう。嬉しそうに微笑んで、彼女は最後に一礼して去っていく。

 

「それでは」

 

 その一礼は、神谷と。

 それから、奥で座学に勤しんでいた神谷の担当――ナイスネイチャにも向けられて。

 彼女はひらひらとグラスワンダーの挨拶に応じて、それからすぐに手元の資料へと目を戻していた。

 

 

 一人の来客が去って、しばらく。

 外の掛け声や、時折聞こえる鳥の囀り。気持ちのいい午前の陽光の中、ペンを走らせていたナイスネイチャがぽつりと呟いた。

 

「トレーナーさんってさ」

「ん?」

「……結局、ゲームが趣味なの?」

 

 結局という言葉が何に掛かっているのか、神谷にはよく理解出来なかったが。

 

 ソファで神谷お手製の冊子に目を通していたナイスネイチャへと視線を向ければ、ぱっちりとその目が合った。

 

「まー、そうかな? 数少ねぇ趣味の1つではあるな」

「ふーん……フランスにも持ってってたの?」

「いや」

 

 過去を思い返すように天井を見上げる神谷。

 

「むしろフランスで担当したウマ娘の1人が、日本のゲームが好きって奴でな。最初は俺がゲーム詳しくないっつってがっつり凹んでて、話合わせるために始めたのがきっかけだな」

「……」

「そしたら意外と面白くて、息抜きにもちょうどいいってんで……って感じか」

「ふぅん」

 

 興味があるのかないのか。

 曖昧な相槌を返す彼女に、神谷は少し考えて。

 

「他には、そうだな」

「他にも理由あるの?」

「いや、理由じゃなくて他の趣味」

「!」

 

 ぴん、と彼女の耳が立った。

 

「クルマとか、あとはヒーローものとか、プロレスとかが好きなのは聞いたけど。他にもあるの?」

「や、あの辺は趣味って言うほど深いもんじゃない。クルマに関しちゃ完全に若気の至りというかほぼ黒歴史みてえなもんだしな……」

 

 かつてウマ娘にスピードで勝つことはできるのかと、足回りをゴリゴリに改造したRX7で走り回っていた頃を思い出して神谷は首を振った。

 

「だからまともに趣味って言えるのは実はそう多くねえんだ」

 

 そう言って、指折り"趣味"と言えるものを上げていく神谷。

 

 コンシューマゲーム、観劇、靴。言葉を並べる度、徐々にへたっていく彼女の耳。

 

 そんな中で彼女の意図を何となく察して、神谷は最後に指を立てた。

 

「あとは、たまの休日に飯作るのが、俺の割と数少ない癒しだったりする」

「!」

 

 ぴこん、と何かが頭の上に飛び出たような気がした。

 

「へー、トレーナーさんって料理するんだ」

「毎日出来るようなもんじゃねえよ。たまにだから出来る、凝ったヤツな」

「あはは。アタシの周りにもいるわー。男の人ってそういうの多いのかなぁ」

 

 彼女の脳裏に浮かぶのは、『よし、今日は俺が飯作ってやる!』と思い立ったように急に料理に励む商店街のおっちゃんたち。

 たまに作るからこそだろうか、一度使ったらしばらく使わないであろう香辛料やらなんやらを買ってきて、お店に出てきそうな一品を仕上げるのだ。

 

 そうして半年くらいまた料理をしない。

 

 心当たりがありすぎる生態に、くすっと彼女は笑う。

 

「問題は、1人暮らしだと1回料理するだけで食材を使い切ることがほぼ出来ないって話でな……冷蔵庫で腐った野菜とか見たくねえしなぁ……」

「たとえば何作るの? ちょっとネイチャさん興味ありますよ?」

「例か。まあこの時期だと夏野菜が良い感じだから、ラタトゥイユとか。鶏肉が好きだからコルドンブルーとか、コックオーヴァンとか」

「うわ……」

「だから要は、フランスの家庭料理系だな」

「あ、なるほど。そういう」

 

 ラタトゥイユはともかく、あとの二つは聞き馴染みのない言葉。

 気取った感じがどうにも肌に合わず少し身構え気味になる彼女だが、フランスの家庭料理と聞いて納得した。

 住んでいた場所の料理というのなら、単なるかっこつけというわけでもないだろう。

 

「フランス料理って結構手間暇かけるから、作るのはすげえ楽しいんだけど時間を滅茶苦茶持ってくんだよ。だからたまにしか作らんし、レシピのレパートリーが多いわけでもねえから残った食材でどうこうってのもな」

「ほ、ほーう? じゃああれですかい? ひょっとして日本に戻ってきてからは」

「ん? ああ。全然。せっかくキッチン広い部屋借りたのに、ほぼ使ってやれてねえんだこれが」

「それなら、さ」

 

 ふぁさ、ふぁさ、と揺れた尻尾が革張りのソファを擦る。

 

 先ほどまでの気のない感じはどこへやら、ソファから少しテーブルに上体を乗り出したナイスネイチャは、きゅっと表情を強張らせながら頬をほんのり朱に染めて。

 

 言葉を選ぶように、少しばかり躊躇いながら。

 

「あ、アタシちょっとその聞き慣れない料理食べてみたいなー、なんて!」

「ん?」

「ほ、ほら二人ならきっと消費量も増えますし!? あとはその……あ、アレですよ! アタシこう見えましてもそれなりにキッチンは慣れていると言いますか! 庶民の出ゆえ冷蔵庫の中身を処理するのはなんといっても得意中の得意と――」

 

 と、そこまで早口に宣言した彼女は、目をしばたたかせる神谷を前にふっと我に返る。

 

「……ぁー、や、やっぱりプライベートまでアタシに踏み込まれたらアレですよね」

「マジか、俺は恵まれたなあ」

「へ?」

 

 緩い笑みは、まるでナイスネイチャを慮るような雰囲気で。

 けれど、嬉しそうな感情を隠そうともせず。

 

「普通、トレーナーの趣味にわざわざ付き合ってくれようなんてヤツ居ねぇからな。ちょっと驚いたのは本当だが……キッチンも泣かせずに済むよ」

「え? そ、そう?」

「ああ。それに、余ったものもうまく使ってくれるんだろ? 俺もナイスネイチャの料理楽しみだわ」

「あ、あー! き、期待はあんましないでねー!?」

「いやいや、得意中の得意って」

「冷蔵庫の中を処理するのが、ね! 腕そのものはごく普通の女の子につき!」

「やー、楽しみだわー!」

「ねえ、ちょ、ちょっと!!」

 

 あーもう、と頬を掻いて。

 ふっきれたように彼女は叫ぶ。

 

「アタシのはほんと、ただ毎日作るくらい苦じゃないってだけの話だから! 質を数で誤魔化してようやくトレーナーさんとトントンだから!」

「ん? あ、ああ。そうか……そうか?」

「そうなの!」

 

 あれ、それって……と一瞬考えたトレーナーさんは。

 

 まあでも、彼女の思いやりに水を差すのもよくなかろうと、有難くその好意を受け取ることにした。

 



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第1R メイクデビュー 京都 芝 2000m(中距離) 内

12/15 本日は、ナイスネイチャが新馬戦初勝利を挙げた日ですね。


「マーベラス!」

 

 朝がきた。清々しい朝が。

 

 いつものように跳ね起きたマーベラスサンデーは、窓から差し込むマーベラスな朝日に瞳の煌めきを反射させ、目覚めたばかりだというのにすっかり覚醒していた。

 

「――あれ?」

 

 と、彼女はそこで気が付いた。

 マーベラスサンデーの目覚めを、いつも羨ましくも恨めしくも思うルームメイトの姿がない。

 

「マーベラス!」

 

 ばん、と押し開いた窓の外。気持ちのいい陽光は健在も、冷えた空気に息が白い。

 

 そしてそんな中、一人軽くジョギングをするジャージ姿の少女の姿が目についた。

 

「ネイ……」

 

 

 声をかけようとして、やめた。

 まっすぐに見つめる視線の先に、何があるかは分からないけれど。

 でもその瞳が本当に真剣で、そしていつよりも集中しているように見えたから。

 

 

 

 

 ――今日は彼女の、メイクデビューの日だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都レース場。芝2000m。

 寒空の下で大きく白い息を吐きだしたのは、ダウンジャケットに身を包んだ一人の青年であった。

 

 名を、神谷。フランスから帰ったこの年に、一人の専属ウマ娘を抱えてのトレーナーデビュー。

 話題性は相当の代物で、実はあの日の模擬レースは全て彼の専属ウマ娘を見つけるためにあったのではないかとも噂される男。

 

 加えて言うならあの日もっとも目立った、最高の資質を持ったトウカイテイオーではなく、同じレースを走っていた別のウマ娘に声をかけたという変わり種。

 

 トウカイテイオーにフラれたのかと言えば、トウカイテイオーは自分がフラれたのだと声高に吹聴するものだから噂話は千里を駆けた。

 それはもう、最早物語の存在である伝説のウマ娘赤兎が如く。

 

 トウカイテイオーから大差を付けられた、速さもビジュアルも"そこそこ"のウマ娘。

 シンデレラストーリーの予感に黄色い声を上げる者も居れば、敢えて遅いウマ娘を選ぶ気取ったトレーナーのウマぶりだと嘲笑する者も居た。或いは、トウカイテイオーがあんなトレーナーに潰されることにならずに良かったと、口さがないことを言う者も居た。

 

 そのどれもが単なる予想に過ぎず、真に結果が出るのは数年後のことだとして。

 

 神谷がここまでメイクデビューを引っ張ったのは、複数の狙いあってのことだった。

 

「あいつに要らん緊張させたくねーしな」

 

 まず一つ。人の噂も七十五日。彼のウマ娘とのトレーニング風景は、それこそ多くの注目を浴びていた。トレーニング中はなんだかんだで集中してくれる彼女も、決してメンタルが鋼というわけではない。むしろ、どちらかといえば脆い寄りの少女だ。

 だとすれば、そんな状態で迎えるメイクデビューがどうなるかは想像に難くない。

 

 彼女ではなく、トレーナーのせいで浴びたスポットライト。それは、決してポジティブなコンディションにはなり得ないだろうというのが神谷の判断だった。

 

 うまく走れても、トレーナーの手腕に話題が向く。

 もしまかり間違って好走出来なかったなら、自分のせいでトレーナーが責められたと思うだろう。

 

 彼女は優しい子だ。

 その程度の想像がつかなくては、トレーナーは務まらなかった。

 

 だとすると、彼女と神谷のトレーニングが日常風景に溶け込んで、ともすれば忘れられるくらいに時間をかけた方が良いだろう。そう思って、彼は日々のトレーニングに精を出させることにした。

 

 ちょうど良かったのは、やはりその期間にスペシャルウィークやグラスワンダーといったウマ娘たちの激闘があったことだろう。

 

 あとはやはり、サイレンススズカの怪我だろうか。

 あれらに関しては、誰よりも悔やんでいる沖野のことを、神谷は素直に心配していた。

 

 いずれにせよデビュー前の一人のウマ娘の話題など、あっという間に掻っ攫われていったというわけだ。

 

 

 ただ、もしも理由がそれだけなら、遅らせたことは周りからの重圧を避けてという単なるリスクマネジメントにも聞こえる。

 

 

「――だがまあ、おかげでしっかり仕上げることが出来た」

 

 今の彼女を見ればきっと、妖怪足ペロキャンディーマンが凱旋門賞からでも飛んでくることだろう。無論、しゃぶりつかせるつもりはないが。

 

 ここまでトレーニングを続け、多くのレースを観戦してきたのは、彼女の経験値のためだ。

 今日この日まで仕上げてきた身体は、クラシック期の少女たちと比べても見劣りせず、むしろ勝ると言える状態だと神谷は自信を持っていた。

 

 

 そして、どうしてそこまで徹底的にトレーニングを積んだのかと言えば。

 

 

 こちらにとてとてと歩み寄ってくる彼女の姿を見つけ、手を振る。

 不安そうな彼女は、神谷を見つけると耳をぴんと立たせて駆け寄ってきた。

 ただ、表情は相変わらず強張ったまま。

 

 

 そう。最も大きな目的は、これだ。

 最初のレースで、彼女に自信を付けさせる。

 そのためにも、ここまでメイクデビューを引っ張ったのだ。

 今の自分がどれだけやれるのか、それを示すために。

 

「さっむー……。イヤーカバーつけてて良かったー。いくらなんでも、この寒さの中で走ったら耳凍るって。なんも聞こえないって」

「じゃあどうする、どてらでも羽織って走るか?」

「じょ、冗談やめてよ、流石にアタシでもそんな――なんで持ってるんですかね?」

 

 流石に彼女自身のものではなかったが、誰のものとも知れぬどてらをひらひらと見せびらかす神谷がそこに居た。

 

「別にどてらじゃなくても、色々あるぞ。とりあえずこれ着てろ」

「え、あ、うん」

 

 羽織らされたのはダウンコート。足元まで暖かいその上着は、これからレースまでの間の体温を守ってくれる。

 

「条件はみんな同じとはいえ、温まった身体で一歩リードって考えるのもみんな同じだ。準備運動はしっかりやって、関節もケアするぞ。骨に負担や疲労をかけるのが、一番良くねえことだからな」

「う、うん。宜しくね、トレーナーさん」

 

 緊張と不安。それが彼女の身体を固くしている。

 

 正直に言えば、早くパドックでのお披露目が始まらないものかと神谷も思っていた。

 それさえ終わればきっと、何かが変わるはずだ。

 

 とはいえこうした空いた時間でのケアを怠るつもりも、毛頭ないのだが。

 

「レース場の作りは頭に入れてるな?」

「そりゃ、もちろん。ずっとこの日のためにって言ってくれてたし、出来ることはやらないとね。……あ、アタシみたいなのがそんなところで手抜いて勝てるわけないし!」

「まあ、別に誰でもそこで手ぇ抜いたら負けるんだが」

「あ、あはは……」

 

 乾いた笑いに少し浮かぶ、自嘲。

 隠しきれなくなってきたか、と神谷は一人思う。

 結局のところ、どんなに実力をつけても、ここまでメイクデビューを引っ張った以上レース経験がない。レース経験がないということは、自分がどれだけやれるのか分からないということで、それは彼女の心にとって健全とは言えないのだろう。

 

 とはいえ、メイクデビューなんてみんなそんなもんだ。

 自信がある方が異常なのだ。

 

 だからこそ、しっかりと心をほぐして、身体にその柔らかさを伝えていかなければならない。

 

「――俺さぁ。一個だけ自慢があるんだよ」

「え、一個だけ……? トレーナーさんで一個だけ……?」

 

 手に庇を作って見上げるのは、観客席。

 既に多くの観客が詰めているのは、少し嬉しくもある。

 重賞レースは最後の最後。こんな時間から来ているのは、これからのウマ娘に期待している人たちが多いということだから。

 

「ああ、一個だけ。聞いてくれよ」

「いやまあ、気になりはしますよそりゃ」

 

 おずおずと神谷を見上げる彼女の視線は、僅かに不安に揺れている。

 それは神谷の言葉などではなく、このレースそのものに対する緊張だ。

 

 神谷は緩く微笑んで、言った。

 

「メイクデビューしくじったことねーんだよな」

「えっ?」

「結構な数担当したぜ? サブトレとしても、メインとしても。でも、メイクデビューで一着取らせられなかったことは無い。俺のトレーナー生活で、一度も」

 

 実際、それは本当のことだった。

 言ってしまえば自慢でもありつつ、自嘲でもあるそれの内情は簡単だ。

 メイクデビュー前は誰だって、多少なり不安を抱えているものだ。

 だから、その間はどんなウマ娘でも言うことを聞いてくれる。トレーナーの言葉こそが、モチベーションの最も強い手綱となる。

 

 だから、スタートは上手い。――という、自慢になるかどうかも分からない話ではあるのだが、それでも今この時だけを切り取れば自慢だった。

 

 過去への未練や後悔を、目の前の少女に見せるつもりは一切無い。

 自信の部分だけを切り取って、強気な笑顔を彼女に向けた。

 

「そ、れは……え、凄いけど」

 

 けど、のあとに続く言葉くらい分かり切っていた。

 自分がその不名誉な最初になってしまうかもしれないと。

 だから、台詞を塞ぐように神谷は続けるのだ。

 

「ああ。メイクデビューってのは、俺がスカウトした時から思い描いている予定通りの道のりだ。だから、俺に不安が無ければ、必ず一着が取れるってことだ」

「トレーナーさん……」

「んで、今回。俺はこれまでで一番、手応えがあった。予想を超える頑張りと、それを裏付ける数字が俺の手元に残っている。お前の、頑張りの軌跡が」

 

 ぽん、と抱えていたクリップボードを叩いてやれば、彼女もそちらに目をやって。

「あ」と漏らす声とともに、きっと甦るのは練習の記憶。

 

 彼女自身も楽しく続けていた、記録更新の階段をのぼってきた記憶。

 

「だから、心配すんな。俺が言ったことを、忘れさせやしねえ」

 

 まっすぐに彼女の瞳を見つめれば、その不安の色に混じった期待。

 

「お前の仕事は?」

「……頑張る、こと」

「一着を取らせるのは?」

「……トレーナーさんの、仕事」

「うし。問題ねえよ」

 

 にかっと笑えば、諦めたようで呆れたような複雑な笑みを浮かべる彼女。

 ただ、その瞳の不安は徐々に鳴りを潜めていて。

 頃合いだと思った神谷は、そっと作戦にもならない作戦を告げる。

 

「じゃあこれだけ覚えておいてくれ。いつも通りを心掛けろ、周りに合わせる必要はない」

 

 それがどういう意味なのか、彼女には分からなかったけれど。

 

「う、うん」

 

 あれだけのことを言われたあとだ。それだけを守ればいいというのはむしろ、不安の渦に通った力強い一本の芯となる。

 

「よし。ほら――パドック行く時間だ」

 

 え、やば。と呟いた彼女が振り向けば、スタッフがこちらに手を振っていた。

 

「じゃ、じゃあ行ってくるね!」

 

 慌ただしく駆けていこうとする彼女の背を、神谷は一度呼び止める。

 

「――最後に一個!」

 

 ぴたっと足を止めた彼女に、続けて神谷は声を上げた。

 それはもう、この場所の誰にも聞こえるように、大きく。

 

「お前がいったい、どこの誰なのか。トゥインクルシリーズに、教えてやれ!! ナイスネイチャ!!」

 

 

 目を丸くした彼女――ナイスネイチャは、それからぎゅっと胸に当てた手を握りしめて。

 

「いってきます!」

 

 頷く姿は、神谷から見ても心から、頼もしく感じる笑顔だった。

 

 

「――負ける気がしねえ、マジで」

 

 へっ、と笑う神谷だったが。

 

 

「素晴らしいです!!!!!!!!!!!!!」

「うぉぁ!?」

 

 

 ハイパーでかい声に後ろからやられて吹き飛んだ。

 

 

「は、え?」

 

 振り返れば、目をキラッキラさせた美女が一人。

 濡れ羽のような黒髪を、そっとうなじの辺りでおさげにしたその風貌。

 ぴっちり着こなしたレディーススーツに、「ああ……」と記憶野を漁り終えた神谷はうめき声にも似た返事をした。

 

「乙名史さん。なんでバックスタブ仕掛けられなきゃならないんですかねぇ」

「いやはや、随分と遅い時期のメイクデビューになりましたね、神谷トレーナー!」

「聞いちゃいねえ」

 

 しかし! とペンを握りしめて彼女は青空を仰ぐ。

 

「学園で話題となった時から、神谷トレーナーの姿は追うものと決めておりました!! やはりそれが間違いでなかったことを確信しています! 担当のウマ娘を想いモチベーションを完璧に整えて送り出す!! その献身こそがトレーナーとしてやるべきことだと、そういうことなんですね!!」

「……あー、まあ」

 

 頬の裏を舌でつつきながら、なんとも曖昧な返事をする神谷。

 

 一人感動で打ち震えている彼女をよそに、神谷は一つ息を吐いた。

 確かにあの模擬レースの時期頃は、神谷を追うと言った記者は多くいた。

 たぶんそのうちの何人かは、今回のメイクデビュー後にインタビューでもしに来ることだろう。

 だがそれは――ナイスネイチャが勝利したら、の話だ。

 

 誰も彼も、記者としてのプライドがある。自分が目を付けていた相手がもし大したことが無かったら、自分の見る目がなかったことになる。

 リスクヘッジとかっこよく言うことも出来るし、保身と揶揄することも出来るそれは、しかし確かにスポーツ記者の資質だ。

 

 そしてこの女、良い意味でも悪い意味でもそれが無い。

 

 たぶん、自分が素晴らしいと思ったものに素直なんだろう。

 誰だって最初はそうだ。だが次第に業界に揉まれて自分の才覚と将来に折り合いをつけ、うまく立ち回って生きていく。

 それが無いということは、つまりこの記者は自分が素直に素晴らしいと思ったものを追っているだけできちんと仕事になっている、単なる天才慧眼である。

 

 なんて羨ましいやつだ、と思う反面、そんな記者がアポなしで突撃してきたことには喜ばしくも面倒な気持ちがあった。

 

「で、レース前のこのタイミングにわざわざ俺んとこ来たのはどういう理由で?」

「それはもちろん、メイクデビューへ向けての神谷トレーナーのお考えを聞きたいと!」

「勝利インタビューとかで良くないっすか」

「??? その時は他の記者さんたちの相手で忙しいではありませんか」

「なんで当然みたいな顔してんだこの人」

 

 それに、と彼女は続ける。

 

「今のお気持ちを聞くのに、後で聞いたら鮮度が落ちるでしょう。素直なナイスネイチャさんへの期待と、一抹の不安や変動する未来にも託す生の感情をお聞かせください!」

「いや不安はないけど――」

「素晴らしい!!!!!!!!!!!!」

「最後まで聞いて、ねえちょっと」

「素晴らしいです!! 本当に一切の不安を感じさせない無感情のお返事は担当を信じればこそ記者の問いを僅かに不快に感じたと、いえそれでめげる私ではありませんが自分の信じるものに心からまっすぐで、それが担当のウマ娘さんであることはやはり優秀なトレーナーの資質というわけですね!!!」

「あの」

 

 これ本当にまともな記事になるんだろうか。なるんだろうな。なるからこそ、こうして許可を得てレース場内に入ってきているわけで。

 神谷は思考を巡らせ、小さく首を振った。

 

「もう帰っていいっすか」

「え、困りますけど」

「急に素に戻んないで欲しいなあ……じゃあ何が聞きたいんですか」

「では、今日の仕上がりについて!」

「そうっすね」

 

 パドックでは、順々にお披露目が始まっている。

 それぞれ目を見張る才能はありつつも、神谷は全く動揺せずにいた。居られたと言ってもいい。結局のところ、自分の担当がナンバーワンだからだ。

 

「あとあいつに必要なのは自信だけですよ」

 

 だから、と神谷が一方を指さす。

 目を細めた乙名史が問いかける。

 

「掲示板、ですか?」

 

 着順を知らせる電光掲示板が、神谷の示した先であった。

 つまり掲示板入りを目指すのが目標なのかと、意外と堅実な目標に首を傾げる乙名史に、神谷は言う。

 

「いや? 一着と二着の間」

 

 しかし神谷が指さしたのは、その掲示板の一つの表示枠。

 

「あそこに、大差って書くことですね」

「素晴らしいです!!!!」

 

 

 その頃、パドックに現れてダウンコートを脱ぎ捨てたナイスネイチャには。

 

 

 堂々と、1番人気の肩書が付けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――アタシが、一番人気?」

 

 ナイスネイチャは、目を瞬かせた。

 

 呆けるというほど、我を失ったわけではない。

 驚いたというほど、感情をあらわにしたわけではない。

 

 言うなればそう、実感がわかなかった。

 

 

『群を抜いてる。こりゃちょっと勝負にならねえな』

『メイクデビューまで時間かけたヤツの中にはたまに、ああいうモノホンが混ざってる』

『だが往々にして、来期のクラシックを荒らすのはそういう連中だ』

『あれはちょっともう、どんな走り方を魅せてくれるか、ってとこを楽しむしかねえな』

 

 ――メイクデビューを見に来るような観客は、総じて目が肥えている。

 最高峰の戦いを、話題性を楽しみにレース場へ足を運ぶ者とは一線を画す、真のレース好きが集まるからだ。

 

 そんな者たちにとって、メイクデビュー時期のウマ娘というのは垂涎の宝である。

 なにせ――「俺はメイクデビューから彼女を知っていた」というのはある種のステータスだからだ。

 あまり動画にも残らない。話題にもならない。結果が大きく報じられることもない、アスリートの卵。

 それをわざわざ見に足を運ぶような者たちの下す評価は、重賞を活躍したウマ娘に付けられる評判とは違う、ただただシンプルな実力と努力への査定。

 

 

「――皆さん、準備お願いしまーす」

 

 それぞれがゲートへと向かうよう指示される中、ナイスネイチャはふと周囲を見渡した。

 

 隣の子と目が合う。大外の子と目が合う。何人もの子と、目が合った。

 

 それで注目されていることに気付けないほど、彼女とて鈍感ではない。

 

「――いつも通り、2000mを走るだけ」

 

 緊張はある。けれど、どうしてだろう。

 驚きとともに、胸に灯る温かな熱。

 

 一番人気、ナイスネイチャ。

 

『メイクデビューしくじったことねーんだよな』

 

 努力の軌跡が、こうして今また、数字に表れている。

 

 なら、とナイスネイチャは顔を上げた。

 

 周りに合わせる必要はない。自分の走りをする。

 それだけを胸に、ゲートへと収まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都レース場 メイクデビュー 第3レース

 芝内回り2000m(中距離)15人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最前列をキープするのはトレーナーとして当然のこと、とでもいうように、神谷は前に誰も居ない位置を確保し、腕を組みレース場を見守っていた。

 

 メイクデビューに失敗したことがない。ナイスネイチャを信じている。

 どちらも本当だが、レースに絶対があるのならこんな風に見守ることもないだろう。

 

 もしものトラブル。もしもの事態。その万が一に備えて己は居るのだと、言い聞かせるようにして。寒空の下で身体を温めるように身じろぎしながら、レース開始の時刻を待っていた。

 

 すると。

 

「おーい! いたいたー!」

「ちょ、待てテイオー!」

「まーべらーすっ!」

 

 振り返れば声の主。

 天真爛漫に笑う少女二人。どちらも知った顔だ。

 神谷の前、懐にすっと潜り込むようにして最前列を確保するマーベラスサンデーと、その隣にわくわくした表情でやってくるトウカイテイオー。

 そして、今日の保護者担当らしき疲れ切った顔の沖野。

 

「やれやれ……マーベラスまで預かるとは思わなかったぜ……」

「お疲れさん。三人ともマーベラス!」

「まーべらーす!!」

「それ、神谷トレーナーも挨拶にするんだ……」

 

 拳を突き上げる可愛らしい少女、マーベラスサンデー。ちっこいので、自分の前に来ようが視界が塞がれることもなく。

 

「マーベラスサンデーはともかく、テイオー様と沖野サンまでくるとはな」

「少し考えたんだが、テイオーがな……」

 

 へえ、と神谷がトウカイテイオーを見れば、彼女は楽しそうに笑って言う。

 

「ネイチャがさ、神谷トレーナーが自分を選んだのは、素質を認めてくれたからだーみたいなこと言うからさー!」

「ふむ」

「だから、確かめに来てやったんだ!! ぜーったいボクの方が凄いもんね!」

「そりゃテイオー様は最高峰の資質の持ち主だろうよ」

 

 強気な笑みを見せるトウカイテイオーは少し前に、ナイスネイチャとの直接対決も望んでいたらしい。沖野からその話を聞いた時は、なあなあにしておいたことも神谷は覚えている。

 

 やはり、トレーナーが自分より誰かを選んだということが、それも友達のナイスネイチャであったことが、彼女のプライドに障ったのだろう。

 

 

 素晴らしいことだと、神谷は思う。

 そうやって切磋琢磨していくことこそが、レースを盛り上げる醍醐味だと思うから。

 

 ただ、とちらりと神谷は沖野を見た。

 

「連れてきたのは、沖野サン自身だもんな?」

 

 そう問えば、先ほどまで引率で疲れ切っていた沖野も表情を真剣なものに戻して頷く。

 

「ああ。俺が、こいつらを連れてきた」

「そうか。なら良いぜ」

 

 マーベラスサンデーとトウカイテイオー。否、マーベラスサンデーは同室で仲良しで素直にナイスネイチャを応援する友人だからそれはいい。

 だがトウカイテイオーは、もろにデビュー時期が被ったライバルだ。その彼女を沖野が連れてきたということは、『それがトウカイテイオーのためになる』と沖野が判断したということだ。

 

「トレーナー?」

「ああ、見ておけよテイオー。お前のテイオー伝説のために」

「?? うん」

 

 真に迫った沖野の台詞に、トウカイテイオーは小さく首を傾げた。

 そのまま神谷に目を向ければ、神谷は神谷で笑うだけ。

 

「沖野サン、ナイスネイチャの練習見に来てたっけ」

「ったりめーだ。この時期のメイクデビューも読んでた。だからこそ……テイオー連れてくることを、お前には言わなかった」

「っけー、きったねー男。そのしょーもない後ろ髪も」

「それはただの悪口だろうが!!」

 

 愕然とする沖野を鼻で笑い、手近なところにあったマーベラスサンデーの頭にぽんと手を置いて。「マーベラス?」と顔を上げる彼女に神谷は笑いかけた。

 

「見ててくれ、マーベラスなあいつの走りをさ」

「もちろん! ネイチャは最近、とーってもマーベラスなんだもの!! うふふふふっ!」

 

 

 

 

 

 そう言って、それぞれが視線を向けた先で。

 

 

 

 ゲートが、開いた。

 

 

 

 

 

 

 

『さあ始まりました、京都レース場本日の第三レースメイクデビュー、各者揃ってきれいなスタート――』

 

 

 その瞬間から、沖野は"ナニカ"に気が付いていた。

 

「……神谷、お前」

「なんだよ。隠す手札なんか持ち合わせてねーよ」

 

 目に映るのはゼッケン3番。綺麗なスタートからすーっと現在4番手の位置に付け、内側の良い位置をキープして走り始めたナイスネイチャ。

 

 まっすぐ真剣に、ただ前だけを見据えて走っている。一見して、それだけだ。

 

 

『注目のナイスネイチャはこの位置、現在四番手。前との差は1バ身といったところ』

 

 

「どうしたの、トレーナー」

 

 まだ沖野の張りつめた空気が飲み込めないでいるトウカイテイオーは首を傾げる。

 しかし、沖野は小さく首を振った。

 零すように、「いや、むしろこれでいいのか」と呟いて。

 

 その真意を掴みかねているトウカイテイオーの頭に手を置いて、強気に笑った。

 

「模擬レースん時を思い出しながら、見てみるといいさ」

 

 そう言う沖野に、神谷はニヤっと口角を上げた。

 

 

『第一コーナーから第二コーナー。向こう正面。バ群は大きく伸びてこの形。どうでしょうこの展開』

『後ろの子たちが間に合うかが、少し心配ですね。いや、それ以上に』

 

 コーナリングを経て、向こう正面を走り抜けていく一団。

 送られる声援は、どんなレースよりも大したことのない量だけれど。

 それでも懸命に走る少女たちの耳はきっと、その応援を胸に刻んで走るだろう。

 初めての、本番のレースなんだから。

 

『ペースがメイクデビューのそれでは無いですよ』

 

 逃げを打つウマ娘が、早くも歯を食いしばって走っている。

 後ろから迫りくる足音に耳をそばだて、冷え切った中で必死に脚を回す。

 

 なんで、どうして。いつものペースじゃ、飲み込まれる。

 

 そんな強いプレッシャーを背後に感じ、逃げを打った少女がひた走る。

 

「……あれ」

 

 そして。ようやくトウカイテイオーは気が付いた。

 ようやく、という彼女の気づきの遅さを咎めることは出来ないだろう。それはトレーナーだからこそ見えたもの。普通のウマ娘には最後まで気付きようもないもの。

 

 それがかろうじて、トウカイテイオーであればこそ気付けたもの。

 

 あのゼッケン3番が走る――視線の先。それは決して、逃げウマ娘でもなければ前を走る先行バでもない。

 

「――ナイスネイチャになんて言った、神谷」

 

 僅かに汗をかきながら、口元を吊り上げ沖野が問う。

 神谷はただあっけらかんと、こう答えた。

 

「周りのことは考えるな、いつも通り走れっつった」

「なら……一応聞いておくぜ」

 

 ちらりとその視線が、レースから神谷へと向く。

 

「――先行バの走り方、教えたか?」

 

 今日のレース、15人中ずっと4番手から5番手をキープして走っていた彼女。

 だが神谷は首を振って言った。

 

「いいや?」

 

 

 

『あーっと!! 3番ナイスネイチャ、3番ナイスネイチャが前を躱して突き抜ける! 残り800メートルで仕掛けた、仕掛けた!!』

 

 

 

「あいつは差しウマ娘だよ。それが一番、魅力的だから」

 

 あ、と声を漏らしたのはトウカイテイオーだ。

 

 

『よーし』

 

『そろそろ』

 

『無敵のテイオー様の実力』

 

『見せちゃおっかなー!』

 

 

 

 あの日。あの日、自分がラストスパートをかけた場所を、トウカイテイオーは正確には覚えていない。

 

 でも。

 それでも、一人のウマ娘としてこのメイクデビューを眺めていて、自分ならどのくらい走れるかを肌で感じ取ることが出来る。

 

 自分ならきっと、このペースならあの辺りでスパートをかけた。

 

 

「今ボクは――ネイチャの目の前だ」

「テイオー……?」

 

 

 

『ナイスネイチャ止まらない! ぐんぐんと差をつけていく第四コーナー! 誰も追いつけない! 一人旅だナイスネイチャ! 後続が全く追いついていない! 大楽勝だナイスネイチャ――!!』

 

 

 神谷が叫ぶ。

 

「見ろ!! これがナイスネイチャだ!!!!!!」

 

 

 ゴール板を駆け抜けるその瞬間の、勝ち誇ったような神谷の咆哮。

 

 

 身体を慣らすように徐々に徐々にペースを落としていくナイスネイチャは、少し上気した頬のまま、火照った身体で顔を上げた。

 

 響く歓声に、柔らかな笑顔で手を振って、そして神谷を見つけて、耳を立てた。

 

 

「――トレーナーさん!! 記録、守れたよ!!」

「はっ」

 

 第一声が俺のためかい、と首を振った神谷は、ナイスネイチャに応えながら別の方角を指さした。

 

「見ろ、俺は――これは初めてだぜ」

 

 顔を上げ、掲示板に目をやって。

 

 歓声の中で彼女は小さく声を漏らした。

 

 

「大差……」

 

 

 メイクデビューで、同じ年に足並みそろえて飛び出した優駿たち。

 その中でも、頭一つ以上突き抜けている存在であると、否が応でも目に焼き付く。

 

 

 感極まったように口元をきゅっと噛みしめて、彼女はレース後だというのに全速力でこっちに駆け込んでくる。

 

「やった!! やったよ、トレーナーさん!!!」

「ああ、本当に……よくやった」

 

 柵越しに、潤む瞳。しかしもう、目の奥の不安はどこかにおいていかれた。

 

 笑い合うトレーナーとウマ娘の一対を、ただ見つめるだけのウマ娘が一人。

 

 

「――トレーナー」

「おう、どうした」

「走りたい」

「……今日は良いって、言ってなかったか?」

「いや、ちょーっとね。うん、まあ、ボクはサイキョーだから絶対負けないんだけど」

 

 そこに笑顔はなく、勝負の色に染まった瞳。

 余裕に見せているのは、果たして自信なのか、それとも。

 

「理由はどうでもいいの! なんとなーく走りたいってだけだからさ!」

「はっ。そうかよ。分かった」

 

 ぽんと、トウカイテイオーの頭に手を置いて。

 

「マーベラスはどうする?」

「うふふふっ。どーしよ!」

「あららっ?」

 

 その勢いで選択を委ねられ、沖野がずっこける。すると彼女は笑って言った。

 

「でもでもお邪魔になるかもしれないの! それに、併走相手、欲しいでしょ!」

「――ありがと、マーベラス!!」

「マーベラース★」

 

 神谷とナイスネイチャと、言葉を交わす必要はない。

 

 沖野とトウカイテイオーの去り際、マーベラスサンデーは振り返って小さく微笑んだ。

 

「ネイチャが頑張れるようになったもの。次は、テイオーの番だよね!」

 

 

 

 

 その日、生まれて初めてのセンターでのウイニングライブの裏側で。

 

 トウカイテイオーは、夜までずっと、走り続けた。

 

 今日のレースに映し出した己がナイスネイチャに勝てたのかどうか――それは、彼女の心だけが知っている。




ってわけで次回からクラシック路線でございます。
大変お待たせいたしております。


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ネイチャさんとトレーナーさん

「それじゃあ、ナイスネイチャの初勝利を祝ってぇ!!!」

 

 旅館のお座敷のような広間の中央で、盃を掲げ叫ぶイイ笑顔の青年に続いて歓声が弾けた。

 

 

『カンパアアアアアアアアアアアイ!!!!』

 

 

 設置された長いテーブルは四本。そのどれもに人人人。

 見渡すほどの広さの大広間は今や、どこもかしこもを人で埋め尽くす大宴会場と化していた。

 

 どのテーブルにも焼き鳥だの惣菜だのが立ち並び、皆が皆ニッコニコでビールの瓶をぶち開ける。

 

 開始の大号令を放った青年はといえば、あっという間にそれぞれのテーブルを回ってビールの酌に大忙し。

 時たま何やら言葉を交わしては、ジョッキを打ち合わせて酌の相手と高笑い。

 

「やー-めでたい!! んっとにめでたい!!! 良い席作ってくれたなあんちゃん!」

「ふははははは!! そらもう俺の功績じゃねーよ旦那!!」

「違いねぇ!! ネイちゃんの力だ!! だっはっは!!」

 

 

「ま、ワシらは信じとったからな。ネイちゃんが負けるはずなかろうて」

「おいおいおいおい、良いのかそんなこと言って。あんた昨日眠れなかったんだろ? 奥さん言ってたぜ?」

「――千代子!! 千代子貴様!! 神谷に何を吹き込んだ!!」

「あら本当のことじゃないうふふ」

 

 

「あの子はなあ、あの子は本当に一生懸命だったんだ。報われる日が来て、本当に、本当に良かった……うう……ぐすっ……」

「あーもう泣くな泣くな、んなことしてたらここから数年水分もたねえぞ?」

「くすんっ……トレーナーさん、そいつぁどういう……」

「んなもん、あいつの栄光はこっからだって話に決まってんだろ」

「っ……お、うあああああん!! 良か゛った゛ね゛ぇ゛ネ゛イ゛ち゛ゃ゛ん゛!!」

 

 

 

 

 

 主賓の少女はようやく我に返って叫んだ。

 

 

 

 

「なんじゃこりゃああああああああああああああ!!!」

 

 

 

 お誕生日席に座らされ、呆然としていた彼女の復帰。

 さっと気付く辺りはプロ意識か、神谷はゆるりと振り向いてやってきた。

 

「あ、お前はお酒ダメだからな」

「そこじゃないそこじゃないそこじゃないそこじゃない」

 

 宴の席だというのに、赤ら顔だらけの中で一人だけ青ざめたネイちゃんもといナイスネイチャ。

 

 勝手に手元の紙コップに注がれていくオレンジジュースに、サイコホラー映画でも見ているような狼狽ぶりを見せる彼女は、震える口で自らの担当たる神谷を見上げた。

 

 髭眼鏡にパーティ帽子。せっかくの悪くない顔が台無しであった。

 

「どうした?」

「誰よりもはしゃいでるし!!!」

「そりゃまあ」

 

 オレンジジュースを注ぎ終わった彼は、ぽりぽりと頭を掻いて言った。

 

 

「実はこの度、俺の担当してる子がメイクデビューで勝利を飾りましてね」

「………………聞くだけ聞きましょうか???」

 

 それに該当するウマ娘に、流石の彼女も心当たりは一人しかない。てか自分だ。それ以外であっていいはずがない。もし万が一、億が一にも違ったら自分はどんな暴挙に出るか分からない。

 

「もともと勝利自体は分かり切ってたんで、祝勝会については当然予定してたんだが、まあ大差ってのは俺としても舞い上がるに値するもんでな、これが」

「……もう少し聞いてやろうじゃないか」

 

 腕組みをするナイスネイチャ。ちょっとだけ混乱の中で機嫌だけが元気を取り戻す。

 

「んでまあ、皆さんの協力のもとこうして祝いの席が出来上がったとそういうことで」

「はいストップ」

 

 流石におかしかった。

 

「ああ、止まるが。どうした?」

「……つかぬことをお聞きしますが」

 

 半眼、ジト目。

 正面のバカはしゃぎするトレーナーから、ぐるりと宴会場を見渡すナイスネイチャ。

 もう、誰も彼も知っている顔である。順番に八百屋さん酒屋さん肉屋さん焼き鳥屋さん金物屋さん……エトセトラエトセトラエトセトラ。

 

「――どうしてこんなことに???」

 

 自分の記憶が正しければ、まだ商店街のみんなとトレーナーを引き合わせてはいないはずだ。

 

 今までナイスネイチャは、勝ちたい理由その気持ちに向き合うことは出来ず――ただ勝つためのトレーニングを積んでいた。

 神谷を信じる他がなかった。今の自分では、みんなに合わせる顔がないとそう思っていたから。

 

 商店街の人たちと彼に繋がりがあるということは知っていた。豆腐屋の車借りてたし。

 でもそれは単なる神谷であり、彼がトレーナーであることも、ましてや自分のトレーナーであることも打ち明けたりはしていなかった。

 

「え、だってナイスネイチャが今日走ること、昨日のうちにみんなにぶっちゃけてたし」

「なんですと???」

「うちの担当が走るんですよーっつったら、ネイちゃんじゃねえか! とまあとんとん拍子でな。言われてみりゃお前、商店街で姉ちゃん姉ちゃん言われてたもんな。っつかアレ、ネイちゃんってあだ名だったんだな」

「…………なる、ほどぉ」

 

 要は単純に、自分の担当が商店街と仲良しなのを知っていたと。

 そして、シンプルに応援に呼んだ、と。

 

「ちなみにお前に言わなかったのは、要らんプレッシャーになるからだな」

「……それは、そうだけど」

 

 唇を尖らせるナイスネイチャ。

 

 嬉しい気持ちはある。祝ってくれることそのものが幸せなのは確かだ。

 でも、それはそれとして仲間外れにされているような寂しさは隠しようもない。

 

「――神谷ァ!!」

 

 と、そこで豆腐屋さんのデカい声が響き渡る。

 

「なんじゃいデカい声出してからにー」

 

 ナイスネイチャの隣にしゃがんでいた神谷が立ち上がれば、酒瓶を片手に出来上がった豆腐屋さんが叫ぶ。

 

「酌ばっかしてんと、お前も飲まんかい!!」

「まーたアルハラかい。あんたもいい加減にしねえと肝臓ぶっ壊れんぞ?」

 

 すたすたと、そちらへ歩いていく神谷。

 

「余計なお世話じゃ、なあ!!」

「ああ全くだ!! 神谷お前、もっとはしゃげ! もっと楽しめ!! 俺たちばっかり浮かれてんじゃあ、バカみたいじゃねえか!!」

 

 がははは、と笑う二人組の酔っ払いに、神谷は口角を上げて。

 

「あんたら目ぇついてねえのか、俺のこのふざけた格好以上のはしゃぎがあるかってんだよ」

「恰好だけなら誰だって出来らぁな!!」

「ちっ、年寄りは目だけは肥えてて面倒だぜ」

「聞こえてんぞ神谷ァ!!!!」

 

 げらげらと笑いの絶えない中、神谷は軽く息を吐くと、ちらりと後ろを振り返った。なんともまあ、祝い席の主役らしからぬ曖昧な表情の担当がちょこんと座っている。

 

「ってか盛り上がるならお姫様あってのことだ。なんとネイちゃん、まだ勝った実感がねえらしいぜ」

「ああん!? そりゃテメエの怠慢だろうが!! ちくしょう、酒飲んでる場合じゃねえ!!」

 

 豆腐屋と、連れの魚屋が立ち上がり、どたどたとナイスネイチャの方へ向かっていく。

 

「ネイちゃんおめでとおおおお!!」

「ああ、これまで頑張った甲斐があったなァ!!」

「うわなに!? ちょ、早くもお酒くさい!!」

 

 テンパる彼女の悲鳴に、広間の大勢が振り返る。

 

「お、なんだよ席立っていいのかよ」

「主役に挨拶も無しってわけにゃいかねえ」

「あらあら大人気ねえ」

 

 あっという間の出来事だ。

 

「わ、ちょ、ほんと、待って!」

 

 ナイスネイチャは多くの酒臭い大人に取り囲まれて、やんややんやと祝福の言葉で殴られ続ける。

 

「あの、もう、と、トレーナーさん!!」

 

 おめでとう。信じてた。ありがとう。頑張ったね。

 

 もがき、助けを求めるように首を振っても、どこにも"トレーナーさん"の姿はなく、代わりにあるのはみんなの笑顔。

 

「――ネイちゃん、本当に良かったね!!」

「ぁ……」

 

 言えなかった。

 頑張ってきたことを。実を結ばない努力の話を。心が折れかけた経験を。

 

 今まで打ち明けることが出来なかった。

 たくさんの悔しさと己への失望と、無力感。

 

 きっといつか、胸を張って報告出来る日を夢見ていて。その日になったらようやく自分を許せるって、みんなとのレースの話を避けるようになって。

 

 そうしていつしか、遠ざけていたみんなとレースの繋がり。

 

 それが今ようやく、胸の中に熱く脈打つ。

 

「……ああ、うん」

 

 許して、貰えた。許されて、いいんだ。

 アタシは――。

 

「――みんな、聞いてください」

 

 ぽつりと呟いた言葉は、決して大きな声ではなく。

 もみくちゃの、寄ってたかった祝福の嵐の中でほんのささやかな船乗りの一声だったけれど。

 それでも凪のように静まった喧騒に、ナイスネイチャはみんなの優しさを感じて目元を拭って、それから言った。

 

 

「アタシ、トゥインクルシリーズ頑張るから」

 

 だから。

 

「応援、宜しくね!」

 

 

 一瞬の静寂。

 「なんかまずったかな」と焦る彼女の気持ちを、圧し潰すように。

 

 爆発するような歓声が、大広間に響き渡った。

 

 されるがままに撫でられ背を叩かれ揺さぶられる中で、彼女の目にようやく見えた、自分だけのトレーナーさんは。 

 小さく口角を上げて、大広間から去っていく。

 

 髭眼鏡越しのウィンクは、実にかっこ悪かった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今頃、ナイスネイチャはようやく心を現実に追いつかせているだろう。

 

 そう思いながら、宴会場の庭先で静かに星空を見上げていた。

 

 髭メガネとパーティ帽子といったパーティグッズは、軒先に置き去り。

 

 社交的なふるまいや、盛り上げ役としての仮面と一緒に捨て去って。

 

 神谷は一人ポケットに手を突っ込んで、背に賑やかな人々の営みを感じながら、十二月の寒空に、透き通るような美しさを感じてただ呆けていた。

 

 

「……なんとか、なったな」

 

 

 

 零れたのは、誰にも告げることの出来ない己の中の不安だった。

 

 

 

 

『メイクデビューしくじったことねーんだよな』

 

 フランスの話だ。

 

『自分のウマ娘を信じている』

 

 フランスの話だ。

 

『一着を取らせるのは、トレーナーの仕事だ』

 

 フランスの、話だ。

 

 

 自分の成功体験は――否、ウマ娘に関わるトレーナーとしての経験は、その全てがフランスでの話だ。

 

 日本の芝でのやり方も、レース場の戦略も、きっと自分は他のトレーナーより遅れている。

 

 無論勉強は積み重ねてきた。研究もしてきた。先駆者たちの考察も全て、今も学びの中のことだ。だがそれは、他のトレーナーより長じているわけではない。

 

 チームを組むことができないと言ったのは、謙遜でもなんでもない。

 己が、育てるべき相手と向き合って突き詰める限界を、彼なりに見定めていたというだけの話だ。

 

 だから、メイクデビューで懸っていたプレッシャーは、走る本人に比肩していたと言っても何ら過言ではなかった。

 

 虚勢とまでは言わない。信じているのは本当だ。

 だが、人の目から見えているほど自信に満ち溢れていたわけではない。

 

 もしも自分の力が及ばなければ。彼女の走りに、陰りがあれば。

 それは己の責任である――などと、簡単に口にすることさえ許されない。

 

 なぜならば。人から見える自分は自信に満ちていて、負けるはずがないと心の底から信じていて。そして何より、実績がある。

 

 それが担当のウマ娘を後押ししてくれるならいい。

 だが、もしも万が一失敗すれば、それらはとたんに自分の担当する彼女に牙を剥く。

 

 期待に応えられなかったのは己の方だと責めるだろう。そうなれば、トレーナーのせいで走れなくなる、最悪のケースの出来上がりだ。

 

 それだけは絶対に避けねばならないが、かといって彼女に最高の走りをさせるためにはトレーナーは"絶対"でなければならない。

 メイクデビュー前の子には、信じる指標がトレーナー以外にないからだ。

 

 信じる者に、絶対大丈夫だ、と言われる以上の安心がこの世にあるだろうか。

 天気予報のはずれに怒るのは、昨今の天気予報の精度を人が信じているからだ。

 

 天気予報よりも絶対でなければならない己の立場は、決して簡単なものではないのだ。

 

 

 だからきっと。

 今日の結果に誰よりも安堵しているのは神谷自身。

 煽られても頑なに酒を入れようとせず、はしゃいだそぶりだけを見せていたのはひとえに、酒を入れたら何を口走るか分からない己を恐れていたからだ。

 

 

「勝負に絶対は無い。信じるべき材料をこれでもかと揃えても、百パーセントにはならない。おっかねえもんだぜ、レースってのはよ」

 

 だからこそ、ウマ娘一人に背負わせることが出来ない。トレーナーという存在がそばに居る。それが、この世界でのレースの価値。

 

 彼らが高給取りで、レースに大きな賞金がかかる理由そのもの。

 

 

 中でもこの男が、大きく中央から期待を寄せられ、理事長からの後押しを受けるに値する理由であった。  

 

 

「楽しい。楽しいが……一歩踏み外せば奈落行き。んっとに……しんどい話だ」

 

 

 ――不安はある。心配もする。人間である以上、自信というものに上限はある。

 

 

「……はぁ。ったく。俺が揺らいでどーすんだ。素面の癖に」

 

 こんな情けないツラを、担当に見せるわけにはいかない。

 

 そう、思ったその時だった。

 

 

 

 

「……揺らいだ、って、なに?」

 

 

 

 

 息を飲んだ。

 振り返った。

 そこに、彼女が立っていた。

 

 さっと血の気が引き、瞬時に頭を回す。

 

「……おいおい、主賓が抜けてきて良いのか?」

 

 肩をすくめてみれば、上からケープを羽織ったナイスネイチャは手を皿のようにして気の抜けた表情。

 

「やー、みんなグデグデでねー」

「あーらら、そうかよ。意外だな、結構賑わってっから気付かなかったわ」

 

 彼女越しに見える障子の向こう。明かりが灯された温かな宴会場では、主賓の居ぬ間もどんちゃん騒ぎ。酒がある程度入れば、確かに宴会の名目なんざただの口実かと一人神谷は納得した。

 

 納得して、後悔した。

 

 みんなあんなにナイスネイチャのことが好きならば、この席で彼女を放っておくはずがなかろうと。そんな読みが外れたことと。

 どのみち彼女の居る場で、気を抜くのではなかったと。

 

「……あー、冷えるぜ? 一応ちゃんと、暖かい恰好はしてるみてえだけど」

「分かってるよ。それを言うなら、トレーナーさんも。風邪ひかれたら困るんだからね?」

「はは、そりゃそうか」

 

 肩に羽織る可愛らしいケープに、少し神谷は目を細めた。ナイスネイチャは今日、レース場から自分とともにそのままここに来た。

 こんなもの持ってたっけ、と。

 ただ、そんな疑問を口にしてだらだらと会話を続けることは出来なかった。

 

「それより、さ」

 

 ざ、と外履きで砂利の庭へ足を踏み入れた彼女は、神谷の隣に並び立って空を見上げた。

 

「さっきの……聞いても良い?」

「妙に掘り下げてくるじゃねえか。俺の将来設計の話だよ。お前が気にすることじゃねえさ」

「……」

 

 優しく、お世話焼きな子ではある。

 でも、こういう風に言えば踏み込んでこられない、そういう形の優しさもある子だと分かっていた。だからそう言って、多少からかって笑い合えば終わりだと。

 そんな風に計算して告げた言葉にしかし、返事はない。

 

「ね、トレーナーさん」

 

 その声のトーンに幾分か真面目なものが混ざっていて、神谷は少し目を細めて顔を向けた。

 ナイスネイチャは星々を眺めたまま、白い息を天に上らせて。

 

「トレーナーさんが優しいことくらい、分かってるよ。アタシのやる気のために、凄く気を遣ってくれてることもさ」

「……」

「正直、ちょっと恥ずかしいくらい。やめてほしくは……無いんだけど。でも、アタシってほら、そこそこ系ウマ娘なわけでして。トレーナーさんのほめてくれる言葉を、全部鵜呑みに出来るほど、自信無い」

 

 だからね、と視線を神谷に向けて。

 

「アタシのことで悩んでるなら、しょーがないかなって」

 

 そう、困ったように笑う彼女に、神谷は今度こそ過去の己を呪った。

 首を振り、殊更さらりと答える。

 

「だから違うっての。お前のことで俺が悩むようなことなんざ一つも無いさ。どんな思いでお前のこと口説いたと思ってんだ? 俺はお前ならすげえことが出来るって思ってたから――」

「分かってる、分かってるってば」

 

 わたわたと手を振る彼女の照れも、どうにも控えめで。いつもなら切り上げて別の話にするか、逃げ帰るかの二択だというのにどちらも無く。

 普段と何かが決定的に違うことに、神谷は僅かな苦さを感じた。

 

「ありがとね、トレーナーさん。アタシが、みんなにまたこうして胸張って会えたのは、貴方のおかげだから」

「そりゃお前の頑張りあってのことだ」

「トレーナーさんは、そう言うって分かってたけどさ」

 

 にこにこと、笑み。ただ、この彼女の表情を、神谷は見たことがなかった。

 いつになく強気で、頑なで、何かを譲るまいと。そんな意志さえ籠った目。

 

 なんだ。何が彼女をそこまでさせたのかと、神谷が悩むよりも先にその答えは、ほかならぬ彼女の口から零れ出た。

 

藤沢さん(豆腐屋さん)に言われたんだ。トレーナーさんは、案外悩んでるかもって」

 

 その言葉に、神谷は目を見開いた。

 

 先ほどの宴会場でのやり取りが甦る。

 酒を飲めと、面倒な絡み方をしてきたあのおやじ。

 しかし確かに言っていた。もっとはしゃげ、もっと楽しめと。

 

「ちっ、年ばっか食いやがってあの爺……」

 

 余計なことを、と神谷は思う。

 なまじ年食って人の心の内を見透かす力があるだけたちが悪い。

 

 それでうちの担当の心に傷でもつけたらどうするんだと、トレーナーとしての経験が訴える。これだから素人はと、すぐにでも宴会場に戻ってどなりつけてやりたい気持ちをぐっと堪えて。

 

「あれだろ。爺は俺みてえな若造に説教の一つでもして、偉ぶった気になりてえだけだろ。んなもんいちいち気に病んだって仕方ねえさ」

「……トレーナーさん」

 

 少しだけ眉を下げる彼女に、これ以上調子を下げるようなことはしたくない。

 神谷は努めて笑って言った。

 

「ま、気持ちは嬉しく思っとくよ」

 

 そうして、円満なしめくくりを。

 

 

 だが、そんな願いはほかならぬ目の前の少女によって、静かに断ち切られた。

 

 

「教えてよ」

 

 

 踵を返そうとした、その一歩を踏みとどまって神谷は振り返る。

 

「……何をだ? 俺の将来設計か?」

「っ」

 

 小さく唇を噛んで俯きかけたナイスネイチャは、しかし毅然と神谷を見上げて。

 

「じゃあ、それも聞かせてよ。アタシも、知っておきたいし」

「……へえ。まあいいぜ、そしたら――」

「でもそれは、後でいいかな」

 

 ほんの僅かに、神谷の眉が動いた。

 

「アタシが聞きたいのは、さっきのことだよ」

「……」

「揺らいだっていうのは、アタシのことでしょ?」

 

 詰め寄るような視線に、神谷は一度目を閉じた。

 さてどうしたものかと思考を巡らせる。

 けれど。

 

「――俺が揺らいでどうする、とは言わないよ。自分の将来設計に」

「……そうかもな」

 

 ナイスネイチャは、少しだけ寂しそうに眼を逸らす。

 嘘を吐かれていたことは分かった。分かったけれど、それは多分神谷なりに自分を守ろうとした結果だと、これまでの経験が物語る。

 

 でも、さっきも言った通りだ。

 ここまで来られた。商店街のみんなと、また笑い合うことが出来た。

 それは全部、今まで頑張ってくれた、隣に立っていてくれた人のおかげ。

 

「……言えないのは、アタシのためだよね」

「いや? 俺が恥ずかしいからだ」

「頑固者めぇ……」

 

 ぐぬぬ、とナイスネイチャは歯を噛んだ。

 

 どうしようかと目を伏せて、それからもう一度彼を見上げれば。神谷は神谷で、いつも通りの優しい瞳でナイスネイチャを見やっている。ただきっと、その裏で多く何かを考えていることは――不思議と分かった。

 

 それはきっと、これまで会ってきた、積み上げてきた絆のおかげで。

 

「じゃあ、もういいよ。勝手に話すからさ」

「……」

「――アタシはトレーナーさんが居なかったら、ここまで来られなかったんだよ。ほんとに、感謝してるんだ。正直まだ、夢みたい」

 

 思い返すのはかつてのこと。

 出会うまでの思い出は、今もまだ笑い話に出来るほど消化しきれていない報われない苦しみに藻掻いた記憶。

 

 出会ってからはまた、あまりの幸運に己の人生の総運量なんかを疑った。そして、専属に誘われた夜のことは、今も昨日のことのように思い出せる。

 なんなら、忘れないように日記に記した。墓まで誰にも見せずに持っていく所存である。メジロドーベルに見つかって漫画化されるのはまた別の話だ。

 

「だから、だからさ」

「……だから?」

 

 あまり続きを聞きたくなさそうに。

 それでも、ここで会話を切る選択肢がなく、神谷は少し諦めたように問いかけた。

 何が飛び出すのかと、僅かに恐れるような仕草は正直心に来る。

 

 担当ウマ娘とその専属トレーナー。

 であればこそ仕方のないことで、そうであるからこそ上手く回っていたはずの歯車に、手を付けるのは怖いことだ。でも、その歯車が、随分と錆びついてしまっているのを見て見ぬふりも出来なくて。

 

 壊れないことを祈り、信じて。

 単なる担当ウマ娘では踏み込むべきでない領域に、彼女はきゅっと口元を引き結んで踏み出した。

 

 

「アタシばっかり貰ってるのは、もう嫌なんだ」

 

 

 少しだけ、神谷の目が見開かれる。

 

「アタシ、本当の本当にダメだったんだよ。ダメになってた。トレーナーさんが居なかったら今でも誰も担当なんかついてないし、運よくどこかのチームに入れても、メイクデビューでこんな成績残せなかった」

 

 なにより。

 

「キラキラしたい。テイオーに勝ちたい。そんな大それた目標を、口にすることさえ資格がないって、そう思ってたんだ。それが今、なんですかこれは」

 

 ずい、と拳をマイクのように突き出して、神谷に向ける。

 

「――なんですか、ってなんだよ」

「え、あ、それは」

 

 少し勢い余ったらしい。照れに表情を染め上げる彼女は、目を逸らしてでも最後まで何とか言い切った。

 

「い、いまあなたのめのまえにいる、このむすめのせんせきはどーですかね」

「……そォだな。メイクデビュー大差勝ち。次戦を幾つものレースやマスメディアに求められてる、最高のウマ娘だ」

「後半今知って動揺が隠せないネイチャさんですけれども!!!」

 

 神谷が無表情でスマホを見せれば、タイトルにナイスネイチャの名前が踊る記者関連の通知がずらり。どれも取材や質問状、会見依頼で溢れている。

 

 あ、ぐ、と勢いに押されそうになった顔真っ赤なネイチャさんは、それでも踏みとどまって。

 

「でも、でも! そんな風にしてくれたのはトレーナーさんだ!」

「……」

「もう……もう、ちょっとトレーナーさんが悩んでるくらいでアタシは怯えたりしない。変に、動揺したりしない」

「それは、だとしても無い方が良いに決まってる」

「そんなの、誰にだって言える話じゃん!」

 

 っ、と小さく気圧された神谷に、ナイスネイチャは首を振る。

 

「アタシ、不安さんとか心配さんとか、大変長い付き合いなんですよ! ずっとずっと、アタシに引っ付いて離れない。これを全部無くすなんて、出来ることじゃない。昔のアタシなら、それはアタシが弱いからだって思ってたけど」

 

 でも、と強気に笑って彼女は言う。

 

「こんなアタシでも、トレーナーさんが居ればこんなことが出来た。今なら分かるよ。誰にだって、あって当たり前なんだって」

「……」

「それを、トレーナーさんだけは無いなんて。そんなのは無理だよ」

 

 神谷は、僅かにナイスネイチャから目を逸らした。

 先ほど、自分で思ったばかりのことだ。

 

 ――不安はある。心配もする。人間である以上、自信というものに上限はある。

 

 どんな風に虚勢を張ったところで、己の心にまで嘘を吐くことは出来ない。

 

 だが、それがどうした。

 担当のためなら、どれだけでも己を使い潰すのがトレーナーの仕事だ。

 そう思えばこそ、神谷は口を開きかけて。

 

「もしもトレーナーさんが、アタシを不安に思ったことがあったとしてもさ。アタシはそれをしょーがないと思うし、多分アタシがレースに勝つ以外に、それをどうにかすることは出来ない……分かってる」

「だからレースに支障が出るって話で」

「ううん」

 

 首を振る。

 ナイスネイチャは、思い出した。

 大差でゴールした今日のレースで、神谷の記録を守れたことへの安堵があったこと。振り向いた先で目が合った彼が、本当に心から喜んでいたこと。

 

 思えばあれは、当然の勝利に対する頷きなどではなく、ナイスネイチャの走りを見守って勝利を祈っていればこそ。

 

 ――レースに百パーセントは無い。

 

「トレーナーさん。聞いて」

 

 笑いかけるその優しい表情は、卑屈さも弱気もどこかへ消えて。

 代わりにあるのはきっと、目の前のトレーナーへの信頼と……貴方のために、という新たに生まれた望み。

 

「不安と、心配があったとしてもさ」

 

 一瞬躊躇うのは、反射だろう。こんなこと、言ったこともなければ、言いたいと思ったこともない。ましてや、言う資格があったことも、言うタイミングも無かったから。

 

 それでも、これまでを支えてくれた人に向けて、彼女は心の底を絞り出した。

 

 

「――それでもトレーナーさんの信じたアタシが、勝てたよ?」

 

 

 静かに。しかし、息を飲んだ音が、微かに聞こえた。

 

 一瞬の静寂に、彼女は耐えかねて。

 

「な……なんちゃって」

 

 そう、小さく頬を掻く。

 

 

 翻って。言われた方は、たまったものではなかった。

 どうして、勇気を振り絞る先が己のトレーナーなのか。どうして、そんなことをさせてしまったのか。悔いる想いも、確かにある。

 

 けれど、それ以上に。

 ここまで、思いやってくれる担当が居ただろうか。ここまで、その想いをレースに向けてくれる担当が居ただろうか。自分の走りに、誰かへの想いを載せるような子が居ただろうか。

 

 随分と、恵まれた話があったものだ。

 

 

「ナイスネイチャ」

「……は、はい! なんでしょうか!」

「――駆け抜けるぞ、トゥインクルシリーズ」

 

 メイクデビュー如きで、この子を幸せの絶頂において良いはずがない。

 

 担当を活かし、勝たせるのが己の仕事と割り切って久しい神谷の心に確かに刻まれたのは、絶対に彼女を頂点へ持って行くという覚悟。

 

 これまでの人生に無い、強い意志。

 

 

「――悩んでたことがあるんだ」

 

 

 零れ出た言葉。それは決して、担当するウマ娘にとっては喜ばしいことでないはずなのに。

 どうしてか、目の前の彼女は心の底から嬉しそうに「ぁ」と小さく声を零して。

 

「聞く! 聞きますとも!」

「そうか。……分かった。でも、良い。今決めたから」

「え?」

 

 もう、きっと彼女が折れることは無い。

 たとえどんなことがあったとしても。

 

 なら、悩みは晴れた。堅実に勝てるレースは最早必要無い。

 彼女のキラキラに、最も早く、最もまっすぐなものだけを。

 

 神谷はそう決意して、口を開いた。

 

 

 

 

 

「次走は、若駒ステークス。相手は――トウカイテイオーだ」 




大変お待たせいたしました。
次回から第二章。

『テイオー伝説ー激闘編1ー 両雄邂逅の若駒ステークス』


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テイオー伝説ー激闘編1ー 両雄邂逅の若駒ステークス
ネイチャさんと始まり


 

 

 中央トレセン学園、練習場。

 

 風を切る音と共に、重い蹄鉄を踏みしめて駆ける少女の姿が突き抜けていく。

 

 だ、と目の前を駆け抜けたところでストップウォッチを押したのは、前髪がその風に靡いた一人のトレーナーであった。

 

「おーっしテイオー!! あと5本だ!!」

 

 クリップボードを片手に、数値を書き込みながら。

 

 棒キャンデーが口から零れ落ちないよう気を付けて、声を上げる。

 

「まっかせてー!!」

 

 その返事は走り抜けた先から聞こえてきた。

 元気よく手を振る少女の快活な笑顔からは、疲れは一切感じられない。

 

 今日も今日とて最高の才能を発揮する彼女の笑みに、沖野は小さく微笑んだ。

 

 ――このところ、あまりにも忙しい日々を送っていた。

 

 零細チームであったはずの、自らがそうしてしまったはずのチームは、以前以上の輝きを取り戻している。

 

 レースの勝利数も、あのチームリギルに追随するかの如く。

 綺羅星と謳うに足る、素晴らしいチームに仕上がっていた。

 

 その大きな理由は、そこでルービックキューブをいじっている謎のウマ娘。

 

 彼女とともに、多くのウマ娘を集めて。

 そうして出来た今のチームスピカは、沖野にとっての誇りだ。

 

 

 中でも今切磋琢磨している二人のウマ娘は、これからのレース業界を彩る最高の選手になってくれる。そんな自信が、彼にはあった。

 

「テイオーさん! 少しくらい息を入れなさいな。ただ走ったところで、身につかない練習は無意味ですわ」

「そのくらい分かってるよマックイーン! ボクだって、適当に走ってるわけじゃないやい!!」

 

 半ば呆れた表情の少女に対し、ムキになって言い返している少女。

 

 前者をメジロマックイーンといい、後者をトウカイテイオーといった。

 

「現にほら、ボクってばマックイーンより速いし」

「……聞き捨てなりませんわね。今のは本気のレースではありません。10本の中で、自らにとってより良い走り方、よりタイムの良い走り方を知り、身に着けるためのもの。たまたま今の調整が、わたくしに合わなかっただけのこと」

「言い訳じゃんそれ」

「………………………………トレーナー?」

 

 そこで俺に振るぅ? と沖野は渋い表情をして告げる。

 

「あー……マックイーンの言う通りだ。テイオーにも、走り方を色々と試してほしいと思ってるが……」

「色々試すって言ってもさー。ボクはボクの最高の走りが、もうあるからなー」

 

 頭の後ろで手を組んでみせるトウカイテイオーは、難しい顔だ。

 自信満々だとか、強者の驕りだとか、そういった心持ちが無いわけではない。

 ただ、自分以外の強者を知らないわけではない。

 

 それはやはり、自らが憧れと口にしてやまないシンボリルドルフだろう。

 

「カイチョーの走り方は、なんというかボクには合わないんだよね。……ん-、ちょっと違うかも。こう……ぐぐぐって」

「貴女自身の憧れの相手なのであれば、もう少ししっかりと言葉にしたらどうです?」

「うるさいなあ! カイチョーの凄さは、言葉にはできないの!!」

 

 ジト目を向けるメジロマックイーンに、トウカイテイオーは地団駄を踏んでみせて。すがるような瞳を向けられた沖野は、小さく自らの顎を引いた。

 

「確かにな」

 

 ぱっと明るくなるトウカイテイオーの可愛らしい表情はさておき。

 

 シンボリルドルフの走りは、皇帝の走りだ。言うなれば力強さ。絶対の覇者。

 中団から、たとえどんな状況に置かれようと周囲を押しのけ、突き抜けるその走りはおそらく他に無い。

 

 無理にたとえるならばテイエムオペラオーなどが該当するが、彼女の走りはもう少し落ち着いている。豪快に道を作るそれではなく、躍り出るような美しさ。

 

 翻ってトウカイテイオーはどうだろうかと考えれば、彼女の走りはその軽やかさに際立って見えると言える。

 

 周りの選手をものともせず、するりとすり抜けていくような。

 トウカイテイオー随一の魅力は、本人もまた自覚したものであった。

 

 ただ、と少し沖野は目を細める。

 

『テイオー様、走り方怖ぇな』

『……お前はそう思うか』

 

 ――昨日の練習のことだ。

 ふと一人でレース場に顔を出した神谷が、ぽつりと沖野にだけ告げたこと。

 

 決して、同じ時期を被る相手の妨害をしに来たわけではない。

 そんな間柄ではない。

 互いにそれを分かっているからこそ、沖野は心に言葉を残していた。

 

 素晴らしい走りだと思った。トレーナーたちは一様にそれに沸いた。

 沖野自身も、トレーナーとして彼女を預かることになった時、心の底から感動したものだ。

 

 唯一無二の、彼女の走り。

 それをユニークスキルと諸手を上げて感動したい気持ちが先行して、彼女のこれからを見ていたいという想いが先走りして――それから、その才能を潰すことになるかもしれないと思って、胸の奥に留めるのみにしていたこと。

 

 12月の中頃からだろうか。より一層タイムに磨きをかけたトウカイテイオーは、世代最強の名をほしいままにすると同時、さらに前のめりな走り方をするようになった。

 

 前例がないことは、輝かしいことであると沖野は信じている。

 だからこそ、ウオッカが本当に望むならいずれはダービーを走らせる。

 

 だが一方で、前例がないということには理由がある。

 素晴らし"すぎる"ステータスは時に、大きな爆弾を抱えている。

 

 現状まだ、兆しが見えることはない。

 考えすぎだと首を振ることも出来た。

 

 それに他のメンバーが現在、トゥインクルシリーズで佳境を迎えていることもある。少し、ジュニア級の彼女のトレーニングを、甘く見ていた。

 

 ジュニアに出来るトレーニングには、限界があるから。

 まだまだ身体が出来ていく過程だから。

 

 その固定観念が、邪魔をしていた。

 

 もしかしたら単なる杞憂かもしれない。ただ、杞憂で済むことの全てをケアしてこそのトレーナーだ。

 

 ――そう、あの後輩に教えたのは外ならぬ自分だ。

 

「トレーナー?」

「ああ、すまん。お前の走りは、お前にしか出来ないものだ。――実際、だからこそ俺はスズカを、見ていられなかったんだしな」

「……スズカさん、ですか」

 

 今はアメリカに居る彼女のことを想い、メジロマックイーンがそっと唇に指をあてた。

 思えばメジロマックイーンは、サイレンススズカとともに居た時期がメンバーで最も短いのだ。

 

「ああ。あいつにしか出来ない走りがあるのに、それを押さえつけるのが勿体ない。だから俺は、スズカに口出ししちまったんだ。あいつがチームに来てくれたのも、その責任を取った形だしな」

「なんかその言い方、すごくアレだね」

「アレってなんだよ」

「口出しした責任とって引き取った……男らしいじゃん? トレーナーのくせに」

「トレーナーのくせに、は余計だ全く」

 

 ゆるく首を振って、沖野は一人思う。

 

 それで怪我をさせてしまったのも、己であると。

 

 であればこそ。

 

「まだ時間はある。テイオーには、テイオーの一番走りやすい走り方を見つけて欲しいんだ。こう言っちゃなんだがな、テイオー」

「なに?」

「今のお前じゃあ、無敵には程遠いな」

「むっ!! それは聞き捨てならないなあ!! ボクに勝てるやつなんか、誰も居ないんだから!!」

「それは同じ世代に限った話だろ。ほら、カイチョーに今勝てるのか?」

「そ、それは……わ、分かんないよ!! 勝てるかもしれないし!」

「"かもしれない"なんて言葉は、無敵のウマ娘からは聞きたくねえなあ」

「むむむむむ……」

 

 唸るテイオーは、鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 

「ふんだ! いいよ、じゃあもう一本走ってくる!! 行くよマックイーン!!」

 

 ずんずんとスタート地点に向けて大股で歩いていく彼女を見送って、呼ばれたメジロマックイーンは小さくため息を吐いた。

 

「この練習に、意味はありますの?」

「ああ。大事な……大事な意味がな。俺はマックイーンにも、同じことを思ってる。どちらかといえば、お前の走りは力強くて頼もしいが」

「当然ですわ。メジロのウマ娘として、恥じない走りと自負しています」

 

 髪を払って彼女が背を向けると、向こうで大きく手を振っているトウカイテイオーの姿。やれやれと首を振ったメジロマックイーンは、ほんの少しだけ速足でスタート地点に向かっていった。

 

「それじゃ始めるぞー!!」

 

 手を上げて、叫ぶ。2000メートルの開幕を。

 

「……お」

 

 その最初ですぐ、沖野は声を上げた。

 いつもは最初から競り合う二人だが、テイオーが僅かに出遅れたのだ。

 出遅れた、というのは違うかもしれない。少しスローペースに、じっくりメジロマックイーンの後ろ数バ身の位置につけて見せた。

 

 そして。

 

 第四コーナーまで曲がってきたところで、ぐっとその力を解放する。

 

 一気に速度の増した彼女の走りに、沖野は目を細めた。

 

「……なるほどな」

 

 見覚えのある走りだった。

 シンボリルドルフでもなければ、チームスピカの誰でもない。

 

「――よっし、なかなかのタイムだ!」

 

 ゴール板を駆け抜けたのは、メジロマックイーンが先だった。

 半バ身ほど遅れたトウカイテイオーは、小さく息を吐いて。

 

「どうだったテイオー。今の走りは」

 

 そう問うと、先にメジロマックイーンが頷く。

 

「そうですわね。なかなか前を走っていると緊張感がありましたが……誰かを参考に?」

 

 トウカイテイオーはその問いに緩く首を振って、笑う。

 

「別に? 誰のまねとかじゃないよ」 

 

 でも、と見上げる彼女の瞳に灯った闘志に、沖野は僅かに息を飲んだ。

 

 

「うん、やっぱりこの走り、ボクの走り方に比べたら全然大したことないよ!」 

 

 

 沖野は、そう言い放つ彼女の強気な笑みに、ぽんと頭に手を載せることで応えて。

 それから、小さく目を閉じて考えた。

 

 ――タイムそのものは、トウカイテイオーの方が上だ。

 

 ただ。

 

「さらば、俺の睡眠時間」

 

 一見して意味の分からない呟きに、首を傾げる二人をおいて。

 

 スペシャルウィークの大事な時期とはいえ、トウカイテイオーにもっと力を注ぐ決意を固めたのだった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空は快晴。雲一つない青空の与えてくれる爽快感と満ち足りた心地を、青年は一人かみしめていた。

 

 随分と晴れやかな気持ちで、少しの間ぼんやりしていると、芝を踏みしめる音がする。

 

「トレーナーさん?」

「お、来たな」

「そりゃ来ますとも」

 

 少し、その可愛らしい瞳を強気の吊り目にしてみせて。

 それから彼女は、ふふ、と笑みを零した。

 

「ごめんごめん、なんだろね今のやり取りは」

 

 ただ、言葉を交わしたい。それだけのようにさえ感じてしまった少女にとっては、少し照れくさかったのかもしれない。

 

 しかし、相手のトレーナーさんはといえば。

 片眉を上げて、それから愚痴るように言った。

 

「いや嬉しいぜ? 来るのが当然と思われているうちが、トレーナーの華ってもんよ」

「え?」

「そりゃそうだろ。担当が俺の作るメニューをやりたいと思ってくれなきゃ、来る理由もねえんだぜ? 世間的な大スターにとって、自分の練習に付き合うトレーナーなんざ選り取り見取り。翻って単なるいちトレーナーは、担当に対する強制力も無ければ、ウマ娘と契約を結んでるわけでもねえんだ」

「……」

「漫画家と編集者とかの関係に近ぇな。俺が務めてるのはあくまで中央トレセン学園であって、お前に雇われてるわけじゃねえ。スターが嫌だといえば、面倒な手続きなしで、中央トレセン学園がトレーナーの首を挿げ替えるだろうさ」

 

 それは、ひょっとしたらあるかもしれない未来の可能性――というようにそのトレーナーさんは語ってみせた。

 

 けれど、その瞳はむしろ過去をこそ語っているように見えた。

 

 少女は少し眉を下げて、言葉を選ぶように逡巡した。

 

 トレーナーに対する同情心もある。自分はそんなことをしないという自負もある。

 

 ただ一方で、ふと気づいた。

 

 そんな愚痴を言う自分のトレーナーがあまりにも珍しいと。

 

 そして気付いてしまえば、むしろ少し嬉しくて。

 

「……じゃあ、アタシと個人的に書類でも交わしますかね? 甲は乙のこれからを見守るものとする……なんて」

 

 そう言ってみせると、彼は一瞬驚いたように目を丸くした後、

 

「はっ。何言ってんだ未成年が」

 

 と笑った。その瞳に僅かな嬉しそうな感情が滲んでいることに気付くと、少女の胸の内に温かいものが灯る。

 

「アタシは、アタシを選んでくれたトレーナーさんと、これから頑張りたいからさ。その気持ちは変えたくないし、ずっと持ってたくて……」

 

 そう、目の前のトレーナーの愚痴に対して、自分のありったけで応えてあげようとして――はた、と止まる。

 

 なんか結構すごいこと口走ってないか???

 

「――ってぇ!! これはあれですかね!! この前の話で言ってくれたよーに、あえて愚痴を言ってくれることでアタシのやる気を出してくれる的確な台詞というやつですかね!! あはは!!」

 

 あーもー!!と内心で叫びながら、そもそも何に対してそう喚いているのかも分からない三頭身ねいちゃたち。

 先に口走ったことへのそれか、それともここで誤魔化してしまったことか。或いは――なぜ、誤魔化してしまったことを悔やんでいるのか、に掛かっているのか。

 

「さあな」

 

 肩をすくめて、神谷は優し気な笑みを見せながら。

 どうしてここまで取り乱している担当ウマ娘の前で、そんなに冷静なのかと言ってやりたそうなジト目を受けて、彼は視線を青空に投げる。

 

「ただ、それを知ったお前はせめて……たとえそうなったとしても俺に断りの一言くらいはくれるかなと思ってな」

「……別に、そんなことしませんから」

「そうか」

「ん。だからなんの意味もないよ」

「……そうか」

 

 柔らかな笑みに、頷く。

 彼女の、照れが残った少し赤い頬だけは、ごまかしようもないけれど。

 

「さて、じゃあ今日も始めるか。若駒ステークスに向けて――正直、大変なことになってるからな」

「大変?」

「ああ」

 

 そう言った彼が見せるスマートフォンには、大きな見出しと共に書かれた記事。

 

 月刊トゥインクルの12月は、有記念やホープフルSで埋め尽くされるのが本来だ。

 だがその中で異彩を放つ見出しが一つ。

 

 そしてそこには、12月にメイクデビューでの勝利を挙げた二人のウマ娘が取り上げられていた。

 

 

 

 12月初めに、来年度クラシックの大本命がついに発進。無敵のテイオー伝説、無敗の三冠王をこのトゥインクルシリーズに宣言した得意満面のトウカイテイオー。

 

 そして、もう一人は。

 

 12月中旬に、そのトウカイテイオーをも凌ぐタイムでの大差勝利を挙げクラシック路線に挑む無名の怪物。ただ一言、次も勝つと告げた鉄面皮のナイスネイチャ。

 

 ――硬い表情の正体を緊張と知る者の少なさが、吉と出たか凶と出たか。

 

 いずれにせよ、その対照的な雰囲気と来期激突必至の状況に、記事やそのコメント欄が熱を上げている。

 

 

 記事のタイトルは、『両雄邂逅の若駒ステークス』

 

 

「――テイオー様の隣に並ぶ気分はどうだ?」

「ぁ……」

 

 思わず呟く少女――ナイスネイチャの胸の内に、熱いなにかがこみ上げてくる。

 

 見出し画像を二つに割る少女二人。

 対になるのは、あのトウカイテイオーと、そして。

 

 

 

「……たい」

「ん?」

「……たい、ね」

 

 

 ぽつり、ぽつり。

 声にならない声を、絞りだすようにして、ナイスネイチャはゆっくりと顔を上げた。

 

 たったこれだけのこと。まだメイクデビューを終えたばかり。

 評価というものはきっと、これからの走りで決まっていくと分かっていて、自分がどれだけ頑張れるかという恐怖心も、じくじくと胸を刺しているのに。

 

 それでも。

 画面を見せてくれた、自分のものではない大きな手があって。

 そっと背中を押してくれる、今も隣に感じる熱があって。

 

 彼女は、ともすればその画面を見ただけでこれまでの万感の思いがこみ上げて泣きそうになるのを、ぐっと堪えて笑った。

 

 笑って、トレーナーさんを見上げて言った。

 

 

 ――隣に並んだ気分はどうだ?

 

 それはとても。

 

 

「――抜きたいね」

 

「はっ。それでこそだ」

 

 

 

 さあ。

 

 

 

 今日も練習を始めよう!

 



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ネイチャさんとおやすみ

 この時間に街を歩くのは久々だ。

 商店街に足を運んだナイスネイチャは、ぼんやりと周囲を見渡した。

 

 時刻は昼前。

 常日頃から、この時間はみっちりと練習メニューを組んでいる。

 そうでなければ、学校の授業がある。

 練習がオフの日はだいたいが授業の日で、練習も学校も無い完全オフは大概が疲労がたまりすぎている時だ。そうなれば、午前中は死んだように眠っている。

 

『明日は完全オフです。ゆっくり休むと、ナイスネイチャは進化する』

『は、はあ……』

 

 時折不定期に宣言される神谷からの完全オフ命令は、受けた当日はあまり実感が無いものだ。

 明日も練習できる、練習したい、もっともっと速くなりたい。

 その気持ちが先行して、最初こそ不満に思っていたけれど。

 

 最近では、『あー……もうその日かー……』と半ば諦めている。

 

「……朝起きると身体が全然動かない、どころか。起きれないんだな、マジで。ははっ」

 

 初めての完全オフは、それはもうびっくりした。

 今でも思い出せる。神谷に府中の東京レース場に誘われた日。

 しっかり準備していこうと目覚ましをかけて、その日は殊更早く寝たのだ。

 

 規則正しい生活を送っている彼女は常に夜十時までには入眠している。

 それが、疲れもあって九時には眠って――起きたら朝十一時だった。

 

 目覚ましは、五時間前に鳴っていた。なんならその時間にマーベラスな目覚ましも鳴っていた。

 

「待ち合わせそのものが午後だったから良かったものの」

 

 しみじみと過去を想い、顔を上げる。

 

 それに比べれば今日は随分と、すっきり早起きが出来たのだ。

 指折り数えてみると、神谷と組んで五回目の完全オフ。

 朝九時に目が覚めて――まあ、それでもナイスネイチャにとってはだいぶ遅いのだが――こうして買い物に足を運ぶことが出来た。

 

 久々に自炊の1つでもしてみようかなと、そんな心持ちである。

 最近、あまりにも練習がハードすぎて、与えられた食事を口にすることしかできていなかった。

 身の回りの、およそ全てを誰かしらに丸投げすることでぎりぎり成り立っていた生活である。昔の自分からすれば考えられない話だ。

 

「必死に頑張ってるって思ってた、あの頃のアタシに教えてやりたいものですね」

 

 実際、頑張っていたのはそうだ。時間もフルに使っていたし、あの頃の自分に考えられる最大限のメニューだった。

 

 では現在と比べてどうなのかといえば、そう。

 

 トレーナーが付いてのトレーニングは、身体の虐め方が滅茶苦茶適切なのだ。

 

 しんどくてもう動けない? そうだろうな。でもまだここは動くだろ?

 

 と。どの筋肉を鍛えているのか。どの筋肉はまだ鍛えられていないのか。そうした理論立った説明と、これを頑張ることで何が得られるかを懇切丁寧に伝えられ、まるで自分が投げだすことがレースそのものを放棄するかのように感じさせられる。

 

 そして計測がまた憎い。

 そうやって踏ん張って頑張って、死ぬ一歩手前くらいまで追い詰められた後に何やら幾つかの身体能力の計測をさせられるのだが――必ず少しずつ成績が伸びているのだ。

 もはや何も感じなくなった身体でふわふわとした気持ちのままやらされる計測。

 そこで魅せられるトレーナーの笑顔と、確かに目で見える自分の成長。

 

 

 

 もはや麻薬である。

 

 

 

 毎日のように全身を余さずぼろ雑巾にされてきたナイスネイチャは、それでもこの生活を辞めたいと思ったことはない。

 

 だって――と思ったところでふと、声に顔を上げた。

 

「お、ネイちゃん! 今日は珍しいな!」

「ほんまや、ネイちゃんやんけ」

「おーい、ネイちゃーん!」

 

 あ、と小さく声を漏らして、ひらひらとつつましく手を振ってみせる。

 

 商店街のみんなが彼女の方を向いていた。

 

「朝からなんて珍しいじゃないかい」

「あはは、まあね。オフの日に……なんと起きられたんですよ」

「おおー! って、ダメだよネイちゃん。生活リズムっていうのはね」

「あーもう分かったって。こっちも大変なんだってば」

 

 誇らしげな表情は一瞬のこと。

 周りのパワーにあっさり敗北して、いつも通りのナイスネイチャが顔を出す。

 

 わー、と集団に連れ去られていく彼女には、バ群を貫く力強さは微塵も残っておらず、のほほんとした諦めの瞳が全てを物語っていた。

 

「しっかしネイちゃん、本当にこの数年頑張ってたんだねえ」

「……と、申しますと?」

「そりゃお前、これよこれ」

 

 手渡されたのは一枚のチラシ。材質はいつも商店街が週報で扱っているもの。

 はて、何だろうと思って手に取れば。

 

 

「みぎゃー---!! なんじゃこれー--!!」

 

 

 頭を抱えたナイスネイチャのせいで、はらりと落ちるそのチラシ。

 内容はそれこそ、月刊トゥインクルのあの特集に他ならない。

 

「え、これ、え!? なんで!?」

「ネイちゃんが映っとるぞ、って話になったんだけどな。ほれ、スマホの文字読めねえ爺さん婆さんも居るだろ?」

「…………一応聞きましょうか???」

「そんでじゃあ拡大して印刷してやるかって話になった時に、印刷屋が……ほれ」

「あ」

 

 印刷屋はそれこそ、ナイスネイチャが昔から可愛がられていたおばちゃんで。

 

「せっかくだからみんなに撒こうって話になったってわけよ!!」

「あああああああ!」

 

 崩れ落ちるナイスネイチャである。

 ことと次第は理解できても、現実に目を向けられない。

 

「ってことはつまり……」

「みんな知ってる」

「ですよねー……!!」

 

 ああもう、と勢いよく顔を上げたナイスネイチャは、目を吊り上げて叫ぶ。

 

「まだ!! まだ一回勝っただけ!!! あんまり持ち上げないでよ!!」

 

 そうだ、まだ一回だけだ。それもメイクデビューという、新人同士での戦いで。

 メイクデビューを勝っただけのウマ娘など、この世に掃いて捨てるほど居る。

 なのにうっかりトウカイテイオーと近いタイミングで勝利を挙げてしまったせいでこんなにも取り上げられているけれど。

 

 それでもしょせんは1勝ウマ娘。だからあまり持ち上げるなと、彼女は言った。

 

「……ほお」

「ネイちゃん……」

「…………立派になったねぇ」

 

 

 だからその反応の意味が、一瞬分からなかった。

 

「え、えと?」

 

 メイクデビューに勝てるウマ娘はメイクデビューに出走するウマ娘の中のどれだけだ。

 

 たった一勝、されど一勝。

 十戦して一勝も出来ないまま終わる選手も居る中で、自分は今一戦一勝だ。

 

 いつかの、いつかの彼女であれば、メイクデビューに負けたとしても「まあ最初はそんなもんだよね」と自嘲するのみに終わっていたかもしれない。

 

 いつか一勝出来ることを夢見て走っていたかもしれない。

 

 なのに今、自分は次を勝つことを目指している。より大舞台で勝てることを、信じている。信じて今、日々のトレーニングを続けている。

 

 

 半ば、自覚のないままに。

 

 

「――頑張りや、ネイちゃん!」

「ああ、ネイちゃんなら出来るはずだ!」

「また良い記事待ってるぜ!!」

 

 ぽんと頭に手を置かれ、肩を、背中を励ますように叩かれて。

 上機嫌で去っていく彼らに、なんかそれぞれ土産っぽく商品を渡されて。

 

「なに!? なに!? ほんとなに!?」

 

 立ち尽くすナイスネイチャの手には、買いもしていないのに夕飯の食材が整っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はー……もう……」

 

 その夜。

 とんとんと自分の頭を小突いて、今日一日を振り返る。

 乾かした髪を梳かしながら、ぼんやりと思うのは商店街での出来事。

 

 ――正直に言えば、やっぱり嬉しくて。

 

 みんなにそう言って貰えた嬉しさを、大事にしたいとそう思えた。

 

「……うん」

 

 小さく顎を引いて、彼女は自分の机の引き出しに手をかける。

 

 今日のことは、さっと記しておこう。

 

 みんなに貰ったプレゼントの日記帳は、ちょっと自分には可愛すぎる装丁で、似合わないと思うけれど。

 

 大事なプレゼントには、大切な記憶を残しておきたい。

 

 思えばつらいことも、悔しいこともあった。それを書いていた当時は、もうこのままレース人生が終わるかもしれないと思っていた。それならそれで、感じた悔しさは一生ものだ。

 

 だからそれだけを大事な想い出にしようと、思っていたけれど。

 

 半年前から、空気が一気に変わった。今までの努力も、無駄じゃなかったと教えてくれた人が居た。

 

 だから今の自分があって――。

 

 

 引き出しを、そっと閉じる。

 

「……??」

 

 もいっこ下の引き出しを開ける。そっと閉じる。

 

 一番下を開ける。そっと閉じる。

 

「……え?」

 

 念のためにもう一周。

 

「………………は?」

 

 バッグを開く。

 

 ベッドの下を覗く。

 

 床を入念にチェック。

 

「ごめんマーベラス」

 

 他人の机を勝手に漁る。

 

 無意味と分かっていて壁を見渡す。

 

 

「…………待って。いやほんと待って」

 

 ぽっけを触る。んなとこに入るはずもない。

 

 クローゼット全部の服にぺたぺた触った。

 

 欲しい厚みは、どこにも感じられなかった。

 

「マテマテマテマテ」

 

 だらだらと汗が流れる。

 

 

 

 

 

 

「アタシの日記……どこいった????」

 

 

 

 

 夜ふかし気味になった。




ネイチャの靴はちゃんと掻っ払いました。


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メジロドーベルと日記帳

 

 ――〇月〇日。

 

 明日から、中央トレセン学園に入学。

 みんなのおせっかいには参ったけど、仕方ないからプレゼントのこれ(日記)くらいは使うことにした。

 抱負ってわけじゃないけど、レースで活躍できるように頑張るつもりだ。

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 みんな、すごい。けど、私だって負けたくない。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 マーベラスにしろ、一番の注目株って言われてるテイオーにしろ、レースどころかトレーニングでもみんなの話題になってる。

 すごいと思う。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 また負けた。

 こんなんじゃ帰れない。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 先生に言っても、トレーニングの機材は貸し出してくれない。

 デビューしてからしか使っちゃいけないものが多すぎる。デビューすら、出来ないかもしれないのに。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 もぎレースに負けた。

 分かり切ってた。くやしくなんてないのに、マーベラスがおせっかいだ。

 

 ――〇月〇日。

 

 昨日は本当によくなかった。マーベラスに謝ったら、許してくれたけど。忘れないようにしたい。

 でも…今はもう、マーベラスにはトレーナーが付いてる。それも忘れないようにしたい。

 才能、才能か。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 退学届けをもらってきた。出すかは分かんないけど。

 こんなこと続けてても仕方ないし。

 テイオーに言われて気が付いたんだけど、私3着ばっかり取ってるみたい。

 お馴染み3着、なんてね。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 どうしたら速くなれるのか、分かんない。

 トレーニングの時間は、マーベラスより長いはずだ。

 ていうか、そもそもそんなこと考えてるから遅いままなのかな。

 じゃあどうすればいいの。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 テイオーがまたもぎレース出てた。一着取って、トレーナーは保留。

 隣に居た子が、テイオーのやってることをじゃまだよねって言ってた。

 あのキラキラしたテイオーの笑ってる顔見て、何も言えなかった。

 

 ――〇月〇日。

 

 寝られなかったから書いておく。

 私、あのテイオーみたいなキラキラした顔に憧れてこのガッコ来たんだよね?

 なんで、じゃまなんかじゃない、って言えなかったの?

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 才能がないんですよ。人よりトレーニングしなきゃ、デビューもできないんですよ。

どうして、どうしてさ。

 

 

 練習用具も、貸してくれないの。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 藤沢(豆腐屋)さんから一昨日メール来てた。気付かなかったのもそうだけど、返し方が分からない。

 明日忘れずに返す。

 

 ――〇月〇日。

 

 むり

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 与えられたもので頑張るしかない。

 そうだよ。そのはずだ。

 だって、テイオーたちはそれで結果出してるんだから。

 

 でも

 私、テイオーじゃないよ

 

 テイオーには、なれないんだよ

 

 

 キラキラ したいな

 したかったな

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 また負けた。

 いい加減、終わりにしようと思う。

 

 退学届け書いた。明日、リギルのテスト受ける。

 ダメだったら、やめる。もうやめる。

 

 ――〇月〇日。

 

 負けた。やめる。

 

 ――〇月〇日。

 

 おかあさんになんていおう。

 

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 やめることもできない自分がいやだ。

 

 もう、意味なんてないじゃん。走ることに、意味なんてないじゃん。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 卒業までデビューできない人の数って、意外と多いんだ。

 ちょっと安心した。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 なんだかふっきれた気がする。

 友達とも話せるようになった気もする。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 なんか最近、レース場を見るだけで気がめいる。

 練習は、頑張ってるはずだ。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 練習頑張ってるとか書いてるし。

 なんのためにがんばってんの?

 また負けましたけど?

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 マーベラスが最近すごいらしい。

 メイクデビューの準備には時間かかるみたいだけど。

 ともだちとしてほこりに思う。

 ほんとに、あなたのともだちがこんなんでごめんね。

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 先生に会った。練習用ゴムの返却期限忘れてた。

 延長したら、そんなに力ばかりきたえてもどうこう、とかいわれた。

 アドバイスのつもりなのかな。

 

 ――〇月〇日。

 

 別に誰に見られるでもないけど、ほんと性格悪いなこいつ()

 なにがキラキラだよ。

 

 じっさい、なんのためにこの練習続けてんの。答えられないじゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 拾った日記が誰のものなのか分からなかったから、開いた。

 読み込むつもりはなかった。

 ただ、誰のものかを特定できればそれで良かった。

 

 すぐに先生に届けなかったのは、単なる落とし物というわけではなさそうだったから。

 可愛らしい装丁は、紐で丁寧に閉じることの出来るそこそこ高級な代物。

 

 だからひょっとしたら、親戚の誰かのものかと思ったのだ。

 それなら自分が探す方が手っ取り早いし、もしちょっと読んでしまったとしても許して貰えるだろうから。

 

 ただ、出てくる情報はマーベラスという子と友達であることくらい。

 最近トウカイテイオーとナイスネイチャが世代最高の注目株として取りざたされているから、その辺の世代の子なのだろうか。

 

 入学タイミングとデビュー時期はよくずれるものだから、あまり比較対象にも出来ない悩ましさがある。ただでさえ、日付に記載されている時期からトウカイテイオーは有名であったし。

 

 マーベラスというのも、マーベラスクラウンなのかマーベラスサンデーなのか、はたまたキタサンマーベラスなのかと不明なことばかり。

 

 ただ一つだけ言えるのは、この子はとても苦しんでいるということだった。

 

 気づけば胸の内に、この子をどうにかしてあげたいという感情が芽生えてしまっていただろうか。

 内心で謝りつつも、ページを捲ってしまう。

 

 日記帳を見るだけで分かる。この子は、誰かに愛されて育った子だ。

 だからこそ――自信の喪失と期待の重圧が痛いほど分かる。

 

 自分だって、経験がないわけではないのだ。

 

 

 ただ。

 ただ、ここから日記の流れは、大きく変わることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 マーベラスが、急にご飯食べたいとか言い出した。

 なんか…言い訳をもらった気分だった。

 

 久しぶりに商店街に顔を出した。

 帰りに迷子拾ったら、マヤノが知ってる人らしかった。

 

 外国から帰ってきたトレーナー。

 私の知らないところでは世界はどんどん動いてるなって感じがした。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 昨日の人がそのトレーナーかどうかはまだ決まったわけじゃないんだった。

 

 ただ、海外で活躍したトレーナーの話題はすごい。

 

 賛否両論って感じだけど、あの生徒会長が期待してるって……

 学園来て一日でも、すごい人は一瞬で話題持ってくんだね。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 トレーナーの話題のせいかもしれないけど、最近チームとかトレーナーの姿がよく目につく。

 スカウトされるためのもぎレース出るようになってから、逆に考えないようにしてたからかな。誰にも、声かけられない自分がいやすぎて。

 

 カノープスの人たちと目が合って、避けちゃった。

 なんかもう、日陰者って感じ。まあ、お似合いと言われればそうなんだけど。

 

 

 でも…今日。

 久々に、練習楽しかった。

 

 

 ――〇月〇日。

 

 昨日の人が、例のトレーナーじゃないといいな。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 踏み込みのトレーニングばっかりしてる。

 名前も知らない人にちょっとほめられただけで。

 でもさ。仕方ないんだよ未来の私。

 

 ちょっとほめられたことさえ、ここ入って一度もなかったんだ。

 

 あの人が見てくれた日の練習が楽しくて、こんなこと繰り返して。

 どうしよ、笑われる未来しか見えないね。冷静に考えたら絶対おかしい。

 わかってるのに。わかってるのにね。

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 あの人は、例のフランス帰りだった。

 楽しかったのはやっぱり、教え方がすごく上手だったからだ。

 私でも、あんな風に頑張れて、嬉しかったんだもん。そりゃそうかって納得はあった。

 

 また練習見てもらえた。そうしてほしかったはずなのに、私にはもったいない幸せなんだって思い知らされた感じがして、なんだか寝られない。

 

 もぎレースで担当決めるみたい。

 チーム入りできないかな。

 

 できないかなあ。かんがえたくないけど、みんなのことを、私みたいにほめてそうだ。

 なに調子乗ってんだろ。当たり前じゃん。ひとよりすごいなら、こんなことになってないよ?

 

 ――〇月〇日。

 

 変なこと考えたせいでほんとに寝られない。

 もぎレース頑張る。それでいいじゃん。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 トレーナーさんが、トレーナー体験講座やってた。

 行った方がいいはずだった。自分の成長のために。

 行けなかった理由がひどすぎて、死にたい。

 他の子ほめてるとこ聞きたくないとか…私ごときが現実見れてないだけじゃん。

 

 ――〇月〇日。

 

 これでもぎレース結果残せなかったら私どうすんだろ。

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 テイオーがレースに出る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや小説を熟読する勢いで、少女は食い入るようにページを捲っていた。

 日記の読み方ではない。それも他人の。

 次の展開どうなるの、なんて感想は人の日記に抱いていいものではない。

 だがそんな当然が、今頭の中から抜け落ちてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 ゆめみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なに!? どうなったの!?」

 

 誰も居ない放課後の教室で叫ぶ少女の姿は、幸いなことに誰にも目撃されなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 ゆめみたい。

 

 ――〇月〇日。

 

 昨日のことはちゃんと書いておく。

 昨日のことだけは。

 

 もぎレースは、めちゃくちゃに負けた。誰の目から見ても…っていうか、誰の目にも残らなかった。

 

 みじめだった。頑張ったつもりになってただけだった。

 ちょっとでも、テイオーに近づけるかもって思った自分がいやになる。

 

 トレーナーさんは、チームを組まないってレース直前に知った。

 テイオーが、トレーナーさんと専属で組むつもりだった。

 

 もう何がなんだか分からないまま、勝ち目もないのにめっちゃ走った。

 

 負けて、テイオーがトレーナーさんと話してて。

 情けなくてばかみたいで逃げた。

 

 

 気づいたら(これが笑っちゃうんだけど)トレーナーさんと一緒に練習してた公園来ちゃってんの。もーどんだけ未練がましいんだよ。

 

 なのに、トレーナーさんが来たんだ。

 信じられなかったよ。私追いかけて、テイオーの誘い断ってきたって。

 

 もう、あの人めちゃくちゃ迷子になること知ってたからさ、私最初ただの迷子になってきたもんだと思って。こんなとこ見られたくなさすぎて、めちゃくちゃ言って追い返そうとしちゃって。

 

 そしたら。忘れないように、きちんと書いておく。

 自分がめっちゃバカなのはそうなんだけど、忘れたくないから。

 

 俺、フラれちまった、って。

 迷子で来たと思ったら、まさかの私のスカウトで。それ知らずに、来た理由分かってるから帰ってって言ったら、そんなこと言われてさ。

 

 もう頭どうにかなりそうだった。

 ほんと、引き留められて良かった。パニクったままあそこ見送ってたら私、後悔じゃ済まなかったね。

 

 専属で、たった一人しか選べないのに。

 テイオーじゃなくて私が良いって、言ってくれた。

 

 3着ばっかりで、ろくに成績も残せてなくて。

 もう、なんのために練習してるのかも分からなくなってた、私が良いって。

 

 テイオーを追いかけて最後まで走ったその頑張ったとこが、一番育てられる資質 だ  っ て  。

 

 

 正正正正正正一

 

 

 前のページぬれちゃったから、ちょっともったいないけどこっちに書く。

 乾いたら、読み直した回数とかでも記録しよう。

 

 私は、トレーナーさんにスカウトされた。

 一緒にすごいことしようって誘ってくれた。私とならそれが出来るって。

 

 今まで頑張ってきたから、スカウトしたい私が居て

 これからは、キラキラできる私にしてくれるって。

 

 そんなに3に縁があるなら、まずは3冠取りに行こうぜって。

 

 

 私は昨日、初めてあの人を、トレーナーさんって呼ぶことが出来た。

 

 ――〇月〇日。

 

 ていうか、冷静に考えたらあの時、私の練習を止めようとした時点でトレーナーになってくれる気なんだって分かるね。全然気づかなかったけど。

 

 ――〇月〇日。

 

 ていうかあんにゃろ、あとから聞いたら生徒会長のおすすめだからって理由だけでトレーナーさん奪われるとこだった。とんでもないやつめ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女は、深く息を吐いた。

 それからの日々は、楽しく幸せそうで。

 しかし一方で、日記はかなり飛び飛びになっていた。

 疲れたとか、しんどいとか。そんな言葉ばかりが並ぶようになり、それでも今が楽しいといつも書き加えられている。

 

 日記を読み返す度に今の幸せをかみしめていると、そんなことまで書いてあった。

 

 最新の日記は、自分の実績の話。

 メイクデビューを大差勝ちしたことで、トレーナーさんを逆スカウトしようとする子が増えたとか何とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――〇月〇日。

 

 最近、トレーナーさんの話をよく後輩から聞かれる。

 私の成績は、全部トレーナーさんのおかげ。だから、トレーナーさんに見てもらいたいって子が増えるのは仕方ないこと。トレーナーさんがもう一人抱えるって言うなら、がまんですよ。これ以上欲張れるほど、この幸せを安く感じてなんかいないんだ。

 

 ――〇月〇日。

 

 今の俺は、あいつだけのもんだ。お前にはお前の、お前だけがいつか見つかるさ。

 

 って聞いちゃった。どうしよう。頭から離れない。

 盗み聞きするつもりなかったんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんというか。いちいちこう、読んでいる側の少女の琴線にびしびし触れる台詞である。ちょっと怖いけど、言われてみたい。そう思った。

 

 あとしっかり台詞を一言一句忘れず書いているあたり、読んでいる側からすればとても助かるとも思った。向こうは全くそんなことを考えてはいないだろうが。

 

 と、その時だ。

 自分が読んでいるのが他人の日記であることを思い出したのは。

 

 こんなにがっつり読み込んでしまって、本当に申し訳ない反面。

 なんだか、漫画の原液みたいなものを無理やり摂取させられたような感覚にアタマがくらくらして落ち着かない。

 

 努めて冷静になろうとして、ようやく彼女は推理に移った。

 いくら名前が殆ど出てこなくとも、ここまで読めば分かることもある。

 

 まず、この12/15にメイクデビューで大差勝ちをしたウマ娘。

 これは調べないと分からないが、そもそも大差でメイクデビューを勝利なんてめったにないこと。おそらく話題になっているはずだ。

 今年のメイクデビューで話題になっている子。

 そのうち消去法でトウカイテイオーは減らせる。そりゃそうだ、これ書いてるのがトウカイテイオーのはずがない。なんのホラーだ。

 

 となると――と他の情報を探ろうとして、大きなものが一つ落ちていることに気がついた。

 

 フランス帰りのトレーナー。彼が物語もとい日記に登場した時は、「ああそんな人も話題になっていたなあ」で済んだけれど。

 

 その人が担当になったとなれば一撃で絞り込める。

 現在そのトレーナーが担当しているウマ娘は、確かまだ一人しかいないはず。それがこの日記帳の持ち主だ。

 

 

 そんなことを考えながら少女はスマートフォンを開く。

 メイクデビュー関係の情報を漁ろうとニュースサイトを開くと、そこで一枚の画像が目に飛び込んできた。

 

 来期のレースの煽りポスター。

 

 両雄邂逅の若駒ステークス。

 トウカイテイオーとナイスネイチャ。

 有記念が終わった以上、話題は一月のそれに移る。

 オープンの中でひと際沸騰しているのが、あのポスターに描かれた二人。

 

 彼女から見ても、楽しみな一戦。

 

 そういえばこのナイスネイチャという少女も、凄まじい才能を持つ新鋭として最近ものすごく取りざたされている。

 それこそトウカイテイオーと並べて遜色ないくらいで、だからこそ若駒ステークスの話題は彼女も知っていたのだ。

 

 確か、そう。このナイスネイチャも12月中頃のメイクデビューで勝利していたはずだと、スマートフォンを操作して。

 

「え?」

 

 その手が止まった。

 

「……12月15日、衝撃の大差勝ちデビュー?」

 

 若駒ステークスの記事に書かれた、ナイスネイチャの経歴。

 

 デビュー前は誰も知らなかった、今年の台風の目だと語る記者。

 

 そして、自信満々に彼女を誇る受け答えは、見覚えのあるトレーナーの名前から。

 

「まさか……」

 

 

 この日記の持ち主が、もしも。

 

 もしも今、あんなにも世間から注目されつつある"あの子"だというのなら。

 

 それは、あまりにも。

 

 この才気が物を言うレースの世界において。

 才能が突き抜けているわけではない、夢を夢と分かっても尚追い続ける数多くのウマ娘たちにとっては、眩しすぎる希望ではなかろうか。

 

 

「マーベラース★」

「ちょ、ちょっと待ってってばマーベラス! 流石にこんなとこには無いと――」

「でもでも、思い当たるところどこにもないのなら、思い当たらないところにあるとマーベラスは思うの!」

「そりゃそうだけど、そもそもここアタシたちの教室ですらないし!」

 

 少女は思わず身を隠した。

 

 

「……あ、うそ」

 

 机の上に鎮座した、ナイスネイチャ自身"自分には似合わない"と自嘲する可愛らしい装丁の日記帳。

 

「マーベラース★」

「いや……あんたすごいわ」

 

 ぽん、とマーベラスの頭に手を置いて、ナイスネイチャはそっとその日記帳を拾い上げた。

 

「良かった……」

「多分、この辺りで落としたから、とりあえず誰かが机の上に置いてくれたんだと思うの!」

「そだね」

「でもでもネイチャ、どうしてそんなに大事な日記を持ち歩いたの?」

「いや、そんなつもりはなかったんだけど。……たぶん、部屋の机から落としたんだと思うんだよね。あけっぱの鞄の中に」

「そういうことかー!! とっても凄い偶然だね!! マーベラス!」

「ごめん全然マーベラスじゃない」

「でも見つかったのは!?」

「…………」

「見つかったことは、とっても!?」

「…………」

「とってもとっても!?」

「分かった分かった。マーベラスが居なかったら見つからなかったし。うん」

 

 諦めたように溜め息を吐いて、微笑む。

 

 日記帳を大切そうに抱いた彼女の微笑みは、同性から見てもとても綺麗で――日記を読んだあとだと、なおさら儚くて眩しいものに見えた。

 たとえるならそう、とても、キラキラしていて。

 

「マーベラスって、言っておいてあげましょうか」

「マーベラース★」

「ほら行くよ、マーベラス」

「うん!! ネイチャも早く、練習行きたいものね! うふふふふ!!」

「ちょ、もう、良いから!」

 

 

 

 

 二人が出ていったあとで、こそっと耳を出した少女は。

 

「……日記に書かれてたみたいにうらぶれて学園で過ごしてきた子が、トレーナーにあんな……あんなふうにスカウトされて……今」

 

 画像の中で変わらずトウカイテイオー(世代最高)と向き合う、日記の持ち主。

 

 それは、それはなんて。

 

「――私だけが、これを知ってるの?」

 

 鎌首をもたげた疑問。

 

 瞬時にはじき出されたのは、彼女自身の強烈な使命感と創作意欲であった。

 

 フィクションということにすれば、きっと許される。バレることも多分ない。

 

 

 そう、熱に浮かされたように少女――メジロドーベルは頷いた。

 

 

 

 

 なお。頒布されたあとの話。

 改変された名前がマーベラスネイチャとセイカイハオーだった時点でトレセン学園の全てのウマ娘にとって、特定は余裕だった。

 

 



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