超光速の証明 (雁来紅)
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1 憧れ

初投稿緊張しますね。ニンジンはあまり好きじゃないです。


 100m。

 その数字が、最速の人間を決める距離である。

 陸上競技の枠組み内において、短距離から長距離まで種目はあれど、人間が終始全力で走り続けられる距離となるとかなり限られてくる。

 故に人間はこの距離に全力をかける。体を鍛え、理論を学び、センスを磨く。誰もよりも早くゴールするという共通の目的を抱いて。

 とはいえ、何事にも例外は存在する。

 100mを文字通り風のように駆け抜け、その倍以上の距離を平然と走り切る存在、ウマ娘。彼女たちにとってその距離は短すぎた。

 ターフを支配する彼女たちの走りには誰もが魅了され、事実、彼女たちが走るだけでそこには一つのエンターテイメントが生まれた。

 トゥインクルシリーズ。

 ウマ娘による、ウマ娘のためのエンターテイメントは、今や国民の誰もが知るものとなっていた。

 ウマ娘がそこを走るだけで、誰もが声援を送り、彼女たちの活躍を自分のことのように嬉しく思う。

 人間の陸上競技とは違いここまで人気になるのは、ひとえにウマ娘の人間離れした脚力に、人々が憧れのようなものを抱いているからかもしれない。

 そんなウマ娘、トゥインクルシリーズであるが、しかし。

 何事にも例外はあるのだ。

 トゥインクルシリーズはウマ娘の超人的な脚力に合わせた、いわばウマ娘版の陸上競技のようなもの。当然出場資格はウマ娘のみである。そうでなければならない。自動車と同じ速度で走るウマ娘の脚力に人間がついていけるはずがないのだから。

 そう、本来であれば。

 

 

 

 

 唐突だが、足が速い人間はモテる。

 もう少し詳しく言えばそれは期限付きなのだが、まあともかくモテる。

 50m走の記録が良いだけでその人間はクラスの中心になれるし、運動会などの運動神経がものを言う行事では優勝の要となる。

 ではウマ娘はどうか。

 ウマ娘は走るために生まれてきたような存在だ。初めから足の速い存在と認知されているため、そもそも人間とウマ娘とでは記録は分かれている。

 しかし足が速いという事実は変わらない。彼女たちもまたクラスの中心になりえるだろう。

 では仮に、ウマ娘を追い抜けるほどの脚力をもつ人間がいたらどうなるだろうか、

 ありえない話だ。バカバカしいと笑う人間が殆どだ。

 だが、仮に。

 ウマ娘より速い人間がいて、その異常性に気づいたのが比較的早い段階であったとしたら。

 天は二物を与えず。

 その言葉通り、その異常性を発現した少年は、ウマ娘より速い脚力以外にこれといった取り柄のない人間だった。

 彼が自分の異常性に気づいたのは小学校のスポーツテストの時だった。

 彼のクラスにはウマ娘が一人いた。精神こそまだ小学生のそれで、本格化も迎えていなかったが、クラスで一番足が速いのが彼女だった。

 そんなウマ娘と他のクラスメイト数人と一緒に彼は走った。 

 距離は50m。

 誰もがウマ娘の彼女が勝つと信じてやまなかった。

 合図と共に生徒たちが一斉に駆け出す。走るのは苦手などといいつつも流石はウマ娘というべきか、先頭は勿論彼女で、一緒に走っていたクラスメイトたちを突き放す形で颯爽とゴールまで走り抜けた。そして、

「……え?」

 そんな間抜けな声を漏らしたのは彼女だったのか、それともタイムを測っていた教師だったのか。

 ゴールする直前、彼女を追い抜いて僅かに先にゴールしたのは彼だった。

 ゴールしてから、自分が何かしてしまったのは彼にも理解できていた。

 子供は周囲の感情に敏感だ。

 好奇、あるいは恐怖や疑問を向けられる。そこに羨望は感じられず、一言で言ってしまえば不気味がられている事も理解できた。

 羨望と恐怖。その境界線を把握した彼はウマ娘の生徒へと向き直ると、

「君、手加減したでしょ。テストなんだから全力で走らなきゃ」

 子供に似合わない説教じみた指摘をウマ娘の生徒にした彼は、内心で密かに決意する。

 自分は全力で走ってはいけない、と。

 幸運だった事といえば、まだ小学校低学年のタイムということで偶然の結果として処理された事と、彼が周囲の考えを理解していて、少なくとも精神が幼いうちはこの異常性を隠さなければならないと本能的に理解した事だろう。

 結果、50m走から一週間が過ぎた頃には、クラスメイトは彼に特別注目する事はなく、「ウマ娘を追い抜いた人間」ではなく「ただのクラスメイト」という平凡な称号を獲得とするに至った。

 自分と姿形は同じなのに、能力面においてかけ離れ過ぎている存在を前にした時、人々が抱く感情は羨望ではなく恐怖の類だ。

 身長が大きいだけで威圧感を与えるのだから、身体能力のレベル高さが違うだけで周囲から弾かれる理由には十分だった。

 そしてそれをまだ幼い内に経験した彼はそれを嫌という程その身で理解した。

 彼にとって学校での生活はかくれんぼのようなものだった。

 目立たないように、クラスの人気者ではなくクラスに一人はいる平凡な生徒であり続けるように。

 本来、伸び代しかない年齢の子供には酷な課題だ。しかし彼の精神はそれに難なく耐え抜いた。思えばそれは、大勢の観客の前で走ることのできるウマ娘の精神に似た所があったのだろう。

 だからその経験をトラウマにする事なく、むしろ走ることが苦手から得意に変わって嬉しいとさえ思った。誰にも知られずに走るのは面倒だったが、それでも彼は自分の足に感謝する事を忘れなかった。

 六年後、小学校を卒業して中学校に中学校に入学した彼が出会ったのは「憧れ」だった。

 きっかけは授業中に鑑賞したウマ娘のレースだ。

 小学生の頃にも何度か見たものだったが、あの時はただ走って満足するだけで、自分と同じくらいの脚力を持つウマ娘にさして興味を抱いていなかった。

 それが、変わった。

 授業資料用ではなく、レース好きの教師が現地で撮ってきた映像だったからというのも理由の一つだろう。ターフの上を、あるいはダートを走り抜けるウマ娘はまさに圧巻の一言で、画面越しの歓声は資料用の映像では得られない迫力を彼に与えた。

 自分の足の速さを隠す事なく、長い距離を一瞬で駆け抜けるウマ娘たちに彼はどうしようもなく憧れた。羨んだというのが適切なのかもしれないが、少なくとも彼にとってそれは憧れだった。

 それからは自分でウマ娘について調べる日々が続いた。

 トゥインクルシリーズの事や現在進行形で活躍しているウマ娘のこと。そしてトレセン学園のこと。

 トゥインクルシリーズはウマ娘にしか出場資格は与えられない。更にトレーナーがついているという条件付きで。

 出場できないなら、少しでもウマ娘の近くに行きたい。

 幼いながらも明確な意思を持った彼は中学を卒業するまでトレーナーについて調べ上げた。トレセン学園の、しかも中央のトレーナーになるのはかなり難しい事であることを知ってなお、彼は諦めようとは思わなかった。

 高校での進路選択の際も彼は迷わずトレーナーになると決め、三年間に及ぶ猛勉強の末、養成学校への入学を決めた。

 そして、数年後。

「……よし」

 養成学校、そして地方のトレセン学園での研修を終え、文山八京は憧れてやまなかった学園の前にいた。



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2 難題と天才

二日連続で投稿できた事に驚きを隠せません。


 思えば自分は幸運だったのだろう。

 ふとそんな事を八京は思った。

 初めてウマ娘を追い抜いた時も騒ぎにはならなかったし、トレーナーになると初めて口にした時、両親は驚きこそしたが優しく背中を押してくれた。

 幼い頃に培われた、自分の足を隠す為に妙によそよそしい態度をしていた息子が初めて自分の考えを口にしたのも原因の一つに挙げられるが、少なくとも壁らしい壁は努力でどうにかなるものばかりで、思わず頭を抱えてしまいそうな問題に直面したことはなかった。

 だが、現在。

「君には魅力がない!」

 テーブルを挟んだ向こう側にいるトレセン学園理事長、秋川やよいに元気よくそう言われ、八京はなんと返して良いか分からずソファから立ち上がる事も忘れて問い返した。

「魅力、ですか?」

「左様! 君を含め、採用したトレーナーの情報には全て目を通している。養成学校に入学、地方でサブトレーナーとして研修を受けた事も勿論知っている。しかぁし!」

 びしり、と扇子が自分の方へ向けられる。

「君にはこう、なにか、核になるものがない!」

「り、理事長、それはちょっと曖昧すぎかと……」

 秋川やよいの隣に座る女性、緑色の服装が印象的な駿川たづなは、一度秋川やよいを宥めるとこちらに向き直って、

「すいません。私から説明しますね」

 と言って、改めて八京がトレセン学園に呼ばれた理由を説明した。

「今日文山さんを呼んだのは、あなたの事を再評価する為です」

「再評価?」

 聞き慣れない言葉だ。それと同時に嫌な予感がする。

「あなたは既にこのトレセン学園にトレーナーとしての配属が決定しています。それは既に上の方で受理されている状態です」

「しかし私がそこに待ったをかけた!」

「理事長、お静かに」

「む、す、すまん……」

「……ということで、あなたを採用するか否かを理事長が保留としているのが現在の状況です」

「保留って……、私、何かしましたか?」

「否定! 君はなにもしていない。私が君の採用を保留しているのは君の素行不良が原因ではない!」

「ではなぜ……」

「ここで行った面接の内容を覚えているだろう?」

「は、はい。一月に行った面接ですよね」

 忘れるはずもない。トレセン学園への配属が決まった後で行われた面接。試験目的ではない、トレーナーたちの精神的な面を見る為と聞かされていたものだ。

「何故トレーナーを志したのか」

 秋川やよいは面接で聞かれた質問の一つを口にした。

「君はこの問いになんと答えた?」

 その問いに八京は、あの時の回答を簡潔にまとめて口にした。この学園のトレーナーを志す者なら誰もが口にするような、ありきたりな言葉を。

 それを聞いた秋川やよいは、

「足りない!」

「え?」

「それでは足りないのだ!」

「そ、そうですか?」

 秋川やよいは「理事長」と書かれた扇子を広げた。

「君の熱意は理解できている。養成学校にしても地方の研修にしても、根底に確たる目標がなければそれは苦しいだけだろう。しかし君の記録を見る限り、君は意欲的に物事に取り組んでいるように見える。だからこそ!」

 秋川やよいはそこまで言って立ち上がる。しかし身長が低いため立ち上がったところで目線の高さはあまり変わらない。彼女は一体何歳なのだろうか、と場違いな疑問を八京は抱いた。

「足りない! ウマ娘に対する、ではない! 君のッ、君自身に対するッ、ここでウマ娘達のトレーナーになるという意気込みが足りないのだ!」

「…………!」

 言い切って、秋川やよいは息を整えるように深呼吸をした。そしてソファに座り直し、テーブルに置かれたティーカップに口をつけたところで、

「ともかく! 君にはもう一度面接を受けてもらう。面接官は私だけだ。面接の日は追って連絡する」

「……わかりました。考えてみます」

 そう答えながら立ち上がって理事長室を退室した八京の胸中は、まさに図星をつかれた気分だった。

 何故トレーナーになるのか。

 答えようと思えばすぐに答えられる。

 ウマ娘に憧れた。風のように走るあの姿に夢を見ない者はいないだろう。周りとは違う能力を持った八京にとっては尚更だ。

 見る側からサポートする側へ。

 彼女たちが全力で、安全に走れるように手助けをしたかった。

 だがここからウマ娘を抜いたらどうだろうか。

 途端に答えられなくなる。

 八京の夢は全てウマ娘という存在が付随していた。だからこそ、ウマ娘ではなく自分がトレセン学園でトレーナーとして働いていくにあたっての覚悟。それが欠如していた。

「何て答えればいいんだ……」

 学園内を歩きながらそんな事を呟く。季節は着実に春に向かっているがまだまだ肌寒く、外にいる生徒の数は少ない。

 選考中の面接ではなんとか合格をもらえた。筆記の成績も申し分ないと自負している。

 しかしあの理事長の言葉はそんな自負さえも粉々に砕いてしまう破壊力があった。

 八京は自分の右太ももの横を叩く。

「これが無ければ、もう少しマシな理由ができてたか?」

 分かりきった問いだ。

 自身の異常な脚力が無ければ彼はトレーナーになろうとさえ思わなかっただろう。それどころかウマ娘にも興味を示さなかったはずだ。 

 十年以上隠し続けていた事。それが今になって自分を苦しめることになるとは皮肉にも程がある。

「困ったな……。次の面接で認めてもらえなかったら落とされるだろうし……」

 両親にもトレセン学園に配属される事は連絡済みだ。それなのに直前で落とされたなんて事になれば、合格を自分のことのように喜んでくれた両親に申し訳が立たない。

 嘘でもそれらしい理由を言うべきか、とも考えたが、面接官がトレセン学園の理事長ともなると些か気が引ける。そもそも八京は嘘が得意じゃない。

「理由、理由か……」 

 簡単なようで難しい課題だ。そもそも考えていなかった事を一から考えるというのは時間がかかる。これでは面接日までに間に合うか分からない。

 そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にか八京は練習場の前にいた。

「おお……」

 思わず感嘆の声を漏らす。

 地方のトレセン学園にも練習場はあったが、こちらの練習場の方も手入れが行き届いているように見えてしまうのは気のせいではないだろう。

「研修先とはえらい違いだ……。やっぱり豊富な人員と潤沢な資金があってこそか」

 整備された芝の上では何人かのウマ娘たちが走っているのが見える。トレーナーらしき姿が見えないので自主練習の類だろうか。本番のレースでなくとも、走るウマ娘というのは絵になるものだ。

「っと、ダメだダメだ」

 憧れていたウマ娘がすぐ近くにいるとあってついつい見ていたくなるが、あいにくそれは自分がこの学園に正式に配属されるまでお預けだ。

 家に帰って考えようと、八京はこの学園のマップを脳内に描きながら踵を返して、

「おーい! ちょっとそこの君!」

「ん?」

 踵を返した先にこちらに手を振るウマ娘がいた。

「それを止めてくれー!」

「それ? それって……うわっ!」

 何、と聞こうとした瞬間、八京の顔面めがけて謎の黒い物体が飛来した。

 反射的に目を閉じて顔と謎の物体の間に左手を滑り込ませる。かなりの勢いで八京の手に収まったソレは金属のような冷たさを帯びていた。

「虫……じゃない?」

 恐る恐る目を開けてみればそれはドローンのようで、四方に伸びた金属の枝の先にそれぞれプロペラが付いている。四本の枝の源には小型カメラが取り付けられていた。

 八京が状況を理解する頃には前方から走ってきていたウマ娘も八京の目の前まで辿り着いていた。

「いやぁ、すまない。興味本位で弄ってみたら暴走してね」

 そう言う目の前のウマ娘は悪びれる様子もなく、やれやれ、という風に肩をすくめた。

 制服の上から白衣を着た奇妙なウマ娘は、毛先がはねた栗毛を揺らしながら右手を差し出してきた。

 その行動の意図は理解できていたはずだった。しかしこの時の八京は理事長から言い渡された難題に頭を悩ませており、他の物事に頭の回転を割く余裕はあまりなかった。

「えーっと、どうも?」

 左手に収まる金属塊の存在を忘れて差し出された右手を自身の右手で握ると、栗毛のウマ娘は目を丸くした。そして、

「……何かあったのかい?」

「え? ……あ!」

 そこでようやく自身の間違いに気づき、八京はすぐに手を引っ込めると、代わりに左手に持ったドローンを差し出した。

「悪い、ちょっとボーッとしてて……」

「ボーッとねぇ……。見たところ事務員でもないようだし、新しく入るトレーナーにしても時期が早い。さては何か悪いことでもしたのかい?」

「え」

 当たらずも遠からずな予想を投げかけられて思わず動揺してしまう。しかし相手は今ここで偶然出会ったウマ娘だ。そんな彼女に自分の問題を教えようという気にはならなかった。

「いや、そういう訳じゃないんだ。ただちょっと悩み事があって。……そ、そうだ、そのドローン壊れてないか? 見たところ大丈夫だとは思うんだけど」

「これかい? 問題ないよ。ウマ娘の走る姿を併走する形で撮影できないかと色々やってみたんだが、やはり自動にせよ手動にせよそれなりのスキルを要する。残念ながら私の研究に取り入れるには時間がかかりすぎるね」

 そこまで言って、栗毛のウマ娘はドローンを右手で弄びながら踵を返した。

「時間を取らせたね。じゃあ私はこれで」

「あ、ああ、さようなら」

 思わず別れの挨拶をしてしまったが、そのウマ娘は特にそれに反応する事なく歩いて行ってしまう。そして程なくして白衣の後ろ姿は見えなくなった。

「……研究か」

 ここはウマ娘を養成する機関で、全生徒共通の目標はトレーナーと組んでレースに出場する事だったはずだ。

「まあ、彼女も彼女で努力してるんだろうな」

 研究の内容は分からないが、少なくとも走る以外で彼女は努力しているのだろう。

 それより自分の事だ、と内心でつっこみながら八京はいそいそと学園を後にした。




はたして主人公がトレーナーとして活動するまでに何話かかるのでしょう。私も分かりません。


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3 栗毛のウマ娘

栗毛のウマ娘とまた出会います。誰でしょうね。


 理事長から再評価を言い渡された次の日、八京のスマホには面接の日程が送られてきていた。

「二週間か……」

 八京は自宅近くの土手道を歩きながらため息をついた。

 あれからずっと理事長に言われた事を考え続けていた八京だが、未だに納得のいく答えが出せていない。そんな状況で明確な期限を知らされた八京の胸中は重かった。

 自分が歩んできた人生を振り返ってみたりもした。

 しかしどうやってもトレーナーになる自分の意気込みというものが曖昧なままで、あの聡明な理事長がそんな曖昧な言葉を認めてくれる光景も全く浮かんでこない。

 気分転換にと散歩にでかけてみても、考えれば考えるほど自分の至らなさに嫌気がさして足が重くなってくる。嫌な流れだ、と八京は内心で呟いた。

 時折トレセン学園のジャージを着たウマ娘たちが彼の隣を通り過ぎていく。この道はウマ娘たちのランニングコースとしても使われているらしい。話によれば学業で優秀な成績を収めていれば授業の時間を練習に当てることも許されるようなので、自分の走りにかける熱意だけ見ても中央のウマ娘たちのレベルの高さが窺える。

 とはいえ、八京がトレセン学園で出会ったウマ娘は昨日の栗毛のウマ娘一人で、ウマ娘達のことをよく知るには二週間後の面接を乗り切る必要がある事には変わりなかった。

「意気込みって何だろうな……」

 諦めにも似た自問だった。

 当然答えるべき自分の口から答えらしい答えが出る事はなく、八京は本日何度目かのため息をついた。

 

 

 八京が近くのスポーツショップに訪れたのはその日の昼過ぎのことだった。

 テスト期間中に部屋の掃除をしたくなる学生よろしく、嫌なことは一度忘れようとかねてより買い換えようと思っていたランニングシューズの購入にやってきていた。

 何度目かの入店音を聞いて店内に足を踏み入れる。どこかの系列店ではなく個人で営業しているタイプのスポーツショップで、こじんまりとした店内は八京のお気に入りでもあった。

 新商品が置かれているコーナーを通り過ぎてその奥の棚へ向かう。何世代か前の古いシューズが置いてある場所だ。超人的な脚力故か、すぐにシューズをボロボロにしてしまう八京にとって、高いシューズを買うより安いシューズを買って壊れるたびに買い換えた方が効率が良かったのだ。

 普段使いできる手頃なものを選ぼうと靴売り場をうろうろしていた八京だったが、ふとその隣のウマ娘のコーナーに目がいく。

「蹄鉄か……」

 ウマ娘の超人的な脚力を支えるのに必須な補助具である蹄鉄。足の負担を軽くし、怪我のリスクを減らす役割もあるそれは勿論ウマ娘専用のものだ。しかしウマ娘と似た脚力を持つ八京にとって一度試してみたいものでもあった。

「しかしサイズがな……。トレーナーになれば研究の一環として堂々と買えなくもないが……」

 ウマ娘の中には職人に直接依頼する事もあるそうだが、採用を保留にされている段階では悩んでいても仕方のない事だ。

 諦めて安いシューズを買おう、と適当なものに手を伸ばした時、

「……おや?」

 声がした。

 誰に向けられたか分からない言葉。しかしその声に八京は聞き覚えがあった。

 声のした方向に顔を向けると、昨日見た栗毛のウマ娘がいた。

「蹄鉄に興味があるのかい?」

「え?」

 どうやら蹄鉄を凝視していたのを見られていたらしい。

 八京はシューズに伸ばしていた手を一度引っ込めて、

「そりゃあ、ウマ娘が走る上で需要なものだからな。興味はあるよ」

「ふぅン? トレーナーはみんな勉強熱心だねぇ」

「いや、トレーナーって訳じゃ……」

「おや、違うのかい? 昨日学園にいただろう」

 確かにトレセン学園の敷地内には生徒と関係者以外は入れない。目の前のウマ娘が自分のことをトレーナーだと予想するのも無理はないだろう。

 八京は何と答えようか迷った末に、

「……まだトレセン学園のトレーナーになれるかは分からないんだ。色々あってさ」

「……へぇ、色々ね」

 栗毛のウマ娘は僅かに目を細めたが、それ以上の詮索はしてこなかった。 

 話せば話すほど奇妙なウマ娘だ。間違いなくこちらが年上なのに、話していると彼女の方が年上のように見えてしまう。

 そんな大人びた態度を見ていると、思わず言うはずのなかった言葉が口からこぼれた。

「君は何をしに来たんだ? 早退したって訳でもなさそうだが」

 今の彼女は制服姿だ。街中では流石に白衣は着ないらしい。

 自主練習なのであればジャージを着ているはず、という八京の予想に栗毛のウマ娘は僅かに考える素振りを見せて、

「早退だよ」

「嘘だろ」

 思わず即答してしまう。

 そもそもトレセン学園に通うウマ娘の大半は寮で生活しているはずだ。仮に体調不良が原因で早退したのなら寮の自室で休んでいるのが自然だろう。

「サボりか?」

「違うよ。早退というのは嘘だけどね。私は常に研究に時間を当てたいんだ。それなのに学園の教師達ときたらレースに出ろとうるさくてね」

「? レースに出るのがウマ娘達の共通の目標なんじゃないのか?」

 その問いに、当然の疑問だ、と言わんばかりに彼女は頷いて、

「そうとも。トレセン学園は才能あるウマ娘が入学を許される。かくいう私も走る才能を見込まれて入学を許された。だから、ほら」

 栗毛のウマ娘は自分の体を見せるようにばっと両手を広げた。

「少しくらいサボっても、ある程度は目を瞑ってもらえる」

「それでもサボりはサボりだろ」

「かたいねぇ、君は。さっきも言ったが、私は研究で忙しいんだ。出来るだけ無駄なことは省きたいんだよ」

 栗毛のウマ娘の言っていることはめちゃくちゃだが、少なくともその研究とやらにかける熱意か本物であることは彼女の瞳を見れば分かった。ただ、走ることに向ける熱意も研究に注ぎ込んでしまっている点はいかがなものかと思わずにはいられないが。

「……まあ、熱心なのはいいことか」

「だろう? 君は少しは話のわかるトレーナーみたいだね」

 「なんの研究をしているのか」と問おうかとも思ったが、まだ会って二度目の人物に踏み込んだ話を聞くのは失礼かと思い、口から溢れそうになった問いかけを飲み込む。代わりに近くにあったカゴを掴み、その中に比較的値段の安いシューズを三足ほど突っ込んだ。

「随分買うんだね?」

「すぐ壊れるからな。ストックしときたいんだ」

 そう言ってそのままレジに向かう。レジにいた男性の店員に「少し前もいっぱい買ってなかった?」と訊かれたが適当に受け流して会計を済ませる。

 袋を片手に持って出口に向かう途中、八京は少し考えてから、こちらではなく八京が買ったシューズが置いてあるコーナーを見つめている栗毛のウマ娘に向かって、

「研究熱心なのはいいが、早く戻れよ。怒られるぞ」

 とだけ言って、返答は期待せずに出入り口の扉を押した。予想通り返事は返ってこなかった。

 

 

 

 八京が去ったスポーツショップの店内。

 控えめな店内BGMが流れる中、栗毛のウマ娘は八京が手に取ったシューズを見ていた。色は違うが同じ型のものだ。

「……耐久面に問題は無さそうだが……」

 そう呟いてシューズを一度戻すと、今度はレジに向かう。

「ちょっといいかな」

「ん? どうしたんだい?」

「さっきシューズを買って行った彼に何か訊いていなかったかな?」

「ああ、彼か。いや、今日で三度目の来店なんだけどね、いっつもたくさん靴を買っていくもんだから気になったんだ。受け流されちゃったけど」

「そうか。ありがとう」

 苦笑する男に礼を言って再びシューズのコーナーに戻る。

 もう一度同じシューズを手に取る。しかしどこをどう見ても、安売りしているとはいえ一般的な耐久を備えているシューズで、濡れやすいとか破れやすいとか、そういった要素は見られない。

 心配性なのか、はたまた本当に壊れやすいだけなのか。

「……ふぅン」

 栗毛のウマ娘の含みのある頷きは、当然八京には聞こえるはずがなかった。




賢さSS


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4 尋問

「トレセン学園に来てみませんか?」

 そんな誘いを駿川たづなから電話越しに告げられたのは、面接が一週間後に迫った日のことだった。

 はっきり言って、外に出る気力がなかった。

 来る日も来る日も、あの時の理事長の指摘に頭を悩ませる日々。教科書を読み直し、学生時代熱心にとっていたノートをめくってみてもそれらしい答えは浮かばない。全ての原因となった自身の脚抜きで自分の意気込みを語るのは八京にとって至難の業だった。

 机に張り付いていても良い答えは見つからない。かといって外に出ても、解決していない課題を思い出してばかりで心が休まらない。

 そんな状態でもそんな誘いを了承してしまったのは、やはりウマ娘に対する憧れが強かったからだろう。

「あの、本当にスーツじゃなくても?」

「大丈夫ですよ。その許可証があれば咎められる事はありませんから」

 私服でやってきた八京に笑顔を向けた駿川たづなの後ろについて歩く。 

 トレセン学園の校内は平日なだけあってウマ娘達の姿が多く見られる。といっても今は教室で授業を受けている為、廊下に喧騒が満ちる事はない。

 現在八京は、たづなに連れられて校内を案内されている所だった。

「ここがトレーニングルームです。ありとあらゆるトレーニング器具が揃っていますよ」

 案内された場所はジムでも開けそうな広々としたトレーニングルームだった。

 あらゆる部位の筋肉を鍛えるための器具が整然と並べられ、八京はこの学園の豊富な設備を改めて実感する。

「やはりすごいですね、ここは。何でも揃ってる……」

「ウマ娘の為ならサポートを惜しまないのが理事長ですから。たまに暴走気味になるのも事実なんですが……」

 たづなが遠い目をする。理事長の秘書という事だが、一目では計れないくらいには苦労をしているらしい。

 ふと気になって八京はその問いを口にした。

「何故見学の誘いをくれたんですか? 俺はその……、再評価という立場の人間なのに」

「だからこそ、ですよ」

 たづなは淀みない口調で答えた。

「そもそも、採用した人を再評価するなんて本来あり得ないんです」

「そうなんですか?」

「はい。ですが今回は理事長がどうしてもということで、再評価することになったんです」

 初耳だった。

 そして疑問でもある。

「やはり、私に至らない点があったからでしょうか」

「あ、いえいえ! そういう訳ではないんです!」

 八京の感情が沈んだ声に気づいてたづなは即座にそれを否定する。

「ここのトレーナーになるのは簡単なことではありません。それこそ、至らない点があったのなら選考の時点で落とされています。理事長はあなたの能力を評価した上で再評価の決定を下したんです」

「意気込みがない、からですか?」

「ここのトレーナーになって、辞めていった人はそれなりの数存在します。これは私の推測ですが、あなたに気持ちを強く持つように促したいのではないでしょうか」

「気持ちを……」

 実感が湧かない。しかし輝かしい場所にはそれと同じくらいに暗い陰があるのも事実だ。この学園にあるウマ娘たちは、皆学友でありライバルだ。そんな競争にウマ娘と共に身を投じるのだから、身体が丈夫でも精神が脆ければ必ずどこかで挫けてしまう。

『君にはこう、なにか、核になるものがない!』

 あの日の理事長の言葉は、あやふやのようで的を射た表現だったのかもしれない。

 気づけば八京とたづなは外に出ており、最後の案内先である練習場へと到着していた。

「私が案内する場所はここで終わりです。その許可証は今日一日有効ですから、今日はあなたの思うようにこの学園を巡ってみてください」

「……はい。ありがとうございます」

「頑張ってくださいね」

 そう言ってたづなは去って行った。

 八京は特に理由もなく練習場を見下ろす。芝を見ていると、自分の憧れとなった名も知らないウマ娘が走る映像が脳裏に浮かんでくる。

「誰にも譲れないもの……」

 足に熱が溜まっていく。部屋に引きこもっていたせいで最近は早朝のランニングさえまともにできていない。

「流石にあそこは走れないよな……」

 後ろ髪を引かれる思いで八京が練習場から目を逸らすと同時にチャイムが響いた。腕時計を確認すると正午を回っており、昼休みを告げる鐘である事を理解する。

「少し、見て回るか」

 たづなとの話で少しだけ落ち着きを取り戻た八京は、ひとまず食堂へと足を運んだ。

 

 

 

 たづな曰く、許可証を持っていれば外部の人間でもカフェテリアで食事を取る事ができるという。しかも無料で。

 ウマ娘をサポートするトレセン学園の料理。そこで出されるものに興味がない訳ではない。しかし、

「ウマ娘優先だよな」

 授業を終えた解放感からか、ウマ娘と喧騒に満ち満ちているカフェテリアを見て、八京は諦めたように踵を返した。

 結局近くの購買でパンを一つ買って5分にも満たない昼食を終えると、再び校舎の中をぶらぶらと歩き出す。

 ウマ娘達はカフェテリアか外に出ているらしく、廊下に人気はない。時折すれ違うウマ娘に視線を向けられるが、首にかけられた許可証を見るとすぐに視線は外れた。

 そんなウマ娘達ともすれ違わなくなった頃、八京は自分でもどこにいるか分からない場所にいた。

「学園で迷うとか……」

 あてもなくぶらぶらと歩いていた自分が悪いのか、はたまた広大な敷地と校舎を持つトレセン学園が悪いのか。

 間違いなく前者だな、と内心で結論づけながら八京は窓から下を見下ろした。

 ベンチで友人と話すもの、練習場へと駆けていくものと様々な生徒がいる。そして彼女達は共通して笑顔だった。

 ウマ娘のトレーナーになる。

 その願いが間違いではないと何となく思う。解決しない課題を前に素直に頷けなかったものが、彼女達の笑顔を見ているとなんだかすんなりと認められるようになった気がする。

 ウマ娘は走るために生まれてきた存在だ。

 よくそんな事を言われる彼女達であるが、実際はどうなのだろう。

 この学園にいるウマ娘たちはきっと頷くはずだ。本格化を迎え始めた彼女たちにとって、走るという行為はきっとどんな娯楽にも勝るものだ。

(……そういや)

 ふと思う。

 八京の脚力は恐らく後天性のものだ。もしかしたら生まれつきのものだったのかもしれないが、彼が自身の脚力を自覚したのは小学校の頃である。

 しかし彼の置かれた環境故にその能力が日の目を浴びる事は未だにないが、少なくとも人は自分自身の体については把握しているものだ。

 例えばそれは足が速かったり、泳ぐのが苦手だったり、ある食べ物が嫌いだったり。

 そんな中で自分は、自身の脚力を、さしあたっては自分の足を詳しく知ろうとしていなかったのではないか。

 足が速いという事実だけ見て、はしゃいで、その脚力を生み出している足自体にあまり関心を抱いていなかったのではないか。

(仮に、子供の頃からもっと自分の足について調べていたら……)

 全てもしもの話だが、今の課題解決の一助となった可能性は高い。

 八京はぼそりと呟いた。

「足の研究でもしとくべきだったかな……」

「ほう! 足に興味があるのかい!?」

「うわっ!?」

 情けない悲鳴が口から飛び出す。同時にがしっと肩を掴まれたかと思いきや、ぐるりと体を回される。

 聞き覚えのある声だった。主に二回くらい聞いた気がする。

「足の研究でもするべきだったと! そう言ったよね!?」

 制服の上から羽織られた白衣が揺れる。

 栗毛のウマ娘は狂気にも似た瞳を八京へと向けていた。

「き、今日は学校来てたんだな……」

「そんなことはどうでもいい! 足の研究がしたくてたまらないと言ったよね!?」

「いやそんなこと言ってないぞ! しとくべきだったとは言ったが」

「そんなのは些細なことだよ、君。いやぁまさか同志が見つかるとは。……へぇ、見学ね。つまり君はまだここの人間ではないという訳か。うんうん、益々丁度いい! さあ廊下で立ち話もなんだ、入ってくれたまえ。空き教室だが、私の研究室みたいなものでね。なあに、許可は取ってあるとも」

「お、おい、ちょっと……って力強いな」

 そう早口で捲し立てる栗毛のウマ娘に流されるまま、八京は彼女の力に成す術なく自身の背後にあった空き教室へと足を踏み入れる。

 殺風景な部屋だった。机は並んでおらず、一つの長机と椅子が何脚か置いてある。黒板の左右にはホワイトボードがあり、黒板には何かを乱雑に消した痕が残っていた。研究室と聞いていた為、八京は何もない部屋に僅かに疑問を抱いたが、机を挟んで彼の正面に座ったウマ娘はそんな疑問を問う時間さえ与えてくれない。

「名前は? どこの出身だい? 好きな食べ物は? 足に興味を持ったきっかけは?」

「ま、待ってくれ! 一体なんなんだこれは」

「あのねぇ、時間は有限なんだよ? そんな事より質問に答えてくれたまえ」

「俺は足の研究がしたいなんていってない!」

 八京ははっきりと言い切った。

「確かに今の俺の課題を解決する為に自分の……体を知るのは良いことだと思ったのは事実だ。だけど時間も無いし必要な知識も足りてない。だから」

「ランニングシューズ」

 言葉を濁す八京の発言に割り込むように栗毛のウマ娘は言った。

「買ってただろう? 三足」

「え? あ、ああ、買ったけど」

「使ったかい?」

「いや、まだだ」

「では今使ってるものは?」

「それはもうボロボロなんだ。だから次走りに行くときに変えようと思ってる」

「……ふぅン、では質問を変えよう。その靴をボロボロにするまでにどれくらいかかった?」

「え、……あまり気にした事ないから正確な数字は分からないけど、一ヶ月とか」

「ありえないよ」

 今度は栗毛のウマ娘がはっきりと言い切った。

「君、走るのは好きかい?」

「そ、そりゃあ好きだが」

「いつ走ってる?」

「いつもは早朝にランニングしてるな。でも最近は色々あってできてないんだ」

「走る時間は?」

「……一時間くらいだな」

 ぞわり、と嫌な予感がした。心の中を覗き込まれている気分。何か自分が取り返しのつかない事をしている気分だった。

「な、なあもういいだろ? まだ見て回りたいところがあるんだ」

「ふむ。では最後の質問だ」

 しかしその瞬間にはもう、目の前のウマ娘は八京の核心に迫る問いを口にしていた。

「君、自分の足に違和感を覚えた事はないかい?」




切れ者


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5 名も知らないウマ娘

「ふぅン」の使い勝手が良過ぎる


「お前って足速いよな。運動してなさそうなのに」

 そういった問いを受けた経験は多くあった。質問した本人にも悪気は一切無く、同時にその問いを受けた八京も特に不快になる事はなかった。

「よく言われるよ」

 スポーツテストを終えた後に向けられる疑問も、その一言で自分は話題の的から外れるのだ。必要最低限の労力で自分の事を隠し通せるのだから、むしろこの問いをしてくるクラスメイトに感謝すらしてしまう。

 だが、今回は。

「些細なことでもいい。いくら走っても疲れないとか、あるいは足がよく痛むとか」

 狂気の色を瞳に宿しながらも淡々と訊いてくる栗毛のウマ娘は、トレセン学園の生徒というより病院の医者の雰囲気に近かった。

「君が買ったランニングシューズだけどね、そんなにすぐ壊れたりしないよ。私が実際に使用してみたんだから間違いない。お陰で朝と夜の時間が走り込みに消えてしまったけどね」

 こいつは何を言っている。俺は自分から自分の事について話そうとした事は殆どないはずだ。

 自身の特異体質を自覚してはや数十年。今まで完璧に隠し通してきた事を目の前のウマ娘はいとも簡単に見抜こうとしている。

(可能性があるとすればスポーツショップで話した時か?)

 ランニングシューズを買いだめする人間も少なくないが、彼女の目にはそれが異質に映ったのかもしれない。もしくは八京が蹄鉄を凝視していた時から自身の研究に繋がる何かを見出したか。

 根拠があるにせよ無いにせよ、彼女の問いは八京を動揺させるには十分過ぎるものだった。

 頭をフル回転させている八京を尻目に栗毛のウマ娘は饒舌に語る。

「これはまだ憶測に過ぎないが、もし本当だとすれば君のその体は私の研究を大きく飛躍させる存在になり得るはずだ。だから」

 ただの思いつきか、それとも確信があるのか。

 何を考えているかわからない瞳が八京の瞳を射抜く。

「君のことを、教えてくれ」

「……」

 仮に、八京がトレーナーだとして。

 目の前のウマ娘をスカウトしている最中なのであれば、その言葉は本来八京の口から出るべき言葉だ。

 しかし八京は未だトレーナーではなく、これといって誰にも譲れない強い思いを持っている訳でもない半端者だ。故に、

「無理だ」

「……ふぅン。まあ確かに、自分のプライベートに関わることを言いたがらないのは当然だね。数回しか面識のない人物が相手なら尚更だ」

「そうじゃない。俺とお前との仲が良かったとしてもその質問には答えないし、そもそも、俺の足はどこも悪くない」

 目の前のウマ娘は相当な切れ者のようだが、未だ八京の特異な能力にたどり着くには少し確証が足りていない。そして確証が足りていないものを真実だと声高に主張ようにも見えなかった。

 ならばここは、何のヒントも与えず、全て否定してしまえばいい。

 八京の言葉に栗毛のウマ娘は目を細めた。そして、

「……分かった。意思は固いようだからね。私も無理だと分かりきった事に労力はかけたくない」

 しかし、と言葉を切った彼女は、立ち上がって黒板の方へと向かった。

「私の研究について何も言っていなかったね」

「説明したところで変わらないものは変わらないぞ」

「わかっているとも。ただ、君には話す価値があると判断した」

 そう言って栗毛のウマ娘はチョークを持つ、ことは無く、八京に一つ問いを出した。

「ウマ娘とはどういう存在かな?」

「端的に言えば足が速い。高機能な耳と尻尾を持っているのが特徴だ」

「正解だ。ではなぜ足が速いと思う?」

「何故って……、まだその議論には結論が出てないだろ」

「その通り。ウマ娘は何故足が速いのか。何故そのように生まれてきたのか。人間と同じ骨格をしながらも、形成される筋肉は人間と同じサイズでも遥かに強い負荷に耐え切れる強靭なものとなっている。いいかね、君」 

 栗毛のウマ娘がこちらを見つめる。その瞳には狂気の他に夢と期待も混じっているような気がした。

「分かっていない、という事はまだ限界ではないという事だよ。ウマ娘の最高速度も、それ以上の速度に到達し得る事を否定する根拠は未だ発見されていないんだ」

 狂気を宿す瞳で、子供のような無邪気さで彼女は語る。

「私は最高速度の先を見たい。足が速いなんて陳腐な言葉では足りないくらい、影すら踏ませぬその先へ行きたいんだ」

「最高速度の、先……」

 学生時代、幾度と言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

『お前、足速いよな』

 いつも受け流していたものだが、堂々と認めてしまおうと思った事がない訳ではない。

 足の速さは自分の長所だとも思っていた。しかし年齢を重ねるうちに身体機能だけでは長所になり得なくなり、周りに溶け込む為に嘘に妥協を重ねる日々が続いた。誰かの前で全力で走った記憶は八京には思い出せない。

 しかし目の前のウマ娘は、八京が隠し続けていた速さの先へ行きたいと言った。何が彼女をそうも駆り立てるかは分からない。だが、

(彼女は全力でそれを実現しようとしている)

 狂気に染まった瞳で、そして自身の体を全て使って、彼女はその夢に向かって邁進するだろう。

 八京には無い「譲れないもの」が、彼女にはあった。

「……すごいな」

「だろう? どうだい、少しは私の事を知ってくれたかな?」

「ああ、お前はすごいよ。小さな事で悩んでる俺よりもずっとずっと」

 思いっきり頬を張られた気分だった。

 八京は立ち上がると、栗毛のウマ娘の前に立った。

「でも、悪い。やっぱりお前の質問には答えられない」

「……ふうン、そうかい。まあいいさ、今の話は私が話したいと思ったから話しただけだからね。私としては疑問を疑問のままで放置しておくのは嫌なんだが……おっと」

 栗毛のウマ娘は腕につけてある腕時計に視線を落とす。時刻は昼休みの終わり頃をさしていた。

「時間だ」

「ん、ああそうか、授業があるもんな」

 以前は授業をサボって学園を抜け出していた彼女でも、勉学に対する意欲は残っているらしい。

 しかしそんな八京の安堵とは逆に、栗毛のウマ娘はきょとんとした顔で、

「授業? そんな無駄な事に時間を使う気はないよ。私が行くのは生徒会室さ」

「サボったのがバレたのか?」

「研究の進歩に必要な犠牲を迷惑行為と宣う教師たちにどんな説教をされようが構わないけど、今回は違うよ。それじゃ、さようなら」

 そう言って栗毛のウマ娘はそう言って八京の横を通り抜けて廊下へ続く扉に向かう。八京は振り向いて言った。

「ああ。また聞かせてくれよ、その研究の話」

「……」

 先日のスポーツショップの時と同じく、彼女が反応する事はない、と思いきや、栗毛のウマ娘は扉に手をかけて言った。

「それは恐らく無理だろうね」

 僅かにこちらを見る彼女の瞳に浮かんだ感情を八京が理解する事はできなかった。

「君がここのトレーナーになる頃には、私はもういないだろうから」



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6 交渉

会長の口調が安定しない


 人もまばらなカフェテリア。大半のウマ娘達は教室に戻り、次の授業の準備をしている時間帯。

 自販機で買った缶コーヒーを片手に、八京はカフェテリアの隅の席に腰を下ろしていた。

「……どういうことだ……?」

 先程の栗毛のウマ娘の言葉が頭から離れない。

『君がここのトレーナーになる頃には、私はもういないだろうから』

 いない、というのはこの学園を去るという意味で間違いないはずだ。彼女が研究室と称した空き教室が殺風景だったのも、学園を去る為に片付けていたと考えれば辻褄が合う。しかしその肝心な理由が分からない。彼女の振る舞いから見ても走れなくなるほどの怪我を負ったようには見えなかったからだ。

 彼女も才能を認められてこの学園に入学した身だ。更に彼女の研究の果てにある目標を達成する為にこの学園の環境は非常に役立つだろう。そうやすやすとそれを手放すとは思えない。まあ、授業を無駄な時間だとは言っていたが。

(興味を惹かれたのは事実だ)

 最高速度の先へ行く。

 自分の特異な脚力を隠し続け、その結果無八京が無意識に避けていた話題を彼女は簡単に口にした。

 そこに妥協や嘘は無く、ただただ限界を越えることだけを考える、狂気的ともいえる姿勢は危険を感じさせながらも「もっと知りたい」と思わずにはいられなかった。

「あいつと一緒に走れたら、きっと楽しかっただろうな……」

 トレーナーになって、あのウマ娘をスカウトして。

 きっと彼女は八京の秘密を知っても離れていったりはしないだろう。むしろ称賛して嬉々として研究の足掛かりとしたはずだ。

 だからこそ、惜しい。分かり合えるかもしれなかったウマ娘が学園を去ってしまうというのは。

 「やはりサボりが原因だろうか」と思いながら缶コーヒーに口をつける。苦い液体が舌を包み込み八京は顔を顰める。そういえば間違ってブラックコーヒーを買ったのだった。

 そんな時、八京の近くで誰かの靴音が響いた。

「失礼、少しいいだろうか」

「はい?」

 声をかけられた。たづなや秋川やよいの声ではない。かといってあのウマ娘の声ではなく、落ち着き払った声だった。

 窓の外へ向けていた視線を声がした方向へ向ける。

「その許可証、見学者は君だけのようだ」

「……君は」

 無意識に背筋が伸びる。幼いながらも情熱をもってこの学園を取り仕切る秋川やよいと対面した時とは別種の緊張。いや、歓喜か。

「そう畏まらないでくれ。アグネスタキオンが言っていた見学者を探していたんだが、君で間違いないか?」

 自然な動作でそのウマ娘——トレセン学園生徒会長のシンボリルドルフはテーブルを挟んで八京の正面に腰を下ろした。

 誰もが一度は名前を聞いたことのあるウマ娘の登場に、八京はどう反応するべきか迷った。椅子に腰を下ろした彼女は何も言わずに先程の質問の答えを待っているようで、八京は努めて冷静な声音でそれに答える。

「アグネスタキオンという名前は聞かないな」

「おや、聞いていなかったか。栗毛のウマ娘の事だ。ほら、白衣を着てる」

 そう言われてやっと一人のウマ娘の姿が脳裏に浮かぶ。今思えば名前も聞いていなかった。

 しかしあのシンボリルドルフが自分の前に現れる理由とアグネスタキオンにどんな関係があるか分からず更に混乱する八京だったが、シンボリルドルフが発した言葉で缶コーヒーを握る手に力がこもった。

「アグネスタキオンの退学が決定した」

「……そうか」

「正確にはついさっき退学勧告を言い渡した所だが、アグネスタキオン本人がそれを受け入れた」

 浮かんできたのは「残念」という感想だった。

「理由は?」

「レースに出なかったのが原因だ。トレーナー達のスカウトも全て蹴ってね」

 この学園にいるウマ娘達の共通の目標である公式レースでのデビューはトレーナーがいなければ達成する事ができない。学園側から見れば、アグネスタキオンはスタートラインにも立とうとしなかったように見えたのだろう。

 しかしその実、彼女は彼女自身の目標に到達するべく研究を重ねていた。気まぐれと言われれば否定できないが、研究に必要とあらば彼女は真っ先にレースに参加したはずだ。となれば、彼女が嫌ったのはレースではなくトレーニングに割く時間の方か。

「……無駄、か」

 ぽつり、と呟いた八京の言葉にシンボリルドルフは目を丸くする。

「……彼女も同じようなことを言っていたよ。トレーニングの為に研究の時間を削るのはいただけないとね」

「だろうな」

 三回しか話したことのない間柄だが、アグネスタキオンが何を優先して何を切り捨てるかくらいは何となく分かった。

「彼女の才能は本物だ。私の方でもなんとか彼女が学園に残れるように尽力するつもりだ」

「俺が言えた義理じゃないが、学園に残ってもレースに対する態度が改善されなければ意味がないと思うぞ」

 彼女がトレセン学園という研究に適した環境を捨てるという事は他にもあてがあるということだろう。あるいはこれから作り上げるかもしれない。彼女にとっては、邪魔が入らず、研究だけに没頭できる空間があればいいのだから。

 しかし八京の諦めにも似た言葉とは裏腹にシンボリルドルフは、

「彼女に退学の意思を聞いた時、興味が湧いた人物を一人だけ口にしていた。恐らく君のことだ」

「俺?」

 突如自分の名前が上がって驚く八京だったが、何故シンボリルドルフが自分の目の前に現れたのかが何となく理解できた。

「君の力を貸して欲しい」

「俺に力なんて無い。俺はただこの学園の見学に来ただけだ」

「君のことは理事長から聞いている。君がもし彼女に興味を持っていたなら、この問題は無視できないはずだ」

「……」

 八京は黙り込む。

 人事に関する情報を、かの「皇帝」とはいえ在校生に教えたのはいかがなものかと思うが、シンボリルドルフの指摘は最もだった。

 譲れないものを心の内に持ち、その為には手段を選ばないウマ娘。狂気的なその姿は客観的に見ると不気味に見えるだろう。しかし八京にはその姿が眩しく見えた。周りの評価を気にせず前に進む姿は八京が思い描いてきた理想の姿と言ってもいい。

 そんな彼女の走る姿は、きっとどんなウマ娘よりも鮮烈だ。思わずスカウトしたいと思ってしまうくらいに。

 八京はシンボリルドルフに尋ねる。

「具体的には何をするんだ?」

「彼女には私と併走してもらうようにお願いした。それだけで彼女が考えを変えてくれれば良いが……」

 シンボリルドルフと併走するなんて並のウマ娘ならついていくだけで精一杯だろう。確かにその併走でアグネスタキオンがシンボリルドルフと並んで走れるほどの実力を見せる事ができれば、アグネスタキオンの能力の高さを周りに見せつける事ができる。

 シンボリルドルフという存在を使った作戦に、合理的だ、と八京は感想を漏らした。しかし、

「大事なのはあいつの気持ちだ。君から説得すればいいんじゃないか?」

「私ではダメだ。少なくとも彼女が興味を持った人物でなければ」

「それで俺か」

「ああ。彼女自身の口から興味を抱いた人物を口にするのは初めてだからな」

 自分の存在価値は如何程のものだろう。退学の意思を固めたウマ娘一人を引き止めるほどの価値はあるだろうか。

「その併走は?」

「一週間後だ」

 がっつり面接の日と被っていた。

 しかしそんな八京の心を見透かしたかのように、

「大丈夫だ。併走は夕方に行う。君と理事長の面接はそれまでに終わるだろう?」

 あの理事長、面接の事も喋ったのか。

 思わず呆れてしまうが、それほどに生徒会長が信頼できるというのは理解できる。

「どうだろう、協力してくれないか?」

 ここまで入念に準備していても、シンボリルドルフはあくまで八京の意思を尊重するらしい。

(どうする……)

 アグネスタキオンが退学してしまうのは惜しい。八京自身、彼女の走りを見てみたいというのは正直な気持ちだった。

 しかし八京の課題はまだ解決していない。

 このトレセン学園でトレーナーをやっていく上での意気込み。或いは誰にも譲れないもの。

 アグネスタキオンとの会話の中で得るものはあったがまだ納得のいく答えは出ない。そんな状態でアグネスタキオンの説得さえ引き受けてしまって本当に大丈夫だろうか。

 虻蜂取らずという言葉もある。

 面接にも失敗して、アグネスタキオンの説得にも失敗したら、自分の手元には何も残らない。

 考えた末、八京は口を開いた。

「一つ、訊きたいことがある」

「なんだ?」

「理事長から聞いてると思うが、俺は再評価を言い渡された身だ。本来そんなことはありえない。良くも悪くも初めての出来事だそうだ。そんな俺が、仮にアグネスタキオンを引き止めることに成功したとして、彼女がレースに出たいとか、トレーニングをしたいだとか、そういう考え方をするようになると思うか?」

 アグネスタキオンが考えを変えなければ、いずれ近い将来、彼女はまた退学勧告を言い渡されるだろう。

 ここで引き止めるということは、何かしらの変化が無ければならない。シンボリルドルフ自らが何かをするというのはそう何回も使える手ではないからだ。

 成功は成功でも、意味のある成功にする必要がある。

「形だけの成功はいらない。もし変わらないと思うなら、俺はこの話にはのらない」

 責任を全てシンボリルドルフに押し付けるような酷い言い方だった。

 この問いを友人にしたのなら、きっと励ましの言葉が返ってくるだろう。

 大丈夫。きっとうまくいく。

 しかし八京が求めているのは本心からの言葉だ。故にシンボリルドルフにこの問いを投げかけた。

「……そうだな」

 シンボリルドルフは少しの間考える素振りを見せたが、

「少なくとも、生半可な説得では無理だろう」

「じゃあ――」

「だが君がやるんだ」

「……!」

 「やれる」ではなく、「やれ」と。

「私は君以外にアグネスタキオンが興味を持った人物を知らない。だから君に頼む。見たところ君は自分を卑下しているようだが、君はここに合格するほどの能力を持っている。運だけで入れるほどこの学園は甘くないんだ」

 たづなと同じような事を言うシンボリルドルフ。その目は真剣そのものだ。

「素質は十分。更に君はアグネスタキオンに興味を持たれ、君もまたアグネスタキオンに興味を持っている。なら後は、その気持ちを伝えればいい」

「……簡単に言ってくれるな。数回しか話した事ないんだぞ」

「仲の良さは会話の回数に比例しないさ」

「……まあ、そうか」

 握っていた缶コーヒーから手を離す。

 八京は話の内容を整理した。

 アグネスタキオンは研究に没頭するあまり、学園のウマ娘共通の目標である、トレーナーと組んでレースに出場する事をしなかった。

 結果、その姿を見た上層部がとうとう痺れを切らし、アグネスタキオンに退学勧告を言い渡すように決定を下した。アグネスタキオンはそれを受け入れ退学することを決める。こんな所だろうか。

「ちなみに、俺が断るって言ったらどうする?」

「アグネスタキオンと交流のあった生徒に協力を仰ぐ。それでもダメだったら、一人でどうにかするしかないだろうな」

 一人。それはつまり、誰も理解者がいない状況だ。

 長い間輪の中にいながらも一人だった八京にとって、その状況は他人事とはいえなかった。

 八京は缶の中に残った液体を全て口の中に流し込む。そして口の中に広がる苦味に顔を顰めながら立ち上がると、

「併走は見に行く。だけど、アグネスタキオンを説得するかどうかはその時に決めさせてくれ」

 未だに煮え切らない返事しかできない自分に嫌気がさすが、今はこれが限界だ。話に乗る以上、こちらにも準備がある。

「委細承知した。感謝する」

 背中越しにシンボリルドルフのお礼を聞きながら八京はカフェテリアを後にする。

「感謝する、ね」

 あのシンボリルドルフに言われたお礼に素直に喜ばないのは、やはり課題が未だに山積みだからだろう。

(たが、やるしかない)

 面接も成功させて、アグネスタキオンも引き止める。

 この二つを成功させる。理想から現実にもってくる。

 作戦が無い訳ではない。

 秋川やよいが文山八京に求める意気込みと、アグネスタキオンを引き止めるに値するもの。そこに共通するものを八京はすでに持っている。

 結局は自分の頑張り次第だ。

 そう呟いて、八京はスマホを取り出した。そして今日の朝にかかってきた電話番号を選択する。

 何回かのコールの後に聞こえてきた聞き慣れた声に、八京は覚悟と共に口を開いた。




会長が四字熟語botと化したので普通に喋らせる事にしました


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7 無名の挑戦者

好みの分かれる展開だとは思いますが、どうぞ楽しんでいただけたらと思います。


 これは夢だ。 

 妙にふわふわとした思考の中で八京はすぐに理解する。

 視界に広がるのは実家の近くにある一本道。八京がよく一人で走っていた場所だ。人通りが少なく、通るとしても高齢者が多いこの道は八京にとって、走る姿を見られても誤魔化しが効く絶好のランニングコースだった。

 不意に画面が動く。自分ではない誰かがその道を走っていく。人間には出せない速度を維持したまま、周囲の田畑が視界の後ろに消えていく。

 よく見た光景、よく見る夢。しかし今回は違った。

 視界を流れる田畑の速度が格段に速くなる。耳元でびゅんと風を切る音が聞こえ、その景色を見ているだけで息が苦しくなる錯覚を覚えた。

 肺だけではない。腕も、足も、思考さえも前に進む燃料として燃やし尽くされ、明瞭な思考がずぶずぶと泥沼の中に沈んでいくようだ。

 そこで八京はやっと思い出した。これは数少ない自分の全力疾走の記憶である事を。正確には全力疾走に近い速度、だが。

 ではなぜ全力疾走ではないかといえば、その理由は唐突に視界に現れた。

 足の裏から地面を蹴る感覚が消える。それと同時に八京を襲った浮遊感に思わず呼吸が止まった。

 形容し難い音が響いた。

 ウマ娘の体の構造は人間とほぼ同じだと言われている。しかし物事に対する考え方には僅かに差異が見られる。走って転んだ時の対処法が良い例といえるだろう。人間が想像している速さが自転車と同じくらいの速度であるのに対し、ウマ娘が想定する速さは自動車と同じ速度だ。当然この時の八京が自動車と同じくらいの速度で走って転んだ時の対処法を心得ている訳がなかった。

 つまるところ、これは若かりし頃の失敗というやつだった。

 かちり、と時計の時針と分針が6と12を指した所で八京は覚醒した。

「……最悪だ」

 目を開けて、八京は開口一番にそう呟く。

 幼い頃の夢を見るのは珍しいことじゃない。ただ、面接当日に見る夢として適さなかったというだけで。

 目を覚ます直前の景色は既に朧げで、所々抜け落ちてしまっているが、それでも自分の失敗という点はしっかりと記憶に刻まれていた。

(あいつなら、どうする)

 八京の場合はあの後、言い訳をするのに必死だったのをなんとなく覚えている。さぞ間抜けで必死な顔をしていたのだろう。

 しかしあのウマ娘なら。

「今日聞いてみるか」

 最後になるかもしれないから。

 そんな一言を飲み込んでベッドから抜け出す。

 洗面所で顔を洗い、台所に向かう途中で玄関に置いてあるランニングシューズに目が行った。 

 玄関の隅に鎮座する三足のランニングシューズ。しかしその内の一足は既に原型をとどめておらず、二足目に関してもつま先のあたりが剥がれ落ちそうになっており、何年も使い込まれたような風格を醸し出している。

「一週間で二足……出費が……」

 リビングに置いてある痩せた財布を見て八京は苦しげに呟く。必要な出費とはいえ、ランニングシューズはそれなりに値段のするものだ。

 朝と夜、更には比較的安全な山の中までも、時間がある時にひたすら走った結果がこれだ。

 それだけではない。

 リビングのテーブルの上には陸上競技や体の構造に関する本、ウマ娘に関する論文をまとめた雑誌が散乱していた。調査というよりも不安を押し殺すための誤魔化しに近かった。

 しかしここまでしても不安はまだ残っている。秋川やよいの求める答えになっているかどうか。そして、アグネスタキオンを説得できるかどうか。

 一つ成功させるだけではダメだ。両方とも成功させて、初めて八京が得る成果なのだから。

「……大丈夫だ」

 気を落ち着かせるようにそう自分に言い聞かせて、八京は面接がある時刻まで最後の調整を行なった。

 

 

 

「お久しぶりです、秋川理事長」

「うむ! その顔、答えは出たようだな!」

 トレセン学園の玄関前で八京は秋川やよいと挨拶を交わす。

 なぜ理事長室ではなく、玄関前に理事長がいるのか。

 それは八京が事前に頼んでおいた事が原因だった。

 秋川やよいの後ろに控えていたたづなは、同じように八京に一度挨拶をしてから、

「練習場は午後から整備があるという事にして貸切にしました。シンボリルドルフさんからもお話は伺っています」

「ありがとうございます」

 八京はお礼と共に頭を下げる。急なお願いを受け入れてくれた彼女には感謝しかない。彼女がこのお願い受けてくれなければ八京の作戦は始まる前から失敗していた。

 秋川やよいもたづなから事情を聞いているようで、

「驚愕! まさか君がアグネスタキオンに興味を持っていたとは」

「そうですね。才能溢れるウマ娘は嫌でも興味を抱きますから」

 本来であれば面接を終えてからアグネスタキオンとシンボリルドルフの併走を見に行く予定だった。しかし八京は、面接と併走の見学を同時に行おうと考えた。

「お願いした身で言うのもあれなんですけど、本当に時間をずらしても大丈夫だったんですか?」

「無論! トレーナーの卵が明確な意思を持って動いたのだ。ならば私はそれに全力で応えるのみ!」

 快活に応える秋川やよいはそう言って扇子を勢い良く開く。本来こんな常識はずれな行動が許されるはずがない。秋川やよいのような心の広い人物でなければこの提案を許可してはくれなかっただろう。

 しばらく歩いて練習場に到着すると、そこには既に二人のウマ娘がいた。どちらもジャージ姿で準備運動を行なっている。そのうちの一人はこちらに気づくと、準備運動を中断してこちらに近づいてきた。

「来たな。まさか二つを同時にこなそうとは、驚いたよ」

「賭けである事実が変わったわけじゃない。アグネスタキオンは?」

「既に伝えてある。まだ時間はあるから話してくるといい」

 そう言って、シンボリルドルフは八京の後ろにいる理事長たちの挨拶へ向かう。八京はその場を一旦離れて、準備運動を続けているアグネスタキオンのもとへ向かった。

「アグネスタキオン」

「……まさか君が絡んでくるとはね」

 アグネスタキオンは八京を見るや否や薄らと笑みを浮かべた。

「私を引き止める気かい? おおかた会長あたりにお願いされたんだろう。こんな事になるなら、あの時質問に答えなければよかったかな」

「なんで退学を選んだんだ?」

「君も教師たちと同じ質問をするんだねぇ。無論、研究のためさ。実力者揃いのこの環境を捨てるのは惜しいが、ここじゃなくても研究はできる。海外とかいいかもしれないね」

 説得しても無駄だ。

 そう言外に言われたような気がして、八京は少し考えてから、

「お前を説得するかは、まだ決めてない」

「ふぅン? じゃあなんで君はここにいるんだい?」

「今からここで面接なんだ。この面接の結果次第で、俺がここのトレーナーになれるか決まる、と思う」

「へぇ、面接。ククク、面接の場所をここにするなんて君も酔狂だねぇ」

「お前の走りを見るためでもあるからな。説得するかはそれから決める」

「そうかい。ならせいぜい見ているといい。少なくとも無様な結果にはならないさ。会長には恩もある。全力を出すとも」

 そう言ってアグネスタキオンはコースの中に行ってしまった。先行きが不安な会話だったが、それでも想定の範囲内だ。

「コースは芝2000mでいいか?」

「いいとも。何かと世話になった会長の頼みだ」

 遅れてコースに入ったシンボリルドルフがアグネスタキオンと話をしている中、八京はその外からそれを見守る。

 かたや「皇帝」と謳われた絶対強者。かたや一族の最高傑作と謳われ、しかしその奇行の数々によって退学に追い込まれたウマ娘。

 皇帝が勝つか、最高傑作が勝つか。

「では理事長、合図をお願いします」

「承知!」

 かくして、シンボリルドルフとアグネスタキオンの本番のレースさながらの併走は、秋川やよいの合図で始まった。

 

 

 

「やはりシンボリルドルフさんがリードしてますね」

 たづなの言う通り、スタートが切られてから先頭を維持し続けているのはシンボリルドルフだった。しかし公式レースに出走したことがないアグネスタキオンもその後ろにつけている。両者ともに本格化を迎えているのだろう。走力は互角といったところか。側から見ていてもレベル高さをひしひしと感じる景色だ。

「では、こちらも始めるとしよう!」

「はい」

 椅子も机もない練習場の隅で秋川やよいが言う。八京の学園にきた本来の目的はこの面接を受けるためだ。

 秋川やよいは勢いよく扇子を広げる。しかし理事長と八京の身長差故に、八京は目の前の理事長を見下ろす形になる。

「私から聞くことはただ一つ! ここでトレーナーになるという君の意気込み! 問おう! 君はこの学園で何を成す!?」

 大きく息を吸う。

 アグネスタキオンは最高速度の先に行きたいと言った。それが彼女の譲れないものであり、きっと誰にも邪魔されることのない純粋な憧れだ。

 眩しかった。それと同時に自分の足を隠しながら生きてきた自分を情けなく感じたし、それと同じくらいに、憧れた。

「私の夢は、最速のウマ娘を育てることです」

 ターフ上ではアグネスタキオンとシンボリルドルフが変わらず走り続けている。そして最終コーナーに差し掛かったところで、アグネスタキオンが動いた。

「幼少期、そして今に至るまで他人には言えない秘密があった私にとって、その夢は一つの憧れでもあります」

 彼女は笑っていた。苦しいはずなのに、その顔は狂気とも歓喜ともとれる笑顔で彩られている。

 幼い頃に見た映像が脳裏に浮かぶ。アグネスタキオンの姿は映像の中のウマ娘と重なっていた。

「この学園で、最高速度の先、可能性の先に行きたいと言う彼女と出会い、自分の夢を明確にすることができました。だから私はアグネスタキオンと一緒にトゥインクルシリーズに挑みたい。そして、彼女を最速のウマ娘にしたいと考えています」

 ほぼ同着でゴールを通り過ぎて行った二人を見て、八京は秋川やよいに向き直る。そして、

「……というのが建前です。実際は、私の秘密を受け入れてくれるであろう彼女の力になりたいと、そう思っただけです」

 自分はトレーナーに向いていない。

 この一週間を通して八京の出した結論はそれだった。

 最速のウマ娘を育てる。

 それは八京が考え抜いた際に見つけ出した、彼にとっての譲れないものだ。

 しかしそんな陳腐な考えはきっとこの学園のトレーナーになるような人物にとって適さない。

「質問! では君の本音は何なのだ?」

 ここで面接を打ち切られても文句は言えないのだが、秋川やよいはそれでも八京に質問を投げかける。

 八京はここのトレーナーに適さない。実力はあってもウマ娘に認めてもらえなければ意味がない。

 ではどうすれば彼はここのトレーナーになれるのか。

「私を見てもらおうと思います」

「見る?」

「はい。秋川理事長に、そして、彼女に。そうすれば分かってもらえるかと思います」

 少し待っていてください、と秋川やよいに伝えて、八京は息を整えているアグネスタキオンのもとへと向かう。

「お疲れ。やっぱり良い足を持ってるな」

「おや、面接は終わったのかい? それで次は私の説得かな?」

「いや、面接はまだ終わってない。……アグネスタキオン、退学について考え直してくれないか?」

「またそれか。会長にも言われたよ。そして同じ答えを返した。無理だよ」

「そうか」

 頷きながら、アグネスタキオンの後ろにいるシンボリルドルフをチラリと見る。彼女は首を小さく横に振った。

 八京はアグネスタキオンに視線を戻して、

「なら、良かった」

「何? 君は私を説得しにきたんじゃないのかい?」

「説得してほしかったのか?」

「揚げ足をとるんじゃない。君は何をしにきた? 私の走りを見にきただけではないんだろう?」

「ああ、俺はお前を説得しにきた。さっきの走りを見て確信したよ。お前はここにいるべきだ」

「さっきの発言と矛盾しているじゃないか」

 懐疑的な視線を向けるアグネスタキオンに、八京はその言葉をはっきりと口にした。

「お前の研究、手伝わせてくれないか」

「……へぇ、まるでスカウトをしにきたトレーナーのような事を言うんだね?」

「俺がトレーナーなら真っ先にお前をスカウトする」

「断るよ」

 アグネスタキオンは即座に拒否した。

「研究を手伝うと言いつつ、レースやトレーニングで平気で研究の時間を潰す。トレーナーとはそういう存在だ。邪魔者と言ってもいい。それは君も同じだよ」

 初めて向けられた明確な拒絶に少し胸が痛くなる。 

 しかし、ここで退く訳にはいかない。

 今日、この日のために八京はここにいるのだから。

「……そうだな。確かにお前の意見は最もだ。一方的にこんな事を言われても信用できるはずがない」

「その通りだね」

「俺はお前の走りに可能性を感じた。きっと最高速度の先に行くという夢もいつか叶えてしまうんじゃないかと思うくらいに鮮烈だった」

「褒めても私の考えは変わらないよ」

「で、俺は気づいたんだ。これはフェアじゃない」

「うん。……うん?」

「お前が全力の走りを見せてくれたのに、俺はまだ何も見せてない。こんな状態で俺がお前を説得するなんて不公平だ。そう思わないか?」

「いや、思わないけど」

 選抜レースというものがある。

 本格化を迎え、走力が開花したウマ娘が自分の実力を見せる為に出るレースだ。

 トレーナーはこのレースを見てウマ娘を評価し、スカウトするウマ娘を決める。

 しかし正規の手順を踏んだところでアグネスタキオンが首を縦に振ることはないだろう。

 本来であれば説得はここで頓挫していた。だが、しかし。

 何事にも例外はある。

「俺の走りを見ていてくれ。そして俺がお前の研究に協力できるかどうか、お前が判断してほしい」

「君の走りって……あ、おい!」

 何かを言いかけたアグネスタキオンの脇を通って、八京はそのウマ娘の前に立った。

「シンボリルドルフ」

「おや、説得は終わったのか?」

「いや、まだだ。説得も面接も、これから終わらせる」

 そう言って八京は一つのお願いを口にした。

「併走してくれ、シンボリルドルフ」

「……ふむ。確認のために聞くが、誰が誰と併走するんだ?」

 シンボリルドルフの目が細められる。その些細な変化に気圧される八京だったが、目を逸らすことなく言った。

「俺が、シンボリルドルフと併走するんだ」

 八京は迷いなく言い切る。命知らずな提案だと誰もが思うだろう。秋川やよいやたづなが驚愕の表情を露わにしている中、シンボリルドルフは冷静な表情を崩さずに、

「その行為にどれ程の意味があるのか私にははかりかねるが、手加減はできないぞ?」

「そんなの期待してないさ。それに、アグネスタキオンと併走した直後ってだけで、俺には十分なハンデだ」

 本番さながらのレース、全力疾走。いくら皇帝といえど疲れていないはずがない。

「コースは?」

「さっきと同じだ。芝2000m」

「……承知した。君はスーツ姿のままで走るのか?」

「革靴じゃないだけマシだと思うしかないな」

 履いているシューズを見せて言うと、シンボリルドルフは僅かに考えてから「分かった」と言った。 

「アグネスタキオンの説得に必要というのなら、私も全力でそれを手伝おう」

「助かるよ」

 シンボリルドルフは踵を返すと、おもむろにスマホを取り出してどこかに連絡を取り出す。

 その時、背後から声がかかった。

「命知らずにも程があるよ、君」

「疑問を疑問のまま放置したくないって言ったのはお前だろ?」

「それにしたって挑む相手をもう少し選べなかったのかい? 理事長達を見てみたまえよ」

 アグネスタキオンに促されるように視線を動かすと、おろおろと理事長とシンボリルドルフを交互に見るたづなと、何も言わず観戦する態度を取る秋川やよいの姿が見えた。

「お前には俺の走りを見てもらう必要があるからな。それに、皇帝と走れるなんて貴重な体験だ」

「……貴重の一言で済ませるあたり、やっぱり命知らずだな、君は」

 アグネスタキオンはそう言うと、ひらひらと手を振って踵を返した。

「客席で見させてもらうよ。せいぜい私の興味を惹くレースをしてくれ」

「……分かってる」

 練習場に向き直る。 

 全力を出すのは初めてかもしれない。といっても、出し惜しみをする余裕があるほど自身の能力が特段優れていると思った事はない。

 夢で見た光景以外で、自分が全力で走った記憶というのは見つからない。いつもどこかでブレーキをかけて、それを良しとしていた節もあったからだろう。

 しかし今は違う。

 実力者が集うトレセン学園。そんな学園の生徒達の頂点に君臨するウマ娘、シンボリルドルフ。

 皇帝と謳われた彼女が自分との併走を了承してくれた。

 危険だからと拒否される可能性は十分にあった中でその決断をした彼女に八京は感謝せずにはいられない。

 八京の足。それは秋川やよいの問いに対する答えと、アグネスタキオンの説得の鍵の両方を握っている。

 加減なんて許されない。

 努力は必ず実るとは限らない。だが八京が破壊してきたシューズ達は、彼の確かな努力の証だ。

「文山八京」

 シンボリルドルフに初めて名前を呼ばれる。

 八京は高鳴る鼓動を抑えて返答した。

「ああ、準備はできてる」

「そのようだな。だが、その前に」

 シンボリルドルフがそう言うと同時に、遠くからこちらに走ってくる何者かの足音が聞こえてきた。

「着替えてくれ。流石にスーツ姿はダメだ」




トレーナー見習いの フミヤマが 勝負を しかけてきた!
更新遅くなります


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8 巧遅拙速

遅くなりました。レース中の描写が難しい。


 校舎の一階にある職員用の更衣室に八京が向かって数分後。

 小走りで練習場に戻ってきた八京の体は、赤と白を基調とした運動着に包まれていた。トレセン学園近隣の住民には見慣れた姿。唯一の真新しさ、というより違和感があるとすれば、それを着用しているのが人間の男性である点だろうか。

「サイズは問題ないか?」

「ああ。でも、これを俺が着てもよかったのか?」

 運動着の袖や、腰のあたりに空いてある穴をしげしげと見つめつつ八京が問うと、シンボリルドルフは芝の上を歩きながら言った。

「保健室の備品として置いていたものだから気にしなくて良い。後で洗って返却してくれ」

「そうか。ありがとう」

 彼女の後ろを歩きながら八京は足元の芝の感触を確かめる。

 コンクリートの地面を蹴るのとは違った感触。学生だった頃にレース場の見学にも行ったことはあったが、この上を全力で走ったことは勿論無い。

「緊張しているか?」

「え?」

 気づけばシンボリルドルフは立ち止まっており、八京はその横に並ぶ。

 八京はスタート地点に立っていた。

「2000m。走った経験は?」

「……距離だけで考えるなら、小学校のマラソン大会で走ったのが最後だな」

 小学校の行事の一つ。

 結果は勿論ウマ娘が上位を独占し、自身の脚力を隠していた八京にとってあまり面白くない記憶だった。人目につかない場所でそれくらいの距離を走った事はあるが、正確な距離を覚えているのはそのマラソン大会だけだった。

 そんな彼の答えにシンボリルドルフは僅かに考える仕草をしてから、

「実を言うと、エアグルーヴに止められたんだ。人間との併走は危険だとね」

「エアグルーヴ?」

 そう言って八京はあたりを見渡すと、コースの外でこちらを見守る理事長たちの後ろに一人のウマ娘がいた。先程ここまで運動着を届けてくれたウマ娘だ。こちらを見つめる彼女の顔は険しく、というか、八京の事を思い切り睨んでいる。迂闊に近づけば殴られそうだ。

「やめるのか?」

「いいや、併走はする。しかし条件を付けさせてもらう」

 そう言ってシンボリルドルフは八京から離れると、コースを囲うように立つ柵の手前で立ち止まった。

「私は外を走る。君はどう走っても構わない」

 私が合わせよう。

 そう言うシンボリルドルフからは驕りの類は一才感じられない。彼女は既に2000mを走り切っている。しかし大外を走るという、距離的なロスを背負うと宣言してもなお、自分が勝つと言う自信に溢れていた。

 とはいえ何も知らない者からすればこの併走自体が出来レースのようなもので、こちらの安全を優先するシンボリルドルフの判断は正しい。

 八京は皮肉や嫌味の類ではなく、思わず訊いてしまう。

「いいのか? そんなに俺を有利にさせて」

「君が私との併走を申し出たのはちゃんとした考えがあったからだろう。なら私はその考えを遂行できるようにサポートするまで。無論、勝ちを譲る気はないが」

 挑発とも取れる八京の問いにシンボリルドルフは真面目に返答する。

 しかしこのハンデをもってしても、八京とシンボリルドルフの実力が同等とは言い難い。

 何事も予備知識は大切だが、それより大事なのは経験だ。何度も鍛錬を重ねて、教科書に書いてある言葉では補いきれないスキルを身につけていく。いわば勘やセンスともいえるそれが勝敗に影響を与えないとは言い切れない。

 ともすれば、経験によって蓄積されるスキルに八京の一夜漬けにも等しいスキルが通用するかどうかは微妙なところだ。八京の個人的な予想では一割通じれば良い方だ。

 この併走の目的は、アグネスタキオンに八京自身の可能性を見せる事にある。

 退学の決意を固めたアグネスタキオンの心を動かすような、例えるなら先程のアグネスタキオンのような鮮烈な走りを見せる事だ。 

 自分の足に対する疑問や心配が消えた訳じゃない。しかし少なくともこの場にいる人々は自分の走りを見ても離れて行ったりしないだろう、という確信はあった。

 八京は軽く準備運動をしてからシンボリルドルフに言う。

「こっちは準備できたぞ」

「承知した。では」

 頷いたシンボリルドルフは秋川やよい達がいる方向を見て手を挙げる。直後、「承知!」という元気な声が返ってきた。スタートの合図は秋川やよいが行うらしい。

 両者は口を閉じる。走る前の体勢を取り、視線は前方だけを見つめる。陸上競技とは違い、スタートは常に横一線。距離的なロスは常につきまとい、出遅れようものならそのロスはさらに顕著になってくる。

 周囲が沈黙に包まれる中で八京の心臓は高鳴った。それは緊張ではなく興奮で、あの「皇帝」が隣にいるという事実だけで八京は一生分の幸せを得たような気分だった。

(ああ、勝ちたいな)

 早く走りたいと言わんばかりに足元が疼く。初めて速く走った幼い頃と同じ高鳴り。

 そして身の程知らずにも程がある意気込みを胸に八京が一層集中力を高めたところで、

「はじめ!」

 秋川やよいの声と同時に両者は走り出した。

 

 

 

「ふぅン……」

 たった今眼下で始まった併走を目にして、アグネスタキオンは足を組み直してぼそりと呟いた。

 模擬レースや選抜レースを行う練習場に備え付けられた観客席はレースに出走するウマ娘が有名であればあるほど観客で埋め尽くされるものだが、人払いを済ませている現在、席についているのはアグネスタキオンだけだ。

「予想は当たりか。まあしかし、驚いたね」

 芝の上を疾走する二つの影。コースの大外を走るシンボリルドルフは距離的な不利を一切感じさせる事なく先頭を走り続けている。

 対して八京はコースの内を走っている。この両者の間に空いた不自然な間隔を見れば、併走する上で事故が起きないようにとシンボリルドルフが八京にハンデを与えたのは誰の目から見ても明らかだった。

「しかし……ふむ。ハンデねぇ」

 アグネスタキオンはにやりと笑う。

 本来人間が勝てるはずのないこの勝負。シンボリルドルフが大外だけを走るにしても、人間の脚力では到底彼女の背中を追うことさえできないだろう。

 つまるところ、ハンデがハンデの意味を成していない。

 しかし、

「フォームもぶれぶれ、足元も覚束ない。だが……ククク、これは理事長もさぞ驚いているだろうね」

 10バ身のリードをつけられながらも――否、リードを10バ身まで抑え込んで必死にシンボリルドルフの背中を追う文山八京にアグネスタキオンは狂気の瞳を向けた。

 

 

 

(クソッ、走りにくい……!)

 併走を開始してすぐに、八京はいつもは感じない違和感を感じ取っていた。

 八京は現在、大外を走るシンボリルドルフの背中を遥か後方から追いかけているところだ。

 練習で出せている力が出せていない訳ではない。事実八京はシンボリルドルフの走りに必死について行っているし、スピードだって人間の脚力では到底至ることのできない領域に踏み込みつつある。原因はもっと別の、それもかなり感覚的なものだった。

(緊張……とは違う。気圧されている……?)

 遥か前方、10バ身ほど離された先に見える「皇帝」の背中。その背中が見上げるほど大きく見える。

 八京は誰かと一緒に走ったことがない。より正確に言うのであれば、本気で誰かと走り競った事がないのだ。

 思い出すのは誰もいない一本道を一人で走っている景色だけ。彼自身も、人間の身でありながらこの脚力をひけらかす事の危険性を身をもって理解していた。

 だから気づかなかった。本気で競った経験が極端に少ない八京にとって、自分を打ち負かさんと全力を尽くす者の迫力を。

 追い抜けるものならやってみろ。

「……っ!」

 勝てない、と直感的に悟ってしまう。全身を伝う汗にひんやりとしたものが混じる。八京は今自分が併走しているウマ娘がどんな存在なのかを改めて理解した。

 トレセン学園の生徒たちの頂点に君臨するウマ娘。勝つ事が目的でないと理解しながらも、少しでも「勝ちたい」などと思ってしまった自分が恥ずかしい。

「うお、っと……!」

 そんな事を考えてコーナーを曲がったものだから、スピードに体を取られて大きく外側に滑る。遠くからたづなの悲鳴が聞こえた気がしたが、ぐらりと倒れそうになる体を八京はなんとか引き上げるとそのままコーナーを曲がり切った。シンボリルドルフの背中は依然として遥か前方だ。

(強いな。それに、綺麗だ)

 圧倒的な実力で先頭を走り続けるシンボリルドルフのフォームはスタートしてから現在まで全くぶれていない。一見すると簡単に見えるが、それは日々のトレーニングによってしっかりと基礎ができている証明でもある。

(アグネスタキオンもきっとあのレベルまでいけるはずだ)

 走りながらそんな事を思う。

 観客席を見ることはできないが、きっと彼女は自分の走りを見ているだろう。

 興味を持ってくれただろうか。それとも自分の醜い走りを見て失望しているだろうか。

(後者だと傷つくな)

 シンボリルドルフとの実力差を見せつけられた直後にしては楽観的な感想だった。

(認めてもらうんだ)

 醜い走りをしているのは理解している。ろくな指導も受けずに一人で走っていたのだから当然だ。しかしそんな事で今回の目的の達成を阻まれるのは困る。とても困る。

 ならば、醜さを覆い隠すほどの鮮烈な走りを見せるしかない。

 スタート直後の萎縮と緊張は解れ、直線でリードを7バ身ほどまで縮めて最終コーナーにさしかかる。

 歓声を上げるものは誰もいない。二人の足音だけが練習場に響く。

 見えなくなるシンボリルドルフの背中を追いかけるように八京もコーナーを曲がる。今度は事前に減速していた為、足を滑らせるような事にはならなかった。

(ここからなら……!)

 地面を蹴る足に更に力を込める。

 八京にとって芝のコースで併走するのは初めての経験だ。

 しかしスタートのタイミングや位置取り、コーナーの曲がり方など、初めてなりに色々と考えて走っていた。

 そして最終コーナーを曲がり終えた今、残るはゴールまでの直線のみ。八京にとって見慣れた一本道の景色がそこにあった。

 八京は温存していた体力を全て吐き出すように地面を蹴った。これでシンボリルドルフとの距離が少しでも詰められればいいと思いながら。しかし、

「なっ……」

 すぐに理解する。

 自分の考えなど、歴戦のウマ娘からすれば取るに足らないものだと。

「まだ速く……!」

 シンボリルドルフの背中が更に遠ざかる。足音も呼吸も、追い抜くことは無理でもせめてゴールまでに差を縮めようとしていた自分の浅はかな考えを嘲笑うかのように遠くに消えていく。

(ダメだ……)

 脳裏によぎるのはシンボリルドルフに無様に敗北した自分の姿。それはまだいい。

 だが、アグネスタキオンがこの学園を去ることだけは。

 自信が揺らぐ。そしてそれは八京の精神だけでなく走りにも影響を与えた。

 転びそうになりながら走る。速度はぎりぎりキープできているが、それでもシンボリルドルフを追い抜くどころか、彼女に追い縋る事もできないだろう。

 限界だ。

 そう思った矢先だった。

「トレーナー君!」

「――え」

 どこからか声が聞こえた。しかし辺りを見渡したい衝動を堪えて八京はただ前を見た。その声が最近聞き慣れた声だったからだ。

 掠れた声が八京の耳に再び届く。

「地面を蹴ることだけ考えろ! 体の事は考えなくていい!」

 まるで怪我をしろと言わんばかりの、助言にしては些か配慮に欠けた言葉。

 しかしそれは、今まさに折れそうだった八京の心を確かに支えていた。

「君の最高速度を! 見せてみろ!」

「……!」

 最高速度。

 そうだ。

『私は最高速度の先を見たい。足が速いなんて陳腐な言葉では足りないくらい、影すら踏ませぬその先へ行きたいんだ』

 あの日、殺風景な空き教室で彼女に言われた言葉を思い出す。

 それだけじゃない。

 今まで交わした数少ない彼女との会話が彼女の精神を物語っている。

(彼女は一度も、「限界だ」なんて言わなかったじゃないか!)

 前方を睨む。

 ゴールまであと500m。

 シンボリルドルフの背中は遥か遠くと思えるほど離れた場所にあった。

「地面を蹴る……体の事は後回し……」

 アグネスタキオンの言葉を反芻しつつ八京は姿勢を低くする。

 意識するのは足の爪先。本来であれば体全体を使って走るものだが、八京はその体の強度と脚力のアンバランスさ故にその枠から外れている。故に、

(折れませんように)

 心の中でそうお祈りして、八京はギリギリまで姿勢を低くした直後、

「ッ!」

 短い気合いと共に右足で地面を蹴り上げた。

 足が沈む。それが足元の芝を抉ったのだと八京が認識するよりもはやく、彼の体は前方に加速した。そして、

「へぶぇっ!?」

 バランスを崩して地面と熱烈な接吻を交わすこととなった。

 顔面から全身に衝撃が走る。だが骨が折れるような痛みは届いてこない。

「な、んのっ!」

 八京は鼻の奥に残る痛みを我慢しながら転んだ勢いのまま一回転するとすぐに走り出す。

(今度は……!)

 フラッシュバックする幼い頃の失敗を振り切って、先ほどと同じように地面を思い切り蹴る。

 「走る」というより前方に「跳ぶ」ような走り方だが、これが現時点で限りなく正解に近いスタイルであると八京は本能的に理解した。

 二回目の跳躍では転ぶ事はなく、八京は少しだけ近づいたシンボリルドルフの背中を見つめる。

 蹴って、跳ぶ。体勢の立て直しは着地した後でいい。

「もっと……!」

 ゴールまで100m。彼我の距離はおよそ5バ身。

「……はは」

 思わず口角が上がる。

 先程のアグネスタキオンの言葉に応えるように八京は加速していく。無様な走り姿でも関係ない。勝敗はもう気にしてさえいなかった。

 自身の最高速度を彼女に見せる。

 その一点だけを胸に八京はシンボリルドルフとの距離を詰め続けた。そして――、

「それまで!」

 八京にとって永遠にも感じられた併走は終わりを迎えた。




一陣の風


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9 アグネスタキオン

一区切りです


 併走終了後の対応はスムーズに行われた。

 八京が抉り飛ばした芝についてや、彼が負った怪我の具合、練習場の整備の日程など、八京自身が口を挟む暇もなくそれらの問題は解決、あるいは対策がなされ、面接の結果は後日という事でその場で解散という運びとなった。

 八京を除いて。

「『先に行ってる』だそうだ。私には意図を汲みかねるが、君なら分かるだろう?」

 シンボリルドルフから伝えられたアグネスタキオンの伝言を頼りに、八京は人気のない校舎を彷徨っていた。

「……見つけた」

 併走終了から約20分。

 以前の記憶を頼りにあそこでもないここでもないと校舎内を歩き続けた末に、八京はあの時の空き教室の前に立っていた。

 念のためノックする。反応はない。そもそも夕方だというのに電気もついていない。

 しかし彼女の伝言が指し示す場所を八京はここしか知らなかった。

「入るぞ」

 勝手にそう宣言して、やや立て付けの悪いドアをスライドさせて中に入る。

 室内は相変わらず殺風景なままだった。あの時八京が座った椅子と長机があるだけの、一見人の気配なんて微塵も感じられない部屋だった。

 だが、彼女はいた。

 教室の左奥。窓辺によりかかりながら、開け放たれた窓の外に視線を向けるアグネスタキオンの表情は八京の位置からでは窺い知る事はできない。

「…………」

「…………」

 八京が近づいてもがアグネスタキオンは口を開かない。八京もじっと彼女が喋るのを待っていた。沈黙する事を「天使が通る」なんて言う事もあるそうだが、この言葉が本当なら今頃この教室内は天使達で大渋滞を起こしている事だろう。

 そんな沈黙を破ったのはアグネスタキオンの声だった。

「あれが、君の最高速度か」

「……」

 八京の脳裏を過ったのは落胆の2文字。しかし併走はつい先程終了し、結果は既に出てしまった。

 シンボリルドルフの勝利。そして、八京の敗北。

 八京は顔の見えないアグネスタキオンを真っ直ぐ見つめた。

「ああ、そうだ。お前のお陰で俺も自分の速さを知ることができた」

「……そうか」

 アグネスタキオンはぽつりぽつりとしか喋らない。八京にはそれが自分との会話を疎んでいるように感じられてしまう。

 納得してもらえなかっただろうか。

 ネガティブな考えが頭を支配し始めた頃、アグネスタキオンが再び口を開いた。

「異常だ」

「…………」 

「人間の姿でありながらその脚力。しかも体の強度は恐らく人間と同等程度。全くもって理解し難い。私が追求するウマ娘の可能性以上に謎が多過ぎる」

「ああ、理解してる」

「そして、最も異常なのは君だ」

 アグネスタキオンが八京の方を向く。その瞳は狂気というよりも、理解し難いものへの畏怖と疑問がない混ぜになっていた。

「理解者もいない。当然相談できる人間もいない。そんな中でよくもまあ愚直にこの学園に想いを馳せたものだ。普通ならどこかで折れるんだがね」

 それはお前もだろう。

 そんな言葉を飲み込む。八京はアグネスタキオンの幼少期を知らない。もしかすると理解者がいたのかもしれない。あるいは、八京に対する疑問で自分の事なんて忘れてしまっているのかもしれない。

「それは俺の意思が強かったと言う他ないな」

「怖くなかったのかい?」

「怖いよ、今でもな。だけど、今日の併走で少しだけ安心した」

 シンボリルドルフと併走して、最終的にはアグネスタキオンの助言もあって現在の自身の最高速度といっても差し支えない速度で走ることができた。そしてその結果、足が折れるなどの反動も見られず、取り敢えずは全力で走っても問題ない事が分かった。

 これは、一人でただ走っているだけでは得られなかった貴重な成果といえる。

「お前を説得しようと思えたからこその成果だ。感謝してる」

「……ふぅン、そうかい。で、君はお礼を言うためだけに来たのかい?」

「呼び出したのはそっちだろ?」

「どっちが呼び出したかなんて些細な事だよ」

「……考えは変わったか?」

 面接の結果はまだ分からない。合格している事を祈ることしかできないが、アグネスタキオンは違う。

 今ここで、八京は自身の目的が達成されたかどうかをアグネスタキオンに問うた。

 アグネスタキオンは栗毛を揺らしながら僅かに考えるような仕草を取る。白衣を着ていない制服姿の彼女のその仕草は、背伸びをする子供のようにも見えた。

「一つ訊こう。君は私をどうしたい?」

「最速のウマ娘に育て上げる」

 こればかりは即答だった。

「ウマ娘の可能性を追求し、速さに貪欲なお前なら、きっと達成できると俺は思ってる」

「しかし私は自身の研究で手一杯だ。トレーニングやレースに関心を持つかは保証できない。それでも、その考えは変わらないかい?」

「俺を使えばいい」

「……へぇ」

 アグネスタキオンの瞳の色が変わる。今となっては見慣れた、狂気を孕んだ瞳だ。

「俺を使って好きに実験して研究すればいい。トレーニングは()()()でいい」

 アグネスタキオンの説得に成功したとしてもアグネスタキオンの考えが変わらない可能性は十分にあった。意味のある成功を望みながらも最悪の可能性を考えた八京は、考え抜いた末に自分自身の体を天秤に乗せる事を選んだ。

 アグネスタキオンの学園での評判を聞くに、それなりに危険である事を覚悟した上での八京の提案だったが、アグネスタキオンはそれを聞いて呑み込み顔で頷いた。

「なるほど、そうきたか。しかし……ククク、トレーニングをついでとは。君以外のトレーナーが聞いたら呆れられそうな言葉だ」

「問題ない。お前が俺を使いたいなら、お前はトレーニングせざるを得なくなる」

 アグネスタキオンは研究の進歩のためなら手段を選ばない。その行動の良し悪しに関わらず彼女が研究の手を止める事はないだろう。

 そんな彼女にとって、合意したうえで好きに扱ってくれていいと言ってくれる人材は喉から手が出るほど欲しいはずだ。

「お前の研究を俺が手伝う。そしてお前はそのついでに最速のウマ娘になる。お互いに損のない関係だと思うぞ」

「アッハハハハ! 損のない関係って!」

 限界だとばかりにアグネスタキオンは腹を押さえて笑い出す。薄暗い教室に彼女の元気な笑い声が響き渡った。

 数分後、なんとか笑いを抑えて、ぴくぴくと上がる口角を指で押さえたアグネスタキオンは再び八京に訊いた。

「……本当にいいのかい? 人権は簡単に捨てるものじゃない。自分からモルモットに志願するなんて正気を疑われるよ?」

「お前がこの学園を去る事に比べたら些細な事だ。それで、乗るのか? 乗らないのか?」

「……ふむ。良くも悪くも予想外だ」

 八京に迫られ、アグネスタキオンは「本来悩むのは君であるべきなんだけどねぇ」と言ってため息をついた。

「随分狂った瞳になったものだ。これじゃあどちらがおかしいのか分からないじゃないか」

 おかしいという自覚はあったのか、という八京の素朴な疑問に答える事なくアグネスタキオンは窓辺から離れた。そのまますたすたと八京の前へ歩み寄る。

「名前」

「名前?」

「そう、君の名前だ。思えばちゃんと聞いていなかったからね。ほら、自己紹介」

「あ、ああ」

 アグネスタキオンに急かされて、八京は佇まいを正してから口を開いた。

「文山八京。トレーナー志望だ。……よろしく?」

「それだけかい?」

「それだけって……、他に聞きたいことでもあるのか?」

「あのねぇ……。スカウトするんだろ? 私を」

「……!」

 八京はようやく理解する。これは彼女なりの気遣いなのだと。

 いきなりの本番だが、言う事は特に難しくない。

 八京は今の気持ちを率直に伝えた。

「君をスカウトしたい」

 その言葉を受けて、アグネスタキオンはじっと八京を見つめた。そして、

「……ふむ。いざ真面目に迫られるとなんだか不思議な気分だ」

「俺の緊張返せよ」

「冗談だよ」

 アグネスタキオンは小さく笑ってから右手を前に差し出した。

「いいとも。君の熱意、いや、狂気は気に入った。共に可能性の先を目指そうじゃないか」

「……ああ、よろしく」

 そう言って八京はアグネスタキオンの小さな手を握った。細枝のような彼女の手は、その割に強い握力で八京の手を握り返す。

 その時、八京は思い出したようにアグネスタキオンに言った。

「名前」

「名前?」

「お前の口から聞いた事なかったなと思ってな」

「えー、いいだろ名前なんて」

「俺に自己紹介させただろ。そもそも、お前のトレーナーになるんだから互いに互いの事を知らなきゃダメだと思うぞ」

 トレーナーの教本に書いてそうな事を言う八京にアグネスタキオンは露骨に面倒くさそうな顔をする。

「一度だけだ」

「そんなに自己紹介したくないか」

「どうにも、私の母や祖母を褒めちぎる輩がいるものでね」

 ややうんざりした様子でそう言ったアグネスタキオンは握った手を解くと、先程の八京のように佇まいを正す。そして、

「アグネスタキオンだ。タキオンとは『超光速の粒子』を意味する。校内では変人扱いされているが、そんな奴の手を君は取ったんだ。君には私のモルモット兼助手兼トレーナーとして誠心誠意尽くしてもらうからそのつもりでいてくれ」

「せめてトレーナーが最初に来てほしかったよ」

「ハハハ! それは無理なお願いだ。なんなら今からスカウトするウマ娘を変えるかい?」

 アグネスタキオンの冗談混じりの問いかけに八京は小さく笑う。

「それこそ無理なお願いだな。俺はお前の走りに魅了されたんだ。今更変える気はない」

「そうかい。ならせいぜい働いてくれ」

 ほんの少し、僅かな時間教室内に笑い声が響く。

 そこに問題児はいなかった。いや、正確には彼女の優先事項は変わっていないし、トレーナー側が譲歩する事で解決という形になった。

 しかしそこには確かに、トレーナーがついた事を彼女自身も気づかない程度に、しかし声を弾ませて喜ぶ一人のウマ娘とトレーナーの姿があった。




湿度低めでお送りします


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10 メイクデビュー前の喧騒

安定の見切り発車


 新学期。

 進級、進学、あるいは留年という喜怒哀楽が詰まった春先に、文山八京は見事トレセン学園のトレーナーとして配属されることが決定した。

 当初は再評価を言い渡された身であった為、周りとの軋轢を危惧した八京だったが、たづな曰くこの件は理事長の独断で行ったものであり、公表する事はないらしい。「シンボリルドルフに言ってたじゃん」という当然の疑問が湧いたが、既に合格をもらっている八京はそれ以上考えるのをやめた。

 そんなこんなで紆余曲折ありつつも学園での新人トレーナーの地位を得た八京だが、彼の学園での活動は養成学校とは正反対のものだった。

 座学で知識を詰め込んだ学生時代とは対照的に、トレーナーは経験する事で能力を高めていく。新人トレーナー向けの研修は勿論のこと、ベテラントレーナー率いるチームのサブトレーナーとして経験を積んでいくのが通常の流れだ。中央のライセンスを取得しているとはいえ、この学園でトレーナーとして成長していく為にはライセンスを取るための勉強とは全く違う努力をしなければならない。

 新人であっても何かとやる事が多いトレーナー業ではあるが、例外として、研修を終え、あるいは研修を受けながら真っ先にウマ娘をスカウトする新人トレーナーも一定数存在する。その理由は我々トレーナーの懐事情にも関連する事柄だ。

 トレーナーはウマ娘をスカウトし、ウマ娘はトレーナーと組んでレース出走を目指す。

 持ちつ持たれつ、一蓮托生とも言うべきパートナーを持ちたいという望みはトレーナー、ウマ娘問わず抱いているものだ。しかし新人のトレーナーがウマ娘をスカウトしようとしても彼女たちが簡単に首を縦に振ることはない。ウマ娘側から見ればベテラントレーナーの元でトレーニングしたいと思うのが当然だ。知識はあっても指導者という立場では素人に毛が生えた程度の新人トレーナーに自分の全てを預けようとは思えないだろう。同じ望みを抱きながらもそれを叶えさせてくれるかは、ウマ娘側の裁量によるところが大きいのが現実だった。

 ではなぜそれを知りながらもスカウトに行くかといえば、スカウトしたウマ娘の活躍で自身の給料も変わってくるからだ。

 GⅠやGⅡといった格の高いレースに出走できるのはごく僅かなウマ娘だけだが、もしそれができたのならトレーナーとしての実績が認められ、更なる待遇向上を期待できる。

 待遇の良さに定評のある中央のトレーナーではあるが、その中には更に上を見据えて自分の腕でどこまでいけるか挑戦する上昇志向の強いトレーナーは少なくない。

 とはいえ給料アップ目当てでウマ娘をスカウトしに行くのはごく僅かで、大半は代々トレーナーとして名をあげてきた家系の跡継ぎだったり、有名な大学や留学を経てこの学園にやってきた、最初から能力が保証されているような人間が殆どだった。

 本来であれば文山八京もベテラントレーナーの下で学び、経験を積んだ後にウマ娘をスカウトするはずだった。

「おーい、モル……トレーナー君、前みたいに走ってくれないかい? もう少しデータが欲しいんだ」

 しかし、現在。

「前って一昨日のことか? 勘弁してくれ。前だって門限ギリギリの誰も見ていないような時間帯に練習場を借りて走ったんだ。いくら練習場が豊富だからって好きな時間に好きに借りるのには限度がある」

 学園に配属されてはや1ヶ月。研修を終え、やるべき仕事を覚え始めた頃。八京は既にアグネスタキオンとトレーナー契約を結んでいた。

 側から見れば下積みをすっ飛ばして学園の問題児をスカウトした変人なのだが、これは配属前から半ば決まっていた事だったので問題はない。ないのだが、

「そういえば、なんで君はここで報告書なんて書いているんだい?」

「…………」

 その言葉に八京はキーボードに走らせていた指をぴたりと止めた。

 この学園に配属され、与えられる業務がある以上、八京含めたトレーナー達には業務を行うスペースが与えられる。

 とはいえトレーナー室のような個室はそこそこ大きなチームを組んでいるトレーナーに与えられるもので、八京に与えられた場所は言うなれば、職員室のような机と椅子一つ分程度の領土が与えられた共用の部屋だった。

 しかし八京が現在いるのはあの時の殺風景とは似ても似つかない、物でごちゃごちゃになった空き教室という名の研究室である。

 その室内に置かれた長机の端っこにPCを置き、パイプ椅子に座る八京はさながら巣から追い出された小動物のようだった。

 八京はひと段落したアグネスタキオンの報告書を保存して一度PCを閉じると、

「……視線がちょっとな」

「視線? ……ああ、なるほど」

 八京のその一言を聞いてアグネスタキオンはすぐに得心がいったように頷いた。

「変人と契約した変人トレーナーに見られてるみたいでな。気にする事でもないんだけど、いかんせん集中できない」

 長い間自身の特異性を隠していたせいか、八京は自分が話題の中心になるのを苦手としている。そのうえ向けられる奇異の視線の中には自分と同じようにウマ娘をスカウトした由緒正しい家系の人間も含まれており、こちらの方はむしろ「あの問題児をどうやって引きこんだのか」と邪推しているらしい。

 そんな視線から逃れるように八京はこの1ヶ月間、こうしてアグネスタキオンの研究室に転がりこんで業務を行っているのだった。

 その話を聞いたアグネスタキオンは、八京の憂鬱をよそに腹を抱えて笑い出す。

「ハハハハ! それは災難だったね。まあしかし、君の走りを見ればすぐに黙りそうなものじゃないか。いっそのこと、かけっこでも挑んだらどうだい?」

「無理に決まってるだろ。理事長からの忠告を忘れたのか?」

 そう言って八京がアグネスタキオンの方へ振り返ると、彼女は窓辺に寄りかかってクリップボードにとめられたA4用紙をぺらぺらとめくっていた。最早先程の発言の興味さえ失っている。

『忠告ッ! 君の驚異的な走力についてはこの場にいる全員、口外する事はない。しかぁし! それと同様に君も、その足については誰彼構わず話すような事はしないように!』

 シンボリルドルとの併走後に秋川理事長と交わした約束を思い出す。

 流石理事長と言うべきか、彼女自身八京の走力を目の当たりにして、興味より先にこれが知れ渡った場合の弊害を危惧したらしい。

 要は「打ち明ける相手は選べ」との事だが、少なくとも八京は現時点でアグネスタキオン以外にこの足について話す気はなかった。

「むしろこの足のお陰でお前を引きこめたなんて思われたら嫌なんだよ」

「まあ半分事実だがね。自分の足を餌に私を釣ったんだから」

「俺は可能性を提供しただけだ」

「分かっているとも」

 そう言ってアグネスタキオンは窓辺から離れた。向かった先は黒板、の隣に置かれたホワイトボード。 

 その上には「メイクデビュー」の文字と、今から約1ヶ月後の日付が書かれていた。

「これ、消しちゃダメかい?」

「ダメだ。絶対忘れるだろ」

 アグネスタキオンの集中力は素晴らしいものだが、一度働くと他の物事が目に入らなくなるという欠点がある。研究に夢中でメイクデビューの事を忘れていた、なんて事になれば予定を組み直さなければならない。トレーナーとしてまだ日が浅すぎる八京にとって予定やトレーニングメニューの見直しはかなりの重労働だった。

(だが、出走すればタキオンは必ず一着を取れるはずだ)

 メイクデビューで一着を取らなければ次のステップには進めない。中央という高い実力を持ったウマ娘がひしめき合う舞台で、その荒波に揉まれ、一勝もできないまま学園を去るウマ娘も存在するのが現実だ。

 しかし八京はアグネスタキオンのポテンシャルの高さを知っている。希望的観測ではなく、彼女はシンボリルドルフと競い合える程のウマ娘だ。まだトレーニングを開始して1ヶ月あまりだが、少なくとも有象無象に埋もれる選手ではないという確信はある。

(当面の課題は、タキオンの気持ちをレースにどう向かせるかだな)

 ちらりとタキオンを見れば、今度は試験官とフラスコを持って何か実験の準備をしている。そこには目的達成への純然な意欲しか存在せず、悪く言えばレースの事など殆ど考えていないだろう。

「ああ、そうだ。この前作った薬を渡し忘れていたんだった。飲んでくれるね?」

「……そういう約束だからな」

 少なくともメイクデビューまではモルモットとしての活動も続けなければいけない事を実感して、八京は諦めたようにため息をついた。




諸事情によりアプリ版ウマ娘ができないので少々齟齬があるかもしれませんがご了承ください。


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