五河士織な物語 (高町廻ル)
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五河士織な朝

 五河家のリビングには美味しそうな匂いで溢れていた。厳密にはリビングと繋がっている台所から。

 今日は起こされることなく自力で起きた琴里は、開口一番日本人にとって最もテンプレートな挨拶から始める。

 

「おはよー…おねーちゃん……」

「おはよう琴里」

 

 彼女の姉は打てば響くように挨拶を返すのだが、すぐさまその視線が若干だが厳しいものになる。

 

「あーもー…制服はちゃんと着なさい」

 

 そう言って料理を一時中断して、妹の側まで歩み寄って肩辺りのシワを伸ばしてピシッとさせる。それと同時に妹の髪型のアクセントとなっているツインテールを形成するために使われている白いリボンを見やる。

 五河琴里はリボンの付け替えによって人格を切り替えている。

 白いリボンの時はちょっとあざとさがあるが理想の妹然とした性格に、そして黒い時は強い自分であろうとしている時だ。

 ただその強いというのはいささかズレているのでは…と姉は思っている。

 

「えへへ…お母さんっぽい……」

 

 実の所、琴里はやろうと思えば制服を文句なしに着こなす事は可能だった。だがこうやって構って欲しいからこそ敢えてだらしない感じを演出しているのだ。

 そして彼女の姉もまたその事は薄々勘づいているが見逃している部分もある。その事に対して甘くでダメだなと思ってはいる。

 

「誰がお母さんかっ」

 

 琴里の経産婦扱いに対して相手は少し恥ずかしそうな表情を作りながらも反論をする。

 もし仮に彼女に男がいて、それも肉体的な関係を持つほどの親密な間柄であれば琴里は持っている権限全てを持ってして相手をすり潰していただろう。

 だからこその冗談とも言えるのかもしれない。

 

 彼女の名前は五河士織。特殊な事情こそあれどまだまだ男に対して夢見がちな女子高生だ。

 彼女を引き取った五河夫妻が家を空けるため急遽家の事を任されているのだ。留守中の家を任されるほどに信頼されている事を意気に感じているのか、妹に対しての態度が姉というよりも少しだけ口のうるさいお母さんと言った方が近い。

 

「もうすぐ朝ご飯できるから」

「ふぁ〜ぃ……」

 

 姉の言葉に欠伸をしながらもテレビを見るために歩き出すく琴里。

 そこで士織は思い出したと口を開く。

 

「先に言うけどチュッパチャップスを食事前に頬張ったら許さないからね?」

「うっ……許さないって…?」

「許さないから」

「…………」

「許さないから」

「……はい」

 

 姉である士織からの釘指しにビクビクしてしまう琴里。勿論本気で相手の機嫌が悪いわけでは無いと長年暮らして来た感覚から分かってはいる。

 

「食べようか」

「は~い!」

 

 士織からの声掛けに琴里はテレビへと向けていた視線を中断して美味しそうな匂いのする方向へと目を向ける。そこにはご飯や味噌汁といった和の朝食セットが用意されている。

 二人は席に着くと手を合わせる。

 

「いただきまーす!」

「いただきます」

 

 その合掌と共に二人の箸が動いて食べ物を口元へと運んで行く。

 琴里は口に運んだ瞬間に中に広がったその味に驚きそして声をあげる。

 

「美味しいっ」

「ありがとう」

 

 それはあまりにもありふれた感想だったのかもしれないが、その言葉から溢れてくる幸せオーラがお世辞では決してない事を士織に実感させてくれるのだ。

 食事が終わると士織は使い終わった皿洗いをする、琴里はテレビで朝のニュースをチェックをしている。

 今日は特段大きな報道は無く、テレビ画面に流れるのは名物料理やスイーツを紹介する内容に留まっている。

 琴里はふと思った事を口にする。

 

「そう言えばおねーちゃんは何か用事とかある?」

「美九に冬服を買うの手伝って欲しいって言われているから放課後デパートに行く予定」

「…へぇー……」

「…?」

 

 姉の特段何も感じてないですよと言った感じの言葉に、琴里は少しだけ機嫌が悪くなってしまう。

 妹としては同姓とはいえ姉に猛アタックしている美九は正直に言うと気に入らないし、自分にもべたべたして来るのでふんわりと苦手だ。

 他者からの好意に対して鈍感で、無頓着な士織でも百合っ子である事を知っていてかつここまで猛烈なアタックをされれば流石に相手のラブも理解している。

 だが一方でラタトスクの司令官としては精霊の機嫌メーターを安定させるデート的な行為はむしろ積極的に行って欲しいのだ。勿論士織はそんな狙いなど持ってはいないだろうが。

 ただ美九は女の子同士の絡みが大好きな百合っ子であり、士織が他の精霊(女子)が一緒に居るだけでもそれなりに機嫌は回復する。まさに眼福というやつか。

 そのため十香と違いあまり嫉妬的な行為は行わないタチであるため、琴里は正直に言うと行かないで欲しいがそれを立場的に口に出来ようはずもない。

 琴里は黒モードにならないようにするため士織から死角になっている太ももをつねりながらもすっごく強張った表情で声をかける。

 

「た、楽しんでキテネ……」

「う、うん…」

 

 妹からの何やら圧力を感じるセリフに士織は少しだけ引いてしまうが、何故機嫌が僅かに悪化したのか想像出来ない。

 もし黒モードであれば何かしらからかうなり茶化したのかもしれないが、白モードの彼女にはそんな精神的なゆとりは無い。

 

 精霊、それは三十年前に突如現れこの世界に顕現するだけで空間震と呼ばれる自然災害を発生させる高次元生命体。

 人類はそれを止めるために二つの対処法を見出した。

 一つは武力を以ってしてそれを殲滅する、もう一つはデートしてデレさせる。

 前者は精霊の戦闘能力的に達成はほとんど不可能。

 後者は命がいくつあっても足りない。だがそれを達成するために生まれた組織がラタトクスなのだ。

 だが世界で唯一五河士織だけは平和的な解決方法を兼ね備えている。

 それはキスをしてその精霊の力を封印する事が出来るという特殊能力を持っているのだ。だが封印は完全ではなく、キスした相手との間にパスが生まれて不機嫌になるとそれを伝って力逆流してしまうため、ある程度機嫌を伺う必要性があるのだ。

 つまり士織をサポートするために作られたのがラタトスクだ。

 

 士織がふと時計を見るとそろそろ通学時間になろうとしていた。

 

「そろそろ家から出ないと、お弁当は置いてあるから取ってね」

「えー…まだ学校間に合うよ」

「言っておくけど緊急事態でもないのにフラクシナスを使って登校するのは許さないからね」

「むー…」

「先に出るから遅刻はダメだよ」

 

 琴里は先手を打たれたといった表情。どうやら足を使って登校するのは決定事項のようだ。

 

 

 封印処理が施され人間社会に溶け込むために精霊はラタトスクの指導と支援のもと生活をしている。

 その一つに精霊たちの住居は五河家の近くに建設された専用のマンションに住んでいる。

 側は普通の建物だが、仮に力が逆流したとしても辺りに被害を出さないように高い強度とラタトスクの常時バックアップ態勢が敷かれている。

 

「シオリーッ!」

 

 そんな精霊の一人である十香はマンションの出入り口前で待っていた士織を見つけると、手をぶんぶんと振りながら嬉しそうに名前を呼ぶ。

 士織もまた軽く手を上げて挨拶をする。

 

「おはよう十香」

「ああ、おはようだ!」

 

 二人が空間震のあの現場で出会ってからもう既に半年ほどが経つ。

 もう既にこの挨拶も二人にとっては日常として落とし込まれている。

 士織は弁当箱を入れた十香用の包みをずいっと掲げて渡す。

 

「そうだお弁当、この前テレビでミートボール見て美味しそうって言ってたから入れたんだよ」

「おお~っ!それは楽しみだっ!」

 

 彼女は受け取った箱をだらしなく破顔した表情で嬉しそうに掲げている。

 これだけ食い意地を張っているというのに、特段努力をするわけでも無くスタイルも容姿も抜群なのだから周りの人達はとっても納得できない。

 嗚呼、神は何故ここまで不公平なのか。

 

『……とうか…なんてどうかな』

『とーか…か?…まあ…トメよりはマシだ』

 

 士織と十香の二度目の邂逅の際に名前を付けた一件。

 あの時と比べたら十香はとても丸くなった。いや厳密にはこの天真爛漫さこそが本来の彼女の性格だと思われる。

 力の封印によって人間社会に溶け込んでいく中で、自然と防衛、そして傷つかない為に作り上げた仮面が剥がれているのだ。

 

 精霊というのは一人封印してハイ世界に平和が訪れたというわけでは無い。自然災害生命体は複数人存在する。

 

「士織さんに十香さん…おはようございます…」

『はーい士織ちゃんに十香ちゃん、おはようなのよね』

 

 十香に続いて出入り口から現れたのは四糸乃とよしのんだった。

 よしのんというのは四糸乃が精霊としてASTと呼ばれる精霊の殲滅を計る組織に狙われる際に、精神的なストレスから生み出され片手に装着した人形を介して出てくる疑似人格の事だ。

 

「おはよう、四糸乃、よしのん」

「四糸乃によしのんもおはようだ!」

 

 二人の挨拶に対して士織は朗らかに手を振って返す。それにつられて十香も元気いっぱいの挨拶を。

 最初に会った際はほとんど会話をする事も出来ず、またまともに目を合わせてもらう事すら出来なかったあの時と比べたらあり得ないほどの成長だと思う。

 また今の関係こそが士織が律儀に、そして相手に対して真っ直ぐに向き合ってきたことによって生まれた結果だ。

 

『……わ、たしは……いたいのが、きらいです。こわいのも…きらいです。きっとあの人たちも…いたいのや、こわいのは、嫌だと思います…だから私は……』

『……四糸乃は強いんだね』

『強い……?…でも私はよしのんがいなきゃなにも出来なくて…こわがって、にげてばかりで……』

『確かにそうかもしれないけど、でも四糸乃は自分がされて嫌だと思う事をキチンと理解していて、それを相手には決してしないとても強い子。それは分かっていても真似出来る事じゃないと思う。だからその優しさと強さだけは誇っていいんだよ』

 

 それはかつてパペットを紛失して探し回っていた時に士織が四糸乃に伝えた言葉。

 このやり取りがあったからこそ、どこかで力を持っている自分は精霊を守ってやらなくてはいけないという義務感から、本心から力になりたいと感じたのだ。

 

 そんな事を思い出していると、士織はふと手に装着されているパペットがどこかが違っているように映った。

 

「あ、よしのんを手洗いしたんだ。毛並みがどこかふかふかそうに見える」

『あらー士織ちゃんてばよく分かったわね。女の子の小さな変化に気がつけられるのは生きていくうえで必要なマナーよん』

「はい…昨日よしのんを洗って、今日はもこもこなんです」

 

 気が付いてもらえて嬉しかったのか二人の口調は少しだけ元気さが混じった声色になっていた。

 ちなみに十香はよくそんな違いが分かるなと言った感じだ。

 朝から大人しい小動物系の精霊と友誼を深めていると、その背後に現れたのは顔が瓜二つの少女二人が現れた。

 当然その二人は精霊。

 

「呵々、士織よ。我に朝の辞儀をする事を許そう」

「翻訳。耶倶矢は素直に挨拶をするのが恥ずかしいだけで本当は『おはよう愛しの士織』と言いたいだけなのです」

「夕弦っ!有る事無い事勝手に付け加えないでくれる!?」

「うん知ってる」

「士織ぃ!?知ってるって何!?」

 

 このようなやり取りもすっかり日常の一コマとして刻まれてしまっている。

 因みに知っているというのは愛しのではなく、素直に挨拶が出来ない耶倶矢の抱える心の病についてだ。

 二人は八舞姉妹、たまに危ない雰囲気になってしまう仲良し姉妹だ。元々は一人の存在だったのだが何度か地球に現れた際に二人に分かたれてしまった。

 そのためか耶倶矢と夕弦どちらが姉でどちらが妹かは分かっていない。ただ二人もそこまでどちら年上か上下にこだわりは持っていない。

 

 二人と初めて邂逅したのは修学旅行先での事。二人は分裂したその時からいつかは元の一人に戻る事を定められていた。だが戻る際にどちらの人格が優先されるのかを決めなくてはいけなかったため、どちらが八舞に相応しいか勝負をしていたのだ。

 暴風を発生させながら勝負をしていた二人に恐れることなく飛び込んだ士織に、どちらが八舞の主人格に相応しいか判定するように進言したのだ。

 

『真に八舞に相応しい者は男を虜にする事など当然』

『真理。そう女性ですらその魅力によってその心を占有する事が可能』

『は、えっ、はい?』

『『つまり…魅力で勝負!』』

『ちょっとまってえええ!!!!』

 

 そんな理屈のもと士織は二人の行く末をジャッジする事になったのだ。

 だが勝負でどちらが相応しいか決めるというのは建前で、その本質はお互いがお互いを生かすために勝利を譲り合っていた。

 結果は士織が同時に二人の力を封印したため元の一人に戻らなくなり一緒に暮らせるようになったのだ。

 そんなやり取りをしていると弁当箱を持って昼への楽しみを募らせていた十香が妄想から帰ってきて声をかける。

 

「シオリーそろそろ学校に行かないと遅刻するのではないか?」

「あ、ほんとだ」

 

 携帯電話で時間を見ると八時を過ぎていた。これ以上駄弁っていては遅刻ギリギリになってしまうだろう。

 

「じゃあそろそろ行こうか。四糸乃行ってきます」

「はい、士織さんも皆さんも学校頑張ってください」

 

 士織は十香と八舞姉妹を連れて精霊マンションから離れていく。

 彼女は少し歩いたのちふと背後を見た。視界に映る四糸乃が少しだけ寂しそうに見えた。

 本音を言えば一緒に居てやるなり、一緒に学校に行くなりした方が良いのだろう。

 だがまだまだメンタル面で不安が残る彼女を不特定多数の人がいる環境へ送り出すのは難しい。

 今彼女に必要なのは精霊という境遇を分かち合えて、かつ同年代の友達だろう。

 この条件に一番あてはまるのは琴里だが、ラタトクスの司令官と四糸乃の面倒を見ることに加えて学生生活三つの両立は難しいと判断せざるを得ない。

 結果、残念ながら今の彼女にはその適任者に心当たりがない。



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五河士織な学校

「おはよう」

「おはようなのだ!」

 

 教室の扉をくぐるや軽く会釈をして挨拶をする士織と片手を上げて元気いっぱいの挨拶をする十香。

 教室からちらほらと「おはよう」という返事が返ってくる。

 既に士織と十香の二人がセットで教室へと入ってくる。この光景は来禅高校の一教室では当たり前になっている。

 見た目麗しい美少女二人がセットになって登校をする。その風景は学校が始まる前の鬱々とした雰囲気を吹き飛ばしてくれる。

 皆が目の保養によってストレス軽減をしている中、そこに割り込んでくる一人の男子生徒が。

 

「やっぱり…美少女の登校風景は…いいもんだな!」

「えっと、おはよう殿町くん」

 

 士織はいつもの事ではあるのだが声をかけられて少しだけ引いてしまう。

 一応彼女の友人にあたる殿町宏人だ。ワックスで髪を逆立てたのが特徴的な男子生徒。クラス一の情報通でノリのいい性格、例えるならエロゲの主人公キャラを常にサポートしてくれる友人のような存在。

 彼女は相手の事が嫌いでは無いのだが、唯一苦手な要素がある。

 体を彼女へと正対して殿町は少しだけ真剣味のある表情を作る。

 

「おはよう!今日も可愛いね士織ちゃん!」

「……えーっと、ありがとう」

「突然だけど好きです付き合ってください!」

「ごめんなさい、殿町君とは友達でいたいんです」

 

 ほぼ毎日告白して来てフラれるのだ。それも懲りずに。

 諦めないといえば聞こえはいいが、ここまでくるとウザったい。

 高校一年生の時から毎度このやり取りを真摯にそれも何度も繰り返して、かつ友人であり続ける士織もまた変人なのかもしれない。

 

「わっ」

 

 士織は殿町とのいつものルーティンを終えると突如背後から肩を掴まれて引き寄せられて反射的の驚いた声を出す。

 

「うわー…まーた告白してるよ…いい加減にしな!」

「うちらのアイドル士織ちゃんに唾つけないでよ!」

「…………」

 

 クラスの騒がしい女子トリオの亜衣、麻衣、美衣の三人組だ。

 亜衣と麻衣は虫を毛嫌いするかのような雰囲気を出しているが、美衣は視線をキツくするにとどめている。

 因みに十香はこのやり取りに慣れたのか、驚くこともなく静かに件が終わるのを待っている。それはクラスの大半のメンバーも同じで、不快感というよりはよく懲りないなとむしろ感心しているくらいだ。

 この場にいる男子は士織や十香に対して大なり小なり好感を持っている者はいるが、殿町のようにフラれる勇気が無いため踏み出せないのだ。

 

「一応真剣なんだが…」

 

 そう考えると無謀だが勇気だけはある彼は立派なのかもしれない。

 

「あはは…もう慣れちゃったし不快なわけじゃないから」

「士織ちゃんってばやっさしー、殿町普通ならリンチだかんね!」

 

 苦笑いでこの場を収めようとする士織に、気持ちをくんでか亜衣はこれ以上の吊るし上げは取りあえず止める。

 士織は持っていた鞄を自分に割り当てられた机に持って行くのだが、彼女の心労はこれに留まらない。

 何故ならもう一人の関門が待ち構えている、殿町よりもある意味難関な相手だ。彼と違って彼女との相応しい距離感や落としどころを決めかねているのだから。

 

「士織、おはよう」

「おはよう折紙」

 

 朝の挨拶の主は鳶一折紙。

 肩に触れるか触れないかの長さの髪に人形のような雰囲気を漂わせる少女。学業成績は常に学年トップどころか全国一位という、貧困な語彙で説明するなら天才という奴だ。

 だがそれは表向きの肩書で、彼女はASTの略称で親しまれる(?)精霊殲滅組織のエースなのだ。

 本人は精霊に親を殺されたため同じ人を生み出したくないと建前は口にしているが、その本性は個人的な感情から精霊を殺すために顕現装置を手にしてやり場のない気持ち復讐という形で昇華しようとしているだけだ。

 だからこそ精霊保護派に所属している士織とは根っこの部分で相容れない。

 お互いの主張が分からないわけでは決してない、だがお互いに譲ってやる気も決してない。

 

「む……」

「…………」

 

 精霊の力を封印されていて今は人間として十香は判断されているとはいえ、それを真正面から認めるほど折紙は楽観的でバカではない。

 一応ASTは十香を限りなく黒だと思っていても状況が人間だと判断したため、組織に所属する折紙に手は出さないように言っている。

 喧嘩するほど仲が良いと言われるが、元々殺し合いをしていただけに二人の仲にある溝は埋めようがないほどに深すぎる。

 二人は喧嘩するほど何とやらではなく、本当に仲が悪いのだ。人と災害としてだけでなく士織を巡る関係としても。

 

(朝から本当にやめてよ……)

 

 士織は机に突っ伏して溜まるストレスに堪える。

 仲が悪いのはもうこの世界が存在する以上仕方ないとはいえ、会うたびにバチバチ視線で戦うのは本当にやめて欲しいのだ。

 明らかに疲れた感じの彼女に気が付いた十香はすぐさま声をかける。

 

「むっ士織大丈夫か!?」

「夜刀神十香あなたの世話で疲れているに違いない、即刻士織から離れるべき」

「な、何だと!?士織はそんなはずない!」

 

 折紙のその言葉に十香は慌てて弁明を計る。

 彼女自身自分の知識や経験のなさで迷惑をかけている事は痛いほど分かっている、だからこそ士織の枷になる事に心を痛めているのだ。

 

『いいかげんとうかのせわをやくのはつかれたのだー』

「そ、そんなっ…」

「いや二度も騙されないで」

 

 かつて水着を買いに行った際に行ったやり取りが再び展開されているのを士織は顔を上げて半眼でツッコむ。

 その事を思い出したのか十香はぷんすかと怒り始める。

 

「なっ!またしても騙したな鳶一折紙!!」

「何のことだか」

 

 折紙は無表情ですっとぼけ始める。

 正直傍から見れば仲のいい友達にしか見えない。

 すると始業の合図を告げる予鈴が鳴る。それと同時にふちの短い眼鏡をかけた小柄な女性が教室の中へと入ってくる。

 

「はーい、では朝のホームルームを始めますので座ってください」

 

 この教室の担任にあたる岡峰珠恵、通称タマちゃんだ。

 この手のあだ名をつけられる先生は親しみやすい反面生徒との距離感が近くなるあまり言う事を聞いてくれなかったり、緊張感がなくなって雰囲気が緩んで馴れ馴れしい関係性になりがちだ。

 だが入ってきたらすぐさま生徒たちは雑談を止めて自分たちに宛がわれた席に着くため、メリハリがあって絞めるところはキチンと絞めるいい先生だ。

 先生がやってきたため十香と折紙は口論もといじゃれ合いを止める。

 

 

 時が過ぎて時刻はお昼の昼食時。

 授業意欲が高いとはいえまだまだ高校の勉強についていけなく、四苦八苦して頭から湯気が出ている十香にとって楽しみにしていた時間。

 

「ミートボールが待っているのだ!」

「あはは、落ち着きなよ」

 

 あまりの十香のはしゃぎっぷりに苦笑いをしている士織。

この楽しそうな顔を見るために頑張ったのだから、やったかいがあったというものだ。

 二人の美少女が楽しそうに昼食を取っている。そんな光景を周りの人達は目の保養として楽しんでいる。

 

「…………」

 

 そんな光景を無言でじっと見ているのは折紙。

 正直なところめちゃくちゃ羨ましい。出来ることなら食べたい、食したい。どうしたものかと色々と奸計を張り巡らそうとする。

 

「いただきます!」

 

 好きなものはすぐさま口にする派なのか一番最初に十香の箸が掴んだのはミートボールだった。

 そしてガチン!っと歯と歯が思いっきりぶつかる音がする。

 

『……?』

 

 二人はミートボールが消滅した事に何が起きたのか分からないといった感じ。

 

「…………」

 

 そして何故かもぐもぐと折紙の頬が動いている。

 見た感じ折紙の持っている弁当箱のおかずは減っている様子が無い。

 何が起きたのか状況から分かってはいたが一応といった感じて問いかける。

 

「えっと…」

「ふぁにもしてなふ」

「…………」

 

 ダウト。士織は頭を抱えてしまう。

 十香と折紙は士織を挟む形で席があてがわれている。つまり彼女の動体視力では捉えられないスピードで十香の掴んでいたミートボールを奪って食したという事だろう。

 

「何をするのだ鳶一折紙!!」

「私が何をしたというの?」

「私のミートボールを食べただろう!返せっ!」

 

 当然ながら昼の楽しみを邪魔されて十香は激怒。

 だがそれに怯む折紙ではない。

 

「証拠は?」

「し、証拠…だが先ほど食べていただろう……」

「それはあなたのミートボール?そもそも何時何分何秒地球が何回回った時に私が食べたというの?」

「な、何だと……」

「いや小学生?」

 

 士織は御年十七歳とは思えないやり取りについ半眼でツッコんでしまう。だがこれ以上ギスギスされるのも嫌なため別の解決方法を出す。

 

「十香の物を取るくらいなら今度は折紙のも―」

「いい」

「いやでもそれだとまた……」

「もうしない」

「……」

 

 折紙からすれば士織のその提案はとても魅力的だった。だが首を縦に振る事だけは絶対に出来ない。

 折紙調べでは現在士織の両親は長期間家を空けていて家事や炊事の類は彼女が殆ど行っている。

 それだけにとどまらず、学校の成績をキチンと維持しつつ、一緒に住む妹の世話と転校生の面倒のどちらもしている。

 まともに自由な時間が取れないほど忙しいというのに、折紙の昼食を用意させるようなことをさせたらそれこそ彼女はパンクしてしまう。

 好きな人に迷惑を掛けたり重荷になる事だけは絶対に嫌なのだ。

 ただそこまで気を遣えるなら意味不明なズレまくり好き好きアピールを止めるか、十香に突っかかるのを止めた方が幾分か助かるのだが。

 

 

 同時刻、琴里は学校の友人たちと昼食を取っていた。彼女のお弁当の中身は当たり前だが十香と同じ。

 

「わー琴里ちゃんのお弁当美味しそう!」

「えへへ…いいでしょー。おねーちゃんに作ってもらったんだー」

「琴里ちゃんのお姉さんってあの可愛い人だよね?」

 

 彼女の友達は昔、五河家に遊びに来た事があった。その際に姉である士織とも面識があった。

 

「いいなーあんな可愛くて優しくて料理も上手なお姉さんがいて」

「ふっふーん」

 

 遊びに来た際に彼女の友達にお菓子を作って用意したのだ。それはとても好評で自分が褒められたようでとても嬉しかったのだ。

 琴里からすれば文句の言いようがない誰に見せても恥ずかしくない家内だった。

 因みにお弁当は美味しく頂きました。

 

 

「十香」

「何なのだシオリ」

 

 放課後、授業が終わって周りの人達が帰り支度を行っている中士織は隣の席の人物に声をかける。

 

「今日はちょっと美九の買い物に付き合う予定だから先に帰ってて欲しいな」

「む、そうなのか。ならその買い物とやらを手伝おうか」

「いや美九は二人で買いたいらしいからごめんね」

「むう……そうなのか…それは致し方のない事だな……」

 

 十香は寂しそうにするが先約が優先される事は重々承知しているため、そこで駄々をこねるような真似はしない。

 かつて四糸乃の一件で気に入らないと暴れまわったせいで迷惑をかけたため、ここでは踏ん張れた。

 

「デパートに行く予定だし何か美味しいモノでも買ってくるから」

「おお!そうかっ!それは楽しみだな!」

 

 どうにも単純すぎる。これだとお菓子なり食べ物をちらつかせられるだけで不審者に攫われそうだ。ただラタトスクがそれをさせはしないだろうが。



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五河士織なデパート

 アイドルにとってはスキャンダルなど以ての外。

 かつて誘宵美九はお偉いさんの枕営業を断ってしまったため、有る事無い事を好き勝手に書かれて芸能界に居場所がなくなった。

 それだけに留まらずこれまで彼女の事を応援してくれた人たちはまるで引き潮のようにさーっと消えて行った。その時のトラウマと、絶え間ない嫌がらせによって彼女は失語症を患った。

 自殺を図ろうと思うまでに追い詰めたその時、不思議な存在が彼女に精霊の力を与えたことによって人を洗脳する力を得たのだ。

 そして誰もが言う事を聞いて逆らわない環境を手にした事で彼女は暴走した。

 士織を見つけるとすぐさま傍までダッシュして相手の手を握ってぶんぶんと振り回す。

 

「ハニーッ!!」

「こんにちは美九」

「会いたかったですぅ」

 

 そんな邪悪な存在だったのも先日までの話で、すっかり美九は精霊の力を投げ出して辛い現実に目を向けて前に進もうともがいている。

 弱さや過去と向き合おうとする今の彼女であれば士織は好きになれそうだし、力になりたいと思えるのだ。

 待ち合わせ場所のデパート前で美九は帽子に伊達メガネをかけて軽めの変装をして待ち人を探していた。

 誘宵美九が百合っ子である事はよほど彼女を深く調べ上げなくては手に出来ない情報で、基本的にはその事実は隠されている。

 アイドルがデートをすればスキャンダル間違いなしだが、相手が士織なので傍から見れば仲の良い女友達と遊んでいるようにしか見えない。

 実際の所士織はそう思っているが、美九は隙あらば既成事実を作ろうとしているためなかなか気が抜けない買い物になりそうだった。

 

「あれって誘宵美九じゃね?」「うわ…やっぱり可愛い」「てか隣にいる子って誰?アイドル仲間かな」

 

 二人が話し込んでいると周りにいる人達が美九に気が付いて騒がしくなり始める。

 軽めとはいえ変装をしているのだがそれでも全くの別人になれるはずもなく、周りの人達にバレ始める。

 

「…やっぱり美九って有名人」

「違いますよー私だけじゃなくてハニーも視線を集めてますー…ほらっ!」

 

 そう言うと士織の体に抱き着いて周りに仲良しっぷりを見せつける。

 周りからは動揺の気配だったり、少し色めき立つような応援のような妙な雰囲気が流れる。

 

(そっか……)

 

 それが強がりである事に士織は気がついている。

 何故なら美九の体が僅かに震えていたからだ。今の彼女には怖い存在が来たとしても反撃できる精霊の力は無くなってしまっているいわば無防備状態。

 完全に乗り越えたわけでは無い、かつて陥ったトラウマが少しだけぶり返しているのだ。

 それでも今のままではいけない事は何よりも美九自身が痛いほど自覚をしている事なのだ。そう思っているからこそかつて精霊の力によって支配する事が出来なかった士織に何度も執着したのだ。

 心の片隅では思っていた、力なんて使わなくてもしっかり他人と向き合いたいと。

 

『もし私が今の『声』を無くして、他の皆にそっぽを向かれても、士織さんだけはファンでいてくれるって。あれは本当ですよね?』

『そうだね…あれは嘘じゃないけど一つ約束を付け加えていいかな』

『約束…ですか……』

『どんなに大変でも、歌う事をもう捨てない事。そんなあなたなら応援できる』

 

 そんなことをしている間も騒ぎは大きくなっていく。

 士織はこれ以上囲まれるのは不味いなと思い始める。騒ぎが広まりすぎると買い物どころではなくなるだろう。

 

「そろそろ買い物に行こうか、これ以上は服を選ぶ時間が無くなっちゃう」

「そうですねー折角の機会なのに見せつけるだけはつまらないですから」

 

 そう言って二人はデパートの服を売っているエリアに向かって歩みを進めていく。

 

 

「似合います!似合いますよおおおぉぉ!」

「いや美九の服を買いに来たんだと思ってたんだけど……というかそう聞いてたんだけど……」

「今着てるカジュアル系もいい!こっちのフェミン系もいいです!あ、あっちのゴスロリも捨てがたいですぅ!!」

「あ、聞いてない……」

 

 美九はもう士織の言葉など右から左で店内の魅力的な服飾品に視線がいったり来たり。

 冬服を買いたいから手伝って欲しいというお願いのもとやってきたはずだが、ふたを開ければ士織が美九の着せ替え人間にされている。

 

『シン、これを』

『この封筒は…?』

『琴里から聞いてね。デートの足しにしてくれないか?』

『いえ、友達と遊びに行くだけなんでそんな、いいですよ』

『これもラタトクス仕事なんだ。使わなければ返してくれていい』

 

 今回の一件を聞いた琴里は放課後に入る前に令音にお金を渡すように言っていた。デート中にお金が足りないなどと言ったら白ける事この上ないからだ。

 最初は使う気は無かったが、美九のチョイスした店は結構値が張るブランドが並んでいたためありがとうだった。

 そのためラタトクスから一応軍資金を貰っているため二人分の服を買う事は特段問題無しなのだが、士織の中ではそれを使うのは美九に対してのプレゼントだけで、もし仮に自分の物を買うのであれば己の財布のひもを緩める予定だ。

 

「…まぁ、楽しそうならいいか」

「へ、楽しい!?私と一緒だと楽しいってっ、やはり私達は運命の赤い糸で結ばれているんですよ!!」

「そだねー」

 

 都合のいい所だけ耳に残ってかつ相手の勝手すぎる脳内変換に少しだけ辟易してしまう。

 士織は服に対してこだわりが薄く地味で無難な物ばかりを買いがちだ。だからこそ芸能界で様々なコネクションや知識を豊富に持っている美九の手にかかれば素の状態での美少女ぶりが何段階も上乗せされている。

 何よりもこれまで興味が薄く、知る機会も設けてこなかった未体験な色々なことを知れるのは彼女としても楽しいのは事実だ。

 ふと美九がきょろきょろと見回しているとある事に気が付いて声をかける。

 

「見てくださいよっ」

「何を?」

「周りの目ですー」

「目ぇ?ああ、視線の事」

 

 士織は相手の言いたい事を理解して店の中を見渡す。

 店の中にいる店員や客たちは大はしゃぎしている美九だけを見ているのではなく、その連れである士織にも視線を向けている。

 よくある可愛い子の連れが冴えなくて引き立て役にされていて可哀想的なものではなく、可愛い処には相応の相手がいるんだな、類は友を呼ぶんだなというそれだ。

 とどのつまり負けず劣らずの容姿を兼ね備えていて、そんな彼女がセンス溢れる服を身にまとっているため皆の注目を集めているのだ。

 

「やっぱりハニーは磨けばいくらでも輝けるんですよっ」

「ん、ありがとう」

 

 彼女自身あまりべた褒めされるのは好きでは無いのだが、美九の表情は相手を必要以上に持ち上げて機嫌を取ろうとしているというわけでは無く、本心から思った事が漏れているのは察したため素直に受け取る事にした。

 下心の見え隠れする機嫌取りのべた褒めは嫌いだ。

 だが士織は常にスタイルを維持するために軽めの運動や、誰に見られても恥ずかしくないようにナチュラル風に見えるようにメイクする事に余念がないため褒められる事は嫌ではない。

 そんなやり取りをしていると周りの人達がスマホを弄って何やら話し込んでいる。士織と美九は何を画面に映しているのか直接確認する事は出来ないが、どうやら誘宵美九と検索して目の前の客と最近積極的に顔を出すようになった知る人ぞ知る超有名アイドルが同一人物ではないのかと疑っているのだ。

 

(有名人は大変だな…)

 

 よく分からない人たちに囲まれても面倒なだけ、これ以上はこの店も限界だなと感じて士織は少しだけ小芝居を打つことにする。

 オフなのに周りの人達に邪魔されて精霊の機嫌を損ねられても困る話だ。

 

「少し疲れちゃったな…ちょっと休まない?」

「あ、そうですね。何だかんだ一時間近くウインドウショッピングしていますねー、すみません疲れているのに気が付けなくて」

「いえ、こちらこそごめんなさい。服の事よく分からなくて……」

 

 士織自身疲れているのは事実だし、服の事に対してさほど興味が無いのも事実だった。だが疲れをわざわざ口にするわけでもないし、疲れて休みたいほどでもない。

 やはり人付き合いには九割の本音と一割の嘘が丁度いいと昔から相場は決まっている。だが相手に負い目だけを感じさせては小さな嘘だとしても意味が無い。

 ここで彼女はリカバリー案を口にする。美九は服を買うこと自体に目的の重きを置いているわけでは無いのは今日のやり取りから分かったため服のウインドウショッピングの代案を提示する。

 

「そう言えばここに好きな喫茶店があるから行かない?」

「わあっ!ハニーのおすすめですかー?行きたいですぅ」

 

 相手からのその提案に美九は手をパンと叩いて嬉しそうなリアクション。

 先ほどまで少し負い目を感じて暗かった感じは吹き飛んで、今日のデートに対してどちらかといえばされるがままだったのに、ここに来て積極的な姿勢を見せる士織に美九はすっかり機嫌が元通り。

 

 

「ここのコーヒー美味しいですぅ」

「気に入ってもらえたなら良かった」

 

 士織の紹介した店は関東内に五店舗ほど展開している知っている人は知っているといった感じの喫茶店だ。

 昼食から軽食をメインにコーヒー類も数多く種類が豊富なお店だ。

 たまに琴里と行くが、大人ぶって士織の真似をしようとして、ブラックコーヒーを頼んでは飲めなくて結局士織が全部飲むことになる。大人ぶりたい年頃なのは理解できるが、もう少し後先を考えた方がいい。

 

「このパンケーキも柔らかいし、乗ってるクリームも舌上で溶けるようでいいですねぇ…」

 

 ほっぺが落ちそうなのか左手を頬に手をやりながらすっかり破顔する美九。

 因みに夕食前なのでたくさん食べるのは不味いため、一人分のパンケーキを二人でシェアしている。

 

「紹介して良かった」

 

 相手の楽しそうなそのリアクションだけで既に士織のお腹はいっぱいだ。

 すると突然ずいっと彼女の口元にフォークで刺した一口サイズのパンケーキが提示される。

 士織は突然のそれに呆然といった感じて固まってしまう。

 

「…?」

「はいあーん」

「はい?」

「あーんですよぅ、もう……」

 

 ちょっとノリが悪い士織に美九はぷくーっと頬を膨らませて抗議をする。別段機嫌が悪いというわけでは無いが、上手く返してくれない相手のリアクションには少しだけご不満のようだ。

 

「っ」

 

 士織は少しだけ頬を赤くしてしまう、恥ずかしいのだ。

 友達同士で軽食を取っていて「あーん」をしてもらうというのは同姓であっても親しい間柄であれば無くはないシチュエーションだ。特に百合っ子である美九はそのようなシチュに憧れを持っているだろうし、何なら幾度となく場数を踏んで慣れているだろう。

 だが今の相手が求めているのは、精霊だったころのように女の子を愛玩動物のように可愛がるそれではなく真剣なアタックなのだ。

 普段相手の好意に対するセンサーがそこまで働かない士織であっても、相手の抱いている意図に気が付かないほど鈍感というわけでは無い。

 

「そんなっ…ハニーは私の気持ちを断固拒否ッ……」

 

 美九はいつの間にやらハンカチ片手におよよといった感じのリアクションを取る。もし仮に今ラタトクスのサポートがあれば演技である事は丸わかりだった。

 士織もまた演技なのは分かってはいたが、これ以上静かな雰囲気の店内で騒いでほしくなかったため要求を呑む。

 

「わ、分かったって…はいあーん……」

「はいっ!ではあーん」

 

 士織が乗っかってくるとすぐさま相手の機嫌は元通りになってしまう。そして彼女の口に運ばれるパンケーキ。

 

(やっぱりおいし)

 

 一方で美九は自分の願望が叶ってニコニコしている。何というかげんきんな奴だった。

 



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五河士織な夕食

「楽しかったです~」

「それは良かった」

 

 二人はすっかり暗くなった街中を歩いていた。

 美九は楽しかったデートにすっかり満足のようだった。

 士織も疲れてこそいたが普段はそこまでこだわっていない洋服をじっくり見る機会だったり、喫茶店のパンケーキに舌鼓を打ったりと割と満足な外出だった。

 

「しかしパンケーキを食べた後なのにそんなに食べるんですね……」

 

 美九の視線には士織が持っているケーキだった。しかも割とガッツリとワンホール分買っている。

 

「ん~…みんなで食べようかなって。私達だけ喫茶店ってのも悪いから」

「ハニーは優しいですね」

 

 二人はそんな何気ない会話を広げていく。

 そこで私達と言って士織はふと思った事を口にする。

 

「あ、そうだ。この後予定が開いているなら美九も―」

「はいはーい!行きますぅ!!」

「うちで夕食を食べ、うおおぉ…そっか」

 

 美九は相手が全部を言い切る前に素早く飛びつく。

 あまりにを食い入るように前のめりなものだから士織は若干引いてしまった。

 

「あ、でもいきなりお邪魔して迷惑じゃないですかー?」

「元々精霊のみんなと食べる予定だったし、一応美九の分も事前に下ごしらえはしてたんだよ」

 

 ふと思った事を口にするのだが、元々帰るのが遅くなるであろうことは事前に予測出来たため前日から大人数分のおかずは用意していたのだ。

 

「さすがですぅ!」

「と言っても大人数だから鍋なんだけどね…」

 

 基本的にラタトクスの支援は受けずに、五河家の懐事情の範囲で食事は作っている。それに大人数相手に手の込んだものはあまりにも時間がかかってしまうため、コスト的にも手間的にも鍋という選択は割とベターだ。

 何よりも作るのが簡単で多くの人の舌を介しても不味いという評価にはなりにくい、ぶっちゃけると保身的な料理だ。

 

 

「ハニーの家、久しぶりですね」

「確か精霊になった切っ掛けを聞く時以来だよね」

「はい」

 

 美九は士織にべた惚れてしまってからというもの、特段ラタトスクに逆らうことなく精霊の力を手放したし、質問にも分かっている範囲で答えるなど、あの我儘暴君だった時は打って変わって協力的になった。

 それで分かった事は精霊の力は人為的に増やす事が可能だという事だ。つまり自然災害ではなく人為的な災害、人災の可能性が浮上したのだ。

 すっかり真っ暗になった道を歩くと家に灯りがともっている家が彼女を迎えてくれた。

 

「ただいまー」

「お邪魔します」

 

 二人が家の玄関をくぐると既に中には複数人の話し声が響いていた。

 いつもであれば誰かいるとしたら琴里だけだが、今日は精霊皆で食事を食べることになっているため家が賑やかである事に驚きはない。

 

「おおシオリ帰ってきたか!その右手に持っているいい匂いのする包はなんだ?」

「ケーキ。食後に食べようかなって、皆の分もあるよ」

「あの滑らかな口当たりの菓子か!」

 

 リビングのドアを開けて帰ってきた彼女を真っ先に迎え入れたのは十香だった。相手の持つおやつに嬉しそうな表情を作る。

 それに続いて八舞姉妹に四糸乃もお帰りの挨拶をする。

 

「呵々、士織よ、早く我に贄を献上するのだ」

「釈明、耶倶矢はただただお腹が減っただけです。お腹ペコペコのぺこ耶倶矢です」

「何!?そのヘンなあだ名は!?」

「おかえりなさい…士織さん……」

『はあい、美九ちゃんと熱々だったかしらん?』

 

 三者三様の内容だったが、共通項は士織を受け入れてくれているという事だ。出会ったばかりであったならまず考えられないほど打ち解けている。

 一方で美九はその女体まみれの光景に「きゃー!」と興奮を抑えられない様子で、「うへぇ…」と精霊たちは少し引いていた。

 そしてテレビ前のソファーでテレビを見ているようでありながらもチラチラと士織に向かって視線を送っている琴里がいた。

 彼女の口元には大好きなチュッパチャプスが加えられており、またお決まりの髪型であるツインテールをかたどっているリボンは真っ黒なそれになっている。

 

「琴里ただいま」

「ええお帰りなさい。それで美九とイチャイチャ出来て楽しかったのかしらん?」

 

 よしのんの真似をした相手のどこか棘のある言い方に士織は苦笑いをしてしまう。

 ラタトクスの司令官なのに精霊と友誼を深める事に嫉妬を見せるのが可愛らしいといった感じだ。

 琴里からすれば真剣な好意から嫉妬であるのだが、士織は真剣に気持ちを受け取っておらず、姉との時間を取られて不貞腐れるなんて可愛い妹じゃないとしか思っていないから報われない。

 結局ストレートな好意を伝えないツンデレヒロインはこうなってしまう。

 

「そうだね…とーっても楽しかったなー」

「んな…!」

「あ、そうだ。すぐに食事だからもうチュッパチャプスは開封しちゃダメだからね?」

「ちょっ…ちょっと待ちなさい!楽しかったって何がよ!?」

 

 士織の口元を手で隠してクスクスする意味ありげな笑みと共に伝えられた情報に、黒モードである事を忘れて食いついて行くが、相手はそれ以上は何も話さない。

 本当の意味で琴里はどのような事態にも対応できるほど強くなったわけでは無く、強い言葉を使って強固で大人な自分を演出しているだけだ。

 初めて妹のその豹変ぶりを見た時は驚いた共に、ここまでストレスと溜め込むまで気が付けなかったのかと愕然としたものだった。だが二重人格ではなく自己暗示である事に気が付いてからは普通に接する事が出来るようになった。

 

 士織はキッチンに入ると鍋の準備に取り掛かる。と言っても既に具材の用意は終わっているためすぐに出来上がるが。

 

「なーべなーべなべなーべなべー」

「おお、なんだその魅力的な歌謡は」

 

 その口ずさみに反応したのは食い意地を張っている十香だった。

 キッチンとリビングを繋いでいるカウンター越しに十香は興味深そうに質問をする。

 

「鍋の歌」

「歌が美味しそうだ!」

「多分それは美味しそうな歌だ、だと思うよ」

「うむそうか!」

 

 本当に肩ひじを張らずに済む気兼ねのない会話に士織は少しだけ一日の疲れが取れたようなそんな錯覚を感じる。

 

 そんなこんなでお目当ての料理が出来上がる。それをテーブルの真ん中にドンと置く。

 

「出来ましたー」

『おおっ』

 

 皆はその鍋を見て色めき立った声をあげる。

 ただ良い匂いがするだけでなく、お肉がふんだんに使われた鍋全体が野菜って何?と主張しているのではと思ってしまうほどの豪華な一品だった。

 

「へぇ…ここまでお肉がふんだんに使われてるなんて一段と豪華じゃない…美九と良い事があったから機嫌がいいのかしら?」

「スーパーのお肉の消費期限がギリギリで、割引で安かったからたくさん買ったんだよ」

 

 琴里の毒に対しても士織は別段動揺を見せることなく対応してしまう。相手は自分があまり真面目に相手されていないのではないのかと不満に思ってしまう。そして同時に気が付いたのは、目の前で使われているお肉たちが腐っているのではないのか疑惑だ。

 

「へ?じゃあこれ大丈夫なの…?」

「お肉は消費期限が近くても小分けして冷凍すれば腐るのが遅くなるから大丈夫、まぁ解凍に手間がかかるけど。琴里にもいつかは一人で自立できるように料理とそのコツとか教えるからね」

 

 士織のその言葉に琴里は不満顔になってしまう。

 

「……いいもん…お姉ちゃんがいてくれれば食事困らないもん……」

 

 黒リボンでありながら甘えたがりな側面が少しだが出てきてしまう。

 

「…………」

 

 それを聞いて士織は少しだけ寂しそうな笑みを見せる。それは決して悲観的というわけでは無いのだが悲しさが含まれている。

 これから先、精霊の抱える問題とは何かしらの最終地点には着くだろう、それにDEMとも勝つにしろ負けるにしろ何かしらの決着があるはずだ。

 今は目の前の問題で精一杯だが、いつかはここにいるみんなが自分自身の問題をクリアして人らしい生活を獲得して羽ばたいていくはずだ。いつまでも未来永劫このメンバーでこのように一緒にご飯を食べるという現状維持は成立しない。

 一緒に食卓を囲む機会はきっともう数えるほどしか残されていないかもしれない。

 

「士織ッ!お前は我ら八舞の共有財産なのだぞ!?そんな事が許されると思ったか!」

「同意、耶倶矢の言う通りいつまでも一緒です」

 

 耶倶矢と夕弦は慌てて士織に対して声をかける。

 それは心の中に生まれた不安を、強い言葉を使って無理矢理払拭しようとするかのようだ。

 

「そう…ですね…いつかは士織さんや……ラタトスクの…サポートが無くても、自分で歩けるように強くならないと……」

『おっ四糸乃も強くなったねぇ…出来るかなー?』

 

 一方で四糸乃は覚悟と言えるほど強固なものではないのかもしれないが、ただ弱くてそれを認めるだけしかしない今の自分と決別しなければいけないと考えた。

 

「嫌ですー!ハニーと別れるなんていやっ!!」

 

 美九は大声でそう言うと素早く士織の腕に組み付いて駄々をこね始める。

 ここに来て士織は精霊たちの精神に余計な負荷をかけてしまった事に気が付いた。

 

「あーごめんそんなつもりは無かったんだよ…というか鍋が冷たくなるから早く食べようか」

 

 士織がそう言うと先ほどショックから立ち直ったとまではいかないもののある程度は皆が気持ちを切り替えて鍋の中身をつつき始める。

 先ほどまでの暗くなってしまった雰囲気は美味しい料理によってすっかりうやむやになった。

 だが―

 

「…………」

 

 十香だけは何か考え込んでいるように見えた。

 その後、鍋を食べ終わった後はケーキを食してから夕食会はお開きとなった。

 

 

「お姉ちゃんお風呂入ったから」

「うん分かったー」

 

 鍋パーティーもお開きになって家には五河姉妹の二人になった。

 士織が後片付けをしている間に琴里は風呂を先にいただいていた。そして空いたので姉に入っていいよと口頭で連絡を入れる。

 

「じゃあお楽しみにー」

「うん、うん?…お楽しみ…?」

 

 聞き返そうとしたがその時には琴里はその場から立ち去って自分の部屋へと消えて行った。

 

「まさか変なトラップとか仕掛けてないよね……」

 

 ちょいちょい女性を口説くスキルの向上ため、そして士織を百合っ子に洗脳するために突発的なイベントごとを仕掛けてくるのだが、ここまであからさまに予告してくるのは殆ど例がない。

 これまでにないパターンだからこそ不安になってしまう。せめてお風呂の時間くらいはゆっくりとしたいものだった。

 

 風呂に入らないわけにはいかないため脱衣所の扉を恐る恐る開けるのだが、そこには何も無いいつも通りの家の風景があった。

 

「……?…普通だ…」

 

 士織はてっきりラタトスクの職員やその息がかかった人間が大量に待ち構えている展開を想定したのだが、ふたを開ければもぬけの空だった。

 

「ビクついてばかりいても仕方ないか……」

 

 彼女は服を脱いで臆することなく風呂場へ突撃した。

 予想した通りに琴里が風呂に入り終わった後なため床のタイルはまだまだ濡れている。

 

「…普通だ……」

 

 彼女は何とも言えない肩透かしを食らってしまった。

 何とも言えない気持ちの悪さを感じながらも体を清めに行く。

 

「っはー……」

 

 肩まで湯船に浸かるとまるでくたびれた中年の様な唸り声を上げながら湯を堪能する。自分が思っていた以上に一日の疲れが溜まっている様だった。

 

「このまま何もありません様に」

 

 あろうことかフラグを簡単に立ててしまう。そしてその期待通りの展開になってしまう。

 ガチャリと脱水場の扉が開く音がする、どうやら誰かが入ってきたようだ。

 

「…………」

 

 士織の苦々しい表情。

 シュルシュルと衣ずれの音が彼女の耳に届く、どうやら服を脱いでいるようだ。

 

「…………」

 

 頭を抱える士織。

 どうやらラタトスクの刺客たちがやってきたようだ。流石に身体に傷をつけるようなことはしないと考えられるが毎回心への負担は多いのだ。

 よく見ると風呂場の扉のすりガラス越しに見えるのは女性と分かる丸みを帯びたシルエットだった。

 そして外から声がかけられる。

 

「シオリ…入っていいか?」

「へ…?十香…?」

 

 扉を開けて現れたのは刺客ではなく夜刀神十香だった。



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五河士織なお風呂

「へ…?十香…?」

 

 士織は風呂場に入ってきたその正体に驚いた声を出してしまう。

 扉を開けて入ってきたのは前をタオルで隠している十香だった、その隠しきれない肉体美につい言葉を失う。それと同時に心なしか元気がなさそうに士織の目には映った。

 何とか思考を回復させた士織は言葉を投げかける。

 

「えっと…と、十香どうしたの?」

「うむ…少しだけシオリと話をしたくてな…琴里に相談したらこうすると喜ぶと聞いてだな……」

 

 その言葉を聞いて彼女は頭痛が発生する。

 

(喜ぶって何なの……)

 

 五河士織にそんな趣味は無い…ハズだ…十香の体を見て少しドキドキするのは突発的な状況に驚いているだけだし、相手の見事すぎるプロポーションについつい見とれたのもその異性同姓関係なく羨んでしまうその芸術的な美に言葉を失っただけだ。

 違うったら違うのだ。

 

「話したい事…?……取りあえず体を洗おっか…ここお風呂だし…そこ座って、洗ってあげるから」

「う、うむっ」

 

 十香は士織に指示に逆らうことなく風呂場の中にある台に座る。

 持っていたスポンジで背中を洗っていくのだが改めて思った事を口にする。

 

「いや本当に十香って体にシミ一つないね、肌もすべすべで羨ましい」

「む、そうか?よく分からんがシオリも肌は白いだろう?」

「んー何て言ったらいいのか…」

 

 十香の言葉に士織は苦笑してしまう。

 言ってしまえば十香は何もしなくてもその美貌を維持してしまう混じりっ気のない天然物なのだが、士織は素質はあるのかもしれないが毎日頑張って肌やスタイルを維持している養殖だ。

 力を入れて万が一にも肌を傷付けないように細心の注意を払いながら洗っていく。それは有名な名画の修理をするかのような神経をすり減らす勢いでだ。

 

「うーっ…気持ちいいのだ……」

「ふふっ…楽しんでもらえて恐縮ですわお客様」

「シオリのそのヘンな口はなんだ?」

 

 体を洗い終わると次は髪の毛を洗う。士織が手を、その細い指を動かすたびにこそばゆい感覚と頭皮を揉まれるマッサージのような効果を示して気持ちよさそうに身をよじっている。

 士織は相手が喜んでくれるのなら嬉しい事この上ない。

 そして泡を流したのちトリートメントを付けてつやつやにして、湯船につからないように団子状にセットをする。

 

「……狭いね」

「……むう」

 

 湯舟は高校生二人が入るには割とギリギリな大きさだったため、お互いに無理矢理体を引っ付けてねじ込むようにして入る。

 

「…………」

「…………」

 

 お互いの湯舟の中でのポジションは決まって一応落ち着いたのだが会話が途切れる。

 元々十香が強引に風呂場に飛び込んできたのは何か士織に話したいことがあるという建前だったはずだ。だがその本人が口を閉ざすのでは何をどうしたらいいのか分からない。

 ふと十香の顔を見る。

 

(というか本当に可愛い……目はパッチリしているし…鼻筋はスッとしてるし…唇はぷっくりと…って何考えてるんだ私は……)

 

 そんな思考を巡らせてしまい素早く頭を振って変な考えを頭の片隅に追いやる。ここ半年でキスだの百合だのを植え付けられたせいで、変な事ばかり考えているなと思う。

 

「……シオリ…?」

 

 どこか挙動不審な相手に不安そうな声で問いかける十香。

 やらしい思考を巡らせてしまった相手に声をかけられては冷静になどいられない。

 

「へっ!何でも無いよっ。それで最初に言ってた話したい事って何かなっ!?」

「む、おお…そうだった」

 

 あまりの迫力に十香は少しだけ引いてしまう。だがすぐさま相手の迷惑になる事は覚悟で自分がここに来た事を思い出す。

 ここで重い口を開く。

 

「うむ…夕餉の際にシオリが言った事が引っかかってな……」

「私が…?」

 

 士織は相手に何か傷つけることを言ったかな?というリアクションしか出来ない。

 

「琴里に言った事だ」

「琴里に…?」

 

 言われて数時間前の出来事を必死に想起する。

 

『琴里にもいつかは一人で自立できるように料理とそのコツとか教えるからね』

 

 それは別段深い意味があって言った事ではない。ただふと口をついて出てきただけだった、だからこそ深層心理が何気なく働いたのかもしれない。

 いつかは精霊の皆と一緒に居る時間は無くなって、それぞれの道に進むだろう。

 これまでに培ってきた絆が無くなるわけでないが、一緒にできる共通の時間は年を重ねれば減るのはごく自然なことだ。

 そしてきっとそれは思っているよりも遠い未来ではないだろうと。

 

「自立…しなければいけないのは分かってはいるのだ…いつまでもラタトスクやシオリにおんぶにだっこではいられない…分かっている…のだ…だが、それを考えると胸がとても苦しくなるのだ……」

 

 十香は俯きながら不規則に揺れているお湯の水面をじっと見つめている。

 決して士織は悪い事や間違ってことを口にしたわけではない。ラタトスクの最終目的は精霊が人間として普通の生活を送れるようにする事であり、自分の力で生活出来るようにサポートする事が使命なのだ。

 だが封印された経緯を考えれば精霊の皆は大なり小なり五河士織という個人に強く依存しているのは否めない。だが彼女が居なければ生活することが出来ないのでは普通の人としての生活とは言えない。

 その事を理解出来ているはずの琴里ですら瞬時に首を縦に振る事が出来なかったのだ。

 

「別に変な意味なんて無いんだよ……」

「分かっているのだが、それでも寂しいのだ……」

「…………」

 

 十香の独白に何を言ったらいいのか分からなくなる。

 ここまで気落ちしていても力が逆流する予兆は無いため、動揺こそしているがキチンと自分の足で立ち上がらなくてはいけない事は理解も納得も出来ているのだ。

 だが人は理性と感情は別の存在として認識している、だからこそ人つき合いは難しいのだ。

 そして不確定だった気持ちを理解、そして共有出来た時に嬉しくなる。

 

「…………実のところはね」

 

 士織は文化祭の一件から今日に至るまで、心の中にひっそりとしまい込んできた思いを吐露する。

 それは精霊の精神状態が不安定になる可能性を考えれば言わない方がいいのは分かってはいた。だが何故かこの時は口が止まらなかった。

 

「十香がさ…DEMに攫われた時に…正直なところもう駄目だって思ったんだ……」

「……シオリ…?」

 

 いつもよりも気弱さが目立つ相手の様子に十香は不安そうな表情を見せる。

 それはステージで美九に勝ったのに勝負を反故にしようとして暴れて、その隙を突かれて攫われてしまったあの一件。

 諦めないと気持ちを強く持ってはいたが、正直なところダメだろうと思っていたのだ。あの時狂三が助力に来なければ完全に諦めていた。

 

「あの時エレンってウィザードに刺された時に…ああ、ここで死んじゃうんだって思って…虚しくて…悔しくて…」

 

 今こうやって一緒にお風呂に入っているのは本当に奇跡に奇跡が重なっているに過ぎない。決して士織の力だけで勝ち取った時間ではないのだ。

 

「…思うんだよ…もしかしたらこの先死んじゃうかもって…いや死んでもおかしくないって……その時に精霊の皆には…しっかりと人の中で暮らして欲しいって…思うんだ……」

 

 それはとても情けない独白だった。

 精霊の力を封印しておいて、もし仮に自分が死んだら一人で頑張れというのはあまりにも勝手すぎる発言だろう。だがそう考えてしまうほど精霊を攻略するのは簡単ではないし、DEMの持っている戦力と、逸脱しそして理解不能な倫理観はラタトスクを凌駕しかねない。

 何よりも人として普通に暮らして欲しいと願っている十香を、何度も危険な戦場に引きずり出してしまっている。その事実がより彼女の無力感や遣る瀬無さを増大させていく。

 

(何やってるんだろ私…こんな所なんて見せちゃダメなのに……)

 

 士織はそう思うのだが止まることが出来ない。既に彼女の瞳には涙が滲んでしまっている。

 

「……?」

 

 すると突如として彼女の視界が暗くなる。

 

「私もあの時は辛かった…その時の事はよく分からないが暴走してシオリを傷つけたと思う……」

 

 抱きしめられているのだ。十香が風呂から上半身だけを出して水中で膝立ちのままそう言った。

 厳密には十香にあの時反転した記憶は存在していないが、周りの風景やボロボロになった士織を見れば自分が何かをしたかなどはすぐに理解できた。

 十香は口元を相手の耳に近づけて更に言葉を繋いでいく。

 

「いまだに迷惑をかけている私に説得力など無い……でも」

 

 これまで少し自信なさげに陰っていた表情に僅かな自身が満ちていく。

 

「私はいなくならない、絶対にだ。シオリを一人なんかにはしない、一人で逝かせなどしない。何よりもお前の守りたいものは既に私にとっても守りたいものだ…だからこそ…一人で背負わないでくれ…一緒に守らせて欲しいのだ」

 

 戦いの渦に巻き込まれても一向に構わないといった。一緒に傷ついていいからともに歩みたいと彼女はそう言ったのだ。

 その言葉を理解した時、士織の体の震えは不思議と無くなっていた。

 これまで口説けと言われても愛とか恋とかよく分からなかったが、一緒に居たいという胸を熱くしてくれるこの気持ちを今この瞬間に理解することが出来た。

 

(ああ、そうか…これが……)

 

 士織は十香の肩を掴むと少しだけ体から離す。その行動には拒絶の感触は無かった、相手に触れる際に優しく労わる様な不思議な温かさがあった。

 

「シオリ?」

 

 十香は相手のその行動に怪訝そうな表情をする。そして顔を見るとそこには少しだけ目をはらしてこそいたが優しく、そして覚悟を決めた強い人がいた。元気が出て何よりと思うのだがどうやら何かがおかしい。

 士織の腕が相手の肩から離れると相手の頬に添えられる。その行動に十香はまるで金縛りにあったかのように動けなくなる。

 

「……し、おり…?」

「これが…やっと気がついた…私の気持ち……」

 

 そう言うと士織もまた相手の同じように膝立ちになって顔をゆっくりと近づけていく。

 それは相手に体を許す行為の一つで、信頼し合った関係性のある相手としか成立しない愛情表現。それは十香も人として生活する中でおぼろげながらも理解は出来ている。

 十香はそれを拒否しない。突然の事に驚いているというだけではない、士織が相手なら受け入れてもいいと思ってしまっている。

 そして二人の距離がゼロになりかけたその瞬間―

 

「ひぅぅっ……」

「シオリ?シオリッ!?」

 

 突如として士織は目を回して倒れようとしてしまう。彼女は顔を真っ赤にして目を回してしまっている。

 当たり前だが十香が入ってくる前から士織は入浴していたため、暑さが脳までたどり着いてしまっている。

 

(こ、こんな大事な所で湯あたりぃ!?)

 

 そうして彼女の意識は真っ暗な暗闇の中に沈んでいった。

 

 

「うわあっ!?」

 

 五河士道はベッドから飛び起きた。

 季節は秋でまだまだ外は暗い。慌てて目覚まし時計を見ると時刻は五時を回った辺りだった。

 

「…ゆっ…夢っ…?」

 

 一般的に夢とは人の記憶や知識の整理をする際に起きる現象だと考えられている。それであるがゆえに夢で見ることは全てその本人が知っている事しか内容に反映されないと言われている。

 そして夢というのはその人が深層心理内に抱えている無意識な願望が現出するとも言われている。

 女性化した事。そして何よりも十香と一緒に風呂に入ってお楽しみだった事、それも相手のあられもない姿をハッキリとイメージ出来た事、そして最後に封印ではなく私情または劣情からキスをしようとした事。

 

(うわあああっ…!…何なんだよそれはあっ!)

 

 それが自分の抑えてきた願望だったのかと悶絶してしまうのだが、そこで部屋の机の上に置かれている一冊の漫画を視界に捉える。

 それは前に美九からおすすめされて借りた漫画だった。

 その内容は、人は生まれた直後は無性であり、十二歳を境目に男か女か自然と性分化が行われていく世界で、主人公はいつまでも性別が変わることなく高校生を迎える。そんなある日、男と女の両方の幼馴染から同じ日に告白された事を境に男になるのか、女になるのかを選ばざるを得なくなるという幼馴染達の恋愛模様を綴るという内容だった。

 設定だけでなく、美麗な絵柄に、そして何よりもストーリーの主軸である揺れ動く恋模様に士道は大いに興味が惹かれてハマった。

 恐らく夢の中で女性化したのはその影響と考えられる。

 

(ん…?…って待てよ…ってことは…俺は女になる事を望んでいる……?)

 

 必死に否定しようとするあまり、考えてはいけない事を考えてしまう。考えないようにすればするほど思考は止まらなくなってしまう。

 

「うあああぁ……」

 

 布団をかぶり直して何とか忘れようとするのだが、目が冴えわたってしまい寝付くことが出来なかった。

 

 

「お、おにーちゃん…顔色悪いよ…?」

「ああ…そうか……?」

 

 朝起きてリビングに入った琴里を出迎えたのは、死にそうな表情をした士道だった。

 

「…………」

 

 琴里はそんな覇気のない状態で精霊を不安がらせてはいけないと考え、リボンを白から黒色に変更する。

 

「ふん、そんななよっちい態度じゃ鬱陶しいだけね。悩み事があるならさっさと言いなさい」

 

 一見暴言に見えるが、マイルドに解釈するなら悩みがあるならいつでも相談に乗るよと言っている。

 だが今の士道には精神的なゆとりが無い。

 

「悪い…今はそれに付き合ってる余裕はないんだ……」

「んな!?」

 

 一切提案に掠りすらしない相手の態度に、琴里は驚きの声をあげてしまう。そして頭に来てしまう。

 

「へ、へぇ…いつからそんなに偉くなったのかしら…そんな無礼な態度を取るなんて…これは『マイ・リトル・シドー3 愛の行く先には』の全CGコンプリートの刑ね、それも士道の黒歴史をここぞとばかりにネットの海に放出ね。さーてどうなることやら……」

「ああ…そうか…」

「!?」

 

 ここまで言ってなお琴里の言葉にまともに反応しない事に発言した本人は愕然としてしまう。

 黒歴史と言っても先ほど見た夢ほどの黒歴史は中々存在しないだろう、今の彼はそれで頭がいっぱいになってしまっている。

 

 

「シドー!遅いから迎えに来たぞ!……元気が無いな…何かあったのか?」

「ッ!?と、十香……」

 

 朝の一件のせいで不機嫌さが消えない琴里と一緒に家から出ると、そこには問題の人物である十香が現れる。

 士道はその声の主を見るのだが、夢のせいで意識してしまいいつも以上に胸元や足や、そして顔などを見てしまう。それは男としておかしい事ではないのかもしれないが、夢のせいで途轍もない罪悪感が彼を襲ってくる。

 

(唇柔らかそう…って…!…何考えてんだ俺はっ…!?)

 

 邪すぎるその思考を遮るためにフイっと顔をそむけてしまう。

 

「えっ……」

 

 十香は一見すれば拒絶ともとれるその態度に愕然としてしまう。

 そのやり取りを見て琴里は慌てて問い詰める。

 

「ちょっちょっと士道っ!何してんのよ!?十香にそんな態度を取るなんて何考えてんのよ!?」

「う…わ、悪い……」

「謝るのは私じゃないでしょ!」

 

 あまりにもな覇気のなさに流石に琴里もブチ切れ寸前だ。

 

「と、十香ごめん。ついだな…その顔を見たら恥ずかしくてだな…」

「恥ずかしい?ど、どういうことなのだ?そんなに私は変な顔をしているのか?」

 

 嫌われているわけでは無いと安心したのだが、顔を見て恥ずかしいと言われたら、相手が何を伝えたいのか分からずにひたすら自分の顔をペタペタと触る十香。

 しっとりとして柔らかそうなほっぺがその手によってムニュムニュと動く。

 士道はその言葉にこれじゃまた変な誤解を生んでしまうと慌てて弁明を計る。

 

「いや十香の顔が変とかじゃなくて…そんな可愛い十香とキスしたんだなって思うと恥ずかしくて、だ、な……あっ……!」

「んなっ…!」

「はぁ!?」

 

 士道はここで墓穴を掘ってしまったと思ったが時すでに遅しだった。

 おおよそ彼の口から飛び出してくるとは思えないそのセリフに、十香だけでなく琴里も驚愕の声を漏らしてしまう。

 この時ラタトスクのサポートが十全だったら、十香のご機嫌メーターは振り切っていたことは間違いなかった。

 嬉しくてトリップ状態の十香を尻目に琴里は不機嫌から一転して本気で心配そうな言葉を掛ける。

 

「し、士道…本当にどうしたの…?」

「悪い…もう聞かないでくれ……」

 

 あまりにも情けない己の姿に士道は俯くほかなかった。

 

「だーりん!」

 

 静かな住宅街の静かな空間を切り裂く女の声が響いた。

 恐らくだがこの街でかつ公道で「だーりん」なんて単語を使うのはたった一人しかいないだろう。

 

「美九…」

「はーい!あなたの愛しの美九ですよーって元気ありませんねぇ。寝不足ですか?」

 

 彼女はどこか元気のない士道にいち早く気が付いたのか心配そうにする。

 

「いやそういうわけじゃ無いんだけどな……」

「はあー…そーですか…」

 

 聞かれたくなさそうなので彼女はその話題には深く切り込まない事にした。

 一方でここにやってきた美九に違和感を感じたのは琴里だ。

 

「美九あなたどうしたの?うちは学校まで遠回りよね?」

「そうですそうです。だーりんに聞きたいことがあったんですー。昨日貸した漫画どうでしたかー?とてもお気に入りで感想を聞きたくて来ちゃいましたー!」

 

 彼女の目的は貸した漫画が刺さったかどうか聞きたいとの事だった。

 彼女からすれば自分の好きなものを相手も好きになってくれたら嬉しいと思って貸したものなのだ。

 

「…漫画」

 

 士道は漫画というその単語を聞いて少しだけ動揺を見せる。今日見た夢がまたぶり返してしまった。

 悪夢であったのだが、夢に影響を与えるほど士道にとっては一生に残る一冊だったのは間違いないのだ。何より美九渾身のおすすめなのだ、無下にはしたくない。

 そして悩んだ末にバッグから例の漫画を取り出して素直に答えた。

 

「……凄く面白かったよ」

「わあっ!嬉しいですぅ!」

 

 美九は手をパンと叩いて朗らかな笑みを見せる。

 

「まだ続きがあるので今度持ってきますねー」

「いやいい……」

「へ?」

 

 彼女は面白いといったのに続きは読みたくないという意図のよく分からない回答に固まってしまう。

 

「漫画なんてこりごりだ……」

「えー?」

 

 美九はよく分からないとばっちりを受けた。



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