彩る世界に響く音 (かってぃー)
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第1章 夢の終わり、新たな始まり
第1話 ソノ音色は誰が為に


 それは遥かな昔日の記憶。黄昏時に残る蒼、或いは人の消えたホールに滲む残響の如き、移り行く時の中に残された過去の残り香であった。

 

 ──既に放課を迎えているがために人の気配が薄らいだ学舎。窓の外から差し込む斜陽により遍くが朱に沈んでいるかのような錯覚さえ抱く廊下を、菜々は歩いていた。窓から外を覗いてみれば、何処かに遊びに行くのであろうか、じゃれ合うように走っていく数人の生徒が見えた。そんな光景を後目に、菜々は教室へと歩いていく。

 

 他の生徒が帰宅の途に就く中、彼女だけが残っていたのは、何という事はない、ただ担任に日誌を届けていただけの事。特に何ということもない、小学生としては極々ありふれた理由だ。もしもそれだけであったのなら、その日は何の変哲もない一日として日常の中に埋没していくのみであっただろう。だが、その日は何かが違った。

 

 何処からか入り込んできた一陣の風。それに運ばれてくるかのようにして不意に聞こえてきた音に、菜々が足を止める。人の声ではない。音源はそれなりに離れた場所にあると見えて、しかしよく耳を澄ませてみれば、それはピアノの音色であるようだった。あまりにも微かにしか聞こえてこないため弾いている曲までは分からないが、聴こえてくる方向の先、廊下の突き当りに音楽室がある事からも、それは間違いあるまい。

 

 しかし、奇妙である。この学校に吹奏楽部はないし──そもそも吹奏楽でピアノは使わないが──、放課後に教師が特定の個人にピアノを教えるといった事をしているとは聞いたこともなかった。一応使用許可を貰えば使えはするが、特に何ら学校行事もないような時期、それも放課後に使用許可を出すとは思えない。であるならば、考えられる可能性はふたつ。教員が授業準備の関係で使用しているか、或いは誰か生徒が他人の目を盗んで使用しているか。そのどちらかだ。

 

 その事に思い至ったからか、或いは全く別の、彼女自身ですら判然としない理由のためか、自然、菜々の足は音楽室の方へと向いていた。ピアノと彼女以外一切の音源がないせいだろうか、彼女の足音が嫌に反響して、けれどそれは少女の意識の端にも引っ掛からない。

 

 ひとつ歩を進める度に、ピアノの音はより大きく、かつ明瞭に聴こえるようになってくる。それ故に当然半ばまで差し掛かった頃にはその音階が描く奇跡も知覚できるようになってきて、菜々はその曲が最近放送が始まった特撮番組の主題歌だと気づいた。

 

 だがその事以上に菜々の心を揺さぶったのは音色が内包する()とでも形容するべき気配であった。それはあたかも奏者の抱く歓喜や興奮、高揚といった情動、明白な形を持たぬそれらをそのまま音に変換しているかのようで、だからだろうか、聴き手である菜々の心さえその音色は情動を喚起するようである。

 

 故に、菜々は悟る。その音色はきっと、奏者の抱く〝大好きな気持ち〟そのもの、声でなく旋律で叫ばれた大好きなのだと。でなければこれほど聴き手に高揚を与える筈がない。これほど楽し気に聴こえる筈がない。

 

 そのせいだろうか、いつの間にか彼女の内心は怪訝から快然へと変遷していて、それを自覚する頃には既に音楽室の前へと辿り着いていた。防音に優れた金属製のドアは、しかし完全な密閉ではなく微かな隙間風がすり抜けている。音色もそこから洩れてきているのだろう。嵌め込まれた窓ガラスからは内部の様子を窺い知る事ができるものの菜々はそれを認めるより早くにノブを握り、ゆっくりと、まるで旋律にノイズが混じるのを厭うかのようにして足を踏み入れる。

 

 そして、一拍。菜々がピアノの方に視線を遣り、奏者の姿を認める。果たして、そこにいたのはひとりの少年であった。彼女の入室に気付いていないのだろうか、夕陽を浴びて煌めく亜麻色の髪の下で爛々と輝く瞳は鍵盤に向けられていて、十指は担い手の意志のまま、彼らに与えられた鍵盤という名の舞台でダンスを踊っている。その様はさながら、一枚の絵画のようですらある。

 

 菜々は奏者たるその少年の名を知っていた。〝真野(まの)彩歌(さいか)〟。未だ幼年である事を差し引いても線の細い顔立ちも相まって女性めいた印象を受けるが、れっきとした男性である。彼女とは同じクラスに所属する所謂クラスメイトという関係で、それ以上でもそれ以下でもない。会話を交わした事こそあるものの、それだけであった。それは菜々の大好きを受け止めてくれる相手が、今までいなかった事も原因としてあろう。彩歌がピアノを弾けるというのも、コンクールで賞を取ったのだと全校集会で表彰されていた所を見た事があるため知ってはいたが、今まで、実際に聴いた事はなかった。

 

 だがこの曲を演奏しているという事は、彩歌も観ているのだろうか、自分が観ているそれと同じものを。菜々がそんな事を考えているうちに演奏は終わって、一拍を置いて半ば無意識に拍手を贈っていた。その時点になってようやく彩歌は菜々の存在に気付いたと見えて、目を丸くしている。

 

「中川さん!? いつからそこに!?」

「ついさっきです。でも、音色は入る前から聴こえていましたよ。素晴らしい演奏でした。……けど、音楽室の使用許可は取ったんですか?」

「うっ……取ってないです……」

 

 菜々から贈られた賛辞に気恥ずかしそうにはにかんだかと思えば、一転して痛い所を突かれたとばかりに肩を落とす彩歌。その遣り取りはこの先の未来で起きる菜々と彼女に転機を齎す事になる少女のそれにも似ていて、しかし彼らがそれを知る筈もない。

 

 彩歌の表情はまるで悪戯に失敗した子供のようでもあり、菜々にはそれが意外にも思えた。真野彩歌という少年はクラスの中では真面目で通っていて、あまり表情の変化のない、悪い言い方をするのならば面白味のない人物という評が一部の生徒からは為されていた。友達こそ十分にいるものの、あまり目立たないポジションにいるのだと言えよう。

 

 それはある意味で、菜々自身にも似ている。人前で己の大好きを押し殺し、真面目な己として生きている彼女もまた、人前で笑顔を見せることは少ない。菜々には彩歌が人前での笑顔が少ない理由は知れず、それ故に彼女と同じであるのかさえ判然としないけれど、親近感を覚えるのにそれ以上の理由は要らなかった。

 

 無許可で音楽室の設備を利用していた彩歌の行動は、叱責されるべきものであるのかも知れない。見つけた者によっては教員に報告してその後の対応を委ねようともするだろう。だが菜々はそのどちらもする気はなかった。叱責というのは聊か過剰であろうと、そう思ったのだ。或いは誰かが叫ぶ大好きを邪魔してしまう事を、無意識に厭うたのかも知れない。

 

「それで、どうしてわざわざ無許可でピアノを弾いていたんですか? 見つけたのが先生だったら、叱られていましたよ?」

「うーん、どうしてかぁ……弾きたかったから、かな」

 

 頤に指を立てながら、おどけるような調子で彩歌はそう言う。それはまるでからかうような気配を帯びていて、けれど菜々は彩歌の言葉が嘘ではないと直感的に理解した。ただ弾きたいという気持ちと見つかるリスクを天秤に掛けて前者を選ぶというのは少々不可解にも思えるが、その不可解こそが彩歌が虚言を吐いていないという証明でもある。

 

 彩歌の細い指が鍵盤をひとつ押し込み、ぽん、と音が鳴る。ただ何ということもない、それだけの所作。だがその瞳はいっそ慈愛とでも言うべき感情を湛えていて、それだけでも彩歌はピアノが大好きなのだと察するには十分に過ぎる。先の演奏を聴いていたのなら猶更だ。

 

 菜々には与り知らぬ事ではあるが、彩歌の家にもピアノがある。故にわざわざリスクを冒してまで学校で弾く必要性は皆無に等しいのだが、むしろその事実が先に述べた理由の真実性を高めているとも捉えられよう。

 

 それから、どれほどの間そうしていたか。不意に、彩歌の視線が菜々に向けられる。それに込められているのは不安、或いは気後れであろうか。その意図を察し、菜々が苦笑する。

 

「バレて不安になるなら、初めからやらなければよかったのに」

「返す言葉もございません……」

 

 菜々の尤もな指摘に、がっくりと肩を落とす彩歌。その様子が何故だからおかしくて、菜々が笑声を漏らす。露見すれば怒られると分かっているのに、他人の目を盗んででも行いたくなる、というのは彼女にも気持ちが理解できた。事実、彼女も親に見つからないように彼らから禁止されている筈の諸々を観ているのだから。

 

 彼女自身、もしも彼女が俗に言うサブカルチャーを親から禁止されている事を知っている人がいて、その相手にアニメや特撮番組、スクールアイドルの映像を観ている所を目撃されれば、似たような反応をしていた事だろう。

 

「仕方がありませんね。安心してください。先生に報告したりはしませんよ」

「本当かい? 何だか、ごめんね。……じゃあ、コレは俺と中川さんだけのヒミツってコトで」

「……何だか、それってズルいです」

 

 呆れ半分、からかい半分といった菜々の言葉に、そうかな? と彩歌。それから幾許か経って、不意にふたり共が噴き出す。何がおかしかったのか、彼らでさえ明確に言語化する事はできまい。ただ何故だかおかしくて、彼らは笑い合う。

 

 しかしその中で彩歌は時計に目を遣って、そろそろ帰らなければならない時間だとようやく気付いたらしく、壁に立てかけてあったランドセルを回収し、ピアノ周りの片付けを手早く済ませてしまう。

 

 菜々の荷物は教室に置きっぱなしであるから、ふたりはここでお別れだ。また明日ね、とこれまでふたりの間では交わされた事があるかどうかすら定かではない挨拶を交わし、しかし直後、菜々は己の意図から肉体が外れたかの如き錯覚と共に彩歌を呼び止めた。

 

 どうしたの? と彩歌。廊下の先、ガラス張りの大きな窓から流れ込む朱の鯨波を受けて佇むその姿は何処か浮世離れしているかのようであり、しかしそれに反して内面はひどく俗っぽいのだと彼女は知っている。だからだろうか、もしかするとこの少年ならばと彼女は思って、何度か息を詰まらせた後にひとつ、問いを発した。

 

「彩歌くん、貴方は──」

 


 

 動画がアップロードされました。もう何度目にしたかも分からないその表示を前にして、彩歌は半ば無意識に脱力して背もたれに身体を預けた。椅子の骨組みが軋み、耳障りな不協和音が西日の射し込む部屋に響く。或いは余人がその様子を見たのなら、聊か気が早いと言う事であろう。動画投稿。その本番は投稿そのものではなく、むしろその後、如何に多くのユーザーの目に触れるかなのだから。だがそれについて彩歌自身にできる事は少なく、そんな事を気に病んでも仕方がないと彼は思うのだ。

 

 けれど、少ないとはいえまだできる事は残っている。大きく息を吐くと共に姿勢を正してPCに向き直り、共有欄をクリック。すると自動的に彼のもつ動画投稿・配信者としてのSNSアカウントにて投稿画面が表示されて、適当な文言を書き足してから投稿ボタンを押した。タイムラインの先頭に彩歌、もとい動画配信者〝さっちゃん〟の投稿が表示され、幾許かの間を置いて反応が返ってくる。これで正真正銘、彩歌にできる事は終わり。後は半ば放置に近い。

 

 その配信者としての姿勢を、怠慢だと詰る者もいるだろう。或いは、視聴者に対して誠実ではないと。無論、彩歌とて、視聴者に感謝していない訳ではない。ただ彼は自分の手を離れた後について、他人よりも冷淡であるだけなのだ。

 

「ハァ……」

 

 再び、大きな溜め息。あまりにも不景気な有様も、咎める者はここにはいない。天を仰ぐ程に深く腰掛け両手で眼窩を覆えば、視界に広がるのは暗闇だ。その所作は奇妙なまでに憂いを纏っているようで、いっそ天に座す何者かに祈りを捧げているかのようですらある。

 

 だがいつまでもそうしている訳にもいかず、憂いを解いた彩歌はシャットダウンさせたPCを机上からどかして代わりにノートや教科書を鞄から取り出した。配信者である以前に、彩歌はひとりの高校生だ。その為すべきは学業を置いて他にない。特待生として学費の免除を受けている彼にとって、その事実は誰よりも思いとも言えよう。

 

 ノートと参考書を開き、一息。シャーペンを執っていざ問題演習に臨まんとし、しかしそれを妨げるように唐突に傍らに投げ出されていたスマートフォンがその存在を主張する。電話の着信音。画面を見ずとも彩歌はその主に察しが付いたようで、微笑を漏らした。そうしてスマホを手に取り、通話ボタンをタップする。

 

「もしもし?」

『もしもし、彩歌くんですか? 観ましたよ、今日の動画!』

「ふふ、ありがとう。今日も早いね、中川さん」

 

 彩歌に電話を掛けてきた相手は誰あろう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。同校の大半の生徒にとって真面目を絵に描いたかのような印象を抱かれている少女は、しかし彩歌にとっては中川菜々として彼女の言う〝大好き〟の使途であった。同時に、配信者さっちゃんの正体を知る者のひとりでもある。

 

 菜々の言う今日の動画とは他でもない、彩歌がつい先程投稿した動画、既存の楽曲を自らが歌いそれを収録した、所謂〝歌ってみた〟と呼称されるそれである。カバーだけではなく時には自らが作詞作曲した自作の楽曲を投稿することもあるものの、〝歌ってみた〟と〝弾いてみた〟が彩歌のチャンネルのメインコンテンツであった。

 

 電話を介した会話であるがために、彩歌からは菜々の表情は見えない。だが彼女の楽し気な声音はその満面の笑みを幻視させるには十分で、そのヴィジョンが現実のそれとは似て非なるとは気付かない。無知な少年はそれを自認せぬまま、笑声を漏らす。

 

『? どうしたんですか?』

「いや、何でもないんだ。ただ、それだけ楽しんでくれたなら俺も嬉しいなって、そう思っただけだよ」

 

 それは極めて陳腐かつ月並みで、であるからこそ確かに彩歌の心底から零れた思いであった。いくら彩歌が動画投稿を本懐とせずにいるとはいえ、楽しんでもらえたという事実に対して心が動かない冷血漢では決してない。

 

『楽しいに決まってます! だって、彩歌くんの動画……貴方の歌や演奏には、大好きが詰まってますから!』

「あぁ……そうだね」

 

 半ば不自然にも思える、彩歌の言葉に挟まれた間隙。だがそこには何ら意味が含まれている訳ではなく、故に菜々も特にそれを気に留めることはない。彩歌自身そこに何か込めたつもりはなく、であればそれは、全く無意味な空白であった。

 

 しかし無意味であればこそそれは異質で、あまりにも希薄なために日常に希釈されて消えていき違和すらも残す事はない。電話口で柔和な笑みを見せる彩歌。続けての声音は、あくまでも上機嫌だ。

 

「明日、午後1時くらいから配信をするつもりだから、良かったら観てくれると嬉しいな」

『本当ですか!? 是非!』

「うん。楽しみにしてて。……それじゃあ、また。月曜日に」

 

 最後にそれだけ言葉を交わしてふたりの通話は終わり、通話画面からホーム画面へと戻ったスマホをスリープ状態に戻して彩歌はそれを半ば放り投げるようにして机上に戻した。椅子に背中を預け、金属同士が擦れる不快な音が耳朶を叩く。

 

 視線を窓に遣れば空は既に朱色に染まり果て、強い西日に思わず彩歌が目を細める。しかし地平線は見えない。文明が屹立する無機質な都会のコンクリート・ジャングルは黄昏の水底に影を落とし、それなのに西日ばかりが入り込んでくる。

 

 妙な立地だ、と彩歌は苦笑する。しかし彼は、そんな光景が嫌いではなかった。まるで刺すような日差しは目を瞑っても彩歌を無明に放置することはなく、それ故、意識の奥に張り付いた雨音を遠ざけてくれるのだ。瞑目。そして、嘆息。目蓋を上げて、彩歌は呟いた。

 

「音楽は音を楽しむもの、でしょ? ……分かってるさ」

 

 その呟きは、果たして誰に向けてのものだったのか。それを知る者はこの世界にただ独り、彩歌だけであった。



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第2話 まだ言えない、コノ秘密

「彩歌くん、昨日から始まったアニメ、観ましたか!?」

 

 最早遠い思い出となった、とある日の事。月曜日、今度はきちんと使用許可を貰って音楽室を利用していた彩歌の許を訪れた菜々が放ったのは、そんな問いであった。室内にいるのは菜々と彩歌のふたりだけで、扉は締め切られて声が外に漏れることはない。

 

 半ば偶発的とも言える切っ掛けにより友人となる前、つまりはただのクラスメイトであった頃の彩歌には知り得なかった事であるが、菜々はどうやらサブカルチャーをひどく好む気性をしているらしかった。

 

 その反面、彼女の両親はそういった類のものに彼女が触れる事を禁じているらしく、両親から隠れるようにして観ているようで、彩歌は何度か〝友人と一緒に勉強〟という名目で家に招き、録画してある番組を共に観た事があった。

 

 他にその話題を共有できる者がいないからだろうか、半ば興奮気味に問うてくる菜々に、観たよ、と彩歌。その答えを受けて更に気を良くしたのは満面の笑みで菜々は感想を捲し立て、彩歌は優し気な笑みでその話を聴いている。その光景はともすれば菜々の自分勝手なようで、しかし実態はそうではない。己の大好きに真摯な彼女がその大好きを語る姿を、少年は好ましく思っていた。

 

 ふふ、と口元に手を遣りながら人の好い柔和な笑みを浮かべる彩歌。聊か唐突にも思えるその所作に菜々は首を傾げて、その様子から菜々の言わんとする所を察した彩歌が先に口を開いた。

 

「ううん。何でもないんだ。ただ、大好きなものの話をするキミの姿、俺は好きだなって思っただけだから」

「えっ……」

 

 何の衒いもなく放たれた彩歌の言葉に短く言葉を漏らし、微かに頬を染める菜々。彩歌の言葉はともすれば何処か愛の告白ででもあるかのようで、しかし彼にとってそれは文字通りの意味でそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 意図してあえてそういった言い回しをしているのなら、それは彩歌が自己陶酔に溺れた気障なだけの男であると、ただそれだけの事だと言えよう。しかし彼のそれは意図したそれではなく、全くの天然であった。

 

 詰まる所、この時分の彩歌はひどく素直な少年であるのだった。流石に言って良い事と悪い事を判別する判断力は具えているものの、他人と比べて思った事を簡単に口にするきらいがある。ある意味では、だからこそ菜々と馬が合ったのかも知れない。

 

 そして、彩歌がそういう気性なのだという事は友人であるのだから菜々も知っている。だが知っている事と、すぐに対応できることは違うだろう。友の言葉によって湧いた羞恥を被りを振って堕とし、菜々は平静へと立ち戻ろうとする。

 

「彩歌くん、たまにすっごく恥ずかしくなってくるコト言いますよね……」

「そうかな? でも、好きなものは好きって言いたいじゃない。中川さんは友達だから、俺は好きだよ」

 

 友人は好き。あまりにも当たり前かつ単純で、しかし彩歌の言葉はひどく直截(ストレート)に過ぎた。気取っているかのようでもあるが、椅子にゆったりと腰掛けるその姿はあくまでも自然体であり、作為的な気配は何処にもない。やはりそこにいるのは、何処までもありのままな真野彩歌という少年の姿だ。

 

 此処まで来るともう筋金入りだ。最早恥ずかしがっている事すらも馬鹿らしくなってきて、菜々が呆れの滲む笑みを覗かせる。言い回しが直截に過ぎるにせよ素直は美徳であるし、好きなものは好きなのだという姿勢は、菜々が理想とする在り方そのものでもある。

 

 何より──彩歌は、菜々の大好きを受け止めてくれる。彼自身が己の大好きを隠さないからか、或いは両者の性格の相似のためか、菜々は彩歌と共にいる時間を居心地が良いと感じていて、それ故に彼の前では自然と他の誰にも見せない一面を晒している。それは、半ば無意識の事であった。

 

 己の大好きなものを享受するのは、言うまでもないが楽しい。しかし、その大好きを誰かと共有できるというのは、ひとりでいるよりも幸福である。そんな、ともすれば当たり前とさえ一蹴され得る感覚を、菜々は初めての同行の士を得るまで知らなかったのだ。彼女はそれを不幸とは思わないけれど、だからとて今を幸福だと思ってはならない訳もないだろう。

 

 笑みを覗かせる菜々。そんな共に彩歌もまた微笑みを返すと、鍵盤に十指を這わせた。その様はまるで舞台(ステージ)に上がる役者か、或いは神に祈りを捧げる敬虔な信徒のようでもあり、いっそ荘厳な気配すらも漂わせている。瞑目し、ひとつ、深呼吸。そうして開かれた孔雀青の瞳に宿るのは静謐なれども凄烈なる気炎の光であり、次の瞬間──音が、世界と化した。

 

 であればその調べは、さながら天地開闢の福音の如く。一打一打が乾坤一擲、全身全霊。その実体を単なる空気の振動とするそれは、しかしそれ以上の意味を伴って唯一の観客である菜々へと届き、彼女の認識する世界に新たな色彩を添える。

 

 嗚呼、壮麗なるかな、その音色。彼のそれは間違いなく天稟のそれでありながら、それだけに留まらない。もしも()()()()のものであるのならば、きっと人の心は動くまい。

 

 才気があるのは、言うまでもない。けれどそこに際立つ程の天才性はなく、だからこそ努力で磨き続けた才気という名の宝石は輝くのだ。彼が自然体でそう在れるのは、やはり、音楽が大好きだからなのだろう。

 

 故にこそ、その旋律は声ならずとも彩歌の叫ぶ〝大好き〟なのだ。彩歌の抱く大好きな気持ちを込めた、全霊の音色。だからだろうか、菜々にはその音に彩られた世界がひどく輝いて見える。大きな漆黒の瞳が爛々と輝いているのはその顕れか、単純な高揚によるものか。暫くして彩歌の手が止まり、世界が本来の容を取り戻す。

 

「……ごめんね。いきなり弾き始めちゃって。何だか、弾くたくなっちゃってさ」

「謝らないでください! 私は彩歌くんのピアノ、大好きですから!」

「ふふ、ありがとう、中川さん。……面と向かって言われると、何だか照れるね」

「えへへ、さっきの仕返しです!」

 

 菜々からの真っ直ぐな賞賛に頬を染める彩歌に、少女は悪戯な、かつ満面の笑みを浮かべる。しかし仕返しとは言ってもそれは紛れもなく彼女の本心で、それが分かるからこそ彩歌は反論などはせず恥ずかし気ながらも確かな微笑を浮かべている。

 

 それに、彩歌は嬉しいのだ。自身の演奏を誉めてもらえることは勿論だが、それ以上に自身の演奏を好きだと言ってもらえることが。無論言うまでもないことだが演奏自体はひとりでもできるし、それを自分自身で聴くこともできる。だが演奏者というのは即ち表現者であり、それを他者に受け取ってもらえるというのは望外の幸福であろう。それを好きだと言われたのならば、猶更。

 

 照れ笑いを浮かべる彩歌。だがそんな彼の目前で、不意に菜々の目に高揚のそれとは別の光が宿る。それは彩歌に対して向けられているものではなく彼女自身の裡へと向けられているようでもあり、同時にここではない何処か、不確定極まりない未来へと向けられているようでもある。言うなれば、そう、己の思い描く夢を真っ直ぐに見据えているかのような。

 

「……いつか、私にもできるでしょうか。私の大好きを、皆に向かって叫ぶ事が……」

「できるさ、きっと。中川さんなら。……もし、誰かが中川さんの大好きを否定したとしても……俺は、絶対に味方だから」

 

 それは。あまりにも無垢で、罪な程に無責任な口約束。約定を守る事の難しさも、誰かの味方をする事の意味も碌に知らない幼さ故の、しかしだからこそ疑う余地もなく本心から来る言葉であった。

 

 そしてそれは転じて、彩歌から菜々へと向けられている全幅の信頼と信用の顕れでもある。もう小学校卒業まで間もないとはいえ彼はまだ幼く、そのためにその信用の理由も〝友達だから〟という至極単純なものだ。それ以上でも、それ以下でもない。故にこそ、そこに他者を陥れんとする作為も一片とて存在し得ない。あるのは、友を想う気持ちただひとつ。

 

 どこまでも直球な彩歌の言葉に、返答が一拍遅れるなあ。だがすぐにその意味する所を理解すると、花のような笑顔を咲かせた。可憐、華麗という表現が相応しいその様に彩歌は刹那にも満たぬ須臾の間、言い知れぬ感覚を覚えるも、それはすぐに掻き消えて輪郭を失ってしまう。

 

「はい! へへ、約束ですよ!」

「うん。約束」

 

 そう言葉を交わし、ふたりは互いの右手、その小指を絡ませ合う。指切拳万。今では普遍化したその行為の由来を少しも知らぬまま、幼いふたりは約定を交わす。互いを想う気持ち以外の介在し得ぬ、清廉なる誓約だ。

 

 これが中川菜々、そして真野彩歌が小学6年生の頃の事。この先に待ち受ける運命を知らぬ彼らは、互いの道程へと強く作用し合うのであった。

 


 

「さ──か──ん! さい──く──!」

 

 ──まるで、何か長い夢でも見ているかのような感覚であった。意識に纏わりつきそれを湖底に沈める闇すらも心地よく、しかし唐突に降り注いできた声の前にそれらは無力で、引っ張り上げられるようにして少しずつ彩歌の意識が現の容を取り戻していく。

 

 夢幻の世界から帰還した五感が肉体に宿り、現実と摺り合わされる。そうしてまず初めに機能を回復した聴覚が捉えたのは、そよぐ風の音と誰かの吐息。それにつられるようにして目蓋を上げれば、見知った顔がそこにはあった。

 

「あれ、中川さん……? どうしてここに?」

「どうして、ではありません。ここは学園の中庭ですよ」

 

 果たして、そこにいたのは菜々であった。生徒会の業務の帰りであるのだろうか、嫌に多い量の荷物を帯びていて、その表情は生徒会長としての真面目なそれでありつつも半ば彩歌への呆れが浮かんでいるようで、それを受けた彩歌は寝ぼけ眼で周囲を見渡す。

 

 既に放課を迎えてそれなりの時間が経っているのだろうか、太陽は少しずつ西へと傾き始めており、空は青と茜のグラデーションを描いている。グラウンドの方から聴こえてきているのは運動部の掛け声であろうか。何より目前に聳える建物は虹ヶ咲学園の校舎に違いなく、であればこの場所が菜々の言う通り学園の中庭であるのは疑いようのない事実であった。

 

 しかし、何故こんな所に。そんな疑問を抱いたのも束の間、微睡の気配から脱した彩歌がすぐに原因を思い出す。その解答が示すまま傍ら、自らが座っているベンチの座面を見れば、そこにあったのは一冊のノート。そして彩歌愛用のシャープペンシル。

 

「そうだった……俺、新しい曲の歌詞を考えていて、天気が良いから中庭でやろうと思って出てきたら、そのまま……」

「眠ってしまった、というワケですね。まったく、貴方らしいと言うかなんというか……」

 

 そう言い、溜め息を吐く菜々。だがその所作とは裏腹にそこに咎めるような色合いはなく、その顔に浮かんでいるのは生真面目一辺倒な仏頂面ではなく微笑であった。それに応えるようにして、彩歌もまた自嘲的な笑みを漏らす。

 

 いくら学園の敷地内であるとはいえ、一応は公共の場である場所で眠るなど不用心だと詰られても文句は言えまい。だが、仕方ないではないかと彩歌は思う。何しろ、今は春だ。その陽気に誘われて眠気を催し抗えずに眠ってしまうのも、ある意味では当然の事だ。

 

 しかし身一つで眠っていたのならまだしも貴重品などと傍らにしたまま眠ってしまっていたのでは万が一という事もあっただろう。次に同じことをする時には何か対策をしなければ、と聊かズレているようにも思える反省をしながら、彩歌は菜々に言葉を返す。

 

「ごめんね、面倒かけちゃって。でもありがとう。起こしてもらえなかったら、俺、いつまで寝てたことか……」

「そんなに眠たかったんですか?」

「んー、そうでもないと思ったんだけど、春の陽気は気持ちが良いからね。眠気を誘われちゃったのかも」

 

 言うや否や菜々の目の前で彩歌は欠伸をひとつ漏らし、眦に大きな涙滴が浮かぶ。その様はいっそ牧歌的とすら表現し得るほどで、気を抜けば起こした側である菜々もその雰囲気に当てられてしまいそうであった。

 

 だがいつまでも眠ってはいられないし、彼らにはこれからしなければならない事もあるのだ。欠伸によって浮かんだ涙を雑に拭い、ノートを開く。未だ途中までしか書きあがっていない、新曲の歌詞。それを見つめる彩歌の表情はノートの陰になっていて、菜々からは見えない。だが再びノートを閉じて見えたそれは、菜々のよく知る柔和そうなそれだ。

 

「中川さんは、これから下校?」

「いえ。この後、少し用事がありまして……」

「そっか。久しぶりに一緒に帰れるかなと思ったんだけど、用事があるなら仕方ないね」

 

 伸びをしながらそう言う彩歌の様子は、言葉とは裏腹にしてあくまでも平静だ。だが、それも考えようによっては当然の反応であろう。小学生であった頃ならともかくとして、彩歌ももう高校2年生だ。友人と共に下校できない事を嘆くような年齢でもない。

 

 機会があれば共に行動する事もあろう。こうして会話する事もあろう。加えて言うのなら彩歌は動画投稿者として未だ顔出しをしていないにも関わらず菜々に対しては自身が動画投稿者〝さっちゃん〟であると明かしている程度には信用も信頼もしている。菜々と彩歌の関係は、今でも変わらず友人である。それ以上でも、それ以下でもない。ふたりの関係性は、十全に友人であった。

 

 ベンチの足に立てかけてあった背負い鞄を回収し、ノートをその中に、シャーペンを筆箱の中へと放り込む。そうして手早く帰宅の準備を済ませると、彩歌は鞄を背負いながら立ち上がった。菜々と彩歌、出会った頃は目線の高さは大した違いはなかったが、今では18㎝程彩歌の方が高く、彼の方が見下ろす形になる。

 

「それじゃ、俺はそろそろ帰ろうかな。父さんが帰って来る前に夕飯も作らないといけないし」

「そうですか。……あの、彩歌くん」

「ん? どうしたの、中川さん?」

 

 妙に歯切れの悪い様子の菜々に、小首をかしげる彩歌。男性がすると少々あざとくも見える所作であるが、彼の線の細い顔立ちのせいか不思議と絵になっている。孔雀青の瞳にはあくまでも菜々を純粋に見つめる光のみがあって、菜々の言葉を待っている。

 

 そんな彩歌を前にして、菜々は何度か口を開きかけては何も言わずに噤むというのを繰り返している。日の当たる中庭で1対の男女がそうしているのはまるで何か大事な告白をしようとしているかのようで、しかしどうしてかそれらしい浮ついた気配はなかった。

 

 だがそうした気配はなくとも、そこにあるのが何という事の内会話をしようとしている時とは全く異なる雰囲気であるのも確かで、幾許かの間の後、漸く意を決したかのように、或いは話題それ自体は同じでも彼女自身にしか知り得ない何かを変えたかのように、口を開いた。

 

「彩歌くんは、スクールアイドルになりたいって思った事はありますか?」

「突然だね。うーん、スクールアイドルかぁ……」

 

 スクールアイドル。その名前の通り学校活動、主に部活動としてアイドル活動を行っている者を指し、その文化は十数年ほどまえに生まれた比較的若いものでありながら社会の中で一定の地位を築いている。菜々が昔からそれを好きな事も、虹ヶ咲に最近スクールアイドル同好会が発足した事も、彩歌は既に知っていた。映像も何度か見た事がある。特に目を引かれたのは──〝優木せつ菜〟。理由までは、彼自身にも分からないが。

 

 スクールアイドルは全体的には女性人口の方が多いものの、決して男性のスクールアイドルがいない訳ではない。故に彩歌がスクールアイドルとなったとしても、それは何もおかしい事ではないのだ。

 

 腕を組み、逡巡。少しの間を空けて彩歌はその構えを解いて、再び菜々の方へと向き直った。

 

「俺自身がなりたいとは、特に思ったことはないよ。

 でも……烏滸がましい思いかも知れないけど、そういう、自分の大好きに正直な人達に俺の作った曲を歌ってもらえたなら、最高だなって、そう思う」

 

 それは至って平静でありながら、何処か羨望ででもあるかのような、或いは焦がれるような色を内包した、心底からの本音であった。己の大好きに素直である人達に、自分が作った曲を歌ってもらえたのなら、どれだけ幸福だろうかと。彩歌は本気でそう思っていて、嘘ではないからこそ彼自身ですらそれが秘める隠された意味に気付けない。無論、菜々もそうだ。

 

 それだけ答えてもう質問は済んだと判断したのか、「じゃあまた明日ね」とだけ告げて彩歌は中庭を後にする。菜々はその背中を見つめて、しかし追う事はしない。やがてその姿も見えなくなって、菜々は大きく息を吐いた。そうして、()()()()()()()()()()、と一言。

 

 誰あろうここにいる中川菜々こそがスクールアイドル優木せつ菜の正体であると、彼女自身以外にこの世界に知る者はいない。それこそ、付き合いが長い彩歌ですら、先程の口ぶりからして気づいていないのだろう。その事を全く寂しく思わない訳ではないけれど、同時に高揚している事も、菜々は自覚していた。大切な人にすら正体を隠して活動する──まるで、物語の中で活躍する変身ヒーローのようではないか、と。

 

 だが、いつかは告げたいとも思う。何があっても絶対に味方でいてくれると約束してくれた彼にだからこそ、自分は大好きを叫べるようになったのだと、真っ直ぐに。そのために、今はまだ、この秘密は秘密のままにしておくのだ。

 

 周囲に人の目がない事を確認し、菜々は徐に三つ編みを解いた。そうしてポケットから取り出した髪留めでサイドテールに纏め、眼鏡を外せば、もうそこにいるのは生徒会長たる中川菜々ではなく、スクールアイドル優木せつ菜だ。コンタクトレンズをしていないから、視界はぼやけているけれど。

 

「さぁ、今日も練習頑張りますよー!」

 

 元気な声で、気合をひとつ。菜々、もといせつ菜は仲間たちが待つ場所へと駆けていくのであった。

 



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第3話 ワタシを知らないアナタ/キミの知らないオレ

「──、──」

 

 荒いながらも一定のリズムで刻まれる呼吸。滴る汗が建物の間から顔を出した朝日を受けて煌めいて、肌を撫でるそよ風が心地良い。時間帯故か都内のそれなりに大きな道路であるにも関わらず人の姿は殆ど皆無と言って良く、その中を駆けてゆくというのは一種の征服感すらもある行為であった。

 

 だがそのうち彩歌は赤信号に行く手を阻まれて、それでもペースを崩すまいとその場で足踏みを繰り返す。腕時計を見てみれば、時刻は午前5時になろうかという頃合であった。いつも通りの、何の変哲もない時刻。信号の切り替わりと共に、彩歌は再び走り出した。

 

 登校前、早朝のジョギング。それが彩歌の日課であった。始めたのが中学校入学前後辺りであるから、4、5年程度は続けている事になろう。尤もコースまで同一という訳ではなく彩歌の体力向上に伴って年々長くなり続けているが。

 

 彩歌は何も体形維持を目指していたりスポーツを嗜んでいる訳ではないが、歌にも演奏にもそれなりに体力がいる。早朝のジョギングはそのために始めて、今では就寝前の筋力トレーニングも併せて半ばルーチンワークと化していた。

 

 家を出発して住宅街を抜け、もぬけの殻と化した都心のビル街の間を抜けていく。この時間だけは、彩歌は過不足なく完全に独りだ。彼は何も孤独を好んでいたり逆に独りを嫌っている訳ではないけれど、それでもこの静謐が嫌いではなかった。孤独の時間とは即ち、余人に介入されずに自身の裡へと埋没できる時間だ。有効利用しない手はないだろう。

 

 だが万物には終わりがあるように、その静謐にも終焉は必ずやってくる。街並みは少しずつビル群からマンションや家屋が立ち並ぶ住宅街へと変わっていって、やがて彩歌はとある家の前で足を止めた。その門にある表札には〝真野〟の文字。即ち、その一軒家こそが彩歌の自宅であった。

 

 火照った身体を冷ますように襟元で扇ぎながら片手で門を開けてみれば、視界に飛び込んできたのは見慣れた庭。隅々まで手入れが行き届いたその様は、この庭の管理を行っている者の几帳面さがよく表れていると言えよう。その庭を抜け、玄関扉を開錠してノブに手を掛ける。

 

「ただいま」

「おう、おかえり。彩歌」

「あれっ」

 

 少なからぬ驚きを孕んだ、間抜けな声。態々挨拶を返してもらったというのにかなり失礼な反応であるが、しかし彩歌がジョギングから帰ってくる時間には彼の唯一の家族は既に仕事に出ている事が多いのだから、半ば致し方ない事であろう。

 

 そんな彼の内心を知ってか知らずか、リビングと廊下を繋ぐ出入り口から現したのはひとりの男性であった。年を重ねているが故の含蓄の色こそあるものの顔の造作は彩歌とよく似ているが、髪の色は彩歌の亜麻色と異なり深い漆黒だ。身長は彩歌より高く、180㎝程はあるだろう。実年齢を考えれば非常に大柄な方で、そのせいか無断で拝借している彩歌のエプロンとの組み合わせは何処か妙な不格好さを漂わせている。だが本人が纏う異様な存在感のせいか、まるでその不格好さすらエッセンスとしてひとつの衣装としているかのようですらあった。

 

 総じて只者ではないと言える雰囲気を纏うその男性の名は〝真野(まの)陽彩(ひいろ)〟。つまり彩歌の父であるのが、その男であった。齢50という紛れもない中年男性であるが、引き締まった身体と童顔は30代と言っても通用しそうな程で、それが本人の悩みの種でもあった。

 

「今日はまだ仕事じゃなかったんだね、父さん」

「あぁ。今日のスケジュールは、いつもより多少余裕があってな」

「そうなんだ。だからって態々自分で朝食を作らなくても、俺が作ったのに」

「オイオイ、その言い方はないだろ? ただでさえいつもオマエに任せきりになってるんだから、たまには俺に作らせてくれてもいいじゃないか」

「ふふ、そうだね。ごめんごめん」

 

 そう言って微笑む彩歌を前にして、陽彩もまた笑みを見せる。そこに仕事を取った取られたの険悪さはなく、むしろ親子としての確かな情があった。或いはいつもは早くに仕事に出てしまう父とこうして話ができている事を彩歌が嬉しく思っているという事もあるのだろう。

 

 とある大手芸能事務所にてプロデューサーとして働いている陽彩は、その業務故に朝早くに家を出てしまう事が多いのだ。これがもしも大した能力もないのであればもう少し余裕もあったのだろうが、陽彩自身が若い頃にアイドルとして活躍していた経験があるのもあって高い成績を出しており、それ故に陽彩のスケジュールはかなり多忙なのである。

 

 そのため、陽彩が彩歌と共に過ごせる時間はそれなほどある訳ではなく、しかし彩歌はそれを不満には思わない。例えあまり一緒にいられずとも彼は父を尊敬しているし、多くの人に必要とされる父というのが、彼には誇らしく思えるのだ。

 

「じゃ、お言葉に甘えて朝食は父さんに任せて、俺はシャワーを浴びてきちゃおうかな。……あぁ、もう気づいてるかもだけど、冷蔵庫の中に昨日の夕飯の残りがあるから、弁当にはそれ入れてね」

「了解。じゃ、ゆっくりシャワー浴びてこい。出てきた頃には出来上がってるだろうしな」

 

 何処か得意な表情のままそう言う陽彩に彩歌はそうするよ、と言って風呂場の方へと歩を進めていく。彼の自宅はその外観に違わずかなり広く、最も奥まった場所に位置する風呂場に辿り着くまでにもいくつかの部屋に繋がる出入り口を無視して行く事になる。それだけの部屋数なら当然と言うべきか、その中にも和室はあって。その横を通り過ぎた瞬間──

 

 ──嗅ぎ慣れた線香の臭いが、彩歌の鼻腔を突いた。

 


 

 透き通るような静寂であった。開け放たれた窓から見える空は青く、吹き込んでくる風が心地よい。未だ夏と言うには早い時期であるため湿度もそこまで高くはなく、総じて過ごしやすい陽気であると言えよう。そんな中で、読書日和だね、と彩歌は内心で独り言ちる。

 

 虹ヶ咲学園、その図書室。学園自体の規模と生徒数の多さからその蔵書数は膨大であり、それ故に部屋自体の大きさも学校のそれとしては異質な程だ。彩歌がいるのはその一角、主に小説、中でも純文学と呼称されるジャンルが並んでいる本棚の前であった。

 

 彩歌は特筆する程読書家という訳ではないにせよ、昔から読書というものが嫌いではなかった。小説、図鑑、雑誌、伝記、そのジャンルは多岐に渡り、特に選り好みはしない。今、純文学のコーナーにいるのも、今日はそういう気分だったというだけの極めて単純な話だ。

 

 特に深い事を考えず、ただ漫然と本棚を眺めて気になった本を手に取る。そんな益体のない時間ですら娯楽とでも言うかのように、彩歌の表情は楽し気だ。此処が私語禁止の場でなければ鼻歌のひとつでも歌ってしまいそうな程に。

 

 それから彩歌は何度か本棚の前を往復し、興味を引かれた本を何冊か手に取ってカウンター付近のパソコンから貸出処理を済ませた。そうして本を鞄へと入れ、用は済んだとばかりに図書室を後にする。既に放課を迎えてそれなりの時間が経過しているからだろうか、廊下を行き交う人影は日中に比べるとひどく疎らだ。

 

 人気の絶えた廊下に、自分ひとり。それはまるで世界に自分だけが独りで取り残されているかのようで、しかし同時に外からは運動部の生徒らの鬨が聴こえてくるのは、どこか倒錯めいてすらいる。

 

 そんな、どこか相反する要素を内包した中を、彩歌は今度こそ上機嫌に鼻歌など漏らしながら歩いている。今まで読んだことがなかった本を見つけたというだけで聊か大袈裟なようであるが、彩歌にとって新たな本との度合いは未知との遭遇にも等しい。俗物的な表現をするならば〝ワクワク〟というものだ。心底から今すぐにでも読みたいと思うものの、歩きながらの読書というのも危険だろう。

 

 だがそうして彩歌が足早に歩いていると、不意に彼の耳朶を打つものがあった。

 

「スクールアイドル優木せつ菜──覚醒っ!!」

「……?」

 

 微かに聴こえてきたそれは、声であった。トーンからして女子生徒のものであろうか。距離が離れているのか、或いはドアや壁を隔てているからか何を言っているかは判然としないものの、どうしてかその声は激烈な情熱を内包しているのだと、彩歌には感じられた。

 

 しかしそれだけであるのなら、彩歌が足を止める事はなかっただろう。独りで歩いている時に誰かの声が聞こえてくるなど、そう珍しい事ではないのだから。故に彼が足を止めた原因は別にあって、けれど彼自身にすら明文化の難しい異様な感覚であった。

 

 最も近いものを挙げるのならば、デジャヴというものであろうか。確かにその声と同じ気配を漂わせるものを彩歌は知っていて、それなのにその違和を追跡しても答えは出ない。それどころか記憶への潜航は、まるで彩歌の侵入を拒むかのように彼を思い出したくもない方へと押し流していく。

 

 それは、言うなれば過去の残響。彩歌の魂にこびりついて離れない、今の彼の在り方を嫌が応にも定義づけるそれ。──在りし日の雨音。乱打する激流。心象に撃ち込まれた楔に彼は縛られていて、それに抗うように彼は蟀谷に手を遣りながら苦悶する。雨。衝撃。金属。視線。無垢。ぐるりぐるりと、巡り巡る。耳障りな残響が彩歌の邪魔をする。記憶の中に楽園などなく、しかし幻想の残響を断ち切るかのように、声。

 

「どうしたんですか!?」

「えっ……」

 

 何の前触れもなく唐突に意識に入り込んできた現の声が夢幻を破砕し、彩歌は忘我より立ち戻る。そうして焦点は今へと合わさり、視界へと飛び込んできたのはひとりの少女の姿であった。

 

 背丈はかなり小柄で、150㎝半ばといった所であろうか。まるで夜空を織り込んだかのような美しい黒髪を長く伸ばし、その下では大きな漆黒の瞳が気遣うような光を湛えて彩歌を見上げている。何かの練習着なのだろうか、格好は相当に軽装(ラフ)だ。

 

 その姿。その声。その気配。彩歌は確かにそれらをよく知っている筈で、にも関わらず導き出された名は真であると同時に偽。──優木せつ菜。彼の目の前に現れた少女は、彼にとって()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ううん、何でもないんだ。ただちょっと、眩暈がしただけだから」

「そうなんですか? それも十分に大丈夫ではない気もしますけど……」

「持病みたいなものだから、いつもの事だよ。心配かけてごめんね。えぇと……優木せつ菜さんだよね? スクールアイドル同好会の」

「っ……はい! 本気系スクールアイドル優木せつ菜! ですっ!!」

 

 そう名乗りをあげながら、まるでステージから客席へと投げかけるようにしてポーズを取ってみせるせつ菜。それを見つめる彩歌の表情はあくまでも柔和で、せつ菜が息を呑んだ意味に気付いた様子はない。

 

 それはせつ菜の『せつ菜』たるが完全であるからなのか、或いはまた別の要因によるものか。周囲に他の生徒が現れる事も否定できないから気づいていないように振舞っている可能性は皆無ではないにせよ、気づいているならそれはそれで対処の仕様というものがあろう。故に、皆無ではなくとも可能性としては極めて低い。

 

 せつ菜自身が意図した事だ。名は体を表す。彼女はスクールアイドルとしての活動を両親に悟られないために、自身の夢に好きな小説の登場人物を由来とする〝優木せつ菜〟という名と姿を与えた。故にせつ菜の名を与えられる前の彼女について知っている友にすら露見しないのは、目論見通りではある。だが、その事に一抹の寂しさを覚えてしまうのも、矛盾しているようではあるが致し方ないというものだ。

 

 彩歌から見える菜々/せつ菜。せつ菜/菜々に見える彩歌。それが相手の全てではない事は、あまりにも自明に過ぎる。だが人間は己が知る事でしか相手を見ることができないのも道理で、故にこそ、見えていないのは彩歌だけではない。せつ菜もまた、同様だ。

 

「わぁ、凄いなぁ。俺、本物のスクールアイドルって初めて会ったよ。何というか、キラキラしてるね」

「そうですか? へへ、ありがとうございます!」

 

 彩歌の言葉は聊か抽象的でこそあるものの間違いなく賛辞で、そこに嘘の色は一切ない。故にせつ菜ははにかむように笑って、彩歌が目を細めた。或いはそれはただ微笑むようでもあり、決して届き得ぬ太陽を見上げる矮小なる愚者のようでもある。

 

 キラキラ、キラキラ。その輝きは太陽か、或いは炎か。どちらであろうと発する光は周囲を照らし、受け取った者の心に火を灯すだろう。だがあまりにも強すぎる光は過剰な熱を生み、近づく者はおろか自らをもを焼いてしまう危険も孕んでいる。その在り方に、良いも悪いもない。一長一短。長所とは視点を変えれば短所でもあって、正否を問えるものではないのだ。だからこそ、誰がどのような在り方に焦がれようとも、それは全くの自由だ。たとえ焦がれて、焦がれ続けて、その果てに燃え尽きようとも。

 

 せつ菜の浮かべる屈託のない笑顔はまるでそこにあるだけで世界を眩しく照らすかのようで、あまりにも眩しい。眩しくて眩しくて、目が眩んでしまいそうだと、彩歌は思う。だが彼は燃えない。焦がれない。燃え残った灰に、火が点かないのと同じように。

 

 目を逸らすように空を見遣れば、広がっているのは一面の青。夏至まではまだそれなりに日数があるが日はそうとうに長くなってきていて、黄昏はまだ先だ。まるで中空に青い絵具をぶちまけたかのような青い、蒼い空。それを見上げる彩歌の瞳はあくまでも凪いでいて、何を感じているのか推し量る事は難しい。

 

「キミ達()()の自己紹介動画は一通り観たけど……まさか、こうして遭遇する事があるとは思ってなかった。特に優木さんは、校内でその姿を見た人はいないって評判だからね。……まぁ俺はただの観客だし、特別会いたがってたワケじゃないけど」

 

 聊か誤解を招きかねない言い方であった。彩歌は何もそこまでスクールアイドルに興味がないから会いたいと思っていなかった訳ではない。彩歌はそこまで熱心で執心な方ではないとはいえ、何であれスクールアイドルらにとっては観客のひとりでしかなくみだりに詰めようとしてはならない距離がある。たとえ本質的には同じ学校の一生徒でしかないのだとしても。

 

 彩歌のその考えは正しく己の立場を弁えているようで、しかしひどく今更な話でもある。彩歌自身は気付いていないとはいえ、せつ菜は菜々で、その菜々と彩歌は友人なのだから。距離が云々などと、どの口が言っているのか、という話だ。気づいていないから仕方がない、と言い切れるものでもあるまい。

 

 とはいえ、袖振り合うも他生の縁、という言葉もあるように偶発的な遭遇もある種の因縁というもの。それを意図的に避けるなど、まず不可能だ。少々身を屈め、まじまじ、とも表現できそうな面持ちでせつ菜を見つめる彩歌。

 

「それにしても……」

「な、何です……?」

「うん。……映像で見るより、本物の方か可愛いかな? いや、映像でも十分に可愛いけどね」

「へぇっ!? かっ、かわっ、可愛い!?」

 

 全く思いもよらなかった彩歌の発言に赤面し、狼狽するせつ菜。そんなせつ菜の様子が可笑しいのか彩歌は口許に手を遣りながら笑う。その所作は或いはせつ菜を揶揄っているようで、しかし先の言葉は紛れもない本心であった。

 

 少なくとも彩歌の認識の上では初対面である相手にこのような発言をするなど、ともすればひどく軽薄な人物と見做されても文句は言えない行動だ。そうならないのは、相手がせつ菜/菜々であるからこそとも言える。或いはスクールアイドルという相手に対するならば、そういう応対が適切なのではないか、と。そう判じたか、それとも全く打算のないただの天然か。真野彩歌という少年は、そのどちらも在り得る手合いであった。

 

 だが打算であれ天然であれ、彩歌は決して思ってもない事は口にしていない。美醜の感覚は人それぞれと言われてしまえばそれまでだがせつ菜が客観的に見て容姿端麗と言うに相応しいのは確かで、そういう意味では彩歌の言葉は世迷言と言うには不足であろう。尤も、だからとてさして狼狽しないかと言えば、そうではないのだが。

 

「いっ、いきなり何を言うんですか!」

「ふふっ、そんなにびっくりするコトないじゃない。俺はただ、思った事を口にしただけだよ」

「うっ……うぅぅぅぅ……」

 

 消え入りそうな声であった。羞恥半分照れくささ半分といった抗議を前にして、それでもなお彩歌は自らのペースを崩さない。彼はあくまでも微笑みを湛えたままで、しかしせつ菜は対照的に茹蛸のような紅潮を晒している。完全に彩歌のペースに呑まれる形で、それ故にせつ菜の脳裏からは既に、遭遇した当初に彩歌が見せていた異な様子の事など押し流されてしまっているようにも見える。

 

 それが全くの偶然か、或いは彩歌自身が狙ってそうなるように仕向けたのかは、余人には分からない。ただひとつ確かであるのは彩歌をよく知るせつ菜/菜々の目から見ても、今の彩歌はあくまでも彼女のよく知る『真野彩歌』であるという事だ。変に素直で、時折何の抵抗もなく気障にも思える事を言い出す。彼女と知り合った時から何も変わらない、大切な友人の姿であった。

 

 それからせつ菜は火照った頬を冷ますように顔を手で仰ぎ、彩歌はそんな少女の様子を先程から一貫して笑顔のまま見ている。それは或いはやはりせつ菜を揶揄っているようにも見え、しかし表情の変化がないためにそこから内心を読み取るのは難しい。その在り様はいっそ不気味とすら言える程で、しかし唐突に彩歌が笑顔を崩した。そして現れたのは、先の笑顔とは真逆とも捉えられるような、惑う子供を思わせるそれ。

 

「でも、本当に凄いよ。優木さんも、同好会の人達も。スクールアイドル……自分の大好きに一生懸命で」

「……?」

「──なんて。ごめんね! 変なコト言って」

 

 束の間の昏迷であった。せつ菜が違和に気付いた時にはもう既に彩歌の表情は笑顔に戻っていて、しかしそこには一瞬の惑いについて言及を許さない異様な強制力を孕んでいるようにも感じられる。それ故かせつ菜はすぐに問いを発することができなくて、その間隙を縫うようにして彩歌が先手を打つ。

 

「さて、いつまでも引き留めているワケにもいかないし……俺はこれで帰るね。練習、頑張って! 応援してるから! それじゃ!」

 

 笑顔。笑顔。笑顔。彩歌の声音はあくまでも明るく、せつ菜のよく知るそれだ。まるで先の異質などなかったかのような振る舞いを前にしてせつ菜はやはり何も問うことができなくて、その間に彩歌はせつ菜の許を離れてしまう。遠ざかっていく足音。校舎の片隅であるために他に生徒の姿は少なく、それでも皆無ではないというのに、嫌にその足音だけが聴覚を震わせる。取り付く島もない、とはこの事か。

 

「彩歌くん、貴方は……」

 

 振り返り、彩歌が消えていった方向へと呟く。しかしその呟きが彩歌へと届くことはなく、言葉は虚空へと溶けて消える。先の彩歌が笑顔の間に垣間見せた、せつ菜が知らない表情。それは果たして実像か、或いは錯覚か。最早確かめる術はなくて、せつ菜は己が向かうべき方向へと歩を進めていく。

 

 ──虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会。そのお披露目ライブまで、残り僅かなある日の事であった。

 



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第4話 オレはずっとキミのトモダチ

 春。それは出会いと別れの季節。──あまりにも使い古され果てた謳い文句だ。手垢に塗れ、陳腐に堕ちきった表現だ。だがそれでもなおこの表現が使われ続けているのは、それが春という季節の一端を適切に表している言葉だからなのだろう。故に春というのはいつも出会いの高揚と同時に別離の寂寥をも運んでくるのだ。それはある種のノスタルジーと言い換えても良いかも知れない。人は、いつだって過去を懐かしむ生物なのだ。そこに、年齢は関係ない。

 

 僅かに開放された窓から入り込んでくる涼し気風は朝である事を告げ、そこから外を覗けば校庭を縁取るように整然と並んだソメイヨシノが桃色の化粧を纏っている。そんな、あからさまなまでの春の早朝の景色。そんな中で桜の円環に囲まれた学校から漏れ聞こえるピアノの音色はまるで不可視の色にて世界を彩るかのような響きを伴い、しかし同時に何処か悲し気であった。果たしてそれはその奏者たる少年……真野彩歌の内心が音色に顕れたものであるのか否か。

 

 今、音楽室にいるのは彩歌ただひとり。観客のいない演奏会。だが鍵盤の上で跳ねる彼の指はまるで舞台にて舞う役者のようですらあり、であるからか鍵盤を押し込む一打一打が彼が裡に抱く感情を、ピアノを己の器官とし、それを通して外界に出力しているかのような印象さえ抱かせる。無論、それは錯覚だ。ピアノが人間の器官である筈がない。だがそう形容するのが正しい程、彩歌の演奏は上達していた。少なくとも、およそ2年前、小学5年生になったばかりの()()()と比べれば、月とすっぽんとでも言うべき上達具合だ。それは彩歌が積み上げてきた努力の結実でもあろう。或いは彼自身はその努力を努力とも思っていないのかもしれないが、どちらにせよ結果としては同じだ。

 

 そして、やがて終端がやってくる。舞台で踊る演者はその動きを止め、音色は虚空に溶ける。現実に上塗りされた幻想(テクスチャ)が霧散して、世界の色彩は元の容へと立ち戻った。ほう、という吐息はある種のスイッチだろうか。視線を鍵盤に置いたまま彩歌は舞台を降り、そこへ耳朶を打つ拍手の音。先程までは自分以外にはいなかった筈、とそう思いながらも、彩歌は驚かなかった。予感か、或いは確信か。兎も角、知らぬ間の観客の来訪を、彼は半ば当然のものとして受け入れていた。

 

「中川さん」

「素晴らしい演奏でした。……けど、音楽室使用の許可は取ったんですか、彩歌くん?」

「勿論。俺だって、ちゃんと学習はするからね」

 

 冗談めかした菜々の問いに、彩歌もまた悪戯な声音で答える。その遣り取りはふたりがこの音楽室にて初めて事務的な事以外の言葉を交わした時の繰り返しのようでいて、しかし完全な再演ではない。少なくとも菜々の意図を即座に察して言葉を返すというのは、当時の彩歌では絶対にできなかった事だ。

 

 そんな彩歌を前にして菜々は堅物で生真面目な自分から快活で天真爛漫な自分にスイッチし、その端整な顔に華のような、或いは燦々と輝く陽のような笑みを湛える。ともすればどちらかが演技とでも錯覚してしまいそうな変化だが、どちらも中川菜々という少女の本性なのだと、彩歌は知っていた。

 

 それきり僅かな間、絶える会話。互いに何を言えば良いか出方を探っているかのような気配さえある沈黙の中で、彩歌が何気なく鍵盤を撫でる。惜しむかのようなその所作を前に、菜々が呟きを漏らした。

 

「今日で、最後なんですよね」

「うん……そうだね」

 

 最後。菜々の言葉はあまりにも胡乱ではあったけれど、何が、とは彩歌は問わなかった。いや、より正確に言うならば問うまでもないと判じたのであろう。他の日ならばいざ知らず、この日──卒業式の日であるならば、何が最後であるかなど態々考えるまでもない。この校舎、この教室に訪れる事、そしてこの逢瀬にも似た邂逅が最後だと言っているのだと分からない程、彩歌は愚鈍ではなかった。

 

 この学校を卒業した後、彩歌は都立の公立中学へと、菜々は虹ヶ咲学園という私立の中高一貫校の中等部へと入学する。つまりはふたりが同じ学校の同じ校舎に通うというのは、この日が最後なのであった。一応両者共に同じ学区内に住んでいるのだから会おうと思えば簡単に会える距離ではあるけれど、それぞれの事情故にこれまでと同じようにともいくまい。まだ高校や大学が同じになるという可能性も皆無ではないけれど、まだ年若い彼らにとって3年、或いは6年という時間の質量はひどく重いものにも感じられて、それ故にその『最後』という言葉は彼らにとって滑稽に堕ちるものではなかった。

 

 彼らがこの音楽室で出会ったのが小学5年生に進級してからすぐの4月中であるから、その付き合いは約2年といった程度であろうか。ある程度の年齢を重ねた者からすればそれは大した意味も生まれ得ないほど短い時間であるけれど、対人関係の濃密さとは何も時間に比例するものではあるまい。少なくとも彼らにとって、互いに互いを得難い友人だと思うにその時間は十分に過ぎた。

 

「これからはこうして話すのも、貴方のピアノを聴くのも少なくなって……寂しくなっちゃいますね」

「ふふ。俺と会えなくなるの、そんなに寂しい?」

「当たり前です! 彩歌くんは、その、大切な友達ですから……友達と離れ離れになるのは、寂しいに決まってます」

 

 揶揄うような、或いは茶化すような彩歌の問いに対してもなお、菜々は真っ直ぐに少年を見つめながら答えを返す。偽りの気配のないそれに彩歌は僅かに動揺したかのように頬を染め、しかしすぐに微笑した。それは常の飄々とした、或いはマイペースな彼らしからぬ年相応の少年のような笑みであった。

 

 大切な友達。直接そう告げられるのはさしもの彩歌と言えど照れが入ってしまうものの、少なくとも相手からそう思われていて気を悪くする程、彩歌は擦れても斜に構えてもいないつもりであった。それは彼が時折菜々を──揶揄うような調子ではあるものの──友達だと口にする事からも明らかであろう。冗談めかしてはいるものの、幼い彩歌は滅多に嘘を吐かない少年であった。大切に思い、思われ。それは人間同士の交友関係として基本であると同時に理想形のひとつでもあろう。

 

 だがそれと矛盾するような思いではあるが、彩歌はいつか菜々から大切に思われなくなっても良いとも思い、それを望んでいるかのようなきらいさえあった。菜々をそんな薄情な人間だと思っている訳ではない。しかし今は菜々の快活な一面を知るのが彩歌だけなのだとしても、いつか彼以外にも多くの人がそれを知る事になる予感が彩歌にはあって、そうなれば彼は本性を知る唯一の人間ではなく、数多くいる友人の、何でもないひとりにまで堕ちる。それで良い。それが良い。彩歌は友達は多ければ多いほど良いとは思わないけれど、友の行く末に幸あれと思えばこそ、そう願わずにはいられなかった。詰まる所、相手を大切に思えばこそ、相手から大切に思われなくても構わない。真野彩歌という少年は、そういう人間であった。

 

 尤も、そうは思っていても彩歌が口にする事はない。彼は未だ幼く、かつ口に出すだけでも恥ずかしいような事を平然と宣う程マイペースではあるけれど、基本的には聡明な所がある。故に自身の思いが一方的で身勝手なものであると理解していて、だから言わないのだ。

 

「そっか。……あぁ、でも、俺も寂しい。こ、こん……そう、コンジョー(今生)の別れってワケじゃないとはいえ、友達に簡単には会えなくなるんだから」

 

 見栄なのか否か或いはこの年頃特有の性質のためか、慣れていない言葉を使うその様は聊か不格好である。だがこの場において体面などは最早大した意味を持つまい。相手が見ず知らずの他人ならばともかく、気心の知れた者であるならば、恰好が悪い面も今更というものである。度が過ぎれば話は別だが、菜々の苦笑は、彼女が既に彩歌のそういう一面を了解しているものと察するには十分である。

 

 そうして、一拍。彩歌は椅子から立ち上がり、菜々の目前に歩を進める。出会った頃は身長がさして変わらなかったふたりであるが、今は少しだけ彩歌の方が高くなっていて、半ば見下ろす形になる。或いはその変化はふたりが出会ってからの時の流れを感じさせるようで、しかし構わず、彩歌は自身のそれで包み込むように菜々の両手を執りながら「でも」と言葉を続ける。

 

「これからも、俺たちが友達であることは変わらない。ホラ、よく言うでしょ? 『離れていても、心はずっと繋がってる』って。まぁ、現実(ホント)に言ってる人は少ないかも知れないけど……でも、きっと嘘じゃない。だから、寂しくてもきっと大丈夫。

 それに……約束したからね。何があっても、俺はキミの味方だって」

 

 歯の浮くような物言いだ。ともすればただの虚言か、自己陶酔(ナルシシズム)に陥った愚者の戯言として捉えられかねない程に。だが真っ直ぐで真摯な色合いに占められた彩歌の声音と視線にそういった不実の陰はなく、ただ只管に純粋で誠実であった。友を前にして虚飾や糊塗を働かぬ、(まこと)の信頼がそこにはあった。

 

 そして、約束。それはいつかの日、彩歌が菜々に告げた宣誓。誰が彼女の大好きを否定しようとも、自分は必ず味方であるのだと。幼いが故のそれが意味する所も履行に立ちはだかる困難も知らぬ無知から来たる思いであり、無垢であるがために堅牢なる決意であった。

 

 外から暖かな風が吹き込み、少年の亜麻色と少女の漆黒が揺れる。その一陣は少年の約束(ことば)を祝福する天命か、或いは猜疑し嘲弄する悪罵の囁きか。自らの行く先すら知らぬ彼らにそれを知る事はできず、また関係のない事でもあった。たとえそれが内包する意味が何であれ、約束と言ったからにはそう告げた責任がある。その責任を放棄する事だけは、彩歌は嫌だった。

 

 彩歌の孔雀青の瞳が射抜くは菜々の漆黒の瞳。それはさながら、青空と夜空が向かい合う相反の具現であるかのようだ。それから幾許かして、一度瞑目してから彩歌が菜々の手を放す。

 

「……なんて。少し、カッコつけすぎたかな?」

「いいえ。……いいえ。そんなコト、ないです」

 

 茶化すようにはにかむ彩歌と、彼の言葉を否定する菜々。彼女の視線は自身の諸手へと注がれている。そこに既に触れる体温は既に無く、けれど残滓はまだ残っている。或いはそれは物理的なものではなく精神的なもの、そうであったら良いと望むが故の錯覚であるのかも知れないけれど、少なくとも中川菜々という少女の意識の上では真実であった。

 

「離れていても、心はずっと繋がってる……だから私たちは離れても、会えなくても、心はずっと傍に。そうですよね?」

「あぁ、勿論。……ふふ。なんだか、ちょっと恥ずかしいね」

「もう! そこで恥ずかしがったら台無しじゃないですかぁ!」

 

 ひどく今更な話ではあるけれど彩歌が微笑みながら紅潮した頬を掻き、そんな友に抗議する。けれど、その頬は彩歌に負けず劣らず朱に染まっていて、であればその抗議も本気のそれではないのだろう。何拍か空いて、視線を交わす。何故だかとても可笑しくて、ふたりは声をあげて朗らかに笑い合った。

 

 だが、それを遮るように天井のスピーカーからチャイムが降り注ぐ。時計を見ればもうすぐ朝礼の時間で、そろそろ音楽室を後にしなければふたりとも遅れて担任から叱責を受けるのは確実であろう。慣れ親しんだ音楽室を離れねばならない事に後ろ髪を引かれる思いを覚えるものの、それを振り払って彩歌は再び菜々に笑みを向ける。

 

「それじゃあそろそろ戻ろっか。先生に怒られるといけないからね」

「はい! でも、もしも怒られそうなら……その時は、一緒ですよ?」

「あはは、そうだね。一緒だ」

 

 そんな会話を交わしながら、ふたりは共に音楽室から出て行く。境界を踏み越えて、外へ。それからゆっくりと扉を閉めて、それきり、彼らがその扉を開ける事はなかった。

 


 

 中天に座す太陽から注ぐ光が世界に色を与え、大地を駆け抜ける風が木々を揺らす。歓談しながら行き交う生徒の声が混ざり合い、一種の喧騒と化している。そんなある日の昼下がり、彩歌は虹ヶ咲学園の中庭、その中央に聳える木に隣接するベンチに座り、自身のスマートフォンの画面に視線を落としていた。その表情は笑顔でこそないものの真顔と言う程無貌ではなく、余人がその感情を定義するのはひどく難しい。

 

 彩歌の瞳の色と似た、青色のスマートフォンである。注がれる視線は真剣と言うには熱量がないけれど、無関心、手持ち無沙汰で見ているにしては流れていく文を具に読んでいるようである。だがそんな彩歌の世界に割り込むように、声。

 

「何見てんだ?」

「うわっ」

 

 集中していたせいか彩歌はその人物の接近に気付いていなかったらしく、唐突に投げかけられた声に驚きの声を漏らす。だがすぐにその声の主の姿を認めると、安心したとばかりに大きな溜め息を吐いた。

 

「なんだ、大雅か。驚かせないでよ……」

「なんだとはなんだ、失礼なヤツめ」

 

 かなり失礼な発言をした彩歌に、しかし笑顔のままそう抗議するかのような言葉を返したのはひとりの男子生徒であった。身長は彩歌よりも幾らか高く、176㎝程はあるだろうか。また体格も同年代の男性と比べると良く、邪魔にならない程度に切りそろえられた黒髪の下では唐紅の瞳が快活の光を放っている。顔の造作は極めて端整と言えよう。総じて精金良玉な気配の彩歌とは対照的に明朗快活な雰囲気を纏うその少年の名は〝宗谷(そうや)大雅(たいが)〟。彩歌とは中学入学後から付き合いのある、所謂腐れ縁とでも言うべき間柄であった。明確な付き合いのある年月を比較するならば、菜々よりも長いだろう。

 

 大雅の来訪に彩歌はスマホをスリープモードにして傍らに置いてあったバッグに放り込み、代わりに取り出した2つの包みのうち片方を隣に座った大雅の前に差し出した。

 

「ハイ、これ。今日の分の弁当」

「おう、サンキュ。……いつも悪いな」

「またそんなコト……大雅が謝るようなコトじゃないよ。俺が好きでやってるんだから」

 

 果たして彩歌が大雅に渡したその包みの中身とは、弁当箱であった。流石に箱自体は彩歌のそれとは別であるものの内容物は彩歌のそれと同じもので、総て彩歌が作った料理である。無論、彩歌は何の理由もなく大雅に弁当を作ってきている訳ではない。大雅の両親は共働きでふたりとも出勤時間が早く大雅に弁当を作ってやるような時間がなく、また大雅自身も所属しているサッカー部の朝練などで忙しいため、代わりに彩歌が弁当を作っているのであった。

 

 ふたりで「いただきます」と食前の挨拶。弁当箱の蓋を開けて、瞬間、大雅の視線が一点で静止する。その先にあるのは弁当箱に収まるように小さくカットされたハンバーグ。早速好物を頬張り、大雅が満面の笑みを浮かべる。友のそんな愛嬌ある表情に、彩歌が笑声を漏らした。

 

「ふふ。大袈裟すぎ。そんなに急がなくても、弁当は逃げないよ?」

「む。そうだな……がっつくのは、行儀が良くねぇ。

 ところで、さっきは真剣な顔して何見てたんだよ? エゴサか?」

 

 エゴサ、というのは彩歌が動画投稿者さっちゃんとして動画を投稿している事を知っているが故の言葉である。菜々と大雅。このふたりが動画投稿者さっちゃんの正体が彩歌であると知っている者達で、しかし彩歌が先程まで見ていたのは動画の反響ではなかった。そもそも彩歌があまり動画の反響を気にしておらず、酷い時には大雅の方が反響についてより把握しているくらいであるから、その無頓着さは大雅も既知である。声音に揶揄うような気配があるのはそのためであった。

 

 大雅の問いに僅かな間、呆けた表情を覗かせる彩歌。だがすぐに合点がいったようで、再び鞄からスマホを取り出し画面ロックを解除した。そうしてブラウザを起動し、履歴から先程見ていたページを辿っていく。

 

「別に特に何を見ていたってワケじゃあないけど……最後に見てたのは、このページかな」

 

 そう言いながら彩歌はスマホの画面を大雅へと向ける。その動作に対して半ば反射的に大雅が画面を覗き込んでみれば、果たしてそこに表示されていたのは生ライブと銘打たれた虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のイベント告知であった。首を傾げる大雅。

 

「虹ヶ咲学園、スクールアイドル同好会生ライブ……ふぅん。グループのお披露目も兼ねてんのか。行くのか?」

「まだ決めてない。一応、この日は用事はないから行こうと思えば行けるけど……どう、大雅? 一緒に行かない?」

「いんや。申し訳ねぇけどオレはパス。オレ、スクールアイドルあんまり知らねぇし……大会も近いのにレギュラーメンバーが易々と部活休むワケにはいかねぇしな」

「それもそっか。ごめんね、無理言って」

 

 気にすんな、と大雅。虹ヶ咲学園はマンモス校とでも形容すべきその生徒数故にサッカー部などの人気部活はその所属人数からして膨大でありその中でも大会などにレギュラーメンバーとして出場できる人数はごく限られているが、大雅はそのひとりとして選ばれるだけの実力を備えているのであった。大会はまだ少し先であるとはいえ、そんな立場の人間が簡単に練習を休める訳もあるまい。

 

 再び彩歌がスマホを鞄に放り込み、大雅は弁当箱の中から卵焼きを掴み上げて頬張る。出汁の風味が効きつつも、甘みを抑えた味付け。より甘い味付けの方が大雅の好みであるが、この具合は彩歌の好みであった。それなりに付き合いの長い大雅は彩歌が甘い物が苦手だととうに知っていて、故に何も言わない。そもそもあまり甘くないとはいえ大雅にとって彩歌の料理はどれも美味しくて、ある種の多幸感と共に嚥下した。

 

 それから半ば掻き込むように白米と野菜炒めを頬張って、一拍。時計を見ればもう少しで昼休みも終わる頃合であった。大雅の隣では彩歌も弁当を食べ終わっていて、もう一度、ふたりで手を合わせる。

 

「ごちそうさまでした」

 


 

 ──開け放った冷蔵庫から洩れる冷気が肌を撫でる。買い置きしてあるミネラルウォーターの500mlペットボトルを開けると、彩歌はそれを一気に傾けた。冷え切った水が喉を潤し、鉄砲水のように胃の中に流れ込んでいく感覚が心地よい。そうして一息で半分程まで飲み切ってしまったペットボトルを再び閉栓すると、冷蔵庫の中に戻した。

 

 夕刻。窓から覗く空は既に黄昏色に染まり切っていて、窓から差し込んでくる西日がひどく眩しい。リビングの窓から見える範囲は自宅の庭だけであるが、その光景はさながらガラス越しに茜色に揺蕩う世界を見ているかのようでもある。今この家にいるのは彩歌ひとりで、そんな静寂にくぁ、と欠伸をひとつ。リビングの出入り口の方に足を向ける。

 

 授業で出された課題、及び予習と復習は既に済ませた。今はそれ故の休憩時間であり、この後はどうしようかと彩歌が思考を巡らせる。授業内容についての自主学習に、新曲の作詞作曲、そしてピアノの練習。選択肢は尽きぬ程あって、しかし結論を出す前に彩歌の意識に割り込んでくるものがあった。インターホンの呼び出し音である。

 

「……?」

 

 こんな時間に来客だろうか。何かしらの宅配という可能性もあるが彩歌は通販で何か注文した覚えもないし、陽彩が注文したという話も聞いていない。今時得体の知れない訪問販売という事はなかろうが、何かしらの勧誘というのは今でも態々家々を回って活動しているものだ。

 

 居留守を決め込もうか、という考えも一瞬彩歌の脳裏を過るものの、彼はすぐにそれを却下する。たとえ相手が何かしらの勧誘なのだとしても断るならばそうきっぱり告げるのが筋であるし、まだそれ以外である可能性も十分にあるのだ。ふむ、と呟き、彩歌はドアホンの画面を覗き込んで──その刹那、満面が驚愕に支配された。

 

 何故、()()が此処に。いや、自意識過剰ではなく諸々の要素からして彼女が此処にいるのは此処に彩歌がいるからという理由しか考えられなくて、だとしてもあまりに不可解だ。この家が彩歌の自宅であると、知っているのは()()()()()()()()。そもそも彩歌と彼女の間にある繋がりなど偶々学園内で遭遇した事、その一点の筈で。その全ての疑問を、泣き腫らした眦が塗り潰していく。

 

 であれば次の瞬間に半ば忘我のまま走り出したのは、それら総ての疑念への解答を求めての事か。どれだけ考えても〝何故〟は尽きなくて、それなのに彼の中で〝解〟は繋がっていく。嗚呼。嗚呼! 何故、あの遭遇で気付かなかったのか! その笑顔も、大好きなものを話す時の声も、彼は全て知っていたというのに!

 

 半ば躓くような恰好で踵を潰しているのも気にせずに靴を履き、叩き壊すかの如き勢いでドアを押し開ける。呼吸音と足音が、嫌に響く。そうして玄関と門の中間辺りで足を止めると、困惑したような、それでいて何か明確な確信の籠った声音でその名を呼んだ。

 

「優木さん……?」

 

 今更、何を。しかし今の彼女に対する呼称であれば、それはこの上なく適切で。呼ばれた少女……優木せつ菜は泣き腫らした目で、それでも笑みを浮かべる。

 

「こんにちは……彩歌くん」

 

 前触れなく唐突に、しかし確実に──運命の影は、少年の前に立ち現れるのだった。

 




 せつ菜がいつから虹ヶ咲学園に通っているか原作で言及はありませんが、『熱心な教育パパママなら中学からでも私立行かせてそう』という解釈で本作では中等部からとしています。

真野(まの) 彩歌(さいか)
性別:男 一人称:俺
身長:172㎝ 血液型:AB型
誕生日:7月21日
星座:蟹座
誕生石:シトリン
誕生花:ルドベキア、ミント、ネムノキ
イメージカラー:孔雀青
所属:虹ヶ咲学園音楽科2年

宗谷(そうや) 大雅(たいが)
性別:男 一人称:オレ
身長:176cm 血液型:O型
誕生日:8月2日
星座:獅子座
誕生花:カンナ
誕生石:アイオライト、ペリドット
イメージカラー:唐紅
所属:虹ヶ咲学園普通科2年、サッカー部


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第5話 ワタシの終わりを見届けて

 泥中から這い上がるかの如き、重く苦しい目覚めであった。比較的朝に強い方である彩歌にとっては久方ぶりか、或いは初めて感じる二度寝への誘惑を振り切るように意識は現に移行し始めて、五感に火が灯っていく。視界は仄暗く、カーテンの隙間から陽光は差し込んでこない。未だ日が昇っていないのだろう。

 

 いつも通りの光景。いつも通りの朝。枕元の時計を一瞥してみれば、時刻は午前4時程であった。一般的な男子高校生の起床時刻としては聊か早かろうが、これが彩歌にとっての平常であった。そんないつも通りの中で、しかし彩歌は不景気に大きな溜め息を吐いた。気が重い。身体が重い。それだけならば風邪か何かのようでもあるが、熱はない。であればそれらは心因性のものなのであろう。

 

 原因は分かっている。先日、せつ菜が彩歌の許を訪れた際に彼女の口から語られた内容、それがずっと彩歌の脳裡で巡っている。今日がそのライブの日である事もあろう。女々しいとは、彩歌自身理解している。だが、事が事だ。彼の心境も、ある意味では致し方ない事ではあろう。

 

 だがいつまでも考えているだけではいけない。全身に纏わりつく倦怠感を振り払うように布団を身体から引き剥がしてベッドから脱出し、寝間着を脱ぎ捨てる。露わになった身体はシャツの上からでも彼がそれなりに筋肉質である事が分かる。長年の筋トレの成果であろう。それからジャージに着替え、畳んだ寝間着を一か所に纏めて、彩歌は部屋を出た。日課であるジョギングに出るのだ。無心で走れば、このモヤモヤとでも形容すべき感覚も少しは晴れるだろうと。

 

 父である陽彩はまだ起きていない。できる限り足音を立てないように階段を降りて、しかし彩歌はすぐに玄関に向かうのではなく、階段を降りて玄関の方へと曲がったすぐ右手側にある襖を開けた。鼻腔を突く井草の臭い。壁に取り付けられたスイッチを操作して照明を点け、すぐ右に視線を遣る。

 

 果たしてそこにあったのは、()()であった。その前で跪き、ライターで線香に火を点けて香炉に立てる。ツン、と香煙が鼻を突く。りんを叩き、打ち鳴らされた甲高い音が反響する中で彩歌は恭しく礼を捧げる。これが、彼のもうひとつの朝の習慣。ここ4年程、彼は一度もこの習慣を忘れた事はない。家族であるから、だけではない。彼は彼自身の罪を忘れず永久に向き合うために、この習慣を欠かしてはならないのだ。

 

 瞑目し、仏前で手を合わせる彩歌。その内心は如何様か。彼以外に命在らぬこの空間でそれを慮る者はいないし、仮にいたとしてもその全てを子細に把握するのは恐らく不可能であろう。ただひとつ確かであるのはその礼は断じて形だけのものなどではなく、或いは故人の冥福を祈る以上の〝何か〟があるという事だけだ。

 

 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。漸く礼の仕草を解いた彩歌が仏壇よりも更に上、天井と壁の接合部辺りに視線を遣り、その顔に微笑みを浮かべる。傍から見れば聊か奇怪な仕草ではあるが、彼は何も虚空に向けて微笑んでいるのではない。その視線の先に在るのは、額に収められた一枚の写真。それに写っているのは、亜麻色の髪を長く伸ばし、浅葱色の瞳が印象的なひとりの女性であった。

 

 妙齢と言うには聊か年齢を重ねたような印象があるものの、その含蓄すらも魅力に転換するかのような、間違いなく美人と言える女性である。衒う事ないその快活さは彼女の太陽の如き人柄を見た者に伺わせるに十分で、しかし写真に写る過去の像となった今では永劫不変である事も寂寥を誘う。その意味合いこそ違えどその笑顔は彩歌のそれともよく似ていて、ふたりの繋がりを考えればそれも当然の事であろう。〝真野(まの)愛歌(まなか)〟。それがその女性の名前であり、彩歌の実の母にして彼にピアノを教えた師でもある人である。そういう意味では少なくとも『真野彩歌』という少年の人格形成において、彼女以上に大きく関わった人間はそうおるまい。

 

「母さん。俺は……どうすれば良かったのかな」

 

 微笑みを沈め、俯きながらそう言葉を漏らす彩歌。けれどその声を聞き届ける者はおらず、遺影はいっそ残酷なまでに過去の残影を少年に投げかけるだけだ。或いは彩歌自身、誰に聞いてもらいたいとも思っていないのかも知れない。遺影を通し己の中に在る母の面影に問うているだけの、ある種の自問自答。だが自身が惑う内の自問自答に、答えがもたらされる筈もない。それは彩歌自身も分かっていた筈だ。だのに問うたその姿は、跪いたままである事も相まって憐れな求道者か、告解に訪れた咎人を思わせる。

 

 だが黙っていた所で答えは出てこないし、此処には彼の罪を聞き届ける神も在りはしない。仏はただそこに在るだけで、少年に悟りを与えたりはしない。彼はただひとりで立ち上がるしかなく、最後にもう一度母の遺影に向けて笑顔を投げ掛けた。凡そありとあらゆる感情を押し殺した、虚勢の笑みを。どうすれば良かったかなど、何を莫迦な事を。過去の自分が()()()()()()と分かっているのならば、見据えるべきは背後ではなく前だろうに。

 

「ごめんね、変な事言って。それじゃあ……行ってきます」

 

 最後にそれだけを告げて、彩歌は踵を返す。香煙は既に不可視であり、されど遺香は僅かに彼の身体に纏わりついて朝の静寂の中に溶けていく。玄関でシューズを履いて、外へ。カーテンの隙間から覗いた通り街並みは未だ暗く、けれどコンクリート・ジャングルの隙間から見える空際では朝の気配がその顔を覗かせ始めている。

 

 甲高い軋みをあげながら開放される門。それから手慣れた動作で施錠して、彩歌は大きく息を吐いた。それは胸中に蟠った悶々を体外へと追い出すか如く。けれど彼を苛む懊悩はそれだけで消える筈もなく、振り払おうとするかのようにいつもより速足で駆け出していく。その頭上では星が未だ輝きを放っていて、白み始めた空際からも空が晴れているのだと分かる。恐らく彩歌の頭上は、雲ひとつないのだろう。だというのに、何故だろうか──

 

 ──雨の音が、ひどく煩い。

 


 

 時は少し遡る。

 

 まるで至近距離から弾丸を側頭部に撃ち込まれたかのような、凄まじい衝撃であった。無論それが錯覚である事は、彩歌自身分かっている。もしも実際にそれだけの衝撃を受けていたのであれば、今頃彼の頭蓋は原型を留めない程に破壊し尽くされて脳漿をぶちまけていたであろうから。だが錯覚ではあっても彩歌にとっては現実と大差なく、前後不覚に近しい感覚に陥る。けれどそれで行動不能になるほど彩歌は愚鈍ではなく、ある種の仕切り直しとしてせつ菜を自宅に招き入れたのであった。

 

 せつ菜/菜々が彩歌の家を訪れるのは、何もこれが初めての事ではない。彼らがまだ小学生であった頃、稀ではあったものの何度かこの家を訪れていた事を、彼女は覚えている。中学高校に進んでからは互いに多忙になって来ることもなかったから、4、5年振りであろうか。だが此処に来た時の事を彼女はよく覚えていて、だからこそまず初めに感じたのは精神的な余裕の無い現状でも漠然と分かる違和であった。

 

 彼女がこの家を訪れた回数はそう多くはないものの、その多くにおいて入り口にまでピアノの音が届いていた。彩歌の母である愛歌は自宅でピアノ教室を経営していて、生徒にピアノを教えていたのだ。それが休みの日はせつ菜が来ると必ず出迎えてくれたもので、どちらにせよ愛歌が家にいないという事は一度もなかった。だからだろうか、せつ菜は半ば無意識の内に首を巡らせていて、そこに含まれた意図を察したらしき彩歌が言葉を投げる。()()()()()()()()()()()()()()()()、と。そう答えた彩歌の顔はせつ菜からは見えず、彼は自嘲的に笑う。せつ菜が和室に踏み入るだけで露見する、仕様もない嘘だ。

 

 それから彩歌はせつ菜をリビングに通し、その中央に鎮座するダイニングテーブル、それに隣接したチェアに座るように促すと自身はキッチンへと入り食器棚からマグをふたつ取り出した。片方は彼専用のそれで、もう片方は彩歌も陽彩も使っていない、客人用のものだ。暫く誰も使っていなかったそれをスポンジで洗っていると、せつ菜が訥々と言葉を漏らし始めた。彩歌は作業の手を止めず、しかしせつ菜の話に耳を傾けている。

 

 ──簡潔に言えば、せつ菜が語ったのは同好会の暫定的な空中分解とその経緯であった。方向性の違いと、そう言ってしまえば陳腐に堕ちよう。だが実際に起きたのは自分の『大好き』しか見えていなかったがための独断専行と、それによる他者の『大好き』の忽略。堆積した軋轢は沈黙の引火点と化し、遂には爆発したのである。

 

「そっか。……そんなコトが、あったんだ」

 

 そう呟いた声音はひどく無味乾燥で、しかしそれは彩歌が何も感じていないという事ではない。事実はむしろその逆。胸中で渦巻く混沌とした感情の坩堝をホットミルクで臓腑の奥底に流し込みどうにか内心を悟らせまいと絞り出したが故の声であった。

 

 彩歌の内に巣食うそれを無力感と表現してしまうのならば、あまりにも傲慢というものだ。無力感というのは何かできたにも関わらず何もできなかった者のみに許される感情であって、ただの部外者、それも変装しているとはいえ大切な友の姿にも気づけなかった愚者などには過ぎたものだ。同情や、憐憫も同じ事。

 

 故に──これからせつ菜が何を言うのであろうと、それを止める権利は彩歌にはない。優木せつ菜というスクールアイドルにとって、真野彩歌という人間は一部外者でしかない。無力感や憐憫、胸中で渦巻く一切を掻き消して、押し込めて、彩歌は『いつも通り』という仮面で混沌に蓋をする。そんな少年の前で、せつ菜は俯いていた顔を漸く彼の方に向けた。その表情に表れているのは、覚悟であろうか。その悲痛の色が、彩歌の胸を貫く。

 

「彩歌くん。私のお願い、聞いてくれますか?」

「……何だい?」

 

 せつ菜の言う〝お願い〟。聞くまでもなく彩歌はまるで予感のようにその正体を感じ取ってしまって、けれど何も言わない。言うな、と。それは駄目だと、言ってしまえればどれだけ良いだろうか。だが、せつ菜の経験も心も彼女だけのもので、それに対して介入する権利を、彩歌はきっと持っていない。

 

 そして何より彩歌がせつ菜に対して結んだ誓いがある。何があっても、彼女の味方でいるのだと。約束したのだから、彼にはそれを果たす責任がある。それがたとえ子供が軽々しく結んだ口約束なのだとしても、それが偽りない両者の誠実の上に結ばれたものなのだとすれば、子供の戯言などと一蹴できるものではないのだ。そして今、その約束の許に彼が執るべき行動は、ふたつにひとつ。

 

 嗚呼、分からない。不明だ。耳元ではざあざあと現ならざる雑音が喧しく鳴り響き、彼の思考を妨害する。そもそもとして自分の心の在処さえ定かではない者に目前に広がる不明の暗闇を解き明かすことができる筈もなく、少女は少年の目の前に立ち彼の目を真っ向から見据えながら、言葉を吐き出すのであった。

 

「──見届けてくれませんか? 『せつ菜(わたし)』の、終わりを」

 


 

「今日はいつにも増してクソ辛気(くせ)ぇ顔してんな」

 

 辛辣な物言いである。しかしそれとは裏腹に憂懼の滲む表情の大雅が彩歌に向けてそう言い放ったのは、いつも通りふたりが中庭で共に昼食を摂り始めた時の事であった。天候は快晴。風は強くもなく、しかし汗ばむほど弱くもなく、外で食事をするにはまさしく最適と言える具合だ。

 

 何の前置きもない言葉であった。彩歌自身も親友との食事の間くらいは余計な事を考えるまいと平静でいるつもりであったから、完全に予想の外からのものでもある。故に彩歌の反応は一拍遅れ、情けなくも素っ頓狂な顔を晒してしまう。だがすぐに忘我から復帰すると、冗談めかした声音で返した。

 

「そんなにヒドい顔してる?」

「あぁ、してるな。なんつーか、この世の不幸は全部自分のせい、とかフザケた事ぬかしそうな顔だ。……まぁ、()()()程ヒドくはねぇが、よく似た感じだな」

 

 あの時。それ自体は何か具体的な時期を指す言葉ではないにも関わらず彩歌は大雅の言わんとする所を察したようで、苦笑のような、或いは何かを観念したような薄い笑みを漏らす。大雅が『あの時』とあえて明言しなかったのはある種彩歌への配慮であり、かつ守秘のためでもある。彼らが共に想起した出来事について、この学校にいる人間で既知であるのは彼らふたりだけであった。

 

 そしてその出来事について、大雅は彩歌の目の前でも滅多に口にする事はない。彩歌の知る所ではないが、無論他人の前では話した事すらもない。そんな大雅がそれを引き合いに出すというのは余程な事であり、彩歌は自らが傍から見てどんな様子であったのか自認する。

 

 視線を落とした先に在るのは彩歌が自分で作った弁当。白米とそれに乗った梅干し、甘さを抑えた味付けの卵焼きに、焼き魚と、小松菜のおひたし。冷凍食品はひとつもないが、それ以外は至って普通の弁当だ。何という事はない。その視界の外から、大雅の問い。

 

「何があった?」

「うぅん、一言で言うのは難しいけど……約束をね、破っちゃったかも知れないんだ。友達とした、大切な約束だったのに」

「友達? ……あぁ、もしかして会長ちゃん? オマエ、会長ちゃんと仲良いもんな」

 

 会長ちゃんとは菜々の事で、大雅は彼女の事をそう呼ぶのだ。彼女が現生徒会長である事から来る聊か安直な渾名である。しかし、大雅の予想を正解と言うべきか、或いは間違いと言うべきか。返答に窮し、彩歌はあえて何も言わない事にした。わざわざ解答を投げ渡すまでもなく、大雅は殆ど確信しているのだから、あえて告げる必要性もなかろう。

 

 彩歌の言う友達が菜々の事であると大雅が即座に確信したのは、何も彩歌に友達が少ないから、などではない。特筆して多いという訳ではないが、彩歌にも人並みに友人はいる。だが大雅は知っているのだ。彩歌がそうまで気に掛ける友であれば、大雅と菜々のどちらかしかいないのだと。そこからは消去法で答えが導き出せる。彼自身には彩歌との約束を破られた覚えなどはないのだから。

 

 しかしそうであるならば〝かも知れない〟などという煮え切らない言い方をしたのはいったい何故か。約束は履行するか反故にするか、そのどちらかである筈で、かも知れない、などというどっちつかずは基本的に起こり得ない。大雅は彩歌の言葉の続きを待って、紙パックのいちご牛乳を吸い込んだ。中身が少なくなっていたのか、ズズ、という間抜けな音がする。

 

「ねぇ、大雅。誰かの味方をするって、どういうコトなんだろうね」

「は?」

「うわ、ヒドいなぁその反応。流石の俺でも傷つくよ……」

「流石の、って。オメーは自分で思ってるよりよっぽどナイーブだわ。……いや、(わり)ぃ。ちと予想外だったモンでな」

 

 親しき中にも礼儀あり。想定外な内容であったとはいえ反射的に漏らしてしまった失礼な反応に、大雅が謝辞を述べる。だが彼の反応も致し方ない事であろう。何の前触れもなくそんな問いをされてしまえば、彼でなくとも似たようないらえを返したであろう。しかし今までの会話の流れからそれが彩歌の言う約束とやらに関係しているのを読み違える大雅ではない。

 

 誰かの味方をするというのは、別な誰かと敵対するという事。そんな答えを投げ渡すほど、大雅は安直ではない。そもそも世界が敵と味方の二元論で語れる程単純な場ではない事はまだ高校生である彼ですら知っている事だ。まず以て味方の定義すら曖昧なのだから、そんなもので語り尽くせるものであって欲しくないという思いもある。

 

 思考を切り替えるように大雅は白米を咀嚼する。それを何かの意図と取ったのか、或いはただの偶発的なタイミングの一致か、彩歌が口を開いた。

 

「そうだよね。ごめん。変なコト訊いた」

「いや、気にすんな。オレの反応もなかなかアレだったから、お互い様だ。……しっかし、妙なコト訊くモンだな。誰かの味方……ねぇ。何でまた?」

「……悪いけど、詳しくは話せない。でも、俺は分からなかったんだ。あの娘の心と行動、どちらの味方をすればいいのか。

 ……いや、そもそもその心だって、俺の勝手な想像でしかないかも知れない。心なんて、目には見えないんだから。そう考えたら……どうするのが正しいか、分からなくなって」

「ふぅん……ま、手前(てめー)自身で手前の心を抑圧するってのは、ままある話だな」

 

 どっかの誰かさんみたいに。その思いを、大雅は口にすることなく内心だけで呟く。心は目には見えない。その通りだ。他人が推量する心などどこまで行っても自己満足に過ぎず、真実と言えるものは見えないのかも知れない。そもそも時として人間は自分自身で自身の心さえ見失ってしまうのだから、他人が核心に迫るなど土台無理な事であるのだ。

 

 だが、だからとて大雅はそれを否定したくはない。もしも、誰かがまた別の誰かの心に味方するのが自己満足と独善という舞台の上で踊り狂う間抜けな道化(ピエロ)でしかないのだとしても、誰かの為に在りたいというその思いは絶対に尊いものの筈だ。そうでなければ彼も、そして恐らくは彩歌の父親も、幻想に踊らされた阿呆になってしまうではないか。

 

 ひとつ笑みを漏らし、大雅は未だ食べかけの弁当箱を横に置いて親友の肩を抱き寄せる。まさか彼がそんな事をするとは思っていなかったのだろう、彩歌がうわぁ! と驚きの声を漏らす。それに構わず、大雅は続けた。

 

「オマエは色々難しく考え過ぎなんだよ。もっと気楽にいこうぜ、兄弟? オマエはオマエが思ったようにやればいい。そんで、万一空回って嫌われちまった時は、オレが慰めてやっからよ」

「大雅……」

 

 冗談めかした声音とは裏腹に彩歌へと向けられる視線には親友に対する最大限の信任があり、それを受けて彩歌は気付く。誰かの味方をする、その何たるか。誰もが認める解答は大雅にも分からないけれど、彼は彼が思う正解を彩歌に対して示したのだ。他でもない、彩歌の味方をするのだと告げて。

 

 心は目には見えない。それはそうだ。故にどれだけ他者の心について考えようが結局は自己満足で、それでも良いではないかと大雅は言うのだ。たとえどこまで行っても自己満足なのだとしても、誰かに幸せでいて欲しいという願いは美しいものである筈だ。だから大雅は勝手に彩歌の心を決めつけて、勝手にその味方をする。彼は彼が思ったように行動する。それだけだ。その思いはある種の熱のように彩歌に染み入り、彼は口の端に笑みを浮かべた。──懊悩は未だ消えない。それでも、気持ちは軽くなったのだ、と。

 

「あぁ、そうだね。ありがとう、大雅」

「いいってコトよ。親友(ダチ)の相談くらい、いくらでも聞いてやるさ」

 


 

 抜けるような青空であった。東京はお台場、その東京湾にほど近い土地に存在する総合商業施設ダイバーシティ東京プラザ。その正面に位置するフェスティバル広場にはいつにも増して学生たちが集い喧騒を作り出していて、しかし耳をすませば遠方から波が押し寄せてくる音が聴こえてくる。

 

 振り返り、視線を少し上へ。そこには可能性を象徴する巨大な白亜の人型が水平を見据えて屹立していた。とある長寿ロボットアニメシリーズに登場する人型機動兵器、その実物大立像である。数年前に初代主人公機から代替わりした現行のそれは所定の時間になると変形、もとい変身する機能を備えているが、どうやらこの時間は変身前の姿であるらしかった。

 

 彩歌の周囲では集まった観客たちがお披露目ライブへの期待を口々に語っている。この場において、このライブが実質的な『優木せつ菜』の終わり──つまり引退ライブである事を知っているのは、恐らくは本人を除けば彼だけなのだろう。改めて現実を認識し、追い遣り切れなかった後悔が鎌首をもたげる。

 

 懊悩は未だ消えない。後悔は未だ色濃い。在り得ざる『if(もしも)』が脳裏を過って彩歌は視線を落とし、頭を振ってそれを払い落した。それと殆ど同時、歓声があがる。弾かれるようにして視線を挙げれば、そこにはせつ菜がいた。深紅の衣装を纏い、5人で立つ筈だったステージに、たったひとりで。

 

 それを認めた観客たちが漏らしたのは戸惑い。それを受け止めるようにせつ菜は観客たちを視線でなぞり、刹那、それが一点で停止する。目が合った、のだろうか。彩歌には分からず、けれどせつ菜は笑って。ひとつ静かに、されど何処か荘厳に、大きく息を吸い込み──

 

 ──瞬間、(ウタ)が世界を満たした。

 

「──ッ……!」

 

 息を呑む。それに込められている感情は驚愕か、或いは感嘆か。きっとどちらでもあって、けれどそれだけではない。せつ菜の声が、ダンスが、彼女の存在、そして何よりも万民の心を揺さぶるが如き情熱の上で合一し、気炎となって地を覆う。

 

 それはさながら燃え尽きた灰に再び火を灯すように。或いは岩戸に自らを封じた者に光を届けるように。訳も分からず、彩歌は己の胸元を強く握り締めた。彼の中で、錆びついた何かが軋みをあげてでも廻ろうとする音が聴こえる。目が逸らせない。全身全霊で、存在が釘付けになる。そのせいだろうか、自身ですら制御しきれぬ強い情動の前では時間の感覚さえあやふやで、ライブが終わってからも暫くの間、彩歌はその場から動くことができなかった。

 

 せつ菜に願われた通り、彩歌は彼女の終わりを見届けた。良いライブだった筈だ。有終の美と言うに相応しい、優木せつ菜の集大成と言えるものであった筈だ。だが──魅せられた。その輝きに。その煌めきに。だからだろうか、我知らず、彩歌は言葉を漏らした。

 

「これが……終わりだって……?」

 

 

 

 ──そして。せつ菜の輝きに魅せられた者は、何も彩歌だけではない。彼がいる観客スペース、その一角にてふたりの少女が手を取り合っている。いや、より正確に言うならば片方の少女がもうひとりの手を取り、胸中を支配するトキメキのまま瞳を爛々と輝かせている。

 

 大きな緑翠色の瞳が印象的な、緑色がかった黒髪をツインテールに纏めた少女である。もうひとり、ツインテールの少女の連れと思しき女生徒は桃色の髪を片方で纏めた、何処か気弱そうな気配を漂わせる少女だ。団子髪の少女はツインテールの少女に若干気圧されているようであるが、確かにふたりの瞳には同じ光がある。

 

「カッコよかった! 可愛かった! ヤバいよ、あんな娘いるんだね! 何だろう、すっごいトキメキ!!」

 

 全身を満たす昂りのままツインテールの少女は矢継ぎ早に言葉を吐き出し、次いで団子髪の少女の手を引いて案内板の前に走っていく。そこに貼られている、今日のライブのポスターを見つけたのだ。食い入るようにそれを見つめて、主催の名前を声に出して読み上げる。

 

「虹ヶ咲学園、スクールアイドル同好会……」

「虹ヶ咲って……」

 

「ウチの高校だぁーっ!?」

 

 青空に突き抜けていくような、少女たちの声。

 

 ──物語は、廻り始めた。

 



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間話Ⅰ カレはソノ微笑みにナニを見るか

 部活の朝練を終え、所属しているクラスの教室に入る。SHRも近いからか、生徒は殆ど全員が揃っていて、皆銘々に過ごしている。高校生という年頃は比較的に男女別にグループが形成されがちなきらいがあるというが大雅が所属するクラスは全員ある程度仲が良く、また彼自身が社交的な性格であることもあってそれなりの数の生徒が彼へと挨拶を投げた。彼もまた挨拶を返し、席に着く。彼の席は窓際の一番前だ。

 

 いつもであれば即座にその日の授業の予習か昨日の復習に入る所であるが、この日、大雅が鞄から取り出したのはスマホとイヤホンだ。端子を接続し、スピーカー部を耳に突っ込んでから動画投稿サイトを呼び出す。真っ先に表示されたさっちゃん(彩歌)の動画を今回は無視し、検索画面へ。入力するワードは〝優木せつ菜〟。検索結果はすぐに表示され、一番初めに表れたそれをタップする。

 

 イヤホンから流れ出す、初めて聴く歌。小さな画面の中では深紅の衣装を纏った少女が踊っている。全てが合一し少女の存在から放たれる不可視の輝きは、見る者の悉くに存在を刻み付けんばかりだ。成る程これは魅せられるのも納得できる、と大雅は内心で独り言ちる。だがそんな内心とは裏腹に大雅の瞳の奥では知性の光が瞬いていた。思考回路が高速で駆動しているのだ。しかしそれを打ち切りイヤホンを外したのとほぼ同時、彼の耳朶を打つ声があった。

 

「ねぇねぇ!」

「ん?」

 

 直前までイヤホンを付けていたため接近に気付いていなかったのだろうか、間抜けな声を漏らしてしまう大雅。振り返ってみれば、そこにいたのはひとりの女子生徒であった。

 

 大きな緑翠色の瞳と緑がかった黒髪のツインテールが印象的な、比較的小柄な少女である。名前は〝高咲侑〟。大雅も話した事はあるが特筆して仲が良くも悪くもない、極々普通のクラスメイト同士といった間柄であった。

 

 そんな少女が振り返って目と鼻の先にいたのだから、大雅の驚愕も一入(ひとしお)というものであろう。反射的に大きな音を立てて椅子ごと一歩退がり、うわぁ! と声を漏らす。侑は知らない事だし大雅自身も意識していない事だったが、その驚愕する様子は彼の親友そっくりだ。

 

「あっ、ゴメン! ビックリさせちゃったかな?」

「いや、気にしないでくれ。気付かなかったオレもオレだ。

 で……何の用なんだ、高咲?」

 

 話しかけられた際の侑との距離が近すぎたのも確かだが、それも大雅がもっと周囲に注意を払っていれば容易に気付けたのも事実である。反省反省、と内心で呟き居住まいを正す大雅。そんな大雅に、侑は大きな瞳を爛々と輝かせながら少々食い込み気味に問いを放つ。

 

「大雅くん、さっき観てたの昨日のせつ菜ちゃんのライブだよね!? もしかして、キミもせつ菜ちゃんのファン?!」

「え、いやオレは──」

 

 別にファンってワケじゃない。大雅がそう答えるよりも早く、侑は興奮気味にせつ菜について捲し立てている。それ自体は大雅にとって不快でも何でもなくむしろ他人が笑顔で好きなものについて語る姿は彼にとって好ましいものではあるが、これでは話ができない。徐々に接近してきた鼻先を大雅が摘まむと、侑がふがっと息を洩らした。

 

「落ち着け。あと近い」

「タハハ……ゴメンゴメン」

 

 半ば呆れた様子の大雅に諫められ、はにかみながら後ろ髪を掻く侑。大雅はそんなクラスメイトの様子を頬杖を突きながら横目で見ているが、その表情はどこか楽しげだ。少なくとも彼にとって、誰かが楽しそうにしていると言うのは快でこそあれ不快ではないのだ。加えて言うのならば、相手にそういうつもりが毛頭ないのに接近でドギマギする程、彼は初心でもないつもりであった。実際、彼は自身のパーソナルスペースに踏み入った侑のマシンガントークに遭ってもなお全くの平常心である。

 

「まったく……まぁ、高咲がせつ菜って娘がすげえ好きなんだなってのは、十分伝わったよ。けど悪いな、オレはアンタと語り合えるくらい知ってるワケじゃねぇんだ。今だって、前にダチが話してんの偶々思い出したから観てただけで」

「友達?」

「そ。親友(ダチ)

 

 侑と大雅の間で交わされた言葉はそのニュアンスこそ聊か異なるものであるようにも思えるが、友誼を結んだ相手という点では全く同じであろう。ただその友誼の程度が甚だしいというだけで。

 

 とはいえ親友を自称するというのも奇妙ではあるが、少なくとも大雅は彩歌をそう思っているし、彩歌もそう思っていなければわざわざ大雅に弁当を作ってきたりはするまい。更に彼らの仲は一部の生徒から邪推されたりもしていて、そういう意味ではその仲の良さは自他共に認めるという表現が正しいとも言えよう。

 

 尤も、そんな事は侑には関係のない事だし、わざわざ口にする程のものでもない。ダチはダチと、それだけで良いだろう。ひとつ息を吐き出し、大雅が侑の方へと向き直る。

 

「でも、アンタが夢中になるのも分かる気がするよ。なんつーか、すげぇ情熱(パッション)でコッチの心をガッツリ掴んでくる感じがする」

「……! だよねだよね! 分かるなぁ……!」

 

 比較的好意的と言える大雅の反応に喜びを漏らす侑。初めてせつ菜のライブを見た時の感動を思い出しているのだろうか、或いは同好の士と成り得る相手が現れた事に喜んでいるのか、緑宝玉(エメラルド)を思わせるその瞳はひどく輝いていて、それを見た大雅が思わず笑みを覗かせる。

 

 大雅は高咲侑という少女について、多くを知っている訳ではない。精々、幼馴染であるらしい他クラスの女子生徒と行動を共にしているのを時折見かけるくらいか。話した事も数える程しかなかったから、その人となりについてもよく知らなかったのである。

 

 だがこうして話してみて、彼は侑がとても気持ちの良い人柄の少女なのだと感じていた。少なくともこの短い時間でも彼は侑に対して一定の好感と、少しの懐かしさを覚えている。或いはそれは、トキメキに輝くその瞳が在りし日の記憶を想起させるからなのかも知れない。

 

「気づいてるか? アンタ、今すげぇイイ表情(カオ)してるぜ。ホントに大好きなんだな」

「勿論! へへ、でも何だか照れるなぁ」

 

 そう言って、侑は恥ずかしそうに笑う。衒いのないその笑顔に大雅は眩しそうに目を細め、けれどその眼差しは侑へと同時に此処ではない何処かへと向けられているかのようでもある。それは懐古か、或いは亡失への悲哀であるようにも見え、しかし侑が大雅の視線に気づいた時にはすでにその色合いは彼の目から消え去っていた。

 

「どうしたの? 何か、私の顔に付いてる?」

「いや? 別に、何も付いてねぇから安心しな。ただ、少し……懐かしくなっただけだ」

「懐かしい? 何が?」

 

 要領を得ない大雅の物言いに侑は小首を傾げるが、大雅は何も言わずただ不敵な、それでいてどこか寂しげな薄い笑みを覗かせるだけだ。不可解である。不明である。彼らが出会った、或いは関わるようになったのは少なくともこうして2年生に進級した後の事で、それもつい最近の事だから侑からすれば大雅から何かを懐かしまれるような謂れはない筈なのだ。

 

 だから、大雅が言っているのは侑とは何の関係もない事なのだろう。だが彼は侑の所作の中から何かしら彼の記憶にある事項との類似を見出し、勝手に懐古の情を抱いている。そんなものに侑が合点を付けられる訳もなく、観念したかのように、或いは思いを吐露するように、侑の問いに答えを返す。

 

「アンタの雰囲気が、昔のアイツと似てるなって、そう思っただけだ」

「アイツ……? もしかして、せつ菜ちゃんのファンだっていう大雅くんの友達? ふふ、じゃあもしかしたら気が合うかも知れないね。私と、その友達」

「あぁ。……そうだな。そうかも知れない」

 

 その大雅の言葉を受け、快活な笑顔を浮かべる侑。彼女の人の善さがそのまま顕れたその所作に大雅は顔を綻ばせ、しかしふたりが次の言葉を紡ぐよりも早くに教室のドアが開かれた。入ってきたのは彼らのクラス担任教師である。それを合図として自分の席から離れていた生徒らが戻っていく。じゃあまたね、と言って、侑も会話を切り上げた。

 

 静まり返る教室。担任はいつもと変わらず退屈な事しか口にせず、大雅は視線だけを動かして窓の外を見遣る。都会の灰色と、大空の蒼色。詩人ならこの味気ない光景にも諧謔のひとつでも詠むのだろうが、生憎と大雅はそこまでロマンチストではなかった。

 

 代わりに浮かんでくるのは、激しく煌めく緑宝玉。その在り様が、過去の記憶とオーバーラップされる。緑翠と孔雀青。似ていないのに、よく似ているように感じられる。少なくともその色の内に秘められた中身は同じで、だからか、大雅は知らず内心だけで言葉を漏らした。それは、原因を知るが故に難しいと理解していながら、それでもなお捨てきれない、純粋な思いの独白であった。

 

(アイツも……また、あんな風に笑ってくれたらいいのに)




 アニガサキ第1話の描写を参考に拙作では侑と歩夢は別クラスという扱いにしております。


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第6話 ソノ夜空に虹はかかるのか

 本来は虹ヶ咲スクールアイドル同好会のお披露目ライブであった筈の、しかし実質的なせつ菜の引退ライブとなったイベントの後の事。彩歌はすぐにその場から立ち去るような事はせず、未だダイバーシティの広場からそう遠くない場所にいた。

 

 頭上を見上げてみれば、広がっているのは遥かな蒼穹。どこまでも広がっているかのような碧天より降り注ぐは鋭い日差しであり、それを受けて世界は彩りを帯びている。当たり前の物理現象。何ということはないただの日常。だがそこから逃げるように、彩歌がいるのはダイバーシティの巨大な建物が造り出す影の中だ。東京湾の方角から吹き付けてくる潮風が、彼の亜麻色の髪を揺らす。孔雀青の瞳に宿る物憂げな光と線の細い顔立ちも相まって、その光景を永遠に閉じ込めてしまえばひどく画になろう。しかしどうあっても自身を外部から観測できない以上そんな事は彼の知る所ではなく、また興味もなかった。そんな事への興味よりも彼の心を支配してやまないものがあるのだから。

 

 カバンを挟み込むようにして背を壁に預けたまま眼球だけを動かして視線を遣った先は、ダイバーシティ正面のフェスティバル広場。ほんの数刻前までそこでは虹ヶ咲学園のスクールアイドルたる優木せつ菜のライブが行われていて、彩歌は観客たる有象無象のひとりであった。目を閉じれば、未だ目蓋の裏に焼き付いた残影が見える。

 

 現ならざるが故に一切の実在性を内包せず、けれど記憶の再想であるにも関わらずまるで本物のそれであるかのようにすら感じられる炎の海。その中に、少女がいる。小さな身体を目一杯に躍動させ、歌声に感情を乗せて己の〝大好き〟を叫んでいる。それもまた彩歌の記憶の中にある幻にしか過ぎないというのに、嫌に鮮明であった。ならば記憶の中でのみ、全ては実在性如何に関わらず全て真と言えるのだろうか。

 

 であればその光景を前にして彩歌が抱いた感覚に真偽を問う事もまた不毛だ。彼の意識の中でそうだと記録されているのなら、それ以上でもそれ以下でもない。故に彩歌がせつ菜のパフォーマンスに魅せられたのも、もう変え様の無い事実なのだ。

 

 或いは岩戸に閉じ籠る者に初めて音楽が届いた時の感覚とはこういうものなのだろうかと、少年は場違いな色すらある思いを抱く。感傷と言い換えても良いかも知れない。エモーショナルとセンチメンタル。相反する情動が彩歌の裡でマーブル模様を描いていて、その混沌のせいか、関係のない言葉が這い出てくる。

 

「音楽は音を楽しむもの……か」

 

 脈絡のない呟きだ。傍から見れば奇異に映る事だろう。けれどその言葉は常に彩歌の心底に仕舞われていて、だから不意の切っ掛けで度々顔を出してくる。今回は偶々、それがせつ菜のライブであっただけだ。

 

 音楽は音を楽しむもの。逆を言うのならば、音を楽しめないのならば音楽ではないのかも知れない。或いはそれは対偶と言うが正しいか。命題の逆は正しいとは限らないが、対偶は正しい。尤も、先の言葉を命題と定義するのならばの話だが。

 

 そしてその命題に従うのならば、せつ菜の歌は間違いなく音楽だ。あの時間、あの瞬間、彼女はスクールアイドルであることを、自分の大好きを叫ぶ事を、本気で楽しんでいた。たとえそれが、桜の散り際に美しさを見出す終わりの美学めいたものなのだとしても。それに比べれば、ひどく矮小な何処かの誰か(他でもない彩歌自身)が奏でる音など、ただの雑音に過ぎない。動画配信をしている以上、それを音楽として楽しんでいる人に対して失礼であるのは自覚しているけれど。

 

「……あぁ」

 

 らしくない自虐だ。在り得ざる冒涜だ。彼と、彼女。比較することすら烏滸がましいというのに。その行為は、その感傷は、彼女に対する最低最悪の非礼だ。故に罪人は感動も感傷も再び岩戸に押し込んだ。たったひとつの思いだけを手元に残して。

 

 ハッ、と誰に対してのものか分からない冷笑を飛ばし、彩歌は壁に預けていた背を自らに引き戻す。目蓋を上げて視線を巡らせ、彩歌はようやく咽の渇きを自覚する。長時間水分を摂っていなかった事もあって、水分不足に陥っていたのだ。今までそれに気付かなかった原因は心因性のものなのだろうか。

 

 ともあれ、咽が渇いたのなら水を飲まなくてはいけない。彩歌は視線を巡らせ、手近な所に自動販売機を見つけるとその前まで歩み寄った。財布から硬貨を取り出し、投入口に滑り込ませる。カラン、コロン。渇いた音を立てて数十のボタンに光が灯る。そうして何か適当なものを選ぼうとして、横合いから声。

 

「彩歌くん!? 帰ってなかったんですか!?」

「や。ゆ……中川さん、お疲れ様」

 

 途中で言い直したのは、その呼称が適切ではなかったから。〝優木せつ菜〟はもういない。そこにいるのは〝中川菜々〟というひとりの少女のみ。彩歌は今まさに押さんとしていたブラックコーヒーのボタンからスポーツドリンクに指をスライドさせ、落下してきたボトルを菜々に向けて放り投げた。菜々は何度か取り落としそうになりながらもそれをキャッチする。その表情に表れているのは疑問。それはそのボトルの存在か、それとも彩歌がまだこの場に残っている事に対してか。彩歌は、勝手に前者だと判断する。もう一度硬貨を自販機に投入し、今度こそコーヒーを購入する。──意識が冴えるような、苦味であった。

 

「俺の自己満足(お節介)だよ、ただの。だから気にしないで、受け取ってもらえたら嬉しい。というか、これで済ませちゃって、むしろ申し訳ないくらいだよ。何ならこれから一緒に食事でもするかい? 勿論、お代は俺持ちで」

「ありがとうございます。……ふふ。何だかデートのお誘いみたいですね。個人的には魅力的な提案ですが、生徒会長的にはナシです」

「ありゃ、残念。でもデートかぁ。そうかな。……そうかも」

 

 ならば失言だったかと、彩歌は己の短慮を自省する。同時に菜々の言う魅力的な提案というのは全く何のことはない、ただの友人としてのそれなのだろうとも、彼は一切の感慨もなくごく自然に了解していた。そこに妙な衒いや欺瞞はない。ただそこに在るものを、そうなのだと受け入れる程度の所作であった。

 

 彩歌が再びコーヒーを喉に流し込むのを、菜々がペットボトルの栓を開けて口を付けたのは殆ど同時。それは先の話題の終了を意味する。味蕾を貫く鋭い苦味と、渇きが癒えていく充足を感じながら彩歌は思考を巡らせて、それに先んじて菜々が口を開いた。

 

「驚きました。てっきり、彩歌くんはもう帰っているものかと」

「俺ってそんなに薄情者かなぁ……それとも、そんなに俺に会いたくなかった?」

「い、いえ! そんなコトはないです、絶対に!!」

「フフ。分かってるって。冗談だよ、ジョーダン」

 

 本当ですかぁ……? と菜々。その疑いの(ジト)目がどうしてかおかしくて、彩歌は更に少しだけ笑声を漏らす。その笑みに嘘はない。友人との会話を煙たがるような人間性を、彩歌は決してしていないのだから。

 

 だが嘘は吐かずとも、言及を避ける事はある。それは彩歌だけではない。菜々も、それ以外の人間も同様だ。たとえばそれは自分にとって不都合な事であったり、或いはその逆に相手への思いやりであったり。既に過ぎ去った、夢のような過去の事であったり。共に口にしないのであれば、それは暗黙の了解とでも言うべきであろうか。

 

 それが今、両者の間にあるのかは定かではない。どちらも言及する気が無いのか、避けているのか、はたまた片一方がもう一方の配慮している気になっているのか。そこに結論はない。無意識であるのなら、そこから確定を掘り起こすのは至難だ。不実への弾劾も、隠匿に対する糾弾も、光輝(トキメキ)の感慨も。全ては靄の中。少女は少年に微笑む。

 

「でも、丁度良かった。彩歌くんに渡したいものがありましたので」

「俺に渡したいもの? 何?」

 

 彩歌の問いに菜々は言葉ですぐに解答を投げ渡すような事はせずに、肩下げ鞄を開けてその中に手を突っ込んだ。まさぐるような仕草でそうする事、数秒。菜々が取り出したものとは、一冊のノートであった。生真面目な彼女らしい、飾り気のないそれである。タイトルの記載はないが、名前の欄には優木せつ菜とだけ書かれている。或いはそれは、その名前がある意味で中身そのものを表しているからなのだろうか。

 

 すぐに合点がいった訳ではない。それでも彩歌の中には漠然と予感めいたものがあって、それを唾液と共に呑み下した。その予感が何を意味するにせよ、彩歌に受け取らないという選択肢はない。菜々ではなく、彼自身がそう定義し、排除したのだ。厳かにも思える動作で受け取り、表紙を捲って、視界に飛び込んできたものに彼は息を呑む。

 

 ──なんだ、コレ。ノートを開いた瞬間に彩歌に奔った衝撃を言語化するならば、そんな所だろうか。何もおかしな内容が書かれていた訳ではない。だが、これを彩歌に渡すという行為自体が、彼にとっては不可解であった。

 

「中川さん、コレ……」

「貴方だから持っていて欲しいと思ったんです。『せつ菜(わたし)』の正体を知り、その終わりを見届けてくれた、貴方だから」

「っ──」

 

 その言い方は、ズルい。卑怯だ。そう思うも、彩歌はそれを口に出せない。言ってしまえば、それは裏切りにも等しい行為になってしまうから。真野彩歌という不実の徒をそれでも信頼してくれた彼女への裏切りだ。第一、卑怯と詰られるならばそれは彩歌の方であるべきだ。観念し、彼はノートを閉じる。

 

 ふたりの行為は、まるで形見分けだ。優木せつ菜という少女の残滓。それを、彩歌は受け取ったのだ。或いはそのノートの内容を考えれば、残滓などという枠には収まらないかも知れない。それを、彩歌は引き受けた。ならば彩歌はその選択に対する責任を負わねばならない。

 

 耳の奥で、雨音が反響している。それは聞き慣れた()()()の音。この約4年間、片時も止む事無く彩歌の罪を謳い続ける弾劾の残響だ。それを頭の隅に無理矢理に追い遣り、菜々から受け取ったノートを丁重に、まるで宝物でも取り扱うかのように両手で握る。

 

「……分かった。キミがそう言うなら」

 

 ()()()()()()、と。言外の意志は菜々に伝わったのか否か。彩歌には分からない。

 

「はい。そうして下さい。……じゃあそろそろ帰りましょうか」

「うん、そうだね」

 

 ふたりの家は決して近いとは言えないが、それでもそう離れている訳ではない。何しろ同じ小学校の学区内だ。故にこの場から帰るにしても途中まで帰路は同じである。だからだろうか、自然とそこまでは共に帰る流れになっていた。

 

 彩歌よりも先に歩み出した菜々。その背中が、彩歌には嫌に小さく見える。いや、元から彼女は彩歌よりもかなり身長が低いのだから視覚情報としてそれは正しいのだが、今、彼の胸中には単純な比較として以上の意味を持ってそれが居座っているのだ。そして予感する。あの日以来、大雅から見た彩歌もそうなのだろうかと。

 

 無論、今の菜々と自身を同類扱いするなどというのが許されざるだとは彩歌は理解している。それでも、自分の心に鍵をかけて封殺し、耳を塞ぐ彼女の姿を、彼は見ていられない。

 

 ──もっと気楽にいこうぜ、兄弟? オマエはオマエが思ったようにやればいい。

 

 再想するは親友の声。ここにいない彼に応えるように、彩歌は呟く。

 

「あぁ、そうだね。……そうだった」

「……? どうかしたんですか、立ち止まって?」

「ううん、何でもないんだ。帰ろう」

 

 振り返って尋ねていた友に首を横に振ってそう返し、彩歌は小走りで菜々に追いつく。当たり前の事だがやはりふたりの影は平行線で、何処まで行っても交わらない。それで良い、と彼は切り捨てる。

 

 彩歌はせつ菜の正体を知ったうえでライブを訪れ、願われた通りにその終わりを見届けた。そして何の因果か彼女の残滓の一部は彼の手にあって、それが自身の決断によるものである以上、彩歌には果たさなければならない事がある。誰かに願われただとか、そんな事は関係が無い。誰が何と言おうと、自ら下した決定には責任が伴うのだから。故に。

 

 ──優木せつ菜をこのまま終わらせない。終わらせたくない。

 

 遍くを心底の不感に閉じ込め、それでもなお手元に残ったその責任(けつい)。それだけは、彩歌は果たさなければならないのだ。たとえ、それがどれだけ身勝手な思いか、自覚しているのだとしても。

 


 

「とはいえ、どうしたものかな……」

 

 夕刻。先日の出来事を想起していた彩歌が漏らしたのは、弱音とも形容できるそんな言葉であった。その呟きはあまりにも小さく、教室の窓から滑り込んでくる朱に洗い流されて消えていく。

 

 教室の中に、他の生徒の姿はない。もうとうに帰っているか、部活動に勤しんでいるか、大方はそのどちらかだろう。そんな中、帰宅部であるにも関わらず教室に独り残る彩歌は異質だろうか。机上には一寸とて書き進められていない五線譜。それに皺を刻まないように天板に肘を立て、頬杖を突いて外を眺めている。

 

 どうしたものか、と先程口にしたが、実際、彼には何の方針もないという訳ではなかった。むしろ実情はその逆。彼はもうとっくに方針を定めていて、しかしその終端にまで己が辿るべき道程(プロセス)を明瞭に描き切れていない。構築したい旋律はあるのにその間が思いつかないようなものだ。それでも何か捻り出そうとうんうんと唸り続けて、気づけばこんな時間になっていた。

 

「……帰ろう」

 

 立ち上がる。事情もないのにいつまでも校舎に居座っている訳にもいくまいと、白紙の楽譜を回収して彩歌は己の席を後にした。彼は彼としてしなければならない事の他に、学生という立場のためにしなければならない事もあるのだ。義務を果たさなければ、権利は主張できない。目前の事象に囚われて他を疎かにするなど言語道断である。

 

 音楽科のエリアに彩歌以外の気配はない。廊下の窓は閉め切られていて、それ故に外から運動部の掛け声や連れだって帰路に就く者らの談笑は聞こえてこない。日常と地続きでありながら、同時に隔絶された異界のよう。

 

 黄昏の絶界。しかしそれは彩歌の心象風景とは遠くかけ離れていて、そのせいか勝手知ったる場所であるのにも関わらず未知の領域に踏み込んだようでもある。そのせいだろうか、知らず、彼は歌い出していた。

 

「──────」

 

 少年の歌声が茜色に染み入り、離断の世界を満たしていく。その声色は跳ねるようでもあり、かつ歌詞に込められた遍くを解体し呑み込んでやろうとする堅実さも内包している。何処か相反するものが同居したそれであった。

 

 果たして、彼が歌っている曲とは〝CHASE!〟。つまりは彼の友が作り上げた彼女だけの曲であり、転じて彼がそれを歌うというのは先日のライブにて見たせつ菜、その内心を自身の裡に再現(トレース)せんが如きものであった。ひどい驕りもあったものだ、と何処かで嘲笑う声がする。

 

 足取りは軽やかに。歌声は厳かに。敬虔な信徒が讃美歌を歌いあげるが如く、少年は自らが発した一言一句を呑み込んでいく。もしもそれを傍で聞いている者がいたとすれば、足を止めてその歌声に耳を傾けていただろう。多くの学生が通う虹ヶ咲学園、その音楽科にて特待生の枠を維持しているのも、ネット上で人気の歌い手たるのも、伊達ではないのである。

 

 だがそれは彩歌の歌を客観から捉えた場合の話。客観も所詮は周囲の主観の集合に過ぎないものだが、それでも主観と客観は別物だ。よって彩歌の歌声に、彼自身だけが全く酔えないというのも荒唐無稽ではなく、少年は深酒に遁走する堕落者のように更に熱を入れる。それこそ、遂には周囲の人間の存在すら考慮に入れられなくなってしまう程に。

 

 ──故に。一曲を歌い終えて足を止め、ひとつ大きく息をしたその直後に拍手が投げ掛けられるまで、彩歌は途中から観客がいた事にも気づいていなかった。

 

「えっ……?」

 

 迂闊だったと言わざるを得ない。いくら音楽科の教室には人がいなかったとはいえ、校舎全体がそうであるとは限らないのだ。そんな簡単な事にも気づけなかったのは、詰まる所歌い始めた時点で彼は歌以外の機能を削ぎ落された装置か深淵に落下する探究者のようなものになっていたからなのだろう。

 

 観客はふたり。リボンの色からして、彩歌と同じ2年生であろう。片方は緑がかった黒髪をツインテールにした小柄な少女で、もう一方は桃色の髪を側頭部で団子に纏めた少女。何処かで見たような、と彩歌が既視感を抱いたのも束の間、黒髪の少女が爛々と目を輝かせながら彩歌へと猛進してくる。

 

「ねぇ! 今歌ってたのってCHASE! だよね!!」

「うん、そうだけど……」

 

 凄まじい勢いでのパーソナルスペースの詰め方である。しかしそれでも相手が──あくまでも彩歌は、という事だが──不快感を抱かないのは、或いは少女が纏う雰囲気がそうさせているのだろうか。

 

 しかし不快ではないとはいえ困惑してしまうのは致し方ない事であろう。そんな彩歌の内心を知ってか知らずか少女の瞳に宿る輝きはより増して、語勢は強まっていく。同行の士を見つけてはしゃぐその姿は微笑ましいものの彩歌はどう対応したものか思案して、しかし答えを出すよりも早くに団子髪の少女がツインテールの少女の肩に手を置いた。

 

「侑ちゃん、落ち着いて? その人、困ってるよ?」

「あっ、ごめんね!」

 

 またやっちゃった、と侑と呼ばれた少女ははにかむ。そんな侑に対して彩歌は気にするなとばかりに無言で首を横に振り、微笑を投げた。団子髪の少女が言う通り彩歌は困惑こそすれ、迷惑とは思っていなかったのもまた事実だ。

 

 それよりも彩歌の意識の端に引っ掛かったのは団子髪の少女からの遠慮ともまた別の何かともつかない気配で、けれどそれも一瞬で霧散してしまう。気のせいだったのだろうかと彼は首を傾げて、直後、侑が彩歌に問いを投げた。

 

「そうだ! キミ、もしかして真野彩歌くん?」

「あぁ、そうだよ。……でも、どうして俺の名前を?」

 

 やっぱり! と侑。

 

「クラスメイト……大雅くんが言ってたんだ。せつ菜ちゃんのファンの友達がいて、歌とピアノがすごく上手とか、胃袋を掴まれてるとか……」

「アイツ、俺がいない所でそんなコトを……」

 

 自分がいない場所で自分の話をされていたと知り、恥ずかしそうに彩歌は苦笑する。けれどその苦笑は少しも不服そうな気配を漂わせずむしろ嬉しそうで、その様子に侑は彩歌と大雅の仲の良さを悟る。〝アイツ〟と、見るからに温厚そうなこの少年がそう雑に言い捨てるのは、きっとそれだけ気心の知れた相手だからなのだろう。

 

 大雅は彩歌を無二の親友だと思っていて、それは彩歌も同じ事。ふたりの間には決して友愛以上の感情はないけれど、こと友愛という点で言えば極点にあると言って良い。尤も、どうしてそこまで仲が良いのかは侑には全く関係のない話だ。侑と歩夢の仲の深さが彩歌の関知する所ではないように。

 

 ともあれ彩歌が知らぬ前に相手に名前を知られていたのは紛れもない事実で、だからといって初対面の挨拶を欠くのは礼節と品位に欠けた行いだ。ひとつ息を吐き、彩歌は改めて礼を取る。

 

「そう。俺の名前は真野彩歌。キミ達と同じ2年生。学科は音楽科だけどね」

「彩歌くん、ね。私は〝高咲侑〟! それでこの娘が……」

「〝上原歩夢〟です。よろしくね」

「うん、よろしく。高咲さん、上原さん」

 

 高咲侑と上原歩夢。そして、真野彩歌。これまで関わり合いが無かった筈のふたりの少女と少年はこの日、優木せつ菜という縁の下で邂逅を果たしたのであった。

 


 

 車道を往く車の音。空には夜の帳が落ちていて、けれど地上は光の海に水没している。行き交う雑踏はまるで蟻の行軍のようで、しかし比べるまでもなく無秩序だ。皆が皆社会という共同体の一単位で、見えているのは己ひとり。彩歌もまた、取るに足りないただの背景(ひとり)

 

 今日は何という事もない一日だった。少しいつもよりも長く学校にいて、不覚にも調子に乗って歌など歌って、それを聞いていた女子生徒ふたりと知り合った。特筆すべき事柄はあるけれど、それだけだ。

 

 無心で歩いて、気づけば雑踏を抜けていた。家々が立ち並ぶその最中は人の姿もまばらで、それは俗に言う高級住宅街の方へ行くにつれてより減っていく。その途中に、真野邸はある。

 

 陽彩はまだ仕事から帰ってきていないのか、明かりは点いていない。土地のひとつひとつが大きいために隣家のライトも朧気で、街灯はあれど街はその高級さとは裏腹に黒々としている。だからだろうか、彩歌はおもむろに頭上の光源を振り仰いだ。

 

 空を塞ぐ天蓋。不夜城めいた都心の文明に犯されたその中で、月はひとりぼっちでその美麗な白貌を衆愚に晒している。

 

 

「────」

 

 

 思わず、溜め息を吐いた。

 

 

 今夜は、こんなにも月が綺麗で───

 

 

 

 ───けれど、夜空に虹はない。



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第7話 きっと、キミは希望(ひかり)

 ──真野(まの)彩歌(さいか)という少年にとって、昼休みを独りで過ごすというのは久方ぶりの事であった。普段は親友である大雅と共に昼食を摂るなどして過ごしている彼だが、今日、大雅はいない。所属しているサッカー部が出場する大会が近い事もあって、レギュラーメンバーである彼は今日から昼練習に出ているのだ。それ故、大会が一段落するまで彩歌は大雅の分まで弁当を作ることもない。

 

 彩歌と大雅は彼らが中学校に入学した時分に出会いその頃からよく行動を共にしていたため、両者ともこの数年間で最もよく一緒にいた相手は互いという事になろう。そこまで来ればもう彩歌にとって昼休みは大雅と行動するのが普通とも言える程で、彼がいない時間は聊か手持ち無沙汰であった。

 

 とはいえ、何も彩歌は大雅に依存している訳でも、行動の決定を彼に委ねている訳でもない。ひとりで過ごすしかないというのなら、それはそれで相応の過ごし方というものがあろう。そもそもとして彼は友がいなければ何もできない程、孤独に弱くはないのだ。

 

 弁当と水筒、それから楽譜を挟んだクリアファイルと筆記用具を小さめの手提げ鞄に詰めて、昼餉の喧騒に背を向けるようにして教室の外へ。それから幾許か逡巡して、彩歌が足を向けたのは中庭に続く方面とは逆。いつもの場所でひとり静かに過ごすのも悪くはないが、たまには趣向を変えてみるのも悪くはないだろうと考えたのである。

 

 仲の良い数人で固まって歓談に興じる者や我先にとカフェテリアの方へと駆けていく者、或いは彩歌と同じようにどこかに向かっているであろう者、廊下には様々な生徒がいて、その殆どは彼にとり名も知れぬ無貌に等しい。それはきっと相手から彩歌も同じことで、しかし確かに例外はある。そういった知り合い、或いは友人と短い挨拶を交わしつつ生徒の間を抜けて、階段を昇った先の扉を開け放った。

 

 瞬間。吹き込んできた風が彩歌の肌を撫で、強い日差しに思わず目が眩む。果たして、彼が出た場所とは学校の屋上であった。現代では多くの学校において屋上は立ち入り禁止になっているものであろうが、彼が通う虹ヶ咲学園ではその自由な校風のためか、徹底的な安全対策が為されているからなのか、生徒に対して屋上の利用が許されているのである。詳細な理由は彼の知る所ではないが、利用できるというのなら利用したくなるものであろう。

 

 それは何も彩歌だけの心理ではないようで、屋上には既にそれなりの数の生徒の姿があった。しかし昼休みに入ってから比較的早くに移動したためか、ベンチの空席にはまだ幾分かの余裕がある。その空席の中から小さな木の影が落ちている席を見つけると、彼はそこに腰掛けた。そうして鞄から弁当を取り出し、いただきます、と一言。蓋を開けようとしたその刹那、不意に聞き覚えのある声が彩歌の耳朶を打った。

 

「あれっ、彩歌くん?」

「……おや。こんにちは、高咲さん、上原さん。昨日ぶりだね」

 

 彩歌の視線の先、そこにいた先程の声の主とはつい昨日知り合ったばかりの相手である女子生徒、高咲侑であった。その隣には侑の幼馴染である上原歩夢もいて、思わず昨日の醜態を目撃されてしまった事実を思い出して羞恥で赤面しそうになるも彩歌はそれを押し殺して人当たりの善い柔和な笑みを浮かべる。

 

「珍しいね、ここに彩歌くんがいるなんて。いつも大雅くんと一緒に食べてるって聞いたけど」

「アイツは今日、部活の昼練でね。だからいつもとは違う場所で食べようと思ったんだ」

「そうなんだ。……あっ、隣いいかな? 折角会えたんだし、ちょっと話したいことがあって」

 

 侑のその言葉に、えっ、と声を漏らす彩歌。その態度はまるで侑の提案を嫌がっているようにも見えてしまうが、実際の所はそうではない。侑から視線を移し、彩歌が一瞥したのは歩夢である。

 

 本人からの接触という切っ掛けがあるまでせつ菜が菜々であると気づけなかった彩歌だが、それはあくまでも例外的な事であり、彼は基本的に人をよく見ている。それ故、彼は昨日出会った時点で歩夢が侑とふたりでいる時間を何よりも大切にしていると気づいていた。であればいくら彩歌が言い出した事ではないとはいえ、余人がその場にいる事は彼女にとって快くはないだろうと思ったのだ。

 

 だが彩歌の予想に反して、彼に返された歩夢の視線はあくまでも強かだ。その反応から恐らく侑の言う話したい事というのは歩夢にとっても何らかの関わりがあるのだろうと、彼は察する。尤も、彼らの間にある共通の話題など、片手で数えられる程しかないだろうけれど。

 

「キミ達がそれでいいなら、俺に拒否する権利はないよ」

「そっか。ありがとっ。じゃ、座ろっか、歩夢」

「うん、そうだね」

 

 その短い遣り取りの後に彩歌は自らの身体を横にどかし、ふたりの座るスペースを確保する。元から十分な空きがあったのにも関わらずそうしたのは彼女に対する恭順の態度か、或いは単純に距離を取っただけであるのか。

 

 だがどちらであるにせよ、それは侑と歩夢には関係のない話だ。いただきます、と手を合わせて食前の挨拶をするふたりを横目に、彩歌はほうとひとつ溜め息を漏らす。それなりに付き合いのある相手ならばともかく、本当に数える程しか会話をしたことがない相手と昼食を共にするなど、考えてみれば奇妙な状況だ。少なくとも高校進学以後殆ど親友と行動していた彩歌にとってはおおよそ始めての経験であろう。

 

 しかし、だからどうという訳でもない。ほとんどあった事もない相手との会話に困窮する程、彩歌はコミュニケーション能力が低くはないつもりであったし、深い関わりが無いのならそれ相応の付き合い方というものがあろう。弁当箱の中からピーマンの肉詰めを摘まみ上げて口内に放り込み、幾度かの咀嚼の後に呑み下す。

 

「……それで、俺と話したい事っていうのは?」

「うん、それなんだけど……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「えっ……!?」

 

 おずおずと、様子を伺うような表情。続けて繰り出された予想もしていなかった質問に、彩歌が驚愕の吐息を漏らす。彩歌が、せつ菜の友人であるのか否か。それは至って普通の質問でありながら、しかし決して在り得べからざる問いである。まず以て優木せつ菜という名の生徒は実在しないのならば、その友というのもまた実在しないというのは自明だ。ただひとつ、中川菜々こそが優木せつ菜であるという事実に気付いている相手からの質問であった場合を除いて。

 

 しかし侑と歩夢の様子からするに、彼女らはせつ菜の正体に気付いていない。であるならば考えられる要因としてはその情報自体が正体に気付いている者から正体については知らされぬまま齎されたという事のみだが、少なくとも彩歌の知り得る限りにおいてその立場と成り得るのは親友である大雅のみだ。彼以外、彩歌と侑らの両方に既知である人物がいない。

 

 だがもしもそうであるならば、大雅は何故せつ菜の正体に気付けたのか。少なくとも彩歌はそうだと言った覚えはない筈であった。今すぐにでも練習場所に押し掛けて問い質したい気持ちを堪え、彩歌はふたりに答えを返す。

 

「そう、だね。確かに俺は優木さんの友達……ってことでいいんだと思う。でも、キミ達がきっと知りたがっているようなコトは……話せない」

「うん。分かってる」

「なら……」

 

 何故態々問うたのだ、と。そう言いかけて、しかし彩歌はその前に口を噤んだ。それは禁句という訳ではないにせよ、口にしてしまえば半ば侑や歩夢に対しての愚弄となろう。彼女らは間違いなくせつ菜の引退や同好会の廃部について既に知っているのだろうが、その理由までは知らないのだろう。知りたい、とも思っている筈だ。だが彼女らはそれがせつ菜にとってどれだけ重大な決断であったのかも分かっていて、だからこそその理由を知るであろう者に対しても無理に聞き出そうとするような真似はしない。

 

 故に、彼女らが彩歌に先の確認をしたのは全く別の所に意図がある。だがその意図が分からずに彩歌は押し黙って、その沈黙をどう受け取ったのか、侑はあくまでも穏やかな笑みのまま口を開いた。

 

「別にせつ菜ちゃんが辞めた理由が訊きたかった訳じゃないんだ。まぁ、知りたくないって言ったらウソになるけど……ただ、彩歌くんがせつ菜ちゃんの友達なら、もしかしたらどうすればスクールアイドルになれるか知ってるんじゃないかなと思って」

「どうすればって……なるのかい、スクールアイドルに?」

「私はアイドル志望ってワケじゃあないんだけどね。ただ、歩夢を応援したくて。それに、歩夢の夢を一緒に見るって約束もしたし。ね?」

「うん!」

 

 侑の一瞥に、華のような笑顔を咲かせる歩夢。きっと彼女は侑と共に夢を追いかけたいと願い、侑はそんな幼馴染の思いに応えた。それは彼女らにとって当たり前の事であるのかも知れないけれど、どうしてか彩歌にはひどく眩しく見えて、思わず目を細めた。

 

 幼馴染同士であろうとなかろうと、互いが互いを想い合い幸せでいて欲しいと願う姿は美しく、尊いものであろう。或いはそれは、大雅が彩歌に語った在り方のひとつの体現と言えるのかも知れない。

 

 翻って、自分はそう在れているのか。彩歌はそう考えそうになって、すぐに思考を中断した。何を莫迦な事を。そう在れているか否かなど、決まっている。否だ。彼は誰かの為に何かをしたいと考えているだけで、まだ何もできていないのだから。それなのに答えを求めるなど、あまりにも莫迦げている。鎌首をもたげる自己嫌悪。だが同時に、このふたりの力になれないものかと、彼は柄にもなくそんな思いを抱いた。

 

「そっか。頑張ってね。余計なお世話かもだけど、俺も応援するよ」

「本当? ふふっ、ありがとう、彩歌くん」

 

 応援する、という彩歌の言葉は紛れもなく本当に彼の心底から出てきた言葉で、しかしあまりにも白々しい。真に彼が応援したいと思った相手はもういなくて、ずっと彼は何もできなかったというのに、別の誰かを応援などできるものか。

 

 だがそんな彩歌に対してでも歩夢が向けたのは微笑みだ。そこに偽りの気配はなく、彩歌の言葉を純粋に嬉しく思っているようである。思えばこれが、歩夢と彩歌の間で交わされたおよそ初めての遣り取りであった。

 

「それで、どうすればなれるかだけど……言うまでもないだろうけど、部活として活動するのが一般的だと思う。個人でできない事もないけど、長期的に活動する場合を考えるとね……」

「やっぱり、そうだよねぇ……」

 

 スクールアイドルとは広義では学生活動の一環としてアイドル活動をしている者を指すが、基本的には部活動としての形をとって行うのが一般的だ。彩歌が言うように個人でも活動するのは不可能ではないものの、衣装やライブ会場の確保などにも少なくない費用がかかる以上、その費用を部活動費として処理できる方が都合が良いのである。そもそも一般的な一高校生が自由に扱える金額など高が知れているというのもある。

 

 しかし今、その肝心の受け皿であった同好会は廃部されてしまっている。虹ヶ咲学園においては部や同好会の設立には最低でも5人のメンバーが必要とされるが、現在、この場にいるのは侑と歩夢のみ。元メンバーも再始動に向けて動いている可能性はあるが、合流できていない現状、人数として計上するのは難しいだろう。悩まし気に小さく唸り、幾許か。ふたりの視線が、殆ど同時に彩歌へと向けられる。瞬間、彩歌は何か予感めいた感覚を覚えるも、それに何か反応をするよりも早く侑が彩歌の手を取った。その奥で、明らかに驚いている様子の歩夢が彼からは見える。

 

「彩歌くん、スクールアイドル、やってみない?!」

「やっぱり! いや……悪いけど、俺自身がスクールアイドルになる気はないよ。というか、どうして俺にそんなコトを?」

「え? だって、昨日見かけた時、楽しそうに歌ってたから……歌うのが好きなのかなって」

「楽しそう……?」

 

 譫言のような呟きであった。楽しそうという侑の印象を、それが自らに対してのものであるというのにまるで受け入れられていない、或いは自身でない別の誰かへの言葉を聞かされているかのような。

 

 だが、侑のそれは紛れもなく彩歌への評価だ。先程から微妙な表情をしている歩夢も侑と同様に彩歌の方を見ていたという事は、口にしてこそいないものの凡そ同じ印象なのだろう。

 

 だが肝心の張本人である彩歌自身が、その評について受け入れ切れていない。現実感の欠落、或いは浮遊感。そして、雨音の幻聴。それらはやはり過去からの残響で、だが彩歌はそんなものなど聞こえていないかのように──事実として実在の音ではないが──振舞う。ふふ、という薄い笑声。

 

「彩歌くん?」

「ううん、何でもないんだ。ただ……キミ達も、優木さんと同じコトを言うんだなって、そう思っただけさ」

「せつ菜ちゃんと……?」

 

 その問いに、彩歌は無言で首肯する。侑と歩夢が彩歌の歌声を楽しそうだと評したように、菜々/せつ菜は動画投稿サイトの配信を通した彼のピアノの音色を〝大好きが詰まっている〟と評した。それが示す所はつまり、彩歌の音は周囲にはそう聴こえるという事なのだろう。彼自身がどう感じているかは全く置き去りにして。

 

 追想するかのような、同時に何かしらの含みがある彩歌の気配を前にして、侑と歩夢は戸惑いにも似た様子を見せる。それは彼らの前に会話の間隙として現れて、そこに彩歌はそれまでと異なる、それでいて〝優木せつ菜〟というその一点においてはある程度の連続性がある話題を差し挟んでしまう。この話題を続けていては、余計なことまで口走ってしまいそうだから。

 

「ところで、ふたりは優木さんのライブを見てたんだよね? そのライブを見て、どう思った?」

「どうって……」

 

 あまり要領を得ない彩歌の質問に、顔を見合わせるふたり。だが彼女らを見る彩歌の目はあくまでも真剣で、彼がただ先の話題から逃れるためだけにその問いを発した訳ではないのは明白であった。

 

 それが何故であるかまでは、ふたりには分からない。態々それをふたりから聞き出してどうするつもりなのかも全く分からないものの、彼女らの善性はその目を裏切る事を良しとしなかった。

 

「私は……凄いと思ったなぁ。自分の気持ちをあんなに真っ直ぐに伝えられたら、どんなに素敵だろうって……」

 

 そう言う歩夢の瞳に宿る輝きを形容するのならば羨望、或いは憧憬だろうか。宙へと向けられたその目に映っているのはきっと青空ではなく、彼女の脳裡に焼き付いた過去の光景、せつ菜のライブをはじめとしたスクールアイドルの姿なのだろう。

 

 自分ではない別の誰かに憧れ、そのようになりたい、そのように在りたいと思うのは、ある意味では人間として当然の欲望であろう。だが当然であるのだとしてもそれは自己変革の端緒である以上容易に起こり得るものではない。つまりは歩夢にとって、優木せつ菜というスクールアイドルとの出会いはそれだけ大きな出来事であったのだろう。

 

 そして、そういった自己変革、或いは自己の在り方における将来的な展望を実現せんとする欲望を、人は他の欲望と区別して特別に〝夢〟と呼称する。そういう意味では、せつ菜は歩夢に夢を与えたのだとも言えよう。

 

「私は歩夢と違ってまだ夢はないんだけどさ、夢に向かって頑張っている人を応援したいって、そう思った。

 それと、これは私のワガママかもだけど……あのライブが最後じゃなくて、始まりだったら最高だろうなって」

「始まり……?」

「うん。……正直な事を言うとね、私は今でも思ってるんだ。せつ菜ちゃんに、また歌って欲しいって」

「そっか。……そっか」

 

 一度目は理解。二度目は、賛意。嗚呼、ここにもいたのだ、優木せつ菜にまだ終わって欲しくないと願う者が、ふたりも。それはその発端や理由こそ違うのかも知れないが、意味としては彩歌の願いと全く同じものであった。

 

 そして、或いは彼女らならば、と。それはもしかすると自らの責任から逃れようとする裏切りに等しい行為であるのかも知れないけれど、結果は同じだ。むしろ彩歌の嘗てからの理想を果たさんとするのならば、こちらの方が良い。

 

 つまりはここにせつ菜/菜々の〝大好き〟を理解し受け止めようとする者がいる、という状況こそが、彩歌にとっては希望であり、それに気づいた瞬間、彼の中にあった惑いは霧散した。

 

 彼女らが彼女らの目標に向けて動くのならば、同じように彼は彼の為すべきを為す。その思いを胸に一度瞑目し、数拍。再び開かれた孔雀青の瞳は決意の輝きに満ちていて、それなのにそれを見た侑はどうしてか、悲壮だと、そう感じた。

 

「訳の分からない質問だったと思うけど、答えてくれてありがとう。代わりというのも変だけど……俺にできる事があれば、言って欲しい。きっと、力になるから」

 

 自分に何ができるかは、まだ分からない。もしかしたら何かしたいと願いながら、また何もできないのかも知れない。

 

 それでも──光が見えたのならば、それに向けて進むしかない。たとえその果てにその光を再び失うことになるのだとしても、己の責任を果たせるのならば構うものか。彩歌は、そう決意したのである。



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第8話 ワタシこそが The Cutest Girl!

 教室の窓から外を見遣れば、空はただ蒼く、眇々としてそこに在った。更に彩歌らが通う虹ヶ咲学園は東京湾湾岸に位置している事もあって、視線を下に移せば青々と広がる海原が見える。蒼と青。それらは文字通りただそこに在るだけのものでそれ以上の意味はないけれど、彩歌はこの光景が好きだった。

 

 それは彩歌の裡に少なからず夢想主義者(ロマンチスト)の気がある故もあろうが、それ以上のその青が今は亡き母の存在を思わせるという事があろう。彼がまだ幼くピアノを上手く弾く事もできなかった頃、それでも慈愛を宿していた優しい母の目の色がまるでこの雄大な海原のようであったことを、彩歌はよく覚えている。だがそんな感傷めいた思いを抱いた自らに、彼はひとつ冷笑を飛ばした。何を莫迦な事を、と。

 

 過去を懐かしみ故人を悼むというのは、人として当然の行いではある。しかし咎人にその権利はあるまい。過去に罪を犯した彼らに許されているのはきっと己の罪業と向き合い、その責任を死ぬまで果たし続ける事のみ。そう己に言い聞かせ、彩歌は視線を机の上に移した。そこにあるのは、書きかけの楽譜である。それは数日前には全く進んでいなかったそれと同一のものだ。未だ完成してはいないが、0と1の間にある隔たりが無限大までの道程にも等しいように、彼の進捗も大幅に改善したと言えよう。

 

 シャーペンを執り、楽譜と向き合う。未だに完成してこそいないが、ある程度のイメージはできている。或いはそれは侑や歩夢との出会いの影響だろうか、元は漠然としていて全くの不明であった自らの進むべき道程が、今は手探りではあるものの進めている感覚がある。だがまだ何かが足りないような気がしてシャーペンの頭をこめかみの辺りに押し付けながら小さく唸っていると、割り込んでくる声があった。

 

「真野、ちょっといいか?」

「ん?」

 

 声をかけてきたのは彩歌と同じクラスの男子生徒であった。特筆する程交友関係が広くない彩歌だが、人並みに友人はいる。彼はそのひとりであり、それなのに何処か様子を探るような調子の彼に、彩歌は首を傾げる。

 

「どうしたの? 随分と挙動不審だけど」

「挙動不審言うなっ。……あー、お前に客だ」

 

 客? と、そう彩歌が問いを返すと、男子生徒は何も言わずに親指で教室の出入り口の方を指し示した。それにつられるようにして彩歌は男子生徒が指した方に視線を移し、そこにいた人物と目が合う。

 

 果たして、そこにいた客とは普通科の生徒でありこの場にはいない筈の侑であった。彼女は教室内の様子を伺うかのように出入り口から半身を覗かせており、彩歌と目が合うと微笑を浮かべながらひらひらと小さく手を振るなどした。その挨拶めいた仕草に彩歌も手を振り返す。

 

 それから取り次いでくれた友人に一言礼を言うと、彩歌は机上に広がっていた物品を片付けてから席を立った。態々他人の机に散らばっているものを観察するような酔狂もそういないだろうが、注意を払っておくに超した事はあるまい。そうして教室を出た彩歌に、侑が笑みを投げる。

 

「おはよ、彩歌くん」

「おはよう、高咲さん。どうしたんだい、こんな早くに? 俺に用事があるなら、普通に連絡をくれても……あ」

 

 言葉を途中で区切り間抜けな声を漏らしてしまったのは、己の失態に気付いたから。そんな彩歌を前にして侑は何を思ったのか、口許に手を遣って苦笑めいた笑声を漏らしている。

 

 普通に連絡をくれても良かったのに、とそう言いかけた彩歌だが、それは不可能な相談だ。昨日の昼にあのような、ともすれば歯の浮くようなと形容されてもおかしくない事を宣った彼だが、昼休みの時間自体がそう長くはない事もあってその後まもなくして解散してしまったため、互いに連絡先を知らないのである。

 

 であれば、成る程相手に用があるならば当人の許を訪れなければならないのも道理である。だがそれはどうしても不便で、その不便を招いたのは彩歌の失態だ。尤も、いくら半ば同志と言える相手だとしても出会って間もない少女らに対して連絡先を問える程、彩歌は軽薄、或いは社交的ではないつもりだが。

 

 しかし奇妙な意地を張りこの期に及んで連絡先を教えないというのは愚鈍というものだ。何より彩歌の目前では侑が既にメッセージアプリのQRコードを表示していて、彩歌は無言のままそれに応えるようにスマホを操作してそれを読み取る。ただそれだけの動作で、ふたりは離れた場所でも遣り取りができるようになった。

 

 便利なものだ、と、それは当たり前になった時代の人でありながら彩歌は思う。感慨にも満たない、些細な思索。スリープモードに戻したスマホをポケットに入れて、ひとつ溜め息を吐く。

 

「ごめんね。俺の方から協力するって言ったのに、キミに余計な手間を掛けさせてしまった。面目ない」

「そんなに気にしないで! 忘れてたのは、私もだからさ」

 

 心底から申し訳なさそうに謝罪を口にする彩歌を前に何を思ったのか、慌てた様子で侑はそう言う。そこに建前の気配は無く侑が彩歌に責を問うていないのは明白で、けれどやはり彩歌の笑みは何処か済まなそうだ。

 

 だが相手が気にしていないと言っているのに自分だけが申し訳なさそうにしているというのもひどく失礼だろうと、彩歌は脳裡に張り付く自罰を頭を振って払い落とす。次いで彼の表情に浮かんだのは、常の柔和で人当たりの良い微笑だ。

 

「分かったよ。気にしない事にする。

 ところで……俺に用事というのは?」

「そうそう、そのコトなんだけど……今日の放課後、中庭に来てくれないかな?」

「中庭? 放課後は特に用事もないし、構わないけど……」

 

 そう答えを返す彩歌の表情から侑は彼の疑念を察したのだろうか、彼の方から視線を外し、廊下の壁に背中を預けながらその経緯について語り始める。曰く、昨日の放課後、侑と歩夢のふたりはスクールアイドル同好会のメンバーのひとりと出会い、親交を持ったそうであった。それから学園にほど近い公園を一応の活動場所に設定し、自己紹介動画を撮ると決定した時点で昨日分の活動は終了となったようであった。

 

 簡単に言うのならば、何という事はない、偶然にも旧同好会メンバーとうまく合流する事ができたというだけの、ただそれだけの話だ。無論彩歌にとっても喜ばしい報であるに違いはないが、それ以上の関係があるようにも思えない。

 

 勿論協力すると言ったのだから、何らかの活動に力を貸せと言うのであればそれに協力するに彩歌は一切の不服はない。だが今まで侑が語った内容の中にそれらしい事柄はないように彼には思えた。それが顔に出ていたのだろうか、侑が先んじて答える。

 

「今日は何か手伝って欲しいってワケじゃあないんだ。ただ……昨日も彩歌くん、悩んでるみたいだったから。何か力になれないかなって、思ったんだ」

「っ──!!」

 

 彩歌が僅かに目を見開き息を詰まらせたのは、侑の言葉が全くの予想外であったから。同時にそれは驚嘆でもある。侑と彩歌はまだ出会って間もないというのに既に見抜かれているというのは、恐らく侑がそれだけ他人をよく見ているという事だろう。或いは洞察力が優れているのだろうか。

 

 だが、不思議と不快には感じていない自分を彩歌は自覚している。それは彼が他人からの善意を受け取れない程に落ちぶれてはいないという事でもあり、高咲侑という少女の人柄の為せる業でもあろう。

 

 しかしその真っ直ぐな善意を受けて、少なからぬ恐怖を彩歌が抱いているのもまた事実であった。ただ、その恐怖の対象は侑ではない。彼は彼自身とその他限られた者らしか知らぬ過去のために人は裏切るものであると知っていて、だからこそ自らが人を裏切ってしまう事、そして、誰かと親しくなる事を怖がっている。

 

 それでも、今ここで侑の善意を無下にするというのは、それこそ人間として最低の行為だ。それはきっと自身の恐怖と過去に酔った道化の愚昧でしかない。初めに力を貸すと言い出した自身が先に助けられるというのは情けなくはあるけれど、彩歌は差し伸べられた手を執る事に迷いはなかった。ふふ、と不敵な笑み。それは昨日と同じ所作で、きっとこれが彼の癖なのだろうと、侑は思った。

 

「キミは優しい人だね」

「えっ!? そ、そうかな……」

 

 唐突な彩歌からの賞賛に、照れたように頭を掻く侑。そんな少女の何でもない所作に彩歌は眩しそうに、或いは憧憬に暗むように目を細めて、更に言葉を続ける。

 

「うん、きっとそうだ。

 ……あぁ、キミの厚意に甘えさせてもらうよ。放課後に、中庭で良いんだよね?」

「──! うん!

 ……あっ、もうすぐホームルーム始まっちゃう! じゃあ、また!」

 

 それだけ言い残し、笑顔で手を振りながらその場を後にする侑。彩歌はその姿が見えなくなるまで手を振り返して、やがて少女の背が廊下の陰に消えていくと自嘲めいた吐息をひとつ漏らした。

 

 まだ彩歌は侑と出会ってからさして経っていないし対面したのも数える程しかないが、それでも確信できる程に高咲侑という少女は善意の人であった。だがその善性は何も不可解なものではなく極めて人間的なもので、だからこそ彩歌には彼女の在り方がひどく眩しい。

 

 だが、故にこそ彩歌は侑に希望を見出したのだ。己にとっての希望ではない。侑はきっと()()にとっての英雄(ヒーロー)になれる人で、転じてそれは希望である。或いはそういう意味では彼にとっても希望と言えるのかも知れない。

 

 踵を返す。彩歌はきっと希望として在れないけれど、それでも為すべきを為す意志は変わらないのだから。

 

 ──その後、教室に戻った彩歌が先の友人も含めた複数の男子生徒から異様な質問攻めに遭ったのは、また別の話である。

 


 

「えーっと……」

「あっ」

 

 放課後、侑と交わした約束通りにSHRが終わってから可能な限り速やかに中庭を訪れた彩歌だが、そんな彼を待ち受けていたのはある種の戸惑いであった。それでも辛うじて笑顔を崩していないのは流石の冷静さであると言えよう。

 

 確かに早朝に約束した通り中庭、その中にある噴水の傍に侑はいた。だが彼女と共にいたのは歩夢ではなく柔らかな栗色のボブカットと人懐こそうな赤色の瞳が印象的な少女であり、そこまでは何という事はない。その少女が侑の言う旧同好会のメンバーであろう事も、リボンの色から1年生である事も、彩歌にはすぐに分かった。

 

 だが、問題はその状況だ。彩歌がその場を訪れた時には侑は涙目のその少女に半ば押し倒されたかのような体勢になっていて、丁度そのタイミングで彩歌が来てしまったものだから、三者共に黙ってしまう形となったのであった。

 

 まるで会話の最中、互いに同時に言葉を発しようとしてしまった時のような間隙、そして居心地の悪い感触。その空気を打ち破り先に口を開いたのは彩歌であった。

 

「ご、ごゆっくり……?」

「何か誤解してない!?」

 

 明らかに何か勘違いをしている様子で張り付けたような笑みを浮かべたまま引き返そうとする彩歌に抗議の声をあげる侑。しかしそんな状況であっても自らに圧し掛かっている少女を一切引き剥がそうとしないのは彼女の善性故だろうか。

 

 その抗議を受けた彩歌は足を止めて再び侑の方に視線を戻したものの、その表情はやはり何処かばつが悪そうだ。或いは悪戯を咎められた子供のようなその様子に侑はどうしたものかと悩みつつ、その手は彼女の上にいる少女──かすみの頭を撫でている。

 

 それから会話もなく、どれほどの時間が経ったのだろうか。不意に侑に抱き着いていたかすみが動きを見せる。侑の視界の中央で輝くその大きな赤い瞳は未だ涙目であるが、先程よりは平静のようであった。

 

「落ち着いた、かすみちゃん?」

「はい……あれっ?」

 

 些か気の抜けた疑問符である。その様子からしてかすみは事ここに至るまで彩歌の存在に気付いていなかったようで、しかし気づいてからの行動は凄まじく早く、そして速かった。乱れた髪と服を治すその動作は手慣れていて、傍で見守っていた彩歌も思わず感心してしまう。

 

 そうして、僅か数拍。そこにいたのは先程まで半べそをかいていたとは思えないほど輝く気配に満ちたひとりの少女であり、彩歌はその名を知っていた。嘗てスクールアイドル同好会が廃部になる前、投稿されていた自己紹介動画を、彼は見ていたのだ。

 

「キミは確か……〝中須かすみ〟さんだよね?」

「その通り! 何を隠そう、世界一可愛いスクールアイドルにしてスクールアイドル同好会二代目部長のかすみんこと中須かすみとは、このかすみんなのです!」

「そ、そう……」

 

 彩歌の方から問うたにも関わらずかすみの名乗りに対する返事の歯切れが悪くなってしまったのは、かすみの纏う雰囲気に気圧されてしまったから。真野彩歌という少年の生においてかすみのように自らの容姿が優れている事を自覚しているタイプの女性というのは、初めて出会う手合いであった。それ故に対応が一拍遅れてしまったのである。

 

 だがそんな有様でありながら、彩歌はかすみがそれだけの少女ではない事にも気づいていた。今、彩歌の目の前で見せたかすみの所作は俗に言うぶりっ子のそれであるが、その中に隠しきれない真面目さの光がある。

 

 恐らく中須かすみという少女は〝可愛い〟に対して誰よりも真摯なのだろう。彩歌には、それが漠然とだが分かった。であれば或いはあざといと形容されてしまうようなかすみの振る舞いは、猫かぶりではなく自身の理想に準じて己を律していると言うべきだろう。かすみん、と態々何度も口にしたのも、つまりはそう呼んで欲しいというアピールなのだ。尤もアピールされたからとてそう呼ぶかはまた別問題であるけれど。

 

「……うん、でも、確かに可愛いね、中須さん」

「!! ホントですかっ!!」

「嘘は言わないさ。それに、キミに世辞で可愛いと言うのは、とんでもなく失礼だろうからね」

 

 可愛いという評価を簡単に口にしてしまうのがひどく軽薄めいているとは、彩歌自身も自覚している。更に言えばその言葉は本来的に容易に言葉にするべきではなく、繰り返し吐いていれば自身の裡から出てくるその言葉の価値を下げてしまう事にもなろう。

 

 しかし事実として可愛いという評価に不足なく、またそう在ろうと努力している相手に対して奇妙な意地のために口にしないというのは、それこそ最悪の失礼というものだ。少なくとも彩歌という少年の価値観において、可愛いという評価とはそういうものであった。

 

 しかし個人の価値観とは容易に他者に伝わるものではなく、傍から見れば彩歌が簡単にそう言う軟派な男と受け取られてしまいかねないのも事実だ。けれどかすみの目にはそう映らなかったのか、嬉しそうな仕草を見せている。

 

「むっふっふ、そりゃあかすみんは可愛いに決まってますけどぉ~。見る目ありますねぇ、えっと……」

「あぁ、まだ名乗ってなかったね。俺は真野彩歌。よろしく、中須さん」

「彩歌先輩、ですね。よろしくです! それと、かすみんのコトはかすみんって呼んでくれても構わないんですよ?」

「それはちょっと……遠慮しておこうかな……」

 

 おずおずと、相手の機嫌を伺うかのような声音。けれどそこには何処か明確な拒否とも取れるような気配があって、だがそれですぐに引き下がるようなかすみではない。むっ、と赤く大きな目を細め、彩歌に厳しい視線を投げながら詰め寄っていく。

 

 それを受けた彩歌は思わずかすみと距離を取ろうとして後退ってしまうが、それはかすみを怖がったからではない。意識的であるのか否か、華奢な体躯や頬を膨らませている事もあって今のかすみは小動物めいた可愛さがあり、恐怖の対象とするにはあまりにそのイメージからかけ離れている。

 

 であればその後退はきっと、彩歌の反射的な行動であったのだろう。昨日の昼、隣に座った侑や歩夢との距離をあえて取ったのと同じだ。かすみと彩歌、ふたりの遣り取りを傍で見ていた侑はその所作に何か違和とでも言うべき感覚を抱いたが、当事者であるふたりは特に気に留めていないようであった。

 

「いいですか、彩歌先輩? りぴーとあふたーみー! かすみん!」

「……」

「うわーん! 侑先輩、このヒト強情すぎますーっ!」

 

 何としてでも自身をかすみんと呼ばせようとするかすみと、そんな少女の攻勢を受けて遂には押し黙ったままそっぽを向いてしまう彩歌。そんな大人げない少年の態度にかすみはぷりぷりという擬音が背後に見えてきそうな程に憤慨し、侑に泣きついてしまう。よしよし、と、後輩のベージュ色の髪を撫でながら、侑は苦笑を漏らした。

 

「まぁまぁ、仕方ないよ。かすみちゃんの気持ちも分かるけど、彩歌くんにも事情があるんだろうし」

「むぅ……そうなんですか?」

「事情、と言う程でもないけど……他人に気安い呼び方をするのは、どうしても苦手なんだ。ごめん」

 

 そう謝罪を口にする彩歌の表情は本当に申し訳なさそうで、そこに偽りの色合いは見当たらない。そんな表情をされてしまってはもう怒る事もできなくて、かすみは自身の胸中に居座っていた鬱憤が急速にしぼんでしまったのを自覚する。

 

 他人に気安い呼び方をするのが苦手、と比較的他者との距離感が近い侑やかすみにはよく実感できない感覚だが、そういう事もあろうと納得する。それにしては言い回しが馴れ馴れしいが、それが彼なりの接し方なのだろう。

 

 しかしこの場においてはかすみのみが知らない事だが、彩歌は決して他者に気安い呼称を使わない訳ではない。特別仲の良い相手は呼び捨てにする事もあるし、アイツという三人称を使う事もある。しない、のではなく、苦手。そういう物言いからそれを察したのだろうか、かすみが左手を腰に当て、右手で彩歌を指しながら開口する。

 

「でも、彩歌先輩! いつか必ずかすみんって呼ばせてみせますから、覚悟しておいてくださいねっ!!」

 

 それはまさしく、宣告であった。スクールアイドルとしてそれができると信じて疑わない、圧倒的なまでの自信に満ち溢れた声音。だがそれは決して過信などではない。何故なら彼女には、その自信を裏打ちするだけの努力があるのだから。

 

 であれば彩歌にはかすみが纏う気配が輝いて見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。無論実際の視覚情報としてかすみが光を放っている訳ではないけれど、その精神(こころ)の輝きは、まさに可視化されんばかりだ。その光輝が、心底の岩戸に押し遣られた少年の心を穿つ。

 

 嗚呼、また、この感覚だ。彩歌が内心で独り言ちる。ずっと暗闇の中にいた臆病者に、この光輝は目に毒だ。眩しくて、眩しくて、白んだ視界に思わず目を瞑りたくなる。だが、それは許されない。故に彩歌は光を直視し耳朶の奥に雨音を抱えたまま、それでも微笑んでみせる。

 

「あぁ、楽しみにしてるよ」

「フフン。……ところで、さっきから気になってたんですけど、彩歌先輩はどうしてココに? もしかして入部希望ですか?」

「私が呼んだんだ」

 

 かすみの疑問に答えたのは問われた彩歌ではなく、先程から傍でふたりの遣り取りを聞いていた侑だ。

 

「侑先輩が?」

「うん。ちょっと、事情があってさ」

 

 彩歌を呼んだ張本人である侑がその理由について言葉を濁したのは、何も彼女自身が呼んだ経緯を忘れているだとか、そういう事ではない。だが彼女は彩歌の懊悩を解決する一助としてこの場に読んだ事からも分かるように、彼の悩みが何であるかに漠然とではあるが気づいていて、故にこそ下手に説明しない方が良いと考えたのだ。

 

 かすみを信用していないのではない。むしろその逆だ。侑は歩夢やかすみ、自らの手の届く範囲にいる人のおおよそ全員を信用していて、だからこそ平等(フラット)なのだと、ただそれだけの事。自然体でそれができる侑に、彩歌は思わず感嘆してしまう。

 

 対するかすみはその事情というのが何であるか訝しみこそすれ、きっと個人的(プライベート)な事情なのだろうとしてあえて問うような事はしない。ただそういう事もあろうと呑み込んで、彩歌に言葉を投げた。

 

「とりあえず、彩歌先輩は一日体験入部ってコトですね!

 なら善は急げです! さっそく活動を始めましょう!」

 

 おー! とかすみに応えて笑顔のまま拳を天に突きあげる侑。それに倣うように、彩歌もまた慣れない動作で声を上げるのだった。



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第9話 ソレは、責任だけでなく

 人間は忘れる生き物である、とはよく言ったもので、その言葉の通り人間は自身の経験全てを永続的に記憶しておくというのはまず不可能なようにできている。ごく稀に完全記憶能力と俗称される特異性をもつ者も存在するが、それがひとつの疾患と見做されてしまうのがその証明であるとも言えよう。

 

 だが忘却というのは何も過去から順繰りに起きるような機械的なものではない。無論、過去の事象であればあるほど忘却されやすいのは当然であろうが、たとえ直近の事であっても至極どうでも良い事はすぐに忘れてしまうだろうし、逆に遠い過去の事であっても命の危機などの重要性の高い出来事、或いは只管に衝撃的な体験であればいつまでも鮮明に脳裏に残り続ける。であれば、()()彩歌(さいか)にとってそれだけの意味をもつ記憶であったのだろう。

 

 ──それはさながら脳天から股下までを一直線に稲妻に射抜かれたかの如き衝撃であった。勿論、それは錯覚でしかない。彩歌は今屋内にいるのだし、空は雲ひとつない晴れ空で、そんな天候も相まって少年の体験は青天の霹靂と形容するのが正しかろう。

 

 瞬き、それどころか正常な呼吸さえ忘れてしまったかのようにカーペットに座り込み少年が食い入るような視線を向ける先は、完全移行に数年先立って買い替えたばかりのデジタルテレビ。だが彼が目を奪われているのはアナログテレビから様変わりしたフォルムや画質などではなく、テレビで再生されている映像の中身である。

 

 果たしてそれに映っているものとは、巨大かつ美麗なステージにて歌い踊る、華美な衣装を纏った数人の青年であった。テレビは最新の機種でも撮影機材が10年以上も前のものだからかかなり粗が目立つが、それでも彼らが笑顔であるのは見て取れる。言葉にすればそれだけだが歌いながら踊る彼らの運動量は相当なもので、それでも笑顔を崩さないのはある種のプロ意識のためか、或いは純粋に自身が偶像──〝アイドル〟である事を楽しんでいるからか。時折、観客らの黄色い声援が歌声に混じる。

 

 無邪気な幼子が、夢中になって過去のアイドルのライブ映像を観ている。その光景を説明するのならばそれだけで十分であるが、彩歌にとってその映像はただの過去のアイドルと、そう一蹴できる程度のものではなかった。何故なら半ば忘我の中にある彼が一際目で追っているそのグループの花形(センター)とは、若かりし頃の彼の父、真野(まの)陽彩(ひいろ)であるのだから。

 

 自らの父が元アイドルであると、彩歌は5歳にもなったこの時分まで知らなかった訳ではない。今ではプロデューサーとしてプロデュース業に勤める陽彩が元々はプロデュースされる側だったというのは何度か聞かされたことがあって、しかし陽彩は所詮は過去の栄光だとして彩歌に積極的に映像を見せるような真似はしなかったのだから、父の経歴というのは彩歌にとって現実感のない御伽噺のようなものであったのだ。或いはそれは、母である愛歌も陽彩の意志を汲んで多くを語らなかった事も要因としてあろう。

 

 故に最早ライフワークとも言えるピアノの練習もできずに暇を持て余して偶然目に留まった映像ソフトの山をひっくり返しこの映像を見つけるまで、彩歌はその話について半信半疑な所があって、しかし実際にこうして目にした以上、それでも信じられないと言う程、彩歌は斜に構えた子供ではなかった。それどころか、一瞬で虜になってしまった程である。

 

 凄い。衝撃と感激に打ち震えて凡そその機能を喪失したかのような状態にありながら、その一言だけが彩歌の口から洩れる。彩歌は歌うのが好きだ。ともすれば、物心ついた頃から母に習い続けているピアノと同程度には。だが、これは。歌でこれ程までに多くの人を笑顔にできるなどとは、想像した事すらなかった。

 

 衝撃。感激。歓喜。憧憬。羨望。そしてエトセトラ。幼い彩歌には名も知れぬ感情が彼の胸中で渦を巻いて、心地よい激情の鯨波と化してその小さな身体を縛り付けている。だが、それも永続ではない。アイドル達が一曲歌い終わり観客たちが一際大きな歓声をあげると同時、一時停止を押すのも忘れて我知らず彩歌は駆け出していた。踵を踏み潰すのも構わずに乱雑に靴を履き、突進するかのような勢いでドアを押し開けて庭に出る。その先にいるのは鼻歌など歌いながら趣味であるガーデニングをしている陽彩だ。

 

「お父さん! お父さん!!」

「彩歌。どうした?」

 

 興奮した様子で尊敬する父の許へと駆けよっていく彩歌と、ガーデニングに手を止めて息子に視線を移す陽彩。彩歌は陽彩の前で足を止めようとするも幼子故の不安定な重心のために止まり切れずつんのめり、陽彩に受け止められる形になる。陽彩はそれに驚きつつもしっかりと受け止めて、ごく自然に抱き上げようとするが、軍手に土が付着している事に気が付いて思い直した。すぐに軍手を外して、彩歌を立たせる。家の中からは、生徒に教えていると思しき愛歌の演奏が聞こえてきていた。

 

「おっと。怪我はないか、彩歌?」

「う、うん。ありがとう、お父さん」

「どういたしまして。慌てて走るのは危ないから、今後は気を付けるように。

 ……で、どうしたんだ? 何か楽しい事でも見つけたとか?」

 

 高校生になった時分になると常に落ち着いた雰囲気を纏うようになった彩歌であるが、それとは対照的に幼い頃の彼は人一倍好奇心に満ち溢れたあまり落ち着きのない子供であった。この時の彩歌の様子はその好奇心を刺激された時のそれに近くて、そのための問いであった。

 

 その問いを受けて事の経緯を語り出した彩歌の様子は、まさしくマシンガントークと言えるそれである。幼童らしく総身を満たす感情のまま、半ば要領を得ず何処か脈絡のない、そんな語勢。余人にはまるで言いたいことが伝わらなそうなそれも、しかし父であるがために彩歌の気質を知り尽くしている陽彩には十分であった。

 

 自身がまだ現役であった頃の様子を、息子に見られた。そう理解した陽彩の様子は何処か恥ずかしくくすぐったそうな、或いは望郷のようでもある。彩歌には自ら見せていなかったとはいえ彼はそこまで隠匿に固執している訳ではなくて、それでも自分の若い頃を知らぬ間に見られているというのは恥ずかしいものがあった。尤も、それで息子が喜んでくれているのだから、悪い気はしないけれど。

 

 だが唐突に、それまでまるで鉄砲水の如くだった彩歌の語勢が弱まる。完全に止まったのではない。えっとえっと、と繰り返すその様は先程までと違い自身の裡を言語化するのに困窮しているようで、それでも、彼なりにどうにか言葉を絞り出した。

 

「おれも……」

「ん?」

「おれもいつか、お父さんみたいにおれの音楽でみんなを笑顔にできるかなっ?!」

 

 或いはそれは、おおよその子供が抱くであろう親に対する憧れの発露、つまりはこの世界にありふれた特筆すべき事は何もない出来事であるのかも知れないけれど、陽彩にとっては大きな意味を持っていた。一瞬目を見開き、息を呑んだのはそのためだ。

 

 いつか、自分も父のようになれるか。それはまるで彩歌がアイドルになりたがっているようにも聞こえるけれど、きっとそうではない。もしもそうであるのなら、彼は〝音楽〟ではなく〝歌〟と言っていた筈である。ともすれば見落としてしまいそうな、些細な差異だ。しかし決定的な違いでもある。

 

 彩歌にあるのは、何も歌だけではない。父からは歌。母からはピアノ。彼にはそのどちらもあって、勢いのままにどちらかを擦れられる程賢しくも軟弱でもないから、どちらも取ろうとしている。その源泉は憧憬──否、それよりももっと根強く、かつ根源的(プリミティブ)単純(シンプル)な欲求。即ち、夢だ。(陽彩)息子(彩歌)に夢の種子を与えたのだ。

 

 それがひどく嬉しくて、むず痒くて、照れ隠しの代わりに陽彩が彩歌の頭を乱暴に、それでいて優しく撫でる。母譲りの亜麻色の髪が乱れて、彩歌があげたのはくすぐったそうな声。やめてよぉ、と、そんな言葉とは裏腹にその声色には喜色が滲んでいる。そうして、暫く。陽彩は息子の髪を撫でる手を止めると、微笑みを湛えたままその瞳を真っ直ぐに見据えた。かち合う漆黒と孔雀青。さながらそれは言語ならざる意思の交感のようであるけれど、あえて陽彩は答えを口にする。

 

「できるさ、必ず。なんてったって、おまえは俺と愛歌の自慢の息子だからな!」

「──! うんっ!!」

 

 華のような笑顔。交わされる笑みと笑み。それは極々なんでもない、微笑ましい父子の一幕で──宝物のような、只管に幸福な記憶(いたみ)だった。

 


 

「ん……」

 

 緩慢とした目覚めであった。機能を喪失していた五感に少しずつ火が灯ってきて、視覚に割り込んできた朱の海と空、聴覚に滑り込んでくる潮騒が微睡の残香を引き剥がしていく。そうして、欠伸と背伸びをそれぞれひとつ。視界のもやが晴れて、飛び込んできたのは黄昏の海原だ。欠伸のせいだろうか、目尻に浮かんでいた涙を指で拭う。

 

 自分がいつ眠ったのか、彩歌はよく覚えていない。だが眠る前の事はよく覚えていて、たった一日の体験入部という事で彼は侑やかすみに同行させてもらっていたのだ。そうして一旦休憩という事になりこの海辺のベンチに座っていたのだが、その最中に眠ってしまっていたという事らしかった。不用心だが、実害はないようだ。公共の場で眠るという行為自体もこれが初めてではなくて、どうやら真野彩歌とは眠気には勝てない性質らしかった。

 

 バッグのドリンクホルダーから引き抜いたミネラルウォーターのボトルを一口呷り、大きく息を吐く。何か、懐かしいユメを見ていた気がする。夢幻から醒め、その熱が虚空に散逸してしまった今となっては正体を掴むのは不可能に近いがとても幸福なユメだったのは間違いない。胸の奥に燻る幻痛がその証明だ。或いはそんなユメを見てしまったのは、侑とかすみ、ふたりと過ごしたこのごく短い時間を充実していたと感じていたからなのだろう。

 

 充実。不意に脳裏を過ったその言葉を再認し、彩歌が自嘲の如く嗤う。かすみが満足いくまで彼女の自己紹介動画の撮り直しに付き合い、時には自らも撮影の真似事をしたこの時間を、自分は充実していたと、楽しいと感じていたのか、と。そんな感情は、いつかの昔に置き去りにしてきた筈なのに。

 

「……やっぱり、()()()()()()()、俺」

 

 呟く。その声音は自身の至らなさへの嘆きのようであり、同時に何処か泣いてしまいそうな気配すらあった。それは自らの無力のためか、或いは先刻見たユメの残滓が未だ無意識に張り付いているからか。恐らくは、そのどちらもなのだろう。

 

 他者とは自己を映す鏡であると言う。であるならば他者との活動を通して見えた自己の輪郭とは、きっと真実だ。だがそうしてより詳細に見えてきた自らの瑕疵のお陰で掴めそうなものも確かにあって。その正体を探ろうと彩歌が思索の航海に漕ぎ出そうになった時、唐突に耳朶を打った声が彼の意識を引き留めた。

 

「あ、いたいた! おーい、彩歌くーん!」

「こんな所にいたんですか。もう休憩は終わりですよ、彩歌先輩?」

 

 名を呼ばれて弾かれるように顔を上げてみれば、そこにいたのは先程まで彩歌が反芻していた人物、他ならぬ侑とかすみであった。慌てて腕時計を見てみればかすみの言う通りとうに休憩時間は過ぎている。不用意にも眠ってしまっていたため仕方なかろうが、そもそも眠らなければ良かった話ではある。故に彩歌が深々と頭を下げたのは決してパフォーマンスなどではなく、心底からの謝罪であった。

 

「どうやら眠ってしまっていたみたいで……申し訳ない」

「あわわ、そんな本気で謝らなくてもいいですよぉ! 彩歌先輩、結構目立つから苦労もしませんでしたし。……でもこんな所で寝ちゃうなんて、まるで彼方先輩みたいですね」

「彼方先輩……? あぁ、あの3年の」

 

 彩歌と、かすみの言う〝彼方〟という生徒に、直接の面識はない。だが旧同好会の自己紹介動画──先日再度検索した際には既に削除済みであった──を見ていた彩歌はその容姿について既知としているのだ。ウェーブのかかった茶髪と眠たげな眼が印象的な、ライフデザイン学科の3年に所属する女子生徒である。

 

 無論動画を見ただけであるから、彩歌はその人となりまでを知っている訳ではない。だがかすみがそう言うのだからきっとその彼方という少女もまたどこでも寝てしまえる性質で、その原因のひとつには寝不足があるのだろう。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 尤も、面識も交流もない人物の人柄を人伝の情報で推測するなど不当であり失礼だ。非礼な思索を切り上げ、頭の片隅に追いやり霧散させて、彩歌は意識のチャンネルを再度目前の現実に合わせる。

 

「それで、これからどうするんだい?」

「うーん……実は、決まってなくて。歩夢先輩もまだ来てませんし……」

 

 自身の頤に細く長い指を添え、唇を尖らせながら彩歌の問いにそう答えるかすみ。彼女の自己紹介動画はすでに撮り終わっていて、しかし歩夢はまだ来る気配を見せない。侑が言う事には歩夢は彼女の自己紹介の練習をしているという事であるから、それだけ熱が入っているのだろう。

 

 だがそれ故に、今日のこれからの活動は決定していない。旧同好会はともかくかすみや侑、歩夢が再始動させた現同好会はまだ文字通り走り出したばかりで、その方針もまた未確定なのだから無理もない。

 

 空白。或いは間隙。侑とかすみ、彩歌は今、3人で集まっていながら半ば集合している意味を喪失しているようなものだ。歩夢を待っているのは当然だけれど、それまでの手持ち無沙汰。ならば活動の邪魔にはなるまいと、彩歌は口を開いた。

 

「中須さん。ひとつ、訊いてもいいかな?」

「……? 何ですか?」

 

 彩歌の声音が常の軽薄さすら感じさせないほど真剣だったからか、かすみの声には疑問の色がある。そんな後輩の様子にもあくまでも真面目な面持ちで、彩歌は言葉を続ける。

 

「中須さんは……どうして、スクールアイドル活動をしようと思ったんだい?」

「どうして……ですか?」

「うん。教えてよ」

 

 もしかしたらそれは、あえて訊くような事ではないのかも知れない。尋ねる相手によっては愚弄と捉えられてしまうか、尋ねた側が活動を通してもなおそれが分からない蒙昧と思われる事もあろう。

 

 だが幸いにして、かすみの目には彩歌はその手の暗愚としては映らなかったようである。それは出会ってから数時間という短い時の中ででも互いに相手の人柄をある程度把握していたという事でもあろうし、何処か面接官ででもあるかのような彩歌の言葉がその実、希うような気配に満ちていたからでもあろう。

 

 であるが故に、それはかすみの善性に甘えた問でもある。言われなければ分からないのかと、一蹴されてしまっても文句は言えまい。しかしかすみは一瞬口許に手を遣ると、浪々と、しかし朗々と語り出す。

 

「かすみんには、絶対に譲れない……一番大切にしたい事があって。だから、スクールアイドルがやりたくて……」

「それは〝可愛い〟って事?」

 

 あまりにも明白な彩歌の問いに、かすみは無言で首肯する。

 

「だよね。だって、こんな時でも中須さん、可愛いから」

「うんうん。悩んでる時でもかすみちゃんはすっごく可愛い」

「っ……! もうっ、先輩、こんな時にからかわないでくださいよぉ!」

 

 完全に虚を衝かれた形であったのだろうか、頬を朱に染めて抗議するかすみに、からかってないよ、とふたり。半ば話の腰を折るかのような物言いであったが、それは確かに紛れもなく彼らの総意であった。

 

 彼らが思うに中須かすみという少女は間違いなく可愛い。それは何も容姿に対してのみ向けられた印象などではなく、ふたりの目に映るかすみの在り方への心証である。可愛いと信条とし、そう在るよう己を律する彼女が、可愛くない訳はないのだ。世辞や忖度などではない。ふたりは噓偽りない本心から、そう思っている。

 

 そして可愛い己であるためにスクールアイドルでありたいと願うのは、何も論理の飛躍などではない。詰まる所、かすみはスクールアイドルが好きで、大好きで、故にこそ〝世界一可愛いスクールアイドル〟たらんとしている。それは自己顕示などではない。もしもそうであったのなら、かすみはこうもファンの事を思ったりはしないだろう。

 

 自分が好きで。ファンが大切で。スクールアイドルが大好きで。〝可愛い〟は絶対に譲れなくて。だから、そういうスクールアイドルでいたい。そうでありたい。かすみの答えとは、つまりそういう事なのだと、彩歌は思う。

 

「……でも、絶対に譲れないものがあるのはきっと皆も同じなんです。それでもやりたい事はやりたくて、皆、それを押し付けるのは嫌なのに、かすみん、歩夢先輩に……」

 

 かすみが歩夢に何をしたのか、彩歌は人伝でしか知らない。けれど口ぶりから凡そ分からない程彩歌は鈍くもなく、恐らくかすみは自分の思う在り方を歩夢に押し付けるような真似をしてしまったのだろう。

 

 それと似た話を何処かで聞いた気がして、彩歌は呟く。

 

「優木さんと、同じ……」

「はい……あれっ? 彩歌先輩、知ってたんですか?」

「まぁね。俺は……優木さんの、友達だから」

「えっ……えぇーっ!? せつ菜先輩の友達ーっ!?」

 

 直前までの沈鬱な空気を吹き飛ばしてしまうかのようなかすみの絶叫が、一帯に響く。聊か大袈裟にも思える反応であるが、無理もあるまい。今まで先輩であるらしいという事以外何も分からない、実在している筈なのに実在性に乏しいという矛盾めいた存在であったのに、友人というごくありふれたものを自称する存在が現れたのだから。

 

 対する彩歌はかすみの反応から、旧同好会のメンバーもせつ菜の正体を知らないらしいと察する。だが、きっともそれも時間の問題だろうという予感が彩歌にはある。根拠はないが、何しろ既に気づいている者がいるのだから、他に正体に辿り着く者が出てこない筈もないのだ。

 

 こほん、とかすみの咳払い。自ら明後日の方向に飛ばしてしまった空気を取り戻し、けれどその重みまでもをかすみは呼び戻した訳ではなかった。先の驚愕の影響だろうか、かすみはいつもの調子を取り戻しているように見える。

 

「うーん、皆それぞれやりたい事が違ってるって事なんだね。それで喧嘩しちゃうのは、仕方ないんじゃない?」

「それは、そうですけど……でも、このままじゃまた同好会がうまくいかなくなっちゃいますよぉ……」

 

 協調と譲歩。妥協と折衷。それらは互いに似て非なるものである。そもそもとしてそれぞれに譲れないものがあるというのにそれを曲げてまで他人と手を取り合うというのは、最早協力などではなく屈服だ。それではいけない。

 

 だがそうであるとしても互いに望む在り方が致命的なまでに食い違っているのであれば、それを解消しない事には相互理解も図らないうちに手を取り合うなど、夢物語だ。

 

 やらなければならない事ではなく、やりたい事。ある種の自己実現。その議論を前にして、彩歌はあまりにも無力であった。責任、或いはやらなければならない事。真野彩歌という人間にとってはそれこそが至上の命題で、自身のやりたい事というのは半ば眼中になかったのだから。その戸惑いが顔に出ていたのだろうか、侑が彩歌に快活な笑みを向ける。

 

「彩歌くんも、せつ菜ちゃんのために何かしたいって思ったから、あんなに悩んでたんじゃない?」

「俺が……?」

「そうだよ。それがきっと、今の彩歌くんのやりたい事なんだと思う。夢に向かっている人を応援したいって、そういう所は私達、似てるのかもね。ふふっ」

 

 せつ菜のために、何かしたい。それが今の彩歌の希望なのだと、侑のその言葉は彩歌にとって全くの慮外であったのにも関わらず不思議と彼の胸に深く落ちていく。──目が、覚めたような心地であった。

 

 優木せつ菜を終わらせないと、それが彼女のライブを見届け、そのノートを受け取った自分の責任だとして今まで彩歌は行動してきた。だが、彼女を終わらせない事がその責任の取り方であると判じたのは何故か? そうであって欲しいと、そう彩歌自身が望んだからではないのか?

 

 排除した筈の感傷だ。決別した筈の不定だ。もう己にそんな権利はないと、諦めと共に悟った筈だった。けれどそうであるというのに、不思議と今は不快ではない。虫の良い話であるとは理解しているけれど、自分に足りないものがそのある種の自覚であると解った以上、受け入れる他あるまい。

 

 しかしそうであるとするなら、彩歌はかすみと同じ問題に行き着いてしまったという事になる。即ち自身のそれは、他者への押し付けなのではないかと。示し合わせたかのようにふたりは顔を見合わせて、そんな折、彼らの耳朶を震わせる足音があった。いち早くそれに気づいた侑がそちらを見遣る。

 

「あっ、歩夢!」

「遅れてごめんなさい! あの……かすみちゃん、自己紹介、今撮ってもらってもいい?」

「えっ? はい……」

 

 歩夢からの頼みにかすみの反応が一拍遅れてしまったのは、丁度今、彼女自身が昨日歩夢にしてしまった事を自省していたからなのだろう。或いは自分は、歩夢がやりたい事を圧し潰してしまったのではないかという憂慮がかすみの反応を遅らせて、しかし忘我は一時のみでかすみはすぐに己のスマホを歩夢に向ける。そして、一拍。

 

「……虹ヶ咲学園普通科2年、上原歩夢です」

 

 そんな名乗りから始まった自己紹介に、無理の色合いはない。むしろカメラを通して見える歩夢の姿は彼女らしい飾らない可憐さに満ちていて、かすみは思わず息を呑んだ。

 

 昨日のかすみと歩夢の間になにがあって、その時の歩夢の様子がどうであったか、あくまでも部外者でしかない彩歌には詳しく分かる所ではない。だがかすみの様子からして今のそれとは大きく異なる事は、彼にでも分かる。

 

 同好会の活動に合流するまでの間に歩夢に何があったのかは、彼女と行動を共にしていなかった3人の知る所ではない。だがその短い間にでも彼女は彼女なりの答えを見出したのだ。最後にうさぎの真似をしてみせたのは、彼女なりにかすみの流儀を取り入れた結果だろうか。

 

 そうして、かすみがカメラを停止させる。同時に、ときめいちゃった! と侑は歩夢に抱き着いて、それから幾許かして快活と希望の光に満ちたその緑色の瞳をかすみ、そして彩歌へと向けた。

 

「皆それぞれのやりたい事、自分の一番……全部叶える方法は、きっとあるよ!」

「そう、でしょうか……」

「たとえ今すぐにはできなくても、きっと不可能じゃない。だからさ、探してみようよ、一緒に!」

 

 そう言い、笑顔と共に侑はかすみへと手を差し伸べる。その所作に歩夢はほんの一瞬のみ複雑そうな表情を浮かべたものの、おおよそ侑と同じ気持ちであったのだろう、すぐに微笑みを浮かべる。それを受けて、かすみは。

 

「……! はい! ──先輩、見ていて下さい!」

 

 輝くような笑顔でそう言うや否や、何を思ったかかすみは軽やかな動作で近くにあった、周囲から一団高くなっている場所によじ登った。海原から吹き付けてくる優しい風が、かすみの髪を撫でる。

 

 侑の言うような、皆にとっての一番がそれぞれに実現できる場所。それが本当にあるのかは、まだかすみには分からない。何しろそれができなかったからこそ旧同好会は破綻し、空中分解してしまったのだから。

 

 だが一度できなかったのだとしても、それは絶対に不可能という事にはならない。それに、根拠はないけれど侑達と共にならばそういう場所が作れるという確信がかすみにはあって、それでもその場所で、否、遍く全てにおいて一番〝可愛い〟のは己なのだと宣告するかのように、少女は息を吸い込んで──

 

「──────!」

 

 ──歌う。謳う。唄う。これこそが中須かすみ、これこそが己の理想なのだと、万象に訴えかけるかの如く、高らかに。そのせいだろうか、かすみは確かに侑らと同じ場所にいる筈なのに、まるできらびやかなステージの上で舞い踊っているかのように、少年少女らには見えた。

 

 この感覚に、彩歌には確かに覚えがあった。それはせつ菜のステージを見た時のそれであり、古くは己が父のライブ映像を観た時のそれ。だが全てが同じである筈もない。何故ならこれは〝中須かすみのステージ〟なのだから。

 

 胸元を強く握り締める。全身全霊で、存在が釘付けになる。かすみのステージを目の前にして彩歌の裡に湧き上がってきた、彼自身ですら制御しきれない強い情動。以前は訳も分からず拒絶してしまったそれを、今度は受け入れた。たとえ、その行為が罪なのだとしても──その責任は、後から取れば良い。

 

 彩歌の中で錆びついた何かが、今度こそ廻り始めた音がする。ただこの一時だけ、いつかは再び止まってしまうのだとしても、構うものかと声がする。それはさながら外から聴こえてきた喧騒を前に、岩戸を開けてしまったかの如く。いつの間にかかすみのステージは終わっていて、激情の濁流に立ち尽くす彩歌。だがそこから復帰すると、彼は少女らに視線を投げた。それに気づいた侑が、口を開く。

 

「ふふ、イイ表情(カオ)してるよ、彩歌くん」

「そう? ……あぁ、でも、そうかも知れない。今日はありがとう」

「どういたしまして。……それじゃあ、またね」

「あぁ、また!」

 

 それだけの短い遣り取りの後、彩歌は踵を返して駆け出していく。その表情は晴れやかであり、先刻までの彼にあったような憂いはない。それは今だけの極めて限定的なものではあるけれど、彼の親友が望んだ笑顔にも()()していよう。

 

 正確な所を言えば、彼は未だ自分なりの解を見出せた訳ではない。本当にこれで良いのかと、その悩みは未だ残留している。それでもその成否は、後に捨て置こう。今はただこの道を走り抜けると、彼はそう決意した。

 

 その道行に、白き羽が舞い落ちることはない。それどころか彼が為そうとする事の結果が立ち現れてきた後、きっと彩歌はその責任を取らなければならなくなるのだろう。他の誰がどう言おうとも、それ以外の後始末を外ならぬ彼自身が許さない。彼のやりたい事というのもその結果が出てくるまではただの自己満足の独善で、或いは結果はより酷い事になってしまう可能性もある。だが、それは今考えるべき事ではない。今はただ、多くの人に示してもらったこの道を往く。改めてその決意と共に、彩歌は家路を急ぐのであった。



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第10話 思い出はカレの為でなく

 青く、蒼く、合わせ鏡のような穹と海。天蓋より降り注ぐ陽光はまるで天からの祝福ででもあるかのようで、音楽室の窓から見える世界はどこまでも穏やかだ。その中に在っては無機質な都会の灰色の林でさえ暖かであり、少なくとも彩歌の視界の内に降雨の気配はない。それどころか空の蒼のどこにも白は滲んでおらず、ひどく綺麗な空は見ているだけでどうしてか彼は泣きそうにもなってしまう。

 

 訳の分からないそんな感傷を大きな溜め息と共に吐き出し、音楽室の使用許可証を適当な磁石で黒板に留める。再び窓際に視線を移せばそこに鎮座していたのは1台の巨大なグランドピアノであり、その椅子を引く手付きは極めて単純な動作でありながら許可証の雑な扱いとは比べるまでもなく厳かだ。

 

 そうして椅子に腰を下ろし、適切な位置になるよう微調整。自宅のそれとは異なり音楽室のそれを利用してきたのは1年と少しであるが、何度も利用してきたそれの扱いは彩歌にとっては既に手慣れたものだ。僅かな間に位置と座面高の調節を終わらせると、大きく伸びをした。

 

 身体中の関節から鳴る、泡の弾けるような音。骨を伝わってきているのだろうか、内側から聴こえてくるそれは潜在の不協和音だ。それを聞き流し、許可証と共にクリアファイルに挟んでいた楽譜を譜面台に立て掛け、一拍。だらしなく欠伸を漏らす。昨晩から今朝にかけての彩歌は人生初の徹夜を敢行して、そのせいで今日の彼は全くの寝不足だ。

 

 だが寝不足による眠気を外界に放り出しそのまま封じてしまうかのように、両手で耳を塞ぐ。平素なら耳を隠してしまう程長い髪は、今は後頭部で結ばれている。環境音は遠ざかり、代わりにその空白を塗り潰していくのは漣めいた微音。血液が血管を巡る音か、或いは掌と耳の間の僅かな隙間で環境音が反響しているのか、どちらにせよそれは耳を塞ぎ世界から隔絶された時のみ聴こえる〝生命(いのち)〟の旋律であった。

 

 それだけの行程を熟して、彩歌の前準備は完了する。詰まる所先の奇特な一連の所作は彼がピアノを弾く際のルーティンであり、神聖な行為に臨む前に捧げる一種の儀式でもあった。

 

 儀式。そう、儀式である。細やかな動作に対して向けるにしては聊か重すぎる表現であるかも知れないが、彩歌にとってはそれだけの意味を内包しているのだ。だが自身のそんな在り様に、気持ち悪い、と彩歌は自嘲的に独語する。

 

 けれどそんな彩歌自身の心情とは裏腹に、ルーティンを経た彼の身体と精神はピアノを演奏するに最適なそれへと変革する。定型化された動作を呼び水(トリガー)に、半ば暗示に近い形で自身の性質を変容させるもの。極端な論ではあるがそれがルーティンであり、彼のそれはその定義に当て嵌めるならばおおよそ最良に近いものであった。

 

 変質。変生。今はもう耳を塞いでいないにも関わらず相も変わらず世界は遠く、彩歌の意識は半ば客体としてピアノと相対する己の視界を認識している。常世から断絶されながらも現実という名の海を滞留する、ある種の浮遊感。明晰夢にも似たその感覚の中にあっても、彼の身体は一切の淀みなく動く。短く息を吐き、鍵盤に手を。

 

 

 刹那──音が、爆ぜた。

 

 

 白と黒。只管なまでにモノトーンの舞台で踊る少年の両腕はそれぞれが独立した1個の生命を思わせる躍動でありながら、その先に接続された十指は精密機械の如く精妙である。そしてそれらの合一により奏でられる音色は燦爛にして正確無比だ。

 

 だが、足りない。演奏に最適化された躯体の稼働と紡がれる音色を何処か客観で捉えながら、彩歌は己が奏でている旋律をそう断じる。技術的な面を言っているのではない。むしろその点だけを言うのであれば、彼の自己認識どうであれ完璧に近い。彼自身は際立った天才性を持たず、この曲──〝CHASE!〟の演奏は今回を含めて片手で数えられる程度であるのにそんな完成度であるのは、彼が今まで努力により獲得し熟練してきた基礎技能の顕れであろう。

 

 故に、彩歌が不足を感じたのは己の技術に関する事ではない。より厳密に言えば彼は常に自らの力不足を実感していて、けれど今回の音色が内包するそれは特筆する程甚だしくはないのだ。だからだろうか、その不足の正体が彼はすぐには分からなくて、思わず演奏の手を止めた。瞬間、予想していなかった拍手の音。弾かれるように顔を上げて、彩歌はようやく観客の存在に気付いた。トキメキに輝く緑色の大きな瞳と、身体の動きに合わせて跳ねるツインテール。果たして彼の視線の先にいた観客とは、高咲侑であった。

 

 どうしてここに、だとか。最近よく合うな、だとか。そんな些末な感想を、上から激烈な既視感が塗り潰していく。音楽室でひとりピアノを弾いていた少年と、そこに入ってきた観客の少女。それと似た状況を、彩歌は一度経験している。違うのは観客の正体と場所、そして許可証の存在。奇妙な符合と相違はそれぞれが何かの予感のようだ。曖昧模糊とした感傷に彩歌の反応は数瞬遅れ、その間にも侑は音楽室と廊下の境界を超えていた。気づけば彩歌の目の前に、煌々と輝く緑翠玉。

 

「凄い凄い! 話には聞いてたけど、彩歌くん、ピアノも上手なんだね!」

「そうかい? フフ、ありがとう、高咲さん」

 

 半ば興奮した様子で投げかけられた賛辞に対し、口許に手を遣り柔和な笑みを浮かべながら彩歌は礼を返す。初めて侑と出会った際はその接近に驚きはしたが、二度も戸惑う程彩歌は愚かではない。その笑みに、接近に対する驚愕の気配は一片とて滲んでいなかった。

 

 それから彩歌は浅く息を吐き、自らの後頭部に手を遣るとそこで髪を結わえていたヘアゴムを解いた。柔らかな亜麻色の髪が重力に従って流れ、シャンプーのものと思しき芳香が鼻腔を突く。掌には、使い古されくたびれ果てた、花の装飾が施された浅葱色のヘアゴム。かちり、という幻聴と共に意識が客体から完全に主体に立ち戻り、彩歌は侑の視線が一瞬彼のヘアゴムに移った事に気付いた。次いで予想される行動に被せるように、彼は口を開く。

 

「──そうだ。高咲さん、昨日はありがとう。本当に助かった」

「えへへ、どういたしまして。でも、お礼なんていいのに。困った時はお互い様、でしょ?」

「それでもだよ。……というか、キミが困った時に俺が手を差し伸べる隙があるのかい?」

 

 嘆息し、自嘲的に、かつ冗談めかして少年は微笑(わら)う。困った時はお互い様。人がよく口にする言葉ではあるが本気でそれを信じている者は少ないだろうし、実行できる人間は更に少数であろう。だが侑がそういう少数の側の人間である事を彩歌は身を以て実感している。侑だけではない。歩夢やかすみも、きっとそういう類なのだろうと彼は思う。

 

 そしてそういう善性の人というのは、他者に差し伸べた手の数だけ善意が返ってくる可能性を持つ。所謂返報性の原理という心理効果に依るものだ。故に、彩歌が彼女らに貰った善意を返せる好機というのはきっと少ない。返ってくるであろう善意の母数がまず多いのだから。

 

 だがだからとて彩歌は貰ったものに甘え、満足し寄りかかるような非礼を自身に許さないし、与えられた善意に心底からの感謝も抱かない傲慢ではない。たとえ真意の全てを他者に晒さないのだとしても、感謝までもを覆い隠してしまえば、出来上がるのは只の下衆だ。ひどく自己中心的な考えではあるが、せめてそこまで堕ちたくはないと彩歌は思うのである。

 

 だが彩歌のそんな内心は侑にとっては全く関係のない事であろうし、彼自身が口にしていない以上は余程親密な仲でない限りは察する事もできまい。案の定侑はきょとんという擬態語が見えてしまいそうな仕草で小首を傾げていて、彩歌が安心した様子で微笑む。

 

「何でもない、ただの冗談さ。忘れて。ところで……ここに来たって事は、高咲さんはピアノを弾きに来たんだよね? それにしては、許可証を持ってなさそうだけど」

「ぎくっ。あはは……実はそうなんだよね……」

 

 痛い所を突かれたとでも言うかのように侑はばつが悪そうな表情を見せながら後ろ髪を掻き、そんな少女の様子を目の当たりにした彩歌は苦笑を漏らす。尤も侑が律儀に許可証を貰いに行っていたのなら先客がいると追い返されていた筈で、この偶発的な邂逅は侑の気まぐれに依るものであるとも言えるのかも知れない。

 

 そもそも彩歌が態々許可証を貰ったのも規則を遵守しての事というよりは今の彼の信条に従ったが故の行動で、であれば規則に従わない者を責める権利は彼にはないし、またそのつもりもありはしなかった。規則が第一でないという根本的な一点において、両者は同一だ。

 

 同一というならば、ふたりがこの場に来た経緯もそうだ。何気なく彩歌が問い、それに答える侑曰く、彼女が音楽室に来たのは単なる気まぐれ。歩夢が所属するクラスの授業終了が遅れ、それを待っている間にピアノを弾きたくなったという、それだけだ。というのもダイバーシティ東京においてせつ菜のライブを見たせいか、CHASE! をピアノで弾きたくなったのだと、侑は言う。先客がいると分かっていて音楽室に入ってきたのも音色に誘われただけではなく、その曲がCHASE! だったからというのもあるのだろう。

 

「彩歌くんの演奏、凄かった! 音圧……っていうのは違うかもだけど、とにかく胸に響いてくるっていうのかな?! 私、ときめいちゃった!」

「お褒めに預かり恐悦至極。楽しんでくれたのなら、それに優る歓びはないね」

 

 似つかわしくない所作と、幾らか弾んだ声音。或いはいっそ気障ったらしいと受け取られかねない仕草も、そのちぐはぐさも含めてどうしてか真野彩歌という在り方に違和感なく収まっている。詰まる所彼はともすれば良からぬ勘違いをしてしまいそうな侑の物言いを前にしても全く誤解を差し挟む余地もない程に純粋(ピュア)ではないのだ。

 

 両手の指を絡め、伸びをする。再び身体中から小さな破裂音。それから短く息を吐いて椅子から立ち上がると、彩歌は何気ない動作で制服の乱れを治してから椅子の足に立てかけてあった荷物を手に取った。同時に、侑からの疑問の視線に気づく。

 

「ピアノ、使うんじゃないのかい?」

「確かにそのつもりで来たけど……悪いよ」

「良いのさ。俺だってここに来たのは気まぐれで必要性なんてなかったんだから、惜しくはない。それに、そう、キミには何度か世話になってるし、賛辞も貰ったから、そのお礼っていうのもある。……今ならこの、優木さんに無断で再現した楽譜も付けちゃうよ」

 

 譜面立てに安置してあった手書きの楽譜を手に取りながら、まるでテレビショッピングの販売員を真似るかのように彩歌は言う。即席の、全く不慣れな真似事であったためか侑の目にはそれが奇異にも映ったが、しかしその違和は一から十まで自然体であり過ぎた態度に空いた、一分(いちぶ)の〝熱〟の隙でもあった。

 

 彩歌の行動は親切などではなく、単なる自己満足だ。彼の中に偏在する、冷静にして冷酷な部分がそう結論付ける。今の所高咲侑という少女の生に対し、真野彩歌なる男はお荷物か邪魔者としてしか立ち現れてきていない。他者との深い交際(かかわり)を避けようと願うならそれでも納得すべきなのだろうが、少なくとも彩歌にとってそれは忌避すべき事案だ。故に一度くらい、偶然出会い、言葉を交わし、何事もなく別れた赤の他人としての役割でありたいと思う。それは愚かな男の我儘であった。

 

 だが自分自身の内省による印象と、客観の印象はまるで異なるという事もままある。故に彩歌には、侑から彼がどう映っているのかを子細に知るのは不可能だ。侑は困ったように笑いながら、彩歌が差し出した楽譜を受け取った。瞑目し、彩歌が口を開く。

 

「……ありがとう」

「何で彩歌くんがお礼を言うのさ。譲ってもらったのは、私の方なのに」

「さぁ、何でかな。そういう気分だったのかも」

 

 侑の問いに対しそう答える彩歌の声音はまるで自らの意図を隠しはぐらかすような響きに満ちていたものの、彼自身にそういう意思はなかった。或いはその不明を明言しなかったが故の響きであるのかも知れない。

 

 彩歌自身、発した瞬間は全く無意識の礼であった。だが軽い驚愕を圧殺し、彩歌は自覚する。先の例はさして深く考えてのものではなかったのだろうが、だからこそ限りなく心底から零れた本音であるのだろう。自儘な男の自己満足を親切という体で受け取ってくれた少女に対する、それは少年が少女に初めて見せた脚色のない言葉であった。

 

 だがそこまで口にしてしまうのは野暮というものだ。自身の卑しさ、侑の優しさを詳らかにしてしまえば、先の遣り取りを陳腐に堕としてしまいかねない。溜め息のような吐息の後、彩歌は黒板に留めてあった許可証を外した。彼の名前で取っていたそれは、侑の空間の内にあっては無意味で無価値だ。端役か、それどころか小道具ですらない。

 

 回収した許可証と、それからこの場においては使われる事のなかったもう1枚の楽譜。たったそれだけの荷物で、彩歌の痕跡はこの音楽室から消える。そうしてその場から立ち去ろうとした刹那、侑が彼の背後から声を投げた。

 

「ありがとう、彩歌くん。──またね!」

「! ……あぁ、また」

 

 礼の応酬。別離の挨拶。昨日とよく似た侑の言葉に彩歌は一時のみ振り返り、彼もまた手をひらと振りながら侑と同じように記憶にある通りの(いら)えを返す。それが最後。彼は音楽室から離れて、さしたる間を置かずにピアノの音色が廊下にまで伸びる。

 

 成る程侑が初めてと言っていたのは確かなようで、彩歌からすればその音色はひどく拙い。その評価に驕りや優越感はなく、いっそ過剰すぎる程に冷ややかだ。だがその冷徹の裡から緩やかに、けれど確かな熱が昇ってくるのを彼は自覚する。

 

 この感覚に、彼は覚えがあった。忘れる筈もない。いつかのダイバーシティ、或いは昨日の海浜公園。それらで目にしたスクールアイドルと同質の輝きが、彼の胸をざわつかせる。そのせいだろうか、知らず、彼は鼻歌など歌い始めていた。

 

 その感覚は酔いにも似ている。彩歌は未成年であるし親族も比較的真面目であるから、彼は生まれてこの方、一度も飲酒はした事がない。けれどもしも酒を飲んだのならこんな感覚なのだろうかと、少年は内心だけで戯言を吐く。今や彼は、幻想に揺蕩う漂流者。だからだろうか、曲がり角から現れた生徒の存在に、彼は衝突寸前まで気づけなかった。

 

「──彩歌くん?」

「うわぁ!? ……なんだ、中川さんか……」

 

 唐突に耳朶を叩いた声に、彩歌の意識が夢中より醒める。眼前には、彼の物言いに対し拗ねたように、腰に手を当てて立つ菜々の姿。

 

「なんだ、ではありません。失礼ですね」

「ごめんごめん。……こんにちは、中川さん」

「はい。こんにちは、彩歌くん」

 

 己が礼を失した事を認め彩歌は居住まいを正し、それが何故だかおかしくて菜々が破顔する。それは〝中川菜々〟としての彼女はあまり人前では見せない、けれど彩歌にとっては見慣れた微笑であった。

 

 彩歌が許可証を貰いに行った先は生徒会室ではなく──一度訪れたが、それぞれの業務のためか留守であった──管理担当の教員であったから、今日、彼らが出会ったのはこれが一度目。全く偶然であるから、特別話す事もない。それに彼らは互いに連絡先を知っているのだから、態々ここで話す必要性もない。

 

 故にふたりは言葉でなくある種の暗黙の了解としてそのまま互いに擦れ違おうとして、しかしその一瞬、彩歌は再び振り返って少女の小さな背中に向けて声を投げていた。

 

「……今日の放課後、生徒会の活動が終わったら中庭に来てくれない?」

「? えぇ。それは構いませんが……」

 

 何故、と。菜々の目には疑問の気配があって、それに気付かない彩歌ではない。だが気づいていながら、彩歌はその疑問に言葉ではなく含みのある一笑で答えた。来れば分かると、それは何処か悲壮の色すら漂わせている。菜々にとって、それはおおよそ覚えのない友の姿であった。しかし戸惑いながらも、彼女は改めて了解の返事をして去っていく。

 

 離れていく背中。歩いて行く友人の姿に未練はないとばかりに踵を返し、彩歌は黙考する。菜々が歩いていく先には、音楽室がある。であれば自然な成り行きとして彼女は侑と出会うのだろう。出会い、何を話すかまでは彼の知る所ではないし、関係もない事だ。

 

 だが、その状況は。無許可でピアノを弾く侵入者と真面目な少女が出会い、言葉を交わす光景に、彼は覚えがあった。先刻彼が抱いた違和感は、これの予兆であったのだろうか。最早そんな事は、彼自身にとってすらどうでも良い事だ。

 

 この予感は当たるという、根拠のない自信がある。そしてそうであるならば、放課後に彼がしようとしている事は全くの蛇足だ。だが、彼には責任がある。願われた通りに終わりを見届け、その残滓を受け取った責任が。ならばそれを果たさなくては、後悔が残ってしまうだろう。たとえそれが全く無意味であるとしても。

 

 彩歌の口の端に笑みが滲む。その様子は余人が見ればひどく奇異に映ってしまうだろう。だが仕方がない。何故なら願いが叶いそうなのだ。彼が小学生の時分、特にその卒業式の頃からずっと抱き続けてきた願いが。だというのに、どうしてだろうか。雨音はまだ、彼の耳朶の裡で残響していた。

 



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第11話 アナタの瞳は海のようで

 生徒会の仕事を終えた菜々が中庭に来た時には既に、彼女を呼び出した相手である彩歌はその場にいた。偶然か、或いはそこが彼にとっての定位置であるのかは菜々には分からないが奇しくも彼が座っていたのは以前に眠っていた彼を菜々が見かけた際のベンチと同じであり、しかし今回ばかりは、彼は眠ってはいなかった。

 

 ベンチに深く腰掛け、太すぎず細すぎず、程よく筋肉質な長い脚を組んだ体勢で視線を手元の文庫本に落としている。彼の柔らかな亜麻色の髪を揺らすのは東京湾の方角から吹き込む潮風であり、その下で輝く孔雀青の瞳は涼やかだ。それが菜々の視線の先で佇む少年の姿であり、もしも一枚の絵としてその光景を切り出せたのならばそれなりのものとなろうという益体の無い感慨が彼女の胸中で顔を覗かせる。

 

 手にしている文庫本は古びた布製のブックカバー──小学生の頃も同じものを使っていたと菜々は記憶している──で保護されていてタイトルはおろか表紙すら見えないが、何を読んでいるのだろうか。純文学、評論、戯曲、ジュブナイル小説、或いはライトノベル。菜々の知る限りにおいて、真野彩歌という少年はおおよそどんな作品でも選り好みをしない人物であった。出会った頃、菜々が好きな作品について話が合ったのは、彼のそういう性質(たち)によるものでもあるのだろう。

 

 だからだろうか、菜々は未だ彼女の来訪に気付いた様子の無い彼へと昔のように言葉を投げ掛けようとして、けれどその言葉は音としての形を得るより早くに呑み下されて虚無の裡に霧散してしまう。嘗ては抱く事さえもなかった無言の葛藤。対して彼女の目に映る彩歌の姿はあまりにも彼女の知る〝真野彩歌〟として自然体でありすぎて、それを認めるや彼女の胸中に落胆のような、或いは安堵のような相反する感情が綯い交ぜになった混沌が駆け抜けていく。こちらは少なからず覚悟していたのに、と、そう全く無意識に考えて、はたと気づいた。

 

 覚悟。覚悟とはいったい、何の事か。そしてその覚悟とやらから転化された混沌も、菜々からすれば自分自身の事であるにも関わらず不明かつ理不尽だ。だがその正体を探る隙も、この場においては存在し得ない。半ば機械的に菜々がもう1歩踏み出し、その足音と気配でようやく彼女の来訪に気付いた彩歌が本を閉じ、視線を菜々へと向けた。

 

「やあ、中川さん。わざわざご足労かけて悪いね」

「いえ、大丈夫ですよ。知っての通り、門限にはまだ余裕がありますから」

「フフ、あぁ、そうだね。よく知ってる」

 

 その遣り取りは、ある意味ではひとつの確認作業である。両親が厳しくしているためか現代には珍しく菜々には門限が言い含められていて、それは昔から変わらなかった。故に以前から付き合いのある彩歌も、その事について既知であるのだ。

 

 それだけの会話が何故だかおかしくて、ふたりは短い笑声を漏らす。余人から見れば何処に和やかになる要素があるのか感じ取る事もできないような応酬は、或いは周囲と地続きでありながら絶対的な隔絶のようでもあった。

 

 しかしふたりだけの世界と形容するのは、その領域はあまりにも未完成であり過ぎる。周囲に他の生徒がいないのはそもそも中庭が広いうえにこの時間帯に利用している生徒が少ないためで、仮にいたとしてもふたりの会話をどう認識するのかは全くの未知数であった。尤も中川菜々としての彼女が余人には想像もし得ない程に柔らかい雰囲気を纏っている事は共通して驚愕に値するだろうけれど。

 

 『優木せつ菜』はもういないと、菜々は規定している。にも関わらず彩歌の前においては彼女が常の鉄面皮を崩してしまうのは、彼だけはせつ菜という()を与えられる前の、あくまでも菜々以上でも以下でもなかった一面を知っているが故だろうか。詰まる所それは過去からの反復のために封印の中に空いた、確かな空隙の証明であった。そしてそれは半ば慣習じみているがために彼女自身殆ど無意識の変容でもある。

 

 だが、果たしてそれは彩歌の目にはどう映っているのか。彼は彼女の名誉のため、かつ何よりも自身の意図のためにあえてそれを口にすることはなく、けれど細められた目には慈しみめいた色がある。続いて、咳払い。菜々が本題に入るべく問いを投げた。

 

「それで……いったいどんなご用なんです、わざわざ呼び出したりなんかして?」

「うん、それなんだけどね……」

 

 そこで一旦言葉を区切り、泰然とした動作で彩歌は菜々に背を向ける。一見してその不可解な所作のために菜々は首を傾げるが、やはり彼女から彩歌の表情は見えずその真意は全く不明なままだ。諦めてひとつ息を吐き、言葉の続きを待つ。

 

 緩やかな潮風が中庭を吹き抜け、揺れる亜麻色が彼の肩口を撫でる。その刹那、菜々は自身が見上げる形となったがために今更になって自分と目前の友人の間に大きな体格差が生まれている事に気付いた。小学校卒業後出会う事が無かった彼らは高等部進学時に外部生として彩歌が入ってきた際に再会して、しかし互いに忙しいためにこうして落ち着いて会話をする機会もそうなかったがために自身の見ている現実と認識の間には奇妙な齟齬が横たわっていたのだと、彼女は理解する。

 

 明確な時間の流れと、それによる変質、変容。可視たる現実がそうであるならば、不可視な繋がりさえも彼女の知らぬ間に変わっている事もあるのかも知れない。その発想に至ると同時、彼女の脳裏に抑圧した筈の感傷が再来する。

 

 或いはそれは、自身の大好きを侵害されて泣く後輩の姿。或いはそれは、偶像の正体を知り愕然とする幼馴染の姿。逃れ得ぬ過去の因果に絡め取られ菜々の意識は忘我に埋没していき、しかし頭上から降り注いだ声により現実へと引き戻された。

 

「中川さん」

「はい!?」

「なんで驚いてるのさ。……まぁいいや」

 

 呆れたように、安心したように、彩歌は微笑する。そうして、数拍。左手を自身の鳩尾に当て、右手を相手へと差し出すといういっそ過度なまでに気障な姿勢で、彼は口を開いた。

 

 

「中川さん。今から俺とお出かけ(デート)、しませんか?」

 

 

「は────ええぇぇぇぇっ!?」

 

 

 最早校地中に響き渡らんばかりの、少女の喫驚。その眼前でその原因となった少年は不敵に、されど何処か悲しげに笑むのであった。

 


 

 結論から言えば。

 

 虹ヶ咲学園の敷地を出てダイバーシティ東京に到着するまでの間に、ついぞ菜々は彩歌の真意を察する事ができなかった。デートをしようという或いは突飛とさえ形容できるような誘い文句で菜々を連れ立った彩歌だが、彼は何の意味もなくそんな軽薄な物言いをする男ではない事を菜々は知っている。故に彼のこの行動には何等かの意図がある筈で、しかし未だに彼女にはそれが見えない。けれどそれは何も菜々の察しが悪いだとか、そういう事ではない。

 

 中川菜々は聡明な少女である。だが同時に、真野彩歌は生来他者よりも外面に感情が顕れにくい性質の持ち主で、更には菜々も聡明でこそあれ何らかの感情の為に視野が狭くなってしまう部分があるというのは、かすみの大好きを侵害してしまっていた事実が証明していよう。

 

 物憂げな面持ちで見上げた先には一角獣を模した頭部を持つ巨大な白亜のヒトガタ。可能性を体現するそれは、しかし今は赤い燐光を発さずに純白のまま屹立している。

 

「申し訳ないって、そう思ってる?」

「えっ?」

「みんな頑張ってるのに自分だけこうしているのが申し訳ない……そう考えてない?」

 

 近くの自動販売機で買ってきたのだろう微糖の缶コーヒーを菜々に差し出し微笑を浮かべながら、彩歌は言う。それを受けた菜々は答えを返さないが、その沈黙は肯定も同義であった。虚を衝かれたような表情もその一因であろう。

 

 だが彼の言う〝みんな〟とはいったい誰の事を言っているのか。生徒会の面々か、或いは同好会までもを含めているのだろうか。菜々は彩歌が同好会のメンバーと知り合いであるとは知らないが。その可能性に彼女は違和感を抱かなかった。

 

 代金に関する極めて短い問答の後に驕りと押し切られた菜々は彩歌に礼を言いつつ缶コーヒーを受け取り、プルタブを開栓する。充填されていたガスが逃げていく、間抜けな音。自らもまた缶を開けてブラックコーヒーを一口呷ってから、彩歌が口を開いた。

 

「なら……それは俺の責任(せい)かな」

「彩歌くんの……?」

「うん。だって、キミを外出に誘ったのは俺だ。だから俺の責任(せい)なのは当然だし、そうするのも道理だろう? 全部。そう、全部ね」

 

 そう言う彩歌の声音はあくまでも平静で、そこに奇妙な自罰の気配はない。彼が繰り返し言う『全部』というのは会話の流れからすれば彼女が遊びに出ている現状のみを指している筈で、それなのに菜々にはどうしてかその言葉の重みがそれ以上のものであるようにも感じられた。

 

 その彩歌の言葉は受け取り方によっては生真面目な菜々に対する愚弄のようでもある。けれど、彼女は彼がそういう気性ではない事を知っていた。であればそこに皮肉めいた意図はなく、あくまでも文字通りの意味でしかないのだろう。ただ、訳もなくその『全部』とやらを彼に背負わせてはいけない気がして、菜々は首を横に振る。

 

「いえ、そういうワケにはいきません。確かに誘ったのは貴方ですが、承諾したのは私です。その時点で、責任を全て貴方に求めるのは違うでしょう」

「そう? ……そういうものかな」

 

 呟く声音は穏やかで、けれど注意深く聞かなければ分からない程の悲哀もまたそこには同居していた。まるで菜々が彼の責任としない事を惜しむかのように。それは半ば異質とも形容できるような心理ではあるけれど菜々には彩歌なりの優しさにも思えて、口許を緩ませた。

 

 そもそも菜々の知る限りにおいて、彼は全くの彼自身の欲望のために彼女を付き合わせた事はなかった。であれば今回も彼なりに菜々の事を考えての行動──デートなどと呼称しているのは別だが──であろうと考え、その厚意を無下にする判断を彼女はしない。

 

 絶える会話。缶をひっくり返すような勢いでブラックコーヒーを喉に流し込むと、突き抜けるような苦味が彩歌の意識の裡を駆け抜けていった。そうして一息吐くと同時、菜々が忍び笑いめいた笑声を漏らしている事に気付いて首を傾げる。

 

「……貴方でも、そんな表情をするんですね」

「えっ、俺、そんなに変な表情してた?」

「いえ、変ではありませんでしたよ? 拗ねているみたいで、何だか可愛いです」

 

 くすくす、と。先程までの会話の中で彩歌の方が拗ねているというのは聊か奇妙ではあるが、そんな事は些末とばかりに菜々は笑っている。今ばかりは自身の表情について全くの無自覚であった彩歌は暫く両手で自身の頬をむにむにと揉んでいて、その仕草がおかしくて菜々は笑顔を浮かべている。その笑みは他でもない、幼馴染とも言える少年の新たな一面を知れた歓喜から来るものであった。

 

 大切な人が、笑っている。恐らくは〝中川菜々〟たる彼女の姿としては、彼以外は知らない表情で。その光景を前に彩歌は思う所がない訳ではなかったが、その感傷は彼の中に常に存在していたような気もする。故に押し殺すには容易く、代わりに彼は薄い、軽薄にも見える笑みを浮かべる。せめて彼女の前では彼女の知るままの〝真野彩歌〟でいようという、それはある種自己の封殺であった。けれどその封殺を、今度こそ自身の精神を掌握した彼は他者から悟らせない。

 

「可愛い、ね。それは俺には過ぎた評価だよ、きっと」

「そんな事はありません。彩歌くんは自分を低く見積もり過ぎですよ」

「どうかな。それに……」

 

 不自然に言葉を区切る彩歌。その言葉尻が漂わせる悪戯な気配に菜々は思わず彼の方を向いて、瞬間、反射的に息を呑んだ。心臓が強く跳ねて、顔から火が出るようだ。気づけば、互いの息がかかってしまいそうな程に、ふたりの距離は至近にまで迫っていた。

 

 そして全くの不意打ちでそんな状況に置かれた菜々の視界に初めに飛び込んできたのは、溟海のような青。即ちそれは彩歌の瞳であり、両者の距離のために菜々の顔に熱が凝集していく寸前に、彼女の胸中に不可思議な感覚が去来する。

 

 それはまるで、花緑青に揺らめく大海に抱かれているかのような。深く、深く、眼下には光が届かないがために底知れぬ洞が広がっていて、しかし水面から差し込む陽光ばかりが菜々の裡に飛び込んでは像を結ぶ。一方的に内側を見透かされているようでありながら、逆に一方的に見透かしているようでもある。絡め取っているようでありながら、絡め取られているようでもある。理解と無理解の間に揺蕩う、そんな感覚であった。

 

 だがそれはあまりに曖昧模糊としているがために、ほんの僅かに遅れてやってきた羞恥と動揺によって押し流されて、高く跳ねた心拍によって意識の外へと弾き出されてしまう。その頃にはもう彩歌の目から先の色合いは消えていて、代わりに彼らしい飄然とした表情があった。

 

「フフ、赤くなってる。可愛い」

「なあっ……!? かっ、揶揄わないでくださいっ!」

「アハハ、ごめんよ」

 

 耳まで紅潮させて抗議する菜々と、そんな抗議を受けてもどこ吹く風の彩歌。けれどそれは何も彩歌が菜々を侮っている訳ではなく、菜々もまた、抗議は一種の照れ隠しめいてもいた。或いはそれは両者の間にある互いの性質についての了解によるものであるのかも知れない。

 

 だがその抗議は決して全く本気ではないという訳ではなく、そしてそれが分からない彩歌ではない。故に彼は影の色を感じさせない笑顔のまま再び菜々から距離を取って、その瞬間、彼は夏服である紺色のズボン、その左ポケットの中で何かが震えたのを感じ取った。完全に不意を突かれる形となったそれが表情に出ていたのだろう、菜々もまた彩歌の様子からそれを察したようであった。

 

 どうぞ、と視線だけで返信するよう促す菜々。それに従うようにして彩歌はポケットからスマホを取り出すと、戸惑いが更に大きくなったかのように目を僅かに見開いた。だがすぐに平静に復帰すると、悟りのような、或いは憧憬のような笑みを口の端に覗かせた。それから手短に返信を入力し、スマホをポケットに戻してしまう。まるで彼の返信に対する更なる返信には興味がないか、そもそもその必要性を感じていないかのように。

 

「良いんですか?」

 

 何が、と彩歌は問い返さなかった。菜々の問いには圧倒的に情報が不足していたが、それを察せない彼ではない。

 

「良いのさ。呼び出しみたいなものだったけど、その現場に俺は不要だろうからね。もしかしたら、行ったら質問攻めに遭ってたかも」

 

 そんな縁起でもない事を宣いながら、彩歌は口許に手を遣ってくつくつと笑う。そんな気障か軽薄な印象を受ける所作が昔からの彼の癖である事を、菜々は知っていた。同時に、時にはそれが彼にとっての虚勢としても表出し得る事も。

 

 だが彼の言葉は不要だとか質問攻めだとか、彼自身にとってマイナスにも思える要素を孕んでいるにも関わらず笑声は本当に喜ばしいものを前にしている時のそれであった。まるで送り主にとって彼が不要であろうと断じられる事を歓んでいるかのように。

 

 不可解だった。疑懼だった。だが菜々がその違和感を探るより早く、彩歌は彼女の手から半ばひったくるようにして空になったスチール缶を抜き取り自身のそれと共に自販機横のゴミ箱に放り込んでしまう。そうして振り返った彼の顔に浮かんでいるのは、やはり仄暗さなど感じさせない清爽たる喜色だった。

 

「さ、行こうか。折角のデートなんだ、楽しまなくちゃ」

「うぅ、デートデート言わないで下さい、恥ずかしいので……」

 

 露骨なほどの軽薄を演じる彩歌と、羞恥に頬を赤らめながらも抗議する菜々。多少の疑問を抱えながらも、ふたりは歩を進めていった。



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第12話 ナンジ、約束を果たさんとするならば

 鳩が豆鉄砲を食ったようというのは、或いはあのような感覚を言うのだろうか。ダイバーシティ東京にて初めてせつ菜のライブを目撃した日の夜、真野(まの)彩歌(さいか)は自室にて椅子に深く腰かけながらそんな益体もない事を考えていた。

 

 その驚愕の対象がせつ菜のライブであるのかと問われれば、彩歌は間違いなく是を返すだろう。目を閉じて現より意識を切り離し記憶の海へと漕ぎ出せば、すぐにでも思い出す事ができる。小さな身体を目一杯に躍動させて己の大好きを叫ぶ少女の姿、そして彼女の思いを具現化したが如き不可視の炎を、彼自身の胸中に去来した衝撃と共に。

 

 目が覚めるような体験であった。自身すら気づかぬうちに心底に押し込め虚飾で塗り固めた本性を、有無を言わせず詳らかにされるような鮮烈であった。心の中に土足で踏み入ってくるのではない。それはさながら炎か、さもなければ太陽のように周囲の人々の心を照らし、その熱で以て相対する者らを魅了する光だったのだ。追想の中でそれを再認し、成る程確かに彼女はまさしくアイドルだったのだろうと彩歌は思う。彼は嘗てその衝撃と似て非なる感覚を味わった筈だった。他ならぬ、若かりし頃、売れっ子のアイドルだった父のライブ映像を観た時に。

 

 だが太陽は隠れ、光は永遠に失われた。彼女自身の行動による責を果たすために、彼女は『優木せつ菜』でいる事を放棄したのだ。今となってはせつ菜の存在を示すのは過去の記録映像のみであり、せつ菜とその正体である菜々の繋がりを証明するものは彼女自身の記憶や所有物を除けば、彩歌に託されたせつ菜のノートだけとなってしまった。

 

「中川さん、どうしてこれを俺に……というのは、考えるだけ野暮かな」

 

 目蓋を開きそんな事を呟きながら、彩歌は学習机の上に置いてあったB5サイズのノートを手に取る。何故、菜々はこのノートを彼に託したのか。その理由など、既に彼女自身が口にしている。彩歌は菜々こそがせつ菜の正体であると知りながら、せつ菜の終わりを見届けた。故に、菜々はせつ菜の残滓の一部を彼に託した。それはノートを渡した時に彼女自身が口にしていた事だ。

 

 彼女のイメージカラーに近しい赤の表紙に書かれているのは、やはり『優木せつ菜』という名前のみ。罫線に沿って書かれた丁寧な字体は、彼女の根底にある生真面目さを顕しているかのようでもある。そうしてその表紙を開く彩歌の手付きは、さながら聖典でも扱うかのような丁重さだ。

 

 手渡された際に彩歌はその内容の一部に目を通していたが、改めて見分して確信する。このノートはせつ菜の練習ノート、或いは活動日誌なのだ。初めのページの内容は主に同好会の立ち上げについて書かれていて、その日に合わせて新調したものなのだと分かる。全体のレイアウトは非常に見やすく整然と纏められていて、同時に文の気配は読んでいるだけで当時の彼女の内心が鮮明に伝わってくる程に情感に満ちていた。その様たるや、ただ読んでいるだけである筈の彩歌が思わず微笑を浮かべる程だ。だが、ある日を境にして読み手に去来する感情は全く異なるものへと変貌する。

 

 それを形容する言葉として、最も適切なものは『自責』、『懺悔』であろうか。日付は今からさして前ではなく、その内容はこの日こそがせつ菜が己の過ちに気付いた日なのだと確信するに十分過ぎるものであった。所々に点在する、縒れたまま乾燥したようにも見える箇所は、せつ菜の涙の跡だろうか。

 

「っ……」

 

 唐突に胸中に湧いた思いに、彩歌が思わず自身の鳩尾で拳を握る。それは人間であれば誰しも抱き得るごく自然な感情で、しかし彼は必死にそれに名前を付けるまいと抵抗するも、耳元にこびりついた雨音は彼に逃避を許さない。せつ菜の自責を前にして、彼が抱いたのは共感であった。

 

 分かっている。自分がせつ菜に対して共感を抱くなど烏滸がましく、分不相応なのだと。だが、その感情は。自身の過ちに気付き、それに囚われてしまったが為の感情は、彼にも強く覚えのあるものだ。いや、覚えがある、などというものではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。であれば、共感するなという方が無理があろう。

 

 故にこそ、彼は見ていられなかったのだ。自分の心に鍵を掛けて封殺し、その叫びが聞こえないよう耳を塞ぐ彼女の姿を。彼女を自身と同類扱いするのが許されざる事だと、彼は分かっている。それでもまるで3年前の彼のような菜々の姿を、彼は見ていられない。だからこそ彼は優木せつ菜をこのまま終わらせたくないと、そう願った。

 

 だが、どうすれば良いのか。彼の中には決意はあれどそればかりが先行していて、望む未来に至るまでの明確な過程が存在していない。故に彼は無力感に苛まれていて、そんな感傷に絡め取られたまま機械的にページを手繰る。瞬間、そこに挟まれていたと思しき二つ折りの紙が滑り落ちた。その予想外は彼を現実に引き戻して、床に落ちた紙を拾い上げ何気なく開くや、思わず息を呑む。

 

「これは……!?」

 

 そう呟く声は驚愕に塗れている。聊か過剰な反応のようでもあるが、それも致し方ない事であろう。優木せつ菜の活動日誌の中から現れたそれは、しかしながら今までの内容とは趣を異にしていた。その文が何であるかを彩歌は一目で理解していたが、小さな声で読み上げてより確信する。日誌と同じく涙の跡が点在するそれに綴られているのは、紛れもなく歌詞であった。

 

 知らない曲だった。だがせつ菜が発表している唯一のオリジナルの曲であるCHASE! とは異なるものでありながら酷似した気配を漂わせている点、そして何よりこれまでの内容と同等か、或いはそれ以上に彼女の内心が鮮明に想起される点からして、せつ菜の作詞である事は間違いない。詰まる所彩歌の目前に現れたそれは、未完の楽曲、その片鱗であった。

 

 ノートの間に挟み込まれていたものであるから、いつ作詞したものなのかは彩歌には知る由もない。同好会が結成された頃なのか、それとも最近になってなのか。どちらであろうと、彩歌には関係のない話だ。それどころかその未完の存在を無視することさえ彼にはできる。けれど、彼はその選択を好しとしなかった。

 

 ノートと歌詞を学習机の上に安置し、代わりに備え付けの棚から取り出したのは白紙の楽譜。彩歌は動画投稿者としてオリジナルの楽曲を作製する事もあるが故に、常に楽譜を切らさないようにしているのだった。それを広げ、頭に曲名を書き込む。

 

 この行動が正しいかどうか、彩歌には分からない。それどころか彼の中に在る冷酷な部分は出過ぎた真似をするなと、自己満足でしかない事は止めろと主張してくる。だが、彼はその懇願を捻じ伏せてしまう。自己満足。確かにそうだ。彼の行動はただ彼自身が何かした気になりたいが為の、只の自己満足でしかない。だが、たとえそうだとしても誰かの為にできる事をしたいという願いは決して悪ではない筈だと、彼は親友から学んだのだ。

 

 故に、彩歌は決意したのである。決して自己満足以上のものにならぬと分かっていても、この未完を完成させる事を。それこそが、彼が幼き頃に交わした約束の果たし方なのだと信じて。

 


 

「思えば」

 

 唐突に、菜々がその言葉と共に会話の口火を切ったのは彩歌と菜々、ふたりがダイバーシティ東京内のとあるカフェに立ち寄った時の事であった。

 

 早々に運ばれてきていたコーヒーに口を付けながら話題を探していた彩歌はそれを受けてカップをソーサーに戻し、周囲を流し見する。彼らの他にも客はそれなりに訪れており、席は殆ど満席だ。中には彼らと同じ高校生と思しき集団や、井戸端会議に興じていると思しき女性ら、或いは軽食をお供にノートパソコンと向き合っているビジネスマンの姿もある。至って何の変哲もない、全く普通の光景だ。いっそ長閑とさえ形容できるそれに彩歌は短く息を吐き、視線を菜々へと移す。

 

「親しい相手と、放課後にこうして目的もなく外出するのは初めてかも知れません」

「そうなのかい?」

「はい」

 

 知っているでしょうに。彩歌に対し菜々は答えを返す。確かに菜々の言う通り、彩歌は彼女が置かれた状況や境遇について他の者よりもよく知っている。少し考えれば彼女の言がそれに即したごく自然なものであったと分かるだろう。だが、彩歌は菜々にとってあくまでも他人だ。ストーカーなどでもないのだから、彼女の生活について何もかもを知っている訳もない。それ故の問いであった。

 

 彼らが出会った頃は菜々の両親の目に触れないようによく遊んだものだが、小学生の懐事情など高が知れている。そもそもとして幼さのための無垢な無邪気はわざわざ遠出をしてまでカフェに立ち寄るような発想を齎さず、それ故に当時の彼らは専ら真野邸で遊ぶ事が殆どだったのだ。であれば、なるほどこれが初めてというのも頷ける。

 

 だが、それはあくまでも彩歌の知っている情報のみでの推理だ。それが中川菜々という少女を構成する一要素の全てであると断定するだけの手がかりは、彼にはない。そう彼自身は思っていて、けれど菜々はそうではない。その認識の差異に、彩歌は込み上げてきた形容し難い感慨をコーヒーで流し込んだ。

 

「どうだろう。俺がキミについて知っているのは、あくまでも俺が知っている範囲のものでしかない。でも、それはキミの全てじゃあないだろう? 他の人よりは知っていると言うなら間違いじゃないかも知れないけれど、それが思い上がりでない証拠は何処にもない」

 

 或いは酷薄とも思える言葉を、おどけた調子で彩歌は言う。しかしそこにはその軽薄ささえ滲ませる声音とは裏腹に確かな主張の色があった。それはおおよその場合において自身の意志を可能な範囲でぼかそうとする彩歌にしては珍しい事で、その確信に気付けない菜々ではない。彼女の胸中に一抹の寂寞が去来する。

 

 しかし言い方こそまるで相手を拒絶しているような彩歌の言だが、実際の所彼自身にその意図はないのだろう。彼はただ当たり前の、厳然たる事実を述べているだけだ。人間というのは言葉があってさえ誤解をするのだから、形にして伝えていない事象を全て把握できる筈もない。そしてそれが分かっていながらも相手が自身を知っているものだと期待するのは、ある種の願望の裏返しでもあろう。〝相手に自分を知って欲しい、知っていて欲しい〟という、人間の根源的(プリミティヴ)な欲求である。

 

 けれどその欲求は全ての相手に対して作用するものではなく、であれば何故菜々は彩歌に対してそれを抱いたのか。降って湧いたその疑問を押し流すように、菜々がコーヒーを傾ける。──苦い。たまらず角砂糖を投下すると、白は瞬く間に黒い水面に消えていった。

 

「それでも私はきっと、貴方に私の事を知って欲しいと思っています」

「──」

 

 きっと、などと。胡乱な物言いである。だが、それも致し方ない事だ。菜々自身の裡にも自らのその思いが確信に至るような自認はなく、しかし彼女は己の行動がその思いを端に発するものであると推測するに足るものだという自覚がある。他でもない、自らこそが優木せつ菜であると自発的に明かし、その終わりを見届けて欲しいと願ったのは、或いはそういう事なのではないかと菜々は自省するのだ。

 

 対する彩歌は、よもや菜々からそんな事を告げられるとは思っていなかったのだろう、虚を衝かれたとでも言うかのような間抜け顔を晒したままコーヒーカップの取っ手に指を絡ませている。それがひどく可笑しくて、菜々がふふ、と微笑を漏らした。それから窓の外に視線を遣れば、彼方まで広がる海原が見える。

 

「ですが、これは只の私のワガママで、それ以上でも以下でもない。それが分かっていながら、私は……」

 

 知らず、カップに添えられた手に力が籠る。そして常に冷静沈着である筈の『中川菜々』の声音に滲んだ激情の気配は、彼女の胸中を占める後悔の証明であった。俯いた視線の先、黒い水面に映っているのは最早見慣れ果てた彼女自身の顔であり、しかしその中には切り捨てた筈の過去の気配がある。

 

 幼馴染である少女のそんな内心の葛藤に、彩歌は気付いているのか否か。俯いたままの彼女の姿を前に、彩歌は何も言わない。だがそれは何も彼が菜々の告解を無視しているだとか、そもそも関心がないだとか、そういう事ではない。もしもそうなのであれば、彼はそもそも菜々をこうして連れ出すような真似はするまい。

 

 優木せつ菜を圧殺し、封印する。ひいては自身がスクールアイドルを辞める事でせつ菜がいない形で同好会を再起させる。彩歌は菜々が口にしていない目標までを凡そ推測できていて、同時にそれが彼女なりの責任の取り方なのだとも了解している。その是非を、彼は判断しない。彼は何も同好会に所属している訳でもなく、かつその空中分解の現場に居合わせた訳でもない。つまり本質的には全くの部外者であるのだから、その是非を判じる権利を持ち合わせている筈もないのだ。

 

 だが、それでも。ここまで菜々の様子を見ていれば、彼女が自身の心を抑圧しているのは明白であった。故に彩歌はそんな彼女の姿を見ていられない。それは幼い頃に交わした約束の為でもあり、彼自身の願望のためでもあった。

 

「そんな顔しないで、中川さん。ほら、スマイルスマイル!」

「彩歌くん……?」

 

 些か唐突にも思える彩歌の言葉に、菜々が疑問の面持ちを浮かべながら顔を上げる。しかしそんな表情を向けられてもなお、彩歌は笑顔のままであった。

 

「浮かない表情より、笑っているキミの方が俺は好きだな。勿論、生徒会長としての凛々しいキミも素敵だけれどね」

「へぇっ……!? い、いきなり何を言うんですかっ!?」

 

 曇りのない笑顔のまま放たれた彩歌の賛辞に、驚愕の声をあげる菜々。その顔は耳に至るまで紅潮しており、完全に虚を衝かれた形であるようだった。だが、それも当然の事であろう。先の彩歌の言葉にはまるで脈絡がなく、その発言を予期するというのは全く不可能に近い。だがその唐突ささえ、彼にとっては自覚の内であった。

 

 けれど彩歌自身がその如何を言葉にしないものだから、菜々は混乱する他ない。それでも幾許かの時間が経過すれば嫌でも思考は冷静さを取り戻していくもので、加えて先刻も彩歌は軽薄を演じていたためか、彼女が忘我から復帰するのは早かった。そうして、彼女は彩歌の言葉の裡に先の主張と同質の確信の色がある事に気付く。

 

 であれば、一見して軽薄極まりないようでもある彩歌の言は、嘘などではないのだろう。そもそも菜々の知る限りにおいて真野彩歌という少年は少なくとも彼女に対しては嘘を吐く事などなかったのだから、彼女にとってそれは疑うまでもない事だ。それなのに彩歌を疑ってしまったのは、彼女が抱く自身への不信のためであった。

 

「彩歌くんは、優しいですね。こんな私でもそう言ってくれるなんて」

「……そうかい? 正直な気持ちを言っただけだよ、俺は」

 

 違う。こんなものは決して優しさなどではない。ただの打算だ。彩歌はそう言ってしまいたくて、けれど寸での所でそれを抑え込んだ。この場で自己嫌悪を晒し合って、いったい何が生まれようか。彼は何も傷の舐め合いがしたくて菜々を連れ立っているのではないのだから、それを吐き出すのは最悪手というものであろう。

 

 だが、少なくとも彩歌は嘘を吐いてはいない。彼の行為の本質が打算であれ優しさであれ、それだけは紛れもない事実であった。たとえそれが彼女が真に欲している言葉、今告げるべき事ではないのだとしても。であれば、相手の目に優しさとして映ったものをあえて全て否定するというのも、それは自己否定に酔った愚昧の所業となってしまうだろう。故にこそ、彩歌は自身を菜々の知る『真野彩歌』として規定したままで彼女と相対する。

 

「でも、これはキミの事を慮らない、俺の勝手で一方的な思いでしかない。そう、キミの言葉を借りるなら……只の俺のワガママだ。そうだろう?」

「そんな事……!」

「あるさ。でも、そんなワガママをキミは優しいと言ってくれた。そういう風に、ワガママを受け止めてくれる人もいるって事……なんだと思う」

「……言いきらないんですね」

 

 何処か自信なさげで締まらない彩歌に、苦笑しながら菜々はそう返す。だがそれとは裏腹に彼女の声音は揶揄うかのようで、彩歌は露骨なほど演技がかった仕草で肩を竦めてみせた。或いはそれは、情けない逃避であるかのように。

 

 しかし、それでも視線は真っ直ぐ。僅かに残っていたコーヒーを飲み干しカップをソーサーに戻す仕草はいっそ優雅な程であり、次いで真っ向から注がれた視線は菜々の漆黒の瞳に飛び込みその注意を完全に絡め取った。

 

「だからさ、俺に教えてよ、()の中川さんの事」

「……!!」

 

 微笑みを浮かべながら彩歌はそう言い、それを受けた菜々が目を見開く。彩歌の物言いはあまりにも漠然としてはいるけれど、そこに込められた意図はひどく単純であった。菜々は彩歌に自分の事を知っていて欲しいと告げたから、彼は彼なりに菜々の思いに応えようとしている。ただそれだけの事だ。

 

 だが、何と虫の良い話だろうか。内心だけで彩歌は自嘲し、しかしそれを残っていたコーヒーを一気に飲み干す事で臓腑の奥へと流し込んだ。ふと菜々の方を見遣れば彼女も殆ど同じタイミングで飲み終えていて、それを認めるや否や彩歌が伝票を手に取る。代金は合計で1500円に迫るが、幸いにして彼の手持ちにはまだ幾分かの余裕があった。

 

「それじゃあ、休憩はこのくらいにして、そろそろ出ようか」

「あっ、待ってください! 今度こそは自分の分の代金は払いますからっ!」

 

 逃げるような足取りで席を立った事から彩歌がまたも代金を全て自分で負担しようとしている事に気付いたのだろう、そんな抗議を飛ばしながら彼を追いかける菜々。そんな何でない遣り取りが何故だか楽しくて、けれど訳もなく悲しくて、彩歌は短く笑声を漏らした。まるで、この時間が過去となる事を、惜しむように。

 


 

 眩しい。建物の間に沈んでいく夕陽を細目で見遣りながら、彩歌が小さく呟いた。都会の街並みを満たす黄昏の色はさながら沈みゆく太陽の断末魔か。その只中を、群れ飛ぶカラスの鳴声が切り裂いていく。

 

 そんな黄昏の中に、並び歩く影法師がふたつ。長く長く伸びたそれらは時折家々が落とす影に埋もれながらも、やはり両者が直接交わることはない。どこまで行こうと平行線。それは何ら可笑しな点もない自然な現象であるが、それ故に一切の虚飾を許さず世界を詳らかにしていた。

 

「覚えていますか? 小学生の頃、ここまで一緒に帰ってきていた事」

 

 微笑を浮かべたまま菜々がそう問うたのは、何の変哲もない丁字路。しかし僅かに視線を上げると他の建物よりも聊か背の高いマンションが見えた。その内の1部屋が菜々を含む中川家が暮らす部屋である事を、彩歌は知っていた。

 

「覚えてるよ、勿論。……思えば、高校生になってから一緒に帰るのは、めっきり少なくなったね」

 

 今更ながらに気付いたとでも言うかのような声音で、彩歌は菜々の問いに答える。小学校卒業と同時に学校が別になり高校生になって再び同じ学校に通うようになった彼らだが、高等部進学と同時に生徒会で活動していた菜々と帰宅部の彩歌では生活の何もかもが違くて、共に行動する機会というのはそう多くはなかったのだ。ふたりでの帰り道というのもせつ菜の引退ライブの日を含めてたったの2回である。

 

 しかし彩歌のその答えは捉え方によっては菜々に対してひどく失礼であるようにも思えようが、彼自身にはそんな意図はない事に菜々は気付いていた。或いはそれは、その事実を意識する間がないような時間を彼らが過ごしてきたという事でもあるのだから。事実がどうあれ、彼女はそう解釈した。

 

「はい。……今日は、ここでお別れです」

「そうだったね。家の前まで送っていくとか、そういうのは見つかった時が怖いからしてなかったんだった」

「えぇ。……あの。今日はありがとうございました。とても楽しかったです」

 

 こちらこそありがとう。俺も楽しかった。真面目な性分である菜々らしい礼の言葉に、彩歌は微笑みながらそう返す。外面的に軟派にも見える彼がそう言うというのはともすれば口先だけとも思われようが、それは紛れもなく彼の本心であった。

 

 菜々と彩歌の外出は、その逢引めいた気配とは裏腹にそこまで浮ついたものではなかった。ただ取り留めもない事を話しながら歩いていたり、ウィンドウショッピングをしたり、時には彩歌が強引に彼の奢りという形にして軽食をしたり。特筆するような派手さは何処にもなく、ごく普通という表現が相応しい。だが今まで中川菜々としてのイメージを崩さないような振る舞いを心がけてきた彼女にとって、それは初めての経験であった。

 

 だが、彩歌にとってはきっとそうではないのだろう。彩歌の親友である大雅と菜々は少なからず面識があって、彼はきっとその親友ともこんな風に過ごした事があるに違いない。何気なく菜々はそんな事を考えて、不意に胸中に慣れない感覚が過ぎたのを自覚する。疼痛のような、或いは靄のような。だがそれはあまりにも弱々しく、気づいた直後には輪郭さえ不確かなまでに散逸していた。首を傾げる菜々。けれど彼女はそれを追う事無く、再び口を開く。

 

「では、私はそろそろ帰ります。また明日」

「あっ。ちょっと待ってくれるかな、中川さん。最後に渡したいものがあって」

 

 踵を返して独りの家路に着こうとした菜々を呼び止める彩歌の声。振り返った菜々の表情に宿っているのはやはり疑問であり、しかしそれを受け止める彩歌の瞳は、この朱の世界にあってもはっきりと見える程の蒼に輝いている。だが微笑みは常のそれで、菜々にはそれが少しだけ奇妙にも思えた。

 

 しかし彼女は何も言わず彩歌の言葉の続きを待って、その視線の先で彩歌は徐にポケットからスマートフォンを取り出した。そうして画面に光が灯ったと思しきその一瞬のみ彩歌の顔に驚愕らしき色が宿るが、それは瞬く間に立ち消えてしまう。それから、幾許か。彼はスマホの操作を止め、菜々に視線を送る。

 

 その様子からして、彩歌の言う渡したいものとは何かしらのデータなのだろう。だがそれならば別れてからでも良い筈なのに、何故態々今なのか。抱いた疑問の答えも実際にそれを見れば分かるだろうと菜々もスマホを取り出して見てみれば、彩歌のアドレスから1通のメールが来ていた。途端に、何か予感めいた感覚が菜々の胸に立ち現れる。それを振り切ってメールを開き、菜々はそれに何件かのファイルが添付されているのに気づいた。

 

 拡張子から見て、それらの内容は音声データと電子文書。それを認めるや否や、菜々の脳裏に確信めいた何かが奔る。弾かれるようにして彩歌を見れば、彼は常と変わらぬ微笑を浮かべていた。

 

「どうして……」

「……実の所、本当にこれを渡して良いかは迷ってたんだ。でも、今日のキミを見ていたらね」

 

 答えになっていない。彩歌の返答に対してそう反駁しようとした菜々だったが、しかしそれは声にならぬまま腹の底に消えていく。どうして、などと。そんな事は決まっている。彩歌がそうしたかったから。それ以上に何の理由が要るだろうか。

 

 ならば或いは彼の言った『今のキミを教えて欲しい』というのは、これを渡して良いか否か判断するためだったとでも言うのだろうか。その疑念は間違いでなく、けれど全てではない。真野彩歌という少年はそんな合理性の塊のような人間ではないと、菜々は知っていた。

 

 数瞬の間菜々はそれらのファイルへの処方について考えあぐね、結局解答は出せずにスマホをスリープモードにして鞄の中に戻してしまう。

 

「優木せつ菜は、もういません」

「知ってる。俺は終わりを見届けたんだから」

「貴方の気持ちには、応えられません」

「良いのさ。都合の良い偶像(カミサマ)なんかじゃあないんだから。キミも、俺も」

 

 答える声音はあくまでも穏やかであり、即答でありつつも僅かに煮え切らない態度を覗かせている菜々にもまるで動揺していないようであった。或いは、彼女自身でも必至に押し殺そうとしている懊悩や描いている未来でさえ見抜かれているのだろうか。それなのに彩歌は優し気な様子を崩さなくて、それが更に菜々の平穏を責め苛む。

 

 このデータを、彩歌はどういうつもりで託したのだろうか。新たな門出を願う福音としてなのか、或いはこれから消え逝く者へ手向ける鎮魂歌としてか。きっと、どちらでもあるのだろう。このデータを菜々がどう扱おうと、彩歌はそれを否定しない。そんな確信が、彼女にはあった。

 

 それはきっと優しさとはまた別種の何かだ。だが、ならば何なのか。分からなくて、菜々が思わず問いを漏らしていた。あまりにも漠然として、要領の得ない問いを。

 

「彩歌くんは……どうして、そうなんですか」

「決まってる。約束したからには、その責任を果たす。……俺がしているのは、それだけだよ。それが今、俺のしたい事なんだって、教えてくれた人がいた」

 

 約束。彩歌の言葉に菜々は反射的に自らの記憶を反芻して、それの答えを探そうとする。そして、それらしいものに行き当たるのはひどく早かった。だがその間にも彼女の意識の中では彼と過ごした時間の総量にも等しい時間が経過しているようでもあった。

 

 ──誰がキミを否定したとしても、俺はキミの味方だ。

 

 彼らがまだ無垢であった頃、彩歌は確かに菜々にそのような事を告げた。一言一句正確に諳んじる事ができる訳でこそないもののそれは菜々の記憶の隅に残っていて、故に驚愕する。何気ない会話の中で漏らした戯言とも、幼さのための無知から来た背伸びとも、最悪、忘れたものとして棄却してしまえそうなそんな約束を、彼は未だはっきりと覚えていて、律儀に履行しようとしている。約束したのだからという、たったそれだけの理由で。確かにそれは優しさではない。『責任は果たすものだ』という、一種の信念だ。

 

 もしもここで菜々が懊悩も何もかもを放り棄てて縋ったとしても、或いは遍くを否定してデータを全て破棄したとしても、それが菜々の本心からの選択ならば彩歌は何も言うまい。だがそうであるならば、今日の彼の一連の行動は何処か矛盾しているようでもあって、それに菜々が疑問符を浮かべたのと殆ど同時に、彩歌が口を開いた。ともすればそれは彼自身ですら予想外な程に、飾らぬ声音であった。

 

「それでも、最後にひとつだけ伝えるなら……俺は好きだったよ。歌っているキミの姿も」

 


 

『普通科2年中川菜々さん、優木せつ菜さん。至急、西棟屋上まで来てください』

 

 彩歌にとっては聞き覚えのある、柔和な声音でのそんな放送が行われたのは菜々と彼が共に外出した翌日、その放課後であった。呼び出した目的も何も告げないその放送に教室内の幾人かの生徒は訝し気な表情を浮かべるが、彩歌は何かに合点がいったように笑声を漏らす。

 

 そうして彼は鞄からスマホを取り出すと、手慣れた動作でメッセージアプリを起動させる。続けて開いたのは、最近登録されたばかりの侑とのトーク画面。だが、新しく何かメッセージが送られてきた訳ではない。表示されている遣り取りは丁度昨日、彩歌が菜々にデータを添付したメールを送付するためにスマホを開いたタイミングで送られてきた時点で停止している。

 

『明日の放課後、西棟の屋上まで来てね! 絶対だよ!!』

「高咲さん……あぁ、やっぱりそういう事だったんだね」

 

 合点がいった、とばかりに彩歌は呟く。昨日侑から彩歌に送られてきたメッセージは何もそれだけではなく、それよりも前、菜々と彩歌がダイバーシティ東京前で会話をしていた時にも送られてきていた。先程の放送と総合して考えれば、侑達は昨日の時点でせつ菜の正体について知り得たという事なのだろう。

 

 そうしてあえて菜々と共にせつ菜を呼び出す放送をしたという事は、侑達の意図は最早火を見るよりも明らかであった。彩歌は自然と口角を上に向けて曲げたまま、ひとつ息を吐く。机の引き出しに残った諸々を放り込むために再び鞄を開けて、中に残っていたノートが視界に入った。せつ菜から託された、彼女の活動日誌だ。

 

 それを認めたその刹那、彩歌の顔に懊悩らしき色が現れる。けれど彼は何度もそうしてきたように今度も自身の精神をもう一度掌握し直し、鞄を背負いながら席を立つ。先程の放送について早くも関心を失ったらしい生徒の間を縫って教室を出る彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべていて、しかし蒼の瞳は煌々と輝いていた。そうして、内心だけで呟く。

 

 行かなければ。──願いの行く末を見届けるために。

 




 次回、第1章最終話『カレの願い(ゆめ)が叶う時/』。


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第13話 カレの願い(ゆめ)が叶う時/

 東京はお台場、東京湾岸に存在する虹ヶ咲学園。その校舎の一角、西棟屋上にて高咲侑は決意で満載された胸の裡に一抹の焦燥を抱いていた。彼女の視線は眼下の校地に向けられていてそこでは幾人かの生徒が放課後の時間を思い思いに過ごしているが、恐らくその光景は侑の視覚野で像を結びつつも意識に投影される前に霧散してしまっているだろう。

 

 そしてその焦燥の原因は何も、この期に及んで菜々/せつ菜に対して告げるべき言葉に窮しているだとか、そういう事では断じてない。むしろそちらの方は既に彼女の胸中で大半を占める決意の中で醸成されていて、当人が見えれば一も二もなく口にしてしまいそうな程だ。菜々/せつ菜を呼び出すという最も重要な行程も、放送担当の生徒の協力を得て既に歩夢とかすみが行っている。故に焦燥の原因は菜々/せつ菜ではなく、数日前に知り合った、大堡礁が如き群青色の瞳が印象的な少年──真野彩歌(さいか)であった。

 

 昨日、旧同好会のメンバーたちから菜々こそがせつ菜であるという情報が齎された──侑自身は半ば気づいていたが──後、一度目の呼び出しに応じなかった彩歌に対して侑は今日この場に来て欲しいとメッセージを送ったのだが、今、彼の姿はこの場所にはない。先程トーク画面を確認した際には既読表示が付いていたのだから、彼が確認していないという事はまずあり得まい。であれば彼はこのメッセージに気付いていながら、来ていないという事になる。だが、それは何故か。

 

 偶然CHASE! を歌っている所を目撃した際に出会った、せつ菜の友人であるらしい少年。だが考えて見れば、侑は彩歌についてよく知っている訳ではないのだ。そもそもせつ菜の友人であるという事も、クラスメイトである大雅から聞き及んだ事で彩歌自身から聞いた訳ではない。その情報を除いてしまえば彼女が知っている事など、殆ど皆無と言って良い。

 

 だが、それでも尚歩夢やかすみ、同好会の面々に対してもそうであるように、侑は彩歌を信じている。たとえ殆ど彼の事を知らぬのだとしても、海浜公園での体験入部の最後に見せた人の善い笑みが彼女の記憶に残っていて、誰かの為に在りたいと願いあのように笑う事ができる者が悪い人である筈がないと彼女は思うのだ。

 

 故に侑はひとつ大きく息を吐き、焦燥を追い出す。彩歌は来る。たとえ、今はその選択をしていなかったのだとしても。そう確信したからこそ、背後から聴こえてきたドアの開閉音と足音の方に向き直った侑の顔はいっそ清々しいまでの微笑で彩られていた。その視線の先にいるのは虹ヶ咲学園現生徒会長にして『優木せつ菜』の正体たるその人、中川菜々。待っていた生徒が侑であるとは思わなかったのか、菜々は訝し気な表情を浮かべている。

 

「高咲、侑さん……」

「こんにちは、せつ菜ちゃん」

 


 

「何処に行く気だよ、彩歌。オマエが向かうべきなのは、コッチじゃねぇだろ」

 

 隠す事もなく不機嫌そうな声音が唐突に彩歌の耳朶を打ったのは、放送での呼び出しに応じた菜々が西棟屋上にて侑と対面したのとほぼ同刻の事であった。全く慮外な事態に彩歌は驚愕のまま反射的に声が聞こえてきた方に視線を向けて、声の主はそれに応えるようにして廊下の陰から姿を現す。果たしてその正体とは、彩歌の親友である宗谷大雅であった。態々練習を抜けてきたのだろう。制服やジャージではなくサッカー部のユニフォーム姿である。

 

 驚愕が態度に出ていたのだろうか、あまりにも露骨な彩歌の様子に大雅はつまらなそうに鼻を鳴らす。放課後であるからか、エントランスに続く廊下にいるのは彩歌と大雅のふたりだけで、その一本道は彼らの独壇場であった。

 

「大雅、どうして……」

「ンなコトどうでもいいだろ。それに、先に質問したのはオレだ。質問に質問で返すな。

 ……もう一度訊くぜ、彩歌。オマエ、何処行く気だよ。呼び出されてんだろ、高咲に」

 

 思わず零してしまった質問にも全く取り付く島もない毅然とした態度で大雅はそう言い放ち、唐紅の瞳から放射される光が彩歌を射抜く。言い逃れは許さない。言葉にせずとも気配だけで大雅はそう突きつけてきていて、一度忘我に陥ってしまったとはいえ彩歌もまた親友の問いから言い逃れするつもりもなかった。

 

 まるで彩歌がここに来ることを分かっていたかのように大雅が待ち受けていたのは、何という事はない、先の放送を聞いて彩歌ならばそうすると確信したからに他ならない。更には侑が彩歌に声を掛けていたというのは推測混じりであったようで、微細な彩歌の所作から今になって確信したようであった。やっぱりな、と、溜め息を吐きながらそう呟く。

 

 であれば、この問いも半ば無意味だ。あえて尋ねるまでもなく大雅は彩歌の考えを凡そ察している。宗谷大雅という少年は只人と比較して頭抜けた洞察力を有しているのだ。せつ菜の引退ライブ当日に、自身ですら意識していなかった彩歌の懊悩に気付いた事もその証左と言えよう。それでも問うたのは何も露悪趣味などではなく、あえて形容するならば確認であった。答えを待ちながら大雅は一瞬のみ窓ガラスを通して視線を屋外へと遣る。当然彼らのいる位置からでは侑とせつ菜の姿は見えないものの、放送の時間からして既にふたりは出会っていると思われた。

 

 対する彩歌は感情の読みにくい、或いは真顔とも言える表情で大雅の眼光を受け止めている。

 

「……エントランスだよ。あそこなら、西棟の屋上もよく見える」

「行ってどうする。ただ指を咥えて眺めてるだけか?」

 

 そう問う声音には剣呑な響きがあり、眼光もまた同様に実体のない熱量を内包し視覚を通して大雅の感情を彩歌に流し込んでいるかのようだ。彩歌は大雅程に洞察に優れている訳ではないにせよ、相手は長い時間を共に過ごした親友である。こうして対面しているのであれば、その内心に感応するのは容易であった。

 

 憤怒。そう一言で言いきってしまうのは簡単ではあるが、大雅が抱いているそれはそんな単純なものではなかった。或いはそれは彩歌の在り方以上に、彼の在り様を変化させきるに至らない自分自身への無力感を端に発しているようにも見える。彩歌の心に根付いているのが、彼ひとりでは如何ともできない紛れもない()()であると理解していながら。

 

「高咲達の所に行けよ。今ならまだ間に合うだろ」

「駄目だよ。……俺にその資格があるようには思えない」

 

 極限にまで感情を抑えた大雅の声音。それに返す彩歌の様子はあくまでも穏やかで、しかし大雅にはどうしてかひどく泣き出しそうにも見えた。そんな素振りなど、どこにもないというのに。

 

 いや、泣き出しそう、などというものではない。真野彩歌という男は彼自身が決して口外しようとしない秘された過去のために、常に心で泣いている。己を罰し、呪い、それなのに他者にはそうと悟られないように笑顔を浮かべているのだ。彼の来歴を知らなければ疑問を抱く事さえ難しい程に、完璧な笑顔を。

 

 詰まる所、彩歌が今の菜々にどうしようもなく共感してしまったというのは、その自罰心と抑圧が要因であった。自身の行いのために己を呪い、本心を押し殺して平静を装っているという点において中川菜々と真野彩歌は全く同質で、だからこそ彩歌は菜々を見ていられなかった。故に彩歌は菜々がせつ菜として再起できるよう促した。彼女が未完のままにしていた曲を完成させたのがそのひとつだ。尤もそこまでは大雅も知らない事ではあるけれど。

 

 だがそうまでして、彩歌は最後に立ち会うのではなくただ見届けるだけに留めようとしている。自分には立ち会う資格などないのだと、そう口にして。であればこれも彩歌なりの責任の取り方であるのだろうか。そうして幾許か。彩歌が再び口を開く。

 

「俺は……高咲さん達のように、誰かにとっての“希望(ひかり)”では在れないから」

「っ──」

 

 そう吐露する表情はあくまでも平静なままでありながら、そこには隠しきれぬ無力の気配があった。それに伴う絞り出すかのような色合いは、紛れもなくそれが彩歌の心底から湧き出てきた本音である事の証明であろう。それを前に、大雅が息を呑む。

 

 自分は侑達のように誰かに取っての希望で在れないと、そう零した彩歌の目はやはり大雅へと向けられていて、しかし見ているものは全く別のようにも思われた。だとすればそれは、彼自身の記憶であろうか。

 

 以前に彩歌が予想していたように侑や歩夢といったスクールアイドル同好会のメンバーと彼が交流を持つように仕向けたのは大雅ではあるが、大雅はその場に居合わせた訳ではないためにどのような交流があったのかを子細に把握している訳ではない。経験はあくまでも個人のもので、それを洞察しきるというのも不可能だ。故にその経験に立脚した彩歌の思いについて、大雅は何も言う事ができない。けれどひとつだけ、大雅には確信している事があった。

 

「本当にそうか?」

「えっ……?」

 

 全く想定外の問いであったのだろう、思わず漏れた声には純粋な疑問の色があった。しかし構わず、大雅は続ける。

 

「彩歌。オマエ、オレの夢って知ってるよな?」

「確か、“教員”だよね。高校の」

 

 まるで脈絡がないようにも思える大雅の問いに、彩歌は疑問を抱きつつもそれを口にする事はない。代わりに言葉にしたのは、問いに対する答え。即答であった。その即応性は、先に大雅から質問に質問で返すなと言われたがためでもあるのだろうか。

 

 高校の教員。彩歌の答えを受けて、大雅は無言で頷きを返す。彼は膨大な人数を誇るサッカー部の中でもレギュラーメンバーを勝ち取った才英として校内でも有名であったが、その実、将来の夢がそれと全く関係が無い事を知る者は少ない。彩歌は、半ば当然の事として知っている側であった。

 

 だが、大雅の将来の夢が今の状況と何の関係があるというのだろうか。その疑問が表情に出ていたのか、それともただ推測しただけなのか、大雅は更に言葉を続ける。

 

「じゃあ、その切っ掛けって知ってるか?」

「……知らない」

「だよな。だって話した事ねぇし」

 

 そう言って、大雅はからからと笑う。その表情に先程彩歌を呼び止めた時のような剣呑さはなく、けれど唐紅色の瞳は変わらず彩歌へと向けられていた。そこに、親友の夢の由来を知らぬ事への憤りはない。自身は相手が話していない事でも洞察してしまうにも関わらず、そこには〝話していないのだから知らぬのも道理だ〟という一種の割り切りがあった。

 

 諦念ではない。ただそういうものだろうという、一種の受容である。そして数拍を置いて笑声が収まると、大雅は先のそれとは異なる穏やかささえ湛えた笑みを浮かべた。刹那、漠然と既視感めいた感覚を覚えた彩歌を置き去りにするようにして、口を開く。

 

「オマエだよ」

「俺……?」

「あぁ。オマエは覚えてねぇだろうけどな、中学の時、オマエが分からねぇって言ってた所を教えたら、『すごく分かりやすい。ありがとう』って言ってくれたんだ。オマエにとっちゃ何気ない言葉だったんだろうが、オレは何故だか嬉しくてな。気づけば、こうなってた」

 

 おどけたように肩を竦め、何と言う事でもないかのように大雅はそう言う。だがそれを受けた彩歌の内心は驚愕の一言であった。出会った頃からいつも大雅は彩歌よりも成績が良くて、それ故に彩歌は何度か大雅から勉強を教わった事がある。その度に告げていた礼は何度繰り返しても形骸化する事の無い心底からの感謝の証で、故にこそ彩歌にはいつの言葉が大雅の夢の発端になっているか推定するのは殆ど不可能に近い。

 

 だが大雅の微笑みは偽りのない本物で、そこに事実を歪曲してまで絞り出した世辞の気配は何処にもない。故に間違いなく大雅の言葉は真だ。それ以上に親友を疑ってしまう程の猜疑心を、彩歌は何処にも持ち合わせていない。何故と問うのも馬鹿らしい。どうしてそうまで嬉しくて、何故それが高じて夢にまでなってしまったのか、正確な経緯(ロジック)は大雅当人ですら理解し得ていないのだから。

 

 けれど確かな事もある。それはその夢の由来が他でもない、彩歌である事であり、そしてその夢に向かって邁進する自らを大雅は誇らしく思っている事。そのふたつだけは、疑い様の無い絶対的な真実であった。けれど、それをどうして今になって告げるのか。戸惑う彩歌に、大雅は勿体ぶる事なく解答を投げ渡してしまう。

 

「つまりな、オマエは手前(テメ―)が誰かにとっての希望(ひかり)にはなれないとかぬかしてたが……少なくともオレにとって、オマエは夢を与えてくれた希望(ひかり)なんだよ」

「──!!」

「だから、そんな悲しいコト言わないでくれよ。そんなんじゃ、まるでオレがバカみてぇじゃねぇか」

 

 これがともすればひどく身勝手な物言いと受け取られてしまいかねない事は、大雅も分かっている。或いは彩歌の過去について何も知らぬ者が同じ事を言ったならば無知故のものと流せるのかも知れないが、大雅はその過去についてよく知っている。何しろこの数年間、互いに最も多くの時間を共に過ごした者同士なのだから。知らない方がどうかしている。

 

 故に彩歌へ言葉を投げながら、大雅の脳裏に過るのは嘗ての記憶。それは彼らが出会った頃の事であり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の姿であり、そして()()()()()()()()()()()()()()姿()でもあった。それこそが彩歌に彼自身が誰かの為に在れないと思わせる要因になっている。

 

 けれど、そうだとしても宗谷大雅なる人間が彩歌から夢を与えられたという事実は揺るがない。だがそれは同時に彩歌は先の自罰が親友に対する途轍もない冒涜であることに気づいて、何も言わずに押し黙ってしまった。その反応さえ予想の範疇であるかのように、大雅が微笑(わら)う。

 

「それに、これは多分会長ちゃんも同じだと思うぜ」

「中川さんが……?」

「応。『優木せつ菜(スクールアイドル)』を辞めると決意した時……それでも会長ちゃんが頼ったのは誰だ? 高咲や、ましてや他の誰かじゃない。オマエだ。オマエなんだよ」

 

 ま、今同じ状況に放り込まれたら高咲を頼るのかもだけどな。そう言って、大雅は悪戯に笑う。人が極限にまで追い詰められた時、誰を頼るのかなど状況によって容易に変わる。彼の言う通り、今は以前のようにはいかないのかも知れない。けれど菜々がせつ菜を辞めると決めた時、彼女は誰に促されるでもなく自ら彩歌に正体を明かしたのだ。或いはそれは彼女にとって彩歌が一種の希望であったからではないのか。

 

 そこで大雅に同意し即座に首を縦に振る程、彩歌は自惚れの強い性格ではない。むしろそれができないからこそ、彼は心に病巣を抱える羽目になったのだ。だがその病巣は、目の前にある現実と真っ向から向き合い過ぎる生真面目な側面を彩歌が持つ証明でもあって、その性質は彼に否定を許さない。

 

 人間というのは時に全く無自覚のうちに誰かを傷つけ、希望を奪ってしまう生き物だ。しかし同時に、同じように無意識に誰かに希望を与えるものでもある。それが善きにしろ悪しきにしろ、どちらかのみという事は在り得ない。そう前置きし、大雅は更に続ける。

 

「人って、自分の事になるとバカになるってのは本当だな。

 ……オマエがオマエ自身の行いにどう責任(ケリ)をつけるのか、オレは強制できる立場じゃねぇのは分かってる。そのつもりもない。だが……誰かにとっての希望じゃねぇ人間なんてきっと何処にもいない。それだけは忘れんな」

 

 その言葉と共に大雅はその右拳を彩歌の鳩尾辺りに軽くぶつける。そこから広がった奇妙な温かさは彩歌の全身に染み渡り、やがては心臓に収束して鼓動と共に再び身体を巡っていくかのようだった。それはさながら大雅の思いが血流と共に彩歌の肉体全てに届き、新たな血肉となっていくかのように。

 

 大雅は何も彩歌に責任の取り方を強制している訳ではない。彼はただ、責任の取り方を決めるならば忘れてはならない事があると示しただけだ。それを忘れてしまえば、きっとその行いは新たな責任を生む。即ち、希望への裏切りの責任を。誰が誰にどんな希望を見出すのか、それは言ってしまえば見出す側の完全な身勝手だ。それでも、理解させられてしまった以上は、見せつけられてしまった以上は無視する事など、彩歌にはできない。

 

 だが、この期に及んで彩歌の心で不可視の病巣が疼く。耳元に残響する雨音が存在を主張する。それらは彼に彼自身の罪過を再認させ、思い切りを阻止してしまう。それを見て取ったのだろうか、大雅が何事か言おうとして──それに先んじるようにして唐突に、可憐ながら張り詰めた声が割り込んだ。

 

「──あーっ!! やーっと見つけましたよ、彩歌先輩!!」

 

「なっ……中須さん!?」

 

 果たしてその声の主とはスクールアイドル同好会に所属する、1年後輩の中須かすみであった。全く予想の埒外であった者の出現に彩歌は驚愕し、しかしかすみは我関せずとばかりに大股で歩み寄ると彩歌の手を掴んで来た道を引き返そうとする。

 

 出現から何から何まで唐突かつ何の説明もないその行動に彩歌は即座の対応をすることができずつんのめりそうになりながらも何とか体勢を立て直し、かすみに問いを投げる。

 

「ちょ、待ってよ中須さん、どこに連れてく気だい!?」

「決まってます! 屋上ですよ! もしも彩歌先輩がいつまでも来ない時は連れてくるように侑先輩から頼まれたんです!」

 

 まったく侑先輩も人使いが荒いですよねぇ。そう言うかすみの顔は言葉とは裏腹に誇らしそうだ。それは単純にかすみの性格的な所に拠るものか、或いは純粋に敬愛する先輩に頼られた事が嬉しいのかも知れない。

 

 そうして答えるために立ち止まった時点でかすみはようやく大雅の存在に気付いたようで、よもや取り込み中だったかと表情だけで問う。これが初対面であるというのに大雅はその意図を明瞭に察したようで、構わず連れていけ、とこちらもまた笑顔のままジェスチャーだけで答えた。元より大雅も目的はそう違わないのだから、当然の反応である。

 

 彩歌の処遇であるのに彼自身の意志の全く介在しない交感。それは両者の目的が殆ど合致しているが故のものであったのだろうか。半ば放置される形になった彩歌はそれを間隙と見て取り、するりとかすみの手から離れてしまう。そうして向けられた視線は訝し気で、だがそれに、彩歌は微笑みで以て返した。それは一言では言い表せない、様々な感情が混じり合った混沌を内包した笑みであった。

 

「面倒をかけてごめん、中須さん。でも、大丈夫。俺は……もう、ひとりでも歩けるから」

「そうですか……? なら、早く行きましょう!」

 

 奇妙な、或いは超然とでも形容できるような気配を漂わせる彩歌にかすみは刹那の間のみ戸惑いを見せるも、即座に忘我から復帰し彩歌を伴って来た道を引き返そうとする。だが、彩歌はすぐにはそれに続かない。一瞬振り返って、思い直したかのように、或いは決意したかのように大雅に視線を投げた。それが意外だったのか、大雅が首を傾げる。そんな親友に、彩歌は言葉を投げた。

 

「ありがとう、大雅。キミは俺を希望(ひかり)だと言ってくれたけれど……俺にとっても、キミは間違いなく希望だ」

 

 それだけ言って、彩歌は反応を待つ事もなくかすみの後を追って駆けていく。この場に教員や生徒会のメンバーが居合わせていたら間違いなく注意されていたであろうが、大雅はあえて何も言わずに見送った。廊下を走るのを見過ごすなど教員を目指す身としては褒められた行いではないけれど、今ばかりは早く立ち去ってくれた方がありがたかったのだ。

 

 彩歌に言葉をぶつけられた直後に彼が浮かべていたのは、まるで虚を衝かれたかのような間抜け顔。それから数拍を置いて彼は言葉の意味を理解して、気恥ずかしさに顔を赤くする。だが同時に言いようのない暖かな感情が彼の胸中を満たして、それを誤魔化すように彼は誰に向けるでもなくぽつりと呟いた。

 

「……よせよ。照れるじゃねぇか」

 


 

 西棟屋上に続くガラス戸を開け放つ直前、彩歌の胸中を過ったのは自らに対する問いかけであった。或いはそれはこの期に及んでもなお彼の中にある躊躇いが鎌首を擡げたかのようでもあり、同時にずっと自覚しているその躊躇いを振り切るための覚悟の自問のようでもある。

 

 優柔不断。そんな自己評価が彩歌の脳内を駆け巡る。いくら光明が見えたとしても人間というものは長年自身を悩ませ、そしてこれからも悩ませていくのだろう懊悩との一定の決別というのは極めて困難な事ではあろうが、抱いている当人にとっては気持ちが悪いものだ。仕方がない、などと容易に割り切れるものではない。

 

 だが──ひとつ、吐息。この扉を開け放ったが最後、後戻りはできなくなる。退路を望んでいる? まさか。弱気な自問を、彩歌は一笑に付した。彼はもう既に情けない姿を晒しているのだ。ようやくその過ちに気付けたというのに、これ以上情けない姿は見せられない。そんな事をしてしまえば、彼はこんなに情けなくて醜い自分をそれでも信じてくれた人々を本当に裏切る事になる。

 

 取っ手に手を掛け、戸を開ける。瞬間、吹き込んできたのは潮風でありそれに乗って鼻腔を突いたのは磯の臭い。殆ど毎日のようにこの学舎に通っている彩歌にとっては今更であるのに殊更にそれらを意識してしまうというのは、ある種の緊張のためであろうか。空は水平線から天頂にかけて橙と蒼のグラデーションを描いていて、間も無く完全な黄昏に染まる事を予感させる。視線を巡らせれば、侑と菜々は彩歌が入ってきた出入り口から少し離れた、聊か迫り出した足場の先にいるのが見えた。

 

 殆ど同じタイミングで彼女らも彩歌の存在に気付いたのだろう。侑が彩歌に向けて手を振り、菜々が驚きに目を見開く。恐らくはこの場に彩歌が来るとは思っていなかったのだろう。菜々は侑と彩歌が知己である事を知らないのだから、自然な反応だ。それは、どうして、と問うているようで、しかしその疑問には答えず彩歌は近づいていく。躊躇いを振り切りながら。

 

「もー、遅いよ、彩歌くん」

「うん。ごめん。俺が不甲斐ないばかりに、皆に迷惑をかけてしまった」

 

 揶揄うような様子の侑に、彩歌は微笑みながらそう返す。しかし表情とは裏腹にその声音には微笑みでは隠しきれない激烈な自罰の気配があり、彩歌の謝罪が口先だけではない事は明白であった。けれどそうであるにも関わらず彼の笑顔に嘘の色合いはない。それはおおよそ併存し得ない筈の要素の完全な共存であった。

 

 彩歌が抱えている懊悩やその原因である彼の過去について、侑は多くを知っている訳ではない。彼女はただ海浜公園での交流を経ても未だ尚彩歌の裡に何かがある事にだけは察しがついていて、故に万が一を考えてかすみに任せたのだ。結果的に言えばその差配は全く適切であったのだが、それでも侑が見た陰が彩歌から完全に消えた訳ではない。けれど今はそれと相対する光が彼にはある。丁度、先日の体験入部の時のように。

 

 そうして侑は彩歌に笑みを返し、彼もまたもう一度投げ返してから菜々へと向き直った。

 

「彩歌くん……」

「こんにちは、中川さん。いや……今は優木さんって呼んだ方がいいのかな?」

「……どちらでも構いませんよ。どちらも“私”ですから」

 

 それは、如何なる心境の変化であったのか。今になってようやくこの場に来た彩歌には、これまで侑と菜々がどのような会話をしていたのかを推察する術がない。だが彩歌の問いを受けてぎこちないながらも菜々が浮かべた笑顔は、彼女の心に影を落とし続けていた暗雲が晴れつつある事を彩歌に悟らせるには十分であった。

 

 嗚呼、やはり高咲侑という少女は、中川菜々にとって希望(ひかり)だった。極めて短い間ながら交流した際に感じた思いが正しかった事を、彩歌は改めて確信する。だからこそ彩歌はそのように在れないと思っていた自分自身が此処に立つ資格などないと、そう思っていた。いや、過去形ではない。今に至ってもその思いが完全に消えた訳ではないのだから。

 

 だが菜々が見せたその笑顔は彼女の心境の変化を表すものであると同時に、彩歌の裡からその躊躇いを打ち消すには十分な威力を内包していた。交わされた笑みは共に到底満面とは言えないものであるものの、そこに詐術は一切介在してはいない。

 

「……えぇ。そうでしたね。貴方はずっと……私のワガママを受け止めてくれていたんですね」

「俺はそんなに大層なコトはしていないよ。俺にできたコトなんて、きっと俺でなくても良かったコトだ」

 

 でも、と彩歌は言葉を続ける。

 

「大好きなものの話をするキミの姿が、俺はずっと好きだったから。だから、ずっと笑っていて欲しかったんだ」

 

 歯の浮くような物言いだ。ともすれば自己陶酔に溺れた気障の戯言と受け取られかねない言葉だ。しかし彩歌のそれがそんな蒙昧の法螺や嘘などではないと、菜々は一切疑う事無く確信する。何故なら彼のその言葉と笑顔は、彼女の記憶にある昔日の残影と変わらぬものであったのだから。

 

 そう口にする彩歌が何処か儚げな雰囲気を纏っている事も相まって、その言葉はさながら愛の告白ででもあるかのようだ。いや、好感好意の吐露という意味合いにおいては、それは間違いなく愛の告白だ。そして過去からの投影でもある。彼らはふたり共に出会った頃から様々な変質と変容を経てきたが故に何もかも変わらぬという訳にはいかないけれど、それでもその思いは変わらないのだと。それは宣誓でもあった。尤もそれのために、彼は空転を続けてきたのも事実なのだけれど。

 

 再認。或いは追憶。それに続く言葉を彼らは探そうとして、直後に生まれた空隙はそのための間であった。しかし彩歌は何事か言う前に侑が何か言いたげにしている事に気が付き、その場から一歩退く。それは丁度、侑の背後から彼女らふたりを視界に収めるような、或いは極めて近くにいながら、ふたりだけの世界を見遣る観客のような立ち位置(ポジション)であった。

 

「ホラ、私も、彩歌くんも、そしてきっと皆もせつ菜ちゃんが大好きで……だからせつ菜ちゃんが幸せでいられないのが嫌なんだ。ラブライブみたいな最高のステージじゃなくても、せつ菜ちゃんが笑顔で歌っていてくれれば、十分なんだよ。

 私達をこんなに好きにさせたのは、せつ菜ちゃんだよっ!」

 

 花が咲くような笑顔であった。それに同調するようにして、彩歌も無言で頷く。決して同意を求められた訳ではないけれど、それは彼の心底から現れ出た思いであった。

 

 そしてそれはさながら、空を覆う暗雲が消え去り陽光が世界を照らし上げるかのように。或いは闇に閉ざされた岩戸に一筋の光が差し込むかのように。せつ菜が侑にトキメキの炎を灯したとするならば、これはその逆。菜々の心で消えかけていた炬火を、侑はトキメキの光を以て灯し直したのだ。侑の全霊を受けて、菜々の瞳に再び光が宿る。

 

「……期待されるのは、嫌いじゃありません。でも、本当にいいんですか……? 私の本当のワガママを、大好きを貫いても、いいんですか……?」

「勿論っ! せつ菜ちゃんの大好きは、私達が受け止めるから!」

「っ……!」

 

 震える声で絞り出された問いに、即応する侑。たとえそれが何であろうとも、菜々、否、せつ菜の総てを受け止めてみせるのだという、それはある種の覚悟の宣誓であった。それを前にして彼女の脳裏にダイバーシティにて彩歌から告げられた言葉が過る。菜々が彩歌のワガママを優しいと言ったように、ワガママを受け止めてくれる誰かがいるのだと、彼は言った。それが戯言ではない事の、これは何よりの証明であった。

 

 故に──もう堪えられない。否、堪える必要性などない。菜々の心を押し留めていた堰は今この瞬間を以て決壊し、崩壊したそれらは彼女の新たな糧として変生する。菜々の口許に、挑戦的な笑みが宿る。

 

「分かっているんですか? アナタは今、すごいコトを言ったんですからね」

 

 人は時に自らの大好きをも抱えきれずに暴走させてしまう生き物だ。嘗ての彼女自身がそうであったかのように。だが侑はそれを全て理解したうえで、それでも彼女の大好きさえ受け止めると宣言したのだ。事も無げに。それは彼女の度量の大きさ故か、或いはまた別の要因か。今は、どちらでも良かった。

 

 三つ編みを解く。眼鏡を外す。その手付きは無造作であるようで、同時にまるで儀式めいてもいよう。そうしてついぞ手放す事ができずにポケットに忍ばせ続けていた髪留めで髪を結び直し、菜々──せつ菜はもう一度視線を侑達に投げた。

 

「どうなっても知りませんよっ!」

 

 振り返る。眼下には学校のエントランス。空も海も、燃えるように朱い。

 

 もう抑えきれない。抑える必要などない。彼女には、大好きを受け止めてくれる人たちがいるのだから。

 

 いざ、やらいでか。

 

 

「これは────始まりの歌です!!」

 

 

 その宣告と共に──世界を、再び(ウタ)が満たした。

 

 だが、それは以前のように自らを終わらせ、燃え尽きる終焉の鬨ではない。まるでそうして燃え尽きた自らの灰から、同一にして新たなるモノへと生まれ変わるように。彼女の宣言通り、それは始まりの歌であった。再起の祝詞(うた)であった。スクールアイドル優木せつ菜の、再誕だった。

 

 歌声は黄昏の空に突き抜けるように。躍動する五体は自らの存在をこの世界に刻み付けるように。それらの合一は完璧の一言であり、見る者全ての心に彼女の心象を具現化するかのようだ。そして歌いあげる詞は彼女自身が一度は放棄し、それでもなお信じた者が完成させたそれである。いつの間にか下方には騒ぎを聞きつけた幾人もの生徒が集まっていた。彼ら彼女らも、侑や彩歌と同じものを見ているのだろうか。

 

 せつ菜が放つ圧倒的な熱量の前には世界という絶対さえ屈服し、彼女の再誕を祝福する。そして時間の感覚さえも最早意味を為さず曖昧模糊としていて、歌い終えたせつ菜の残響が陽光の中で解けきるまで、観客たちは自身が須臾に囚われているのか永遠に揺蕩っているのかさえ不確かであった。そうして、元の容を取り戻した夕空の下、せつ菜が叫ぶ。

 

「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、優木せつ菜でしたッ!!」

 

 歓声。そして拍手。スクールアイドル〝優木せつ菜〟は今此処に、再臨を果たしたのだった。

 


 

「せつ菜ちゃーん!」

 

 興奮冷めやらぬまま半ば突撃するかのような勢いで侑がせつ菜に飛びついたのは、せつ菜が『DIVE!』を歌い終えてからほんの数瞬後の出来事であった。この瞬間まで歌に集中していた彼女にはそれは全く予想外の出来事であったのだろう、せつ菜は勢いを殺しきれずそのまま侑に押し倒されて尻もちをつく形になる。

 

 だがせつ菜は嬉しそうな笑顔を浮かべながら抱き着いたままの侑と言葉を交わしている。少々離れた場所にいる彩歌にはその詳細までを聞き取る事こそできないものの、おおよその見当は付く。大好きだとか、ありがとうだとか、そういう事であろう。

 

 そんな光景を横目に彩歌は踵を返そうとして、その直前に後方から足音が聞こえてきた事でそれを中断する。見れば、歩夢やかすみ、それだけではなく旧同好会のメンバーと思わしき生徒も含めた一団がせつ菜たちの方に歩み寄ってきていた。そうして彼女らが彩歌の近くを横切る一瞬、そのうちひとり、彩歌よりも濃い亜麻色の長い髪と眠たげな目が印象的な少女が彩歌へと視線を投げる。その少女が3年生の〝近江(このえ)彼方(かなた)〟という生徒であることを、彼は知っていた。

 

「へぇ~、あなたがせつ菜ちゃんの……」

「……? 何です?」

「んーん、何でもなーい。彼方ちゃんは後輩(こーはい)の大事な大事なヒミツは守る先輩なのだ~」

 

 それだけ言って、彼方は一団に戻っていく。妙に含みのある言葉を投げ渡されたまま放置される形となった彩歌は首を傾げるものの、その疑問について彼自身の中で深く追求するような事はしなかった。彼女の言う後輩というのがせつ菜である事は明白だが考えた所で正誤を教える事はないだろうし、そうなれば如何なる詮索もただの妄想だ。そして何より今目前にある光景を見ていたかったというのもある。

 

 せつ菜/菜々が、彼女の大好きを受け止めてくれる人々に囲まれて笑っている。以前のようにひとりだけに見せているのではない。せつ菜にはもう彼女の本質を知り、受け入れてくれる人々が、手を繋ぐ人々が多くいて、彩歌は唯一などではなくその内の何でもないひとり。彼女の作る輪を、少し離れた所から見ている。尤も当初の予定よりは近くにはなってしまったけれど、彼が独り言ちた。嗚呼、自分はこの光景が見たかったのだ、と。それは彼がかねてから持っていた願い(ゆめ)の成就であった。

 

 許可なく講堂以外で歌ったから、もうすぐ教師が飛んでくる。誰かがそう言い、皆がさせじと撤退していこうとする。せつ菜を先頭にして、笑い合いながら。その背を離れた所から見送って、それから自分は独りで退散しよう。そう企図し瞑目した彩歌の手を、不意に熱が包む。

 

「彩歌くんも、行きますよっ!」

「えっ、ちょ」

 

 待ってよ、と。自身の企図の行き先を破壊され動揺した彩歌はそう言いかけて、代わりに零れたのは小さな笑顔。意図した通りとはいかないけれど、これも悪くはない。今は流されるまま、希求されるまま、身を任せてしまうのも良かろう。

 

 そうして誰もいなくなった屋上に──白い羽根が一枚。舞い落ちたのだった。

 


 

 彩歌が自宅である真野邸に帰ってきた時、家の中は全くの無人であった。彩歌の父親である陽彩(ひいろ)は芸能事務所のプロデューサーとして忙しく働いていて殆どの時間家を空けているから、彩歌にとっては最早いつもの事だ。寂しさはあれどもう慣れてしまったし、何より自身の夢を叶え誰かの為に働く父は、彩歌の誇りであった。

 

 しかし無人であるにも関わらず彩歌の口から漏れたのは、ただいま、という挨拶。靴を脱ぎ、最低限度の帰後の始末として手洗いとうがいを済ませてから彼が足を運んだのは和室だ。その角に鎮座する仏壇の前に跪き、一通りの作法をしてから視線を上げる。そこに飾られているのは彼の母、真野愛歌(まなか)、即ち()()()()()()()()()()()()()の遺影であった。

 

「こんな俺でも、何かできたのかな。……母さん」

 

 俯きがちに呟くも、答える声はない。当然だ。母の残影はいつもと変わらぬ微笑を彼に振らせるだけ。仏壇には魂が宿るというけれど答える事はできないのだから。死人に口なし。まさしくその通りである。それが分かっていながらまたしても問いを投げてしまった自らに彩歌は冷笑を飛ばそうとして、吐息が出かかったその瞬間、彼の総身を一陣の微風が撫でた。

 

 全く予想していなかった現象に、弾かれるようにして再び遺影を見上げる彩歌。そこに映る愛歌の姿は、やはりいつもと変わる事はない。けれどその微笑に、彩歌は笑みを返した。生者が死者に勝手な意味を見出すなど、この上ない不敬だと分かってはいるけれど。

 

 何を重ねた所で犯した“罪”が灌がれる事はない。雨音は未だ消えず、彼を責め続けている。それでも今だけは少しだけそれが遠ざかったように、彩歌には感じられた。

 




第13話『カレの願い(ゆめ)が叶う時/ワタシはスクールアイドル、優木せつ菜』


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接続章
第14話 それでも、カレらの運命は廻る


「何か良い事でもあったのか?」

 

 彩歌(さいか)が父である陽彩からそんな質問を受けたのは、せつ菜の復帰ゲリラライブがあった日から数日後の朝の事であった。あまりに何の脈絡もない、唐突な問いであったが為に彩歌は思わず朝食の手を止め、陽彩に視線を投げる。その先にいる陽彩は休日の装いで、しかし身なりは丁寧に整えられている。

 

 この数日のうちに陽彩が彩歌の様子に気付かなかったのは何という事はない、彼が極めて多忙であるからだった。芸能事務所のプロデューサーとしてそれなりの地位にいる彼には休日というものが滅多になく、かつ出勤は早く退勤は遅い。故に陽彩と彩歌は共に食事を摂る機会というのも、ひどく少ないのだ。

 

 そんな有様であるから陽彩はいつも疲れている筈で、それなのに休日は態々早起きしてまで彩歌と共に朝食を摂るというのが常であった。彩歌が嘆願したのではない。それは陽彩が少しでも愛息と過ごす時間を増やそうとするが故に、ひとつの努力であった。

 

「……? どうしたのさ、急に。俺、そんなに変な顔してた?」

「変な顔だなんてとんでもない。昔の俺そっくりなお前が、変な顔なワケないだろう?」

 

 冗談めかした調子でそう言う陽彩だが、彩歌は呆れ顔だ。何も彩歌は自身の造作について問うたのではないし、そのうえ自己陶酔(ナルシシズム)めいた返答をされればそれも致し方ない事であろう。

 

 だが陽彩は何の根拠もない自己愛のためにそんな返答をしたのではない。それが仕草通り彼なりの冗談であったのは確かで、加えて陽彩は現職に就く前は一世を風靡した売れっ子アイドルグループの花形(センター)であったのだから、容姿が優れているのも事実である。だからこそ彩歌は余計に始末が悪く感じているのだが。

 

「話の腰を折らないでよ。言い出したのは父さんなのに」

「悪い悪い。……あー、でも、お前が何だか嬉しそうってのは本当だぞ? 表情というか、雰囲気が」

「雰囲気かぁ……」

 

 短くそう返す彩歌の声音は、何処か心ここに在らずといった具合だ。一度は奇妙な冗談を挟んだ陽彩だが彼の言は決して嘘などではなく、しかし彩歌自身に自らの変容の自覚はない。それ故の声音であった。

 

 だが思い返してみれば、その要因となり得る事はひとつだけではない事に彩歌は気付く。彼に責任を自覚させた大雅の言葉に、せつ菜の復帰。しかし前者を口にするのは少し気恥ずかしくて、彩歌はまず問いを漏らした。

 

「父さんは……優木せつ菜って娘、知ってる?」

「勿論。虹ヶ咲のスクールアイドルだろう?」

 

 即答する陽彩に、彩歌は無言で頷きを返す。今年で50代(アラフィフ)にもなる陽彩がスクールアイドルについて既知であるのはそれだけを見れば違和感であろうが、彼はその職業柄、スクールアイドルの情報についても精通しているのだ。アイドル業にも進出している事務所も注目しているというのは、スクールアイドルという存在の隆盛を示しているとも言えよう。或いは黎明期に成功例がいたがためにそれに倣っているだけなのかも知れないけれど。

 

「その娘が復帰してくれた事……かな。うん、きっとそうだ」

「そうか。……珍しいな、お前がアイドルの曲だけじゃなくて、その本人にも興味を示すなんて」

「それは……同じ高校のよしみというか、俺も無関係じゃないからというか……」

 

 あまりにも歯切れの悪い、子供じみた言い訳であった。声は上擦り、目も泳いでいる。彩歌の自覚はどうあれ、今の彼の様子は傍から見て何かを隠しているのは明白に過ぎた。

 

 父である陽彩がそれに気づいていない筈もないが、彼は何も言わない。だがその目は疑問のそれから何かを察したか、或いは邪推したかのような生暖かいそれへと変遷していく。それを前にして彩歌が拗ねたように唇を尖らせる。それは彩歌が父以外の前では見せない、極めて子供じみた仕草であった。

 

「何さ」

「いや何、嬉しいのさ。息子が他人の幸せを願い、不幸を悲しむ事ができる奴に成長してくれた事が」

 

 数瞬前の揶揄うような目から一転して、そう告げる陽彩の眼差しに宿るのは慈愛であった。演技などではない。もしもそうであれば、彩歌はすぐにそれと分かった筈だ。他でもなく、彼は陽彩の息子であるが故に。十数年の時間は伊達ではないのだ。

 

 真正面からそれを受けた彩歌の胸中に温かいものが広がり、しかし同時にどうしようもない気恥ずかしさと申し訳なさもまた去来したのを自覚する。そして多感な年頃というのもあって、真野彩歌という少年はそれらへの耐性を獲得しきれていなかった。

 

「大袈裟だよ。俺はのび太くんか何かかい? そんな高尚な奴なんかじゃあないよ、俺は。それに、本当に優木さんを思って行動していたのは俺じゃなくて、きっと同好会の人達だ」

 

 俺は彼女を無用に迷わせただけだ、と彩歌。彼自身にも自らがせつ菜の為に何かできたという思いはある。だが彼の行動がせつ菜の目にどう映り、彼女にどのような作用を齎したのかは彼女自身にしか分からない事だ。他人は他人。自分は自分。人間個人の主観の上で正確に捉えられるのは結果だけで、過程への関与というのはひどく曖昧だ。それが他者の裡への作用というならば猶更である。たとえばそれは、自身の親友の夢の根源となっていた事を知らなかったように。

 

 これがひどく幼稚な思索である事は、彩歌自身も理解している。けれど仕方ないじゃないか、まだ約17年しか生きていないのだから、と。それは半ば言い訳じみた自己弁護であった。ばつの悪そうな、或いはドギマギしたような表情で乱暴に朝食を食べ進める彩歌を、陽彩は優しい表情で見つめている。

 

 そんな父の表情を見る度、彩歌は思うのだ。嗚呼、自分は愛されているのだ、と。親を尊敬する子にとってそれは代え難い充足のひとつであり、だがそれを自覚する度に彼の心を疼痛が射抜く。雨音が充足に待ったを掛ける。やがて充足は僅かに反転を始めて、それを遮るかの如く彩歌は味噌汁を一気に胃の中へと流し込んだ。胸の奥につっかえていたしこりめいたものが、臓腑の底に消えていく。それと殆ど同時に、陽彩が口を開いた。

 

「それでも、お前が相手の為になれたらと願って行動したのは間違いないんだろう? お前の事だからそれが無意味だったんじゃないかとか思ってるんだろうが……たとえそうでも、無駄じゃあないだろうさ」

「……そういうものかな」

 

 返答はない。彩歌は最後に残った緑茶を飲み干し、ごちそうさまでした、と告げて席を立つと手早く自分の食器を片付けてしまう。彼が陽彩の方に視線を遣れば、陽彩はまだ食べきっていないようであった。かなり遅いペースだが、普段が多忙であるから休日はゆっくりと食べたいというのが陽彩の考えであった。

 

 ほう、と息を吐いて意識を切り替える。今日は陽彩にとっては休日であっても、平日であるから彩歌は学校に行かなければならない。朝食が終わったのだから、次は身嗜みを整える。そう決定してリビングを出ようとした彩歌だが、その耳朶を陽彩の声が打った。

 

「そうだ。お前さっき、同好会の子達と親交がありそうな事を言っていたが……入部したりはしないのか?」

「入部? 今の所、そのつもりはないかな」

 

 問いへの答えはあまりにも早かった。まるで初めから問われる事を分かっていたか、或いは既に一度問われた事があるかのように。恐らくは後者なのだろう、と陽彩は思う。

 

「確かに俺はスクールアイドルに魅せられたのかも知れない。でも、それは自分もそう在りたいって事と必ずしもイコールってワケじゃあないでしょ? それに、音楽を通しての自己表現は、スクールアイドルやその裏方だけとは限らないからね」

 

 そう言いながら彩歌は虚空の上でピアノの鍵盤を弾くような仕草をしてみせる。それが示す所が彼が行っている動画サイト上での活動であると陽彩が気付くまでに、そう時間はかからなかった。陽彩は彩歌の活動について子細に把握している。知らぬ筈もない。彩歌が使っている機材の一部は、陽彩が与えたものであるのだから。

 

 そうしてそれだけを言い残して、彩歌は洗面所へと消えていく。それを確認してから、陽彩が大きく息を吐いた。

 

 ──陽彩は息子が彼を誇りに思っている事を知っている。故にこそ彼も常に〝息子に誇れる自分で在れ〟と己を律していて、だからこそその姿は息子のいる場では見せないものであった。手癖めいた雰囲気を漂わせながら、白髪が交じり始めてもなお艶やかな黒髪を右手で掻き上げる。

 

「親は無くとも子は育つ……か。俺にとっては、皮肉だな」

 

 その諺の用法が聊かおかしい事は、陽彩も分かっている。だが彼はそう零さずにはいられなくて、その声音はどうしようもない葛藤に塗れていた。

 


 

「書類の運搬を手伝っていだだき、ありがとうございました。彩歌くん」

「気にしないで。元はと言えば、俺が勝手にやったんだし」

 

 虹ヶ咲学園、その職員室前。礼を告げた菜々に、彩歌はひらと手を振りながら朗らかに笑ってそう返す。尤も彼はそういうつもりでも菜々がそれに甘えきる事が無いのは承知の上で、だからとて彼は自身が完全に施し手であるのも嫌だったのだ。

 

 事の始まりはほんの十数分前。放課後になったため音楽室の使用許可証を貰いに生徒会室に向かった彩歌はその途中で書類の山を運んでいる菜々を見つけ、半ば強引に手伝いを申し出たのだ。所謂余計なお世話、お節介というもので、故に彩歌にとっては礼を言われる謂れなどないのだ。

 

 相も変わらずな彩歌の態度に菜々は困ったように笑み、対する彩歌はおどけるように肩を竦める。それからどちらからともなく歩き始め、ふたりは生徒会室へと向かう。道中で菜々を見つけたものだから、彩歌はまだ許可証を貰っていないのだ。

 

「俺ができる事なんてこれくらいだからね。いくらでも使ってくれて構わないんだ」

「ふふ、変わりませんね、彩歌くんは。なら、貴方も生徒会に入りますか?」

「……中川さん(キミ)でも冗談とか言うんだね。別に選挙とかで承認されたワケでもないんだし、それは申し訳ないよ」

 

 菜々の発言をあくまでも冗談と受け取りそう返す彩歌だが、彼の予想に反して菜々はあからさまに残念そうな様子を見せる。もしも動物の耳や尾っぽがあれば、力なく垂れさがっていそうな程だ。

 

 ならば強ち冗談ではなかったのか、と彩歌は驚愕するが、彼が言う事も尤もなのだ。生徒会は基本的に選挙での承認制であるから、今更生徒会に入るというのも制度上難しい。彼が冗談と受け取ってしまうのも無理からぬ話である。

 

 とはいえ、このままでは聊か居心地が悪い。会話も止まってしまっている。空隙を誤魔化すように彩歌は視線を彷徨わせて、周囲に他の生徒の姿がない事に気付いた。しかし壁に耳あり障子に目ありとも言うから、可能な限り小さな声で問いかける。

 

「そういえば、同好会の活動は順調? 新しく部室があてがわれたって聞いたけど」

「えぇ。まだ手探りな部分もありますが、非常に充実していますよ。先日は新しく入部した方もいまして……」

「へぇ! 良かったじゃない」

 

 彩歌が小声で問うた意図を即時にくみ取ったのだろう、彼の問いに返す菜々の声もまた囁き声である。それこそ、互いの距離でのみ辛うじて聞こえる程度だ。仮に余人がその光景を見れば非常に奇妙に映る事だろう。だがまるで悪戯の相談でもするかのようなそれがおかしくて、菜々は表情を綻ばせる。

 

 曰く、新入部員とは2年生の〝宮下愛〟と1年生の〝天王寺璃奈〟。学科は両名共に情報処理学科。当然ではあるが彩歌には直接の面識がなく、しかし宮下愛という名前には聞き覚えがあった。思い出すためにかかった時間はほんの一瞬。それだけの間で彩歌は宮下愛という生徒が〝部室棟のヒーロー〟と渾名される有名人であったことに気付いた。

 

 度々付近を生徒が横切れば、確実に声が届かないうちに会話を切り上げてある程度の距離が空いてから会話を再開する。まるで、本当に秘密の会合でもしているかのようだ。

 

「そっか。なら宮下さんも、天王寺さんも、優木さんから夢を貰ったのかもしれないね。あぁいや、面識のない俺が偉そうな事を言えた立場じゃあないかもだけど」

「私が……夢を……」

 

 そこで言葉を区切って菜々は押し黙ってしまうが、その口角は上がっていて頬も微かに赤身を帯びている。その様子が菜々が今にも『せつ菜』としての側面に代わってしまいそうな歓喜に見舞われていると彩歌が察するには十分で、ふふ、と彼が笑声を漏らした。

 

 せつ菜のゲリラライブが行われた日、彩歌は菜々に言った。ずっと笑っていて欲しい、と。それが決して嘘ではなかったことを、彩歌は改めて自認する。

 

「良い笑顔。俺はキミの、そういう表情(カオ)が見たかったんだ」

「……もうその手にはノりませんよっ」

「その手って、そんな大袈裟な」

 

 若干頬を膨らませジト目で彩歌を見る菜々だが、その頬には先程とは別種の赤みがある。以前のような動揺こそなく、転じてそれは彩歌の軽薄な物言いに対する耐性が付いたという事でもあろうが、初心な性質の為か全く無反応という事はできないようであった。

 

 しかしそのまま数拍を置いてから、菜々は拗ねたような表情を解いて微笑を覗かせる。その変化を前に彩歌は首を傾げて、その仕草に応えるように菜々が口を開く。

 

「でも、貴方には感謝しているんです。私が今のように在ることができるのは、貴方のお陰でもあるんですから」

「っ……」

 

 菜々からの感謝に対して彩歌が咄嗟に吐き出しかけたのは、否定の言葉。だが寸での所で踏みとどまったからかそれは音となる前に霧散して、無意味な吐息として抜けていく。

 

 彼の脳裏を過ったのは今朝の父の言葉。危うく菜々の気持ちだけではなく父の思いまで無下にしてしまう所だった、と彩歌は自身の悪癖に忸怩たる思いを抱く。自覚しているのに、直しきれない。染み着いている証左であった。

 

 だが気づいて立ち止まることができたのならば、まだ修正できる余地はある。深呼吸をして、数を数える。いち、に、さん。それだけの間を置いて、彩歌は代わりに告げるべきを口にする。

 

「どういたしまして。……でもね、俺だってキミに感謝しているんだ」

「……? 何故です?」

 

 即座に彩歌に返されたのは疑問だ。どうして自分が感謝されるのか分からない、といった具合である。けれど菜々が言うのは想定内であったようで、全く動揺する様子を見せない。彩歌にとってもその感謝は全く一方的なもので、それ故の事であった。

 

 それでも感謝の由来をあえて述べるのも野暮だろう。そう彩歌は考えるけれど、問われた以上は答えるのが責任というものだ。或いはそれは自身の弱さ、醜悪の吐露であるのかも知れないが。

 

 詰まる所嬉しかったのだと、彩歌は言う。再び菜々の心からの笑顔を見られた事が。大切な人の幸福こそが彼自身の幸福でもあると、彩歌はせつ菜の一件を通して再認したのだ。それだけではなくて、彼は約束を守ることができた。たとえ、不完全であったのだとしても。

 

「だから、ありがとう。笑顔でいてくれて。俺に、約束を守らせてくれて。……って、自己中すぎるね、俺」

「彩歌くん……」

 

 自嘲的に笑う彩歌と、彼の名を呟く菜々。いつの間にか足は止まっていて、それに気づいたふたりがどちらからともなく笑い出す。何となく挙動が同じであったという、たったそれだけ。それだけの事がどうしてかおかしくて、それ故の笑みであった。

 

 けれどいつまでも立ち話をしてもいられない。目的地は生徒会室。話している間にふたりは程近い所まで来ていたようで、視界の先には出入り口のドアが見えた。

 

 けれどその出入り口の前で、不意に彩歌が再び足を止める。それを察知した菜々が振り返ってみれば彼は出入り口横の掲示板の方に視線を向けていて、その表情は驚愕一色に彩られている。

 

「彩歌くん? どうしたんですか?」

「あぁいや、コレなんだけど……」

「コレは……ピアノリサイタルのポスターですね」

 

 丁度書類運搬前に張り替えたものです、と菜々。彩歌は生徒会室まで来る前に菜々と遭遇していたから、それがある事を知らなかったのだろう。尤も張り替えたタイミング自体はどうでも良さそうではあるけれど。

 

 彩歌が見ていたのは菜々の思った通り、ピアノリサイタルの告知ポスターであった。場所はお台場からそう遠くない23区内のコンサートホール。そこまで読んだ時点で、菜々は彩歌の視線がそれらの情報ではなく講演者の一点に注がれている事に気が付いた。つられるようにして、そちらを見る。

 

 そこに記載されていた名前は〝八代(やしろ)詩音(しおん)〟。その名前に、菜々は聞き覚えがあった。世界の高名なピアノコンクールでいくつもの賞を受賞している、かなり高名なピアニストである。それこそ、ピアノにさして詳しくない人間にでも名前が知られている程度には。

 

 そんな有名人の公演であるから、興味を引かれたのだろうか。そんな菜々の考えを否定したのは、直後の彩歌の呟きであった。『帰国するなら連絡をくれても良かったのに』という。

 

「え……彩歌くん、この方と……お知り合い、なんですか?」

「……うん。詩音先生は……母さんの音楽大学時代からの親友だった人で、俺にとってはもうひとりの先生みたいな感じ……かな? だから先生って呼んでるんだし」

 

 最後に教えてもらったのなんてもう何年も前だけどね、と笑う彩歌。だが何でもない事であるかのような告白も、菜々にとっては衝撃であった。本当に辛うじて声が漏れるのを抑えた程度には。──故に、菜々は彩歌の発言に潜む違和感を見逃してしまう。

 

 小学生の頃に何度か真野邸を訪れていた菜々がその事を知らなかったのは、訪れた回数自体がそこまで多い訳ではない事も在るがそれ以上に相手が多忙な人間であるという事もあるのだろう。ただ何となく菜々は昔の彩歌について何でも知っているような気がしていて、それ故に知らない事があったという事実が半ば衝撃であったのだ。

 

 だが知らぬ事があるのも当然だ。幼馴染とはいえ、相手は他人。人間というのは己の事ですら知りきれないというのに、他者の全てを知る事ができる訳もない。例えば、そう、恩師に再会できる機会であるというのに彩歌が浮かない表情をしている理由も、彼女には分からない。問おうとして、しかしそれは彩歌が先んじて開口したために阻まれてしまう。

 

「って、いつまでもこんなところに突っ立ってもいられないね。忙しい生徒会長様を引き留めちゃってるし」

「……そうですね」

 

 完全に問うタイミングを失して、菜々は彩歌の言葉に同意を示す。生徒会室のドアを開けてみれば他のメンバーは既に戻ってきていて、彼女らは彩歌の存在にもさして驚いていないようであった。彼は過去に何度も生徒会室を訪れていて、菜々との関係も知られているからだろう。

 

 生徒会長の席に戻った菜々はすぐに許可証の原本を取り出し、素早く必要事項を記載して彩歌に手渡す。その刹那、菜々の胸中に振って湧いたのは郷愁めいた感覚であった。或いはそれは、彼女の知らぬ彩歌について知り得たが故のものであったのかも知れない。

 

「そういえば……愛歌さんや陽彩さんはお元気ですか? 以前はおふたりとも家を空けているとの事でしたが……」

 

 ──瞬間、彩歌の動きが止まる。丁度互いに許可証の端を持っていた所であったからかその硬直は菜々にもはっきりと伝わってきて、首を傾げる。しかし彩歌はすぐに自身の状態を把握したのか、常の表情へと立ち戻り抜き取るようにして許可証を受け取ってしまう。

 

 小学校卒業後からごく最近に至るまで、時により事情こそ違えど菜々と彩歌は疎遠になっていて、故にこそ菜々は知らないのだ。その間に彼の身に起きた事を。

 

 ならば伝えるべきか。その考えを、彩歌は即座に棄却する。もしも伝えてしまえば、それは菜々に余計な心配をかけてしまう事になりかねない。──それは、間違いなく自己正当化のための詭弁で。それが分かっていながら、彩歌は───

 

「あぁ……うん。まぁね」

 

 ───そんな、本当に仕様もない嘘を吐いた。

 


 

 商品が発送されました。侑がその通知を見返したのは、今日だけで何度目の事であっただろうか。彼女自身ですら数える事も億劫になってくる程で、それは即ち彼女がその到着を心待ちにしている証明でもあろう。

 

 だがその通知を見ていた所で配送が速くなる訳でもない。寝間着姿で自室のベッドに仰向けに倒れ込み大人しくその画面を閉じて、代わりに侑が表示したのは動画サイトのアプリケーション。すると先頭に表示されたのはピアノ演奏の配信と思しきサムネイルであった。最近になってスクールアイドルの動画だけでなくピアノの演奏動画も観るようになった影響だろう。何となくそのタイトル辺りを眺めて、思わず声を漏らす。

 

「わ、この人、凄い視聴者数……」

 

 その声音に現れていたのは、純粋な感嘆。現在時刻と配信開始時刻を比較するとどうやら配信を開始したのは本当につい数十秒前といった程度であるようで、にも関わらず接続数は既に数万といった程にまで増えている。

 

 配信者のユーザーネームは〝さっちゃん〟。何となく興味を惹かれて侑はそのサムネイルをタップし───刹那、時が止まった、と錯覚した。それほどの衝撃であった。

 非常に上手い、と、そう表現してしまうのは簡単だ。事実としてそれは間違いではないのだから。だが侑が受けた衝撃を完全に表現するには明らかに不足であった。一瞬にして彼女の意識を鷲掴みにして時間の間隔すら喪失させてしまう程の衝撃を、それだけで言い表せるものか。

 

 それからどれほど経ったのか、夢中で演奏を聴いていた侑は正確な時間の経過すらも分からなくて、ほんの数分であったようでもあり、或いは数時間が過ぎてしまったようでもある。そんな感慨とも動揺ともつかない思いに答えを与えるように、声。

 

『いかがでしたか? まずは1曲、聴いていただきましたが……今日は()の配信を訪れていただき、ありがとうございます』

 

 配信者の声であろう。画面にはピアノの鍵盤と腕しか映っていないため歳の頃は分からないが、イヤホンを通して聴く限りでは恐らくは年若い男性。それも侑達とそう年齢は変わらないようにも思えて、しかし彼女にはそれだけではないようにも感じられた。

 

 その違和感は、言うなればデジャヴといった所であろうか。だが輪郭が曖昧模糊としているが故にそれ以上踏み込むことができない。まるで魚の小骨が喉に引っ掛かったままのような、そんなむず痒い感覚に侑が言葉を漏らす。

 

「この声、何処かで……」

 

 しかし呟いた所でそれ以上の手がかりは得られない。そのうちに配信者は演奏を再開して、侑の注意はそちらに埋没していくのであった。

 




 次回より第2章『雨空の向こうには』が開始となります。


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第2章 雨空の向こうには
第15話 雨天、変わらぬカノジョと変わったカレ


「本日は配信を視聴していただき、ありがとうございました。もし気に入っていただけたようでしたら、高評価とチャンネル登録をよろしくお願いいたします」

 

 あまりにも格式ばった、何の面白味もない挨拶。だがそれが、動画配信者さっちゃんとしての彩歌(さいか)の、ある種の決まり文句であった。終わる間際に視聴者たちは彩歌へと労いの言葉や短い感想を投げ掛け、彩歌はそれらに可能な限り目を通しつつも配信終了の表示をクリックして切り上げてカメラとマイクの電源を落とす。

 

 それから、大きく吐息をひとつ。その姿に、己の眼前に鎮座する巨大なグランドピアノへの畏敬や畏怖はない。彼が生まれた時には既に家に遭ったそれは彼にとっては長らく苦楽を共にしたものであり、半ば己の肉体の延長にすら等しい。それ故の気楽さであった。

 

 しかし鍵盤を撫でる手付きは愛おし気であり、彩歌の愛着を伺わせる。そうして鍵盤にクロスを掛けると、彩歌はピアノから傍らのノートパソコンへと向き直った。配信を切った後に動画配信サイトが表示されたままのそれを操作し、アクセスしたのは直近の動画の管理画面。所謂〝弾いてみた〟というジャンルに該当するそれは、既に再生回数数十万回超、数万の高評価を叩き出している。

 

 相当な数字だ。少なくともピアノの演奏動画というジャンルに限定すれば、評価の程は凡そ最上位とすら言って良いだろう。それだけの評価を貰えている事に感謝を抱きつつも、彼の表情は真顔のままであった。そこに達成感や満足感に類する気配はなく、あるとすればそれは責任感や罪業であろうか。

 

 それらを呑み下すように唾液を呑み込み、PCの電源を落とす。それから髪留めと孔雀青に縁どられたブルーライトカットのメガネ──長時間PCと相対する際には必ず着用している──を外してPCの横に安置すると、ひとつ伸びをした。背中側から聴こえる、断続的な小気味良い音。瞑目を解いて彼が肩越しに視線を投げ掛ける。

 

 果たしてその先にあるものとは、数台のコレクションケースの中に並べられたいくつものトロフィーと額縁に入れられた状態で壁に飾られた何枚もの賞状であった。最早彩歌自身ですら数えるのも億劫になってしまいそうな程のそれは、確かに彼が今までコンクール等で獲得し続けた成績の証明に他ならない。

 

 空恐ろしい光景だ。少なくとも同年代の青少年と比較したならば異常とすら言える総数だ。だが輝かしい功績の中にひとつ、似つかわしくないものがある。席を立ち、ケースの扉を開けて丁重な手付きで取り出したそれは、()()()()()()()()()()()()であった。

 

 折れているだけならばまだ良い。だがそれは残存した部分ですら強い衝撃を受けたかのようにひしゃげている箇所があり、台座に至っては粉砕された後に無理矢理に修復した後が見られる。

 

 いくら努力の結果の可視化たるトロフィーといえど、既に廃棄されていたとしてもおかしくない程の有様である。その姿を何も知らぬ余人が見れば、いったい彩歌の意図をどう考えるのだろうか。そんな思考が一瞬脳裏を過り、彼は己へと冷笑を飛ばす。余人がどう思うかなどと、何を下らぬ事を。これは彼にとっては努力の結晶などではなく、戒めだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 彼は嘗て愚行を犯し、そのために多くのものを喪った。このトロフィーはその過去の証明であり、故にこれを棄てるというのは彼にとって逃避にも等しい。だからこそ捨てない。捨てられる筈がない。逃避とは即ち、責任から目を背ける行為なのだから。知らず、トロフィーを握る手に力が籠る。

 

(そうだ。俺は──)

 

 自然と思い出されたのはせつ菜やかすみ、己の大好きを全身全霊を以て表現するスクールアイドル達の姿。彼女らを目の当たりにして胸の裡に生まれた輝きは世界の全てを彩らんばかりで、彩歌はその感覚を幼い頃にも抱いた事があるのを覚えている。

 

 或いはそれは、ステージの上で歌い踊る父の姿を映像越しに見た時。或いは、どんなに難易度の高い曲でも笑顔で弾きこなす母の姿を客席から見た時。彩歌の胸は高鳴っていた。侑の言葉を借りるならば、その時の彼が抱いていたのは紛れもなく〝トキメキ〟であったのだろう。

 

 翻って、自分はそれを与える側にいる事ができているか。彩歌はそう己に問うて、しかし不明を返す。彩歌の音楽を、多くの人が聴いている。それは紛れもない事実だけれど。そもそも大好きの表現者たる彼ら彼女らと己を比較する事自体が、彼ら彼女らへの非礼に他ならないと彩歌は理解している。それでも。

 

(──俺の音楽を、俺の価値(そんざい)を、示し続けなくちゃいけないんだ)

 

 それは、夢ではない。かねてから抱き続けてきた願いを叶えた今、彩歌の裡に夢と言えるものは存在しない。であれば、その思いの正体とは何なのか。決まっている。呪いであり、それ以上に責任だ。

 

 耳朶の奥で雨音が反響している。それは断罪の音。彩歌が愚行を犯し、そのために、多くを喪った日から続く、彼を責め苛み過去に縛り付けるための調べだ。遠くなる事はあれど、運命の日からずっと、鳴り止んだ事はない。

 

 愛歌は〝音楽は音を楽しむと書くのだから、まずは自分が楽しまなければ〟とよく彩歌に言っていて、己の思いがその教えに反している事に彩歌は気付いている。それ以前にそもそも彼は本来ならばこうして音楽を続けている事すら烏滸がましい身の上で、それでも、為さねばならない。夢の源泉を薪にして、未来さえも火に焚べて。何故なら、彼は────そのために、生かされたのだから。

 

 


第2章『雨空の向こうには』

 

 

 ──飛行機から降りた時、その女性がまず目にしたのは懐かしい故郷の色彩であった。サングラスを通しているため視界全体が黒みがかってはいるものの遠くには都会のビル群が見え、反対には海が広がっている。生憎と天気は雨であるが、視覚聴覚を刺激する営みの喧騒が彼女は嫌いではなかった。その中にあっては雨音もひとつの差し色(エッセンス)のようなものだ。

 

 それから手荷物受取所までの道中で彼女が感じたのは、自身へと向けられるいくつかの視線。それは彼女の正体に気付いたが故のものであるのか、或いは単純に見惚れているのか。そのどちらであっても納得させ得る気配というものが、彼女にはあった。

 

 見に纏う仕立ての良いパンツスーツは見るからに高級品でありながら当人に“着られている”様子はなく、前を開けたラフなスタイルながら完璧に着こなしている。身体に一本芯を通したかのように、背筋は真っ直ぐに。身長は平均的な日本人女性と比較するとかなり高く、総じてまるでそういう美術品が歩いているかのようだ。もしも彼女の正体を知らぬのならば、今年で齢50と言われたとしても信じるまい。彼女は俗に言う〝美魔女〟という類の人間であった。

 

 視線を向けてきている者らの中には明らかに彼女の正体に気付いて傍らの人と噂している者もいるが、実際に声をかけてくる事はないのは臆しているからか、それとも未だその正体に確信が持てないからか。海外だったらサインを求めてくるのに、と少しだけ惜しい気持ちを抱きながら手荷物を回収し、ロビーを通って外へ出ていく。

 

 屋根の下から見上げる空は分厚い乱層雲に覆われ、降雨は滂沱の有様だ。それはまるで、彼女の心に突き刺さり続ける()()()のように。けれど彼女──〝八代(やしろ)詩音(しおん)〟はその朱色の髪色が連想させる太陽が如き勝気な笑顔のまま、誰に向けるでもなく呟いた。

 

「さて……久しぶりに会いに行こうかしら。あたしの可愛い一番弟子に」

 


 

「あっ」

「おや」

 

 1日の授業が全て終わり、放課を迎えて暫く経った頃。帰宅の途に着こうとしていた菜々と彩歌が偶然エントランスにて出会ったのは、中間テストから数日が経ったある日の事であった。

 

 この日は朝から雨が降っていて、今になってもそれは止むどころか雨脚がより強まっている。ふたりはそれぞれに傘立てからかさを回収し、言葉による示し合わせもなく合流した。或いはそれは、こういう場合は一緒に帰るものだという意識がふたりの中に共に在るようにも、菜々には思えた。

 

 ボタンを外し、傘を広げる。菜々のそれはスクールアイドルとしての彼女のイメージカラーでもある深紅であり、彩歌のものは浅葱色だ。傘の上で雨粒が跳ねる音が、ひどくうるさい。

 

「偶然だね。中川さんは部活帰りかい?」

 

 そう問う彩歌の声は雨音の中であっても明瞭に菜々の耳朶を叩く。元の声質や日々の発声練習もあって彼の声はよく通る方で、それによるものだろうか。しかし彼が大きい声を出す事というのはあまりなくて、菜々は微かな疑問を覚えたけれどそれを口に出す事はなかった。代わりに言葉にしたのは、素直な返答。

 

「はい! ソロアイドルという方針が決まってから皆さんやる気に満ち溢れていて、とても充実した練習でした!

 彩歌くんはピアノの練習をしていたんですか? それにしては、随分帰りが遅いようですが……」

「うん、そうかもね。実は今度ピアノコンクールに出ることになって、音楽科の先生に見てもらっていたんだ。まぁ。一種のレッスンのようなものだね」

「コンクールですか!?」

 

 彩歌の返答に、驚愕を見せる菜々。だがそう口にした直後に、はたと気づく。音楽科の生徒である彩歌は主にピアノを学んでいて、であればピアノコンクールに出るというのもまったく自然な事だ。そもそもふたりが出会った頃から彩歌はそういう場に積極的に参加し優秀な成績を修めていた事を彼女は覚えている。

 

 それなのに菜々は彩歌の言葉に驚きを見せた。それを不思議に思ったのか傘の下で彼は目を丸くしていて、何故だかそれが恥ずかしくて菜々がはにかんだ。平常を取り戻し、次いで立ち現れてきたのは彼女らしい高揚。

 

「頑張ってくださいね! 日付と場所を教えてくだされば、いえ、教えてくれなくても私、絶対に応援に行きますから!」

「そうかい? ふふ、ありがとう、中川さん。でも、無理して来なくてもいいんだよ? 部活とかもあるだろうし……」

「無理だなんて、とんでもない! それが彩歌くんの“大好き”なら、私は応援するって決めてるんですから!」

 

 彩歌の隣から一歩踏み出し、彼の方へと振り返りながら満面の笑みを浮かべて菜々は言う。翻る三つ編みとスカート。彩歌はすぐには答えを返さず、傘で菜々の視界から顔を隠してしまう。

 

 照れているのか、或いはまた別の何かか。表情は見えず、言葉はない。数拍を置いて傘を上げた時、そこにあったのはいつもと変わらぬ微笑であった。

 

「“大好き”、か……そうだね、キミはそういう人だった。

 じゃあ、帰ったら詳細を送るよ。それでいいかい?」

「はい! えへへ、楽しみです!」

 

 そう言って屈託のない笑みを浮かべる彼女は、さながら雨天の中に現れた地上の太陽ででもあるかのようだ。

 

 〝中川菜々〟としての彼女があまり人前では見せない表情。嘗てはそれを知るのは彼のみで、けれど今とはってはそうではない。今の彼女にはありのままの彼女を受け入れてくれる人々がいる。故に真野彩歌は何も特別などではなく、何でもないただのひとり。

 

 望んだ結果だ。そして現在はその結果から伸びた新たな過程の只中である。何もおかしな事はない。だから胸中を過った疼痛はきっと錯覚だ。そう決めつけ、その通りに呑み下し、彼は菜々に追いついた。再び、ふたり並んで歩き出す。彩歌が車道側だ。それは気遣いではなく、ふたりにとってはそれが自然な形であるというだけだった。

 

 傍らから鼻歌など聞こえてきて、彩歌が微笑む。

 

「上機嫌だね」

「勿論です! 彩歌くんの“大好き”を応援したいというのも本心ですが……私は貴方のピアノが大好きですから!」

 

 小学生の時も言ったでしょう? と菜々。その言葉は確かに彼らが出会った頃に投げかけられたものと相似していて、故に彩歌の胸中に湧いた感情も同質のものであった。尤も以前のように気恥ずかしさに頬を染めることはないけれど。

 

 歓喜。彩歌が覚えた感情をあえて言語化するのならば、まさしくそれだ。自らを応援したいと言われた事もそうだが、それ以上に演奏が好きだと言われた事が嬉しいのである。

 

 だが、人とは変わるものだ。過去と帰結が同一であったとしても、由来までが同じとは限らない。彩歌はそれを自覚するが故に、歓喜を塗り潰すようにして後ろめたさが立ち現れてくる。唐突に顔を出しては急激に体積を増すそれはさながら積乱雲のようで、しかし彼は菜々にそうと悟られないよう己を常の〝真野彩歌〟として規定し直す。けれど。

 

 ──通学路の上、彼らが差し掛かっていたのは大通りの交差点付近の歩道。空は曇天であり、それ故に晴れであれば黄昏に彩られている筈の世界はただ薄暗い。そのせいだろうか、その交差点で1台の車が甲高いクラクションを鳴らす。たったそれだけの、現代社会においては1日の間に数えきれない程に起きているような、何でもない現象だ。そのため菜々も音に驚きこそしたものの歩みを止めることはなく、だがその直後、彼女は異変に気付いた。彩歌の足が、止まっている。

 

「彩歌くん……?」

 

 返事はない。雨音に掻き消されたのだろうかと駆け寄りそのまま覗き込むように彩歌の顔を見て、菜々が思わず息を呑む。

 

 目の焦点が合っていない。過呼吸とまではいかずとも呼吸のペースが異様に速く、それに反して顔色は悪い。蒼白という程ではなくとも、放置しておけばすぐにでも血色が失われそうだ。身体も小刻みに震えていて、明らかに異常である。だが心配した菜々が腕を掴むと、その振動によるものか漸く彩歌の焦点が戻り忘我から復帰したようであった。そうして笑みを浮かべたが、それが虚勢である事は明白だ。

 

 けれどそんな有様でありながら彩歌は彼の袖を掴む菜々の手を半ば強引に振りほどき、大丈夫だから、と一言だけ告げて歩み出そうとしてしまう。無論そんな状態の彼を菜々が放っておく筈もなく再び引き留めようと腕を伸ばすも、彼はすり抜けるようにしてそれを回避してしまう。

 

 理解が追いつかなかった。先程のクラクションは菜々や彩歌とは何の関係もない筈で、しかしタイミングからして彩歌が発作めいた反応を見せた原因はそれ以外に考えられない。分からない。分からないから、訊かなければ。そんな菜々の決心を置き去りにするように、彩歌の歩みは止まらない。

 

 マズい、このままでは行ってしまう。行かせてしまっては、次に会った時には彩歌はいつもの調子ではぐらかしてしまうだろう。そんな危機感から菜々は尚も彼に追い縋ろうとして、直後、雨音を切り裂き聞き慣れない声が彼女らの耳朶に触れた。

 

「──もしかしたらココを通るかもと思って、ビックリさせようと待ってたら……女の子を困らせるなんて、感心しないわねぇ」

「え……?」

 

 疑念の吐息は菜々と彩歌ふたりのもの。前者はそれが全く慮外であったからで、後者はその声の主の存在に対してのもの。何故ここに、と。言葉にせずとも、彼はそう問うているかのようだ。

 

 曲がり角の陰からふたりの視線の先に現れた女性を一言で形容するのならば、奇妙という言葉がよく似合うだろう。着用しているスーツはまさしく一張羅と言って良い上等なものであり傍らのスーツケースも相応のものであるというのに、傘だけがまるでそこいらのコンビニで買ってきたかのような安物の、それも新品のビニール傘。何より珍妙であるのは、この雨天の中でもサングラスをかけている事だろう。

 

 突然の闖入者を前にして硬直するふたりの前で、女性はサングラスを外してみせる。そうして現れた朱色を基調とした不思議な色彩の目を細め、女性は微笑んでみせるのだった。

 

「久しぶりね、さっちゃん」

「詩音、先生……」



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第16話 カレの笑顔、潜伏する過去

「ピアニストの矢代詩音さんですよね……? よろしければ、サインをいただけませんかっ!?」

 

 半ば興奮気味に詩音へとそんな言葉が投げかけられたのは菜々と彩歌(さいか)が通学路にて詩音と遭遇し、彼女に連れられるまま通学路付近のファミレスに入店してから幾許か経った頃の事であった。

 

 声をかけてきたのは虹ヶ咲とは別の、付近の高校の制服を着用した女子高校。詩音は彼女からのサインの求めに快く応じ、それを受けてか様子を見ていた周囲の客も詩音の許へと殺到する。その様は、さながらファミレスの一角が小さなサイン会場にでもなったかのようだ。

 

 テーブルを挟んだ対面の席でその光景を見ながら、菜々は改めて目の前にいる人物が紛れもない有名人なのだと実感する。

 

 〝矢代詩音〟。海外に拠点を置くピアニストであり、多くの高名なコンクールで数多くの賞を獲得した実績を持つまさしく凄腕と言うべき実力をもつ女性。その名声は日本だけではなく海外においても高く、そのせいだろうか、かなりの人数からのサインの求めを捌き切った後でも詩音は全く平然とした様子であった。恐らくは慣れているのだろう。

 

 そうして店内が再び普段通りの喧騒を取り戻した頃になると漸くウェイターが注文を取りに来れるようになって、一通り注文を済ませてから詩音が口を開いた。

 

「落ち着いた? さっちゃん」

「これだけの時間を置けば、流石にね。ありがとう、先生。……中川さんにも、余計な心配をかけてしまった。申し訳ない」

「余計な心配なんて、そんな……」

 

 心底から申し訳なさそうな表情のまま隣に座る菜々へ頭を下げる彩歌に彼女はその謝罪を受け取るまいとするが、その語調は聊か歯切れが悪い。それは彩歌の謝意を真っ当なものと感じているのではなく、それよりももっと根本的な部分から来る動揺であった。

 

 数刻前の降雨の中、彩歌が見せた異常。いっそ病的、或いは発作症状とすら形容できるそれは、菜々にとっては初めて見る彼の姿であった。故に彼女はその原因、由来を全く知らない。動揺するのも無理からぬ事である。

 

 少なくとも今の彩歌は頬の血色も戻り呼吸数も目に見えて増えている訳でもなく、落ち着いたという彼の言葉は嘘ではないように見える。だがそうだとしても先の光景は全くの現実だ。故に見逃す事はできなくて、けれど懊悩は消えず、まごついているうちに表情を真面目なそれから柔和なそれに切り替えた詩音が言葉を放った。

 

「じゃあ改めて……久しぶりね、さっちゃん! 前に会った時から、もう2年は経つかしら。見違えるくらい大きくなっちゃってまぁ……」

「男子三日会わざれば刮目して見よってね。成長期だし、まだまだモリモリ大きくなるよ」

 

 懐かしさに声音を弾ませる詩音と、冗談めかしてそれに応対する彩歌。その遣り取りは過不足なく久方ぶりの再会を喜び合う身内のそれで、そこに不穏の種はない。その傍らで菜々が抱いたのは、ある種の悟りにも似た感慨であった。

 

 彩歌の母である愛歌以外の、彼のピアノの師。その存在について耳にした時、菜々の心境は半信半疑とでも言うべきものであった。彩歌の言葉を疑っていたのではない。ただ彼女にも彩歌とそれなりに長い時間交流してきた意識があって、しかし数刻前から今に至るまでに彼が見せた姿は大半が彼女の知らないものである。

 

 ならば、或いは自分は〝真野彩歌〟という少年に感じている時間の質量とは、全く虚構のものでしかないのだろうか。菜々らしからぬそんな疑念が脳裏を過り、けれどそれを深追いする暇は彼女にはなかった。あえて思考を切り上げたのではない。不意に視線を感じて顔を上げ、サングラス越しの視線とかち合う。

 

 かなり黒色の強いレンズを挟んでいるため、菜々の側からその視線に込められた意図を察するのは困難だ。だが菜々を見つめる詩音の表情は神妙で、気圧された菜々が息を呑む。そうして幾許か、何を納得したのか詩音は顎に手を遣りながらふむふむと呟き、一転、にんまりとした表情で彩歌に問う。

 

「……彼女さん?」

「かっ、彼女!?」

「何言ってるのさ先生!? 中川さんは別にそんなんじゃなくて、その……」

 

 一言のみの、けれど衝撃的な詩音の問いに、驚愕の声を漏らす菜々と彩歌。全く予想していなかった問いだからだろうか、ふたりの顔は耳まで紅く、彩歌に至っては先の言葉に続く適切な表現が見つからない程に動揺しているようであった。

 

 多感な青少年特有の、あまりにも青い反応だ。期待した通りのレスポンスに詩音は満足げに笑み、同時に彩歌が口にした〝中川〟という名前に聞き覚えがあることに気付いた。

 

「中川……あぁ、もしかして貴女、中川菜々ちゃん?」

「えっ……私の事を知ってるんですか?」

「モチのロンよ~。まだ小学生の頃、さっちゃん、貴女のコトをよく話してたのよ? とっても真面目で優しい子だって、べた褒めだったんだから!」

「ちょ、やめて、先生やめて……恥ずかしすぎる……」

 

 紅潮しきった顔のまま、半ば涙目にすら見える瞳で懇願する彩歌。しかし愛弟子のそんな求めに、詩音は唇を尖らせて応える。

 

「えー、良いじゃない別に。……あっ、そうそう。小学生と言えば、卒業の時すごく悲しそうにしてたのって、もしかして菜々ちゃんと離れちゃうからだったりしたのかしら」

「ノーコメントで! というか本当……勘弁して……」

 

 あまりにも容赦のない詩音からの暴露の数々に、遂にはメニュー表を広げて自らの顔を隠してしまう彩歌。けれど彼の横に座る菜々には全てを隠しきれている訳ではなくて、先程よりも一層耳が赤くなっているのが見える。

 

 詩音の問いに対し彩歌はノーコメントと返したが、言葉にはせずともその反応こそが紛れもない答えであった。もしも詩音が出まかせを言っているのであれば彩歌はもっと冷静に対応していたであろうし、そもそもとして詩音がそんな人柄なのであれば彩歌は彼女を先生と呼ぶまで慕ったりはするまい。

 

 つまり詩音が語った内容は全て間違いなく過去の真実なのだろう。中でも相手に対して見せていなかった一面をよりにもよってその相手の目前で暴露されたというのだから、羞恥に悶えるのも当然というものだ。だが常に飄々としていて時に相手を手玉に取るような言動をする事もある彩歌が一方的に翻弄されている様というのは、菜々から見ても新鮮であった。

 

 だがそれ以上に昔から本心が見えにくいきらいがあった彩歌が確かに自分を想っていてくれた事が菜々には嬉しく、同時に羞恥に悶える彩歌に感応したかのように菜々まで恥ずかしくなってしまって、彼女は小さく俯いた。その頬は僅かに赤く染まっていて、紅潮したふたりを目の前にした詩音が微笑みながら口を開いた。

 

「イイわね~、まさしく青春ってカンジの色。こういうのをアベックって言うのかしら」

「先生、それ死語」

「えっ、マジで」

 

 或いは老婆心めいた気性を発揮する詩音に、ようやく羞恥から復帰しつつあある彩歌がせめてもの意趣返しとばかりに言葉を返す。普段は日本にいないからか、それとも単純なジェネレーションギャップというものか、詩音があからさまなまでの驚愕を見せた。

 

 それから、幾許かの静寂。何がおかしかったのか、彩歌と詩音が噴き出し、声を出して笑い合う。傍らにいる菜々は直前の遣り取りの中にいなかったために半ばおいて行かれたような形になってしまうが、それでも悪い気はしなかった。

 

 数刻前に菜々の目の前で彩歌が発作めいた様子を見せた事も、その原因についてそうしている理由までもを含めて彩歌が隠そうとしているのも事実だ。だが同時に今、彩歌は偽りならざる本物の笑顔を浮かべている事や彼が昔から菜々を大切に想っていることもまた、紛れもない事実で。ならば或いは隠している理由というのも何か重大な事由があり、それを今此処で何もかも問い質そうとするのは善くないのではないかと、菜々は思ったのである。

 


 

「菜々ちゃん」

 

 神妙な声音で詩音が菜々へとそう呼びかけたのは、注文した料理を食べ終わった後、彩歌が用を足すと言って席を離れた事であった。

 

 初めこそ昔馴染み同士である彩歌と詩音のペースを測りきれず半ば置いていかれてしまう事もあった菜々だが、彼女は元より対人コミュニケーションには長けた手合いである。一食分程度の時間さえあれば、相手との距離を詰めるというのは造作もない事であった。或いはそれは、その相手である詩音が陽気で人好きな性格であった事も在るのかも知れない。

 

 だが今、菜々の名前を呼んだ詩音は間違いなく彼女自身のものでありながら何処か異質であった。出会った頃から見せていた年齢不相応な陽気が鳴りを潜め、代わりに本来あるべき人生の質量が立ち現れてきたかのような。心なしか表情も老成した人間のそれであるように、菜々には見えた。

 

 どちらかが嘘というのではない。過去の思い出を暴露して弟子をからかう陽気と、年に見合った老成、どちらも真というだけの事。菜々にとって“中川菜々”と“優木せつ菜”がどちらも真実であるように。

 

「今日はありがとうね、付き合ってもらっちゃって。今更だけれど、ご迷惑じゃなかったかしら」

「迷惑だなんて、そんな事はありません。私も、楽しかったですから」

「そう。良かった。……貴女みたいに優しい友達がいて、さっちゃんは幸せ者ね」

 

 くすくす、と。口許に手を遣り、詩音は小さく笑う。その仕草はとても上品であり、先刻弟子を翻弄していた人物と同一人物であると、余人にはすぐに信じる事はできまい。

 

 だがそうして笑む表情の中に、菜々は何か違和を見る。それは陰のような、かつ望郷のような、そんな何か。少なくとも詩音以外の誰にもその正体の見えない表情であった。サングラスを着用しっぱなしであるというのもあるかも知れないけれど。

 

 その好奇とでも言うべき視線を感じ取ったのだろうか。サングラスに手を遣り、詩音が苦笑する。

 

「コレ……やっぱり気になる?」

「いえ、そんな事は……」

「良いのよ、別に。何か重大なコトがあるワケでもないのだし。……それに、遠慮とかそういうの、あたしには分かっちゃうから」

 

 え? と。詩音が零した呟きの意図が分からず疑問の声を漏らした菜々の前で詩音がサングラスの弦に手を掛け、出会った時と同様に何のためらいもなく外す。そうして顕わになったのは、やはり不思議な色彩の瞳だ。

 

 全体的な色は彼女自身の髪色と同じ朱色だが、それ以外の色も見える。であれば、それは朱を基調とした玉虫色とでも形容すべきだろうか。サングラスを胸ポケットに仕舞い、詩音は声なき問いへの答えを続ける。

 

共感覚(シナスタジア)……ってやつでね。あたしの場合、色聴と言って、音に色がついて見えるの。だからなのかしら、裸眼で世界を見ていると、頭が疲れちゃうのよね。

 だから普段はサングラスをかけて、入ってくる情報を制限してるの。あたしにとっては普通の視界より、色の方が分かりやすいから。要は、コレは()()()ね」

 

 そう言って、詩音は笑む。共感覚(シナスタジア)。五感のうちの特定の入力刺激が他の感覚の刺激を齎す知覚現象であり、中でも音に色が伴って見える色聴は最も報告が多いとされている。その知覚現象を、詩音は持っているというのだ。

 

 であれば〝遠慮とかそういうのは分かってしまう〟というのは、つまりは声に伴う色の為に詩音からすれば視覚として視えてしまうという事なのだろう。菜々には感覚的には理解しにくい現象だが、詩音にとってはそれが当たり前なのだ。共感覚というのは、殆どの場合において先天的なのだから。

 

 尤も共感覚と虹彩の色に関係があるという報告はない。故に詩音自身の感覚と玉虫色の瞳は無関係の筈で、しかし菜々には全くそうであるとも思えなかった。そんな彼女の目前で、詩音はサングラスを再び着用する。

 

「ハイ、じゃああたし(オバサン)の話は、このくらいでおしまい。

 ところで、変なコトを訊くようだけど、あの子……さっちゃんは学校で上手くやっていけてるのかしら。その、友達とかと」

「……? えぇ。私と彼は学部は違いますが、クラスでも上手くやっていると聞いています。それに最近は、私と彼の共通の友人が増えたりして……」

「そうなのね……良かった」

 

 言って、大きく息を吐く詩音。同時に肩の辺りが弛緩した点から見て、その吐息は安堵の溜め息だったのだろう。だがそれだけであるにしては詩音の仕草は大袈裟で、何らかの事情の存在を伺わせる。

 

 再び、違和感。それは果たして何度目の事であったのか。積み上がり続けた違和は無意識の裡から菜々の思考を刺激し、彼女らしからぬ発想を齎す。

 

 彩歌は学校で上手くやっているのかという問いは、或いは〝そうできないかも知れない可能性がある〟という事の裏返しではないのか。それは下衆の勘繰りめいていて菜々は自覚するや否や引っ込めようとするが、自身を見つめる詩音の視線に気づいた。その瞳は、菜々の色を捉えている。詩音自身の意志とはまるで無関係に。

 

「あの、彩歌くんに、何か……」

「うん、ちょっとね。あの子、中学の時、荒れてた時期があったから」

「彩歌くんが、荒れていた……?」

 

 信じられない、とでも言いたげな声色であった。そんな菜々の目前で、詩音が頭を振る。

 

「荒れていたと言っても、非行に走ってたとかじゃないのよ? ただ、何て言うのかしらね、自暴自棄? 音楽以外どうでもいいって具合になってた事があったの。それこそ自分自身の事も、周囲の事も顧みないくらいに」

 

 その詩音の弁を、人は笑うだろうか。音楽で大成せんとするのならばその程度は当たり前だ、と。だが彩歌をそう評しているのは他でもないプロのピアニストたる詩音であり、それは転じてその時期の彩歌は大成した人間から見ても異常であったという事なのだろう。

 

 菜々は他人の発言を嗤うような人間ではないが、だからとて詩音の言に潜む不穏に気付かぬ筈もない。菜々がよく知る今の彩歌は彼女の中では確かに彼女と出会った頃の彼からの延長線上に在って、故に詩音が語る自暴自棄な姿というのは全く以て想像の埒外であった。

 

 しかし、納得できる事もある。高名な音楽家を多数輩出している名門とも言える虹ヶ咲学園音楽科の中に在っても特待生を維持するだけの実力を彩歌が備えているのは、或いはその時期に積み上げた研鑽があるからなのだろう、という。大成したピアニストから見ても異質なまでの努力の果てというのであれば、それだけの実力に至ったとしても不思議ではあるまい。

 

 だがそのために、彩歌は自身や周囲を顧みなくなってしまった。菜々は原因こそ知らないが、少なくとも現在の彩歌にその気が見られない以上、彼は何処かの時点でそんな状態から立ち戻る事ができたのだろう。

 

「あたしは仕事が忙しくって傍にいる事ができなかったけれど……今は皆と仲良くやれているようで安心したわ。あの子は周りに恵まれているのね」

 

 安堵半分、憂い半分といった声音であった。詩音の言う周りというのは菜々を始めとした交友や、陽彩などの家族の事だろう。彩歌が荒れていたのが中学時代の事であるとするならば、関わりがあると考えられるのは家族と、大雅(しんゆう)。──後者の可能性が脳裏を過った刹那、不慣れな感覚が胸中を駆け抜けていく。

 

 名前や、輪郭すら判然としない感覚であった。けれど最近、それと同じものを抱いた覚えがあって、けれど曖昧模糊としているが故にそれが何処に仕舞われているのか辿る事も出来ずに首を傾げる。そんな菜々の前で、詩音はでも、と続ける。

 

「肝心な部分は治ってない。あの子はまだ()()()()()()()()。それはあの子自身の問題だけれど、同時にあの子だけではどうしようもない問題なのでしょうね。だって、始まりはあの子じゃないのだもの」

「……そこまで言って、教えてはくれないんですね」

 

 菜々にしては珍しい、何処か反抗的な気配さえ含んだ様子であった。だがそれも致し方あるまい。詩音の物言いはあまりに露骨で、それなのに決定的な部分だけが意図的にぼかされている。菜々が最も知りたい所だけが欠落している。それでは、誰だって苛立つだろう。

 

 自身が冷静になりきれていない事は菜々自身も自覚している。自覚しているのに収拾が付かない。これではまるでスクールアイドルを引退しようとしていた時に逆戻りしたようだ、と彼女は心の中だけで言う。

 

 菜々のそんな気配(いろ)を真正面から受け止め、困ったように詩音は笑う。そうして、机の上に投げ出された菜々の手を握った。

 

「ごめんなさいね。でも、いつか知ることになる。あの子は嘘を吐き続けるのが下手だから、いつかきっとボロが出てしまうから。

 だから、その時はあの子を助けてあげて欲しいの。勿論、貴女が良ければ、だけれど」

 

 詩音が微笑む。けれどその笑顔はぎこちなくて、それは即ち彼女自身が自らの発言に潜む身勝手について自認しているという事でもある。自認し、理解した上で言っている。大人の卑怯さというものだった。

 

 しかし同時に、そこには優しさも同居している。弟子に健やかでいて欲しいという慈愛。半ば押し付けてしまう形になる菜々への慚愧。それは大人であるが故に、後進への懇到であった。

 

 けれど詩音自身の意図がどうであれ、彼女の言葉は菜々にとって今の彩歌は菜々と出会った頃の彼とは決定的に何かが変質しているという証明でもあり、それでも、返答せんと口を開いた菜々の表情は毅然とし真っ向から詩音を見据えていた。

 

「勿論です。以前、彼は今の私を知ろうとしてくれました。一度は自分の“大好き”を諦めて、封じてしまおうとした私を……それでも、皆と一緒に背中を押して、立ち戻らせてくれた。

 だから──今度は、私が彼を知る番です」

 

 人間にとって、未知とは脅威であり恐怖だ。知らないという事実は、それだけで恐れを喚起する。たとえばそれは自然現象であり、故に先人たちはその原理を解き明かし未知を既知へと貶めたのである。

 

 だが相手であれば人間であれば選択肢は決して理解のみに限定されない。自然現象は不可避のものだが、人はそうではない。知らないのならば、理解できないのならば、避ける事も、未知すら知らぬふりをして接することもできる。未知を暴くことで関係に不可逆の変質を来してしまう事もあるのだから、その判断も決して間違ってはいまい。

 

 故にこそ、相手の未知を暴く決断をするにはそれらの障害を越えるだけのものが必要で。しかし、彼女は───

 

 ───それでも、知りたい。そう願ったのだ。

 


 

「俺がいない間、中川さんと何を話してたの?」

 

 いつの間にか雨が止み、薄くなった雲の隙間から黄昏空が覗く夕刻。彩歌が詩音にそんな事を問うたのは、真野邸への帰路の中、菜々と別れて暫く経った頃の事であった。

 

 ただ自宅に帰るだけの彩歌だけではなく詩音までも真野邸に向かっているというのは、何という事はない、彼女が日本にいる間、真野邸を拠点にするというだけの事。普段海外を拠点にしている詩音は日本に自宅が無く、かつ仕事柄ピアノの練習が欠かせない彼女にとって、真野邸は非常に都合が良いのである。

 

「知りたい? でもダメよ。女同士の秘密に、男は入ってこれないんだから」

「秘密って、そんな大層なコトを話してたのかい……? でも、確かに今の質問はデリカシーがなかったかも知れない」

 

 彩歌は特に深い意味があって質問をした訳ではなかったが、だとしてもデリカシーに欠けた問いであった事は事実だ。声色こそおどけているようだが彩歌は内心で確かに反省し、自律に反映する。

 

 真野邸がある辺りの住宅街は都心のビル群に比べて人通りが少なく、響く音はふたりの足音とスーツケースの車輪が回る音のみ。雨は止んでいるけれどアスファルトが乾き切っていないからか、環境音は全てが湿っている。

 

 それから暫く歩いていると、ふたりの視界の席に真野邸の白い外壁が見えてきた。それと殆ど同時に、思い出したかのように詩音が言う。

 

「でも、これだけは言えるわ。まぁ、菜々ちゃんと話してた内容そのものってワケじゃないけど……」

「……? 何?」

「さっちゃん。……助けが欲しい時は、ちゃんと“助けて”って言いなさいね」

「───」

 

 それは、いったいどういう意味と意図で告げられたものであったのか。耳朶を打った瞬間に彩歌は一瞬のみ理解を放棄して、そのせいか歩調まで停止する。それに合わせて、詩音も数歩先で立ち止まり彩歌の方に視線を寄越した。

 

 意味。意図。そんなものは態々考えるまでもない。即座に思考能力を取り戻した頭で彩歌は結論する。全く文字通りであり、それ以上でもそれ以下でもない。助けが欲しいのならば、誰かに助けを求めろ、と。それだけだ。

 

 そして思い至る。詩音が彩歌らの目の前に現れた時に言い放った〝女の子に迷惑をかけるなんて〟というのは決して『菜々の目前で発作を起こした事』に対するものではなく『菜々の心配を無下にしてできもしない平然を取り繕おうとした事』に対してだったのだろう。

 

 気づきと、理解。それらに対して何を思ったのかを、少年は口にしない。音にしない以上は、いかな共感覚者にとて真意を悟られることはない。代わりに、返答と似て非なるを口にする。

 

「じゃあ、ひとつ。俺、今度コンクールに出るんだ。だから、久しぶりに練習に付き合って欲しい。時間がある時でいいんだ。……お願い、できるかな?」

「当たり前田のクラッカーってね。可愛い弟子のお願いだもの、聞いてあげる」

「だからそれ死語だって。……ありがとう、先生。先生が協力してくれるなら百人力だ」

 

 少しおどけた、弾んだ声。そこに潜伏する色は、彼自身には見えない。詩音が言及する事もない。そのままそれ以上に追及することもなく、ふたりは邸宅の門を開け放った。



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第17話 アンタが/オマエが/アナタが/キミが/オレが

 ──明日、一緒に昼食を食べませんか?

 

 彩歌(さいか)の許に菜々からそんな提案があったのは、菜々と共に詩音と出会い、ファミレスから数時間後、その日の夜の事であった。事前の約束通りにコンクールの日程を送り、それに関する遣り取りの直後、それまでの流れから話題を切り替えるための一手である。

 

 それが送られてきた時、彩歌のスマホにはトーク画面が表示されたままであったから、彼女の側には即座に〝既読〟の表示があっただろう。だが彼女からの提案に対し、彩歌はすぐに返事をする事ができなかった。その理由というのはいくつかあるが、有り体に言えば()()()だったのだ。

 

 学園からの帰り道、詩音と再会するよりも前に彩歌は菜々の目前である種の宿痾の発作とも言える異常を露呈させ、あまつさえそのまま逃げようとさえした。思いがけず詩音と再会しそのまま有耶無耶になった状態であったが、この短時間で忘れる筈もない。メッセージアプリを介した文字のみによる遣り取りである事も手伝って、彩歌が真意を測りかねたのは当然とも言えよう。

 

 だが、あえて断るような理由も彩歌は持ち合わせていない。異常を目撃された直後に尤もらしい理由をつけて断るというのもむしろ不自然であろう。コンクールに向けての練習というのもあるが、義務でもない事を理由に持ち出すというのは全くの不実というものだ。故に、彩歌はその提案を了承した。その際に菜々の分の弁当も作っていくと言ったのは、全くの出来心であった。

 

 ──ふたり分の弁当箱を膝に乗せ、ひとつ大きな欠伸を漏らしつつ伸びをする。幸いと言うべきだろうか、今日は昨日の大雨が嘘のように早朝から晴れていて、未だ気温が上がり切っていない事も在ってか陽光がひどく心地良い。常であれば大雅と共に利用しているベンチへと一足早く到着した彩歌はまるで日向ぼっこでもしているかのように、完全にくつろいでいた。

 

 彩歌や大雅がいつも決まったベンチを利用している事に、特別な理由はない。だが1年以上も使い続けていれば勝手ながら愛着も湧くというもので、故に安心したからだろうか、押し寄せてきた眠気に目を瞬かせる。けれど、眠る訳にもいかない。彼は既に何度か野外で眠り注意を受けているのだし、何より眠ってしまっては菜々との約束を半ば反故にしたようなものだ。であれば眠れるはずもない。そうして彼が眠気と格闘し始めて幾許か、遂に聞き慣れた声が彼の耳朶を打つ。

 

「お待たせしました。早いですね、彩歌くん。……大丈夫ですか?」

「え? うん、ダイジョウブダイジョウブ。俺もさっき来た所だから」

「そんな眠そうな顔をして、そんな筈がないでしょう……」

 

 呆れた様子で溜め息を吐き、失礼します、との言葉と共に菜々が彩歌の隣に腰を下ろす。彼としてはどうにか眠気を堪えているつもりであったのだが、傍から見れば全く隠しきれなかったらしい。タハハ、と苦笑いして後ろ髪を掻く。

 

 けれど待ち人が来てまで眠たげな顔を晒している訳にもいくまいと、彩歌が自身の両頬を挟み込むようにして叩く。所謂気付けというもので、それだけで眠気がある程度退散していくようにも彼には感じられた。意識が明晰に立ち戻り、僅かに菜々との距離を広げる。

 

 そうして膝の上に乗せていた弁当の包みのひとつを菜々へと差し出し、彼女は礼の言葉と共にそれを受け取る。しかし彼女はすぐに包みを開けるのではなく少々意外そうな目をしていて、それに気づいた彩歌が問いを投げる。

 

「どうかしたかい? 何か変なモノでもついてた?」

「い、いえ、そんな事はありません。ただ、その……本当に作ってきてくれたのだな、と」

「そりゃあ、俺から言い出した事だからね。約束は守るよ、俺は」

「それは疑っていません。しかし、何というか……」

 

 妙な所で言葉を区切り、弁当箱に視線を落とす菜々。そこに込められているのは落ち込みや落胆ではないまた別種の何かで、であれば先の驚愕は彩歌が本当に弁当を作ってきた事自体に対するものではないのかも知れない。

 

 そも人の感情とは決して同時にひとつのみが顕在化するものでもなく、時としてひどく混沌としている時もある。今の菜々は混沌という程ではなかろうが単一という訳でもなさそうに彩歌には見えた。感慨という言葉が脳裏を過り、彼は即座に頭を振って払い落とす。それは、思い上がりだ。

 

 その所作が不可解だったのだろうか、彩歌を見る菜々の目には今度こそ真性の疑念が宿っていて、何でもないとでも言うように彼は頭を横に振った。そうして包みを解くと、菜々もそれに倣う。胸の前で両手を合わせたのは、殆ど同時の事であった。

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 示し合わせた訳ではない。ふたりの挨拶が重なったのは全くの偶然で、それがおかしくて彼らは顔を見合わせて一拍を置いてから笑い合う。何気なく、かつ無意味な偶然の事象だけれど、彼らには共有し合うに値する事であるようにも思えたのだ。

 

 それから弁当箱の蓋を開け、視界に飛び込んできた様相に菜々が感嘆の吐息を漏らす。一般論、或いは公衆に流布されている偏見から言えば男子高校生の作る弁当というのは雑なものになりがちであろうが、彩歌が作ったそれは栄養バランスや彩りにもある程度の工夫が見られた。流石にそれらの分野について専攻している訳ではないため完璧とはいかないが。慣れている。菜々は、一目でそう察した。

 

 そうして菜々はその中から卵焼きを摘まみ上げる。卵焼きという料理は工程を言語化するとひどく単純なようだが、それ故に出来栄えに料理人の巧拙が現れやすい。その点から言えば、無駄な焦げのひとつも見当たらないそれは相当なものだろう。少なくとも一朝一夕で修得できる程度ではない。その一切れを、口に放り込む。

 

「──美味しい」

「そう? フフ、良かったぁ。いつもとちょっと味付けを変えてるから、うまく出来てるか不安だったんだよね」

 

 菜々のそれは無意識の、それ故に心底からの呟きであった。彩歌が胸を撫で下ろし、しかし菜々はそこに疑問を差し込む。いつも。卵焼きの完成度などから彩歌が料理をする事に慣れているのは菜々にも分かったが、その理由までは彼女は知らないのだ。

 

「いつも……という事は、彩歌くんは毎日自分で弁当を作っているんですか?」

「うん、そうだよ。将来の事を考えても料理はできるに越したことはないし、親の手を煩わせるワケにもいかないからね。それに、美味しいって言ってくれる人もいるし」

「それは……宗谷くんの事、ですよね」

「アイツもそうだけど……キミもそうだ。さっき、美味しいって言ってくれただろう?」

 

 そう言う彩歌の表情は全くの笑顔であり、虚偽の気配と一片とて存在しない。まさしく〝輝くような〟という形容が似合うだろう。自分が作った料理を菜々が美味しいと言ってくれた事が、或いは菜々が笑顔になってくれた事が、心底から嬉しいのだろう。

 

 菜々の知る限りにおいて、真野彩歌とはそういう人間だ。誰かの幸福を是とし、その幸福に共感し、それを己の幸福として捉えることができる。それは人として当たり前の事であるのかも知れないが、実際にそう在る事は難しい。故に自然体でそう在る彩歌の姿は、菜々にとりそれだけで尊敬に値するものだった。尤もそれは彼女自身に自覚はないが彩歌から彼女に対しても思っている事なのだが。

 

 だが菜々は彩歌の全てを知っている訳ではない。それは昨日の事もそうだが、それだけではない。例えば、この弁当もそうだ。今まで菜々は彩歌が大雅と昼食を共にしている事は知っていたがそれを彩歌が作っている事も、そもそも彼が料理ができる事知らなかったのである。織っているという認識と、知らぬという事実。それを目の前にする度、彼女の胸中を疼痛にも似た感覚が通過していく。既に何度も経験している筈なのに彼女はそれの名前もまだ分からなくて、けれど確かな事もあった。

 

「何だか、羨ましいです」

「羨ましい……? 何がだい?」

 

 彩歌からすれば、菜々の言葉にはあまりにも脈絡がない。故に察しがつかないのも当然だ。彼が菜々の感情の所在について問うたのも仕方のない事で、そんな彼の問いに菜々は困ったような笑顔を浮かべる。

 

「何でしょうね。私自身にも判然としませんが…もしかしたら私は〝私の知らない貴方〟を知っているモノを羨ましく思っているのかもしれません」

 

 中川菜々としての彼女には珍しい、はにかむような笑みであった。それがたとえ全くの本心であったとしてもせつ菜ならばいざ知らず、菜々にとっては気恥ずかしさのようなものがあったのだろう。

 

 だがその笑顔に、彩歌はすぐに言葉を返せない。弁当を食べる手は止まっており、孔雀青の瞳は驚愕に見開かれている。果たしてそれはある種の告白とも言える菜々の言に対してのものか、或いはまた別の何かか。答えを知るのは彼のみだ。眉根を下げ、口を開く。

 

「……俺なんかを知っても、得なんてないと思うけど」

「得の有無を言っているのではないんです。だって、これは私のただのワガママなんですから。

 それに……貴方だって、私の事を教えてと言ったではないですか。貴方に得はないのに」

「得はあったさ。確実に」

 

 そう、確かに得はあった。数週間前の過去、ダイバーシティ東京での一連を反芻し、彩歌はそう結論する。何故ならあれは彩歌の裡では優しさではなく打算なのだ。であれば、得はある。でなければ打算などとは言うまい。

 

 暴論である。自分が相手を知る事には得があるというのに、相手が自分を知る事は相手にとって得がない、などと。唾棄すべき屁理屈でしかないという自覚は、彼にもある。だが紛れもない彼の本心でもあり、同時に彼のそんな態度は昨日の行動とも相まって菜々の裡に違和として落ちていく。

 

 自分の事を知っても、得などない。それはそのまま彩歌自身の自己評価の現れであり、けれどそれを受けた菜々の脳裏に過ったのは〝自虐〟ではなく〝拒絶〟の二文字。あまりにも突飛で、冷ややかな不安だ。それでも、菜々は反駁する。

 

「なら、貴方の事を知れるのは私にとっては得です」

「……」

 

 彩歌は何も言わない。何も返そうとさえしなかったのではなく、何事か返そうとして、しかしできずに苦笑として漏れた形であった。それは何処か諦観にも似ているが、笑みにはそれらしい仄暗さは皆無であった。

 

 価値というのは絶対的なものではなく、相対的なものだ。故に自身にとっては無価値なものも、他者にとっては価値があるというのは珍しい事ではない。それを否定するというのならば、それは理屈ではなく理不尽を持ち出すしかない。それが満足にできる程、彩歌は器用ではなかった。

 

「そう。……俺を今日ここに呼んだのも、それが理由?」

「はい。貴方の身に、何があったんですか?」

 

 あまりにも真っ直ぐな視線であった。虚飾や糊塗の介在しない、偽らざる彼女の本心であった。その言葉には由来が欠けていたが、分からない程彩歌は愚鈍ではないつもりでもある。

 

 彩歌が不器用というならば、菜々も同様に不器用だ。それを訊き出したいのならば、もっと上手い方法などいくらでもあるだろうに。それは彼女も分かっていて、それでも本心を正面からぶつける処方を選んだのだ。

 

 目線を逸らす。だが、逃げるのではない。その所作の真意は菜々の知る所ではないが、少なくとも彩歌はこの状況からの離脱を考えていないようだった。幾許かの間を置いて、食事時にする話じゃないけど、と前置きする。

 

「───事故に、遭ったんだ」

「事故……?」

「そう、事故。……中学に入って少し経った頃、信号無視をしてきた、飲酒運転の車に撥ねられた」

「なっ……」

 

 菜々の口から驚愕の吐息が漏れる。交通事故。彩歌が語った経験は、その表現だけで事足りる。近年の年間発生件数は約30万件を超えていて、全国で1日あたり800件程度発生している計算になる。ごくありふれていながら、同時に全くの非日常。隣にいる人間がそこに巻き込まれていたと知れば、驚くのも無理からぬ事である。

 

 だが、薄々感づいてもいた事だ。昨日彩歌が発作を起こした時、要因となり得るのは直前に付近で鳴ったクラクションのみだった。そんな状況であれば、可能性のひとつとして浮上するのも当然である。尤も、だからといって全く平常心のまま受け止めるというのも不可能であろうが。

 

 そんな菜々の様子に彩歌は何を思ったのか、自嘲的な笑みを覗かせる。

 

「丁度、昨日みたいな雨の日だったよ。いきなり撥ね飛ばされて……暫く意識不明の重体ってヤツになってた。期間は……よく覚えてないけど」

 

 菜々は何も言わない。その間隙を彩歌はどう受け取ったのか、更に言葉を続ける。菜々に尋ねられたままを、まるで出来合いの文章を読み上げるかのように。

 

「それからかな。車の気配を感じると発作を起こすようになってね。周りにすごく迷惑をかけてしまって。父さんは『迷惑だなんて思うな。子供が大変な時に、サポートするのを嫌がる親はいないさ』と言ってくれたんだけど……

 とはいってもここ1年くらいはだいぶ落ち着いてたんだ。でも、条件が揃うと稀にまだ発作が起きる。昨日のは、それだね」

 

 自分の身に起きた事を話している筈なのに。未だ過去の事にはならず、現在にまで禍根を残す事象について口にしているというのに。その声音に色はなく、抑揚は平坦で無個性だ。彼自身に起きた事と言う前提が無ければ、誰かの伝聞を語っているものを錯覚してしまいそうな程に。

 

 交通事故と、その後に残ったトラウマ。彩歌の言を要約するのならば、それだけで十分だ。原因は相手の信号無視と飲酒運転。となれば、事故の規模は相当なものであったとも考えられる。精神に瑕疵を残すのも無理からぬ事だ。

 

 だが、彩歌が語ったのは事の大枠、概要でしかない。詰まる所、()()が圧倒的に欠けている。当事者である彼が何を思ったか、或いは、何を思っているか。そういう主観が無く、菜々が伝聞めいているように感じたのはそのためだ。何故だかそれが我慢ならず口を開きかけた菜々はしかし、何事か言う前に口を噤んでしまった。

 

 息を呑む。菜々の視線の先、押し黙る彩歌の表情は真顔そのもので、それなのに菜々にはどうしてか何かを堪えて今にも泣き出してしまいそうにも見えた。彼の語りが他人事めいていたのは、そうでなければ何もかもをぶちまけてしまいそうであるからなのかも知れない。そう彼女は予感する。その虚勢が悲しくて、膝の上で握り締められた彩歌の拳を彼女は上から掌で包んだ。唐突な接触に、彼の肩が怯えたように跳ねる。

 

「……ごめんなさい」

「どうして中川さんが謝るのさ。キミに非なんて、ひとつもないじゃないか」

「いいえ。実の所、私は気付いていました。車の音で様子がおかしくなってしまったから、もしかしたらそうなのではないかと。それなのに尋ねた。貴方にとっては酷な経験だと、少し考えれば分かった筈なのに」

 

 言い訳めいてはいるが。それでも、菜々は知りたかったのだ。同情などではなく、それは彼女自身の個人的な欲望だ。たとえどんなお為ごかしで脚色したとしても、その本質だけは変わらない。

 

 好奇心ではない。詩音に頼まれたからでもない。正確な由来は、菜々自身にも判然としない。しかし彼の事を知りたいという気持ちは決して錯覚などではない、彼女自身の裡から発生したものだ。

 

「でも、もうひとつだけ訊かせてください。……どうして、今まで話してくれなかったんですか」

「キミに無関係な事で、キミの気を煩わせたくなかったんだ。俺の自意識過剰かもだけどね。それに、もう終わった事だ」

 

 吐き捨てるような、独り言のような呟きの後に、彩歌は唇を引き結ぶ。もう終わった事、既に過ぎ去った事象であるのだからえて気に掛けるようなものではなく、そんな事で菜々に心配を掛けたくなかったと、彼は言うのだ。それを自意識過剰と彼は評したけれど、謙遜が過ぎる評価だったと言えよう。今の菜々の様子がその証左だ。

 

 いっそ彩歌の言う通り何もかもが終わった事であれば、菜々はこうもひどく心配したりはするまい。伏せられていた真実に驚愕し、やはり心配はしつつもそれで終わっていたかも知れない。

 

 けれどどうしてか、菜々にはそれが終わった事だとはどうしても思えなかったのだ。触れ合う手が震えている訳ではない。表情がおかしい訳でもない。しかし本当に何もかもが終わっているのなら、発作など起こす筈もない。

 

 つまりは、あの偶然こそが決定的な綻びだったのだ。その瞬間に彩歌が被っていた正常という名の強がり(ペルソナ)は破綻して、それなのに今以て嘗てのままで在ろうとしている。その姿に菜々は───以前の自分を視る。同時に、理解した。『優木せつ菜(スクールアイドル)』を辞めようとしていた彼女に彩歌がああも関わろうとしたのは、それが果たされた先に何が在るかを知っているから。

 

 要は同じなのだ。以前の菜々と今の彩歌は。違うのは相手の身に起きた事をどれだけ知っているかという事と、ほんの少し、彩歌の方が隠すのが上手かったという事。故にこそ見ていられなかった。それは独善(エゴ)ではあるけれど、救われた人間がいるのもまた事実だ。

 

 ならば見て見ぬふりはできない。知ってしまった以上は。理解してしまった以上は。それは選択肢から除外される。

 

 ───予鈴が鳴る。無慈悲にもこの逢瀬は終わりだと告げるように。けれどそれを一時先送りにせんとばかりに菜々は彩歌の拳を包む掌に一際力を込めた。再び、彼の肩が震える。

 

 これを疵の舐め合いだと、嗤うならば嗤えば良い。それを理解してもなお、菜々は、これだけは言わずにはいられなかった。

 

「貴方が何に恐怖しているのか、私には分かりません。でも、もしもその恐怖に耐え切れなくなったら、私が力になります。たとえ今は何も知らないとしても……手を握るくらいなら、できますから」

 


 

「お弁当、ありがとうございました。美味しかったです。それと……すぐには無理かも知れませんが、いつか私もお弁当を作ってこようと思いますので、その時は食べていただけると嬉しいです」

 

 去り際に菜々が残した一言はそんな、何でもないものであった。彼らの昼休みにおける一連を無にするのではなく、さりとて深入りする訳でもない。笑顔を覗かせて、彼女は教室に戻っていく。

 

 小さくなっていく背中。それが校舎の中に消えていくのを見届けてから、彩歌は深く息を吐きつつベンチにもたれかかった。綿のような雲が浮かぶ青空が、視界いっぱいに広がる。

 

 既に予鈴は鳴っている。授業開始まではまだ幾らかの猶予があるとはいえ、教室に戻らなければ遅れてしまう。けれど立ち上がる気力も湧かない。綱渡りのように常に言葉を選び続けていたからだろうか、と彩歌は自己分析する。

 

 彩歌が菜々に語った内容に嘘はない。真野彩歌という少年は4年前、信号無視と飲酒運転という二重の違反を重ねた車に撥ねられ、一時的に重体にまで陥った。だが、()()()()()()()()。それは彩歌が意図的に作った欠落であり、菜々はその欠陥に気付いていながら言及しなかった。知りたい、という気持ちを抑えてまで。

 

 彩歌の側もそれを悟っていた。ならば言えば良かったのに、と彼の冷徹が言う。

 

「───言えない」

 

 言える筈がない。

 それは義務ではなく拒否。道理も何もない、子供の駄々にも等しいものだ。呟くと共に目蓋を閉じて掌で覆えば、視界は蒼から一転して暗闇に染まる。陽光は両手を貫通せず、何も見えない。その筈なのに、何かが浮上してくる。

 

 それは過去だった。思い出であり、瑕疵であり、断罪だった。雨音の幻聴が、やはり煩い。見えるのは顔も声も、未だハッキリと焼き付いて離れない子供達。皆一様に行き場を喪った筈の、醸造され果てた嚇怒を彩歌に向けてきている。

 

 幻視の震える腕が動き、その指が彩歌に向けられる。

 

「俺は、もう、二度と……」

 

 

 

『おまえが───』

『アナタが───』

『きみが───』

『アンタが───』

 

 

 

 

 

『───彩歌が、死ねばよかったのに』



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間話Ⅱ ソノ記憶は未だ色褪せず/ダレかの音楽(ゆめ)、ダレかの笑顔(こうふく)

 ──その光景を覚えている。

 

 それは4年前のとある日の事。元トップアイドルグループのリーダーからアイドル事務所のプロデューサーという異色の転向から10年程度が経ち忙しい身の上となっていた陽彩(ひいろ)はしかし、自身の夢でもあったその仕事に長い休暇を取ってまで都内某所の総合病院を訪れていた。

 

 目まぐるしく情勢の移り変わる芸能界の中で少しでも間隙を作ると言うのは半ば責任放棄のようだが、陽彩はその点においても抜け目はなかった。彼は仕事の引き継ぎを疎かにするような男ではないし、休んでいる間の仕事も長い間目を掛けてきた信頼できる後輩に任せている。殊プロデューサー業というその一点において、陽彩の仕事ぶりは自身の抜ける穴の補填すらも完璧の一言であった。

 

 だが仕事において全く完璧である人間でも、全てにおいて完璧であるとは限らない。元より陽彩は自身の主観においては自らを完璧と評した事は一度たりとて無かったが、己の前に立ち現れてきた現実を前に自身の不完全性を実感する。

 

 いっそ病的なまでに清潔な白い壁。開け放たれたガラス窓から吹き込む心地よい風。そして、しゃくりあげる少年の切なげな声。それらが陽彩の前に在る全てで、同時にそれは彼がずっとひた隠しにしていた真実が彼のいない間に詳らかにされたのだと悟らせるには十分過ぎるものでもあった。それを認識するや否や、彼の胸中に湧き上がってきたのは一度はどうしようもないと切り捨てた筈の憤怒だ。

 

 既に過ぎ去った事象に対する、やり場のない怒り。矛先を喪ったそれは後悔と混ざり合って自己嫌悪へと変質しそうになるけれど、変質しきる前に陽彩はそれを呑み下した。そうして、病室に一歩踏み入る。その足音でようやく来客の存在に気付いたのだろうか、彼の息子たる彩歌(さいか)が驚いた様子で彼の方を向いた。

 

 よもや陽彩がいるとは思っていなかったのだろうか、彩歌は慌てた様子で入院着の袖で涙を拭うけれど、そうしている間にも涙は止め処なく溢れてくる。その様は、まるで決壊したダムででもあるかのようだ。

 

 やがては虚飾の努力さえ全くの徒労だと悟ったのか、彩歌は涙に塗れた、泣き腫らした顔で陽彩を見上げる。その表情は笑顔であったが、虚勢であるのは火を見るよりも明らかだった。何故なら、まだ泣いている。体内の水分が枯れ果てんばかりのそれは、正しく滂沱であった。

 

 だがそれを見ても陽彩の震える唇から漏れたのは、どうした、というただ一言だけ。まるで世界が遠くなかったかのように音が遠く、呼吸は浅くなり足元が覚束ない。後になって、陽彩は思う。人の親として、これは全く以て無責任な言葉だった。たとえそれが致し方ない事だったのだとしても、只の理想論だったのだとしても、父親として、それは最善ではなかったのだ。

 

 故に、返答が決して親へは口にしてはならないものであったとしても、それは仕方のない事だった。

 

 ──ごめんなさい。

 ──目醒めてしまってごめんなさい。

 ──生き残ってしまってごめんなさい。

 

 ───産まれてきて、生きていて、ごめんなさい。

 

 

 目覚めは最悪であった。ユメに無理矢理叩き起こされ本来覚醒に至るまでの過程(プロセス)を経る事ができなかったからか、或いは単純に睡眠時間が聊か足りないためか身体は倦怠感に包まれていて、滲んだ脂汗のために肌着が皮膚に張り付いている。最近は早朝の気温も高くなりつつあるが、それだけにしては異常だった。

 

 時計を見れば、時刻は目覚めにはまだ少し早い。しかし二度寝をするような余裕はなく、かつ真野陽彩という男性はあまり二度寝をしない性質であった。仕方なしに重い躯を引きずりながらベッドを降り、ひとりぼっちの寝室を出る。そこで、思わぬ視線とかち合った。だが挨拶は自然と滑り落ちてくる。

 

「む。彩歌、おはよう」

「父さん。おはよう。今日は少し早いね」

 

 ひらと手を振りながらの陽彩の挨拶に、彩歌は笑顔で以て返す。恐らくは彼も陽彩同様に起きてからそう経っていないのだろうが、その恰好は寝間着ではなく愛用の青いランニングウェアだ。これから日課のジョギングに出ると言う事なのだろう。

 

 いつもの事だ。数年前から始まり、片手で数えられる程度しか欠かしたことのない、彼の習慣だ。いつもは陽彩が起床する前に出てしまうのだが、今日は偶然早起きしたために遭遇した形であった。

 

 であれば、起床後に息子の顔を見る事ができたのは早起きは三文の徳の例と言うべきか。陽彩がそんな事を考えた刹那、甘い考えを窘めるように今朝の悪夢が浮上し泣き顔が今の表情と重なる。

 

 もしもそれがただのユメであったならば、現実と空想(ユメ)を重ねるなどどうかしていると自身を嗤う事も出来ただろう。しかし、今日のユメは紛れもない過去の現実で、そして今に至るまでの事象の一端でもあった。ならば陽彩のそれは、決して妄想や荒唐無稽と言い切れるものではなかろう。

 

 そのせいだろうか、それを認識した途端に形容しがたい混沌が陽彩の胸中で渦を巻いて、気づけば彼は息子の頭に手を伸ばしていた。掌に伝わる、柔らかな亜麻色の感触。久しく体験の無かった〝撫でられる〟という行為に、彩歌が困惑を覗かせる。

 

「父さん……? いきなりどうしたのさ」

「……何となくこうしたくなっただけだ。スキンシップというヤツだよ。いいから大人しく撫でられとけ」

「そんなムチャクチャな──うわぁ!?」

 

 自身の無意識的な行動に対する羞恥のためだろうか、陽彩は掌に込める力をより強めて、彩歌が半ばつんのめる形になる。髪が乱れるー!! と悲鳴をあげる少年の表情は初めこそ年甲斐もなく撫でられている事への恥が見て取れたが、やがてそれは微笑へと変わった。そしてそれは陽彩にも伝播していく。

 

 分かっている。彼の息子は今でこそこうして笑えているけれど以前はそうではなくて、その原因となっていた影は消えることなくその心に残り続けている。今の少年が笑えているのはただその影に慣れたに過ぎず、容易に再発し得る。丁度先日、発作という形でそれが起きたのだと、陽彩は詩音から聞き及んでいた。

 

 父親としてそれを取り除いてやれればどれだけ良いか、と陽彩は思う。けれどそれは不可能だ。いくら親子いえど個人の精神に対する直接的な介入など人間の手には余る所業で、最終的な決定権は当人しか持ち得ない。詰まる所、人間の精神的な変質は当人にしか成し得ないのだ。そこに血縁は関係ない。

 

 それでも、願ってしまう。祈ってしまう。いつか彩歌の心から影が立ち消えて、心底からの笑顔を浮かべてくれたのならばどれだけ良い事か、と。情けないと自覚しているが、陽彩は自身があくまでも他人(おや)でしかなく、息子の心への決定権を持たない事を理解している。けれど。

 

(情けない親父だけど、彩歌のために俺もできる事をしなきゃな……愛歌のためにも)

 


 

 宗谷大雅にとって部活の朝練がある生活というのは慌ただしくはあれど苦ではないものであった。彼自身体力は相当にある方であるし、朝にも強い。なおかつ身体を動かすのも好きであるから、苦になる要素がある筈もない。

 

 故に苛烈な練習を終えたばかりだというのに、教室へと立ち入った大雅の様子は疲労など一切覗かせない平常そのものであった。彼の来訪に気付いた友人達に挨拶を返しながら自らの席へと向かっていく。

 

 大雅に与えられている席は窓際の一番前。そこまでの途上には、最近になってよく話すようになったクラスメイトたる高咲侑の席がある。見れば彼女は既に着席していて、イヤホンを装着しスマホと向き合っていた。であれば声が届かないかも知れないが、大雅はいつも通りに軽く挨拶を投げようと口を開く。

 

「高咲、おは───んん!?」

 

 挨拶もそこそこに大雅の口から漏れたのはあまりにも間の抜けた驚愕の声。大した声量ではなかったが、それが耳に入ったのだろうか。侑は再生した動画を一時停止すると、イヤホンを外し大雅へと人の好い笑顔を向けた。

 

「おはよう、大雅くん。……どうしたの? すごくビックリした顔してるけど」

「あ、あぁ。(わり)ぃ。おはようさん、高咲。

 えぇとだな、大したコトじゃねぇんだけど……動画(ソレ)、よく観てるのか?」

 

 そう口にしながら大雅が指したのは机上に表示された侑のスマホ、正確にはそれに表示された動画であった。中央に一時停止の表示を湛え全く静止したそれの中では、一対の腕がグランドピアノのものと思しき鍵盤を叩いている。侑が観ていたのがピアノの演奏動画である事は疑い様もない。

 

 今でこそ大雅は度々侑と会話を交わすようになったとはいえ、その付き合いはあまり深くなく、日も浅い。故に彼には高咲侑という人間について新たに知った事がそうある訳でもなく、イメージは依然として〝スクールアイドルが大好きなクラスメイト〟という、その程度のものだ。先程の驚愕は、そんな彼女がスクールアイドル以外の動画も観ているという事に対してのものでもある。だが動画投稿サイトというのは様々なジャンルの動画で溢れていて、その内の何を見ていようとも個人の自由だ。故に驚愕の由来の大半は先の理由ではなく、その動画自体に起因する。

 

「そのLTuber(エルチューバ―)の動画、オレも観てるからさ。まさか高咲も観てるとは思わなくて驚いちまった。アンタがそういうのにも興味あるとは、知らなかったモンでね」

「えっ!? 大雅くんも観てるの、〝さっちゃん〟の動画!?」

 

 ───観てるも何も、それの投稿者、彩歌(アイツ)だし。

 

 思わず発しかけたその言葉を大雅は声になる前に静止し、腹の底へと呑み下す。大雅は動画投稿者さっちゃんの正体を知っているから(バラ)してしまうのは簡単だが、いくら親友とはいえ実名で活動していない者の正体をあえて他人が露見させてしまうのは極めて無粋であろう。その発想は、せつ菜の正体に気付く手がかりを大雅に悟らせてしまった彩歌への痛烈な皮肉ではあるけれど。

 

 偶発的な事であるとはいえ半ばショルダーハッキングじみた経緯であるからか、大雅の表情は何処か申し訳が無さそうだ。しかし対する侑はスマホを覗き見られた事を全く気にしていないようで、それどころか再度の同好の士の発見に瞳を爛々と輝かせている。

 

 発端の立場こそ真逆ではあるが、その光景はさながら先日、大雅がせつ菜のライブ映像を観ている所を目撃された後の焼き直しのようだ。だが完全に同一という訳ではない。少なくとも話題に挙がっている対象についての知識においてならば、以前の場合とは異なり大雅にも相応のものがある。それこそ、無数にいる視聴者の内でも一番程度には。けれどあえてひけらかす意味もない。

 

「一応、今までにアップロードされた動画は全部観てるぜ。ま、流石にそこまで頻繁にってワケでもねぇけど」

「そうなんだ。なんだか意外かも」

「そうか? まぁ、そうかもな。……でも、意外に思ったのはオレもそうだ。オレはてっきり、こういう類ならアンタはスクールアイドルに一筋(ゾッコン)なのかと」

 

 侑はすぐには大雅の言う〝こういう類〟という言葉の意味を推察しかねたが、会話の流れを振り返りそれがスクールアイドルやLTuberといったサブカルチャー、或いはインフルエンサーとでも言うべき人々を指しているのだと気づくのにそう時間はかからなかった。

 

 そしてそれを口にした大雅の声色に冗談の気配はない。故にそれは全く過不足なく宗谷大雅の抱く高咲侑への印象であった。

 

 決してスクールアイドル以外のインフルエンサーに興味のないように見えただとか、そういう事を言っているのではないのだろう。ただ、知らなかった、と。それだけの事だ。それが分かったからだろうか、返答する侑は表情こそ苦笑めいてはいるが声は弾んでいる。

 

「勿論、スクールアイドルは大好きだよ! 歩夢やせつ菜ちゃん、同好会のみんな、ひとりだけなんて選べないくらい大好き!!

 でも、スクールアイドルじゃなくても、誰かに夢を与えている人がいる。自分の大好きを叫んで、夢に向かって一生懸命な人がいる。それって、とっても素敵な事だと思うんだ」

「───夢、か」

 

 呟く声は、さながら反芻のように。声帯を震わせ音声として体外に漏らしているというのに、それは誰に対する呼びかけでもなく彼自身の裡に向けられたものであった。耳朶に落ちてきた侑の言葉を嚙み砕き、落とし込むための行程だ。

 

 大雅は侑との付き合いをそう深くするつもりもなく、彼女に対する興味というのも友人への一般的なそれと大差はない。故に彼は侑の全てを知っている訳でもなく、不必要に知る気もない。先の未知がその証明だ。

 

 だが、何もかも未知という訳ではない。少なくとも、こういう場合において高咲侑という少女は嘘を吐かない。そもそも嘘を吐く理由がない。ならば、そこに疑いを差し挟む余地はない。

 

「大雅くん? どうかした?」

「……いや、何でもない。そうか、夢か。()()()はそう感じたんだな」

 

 アンタからオマエへ。大雅の二人称代名詞が変化したことに、侑はおろか大雅自身もさしたる違和を感じていないようだった。彼の口の端に浮かんでいるのは笑みであり、半ば脈絡の感じられないそれに侑が困惑を見せた。けれど頷きには肯定の意が込められている。

 

「うん。……何かおかしなコト言ったかな、私」

「ンいや? オレも概ね同意見。だからオマエがおかしかろうとオレに詰る権利はねぇし、まず絶対におかしくなんてねぇよ。

 ……あぁ、でも、本当にイイ表情(カオ)をするよ、オマエ。好きなモノの話をする時は、そうでなくっちゃあな」

 

 そう言いながら侑を見る大雅の表情は微笑。ひどく端整な顔立ちをした少年がそういう表情をしているというのはとても画になろうが、それ自体は侑の精神に何ら影響を与えるものではない。だというのに彼女の反応が一拍遅れてしまったのは、大雅の微笑の裡に何か別の感情を見たが為であった。

 

 それは笑みの中に在る影のように明確な輪郭を持たないものであったが、あえて形容するならば寂寞、或いは旧懐だろうか。

 

 しかし、不可解である。侑が大雅と真面に会話をするようになったのはつい最近の事であるから、彼女には大雅から懐かしまれるような謂れはない筈なのだ。であれば彼の懐古とは侑へと向けられたものではなく、彼女を通して見ている別の誰かへのものか。だが侑はそれ以上の詮索はせず、代わりに諧謔の笑みを投げ掛けた。

 

「大雅くんも、良い表情してる」

「マジ? ハハッ、そんな表情してたか、オレ。だが……」

 

 そこで一旦言葉を区切り、大雅は席を立つ。どうしたのかと彼の様子を見ればどうやら席の主が登校してきたようで、その生徒に軽い謝罪を告げている。実質的に無断で使っていたが故に半ば当然の事だが、相手は気にしていないようである。或いはそれは周囲に対して大雅が築いた信用の表れでもあるのだろうか。

 

 そうして席を離れた大雅は数拍を置き、先の続きを吐露する。まるでばつの悪さを誤魔化す子供のようにはにかみながら。

 

「好きなんだよ。誰かが夢を語ったり、好きなものの話をする時の表情が。だからかもな」

 

 歯の浮くような披瀝(ひれき)だ。あまりにも気障に過ぎる独白だ。しかしそれは紛れもなく宗谷大雅という人間の本心、或いは根底に在る方向性であるからか、糊塗された物言い特有の冷ややかさの色合いはない。

 

 ならば、それは紛れもなく真実だ。人間、誰しも彼の言うそれを好ましく思う事はあろうが、大雅は〝好ましい〟ではなく〝好き〟と言い切る。その二者は似ているようで、明確に異なるものでもあろう。好感と好意ではその規模や感触まで違うのだから。

 

 そしてその返答を受けた侑は思う。明確な根拠はないけれど、大雅のこの方向性を決定づけたのは彩歌なのではないか、と。彼は以前、侑の雰囲気が昔の彩歌に似ていると、そういった。その時もまるで懐かしむような顔をしていて、となれば無関係というのも考えにくい。

 

 しかしそれはあえて口にするべきでもない気がして、侑は代わりに茶化すように言う。

 

「なんか、愛の告白みたいだねっ」

「告白ぅ? オイオイ、やめてくれよ。精々がガキの痴れ事だろ、こんなん」

 

 そんな遣り取りを交わし、ふたりは共に笑声を漏らす。余人からすれば不可解な笑みであろうが、彼らにとってそれは互いの諧謔の交感、或いは他者理解の証明であった。不可解であるのも致し方ないというものだろう。

 

 そうして不意に時計を見れば、間も無く朝のSHRの時刻であった。それを認めた大雅はその旨を侑に告げて席を離れ、挨拶代わりにひらと手を振り合う。そのまま彼は自らの席に着いて一通りの準備を整えると、ほう、とひとつ息を吐いた。

 

(なんか、柄にもなく自分語りしちまったな。───いや、しかし……)

 

 そう独り言ちながら彼の記憶の焦点は先の自身の行動への反省からその少し前、侑との会話が始まるに至った切っ掛けへと移り変わる。

 

 知人が自身も観ている活動者の動画を観ているというのは、何もおかしな事ではない。メジャーな動画投稿サイトに投稿されている以上、それは誰の目にも触れる可能性があるのだから。だが大雅も何もひとりの動画を観る訳ではなく、むしろ様々な種類の動画を観る方であった。だというのに、よりにもよって彩歌(さっちゃん)の動画であるという点で接点が生まれる、などと。

 

(……世間って、狭いんだな……)

 

 あまりにも陳腐な表現だ。しかしそれが、大雅の内心を表す最も適切な形容でもあった。

 



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第18話 オレとワタシ、同道なれど

 渺々とした蒼穹に、白く悠々とした積雲が浮かんでいる。青々とした芝生を戦がせる風が運んでくるのは微かな海原の匂いであり、時折視界の内を数人の生徒が談笑しながら駆けていく。そんな長閑を絵に描いたかのような放課後、彩歌(さいか)は校地内のベンチにて涼んでいた。

 

 手には付近の自販機で購入した無糖(ブラック)の缶コーヒー。両耳に無線のイヤホンを装着して瞑目し、足を汲んだ状態で青空を見上げているその姿は全く脱力しきっており、かつ無防備である。その様たるや、或いは己の存在が虚空に拡散しても気付かないと予感させる程だ。

 

 ロックや演歌、或いはアニメソング、アイドルソング。彩歌のスマホにはジャンルを問わず様々な曲が保存されているが、現在再生されているのは洋楽である。若干14歳にして天才とまで称される、アメリカ在住のとある作曲家の曲だ。彩歌は彼女が作った曲のファンであった。

 

 そんな曲を聴きながら完全に自分独りの世界にはまっている所為だろうか、心底に押し込めた認識外の領域にて内圧は次第に高まっていき、洩れ出た熱は無意識に染み入ってゆく。やがては自ずと口を開きかけ──

 

「───ひょわぁっ!?」

 

 ──しかし、歌声が紡がれる事はなかった。肺から押し出された空気が声帯を震わせる直前、唐突に頬に冷感が奔り情けない悲鳴に切り替わったのである。驚愕も凄まじかったのか、僅かに飛び跳ねてしまっている。

 

 そうして弾かれるようにして冷感を押し付けられた方に視線を移せば、果たしてそこにいたのは侑であった。既に同好会の活動準備を済ませた状態であるのか、学校指定の半袖ジャージの上から長袖ジャージを腕を通さずに羽織るという何とも珍妙な格好である。その手にはミネラルウォーターのボトルが握られ、端整な顔には悪戯な笑みを浮かべている。

 

「なんだ、高咲さんかぁ。びっくりしたなぁ、もう……」

「あはは、ゴメンゴメン」

 

 相手が決して不審な者ではないと分かって安心したのか大きく息を吐く彩歌と、笑いながら謝る侑。そのまま彼女はごく自然な動作で彩歌の隣、丁度ひとり分の空白に腰を下ろし、彩歌はそれに合わせて侑との距離を少々空ける。

 

 流石にそれに気付かない侑ではなく、神妙な表情で彩歌を見るが彼は未だ羞恥の様相を浮かべていて、何らおかしな所はない。自身の心理を切り替えるように、咳払いをひとつ。

 

「こほん。……久しぶりだね、高咲さん。同好会の活動はこれからかい?」

「うん、そうだよ。今は飲み物がなくなっちゃったから、買いに来たんだ」

 

 彩歌の問いに答えてから、侑はペットボトルに口を付ける。彩歌の言葉通り、ふたりが直接対面するのは久方ぶりであった。せつ菜の復帰ライブ、及び屋上からの撤退後に当時の同好会メンバーと彩歌で軽く会話をした時が最後であるから、数週間ぶりである。

 

 詰まる所、それは彩歌が侑やかすみに余計な迷惑をかけてしまって以来、これが初の邂逅という事になる。それを認めるや否や、彩歌の胸中に当時と同質の混沌が再来する。それは少女らへの感謝であり、罪悪であり、かつ自罰。だがそれらを告げたとしても言い訳や自己満足にしかなり得ず、かつ先に口を開いたのは侑であった。

 

「彩歌くんは? もしかして、これからピアノの練習?」

「うん。もう少しでコンクールだからね。自分でも結構練習してきたつもりだけど……こういうのは、いくらやっても充分にはならないものだしね」

「コンクール……彩歌くん、コンクールに出るんだ」

 

 感嘆のような侑の呟きに、彩歌は無言で首肯を返す。侑と遭遇する前は全く脱力していた彼だが、完全にサボりを決め込んでいたのではない。授業から練習に移行するまでの、一種の小休止であった。

 

 しかし小休止を置いているとはいえ、彩歌は過剰な余裕を持っている訳ではない。何しろ近日行われるのはあくまでも東京予選のようなものであり、よしんば入賞できたとしても後に全国大会があるのだから。過分な余裕など、持てる筈もない。

 

 それでも休憩を挟んでいるのはそれが自分の過去を由来とする反省であるからだ。嘗て周囲はおろか己すら省みずに狂気的とさえ評される程に打ち込んだ経験を持つ彼は、その結果として破綻が現出し得る事を知っている。それが故の間隙。つまりはそれは彼なりの自己保全、自己管理、自己補完であるのだ。

 

 尤もそんな事はあえて侑に言うようなものではなく、彩歌が語ったのはコンクールについての簡単な概略のみだ。誇張も矮小化もない、ただの事実。けれど侑にとっては、十分に興味を惹かれるものであった。

 

「そうなんだ……凄いなぁ……!

 そうだ、私もそのコンクール、観に行ってもいいかなっ?」

 

 歌詞かに彩歌の方に身を乗り出し、食い気味の姿勢で侑はそう問いを投げる。その瞳はスクールアイドルのライブを目の当たりにした時のそれを思わせる程に輝いていて、だからだろうか、彩歌が初めに覚えたのは困惑であった。

 

 彼自身、侑のそれに見覚えがない訳ではない。彼がCHASE! を歌っていた際の、初めて遭遇した時。或いは音楽室にて出会った時。彼は二度、その瞳を向けられている。けれど、分からない。果たして自身には、その瞳を向けられて良い権利があるのか。そんな疑念を、彼は心底に棄却する。そうして覗かせたのは微笑。

 

「それを決めていい理由は、俺にはないよ」

 

 或いは拒絶とも解釈できるような、持って回った物言いである。しかし彩歌の表情はあくまでも友好的であり、侑に対する拒否の情は何処にも在りはしない。自らに決定権が無いというのは、彼なりの首肯、放任であった。彩歌とて、自身の演奏に興味を持たれている事について思う所がない訳ではないのだ。

 

「でも、キミがピアノに興味がある事は知っていたけど……もしかして、練習続けてたりするのかい?」

「うん。実はそうなんだよね。最近は貰った楽譜ナシでも弾けるようになってきたんだぁ。……あっ。歩夢にはナイショね。もっと上手くなってから言いたいから」

 

 そう言いながら侑は自身の唇の前で人差し指を立て、彩歌に向けて微笑んでみせる。彼女の言う通りその仕草は彼へと守秘を求めるもので、あえて断る理由もない彼は鷹揚に頷いた。

 

 ピアノの練習をしているのを歩夢に対して秘密にしている理由までは、彩歌には分からない。だがその守秘というのは侑にとっては歩夢が特別な存在であるが故の事だというのは、彼にも理解できる。でなければこうも笑顔で彼女の話をする筈がない。

 

 そしてそれはともすれば夢の萌芽とさえ形容できる思いだ。コンクールに興味を示しているというのも演奏を聴くだけなのではなく、他者の技術を自らに取り入れんとする貪欲の片鱗とも見て取れる。ともあれ、彩歌の目から見て侑のそれは、他者の介在しない能動の証明であった。

 

「そっか。……夢のために頑張ってるんだね、皆」

「えへへ、ありがとっ。……でも、私のはまだ、夢って言えるものじゃあ……」

「ううん、そんな事ないよ。行動を起こしているだけで、それは尊敬に値する事だと思う。

 それに前にキミが言っていた〝夢に向かって頑張っている人を応援したい〟、〝夢が見たい〟っていうのも、立派な夢だと俺は思うよ」

 

 夢を見たいという夢。言葉にすると矛盾しているようではあるが、自らの将来の在り方への希求という点においてはそれは紛れもなく夢であると言えるだろう。少なくとも彩歌にとって、侑の望みはそう見えるのだ。

 

 温順な声音で語る彩歌。侑へと向けられた彼の瞳に宿るのは柔らかな光であり、それは何処か憧憬、敬仰のようすらある。であれば先の発言が真である事は疑い様もない。最早回避する事も出来ず、侑が顔を紅潮させる。

 

「もうっ、そんな事を言っても何も出ないよ?」

「別に見返り欲しさに世辞を言ってるワケじゃあないさ。ただの俺の感想、所感だよ」

 

 冗談めかした照れ隠しにも、返す声音は至って真面目である。自身の言をあえて低めるような言い方は、彼の親友にも通ずるものがあろう。だがその気配に気づくような余裕は、侑にはなかった。

 

 自身の裡に在る好意好感(トキメキ)の表明には一切の躊躇いのない侑であるが、反面、彼女は自分自身の評価については低すぎるきらいがある。彩歌の評はそんな彼女自身の自己評価とはギャップがあり過ぎ、しかし破却を許さない本音の色が彼の声にはあって、それ故の恥じらいであった。

 

 柳に風の如くに回避する事も許されず、ノイズが飽和し麻痺する思考回路。〝私なんて〟を剥奪され、侑は返答に惑う。卑下という退路を先回りされたが故の反駁不能(ロジックエラー)。その様子を傍目に、彩歌は更に言葉を続けた。

 

「ピアノだって、たとえ今は夢と言える強い方向性でなくても、貴いモノに違いはない。……あぁ、本当に眩しいよ、キミ達は」

「うぅ、べた褒めだぁ。何だか照れる……」

 

 紅潮した自身の頬を両手で挟みながら、侑はそう零す。それは逃げ道を塞がれたが故の、高咲侑という少女としては稀有な反応であったが彩歌には与り知らぬ事である。彼は優しく、同時に何処か悲し気な微笑で侑を見ているのみだ。その合一を形容するのならば、懐古と言うが正しいだろうか。

 

 その懐郷は、侑そのものへと向けられたものではない。彩歌が侑と知り合ったのは今年に入ってからそれ以前には面識もないのだから、それも全く当然の事だろう。だが同一のものを志望する者として、それは共感にも近い感情であった。

 

「今やりたい事を通して……キミは未来(さき)に続き得るものを見つけたんだね」

 

 独白のような呟きだ。ともすれば誰に聞き届けられることもなく拡散してしまいそうな程に細々としたそれは、しかし完全に掻き消えるより早くに侑の耳朶に触れてその意識を引きつける。

 

 羨望。憧憬。鑽仰。それらがない交ぜになった声色を、侑は一瞬己に対して向けられたものであると認識できなかった。何故ならそれは、侑が彩歌に抱いている感情と近似していたから。逆に自分がそれを向けられ得ると、想像もしていなかったのだ。加えて、まるで〝自分はそうではない〟とでも言わんばかりの声色もまたそうだ。

 

 『真野彩歌』という少年の事について、侑は多くを知っている訳ではない。それは以前から今に至るまで変わらない事実だ。故に先の発言について、その裏に潜む意思を彼女は推測できる材料を持たない。だが、()()()()。その関心は彼自身への興味、同族間によるものか、或いは侑に内在するお節介にも似た性質によるものか。情動の理屈(ロジック)についてまでは彼女も無自覚であり、しかし行動に移るために常に理屈が要るとは限らない。

 

「ねぇ。彩歌くんはさ、どうして音楽を始めたの?」

「え……何だい突然?」

 

 些か唐突にも思える侑の問いに、訝しんだ様子で彩歌はそう言葉を返す。平素の飄逸とした態度が崩れたその様は彼が侑の意図を測りきれていない証であるが、対する侑は「何だか気になって」と返すのみだ。反駁を呑み下し、代わりに吐き出したのは返答である。

 

「……実の所、正確に切っ掛けを覚えてるワケじゃあないんだ。物心付いた頃にはもう始めていて、当たり前の日常になっていたから。でも、間違いなく両親の影響だね。それだけは確信できる」

「両親……?」

 

 問い返す侑に、彩歌は無言で首肯する。そうして缶コーヒーを傾ければ、先程までは冷たかった筈のコーヒーはいつの間にか温くなっていた。残りを一息に飲み干し空になったそれに視線を落としながら、言葉を続ける。

 

「自分で言うのも変かもだけど、俺の家は所謂音楽一家みたいなものでね。……母はピアノ講師、父は元アイドルで、そのせいか他人(ひと)より音楽に触れる機会が多かったんだ」

「そうなんだ……って、元アイドル!?」

「うん。〝真野陽彩〟って、聞いた事ない?」

「あるかも。確か……〝昭和一のスーパーアイドル〟とか〝カラフルスター〟とか言われてる、あの人?」

 

 侑の問いに、頷きを返す彩歌。侑はスクールアイドルに出会うまでアイドルというものにそこまで強い興味を持っていた訳ではないが、そんな彼女でも聞き覚えのある名前だった。〝カラフルスター〟というのは、如何なる色・形態の衣装でも完璧に着こなしてパフォーマンスをしてのけた事から付いた異名である。他にも〝虹彩のエンターテイナー〟という二つ名もテレビ番組で紹介されていたのを、彼女は朧気にではあるが覚えている。

 

 しかしいくら有名であっても、30年近く昔が全盛であった人物である。顔の造作が判然とせずにスマホで検索を行い、表示された結果に侑が驚愕する。検索結果として現れた画像に映っていたのは煌びやかな衣装を纏っている事と黒髪黒目である事を除けば、彩歌と殆ど瓜二つの人物であったのだから、それも致し方ない事であろう。思わず画像と彩歌を何度も交互に見て、その仕草に彩歌が微笑を漏らす。

 

「父がそんな感じだから、家にも記録映像の類が結構あって。古い映像だから画質も相応に悪いけど、それでも分かるくらいに観客は笑顔だった。父達の歌が……皆を笑顔にしていたんだ」

 

 声音はさながら謳うように。表情は年相応の少年らしい無垢な懐古のそれであり、眼光には尊敬と敬愛が宿っている。その様子だけでも彼ら父子の仲が良好であり、彩歌が心から父を尊敬していると察するには十分だ。それが微笑ましくて、柔和な表情で侑は続きを促した。

 

「そっか。何だか、凄いなぁ。……お母さんは? どんな人なの?」

「母は……」

 

 不自然な箇所で区切られた返答は、まるで吐息のようだ。その刹那の間のみ彩歌の表情が歪んだのを侑は見逃さず、しかし即座に彼の様子は元のそれに立ち戻る。そこに演技の気配はない。併存する情動が競合した結果であった。

 

「母は俺とは比較にならないくらいピアノが上手くて、それ以上に、音楽が大好きな人だった。だからかな、母が演奏する周りでは、生徒も観客も、皆が笑ってた。

 俺はそんな両親に憧れて……だから〝俺の音楽で皆を笑顔にしたい〟って、そう思ってた。それまで漫然と続けていた俺にとっては、それは始めた理由になるのかも知れない。……ごめんね、あんまり面白い話じゃなくて」

 

 そう言って、彩歌は自嘲的に笑う。両親に憧れ、自らもそのように在りたいと願う。その両親の経歴を度外視すれば、彩歌の返答は親を尊敬する子供としてはあまりにもありふれて、平凡な在り方だ。

 

 だがそれを普通だ平凡だと嗤う人間性を、侑はしていない。彼女自身の自認はどうあれ彼女に一度救われている彩歌がそれを知らぬ筈もなく、それなのにそう口にしてしまったのは、或いはそれが彼の自身への評であるからか、それともその経緯自体は極々ありふれたものであるからか。彼の自嘲をどのように受け取ったのか定かではないまま、侑は首を横に振る。

 

「訊いたのは私なんだから、気にしないで。つまらなくなんてなかったし、それに友達の事をもっと知れるのは、私も嬉しいから!」

 

 そう告げる侑の屈託のない笑顔は、さながら太陽のようだ。そこに気遣いや遠慮、詐術の気配はなく、そこに由来する心底からの真摯は彩歌が独善の呵責を抱く余地さえも残していない。

 

 分かっていた筈だ。それが偽りなく表現された己自身であるのならば、高咲侑は否定しない。歌であれ、音色であれ、ただの言葉であれ。そして先の彩歌の言葉に嘘はなく、ならば彼女が否定する筈もない。或いはそれは、以前に彩歌の音楽を聴いた事があったが故でもあるのか。

 

 自分の音楽で皆を笑顔にしたい。それが今の彩歌の起源であり、嘗て耳にした旋律と歌はそれに違わぬものであるように侑には思えたのだ。()()()()()()()()()()()()()()()彩歌(演奏者)(鑑賞者)。この間に横たわる認識の差異(ギャップ)こそが『真野彩歌』に内在する最大の瑕疵であり自身を〝なってない〟とする甘さの原因であった。しかし、彼は気付かない。気づけない。

 

「音楽で皆を笑顔にする。それが、彩歌くんの夢なんだね」

「夢……か。さて、どうだろうね。……でも、これでは言える」

 

 はぐらかすように肩を竦め、瞑目をひとつ。それから彩歌は徐に立ち上がると、手に持っていた空き缶を唐突に付近のゴミ箱に向けて軽く蹴り飛ばした。宙へと投げ出された缶はそのまま重力と慣性に従って鮮やかな放物線を描き、ゴミ箱の淵に跳ね返されてタイルとモルタルからなる地を転がる。惜しい、と悔しそうな一言。

 

 無論、そのままにしておく筈もない。転がった空き缶を拾い上げ、今度こそゴミ箱に収める彩歌。そうして、侑の方へ向き直った。その顔に浮かんでいるのは何の変哲もない薄い微笑である。それなのに、何故だろうか。侑には何処か哀哭のようにも見えた。

 

 己の音楽で皆を笑顔にする。侑はそれを、彩歌の夢と言った。確かに嘗ての自分なら一も二もなく肯定していただろう、と彩歌は思う。だが、今は違う。違わなければならないのだ。

 

 それでも、為さねばならない。為し続けなければならない。本来ならば彼は音楽を続けている事すら烏滸がましい人間で、それなのに続けている理由は、ただひとつ。

 

「それが今の俺がやりたい事……やらなきゃいけない事で、果たさなきゃいけない”責任”なんだ」

 


 

「さっちゃんって、かなり料理上手くなったわよね」

 

 彩歌の目前にて神妙な表情の詩音がそんな言葉を零したのは、彼が放課後偶然に侑と出会った日の夜、夕食の為にふたりが卓を囲んでいた時の事であった。レッスンが終わってからの食事であるため時刻は遅めではあるが、陽彩はいない。まだ仕事が終わっていないのである。

 

 空腹のために無言でカツ丼──仕込みから完成まで全て彩歌が行ったものである──をがっつこうとしていた彩歌は詩音の意図が読めず、訝しむような様子で問いを返す。

 

「……何さ、いきなり」

「何って、別に、言葉通りの意味よ? 昔はホラ、卵焼きを黒焦げにしちゃったり、塩と砂糖を間違えたりしてたじゃない。それが今では店で出しても恥ずかしくないくらいになってるんだもの」

「店って、それは買い被り過ぎだよ。というか、昔の事は言わないで……」

 

 思いがけず過去の醜態を掘り返され、羞恥のために紅潮する彩歌。今でこそそれなりの料理の腕前を誇る彼だが、作るようになった当初の有様はそれはそれは酷いものであった。元は愛歌が亡くなったことで彼女と陽彩で分担していた家事を父子で再分配した際に自ら買って出たのだが、初めから真面なものを作れる訳ではなかったのだ。

 

 その頃と比べれば、現在の成長は相当なものだ。能力の初期値はどう見積もっても平均か、或いはそれにすら至っていないレベルだった筈が今では上澄みとも形容できる程にまで達している。そしてそれは、何も料理においてだけではなかった。

 

「思えば、ピアノや歌もあんたはそんな感じだったわね。それが今じゃネットで大人気の配信者で、ピアノでは全国を狙おうというのだもの。凄い成長ぶりだわ」

「褒められているのか貶されているのか……後者だとしても事実だから言い返せないっ……」

 

 ぐぬぬ、と悔しそうに彩歌は歯噛みする。だがそこに本気の怒りはなく、であれば彼らの遣り取りというのは付き合いが長いが故の遠慮の無さを由来とするものであった。何しろ詩音は彩歌が産声をあげたばかりの頃から彼を知っていて、彩歌にとって詩音は幼い頃から時折面倒を見てくれていた相手なのだから、その距離の近さも半ば当然のものであろう。

 

 故に詩音は彩歌の弱点などについても知り尽くしていて、事実であるために彼は言い返す事ができない。反抗の代わりとでも言うかのように乱暴に一切れのカツを咀嚼、嚥下し、呟く。

 

「俺には先生みたいな共感覚も、母さんみたいな絶対音感も、父さんみたいな天性の求心力(カリスマ)もない。持っていないなら、努力するしかない。それだけだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いじけたように、或いは当たり前の事実を改めて吐き出すように。努力を重ねれば成長するというのは、全く当然の事だ。少なくとも真野彩歌という少年の人生は、今までその原則の中に在った。

 

 子供というのは人により程度の差こそあれど大人の背中を見ながら成長するものだ。その点で言うならば、彩歌にとって身近な大人の背中はあまりにも大きいものだった。師は世界的に有名なピアニストであり、父は元々は超が付くほどに高名なアイドルである。唯一対外的な肩書として著名なものを持たない母も、最も身近であるが故に存在は強く、絶対音感という特殊性を備える人でもあって、そんな中で彩歌はただひとり何も持たずに生まれた者だった。

 

 だからこそ、努力した。何も持たぬからこそ、手に入れるために足掻いた。彩歌にとって努力とは身に付けた過程を後から指す言葉であり、自己の艱難辛苦を労うものではない。故に彼は分からないのだ。努力すれば身に付くというのは、誰でも発する事ができる訳ではないのだと。十の労を必要とされれば、二十の労を以てこれを踏破する。彼は常にそうしてきたのだから。彼にとっては、それが自然な事だ。

 

 なればその類稀なまでの克己心、自律心こそが、彩歌に与えられた最大の才であるのかも知れない。だが、強すぎるそれらは時として主に不利益を齎す事もある。サングラスを外し、詩音が口を開く。

 

「確かに、あんたはそういう子だったわね。あたしの技術もどんどん吸収してるし、案外、あたしが教えられることもすぐ無くなっちゃうのかもね。

 ……でもね、さっちゃん。覚えてる? 愛歌の口癖」

「……音楽は、まず自分が楽しまなければならない。覚えてるよ。忘れる筈がない」

 

 彩歌の返答に、詩音が無言で頷きを返す。けれど、それの何が“でも”なのか。詩音はそれを彩歌に語らず、しかし彼は言葉にされない師の意図を汲み取った。その交感は皮肉にも、彼らが共有してきた10年を超える時間が齎す理解より来たるものであった。

 

 あえて今愛歌の口癖を彩歌に問うたのは即ち、確認なのだ。それを受けて彩歌は確信する。やはり、見抜かれている。元より共感覚を有する詩音に隠し通す事ができる筈もないとは彼も分かっていたが、心根まで見透かされているような目を向けられて動揺を抱かない程豪胆ではなかった。

 

 “今、彩歌は自分の音楽を楽しめているか?” 言外の問いを読み取り、飲み下し、観念したかのような深い吐息の後、絞り出すような声で彩歌は答えを返した。耳朶の奥で鳴り響く雨音から、必死に意識を逸らしながら。

 

「でも俺には……もう、その"権利"はないよ」



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第19話 ソノ気持ちは健在なりや?

 東京湾を臨む海沿いに屹立する、何処か荘厳ささえ漂わせる巨大な市民ホール。その陰、丁度道路からは見えない位置に隠れるようにして、幼い少年が泣いている。幼童らしく感情を爆発させている訳でなく何かを堪えているかのように時折肩を震わせしゃくりあげるその様子は小学生にも至らぬ年の頃にしては大人びても見えようが、代わりとばかりに滂沱の如く伝う涙と鼻汁がその印象を全く打ち消してしまっている。

 

 少年──彩歌は己のそんな有様を自覚しているのか仕立ての良いジャケットの袖が汚れるのも構わず乱暴に顔を拭うが、それでも涙と鼻水は留まる所を知らず流れ落ちていく。だが泣き腫らし充血した瞳が湛えるのは悲しみだけではなく困惑や慚愧、その他いくつもの感情が綯い交ぜになった混沌で、幼い彩歌にはそれの名前さえ分からない。

 

 生まれて初めて参加したコンクールにて入賞さえできなかったという結果。入賞者達と比べて実力が足りなかったという原因。人並み以上に好奇心旺盛ながら同時に聡明な子供でもあった彩歌にはそれらが己の前にある全てだと言語化はできないまでも理解はできていて、それなのに感情が理性と同期しない。それどころか感情が身体を支配して、今でもこうして滂沱している。

 

 既に確定した現実だ。記憶の中に過ぎ去り、最早変えようもない過去だ。そもそもとして彼この結果を不当とは思ってもいないし、他の参加者の演奏に感嘆さえした。それなのにこれだ。あまりに矛盾している。彼自身も訳が分からなくて、けれど泣いている所を両親に見られては心配をかけてしまうと衝動的に隠れてしまった。皮肉にもそれだけは、理性と感情の判断の一致であった。

 

 だが、全くの子供の浅知恵である。冷静でなかったとはいえ、見つかりたくないのならただ建物の陰に隠れるだけで十全である筈もなく、そもそも息子が唐突にいなくなれば心配すると冷静ならば気づけた筈だ。すぐに無為になると知りながら涙を拭い続ける彩歌の背後から、声。

 

「見つけた。こんな所にいたんだね、彩歌。お父さんも心配してたよ?」

「! ……お母さん……」

 

 弾かれるようにして肩を震わせ、思わず聞き知った声の方へ視線を遣る彩歌。果たしてその先にいたのは、彼の母たる女性〝真野愛歌(まなか)〟であった。既に齢30を超えているとは思えない程に端整な顔には微笑が浮かんでいるものの肌には少々の汗が浮かび、彩歌と同じ色をした、腰程もある長い髪は僅かに乱れている。どうやら平静を装ってはいるものの、その実必死に彩歌を探していたようであった。その理由は心配であったからに他ならない。

 

 であれば微笑の由来というのは、息子を見つけた事による安堵だろうか。だが彩歌の涙に気付くや、はっとした表情に代わり、次いでそれは何かを悟ったような、或いは苦笑のような優しい笑みに立ち戻る。ごく自然な所作でしゃがみ込み、愛歌が彩歌と視線を合わせた。

 

「あらあら。こんなに泣き腫らして、可愛い顔が台無しだよ? ……どうして泣いてるのか、お母さんに話してみて」

「……分かんない。分かんないよ……」

 

 身体中の水分が枯れ果てんばかりに泣いているというのに、本人ですら涙の理由が分からない。全く答えになっていないが愛歌は何も強要せず、慈愛の籠った瑠璃色の瞳で彩歌を見つめている。経験の差によるものだろうか、彩歌自身以上に彼の信条を察しながらそれを肯定し、彼の口から語られるのを待っているかのようだ。そんな母を前に、遂に彩歌はしゃくりあげながらも必死に言葉を探し始める。

 

 曰く、悲しくはないのだ、と。やはりいくら反芻しても彩歌は他の参加者の演奏に感動していたし、それは今も変わらない。結果に不満がある訳でも、やはりない。入賞できなかったのは自身の実力が足りなかったという、ただそれだけの純然たる事実に立脚する結果なのだから。

 

 だが、いや、だからこそ、何かが彩歌の胸の内につっかえている。勝てなかった。誰かを笑顔にできなかった。自分が音楽を続けているのは父や母のお陰であるのに、何も返せなかった。その事実を前にすると胸中に激情が溢れてきて、こうして隠れて泣いてしまった。

 

 泣いているが故につっかえながらの彩歌の言葉を、愛歌は頷きながらも黙って聞いている。そうして彩歌が内心を吐露しきると、それに応えるようにしてようやく口を開いた。

 

「そっか……きっと悔しいんだね、彩歌は」

「くやしい……」

 

 悔しい。悔しい。母の言葉を舌の上で転がすように、彩歌は何度か譫言めいた調子で繰り返す。その表情は告げられた瞬間こそ虚を衝かれたようであったが、次第に納得へと変わっていく。まるでたった今その感情の名を理解したかのように。

 

 無論、彩歌とてそれまで悔しさを覚えた事がない訳ではない。ピアノにおいてはなかなかミスを修正できない時。歌であれば思ったような音が出せなかった時。父から習っていたダンスであればステップを間違ってしまった時。彼は確かな悔しさを感じていて、しかしそれは自分に打ち克てないが故のものだった。詰まる所彼にとって悔しさというのは自身で完結するものであり、音楽を他者と比する事による悔しさというのは発想の外であったのだ。母の経営する音楽教室に通う生徒達とは少なくとも彩歌は比較するような事はしていなかったのだから、半ば当然の帰結である。

 

 けれど愛歌から激情の名を告げられ、幼子なりに考えて自ら定義した。そしてそれのために困惑は気付きに転じ、しかし涙は止まらない。むしろ悔しさを自覚したことで滂沱はよりその勢いを増してしまいそうで、しかし彩歌は乱暴にそれを拭った。涙の跡ははっきりと残ているが表情に先の困惑はなく、代わりに決意めいた色が立ち入っている。それから何かを見て取ったのか、愛歌が無言で頷いた。

 

「ん。いい表情(カオ)だ。やっぱり彩歌には、そういう表情の方が似合うね」

「えへへ、ありがとう。……うん、おれ、きっとくやしいんだ。……入賞できなかった。お母さんとお父さんに、何もかえせなかった。おれがほかのひとより上手くなかったって、それだけだけど……」

 

 彩歌の述懐にも、愛歌はやはり何も言わない。慰めもお為ごかしも、彼女が発することはない。真野愛歌という女性は優しい母であったが、同時に自他関わらない厳格さを備える人でもあった。彩歌に年齢不相応な現実主義者(リアリスト)の一面があったのは、彼女の影響でもあるのだろう。

 

 自身の教導も足りなかった。そう愛歌は自省する。だが彼女はあえて彩歌に先回りして逃げ道を用意する事はしない。それは卑怯でもあろうが、同時に息子の成長に対する最大限の信任でもあった。

 

 愛歌が待つ前で、でも、と彩歌は言葉を続ける。

 

「もうぜったいに負けない。次こそ入賞してみせるよ。もっと練習して、もっともっと上手くなって、みんなを笑顔にしてみせるんだ!」

 

 幼さを残す短い腕を目一杯に広げ、高らかに宣言するかのように彩歌が言う。その頬には涙の跡が浮かび目は充血して赤いままだが、満面の笑みに影の気配はない。悔しさを糧へと転化させた者の姿がそこにはあった。

 

 自身の音楽で、皆を笑顔にする。文字通りに受け取るのならばあまりにも突飛で大それた願いだ。ともすれば幼さが齎す蒙昧が故の戯言と一笑に伏されてしまいそうな。だが歌う彩歌の瞳はあくまでも真っ直ぐで、自身の夢を叶えんとする気概に満ちている。

 

 そしてそれは何も幼気な自己顕示欲と承認欲から来るものではなく、自身の“大好き”を叫び、本当に皆に笑顔になって欲しいという純粋な希望(ねがい)だ。本当に音楽が大好きだからこそ芽生える思いだ。宣言を受け取り、愛歌が彩歌の頭を撫でる。

 

「うん、その意気だ。その気持ちを忘れず練習を続ければ、夢はきっと叶うよ。なんたって彩歌は頑張り屋だし、私と陽彩君の自慢の息子だからね」

 

 そう言いながらもまだ、愛歌は彼女とよく似た彩歌の亜麻色の髪を撫でている。コンクールのために整えた髪型が崩れてしまいそうな程にそうしているのは、或いは歓喜に綻ぶ自らの表情を隠すための、ある種の照れ隠しであろうか。自分や夫の大好きなものを、子供も心の底から好きでいてくれる。それだけでも望外の幸福だというのに、夢でもあるなどと。幸福でありすぎていっそユメなのではないかとさえ疑ってしまう程であった。

 

 だがあまりの果報の飽和に現実感を喪ってしまいそうだとしても、これは紛れもない現実だ。故にこれ以上撫で続けているといい加減鬱陶しがられてしまいそうで、漸く自嘲した愛歌が手を離す。そうして彩歌は乱れた髪を軽い手櫛で直し、次いで母に悪戯な笑みを向ける。その意図が読めず、愛歌が首を傾げた。いったいどうしたのか、と。

 

「えへへ、お母さんとお父さんはホントになかよしなんだなぁって、それだけ!」

「ええっ!? そりゃあ、私と陽彩君の仲が良いのは当然だけど……」

 

 息子の思わぬ発言にそれまでの冷静な気配を崩し、頬を紅潮させ含羞の声音を漏らす愛歌。彼女は知らないのだ。彼女のいない所で陽彩も全く同じことを彩歌に言っていた事を。その間に彩歌は彼女の肩越し何かを見つけたようで、未だ涙の跡が残る顔をより綻ばせた。反射的に愛歌がその視線を追ってみれば、その先にいたのは陽彩であった。彩歌が飛び出した後に愛歌と手分けして探していた陽彩だが、愛歌からも連絡がないため彼女の方にも来たのだろう。

 

 ふたりに気付いた陽彩はその傍まで駆け寄るとまずは愛歌に礼と謝罪をしてから彩歌を叱る。何故叱られているのかこの期に及んで理解できない程彩歌は子供でもなく、謝罪と反省は素直だ。よし、と言い、陽彩が彩歌の頭を撫でる。

 

 へへへ、とはにかむ彩歌。その表情は滂沱の名残こそあるものの悔しさに振り回されている気配は既に立ち消えている。忘れたのではない。自身の胸中に在る混沌が悔しさだと定義し、呑み下した者の笑みがそこにはあった。それを見て、愛歌が安堵の籠った吐息を漏らす。

 

 それを知ってか知らずか、陽彩と手を繋いだ彩歌が笑顔で愛歌にも手を伸ばした。その手を取り、息子を挟んで家族3人で家路に着く。ピアノも歌もまだまだ頑張ろう、だとか。今日の夕飯は何にしよう、だとか。そんな、直近から先々までの未来の話をしながら。

 

 ───この時、真野彩歌5歳。未だ彼は6歳の頃に1年前と同じコンクールで最高の賞を取ることも、それより更に先の未来にて幸福の回想に痛みと雨音を伴う事になる事さえ、知らない。

 


 

『いよいよ明日ですね!』

 

 開口一番の明朗快活な声。彩歌の許に菜々、もといせつ菜から通話があったのは彼が1日の予定を全て終えて、自室に戻ってきた少し後の事であった。彼女の言ういよいよ明日というのは他でもない、彼が出場するピアノコンクールの東京大会である。

 

 ふたりは同じ学校で通っているとはいえ学部が異なり、またそれぞれに忙しい身の上であるからこの数日は会話もしていなくて、だからか椅子に深く腰掛けながら話す彩歌の口の端には笑みが浮かんでいる。

 

「そうだね。……でも、どうして電話を? 明日、会場で会えるだろうに」

『えへへ……何だかソワソワして、居ても立っても居られなくて。思わず電話しちゃいました』

「なんで優木さんがソワソワしてるのさ」

 

 ふふふ、と微笑する彩歌とせつ菜。最後に会った時にはいつかの雨天の日の出来事のために不穏な気配が漂っていた彼らだが、今の彼らに先日と同質の気配はない。或いはそれは直接対面していないが故であるのかも知れないが。

 

 あえて先日の話題を避けているという訳でもなく、どちらかが気を遣っているという訳でもない。そういう距離感が彩歌にはとても心地よいものに思える。いくら何度もコンクールに出て慣れているとはいえ緊張とは無縁ではいられなかった彩歌だが、楽しげな幼馴染に影響されてか聊か緊張が和らいでいくのを感じていた。無意識に笑みが零れているのは、そのためであろうか。

 

 たった数拍の、笑声の交錯。電話越しであるため互いの顔は見えないが、彩歌には相手の表情が目に見えるようであった。それが彼の思い上がりでない証拠は何処にもないけれど。

 

「でも、うん。俺もソワソワしてる。人前で演奏するのなんてもう慣れてる筈なのに、こればかりは全然消えてくれないね」

『大丈夫ですよ、彩歌くんなら。それとも、武者震いですか?』

「武者震いか……そうかも知れないね」

 

 何処か挑発的なせつ菜の問いに、彩歌は諧謔を以て言葉を返す。せつ菜の声を聞いても緊張は完全に消失した訳ではないが、その分は武者震いだ、と。そう思えばこそ、明日の演奏への意気込みも増すというものだ。

 

 彩歌は全国大会における優勝経験こそ一度も無いが、東京大会における優勝経験なら何度もある。だが、だからとて今回も優勝できるとは限らない。彼が毎日練習を欠かさないのと同様に、他の参加者も日々練習を重ねているのだから。故に緊張から完全に解放される事が無いのも致し方ない事だ。

 

 それでも、彩歌は勝たねばならない。勝って、自らの価値(そんざい)を示さねばならない。それが責任だから。もう負けないと誓ったから。心情も状況も、何もかもが変化した現状の中にあって、その決意は変わらずに彩歌の胸中に在る。となれば、武者震いというのも決して間違った表現ではないだろう。

 

 内在するやる気を表すかのように、肩を回す彩歌。無論それはせつ菜からは見えないが、雰囲気からそれを察したのだろう。ふふ、という笑声が電話口から聞こえた。

 

『やる気一杯ですね! うおぉぉぉぉ、私も燃えてきました! 明日は全力で応援しますね! 声は出せないので、心の中で!!』

「ありがとう、優木さん。キミが応援してくれるなら、百人力だよ」

『それなら良かったです! えへへ』

 

 歯の浮くような気障ったらしい彩歌の言葉にも、せつ菜は屈託のない喜悦を以て返す。傍から見れば彼の発言は軽薄な男のそれであろうが、そこに嘘がないとせつ菜が確信できるのは彼女の純真さとふたりの間に在る時間の質量によるものか。

 

 電話越しであるために無論彩歌からはせつ菜の表情は見えない。だが彼女の声音は彼に満面の笑みを確信させるには十分で、彼は胸中に柔らかな熱が広がっていくのを自覚する。大切な人が笑顔でいてくれる。抑圧と不感に凍り付いた彼の心でも、その事実に揺れ動かない筈もない。元より大切な人に笑顔でいて欲しいといのは彼の根底にある思いで、何も感じない訳もないのだ。

 

 故にこそ、明日のモチベーションも上がるというものだ。自身が果たさなければならない責任は果たす。その上で大切な人が笑顔でいてくれたのなら、それは望外の幸福というものだろう。───その勘定の中に致命的な瑕疵が存在する事に彩歌は気付かない。或いは、意図的に欠落させている。彼にとっては()()が勘定に含まれないのは当然であるが故に。それにそれの存在も忘れてしまう程に相手の笑顔を望んでいるとも言えるだろう。

 

『昔から、貴方は大好きな事に一所懸命でしたから。自然と応援したくなってしまうんです。それに……貴方のピアノや歌、それを楽しむ貴方の姿が、私は大好きですから』

「っ……」

 

 ある種の確信を伴って放たれたせつ菜の声音に、彩歌が思わず息を詰まらせる。真野彩歌とはそういう少年で、だからこそ自分は好ましく思っているのだ、と。それは何の変哲もない他者評であるけれど、同時にせつ菜から彩歌への信頼でもあった。

 

 何故なら、今のせつ菜は彩歌には彼女の知らぬ一面がある事を知っている。彼女だけではなく、誰に対してもひた隠しにある過去がある事を知っている。今の彩歌が、彼女と知り合った時の彼とは同じでない事を知っている。それでもせつ菜にとって彩歌とはそういう人だと、彼女はそう言うのだ。

 

 その信頼が痛くて、しかし確かに嬉しくもあって。そんな矛盾した感情に、彩歌は自身の鳩尾の辺りで掌を軽く握る。そうして、数瞬。彩歌の表情に浮かんだのは偽らざる微笑であった。

 

「これだけ応援されて、期待されて。猶更負ける訳にはいかないね。尤も、ハナから負ける気もないけど。

 それにしても……さっきのキミの言葉、まるで愛の告白みたいだったねっ」

『こっ、こここここ、告白っ!? 何を言ってるんですか!? わ、私は別に、そんなつもりでは……』

「フフ、分かってるさ。冗談だよ」

 

 直接は見えずとも、今、せつ菜の表情は含恥のために耳まで赤くなっている事であろう。そう確信させる声色が彩歌の耳朶に触れ、彼が笑んだ。左手を口許に遣りくすくすと笑うその仕草は、彼の癖であった。

 

 そうしているうちにせつ菜も落ち着きを取り戻してきたようで小さな声で何事か呟いているが、電話を介しているが故に彩歌にはその詳細を聞き取る事ができない。或いはあえて彼には聞こえないようにしているのだろうか。後者であればあえて聞こうとする事もあるまいと、彼は笑んだまま黙っている。だがそのうち、せつ菜ではない別の女性の声が微かに混じる。それが彼女の母の声である事を、彩歌は知っていた。

 

『あわわ、お母さんですっ……』

「こんな時間まで電話している所を見られたら、怒られてしまうかな。そろそろ終わるかい?」

『はい……すみません』

「良いのさ。じゃあ……おやすみ」

 

 はい、おやすみなさい。その挨拶を最後に、せつ菜との通話が切れる。そうしてホーム画面に戻ったスマホを軽くベッドの上に放ると、彩歌は椅子から腰を上げた。足を向けた先は壁面のスイッチであり、その短い間に彼は先のせつ菜の言葉を反芻する。

 

 彩歌のピアノや歌、それを楽しむ姿が好きなのだと、彼女は言った。以前の物言いを総合すればそれは昔だけではなく今もそうで、だからこそ分からない。彩歌にはもう音楽を楽しむ権利などないと、そう自身で規定しそのように行動してきた筈だった。只管に己の技術を高め、誓いと責任を果たし、己の価値(そんざい)を示すために。自己認識と他者評価の乖離がそこにはあった。

 

 

 ならば───己の本心は何処にある?

 

 

 降って湧いたそんな自問自答に、彼は冷笑を浴びせた。あまりにも今更だ。そんな懊悩が許される段階は、とうに過ぎている。

 

 照明のスイッチを切り、視界が薄暗闇に閉ざされる。目前に立ち現れる懊悩を、掻き消すかのように。



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第20話 混迷はカレらの過去より来りて Ⅰ

 ピアノコンクール当日のような忙しい日でも、彩歌の早朝の習慣(モーニングルーティン)は変わらない。目覚めたらすぐにランニングウェアに着替え、家を出て伽藍洞の街中を走る。或いは悠長だとか呑気だとかと言われてしまいそうな行為だが、彩歌にとってはそれは必要な行程であった。言うなれば儀式のようなものだ。

 

 自己の裡で定型化された動作というのは、それだけで一定のパフォーマンスを維持する呼び水となる。例えるならば、ルーティンとは鍵だ。決まった一連を以て自身の中に仕舞われている〝いつも通り〟を十全に外界へと出力するのである。

 

 日々の練習を本番さながらの熱量で熟している彩歌にとっては、これは非常に重要な事だ。毎回の練習を本番のように行っているのであれば、本番も練習同様に行えればそれは少なくとも最低限とは言えよう。練習は本番のように、本番は練習のように。以前彩歌はクラスメイトが遊んでいたスマホゲームでそんなセリフを目にした事があったが、彼の行いはまさしくそれであった。

 

 詰まる所早朝のランニングというのは、彩歌が彼自身に最低限度のいつも通り(パフォーマンス)を保証する行程なのだ。およそ1時間程度のそれを終え、程良い疲労感と共に身体の機能が問題なく立ち上がったのを実感しながら家の門を開く。そうして後ろ手で柵門を閉めたのと殆ど同時、彼の視線の先で玄関のドアが開いた。そうして出てきたのは見慣れた出勤姿の彼の父、陽彩である。

 

「──む。おはよう、彩歌。今日も朝から精が出るな」

「おはよう、父さん。そういう父さんは、これから仕事?」

 

 彩歌の問いに陽彩は言葉では解を返さず、しかしおどけるように肩を竦める動作には肯定の意が込められている。同時にそれは愛息の細やかな反抗期に対する彼なりの確認でもあった。

 

 今日は他でもない、彩歌が参加するピアノコンクール当日である。だというのにいつもと変わらず出勤する陽彩の姿は、余人からすれば薄情とも捉える事もできようが、これは陽彩にとっては本意とは言い難い。彼にそうあるように望んだのは、彩歌であった。

 

 故に陽彩の所作に潜む再確認の意図に彩歌は気付いた者の、あえて明確な(いら)えを返さない。良いのか? 勿論。言葉にはせずとも父子の遣り取りにはそれだけで十分であり、完了の後に陽彩が息を吐いた。綯い交ぜになった感情を体外に置き去りにするかのように。頑なだな、と苦笑する。

 

「お前がそう望むなら、俺は何も言わないさ。……でも、これだけは忘れないでくれ。たとえその場にいなくても、俺はお前を応援している。いつでも、いつまでもな」

「……うん。ありがとう、父さん」

 

 父からの真っ直ぐな言葉に、はにかみながら彩歌が首を小さく縦に振る。それを見て取るや陽彩もまた微笑みを返して優しく彩歌の頭を撫でた。触れられた瞬間こそ驚いた彩歌であったが、恥ずかしそうな表情をしながらも何も言わずに受け入れている。

 

 幾許かしてから陽彩は彩歌の髪から手を離し、出立の挨拶を残してその場を去っていく。そうして陽彩が乗り込んだ黒い自家用車が駐車場から出て行くのを見届けてから彩歌は踵を返す。ポケットから鍵を出してドアを開錠しようとしたが鍵穴は空回りだ。恐らくは家を出た直後に陽彩が彩歌の帰宅に気付いたからであろう。取っ手に手を掛け、何気なく開放する。

 

 ただいま、と一言。既に陽彩は出勤してしまっているから、少し前まではそれに応える声などは在る筈もなかった。けれど、今は違う。眠たげな欠伸と、緩慢な足音。2階から降りてきたのは彩歌の師であり居候、もとい同居人である詩音だ。くすんだ赤朽葉色の寝間着を纏った詩音は彩歌が聞こえていたか否かは不明だが、その姿から彼がランニングを終えて帰ってきた所だと察したのだろう、声を投げる。

 

「あら。お帰り、さっちゃん」

「先生。今日はちょっと起きるのが早いね」

「ふふ、そうね。30分程度だけど。……陽彩クンは、今日も仕事?」

 

 数瞬前までは表情の上に在った眠たげな気配を引っ込めた、至って平静の声音であった。それでいて様子を伺っているようでもある。あえて陽彩の事について言及したのは、玄関に彼の靴が無い事に気づいたからか、或いは彩歌の雰囲気からだろうか。

 

 だがどちらであれ彩歌にとっては唐突な問いかけであったようで、面食らったかのような表情を浮かべている。尤もそれも一瞬の事であり平常に立ち戻るのにそう時間はかからず、滲んだ汗を拭ってから詩音に答える。

 

「うん。ついさっき、外で会ったよ」

「そう。……息子がコンクールに出るって時まで仕事なんて、ワーカーホリックってやつ?」

「あはは……あんまり心にもない事は言うものじゃあないよ、先生。それに、仕事があるのは先生だって同じじゃない」

 

 からかうような調子で彩歌はそう言い、詩音が「ばれた?」とでも言うかのように短い笑声を漏らす。彩歌は自身と父の間にある事情について詩音に詳しく話した事はなかったが、父、子供共に彼女とは相当長い付き合いである。予想されているというのは想定内であった。

 

「地区大会は見に来なくてもいいって言ったのは俺だからさ。その時はちょっと言い合いになっちゃったけど、父さんの足枷にはなりたくないし、それに……」

 

 そこで一旦言葉を区切り、閉口する彩歌。さしもの共感覚者たる詩音といえど相手が何も言わないのであれば色も視えないが、あえて先を促す事はしない。けれど彩歌の言を耳朶の奥で反芻していた。

 

 彩歌は自身を父の足枷と言ったが、陽彩は息子をそう評するような人間性をしていない。それは彩歌も理解しているだろうにあえてそう形容したのは、それが彼による彼自身への評価であるからだろう。ひとりで大半の家事ができるのも、学費が免除される特待生になったのも、その裏返しとも言える。

 

 一方で本心ではすぐ近くで彩歌を応援したいと思っていながら彩歌の意向を優先した陽彩もまた、彩歌の負担にはなりたくないが故にその選択をしたのだろう。互いに相手には口にしていない思いや秘めた願いがあると分かっていながら。つまり彼らは、どこまでも似た者父子(おやこ)なのだ。

 

 だがそうして相手のために自身を押し殺してしまう彼でも口にした希望がある。間隙の続きは、まさしくそれであった。

 

「どうせ見てもらうなら、全国の舞台に立ってる所を見てもらいたいんだ。まぁそう言って、まだ一度も全国で一番にはなれてないんだけどさ……」

 

 そう言ってわざとらしく肩を落とす彩歌。その仕草こそまるで彼が全国で頂点に立てていない事をさして重大に捉えていないかのようであるが、実態としてむしろそれは本心を隠すための道化のようなものであった。何故なら、彼は未だ誓いを果たせていないのだから。責任感の強い彼は、その事実を容易には流せない。

 

 そんな彩歌を詩音が察せない筈もない。それは彼女が有する特異性が故でもあり、彩歌の性格への理解が故でもある。けれどそれらを踏まえた上で、彼女は呵々としながら弟子の肩を軽く叩いた。

 

「なら、尚の事手は抜けないわね。……ホラ、朝食の準備はあたしがしておくから、あんたはシャワー浴びてきちゃいなさい。後で最後の練習、するんでしょ?」

「うん。ありがとう、先生。まぁ、朝食の準備と言っても、昨日の残り物温めるだけだけどっ」

「余計なコト言うんじゃありません」

 

 最後に詩音をからかうようにそう言って、彩歌は浴室の方へ早足で駆けていく。その背が曲がり角に消えて完全に見えなくなるまで見届けてから、息を吐く詩音。そうして、ひとつ伸びをする。

 

 詩音とて陽彩と同じように仕事──ピアノリサイタル関係の打ち合わせである──のために彩歌の演奏を聴きに行けない身の上である。だが陽彩が彩歌に言葉と熱を残したように、人を支えるというのは決して同じ場にいなければできない事ではないのだ。些細ではあるけれど、朝食の準備もそのひとつ。そう決めて残った眠気を追い出し、詩音は台所へと足を向けた。

 


 

「───」

 

 目的地たる市民ホールを間近に臨み、自然と深呼吸が洩れる。そうして肺を満たした磯の空気は、彩歌にとっては既に嗅ぎ慣れたものだ。5歳の時分に初めてコンクールに参加してからというもの、その市民ホールは毎年のように利用しているのだから当然というものであろう。

 

 軽く周囲を見渡せば恐らくは参加者と思われる正装姿がいくつかあって、彼らの表情は皆真剣そのものだ。それだけで彼らがこのコンクールに掛ける思いの質量を察するには十分であり、なれば彩歌の気概も増すというものである。尤も、それは周囲の人々も同様であろうが。

 

 だが全員が敵手でありながら志を同一とする状況の中に在って、彩歌には異にする所があった。そのひとつが彼が抱える菊などからなる()()であり、幾人かは彼に奇異の視線を向けている。そんな目も彼にとっては慣れたもので、しかし直後に彼は思わず足を止めてしまう。──彼の目の前、市民ホール前の交差点。横断歩道横のガードレールに、既に花を供えている人影がある。膝を突き、黙祷を捧げて。それを認めた途端、彩歌が覚えたのはまるで突然に首を万力で締め上げられたかのような衝撃と雨音の接近であった。

 

 分かっていた筈だ。理解していた筈だ。毎年のようにこの場所を訪れていれば、いつかはそういう事もあると。けれどこの数年、()()の気配はこの場所から絶えていたから。それ故の驚愕であったのかも知れない。

 

「キミは……」

 

 絞り出すような、乾いた声。半ば無意識の事であったためかその声はひどく小さく、けれど相手には聞こえたのだろう。その少女の肩が動き、次いでゆっくりと立ち上がる。ただ黙礼を解いただけにしてはあまりに緩慢に過ぎるその動作は、何かを堪えているかのようでもある。

 

 恐怖とは、罪業とは、己の過去より来たるものである。なればそれはまさしく彩歌の過去よりずっと彼を縛り付けてきた罪業が形を取って立ち現れてきた結果なのだろう。

 

 故に、眼を逸らせない。立ち尽くす彩歌の前で少女はゆっくりと振り返り、遂には彼と目が合う。顕わになったその瞳は、煮え滾る岩漿の如くに醸造され果てた嚇怒と怨嗟を湛えていた。それは誰あろう、彩歌への激情の顕現であった────。

 


 

 侑とせつ菜の待ち合わせに半ば飛び入りのような形で歩夢までもが参加したのには、いくつかの理由があった。まず以て侑と彼女の親しい相手がふたりきりで外出するという事態に対して形容し難い胸騒ぎめいた感触を覚えたから、というのがある。その行き先が出会って間もない異性の友人であるらしい、というのは勿論そうだ。だが侑に同行を申し出た際に語った〝自分も演奏を聴いてみたい〟というのも、決して嘘ではなかった。

 

 せつ菜や侑とは違い、歩夢は彩歌とは特筆して親しい訳ではない。連絡先も知らなければ、そもそも直接言葉を交わした回数も片手で済ませられる程度だ。その間柄は友人というよりも知人、顔見知りという方が適切だろう。

 

 にも関わらず演奏に興味があるというのは、聊か不自然であるのかも知れない。だが、理由はある。菜々、もといせつ菜の復帰ライブがあった日に見た、彩歌の〝目〟だ。あの日かすみに連れられる形で歩夢らよりも遅れて屋上にやってきた彼の瞳は自身の幼馴染への友誼以外の何かを感じさせるもので、同じように幼馴染のいる彼女はその正体も分からない感情に共感めいたものを覚えた。それを由来とした、些細な興味だ。ある種の同族意識と言い換えても良いかも知れない。

 

 だが侑やせつ菜にとってそれは知る由もない事であるし、歩夢自身にとってもあまり重要な事でもない。今も目の前で談笑しているせつ菜と侑を見て気を揉んでいる程には。けれど3人で学校やスクールアイドルについて話すのはとても楽しくて、そんな矛盾とも言える感情が彼女の中で同居していた。

 

 そうして3人で会話しながら歩いているうちに目的地である市民ホールに程近い所にまで来ていて、侑が声を洩らす。

 

「見えたよ! 楽しみだなぁ……!」

 

 歩夢らの方を向き市民ホールを差しながらそう言う侑。その緑玉のような瞳は強い期待を宿し煌々としていて、その様たるやまるでスクールアイドルのライブを目前とした時のようですらある。

 

 無論、彩歌はスクールアイドルではないし、これから向かう先はライブではなくピアノコンクールの会場だ。同じく音楽でこそあるものの、ジャンルが違う。それなのに同じようにトキメキを表現する姿は、歩夢にとっては既知であり同時に未知でもある姿だった。

 

 故に思わずその理由について問おうと口を開きかけて、しかし声が音として形を得ようとしたのと同時に彼女らの横を路線バスが過ぎ出鼻を挫かれてしまう。そのせいだろうか、胸中で膨らんでいた胸騒ぎは空転して、勢いを減じてしまった。

 

「歩夢?」

「歩夢さん? どうかされましたか?」

「あ……ううん、何でもないの。ごめんね」

 

 空転が表情に出ていたのだろうか、ふたりは歩夢にその所以を尋ねるが、歩夢はその答えを曖昧にしてしまう。それでも侑とせつ菜は心配そうであるけれど、歩夢は平常に立ち戻りそのまま歩いていく。そうなってしまえばもう無理に尋ねるのも憚られて、ふたりも歩を戻した。

 

 その先では先の路線バスがホール最寄りのバス停に停まっており、降車口からは続々と人が降りてきていた。その恰好は様々だが多くがある程度整った姿であり、目的地が同じであるのは察するまでもない。そしてその人の流れの中に、侑は見知った顔を見つけた。

 

「あっ、大雅くんだ」

「っ……!」

 

 侑の言葉の通り、その視線の先にいたのは彼女の友人兼クラスメイトであり彩歌の親友でもある宗谷大雅であった。侑がその姿を発見したのと殆ど同時に、彼女の隣で微かにせつ菜が表情を強張らせる。

 

 それを知ってか知らずか、大雅も侑達に気付いたようで驚いた表情を浮かべたがすぐに彼女らがこの場にいる理由を察したようで、無線イヤホンを外しながら「よっ」と掌を振った。

 

「オマエらも来てたのか、高咲、上原。それと……アンタは、優木せつ菜?」

「は、はいっ。優木せつ菜ですっ。()()()()()

 

 そう言って小さく頭を下げるせつ菜だが、その所作は何処かぎこちない。それもその筈で、せつ菜、もとい菜々と大雅はこれが初対面ではなかった。彼らは共に普通科であるし、彩歌と交友がある。彼を通して遭遇し会話した事は、一度や二度ではない。

 

 だがせつ菜として遭遇するのはこれが初めてで、しかし彼女にとって〝菜々としての知人にせつ菜として初対面らしく振る舞う〟というのは決して初ではない。それなのにぎこちなくなってしまったのは、彼女が大雅に対して抱く彼女らしからぬ隔意、ある種の苦手意識が原因であった。それの由来は未だ彼女自身にも判然としないけれど。

 

 それでも菜々としての隔意を隅に追いやり、大雅もまた丁寧にせつ菜に応える。けれどそのふたりの遣り取りを見ていた侑と歩夢の目には疑問符が浮かんでいて、せつ菜が首を傾げた。

 

「あぁいや、大したコトじゃあないかもなんだけど……せつ菜ちゃんって、大雅くんと初対面なの?」

「……? そうですが……何かありましたか?」

「うぅんと……」

 

 その時点でおおよその事情(カラクリ)を察したのか侑は言いにくそうにするが、さして間を置かず再度口を開いた。

 

「私達にね、せつ菜ちゃんと彩歌くんが友達だって教えてくれたのは……大雅くんなんだ」

「えぇっ!?」

 

 侑の暴露に思わず素っ頓狂な声を洩らしてしまったせつ菜だが、それも無理からぬ事であろう。まず優木せつ菜という生徒は本来的に実在しない、中川菜々のスクールアイドルとしての姿だ。故にその同好会外の交友関係の知識を全く初対面の人物が知り得ているというのはあり得ない事態である。ただひとつ───〝優木せつ菜の正体は中川菜々である〟と知っている場合を除いては。

 

 驚愕に支配されていても聡明なせつ菜は瞬時にその事に思い至り、反射的に大雅の方を見る。無論せつ菜自身が大雅に自ら正体を明かす理由はないし、状況からして彩歌が暴露(バラ)した訳でもあるまい。なのに、何故。結果的に3人から疑念の視線を向けられてしまった大雅は気まずそうにしながらも、その言外の疑問に答えた。

 

「自力で気づいたんだよ。まぁ、色々あってな。当然だが誰にも正体は言ってないし、バラすつもりもないから安心してくれ。

 ……当人に言う気がないのに他人が勝手にバラすのは、良くないからな」

「───?」

 

 肝心の本人に明かす気がないのに、余人が明かすのは善くない。大雅の返答は至極真っ当であると同時に、極めて普通の事だ。声音にも嘘の気配はなく、けれどせつ菜にはほんの一瞬、大雅の瞳に憂いめいた色が過ったようにも見えた。瞬きの間に雲散霧消し常の勝気な表情に立ち戻る。

 

 見間違いを疑ってしまうような極めて短い間隙だ。既に大雅の様子に奇妙な点は無いため真偽を確かめる事すらできず、また真実であったとしても彼は決して口にするまい。何故なら、話す気が無い事は話さないのだから。それは、ある意味では大雅の誠実さの表れでもあろう。

 

 しかし当の大雅はせつ菜の思案など何処吹く風で、全く呑気に大きな息を吐いてから親指で市民ホールを指し示した。

 

「さ、そろそろ行こうぜ。時間がなくなっちまう」

「は、はい。そうですね」

 

 大雅の音頭で我に返るせつ菜と、首肯する侑と歩夢。それぞれから同意を得られた事で大雅は頷きを返し、踵を返してホールに入っていく。地区大会とはいえコンクール自体の規模がかなりのものであるためかエントランスは多くの人でごった返していたが、大雅は全く迷いもしない。手慣れた様子で全員分の受付を済ませてしまう。

 

 その様子は明らかに何度か同じことを繰り返してきた者のそれだ。恐らくは今までもこうして何度か彩歌が参加したコンクールを見に来た事があるのだろうと、侑達が悟る。そうしてそれと同時にせつ菜の胸に靄のような感慨が生まれたけれど、それは以前のように正体を掴むより早くに輪郭を喪ってしまう。

 

 そうしている間にも大雅は受付を離れ、やはり迷いのない足取りで何処かへと向かっている。初めから彩歌の居場所を知っているかのように。そして、確かに彩歌はそこにいた。大ホール出入り口の扉に程近い壁に背を預け、スマホに視線を落としている。その肩を大雅が横から叩き、すぐに彩歌の目が見開かれた。

 

「よう」

「大雅!? キミ、部活は!?」

「開口一番それかよ。休んだに決まってんだろ? オマエだってオレの出る試合は練習休んで見に来てくれるし、第一、中学の頃からこうだっただろ。今更だ」

「確かにそうだけど……レギュラーとしての自覚が無いのかい、キミは……」

 

 態々コンクールを見るために部活を休んだとまで宣う大雅に彩歌は半ば呆れた様子だが、孤を描いた後角は彼が呆れ以上に歓喜を抱いていると周囲に悟らせるには十分であった。彼らの口ぶりからして彼らは互いの出る大会に応援に来ているのは明白であり、そんなふたりの様子に侑が微笑みを零した。

 

「仲良しだね、彩歌くんと大雅くん」

「そうだね。何だか、小っちゃい頃から一緒にいるみたい」

「ふふっ、まるで侑さんと歩夢さんみたいですねっ」

 

 笑声と共にせつ菜はそう言い、直後にはたと気づく。彩歌と大雅は侑と歩夢、即ち物心付いた頃から共に過ごしてきた幼馴染のよう。それは紛れもなく彼女の裡から出でた正直な感想だ。だからこそ、それは彼女自身に対してすら虚偽を許さない。

 

 大雅は、何度もこうして彩歌の応援をしてきて、応援をされてきた。せつ菜は、今回を除けばどちらも1回だけだ。それに彩歌は大雅の事だけは苗字ではなく名前で呼ぶ。他の人々には、せつ菜に対してすらそうではないのに。

 

 自己の不明領域からやってきてその存在を主張する『優木せつ菜』らしくも『中川菜々』らしくもない感情。焦りにも似たそれは、これまでも何度か彼女の裡に現れてきたものだ。それが嘗てない程に彼女を揺さぶって、心穏やかにはいられない。だがそれを鎮めるかのように、彩歌の声。

 

「優木さん、高咲さん、それに上原さんも。今日は来てくれてありがとう。友達からこれだけ応援されるのは、初めてかも知れない。フフ、今日は情けない所は見せられないね」

 

 口許に手を遣り不敵な笑みを浮かべながら、彩歌が言う。それはせつ菜にとっても見慣れた彼の癖であったが、仕草の浮薄さとは裏腹にそこには闘志とでも言うべき情念が宿っているようにも、彼女には見えた。

 

 昨晩電話した時に想像した通りの表情だ。彼女の知る彩歌の姿だ。その事実にせつ菜が微かな安心を覚えていると、スタッフと思しき人物が遠方で声をあげた。どうやら参加者の収集であるらしくその場を離れようとした彩歌だったが、その背を大雅が呼び止めた。首を傾げる彩歌に接近し、その耳元で呟く。

 

「なぁ、彩歌。オレの気のせいだったら悪いんだが……何かあったか?」

 

 あまりにも要領を得ない問いだ。この場において何かあったかなどと、屁理屈でどうとでも答える事ができるだろう。そもそも大雅らの前で彩歌は普段通りに振る舞っていて、察する余地など無かった筈だ。

 

 それなのに大雅は彩歌の態度の中に在った一分の隙から、彼の異常に朧気ながら辿り着いた。この親友はいつもそうだ、と彩歌は内心で独り言ちる。彩歌に限らず他人の事をよく見ている。洞察力が頭抜けているのか、少なくとも宗谷大雅という少年に対し嘘とは無力であると彩歌は知っていた。

 

 であればあえてせつ菜らには聞こえないように訊ねてきたのは大雅の温情であるのかも知れない。背中側から呼び止められたために振り返って応えた彩歌の視界には不思議そうな3人の表情が映っている。自嘲的に笑み、彩歌もまた小声で答えた。

 

「別に……懐かしい顔に会っただけさ。憎らしいくらいのね」

「……! マジか……」

 

 あまりにも曖昧模糊とした彩歌の返答であったが、それだけでも大雅は彼の言わんとする所を察したようであった。余人であればこうはいくまい。問われた側である彩歌もまた、両者の間にある共通理解とでも言うべき認識に仮託したのだから。

 

「惑わされるんじゃねぇぞ。オマエは───」

「分かってる。演奏中に余計な私情は持ち込まないよ」

 

 常の軽妙を一切合切排した大雅の忠告を最後まで聞く事もなく、遮るようにそう返して彩歌は踵を返す。それはまるで大雅が何を言おうとしていたのかを全て理解しながら、それを拒むかのように。

 

 彩歌と大雅は親友である。それは片一方の思い上がりなどではなく、相互理解に基づく共通の認識だ。故にこそ大雅程には洞察力の強くない彩歌でも彼の考えている事がおおよそ分かる。そのための先回り。

 

 だが相互理解があるからとて相手を全肯定するという事にはならない。むしろ理解しているからこそ需要はできても共感はできない事もある。大雅にとって、自分自身にすら本心を偽る彩歌の悪癖こそがそれであった。同様の由来から、糾弾もできないのだけれど。

 

「いつまで、オマエはそうやって……」

 

 大雅が呟く。けれどその声は喧騒に掻き消されて、彩歌の姿は雑踏の先へと消えてしまった。



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第21話 混迷はカレらの過去より来りて Ⅱ

 今回彩歌(さいか)を始めとする少年少女らが参加したコンクールが行われる市民ホールは築年数的には一昔以上前の遺物であったが、その実近年の建築物と比してもなお見劣りという気配とは全く無縁の趣があった。

 

 居住人口に対してあまりにも手狭な東京23区、その一等地内の決して少なくない面積を我が物顔で占有する偉容。高名な建築家がデザインしたとされる外観は近代的でありながらお何処か古代の神殿か何かを彷彿とさせる壮麗さがあり、独特な雰囲気を纏ったまま市街の中に屹立している。平凡と言うにはあまりに日常から隔絶し、さりとて異常と評するにはひどく自然なそれは、さながら都市の中に滲み出した非日常の顕現、平生と隔離されたある種の異界であった。

 

 そしてその中枢たるは、体積の大半を占めるコンサートホールである。収容人数1000人超、緩い孤を描く二階層式の構造を特徴とするそれは建物外観の荘厳さに負けず劣らずの厳威たる有様であり、見掛け倒しという形容とは全くの無縁だ。内を満たす喧騒も相俟って、さながら聖地と巡礼者の様相である。開場からさして時間を置かずしてそれなのだから、最終的には殆ど満席になる事は予想に難くない。

 

 故に大雅(たいが)ら4人が比較的容易にステージを臨める位置に席を確保できたのは、全くの幸運によるものであった。彩歌の分の席が無いと侑らは心配したが、大雅が言うには参加者の席は別に用意されているようである。初めて観覧に来た彼女らには知る由もなかったが、自由席にしてしまうと参加者の席が無くなってしまいかねないが為、当然の処置であった。

 

 そんな、人ひとりの座席を確保する事にすら難儀する状態であるのだから、会場が騒然たる有様になるのは半ば当然の事だ。しかしホールを満たす銘々の話し声も開会式が始まれば大幅に減衰して、けれどその中にあってせつ菜は落ち着きなく時折視線を会場に滑らせていた。尤も真面目な彼女であるから周囲の迷惑にならないよう、静粛に。だが唐突に、彼女だけに聴こえる程に微かな声がその耳朶を打った。

 

「いねぇよ」

 

 囁くようにそう言ったのは、せつ菜の隣の座席に座る大雅である。彼女が驚いてそちらを見れば大雅の顔はあくまでも壇上で挨拶を述べる主催者の方を向いていて、しかし視線だけは横目でせつ菜を捉えている。表情は真顔であるが憮然ではなく、粗野な物言いであっても乱暴ではない声音もあってただせつ菜に結論だけを投げ渡したようであった。

 

 だが、いないとは誰がいないというのか。そもそもせつ菜は誰を探して視線を彷徨わせていたのかを言葉にしておらず、であれば余人には対象を誰としているのかを察するにはあまりに不十分である筈だ。

 

 だというのに大雅の声には確信が伴っていて、それだけでもせつ菜が誰を探していたのかを大雅が気付いていると察するには十分だ。少ない状況証拠からせつ菜の正体に辿り着いたという事実から一度は彼女も実感していた事だが、並外れた洞察力、勘の良さである。宗谷大雅という少年の前にあっては虚飾や欺瞞、真実を覆い隠す胡乱は全くの無力なのではないかと錯覚してしまう程に。或いは大雅の内に確固たる理論があるのだとしても他者にはそれが見えない以上、せつ菜は驚愕するばかりだ。その間隙をどう捉えたのか、視線を壇上に戻し大雅は言葉を続ける。

 

彩歌(アイツ)の親はここにはいねぇ。数年前にアイツが追い出したからな」

「追い出した、ですか……?」

「あぁ。……いや、うん、追い出したってのは人聞きが悪いか。まぁ要は、見栄だよ」

 

 見栄。追い出したという物言いとは些かイメージの食い違う表現だが、大雅の裡ではそれが適切な組み合わせだ。つまりは彩歌にとって地区大会程度は問題ではなく、より上位の大会で成績を残した自分を見てもらいたいという事なのだ。随分な自信であるけれど、それが虚勢や自惚れではなく五指が摩耗せんばかりの研鑽に裏打ちされたものである事を大雅は知っていた。

 

 対するせつ菜にとって、それは全く初耳の事である。彼女が知っているのは彼女らが小学生であった頃に見に来た1回だけの事で、情報が更新されていなかった。去年はこうして誘われる機会もなく、彩歌の公的な場での演奏を観覧するのは実に5年振りの事だ。その間の事を彩歌は語りたがらないのだから、彼女が知らぬのも自然な事である。

 

 それまでの既知が後追いの事実に塗り替えられていく。自身の裡に在った他者の人格という輪郭が解け、新たな事実を内包するように再構築される。形而上の代謝と新生(スクラップ・アンド・ビルド)。時間的空隙に生まれた変化への適応。それは人間が生きる上において全く無意識に行っている行為で、何らおかしな点は無い。だがそこに寂寞めいた感慨を覚えてしまうのもまた、自然な情動でもある。

 

 故にせつ菜が淡々と語る大雅の黒い瞳の裡にそれらしき色合いを見咎めたのも、全く以て不自然ではない。だが、それでは配役が逆だ。今しがた既知を破壊されたのは、せつ菜の方であるというのに。なれば大雅のそれは過去の残滓であろうか。けれど即座に彼のそれは立ち消え、平時の冷徹にして温和なる中庸に回帰する。

 

「オレからもひとつ、訊きたいコトがあるんだが。いいか?」

「……? 何です?」

 

 壇上では開会の挨拶が終わり、名前も知らない来賓による長々とした話が始まっている。大雅はやはり顔だけはそちらを向いているが、黒々とした瞳が捉えているのはせつ菜だ。互いの距離にしか伝わらない程の音量で展開される、開いた密会。なれどそこに甘い気配は無い。さりとて険悪でもなく、奇妙な距離感の応酬であった。

 

「アンタはどうして、彩歌(アイツ)を知りたがるんだ? アイツの親を探してたのだって、挨拶したかったってだけじゃあないんだろ。秘密主義だからな、オレもアイツも」

「───」

 

 笑むような気配。せつ菜は息を呑み、けれど解答は即座には返されない。明朗快活を絵に描いたような彼女にしては珍しい間だ。しかしそれは大雅の問いを無視したのではなく、実態はむしろその逆。問われたが故に答えようとし、行き詰ったが為のものである。その感覚は何処か好きに理由を尋ねられた時と似ている。空白故に答えられないのではなく、混沌故に明文化が困難である、そんな感覚だ。

 

 友達だから。幼馴染だから。詩音に請われたから。真っ先に脳裏を過ったのはそんな所で、それらはきっと間違いではない。同時に解答としては聊か不足のようでもあり、せつ菜の生真面目さは不足を自覚したままの返答を自身に許さなかった。故に手繰る。己の裡に在る極彩色(マーブル)から特定の色を抽出するかのように。やがてゆっくりと、譫言のように言葉を紡ぎ始める。

 

「……約束したんです」

「約束」

「はい。小学校を卒業する時に……離れていても、心は隣に在るって。そう約束したんです」

 

 過去を懐かしむような声色に、大雅は何も返さない。だが無視したのではない。彼はしっかりとせつ菜の答えを聞いていて、故にこそそれを吟味していた。離れていても心は隣に在るなどと、あまりに夢想家(ロマンチスト)じみた約束だ。荒唐無稽と言い換えても良いだろう。だが彩歌らしいとも思う。今の彼からは想像もできないが、それでも夢想家の気は残っているのだから。

 

 約束した。故に知りたい。知らなければ、真の意味で寄り添えないから。至極単純な理屈(ロジック)だ。ある意味ではこれ以上なく律儀かつ真っ当である。大雅が思うに、優木せつ菜、或いは中川菜々という少女はひどく生真面目なのだろう。故にこそ大雅には、告げなければならない事があった。

 

「約束を守れない事を、アンタが気に病む必要はねぇよ。アイツは一度……いや、今でもその約束を破り続けてる」

 

 それが真実だ。今の真野彩歌では、優木せつ菜の真摯に報いる事ができない。大雅は彩歌の親友として彼と多くの時間を共にし、彼の過去を織っているからこそそれが確信できる。彩歌は自身の責任全てを取らんとし己と誠実たらんと規定しているが、故にこそ彼の責任感とは不完全なのだと、大雅は言うのだ。

 

 いかに彩歌がその過去に由来する深い悲しみを抱えていようと、約束を反故にしたという事実は消えない。情状酌量など在りはしない。過去の事実も何もかも、理由はどうあれ彩歌自身がせつ菜に伝える気が無いのなら、それは彼の裡で完結する理屈だ。

 

 故に、彼はあえて謂う。『約束を守ろうとしても、報われるとは限らない』と。あまりにも露骨でいっそ露悪的なまでの忠告を受けて、それでもせつ菜は笑みを湛えたままだ。

 

「それでも、です。どうなるかなんて、やってみるまで分からないでしょう? それに彩歌くんは一度、ちゃんと約束を守ってくれました。だから、今度は私が守るんです」

「そうかい。他人(ひと)の事は言えねぇが、物好きだな、アンタも。……でも、アイツが羨ましいよ。親友(ダチ)以外に、自分をこれだけ知ろうとしてくれるヤツがいるんだからな」

「えっ……?」

 

 羨望。今まであくまでも無貌に徹していた大雅の声音の中に確かにそれが混ざったのを、せつ菜は具に感じ取った。だが彼女が二の句を継ぐ暇を与えぬまま、大雅が人差し指を垂直に立てる。

 

「ひとつだ」

「……?」

「アンタがオレの質問に答えてくれた分、オレもアンタの質問に答える。どうだ?」

 

 そもそも大雅がせつ菜に質問したのは、先にせつ菜の方から尋ねたからではなかったか。せつ菜は即座にそう反駁しようとしたが、それを察した大雅が目線だけで制した。そんな事は彼が一番よく分かっている。なのにそんな事を言い出したのは、つまる所それが宗谷大雅という秘密主義者なりの開示であるからだ。

 

 そして質問に答えると言った以上、大雅はせつ菜が何を質問したとしても解答するだろう。それを理解した途端、とある問いがせつ菜の鎌首を擡げる。しかし、彼女は咄嗟の所でそれを堪えた。ソレを問えばきっと大雅は答えるのだろうが、だとしてもソレだけは彩歌から直接訊くべき事だと思ったのだ。

 

 故に、問うたのは別の事。

 

「───さっき、私たちがホールに入る前……貴方と話していた彩歌くんの表情が曇っていたのが見えました。あれは……どうしてなんですか?」

 

 せつ菜の問いを受け、大雅が口の端に笑みを浮かべる。しかしそれは何も彼女の問いが愉快だと感じているのではなく、彼女の言葉が半ば想定していた通りのそれであったからなのだろう。或いはそれが最も彼女の知りたい事でない事も、気づいている。

 

 だがせつ菜はあえてそこの言及を避けた。真っ直ぐで純粋な彼女らしくない婉曲だが、そこには彼女なりの理由があるのだと分からない大雅ではない。であるならば、その部分について、大雅には彼女に対して語る権利はあるまい。そこを語るのは渦中の者の義務だ。

 

 故に、投げ渡すのは解のみ。それはひどく冷酷な事であるのかも知れないが、彼女の意図を察した以上はそれが最適解であろう。経緯は後に置くとして、まずは結論から、単刀直入に。

 

 壇上では既に全ての来賓が挨拶を終えていて、初めの参加者が登ってきている。大雅は悠然と受付で貰った資料を開き、そこに記載されている参加者の一覧に視線を落とした。或いはトップバッターの氏名を確認しているような所作だが、彼の指がなぞったのはそれとは別の氏名。そうして数拍を置き、彼が口を開いた。

 

「詰まる所、出会いたくなかった過去(ヤツ)と出くわしちまったのさ、アイツは」

 


 

 それは、“孔”だった。人間(ヒト)が『斯く在るべし』とした行動をする際に邪魔になるモノを棄てるための、精神の奥底に存在する未明。自身にとって不都合な現実(ノイズ)を残響ごと破棄し、破棄した事実ごと観測不能に堕とし『無かった事』にするための領域。なればそれは孔、廃棄孔とでも表現するのが適切だ。

 

 そして彩歌が演奏の度に行うルーティンとは、彼にとっての不都合を廃棄孔へと押し込めるが如き工程であった。一度の深呼吸にて新しい酸素を肺腑に取り込み、瞑目と共に両手で耳を塞ぐ。そうして彼の耳朶に触れるのは漣のような微音。血液が身体を巡るその音は彼の生命の証明であり、切り離された肉体と精神の狭間に在る不要物が赤血の奔流に呑まれ認識の埒外に流れ去っていく。そうして流れた先は主である彩歌にすら分からない。分からないからこその不感。認識を放棄するが故の無知。観測しなければ、それは無いのと同じだ。

 

 最後に、ポケットから取り出した浅葱色のヘアゴムで髪を小さく束ね、彩歌最大のルーティンは完了する。身体の駆動理論から魂魄を切り離し間隙に揺蕩う不都合な音さえ排除した、単一の目的に特化した人間の完成だ。或いは合理の化身とも形容できるかも知れない。

 

 その段階に至れば最早緊張などとは無縁であり、彼の意識を支配するのは渺々とした平静と潜在の雨音のみ。五体が十全に稼働する事は確認するまでもなく、彩歌は控室を出た。数刻前に彼はスタッフに呼ばれていて、そろそろ出番なのだ。舞台袖を目指し、歩く。

 

 観客で満ちているホールとは対照的に、廊下は虚ろだ。人の気配が薄いその中に彼の足音が反響する。しかしその場を支配する静寂とは裏腹に峻烈な熱狂と緊張の色を彼は確かに肌で感じていて、歩を進める度にそれは熱量を増してゆく。舞台袖にまで至れば、それは現の熱波と化して肌を焼かんばかりだ。

 

 ホールに満ち満ちた観客達の寂然たる気勢。通路に残留する、不安と誇りが折り重なった参加者達の熱意。その裡に在って場違いなまでに研ぎ澄まされた、彩歌の犀利な瞳。最早混沌と形容する事すら生温い程に雑然とした雰囲気を、彩歌はよく知っている。忘れる筈もない。彩歌は幾度もその中に身を投じ続けてきたのだから。

 

 何もかもが慣れ親しんだものだ。故にこそ、彩歌がすべきは今回も変わらない。日々積み重ね続けた研鑽のままに音色を奏で、観客を魅せる。それだけだ。今までも、そしてこれからも変わらない。それだけが真野彩歌に許された在り方なのだ。他の誰でもない、彩歌自身がそう自らを定義した。

 

 舞台袖にて聴こえてきていたピアノの音色が止み、賞賛と辞令から成る拍手がそれに取って代わる。控えていたスタッフが無言のままに視線を彩歌に向け、それに応えて彼は舞台に続く階段に足を掛けた。心拍は正常。情動は凪。魂魄の躍動も、真野彩歌という機能には何の支障も及ぼしはしない。

 

 そうして登壇する間際、彼は最後にソレを思い出す。いや、思い出すと言うにはソレはあまりに直近に過ぎるだろうか。開会の前、市民ホール付近にて再開した“過去”から投げ掛けられた、その言葉。

 

 

 ───どうしてあんたなんかが、ピアノを続けてるの。

 

 

 敵愾心と嚇怒が綯い交ぜになったそれはあまりにも()()で、彩歌には返す言葉も無い。だが、それを理解した上でも尚、彼には為さねばならない事があるのだ。たとえそれが、賽の河原にて哭き続ける子供の如き行為であったとしても。────愚行という自覚を轢き潰して。心底から響く自分の声に、耳を塞いで。総てを雑音として、無かった事にして。

 

「さぁ、いこうか」

 

 不敵に、されど悲壮に。そう云った。

 


 

 新たな登壇者の登場に観客席から社交辞令めいた拍手が立ち昇る。或いは期待(プレッシャー)めいたそれを浴びても一切動じず、凛然と闊歩するその少年を、せつ菜が見紛う筈もなかった。隅々まで糊の利いた正装に身を包み怜悧の仮面を張り付けたその姿は、せつ菜にとっては半ば見慣れたようにも思える彩歌のそれであり、故にひとつだけ在る違和にせつ菜はすぐに気が付いた。

 

 後頭部で小さく束ねられた髪。正確にはそれを束ねているヘアゴムは、せつ菜の記憶の限りでは彩歌の母たる愛歌(まなか)の物だ。外見的にはそれだけの、平素ならば彼女も気にしなかったであろう相違。なのに今はそれが嫌に心の端に引っ掛かっている。

 

 だが壇上の彩歌にはそれを悟る術が無い。聴衆の偉容を前にしても小動もせず、しかし肩で風を切るでもなく、ステージを横切り、観客に一礼。それに応える短い拍手。型式めいた炸裂音が止んだ後に奏者は刹那の笑みを覗かせ、席に着く。手短に座面の調節を済ませ、脚はペダルへ、指先は鍵盤へと。短く鋭い呼吸。そして、静寂が場を包み───

 

 ───万象が、その内側から爆ぜ散った。そう錯覚する程の凄烈だった。

 

 変革は瞬きの事。少年の十指が無彩色(モノトーン)の上で踊り、踏み締められた舞台から迸る旋律がホールに満ちる。音の実体は空気の振動。それは絶対の理であり、しかし少年の音色は仮想の質量を以て理すら捻じ曲げ遍くを圧倒せんと猛る。それを前にしては観客達の居座る小さく閉じた場は崩落を避け得ず、真実という絶対、認識という相対、凡てが世界から剥がれ落ちていく。そうして残された空白に旋律は新たな法を敷き、観客達は抗う事もできず意識を音色に独占される。

 

 無論、それらは余さず幻想だ。しかし人間は己の認識によってしか現実を捉えられない。然るに、それは幻想であると同時に観客達にとっての現実でもある。在り得ざる矛盾だ。あってはならない法外だ。だがその暴論を成立させるだけの力が、彩歌の演奏にはあった。年齢離れしたという表現すら不十分なまでの、只管な研鑽にのみ因って立つ超抜技巧。雑音の入り込む余地など一分とて許さない超絶奏楽。それが、完成された演奏(せかい)の全てだ。

 

 気づけば呼吸すら忘れていた。それはせつ菜だけではなく、この場にいる彩歌以外の全員がそうであっただろう。望む望まざるに関わらず、彩歌が齎す衝撃により万民が正常な認識を剥奪される。だが───()()()()()。真野彩歌の音色とは、果たしてこれであったか。それは完璧な演奏(せかい)に潜在した不協(ノイズ)であった。

 

 けれどその違和を置き去りにして、演奏が終わる。残響が虚空に溶け消えると共に真実はその容を取り戻していき、世界には静寂が訪れる。しかし微睡は止まず、それに終幕を告げるように彩歌は恭しく礼を取った。その瞬間に観客達は悉くを正しく理解し、鯨波の如きスタンディングオベーションが彼に浴びせられる。その中で奏者の嘗てを知る者だけが、拭えぬ何かを抱えたままでいた。

 


 

 やりきった。いつも通りに、何も過たずに。自身のパフォーマンスを終え、感慨にも満たない反芻を胸に抱えたまま、彩歌は奏者という役を脱ぐ。鳴りやまぬスタンディングオベーションを背に舞台袖に消え、少年は表舞台より降りて髪を解く。未だ意識の裡で演奏が残響しているのだろうか、控えているスタッフは上の空で、しかし強烈な視線が彼を射抜く。

 

 その気配に、彼は覚えがあった。それもその筈だ。彼は先刻もそれを向けられ、今より4年前にもまた、嫌になる程浴びていたのだから。それこそ反射的に根源に察しが付く程に。彼が顔を上げればやはり、そこにいたのは開会前にも遭遇した女生徒。尋ねるまでもなく彼はその名を知っている。知っていて当然だ。何故ならその少女は彼と同門、嘗て愛歌のピアノ教室にて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であるのだから。名を〝宮古(みやこ)美律(みのり)〟という。

 

「……うちはあんたを認めない」

 

 絞り出した声音にはいっそ露骨なまでの敵愾心が滲んでいる。対する彩歌は何も言い返さない。それが不可解であったのだろう、先程までは上の空でいたスタッフは困惑の目で彼らを見ている。致し方ない事だ。この場にいる者の内で彼らが共有する過去を知る者は彼ら自身以外にいないのだから。

 

 既に彼は髪を降ろし、それに伴って精神の在り様も演奏時のそれから平時のそれへと立ち戻っている。だが彩歌の表情は今以て尚、演奏前と同じく能面を思わせる無。それは何も相手の言葉を無視しているのではなく、むしろその逆だ。美律の言葉も気配も、全てを愚直なまでに正面から受けているが故の面貌であった。

 

 しかしそれは自身が重ねた罪の質量を悉く満身にて受け止めるに等しい行為だ。そんな事が未熟極まりない青二才程度にできる筈もない。知らず彼は口の端を噛み締め、それを見咎めた美律は何を思ったか鼻を鳴らして彼の横を過ぎていく。その刹那。

 

「──────」

「っ……!」

 

 交錯の瞬間に零れた囁きに、彩歌が息を呑む。

 4年の時を経ての同門との再会。彼の過去より追い縋り、遂には追いついた罪業の具現。最早出来過ぎな程に彩歌にとっては最悪の時分だが、彼の中には確かな納得があった。いつだって運命とは唐突に目前に立ち現れ、人の寝首を掻いていくものなのだから。彼はそれを()()()に嫌という程実感させられた。

 

 ──彼が己に対してさえ吐き続けてきた欺瞞(うそ)が、遂に限界を迎えようとしていた。



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第22話 混迷はカレらの過去より来りて Ⅲ

 思い返せば、違和感は初めからあったのだ。彩歌の演奏を聴き届けた後、次の奏者を待つ間の静寂の中、せつ菜/菜々は内心でそう独り言ちる。最早至上に近い演奏を受けて感動と熱狂に打ち震えながらも、同時に彼女の裡にはある種の確信めいた感覚が生まれていた。

 

 嘗て、彩歌は今では『せつ菜』と名付けられた彼女の側面を知る殆ど唯一の人間であった。それほどまでにその付き合いは深く、半ば当然の帰結としてせつ菜は何度か彼の家を訪ねた事もある。そのため彼女は彩歌の両親とも顔見知りであるし、その家庭についてある程度を既知としていた。例えば父の陽彩は仕事で家を空けがちだとか、母である愛歌は広い自宅の一角でピアノ教室をしているだとか。

 

 そして彼女が初めて『優木せつ菜』として真野邸を訪れた時、その中が彼を除いて伽藍堂であったのは、これまで経験したことが無い事象だったのだ。しかしその時は彼女自身が不安定であったり、そもそも家人が留守にしているという事自体は有り得る事であるから、彼女の目には不自然としては映っていなかった。だが種々の違和を経て、それは徐々に潜在するものをせつ菜の目前に晒し始めていたのだ。そうして先刻、その一端は大雅により解答を示された。()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 いつかの雨の日、車の急ブレーキ音を耳にした彩歌が晒した異状。詩音から告げられた、彼が吐き続けながら限界を迎えつつあるという“嘘”。中学1年生だった頃の彼を襲ったという交通事故。ピアノ教室が既に無いという事実。それらの点と点が、先程の演奏により結ばれていく。それはさながら独立していた音符が統合され、ひとつの旋律と化すように。

 

 先程の彩歌の演奏は、素晴らしいものであった。他の奏者の演奏もせつ菜を感激させるに十分過ぎるものであったが、彼のそれは別格だった。それは間違いない。だが彼の嘗てを知るせつ菜は、それと同時に違和感も覚えたのだ。真野彩歌の音色とは果たしてこれであったか、と。確かに楽し気であるというのに、何かが嘗てと異なっている。或いは空虚。それは、無視できない矛盾だった。

 

「彩歌くん……」

 

 名を呼べども応えは無い。奏者は壇上から降り、舞台袖に消えて久しい。それでも思わず呟いてしまったのは、それが彼女の胸中にある不安の発露であったからか。

 

 多くの要因が揃い、それらが結ばれ像を成し始めた今、せつ菜の中には凡そ確信に近いひとつの推論が出来始めていた。だがそれが真であったとするなら、彩歌が抱えるものはひどく残酷で根深い。せつ菜自身としても、この推論が杞憂である事を願ってしまう程に。であれば不安を覚えてしまうのも致し方ない事だ。

 

 だがそんな彼女を時間は待ってくれず、次の奏者たる少女が登壇してくる。せつ菜はその少女を見るのは初めてであったが、名前だけは知っていた。大雅曰く、出会いたくなかった過去(ヤツ)。愛歌のピアノ教室を閉じる際、彩歌と他の門弟との間に何らかの不和があって、その渦中にいたひとりがその少女、宮古美律(みのり)なのだと、彼女は聞き及んでいた。

 

 胸騒ぎがする。彩歌が秘め続けてきた過去が徐々にその輪郭をせつ菜の前に晒し始め、それに伴って予感めいた漠然とした感覚が彼女の胸中で存在感を強めている。だがそれを前にしても彼女にできる事は何もない。彼らの間に横たわる因果は過去より伸びるものであり、起点は最早変える事ができない事実であるのだから。

 

 空白を維持する虚勢(ヴェール)が剥がれ、混迷が迫る足音が密やかに鳴り始める。それを掻き消すように、次なる奏者を歓待する拍手が会場を満たした。

 


 

 ──結果から言えば。今年のコンクール東京予選はここ数年の通例から大きな番狂わせが起きる事もなく、彩歌が第1位に選ばれる幕切れを迎えた。他の参加者の努力が足りなかった、というのではない。彼らは皆、常に血の滲むような努力を重ね、しかし研鑽の総量という点において彩歌は誰よりも先を行っていた。であればこの結果はその顕れであり、必定の結末であったと言えよう。観客達が自然とスタンディングオベーションにまで至ったのが彼だけであったと言えば、その完成度も推して知るべしというものだ。

 

 そうしてその場において公に結果に対して異を唱える者もおらず、閉会式は恙無く終了しコンクール東京予選はその全行程を終えた。正常な感覚を喪失する程の静謐と熱狂に支配された時間も過ぎてしまえば束の間の夢のようで、醒めてしまえば立ち去る他ない。参加者、その保護者、或いはそれらとは関係の無い只の観客。雑然とした群衆が、緩慢と出入り口の方に流れていく。

 

 そんな有様であるからすぐに退出できる筈もなく、せつ菜や侑達4人は席に着いたまま。全行程が終わった今となっては私語を禁じる暗黙は最早存在せず、辛抱溜まらずにいた侑が口を開いた。

 

「すっ──ごかった……ね、歩夢!」

「う、うん。そうだね、侑ちゃん」

 

 驚嘆と感嘆の混在した侑の言葉に、同意の首肯を返す歩夢。その声音は何処か忘我めいてもいたが、それも自然な事であろう。事実、彼女らは終始圧倒されていたのだから。自身の夢を叶えんと集った奏者達による貪欲にして壮麗たる音色の数々に。その信条は或いは雄大な自然や重厚な芸術品を目の当たりにした者のそれにも似ていよう。故に圧倒されきった感情の中に確かなトキメキがあるのも、全く自然な事であった。

 

 そう、それほどまでに素晴らしい演奏ばかりであったのだ。技術の巧拙や表現の形など各々の間で確かな差異はあれど、それだけは変わらない。だからこそ侑の心は驚嘆や感嘆と共に興奮にも支配されていて、理性を追い越す程の興奮であるが故にそれを十全に表現する言葉が容易に見つからない。そんな彼女の様子を歩夢ら3人は微笑のままに見ていて、しかしそんな中で不意に侑の視界の端にとあるものが映り込んだ。

 

 果たしてそれは、両親と思しき壮年の男女に肩を抱かれ涙を流すひとりの少女であった。名前は知らないもののその少女が奏者のひとりであった事を侑は覚えていて、その光景を前に侑の精神が幾らかの平常を取り戻す。次いで視線を巡らせてみれば、その少女と同様に悔しさを噛み締め、或いは打ちひしがれる少年少女の姿がそこにはあった。

 

 そうして生まれた変化は、傍から見れば些か唐突なものであったのだろう。覗き込むようにせつ菜が侑を見ている。

 

「侑さん……?」

「あっ、ううん。なんでもないよ。ただ……少し、悲しいなって。そう思っただけ」

 

 侑の答えにつられるようにして彼女の視線をなぞり、謂わんとする所を察したせつ菜達は何も言わない。その沈黙こそは侑の心情への理解と同意の証明であった。

 

 詰まる所、このコンクールは形こそ違えどもラブライブと同じなのだ。参加者は己の夢と『大好き』のために今まで積み重ねてきた研鑽の結実を乾坤一擲の如くに披露し、しかし残るのはたったひとり。鎬を削り合った果てに待ち受けるのは勝者と敗者の存在という冷酷にも思える現実だ。

 

 そこに寂寞を感じるというのは、或いは不敬であるのかも知れない。ここに集った者達は皆それを了解した上で、それでも自らの夢を叶えるために己の総てを載せた音を奏でていたのだから。それは己が音で世界を彩るに等しく、侑たちはその色彩に魅せられた。だが残る色彩はひとつ。であれば、そこに寂寞を見出してしまうのも自然な反応ではある。ここに至るまでの研鑽と経験は無駄にはならないなどと、希望に満ちた事を言うのは夢破れた者のみの特権だ。部外者が口にすれば、それは愚弄にしかなるまい。

 

「勝者がいれば、その裏には敗者がいる。それは仕方ねぇ。だがオマエみたいにそれを寂しく思うのも当然だし、夢破れた敗者が悔しく思うのも自然だ。

 だから……割り切れず責任を感じちまうヤツがいるのも当然なんだろうな」

「責任……?」

「あぁ。責任だ。()()()()()()()()()

 

 一切の迷いなく、断言するかのような口調で大雅は言い切る。侑達がそこに嫌に真に迫った実感めいたものを感じ取ったのは、決して間違いではないだろう。宗谷大雅という少年は虹ヶ咲学園のサッカー部において優秀な成績を残す筆頭(エース)である。故に彼はこれまで決して少なくない相手を下し、その涙を見てきた。故に誰よりも知っているのだ。誰かの夢を奪った責任を。

 

 だが、果たしてそれだけであるのだろうか。大雅の瞳は侑たちの方へ向けられてはいないが、しかし過去を捉えている訳でもないように彼女らには思えた。茫洋とした彼の視線は舞台上に鎮座するグランドピアノに注がれ、それを通して何かを見ているようでもある。そこに、侑は大雅の内心を見た。

 

「……彩歌くんも、そうなのかな」

 

 侑から見て、彩歌の演奏はおおよそ至高と言っても良いものであった。些細なミスのひとつもなく完璧に譜面を弾き熟す圧倒的な技術力と、それに基づく筆舌に尽くし難い表現力。それは才能などという簡単な表現で片づけられるものではなく、むしろ壮絶な修練に裏打ちされたそれであった。そして奏でられる音色には確かなに音楽が好きな気持ちがあって、けれど同時に何か違和感もあったのだ。まるで自分の気持ちに抑制(ブレーキ)を掛けているかのような。一方で既視感めいた感覚もあったが、それは今は問題ではない。

 

 もしもその抑制の正体が大雅の言う責任であったのなら。そこまで考えた時に侑の脳裏を過ったのは先日、偶々出会い言葉を交わした時に彩歌が見せた表情であった。柔和な微笑であるというのに何処か哀哭めいていたそれ。そして責任という発言は、あまりにも現在の推測と符合している。

 

 そんな思考を巡らせる侑を隣で見ている歩夢は場違いだと自覚しつつもドギマギとした思いを抱きつつも、同時に自身の大好きを抑制するその在り方に嘗ての自分に近しいものを感じていた。彼女もまた、スクールアイドルに出会うまで自らの気持ちを我慢し続けていたが故に。

 

 幾許かの間、絶える会話。再び口火を切ったのはせつ菜であった。

 

「きっと、そうなんだと思います。彩歌くん自身は否定するのでしょうけど、彼は優しい人ですから。でも……」

 

 順序がおかしい。せつ菜がそう感じてしまうのも決して無理からぬ事である。彩歌は自らの実力に人並の信任を置きこそすれ、結果が出るより先に勝利を確信して勝手に責任を感じるような傲慢ではない。

 

 だが演奏に先んじて彩歌の裡に在った責が由来を勝者となった事とは異にするのであれば、その矛盾は解消される。それは何も知らぬ者からすればあまりに突飛な発想ではあるけれど、せつ菜の中ではむしろ嫌に現実感を伴って存在を主張していた。けれど、或いはだからこそ、確信できる事もある。

 

「それでも、彩歌くんはピアノが、音楽が大好きな事は変わらない。その筈です。だって、そうでなければ……」

「こんなにトキめく訳がない。でしょ?」

 

 せつ菜が言わんとする所を悟り、先取りする侑。悪戯なその笑みはせつ菜への共感を何より如実に表し、歩夢もまた同質の笑みを浮かべていた。そんなふたりに、せつ菜は首肯を返す。

 

 たとえ彩歌が自らの過去とその責任感のために自身の気持ちに嘘を吐き続けているのだとしても彼の心底には確かに『大好き』が残っていて、だからこそ人を魅せる演奏ができるのだ。せつ菜はそう確信している。或いはそれは、嘗ての彼女もまたそうであったからだろうか。

 

 事ここに至り、せつ菜は真に理解する。原因となった因果こそ異なるが、嘗ての彼女と今の彩歌は同じなのだ。自身が犯した所業とその責任のために心に鍵を掛け、自らの声に耳を塞いでいる。それが如何なる行いであるか知ればこそ、彩歌はせつ菜がそうなる事を厭ったのだ。そのために今のせつ菜の事を知りたいと言ってまで。そうまで想われている事に、せつ菜はこそばゆさにも似た喜びを覚える。

 

 だがせつ菜の背中を押し正道に押し戻しても、彩歌自身は未だ自縛に囚われたままだ。ならば己が為すべきはひとつだと、せつ菜は規定する。嘗ては自らが背中を押されたというのであれば、今度はそれを返さなければならない。たとえそれが自己満足だとしても、それが今の彼女の“やりたい事”であった。決意と言うのはあまりに大袈裟に過ぎようが、さりとて間違いでもあるまい。

 

 ──しかし。彼女の決心に茶々でも入れるかのように、不意に舞台上の喧騒が増す。見ればその喧騒の発生源は舞台袖であるようだが、何処か慌てているようにも伺える様子は撤収準備と言うには些か異質だ。

 

「どうしたんだろう。何かあったのかな……」

 

 (ささ)やかに、けれど明らかに漂う異常の気配に、不安げな声を洩らす歩夢。その直後、大雅が小さく呟いた。

 

「──まさか」

 

 それだけを言い残し、大雅は席から立ち上がるとそのまま足早に喧騒の方へと向かっていく。或いは奇行とすら言えるそれに狼狽するせつ菜らであったが、3人で顔を見合わせて頷き合うと、その後に続いた。彼女らの性格上そのまま見過ごす事はできなかったし、何より明確な根拠の無い“嫌な予感”を感じているのは彼女らも同じであったのだ。

 

 幸い閉会後で参加者はその大半が帰宅の途に就き、撤収作業も始まる前であるためかスタッフの数もそう多くない通路に人影はまばらであったため4人を阻むものはそう多くはなかった。尤もそうであるが故に残ったスタッフらからは注意を受けるが、謝罪の言葉を口にしながらも足は止めない。胸騒ぎはよりその存在感を増し、焦燥が加速する。そうして一際厚い人だかりを掻き分けたせつ菜らの視界に飛び込んできたのは、為されるがままにされる彩歌と彼のジャケットの襟を掴み、鬼気迫る、或いは悲壮にも見える面持ちを向ける美律であった。

 

「な──」

 

 訳が分からない。先程まではこの場にいなかったせつ菜が状況の理解に数拍を要したのは、全く自然な事であった。しかし時は彼女らの理解が追いつくのを待つ事もなく、美律の口からは悔恨の熱が迸る。その殆どは余人の理解が及ぶ所ではなかったが、その先に待つものが何であるかを大雅は確信していた。故に止めようと踏み出し、しかし一度露わになった歪み、遂に追いついた因果を押し留める事はできない。

 

「どうして……どうしてあんたが、あんたなんかが、ピアノを続けてるの‼」

 

 彩歌が積み上げてきた研鑽、そのために費やした時間や彼の気持ちすらも真っ向から否定するかの如き憤怒の咆哮であった。感情の昂りのためか瞳には涙さえ浮かんでいる。しかしそれを向けられてさえ、彩歌は何も言わない。まるでそれを浴びせられるのが当然であるかのように。

 

 あまりにも理不尽な振る舞いである。だが、どうしてだろうか。せつ菜には彩歌だけではなく激憤の内にある筈の美律までもが拭えぬ過去に囚われているようにも見えてしまう。その理由すら判然としないまま、不意に彩歌の孔雀青とせつ菜の漆黒がかち合う。

 

 

 それが、号砲ででもあったかのように。

 

 

 遂に因果は、現在(いま)へと追いついた。

 

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()()()‼」

 

 

 


 

 今更一瞥もせずとも文面を諳んじられる程に見慣れた賞状と金色の鍍金がくまなく張り巡らされた小さく簡素なトロフィー。表彰式を兼ねた閉会式が終わった後に彩歌の許に残ったそれらは、彼がこの東京予選において第1位という成績を修めた証明であった。

 

 この上無い結果である。彩歌だけでなく参加者全てが目指した、至上の成績である。だがそれらを目の前にしてさえ、彩歌の面持ちは至って平静のそれであった。歓喜していない訳ではない。けれど、彩歌にとってこの成績は己が為すべき過程を成した証左であり、それ故か歓喜を打ち消す程の安堵が胸中にあった。

 

 また、彼にとってはこの場はあまりに息苦し過ぎるというのもある。周囲に残る他参加者から彼へと向けられるのは技量への賞賛や尊敬だけではない。妬みや嫉み、怒りといった感情はたとえ数は少なくとも比類ない存在感を放つものだ。神才(真野愛歌)カラフルスター(真野陽彩)の息子だから。八代詩音の弟子だから。そういう物言いで悪意を向けられるというのは、彼にとっては慣れたものだった。

 

 だが慣れているとしても、居心地が悪いのは変わらない。故に彩歌は誰と言葉を交わす訳でもなくその場を後にしようとして、しかしそれを呼び止める声があった。

 

「待ちなさいよ、彩歌。……あんた、愛歌先生の教えを忘れたの?」

 

 美律から投げ掛けられた問いに、彩歌はすぐには答えを返さない。だがそれは彼が美律を無視しているのではなく、美律から問いを向けられたという事実への驚愕から来るものであった。再会してからというもの、彼女は怒りをぶつける事しかしてこなかったから。問われるとは想像していなかったのだ。

 

 声音は変わらず憤怒に彩られている。だが声が震えているのは全く別の要因から来るものであるようで、そのせいか彼女の気配は何かを堪えているかのような気配に満ちていた。それが分かっていても、彩歌の答えは変わらない。

 

「忘れてないよ。〝音楽はまず自分が楽しまなければならない〟……忘れるワケがない」

「っ……じゃあなんでッ……なんであんたの演奏はああなのよ!」

 

 厳然たる現実を諳んじるだけの彩歌の答え。たとえ相手が友好的でないとしても問いに対して虚偽を述べるのを彼の誠実は自身に許さない。或いはそれもまた悪手であると理解していても。

 

 そうして返された解を受けた美律はいよいよ抑制を忘れ、彩歌の襟を掴んだ。その拍子に彼は背中を壁に打ち付けられるが、痛みは無い。勢い自体が大したものではないというのもある。けれどそれと同等に彼は混乱していて、それが痛覚に優っているが故の結果でもあった。

 

 何も知らぬ者からすれば美律の態度は彩歌にただ怒りをぶつけているだけのそれだろう。彩歌から見てもそれは変わらず、しかしその憤怒は先程までのそれとは些か性質を異としているようでもあった。まるで彼が変わってしまった事を責めるかのように。或いは、変わっていなければ赦せたのにと嘆くように。

 

 しかし、赦すとはいったい何を赦すというのか。彩歌か、それとも彼を今のようにしてしまった同門(じぶん)達か。それを暴く手段は彩歌には無く、またあったとしても答えは変わらない。『誰のせいだと思ってる』と。出かかった身勝手な反論を喉元で押し殺し、呑み下す。

 

「今の俺に……そんな権利は無い。無いんだ。だって俺はまだ義務を果たしてない。そうでなきゃ母さんは、何の為に……」

 

 耳元で雨音の幻聴が煩い。それに導かれるようにして彼の脳裏を過るのは鋭いブレーキ音とそれに続く衝撃音。そして、雨と混じり合い地に広がる赤。最小単位のサバイバーズギルト。振り切るように弱弱しい早口で答える彩歌の意識には、彼らを遠巻きに見る野次馬の存在は一片とてありはしない。それは彼の解答に虚を衝かれた美律も同じであり、それを目の当たりにした彩歌は彼女の真意を悟る。

 

 数年もの時間を空けてでも美律が為そうとしたのは、要は共倒れだ。彼らを縛る過去の起点にして()()()()()()()()()()()()()()()彩歌を打倒し否定することで、嘗ての教えを否定する。自分達同門の根幹を破壊することで、自身らの音楽そのものに見切りを付けようとしたのだ。自分らを縛っていたのはこの程度のものだったのだ、と。己の道程さえ陳腐化し、吐き捨て、踏み躙る。この数年はそのための時間だった。

 

 だが彩歌が今のようになってしまったのは彼の同門たる自分達の所為で。それを認めてしまえば、前提が崩れてしまう。それを厭うかのように美律は言葉を募らせ、彩歌はそれを正当なものとして反論さえしない。だからだろうか、遂に彼女は言ってはならない悲鳴を漏らす。

 

「どうして……どうしてあんたが、あんたなんかが、ピアノを続けてるの‼」

 

 いっその事、彩歌がピアノ、ひいては音楽を辞めていれば何もかもをその程度のものだったと棄てられたのに。誰も彼もが過去に縛られていて、そこから抜け出せずにいる。

 

 対する彩歌は何も返せない。音楽を続けて良い人間ではないと彼は自分自身を思っていて、けれど辞める訳にはいかないのだ。辞めてしまえば何もかもを無駄にしてしまう事になる。それだけは許容できず、なれば今彼にできる事は何もない。どん詰まりを前に彼は天を仰ぎそうになって、瞬間、いつの間にかその場にいたせつ菜と目が合った。

 

 何故、彼女らが此処に。それを理解する猶予すら、彩歌には無かった。

 

「──あんたのせいで、愛歌先生は死んだのに‼」

 

 それは、言ってはならない一言だった。彩歌の為などではない。彼ら愛歌の門弟自身の為にそれは口に出すべきではなく、しかし放った言葉は戻らない。

 

 足元が抜けたかのような感覚だった。視界が歪み、聴覚が雨音に塗り潰される。感覚が現実から剥離する。そうして空虚となった認識の漆黒に、膿んだ傷口から過去が染み出してくる。愛歌の死を知らぬ者らの前で真実の一端を晒されるというこの状況は彼が嘗て経験したものであり、まさしく未だ消えぬ爪痕(トラウマ)の再現であった。

 

 その場にいる誰も彼もが彩歌に対し口々に何かを言っている。無論、それは幻覚だ。色濃く残る過去より来る身勝手な被害妄想だ。何故なら今この瞬間、せつ菜や侑、歩夢と大雅は尋常ならざる様子の彩歌を心配して駆け寄り、美律は自分達が彩歌に残した傷跡の結末を初めて目の当たりにして動揺している。理性はその現実を何処か他人事のように理解していて、それでも幻は消えてくれない。

 

 違う。違う。止めろ。彼ら彼女らは、せつ菜は、侑は、歩夢は、そんな人じゃない。それに愛歌の死に関わりの薄い人間が怒る道理などある筈がない。声なき声でそう叫んでも目に浮かぶ幻は消えてはくれず、雨音は現と変わらぬ威勢で彼を叩く。その中で人々は彩歌を指差し、そして、幻覚の幼馴染が、口を開いた。

 

 

 ───あなたが、死ねばよかったのに。

 



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第23話 ナンジ、手を握らんとするならば

 ガラス張りの窓から覗く渺々とした空は見慣れた蒼さを誇り、その中をいくつかの綿雲が悠々と泳いでいる。早足で廊下を駆けていく生徒達は昼食を目当てにカフェテリアに向かっているのだろうか。外気を取り込むために開け放たれた窓からはグラウンドにて昼練習に勤しむ運動部の掛け声も聞こえてきている。

 

 それらは全て平時と違わぬ日常の色彩。相も変わらず今日も世界は平穏であり、日常は廻り続けている。それは良い事だ。けれどどうしてか、その裡に在って菜々の胸中には形容し難い靄のような感覚があった。或いはそれは、いつも通りという色彩の裏でそこに組み込まれる事を許されない異状(シミ)の存在を彼女は知っているが故だろうか。

 

 常ならば昼休みも生徒会室にいる事が多い菜々がこの場にいるのを不思議に思っているのか周囲の生徒達は物珍し気な視線を彼女に向けているが、話しかけてくる事はない。薄情にも思える処方であるが、今の彼女にとってその対応はむしろ有難いものでもあった。だがそんな遠慮を意に介さず、彼女の後方から快活な足音。

 

「菜ー々先輩っ!」

 

 思案に費やされた意識に割り込む声。それにより忘我から引き戻された菜々は反射的に声の方へと振り返ろうとし、しかしその途中、頬に柔らかな感触を覚えた。見れば人差し指で頬を軽く突かれている。唐突に呼びかけて振り返った相手を突くというあまりに古典的な悪戯だが、成功させた少女──中須かすみは得意げな笑みを浮かべていた。

 

「にっひっひ、引っ掛かりましたね菜々先輩! 油断大敵ですよっ!」

「かっ──中須さん……何か御用ですか?」

「菜々先輩が浮かない顔をしていたので、かすみんのハッピースマイルをお届けですっ。辛気臭いカオしてると、幸せが逃げちゃいますよ?」

 

 そう言って笑むかすみの表情はスクールアイドルとしてステージに立つ時のそれと同じ、太陽の如き笑み。深刻そうな顔をしている相手に軽い悪戯を仕掛けた挙句のそれは傍から見ればおちょくているようでもあろうが、それがかすみなりに菜々を心配しての事だと気づかない菜々ではない。それを受けて、菜々も微かに笑む。

 

 かすみが偶然にもこの場に居合わせたのは何という事は無い、彼女がしずくや璃奈と合流するために他学科の教室方面に向かっていた途中で菜々を見つけたという、ただそれだけの事であった。それだけならば何ら不思議な事もないものの、見かけた菜々の表情が菜々/せつ菜としては珍しい懊悩を感じさせるものであったが故に見ているだけというのもできず話しかけたというのが経緯であった。オホン、と咳払いし、かすみが問いを投げる。

 

「それで、何があったんですか、菜々先輩?」

 

 心配半分、呆れ半分といった具合の声音であった。今回のように深刻な顔をしている事こそあまりないが菜々は生徒会長として何らかの対応に追われている事も少なくなく、かすみの脳裏には今回もそういった類である可能性もあったのだろう。だが答えに窮するような菜々の様子に、かすみがそれを棄却する。

 

 菜々としても、今回の一件は言語化に困窮するものであった。そもそも菜々からすればかすみと彩歌の関わりはその多くが彼女の知る所ではなく、であれば説明するにも苦労するという発想に至るのは自然な事だ。加えて先日の事は他言するにはあまりに個人の事情に踏み入り過ぎているというのもある。

 

 だがそんな菜々の応対に空いた一部の間隙から、かすみは何かに気付いたのだろう。解答が投げ渡される前に口を開いた。

 

「もしかして、彩歌先輩と何かあったんですか?」

「っ──!」

「ビンゴって顔ですね! ふっふっふ、この名探偵かすみんには何でもお見通しですよ!」

 

 菜々は何も答えていないが、その表情から自身の推測が正しいと分かったのだろう。再び得意げな笑みを浮かべながら、かすみは大仰なポーズなど取ってみせる。だが菜々の驚愕も無理からぬ事であろう。何しろ彼女はまだ何も言っていなかったのだから。

 

 しかしかすみ、或いはある程度事情を知る余人からすれば、それはあまり難しい推理ではない。元より菜々に個人的な関わりのある他学科の生徒はそう多くなく、それが同好会のメンバーであれば自ずとかすみにも知れている筈だ。そうでないという事は相手は同好会所属でなく、そんな相手は彩歌を置いて他に無い。大雑把な推理ではあるが当てられてしまった以上は解答を避ける訳にもいかず、言葉を選びながら菜々は顛末を語る。

 

 曰く、事の由来は先日のコンクール後まで遡る。嘗ての同門たる少女との騒動の最中、菜々達の前でいつかの雨の日と同じ、けれどより甚だしい過呼吸発作を起こした彩歌であったが、幸いにも意識を失うといったような事は無かった。しかし彩歌自身が精神的・肉体的に消耗していた事や事情を知る大雅から「今はそっとしておいてやってくれ」と告げられた事でその日は患いが解消されぬままに別れとなったのであった。

 

 だが見てしまった以上、知ってしまった以上は何もせずにいられず、何が正しいかも分からないまま彩歌を探したものの、未だ出会えないのである。故に確かな事はまだ分からないけれど、菜々の裡には彩歌についてあるひとつの確信があった。それを明文化するために必死で言葉を探し、やがて一言だけが口を衝いて出る。

 

「……彩歌くんは、以前の私と同じなんです」

 

 あまりに要領を得ない解答であった。しかしかすみからすればこれ以上ない答えでもある。前同好会に纏わる一連の出来事において、彼女は当事者のひとりであったのだから。或いは現状、かすみと彩歌の関わりがその騒動の中で完結する程度のそれでしかないのが好奏したのだろうか。

 

 だがその相同の中で、互いの立場だけが違っている。思いも意思も既に定まっていながら為すべきが曖昧である姿を、かすみは既に見ていた。だが無理からぬ事でもある。思いを貫くにも、無軌道であったのならば独り善がりに終始してしまう事さえあるのだから。

 

 応酬に生まれた空白。それを不思議に思い菜々がかすみの方に視線を戻してみれば、かすみは何処か呆けた表情を浮かべていた。菜々が首を傾げる。

 

「菜々先輩でもそういうコトで悩むんですね。何だか意外です」

「わ、私だって、悩む事くらいありますっ。それに、彩歌くんは私の……」

 

 私の、何だと言うのか。些か不貞腐れたような菜々はそれ以上に言葉を紡がず、そこから先を想像する材料がかすみには無い。だがそれが何であるにせよ、その表情を目にした瞬間にかすみの中で菜々のイメージと現在の懊悩の間にあった齟齬が是正される。たとえ些細な定義が多少異なっていようとも相手が大切なのであれば、菜々が悩む事がある。旧同好会が空中分解してしまった時のように。そこには未だ彼女の脳裏に先日の彩歌の目──他者全てを恐れるかのような瞳が残留しているというのもあるかも知れない。

 

 始まったのなら、貫くのみ。『優木せつ菜(スクールアイドル)』として復帰した際に菜々が得た信念だが、それは何も悩まないという事ではないのだ。

 

 要は、菜々/せつ菜は優しすぎるのだ。漠然と、しかし確かにかすみはそう感じる。だがそこには嘗ての彼女が犯した愚の影が見え隠れしていて、ならば今、かすみがそれを聴き届けたのはある種の行幸であったのだろう。

 

「ふふふ、菜々先輩も抜けてますねぇ」

「抜けている……ですか?」

「そうです。だって、手を振り払われてもまた繋げるじゃないですか。逃げられたら、逃げられないようにしちゃえばいいんですよっ」

 

 返す言葉が、すぐには見つからなかった。もしもそれを告げたのが他の誰かであれば、菜々もそうはならなかっただろう。けれど他でもない、中須かすみからそれを告げられたという事実が大きな意味を伴って菜々の胸の裡に響く。

 

 手を伸ばしても相手がそれを掴もうとしないのだとしても、振り払われるのだとしても、思いを貫く。さながら、避けられているのならば避けられないようにしてしまえ、とでも言うかのように。今まで菜々と彩歌の間にあった行儀の良いワガママではなく、もっと自儘に。

 

 つまりは相手が背中を押される事を望んでいないのなら、無理矢理にでも手を掴んで引き上げてしまえばいい。いっそ横暴とすら形容できる処方だが、不思議とそれは菜々の胸の裡に落ちてそこに在った靄を打ち払うようであった。そうして視界が晴れ、菜々はそこに己の為すべきを見る。

 

「強引なのもせ──菜々先輩の持ち味じゃないですか。心配してるだけなんて、菜々先輩らしくないですよっ」

「その物言いには思う所がありますが……ありがとうございます、中須さん。私がするべき事がこれではっきりとしました」

 

 明朗な菜々の返答にかすみは満足げな笑みを見せ、菜々もまた笑みを以て応える。そこに先刻までの懊悩の影は無く、代わりに決意の気配が満たしていた。始まったのなら貫くのみ。思いを如何に貫くかが定まったのなら、後は走らせるのみだ。

 

 もしも己の大切な人が恐怖と懊悩、自罰の中にいるというのなら、己がその手を握ろう。たとえそれがワガママな独り善がりだったとしても、為すべきと信じた事を為す。嘗て彼女に対して、彩歌がそうしたように。至極単純な事だと菜々は決意し、その決意の前にあっては道行の臨みを阻む暗雲は無力であった。

 


 

 西方より押し寄せる斜陽の鯨波が都会の無彩色を茜色に沈め、東方の空からは夜闇が染み出してきている。都心ではあるがコンクリートジャングルからは遠く、無秩序な喧騒とは無縁だ。肌に感じる営みの気配は無機質であり、その中を彩歌は自宅に向けて独りで歩いている。

 

 彩歌が今まで送ってきた日常(テンプレート)と照らしても、今日は何という事もない一日であった。ごく普通に投稿し、授業を受け、放課後は管理担当の教師から許可を得て音楽室に籠る。言葉にしてしまえばそれだけであり、特筆するような事は何もない。ただひとつ、せつ菜や侑といった人々に遭遇しないよう立ち回っていたという事を除けば。

 

 全く以て愚かしい処方だ。自意識過剰と詰られても仕方のない対処だ。そんな事では何も解決しないというのに。それを彩歌は自覚していて、けれどそれを圧殺する感情が彼を縛っている。即ち、それは()()であり()()だ。彼の脳裏には未だ先日の幻想が張り付いて、その存在を主張している。彩歌(おまえ)は咎人なのだと。今、こうして生きている事自体が罪なのだ、と。

 

 ならば、そんな人間は彼女らといるべきではない。それが分かっていながら、彩歌は優しさに甘えて関係を続けた。一度は平穏の裡に消してしまおうとしながら、親友(とも)に諭された責任を言い訳にして。故にこそ先日の露見はその罰なのだろう。分不相応な安寧に浸り続けた罰だ。

 

 そう、元よりこの身が今も在る事を許されているのは、自身の所為で失われたモノを贖うため。罪の清算のため。その自己定義/自縛から外れてはならない。痛みと共に自らを呪縛し、不要物を心底の孔に押し込める。せつ菜やかすみ、父のライブを目の当たりにして胸中に生まれた光輝(トキメキ)さえ、未定義として追い遣った。

 

 痛哭する心を頭を振って払い落とし、意識を無理矢理に現へと還す。すると自宅は既に目の前で、けれど彩歌はそこに、在る筈の無いモノを見た。夜空を梳かし込んだが如き艶やかな黒髪と綺羅星にすら優る輝きを湛えた漆黒の瞳。多少離れた場所からでも、彼がその姿を見紛う筈もない。そこにいたのは彼が避け続けた筈の人、優木せつ菜であった。

 

「こんにちは、彩歌くん」

「優木さん……⁉」

 

 存在を気づかれてしまえば、最早逃避は許されない。彩歌の声音には驚愕が宿り、身体は硬直していた。何故、彼女がここに。反射的にそう思案し、解答はすぐに見つかった。元々、彼女は彩歌の家が何処であるかを知っている。彩歌はそれを以前せつ菜の涙を見た日に知っていた筈なのに、そこにすぐには思い至らなかった。あまりに愚昧だ。

 

 せつ菜の漆黒と彩歌の孔雀青がかち合う。瞬間、未だ脳裏に宿る妄覚がその存在を強め、理性を超えて彼を襲った。彼女はそんな人ではない。そう主張する声を押し流して、過去より来る因果が彼を縛る。

 

 彼我の距離は未だ結構なもので、すぐに詰める事はできまい。だがこうなってしまっては、観念して応答する以外の処方を彼は知らなかった。

 

「……何の用だい、優木さん? 男の家に先回りしているなんて、ファンが見たら勘違いしてしまうかも知れないよ」

「そうかも知れませんが、こうしないと貴方に会えそうになかったので。待っていました」

 

 忠告と質問の体を取りつつも剣呑な彩歌の声音にも、せつ菜は動じない。彼女は気付いてるのだ。彼女を厭うかのような彩歌の態度は、その実さながら追い詰められた小動物が最期に見せる威嚇が如きもの、弱い己を必死に隠そうとするが故のものだと。

 

「そうまでして会いに来たっていうのかい。俺はずっと……キミに、嘘を吐き続けていたようなヤツなのに」

「そうですね。貴方は嘘吐きです。大嘘吐きです。でも、その嘘ももう終わりです。もう、嘘を吐く必要は無いんですよ、彩歌くん」

 

 そう言いながらせつ菜は彩歌の方へと一歩を踏み出す。彩歌は後退りすら己に許さず、意識はせつ菜の物言いに潜む違和に囚われていた。そして、その解に辿り着くまでにそう時間が要る筈も無い。──彩歌が隠していた真実に、せつ菜は気付いている。

 

 元よりせつ菜には違和感があったのだ。以前彩歌が話した、彼が中学時代に遭ったという交通事故。そこに情報の欠落があるのは彼女も気づいていて、ずっとそれが引っ掛かっていた。その正体に至ったのは他でもない、コンクール後に起きた一件を経ての事だ。

 

 飲酒運転の車による信号無視とそれに巻き込まれた憐れな少年。この図式に虚偽は無い。だが欠落があって、その解とは“()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()”という事。そうして母の犠牲の上に助かった息子こそが彩歌なのだ。それなりの期間を意識不明のまま過ごすような事故に遭いながら現在まで続く身体的な不自由が無い事にも、それで一定の説明が付く。

 

 無論、これは事実の一端でしかない。その後の彩歌の身に何が起きたかをせつ菜は知らず、けれど今の彩歌の目を見れば自ずと察しも付くというものだ。全ての虚飾が無力と化して引き剥がされて露わになった、他者への恐怖を湛えた目を見れば。つまりは彩歌はずっと虚勢の仮面(うそ)で弱い己を隠していたのだ。

 

 遍く欺瞞を暴き出され、立ち竦む他ない彩歌。せつ菜はそんな幼馴染の目前まで歩み寄ると、その右手を取り額を胸板に押し付けた。あまりに予想の外にある行動に彩歌の身体が跳ね、疑問の宿る視線を落とす。

 

「あの時と同じですね。彩歌くんの手……震えてます。

 どうして……どうして、何も言ってくれなかったんですか」

「……これは俺の個人的な事情だ。キミには関係が──」

「──関係ありますッ! 関係無いワケ、ないじゃないですか……」

 

 この期に及んで本心を隠そうとする彩歌の言葉を遮り、せつ菜が叫ぶ。そこに込められた瞋恚も分からぬ彼ではなかったが、だからこそ訳が分からなかった。彩歌が事故に遭い愛歌に庇われた事も、その後の事も、彼女には直接の関係が無い筈なのだから。彼女が怒るべきは彩歌がずっと"いつも通り"、或いは"笑顔"の仮面(うそ)を被り続けた不実にあるべきで、だが彼女の瞋恚はそこにあるものではない。

 

 脳内を占める困惑により対応が遅れる彩歌。しかしそんな彼をよそにせつ菜は彼の右手を離すと、両手で彼の身体を拘束してしまう。その抱擁は、まるで彼が逃げるのを厭うかのように。或いは、彼を引き留めるように。こうなってしまえば、彩歌は最早身じろぎすらできない。

 

 分からない。彼女がこうも関わろうとする所以も、伝わってくる体温も。二の句が継げずにいる彩歌に、せつ菜は更に言葉を投げる。

 

「彩歌くん、言っていたじゃないですか。笑っている私の姿が好きだったって。ずっと笑っていて欲しかったって。

 私だって同じなんです。私だって笑っている貴方の姿が大好きで、だから彩歌くんが幸せでいられないのは、嫌なんです」

「っ……!」

 

 息を呑む。それを言われてしまえば、最早彩歌は反論ができない。何故ならかの日の屋上にて彩歌がせつ菜に告げた思いに嘘は無く、そこに至るまでに本来なら自身と関わりの無い事象に首を突っ込んだのは彼とて同じなのだから。自身のワガママを押し通した彩歌は、同質であるせつ菜のワガママを否定できない。

 

 だが、こう言われてしまえば最早目を逸らせない。せつ菜の悲憤は決して、彼の命が母の犠牲の上に在る事に対するものではない。彼女の怒りは彩歌にそんなものを背負わせた実体の無い何かに対するものであり、彼の仮面に気付かなかった己へのものであり、そして、恐怖故に周囲と正面から向き合う事から逃げて孤独でいようとする彩歌へのものでもあった。嘗て彩歌はせつ菜の孤独を祓いその手を握ろうとしたのに自身は相手にそうさせないなどと、そんなものはあまりに不公平が過ぎる。

 

 制服越しに触れ合う肌から伝わる体温が身体の奥底に染み入り、恐怖に冷え切った心を溶かしていく。恐怖や自罰そのものが立ち消える訳でなくとも彩歌の心の自由を僅かでも取り戻させるには十分で、だからだろうか、せつ菜が抱擁を解いて数瞬、彩歌は名残惜しさにも似た感慨を覚えてしまう。

 

「えへへ、改めて言うと、何だか恥ずかしいですね……でも、嘘は言ってませんよ。私は絶対に、彩歌くんの味方です。たとえ、彩歌くん自身が“貴方”を否定しても。貴方が私にそうしてくれたように」

 

 味方。それは幼い頃に彩歌が己に規定し、貫いた在り方。しかしそれは相手の行動を盲目的に肯定するのではない。傲慢にも相手の本心を定義し、その心に味方するという事だ。故にこそ彩歌はせつ菜がスクールアイドルを辞めようとする事を阻止した。相手の為ではなく、それは己のワガママだ。

 

 ならばそれはせつ菜とて同じ事。彩歌が己にも他者にも嘘を吐き自身の本心を隠そうとするなら、彼女は勝手でもその本心を規定してその味方をする。だがそのためには必要な事がある。自身の両手で彩歌のそれを包み、せつ菜が告げる。

 

「だから、私に教えてください。()の彩歌くんの事」

 

 相手の心を規定(りかい)するためには、解り合うためには、まずは相手を知らなければならない。相手の“今”、即ち相手を構成し続ける過去から現在に至るまでの総てを。故に以前の彩歌はせつ菜にそう願い、今度はそれを願われている。

 

 そして願われたのならば、それに応えないという選択は彼には許されない。願いは光となって有無を言わさず彼の心を照らし、暴かれた妄覚(トラウマ)は彼女の前に在っては最早無力だ。

 

 以前、せつ菜は彩歌に言った。きっと自分は彩歌に自分の事を知ってほしいと思っていると。それは“誰かに己を知ってほしい、知っていて欲しい”という人間の根源的(プリミティヴ)な欲求より来る願いであり、“相手の事を知りたい、知っていたい”という願いもこれに同じ。どちらも人間の根源的欲求であり、しかし誰に対しても抱くものではない。

 

「優木さんは、優しいね。こんな俺にでもそう言ってくれるなんて」

「そうですか? 正直な気持ちを言っただけですよ、私は。……ふふ、デジャヴですね」

「あぁ、そうだね」

 

 彩歌の声音は自嘲と嘆きのように。対するせつ菜は何処か苦笑のように。了解を交わさぬままに応酬された意思のリブートは、言外の観念の宣誓であった。こうまで言われてしまえば、もう仮面は許されない。

 

 尤もそれは彩歌を自縛する恐怖と自罰の終焉を意味するものではない。それでも、せつ菜に願われたのならば、こうも言われてしまったのならば、彩歌にはそうさせた責任がある。責任は、果たさなければ。そうでなければ今の在り方さえ嘘になってしまう。

 

 深呼吸をひとつ。話すにも覚悟が要る。何しろ身勝手で横暴で弱くて到底見るに堪えない心根を晒すのだから。そうして数拍を置き、初めに口を衝いたのは「ごめん」という謝罪であった。すわ心変わりか、と表情を曇らせるせつ菜の前で、彩歌が続ける。

 

「ずっと……怖かったんだ。いや、今だって他人が怖い。他人から裏切られる事も、他人を裏切ってしまう事も」

 

 故に彩歌は笑顔の仮面を被り続け、他人から一定の距離を空け続けた。せつ菜や侑達に対してだけではない。或いは親友たる大雅や家族である陽彩、師である詩音にすらも。そうして他人に好都合な(やさしい)自分であれば裏切る事も裏切られる事も無い。“お前が死ねばよかったのに”などと、二度と言われる事も無い。

 

 恐怖と自罰とで己を縛り、己だけを裏切り続ければいい。それが彩歌が自身を守り、自己を贖いに費やすための術。あまりにも愚かにして幼稚である。自己への裏切りそのものが親しい相手への裏切りにも等しいと、彼は知らなかったのだ。

 

 だが今を以てその裏切りは暴かれた。ならば下手人は下手人らしくいなければならない。恐怖を言葉にして、幾許。少年は己が嘘を贖うべく、大切な少女に告げる。

 

「──でも、話すよ。正直、過去……キミと離れていた頃の事を知られるのはまだ怖いけど……今更だ。それに、キミにこうまで言わせてしまった責任は、果たさないと」



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間話Ⅲ 同じ黄昏の下、カレらは

 西の空より差し込む陽光が大都会の無機質な無彩色を茜色で塗り潰し、先刻までは雲一つない群青色だった筈の天球に染み出した黄昏がグラデーションを描いている。そして空と合わせ鏡の如き海原もまたそれを写し、水平に至るまで黄昏に沈んだ世界はまるで燃えているかのようですらある。ならば今も岸壁に寄せては返し心地の良い旋律を奏でる漣はさながら揺らめく炎の切っ先であろうか。そんな倒錯めいた感慨を抱きながら、大雅はフェンスに寄りかかりつつ何をするでもなく海を眺めていた。時折右手に持った黄と茶の警告色めいた色彩を呈する缶コーヒーを傾ければ、痺れる程の甘さが味覚を支配する。

 

 まさしく茫洋という表現が似合う有様である。夕刻を迎え少しずつその密度を増しつつある雑踏から切り離されているかのような彼に声をかける者はおらず、稀に遠巻きに黄色い声を洩らす者はあれどそれに大雅が気付く事はない。忘我。或いは思索。それに大雅の意識は囚われていて、しかし唐突にそこに切り込む声があった。

 

「あれっ、大雅くん?」

「……高咲。それに上原も。相も変わらず仲良しだな、オマエら」

 

 よもや声を掛けられているとは思っていなかったのか大雅の応えには数拍を要し、けれど飛び出したのは常と同様の軽妙な物言いである。しかしその冗談のような声音とは裏腹にそこには先の思索の残滓とでも言うべき懊悩の気配が潜在していて、それを見抜いたかのように侑が薄く微笑む。

 

 その微笑みからあえて張り付けた軽薄が無力と化したのを悟ったのだろうか、自嘲のような短い溜め息を吐いて大雅が肩を竦める。その所作から両者の間に無言の交感があった事に気づいたのか歩夢は不満げであるが、大雅の瞳の裡に寂寞の色合いを読み取りその感慨を収めた。

 

「偶然だね。何してたの?」

「別に、何もしてねぇよ。コーヒー片手に海を眺めてただけだ。画になるだろ?」

 

 大雅に倣ってか岸壁のフェンスに身を預けながら問う侑に、右手のアルミ缶を揺らしながらおどけた態度で答える大雅。まるでナルシシズムに酔った愚昧であるかのような解答だが、事実として独りで黄昏る大雅の姿はそれだけで周囲の興味を惹いてやまないだけのものがあった。大雅自身も自己評はどうあれ他者からのそういった評価を知るが故に、そこに傲慢の色は無い。

 

 或いは侑と歩夢がそんな印象を抱いたのは、最早大雅の呈する軽薄がその裏側に在る感情を隠すための道化でしかないと両者共に知るが故なのであろうか。同じクラスであるために多少の付き合いがある侑ならばともかくあまり交流の無かった歩夢にすらそれを悟られ、次第に気取った表情が剥がれ落ちてきまずそうな面持ちに変わっていく。

 

 平素は余裕のある気位を崩さぬ大雅らしからぬ無様であるが、それも致し方ない事であろう。元より彼ら3人に共通して存在する話題などひとつしかなく、なれば彼らが揃った場において思い起こされる事象はそれに限られる。加えて先日の騒動もあればこそ、宗谷大雅という少年が平静でいられる筈も無いのだ。

 

「あの後、彩歌くんの様子はどう?」

「特に変わらず、だ。平気そうな顔して、でも眼だけは誤魔化せてなかった。途中で別れてからの事は……オレにも分からん」

 

 前置きすらなく直截極まりない侑の質問に、道化を脱ぎ捨て吐き捨てるような声音で答える大雅。同時に胸中で再燃した憂慮をコーヒーを呷る事で肺腑の底に流し込もうとするも、痺れにも似た甘美は脳裏に居座り続けるヴィジョンまで掻き消すにはあまりに無力であった。

 

 先日のコンクールの後に起きた、彩歌と嘗ての同門たる美律による騒動。そのために尻切れとんぼな形での現地解散の後、彩歌と行動を共にしていたのは大雅であった。故に、彼は知るのだ。ホールからの帰路にあって落ち着きを取り戻した後であっても彩歌の目には恐怖や諦観などが残存していた事を。

 

 大雅はそれ以上に詳しく答えようとはしないが、侑と歩夢もまた現場に居合わせ発作とでも形容すべき彩歌の異状を目撃したが故に解答としてそれは十分に過ぎた。あまりに思わしくない言葉にふたりは表情を曇らせ、大雅は手元の缶に視線を落としている。

 

 しかし、である。ならば何故、大雅は何もせずこの場でただ物憂げに海を眺めているだけであったのか。真っ先にその疑念に辿り着いたのは侑ではなく歩夢であった。或いはそれは種類は違えど大切な相手についての不安を抱えながら平静を演じるという点において共感めいた感覚を抱いたからであろうか。生まれた疑問がそのまま口を衝いて出る。

 

「……行かなくていいの、彩歌くんの所に?」

「上原がオレにどんなイメージを持ってるかは知らねぇが、オレとアイツは四六時中一緒にいる訳じゃない。それに……心配そうにしてるのはオマエらだって同じじゃねぇか」

 

 歩夢の問いに対する解答としては聊かズレた言葉を投げ渡す大雅であるが、少女らが反駁を返す事はない。経緯はどうあれ異状を露呈させた彩歌の事を心配してはいても結果的に手をこまねく形になっている点においては、大雅とふたりは等位であった。歩夢は侑程には彩歌と交流は無いけれど、本質的に善人であるが故に他者の異状に無関心ではいられないのだ。

 

 しかし歩夢からの問いを煙に巻くかのような大雅の言葉は、転じて憂慮の所在に対する肯定とも言える。()()()()()()()()があったが故に彩歌の許にはいない侑らとは対称的に大雅にそういった理由があるようには思えず彼女らは更に問いを重ねようとして、しかし大雅が先んじてしまう。

 

「……そうだ。なぁ、高咲。ひとつ訊いてもいいか?」

「ん。何?」

「オマエさ、もしかして、彩歌がずっと強がってたの薄々気づいてたか?」

 

 全く思ってもみなかった問いに声を詰まらせ、目を見開く侑。対する大雅は言い方こそどこか刺々しさはあれど、侑へと向けられた視線は全く以て平静であった。ならばその乱暴な物言いも大雅にとってはそれが常であり、そして彼にとってはこれがただの事実確認以上の意味を持たないのは明白であった。

 

 微かではあるが自身が感じていた彩歌の虚勢に潜む瑕疵について、侑が大雅に対して口にした事は一度として無い。だが、彼は知っているのだ。せつ菜の復帰ゲリラライブの直前、侑が彩歌が来ない可能性を考えてかすみを遣わせた事を。そして事実、彩歌は一度呼び出しを反故にしようとした。

 

 大雅はその理由となる事象を知るが故に何とも思わないが、事情を知らぬ余人からすれば彩歌のそれは不実極まりない行いである。にも関わらず侑が彩歌に対して悪印象を抱いている様子はなくむしろ友好的であるために、大雅はずっと気になっていたのだ。

 

 恐らくは侑から告げられる形でその気づきについて知っていたのだろう、歩夢が不安げな視線を侑に向ける。対する侑は暫しの吟味の後、口を開いた。

 

「全部気づいてたワケじゃないよ。でも……彩歌くん、たまにすごく悲しそうな目をするから。もしかしたらって思ったんだ」

 

 理由としてはあまりに薄弱に過ぎるそれは、まさしく明確な理屈の無い直感とでも言うべきものだ。大雅の想像通りに侑は彩歌の過去に何があったかを全く知らず、故に何故彼がその選択をするかについてを彼女に理解する術は無い。なればこそ、侑の感覚は直感という他ないだろう。

 

 答えると同時に侑の脳裏に想起されたのは以前、偶発的な遭遇から屋上にて昼食を共にした時の彩歌の姿。せつ菜への想いを語る侑と歩夢を見ていた彩歌の表情はひどく眩しそうで、けれどその瞳には影と言う他ない不穏があった事を彼女は覚えている。それと同じ目を先日中庭にて邂逅した際にも彼は一度見せていて、ならばそこに何かがあると気付くのは自然な事だろう。

 

 そして極めつけとばかりに先日の発作である。そこで侑が目撃した彩歌の目は不穏などという表現ですら生温い、まるで森羅万象悉くを恐怖するかのようなそれであり、加えて演奏自体にも何か違和感とでも言うべきものがあったのならば、確信に至るのも無理からぬ事である。尤も友人が苦しんでいる事は分かっても対象と経緯を知らぬがために、未だ何もできずにいるのだけれど。

 

「大雅くんは知ってるんだよね? 彩歌くんに何があったか」

「……あぁ。アイツの身に何が起きたかも、それでアイツがどれだけ苦しんだかも、オレは全部知ってる。何しろ、オレはこの目で全て見てきたんだからな。アイツの一番近くで」

 

 そう言い終えると同時に大雅は缶を両手で握り、唇を強く引き結んだ。声音こそ冷静であったがその両手は込められた力のあまりに小さく震えていて、大雅が抱える無力感の程を所作が雄弁に物語っている。ならば舗装された地面に向けられた彼の目に映っているのは目前の光景などではなく、これまでの記憶なのだろうか。

 

 故に大雅に見えているものについて彼や彩歌の過去を知らない侑と歩夢には想像する事すらできず、彼の懊悩の程も想像する事しかできない。けれどもしも、自分の一番近くにいる人が苦しんでいると分かっているのに自分ではその相手を救えなかったら。互いに顔を見合わせた刹那に彼女らの胸中をそんな夢想が過り、知らず、背筋に悪寒めいたものが奔る。

 

「自分の気持ちに正直だった頃のアイツはずっと笑顔で、幸せそうだった。だからオレはまたもう一度アイツのそんな顔が見たくて……でも、ダメなんだ。オレではアイツを救えない。“大好き”の無いオレでは、アイツに道を示せない」

「“大好き”が無い……?」

 

 独白のような大雅の呟きに、思わず声を洩らす歩夢。それに大雅は無言の首肯を返すと、茶化すように肩を竦めた。

 

「昔から執着とかが薄い気質(タチ)でな。イマイチ分からないんだ、夢に繋がるような“大好き”ってのが」

 

 それは大雅自身による最も端的で、かつ冷酷な自己評価であった。彼は他者からは眉目秀麗にして文武両道という評価を下されているがそれも当然というもので、事実として彼は幼い頃から大抵の事が人並み以上にできたのである。そのために彼の前にあっては凡そが些事であり、故にこそ何かに執着するという事が無かった。中学の頃からサッカーを続けているのも特別好きなのではなく、偶々スポーツが得意で中でもサッカーが上手いからという、それだけの理由でしかない。レギュラーという立場でありながら彩歌のコンクール観覧のために平然と練習を休んだのも、そういう面の顕れであるのかも知れない。

 

 彼が個人的に親しくしているとある後輩が言う所の“適性”。誰に言われるまでもなくそれに従って生きてきたのが宗谷大雅という少年であるのだ。高校教師という夢も教えるのが特別好きなのではなく、ただ嘗て彩歌から告げられた言葉と感謝が嬉しかったという経験の延長でしかない。詰まる所、彩歌と大雅は互いを親友と認めてはいてもその在り方、人生における指針においては根本的に性質を異としているのだ。別々の道を共に立つ親友であればこそ、彼には己の道を往く事しかできない。

 

 その吐露が衝撃的であったのだろうか、少女らは驚愕の表情で大雅を見ている。或いはそれは彼女ら自身やその周囲の者らもまた自身の“大好き”に正直に在る事を選んだ者であるからなのだろうか。そんなふたりの表情に、大雅が苦笑する。

 

「オレのコトはいいだろ。こういう自分のコト自体は嫌いじゃねぇんだよ、オレは。

 でも……アイツの道標になれないのは、悔しくもある。オレの道標(ゆめ)はアイツのお陰だってのにな」

 

 そう吐き捨てる声音は自嘲のように。込み上げてきた冷笑を僅かばかり残ったコーヒーで臓腑の奥に流し込み、空になった缶を手の中で弄ぶ。そうして幾許か、最早無用の長物と成り果てたアルミ缶を大雅は片手で握り潰してしまった。

 

 “大好き”を実感として持たず、己の適性に従った生き方をする己が大雅は嫌いではない。彼にとってはそれが自然な在り方であり、誇れる己だ。だがそれは決して自身と異なる在り方を否定する訳ではない。もしもそうであったのなら、大雅は彩歌と親友などにはなっていまい。己の“大好き”を指針とする嘗ての彩歌の在り方もまた大雅は貴いものだと考えていて、それに基づく友の笑顔は彼にとってさえ何物にも代え難い幸福であった。

 

 だが大雅は“大好き”を実感として持たぬが故に、それを指針とする者の道標にはなれない。それは大雅にとって貰ったものを返せていないも同然であり、であれば彼が懊悩するのも致し方ない事であろう。独語めいた大雅の述懐を少女らは黙って聞いていて、それが途切れた時、真っ先に言葉を発したのは歩夢であった。

 

「それでも……それでも、彩歌くんは大雅くんの存在に救われてたと思う。隣に誰かがいてくれるのって、それだけで嬉しいもん」

「上原……くく、アンタがそう言うと、何だか説得力あるな」

「も、もうっ、からかわないでよぉっ!」

 

 悪戯な揶揄いに軽く頬を膨らませながら抗議する歩夢であったが、大雅は何処吹く風だ。くくく、と口元に手を遣り笑うその姿は細かな違いこそはあれど彼の親友の癖とよく似ていて、彼らが共に積み重ねてきた時間の質量を思わせる。また、大雅の所作は露悪的とさえ言えるそれであったが表情は柔らかく、であれば先の軽口が一種の照れ隠しのようなものである事は明白であった。

 

 隣にいてくれるだけで嬉しい。そう在ってくれるだけで救われるのだ、と。大雅は己の存在が本当に彩歌の救いになっているかは分からないけれど、少なくとも彼自身にとっては親友と一緒にいる時間を楽しいと感じているのは事実だ。そして彩歌もまたそうであったのなら、それ以上に嬉しい事もあるまい。

 

 らしくもない感傷だ。確証もない希望に基づいて他人に期待する、などと。けれど悪くないとも思う。気の済むまで笑声を零してからひとつ大きく息を吐き、少女らから視線を外して海原を一瞥する。太陽が先よりも傾いたからだろうか、水平線からは夜の気配が染み出してきていた。

 

「まったく……アイツも人を見る目が無いな。オマエらや会長ちゃんみたいな良い(ヤツ)にも自分(てめー)の過去を知られる事を嫌がってたんだから。……まぁ、あの状況自体がアイツの地雷だったんだ、仕方ねぇ所もあるけどな」

「地雷……」

「そうだ。以前にもアイツは似た状況を経験して、そして、友達だと思ってた連中にこう言われたのさ。

───“オマエが死ねば良かったのに!“……ってな」

「っ……!」

 

 大雅の語勢が異様な苛烈さを内包したのは、刹那よりもなお短い須臾の裡の事。だというのに彼の再現があまりに堂に入っていたからか、或いはその言葉そのものが宿す狂飆の如き悪意のためか、それを目の前にした侑と歩夢の背筋を駆け抜けたのは電撃的な悪寒であった。

 

 それを見せられてしまえば、嫌でも理解せざるを得ない。大雅の言う地雷とは何であるか、何故大雅や彩歌がこれまで頑ななまでに何も語らなかったのかを。そして先日の騒動こそはまさしく、彩歌が抱く傷跡(トラウマ)のひとつの再演であったのだ。それを知るからこそ、大雅は誰にも口外しようとしなかった。

 

 であれば今より少女らが行おうとしているのは膿んだ傷跡を切開し、その正体を詳らかにしようとするに等しい。最早彼女らは何も知らぬ身ではなく、隠された過去が余人の立ち入りを拒むものであることも理解していない訳ではない。或いはその正体を知れば自身の裡に在る真野彩歌という少年の像が崩れ果て得る事も。けれど、それでも友人が苦しんでいるのなら、力になりたい。そのためには、知らなくては。彼女らの中にある善性は、目撃した悲哀を無視するという選択肢を自身に許さなかった。

 

「それでも、オマエは知りたいと思うか? アイツの秘密を」

「……知りたい。たとえ彩歌くんが何を思っていて、何を隠していても、苦しんでいる友達を放っておくなんてできないから」

 

 即答であった。侑の返答に対して大雅はすぐには何も言わず、けれどその紅玉の如き瞳は真っ直ぐに彼女の目を射抜いている。そうして会話のないまま、幾許か。ひとつ溜め息を吐いてから、大雅が口を開いた。

 

「分かったよ。オマエらにとっても半ば乗り掛かった舟だ。それに、どうせ会長ちゃんは直接アイツの所に行ってるんだろ? 会長ちゃんだけ色々と知るってのも、不公平だしな」



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第24話 残響追憶:コレが運命(せかい)の悪意なら(前編)

 とある少年の話をしよう。

 

 誰よりも純粋にに己の”大好き”を追いかけ続け、それ故にあまりに無垢に過ぎた少年の話を。

 

 少年が幼い頃から、彼という存在の裡には音楽があった。父は嘗て一世を風靡したとあるアイドルグループのリーダーを務めていた元トップアイドル。母は大仰な肩書こそ持たぬもののその腕前から”神才”と渾名されたピアニストでありピアノ講師。そんな音楽一家とさえ形容できる家庭に生を受けた彼が両親の影響を受けて自身もまた音楽の道を志すのは、半ば自然な事であった。

 

 母からはピアノを。父からはダンスと歌を。それは或いは両親からの受け売り、模倣を始まりとするものであったのかも知れない。事実、物心付いた頃から少年にとって自らがそれらを嗜むのは当たり前の日常で、何を切っ掛けとするのかさえ不確かであったのだから。であればその始点にあるものは両親の真似事と考えるのが妥当だろう。

 

 だが始まりが模倣に依るのだとしても、何もかもが受け売りのままである筈も無い。少年が幼さ故の純真と無垢を原動力に音楽の道を猛進する中で芽生えた、自身の全存在を傾ける事さえ惜しくない激烈な情動。音楽への”大好き”は、誰の受け売りでもない、彼自身の裡から発生した感情だった。

 

 それがいつから少年の中にあったものなのか、明確な所は彼にも分からない。だが両親の模倣として音楽を始めた少年にとってその感情は、誰に影響された訳でもない、初めて自らの中から生まれたもので。それが彼の自我の構成要素として多大な部分を占めるようになった頃になると、至極自然な道理として彼は夢を抱くようになっていた。

 

 

 “いつか己の音楽で皆を笑顔にしたい”。それが、彼の夢だった。

 

 

 あまりに曖昧模糊としていて、それでいて壮大な夢である。さながら幼子が白紙の上に悠々と描き出す絵空事のような、あまりに現実感の無い空想である。或いは音楽を嗜む遍く少年少女が一度は胸に抱き、しかし冷厳なる現実の内で摩耗されながら棄ててしまう幼稚な理想。

 

 だが───少年はあまりに無垢だった。あまりに愚かで、同時に他の誰より直向であったのかも知れない。夢はいつか現実(ほんとう)になる。そんな、誰が言い出したかも分からない机上論を真っ向から信じ抜き、彼は幼童としての短くも貴重な時間の全てを自身の夢のために捧げた。

 

 無論、全てが順調であった訳ではない。その道程には敗北があり、挫折の端緒もあった。初めて出場したコンクールにおいて入選もできなかった経験もそのひとつであり、だが彼はそれらを悉く乗り越え己の力に変えていった。或いはその類稀なる克己心、自律心こそが、両親の天稟を唯のひとつも受け継がなかった少年に与えられた、数少ない天才性のひとつであった。

 

 そうして、少年──彩歌(さいか)が6歳であった時分。彼は己の夢の一端をその目で見る事になる。

 

 

 眼前に広がるは神殿の如き偉容を誇るコンサートホール。スポットライトに照らされ目が眩む程のステージとは対照的に照明の消えた観客席は仄暗く、地続きでありながら明暗が分かれた両者はまるで隣接しながらにして隔絶された異界のようだ。膨大な収容人数を誇る客席は観客で満載され、それが湛える静寂の空気は仮想の質量を獲得しステージに圧し掛かってきているかのようですらある。

 

 ステージに注がれるは千を超える視線。或いは成熟した大人であっても重圧に耐えかねて竦み上がってしまいそうなその中に在って、彩歌は笑顔のまま、時折口を開きかけながらも黙している。その気配に緊張の色は無く、孔雀青の瞳に宿るのは爛々とした輝き。そして胸に抱く小さなトロフィーは、彼がこのコンクールで第1位に選ばれた証であった。なれば今、彼の胸中を満たし言語化すら不可能な衝動の奔流を生み出している感情の正体とは歓喜を置いて他にない。だが、それは決して優勝という結果に向けられたものではなかった。

 

 そう、結果そのものはどうでも良いのだ。己の実力が認められた事も、嬉しくはあれど彩歌にとっては重要ではなかった。彼にとって重要であったのは彼がここに集った人々を笑顔にできた事。自分がピアノの演奏を心底から楽しんでいた事。優勝という結果は、余人が彼のそういう在り方に後から付加したものに過ぎない。

 

 その結論に至った時、彩歌は改めて自覚したのだ。自分は音楽が大好きで、己の音楽で以て人を笑顔にする事こそが何よりの幸せなのだと。そして、この瞬間こそは数多の人間が求めて止まない自己の意義に彼が到達した時でもあり、若くして彼は人生を懸けて果たすべき宿願を得たも同然であった。

 

 

 だが、これより後になってこの思い出を振り返った時、彼はこうも思うのだ。きっとこの瞬間こそは己が真理の絶頂に在ると同時に、その存在を夢に縛り付けられた時だったのだろう、と。

 


 

「彩歌はさ、今年もコンクールに出るんでしょ?」

 

 彩歌が中学校に入学して暫く経った頃の、とある昼下がり。真野邸のリビングにて僅かに開け放たれた窓より差し込む陽光とそよ風を浴びながら、ダイニングテーブルに突っ伏した美律(みのり)が彩歌にそう問うた。

 

 いくら彩歌と美律が友人であるとはいえ、家人ならざる人間が他所の家であまりにもリラックスしているその光景は、世間一般であれば異様の部類に入る事だろう。だが彩歌は美律の様子に何の疑問を抱いた様子も無い。彩歌の母である愛歌が営むピアノ教室にて教導を受けている彼らにとって、暇な時間を真野邸で過ごすというのは最早日常の一部であった。

 

 故に同門のひとりたる美律が自宅のリビングで寛いでいるというのも彩歌にとっては最早慣れた事であり、問いを受けた彼は手元の譜面から顔を上げて答える。

 

「勿論だよ。去年は全国でも良い所までは行けたけど、優勝は逃してしまったからね。今年こそは、絶対に勝つさ」

 

 詰まる所、目指すは全国優勝。不敵に笑いながらそう答える彩歌に美律は半ば呆れのような表情を返すが、面持ちとは裏腹にそこに彼を嘲るような意図はない。ともすれば大言壮語と一蹴されるような展望を臆面もなく言い放つ彼の度胸に苦笑はすれど、それが決して夢物語ではない事を彼女は知っているのだ。

 

 教室長である愛歌の愛息たる彩歌程ではないにせよ、美律もまた愛歌からピアノを習うようになってから長い身である。故に彼女は知っているのだ。今まで彩歌が積み上げてきた修練の総量とそれに裏打ちされた実力、そしてそれに基づく遍歴を。

 

 5歳の頃に初めてピアノコンクールに参加した彩歌は6歳の時分に初めて地区大会を突破し全国へと駒を進めた。その時こそ全国では特筆する成績を出せた訳ではないが、それ以来彼は毎年地区大会を通過し全国においても評価を上げ続け、去年は遂に全国大会において準優勝という成績を残すに至ったのである。

 

 あまりに突出したものではないが、十二分に輝かしい成績であろう。それを前にしては全国優勝という目標さえ強い現実味を持ってしまうような。だが彩歌にとって真に重要であるのは優勝という結果そのものではない事も美律は知っていて、だからこそ洩れた呆れであった。

 

「宮古さんは? キミも出るのかい?」

「そりゃあね。うちだってそのために練習してきてるんだし。……でも、あんたも出るなら地区の突破も厳しいかなぁ」

「フフ、そんなコト、思ってもないクセに」

 

 口許に手を遣り、彩歌は小さく忍び笑いを漏らす。何処か芝居がかった、聊か気障ったらしい所作であるが、それが幼い頃からの彩歌の癖である事を美律は知っていた。だからだろうか、彼につられるようにして、美律もまた口の端に笑みを覗かせる。互いに挑発めいた言葉を交わしながらも和気藹々としたそれは、気心の知れた仲のみに許された交感であった。

 

 彩歌と美律は友人であり、同じ師を戴きその教え──〝音楽はまず自分が楽しまなければならない〟──を共有する仲間だ。だがそれと同時に彼らは道を同じくし、ひとつの到達点を目指して競合する好敵手(ライバル)でもある。仲間で、好敵手。互いの実力を認め合う彼らは決して競わずして屈服する事はない。今は勝てずとも次。次も勝てないのなら、より修練を重ね更に次を目指す。その在り方を共有するが故に、挑発は戯れでもあった。

 

 それを再確認し、彼らが交わしたのは好戦的な笑み。それはさながら言葉に依らない宣戦布告であり、しかし幾許かの後、何かを堪えきれなくなったかのようにふたりは同時に噴き出した。互いが互いを好敵手と認識しているといえど、既に何度も繰り返され陳腐化した険悪と挑発は彼らにとってあまりに滑稽に過ぎたのだ。

 

 笑みにより緩んだ目尻から滲む涙を拭い、美律が言葉を続ける。

 

「でも実際、あんたは凄いよ。実力もそうだけど、やりたい事がハッキリしてる。自分の音楽で皆を笑顔にしたい……だっけ。バカみたいに壮大な夢だけど、叶えるために努力してる所、うちは尊敬してる。多分、他の皆も」

「えへへ、何だか照れるなぁ……でも、俺もまだまだだよ。母さんや父さんには、まだ及ばない」

 

 美律からの偽らざる賛辞に頬を染めた彩歌であったが、それはさして間を置かずして別の色に取って代わられる。それは言葉通りの謙遜や卑下、そして両親への尊敬、その他様々な感情が綯い交ぜになった混沌の色彩。明朗たる真野彩歌の裡から染み出した、(くら)い色相であった。

 

 だがそれは何も彩歌が両親を疎んでいるだとか、彼らに及ばぬ自身を恥じているだとか、そういう事ではない。でなければ彼は今まで音楽を続ける事も修練を重ねる事も、それどころかその胸の裡に夢を抱える事も無かっただろう。彼は己の偉大な両親を心底から尊敬しているからこそ、己もそう在りたいと願うに至ったのだ。両親の存在は、彩歌にとって光のようでもあった。

 

 だが彼らの光に魅せられたのは息子たる彩歌だけではなく、そして強すぎる光は目を()き、眼を曇らせてしまう。そうして暗んだ瞳は現実の容を捉える機能さえも喪失し、けれど灼かれた者はそれに気づかぬが故に時に己が見ている光の在処すら履き違えてしまうものだ。そういう時、人は嫉妬と侮蔑を込めてこう言うのだろう。──七光り、と。

 

 己の手で何かを為した時であろうと、彩歌が何度その謂れの無い悪罵を受けてきたか知れない。だがそういう時、悪罵を向けてきた者ではなく、そういう者の目を覚ませられない自身の非力に憤るのが彼の常であった。そこに気休めを欲する邪心は無く、故にその謙遜に美律は待ったを掛けられない。

 

「それに、凄いのはキミや皆もだよ。努力を理由に俺が尊敬されるなら皆もそうだし、俺は皆を尊敬してる。……勿論、キミもね。宮古さん」

「うぐ……あんたって時々、恥ずかし気もなくそういうコト言うよね……!」

「本心だからね。あえて偽る必要も無いでしょ?」

 

 そう言って彩歌は悪戯に笑い、美律は今度こそ反論を封じられてしまう。僅かに頬が紅潮しているのは果たして偽らざる賛辞を正面から受けた事によるものか、或いはまた別の要因によるものか。どちらであるにせよ、彩歌はその原因に気づかないのだろう。彼にとってはただ本心をありのままに伝えただけであるのだから。

 

 真野彩歌という少年は嘘を吐かない。それは美律を始めとした同門たちが共有してきた時間の中で獲得した共通認識であり、だからこそ美律に反論は不可能であった。たとえ彼の敬慕を無下にするような事を言おうとも、彼はそれを軽くあしらってしまうだろう。そこに世辞や虚飾は無く、言い募れば言い募る程に彩歌の言葉はより存在感を増していく。

 

 けれどこのまま一方的に落ち掛けられたままでいるのも悔しくて、美律は何度か深く息をする。そうして不可解な早鐘を打つ心臓を落ち着けてから思索を巡らせるけれど最適な反駁は見当たらなくて、そうしているうちに玄関の扉が解放される音が彼らの耳朶に触れた。足音はそのままリビングの方まで来て、彩歌が声を投げる。

 

「お帰り、母さん」

「ただいま、彩歌。……おや。美律、こんにちは。レッスンまでにはまだ時間があったと思ったけど、もしかして、待たせちゃったかな」

「いえ、気にしないでください。うちが来るのが早すぎただけなので」

 

 彩歌と言葉を交わしていた際の砕けた調子とは一転し、ひどく畏まった様子で美律は愛歌(まなか)の謝意を受け流す。いっそ不可解なまでの変わり身の早さだが美律の声音には愛歌に対する激烈なまでの恭敬の念が籠っていて、ならばそれ故の態度であることは疑いようもなかろう。

 

 であれば愛歌を見る美律の目に彩歌と対面している時とはまた別種の、かつ彼に対するそれよりも明瞭な熱が宿っているように見えるのも、致し方ない事であるのだろうか。愛歌の教室に通う生徒たちは皆彼女に対して尊敬や崇敬めいた感情を抱いていたが、中でも美律のそれは人一倍であった。ならば一見するとただ変わり身が早いだけに見える所作も、彼女にとっては平常なのだろう。誰しも自身が尊敬する相手の前では畏まるものだ。

 

 ともあれ愛歌が買い物から帰宅した以上、これからふたりはレッスンに入るのだろう。つまり美律との会話はここで中断であり、状況からそれを察した彩歌は机に投げ出していた譜面を再び手に取った。余白の雑筆はおろか五線譜に並んだ音符さえ手書きのそれは、彩歌が制作を進めている曲の譜面であった。シャーペンを手に取り、ノックカバーを顎の辺りに押し当てる。

 

そうして意識が再度作曲に没頭するその刹那、彼は閉じかけたドアの隙間から美律が自身を見ている事に気づいた。作曲に移行しつつあった意識を彼女に向ける。

 

「ん。じゃあ、彩歌、また後で」

「うん。また後でね」

 

 互いにひらと手を振り、今度こそドアが閉まる。至って普通。何という事も無く、特筆には値しない、友人との何気ないやり取り。それさえ楽しくて、彩歌は微笑した。楽しいなぁ、と呟きながら。

 


 

 真野家の夕食において、3人が同時に食卓を囲む機会というのはそう多いものではなかった。

 

 未だ中学生の身の上であり特に部活動に所属している訳でもない彩歌と自宅の一角を利用して音楽教室を営む愛歌は夕方には家にいるのが基本であったが、一家の大黒柱たる陽彩(ひいろ)は大手アイドル事務所にて有望株のプロデューサーとして働いている身である。そのため彼はいつも朝早くに出勤し、彩歌や愛歌が眠りに就いてから帰宅する事さえ珍しくなかった。

 

 それ故か、稀に陽彩が夕方のうちに帰って来る事ができる日の夕食はいつもよりも少しだけ豪華になるというのが真野家の常だった。ただ家族全員が食卓に揃うというだけで些か大袈裟な処方であるのかも知れないが、彼らにとって一家の団欒というのはそれだけの意味を持つ行為であったのだ。

 

 この日の献立は炊き立ての白米にハンバーグ、生野菜サラダ、ミネストローネの4種。愛歌が一から作った、彼女の自信作であった。鼻腔を突く芳香により逸る心を宥め賺し、いただきます、と声を合わせる。何という事の無い食前の挨拶の一致さえ、久方振りの事だった。

 

「今日もお仕事お疲れ様、陽彩君」

「ありがとう。愛歌も、家事とか色々、お疲れ」

「ふふ、お安い御用だよ」

 

 軽く頬杖を突いて澄ました声音でそう返しながらも、それとは裏腹に愛歌の表情には隠しきれない喜色が滲んでいる。それを受けた陽彩もまた照れ臭そうに微笑し、その様はまさに言葉に依らざる交感だ。或いはそれは、結婚する前から続く彼らが共有してきた時間の質量が齎すものであるのだろうか。

 

 陽彩と愛歌は現在は夫婦であると同時に、幼い頃から互いに親しくしていた、所謂幼馴染というものであった。故に彼らは互いの長短も遍くを知り尽くし、その間には揺るがぬ相互理解がある。あえて言葉にせずとも通じ合うという確信と事実はそれに裏打ちされたものだ。

 

 彩歌はふたりの息子としてそれを知るが故にあえて口を挟む事はないが、彼とて年頃の男子である。両親の仲がいつまでも睦まじい事を幸福と思えど、眼前で惚気られる事には些か気まずいものがあった。故に、咳払いをひとつ。不可聴な夫婦の睦言を、子供の自儘を以て切って捨てる。

 

「夫婦仲良しなのはいいけどさ、息子の前でまでイチャイチャしないでよね」

「ハハハ、ゴメンな、彩歌。気を悪くしたか? それとも……ヤキモチか?」

「……そんなんじゃないし」

 

 唇を尖らせてそっぽを向きながらそう答える彩歌だが、彼自身、己の感傷が陽彩の言う通り子供のやきもちであることは自覚していた。尤も、それが父と母のどちらに向けられたものであるかは彼自身にすら判然としない。或いはそれはどちらにも向けられた感情でもあるのだろうか。

 

 息子のそんな態度から彼の内心を察したのだろうか、陽彩は空いている左手で愛息の柔らかな亜麻色の髪を撫でて、彩歌は唐突な父の行動に面食らい何か言いたげな顔をしつつも抵抗するでもなく受け入れている。そんな父子の姿に、愛歌が幸せそうに笑んだ。そのまま幾許か、陽彩は僅かに乱れてしまった亜麻色から手を離し、代わりに言葉を投げる。

 

「そうそう。彩歌、今年もコンクールに出るんだろう? 俺も観に行っていいか? 結果発表まではいられないけど、彩歌の演奏を観る時間くらいなら何とか確保できそうなんだ」

「えっ、本当!? 父さんも来るの?」

「あぁ。彩歌さえ良いならな」

 

 先刻までの不機嫌な表情から一転、驚愕と歓喜をその幼い面貌いっぱいに滲ませながら目を輝かせる彩歌。その様子を見ればあえて解答を貰わずとも彩歌の意思は分かり切ったようなものだが、陽彩は先回りする事なく鷹揚に首肯を返す。

 

「良かったね、彩歌。お父さんも見に来てほしいって言ってたもんね」

「うん! へへ、嬉しいなぁ。大雅も見に来てくれるって言ってたし、これはもっと練習を頑張らないと!」

「大雅?」

 

 彩歌の口からは聞いた事が無い名前を耳にし、思わず問いを漏らす陽彩。それを悦喜と奮起の中にあっても耳ざとく聞き取ったのか、彩歌が前のめりになりながら父の疑問に答えを返す。曰く、フルネームは宗谷大雅。中学に入学した直後、授業での班決めを切っ掛けに話すようになった友人であるようだった。

 

 つまり友人になってからの時間はそう長くはないものの、現時点で友誼を結んでから数か月は経っている事になる。それは同時にそれだけの時間を陽彩は息子の生活の変化について知らないまま過ごしてきたという事でもあり、陽彩にとってその事実は恥じ入るに十分なものだった。いくら仕事で多忙にしていたとはいえ、それを無知の理由にするのを陽彩は自身に良しとしない。彼は彩歌の父なのだから。

 

 だがその感傷をこの場で漏出した所で何にもなるまい。そう決定して陽彩は顔に浮かべた笑みをそのままにする事に成功し、けれど愛歌はその内心に気付いたようで視線の交錯と共に苦笑を交わし合った。

 

「でも、中学でも楽しくやっているようで俺も安心したよ。

 ……そうだ、友達と言えば、菜々ちゃんには声を掛けてないのか?」

 

 何気ない問いだった。陽彩は菜々と顔を合わせた事は数える程しか無いけれど、彼はその職業柄、他人の顔と名前を覚えるのは得意だった。加えて息子の友人、それも一度コンクールを観に来た事がある相手であるのだから、覚えていない筈も無い。

 

 彼が覚えている限りでは菜々は彩歌が通う公立中学ではなくお台場に建つ虹ヶ咲学園の中等部に入学した筈だが、彩歌は彼女の連絡先を知っている。故に関係が全く断たれた訳ではなく、ならば誘いをかけた可能性に思い至るのは自明だろう。だが彼の予想に反し、彩歌は視線を逸らしてしまう。あまりにも露骨に過ぎる仕草だった。困ったように笑い、愛歌が口を開く。

 

「この子、今年はいいって」

「そりゃまた……なんで?」

「うるさいなぁ……俺にも色々あるのさ」

 

 ぶっきらぼうにそう言い、彩歌は白米を無造作に掻き込む。それが両親からの追及を拒むためのポーズであるは誰の目にも明らかであり、目配せと共に肩を竦める。彩歌が菜々に声を掛けていない理由について、陽彩は勿論の事、愛歌も何も聞かされていないようであった。

 

 少なくとも彼らの知る限りにおいて、彩歌は友人を蔑ろにする類の子供ではないし、またそう育ててきたつもりもなかった。では両者の間に何らかの不和があったのかと言えば、それも在り得ない話だ。小学校の卒業式において、彼らは菜々と彩歌が最後まで別れを惜しんでいたのを覚えている。

 

 ならば、何故。何も友人のひとりに声を掛けない事は大した問題ではないにせよふたりはそれが気になって、幾許か。その疑問が齎す熟考の内から芽生えた悪戯心が、夫婦の中で鎌首を擡げる。

 

「まさか、これが最近話題の草食系男子ってやつか……? 好きな子ほど積極的に関われないっていう……」

「かもね。どうなの、彩歌?」

「なぁっ……!? す、すすす、好きっ!? いや俺は別に、そういうのじゃ……!

 勿論中川さんの事は好きだけど、それはホラ、友達なら当然っていうか」

 

 おや、と。思いの外に好感触な反応を示した愛息を前にして、ふたりの表情は得意なそれではなくむしろ素っ頓狂なそれであった。愛歌らとしてはほんの些細な戯れのつもりであり、よもや彩歌がこうも良い反応をするとは思っていなかったのだ。顔を耳まで紅潮させ、早口でそれらしい方便を展開する、などと。それではむしろ本心を曝け出しているようなものではないか。

 

 尤も、恐らくこれは菜々に声を掛けない理由とは全く別の箇所に位置する感情なのだろう。もしも今の感情がふたりの推測通りのそれなのだとしても、今までに積み上げてきた友誼は変わらない。それを現在の情動ひとつで全く以て反故にしてしまうなど、あまりに薄情に過ぎよう。自身の責任を過剰な程に意識するきらいがある彩歌の行いとして、それではあまりに不自然だ。

 

 だがその場合の適当な理由が両親には分からず、だがそれに疑問を覚えど無理に聞き出すような陽彩らではなかった。彩歌は彼らの息子であるが、それ以前に独立したひとりの人間である。ならば、その内心には家族すら立ち入れない禁足領域があるのは当然だ。いくら家族といえどそこに土足で上がり込む事はできず、また独りで抱えきれないのなら彼は葛藤しながらも吐露するだろうという確信が、彼らにはあった。故に、彼らは親として見守るだけである。

 

 しかし、それと同時に息子の精神的な成長が喜ばしいのもまた事実。喜色を悪戯心で糊塗し、聊か意地の悪い笑みを浮かべたまま愛歌が言葉を投げた。

 

「それじゃあ、今以上にレッスンを頑張らないとね。吉報を届けるために」

「だからっ……うぅ……でも、うん、そうだね。どうせ伝えるなら、悪い知らせより良い知らせの方がイイし」

 

 最早弁明を放棄したのか、或いは良い歳で未だ悪童めいた気性の抜けきらない両親の前に屈したのか。彩歌は紅潮した顔を隠す事も無いままぶっきらぼうに愛歌に応えを返し、残りの夕食を乱暴に掻き込むのであった。

 


 

「やっはろー! さっちゃん! 愛歌!」

 

 夕餉の最中に繰り広げられた夫妻とその愛息による児戯めいた問答より数日が経った、とある休日の夕方。勢いよく扉が開かれた轟音と共に真野邸の洋間に飛び込んできたのは、邸宅の隅々にまで轟かんばかりの快活な声であった。

 

 唐突である。卒爾である。あまりにも予想だにしない事態であったものだから名前を呼ばれたふたりは驚愕の表情のまま、闖入者たる旅装姿の女性──矢代詩音を見つめていて、しかしそんな視線を受けても詩音は何処吹く風といった面持ちだ。

 

「何よー、久しぶりに会ったのに、ふたりとも反応悪いわねぇ」

「いや、詩音、キミね……」

 

 帰国するならば事前に言ってくれても良かったのに、だとか。いくら合鍵を持っているとはいえ潜入行動(スニーキング)じみた事をするのは如何なものか、だとか。様々な思いが愛歌の脳裏を掠めて、しかし実際に音になる事は無かった。代わりに零れたのは溜め息であり、続く笑みは苦笑めいている。そんなふたりの遣り取りは、彩歌にとっては既に見慣れたものであった。

 

 世界的に有名なピアニストたる詩音と愛歌の関係は、所謂親友というもののそれだと彩歌は了解していた。彼女ら自身が彼にそうだと主張した訳ではない。だが、親戚や恋仲でないにも関わらず海外に拠点がある詩音の日本滞在中の逗留先として自宅を利用する事を認め合鍵まで渡す程の信任が介在する関係を形容するには、只の友誼というのは不足に過ぎよう。無論、合鍵の譲渡は陽彩も了解済みの事ではあるが。

 

 そんな状態であるから彩歌にとっても詩音の破天荒は既に慣れたもので、突撃の直後こそ驚愕で硬直したものの忘我からの復帰は早かった。

 

「久しぶりだね、先生。……とは言っても前に会ったのは半年くらい前だから、いつもよりは短いかもだけど。今回は仕事で戻ってきたの?」

「そうなの。あ、でも安心して? さっちゃんが出るコンクールの日は空けてあるから、あたしも観に行けるわよ。

 ……そうそう。さっきの演奏、聴こえてた。相変わらず良い色してるわね」

 

 色というと本来的に不可視たる演奏を形容する言葉としては聊か不適にも思える表現だが、彩歌に違和を覚えた様子はない。むしろ彼は一考を挟むまでもなくそれが意図する所を悟ったようで、小さくはにかんで見せた。

 

 共感覚。それが詩音が有する特殊な感覚の名である事は、彩歌にとって歴然たる事実であった。一口にそれと言っても種類は様々だそうだが詩音のそれは音程や微妙な調子に反応して色が変わって見えるものらしく、その色彩から発話者や奏者の感情を類推する事も詩音にはできるらしかった。

 

 半ば御伽噺めいた現象であるが、幼い頃から詩音に面倒をかけている彩歌は何度も内心を言い当てられた事があって、故にそれが真であると理解している。詩音の言う良い色というのは言葉通りの意味であり、彼女が持つ最大限の賛辞でもあった。

 

「演奏自体も去年より上手くなってるし、今年も良い所までいけそうね。勿論、油断しなければだけど」

「えへへ。……あっ、そうだ。先生は俺の演奏を良い色と言ってくれるけど……俺の音って、どんな色してるの?」

「色? そうねぇ……」

 

 不意に降って湧いた疑問を素直にぶつける彩歌の瞳は、幼さ故の無垢な好奇心の光を内包したそれだ。それを真正面からぶつけられ、詩音は頤に指を当てながら思案の呟きを漏らす。

 

 今更な疑問だ。しかし当然の疑念でもある。彩歌は詩音の共感覚が御伽噺ではない事を知っているが、彼自身はそれを持たないのだから。彼の意識が捉える世界においては五感は独立したものであり、音は不可視である。故に彼の理解には実感が伴わず、確かめるには当人に尋ねる他ない。

 

 幾許かの空白。応答の間隙を満たす黙考の吐息。彩歌は小首を傾げて何事か口を開きかけて、だが二の句が継がれる前にやおら詩音が常用してるサングラスを外した。そうして何も言わぬまま自身の顔を彩歌のそれに触れんばかりに近づける。必定、少年の視界に広がったのは、詩音の瞳であった。彼女の髪と同じ橙色を内包しながらも様々に輝くそれは、或いは玉虫色と形容すべきであろうか。その極彩色に視線を吸い寄せられ、彩歌は押し黙ってしまう。

 

「……蒼。でも、ただの蒼じゃないわ。あんたや愛歌の目みたいな、綺麗な蒼。孔雀青って言うのかしら。まるで澄んだ青空か、珊瑚礁みたいな……ねぇ、さっちゃん。さっちゃんは、自分の目の色は好き?」

「えっと、考えた事なかったなぁ……でも、好きだよ。少なくとも嫌いじゃない」

「そう……じゃああたしとお揃いね。()()()()()()()()()()()()

「───?」

 

 詩音の言葉に、何ら奇妙な所は無い。彼女の捉える世界においては彩歌の音は彼の目と同じ孔雀青の色彩を描いていて、彼女はその色が好きだというだけ。ただそれだけの事だ。先に彼女が言っていた事とも何ら矛盾はしない。だというのに彩歌の胸中には言い知れない感覚が蟠っていた。

 

 彩歌や愛歌が内包する蒼が好きだと言う詩音の目に宿っていた情念。それに近いものを彩歌は知っている筈で、それなのにどうしても言語化ができない。言語化ができないのならば、やはり訊くしかない。そう判断して彼は口を開きかけて、けれどそれに先んじて不意に詩音との距離が離れた。見れば、不機嫌そうな、或いは揶揄うような面持ちの愛歌が詩音の両肩を掴んで引き剥がしたようであった。

 

「詩音……私の息子に色目を使うのは止めてもらえるかな? いくらキミが相手でも見過ごせないね」

「ちょ、色目使うってなによぉ。仲睦まじい師匠と弟子のじゃれ合いじゃない。

 それに、さっちゃんの事は生まれた時から知ってるし、あたしにとっても半ば息子みたいな──」

「誰が、誰の息子だってぇ?」

 

 何処か言い訳じみた詩音の物言いを最後まで述べさせる事も無く、その途中で声を割り込ませ凄む愛歌。言葉とは裏腹に表情は笑顔でこそあったがそこに言い知れぬ圧があることは彩歌の目から見ても明らかで、しかしどうしてか戯れめいてもいる。であれば至近でそれを受けた詩音がひえぇ、と悲鳴をあげながら彩歌の背中に隠れたのもそれに呼応したものなのだろう。

 

 今年で40半ばにもなろうという者同士の会話としては、それは聊か以上に大人気の無い遣り取りであろう。だがそれは転じてふたりの間に互いの子供染みた一面を許容するに値する信頼があるという事でもあって、巻き込まれた彩歌も不思議と悪い気はしなかった。尤も大人としての分別もあるが故に戯れも長くは続かず、詩音が彩歌から引き剥がされていく。

 

 しかしそうして離れた詩音に何か不服の気配があるような気がして、彩歌は小首を傾げた。それは決して明確なものではなく、むしろ彼女の表情は笑顔のそれで、しかしそこに空いた一分の隙から窺い知れる程度のもの。だがそれらの合一はまるで寂寞のようでもある。それを見咎めたからか、それとも元から胸の裡にあったのか、自然と言葉が彩歌の口を衝く。

 

「ね、先生。先生さえ良ければ、仕事が無い時にまた、俺にピアノを教えてくれないかな? 俺、先生にも教えて欲しいな」

「さっちゃん……ふふ、モチのロンよぉ。可愛い弟子のお願いだもの、無理にでも時間作って教えてあげるわよ」

「ええっ、無理にはしなくても……でも、ありがとう、先生。先生が協力してくれるなら百人力だよ」

 

 これから先に待ち受ける未来を、彼らは知らず。ならば交わされた会話は全く何気ないものであるのか、はたまた予言めいたそれであったのか。少なくとも現在(いま)の内においてそれは師弟の他愛ない約束に過ぎず、それ以上の意味は持ちようもない。

 

 不意に彩歌が視線を動かせば、その先で愛歌と目が合った。彼女はその符合を何と捉えたのか、肩を竦めて少し大袈裟なまでに戯笑の仕草を覗かせ、彩歌もそれに応えて笑む。

 

それを知ってか知らずか、よぉし、と意気込む詩音。そんな親友の様子に愛歌は苦笑を漏らし、何も言わず彼女のキャリーバッグを手に洋間を後にし、詩音は愛歌に代わり彩歌の傍らの席に着く。特段の遣り取りも交わす事なく展開された、あまりに性急な転遷。自身の要請によるものとはいえ、それを前に彩歌は驚きを覗かせつつも再び演奏を開始すべく、深く呼吸。そうして無言のまま、演奏を開始した。

 


 

「思ったより人がいるんだな……」

 

 東京某所に存在する市民ホール、そのエントランスにて。決して狭くはない筈の空間に満ち満ちる雑踏を壁際から眺めながら、宗谷大雅はそんな呟きを漏らした。常ならば勇壮にして清澄な笑みに彩られているその端整な艶貌は、だが辟易と緊張に歪み声色には疲労めいたものが窺える。それを傍らで耳にして、彩歌が同情めいた笑声を漏らす。大雅の様子は大袈裟ではあったが、その感覚には彼も覚えがあったのだ。

 

「意外だった?」

「……正直に言うと、そうだな。今までこういう場に来た事がねぇモンだから。まさかサッカーの試合前にも引けを取らないとは……」

 

 ともすれば大雅の解答は彩歌だけではなく他の奏者や観覧者への失礼にも成り得るものだ。彼の言とは即ち、音楽という場で鎬を削る者らの規模を低く見積もっていたと告白するに等しいものなのだから。だが彩歌はむしろ、この少年のそういう正直な一面を好ましくさえ思っているし、先入観から来る無意識の侮りを許容できない程狭量でもないつもりであった。

 

 とはいえ、内心に少なからぬ侮りがあった事は事実。それを認め、大雅は夢想を現実で上書きする。それだけで彼はこの状況に適応して見せると、大きく息を吐いてから視線を巡らせた。既に受付は済ませ、彩歌の両親とも言葉を交わした。その両親もある種の有名人であるからか声を掛けられる事も多く、今は少し離れた所で名も知らぬ大人達と言葉を交わしている。他に声を掛けるような相手もいない。必定、大雅は彩歌とふたりきりの状態にあった。

 

 だが大雅には声を掛ける相手はおらずとも、彩歌はそうではない。この場には彼と同様に愛歌の薫陶を受けている者らもいて、彼らは彩歌と親し気に会話を交わしつつ初対面である筈の大雅にすら声をかけてくる。彼は人並み以上に社交的な方ではあるけれど半ば怒濤とさえ言える勢いの前に気圧され気味で、しかしそんな彼の倦怠に頓着する事無く彩歌に投げられる声があった。

 

「──彩歌。おはよ。……こんな日だってのに大雨とか、マジでダルすぎ」

「おはよう、宮古さん。ふふ、確かに、今日に限っては雨は嫌だね。一張羅が濡れちゃう」

 

 果たして彩歌を呼んだ声の主とは、先程から彼に話しかける者らと同じく彼の同門たる美律であった。躊躇いがちに小さく手を振る彼女とは対照的に、その存在に気付いた彩歌はひらと手を振りつつ呼びかけに応え、その応答を受け取った美律が小さく破顔しながら彩歌の前まで歩み出る。その時点で彼女は大雅の存在に気付いたらしく、彼へと向けられたのは躊躇いがちな誰何の視線であった。

 

「えっと……彩歌、この人は? 彩歌の友達?」

「うん、そうだよ。同じ中学の宗谷大雅君」

 

 簡潔な紹介と共に彩歌は大雅の方を手で指し示し、それにつられるように美律の視線が大雅へと移る。そんな遣り取りをしたのは、今日で何度目であったか。最早大雅には数える事も億劫になってきて、だが紹介された以上はおざなりにするのは彼の流儀に反する。交わされた挨拶は、至って平常のそれだ。

 

 だがそんな有様であっても、大雅は他人との交流そのものを厭うている訳ではなかった。彼自身人と話すのは好きな方であるし、何より彩歌の同門らとの会話は彼にとって彼の知らない友人の一面を知る機会にもなる。そういう会話を交わす度、彩歌が恥ずかしそうにするのも彼にとっては愉快だった。

 

 それは大雅と同門達と大雅の間にある共通の話題が彩歌のみであるという事でもあるが、同時に彼についてだけで会話が成立するだけの印象を彩歌が他者に与えているという事でもあろう。故に美律と大雅の間で交わされる会話も自然とそういうものになって、その横では彩歌が居心地悪そうにしている。何という事もない一幕だ。特筆する事もない平穏だ。しかし安穏は幸福でもある。

 

「ちょっとふたりとも、何で俺の話ばっかり……?」

「別にいいじゃねぇか、友達(ダチ)の話くらい」

「そうそう。それに、それくらいしか話題もないしね」

「そりゃあそうかもだけど……うぅ……」

 

 苦し紛れの抗議をふたりからにべもなく切って捨てられ、最早逃げ場を無くした彩歌は赤面するばかりだ。まさしく打てば響くという諺を体現したかのようなその応答を前に大雅と美律は悪戯に笑い、共謀は共感、共鳴となる。彼らの裡で、彩歌の素直さは美徳として捉えられていた。

 

 彩歌としては他者から好感を抱かれている事は嬉しいものの、揶揄われるのは承服しかねる所だった。故に時折抗議を差し挟むけれど彼の人となりを把握している相手には滅法弱く、カウンターは無意味に終わってしまう。まさに暖簾に腕押し。だが何処か悪い気はしないのは、或いは彩歌が彼らに気を許しすぎているという事なのだろうか。

 

 そんな遣り取りをしているうちに時間は過ぎて、先刻まではごった返していたエントランスも次第に人が減ってくる。恐らくは適当な座席を見つけて少しずつホール内に移動しつつあるのだろう。その頃になると愛歌らに声を掛ける人も絶えつつあり、それを見計らった美律が一旦の別れを告げてそちらに歩を向ける。刹那、途切れる会話。再開は容易であり大我は口を開きかけて、だがその直前に彼は不意にこちらに注がれる視線とかち合った。正確には彼らではなく彩歌に、だろうか。

 

 意図せぬ交錯。瞬間、大雅の背筋を不快な感触が駆ける。或いはそれは交錯した眼光に宿る粘質な情念によるものであったか。

 

 ──七光り。

 ──才人の親から生まれた出涸らし。

 

「っ──!」

 

 微かに、だが確かに大雅の耳朶に触れたのはそんな悪罵としか形容のできない悪意。相手としても交錯は想定外だったのか、或いはよもや聞こえているとは思わなかったのか、彼の反応から己の失態を悟り逃げるように踵を返す。反射的にそれを追おうとして、しかし彼を止める手があった。彩歌である。

 

「いいよ、大雅。毎年(いつも)の事さ」

「けどよ、言われっぱなしで──」

「──それに」

 

 大雅の反駁を最後まで聞かず、彩歌は言葉の続きを差し挟む。その語気はさして強くはなく、だが大雅は口を噤んでしまう。彼を見上げる孔雀青が放射する圧力にはそれだけの気勢があった。

 

「実力で黙らせるから」

 

 言選には決意と観念。語勢には覚悟と諦念。大言壮語、などという揶揄は内心に浮上さえしなかった。

 

 そうして大雅が二の句を継ぐより早く、エントランス全体に呼びかける声。恐らくは開会を前に参加者を呼ぶスタッフのものだろう。それを聞き届け大雅に一時の別れを告げる彩歌の表情はいつもの柔和なそれに立ち返っており、大雅は反駁の機会を逸してしまう。

 

 離れていく友の背中。最早届きようもないと知りながら、大雅はその背に向けて言葉を投げた。

 

「まったく、仕方ねぇヤツ……頑張れよ」

 


 

 ──半ば独り言めいた友の激励が功を奏したのか否かは、彩歌のみぞ知る所ではあるが。果たして大雅の前で彩歌が気丈に言い放ってみせた宣誓は愚昧の戯言に堕ちる事もなく、この年の東京大会は幕を閉じた。

 

 手にした小ぶりのトロフィーが放つ安っぽい金の輝きは、既に何度も間近で見てきたが故に見慣れ果てたそれ。しかし彩歌にとって真に重要であるのは物質的な証明ではなくそこに潜在する意味の方であり、そこに慣れなどは生じ得ない。彼の胸中では達成感や歓喜、そしてそれに勝る程の向上意欲が渦を巻き極彩色を描き、色彩は笑顔として現出していた。

 

 そして優勝者がそうも素直に喜色を表しているものだから周囲も祝福と同時に茶々も入れたくなって、結果として彩歌が同門からの打倒宣言や大雅と詩音からの祝福より解放されて帰路に就いたのは閉会からそれなりの時間が経ってからの事であった。

 

 母と息子、ふたりだけの帰り道である。陽彩も詩音も、それぞれ異なるタイミングでこそあるが仕事のためにその場を離れてしまっている。無論その事は残念だけれど、同時にそれだけ多忙の身であるふたりがあえて時間を作ってまで自身の演奏を聴いてくれたという事が、彩歌にはたまらなく嬉しく思えた。

 

「──改めて。おめでとう、彩歌」

 

 鼠色に閉ざされた地上に咲く蒼い二輪の華の下、会話の口火を切ったのは愛歌であった。蝙蝠を乱打する雨が奏でる不協和音の中にあって、しかしその澄んだ湖水の如き声は減衰などとは全く無縁である。

 

「ありがとう、母さん。これも、母さんと先生のお蔭だよ」

「ふふ、確かに練習を観ていたのは私と詩音だけどね、努力したのは彩歌自身だよ。でなければ音色があんなに楽しげな筈がない」

 

 軽々に過ぎる謙遜とそれへの応報たる諧謔。それは最早彼らの間で慣例と化してしまっており、微笑と共に返された賛辞に彩歌がはにかみを返す。愛歌の評価は一見すると身内贔屓のようでもあったが、彼女は音楽の求道という点においては家族に対してすら厳格(シビア)であると息子である彩歌はよく知っていた。故に愛歌が口にした賞賛は世辞などではなく、紛れもない本心だ。

 

 〝音楽は音を楽しむと書く。故にこそ、まずは己が楽しまなければならない〟。それが愛歌の信条であり信念。そして彼女にとって、息子の彩歌こそはその信念を体現する存在であった。少しだけ自虐的に過ぎる所が、玉に瑕ではあるけれど。

 

 家族としての無条件の愛情と師として弟子に抱く信任。一切の隔意も無いままそれをぶつけられ、彩歌は赤くなった頬が愛歌から見えないように少しだけ傘を傾けた。思春期真っ只中で直截簡明な本性と反抗期の狭間に在る少年にとって、それすら見透かすが如き親愛は毒のようでもあった。

 

「音楽は“ただ上手い”だけじゃあいけない。音は魂の声なんだ。だからいくら上手くても、無色の旋律では何処かで破綻してしまう。(こえ)は、そう、()()()()()()ようなものじゃなくちゃ。

 ……なんて、彩歌には釈迦に説法かな」

「誉め過ぎだよ……まだ地区を通過しただけなのに、何か全国で勝ったみたい。気が早いんじゃないの?」

「フフン、彩歌なら大丈夫だよ。何しろ彩歌は努力家で、それに私と陽彩君の自慢の息子だからね」

「またそれだ……」

 

 どうしてか予選通過した本人である筈の彩歌よりも得意満面に宣う愛歌に、呆れめいた吐息を漏らす彩歌。相変わらず顔を隠しているが彩歌が照れ隠しをしているのは態度から明白であり、そんな息子の背後で愛歌の笑みが悪戯なそれから慈愛のそれに立ち変わる。

 

「自分の音楽で皆を笑顔にする。そんな夢も、いつか叶えられるよ。私は確信してる。今の気持ちを忘れなければ、だけどね」

「……うん。叶えるさ。叶えてみせる。夢は叶えなくちゃ。それに……」

 

 それに、何だというのか。背後から向けられる視線が言葉の続きを望んでいる事は彩歌も分かっていたが、あえて口にしなかった。その要求に従って発してしまえば、きっとまたこそばゆい目で見られてしまうだろうから。いつかの夕餉のように。

 

 或いはそんな羞恥さえ、母からはお見通しなのだろうか。そんな疑問が彩歌の脳裏を過るが、実際に問いとして発する事はない。それをしてしまえば認めているようなものだ。今の彩歌が抱く夢の内側に、少しだけ菜々に対する見栄、或いは律儀の領域がある事を。尤も、それは自己満足に過ぎないのかも知れないけれど。

 

 だがそれがどうであれ、根底は変わらない。彩歌の夢は現実の荒波に晒され果ててもなお幼い頃と変わらぬまま、その胸中に根差している。文字通りの非才の身にあって、その強固に過ぎるまでの克己は紛れもなく彼の才と言えるものだろう。彼の夢は既に走り始めている。故に、始まったのなら貫くのみ。それは彼もまた抱く信条であった。

 

「そのためにも、もっともっと練習しないと! ここで満足してなんていられない!」

「あはは、やる気だね。じゃあ、今日も帰ったら練習?」

「勿論!」

 

 その身は未だ未完なれば、夢の道程に潜む陥穽の悉くを乗り越えるにはあまりに不十分だ。だがそれを自覚すればこそ、より燃えるというもの。未熟の自認よりやる気は湧き出し、仮想の内圧の高まりは熱狂となって全身に充溢する。そうして身に余るその熱を吐き出すかのように、彩歌は走り出した。

 

 

 ──目の前には横断歩道。歩行者用信号機は丁度良く青に切り替わった。

 

 

 高揚の中でも慌てずに。右見て左見て、また右を見て。

 

 

 車影は遠く、真っ当にブレーキをかければ十分に止まれる距離だ。

 

 

 横断に問題無し。誰が見てもそう判ずる状況。だが。

 

 

「彩歌────ッ!!」

 

 

 乱打する雨音を斬り裂く母の声。その所以を問うより早く、振り返りかけた視界に人影が割り込む。そして───

 

 

 

 ───嘶きのような異音と、続く轟音。何が起きたのかを理解する暇すらなく、殺到した衝撃が彩歌の意識を圧し潰した。

 

 

 

 

 ……雨が降っている。冷え切った総身を容赦なく打ちのめされる感覚で、そうと知れた。だがそうであるならば、何故傘も差さず、それどころか仰向けに転がっているのか。何故、別れた筈の大雅(とも)がこちらを見下ろし泣き腫らした目で何かを言っているのか。夢の只中のように覚束ない思考では何も分からなかった。

 

 澱のように積もった薄ら寒さに埋もれた彩歌の知覚では前後の記憶さえ判然とせず、それが現とさえ分からぬままに少年の意識は再び汚泥のような寒気に凍結する。

 

 けれど、雨音が煩い。それだけは、どうしてかよく解った。



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第25話 禍福糾纆:コレが運命(せかい)の悪意なら(後編)

 初めての臨死体験は、少年が幼心に夢想していたよりもずっと淡泊なものであった。

 

 覚醒はまるで、闇黒に染まる汚泥の底から浮上するかのように。質量すら消え失せた虚無が絶対零度より立ち返り、闇の中に意識の火が灯る。それはひどく弱々しく僅かなものであったが魂が現へと帰還するには十分で、それから少年の目蓋が開くまでにそう時間はかからなかった。

 

 僅かに開かれた目蓋の隙間より飛び込んできた光に目が眩むが、久方ぶりの光を前にしても対光反射は十全に機能して彩歌の視界がホワイトアウトのそれから正常に立ち戻る。そうして初めに視界に映ったのはいっそ病的なまでに白い、見知らぬ天井だ。遅れて現実に復帰してきた嗅覚を擽る刺激臭は消毒用アルコールのそれだろうか。それを押し流すように開け放たれた窓から無遠慮な風が吹き込み、カーテンを揺らしている。

 

 此処が何処なのか。今がいつなのか。そもそも、何がどうなっているのか。未だ思考はあやふやなまま脈絡を喪っていて、そのせいか直前の記憶すらも不確かだ。そんな有様であるから即座の状況理解など望むべくもなく、疑問が口を突くが、実際に漏れたのはひどくしゃがれた声。

 

「──あ、あ──」

 

 思うように声が出せない。声帯が十全に機能しない。それどころか肺から空気を絞り出そうとする度に鳩尾の辺りが痛んで、再起動した痛覚が意識を微睡の内より叩き起こす。

 

 看過し得ない不全だ。到底受容の追いつかない不可解だ。発声すらままならない現実は彩歌に動揺を齎し、しかしそんな内心に反して身体は緩慢だ。五体はまるで彫像のように重く、倦怠は戒めのよう。詰まる所、今の彩歌は死に体も同然であった。

 

 故に自らの身体を動かすために必要な力さえ彩歌には残されてはおらず、点滴が抜けないように上体を起こすという至極単純な動作ですら酷い苦行のようだ。心臓が急激に早鐘を打ち始め、呼吸が繰り返される度に肺腑が悲鳴をあげている。明滅する視界はまるで電流が散るようで、眩暈にも似た浮遊感が彩歌を襲う。

 

 それに抗えず倒れそうになり、反射的に右腕を突き出す彩歌。半死半生の身でありながらその反応ができたのはまさに奇跡であり、しかし彼の身体はそのまま再びベッドの上に頽れてしまう。間に合わなかったのではない。腕を突いたその刹那に肺のそれとは比較にならない程の激痛が彼の意識を焼いたのだ。

 

 いくら筋力が衰えているとしても説明の付かない痛みである。想像の埒外より押し寄せたそれの前に彩歌は悲鳴も出せずに悶え、瞬間、漸く目に映った自らの右腕の有様に愕然としてしまう。

 

 ──木乃伊男。自らの右腕を見た時、彩歌が真っ先に思い出したものがそれだった。在り得ざる想像だ。彼はまだ確かに生きているのだから。だが、むべなるかな、とも思う。事実、病院着から覗く包帯に巻かれた腕に残された力は、死体のそれと大差なかったのだから。

 

 指先から肘の辺りまでがくまなく包帯で覆われた腕はまるで自分のものではないようで、しかし容赦なく彩歌の神経を焼灼する電撃は彼に否応なくこれが紛れもない現実であると実感させる。

 

「あ──いっ、たい……何が……」

 

 たったそれだけの声を漏らすだけでも身体が悲鳴をあげている。弱り切った臓腑は激しい呼吸と巡る血潮の前にさえ屈服してしまいそうで、漏れる苦悶の吐息もまた身体を貫く刃物のようだ。

 

 自らの内より出でる刃に切り刻まれそうな思考を懸命に繋ぎ止めながら、彩歌はこの事態の原因を探るべく記憶を辿る。だが──思い出せない。コンクールを終えて、愛歌と共に家路に着いた所で記憶は途切れている。それがあまりにも不自然な断線である事は彼自身でも理解できているが、何度思い出そうと試みてもその先を辿れないのである。

 

 つまり、当事者たる彩歌にすら真相は闇の中。記憶は無く、身体を満足に動かすだけの体力も無く、日常などという幻想が立ち入る余地もまた、そこには無い。長い眠りから久方ぶりに目覚めた少年を待っていたのはそんな、何もかもが失われてしまった現実であった。

 


 

 飲酒運転を犯した運転手が起こした、信号無視に由来する自動車事故。自らの身に降りかかった不幸の正体を彩歌が知らされたのは、目覚めから暫く経った後、彼の意識が戻った事を知った陽彩と共に医師が現れた時の事だった。

 

 何気なくテレビを見ていれば時折取り上げられるような、極々ありふれた不幸。だが当事者からすれば人生を歪められてしまう程の絶望で、けれどその絶望さえ彩歌には何処か遠い世界の出来事のようでもあった。紛れもなく自らの身に起きた事であるというのに、だ。その原因はやはり、真相を知っても記憶が戻らなかった事が大きいだろう。事故のショックによる一時的な記憶の脱落であろう、とは担当医師の言だ。

 

 だからだろうか、犯人は現場から逃走した後に数㎞離れた地点で自損事故を起こし死亡したと聞いた時に彩歌の胸中に去来したのは下手人への嘲弄などではなく故人の冥福を祈る鎮魂であり、しかしそんな彼の内心とは裏腹に彼の身体が負った傷は決して生中なものではなかった。

 

 何しろ一度は生死の境を彷徨う程の負傷だったのである。そう簡単に治るようなものではない事は自明だ。右腕の骨折もそのひとつであり、その破壊の程は、多くの怪我を診てきた医師をして彩歌のピアニストとしての復帰の保証を半ば放棄してしまうまでのものだった。

 

 正しく絶望と言うべき状況。だが幸か不幸か、真野彩歌という少年は克己と自律という点においては幼い頃から比類なき天才であった。無論、現実を知った時には失意もあった。悲嘆もあった。だが彼はその強靭な自制で以てそれらを抑えつけ、リハビリにおいては医師が瞠目し奇跡なる表現すら投げ捨ててしまう程の回復を見せていた。

 

 その結果のみを知る余人からすれば、それは驚嘆に値する事だろう。だが彩歌に近しい人々は知っている。度外れた彼の回復速度が、彼に内在する妄執めいて苛烈な努力によるものなのだと。

 

 しかし彩歌にとってはそれが〝当たり前〟で。故にそれを誇る事も、弱音を吐く事もない。家族や親友の前であっても彼は朗らかに笑っている。まるで何事も無かったかのように。けれど彼の身体には未だ事故の傷跡が残っていて、両者の相違(ギャップ)が周囲の心を苛む。

 

 真野彩歌は嘘を吐かない。或いは、嘘を吐けない。彼を知る者らが共通理解として有する性質は一度の臨死体験を経ても変わっておらず、素直過ぎるが故に彼の回復は美談の顔をした悲劇であった。

 

 ──だからだろうか。窓より差し込む無遠慮な日差しを満身に浴び、淡い色彩の中に佇む彩歌が、陽彩にはひどく儚い存在に見えた。彼は既に峠を越えて久しいというのに。或いはそれは、彼に対して秘している事があるが所以後ろめたさから来る錯覚なのかも知れない。

 

「無理に見舞いに来なくてもいいのに」

 

 病室に現れた陽彩の姿を見咎め、微笑と共に彩歌が吐き出したのはそんな言葉。半ば呆れめいた声色のそれは自身の見舞いに来た父へのものにしては薄情に過ぎるが、それも無理からぬ事だろう。彩歌は陽彩が多忙な人である事を知っている。その父が彼が目覚めてからというもの、3日と空ける事なく頻繁に病院を訪れているのだから。突き放すような物言いも仕方がないというものだ。

 

 それに現在のプロデューサーという職務が陽彩の夢の結果である事を彩歌は知っていて、それを自身の存在が邪魔しているようにも思えるのだ。口にしてしまえば、きっと陽彩はそれを否定するだろうけれど。

 

 いくら彩歌が嘘を苦手としているとしても、言葉にしなければ伝わらない。そんな彼の内心を知ってか知らずか、以前より明らかにやつれた頬に笑みを浮かべながら陽彩がベッドサイドの椅子に腰を下ろす。

 

「俺が好きで来ているだけなんだ、気にするな。……それに、息子の容態が気にならない父親なんていないさ」

 

 何気ない日常の話をするかのような声色。だがそこには隠しきれない実感の熱量が内在していて、陽彩が努めて冷静に振る舞おうとしているのは明白であった。幾らか瘦せこけた頬が戻らないのもその気配を強めている。

 

 詰まる所、陽彩も彩歌も同じなのだ。父子だから。家族だから。理由は様々に考えられる。その結果として彼らは悪癖まで似通い、あえて詮索するまでもなく互いの意図が分かってしまう。相手を思えばこそ、自らに対して心配させたくない。それは彼らが共通して抱く思いであった。

 

「容態って、大袈裟だなぁ。……うん、俺ならこの通り、問題ないよ。このまま順調に回復していけば退院も近いって、お医者様が」

「それは俺も聞いてるよ。……あぁ。本当に良かった……」

 

 聊か過剰な父の表現に苦笑を零しながらも自身の壮健をアピールする彩歌と、そんな愛息にも安堵の吐息を漏らす陽彩。彩歌の言の通り大袈裟にも思える陽彩だが、彼の立場からすればその反応も自然であった。むしろ冷静であるとすら言えるかも知れない。

 

 事故の被害者当人たる彩歌自身には知る由もない事だが、陽彩の記憶には強く焼き付いているのだ。厳然と閉ざされた手術室の扉の上で無機質に灯る赤色も、ベッドの上で身じろぎすらせず眠り続ける息子の姿も、一度は原型を留めぬまでに破壊され、最大限繕われながらも二度と元には戻らない妻の身体も。であれば、多少の無理は通していても順調に回復している姿に安心するというのは、ひどく自然な事だろう。

 

 だがそうして陽彩の心を安堵が過る度、それに比肩し得る程の幻痛が彼の胸中に去来する。彼は愛息の復調を心の底から歓べばこそ、その回復がある種の虚構という薄氷の上に成り立つものである事を意識せずにはいられない。その事実とそうせざるを得なかった無力感が綯い交ぜになり、陽彩の心を責め苛むのだ。そんな自責は全く無意味だと、既に理解しているというのに。

 

「父さん?」

「……! いや、何でもないんだ。少し……寝不足なのかも知れない」

 

 幻痛が表情にも表れていたのだろうか、心配そうな様子で父の顔を覗き込む彩歌。その視線を受けて忘我より立ち返った陽彩は咄嗟に誤魔化しを口にするが、それを真に受ける程彩歌は愚かではない。尤も、陽彩が寝不足気味であるのは事実ではあるけれど。

 

 故に追及に先んじて、陽彩が言葉を続ける。

 

「それより、彩歌。退院したら何かしたい事とか、あるか?」

「したい事?」

「あぁ。欲しいものでもいいぞ。長い入院生活から解放されるんだ、少しくらいワガママになったっていいだろうさ」

 

 よもやそんな事を言われるとは思っていなかったのか、陽彩の言葉を受け、彩歌は顎に手を遣って思索に漕ぎ出す。ワガママ。したい事。欲しい物。それらは彼もまた当たり前に持つもので、しかし改めて訊かれると返答に窮するものでもあった。

 

 彩歌は昔から人一倍自己に正直な性質であったが、同時に誰より聞き分けの良すぎる子供でもあった。それこそ、自身の晴れ舞台を前にしても多忙な父に希望を直接言えない程度には。

 

 故に即答できず、彩歌は懸命に言葉を捜すべく自己の裡へと潜航する。そうして、暫く。彩歌が口を開いた。

 

「……父さんと母さん、それに先生にも、また俺の音楽を聴いて欲しい……かな。ピアノでも、歌でも。まぁ、ピアノは暫く難しいかもだけど。

 とにかく、皆にまた、俺の音楽を聴いて欲しい。それじゃあダメかな?」

「────」

 

 思わず、息を呑んだ。もう一度、皆に自分の音楽を聴いて欲しい。それはあえて嘆願するにしてはあまりにも素朴かつ恬淡で、だからこそ彩歌の心底より溢れた飾らない本心であった。

 

 であれば、言葉にしたのは初めてであってもその(おも)いこそが彩歌が逆境に抗するための支柱であったのかも知れない。心から再起を決意すればこそ彼はその強靭な克己と自律で以て自己を規定し、苛烈なリハビリを乗り越えてきたのだ。願いとは、夢とは、彩歌に取ってそれだけの力を与えてくれるものであった。

 

 だが、少年は知らない。或いは()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言う事を。それは今の彩歌が立脚する虚構が齎した最大の齟齬であり、彼自身はそれに気づけない。彼の記憶に空いた間隙は未だ埋まらず、虚構の違和を打破する糸口さえないのだ。少年の夢とは、正しくユメであった。

 

 彩歌は信じている。彼と一緒にいた事で事故に遭い重症を負った母が未だ目覚めないと知らされ、激甚な罪悪感に苛まれながららも、いつかはその夢が叶うものと。彼にとっては、その希望こそが糧だった。

 

 故に陽彩はそれを否定できない。最早愛歌が目覚める見込みも、それどころか助かる見込みも殆ど無い事を彼だけは知っていながら。息子の夢が見せる幻と僅かに残る希望とが綯い交ぜになて、彼の中で現実と抗っているのだ。

 

 ならば彩歌の吐露に対して陽彩が即応できなかったのも致し方ない事なのだろう。彼の心は冷酷な現実と甘美な夢想の間で圧搾され、軋みをあげていた。だが、彼はそれを悟らせない。その点において、彼は完璧な父であった。

 

「──あぁ。彩歌の音楽なら、いくらでも聴いてやるさ」

「本当? フフ、嬉しいなぁ」

 

 今までも何度かそうしてきたように、頤に手を遣り微笑みを浮かべる彩歌。彼が幼い頃からの癖であるその仕草は陽彩にとっては見慣れたものであり、故に底に潜在する感情を読み違える筈もない。純粋な歓喜が、陽彩の胸を打つ。

 

 どうしてこんな事に。軋む心に空いた傷跡より弱音が染み出し、声ならぬ問いとなって彼自身に知覚される。故にこそそれは彼の本音でもあり、しかし弱音が無価値である事も彼は知っていた。いかにたらればを繰り返そうとも過去は既に確定しているのだ。それを変える事はできない。

 

 たらればは無価値。後悔は無意味。在り得ざるif(もしも)の夢想は救いなどではなく、虚像の幸福を以て現実の輪郭をより強めるばかりだと、彼は知っている。だが不在のユメを見る息子にそれを思い知らせる程彼は冷酷ではなく、懊悩は堆積するばかり。

 

 そう、できる筈もないのだ。真野陽彩は無責任な他人などではなくひとりの父親であるが故に。目の前で苦悩を押し殺して笑う彼らの息子(ゆめ)を壊してしまうなど。

 

 或いは進んでいれば逃げない事と現実、他にも何かが手に入ったのかも知れない。けれど陽彩は逃げてでも、息子の夢を守るたったひとつを選んだのだ。その先に何が待つかを、知らないまま。

 


 

 ──その光景を覚えている。

 

 滂沱の如き豪雨を降らす鈍色の空。霏々たる地上には色とりどりの傘が咲き、その下で人々は口々に何かを言い合っている。彼らの視線はとある一点に集中していて、しかし関心はありながら関わり合いになりたくはないのか遠巻きに対象を見ているようであった。

 

 あまりにも卑怯。だが当然の心理でもある。人々の目前に立ち現れてきたソレはあまりにも非日常であり、易々と立ち入れるものでもないのだ。けれどそんな人々を後目に、大雅は必至に群集を押し割って進んでいく。傘をさしたままそんな事をしているものだから時折迷惑そうな目を向けられるが、彼は止まらない。そんな余人の視線など、気にしている余裕もなかった。

 

 まさしく狂乱と言うべき有様である。けれど無理もない。数刻前に彼が聞き及んだ情報は彼にとってはそれだけのものであり、それを否定するためには直接確かめるしかない。現実を否定するためには、現実を目の当たりにするしかない。矛盾した論理は、動揺の証であった。なればその在り方は駄々をこねる幼童にも似ていよう。

 

 停滞した人波を掻き分け、さながら幽鬼の如き足取りで大雅は先に進む。途中で傘を取り落としてしまっている事も、最早気にならなかった。心無い人から浴びせられる罵声も、口々に交わされる風聞も、全てを黙殺して切り捨てる。そうまでして彼は最奥を目指し、しかしそこで彼を待っていたのは、否定しようもない残酷な現実であった。

 

 黒々とした地に広がるは霏々とした降雨と交じり合ってもなお色褪せぬ赤。まるで小さな沼のようなそれの中に、2人の人影が横たわっている。ひとりは関節があり得ない方向に曲がり、あまつさえ関節が増えているかのようにすら見える亜麻色の髪の女性。そしてもうひとりはその女性と同じ髪色をした少年──即ち、真野彩歌であった。

 

 そして皮肉な事に、傷付き果てた親友を目撃してからの事も、大雅ははっきりと覚えていた。そう、忘れられる筈もない。いくら我を忘れて親友の身体に縋りついていたのだとしても。秒読みで薄くなっていく呼吸や雨に打たれて冷えていく体温、それらが合一し形となって立ち現れてきた濃密な〝死〟の気配など、忘れたくても忘れられる筈もない。特に、それが大切な人の身に起きた事とあっては尚の事。

 

 故に、彩歌が目覚めて順調な回復の傾向を見せている今、大雅が何度も彼の病室を訪れているのも無理からぬ事であろう。親友の身に立ち現れた死の色彩に間近で触れてしまった少年にとっては、友が生きているというのはそれだけで嬉しい事であったのだから。

 

「しっかし、回復してやるコトがコレとはなぁ……」

 

 半ば呆れのような、それでいて何処か納得を窺わせる声音であった。最早何度目になるかも分からない見舞いの場、病室の仮の主たる彩歌も大雅がいる状況に慣れきっていて、特段の会話もない中で一心不乱に書き込んでいたノートから視線を外す。

 

 いっそ無垢ですらある疑問を宿す孔雀青。恐らく問題を解くのに集中していて小声で零された嘆息の内容までは聞こえなかったのだろう。分かりやすすぎる程に素直な親友の姿に笑みを漏らし、大雅が先んじる。

 

「別に、何でもねぇよ。ただ、入院中まで勉強するなんて、殊勝なヤツもいたモンだと思ってな」

 

 自分が入院している間の授業内容について教えて欲しい。そんな半ば無茶とも言える請願を彩歌が大雅に対して行ったのは、彼が昏睡より目覚めてそう経っていない頃の事であった。

 

 お門違いと詰られても仕方のない要求だ。本来大雅は彩歌と同じ一介の生徒で、逐一他人の面倒を見る義務など無いのだから。だが、彼はそれを承諾した。それは彼が彩歌の腹積もりを理解したというのもあるが同時にそれは彼が彩歌に会いに来るにあたって良い口実でもあるからであった。病床の友人の面倒を見る。そう言われてしまえば、咎め立てする者はそういるまい。

 

 無言の裡にあった彩歌の問いに適当な答えを返しながら、ノートに整然と並んだ文字に視線を滑らせる大雅。一通り検め、頷く。

 

「だいたい合ってるな。……殆ど独学でコレなら、先公(センコー)なんて要らねぇんじゃねぇか?」

「そんな事ないよ。俺は元々、そんなにできる方じゃあないし……教えてくれる人の腕がいいのさ、きっと」

 

 冗談めかした大雅の物言いに、しかし返す声音は全くの真面目であった。内容こそまるで世辞のようだが、大雅の知る限り、彩歌が心にもない事を平然と口にするような男ではない。それが親友相手ならば猶更だ。

 

 故に、そこに込められているのは純粋な感謝と敬意。何の隔意や下心もなく過度な程に真っ直ぐなそれをぶつけられ、大雅が一瞬たじろぐ。いくら友としてその人となりを知っているとはいえ、不意の賛辞にさえ全く平静でいられる程、大雅は淡泊ではないつもりだった。その動揺に気付いているのか否か、彩歌は更に言葉を続ける。

 

「大雅の教え方、丁寧で分かりやすいし、俺は好きだな。それに俺ひとりでは入院中の遅れを入院中に取り戻すなんてできそうになかったし、本当に感謝してる。ありがとう、大雅」

「……おう」

 

 少なくとも彩歌の認識の上において、勉強を教えて欲しいというのは彼自身の我儘である。それを大雅が自身に会いに来るための口実として用いる事は承知してこそいるもののそれで我儘の事実が消える訳ではなく、なれば感謝は彩歌にとって当然の事であった。

 

 だがただでさえ直截に過ぎる賛辞に動揺していた所に畳み掛けられた側にとっては堪ったものではない。最早茶化してしまうだけの余裕も大雅の手元には一片も無く、微かに頬を紅くしたままそっぽを向くばかりだ。

 

 けれど言い負かされっぱなしというのも悔しくて、大雅が無造作に後ろ髪を掻いた。このままこの話題を続けていては、同じ事の繰り返しだ。故に、気を逸らそうというのなら、話題を変える他ない。

 

「まぁ、イイんだよ、ンなコトは。オレも好きで教えてんだから。

 ……それよりだ。オマエ、そろそろ退院できるんだって?」

「うん、そうだけど……誰から聞いたの?」

「オマエの先生から。前に、たまたま会ってな」

 

 先生かぁ、と彩歌。大雅が全くの偶然から詩音と会ったというのはそれだけならあまりにも出来過ぎのようだが、今のふたりには彩歌の見舞いという共通の行動がある。遭遇するというのは決して不思議な事ではない。

 

 しかしその遭遇を思い出していると見える大雅の表情は呆れか疲労のようで、彩歌は苦笑してしまう。大雅はまだ何も言ってはいないがふたりの人柄について熟知している彩歌にとっては仕草だけでも察するには十分に過ぎる。大雅が詩音に振り回されている光景が、彩歌には目に浮かぶようであった。

 

 それ故の笑み。半ば憫笑のようにも見えるそれに大雅は彩歌が察したのを気づいたのか自嘲めいて肩を竦める。

 

「大変だったぜ? マシンガントークとはまさにこの事って感じだった。

 それはさておき……お前が無事に退院できそうで良かったよ。学校も、オマエがいねぇと張り合いがねぇからな」

「そう? フフ、嬉しいコト言ってくれるね。冗談じゃあないといいけど」

「ンな下手な冗談言うかよ、ダチ相手に。……正直言うとな、オレ、めちゃくちゃ安心してんだ。()()()はホントに気が気じゃなかったんだからな」

 

 一拍の間を置いて絞り出された声はそれまでの飄々としたそれではなく、或いは今にも泣き出してしまいそうなそれ。表情や仕草にはそれらしい所などないというのに、彩歌にはどうしてかそう感じられた。

 

 何が大雅をそうまでさせるのか、分からない彩歌ではない。彼と愛歌が事故にあったあの日、その現場には大雅もいたというのは彼も聞き及んでいる事なのだ。尤も、実感は未だ無いのだけれど。

 

 大雅が現場を目撃した時には彩歌が意識を失っていたのだから、当然と言えば当然の事ではある。だがそれ以上に今の彩歌には欠落しているものがあって、彼の表情からそれを察したのか、大雅が口を開いた。

 

「……その様子だと、まだ思い出してはねぇみたいだな」

「うん……そうなんだよね。しばらく時間が経つか、強いショックみたいな切っ掛けがあれば思い出すかもって、お医者様は言ってたんだど……」

「いいじゃねぇか。無理に思い出さなくても」

「大雅……?」

 

 応える声はなく、代わりに漏れたのは親友の名。それは応答として適切ではなかろうか、しかし転じてそれは大雅の声音に現れた奇異を表すものでもあった。僅かに俯いた唐紅の視線は病室の床に向けられているが、今の彼が捉えているのが現実ではない事は明らかであった。

 

 なればその唐紅が捉えているものとは、即ち過去。耳朶を打つのは霏々たる幻。両の腕を濡らす血の粘度も、それを無慈悲に押し流しながら総身を打つ雨の冷たさも、大雅の裡で未だ鮮明であった。

 

 そのせいだろうか、大雅が膝に突いた手に、力が籠る。彼自身にすら自覚し得ない半ば無意識のそれは痛い程で、それ故に隠しきれずに溢れた本心の具現であった。なれば彩歌が口を挟める筈もない。

 

「忘れてるなら、忘れたままでもいいだろ。誰だって辛い記憶なんて持っていたくはねぇんだ。なら……あんなのは、忘れるに限る。誰もそれを責めたりしねぇよ」

「確かに辛い記憶なら、忘れていた方が幸せなのかも知れない」

 

 でも、と彩歌は言葉を続ける。

 

「忘れたままでいたら、いつか酷い事になる気がするんだ。それに、ずっと忘れたままでいられる保障もないし……そうなったら、きっと俺はそれを受け容れた俺自身を許せない」

 

 違う、そうじゃない。そう言えてしまえたのなら、どれだけ良かったか。彩歌が揺蕩う虚構を打破し、自らの手で真実を白日の下に晒してしまえたのなら、最悪の事態は避けられるのではないか。そんな誘惑が鎌首を擡げる。いつかは破れる虚構なら、今この瞬間に壊してしまっても構うまい。仄暗い甘美さえ纏う誘惑に、しかし大雅は否を突きつける。

 

 忘れたままに在ることを受け入れたら、万が一思い出した時に自分を許せない。それは紛れもなく彩歌の本心だが、同時に嘘でもある。何故なら、忘却という事実は既に在るのだから。母も共に巻き込まれた事だけは知っている中、それを思い出せない己の事を彼は自ら罰している。

 

 詰まる所、最早真野彩歌の行く先に平穏の二文字は存在し得ない。それを知りながら自らの手で彼を暗澹に突き落としてしまうなど、大雅にはできなかった。今ですら罪の意識に苛まれながらいつも通りに振舞おうとしている相手を追い詰めるなど、どうしてできようか。

 

 だが、大雅が何もせずともいつか〝その時〟は訪れる。虚構は決して現実には勝てない。人の認知に空いた間隙に依拠するのが虚構である以上、その間隙が埋められた時、虚構もまた現実により塗り潰されるが定めというものだ。

 

 数年、数か月、数週、数日、或いは数分後かも知れないし、それどころか今この瞬間にさえ〝その時〟は来るかもしれない。友の思いとは裏腹に、大雅にはそれが恐怖だった。

 

「彩歌、オマエは……」

 

 言いかけて、しかし大雅はそこで言葉を収めてしまう。彩歌は不思議がって小首をかしげるけれど、それに対して大雅は応えを返さない。無視しているのではない。ただ、返す言葉が見つからなかった。

 

 分かっているのだ。真野彩歌という少年は可能な限りにおいて全力で誠実であろうとし、故に責任の人なのだと。忘却の受容を肯定させてしまえば、きっと彼はそれにさえ責を負おうとする。きっと、それは何より残酷だ。

 

 だが、それでも。宗谷大雅と真野彩歌は違う人間だ。大雅は彩歌を理解すれど彩歌にはなれないし、なる気も無い。故にこそ、同じ事象を前にして違う結論を出すもまた道理。

 

「それでも彩歌、オマエには責任なんて──」

 

 無いじゃないか。大雅はそう言いかけて、しかしそれは病室のドアをノックする音によって切られてしまう。それはまるで彼の言葉が言いきられるのを阻むかのように。困惑しながらも彩歌は入室を了解し、そうして入ってきた人々を見た刹那、大雅は思わず息を詰まらせてしまう。

 

 果たして大雅の言葉を阻んでまで病室に入ってきたのは、ひとりの医師とそれに付き従う看護師であった。皆一様に苦虫を噛み潰したかのような、或いは何らかの憂いを覗かせた神妙な面持ちであり、明らかに尋常ならざるその気配に彩歌も身を硬くしてしまう。

 

 回診の時間ではない。投薬の必要も、今の彩歌には無い。ならば何故。胸の裡に湧き上がる悪寒は何かの予感のよう。そのせいだろうか、喉が急に渇いたような気がして、けれど医師はそんな彩歌を置き去りに何かを観念するように一度深く呼吸をしてから、少年に告げた。

 

「真野さん。少しお話があります。よろしいですか?」

 


 

 昏睡中は言うに及ばず意識を取り戻してからもそれなりの時間を病院で過ごしてきた彩歌だが、その生活の中で彼は一度も同じ病院に収容されている筈の母の許を訪れた事が無かった。

 

 初めの内は彩歌自身がベッドの上から動けるような状態ではなかったというのもある。だが動けるようになってからも面会が断絶されていたのだ。曰く、未だ意識を取り戻さないため万全を期しての事だという。

 

 そして真野彩歌という少年は純朴であっても阿呆ではなく、故に最悪の想像を一度もしなかったと言えば、それは間違いなく嘘になる。だがそれでも彼は己の夢を信じた。夢はいつか叶うもの。己が何も努力できない環境にあっても彼はそう思い続け、未来を願っていた。

 

 ──故に()()を目の前にした時、彩歌は暫くの間何が起きているのかを理解する事ができなかった。案内された部屋の中、陽彩が声を殺し、肩を震わせながら泣いている。詩音も殆ど同様の有様でふたりは彩歌の入室に気付くや何か言いたげな表情を浮かべたけれど、結局は何も発さなかった。最早真実は後戻りが利かない所まで進行している。なればその前で何を言い募ろうとも、それは空虚だ。

 

 彼らの目の前に鎮座するベッドには誰かが眠っているようで、しかし入り口辺りからはそれが誰であるか分からない。数歩して見えたのは胸の前で組まれた痩せ細った両手。それからもう少し進んで全容が視界に入ったが、顔には白い布が被せられていて、容姿から誰であるかを確認できない。

 

 それでも、彼が見間違える筈もない。たとえ、彼の知るそれとは違い肩の辺りで短く詰められていたとしても。たとえ、比べるまでもなく痛んでいたとしても。彼と同じ亜麻色の髪を持つ人間など、ひとりしかいないのだから。

 

「──母さん……?」

 

 応えは無い。動きも無い。病室にはただ、泣き声が無意味に木霊するばかり。思考が覚束ず、なのに嫌に冷静で酷薄な己が何かを言っている。なれば顔を隠す布に伸ばされた手が縋るようであったのも、きっと自然な事だ。

 

 だがそうして露わになったものを前にして、彩歌は息を詰まらせてしまう。布は指の間を滑るようにして床へ。あまりにあんまりな反応であるけれど、それほどまでに彼の動揺は激しいものであったのだ。

 

 而して、真実は白日の許へと晒された。そこにいたのは、否、()()()のは紛れもなく彩歌の母たる真野愛歌その人であり、けれど彩歌の知る姿とはあまりにもかけ離れている。痩せこけた頬に土気色に変わった肌。顔の造作は可能な限り繕われているが、元が端整であっただけに嫌でも一度破壊し尽くされているのが一目で分かってしまう。

 

 それでも理解と受容は違うものだ。むしろ理解できるが故に拒絶は激甚であり、足取りは忘我のように。無意識に腕は胸の前で組み合わさった手に伸び、触れ合った刹那、反射的に離してしまう。

 

 あまりにも冷たい。触れ合った肉は熱を内包せず、底冷えするような現実だけがそこにはあった。或いはそれは、いつかの雨が残した冷たさが未だ残留しているかのように。無視し得ない既視感に頭が痛む。割れるように痛む頭蓋の奥から雨音が染み出し、聴覚を支配してしまう。

 

 こんな音は知らない。知らない筈なのに、知っている。それは有り得ざる矛盾であり、ならば自己欺瞞はとうに無意味に堕ちて幻の雨は涙となって現を浸食する。最早、抗い様もなかった。

 

「母さん……!」

 

 冷え切り、土気色に変じた身体はまるで彫像のよう。いや、まるで、などというものではない。一度破壊し尽くされ、破片を繋ぎ合わせた、ツギハギだらけの肉の彫像。それが、数刻前まで彼の母だったモノの真実(いま)なのだ。

 

 つまり、真野愛歌はもうこの世には亡い。二度と彩歌に笑いかける事も、言葉を交わす事も、ピアノを弾く事も無い。その現実が、不可視の刃となって少年の心を切り刻む。──最早、堪えていられなかった。

 

「う……あ、あああぁぁぁぁぁっ! ああぁぁぁあぁぁッ──!」

 

 冷厳なる現に響く、少年の慟哭。それを前にしてさえ、彫像が再び目を開ける事は、無かった。

 


 

 元より、長く生きていられるような容態ではなかったのだ。何しろ直前になるまでブレーキをかけていなかった常用車の衝突を直撃という形で受けたのである。即死を免れたというだけでひとつの奇跡であろう。

 

 だが即死はしなかったとはいえ愛歌の身体が負ったダメージは非常に重篤であった。全身の骨は折れていない所を探す方が早いといった有様であり、酷い所は開放骨折に至っている箇所さえあった。内臓の損傷もまた激しく、半ば破裂に近い状態であったものもある程で、であれば医療者がどれほど手を尽くそうとも元に戻る可能性が万にひとつもあり得ないというのも自明であろう。

 

 それでも関わった全員が為すべきをしていたのだ。医療者は彼らの使命の許に患者を救うべく最善を為し、陽彩や詩音は多忙な身ながら時間の許す限り彼女の許を訪れていた。そんな彼らの思いに応えるように愛歌もまた残された力を動員して何度か死の淵より脱する回復を見せていて、けれどそんな幸運が何度も都合よく続く筈もない。結局、増悪から死ぬまではあまりにあっさりとしたものだった。

 

 誰も彼もが己が為すべきを果たした先の結末である。故にそれは初めから不可避の末路であり、しかし遺された者にとっては仕方ないの一言で済ませられる事実ではない。少なくとも、彩歌にとってはそうだった。

 

 だが最早死という結末が訪れてしまった以上、彼にできる事は何もない。故に少年は泣くばかり。泣いて泣いて泣き続けて、或いはそのまま身体中の水分が枯れてしまうのではないかという程に泣いていた。激情は理性を薙ぎ倒し押し流してしまわんばかりであり、そのせいかどれほど泣いていたのかさえ、彩歌自身には判然としなかった。

 

 まさしく永続を錯覚する程の滂沱。そんな慟哭の中より彩歌が一応の復帰をすることができたのは、やはり陽彩と詩音の存在が大きかろう。自身らもまた妻/親友を喪ったばかりであるのに彩歌に寄り添い続けた。彼らがいなければ、彩歌はそのまま深い慟哭の中で泣き果てていてもおかしくはなかっただろう。

 

 しかし霏々の内より解放されたからとて全ての悲しみが癒えた訳ではない。むしろ激情より返り冷静さが戻った分だけ現実はより色濃く彩歌の前に立ち現れ、否応なく直視させられる。悲しみとは氾濫しているよりもむしろ秩序立っている方が強いのだと、彩歌は初めて実感していた。

 

 責任ある大人であればその責務で以て悲しみに蓋をし、前進する事もできただろう。陽彩や詩音が今もそうしているように。だが子供はそうもいかない。彼らには大人程の責はないが故に立ち止まるのも容易であり、悲嘆を掘り起こすのもまた簡単であるのだから。

 

 ──病室の窓越しに、空を見遣る。空は青々として高く、その中を悠々と泳いでいるのは疎らな綿雲だ。開け放たれた窓からは風と共に蝉の声が入り込んでくる。まさしく絵に描いたような夏の日。いっそ皮肉なまでに良い天気であった。

 

「っ……」

 

 短く息を吐き、デスクの端に十指を這わせる。その構えは紛れもなくピアノを目前とした時のそれであり、唾液をひとつ呑み下したのを合図とするかのように指は架空の鍵盤の上にて踊り始める。

 

 だが、はやり拙い。嘗ては一分の狂いもなく統一された意志の許に整然と、かつ大胆に躍動していた筈の指は今や統率を喪い、雑然と言う他ない様相を呈していた。右手など酷いもので、利き手であるにも関わらず明らかに左手に比べ反応が数拍遅れている。

 

 そうして一曲を音もないままで弾き終え、あまりの醜態に嘆息してしまう。こんな有様では全国優勝はおろか、地区大会での優勝も夢のまた夢だ。尤も、コンクールの全国大会はたった今開会の時間を迎えたのだから、全ては杞憂にしかならないのだが。

 

「ダメだ、こんなのじゃ……!」

 

 乱暴な仕草でベッドに背を預け、そう吐き捨てる。こんな有様でも目覚めた時に比べれば回復したのは確かで日常生活を送るだけならば問題ない程度の機能を保ってはいるが、それでは不足なのだ。このままでは満足にピアノを弾く事も出来ない。夢を叶えられない。

 

 どれだけ酷い有様であったとしても、彩歌は生きているのだ。ならば、夢は叶えなければ。リハビリが辛くて諦めたなどとなってしまっては、死んだ母に顔向けができない。そうやって己を奮い立たせ、少年は再び背を起こした。

 

 そうして再度無音の旋律を奏でるべく彩歌の指に熱がより一層に籠り、けれどそれが解放される事はなかった。彼の指が仮想の鍵盤を叩こうかというその刹那、不意の衝撃音が耳朶を叩き注意を現に引き戻してしまったのだ。

 

「何だ……?」

 

 唐突な不可解に、思わず困惑が口を突いた。ただの物音ならばいざ知らず、まるで壁を拳で殴りつけたかのような音など明らかに異常だ。壁越しに複数人が何か言い争っている気配が続くとなれば、杞憂と判ずる方が難しかろう。

 

 その異質に、彩歌は胸騒ぎを自覚する。死が齎す荒天めいて粘性な侵略ともまた異なりながら同様に尋常ならざる非日常の色彩。そのせいか、耳朶に張り付いた雨音がその存在を強く主張してくる。

 

 だが彩歌がどれだけ胸騒ぎを覚えようとも正体不明のインベーダーは待ってはくれない。扉の前、複数の足音が止まる。だがすぐに開け放たれることはなく、代わりに入ってきたのは扉越しであっても判ぜられる程に聞き慣れた声。

 

〝ねぇ止──よ! こんな──〟

「宮古さん……?」

 

 或いは足音の主達を諫めようとしているのか、切羽詰まった様子を湛えた声音であった。だが一群の勢いがそれで止む事はなく、美律の短い悲鳴の直後、遂に扉が開けられる。そうして足早に入ってきた人々の姿に、彩歌の表情が驚愕に染まった。

 

「みんな……どうし──っ!?」

 

 果たして訪問者(インベーダー)の正体とは彩歌と同様に愛歌の薫陶を受けていた同門達。だが彼らの表情に常の友好は一分として存在せず、それどころか先頭にいた少年は彩歌に肉薄するや否やその襟首を掴み上げてしまう。

 

 動揺。困惑。そして恐怖。状況に理解が追いつかない。いったい何故、今まで一度も姿を見せていなかった同門達が一斉に現れたのか。いったい何故、美律だけが彼らを止めようとしていたのか。いったい何故、彼らは皆一様にその目に激烈な憤怒を宿しているのか。

 

 分からない。だというのに胸騒ぎは秒読みでその主張を増し、それに呼応するかのように頭蓋が割れるように痛む。そうして出来た亀裂から染み出すのは雨音の情景だ。

 

 こんなものは知らない。知らない筈なのに、知っている。在り得ざる矛盾だ。しかし雨はそれに頓着する事も無く彩歌の五感を食い荒らそうとその色を広げ、彼にはそれに抗う術もない。その中に在って、その身を突き刺す煮え滾るような嚇怒だけが鮮明だった。

 

『……愛歌先生が死んだ』

 

 そう切り出したのは誰であったか。襟首を掴む腕の主でもあるようで、はたまた別の誰かのようでもある。或いはそれはその場にいる者皆の総意であったのか。雨音に食い荒らされつつある五感では、それさえ判然としない。

 

『なのに、どうしてお前が生きてる?』

「っ……それは……」

 

 考えた事も無かった、と言えば嘘になる。共に事故に巻き込まれた筈なのに、どうして母だけが死に自分は生き残ったのか。ただの運で片づけるにはそれはあまりにも決定的な差異であり、しかし当時の記憶を持たない彩歌にはそれを知る術はない。

 

 ──否。本当に? 饐えた澱のように堆積した怨嗟に当てられたかのように、頭蓋が軋む。脳髄が震える。脳漿が煮える。割れたヴェールの奥から、雨天の夢幻がよりその勢いを増して噴き出してくる。

 

『お前のせいだ……! お前のせいで、愛歌先生は……!』

 

 その言葉は、さながら地の底より這い出た怨毒が形を成して現れたかのように。襟首を掴み上げられ自由を奪われた彩歌では抵抗もできず、怨毒は少年の心に染み入る。なれば、それが少年に巣食う悔恨とない交ぜになるのは道理。混沌とした黒が、彩歌を貪る。

 

 違う、と即答できなかったのは、それ故の事。その間隙を肯定として捉えたのか彩歌の襟首を掴む手により力が籠り、頬に水滴が落ちる。刹那、総身を駆け抜けた既視感に思わず彼は苦悶の声を漏らした。

 

 その感覚を知っている。生温かい雫が頬に落ち、滑り落ちる感覚を。それは予感というよりもむしろ確信に近く、確信は呼び水となって意識に濁流めいたノイズが奔る。

 

 お前のせいだ。お前のせいだ。輪唱のように繰り返される悪罵が彩歌へと浴びせられる。その度にノイズは勢いを強め、反対に濁流は秩序を増してひとつの像を結び始める。

 

 それはいつかの霏々たる降雨の残響。断絶していた旋律の続きを編むように、目蓋の裏をヴィジョンが過る。記憶の間隙。無明に埋没した真実が立ち現れ、虚構の闇はその前には何の用も為さない。

 

 お前のせいだ。

 

 ──お前のせいだ。

 

 ────お前のせいだ。

 

 声は止まず、故に像はより明瞭に結ばれていく。滂沱は留まるところを知らず彩歌に降り注ぎ続けて、その感覚は正しくかの日の再演だ。

 

『あぁ──』

 

 頭蓋が割れ、虚構は砕ける。無知の欺瞞は最早意味を為さない。

 

 東京予選からの帰路。雨音に負けない朗々とした声で語り合うのは愛歌と彩歌、一対の母子であり、その様子は未来への希望に満ちている。そのうちに総身に満ちる情熱のままに彩歌は走り出すが、彼も莫迦ではない。いっそ律儀過ぎる程確かに周囲を確認し、横断歩道に足を踏み出した。

 

 或いはそこに彩歌の非があるならば、それはきっと他者を信じすぎたという事。本来であれば赤信号を前に止まる筈だった車は一切の減速もないまま交差点に進入し、彩歌は彼を呼ぶ母の声を聞く。

 

 それが、最後。振り向こうとした彼が見たのは、我が子を庇わんと割り込む母の姿で──

 

 

彩歌(おまえ)が、死ねばよかったのに』

 

 

 ──気づけば、胃の中身を全て吐き戻していた。もう戻せる物など何もないというのに何度も嘔吐き続けて、いっそ胃が裏返りそうだ。だが皮肉にもその痛みが彩歌の意識を現実に引き戻す。だが、雨音だけが未だに残響していた。

 

 吐気は留まる所を知らず、呼吸すらままならない。少年は自らぶちまけた吐瀉を見下ろしながら無意味に肩を上下させるばかり。その頃になってようやく異変を察した職員が応援を連れてきたと見えて、錯乱した同門達を彩歌から引き剥がして強制的に連れて行く。

 

 そうして、その最後尾。最後まで憎悪と混沌より切り離されていた美律はその頃になってようやく状況に追いつき、おずおずと彼の名を呼ぶ。彩歌、と。それが聴こえたのだろうか、少年はゆっくりと顔を上げ、そうして見えたものに少女は悲鳴とも驚愕ともつかない声を漏らしてしまう。

 

 あまりにもあんまりな応答。だが致し方あるまい。亜麻色の髪の間より覗く蒼い瞳にはもう光などなく、ただ憔悴と恐怖、そして懺悔ばかりを湛えていたのだから。

 

 それが己にも向けられたものであると、美律が気付かない筈もなく。何も言わず、少女は背を向けて足早に去っていく。或いはそれは、現実から逃げるように。自らの気持ちに、見ないフリをするかのように。それが招く未来を、知ろうともしないまま。

 


 

 1年前に事故に遭った〝神才〟の息子が、再びコンクールに出るらしい。その話を聞いた時、人々は憫笑すると同時に冷笑を漏らした。

 

 真野彩歌。天才の両親の間に生まれた、出涸らしの息子。生死すら危ぶまれた程の事故からの復帰と言えば聞こえは良かろうが、よりによって生き残ったのが母ではなく息子とは。あの息子では復帰した所で大した演奏はできないだろうというのが、大人達の総意だった。中には愛歌を()()()()だと、そう罵った者もいたという。

 

 故に母の形見たる髪留めを着用した彩歌が舞台に現れた時、現場にいた者らの中には失笑を禁じ得なかった者もいて、しかし彼はそんな不遜に一瞥もくれてやる事はなかった。その嘲りを当然のものと受け入れるかのように。確とした、同時に幽鬼の如き足取りで少年は席に着き、鍵盤にその十指を這わせた。

 

 短く、鋭い呼吸。彩歌の腕に、力が籠る。

 

 刹那──人々は戦慄に包まれた。

 

 それは、一切万象悉くを灰塵と帰すが如く。彩歌が奏でる音により世界は崩れ、人々の意識は彩歌が魅せる演奏(せかい)に囚われる。その中に在っては呼吸すらもままならない。そう錯覚する程の圧巻であった。

 

 只管に黒く、深く。さながらこの1年に堆積した情念をそのまま音色としたかのように。なれば、それは孔だ。音色を以て人々の心を捕らえ、その奥へと誘う孔。一度彩歌の音に魅せられてしまえばそこから逃れる術はなく、あらゆる防備を引き剥がされ丸裸になった心に彩歌の演奏(せかい)が入り込んでくる。

 

 あまりにも暴虐。だが過剰なまでに純化された激情の音色はいっそ清廉ですらあり、聴衆の心を捕らえて離さない。彩歌が紡ぐ演奏(せかい)の中、人々は自由を奪われて洞の如き激情とその中であっても確と瞬く光輝に晒される。

 

 それがあまりにも鮮烈に過ぎたからだろうか、彩歌の手が止まり残響が虚空に解けても、その場に拍手と歓声が満ちる事はなかった。全員がそれに値しないとしたのではない。実体はむしろその逆で、皆が皆、圧倒され果てて忘我より復帰できなかったのである。そんな聴衆を後目に少年は恭しく礼を取り、舞台から降りていく。

 

 その背を目で追い、次第に戻ってきた実感の内で彼らは理解する。真野彩歌。自律と克己以外に際立った際を持たない出涸らしの子。それが彼に対する周囲の評価であった。

 

 だが、違った。違ったのだ。生死の境を彷徨う程の事故から1年と経たずに復調し、あまつさえそれ以前よりも高い技術を伴って帰参するなどと、そんな所業が自律と克己だけで為せる筈がない。

 

 そう、それらは初めから、彼が秘め持っていた才の一側面でしかなかったのだ。ひとつの目標のために己を殺し、只管に修練を積み上げそれら総てを己が力と成す才。それこそが、彼が持つ唯一の天稟。或いは両親のそれすら凌駕し得る、獣性じみた可能性の源泉。

 

 即ち秀才などでは生温い、滅私にすら似た〝努力〟の天才。それが、出涸らしの息子の正体であった。

 


 

 あまりにもはしゃぎ過ぎた演奏だった。コンクールからの帰路の途上、自身の音色を反芻しながら彩歌は内心で独り言ちる。その手には彼がこれまで獲得してきたものと同じ、トロフィーがある。

 

 かの事故が起きた雨天の日より、およそ1年。再び出場したコンクール東京予選の結果は優勝。それは良い。だが、演奏には大いに反省すべき点がある。聴衆の戦慄とは裏腹に、それが彩歌の判断だった。はしゃぎ過ぎたというのは、その総評であると言えよう。

 

 第一に、感情を出し過ぎた。家族や友を除けば人前で演奏するのは久方振りであったせいだろうか。演奏をしている彼自身ですら分かる程にその音色は奏者が秘めた情念を孕み、故にそれは今の彼にとっては己の不出来の証明だ。

 

 嘗ての彩歌であれば、それをひとつの完成としただろう。己の感情総てを過不足なくそのまま音色に変えるなど、誰にもできる事ではない。だが、今は違う。最早、彼にその権利はない。必要なのは技術だけだ。圧倒的な技術で以て旋律を紡ぎ、諸人を魅せる。それが、咎人たる彼に許された唯一。

 

 そう規定しながらもそう在れないのは、偏に修練が足りないからだ。ならば地区大会を突破したからとて手は緩められまい。能面の如き無表情のままそう断じた彼に、声。

 

「……彩歌」

 

 呼びかけが耳朶に触れ、意識は施策から現実へと立ち戻る。瞬間、脳裏に蘇った過去の残滓に彩歌は身を強張らせてしまう。だが、それも当然の反応だろう。場所は、いつかの交差点。彼を呼び止めたのは、同門のひとりだった宮古美律その人だったのだから。

 

 彼らが最後に顔を合わせたのは愛歌の葬式での事。だがその表情は約半年ぶりの友との再会を喜ぶそれではなく、まるで信じられないもの、信じたくないものを目の当たりにしたかのような動揺のそれだ。

 

 けれど、彩歌は努めて冷静に、嘗ての己のように旧友と相対する。脳裏に湧き出す恐怖も、主の意思を無視して今にも震えだしそうな脚も、全てを己の支配下に置いて。その心を満たす混沌のために、美律はそれに気付かない。

 

「あんた……あの演奏は、何?」

「何って?」

 

 再会の感慨も何も無いまま、震える声で零された問い。美律の内心に渦巻く感情をそのまま言葉にしたかのようなそれを浴びても、彩歌の様子は変わらない。だがその不動こそが決定的だった。

 

「彩歌、あんた、愛歌先生の教えを忘れたの……?」

「忘れてないよ。忘れるワケない。〝音楽はまず自分が楽しまなければならない〟って」

「なら、どうしてっ……!」

 

 あの演奏はああも辛そうだったのか。感情の高ぶりのためか美律は最後まで言い切る事は無かったが、その続きが分からない程の愚鈍であるつもりは、彩歌にはなかった。つい先刻まで己の演奏を自省していたというのもあるけれど。

 

 美律の知る限りにおいて、真野彩歌という少年は彼らの師の教えを最も体現した人物であった。故にこそ彼女は信じられなかったのだ。いっそ純粋ですらある程に黒く(くら)い音色が、彩歌が奏でたものであるなどとは。

 

 まるで幼子の駄々めいた動揺。だが同時に、それは至極真っ当な感情でもあろう。美律は愛歌を除けば彩歌を誰より尊敬していたのだ。それなのにその相手が変わり果てていれば、誰しもすぐに受け入れる事はできまい。

 

 しかしそんな美律の内心を知ってか知らずか、歯噛みをひとつ。そうして、彩歌が口を開く。

 

「俺にはもう、そんな権利はないよ」

「そんなの──」

「母さんは俺のせいで死んだ。俺が母さんの(ゆめ)を奪ったんだ。それなのに俺だけがのうのうとしているなんて……許される筈がない」

 

 美律の反駁に重ねるように、彩歌はそう言い切る。決して激しくはない、むしろ落ち着き払った声音であるというのにそこには有無を言わさぬ圧力があり、美律はたじろいでしまう。或いはその空白は、彼の物言いに覚えがあったからだろうか。

 

 愛歌が死んだのは、彩歌のせい。それはいつかの病室にて、彼らの同門が彩歌に浴びせた悪罵。あまりにも理不尽な暴論だ。事実に即さない、ただの感情論だ。それなのにそれを真っ向からぶつけられても、美律は否定する事ができなかった。

 

 違う、と。そう即答できればどれだけ良かったか。だが彩歌自身さえもが彼を下手人と断じた刹那、彼女は思い出したのだ。あの病室で、吐瀉をぶち撒け涙ぐむ彩歌の目を見た時に懐いた思いを。故にこそ彼女は否定できず、彩歌は更に続ける。

 

「それでも救われたからには、救われた意味を果たさなくちゃ。……だから俺は俺の義務(ゆめ)を果たす。義務を果たして、俺の価値(そんざい)を証明する。母さんの死が無駄死にだなんて……もう誰にも言わせない」

 

 最早その身には大好きを叫ぶ権利も、夢を謳う権利もない。それでも彩歌が音楽を続けるのは、義務を果たすため。その身の罪を贖うため。母の命と死を無価値としないために、己の価値を証明する。それこそが己が音楽を続けることを許されている唯一の理由だと、彼は言う。

 

 その声音に、嘘の気配はない。悲壮な決意を語る彩歌の姿は美律が知る彼そのもので、だからこそ正面からそれを受け止めた美律は現実から逃れる事もできない。足元が、抜けるような思いだった。

 

 その暗然たる感慨の中で、美律はようやく自覚する。己は、彩歌の事が好きだったのだと。友愛もあった。敬愛もあった。そしてそれ以上に、自らの夢と〝大好き〟に誰よりも真摯で、誰より素直な彼に恋をしていたのだ。

 

 けれど、彩歌は変わってしまった。その目は冥く、宿した決意はまるで燦然たる漆黒の星のよう。美律が好きだった彼の姿は、その洞のような光輝の許に在っては視認さえできない。

 

 だが人が変わるには必ず切っ掛けが要る。それが急激なものであるのならば猶更だ。原因が無ければ結果はない。その因果に逆転は有り得ない。ならば彩歌の変化にも原因がある筈で、そんなものは考えるまでもなかった。

 

 今度こそ否定の仕様も、逃避もない。恋をしていた筈なのに。好きだった筈なのに。その実、あの日あの病室で、深く傷ついた彩歌を見た美律の胸に去来した感情は──

 

「……ない。認めない……!」

 

 譫言めいた、それでいて確かな呪詛を孕んだ声。それが彩歌に対して向けられたものである事は疑い様もなく、だが彼はその現実を前にしても眉根ひとつ動かす事も無い。全てを当然として受け止めるかのように。

 

 だが、認めないとは何をであるか。自らの母の教えを蔑ろにした彩歌か、或いは彩歌に恋をしていたという過去か、はたまた己もまた彩歌を変えてしまった無自覚の共犯者であったという現実か。きっとそのどれでもあって、どれでもない。胸の裡で煮え滾る情念の正体は美律自身にも判然せず、そんな事はどうでも良かった。今はただ、この恩讐をぶつけなければ、気が済まない。

 

「うちはあんたを認めない……! 愛歌先生はあんたを守って死んだのに、どうしてあんたは……!」

 

 激情は止まない。一度溢れ出した思いは留めようもなく、心がそれ一色に染まっていく。嘗て抱いた思い出も、慕情も、全て押し流していくかのように。その喪失を悼む気持ちすら、濁流の裡では無力だった。そうして美律はその身を焦がす衝動のまま、遂に決定的な一言を放つ。

 

「あんたなんか、あんたなんか……! あんたなんか、あの時に死んでいればよかったのに!」

 

 それが、結実。一度発した言葉は最早戻る事はなく、憎悪は揺るがぬ現実として確立する。

 

 ──此処に、決別は成った。そしてそれは真野彩歌という男の、少年の日の終わり。呑み下された涙と共に、彼の甘美なるユメが、終焉を迎えた瞬間であった。



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第26話 ソノ裏切りに、目一杯の応報を

 夕景の茜色に沈む真野邸の洋間にて、机を挟んで向かい合う一対の男女。それは奇しくも数か月前、せつ菜が己の正体を明かし胸中に抱えた呵責を吐露した時と同じ構図であり、しかし決定的に異質であった。或いはそれは逆転とでも言うべきであろうか。

 

 机上にはホットミルクの昇らせる安穏とした湯気も無く、咎人たる少年は組み合わせた両の空手に視線を落として虚構たる空白を自ら打ち破る。それにせつ菜が待ったをかける事はなく彩歌もまたそれを望んでいるかのようで、ならばその独白は告解めいてもいよう。ならば聴取者たるせつ菜はさながら、告白を聞き届ける聖職者だろうか。

 

 されど罪は罪のまま咎人の内に在り、そこに赦しの秘蹟(サクラメント)の介在する余地はない。いかに赦しが崇高なものであろうとも、それを求めぬ者に届く筈もないのだ。故にせつ菜の言葉を待たず、彩歌は続ける。

 

「……俺は母さんに助けられた。助けられたからには、義務を果たさなくちゃ」

 

 それはいつかの日、己を糾弾する美律に対しても告げた言葉。詰まる所、彩歌の理屈とはその一言に終始するのだ。その身は母の命と引き換えにして守られた。ならば助けられたからには、為さねばならぬ事がある。それはサバイバーズギルトとでも言うべきであろうか。

 

 どうしてこんな事に、とは彩歌とて何度も考えたのだ。だが、それはあまりに女々しく、かつ無意味な思索だ。事象は既に遠く離れ、過去は揺るがぬ現実として決している。故にその所以には最早価値はない。

 

 ただひとつ確かであるのは、今でも彩歌は生きているという事。他ならぬ彩歌自身がそう規定し、そしてそれだけは誰にも否定できない。

 

「だから──っ……!?」

 

 だから、何だというのか。その言葉を吐き出すと共に彩歌はそれまで不可視の過去へと向けられていた視線を振り上げ、その刹那、目に映った光景に思わず口を噤んでしまう。

 

 緊迫した空気の中にあってはいっそ頓狂とすら言える応答だ。だが彩歌の自認と置かれた立場からすれば、それも致し方ない事であった。それほどまでに彼が受けた衝撃は大きく、感情に理解が追いつかない忘我の中で言葉が漏れる。

 

「優木さん……泣いているの……?」

 

 それは彩歌にとって、あまりに理解の外にある事象でった。先の告解は彼が他者に対して隠し続けてきた罪の開示であり、それ故にある種の決別であったのだ。責められこそすれ、泣かれるなどあり得ない。告白を決心した時点で、彩歌はそれさえ覚悟していたのだ。せつ菜から責められる事があったとしても、それは必定の末路なのだと。

 

 それなのに、泣いている。珠のような漆黒の双眸より溢れた雫が重力に従って頬を滑り、夕陽の鯨波の中を落ちていく。彩歌の茫然とした声でようやくせつ菜は自らが泣いている事に気付いたようで必死に拭うけれど、そんな彼女の仕草に反して涙は止め処なく溢れてくる。困惑。正しくその一言だった。

 

「どうして……」

「だって……だって、こんなの、酷すぎますっ! それじゃあ、彩歌くんが救われないっ……!」

「──!」

 

 自らが落涙している自覚はなくとも、それはずっとせつ菜の胸中にあったのだろう。最早流れ落ち続ける涙を拭う事すら放棄してせつ菜は思いの丈を叫び、彩歌はそんな彼女を前にして息を呑む。何を返せば良いか、分からなかったのだ。

 

 愛歌の死の真相、そして彩歌の過去を知り彼の前で涙を見せるという点においては、せつ菜の反応は嘗ての同門らと同じだ。だがその性質において両者はあまりにも乖離していて、故に彩歌は即応できなかった。せつ菜の言葉はあくまでも彩歌を想うそれであり、そして優木せつ菜という少女の性質を彼は知っているが故に思いは彼の胸を締め付ける。

 

 その幻痛が、今更な事実を彩歌に改めて実感させる。優木せつ菜という少女は、あまりにも優しすぎる。己にその権利はないとして彩歌が置き去りにした約束を、その事実を知りながら未だ守ろうとしているのがその証左だ。

 

 けれどその優しさを受けて生まれた痛みを、彩歌は冷徹を以て覆い隠す。

 

「違う。それは違うよ、優木さん。俺はもう十分に救われてるんだ。俺は今もこうして生きてる。それ以上の救いなんて、俺にはないよ」

「っ……じゃあなんで、今も彩歌くんはそんなに辛そうな顔をしてるんですか」

 

 せつ菜としては珍しい、いっそ責めるかのような声音であった。だがそれは感情的ではありつつも底抜けに真摯であり、故にその前に在っては彩歌の心にこびりついた自己欺瞞は全くの無力。そうして残されるのは、無防備となった無力な少年ひとりだ。

 

 彩歌にとって、嘘とは不可視の仮面であり鎧だった。自らが規定した在るべき己を纏う事で、昔日の残響に圧し潰されそうな己を守っていたのだ。だが元来嘘を苦手とする彼には自罰を固めて作った鎧はあまりに重く、故に破綻は必然だ。自滅か破滅か、結局の所は遅いか早いかの違いでしかない。残響はいつか鎧を食い破り、彩歌をその手に掛けるだろう。その終わりが、せつ菜には我が身の事であるかのようにすら感じられた。

 

 事ここに至り、せつ菜は改めて確信する。嘗ての彼女と彩歌は同じなのだ、と。同じ痛みを知りその道の先に何があるかを知ればこそ、彩歌は自らと同じ側に菜々が堕ちてしまうのを厭うたのだ。であるならば、彩歌の痛みをせつ菜が理解できるのもまた道理。それが分かっていながら彩歌の裡には未だ恐怖が居座っていて、懊悩は震えとなって現れる。

 

 だが怨念めいた恐怖に凍結しそうな心を溶かすように、不意に熱が彩歌の手を包む。あまりに唐突なそれに忘我より立ち返り、そうして彩歌の群青がせつ菜の双眸とかち合った。未だ涙を湛えた、珠のような漆黒。しかしそこには確かな信用と慈愛の光があり、それが真正面から彩歌を射抜く。

 

「あぁ……そうだった。もう(ソレ)は要らないって、言ってくれていたのに」

 

 その呟きは自嘲か、さもなくば自罰のようですらあった。先刻の夕景の中、せつ菜は彩歌に告げていたのだから。もう嘘を吐く必要はない、自分を裏切る必要はないのだと。

 

 それなのに、彩歌は嘘の鎧で自らを守ろうとした。釈明の仕様はいくらでもある。しかしそれらは全て言い訳に過ぎず、ならば何を言い募ろうともそれは只管に自らの罪業を積み上げる事にしかなるまい。何より、それはせつ菜をこれ以上に裏切る事になる。

 

 だが同時に、全てを赤裸々に語るというのはつまり己の醜く弱い部分を晒すという事だ。自らの過去を話した以上は今更かも知れないけれど。故に間隙は数拍続き、その幕切れと共に彩歌がせつ菜の手を握り返す。震えは未だ収まらず、けれど彩歌は再び口を開いた。

 

「……ごめん。俺、また嘘を吐いた。

 あぁ。キミの言う通りだよ。でも、それが俺の責任なんだ。これ以上を望んだら、きっと罰が当たってしまう」

 

 絞り出すような声音であった。触れ合った肌より伝わる震えは止まず、仮面の剥がれた顔には泣き笑いめいた悲痛が浮かんでいる。それはまさしく混沌とでも言うべき有様であり、それ故に嘘の色合いが立ち入る余地がない。

 

 責任。結局の所、彩歌の論理はそこに集約される。ある種の信念と言い換えても良いだろう。責任とは果たすものだ、という信念。それは一見してあまりりにも当たり前の事であろうが実際に履行できる者はそう多くはなく、けれど彩歌のそれはあまりにも度が過ぎていよう。

 

 だが、それこそが正しく彩歌の本音なのだ。彼が己自身にさえ嘘を吐いて本心を押し殺しているのも、全てはそのため。自らの責任を果たすために自己が邪魔であったが故に、彼はその選択をしたのだ。

 

 その理屈(ロジック)が他人事には思えなくて、せつ菜は思わず表情を歪める。自罰と自責の果て、悪を全てその身に背負い己を殺す。その痛みを知るが故に彼女の共感は一入であり、それを目の当たりにした彩歌が自嘲的に薄く嗤う。

 

 そうして、するりと抜ける手。熱の名残を惜しむ間も無く彩歌は席を立ち、せつ菜に背を向けるように壁を向いて立つ。その視線の先には何枚もの賞状を収めた額縁があり、直下のショーケースには所狭しとトロフィーや楯が並べられている。全て、彩歌がこれまでに獲得してきたものだ。

 

「優木さん。“神才”なんて渾名されてた俺の母がどうして個人経営のピアノ講師をしてたか、キミは知ってるかい?」

「いいえ。でも……」

「うん。多分、キミが思ってる通りだよ。……それが、母さんの夢だったんだ」

 

 せつ菜の解答を先回りし、彩歌はそれに肯定を返す。こうして他人の言葉の先を正確に読んでしまうのも彼の癖のひとつであり、しかし今となってはそれもあまりに痛々しい。或いは彼の裡でその洞察を育てたのは、他者への恐怖であるのかも知れないのだから。

 

 数多の才能が犇く音楽界においてさえ“神才”などという大仰な異名で呼ばれるような才人が小規模な音楽教室の経営をしているというのは、それだけならば聊か奇妙な話ではある。才能というのは度を超せば本人の意思を無視して生き方を決めてしまう程のもので、愛歌の才能は紛れもなくその域だったのだ。

 

 にも関わらず愛歌が一介のピアノ講師に甘んじていたのは、それこそが彼女の夢だったから。そう前置きして、彩歌は更に続ける。

 

「ピアノ講師として自分の教室で子供達にピアノを教える。それが母さんの夢で……父さんはそんな母さんの夢を応援してた。あの教室は、両親(ふたり)の夢だったんだ。それなのに……!」

 

 その言葉と共に、ショーケースに突いた彩歌の手に力が籠る。ともすればその握力だけでガラスを砕き割ってしまいそうな程に。そんな在り得ない想像が過ってしまうだけの圧力を、今の彩歌は放射していた。ずっと裡に抑え込み続け高まり果てた熱量が溢れ出したかの如きその有様に、彩歌の瞳の中で漆黒の星が再び瞬く。

 

 愛歌の教室は彼女の夢であると同時に陽彩の夢でもあって、故に夫妻の夢の結実だったのだ。ふたりの息子であり彼らを尊敬し追いつかんとしていた彩歌だからこそそれをよく知っていて、それだけに激情の奔流は留めようもない質量を伴って溢れてくる。

 

 覚えている。子供達にピアノを教える愛歌の幸せそうな表情を。覚えている。愛歌の死後、教室の看板を下ろす時に見た陽彩の悲し気な顔を。それら過去の全てが、彩歌に圧し掛かる。雨が、総身を乱打する。

 

「俺が奪ったんだ! ふたりの、みんなの夢を‼ 俺が……俺がっ……!」

 

 血を吐くかの如き絶叫であった。一度決壊した枷は最早彩歌の裡で用を為す事はなく、溢れ出した情念は濁流と化して主たる彩歌の身体を支配する。感情が理性を飛び越えて、思考が飽和するようだった。

 

 黄昏に満ちる悲痛な声。既に嘘の鎧はなく、なればそれこそは彩歌の中で堆積し続けてきた自責そのもの。彼が己で己自身を罰していた所以こそがそれであり、しかし悲嘆と後悔の声音に反しそこに涙はない。ただそれに比するだけの嘆きが、そこにはあった。

 

「そんな奴が救われていいハズない! 夢を見ていいワケがない‼ あぁ、いっそあの時、俺だけが──」

 

 死んでいれば良かったんだ、と。そう続く筈だった言葉はしかし、半ば強引に途切れ声として結実しなかった語気は呻きにも似た吐息となって外界に漏れる。目は驚愕に見開かれ、その中で凶星が揺れる。

 

 動揺。或いは間隙。その要因となったのは唐突に彩歌の背中に触れた衝撃であり、果たしてその正体とは他でもない、せつ菜であった。後ろから、せつ菜に抱きしめられている。──訳が、分からなかった。

 

 前後不覚。まさしくその一言だった。暴発する感情の荒波に打ちのめされ尽くした理性では状況への適応にはあまりに不十分で、その中にあって激情の矛先が一切せつ菜に向かないというのは一種の奇跡であった。だが自縛は甘く、故に蒼惶は容易く口を突いてまろび出る。

 

「優木さん……何を……?!」

「──彩歌くんはずっと、辛い思いをしてきたんですね」

 

 全く以て答えになっていない物言い。それどころか、彩歌の問いを聞いていたのか否か。けれどどうしてかせつ菜の言葉は彩歌の耳朶より入り込み、その内側で暴れ狂う波濤の間を抜けて奥底へと届く。

 

 せつ菜と彩歌は同じだ。共に誰かの夢を奪ったという自責に苛まれ、本当の己を殺し全ての罪科を独りで背負う事でその責を果たそうとした。自己を殺す痛みという点で、彼らは同質だ。だからこそ彼らは他の誰より互いの心に近い所にいる。

 

 だが全てが同じである筈もない。せつ菜は周囲から裏切られる辛さも、突然母を亡くす喪失も知らない。大好きな筈の事に、その気持ちを封じたまま自己を費やす空虚も。彩歌がせつ菜になれないように、せつ菜も彩歌にはなれない。彼らは何処まで行っても他人だ。他人であればこそ、寄り添う事ができる。味方でいられる。嘗て、せつ菜に対して侑や彩歌がそうしたように。

 

「突然大好きな人を喪って、お前のせいだって責められて、大好きを素直に叫べなくて、ずっと自分を呪い続けて……」

 

 彩歌(おまえ)が死ねばよかったのに。それが彼の奥底にある、彼を呪う言葉。4年前、彼を詰った同門や大人たちは気付いていたのだろうか。彼らが告げるまでもなく、誰より彩歌自身がその言葉で自分自身を呪っていたという事に。

 

 優木せつ菜にとって、真野彩歌は“優しい人”だ。彼女はその優しさに救われたからこそ、それが確信できる。優しいからこそ他人を呪えず、しかし彼と母を轢いた名も知らぬ誰かにさえ向けられる優しさは、決して彼自身には向けられない。

 

 或いはそれこそが彩歌にとって、不幸を乗り越えるための処方だったのだろうか。誰かを一度でも呪ってしまえば、その呪いだけが己の全てになってしまいそうだから。自分ひとりを呪って、他者の呪いを背負って、その呪いを以て己が身を燃やす事で前に進もうとした。雨音の幻聴から嘘の鎧で身を守りながら、その鎧の下で自らを呪い、燃やし続けた。全ては母の死を無意味としない為に。

 

「それでも……それでも私はっ……」

 

 彩歌の身体に回した細腕に力が籠る。確かに彼は此処にいるというのに、そうしなければ何処かに行ってしまいそうで。そんな錯覚のせいだろうか、絞り出した声はどうしようもない程に涙に濡れている。

 

 分かっている。きっとこの言葉もまた彩歌を呪う、ただの我儘だ。それが分かっていながら、せつ菜は言わすにはいられなかった。自らの気持ちを叫ぶのが、彼の肯定した『優木せつ菜』であるが故に。

 

「貴方が生きていてくれて、よかったっ……‼」

 

 怖かった。彩歌の告白を聞く中で、せつ菜はどうしようもなく恐怖した。今目の前にいる大切な人が、或いは死んでしまっていたかも知れないという事実が、ひどく怖かったのだ。

 

 故にそれは、純粋な歓喜と安堵だった。無論、愛歌が亡くなってしまった事実への悲しみはある。だが今は、彩歌が生きていてくれた事が何よりも嬉しい。それが、偽らざるせつ菜の本心。

 

 逃避は許されない。棄却は無価値だ。あらゆる虚飾を奪われた心はせつ菜の思いを凌ぐ術を持たず、彼女の告白が胸を射抜く。呪詛のそれとは全く異なるその熱が、罅割れた心に染み入っていく。

 

「だから、自分が死んでいればなんて言わないでください……」

 

 真実の開示を自ら求めておきながら言うな、などと。矛盾している事はせつ菜自身にも分かっている。けれど、それでも言わずにはいられなかった。相反する心情、相克する葛藤こそが、理外の心胸であるが故に。

 

 矯飾は無く、欺瞞も無く、それどころか理屈さえあるかも分からない、少女の希求。なればそれは、全身全霊の生存肯定。拒絶や否定の仕様もない思いをぶつけられ、少年の瞳が揺れる。

 

「あ──お、俺は……」

 

 せつ菜の言葉は彩歌に対して責任を求めるものではない。或いはいっそ惨烈という他ない過去を経てもなお今も彼が生きている事を歓び、そしてこれからも生きていて欲しいという純粋な願いだ。己の身を焼く怨嗟の炎とは全く別種のその熱量に、少年が揺らぐのは必定であった。

 

 元より、彩歌の自己欺瞞は限界に近かったのだ。生来嘘を吐き通す事を苦手とする彼がその全能力を動員したとて本心を偽るには足りず、そうして生まれた軋轢は心を苛む。精神が摩耗する。自らを焦がす呪いと相まって、それは地獄のような辛苦であった。

 

 だが、確かに存在したのだ。彼の生存を罰する者と同様に、彼の生存を歓ぶ者も。故に、その手を取ってしまいたくなる。それは彼の弱さが生んだ抗い難い衝動であり、しかし彼の目前に屹立する過去の具現──半ばから折れたトロフィーがその軟弱を圧し潰す。そのトロフィーこそは4年前、事故に遭った時に彩歌が持っていたものであった。

 

 そう、赦された気になどなってはならない。彩歌の脳裏に張り付いた、不可視の己が声をあげる。光を見た気になどなってはならない。理解者を得た気になどなってはならない。自身の生存を望む他人(だれか)を理由に全てを無かった事にするなど、そんな非道は言語道断だ。そんなものは依存でしかなく、何より──

 

「──それでも俺は、これ以上"俺"を裏切れない」

 

 動揺と葛藤、そして希求の果て、それが彩歌が至った解答だった。彼自身を苛む葛藤の中、それは半ば無意識的に零れた言葉ではあったけれど、不思議と彼の胸の裡に自然と収まっている。まるで、元からそこにあったものをようやく自覚したかのように。

 

 今まで、彩歌はずっと己を裏切り続けてきた。未だ音楽が好きだと叫ぶ心を奥底に沈め、他者への恐怖を押し殺し、只管に自己を贖罪のために費やしてきた。そのあまりに矛盾した心理のために、彼は少しずつ心を擦り減らし続けてきたのである。その類稀なる自律と克己を以て、自身を裏切り続けてきたのだ。

 

 だが、何という皮肉か、その自律と克己の原動力たる自罰もまた紛れもない彼の本心であり、故にこそ彼はそれを裏切れない。それさえ裏切ってしまえば、彩歌の手元には何も残らないだろう。無条件に希求に縋ってしまうというのは、きっとそういう事だ。

 

 その結論を、せつ菜はどう思ったのだろうか。即座の返答はなく、けれど触れ合った熱の震えが内心を予感させる。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、彩歌は更に言葉を続ける。

 

「でも、もうキミの事も裏切りたくない。……矛盾しているようだけどね」

 

 幾許かの間隙を置いてそう零し、彩歌は苦笑する。それは懊悩の果て、葛藤の裡より滲み出た苦し紛れの笑みであった。

 

 あまりに矛盾した物言いだ。これ以上自身を裏切りたくないと言っておきながら、同時にもうせつ菜の思いを裏切りたくもないなどと。彼が選択し今まで張り続けてきた在り方(つよがり)の上では、それらはふたつにひとつ。両立する事はない。

 

 そんな矛盾は彩歌とて承知の上。それでもそう思ってしまったのだから、それが真野彩歌の本心という事なのだろう。具体的な展望も何もない、純粋な我儘。或いはその域すら超えて、それは無謀にすら近い。だがそうするしかないのだ。それが彼女にこうまで言わせた彩歌の責任であるのなら。

 

 いつだってそうだ。自らの性質を改めて自認し、彩歌は自嘲する。真野彩歌という人間は責任の全てを棄てられず、自らの領分を超えて誠実であろうとするが為に不実なのだ。その具現にも近しい告白を受け、数拍。せつ菜の影が、彩歌から離れる。その別離を彩歌はどう捉えたのか何かを言いかけて、せつ菜がそれに先んじる。

 

「もう自分も私も裏切りたくない……ですか。ふふっ、何だか、彩歌くんらしいです」

「俺らしい……?」

「はい。やっぱり、彩歌くんは彩歌くんです。ワガママで頑張り屋な、私の知ってる彩歌くんです」

 

 そう言って、せつ菜は笑む。その目尻には未だ夕陽を照り返しその存在を主張する涙の残滓があって、それでも彼女の笑みは紛れもない本物だ。まるで太陽のような、相対する者の心を照らす笑顔だ。

 

 せつ菜も分かっていたのだ。きっと彩歌は選べない。或いは選ばないという解を選ぶ。選択して破却するなどという器用な事ができるのなら、きっと彼はこうも苦しまなかっただろうから。贖罪という在り方に自己を費やしながら“大好き”を捨てきれず苦しんでいた事が何よりの証左だ。

 

 でも、とせつ菜。

 

「彩歌くんが幸せでいて欲しいと願う人は、きっと私だけじゃないと思います。心当たり、あるんじゃないですか?」

「それは……」

 

 問われ、答えに窮する彩歌。だがその逡巡こそが何よりも雄弁に彼の解答を示していよう。そしてそれを見逃すせつ菜ではなく、彩歌もまた一見すると脈絡が無いようにも見えるせつ菜の問いに込められた意図を察している。その言外の交感は、彼らが重ねた思惟の年月が齎すものであった。

 

 生きてくれていてよかった。彩歌の命が在る事を歓ぶ、その言葉。それと同じものを、嘗て彩歌は貰っていた筈だった。4年前、あの病室で。それは親友からのそれであり、師からのそれであり、何より、父からのそれ。せつ菜の思いを裏切りたくないというのなら、それは彼らの言葉も信じるのと同義だ。

 

 だがそれを思うと、どうしてか足が竦む。まるで暗闇の中に踏み出すかのような訳の分からない躊躇いがあり、だがそれを少しずつ、彩歌は解体し言葉にする。

 

「……怖いんだ。もしも本心を晒し合って、今まであったものが崩れたらと思うと、どうしようもなく足が竦む。失うかも知れないのが、怖いんだ」

 

 4年前、病室で同門らに詰め寄られたその時から、或いはそれよりも前、母の死を知ったその時から、彩歌の中にはずっと他者への恐怖があった。それはせつ菜と本心を晒し合った今になっても変わらない。他人から裏切られる事、そして他人を裏切ってしまう事への恐怖は心に根を張っていて、易々と枯れるようなものではない。

 

 だからこそ彩歌は常に他人と距離を空け続け、笑顔の仮面を被り続けた。それは親友や家族にさえも同じ事。そうして他人に好都合な自分であれば裏切る事も裏切られる事も無い。そう信じて、彼はずっとそうしてきた。

 

 だが自分への裏切りはそのまま自らを大切に思う他者への裏切りにも等しいと理解した今その在り方は揺らいでいて、それを前にして残存する恐怖が叫んでいる。そうすることで今まであった筈のものが失われてしまう事を。知らない方が良かった事を知ってしまう事を。

 

 彩歌は自らが父から愛されている事を確信している。だがもしも、その裏に夢を奪った彼への憎悪が存在していたならば。そんな嫌な想像が、脳裏を過るのだ。彩歌の吐露からその凡そを察したのか、せつ菜が反駁する。

 

「大丈夫ですよ、絶対」

「……そうかな」

「はい! まぁ、根拠はないんですけど、えへへ。……でも、思うんです。もしかしたら……」

 

 そこで一旦言葉を区切り、せつ菜は改めて自分の思いを吟味する。この予感に、根拠はない。もしも()()であったなら多くに辻褄が合うのは確かだけれど、或いは彼女が“こうであったらいい”と願うだけの、あまりにも度が過ぎた希望的観測である可能性もある。それが分かっていながら、せつ菜の裡にはある種の確信めいたものがあった。

 

「もしかしたら、愛歌さんと陽彩さんにとって、彩歌くんも夢だったんじゃないかな、って。私はそう思うんです」

「俺が、夢……?」

 

 譫言のようなリフレイン。それは忘我の呟きにも近しく、けれどせつ菜の言葉は不思議と彼の胸の裡に自然と落ちていくようであった。無論、それがただの希望的観測でしかない事は彼も分かっているけれど。

 

 それを一縷の光明のように感じる己がいる。そんな筈はないと叫ぶ自分がいる。相反する心を自覚し、幾許か。押し黙る彩歌の手を取り、せつ菜は無言で笑む。その笑顔に背中を押されるようにして、彩歌は再び口を開いた。

 

「そうなのかな。……そうだったらいいな」

「きっと、そうですよ。だから……」

 

 向き合わねばならない。今まで、ずっと目を逸らし続けていたものと。たとえその果てに何もかもを喪うのだとしても、そうしなければならない。そうでなければ真野彩歌が語る誠実は全て虚像と化し、不実の影はいつまでも彼を苛むだろう。

 

 未だ恐怖はある。けれどもう決意したのだ。それらが綯い交ぜになった混沌を呑み下し、彩歌は今一度せつ菜を正面から見据えた。少年の孔雀青と少女の漆黒がかち合う。そこに、これまでのような群青からの嘘はない。そうしてようやく、少年は仮面に非ざる笑みを覗かせた。

 

「──ありがとう、優木さん」



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第27話 カレだけの光、強く、熱く

「あの、ありがとうございます。こんな時間に、ここまで送っていただいて」

「いいんだ。元はと言えば、俺が面倒をかけてしまったのが原因だからね。このくらいはするさ」

 

 黄昏は既に地平の間際まで追い遣られ、その大半が濃紺で染め上げられた空のカンバスの中で星々が細やかに存在を主張し始めた頃。せつ菜、もとい菜々と彩歌がそんな会話を交わしたのは、中川家が入居しているマンションの出入り口前での事であった。

 

 菜々だけではなく彩歌までもがこの場にいるというのは、何ということはない、暗くなるまで菜々を真野邸に引き留めてしまったために念のため付いてきたというだけの事。だが今まで彼らは付近の交差点で別れるのが通例で、出入口まで彩歌が付いてきたのは初めての事であった。そのせいだろうか、彩歌の視線は時折周囲を気にするように揺れている。

 

 常は飄々としている彩歌のそんな幼い仕草に、思わず微笑する菜々。しかし彩歌にとってそれは無意識の挙動であったのか、合点がいかないといった表情で小首を傾げる。そんな仕草でさえ何処かおかしくて、しかしそこにこれまでのような打算はない。(うそ)規定(つよがり)も介在しない、全身全霊の”真野彩歌“であった。

 

 そしてそれは現在、彩歌がこの世界で唯一菜々にだけ見せる姿でもある。その事実を再認すると菜々の胸中にはこそばゆさのような、或いは憂いのような、混沌とした言い様のない感情が顔を覗かせて、それを隠すように彼女は首を横に振った。彩歌の方も特に追及するつもりはなかったようで、疑問の気配が立ち消える。

 

「では、私はこれで。また明日です、彩歌くん」

「あっ! ちょっと待ってくれるかな、優木さん」

 

 別れの言葉と共に踵を返した菜々を背後から呼び止める声。だが、話すべき事は既に話している。それに彩歌の過去に関係のない他愛ない話も帰路の道中で交わしていて、改めて呼び止めるような用事も特に菜々には思い当たらなかった。故に今後は菜々が首を傾げて、そんな彼女の視線の先で彩歌はひとつ、大きく呼吸する。まるで何か、決心するかのように。大袈裟であるかも知れないが菜々にはそう見えて、一拍を置いて彼は口を開く。

 

「もう既に言ったけど、改めて。……ありがとう、優木さん。きっと……俺はずっと、キミに救われてた」

「────」

 

 それは或いは態々呼び留めてまで言うべき事ではないのかも知れない。今生の別れという訳ではなく彼らは明日も会えるのだから、伝えようと思えばいつでも伝える事ができる。にも関わらず彩歌がこのタイミングを選んだのは、何という事はない、今言うべきだと感じたから。それだけだ。

 

 今日の邂逅は、間違いなく彩歌にとって救いだった。それは間違いない。だが彩歌が菜々から与えられていた救いは、きっとそれだけではないのだ。ともすればその縁さえ。真野彩歌という存在を肯定し、寄り添ってくれていた事。それは彼にとって、紛れもない救いだった。

 

 よもや改まってそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう、菜々は数拍の間呆けた顔をして、それから彩歌の思惟を咀嚼したと見えてその顔を笑みで彩る。だがそうして彩歌に数歩歩み寄り上目遣いで見上げながら、まるで拗ねたように唇を尖らせた。

 

「ふーん……それなのに、俺に救われる権利はない、なんて言っていたんですか?」

「うっ、それは……」

「ふふっ、冗談です。いつもからかわれてますから、仕返しですっ」

 

 してやったり、とでも言いたげな勝ち誇った表情である。そこに彩歌に対する不満の色はなく、であれば先の不平は本当に彩歌への仕返しであったか。これで手打ちとするというだけであるのかも知れない。どちらであるかは彩歌には知り得ない事で、しかし諦念めいて溜め息を零す。

 

 彩歌としても自身の背馳に自覚はあったのだろう。そんな反応に菜々は申し訳なさを覚えつつも同時におかしくて、笑声を零す。それにつられるようにして彩歌も笑みを覗かせ、言葉も交わさずに笑い合う。それは何度目になるかも分からない、言葉に依らざる交感。そうして、今度こそ菜々は満面の笑みを浮かべた。

 

「……じゃあ、これで私たちはお揃いですね」

「お揃い?」

「えぇ。だって、私も彩歌くんに救われていますから。だから、お揃いです」

 

 彩歌にとって菜々の存在が救いであるように、菜々にとっても彩歌の存在は救いである。故にこそのお揃いなのだと、菜々は言う。そしてその言葉と笑みの前ではそれを疑う余地などある筈もなく、純粋な思いをぶつけられた彩歌は思わず息を呑む。だがその動揺さえ予想していたかのように、菜々は瞑目する。

 

「貴方はいつも、私の事を知ろうとしていてくれた。私の“大好き”を受け止めてくれていた。それだけで、私は救われていたんです。小学校の頃から……ずっと」

「……!」

 

 見透かされている。言外に彩歌はそう察して、短い笑声を漏らした。或いは菜々はずっと覚えていたのかも知れない。せつ菜が復活したあの日、西棟屋上で彩歌が吐露した言葉を。

 

 自分がしてきた事など、きっと自分でなくてもできた事。それが自身の行為に対する彩歌の認識であり、そしてその認識にきっと間違いはない。たとえ彼がいなくても、侑達は菜々を救っていただろう。彼女達はそれができる人々であると、彩歌は知っている。

 

 だがその認識を知った上でも、菜々は言うのだ。それでも、と。中川菜々が真野彩歌に救われていたという事実は変わらない。それが現在の上にある事実であるのなら、彩歌がそれを否定する事はない。何故なら彼は責任の人なのだから。ある種の相互理解とでも言うべきそれ。ならば逃げ場など在る筈もなく、彩歌の笑みはあくまでも柔和であった。

 

「そっか。なら……確かに、俺達はお揃いだね」

「はい! えへへ」

 

 それは或いは何という事もない事象であるのかも知れない。他者との関わり合いの中で他者を助け、他者から助けられるというのは全く以て極自然な事で、ありふれた出来事だ。けれどそんな事は菜々も承知の上で、それでも嬉しそうに彼女は笑む。それを前にして自身の心にも言語化しにくい、けれど確かに暖かなものが広がっていくのを彩歌は自覚する。同時に、それを拒むような幻痛が奥底で彼を苛む事も。

 

 分かっているのだ。いくら誰かに救われようと、人はそう簡単には変われない。そんな簡単に変革できるようならば、初めから彩歌は今のようにはならなかっただろう。彼が積み上げた“真野彩歌”という方向性は容易には変わらず、雨音は今も耳朶を叩いている。きっとそれはこれからも彼を責め苛み続ける。これ以上、彼は彼自身を裏切れないが故に。

 

 だが、それでも、と。自罰も恐怖も罪悪感も、彼は捨てられない。それでも、目の前の笑顔を裏切る事も彼は己に許さず、故にこそそれは宣誓であった。

 

「……これまでずっと、俺は間違え続けてきた」

 

 聊か唐突にも思える彩歌の吐露にも、菜々は何も返さない。まるでそれを予期していたかのように微笑みながら、彼の続きを待っている。

 

 これまで、ずっと彩歌は間違え続けてきた。それを彼は常に心の何処かでは自覚していながら、ずっと見て見ぬふりを続けてきたようにさえ思える。もしもその間違いを認めてしまえば、その瞬間に母の死を無駄と宣った人々の悪意を是認してしまうような気がして。故にこそ、間違ったまま走り続けた。自己欺瞞を以て、多くの過誤を孕みながら。

 

 まさしく大嘘吐き(プリテンダー)とでも言うべき悪徳。そんな者の言う事など、今更誰が信じようか。だが目の前には、それでも彼に笑顔を向けてくれる人がいる。そういう人々がいる。ならば、それを裏切る事は許されない。今までの疾駆にも、全ての間違いにも責任を取る方法が、きっとある。それは誰に委ねられたものでもない、彩歌自身の判断だった。

 

「それでも……キミの信頼には、応えてみせるよ」

「……はい」

 

 月下、咎人は少女に宣誓を捧げる。その瞳にはもう、凶星の気配は無かった。

 


 

 静寂。まさしくその一言であった。鴻大な真野邸の中、家人の存在は彩歌以外に無く、その彩歌も自身のベッドに五体を投げ出して黙考に耽っているというのだから、生活音と言えるのは時折彼が身じろぎをした際に生じる衣擦れの音だけだ。締め切られたカーテンの先に広がる夜景に車の姿は殆ど無く、故に今の彼の部屋はまるで周囲より隔絶された異界のよう。そのせいか、秒針が刻む時の存在が嫌に強く意識される。

 

 帰宅から就寝までの間の時間をたったひとりで過ごすというのは、彩歌にとってさして珍しい事ではない。むしろ彼にとってはそれが普通で、最早慣れきってしまった日常であった。何しろ4年もそうなのだから嫌でも慣れるというもので、しかし静寂に物寂しさを覚えるのもまた事実。だが今日だけは、その静寂が有難かった。彼には考えるための時間が必要だったのだ。混沌とした己が心を見つめ直し、解体し詳らかにするために。

 

 故に、黙考は必然。静寂は必定。自らに対してすら秘し続けた自我の裡へと潜航する試みはいっそ自失にも似ていて、そのせいか時間の感覚すらも曖昧だ。

 

 だがまるでその黙念を断ち割らんとするかのように、唐突にスマホが鳴動する。枕元に放り出していたものだからそれを無視する事もできず、思索を切り上げてスマホを手に執った彩歌が見たのは〝高咲侑〟の三文字。その下では赤と緑のふたつの丸が明滅している。

 

 電話である。だが、態々かけてくるような要件に心当たりが無く、彩歌が首を傾げた。とはいえ、彼にはその着信を無視する理由も、またそのつもりもない。手早くイヤホンを無線接続して応答の操作を行うと、彼の方から口を開いた。

 

「もしもし?」

『もしもし、彩歌くん? 私、侑だけど、今時間あるかな?』

「あるけど……いきなりどうしたんだい? 何か急ぎの用事とか?」

 

 ええっ!? と侑。彩歌としてはあえて電話をせずとも学校でも話せる所を態々電話という手段を執ったのだから、相応の理由があろうという想定であったが、侑の反応からそういう訳ではないのは明らかであった。

 

 暫しの逡巡。その間にもスピーカーからは侑が考えを巡らせる声が聞こえてきていて、その時点で明確な理由は無いか何か言えない事情があると察するには十分だ。けれどそこまで悟っておきながら懊悩を見守っているのが楽しくなってしまって、彩歌は黙って言葉を待っている。そうして数瞬の間を置いて、侑の返答があった。

 

『うーん……な、なんか急に声が聴きたくなっちゃって。アハハ……』

「……まぁ、そういうコトにしておくよ」

 

 まるで告白だな、と内心で独り言ちる彩歌。こんな状況ではあるが彼もひとりの男子高校生であり、相手の発言に全く動揺しない程枯れているつもりもなかった。それで勘違いする程初心でもないけれど。

 

 しかしあえて取って付けたような理由を挙げた事で、侑が何の用も無く電話をかけてきた訳ではない事は自明となったも同然であった。横たえていた身体を起こし、話を続ける。

 

「それで、俺の声が聴きたかった高咲さんは、本当はどんな話がしたかったのかな?」

『か、揶揄わないでよっ、もう! 

 ……コンクールの後、あのままお別れになっちゃったでしょ? だから……大丈夫かなって』

 

 その返答に、思わず息を呑む彩歌。侑の言う通り彼女が最後に見た彩歌の姿は過呼吸発作を起こして前後不覚に陥っていた時のそれで、その時には話をする事もできなかったのだ。侑からすれば、心配になるのも当然というものである。

 

 故に彩歌の剽軽な物言いに対して抗議こそすれ、同時に侑は安心もしたのだ。少なくともそれだけの元気は戻っているという事なのだから。その点では、先の誤魔化しも半ば建前ではなく本音とも言えるだろう。

 

 なれば彩歌が一瞬だけ言葉に窮し、手持ち無沙汰そうに前髪を弄っていたのも致し方ない事だろう。高咲侑とは善意の人であると、彼も知っていた筈だ。けれど彼はそれが再び自身にも向けられ得るものとは思ってもみなくて、であれば申し訳なさと共に気恥ずかしさを覚えてしまうのも全く自然だ。

 

「そっか。ごめんね。俺の個人的な事情で、キミの気を煩わせてしまった」

『ふふ、彩歌くん、前と同じコト言ってる。友達だもん、気にしなくていいのに。……それに、謝らなくちゃいけないコトなら、私にもあるし』

「……?」

 

 侑から彩歌に対して謝らなければならない事。すぐには合点がいかずに彩歌は記憶を掘り返してみるが、やはり心当たりはない。彼には侑から迷惑をかけられた覚えなどなく、むしろ自らが謝罪しなければならない事案が思い出されるばかりであった。

 

 そんな彩歌の気配を電話越しにでも感じ取ったのだろうか、微かに笑声が漏れる。しかしそれに続いたのは声ではなく、唾液を呑み下す音。嫌に重く硬い色合いに、彩歌もまた無意識に居住まいを正す。

 

『──4年前の事、大雅くんから聞いちゃったんだ。だから……私も、ごめん』

 

 続く衣擦れの音は、謝罪と共に侑が頭を下げた事によるものだろうか。対面している訳ではないのだから何をしても見えないというのに。あまりにも律儀である。或いはそれこそが、侑の善性の照明であるのかも知れない。

 

 侑が知っている。4年前の事件を。侑が知っているという事は、まず間違いなく歩夢も知っていると言っても良い。聡明な彼女らであるから、大雅から知り得た時点で彩歌が隠し続けていた理由にも気づいたのだろう。間隙と覚悟がその証左だ。

 

 ともすれば再び先日のような発作を招いてもおかしくはない告白である。故にこその空白。だがその数拍を置いた後に彩歌が返したのは、先と何ら調子の変わらない「そっか」という一言だけであった。

 

『怒らないの?』

「怒る理由が無いよ。ああなったらもう隠しきれなかっただろうし……何より、もういいんだ、そういうのは」

 

 今度は侑が首を傾げる番であった。もういい、と。恰も何かを諦めたかのような物言いであるが、彩歌の声音はそれとは裏腹に憑き物が落ちたかのようですらある。せつ菜が彩歌と話したのは知っていても何があったかまでをまだ知らぬ侑には、その所以を察する術がない。

 

 だが少なくとも悪い変化ではないと理解するには十分であり、それさえ分かれば個人的な事情に深入りするつもりは、侑には無かった。そんな彼女の返事を待たず、彩歌は続ける。

 

「それに、大雅(アイツ)が話しても問題ないと思ったなら、それは間違ってないだろうからね」

『信頼してるんだね、大雅くんのコト』

「……まぁ、親友だし、俺にとっては恩人でもあるからね」

『ふふふ、大雅くんもそんなコト言ってたよ?』

 

 えっ、と彩歌が言葉を漏らす。彼が返答に要した一瞬の間隙が孕んだ意味に、侑は気付いているのだろうか。表情が見えないこの状況でそこまで察する程の洞察力は彼になく、だが侑の声音には彩歌の心根を見透かしているかのような響きさえあった。

 

 侑に対して嘘を吐いたつもりは、彩歌にはない。それなのに返答に詰まってしまったのは、ばつが悪かったのだ。彩歌と大雅は親友である。それは自他が認める事実だ。けれど同時に、彩歌は他者への恐怖を大雅にさえ適用していた。それを自覚しているが故に、即応できなかったのだ。

 

 彩歌のその心理を、侑は既に知っている。尤も、気づいたのは彼女自身ではなく大雅であるが。

 

 彩歌は大雅にさえ恐怖を向けていた。それは事実だ。だが同時に、その恐怖があってさえ友誼と信用は揺るがなかったのも事実なのだ。矛盾した心理だが、その在り様は心的外傷があってもなお彩歌が誠実を貫こうとした結果であるのだろうから。信頼を疑うつもりは、侑にはなかった。

 

『本当に仲良しなんだね、彩歌くんと大雅くん。そういうの、素敵だなって思う』

「フフ、俺からしたら、キミと上原さんもそう見えるよ」

『そう? ありがとっ』

 

 或いはどこか友達自慢めいた、他愛のない会話。それだけでも楽しくて、ふたりは互いに笑い合う。彩歌にとっては久方ぶりの、己の過去とは何ら関係のない笑顔だ。半ば無意識のコトであったが故に、彼にその自覚は無かったけれど。

 

『そうだ、大雅くんから聞いたコトで、ひとつだけ確認したいコトがあるんだけど……』

「うん? 何だい?」

『えっとね……えと……』

 

 侑にしては珍しい歯切れの悪さであった。あえて言葉を切っているといった気配ではなく、それを尋ねる事自体を逡巡しているかのようでさえある。彩歌の隠し事を聞いた事実を告白する時の決心さえ一瞬だった侑が、である。

 

 であれば、余程深刻な事なのだろうか。その予感に彩歌は思考を巡らせるが、やはり思い当たる節は無い。そもそも彩歌の隠し事など心的外傷に由来するものの他に無く、故に答えは出ない。それに先んじて、侑が口を開いた。

 

『彩歌くんって、あの〝さっちゃん〟なんだよねっ?!』

 

 

「────え」

 

 

 あまりにも間の抜けた、頓狂の極みにある応答であった。それは侑の問いがあまりに予想の外であったからか、それともその名前が侑の口から出てくるとは全く思っていなかったからか。彼自身にさえ分からなかった。

 

 だが侑の声音は紛れもなく高揚した時のそれであり、そのせいか彩歌には目を輝かせた侑の表情が目に浮かぶようであった。初めて言葉を交わした時に、彼は一度その輝きを向けられているが故に思い出すのも容易である。

 

 あまりの想定外に動転(フリーズ)する思考。それを落ち着けるべく、深呼吸を数回。そうしてようやく彼は幾らかの正常を取り戻し、侑の発言が意味する所を理解する。

 

「高咲さん……もしかして、配信とかも……」

『うん! いつも見てるよ!』

「マジかぁ……」

 

 友人が実は視聴者でした、などと。全く予想だにしていなかった告白に、彩歌が両の手で顔を覆う。だが耳までは隠しきれず、彼が紅潮しているのは誰の目にも明らかであった。この部屋には彼以外に誰もいないけれど。

 

 ただ〝さっちゃん〟の正体を知っているというだけならば、侑だけではなくせつ菜や、情報漏洩者たる大雅もそうだ。だが自ら明かすのといつの間にか知られているのでは訳が違う。訳の分からない羞恥に、思わずわっと叫びたくなってしまう。

 

 侑が〝さっちゃん〟の存在を知っているという事はつまり、一人称だとか口調だとか、配信者として多少演じていたキャラを彼女は知っていて、それが今、彩歌と接続されてしまったという事でもある。羞恥するのも致し方なかろう。

 

『わぁ……! 凄いなぁ、本当に彩歌くんがさっちゃんなんだぁ……!』

「あんまり言わないでよ、恥ずかしいから……それに、大雅から正体を聞いたって事は、俺が配信を始めた理由も聞いたんだろう? あまり、褒められたものじゃない……」

 

 独白めいた彩歌の吐露に、侑はすぐには応えを返さない。だが彼にとってはその沈黙こそが肯定にも等しくさえ感じられた。侑は素直だ。知らぬというのであればあえて黙るような真似はしないと、彼は了解している。

 

 だが己自身でそれが誉められたものではないと理解しているのならば、相手の理解に任せて何も語らずにいる事こそ真に不実な行為だ。既に知られているのならば、最早今更。言葉にするに、支障は無かった。

 

「あの事故から今まで、俺は贖罪の事しか考えてなかった。自分の心を殺して、耳を塞いで……俺の価値(そんざい)を示す事だけが俺に許された全てだと思ってたんだ。いや、今でもそう思ってる俺がいる。配信を始めたのだって、結果が欲しかったからだよ。

 本当……愚かだよね」

 

 その事実を、彩歌は認めよう。自他をこれ以上裏切らないと誓い、己を客観視できるようになった今、彼は目前に屹立する己が愚昧から目を逸らす事は許されなくなったのだ。直視こそが、義務だ。

 

 母の死の原因を作った己に母の教えを守る権利などなく、それどころか音楽を続ける事さえ烏滸がましい。けれど辞めてしまうのなら、それは母への裏切りだ。自らで自らを無価値としてしまえば、それは本当に母の死を無駄死にと認めてしまう事になる。

 

 それだけは看過できない。ならば己の価値を示さなければ。最早その身には音を楽しむ権利も、大好きを叫ぶ権利も無いのだとしても。元より犠牲の許に救われた命。犠牲に恥じぬ結果を示す事だけが、許された唯一の道だ。

 

 これまでの4年はその一念の許にあって、配信を始めたのもそれ故の事。綺麗な理由は何処にも無い。それが全て。

 

 彩歌とて分かっているのだ。いかな友人といえど一視聴者でしかない侑にそんな事を言っても仕方がないと。慰めが欲しかったのではない。ただ彼女の無邪気な声が痛くて、言わずにはいられなかった。

 

 静謐。それが自らの招いたものであると気づいて彩歌は何かを言いかけて、しかし侑がそれに先んじる。

 

『それでも、だよ』

 

 只管に優し気な、それでいて有無を言わさぬ声音。それを受けた彩歌は声を漏らす事もできず、吐き出される寸前だった息は行き場を失って虚空に溶けていく。ある種の強制力が、彼女にはあった。

 

『初めて彩歌くん(さっちゃん)の演奏を聴いた時、私、すっごくトキメいたんだぁ。世界にはこんなに音楽が上手くて、大好きな人がいるんだって思った。心の底から、そう思ったの』

「っ──」

 

 侑の言葉に、嘘はない。彼女の人柄への理解ではない、しかし疑う余地の無い所から、彩歌はそう確信する。それは或いはただの予感と言うべきものであるのかも知れないが、それだけに強力だった。

 

 今までの話において、彩歌は事実しか語らなかった。決して嘘を吐かなかった。なれば、侑が嘘を吐く筈もない。それを確信できるからこそ、彩歌は余計な言葉を差し挟めない。

 

『だからね、ピアノの練習に詰まった時、スクールアイドルの動画だけじゃなくて、さっちゃんの配信も見てたの。そうすると、勇気が出た。私も頑張ろうって思えた。その内に作曲の勉強も始めたり……そうそう、最近ね、貰った楽譜がなくてもCHASE! が弾けるようになったんだぁ』

 

 凄いでしょ? と誇らしげに笑む侑。相変わらず表情は見えないけれど、気配だけでそれが伝わってくる。そのせいだろうか、彩歌は何も言えずに首を縦に振るばかり。服が擦れる音だけが侑に聴こえる全てで、それだけで十分だった。

 

 思わず、鳩尾の辺りを握り締めた。侑の言葉を聞いたせいだろうか、訳の分からない、けれど懐かしくて暖かい何かが胸の奥から湧き出して堆積していく。そんな感覚であった。まるでずっと押し込めていたものが、ひとつの切っ掛けで溢れ出してきたかのように。

 

 さながら郷愁の奔流。彩歌がそんな有様である事を知ってか知らずか、侑は更に続ける。

 

『だから、ありがとう。今日はそれが一番言いたかったの。……えへへ、何だか恥ずかしいな』

 

 未だ感情の整理はついていない。けれど礼を言わなければならないのはむしろ自身の方である事は彩歌にも理解出来て、けれどそれが声になるより早くに別な声が微かではあるが電話口に混じる。歩夢だ。

 

『あっ、歩夢だ!

 ゴメン、彩歌くん、歩夢に呼ばれたから、もう切るね! また学校で話そ!』

「あぁ。……ありがとう、高咲さん」

『……! へへ、どういたしまして!』

 

 その言葉を最後に電話は切れ、部屋には静寂が戻る。スマホの画面もまた電話中のそれからロック画面へ。イヤホンを外せばそこにあるものは数刻前と変わらぬそれであり、されど彩歌の裡に残留する熱だけは異なっている。

 

 どれほどの間電話をしていたのだろうか。正確な所は分からないが変わらず家人は彼ひとりで、故に彼は己が感情を解体しにかかる。その正体を知るために。そうしなければならないという感覚があった。

 

 検分する。見つめ直す。言葉を吟味するありとあらゆる試みを不明に対して施して、そうして暫しの時間をかけた後、彩歌は()()()()()。その定義を。不要と切り捨てた筈の感慨を。

 

「そうか……俺、嬉しいんだ」

 

 全く気の抜けた声であった。だがそれは自身が抱いた喜びに対して無感動であるからではない。自らの理解に感情が追いつかず、その空白より現れた虚であった。そして空虚とはいつか塗り潰されるが定め。数拍を置いて、抗い難い感情の波濤が彼を打つ。

 

 嬉しい。嬉しい。侑が演奏を聴いてくれていた事もそうだが、主たる要因はそれではない。ならば何か。決まっている。自分の演奏が誰かの背中を押せていた事が、誰かの夢を応援できていた事が、彼はたまらなく嬉しいのだ。無防備であるが為に偽る事のできない心で、彼はそれを強く実感する。

 

「あぁ、俺……やっぱり、まだ──」

 

 正直な所、彩歌は不安だったのだ。自他を裏切らないと誓い、果たしてそのために己の解体に成功したとして、もしもその中に何も無かったとしたら? 封殺され果てた〝大好き〟はとうに死んでいて、ただ自己欺瞞の為の作り物の痛みだけがそこに在る全てだったとしたら? 自分はその虚無を裏切らずにいられるのだろうか、と。

 

 だが、それは杞憂だった。だって、こんなにも嬉しい。証明も、弁護も、お為ごかしも要らない。この感情はそんなものでは測れない。そこにあるだけで十分で、何よりも強力な感情だ。こんなものをずっと殺そうとしていたのだ。死んでしまいそうな程に痛むのも当たり前で、見て見ぬふりをしても漏れ出てしまうのも自然という他ない。

 

 思わず泣いてしまいそうな程に激しい情動。けれど彩歌は意地を以て、それを抑え込んだ。泣くべきは今ではない。それにはまだ早い。しかし全てを堪えきれる筈もなく、彩歌は万感の混沌と共に言葉を吐き出した。まるで己に、世界に、それを知らしめるかの如くに。

 

「───こんなにも、音楽が大好きじゃないか……!!」



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第28話 いつか、キミはその先へと

 煌々と輝く、燃えるような夕景。あまりにも使い古され手垢に塗れ果てた陳腐極まる表現だが、彩歌の目の前に広がる景色を表すにはそれが最も適切な表現でもあった。

 

 西の空により殺到する茜色の鯨波が街を黄昏に沈め、コンクリート・ジャングルの整然とした灰色が無遠慮に染め上げられる。今はまだ見えないが、水平線の上では今も濡羽色の空が黄昏を塗り潰さんと迫って来ているのだろう。

 

 しかしそんな天上の闘争も、今の彩歌には全くの無縁の事だ。ダイバーシティ東京の威容が地に落とす巨大な影の下、少年は独り天球にて繰り広げられる階調の変遷を眺めるばかりだ。

 

 視線を巡らし、背後に見えるのは白亜のヒトガタ。最早見慣れてしまったそれはやはり一角獣を模した姿のまま、影の内から衆生を睥睨している。その能面の内に隠された双眸を窺い知る事はできず、そこに何かを見出す試みは無意味に等しい。立像は立像。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 浮足立っている。柄にもなく全く無益な試行を犯した己を顧みて、彩歌はそう結論付ける。だが、仕方ないじゃないか、と。誰に向けたものでもない言い訳を内心で零す。事実、これから来るであろう待ち人の正体と彼の思惑を考えれば、彼の憂懼も自然な事であった。

 

 だがそのままでいるのも気持ち悪くて、彩歌は鞄から取り出したイヤホンを装着するとスマホの音楽アプリを起動した。シャッフル再生をタップし、流れ出したのは洋楽。ミア・テイラー作曲のそれだ。嗜好している作曲家が作り出す世界に意識を飛ばし、彩歌は一時だけ現実を忘れる。

 

 そのまま、どれだけの間そうしていたか。ほんの一瞬か、或いは何十分か。半ば忘我の裡にあった彩歌に分かるのは空模様はあまり変わっていないという事だけだ。不意に肩をたたかれ、彼は現へと立ち戻る。そうして反射的に振り返り、彼は介入者の正体を認める。

 

「父さん」

「よう、彩歌。待ったか?」

 

 イヤホンを外しながら呼びかける彩歌に、手をひらとさせる陽彩。仕事を早抜けしたその足で来ているためかその恰好は愛用である仕立ての良いスーツのままであり、だが目元を隠すサングラスだけがアンバランスだ。けれど彩歌に驚いた様子はない。彼にとって、父親のその姿は見慣れたものであった。

 

 それは何も、陽彩の趣味という訳ではない。だが彼は元トップアイドルであり、未だに熱狂的なファンは少なくない。そのためプライベートな外出時には変装も兼ねてそれを着用している事が多いのだ。尤も、嘗ての彼と瓜二つの造作に育った息子が横にいてはあまり意味も無かろうが。

 

「待ちはしたけど……退屈はしてないよ」

「そうか。なら良かったが……またそれ聴いてたのか?」

「また、とは何さ。またとは。失礼だなぁ。そりゃ、ファンだもの。推しの曲に飽きは来ないさ」

 

 揶揄うかのような声音の陽彩。基本的に一年中多忙で落ち着いて息子と言葉を交わす時間も少ない彼だが、息子の趣味嗜好程度ならば問題なく把握している。音楽の趣味などはその最たるものだ。

 

 彩歌もそれを知っているために、返答は抗議でありつつも抗議の体を成していなかった。そもそも父には己を小馬鹿にする意志など無いと予め分かっているのだから、怒る理由がある筈もない。

 

 つまりは、全くの茶番。言葉の応酬もそこそこに、ふたりは顔を見合わせて笑い合う。生活リズムの相違に加えて最近の騒動もあって同じ家に暮らしているにも関わらずあまり会話の無かった彼らだが、その程度で両者の暗黙が消退する筈もない。

 

 だが、いつまでもそうしている訳にもいかない。他愛の無い会話の跡にはすぐに本題へ。その了解に異論を差し挟む余地は無く、周囲を見回してから陽彩が口を開いた。

 

「詩音さんは……まだ来てなさそうだな」

「うん。多分、仕事が長引いてるんじゃないかな」

 

 極めて多忙でこそあるが、陽彩は勤め人である。事前の根回しと大幅な無理を重ねれば早退程度ならば可能であるのに対し、詩音はある種の個人事業主である。マネジメント等も基本は自ら行っている以上、方々との協議は自分自身で行わねばならず、その中で早抜けというのも厳しかろう。

 

 とはいえ彼らも何の見通しも立たないまま今日に用事を入れるような蒙昧ではない。別日よりも比較的予定を合わせやすいからこそ今日を選んだのであり、ふたりは短い遣り取りの後に暫く待つ事を決定する。

 

 そうなれば、後に残るのは延長された父子の時間。彩歌には、話したい事が山のようにあった。何しろ腰を落ち着けて話せるのは久しぶりなのだ。学校の事、友達の事、或いはもっと他愛の無い事まで。話題には事欠かない。

 

 だがそれを差し置いてでも話すべき事が彩歌にはある筈で、だがそれを思うと暗雲めいた感覚が彩歌の胸中に去来する。覚悟はしていた。それでも長年に渡って彼の裡に居座り続けた恐怖は覚悟だけで払拭できるような生半なものではなく、相反する感情の相克が懊悩を生む。そこへ、陽彩の声。

 

「彩歌。身体の方はもう大丈夫か?」

「あ、あぁ。もう大丈夫だよ。別に、身体には元から問題は無いし……それに、これから母さんの墓参りに行くってのに情けない所は見せられないよ」

 

 唐突な問いだ。あまりにも脈絡が無い。いかに父からの問いであるといえど彩歌はその意図を即座には察せず、返答には戸惑いが混じる。だが思わず視線が地面から父まで滑り、その表情を見た刹那、彩歌は陽彩の意図する所を了解した。

 

 悟られている。正確にどこまで気づいているのかは定かではないが微笑を湛えた陽彩の漆黒の双眸は只管に優し気で、まるで彩歌の言葉を待っているかのようだ。いつの間にか、サングラスを外していたらしい。

 

 或いはそれは、何も今に始まった事ではないのかも知れない。そう思うと何故だかひどくおかしくて、彩歌は笑声を漏らす。そうして、深呼吸をひとつ。それだけで、つっかえていた筈の問いは声となって現れた。

 

「───父さんはさ、俺を恨んだ事って、ある?」

 

 声音は、彩歌自身でも驚く程穏やかなものであった。ずっと彼の裡に巣食っていた諦念にも似た抑圧の気配さえそこには無く、自然体である。およそ数刻前まで恐れで一歩踏み出せなかった少年には似つかわしくない姿だが、故にこそそれは包み隠す事の無い心底からの問いであった。

 

 何を以て怨恨とするか、などと、陽彩は問い返さない。そんな事はあえて訊ねるまでもない。彩歌の心にずっと引っ掛かり、心根に影を落とし続けてきたものの存在を、彼が知らぬはずもない。故に、答えはとうに決まっていた。

 

「ある……と答えるのが、気の利いた返しなのかも知れないけどな。無いよ、一度も」

「そっか。……そうか。ハハ……ハハハハ!!」

 

 二度の首肯。それに続くのは安堵の涙などではなく、誰憚る事の無い呵々であった。あまりにいきなりの事であったためか往来は彩歌に訝し気な目を向け、不審に思いつつも何事も無いと分かるとすぐに興味を喪って離れていく。

 

 陽彩の言葉に嘘は無い。それは息子である彩歌が一番よく分かっている。分かっていた筈だ。それなのに、恐れていた。自分で自分自身を罰していながら、最も身近な人から罰されるかもしれないという幻想に踊らされていた。

 

 初めからこうしていてば良かったのだ。全てはあまりにも簡単な二言に凝縮され、それだけで終わる命題だった。それなのに、そうしなかった。ありもしない幻想に取り憑かれ、独り芝居に狂っていた。これを道化と言わず、他に何と言うか。あまりにも滑稽で、彩歌は笑いを堪えきれなかった。だがそんな少年の髪に、不意に温もりが触れる。

 

「……ごめんな、彩歌」

「どうして父さんが謝るのさ。父さんには悪い所なんてひとつも……」

「いいや、ある。俺はな、彩歌。怖かったんだ。おまえの期待に応えようとしながら、同時に心を閉ざしたおまえにどう接すればいいか……その努力を怠っていた」

「そんな、そんな事は……」

 

 無い、と言い切れるだろうか。彩歌は陽彩の息子であり互いに余人の介在を許さない理解があると自負している。だが父子であれど、突き詰めれば他人だ。その心根の全てを何の努力も無く悟る事ができる筈もない。

 

 ならばその無理解を是正する手段が要る筈で、その選択肢はただひとつしかあり得ない。言葉だ。人間が相互理解を果たすには、言葉を以て己を晒すより他にない。相手に自分を知って欲しい。相手を知りたい。つまりは不明を既知へと堕とし、理解したい。それは人の基本欲求だろう。

 

 だが世界は簡単ではなくて、相互理解にはいつだって障害がある。それは誰より近しい親子とて同じ事。生者同士とてそうなのだから、生者と死者の間でそれを十全に果たすなど不可能に近い。

 

 誤解やすれ違い。言葉があるからこそそれらは生まれ、それが嘘となり相手を区別する。だがその嘘が白日の下にさらされたのなら、それは障害を乗り越える一歩にもなろう。言葉による誤解を恐れるのが人間ならば、言葉によって解り合えるのもまた人間だ。

 

「それでも父さんは、良い父だと思う。それは俺が保障するよ。父さんは俺にとって……誰より尊敬できる父だ」

「彩歌……ははっ、言うようになったなぁ、おまえも!」

 

 息子の言葉にそう返すや否や、陽彩は彩歌の頭に乗せた掌を激しく動かし彩歌の髪をもみくちゃにしてしまう。あまりにも酷い蛮行だ。おかげで髪がぼさぼさになってしまっている。やめろー! と抗議する彩歌だが、その言葉とは裏腹に表情は嬉しそうだ。

 

 確かに陽彩の言う通り、彼は半ば心を閉ざした息子にどう接するか探る努力を放棄していたのかも知れない。だが、それは最適解ではなかっただけだ。陽彩の心はいつだって息子にあって、それに気づかない彩歌ではなかった。

 

 或いは完璧主義とでも言うべきなのだろうか。己の不出来を誰より自分自身が許せないという、あまりに不器用な在り方。それにあまりにも覚えがありすぎて、彩歌は思わず苦笑してしまう。

 

「いつだって父さんは俺を想ってくれてた。だからこそ、余計に怖かったんだ。その期待を裏切ってしまう事も、面倒をかけてしまう事も。……ひとつでも間違ったら、また大切な人が離れてしまいそうで」

 

 彩歌とて分からなかった訳ではないのだ。父が自分を愛してくれている事は。分かっているからこそ怖かった。苦しかった。どんな幸せを享受していたとしても彼の心にはいつも希死の念があって、それが再起させるのだ。いつかの日から降り続ける雨音を。

 

 だからこそ彩歌は努力した。只管に必死に、陽彩に迷惑をかけまいと。家事を完璧に身に着けたのも、特待生まで昇りつめたのも、全てはそのためだ。幸か不幸か、努力を積み上げその全てを掌握する事だけは、彼の得意であった。

 

 陽彩が自身で描く良い父であろうとしながらそうなれなかったというのなら、彩歌もまた良い息子であろうとして、そうなれなかった。その告白を受けて、陽彩は彩歌の頭に手を添えたまま答える。

 

「良いのさ。俺達は都合の良い偶像(カミサマ)なんかじゃないんだから」

「そう、だね……でも、なんか開き直りみたいなんだけど、それ」

「かもな。けど、真理だろ?」

 

 人は都合の良い偶像などではない。それは嘗て彩歌自身もまたせつ菜に告げた言葉だ。だが他者にはそう言いながら、誰より彼自身が他者にとって都合の良い偶像であろうとしていた。それも、ただ"拒絶されたくない"などという理由で。

 

 何と浅ましい動機だろうか。だがその感慨は以前の彩歌には無かったはずのもので、それは転じて彼が確実に前に進んでいるという事でもあるのだろう。そして彼がそう在れるのは、決して彼ひとりの力によるものではない。

 

「俺、ずっと"俺が死んでいれば"って思ってた。正直、今でもそう思ってる俺がいる」

「……そうか」

 

 陽彩はそれ以上何も返さない。彩歌の言いたいことはまだあると察しての事なのだろうか。自分が死んでいればなどと、それは父が息子から最も言われたくない言葉であろうに。

 

 静寂。数拍の間を置き、でも、と続ける。

 

「こんな俺でも"生きていてくれてよかった"と言ってくれた人がいた。"ありがとう"と言ってくれた人がいた。それで、思ったんだ。俺はずっと……俺がここにいてもいいって、生きていてもいいって理由が欲しかったのかも知れない」

 

 自己肯定。生存承認。あえて形容するならば、彩歌の思いとはそれに終始する。或いは贖罪さえもそうであったのかも知れない。たとえ死んだように生きる事になったのだとしても、生きて贖う。それは生きる理由に他ならない。

 

 贖罪を希求する自己とせつ菜の思いを裏切りたくない自己が同時に存在する理由も、全てそれで説明がつく。根底を同じくする思いであるならば、それは結果に至るための手段として同列だ。

 

 だが希死念慮に突き動かされる己と生存を欲する己がいる事は明確な矛盾だ。彩歌はそれを自覚していて、故にそれ以上に言葉は続かない。そんな彼の横に腰を降ろし、陽彩は口を開く。

 

「おまえの罪悪感を、俺は否定しないよ。それはおまえなりに考えて出した結論だろうから」

「……」

「でも、これだけは覚えていてくれ」

 

 彩歌の罪悪感を肯定する。果たしてそれは、どれだけの葛藤の果てに出した答えなのだろうか。おまえは悪くないと、そう言ってしまえたならどれだけ良い事か。言ってしまいたい自分がいる事も陽彩は分かっていて、それでも彼は息子の思いを認めた。

 

 なぜならそれは、息子の懊悩を否定する事になるから。お為ごかしの正論など、ただの自己満足にしかなり得ない。罪悪感さえ熟考の先に出した思いならば、彼はそれを肯定する。

 

 それでも、伝えなければならない事があった。それを、彩歌はまだ理解できない事かも知れないけれど。彩歌の孔雀青の瞳を真っ向から見据え、陽彩は言う。

 

「おまえは自分が両親(俺たち)の夢を奪ったと思ってるんだろうが、それは違う。

 ───おまえが夢なんだよ、彩歌。おまえの存在そのものが、俺たちの夢なんだ」

「俺が、夢……」

「そうだ。だから愛歌は夢を奪われたんじゃない。守ったんだよ」

 

 自らの存在そのものが、両親の夢。そう告げられて、彩歌は二の句を継ぐ事ができない。理解に時間がかかっているのか、それとも驚愕によるものか。彼の裡にもその希望はあった筈なのに、それが現実のものとなると何も言えなくなってしまう。

 

 それでも、確かな事がひとつ。愛歌の音楽教室は両親の夢だった。それは間違いない。けれど同時に彩歌自身もまた両親の夢であり、愛歌はそれを守るために命を擲ったのだ。

 

 この事実で彩歌が愛歌に庇われた事実が帳消しになる訳ではない。故に彼の罪業が消える事は無く、けれど陽彩の言葉は理解を飛び越え、そのまま彩歌の胸に収まる。それは忘我として現出し、そんな愛息に陽彩は笑む。

 

「まぁ、子供が夢なんてのは俺達だけじゃないだろうけどな」

「そういうものなのかな……」

「そういうモンなんだよ。おまえもいずれ分か……るとは限らないか。今はそういう生き方ばかりじゃないからな。

 まぁ、分からなくてもいいさ。思いは伝えた。それでいい」

 

 彩歌はまだ子供だ。故に陽彩や愛歌の感覚を理解しようにもできない。或いは一生理解できないかも知れないし、それとは逆にすぐに理解できてしまうかも知れない。それらは全て可能性の話。今論じても詮無い事だ。

 

 だが、託された。それだけは彩歌にも分かる。その思いが包含する性質は知らずとも。或いは初めからそうであったのだろうか。知ってからではその正否を論じる事はできないけれど、漠然と彩歌はそう予感する。

 

 けれど、これはあんまりだ。託された以上、彩歌は最早歩き続けるしかなくなってしまった。迷走さえ道程であるならば、これまでの彷徨もまた彩歌にはもう否定できない。故に笑んで、皮肉を漏らす。

 

「最初からそう言ってくれれば、分かりやすかったのに」

 

 初めからそうと知れていれば、これほど迷うことは無かった。それは正論ではあるけれど、同時に暴論でもあろう。陽彩はただ笑むばかりで何も言わず、彩歌もまたそれに苦笑を返す。

 

 これは祈りだ。だが託された祈りを祝福とするか呪縛とするかは祈られた側の勝手であり、そしてどちらであれ陽彩はそれを否定するまい。それが彩歌が為すべきと思った事を為した結果ならば。

 

 上等だ、と。理解を腹の裡に収め、不明を不明であると了解し、彩歌は思う。

 

「と──」

「──ごめんなさい! 話し合いが長引いちゃって……」

 

 あまりにも喧しい、聞き知った声であった。全く予期していなかった横槍で言葉を遮られた彩歌であるがそこに不満は無く、だが皮肉めいた表情で横槍が飛んできた方向を見遣る。

 

 果たして、そこにいたのは最後の待ち人である矢代詩音であった。話し合いが長引いたというのは本当と見えて、愛用のスーツを着たその姿で額には汗が浮かんでいる。恐らく走ってきたのだろう。

 

 数秒の間肩で息をして、顔を上げる詩音。そうしてその間に漂っている色を視認したのか、問いを零した。

 

「あれ……? もしかしてあたし、お邪魔しちゃった?」

「あぁ、したな」

「したね」

 

 えぇっ!? と詩音。その姿がおかしくて、父子は思わず吹き出してしまう。確かに彩歌の言葉は遮られてしまったが、彼らは何もそれを迷惑がっている訳ではない。むしろその宣誓は詩音にも聞き届けられて然るべきものだ。

 

 だがそれについて言うならば、それを告げるべき場はここではないだろう。見れば、周囲には少しずつ人が集まってきている。かつてのトップアイドルと高名なピアニストが一同に会しているのだ、無理もない。今更スキャンダルになるようなものでもないが、不都合ではあるだろう。

 

「そろそろ行くか」

 

 陽彩の言葉に頷きを返し、立ち上がる。いくら共感覚者といえど全てを了解できる訳もなく詩音は戸惑いを隠しきれていないようだが、それは道中で解決すれば良い事だ。

 

 そうして立ち去る間際、彩歌は何気なく背後を振り仰いだ。

 

 白亜のヒトガタ。数刻前には無貌であったそれは今やその真体を晒し、その躯体より発する深紅の燐光で以て地を照らしていた。その光はいつか虹となり、これより来る夜の無明に伸びるのだろう。

 

 久遠の雨が、上がる予感がした。

 


 

 ──言うなれば、そこは"狭間"であった。

 

 都心よりいささか離れた、東京郊外のとある一角。雑然とした世俗の喧騒とは全く以て無縁であるそこを満たす静寂はいっそ荘厳でさえあり、しかし林立する無機質な灰色は耽美とは程遠い光景であろう。

 

 時は既に真夏であるのに地を撫でる風は穏やかかつ冷たく、暗がりの曼殊沙華が紅い手を振っている。まるで、来訪者たる彩歌達をその先へと呼び招こうとしているかのように。健気なその姿に、思わず笑みが零れた。

 

 見上げれば空の蒼は既に霞み果て、西方より染み出した茜色に取って代わられていた。地平を遮る木々のために見えはしないが、きっと今頃は地の底より闇が現れんとしている事だろう。

 

 なれば今この時こそは昼中と小夜の際目であり、そしてこの場所は現世でありながら最も幽世に隣接している。故にこその狭間。地続きでありながら境界たる在処。冷厳にして温和たる墓標の海原。実在と不在が混濁する只中にあっては、曖昧模糊さえその存在を許される。

 

 掃除を終え、軽く一息。汗ばんだ肌に触れる風が心地良い。手に持っていた掃除用具を桶の中に放り込んで傍らに置いてから、彩歌らは再び()()と向き合った。"真野家代々之墓"と刻まれた墓石──即ち、母たる愛歌の遺骨が眠るそれと。

 

 今日彼らがここへ来たのは、報告のためだ。他でもない、彩歌が全国大会へと駒を進めた事の報告である。それが愛歌が亡くなってからの慣例であり、しかし今回に限ってはそれだけではなかった。

 

 黙祷。五感のひとつを閉じても生者に死者の声は届かず、けれど交感には充分だ。そして、自身の決意を再認するにもそれは十分に過ぎる。

 

「父さん。先生。お願いがあるんだ」

 

 静寂を打ち破る彩歌の声。聊か唐突ではあったが、陽彩と詩音に驚愕の気配は無い。まるで彼が何か言うのを知っていたか、或いは待っていたかのように。そんなに分かりやすかったか、と内心で零す。

 

 知らず、拳に力がこもる。余人からすればそれは大した事ではないのかも知れないけれど、彩歌にとっては難行の如きものであるのだ。何しろ今までずっと独りで立とうとしていたのだ。他者を頼るにも勇気が要る。

 

 だが、今更な事でもある。懊悩の中に在り続けた日々でさえ、彼はずっと誰かに支えられ続けていたのだから。開き直りめいてはいるが、それでいい。ひとつ大きく空気を吸い込めば、言葉は自然と現れた。

 

「俺を助けて欲しい」

「……!」

 

 詩音は気づいたのだろう。彩歌の告げたそれが、再会した日に彼女が言ったそれである事に。助けて欲しいときはしっかり誰かにそれを伝えろ。彩歌の嘆願は、まさしくそれであった。

 

 嘆願の内容もいつかの黄昏の時と全く同じであり、けれど性質を全く異としている。今度は苦し紛れではなく、本心から。情けない話だとは分かっているけれど、それは約定でもあった。

 

 今、彩歌は自己矛盾の裡に在る。せつ菜の言葉を裏切らず、"大好き"に忠実に在りたいと願う自分。希死念慮に突き動かされるまま、自己を贖罪に費やさんとする自分。どちらもその先にある結末(ビジョン)が曖昧で、どちらが本音か彼自身にさえ不確かだ。全てを裏切らずにいられる道も、未だに見えない。だが。

 

「今度こそ、俺は全国を獲る。他の誰でもない、俺自身の音で」

 

 生き方(こたえ)を見つけるのは、それからでも遅くはない。

 



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第29話 オレの茫漠(おと)、ワタシの光輝(おと)

「──とは言ったものの……”俺の音”か……」

 

 陽彩や詩音と共に愛歌の墓参りを行った、その明くる日。虹ヶ咲学園のカフェテリア、その一角で、己の決意を反芻しながら彩歌がそんな呟きを零した。彼の目前には瑞々しい野菜をいっぱいに挟み込んだサンドイッチとコーヒーが芳香を漂わせているが、手が付けられた様子はない。

 

 時刻は既に昼。窓ガラスより除く空は渺々として高く、鏡合わせの海もまた深い蒼に染まっている。遠方に見える工業地帯は陽炎に揺らめいていて、まるで天球に揺蕩う幻惑のようだ。

 

 カフェテリア内はとうに喧噪の内にあり、受け取り口の辺りには長蛇の列ができている。今はまだ空席も多いが、数分もすれば全て埋まってしまいかねない勢いだ。だがそんな混沌さえ、彩歌の裡では何の意味も与えられないまま霧散していく。彼は既に席を確保しているのだ。喧噪など無縁であるし、何よりそんな事よりも重要な憂悶が彼を支配していた。

 

 今度こそ己の音で以て、全国の頂点を獲る。それが昨日、彩歌が両親と師の前で立てた誓いだ。およそ半日の時が経った今でもその決意には一片の揺らぎもなく、また退路を断った事への後悔もない。だが果断は揺らがずとも時を挟めば否応なく思考は冷却されるというものであり、それに伴って見えてくるものもあろう。

 

 自分の音。あまりにも断固たる言葉であり、それでいてこれ以上も無い程に曖昧な定義だ。何しろ正答が無い。それはある意味で自己定義そのものではあれど、その点において彩歌はあまりに不利であった。

 

 物心ついた頃から事故に遭うまで貫いてきた、母の教えを体現した音。それが彼の根底に在るのは確かだが、同時に事故から今まで己に強いてきた圧倒的な修練と技術に依って立つ無機質な音もまた彼が彼自身に課した定義には違いない。一種の二律背反の下に、彼はあった。

 

 つまり自らの求める解に辿り着くまでに彩歌は自らを解体しその全てを掌握せねばならず、それは難行に等しかろう。それを前に必要以上に考え込んでしまうのが彼の性分で、しかし考えてばかりでも答えが出ない命題もあるとは彼とて理解している。

 

 ともあれ、まずは栄養補給だ。深みに嵌りそうな思考を強制的に切り上げ、サンドイッチを豪快に頬張る。いかにも腹ペコの学生が好みそうな、濃いめの味付け。それでいて新鮮な野菜のために中和されているのか全くクドさは無い。普段は自ら弁当を作ってくるためカフェテリアを利用しない彩歌だが、これはなかなかどうして悪くない、と。もっきゅもっきゅと咀嚼しながら感心にも似た感慨を懐いていた彼であったが、刹那、不意に肩を叩かれた。

 

 全く以て意識外からの介入である。故にそこに警戒が差し挟まる余地などある筈もなく、彩歌は反射的に振り返ってしまう。────サンドイッチをいっぱいに詰め込んだ頬に突き刺さる、細く長い指。その時点になってようやく、彼は己の失策を悟った。

 

「にっしっし、またまたイタズラ大成功です! 引っ掛かりましたね、彩歌先輩!」

「……中須さん。久しぶりに会っていきなりこれとは、随分なご挨拶だね」

 

 果たして彩歌の視線の先、まんまと悪戯を成功させた事で得意げな笑みを浮かべている介入者の正体とは虹ヶ咲が誇る”小悪魔系スクールアイドル”こと中須かすみであった。相手の不意を突いて頬をつつくなどあまりにも古典的な悪戯であるが、彼女の口振りからして彩歌以外にも同様の手口に遭った者がいるのだろう。彩歌もめでたくその仲間入りとなってしまったのだ。

 

 つまりはまんまとかすみの思惑に嵌ってしまった形ではあるが、彩歌にそれを怒る気は無かった。返しこそ皮肉めいてはいるけれどそこに剣呑の気配は無く、むしろ眼光は柔和の色を湛えてさえいる。

 

 数拍が経っても未だ彩歌の頬に突き立てられたままの指。故に彼は顔を動かす事ができず目線のみを巡らせ、そうしてかすみの右手に握られた小さなバッグに気づいた。大きさからして、恐らくは弁当であろう。昼休みのカフェテリアに来ている時点で半ば当然のようではあるが、かすみもこれから昼食であるらしい。

 

 そこまで思い至った彩歌が何かを言いかけ、しかしそれに先んじて別の声が彼らの耳朶に触れた。

 

「かすみさん? イタズラはめっ! だよ? すみません、彩歌さん。かすみさんが失礼を……」

 

 そう言って彩歌に軽く頭を下げたのは、腰ほどまである長く流麗な黒髪と後頭部で結ばれた真っ赤な大きいリボンが印象的な女子生徒であった。胸元のリボンタイの色は黄色。つまりはかすみと同じ1年生である。

 

 彩歌はその女子生徒の名前を知っていた。かすみと同じくスクールアイドル同好会に所属している”演技派系スクールアイドル”こと”桜坂しずく”。彩歌とはあまり接点の無い相手だが、せつ菜の復帰ゲリラライブ後に言葉を交わした事があった。

 

「構わないよ。可愛い後輩のお茶目くらい、いくらでも受け入れるさ」

 

 あまりにも気障に過ぎる弁護であった。ともすれば心にもない軽薄を疑われ、信任を喪ってしまいかねない程に。だが彩歌の孔雀青はどこまでも澄み渡り、そこに邪心の気配は無い。そもそも彼にはあえて気障ったらしく振る舞ったつもりもないのだから、そこに邪心の介在する余地がある筈もないのだ。

 

 故に彩歌の言葉は額面が漂わせる軽薄とは裏腹にどこまでも真っ直ぐであり、少女らがそこに疑念を差し挟む事はなかった。或いはそれはせつ菜の一件にて彼が同好会の面々から得た一定の信用の現れでもあるのだろうか。

 

「えへへへぇ、可愛いだってぇ。やっぱり彩歌先輩は見る目あるねぇ、しず子ぉ」

「良かったね、かすみさん」

 

 よしよし、と。可愛いという感想を正面からぶつけられてだらしなく表情を緩ませるかすみの頭を、しずくが優しくなでる。その手つきは明らかに慣れている者のそれで、それがふたりにとって日常のひとつである事を伺わせる。

 

 微笑ましい光景だ。まるで仲の良い姉妹であるかのような、余人の立ち入りを躊躇わせる気配がある。それは発端たる彩歌も同様であり、頬杖を突きながら何気なく視線を巡らせる。そうして不意に、しずくの陰から覗く瞳と目が合った。

 

 小柄な少女である。身長はかすみはせつ菜よりも幾分か低いようで、恐らくは150㎝程だろう。クセのある桃色の髪の下で輝く琥珀色の双眸は可愛らしい造作や小さな体躯と相まって、さながら小動物のようだ。

 

 彩歌にとっては初対面の相手である。だが、彼はその少女の名前を知っていた。

 

「キミは……”天王寺璃奈”さん、だね?」

「……私のコト、知ってるの?」

「勿論。優木さんから話は聞いてたし、俺自身も同好会の活動はチェックしてるからね。

 キミのライブ映像も観たよ。凄かった。この感情は……そう、高咲さん風に言うなら、”トキメキ”というヤツだね」

「そうなんだ。……嬉しい」

 

 トキメキ。それは彩歌自身が認める通り全く侑からの受け売りの表現ではあったが、同時に彼の内心を表す言葉としてこの上なく適切なものでもあった。

 

 せつ菜のゲリラライブを目の当たりにしたとき。或いは、かすみの路上ライブを目撃した時。彩歌の胸中には身を焦がすかのように熱烈な光輝があって、しかし嘗ての彼はずっとそれを無視してきた。そんなものを感じる権利など、己には最早与えられていないと思っていたが故に。

 

 だが託された思いを知り一歩踏み出した今となっては、もう自らの気持ちに嘘を吐く理由も無い。そうして解体してその光輝を検分した時、それを表す言葉として”トキメキ”はこの上なく()()()()と来たのだ。

 

 言葉とは定義。そこに例外は存在し得ない。そしてそこに奸計が無いのならば、それは過不足なく感情の発露である。彩歌のそれを正面から受け止めて、璃奈は僅かに俯く。その表情は殆ど変わってはいないけれど、微かに頬には赤みが差している事に彩歌は気づいた。

 

「そんなに照れるコトないじゃないか。フフ、可愛い」

「えっ……?」

 

 璃奈の反応を前にして口元に手を遣り、不敵に笑う彩歌。それは彼にとっては何という事の無い、至っていつも通りの応対であったが、どうやら璃奈にとってはそうではないようで、弾かれたように顔を上げた。かすみとしずくもまた近しい表情で彼を見ていて、彩歌が首を傾げる。そこへ、璃奈の問い。

 

「分かるの……?」

「え……うん。分かる……けど。何か失礼をしてしまったかな、俺」

「ううん、そんなコトない」

 

 照れている事が分かったのか、と。心底から不思議そうに訊ねる璃奈に、彩歌は少々気圧されながらも首肯する。その様はいっそ訊ねられた事に戸惑っているようで、あてずっぽうで偶々言い当てた訳ではないようであった。

 

 天王寺璃奈という少女は表情が乏しい。それは彼女自身も理解する所であり、だが無表情であるからとて決して彼女は無感動ではないのだ。むしろ彼女は感情豊かであり、故にこそ”璃奈ちゃんボード”は彼女にとって自身の表情そのものに等しい。初対面のうち、それもボードもなしに彼女の心情を理解した相手というのは、家族や同好会の面々以外では初めての事であった。驚くのも無理からぬ事である。

 

 ──彼女らは知らない。或いは彩歌自身ですらも、それに自覚的でないのかも知れない。彼が他者の機微に聡い、もとい敏感であるのは、彼がずっと他人を恐れていた事の裏返しなのだと。

 

 暫しの逡巡。僅かばかりの沈黙を経て璃奈は矢庭に顔を上げると、手に持っていた昼食のトレイを彩歌の対面に置いた。そうして彩歌が首を傾げるよりも早く、半ば前のめりになって彼に迫る。その気勢に彼は思わず息を吞み、その間隙に璃奈が言葉を差し挟む。

 

「私、もっとあなたとお話したい! ……ダメ、かな?」

「えっと、キミがそうしたいなら、俺に拒否する理由はないよ。中須さんと桜坂さんは、それでいい?」

 

 彩歌とてひとりの健全な男子高校生である。璃奈のように見目麗しい少女に接近されて全く平常心を保ち続けられる筈もなく、しかし彼は自律と克己にかけては人一倍であった。それの前に在っては動揺は無力であり、彩歌は須臾の内に己の心を制圧してかすみ達の方へと向き直る。だがその視線の先、目が合ったのは頬を膨らませ、赤く大きな目で彩歌を睨めつけるかすみであった。背後に”ぷりぷり”、或いは”ぷんぷん”という擬音を幻視してしまいそうな気迫に、彩歌がぎょっとしてしまう。

 

「おわぁっ!? 何、どうしたの……?」

「フンだ! 何でもないですよっ! 席着こっ、しず子!」

「ふふ、はいはい」

 

 たとえ彩歌がその場にある感情の機微に敏いのだとしても、情報の無いものは悟りようがない。相手が憤慨の理由について口を割らないというのであれば彼も気づきようがなく、しかししずくにはその所以までも明らかなようであった。微笑しながら、かすみを見ている。

 

 だが憤慨しているといえど自律を忘れないのが中須かすみである。その一挙手一投足、頭の頂点から足の指先に至るまで彼女の所作は全てが”可愛い”の内であり、彩歌は感心してしまう。

 

 そんな彩歌の内心を知ってか知らずか、かすみは彩歌と璃奈が座るテーブルの隣、その璃奈と同じ側に座る。必然的にしずくは彩歌の隣だ。未だぷりぷりと怒っている様子のかすみであるが、嫌われた訳ではないと分かり、彩歌が内心で安堵の吐息を零す。

 

「そうだ。まだちゃんと名乗ってなかったね。俺は──」

「知ってるよ。真野彩歌さんでしょ?」

 

 自己紹介を先回りされた形である。思わぬ梯子の外され方にたじろぐ彩歌だが、復帰は早かった。

 

「おっと……知ってたんだね」

「うん。たまにせつ菜さんや侑さんの話に出てくるから、どんな人なんだろうって思ってたの」

「そうなんだ……なんだか恥ずかしいな」

 

 せつ菜と侑。どちらも彩歌にとっては大恩ある友人達であり、同時にひどい迷惑をかけてしまった相手である。そんな人々から話題に出されていたと知り、彩歌が頬を赤らめながら、しかし何処かばつが悪そうに後ろ髪を掻く。その様はさながら、不徳を注意された子供のようだ。

 

 自らのいないところでも自身が話題に挙がり得ると、彩歌とて知らぬ訳ではない。そもそも彼がトラウマを克服しつつあるのも彼の無い所で親友が尽力していた所によるものが大きいのだから。その経緯と恩を忘れる彼ではない。

 

 だが忘れていないのだとしても、羞恥を覚えるか否かはまた別の問題だ。当人の関知しない場で存在を知られている、というのは彩歌と璃奈に限ってはお互い様といった所ではあるけれど。

 

 誘引された気恥ずかしさごと吞み下すように、サンドイッチを一口。ある種の照れ隠しと言うべきだろうか。だが動揺のためかその所作はあまりにもあからさまで、璃奈がどこからともなく1冊のスケッチブックを取り出した。顔を隠すように保持されたその白い画用紙には、璃奈の顔を模したしたり顔が描かれている。曰く、”璃奈ちゃんボード「ニヤリ」”である。

 

「彩歌さんのコト、とっても優しくて真面目な人だって、せつ菜さんが言ってた。あと、頑張りすぎちゃう人だって」

「んぐっ。……随分高く買われてるなぁ、俺……」

 

 或いは先刻畳みかけた仕返しのつもりなのだろうか。璃奈の声音は先の彩歌のそれと同質であり、それが分かっていながら馬鹿正直に正面から受け取ってしまう。サンドイッチを喉に詰まらせかけたのは、そのためであった。

 

 璃奈の言っている事に嘘は無い。根拠こそないが、それが彩歌の所感だ。この場において虚偽を述べる事で璃奈が得られる利益は皆無に等しい。何より彼の眼には璃奈が無用な嘘を吐くような少女には見えなかったし、彼女の口から告げられた評はひどくせつ菜らしいものだったのだから。

 

 優しくて真面目。そして、頑張りすぎる。最後の一言はともかく、前者ふたつはありふれた好意的印象だ。おべっかと、そう割り切ってしまう事もできる。なのにせつ菜からの評というだけで浮足立つ己がいる事を、彩歌は自覚していた。

 

 奇妙な感慨だ。それを鎮めようと彩歌は両手で顔を扇いで、その途中で対角にいるかすみと目が合う。珍獣を目の当たりにしたかのような、そんな目だと彩歌は思った。

 

「何かな、中須さん?」

「あ、いえ……彩歌先輩って、そんな風に笑うんですね。知りませんでした」

 

 笑っていたのか、自分は。彩歌の裡にはそんな驚愕もあったけれど、彼はそちらには執着しなかった。それに勝る疑問があって、それの解消の方が彼にとってはより重要な事であったのだ。

 

 かすみの様子の中に先刻見せていた筈の憤慨の気配は無い。元から大した程度ではなかったのか、或いはそれを塗り潰してしまう程の驚きであったのか。自分が笑っていた自覚さえない彩歌には推し量る事さえできない。手元に材料が無いのなら何を考えてもそれは妄想に過ぎず、首を傾げる彩歌。

 

「変だったかな、俺が笑うの?」

「そーゆーワケじゃないんですけど……彩歌先輩って、もっとミステリアスというか、クールな感じに見えてたので。穏やかに笑うのが意外だったというか……」

「む。心外だなぁ、俺は元から───」

 

 こういう奴だよ、と。そう言いかけて、しかし彩歌は途中で口を噤む。声になる筈だった呼気は半端な形で外界に洩れ、些細ながらも決定的な違和として立ち現れる。3人の視線が己に集中した事に、彩歌は気付いた。

 

 クール。或いは、ミステリアス。あくまでもそれらはかすみのイメージでしかないが、それだけに正直な印象だ。彩歌はそれを心外だとは思えど、否定する権利を持たない。そう見えてしまう原因に心当たりがあるというのに、どうして否定ができようか。

 

 しかし、これは全く個人的な事情だ。あえて語るようなものではない。彩歌はそう断じるけれど少女らの視線は興味を内包したそれで、今更誤魔化すという事もできそうにない。観念し、口を開く。

 

「当時、ちょっと悩んでいたコトがあってね」

「悩み、ですか……あっ」

 

 恐らくは合点がいく事があったのだろう。かすみの声は半ば無意識の事であったようですぐに口を手で隠すけれど、最早後の祭りだ。たとえそれが個人的な懊悩であっても、彩歌は立ち入る事を許した。その時点で彼にかすみを責める権利は無い。むしろその可愛らしい仕草に、微笑を浮かべる。

 

 とはいえ、全てを話す訳にもいかないだろう。今更になっても話したくないというのではない。だが数年に渡って積み上げ続けた徒労と愚行は、その全てを詳らかにするにはあまりにも長すぎる。

 

 故に、返答は簡潔に。堆積した巡礼の裡より骨子を抽出し、要約する。それは自身の弱さを晒すが如き試みであったが、不思議と彩歌に抵抗は無かった。それはさながら、自叙の頁を手繰るように。

 

「怖かったのさ、他人(みんな)から拒絶される事が。だから都合の良い人であろうとした。クールに見えたのは、そのせいかもね」

「────!」

 

 すぐ横でしずくが目を見開き息を呑んだ事に、果たして彩歌は気付いたのかどうか。規定(ペルソナ)の存在を改めて認め、彩歌が自嘲の吐息をひとつ。しかしそこに自虐の粘度は無く、故にそれは純然な回顧と反省だ。

 

 余計な情念を廃したものであるだけに、それに秘められた質量は純粋である。だがかすみがすぐには反応できなかったのはそれによる事だけではないようで、赤い目の焦点がしずくに合う。しずくもそれに気づいたようで笑声を零し、そこに彩歌の理解が立ち入る隙は無い。

 

「桜坂さん? どうかしたかい?」

「いえ、何でもないんです。ただ、彩歌さんの気持ち、私、よく分かってしまって。……私も、そうだったので」

「……! キミも……」

 

 厳密に言えば、ふたりの感情は全く性質を同一とする訳ではないのだろう。彩歌からではしずくの内心を正確に推し量る術は無いけれど、異なる人生を歩んだ両者の感情が完全に符合する筈もない。

 

 だが全く別の経路を辿り、一度は至った結論が近似している事は往々にしてある。彼らの共感(シンパシー)とはそういうものだ。嫌われたくない。ひとりは嫌だ。だから”自分”を演じる。至極シンプルな処世術である。

 

 彩歌の問いに、無言で首肯を返すしずく。そうして昼食のひとつであるコッペパン──見るからに購買のそれではない──を一口だけ咀嚼してから、言葉を続ける。

 

「でも、どんな”桜坂しずく”でも大好きって、そう言ってくれた人がいたんです。だから今、私は”私”でいられる。……彩歌さんも、そうなんでしょう?」

「うん、そうだね。俺も、最近になってやっと気づけた」

 

 どんな桜坂しずくでも大好きだと、彼女にそう言った人物が誰であるかを彩歌は知らない。だが見当は付く。彼の目の前ではかすみが微かに顔を赤くしていて、そんなかすみを璃奈が撫でていた。それを見ても何も気づかない程、彩歌は鈍くないつもりであった。

 

 親友。ふたりの関係は、そう形容すべきなのだろう。少なくとも両者の感情に勘付いた彩歌の脳裏に過ったのは己が朋友たる大雅の存在で、転じて、彼はようやく親友の意図に気づいた。言葉にしてくれたら分かりやすかったのに、と彼は笑う。それが野暮だとは、分かっているけれど。

 

 かすみからそれを告げられた時、しずくはどんな思いだったのだろうか。それを正確に量る手段は彼にはないけれど、嬉しかった事だけは彼にも分かる。しずくの笑顔は、彼にそれを確信させるには充分に過ぎた。

 

 彩歌の視界の裡で、少女らが笑い合っている。あまりにも穏やかで、何という事の無い光景だ。だがその裏には彼女らが積み上げてきた時間と思いがあって、それ故に日常は日常として在るのだ。

 

「───皆、凄いなぁ」

 

 知らず、言葉が洩れた。何処か上の空で、飾り気が無い。それだけのその呟きは彼の本心であり、純粋な感情の顕れは特有の引力を以て少女らの意識を引き付ける。その事に、彼自身は無自覚だ。

 

「むっふっふ、やっと気づいたんですかぁ、彩歌先輩? そうです、かすみんは凄いんです! もっと褒めてくれてもいいんですよっ?」

「うん、凄いよ。中須さんも、桜坂さんも、天王寺さんも、同好会の人たちも……皆、”自分の音”を持ってる」

 

 中須かすみの”Poppin’Up!”。

 

 天王寺璃奈の”ツナガルコネクト”。

 

 桜坂しずくの”Solitude Rain”。

 

 その全てを、彩歌は観た。それは何もせつ菜に影響されてだとか、彼がファンであるとか、それだけの理由ではない。あえて形容するのならば、”研究”だろうか。あまりにも打算的だが、彩歌の試みの裡にそれがあったのは事実だ。

 

 そうして彼が得たものは、あまりにも歴然としたひとつの事実。画面越しでさえ少しも色褪せる事無く、見る者の心を掴んで離さない強烈な”自分の音”が彼女らにはある。それは、揺るがない確信であった。

 

 或いはそれは、自己の輪郭そのものであるかのような。”大好き”だけではなく、時には懊悩さえもそこにはあって、故にこそそれは文字通りの全身全霊。己が総てを歌や踊りとして外界に出力するからこそ、その力は絶大だ。ともすれば世界の法則すら屈服させ、自らの心象で塗り潰してしまう程に。

 

「俺にはそれが無い。まだ見つけられずにいる。だから皆を尊敬しているし……同時に、ひどく羨ましくも思う」

 

 そう言い切る、彩歌の双眸。それが放つ孔雀青の光に、少女らは思わずたじろいでしまう。洞を思わせる漆黒の光輝ではない。さりとて、見る者全てを魅了する一番星の輝きでもない。そこに在ったのは、言うなれば地上より虚空の星々を見上げる迷い人のそれであった。道を探す者にしか持ち得ない、星を撃ち落とすが如き熱情であった。

 

 それを前にしては、否が応でも理解してしまう。彩歌の言葉に、嘘は一切無い。同好会の皆を心底より尊敬しているという事も、”自分の音”の在処を知らずにいるという事も、その動機までは判然としないけれど。

 

 その欠落を以て何とするか。その方針を、彩歌は持たない。まさしく暗中模索だ。光輝を知らぬ者にその暗闇を切り開く事は困難であり、しかし光輝そのものには容易な事。かすみの口角が、不敵を描く。

 

「彩歌先輩っ、放課後、時間ありますか?」

「放課後? ……うん、あるよ」

 

 要領を得ない問いだ。かすみの真意を彩歌は悟れず、けれど問われたからには答えねばなるまい。自身の日程を思い返し、彼は頷いた。全国大会に向けての練習も必要だが、詩音が帰ってくるのは夜だ。

 

 視界の端にはしずくと璃奈が顔を見合わせ、驚きつつも笑っているのが見える。どうやら彩歌とは異なり、彼女らはかすみの思惑に気づいたらしい。だがあえて彼にそれを告げる事はしない。

 

 若干前のめりになるかすみ。数拍を置き、彼女が再び口を開いた。

 

「なら決まりですね! その時間、かすみん()が貰います!

 ───かすみんに、イイ考えがあるんですっ!」

 

 あまりにも強引だ。だが得意に笑むかすみを見てはその真意を問い質すのも野暮な気がして、彩歌は問いの代わりに吐息を漏らした。

 

 断る理由は無い。断れる筈もない。何故なら彼は、可愛い後輩のお茶目なら、受け入れてしまうのだから。



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第30話 コノ気持ちの名前は

 特筆するような事は何もない、ひどく穏やかな午後であった。半ばルーチンワークと化した授業を終えてから、特段の連絡事項もない形骸のSHRを右から左に受け流し、放課を迎えてからの少しを同じクラスの学友達との駄弁に費やして、幾許か。事の発端は、()()()を拾いつついつもと違うルートで部室に行こうという、ただの思い付きであった。

 

 友人達に分かれを告げて教室を出立し、中庭に差し掛かった頃。何気なく外を見遣り、その景色の中に見知った後ろ姿を見つけて、かすみは足を止めた。ベンチに座っているため背中の半ば程から下は見えないが、その肩にかかる程度の柔らかな亜麻色に、かすみは見覚えがあった。現同好会発足時に侑や歩夢と活動していた時期にも彼女は近い角度からそれを見ていて、故に見紛う筈もない。その姿の正体とは、かすみの待ち人でもある真野彩歌その人に他ならない。

 

 かすみが指定した待ち合わせ場所は中庭ではないが、結果的に合流できるのなら構うまい。加えて彩歌はまだかすみの存在に気づいていないときている。未だ彩歌は手元の何かに視線を落としたまま、無防備な背中を晒しているのだ。それらの状況を総合し、かすみが嗤う。

 

「にっしっし、またまたイタズラチャンス到来ですよぉ。無防備すぎますねぇ、彩歌先輩……!」

 

 今度はどんな悪戯をしてやろうか。思いもよらず降って湧いた好機に、かすみが思考を巡らせる。手元に使えそうな物品はない。つまり悪戯を行うなら身ひとつでの敢行となろうが、かすみに躊躇いはなかった。

 

 そろり、そろり。悪戯のために隠密行動をするのだとしても、かすみにとっての第一は可愛さだ。だが擬音を態々口に出しながら近づいても、彩歌が接近に勘付いた様子は無い。彼が時に屋外で眠ってしまう程に警戒が薄れる事があるのはかすみも知っていたが、これではあまりにかすみに好都合だ。或いは警戒を上回るだけのものが、彩歌の視線の先にはあるのだろうか。

 

 しかしそれは取りも直さず彩歌の世界の裡において明確にかすみより上位を占めるものが存在する事の証明であるかのようで、しかし不思議とかすみに不快はなかった。それはきっと、亜麻色の間から覗く彩歌の瞳があまりにも真剣だったから。それを邪魔するのは、ひどく野暮な気がしてしまったのだ。

 

 そのせいか出来心は立ち消え、生まれた空隙は興味に取って代わられる。足取りはそのままに、けれど隠密は忘れて。それでも彩歌はかすみの接近に気づかない。そうして奇しくも当初の思惑通りに彼の意識外から近接する事に成功し、間合いである事を認めるや否や両腕を大きく広げた。

 

「せーんぱいっ!」

「───んみゅっ」

 

 あまりにも情けなく、そして頓狂な声であった。だが、それも致し方ない事であろう。何しろ数瞬前まで彩歌の意識の裡には目前のものしかなくて、出し抜けに両頬を挟まれれば油断も表に出るというものだ。

 

 その中に在っても彩歌にとって幸いであったのは、背後から両手で挟まれているため押し潰された変顔をかすみの前で晒さずに済んだ事か。けれどそれは顔を動かせないのと同義であり、またノイズキャンセリングイヤホンを付けたままでは外音の聞き取りもままならない。精々かすみの声が聞こえる程度だ。

 

 つまり、今の彩歌は完全にかすみに為されるがまま。完全に受け身にならざるを得ず、だが解放は思いのほか早いものであった。頬から離れた指が首筋をなぞり、掌が肩へ。そのまま、左肩にかかる重みが少しだけ増した事に彩歌は気付いた。何という事は無い、かすみがその細い頤を彼の肩口に乗せ、彼の手元を見ているだけだ。苦笑し、かすみの熱を感じる方とは逆側のイヤホンを外す。

 

「……近くない?」

「イイじゃないですかぁ、これくらい。かすみんと彩歌先輩の仲ですし」

「そうかなぁ……そうかも……?」

 

 不意に詰められたかすみとの距離に気づいた瞬間こそ狼狽した彩歌であったが、改めて考えてみればこれで何か不都合がある訳ではないのだ。加えて大雅やせつ菜とは肌が触れ合う程度には密着した事もあるのだから、同様に友人という尺度で測れば、これも何らおかしな事ではない。

 

 自身で出した結論であるにも関わらず何か釈然としない所を感じていた彩歌だが、彼にはあえてかすみを拒絶する理由もない。ならば何も問題はあるまいと、彼は己を納得させる。そんな彼の内心を知ってか知らずか、再び耳元でかすみの声。

 

「と・こ・ろ・で……そんなマジメな顔で、何見てたんですか、彩歌先輩? あ、もしかして、かすみんのMVとかっ?」

「それも何度か見ているけど、今は外れ」

「むっすー。かすみんより優先するべき事が、この世にあるって言うんですかぁ?」

 

 彩歌の返答に納得がいかなかった、という事ではないのだろう。しかしスクールアイドルたる中須かすみとしてそこを譲る訳にはいかなくて、かすみが頬を膨らませる。彩歌からではその姿を見る事はできないけれど、肌に感じる熱の具合からそうと知る事ができた。およそ数センチの間隙越しにそれを感じ、彩歌が苦笑を漏らす。

 

「ふふふ。ごめんね、許してよ。これは、俺のち……憧れの人のライブの映像なんだ」

「彩歌先輩の、憧れ……ライブってコトは、もしかしてアイドルですか?」

「そうだよ。とは言っても、20年くらい前に引退したアイドルだけどね」

 

 憧れの人。そう言う前に彩歌が何と言いかけたのか、察する術をかすみは持たない。だがそれを口にする彼の瞳に一片の翳りも無いというのであれば、それに疑いを懐くかすみではなかった。

 

 だがいかにアイドル業界に精通しているかすみとて、それだけの情報で詳細が分かる筈もない。故により身を乗り出して仔細を見て取ろうとしたかすみであったが、彩歌はそれに気づかずにスマホをスリープモードにしてしまう。

 

 むぅ、と不満げな吐息をひとつ。かすみとしてはこの歳上の友人の事をもっと知る機会と思っていたが、あえてここは受け流すと決定する。ここで知れずとも、彼女の()()が成れば機会はいくらでもあるのだから。

 

「でも、なんだか意外ですねぇ。彩歌先輩の憧れの人が、アイドルだなんて。もっとこう、カタカナばっかりで覚えにくい人だと……」

「あはは……勿論、楽聖達の事は尊敬しているし、憧れてるピアニストだっているさ。その憧れに順位や貴賤を定めてないってだけでね。それに……」

 

 それに、何だというのか。彩歌がそこで言葉を一旦を区切り、そしてかすみはその続きを推測する術や手札を持たない。何しろ、かすみは彩歌の事をよく知らない。精々が音楽科に所属している何処かスカした先輩であり、”自分の音”を探している。それだけだ。

 

 尤も、それで何が変わるという訳ではない。たとえ何も知らないのだとしても、かすみが彩歌を友人と思っている事に違いは無い。それにかすみには野望もあるのだから、今は知らずとも問題は無い。

 

 まずは、野望の第一歩。全ては”かすみんワンダーランド”のために。半ば彩歌を騙すような形になってしまう事を申し訳なく思う気持ちがかすみに無い訳ではないが、結果的にwin-winになれば良いのだ、と。そうして実行に移そうとして、しかしその刹那、よく聞き知った声が彼女の耳朶を打った。

 

「──あれっ? あっ、かすみさん!」

「げげっ、せつ菜先輩!?」

 

 マズい。自分の思惑、その出端の破綻を予感し、かすみが驚愕の表情を見せる。だが彼女の計略などせつ菜の知る所ではなくて、不可解なまでに過剰な応答に首を傾げるばかりだ。

 

 何故ここにせつ菜が、などは考えても詮無い事。そもそもかすみの接触さえ彩歌には想定外であったのだから、かすみにとっての想定外が起きる事に何の不思議があろうか。通りがかりに姿を見つけたから、声をかけた。それ以上に理由が要るだろうか。

 

 驚愕するかすみとは対照的にせつ菜はあくまでも平静な様子で、しかし唐突にその足が止まる。その視線は変わらずかすみの方に注がれているけれど、それだけではない。距離が近づいた事でかすみの陰に隠れる形になっていた彩歌の存在に気づいたのだ。

 

「彩歌くんもいたんですね! じゃあもしかして、かすみさんがメッセで言ってた──」

「わーっ! せつ菜先輩、ストップ! ストップですっ!」

 

 恐らくは彩歌の関知しない所で遣り取りがあったのだろう。何かに合点がいった様子で口を開きかけたせつ菜であったが、それに先んじて彩歌から離れたかすみが両手でせつ菜の口を塞いでしまう。もがもが、としばらく声にならぬ息を漏らし、事情を知らぬまでもせつ菜が頷きを返す。

 

 少女らのそんな遣り取りを背後に彩歌は首の自由を取り戻した事を確認し、ベンチに座ったまま上体を半回転させて視界をふたりの方へ。せつ菜と目が合い、微笑みながら手をひらとさせる。

 

 せつ菜もまた同様の仕草で彩歌に挨拶を返し、けれどふと何かに思い至ったかのようにその手が止まる。そうして無言のままに彩歌とかすみの間で数度も往復する視線。今度は彼らが疑問符を浮かべる番であった。

 

「どうかしたかい、優木さん?」

「いえ、何という訳ではないんですけど……おふたりが仲良しだって、そう言えば知らなかったなって」

「あれ? 言ってませんでしたっけ? せつ菜先輩が復帰する前に……あ。───はぁッ……!!」

 

 その時、かすみに電流奔る────と言うが良いか。返答を言い切る前にかすみが漏らした声はそういった色であり、彩歌の前で晒した初めての”可愛い”の自律の外であった。それでも決して滑稽に堕ちない所は、流石の”中須かすみ”と言うべきか。

 

 そうして何かに勘付いたと思しきかすみの行動は早く、せつ菜と彩歌が反応するに先んじてせつ菜の肩を掴んだかと思えばそのまま彩歌から少し離れた所まで連れて行ってしまう。その上に殆ど頬が密着するに等しい距離で耳打ちなどされてしまえば、最早彼には漏れ聞こえる筈もない。

 

 一方で突然に連行されたせつ菜は訳も分からず混乱するばかりであり、その隣ではかすみが悪戯な笑みを浮かべている。

 

「大丈夫ですよぉ。安心してください、せつ菜先輩。彩歌先輩を盗っちゃったりしませんから。何たってかすみんは、皆のかすみんですからねっ!」

「とっ、とととと、盗る!? 何のコトですか?!」

「またまたぁ、トボケちゃってぇ。案外せつ菜先輩も可愛い所ありますねぇ、このこの~」

 

 完全に我が意を得たりとばかりにせつ菜の肩に回した腕とは逆側でせつ菜の脇腹をつつくかすみ。だが当のせつ菜は紅潮しつつも目を白黒とさせていて、その有様にかすみは己の失態を悟る。早とちりとも言えようか。

 

 だが、間違いはない筈なのだ。根拠はない、謂わば”乙女の勘”とでも言うべき感覚の産物ではあるが、かすみは己のそれに絶対に近い信用を持っていた。それに基づけば、先の反応は十中八九”是“だ。

 

 しかしこれはひとつ手を誤れば藪蛇になりかねない。それだけは想定外であり、かすみは己の裡で悪戯心が急速に萎んでいくのを感じていた。だがそれに反比例して顔を出してきたものに従い、その体勢を続行する。

 

「いちおー確認なんですケド、せつ菜先輩、さっきかすみんが彩歌先輩にくっついてた事に気づいた時、どう思いました?」

「えぇっ? うーんと……」

 

 先のそれとは異なり明確な摯実の情を覗かせるかすみの声音。それを前にしては最早その真意を問い質す事さえ不実のようで、疑問を飲み込んでせつ菜は自身の胸の内に意識を潜航させる。

 

 そもそも事の発端は通りがかりにかすみの背を見つけてせつ菜から声を掛けたというだけで、そのルートを通った事自体には何らおかしな事は無い。つまりはいつも通りに部室に向かっていたらその途上にかすみと彩歌がいただけの事でしかない。

 

 しかしそれだけであるにも関わらず言い知れぬものを感じている己がいる事も、せつ菜は自覚していた。それが胸中に去来したのはかすみが想像した通り、ふたりの距離が非常に近かった事に気づいた時。髪を挟んでいなければ互いの体温をはっきり近くできる程度の間合いとは、彼女も思っていなかった。

 

 せつ菜も分かってはいるのだ。かすみには相手にそれを許容させるだけの雰囲気があるし、今の彩歌であれば接近を拒む事は無いだろうという事は。ふたりはただの友人であり、それ以上でも以下でもない。

 

 だが、ただの友人でしかないという点でいえば、それはせつ菜も同じ事。それを思うと彼女の胸中に蟠るものはよりその主張を強めて、けれど彼女はその輪郭さえ掴めない事を、今になってようやく悟る。

 

「どうしましょう、かすみさんっ。なんだか、すっごくモヤモヤしますっ……!」

「モヤモヤ、ですか。……ふっふっふ、そんな調子だと、ほんとにかすみんが彩歌先輩盗っちゃうかもですよー?」

「そっ、それはダメですっ!!」

 

 あまりにも咄嗟の反応であった。およそ思慮などは立ち入る余地の無い、反射的な応答であった。そのせいか音量の抑制も忘れてしまって、一拍を置いて思わず自身の口を手で押さえる。

 

 まさしく動揺の極みである。しかし自身の行動にさえ理解が及んでいないせつ菜とは反対にかすみは今度こそ我が意を得たりといった面持ちであり、それを見れば嵌められた事だけは明らかであった。

 

 思わず彩歌の方を見遣れば、憂惧を滲ませた表情の彼と目が合った。あまり事情を分かっていない様子だが、道理である。せつ菜達は彩歌からは聊か離れた位置で、それも耳打ちで会話をしていたのだから。彼から分かるのは、せつ菜の駄々のみだ。どうしてかひどく恥ずかしくて、顔が赤くなってしまうのをせつ菜は自覚する。

 

「にっしっし、かすみんってば、またひとつせつ菜先輩について詳しくなっちゃいましたねぇ。特ダネですっ!」

「なぁっ……! 謀りましたね、かすみさん!」

「優木さん? どうしたの? 大丈夫かい?」

「──!」

 

 未だ自身の動揺の原因について、せつ菜は理解できた訳ではない。むしろ全く以て不明と言って良く、それ故かかすみへの抗議も動揺を隠しきれていない。そんな中で話しかけられたものだから振り返るのもまた反射で、しかしその先で静止してしまう。

 

 それは何も、目前にあったものが奇天烈だったとか、そういう事ではない。せつ菜の目の前にいるのは心底から心配そうな表情をしているだけの、ただの彩歌だ。何処にも変哲は無い。だが今のせつ菜にとって、それは最も覿面な存在でもある。

 

 分からない。本当に盗ってしまうと言われた時に咄嗟に言い返してしまった理由も、今こうして彩歌を前にして明確に心拍が速くなっている理由も。それを振り払うように、勢い良く彩歌の手を掴んで踵を返す。

 

「こっ、こんな事をしている場合ではありません! 急がないと活動に遅れてしまいますよ! ホラ、彩歌くんも!」

「えっ、ちょっ、待ってよ! 遅れるって、俺もかい!?」

「え?」

 

 先程とは打って変わっての、静寂。心穏やかならざるドギマギは一瞬にして何処かへと吹き飛んでしまい、せつ菜と彩歌が顔を見合わせる。たったそれだけで、ふたりは相手との間に認識の齟齬がある事を了解する。

 

 そして、その原因足り得るのはただひとつだけ。彼らがかすみへと視線を移したのは殆ど同時であり、それを受けてかすみはぎくっ、と呟きながら身体を強張らせる。

 

「まさか、かすみさん……言ってなかったんですか? 本人に?」

「えぇと、今ので殆ど分かったも同然だけど……一応、教えてもらえるかな?」

 

 ふたりの詰問を一身に浴び、居心地が悪そうに身動ぎするかすみ。しかし幾許かの間を置いてそこから復帰すると、ふたりに向けてその薄い胸を張ってみせる。両手は自身の腰へ。冷や汗は流れたままだけれど、可能な限り自信ありげに。そうして完璧なポージングをアドリブでやってのけ、遂にかすみが口を開く。

 

「ふふふ……バレてしまっては仕方ありません。

 ──いかにも。これぞかすみんのかすみんによるかすみんのための”絶対にかすみんって呼ばせてみせるぞ計画(プロジェクト)“の要……その名も、”彩歌先輩の体験入部その2(パートツー)”なのですっ」



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第31話 星を纏うキミには

 以前の己が今の自分を見れば、いったい何を思うだろうか。彼以外に人影のない男子更衣室の中、此処に至るまでの自身の在り様を顧みた彩歌の脳裏に、不意にそんな疑問が過る。

 

 全く以て無意味な問いだ。そんな事はわざわざ問うまでも無い。人はそう簡単に変われない。元より変革がそんな軽々なものであるのなら、彩歌はこうも苦しむ事はなかっただろう。故に、彩歌の裡から滅私の残滓は消えず、むしろ未だ色濃く息づいている。無意味というのはそういう事だ。問うまでもなく、(いら)えは彼の中に在り続けている。

 

 それを自覚していながら幾許かを無意味な思索に費やしてしまったのは、或いはここ数週間があまりに激動であったからなのかも知れない。ひとつの区切りを前にして、自然体で在りきれない。気負う己がいる事を、彼は否定できない。

 

 ピアノコンクール東京大会の会場にて起きた騒動に端を発する一連は一旦の終結を見せたと言って良いだろう。そして現在はその終結から伸びた過程の中。かすみによる鶴の一声により、彼は同好会に再び体験入部という形でかかわろうとしている。

 

 入部する気はないと、そう父に言い切ったのはいったい誰であったか。制服を放り込んだ鞄の口を閉め、彩歌が自嘲的に笑う。身嗜みは特に問題なし。念のために鼻を近づけて、汗の匂いがしないかを検める。──少なくとも、彼の嗅覚の上ではそれらしい匂いはない。自身の体臭に慣れ過ぎている可能性は、排除できないけれど。

 

『彩歌せんぱーい! まだですかー? 遅れちゃいますよー?』

「ごめんね、今終わった所だから!」

 

 ノックの音。それに次ぐかすみの声。急かすようなその声に彩歌は身嗜みのチェックを切り上げ、手早く荷物を手に取る。教科書が入ったメインの鞄に、サブバッグ。その他、貴重品等々。全て、問題なし。

 

 更衣室の端から出入口までの短距離を速足で駆け抜け、その勢いのままにドアを開く。そうして目前にいたのは先程までの制服姿ではなく、黄色を基調とした練習着姿のかすみだ。恐らく、彩歌が更衣室で着替えている間に、部室で着替えていたのだろう。

 

「やっと出てきた。遅いですよっ、彩歌先輩!」

「ごめんごめん。ちょっと身嗜みにね……」

 

 彩歌の物言いはその言葉だけを見れば至極真っ当ではある。だが体験入部事態が急遽決まった彼が真面な道具を持っている訳もなく、けれどかすみはそこを指摘せずに流した。彼の瑕疵に気づいているのか否か。彩歌にとっても、かすみにとっても、どちらでも良い事だった。

 

 身嗜みというのも嘘ではないが、半ば詭弁だ。だがかすみの前で口にするのはあまりにも不用意に過ぎ、かすみは顎に手を遣り彩歌を睨めつける。頭の先から、足の先まで。いっそ質量すら伴いそうなそれに、彩歌が無意識に居住まいを正す。

 

 そうしてそのまま幾許か。彩歌の全身を検分し、かすみが重々しく頷いた。どうやら彩歌の恰好は、かすみの眼鏡に適ったようである。若干不服そうであるのは、或いは学校指定のジャージのままであるからだろうか。

 

「まぁ、及第点(きゅーだいてん)って所ですね」

「ははは、手厳しいなぁ……でも、中須さんは練習着姿でも可愛いね」

「当然ですっ! なんたってかすみんですからね! かすみんは常に、1秒前のかすみんより可愛いのですっ!」

 

 自信に満ち満ちた声音でそう言い切り、ポーズを執ってみせるかすみ。あまりにも大それた宣言だ。毎秒〝可愛い〟は進化し続けるなどと。だが彩歌はかすみのかすみたる一端を知るが故に、それを大言壮語と切って捨てる事はできない。むしろそれを現実とするかの如き偉容さえ、そこにはあった。

 

 彩歌は〝中須かすみ〟の総てを知る訳ではないが、その信念こそがスクールアイドルたる〝中須かすみ〟、彼女の〝音〟であると知っている。だからこそ彩歌はかすみを尊敬しているのだ。

 

 おほん、とかすみが咳払い。それを合図とするかのように彼女は踵を返し、彩歌がその後に続く。とはいえ部室は階段を昇ればすぐそこだ。到着の前に、彼には言っておくべき事があった。

 

「中須さん」

「んー? なんですか?」

「ありがとね」

「────」

 

 刹那、かすみが息を呑んだのが、気配を通して彩歌にも伝わった。一時のみ彼女の足が止まり、しかしすぐに再び歩き出す。

 

「なーに言ってるんですか。彩歌先輩は乗せられただけですよ? このかすみんの完璧な計画に」

「それでも、だよ」

 

 柔和な、それでいて厳然とした声音であった。およそ虚飾や糊塗などとは全く無縁の、彩歌に為し得る最大限の誠実。かすみは何も返さず、その表情もまた彩歌の位置からは窺い知る事ができない。それでも、彩歌は構わなかった。結局のところ、これは彼の自己満足なのだから。

 

 或いはそれは、言わぬが華というものであったか。かすみが首謀者で、彩歌はその計画に乗せられた者。そのままでいれば、彼は大した責任を負う事もない。だが彼はかすみの物言いの裏に潜む真意に気づかぬほどの愚鈍であるつもりもなく、そして気づいてしまったからには彼に無視という選択は許されない。

 

 詰まる所、真野彩歌という少年はひどく不器用なのだ。のらりくらりと立ち回れば何でもなく済ませられようものを、正面からぶつかる以外の処方を知らない。不意に純粋な感謝をぶつけられてドギマギとする中で、かすみはそう理解する。いっそ生真面目、潔癖に過ぎる在り様。しかし彼女にはそれが好ましいものに思えた。

 

 そんな遣り取りをしているうちに、気づけば部室の扉は目の前。その取っ手に手を掛けて、かすみが振り返る。言葉は無い。だがその視線は何よりも雄弁に彼女の意思を伝え、彩歌は首肯を以て返した。それに応え、かすみがドアを開け放つ。

 

「皆さーん! 体験入部希望者を連れてきましたよー!」

 

 どうぞ! とかすみ。その一声だけで視線が集中するのが、彩歌にも分かった。無形の熱量に、肌が焼け付くのを感じる。だが、それが何だというのか。未知、好奇、何するものぞ。覚悟を決めて、一歩を踏み込む。

 

 ぐるりと見回してみれば、事前に知っていた1年生とせつ菜以外が皆一様に驚愕の表情を浮かべている。後から入部した2名を除き大半はせつ菜の一件で面識があるが、よもや彩歌が来るとは思っていなかったのだろう。そんな一同の前で、彩歌が笑んだ。

 

「既に顔見知りの方もいますが、改めて自己紹介を。音楽科2年、真野彩歌です。体験入部という形ではありますが、何卒よろしくお願いします」

 


 

 スクールアイドル。それはその名の通り学生活動の一環としてアイドル活動を行う者達の総称であり、その活動の形態は部活動としての形を執っているのが殆どだ。その隆盛は精々が十数年を遡るのみの非常に若い文化ではあるが、昨今では枠は少ないながらも大規模な音楽フェスにも出演を果たすなど、社会の中で一定の地位を獲得しつつあると言えるだろう。

 

 しかしそんな一大ムーブメントを誇るスクールアイドルだが、本質的に部活動に過ぎないが故にプロと比して冷笑を向ける者は少なくない。スクールアイドルは所詮アマチュア。それは紛れもない事実だ。だがアマチュアであるが故にプロとは異なる性質を内包するのもまた事実。間口の広さはその最たるものだ。

 

 プロのアイドルとは異なり、スクールアイドルはなりたいと願うのなら学生であれば誰でもなる事ができる。それは取りも直さず競技人口増加の要因であり、今や高校であれば一校に1グループはあると言われる程だ。スクールアイドルのインターハイとも言える〝ラブライブ〟がある以上、その競争は熾烈であり、結果としてその練習はプロのそれと比しても見劣りしないものとなるのは、半ば自然な事と言えるだろう。

 

 そしてそれは、ラブライブ出場を意図しない虹ヶ咲とて同じ事。彼女達は決して、怠慢のためにラブライブ出場を断念したのではないのだから。それ故にその練習量は並大抵のものではなく、昨日今日始めたばかりの者が付いていくのは難しい。──だが、殊〝アイドルたるべき練習〟というのであれば、彩歌には少しばかり覚えがあった。

 

「ふたりとも、お疲れー!」

 

 中庭に響く侑の声。放課を迎えてさして経っていないためか他部活の喧騒で姦しい環境の中に在っても一際よく通る、澄んだ声だ。その直後、それを受け取った2人の人影が服が汚れるのも厭わずに半ば倒れこむようにして芝生に寝転んだ。

 

 その人影その正体とは誰あろうせつ菜と彩歌のふたりであり、人目も憚らず大の字になっている彼らの額には玉のような汗が浮かんでいる。胸は激しく上下しており、ふたりがひどく体力を消耗しているのは誰の目にも明らかだ。

 

 惨たる有様である。だが彼らがしていたのは何ら特殊な事ではない。体力向上を目的とした走り込み。それだけだ。途中から、出来心のために競争を始めてしまった事を除けばの話ではあるが。

 

 酸欠による澱のような倦怠を振り切り、呼吸の制御のみに注力して幾許か。新鮮な酸素が全身に充足し、狭窄していた意識が正常な輪郭を取り戻していく。そうして五感に籠った熱が排出されていく中で彩歌は笑顔でスポーツドリンクのボトルを差し出す侑を捉え、身体を起こした。礼を言ってからボトルを受け取る。

 

 総身が水分を欲している。今更ながらにそれを自覚し、ボトルを開栓。そうして中身を一気に呷ろうとボトルを傾けようとして、しかしその直前で背中に弱い衝撃を感じて彩歌は一旦手を止めた。首だけを巡らせればせつ菜が彼の背に重みを預けていて、視線の工作に合わせて笑みを交わす。

 

 せつ菜に負担を掛けないように体勢を調整する彩歌。それから一息でボトルの中身を飲み干して、ひとつ大きな吐息を零したのはふたり同時であった。それだけの事がおかしくて、ふたりで笑い合う。

 

「とうちゃーく! んーっ、イイ汗かいたーっ!!」

「お疲れ、愛ちゃん。これ、どうぞ」

「おっ、ありがと、ゆうゆ!」

 

 さながら地上より照らす陽光のような、明朗快活を絵に描いたような声である。思わず引き寄せられるようにしてそちらを見れば、そこにいたのは長い金髪を高い位置でポニーテールで纏めた、笑顔が眩しい少女であった。

 

 彩歌にとっては今日の初対面だった相手。だが彼は以前から名前は知っていた。それは他メンバー同様に虹ヶ咲のスクールアイドルであるからという事もあるが、大雅から何度か聞き及んでいたからでもあった。

 

 大雅曰く〝部室棟のヒーロー〟。スクールアイドルとしては〝ガチギャル系〟もとい〝スマイル系〟を自称する彼女の名は〝宮下愛〟という。せつ菜のゲリラライブに心を動かされて璃奈と共に入部した比較的新参でありながら、総合的な実力は同好会でも指折りだと彩歌は聞き及んでいた。

 

 少し後に続く歩夢を迎える侑と一度別れ、視線を巡らせる愛。そうして芝生の方へ目を遣った所でせつ菜らに気づいたようで、大ぶりな仕草で手を振りながら笑顔を投げかけた。

 

「あっ、いたいた。おーい! せっつー! さいちゃーん!」

「愛さん。お疲れ様です」

「お疲れ様、宮下さん。……さいちゃん?」

 

 せっつーというのは、十中八九せつ菜の事だろう。ならば〝さいちゃん〟とは自分の事か。そういった意の問いを込めた疑問符であった。首を傾げる彩歌に、愛が何の衒いも無く首肯を返す。

 

「そだよ! 彩歌だから、さいちゃん。良くない?」

 

 屈託のない笑顔である。快活な声音の印象はあれど、その笑顔だけでも愛はまるで地上に咲いた太陽のようであり、その圧倒的なまでの光輝の前に彩歌は思わずたじろいでしまう。何故か頬を膨らませながらせつ菜が背を押し付けてこなければ、彼はそのまま愛のペースに呑まれてしまっていただろう。

 

 彩歌から転じて、さいちゃん。渾名としては実に明解で分かりやすい理屈(ロジック)だ。彩歌が師である詩音に付けられた渾名〝さっちゃん〟と理由付けは似ている。どちらも何処か可愛い響きがあるのは、彼としては複雑な心境ではあるが。

 

 故に彩歌の返答が一拍遅れてしまったのは愛の雰囲気に呑まれかけただとか渾名への疑問だとか、そういう事に依るものではない。強いて言えば、それは愛の距離感に依る所が大きかろう。最近まで自ら他者と広く距離を置いていた彼には、無防備への踏み込みはあまりにも強烈だ。対応が遅延するのも無理はない。

 

 だが元来彩歌は人付き合いが苦手な方ではなく、理解してしまえば調整は容易だ。そうして口を開きかけたところに、歩夢を伴った侑が戻ってくる。

 

「なになに、何の話ー?」

「愛さんに渾名で呼ばれて、彩歌くんがとっても嬉しいって話です」

「ちょ、俺は別に嬉しいとは──」

 

 言ってない。そう言いかけて、しかし彩歌は口を噤む。確かに、彼は嬉しいと直接口にしてはいない。だが全くその気が無かったのかと問われれば、それは否だ。たとえそれが相手にとって何でもない事であろうと、好意的な応答を不快に思う者などいまい。

 

 しかし彩歌が途中で口を噤んでしまった事が何らかの不興を招いてしまったのか、せつ菜が彩歌の背により強く体重を預ける。普段から鍛えている事は同じだが体格差のために彩歌にとっては苦ではなく、余裕があるだけに不可解な行動に困惑してしまう。

 

 頬を膨らませて少年の背に精一杯の重みを押し付けるせつ菜と、それを平然と受け止めながらも困惑の表情を見せる彩歌。彩歌が出来心で背を動かせばせつ菜はそのまま芝生に背中を叩きつけてしまいそうな体勢だが、彼に邪心の様子はない。むしろせつ菜が滑らないように体勢を調整しているのは、或いは無意識の事であろうか。時折侑らに助けを求めるような視線を送るが、彼女らはそれを微笑ましく見守っているだけだ。

 

「渾名かぁ……ちなみに、どんなの?」

「さいちゃん!」

「さいちゃん、ね……イイね。何かカワイイ。私もそう呼んじゃおっかな?」

「えぇっ!?」

 

 何気なく侑が零した言葉に思わず驚愕が口を突いたのは、侑自身と愛を除いた3人。全く同時の事であった。だが忘我からの復帰はそれぞれであり、最も早かったのは歩夢。無邪気に笑む侑と驚いたままの彩歌の間で何度か視線を右往左往させ、存在を主張するように手を挙げる。

 

「じゃ、じゃあ私も!」

「上原さんまで!?」

 

 聊か唐突にも思える歩夢の同調にまたしても驚きを見せる彩歌だが、それは彼女の行動というよりもむしろその指向性に対する所が大きかろう。彼女が真に憂慮する所が侑の変化である事に彼は気付いていて、それ故にその変化に彼女自身が追随するという選択をしたのが意外だったのだ。或いはそれは、短い付き合いの中で彼が築いた信用の一応の顕れなのだろうか。信頼と言うには、非常に怪しい所だ。

 

 そんな遣り取りをしているうちに次第に体力を回復してきて、休憩の最後とばかりにボトルを傾ける。だがその刹那、不意に背後の重みが離れて、彼はその手を止めた。振り返ってみればなぜかせつ菜が正座で彼の方に向き直っており、それに気づいた彼もまた姿勢を正す。

 

 首を傾げる侑達。彩歌は何事か分からないまでもただ事ではないと思わず唾液を呑み下し、数拍。顔を上げたせつ菜の瞳に宿る感情をあえて言語化するなら、覚悟だろうか。

 

「さ、さい……さいちゃ……うぅっ、やっぱり駄目です……恥ずかしい……」

 

 生徒会長モードを思わせるあまりにも鋭い眼光を前に強張らせていた彩歌だが、そんな彼の緊張に反してせつ菜の口から零れたのは先程話題になっていた彼の渾名。しかし何度か言いかけたものの最後まで言い切る事はできず、遂には耳まで赤くして俯いてしまう。

 

 静寂。数瞬の時を置いて、侑達はせつ菜の意図を理解する。詰まる所、彼女もまた彩歌を呼んでみようとしたのだろう。真に呼び名を変えるつもりだったのか、或いは只の戯れであったかは4人の知る所ではないが、それはさして重要ではない。それよりも強く4人の胸を貫いたのは、言い切る前に恥じらいのために俯いてしまったという点であった。

 

 だが、それだけだ。それだけの筈だ。それを理解していながらまるでせつ菜の内心が伝播したかのように彩歌もまた顔を赤くして伏し目がちになってしまう。両者ともに赤面してしまったが故に会話も無い、いっそ気まずさすらある状況。だがそれを砕き割るように、横合いから声。

 

「んーっ! 恥ずかしがるせつ菜ちゃんも可愛いよーっ!」

「えっ、侑ちゃん!?」

「侑さん!? ──うわぁ!?」

 

 もう辛抱たまらない。そんな調子で侑がせつ菜に抱き着き、そしてせつ菜は全く油断していたが為にそれに抵抗できない。距離を詰めてきた侑に為されるがまま、頭を撫でられるばかりだ。その後ろでは歩夢が先程にもまして頬を膨らませていて、そんな歩夢を見て愛が笑んでいる。

 

 或いは空気を読めていないと詰られ得る行動だ。だがそれが侑なりに気を遣っての事であると分からぬ彩歌ではなく、彼も笑ってしまう。せつ菜の頬は依然として赤いままだが、先のそれとは性質が異なるようであった。

 

 そうして気が済むまで侑はせつ菜を撫でて、やがて歩夢によって半ば強引に引きはがされる。何処かシュールな絵面だが、弛緩した空気が元の形を取り戻したのは事実だ。

 

「でも、せっつーとさいちゃん、ホント仲良しだね! いや、もうラブラブ?」

「ラブッ……!? 何を言うんですか、愛さん!?」

「えー? でもさいちゃんと一緒に走ってるときのせっつー、めっちゃ笑顔だったよ? ね、歩夢!」

「うん、そうだね。いつも素敵なせつ菜ちゃんの笑顔が、もっと素敵だったもん!」

 

 見たかったなー、と呑気な侑。だが爆弾を投下された側としてはたまったものではなく、落ち着いてきた所であったというのに再び紅潮してしまっている。自身の心臓が耳元で早鐘を打っているかのように錯覚する程、それは甚だしいものであった。

 

 恐らく愛に彩歌らを揶揄う意図は全く無いのだろう。彼は普段の練習の様子を知っている訳ではないが、少なくとも宮下愛という少女は心にもない事を口にする人ではないように、彼には思えたのだ。彼は人を見る目には、自信があった。

 

 だがそれだけに愛の言葉が内包する質量を回避する術を彩歌は持たず、故に正面から受け留めるより他にない。気にしない、などは無理な話。たとえ不完全だとしても、彼は誠実を旨とするが為に。

 

「そ、それは……そのぉ……」

 

 常に明朗たるせつ菜らしからぬ、何か言い淀むような物言いであった。その異質のために彩歌は自然とそちらに視線を送ってしまい、結果、彼の方を一瞥したせつ菜と目が合ってしまう。

 

 交錯する視線。跳ねる心拍。訳も分からず恥ずかしくなってしまい、ふたりは大袈裟な所作で目を逸らしてしまう。そんな彼らを生暖かい眼差しで見守る侑らにも気づかない程、今の彼らからは余裕が消えていた。

 

 何と言う事は無い。いつも通りだ。自らの心境を言葉にするなど、常にしている事だ。せつ菜はそう自らに言い聞かせるが、動揺は沈んでくれない。先刻、かすみと彩歌の遣り取りを目撃した時と同じだ。理性と感情が解離している。それでもどうにか両者の手綱を手繰り寄せ、言葉の続きを紡ぐ。

 

「彩歌くんと一緒に部活ができたことが嬉しくて……はしゃいでしまっていたんです」

「優木さん……」

 

 再び交錯する瞳。だが、今度は互いに目を逸らす事は無かった。気恥ずかしさが無くなったというのではない。それは依然として彼らの裡にあって、同時にそれと同等の熱量が均衡している。名状し難いそれの適切な名前を探し、そのうちに彩歌は自然とせつ菜に答えを返していた。

 

「……うん。俺もだよ。俺も……キミと一緒に活動できて、嬉しい」

 

 ──充足。せつ菜の吐露に応えると共に、彼に内在する未明よりその言葉が立ち上がる。そしてその瞬間、彼は自覚した。自身の中に在った不明こそは充足に違いなく、柄にもなく昂揚があったのはそのせいなのだと。

 

 何故充足しているか。そんな事は、この際重要ではない。疑問をかなぐり捨ててしまう程、彼はたったそれだけの事で満たされていた。それはきっと、せつ菜も同じ。そんな幻想めいた交感を、今の彼らは体現していた。

 

 一緒にいるだけでも楽しい。微笑みかけてくれるだけで嬉しい。些細な交感だけでも満たされる。訳が分からないながら、それだけは分かる。感慨を共有し微笑みを交わすふたり。まるで、それだけで完結した世界。

 

「おーい、戻ってこーい」

「何と言うか、ごちそうさまって感じだね……」

 

 おほん、と咳払い。自分達から仕掛けておいて、とでも言いたげな目で彩歌は侑らを見て、しかしそれもつかの間、何故かおかしくて5人は笑声を漏らす。態々文句をつけるような事ではない。ただの戯れとして流せる事だ。

 

 特筆するような事は何もない。けれど、彩歌は久しく忘れてしまっていた感情でもあった。大雅以外の者であろうと、友人と駄弁に興じるのは得難い幸福であるのだと。かつては彼もまた、それを知っていた筈なのに。

 

「さて、じゃあそろそろ休憩は終わりにして……次はどうしよっか。さいちゃん、何かやりたい事ある?」

「え、俺? うーん……いきなり言われても、パッとは思いつかないなぁ……」

 

 ごく自然に侑からさいちゃんと呼びかけられてもそれ自体には一切突っ込みを入れず、彩歌は頤に手を遣って考えを巡らせる。アイドルたるべき練習には彼も覚えがあるが、彼はあくまでも客人に近い立場である。希望は考えていなかったのだ。

 

 発声練習。或いはダンス練習。すぐに彩歌の脳裏に浮かんだのはそれらであったが、今はそれぞれ3年生と1年生が行っている。今挙げるものとしては、聊か不適切であろう。

 

 そうして彩歌が思考を巡らせ始め、幾許。彼の視界の端で愛が何かを思いついたかのように挙手をする。

 

「ハイ、宮下君。発言どうぞ」

教師(センセ)かっ。

 ……って、そーじゃなくて。愛さん、さいちゃんの歌が聴いてみたいな!」

「俺の歌?」

 

 何でまた、とでも言いたげな彩歌に、愛はさらに言葉を続ける。

 

「だって、ゆうゆも歩夢もせっつーも、さいちゃんの歌聴いたコトあるんでしょ? なのに愛さんだけ聴いたコトないなんて、不公平だぞー?」

「不公平って、そんな大袈裟な……まぁ皆がそれでいいなら、俺は構わないけど……」

 

 そう言ってから目線を侑らの方に遣る彩歌。彼女らはそれだけでも彼の意図を察したようで、同様に言外に答えを返す。即ち、期待の籠った眼差しである。それを受け取ってしまった以上彼に拒否権はなく、苦笑を漏らす。

 

 歌。一言でそう表しても、その形は様々だ。何であれ彩歌に手を抜くつもりはなかったが、ただ歌うだけでも愛の要望を反故にしたことにはならないだろう。歌以上の指定がない以上、それも間違いではない。

 

 しかし、此処はスクールアイドル同好会である。たとえ間違いではなかったとしても、その場にふさわしい形というものがあろう。それを知ったうえで無視するつもりも、彩歌には無い。

 

 ならば、やる事は決まっている。観客のようにベンチに座った4人の前に立ち、深呼吸をひとつ。シュシュは更衣室に置いてきてしまったが、問題はない。()()を行うのは数年ぶりではあるけれど、要領はピアノの演奏と同じである。雑念を心底に沈め、身体と精神から切り離し、記憶から作り出した規定/定義という鎧を自らに被せて──

 

(──いや)

 

 完了直前であった工程をその一言のみで停止させ、全過程を破却する。()()()()()()()。今までと同じでは何も変わらない。外部からあえて定義した外殻をかぶせてやるなど、それでは〝自分の音〟ではない。

 

 ならば、如何とするか。未だ彩歌はそれを知らず、だが知らずともやりようはある。知らぬというのなら、知らないなりに。つまりは全くの手探りだ。暴投にも等しかろう。

 

 数年に渡って積み上げてきたやり方を放棄するが如き蛮行だ。だが、できる。彩歌にはその確信があった。曲は先刻中庭で聴いていたそれ。瞑目し、自問する。或いは、再認する。

 

 必要であるのは歌詞だけではない。ダンスの振りに、曲の音程。そしてそれらを合一しひとつの作品と化さしめる極まった自律。──全て、問題なし。明確な根拠は無い。ただ、その確信だけがあった。

 

 振りは全て覚えている。たとえ数年のブランクがあるのだとしても、テレビの中で只管に輝きを放っていた父の動きは、全て彼の脳裏に刻まれている。光は、彼の網膜に焼き付いている。感動もまた彼の裡で色褪せず、故に解はひとつだ。今はただ、己が魂の輪郭(カタチ)を無造作に押し出す。それだけが、彼に可能な全て。その一念を以て、再度深呼吸。目を開ける。

 

「っ……!」

 

 刹那、息を呑んだのは果たして誰であったか。大堡礁を思わせる孔雀青の瞳の中に、淡く、しかし確かな燐光が瞬く。まるで、星のような。それが嘗て彼が見せた欠落の凶星と似て非なるものだと気づいたのは、せつ菜だけだ。

 

 鋭い吸気。そして。

 

「────!」

 

 ──世界が崩落する。或いは、神羅万象がその内側より砕け割れ、在るべき容を喪う。それが錯覚であると、忘れてしまう程の壮絶であった。

 

 蒼穹に伸びる少年の歌声。大地を踏みしめ厳然と、しかし軽快に躍動する五体。そして、その瞳の裡で燦然と輝く吉星。それらは真野彩歌というひとつの土台の上で束ねられ、圧倒的な暴威を以て地に満ちる。その前にあっては絶対たる世界すら屈服し、真理たる法を引き剥がされる。そうして空白と化した天地の(あわい)、彼が新たに敷く断りを阻むものは何もない、それは観客とて同じ事。彩歌が織る法則の裡、人々は飲み込まれるより他にない。

 

 コンクールの時と同じ、気づけば呼吸すら忘れている程の壮麗。少年が齎す衝撃に、諸人は正常な認識を奪われる。だが、その中でもせつ菜らにはひとつの確信があった。()()()()()()()()()、と。

 

 そうして彩歌の歌声が止み残響が陽光の中に溶け果てるまで、世界は静寂の裡。しかし塗り潰された世界もやがて元の容を取り戻していき、彩歌が恭しく礼を執ると共に完全に回帰する。次いで、初めに動いたのは言い出しっぺでもある愛であった。

 

「すっ──ごい! さいちゃん、めっちゃ上手いじゃん! ()能あるよ! ()()だけに!」

「さ、さい……? あぁ! 才能と彩歌で──」

「わ、わーっ!? ダジャレの解説は禁止ー!!」

 

 一拍遅れて愛のダジャレが意味するところを理解し思わず口にしてしまいそうになる彩歌だったが、愛は慌てながらも両手で彼の口を塞ぐ事で難を逃れた。もがもが、と言葉にならぬ吐息を零してから、了解を込めた首肯。そうして、彼の唇が自由を取り戻した。

 

 尤もダジャレという形ではあれど愛の賛辞が紛れもない本心である事を疑う彩歌ではなく、故に下手な謙遜が失礼である事は、彼にも分かる。無論、反省点はある。しかしそれは内心に留め置き、代わりに口にするのは賛辞に対する礼のみだ。

 

「やっぱり凄いね、さいちゃんの歌! ね、歩夢!」

「そうだね、侑ちゃん。でも、ダンスもできたんだね、彩歌く……さいちゃん」

「無理に渾名で呼ばなくても……

 まぁ、うん。ダンスは父から習ってたんだ。歌と一緒にね。だから父の曲なら一通り歌えるし、踊れる」

 

 その答えだけで侑は合点がいったようだが、対して歩夢は引っ掛かりを覚えているようであった。彩歌の父が元アイドルであると知っているのはこの場ではせつ菜と侑のみであるのだから、当然の反応である。

 

 彩歌がアイドルたるべき練習に覚えがあるというのは、詰まる所それが要因であった。数年のブランクがある為に実際のパフォーマンス全体の完成度としてはせつ菜らに比べて数歩遅れを取ってしまうのは否めないけれど。

 

 しかしそれでも賛辞を受け取るのは嬉しくて、彩歌が笑みを零す。そんな彼の所作にせつ菜も笑い、それに気づいた彩歌が今度は恥ずかしそうに後ろ髪を掻いた。

 

「よーし、愛さんも燃えてきたー! アタシ、もういっかい走ってくるね!」

「イイね。俺もそうしようかな」

「おっ、じゃあ今度は愛さんと競争するー?」

 

 望む所! 彩歌がそう返答した直後、ふたちは示し合わせたかの如く周囲の了解も所要時間計測開始の合図も待たずに駆け出してしまう。今度は途中の流れではなく、初めから競い合い。その成果、残された3人が気づいた時には彼らは既に遥か先だ。

 

「愛ちゃん!? 彩歌くん!?」

「これは負けていられませんね! 私たちも行きましょう、歩夢さん!」

「せつ菜ちゃんまで!?」

 

 先に駆け出したふたりに追随するように走り出すせつ菜と、勇みすぎにも見える3人に驚きつつも結局は彼らに倣って走る歩夢。4人を笑顔のままに見送って、残された静寂に侑は微かな寂寞を見出す。

 

 すぐに搔き消される静謐だ。彼らの様子を見ればきっと10分も経たないうちに先頭のふたりが戻ってきて、さして間を置かずに残りの2人も戻ってくる筈だ。それを分かっていても、どうしても物寂しさはある。何故なら、皆と過ごすこの時間はとても───

 

「楽しいなぁ……!」

 


 

 充実した1日だった。1日のうちにやるべき事を全て済ませ、身体に伸し掛かる心地の良い疲労感を噛みしめながら彩歌はそう実感する。かすみから誘われた時、不安が全く無かったと言えば嘘になるけれど、それは全く杞憂であったと今ならば断言できる。

 

 そして、これは今日だけで終わるものではない。具体的にいつまでと決めている訳ではないが、少なくとも明日は3年生の練習に同行する手筈となっている。緊張はあるが、同時に彩歌は楽しみでもあった。

 

 この活動の先に、果たして彩歌が求めるものがあるのかは彼自身にも分からない。けれど、今はただ、この甘美な楽しさに身を任せていたい。彼は、強くそう願っていた。

 

 ──だが、楽しんでいるだけでは、あまりにも不実だ。

 

「……よし」

 

 短く言葉を漏らし、椅子を引いて学習机と向き合う。そうして引き出しを開けて、取り出したのは()()の白紙の楽譜だ。

 

 これが本当に返礼に値するものであるか、彩歌には分からない。ありがた迷惑になる可能性も全くないとは言えないだろう。しかしそれはこの先に考慮すべき事で、今考えるべき事ではない。

 

 今すべきことは、この気持ちを楽譜に落とし込む事。その一念の下、彩歌は楽譜にペンを走らせ始めた。

 

 ──何を楽しそうに。

 

 まるで、雨音のような。そんな嘲笑と怨嗟の声を、聴かなかった事にして。

 




 完璧で究極でなくとも、キミは。


 この度、苗根杏さん(https://syosetu.org/user/216522/ X:@Rhythm_Johannes)に本作主人公である真野彩歌の絵を描いていただきました。苗根杏さんには、この場を借りて改めてお礼申し上げます。

【挿絵表示】


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第32話 キミの胸は打ち抜けない

 人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、人間というものはとかく噂話というものを好む。無論拡散速度の差異はあるが本質的に話の善悪は直接の関係を持たず、であればそれは人間の根本的な性質のひとつであるのだろう。昨今の情報化社会においてはこの性質もひどく顕著であり、ひとつの情報がたった数分でコミュニティ内全域に知られているという事も少なくない。

 

 詰まる所、情報とはいつ何処で誰に知られているか分からぬもの。彩歌もそれは知識としては知っていて、だが何処か他人事のように捉えてもいた。或いは呑気とも言える有様だが、今まで彼は話題(トレンド)の渦中になる程目立つ事はしてこなかったのだから、自然な事でもあろう。

 

 故にこそ、彼は想像してもいなかったのだ。彼がスクールアイドル同好会の面々と行動を共にしていた事を、その翌日にはクラスメイトに知られている、などと。

 

 しかし彩歌自身は想定していなかった事とはいえ、仕方のない事ではあるのだ。見学などであるならいざ知らず、昨日は二度の走り込みの上、中庭の中心でパフォーマンスまでしたのだから、目撃者は相応に生まれよう。必定、彩歌は朝からクラスメイトからの質問攻めに遭う羽目になっていた。

 

 いったいどういう経緯で、だとか。スクールアイドルになるのか、だとか。時折、おまえには生徒会長というものがいながら、などという言葉もあったが、彩歌はあえてそれを聞かなかった事にした。彼はクラスメイト達と普段から良好な関係を築いているためそれは尋問というよりもむしろ友人同士の戯れの様相を呈していたが、それだけに遠慮というものが無い。結局半ば無理矢理に質問を切り上げ、這う這うの体でその場を後にする事となってしまったのは彼の失態であると言えよう。

 

 活動開始前に余計な体力を消費してしまった我が身の不出来を嘆きつつも、早々に思考を切り上げる彩歌。反省は重要だが、今彼がすべきことはそれではない。早くしなければ活動が始まってしまう。所定の時刻までは幾分かの猶予はあるが、あくまでも彼は客人のようなものだ。面倒をかけてしまっている立場なのだから、せめて到着は早めにしているのが道理というものだろう。

 

 故に足取りは早く、しかし規律は破らない程度に。そんな絶妙な速度で歩く彩歌の姿は周囲からすれば聊か奇異であった事だろう。だが彩歌は気にせず、そうして中庭の間を通り抜ける渡り廊下の半ば辺りまで差し掛かった。

 

「……ん?」

 

 既に通りなれた道である。景色など季節の移り変わりを感じた時に注意を向ける程度で、急いでいる時に態々敢えて見遣るには、彩歌にとってその場所は日常であり過ぎる。

 

 しかし見慣れた景色であるだけに、そこに生まれた異質に気づくのは容易だ。視界の端に映ったそれのために思わず足を止め、視線を中庭の中央の方へ。そうして彼は、自らが見たものが幻覚などではなく確かな現実である事を知る。

 

 ──眠り姫。自然と、そんな形容が彩歌の脳裏に過った。ともすれば過剰ともなり得る表現であろうが、彼の目前に在る光景はむしろ、それと比してもなお言い尽くせぬようですらある。場所は彼もよく知る中庭に相違ないというのに、まるで御伽噺の一場面をそのまま切り出したかの如く。故にこその眠り姫。

 

 彩歌は彼女の名を知っている。〝近江彼方〟。ライフデザイン学科に所属する3年生であり、〝マイペース系〟を自称するスクールアイドルだ。そんな彼女が、木陰のベンチにて愛用の枕をお供に夢の世界に旅立っていた。

 

「起こした方がいいのかな……?」

 

 そう呟きながら、彩歌は自身の腕時計に目線を落とす。活動開始まではまだ幾分かの余裕があるが、それまでに自発的に目覚めるか否かはかなり怪しいと言わざるを得まい。

 

 見なかった事にする。これは彩歌にとって、最もナンセンスな選択肢だ。偶然であるとはいえ、見てしまった以上は彼にはその責任がある。全てを無かった事にするなど、責任の放棄に等しい。

 

 しかし、起こすにしても方法というものがあろう。最も手っ取り早いのは揺り起こすというものだろうが、気安く触れるのも失礼だ。となれば呼びかけて起こすよりほかにないと彩歌は結論するが、同時に彼には躊躇いもあった。

 

 自身にその権利があるのか、という事もある。けれどそれ以上に遠目から見ても彼方は非常に熟睡しているようで、そこから強引に現実に引き戻す判断について、前例を知らぬ彼には正否を判ずる術がない。そもそも屋外のベンチで眠ってしまう感覚というのは、彼にも覚えがあった。

 

 だが、ここで何の努力もせずに悪い結果に繋がるというのも寝覚めが悪い。そう決し、彩歌は一歩踏み出そうとする。だが。

 

「眠り姫を起こす定番と言えば、やっぱり王子様のキスかしら?」

 

 何の前触れもなしに横合いから投げかけられる声。しかし、何という事は無い。彩歌が思案している最中に彼の存在に気づいて声をかけたというだけであり、故に彼もさして驚かずに声の主の方へ振り返る。

 

 そうして彩歌が向き直った先、そこにいたのは2名の女子生徒であった。両者共にリボンタイの色は3年生である事を示す緑。片や紺のウルフカットと同色の瞳が印象的な少女であり、もう一方は襟足でふたつの三つ編みにした赤毛といっそコケティッシュなそばかすが特徴の少女だ。即ち、〝セクシー系〟こと〝朝香果林〟と〝癒し系〟こと〝エマ・ヴェルデ〟の両名である。

 

「Ciao! 彩歌くん」

「こんにちは、朝香先輩、ヴェルデ先輩。……やりませんからね? セクハラ野郎になっちゃいますよ」

「勿論分かってるわよ。……ふふっ、赤くなっちゃって、可愛いわね」

 

 揶揄われた。そう理解した彩歌はぐぬぬと言わんばかりに歯噛みするが、返す言葉は無い。彼とて多感な男子高校生である。全く動揺しないという方が不可能であり、それを自覚すればこそ反論は無意味というものだ。

 

 何より、彩歌を見る果林の目だ。長い睫毛に彩られた青色の瞳はまるでその眼光のみで彼の内面を探っているかのようですらあって、無意味に姿勢を正してしまう。そんな彼の様子に、果林が再び笑みを零す。

 

「そんなに緊張するコトないじゃない。ふふ、本当にせつ菜の言っていた通りなのね、貴方って」

「優木さんが……? 何て言ってたんです?」

「気になる? 結構ダイタンなのね、貴方」

「もう、果林ちゃん? あんまり困らせちゃダメだよ?」

 

 動揺。或いは、気後れ。彩歌を揶揄う果林の所作は煽情的というよりもむしろ蠱惑的なまでにミステリアスであり、距離を詰められる度に同じだけ後退ってすまう。あまりにも初心に過ぎる応答だ。打てば響くを具現したかのようですらあり、ならば果林がそれを楽しんでしまうのも仕方のない事であろう。見かねたエマが静止し、距離が元に戻る。

 

 目前の事象に対し、真野彩歌は正面から受け留める以外の処方ができない。或いはそれしか知らない。故にこそ、打てば響く。伝聞の上から果林が見ていた彩歌の人物像はそんな所で、実際にその通りの反応をされてしまえば手応えを感じてしまうのも無理はない。

 

 しかし自身が相手を見ている時、相手もまた自身を見ているが道理というもの。果林の所作の中に、彩歌は確かな自律の気配を見る。感触としてはかすみのそれに近いか。尤も、気取る事ができたからとて全く流し続ける事ができる筈もない。咳払いを零し、意識を切り替える。

 

「……それで、おふたりはどうしてここに?」

「わたしたちは、彼方ちゃんを探してたんだぁ。いつもは来てる時間になっても来ないから、多分お昼寝してるんだろうなって」

「それで彼方のお昼寝スポットを巡っていたら、たまたま貴方もいたのよ」

「あぁ、なるほど……確かに、あそこのベンチは気持ちいいですからね。俺もたまに昼寝してるから、気持ちはわかります」

 

 そうなのよねぇ、と果林。その横ではエマが無言で何度か首肯をしている。そんなふたりの様子を見るに、この場所か、あるいはまた別の場所でふたりは彼方のペースに呑まれてしまった事があるのだろう。口元に笑みが浮かんでいる所を見れば、彼女らにとってそれが良い思い出であるのは明らかだ。

 

 起こしに来た身までもが眠気に誘われて眠ってしまう。まさしくミイラ取りがミイラになるといった事態だ。だがそれを情けないと詰るのは、あまりにも無常に過ぎよう。見る者を眠りに誘う魔力めいたものを彼方が放射しているのは、彩歌が遠目から見ても明白であった。或いはそれこそが彼女のスクールアイドルたる魅力の一端であるのかも知れない。元々自身が持つ世界観に他者を引き入れる力だ。

 

 それによるものか欠伸が誘引されるのを自覚しつつも果林とエマは中庭に踏み出し、彩歌もその後に続く。彼方が眠っているのは中庭の中央に屹立する、校地内で最も大きな樹が落とす影の中。愛用の枕に頭を預け幸せそうに眠る眠り姫の肩を、エマが優しく揺する。

 

「彼方ちゃん、起きて? 同好会始まっちゃうよ?」

「んぅ……」

 

 身じろぎ。その光景がいかに幻想的であろうとも、眠り姫の目覚めに特別な事は何ら必要ではなく、ゆっくりと瞼が開きその内側に在る紫水晶の輝きを宿す瞳が白日の下に晒される。それから、ゆっくりと伸びをひとつ。目を擦り、柔らかな笑みを零す。

 

「おはよぉ、エマちゃん、果林ちゃん。おっ、今日はさいちゃんまでいるんだねぇ」

「おはようございます、近江先輩」

 

 彼方までもがさいちゃんという渾名を使う事に、彩歌は最早突っ込みを入れる事も無い。いつの間に広がったのかという疑問はあれど、既に呼称として定着してしまっている以上、今更その所以を尋ねても詮無い事だろう。

 

 何より、彩歌は渾名で呼ばれる事が嫌いではない。さいちゃんであれ、さっちゃんであれ。気恥ずかしくて、とても口には出せないけれど。故にあえて指摘する事も、言及する事も無い。

 

「おはよう、彼方。……なんて、悠長に挨拶している場合? 遅れちゃうわよ」

「あっ、本当だ。急がないとねぇ。ありがと、起こしてくれて」

 

 彼方の礼に、柔和な笑みを以て返す果林とエマ。そこには確かな信頼と友愛の色合いがあり、言葉が無くとも思惟の交感は容易であるようだった。こんなやり取りを、彼女は何度もしてきたのだろう。

 

 飽和した仮想の質量。三者のみで構成された世界。当然ながらそこに彩歌の居場所はなく、だが無用な疎外感が無いのは、彼女らがそれぞれに持つ色のためだろうか。思わず、彼の口元にも笑みが浮かぶ。

 

 眠っている間についてしまった木の葉や土を払い落とし、鞄を手に立ち上がる彼方。そうして彼女は勇んで駆け出し、果林とエマもまたそれに続く。その光景はまるでいつかの夕焼けの再演のようで、なればそれに続くのもまた既視めいている。駆け出すのが数拍遅れた彩歌の方に果林が振り返った。

 

「ホラ、彩歌も、置いて行っちゃうわよ?」

「すみません、今行きます!」

 


 

「それじゃあ、そろそろ一度休憩しましょうか」

 

 広大かつ巨大な校地を有する虹ヶ咲学園、その一角に存在するダンススタジオにて。果林が放った号令と共に、彼方とエマ、そして彩歌の3人が半ば脱力するようにしてその場に頽れた。一様に滝のような汗を流し、胸を激しく上下させているその姿は練習がどれだけ厳しいものであったかを物語っていよう。

 

 いくら元々無所属であるとはいえ、彩歌は虚弱な方ではない。むしろ毎日のランニングと筋トレを欠かしていないのだからそれに見合った体力はある筈で、それは昨日の練習でも証明されている。だがそれでもついていくのがやっとといった有様であるのは、ダンスに対する練度の差によるものだろうか。年単位のブランクがある彩歌では、どうしても食らいつくのが精々だ。

 

 壁際に放置していたタオルで簡単に汗をぬぐい、水の入ったボトルを傾ける。半ば脱水に陥っている身体に水分が染み渡っていく感覚が心地よい。漸く供給された恵に細胞のひとつひとつが歓喜しているかのような錯覚さえ起こしてしまいそうで、彩歌が苦笑する。

 

「彼方ちゃん疲れたよぉ~。すやぴしたい……」

「うふふ、彼方ちゃん、今日も頑張ってたもんね。良かったら、わたしのお膝使う?」

「いいの? じゃあ、お言葉に甘えて……」

 

 よいしょ。そんな気の抜ける言葉と共に彼方が促されるまま頭をエマの膝に乗せ、対するエマは微笑みを浮かべながら彼方の柔らかな茶色の髪を撫でる。微笑ましい光景に、彩歌が表情を綻ばせた。

 

 それは果林も同様であり、しかし彼女は彼方に続かない。エマの無言の視線を受け留め、彼女もまた無言のままに首を横に振る。両者の交感はそれで十全とはいかずとも単純な応答には不足もなく、そうして果林が彩歌の方に向き直る。

 

「彩歌、貴方筋が良いのね。できるとは愛やせつ菜から聞いていたけれど、正直想像以上だわ」

「そうですか? ふふ、ありがとうございます。〝スクコネ〟のアーカイブを見て研究してきた甲斐がありました!」

 

 彩歌のその返答に、3人の表情が同時に代わる。それぞれに程度や細部の違いはあれどそれは皆一様に彩歌の返答が意外であるようで、しかしそれも自然な事であった。

 

 スクコネ。正式名称をスクールアイドルコネクトというそれは、最近になってリリースされたばかりの新規動画配信プラットフォームだ。その名の通りスクールアイドルをメインコンテンツとしたサービスであるが、リリース間もないが故に利用者は未だ少ないのが現状であった。転じて、現在スクコネを利用しているのは取りも直さず一定以上の熱量でスクールアイドルの活動を追っている証左とも言える。

 

「彩歌くん、スクコネの配信観てくれてるの?」

「はい。とはいえ存在を知ったのは最近ですし、毎回観ている訳ではないのですが……」

「それでも嬉しいよぉ。彼方ちゃん達の頑張りを見てくれている人がいるのは。ね、果林ちゃん?」

「そうね。決して、見てもらうためだけにスクールアイドルをやっている訳ではないけれど……ファンがあっての私達でもあるもの」

 

 ファンがあってのスクールアイドル。彩歌自身はスクールアイドルではないが、果林のその言葉には彼も大きく共感するところがあった。彼も配信者(Ltuber)〝さっちゃん〟として決して少なくないファンを得ている立場だ。そんな身の上であればこそ、心持にも共通する部分もあろう。

 

 しかし、である。近しい部分があればこそ、差異もまた詳らかになるというもの。とりわけ彩歌はこうして近くでスクールアイドルを見ているが故に、断絶はあまりにも明白であった。

 

 彼女らには〝自分の音〟というものがある。それは彩歌の確信であり、であれば配信はその音を広げる一環だ。では翻って、彩歌は? 未だ〝自分の音〟を見つけられずにいる彩歌は、何のために配信をしているのか。かつては見てもらうためだけ、ひいては自身の価値(そんざい)を証明するために行っていたそれは、今は何の意味を持つのか。

 

 そんな思索の大海に漕ぎ出していく彩歌の耳朶を、果林の声が打つ。

 

「彩歌の体験入部は昨日からだったわよね? 研究と言っていたけれど、そんなにすぐ何とかなるものなの?」

「む、まぁ、寝る前に少々……作曲もしていたので、寝不足なんですよね……」

「む~? それは良くないよ~。寝不足は、美容の大敵なんだぜ~?」

 

 ひとつの事に夢中になり、睡眠を疎かにする。それだけならば何の変哲もない事ではあるが、彩歌には珍しい事でもあった。生まれついてより自律と克己の人であった彼に取り、能率(パフォーマンス)低下の要因たる寝不足は無縁にも等しいものであったのだ。それは自責の化身であった時分とて同じこと。

 

 だがそれだけに、昨夜の彩歌の集中力は過去に類を見ないものでもあったのだ。それこそ、眠るのも忘れてしまう程度には。結果として若干寝不足気味になってしまったのは間違いなく失態ではあるけれど。

 

 それだけの熱量を、彩歌はこの活動に傾けている。3人は平素の彩歌の事はよく知らないけれど彼が嘘を吐いていない事は彼女らの目にも明らかであり、なればこそ問いは半ば当然のものであった。

 

「そう……でも、彩歌? 貴方はどうして、ここまで真剣にこの活動に取り組んでいるのかしら?」

「えっ……?」

 

 当惑。彩歌の吐息に混じった感情をあえて形容するのなら、それだけで事足りよう。あまりにも唐突であったものだから果林の真意を測る間もなく反射的に彼女の方を振り返るが、彼女の眼光はあくまでも鋭いそれであり戯れなどは伺わせすらしない。

 

 だが問いを投げかけられた刹那こそ虚を突かれた形となった彩歌だが、数拍も置けば当惑からの復帰に支障はない。果林の瞳を、真っ向から見つめ返すのみ。故に彼方やエマがどんな表情をしているか、彼が伺い知る事はできない。

 

「貴方はスクールアイドルじゃない。今後は分からないけれど、今はそう。だから貴方にはここまで真剣にやる理由はない筈よ。たとえそれが、かすみちゃんからの誘いであってもね」

 

 果林の言う事は全く道理だ。反論もせずに彼女の物言いを聞き届け、彩歌はそう断じる。同時に彼は果林が問うた理由にも合点がいったけれど、それを一旦棚上げする。果林の真意がどうあれ、それは彼に向けられて然るべき問いである事に違いはない。

 

 真野彩歌はスクールアイドルではない。歌やダンスはできても、それが現時点の現実だ。故に本来であれば真面目に取り組む必要はないのだ。それがかすみの顔に泥を塗る事になるのだとしても、自分本位に言えばそれに間違いはない。

 

 にも関わらず彩歌は自身の睡眠を削っても惜しくない程度にはこの活動に入れ込んでいる。それは、何故か。かすみへの義理? そうしなければ同好会の面々に失礼だから? 理由としてはそれらは尤もだ。筋は通る。しかし、違う。それが答えではない事を、彩歌は知っていた。

 

 確かにきっかけはかすみに誘われた事であったのかも知れない。だが、切っ掛けがあくまでも切っ掛けだ。解答としては不足であり、不適。自身の裡を吟味し、彩歌は答える。

 

「これが今、俺がしたい事だからです」

「したい事?」

「はい。確かに、俺はスクールアイドルじゃない。切っ掛けは中須さんの誘いですし……目的だって、スクールアイドルになる事ではありません。……でも、それとは別に、俺はこの活動を楽しいと思った。だからやりたい。これでは不足ですか?」

 

 答えはあくまでも真っ直ぐに、毅然として。果林は言葉を濁しもせずに正面から問うたのだから、彩歌もそうしなければ非礼だ。それに、彼には目を逸らす理由も無い。嘘を吐いているのでも、虚仮脅しでもないのだから。

 

 楽しいと感じたが故に、やりたい。この上なく単純(シンプル)な理由であり、だからこそ偽りようもない。──同時に知れは、嘗ての彼であれば決して返しようもない言葉でもあった。それを自覚しているが故に〝楽しい〟という表現が嘘にならなかった事に、彼は密かに安堵する。

 

 空白。果林と彩歌は何も言わずに視線をぶつけ合い、彼方とエマは口を挟まない。そうしたまま幾許か、先に口を開いたのは果林であった。まるで何かを懐かしむように、或いは慈しむように笑んでいる。

 

「やりたい事……ね。その答えが聴けて良かったわ」

「ふふ、果林ちゃん、嬉しそう」

「ある意味、お仲間だからねぇ。……っと、ごめんねぇ、さいちゃん。果林ちゃん、こういう所あるから……」

「ちょっ、それどういうコトよ!?」

 

 果林に抗議に「こういう所はこういう所だよぉ」と彼方。ともすれば悪罵とさえ誤解されかねない物言いだが、果林の紅潮は憤怒というよりも羞恥のそれだ。それを微笑ましく思いながらも、彩歌は彼方に向けて首を横に振る。

 

「大丈夫ですよ。朝香先輩が()()()()()()のはすぐに分かりましたし……それに、朝香先輩は優しいですから。意地悪だとは思いませんでした」

「優しい!? 私が!?」

 

 よもや彩歌からそう言われるとは思っていなかったのか、今度は彼に赤い顔を向ける果林。詰まる所それは彩歌にとって不意打ちの意趣返しのようでもあり、だが彼はそのチャンスを放棄する。ここであえて手玉に取ろうとする趣味は、彼には無かった。

 

「そうです。だって朝香先輩、俺が同好会の活動に参加するのがダメとは一言も言っていませんから」

「それは……せつ菜やかすみちゃんが貴方を信頼しているから……」

「それでもですよ。それに、さっきの質問は初めにされていてもおかしくなかった。でもそうしなかったのは、朝香先輩が優しいからでしょう?」

 

 何故同好会の活動に熱を注ぐのか。或いは、そもそも何故かすみの誘いを受けたのか。そもそもそれを初めに問われていたのなら、彩歌は今と全く同じ答えを本心から返せていたか分からない。そうなればどうなっていたか、彼は想像もしたくはなかった。

 

 だが事実はそうならなかった。果林の問いは拒絶ではなく確認であり、彩歌がここに在る事を否定するものではなかった。それが全て。果林が優しいと断じるのに、彩歌にとっては不足ではない材料だ。

 

 或いは揶揄っているのかと彩歌の視線を探る果林だが、彼の孔雀青はあくまでも誠実と正直の光を湛えている。邪推はおろか、あえて探るまでもない。見れば分かる、とでも言うべき領域であった。

 

「おぉ~、果林ちゃんが真っ赤だ。これは珍しいものが見れましたなぁ」

「うぅ、揶揄わないでよ、彼方……彩歌も、変に真面目というか……ある意味、せつ菜から聞いていた通りね……」

 

 また、それだ。彩歌が内心で独り言ちる。既に確信できていた事ではあるが、せつ菜は相当に同好会で彩歌の話をしているようであった。それも、彼と会った事が無い相手の裡にも彼の像を作ってしまう程度には。

 

 尤も、それ自体は良いのだ。だがせつ菜による伝聞で形作られた像というのはどうやら本物の彩歌と対面して結ばれる像と大きな差異が無いようで、つまりはそれだけの情報量がせつ菜から発信されている事になる。

 

 それが彩歌には嬉しいやら、気恥ずかしいやら。そんな混沌めいた心情が表情に顕れていたのか、彼の方を見てエマが笑む。

 

「ふふっ。彩歌くんのコト、大好きなんだね、せつ菜ちゃんは」

「なぁっ──うぅ……」

 

 エマの言葉に思わず得意の自己否定が口を突いてしまいそうになる彩歌。しかしそれは寸での所で霧散し、代わりに彼が零したのは声ならぬ声だ。あまりにもみっともない姿だが、彼が浴びた衝撃の程を見ればそれも自然な事であるのだろう。

 

 エマのそれを文字通りに解釈するのなら何という事は無い、せつ菜は彩歌に好感を抱いているという、ただそれだけの事。小学生の時分、彩歌も言った筈だ。友達なのだから、好きなのは当然なのだと。文面だけならばそれと大差ない。

 

 それなのに、どうしてだろうか。今の彩歌は心穏やかではいられず、しかし不快ではない。むしろ、所感はその逆ですらあった。心穏やかではないのに、何処か心地が良い。ひどい矛盾の中に、彼はいた。

 

 名状の難しい情動。けれどいつかの日にこれと同じものを抱いた気もしていて。堂々巡り。或いは迷宮のような。自身の心の所在すら判然とせず、先の冷静は最早見る影もない。その有様たるや、先程までは照れていた果林が彼とは反対に冷静を取り戻した程だ。

 

「それにね! 前にせつ菜ちゃんが言ってたんだぁ。〝スクールアイドルになった自分の歌を聴いて欲しい、大切な人がいる〟って。それって多分、彩歌くんのコトじゃないかなぁ」

「いやぁ、愛されてますなぁ」

「あ……う……?」

「ふたりとも、もうその辺にしておきなさい? そろそろ彩歌がパンクしそうになっているもの……」

 

 彩歌には預かり知らぬことを矢継ぎ早に悟るエマと彼方を諫めようとする果林だが、その言葉とは裏腹にその端正な顔には笑みが浮かんでいる。そも彩歌は既に少々処理落ち(パンク)気味に陥っているのだから、忠告も無意味に等しかろう。

 

 しかしそんな頭でも嫌に冷静な部分は残っているもので、彩歌のそれは記憶からそれらしい情報を拾い上げる。それはいつかのゲリラライブの後の事。彼は彼方から言われた筈だ。〝可愛い後輩の大事なヒミツ〟とやらを。

 

 だが何故それを今になって開示したのか。それについて考えを巡らせるだけの余裕は、今の彼には無い。一方的に投げつけられた情報による混沌が彼を支配し、思考が熱にやられていた。

 

 嬉しくて。恥ずかしくて。むず痒くて。心地良くて。それだけに留まらない種々の感情が彼の裡で綯い交ぜになり、輪郭を逸脱して鮮やかな極彩色(マーブル)を描いている。閾値を超えた激流に、正気が押し流されていくのが肌で感じられるようですらあった。

 

 このままではマズい。彩歌は本能にも近しい領域でそれを悟り、そして、彼はこの混沌を吐き出す方法についても幾らかの心得があった。矢庭に立ち上がり、3人に頭を下げる。

 

「すみません、ちょっと音楽室で1曲弾いてきます!」

 

 すぐに戻りますから! それだけを言い残し、ダンススタジオを駆け出していく彩歌。あまりにも思い切りのよい行動に呆気にとられ、だが3人はすぐに顔を見合わせて笑い合った。あまりにも素直な後輩に、彼らが思う所はひとつ。

 

「青春ですなぁ」

 


 

 「──何かいいコトでもあった?」

 

 それは、彩歌が3年生達と共に活動した日の夜の事。ピアノコンクール全国大会に向けての練習の一環として課題曲を引き終わった彼に、開口一番に詩音が投げかけた質問がそれであった。

 

 演奏を聴いた直後の問いとしては、およそ不可解な問いではあろう。機嫌が音色に出る事はあるとしても、若干の具体性が伴った質問が返ってくるというのはあまりに穿ち過ぎている。しかし共感覚を有する詩音だけは例外であることを彩歌は知っていて、故に首を傾げたのは詩音に対するものというよりは、自身の裡に向けられたものであった。

 

「俺の音、そんな色してた?」

「モチのロンよぉ。鮮やかでフワフワな青ってカンジ。()()()、何か嬉しい事があった時のさっちゃんは決まってこの色だったわ」

「そっか。昔から……ね」

 

 何らおかしな事は無い、ただの駄弁に近しい遣り取り。だが彩歌にとって、それは変化の証明でもあった。自身すら気づいていない感情が音色に表出するなど、意図的に心を封じているのでは在り得ない事なのだから。

 

 即ち、自身の感情と行動の一致。ある種の自己同一性。その片鱗さえ彩歌にとっては久方振りのものであり、数拍の間隙を彼はそれを検めるために費やす。そうして確かな実感と共に、彼は答えを吐き出した。

 

「……うん。あったよ、嬉しいコト。ここ最近は……毎日ね」

「そう。ホント、さっちゃんは周りに恵まれてるわね」

「そうだね。本当に……その通りだ」

 

 今の彩歌があるのは、決して彼自身の力のみによるものではない。むしろ彼の力など微々たるもので、彼はいつも誰かに助けられてばかりだ。その点で言えば、確かに彼は周囲の人々に恵まれているのだろう。

 

 そして助けられているのならば、彩歌はその責任を果たさなければならない。だが彼は無力で、何が他者の助けになるかも未知数だ。

 

 それでも、せめて〝答え〟だけは。自分自身の答え、自分の音を見つけ、それを示す。それこそが、無力な彼にできるたったひとつの恩返しだ。改めてそう決意し、彼は再び鍵盤に十指を這わせた。

 



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第33話 アナタは他にいないのに

 詰まる所、それは音を通じて世界ひとつを丸ごと織り上げるようなものなのだ。せつ菜らスクールアイドル達の在り様に触れ、そして独善の自己定義を破却して自身の原初に立ち返った今、彩歌は音楽についてそう結論する。

 

 あまりにも大袈裟な物言いだ。ともすれば荒唐無稽とすら嘲笑され得る感慨だ。音色や旋律が世界であるなどと、事物の接続が飛躍しすぎている。無論、彩歌とてそれを知らぬ訳でもなければ、本当に物質的な世界を創世していると考えている訳でもない。だが、彼の思うそれも、形を持たないながらも紛れもなく創世だ。

 

 物質としての形を持たず、しかし確かに人によって創られる世界。あえて形容するのならば、それは心象と言うが良いか。人がその心の裡に潜在させる、ある種の原風景。人が奏でる音というのは、それを外界に響かせる色彩だ。

 

 己が心を以て自らの身体を支配し、その心の総てを旋律に変える。楽器の音色か歌声か、その差異はさして重要ではない。要は、全ては心が躍動するままに。全霊であればこそ、それによって創られた世界は聴き手の心を動かすに足る質量を持つのだ。

 

 そして、それは自己表現であると同時に自己との相対だ。何しろ創世手とて聴講者なのだから、そこに例外はない。創世手は自身の音の裡に、否応なく自らの在り様を見る。精神を縛る鎖を破った今、彩歌にもそれが詳らかに知覚されるようだった。

 

 故にこそ、分かる。自身より伸びて世界を織り上げる線の中、決して何物にも染まらぬ黒々としたものがある事も。それの根源は確かに彼の胸中に在り、少なくない位置を占めている。昔日の雨音と共に、名状し難い〝黒〟は彼を作っているのだ。

 

 今もこうしてピアノを前にして戯れに鍵盤を弾き、単調な音が部屋に響いても、それはある。現世の響く、矛盾した色彩。魂に振り続ける、豪雨の残響。あまりにも不都合な、生の感情。それらの存在を改めて自認し、彼は部屋を満たす月光に呟きを溶かす。

 

「俺の答え……やりたい事は──」

 


 

 学生にとって、試験とはある種の死活問題だ。試験それ自体は本質的に日々の学習成果の確認でしかなく、しかしそれだけに結果次第では様々な不都合が付きまとう事さえある。逃げようとして逃げ切れるものでもなく、その拘束力はいっそ宿命、宿業とさえ言えよう。

 

 勉強こそ学生の本分。それは紛れもなく事実であるが、同時に全くの理想論でもある。学生とて人間だ。その人生は勉学のためだけにある訳ではないのだから自身の自由(リソース)を如何に割り振るかは個人の裁量次第であり、そこに善悪の問うのは全くの徒労と言うべきだろう。

 

 だが彼らがどう振る舞おうとも試験はいつか降りかかるものであり、それを前にしてどう対応するかもまた、各人の意向に依る。日頃から努力を積み重ねるか、或いは一夜漬けで賭けに出るか。既に習熟した者に教えを乞うのもまた手段のひとつであり、来る期末試験を前にして中須かすみが執った方策とは、まさしくそれであった。

 

「やっと終わったぁ……かすみん疲れちゃいましたよぉ……」

「お疲れ様、中須さん。頑張ったね」

 

 虹ヶ咲学園にほど近い場所に位置する大型商業施設。その一角にある喫茶店のボックス席にて、そんな言葉と共にかすみが半ば倒れこむようにして突っ伏せる。声音もまたそれに違わず疲労困憊といった有様であり、腕の下敷きになった問題集のページが縒れるのもお構いなしだ。最早それを気にしている余裕もないという事だろう。

 

 しかしそんな半死半生といった状態でありながら所作の総てが〝中須かすみ〟であるのは、流石の矜持と言うべきか。彩歌にとっても公然となりつつある事ではあったが、それでも感心するばかりであった。

 

 彩歌とかすみ、そしてしずく、璃奈。彼らが一堂に会し顔を突き合わせているのは、謂わば勉強会のためであった。季節は既に学期末。彼らは期末テストを間近に控えており、それ故に部活時間も制限されている。その終わり際、彩歌はかすみに請われたのだ。分からない所があるから教えて欲しい、と。

 

「すみません、彩歌さん。かすみさんだけでなく、私達まで教えてもらって……」

「気にしないで。どうせ教えるなら、2人や3人でもそう変わらないさ。

 でも、俺の教え方はどうだった? 分かりにくかったりしなかったかな?」

「大丈夫。すっごく分かりやすかった。璃奈ちゃんボード『感謝』!」

 

 ボードがなくとも璃奈の表情を読み取るには困らない彩歌だが、それは璃奈も承知の上。それでもあえてカオを持ち出したのは、それは彼女なりの礼という事なのだろう。そこに世辞や忖度の響きはなく、彩歌が安堵の溜息を吐く。

 

「そっか。良かった。親友の真似事だったけど、俺も捨てたものじゃないね、ふふ」

 

 誰かに勉強を教えるという経験は、彩歌にとってそう頻繁にある事ではない。精々クラスメイトから軽く尋ねられ、手短に解説する事が時折ある程度だ。だが反対に人から教わるという経験だけは、彼は人並み以上に覚えがあった。

 

 物心ついた頃より愛歌や陽彩、詩音から彼らが得意とする音楽を学んでいたが、それだけではない。事故後の入院生活で大雅から必修科目を教えてもらっていたのも彩歌にとっては大事な思い出であり、殊勉強会というのであれば、そちらの記憶の方が重要であろう。

 

 つまり彩歌の教え方とは大雅の見様見真似。彩歌だけの力という訳ではなく、しかしそれを告白する彼の表情はひどく穏やかだ。或いは彼らの感謝を自身の手柄と考えていないにも関わらず、それを喜ぶかのように。

 

 だがあまりにも柔和な笑顔であったものだからしずくもつられて笑み、それは璃奈も同様であるように彩歌には見えた。その横では突っ伏していたかすみがだらしない顔のまま起き上がって、そんな後輩の様子に苦笑しながら彩歌がその絹のような栗色の髪に手を伸ばす。

 

「……! えへへ、仕方のない先輩ですねぇ。トクベツに、もっと撫でてくれてもいいんですよ?」

「撫でて欲しいなら、素直にそう言えばいいのに」

「むぅ……そんなんじゃないですもん」

 

 揶揄うような声音の彩歌に唇を尖らせながらかすみは一応の抗議を零すが、それとは裏腹に彼女は彩歌の手を払う様子を見せない。素直ではないが、素直。かすみの内にあっては、それさえ愛嬌だ。

 

 柄でもない事をしているのは、彩歌自身も分かっている。他人の頭を撫でるなどこれが初めてで、これが失礼にあたるものか、そもそもこれで良いのかさえ彼には未知数だ。だがかすみは満足そうで、ならばこれは少なくとも間違いではない。まるで人に成れた子犬を思わせる懐っこさだ。

 

 掌を通じて感じ仄かな温かさ。丁寧に手入れされ続けた髪の手触り。それらすべてが彩歌の記憶にはないもので、きっかけはただの気まぐれだ。見切り発車の行為では終点を見つけられず、適当な所で彩歌が手を放す。──不意に途絶える熱。残滓が霧散するのも瞬きの間。自然な事だ。かすみにも慣れた事であり、だが何故だろうか。胸騒ぎめいた感慨が胸中を過ったのを彼女は自覚する。

 

「……? 中須さん、どうかしたかい?」

「い、いえっ、何でもないですよっ!?

 それよりかすみん、お腹空いちゃいました! 何か食べてもいいですか?」

 

 あまりにもあからさまな話題の変更だ。彩歌にもそれが分からない筈もないが、彼にはあえて詮索するような理由もない。相手が尋ねられたくない事を深追いして暴き立てる趣味も、彼は持たないつもりだった。

 

「いいよ。何なら、俺が奢ろうか? 頑張ったご褒美だ」

「いいんですか!? じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらいますねっ! かすみん、挑戦してみたいものがあったんです!」

 

 挑戦。およそ小洒落た喫茶店には似つかわしくないかすみの表現に、しずくと璃奈は彼女の意図を即座に察したのだろう。驚いた様子でかすみを見るが、数拍の間で意を決したようで頷きを返す。

 

 これで三者合意。何も知らぬ彩歌は蚊帳の外。だが彼もそれに文句をつける程狭量なつもりもなく、3人が注文を告げた後にコーヒーのおかわりを注文する。彩歌好みの、舌が痺れる程に苦いコーヒーだ。

 

 数分もしないうちにスタッフは回収した空のカップに代わる種々の飲み物を彼らの許に運び、4人はそれぞれに礼を口にしつつ注文の品を受け取る。そうしてコーヒーを傾けてみれば激しい苦味はまるで神経を焼くようで、疲労が薪として焚べられるのを知覚するようだ。

 

「それ無糖(ブラック)ですよね? よく飲めますね、そんな苦いの……」

「苦いのがいいんじゃないか。中須さんもどう?」

「へ? いや、要りませんよっ!? かすみんの可愛い顔がしわしわになっちゃいますっ! というか、それじゃあ……」

 

 半ば理解できないものを見るかのような表情のかすみに、手元のカップを差し出しながら勧める彩歌。その言葉と所作が示す所を、理解できないかすみではない。苦いものが得意ではないかすみにとって、否決は必定だ。

 

 けれどただ味の趣向によってのみ拒否したのであれば、どうしてその頬が僅かに赤くなっているのか。決して唐突な提案に対する驚愕から来るものだけではない。対面に座るしずくと璃奈の目に、それは明らかであった。

 

 しかし果たして自身の言葉が示す所について、彩歌は意識しているのか否か。少なくとも少女らが見る限りでは彼に邪心は無いようだが、それだけに厄介だ。これでは反感を抱く余地も無い。

 

「かすみさんがタジタジになってる……彩歌さん、あれ天然でやってるのかな?」

「意外と小悪魔。末恐ろしい子っ……!」

 

 彼女らからすれば、かすみが翻弄されているというのはそう珍しい事ではない。かすみは平素の所作こそ俗に言うぶりっ子のそれに近いが、根底は真面目な少女である。普段の振る舞いも自身の信条のままに自らを律すればこそであり、想定外を前にしたときなどは素が出てしまう事も少なくない。尤も、それさえ〝可愛い〟の内にしてしまうというのだから、その才覚はまさに天性のそれだろう。

 

 だがかすみの素を全くの自然体で引き出せる手合いというのはしずく達の知る限りでもそう多い訳ではなく、驚愕はそれ故の事であった。それも、ともすれば()()()()()とも取られかねない態度であるというのだから、かすみがたじろいでしまうのも仕方ない事だ。

 

 しかし少女らの内心を彩歌は知る由もなく、慌てた様子で忙しなく注意を彷徨わせるかすみを微笑ましく見ているのみだ。下心や計略などとは程遠い、さながら慈父か慈兄のような。それを前にしては動揺しているのも馬鹿らしくて、統制外の熱をかすみは溜息と共に吐き出した。

 

「何と言うか、彩歌先輩もツミなヒトですねぇ……でも、ちょっとホッとしました」

「ホッとした? 何がだい?」

 

 或いは何処か呆れのような、それでいて確かに言葉に違わぬ安堵を覗かせる声音でかすみは言う。だが彩歌はそんな感慨を向けられるとは思ってもみなかったようで、素っ頓狂な顔で首を傾げた。彼からすればあくまでも自然に振る舞っていたつもりで、そこに安心する要素は無いように思えたのだ。

 

 そんな彩歌の所作はいっそあざとくすらあり、だが不思議とそれは彼の裡に在っても違和にはならない。かすみが見た変化とは、まさしくそれに類するものであった。

 

「うーん、何と言うか、前より笑い方が穏やかになった? 自然になった? みたいな? うまく言えないけど、そんな感じです」

「笑い方が……そうなのかな。自覚はないんだけど……」

 

 彩歌としては数日前と比してかすみ達との接し方を変えたつもりはない。あえて変えるような理由もなく、そもそもとして彼はもう自己欺瞞を捨てる過程に在るのだから、彼にとっては常に裸の自分を見せているつもりであった。

 

 それでも変化があったというのなら、それは彩歌自身ですら自覚し得ない領域に起こったものであるのだろう。或いはかすみの言葉に近しい表現をするのならば、回帰と言うべきだろうか。

 

 たった数日。されど数日。何年も彩歌を苛んできた自縛はそう易々と断ち切れるものではなく、しかし変革は些細でも確実に在る。であればそれは、彼にとってその数日が得難いものだった証明でもあろう。

 

「でも、そうなんだね。……ならそれはきっと、キミたちのおかげだ。

 キミ達といる時間は、とても楽しかったんだ。音楽が、誰かと一緒に高め合う事が、こんなに楽しいだなんて、久しく忘れていた気がする。俺だって、元は知っていたハズなのにね」

 

 この数日、彩歌は同好会の人々と決して少なくない時間を共に過ごし、そして見た。彼女達の在り様を。スクールアイドルという形で、自身の夢を叶えようと只管に努力を重ねる姿を。その熱気にあてられてしまえば、彼とて思いださざるを得なかったのだ。自らの夢に向かって頑張るという行為は、楽しいのだと。

 

 彩歌も嘗ては知っていた事だ。当たり前に持っていた感情だ。彼とて元は愛歌の許でピアノを習い、門弟たちと切磋琢磨していたのだから。だが事故を切っ掛けとした自責の日々の中で、彼はそれを切り捨ててしまっていた。音楽を楽しむ資格など無いと、そう思って己を殺してきた。

 

 だが心とは殺そうとしても殺しきれるものではなく、その破片は確かに精神の奥底に堆積した無明に埋もれていた。それを探し出して、繋ぎ合わせて、再び名づける。この数日は彩歌にとって、それを可能とするだけの活力を与えてくれるものであった。

 

「だから、改めてにはなるけど、ありがとう。キミ達のおかげで、俺は少しずつ『俺』を取り戻せている……そんな気がする」

 

 何が本当の自分であるかを、彩歌は確信を以て答える事はできない。何しろ自己に対して常に義務論を振り翳し自我をすり減らし続けたのが彼なのだから、そんな意味論的な自傷を繰り返してきた者に自らの輪郭など分かるものか。

 

 けれど音楽を楽しみ──その中に確固たる辛苦を孕みながら──、誰かと共に在る自分の方が、()()()()()()()。それだけは、彩歌自身にも明白だ。そして彼がそう在れるのは彼の力によるものではなく、同好会の人々を始めとした周囲との関わりに依る所が大きい。

 

 故に彩歌の笑みが内包する感謝は真摯にして真正のそれであり、疑うまでもなく真っ直ぐな言葉に少女らも喜悦を滲ませる。

 

 しかし、これではまるで終わりのようだ。状況としても、会話としても。そんな空気を打ち破るかのように、かすみが不敵に笑う。

 

「ふっふっふ……なーに終わりみたいな雰囲気出してるんですか、彩歌先輩? まだかすみんの計画は終わってなんていません! 合宿だってあるんですから!」

「合宿……?」

 

 なんだ、それは。まるでそう言いたげな彩歌の表情を前に、かすみは得意げな顔から一転して間の抜けた声を漏らす。認識の相違。または、暗黙の欠如。その間隙を悟る術が彩歌にある筈もなく、彼はただ首を傾げるばかり。

 

「かすみちゃん、まさか……説明してなかったの?」

「……そうかも。忘れちゃってました、てへ」

「もう、かすみさんったら……」

 

 自身の失態に気づいて苦し紛れのポーズを執ってみせるかすみと、そんな友人に呆れめいた視線を注ぐしずくと璃奈。だがしずくらも憤慨している訳ではないのだろう。それについて言及していなかったのは彼らも同様であるし、かすみもただ忘れていた訳ではないのだ。

 

 有り体に言えば、かすみも楽しみにしていたのだ。彩歌を同好会に引き込み、一緒に活動する事を。かすみと彩歌はそれほど付き合いが長い訳ではないが、それでも一時的にせよ現同好会の立ち上げに向けて尽力した仲である。加えて彼女の可愛さを一目で認めた者のひとりであるのだから、かすみは彩歌をそれなり以上に信頼していた。故に気持ちが先行して、段取りが抜けてしまっていたのだ。

 

 しかしそれらの事情を逐一説明するのはあまりにも気恥ずかしい。故に全ては咳払いのひとつで済ませて、かすみは話を先に進める事にした。しずくと璃奈には、全て見抜かれているだろうが。

 

「えっとですね、テストが終わったすぐ後、かすみん達は合宿をする予定なんですっ。彩歌先輩、コンクールまでは少し余裕ありますよね?」

「うん。ある……けど。もう暗譜は済んでるし。でも……いいのかい? 俺も参加して」

「勿論! というか、参加してください。部長命令ですよっ!」

 

 満面の笑みと共にそう申し渡し、かすみは悪戯に彩歌の鼻の頭をつつくなどしてみせる。こうなっては、もう断れる筈もない。元より断る理由も、彼には無いけれど。偏りきった男女比を彼が知らぬ筈もないが、些細な事だ。同好会と共に活動している今となっては、あまりに今更だろう。

 

 何より、かすみ達も気にしている様子は無い。意識外にあるという訳ではないのだ。ただ、その懸念と彩歌を全く縁遠い所に置いているというだけで。ならばそれに応えないのは、いっそ裏切りめいてもいよう。

 

 全国大会に向けての練習もあるが、学校には音楽室もあるのだから、不可能ではない。それにこの合宿は彩歌にとっても得であろうし、何より彼自身もそれをやりたいと感じている。断る理由は無く、承諾する理由はある。故に、判断は早かった。

 

「部長命令か。それなら仕方ないね。……うん、俺も予定を合わせておくよ」

「ホントですかっ!? へへっ、言質は取りましたからねっ! 嘘吐いたらハリセンボン呑ませちゃいますよ?」

「それを言うなら針千本じゃない? まぁどちらにせよ、要らぬ心配だよ。俺はもう、嘘は吐かない」

 

 決意。或いは、覚悟だろうか。かすみの笑顔に応える彩歌の瞳にはそれを思わせる強烈な光があり、そこには虚飾の気配は一分として介在しない。もしもあったのならばそれは翳りとして立ち現れてきたはずだが、実際には無いのだから、そんなたらればは無意味だ。

 

 ただの口約束を前に、あまりにも大仰な心持である。ともすれば自己陶酔であるかのようだが、それは否。大袈裟であるのは彩歌とて自覚している。だが彼はどうしようもなく弱くて、気を抜けば再び嘘に逃げてしまうかも知れないから。故に、それは自他への宣誓でもあるのだ。

 

 そして宣誓であるからには、それを見届ける者がいなければ成り立たない。その立場は宣誓を受けたかすみ達をおいて他にないのだから、それは彩歌が懐くかすみ達への信頼の証明にも等しい。それが嬉しくて、かすみは笑顔を浮かべた。だがその直後、笑みが内包する感情が切り替わる。視線は彩歌よりも後ろに投げかけられていた。

 

「あっ、来ました来ました! 彩歌先輩も、一緒に食べましょー!」

 

 かすみの口振りからして、先程注文したものが運ばれてきたのだろう。彩歌は廊下側からかすみの方を見ているから、背後の様子に気が付かなかったのだ。けれどそれ故にはしゃいでいるかすみもよく見えて、その様子に微笑しながら振り返る。──刹那、硬直。笑顔のまま固まったその姿は、彫像のようだ。

 

 一言で表すのならば、それは〝山〟だった。汚れのひとつもない程に磨き上げられた白い丸皿の上に屹立する、七色の山。麓から山頂に至るまでの斜面は段々畑を思わせる均整だが、流れているのは農業用水ではなく噎せ返るほどのメープルシロップの川だ。

 

 それを前にしてようやく、彩歌は理解した。確かに、これは挑戦だ。明らかに普通ではない。こんな、ともすれば小山にも見紛うような大量のパンケーキを食べよう、などと。

 

「これより少し小さいやつは3人で食べちゃいましたからね。今回はこっちに挑戦ですっ。

 ……あれっ、彩歌先輩、食べないんですか?」

 

 いつまでも硬直したまま、ナイフすら握らない彩歌を不審がってかすみが声を投げる。そうしてやっと彼は忘我から復帰したものの、やはり微妙な顔をしたままパンケーキの山と向き合うのみでなかなか手を出そうとしない。

 

 しかし、これはどうしたものか。逡巡と懊悩が脳裏を過るが、そんなものは無意味だ。何故なら、彼は確かに誓ったのだから。もう嘘は吐かないと。それを、舌の根も乾かぬうちに反故にするなど、彼の信条が許さない。

 

 その前に、物は試しとばかりに小さく切り分けたそれを自らの口へ。だが咀嚼は繰り返される度にその勢いを減じていき、それを見てしまってはかすみも察するには充分だった。向き直った彩歌の表情は笑顔だが、それにしては額には汗が浮かび、顔色は白い。つまりは──

 

「──実は俺、甘い物が苦手なんだ……」

 


 

 かすみ達が注文した巨大パンケーキとの格闘は彩歌にとって、ともすれば実際の登山よりも辛く険しい道程のようでもあった。単純に量が多いというのもある。だがそれだけでは飽き足らず過剰な程の甘さは食べ進める程に舌に蓄積していくようで、コーヒーが無ければどうなっていたか分からない。総じて、一種の苦行にも等しい。あまりに青い顔で食べ続けていたものだから、途中で涙目のかすみに止められて休憩せざるを得なかったのが、彼唯一の失態であった。

 

 しかし道のりが険しいだけ達成感も増すというもので、かすみ達と別れ家路に就いた今となっても彩歌はさながら凱旋気分だ。尤も、互いに健闘をたたえ合う戦友は既にこの場には無く、甘い物は当分視界に入れるのも嫌になってしまったけれど。

 

 途中のコンビニで買った最小サイズのコーヒーをお供に、彩歌は雑踏を歩く。名も知らぬ人々に紛れてしまえば、彼も他愛ない背景のひとり。腹の異物感と偉業の達成感が綯い交ぜになった平常心を抱えながら、日常の中に溶けていく。蟻の行軍。雑魚の回遊。それらに近しい何か。

 

 故にその邂逅は、彼らを背景より切り離す偶然だ。付近のバス停に降りた人物と、不意に目が合う。

 

「っ……!? 宮古さん……?」

「彩歌……!?」

 

 東雲学院の制服を着ている姿は彩歌も初めて見るものだったが、その顔を他ならぬ彼が見間違える筈も無い。彼の目の前に現れたのは彼の同門のひとりである宮古美律その人に他ならなかった。

 

 しかし、これはあまりにも唐突だ。互いに全く予期していなかった再会を前に彼らは忘我に陥り、後続の客たちがふたりに奇異の目を向けながら去っていく。それらの視線さえ、今の彼らには注意の外だ。

 

 そうして、幾許か。ようやく状況を飲み込めた美律が踵を返してその場を足り去ろうとするが、一拍遅れてそれに気づいた彩歌が口を開く。

 

「待ってよ、宮古さん」

「……何。うちはもうあんたの顔なんて見たくもないんだけど。あんただって、トラウマほじくり返したヤツとなんて、話したくないんじゃないの?」

 

 およそ数秒前まで全くの偶然に固まっていたとは思えない厳然を宿した、彩歌の声音。対する美律はやはり拒絶と皮肉も露わで、しかしどうしてだろうか、彩歌には彼女の声が震えているようにも聞こえていた。

 

 そもそもこの短い間にさえ、美律の言動は矛盾している。本当に彩歌と話す気が無いというのなら、わざわざ足を止めずに無視してそのまま行ってしまえば良い。なのに、そうしなかった。話す気はないと言いながら、応えた。これは明らかな矛盾だ。

 

 それが如何なる心境によるものか、彩歌には分からない。何しろ東京大会以来の再会で、それまでは数年も会っていなかったのだ。いくら嘗ての友人であれ、それだけ経てば考えを読める筈もない。

 

 だが答えは分からずとも、気持ちならば読める。震えていた声は何よりも雄弁で、最早疑いようもない。それを分かっていながら、彼は声ではなく催促するような目に従う事にした。

 

 言外の虚勢に応え、彩歌は頷く。

 

「分かった。じゃあ、言わせてもらうけど。

 ……ごめん」

「────」

 

 狐につままれるとは、まさしくこの事か。一瞬の静寂。思考の間隙。美律の理性は現実に追随できず、生まれた空隙を感情が占有する。その状況の中に在って、彼女が彩歌を叩かず両腕を掴むのみに留めたのは一種の軌跡であった。空の紙コップが、アスファルトに落ちて乾いた音を立てる。

 

「──んなっ……ふざけんなっ!! それは……その言葉は……!!」

 

 ──自分が言うべきものだった。本来責められるべきは、自分の方だった。思わず出かかったその言葉を、美律は(すんで)の所で堪えた。言ってしまえば、全てが台無しになる。それだけは、彼女にも理解できた。

 

 美律とて分かっているのだ。分かりたくはなかったけれど、分かってしまう。東京大会の日、彼女の悪罵のために心的外傷を再発させた彩歌の姿を見てしまっては、嫌でも。

 

 確かに彩歌は愛歌の教えに背いた。自分の音を打ち捨て、実力と成果のみを求める修羅となった。だが、彼をそうまで追い込んだのは誰か。心的外傷を決定的にしたのは、果たして誰であったか。考えるまでもない。美律たち、同門だ。

 

 だが彩歌はそれを責めず、それどころか謝罪さえ口にした。それが自分の在り方を曲げたことに対してのものか、或いは同門たちに悪罵を吐かせてしまった事に対してかは、彼は言葉にしない。

 

 どちらにせよ、これはあまりに卑怯だ。責めて楽になる報復も、責められて楽になる逃避も、彼はたった一言で封じてしまったのだから。

 

「宮古さん。今度の全国大会……良かったら、キミにも来て欲しい」

「どういう風の吹き回し? まさかまた、あんなお粗末な演奏を聴かせようって魂胆じゃ……」

「違う」

 

 虚勢も反抗も、横暴すら最早無意味だ。皮肉すら彼の前には用を為さず、せめてもの一刀もにべもなく切って捨てられる。そうなってしまえば、残されるのは無力な()害者ただひとり。彩歌の腕を掴む手に籠る力も勢いを減じ、だが今度は彩歌がその腕を掴んだ。

 

 痛みは無い。しかし、解けない。彩歌は無用な苦痛を与えず、自他に安易な赦しを与える事も無い。それは悪罵を以て責め立てるよりもなお甚だしい、十字架を背負い続けるが如き蛮行だ。それだけの覚悟が、彼にはあった。

 

 故に、美律は目を逸らせない。この夕景の内に在っても色あせる事を知らない大堡礁の瞳が、それを許さない。ならばこれより続く言葉を彼女が違えられる道理が、ある筈もなかった。

 

「次の全国大会、俺は必ず優勝してみせる。だからキミにも来て欲しい。絶対に……後悔はさせないから」



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断章Ⅰ もっともっと、ワタシを

 〝if(もしも)〟の話というものが、宮古美律は嫌いだった。もしもあの時、こうしていれば。もしもあの時、この選択をしていなければ。最早遠い過去に通り過ぎた分岐に思いを馳せ、ありもしない虚像(いま)を夢想する。だが実際にはそんな都合の良い光景は無くて、人々の前に在るのは無慈悲で無遠慮な現実のみ。つまり〝もしも〟というのは態々存在しない落差を自ら生み出し、虚構と現実を比する無意味で救いの無い行為なのだ。故に美律は、もしもの夢想を嫌っている。或いは、憎悪してさえいた。

 

 無論美律とて、初めからそうであった訳ではないのだ。幼い頃の彼女は人並みに将来の夢を描きもしたし、相応に失敗を重ねてきた。そのたびに過去を振り返っては自らの努力不足に憤りもしたものだ。だが今の彼女に、それだけの情熱は無い。そのための熱量を過去に置き去りにしてしまったような気さえしていた。

 

 しかしそんな美律をして、今日の邂逅を振り返ってしまえば思わざるを得ない。どうして、と。或いはいつもと帰りの道程と時間を変えていれば、出会わずに済んだのではないか。それは彼女が嫌っているはずの〝もしも〟に他ならない。

 

「……ダメだ。余計なコトを考えてる、うち」

 

 一度同様を鎮めるために、自宅に帰ってすぐに眠気に任せて意識を手放しさえしたのに。目を覚ましてみれば午睡の残滓より再び雑念は立ち上がり、美律を放そうとしてくれそうにない。

 

 かつての美律であれば、この鬱憤の総てをピアノにぶつけて代わりに希望を心に詰め込む事でこの懊悩の解消を図っていただろう。だが今の彼女に、それだけの熱意は無い。精神の底に灯る仄暗い情念を原動力に、この3年間は毎日のように研鑽を重ねてきたけれど、それも先日のコンクールで彩歌に負けてからというもの、ぱったりと途絶えてしまっていた。

 

 彩歌。そう、彩歌だ。全てはあの男が悪い。この五体を駆動させていた希望が黒々とした情念に変わってしまったのも、今、雑念のために正常でいられないのも。──そうして何もかもを彼のせいにできるままでいられたならば、きっと楽だっただろう。今でもそうして全てを片付けようとする自分がいる事を、彼女は自覚していた。

 

 しかし、それは本当に正しいのか? いまさらになって、美律の内には迷いが生じていた。最早彼女にはその資格も、権利も、有りはしないというのに。

 

「分かってる。分かってるんだ、そんなコトは」

 

 その呟きを聞き届ける者はいない。両親は既に床に就いていて、万が一にも彼女の部屋に入ってくる事は無い。故に独白は独白のまま、白色光が満ちる人工の明かりの中に溶けていくだけだ。

 

 この3年間、美律は彩歌を打倒するためだけにピアノを続けてきた。敬愛する師に庇われて命を繋いでおきながらその教えに背を向けた彼を打倒し否定することで、自身の音楽に見切りをつける。自分達を縛っていたのはこの程度のものだったのだと、自分が恋していた相手はこの程度だったのだと、過去を陳腐化し、踏み躙る。そのためだけに、3年の時間を費やした。

 

 だが、結果はこれだ。美律は彩歌を打倒できず、あまつさえ情けなくも3年前と同じ醜態を彼に叩きつけすらした。まるでそれが嘗ての再演でもあるかのように。──その癇癪が何を招くかを、想像すらしないまま。

 

 ──ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……!

 

「っ……」

 

 再演と言うのならば、確かにそれは再演であったのだろう。だが、美律が彩歌に決別を告げた日のではない。それは正しく4年前の日、気が遠くなる程に白い病室で繰り広げられた悲劇の再演だった。引き起こしたのは、美律だ。

 

 それが現実。今度こそ、気づいていない振りなどできなかった。自らが引き起こした結果を目の前にして、どうしてそれを否定できようか。詰まる所、その瞬間こそは彩歌の仮面が剥がれた端緒であり、美律の欺瞞が迎えた終焉でもあった。

 

 師の教えに背を向けた彩歌が許せなかった? ただ只管に無機質であろうとする彼が許容できなかった? ───何を、馬鹿な。音楽を愛し、楽しんでいた筈の彼をそうまで変えてしまったのは、いったい誰だと思っているのか。そんなことは、考えるまでもない。美律達、同門。それ以外にいるものか。あの時に彩歌が死んでいれば、などと。そう最も強く思っていたのは、彩歌自身だっただろうに。

 

 だがそれを認めた所で何が分かる事も無い。もしもは無意味。後悔は無価値。美律はとうに被害者を演じる加害者で、彩歌に加害者の役割を着せた。その過去(げんじつ)が変わる事は、決して在り得ない。

 

 分かっていた筈だ。分かっていなければならなかった筈だ。けれど美律は気付いていない振りをした。そうしなければ、自身の情念が前提から崩れてしまうから。何という浅ましさ、何という卑怯か。だがそうして自らを責める事すら、あまりにも白々しい。

 

 だからだろうか。先刻、家路にて彩歌と遭遇するという偶然を前にして、美律が覚えたのは恐怖だった。自身の全てを壊した加害者を前にして被害者が何を考えるかなど、あまりにも明白だ。

 

 けれど、それでいいとも思ったのだ。美律は加害者で、彩歌は被害者。それでやっと、道理が通る。在るべき形に戻れば、きっとお互い楽になれる。その過程が報復の形を執ったとしても、それは仕方のない事だ。そう思っていたのに。

 

 ──ごめん。

 

 あろうことか、彩歌は謝罪さえ口にした。彼には自身の立場を取り返し、報復する権利だってあった筈なのに。自らの咎にやっと気づいた道化に対する憐みすらもない純粋な声音で、復讐を放棄すると云ったのだ。そんな安易な赦しは与えないと、宣言したのだ。

 

 代わりに彩歌が与えたのは、ひとつの宣誓。いっそ眩しいまでの光輝を瞳に宿し、厳然とした態度で彼は言ってのけた。その姿はいつかの、美律が好きだった彼のようで。彼女は、何も返す事ができなかった。

 

 ──次の全国大会、俺は必ず優勝してみせる。だからキミにも来て欲しい。絶対に……後悔はさせないから。

 

「うちは、どうすれば……」

 

 道化は懊悩する。無明の中、たったひとりで。その孤独こそが、彼女に与えられた唯一の罰だった。

 


 

 彩歌にとって、大雅の教導とはまるで魔法のようなものであった。どんな難しい問題でも大雅に教われば立ち所に解けるようになる。事象を言葉にすればそれだけの事だが、彩歌は大雅以外からその感覚を味わった試しがない。

 

 解法を示して無理矢理に解かせるのではない。大雅はただヒントを与えるのみ。大雅の教導とは地図ではなく明かりだ。にも関わらず、気づけば解答(ゴール)を導出できるようになっている。故にこその魔法。尤も大雅に言わせれば、それは彩歌自身が基礎は完璧にできているからこその事でもあるけれど。

 

 そして大雅が操る魔法の効力は通話越しであろうと健在であり、緊張が解けると共に彩歌が大きく息を吐いた。目前のノートには膨大な数式の数々が、大雅が語った内容と共に整然と並んでいる。それは今夜の彼が積み上げた努力の可視化であった。

 

 彩歌の吐息からおおよその様子を察したのか、自らもまた黙々と自己学習に取り組んでいた大雅の手が止まる。電話口から聞こえていたペンの走る音が途絶えたのだ。

 

『その様子だと、無事に解けたみてぇだな』

「うん。ありがとうね、大雅。急に訊いたのに、電話までしてもらっちゃって……」

『構わねぇよ。最近は互いに忙しくて、ロクに話す機会も無かったからな』

 

 そうだね、と彩歌。大雅は所属しているサッカー部が出場する大会のための練習。彩歌は体験入部とコンクール全国大会に向けての練習。それぞれに事情があり、春先に比べて会話の機会は減っているのが実情だ。

 

 両者共に親友を自称するからにはしばらく話せていないからとて友情を疑う程に生半であるつもりもないが、だからとて機会をみすみす逃す訳でもない。そんな中での彩歌からの相談は渡りに船であり、口にこそ出さないが大雅にとっても嬉しいものであった。でなければ態々自分から通話の提案などする訳も無い。

 

 だがただ駄弁に興じるには彩歌の抱える難敵──今回のそれは難関国立大の過去問に類似したそれ──が邪魔で、それを打倒するための教鞭にも熱が入った。大雅にとってはそれだけの事であった。

 

『ンで、どうよ? 後輩たちの前でカッコつけたクセに、今親友(ダチ)から教えてもらってる感想は?』

「ぐっ……イイじゃないか。後輩の前でくらい、カッコつけたって。それに、訊ける相手なんてキミくらいだし」

 

 揶揄うような大雅の声音。電話越しであるというのに彩歌には親友の表情までもがありありと想像できるようで、不機嫌そうに唇を尖らせた。彩歌にとっては、分からない問題について訊ねられるのは教師等を含めても大雅ひとり。奇妙な認識ではあるが、彼がそれに気づく事は無い。それだけの信頼が、彼にはあった。

 

 しかし持ち主自身が気づかないのだとしても、客観まで同様とは限らない。それは当の信認の対象とて同じ事。故に唐突に投げつけられた直截な信認に大雅は思わず息を呑み、だが電話越しであるためにそれを隠しきることに成功した。

 

『ハッ、まぁそうだろうよ。学部関係ない必修の成績でオマエに張り合えるのはオレか会長ちゃんくらいだろうが……好きな女に、弱みは晒したくねぇもんな?』

「っ……!? 今更だよ。弱みなんて、呆れるくらい知られてる。……しっかし、相変わらず、シレッと他人(ひと)の心理を読んでくるね……」

(さが)なモンでな。知ってるだろ?』

 

 彩歌だけが知っているいくつかの弱点を除けばおよそ万能の才人めいている大雅だが、彼の真髄とはその万能性に非ず。その万能性を支える宗谷大雅最大の才とは事物に対する並外れた洞察力であるのを、彩歌が知っていた。何しろ彼はそれに何度も助けられたのだから。

 

 宗谷大雅という少年の前において、隠蔽とは無価値だ。何かを隠そうとした所で、彼はその魂胆すら見抜く。他者の理屈(ロジック)や不確定な揺らぎ(ファクター)すら織り込みその先を読むが故に、彩歌はここまで強固な繋がりを同好会との間に得るに至ったのだ。

 

 その大雅が言うのだから、否定は無意味だ。あえて事実に即さない事を口にしているのでもない限り、彼は本質を言い当てる。だがどちらにせよそこには大雅なりの考えがある筈で、それを知らぬ彩歌ではない。

 

『でもよ、そう返すってコトは、マジなのか?』

「ノーコメントで。……分からない。そういうコトにしておいて」

『なるほどねぇ。その心は?』

 

 解っているクセに、とは言わなかった。言うつもりもない。そういう事は自ら言葉にするからこそ意味を持つのだと、彩歌とて知っている。そして真意はあえて探すまでもなく、すぐ近くにある。

 

「俺はまだ、俺が誇れる〝俺〟じゃない。これは納得の問題なんだよ、大雅。俺はまだ〝俺〟に納得できてない。それなのにコレに名前を付けてしまったら俺はきっと、色んなコトを一緒くたにしてしまう。そんなのはダメだ」

『納得か。だが、それは……』

「自罰じゃないよ。自責でもない。ただの自己満足さ」

 

 彩歌も分かってはいるのだ。せつ菜/菜々と一緒にいるだけで感じる充足、笑い合えるだけで得られる幸福。それらは全て、彼の胸中に在る単一の感情に由来するものである事は。それはきっと彼は自己より前に菜々に対して抱き、そして事故より後は〝余分〟として切り捨てた筈のそれと同質なのだろう。

 

 故に知っている。その感触も、名前も。或いは菜々の側もそれを感じている可能性にすら彩歌は気付いていて、だが未だ彼はそれを認めない。その資格が無いというのではない。ただ、このまま名前を付ける事に彼自身が納得できない。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 自己満足とはそういう事だ。これは道理や責任の問題でもなければ、菜々に対する義理の問題ですらない。彩歌の裡から発し、そして彩歌自身の中で完結する過程。これを自己満足と言わず、何と言おうか。

 

(オレ)が誇れる(オレ)……ね。傲慢だねぇ。今日日そんなの持ってるヤツ、大人でもなかなかいねぇだろ。

 だがまぁ、オマエらしいよ。そういうヤツだもんな、オマエは。曇っていようがいまいが、心底めんどくせぇ』

「一言余計だよ」

 

 いっそ清々しいまでの罵倒だ。けれど彩歌が不快を示す事はなく、電話越しにふたりは笑みを交わし合う。態々憤る気にもならなかった。その程度の領域、彼はとうに通り過ぎている。

 

 面倒くさい。確かにその通りだと、彩歌は笑う。この行為には何の意味もない。無意味な事に拘るのだから、それの形容としてはこの上なく適切だ。自覚した所で、それを矯正する気は彼にはないけれど。

 

『まぁオマエはオマエが思ったようにやればいいさ。オマエのことだ、どうせ算段はついてるんだろうし。高咲達から聞いてるぜ。体験入部、随分楽しんでるみてぇだな?』

「──! ……勿論。こんなに楽しいのは久しぶりだよ。それだけに……」

『皆まで言うな。言葉にするのは大事だが、オマエはそれだけじゃねぇだろ?』

 

 やはり、見抜かれ(バレ)ている。驚きはなかった。大雅とはそういう少年だが、何より彼は彩歌のそういう一面を最も近くから見続けてきたのだから。彩歌がどういう人間であるかを、大雅はよく知っている。

 

 彩歌は未だ懊悩を抱えている。脱ぎ捨てた所で仮面はすぐには消えはしないのだ。むしろ脱いでしまったからこそ仮面の様相は詳らかで、その虚空の眼窩を以て彼にその在り方を示してくる。

 

 もしもそれを言葉にしたならば、大雅はきっと応えるだろう。だが、それでは駄目なのだ。悩む気持ちはあれども、彩歌には誓いがあるのだから。故にこそ、真に示すべきは決まっている。

 

「あぁ、分かってるさ」

『そうかい。……次に話せるのは全国の時か? 暫く先だな』

「そうでもないよ。すぐそこさ。……じゃあ、また」

 

 大雅が発した終了の意を汲んで大雅はそう告げて、大雅もまた別れの挨拶にて通話を終わらせる。そうした後に残るのはイヤホンによって齎される人工の静寂だ。その中に、少年は呟きを零した。

 

「大丈夫さ。分かってる。俺がすべきコトも、したいコトも」



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第34話 アナタに冒されていく

 この少子高齢化の時代にあってもなおマンモス校という形容が相応しい生徒数を誇る虹ヶ咲学園だが、そんな超が付く程大規模な学校であっても長期休みの前には終業式があるものだ。

 

 全学部の生徒全員が講堂に集めれて取り行われるそれは、しかし参加人数の他には取り立てて特徴の無い至って普通の儀式だ。校長や理事長は彼らの教本に載っているものをそのまま抜き出してきたかのような中身の無い長話を展開し、生徒指導の教員が既聴感に塗れた熱弁を揮う。或いは形骸とも揶揄されるような、形だけの式典。そんな有様であるから多くの生徒が密かに意識を手放している事も菜々は知っていて、だがそんな空気の中であっても壇上で話をする事が菜々は好きだった。正確にはそれを含めて、彼女は生徒会長の職務が好きなのだ。

 

 菜々にとって、生徒会長の身分とはある種の隠れ蓑だ。厳しい両親に隠れてスクールアイドルをするための隠れ蓑。だがそれは決して生徒会長の職務を軽視しているのではなく、むしろそれも好きだからこそ。大好きでいっぱいの世界を創らんとするのに、態々嫌いな事を率先してやるものか。誰かのために活動できるこの仕事が、彼女は好きなのだ。そして式典というのは、スクールアイドルとはまた違った形で壇上(ステージ)から生徒の顔を見る事ができる機会だ。

 

 少し視線を巡らせれば、様々な生徒の姿が見える。真面目な面持で菜々の話を聴く者もいれば、必死に眠気に抗う者、大胆に眠る者、隣に座る友人と小声の駄弁に興じる者、その他諸々。菜々は彼ら全員の名前を知っていたが、あえて特定するような真似はしなかった。そのまま何気なく視線を滑らせ、だが唐突にそれが止まる。

 

 その交錯が偶然であるか否かは、菜々にも分からない。生徒たちを見ている中で偶々そちらに目線が言ったのかも知れないし、生徒たちの並びから無意識に法則性を見出して探し出したのかも知れない。しかし正解がどちらであれ、菜々の漆黒が幾人もの中で唯一の孔雀青とかち合ったという交錯の事実は変わらない。

 

 詰まる所、目が合った。それだけの事だ。何の益体もない、只の偶然か気まぐれと、そう切って捨ててしまえる出来事だ。だがその瑣末が何故だかひどく嬉しくて、思わず緩んでしまった口元を菜々は咄嗟に長話の締めにかこつけて誤魔化す事に成功する。

 

 そうして、一礼。壇上から降りて舞台袖へと隠れ、全ての目から解放された、何でもないその刹那。全ての役を脱ぎ捨てた少女は、喜色も露わに呟きを零した。

 

「えへへ、彩歌くんと目が合っちゃいました」

 


 

 かすみからの誘いにより彩歌が同好会の活動に参加するようになってから、3週間余り。当初は部室までの道程に少なからず伴っていた筈の緊張感も、それだけの時が経てば勢いを減じていた。

 

 しかしそれは何も、彩歌は自らを同好会の一員と自認しているというのではない。彼は未だ書類上では部外者に近しく、それを知りながら仲間を名乗る程に彼は高慢ではないつもりだった。故に彼の心境の変化というのは、言うなれば相対的なそれ、緊張を上回る快然があるだけの事。それだけでも、彩歌には大きな変化であった。楽しい。だからやりたい。あまりにも単純で根源的(プリミティヴ)な理屈だが。それさえ彼は忘れてしまっていたのだから。

 

 足取りは迷いなく、軽やかに。3週間前は未踏(アウェー)のようであった部室棟も、今となっては慣れたものだ。半ば忘我のままであっても道程に支障はなく、この後の日程に彩歌は思考を遣って歩く。彼らしからぬ油断は、或いは浮き足立っているという事か。

 

 しかしあまり浮かれてばかりもいられない。平時は半部外者なりの誠実として早めに部室に来るよう心掛けている彩歌だが、今日は些か遅れてしまっているのだ。偏に終業式中に菜々が送ってきた視線について邪推した友人達から質問攻めに遭ってしまったためであった。

 

 故に思考は扉の前で切り上げ、気持ちを切り替えて手をドアノブへ。ガラス窓のないドア越しでは中の様子は見えないが、聞こえてくる声の数からして彼以外は参集しているように思われた。

 

「こんにち──」

「えーん! 助けてください、彩歌せんぱーい!」

「中須さん!? どうしたんだい、いきなり!?」

 

 衝撃。あまりに唐突な事から来る精神的なものではなく、文字通りに物理的なそれだ。だが全く予想外であっても咄嗟に受け留める事ができたのは、或いは日々の鍛錬の成果であろうか。

 

 密着した衣服越しに伝わってくる体温はいつかの夕景の中で感じたそれにも似ていて、けれどせつ菜ではない。いかに突然であろうとも、彩歌がせつ菜と他者を間違えるものか。そもそも正面から突進されたのだから、その栗色を彼が見間違う筈も無い。

 

 しかし部室に入ってきたばかりの彩歌にはその経緯までを推察できない。彼女の赤く大きな瞳には薄く涙が浮かんでいるようだが、彩歌は彼女が感情に対して素直であるのを知っている。軽く侑に視線を送るが、苦笑めいた目線で返されるのみだ。何らかの事情はあるようだが、彼の困惑を解消するには足りない。けれど彼が問いを重ねるより先に、かすみが顔を上げる。

 

「しず子が、しず子がぁっ、22点でにゃんにゃんって言ってくるんですーっ!!」

「22点……?」

 

 22点。数字だけであったものだからすぐには合点がいかずに彩歌は復唱してしまい、それがかすみには気に食わなかったらしい。赤い瞳に不満げな色が宿る。それに気づけばこそ、困惑は確信に変わるというものだ。

 

 詰まる所、22点というのはテストの点数であるのだろう。虹ヶ咲は基準(ボーダー)を30点に設定しているから、紛れも無く赤点だ。尤も単位は期末だけではなくその他の要素も加味した最終成績から可否が決定されるのであり、試験の点数が全てではない。補修の対象にはなるけれど。故にしずくに想定外があるとすれば、それはかすみがしずくが思っていたよりもその点数を気にしていた事だろう。

 

 仕方のない事ではあるのだ。かすみが22点を取った科目は彩歌には教わっていないもので、元来、彼女は勉強がそれほど得意ではない。だが教わったからには他の科目も情けない姿を見せる訳にはいかないと頑張り、けれどできなかった。気にするな、という方が無理があろう。

 

 その経緯の全てを察する事はできずともおおよそを推察する事はできて、彩歌がかすみの頭を撫でる。それで失礼の総てが償えるとは思っていないが、せめてもの罪滅ぼしに。そうしているうちにかすみも落ち着いてきたようで、それに気づいた彩歌は彼女の身体を剥がして中腰になり、目線の高さを合わせた。

 

「ごめんね、中須さん。お詫びに……なるかは分からないけど、今度また分からない所教えてあげるから。機嫌直してくれると嬉しいな」

「ぐすっ……ホントですかぁ?」

「約束する。言っただろう? 俺はもう嘘を吐かないって。ね?」

 

 果たしてその宣誓を彩歌が口にするのは、これが何度目であったか。まるで投げ売りだ。宣誓は厳格であるからこそ宣言なのであり乱用すれば価値が落ちるとは、彼も分かっているのだ。だがそれ以上に、口にするべき場面においては自己の体裁よりも責任を重視するというだけの事。それだけが彼に果たせる誠実なれば、須らく全霊だ。

 

 故に見るならば正面から、逸らさずに。そうして幾許か、かすみが小さく頷きを返した。だが視線は念押しのようで、微笑みつつ彩歌もまた首肯する。元よりかすみには心底から彩歌を疑う気は無かったが、これでは表面上疑うのですら馬鹿らしい。ゆっくりと彩歌から離れ、しずくと璃奈の許へ戻っていく。互いに口にしているのは誤解に対する謝罪だろうか。不意に侑と目が合い、微笑まし気なその色に照れ隠しめいて彼の笑う。だがしずく達と戯れるかすみに向けられた瞳はひどく穏やかであり、その様はまるで──

 

「なんだかさいちゃん、かすみちゃんのお兄ちゃんみたいだねぇ」

「そうですか? もしそうなら、嬉しいですね、ふふ。俺、一人っ子だから」

 

 一連の様子を見守っていた彼方からの言葉に、笑みを以て彩歌は是を返す。或いはそれは烏滸がましい是認であるのかも知れないが、客観的な形容として最も適切なそれでもあった。何しろ妹がいる彼方が言うのだから。

 

 互いに密着を許容する程度には気安く、その寛容を形作るのは純粋な信用と信頼だ。かつては無自覚にすら他者と距離を執っていた少年の変化としてはあまりに絶大で、それだけに明白でもある。

 

 であればそれは、ある意味では当然の反応であったか。不意に袖口を引っ張られ、彩歌がそちらを見る。いつの間に接近していたのかそこにいたのはせつ菜であったが、思わず彩歌は吐息を零してしまった。驚愕ではない。ただ微かに頬を膨らませたその姿に、柄にもなく動揺してしまっただけの事。

 

「ど、どうしたの? 優木さん……?」

「……彩歌くん、やっぱりかすみさんと仲良しですよね」

「え? まぁ、そうだね……?」

 

 いつも直截なせつ菜らしからぬ、要領を得ない物言いである。肯定の返事である筈なのに彩歌の声音が疑問めいてしまったのはそのためであり、しかしせつ菜の(いら)えは無く袖口を掴む力がより強まったのみ。いじらしささえ漂わせるその仕草に、彩歌は何も言う事ができない。

 

 不可解である。いっそせつ菜自身にすら自己の全てを解体できないまでに。彼女の中に渦巻くそれは羨ましさにも似ていて、しかしそれだけではない。輪郭も分からないのだから名前も判然とせず、最早()()()()と形容する他ない有様であった。

 

 友人同士が仲良くしているのが嬉しくないというのではない。むしろそれは跳び上がってしまいそうな程に嬉しいのだ。だがせつ菜は自身の心情に素直であればこそ、不明(モヤモヤ)を無視する事も出来ない。

 

 だがせつ菜も、彩歌も、以前に言った筈だ。自分の事を知って欲しい/相手の事を知りたいのだと。そのために心の中に在る小さなことでも決めた筈なのだ。なれば、()()も。そうしてせつ菜は口を開こうとして、しかしそれに先行するものがあった。

 

「──さて、これで全員揃ったね! テストも終わったし、これで1学期は終わり!」

「明日からはいよいよ、待ちに待った夏休み!」

 

 侑の音頭を引き継ぎ、歩夢が言う。瞬間、銘々に過ごしていた全員の注意がふたりに向けられ、必定、せつ菜も忘我から現へと立ち戻る。その時点で自身の事情を一度棚上げしてしまうのは、彼女の生真面目さ故だろうか。

 

 侑へと注がれる、10人分の視線。だがその中に在っても彼女は物怖じひとつせず、それどころか不敵に笑んでみせる。

 

「待望の夏合宿──始めるよっ!!」

 

 快然にして朗々たる宣告。それに続くように、気勢に満ちた鬨が部屋に響いた。

 


 

「学内に研修施設がある、とは聞いていたけど……」

 

 侑による合宿開始の宣言から幾許か。目の前に広がった光景に彩歌がそう独り言ちたのは、食料品等の必要物品の買い出しと搬入を終えて宿泊場所である大部屋に入った時の事であった。

 

 実のところ、彩歌は宿泊場所についてはさして期待していなかったのだ。或いは、さして重要視していなかったと言うが正確だろうか。学内に研修施設があると彼に言ったのはせつ菜だが、いくら虹ヶ咲でもそこまで充実してはいないと思っていたのだ。

 

 だが結果論的ではあるが、彼はあまりにも己が母校を侮っていたと言わざるを得まい。今、彼の目前にあるそれは平均的な旅館と比しても遜色ない程に立派な和室であり、およそ合宿用の施設とは思えない。布団等備え付けの物品にも問題は無く、面積は彩歌が中央に大の字に寝転んで入ってもなお余裕があるのだから、当然ではあるが。

 

「この広さをひとりで使ってもいいのかぁ……」

 

 寝転んだままそう呟いて声は天井に昇り、だが彩歌以外の誰に聞き届けられもせずに音としての形を喪っていく。部屋の中には彼しかいないのだから、当然の事だ。だがそれに寂寞を感じてしまうのは、ひとりで使うには広すぎるこの部屋のためだろうか。

 

 だが、仕方のない事なのだ。いくら虹ヶ咲の設備が充実しているとはいえ個室などある筈もなく、そして参加メンバーのうち、男子は彩歌のみ。いかに性別による区別が曖昧化しつつある昨今であっても順守すべき規範(モラル)はあろう。少なくとも真野彩歌という少年は、そこを誤る手合いではなかった。

 

 しかし本来は複数人で使う場所をひとりで占拠しているものだから、手持無沙汰を感じてしまうのも半ば自然な事だろう。時計を見れば次の予定まではまだ幾分かの時間があるようで、数拍の逡巡の後に彩歌は身体を起こした。そうして鞄に手を突っ込み、手に取ったのはスマホとイヤホンだ。ケースからイヤホンを取り出して装着すると、スマホの音楽アプリを立ち上げる。

 

 画面を操作する手つきはよどみなく、呼び出したのは陽彩が歌う楽曲が纏められたプレイリスト。そのままシャッフル再生をタップしようとして、だがその直前、唐突に彩歌の指が止まる。

 

「……」

 

 果たしてそれは、何の間隙であったか。シャッフル再生の表示を押すはずだった指はそのまま『戻る』のボタンにスライドし、代わりにそれとは別のプレイリストを表示する。だが余人がそれを見れば、きっと奇妙に思った事だろう。思い直した事が、ではない。彩歌が再度開いたプレイリストの楽曲はその全てにジャケットの表示が無く、それどころかいくつかは曲名の欄すら非表示(NO DATA)であったのだ。

 

 だが彩歌はそれに頓着せず、リストの最も深部に位置する曲名をタップした。前奏が流れるより早くに一時停止し、起立。スマホを机に放置し、足元の感触を確認する。畳であるため安定性には不安があるが、素足であれば問題ない程度だ。

 

 そうして軽い準備運動で身体を解し、深呼吸。新鮮な酸素が血流にのって末端まで満ちる感覚と共に雑念を体外に押し出し、意識を変革させる。さながら自己暗示めいて自縛であり、しかしそれはむしろ解放に近しい。そして、彩歌が耳元のイヤホンを操作する。

 

 紡がれる旋律。彩歌のみに聞こえるそれに追随するようにして、彼の五体は躍動する。それを踊るのは実に数年ぶりの事であるから技術的には粗削りも良い所といった塩梅だが、今の彼にそれを惜しむ気持ちは無かった。今はただ、全霊をこの躍動に注ぎ込む。拍動する心臓はまるで止まるなと叫んでいるようですらあり、故に躍動はさながら世界をその威容で以て染め上げるかの如く。

 

 ある種の自己対話。内省。外界との隔絶、或いは溶解。自己を心象に満たし、内界と外界の境界を押し退ける。それを錯覚する程の専心であり、それを可能としているのは総身に満ちる情熱だ。心底で燃える混濁の炎が、五体を駆動させる。

 

 故に残心は形而の放熱にも等しく、幻の熱量が現の虚空に放散されていく。それに伴って意識と感覚の焦点が目前に合っていき、彼はようやく自身へ向けられた拍手の音に気付いた。イヤホンを剥ぎ、弾かれるように襖の方へ視線を遣る。

 

「優木さん!? 見てたの……?」

「はい! まぁホントは、彩歌くんがなかなか出てこないので様子を見に来ただけなのですが……でも、これは役得ってものですね。えへへ……」

 

 そう言い、嬉しそうにはにかむせつ菜。特別な事など何もない、ただ様子を見に来たせつ菜の事にも気づかない程彩歌が練習に集中していたという、それだけの事。しかし彼がそれに夢中になっていたという事実がせつ菜は嬉しく、そし彼女の笑顔に彩歌が息を呑む。まだ名づけないと決めた筈の感情が胸の奥で疼く。

 

 しかし、今はそれに構っている場合ではない。半ば無理矢理に彩歌は幻痛をねじ伏せる。それよりも今、せつ菜は聞き捨てならない事を言ってはいなかったか。時計を見てみれば、所定の時刻は目前に迫っていた。

 

 遅れている訳ではない。だが日頃から時間には厳格な彩歌が出てこないものだから、不思議に思ってせつ菜が部屋に来たのだろう。その図式が脳内で組み上がると同時、彼の裡に焦燥が顔を出す。

 

「わっ、ホントだ。もうこんな時間! ごめんね、すぐに準備するから!」

 

 所定の時間に遅刻していないとはいえ、せつ菜らを待たせてしまっているのは事実。何より時間を潰すためにしていた事のために遅れるなど、これでは本末転倒だ。故に声音は謝罪一色であり、だが慌てた様子の彼の動作は鞄を開けた時点で一度停止する。首を傾げるせつ菜。

 

「……? どうしました?」

「あぁいや、その……野郎の半裸なんて見ても何にもならないだろうけど、着替えたいので一応閉めてもらえると……」

「あっ! すっ、すみません!」

 

 現在、せつ菜の恰好は私服であるのに対して彩歌は制服。学内で行っているのだから何らおかしな部分は無いが、部活の一環であるのだからそれに相応しい服装があろう。尤も先に着替えていなかった彼の落ち度ではあるが、それは結果論というものだ。

 

 彩歌の要請に、慌てて襖を閉めるせつ菜。前後の扉が閉ざされた薄暗闇の中、彼女はひとつ息を吐いた。これで両者の間には視覚的な断絶が生まれ、不安要素は何もない。そのための安堵であり、だがそれは油断に他ならない。

 

「───」

「……?」

 

 襖越しに聞こえる彩歌の吐息。それに続くノイズのような音は、或いは衣擦れだろうか。当然の事だ。今、彩歌は着替えているのだから、静寂の中であれば遮蔽物越しであっても聞こえても不思議ではない。

 

 つまりは全くの道理。しかし衣擦れはノイズの内にあって不可解な程明瞭にせつ菜の耳朶に触れ、瞬間、彼女自身に依らずその脳裏に鮮明なヴィジョンが過る。それは彩歌。但し、ただの彩歌ではない。或いはたった今、背後の襖の先に在るかも知れない、あられもない彼の姿だ。

 

 そんなものは無いと、どうして否定できようか。何しろ見えないのだ。事象は観測しなければ確定せず、なればこそ可能性は無限。万象の重ね合わせだ。それを否定するのは不可能であり、せつ菜の幻想(ヴィジョン)すら無限は包含する。

 

 例えばそれは、未完の肉体美。線の細い顔立ちに似合わず直線的な身体付きはスポーツマンではないが為に完熟してこそいないが下着の下に覗く腹筋は十二分に発達したそれであり、その遥か上、浮き出た鎖骨に流れる汗が──

 

(──って、何を考えてるんですか、私は!?)

 

 須臾を際限なく拡張した忘我より立ち戻り、せつ菜はそう自問する。いくら襖の先は見えないとはいえ、衣擦れひとつを頼りにあまるにも明瞭な想像を作り上げるなどと。これでは彩歌にも失礼だ。だがどれだけ(かぶり)を振ろうとも一度生まれた幻はそう簡単には消えてくれず、頬に熱が集まるのを彼女は自覚する。

 

 制御を離れた埒外の自我。悶々(ドギマギ)とする胸中。そんな有様であったものだから、背後の襖が開いたその瞬間、せつ菜は思わず肩を跳ねさせてしまった。

 

「お待たせ。……どうしたの? なんか顔赤いけど……」

「い、いえっ、何でもないですよっ!? さぁ、着替えも終わった事ですし、皆さんのところに行きましょうっ!!」

 

 動揺。赤い顔で手をばたつかせるその様では何かを誤魔化しているのは誰の目にも明らかであったが、彩歌が何か言うよりも早くにせつ菜は部屋を出て行ってしまう。差し出された手は虚空を掻くばかりだ。

 

 取り残される彩歌。照明を点けていない下駄箱の光源は和室から注ぐ白色光のみ。退出するためにスイッチを操作すれば周囲は薄暗く、手探りに彩歌は靴を探し出した。そうなれば後は機械的な行程であり、故に反芻に支障はない。

 

 彩歌の袖口を掴んだままそっぽを向くせつ菜。或いは彼の質問に答えず、赤い顔のまま逃げるように部屋を出ていくせつ菜。どちらも普段のせつ菜らしからぬ姿であるというのに────それさえ〝可愛い〟と思ってしまうのは、彼の悪癖に他ならなかった。



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第35話 夢にはアナタを

 いかに広大にして充実した設備を有する虹ヶ咲学園といえど10人程度の生徒が一度に利用できる調理場は家庭科室くらいのものであろうが、彩歌は入学してこの方、家庭科室に立ち入った事が数える程しかなかった。何しろ音楽科のカリキュラムには家庭科の授業が無いというのだから、以前に入った記憶は入学時の校内案内にまで遡る。そんな有様であるから備品の位置が分からず準備に手間取ってしまったのも、致し方ない事ではあるのだろう。

 

 しかし一度準備を済ませたのなら、そこからは彩歌の領分だ。これまで繰り返してきたレシピ通りに材料に手を加え、道具を操る。多人数での会食故の配慮も彼にとっては障害ですらなく、鼻歌など歌いながら手順を進めていく。それが〝DIVE!〟であったのは、フライパンの上で油が跳ねる音にかき消され誰に悟られる事も無い。

 

 そうして、暫く。程よい焼き目を呈し芳香を漂わせるソレを皿に盛り、付け合わせのソースを種類別に小皿へ。一旦の完成を迎えて彩歌が満足気な溜息を吐き、それと殆ど同時、彼の横から声。

 

「わぁっ……! それ、もしかしてハンバーグ? 美味しそう……!」

「高咲さん。ふふ、イイ表情(カオ)だ。よかったら、ひとつ味見するかい?」

「え、いいの? じゃあお言葉に甘えて……」

 

 唐突に声を掛けられたものだからその瞬間こそは面食らった彩歌だが、表情は変わらず微笑みを湛えたままだ。演技ではない。彼が作った料理を見る侑の目があまりに輝いていたものだから、そんな友人の姿を見れば驚きも引っ込むというものだ。

 

 彩歌が作ったそれをあえて形容するならば、一口ハンバーグといったところか。多人数で共有するためにひとつあたりのサイズを小さくしたそれのひとつに、彩歌は棚から取り出した爪楊枝の1本を突き刺した。ソースは自信作でもあるデミグラスソースだ。

 

 そうして彩歌が差し出したそれを、しかし侑は手で受け取るでもなくそのまま勢い良く頬張った。器用にハンバーグのみを抜き取り、用済みになった楊枝を彩歌がゴミ箱に投擲する。彼の手を離れたそれは美しい放物線を描き、何に阻まれる事も無くゴミ箱の虚空に消えた。

 

「美味しーい! さいちゃん、料理も上手なんだね!」

「気に入ってもらえたようで何よりだよ。

 ところで、高咲さんはどうしてここに? さっきまで近江先輩たちとピザ作ってなかったっけ」

「うん、そうなんだけどね。今は焼いてる最中で、私は手出しできそうにないから皆のヘルプに回ってたんだぁ。さいちゃんには必要なかったみたいだけど……」

 

 なるほど、と内心で独り言ちる彩歌。道具探しに難儀しつつも彼が調理を開始した時点で侑は既に彼方や歩夢と共にピザ作りを始めたのは彼も把握していたが、今はその大詰めという事なのだろう。

 

 しかし焼き加減を3人で監視しているというのも奇妙な話。故に侑は一度持ち場を離れて皆の手助けに回り、その一環で彩歌の許へも来たという事であるらしかった。けれどその時点では既に彼は行程を終えていたために手伝う事ができなかったのだ。

 

 申し訳なさそうに微笑する侑。だがそんな友人を前に、彩歌は首を横に振る。

 

「必要なかったなんて、そんな事は無いさ。その笑顔が見れただけでも、俺にとっては得だよ」

「そう? へへ、何だか恥ずかしいなぁ……でも、ありがとっ」

 

 歯の浮くような物言いだ。ともすれば軽薄、気障の詰りを免れ得まい。しかしそれとは裏腹に彩歌の声音は常と変わらぬ誠実に満ちており、彼があくまでも実直であるのは疑うまでもない。

 

 事実、彩歌には何ひとつ嘘や誇張を口にしているつもりもなかった。先に侑が彼の前で見せた笑顔というのは彼の料理によって齎されたものなのだから、それは彼がひとつの失敗もなく完成されたこの上ない証明だ。

 

 そして何より、自分が作り出したものが人を笑顔にしている事が彩歌には嬉しく思える。だからこその得。彼の意思は全く言葉通りで、そこに他意は介在しようもない。

 

「それに、キミは考えてるコトがすぐ顔に出るからね。見ているだけでも楽しいよ」

「え、なにそれ! もしかして、揶揄われてる?」

「からかってなんてナイナイ。表情がコロコロ変わって可愛いってことだよ」

 

 ふふ、と。顎に手を遣り、彩歌は笑う。或いは不敵にも見えるその仕草がただの彼の癖である事は侑は既に知っていたが、それでも不服は不服だ。彼女が軽く頬を膨らませたのは、そのためであった。

 

 ドギマギしたというのではない。しかし謙遜というのでもない。ただ手玉に取られているかのようであるのは誰しも悔しいという、それだけの事。余人からすれば戯れのようでも、当人らは戯れにも全力だ。

 

 故に侑も彩歌を揶揄ってやろうと思考を巡らせ、数瞬。何事か言おうと口を開きかけ、しかしそれは叶わなかった。

 

「侑さん、度々ごめん。今いい?」

「璃奈ちゃん? うん、い──」

 

 いいよと、璃奈からの呼びかけに対してそう返そうとした侑であったが、さらに声が重なる。

 

「侑ちゃーん! ピザ焼けたよー!」

 

 彼方の声である。それは言葉通りに侑たちが作っていたピザが焼き上がった合図であり、同時に再び侑自身の仕事が手元に戻ってきたことを示す知らせでもあり、それを全く無視できる程、彼女は薄情ではないつもりであった。

 

 しかし今は璃奈からの要請もある。自身の割り当ては無視できないが、かといって自身を頼ってきた後輩を無下にもできない。二律背反めいた逡巡。それに割って入ったのは、先程から状況を見ていた彩歌であった。

 

「行きなよ。ヘルプは俺が引き継いでおくから。……天王寺さんは、俺でも大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ」

「分かった。ふたりとも、ごめんね!」

 

 彩歌にも調理器具等の片づけが残っているが、それは後でもできる事。対して侑のそれは今しなければならず、であればどちらが優先であるかなど明白だ。提案はそれ故の事であった。

 

 そして侑もそれに引き下がらず、申し訳なさそうな表情をしつつも自身の持ち場に戻っていく。それを見届け、彩歌が璃奈に向き直った。

 

「さて、俺は何を手伝えばいいのかな、天王寺さん?」

「えっとね、実は……私じゃないんだ」

 

 璃奈の返答を受け、首を傾げる彩歌。璃奈が頼みに来たが、問題があるのは璃奈ではない。道理が通らない話ではないが、奇妙ではあろう。璃奈もそれを分かっているのか、無表情の中に気まずさが見て取れた。

 

 しかし彩歌の疑問が言葉ではなかったのだから璃奈の返答もまた言葉ではなく、踵を返した璃奈に彩歌も続く。そうして彼女が足を止めたのはせつ菜のすぐ近くであり、刹那、彼は璃奈が言わんとする所を察した。

 

 ──混沌。或いは、魔女の釜。ふたりの前に立ち現れてきた光景を形容するのなら、そういった所であろうか。それを見れば璃奈が言葉にしたがらない理由も自ずと知れるというもの。だが彩歌の笑みはあくまでも柔和で、刹那と目が合う。

 

「彩歌くん、丁度いい所に! 彩歌くんもお味見いかがですか?」

「そうだね。じゃあ、そうさせてもらおうかな」

 

 逡巡はなかった。それはつい数刻前にも行われた遣り取りで、しかし今度は彩歌が味見側。彼の承諾にせつ菜は喜色を滲ませ、鍋の中で煮立つ紫色の液体をスプーンで一口分だけ掬い取ると、何度か息を吹きかけて冷ました。

 

 そうしてせつ菜が差し出したそれはスプーンの上にあってもなお濃厚な紫色を呈し、だが彩歌は一切の躊躇もなくそれを一口にて啜りきった。迷いなど介在し得ない、全くの自然体である。

 

 そのまま、数拍。吟味するように彩歌は瞑目しながら咀嚼し、せつ菜がそれを期待の籠った眼差しで見つめている。やがてその全てを臓腑の底に流し込み、彩歌が笑んだ。

 

「……うん。いいんじゃないかな。

 でもね、優木さん。俺はこの料理をもっと美味しくする方法を知ってると言ったら……どうする?」

「なっ……!? それは、本当ですかっ……!?」

 

 いっそ不敵ですらある彩歌の言葉に驚愕を見せるせつ菜。だが、それも致し方ない事であろう。せつ菜にとってみれば既にそれなりの自信作だったというのに、それをより上へ押し上げる方法を知っているというのだから。

 

 相手が相手であれば失礼ともなり得る提案だ。しかしせつ菜は料理において彩歌が相当な実力の持ち主であることを知っていて、故に不快はなかった。むしろ彩歌と共に事を為せて、結果、より完成度が上がるのなら、これほどに喜ばしい事も無い。

 

 故に、返事は快諾。せつ菜の了承を得て鍋の前に立ち、彩歌はその中身を見下ろした。その底は見えず、それどころか放り込んだ食材さえ判然としない。見た目に違わず味もまた珍妙であり、多くの者は感想を求められれば一考を要するだろう。だが、彼はその味が嫌いではなかった。奇怪な見た目に、まとまりの無い味。彼にとっては懐かしさすらあるそれを前に、言葉にせず独り言ちる。

 

(誰にでもこういう時期はあるよね。……俺もそうだったし)

 


 

 昼間は煉獄めいて苛烈な夏の気温も、夕刻ともなれば多少は落ち着くというものだ。基質が飽和した都心のコンクリート・ジャングルではそれでも蒸し風呂にも近しいだろうが、その点において東京湾に面した虹ヶ咲学園は比較的良好な立地であった。

 

 昼中と夜半の(あわい)、燃えるような黄昏を呈する空の中を烏の群れが飛び去っていく。東の水平線より立ち現れてくる闇は、或いは夜の使者めいた彼らが連れてきたものか。風は凪に近いが、それだけに時折吹くそよ風が心地良い。

 

 中庭に響く喧噪は、その只中で夕食を楽しむ同好会の面々によるもの。それに背を向けて、彩歌は少し離れた所で重くなった腹を摩っている。吐息は満足めいて、だがそれを割くように声が耳朶を打った。

 

「──隙ありっ!」

「んみゅっ。……何度目だい、こういうの?」

 

 天丼ってやつ? と呆れたように、けれど同時に微笑しつつ問う彩歌。対する下手人──かすみは幾度目かの悪戯成功に、彩歌の頬に指を突き立てたまま得意な笑みを浮かべている。

 

「にっひっひ。隙だらけな方が悪いんですよーだ!

 それより、こんな所で何してるんですか、彩歌先輩?」

「ん。ちょっとお腹いっぱいになっちゃって……食休みだよ」

「あー……彩歌先輩、せつ菜先輩にいっぱい食べさせられてましたもんね」

 

 先ほどまでの彩歌の様子を思い出しての事か、半ば同情めいた声音でかすみは言う。同時に彼女の指が頬から離れ、彩歌が返したのは苦笑だ。情けない姿を後輩に見られてしまった事による自嘲の笑みである。

 

 無論彩歌とて、初めからせつ菜達より遠くにいた訳ではない。夕食の席には彼もいて、せつ菜とは隣であった。そのためか喜び勇んだせつ菜に次々と勧められ、元々あまり食が太くない彩歌はすぐに満腹になってしまったというのが事の顛末であった。

 

 しかし思いのほかすぐに満腹になってしまった彩歌だが、彼に不満はない。むしろある種の満足感さえ、彼にはあった。いつか自分を弁当を作ってくる、と。少し形は違うけれど自分との約束を果たせたことをせつ菜が喜んでくれるというのだから、それを彼が迷惑に思う筈も無い。

 

 尤それで満腹になったからと態々席から離れる必要も薄かろうが、彩歌という少年が1歩引いた形で空気を読みがちな事をかすみは知っていた。それ故に半ば呆れられている事に彩歌は気付いていて、しかしかすみは呆れはすれども認否を定義しない。互いにそういうものと受容する事で成り立つ距離が、彼らの適正であった。

 

「ホント、お腹いっぱいだ。こんなに満腹になったのは、やたらおっきなパンケーキを食べた時以来かな」

「うぐっ……その節はどうもご迷惑を……って、あの時は先輩が意地張ってたんじゃないですかぁ! かすみん達は止めたんですよー!?」

 

 やたら大きなパンケーキ。彩歌の言うそれは、以前の勉強会後に注文したそれであると気づいたのだろう。思わず謝罪が口を突いたかすみであったが、すぐに思い直して抗議する。確かに注文したのはかすみだが、1年生3人が白旗を上げた後で静止も聞かず無理と意地を押し通したのは彩歌の方であった。

 

 にも関わらず咄嗟に誤ってしまったのは、知らなかった事とはいえ甘い物が苦手な彩歌にパンケーキを食べさせることになってしまったからか。結果的にかすみの物言いがノリツッコミめいてしまい、彩歌が笑声を漏らす。

 

 そのまま少しの間笑い続けて、彩歌はひとつ伸びをしてから芝生に背を沈める。空は先刻よりもいくらか暗み、東方には薄く月の輪郭がめいた。いっそ実在すら不確かにも思える、朧の月輪だ。

 

「楽しいね、中須さん」

「かすみんはフクザツな気分ですよ……でも、そうですね。かすみんも楽しいです」

 

 自身の負い目が半ば杞憂であったことはフクザツな心境であるものの、それでも楽しいものは楽しい。かすみの声音は不服そうでこそあったが、同時にそれは紛れも無い彼女の本心でもあった。そして、彼の心境でもある。

 

 慊焉とせぬ時間と、その共有。それは何も彩歌の錯覚や思い上がりではなく厳然たる事実であり、だが故にこそ彼はそこにある種の感慨を見る。

 

 以前、彩歌は自らの心を精神の奥底に封じていた。自身には夢を見る資格も、何かを楽しむ権利も無いと、そう信じてずっと自らを抑圧してきた。それなのに今、彼はこの時間を楽しいと感じている。それどころかその気持ちを誰かと共有してさえいるのだ。

 

 あまりにも大きな差異。ならば彩歌の胸中に巣食う()()は、その差異によるものか。適切な形容を探し、彼は瞟渺たる月に手を翳した。それだけの事で月光は隠れて見えなくなってしまう。

 

「あまりにも楽しくて、幸せだから……まるで、ユメみたいだ」

 

 今まで幸福から逃げていた筈の自分が、今こうして幸福を感じている。幸福の刃は彼を切りつけていた筈なのに、いつの間にか幸福が疵を癒している。ひどい落差だ。現金にも程がある。あまりにも慣れなくて、いっそ現実感が無い。

 

 だからこその、在らずの月。隠せば残滓すら無くなるそれのように、或いはユメより醒めれば何も残らないのではないか。それこそ在り得ざる妄言と分かっていながら、そんな不安さえ覚える程の幸福であった。

 

 しかし、これは聞くに堪えない戯言だ。それをかすみに聞かせてしまった事に謝罪を口にしようとした彩歌だったが、それより先にかすみが彼の横に腰を下ろした。直後、彼女が軽く振り下ろした手刀が彼の額に接触する。

 

「あだっ。……中須さん?」

「なーに急に感傷的(おセンチ)になってるんですかっ。かすみんが誘ったんだから、楽しくなきゃかすみんの名折れですっ。だから楽しさも幸せも、かすみんの可愛さと同じくらいいつだって本物(リアル)に決まってるじゃないですか!」

 

 それは赦しというよりもむしろ、憤慨の如き応えであった。この時間がユメ、などと。この合宿を含めて彼らが過ごした時間とその中で感じた気持ちの総ては、決して虚像などではないというのに。

 

 なればこそ、かすみは彩歌の感傷を否定しない。彼の浮遊感が真性のそれではなく彼が負う影に由来する事には気づいているが、それでもだ。むしろ猶更、認める訳にはいかない。過去に今を潰されるなど、あってはならない。

 

 暗黙の受容の空いた、一分の否定。彩歌は投げつけられた一瞬こそ虚を衝かれたかのようであったが、すぐに茫洋の裡に喜色が滲む。身体を起こし、再びかすみに視線を投げた。

 

「そうだね。ごめん、変なコト言った。確かに、全部現実だ。俺の気持ちも、勿論、()()()()の可愛さもね」

「そーです! かすみんの可愛さも……えっ?」

 

 それがあまりに自然な返答であったものだから、一度は何気なく聞き入れてしまったのだろうか。一拍を置いてかすみが頓狂な声を漏らすが、彩歌は照れ隠しめいた微笑ひとつを応えとするのみだ。そのまま立ち上がったかと思えば踵を返したのは、逃げるかのよう。

 

 しかし、それでは勿体ない。半ば不意打ちめいていたが為に気づくのが遅れ、それきりなどとは。ならばもう一度、或いは何度でも呼ばせなければ。その発想に至るまでには数秒もかからず、かすみが彩歌に追い縋る。

 

 詰まる所、先程は聞き逃しかけたからもう一度、と。素直に聞き入れれば最上だが、そうでなくても普段は飄々としている彩歌を揶揄えるのだ。かすみにとっては千載一遇の好機(チャンス)であった。

 

 しかし彩歌も強情なもので、何度かすみに煽られても先の再演をしようとはしない。一回限りの方が特別感がある、というのではない。単純に恥ずかしいのだ。

 

 何としてでもかすみんと呼ばせたいかすみと、気恥ずかしさを抱える彩歌。そのうちにかすみもむきになってきて、皆が談笑しているテーブルの辺りまで戻ってきたころには駄々をこねながら腰に組み付いたかすみを彩歌が半ば引きずる形にまでなっていた。テーブル上の料理は既にほとんどなく、皆が銘々に話題に華を咲かせている。そんな中でふたりを初めに見つけたのは侑であった。

 

「あっ、ふたりとも戻ってきた。……えっと、どういう状態?」

「まぁ、何と言うか……意地の張り合い?」

 

 さながらコアラか、或いはナマケモノか。彩歌と不満そうな顔で彼に組み付いたかすみの姿を見て、侑の脳裏にそんな想像が過る。しかしかすみは侑の存在に気づくとすぐに彼女の背に隠れるように移動し、顔だけを覗かせて彼に舌を出してみせる。

 

 一見して奇妙な遣り取りだ。だが侑はそれに既視感を覚えて記憶を掘り返し、そしてそれはすぐに見つかった。あれは現同好会の立ち上げに動いていた頃の事。その時もかすみは彩歌からの呼称を巡って侑に泣きついていた。

 

 だが以前と今回で違う点があるとすれば、それはふたりの距離であろう。以前はかすみにに限らず何者かに接近されれば反射的に一歩引いていた彩歌が、今では密着を許すまでになっている。これは大きな変化だ。

 

 であればかすみの威嚇も一定の信頼と信用の下に在るそれのようで、侑はあえて止めるようなことはしなかった。ただかすみの頭を撫でて宥めるに留め、だがその手の感触にかすみはすぐに表情を綻ばせる。

 

「そうだ。ふたりが戻ってきたら訊きたいコトがあったんだぁ」

「訊きたいコトですかぁ?」

「うん。……ふたりはさ、どんなライブがしたい?」

 

 ライブ。問い自体は唐突で話が見えないが、この状況で全く察しがつかぬふたりではなかった。彼らが少し離れた所で会話をしている間、テーブルの側ではそういった話題が展開されていたのだろう。元よりこの合宿はそういった話し合いも趣旨のひとつであったのだから、自然な事ではある。看過できない一点を除いては。

 

 そしてかすみは名実ともにスクールアイドルであるからにはその問いに即答できぬ筈もなく、片手を侑の肩に置いたままもう一方の手を振り、小さく飛び跳ねる。

 

「はいはーい! それならかすみんは決まってます! かすみんのめちゃカワパワーで会場を夢中(メロメロ)にする! これに尽きます!」

「うんうん! かすみちゃんの可愛さ全開のステージ……想像するだけでも、トキめいちゃうよ!

 じゃあ、次はさいちゃんの番だね!」

 

 まるで、それがごく自然であるかのように侑は彩歌にもその問いを向ける。彼女だけではない。かすみや、彼らの話に気づいたせつ菜らも彼に侑と同等の視線を向けている。──だが、彩歌はそれに無言で自己完結できない。

 

 難儀な性分であるとは、彩歌自身も自覚している。けれど、彼は何より責任を重視するが故に。思い詰めているというのではない。ただその問いに答えるには、何もかも足りないものがある気がして。

 

「いいのかい? 俺はスクールアイドルじゃない。それどころか、書類上は正式な部員ですらないのに」

 

 事実、彩歌はスクールアイドルに要求される技術を有してはいる。歌唱力についてはLtuberとして一定の人気を獲得する程であるし、ダンスも元トップアイドルである陽彩の薫陶を受けているのだ。作詞と作曲も自らできるというのだから、十全以上であるとさえ言えよう。

 

 それでも、真野彩歌はスクールアイドルではない。それは他でもない、自認の問題だ。人はいくら(ひかり)に手を伸ばしても、星にはなれない。可能である事と、それである事には大きな隔たりがあるのだ。

 

 拒絶とも自嘲ともつかない彩歌の言葉を受け、きょとんとする侑。頤に手を遣って何かを考え込むようで、しかし逡巡は一瞬であった。片手の握り拳でもう一方の手を打つ。

 

「そうだった! でも、うん。()()()()()忘れちゃうくらい、私がさいちゃんのステージも見てみたいんだ。体験入部の初日……ううん、きっと、さいちゃんの歌を聴いた、あの日から! 私はずっと、そう思ってる」

「────」

 

 あまりにも明朗たる宣言であった。緑玉の如く輝きを放つ大きな瞳は真っ向から彩歌を見据え、故に彼は目を逸らせない。侑が纏う不可視の光輝を満身に浴びてしまえば、背信できる者がいる筈も無い。

 

 或いは都合が良すぎる物言いと、切って捨てられ得る言葉。それでも彩歌がそれを信じられると直感できたのは、高咲侑がそういう少女だから、と言う他ない。トキメキの表明において彼女は嘘を吐かないと、彼は既に知っている。

 

 今日に至るまでの4年間において彩歌が何を思って音楽を続けてきたか、最早知らぬ侑ではない。だが知った上でもなお、彼女は云うのだ。それでも、と。彩歌の歌にも、さっちゃんのピアノにも、彼女はトキメキを感じた。それもまた、紛れも無い事実なのだから。

 

 ようやく忘我より復帰した彩歌が周囲を見てみれば、皆が侑と同質の瞳で見ているのが分かる。歩夢を除けば彼女らは〝あの日〟について何も知らず、せつ菜以外は彼のルーツを知らない。だがこの数週間、彼が全霊を練習に注いでいた事だけは、皆が知っている。それだけで理由としては十分であり、彩歌が小さく笑んだ。

 

「……殺し文句だな」

 

 彼が抱える罪業を知った上でそれでもと言われてしまえば、真野彩歌という少年はそれを拒否する事はできない。それは自身の過去とその選択を否定するのと同義であるのだから。

 

 全てを無条件に肯定するのではなく、さりとて否定するのでもない。ただそれもよしとする受容がそこにある全てであり、だがこれ以上に幸福なことを彩歌は知らなかった。白黒つけるというのではなく、中庸。与えられて初めて彼はそれが己に足りなかったのだと気づき、笑みに自嘲が混じる。

 

 そしてそう言われたからには、彩歌に残された選択肢はひとつだ。胸の内に広がる無明へと手を伸ばし、だが答えは伸ばしきるまでもなくすぐそこだ。届いた訳ではないけれど、それは無明の中にあっても燦然と輝いているものだから、手を伸ばしたくなってしまう。まるで、夜空に浮かぶ星のように。

 

「俺は……俺は、皆を笑顔にしたい。歌でも、ピアノでも、変わらない。俺は俺の音楽で、皆を笑顔にしたい! それが───俺の、夢だから」

 

 嘗て、彩歌はそれを義務だと言った。母の命と引き換えに自分は生きたというのなら、それを果たさなければならないのだと。だが、それを義務といったのはそもそも何故であるのか。きっと、夢を殺そうとしても殺しきれなかったからなのだ。

 

 あまりにも具体性に欠けた夢であるとは、彩歌自身も自覚している。だがそれが正直な気持ちであるからには同好会の人々が否定する筈もなく、侑が頷きを返した。そうして首を巡らせ、皆をもう一度見遣る。

 

 自分の大好きを叫ぶステージ。或いは自分の魅力で会場を夢中にするステージ。断言たる自己表現のステージ。中継で皆と繋がるステージ。ダジャレをぶちかますステージ。皆で手を繋ぐステージ。リラックスするステージ。以前のライブ以上に全力のステージ。胸がいっぱいになるステージ。そして、自分の音楽で皆を笑顔にするステージ。

 

 あまりにも統一感の無い、あまりにもそれぞれの個性に満ち満ちた在りようだ。だが、何故だろうか。侑が描いたヴィジョンはまるで虹のように輝いていて、故に万感の思いが零れるかのように、彼女は言葉を漏らした。

 

「皆のライブ……きっと、凄いステージになるだろうなぁ……!」



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