ネメアの獅子 (西風 そら)
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月の子星の子
1・庭園


いらして頂きありがとうございます
全21話・約10万文字で完結済








 夕暮れの草原を風が渡る。

 たなびく草波を駆けるのは、この国には珍しい連銭美しい葦毛馬。

 

 馬上はこれまたこの国には珍しい、淡い栗毛の男の子。

 夕陽を受けて茜に染まる前髪の下の瞳は、青より薄い『はなだ色』。

 外国(とつくに)よりの旅人かと思いきや、歴としたこの国の王族の一員。

 

 丘の一つを越えると、眼下に古い街が広がる。

 昔王都だった時代は、立派な外壁に護られ栄えていたが、今は簡単な関があるだけで、それも形だけだ。

 大分前に、都はもう少し南東・・侵攻中の隣国寄りに遷都された。

 それに伴い、王族は古い街を捨て、新しい都に移り住む。

 一部の『物好き』を除いて。

 

 街の中央の城跡はほぼ廃虚。

 葦毛の騎馬は、水が枯れて久しい噴水広場を通過して、慣れた足取りで、城の裏手に通じる細い路地に入った。

 ひび割れた煉瓦壁の向こう、昔の後宮の跡地に、そこだけ人の手の入った緑の垣根がある。

 

 下馬して木戸を押すと、とりどりの野ばらが野放図に広がる、鮮彩色の空間。

 奥には、夕陽に陰を落とす数本の蜜柑の大木。今は白い花が真っ盛りだ。

 

 庭園の中央、ひときわ明るい芝生に、揺り椅子から立ち上がる影がある。

 男の子と同じ淡栗毛を長く結った、品の良い老婦人。

 この庭の主、現王モンテの母、ソルカ妃。

 

「まあ、シリギ殿。またこんな片田舎まで。お母様に許しを頂いて来たのですか?」

 言いながらも、気に入りの孫の来訪に嬉し気だ。

 

「手紙を置いて来た。いいんだよ、あの人達。兄様達が居れば」

 シリギと呼ばれた男の子は憮然と答え、庭の隅の定位置へ馬を繋ぎに行く。

 

「またそんな……」

 子や孫は数居るけれど、異国の血を引く自分の髪色を受け取ったのは、長子の所のこの四男坊だけだ。しかし祖母が特別にこの子供を気に掛けるのは、その為だけではない。

 

「お祖母様、またなんだ、またおかしな事になったの!」

 男の子は、馬具を外すや挨拶もそこそこに、駆け寄って喋り出した。

「僕には見えているのに、皆そんなの見えない居ないって馬鹿にするの」

 

「…………」

 老婦人は小さく息を吐いた。

 それを訴える為に、月に何度もこの子は馬で半日駆けてやって来る。

 手を引いて小さなガーデンチェストに座らせ、ただ一人の侍女を呼んで飲み物を運ばせる。

 

「シリギ殿、前々から言っていますよね。貴方に見えるからといって、皆にも見えるとは限らないのです。そういうモノって世の中にあるんです。でも皆々に可愛がられ平穏に暮らすには、人と違う所は主張してはならないの。皆と同じでいる方が、幸せに生きられるでしょう?」

 

「なんでっ!」

 男の子は声を張る。

「そこに居るのに、見えているのに。青い髪のヒトが空飛ぶ馬に乗って雲の上まで飛んで行くのが!」

 

「シリギ殿、だから……」

 

「お祖母様は信じてくれたじゃない。昔からお祖母様だけが、嘘を言うなって叱らなかった。ねえ本当の事を言って。お祖母様にも見えているんじゃないの? 見えていて、平穏に暮らす為に黙っているんでしょ」

 

 婦人は困った眉を寄せた。

(見る事が出来たらどんなに素晴らしかった事か……)

 

「小さい時はチラリチラリだったのに、最近どんどん見える時間が長くなって、ずうっと目で追えるまでになってる。今日なんて風切り音まで聞こえたんだよ。他の人が見えないからって、無い事になんか出来ないよ」

 

 この間までは優しく慰めるだけで誤魔化せていたものを、もうそれでは駄目なのだろうか。

 子供というのはいつの間にこんなに自我を持つ物なのか。

 夫人は溜め息ひとつ付き、背筋を伸ばして男の子に向き直った。

 

「シリギ殿、貴方幾つになりました?」

「先月十一になりました、お祖母様」

「そう……来年には私がこの街に来た歳ですね」

 

 婦人は白い花が清く香る大木を見上げた。

「あの時持って来た蜜柑の苗がこんなに大きくなったのだから、本当に大昔ね」

「お祖母様?」

 

「ええ、逢った事がありますとも、私も。蒼い妖精に」

 

 目を見張る子供の前で、婦人はゆっくりと語り始めた。

 遠い昔の淡い記憶………

 

 

 ***

 

 

 山沿いの小さな里で育った村娘ソルカは、ひょんな事から、村を襲った『赤い悪魔』の馬を助けた。

 そしてまたひょんな事から、その少年悪魔と『何があってもお互いを信じる』という誓いを立てた。

 異国人だった母の形見の蜜柑の木の枝だけを携え、彼に付いて村を出た。

 少年は悪魔などではなく、この国の偉大なる大ハーンの四番目の皇子だと知ったのは、王都に到着してからだった。

 

 

  ……‥‥・・・

 

「まるでお伽噺みたいでしょう?」

 祖母は目尻にシワを寄せた。

 

「いやちょっと待って……」

 いきなり始まった話が、遠回り且つ盛り沢山過ぎて、シリギは面食らっている。

 

 偉大なる大ハーン……この国の始礎を築いた、今も神と崇められいる曾祖父の話はよく聞かされているが、祖母のそんなエピソードは初めて聞いた。 

 

  ・・・‥‥……

 

 

 皇子の侍従として暮らし始めたある日、皇子が改まって申し出てきた。

「俺の血を分けた母親を、ソルカには知っていて貰いたい」

 

 側室の貴卑にあまり拘らない大ハーンなのに、彼の母親だけは表に出さず詮索をピシャリと退けていた。表向きは正妃ヴォルテの四男と治めていたが、誰が見たって明らかに違う。

 だってこの皇子は……

 

 

   ……‥‥・・・

 

「炎のように真っ赤な髪に、獣のように瞳孔が縦に割れた銀の瞳をしていたの」

「ふぇっ」

 シリギは変な声を上げた。それこそ初めて聞いた。

 偉大なる大ハーンの話は耳にタコが出来るほど聞かされているのに、彼の右腕として多大な功績を治めていた筈の第四皇子の私事となると、皆一様に口を閉ざすのだ。

 まるでタブーにでもなっているかのように。

 化け物染みた者だったとチラと聞いた事はあるが、まさか外見からしてそうだったとは。

 

   ・・・‥‥……

 

 

 庭で根付きかけた蜜柑の苗の一本を携え、王都のすぐ側の西の森へ誘われた。

 皇子は黒鹿毛、ソルカは尾花栗毛に乗って。

 

 後宮でもなく、こんな郊外の森の中に住まわせているなんて。

 馬に揺られながら、少女のソルカは胸のザワ付きを押さえられなかった。

 

 木立を抜けると少しの広場があり、色褪せた小さなパオがひとつ。

 皇子は広場の真ん中に立って声を上げる。

「母さん、前から話していたソルカを連れて来たよ」

 

 少女の胸のザワ付きはドキンドキンに変わっていた。

 どんな女性が出てくるのか。

 やはり赤い髪なのか。

 そもそも人間なのか。

 けれど、『何があってもお互いを信じる』と誓っている。

 そうだ自分で決めたんだ。このヒトが何から生まれていようと受け入れよう。

 

 

   ……‥‥・・・

 

「そ、それでお祖母様、そのヒトに会ったの? 人間と違った?」

 孫の質問に、祖母は口を結んでゆっくりと首を振った。

「会ったと言えば会ったのです。けれど……姿を見る事は出来なかったの」

 

   ・・・‥‥……

 

 

 木立の明るい所に、確かにそのヒトは立っているという。

 ソルカの方を見て微笑んでいると。

 でも、どんなに目を凝らしても見えない、声も聞こえない。

 正直にそう言うと、皇子は八重歯を見せて苦笑いした。

 

「妖精なんだ、俺の母さん」

 

「…………」

 

「俺の頭がおかしいと思う?」

 

 ソルカは頭をブンブン振った。

 どうしたら、信じているという事を信じて貰えるだろう。

 ふと、持って来た蜜柑の苗木に目が行った。

 見回して、丁度良い日向を見付け、慌てて穴を掘り始めた、

 

「この木が健やかに育てば、ここに住まう方の心根のお優しさを、私もこの目で見る事が出来ます」

 皇子は目を丸くし、それから穴堀りを手伝ってくれた。

 

 妖精は姿を隠している訳ではない。

 人間の意識にある世界と、少し波長のずれた存在なのだ。

 同じ場所同じ空間に居るのだが、波長が違って、見えない触れない。

 

 ただ、たまに波長の合う人間がいる。

 大概が血筋で、一説によると、祖先に妖精の血が入っているからだと。

 皇子の父王もその父も、代々妖精が見えていたらしい。

 

「上手く説明出来ないけれど、まあそんな感じ」

 植え終えた木に水をかけながら、皇子は教えてくれた。

「母さんは、子供の頃に親父と知り合ったんだってさ」

 

 その辺は詳しく教えて貰えなかったけれど、きっと吟遊詩人の語る物語のように素敵な大恋愛だったのではと、少女のソルカは勝手に想像した。

 

 母は、風と大地を司る『蒼の妖精』だという。

 空飛ぶ草の馬を駆り、戦場で王を助けたりしている、とも。

 

 別れ際、二人の前に立ち、手をかざして気の早い祝福をしてくれた(らしい)。

 ソルカには見えなかったけれど、額に確かな暖かさを感じる取る事が出来た。

 

 

  ……‥‥・・・

 

「蒼の妖精!!」

 シリギは叫んだ。

「そのヒトだ。僕が見ているのはきっとそのヒト達だよ。えええっ、お祖父様、妖精がお母さんだったの? じゃあ、僕に妖精が見えるのって、何もおかしくないじゃん。ね、その話、兄上達にも言ってよ」

 

「シリギ殿・・」

 婦人の雰囲気がすうっと変わった。

 静かな真顔になり、正面から孫を見据える。

「今、貴方にこのお話をしたのは、解って貰える程の大人になったと思えたからですよ」

 

「な、何を? 馬鹿にされても我慢して見えない振りしてる方が賢いって事?」

 

「違います、シリギ殿」

 ソルカ妃の眉間に影が入った。

 

  ・・・‥‥……

 

 

 ***

 

 

「俺の髪? ああ、これは『狼の呪い』」

 

 西の森からの帰り道、馬に揺られながら、皇子はソルカの質問に一つ一つ答えてくれた。

「昔、親父が王になる前、『欲望の赤い狼』って魔物に取り憑かれていて。それを諦めさせたのが俺の母さん。でも狼が去り際に、『次に生まれる子供に狼の呪いを』って術を掛けて行ったんだって。で、俺に当たっちゃったの」

「はぁ……」

 

 それって、父王のツケを自分が被らされているって事だよね……

 そんな重い話を事も無げに言う皇子に、ソルカは何と答えていいのか分からなかった。

 

「ソルカは嫌い?」

「いえ……猛々しく強そうで好きです」

「だろ。カッコイイって自分では気に入っているんだけどなあ」

 

 しかし、人間離れした赤い髪,銀の瞳に陰口が絶えない事も、ソルカは知っていた。

 

 代々人外の見える王の一族は、昔はそうやって日常的に人外と関わっていたらしい。

 偉大なる大ハーンが大陸を平定したのも、その父親がバラバラだった草原の氏族をまとめ上げたのも、蒼の妖精の助力ありきだったという。

 

 蒼の妖精はこの国の中央、草原大地の人外世界を統べる、古い一族。

 人間の世界が荒れたら人外世界も荒れる。

 だから彼らの裁量で、足りるだけの助けをしてくれるのだという。

 

 なのに、赤毛の皇子が生まれる以前、正妃ヴォルテにもその他多くの側室にも、妖精の見える子供は生まれなかった。

 

「だからさ、俺って親父達にとって特別な存在な訳。他の子供より偉いとかそんなんじゃなく。『役割を持って生を授かったんだから、その道から外れちゃいけない』って感じ。多分一生放棄出来ない」

 少年皇子は銀の瞳を伏せて口ごもりながら言った。

「そんな面倒くさい俺だけど……一緒になってくれない?」

 

 この人がどんな多難な人生を歩むか想像も出来ないけれど、ソルカは彼の支えになりたいと思った。

 ささやかな婚儀と共に、平民の少女は王室に入った。

 皇子自身が他者とあまり交流しなかったので、冷や水を被るような親戚付き合いはせずに済んだ。

 

 皇子は王と戦を共にする事が多かったけれど、妖精の母親も同道し、二人を守護していると聞いていたので、安心感はあった。

 小さな舘と庭園で、たまに帰る夫は大切にしてくれたし、幸せだったと思う。

 

 ただ……ソルカの子供も、他の王族にも、もう妖精が見える子供は現れなかった。

 

 偉大なる大ハーンが鬼籍に入り、しばらくしてから、皇子(その頃は赤毛の将軍と成っていたけれど)はポツリと言った。

「もう必要無いのかもしれない。妖精が見える子供も、妖精との繋がりも」

「それって……人間だけで平和な世界が築けるという事でしょうか?」

「だったらいいな」

 皇子は苦笑いを噛んだ。

 いまだ、亡き大ハーンの遺言を受け継いだ戦が続いている。

 

 助けてくれていた妖精が、人間に愛想をつかして見捨てるという筋もあるのだろうか。

 ソルカの不安を見透かすように、皇子は首を横に振った。

「妖精も自分達では決められない。彼らは『摂理』に従っているだけだから」

 

「摂理というのは、誰が決めているのですか?」

「さあ……神だとか大自然だとか、そういう奴じゃない? 知らないけれど。代々人間と繋がっていたのは必要だったからで、繋がりが切れるのは必要無くなったからでとか、そういうの。見える子供が居なくなったら自然に細くなって切れる、それには逆らえないんだって」

 

「…………」

「ややこしいだろ、いいよ、俺だって最初は分からなかった。いまだに自分の母親が理解出来なかったりするもん」

 

 そういう会話の後、戦の遠征先で、皇子は唐突に亡くなった。

 病死だとしか伝えられず、ソルカの元には僅かな遺髪しか戻らなかった。

 まだ死を考えるような年齢ではなかった。

 

 戦は続き、侵攻した土地寄りに王都は移って行ったけれど、ソルカは親族の勧めを断って、蜜柑の木の庭園に住み続けている。

 そうして二十年と少し…………

 

 

  ……‥‥・・・

 

「もう昔の妖精のお話も、幻だったかと私の中で薄らいでいたわ」

 婦人は更に強い目で正面をみつめる。

「シリギ殿、貴方が生まれるまで」

 

 

 ***

 

 

 シリギは頭がクラクラしている。

 今すごく一杯の事を聞かされた。多すぎて、処理しきれない。

 

「えっと? 摂理、役割り……?」

 

「貴方が摂理に沿って生まれたのなら、明確な役割があるという事です。戦は続き、国の膨張が早すぎて統治は行き渡らず土地は荒れ、王族は身内同士で一つの席を奪い合っている。妖精の望む平和な世ではないでしょう。何処かで貴方が必要とされる時が来ますね」

 

「えっ、えっ………ぇぇ」

 シリギは口をパクパクさせる。

 田舎で穏やかに隠遁している祖母が、国や王族に対してこんなシビアな口をきくなんて、思いもしなかった。

「そ、そんないきなり……どちらかと言うとその話、父上や叔父上達にするべきじゃ……」

 

「シリギ殿、大ハーンやお祖父様が何故妖精の事を親族に公にしなかったか、解ると思ったからお話ししたのですよ。『見えない者に信じる事は出来ない』のです」

 

「あ……ぅ……」

 

「私には政(まつりごと)は分からないし、妖精とお祖父様がどんな連絡を取っていたのかも知りません。お祖父様は本当に陰(かげ)に徹して国の為に尽力していらっしゃった。でも周囲はそうは思ってくれない。腹に何か持っているに違いないと、敵意を抱く者も少なくなかったでしょう。独りぼっちで険しい道です」

 

 そこまで一気に喋り、ソルカ妃は噛み締めるようにゆっくりと言った。

「妖精と繋がる責務を負うというのは、そういう事です」

 

 

 すっかり陽の落ちた庭園で、肩を落として俯く男の子。

 しばらく無言だった婦人は、ふっと頬の力を抜いた。

 

「だからね、シリギ殿。貴方に妖精が見える事、人間にも妖精にも、知られてはなりませんよ」

 

 シリギは目を見開いて顔を上げた。

 正面で、祖母はいつもの穏やかな表情に戻っている。

「私は貴方に、好きなように幸せに生きて欲しいのです」

 

 何も言葉を返せなかった。

 話してくれた事は壮大で深遠だったが、祖母はこれが言いたかったのだ。

 

 カンテラを持った侍女が現れ、夕食の用意が整った事を告げる。

 何事も無かったかのように、ソルカはシリギの手を取った。

「今日は泊まって行くでしょう。蜜柑の蜂蜜漬けがありますよ」

 

 

 食事の間、ソルカは新しいバラの話をし、侍女がそれを受けた。

 シリギは大人しく相づちを打っていたが、何かを考え込んでいた。

 

 客間のベッドで枕に頭を置いて、祖母がランタンを持って出て行こうとする時になって、その背にそっと声を掛ける。

「お祖父様のお母さん……もうこの世にいないの?」

 

 ソルカは静かに振り返る。

「……分からないのです。お祖父様が生きていらした頃は西の森で、お祖父様を通してお話したりしましたが。訃報を聞いた後何度か森へ行ってみたけれど、気配がまったく無くなっていたの。妖精は人間の何倍も長く生きるというし、役目を終えて帰るべき所へ帰ったのだと、思う事にしました」

 

「そう……」

 

「さあ、もう妖精のお話はおしまい。誰が聞いているか分かりませんからね」

 

「うん、おやすみなさい」

 

「おやすみ、偉大なる大ハーン・テムジン様のご加護を」

 

 

 

 

 

 

 

 




表紙絵:
【挿絵表示】


自分の書く歴史物は、年表の二次創作だと思っております。





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2・西の森

 

 月明かりが蜜柑の白い花を照らす。

 夏虫のコロコロという声の中、庭園の端、繋がれた葦毛に近付く者がいる。

 

「シィッ」

 愛馬の綱を引き、淡栗毛の男の子はバラの繁みをそっと歩いて、木戸を押した。

 

 そこからは乗馬し、寝静まった街を抜け、居眠りしている関の番人の横を通り過ぎて外へ出る。

 星が散らばる草原を西へ、西へ。目的地はそう、トルイの母が住処としていた西の森。

 

 お祖母様はああ言ってくれた。僕だって決められた役割なんて御免だ。

 だけれどどうしても一つだけ、ハッキリさせたい事がある。

 大ハーン・テムジンの第四皇子、僕の祖父、『トルイ』・・彼にまつわる噂話の真否を。

 

 

 月夜に黒くそびえる木々。

 西の森はすぐ見付かったが、荒れ果てツタが密生し、入って行ける道がない。

 大昔、大ハーンが鎮守の森として一般の立ち入りを禁じた触れが、まだ効いている。

 

「馬は無理か」

 シリギは葦毛を繋ぎ、小刀を抜いてツタを切りながら踏み込んだ。

 不思議な感覚だ。

 薮こぎには慣れていないし足元は真っ暗なのに、怖さは無く、バリバリと前へ進める。

 まるで勝手を知った場所みたいに。

 そして多分一度も迷わず、目的の広場に出る事が出来た。

 

 そこだけ空が抜けて、月がスポットライトのように照らしている。

 中央のボロボロの小さなパオを見て、胸がザワ付いた。

「本当にあった……」

 

 パオは完全に朽ちて傾き、とても誰かが住んでるような状態ではない。

 辺りも草ぼうぼうだが、一本だけ立派な蜜柑の木が立っている。

 庭園の木と同じに、白い花が月明かりに満開だ。

 

「蒼の妖精……」

 シリギはそおっと呟く。

「妖精さん、トルイのお母さん、もしも居るのなら、一つだけ教えて下さい。僕はトルイの孫のシリギです」

 

 森は微動だにしないし、パオもカタとも動かないが、シリギは続けた。

 

「僕の親族の間で、嫌な噂があるんだ。お祖父様の最期について。僕のお祖母様はきっとそれもあって、親族と距離を置いている。だから教えて下さい。お祖父様が亡くなった時、人間に見えない蒼の妖精のお母さんは、側に居たんでしょう?」

 

 思いなしか、蜜柑の木の天辺が、ザワと鳴った気がした。

 

「ねえ、お願い。それが分からないと、お祖父様と同じ能力を持つ僕だって、これからどうしたらいいのか分からないんだ」

 

 声は森の木々に吸い込まれるばかり。寸との反応も無い。

 

 シリギは我に返ってうんざりした。

 宛違いだった、バカみたい。そりゃ二十年も経っているんだものな。

 

 蜜柑の木に背を向け、立ち去ろうとした時……

 

 

 刹那、全身に鳥肌!!

「なに!?」

 

 ――ざわわ

 ざざざざ!!――

 

 風もないのに背後の蜜柑の木が大きく揺れた。

 

 月の光ってこんなに明るかったっけ!?

 

 次の瞬間、前方の藪から巨大な何かが立ち上がった。

 

 空気を震わす獣の咆哮!

 

 喉から心臓が飛び出しそうになった。

「と・・!!」

 虎! まっ黒い虎!

 いや虎って? 本当に虎?? 大き過ぎるんだけど!!

 

 何を考える余裕も無い。

 手にナイフを握っているけれど、こんなのでどうにかなる代物じゃない。

 ヘタリ込む意外何も出来なかった。

 

(絶対逃げられない。逃げられっこない。僕の人生こんなにあっけなく終わるの?)

 

 獣臭が濃くなり、熱い吐息が迫る。

 夢なら覚めて――!

 

 固く瞑った瞼の裏に、緑の閃光!

 

 ・・・

   ・・・

     静寂

 

 糊付けを剥がすように目を開くと、眼前に、地面に刺さった緑の槍。

 と、それに遮られるように動きが止まっている大虎。

 低く唸っているから生きてはいるが、見えない糸で縛られているように動かない。

 

 

「なあんだ……」

 

 棒読みの静かな声が響いた。

 

「キビタキと同じ能力って自分で言うから楽しみにしたのに、期待ハズレ……」

 

「?・・??」

 腰が抜けて立てないシリギは、ズリズリとお尻で這って虎から離れた。

 這いながら振り向いて、蜜柑の木を見上げる。

 声がした天辺は、ぼぅっと光って霞がかかったようにぼやけている。

 

「だっ、誰かいるの!?」

 シリギの問い掛けには答えず、無感情な声は別の誰かに話し掛けた。

 

「もういいよ、ユユ、稽古の続き……」

 

「はぁい」

 梢に響く小鳥のような声。

 

 天辺の枝がバウンドすると同時に、槍が消えて虎が動き出した。

 シリギの目の前に、白い何かが降って来る。

 

「破――邪――!!」

 

 眩し過ぎて、また目を閉じさせられた。

 

 ようよう目を開けると、小さな影が杖を掲げて、足を振り上げクルリと回って着地した所だった。

 一拍遅れて、黒虎だったモノの破片がカサカサと崩れ落ちる。

 

「……!」

 言葉が何も出て来ない。

 黒虎を倒したであろう者は、自分と同い歳位の女の子だった。

 白かったのは、彼女の裸足のふくらはぎ。

 夏の空かと思える明るい青色の巻き髪に、桃色の頬、自分と同じはなだ色の瞳……

 

 女の子は杖を腰に刺し、両膝に手を置いてシリギを覗き込んだ。

「あんた、大丈夫?」

 

「ユユ!!」

 樹上の声が咎める。

「お気軽に人間に関わるんじゃない。帰るぞ」

 

「はぁい」

 女の子は踵を返してポンと地面を蹴った。

 

 シリギはバネで弾かれたみたいに跳ね起きた。

 折角巡り逢った千載一遇のチャンス!

 これを逃したら、次の機会があるかなんて分からない。

 

 腰を抜かしている男の子にしがみ付かれるなんて思ってもいなかったようで、女の子はあっけなく地面に転がった。

「きゃあぁっ、何すんのよ!」

「お願いっ、行かないでっ」

 

 もがく女の子に地面で必死にしがみ着くシリギ。

 その前髪をかすめて、緑の槍がザクリと地面に刺さった。

 

「ひっ!」

 

 そお・・と見上げる眼前、眉間に怒りを滲ませた、異様に凄味のある男性が立っていた。

 吸い込まれるような水色の瞳、ダブダブの法衣に腰を越える長い髪、月光に煌めく翡翠色の羽根……はねっっ??

 

「ユユから、は・な・れ・ろ!!」

 

 女の子は緩んだ腕から逃れて、慌ててそのヒトに駆け寄った。

「ごめんなさい」

「迂闊だな、ユユ……減点」

 

 二人がまた去ってしまいそうなので、シリギは這いつくばったまま必死に叫んだ。

「ま、待って待って!! 僕、一つ聞きたいだけなんだ。トルイお祖父様は……身内の手に掛かって殺されたんですか? 妬まれて、嫉妬されて、毒を飲まされて」

 

 二人の妖精の顔の血の気がすぅっと引いた。

 

「そんな事……誰が言うの?」

 師匠より先に口出ししてしまった事にハッとして、女の子は罰悪そうに口をつぐんだ。

 

「ぼっ僕の親族だよ。伯父様達とか、兄様達とか、あと女性も……みんな言ってる」

 

「見て来た人はいないのよね?」

 またまた出喋った女の子の頭を、男性が無言で押さえた。

 

 少しの沈黙の後、有翼の男性はやっと口を開いた。

「それを、聞いて、どうする」

 最初と同じ、無感情な棒読みの声だった。

 

「え、えっと、だって、知っていたいじゃないですか。僕、何だかお祖父様と同じ役割を持って生まれて来ちゃったみたいだし」

 

「役割とは」

 

「な、なにか、一族の役に立つ為とか平和の為とか、そんなのじゃないんですか? いや、こっちが聞きたいぐらいだし。でもね、一所懸命役割を果たして、その挙句お祖父様みたいに妬まれて殺されたんじゃ割りに合わな……」

 

 ――ザグザグザグザグ!!――

 

 閃光と共に、無数の槍がシリギを囲んで突き立てられた。

「ひ・・」

 悲鳴は、眉間にピタリと突き付けられた槍の切っ先に止められた。

 

「キビタキを・・! 侮辱 す る な・・!!」

 

 怖い、物凄く怖い。

 全然分からない事だらけなのに、シリギはもう何も聞けなかった。

 

 でもでも、黙っていたらこの二人は去ってしまう。

 喋ると怒りを買う。

 どうしたらいいんだ……

 

 さっきから二人を見比べてドギマギしていた女の子が、そぉっと口を開いた。

「ね、カワセミ様。ほんの少し、この人を助けてあげてもいいかしら。だって、この人……」

 

「ユユ、修行中の身で他人の心配なんかしている暇があるか?」

 有翼の妖精は、女の子の申し出にも気持ちを動かされる様子はなかった。

 

「でも……」

 

「この子供は『やらない言い訳』を捜しているだけだ。構う価値も無い」

 

 シリギはぐっと詰まった。

 言っちゃえばそうなんだけれど……何もそんな言い方……

 

「先に上に行っていろ」

 折角手を差し伸べてくれようとした女の子は、木の上へ追いやられてしまった。

 

 カワセミと呼ばれた妖精は、地面に刺さった緑の槍を手で触れて消滅させながら、転がったままの男の子を見下ろした。

「凡庸に生きろ、誰も責めない」

 

「……僕には役割は無いんですか」

 

「自分で探す物だ。テムジンだってキビタキだって……巫女だって、誰にも頼らず自分で考えて答えを見付け出したんだ」

 

「…………」

 

「キミにやれとは言わん」

 無感情に言い放つと、妖精は羽根を広げて真上に飛び去った。

 シリギにはもう引き留める勇気はなかった。

 

 

 

 直後、来た道の薮が揺れた。

 息を切らしてそこに立っているのは、カンテラを掲げたソルカ妃。

 

「ああ、居てくれた……」

 藪がケープを鉤裂くのにも構わず、シリギに駆け寄る。

 

「ケガ、ケガはないですか? 光が見えて、恐ろしい音がして。どうしてこんな所へ来たの? 何があったの? 何をしていたの? ああ、そんな事はどうでもいいわ」

 

 暖かい手が背中に回る。

「貴方さえ無事ならいいんです」

 

 そのまましばらく無言のシリギを抱き締めて、そして、彼の肩を支えて顔を覗き込んだ。

「私が悪かったわ。脅かすような話をしてしまって。貴方にはまだ早かったわね。忘れなさい、心配しなくてもいいのよ。何があっても私が貴方を守りますからね」

 

 祖母の手の甲は森をくぐって傷だらけだった。それ以前にすごく薄くて細かった。

 唐突に・・混乱した頭の中に一つだけ、ハッキリとした声が響いた。

 

(違う、本当は僕がお祖母様を守らなきゃならないんだ)

 

 この人は、強がっているけれど、弱い。

 僕を守る力なんか無い。

 もしも僕に何か力が宿るなら、最低でもこの人ぐらい守れるようになりたい。

 

 初めて自分で、こうなりたいと思った。

 ああ、これが自分で考えるって事なのかな。

 

 

 

 木の上で立ち去らない師を、ユユは黙って見つめていた。

 

「ユユ」

「はい」

「一週間修行はお休み」

「はい」

 

「あの子供の助けになってやれ」

「はい。でも、どうして?」

 

 有翼の妖精の水色の瞳は、子供を伴って森を歩く老婦人を映していた。

 

「巫女の馬の、恩人だ……」

 

 

 

 西の森の外、祖母の乗って来た馬は、葦毛の隣に繋がれていた。

 美しい尾花栗毛のこの馬は、トルイと初めて会った日、ソルカが命を救った牝馬の子孫だ。

 

 あの後、トルイの姉の愛馬だと知らされたが、何故か主の元に戻さず、ソルカに譲られた。

 姉という人は何処に居るのかと尋(たず)ねたら、『風の神の巫女になった』と寂しそうに言うから、ソルカもそれ以上は聞かなかった。

 

 月の下、並んで歩く祖母と孫の二騎。

 さっきからソルカは請われるままに、トルイにまつわる取り留めのない話をしている。

 思えば、他人から見たらおかしな話が多いし、尾花栗毛の持ち主のトルイの姉の事など、親族の誰も知らなかった。

 

 だからソルカにしてもこんなに沢山話したのは初めてで、ついつい饒舌になっていた。

 トルイが剣を掲げて雷を呼んだ事、『赤い悪魔』を名乗ったけれど本当は、風の神の告知を受けてソルカの村を救いに来た事、母親から聞いたという妖精達の日常の話……

 お伽噺みたいな話でも、シリギがあまり驚かず受け入れているからかもしれない。

 

 月に照らされる表情も何だか違う。

 この数時間でこの子に何かあったのだろうか?

 

 街の入り口が近付いた頃、今度はシリギが口を開いた。

 

「お祖母様」

「なあに?」

「帰ったら、母に手紙を書きます。暫くお祖母様の所でやっかいになると」

「え? それはいいですけれど……」

 

「僕、行きたい所があるんです」

「お母上に嘘を吐(つ)くんですか?」

「お祖母様は知らない事にして下さい。僕、自分の力で探さなきゃならない事がある」

「……………」

 

「すみません」

「……分かりました。でもけして無理はしないで下さいね。」

 

 頑固で言い出したら聞かない所は、ちょっとあの人を思い出させる。

 祖母は尾花栗毛の背で、その日三度目の溜め息を吐いた。

 

 

 

 

 



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3・金の鈴

 

 

   

 

 初夏の緑の中に、黄色い花が帯のように広がっている。

 北の草原の台地。

 

 灌木の林にシリギの淡栗毛がのぞく。

 隠れてるつもりで、上空からは丸見えなんだが。

 

 一昨日の昼から、彼はずっとここで張っている。

 ソルカ妃の記憶の中の、トルイが語った妖精の里。

 色々繋ぎ合わせて、だいたいここだと目星を付けた。

 割りと正解だったみたい。

 

 日に何度も空に草の馬を見かける。

 その度に葦毛を駆って追い掛けるのだが、どうしても途中でフイと見えなくなる。

 

「人間には近寄れない世界なのかなぁ? でも僕の取り柄って妖精が見えるだけだし……」

 

 そう、シリギは今一度妖精との接触に挑戦してみる事にしたのだ。出来ればトルイの母親に。

 だってやっぱりどうしても、自分一人では分からない事が多すぎる。

 っていうか、何一つ分からない。

 

 そもそも自分で考えろって、一人ぼっちの僕には無理くない? 

 お祖父様には妖精の母親がいたし、大ハーンはもっと多くの人外の知り合いに囲まれていた(らしい)。出発点が違うじゃないか。

 ハンデがあるんだから、ヒントの一つぐらい求めに来たって、恥ずかしくはないと思うっ。

 

 という訳で、シリギがここで張っているのは半分腹立ち紛れでもある。

 自覚していないが彼がトルイから受け継いだ物は、『妖精が見える』以外に『頑固』というのもある。

 だって放って置こうと思えば、祖母の言う通り、放って置く事も出来るのだ。

 何もしないで、『役割』とか無視して生きた方が楽に決まっている。

 

(でも……)

 月明かりの下の、羽根の妖精の怒りに満ちた目を思い出す。

 自分はきっと、大切な事を知らないんだ。知って置かなきゃならない大切な事を。

 

「とにかく何が何でも、何かが進展するまで、蛇のように粘ってやる」

 

 

 

 

「そんなに粘られても困るんだけれど……」

 こちらはシリギの後方の落葉松のてっぺん。

 二本突き出た両側の枝に、二人の妖精。

 

「カワセミ長が、『あの子供の件はユユに一任しているから手を出すな』って通達しているもんで、苦情が殺到してんだ。目障りだって」

「…………」

 

 一人は真っ直ぐな髪を肩で切り揃えた男の子。

 もう一人は先日の空色の巻き髪の女の子。

 顔立ちが微妙に似ているから兄妹っぽい。

 

「何とかしろよ、ユユが中途半端に構おうとしたせいだろ」

「だって」

「どうせあの子は妖精が見えるんだから、手っ取り早くユユが行って、何が知りたいのか聞いて教えてやれば済む話だろ」

「でもね、ナナ」

「『だって』と『でも』は無しにしなさいって、この間父上に叱られた所だろう」

 

「だってだってでもでもでもでも! はいどうぞって答えをあげる事は、あの子の為になるのかしら。あの子の望んでいるのはそんなのじゃない。ううん、あの子は言葉で言う答えじゃなくて、もっと別のモノを欲しがっているのよ」

 

「そんな悠長にやってたら、カワセミ長に貰った一週間なんてあっと言う間だぞ」

「うう……」

「僕はもう行くぞ。ノスリ長に呼ばれているんだ」

「待って、ナナ」

 

 ユユは手を伸ばして、空中の馬を呼ぼうとしたナナの手首を掴まえた。

「要するにね、あの子は『自力で何とかする』って達成感が欲しいのよ。じゃあ、アタシが何か借りを作ってあげれば、アタシの助けを正々堂々受け取れるんじゃないかしら」

 

「……それで?」

 ナナはイヤ~な予感がしながら、一応聞いた。

 妹がこういう理屈をこね出す時は、絶対ロクでもない事に巻き込まれるのだ。

 

「例えばよ、か弱い女の子が悪漢に襲われている所を助ける、とか」

「僕、行かなきゃ」

「待ちなさいよ、ナナだってチョイと作れば悪者らしくなれるって」

「そんな下品な事出来るか! 離せ!」

「健気で可愛い妹がこんなに頼んでんのに!」

「そんな代物何処に居るんだ? はーなーせ――!」

 

 二人はもつれ合って落葉松の枝から足を踏み外した。

「わっ!!」

「キャ!!」

 

 風の妖精なら勿論その位平気だ。風で自分の体重を支える事が出来るから。

 二人は同時に風を呼び……

 そしてそれは丁度逆方向同士から来て、ぶつかってキレイに相殺された。

 この双子は時々こういう天文学的確率のドジをやらかす。

 

「ユユ、このバカ~~!!」

「きゃゃあぁぁあ~~!!」

 ――ばきばきばきばき――どさ!!

 

 落葉松の木の根元でもつれ合ってノビている三人…………

 ……ん? さんにん??

 

 木の上で揉めていた二人は、地上の男の子にとっくに気付かれていた。

 そして話し声を辿って木の根元に来た彼は、見事に枝を突き破って落っこちて来た二人の下敷きになった。

 

 ・・・

  ・・・・・

「う゛~~~・・」

 

 シリギは意識を取り戻した。

 頭がズクンズクンする。

 

「あ、あ、まだ動くな。頭をぶつけちまってるからな。もうちょい目を閉じていろ」

 

 大人の男性の声がして、視界が大きな掌(てのひら)に覆われた。

 払い除けて見たい衝動に駈られたが、ここは素直に従って置こうと思った。

 

 どうやら柔らかい草の上に寝かされているようで、周囲に複数のヒトの気配がする。

 

「ユユがバカな事言い出すから……」

「うう、ごめん。でも、ナナだって……」

 さっき樹上で揉めていた二人の子供の声。片方は西の森で会った子だ。

 

「だってもアサッテもない! キミら二人、おかしな力が働いて、ボクにも予知出来ない危険が起こるんだ。二人同時に魔法を使うなって口を酸っぱくして言ってあったろ!!」

 これは、同じく西の森で会った、羽根のヒトの声だ。確か、名前は……

 

「おぉい、カワセミ、そっちは後で説教しておくから、この子の治癒を頼むわ」

「何でボクが……」

「大長の指示だろうが」

「チッ」

 

 思いっきりの舌打ちが耳に入った後、シリギの頭に別の掌が置かれた。

 最初の掌より小さくて骨張っていた。

 

「頭はコブ一個だな、問題無い。それよりこっちだ」

 

「ひぃいい!!」

 右足首を掴まれた瞬間、シリギは痛みで身体が剃り返った。

 

「折れてるな」

「折れてるか」

「痛いです痛いですってば!」

 

「痛いか?」

「痛いから痛いって……あれ?」

 足首の中がモニョモニョして、最初の鋭い痛みはマシになった。

「すごい!」

 

「調子に乗るな。キミの身体じゃ術が通らん。まあ骨を接ぐ程度まではやってやるから、後は人間の治癒力で治せ」

「はい、あのぉ……」

「ボクは何も知らん。知っていてもキミに答える筋合いは無い」

 

「お祖母様に聞いた、昔、お祖母様の村にトルイが来た時の話。村を助けたトルイにお礼を言ったら、『カワセミが予知を伝えてくれたお陰だよ』って言ったって。貴方、そのカワセミさんなの?」

 

「…………」

 一同黙っている。

 目を塞がれているので表情が見えない。

 

「だったらどうなの?」

 つっけんどんなカワセミの声。

 

「お礼、言いたい」

「村を救ってくれて有難うって?」

 

「お祖母様を助けてくれてありがとう」

 

 ふっ・・と、静かになった。

 目を塞いでいた掌もいきなり消えた。

 

 周囲には誰も居なかった。

 今しがたまであんなに何人もの気配がしていたのに。

 

 ・・・なんなんだよ・・・

 

 シリギは上半身起こした。

「痛!!」

 右足を見ると、ズボンがまくり上げられ、足首に布がしっかり巻かれている。

 何の膏薬を塗ってくれたか、凄い臭いだ。

 

「あーあ……」

 折角妖精達に会えたのに、何も聞かなかった。

 見当違いな事のお礼を言っただけ。トンでもないマヌケっぷり。

 自分を蹴りたい、蹴れないけど。

 

 背後で吐息がして、慌てて振り向いたが自分の馬だった。

 がっかりしながらも、自分を気遣ってくれる鼻面を撫でる。

 

 妖精は人間が嫌いなのか? そうでもないよな、手当てしてくれたし。

 でも何か、僕らとは違った掟や常識がありそうだなぁ。

 そんな事を考えながら葦毛を見て、ある一点に釘付けになった。

 

 灰色の連銭模様の首の付け根に革ひもが掛けられ、見覚えのない金の鈴が付いている。

 

 シリギは葦毛の肩に掴まって立ち上がり、その鈴を手に取った。

 子供の拳ほどの大きさで、燻し金の表面一面に、見た事もない文字が細かくびっしり彫り込まれている。

 

「お前、これ、どうしたの?」

 馬はいつもと変わらない瞬きで主を見る。そして前掻きをして、身体を前後に揺すった。

 

「……乗るの? お前、もしかして、『行き先』を教わったのっ?」

 

 葦毛はまるで頷くように首を上下に振るった。

 

 

 ***

 

 

 葦毛は文字通り飛ぶように駆けた。

 一掻きが普段より遥かに大きく、景色が流れるように飛んで行く。

 

 馬上のシリギは心踊らせながらその飛翔感を楽しんでいた。

 鈴の音がチリチリ響き、馬の四肢に意思を伝えて何処かへ導いているようだ。

 

「何か教えてくれる、誰かの所へ運んでくれるのかしら?」

 何だよ、やっぱり妖精、親切じゃん。勿体振るのが様式美なのかな。

 

 

 何時間か駆けて辿り着いた場所は、しかしシリギの期待を満たしてはくれなかった。

 

「え……と……」

 葦毛が止まって一歩も動かなくなった場所は、周囲に人家も無い荒野だった。

 草原の外れの国境近く、すぐそこの山脈の向こうは隣国だ。

 

「お前、本当にここでいいのか?」

 葦毛は真っ黒い目でシリギを見つめ、フルルと唸る。こいつが喋れたらいいのに……

 

 じき夕暮れで真っ暗になる。

 シリギは決意した。

 足を引きずりながら、白蝋化した木切れを集めて焚き火を作り、馬が止まったその場所に座り込んだ。

 

 何のヒントも無い。この場所に導かれたという事実だけ。

 ならここに居座ってやる。

 頑固者の本領発揮だ。

 

 細々と焚き火を燃しながら、祖母が持たせてくれた干餅をかじる。

 誰が来る訳で無し、何が起こる訳で無し。

 

「まさか」

 考えたくなかったけどやっぱり……

(僕が目障りだから追い払っただけ?)

 

 そう思うと、落ち込みと自己嫌悪がいっぺんに来た。

 僕、何をやってんだろ。

 誰も喜ばない。誰の相手にもされない。勝手に突っ張って、お祖母様に心配をかけて。

 

 丸くなって地面に転がった。

「あーあ……」

 目を閉じて、冷たい地べたが頬に触る。

 

 

 次の瞬間、目の裏を上から下へ、原色の色彩が流れる。

 意識がガクンと墜ちる。

 眠りに落ちる?……のとは、違う、何か変?

 

 

 真っ白な天井の立派な天幕。

 戦の時に陣地に張られるようなアレだ。

 え? ここ何処?

 粗末な野営をしていた筈なのに。

 シリギは一所懸命意識を整えようとした。

 

 身体は立っていると思うのだが、何か高い。

 目の前の葡萄酒の盃は、多分自分の右手が持っていて、ぼおっとそれを眺めている。

 水面の揺らめきが収まった時、そこに映る自分の顔が見えた。

 

(だ、誰っ!?)

 

 自分じゃない、大人の男の人!?

 紫の液体の中、異様にランランと光る、銀・の・瞳・・

 

(ええええ――ーっ!!)

 

 

 ヒュウッと身体が引っ張られる。

 目を開けると、天幕は消えていた。

 

 元の荒れ地の細い焚き火。

 心許なくマントにくるまる自分。

 

「今の……」

 夢じゃないよな、リアル過ぎた。

 もう一度、見られるだろうか。

 頬を地面に付けてみたが、もうあの感覚には入れなかった。

「やっぱり夢だったのかな。そうだよな。そうそう都合よく何かが起こる訳ないって……」

 

 

――・・トルイ・・――

 

 シリギは跳ね起きた。

 まだ眠ってないよ、眠ってないってば。

 

 視界に足が見え、いつの間に、焚き火の向こうに男の人が立っている。

 

「だだだ、誰だれダレ!?」

 

 こんな荒野にいきなり現れるなんて、よく考えなくてもまともな人間じゃない。

 身分はありそうな立派な胴鎧。

 でも顔が土気色。

 目は落ち窪んで光が無く、肩が不自然にユラユラ揺れている。

 

――トルイ……今回の戦、金軍を退けたのはお前の力、お前の功績だと、皆が称えるのだ――

 

 読経を唸るような声。男性は一歩二歩とシリギに歩み寄る。

 背筋が泡立った。

 焚き火に照らされてそのヒトははっきり見えるのに、影が出来ないのだ。

 

――お前は何故王位を辞退した。埋め合わせに即位させられた俺の気持ちなど、お前には永遠に分からぬだろう――

 

「ちょっ、まっ……僕、トルイと違うし……」

 

――父上はいつでもお前を側に置きたがった。お前は兄弟の中で何もかも独り占めにしていたんだ。母上がどんな気持ちで居らしたか。もう沢山だ!!――

 

 男性は速度を早め、躊躇無く焚火に足を踏み入れる。

 何かが焦げる臭いがする。

 しかし彼は表情ひとつ変えず、灰色の手をシリギの首に伸ばして来た。

 

「ひっ」

 逃れたいのに足が動かない。

 冷たい指が喉に触れた瞬間、爪先まで悪寒が走った。

 

 あ、目の前真っ暗・・・

 

 

 と思った瞬間、翡翠色の閃光が走った。一度経験した光。

 

 喉の冷たい手は離れ、足の呪縛が解けた・・瞬間、すっ転んだ。

「ゴォホッ、ゲホゲホゴホ」

 地面でひとしきり咳き込んで、目を上げると、白い二本の素足が立っている。

 

「下がってて!」

 シリギに背を向けて、庇うように立ち塞がるのは、あの空色の巻き髪の女の子。

 

 その向こう、吹っ飛ばされて立ち上がろうともがく、手も足も無い灰色の生き物。

 さっきまでは人間の形だった。

 

 女の子はもう一度杖を掲げる。

「ヒトの情念を餌にカタチを謀(たばか)ったモノ、清浄な風により塵へ還れ・・破邪!」

 

 今一度、翡翠色が辺りを包んだ。

 

 光が治まると、灰色の生き物は消えていた。

「んん?」

 女の子はちょっと首を傾げて、杖を腰に差した。

 

「やっつけたの?」

「……と、思う……」

 

 何だか自信無さ気だが、女の子は気を取り直すようにシリギに向き直った。

 片手を胸に当て、両足を揃えてピョコンとお辞儀をする。

「アタシ、ユユ」

 

「あ、ああ……僕はシリギ。あの、ユユ……っって、痛ぁっ!」

 安心した途端、足の痛みが全身に走って、シリギは尻もちを付いた。

 化け物と対峙している時は痛みなんか感じなかった。

 

「ああ、そう、半端にしか治らなかったのよね。痛い? わよね」

 女の子は屈んで、脚の布を外して丁寧に巻き直し始めた。

 

(優しそうなこの子なら、きっと色々教えてくれる、よし、まずは……)

 

「あっ、まずはお礼だわ!」

 シリギが口を開きかけた所で、女の子が急に顔を上げた。

 物凄く近くで目が合う。

 睫毛も空色の、真ん丸な、澄んだ澄んだ瞳……

 

「あのね、アタシもナナも無傷なの。あんたが下敷きになって衝撃をみんな引き受けてくれたお陰で」

「あ、ああ、そう……」

 ただ避けきれなかっただけなのだが。

 

「ありがとう、ナナの分もありがとう」

 女の子は律儀に二人分のお辞儀をした。

 

「みんな、ノスリ様もカワセミ様も、感謝を示したかったんだけれど、何をするのがあんたに『良い』のか、分からなかったの」

「……そう……なの?」

 分からないってどういう事? 僕はただ、色々教えて貰いたいだけなのに。

 

「それで、馬に、術の掛かった鈴を持たせたの。今のあんたに一番必要な場所に導くようにと」

 必要な場所……この何もなさそうな荒れ地が?

 

「ここ、何処なの?」

 シリギはこの地に来た時からの疑問をぶつけた。

 

「えっ?!」

 女の子は意外な顔をした。

「あんたは、分かっていて、ここで野営を始めたんだと思ってた」

「知らないよ。馬が勝手に来たんだもの」

 

「そっか……あんたが何か確信を持って野営をしている感じだったから、邪魔をしちゃいけないと思って、隠れて待っていたの。でも、あんたはここが何処なのかも知らなかったのか」

「うん、知らない。ねえ教えてよ。ここ何処なの?」

 

 女の子は息を吐いて、焚き火の炎を見据えたまま答える。

「昔、あの山の金軍を退けたトルイの軍が、兄王オゴデイの軍と合流した、野営地……」

「それって……」

 

「トルイの最期の土地」

 女の子はシリギが座り込んでいる場所を指差す。

 

「そこでトルイは倒れていたの」

 

 

 

 

 

 



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4・焚火

「えっえっえっ……!!」

 シリギは飛び退きたかったが、脚を押さえられている。

「巻き終わるまで動いちゃダメよ」

 

 二十何年も昔の事だ。痕跡なんかある筈もない。

 

「どうして此処に来たのかなんて、鈴を作った大長様にすら分からないと思う。此処の場所を選んだのはあんただもの。でも、あの魔物に会う為ではないと思うけれど。嫌よね地霊、アタシ大ッキライ。はい、出来た。オタネ婆さん特製の膏薬が効いているから、明日には腫れも引いているわよ」

 

「僕が選んだ?……チレイ?……明日には……何だって?」

 女の子の話題の転換が早過ぎて、シリギは付いて行けない。

 

 茫然と反芻している間に、彼女はテキパキと焚き火を組み直し、自分の馬を呼んで荷物から布を引っ張り出した。

 初めて近くで見る、草で編まれた不思議な馬だ。

 

「草の馬っていうんだっけ?」

「そ、里の中では結構高く飛べる方なのよ。この間なんてね」

 

「え、えっと! さっきの灰色の奴っ、あれは何っ?」

 彼女に話の主導権を握らせていたら、聞きたい事を聞く前に朝になってしまう。

 

「あ――、あれが地霊」

 口に出すのも呪われそうで嫌! という風に、女の子は眉間にシワを寄せた。

「人間の怨みとか嫉みとか、そういう残留した悪い心を芯にして育つの。それでまた誰かを傷付けて糧にするの」

 

「……誰の、心を、芯にしたの?」

「多分オゴデイ王」

 

(やっぱり……)

 予想は付いていたが、シリギは暗澹(あんたん)たる気分になった。

 トルイのすぐ上の兄、テムジンの後の王位継承者。

 やっぱりトルイの事、滅茶苦茶嫌っていたんだなあ……

 

「オゴデイは立派な王だったと聞くわ、あんたもそう思っているでしょ?」

 シリギの心を見透かすように、女の子は覗き込んで来た。

 

「ヒトの心は単純じゃない。誰だって不満とか嫉妬は持つわよ。地霊ってのはそういう負の心が大好物なの。心の底に沈めたそんな檻をいちいち掬い上げて、別の誰かを傷付けて自分の餌を増やすの。本能でしか動いていない癖に、凄くズルくて残酷。あんなのでも『摂理』の中で生きているって大長様は言うのよ。アタシは大ッキライだけれど」

 

 喋りながら女の子は、朽ち木を利用して布で覆いを張ってくれた。

「はい、これで夜露が防げる」

 

 女の子は同い年位に見えるのに、随分と大人びた事を喋る。

 妖精は人間の何倍も生きるっていうし、本当はずっと年上なんだろうか。

 

「あの、僕、他にも聞きたい事がある、アルンデスけど……あっ、もしかして質問に『何回まで』とか、アリマスカ?」

 

 寝布を敷いていた女の子は、顔を上げて吹き出した。

「なぁにそれ? 人間の間にはそういうのがあるの? アタシはあんたの知りたい事には出来る限り答えるつもりだわ」

 

 やった! 言質を取ったぞ、よおし聞くぞ。

「じゃ、じゃあ、トルイのお母さんは何処に居るの? トルイの話をもっと聞きたいんだ。特に死因とか」

 

 女の子の顔がサァッと曇った。

 テキパキ動いていた手が止まる。

 

「・・?? あ、あの、もしかして、もう亡くなっているとか?」

 

「え、いえ、お元気よ、とても元気。でも……トルイの死因は知らないと思う。その場に居なかったっていうし……それに……」

 あれだけ口の回転の早かった女の子が、急にモゴモゴしだした。

「アタ、アタシは…………あまり、会って欲しく、ないの」

 

「・・!?」

 今度はシリギが止まった。

 

「あの……ね」

 女の子は、言葉を選びながら、一生懸命ゆっくり話し出した。

 

「アタシが生まれる前だから、大人のヒト達に聞いた話よ。あの方はトルイを亡くした後、死んだように沈んでいて。大切な息子……人間の寿命は長くないとはいえ、まだまだ生きると思っていた息子がいきなり死んじゃった、居なくなった。本当に悲しかったと思うの。

 皆、腫れ物に触るような思いで心配していたんだけれど……ある日、突然思い定めたように飛び立って、その頃魔物の巣窟になっていた太古の神殿に飛び込んだ」

 

「そ、それって、自暴自棄の……」

 

「巣食っていた魔物達をボッコンボッコンにやっつけて、そのままそこに隠っちゃったの。ほとんどの蒼の妖精が飛んで行けない、空気の薄い、高い高い山の神殿」

 

「…………」

 

「分かんないけど……きっと独りになりたかったんだと思う。もう慰められるのすら嫌で、膝を抱えて頭を空っぽにして、誰にも触られたくなかったんじゃないかと。ほら、そういう時ってあるじゃない」

 

 シリギは背中に冷や汗をかいていた。

 妖精って長く生きるから、色々達観していて、そういう事も、人間よりもへっちゃらだと思っていた。

 逆だ。長く生きるからこそ、人間の何倍も耐えなきゃいけないし、溜め込んじゃうんだ。

 

「当時の蒼の長様が・・あ、今の大長様ね。『海の底の貝が砂の一粒一粒を積むように、長い時間を掛けて彼女は悲しみを埋もれさせようとしている。我々はそっと見守るしかない』って仰ったの。皆も彼女が大切だから、その言葉に従った。

 だからごめんね。あの方にトルイの話を振りたくないの。悲しみは砂に埋もれさせただけで、消える事はないもの」

 

「ごめ……僕……」

 

「ぷはあっ!!」

 シリギが謝ろうとしたタイミングで、女の子は上を向いて、詰まっていた物を吹き出すように息を吐いた。

「ああもう緊張した。ちゃんと伝わった? 『お前は余分な事ばかり喋って、肝心な事が何一つ伝わらん』って、いつも怒られるの」

 

「え、伝わってると思うよ、うん。でもそうか、妖精の間でも、君ってやっぱりそうなんだ」

「なによ、そうなんだってなによ」

「ううん、何でもない。ごめん、ごめんごめん」

 

 女の子はぷんぷんしながらも、シリギの横に来てドッカリと座った。

「今はね、神殿まで飛べる蒼の妖精は随分増えたのよ。長様の一人で、んっと、ツバクロって……ヒトが、高い所を流れる高速気流に乗る方法を皆に教えてくれて。それからまあ、色々、色々あって、今はもうあの方は独りぼっちではないの、めでたしめでたし」

 

「そうなんだ」

 シリギはホッとした。

 

 妖精って、波長が違う世界の存在で、人間の常識なんか通じないと思っていた。

 でも……

 誰か死んだら悲しいし、寂しいのは辛い。

 他人の心を思いやって、気持ちを伝える時は緊張して、不満や妬みは負の心。

 なんだ、僕達と同じだ、あんまり違わないじゃないか。

 

 何より、今は寂しくなさそうでよかった。

 僕の、曾お祖母様にあたるヒト。

 

 

   ***

 

 

 女の子は取り敢えずホッとして、改めてシリギに向き直った。

「代わりに、アタシが精一杯あんたのお手伝いをするわ」

 

「本当?」

 妖精に手伝うと言って貰えて、シリギは明るい顔になった。

 

「さし当たって、この地の過去の情報が、あんたに必要・・って事なのかしら?」

「うーん、そうなのかな」

 

 妖精の長に『どうしたら良いのか分からない』と鈴を持たされて追い出されたぐらいだから、『僕これからどう生きたらいいの?』なんてあいまいな質問の答えなんか出てくる訳ないよな。

 あくまで、この地で自分で探さなきゃならないって事か。

 

「ね、君はどんな事が出来るの? 魔法とか使えるんだよね?」

 

 好奇心に満ちた顔のシリギに申し訳なさそうに、女の子は上目遣いになった。

「修行中の半人前なの。あまり期待しないで……」

 そして立ち上がって、少し離れた所で両手を地面に付けてしゃがみ込んだ。

「『地の記憶を読む』って方法があるわ。過去にそこで起こった出来事を、それを見ていた地面に教えて貰うって術」

 

「凄いや! そんな事出来るんだ!」

 目を輝かせるシリギに、女の子はますます下を向いて首を横に振る。

「ううん、アタシ、出来た事ないの。カワセミ様は訓練すれば出来るって言ってくれるけれど」

 

「カワセミ……様は、出来るんだ?」

「うん、あのヒトなんか太古の地層まで読んじゃうのよ。そこにトルイが倒れていたって突き止めたのもカワセミ様だし」

「えっ……」

 

 女の子はシリギの隣に戻って、乱暴気味に、焚き火に木切れをぼんぼん放り込んだ。

「五年前、調べに来たの」

「何……で?」

 

 シリギの素朴な疑問に、女の子は巻き髪を弄くりながら、遠い目で答えた。

「カワセミ様ね、トルイが大好きだったの。今の三人の長・・カワセミ様、ノスリ様、ツバクロ様は、トルイが子供の頃、一緒に修行した事があるんだって。その時友達になったって。カワセミ様は親友と言える迄に」

 

「え・え・ええええ――――!!」

 何だよそれ! 聞いてないよ!

 お祖父様が妖精の長になるようなヒト達と一緒に修行したとか友達だったとか。

 しかもあの超怖そうなヒトと親友!?

 

「お、お祖母様はそんな事一言も……」

「人間どころか他の人外にすら一切口外しないって約束で受け入れたのよ。トルイが中途半端に魔法を使えるようになっちゃって、困ったテムジン王が当時の長様に相談したんだって」

 

「…………」

 いや聞いてはいたが、本当に普通に妖精とツーカーだったんだな、大ハーン。

 

「妖精の仲間の証として授けた名前は、『キビタキ』って言ったのよ」

 

 キビタキ……

 シリギは聞き覚えがあった。

 西の森でカワセミと対峙した時、彼は眉間に影を落として、その名を口にして酷く怒っていた。

 あの時自分は何て言ったんだっけ……

 

「カワセミ様はここで地面に手を付けて、ずっと探ってた」

 女の子の言葉で思考が遮られた。

 

「でもね、分からなかったの。トルイの最期の事。どんなに時間をかけても」

 チロチロ燃える焚き火の一点を見つめ、彼女は寂しそうに言った。

 

 シリギはまた暗澹(あんたん)たる思いに襲われる。

 太古の地層と会話出来ちゃう凄いヒトが、とっくに調べに入っていて、そして分からなかった。

 そんなの自分にどうにか出来る訳ないじゃないか。

 

 女の子が顔を上げる。

「だから……あんたなら、突き止められるかもって思ったの」

「えっえええっ、何でっ?」

 自分は妖精が見えるだけのただの人間だ、本当に何で何でそう思えちゃうんだ。

 

「血よ。あんたはトルイの血を分けた子孫なの。トルイの子孫の中で、多分一番彼に近い血を持っているんだわ」

「血? 血って、そんなに大事なの?」

「大事だわ。妖精は血で呼び合ったりするもの。人間だって大事にするでしょ?」

「それは……」

 ただの身内贔屓だ。

 血が伝えるモノについてはあまり考えていない。

 

 まだ狼狽えているシリギの手を取って、女の子は強い目で言った。

「アタシが教える。だから一緒に、やってみよう!」

 こんな目に逆らえっこ訳ない。

 

 

   ***

 

 

「集中するの。大地に謙虚な気持ちになって、自分も土も同じって気持ちになるの」

 

 翌日、日の出と共に、シリギは地べたに這いつくばらされていた。

 言われるままに、両手をひんやりした土に付ける。

 

「ダメだよ。僕そういうの、修行も何にもしていないんだよ」

「うん、すぐには出来ない。だからちょっとづつ練習してみよ」

 

 彼女は異常に熱心だった、

 ゆうべ、夢みたいな中で盃を持ったヒトを見た話をすると、『ほら、やっぱり!』と、鬼の首でも捕ったように言われて、その日の午前も午後も、飲まず食わずで地べたと睨めッコさせられた。

 

 修行経験も無く、そもそも妖精の資質があるかどうかすら怪しいシリギには、底の抜けた桶で水を汲み続けるような気分だ。

 色々知りたいと言ったのは自分だが、それって本当にここの地の記憶の事なんだろうか。

 あの女の子が暴走しているだけのような気がする。

 

 

「ふあ~~」

 夕方、女の子が食料調達に草の馬で飛び立ってから、ようやく地べたから解放されたシリギは、空を見上げて寝転んだ。

「この『地の記憶を読む』以外のやり方はないのかなぁ」

 夕焼け雲が何事もないように流れて行く。

 

 そもそも、『術を成功させた事のないユユ』が教える事自体、無理筋な気がする。

 凄いヒトっぽいカワセミさんでも出来なかった。何で僕に出来ると思えるんだか……

 

 弱気に加えて夕べの寝不足も手伝って、仰向けのままシリギはウトウトし始める。

 そうして地面に意識を落として行った。

 

 ――瞼の裏に原色が流れる。

 

 

 

 また目の前に葡萄酒の盃がある。

 それを持つ手の腕輪も爪も、見覚えのない大人の物だ。

 盃の中に波打つ、注がれたばかりの葡萄酒。

 液体に映るのは、妖しく光る銀の瞳。

 

 今日は、盃の向こうに男の人が見えた。

 自分と向い合わせで立っている、同じ盃を持った男性。

 昨日、地霊が化けていたカタチ、土気色の……オゴデイ王。

 

――イクサガミノ、ハタラキヲ、タタエテ――

 

――ノメバイイノカイ、アニウエ――

 

 

 違――う――!! 飲んじゃダメ――――!!

 

 

 

 ヒュウっと身体が引っ張られた。

 ビックリ目を大きく見開いた女の子が、夕空を背景に覗き込んでいる。

 

「大丈夫? あんた、目を開いたまま寝てたよ」

 

 シリギは上半身を起こした。まだ心臓がドクドクいっている。

 背中は嫌な汗でびっしょり。

「今、僕が違う大人のヒトになって……」

 

 巻き髪の女の子は口を挟まず、器に湯冷ましを汲んで差し出してくれた。

 

「む、向かいに、オゴデイ王が居て……葡萄酒の盃を持っていた。何でか、それに毒が入ってるって思ったんだ」

「そう……ね、もう一度そこへ行けない?」

「嫌だっ!」

 シリギは差し出された湯冷ましを振り払った。カラカラと器が転がる。

 

「自分を嫌って殺そうとしている奴が、今まさに目の前に居るんだよ。昨日の地霊みたいに。また首を絞められるかも、もっと苦しい事をされるかも。しかもこっちは自分の意思で動けないんだ。あんな、あんな恐ろしい所へ、もう一度行けって!?」

 

 女の子は眉を八の字にして、振り払われたままの姿勢でいた。

「……ごめんなさい」

 しょんぼりする彼女の目の周りには隈が出来ている。

 昨晩シリギが寝ている間も、ずっと見張っていたんだろう。

 

「ねえ」

 シリギは努めて落ち着いて、女の子に向き直った。

「どうしてそんなに熱心なの? 木から落っこちた君達の下敷きになった位の恩でそこまで熱心になれるなんて、僕、思っていないよ」

 

「…………」

「他に理由、あるんだろ」

 

「うん……」

 女の子は観念した風に、打ち明け始めた。

「初めは本当に、あんたの助けになるだけのつもりだったのよ」

 

 シリギは黙って彼女を見据える。

 

「でも目標が、どうやらこの地でトルイの身に起こった出来事を知る事らしいって分かって……カワセミ様を思い出したの。何時間も何時間もここで這いずり回って、『何で、気付いてやれなかったんだ!』って地面を叩いて」

 

「責任を感じてたって事? でも……」

 

「カワセミ様は予知の力があるの。と言っても完璧じゃなくて、凄くムラがあって。仲間の危険も視えたり視損ねたり。それでいつも沈み込んでしまう。

 トルイが死んでしまうような事態を予知出来なかった自分を、ずぅっと責めているの。そんなの、丁度不調な時期だったから仕方がないのに。……だから……」

 

 そう言う女の子の言葉には深い想いがこもっていた。

 それがシリギの気持ちを毛羽立てた。

 

「それで君は、そのヒトの為にこんなに熱心なんだ」

「うん、言わなくてごめんなさい」

「いいよ、別に。目的が一緒で良かったじゃない」

 

 そんなつもり無いのに、険のある言い方になってしまった。

 女の子は何も言い返さないで、薪、拾って来る……と呟いて、下の林の方へ行ってしまった。

 

 シリギはちょっと後悔したが、謝りたくなかった。

 あの子には自分の事だけを考えていて欲しかった。

 

 

 

 夕闇迫っても彼女は戻らす、迎えに行こうかと、もたもた考えていた時……

 

 ・・焚き火の向こうに、また嫌な気配が、し・・た・・

 背筋に嫌な汗が噴き出して、手足の先がジンワリ冷たくなる。

 何でこんな悪い予感って当たってしまうんだろう。

 

 恐る恐る見やる。

 灰色の塊がズン! 土気色の顔がドン!

 やっぱり居だぁ!!

 

 うずくまった姿勢から解(ほど)けるように立ち上がるオゴデイ王。

 まだ祓われていなかったんだ。

 

「ぼ、僕はトルイじゃないぞ」

 

――トルイ、やっと一人になった――

 

「頼むからちょっとは人の話を聞けぇ」

 

――昔からお前のその眼が大嫌いだった。今、この手で閉じてやる――

 

 ユラリユラリと歩く地霊は、右手に盃を掲げている。

 やっぱり……

 

 シリギはまた縛られたように動けない。

 灰色のオゴデイ王はもうすぐ目の前だ。

 

 

「ああっ、また出たのね!!」

 女の子の声。林の方から駆けて来る。

 助かった。

 

 しかし彼女は何故か途中で止まってしまった。

「……ダメだわ」

 ええっ?

「アタシでは祓えないんだわ。あんたの中のトルイの血に執着し過ぎているのよ。あんたがこいつに討ち勝たなきゃ祓えない」

 うそだろっ!

 

「術で助けるから剣を抜いて!」

「ぼ、僕、まだ長剣を帯びるの許されていない……」

「なんですってぇっ!」

 シリギの腰にあるのは子供騙しの短剣だ。

 

「王族の子の癖に長剣ぐらい持っていなさいよぉ!」

「無茶言わないでよ!」

 

 言ってる間に、突き出された盃が、鼻に振れんばかりの距離だ。それがゆっくり傾けられる。

 

――トルイ、お前が嫌いだ……――

 

 心臓まで凍りつかされそうな声。

 

「逃げてても終わらないわ、トルイはもっと凄いのと戦ったのよ!」

 

「だから僕トルイじゃないっ!」

 しつこい地霊と女の子の言葉に、逆撫でされ続けたシリギの神経がブチ切れた。

 

「みんなみんなトルイトルイって! 僕はシリギだ、他の誰でもないシリギ! シリギなんだってば!!」

 

「うん分かった! あんたはシリギ! 短剣でいいからしっかり持って!」

 女の子が両手を掲げて、手の中に緑の光を作りながらキッパリ叫んだ。

 

「そのまま高く上げて! ―― 破邪・・!」

 

 慌てて掲げた短剣に、女の子の投げた緑の光が命中する。

 

「撃ち降ろして!」

 

「二度と間違えるな、バカァ――!!」

 

 振り降ろされた剣は長い光を放ち、目の前の魔物を真っ二つに裂いた。

 ついでに地面も抉(えぐ)った。

 何だこの威力。

 

 一拍置いて、地霊はザアッと崩れて散った。

 

「やった!」

 女の子が走って来てシリギに抱き付いた。

「あんた凄い。いきなりであんな事出来るなんて。凄い凄い!」

 それからゆっくり彼の顔に手を伸ばして、指で目の下を拭った。

 

 自分でも気付かず涙をこぼしていたシリギは、狼狽えて身を引いた。

「ちがっ……これは大きい声出したから……」

 

「良かった」

「え?」

 

「治癒の術の通りも鈍かったから、あんまり『生きる元気』のないヒトかと思ってた。そんな事なくて良かった」

「…………」

 

 

 

 

 

 

 



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5・葡萄酒

「ねえ」

 

 風に散る魔物の塵を目で追いながら、シリギが呟いた。

「これが『答え』だとしたら?」

 

 女の子はすぐには何の事か分からず、シリギを見た。

 

「大切なトルイを殺めたのが、本当に兄王だったとしたら。それが答えだとしたら、どうなるの? 君のカワセミ様は、どうするの?」

 

「……どうも……しないわ。妖精は人間に何も出来ないもの。ただ……」

 唇が震えている。シリギにも、歯のカチカチ言うのが聞こえる。

「人間とは、切れる、でしょうね。トルイが亡くなってからも、切れたような物だったけど、これで、完全に、切れる、でしょうね」

 

「君と僕も、切れるの?」

「…………」

 

 長い沈黙。

 

「もう一回だ」

「……え」

「もう一回だけ、あの葡萄酒の天幕へ行って確かめる。こんな答え、嫌だ」

 

 振り向いたシリギはハッと目を見開いた。

 女の子の大きな瞳が膨らんで、決壊寸前だった。

「ア、アタシも、イヤ」

 

 『切れる』というのは、関わりを失くする事だ。

 会ったり言葉を交わしたりだけでなく、心で想ったりする事も。

 そんなの黙って勝手に想っていればいいじゃないかと言われそうだが、妖精の世界の言霊(ことだま)は重い。特に『切れる』なんて強い言葉に対しては。

 

 彼女はそんなに沢山の人間を知っている訳じゃないが、想い出の中に大切な人間がいる。

 目の前の男の子だってきっとこれから大切になる。

 

 

 

「君のカワセミ様も、違うって信じているみたいだった。僕が、トルイが王族に利用されるだけされて妬まれて殺されたみたいな言い方したら、滅茶苦茶怒ってたから」

 

 焚き火を大きくし、ユユの捕って来た鯏(ウグイ)を焙りながら、シリギは言った。

 

「うん、そうだと思う。だけど『君のカワセミ様』って言うのやめて」

 

「ああ、はあ、……うん」

 意地悪で言っていたのが、真面目に嫌がられて、シリギは罰悪く口をつぐんだ。

 

「あの方、アタシの事なんか意識に無いもの。心の向こう半分はいつだって巫女様が占めている。アタシはどんなに一緒に過ごしても、所詮(しょせん)押し掛け弟子のオチビちゃんでしかないの」

 

「え、えっと……」

 そういう話に気の利いた返しが出来る程、シリギに人生経験は無かった。

「み、巫女様って人がどんなに素敵か知らないけれど、ユユの将来性も見抜けないなんて、予言者が聞いてあきれるよ」

 

 そんなフォローでも元気が出たみたいで、ユユはクスクス笑った。

 そうして話をしている内に、二人が同い年なのも判明して、ここでやっと身構えが取れた。

 

「父上も兄達も母上も、王族としての役割をこなしていて立派だと思うけれど、それだけなんだ。一緒に居ても上っ面だけ。好きになれない馴染めない。お祖母様と居る時だけ、人間と過ごしている気分になるんだ」

「そう、うーん、シリギは何だか大変なんだね」

「ユユはどんな家族?」

「アタシは生まれた時から七つまで、ずっと三人暮らしだった」

「三人家族?」

「三人暮らしよ。母様とナナとアタシだけ。たまに父様が来るけれど、基本ずーっと三人っきり。他に比べる物がないから、馴染めないとか分からないなあ」

 

「へえ、三人暮らしったって、ユユが百人分くらい喋るから、丁度いいのかな」

「何よそれ。まあ、アタシ達を蒼の里に送り出して、母様は寂しいわよね。だからせめて、いつも母様の事を想うようにしているの」

「じゃあ良い家族なんだ。離れていても想っているなんて」

「そうかな、そうだね」

 

「僕も、お祖母様を想おう。トルイの事をちゃんと知って、教えてあげるんだ。何も分からないから宙ぶらりんで、寂しい思いをしているんだ」

 ユユは焚き火に照らされる男の子の横顔をじっと見つめる。

 

「トルイを信じよう。結果はもうある物だけれど、それに至る過程がきっとある筈だ」

 

 焼けた鯏を半分に裂くが、ユユは手を上げて断った。

「肉は入れない。術が逃げるから」

 

 

 ***

 

 

 シリギは地面に横たわり、地に意識を落とす。

 何でか普通に出来る自信があった。

 

 側でユユは手を握っている。

「アタシがシリギを守る。だから安心して行って来て」

 

「凄い自信だね」

「うん、話していて分かったの、気が付いたの」

「ん?」

「カワセミ様の術だけではダメだった理由。トルイの所へ行くには、やっぱり血が必要だった」

 

「……え……」

 

「シリギがその血の……い絆でトル……へ行くのな……同じ血……」

 

 シリギは意識が吸い込まれて、それ以上聞いていられなかった。

 

「……シが…………まもる………………………

 

 

 ・・流れる原色の帯

 

 

 

 何度も見た葡萄酒の盃。

 そこに映る銀の瞳。

 正面に立つ男性。

 

「さすが戦神、と言った所か。あの不利な地形でよく敵軍の薄い所が読める物よ」

「運・・だよ、兄上」

 

 初めてはっきり聞くトルイの声。

 少し高めで澄んだ声。

 あれ? 何だろ、すごく聞き覚えのある声な気がする。

 

 目の前のオゴデイ王は、盃を持つ手と反対側の手に、豪奢な飾り付けの瓶を掲げている。

「西方の極上酒だ。戦神を讃えて乾杯する為に確保しておいた」

 

「それは光栄」

 トルイは手を伸ばして、瓶を受け取って眺める。

 

 トルイと同化しているシリギの視界も変わった。

 意識はあるが、身体は動かせない。

 当たり前、これは過ぎ去った過去の、もう決まった出来事なのだ。

 

 二人盃を持ち、立ち上がる。

 

「戦神の働きを讃えて」

 

「飲めば良いんだな、兄上」

 

 トルイは含みのある言い方をして、ためらいなく盃を口に運んだ。

 

 ――!!――

 王の表情が明らかにおかしい。

(飲んじゃダメ!!)

 シリギの叫びは無視され、トルイは面倒くさい事をサッサと済ませたいという風に、盃の縁に口を付ける。

 

 ――カシン・・!!

 

 王が、自分の盃でトルイの盃を弾き落としていた。

 二つの盃が離れた所で転がる。

 こぼれた葡萄酒が銀の燭台に飛び散っている。

 濡れた部分が、明らかに怪しい黒色に変色した。

 

「迂闊はよせ。お前は帝国に必要だ。だが俺はいつでもお前を殺したいと思っている」

 王は立ちすくんでトルイを睨む。

 何てめんどくさいヒトなんだ……

 

「うん、心掛けとくよ、兄上」

 トルイは王に背を向け、どす黒く斑になった銀の燭台を持ち上げる。

「あーあ、気に入りだったのに」

 うわっ、このヒトもめんどくさそう……

 

 

 ***

 

 

 鼻で笑って王は出て行き、トルイは一人になる。

 シリギはトルイの視点で物を見ているが、何の働きかけも出来ない。

 そう、これはただの地べたの記憶。何も変える事は出来ない。

 

 トルイは盃を拾い上げて隅に放り投げ、寝台に仰向けになった。

 

 ……コトリ……

 

 入り口に気配。

 

 しかし天幕の主は身構えるでなく、全くの無警戒。

 命を狙われているにしては呑気過ぎやしないか?

 

 風が通り過ぎるように御簾が捲(まく)れ、入って来たのは純白の甲冑の女性だった。

 透けるような肌、青い髪、はなだ色の瞳……

 

(トルイの、お母さん……)

 

「王が出て来ましたね」

 鈴を振るうような声。

 あれ? この声も何だか聞き覚えがあるような……

 

「うん、いつものやつ」

「…………」

「ビョーキだね、あのヒト。何とかなんない?」

 

 女性は黒い燭台を見つめ、溜め息を吐きながら指でなぞった。

 斑点が、拭ったように銀に戻って行く。

 

「金軍の残ったのは?」

「大将を退けたので撤退命令は行き渡っていますが、一部動かない部隊があります」

「引き続き警戒が必要って所か」

 

「監視を続けますか?」

「そだね」

「では」

 女性はフワリとひるがえって去りかける。

 

「ちょっと休んで行けばいいのに」

「大丈夫です。監視なんて休み半分みたいな物ですから」

 

 トルイは上半身を起こした。

「あのさ」

 

 女性は入り口で立ち止まって振り返る。

 全ての所作が音もなく静かだ。

 西の森のあの小さなパオで、密やかに暮らしていた蒼の妖精。

 

「うーん、やっぱりいいや。王都に戻ってからでいい」

「いいんですか?」

「うん」

 

「では」

「あ」

「はい?」

「気を付けてね」

 

「はい」

 

 今度こそ女性は出て行った。

 多分これが、母親と息子の、最後の邂逅。

 

 

 トルイは寝台に仰向けに転がっていた。

 銀の瞳は天井を睨んだまま何か考え事をしている。

 シリギの方が苦しくなって来た。

 この後、確実に何か起こるんだ。

 

 夜半過ぎた頃、外に足音と気配。

 トルイは即座に身を起こした。今度は母親ではないらしい。

 

「トルイ、起きているか?」

 オゴデイ王の声。

 

「どうしたの、兄上」

 

 王は人目をはばかるように天幕に滑り込んで来た。

 何だか戸惑った様子だが、さっきと違って目の焦点は合っている。

「おかしなモノがある」

「おかしな?」

「明らかに周囲から浮いているおかしなモノだ。お前なら解るかと」

 

「分かった、行こう」

 

 王は目を丸くする。

「信じるのか? そんな簡単に」

 

 トルイは立ち上がって帯剣した。

「兄上の冗談と本気の区別ぐらいは付く。貴方、基本的に嘘の吐けない人だから」

 

 トルイのペースに巻き込まれながら、オゴデイは先に立って案内した。

 軍の野営地を外れ、山沿いの人気のない場所。

 

「一人になりたくて、夜闇を散歩していたのだ」

「兄上の夢遊癖は昔っからだけれど、王なんだから護衛ぐらい連れて行きなさいよ……………………わお!!」

 

 岩場を越えた平らな荒れ地に、その『地割れ』はあった。

 内部から光を吐き出す、笹舟程の大きさの裂け目。

 しかもオレンジと白の交互に瞬いている。

 確かに『おかしなモノ』だ。

 

 中で液体が対流しているかのように、光はチラチラと動いている。

 水底から見た水面を逆さにした感じだ。

 

 トルイはこれを知っている。

 同化しているシリギには、彼の戦慄が伝わって来た。

 

「兄上……よく、見えたね」

「普通見えないのか?」

「うん……まあ……さすが王だ」

 

 何か言いたそうなオゴデイの横を通り過ぎ、トルイは裂け目の側に屈み込んだ。

 

「トルイ、これが何か分かるのか?」

「うん、『災厄』。俺も見るのは二回目」

「災厄!? どんな?」

「分からない、前の奴は未然に防げたから」

「お前がか?」

「違うよ」

 

 トルイは更に身を乗り出して中を覗き込んだ。

 オゴデイはハラハラしたが、妙な気持ちでもあった。

 俺がちょいと手を動かせば簡単に突き落とせるって、お前も分かっている癖に。

 

「ああ、まだ小さい」

 トルイは顔を上げた。

 

「兄上」

「何だ」

「大丈夫だから陣へ戻っていて」

「何でだ、説明しろ」

 王は踏ん張る。純粋に好奇心もあるのだろう。

 

「一応、妖精の力はヒトの前で使わない、って約束があんの」

「妖精の……チカラ?」

 

「うん、俺半分妖精だもん」

 

(サラッと言った――っ!)

 シリギは出せない声で叫んだ。

 

「……初耳だぞ」

「聞かれた事ないから。・・って、前王が存命中は最優先秘密事項だったな」

「な、何で今更」

「今は貴方が王でしょ」

「…………」

 

 オゴデイは立ち尽くしている。

「ね、陣へ戻ってよ。それが嫌ならせめて後ろを向いていて」

 

「俺は人ではない、王だ!」

 

 トルイは目を丸くしたが、すぐ苦笑いになった。

 そして王を手招きした。

 

「そっちから見えるかな。あれ、あすこ」

 指差された方向を、王は素直に覗き込んだ。

 内部は底深く、無数の光の川が、繊維のように流れている。

 

「ちょっと流れが引っ掛かって滞っている所があるでしょ」

「眩しいな……うん、あの白いのが二つに裂けて折れ曲がっている所か?」

「そう! 見えてるじゃん!」

 

 王が顔を上げると、トルイの顔がすぐ目の前にあった。

 初めてこんなに近くで見る、銀の瞳……

 

 

 

「今日から貴方がたの弟になるんです」

 

 母に引き合わされた歩き始めたばかりの子供は、明らかに『普通』でなかった。

 血のように真っ赤な髪、動物みたいに光る銀の瞳、大き過ぎる八重歯……

 色々と人間離れした父だが、一体何をやらかしたんだと、幼いオゴデイですら思った。

 

 一回り離れた二人の兄は尚更だ。

「母上、では、この子が……正妻の貴女の子でもない、この子が、末子となり王を継ぐのですか!?」

 

 この頃この国の習慣は末子相続が主流だった。諸説あるが、若い長を据えて年長者が守り立てる形が、争いを生まず、一族の長期繁栄の為に良いとされていたらしい。

 

「いえ、この子には殆ど何も与えなくてもいいから、一族の末席にだけ加えるという、王の条件でした」

「あの人の事だ、いつ気紛れを起こさないとも限らない。こんな、バケモノみたいな……」

「ジョチ! 王の御子ですよ!」

 

 ヴォルテ妃は気丈だった。

 色んな事を受け流さなくては、あんな人並み外れた王の正妃なんて務まらないんだろう。

 

 赤毛の子供は後宮の奥でひっそりと育てられた。

 オゴデイも滅多に会わず、その存在も気にならなくなっていた。

 

 それが、十二,三歳になった頃、いきなり何が吹っ切れたのか、被っていた兜を脱いで、平気で赤毛を曝して闊歩するようになった。

 そしてみるみる父や家臣達の信頼を集める存在になって行ったのだ。

 

 

 

「兄上?」

 

 大嫌いな銀の瞳が真ん前で見開いている。

 

「あ、ああ……それであの引っ掛かりが何なのだ?」

 王は目を反らして聞いた。

 

「あれ、放って置くと結構ヤバイ奴。端折って結果だけ説明すると、あの滞りがどんどん流れを止めて、決壊した時に大災厄が起こる」

「まさか、そんな、大袈裟な」

「だから別に信じなくてもいいから」

 

 王は黙って腕組みした。

 

 トルイは歩幅で辺りを測ったり、地面に石を置いて標を付けたりしていたが、やがて棒切れを拾って地面をガリガリ引っ掻き始めた。

 

「……何をしている?」

「風の浄化の魔方陣を描いている。大地の力も借りて、捻れを戻して裂け目を閉じる」

 

「お前に出来るのか?」

「一応習ったけど……俺、術力が少ないから、この方法しか無いんだ。まあ何とかなると思う」

 

「そんな不確かな事では困るぞ!」

「信じてくれたんだ、嬉しいな」

 

 王は困った顔をして、辺りをキョロキョロした。

「あのヒトは、どうなんだ」

「へ?」

「たまにお前の側に見える、白い甲冑の女性……妖精なんだろう?」

 

 トルイは目を見開いて口をパクパクさせた。

「兄上! みっ見えていたのっ!? いつからっ?」

 

 あまりにびっくりされて、王が逆に戸惑った。

「たまにだ。フイと視線を移した時とか。父上が亡くなってからだな」

 

「ああ……」

 人の王となりその責務を負ったからだろうか。

 そういう事もあるのかもしれない、だから妖精だの言ってもすんなり信じてくれたんだな。

「あのヒトは、理詰めの術はテンでダメ。感覚のヒトだから。まだ、俺の方がマシ」

 

「そういう物なのか?」

「うん……」

 

(それは嘘だ……)

 シリギにだけ、分かった。

 彼は、この裂け目に関わって命を落としかけた親友を、知っているから……

 

 

  ***

 

 

 トルイは擦りきれた棒を取り替えながら、地面を引っ掻いて紋様を描き続ける。

 王は所在無さげにそれを眺めていた。

 

「あの女性……白い甲冑の」

「うん?」

「綺麗だな」

「ふふサンキュ、俺の母親」

「はあ? 若過ぎないか?」

「妖精は人間の何倍も生きるの」

 

「そうか。しかし側で見ると改めて不思議な物だな。子供の頃に見ていたのは、遠目で緑の馬に乗って……」

 

 オゴデイは、トルイが手を止めて、この世の物ではないモノを見るような表情で突っ立ってるのに気付いた。

 

「どうした? もう出来上がりなのか?」

「あ・あ・兄上……」

「??」

「今、何て!?」

 

「出来上がりなのかって」

「その前!!」

 

 トルイは棒を放り出し、ずかずかと王に歩み寄って、両肩を掴んだ。

「子供の頃、何を見ていたって!?」

 

 オゴデイは戸惑った。何がこいつのツボだったんだろう?

「馬で空を飛ぶ青い髪の妖精だよ。本当に小さい頃だ。見たことすら忘れていたな」

 

「そっ、それ、誰にも言わなかったのっ?」

 トルイは王の肩を強く掴んでガシガシと揺さぶった。

 こいつが自分に対してこんなに感情をあらわにした事などない。

 オゴデイは怒りより、不思議に嬉しさが湧いた。

 

「あ、ああ……兄達にかなり馬鹿にされて、幼心に傷付いて二度と口にしなかっ……ん?」

 

 トルイは腕を掴んだまま、ズルズルと足元にしゃがみこんでしまった。

 

「おい、どうした?」

 王は同じようにしゃがんで、トルイを覗き込んだ。

 

 顔を上げた銀の瞳は、いつものふてぶてしい獣の輝きが消え、仔犬のように震えて潤んでいた。

 

「兄上……それ、父上に言っていたら、大嫌いな俺に、逢わずに済んだのに…………」

 

 

 

 

 



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6・まやかし

 トルイは立ち上がって、黙って魔方陣の続きを描き出した。

 

 オゴデイは今の言葉の意味を聞き直しはしなかった。

 大昔に何らかの『掛けちがえ』があった、という事だ。

 時間は戻せない。過去の事は追求しても始まらないのだろう。

 

「前の奴は、この何百倍もあった。草原全体、王都も帝国も壊滅させる力を十分持っていたって」

 話題を変えるように、トルイが喋った。

 

「それを……防いだのか?」

「うん、妖精の何人かが力を尽くしてくれた。完全には防げなかったけれど、最小限で止められた。ほら昔、西の山で村が幾つか土砂に埋まったでしょ」

 

 覚えている。

 村は埋まったが、こいつが早々に住民を追い出していたので、人死が出なかった。

「あの時からお前の英雄伝説が始まったんだったな」

 

「英雄なもんか」

 トルイは立ち止まって、一つ所から全体を見渡した。地面には複雑な模様が出来つつある。

「本物の英雄は、その時犠牲になってくれた一人の蒼の妖精だ。アイツはこんな魔方陣なんかに頼らなくても、素で、あの巨大な災厄を身を呈して止めた。本当に凄い奴だった」

 

 少し荒れ気味にまた地面を引っ掻き出したトルイに、王はそっと聞いた。

「亡くなったのか?」

「まあそれに近い。何十年も昏々(こんこん)と床に臥(ふ)している」

 

 人知無き場所で、妖精が命を掛けて土地を救っていた。

 人の王の知る所とは、いったいどれだけの範囲なのだろう。

「王と国民は、彼に感謝を示すべきだろう」

 

 地面を引っ掻いてた手を止めて、トルイは振り向いた。

 

「彼の事を人民に知らしめるべきだろう。王室は末々その英雄に感謝し、敬い奉るべきだろう」

 

「兄上、それ人間の発想」

 トルイは苦笑いしながら作業に戻った。

 

「違うのか?」

 王は素直に聞き返した。

 

「妖精は他者に何も求めない。基本的に欲が無い。有るのはどんな山よりも高い誇りだけ」

 

「難しい連中なんだな」

 こいつと会話がこんなに続いたのは初めてだ。

 もっとも会話らしい会話をしたのが初めてかもしれない。

 

「はは、そうかもな。でも慣れれば簡単なんだ。連中、『摂理』に殉じているだけだから」

「摂理?」

 

「これだけ色んな事が出来て、古い知恵がたっぷりあって、人間の何倍も生きて。そんな連中が欲を持ったらどうなると思う?」

「……たちまち世界に君臨するな」

 王は、近くの岩に座り、腰を据えて話をしている。

 

「うん、その後はより色んな物を欲しがって、奪い合って、結局破滅に向かうんだ」

「………」

 

「だからね、この位が丁度良いんだって。人間が大勢で分担しながらこの世の業を背負ってくれて、蒼の妖精は世界の流れを見据えて、ちょっと助けたりする程度で。丁度バランスが取れている。それが、摂理に沿うって事だって」

 

 トルイは魔方陣を描き終えて、中の小石や落ち枝を外に放り出し始めた。

「子供の頃、親父に妖精の里へ叩き込まれてさ、その辺を徹底的に教わった」

 

「だからお前も、王位の継承を拒むのか?」

 王も立ち上がって、トルイの地味な作業を手伝い始めた。

 

「うん、そう。ヴォルテ妃との約束もあるし。何より半分妖精の俺が人間のトップに立つのは、違うでしょ、摂理に反する」

「そうか。妖精と同じで、欲が無いのかと思ったが」

 

「欲は、あるよ」

 トルイは準備終わって、最後の棒をガランと放り投げた。

「ソルカに幸せでいて欲しい。大好きな蜜柑の木の元で末永く、子供達と平和に暮らさせてやりたい。これは欲だろ?」

 

 王はちょっと止まって、トルイをマジマジと見た。

「欲……と言うのとは、ちょっと違う気がするな……」

 

「ふうん、じゃあ人間って、その他にどんな望みを持つっていうんだ? さあ準備出来た。離れてくれ。後でまた話の続きをしよう」

 

 オゴデイは素直に退いた。

 剣を抜き呪文を唱えながら一つ一つの魔法文字に光を与えるトルイを、随分遠くに眺める。

 

 こいつの事、全く解っていなかった。

 切っ掛けさえあればこんなに簡単だったなんて。

 今晩話せて良かった。こいつと一緒なら、この先の王様稼業も、そこそこ楽しいかもしれない。

 

 

 ***

 

 

「兄上――!!」

 

 トルイの叫び声で我に返った。

「兄上、あいつらお願い!」

 地割れの上方の岩影に、ぼうっと薄赤に光る影が五,六個蠢(うごめ)いている。

 

「曲者か!」

 オゴデイは剣を抜いて駆け寄った。

 

「俺、手が離せない! そいつら魔方陣に入れないで!」

 

「よし引き受けた!」

 

 影は、動きは鈍いが人とは違う邪気をはらんでいる。

 オゴデイの前に迫ると、いきなり立ち上がって王の側近の一人の姿になった。

「な……お前?」

 

――全く我が君は情けなや。今回の戦も弟御におんぶに抱っこ――

 

「!!!!」

 王は剣を構えたまま凍り付く。

 

「地霊だ!!」

 トルイが肩越しに叫ぶ。

「姿も言葉もまやかしだ! 兄上の心を探って喋っているだけだ。強い意思があれば斬れる!」

 

「そ、そうか。……おのれ化け物、謀りおって!」

 オゴデイは目の前の部下に剣を振り下ろす。

 部下は真っ二つになって散ったが、その後ろから更に別の家臣達が歩いて来る。

 

――我が王君は名ばかりのお飾り――

――先代の足元にも及ばぬ、ククク――

 

 数体の地霊の化けた家臣に囲まれ、オゴデイは剣を振り上げたまま止まってしまった。

「う、るさい……うるさいうるさいうるさい……」

 

 冷たい灰色の手が伸びてオゴデイの身体に触る。

 王は意識が飛び、縛られたように動けない。

 

 瞬間、翡翠の稲妻が走る。

 地霊は退き、王の前にトルイが剣を構えて立ち塞がっていた。

「しっかりしろ! こいつら、兄上の心の澱を掬って言葉に出しているだけだ。自分をしっかり持っていれば負けない!」

 

 途端、トルイの前の地霊が姿を変えた。

 それは、オゴデイ含め三人の兄とヴォルテ妃だった。

 

――バケモノ……――

――王室に潜り込んだバケモノ……――

 

「失せろ!」

 トルイはキパッとそれらを両断した。

 

「お、俺はそこまで思っていないぞ」

 背中合わせでオゴデイが叫ぶ。

 

「分かってる。これは、俺の心の澱だ……」

 

 間髪入れず、トルイの前に立ち上がったのは・・前王、テムジンだった。

「……!」

 さすがに二人、一瞬躊躇する。

 

――お前は役に立ってくれた………――

 

「………」

 

――お前の母親も役に立ってくれた。俺になびいた妖精の娘がいたのは幸運だった――

 

「………」

 

――お前を得る為だけに妖精の娘を抱いた。人間が妖精を愛するなんてあり得ない。俺が愛しているのは人間のヴォルテだけだ――

 

「・・・・・・」

 

 テムジンの偽物は真っ二つになった。

 剣を降り下ろしたのは兄王だった。

 

「しっかりしろ! まやかしだって言ったのはお前だろ! 嘘っぱちだ! 愛情無い両親からお前みたいな奴が生まれるものか!」

 

 トルイは銀の瞳を柔らかく細めた。

「ありがと……兄貴」

 

 

 ***

 

 

 家臣の形の最後の地霊をオゴデイが斬り捨てて、トルイは慌てて魔方陣に取って返した。

 

「あっ……あ・あ・あ……」

 

 しかし魔方陣はすうっと消え、地割れは不気味に唸り出した。

「まずい!」

「どうなるんだ!?」

 

「良くならない事だけは確かだ! 兄上、退いていて!」

 トルイはだんだん口を開ける地割れに駆け寄って、両手を上に掲げた。

 

「風、風よ、来い、もっと・・・」

 

 旋風が上がる。

 空間がひしめき悲鳴を上げる。

 何の知識もないオゴデイにすら、無理矢理な事をしているのが分かった。

 

 火花を放ちながらトルイの両手に緑の槍が出来上がって行くが、不安定にガクガク震えている。

 

 オゴデイは、見つめているしか出来なかった。

 ただ祈るしか出来なかった。

 

「派邪・・・!!」

 

 撃ち下ろされた槍は、裂け目に垂直に入った。

 

 ――――――――

   ――――――・・・

     ・・・・・・――・・・ ・ ・   ・

 

 トルイは下からの光に照らされて、槍の行き先を見据えている。

 オゴデイの所からは地割れの中は見えない。

 

 やがて唸りが小さくなり、地割れが閉じ出した。

 

「やった……のか? 成功したのか?」

 

 地割れが完全に閉じるのに目を奪われていて、弟が崩折れたのに気付くのが一拍遅れた。

 

「トルイ……?」

 兄は慌てて駆け寄り抱き起こしたが、大嫌いだった銀の瞳はもう開かなかった。

「……なん……で……?」

 

 

 ***

 

 

 もうすっかりトルイと同化してしまったシリギは、疲れきって、彼と一緒に沈んで行った。

 その手首を、白い細い手が掴まえた。

 

「………起きて・・・戻って!」

 

 原色の激しい逆流。

 

 ハッと目を開く。

 満天の星。

 さっきまで星も無い、暗い過去の荒れ地に居た。

 

 左隣の焚き火に、今しがた放り込んだ枝に火が燃え移った所だ。

 時間は殆ど経っていない。

 

 右隣を見る。

 白い細い手が、シリギの手をしっかり握りしめていた。

 

「……ユユ……」

 

 頬に張り付いた巻き髪を濡らして、女の子の両瞳から、雫が雨だれのようにこぼれ落ちている。

「ユユも、見ていたの?」

 

「貴方を通して、一緒に」

 

 

 

 

   ***

 

 

 

 新王都。

 新しい宮殿、明るい廊下。

 四代目ハーン・モンテが、側近と共に闊歩する。

 

「父上!」

 

 振り向くと、側室腹の四男坊だ。

 身体も小さく惰弱なのであまり気に掛けていない。

 見目は良いので、将来遠方の民族と血縁を広げるの位には役立つかもしれない。

 

「用事なら侍従に伝えておけ」

 いつものように軽くあしらう。

 

「王よ、どうしても聞きたい事があります。足をお止め下さい!」

 

「……?」

 珍しい事もある。

 王はついつい立ち止まった。

 兄達が不機嫌そうに弟を睨む。

 しかしこの日の弟は怯まなかった。

 

「ソルカお祖母様が、古い後宮のあの場所に、住み続けて居られるのは何故ですか? 遷都の時、すべての王族は有無を言わさず移動の触れだったと聞きます。どうしてお祖母様だけ残れたのですか?」

「なんだ、そんな事か、後にしなさい」

「父上! 知りたいんだ!!」

 

 本当に珍しい。

 声の大きさまで今までと違う。

「二代前の王、オゴデイが作った決め事だ」

「……どんな?」

「『後宮の庭園のあの場所は、ソルカとその子孫の永遠の専住場所とする』……くだらない、意味の無い決め事だ。あんな廃虚」

 

「くだらなくない!!」

 この弱い子供から出たとは思えない強い声だった。

「それ、聞けて良かった。とても大切な事だ。僕はそれに従います。お祖母様の所へ行きます」

 

 踵を返して駆け出す子供を、父と兄達は呆気に取られて見送った。

 

 

 ***

 

 

 蜜柑の花散る庭園に、葦毛が鼻面を覗かせる。

 

「まあ、シリギ殿」

 祖母はいつものように揺り椅子から立ち上がる。

 

「僕はここで暮らしたい。お祖母様と一緒に暮らさせて下さい」

 孫の願いに祖母は戸惑ったが、彼の両親が特に反対もしなかったと聞いて、その子の手を握って受け入れた。

 

 

 

 多分、あの後、オゴデイ王は、トルイの遺志を出来得る限り守ったのだろう。

 即ち、敬われも語られもせず、英雄にもならない。平凡に病死。

 トルイもそれでいいと笑うだろう。

 

 そうして兄(オゴデイ)は、ちょっとだけ嫌な噂を被ってくれた。

 この弟を疎んじ続けた自分に対する懺悔。

 

 

 

 蜜柑の木に風が立ち、庭園に白い花が舞う。

 

「お祖母様、迎えが来ました。少し出掛けて来ます」

 シリギはお茶のカップを置いて立ち上がった。

 

「まあ」

 祖母も立ち上がり、少女のような目になって、ワクワクと庭園を見回す。

「ねぇ、今ここに、蒼の妖精の方がいらっしゃるの?」

 

「はい」

 と答えるシリギの後ろには、彼と同じ瞳のユユと、その父親・ツバクロが、草の馬から下馬して立っていた。

 

「トルイお祖父様の母君の……今の、お身内の方々です」

 

 ソルカはちょっとの時間をかけて呑み込んだ。

「ああ、そう、そうなの。ではあの方は、今はお寂しくはないのね、幸せなのですね。良かった……良かった」

 

 ユユが進み出て、婦人の差し出す手に触れる。

「暖かいわ。この子をどうかお願いします。迷わぬよう導いてやって下さいませ」

 

「お祖母様、妖精は……」

 口を挟もうとするシリギを、ツバクロが静かに遮った。

 

「あっ、ちょっと待って、待っていて下さいね!」

 ソルカは母屋に駆け去り、すぐに戻って来た。

「シリギ、これをあの方に」

 清しい香りの小さな瓶。祖母自慢の蜜柑の蜂蜜漬けだ。

 

 風が巻いてシリギも見えなくなり、白い花びらが舞い落ちる。

 祖母は軽い足取りで、葦毛の鼻面を撫でに行った。

「私達平凡なモノは、大人しくお留守番をしていましょう」

 葦毛はふるると頷いた。

 

「蜜柑の蜂蜜漬け、食べますか?」

 

 

 

 

 

 



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7・言伝

 

 地べたの記憶から戻った時、シリギはまったく動けなかった。

 本当にこれ以上ない程疲れ果て、指先一つ、目を開く事すら億劫だった。

 

 時間を追う毎に酷くなって行き、頭を動かすだけで吐いてしまう。

 ユユが必死に呼び掛ける声も、途切れ途切れに遠くなって……

 

 ・・・

 ・・・・・

 

「お父さまぁ!」

 

「東国帰りの、丁度通り道だから寄ってみた。鷹の手紙で大体の事は知らされていたけれど……」

 

 シリギは微かに意識を戻した。

 ・・知らない男性の声がする。

 助けが来てくれたみたいだ。

 

 足音が近付き、覗き込んでいるらしい男性。その第一声は、

「……こいつぁ、カワセミがご執心になる訳だ!」

 ・・だった。

 

「里へ運ぼう。大長の力が必要だ」

 シリギの額に手を当てて容態を見たユユの父・ツバクロが、すぐに声色を真剣にして彼を抱え上げた。

「ユユ、お前はこの子の馬を連れて、地上を来なさい」

 

 ツバクロの馬は里で一番速く高く飛べる。

 ・・というのを、シリギは後から聞いた。

 意識が半分無くて良かった・・と思った。

 

 

 

 ユユが葦毛を連れて、大分遅れて里へ戻ると、人間の男の子が運び込まれた騒動が一段落した所だった。

 

 里の真ん中の執務室では、ナナが一人留守を預かっていた。

「シリギは?」

「カワセミ長のパオ。あそこが一番気の流れが良いから。大長と三人の長も詰めてる」

 

 すぐに行こうとするユユの手を、ナナは引っ張った。

「立ち入り厳禁」

「何で? アタシはずっとシリギと一緒だったのよ」

「大人の中に子供が入って行くと、大人は大人で居なきゃならなくなる。そんな余裕が無い場合って、あるだろ」

 

 ユユは黙った。

 いつだってナナは冷静で正しい。

 

「ユユ、よれよれじゃないか。家に戻って休んでいろよ」

「……ん……」

 出て行きかける妹に、書類の束を繰りながら、兄はぽつんと言った。

「ユユは良くやったよ」

 

 妹は立ち止まって振り向いた。

「ナナは、それ、何をやっているの?」

「ん? 長の仕事の依頼の分類。これやっとくと、後でノスリ長が楽になる」

「アタシでも手伝える?」

「疲れてるだろ」

「やりたい」

 

「……じゃあ、そっちの終わった奴、日付順に並べて」

「うん」

 

 

 書類の山がきれいに分割される頃、三人の長が入って来た。

 三人とも微妙に伏せ目がちに目が赤い。

 

「ボク寝る。後は宜しく……」

 カワセミは長椅子にうつ伏せに倒れ込んで、五秒で寝息を立て始めた。

 

 大柄なノスリは大机の向こうに座り、ツバクロは長椅子の肘掛けに腰掛けた。

 ナナは素早く後片付けをして、では失礼しますと戸口から消えた。

 本当に自分の立ち位置を確立している。

 カワセミに毛布を掛けていたユユも、慌てて着いて行こうとした。

 

「ユユ」

 ツバクロが呼び止める。

「シリギと一緒に、『見た』んだな?」

「はい、……あの、シリギ大丈夫?」

「強い術に身をさらして、身体がびっくりしただけだ。ちゃんと回復するよ」

「良かった」

 

「『引っ張り戻し役』が必要だと気付いたのは、偉かった」

「はい……」

「まあ明日だ。今日はおやすみ」

 

 

 ユユが出て行っても、ノスリもツバクロも、黙って俯いたままだった。

 

 

 

 

 ・・・・・・

 ・・暖かい掌が額に乗っている。

 シリギはふぅっと意識を戻した。

 

 里に運び込まれ、何人かの妖精が手当てをしてくれたのは覚えている。

 特に水色のカワセミは、しがみ付かんばかりの勢いで術を掛け続けてくれた。

 

 今は、後から駆け付けた大長と呼ばれるヒトが、ずっと額に手を当ててくれている。

「あの、僕もう大丈夫です。大分楽になったし」

 

「貴方は何も心配しなくていいんです。もうしばらくお休みなさい」

 目を開けると目眩がするので姿は見られないけれど、人心地の付く優しい声だった。

 ただ、何だろう? ちょっと張り詰めているような感じもする。

 

「あの、聞いてもいいですか?」

「はい?」

「僕も修行したら、魔法とか使えるようになるんでしょうか。そしたら何か、使命とか湧いて来るんですか?」

 

 大長はピクリと揺れてから、やはり優しい声で、きっぱりと言った。

「蒼の里では、もう人間に術の手解きはしない事にするんですよ。自然に使えるようになってしまった場合は、封印します」

 

「何で、ですか?」

「トルイが突然こと切れてしまった理由、今回やっと解りました。人間は魔法を使うように出来ていなかったんです。術を使う度に、少しづつ命を削っていたのです」

「…………」

「五年前、里に暮らしていた人間の女性も、突然、途切れるように逝ってしまいました。彼女も巫女と呼ばれ、昏睡のカワセミと、夢の世界でコンタクトを取る為に、術を使っていて…………早く……気付くべきでした」

「…………」

 

「私が、間違いを犯してしまった……」

 大長は左手で自分の顔を覆って、長い息を吐いた。

 

「トルイは、間違ったとか思っていないですよ」

 シリギの声に、大長は顔を上げた。

「知っていました、命を縮めるって。トルイの中に居た僕が言うんだから間違いないです。分かっていて魔法を使い続けたんです。お陰で大切なヒト達の役に立てた、ソルカお祖母様を救えた、それに一生の仲間が出来た」

 

 大長は細いカンテラの明かりのもと、身じろぎもせずシリギを見つめる。

 

「だから多分、僕もこうして生まれて来たんです。絶対、間違いじゃないです」

 

 大長は黙って少年の手を握った。

 

 

 ***

 

 

 ソルカ妃の庭園を出て、シリギはツバクロの馬に乗せて貰って、ぐんぐん空を登っている。

 そう、高い高い山、『風出流山(かぜいずるやま)』の頂上直下にある神殿へ。

 トルイの母君に逢いに。

 

 あの夜、トルイが母親に言いかけて後回しにした言葉。

 トルイと同化していたシリギには聞こえていた。

 

「それ、どうしても、トルイのお母さんに直接伝えたいんです」

 シリギがそう言い張って、本日の運びとなった。

 言い張っておいて実は不安になっていたシリギだが、ツバクロから母君直々の招待状を見せられてホッとした。

 『こちらこそ是非お会いしてお礼を申し上げたい』との内容が、人間の文字で美しく書かれてあった。

 

 ユユは途中で、

「子供が居ると、大人は大人で居なきゃいけないから」

 と言って別れた。

 

 よく分からなかったが、ツバクロが

「子供が大人に、『大人で居なくてもいい』って言ってあげられるのは、もう子供を卒業出来ているって事なんだよ」

 と言うのが、妙に印象深かった。

 

 多分、草の馬で高空気流に乗るのなんか最初で最後だろうからと、ツバクロはちょっとサービスしてあげた……が、彼の『サービス(無限宙返り)』を喜ぶ子供なんて、里でもユユだけだという事を忘れていた。

 雪に覆われた神殿に到着する頃には、シリギは完全に目を回していた。

 

 だからトルイの母親が、自分を一目見て卒倒しそうになった事なんて、分からなかった。

 

「ユユが会わせたがらなかった訳だよなぁ」

 

 神殿の暖炉の前で、シリギは温かい飲み物を貰って生き返った。

「僕、そんなに似ているんですか?」

 

「ええ、髪と目の色が違うのを差し引いても」

 

 目の前の女性は、蜜柑の蜂蜜漬けの瓶を抱えて、懐かしそうに目をしばたいている。

 地の記憶の中で見た、白い甲冑の女性。

 今は裾の長いローブ姿で、あの時よりも血色が良くて物柔らかに見える。

 

 シリギは、西の森でカワセミが怒りに身を震わせていた訳が分かった。子供時代のトルイと同じ顔と声で、あんな情けない事を口走ったんじゃ、そりゃ槍のひとつも向けたくなるだろう。

 こっちは知らないよ、そんなの。

 

「お祖母様は、似ているなんて一言も」

「貴方をトルイに重ねたくなかったのかもしれませんね」

 

 

 ツバクロは神殿の外で待っている。

 彼女の馬と自分の馬が戯れるのをのんびり眺めながら、此処へ飛ぶのもやっとだった青年時代を思い出す。

 ここまでの高空気流に乗る方法は、たまたま見付けたんじゃない。

 結構意地になって執念深く挑戦したんだ。連日ボロボロになって大長に怒られながら。

(若気の至りって凄いよな……)

 

 そんなに時間も経たない内に、神殿の主が呼びに来た。

「もういいの?」

「はい、中でお茶でも」

「で、何だったの、伝言って?」

「他愛もない事でした」

 

「ふうん、教えられない事?」

「でもないですけれど」

「じゃあ、教えてよ」

「……前半分だけでしたら」

 

「うん、それでもいいよ」

「『いい加減、子離れして』」

「は?」

「そこまでです」

 

「はあ……」

 

 それから暖炉の前で、シリギの話をゆっくりと聞く。

 トルイとオゴデイ王の、何処にでもいる兄弟の、平凡な仲直りの話。

 

 帰り際に、シリギは緋色の布に包まれた細長い包みを渡された。

 開いてみると、束に赤い石の付いた見事な長剣だった。

「トルイが青年時代に持っていた物です」

 

「そ、そんなの受け取れません!」

「さあ? 貴方がどうでも、剣が貴方の元へ行きたいみたいです」

 たおやかな微笑みと共にサラリと言われて、シリギは謹んで受け取らざるを得なかった。

 

 あ、思い出した。この鈴を振るうような声、ユユがゆっくり喋る時の声に似ているんだ。

 

 

 清しい顔で見送る女性を振り返り、ツバクロは前に乗せているシリギに話し掛けた。

「有難うな。彼女どれだけ救われたか」

 

「いいえ、僕じゃなくてトルイのお陰です。後、ユユが励ましてくれたのも。でも本当にこんな立派な剣……いいんですか?」

「いいんだよ、あのヒト、言い出したら聞かないから」

 

 ツバクロは懐かしそうにトルイの剣を見つめる。

 この剣を悪戯でトルイから取り上げちまって、トルイが母親にビンタされた事があったっけ。

 あの頃の自分は、彼女は何かっていうとビンタしてくるおっかない女性だと思っていた。

 

「あの……な、トルイの伝言、僕にもチョコッと教えてくれない?」

 

「えぇ…… 他のヒトに聞かれたくないだろうなと思って、無理矢理連れて来て貰ったのに」

「内緒にするからさ」

「…………」

 

「じゃ半分、後ろ半分だけでいいから」

「はあ、後ろ半分なら」

「うん、うん!」

 

「『あいつの所へ行っちゃえよ』です」

 

「・・あ・の野郎・・!」

 

 ツバクロが馬に渇を入れたので、シリギはまた怖い思いをする羽目になった。

 

 

 

 



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8・銀の石

第一章の最終話です


 

 旧王都の西の森。

 

 陽当たりの良いソルカ妃の庭園より、こちらの蜜柑の木の方が、少し遅くに結実する。

 今年最後の蜜柑をもぎに、少年は森へ踏み入る。

 

「あれ?」

「あら」

 

 何ヶ月振りかに会う、空色の巻き髪の女の子。

 木の上で、脱いだ上着一杯にくるんだ蜜柑を抱えている。

 その上の梢に、有翼の妖精が鷹のように立っている。

 

「こ、こんにちは……」

 何となく苦手意識をあらわにする少年に、無表情に一瞥くれて、カワセミは梢を蹴って少年の斜め横に降り立った。

 

「ユユ、全部は採るな。木守りの実は残しておくんだ」

「はぁい」

 

「採っちゃうの?」

「持って帰るのは、キミだ」

「……」

 

 相変わらずこちらがリアクションに困る棒読み台詞で、カワセミはサラリと呟く。

「あの蜂蜜漬けは、絶品だ」

 

 そういえば、母君に渡した蜜柑の蜂蜜漬けは、蒼の里へ戻るツバクロにもお裾分けされていた。

 

「また宜しくと、ソルカ殿に伝えておいてくれ」

「は、はい……」

 

 樹上で蜜柑採りに専念しているユユを確認して、カワセミは静かに少年に問うた。

「で、分かったか?」

「何を、ですか?」

「自分が何の役割を持って生まれて来たか、だ。一番最初に聞いただろ」

「あ、ああ」

 

 シリギはちょっと唾を飲み込んで、顎を上げて答えた。

「僕、ちゃんと意味を持って生まれて来たんです。おこがましいけれど」

 

 カワセミは水色の深い瞳で少年を見つめながら、黙って続きを待っている。

 

「トルイが心ならずも残してしまった、ちょっとずつの曇りを拭(ぬぐ)って……いろんなヒトを、ちょっとづつ幸せにする為に、この世に来たのかなあ、と。多分これからも」

 本当におこがましい。

 どうせまた怒らせるんだから、遠慮せずに思った通りを言おうと思った。

 

 少しおいて、カワセミが静かに

「ああ、そうだな……」

 と頷いた。

 

 えっ、いいのっ!?

 

 カワセミはもう一度ユユがこちらを向いていないのを確認してから、ポケットから何かを取り出した。

 小鳥の卵よりもう少し細長い、鈍い銀に光る石。トルイの瞳と同じ色だ。

 

「これを持っていろ」

「……? これは?」

「握って強く思えば、何処に居てもボクに伝わる」

「??」

 シリギは、角度によって半透明にも見える不思議な石と、カワセミの顔を見比べて、キョトンとした。

 

「キミが『本来の力』を使いたいと思ったらボクを呼べ。封印を解いてやる」

「ぇ……ぇっ、ええっ?」

 

 カワセミは更にシリギに顔を近付けて囁いた。

「キミは、多分そこそこの術力を持っている。素で地の記憶に入れた位だから。大長は眠ってる間にキミに封印を施した。それは正しい。誰だってキミに命を縮めて欲しくはない」

 

「え……僕? そうなの?」

 いきなり過ぎ……

 

「だけれど、キミがその能力を持って生まれたのには意味がある。その意味を見つけたら、ボクを呼べ。ボクの責任に置いて封印を解いてやる」

 

 シリギは少しの間石をじっと見つめてから、カワセミを見た。

「いいの? 妖精って掟とか厳しいんじゃ……」

「大長の言う事は絶対だ。でもキミの意志は、別の次元で絶対だ。それがボクの『摂理』だ」

 

 シリギは暫く、この祖父の親友というヒトを見つめた。

「分かりました、お借りします。……ありがとうございます」

 石を大切に懐にしまう。

 

「カワセミ様――」

 樹上のユユが叫んでいる。

「もう一杯。重くて持てないわ。もういいでしょう?」

 

「ああ、偉いぞユユ」

 カワセミは何事もなかったように、また無表情に戻った。

 

 

 ユユはシリギから袋を受け取って、わざとかと思える程ゆっくりと、丁寧に蜜柑を移し始めた。

「適当でいいよ」

「だって、カワセミ様ばっかりシリギとお喋りしてズルイ。あんまりお気軽に会えないんだから、あたしの事忘れられたら嫌だもん」

 

「忘れないよ」

 シリギは目を細めて、自分と同じ色の瞳を見つめ返す。

 

「人生で、ずっと一緒に居ても記憶に残らない者もいる。ほんのちょっとしか居なかったのに一生残る者もいる。何があっても君の事は忘れようが無いよ、ユユ」

 巻き髪の少女はちょっと目を丸くして、はにかみながらまた作業を続ける。

 

「腕が、ちょっと太くなったな……」

 いきなり真後ろからカワセミに腕を掴まれて、シリギは飛び上がった。

「び、びっくりさせないで下さい。えと、剣を、習い始めたんです。本格的に」

「ほお」

 

「トルイの剣を帯びる為に。あんな立派な剣を下げていてヘボかったらカッコ悪いじゃないですか。あと、えっと……色々なモノを護れるように、です」

「……うん、そうか」

 

 水色の妖精は静かに頷き、少女は蜜柑を詰め終えて、しっかり目を見て少年に差し出した。

 

 蜜柑の木の清しい香りが風に舞う。

 

 

 

 

 

 風出流山(かぜいずるやま)の神殿。

 女性は一人、地平に掛かる三日月を眺めていた。

 季節が替わり星も替わる。今宵は早くに月が沈んで、冬の星座が鮮やかに浮かび出した。

 

「あの子、そう、この星のようだわ」

 月の光に隠れていたけれど、本当はちゃんと其処にあって、一生懸命地上を照らしてくれていた。

「トルイが月の子、シリギは星の子……ね」

 

 星はこれからも数奇な運命を辿るだろう。

 どんな時世(ときよ)に翻弄されようと、揺るがずそこで光り続けてくれますようと、女性は静かに祈る。

 大昔、王(ハーン)やその息子の為に祈ったように。

 

 

 

 

       ~ 月の子星の子・了 ~

 

 

 

 

 




次回から第二章です。


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ネメアの獅子
9・バヤンⅠ


第二章開始です

家系図:
【挿絵表示】



 AD 1253

 

 春霞の草原に土埃を立てて、地平まで続く隊列が行く。

 

 大ハーン、モンテの命を受け、今まさに王都を出陣し、西方へと旅発つ大隊。

 先頭近くに、王の実弟である大将、フレグの騎馬。

 周囲はその祖父テムジンの代からの忠臣の家系で堅められている。

 いずれも歴戦の傷跡を身体に刻んだ猛者揃いだ。

 

 猛々しい顔の中に一人、輪郭に幼さの残る青年が混じる。

 隣の父親は、曾祖父の代から王家に仕える闘将の血族。

 紅顔の青年は真新しい甲冑に身を包み、血の誇りを胸に、初陣に心躍らせていた。

 

 旧王都が見えた時、そちらから駆けて来る一頭の騎馬があった。

 遠目にも判る、この国には珍しい連銭葦毛。そしてあの目立つ淡栗毛。

 大ハーンの例の第四皇子。

 

「……父上」

「ああ、今回の遠征は長くなる。行って良い。あまり遅れぬよう」

「は、有り難うございます」

 青年は一礼して隊列を離れ、葦毛の方へ駆けて行った。

 

 

「バヤン!」

 淡栗毛の少年は息せききって、青年の騎馬に駆け寄る。

「行っちゃうんだ。無事で帰って来てね、怪我しないでね」

 

「シリギ様……」

 青年は、この大隊を前に通常運行の皇子に、呆れながらも何だかホッとした。

「戦場へ参るのです。怪我を恐れていては武功は上げられませぬ」

 

 そう、モンテ王はじめ他の王族、この少年の兄達だって、『血に恥じぬよう』『期待している』『武功を立てよ』と、仰々しく見送ったのだ。

 

「うん、だけど……」

 少年は冬空のような薄青い瞳で真っ直ぐ見つめて来る。

 

 バヤンは本当にこの目に弱い。

 大ハーンにだって、自分の仕える主君にだって、こんな気持ちは湧かない。

 

「もういつ会えるか分からないのに、本心じゃない事は言えない」

 

 本当にこの皇子は……

 こんなだからこの子は、軟弱者と一族を弾かれ、つましく旧王都で祖母と暮らす羽目になっているのだ。

 しかし将来有望なこの青年は、何故かこの落ちこぼれ皇子が気に掛かってしようがない。

 こんなストレートに『無事で帰れ』しか言われない壮行なんて。

 

「私は無事で戻りますよ。この愛する生まれ育った草原の地に。そしてまた貴方と剣を交えたい」

 青年はだから、この少年に対してはうわべでなく、素直な言葉を出す。

 そんな自分を不思議に思う。他の誰にも言わない言葉が出て来る。

 

「うん、僕、バヤンに教えられた通り、一日だって怠けない。次に会う時は、『シリギに剣を教えた甲斐があった!』って思われるように」

 

「頼もしゅうございます。そうして貴方様も王朝の繁栄の為活躍される御身となられ、その時には私も、教え甲斐があったと大いに誇れましょう」

 

「違うよ!」

 少年はいつものように口を尖らせる。この手の話に関しては、えらく頑固なのだ。

「僕は僕の大切なモノを護れるように、強くなりたいんだ!」

 

 

 そう言って、闘将と名高いバヤンの父親の所へこの少年が訪ねて来たのは、去年の初夏の頃だった。

 皇子の希望とはいえ、多忙な将軍に稽古を付ける時間など無く、体よく息子のバヤンが当てがわれた。

 最初不満気だった皇子も、四つ年上のこの息子が父も一目置く剛の剣の持ち主だとすぐ解り、真面目に旧王都から稽古に通って来た。

 

 筋はなかなか良かったし、一族の中で変わり者扱いのこの子と居る時、何故かバヤンは心地良く、いつしか稽古の時間を待ち遠しく思えるようになった。

 この真っ直ぐな子供と話していると、身分も立場も脱いだ素の自分になれたのだ。

 

 青年は、彼を好きだった。

 きっと、かなり、好きだったのだ……

 

 

 ***

 

 

 若武者は手を振って駆け去り、シリギはその影が騎馬群に紛れて小さくなっても、出来得る限り目に焼き付けていた。

 

 西方の平定は容易ではない。何年、何十年、……もしかしたら今生の別れかもしれない。

 シリギにとってもあの青年は、人間の中で数少ない、心許せる大切な存在だったのだ。

 

 その影が地平に消え、シリギは乾いた瞳を反らして、西の森へ馬を向けた。

 

 西の森、鎮守の森、禁忌の森・・近隣の住民はそう呼んで近寄らない。

 テムジンの出した触れがまだ生きている。

 

 森の入り口からほんの少し藪をこぐと、騎馬一頭通れる道が奥に向けて出来ていた。

 連銭葦毛は慣れた感じで森を歩き、一本の蜜柑の木の立つ広場に抜ける。

 白い花はまだ蕾だが、清しい香りが満ちている。

 

 以前中頃にあったパオは片付けられ、結構な広場になっていた。

 周囲に、大人の腕程の、太い木片が散らばっている。

 

 シリギは広場の真ん中に立ち、まず、目を閉じて感覚を張り巡らせた。

 ――・・・・・

 大丈夫、近くに蒼の妖精は居ない。上空から見られる事はないだろう。

 

 足元に転がっている木刀に手をかざす。それはフワリと掌に吸い寄せられた。

 そのまま木刀を構えてもう一度目を閉じた。

 

「風よ……!!」

 

 葦毛は蜜柑の木の陰に隠れた。

 そこ以外の広場一杯に、強力な風が渦巻いた。

 散らばってた木片が舞い上げられ、でたらめに飛び交い始める。

 

 背後から横から飛んで来る木片を、少年は木刀で打ち落とす。

 落とされた木はまた舞い上がって、今度は別方向から飛んで来る。

 その『稽古』は、彼が気配を感じるまで続いた。

 

「やめ……」

 風がパタリと止んで木片がドサドサと地面に落ちる。

 程なく、上空に空飛ぶ緑の馬が横切った。

 知った顔ではない。

 

「バレる訳には行かない」

 

 一年前、蒼の大長は自分の風の力を封印した。

 それは自分の身を案じての事だ。人間が術を使うのはその命を磨り減らす。

 蒼の妖精はみな同じ考えだ。

 一人を除いて。

 

 その一人のカワセミの力はまだ借りていない。

 貰った石は、肌身離さず首から下げているが、使った事はない。

 

 そう、封印の効いたこの状態で、シリギはここまで風が使えるようになっていた。

 

「僕は強くなる! トルイのように! 護りたいモノを自分の力で護れるように!」

 

 

 ***

 

 

 AD 1259

 

 凱(とき)の声が上がり、若き将が大歓声の中、拳を突き上げて凱旋する。

 逞しい体躯、精悍な顔立ち、信念を湛えた力強い瞳。

 

「百眼のバヤン!」

「闘将バヤン!」

 

 見た者すべて魅了する、光輝くオーラを放つ若者は、先日異例の早さで将軍を拝命した若武者バヤン。

 戦の要処を素早く見極め強襲する姿は、まるで顔の二つ以外にも眼を持っている様で、いつしか『百眼』の異名を冠されるようになった、

 鳴り止まない歓声を背に、将は門を潜って城に入る。

 

 君主フレグに着いて故郷を出て数年。

 西方の制圧は着々と進み、父と共に活躍したバヤンは、君主の片翼を任されるまでになっていた。

 順風満帆、誰もが憧れる輝かしい覇道。

 

 自室に戻り、兜を脱いで甲冑を外す。

 ほぉ、と息を付いて窓枠に手を掛けた。

 思い描いた通りの順調な大将軍への道。満足な筈だ。

 でも、時々訪れるこの渇いた感じは何だろう。

 

 バヤンは故郷の少年を忘れてはいなかった。

 いや何でか、会わなくなってますます彼を思い出すようになっていた。

 

 

「しみったれた面(つら)してんなよぉ・・!」

 

 不意に、天井の隅の暗がりで声がした。

 バヤンはさほど慌てるでもなく、無表情で振り向いた。

 

 朱色の火花が飛んで、ポッっと狼の形の炎が浮かんだ。

 蹴爪と首の周りのタテガミから炎を燃え立たせる、仔牛程の大きな獣。

 

「またお前か……妖(あやかし)」

 

 炎ははっきり狼の姿になって、空中を歩いてバヤンに寄った。

「俺様の言った通りだったろう? これからも、俺様がお前さんの羅針盤になってやる。楽しいだろ、連戦連勝」

「…………」

 

「ご機嫌斜めか?」

「お前、何が目的だ? 妖(あやかし)」

 

「ん~~?」

 赤い狼は鼻面がくっつく程バヤンに顔を寄せた。

「も・く・て・きぃ~~?」

 

「どんなに盛り立てても私は家臣の家の出だ。得られる物には限りがある。国の頂点には立たない。それとも魂が欲しいのか?」

 

 真剣に問いかける若者に狼は目を丸くして、それからせせら笑った。

「人間の価値観に当てはめるなや。実体すらあやふやな俺様が、身分や物を欲しがるかよ? 俺様はな、ただ、面白く生きたいのさ」

「面白……く?」

「そうだ、お前さんは面白い!」

 

 言葉を失くして立ち尽くす若者を残して、赤い狼はまた暗闇に溶けた。

 

 この数年、いつからか、自分にだけに見える、炎をまとった妖しい獣。

 戦で荒んだ神経が見せる妄想なのだろうか。

 お・も・し・ろ・い?

 

 祖国の為、君主の為に剣を振るうのは、承知している。

 だが、人の血肉を刻むのが、面白くあろうものか。

 

 暫く茫然として、バヤンは再び窓の外を見た。

 いまだ自分の名を呼び、讃える兵士達。

 自分ももう、立ち止まれない所に居る。

 

「シリギ様……」

 

 何でか、またあの少年を思い出した。

 毛羽立った心の中でも、あの子供の居場所だけは穏やかに澄んでいた。

 彼はどんな大人になったのだろう……

 

 

 ***

 

 

 AD 1260

 

 ソルカ妃が鬼籍に入っても、シリギは蜜柑の花咲く庭園に住み続けていた。

 その間、大ハーンである父が遠征先で亡くなった。

 後継は、王都の留守を預かっていた父の末弟、シリギには叔父にあたるアリクブケが収まった。

 ただ、この末弟、どう見てもちょっと頼りない。戦歴も薄く病弱で引き籠りがちだし、大ハーンとしては余りにも器に欠ける・・と、口さがない者々の陰口に登った。

 

 そんな連中はシリギのひと睨みで黙った。

 そう、この数年で彼の立ち位置は大きく変わっていた。

 処々の小戦で、この十代の青年はトンでもない力を発揮した。

 単身敵本陣に突っ込んで大将の首根っこを抑えるなんて、お伽噺の英雄譚みたいな事をホントにやってのけたりした。

 眠っていた獅子が頭をもたげたように、いきなり。

 

 前王も掌(てのひら)を返したように側室腹の彼を取り立て、彼にはかなりな軍隊と所領を遺していた。

 今や彼は、祖父トルイの一族の頂に近い所に居たのだ。

 

 

「驚きだな、あのヘタレ小僧が」

 

 バルコニーの手摺に、素足で立つ者がいる。

「封印も解いてないっていうのに」

 

 有翼のそのヒトは、鷹のように悠々と、活気を取り戻しつつある城下を眺めていた。

 廃虚だった城は復興され、この若き将の拠点となっている。

 中庭は大切に護られ、蜜柑の木が勢いよく枝を伸ばして黄緑の葉を繁らせている。

 

「急ぐ必要があったからね。早く権力が欲しかった。戦で手柄を挙げるのが手っ取り早いだろ?」

 

 銀製の盃を二つ持って、部屋の中から薄青の瞳の青年が出て来た。

「ああ、酒は飲まないんだっけ?」

 

「キミの酒なら飲んでやる」

 

 背中に掛かる淡栗毛の髪は、以前はこの子供の弱さの象徴の様に見えたが、今は陽光にきらめき、凛とした強さを表している。

 青年の差し出す盃を受け取って、水色の妖精はバルコニーの縁に立ったまま、南方の地平を見据えた。

 青年も盃を持ったまま、手摺に寄り掛かってそちらを見やる。

 

「来るな……」

「来るね……」

 

「あの坊っちゃん王に抗らえるかな」

「その為に僕は、地盤を築き、此処に居る」

 

「……妖精は人間に手出し出来ない」

「いいよ、こうして厄落としの盃を交わしに来てくれただけで」

 

 弱い大ハーンの存在を人間の世が許して置く訳がない。

 その座を狙って来るのは王の兄、南方に勢力を集めるフビライ。

 

「空まで歪んで見える……」

 カワセミは彼方を見やって眉間にシワを寄せた。

「よりによってあんな厄介な所に……」

 

 

 

 

 

 




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10・バヤンⅡ

 

 

 

 AD 1264

 

 見上げるような天井には豪奢な彫刻が施されている。

 帝国の大ハーンに相応しい謁見室。全てが新しくきらびやかだ。

 即位して一年足らずの急拵えとは思えない。

 新ハーンの力が伺い知れる。最もそれを知らしめる為かもしれないが。

 

 バヤンは自身の君主フレグ(その新ハーンの弟にあたる)の使者として、先程から謁見の間に控えている。

 祖国の地を踏むのは十数年振りだ。

 

 西方の制定に出陣したフレグは、自分の兄と弟が祖国で後継争いを始めるや、どちらにも介入せず、その地に独自の王朝を開き、根を下ろした。昔っから賢く要領の良い人だった。

 

 バヤンの父や重臣は、その賢明な王を讃えた。

 フレグの王朝は彼等に護られ、そこそこ繁栄して行くだろう。

 

 しかしバヤンはそこに落ち着けなかった。

 いつも飢えて渇いていた。

 今回の祖国への定期連絡の使者に名乗り出たのも、『何か』を求めての物だったのかもしれない。

 

 小さなざわめきが起き、者々の気配が変わった。

 高い天井まで空気がシンと張り詰める。

 

 目を上げると今現在の帝国の大ハーン・フビライが、玉座にも座らずそこに立って居た。

「そなたがバヤンか。火の国の百眼の闘将」

 

 バヤンは息を呑んで、すぐに返事が出来なかった。

 

 全身から立ち昇る王者の気。射竦めるような眼。

 身体の部品一つ一つが特別拵えのように美しく均整が取れている。

 存在その物が王、という人物は居る! ・・祖父にそう聞いた事がある。

 自分は今まさにその人物に対峙しているのだ。

 バヤンの闘将の血がそれを教えていた。

 彼はたちまちこの王の虜となった。

 

 

 

 

 城の客間も新しく、贅が尽くされていた。

 バヤンはバルコニーから夜空を眺め、物思いに更ける。

 西国の強い光の星よりも、この国の霞んだ天の川を見るとホッとする。

 自分の心はやはりこの国にあったのだ。

 

 

 ――!!

 

 瞬間、バヤンは腰の刃物を抜き、後方へ飛びすさった。

 上方からバルコニーに飛び降りて来た者がいたのだ。いやここは最上階の筈!?

 

「何奴!!」

 大ハーンの居城に曲者!? 背筋が張り詰める。

 

「しまってくれ。驚かせて悪かった」

 両手を上げて月明かりに照らされるのは、波打つ細い淡栗毛の若者。

 

「……・・・シリ・・ギ・・様!?」

 

 どんな大人になったろう? 常々思っていた子供は、バヤンの望み通り、そのまま大きくなっていた。

 清しい表情も薄青の瞳も、大人特有の濁りに毒されず、相変わらず真っ直ぐバヤンに向けられている。

 変わった所といえば、細身ながら無駄のない、逞しくしなやかな体躯だった。

 剣の教え甲斐のあった身となったのだろう。

 

「無作法、許してくれ。一刻も早くバヤンの顔が見たかった」

 

「あ、ああ」

 バヤンはやっと気を静めて剣を収めた。

 その手を差し出す前に若者は、駆け寄って両手で握って来た。

 見上げて歯を見せた顔は、子供の頃のままだった。

 

「久し振り! バヤン・・!」

 

「こんな真似をしなくとも、普通に会いに来て下されば」

「バヤンに良くない。僕の立ち位置、解っているだろ」

「…………」

 

 数年前の、現王とその弟王の玉座争い。

 シリギは弟王の陣営にいた。

 この強者がいなければ、フビライが玉座を手にするのに五年もの歳月を費やさなかった。

 『旧王都の碧眼の獅子』の噂は、遠く西方の王宮にも流れて来た。

 

 結局、気弱な弟王が長引く争いに参ってしまい、フビライに屈服する形で戦は終焉した。

 フビライは寛大な所を見せ、弟王はじめ、荷担した将達も殆ど罰せず、そのまま取り立てたのだ。

 もっとも『碧眼の獅子』に関しては、フビライが欲しがった……というのが、大方の見方だ。

 

「僕、王に目を付けられているから。繋がりある素振りを見せたら、バヤンに良くない」

 

 バヤンはこの賢い若者が何故勝ち目の無い戦に執着したか、疑問に思っていたが聞かなかった。

 終わって結果の決まった事だ。

「これから私と共に帝国の為に働き、信頼を得て行きましょう」

 

「……ふうん」

 シリギは手を離して数歩後退した。

「やっぱり誘われたんだ、王に。西方へ帰らず自分の元に留まるようにって?」

 声に表情がなくなり、その眼から懐っこさは消えた。

 

「シリギ様……? 将なら、偉大な王の元で働きたいと思う物です。僭越ながら私は、人の器を見る眼は持っているつもりです。あの王は、お仕えして間違いのないお方です」

 

「うん……」

 シリギは更に下がってバルコニーの手摺に背中を付け、両手を広げて縁に掛けた。

 影になって表情が見えないが、その眼は人間の物かと疑う程、鈍く光っていた。

 

「バヤンの眼は正しい。さすが百眼の闘将。フビライは王たる器は充分過ぎる程だ。それは『みんな』認めている。……だけれど」

 

「だけれど? 何なのです? 貴方が愚かでない事位、昔っから知っています。何か、王の不備を私に伝えに来たのではないのですか?」

 バヤンは焦れて少し声を上げたが、シリギは横を向いて視線を落としてしまった。

 

「いや遅かった。バヤン、もう決めちゃってるでしょ。王に心を奪われている。もう流れの外には出られない」

 

「遅いって、何が……」

 バヤンが問い掛けの言葉を探す前に、シリギは両手を手摺に着いて、ふわりとその上に立った。

 ――!?

 今、一瞬、体重が無いような動きだった?

 

「バヤンは自分の信ずる道を進め。いつか僕と、戦場で対峙する時が来ても」

 そのままシリギはふぃっと後ろに跳んだ。

 

「バ、バカッ!」

 ここは最上階だ。

 バヤンはバルコニーに飛び出した。

 手摺から身を乗り出して見下ろすが、水盤のある庭園が篝火に浮かぶばかりで、誰も見えない。

 

「…………自分は、ナニを見たんだ?」

 バヤンは呆然とバルコニーに立ち尽くしていた。

 

 

 ***

 

 

 バヤンは暫くバルコニーに佇んでいた。

 今のは確かにシリギだった。あの動きは篝火の見せた目の迷いか?

 それに……戦場で対峙するだって? 

「そんな、バカな!」

 

「バカでもないぜ」

 螺鈿(らでん)模様の天井板の隅の暗がりに、銀の眼が光る。

 赤い狼が薄くそこに現れたが、今日は少したたらを踏んでいた。

 

「くわばらくわばら……だぜ」

 

「妖(あやかし)か、何だ、どうした?」

 

「まったく今日は何て日だ。危うく見つかりそうになる奴ばかり」

「ほぉ、お前が見える者が居たのか?」

 

「見つかったらヤバイぜ、あいつ」

「……フビライ王か?」

 

「フビライ? いや、あれはテムジンと同じだ。俺様の驚異にはならない。怖いのは、あの青い眼のガキだ」

「シリギ様?」

 

「ああ、イヤだイヤだ。イヤな血を継承していやがる」

「血?」

 

「お前さん、あいつに何も感じないか?」

「子供の頃から知っているが、どうとも……」

「まだまだだな」

「………………」

 

 

 

 

 

 風に乗ってバルコニーから裏門まで飛び降りたシリギは、林間に隠れていた葦毛を呼び寄せた。

 

「バヤン、凄い立派になっていたな。男の僕でも、惚れ惚れしちゃう」

 独り言を愛馬にゴチる。

 祖母の尾花栗毛を母馬とした連銭葦毛の一粒種。こいつは連銭すらない真っ白だ。

 

「フビライの配下に収まるか」

 

 彼には来て欲しくなかった。後ろにあんな怖そうなのまで憑けちゃって。

 ざわつく胸を抑えて、葦毛を返して旧王都の自城へ向かう。

 

 

 

 ***

 

 

 AD 1276

 

 戦の陣はいつもシンと緊張に満ちている。

 人生の殆どを戦場の野営に身を置いてるバヤンには、この方が落ち着く。

 

 大ハーン、フビライの配下に収まり、その命で大陸の南方に出陣して、幾年経ったか。

 バヤンももはや、壮年と言ってもいい風貌になった。

 

 フビライが玉座争いに勢力を裂いて、その間に失ってしまった領土を取り戻すのは、百眼の闘将の実力を持ってすれば、そう時間は掛からなかった。

 そのまま更に侵攻を続け、遂に大陸で一番の大国を降し、王の期待に応える事が出来た。

 総て順調だ。帝国はやがてこの大陸全て……そして海を越えて東の黄金の国をも制覇して行くだろう。

 

 この勢いは止まらない。

 大きな力が働いている。大ハーンフビライの持つ王者の力。

 自分はその波頭に乗っているだけだ。

 そして隣には赤い狼が笑いながら駆けている。

 今や、バヤンは狼と同化し、自身が炎のオーラをまとった戦神と成っていた。

 

 

「早馬です!!」

 

 大将陣に息急ききった伝令が駆け込んだ。

「ほ、本国の……大ハーンよりの緊急の……詔(みことのり)に……」

 使者は馬からまろび降り、バヤンの前に倒れ伏しながら書状を差し出した。

 直後、馬は泡を吹いて絶命した。

 

 ただならぬ様子に、急ぎ書状を開いたバヤンは、その場で凍り付いた。

 

「……何を……や・っ・て・い・る? ……シリギ様!!」

 

 バヤンが大陸南部を侵攻している間、草原台地の東部で異変が起きていた。

 オゴデイの子孫の一族が周辺部族を次々制圧して、フビライ王朝の驚異となっていた。

 それらを退けるべく、フビライは自らの息子二人に大隊を与え、出陣させた。

 そこまではバヤンにも伝わっている。

 

 大隊の中には将としてシリギも加わっていた。

 フビライの皇子達は若くて今一つ頼りないが、『碧眼の獅子』がおれば心強い。

 あわ良くば、シリギには、ここで大きく功績を挙げて、フビライの信頼を得て欲しい……バヤンはそんな風に考えて、あまり心配していなかった。

 

 しかし……!!

 いよいよ敵軍と相対した時、いきなりシリギは反旗を翻した。

 裏切ったのだ。

 しかも、同じく出陣したアリクブケの息子達と結託して。

 そう、既に根回し済みだった。

 長年フビライの元に平伏(ひれふ)す振りをして、この機を待っていたのだ。

 

「シリギ、さ……ま……」

 

 書状を握るバヤンの指が震える。

 何て……事……

 言いようの無い喪失感が襲って来た。

 自分の仕える王を裏切られた怒りより……自分に、何も言ってくれなかったシリギに対する、胸が凍える程の怒り。

 

 淡栗毛の少年は、自分が好く程に、自分の事を好いていてくれなかった。

 アリクブケの子供達とは結託しても。

 

 いや、当然だろう。

 彼に謀反を誘われて、自分は乗っただろうか。その可能性は髪の先程も無い。

 自分は大ハーン・フビライに、心底忠誠を誓っている。

 初対面から心酔しているのだ。

 

 あの夜バルコニーで、シリギは鋭くそれを見て取ったのだ。

 だから、何も言わずに去ったのだ…………

 

「・・・・シ・リ・ギ・・・・」

 書状の末尾を見て、バヤンの目は更に血走った。

 

 反乱軍は王の息子達を捕らえ、有ろう事か敵軍に差し出したのだ。

 皇子と共に捕らえられた側近の中に……バヤンの妻の兄が居た!

 

「シリギ!! シリギ!! 分かって……分かっていて、やったんだな!! 私の怒りを買う事を!! 私がどんな気持ちになるか!! 分かっていて・・・やったんだな!!」

 

 

 書状を握り潰して百眼の闘将は顔を上げた。

 その眼は憤怒の炎で燃え上がっていた。

 

 西の果て、砂漠の地で何年も、あんなに焦がれていた少年。

 共に王を支え、帝国を守り立てて行きたいと、思っていたのは自分だけだった。

 裏切られた虚しさが憤怒を何倍にも増幅した。

 身体の奥で赤い狼が狂ったように乱舞している。

 

「出陣だ!! 北の草原台地を目指す!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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11・ユユⅠ

 ***
~時系列表~
1253: バヤン初陣 少年シリギとの別離
1260: フビライ VS アリクブケ王位争奪戦
1264: バヤン帰郷 フビライの配下に
1270: フビライ ユユと会う
1271: ナナ シリギと会う
1276: シリギの乱
1279: シリギの乱終焉へ

   ***


 

 

 AD 1270

 

 草原を夏草が覆う。

 

 風の当たらない湿った窪地に、一頭の馬が横たわっていた。

 傍らに一人の男性。悲痛な面持ちで短剣を手にしている。

 

 馬は目を見開いて腹を上下させている。

 四肢の一本が関節じゃない所から曲がっていた。

 

「俺が気を付けていればな……」

 

 馬は痛みに涙をためて主を見ている。

 こうなってしまったら愛馬の為にしてやれる事はひとつ。

 一息で絶命出来る場所を、この短刀で突いてやるだけだ。

 

「………………」

 男性はためらっていた。

 早く済ませなければならない。

 間もなく供の者が城から代わりの馬を引いて来る。

 その前に終わらせて、涙を流し終えておかねばならない。

 

 自分は神の子だ。馬ごときで人前でベソをかいている訳には行かない。

 一人で始末を付けると、無理矢理人払いをしたのはその為だ。

 この長年連れ添った愛馬の最期すら、威厳持ち見送ってやらねばならぬ。

 意を決して短剣を握り直した時……

 

 ――・・!?

 自分の隣に誰か居るのを感じた。

 そんな馬鹿な、誰か来る気配なんて?

 

 いつの間に、隣にしゃがんでいたのは子供だった。

 空の色を映したような青色の髪の、十一、二歳の女の子。

 一瞬、変わった帽子を被っているのかと思ったが……髪だ。

 男性には無頓着に、倒れた馬の額に手を当て、愛しげに見下ろしている。

 伏せた睫毛も空色だ。

 

(人間とは違う者……)

 男性は然程(さほど)は驚かず、その子供をマジマジと見つめた。

 

 視線に気付いた女の子が、驚いた顔を向けてきた。

「見えてる?」

 

「ああ……」

 

「そうか、あんたはこの子が大切なんだね」

 女の子はまた視線を馬に向けた。

「だから、この子とお話に来たアタシが見えたんだ」

 

「そういう物なのか?」

「そういうモノよ」

 

 額に手を当てられている馬は、目を閉じて、心なしか安らいでいるように見える。

 

「お前は、馬の魂を迎えに来た何かなのか?」

「ううん、お話ししに来ただけ」

 

「……こいつは、どんな事を話している?」

「あんたが泣きそうな顔をしてるから心配だって」

 

「…………・・・・」

 男性は神の子たるものの本懐を失してしまった。即ち涙が堰を切った。

 

「この子は名馬だね」

 彼女がポツリと言ったのは少し時間を置いてからだったので、男性も涙に詰まらず答えることが出来た。

 

「ああ、俺と幾多の戦場を駆け抜けた。俺の武功の半分はこいつの物だ。誇れ高い名馬だ」

 

「ううん、武功とか何をやったかじゃないの」

 女の子は馬の額から頬を撫でながら言った。

「この子の為に涙を流してくれる主が居る、そしてこの子の心の中も主の事で一杯だ。そういう馬の事を、アタシ達は名馬って呼ぶんだよ」

 

 それから顔を上げて男性を見た。

「この子はねえ、風の末裔になるんだよ」

 

「……風の?」

「風の末裔だよ。アタシ達の馬。」

 女の子が視線で促した先には、何とも異形な、草で精巧に編まれた緑の馬が佇んでいた。

 

「人間の間で研鑽(けんさん)した馬の魂は、何代か繰り返して名馬に昇華したら、蒼の里へ来るの。アタシ達はその魂の入れ物を草で編むんだよ」

 

「…………」

「この子は蒼の里へ逝くんだよ。だから、そんなに寂しくないよ」

 

 寂しくないよ……という言葉はどちらへ向けて言ったのか。

 空色の睫毛の下の一粒の滴と共に、馬は静かに目を閉じた。

 

「今なら痛みを感じない」

 女の子は唄うように囁いた。

 男性は短剣を握り直し、正確に急所に差し込んだ。

 

 

「なあ、草の馬に宿ったこいつと、また会えるか?」

 血溜まりの馬の顔と体には、男性のマントが掛けられている。

 

「さあ……魂は何も覚えていないし、アタシにもどの魂がこの子か分からない。でも、たまたま会う事はあるかもしれないよ」

 最後の言葉はこの女の子のちょっとした優しさだというのは解った。

 

「お前は、蒼の妖精か?」

 

 女の子は目を見開いた。

「知っているの?」

 

「ああ、母に聞いていた。父の母親の事も」

「……えと?」

「俺はフビライ。トルイの第二子だ」

 

 女の子はさすがに驚いた顔をした。

「じゃあ、あんたが、この間新しく即位したっていう……王サマっ!?」

 

「まあそうだ」

 フビライは女の子の『王サマ』という言い方が、他の者の『大ハーン』とちょっと違って気に入った。

 

「えっと、ソルカ妃が、あんたに喋ったって?」

 

「ああ、偉大なる大ハーン・テムジンの側に、助力する妖精が居た事も、その妖精が我らの父トルイの母だという事も。他に何かあるか?」

 

「ソルカ妃が……」

 女の子は信じられないという顔をしている。

 

 ………そうだろう。

 母は口が堅かった。

 聞き出すのに苦労した。

 

「母から、蒼の妖精にと言付かっている品物がある」

「え?」

「取りに来て貰えるか?」

 

 

 やがて侍従が代わりの馬を引いて来たが、彼らは、女の子も異形の馬も気にしない。

 本当に見えないんだなと、フビライは胸躍る気分になった。

 

 空色の巻き髪の女の子は、素直に、王達の騎馬の後ろを着いて来た。

 あまり、人間ズレしていないのだろうな…………

 

 

「ここで待っていてくれ」

 草の馬は外に繋いで、城の一室に通された女の子は、その部屋に窓が無いのに気付いた。

 扉も妙に厳重だ。

 

「??……??」

 

 扉の鍵をかけ関貫を下ろしながら、フビライは高揚した気持ちを抑えられなかった。

 愛馬は最後に自分に素晴らしい贈り物をしてくれた。

 

 蒼の妖精を手に入れたのだ!!

 テムジンと同じように!!

 蒼の妖精の娘を………!!

 

 

 ***

 

 

 草原大地の中央、蒼の里。人間の視認とは別の波長に存在する、妖精達の住処。

 中央の執務室への坂を登る、里でただ一人の有翼の妖精。

 

「ユユがまた居ないんだ」

 

 御簾を開けて入って来るカワセミに、奥の大机のノスリが顔を上げる。

 

「またか、困った奴だな」

「探しに行く。今日、ボクのやるべき仕事はあるか?」

 

 執務室の主な『仕事』は、外部から毎日のように舞い込む依頼への対応。

 『蒼の長』が草原の人外を統べ、平穏を保つ為の古くからのカタチだが、長だけでは手が足りないので、複数の補佐役が常時飛び回っている。

 依頼の内容は、信仰儀式やまじないから、争いの調停、裁判、妖魔退治等、様々。

 勿論、何でも引き受ける訳ではないが、今の三人長のノスリとツバクロは器用で要領が良く、対応出来る範囲が広い。

 残りの一人・・術力特化で社交力ゼロのカワセミは、数は少ないが、彼にしかこなせない特殊な仕事担当なのだ。

 

「ん――・・」

 ノスリは書類の束を手繰りながら、チラと横を見た。

 そちらで彼を補佐していた長い髪の青年が、書類から目だけを出して言った。

 

「今日のこれなら、僕でも出来ると思います……」

「すまない、ナナ」

「いえ、ユユが手間を掛けっ放しですみません」

 

「手間とは思っていない。弟子に取った者の責務だ」

 カワセミはそう言って、双子の片割れとは思えない立派な青年に仕事を託して、執務室を出た。

 

 

 シリギと出逢った頃からだ。

 双子のバランスが崩れ始めた。

 ナナは大長に着いて、『内なる眼』を開く訓練に入っていた。

 身体も心もグングン成長し、今ではノスリやカワセミの代役が務まるまでになっている。

 

 一方のユユは……どうした事か、成長が一切止まってしまった。

 それまではそこそこ伸びていた術の力も頭打ちに、長の血筋の象徴である『内なる眼』も、ウンともスンとも言わない。おまけに身体はいつまでたっても子供。

 

 妖精の成長の仕方はマチマチで、成長が極端に遅い子はたまにいる。 

 しかしユユの場合、比較対照になる双子の兄がいるのが不味かった。

 遅い方は、どうしたって意識してしまう。

 

 更にもう一つの問題。

 いい加減一人前のナナが、いつまでも幼名で呼ばれているのが不自然なのだ。

 当のナナが、「一緒にこの世の光を見たんだし、成人の命名の儀式だって一緒に受けたいです」と、妙に拘(こだわ)るもんで、ユユはますます肩身が狭くなって行くのだ。

 

 そういう訳で、最近のユユは修行もおざなりに、居辛い里を抜け出して、幾晩も戻らない事がままあった。

 

 ここの所のカワセミの日課は、何処かでイジケているユユを探し出しては、なだめて連れ戻す事。

 探すと言っても、捜索系の術は使えない。

 何でか、ユユとナナの双子には、通常の術では反応しないのだ。

 通信用の護り石も、最近は自宅に置き放し。

 で、地道に気配を探して飛び回るしかないのだが。

 

「本当に、手間だとは思っていない」

 カワセミはもう一度声に出して呟いた。

 一旦弟子に取ってしまった自分の責務。だから何があっても探し出す。

「とにかく、見捨てちゃダメなんだ……」

 

 

 馬を駆りながらカワセミは、先立って執務室で長三人で話し合った事を思い出していた。

 

「これ以上ユユの為にお前に負担をかける訳には行かない。あの子を一度、神殿に戻そうかと思うんだ。ナナの為にも、ユユの為にも」

 双子の父であるツバクロが、真剣な表情で切り出した。

 

「そうだな。ここでキリキリして過ごすより、一回ナナから離れて、お袋さんに相談に乗って貰いながらノンビリ暮らすのが良いかもしれんな」

 同調するノスリに、カワセミだけは反論した。

 

「待ってくれ。今山に帰されたら、あの子は見捨てられたとしか感じない。今まで頑張って耐えていた気持ちがいっぺんに萎んでしまう。見捨てちゃダメなんだ。とにかく見捨てちゃ……」

 

「それでも今のままじゃ何も進展しないじゃないか」

 困ったように問うツバクロに、カワセミも困った顔になる。

 何せ、ユユとナナに関しては、予知も透視もさっぱり効かないのだ。

 

「とにかく、もうちょっとだけ待ってくれ。すべての事に意味がある。ユユが……せめて、何か自分の価値を見出だせるまで」

 二人の仲間は、カワセミの一生懸命さにほだされて、ユユの里帰りは保留となった。

 

 

 

 ――・・僅かなユユの気配!!

 カワセミは、空中で馬の方向を変える。

 

「……見捨てちゃダメなんだ、見捨てちゃ」

 

 過去、もう見捨ててくれと逃げ出しても、しつこく追い掛けて来た師がいた。

 何も出来なかった自分と根気よく向き合い、出来る事が一つ見付かる度に大喜びしてくれた。

 お前には生まれて来た価値がこんなにもある、と言ってくれた。

 

 あの時あのヒトが見捨てなかったから、今の自分があると思っている。

 師と同じ道を歩むのは、カワセミにしたら、水が低きに流れる如く当たり前の事だった。

 

「あの子にだって絶対に、生まれて来た価値がある筈なんだ」

 

 

 

 

 




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12・ユユⅡ

 

 

「どうした、どれもお気に召さないのか?」

 

 石壁の部屋には、ラシャの天蓋付きの大きなベッドと、揃いのペルシアの調度品が入れられ、空いた空間一杯に、艶々した絹の衣装や装飾品、金糸銀糸の刺繍の入った靴が並べられている。

 

 その真ん中で、ユユは石の床に座り込んで呆けている。

 

 逃げ出す機会はそこそこあった。

 この現象に戸惑って、気圧(けお)されているのだ。

 物に対しての執着はそんなにない。

 ただ、短時間にこれだけの物を揃えてしまうこの人物に、興味を持ち始めている。

 ……この、子供みたいに物で釣る事しか考えない大人の男性に。

 

 

 妖精の娘は笑うでも感動するでもなく、無表情で無言だ。

 フビライは焦った。

 どうしたらこの娘はここに居たいと思ってくれるだろう?

 どうやったらこの娘は自分を好んでくれるんだろう?

 

 この娘は風の妖精だ。

 するりと手を抜けて逃げ出す事など、きっと容易だ。

 一度逃がすと用心して二度と捕まえられなくなってしまう。

 いっそ鎖で繋いで置こうか……

 

「痛い、イタイーッ!」

 いつの間にフビライは、女の子の小さい手首を掴んでネジ上げていた。

 

「あ、すまない、すまない……」

 口ではそう言うが、フビライは手を離さなかった。

 妖精の娘が痛がって身を引いたからだ。

 手を離したらそのまま逃げてしまう気がした。

 

 ユユはというと、ただ手が痛くて本能で身をよじって逃れようとしているだけだ。

 しかしそうなったら、フビライはもう片手も掴んで動きを封じるしかなかった。

 本当は、逃れようとする者には逆効果なのだが……王は、大人のクセに、そんな事も分からなかった。

 

 両手をネジ上げられても、ユユは生真面目に妖精の力は使わなかった。

 そうすると、人間の大人の男性は、自分をビクとも動けなくなるまで押さえ付ける者だと、初めて知った。

 いきなり、かって無い恐怖に身がすくんだ。

 ・・タ・ス・ケ・テ・・・!!

 

 知った気配が急激に迫って来た。

 

 ――ドガアァ――!!

 

 外側の石壁に大穴が空いた。

 部屋中土ほこりが舞い、豪華な絹は瓦礫に埋もれた。

 

 大穴の真ん中で、水色の妖精が特大の緑の槍を構え、瞳に怒りを燃え上がらせて、仁王立ちしている。

 

「ユユに・・・ふ・れ・る・な!!」

 

 いつもながら迫力ある眉間の縦線。

 草原でユユの降りた気配を見付け、地の記憶を読んですっ飛んで来たのだ。

 ユユに害成す者に王も人間も無い。

 姑息な口車で子供を騙した不埒者!!

 

 普通の人間なら腰を抜かしておしまいだ。

 しかし人並み外れた執念を持っているからこそ、この男性は人並み外れて大ハーンなんて張っている。

 右手で剣を抜いて、左手は妖精の娘を離さなかった。

 

「この娘は俺が召し上げた。去れ!!」

 

 それは無理があるだろう。火に油だ。

 カワセミのこめかみの青筋が生き物のように動いた。

 

 それを見て、一番冷静になれたのはユユだった。

「待って、待って!」

 放っておいたらトンでもない事になってしまう。

 手をネジられたまま、身軽く身体を縦回転させそれを解いて、フビライの前に立ち塞がる。

 

「カワセミ様、冷静になって! 一から七まで数えて――っ!」

 これはユユが癇癪を起こした時に、よくカワセミに言われる台詞だ。

 

 水色の妖精は目を丸くして、一瞬止まってから息を吐いて、肩を降ろした。

 

「それから、あんた!」

 娘は王の方を向き直る。

「アタシはあんたに『召し上げられた』覚えはありません!」

 

 王もしゃっくりをしたみたいな顔になって、止まった。

「手を・離して・下さい!」

 

 小娘に気圧されて、王は指を開いた。

 細い手首に白く痕が付いてる。

 

 即座にカワセミの所に駆けて来ると思いきや、ユユは動かない。

「ユユ? 帰るぞ、来い」

 

 しかしユユは動かない。

 はなだ色の瞳でまっすぐ王を睨み付けている。

 

「ユユ!?」

 

「ねえ、あんた、何でアタシを騙したの?」

 小娘は王を見上げた。

 一直線の刺すような瞳に、王はタジタジとなった。

 

「……すまない」

 思わず、子供の頃以来の謝りの言葉を口にして、正直な言葉がスルリと出た。

「お前が欲しかった。テムジンのように」

 

 その言霊(ことだま)は、マズイ!

 ユユの眼の奥に光が横切ったのを見逃さなかったカワセミは、焦って口を挟んだ。

「相手にするな、帰るぞ! ユユ!!」

 

 しかし嫌な予感が的中してしまった。

 空色の巻き髪がゆっくり振り返る。

「アタシ……ここに居る」

 

 

 ***

 

 

 カワセミは狼狽えた。

「バカを、言っているんじゃない!!」

 

「だって……このヒト、アタシが欲しいって……アタシを必要としているのよ。アタシ、望まれているの。ここに居る」

 ユユは何かが壊れて流れ出すような声で唱える。

 

 まずい、本当にまずい。

 心に穴が開いている所に、丁度スッポリおさまるピースが来てしまったのだ。

 

 お前でなくともいいんだ、妖精なら誰でも……!

 喉まで出掛かった言葉を、一旦呑み込んだ。

 そんな事が分からないような愚かな娘ではない筈だ。

 承知の上で言っているんだ。

 

 

 

 

 …‥・・

 

「それで、おめおめ引き下がったのか!!」

 ノスリの声が裏返った。

 執務室の机を叩いて立ち上がる。

 

「力づくで連れ戻す・・!」

 ツバクロが口の中で呟いて、外へ飛び出しかけた。

 

「待ってくれ」

 カワセミがその肘を掴んで止める。

「ユユが決めたんだ。無理矢理連れ戻したらもっと悪い方向に行く」

 

「これ以上悪い方向があるか!! あの王に関わってはいけない・・そう言っていたのは君だろ。それに、はっきり言って、あの王は、テムジンとは違う!!」

 

「そうだ。あの手の輩が考える事は一つだ。グズグズしてたらユユが手込めにされちまう」

 ノスリのそのまんまな一言に、ツバクロは卒倒しそうになった。

 

 カワセミは息を吐きながら言った。

「……そこん所は釘を刺して来た」

 

 

 ・・‥…

 

 ちょっと話をする……と、ユユを遠避け、カワセミはフビライの胸ぐらを引っ張って顔を近付けた。

「あの娘の母親は、トルイの実母だ。解るか?」

「えぇ……?」

「つまり、お前とは非っ常に近~い血縁だ。『何か』やるつもりだったらお門違いだぞ。畜生道に堕ちるぞ祟られるぞ呪われるぞ」

 

 

 …‥・・

 

「そ、そりゃ、また……」

 ノスリは額に手を当てた。

 

「自分が神の子だなんて言っている人間にそんな倫理が通用するか?」

 ツバクロはちょっと落ち着いたが、まだ心配は拭えない。

 

「うん……その後、ひとつ、カマをかけてみた」

「カマ?」

 

 

 ・・‥…

 

 カワセミはフビライに更に顔を近付けて小声で言った。

「あの娘はあんたのお望みとは違う。即ち『妖精の力を持った自分の子供』はつくれない。どうだ、あの娘を突き放してくれたら、もっとグラマラスで見栄えの良い妖精の娘を紹介するが?」

 

 

 …‥・・

 

「うわあ……」

 ノスリは開いた口が塞がらない。

「トンでもないハッタリだな。大長が聞いたら卒倒するぞ」

 

「紹介するだけだ。その後の事は知らん。嘘は言っていない」

 

「……それで?」

 

 

 ・・‥…

 

 フビライは大真面目に聞いて来た。

「他の妖精の娘も、あんなに可憐なのか?」

「…………は……?」

「だから、妖精の娘って、みんな、あの娘みたいに、可憐で可愛いのか? そうじゃなかったら俺はあの娘がいい」

 

 

 …‥・・

 

「………………」

「………………」

「ボクは……ユユはそれなりに……その、見る角度によっては……可愛いと思っている。だけど、他人がそう言うのは初めて聞いた」

 

 そう、ユユの母親は目の覚めるような麗人なのだが、残念ながら部品は貰っても配置が違うのがユユの外見だった。両親の見目の良い所はみんなナナに集中してしまっていた。

 第一、里へ来て以来連日騒動を巻き起こすお転婆娘を『可憐』だなんて言う口は、里には存在しなかった。

 

 

 ・・‥…

 

「世継ぎは事足りている。配下には『百眼の闘将』に『碧眼の獅子』が居る。今更妖精の能力など必要ない。ただ、側に控えて居てくれれば良い。そういうのは駄目か?」

 カワセミの前で王は目を伏せて、罰悪そうに呟いた。

 言葉にしながら言い訳が削ぎ落とされ、シンプルな欲望だけが残った。

 

 何のことはない、

 要するに……ただ単に……

 ユユが気に入っただけなのだ、この王サマは。

 

「何で、あの娘を可憐だと思う?」

「初対面の俺の馬の為に涙をこぼしてくれた。俺はそんな存在に逢った事がない」

 

 

 …‥・・

 

 ノスリもツバクロも完全に落ち着いて、考え込んだ。

 

 カワセミは続ける。

「あの子の直感力には…………まったく……本当に、まったくもって、叶わない。……あの王にはユユが、本当に、必要だったんだ」

 

 カワセミ自身も、そんなに意識せず言った言葉、『ユユ自身の価値』。

 有るのかもしれない。

 本人すらまだ気付いていない、思いも寄らぬ処に。

 

 

 

 

 

 

 




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13・ナナⅠ

 

 

「僕はそれでいいと思います。カワセミ長の判断に賛成です」

 

 朝、事情を聞いたナナは、顔色も変えずにあっさり言った。

 

「妹が心配じゃないのか?」

 ノスリに突っ込まれたが、

「皆さん忘れてるようだけれど、ユユは僕と同い年なんですよ。自分の身ぐらい自分で守れます」

 流れるように言い切って、ノスリも、そして父親のツバクロも、一本取られた顔になった。

 

「で、カワセミ長は?」

 ナナは長い髪を肩から滑らせながら、大机の奥の書類に手を伸ばす。

 

「そんなで、また王都。それで、ナナ……」

「はい、カワセミ長向けの仕事は僕がやります。昨日割り振った時からそのつもりでしたから」

 手に取った書類はそれで、ナナはもう段取りを頭に入れている最中だった。

「すまんな」

 

 書類を確認し終え、マントを羽織って執務室を出、ナナは馬繋ぎ場への坂を下る。

 

 後からツバクロが追い付いて来た。

「お前、本当にいいのか?」

 

「言った通りですよ、ユユは……」

「いや、そっちじゃなくてお前。大丈夫か? 引き受け過ぎじゃないか? 何なら、今の内に僕からノスリに言っておいてやるぞ」

 

 ツバクロはこれから、西方の砂漠の国へ旅立つ。

 フレグが王朝を開いた事で人外世界も影響を受け、古い種族間で混乱が続いている。

 向こうの風の部族が結構な被害を被り、今、大長が出向いて面倒を見ている。

 それの一時交代要員として行くのだ。

 

「それでなくとも手が足りないのに、ノスリの奴、いつまで経ってもカワセミに甘いから」

 

「大丈夫ですよ」

 ナナは父親を遮った。

「カワセミ長の仕事自体は数が少ないし、シンプルですから」

 

「ならいいが……」

 

「そうだ、近々母上の所へ行く予定はありますか?」

 ナナが話題を変えるように言った。

「もしあったら同道させて下さい」

 

「ん、ああ、そうだな。ユユの事も知らせておいた方が良いだろうし。西の出向から戻ったら行こうか。しかしどうした、珍しいな?」

「ええ……ちょっと」

 そこまで話した所で馬繋ぎ場に着いた。

 

 柵にはこの日出掛ける者達の馬が引き出されているが、ナナの馬だけ一回り大きい。

 

「また馬高が上がったんじゃないか?」

「はぁ、これ以上大きくなられても困るんですが」

「遠目だと大長の馬と見間違うな」

「…………」

 

 草の馬は主の資質に合わせて成長する。

 ナナは長となる資質充分、という事だろう。

 母親が長の家系の本流という、血統から言っても当然で、周囲も普通に納得していた。

 

「もう少ししたら、僕の道案内無しに高空飛行が出来るようになるかもね」

 馬好きのツバクロは嬉し気に息子の馬を眺める。

 

「まだまだ怖いです。高い所の気流ったら、トンでもなく速いんだもの」

 

「慣れれば簡単なんだけれどね」

 ツバクロは自分の馬の馬装を手早く点検し、鐙(あぶみ)を降ろして跨がった。

 普通でない飛行をする彼は、馬装を自らチェックするのは欠かさない。

「ナナならすぐ出来るようになるさ」

 

 手綱鞭一閃、一瞬で青空の点になる父を見送ってから、ナナは自分の馬に視線を移した。

 馬は切れ長の気高い目でナナを見つめ返す。

 子供の頃はクリクリした懐こい目をしていたのに、全然違う馬になってしまった。

 自分に合わせて成長してるんだから、自分に合っている筈なのに、全然そんな気がしない。

 

「行こうか……」

 そぉっと跨がると、力溢れた馬はグンッと急上昇しようとした。

「待って待って! お前は、真似しなくていいの!」

 

 手綱を絞って馬を抑える。

「ふう……」

 やっと最近安定して飛べるようになった。

 この馬は力が有り過ぎる。ユユなら大喜びなんだろうが。

 

 妹の幼顔を思い浮かべる。

 七歳で里へ来た翌日、昏睡にあったカワセミ長に、ナチュラルにコンタクトを取ってしまったユユ。

 自分が一生懸命基本の勉強をこなしている間に、軽々と長の一人の弟子に収まって、何だか訳の分からない魔法を使いまくっていたユユ。

 

「生まれながらに何かを持っているとしたら……それは、ユユだ」

 

 あの妹より先に名前を貰う訳には行かない、という思いがあった。

 せめてあの子に追い付いたと思えてから、一緒に拝命したい。なけなしの自分のプライドだ。

 

 嫉妬とか焦りを持った時期もあったが、今はそういうのは通り過ぎている。

 忙しい父の代わりに育て親をやってくれたノスリのお蔭だ。

 自分の能力を把握し、立ち位置を確立させて、やるべき仕事をきっちりこなす。

 ナナは三人長の中でノスリを最も尊敬し、彼のようになりたいと思っていた。

 当のノスリは知らずに、ナナにはもっと高い次元を求めているのだが。

 

「みんな、知らないようだけれど……」

 すっ飛んで行きそうな馬を抑えながら、空の上もあって、大きな声で独りゴチた。

 

「僕、意外と平凡なんだぞ」

 

 

 ***

 

 

 里からユユの姿が消えても、カワセミは一見あまり変わらなかった。

 ただ、長年側に居る仲間には、彼の心が此処に無く、精彩を欠いているのが分かった。

 

 で、微妙にナナに負担が行く事になる。

 

 

 その日もナナは、外で一仕事終えて帰路、王都の側を通り掛かった。

 街や人家の上はあまり飛ばないのが定石だが、つい王宮を覗いてみたくなった。

 

「あそこにユユが居るのか」

 宮殿は前々王の時代からの物だが、門構えや庭園は新たに設えられ、明るくきらびやかだ。

「何だかあいつ、お得な星の下に居るよな」

 

 庭園の一角にユユの馬が遊んでいるのが見えた。

 用心しながらそこに降りてみる。

 ナナだけでなく、好き好んで人間の陣地に入る妖精はあまりいない。

 

「妖精が見えるのは王だけだし、大丈夫だよね……」

 ナナはキョロキョロしながら、ユユの馬に近寄った。

「久し振りだね」

 まだあどけない仔馬の顔の馬が、ちょっぴり羨ましかった。

 

 庭園の一角にはユユの馬の好物の赤爪草が、これでもかとばかりに積み上げられ、真鍮の水桶が置かれていた。

 草の馬が見えない侍従は、訳の分からないまま草を刈り、朝夕新鮮な水を入れ替えさせられているのだろう。

 

 馬のタテガミには金糸のリボンが編み込まれ、額飾りはトルコ石やらルビーやらで、王冠のように飾り立てられている。

 

「凄いな……」

「スゴいよね」

 

 ナナは横っ飛びした。

 忘れてた!

 このヒトが居たか!

 

「蒼の里ではナニ考えてんの?」

 淡栗毛のその人は、ユユの馬の鼻面を撫でながら、ナナに向き直って微笑んだ。

「ナナ……だよね。大長さんかと思った」

 

「ひ、久し振りです……シリギ殿」

「シリギでいいよ。妖精には僕の階級なんて無関係だろ」

 

 ナナがシリギに会うのは、彼が瀕死で里に運び込まれた子供の頃以来だ。

 お互いもうすっかり大人に変わったのに、お互い一目で分かった。

 

「里で寝込んでいた時、君も看病してくれたよね」

 あの頃とあまり変わらない、母やユユと同じはなだ色の瞳で、懐っこく見詰めて来る。

 ナナは意味もなくドギマギした。

 

「えと、シリギ……は、何でここに? 住んでいるのは昔の王都の方でしょ?」

「ああ、王に呼び出し食らった。しょーもない事で」

「……」

「新しい馬が欲しいんだと。僕の葦毛を寄越せってさ」

「……はあ」

 

 王って……人間のワガママの権化なのか?

 

「そんで言ってやった。戦場でいっちゃん目立つから面倒くさいっスョ! って」

 

 ナナは吹き出した。

 シリギも顔をしかめて笑った。

 

「本当はそんなしょーもない呼び出し程度で、わざわざこんなクソ宮殿くんだりまで来てやんないんだけどね」

 

 大ハーン相手に物凄い言い草だ。

 

「カワセミに頼まれているからね。機会ある毎にユユの様子を見て置いてくれって」

 

 ナナは笑顔が少し消えた。

 またユユか……

 

 そんなナナに気付いてか気付かないのか、シリギは飄々と続ける。

「玉座の横にちんまり座って、他の者には見えないのに、王がメチャメチャ飾り立ててんの。あれじゃリボンと宝石のお化けだぜ」

 

 ナナは想像して吹き出しそうになった。

 

「完全に自己満足の世界だね。王も僕もお互い見えている事は、知っていて知らない振りだから、ユユもかしこまっていたけれど、帰り際、肩をすぼめて溜め息付いて見せた。どうも、母君とテムジンみたいな冒険活劇を夢見ていたが、思ってたのと違った、って顔で、非常に退屈気だったよ」

 

 聞いている内にナナはまた苦笑しだして、シリギも微笑んだ。

 

「葦毛は口実。本当はユユを僕に見せびらかしたかったのさ」

 

 シリギは微笑み続けたまま言ったが、ナナは真顔になった。

 

「ああ、ごめん。勿論ユユは物じゃない。そういうカンカクの人間もいる、って事さ。特にフビライはね。僕の親父もそうだったけれど、テムジンにすんごいコンプレックスがあるんだ。で、『どうだ、凄いだろ、俺はテムジンと同じに蒼の妖精を侍(はべ)らせているぞ!』って」

 

 ナナは目を丸くしたが、恐れていた人間の王が妙に子供っぽく思えて、可笑しくなった。

「じゃ、じゃあ、貴方も僕を従えて練り歩いてみますか? 王の前を!」

 

 今度はシリギが目を丸くした。

「あっはははは! そいつぁいいや! 君の方がユユより何百倍も見栄えが良い。あのヒトすんごい顔するぞ!」

 すんごい失礼な事を口走っているのだが、彼が言うとナナは全然不快にならなかった。

 

「本当に行きますか?」

「いや、やめて置こう。洒落になんなくなる……」

 

 笑い過ぎて涙を浮かべながら、シリギはユユの馬から手を離した。

 

「あの人はねぇ、昔っから他人のモノとなると、欲しくってたまらなくなるのさ」

 

 ナナはそびえる城壁を見上げて聞いた。

「玉座も……ですか?」

 

「フレグみたいに南の一王で収まっていてくれれば良かったのに」

 シリギはもう笑っていなかった。

 

 

 もう何年も、カワセミ長がシリギの所へ通い詰めて、何やら画策しているのは知っている。

 残る二人の長が大体の事は把握しつつも、彼に任せて手出ししない事も。

 考えてみたら、自分よりもずっと迫力あって気難しい有翼の妖精と、この人は本当につるんでいるんだ。

 王のやっている事がお子様ランチにも見えるだろう。

 

 ナナはこの淡栗毛の、自分と少し血縁のある男性を、もう一度真剣に見つめた。

 

「そういえばさ」

 シリギは思い出したように口を開いた。

「前から気になっていたんだ。君とユユって……」

「・・??」

 

 

 

 

 

 

 




挿し絵:四コマ 
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14・ナナⅡ

 

 

「本当に立派になって。見違えてしまいました」

 

「母上こそお変わりなく、若々しくご健勝で、安心しました」

 

「まあ、そんなお世辞を誰が教えるのかしら」

 

「僕ではないぞ」

 

 西方より戻ったツバクロは、ナナを伴って、風出流山(かぜいずるやま)へ来ていた。

 双子の母親は山頂にある神殿の守り人で、お世辞抜きでも雪の精のような麗人だ。

 

 まずはツバクロがユユの事を報告した。

 母はちょっと眉根を寄せたが、

「カワセミ殿が認めたのなら、それで良いのでしょう」

 と、息を吐きながら言った。

「ユユは、私(わたくし)とテムジンのお伽噺に憧れたのかもしれませんね」

 

「それはフビライ王の方です」

 ナナが口を挟んだ。

「王がテムジンに憧れているって、シリギが言っていました」

 

「まあ、シリギ、あの子は元気? 先の戦では大分難儀したと聞いたけれど」

 女性は懐かしそうに微笑んだ。

「それでもきちんと目的は達成出来たのでしょう? しかも妖精の助けを借りずに。カワセミ殿が肩入れをする訳ですねぇ」

 

 ツバクロが焦った様子で目線をキョロキョロさせた。

 

 ナナは口を結んで唾を呑み込んだ。シリギは戦に敗北した筈。自分には知らされていない、別の何かがあったのか。

 

「あ、あら……」

 母親はやっと空気を読んで、口を押さえた。

 

 と、その時、にわかに外が騒々しくなった。馬の興奮したいななきだ。

 ツバクロが立ち上がる。

「またか、あいつら。静めて来る」

 

「すみません、お願いします」

 ツバクロの馬と彼女の馬は仲良しなのだが、たまにじゃれ合い過ぎて大喧嘩になる。

 

「母上、あの……」

「ああ、ナナ、お父様方が貴方に言っていない事は、私も言えないわ」

 ツバクロが出て行った後話しかけて来たナナに、母は先に釘を刺した。

 

「いえ、それは理解しています。別の事で、教えて頂きたい事があるのです」

 

「何かしら?」

 

 

 ひとしきり馬と遊んで(無限宙返り)、前庭に降り立ち、ツバクロは神殿を見上げた。

 

 そそり立つ氷の円柱はいつ誰が作ったか不明だが、太古、風の民の祖先はここから地上に降りて来た。

 山頂付近の山肌を掘り抜いた大掛かりな建物だが、ほとんどが氷漬けで、広過ぎる玄関を仕切って、妻はそこで暮らしている。

 

 ――カシャン!

 

 何かが壊れる音がして、ツバクロは慌てて駆け込んだ。

 真っ青な母親が茶器を盆ごと引っくり返し、正面でナナが固まっていた。

「どうした? 何があった?」

 

 ナナは戸惑っている。

「羽根……『羽根の護りの術』について聞いただけなんです。いけない言葉だったのですか?」

 

 ツバクロはナナとその母を見比べた。

 彼女はまだ動けないでいる。

 

「どこで知った?」

 言いながら茶器のカケラを拾う。

 ナナもそれを手伝った。

「その……古い文献です。前に、オタネお婆さんが里の書庫の奥で見付けたって書物。古い文字を読み解くのに凝っていたから、貰ったんです。その中で、神殿に納められた『羽根の護りの術』の話があって。カワセミ長の羽根みたいな強い守護の術があるって」

 

 ツバクロは取りあえず肩を降ろした。

 何か善からぬモノがこの子を誘惑に来た訳ではないみたいだ。

 そんな書物が残っていたとは迂闊だったが、ナナは偶然手にしたのだろう。

 

「もしそんな術が神殿に納められているのなら、ユユに掛けて貰えないかと思って。もしかしたら今の状態を脱して成長し始めるかもしれないし。そしたら、カワセミ長も安心して本業に戻って来られるかなぁと」

 

 ツバクロは拍子抜けの顔になり、母親もホッと息を吐いた。

 

「その力は存在するけれど、禁忌です」

 

 いきなりズバリと言う彼女を、ツバクロは思わず二度見した。

 

「考えてもご覧なさい。そんな都合の良い便利過ぎる術が、『無償』な訳ないでしょう。代償を払わねばならないのです、差し引きマイナスになる程の。その挙句取り返しの付かない後悔に襲われて、祖先は禁忌にしたのだと思いますよ」

 

 うわ――上手いな――・・と思いながら、ツバクロは黙って彼女に任せた。

 

「カワセミ殿をご覧なさい。生まれ持ってしまった羽根と一緒に余計な責務ばかり背負い込んで、楽をしているように見えますか? 自分だけが護られるって、実は本人が一番厳しいのですよ。そもそも……」

 

 この口の回転、さすがユユの母親。

 

「わ、分かりましたっ、僕が浅はかをでしたっ、すみませんでしたっ」

 

 ナナが折れて、母親は笑顔に戻った。

 

「禁忌の術などに頼らなくても、蒼の一族には立派な守護魔法があります。そちらを先に学びなさい。貴方がそういうのをマスターする頃には、ユユだってちゃんと成長を始めていますよ。今は大きく飛び立つ前の、力を溜めている時期です。それより次に来る時は茶器をお願いしますね。西の国のデルフトとかいう窯元が今キテるらしいです」

 

「は、はい……」

 神殿から出ない癖に、何でそんな情報を持っているんだ……

 

 ヒヤヒヤさせられた訪問だったが、何とか無事治まったなと、ツバクロが息を付いたのも束の間、帰り際、またナナが口を開いた。

 

「あ――そう、もう一つ聞きたい事があったんです」

 

「も、もう母親を驚かさないでくれよ」

 

「今度のはそんなんじゃないです。えーと……母上は僕とユユを、どうして双子に生んだんですか?」

 

「??」

 母はキョトンとした。

「どうして……って言われても……」

 

「双子にしよう思って出来る訳ないだろう、何だってそんな事を疑問に思ったんだ?」

 

「ああ、そうですよね。僕も変だと思ったんです。……聞かれたんですよ」

 

「誰に?」

 

「シリギに……」

 

 

   *** 

 

 

 AD 1276

 

 カワセミの仕事は、確かにシンプルで数少ない。

 だからこそ、術力(ねじ伏せ)系に特化した、紙一重な事案も存在する。

 

 元々ギリギリラインでそれをこなしていたナナが、綱渡りを踏み外すのは時間の問題だった。

 

 ――――ザザザザザ

 ガガガガガガガ・・ガガガガガガガ   

 

 深泥(みどろ)の沼の主には筋の通った理屈は通用しない。

 突然凶暴になって意味もなく薙ぎ払いにかかる。

 それでも魔性になるか地神になるかの境目なので、面倒を見、様子伺いをしに行かねばならない。

 

 そして今ナナは、侮られ、沼に引き摺り込まれかけている。

 カワセミ長なら軽くかわして『戯(たわ)け』と雷で感電させて終りだ。

 

「ぜぇぜぇ、こんな滅茶苦茶な……」

 重い泥水が術を呑み込み、足に絡み付いて引っ張る。

「こんな力があるなんて聞いていな……」

 

 ――ドドン!!!!

 

 雷鳴が響き、稲光が渦の中心を真っ直ぐに貫いた。

 沼は泡立って足が軽くなる。

 ナナは必死に抜け出した。

 

「カ、カワセミ長?」

 安全な所まで退いて振り向くと、空から降りて来た騎馬は、意外や恰幅のいいノスリだった。

 

「ほぉい、深泥の主殿、これで鎮まっとけ。ほれ、もひとつ」

 

 ――どおん!!!

 

   ・・・

     ・・・

 ぴちょんと輪っかを残して、沼は静かになった。

 

「無事か、ナナ?」

 駆け寄ったノスリは、急いで怪我の具合を診てくれた。

 

「つ、使えたんですか、雷(いかずち)。知りませんでした」

「いや、これは前にカワセミから預かった奴」

「ああ……」

 

 ノスリは、術はあまり得意でないが、他人の術を一つ二つ自分の剣に預かる事が出来る。

 里でもあまり出来る者の居ない、特殊な能力だ。

 

 

「深泥の主殿の理不尽なキレっぷりを思い出してな。すまん、ここは俺が来るべきだった。まぁ、ナナには色々まだ早過ぎたかもしれんな……」

 ノスリにしたら自らの反省の呟きだったのだが、傷心のナナにはズンと堪えた。

 

「いえ、僕がちゃんと心を構えていなかったから……これからはちゃんと出来ま……」

 

 ノスリはずぶ濡れのナナの頭からマントをフサリと被せた。

「なあ、お前さん、子供の頃から子供らしくなかった。俺もそれで油断しちまったが……お前さん、出来ない事は出来ないと言ってくれ。情けないが、お前が成長著しいもんで、こちらも判断を誤ってしまうんだ。自分の限界を自分で把握して置くのも大切な事だぞ」

 ノスリ長にしては珍しく、理屈っぽい説教をされた。

 

 一杯一杯の上に、溺れて水を呑んで説教食らって、辛抱強いナナもさすがに口答えした。

「だって、ユユはいつまでたっても子供だし、カワセミ長は仕事放ったらかしだし、僕が無理してでも頑張らなくちゃイケなかったじゃないですか!」

 

 いつもは絶対そういう事は言わないナナなのだが。

 

「ユ、ユユの事なんか放って置けばいいのに・・!」

 更に叱られるかと思ったら、ノスリのゴツい掌(てのひら)がガッツリ頭を覆った。

 

「そうだ。俺達が悪かった。お前をこんな目に遭わせてなァ」

 分厚い手に背中をバンバン叩かれて、ナナはゴホゴホむせた。

 

「ただ、カワセミの事は許してやってくれ。あいつは『見捨てない』んだ」

 

「見捨てない……って」

 他人と関わりたがらないカワセミしか知らないナナには、意外な言葉だった。

 

「俺達が前の長・・今の大長の元に弟子入りしたばかりの頃は、信じられないかもしれんが、カワセミが一番味噌っかすだったんだ。ツバクロはすぐに何でもこなしたし、俺も何とか着いて行けた。でもあいつはいつでも青息吐息だった。脱落するのも時間の問題だと、概ねの者に思われていた」

 

「まさか、羽根があったんでしょ?」

 

「あれはただ持ち主を護るだけのモノだ。宝の持ち腐れだと揶揄される種にしかならなかった」

「…………」

 

「でもなあ、大長だけは見捨てなかった。何度も逃げ出したあいつを捜しに行っては連れ戻して。その想い出が強烈なんだろうな。あいつは一度面倒を見始めた者は絶対に見捨てないんだ。だから滅多に他人の面倒なんか見ないんだが」

 

 

 ***

 

 

「百眼の闘将は南の大国を完全に制覇したらしい」

 カワセミが木の上から最後の蜜柑を放る。

 

「ふうん」

 下でシリギが最後の蜜柑を受け捕った。

 

「本当に木守りの実は残して置かなくても良かったのか?」

 

 ソルカ妃の庭園。

 ここの木々も大分歳を取った。年々収穫出来る実が減っている。

 

「いいよ。多分この庭で蜜柑を収穫するのは今年で最期だ」

「…………」

 

 カワセミは黙って袋を受け取り、自分の馬にくくり付けた。

 ソルカ妃が亡くなってから、ユユやノスリ家の子供達が毎年蜜柑の蜂蜜漬けをこしらえていたが、誰が作っても、ソルカ妃のそれとは別物だった。

 

 

「フビライ王から召集が掛かった」

 シリギは蜜柑の老木を見上げながら、サラリと言った。

「草原のまん真ん中の戦争だ。根回しは終わっている。後は反旗を翻すタイミングだけ」

 

「いつ、発つ?」

「明朝」

 

 カワセミはシリギに正面向いた。

「せめて封印を解かせてくれ」

 

「何回も言っている、答えは同じ。人間相手に妖精の力は要らない」

 

「詭弁だろ。戦場で散々、風やら雷やら便利に使っている癖に。封印を解いて置けば、少なくともどんな状況でもキミは自分の身を守れる。今の枷が掛かっている状態でもそれだけ使えるんだ」

 

 カワセミの言い分に、シリギは罰悪そうに肩を竦めた。

「あんまり人間離れするのもなあ」

 

「百眼の闘将が相手だぞ?」

 

「だから尚更だよ……」

 最後の言葉は口の中でボソッとだった。

 

 これ以上彼に言っても堂々巡りなのは、カワセミには分かっていた。

 シリギはただ単に、自分に責任を負わせたくないだけなんだ。

 

 

「ねえ、カワセミ、ユユの事なんだけれど」

 シリギはフィッと話題を変えた。

「なーんか、心配なんだよなあ。……あと、ナナも」

 

「ヒトの心配をしている余裕があるか……??……え、ナナも?」

 

「うん、具体的な事は分からないけれど、ナナも、何か危ない」

 

「…………」

 

 シリギがトルイから受け継いだ能力。

 蒼の長の血筋に永々と流れる力。

 

『この世の流れを見据え、良き方向へ風を流す力』

 

 彼はもうずっと何年も、大きな流れを見据えて闘っていた。

 

 

 ***

 

 

「カワセミの予知能力とダブルで、あいつら、あまり良くない未来を見てしまっているんだ。俺らにもあんまり言わないんだけれどな。他の誰も介入出来ない、多分あの二人にしか理解し合えない世界なんだろう」

 

 深泥の沼から帰る道々、ノスリはナナに、カワセミが何でシリギの所に入り浸っているか、教えてくれた。

 秘密にしていた訳ではない。

 シリギがやっている事に関しては、『妖精が関わるべきではない事』なのだ。

 妖精は人間に手出し出来ない。

 

「カワセミも、あんまり甘える機会がなくて大きくなった。大人コドモだ。トルイの危険を予知出来なかった事を未だに引きずっている。関われないと分かっていても、捨て置く事が出来ないんだ」

 

 ナナはノスリの背中でそれを聞いていた。

 ずぶ濡れのナナが冷えぬよう、ノスリは二人乗りで風避けになってくれているのだ。

 

「ねぇ、ノスリ長」

「なんだ、冷えたか?」

「ううん……ね、僕達、本当に、何も出来ないんでしょうか?」

「ん?」

 

「ユユが王に関わっている。なら、双子片割れの僕にも、何か役割がある気がするんです」

「……??……」

 

 

 

 

 

 

 



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15・フビライⅠ

家系図:
【挿絵表示】


 
~時系列表~
1253: バヤン初陣 少年シリギとの別離
1260: フビライ VS アリクブケ王位争奪戦
1264: バヤン帰郷 フビライの配下に
1270: フビライ ユユと会う
1271: ナナ シリギと会う
1276: シリギの乱
1279: シリギの乱終焉へ

   ***


 

 

 AD 1255

 

「叔父上、また居らしていたんですか?」

 

 蜜柑の花咲く庭園の野バラのアーチの下で、淡栗色の少年とかち合って、若きフビライは心の中で舌打ちした。

 

 大ハーンモンテの四男坊、シリギ。

 戦に出ると滅法強い。

 巷で呼ばれるあだ名が『旧王都の碧眼の獅子』。

 

「病床の母の見舞いに息子が通って不都合があるのか?」

「いいえ、ありません。過ぎた質問を重ねてお祖母様を疲れさせなければ」

 この少年は何だってこんなに小憎らしいんだ?

 

「他意は無いさ。年寄りがこの世に残したい言葉もあろうと、聞き役に徹しているまでの事」

「縁起でもない! お祖母様はすぐ元気になられますよ!」

「……悪かった、言葉の綾だ」

 

 本当に、数年前までの気弱な子供とは思えない。

 戦場での活躍も人間離れしている。

 嘘か真か聞いた話では、獅子の行く所疾風が起こり、数百の人垣を割って真っ直ぐ敵本陣に斬り込んだとか。

 噂を話し半分と取っても、何か別の力を感じる。

 例えばテムジンのように。

 例えばトルイのように。

 

 それが某かの力だとすれば、トルイの妃でありテムジンのお気に入りだったソルカ妃が、何か知っている可能性が高い。

 もしかしたら妃が、何らかの力を発揮出来るモノをトルイから受け継いで、この気に入りの孫に与えたのやも知れぬ。

 

 フビライは妃の前で良い人を演じた。

 父親や兄達と仲の悪いシリギの身を案じる振りをして、後ろ楯に付く事をチラつかせたり、少しづつ妃の警戒を解いた。

 

 妃も歳を取り気弱にもなっていたのだろう。

 段々に、トルイとの想い出などを語るようになり、話が反れてもフビライは辛抱強く待った。

 

 そして………とうとう、求めていた核心を聞き出した。

 それは想像も寄らない事だった。

 

 王朝の祖テムジンの側には、本物の戦の女神が付いていた。

 そして、テムジンとその女神の間に生まれたのが、自分の父トルイ。

 自分にも戦神の血が流れている!

 シリギには戦神の能力が色濃く受け継がれていると言う。

 

 それから間もなく、フビライは大ハーン・モンテの命で南方に派遣された。

 フビライは砂の下の蠍(サソリ)のようにじっと待った。

 兄弟四人の中で、自分だけがテムジンとトルイの秘密を知っている。

 これは、自分が特別だからだ。

 テムジンの系譜を継承すべき選ばれた者だからだ。

 

 

 期は意外と早くに来た。

 大ハーン、モンテが遠征先で急逝した。

 王都の留守を預かっていた弟のアリクブケが、分も弁(わきま)えず、大ハーンを名乗った。

 そんな事は許して置けない。

 大ハーンの冠は選ばれし者だけが被る為にあるのだ。

 

 フビライは兵を挙げ、王都を目指した。

 しかし……彼の前に碧眼の獅子が立ち塞がった。

 

「何故お前がそこに居る!? アリクブケの子供達ならいざ知らず、お前は……本当の王は誰であるべきか、判断出来る筈だ!」

 

 フビライの散々の勧誘にも耳を貸さず、シリギは行く先々でフビライの軍を苦しめた。

 彼さえ居なければとっとと玉座に付けた筈なのに、継承争いは五年にも及んだ。

 

 フビライが侵攻していた南の地はその間に失われた。

 そしてお互い消耗し、臣下の間でも争いの不毛さが唱えられ始めた頃……

 

「叔父上」

 まるで庭園の入り口で行き合ったみたいな口調で、シリギはフビライの前に現れた。

 夜中に、突然、戦の陣の寝室に……!

 

「ねぇ叔父上、僕の頼みを聞いてくれたら、アリクに折れるよう説得出来るけれど」

「何を、今更……!」

 フビライは卓上の鈴を手に取り兵を呼ぼうとした。

 

「叔父上、貴方の寝首をかこうとするなら、今出来た筈だよ。僕の目的は貴方を倒す事じゃない」

「……なら、何が目的だ」

 フビライは刀の束に手を掛けながら聞いた。

「……………」

「言えぬのか!」

 

「アリクとその子供達の命を助けて」

 シリギは勝手に自分の要望だけを喋り出した。

「後、アリクに手助けした諸侯達も出来る得る限り不問にしてやって。皆、僕に引きずられてここまで来たんだ。言うなれば、貴方の敵は僕一人なんだよ、叔父上」

 

 シリギはその薄青の瞳でフビライをじっと見た。

 敵と言いながら、その目に敵意は感じられなかった。

 何とも言えない、不思議な感情が隠っていた。

 

「よし、お前の望み通りにしてやろう。しかしタダではない。こちらの条件も呑んで貰おう」

「…………うん」

「お前は私の配下に降り、生涯私の為だけに働け。どうだ?」

 

「…………叔父上に、獅子を懐に飼って置く胸量がお有りなら」

 

 

 ***

 

 

 AD 1274

 

 王都の宮殿、戦神の居室。

 フビライがユユの為に設えた贅沢な石の部屋。

 

 王は盃を手に、ビロウド張りの長椅子にもたれている。

 床のトナカイの毛皮の上にユユが座り込んで、木片のパズルを積み上げている。

 

「それで、シリギは王サマの家来になったの?」

「表面だけはな」

「ヒョウメン?」

「アイツが本当の所、何を考えているのか解らん。結局アリクブケはあの後すぐに病死してしまった。元々身体が弱く、余命幾らも無かったのだ。そんな王を何故、意地になって玉座に着けていたかったのだ?」

 

「……知らないわ」

 ユユは積み木の難しい所に差し掛かって、上の空で答えた。

「シリギと最初に逢ったのは子供の頃だったし。たまに会って一緒に蜜柑の実をもいだりしたくらい。でも、大人になってからはあんまり会わなくなった。大人は忙しくて、妖精の子供になんて構っていられないの」

 

 パズルの積み木はガラガラと崩れ、女の子はまた最初からそれを積み始める。

 

 この娘がシリギの古い知り合いだったのには驚いたが、どうやらそんなに親しくは無さそうだ。

 しかしフビライは、シリギの弱味を握る為、あらゆる情報が欲しかった。

 

「子供の頃はどんな話をしたのだ?」

「そうね、家族の事とか……」

「話してみろ」

 

 ・・・

 ・・・・・・

 ・・・・・・・・・ 

「……それで、アタシとナナと母様と、三人暮らしだったって話をしたわ。今は山で一人で居る母様の事を想いながら暮らしているって」

 

 王は話を振った事をやや後悔しながらも頑張って聞き、終わる頃には葡萄酒の一瓶を空けてしまっていた。

 まぁ……要するに、テムジンに付いていた女神はまだ存命なのだ。

 

「母君は、妖精の禁を破ってテムジンを手助けした為、故郷へ戻れず山で独りで居(お)わすのだな。それは申し訳ない事をした。ここへ呼べば良い。不自由はさせない。あらゆる贅(ぜい)を提供しよう」

 

 ユユは困った顔を向けた。

 

「どうしてそんな風に思うのかしら。母様は自分の役割りを見付けたからテムジンの所へ行って、今は山が居るべき場所だから居るだけだわ。シリギはただ、良い家族だねって言ってくれたよ」

 

 王はあからさまに不快な顔をした。

「あれは変わり者だ。ひねくれている。実の子供と離れて暮らして良い家族な物か」

 

「あれ? でも、王サマはシリギの事、好きなんでしょ?」

 

 王は葡萄酒をむせた。

「な、何で? 俺が?」

 

「だって、この間呼び付けて来るまでの間、凄くそわそわして楽しそうだったわ」

 

 それは……蒼の妖精の娘を見せ付けて、シリギの驚く顔を楽しみにしていたのだ。

 

「あれは、俺の期待に沿わない。子供の頃からいつも歯向かうのだ」

 

「……王サマは、シリギにどうして欲しいのかしら?」

「そりゃ忠誠を誓って欲しい。その能力を存分に、王の為に役立てて欲しい」

「…………」

「当たり前だろう?」

「何だかそれって……」

「??」

 

「シリギで無くとも良いのね。戦が強ければ、誰でも」

 

「……??」

 王は妖精の娘が何を言いたいのか解らなかった。

 勿論強い戦士だから手の内に欲しいのだ。

 役に立たなくて、欲しがる価値があろうか。

 

 ユユは上手く出来ない積み木を諦めて、窓辺に寄った。

 カワセミが開けた大穴は、大きな窓に設えられていたが、真鍮の枠がはめられ、縦横の格子が、空を分断していた。

 下の庭園にユユの草の馬が遊んでいるのが見える。

 ユユに気が付くと、フワリと飛んで窓辺にやって来た。

 

 格子の間から手を出して愛馬の首を撫でながら、ユユは小さく息を吐いた。

「何でこんな格子が要るの?」

 

「お前が外が見えねば嫌だと言うから、大きな窓を作った」

「……………」

「格子があっても外は見えよう」

 

 ユユはパキパキ折れる麦わらで蝶結びを作っているような気分だった。

 人間って、こんなにも自分達と色々ズレている物なんだろうか?

 母様もテムジンとこんな苦労をしたのだろうか?

 

「王サマがアタシを欲しいって言ってくれたから、アタシは此処に居るんだよ」

 

「口約束だけでは何の保証も無い。お前が気紛れを起こして去ってしまわないという保証が」

 

「保証……」

「我等は約束をする時は、家族を人質としてやり取りする。それが保証だ」

 

「ふうん……」

 ユユは乾いた表情で馬の首を掻いた。

「わざわざ『良い家族じゃない家族』になるの?」

 

 妖精の娘の挙げ足取りな言い様に、王は気分を害したが、ユユは格子を指でなぞりながら重ねて聞いた。

 

「王サマはアタシを好きじゃないの?」

 

「えっ」

 フビライは小娘相手にちょっと動揺した。

 

「嫌いなの?」

 

「嫌いではない。好……いや、お前は……色々、好ましい……」

 

「じゃあそれが保証だわ」

 ユユは空と格子を背景に、王に向き直った。

「王サマがアタシを好きという気持ちが、アタシを此処に繋ぎ止めるの。アタシはアタシを、ちゃんと好きなヒトの側に居たいの」

 

「……………」

 

「王サマはシリギの事、好き?」

 

「…………………」

 

 

 

 



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16・フビライⅡ

 AD 1275

 

 空色の巻き髪をなびかぜて、少女が黄緑の馬を駆り、空を縦横無尽に馳せている。

 

「王サマ!」

 頭を中心に縦に大きく一回転して、草原のフビライの横で急停止した。

 

「見た? 今の! 里でも出来るの、父様の他はアタシだけなの! スピードが乗らないとダメなのよ。エン……エン、ナントカ……」

「遠心力か?」

「そう、流石(さすが)王サマ!!」

 

 娘はミソッ歯を見せて屈託なく笑った。

 贅沢な絹を着せて室内に転がして置いても、この笑顔は見られなかった。

 

「アタシが大人になって、馬がもっと大きくなれば、王サマを乗せてあげられるよ!」

「いや、遠慮して置こう。心臓が幾つあっても足りん事になりそうだ」

 

「ふうん。シリギもおんなじ事言ってたなぁ。楽しいのに、勿体ない」

「シリギも?」

「うん、父様の馬に乗せて貰って目を回したのがトラウマになってるって」

「目を回した? あのシリギが?」

「子供の頃よ」

 ユユが言い直したが、フビライはシリギの苦手な物を知って、ちょっと愉快な気分になった。

 

 

 城の上階の一角が戦神の場所として、臣下も兵士も立ち入りが禁じられていた。

 御一人での外出はお控え下さいと口喧しく言う側近達を振り切って、王は階段を登る。

 重い扉を開くと、今窓から駆け戻った妖精の娘が、桃色の頬で息を弾ませている所だった。

 

「ああ、愉しかったぁ」

 

「今日は随分高く飛んだな」

 

「うん、渡り鳥の真雁の群れと会った。もうそんな季節なんだね」

 

 真鍮の窓枠は大分前に取り外されていた。

 籠の扉を開け放しても、小鳥は逃げ出したりはしなかった。

 逆に、王の世界を生き生きと広げてくれた。

 

 妖精の居室はユユの好みに段々と変貌させられていた。

 ベッドのラシャの天涯には様々な植物の干からびたのが逆さに釣り下がって、『巣』のようだった。

 天井や壁には色とりどりの石が星座の形に埋め込まれ、豪華な調度品は隅に追いやられた。

 床だけは贅沢に羊毛の敷物が敷き詰められて、王が訪ねるとユユはそこかしこで好きにゴロゴロしていた。

 

 シリギと子供時代を過ごしたのなら、見た目よりは年上なんだろう。

 大人の妖精もいるようだが、成長しない種類の妖精なのだろうか。

 一度そういう事を聞いたら暗い顔になったので、フビライは二度と口にしなかった。

 どうでも良い事だ。この娘がニコニコと健やかに居てくれればそれで良い。

 

「草原大地の東の方ね……」

 ユユは馬の鞍を降ろして部屋の隅へ運んだ。ペルシア製の細かい彫り物のあるサイドボードは、丁度鞍掛けにピッタリだった。馬は身軽になると、庭園へと降りて行った。

「兵隊が一杯歩いてた。空気も濁ってザワザワした嫌な感じ」

 

「ああ」

 フビライは盃に葡萄酒を手酌し、トナカイの厚い毛皮にドカリと胡座をかいた。そこが王の定位置だった。

「オゴデイの子孫達の一派が勢力を広げている」

 

「オゴデイの……」

「草原大地は帝国の発祥の地、大切な土地だ。其処を好きにさせては置けない」

「仲良く出来ないの? オゴデイはトルイのお兄さんじゃない」

「血縁だから……血縁だから余計に厄介なんだよ、ユユ」

「…………」

 

 ユユはそれ以上の口を挟まなかった。

 妖精は人間のやる事に手出し口出ししないという理(ことわり)がある、と言っていた。

 

 フビライも特にこの娘を戦に利用しようとは思わなかった。

 そもそもあの有翼の妖精と約束している。破って連れ戻されたら嫌だ。

 

「王サマが出陣するの?」

「いや、王自らが動き回れる程、今の王都は安泰ではない。あちらの制圧は息子達に任せた」

「そう……」

 ユユはちょっと残念そうだった。

 王サマの隣で勇ましく出陣する自分を想像していたのかもしれない。

 まあこの娘は戦が何たるかも分かっていないだろう。

 

「大丈夫だ、今回の隊にはシリギも加わる。碧眼の獅子が剣を抜けば敵は居ない」

「シリギ……」

「心配か?」

「………うん」

「なんだ、妬けるな」

 

「違うの」

 ユユは座り込んだ床から天井の石の天の川を見上げながら言った。

「王サマは太陽だわ」

「むむ? 誉めてくれているのか?」

 

 城の入り口で鐘が鳴って、来訪者の到着を知らせた。

 フビライは眉をしかめたが、扉の前で切り替えて、王の顔になってから出て行った。

 

 一人になってから、ユユは小さい声で呟いた。

「シリギは星なの。沢山の星の中の小さな星。太陽は自分の光が眩しすぎて、すぐ側の星を見る事が出来ないの」

 

 

 ***

 

 

 AD 1276

 

 その朝のユユは、胸騒ぎで目覚めた。

 まだ外はほの暗い。

 窓から草原を見ると、一頭の早馬が城門に入るのが見えた。

 

「……・・・・」

 言い様のない不安に胸を押し潰されそうになった。

 

 城中が叩き起こされ、あちこちで篝火が焚かれて、不穏にざわめいている。

 

 階段を駆け昇る足音。

 重い扉を乱暴に開いて、真っ赤な目を吊り上げたフビライが入って来た。

「居た! 逃げ出していなかった!」

 

「どうしたの? どうしてアタシが逃げるの?」

 

 王はそれには答えず、大股で部屋を横断して、窓辺のユユの両肩を掴んだ。

「今、逃げ出そうとしていただろう!」

「逃げないわ、どうして?」

 

「お前も俺を裏切るのか! シリギのように、裏切るのか!」

「え?」

 

 王の灰色掛かった黒い瞳の瞳孔は開いて、唇も頬もガクガクと震えている。

 

 予感はしていた。

 いつかこんな日が来ると。

 シリギは敵軍と対峙した時、いきなり踵を返して味方に刃を向けたのだ。

 しかも、アリクブケの息子達はじめ、連合軍の主力を抱き込み済みだった。

 フビライ直下の僅かな軍勢は抵抗する間も無く襲霸され、皇子二人は捕らわれの身となった。

 

 

「シリギ……」

 ユユは唾を飲み込んだ。

 ユユだって、シリギがいきなり真正面から反旗を翻すとは思っていなかった。

 

「あれが、とうとう牙を剥いた。帝国の中心、草原台地を制し、俺の玉座を脅かしに掛かって来た」

 フビライは声を震わせた。

 

 ユユは肩を掴まれたままフビライの顔をじっと見た。

 最初の日に両腕をネジ上げられた時より力が強くて痛いけれど、あの時と違って恐怖は感じなかった。

 だってこの人は、こんなに傷付いて震えている。

 

 この人の苦しみを取り除いてあげたい。その気持ちの方が強かった。

 孤独も絶望もみんな取り除いて、自分に出来得る限りの事をやってあげたい。

 

「アタシは裏切らない!」

 ユユは声を張った。

「アタシが王サマの側に居る。ずっと居るよ、王サマがアタシを必要としてくれる限り」

 

「……ユユ」

 王の目に正気が戻った。

 小さな肩に食い込んでた指を緩める。

「お前は……裏切らないよな……シリギから何も聞いてはいないんだよな」

 

「無いわ。言ったでしょう、あのヒト、アタシなんか相手にしている暇ないの」

 

 何か知っているとしたらカワセミだ。

 カワセミは彼を少年時代から気にかけて、暇さえあればソルカ妃の庭園を訪ねていた。

 思えば、その頃から何だかユユの居場所もあやふやになって行ったのだ。

 カワセミが目覚めてからずっと、水色の妖精の隣はユユだけの場所だったのに。

 

「ねえ王サマ、アタシが行く」

「どこ……へ?」

「シリギの所。妖精は人間の戦には手出ししない。でも、子供を想うお父さんの気持ちに応える事は出来る。アタシ、シリギに皇子サマ達だけでも返して貰えるよう、頼んでみる。断られても……」

 ユユは目を閉じ……顔を上げてキパッと言った。

「こっそり救い出せる、と思う。アタシなら」

 

 フビライはユユの申し出に素直にすがりそうになった。

 しかし、拳を握り締めた。

「駄目だ、これは、人間の戦なのだ」

 

「王サマ?」

「奴が不穏なのは判っていた。俺の油断だ。ユユに擦(なす)り付ける訳には行かぬ」

 

 この娘は自分の為に、妖精の禁を犯そうとしてくれた。

 里へ帰れず独りぼっちの身にしてしまう。

 自分より遥かに長く生きるのに……

 

「なに、人質とて皇子だ。今すぐどうこうされるような事にはならない」

 フビライはユユの両肩に、今度はそっと手を置いた。

「お前は戦にそぐわない。大人しくしていなさい。何なら戦が終わるまで、何処か静かな所に移っているか?」

 

「何で! そんな事を言うの!?」

 ユユの目に光が横切った。

「なら、アタシは何の為に王サマの横に居るの? 愛玩動物になる為じゃない。アタシを必要だって言ってくれる王サマの側に居れば、アタシが生まれて来た価値が見付かると思ったからよ!」

 

 妖精の娘は窓に後退りして、後ろ向きに飛び降りた。

 

「ユユ!!」

 

 一瞬消えた娘は、次に、乗馬した姿で視界に戻った。

「シリギの所へ行く!  王サマを苦しめるなら、あのヒトを敵にしたって構わない!」

 

 巻き髪を頬にかけて叫ぶ娘に圧され、引き止める手が一拍遅れた。

 ユユはフビライと目が合う前に目をそらし、旋風と共に消えた。

 

 

 




挿し絵:秋の空 
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17・シリギⅠ

  ***
~時系列表~
1253: バヤン初陣 少年シリギとの別離
1260: フビライ VS アリクブケ王位争奪戦
1264: バヤン帰郷 フビライの配下に
1270: フビライ ユユと会う
1271: ナナ シリギと会う
1276: シリギの乱
1279: シリギの乱終焉へ

   ***


 

 

 カワセミは一足遅れた。

 

 王都に到着した時には、ユユはもう飛び出した後だった。

 妖精の娘の居室の窓は開け放され、もぬけの殻だった。

 

 目を閉じて探ってみるが……

「……駄目か」

 とにかく、何でかユユとナナの双子に関しては、予知も透視も効かない。

 まるで二人がこの世に存在しない者のように。

 

「成りは子供だが、教えは叩き込んでいる。滅多な事はしでかさないと思うが」

 

 王都にそびえる城は冬前の蜜蜂の巣のように、人間が忙しなく走り回っている。

 だが差し当たって、フビライ自らが動く事はないだろう。

 

 水色の妖精は馬を返して、草原台地の中心へ引き返した。

 

 

 ユユは高度を上げて馬を飛ばしていた。

 カワセミがあまり高い所を飛ばない事を知っていた。

 今、あのヒトに会ったら、感情を抑えられず喧嘩してしまう。

 

 フビライは悪王ではない。

 というか、近年稀に見る賢王と言って良い。

 ユユの贔屓目でなくとも、テムジンの後継を名乗って遜色無い。

 玉座争いで混乱した中央をまとめるのも素早かったし、大陸南方の征服も、バヤンの人柄もあるが、異例な程血を流していない。

 今更そのフビライの支配に抵抗する事も、自らが玉座を狙う事も、ユユの知っているシリギからは考えられなかった。

 

 ユユは飛びながら、一所懸命心を落ちつけようとした。

 

 ……理由は、あるのだろう。

 あのヒトはずっと自分の生まれた意味を探って生きて来た。

 カワセミ様はその手助けをしていた。

 これがその過程なら、行き着く答えがあるんだろう。

 

 でも、アタシは……

「王サマを助けたい!!」

 ダメだ、やっぱり感情が勝ってしまう。

 

 ――!!?

 不意に後ろから腕を掴まれた。

 心肺の弱いカワセミはこの高さは飛ばない筈?

 

 長い髪を顔に掛け、眉根を寄せてユユを覗き込んで来たのは、双子の片割れ、ナナだった。

 

 

 

 

 シリギは目を閉じていた。

 とうとうこの日を迎えた。

 

 フビライの元へはもう戻れない。

 主張が違っただけの後継争いとは違う。

 今回のは正真正銘裏切りだ。

 あの憎めない苦笑いがもう見られないのは、ちょっと寂しい。

 嫌味ではなく割りと本気で。

 

 戦の陣の天幕の外から、仰々しく声が掛かり、毛色の違った武将が通された。

 甲冑の出で立ちが微妙に違う。戦慣れて着こなれていた。

 

「此度は……何と言うか……我等はどう受け取れば良いのであろう?」

 本来の戦相手、オゴデイ一族の軍勢よりの使者だ。

 

 シリギは立ち上がって、ぶっきらぼうに答えた。

「素直にそのまんまだ。我等はフビライに反旗を挙げた。即ちあんたらの敵では無くなる」

 

「いきなりそう申されても……」

 

「事前に相談が必要か? それであんただったら素直に信用するか? やっちまったらそれだけが事実だ。あんたらはこちらを受け入れざるを得ない」

「…………」

 

「もひとつ証が欲しいだろ。」

「…………」

 

「人質の皇子二人をくれてやる」

「何と……!」

 

「あんたらはフビライに対して非常に有利に立てる訳だ。少なくとも自分達は安泰だ」

 

「……その申し出、本当に我が大将に伝えても宜しいか? その変わり反乱軍に手を貸せと言う事で?」

 

「うん、まあね」

 淡栗毛の将は少し首を傾けた。

「それより、最優先に守って欲しい約束事があるんだけれど」

 

「出来得る事なれば」

 

「皇子には皇子としての扱いを。礼節を外しては誇り高き王家ではなく、ただの蛮族に成り下がる。……あいつらに何かやったら碧眼の獅子が黙っていないからね」

 

「………解り申した」

 使者は最初の無骨な態度ではなく、丁寧な礼をして天幕を出た。

 

 

 

 その使者に見える由も無いが、天幕上の落葉松の枝に、双子の姿があった。

 

「シリギ……」

「会って行く?」

「ううん、やっぱりシリギはシリギだって、分かっただけでいい」

 

 ここへ来る道々、ナナは、ノスリに聞かされた自分の知っている事を、ユユに伝えた。

 シリギが何をしようとしているか、何と闘っているのか。

 

「シリギは、王サマを苛(さいな)むのが目的ではないのね……」

「うん」

 

「アタシ、分からなかったの。シリギが何で戦を手段にするのか。話をして解決出来ないの、って」

「ユユ……」

「違ったんだわ。王サマと話していても、何となく気付いた。人の欲が生む争いはもうそこにある物で、抗(あらが)えない大きな河で、シリギはそこに飛び込んで、流れを変えようとしていたのね」

 

 頑張って考えをまとめる妹の横顔を見つめ、兄は口を開いた。

 

「僕らは人間の業(なりわい)に手出し出来ない。シリギはそれが解って、一人で引き受けている」

 

「アタシ達、本当に何にも出来ないの?」

 

「これから何がどんな形で来るか分からない。人間界が荒れると必ず人外界にも悪い影響が出る。蒼の里では、日々をまっとうに積み重ね、他部族との連携を密に張る事で、守りを固めている。地味だけれど、ノスリ長も父上も、頑張っているんだ」

 

「……ナナも?」

「うん……まあ」

 

「アタシは子供で我が侭だから、何の役に立てないのね……」

 

「それは、違う」

 ナナは声を高めた。

「ユユは……」

 ここまで言いかけたら、言ってしまった方が良いだろう。

「カワセミ長が、ユユには何も知らせないまま好きにさせて置くべきだと言ったんだ」

 

「カワセミ様が、アタシを放って置けって?」

「いやそうじゃなくて……あのね、フビライ王は、ユユと出会った最初の頃と、おんなじか?」

「ううん? ……色々変わったと思う。話が通じるようになったり」

 

「だろ、そういうのって、他の誰にも出来ない。予知の効かないユユが王の側に居る事によって、予知から外れた予想も憑かない未来が来るんじゃないかって。そうカワセミ長が」

 

「カワセミ様が……」

「ユユにもちゃんと役割が…………ああ、噂をすれば」

 ナナは慌ててユユを引っ張って、落葉松の枝の中に姿を消した。

 

 朝もやの中、カワセミがシリギの陣に降りて行くのが見えた。

 久し振りに見る師は、えらくやつれて頬が蒼白い。

 

「??……こんなに近くに居るアタシ達に、何で気付かないの?」

「うん、ずっとああなんだ、あのヒト。精彩を欠いちゃって」

 

「ど、どこか悪くしているんじゃないの?」

「いや、単純に、ユユが横に居ないからじゃないか?」

 ナナがシレッと言った。

「ぇ・・えっ?」

「からかっているんじゃないよ。本当にそう思うだけ」

 

「…………」

 何だろう、何で喉の奥がせり上がって来るんだろう。

 こんな事くらいで悔しい、バカ、アタシ。

 

 泣きべそを喉に押し込む妹に、ナナはそっと話し掛けた。

「ねぇユユ、さっき、自分達は本当に何も出来ないのかって聞いたろ? 僕もずっと考えていた。それで、考え付いた事がある」

 

「ナナ……?」

 

 

 ***

 

 

 南方の地平に陽炎のように横に長い影が現れた。近付くにつれてそれが延々続く大部隊なのが分かった。

 大ハーン、フビライの命を受け、反乱軍討伐に参じた『百眼の闘将』バヤンの軍勢。

 

 先頭近くに、眉間に幾重にも皺を刻んだ大将が、出立してから一言も喋らずひたすら馬を進めていた。

 その面持ちは歩を進める毎に沈痛になって行く。

 側付きの者は、腫れ物に触るように口を聞く事も出来なかった。

 いつもは豪気な部下思いの大将なのに。

 

 王都に帰還し、目通ったフビライも、更に多くの皺を刻み、鉛を呑み込んだような顔色をしていた。

 王は形式ばかりの勅命を授け、将は言葉少なに粛々とやるべき任務に付いた。

 

 

「王サマ」

 謁見の間から下がったフビライが一人になるのを見計らって、ユユが駆け寄った。

 妖精の娘が居室を出て城内をうろつくのは珍しい。

「今のヒトが百眼の闘将?」

 

「ああ、奴が来たからには安泰だ。反乱軍は一年以内に沈黙するだろう」

「そう……そうね、皇子サマ達、早く帰れるといいね」

 

 あの日、ユユは夜遅くに帰って来た。

 故郷の兄に行き逢って説得され、シリギには会わずに引き返して来た、と言う。

 漏れ聞いた話として、皇子は酷い扱いを受けていない事だけを教えてくれた。

 そしてそれからシリギの事は一切口にしなくなった。

 

 兄と話しただけなら何故そんなに遅くなる? 本当はシリギに会って何か申し合わせたんじゃないか? と、一瞬疑ったフビライがすぐに恥じ入る程、妖精の娘は王に真摯に接した。

 この娘が嘘がつけず演技も出来ないのは、フビライには分かっていた。

 無用に長年一緒に居た訳ではない。

 

「ユユ? どうした?」

 自分に顔を向けたまま動かない娘に、王は聞いた。

 あの日以来、やたらと見つめられるのは気のせいか?

 

「あ、ううん、百眼の闘将はすぐに発つの?」

「明朝だが、何故だ?」

「用事があるの」

「お前が、バヤンに?」

「ううん、闘将の後ろに居るヒトに」

 

 

 

 

 

 月が照らす庭園の水盤の塔の上、妖精の娘がスッと立つ。

 

 上空の三日月が一瞬歪んで、逆光に赤い狼の姿が浮かんだ。

 

「久し振りだな、蒼の妖精のお嬢ちゃん。俺様に用があるって?」

「……アタシとナナに猪介(ちょっかい)出すのを止めたと思ったら、そんな所に居たのね」

 

「つまんねぇ蒼の妖精のガキどもより、野心溢れる人間の若武者の方が、初(うぶ)で素直で楽しいぜ。しかも奴(やっこ)さんの親方の身の内に、何やらヤバイ代物が燻(くすぶ)っていやがる。ああ面白い面白い」

 

「…………」

 ナナに教えられた後、ユユも集中して王を見るようにしていた。

 確かに、ある。

 今まで気付かなかったフビライの胸の奥深く、チロチロ瞬く、オレンジの細い三日月のようなひび割れ……

(・・大昔、カワセミ様を九死に一生の目に遭わせた・・災厄!!)

 

 シリギはアレを見ていたんだ!!

 ずっと、アレと闘っていたんだ!!

 

 

「青い眼の小僧の命乞いなら無駄だぜ。すべてはバヤンの意思だ。俺様は手助けしているだけ」

 

「手助け? どんなヒトだって欲望は湧く。でもそれを抑えて忘れて、忘れなかった物の中から本当に欲しいモノを見付けて行くのよ。何でも叶ってしまうと、そのヒトは何が大事か見失ってしまうわ。そうしていつまで経っても満足出来なくて、破滅するまで止まれなくなる。それが手助け?」

 

「知った風な口を聞くじゃねえか、いつの間にそんなにお利口になった? お嬢ちゃん!」

 

「ア、アタシ一人じゃなくて、ナナも一緒に考えてくれたの。あんたを説得する言葉」

 

 狼は大口を開けて笑った。

「阿呆だ、本当に阿呆だな! 普通言わんぞ。説得力ゼロになるだろが」

 

「本心は、アタシ達のどちらかに取り憑きたいんでしょう?」

 

「う~~ん・・?」

 狼は空中を歩いて、ユユに息が掛かるほど、大きな牙を近付けた。

「何を、企んで、いやがる?」

 

「そ、そうすれば、あんたが……」

 そう、ナナと別れた後、城へ帰る前に、寄り道をした場所がある。

 そちらは自分一人の判断だ。赤い狼と対峙するなら、是非とも助言を得たいヒトがいた。

「あんたが、嫌がらせをしたいヒトに、一番効果的な嫌がらせを、出来るものね!」

 

 赤い軌跡を描いて、狼は宙返りで後退した。

「母親にも入れ知恵されやがったな!!」

 

「ねえお願い、百眼の闘将の元を去って。災厄に荷担をするのは止めて。だってあんた、そんなに牙を剥いているけれど、本当はすっごくイイヒトなんでしょう?」

 

「ややややかましい! ああイヤだ、イヤだ! その手でテムジンからも剥がされたんだ! 俺様はな、地上が地獄に落ちた方が都合が良いんだ!」

 

「あんた、欲望のエネルギーが尽きると、カタチを保っていられないんだってね。だからそんなに強がって、ヒトの心を煽るんだ。でも苦しそうだよ。いつもとっても苦しそう」

 

 狼は牙を剥いて娘の喉笛に迫った。

「二度と!! 俺様に!! そんな口を!! きくんじゃねえ!!」

 

 ユユは目を見開いて刃物みたいな牙を見つめ、絞り出すように言った。

 

「アタシ……アタシは、あんたの為に、何が出来る?」

 

「だ・ま・れ!!」

 

 

「妖(あやかし)……?」

 月光の庭、いつの間に、バヤンが立って居た。

「どうした、何と話している? 妖」

 

 妖精の娘の姿は消えていた。

 

「何でもねぇ。とっとと寝ろ。明日から忙しいんだろ?」

 狼は空中を歩いて、バヤンに寄り添うように周囲を回り、大きな声で言った。

「青い眼の小僧っコの首を掻っ切りに行くんだよナ!!」

 獣はクルリと回って闇に消えた。

 

 バヤンは立ち尽くしていた。

 噴水の池に映る、目の下に隈を作った幽鬼のような自分を茫然と眺める。

 その水面に一瞬女の子が映ったような気がした。

 

 驚いて見直したが消えていた。

 

 

 

 

 

 



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18・シリギⅡ

 

 

 百眼の闘将はフビライの期待に違わず、目覚ましい活躍をした。

 まず、草原中央を制していた反乱軍をたちまち蹴散らし、失った所領をあっと言う間に取り戻した。

 オゴディ家の軍も、その他の元々の勢力も、大きく後退した。

 

 しかしバヤンはシリギに辿り着けなかった。

 あちこちで出現の情報は耳にするのだが、まるで鬼遊びでもしている様に、バヤンが到着すると、スルリスルリと別の所に移動しているのだ。

 

 バヤンが執拗にシリギを追い掛けるもんで、戦の段取りは乱れ、不必要に長引いた。

 知将らしくもない、と揶揄されたが、バヤンは碧眼の獅子にこだわる事を止めなかった。

 

 バヤン本人にも説明付けられなかった。

 裏切られた憎しみだけでは無い。

 この長年の焦然とした乾き……それは、淡栗毛のあの少年にたどり着く事でしか、解消出来ない気がした。

 何でかそんな気がした。

 

 

 

 AD 1279

 

 バヤンの進攻で、今や反乱軍はその体を成していなかった。

 協力する筈のオゴディ家の元々の勢力も、人質の身柄だけを受け取って、地元の戦に集中していた。元々烏合の衆なのだ。

 

 バヤンを長とした小隊は、今、まさに反乱軍最後の将、碧眼の獅子を追い詰めていた。

 

 奇しくも大昔、少年だったシリギがバヤンを見送った、旧王都の城跡だった。

 

 シリギが籠城しているとの知らせを受け、バヤンは身軽に手近な小隊だけを引き連れて、夜闇の中を急行した。

 今度こそ逃してなるものか、何、もう兵も残り少ない筈だ、こちらも兵隊など少数で構わん! と思っていたが……

 

 油火を放って燃え盛る城から逃げる人影は無かった。

 また藻抜けの殻!?

 

 バヤンは急遽、小隊に周辺の逃げ道を固めさせ、自分は単身城内の火の回っていない箇所に踏み込んだ。

 シリギが折角復興させていた城は、反乱の年月で、また廃墟と化してしまっていた。

 

 ――……!?

 目の前を、白い小さな蝶が横切った。

 こんな炎の戦場に?

 

 蝶はバヤンの周りを一回りして、奥の細い通路へ飛んだ。

「…………」

 吸い寄せられるように蝶の後を追った。

 崩れた煉瓦の路地を抜けて、蝶は城の裏へと誘う。

 

 不意に緑が広がった。

 まだ涼しさを残す蔦の垣根の先に、古い木戸がある。

 垣根など薙ぎ払ってもいい物を、バヤンは律儀に木戸まで歩いてそれを押した。

 

 開けると別世界。

 野バラが野放図に広がり幾重ものアーチを作る、目もあやな庭園。

 炎を潜って来たバヤンの肌に、生き返るような冷たい風が当たった。

 

 奥に進むと、白い花が満開の木々の広場。

 戦場にそぐわない清しい香りが満ちる。

 

 広場の中心、月に照らされたその下に、追い求めていた碧眼の獅子が

 ……居た。

 

 スクと立って俯いて。

 人指し指の先の蝶をふっと吹くと、それは花びらとなって散った。

 そうして、バヤンの方を向き、ゆっくりと目を上げた。

 その顔に追い詰められた敗将の焦りは微塵も無い。

 

 バヤンの方が狼狽えて、抜刀しながら辺りを見回した。

 

「・・独りか!?」

 

「うん」

 

 シリギは剣を習っていた少年の頃と同じ口調で言った。

「ここまで着いて来てくれたからね。皆、城にある物を好きなだけ持って、故郷へ帰れと追い出した。もう大した物も残っていなかったけれどね」

 

 突っ立ったまま動かない相手に、バヤンは剣を構えて叫んだ。

「抜け!!」

 

 シリギはまだ動かず、バヤンを見ている。

 

「私は、お前を倒す為に、戦場を駆け、ここまで来たのだ! 抜け! 私と剣を交えよ!!」

 

 また俯いてシリギは、剣に手を掛けた。

「バヤンがそれを望むなら」

 

「おう!! 剣を教えた甲斐があったと思わせてくれ!!」

 

 バヤンは高揚して、自分でも思いがけない台詞を口走った。

 シリギはちょっと止まって、それから……ちょっと笑った。

 

 蜜柑の花散る庭園で、百眼の闘将と碧眼の獅子は、心行くまで剣を打ち合った。

 

 自分は、これを求めていたのだろうか……?

 

 不意に、辺りの明るさが増した。

 燃え盛る城の火が飛んで、蜜柑の木に移ったのだ。

 勢いの付いた炎は瞬く間に樹々に広がる。

 

 シリギがそれを見て棒立ちになった瞬間、闘将の剣が彼の剣を弾いた。

 赤い石の付いた剣は、クルクル回って離れた所に刺さった。

 そのままバヤンはシリギに飛び掛かり、押し倒して剣を首に当てた。

 

「・・!?」

 組み伏せられても視線を蜜柑の木から離さない相手に、闘将は躊躇した。

 

 シリギは他人事みたいに穏やかな声で言った。

「僕の首を持って勝凱(かちどき)を挙げれば、この戦は終わりだ。人質も返る。君の義兄も」

 冬空の薄蒼の瞳は、炎を背景のバヤンをただ映していた。

 

「何でだ……お前は、何を考えている? 何を、望んで……」

 

「とっととその首をハネろぉおお――――!!」

 

 バヤンの後ろから赤い獣が飛び出した。

「お前さんは、こんな所で立ち止まってちゃいけないんだよ! まだまだ、まだまだ、その闘将の血を燃え立たせ、俺様を楽しませてくれな、く、ちゃ…………!???」

 

 

 獣の鼻先に、いきなり緑の槍が突き付けられた。

 

 シリギに馬乗りになったバヤンを挟んで、反対側に立つ者。

 額に深い縦線を刻んで狼を睨みつける、水色の長い髪を逆立てた男性。

 

 バヤンは目を疑った。

 その男性にはどう見たって、背中に羽根があるのだ。

 しかも裸足の足は宙に浮いている。

 

「貴様の相手は、このボクだ……!」

 有翼の男性は地の底から湧くような声で唱えて、槍を構え直した。

 

「へえ? へへへえ・・!!」

 赤い狼はバヤンとシリギからいっぺんに興味が飛んだように、声を弾ませた。

「蒼の妖精の現役の長殿が、俺様の相手をしてくれるってぇ!? そいつぁ、そいつぁ、面白い! 面白過ぎて顎が外れっちまう!!」

 

「カワセミ!!」

 黙っていたシリギが叫んだ。

 

 妖精は深い水色の眼を細めて、彼を見る。

「こいつは、ボクの管轄だ」

 それからバヤンを見た。

「こんなのに憑かれていたのは、お前自身の弱さだ、惰弱者が」

 

「『こんなの』で悪かったな!!」

 狼が妖精に飛び掛かった。

 妖精は一瞬で消え、離れた上方に乗馬した姿で現れた。

 

 狼は踵を返す。

「へへっ、そう来なくっちゃ。本気出せよぉ!!」

 

 狼は赤い光となり、蒼い光ともつれ合いながら、月光の空へ急上昇して行った。

 

 残ったバヤンは暫く茫然としていた。

 あの妖(あやかし)は、自分の妄想ではなかったのか……

 

「……ねえ」

 身体の下のシリギの声で我に返った。

「やるならさっさとやってよ。さすがにこの状態のままは……ちょっと辛い」

 

 バヤンの剣は、シリギの首を地面に押さえ付けたままだった。

 

 

 ***

 

 

 旧王都の上空高く。

 赤い光と蒼い光が水平の円を描いて睨み合っている。

 

「蒼の妖精の長殿とやり合えるなんて、骨の髄までギンギン疼くぜ!!」

「そんなに闘うのが好きか?」

「当たり前だ、俺は身体の芯まで戦神だ。強い奴とガンガンビリビリどつき合うのが至上の歓び!!」

 

「……そうか……申し訳ないが、ちょっと残念な事を報せねばならない」

「??」

 

「実は、マジ物の戦闘って、ほぼ、した事が無い」

 

「何だとぉお!! お前、蒼の里の『不世出の術者』じゃねぇのかよっ!!」

 

「最初のくすぐりで、概(おおむ)ね相手が降参してしまうんだ。本気の術のどつき合いなんか、やった事が無い」

 

「あのタイミングで割り込んで来て、そゆ事ゆーなよぉお――!!」

 

「闘わないとは言っていない」

 カワセミは槍を頭上に掲げてピタリと止めた。

「手加減のやり方を知らないって事だ。だから…………悪く思うな!!」

 

 槍はマックスの光を放って狼へ一直線に飛んだ。

 

 

 

 

 上空の強い光に目を細めて、シリギは座り込んでいた。

 夜空を照らす炎の中で、蜜柑の木が花を散らせながら崩折れて行く。

 隣でバヤンも座り込んでいた。

 

「バヤンにも、あの光、見える?」

「ああ、他の人間には見えていないのか?」

「うん」

 

「それで、さっきの話の続きだが」

「うん」

「フビライ王が災厄を抱えていると言ったが、私にはあの方は素晴らしい王に思える」

 

「うん……」

 シリギは膝を抱えて、形を無くしていく庭を見つめていた。

「叔父上は良い王だ。僕もそう思う。災厄はあの人の良い悪いと関係無い。あの人も被害者なんだ」

 

 バヤンは黙って、炎色に染まる淡栗毛の横顔を見つめた。

 さっきの妖精や妖を見ていなければ、自分にだって信じられない話だ。

 だから、自分にも、誰にも、話さなかったシリギの気持ちは分かる。

 

「そもそも、災厄とやらは何なのだ? 国を滅する程の力を持つと言われても……」

 

「教えてくれたのは東国の古い古い部族らしい。中身は色々で、大地の生業だったり、戦争とか疫病だったり、それら全部だったり」

 彼らは長い長い年月、災厄の裂け目に地上の多くが呑み込まれては再生するのを、ただ眺めていただけだったという。 

 

「その者達の証言だけ……か?」

「人外の伝えは人間のそれとは違う。嘘を伝えても意味が無いもの。昔、テムジンの時代、原因不明の山崩れで村が幾つか埋まったでしょ。あれは止め損ねた災厄の切れ端だったって」

 

「聞いた事はあるが……」

 

「本当は、テムジンの時代のその災厄で、帝国は滅する運命だったんじゃないかな。でも一人の妖精が見付けて、彼らが最初の内で止めてくれたんだ」

「…………」

 

「その後で東の古い部族に裂け目の正体を聞いたんだって。それまで裂け目を塞いだ者なんか居なかったからビックリされたけれど、この先どうなるか分からんぞって投げられた」

 

 どうも彼らに言わせると、災厄というのは、この世の『歪み』を治す為の、『大地の身震い』みたいな物らしい。

 だから一時的に歪みを戻しても、原因が変わらない限りまた歪む。

 放って置く事が一番だと。

 

 人外達は摂理に沿って生きるが、必ずしも共有しているとは限らない。

 各々の『正しい事』を、手さぐりで捜しながら進化しているのだ。

 

『今、この草原に生きる者は、己らに出来る精一杯をする』

 草原を統べる蒼の長は、そう宣言をした。

 

 この半世紀、蒼の妖精達は、十何年置きに現れる地割れを見付けては、小さい内に鎮めていた。

 特にカワセミは、最初に手出ししてしまった責任を感じていた。

 放置していたら国も人外界もタダでは済まなかったのに、本人は数十年も昏睡する羽目になったのに、彼はいつまでも自分を許さず、必死で地割れを塞いで回った。

 

 なのに災厄は、妖精の手出し出来ない場所に出現してしまった。

 人間の身の内。

 それまでみたいに物理的に浄化出来ない代物となって。

 

 

「……誰が、決めるんだろうな、その災厄とやらを」

 

「さあ、短絡に説明するなら、『神』って決め付けちゃうのが手っ取り早い。僕はそんな神サマ願い下げだけれど」

 

 フビライ叔父上……あの人の胸にオレンジの光が明滅しているのを見付けたのはいつだったか。

 祖母の見舞いに訪ねて来た頃にはもうあった。

 

 南で大人しくしていた時代はそうでもなかったのに、王座に色気が出始めたら、一気に口が開いた。

 どうも叔父上の欲望を糧に、帝国の膨張と連動して大きくなって行く感じだった。

 

 一つの国が突出する事がこの世の歪みだと? 

(本当に、誰が決めるんだ、そんな事……)

 

 

「どっちにても王座は得てしまいそうだったから、ミソを付ける為に動いた。結果、南の地を失った上、帝国全体が弱体化した状態での即位になった。あの時は、ガッポリ開いていた裂け目が、見えなくなるまでに閉じたんだ。本当にホッとした」

「………」

 

「なのに、バヤンが来ちゃった。百眼の闘将。逢えて嬉しかったのに、めっちゃ強そうになっててさ。しかも怖そうな狼までオマケに付けて」

「……悪かったな……」

 

「あっと言う間に南の地を取り戻しちゃうんだもん。裂け目はガンガンに大きくなるし」

「それで今回の反乱か」

 

「うん、とにかくバヤンを南から引き離さなきゃって。アリクの息子達は簡単に乗ってくれた。元々機を伺っていたらしいし。今はオゴディ家の手下。皆、簡単に裏切ってくれちゃって。予想はしていたけれど、結構傷付いたな」

 

「一人で傷付いたと思うな……」

 バヤンは小さい声でポツリと言った。

「お前の話を聞いていると、全部一人判断だ。その災厄の裂け目とやらを見ているのもお前だけ。もしもそれが妄想だとしたら、お前はどれだけの罪を重ねている!?」

 

 

 物事の流れを見据えて真実を見極める能力も万全ではないのを、シリギは最近思い知った。 

(あんなに執拗に追い掛けて来るなんて思わなかったんだ……)

 

 自分だけがこの人を好いている訳じゃなかった。

 

 だからここへ誘い込んで、全て打ち明けた。

 今の自分がこの人に出来る唯一の事。

 

 

「さっきの有翼の妖精、カワセミの存在も妄想か?」

「え、いや……」

「テムジンの時代の災厄を命懸けで止めたのはあのヒトだ。それからトルイだって最後まで災厄に立ち向かった。僕は彼らからその先を引き受けたんだ。それが、トルイの血を貰って僕が生まれて来た意味……役割なんだよ」

 

「…………」

「だけどね、カワセミが居ないから言っちゃうけど、バヤンが言ったように、罪は罪だ。戦は人を犠牲にする」

 

「……碧眼の獅子が単騎駆けで本陣を押さえるから人死が最小限だと、我らの所にも響いていたぞ」

 

「キレイ事では収まらない。僕は罪を償わねばならない。そんで、首を差し出すなら、バヤンがいい」

 シリギはとても怖い事をとてもサラリと言った。

 

「お前が居なくなったら、誰がその災厄とやらを抑えるのだ」

 

「ここまで国がボロボロになってんだよ。今は災厄の歪みはとても小さい。この後『神サマ』が諦めるか、しつこくフビライを急き立てるか、他の何処かに復活させるか、その辺りは分からないけれど、まぁどっちにしても……」

 シリギは両手を広げた。

「ここいらで僕の役割は終わりだと思う」

 

 終わりというのは、そんなに簡単に決めてしまえる物なのか……?

 

「……なあ、どうにも疑問な事があるのだが、聞いてもいいか?」

「なに?」

 

「王を……フビライを弑(しい)していたら、災厄はどうなった?」 

 

「あ――・・」

 シリギは額に指を当てた。

「多分、すぐまた別の人間に移るだろって、カワセミが言ってた。分かんないけどね、やった訳じゃないから」

 

「誰に宿っても、フビライ王より厄介な相手はそう居ないだろう」

「ああ、確かに」

「何故、そうしなかった」

 

「んー・・・・」

 淡栗毛の下の薄青の瞳がしばたいた。

「狼が憑いている人の所に移っちゃいそうだったから…… そうだね、それを嫌がったのも僕の罪だ。ああ、また罪が一個増えちゃった」

 

 中央の大きな蜜柑の木が、役目を終えたように崩れた。

 バヤンは遠い遠い旅から帰って来た気持ちになった。

 長い旅を終えたら、また淡栗毛の少年の元に帰って来られたのだ。

 

 

「ねぇ、どの道、王の前に引かれたら打ち首だ。どこのオジサンかも知らない首切り役人に刃を当てられる位なら、僕、今、バヤンにして貰いたいな」

 

「お前は何処まで我が儘なのだ。そんな奴の望みなど何一つ聞いてやらぬ」

 

 

「そうだ、させない!!」

 翼を広げた水色の妖精が、いきなり眼前に降りて来た。

 

 二人は内緒話がバレた子供のように飛び上がった。

 

「赤い狼は?」

「取り逃がした」

「おやまあ」

 

「取り敢えず当分は人間に近寄らないと約束させた」

 カワセミはギロリとバヤンを睨んだ。

「自分の弱さは自分で克服しろ。シリギに手出ししたら人間だろうと考慮の外だ」

 

 それだけ言うと、茫然とする二人を残して、馬を呼んで飛び立ってしまった。

 

 

 




挿し絵:庭園 
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19・終焉Ⅰ

 

 

 時はホンの少し遡って。

 

 

 天空で対峙する蒼の妖精と赤い獣。

 

 狼はカワセミの最初の一撃を寸でで替わして、髭を焦がしながら、不自然を感じた。

 今の一撃は力は大きいが、速さが全然無い、精彩を欠いているのが丸分かりだ。

 

「てめぇ! 本気出せっつったろうが!!」

 

 全身から立ち上る炎の帯がカワセミを襲う……が、手前でツィと往(いな)なされてしまった。

 

「お前こそ、これが全力か?」

 

「・・・・・・」

 

「・・・・・・」

 

 水色の妖精が、自分の掌を眺めながら、ボソッと呟いた。

「どうやら万全じゃなさそうだ」

 

「今気付いたのか! 阿呆か! 何時(いつ)かくだらん死に方をするぞ!」

「お前も・・じゃないのか?」

 

「けっ……」

 狼も薄々、己の不調は自覚していた。

 だけれど、ここまで力を失っている理由が分からん。

 炎の熱が全然上がらないのだ。

 

 ・・アレか・・!!

 

 ――『アタシ、あんたの為に何が出来る?』

 

 欲望を糧とする自分にとって、あの言霊は毒だ、猛毒だったのだ。

(忌々しいあの小娘……)

 

「まあ、全身全霊を使えばお前を塵にする事は可能かもしれない、が……」

「が、何だよ」

 

「うーん、そんな必要あるか?」

「ふざけんな!!」

 

「すまない、何でかお前に本気になれない」

「~~~~!!」

 

 赤い狼はますます力が封じられて行くのを感じた。

 元より、こちらへ戻って来てからのバヤンも穴の開いた桶の様な状態だったが、今、下界で何を話していたのか、いきなり底がバカンと抜けた。

 

(は?・・もういいのか? お前、その程度のタマだったんかよ? この腑抜けぇえ!)

 

 前にもこんな事があった。

 あの時もカタチを取り戻すのにトンでもない時間を要したのだ。

 ――やってられっか!!

 

「なあ、狼よ、災厄のある間だけでも退いていてくれないか?」

 

「うるせぇ! 俺様に『お願い』すんな!! 糧にもならねえ連中なんかもう用はねぇ!!」

 

 狼は捨て台詞と共に去りかけて、ふと静まって振り向いた。

「あ、そう、王都のどチビだけれどよ。あいつ、ガキの癖にしたたかだ。油断すんなよ、大どんでん返しを喰らうぞ、クックク」

 

 

 

 カワセミはあの捨て台詞が気に掛かり、王都に馬を早めていた。

 シリギは大丈夫だ。バヤンが側に居てくれる。

 

 今は……ユユ……!!

 

 

 ***

 

 

 王都の城内、奥まった庭園。

 ユユが城へ来た時、馬の為に植えた赤爪草が株分けして、今はちょっとした群落だ。

 

 草を踏む音にフビライは振り向いた。

「ユユか……?」

 

「はい、眠れなくて散歩していたの。王サマも?」

 

 月明かりに浮かんだシルエットは、小さな女の子ではなかった。

 スイと伸びた手足はしなやかで、細かいウェーヴの掛かった空色の巻き髪が腰まで流れる、十五、六に見える少女。小鳥みたいだった声も、悠揚(ゆうよう)と鈴音のようになった。

 丈の長いレースのケープを引き摺りながら、王の側に寄る。

 

 フビライが一年以内に片が付くと言った反乱鎮圧は、シリギの巧みな動きで遅れに遅れていた。

 その間……ユユは、サナギが蝶になるように、急に成長し出した。

 正確には、シリギが反乱を起こし、兄と話をした日からだ。

 

 フビライは、ここの所とみに背の伸びた娘を見やりながら、眼をしばたいた。

「百眼の将が、もうそろ奴を追い詰める。今度のバヤンはしくじらないだろう」

「…………」

「シリギが引かれて来たら、お前は奴の命乞いをするのかい?」

「しないわ」

 ユユが即答だったので、王は意外な顔をした。

 

「だって王サマは、シリギの首を跳ねたりしないでしょう?」

 

「何故そう思う? 奴のした事を客観的に考えれば、最低、打ち首だ」

 

「でも王サマは、シリギの事好きなんでしょう?」

 昔と同じように、ユユはあっさり言い切った。

 

「だっても、でもも、俺は王だ。好き嫌いで物事は通せないんだよ」

 

 ユユは言い返さないで、はなだ色の澄んだ瞳でじっと王を見る。

 この瞳の力で、いつも王の心は余計な物を剥がされ、洗い流される。

 王は息を吐いて、月を仰ぎ見た。

 

「ああ、そうだ!! 奴の、温(あたた)かだった母そっくりの細い淡栗毛も、憧れだった父そっくりの姿も声も、昔っから俺の心を捕らえて離さない! ……今もだ!!」

 

「王サマ……」

 

「だが、奴はいつだって、俺の手をすり抜けて行った。後見を申し出た時も、配下に置いた時も」

 

 王は今度は下を向いて自分の両手を見据える。

 その手の中に何度も置きながら、シリギはいつもすり抜けて、遠くへ行ってしまった。

 トルイの面影と共に。

 

 気配に顔を上げると、ユユが真正面に居た。

 はなだ色の瞳が吸い込まれそうな程に近い。

「ユユ?」

 

「オレンジ色の光が……。」

「何だって?」

「災厄が、また首をもたげようとしている」

「なに? 何を言っているのだ?」

 

「以前は、玉座を、領土を、名声を欲しがる欲だった。でも今は違う。別のモノを欲しがる欲」

 

「ユユ? だから何の話だ!?」

「でもね王サマ、そちらの欲なら、アタシが受け取ってあげられるの」

 

 ユユは微笑んで、白い腕を王の肩に回してふわりと浮いた。

 

 仰天して動けないフビライの頭を、ケープの衣擦れと暖かい腕が包んだ。

 瞬間、何もかも忘れて限りない安心感に包まれた。

 母に呼ばれた時のように……

 父に誉めて貰った時のように……

 

 胸元に、何かが触れたと思ったら、もうユユはそこに居なかった。

 

「――ユユ――??」

 

 夜の風が赤爪草を揺らし、妖精の娘の返事は二度と返って来なかった。

 

 

 ***

 

 

 空が藍色に沈む宙天。

 

 遠く地平は円を描き、その端に昇りかけた太陽が見える。

 

 一気にそこまで駆け昇ったユユは、胎児のように丸まって、宙を漂っていた。

 空中に足音を感じて、塞いでいた睫毛をうっすら上げる。

 

「……ユユ……」

 宙を歩いて来たそのヒトも、馬を連れていなかった。

 彼らの馬も、この高さまでは無理なのだ。

「ここなら誰も来ない。ここまで昇れるのは僕達だけだから」

 

「……ナナ……」

 

 長い髪を宙に漂わせながら、双子の兄は、すっかり様変わりした妹に目を見開いて、微笑んだ。

 

「受け取って来れた?」

「うん」

 

 ユユは丸まっていた身体を開いて、胸に抱えたオレンジの塊を見せた。

 それは銀河のように渦巻いて、残り炭の如くチロチロ瞬いている。

 

「これが、『災厄』」

 

 災厄はフビライの欲を糧としていた。

 それが権力や財産に対する欲である限り、永遠に充たされる事は無い。

 しかし、彼の心が塗り替わり、欲する物が変わったら?

 

「『愛』なら、アタシでも、与えてあげられる」

「そして欲が充たされれば、災厄も人間の身から剥がす事が出来るんだ」

 

 二人が話し合った通りになった。

 誰に教えられた訳でもない。

 二人は生まれる前から知っていた気がする。

 

 ユユは手の中の災厄の光を見据えた。

 まだもう一仕事残っている。

 

 静かに目を閉じて、少しずつ両手の間隔を開いて行く。

 オレンジの渦が生き物みたいに渦巻いた。

「っつ……!」

 

「勇気を出して、ユユ」

 ナナが正面で叫んだ。

「僕がここに居る! 何があっても絶対ここに居るから!」

 

 ユユは薄目を開けて頷き、両手を前に伸ばした。

 災厄の光が放射状に伸び、解放されようとしている。

 

 刹那、ナナがユユの両手に指を絡めて掴んだ。

 伸びていた光が止まる。

 そして、小刻みに震えながら収縮を始めた。

 

「そしてユユの術を完全に相殺出来るのは僕。それで災厄は完全に消し去る事が出来る。これが、僕達が双子で生まれて来た意味だ!」

 

 あの日、シリギの天幕の上の落葉松の枝で、二人で話し合った結論だ。

 あの日以来、二人は誰にも打ち明けず、粛々とこの日を待っていた。

 

 誰にも言えなかった。

 結果がどうなるか分からない。

 災厄のエネルギーがどれ程の物か、想像つかないのだ。

 自分達の許容量を遥かに越えるなら、どうしようもない。

 

 だから、一度のチャンスを待っていた。

 シリギの捕まる一歩手前、帝国が痛手を負っている今が、災厄の歪みが最も小さくなっている時。

 

(でもやっぱり基準が分からない。ユユのすべてが必要とされるなら、僕だってすべて使い切らなきゃならない。弱気になるな、諦めるな、何があっても絶対に見捨てちゃダメだ)

 

 オレンジの光が二人を包んだが、繋いだ手はけして離さなかった。

 

 ――・・!?

 不意に、ナナの意識が呼び戻された。

 

 目を開けると、身体の周りが白色のモヤに包まれていた。

 目の前のユユが微笑む。

 

「母様から守護の術を、一つだけ預かっていたの」

 

「母上……?」

「うん、強い術だから一つしか持てなかった。ナナは長にならなきゃならないもんね」

 

 微笑んだ顔のまま手を離され、思い切り突き飛ばされた。

 

「ユユ――――!!」

 

 ナナは白いモヤに包まれて、地上へ運ばれて行った。

 

 術は一つ。なら当然、蒼の長を継ぐナナを選ぶ以外の選択肢は、ユユには無かった。

 

 ユユの母だって、こんな計画を知っていた訳じゃない。知っていたら、叱り飛ばして全力で阻止しただろう。ただ、いきなり一人で訪ねて来た娘に、何となく虫が報せて、念の為にと持たせてくれただけだ。

 

「キレイだったな、母様の守護の魔法。ああでもやっぱりアタシは、翡翠色の羽根の方が…………」

 

 オレンジの光はもう欠片も無い。

 冷たい空間で巻き髪の娘はゆっくり後ろに倒れて行った。

 

 

 

 

 

 

    ・・・   ・・

 ・・・  ・・・    ・・  ・

 ・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・

 

 春の草原の匂いがする。

 

 ユユはうっすら目をを開けた。

 

 水色の見慣れた髪が頬に触った。

 

「……!!」

 両手が背中にがっちり回り、水色の妖精が全身でユユを抱き抱えていた。

 翡翠色の羽根が目一杯広がって、二人を覆っている。

 剥がれた羽根の一枚一枚が、空間を漂って、キラキラしている。

 

「カ・ワ・セ・ミ・さ・ま・・?」

 

「この大戯(たわ)けが!!」

 

 

 ユユがカワセミに抱えられて空気の濃い所まで降りると、眉間に縦線を入れたナナが三人の馬を連れて待っていた。

 本当に本当に偶然に、落っこちて来たナナが、カワセミに行き逢ったのだ。

 

 地上に降りる間にふと見ると、カワセミは馬の首にもたれて半分眠っていた。

 その間にも翡翠色の羽根は、主を守るように一枚また一枚と剥がれて行った。

 

 (巫女様……)

 

 三人はそうして色んな役割を終えて、蒼の里へ戻って行った。

 

 

 ***

 

 

 カワセミは向こう三日間眠っていた。

 いくら羽根があっても、空気の薄い成層圏までどうやって翔んだのか、本人も記憶していなかった。

 ただ、頬に霜の降りたユユを見て、これ以上無い程に心が凍り付いたのだけは覚えていた。

 

 ナナは不機嫌だった。

 父親にもノスリ長にも一生分の説教くらったし、ノスリ家の女性陣にもギャンギャン叱られた。

 何で自分だけ……と思うが、そういう役回りなんだろう、諦めるしかない。

 ユユが空から戻ってくれただけで何でも許せた。

 しかしユユの事は多分一生許さない。自分の中だけで。

 

 ノスリは通常業務に戻っている。

 執務室の自慢の子供達がトンでもない事をやってのけた。

 頬が緩みそうになるが抑えねばなるまい。まだまだこの二人からは目が離せない。

 

 ツバクロは風出流山(かぜいずるやま)の神殿で、妻と居た。

 あんなに怖がりだった息子が、急に高空飛行を教えてくれと言い出したのに疑いを持たなかった自分を、過去に戻ってぶん殴りたい気分だった。

 妻は妻で、娘が何も言ってくれなかった事が不満だったらしく、いつもの百万倍のペースで愚痴を吐き出し、ツバクロは自らの反省も兼ねて、ひたすら聞き役に徹していた。

 

 

 放牧地は、丁度金鈴花が盛りだ。

 黄金の花の絨毯の中で、長いウェーブを振って、空色の髪の少女が振り向いた。

「アタシやっと解ったの。何で母様があの神殿に居るのか」

 

「うん……」

 まだ本調子じゃないカワセミは、ゆっくり土手を下って歩いて来る。

 

「母様の守護の術は凄いんだもん。凄すぎて便利すぎて……何だかあんまり頼っちゃいけない気がしたの。だから遠くから見守るだけにしているんでしょう?」

 

「そうだな……」

 なんだかいつもの毒気が抜けて、カワセミは穏やかだった。

 ユユは屈んで、黄色い花輪を作るのに余念がない。

 

「シリギはこの花好きかなあ?」

「ああ、好きだと思うよ」

 

 ユユの馬には、旅支度がくくりつけられていた。

 

 

 

「欲しがるから失うんだ。叔父上……」

 

 フビライの前に引かれたシリギは、一言だけそう言って、そうしてもうその後は、押しても引いても喋らなくなった。

 

 フビライはシリギを無駄に追い詰めたりはしなかった。

 バヤンが何かを語った訳ではない。彼も口をつぐんでいた。

 王はただ、居なくなった妖精の娘の言葉を大切にしただけだ。

 好きなものは好きなのだ。

 その心だけ持っていれば、いつかは失わず、得る事も出来るだろうか……

 

 淡栗毛の彼に下された処分は、二度と故郷に足を踏み入れる事を許されない、海を越えた遠くの島で一生を終える事だった。

 

 

「アタシはシリギの側に居る。海の向こうの凍える島へ、独りきりで行くのなら」

 

 ユユがそう言い出すのを、カワセミは予測していた。

 『慈み』が、彼女の持って生まれた魂なら、誰も止める言葉は持っていなかった。

 

 

 

 

 

 




挿し絵:星 
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20・終焉Ⅱ・・そしてカワセミ

本編最終話です
あと一本、短編が入ります


 

 

 虜囚を囲った馬車が草原を行く。

 その後を、黄緑色の馬が舞うように付いて行った。

 馬上には、馬とバランスの取れていない、長い巻き髪の少女。

 

 城壁の戦神の部屋の窓から人目に付かぬよう、王は黙って見送った。

 この部屋の干からびた植物も、石の星空も、そのままにしてある。

 気紛れな妖精がいつ遊びに来ても良いように。

 

 バヤンは草原の、見えるか見えないかの地平で、馬車を眺めていた。

 見送るってこんな気持ちだったのかと、今更のように想いながら。

 

 バヤンは、シリギから預かった二つの品物を持って、旧王都の西の小さな森に分け入った。

 言われた通り、遅咲きの花を咲かせた蜜柑の大木があった。

 

 その根元を掘って、金鎖の付いた銀の石を埋め、土を盛った上に赤い石の付いた剣を置いた。

 辺りは高い草に覆われて、ここが何のどういう場所なのか、見当も付かない。

 ただ、某(なにがし)かの息吹が息づいていた。

 

 風が吹いて振り向くと、剣はもう消えていた。

 風が剣の帰るべき場所に運んでくれる、シリギはそう言っていた。

 

「分かった、ここは護ろう。シリギ……」

 

 バヤンはその後帝国の重鎮となり、フビライと共に様々な改革を行うが、この森だけには手を付けなかった。

 そして百眼の闘将は前線を離れ、国土はゆっくりと分裂して行くのだった。

 

 

 

 

 季節は旅人のように忙しなく過ぎ去って行くが、天上の天の川は変わらずゆるゆると横たわる。

 天から見たら地上なんて、妖精の一生さえも、一瞬の瞬きなのかもしれない。

 

 ユユは思いの外早くに戻って来た。

 淡栗毛の彼の命は、もうそんなに残っていなかったのだろう。

 丁度与えられた命を使い切って、彼はキッチリ生き終えた。

 

 里へ戻ったユユは、シリギの事はあまり喋らなかった。

 短期間ですっかり背が伸びて面長になったその横顔で、何かをシンと秘めていた。

 

 水色の妖精の傍らで、王サマの手の内で、小さいままコロコロと甘えていたかった子供はもう居ない。

 そういった呪縛から解かれると、この娘は皆の息を呑ませる姿になって帰って来た。

 

「当然ですよ。母親の子供の頃と瓜二つでしたからね、ユユは」

 大長はシレッと言って、また西の地へ発って行った。

 

 

 

 

 AD・・・不詳

 

 夜闇に息が白い。

 もう冬が間近なんだ。

 

 旧王都も今は焼け落ちた無人の廃墟。

 その西の森の蜜柑の木のてっぺんで、カワセミとユユは並んで腰掛けていた。

 

「それでねぇ、ヘラクレスに倒されたネメアの獅子は、空に昇って星になるの」

「何で?」

 

「何ででもよ。そういうお話なの。ソルカ妃のお母さんの生まれ故郷の、遠い西の国のお話」

「シリギはよくそういうのを覚えていたね」

 

「ソルカ妃がね、毎晩、話してくれたんだって。ランプの灯りで蜜柑の輪切りを作りながら。西の国の神々の物語や、星のお話。ソルカ妃も、そうやってお母さんに話して貰ったんでしょうね」

 

「そうか……」

 カワセミは蜜柑の木の下で寄り添うように佇んでいた二人を思い出した。

「ソルカ妃だけが唯一の、心許す家族だったものな」

 

 ユユはカワセミの横顔をチラリと見てから、正面向いて囁いた。

「シリギはねえ、子供の頃ずっとカワセミ様の事、お父さんとかお兄さんとか、思っていたんだって」

 

「…………」

 

 

「あれがレグルス」

 ユユは宙天の、ネメアの獅子のたてがみに光る蒼い星を指差した。

「そろそろだわ」

 

 獅子のたてがみの中にチロチロと星が煌めき、一つまた一つと流れた。

 

「シリギの教えてくれた通りだわ。この季節のこの時間に、獅子座のたてがみに星が一杯流れるの」

 ユユは嬉しそうに星を数え出した。

 

 碧眼の獅子は……本当は、星の物語を語り、流れ星を眺めながら穏やかな人生を送るべき人物だったのだろう。

 その彼が、この少女によって、人生の最後に本来の生活を送れた事に、カワセミは救われた思いだった。

 

(いつもいつも、救われていたのは自分の方だった……)

 

 天上の流星はピークを迎え、ユユは星を数えきれなくなった。

 

「ねえ、獅子のたてがみであれだけ星が流れたら、ひと房くらい地上に落ちて来るかしら?」

「どうかな」

 

「シリギの髪みたいに綺麗でキラキラしているかしら」

「そうだな」

 

「何だかさっきから生返事」

「ユユ」

 

「また、このお喋り娘がどうやったら黙るかとか、考えているんでしょ」

「ユユ」

 

「……なあに?」

 

「ボクの、妻に、なれ」

 

「……………………うん……」

 

 カワセミが上を向いたまま差し出した手に、少女も上を向いたまま指を添えた。

 そうして一緒に昔話の星空を旅する。

 

 彼の背中の翡翠色の羽根は、ほとんど生え揃って回復していたが

 目だたない内側に、一房だけ違う色

 獅子のたてがみ色の、淡・栗・毛・・

 

 

 

 

    ~おしまい~

 

 

 




挿し絵:蜜柑の木の下 
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ここまでお読み頂き、ありがとうございました

   


家系図:
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一応の時系列 (一つ一つが独立したお話なので、順番に読まなくても大丈夫)
『碧い羽根のおはなし』→『ネメアの獅子』→『春待つ羽色のおはなし』→『緋い羽根のおはなし』→『六連星』→『星のかたちの白い花』





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番外・短編
木守りの実



少年トルイとソルカの出逢い




「てめーら逃げんなよ!! 隅々まで家捜しして一人残らず噛み砕いてやる!!」

 

 集落の一番高い屋根の上に、雷と共に現れた血のように真っ赤な魔物。

 激しい音を立て、落雷が村のあちこちに直撃する。

 

 村人達は恐れ慌てて、怯える馬を引き出し、我先にと逃げ出した。

 雷が後を追って大地を揺るがすので、立ち止まって振り返る事も出来ない。

 

 たちまち村は閑散、猫の子一匹居なくなる。

 

 

「ふぃ~~」

 屋根の上で大きく息を付いて、赤毛の少年は掲げていた剣を下ろした。

 稲光で目眩まししていたが、本当はただの、ちっちゃい人間だ。

 

「この村で最後だよな」

 独りゴチながら屋根を飛び降りる。

 

 ――!?

 背後から何か!

 

 向かって来たそれを避けて掴むと、干し草用の三本ホックだった。

 そして三本ホックの柄には、顔を真っ赤にした子供がくっ付いていた。

 

 大きな毛糸の帽子を深く被った、山岳民族の子供、自分より二つ三つ年下くらいか。

 怒りの目、と言うよりは、純粋に、正義に燃える目。

 

「ぼ、ぼくの村から出てけ――!!」

 

 おお、ちょっと相手にしてやりたい絶滅危惧種だが、今はそんな暇が無い。

 

 掴んだ三本ホックを引っ張り、つんのめった子供をヒョイと抱えた。

「は、離せ! はーなーせー!」

 

 子供は空中でジタバタした挙句、地面にぺたりと落とされた。

「痛ーい!!」

 

「離せっつったのお前だろが」

 赤毛の少年は地面にうつ伏せた子供の頭を押さえ付けて、顔を覗き込んだ。

 鼻水を垂らして震えている癖に、眼だけはメラメラ燃えている。

 

「お前、一人か?」

「うるさい! ころせ! お前なんかに降参するもんか!」

「だから、お前一人か? 寝たきり婆さんを守ろうとして、とかじゃないんだな?」

「こーろーせー!!」

 

 少年は溜め息を吐いて、子供のセーターの袖を後ろ手に結んだ。

 そうして黒鹿毛にどさりと積んで、自分も飛び乗り、村を出て南に駆けた。

 

「ぼくを、どーすんだ! 人質にはなんないぞ! 大人は何でも簡単に捨てるんだ!」

 

 村から半里ばかり離れた所で、子供はそのまま地面に放り出された。

「この……!」

 

 ここで子供は馬上の魔物を、初めてちゃんと見た。

 

「??」

 何か、思っていたのと違う?

 恐ろしい狼の化身だと思った筈だが、人間の少年? に見える。

 真っ赤な髪と銀に光る目は、やっぱり普通じゃないけれど……

 何でそんな普通の子供みたいな、困ったような表情?

 

「お前、名前、教えて置け」

 

「ソ、ソルカだ! 忘れんなよ!」

 子供は、灰色がかった真ん丸な瞳で、力一杯少年を睨み付けた。

 

「ふうん、ソルカ、殺せとか簡単に言うな。後、朝までここに居ろ。じゃあな」

 

 少年はそれだけ言って、黒鹿毛を返して、村ではなく、少し外れた山の方へ駆けて行った。

「おい!?」

 ソルカは草っ原で転がったまま、駆け去る騎馬の後ろ姿を見送った。

 

「……何がしたかったんだ?」

 村を襲いに来た魔物には違いない。自分でそう言っていたし。

 

 だけれど自分に手出ししなかったのは何でだろう?

 あんな困った顔をしたのは何でだろう?

 

 分からない事だらけだが、『朝までここに居ろ』という言葉が強く残っている。

 

 ソルカはもぞもぞとセーターから腕を抜き、戒めをほどいて、そこに座り込んだ。

 魔物の言う通りにするのは癪だけれど、朝までぐらいなら、居てやってもいい。

 だって何だか、あの銀の瞳は怖いけれど、悪者じゃなさそうな感じだった。

 

 大人達は、出来る限り遠くに逃げて行ったんだろう。

 あの人達、何でも簡単に捨てるんだ。

 村も、母さんも……!!

 

 

 ―― どん ――!!!

 

 強烈な地響きがした。

 子供は座ったまま地面の上で放り上げられた。

 

「えっ・・ああっ!」

 

 月明かりに、村の方で砂塵が見える。

 

 ソルカは跳ね上がって村へ走り出した。

 魔物の言い付けも何も関係無い! 大切な宝物があそこにあるんだ!

 

「・・!!」

 裏の山が、樹木ごと、ごっそり滑り落ちていた。

 村の殆どが土砂に埋まっている。

 遠目に、隣の集落も、その向こうも。山沿い全体が被害を受けている規模だ。

 

「あああ・・!」

 子供は声を上げながら、村外れの干し草小屋の方に走った。

 そこだけ少し高台になっていて……

「ああ、あった!!」

 宝物は無事だった。

 干し草小屋は半壊していたが、お陰で土砂が止められ、『それ』は守られていた。

 

 子供は気を取り直して、その高台から村を見下ろした。

 

 族長の大きな家も、教会も広場も畑も、みんなみんな土砂に埋もれている。

 地震も豪雨も、何も無かったのに、何でいきなり?

 変わった事があったとすれば、あの赤い魔物。

 

「でも……」

 ひとつ言える事。

 こんなに恐ろしいコトになっているのに、村の人達は皆無事だ。

 最後に残ったのが自分一人だったから、間違いない。

 これって偶然? それとも、まさかまさか……

 

「おう」

 後ろで声がした。

 

 赤毛の魔物? が、黒い馬に跨がってそこに居た。

 

「ちょうど良かった、ソルカ。どこかに水場ない?」

 まるで通りすがりの旅人みたいに、気安く話し掛けられた。

 

「あ、あっち行け……」

 ソルカは後ずさった。

 

「うーん、ちょっとの間、いろいろ忘れてくれないかな? 尾花栗毛が死にそうなんだ」

 魔物はまた困った顔をする。

 何だかもう、魔物とも言えない、普通に少年の顔だ。

 

「……あそこの埋まっていない柵の横に、素堀の井戸がある」

 

「ありがと」

 少年はソルカの指差した方向へ駆けて行く。

 

 ソルカは、高台を降りて、自分の家に行けないか探してみた。

 土砂は厚く、まだ動いている箇所もあって、とても無理そうだ。

 

 どうしよう、と途方に暮れている後ろを、木桶をぶら下げた騎馬が通過した。

 

「おい! それ! 井戸の木桶!!」

 

「まだ崩れるかもしれない。山から離れていろ」

 

 速足で駆け去る騎馬をソルカは追い掛けた。

「村の木桶だぞ、持って行くな――!」

 

 ここまで壊滅した村で木桶もクソも無いのだろうが、子供は走って魔物を追い掛けた。

 何故か着いて行きたかったのもある。

 一人ぼっちには慣れていた筈だったのだが。

 

 村から少し離れた台地で、一頭の尾花栗毛の馬が横たわっていた。

 首も上がらない程ぐったりしていて、鼻を大きく広げて気管から変な音を漏らしている。

 

 赤毛の少年が馬の横に屈み込んで、布を水に浸して。何とか馬の口に含ませようとしていた。

 

「…………」

 離れた所から、その様子を見たソルカは、すぐに村の方へ取って返した。

 

 尾花栗毛は、水を飲み込む力も無く、横になったまま腹を小刻みに上下させている。

 

「お前、頑張ったんだな……」

 赤毛の少年は屈み込んで馬の首を撫でてやるしか出来なかった。

 今晩、これ以上の命を失いたくない……

 

 唇を噛み締めている所へ、すう・・と、目の前に何かが差し出された。

 

「??」

 

 黄色い大きな蜜柑。

 

 見上げると、子供が真剣な目で、両手でそれを差し出している。

 

「馬の息を整えるのに良いんだ。元気も出て水を飲めるようになる。ちょっとづつ食べさせてあげて」

 

「…………ありがと」

 

 少年は黄色い実を割って、少しづつ馬の口に入れてやった。

 

(馬を見つめる目が、本当に優しい。やっぱりこのヒト、悪者じゃない)

 

 

 尾花栗毛は蜜柑の小さいカケラを口に入れてやると、目を閉じて、少し転がしてから飲み込んだ。

 三カケほど食わしてやった後、水に浸した布を口に付けると、ぺちゃぺちゃと吸い始めた。

 

 そうして、とうとう首を上げて木桶から直接水を飲んだ。

 

「やったあ!!」

 ソルカは思わず歓声を上げた。

 上げてから口に手を当てて赤毛の少年を見ると、気持ち一杯な目で馬を見つめている。

 

(普通に、イイヒト、だ……)

 

 尾花栗毛が十分水を飲み終わってから、黒鹿毛も木桶に頭を突っ込んだ。

「お前も頑張ってくれたもんなあ」

 

 それから、立ち上がれた尾花栗毛を騙し騙し井戸まで歩かせて、満足行くまで水を飲ませた。

 ソルカが残った夏蜜柑を割って与えた。

 

 二頭仲良く草を食み出して、もう大丈夫だと思えてから、赤毛の少年はホォッと息を吐いて、その場にしゃがみ込んだ。

 顔を膝に埋めて、酷く疲れた様子で、無防備に。

 

 ソルカはそおっと声を掛けた。

「あの……」

 

「ああ、蜜柑、ありがとな」

 少年は膝に顔を埋めたまま答える。

 

「あの山崩れ、分かってたのか?」

「まあな、でも、俺じゃない」

「村のみんなを助けてくれたのか?」

「だから、俺じゃない。俺は教えて貰っただけ」

「じゃあ、誰なんだ? 山崩れが分かってたって、預言者とか? 村のみんなに言わなくちゃ。ぼくだってお礼を言いたい」

 

「…………」

「ねえ」

 

 少年はゆるゆる顔を上げた。

 ソルカではなく、正面の地平の星を見つめる。

 

「じゃあ、祈ってくれ」

「??」

 

 その横顔は焦燥しきっていた。

「祈ってくれ…………」

 

 

 

 不意に、夜空に鋭く、高い声が響いた

「鷹だ!!」

 少年は弾かれたように立ち上がる。

 

「まさか、こんな夜中に?」

 ソルカが呟く目の前で、本当に立派な鷹が、羽音高く少年の腕に降りて来た。

 

 ビックリして目を見張るソルカの前で、少年は鷹の足筒から紙を引っ張り出し、食い入るように読んだ。

 そうして真上を見上げて目を閉じ、両膝からヘナヘナと地面に崩れた。

 

「良かった……ヨカッタ……」

 

 少年は即座に筒を逆さに向けて、鷹を放った。

 多分、受け取ったという合図なんだろう。

 

 ソルカには色々さっぱり分からない。

 でも村の皆を救ってくれたこのヒトが良かった事なら、きっと良い事なんだ。

 

 

 

「ソルカ!!」

 

 知った声がした。

 目を上げると、いつの間に、逃げ出していた村人が十数人、手に手に棒や武器を持って立っていた。

 

 逃げた先で、同じように追い出された近隣の集落の面々と合流して、おかしなモノだと話し合っている所に地響きがあり、族長はじめ何人かで戻って来たのだ。

 

「魔物! 貴様が災厄をもたらしたのか! 村をこんなにしちまいやがって!」

 

「ちがう、ちがう!!」

 ソルカが叫んだが、大人達の怒号にかき消される。

 

 ち……参ったな。

 尾花栗毛を連れて逃げ切れるかな……

 少年がそんな事を考えていたら、何とソルカが三本ホックを持って村人の前に躍り出た。

 誰かが持っていたのをかすめ取ったのだ。

 

「あんた達に、村の事、言う資格無い!! 簡単に村を捨てたくせに!! 簡単に母さんを捨てたくせに!!」

 

「…………」

 村人達の声が止まった。

 

 赤毛の少年は進み出た。

 事情は分からないが、ここで逃げ出すと、この子供を孤立させてしまうのは分かった。

 

 たじろぐ村人達を横目に、ソルカの三本ホックを掴んで降ろさせる。

「そんなモン振り回すのは、大事なモンを守りたい時だけにしとけ」

「あんたを守る為じゃダメなのか?」

「…………」

 

 ソルカは再度、村人に向いて叫んだ。

「皆、村から逃げてなきゃ、今ごろ、この土砂の下敷きだぞ!!」

 

 村人達はちょっと怯んだ。

「そ、それは、たまたまだろう、偶然だろう」

 

 赤毛の少年は村人に正面向いた。

「俺が礼儀正しく村に出向いて、これから災厄が起こるから逃げろって口走って、あんたら信じてくれたかい?」

 

 良く通る澄んだ声だった。

 人の心に届く声音。

 

 村人達は静まった。

 

 まん丸な目を向けるソルカの横で、少年は心で溜め息を吐いていた。

 バックレた方が楽だったんだが。

 ここまで来たら、ちゃんと締めなくてはなるまい。

 もうヘロヘロなんだけれど……

 

 

 

 

「するとそなたは、シャーマンなのか?」

 

 赤毛の少年は族長と対峙している。

 

 村人の半分は、避難している子供や老人の為に戻り、半分は、ここで朝になるのを待つ為に火を焚いている。

 ソルカは少年の方をチラチラ見ながら、干し草小屋にあった塩と燕麦を、二頭の馬に与えている。

 

「あんたらが納得するならそれでいい。とにかく、風の神が災厄を教えてくれた。それで俺に出来るやり方で、手っ取り早くあんたらを追い出した。感謝したかったら奴にしてくれ。俺にされても困る」

 

 族長は戸惑った。

 シャーマンだったらここで布施の要求か、少なくとも信仰を求めて来るのだが。

 

「しかし、神に救われてそのままと言うのは、縁起的に良ろしくない。せめて、そなたに何か……」

 

「ふうん・・あっ!」

 赤毛の少年は思い付いたように顎を上げた。

 

「じゃあ一コだけ、欲しいモノがあるんだけれど」

「あ、ああ。我等は沢山無くした。だが命があればまた築ける。なんなりと言ってくれ」

 

 少年は口の端を上げて、親指で後ろを差した。

「こいつ」

 

 後ろにはソルカが突っ立っていた。

 

「こいつが欲しい!」

 

 族長は目を丸くして口をぽかんと開けた。

「そりゃ、また……しかし、その子は……」

 

「見たトコ、身内、居なさそうだし」

 軽々喋る少年の前に、ソルカがツカツカと歩み寄った。

 

 ――バシッ

 

 赤毛の少年の頬をはたき、激しい目を向けてから、ソルカは凄い勢いで駆け去って行った。

 

 少年は茫然と突っ立ち、族長はおろおろした後、額に手を当てて息を吐いた。

 

「あの子には地雷です。それは……」

 

 

 

 

 村の西側、半壊した干し草置き場の横、一本だけある蜜柑の木の下で、子供は膝を抱えていた。

 

「よぉ……」

 赤毛の少年が視線を泳がせながら近寄る。

「……悪かったな」

 

「別に、悪くなんかない。あんたは村を助けてくれたんだし、何を要求してもいいと思う」

 

「ふうん」

 少年は子供の手首を掴んだ。

「じゃあ謝れよ」

 

「な!」

「ビンタくれてごめんなさいって謝ってみろ」

「い・や・だ!!」

 

 少年は暫くソルカの目を見据えていたが、ふっと力を抜いて、掴んでいた手を離した。

 

「そうだ。自分の信念は貫け。お前は、ヒトをモノみたいに扱うのを許さない。決して許さない。一生貫け」

 赤毛の少年は大きな犬歯を見せて刻むように言った。

 

 ソルカは黙っていたが、その顔から目を逸らさなかった。

 

 

 

「山を根城にしていた野党が、あの子の母親を要求しましてな。その年は不作で……皆、もう疲れていました。あの子は七つでした」

 族長は恥じ入るように吐露した。村の惨い過去。

 

「郷司が野党討伐に動きましたが、時遅く、母親は戻らぬ者となっておりました。父親も昔に亡くしていて……それ以来、村の皆であの子を育てていますが、心は頑ななままで」

 

 

 

「母さんはこの木の香りが好きだった。花も好きだった。実の成る季節も大好きだった。遠い西の国から嫁いで来る時、苗を持って来たんだ。満開の白い花の下に居ると、春の精みたいだった。今はもう、この木だけがぼくの大切な宝物なんだ」

 

 ソルカは蜜柑の木の幹を撫でながら、暗い草原を見やった。

 地平に細いオレンジの線が入り、長い夜が明けようとしている。

 

「……実が、無いな」

 赤毛の少年は、冬前の乾いた葉だけの木を見上げながら言った。

「最後の一個だったのか?」

 

「うん……木守りの実。冬の間木を守って貰う為に、わざと一個残して置くんだ。でも、残して置いて良かった」

 ソルカは少年の方を見ないで、だんだんに色付く草原を見ながら答えた。

 木がさわさわと揺れて、清い香りが漂う。

 

「なあ、お前、ソルカ」

「あんたが野党と違うのは分かる。叩いたりして悪かった」

 

「俺と、来ない?」

 

 少年はソルカの横に立ち、一緒に朝焼けを眺める形になる。

「俺さ、人間で、信頼出来る奴、欲しいんだ。お前に側に居て欲しい」

 

 子供は目を丸くして赤毛の少年をマジマジと見る。

「信頼って? ぼくら今晩逢ったばかりだろ?」

 

 少年は銀の目に朝陽を湛えながらソルカを見る。

「人生で、ずっと側に居ても心に残らない奴もいる。ほんの一時しか居なかったのに、一生心に残る奴もいる」

 

 それから、正面向いて右手を差し出した。

「一緒に来てくれ」

 

 その時のソルカにはどんな打算も無かった。

 ただ吸い込まれるように、この、どこの誰かも分からない、何処へ行くとも分からない少年の手を、取った。

 

 そうして、二人を朝陽が照らした所で、何故か影が覆った。

 

 

 

 

「やばっ!!」

 少年が口走る。

 

 何かが目の前をよぎった気がしたが、ソルカには何も見えない。

 

 さあ……っと風が吹き抜け、蜜柑の木を揺らす。

 

 赤毛の少年は握っていた手を離し、木の反対側に駆けて行く。

 

 そこにはいつの間に、一人の男性が立って居た。

 分厚いマントの下に豪奢な鎧、額に金の輪兜。

 一目で身分ある武人と分かる。

 

 少年はその男性の斜め前で、足先を揃えて、敬礼する。

 家来なのか?

 

「今さっき、蒼の里からの鷹の手紙を受け取った。酷い物だな」

 その武人は、山の崩れた所を見て、率直な感想を述べる。

 

「あっ……あの……」

 ソルカが進み出る。

「だけど、誰も下敷きになっていないんです。このヒトが皆を逃がしてくれて」

 

 男性はギロリとソルカを一瞥する。

 押し潰されそうな威圧感に、思わずたじろいだ。

 

「そういう事は族長に聞く。トルイ、案内しなさい」

「はい」

 

 ここでソルカは、やっと少年の名を知る。

 ト・ル・イ……雷(いかずち)かあ。

 そういえば夕べ、雷を呼んでいたけれど、このヒトは軍付きの陰陽師とか呪術師なのかな?

 ぼくよりちょっと年上くらいなのに。

 

 そんな事を考えていると、トルイはその男性を案内しながら、ソルカに、お前も来い、と合図した。

 

 

 さすがに族長クラスだと顔パスだった。

「だっ大王!! 帝国の大ハーン!! あゎゎわ、あゎわ」

 

 皆々平伏する中、さっき不用意に話し掛けたのが誰だったのか……ソルカの頭の中で迷い羊がぐるぐる回る。

 

「と、供も連れず、お一人で? まさか」

 

「陣中見舞いだ。追って王都から物資を送る。近隣から普請も寄越そう。皆、自棄を起こさず、前向きに復旧に当たってくれ。命あって何よりだ」

 

 王の一声で、鉛色だった皆々の顔に生気が蘇る。

 こういうのって、早さが大事なんだ。

 機会を逸すると、大切な人民が離散し、流民となり犯罪が生まれ、末には国土を揺るがす害悪ともなる。

 

 王の横で彼の言葉を一字一句逃さず聞こうと頑張る少年を、ソルカはぼぉっと眺めていた。

 

 

 見送りは結構、と、王は何故かまた、蜜柑の木の所へ戻った。

 トルイはソルカを伴って着いて行く。

 三人だけになる。

 

「さて、トルイ」

「はい」

「今回は、良くやった。方法は無茶だが、他に良い手も無かったろう」

「……カワセミのお陰です」

「そうだな、心からハーンの敬意を示そう。鷹の手紙によると、命は取り留めたそうだな。本当に良かった」

 

 ソルカは王とトルイを交互に見ながら、所在無さげにしていた。

 王と直に会話出来る陰陽師。

 さっきの握手は夢だったのかしら。

 

「王」

「なんだ」

「褒美が欲しい」

「……ほお」

 

 王がまたあの居竦める様な目を少年に向けたので、ソルカの方が思わず首をすくめてしまった。

 

「俺付きの家臣が欲しい。信頼出来る、生涯共に出来る家臣」

 

「ああ、必要になるだろう。だがまだ早い」

 

「今から育てるっ。こいつ……!」

 少年にいきなり手を引っ張り上げられて、ソルカは硬直した。

 

「トルイ……こいつって、羊の仔じゃないんだ。第一どこの誰なんだ? 親御さんは? 子供のゴッコ遊びじゃないんだぞ」

 王は呆れて言うが、何だかだんだん柔らかい物腰になって行く。

 

「どこの誰って、ソルカだよ。三本ホックで村を守ろうとした。三本ホックで俺を守ってくれた。俺と共に来いって差し出した手を握ってくれた。他に何か要る?」

 

 ソルカは勢いに押されていちいち頷くが、成り行きに怯えている。

 

「待て、ちょっと待て!!」

 王は慌てた感じで二人を離す。

 

「トルイ、ちょっとこの子と二人きりで話すから、離れていなさい」

 

 トルイは不満ながらも、言う通りに蜜柑の木の向こうへ後退する。

 

 王は子供の目の高さまで屈み込み、肩に手をかけ、顔を覗き込むんだ。

 射竦めるような目ではなく、お父さんを思い出すような目だった。

 

「あの子は、世間知らずで、突っ走る所がある。実の所どうなんだ? 来る気があるのか? ノリだけだったらヤメて置いた方がいいぞ」

 

 王様の顔がすぐ近くにあって、瞳に硬直する自分が映っている。

 クラクラしながらも、ソルカは頑張って意識を保って答えた。

「い、行きます」

「いいのか?」

 

「約束したし……それに、ト……ルイ? ぼくを信頼してくれるって言った。それに、応えたいって、思います」

「うん、そうか」

 

 王はチラと少年を見る。

 律儀に話の聞こえない所で待っている。

 

 更に顔を近付けて、王は耳元で囁いた。

「あいつ、お前さんの事、何も分かっちゃいないぞ。それでもいいのか?」

「…………」

 

 

 

 王が立ち上がって、トルイが呼ばれた。

「俺は国境の戦線へ戻らねばならない。お前の母の草の馬を借りて来たしな。ただ、この子供がお前と来るのなら、簡単に儀礼だけやって置いてやろう。その前に……」

 

 王はトルイを子供の正面に立たせ、二人の肩に手を置いた。

「お前達、互いに信頼があると言ったが、人間の心のヒダは奥深い。お互いの全部が分かっている訳ではない。隠して置きたい事もあるだろう。露呈した事実に衝撃を受ける日も来る。どんな時も、信頼は揺らがないと誓えるか?」

 

「…………」

「…………」

 

「分からないか?」

 

「誓えないけど……努力する。俺、ソルカと歩きたいから」

「誓うって……そんな軽く言えない。でもトルイと一緒に行きたい」

 

「よし!!」

 

 王は満足した様だった。

「口先だけの誓いは要らん。ちゃんと真剣に考える事が大事だ。トルイ、剣を抜け」

 

 トルイは身体に不釣り合いな大きな剣をシャリと抜いた。

「お前は……そうだな」

 王は干し草置き場に刺さっていた三本ホックを引き抜いた。

「これを持て」

 

 トルイは剣を斜め上に掲げ、ソルカは三本ホックをそれに交わらせた。

 間で王が大真面目に唱える。

 

「トルイ・・

 ソルカ・・

 お前達は、互いの人生を支え、信じ、共に歩む。

 風と大地の名に置いて、王が証人となる」

 

 トルイが真面目にじっとしているので、ソルカも良く分からないながらも、ホックを握り締めて畏(かしこ)まる。

 

 蜜柑の木がサワサワと鳴る。

「ああ、この木も証人になってくれるって」

 トルイがソルカを見て笑った。

 それを見て、ソルカも緊張が緩んで微笑んだ。

 

 

 

「では俺は行く。トルイ、後は任せる。出来るな」

「はい」

 少年が敬礼して、王は蜜柑の木の影に隠れたかと思うと、突風が吹いて見えなくなった。

 

「……王様は?」

「風に乗れるんだ、あのヒト。気にすんな。そういうの、追い追い慣れる」

「…………」

 

 トルイは小刀を取り出した。

「蜜柑の木って、挿し木出来たっけ」

「え? 接ぎ木なら出来たと思う……」

「自宅の庭の一画くらい、ソルカにくれてやれると思う。陽当たりの良いトコな」

「ホント!?」

 

 二人、井戸の方へ降りる。

 黒鹿毛と尾花栗毛が仲良く草を食んでいる。

 

 族長が来る。

「王はお帰りで?」

「ああ。被害状況、細かく出る? 俺、任されたから、纏めて城へ持って帰る。他の集落の長にも連絡して提出して貰って」

「え、あ……はあ……」

 

「ソルカ、読み書き出来る?」

「あ、はい」

「じゃあ手伝って」

 

 別にいいのに、族長が他の集落の長も引き連れて来た。

 その中に、帝国の王室ファミリーの顔を見知った者が居た。

 コソコソ言う囁きの内に緊張が走り、報告書はあっという間に完成した。

 

 昼前には出発の算段が付いた。

 尾花栗毛を労りながらゆっくり駆けても、明るい内に王都に戻れるだろう。

 

 ソルカの家は埋もれてしまい、荷物は数本の蜜柑の木の枝だけだ。

 

「ソルカ、忘れ物」

「え?」

 茫然と集落を眺めるソルカに、トルイが、族長を目で指して促す。

 

「育てて貰ったんだ。読み書きまで教えて貰って。村全体に礼を尽くせ」

「…………」

「礼儀知らずは要らんぞ」

「……でも、母さんを……」

 

「ソルカの母さんが、外国(とつくに)から嫁いで、愛して、守ろうとした村だ。だからソルカも守ろうとしたんだろ?」

「……うん……」

「じゃあ、ちゃんと別れろ。今やって置かないと後悔する事は、世の中に御満(ごまん)とある。それは俺が保証する」

 

 ソルカはトルイをじっと見たが、やがて頷いて、族長や村人達の所へ駆けて行った。

 そうして育てて貰った礼を言って頭を下げると、冷たいと思っていた大人達が涙ぐんで、自分の先行きの幸を願ってくれた。

 それから、蜜柑の木の世話は必ず怠らないと、約束してくれる人もいた。

 

 

 

 このヒトに着いて行くという自分の判断は間違っていなかった。

 

 尾花栗毛に揺られながら、ソルカは赤毛の少年の横顔を見る。

 栗毛優しき馬は、トルイの姉の馬だという。

 このヒトに似ているのだろうか?

 

 栗毛が疲れると降りて歩いたが、そんな時はトルイも黒鹿毛を下馬して、二人肩を並べて歩いた。

 そうしてゆっくり、新しい人生のある王都へと向かう。

 

 ソルカは色んな物に感謝した。

 外国(とつくに)よりこの国に来てくれた母、旅先でその母を見初めたという記憶の片隅の父、自分を育んでくれた村、蜜柑の木  …………このヒトに逢わせてくれた、運命…………

 

 感謝する事なんて、忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 飲みかけの葡萄酒が膝に滴り落ち、女性は慌てて手の中の盃を立てる。

 

 王は正面でニコニコしている。

 

「い、嫌ですわ、王君。冗談が過ぎます」

 

 小卓に差し向かいで、王は澄まして盃を掲げる。

「冗談で乾杯する程、暇じゃあない」

 

「何を、そんな、あの子はまだほんの子供で……」

「来年には、俺が独立の旗を掲げた年齢だ」

「…………」

 

 王は瓶を傾け、女性の盃に葡萄酒を注ぎながら、尚もニヤニヤしている。

「お互い、生涯一緒に居たいって言うから、簡単な儀式をして来てやった。まぁ、奴にしては良くやったよ。すこぶる良い目をした子供だった」

 

「はあ……あの子が……」

 女性はテーブルに肘を付いて、額に手をやる。

 

「子供ってのは、大人が考えているよりずっと早く、駆け足で成長する。君の口癖だろ。観念して乾杯しよう」

 

 彼女はうつむきながら、ぎこちなく盃を掲げる。

 

「ただ、ちょっと問題があるんだ」

 

「何です?」

 こうなったら大概の事は、あの子の為に用立ててあげなくては……

 

「トルイの奴、まだ気付いていないんだよなあ。誓いの儀式をした相手が、『女の子』だったって事に」

 

 再び葡萄酒を引っくり返す女性を眺めながら、王は、すっごい楽しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 




挿し絵:蜜柑 
【挿絵表示】

挿し絵:儀礼 
【挿絵表示】
 


ここまでお付き合い頂き、心よりありがとうございました



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