目無し足無し夢も無し 心を救う永遠の帝王 (ルシエド)
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1 ハーデンベルギア ■■■■

「絵画は盲目の人の職業だ。彼は自分が見ているものではなく、自分が感じているものや、見たことがあるものについて自分自身に語りかけるものを描く」

   ―――パブロ・ピカソ


 かつん、かつん、と杖が路面を叩く音がする。

 

 空は青。

 指で数えられるほどの雲が流れている。

 冬の風が心地良い冷たさを孕んで流れ、平穏な空気が満ちる街並みを少年が歩いていく。

 その手には杖。

 両の瞼が上がることはない。

 杖で進行方向に何もないことを確認し、道路として整備された地面の凸凹を頼りに真っ直ぐに歩き、杖で叩いて確認した部分を足で踏んで歩いていく。

 見る人が見れば、初めての土地をゆっくりと歩いている全盲の人間であることが一目でわかる、そういう危なっかしさがあった。

 

 そんな少年の耳に、道路を挟んだ向こう側を軽快に歩いていく"明るい旋律"が届いていた。

 

「~♪」

 

 鶏跛の如き独特のリズムで、頑丈な硬めの靴が路面を叩く音がする。

 はちみつが好きな女の子なんだろうか、と誰でも少し思う歌。

 音、歌、時々鼻歌は混ざって、耳に心地良い旋律が完成していた。

 

 杖をつく少年は、足を止め、その旋律に聞き入っていた。

 その足音が。

 その声が。

 その音の源であろう少女が、とても楽しそうだったから。

 太陽がある方向を向くヒマワリのように、その旋律を生む少女の方を向いていた。

 

 目も見えないのに、少女に見惚れた。

 生まれて初めて、彼は誰かに見惚れていた。

 

 横断歩道の前で足を止めていた少年だが、その間に信号の色が変わり、彼の前を少々不注意なバイクが凄い勢いで通り過ぎていく。

 バイカーのズボンの金属輪が、少年の杖の突起に引っかかり、杖を彼方へ弾き飛ばした。

 気付かないままバイクはどこぞへと走り去っていき、よろめいた少年が尻餅をつく。

 

「あっ」

 

 少年は近くを手探りで探すが、杖は少年の手の届く範囲にない。

 手に触れるのは路面の感触。

 砂の感触。

 日に照らされた熱い路面の感触、しかない。

 杖が見つからなければどこにも行けない。もう帰れないかもしれない。盲目が杖を奪われる不安とは、そういうものだ。

 

「すみません。近くにどなたかいらっしゃいましたら、わたしの杖を取っていただけませんか」

 

 近くを歩いていた男が軽く視線で杖を探してみるが、急ぎの移動中だったのもあってほどほどなところで去っていく。

 離れたところを歩いていた中年女性が少年の苦難に気付くが、巻き込まれることを嫌がってそそくさと去っていく。

 道路沿いのコンビニの店員が気付くが、助けに行こうにも店番が自分しかいないため助けに行くことができず、ソワソワし始める。

 

 誰もが暇ではない。

 誰もが時間に余裕があるわけではない。

 真っ昼間の人がいる往来であり、すぐ人が死ぬような事案でも無かったため、()()()()()()()()()()()という意識の下、誰もが彼を気にかけながら、本腰入れて助けることはない。

 "ぼんやりとした他人事"。

 皆が『かわいそうだから誰か助けてあげてほしいな』と思う程度に微妙な善人で、『俺は今ちょっと忙しいから』と思う程度に他人事だった。

 

 少年の手を離れた杖は、近くの橋の欄干の上に乗って、そこでぐらぐらと揺れていた。

 

「わたしは杖がなければ歩けません、どなたか助けていただけないでしょうか」

 

 杖はぐらりぐらりと揺れて、普段人が手を乗せる手すりの上で橋に落ちるか、落ちるか、落ちないかという境界線上を揺らめいている。

 橋の上に落ちればいい。

 川に落ちたら最悪だ。

 川に流されたらもう拾えない。

 

 不意に風が吹いた。

 ぐらぐらと揺れる杖が一気に動いて、川の方にぐらりと傾く。

 川の中に、杖が真っ逆さまに落下して――

 

「どうか、お願いします」

 

 ――まるで翼を羽ばたかせた鳥のように跳んだ少女が、その杖を空中で掴んだ。

 

 路面を蹴り、跳び、欄干に触れるか触れないかの軌道を跳んで杖に追いつき、欄干の外側、橋の縁の突起に軽やかに足を乗せ、また跳び、橋の上に戻る。

 視界内の全てを常時把握する優れた眼、飛び抜けた生来の柔軟性、鍛え上げられた敏捷性(アジリティ)が生み出す芸術的な――もはや魔法にすら見える――身のこなしであった。

 

 まるで、彼女だけが重力に縛られていないかのような。

 この世界で彼女だけが特別であることを許されているのではと錯覚する一瞬。

 その奇跡のような瞬間を、少年は見ることができなかった。

 彼の目に光はなかったから。

 

 地面に膝をついて手探りに杖を探す少年の手に、少女は優しく杖を手渡す。

 

「大丈夫?」

 

 太陽のような声がした。

 太陽を見上げるように、少年は顔を上げた。

 太陽のような笑顔があって、その笑顔は少年には見えなくて、それでも少年はその少女を太陽だと思った。

 

 杖を受け取って、少年は少女に微笑みかける。

 目が見えない少年の微笑みは少しだけ方向がおかしくて、少女の顔の位置が分かっていなくて、笑む少女にちゃんと向けられてはいなかった。

 事情がよくわからないまま杖を拾いに飛び出した少女もそこで事情をある程度把握する。

 

「ああ、ありがとうございます。杖を拾っていただければわたしは大丈夫です」

 

「そう? それならいいんだけど……」

 

 杖を手にした少年は頭を下げて歩き出すが、やはりこのあたりの土地勘は無いようで、街路樹周りの石ブロックに躓き、一度見失った方向感覚を取り戻すために周りの路面を杖でコツコツと叩き始めていた。

 

 少女は見ていられなくなって、杖を右手で持つ彼の左手を握る。

 少年は背中に結構な大荷物を抱えていて、変に転ぶと盲目なのもあって大惨事になりそうで、とても放ってはおけなかったのだ。

 

「ちょちょちょ、危なっかしいなあもう」

 

「ありがとう。きれいな声のお嬢さん」

 

「えっ!? 綺麗な声!? 生まれて初めて言われたっ!」

 

「そうなのかい」

 

「変な声なのに歌上手いーとかはたまに言われるかなあ」

 

「わたしは目が見えないからね。

 声で他人を見分けるしかないんだ。

 特徴的な声で不快でないなら……

 それはほら、容姿で言うところの美人にあたるのではないかな」

 

「えへへ。美人も初めて言われた。あっ、可愛いとは結構言われるかな!」

 

「おや、きれいなお嬢さんだと思ったらかわいいお嬢さんだったか。これは失礼」

 

「いーよ! おんなじ褒め言葉だもんねっ!」

 

 少年の手を引き、少女は一旦道の端に寄り、他の人の通行の邪魔にならないようにする。

 

 少女は少年をまじまじと見た。

 歳は少女の一つか二つ上くらいか。

 瞼は上がらず、隠された瞳は何も見ていない。

 背負われた大荷物はよく見ると、キャンバスや絵の具入れなどといった、画家が傍らに備えるようなものばかりだ。

 

 少年に少女は見えない。

 見えているのは声と、手に触れる少女の掌の感覚だけ。

 気遣う声と、暖かな手が、目の前の少女が優しい娘であるということを教えてくれる。

 

「目も見えないのに一人でどこに行こうとしてたの?」

 

「ウマ娘というものを知りたくてね。ウマ娘さんたちが居るところに行こうとしていたんだ」

 

「え、珍しい。今時ウマ娘を知らない人って居るもんなんだね」

 

「学術・芸術においてはある程度知っていたのだけどね。実物はさっぱりなんだ」

 

「へぇ~。あ、じゃあレースやってる所に連れて行ってあげる! いっぱいいるよウマ娘!」

 

「いいのかい? 是非お願いしたいが、迷惑じゃないかな」

 

「いいっていいって! あ、いつかボクのお願い一個聞いてくれたらそれでいいよ!」

 

「お願いか。わたしがお願いしてる立場だからね。わたしにできることであれば、なんでも」

 

「おっけーおっけー、じゃあいこっかっ」

 

 少女は少年の手を引き、橋を越え、盲目の少年の足でも短時間で歩いて行ける近場のレース場に向かい始めた。

 

「絵を描いてるの? ボクそういうのは全然詳しくないや」

 

「ああ。まだ無名だけどね」

 

「その……目が見えないのに絵って描けるの?」

 

「ありがとう、気遣ってくれてるのが分かるよ。それなり、といったところかな」

 

「ほえー」

 

「そんなに絵も売れてないしね。未成年だから個人の裁量も持てないし」

 

「え、売れてるんだ! すごい! センセーだ! 絵のセンセーだ!」

 

「うーん、むず痒い」

 

 この世界には、『ウマ娘』というどこかの世界の名馬の魂をなぞるような、そんな少女達が自然に生まれる。

 いつからかそうなっていたわけではなく、この世界は最初からそうだった。

 『馬』が存在しないこの世界で、『馬』に比肩する身体能力を持つ彼女らは、現代ではレースという形でその強さ、美しさ、努力の結晶を皆に見せてきた。

 それが、ウマ娘。

 

 馬が存在する世界で、芸術は馬と共に在った。

 しからばウマ娘が存在する世界では、芸術はウマ娘と共に在る。

 石器時代には既に、原始的な岩美術の中にウマ娘の姿はあった……そう、この世界の歴史には記録されている。

 ならば、人類の発展と共に、ウマ娘を描いてきた人々も存在したということになる。

 かつては壁画に。

 今は紙に、あるいは布に。

 走るウマ娘を描き、絵画として残してきた者達が居る。

 

 この少年もまた、その一人。

 

「こっちねこっち。あっちの三角巾みたいな塔が目印で……あ、ごめん」

 

「ああ、すまない。わたしは生来全盲なんだ。そもそも形状を言われても想像も難しいかな」

 

「ええ!? ずっと何も見えたことないの!?」

 

「ははは。使ったことがあるのも点字だけだ。ひらがなも漢字も見たことがないね」

 

「ひええ……大変じゃない……? それでよく画家さんになろうと思えたね……」

 

「絵が好きなんだ。絵なんて一度も見たことはないんだけどね。なぜかずっと好きなんだ」

 

「……すごいや。なんかよくわかんないけど、すごい」

 

「すごくはないよ。劣等なんだ。それは生まれた時からずっと変わってない」

 

 絵を一度も見たことがないのに絵が好きな画家。

 世界を一度も見たことがないのに世界を絵に書こうとする画家。

 画家に一番必要な眼を失っているのに画家でいようとする画家。

 何もかもが少女の知る常識の外側に居る少年だった。

 車輪の無い車のような現状であるのに、その状態で自然体だった。

 

「一番大事な部分が壊れていても、わたしはわたしだ。そう在りたい自分で居続けたいんだ」

 

「……一番大事な部分が、壊れていても……」

 

「きっとずっと絵を書いていたかったんだよ、わたしはね。生まれた時からずっと」

 

 車輪を失っても走り続けようとする車。

 足が壊れても走り続けようとするウマ娘。

 眼が動いていないのに絵を書こうとする画家。

 それらはきっと、同じ線上に存在するものたちだ。

 少年は気付いていなかったが、少女は少年に対して既視感と共感を覚えていた。

 

「そういえば、君の足音は独特だね。こうして手を引かれていると分かってくるな」

 

「実はボクもウマ娘なのでした。じゃじゃーんっ、ふふっ」

 

「おや、そうなのか。では優しさに甘えて練習の時間を奪ってしまったかな。すまない」

 

「んー……今は大丈夫。ボクさ、足の同じところを四回折っちゃっててさ」

 

 少女は今も少し痛む足を、ぽんぽんと叩いた。

 

 彼女は四度足を折り、そこが完全に"癖"になってしまっていた。

 ウマ娘は足で走り、それを生き様とする生き物だ。

 足が折れることが人間以上の致命に成り得る。

 少女は伝説の一歩手前で足を折り、不屈の心で復帰しライバルとの戦いでまた足を折り、三度目の骨折で引退を決意し、けれどファン達の応援で復帰し伝説を残し、そしてまた折った。

 紆余曲折を経て不死鳥の如く蘇り続けたこの少女は、終わりの際の前に居た。

 

「四回はね。流石に多すぎたみたい。今はすごくゆっくりリハビリ中」

 

「それは……心中お察しする。レースを見るのが辛いのであれば、今からでもわたし一人で……」

 

「もー、変な気を使わないでよセンセー。それさえ嫌なら最初から断ってるってば」

 

「いや、それもそうか。すまない」

 

 少年の手を引き、少女は苦笑する。

 

 少年の目が見えていれば、あるいは、その少女の形をした太陽の表情に差す僅かな陰りを見て取ることができただろうか。

 

「永遠に走り続けられるウマ娘は居ない……なんて、分かってるんだけどね」

 

「だれもが不老不死にはなれない。そういうものさ」

 

「次に折ったら日常生活でも歩けなくなるかもってさ。怖いよねえ、本当に」

 

「それは……」

 

 素直に引退を選ぶべきではないか、という言葉を発する前に、少年はその言葉を飲み込んだ。

 

「……いや、好きにするべきだな。きみの好きに、したい通りに」

 

「あれ。なんかこの話すると、もう流石に引退した方がいいって最近は皆言ってたんだけど」

 

「好きなことに打ち込んで人生が台無しになるなら、それはそれでいいと思う」

 

「それは……そう、かもしれないけど……どうなんだろうね。ボクはどうしたいんだろ」

 

「……」

 

「ボクはどうしたいのかな。ごめんね、話題に出しといてなんだけど、よくわかんないや」

 

 少女は少年の手を引いていく。

 生来全盲の、二度と眼を取り戻せない画家。

 多くの伝説と引き換えに、二度とかつての足を取り戻せないウマ娘。

 二人は出会った。

 互いが互いに、目の前にいるその人が永遠に失ったもの、蘇らないものを見つめていた。

 

「わたしがきみに不屈ゆえの破滅を勧めるのは他人だからだ。

 きみの周りの人がそれを止めてるのはきみのことが大好きだからだ。

 引退も間違いではないはずだよ。

 なにかを辞めてなにかと別れても、次の人生でもっと大事なものを見つけられることもある」

 

「うん。分かってる。分かってるんだけど、さ。ボクは……ううん、なんでもないや」

 

 少女は何かを言いかけて、それを飲み込んだ。口にはしなかった。

 

 これは永遠にどこまでもいつまでも、永遠などというものに成れない者達が、永遠を保証されなかったがゆえに何かを失った後に、それでもどこかに在る永遠を見つける出会いの話。

 

「それよりさ、なんで実物のウマ娘を知りたいって思ったの?」

 

「ああ、それはね」

 

 互いの傷を見て見ぬ振りなどできないまま、互いの傷に触れられるほど無神経になれないまま、二人は繋がりを持った。

 

「わたしは『夢』という、わたしの未知の領域に生きる者たちを、知りたいんだ」

 

 ともすれば、その出会いは、始まった時から既に終わり始めていた。

 

 

 

 

 

―――そうして、センセーとボクのおはなしは始まった。

 

 

 

 

 

 



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2 アザレア ■■■■

「盲目で生まれたかった。そしてある日突然目が見えるようになりたかった」

   ―――クロード・モネ


 レース場は新造、廃止、復活、移転を繰り返し、その総数を変えていく。

 ここもまた、近年生まれたものの一つ。

 近年のウマ娘とレースの人気は白熱しており、それを受け、ウマ娘というコンテンツはその界隈を加速度的に膨張させつつあった。

 

 観客席よりなお外側、レース場を一望できる小高い土手で、少年はキャンバスを構えた。

 白地のキャンバスが今か今かと、絵を刻まれる時を待っている。

 少年は組み立て式の椅子を置いて少女を座らせ、自分は立ったまま、手探りで必要な絵の具などを一つ一つ確認していた。

 

「こんなところでいいの? センセー」

 

「みんながいるところだと迷惑になるからね。このくらい遠くても十分さ」

 

「ふーん」

 

 遠くのウマ娘のレースを眺める少女。

 眺められないから、耳を傾ける少年。

 これで何を描くんだろう、と少女が思っていると、少年はポケットから目の細かいヤスリを取り出して、何気なく自分の指を削り始めた。

 ぎょっとした少女は、反射的にその手を掴んで止める。

 

「え、な、なにしてんのぉ!?」

 

「絵を描くんだけども……離してくれないか?」

 

「いや離さないよ!? なんで自分を傷付けてるの!?」

 

「指先の皮膚を削って感覚を鋭敏にしてるんだ。皮膚ってなぜ再生するんだろ、めんどくさい」

 

「ボク皮膚が再生することに文句言ってる人生まれて初めて見たよ」

 

 少女は少年の手を少し見つめ、事情を把握したことで手を離した。

 少年の手はやや荒れている。

 そして荒れているだけでなく、妙につるつるとしていた。

 指紋も見えない、繊細に薄く削られた指先。

 拷問で皮膚を剥がした後の肌のような、指先を鋭敏にする加工。

 この手では杖や手すりも掴みにくく、日常生活も大なり小なり過ごしにくいことだろう。

 少年が杖をしっかりと掴んで保持できず、簡単にどこかに弾き飛ばされてしまった事の理由を、少女は周回遅れに理解した。

 

「その手、痛くないの? 削ったら風が吹くだけでも痛くない?」

 

「痛くなければ見えないからね、わたしは」

 

「……そっか」

 

「したいことをするためさ。壊れた部分は他の部分で補わないと」

 

 『絵は目で描け、観察こそが絵を作る』と言われるように、目が見えない画家というものは、それだけで車輪の無い車に等しい。

 世界で最も有名な画家の一人に数えられるルノワールも、晩年リウマチで筆を持つことすらできなくなったが、筆を手に固定して描き、「絵は手で描くものではなく目で描くものだ」と言っていたという。

 全盲の画家は皆、途方も無いハンデを持っている。

 

 盲目の画家ブランブリットという、全盲の画家として最もよく知られた画家の一人が居る。

 ブランブリットは指先で触れることで、キャンバスの上の絵の具が何色であるかを理解することができるという。

 事実、全盲であるブランブリットの絵画の色彩に乱れはない。

 全盲ゆえの独特な色彩感覚から来る、別の色彩が絵画に表れているだけだ。

 全盲の画家は日本でも何人かが名を知られており、それぞれが独自の技能を持っている。

 

 彼らの多くは、指先を目の代わりとした。

 ある者は指先で触れるだけでその絵の具の色を識別できた。

 ある者は指先で尺を測ることで絵を組み立てた。

 ある者は指先で描く物に触れ、それがどんな形であるかを知った。

 この少年もまた然り。

 

 目の細かいヤスリで指先をじょり、じょり、と削る。

 余計な刺激を与えすぎてはいけない。

 神経の鈍化や余計な皮膚の再生に繋がってしまう。

 血が出るほどに削ってはいけない。

 痛くなるからではない。痛いのはずっとそうだ。

 血が絵に余計な影響を与えてしまわないよう、緻密に指先を削る。

 

 指先の表皮0.7mmを正確に削り、角質層も合わせた1mm弱を削り落とす。

 指先の鋭敏な感覚を"掘り出す"ような彼の作業を、少女はハラハラとした目で見つめていた。

 少年は少女の様子に気付き、冗談めかした口調でヤスリと指先を差し出す。

 

「やってみるかい? ちょっと血が出るくらいの失敗ならわたしもかまわないよ」

 

「い、いいよ! 怖い! じんじょーじゃなく怖い!」

 

「ふふ、冗談だよ」

 

「……もうっ!」

 

 少年は左手の人差し指、中指、薬指に絵の具のチューブから絵の具を乗せ、一度それらの匂いを嗅ぐ。

 そしてそれらをパレットに乗せ、いくつかを混ぜ、少し油を加え、また匂いを嗅いだ。

 その過程を興味深そうに少女が見つめている。

 

「わ、一回手に出すんだ」

 

「いつも出してる色ならチューブを押す力加減で色も分かるんだけどね。

 今日はあまり使わない配合の色だから、出した量を指先で感じておきたいんだ」

 

「匂い……はそんなに違わないように感じるけど……」

 

「色ごとに少し違う匂いを入れてるんだ。

 出した量が多すぎれば匂いが強くなる。

 混ざった匂いの塩梅で出来上がった色が大まかに分かる。

 ほら、気を付けて嗅げば、この三つの色は別々の香りがしているだろう?」

 

「わかんないよ!」

 

「あれ、ウマ娘の嗅覚は人間の1000倍と聞いてたけど……まあ嗅ぎ分けは慣れないと無理か」

 

 苦労してるんだなあ、と少女は思った。

 

 少年が左手の絵の具をウェットティッシュで拭き始めるが、目が見えない状態で手の感覚を頼りに絵の具をゆっくり拭き取っているのを見て、少女はハッとなる。

 

「あ、そこ拭いてあげる! そのくらいなら怖くないしね!」

 

「ありがとう。きみはやはり、やさしい子だね」

 

「えへへ」

 

 少女が小さな手で見える汚れを吹いていく。

 少年の手は、濃い絵の具の香りがした。

 絵の表面をなぞるための掌の内側は磨かれたように――削られたように――つるつるとしていたが、手の甲の側はガサガサで絵の具の染みらしいものも多かった。

 爪は短く切り揃えられていたが、それでも僅かな隙間に絵の具が沈着しており、針で掘り出そうとしても掘り出せなさそうなほど、肌に食い込んでいる。

 少し太めな指は、誰よりも細かく指を使ってきたがゆえに筋肉が発達しているからだろうか。

 

 綺麗な手ではないと、少女は思う。

 目が見えなくても懸命にどこかを目指し続ける、欠陥品の画家に相応しい手であった。

 

「凄いボロボロなんだね。タコも凄いや。なんだかボクの足みたい」

 

「表面を削ってるのもあるけど、薬品や油でも荒れやすいからね。タコは職業病かな」

 

 ありがとう、と綺麗になった手を小さく振って、少年は少女に微笑む。

 声を頼りにして向けた微笑みは、少女の耳の横あたりを通り抜けて行った。

 筆を執り、少年は色を絵に変えていく。

 

「器用に描くねー……本当に見えてないの?」

 

「細かいところは粗だらけだよ。

 わたしの描き方はゴッホよりヴァン・アイクの流れを汲んでいるからね。

 あとですこしずつ修正していくんだ。それでようやくきれいにできるのさ」

 

 少年は速乾性の油に顔料を混ぜ、キャンバスに筆を走らせていく。

 彼に筆は見えない。

 盲目の人間にとって筆とは、自分が見えないところで勝手な動きをする細い暴君、それが数え切れないほど集まった暴れ馬だ。

 筆の端の毛が絵の具を乗せたまま外に数本外れていただけでも、絵には取り返しのつかない瑕疵が付く可能性はある。

 よって、盲目の人間には指だけで絵を描く者も居た。

 それなら全盲でも想定外の一筆が刻まれることは無いからだ。

 

 しかし少年は筆を使い、筆にしかできない表現を、全盲に許された方法で、キャンバスの上に刻んでいく。

 ストロングメディウムやラピッドメディウムなどの早ければ数十分で乾燥する絵の具が、よく乾燥した冬の風によって乾き、少年の指先が絵の具の上をそろりと撫でる。

 "思った通りに描けた"ことを確認した少年の筆がまた動いていく。

 

 ウマ娘が走っている。

 観客席の人々が声を上げる。

 ウマ娘のトレーナーが応援で叫んでいる。

 実況が語り、解説が語る。

 数え切れないほどの音がレース場から溢れ、遠くで筆を握る少年の耳へと届く。

 

 少年は音を頼りに想像でウマ娘のレースを絵に落とし込んでいく。

 少女はもう自分に向けられないかもしれない声に耳を傾けている。

 キャンバスの上に、想像上の景色が形を結んでいく。

 少女は最近色々あって少し落ち込んでいた気分が、その絵を見ていくことで少しずつ上っていく実感があった。

 

「ねえねえ。なんでウマ娘の夢を見に行きたいー、なんて思ったの?」

 

 少年の絵は、キラキラとしていた。

 

 樹は緑ではなく赤。

 それは彼の目が見えないから。

 ルビーのような樹の下で、宝石の輝きを受ける人がいる。

 空は青。自分の目で見たのではない、誰かから貰ったであろう、誰かが善意で「空はこんな色だよ」と彼に贈ってくれた色彩が鮮やかに輝いている。

 現代における"実物のウマ娘"を知らないという彼らしく、ウマ娘が総じて現実離れした獣らしさを過大に備えていて、ウマ娘でもある少女はくすっと笑ってしまった。

 

 現実のそれより獣っぽいウマ娘が総じて力強く、凛々しく、美しく描かれていたので、少女もなんだか悪い気がしない。

 キャンバスに綺麗に落とし込まれたウマ娘達の内の何人か――ナイスネイチャなど――は少女の知り合いであったから、それが自分のことのように嬉しくなってしまう。

 

「真の芸術は、夢を見せてはいけない……そんな風に言われることがある」

 

「え? そうなの? あれ、じゃあセンセーこれ駄目な参考にしてない?」

 

 "夢"を取り込もうとしていることが、彼の言葉からも、彼の絵からも理解できたから、少女は首を傾げた。

 

「うん、まあ、そうなんだけどね。『芸術のための芸術』、って言うんだけど」

 

「んんー?」

 

「"芸術は芸術のためにのみある"。

 "他の何かのためにあってはならない"。

 "芸術は教訓のためにあるのではない"。

 "芸術は道徳のためにあるのではない"。

 "芸術に実利と実用性は必要ない"。

 "芸術は芸術のためにある"……だった、かな。そういう教えがあったんだ」

 

「ほへー」

 

 少女は少年の描き途中の絵を見て、なんとなく彼の絵の性質を理解する。

 彼と彼の絵に、一般的にイメージされる現代アートのような難解さは無い。

 描きかけの絵を見るだけで伝わってくるものがあって、少し話せばそれだけで深奥まで理解できる、そういう分かりやすさがあった。

 

 彼の絵は、ただ絵だった。

 絵以外の何かではなく、何かのための絵ではない。

 そこには絵しかなく、本来絵に落とし込まれる不純物が一切無い。

 純粋で、透明で、透き通っている。

 芸術のための芸術を極めた一枚は、何にも穢されていない形で完成されていた。

 

 この世の幸せなものも不幸なものも、綺麗なものも醜いものも、何もかも、何一つとして見たことがない人間にしか書けない絵。

 

 ぞわりとするくらいに、透明で透き通った印象の絵だった。

 

 どんなに濃い色を使っても、どんなに複雑な絵にしても、どんなにインパクトが強いモチーフであっても、透明にしかならない。

 そう確信させる、非現実的な美しさの宿る絵だった。

 まるで、この少年の内面を映す鏡のような絵だ。

 

 その絵の中で、場違いなほど力強く、ウマ娘達がその中心に立っている。

 

「わたしも永らくそういう考えで描いてたんだけど、少し心境の変化があってね」

 

「へ~。音楽性の違い! ってやつ?」

 

「それは違うかな……ある人はこの考えに対してこう言ったそうだよ。

 『目的の無い芸術を評価できるはずがない』ってね。それもまた正しいんだろう」

 

「目的……ハッ! 分かった! ボク知ってる! バズりたいってやつだ!」

 

「ははは。それもまた正しいものかもしれないな」

 

「ありゃ。じゃあセンセーは違うんだね」

 

「うん。まあ、そうだね。……『人のための芸術』。それは、描いたことがなかったから」

 

 19世紀初頭、真の芸術として、『芸術のための芸術』が提唱された。

 江戸川乱歩の名前の元ネタであるエドガー・アラン・ポーの作品にも登場するくらい、それは世に広く普及した概念だった。

 それに反抗し、トルストイ達が唱えたのが『人生のための芸術』であるとされる。

 

 愛する者に贈る芸術。

 誰かを勇気付けるための芸術。

 子供達を導くための芸術。

 生きているのが嫌になった人を救うための芸術。

 かつてどこかにあった感動を誰かに伝えるための芸術。

 愛する人に贈る絵も、子供達に大事なことを教える漫画も、かつてどこかで誰かを感動させた競馬の一戦をアニメにするのも然り。

 そういったもの全てを包括して、『人生のための芸術』であるという。

 

 この少年は、これまでの人生において、そういったものを、ただの一つも生み出したことがなかった。

 誰かのために絵を創り上げたことがなかった。

 だから、"そういうもの"を生み出すきっかけを求めて、今ここに居る。

 

「芸術の世界は全員に一等賞がある。

 勝負の世界とは違う。

 だれもが違うものを好むからね。

 みんな違ってみんないい、が尊ばれる。

 その代わりにどんな素晴らしい芸術家でも、『頂点』と呼ばれることはないんだ」

 

「全員が一等賞……」

 

「わたしたちは全員が一番になれて、誰もが一番にはなれない」

 

「!」

 

「ゴールはない。一番になって終わりというものはない。だから、描き続けないと」

 

 完璧がない。

 完成がない。

 終着がない。

 頂点がない。

 勝敗がない。

 それが芸術。

 故障や負け続けることでレースを引退するのがウマ娘ならば、自分で自分の創作能力の劣化に耐えられなくなるまで、永遠にレースを引退しないでいられるのが創作者、芸術家である。

 

「センセーのそれ、どこで終わりになるの?」

 

「創作活動というものに終わりはない。多分、飽きるか、折れるか、自殺したら終わりかな」

 

「きょ、極端……」

 

 立ちっぱなしで筆を動かす少年の横で、少女が尻尾をふりふりと振る。

 

「それで何が手に入るのさ。よくわかんないなぁ、げーじゅつ」

 

「欲しいものはあるよ。人によるだろうけど、少なくとも私にはね」

 

「そうなの? なぁに?」

 

「永遠」

 

「……えーえん?」

 

「そう、永遠」

 

 筆は止まらない。

 ビー玉のようだった太陽が、段々と光の塊になっていく過程を。

 筆が振るわれるたび、キャンバスの中に世界が作られていく流れを。

 魔法の杖のように見える筆が、描画という魔法を現に振る舞うのを。

 少女は退屈する様子もなく、ずっとじっと見ていた。

 

「永遠を見つけたい……いや、創りたい。

 永遠を残したい。

 永遠にしたいものを見つけたい。

 永遠に残るものにしたい誰か、なにかを探してる。

 わたしが死んで、"それ"が滅びても、いつまでも残るなにかを……」

 

「ボクにはよく分かんないや」

 

「いいことだ。芸術に傾倒するのは大体変な人だからね。きみは変じゃないってことだ」

 

「そーなんだ……」

 

 彼の絵の中で、ウマ娘達が力強く立っている。

 その目で見ることもなく、実況と解説だけでそれぞれのウマ娘の姿を想像し、絵の中に落とし込まれたウマ娘達は、それぞれが本当の姿からかけ離れたものだった。

 絵と現実で似ているウマ娘は一人もいない。

 荒い気性のウマ娘は過剰に大きくたくましく描かれ、黒い刺客と呼ばれたウマ娘は殺し屋のように恐ろしげに描かれ、王者のように語られるウマ娘は王の如く絢爛に描かれている。

 彼は目が見えないからだ。

 ここに描かれたのは現実を元にした幻想。

 現実を模したものはない。

 

 それでも、絵にされて、誰かがその絵を大切にしたら、『永遠』になるのだろうかと―――少女はふと、美術の教科書という永遠の記録を思い出して、そう思った。

 

「ふう」

 

 少年は筆を置いて、伸びをする。

 ただ背伸びをしているだけの人間を見て"倒れたら大変だ"と思ったのは初めての経験で、少女はちょっと戸惑った。

 少年は手探りで荷物の中から薄いキャンバスを取り出し、先程まで描いていた描きかけの絵とは違う、完成された絵が描かれたそのキャンバスを、少女に手渡した。

 

「今はこんなものしかないけど、これですこしお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」

 

「ええっ!? 貰っていいの!? あ、何か頼まれ事か。何してほしいの?」

 

「またどこかでたまたま会った時は、わたしとお話をしてほしいのさ」

 

「……え、そんなことでいいの?」

 

「わたしが見えていない段差をきみに教えてもらったりするかもしれない。必要なことさ」

 

「そのくらいならいいよ! 目が見えない人が一人で歩いてるの、危なっかしいもんね」

 

「ありがとう」

 

 少年がふわりと微笑み、少女が微笑みを返す。

 少女には見えて、少年には見えない。

 笑顔の交換が成立しない、一方的な笑顔のやり取り。

 少女はいつも笑顔で、少女の笑顔に周りの人は皆自然と笑顔になっていって、この少女の周りでいつも皆が笑っていた。そういう人生を長らくこの少女は生きてきた。

 だからこういう人間は初めてで、少しやり辛さを感じていた。

 

 自分の笑顔を見てもいない者が、ずっと自分に微笑みかけている。

 やり辛くはあったが、同時に心地良くもあった。

 彼の微笑みは自分の笑顔が返ってきたものではない。

 少年の透き通った微笑みが、少女は嫌いではなかった。

 

 少年は遠くのレースを眺め、耳を傾け、その熱気を感じている。

 

 眼が見えていようと見えていなかろうと、目には見えなくて、肌で感じられる熱の渦。

 

「いい場所だ。わたしは初見だけれども、これが夢の熱というものなのかな」

 

「そうだよ。皆の中から出てきて、ここに集まって、ぶわーって爆発してるんだ」

 

 少年は初めて知る熱気に心浮き足立ち、少女はよく知る熱気に心落ち着かせている。

 

 その熱が絵に少しずつ入っていくのを、少年の一番近くで少女が見ている。

 

 ここは新しい"人生のための芸術"が生まれる瞬間を眺められる、とっておきの特等席。

 

「皆、みんな、夢を駆けてるんだ。勝つために。勝利のその先に行くために」

 

 少女が何気なくこぼした言葉が、そこに込められていた複雑な感情が、耳を傾ける少年の心に不思議と引っかかっていた。

 

 

 

 

 



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3 アカシア ■■■■

「もしアンディー・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません」

   ―――アンディ・ウォーホル


 翌日。

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。

 全国最大のウマ娘養成機関であり、指では数え切れないほどのウマ娘が日々を過ごす学舎。

 昼休みの時間帯には、皆が思い思いに誰かと話し、色んな場所を歩き回って、学校のそこかしこが楽しげな空気でにわかに沸き立つ。

 

 昼休みの中庭で、少女は彼から貰った絵を眺めていた。

 彼が彼女の前で描いていた絵ならある程度その"(じつ)"は分かる。

 ウマ娘とレースの絵であるからだ。

 対し、この絵は少年が少女に会う前から完成していた絵であり、少女には理解できない歴史の厚みと、少女には分からない題材が用いられている。

 なのでよくわからない。

 

 だからただ、"綺麗だな"と思って眺めていた。

 

「不思議な絵だなあ」

 

 黒い花と白い花、控えめな色合いの壺だけで構築された絵画が、太陽の光を受けて不思議な光の反射を構築している。

 吸い込まれそうな色合いだった。

 紙の上にあるただの絵だとは思えない、透明感の向こう側に一つの世界があるような、キャンバスの向こうが感じられるような一枚だった。

 

 ほのかにいい香りがして、すんすんと少女の鼻が嗅ぐ。

 香りの名前も、どの色がどの香りをしているのかも分からなかったが、安らぐ香りに少女はふにゃっと表情を和らげた。

 

「花の香りがするや。鼻のいい人ならもしかして匂いだけで絵の形も分かるのかな」

 

 少女が貰い物の絵を眺めていると、それを後ろから覗き込むウマ娘が居た。

 

「絵を眺めていらっしゃるのは珍しいですね~?」

 

「わっ。あ、えっと、スーパークリーク……だったよね?」

 

「はい。こんにちは~」

 

 ふんわりとした笑顔の女性が、"スーパークリーク"と名を呼ばれる。

 

 少女は"少女性"の具現のような可愛らしいウマ娘であったが、スーパークリークは絵に描いたような美女で、可愛らしさより美しさが先行するウマ娘であった。

 少女が持っている貰い物の絵を見て、スーパークリークの眼が細まる。

 スーパークリークは、最初は「絵を見てるなんて珍しい」と言い、「いい絵ですね」と話題を繋いで、絵の話題で『皆の憧れ』であるその少女と話すつもりだった。

 だが、予想を超えた絵の出来を見て、思わず拳で口元を隠し考え込んでしまった。

 スーパークリークの瞳が、少女が持ったままの絵をじっと見つめる。

 

「うわ……これ何……ちょ、ちょっとすみません。

 遠くからも見たいので、持ったままここに立っていてくださいますか~?」

 

「? いいよー」

 

 少女が絵を抱え、スーパークリークが絵を見つめながら遠く離れたり、近付いて凝視したりして『絵に仕込まれた魔法のようなギミック』を吟味する。

 

「……やっぱり。

 かなり遠くから見ると夜空に流れる天の川に見える絵。

 でも少し近付くと川が流れ出る壺が微かに見えるんですよね。

 だから壺から夜景にミルクが流れ出てる絵だったんだ、って思い直すんです。

 でもそれも違う。

 うんと近付いて見ると天の川やミルクに見えたのが花だって気付くんです。

 天の川やミルクに見えたものは密集した白い花だって分かるんです。

 夜空は密集した黒い花だったと分かる。

 星に見えた粒のような粗さは、近付かないとわからないようにした花で……わぁ……」

 

「どうしたの急に」

 

「うわ~、うわ~、これどこのお店か画廊で買われてきたんですか~?」

 

「えっ……知り合いに貰ってきたんだけど……」

 

 思った以上にガツガツした反応に、少女は少し戸惑っていた。

 

 "そんなに大騒ぎするほど凄いかな?"という芸術が分からない少女らしい感想があり、"そうだよね、やっぱこの絵いいよね"という素直な感想があり、その二つの感想が混ざっていた。

 

「……調べてアカウントから辿れるかな。ウマッターとかやってる方ですか~?」

 

「SNSはやってない人だと思うけど」

 

「ええ~? む~、気になります~。

 光の反射具合が凄いんですよね~。

 凸凹と独特のタッチによる色の置き具合~?

 デジタル全盛期の今には見ないタッチですよね~?

 現実に存在する絵を実際に見て初めて伝わる技法……神業……

 印象派の"こぼれた植木"の絵画版アレンジ……? 独自研究の技法……?」

 

「本当にどうしたの急に」

 

「……正直に言ってくれると嬉しいんですけど~、これプロが描いたんですよね~?」

 

「うーん、なんか趣味で書いてたまに売ってるだけみたいな感じだったけど」

 

「神絵師はいつもそうやってマウント取ってくるんですよ」

 

「本当にどうしたの!?」

 

 スーパークリークが普段見ているいいねの数が人権に直結する世界の理。少女が知らない理で動いている世界の常識が、そこにあった。

 絵を見ているスーパークリークの眼がちょっと死んでいる。

 

「大事にした方がいいですよ~。それ、簡単に描けるものじゃないと思うので」

 

「うーん、気軽にくれたんだけどなぁ」

 

 ちょっと死んでいたスーパークリークの瞳に、ほんのり好奇心の光が宿った。

 

「……もしかして、いわゆる『いい人』に貰ったものだったりします?」

 

「いい人? ……ああ、そういうことね。ないない! そういう感じは全然無いよ!」

 

「すっぱり言い切りますね……」

 

 が、少女は照れもせず、赤面もせず、バッサリと否定した。

 それを見て脈がないということを理解して、スーパークリークはちょっとがっかりする。

 この年頃の女子は大人びている子も子供っぽい子も、皆恋バナが好きなのだ。

 スーパークリークの場合、性癖が多少捻じ曲がっていたりするが。

 

「んー。ボクそういう経験無いけど、ああいう男の子はタイプじゃない気がするや」

 

「本当にすっぱり……」

 

「変に触れると溶けて消えちゃいそうな男の子はさ、心配が先に来ちゃうんだよね」

 

 少女は好みだから手を伸ばしたのではない。

 心配だったから手を伸ばしたのだ。

 そのお返しの一つとして、少女はこの絵を受け取った。

 少女はこの絵が好きだったし、この絵を描いたあの少年が嫌いなわけでもなかったが、そこに甘酸っぱい好いた腫れたの感情は無いと思っている。

 

 子供の頃、彼女は『皇帝』という憧れの人を得て、夢を見た。

 "ああなりたい"という夢だ。

 その夢を追いかけて、走って、走って、走ってきた。

 夢破れ、新たな夢を探し、夢が叶わなくなってもなお、走り続けてきた。

 走ることと、走るためにすべきことだけを、ひたむきにずっと積み上げてきた。

 だから彼女はまだ、初恋すらも知らない。

 

 少女の中で、恋すら知らない心が、この気持ちは恋でないと言い切っていた。

 

 

 

 

 

 少女が日課のリハビリを終え、昨日少年と別れた土手に向かうと、遠目に彼の姿が見えた。

 

 どうやらもう描く準備に入っているようだ。

 真剣な雰囲気の彼の背中を見ただけで、少女の歩調が少し浮き足立つ。

 "今日は何を描いてるんだろう"と、少女の心がワクワクする。

 自然と歩む速度が早まり、少女は自分自身でも気付かぬまま、早足で彼の下に向かっていた。

 

「居た居た。……そうだ、こっそり近付いて驚かせてやろ、にししっ」

 

 早まる足を抑えて、くすくすと含み笑いをして、少女は少年の背後に回ろうとする。

 

 が、少女がある程度近付いたところで、少年は振り向きもせず少女に声をかけていた。

 

「やあ、一日ぶりかな、きれいな声のお嬢さん」

 

「足音で分かるの? センセーはすごいねえ」

 

「きみの足音は特徴的で魅力的だよ。きみは自覚がないのかもしれないけどね」

 

「ほほう、ほほう、具体的にどういう感じに!」

 

「音がきれいだ。リズムが楽しげ。響きがかわいいね。ステップに魅力があるのかも」

 

「そっかー、そうなんだー、へへへ」

 

 少年は筆を置き、少女に向き合い微笑みかける。

 気のせいか、この前よりも正確に少女の顔に向けて話しかけることができるようになっている……ように、少女には見えた。

 "自分の足音に聞き惚れている人"というものを少女はこれまで見たことがなかったから、何気ない自分の一部分の美しさを褒められて、不思議な嬉しさを覚えてしまう。

 

「わたしは音で他人を見ているから、楽しげに歩いているきみはとても美人に見えるんだよ」

 

「……えへへ。そう? そっかぁ。ふっふっふ、ま、そういうこともあるかもね!」

 

「あるのさ」

 

「言い切るんだねえ、センセーは」

 

 少女が小気味良いリズムで彼の周りでステップを踏む。

 ウマ娘らしさのある親愛表現だ。

 されどウマ娘らしさより、子供っぽさの方が印象として先行するだろう。

 子供のようなことをしている少女の足音に、自然と少年の表情が柔らかくなっていく。

 

「ボクの歩く音が好きなんて変わり者、この世界に君くらいしか居ないかもね?」

 

「ほかにも居るさ。だってこんなにきれいなんだから」

 

「いーや居ないね! きっと君しか居ない! ぜったいにぜったいそう!」

 

「言いきるなあ、お嬢さん」

 

 少年は今日も目が見えていないのに、創意工夫と異様に偏った五感を使いこなし、今日も絵に色を落としていく。

 昨日のとは打って変わってより大胆に、より大きく動かす画作りをして、今日はすぐに乾かない絵の具を用いて絵を作り込んでいっている。

 

 遠くにはレースの熱気。

 今日もここまで声が響いて来る。

 それを少年は絵に落とし込んでいく。

 クラシックな技法寄りだった昨日の描き方とは違い、少しアラプリマ技法――勢いをつけた一気描きで『その瞬間』に存在する躍動感を絵に閉じ込める技法――に寄っている。

 盲目の彼にはあまり適していないはずだが、彼はまるで見えているかのように描き、普通の目には映らない想像上の景色を描いていく。

 彼は筆の毛が暴れて変な色が着いた部分にも気付いていない。見えていないから。

 けれど後で指先か鼻先でそれに気付き、それを修正していくのだろう。

 どうやら彼も、『昨日まで自分が知らなかったもの』を絵に落とし込むために、様々な技法を試しているようだ。

 

 少女は、魔法のような彼の筆運びが好きだった。

 

 スーパークリークが言っていたような気持ちは無いと思うけれど、そんなものがなくても、心の底から好きだと言えた。

 

「センセーって具体的に何歳くらいから描いてるの?」

 

「いつから……いつからだろう? きみはいつから走ってるんだい?」

 

「いつから……いつからだろ? というか、覚えてないよね?」

 

「まあ、そうだね。気付いたらしてた気がする。絵が好きだからかな」

 

「ボクもボクも! 走るのが好きだったから、多分そうなんだよね!」

 

「二歳で天才画家と呼ばれたローラ・ジェーン。

 三歳で200万で絵が売れたアリータ・アンドレ。

 四歳でピカソの再来と言われたミハイル・アカール。

 天才の中の天才は本当に才能が形になるまでがはやいもんさ」

 

「わっ、ヤバいねそれ。

 あ、でもウマ娘もそのくらいの年齢で才能ある子は分かるらしいね。

 三歳とかですごいこと成し遂げられてるの、生物としてとんでもない気がするけど」

 

「どんな世界でも、二歳三歳で人に認められる生き物はすごいものさ」

 

「だよねー」

 

「ねー」

 

 この色彩が、好きだった。



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4 シロツツジ ■■■■

「もしもあなたが善良な心を持っているなら、それは常にあなたの作品の中に現れるだろう」

   ―――ジャン=バティスト・カミーユ・コロー


 "どうせ遠くから見るのが同じなら色んなところから見てみようよ!"と少女が提案し、快く少年が受けたことで、彼らは土手を歩いた。

 ぐるりと移動して、レースのスタート地点がよく見える場所から、このレース場でもっともウマ娘の競争が白熱する直線がよく見える場所へ。

 初めて歩く場所で彼が転ばないよう、少女はまた少年の手を引いていく。

 肌が異常を起こさないギリギリまで表皮を削った彼の手は、肌が薄い分暖かくて、相変わらず多様な絵の具のいい香りがした。

 

「あ、そこ地面凹んでるよ! 気を付けて気を付けて、全部センセーの敵だからね!」

 

「ありがとう、お嬢さん」

 

「いーっていーって、ボクは大したことしてないからっ」

 

 位置を変えて、気分を変えて、少し違う色の熱気に触れつつ、また筆を走らせる。

 

 あいも変わらず実況と解説を頼りに『現実をなぞる絵』ではない『想像で補完した絵』を描く彼の絵は独特で、愉快だった。

 黄金の船の擬人化のようなウマ娘と、空に浮かぶ青雲(せいうん)の擬人化のようなウマ娘が、キャンバスの中でスタートの瞬間を今か今かと待っている。

 芝生の色合いはまるで花畑のようで、絵の中のウマ娘達が走り出せば、それだけで色彩の暴力が爆発しそうだと思えるほど、ぐっと押し込められたエネルギーが感じられる。

 

 今日描いている絵もまた、現実を基にして創られた幻想そのものだった。

 

「絵だから仕方ないけど、走ってる姿じゃなくて立ってる絵が多いんだね」

 

「ああ、わたしは走ってる人やウマ娘がよく分かってないんだ」

 

「えっ……あっ、そっか」

 

「立ってる人間や彫像ならだいじょうぶなんだ。

 ふれて形を理解すればいいだけだから。

 それをキャンバスの上に落としこめばいい。

 でも、走っている途中の人やウマ娘には、触れられないだろう?」

 

「そっか……大変なんだね……」

 

「目を大事にするんだよ、きれいな声のお嬢さん。

 動いているものを見るというのは、目が見えている者の特権だから」

 

「うん」

 

 今日の彼の筆の動きはかなり速く、とりあえず一段落に入るまでも大分速かった。

 

 冬の乾燥した空気の中、ウマ娘が芝の上を駆け抜ける音が響き渡っている。

 

「お疲れー、センセーの集中力凄いよねえ。他のことが全然目に入ってない感じ」

 

「そうだろうか。描いている時のわたしを他人に見られていたことがあまりないからなぁ」

 

「あ、ねえねえ、お茶水筒に入れてきたんだ! 一緒に飲まない?」

 

「ありがとう。……ほう、暖かい。いい香りだ」

 

「まほーびんだよまほーびん!」

 

 にこにこする少女が小さな紙コップにお茶を入れると、湯気がふわふわと揺蕩う。

 目が見えない彼にとって、いい香りと、コップに触れるだけで分かる暖かさと、口に含むだけで落ち着く味わいは、嗅覚触覚味覚を満たしてくれるものだった。

 実際の暖かさ以上の暖かさ、優しさ、気遣いが感じられる。

 この少女なりに何かしら考えてこうしたのかもしれないし、寒空の下で自分が飲みたいから持ってきただけかもしれない。

 

 少年は今日も背負ってきた大荷物から、一枚の絵を取り出した。

 

「きのう、帰ってからの話なんだがね。わたしの記憶を頼りにきみを描いてみようとしたんだ」

 

「え、ボク? 思い出してから描くとかあるんだ、ほえー、芸術は深いんだねえ」

 

「心にうつった絵を描く段階と、それをきれいにする段階に分けてるのさ。

 それで気付いたんだが、君は昨日と今日、どんな色の服を着てたのかな」

 

「昨日も今日も青だよ青!」

 

「青、ね。好きなのかい?」

 

「まあまあ好きー!

 学校の制服も、最初の勝負服も青っぽかったんだよね。

 海も青だし、空も青だし、なんとなーく思い入れがあるんだ」

 

「……青いウマ娘、か」

 

「どうしたの?」

 

「いや、なんでもないよ」

 

 少年は何かに納得したように頷き、取り出した絵を画架にかける。

 

 取り出した絵には、服の色だけが無かった。

 

 そこに服の青色を落としていくと、絵の中の世界に少女が現れる。

 

 服の色を落とすだけで、まるでその世界に今生まれたかのように現れ出でていた。

 

「どうかな」

 

「……センセーからはボクがこう見えてるんだ」

 

「そうだね」

 

 絵の中にいる少女は、現実の少女とは似ても似つかない。

 少女の声、少女のこれまでの振る舞い、少女の性格、少女がこれまで少年にどう接してきたかを反映した、彼の心の目に映る少女の姿がそこにあった。

 現実の少女より背が高く、やや大人っぽく、背筋がピンと伸びて凛々しくて、ウマ娘からかけ離れた動物っぽさがあって、力強く、勇壮で、美しく、表情はこの上なく優しかった。

 有り体に言って、本物より可愛くなくて、本物よりずっと美人だった。

 

 彼の心の中に居る自分を見て、少女は少し見惚れてしまった。

 広がる草原。

 輝く空にぶら下がる雲。

 その中心に、自分ではない自分が、とても美しく描かれている。

 惹かれる心が何かを言おうとして、少女の語彙力が感情の大きさに全く追いつけず、何も言うことができなかった。

 

「へぇ……そっかぁ……へぇ……ね、ね、これ貰っていい?」

 

「そのために描いたんだ。もうきみのものだよ」

 

「よっし! ふっふっふ、こういうのもなんかいいよねっ」

 

 お茶に手を伸ばそうとした少年の指先が熱いお茶に突っ込みそうになったので、少女がやんわりと掴み止め、その手を紙コップの側面に誘導する。

 少年がお礼を言い、少女が応え、少女は絵の具がまだ乾いていない絵を高揚した様子で何度も何度も眺めていた。

 

「青が一つ目の勝負服に使われていたということは、二つ目の勝負服というのもあるのかな」

 

「そだねー、不死鳥みたいなカラーリングのも持ってるよ。どっちも着てるけど」

 

「……不死鳥?

 ああ。そっか。なるほど。

 青いウマ娘、そして不死鳥。

 おおきいレースなどで着るもの……という認識でいいのだろうか」

 

「うんうん、オッケーオッケー。っていうかやっぱり、青いウマ娘好きなの?」

 

「む……なぜそう思ったのだろうか」

 

「反応が違うもん。普通青よりは不死鳥の方が大きくなるもんじゃない?」

 

「たしかに。いや、わたしが思い入れがあると言うと語弊があるのだが……」

 

「わかった! 青いウマ娘と不死鳥ならウマ娘の方が可愛いからだ!」

 

「はははっ、面白いね。でも確かに、不死鳥と青いウマ娘なら、青いウマ娘の方が好きだよ」

 

 少年は少し考え込んで、小難しい話からできるだけ小難しい要素を取っ払って話すにはどうしたらいいかを考えた。

 この少女と少年が共に過ごした時間は長くない。

 それでも少年が理解できるくらいに、この少女は難しい話が苦手そうだったから。

 

「"人生のための芸術"のお話、おぼえているかな」

 

「センセーが今目指してるやつだっけ? 芸術のための芸術の逆とかいうの」

 

「そうだね。それとある程度関係があるものに、芸術年刊誌『青騎士』というものがあった」

 

「バトル漫画掲載してそう」

 

「ふふふ、してないよ。

 さて、これを創刊した芸術家、『フランツ・マルク』は青が好きだった。

 特に青いウマ娘と黄色い牛が好きだった。

 マルクは動物とウマ娘をこよなく愛した人でね。

 20世紀を代表する動物画家に数えられるんだが……彼の青いウマ娘の絵は、特に評価された」

 

「へー、ウマ娘を描くのが好きな画家さんっているんだ……」

 

「マルク曰く、『青は男性的なヒーローの象徴』。

 古来、青い顔料は貴金属と同価であるほど高かった。

 だから青は男性の貴人の絵にばかり使われていたんだ。

 ゆえにそういうイメージがあった。

 彼は青い衣をウマ娘に着せることで、既成概念を破壊した。

 ウマ娘を力強いヒーローとして色で描く画法を生み出した始祖というわけなんだね」

 

「! 好きになれそう!」

 

「そうか、それはよかった」

 

 少女が興味津々に目をきらきらと輝かせ、少年がゆったりと微笑む。

 

 少年の紙コップのお茶が切れていたので少女が二人分のお茶を入れ、暖かいお茶を一緒に喉に流し込み、「「ふぃー」」と二人の声が重なって、どちらからというわけでもなく、笑い合った。

 

 少年はまた、ゆったりとした口調で話し出す。

 

「マルクはね、世界で一番『青いウマ娘』を描いた人なんだ。

 『小さな青いウマ娘』などが特に有名な作品の一つになるのかな。

 第一次世界大戦の時にマルクは亡くなられてしまったけど、絵は永遠になったのさ」

 

「む、小さ……青いウマ娘の運命なのかな、ボクも……」

 

「?」

 

「あ、ごめんね、なんでもないよ。続き続き!」

 

「そうかい? ならいいか。

 日本ではマルクはあまり評価されていなかった。

 ただ近年は、ウマ娘関連での再評価が進んでいるらしいよ」

 

「へー!」

 

「その過程で知名度が少しずつ上がっていったのが、絵本作家のエリック・カール先生だ」

 

「へ? 絵本作家? なんで?」

 

「時は第二次世界大戦の頃。

 カール先生が子供の頃、彼はドイツでナチスの政権下に居た。

 ナチス・ドイツの手によって芸術は大いに弾圧されていてね。

 カール先生もまた、"色彩の無い子供時代"というものを送っていたんだそうだ」

 

「あ、知ってる! 漫画でやってた! ヒトラーが売れない画家だったから嫉妬がうんぬん!」

 

「……面白い知識の習得の仕方してるなぁ。

 そんな時カール先生が見たのが、先に戦争で亡くなられたマルクの"青いウマ娘"だったんだ」

 

「!」

 

「当時の美術の先生が、カール先生に見せてくれたんだってさ。

 それを見て、カール先生は大いに感動し、絵本作家になった。

 39の言語に翻訳され、5500万部を超える部数を記録した。

 鮮やかな色彩感覚は『魔術師』と評され、世界中の子供達を笑顔にした。

 世界中の子供を笑顔にした絵本には青いウマ娘がいた。

 そして巻末にはマルクの青いウマ娘が掲載された……わたしは見てないけど、そうらしいよ」

 

「わぁ……なんか凄いね! 受け継がれる意思! って感じ!」

 

「うん、そうだね。

 夢というものは受け継がれるもの、らしいからさ。

 マルクの魂は絵を通してカール先生に受け継がれて、子供達の中で永遠になったんだ」

 

「……そっかぁ。うん、分かった。

 センセーが青いウマ娘を特別に思うのもなんか分かる気がするよ」

 

「きみは素直でいいね。だれに学んでもいい教え子になれると思うよ」

 

「えへへ」

 

 少女が照れて、少年が微笑み、少女がちょっとばかり顔を逸らした。

 

「青いウマ娘。

 それは宗教画なら"青ざめたウマ娘"、『終わり』の象徴。

 かつては型に囚われない自由な色彩、『自由』の象徴。

 今は『苦しい時に見えた希望』の象徴としても扱われる。それが青いウマ娘なのさ」

 

「好きなの? 青いウマ娘」

 

「好きかもね。青いウマ娘」

 

「ふーん。センセーの好きなものかぁ」

 

 彼が好きなのはマルクの物語、マルクの絵。

 そしてカールの絵に受け継がれたもの、カールの物語なのだろう。

 青いウマ娘が好きというのはそういうことだ。

 決してこの少女が特別というわけではない。

 制服、私服、勝負服に青が混ざっているこの少女を、『受け継がれた画家の夢の物語』の主役である青いウマ娘と重ねて、彼が感慨を覚えただけ。

 芸術家である彼は、そんなことにも感情を動かす人間だったと言うだけ。

 それだけの話。

 

 それなのに、何故自分がほわほわと嬉しい気持ちになっているのか、少女にはよく分からなかった。自分がよく分からなくなっていた。

 彼が彼女に向けている感情を、少女の本能はおぼろげに感じ取っている。

 

「わたしはきみが見えていない。

 きみが着ている服も、その姿も見えていない。

 きみの姿を見てそれを褒めるというのが、正しく服装を褒めるということなのだろうけど」

 

「できないならしょーがないでしょ? いいっていいって!」

 

 彼は嘘を言わない。そう、少女は確信している。

 

 

 

「きみが青い衣を身に着けていると聞いて、本当に素敵だと思った。そこに嘘はないよ」

 

 

 

 だからこれも本音だと、そう思えた。

 不思議となんだかむずむずとしてしまって、少女は何と言って返せば良いのか分からなくなってしまう。

 画家が見ることで人生を変え、その後の人生を変えたほどの名画の一枚を語るように、目の前の少女のことを語っている。

 少女は彼には見えていないと分かっていたのに、つい反射的に片手で顔を隠して、今の自分の表情が彼に見えないようにしてしまった。

 

「……んっ、そっか、ボクが君にとっての青いウマ娘だと。そういう感じだ!」

 

「まあ、そうだね」

 

「ふっふっふ、お目が高いね。何を隠そうボクは! ボクは……」

 

 心がウキウキと上向いて、少女は彼の素敵な言葉に相応のものを返そうとして、『ボクを見込んだのは正解だぞよ~!』と言うために、現代のウマ娘のことを全然知らない彼に、自分の名前と経歴を熱く語ろうとして―――止まった。

 

 過去の自分のことを言おうとして。

 昔の自分の栄光を語ろうとする自分に気付いて。

 現在の自分のことを言おうとして。

 昔の自分と比べて今の自分がどれだけ"落ちて"いるかに気付いて。

 

 褒め称えられた過去の自分を語るか、引退確実と報道されている今の自分を語るか、転落の過程を話すか、話さないまま都合の良い部分だけを語るか。

 そう思ってしまった瞬間に、彼女は何も言えなくなった。

 

 少女は足を擦る。

 四回折れた足がある。

 全力疾走どころかトレーニングですら折れる可能性があると言われた足がある。

 繊細なリハビリを行わないとリハビリ中に折れると医者に言い切られた足がある。

 

 画家の命が眼なら、ウマ娘の命は足。

 完全に使い物にならない彼の眼と同じくらいとは言えないものの、それに次ぐレベルで、彼女の足も致命的に壊れ果てている。

 三度目に折れた時以上に、どうしようもなく折れている。

 これからの栄光など語れるはずもない。

 彼女が語れるのは、これまでの栄光だけだ。

 

「……」

 

「お嬢さん?」

 

「やっぱ言うのやめた。えへへっ、ごめんね! なんか他の話しよ! えーと、えーとさ」

 

 この少女は意識的に会話を誘導する術には長けていない。

 話を誤魔化すのもヘタクソで、そうしようとすればすぐにバレてしまう。

 ナチュラルに何も考えずに話せばごく自然に楽しい話題をいくらでも出せるが、話したくない話題を避けるために適当な話題を始めようとするとすぐに話題が出てこなくなってしまう。

 明るい振る舞いで誤魔化そうとして言葉に詰まってしまったことで、少女はかえって自分が抱えているものの大きさと重さを知らしめてしまった。

 彼女は、嘘が上手くない。

 

 少女が隠そうとして晒してしまった心の地雷に踏み込まず、しかし見なかったことにもせず、少年は人並み外れた『感覚』によって地雷の種を理解し、優しく迂回した。

 

「過去の話をしても、わたしはきみを見る目を変えないだろう」

 

「……!」

 

「過去のきみがいる。

 今日のきみがいる。

 未来のきみもいるだろう。

 過去も今日も未来も、きみは特別だ。

 特別なきみと出会い、わたしの筆が生み出した特別なものがある」

 

 絵の具が乾く匂いがした。

 花の香が絵から流れて、少女に届く。

 青色の絵の具の香りだった。

 彼が彼女のために配合した、目が見えないままに色と香りを混ぜて塗り上げた、彼女のためだけの青の香り。

 

 初めて出会った時からずっと、彼の絵には、彼女に響く何かがあった。

 その何かが、少女を描いたこの絵においては、何か別の形に変わっていっている。

 

 『芸術のための芸術』ではない、『人生のための芸術』の先にある、『彼女のための芸術』―――その、雛。名画の雛。それが、青を通して顔を出している。

 

「きみといる時にだけ生まれる絵があるんだ。

 それはきっときみが特別だからだ。

 わたしの絵を見ていてほしい。

 きみが特別であるという理由はきっと、わたしの絵のどこかにあるから」

 

「絵なんて見ててもよくわかんないよ、ボクには」

 

「わかるように描くさ。なにせわたしは、目が見えない人にもわかるものを描きたいんだから」

 

 絵が少女の心に響くように、少女の存在もまた、彼の心に響いている。

 

 出会えたことで、二人の間に共鳴するものがあった。

 

 彼には見ることができない、彼女にはもう踏み込むことができない、彼方のレース場に在る夢の熱が、二人を繋いでいる。

 

「センセーは優しいね」

 

「きみが優しいから、そんなきみに優しくしたくなるんだよ」

 

 少年は少女と話し、彼女の暖かな光に触れる感覚が好きだった。

 

 少女は少年の絵を見て、絵の良さなんて全然分からない自分が、その絵をずっと見ていたいと思う今が好きだった。

 

 

 

 

 




 エリック・カール先生は2021年5月23日に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
 アートスタジオなどではエリック・カール先生に敬意を払い、エリック・カール先生の真似をして絵を描く子供達を皆、エリック・カールの弟子と呼んだりしています。
 絵を通して受け継がれる彼らの夢は今形を変え、世界中のどこにでも在ります。


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5 イベリス ■■■■

「他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。そうでなければ、いかに巧みな作品でも決して生命ではない」

   ―――ジャン=フランソワ・ミレー


 盲目の画家が絵を描くことができるメカニズムは、ある程度解明されている。

 

 エスレフ・アーマガンは生まれた時から盲目であったが、彼の描いた絵は世界中の美術館で展示されるほどにまでなった。

 彼の脳を調べたところ、絵を描いている時に脳の視覚野が活性化し、彼の脳は目で対象を見ているのと同様の状態になっていたという。

 彼は他の感覚から得た情報を、脳内で視覚として再構築していたのだ。

 

 ジョナサン・Iはアートディレクターであったが、事故で色覚を失ってしまった。

 世界を白黒(モノクロ)という感覚で見ることすらできなくなり、記憶の中の色までもが失われ、思い出の花畑も色がなくなってしまったという。

 後の研究で、大脳視覚野はV1~V5と言われる段階的視覚野を通り、V1、V2を色彩情報が経由し、V4で処理を行われた後、下側連合野に情報が送られることで人は色彩を理解しているのだ……という研究結果が出された。

 ジョナサン・IはV4を損傷したと見られ、アートディレクターとしては絶望的となった。

 しかし彼は描いた。描き続けた。

 その後彼は、白黒のアーティストとして新地平に到達したという。

 ここから、『絵を描くことに必要な視覚野』というものもある程度推定できるようになった。

 

 歴史や記録に名を残した画家は、飛び抜けた天才ではない。

 諦めなかった者だ。

 天才は創り上げた作品によって名を残し、盲目の画家は不屈ゆえに名を残す。

 

 盲目の画家に何よりも必要なのは才能ではない。

 脳に備わった特異構造でもない。

 意志だ。

 描き続ける意志。

 何も見えない絶対の暗黒の中でも描き続ける意志。

 発狂しそうな虚無の中で無限の失敗作を生み出しながらも、いつか『多少は絵に見えるかもしれないもの』を生み出すため、描き続ける鋼鉄の意志である。

 車輪の無い車で走るに等しい不可能難題に、諦めるまで挑み続ける強い意志は、誰にでもあるものではない。

 

 "誰よりも強い意志で挑み続けなければ欲しい物は得られない"という一点において、ウマ娘と盲目の画家は同じ舞台の上に立っている。

 

 

 

 

 

 夏の雲と冬の雲ってなんでこんなに感じが違うんだろう、と思う少女が空を見上げる。

 センセーの影響で風景をよく見るようになったなあ、と思って少女が苦笑する。

 少年が杖を持つ反対の手を取り、いつものように少女は少年の手を引いていた。

 

「今日は曇ってるねえ。センセー、そこ苔むしてて滑るからボクの手を掴んで」

 

「ありがとう。空はひとの顔と同じで、気分次第でよく変わるものだからね」

 

「空よりボクの方が表情豊かだよ」

 

「そこで張り合おうとする負けん気はすごいな……」

 

「むー。センセーは見えてないからボクのファンを魅了する百面相が分からないんだよぉー」

 

「それはよかった。きみの顔が見えたら魅了されて絵を描くどころじゃなかったかもしれない」

 

「えへへ。って、ボクはこんなんで流されないからねっ!」

 

「どこに流されていくつもりなんだ……」

 

 少年は歩きながら空を仰ぐ。

 空を見て歩いていると転ぶ、といった普通の人間の所作の法則は彼に通用しない。

 見えていないがゆえに、上を見ていても下を見ていても同じだからだ。

 見えない空を見えないままに盲目の視線でなぞり、少年は何気なく問いかける。

 

「お嬢さん、今日の雲はどんな感じかな」

 

「どんな感じ……って普通に曇ってるけど……」

 

「よければきみの眼を少しだけ、わたしに貸してくれないかな」

 

「……あ、なるほどー。コンクリートのわたあめ? みたいな?

 グレー色してて、ふわふわしてそうだけど、中に水が詰まってて重そうな感じだね」

 

 段々とこの少年のことを理解してきたことで、少女は少年の聞いてきたことの意味を理解することができるようになってきていた。

 彼は、彼女の眼、彼女の世界、彼女が感じるものを借りようとしているらしい。

 それを今日ではない日に絵に活用するつもりであるようだ。

 

「そうか。うん。きみの目に映る世界、参考にさせてもらうよ」

 

「役に立てたら嬉しいかなっ。そういえば今日は道具あんまり持ってきてないね?」

 

「ああ、今日は描くつもりはないんだ。レース場に足を運んでみようと思っていてね」

 

「おおー、今日はお絵かきおやすみかぁ、残念」

 

 何気なく"残念"と言った少女は、無意識に自分がそういうことを言ったのを聞き、自分が思っている以上に『自分が彼の絵を楽しみにしていた』ことに気付き、なんだかちょっと変な気分になってしまって、首をぶんぶんと振る。

 少女のよく分からない挙動に、少年は首を傾げていた。

 

「あまり周りの人に気を使わせたくないんだ。わたしを観客席の外縁に連れて行ってほしい」

 

「むぅ、気にし過ぎだと思うけどなあ。一番前行って良いんじゃない?」

 

「できれば人の"楽しい"を邪魔したくないんだ、ごめんね。

 わたしのわがままで頼み事をしているから、きみに余計な手間をかけさせてしまっている」

 

「なんでもかんでも気にするんだからもー。あ、そうだ。いいこと思いついた!」

 

「?」

 

 少女はレース場を管理している人と少し話し、少年の手を引き、観客席とは別の、レースが間近で見られる野球場のベンチのようなところへと連れて行った。

 

「じゃじゃーん! どうだ!」

 

「ここは……」

 

「取材の人用のとこだよ。

 レース場にいくつかあってウマ娘が近くで見れるし撮れるんだ。

 ほら、走ってるとこがこんなに近い!

 今日はそんなに取材の人多くないから一個貸してくれるって言ってくれたよ!」

 

「これはこれで申し訳ないけど……確かに誰にも迷惑をかけないか」

 

「でしょー! いやー、ボクもよく覚えてたなあ。自分でびっくりしちゃった」

 

「ありがとう。きみは物知りだね。尊敬するよ」

 

「えへへー」

 

 照れる少女に微笑みかけ、少年は少女の評価を内心引き上げていた。

 空いているからと言ってこういうところに一般人が入れるというものではない。

 特に仕事でもなんでもない、レースが見たいだけの一般人であるならなおさらだ。

 事前にアポを取っているわけでもなく、今頼んですぐに受け入れられたというのであれば、少年がまだよく知らないこの少女がどういう者であるか、ある程度想像がついてくる。

 

 一番ありそうなのは、名の知られたウマ娘であるという可能性。

 怪我で一時的に身を引いている有名なウマ娘であれば、このレース場の人間も積極的に融通を利かせることもあるだろう。

 本人に聞けば一発で分かるのかもしれないが、それは逆説的に『彼女に今に至るまでのことを聞いてしまう』ことにも繋がりかねないため、彼女を気遣う少年は自分からは聞かない。

 当然、少女も話さない。

 

 きれいな声のお嬢さん、センセー、と呼び合う関係のまま、奇妙な距離感で二人は絆を深めていっている。

 

「と、そうだ。これを渡すの忘れてた」

 

 レース場に人のざわめきが徐々に満ち、気の早いウマ娘が出走準備前に出てきて、ストレッチを始めていた。

 どうやらもう少しでレースが始まるようだ。

 そんな中、少年は少女に青を基調としたスカーフを手渡す。

 

「スカーフ?」

 

「あげるよ。このまえ話をした時から、きみに似合うと思っていたんだ」

 

「! ありがとう、着けてみていい?」

 

「どうぞ」

 

 少女が嬉しそうにスカーフを巻くと、スカーフの黒が深い群青色の目に合い、白が少女の前髪の白と合い、たなびく紫が少女の流れるポニーテールに合い、青が高貴さを備え、少女の全体的なシルエットによくマッチしていた。

 彼には少女の体の色も正確な容姿も見えてはいない。

 マッチする色を視覚に頼って選んだわけではない。

 彼はこれまでの会話と、視覚以外の五感から構築した幻想の視野にて、少女に合う色合いを選択しただけだ。

 目が見えないだけで、彼の中には確固たる色彩がある。

 

「どう? 似合う? ……って、見えてないか。

 ありがとう、ボクによく似合ってるよ! ボクはそう思うねっ!」

 

「ふふふ。きみは、本当に優しいね」

 

「優しいんじゃなくて嬉しいんだよ! それだけ!」

 

 少女が軽やかにステップを踏む。

 巻いたスカーフがふわりと浮く。

 ウマ娘の尾のように、不死鳥がはためかせる翼のように、風になびく稲穂のように、既に彼女の一部になったスカーフが揺らめいていた。

 

「これ『馬と不死鳥』っていうスカーフなんだってさ。わたしも最近知ったんだ」

 

「へー! 青と紫と黒と白がなんかいい感じだね。模様がいっぱいあるや」

 

 エルメスのハイブランド、CHEVAL PHOENIX(馬と不死鳥)。

 少女は見慣れていないためよく分かっていなかったが、オンラインショップで一枚二万円ほどの代物であった。

 青く、馬であり、不死鳥である。

 

「お、レース始まりそうだよ。そこの手すり持ったら足滑らなくて良いとボクは思うな」

 

「ありがとう、お嬢さん」

 

「それにしても……相変わらず熱狂が凄いなあ。あんまり大きなレースでも無いのに……」

 

「『アウラ』の一種かもしれないね」

 

「アウラ……?」

 

「『今、そこに在るもの』さ」

 

 レースが始まり、ウマ娘達が走り出した。

 

 少女は目を、少年は耳を、レースに向ける。

 

「ヴァルター・ベンヤミンは時代の境界に居た。

 写真や複製が芸術をいくらでも増やせる時代に。

 価値有るものがいくらでも増やせる時代に。

 "写真があるからもう絵は要らない"と言われ始めた時代に。

 だから彼は考えた。

 『今、ここに、オリジナルのみに宿る目には見えない価値』があるのだと」

 

「それがアウラ?」

 

「そう。たとえば……そうだね、このレースはテレビをつければ誰でも見れるのだろう?」

 

「ん、そうだね。スマホでも見れるんじゃないかな。ボクもそんなに詳しいわけじゃないけど」

 

「じゃあなんでこんな、数百人どころじゃない人達が観客席に詰めて見に来ているのかな」

 

「それは……あ、そっか。だからアウラなんだ」

 

「そう。『今、そこに在るもの』だ」

 

 テレビで見れる。

 スマホで見れる。

 録画だって見れるし、いつでも記録から見れる。

 それでも皆、今、此処にレースを見に来ている。

 今、此処にしかないものがあることを、皆知っている。

 

 かつてウマ娘は――ここではない世界における『馬』は――『走る芸術品』と呼ばれ、ウマが競い合うレースもまた、芸術品だった。

 時代は流れ、一時は『車』に『走る芸術品』の名前を取られ、その名で呼ばれるのは車ばかりになってしまった。

 しかし復権し、『走る芸術品』はウマ娘と、ウマ娘のレースを指す言葉に戻っている。

 

 芸術であるならば、そこにはアウラが在るのかもしれない。

 

 俗にアウラとは『芸術のための芸術』を否定するものだと、そう語られる。

 

「アウラは今そこにあるオリジナルに宿るもの。

 写真にも画像データにもなくて、本物の絵画にだけあるもの。

 わたしは概要くらいしか知らないけどね、アウラ。

 研究者ほど詳しくもないさ。ただ経験的に感覚的に、そういうものがあることはわかるよ」

 

「今やってるレースとか? ……ボクも感覚的に分かるかな。今、ここにしかないんだよね」

 

「そうだ。わたしは、有名なウマ娘のレースというものを見たことがないけれど」

 

「……」

 

「それを己の目で見に行った人たちが、それを見ておおいに泣いたということは知っている」

 

 少女は知っている。

 記憶の中に今も残るレースで、その時、その場所にしか無かったものを知っている。

 それがその場に居た人達、その時リアルタイムで見ていた人達を、感動と号泣で飲み込んだことを、事実として知っている。

 大昔に名画を見て大泣きした人間達のように、現代でレースという芸術が"それ"を生み出していたことを知っている。

 

 人の人生を変えてしまうほどの感動を生んだレースがあったことを知っている。

 

「だから、アウラはベンヤミンに『共同幻想』とも書かれているんだ」

 

「……共同幻想」

 

「わたしたちはみな違う。

 みな違うものを好きになる。

 違うものを嫌いになって、違うものを見つめていく。

 なのになぜ……わたしたちは時に、同じものを見て、同じ感動を抱くのだろう」

 

「……」

 

「わたしたちは心の目で、そこにどんな形の共同幻想を見ているのだろうね」

 

 レースを見て。

 誰かが勝って。

 誰かが負けて。

 奇跡が在って。

 必然が在って。

 そこに因縁を、願いを、誓いを、夢を、物語を、ドラマを見て、人々は感情移入し、心を動かされている。

 アウラを宿す芸術を、このレース場に見ている。

 

 アウラは現在の研究では、見るものと見られるものの相互作用であるとも解釈される。

 走り、健闘する、見られる者。

 感動する、応援する、見る者。

 走るウマ娘は夢を見せ、夢を見せられた者達は喉が張り裂けんばかりに応援し続ける。

 

 少年は芸術的知見からこのレース場という小さな世界に存在する『相互作用』を見抜き、それを自分が理解できる概念に落とし込んでいた。

 

「あるいはみな、夢を追って走っている誰かを見て、同じ夢を見ているのかな」

 

「ね、センセー」

 

「なにかな」

 

 少年はここに満ちる熱への理解を進めている。

 夢の熱の実像を捉え始めている。

 それが絵に正確に落とし込まれるのも時間の問題だろう。

 彼は皆の夢というものを分かってきている。

 

 なのに、どこか他人事だった。

 理解はあるのに共感がなかった。

 主観がなく、傍観があった。

 夢の熱量を理解し己が内に取り込んでいるのに、彼はずっとどこか冷めたまま。

 

「センセー、今、夢を持ってる?」

 

「ないよ」

 

 前々から少女は"そうなんじゃないか"と思っていて、今、この問いで確信を持つ。

 

 彼は夢を見ていない。

 何にも夢を見ていない。

 他人にも、周囲にも、世界にも、未来にも、ひょっとしたら自分にも夢を見ていない。

 夢を持たず、他者への期待は薄く、日々の中で希望するものが見当たらず、強い願望が無く、生への執着すら薄い。

 

 目を離したら消えてしまいそうで、触れたら溶けて消えてしまいそうで、生み出す絵は生命力さえ感じないほどの透明感を宿している。

 

「夢はどう見ればいいものだったかな。わたしはもう、その方法を思い出せない」

 

「……」

 

「すまないね。優しいきみに気を使わせてしまっている。気にしないでいいんだよ」

 

「気にするよ。だってもうボクら、友達じゃん」

 

「……友達。友達か。ははは。嬉しいな……本当に、嬉しいなぁ。わたしもそう思ってるよ」

 

「うん。だからさ、ボクは友達が元気満々になる方法を勝手に考えちゃうだけなんだよ」

 

「ああ……そうか。きみはやっぱり、まぶしいな」

 

「ほらー、もっと熱くなれー! 元気になるんだよセンセー! 夢見ちゃおうっ!」

 

「はははっ」

 

 生まれた時から動く目が無かった。

 ゆえに目指すものが無かった。

 自分の人生の行き先にいいことがあるだなんて、夢見ていられなかった。

 たった一つの好きになれたことにしがみつき、絵を描き続けた。

 永遠に誰の笑顔も見れないことが確約された人生の暗闇の中でもがき続けた。

 筆を置く諦めか終わらせる死のどちらかだけが、彼に提示されていたゴールだった。

 

 ウマ娘は誰もが本能的にレースと、ゴールと、勝利を目指す。

 皆が皆目指したいと思う勝利の頂があり、勝利を求めて走る。

 そして勝者と敗者が生まれ、勝者は栄光を、敗者は涙を得る。

 夢を叶えるのはほんの一握りの、残酷な世界。

 

 どちらがより地獄であるかは、それこそ個人が決めることだろう。

 人が抱える苦しみに本質的に上下はない。

 その個人が耐えられるか、耐えられないか。それだけだ。

 夢を持つことなどできない体に生まれる地獄か、夢を持って必死に頑張って夢破れた後の人生を生きる地獄か。

 

 地獄の底を知る二人は、誰かを恨む者になることもなく、ただ優しかった。

 

 痛みを知り、絶望を知り、ゆえにずっと他人に優しかった。

 

 だから、話せば話すほど、目の前の少年/少女の幸せを願うようになっていった。

 

 

 

 

 



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6 アカツバキ ■■■■

「退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」

   ―――マリー・ローランサン(絵画『馬になった女』作者)


 中央では行っていない地方のナイター競走などの例外を除けば、レースというものは基本的にリスクの上がる夜間を避け、昼間に行われる。

 よって夜に行われるのはレースではない。

 レースの勝者、入賞者がレースの後に観客と勝利の喜びを分かち合う、勝利記念祭のようなイベント―――『ウイニングライブ』である。

 

 アイドルのライブのように綺羅びやかに、勝者は踊り歌い、敗者は勝者の健闘と栄光を讃え、観客達は勝者にも敗者にも称賛の声を贈る。

 勝利の先。

 輝きの舞台。

 栄光の視覚化。

 "録画をミュートにしても見るだけで心が浮き立つ"と言われる、小さな異世界だ。

 

 人々の歓声と勝ったウマ娘の歌声が響くそこを、盲目の少年が歩いていた。

 夜の世界の、ウイニングライブが行われているステージの端の端、電灯もあまり照らしていないところを、少年は歩いている。

 そこで夜の闇のせいで前が見え難くなっていた人が、少年とぶつかってしまった。

 

「あ、すみません」

 

「いえ、大丈夫です」

 

 互いに頭を下げて、すれ違う。

 

 少年は盲目であるが、その分聴覚が非常に優れていた。

 耳を澄ませば人よりも多くの音を拾うことができ、人よりも細かく音を聞き分けられる。

 足音に気を付けてさえいれば、他人とぶつかることはまずない。

 しかし今の彼は、不慣れなライブの爆音との聞き分けに感覚を最適化できておらず、目と耳を塞がれたがゆえの暗闇の中に居た。

 

 できるだけ他人の邪魔にならないようにうんと壁に近付いて歩き、左手を壁につき、右手で杖を持ち、少し先に何があるかを確認しながら、ゆっくり歩いていく。

 誰かに思い切りぶつかって迷惑をかけないように、相手側が少年を避けられるように、少年の存在に気付かないことがないように、杖で床を叩く音を定期的に鳴らしていく。

 

 何も見えず、何も聞こえない世界の中で、少年は階段を見つける。

 階段の手すりに掴まり、足先の感覚で階段の形を何度も再確認しながら登り、踏み外さないように慎重に上がっていく。

 階段で転んだ時、咄嗟に的確にぶつかりそうな急所を守れるのは、目が見える者の特権だ。

 盲目ゆえの運動不足もあり、彼の体は大して打たれ強くもない。

 階段を登るたび、彼は"転べば死ぬ"と覚悟して足を運んでいる。

 登る時だけでなく降りる時も死の感覚がある階段は、彼の苦手なものの一つだ。

 

 それでも。

 

「夢の舞台、ウマ娘が目指すもの、勝利の熱の渦中……触れてみないと、分からない」

 

 見ないという選択肢は、彼の中には存在しなかった。

 

 段数の分からない初見の階段を苦心して登っていく少年であったが、階段の途中で一息ついたその時、少しふらついてしまう。

 ふらついた時、彼を右側から支えてくれる誰かが現れる。

 そのおかげで、足を滑らせるところまではいかなかった。

 ウイニングライブの爆音のせいか足音に気付いていなかった少年は少し驚き、すぐに感謝し、反射的に頭を下げる。

 手すりを強く握っていた左手の逆側、右手を誰かが握って支えてくれていて、その感触から少年は"気付いて"、感謝の言葉が途中で途切れた。

 

「ああ、ありが……声がきれいなお嬢さん?」

 

「あれっ。びっくりさせようとしたのに。手が触れただけで分かるんだ」

 

「まあ、そのくらいはね」

 

 いつもの彼女だった。

 なぜここにいるのか? と聞くまでもない。

 彼女がウマ娘であるのなら、ライバルの視察、旧友の応援、仲間の同道、ライブの手伝いなど様々な理由が考えられる。ここに居るのは不自然ではない。

 むしろ目も耳も塞がれた少年が無理をしてまで生のライブを見に来ている方が、客観的には不自然であると言えるだろう。

 

 また、いつものように、少女が少年を支え、その手を引いていく。

 

「ウイニングライブでセンセー見るの初めてだね。何回か来てるの?」

 

「いや、今日が初めてさ」

 

「だと思った。うるさいでしょ? センセーの耳が頼りにならないよね、これじゃ」

 

「すまない。ありがとう」

 

 "夜の世界で出会うのは初めてだ"と、どちらからともなく思った。

 

 いつもは太陽が照らす二人を、人工の灯が照らしている。

 

「こんなところじゃセンセーの目だけじゃなく耳も……あれ? 他は大丈夫?」

 

「他の五感は大丈夫だね」

 

「………………そっかぁ」

 

「? ああ、今日はリハビリでよく走ってきたのかな。

 いつもよりずっと汗をかいてるみたいだね。ティーン向けの香水でごまかせてるけど」

 

「うぎゃぁー!!」

 

 同チームの仲間がふざけて少女に吹きかけていった香水のおかげでギリギリセーフ。なのだが、ギリギリアウトに感じてしまうのが乙女心。

 

「ごまかせてるのならいいんじゃないかな。女の子らしい範疇だと思うよ」

 

「いや……このっ……センセーはさぁ!」

 

「ふふふ。ごめんごめん」

 

 少女が手を引き、少年の代わりに観客席を見渡し、よく見える・よく聞こえる場所の中で人が少ない方に二人で移動し、少年の手を手すりに掴まらせる。

 少年が少女に心底感謝した回数が、一つ増えた。

 

 夢の熱を見えない目でぼうっと眺め、整列した爆音が旋律と化す中、少年はウイニングライブと勝者に対し見えない目を傾ける。

 少年の横で、少女は勝者の一人を指さした。

 

「今あそこの真ん中に立ってる子……あの子はさ、初GIレースで初勝利が夢だったんだって」

 

「そっか。夢が叶った、ということなのかな」

 

「うん。ボクも学園でちょっと話したことがあるくらいなんだけど、夢が叶ってよかったなぁ」

 

 小さな夢かもしれない。

 大きな夢ではないかもしれない。

 しかしそこには、確かに叶った夢があった。

 今ステージの上にいるそのウマ娘は、これから先"夢を叶えた後の人生"を生きるのだろう。

 

 少年と少女は、夢が叶った嬉しさに満ちたその空気を、じっと肌身に感じていた。

 その内心は、彼と彼女以外の誰にも分からない。

 

「夢って、再走できないんだよね。ボクはデビューしてからしばらくは知らなかったんだ」

 

「ああ。そういうものだからね」

 

「夢は終わったら終わり。やり直しは利かない。諦めなくても、負けたら終わりなんだ」

 

「お嬢さん……嫌なことを思い出すなら、話さなくてもいいんだよ」

 

「ううん、大丈夫。なんか今日なら、センセー相手なら、気軽に言えそうな気がするんだ」

 

 ライトが勝者のウマ娘を照らしている。

 敗者が悔しさと称賛の入り混じった声を上げ、手持ちのライトを降っている。

 ファンが振る多様な彩りの光が全てを祝福している。

 夢の成就を祝福するような、光の群れ。

 

 空の彼方の星を見上げるように、少女はそれを眺めていた。

 

「ボク、憧れた人が居たんだ。

 無敗の三冠ウマ娘、シンボリルドルフ。

 皇帝って呼ばれた凄い人。

 あの人のレースを見て、あの人みたいになりたくて、ボクは走り出した」

 

「きみの夢か」

 

「うん。叶う直前で駄目になっちゃったんだけどね。その時ボクの足も折れちゃってさ」

 

 『今、此処に在る、目には見えない特別な何か』がアウラであるのなら。

 『かつて、其処に在った、目には見えない特別な何か』はなんと呼ぶのだろうか。

 

 どんな芸術家も、まだ"それ"に名前を付けてはいない。

 "それ"の残骸は、いつまでも心に残り続ける。

 人もウマ娘も、その一生は"そういうもの"との戦いの繰り返しだ。

 

「三冠どころか三回折れて、それで今回四回目。笑っちゃうよね」

 

「笑わない」

 

「……」

 

「頑張ったから辛いんだ。頑張ったから折れたんだ。それはきっと、美しいことなんだよ」

 

「……センセーの言い回しってさ、センセーっぽいよね」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

 少女がくすくすと笑って、少年が暖かな微笑みを返した。

 

「不思議と、"ここまででいいじゃないか"って気持ちもあるんだよね、ボク」

 

「そうなのか」

 

「心に整理をつける大一番のレースはもうやったからね。あそこがボクのゴールだったのかも」

 

「無念や後悔がないならいいことさ。夢やぶれて心の整理をつけられなかった者も歴史に多い」

 

「うん」

 

 栄光の主役は移り変わっていく。

 誰かがデビューし、活躍し、引退し、レースで鎬を削るライバルたちは入れ替わっていき、古い世代は消えていき、新しい世代が次代の主役になっていく。

 誰かが引退するから、新しい誰かが主役になれる。

 過去から未来へ。

 そうして歴史は作り上げられていく。

 芸術の歴史も、ウマ娘の歴史も然りだ。

 少年の芸術のように、連綿と続く"皆が生み出したもの"の繋がりの先に、輝く今がある。

 

 やがて記憶は記録になり、かつて最上の栄光を受けたウマ娘も忘れられていき、過去に成る。

 

「ボクらウマ娘は誰もがいつかは引退するんだ。だって、不老不死じゃないから」

 

「老いからはだれも逃げられない。芸術の世界でいつだって主役だったテーマだね」

 

「うん。ボクも20歳、30歳、ってなっていって、そうなる前にいつか引退するんだ、って……」

 

 少女の足は四度折れている。

 それで諦めず走ったとして、すぐ折れたらどうするのか。

 折れなかったとして、どうするのか。

 折れてもなお諦めず走り続ける道を選んだとして、いつ引退するのか。

 一年後? 十年後? 二十年後?

 諦めなかったとしても、いつか終わりはやってくる。

 諦めずに走り続けただけのウマ娘が、レースの最後に敗北を突きつけられるのと同じように。

 

 いつか来る終わりを前にした時、その者は『諦めない』以外の選択肢を迫られる。

 

「……分かってたのに、分かってなかったのが、昔の夢見てた頃のボク」

 

 少女が珍しく複雑な感情をしっとりと表情に浮かべて、少年がその言葉を聞いている。

 

 "この人が近くに居ると普段言えないことを自然と言ってしまう"と、二人は互いに対して思いつつも、口に出すことは無かった。

 

 とんとん、と少女がおとなしいステップを踏み、少年がその旋律を聴いている。

 

「夢が叶わないと知って初めて、ボクは主人公でもなんでもない奴なんだって気付いたんだ」

 

「……強いな、きみは。それでもお嬢さんは走り続けたんだろう?」

 

「強いのかな。分かんないや。子供の頃に欲しかったものが手に入らなかっただけだもん」

 

 世界に主人公は居ない。

 誰もが勝利と栄光を確約されていない。

 勝者と敗者、成功者に不具者、誰もが上下に自然と分けられる。

 才能、幸運、怪我、努力でどうにもならないものが山のようにある世界を、誰もが懸命に戦い、今を生きている。

 

 そして、誰もが『上』に行く可能性だけは持っているという点においてのみ、全ての者達は平等なのだ。

 願いが叶ったウマ娘も、そうでないウマ娘も、それこそ数え切れないほどいるのだから。

 

「センセーの子供の頃はどんな感じだったの?」

 

「わたしは……わがままな子だったな」

 

「へー! 意外! 物分りいい子で好きな女の子にイタズラする男の子なイメージだったよ!」

 

「こらこらなんだいそのイメージは」

 

「えへへ」

 

 少年が苦笑して、少女がごまかすような笑みを浮かべる。

 二人も気付かぬ内に、少しずつ、二人の間に遠慮は無くなっていっていた。

 何気ない会話を、二人は膨らませていって。

 

「親を困らせてしまう子でね。わたしはあまりいい子にはなれていなかった」

 

「へー。ボクも泥んこになっては親に『女の子らしくなさい!』って怒られたりしたなぁ」

 

「みんなが見てる番組を見たいとか。

 みんなが話してるマンガを見たいとか。

 親にそんなことを言っては困らせて。怒って。親に当たって。本当にひどい子供だったんだ」

 

 一瞬。

 少女は息を呑み、目を見開いて、言葉が止まる。

 彼にとっては、幼少期の思い出の一つに過ぎないのかもしれない。

 彼が親に向ける後悔の一つが、口から滑るように飛び出してきた。

 少女が少しだけ少年の心を開かせて、そこから飛び出してきた、漏れ落ちた心があった。

 

「……センセーのそういう気持ち、普通のことじゃないかな」

 

「できないことを求めるのは我儘なんだよ。

 いつだったかな……

 どうしてこんな風に産んだの、なんて、最悪なことを言ってしまったこともあった」

 

「……」

 

「親を泣かせてしまってね。それからずっと、無い物ねだりはしないよう心がけてるよ」

 

 そして、少女は。

 

「わたしの最初の夢はきっと、きれいなこの世界を、いつか見るというものだったんだ」

 

「―――」

 

「最初の夢を諦めないと、生きていられなかった。

 夢を諦めて初めてわたしは人生を始められた。

 世界を見ることを諦めてようやく、私の心は走り出せた。

 あれがわたしの最初で最後の夢だったのかな、なんて今は思うよ」

 

 

 

 少女は知る。

 

 何故自分が彼を放っておけなかったのか、自分の本能がもうとっくに理解していて、自分の理性がずっと理解していなかった、その理由を知った。

 

 彼の心は夢の残骸を抱えたまま、先の見えない闇の中を走り続けている。

 

 

 

「本当に欲しかったものって、なんでボクらのものにならないんだろうね」

 

「なんでだろうねぇ」

 

「ねー」

 

「お嬢さんも大変だったんだね。よくがんばった。えらいよ」

 

「センセーが言えたことじゃないでしょー」

 

 少女が笑って、少年が笑う。

 笑い合って、少女がうりうりと少年の脇腹を突っついて、少年がその指を優しくのける。

 互いの隣が、心地良い。

 

 傷の舐め合いは無かった。

 現実逃避の後押しもしない。

 少しだけ自分の事を話して、少しだけ自分の事を分かってもらうだけ。

 それで少しだけ仲良くなって、笑い合っているだけ。

 何も変わっていない。

 彼女の足は治っていないし、彼の目も治っていない。

 何かが改善されたわけではない。

 

 けれど、なんでか、一緒に居て話すだけで、自然と楽しい気持ちになって、笑い合えた。

 

 特別な家族でもなく、特別な友でもなく、特別な仲間でもなく、特別なトレーナーとウマ娘でもなく、特別なライバルでもない。

 それは、有史以前からこの地球上に存在していた関係。

 描く人間と描かれるウマ娘。

 見る人間と見られるウマ娘。

 永遠を描き残す人間と、描き残されることで永遠になるウマ娘。

 アウラを絵に写す人間と、その生き様にアウラを宿すウマ娘。

 

 かつて描かれた『青いウマ娘』を生み出した関係性と同じようで、どこかが違う彼らだけの不可思議な関係が、ここで少しずつ育っている。

 

「仲間にはあんま言えないんだけどさ、ボクの本当の夢が叶わなくて、本当に悔しかったんだ」

 

「それが普通さ。何も変なことはないと思うよ」

 

「大事な仲間だから、言えなくて。

 恩人のトレーナーだから、言えなくて。

 いつも対等でいたいライバルだから、言えなくて。

 ……あはは、なんだか面白いね。

 センセーはすっごく特別ってわけじゃないんだけど、なんだかこういうの話しやすいや」

 

「壁に向かって話す時の方が言いやすい愚痴ってのもあるさ」

 

「もー、センセーはすぐ自分を卑下するー。センセーはもっとキラキラしてるの!」

 

 少女が少年に飛びついて、からかうように、戒めるように、少年のほっぺたを手の平でぐりぐりと押して、二人の笑い声が重なった。

 

 "この人相手ならなんだって話せそう"と、二人は互いに対して思っている。

 

「ボクが遊んでたゲームとか、漫画だとさ。

 主人公の夢って叶うんだよね。

 すごい奇跡が起こってちゃんと叶うんだ。

 でも現実は、みーんなすごく頑張ってて、誰の夢が叶うかなんて分からない。

 誰かの夢が叶ったら誰かの夢は破れちゃう。

 ……ボクが主人公だったら夢は叶ってたのかな、なんて思ったりもしたこともあったなあ」

 

 『心地良い優しさをくれて、居心地の悪い気遣いを向けてこない』という確信が、互いへの信頼に類する何かが、二人の間に生まれていた。

 

 『この人は過剰に自分をかわいそうだと扱わないし、自分を気遣いすぎて自分に重荷を背負わせてくることもない』という確信が、気安さに類するものがあった。

 

 『何かを諦めても、諦めなくても、この人は自分を肯定してくれるだろう』という確信が、明確に好感と言える感情が、そこにあった。

 

 だから互いに、なんだって言える気がしていた。

 

「でもさセンセー。叶わなかった夢は、叶わなかった夢なんだよね。きっと一生、ずっとそう」

 

「ああ。そうだね」

 

 それは、叶うまでか、叶わなくなるまでキラキラと輝いていて、叶わなくなった後は永遠にその者にのしかかり続ける、夢の残骸。永遠の重石。

 10年経っても、50年経っても、叶わなかった夢は後悔となって永遠に夢に見る。

 夢の残骸は、夜の夢に食い込み、離れることはない。

 その心の中だけに在る、闇色の永遠だ。

 

「ボクの大切な仲間の一人が言ってたんだよね」

 

 もう二度と無邪気な夢を見られなくなった少年と少女が、夢を叶えたウマ娘を眺めている。

 

 ここはウイニングライブ。彼らが眺める空の星。輝ける夢の結実点。

 

「見ている人に夢を与えられるようなウマ娘こそが、一番のウマ娘なんだって。センセー」

 

 ライブが終わる。

 けれど夢は終わらない。

 夢が叶った後の日々が始まる。

 そして新しい夢が始まるのだ。

 夢見た舞台が、夢を見せ、この先にまた新しい夢が広がっていく。

 輝ける光の絢爛の中で、二人きりで、二人ぼっちで、二人だけの光っていない世界に居るかのような不思議な感覚が、二人を包んでいた。

 

「ね、見えてる? あのステージの上、皆が見てる夢。すっごく熱いのがそこにあるんだよ」

 

 少女が指差す光のステージに、少年の見えない目が向けられる。

 

 夢叶えたものへの嫉妬ではなく、ただただ、それに対して『素晴らしいものだ』と思う気持ちがあった。

 

「素敵な世界だね、ここは。ありがとう、お嬢さん。ここに連れてきてくれて」

 

「いえいえー」

 

 かつて青いウマ娘の装束を纏い人々に夢を見せ、骨折から蘇るにあたり赤き不死鳥のウマ娘の装束を纏い人々に夢を見せた少女は、今はステージに立っていない。

 立てるほどに回復できない。

 もう一度あの場所に立てるかどうかで言えば、絶望的だ。

 かつては息をするように立てたステージが、今の彼女には、あまりにも遠い。

 今の彼女にとっては諦めるべき彼方の栄光の場だ。

 そんな彼女の横で、何となしに少年が口を開く。

 

「マルクは第一次世界大戦でこの世を去った。

 マルクが最後に描いた絵は青いウマ娘ではなかった。

 その話をきみにまだしてなかったね。そういえば」

 

「え、そうなんだ」

 

「マルクの人生最後の絵は、『戦うフォルム』。

 黒々とした禍々しきものに、赤い鳥のようななにかが立ち向かう絵なんだ」

 

「!」

 

「赤き鳥……赤き不死鳥が、黒く禍々しきものに立ち向かう絵が、彼の最後の絵なのさ」

 

 フランツ・マルクは戦争でこの世を去った。

 彼は戦争に召集される前、逃れられない運命の接近を肌身に感じていた。

 彼の最後の一枚は、彼が愛した青いウマ娘の絵ではなく、黒々とした絶望の象徴に、赤き不死鳥が立ち向かう絵であった。

 何度倒れても、何度殺されても、何度でも黒き運命に立ち向かい、勝利する赤き不死鳥。

 抽象的な絵であるそれは、運命にも『絶対に』負けない不死鳥の赤を心に刻み込む。

 

「次にきみを描く時、きみの服は不死鳥の色にしておくよ。

 だってきみはまだ、本当は、諦めてなんていないんだろう?」

 

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 少年は少女の心に踏み込んだ。

 少女の願いをすくい上げて、それを口にした。

 

 "彼女の人生に責任を持てない者の無責任な言葉"か。

 "彼女の人生を心配していると思われるための優しいだけの言葉"か。

 二つを天秤にかけて、内心迷い、前者を選んだ。

 

「間違いなんてない。

 きみの人生はきみだけのものだ。

 きみの願いだけのものだ。

 そこに間違いなんてない。

 夢に殉じて死んでいい、望みに殉じてその先の人生を捨てていい。

 それがきみの願いなら、神さまだってそれを否定することはできない」

 

「……!」

 

「これは出会ってすぐの頃の他人としての言葉じゃない。

 きみをともだちだと思っているひとりの人間の、つまらない一意見だよ」

 

 レースの途中で転倒して死んでも。

 リハビリの途中でまた折れて二度と歩けなくなっても。

 もう二度と小さな夢さえ見れなくなっても。

 自分で選んだならそれでいいじゃないかと、彼は言葉の裏で言う。

 

「取り返しのつかないことになったら、不具コンビでも組んで世界旅行でも行かないかい?」

 

 壊れた画家が、壊れたウマ娘の背中を押している。

 

 "やりきって壊れてもそこで人生は終わりじゃないよ"と、壊れた目で少女に言っている。

 

「……センセー、すごいよ。ボクよりボクのことがよく見えてるみたい。眼、交換しない?」

 

「ふふふ、わたしもだれかの眼が欲しいと思うことはあったけど、きみが困るからだめだ」

 

「じょーだんだよじょーだん! センセーだって眼で苦労して頑張ってるんだもんねっ」

 

 ライブが終わって、光が消えていく。

 光が減っていく。

 輝く舞台がなくなっていく。

 うっすらと暗くなった観客席で、星の光に照らされながら、二人は笑い合っていた。

 

「ボクも頑張らないと。責任があるからじゃなくて、ボクがそうしたいから」

 

「そっか」

 

「リハビリ頑張るね!

 えへへ、前から思ってたんだけどセンセーの絵、月みたい。

 あれ見てると元気が出てくるんだ!

 きれいに光ってて、くらーい夜にいつもあって、迷ったら目印にすればいいやつ!」

 

「きみの心になにかいいものを運べたなら、わたしも絵を描いていた甲斐があったかな」

 

 月の下、星の下、消えゆく光の中。

 

 太陽のような少女と、月のような少年は、互いの行き先を照らし合っていた。

 

 

 

 

 



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7 ナンテン ■■■■

「一般人は芸術家が何年もかけ学んできた事を、1日や1分で理解して学びたいと考えている」

   ―――ポール・ゴーギャン



 学園で学んで、仲間と集まり、トレーニングをして、レースをして、たまに遊ぶ。

 それが"中央"と呼ばれる、エリート達が集まるトレセン学園のウマ娘達の日常である。

 仲間と何気ない雑談を楽しくこなし、仲良くなって、絆を育み、レースのピークに仲間からの声援を受けて限界を超える。

 それもまたウマ娘の奇跡のサイクルの一つである。

 

 日本総大将こと"スペシャルウィーク"は、今日の晩御飯は何か考えながら、チームメイトの元気なマシンガントークに打ち据えられていた。

 

「それでねー、センセーがねー」

 

「なるほどなるほど」

 

「あ、そうそう、センセーはさ、なんかたまにね」

 

「そうなんですね」

 

 会話の途中、何気なく少女の口から"センセー"なる人物の名前が出た。

 スペシャルウィークがその人物について興味津々に聞いた。

 それが不味かった。

 

 出るわ出るわ"センセー"の話題。

 名前も知らない"センセー"の話題のラッシュ。

 次から次へと矢継ぎ早に出て来る"センセー"の話に、日本総大将ウマ娘は完全にノックアウトされていた。

 「そうなんですね」と言いすぎてもう日本そうだね大将である。

 

 しかも、その話題に感覚的なものが多大に含まれていたのだからたまらない。

 スペシャルウィークは知っている。この少女が感覚派のウマ娘であることを。

 その上、その"センセー"という人物がどういう人間か、どういう絵を描いているのか、絵から理解できる人間性がどんなだとか、そういう話は全て感覚的なものであって当然だ。

 芸術家が生み出した感覚で理解する絵を、感覚派のウマ娘が感覚で理解し、感覚派の言語で感覚的に語る。

 

 スペシャルウィークも大概感覚派であったが、このトークには流石についていけない。

 

「だからさー、センセーはさー」

 

「なるほどなるほどそうなんですね」

 

「スペちゃん聞いてる?」

 

「聞いてますよ!」

 

「うんうん、ためになるこーしょーなお話だから、ちゃんと聞いて賢くなるんだよ」

 

「……」

 

 『芸術を理解して賢く高尚な人間になった気分になっている』少女を、スペシャルウィークは冷めきった味噌汁を見る目で見ていた。

 もう話を全部聞き流したくなってきたスペシャルウィークであったが、生来生真面目な性格が災いし、話を聞き流せず真面目に聞くしかなくなっていた。

 今のスペシャルウィークは"アニメ化した○○見てみようかな"と言ったら周りのオタクが敏感に反応し、長文で聞いてないシリーズの解説とオススメを始められた、哀れな一般人の気分である。

 少女は絵もロクに知らないまま、完全にかの少年の限界オタクと化していた。

 

 "絵のこととか全然分かってなさそうなのによくこんな楽しそうに話せるなあ"と、スペシャルウィークは心中無情に思う。

 

 と、同時に、その"センセー"という男性が凄いということだけは、スペシャルウィークは理解していた。

 現代の若者は、現代美術・現代アートというものに多少の蔑視を向けていることが多い。

 ピカソやゴッホの絵を見て『これこんな高く売買する価値ある?』と言う者も多いだろう。

 高尚な芸術というものは、世間のほとんどの人間にとって、理解できないものなのだ。

 なので現代アートなどをバカにする理屈や主張の方が世間に受け入れられやすい。

 

 学の無い人間、正式にアートを学んだことの無い人間に、真に革命的で感動的な絵を見せても、それが難解であれば「ふーん」で終わる。

 前提の知識がなければ理解させることは難しい。

 競馬に全く興味の無い人間に伝説的で感動的なウマのレースの動画を見せても、前提の知識がなければ何も理解できず、「ふーん」で終わるのと同じように。

 真なる芸術とは、今そこにある奇跡の存在と、それを見る人間の中にある前提知識、それらのその瞬間の相互作用――アウラ――によって、生まれる……なんて考えもあるほどだ。

 

 だから、スペシャルウィークは"センセー"が凄いということは分かっていた。

 スペシャルウィークにマシンガントークを食らわせているこの少女が絵を学んだことはない。

 芸術の専門的な知識など皆無だろう。

 その時点で、絵で感動させるということは絶望的な難易度であるはずだ。

 しかし、その"センセー"はやった。

 前提知識など何も無い者を感動させる絵を描き、今も次々と描き上げているという。

 

 "不屈の帝王"と呼ばれ、その美麗な伝説で誰も彼もを魅了した彼女をして、『美しい』と迷いなく言わせる絵を描く人物―――その時点で、スペシャルウィークの中の評価は下がらない。

 

「ま、センセーはもうボク無しでは生きられないと見ていいね!」

 

「あの、テイオーさん」

 

「なあに、スペちゃん」

 

 少女が少年の手を引いて行きたいところに連れて行ってあげた話などを聞き、スペシャルウィークは素直に思い、素直に口にした。

 

「テイオーさんのそれ盲導犬って言うんだと思いますよ」

 

「盲導犬!?」

 

「ほら、目が見えない人の手を引いて誘導して……」

 

「盲導犬だ!」

 

「たまに目が見えない人に懐いて擦り寄って可愛がられて……」

 

「盲導犬だ!」

 

「目が見えない人は杖か盲導犬が居ないと公道を歩いちゃいけないんですよね、法律上」

 

「いやセンセーが杖無しで歩いてた時はボクが支えて……盲導犬だ!」

 

「テイオーさんわんこみたいですもんね」

 

「わんこではないよ!?」

 

「そういえば盲導ウマ娘っていましたよね」

 

「いるの!?」

 

 盲導犬の歴史は長く、一説には古代ローマの時代にはあり、19世紀初頭にクライン神父が訓練をメソッド化したことで確立されたと考えられている。

 人間が生殖サイクルの中で常に一定数の身体障害者を生み出す以上、それを動物に補助させる発想が出てくるのはどの時代でも必然である。

 そして、犬以外にさせるという発想が生まれるのも当然である。

 

 ここではない世界で1998年に生まれた『盲導馬』の概念は、馬の賢さと寿命に期待したものであったが、馬の大きさ・食事量・盲導犬にない危険性などがネックになっており、二十年以上の研究を経ても現実的な障害者救済の手段になったとは言い難い。

 その点で言えば訪問介護員と同等の知性を持つウマ娘は、そういった問題の全てが無い理想的な"よき隣人"である―――と、言えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウマ娘は生半可な車は簡単に追い越せるスピードで走ることができる。

 よって、ウマ娘は機械による乗り物を利用することはない……なんてことにはならなかった。

 疲れない、勝手に走る、便利、かっこいい。

 様々な理由で車を利用するウマ娘は絶えず、ウマ娘の多くは自分の能力と乗り物の能力を組み合わせて、日常生活をほどほどに便利に楽に生きていた。

 ()()()()()()()()()()であれば、なおさらに。

 

「あら」

 

 車窓から外を眺めていたそのウマ娘は、絵を描く少年を目にした。

 遠目に見える少年は目を閉じたまま筆を走らせ、冬の空の下で一人、遠く彼方のレース場の音を聞き取りながらそれを絵に落とし込んでいる。

 いかにも大御所ではないという風体の、しかし様になっている少年の、絵描き姿があった。

 

 少年の絵描きも、その場所で絵を描いている絵描きも、盲目の絵描きも、いや、そもそもレース場周りに来て描いている絵描きというのも、そのウマ娘にとっては初めて見るものだった。

 ウマ娘の名はメジロマックイーン。

 かつてこの国の其処彼処(そこかしこ)を熱狂の渦に巻き込んだ、薄紫のウマ娘。

 

「マックイーンお嬢様、どうかなさいましたか? ……ああ、最近話を聞く画家の方ですね」

 

 運転手の男が、後部座席のマックイーンに声をかけ、彼女が見ていた少年を見る。

 

「目を閉じたまま絵を……目が見えないのかしら。

 弱視の類なら少しは開けるはずですわよね。

 ちょっと車を寄せて。

 ああ、距離は空けて停めるように。

 目が見えない方にとって車の接近は怖いかもしれないもの」

 

「お嬢様、リハビリに向かう途中ですよ」

 

「どうせレースに戻れないことは分かっているのに、リハビリなんて気休めよ」

 

「……」

 

「……そんな顔をしないで。(わたくし)はやりきった。未練はあるけど悔いは無いわ」

 

「承知しています。どうぞごゆっくり。マックイーンお嬢様」

 

「そんなに長くかけるつもりはありませんわ」

 

 松葉杖をつき、マックイーンは固定具で覆われた足を庇うようにして歩く。

 ゆっくり、ゆっくりと彼に近付いていき、彼の筆が止まる。

 どうやら彼もマックイーンの足音に気付いたようだ。

 しかしすぐに筆をまた動かし始め、気付いていないふりでマックイーンの接近を待つ。

 

 それは彼が"足を悪くしたウマ娘"と最近よく一緒に居たことで、その足音の特徴を覚え、他の足を悪くしたウマ娘の足音も認識できるようになったからだろうか。

 足を悪くしたウマ娘というものを、少年はまるで警戒していなかった。

 むしろ、無条件で親しみを持つようになっていた。

 

 上品な声色で、マックイーンは少年に話しかけた。

 

「少し眺めさせていただいてもよろしくて?」

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます。では少しだけ」

 

 マックイーンは彼の横で、彼が描く絵をじっと眺める。

 独特な色彩。

 乱立する塔。

 非現実的で美しいウマ娘のデザイン。

 爆発するようなパワーを込められたタッチ。

 かと思えば、その中心で走る前の構えを取る四人のウマ娘の周囲は、静寂そのもの。

 視線誘導と組み合わされた絵の中のメリハリが、ウマ娘の走る前の静謐、そしてここから走り出した後の躍動を想像させる。

 『異世界のウマ娘の名勝負が始まることを予想させる一枚』……メジロマックイーンは、そんな印象を受けた。

 

 この絵に類似した絵は存在しない。

 世界を見たことがない画家の絵はこの世界において異端の極みである。

 しかし。

 メジロマックイーンは、名家メジロ家の令嬢である。

 彼女は学者の如き知識のタンクではないが、名家に相応しい教養を備えている。

 機械に詳しい者が、任天堂の最新携帯ゲーム機系列に、受け継がれ継承されたほんの僅かなゲームボーイの特徴の痕跡を見出すように、マックイーンはその絵の元にされた絵の存在を嗅ぎ当てていた。

 

 この少年の絵の構図には、確かな血脈が在る。

 指先でなぞり、微かに感じ、頭の中で再構築し、脳内で見てきた想像上の名画が在る。

 目が見えないままに吸収してきた、太古から続く美の継承をしたものが在る。

 

「テオドール・ジェリコーの『エプソムのウマ娘たち』のオマージュとお見受けしますわ」

 

「そうだね。もっとも、ボクはレプリカに触れたことがあるだけで見たこともないけれど」

 

「目の不自由の苦難、お察しします。けれどそのハンデを感じさせない素晴らしさですわね」

 

「ありがとう。そんなに素直に褒めてくれる女の子、わたしの人生では二人目だよ」

 

「そうなのですか? ふふっ、一人目が気になりますわね」

 

 テオドール・ジェリコー。

 人は彼を『生涯をウマに魅せられた画家』と呼ぶ。

 軍事・ウマ娘ジャンルで特に名を知られた一人であったカルル・ヴェルネに弟子入りし、数多くのウマ娘の名画を描いたと伝えられている。

 自信作を酷評されて心折れ、イギリスに逃げ、当時イギリスで最も人気のある題材の一つだったウマ娘に魅了され、彼はウマ娘を描き続けた。

 ジョン・コンスタブルの影響を大きく受けた彼の絵は、見た者が目を離せないほどの質感で、疾走するウマ娘をキャンバスに招いたという。

 最期には熱と愛があるあまり興奮したウマ娘との衝突事故によってこの世を去ったが、その最期まで含めて、少年のお気に入りの画家の一人だった。

 

「こちらは……」

 

 メジロマックイーンは彼が描いている絵だけではなく、彼がいつも背負っている大荷物の中に、絵の具が乗っていない――しかし細かく書き込まれている――絵がいくつもあるのを見た。

 どれもまだ完成に向かっていないが、構図の時点で光るものがあることがひと目で分かる。

 

「ああ、それは下書き。

 ミントの香りのラベルを貼ってるのが元ネタ無しのウマ娘さんの絵。

 グレープの香りのラベルを貼ってあるのがむかしの名画を参考にしたウマ娘さんの絵だね」

 

「下書きでここまで書き込んでいるとは、几帳面な方ですわね」

 

「ははは。部屋はけっこう散らかってることが多いんだけどね」

 

「拝見してみてもよろしくて?」

 

「一枚くらいなら持っていってもいいよ」

 

 執着心のない方ですわね、とマックイーンは思った。

 元ネタがある方の絵に手を伸ばし、マックイーンはそれらの絵を記憶にある元の絵と比べ、異次元の技術継承に内心舌を巻く。

 ウマ娘を書いた画家は歴史上多く、それをモチーフにした絵が多くあるのが見て取れたが、観客と風景をしっかり書き込むマネやドガなどを参考にしたものの画調が特にオリジナルと違う。

 日本のウマ娘レースの音・声・応援を聞き、それを脳内で映像に変換した『幻想の観客』に入れ替えられている。

 現実のレースが、神話の競走に昇華されていた。

 

「これはジョン・コンスタブルの『白いウマ娘』。1821年。

 これはエドガー・ドガの『観覧席前のウマ娘』。1872年。

 これはエドゥアール・マネ『ロンシャンレース場』。1867年。

 ……なるほど、同時代のウマ娘絵を固めて描いているのですね。

 伝統のやり方を無視した、自由な新技法の創出はマネそのもの。

 技術ではなく生き方を模倣した絵画。

 目が見えないからこそ模写ではなく、原型が分かるのに完全な別物になっていますわ」

 

 少年はウマ娘にアスリートのイメージを持っていた。

 つまり、評論家から遠いイメージを持っていた。

 何も知らない子供にも理解できるものが理想の芸術であると思っていた。

 画家が1000考えて描いた絵の内、100伝われば十分であると思っていた。

 しかし、マックイーンは1000考えて描けば900は読み取ってくれている。

 ウマ娘に必要な知識でない以上、これは間違いなく彼女自身の教養だ。

 少年は驚き、分かってもらえたことに、嬉しい気持ちになった。

 

「これは驚いた。今時の子とは思えないくらい詳しいね。いい家族に恵まれたのかな」

 

「? いい家族……ですか?」

 

「知識は才能ではなく教養だからね。

 教養は一生を豊かにする栄養素だ。

 周囲からの目を決定付けるものでもある。

 親が子の幸せを願えば、子には相応の教養が備わるものなんだよ」

 

「あら……素敵なことをおっしゃりますのね。女性を泣かせてそうな口の上手さですわ」

 

「ははは」

 

 目が見えないまま、乾いた絵の具を指でなぞって形を把握し、それに沿って筆を走らせ、自分の頭の中にしか存在しない光景を形にしていく。

 その何気ない所作に込められた神業に、マックイーンは心底感嘆する。

 少年は話しながらも筆を止めてはいなかった。

 

「芸術の教養は1日や1分で理解して学ぶことはできないから、それはきみの財産なのさ」

 

「あら、ゴーギャンですか。先人の絵だけでなく言葉にも学んでいる方なのですね」

 

「……素直に感心しちゃうなあ。きみ、レースが本業なんだろう?」

 

「ええ」

 

「本当に教養がある人にはわたしじゃ専門分野でも敵わないんだなあ」

 

「またまた、ご謙遜を」

 

 くすくすと上品な笑みをこぼすマックイーンに、少年はいつもは別の少女を座らせている折りたたみの椅子を差し出す。

 

「どうぞ」

 

「突然不躾に観客として加わった身ですわ。そこまで恥知らずにはなれません」

 

「足が悪いんじゃないか、きみ。立ちっぱなしはよくないよ」

 

 少女はきょとんとして、今日一番に優しい微笑みを浮かべた。

 足音でマックイーンの足の不調を察した。

 それはマックイーンにも分かる。

 ただ、盲目の人間が何時間も描き続ける絵画の作業中に、名前も知らない赤の他人の足を気遣って椅子を差し出すという行為に、マックイーンは『尊さ』を感じていた。

 

 これは自己犠牲ではない。

 媚びでもなく、軟派なわけでもないだろう。

 きっと彼は足を悪くした人間がそこにいれば誰であってもそうする、そんな人間であるだけ。

 少年の雰囲気は柔らかで優しく、その在り方はどこまでも透明だった。

 

「その気遣いに感謝を。ですがそこまで甘えられません。今日は去ることにしますわ」

 

「そっか」

 

「いつか顕彰で会うかもしれませんが、その時は(わたくし)の仲間をお願いしますね」

 

「顕彰……?」

 

「……と、申し訳ありません。早とちりをしてしまったようですわね」

 

 URA――Uma-musume Racing Associationの略称――こと、『ウマ娘競走協会』が管理する『URA競走博物館』には、多くの絵画が並んでいる。

 それは、『ウマ娘の殿堂』と呼ばれる伝統のためだ。

 URAは毎年報道関係者などによる選定投票を行い、3/4以上の得票を得たウマ娘は殿堂入り扱いとなり、顕彰ウマ娘として絵画やブロンズ像などが博物館に展示されるようになるのである。

 

 昭和59年以降、様々なウマ娘が描かれ、様々な画家がその姿を描いてきた。

 それが並ぶのがURA競走博物館だ。

 シンボリルドルフ、マルゼンスキーなどの名だたるウマ娘の名が並ぶ。

 その絵画の下には8000人以上のウマ娘を描いてきた久保田、シンボリルドルフやオグリキャップを描いた絵で最高峰の評価を受ける中川、日本を代表するサラブレッドアーティストである上鈴木などなど大物の名前が添えられている。

 ただ見るだけなら、馬名と彼らの名前で検索するか、URAの公式サイトから移動すれば見れるというのも見たい人間のことをよく考えていて、上々である。

 

 URAはウマ娘とレースを管理する事実上の最高機関。

 そこに殿堂入りとして選ばれるということは、最高のウマ娘の一人として選ばれるのと同義。

 そのウマ娘を描くことを依頼されたということは、それ相応の画家として選ばれるのと同義。

 絵が飾られ続ける限り、そこで永遠で在り続けるだろう。

 

 そんな話を簡潔に、概要をまとめて、メジロマックイーンは彼に教えた。

 

「……なるほど。いいね、そういうのも」

 

「技量は十分だと思いますわ。不自由な目がどう評価されるかは、ちょっとわかりませんが」

 

「ありがとう。お話のお礼に一枚、好きなの持っていっていいよ」

 

「この程度の話で貰えませんわ……と、言いたいところですけど」

 

 マックイーンは薄紫の髪をかき上げ、絵の一枚を手に取る。

 一番完成度の低い下書きのスケッチ(エスキース)ですら、『現実の光景を見てなぞる』のではなく、『脳内にある世界を浮き上がらせる』ものであったためか、不思議な魅力があった。

 

「描きかけの絵にすら惹かれている(わたくし)が居ることも、また事実ですわ」

 

「絵はまた描けばいいから。

 その代わり、きみに憶えていてもらえたらいいさ。

 絵はきみの思い出の片隅を間借りする家賃の前払いということで、どうかな」

 

「あらあら、(わたくし)の心に住もうだなんて。図々しい画家さんも居たものですわね」

 

 冗談めかした遠回しな言い回しをしても相手は誤解しないだろうという、互いの教養に対する信頼が、初対面の二人の間に気安げに見える空気を構築していた。

 

 マックイーンはあえて気に入った絵は選ばない。

 ここでマックイーンが描きかけの絵を持っていったならそれは完成せず、マックイーンが完成形を見ることはないからだ。

 気に入った絵は完成品を見て、それを褒めちぎりたい。

 そんな気持ちがマックイーンの内にある。

 なのでそこそこの出来のもの、本当に描き始めのもの、明らかに下書きの時点で筆が乗っていないものを選んで選り分け、その中でも『青いウマ娘』として描かれているものは避けた。

 

 真の芸術が"何の説明もなく人の心に響くもの"であると仮定するならば、彼の絵の中で『その特別なウマ娘』が描かれているものだけが、格別に真の芸術に近かった。

 盲目ゆえに見えず、本物から程遠いその絵がどのウマ娘を描いたものであるか、マックイーンには分からない。

 

「これは貰えませんわね」

 

「どれでもいいけど?」

 

「あなたがこのウマ娘を特別に好きであるということだけは、なんとなく分かりますもの」

 

「……まいったな」

 

 少年が髪を掻き、マックイーンはくすりと笑む。

 

 マックイーンには教養に根ざした確かな審美眼があったが、彼女はそれを一番いい絵を選ぶためではなく、一番よくない絵を選ぶのに使った。

 一番よくない絵でも、十分にマックイーンの心に響くものがある。

 マックイーンは十分に満足し、十二分に感謝の気持ちを抱く。

 少年もまた、芸術への確かな理解と控えめで謙虚な振る舞いを併せ持つウマ娘との出会いに、純然たる好印象を抱く。

 

 重ねて礼を言い、マックイーンは去っていった。

 

「……あ。声がきれいなあの子と話す時のくせで、名前聞くの忘れてた」

 

 二人は互いの名も知らないまま、別れる。

 二人の間にほのかな因縁を残して。

 

「おーい、センセー! おーい! わっしょーい!」

 

「おや、お嬢さん。今日は遅かったね。日曜日はいつももうすこしはやく来るのに」

 

「友達がさー、長話しててさー、最後まで長話してたらちょっと遅れちゃった! ごめんね!」

 

「やさしいね、お嬢さん」

 

「ふふん、まあそれほどでもないかな!」

 

 メジロマックイーンが去ってからしばらくして、彼が待っていた少女がやってくる。

 今日の彼女は、彼が贈ったスカーフを腕に巻き、そこそこオシャレにキメていた。

 

 教養はマックイーンが勝る。

 理解度もマックイーンが勝る。

 話が合う度合いもマックイーンが勝る。

 彼が本気で描いた絵を見て、過不足なくその意図を把握するのもマックイーンならできる。

 この少女にはできないだろう。

 それが、一定以上の家格の親が子に与える福音。教養という名の祝福の差である。

 

 だが、彼がマックイーンに向ける微笑みと、彼が太陽の少女に向ける微笑みは違った。

 誰がどう見ても、後者にのみ存在する特別な感情が在った。

 

 画家にとって命より大事なものは、画材である。

 画材よりも大事なものは、ファンである。

 ファンよりも大事なものは、理解者である。

 理解者よりも大事なものは、運命である。

 

 古今東西、芸術家に『最後の壁』を越えさせるのは、『理解者』との出会いではなく、『運命』との出会いである。

 

「センセーは今日は何を描くの?」

 

「海にいこうと思うんだ。海の青に触れてみたい」

 

「海! いいねいいね、ボクもついてくよ。センセー一人だけだと溺れちゃいそうだし」

 

「あのねぇ」

 

「あはははっ、へーいっ、海ー!」

 

 冗談めかした表情で、されど少年は深く感謝する。

 

 少女が思う以上に、少年には臆病なところがある。

 彼は頓着がなく、執着がなく、渇望がない。だがそれだけだ。

 『強く欲しがるもの』がないのに、『鬱陶しく思われたくない』と思っている。

 "海にまで連れ回したら迷惑なんじゃないか"と思えば腰が引けてしまう。

 でも"一緒に海に行ってみたい"とも思ってしまう。

 だからいつものようにここで待って、海に行くことを言って、少女の反応を見ながら言葉を選ぼうとする思春期の姑息が、彼にはあった。

 

 少しのズルをした少年に対し、少女はどこまでも真っ直ぐだった。

 即時少年を心配してついていくことを決めて、少年がそれを申し訳ないと思わないよう、友達同士の気安い会話のノリに持っていく。

 盲目の友人を一人で海に行かせられるほど、彼女は冷たい人間ではない。

 冬空の下、青いジャケットを羽織り、青いウマ娘は今日も笑顔で彼の手を引いていく。

 

 彼の繊細な内心に全く気付かないまま、今日も少女はにかっと笑っていた。

 

 太陽はいつでも太陽なのだ。

 

 

 

 

 




【余談】
 アニメでのドーベル、ライアン、マックイーンの食事シーンで飾られていた山の絵は、関係性では日本有数の活火山である有珠山、形状はその側火山である昭和新山を描いたものであると考えられる。
 メジロ牧場は有珠山近隣に存在していたため、過去二度有珠山の噴火の被害を受けており、一度目は牧場が火山灰に飲み込まれ、二度目もドーベルらが避難を行っている。
 メジロ牧場は初期投資を捨てられなかったこと、移転費用が捻出できなかったことなどから移転を選べなかったが、最終的に馬の成績不振と噴火の影響で競馬界からの撤退を選択した。
 有珠山群は『メジロを殺した山』である。

 火山は多くの画家が描いてきたモチーフであり、雷や嵐にも匹敵する『派手な』題材であり、人目を引きやすいため成功しやすいジャンルでもあった。
 街を飲み込み、世界を揺るがす噴火の恐ろしさ。
 人はそこに、神を見た。
 地球の内側に火が存在し続けるがゆえに、太古の昔から人はそれを書き続けてきたという。

 しかしながら、同時に画家達は、『乗り越える者』を描くためにも火山を描いてきた。
 ピエール・ジャックやルイス・ジーン・デプレ、ウィリアム・ターナーやジョン・マーティンらはヴェスヴィオ山の噴火を描いたが、そのいずれにも噴火に飲み込まれず生きのび、火山を見つめる人間達を書き込んでいた。
 噴火を『恐ろしい』では終わらせない。
 そこに『恐ろしいものにも負けない人間』を描くことで、火山を通して人間を描き、後世にまで残る名画を完成させたのである。

 メジロ家に飾られている山の絵は、噴火の絵ではなく穏やかな平時の山の絵であり、メジロのウマ娘達の出身地の象徴であると同時に、鎮山の意を組み込まれているものであると考えられる。
 怒れる山ではなく鎮まる山の絵を飾ることで、"そうで在れ"と願う芸術だ。
 現実のメジロ家は山の噴火によって消えていってしまったが、ウマ娘世界のメジロ家は山の噴火によって滅びることはなく、その象徴があの絵なのではないだろうか。

 絵に意志はなく、力はなく、その絵に込められた想いがあるのみ。無力である。
 しかしながら、人の想いが奇跡を起こすことはある。
 ウマ娘の想いが奇跡を起こすのと同じように。
 "どうか彼女らが無事であるように"と願った誰かの絵が奇跡を起こしたならば、最大の敵が噴火せずずっと安泰なままのメジロ家というものも、存在し得るのかもしれない。


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8 オドントグロッサム ■■■■

「私の芸術は、自己告白であった。それは、沈没しかけている船の無線技師が打つ、SOS信号のようなものであった」

   ―――エドヴァルド・ムンク


 まずは電車に乗って、海に近い駅へ向かう。

 

「センセー、センセー、駅弁買ってきたよ! 一番美味しそうなやつ!」

 

「ありがとう。はい、これ二人分のお弁当代にして」

 

「ええ、そんなの貰えないよ」

 

「いいんだよ。久しぶりに電車に乗れてワクワクしてるお礼もあるから」

 

「久しぶり? やっぱり一人だと電車って乗りにくいんだ……大変だぁ……」

 

「補助の人が居ると楽なんだけどね。

 あと、ほら、ははは。

 わたしは臆病者でね、あんまりそういう挑戦をしてこなかったんだ。

 慣れてる人は一人でも電車を日常的に使ってるらしいから、本当にすごいよ」

 

「見えないと怖いよね、ボクならとても……あ、盲導犬って電車大丈夫なんだっけ?」

 

「ある程度はね。

 ただわたしはあんまり肌に合わなかったかな。

 おおきい犬を怖がる人や子供はそれなりにいるからね。

 電車にまで連れこんだりすると、周りの人に不快や不安を与えてしまいそうでいやなんだ」

 

「あー」

 

 優しいな、と少女は思った。

 

 同時に、ボクが支えてあげないと、とも思った。

 

「センセーって目が見えてても生き辛そうな人だよね……」

 

「そうかな?」

 

「そうだよ。ウマ娘には絶対に向いてないから、ウマ娘に生まれ変わっちゃ駄目だよ?」

 

「……初めて言われたなあ、そんなこと」

 

「他人の迷惑を考えすぎる人は競走やレースに向いてないの、勝負の世界だもん」

 

「なるほど。お嬢さんの知見に納得するしかないな」

 

「でしょー?」

 

 ガラガラの電車の片隅で、こっそりと二人きりで座り、駅弁を口に運び、楽しげに話して、二人で笑い合う、幸せを含んだ時間が流れていく。

 

 近年、盲導犬などの『人と人でない動物の絆によって身体能力の不足を補う』システムは、悪意によって穴を突かれつつある。

 よく訓練された盲導犬はともかく、普通のペットの犬は暴れたり・人を噛んだりする可能性が無視できないため、カゴの中に入れておかなければ電車に乗せることができない。

 

 しかしカゴの持ち歩きを面倒臭がる人間、ペットを溺愛するあまりルールを無視して放し飼いにする人間、単に誰かに命令されるのが嫌な人間は、それを無視する。

 彼らは偽造の盲導犬表示を飼い犬に付け、平然と盲導犬でない犬を盲導犬に見せかけ、ルールを破る。

 

 2020年にはとうとう、偽造盲導犬によって女性の盗撮を行い動画サイトにアップロードする人間まで現れ、ただ善良であった不具の者達は、回り回ってその迷惑を受け続けている。

 その『悪意』は、誰かに手を引かれないと電車にも乗れない者達のささやかな幸福を、継続的に奪っていっているのだ。

 

 この少年も多くの困難、多くの社会的障害、またどこかの誰かの気軽な『悪意』を数え切れないほど知っている。

 少女を待っている間、推しのウマ娘が大敗してイラついていた不良に杖を蹴り飛ばされ、少女がやってくる前にずっと杖を探していたこともある。

 だが、彼はそういうことを彼女に話すことはほぼない。

 悪意を受けたことを、彼は彼女に愚痴らない。

 "ただ彼女が不快な気分になるだけの話"なら―――『少女の笑う声が好きな少年』が、少女に対してそんな話をするわけがない。

 

 彼は彼女の笑顔は特別好きではない。

 彼女の笑顔を見たことがないから。

 彼は彼女の笑い声が好きだ。

 彼女が笑うだけで、心のどこから幸せになる気がするから。

 

 盲導犬が盲目の手を引くことさえ悪意によって邪魔されつつある時代、その時代の片隅に、ウマ娘が人間の手を引く善意の光景があった。

 

「盲導犬に手を引かれなくても、わたしには誰より頼りになるきみがいるから不自由はないね」

 

「……ボクは盲導犬でもわんこでもないからね!」

 

「? そうだね、きみはかわいい女の子だね」

 

「んもーセンセーはもーいっつもそんなこと言ってーえへへへ」

 

 少女は話の流れで、スペシャルウィークとしていた話を出す。

 

「でさー、ボクをわんこ扱いするんだよ。スペちゃんの方がずっとわんこじゃないか!」

 

「犬がいやならなにならいいんだい?」

 

「ゴジラ!」

 

「かわいさとかじゃなく強さだけで選んだよねそれ」

 

「やっぱウマ娘なら最強であってこそでしょ! 無敵無敗、最強!」

 

 少女は犬っころ扱いされたことにちょっと納得がいかないようだ。

 

 少年は微笑み、ペットボトルのお茶で喉を潤している。

 

「でも、お嬢さんなら犬より猫だろうね」

 

「猫~? なんで~?」

 

「気まぐれ。

 自由。

 少し生意気なこともするね。

 それと気位が高いところもある。

 勝負事になると負けん気が良い方向に作用するタイプだ」

 

「へー……あー、うん、そうかも」

 

「きみが犬に感じられるのは……

 一途だから。

 まっすぐだから。

 『好き』を曲げないから。

 きみのそういうところをちゃんと見てくれている人は犬に見えるんだと思う」

 

「ああ……そっか、そういう感じなんだ」

 

 人を好きになることで人に愛されるのが犬なら、人から好かれることで人に愛されるのが猫である。きっと彼女は、その両方の気質を持っている。

 

「きみに好かれた人は安心するだろうね。

 きみは犬みたいなところがあるから。

 きみの忠実と言えるほどの好意を疑う人はいないだろう。

 きみを好きになった人は大変だろうね。

 きみは猫みたいなところがあるから。

 きみは自分が好きになったものしか追いかけないから、自由なきみを追いかけるのは大変だ」

 

 詩人が詠うようなリズムで、彼は言う。

 

 この少女を愛するようになるのは簡単で、この少女に愛されるようになるのは難しい。

 この少女を好きになって追いかけるのは大変で、この少女に好かれてから追われるのは楽だ。

 彼女の『好き』は誰よりも自由で、誰よりも揺らがない。

 少年は彼女をそういう者だと解釈している。

 その性情は、少女の可愛げと、王の身勝手な自由が、完全に同一になっているがゆえのもの。

 

「センセー、それ褒めてる? からかってる?」

 

「さあ、どっちだろう」

 

 少女は気安い口調で問いかけたが、本当は彼が涼やかに褒めの言葉を並べていることなど、聞くまでもなく分かっていた。

 

「センセー! センセーは犬派か猫派ですか! 答えやいかに!」

 

「どうしたんだい急に」

 

「やー、ボクもセンセーには感謝してるんだよね。今は友達だしさ」

 

「ん」

 

「センセーの好きな方にちょっと寄せてあげようかなー、なんて」

 

「そういうこと、お嬢さんはよくするのかい?」

 

「んー。したことないなあ。いつもボクはボクだし。でもま、センセーが好きならいいかなって」

 

 少女はからかいの表情で口元に手を添え、にししと笑っている。

 

 天衣無縫。他人の言うことに対して従順なわけでもなく、かといって他人の言うことに反抗しがちな反抗期でもない。

 自由に素直で、自由に決める。

 そんな彼女が、彼の見えない目にはとても魅力的に見えていた。

 

「ピカソという人を知ってるかな」

 

「あ、知ってる知ってる! なんかヘタクソな絵を上手いって言わせるプロな人だ!」

 

「……」

 

「ピカソがどうかしたの?」

 

「あ、ああ。彼が言った言葉で有名なものがあってね」

 

「へー?」

 

「『結局の所、画家とは何だろうか。

  それは、人が好きなものを自ら描くことによって手に入れるコレクターだと思う』」

 

「……?」

 

 少女は、首を傾げて。

 

「わたしが欲しいのはきみだけど、それは普段の魅力的なきみだから、変えられたら困る」

 

「……!」

 

「ありのままのきみが一番きれいだと思うよ、わたしはね。きれいな心のお嬢さん」

 

 その言葉の引用の意味を理解して、少女の顔にさっと赤みが差した。

 

「……うぇ、そ、そーだよねー! ま、ボクは今のままでも無敵の帝王様って感じだよね!」

 

「そういう感じかは知らないけど、やっぱりきみが一番きれいだ」

 

「そ……そっかぁ!」

 

 少女は束ねて流しているポニーテールを顔に巻き、熱がこもった顔を隠す。

 彼に見えてはいないのに。

 見えていないと分かっていても隠してしまう。

 互いへの理解が進めば進むほど、少女は少年に何もかも見透かされている気になって、同時に少年の一番深いところが自分には見えていないような気がしてくる。

 

 この世の『美しいもの』を一つも見たことがなくて、少女よりもずっと多くの『美しいもの』を知っている不思議な彼が、『君が一番だ』と言ってくる。

 それが本当にむず痒くて、恥ずかしくて、嬉しくて、ふわふわとした気持ちになって、髪を盾のようにして顔に巻きつけて、変な声で唸る。

 

「犬派か猫派か気軽に聞いたくらいだったのに……うぅ」

 

「ははは。犬は人と共に歩き、猫は人の膝の上に座るイメージが有るね」

 

「そうだね、ボクもそういうイメージ……あっ、そうだ。いやでも……」

 

「?」

 

「ま、いいや。センセーが悪いよねっ」

 

 少女はぺちぺちと頬を叩いて冷まし、何気なく、自然な動きで、彼の膝の上に座った。

 

 少年の頬味が強張る。

 少女を乗せた体が固まる。

 電車が揺れている。

 がたんがたんと、電車の足音だけが響く。

 次の駅はまだ遠く、アナウンスの声すらもない。

 まるで、二人だけの世界がそこに出来たかのようで。

 

 静寂の数秒の間、少年は動けず何も言えず、少女もまた緊張が顔に出ていたが、目が見えない彼には少女の緊張が見えていない。

 

「え、ちょっと、お嬢さん」

 

「猫は膝の上に乗るんでしょ? セーフセーフ」

 

「きみは猫ではないよね。さ、はやく降りて……」

 

「ね、ドキドキする?」

 

「……あまりからかわないでほしいな」

 

「ね! ドキドキした!? ドキドキしたらボクの勝ちね!」

 

「あのね」

 

「……やっぱボクみたいな子供っぽいウマ娘だと、あんまドキドキしないかな」

 

 誤魔化すような笑いに混ざった少女の言葉を聞き、少年はハッとした。

 

 互いに冷静さを失っている。

 どちらも勢い任せに話していた。

 しかし嘘はない。

 虚勢も既に剥がされている。

 今口から漏れる言葉は本音となるだろう。

 二人は互いが互いに何を考えているか、その心奥の感情に理解が及ばないまま、互いが口に出した言葉を信じるという不文律の上で踊る。

 

 "ボクがもうちょっと大人っぽかったらなあ"という、少女の想いがあって。

 その明るさと混ざった自嘲を否定し、"そんなことはない"と伝えたい少年の想いがあった。

 

「……ドキドキしたよ。きみは魅力的な女の子だから」

 

「! そっかー、そっかー! ボクもけっこうましょーの女だよね!」

 

「まったく」

 

 恥ずかしそうな表情を腕で隠して、少女が降りる。少女が笑って、少年が笑う。

 

 少年が少女に対して引いていた一線があった。

 少年はそれを巧みに隠していたが、それは距離感あってのもの。

 少女に惹かれれば惹かれるほどに、彼の距離感は狂っていく。

 相互理解が進めば進むほど、彼の隠し事に彼女は気付くようになり、彼が彼女に対し引いている一線にも勘付くようになっていくだろう。

 

 その一線を、()()()()()()()―――そんな、実感が彼にはあった。

 彼女がその一線を跳び越えてきて、彼の手を取り、飛び越えさせてきた。

 飛び越えさせない一線を引く少年と、跳び越える少女。

 引いた一線が消えていく。

 

 少女はドキドキさせたら自分の勝ち、なんて甘酸っぱさの混じった負けず嫌いで言うけども。

 少年は初めて出会った時からずっと、この少女に勝てると思えたことがない。

 

「センセーが悪い、センセーが悪い、センセーが悪い! 自分を省みてよね!」

 

「はいはい、わたしがわるい」

 

「返事がぞんざいー!」

 

「駅弁のデザートはきみにあげるから、ゆるしてくれないかな?」

 

「! センセー、かっこいー! イケメンムーブだよ、高得点だよっ!」

 

「ははは」

 

 少女が電車の窓を少しだけ空け、冬の風が入ってくる。

 

 熱を持った二人の頬が、風に当たって冷めていった。

 

 

 

 

 



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9 ヒヤシンス ■■■■

「人は自分にないもの、むしろ反対のものに惹かれるんだ」

   ―――岡本太郎


 少女に手を引かれ、少年は駅の売店で益体もなく楽しい時間を過ごす。

 点字による解説の類がなくても、楽しそうな少女の声を聞いているだけで楽しかった。

 

「見て見てセンセー! 海が近いからかアロハシャツ売ってる! 冬なのに!」

 

「おや。どんな柄かな」

 

「赤っぽい花と青っぽい花の二色があるね。

 花がぎゅーって詰まって、後ろに海があるや。

 アロハシャツを生み出したハワイらへんの人は芸術家の才能あったんだろうなぁ」

 

「アロハシャツは和服だよ」

 

「あはははっ! 面白冗談だ! またまたー……冗談だよね? 嘘だよね?」

 

「わたしは聞いたことがあるだけなんだけど、"ググる"って方法があるらしくて……」

 

「あー。スマホって検索結果点字で出してくれないもんね。ちょっと待って」

 

 少女がスマホで検索して、びっくりする。

 

「……ホントだ!

 和服を日本移民が仕立て直した説……

 日本の着物に惚れ込んだ現地人のために着物をシャツにした説……

 なんてことだ……あんな浮かれポンチなハワイアンが和服だっていうの……!?」

 

「『海を渡り生まれた芸術』のひとつだとわたしは思うよ」

 

「あろーは?」

 

「あろーはだね」

 

「記念に買っちゃう? 買っちゃおっか? 買おうよセンセー!」

 

「買っちゃおうか、ふふふ」

 

「こういうのは一生着なくてもいいよね、センセー」

 

「夏くらいは着てあげなよ、お嬢さん」

 

 アロハ・アートは現代でも人気のあるジャンルだが、この少年にはあいにく縁がない。

 

 完全に旅行のお土産のノリで適当なものを買って、二人はまた歩き出した。

 

「こっちにバス停があるから、誘導をおねがいできるかな。お嬢さん」

 

「あれ? なんで知ってるの?」

 

「このあたりは昔住んでいたことがあるから。むかし、むかし、って頭に付くけどね」

 

「そーなんだ。そういえばセンセーって今はどこに住んでるの?」

 

「普通の家かな。あのレース場に歩いていける範囲にあるよ」

 

「家族も一緒? それともヘルパーさんがセンセー助けてくれてるの?」

 

「普通の家族と一緒に暮らしてるよ。面白いことは何もないから話せることもないかな」

 

「ふーん。ね、ね、遊びに行ってもいい?」

 

「最近ちょっと改装中だから、それが終わってからね」

 

「やたっ」

 

 センセーが身の上を話してくれるの珍しいなあ、と、少女は思う。

 彼が引いていた一線を彼女が除けた、その影響だろう。

 

 と、同時に。

 彼が踏み込ませていなかった領域に彼女が踏み込んだことで、違和感は強まっていた。

 理性的な言葉の分析ではなく、直感的な嗅覚で、少女はそこに何かを感じ取る。

 "極めて優れた直感"は、歴史に名を残すウマ娘が総じて大なり小なり持つ特性だ。

 だから、気付く。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と―――少女は薄々気付いていた。

 

 嘘が上手い、と表現すればおそらく半分は合っている。

 他人を騙すのが得意、と表現すればおそらく大間違いになる。

 何か、それが何かは不明だが、本当のことを言わないために、彼は言葉を選んでいる。

 彼は正直者ではなく、"嘘をつきそうにない人"という印象を周りに与える振る舞いが板についている人なのだと、少女は気付き始めていた。

 

 本質的なところで、彼の発言の真偽が分からない。

 それを聞くべきか聞かざるべきか、少女は迷っている。

 『誰にも触れられたくないことがある』ということを、彼女はよく知っていた。

 

「この時間帯だとバス全然無いみたいだよ、センセー」

 

「そうなのか。また運行変わったのかな。どうしたものか……」

 

「あ、じゃあボクがセンセー背負って海まで走るよ! それで解決!」

 

「は?」

 

 思わず、取り繕いのない素の声が出て、少年は露骨にびっくりしていた。

 

「いやいやいや。わたし40kgはあるよ? 荷物も重いし、足に悪いんじゃないかな」

 

「うわっセンセー軽っ……そのくらいならへーきだよ?

 ボク入学してすぐくらいで200kg持ち上げて鍛えてたし。

 力のあるウマ娘は車くらい持ち上げてるし。

 センセーと荷物背負うくらいなら、全力で走らない限り壊れないでしょ」

 

「すごいなあ、ウマ娘……」

 

「ふっふっふ、センセーと腕相撲したらボクが勝っちゃうくらい強いんだからね!」

 

「おや怖い。不良に絡まれた時は守ってもらって、お礼にごはんをおごらないといけないかも」

 

「まっかせてっ! どんな敵からでもセンセーを守ってみせるからね!」

 

「ふふふ」

 

「センセーは安心して健やかに幸せな毎日を過ごすといいぞよ~!」

 

「ぞよ~」

 

「ぞよ~。さ、ボクの背中に乗って」

 

 少年は少女の背に乗り、その背中の小ささにはっとなる。

 

 彼にとって彼女は太陽だった。

 とても大きくて、とても綺麗で、とても力強い太陽だった。

 電車で彼女が膝に乗っていた時は冷静さを失っていたため気付かなかったが、彼が思っているよりもずっと、彼女は小さかった。

 小さな体で、頑張っていた。

 

「……こんなに小さかったんだ、お嬢さん」

 

「センセーの絵の中のボク、綺麗な大人の女性って感じで好きだったよ」

 

「そっか。あんなに頼りになるのに、こんなに小さかったんだな……」

 

「小さい小さい言い過ぎ! もー! 背だってちょっとは伸びてるんだからね!」

 

「ごめん、ごめん。かわいらしくていいと思うよ」

 

「……もー!」

 

 そして同時に少女も、少年が服で何気なく隠していた体付きに気付いていた。

 触れた体が細い。薄い。骨ばっている。

 駅弁を食べていた時も、デザートを少女に譲った上で残していた。

 おそらく食自体が細いのだ。

 肉の感触が薄く、骨の感触が強い。

 至近距離で見れば肌の状態も悪く、肌色も悪かった。

 体が弱いのかもしれない。あるいは、盲目であるから運動不足で、その影響が体に出ているのかもしれない。

 インドアな生業を選んでいる人間だから、などという理屈で到底納得できない体だった。

 

 少女はガラスの宝物を背負うような気持ちで、大事に、繊細に、しっかりと背負う。

 

 予想以上に小さな女の子だったウマ娘と、予想以上に細い男の子だった人間が、駅から海に向かって飛び出した。

 

 彼が贈り、少女が腕に巻いたスカーフが、少女にしがみつく少年の手にひっそり触れる。

 

「わっ、わっ、速いね、お嬢さん。人を乗せてこんなに速く走れるんだ」

 

「へへっ、もうちょっと速くできるよ、それーっ!」

 

「わーっ!?」

 

 川が流れている。

 電車が橋を使って渡っている、大きな川だ。

 大きな川は海へ向かって流れていく。

 川沿いに立ち並ぶ木々の葉や枝が、陽光を反射しきらきらと輝く川の上を、ゆったりと流れていくのが見えた。

 

「センセー、川がきらきら光ってるけど、ああいうのも絵に書くの?」

 

「川は生と死の境界線だから、人気のモチーフだよ。何回か描いたことはあるね」

 

「ほっほー、今度見せて……あ、川が海に合流してるところが見えた! もうちょっとだね!」

 

「無理せずにね。きみの足が、いや、きみがいちばん大事だから。壊れたら大変だ」

 

 少しだけ、少女の頬が熱くなった。

 

「……あ、あははは! そ、そだね! そういえばさ、センセーは知ってる?」

 

「なにをだい?」

 

「ウマ娘が走るところには、芝とか砂とかあるんだ!

 ターフとダート。

 あとウッドチップとかオールウェザーとか。

 それでね、ダートの砂は川の砂を使ってるのが一番多いんだって。次が海の砂」

 

「へえ……お嬢さんはもの知りだね。さすがウマ娘さんだ」

 

「えへへ」

 

 今、おそらくこの少年が世界で一番に、笑っているこの少女を美しいと想っている。

 そんな彼にも、少女が今浮かべている笑顔の眩しさは見えていない。

 川は陽光を照り返し、眩しい光が少女の横顔を照らし、けれど川の反射光にも負けないほど眩しく、とても楽しそうに、少女は笑っていた。

 背中に感じる暖かさが、浮き立つ気持ちを感じさせていた。

 

「川砂海砂は私も昔使っていた覚えがあるね。フレスコで使った覚えがある」

 

「ふれすこ?」

 

「壁画のことだよ。美術の教科書かなにかで見たことがないかな?」

 

「あー、あー、あるかも。センセーは色々やってるんだねぇ」

 

「石灰と川砂を2:3で混ぜる。

 1:3で教えてるところもあるらしいけどわたしは2:3かな。

 そしておもちの米のおかゆを薄めたものを混ぜてクリーム状にする。

 それを塗って、生乾きの壁に絵を描いて、二酸化炭素と反応してかたまるのを待つんだ」

 

「わぁ、なんか大変そー」

 

「ははは、上書きもできないからね、天才の専売特許だった時代もあったらしいよ。

 ウマ娘のレースと似ているところもあるかもね。失敗がこわいたいへんな一発勝負だから」

 

「色んなところに色んな一発勝負があるんだねぇ、ふむふむだ」

 

 違う世界に生きてきた二人。

 しかし違う世界であっても、同じようにこの空の下で繋がっている。

 川の砂で絵を描く者が居た。

 川の砂の上を走る者が居た。

 人間の筆先に触れる砂があり、ウマ娘の足先に触れる砂があった。

 

 少女は彼を月のようだと感じていて、少年は彼女を太陽のように感じていて、異なる二つが重なることで新たに何かが生まれていく関係は、まるで皆既日食(エクリプス)のよう。

 違う世界に生きてきた二人がこうした関係になったこと自体が奇跡であり、アメリカ合衆国年度代表ウマ娘に表彰されるエクリプス賞すら上回る奇跡だと、そう言えるかもしれない。

 

 二人はなんでもないことを話し、なんでもないことを教え合いながら、この星で最も大きな青色のもとに辿り着いた。

 

「うーみだー! ひろいっ!」

 

「うん、海だ。潮の香りが強い。波の音がとても近いね」

 

 少女は広がる海の光景にテンションが上がり、少年は潮の香りと波の音にテンションが上がり、隣に立つ友人がはしゃいでいるのを肌で感じて、もっとテンションが上っていった。

 

「ありゃりゃ、流石に冬だと誰も居ないね、センセー」

 

「冬の海は人が来ないからバスの本数減らされてたのかもしれないね」

 

「ボクは仲間と冬の海辺でトレーニングとかしてたよ?」

 

「ははは、ウマ娘は元気だね。さて」

 

 幅の広い堤防の上で、少年は画架を構え、キャンバスを置き、筆を持った。

 

「センセー目が見えてないから落ちそうでボクめっちゃ怖い」

 

「堤防の上から踏み外すようならわたしはとっくに側溝で足を折ってるよ」

 

「そうなんだけどさぁ」

 

「まあこどもの頃側溝で思いっきり左足折ってるんだけどね、わたし」

 

「ちょっとぉ!?」

 

 少女はハラハラして思わず少年の服の背中をぎゅっと掴み、心配性な少女に苦笑する少年をじとっとした目で睨んだ。

 この危機感の無さと執着心の無さが、芸術家によくあるという『浮世離れ』なのだろうかと、少女は思う。

 

「というかセンセーも左足折ってたんだね。おそろいだ! ボクも折れたの左なんだよね」

 

「いやなおそろいだなあ。女の子だし、痛かったろう、だいじょうぶだったかい?」

 

「おんなじぐらい痛かったんじゃないかな? わかんないけど」

 

 左足骨折コンビは海を見る。

 これからあの海を、絵にしてここに落とし込むのだ。

 

 パレットの上で青が踊る。

 独特な色彩感覚で、海に最も使われる青色が練られる。

 "センセーの青の匂い、好きだな"……と、少女が微笑む。

 出会ってすぐの頃は分からなかった絵の具の香りも、ウマ娘の嗅覚もあって、もうすっかり嗅ぎ分けられるようになってしまった。

 彼女は彼を知り、彼の絵を知り、彼の色を知ったのだ。

 

 少女がそこにちょっとした優越感を覚えていないと言えば嘘になるだろう。

 青い上着の隙間から飛び出た尻尾が、上機嫌そうに左右に振られている。

 

「センセーが海で描いてるの初めて見るねっ、ねえねえどんなの描くの?」

 

「きみの影響で、オンラインラジオ形式などでレースを聞くようになってね」

 

「! へ~」

 

「四苦八苦してアーカイブから近年のウマ娘のレースを拝聴させてもらってるんだ」

 

「へ~~~」

 

「それで収録環境が良いからか、足音を聞き分けてようやく個人が分かるようになって」

 

「へ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」

 

「ど、どうしたのお嬢さん……」

 

「いや! 気にしないで! 話し続けて! 続く言葉、ボク分かっちゃってるけどね!」

 

「えええ……?」

 

 何故か突然テンションが爆上がりした少女に、少年は困惑する。

 少女は、上がりそうになる口角を抑え、ちょっとウキウキして、口元で指を絡めて、続く彼の言葉を待つ。

 彼がどういうものを描く画家であるのか、この後に彼が何を言うのか、それをかなりの精度で把握できる程度には、彼女は彼を理解していた。

 

「一番きれいな足音の子がいたんだ。それで、その子を描きたいと思ったのさ」

 

「うんうん」

 

「発声や会話などは録音されてなかったけど、実況が名前を呼んでいたからだれかはわかる」

 

「うんうんうん!」

 

「海に立つ絵にしようと思っているんだよ。

 現実には無い光景。

 でも、夢の中ならそういうこともある。

 だれかが見た、海に立つ夢を描こうと思ったんだ。

 夢を(うつつ)に持ちこみたい。

 だから"この世界の普通"から一番離れてる、一番きれいな足音の子がいいなあって」

 

「うん! そうだよね! いやー、センセーは分かってるなー!」

 

 とうとうこの"なあなあで互いの名前を知らないままの関係"が終わる時が来たかと、少女は感慨深そうに頷く。

 

 最初は、互いに踏み込まれたくない部分があると察していたからだった。

 だから互いに名前を聞かず、互いを個人特定できないようにしていた。

 それが互いの見えない傷に触れないための最善だったから。

 だが、もうそれも昔の話。

 

 互いへの理解が進み、互いの内側へと踏み込みつつある今、もうちょっと踏み込んだ身の上話をしてもいいかな、という空気が流れる関係が生まれていた。

 "触れたくないところにこの人は触れないでいてくれる"ではない。

 "触れられたくないことに触れられてもこの人なら許せる"と思えるだけの信頼関係が、すくすくと育っている。

 

 『自分の名』と共に語られる栄光、凋落、夢の終わり、そして新たな目標に向かうまでの物語を彼に聞いて理解してほしいという期待で、少女はちょっとうずうずしていた。

 同時に、彼が絵の中に描く自分があまりにも立派なウマ娘だったから、四度の骨折を経た自分が失望されるのではないかという恐怖で、折れた左足が僅かに震える。

 

 彼の心の中には、幻想の少女が住んでいる。

 現実の少女を元に作られた、幻想の無敵の帝王だ。

 彼の絵の中にいる自分がいつも太陽のように素晴らしいものとして描かれているから、少女は少しだけ腰が引けてしまう。

 "高く評価されてから失望される痛み"を、彼女は誰よりも正確に知っている。

 

 それでも。

 "彼ならボクに失望しない"と、信じられるから。

 "彼の中で一番はボクだ"と思えば、それだけで嬉しいから。

 目が見えなくても、この少女が走るところを一度も見たことがなくても、この少女が一番だと言った、彼のこれまでがあるから。

 

 彼が"一番綺麗な足音のウマ娘"として、自分を見つけてくれたなら、自分の名を知ってくれたなら、それをきっかけに、この不思議な想いを、不思議な関係を、変えてもいいと……そう、少女は思えたのだ。

 

 『さあボクの名を言うがいい! いつだってセンセーの一番のウマ娘なボクの名前を!』と内心で叫び、ニコニコしてふんぞり返っていた少女は。

 

 

 

「だから想像の姿だけど、海と一緒に書いてみようと思ったんだ。メジロマックイーンさん」

 

 

 

 少年の言葉を聞いて思い切りぶっ倒れて堤防から転げ落ちた。

 

 少女の衝突で砂が派手に舞い上がる。

 

 柔らかい砂をクッションにして落下した少女は、1秒で堤防の垂直壁を駆け上がり、決死の表情で少年の襟を掴んでぶんぶん前後に揺らす。

 

「なんで!?」

 

「えっ……なんでって言われても……」

 

「そこはこう……あるでしょ! 正解が! 正解がさぁ!」

 

「正解……?」

 

「ぬあっー! センセー嫌い!」

 

「おや、ショックだな。わたしはおかえしにでもきみを嫌えそうにない」

 

「……嘘だよ! もー! 嫌いじゃないよ! くーっ!」

 

 そして少女は、ここまで思考していたことをリセットした。

 "今なんか気の迷いで変なこと考えてた!"と、脳内の変な思考を押し流している。

 自分でもよくわからない感情でほんのり赤くなっていた頬が、気恥ずかしさと怒りで別の赤色に染まっていく。

 海の青。少女の赤。少年は少女の善良さと愉快さに笑っている。

 

 少年が筆を持っているのを見て、少女は砂をはたき落としながら絵を覗き込む。

 そして、ハッとした。

 ハッとして、少女の顔がまた別の感情で赤く染まった。

 

「……結局ボク描くんじゃん!」

 

「ははは」

 

「はははじゃないでしょ!」

 

「聞いた中でメジロマックイーンさんの足音が一番きれいだったのは嘘じゃないよ」

 

「あーもうセンセーはさぁ!」

 

 盲目の身で、沢山の足音を聞いた。

 どんなウマ娘の踏むリズムを聞いても、足が奏でる旋律を聞いても、彼は変わらなかった。

 一番大好きな生命の音は、一番最初に出会った彼女の足が奏でるそれのままだった。

 

 一番好きな足音が君なんだよ、と彼は心で思って、口にはしない。

 口で言う必要性を感じない。

 『好き』という言葉では、想いを伝えるにはあまりにも不足していて、あまりにも多くの不純物が混ざりすぎている。

 

「ボクがミリキテキすぎてセンセーを惑わせてるのがいけないのかな?」

 

「魅力的ね」

 

 想いは純粋だ。

 想いは言葉にすることも大事だが、言葉にしないことも大事だ。

 形を変えれば、そのままの形では伝わらない。

 想いを言葉に変えた時点で、ほんの少しの変性が入ってしまう。

 想いを全て正確に伝えるツールとしては、言葉はあまりにも不自由すぎる。

 

 彼女を海の絵に書き込んで、そこに想いを込めればいい。

 それで伝わる。

 言葉よりもずっと如実に、正確に伝わる。

 彼の想いを、嘘の無い想いを、彼女は受け取ることができる。

 

 だから、彼に隠し事があると薄々気付きながらも、信じられた。

 彼は正直者のふりが得意な正直者だと、少女は思う。

 

 だって描きかけの絵を一枚見るだけで、こんなにも簡単に、彼が自分をどう想っているか分かってしまうのだから。

 

 

 

 

 



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10 ホテイアオイ ■■■■

「死と愛は、善人を天国へと運ぶ二つの羽だ」

   ―――ミケランジェロ・ブオナローティ


 空模様が少し怪しくなってきた。

 雲が空を覆い、光量が下がる。

 燦々と輝く太陽の下では美しく見える海も、曇り空の下ではどこか不気味に見えてしまう。

 が、彼には関係ない。

 潮の香り、波の音、流れる砂の旋律に五感を傾け、それらを絵に落とし込んでいく。

 

 そんな彼の横で、少女がステップを踏んでいた。

 ステップの音が彼の耳に入り、心地良い気持ちが生まれるが、彼が少女の方を向くと、少女は口笛を吹いてすぐやめてしまう。

 少年が首を傾げて、少し考えて、答えに至る。

 

 そう、これこそサブリミナルステップ。

 彼の潜在意識に己の足音を擦り込み、自分が永遠に一番になれるようにしているのだ!

 あまり意味はないが。

 

「負けず嫌いだね、お嬢さんは」

 

「は!? な、なにが!?」

 

「メジロマックイーンさんは知り合いなのかな?」

 

「ライバルだよライバル! マックイーンにだけは負けられないんだ! 絶対!」

 

 拳を握ってぶんぶん振っている子供っぽい少女の動きを、空気の動きから肌身に感じ、少年は微笑む。

 

「いいね。うらやましい。わたしはライバルというものを得たことがないから」

 

「やー、センセーは得たことがないんじゃなくて欲しくないんでしょ。そんなカンジ」

 

「む……言われてみるとそうかもしれない」

 

「マックイーンは凄いんだよ。

 史上最強のステイヤーとか言われてるんだ。

 マックイーンが油断しなければ、ボク以外誰も敵わない。

 誰にも影すら踏ませずに、皆に背中だけ見せて独走、そのままいつも一着でゴール!」

 

「それはすごい。優秀な子なんだね」

 

「それに、お嬢様ー、って感じがするんだよ。

 細かいふるまいがなんかすごく綺麗なんだよね。

 それなのに、たまーに世間知らずなだけの普通の女の子で……」

 

「きみみたいにかわいい女の子なのかな」

 

「そうそう! あ、いや、ボクが可愛いって言ってるわけじゃないからね?」

 

「わかってるよ。きみはかわいいけど」

 

「……うぅ。

 そ、そういえば、男の人のマックイーンのファン多いんだよね。

 女の人のファンも多いけど。

 マックイーンは礼儀正しくて優しいから、皆大好きになるんだ。

 ボクも何度も……何度もマックイーンに救われた。恩人なんだ。凄いんだよ、マックイーンは」

 

 人が愛する家族に向けるような大きな感情、あるいはそれ以上の大きな感情。

 ともすれば、彼女に愛する異性が出来て、結婚して、子供が出来たとしても、感情の大きさでは良くて互角かもしれない。

 『勝負』に全身全霊をぶつける本能を持ち、『競走』に全身全霊をぶつける本能を持つウマ娘だからこそ持つ、ウマ娘の特徴と言っていいかもしれない特有で特大の感情。

 

「つまり、きみの大事な人なのか」

 

「ん。特別なやつ……特別なライバルだね。マックイーンにだけは負けられないんだ!」

 

「きみは何か負けてるわけではないと思うけど」

 

「ボク以外のウマ娘をセンセーが心底褒めてるのが、ヤ!

 分かるんだからね、ボク!

 センセー、マックイーンのこと走る音で結構気に入ってるでしょ!」

 

「……まぁ」

 

「流石だねマックイーン!

 ここでも立ちはだかるのかマックイーン!

 負けないぞマックイーン!

 今のボクはそういう気持ち。

 センセーによそ見をさせたなおのれマックイーン! ボクは負けないからね!」

 

「そっかぁ」

 

 太陽のように熱い対抗心。

 少女はしゅっしゅっとシャドーボクシングをし、されどその最中も少年が転んでどこぞへと転がり落ちたりしないよう、すぐに彼を掴み止められる位置に居る。

 少女の見たことのない一面に少年は優しく微笑み、ライバルへの想いを熱く語っている最中でも気遣ってくれる彼女の優しさに、心底感謝していた。

 

 海の風も心地良いが、それ以上に彼女の優しさが心地良い。

 

「海にも触れてみたいな……」

 

「え? センセー海に入ったりしたことないの?」

 

「おぼれたらどうするんだと親に言われていてね。あいにく、一度も触れたことがないんだ」

 

「そっかー、確かにそうだよね……よし」

 

 少女はどこぞへと駆け出そうとして、一歩を踏み出す前にピタリと止まる。

 

「センセー、ボクが戻って来るまで動かないでね?」

 

「落ちないよ」

 

「落ちない、じゃなくて、動かないで、ね?」

 

「心配性だなあ。わたしはちょっと怪我するくらいなら平気なんだが」

 

「だーめ。ボクがセンセーを何からでも守るって言ったでしょ?」

 

「……きみ、かっこいいってよく言われない?」

 

「ふふふっ、分かる~? センセーにも分かっちゃうか~。

 ね、センセー、そんなボクが心配してる気持ちも、ちょっとはわかってほしいな」

 

「ああ、わかった。動かないよ」

 

 少女は風の中を舞う羽毛のように軽やかに、羽毛を吹き散らす疾風のように素早く、海へ向かって走り出した。

 そして両手を器にして海の水を掬い、こぼす間もなく俊足で戻り、少年の眼前に差し出した。

 少年は少女の気遣いを理解し、微笑み、少女の手の中の海にそっと触れる。

 

「ほらこれ海! 海だよー! バリバリ海!」

 

「わたしの手の平より小さな海は初めて知ったなぁ」

 

「センセー専用の海だよ~、どうだっ!」

 

「おや、それは嬉しいね。

 それに冬の海は冷たいと聞いていたのにほのかにあたたかい。

 きっと誰かの手と心があたたかかったから、その熱が移ったんだろうね」

 

「えへへ」

 

 小さな小さな、優しさの海。善意の海。暖かい海。彼だけの海。

 

 少年が嬉しそうにしていると、少女もつられて嬉しい気持ちになってしまう。

 

 更に筆が入り、より『深い』質感になっていく海を見ながら、少女はぼんやり問いかけた。

 

「ねえ、今日はなんで海に来たの?」

 

「『青』に触れたかったんだ。海が青く見えることは聞いていたからさ」

 

 少女は可愛らしく小首をかしげる。

 

「青? なんで? 絵の具に触れればいいんじゃないの?」

 

「あれは長年かけて皆が作った人工の青だから。天然の綺麗な青は難しいんだよ」

 

 少女が腕に巻いた青色のスカーフ――馬と不死鳥――が、海風にはためく。

 

 詠うように、されど淡々と、彼は語る。

 

「海は大海である内は青だ。でも手で掬うと、透明なただの塩水になってしまう」

 

 青であり、青でない。

 

「空の青は、近づけば近づくほど消えていって、宇宙の闇色に近い黒になっていってしまう」

 

 青であり、青でない。

 

「花の青色を作るアントシアニン化合物は、着色してもすぐに退色してしまう」

 

 真なる青とは、かつて、真に特別な者のみに許された色だった。

 

「昔の人達は永遠の青を求めて、黄金と等価の青い宝石を砕いて絵に使っていたそうだ」

 

「ひえー、お金持ち」

 

「青は特別な色で、特別な人に贈るべき色だと、わたしも思っているよ」

 

 海の青。

 空の青。

 青いウマ娘。

 青い勝負服。

 青いスカーフ。

 

 色んな青の話をしてきた。

 青は特別だという話をしてきた。

 だから少女は、貰った時よりもずっと、このスカーフを贈られたことを、嬉しく思っている。

 

 今、もう少し、踏み込んでいなかったところまで踏み込むべきだと、少女の心の奥底がひっそり呟いていた。

 

「あのさ、それって」

 

 その時。少年が、むせこんだ。

 ごほっごほっ、と咳が出る。

 咳が話を遮って、少女は言いかけた言葉を引っ込める。

 

「ああ、ごめん、今何か言ったかな? お嬢さん」

 

「ううん、なんでもないや。言わなくていいことだし、聞かなくていいことだった」

 

「うん? そっか」

 

「それよりセンセー、体冷えてるんじゃない? 大丈夫? 海風結構冷たいもんね」

 

「……そう、かもしれないな。体が冷えて調子が悪いのかもしれない」

 

「も~、体は大事にしなきゃ駄目だよ。はいっ」

 

 少女はスカーフを外してポケットに入れ、青い上着を脱ぎ、彼に羽織らせた。

 先程まで走っていたのもあって、少年より明確に高い少女の体温が、上着を通して間接的に彼に伝わる。

 心も体も暖かくなり、少年はにししと笑う少女に微笑みかける。

 

「ありがとう。きみは寒くないかい?」

 

「へーきへーき! もっと薄着でもっと寒い日に走ってたこともあったから!」

 

「そっか。ありがたいよ。きみはあたたかい女の子だね」

 

「うむうむ。センセーがあったまってるならよかった、よかった」

 

 少年が少女の上着に身を包み、また筆を動かし始める。

 

 彼の描く海は闇の父と宝石の母、その間に生まれた子のような色合いだった。

 深海の吸い込まれそうな深さと、海の底なしの透明さと、海に降り注ぐ光が、独特の色彩感覚でコントラストを描いている。

 光無き海の底、光注ぐ海の中、豊潤な青の有色と、透明で透き通る無色が入り混じっている。

 

 そこに、青いスカーフを巻いた不死鳥のウマ娘が居た。

 あいかわらず本物より美人で、スタイルが良くて、でも身長はちょっと修正されていて、太陽のような輝く笑顔は、彼に彼女がどう見えているかを如実に表す。

 

 彼女がくれた思い出が輝いていたから、彼は今の自分のありったけで、『何よりも素晴らしいもの』として、それを描いた。

 そこには笑顔の少女がいた。

 学が無くとも分かる。

 これは、"日の出"だ。

 

 広大な海が広がり、その水平線から太陽が昇ってくるという人の心を動かす光景を、()()()()()()()()()()という奇抜な発想で構築しているのだ。

 

 江戸時代に生まれた、学の無い民衆にも理解できるよう、AをBに"見立てる"ことで、別物であるにもかかわらず本物以上の効果をもたらず技術体系―――『見立絵』の現代技術版。

 

 『彼女は本物の太陽よりも太陽なんだ』と、彼が心の底からそう想っていることが、描きかけの絵を見ているだけで伝わってくる。

 

「うん」

 

 周りの海の質感を調整することで、少女が太陽に見える。

 少女が太陽に見えることで、色の味わいに苦味が出るほどの光量を書き込まなくても、見る人のイメージが自然と「光の少女だ」と印象に補正をかけてくれる。

 飛び抜けた色価(バルール)の"合い具合"の良さと、現実を一度も見たことがない人間ゆえの幻想感が、少女をもう一つの太陽に仕立て上げていた。

 

 青き黎明より生まれ出で、空を走り、赤き黄昏へと去って行く走行者。

 

 太陽こそが、空模様最速の疾走者だ。

 

 青き勝負服と赤き勝負服の間、青いウマ娘と不死鳥のウマ娘の間、朝の青と夕の赤の間、その中間点を疾走する太陽。

 芸術の知識が無い者でも、この絵を見るだけで多くの理解と想像を胸に得るだろう。

 

 彼が知った彼女の全てがそこにある。

 彼女が彼に見せてきた自分の全てがそこにある。

 だから、何よりも美しく、何よりも彼の想いを形にしていた。

 少女の胸の奥に、ぐっと湧き上がる気持ちがあった。

 

「やっぱり、ボク、好きだな」

 

「気に入ったなら、お嬢さんが持っていってもいいよ」

 

「ううん、いいよ。完成品見れたら、多分それだけで一生忘れないからさ」

 

 少女は、彼の絵が好きだった。

 この絵を生み出す彼の心が好きだった。

 幾度『好き』と言っても、満足することはない気がした。

 星の数だけ『好き』と言えば、流石に満足するだろうと思った。

 

 だから、少女は星の数ほど彼の絵の好きなところを言えた。

 それは、星の数ほど彼の好きなところを言えることと同義だった。

 きっと、彼も同じだけ彼女の好きなところを言えるだろう。

 

 彼が描き、少女が見ている。

 片方が話しかけ、もう片方が応える。

 笑い合って、"ああ、好きだな"と互いに思う。

 拳二つ分くらいの距離を空けて、もう少しだけ近寄ったら互いの肩が触れそうな距離で、海を見て、絵を見て、語り合った。

 

 幸せな今が、幸せな思い出に変わり、心の思い出箱に収納されていく。

 

「そろそろ帰ろっか、センセー。日も傾いてきたし」

 

「おや、そんな時間か。きみのおかげで時間が経つのがとてもはやく感じるよ」

 

「家に持ち帰って完成させる感じ?」

 

「そうだね。海はじゅうぶんわたしの心の中に取り込めた。あとは……」

 

「あ」

 

 帰ろうとした、その時。

 

 夕日になる前の、ほんの僅かに橙色が混ざった太陽が、雲の合間から日差しを落とした。

 

 普段は見えない光の線がくっきりと見え、雲の合間から海へと降り注ぎ、まるで空と海を繋ぐ光の階段のように見える。

 

 自然界に自然発生する、人の手では生み出せない自然の芸術であった。

 

「センセー、見て見……感じて! 雲の合間からシュッと線引くみたいな太陽光!」

 

「無茶を言うなあ……ヤコブの梯子か」

 

「やこ……え、なに?」

 

「西洋での絵画の人気モチーフだよ。

 旧約聖書創世記28章12節。

 ヤコブは夢を見た。

 雲の切れ間から地上に伸びる光のはしごを。

 そこを登り降りする天使たちを。

 以後の時代で、雲の合間から差す光を人々は"そう"見た。

 光のはしごで、天使たちは天と地を行き来している……と考えた。

 それにちなんでそういう名前で皆呼ぶようになったんだ。

 昔の西洋絵画は宗教に沿ったものでないと認められない時期があったしね」

 

「へー。あ、そういえばセンセーの今回の絵、夢の中で海の上に立つウマ娘の絵だっけ」

 

「そうだね。ヤコブが夢に見て、名を得た、ヤコブの梯子か……」

 

 少年は置きかけた筆を取る。

 

「もうちょっと時間をくれないか。書き加えたいんだ」

 

 まだ描きかけの絵であるならば、修正も追加も行える。

 

 二人で海に来たこの日に顕れた奇跡を、彼は絵の中に書き留めておきたいようだ。

 

 少女は呆れた風に、楽しそうに、嬉しそうに、肩を竦める。

 

「しょーがないなぁ」

 

 呆れた声に、本人にもよく分かっていない感情の色が混ざっていた。

 

 光は鬼門だ。

 光は触れられない。

 光には感触が無い。

 繊細な光の塩梅は、盲目の画家のほとんどが苦手とする鬼門である。

 他人が書いた繊細な光の表現を指先で覚え、タッチを模倣して覚えるしかなく、それでも覚えた光のパターン以外を出すことが非常に難しい。

 盲目の筆が綺麗な陽光を描くには、それこそ才有る盲人が十年以上研鑽して練り上げた技術と、盲人に根気強く付き合い眼の代わりになってくれる誰かが要る。

 

「光のはしごはどんな風に降り注いでいるのかな」

 

「うーんとね、太いのが三本あって、それが真っ直ぐに伸びてて……」

 

 日が沈むまでの残り少ない時間を使って、雲の合間から伸びる光の梯子を描きこんでいく。

 彼女が見たものを、彼が描きこんでいく。

 彼を理解した少女は彼に分かりやすいように説明することができ、彼女を理解した少年は彼女の言葉から正確なイメージを想像することができた。

 一心同体、とはまた違う。

 二心一筆、という方が正しい。

 今ここで、一本の筆を、心で繋がる二人の想いが動かしている。

 

「そういえば、センセー」

 

「なんだい?」

 

「永遠にしたいものは見つかった?」

 

 少年の返答が、一瞬気恥ずかしさからか、止まる。

 

 分かりきった問いを、彼女はした。

 

「ああ、見つかったよ」

 

「そっか。よかった、ふふっ」

 

 少女は笑顔を輝かせて、『彼が絵の中で永遠にした自分』を見つめる。

 

 絵画の中に明確な明暗が作られ、空からの光が中央のウマ娘の周りに降り注いでいる。

 少女は気付いた。

 これは、()()()()()()()()だ。

 あの日少女が手を引き、手を引かれた彼が特等席で知ったウマ娘の勝利の先。勝利の結実。夢が叶った光の舞台。

 あの日彼が耳と肌で感じたものが、自然のみで再現されている。

 海と雲と光と風が、絵の中の世界の全てが、絵の中に立つウマ娘の全てを祝福していた。

 

 海をステージとして。

 ヤコブの梯子をスポットライトにして。

 彼は再び、彼女を栄光のステージに立たせたのだ。

 

 また、彼女が走れることを望んで。

 また、彼女が栄光を掴むことを祈って。

 また、彼女が新しい夢を追える日が来ることを願って。

 

「好きだなぁ」

 

 少女は、心の底から、掛け値無しに、そう言えた。

 

 辛い時にこの絵を見たら泣いていたかもしれないと、そう思った。

 

 

 

 

 

 この日が。

 

 彼と彼女の関係性を決定的に変える、境界線の日となった。

 

 

 

 

 

 誰かが走っている。

 夕日の中、走っている。

 その男は、『彼』を見つけ、思わず走り出していた。

 

 絵をしまう少年の横で、ウマ娘が笑っていたが、その男はウマ娘の方に目もくれない。

 少年が足音から接近に気が付き、その直後、男は少年に飛びつかんほどの勢いでやってきた。

 その男は少年の目の前で足を止め、息を切らして、涙ながらに声を吐く。

 

「先生!」

 

「……三浦さん?」

 

「そうですよ! 南青山の三浦です!」

 

「え? 何? 何何なんの何?」

 

 少年の表情が強張り、少女は困惑し、男は今にも泣きそうだ。

 

 少女は知らないが、美術にはその地域における『集約地点』が存在する。

 たとえば、エリート集団である中央のウマ娘達が通うトレセン学園は東京都府中市にあり、ウマ娘達もそこに住んでいるため、彼女らが縁を持つとなれば東京都内に限られる。

 すなわち、日本橋・京橋・赤坂・青山・銀座あたりになるだろう。

 現代において人気のジャンルである、東京での秋の天皇賞や安田記念などのウマ娘のレースを描いた絵は、これらのどこかの画廊に並ぶのが慣例だ。

 

 それでいて、絵描きである少年と知り合いである。

 で、あれば、マックイーンあたりは一瞬で気付いただろう。

 この三浦という男が、それらの画廊の関係者であること。

 ともすれば、この少年の絵を少年の代わりに売って回って世界を巡り、その収入を少年に支払う職業……『画商』であることさえ、マックイーンなら見抜けたかもしれない。

 

「よかった……まだ無事でいらしたんですね……絵はまだ描かれてる……みたいですね」

 

 男はずっと、泣きそうだった。

 少年は諦観を表情に浮かべ、何かを諦めていた。

 

「おかげさまでね。あなたが律儀に今でも売れた絵の代金を振り込んでくれてるおかげだ」

 

「戻りませんか?」

 

「いいよ、遠慮しておく。気を使ってくれたのは感謝してる、ありがとう」

 

「ただでさえ先生は知名度高くないんです、今皆に知られる画家にならないと……」

 

「評価される前に死ぬ?」

 

「……そうです! そうなる前に……」

 

「大丈夫だよ、永遠にしたいものは見つかったから」

 

「……先生、どうか御身をお大事に。もう長くはないのでしょう……?」

 

「うん」

 

 その時。その言葉を聞いて。

 

 

 

「えっ」

 

 

 

 少女の頭の中は、真っ白になった。

 

「……病院を抜け出すのは控えてください。これは自分の個人的な願いです」

 

「ありがとう」

 

 何にも夢を見ていないような生き方。

 未来に夢を見ていない生き方。

 生への執着の欠片もない生き方。

 何一つ楽しいことを知らないような、最初に見た透明感のみがある絵。

 彼がしている隠し事。彼女が薄々気付いていた隠し事。

 今日、唐突に出ていた咳。

 『永遠』を求めていた理由。

 盲目の彼が、今まで知らなかったものを探し、ウマ娘と夢の熱を知ろうとしていた理由。

 

 『青いウマ娘』を描いたフランツ・マルクは、死の前に『立ち向かう不死鳥』を描いた。

 

 全てが少女の頭の中で繋がり、顔色がさぁっと青くなる。

 

「悪いけど今日は帰ってくれるかな、三浦さん。最後の一枚を描いたら連絡するからさ」

 

「……あなたが絵を描いているならそれでいいです。どうか最後まで、満足できる人生を」

 

「重ね重ね、ありがとう。きみがいなければ、わたしは画材も買えなかったんだ」

 

「そんな……自分は……いえ、なんでもありません。それでは」

 

 男が去っていく。

 

 その場に残るは静寂。

 

 口を開かず、言葉に迷っている少年の前で、恐る恐る少女が口を開く。

 

「せ、センセー……嘘、だよね?」

 

 少年は唇を噛み、上っ面だけの微笑みを作って、少女に頭を下げた。

 

 心底申し訳無さそうに、頭を下げた。

 

「ごめんね」

 

「なんで……なんで、謝るの」

 

「きみにそんな声を出させたくなかった。見えないけど分かる。そんな顔もさせたくなかった」

 

 違う。

 そうではない。

 少女が欲しかったのはそれではない。

 欲しかったのは"なーんて嘘だよ"という茶化した言葉。

 騙してくれるなら、それでもいいとすら思えた。

 

 正直者で、嘘をつかれることを好まない彼女が、『嘘』を求めたというこの矛盾。

 彼が本当のことを言うことで苦しむというこの二律背反。

 

 嫌いだから傷付けたのではない。

 好きだから傷付けたくなかった。

 嫌いだから嘘をついたのではない。

 好きだから本当のことを隠していた。

 

 けれど、永遠はない。

 『永遠にバレない嘘』などない。

 永遠に生きる命がないのと同じように。

 

「ごめんね」

 

 少年はただ謝った。

 

 嘘の代価は、永遠に笑っていてほしかった女の子が、自分のせいで笑顔を失うという今。

 

 少年にとって、自分が切り刻まれるよりも。ずっと大きな苦痛に苛まれる罰だった。

 

 

 

 

 




 調子に乗って書きまくった結果、日数とにらめっこして読みやすい更新頻度を考え、ここまでで前半部として一旦切ります。
 一応最後までは書き溜めてあるので明日以降も毎日更新です。


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11 ブルースター ■■■■

「僕の命はあと5ヶ月かもしれないし5年かもしれない」

「わかっているのは僕の命はいずれ終わるってこと」

「だから僕にとっては今が大切なんだ」

「命が終わるまでに出来る限りのことをことやりたい」

「人々の心に残るアーティストこそが本当のスペシャリストなんだ」

「僕は死ぬかもしれないけれど本当に僕が死ぬことはない」

「だって、僕はみんなの中に生きてるんだから」

   ―――キース・ヘリング



 永遠などない。

 この世の全てが永遠を保証されていない。

 永遠に走り続けられるウマ娘はいない。

 永遠に過去にならないウマ娘はいない。

 永遠に忘れ去られないウマ娘はいない。

 画家は死ぬ。

 絵画は記憶から消え、記録に変わっていく。

 

 そして、人は死ぬ。

 いつか死ぬ。

 永遠はない。

 永遠に壊れない体のパーツがないように、命もまた、いつかは壊れる。

 

 永遠が無い世界の中で永遠を求めるからこその人である。

 

 

 

 

 

 帰りの電車には、気まずい空気が流れていた。

 彼も喋らない。

 彼女も喋らない。

 四人用のボックス席に、沈黙を続ける二人が座っている。

 

 車窓から見える景色は、夕日が残すほんのりとした赤の陽光、それに照らされる街、街に灯る光の群れと、黄昏時の美しさが詰め込まれている。

 一日の終わりを間近にして、気の抜けた人々の声が、電車の内外から聞こえてくる。

 だが少女は窓の外を見ず、彼も窓の外に耳を傾けてはいない。

 

 今は二人共、互いのことしか考えていなかった。

 

「生まれつき眼が見えなかった。小児癌にかかってしまった。それから体に色々あってね」

 

「治せないの? ほら、手術とか!」

 

「『99%死ぬ手術なんてできない』と、お医者さんには言われてしまったよ」

 

 彼女が薄々気付いていた彼の隠し事は、今日とうとう暴かれた。

 

「センセーって……思ってたよりずっと嘘つきだったんだね」

 

「ははは。本当はあの日、川に身を投げてしまおうと思っていたんだ」

 

「……え」

 

「誰にも迷惑をかけないで、誰にも見つからないまま、海まで行けたら……そう思ってた」

 

 盲目の人間は、初見の場所では水辺を避ける。

 最悪溺死、そうでなくても転倒や水落で汚れやすく、目が見えない人間にとって水辺周辺の滑りやすい足場は鬼門になりがちだからだ。

 

 彼の杖が事故で川に落ちかけたのは偶然ではない。

 彼が水場の近くに居たのは偶然ではない。

 世界的に有名なジャン・アントワーヌ・グロも、クロード・モネも、その他にも名の知れた画家達も、自殺には川を選んでいる。

 ルネ・マグリットに至っては、13歳の時に母が川で入水自殺し、その死体の姿が脳裏に焼き付いたためか、ずっとその死体をモチーフにした絵を描き続けたという。

 少年の中で川と自殺のイメージが強く繋がっているのは、画家の職業病のようなものだろうか。

 

「ねえ、センセー」

 

「なんだい」

 

「じゃあ、なんで生きようって思ったの?」

 

 数秒、沈黙。

 

 少年が言葉を選ぶ間、ガタンゴトン、ガタンゴトンと、電車の走る音が流れる。

 

「いやになってたんだ、わたしは」

 

「嫌になってた……?」

 

「目はずっとこう。

 病気は今の医学では治らないと太鼓判。

 何かを残そうとしても空回り。

 腕前は上がらない。

 目が見えないから上達も遅い。

 何を描いても前の焼き直し。

 心が前を向いてくれない。

 頭が新しいものを思いついてくれない。

 世界が嫌いだった。

 運命が嫌いだった。

 自分が嫌いだった。

 わたしはね、もう生きているのがつらくなってしまっていたんだ」

 

「……」

 

「そんな時にね、聞こえたんだよ」

 

「聞こえた? 何が?」

 

「きみが聞こえたんだ」

 

「……ボク?」

 

 こくり、と少年は頷く。

 

「わたしはね、きみみたいに生きたことがなかったんだ」

 

「センセーは……ボクみたいにやんちゃしそうにないもんね」

 

「きみみたいに、上機嫌に歌いながら歩いたことがなかった。

 きみみたいに、たのしそうに街を歩いたことがなかった。

 きみみたいに、困っている人のために反射的に飛び出したこともなかった」

 

「えっ……あっ、あははっ、杖拾う前からセンセーに見られてたんだ、恥ずかしいや」

 

「恥ずかしくなんかないよ。

 きみに恥じるところなんてない。

 きみが聞こえた。

 きみに聞き惚れた。

 きみはわたしが知るかぎり世界で一番、たのしそうで、しあわせそうで、輝いていた」

 

 少年が過去を思い返し、安らいだ表情で微笑む。

 

「きみに耳を傾けている間、嫌なことを全部忘れられた。

 死にたいという気持ちも忘れられた。

 "ああ、もっと聞いていたい"って思えた。

 そのくらい、きみから生まれる音は全てがたのしそうで、きれいだったんだ」

 

「ふぇっ」

 

「きっと、きみの周りの人なら皆思ってるよ。

 きみがたのしそうなら、こっちまでたのしくなってくるって。

 きみがはちみつの歌を歌ってるのを聞いてるだけで、ちょっとしあわせになるんだって」

 

「そ、そこまでのことは……ないと思うなぁー……」

 

「あるよ。わたしはそう思う」

 

「……うぅ」

 

「会ったこともないけどわかる。

 きみの周りの人はきみを大切にしてるはずだ。

 それはきみが愛される人だから。

 足が折れてしまった時なんて、みんなすごくきみを心配してたんじゃないかな」

 

「見てきたみたいに言うじゃん、センセー」

 

「見えなくても分かることだよ、このくらいは。わたしは、君と出会ってからずっと……」

 

 がたん、と電車が揺れる。

 森を抜け、車窓から月が見えた。

 月はいつでも、太陽を見ている。

 きっと、月は太陽に恋をしているから、月はいつでも、太陽を見ている。

 

「楽しかった。辛くなかった。苦しくなかった。痛みまであんまり感じなくなっていたんだ」

 

 絶望があった。

 どうにもならない絶望だ。

 治らない病、直らない傷は存在する。

 彼の目も、彼女の足も、そして彼を殺す病も、どうにもなるものではない。

 その中でも死に直結する病は、どんな心の持ちようをしても先が絶対に無いという点で、最も救いようのない欠落と言えた。

 

 誰かが頑張ってもどうにもならない。

 誰かが何かの勝負に勝っても何も変わらない。

 ウマ娘のレースが勝者と敗者を決定するゴールに向かわせるものならば、治す方法の無い病とはゴールに死しか存在しないもの。

 どうにもならない。

 どうしようもない。

 

 されど、古今東西、芸術家は作品にその答えを描き記してきた。

 絶望に抗うもの。

 人が生を手放すことを止めるもの。

 それは、『希望』である。

 

「君のおかげで少しだけ思えたんだ。長生きすることだけが幸せじゃないって」

 

「――――」

 

「生きている間にどこまで行けるか。それも本当に大事なことなんだって」

 

 たとえ、この先の人生がどうなるとしても、構わず進む。

 恥を晒すとしても、もっと自分が壊れるとしても、何も成せなくても、構わず進む。

 生きている限り、体が動く限り、前へ、前へ。

 常人であればとっくに心が折れている人生を懸命に生きている少女の在り方が、ただそこに在るだけで、何よりも強く彼の心に希望をくれていた。

 

 足が折れた少女こそが、心が折れていた画家の心を救ったのだ。

 その命が辿る結末が、変わらなかったとしても。

 

「わたしだって生きたかったさ。

 ほしかったものには手が届かなかった。

 でもだからって同情してほしいわけではないんだ。

 わたしは今、手が届かなかった星とはちがう、別の星に手を伸ばしているから」

 

「……」

 

「わたしはずっと沼ばかり見ていた。

 わたしの足をとらえる、おおきくて深い沼だ。

 きみがわたしに空を見上げさせてくれたんだよ、お嬢さん」

 

 月はいつも、太陽に恋い焦がれ、太陽に手を伸ばしている。

 

「だから」

 

 そして、太陽もまた、月の優しさに癒やされていた。

 

 互いが互いを、"自分に無い物を持っている素晴らしい人"として尊敬し、親しみ、大切に想い、そして―――軽い気持ちでは口に出せない気持ちを持っていた。

 

「最後の時間をきみと共にすごして、きみに黙ってきみの前から消えて、死のうと思った」

 

「……センセー」

 

「きみを悲しませることはしたくなかったから」

 

 彼女と居ると幸せだった。

 彼女に幸せになってほしかった。

 彼女に笑っていてほしかった。

 彼女を悲しませたくなかった。

 彼女と一緒に過ごすという幸福を少しでも長く感じていたかった。

 

 だから彼は、何も知らせず、最後の時は一人で死のうと思っていた。

 最期が孤独でも、それまでが孤独でないなら耐えられると、少年はそう思ったのだ。

 

 彼は彼女を猫にして犬だと表現したが、彼もまた然り。

 彼は本質的に犬のように従順で一途。

 一度好きになればずっと好きなままで、付き従うように他者を愛する。

 そして、猫のように、死ぬ前には付き従っていた者の前から姿を消す。

 愛する者の前では死なず、どこかでひっそりと一人死のうとするのだ。

 

 犬猫のような気質を二人共持ち合わせた上で、二人はこんなにも違う。

 だから、憧れが生まれるのかもしれない。

 

「……ああ、そうか。そうだったのか。

 これがわたしの今の夢で、願いで、希望になっていたのかもしれない」

 

「……え」

 

「きみを描いて、きみを絵に残して、きみに知られず、きみを悲しませず、死にたかった」

 

 ウマ娘は、人に夢を見せるもの。

 

 どんな夢を見るかは、人が決めるもの。

 

 夢があれば、夢に向かって生きていれば、人は希望を持って生きていける。

 

 絶望の中で自殺する運命にあった少年は、少女に幸せな夢を見せられ、残り少ない人生を彼女を描くことに費やし、ほどなく病死するという運命を選び取ったのだ。

 

 彼の人生の最後は、少しだけ長く、少しだけ幸せなものとなった。

 

 それは間違いなく救いだろう。

 

 だがそれは、如何に非凡なる少女であっても、素直に喜べることではない。

 

「どうか気に病まないでほしい。わたしが生まれて初めて見た太陽は、きみだったんだ」

 

「あ」

 

「きみはなにも悪くない。きみがわたしを救ってくれたんだ」

 

 少年は屈託なく笑う。

 その言葉は間違いなく本音だ。

 彼は心底、"これ"を人生の結末にすることに満足している。

 他にどんな感情があったとしても、この感謝に、この幸福に、この納得に、嘘はない。

 

 それと同時に、彼は自分の死によって、彼女が少しでも悲しみを抱かないようにしていた。

 探りを入れるまでもなく、少女にはそれが分かる。

 彼は人生最後の仕事として、別れの瞬間に、涙も後悔もない終わりを作ろうとしている。

 『こんなに辛いなら出会わなければよかった』なんて欠片も思わない結末を、望んでいる。

 

「わたしには見えない綺麗な世界の中で、ずっと笑っていてくれないか、わたしの太陽さん」

 

 少女はぎゅっと、拳を握る。

 

 彼もまた、少女を追い越し、少女より先に一着でゴールしてしまう。

 死というゴールへと辿り着いてしまう。

 "不屈の帝王"はまた、自分を置いて先に行く誰かの背中を見送ることになる。

 彼が帝王に勝つためにではない。

 彼は死という敗北の一着を運命付けられている。

 『その一着』が、誰かに喜ばれることはなく、誰かを笑顔にすることはない。

 

 かつて、足が折れた時、少女は置いていかれる恐れに苛まれていた。

 置いていかれることの恐れを、少女は誰よりも知っている。

 少年はそれを知らない。

 

「センセーはそうしてほしいの?」

 

「ああ……本当は、なんでもいいんだけどね。

 きみがしあわせそうなら、それで。

 たのしそうなきみに救われたのが私だから。

 ……どうだったかな。

 父さんと母さんが死んだ時、わたしはどうしてたんだっけ。

 あんまり思い出せない。覚えてるのは絵を描いていたことだけ。

 大切な人が死んだ時、どうすれば一番悲しくないのか……わたしはあんまり知らないんだ」

 

「……そっか」

 

「ごめんね。本当に、ごめん」

 

「謝らないでよ。ボクだってさ、センセーには笑っていてほしいよ、ずっと」

 

「やっぱりきみはやさしいね。奔放で、自分のために生きてて、でもやっぱりやさしいんだ」

 

「あーもう、あーもう、センセーはさぁ!」

 

 諦めないことで、人の心を揺さぶる奇跡を起こしてきたのがこの少女なら。

 

 この少年は、生まれた時からずっと何もかもを諦める人生を送ってきた。

 

 諦める以外の選択肢を許されない人生を送ってきた。

 

 そんな彼が、『彼女にはいつまでも笑っていてほしい』という願いだけは、『彼女を悲しませたくない』という想いだけは、諦めることができなかった。

 

 少年が得た生まれて初めての『諦めたくない』が、少女の胸の奥をきゅっと締め付ける。

 

 

 

 少女は無理をして笑ったが、彼にその笑顔が見えることはなかった。

 

 

 

 いつも通りの会話には戻らない。

 戻れない。

 それでも頑張って寄せていく。

 これまでが楽しかったから、それをなぞろうとする。

 

「わたしもきみも永遠ではない。

 でもわたしはロマンチストだからね。

 永遠というものがあると信じてるんだ、ちょっとばかり」

 

「そうなんだ」

 

「わたしが死んでも絵は残る。

 わたしの『先輩たち』がそうだったように。

 どこかに絵でも飾って、気が向いた時にでもながめて癒やされてくれたら幸いだ」

 

 少女は気付く。

 

 この少年が仮に『死ぬのが怖い』と思っていても、『死ぬのは嫌だ』と思っていても、もうその本音を自分に明かすことは無いのだと。

 

 彼は、人生最後の時間を、少女に悲しみ一つ残さないために使うことを決めている。

 

「そうして、たまに思い出してくれると嬉しい。

 悲しい終わりなんてなにもなかったことを。

 いつまでもきみの幸せを願っている誰かのことを。

 きみに出会えてからずっと、笑顔でいられたひとりの人間がいたことを」

 

 こらえるように、少女は笑った。

 

 声色さえ整えられれば、彼には今の自分の顔がわからないはずだと信じて。

 

「おっもいなぁ。そんなんじゃ女の子にモテないよ?」

 

「それは大変だ。わたしも人並みにはモテたい人間だからね」

 

「うっそだー!」

 

「ふふふ」

 

「あははっ」

 

 少女は、ずっとこんな時間が続けばいいと思っていた。

 話すのが楽しかったから。

 知らないことを分かりやすく教えてもらうのが楽しかったから。

 一緒に居るだけで楽しかったから。

 この楽しい時間が永遠に続けばいいと、心のどこかで願っていた。

 この時間にゴールがあるだなんて、少女は想像もしていなかった。

 

 ゴールはずっと、二人の目の前にあり、死の大口を開けていた。

 

 

 

 

 



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12 ブッドレア ■■■■

「諦められないから悩みが尽きず、諦められないから希望も続く。人生は、その繰り返し」

   ―――篠田桃紅



 『どうしたらいいのか』。

 

 これは、その少女の人生に付き纏う問いかけだった。

 

 幼い頃、『皇帝』シンボリルドルフの走りを見て、少女はその姿に憧れた。

 無敗の三冠ウマ娘。その夢を追い、努力して、努力して、努力して……無敗の二冠まで到達し、夢が叶う直前で、最初に足が折れた。

 復帰し、無敗のウマ娘という新たな夢を得て、メジロマックイーンに敗北し、またしても足を折ってしまい、夢と足を同時に失う悲劇を二度も受けた。

 メジロマックイーンを目標とし、また不死鳥の如く蘇るも、三度目の骨折で復帰は絶望的と言われ、マックイーンまでもが不治の負傷を負ってしまい、最悪に最悪が重なっていった。

 しかし折れきったことはなく、青きウマ娘は不死鳥のウマ娘となり、奇跡を起こして日本中を感動の渦に巻き込んだ。

 

 『どうしたらいいのか』。

 幸運の女神に愛されず奇跡の女神に愛された少女は、常にそう自分に問いかけていた。

 だが結局は二択だった。

 諦めるか、諦めないか。

 どんなにみじめでも無様でも諦めず走り続けるか、諦めて賢い選択をするか、どちらにしても『自分の人生を選ぶ』ということでしかなく、他の全てはおまけだった。

 それがこれまでの彼女の、苦難に満ちた人生の過程だった。

 

 だからこそ、四度目の骨折を迎えてなお、彼女の悩みは「永遠に走り続けるウマ娘など居らず、誰もがいつかは引退する」というものだった。

 

 結局のところ、絵描きの彼は分かっていたのだろう。

 二人が共通して抱えていた重荷は、『いつか来る終わり』。

 ゆえに二人の間には深い共感が生まれやすい土壌があった。

 されど、彼女の終わりがいつかの未来に来る『引退』であるのに対し、彼の終わりは近い未来に来る『死』である。

 彼女にあった選択肢は継続か引退の二択であり、彼にあった選択肢は死にどう向き合うかのみ。

 

 ゆえに、彼女は彼と出会って、諦めないという選択肢を選び。

 彼は彼女と出会い、最後にどう生きるかを決めたのである。

 

 少女がこれまで人生でぶつかった問題の多くは、走ればどうにかなった。

 だからこそ走れなくなるという絶望、走ることで解決しない暗澹が存在したが、それでも最後は走り勝つことでなんとかなった。

 しかし、今回はどうにもならない。

 敵は病。

 走って勝てない。

 勝てるわけがない。

 病と怪我は、ウマ娘史においても幾多の最強ウマ娘を殺してきた最悪の宿敵だ。

 ましてや他人の病など、どうにかできるわけがない。

 

 誰よりも大きな『どうしたらいいのか』を打ち倒してきた奇跡の帝王は、今過去最大の『どうしたらいいのか』にぶつかっていた。

 奇跡の女神はこの少女に微笑むが、幸運の女神はいつもこの少女を嫌っているらしい。

 

 そんなことを丸一日ずっと考えていて、先生に怒られる少女が居た。

 

「―――イオーさん! 聞いているんですか!?」

 

「ひゃ、ひゃいっ! 聞いてます先生!」

 

「どうか真面目に聞いてください。これはあなた達の未来にも関わることなのですから」

 

 先生に怒られた少女がビクッとして、手首に巻かれた青いスカーフが揺れた。

 

「うぅ、久しぶりに怒られた……」

 

「ちゃんと聞いておくべきですわ。決して無関係ではないと思いますし」

 

 先生が怒って黒板前に戻り、しゅんとする少女の横で、少女同様にトレセン学園の"特別授業"を受けていたメジロマックイーンがひそひそと囁く。

 

「マックイーン」

 

「ここでちゃんと聞いておけば、(わたくし)達が友人に助言できることもあるでしょう」

 

「……ん、そうだね」

 

 特別授業の内容は、いわゆる"学問のための知識"ではない、訓戒だった。

 『怪我をして引退した後に気をつけるべきこと』。

 それすなわち、"この教室に集められた引退が見えたウマ娘達"に最も必要な知識を学園が与えるものだった。

 

 心理学的には、人やウマ娘は大事な何かを喪失した時、代替物を求める性質を持っている。

 何かの娯楽が終わってしまった時に代わりになる楽しいものを求めるし、必死に打ち込んでいたスポーツを辞めた後、代わりに打ち込むスポーツを求めたりする。

 ライフワークだった仕事を失ってアイドルに過剰にハマる男、恋人の喪失から宗教にハマる女、レースを引退し喪失感を埋める過程で詐欺師にハマるウマ娘と、例は枚挙に暇がない。

 

 この性質は先天的に持っているものであり、たとえば精神的に未熟な幼児もまた、母親から離された後に揺りかごに収められている時、母親の代替物としてぬいぐるみや毛布に過剰な愛着を持つことがそれにあたるとされている。

 

 『喪失』は心を狂わせる。

 人でも、ウマ娘でも。

 

 怪我、骨折、引退。

 忘れられない過去の栄光。

 今は自分以外のウマ娘を熱心に応援しているファン。

 忘れられていく昔の自分。

 特別だった自分が、特別でもなんでもない自分になっていく感覚。

 同期がまだ特別であるという劣等感。

 見ていることしかできない己から生まれる苦悩。

 大好きな競走にもう挑めない足。

 二度と夢を追えない現実。

 勝ちたいというウマ娘の本能と、もう二度と勝てないという今。

 これまでの人生で打ち込んできた全てが虚無に還る絶望。

 走ることしかしてこなかった自分に、何も残っていないことに気付く暗澹。

 皆に求められ、皆に夢を見せ、皆の特別だったはずの自分が、そうでなくなっていく悲痛。

 誰にも求められなくなった果ての自棄。

 

 経験者でなければ、想像もできない絶望だ。

 本来、誰かの助けなしに乗り越えられるようなものではない。

 心壊れ落ちぶれて当然の心痛だ。

 これに耐えられた時点で、その人物は凡百の精神力をしていない。

 

 人間のプロアスリートであっても、学生のウマ娘であっても、引退が見えてきたならば、入念なケアが必要である。

 これは多くのスポーツ界隈での常識だ。

 

 元甲子園球児の犯罪者が珍しくないように、人生をかけて挑み続けてきたアスリートに、システム的に丁寧なケアを行えなかった場合、心は壊れ、人生も壊れる。

 それは当たり前のことなのだ。

 

「皆さん。大切なものを失えば、代替を求める。

 これは普通の人間にもウマ娘にもある心の動きです。

 どうか、大切なものを失って悲しんでいる自分を否定しないでください」

 

 ウマ娘もそうだ。

 走ることに全力を尽くしてきたがゆえに、足が壊れた後の彼女らはどう生きていいかすら分からなくなり、詐欺師の食い物にもされやすくなる。

 落ち込んでいる時の繊細な十代の少女であれば、変な男や凡庸な男に付け込まれ、大したことをしてもらってもないのに恋をしてしまうこともあるだろう。

 心が弱っている時期とはそういうものだ。

 耐えられなくて当然、耐えられたなら偉大。

 だからこそ、新興宗教の類はそういう時期を狙うのだから。

 

 ゆえに、トレセン学園はそのあたりに丁寧なケアをする授業を行っていた。

 

 こういった最悪は、教育によって防止することが可能である。

 たとえばウマ娘が落ち込んでいる時につけ込み、心理学的作用によって恋愛感情を引き出すタイプの男は、その存在を事前に知っていれば引っかかりにくい。

 あくまで"にくい"止まりだが、無いよりはマシだ。

 聡いウマ娘であれば、絶望の底でも、自分を幸せにする人間と不幸にする人間の見分けくらいはつくようになるだろう。

 

「誰だって、大切なものを失うことには耐え難いのです。

 それを皆さん、忘れないでください。

 ですがそれに向き合うことができれば、きっと道を間違えることはないでしょう」

 

 配られたレジュメには授業の要約、カウンセラーの連絡先、URAの窓口の電話番号などがずらっと並んでおり、「友人に相談するのもOK!」などの記載もあった。

 特別授業が終わり、教室に一人残った少女は、それをデコピンでぺちぺち叩いて眺める。

 

 誰もが永遠には走れない。

 教育は永遠を前提としない。

 終わることを前提に教育を行う。

 それは先人達の懸命なる優しさだ。

 分かっていても、それでも。

 少女は現実を突きつけられた気分になってしまう。

 

「大切なものを失っても、向き合うことができれば、道は間違えない……か」

 

 "正しい道ってどれさ"、と、少女は一人呟いた。

 

 そこに、少女を探しに来た者がやってくる。

 

「テイオー、いるー?」

 

「あ、スカーレット。どしたの?」

 

「……」

 

「スカーレット?」

 

「え、あ、うん、別に大した用じゃないんだけど」

 

 彼女の名はダイワスカーレット。

 スペシャルウィーク、メジロマックイーンなどと同じく、少女と同じチームスピカに所属するウマ娘の一人。

 すなわち少女のかけがえのない仲間であり、親しい友人だ。

 

 竹を割ったような性格に負けん気が強く、勝ち気な努力家で直情的、しかし面倒見が良く責任感が強いため、強気な割に周囲からの受けも悪くないウマ娘。

 言いたいことはすぐさまスパッと言い、裏表の無さもあって信用もされやすい。

 が。

 そんな彼女が、彼女らしくもなく、端切れの悪い言い淀みを見せていた。

 

「あー、そのさ」

 

「どうしたのさ、スカーレット」

 

「や、勘違いだったらあれなんだけど、ウォッカがね?

 あんたが男と手を繋いで歩いてるのよく見るって言ってて」

 

「……あー」

 

「その反応……やっぱ本当なの? え? そういうやつ?」

 

「手を繋いで歩いてたのは本当かな。ま、そういうやつではないけど!」

 

「ひゃー……あんたがねぇ……まだ噂になってないけどゴルシが知ったら一瞬で広まるわよ?」

 

「ああ、そういえばスカーレット恋バナけっこう好きなんだっけ?」

 

「人並みにね! 人並みに!」

 

 なにやらちょっと興奮したスカーレットの様子を見て、少女は大体察する。

 つまりはそういうことだ。

 十代の少女で"そういう話"に興味が無いのは少数派だろう。

 関係を深読みされている、と少女は察して苦笑する。

 

「え、それで、どういう感じなの、いい感じの人なの?」

 

 少女に春が来たと推測して疑わないスカーレットの問いかけに、少女は己の苦笑が乾いていくのを感じていた。

 "ボクは上手く笑えてるだろうか"と思うのは久しぶりで、三度目の骨折の後以来だと、少女はなんともなしに思う。

 

「別に。ああいう人はタイプじゃないし、そういうのじゃないよ」

 

「あら、そうなの。まあいいっか、買ってきちゃったし。はい」

 

「? なにこれ?」

 

「ズバリ……化粧品よ!」

 

「ズバリ……化粧品!?」

 

 どどん、と薬局の袋に詰められた化粧品が少女の前に置かれ、透明な袋の中の化粧品がいくつか透けて見えた。

 それはスカーレットの思いやりから出たものだろう。

 仲間の色恋沙汰への興味もないわけではないが、これを買ってきた彼女の想いの大半は、純粋な仲間への応援で出来ていた。

 

 『人の恋路を邪魔する奴はウマ娘に蹴られて死んじまえ』と言うように、ウマ娘は他者の恋愛を基本的に応援する傾向がある生き物である。

 勘違いを認め、"ふっ"とスカーレットは鼻の下を擦る。

 

「援護射撃のつもりだったけど、無駄打ちになったみたいね……」

 

「あ、ありがとう。気持ちはありがたく受け取っておくね」

 

「いいっていいって。その代わり、本当にそういう感じな人が出来たら教えてよね!」

 

「うん、そうするよ。化粧品は全然分かんないけど……」

 

 化粧品を置いて、スカーレットは去っていった。

 手を振りかっこいい背中を見せて去っていったが、やったことといえば恋バナに興味を持って出歯亀しただけというのだから締まらない。

 置いていかれた化粧品をつんつんつついて、少女は頬杖をつく。

 

「センセーとはそういうのじゃないんだけどなあ」

 

 終わりはとっくに見えている。

 未来に向かって走り出すような物語は、彼と彼女の間には生まれない。

 まして、化粧したところで見えない彼に対して化粧の何の意味があるのか。

 スカーレットの何気ない気遣いが、目に見えた『普通』が、"何もかも普通でない今"を、少女に突きつけている。

 

 無自覚に自殺を止めていた出会いも、互いの名前も知らないまま進んだ関係も、互いの体の不具も、近い死別が決まっているのも、何もかもが『普通の恋愛』には無いもので。

 "そもそもそういうのじゃないし"と少女は思う。

 "ボクが変な目でセンセーを見たら台無しになる"と少女は思う。

 

 雪月花を見るように、彼女は彼を見ていた。

 彼を背負って、その細さと軽さに驚いた時からは、もっとそう見ていた。

 雪のように儚く、花のように手折れそうで、いつだって月のようで、彼が生み出す美しいものを見ているだけで、自分の内側が豊かになるような感覚があって。

 

「そうだよ……あんな……触れたら、溶けて消えちゃいそうな……」

 

 少女は机に突っ伏して、太陽しか見ていないのに、その顔を隠す。

 

 彼は、『幸せだった』のではなく。

 『ボクと一緒に居る時だけ幸せだったんだ』という、気付いた事実を思い返せば、机に突っ伏して顔を隠した少女のウマ耳が――人間の少女の耳が赤くなるように――熱を持つ。

 

「ボクが何度も足を折ってた時、皆の気持ちは、どんな風だったんだろう」

 

 彼女がまだ、青い服のウマ娘だった頃。不死鳥の服のウマ娘となった後。

 多くの人達の声が、彼女を時に支え、時に重荷となり、時に奇跡を起こす力となってくれた。

 

 大切な友達が励ましてくれた。

 かけがえのない仲間達が全力で支えてくれた。

 ファンの声が心の力になってくれた。

 いつも二人三脚で走ってきたトレーナーが、数え切れないほど助けてくれた。

 好敵手のナイスネイチャやツインターボが背中を押してくれた。

 最大のライバルであるメジロマックイーンが、運命に立ち向かう勇気をくれた。

 皆の声、皆の言葉を、少女は一生忘れない。

 

 少女は、これまで出会ってきた人達の想いと言葉を思い出す。

 それがいつでも、彼女に勇気と力をくれる。

 胸の中の感謝は絶えない。

 世間から少女が忘れられていっても、少女は皆のことを忘れない。

 

 かの少年が少女を絵の中に永遠として残そうとしたのに対し、彼女は大切な人達全てを心の中で永遠にしている。

 永遠を絵にする少年と、自分の中で永遠にする少女。

 あの少年のことも、少女が憶えてさえいれば、少女の中では永遠になるかもしれない。

 死別は、忘却とイコールではないのだから。

 

 かつて、少女には皆が居た。

 しかし、あの少年には自分しかいない。

 少女はそれに気付けば、陰鬱に支配されかけていた心を、熱い気持ちで奮い立たせる。

 

「ボクの番、なのかな。

 ボクが折れそうになった時、皆が助けてくれた。

 どんな結末でも笑顔で受け入れられると、皆のおかげで思えた。

 皆のおかげで、ボクは諦めないでいられた。

 ……辛い時に、最後に向かう勇気を貰って、それを知ってるボクだから……」

 

 夢を見せるのもウマ娘の使命。

 少女は夢を見せたのだ。

 自殺しそうになっていた少年に、幸せな夢を見せ、僅かな生を選ばせてしまった。

 

 そして彼もその分、彼女に夢を返そうとしている。

 彼には苦しみも悲しみもなく、彼女のおかげで幸せに死ねるという、優しい夢を。

 彼女が見せた夢が生を繋いだならば、彼が見せようとしている夢は、己の死後に彼女に悲しみを残さないための夢。

 

 本来、ウマ娘が走り、そこに人間とウマ娘が夢を見るのが、人間とウマ娘の現代における汎的な関係性である。

 だが彼と彼女の間にある今の関係性は、人とウマ娘が心を救い合うため、相互に夢を見せ合うという相補性の夢によるもの。

 それは絵と見る人、その両方によって成立するアウラのようなもの。

 

 ファンの人間が一人二人消えるくらいでは、ウマ娘が見せる夢は消えない。

 しかし彼と彼女の創る夢は、二人きりの夢であるために、一人欠ければそれで終わる。

 トレーナーとウマ娘が二人きりで誓った夢が、どちらか片方が欠けた時点で全て終わってしまうように、"二人で見る夢"とは、本当に特別で唯一無二のものとなるのだ。

 

 『きみと重ねた夢』を、ウマ娘が軽んじることはない。

 

 少女は己が頬を強く叩く。

 

 『どうしたらいいのか』。それはまだ何もわからないが、逃げることだけは違う、と―――少女は決心を強く固めた。

 

「あーもう、ボクらしくない!」

 

 置いていかれた化粧品をかばんに詰め込んで、走り出す。

 今日は予定された授業の終わりも早い。

 いつもより早く会いに行ける。

 二人でいつも遠目に見ていたあのレース場で、彼は今日も絵を描いているはず。

 

 会いに行こう。

 会いに行って、話そう。

 まずはそこから。

 そう決めて、そう考えて、少女は走り出す。

 

「悩むより行け、でしょ! ボクなら! てあーっ!」

 

 そうして、リハビリ中の自分が出せる今の最速で、少女は駆け出した。

 

 

 

 

 

 平日のレース場で、いくつものチームが交流も兼ねた模擬レースを行っている。

 チームリギル、チームカノープス、他にも名の知れたチームから名の知れたウマ娘達が多く参加し、休日ほどではないにしろ、平日とは思えない数の観客が応援の声を上げていた。

 

 それをいつものように、遠巻きから絵に取り込んでいる少年の姿があった。

 少女がその姿を捉えるといつものように、少女が声をかける前に、足音で先に気付いた少年が振り向いた。

 

「や、お嬢さん」

 

「こんにちは、センセー」

 

 少年がほっとしたように見えたのは、おそらく気のせいではないだろう。

 

「きみに無言で縁を切られてもう会えなくても、文句は言えないと思ってたよ」

 

「……あははっ! 隠し事してたこと、気にし過ぎでしょ!」

 

「嘘はよくないことだからね。本当は、できればきみには一度の嘘もつきたくなかった」

 

「センセーの生きること自体ヘタクソ感、本当にすごいよねぇ」

 

「……いや、そんなことはないけど」

 

「そんなことあるからね!?」

 

 少女が笑って、少年もつられて笑う。

 

 まだほんの僅かにギクシャクしているが、時間を置いて少しはマシになったようだ。

 

「レース以外でこんなに頭使わされたのは二人目だよ!

 一人目はボクの人生最大のライバルマックイーン、二人目はセンセー!」

 

「ごめんね」

 

「いーのいーの! やっぱボクにレース以外で頭使うのって向いてないみたいだからさ」

 

 いつもそうだ。

 少女はいつも楽しそうに笑っている。

 だから、少年もつられて楽しそうに笑ってしまう。

 少年はいつも優しく微笑んでいる。

 だから、少女はつられて優しくしようという気持ちになってしまう。

 笑い合えるから、大切にし合うことができるのだ。

 少女は何やら珍しい形で描いている少年の絵を、椅子に座る少年の肩に顎を乗せる姿勢で覗き込む。

 

「今日は何してるの?」

 

「屍骸を作りたいんだけど、手伝ってくれるかな」

 

「何事ぉっ!?」

 

 そして。

 

 心底仰天した。

 

 

 

 



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13 ラナンキュラス ■■■■

「人と一緒に行動すると、自分を見失って、その人に似てきます。自分を保つためには、なるべく人と離れていた方がいいんです」

   ―――堀文子


 『優美な屍骸(le cadavre exquis)』。

 20世紀にシュルレアリスムが生み出した、『新たなる芸術』を生み出す手法の一つである。

 

 他の人が何を作っているかを知らないまま、自分の担当部分だけを制作し、結果的に誰も予想できなかった意外な作品が生まれるという『皆の芸術』の一種。

 つまり、現代で言うところのリレー小説の意外性、自動生成文章の面白さ、合作コラージュ画像の良さなどの始祖とも言えるものだ。

 

 全員が書いた文章がしっちゃかめっちゃかに繋がって、AIの自走生成文章のような面白い詩が生まれる。

 それぞれが本気で作った彫刻を組み合わせた結果、まるで地獄の隅に住んでいそうなキメラの立体が出来上がる。

 映画制作であるのに、5人の脚本家が自分の前の脚本の最後の5ページしか確認できないという、異様な前提で作った長編コメディ映画も世に出た事がある。

 絵の場合は四つ折りにして四人が四部分を書き終えた後に広げるという手法や、完成した絵を糊で貼り付けるものなどもある。

 布の絵の上に、紙の絵を貼り付ける手法も珍しくはない。

 

 なればこその優美な屍骸(le cadavre exquis)

 これを思いついた文化人達が最初に遊んで生み出した文章は、優美な死骸はワインの新酒を飲むだろう(Le cadavre – exquis – boira – le vin – nouvea)―――であったと言われている。

 

「つまり、二人で別々に絵を描いて、後で合体させようってこと?」

 

「そういうこと」

 

 少女はぶんぶんと首を振った。

 

「ムリムリムリ! センセーの絵とボクの絵で釣り合うわけないじゃん!」

 

「いいんだよ、そんなに重くとらえなくても。もとは遊びの一種だしね」

 

「えー、うーん」

 

「きみと一緒に遊びたいんだよ。それだけ。いやかな?」

 

「センセーズルだよ。そういう言い方されたら断れないじゃん」

 

「ははは。色えんぴつとかクレヨンとか、いろいろ持ってきたからすきなのを使っていいよ」

 

 画架が二つ。

 折り畳みの椅子が二つ。

 筆が一本、色鉛筆が一本。

 キャンバスが一つ、画用紙が一つ。

 二人で同じレース場を眺めて、違うものを書き始めた。

 

 互いが互いの絵を見ないようにして、少女は絵の真ん中を、少年はそれを取り巻く全てを担当することを決める。

 少年の絵に、最後に少女が描いた絵を貼り付ければ完成だ。

 

 少女は今までやったことのない絵の形式にワクワクし、いつも憧れと尊敬をもって見ていた彼の絵に自分の絵が加わることに不思議な高揚を覚え、初めて彼と並んで絵を描くという今に、自分でもよく分からない安らぎを感じていた。

 それは先進国のストリートアートではよく見られるという、憧れのアーティストが道路に描いたものの横に、自分のアートを書き加える時の気持ちが近いだろう。

 感じている高揚と安らぎだけが、彼女の内より生まれる特別な感情だった。

 

「センセー、なんでいきなりこんなもの描こうと思ったの?」

 

「きみに全てがバレて……これまでのことを思い出して、それで、すこし思い直したんだ」

 

 少女が首をかしげて、少年は答える。

 

「きみと過ごした時間も、わたしにとってはなによりかけがえのない宝物だ」

 

「!」

 

「きみだけじゃなく、幸せなこの時間も、絵の中で永遠にしたいと思ってね」

 

 彼が彼女を描けば、彼が見た彼女は絵の中に描き残される。

 絵が残る限り、それは永遠になるだろう。

 だが、それだけだ。

 絵にされるのは、『彼が見た彼女』のみ。

 

 今、ここで創られようとしているのは、『彼と彼女が過ごした時間』だ。

 彼と彼女の二人で一つの絵を創ることで、それを何よりも正確に形にしようとしている。

 二人で創った絵画ならば、何よりも二人の思い出の形として相応しいだろう。

 

 描く者、観る者、描かれた絵、それが渾然一体となる表現技法。

 近年の現代アートを代表する一人であるフェリックス・ゴンザレス=トレスなどが得意とする『観客参加型芸術』と同じ系譜に属する、彼と彼女だけの特別な芸術であると言えるだろう。

 

「もー、しょうがないなーセンセーは。ボクじゃなきゃ付き合ってあげてないんだからね?」

 

「ありがとう、お嬢さん」

 

「クレヨンは流石に……色鉛筆でいいか……うわあ150色!? なにこれ!?」

 

「どうしたの」

 

「どうしたのはこっちのセリフだよセンセー! 小学校なら24色で羨望の目で見られるよ!?」

 

「そ、そうなのか……まあすきな色使ってね」

 

「うん! センセー! 聞いていい?」

 

「なんだい?」

 

「色が英語表記なせいで読めないんだけどこれ何色!?」

 

「……ちょっと待ってね、えんぴつの側面に色の名前彫ってあるから」

 

 なんやかんやとわちゃわちゃして、二人は描き始めた。

 

 少年は迷いなく、少女が何を描いてもそれなりに映えそうなものを描く。

 

 少女は最初は迷っていたが、何かを思いついた顔になると、一気に色鉛筆を走らせた。

 

「お嬢さんは何を描くんだい?」

 

「秘密!」

 

「そっか。描き終わったら触れて見るのが楽しみだ」

 

「下手でも笑わないでよ? ボク、絵はそんな自信あるわけじゃないからさ」

 

「笑うものか。絵に本質的な上手い下手はないよ。あるのは本気か適当かだけさ」

 

「ふーん。じゃあセンセーの描き始めの頃の絵とか見せてよ」

 

「えっ……ああいや、昔のわたしの絵は……下手だし……」

 

「上手い下手はないんじゃないの?」

 

「うっ」

 

「あははっ。

 いーのいーの、ボクの絵は下手でもいいから、庇わなくていいんだよ。

 センセーの上手な絵が好きだから、センセーより上手くなれる気がしないしね」

 

「ぐぅ……いや本当に……芸術は上手い下手では……」

 

「あはははっ! センセーが困ってる! めずらしっ!」

 

 話し合って、笑い合って、語り合った。

 

「むう……思ったほど上手く描けないや……」

 

「最初はふんわりと描く気持ちがいいと思うよ。

 画用紙はいっぱい持ってきたから、失敗を恐れずにね」

 

「はーい。ふふっ、センセーが先生みたい」

 

「人に教えたことはないんだけどね」

 

 楽しいことを。

 

「今日はねー、オススメの飲み物買ってきたんだよ、いでよはちみー!」

 

「おや……はちみつの香りがするね。レモンの香りも少々。飲みものかな?」

 

「はちみつドリンク飲んだことないの? そりゃそっか。めっちゃ美味しいよっ!」

 

「はちみつ主題の現代アートジャンルがあるのを知ってるくらいだね、わたしは」

 

「あるんだ……」

 

「実は今日はおやつも持ってきてるんだ。一時間は描いてたし、すこし休憩して食べようか?」

 

「おおー!」

 

 楽しいことだけを。

 

「ねえ」

 

 楽しいことだけを、話して。

 

「センセーさ、なんで笑ってられるの?」

 

 いられるわけがない。

 

「ごめん、ボクあんまり食欲ないや」

 

「そうか」

 

「センセー、死んじゃうんでしょ?」

 

 少年から貰ったお菓子を一口かじって、持ってきたドリンクを飲むのもそこそこに、少女は真剣な顔で少年を見つめる。

 少年はいつものように穏やかな表情で、死が近いだなんて全く思えない。

 やがて来る死を知ってから年単位の時間が経った少年と、まだ全然時間が経っていない少女との間で、受け入れ度合いの差があるのは当然のことだった。

 

「意味分かんないよ。なんで楽しそうなの。なんで幸せそうなの。

 だからずっと……センセーが死にそうだなんて、死んじゃうだなんて思わなかったのに」

 

「きみがいたからだよ」

 

「本当に? それだけ?」

 

「うたぐりぶかいなあ」

 

「だって……ボクそんな、センセーに特別なことしてないし。何もしてあげられないし」

 

 少女の内に、無力感が芽生えていた。

 かつて折れた足で思うように走れないままレースで負けた時に似て非なる無力感があった。

 『頑張っても意味はない』という実感。『求めるものは得られない』という現実感。『どうにもならない』という敗北感。

 かつては"なにくそ"と思えたが、相手が病気では叶わない。

 相手が病気では、敵わない。

 

「きみはいつも、わたしの手を引いて、わたしを気遣ってくれるじゃないか」

 

「え? いや、そんなこと誰でもするでしょ。当たり前のことしかしてないよ、ボク」

 

「……ふふふ。きみはまぶしいなあ」

 

「?」

 

 『自分には彼に何もしてあげられないという無力感』そのものが、彼女の途方も無い善性と、彼が彼女を太陽と見る理由の、存在証明だった。

 それを当たり前と言えることが、何も特別なことはしていないという彼女の認識が、ごく当たり前に月を照らす太陽のようだった。

 彼女は最初からずっと、彼を救い続けているというのに。

 

 少年はクッキーをつまんで、口に運ぶ。

 食べ物は何を食べるかだけでなく、誰と食べるかで味が変わるものだ。

 少年は少女の横で、美味しそうにクッキーを食べて微笑んでいる。

 

「わたしが笑ってごはんを食べられるようになったのは、つい最近なんだ」

 

「え?」

 

「子どものころからずーっとわたしは、笑えないまま生きていてね」

 

 "食事で幸せな気分になる"という、当たり前すらも。

 

「きみのおかげだ。きみと出会ってから毎日がきらきらしてて、毎日がしあわせなんだよ」

 

 彼は、彼女から貰ったのだ。

 

「分かんないよ。センセーの気持ち、全然分かんない」

 

「じゃあ、きみが走っている時の観客の気持ちも分からないのかな?」

 

「え?」

 

「走っているきみを見て、勝ったきみを見て……

 みんな、最高の笑顔を浮かべていたんじゃないかい?」

 

「え……あ」

 

「人には本能があるんだよ。

 『すてきなものを見たい』というものが。

 人にはそれに繋がる機能もあるんだ。

 『すてきなものを見たら元気になる』というものが。

 ウマ娘が走って、画家が絵を描いて、そして人はすてきなものを見るのさ」

 

 素敵なものを見たいという本能と、素敵なものを見たら元気になるという機能、人は誰もがその二つを持っている。

 

「きみの笑顔を見たかった」

 

 素敵なものを生み出せる人がいる。

 

「雲混ざる青空から、夕焼けに変わっていくような、二着の勝負服も見てみたかったな」

 

 素敵なものを作り出せる人がいる。

 

「でもそれは高望みだから、諦めてる。いまでじゅうぶんにしあわせだしね」

 

 そして、生まれつき、そういう素敵なものを見ることができない者もいる。

 

「わたしが出会った人の中で、きみが一番素敵な女の子だって、絵で証明してみせる」

 

「―――」

 

「皆が知らないところで、一人の人を救った女の子がいたことを、見ただけで分かる絵を描いて」

 

 描いて、証明する。

 

 いつだって、彼が好きになる素敵なものは、彼が見ることのできない世界に息づいていた。

 

「きみはやさしい。

 周りの人を好きになって、大切に思ってるのが伝わってくるよ。

 わたしみたいな付き合いの短い人間すら大切に思ってくれてて、本当にうれしい。

 きっときみは、大切な人が傷ついた時、わたしなんかよりもずっと悲しむんだろうね」

 

「そんな……」

 

「わたしが死んで、そんなきみが悲しまないでいられたら」

 

 己の人生に夢見ることができず、未来に夢見ることができなかった少年は、夢を見た。

 

「最後の最後に、別れる悲しみに、出会えた喜びが勝るなら。きっと、それは悲劇じゃない」

 

 彼女がこれからずっと悲しむことなく、笑って、幸せで居られたら良いな、と。

 

 そんな夢を見た。

 

「難しいよ、きっと無理だよ、そんなの。だって……センセーが居なくなるの、嫌だよ」

 

「きみに全部バレてしまったからね。わたしはそこを目指すしかないんだ」

 

 今少年の敵は唯一つ。

 残酷な世界ではない。

 最悪の運命ではない。

 迫りくる死でもない。

 悲しみだ。

 彼と彼女の物語を悲しみに終わらせないことだけを祈望し、筆の剣を握っている。

 

「どうか穏やかに、悲しいことだなんて思わないで、笑ってお別れできたらと……そう思う」

 

「悲しいことは悲しいことだよ、無くなったりなんかしないよ、センセー」

 

「さあどうだろう。悲しいことは、悲しいことのままなのかな、お嬢さん」

 

 彼は知っている。

 悲しみを打ち倒すヒーローが居ることを。

 彼の内に根付いていた悲しみを、既に彼女が打ち倒していたから。

 

「もうわたしは悲しくないんだ。

 悲しみは消えるんだよ、お嬢さん。

 誰かが誰かの悲しみを消すことはできるんだと……今のわたしは、信じている」

 

 少年が立ち上がり、筆が動いて、絵に色が乗った。

 

 

 

 

 

 描いて。

 描いて。

 描いて。

 二人が描き上げた絵が合わさって、一つの絵が完成する。

 

「これ、もしかして、わたしかい?」

 

「うん」

 

「ありがとう。とても嬉しいよ」

 

「ん」

 

 速乾の絵の具が作り上げる緑の風景の中心に、少女が描き上げた一人の人間が居た。

 

 少女は遠目にレース場を見ながら、草地をとんとんと踏んで、ありもしない可能性を思い、何の意味もないぼやきを漏らす。

 

「あーあ、どんな怪我でも病気でも治せる薬があったら、すぐにセンセーに使うのに」

 

「そんなものがあったらわたしがきみに使っているよ。きみの足の怪我を治したい」

 

「……センセーはさぁ!」

 

 砂の城に触れるような気持ちで、笑い合った。

 

 出来上がった絵は、なんてことのない絵だった。

 

 彼が描いたのはこの場所の風景。

 彼女が彼を最初に連れて来てくれた場所。

 二人で幾度となく会った場所。

 レース場の夢の熱に触れられる、レース場を一望できる草原。

 彼女が何を描いても合うよう、無難な風景を高いクオリティと独特の色彩で組み上げていた。

 

 彼女が描いたのは、いつも見ていた彼の描き姿。

 いつもレースで、彼女は多くのウマ娘の背中を見てきた。

 その全ては追い越すための背中だった。

 見てきた背中のほとんどに彼女は挑み、それを追い越し、勝ってきた。

 彼女の中で、"追いつけなかったマックイーンの背中"の次に印象深い背中は、触れるだけで溶けて消えてしまいそうな、描いている時の彼の背中だった。

 

 少年は彼女との思い出深いこの場所を描いて、少女は記憶に残る彼の描き姿を描いた。

 

 かくして、出来上がった絵は、ここに来ればいつだって見れる風景のそれに成っていた。

 

 彼が描いた世界に、彼女が描いた彼が居る。

 

 それはまるで、彼が此処に生きていた証のような『美麗な屍骸』で。

 

 綺麗な絵としては死んでいて、芸術としては美しい。

 

 壊れているようなのに、それが完成された形で、アーティスティックで。

 

「人生はいつか終わる夢だ。それをわたしは、たのしい夢にしたいのさ」

 

「……」

 

「だから永遠を探してたんだよ。永遠にしたい刹那を探してたんだ」

 

 何故、人々が『それ』を美麗な屍骸と呼び続けたのか―――その意味を、少女は自分なりの理屈で理解した。

 

 見る者の数だけ解釈が在っていいから、それは芸術と呼ばれるのだ。

 

 

 

 

 



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14 パンジー ■■■■

「絶対という言葉は、神様しか使えない。以後、この言葉は神様に返した」

   ―――野見山暁治


 いつも彼が絵を描いている近くの樹の下で、彼が寝ているのを少女は見つけた。

 

「ありゃ、珍し。センセーが寝てるの初めて見たよ」

 

 今日は休日。

 レース場の熱気がピークに達する日。

 少女が知るかぎり、かの少年は一時間、数時間と描き続けても平然と描き続けていた。

 17時頃に会った時にいつから描いているのか聞けば、「今が何時かは見えないけど7時くらいから描いてるかな」と平然と言う人間だった。

 

 夜が見えていない・夜でも問題なく描けるからか、夜になっても描き続けようとしている彼を「夜の独り歩きは危険だから」と、少女が駅まで引きずって行ったことも一回や二回ではない。

 休憩する時は大体の場合少女を気遣ってのことで、少年は疲れを見せたことも、休憩を必要とする素振りを見せたこともない。

 彼女の中の彼は、放っておけばいつまでも描き続け、休憩なんて必要としない、細身の鉄人―――強靭で綺麗な、銀色の針金のようなイメージだ。

 

 休んでいるところも寝ているところも、これまでイメージしたことすらなかった。

 そんな彼が、樹の下で寝ている。

 前日寝不足だったのか、今日が冬らしくない陽気の日であるからか。

 ……あるいは、もう()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のか。

 

 少女はひっそり歩み寄って、彼の隣に腰を降ろした。

 少年の膝の上に乗っていたウマ娘の彫刻が揺れる。

 

「センセー」

 

 少年は応えない。

 少女が見つめる先で、楽しそうな表情で夢を見ている。

 樹の影が二人を飲み込み、暖かな陽気の中、涼やかな風が草木を揺らす音が聞こえた。

 

「センセー、起きてる?」

 

 木の葉がゆらり、ゆらりと、空中を緩やかなジグザグ軌道で落ちてきて、それが少年の顔に落ちてきそうだったので、少女は空中でそれを掴み取る。

 大昔の剣豪のようなことをさらりとしつつ、少年の前髪を整えつつ左右にどけ、少女は少年の顔をじっと見た。

 一分。

 二分。

 三分。

 少女は己の肘と膝をくっつけて頬杖をつき、五分経ってもまだ見ている。

 

 彼は目が見えないから、顔をじっと見ていても気付かれることはない。

 けれど彼が起きている時、向き合っている時は、"彼がまっすぐな目でこっちを見てくるから"という理由で、少女は彼の顔をじっと見ていられない。

 

 彼の眼が見えないことは分かっている。

 なのにいつも、見えていないけど、見えている気がしてしまう。

 心の奥底まで見透かしてきそうな、何よりもまっすぐな閉じられた瞳。

 普通の人の視線は外せる気がするのに、心の眼で見ているようなその視線はかわせず、逃げられる気もしない。

 盲目の彼にじっと見られていると、なんだか恥ずかしくて、大人しくしていられない、だからどうしていいか分からなくなる―――そう、少女は思っている。

 

 だから、彼が自分を見ていないと確信できる今、思いっきり彼を見ていた。

 "飽きないなあ"と思いながら、彼の頬をつんつんとつついてみたりする。

 

「……幸せそうに眠るんだね、センセーって」

 

 そっと、少女の手が少年の首に触れる。

 細い首だった。

 肌色は薄く、肉も薄く、血管が浮いて見える。

 少女はウマ娘の中でもかなり小柄で、背の高い小学生程度の体躯であったが、そんな少女と比べても少年の首は細かった。

 

 ウマ娘の腕力なら、おそらく容易く折れる。

 締めてもすぐに殺せる。

 これだけ脆い細身の少年の首であれば、鍛えた成人男性の格闘家が足元にも及ばないほどの身体能力を持つウマ娘であれば、いとも容易くどうにかできる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()こともできるだろう。

 

「……」

 

 そっと、優しく、少女の手が少年の首に触れる。

 ざわざわと、風に揺れる木の葉が擦れる音が鳴っている。

 

 かつて夢破れ、敗北の味を知り、幼い頃からの憧れが色褪せた時、少女は死んだ方がマシだというくらいの苦しみを味わった。

 味わった上で、笑顔を作って、周りに心配させないよう振る舞った。

 表面上は平然としていても、心はずっとズタズタだった。

 一番弱っていた時期は、「夢を見ている途中に死んでたらこんな気持ちを味わわなくて済んだのに」と思うことすらもあった。

 だから、少女は知っている。

 

 幸せな夢を見ながら死ねることは―――幸せなのだと。

 

 幸せな夢を見ている最中は、夢以外何も考えられないくらい、幸せなのだと。

 

 辛さが分かるからこその優しさ、というものもある。

 ここで幸せな夢を見せたまま終わらせてやるのも慈悲だ。

 この後の彼の人生に待っているのは短命の死と、死の直前の絶望と恐怖しか無い。

 しかも、その残り時間を少女に悲しみを残さないために使おうとしている。

 最後の瞬間、後悔して死を迎えでもしたら……そう思うと、少女の体はぶるりと奮えた。

 

 死ぬより辛いことがあることを、少女は知っている。

 

「センセーが一番辛かった時、泣いてた時に会えてたら、何か違ってたのかな……」

 

 それでも結局、少女は彼に傷一つ付けることはしなかった。

 この少女が意図的に他人を傷付けようとすることなど、できない。

 彼女を『本当に優しい子』と見た彼の慧眼は正しい。

 彼女は何があろうとも、決定的に選択を間違えることだけは無いウマ娘であったから。

 

 そっと、首から手を離す。

 首から離した手で、そっと彼の頬に触れた。

 ずっと見つめていた顔に触れ、その感触を、まだ途絶えていない彼の生を確かめる。

 冷えた手に、彼の頬はほんのりと暖かかった。

 

「一緒に死んであげよっか、センセー」

 

 ちょっと冗談めかして、内心を読ませない曖昧な表情で、少女は言う。

 

「……センセーは喜ばないか、そういうの。死んじゃったら何にもならないしね」

 

 別に、一緒に死にたいわけではない。

 彼のために死にたいわけでもない。

 心中願望など、この太陽の少女にはない。

 ただ、やがて死ぬ友人を見ていると、少女はどうしても思ってしまうのだ。

 "一人ぼっちであの世に行くのは寂しいんじゃないか"、と。

 少女自身、一人ぼっちを忌避する性質を持つために、その優しい想いはとても強く在る。

 

 少年の頬にふんわりと触れ、その顔をなぞり、少女は願いを口にする。

 

「生きていてほしいなあ」

 

 叶わぬ願いを。

 

 今、こうして触れられるのに。

 こんなに暖かいのに。

 ここに生きているのに。

 やがて、それは終わるのだ。逃れようもなく。

 

「ボクが頑張ってどうにかなるなら、いくらでも頑張るのに……」

 

 夢半ばで終わるのが一番辛いのか。

 夢が完全に破れて終わるのが一番辛いのか。

 夢が無いまま終わるのが一番辛いのか。

 幾度となく得た新たな夢が全て潰えていくのが一番辛いのか。

 あるいは、ろくな夢も見られないまま病死していく人間を見ているだけなのが一番辛いのか。

 それは、人にもよるだろう。

 

 苦しみは千差万別であり、この世界のどこにも満ちている。

 "この世で自分だけが苦しいんだ"という悩みは、往々にして正しくはない。

 誰もが大なり小なり苦しみを抱えており、苦しみ自体は珍しくもなんともないがために、人々は興味がない界隈の苦しみに興味を持つことさえない。

 

 彼が死んでも、世の中の大半は悲しむことすらない。

 知らないどこかの少年が死んだだけだからだ。

 死後に評価されたタイプの画家のほとんども、死んだ時には誰も悲しまなかった。

 

 ここではない世界であれば、競走馬が死んでも世の中の大半は悲しまない。

 世間の大半にとっては興味も無いからだ。

 競走馬の悲劇的な安楽死など、テレビのニュースにもならない。

 

 だが、画家も競走馬も、死後ずっと後に大勢に評価され、その死を悲しまれることは多い。

 死後に個展が開かれ評価される画家がいる。

 死後に本やアニメで使われて認知度が爆発的に増した馬がいる。

 生前に受けなかったような評価や称賛を受けることも珍しくない。

 その画家やウマが死んだ時には興味も持たなかった、あるいは死んだ時には生まれていなかったような人間達が、後世の伝記や娯楽創作を見て知って、その死を悲しむのだ。

 

 奇妙な話だ。

 死んだ時は、ほとんどの人に悲しまれなかったのに。

 後世になってその画家の絵が出回ってそれが楽しまれたり、そのウマに関する創作が楽しまれたりして、それでようやく大勢に死を悲しまれる。

 

 まるで―――"嗜みの一環として死を悲しまれている"かのようだ。

 

 それを、本当に"その者の死を悲しんでいる"と言えるのだろうか?

 一度も会ったことのない過去の人、馬、その死を悲しむ死と。

 生きている間に触れ合った大切な存在の死を悲しむ死と。

 この二つは同じ線上に存在する悲しみなのだろうか?

 

 無論、どちらも悲しみであることに変わりはないだろう。

 馬を世話してきた人間と、後世でアニメなどで知った人間。

 画家と私生活で付き合いがあった人間と、後世の伝記などで知った人間。

 これらは全て、その存在の死を悲しんだという点では同じである。

 ただ、『悲しみの中身』だけが違う。

 

 ゴッホの死が広く悲しまれたのは、後世の伝記や回顧展などで知名度が爆発し、その絵の価値が爆発的に上がってから。

 競走馬の悲劇的な死が一般的に知られ、人の悲劇的な死のように悲しまれたのは、競走馬を題材にした創作が定着し、競走馬を人間に準ずる有人格のように扱った創作が流行ってから。

 『記憶』になる悲しみと、『記録』から得た悲しみは、違うのだ。

 きっと、根本的に。

 

 この少年が死に、死後の絵を評価した人達は、『記録』から彼を知って悲しむかもしれない。

 けれど、この悲しみを『記憶』にするのは、きっと数人で終わりだろう。

 その数人の内の一人に、彼女はなるのだ。

 

 彼を『記録』ではなく、『記憶』して、この先も生きていくのだから。

 

「なーんでセンセーは、自分が死んで悲しむ人を無くせるだなんて、思ってるんだか……」

 

 この少女は昔から、『絶対』という言葉を言い続けてきた。

 絶対に勝つ。

 絶対に諦めない。

 絶対に夢を叶える。

 絶対に、絶対に、絶対に。

 絶対という言葉を誓約のようにして、絶対という言葉の力で突き進み、自分で口にした絶対という言葉を、自分自身の敗北で裏切ってきた。

 絶対に勝つと決めたレースに負け、絶対に叶えると決めた夢は破れた。

 そうして、今の彼女がある。

 

 "絶対にセンセーを助ける!"と言いたかった。

 "絶対大丈夫!"と言いたかった。

 "絶対に諦めない!"と言いたかった。

 昔の自分なら言えただろうということが分かってしまい、少女は拳をぎゅっと握り締める。

 

 『近い内に絶対に死ぬ』人に、残酷な気休めを言えるほど、彼女ももう無邪気ではない。

 

 少女にできることは、頑張って生きている彼の頭を、優しく撫でてやることくらいだった。

 

「……ん」

 

「!」

 

 と、そこで、彼が声を漏らす。

 どうやら首やら頬やら頭やらを彼女が触ったせいで起き始めてしまっているようだ。

 少女はそこで我に返る。

 感傷的なことを考えつつ、愛おしそうに彼に触れていたが、よくよく考えれば寝ている隙を狙って異性の体をベタベタ触るというのはだいぶアウト。

 男女逆であれば通報ものだ。

 まして相手は全盲の人間。

 抵抗できない社会的弱者。

 罪状の重さが半端ではない。

 "つい"触れたくなって、触れながら彼のことを考えていた自分を自覚し、少女は首をぶんぶん振って自分を取り戻す。

 

「やばやば、いくらなんでもベタベタ触りすぎたかな……というかボクなにやってんのさ!」

 

 なんで自分がそうしていたのか、少女は自分でもよく分かっていなかった。

 

 少年は目を覚まし、眼前の少女の呼吸音や少女の踏んでいる土の僅かな擦過音からそこに誰かが居ることを把握するが、少女が硬直しているせいでそれがかの少女だと認識できない。

 

「……誰?」

 

「……ボクボク、ボクだよ」

 

「……ああ、お嬢さんか。おはようございます」

 

「お、おはようございます? 今昼だけど」

 

「あ、そうか、なんだか無性に疲れて寝てて……触れられたような感覚が……」

 

「……そ、そっか」

 

 少年は己の頭に触れ、皮膚ではなく髪だからこそ残る『人の手が触れた痕跡』、具体的に言えば人の手で撫でつけられた痕跡を指先で発見、彼女に自分が撫でられていたことを察し、そこに気付きを得ていた。

 

「ああ、なるほど」

 

「? 何納得してるの?」

 

「夢の中で怖い鬼が出てね。

 わたしはきみを守ろうとしたんだけど……

 きみがぱぱっと倒しちゃって、わたしを子供扱いしてなでていたんだ。謎が解けたよ」

 

「あー」

 

「ありがとう、お嬢さん。夢の中でもわたしを助けてくれて」

 

「センセーの夢の中に出て来るボクとか確実に本物より美人な別人じゃん!」

 

 撫でてくれてたんだな、と少年は感謝する。

 大して嘘が上手くもない少女は視線が思いっきり泳いで、ばれなくてよかった、と思う。

 少年は夢の中の撫でられた感触を思い出して嬉しそうにしていて、少女は己が掌を見てベタベタ触った感触を思い出し、身悶えしている。

 

 少女は可愛がられるタイプであるので、撫でられた経験は多くても撫でた経験が少なく。あまり真っ当な幼少期を過ごして無さそうな彼は、普通に撫でられた経験が少ないのかもしれない。

 

 ざわざわと木の葉が揺れている。

 まだ寝起きでゆったりとしている少年と少女は談笑を始めた。

 普段から穏やかな少年であったが、寝起きも相まって普段以上にゆったりとしていて、最速を競うレース場に置いていたら蒸発して消えてしまいそうだ……なんて、少女は思った。

 

「あ、センセー聞いてよ聞いてよ! 今日の朝ね、すっごい面白いことがあったんだ!」

 

「へぇ、聞かせてくれるかい?」

 

「あのねあのね、マヤノトップガンって子が居て、その子が壁と一体化してたんだけど……」

 

 なんでもない話で盛り上がっていると、少年の膝の上から彫刻が転がり落ちる。

 

 それを拾い上げ、少女は首を傾げた。



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15 エキザカム ■■■■

「美しい女性を描くには、最も美しい女性を見る必要があります。しかし実際には美しい女性は極めてまれです。だから美しい女性を描くために私は心の中の理想の姿を描きます」

   ―――ラファエロ・サンツィオ


 絵画と彫刻は、極めて近い世界である。

 かつてはそういう表現しかなかったというだけで、絵画は2D、彫刻は3Dの芸術表現の代表であったものであり、両者は技術や美的感覚において大いに交流のあるジャンルであった。

 "平面に落とし込む"のが絵画であり、"立体を掘り出す"のが彫刻である。

 ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、歴史上名を残した名画の創り手は、彫刻にも手を出しているということが多い。

 

「え!? これセンセーが彫ったの!? こっちも上手いじゃん!」

 

「絵と比べると二段三段は落ちるけどね」

 

「よく描けるなあって思ってたけどよく彫れるなあって改めて思ったよ……」

 

「ああいや、彫刻は絵画より楽なんだよ、指先で触れておぼえた形を彫ればいいから」

 

「え? ああ、そっか、そういうこともあるんだ」

 

「古くはゴメッリ、新しくはレッドホーク。

 皆盲目の画家ながら、立体を創るのに長けていたね」

 

「へー……あ、じゃあこれボク!?」

 

「あ、いや、それはメジロマックイーンさん」

 

「なんで!?」

 

 よく見たらこれ木彫りのマックイーンっぽいじゃん!と少女は思った。

 

「そこはこう……ボクから彫り始めるとこでしょ! ボクが一番じゃないの!?」

 

「ひさしぶりだったから、練習したくて……

 きみを彫るならせめて感覚を取り戻してからにしたくてさ。美人にしたかったんだ」

 

「ぐぬぬぬ……ゆ、許す!」

 

「ありがとう」

 

 少女の気分はすっかりNTR(寝取られ)一歩手前のそれ。

 まあ、彼の宿業はNTRというよりはMTR(看取られ)かもしれないが。

 

「と、いうか、冷静に見たらこれ全然マックイーンじゃないね……」

 

「想像上の人だからね。足音から想像するにこのくらい」

 

「うーん、本物のマックイーンはもっとすらっとした美人だよ」

 

「そうなんだ。わたしの技量の問題もあるかもね。本物はどんな感じだい?」

 

「もうちょっと背があるし、髪は長いし、胸は全然無い。ぺったんこで板みたいな感じ」

 

「言うねお嬢さん……」

 

「子供みたいって言われるボクより無いもん、マックイーン」

 

「言うね……」

 

 少女に言われるがまま、木彫りのマックイーンは少年の手で胸を削られていった。

 

「おーマックイーン感出てきた出て来た……ところでなんで今日は彫刻?」

 

「ああ、いや……その、なんだ」

 

「?」

 

 少年が見たこともないくらい歯切れの悪い話し方をしていて、少女は可愛らしく首を傾げる。

 

「ええと……」

 

「……センセー、まだかかりそう?」

 

「ごめんね。あーっと、こう……言えば一言で済むんだけども」

 

「ボクあんま気が長い方じゃないよ。

 センセーの絵を静かに見てる時は自分でも珍しいって思うくらいなんだから」

 

 少女は腰に吊っていたホルダーから、大好物のはちみつドリンクを取り出し、飲みながら何やら死ぬほど言い辛そうにしている少年の次の言葉を待つ。

 

「……」

 

「センセー?」

 

「その」

 

「うん」

 

「きみの肌に触れてもいいかな」

 

 そして、はちみーを吹き出した。

 

「え? え? ええええ!?」

 

「あ、突然こんなこと言われてもこまるだろうから、断ってくれても」

 

「ま、待って、まず理由言って!

 センセー女の子にセクハラしたいとかのキャラじゃないよね!?」

 

「ん……盲目の画家が描いた人物画を見たことはあるかな。わたしのもの以外で」

 

「センセーが描いたのしか見たことないけど、それがどうかしたの?」

 

「想像で他人の姿を頭の中に構築して描くというのは、実はそんなに主流じゃないんだ」

 

「へ? そーなの?」

 

「ほとんどの人は、その、あの……モデルになった人に触れて、その形を把握して描くんだ」

 

「………………………………あっ、ふーん」

 

 もにょもにょした表情で、少女は納得して頷いた。

 

 彫刻と絵画には通ずるところがある。

 彫刻は手で触れて形を把握して縮小版に落とし込むため絵画より盲目に向いている。

 彼は触れたものの形を正確に、加えて色をある程度把握できる。

 で、あれば。

 その人を正確に描くには、触れて知るのが一番だろう。

 彼の目は、その指先に在るのだから。

 

「あの、だね……色々思い直す機会があったから、描きたいものも、また増えて」

 

「想像上のボクだけじゃなく、正確なボクも描きたくなった?」

 

「ん……はい」

 

「センセーは、ボクに、触りたいの?」

 

「……うん」

 

 妙な空気が流れる。

 

「芸術的な意味だけで? 他意はない?」

 

「そういう……そういう気持ちが無いと言ったら、嘘になる。ごめんね」

 

 変な空気に、二人がむずむずとしている。

 

「謝らないでよ。……別に気にしないから」

 

「え」

 

「さわっ、触っても、いいよ? 別に? 芸術のためだしね? センセーがしたいなら」

 

「えっと、いいのかい? 女の子には気安く触れたらいけないと教わったけど」

 

「センセーは気安く触れないでしょ? それに……」

 

「それに?」

 

 彼の首や頬にベタベタ触っていた自分の手を見つめて、少女は続ける言葉に一瞬詰まった。

 

「いや……あの……ボクは拒めないというかどの面下げて拒むのって感じなので……」

 

「?」

 

「と、とにかくどうぞ! その代わり、ボクが嫌だって言ったらそこでストップね!」

 

「あ、ああ、ありがとう」

 

「……あと、優しくしてね。痛くしないでよ?」

 

「……はい、気を付けます」

 

 背負って運び・運ばれたことで、二人はボディタッチの壁を知らず識らずの内に越えていた。

 心の距離も近付き、引かれていた一線も無くなり、最大の隠し事も無くなっていた。

 更には、芸術に必要なことであるという免罪符。

 加え、少女が受け入れれば成立する案件に対し、少女の後ろめたさがあり、恋人でもないとしないようなことを友人同士でする流れが成立した。

 

 要約すれば、二人の間にある"このくらいまで許してくれるだろうか"という認識が、次の段階に進んだのだとも言える。

 

 彼の目は指先にある。

 

 彼に自分を見せるには、自分を理解させるには、触れさせるしかない。

 

 『触れられたくない』と思っている人間に体を許すほど、彼女はふしだらではない。

 

 だからこれもまた、『特別の証明』の一つだった。

 

 

 

 

 

 恐る恐る、けれど恥ずかしそうに、少女は少年の前に身体を差し出した。

 少年は少女に触れる手に失礼がないように、ウェットティッシュで念入りに手を拭いてから、少女に向けて手を伸ばした。

 

「ど、どうぞ! かもーん!」

 

「では、失礼して」

 

 まず彼の手が触れたのは首。

 奇しくも彼女が最初に触れた彼の部位と同じ場所。

 頸動脈に触れ、彼女の命の鼓動を感じる。

 彼の手付きは優しく、撫でるように少女の首の形を確かめていた。

 

「んっ」

 

「いやになったら言ってほしい。お嬢さんがいやだと思うことはしたくないからね」

 

「ちょっとくすぐったかっただけだから、へーきへーき! 続けていいよっ」

 

「ありがとう。首の太さは普通の少女並だけど……固定力が強いね。

 車より速く走るウマ娘が転んでも首が折れないのはそのためかな。

 足がとても速く動いても、足に血が集まって貧血にならない、ポンプのような血管……」

 

 首の肌触り、毛穴の一つ一つ、その奥にある首の内部構造すら把握する勢いで、彼の指先という名の目が少女を見透かしていく。

 触れて。

 押して。

 撫でる。

 体の奥の奥、自分の何もかもを見透かしてくるような感覚が、少女を身悶えさせる。

 

 ぞわぞわぞわ、と、少女の神経に未知の刺激が走っていた。

 

「んっ……」

 

 少女が小さな声を漏らして、指先は首を這い上がり、その顔に触れた。

 

 聖母の手付きのように優しく、探求者のように好奇心旺盛に、研究者のように理性的にずけずけと、少年の手は少女のカタチを知り、把握し、暴いていく。

 

「ああ、きみは思ったより童顔で、子供みたいで……思ってたよりずっとかわいかったんだね」

 

「ひゃっ」

 

「かわいいのは声や性格だけじゃなかったんだ。これはまわりの男の子を惑わせてそうだね」

 

「せ……センセーはさぁ……」

 

「目はぱっちりとしてて、美人の目だね。

 あ、まつげがながい。美人さんだ。

 眉は可愛らしい印象だけど、凛々しくきりっとしてる。

 小顔だね。他の女性がうらやましがってそうだ。

 形がよくて小さく収まった鼻が可愛らしい印象を作ってるのかな。

 名画の美人や、モデルさんみたいな唇をしているね。

 大人しくしていたら美人の艶やかさ、口を開けて笑えば少女のかわいさが感じられるような」

 

「せ……センセー! 5秒休憩! 深呼吸! 深呼吸! 深呼吸させて!」

 

 少女はたまらず離脱した。

 

 "たまらなかった"理由は、少女のみ知る。

 

「ああ、ごめんね。無神経に触りすぎたかな」

 

「い、いや……センセーは悪くないけど……ボクが……」

 

「ボクが?」

 

「すぅーっ、はぁー!」

 

 深呼吸して、顔を冷やす。

 理由不明に頬が熱を持っている。

 顔が赤くなっている。

 彼の指先がその温度に気付かないよう、はちみつのドリンクを当てて冷ました。

 

「はい、どうぞ! センセー!」

 

「うん、じゃあ最後に総まとめとして」

 

「んっ」

 

「……よし。これできみの顔の形はわかった。じゃあ、次は他のところも触れていいかな?」

 

「ど、どうぞ!」

 

 指先は顔を駆け上がり、髪の毛、頭部のウマ耳、髪を束ねたリボンに向かう。

 

「きれいな髪の毛だ。人間とすこしだけちがう触り心地で……ウマ娘はみなこうなのかな?」

 

「たぶん、そうだと思う」

 

「おもしろい生体繊維だね。強くて、しなやかで、柔らかで……このリボンは絹かな」

 

「うん。今日は明るいピンクのやつ!」

 

 頭を撫でて、髪を梳いて、髪先をつまんで、髪を折り曲げてみたりして、少年は丹念に彼女の髪の隅々まで知っていく。

 彼が彼女の頭を撫でる時、その手付きはとても優しくて、隠しようがないくらいに愛に溢れていて、それがなんだかくすぐったくて、少女ははにかんでいた。

 あるいは、普通の父が子を撫でるそれよりも遥かに愛のこもった撫で方だった。

 

「前髪の一部の質が……いや、これは色がちがうのかな。生まれつきだろうけどオシャレだね」

 

「おおっ! すごい、そこまで分かるの!?」

 

「色がちがうってことは成分がちがうってことだから。

 髪型は……ウマ娘さんたちの王道ポニーテールだけど、長いね」

 

「そっかな?」

 

 少女の後頭部から、"さらっと"ではなく、"ぐいっと"伸びている、リボンでひとまとめにされた長い髪に少年が触れる。

 

「うん。膝まで届くのは普通にすごいね。

 手入れもちゃんとしてて荒れてもない。

 髪をまとめたら活発な女の子、下ろしたらきれいな女の子に見えるんだろうなあ」

 

「え、えへへっ。そうでもあるかもねっ!」

 

「『毛を見てウマ娘を相す』とは言うけれど、その気持ちがわかるようになっちゃったな」

 

「毛を見てウマ娘を愛す? せ、センセー、流石にそんな基準で誰かを好きになるのは……」

 

「相対の相だよ。

 中国で生まれた言葉だね。

 毛並みを見てウマ娘の良し悪しを判断すること。

 転じて、表面だけを見て本質や価値を判断することだね。

 きみを見て、優しい女の子だと気付かずに、かわいい女の子とだけ思うことかな」

 

「……ふぅー! 深呼吸! 深呼吸! センセー、次顔触る時は触る前に言ってね!」

 

「? わかった」

 

 もうこっそりと顔の熱を下げられそうにないので、少女は赤くなった顔を彼に不意打ちで触らせない戦略を選んだ。

 もうずっと、よく分からない高揚のせいで心臓が早鐘を打ち続けている。

 少年は髪をかきわけ、耳に手を伸ばした。

 

「その髪の合間から出てるのが、ウマ娘の耳……」

 

「ひゃぅん」

 

「人間とはちが……だいじょうぶ? やめようか?」

 

「だ、大丈夫! ちょっとくすぐったかっただけ! これは勝ちの途中!」

 

「なにに勝つんだ……? わたしは負けるのか……?」

 

 敏感なウマ娘の耳に、少年は恐る恐る手を伸ばす。

 少女は顔を真っ赤にして、自分とは違って涼しい顔をしている少年を見て、ちょっと恨めしげな顔で彼を睨む。

 "人の気も知らないでー!"と思い、涼やかな彼の顔を正面から見た。

 "今だけは彼の目が見えてなくてよかった"と、彼の顔を見て少女は思う。

 彼の目が見えていたら、きっと何もかも隠しようが無かったから。

 

「ピンと立ってて……

 これは、筋肉が多いんだろうか。

 そういえば人間の耳の筋肉は退化してみっつしか残ってないんだっけ……」

 

「ひゃ、ひゃっ」

 

 緩やかになぞり、扇情的に感じられるほど綿密に、耳を擦り、撫で、押し、知っていく。

 

 敏感な耳を優しく愛撫されると、変な気になってしまいそうで、少女は気が気でなかった。

 

「10……13、くらいかな、ウマ娘の耳の筋肉は。

 なるほど……普段見えてないけど、見えてたら耳が動いてたのも見えたのかな……」

 

「んにゅっ」

 

 触れた手に耳の暖かさが伝わり、手の皮膚と耳の毛が触れ合って、僅かに擦れる音がした。

 

 足の裏を指先でなぞる感覚より、もっとこそばゆくて、もっと淫猥な感覚が、耳に走る。

 

「音を聞くため耳を色んな方向に向けられる……

 いや、感情の動きでも動くのかな。

 人間の顔の感覚器が、感情表現にも使われるように。

 おもしろいな……

 目が見えてるとウマ娘の心情も察知しやすいんだろうか……

 血管が外気に接しやすくて熱を放射しやすそう。

 耳毛が異物を防いで……なるほど、鼓膜にそう音が伝わるんだ。あ、軟骨もある」

 

「や、やんっ」

 

「……いやだったらちゃんと言ってね?」

 

「べ、別にへーきだし……」

 

 綿密なボディタッチなど、恋人でもないとしないようなことだった。

 身体の奥深くまで触れて知ろうなど、恋人でもしないことだった。

 仮に彼女にいつか普通の恋人が出来ても、その恋人にも知られないような部分まで、彼の指先は触れて覚えていく。

 皮膚に触れれば骨まで知る勢いで、彼女のことを知っていく。

 

 18世紀の伝説的ウマ娘画家ジョージ・スタッブスの絵が非常に上手かった理由として、後世の研究家達はこぞって「人もウマも解剖しまくったから」と言う。

 

 彼は画家に成り、画家になった後にヨークの病院で解剖学を学び、人間の解剖を熟知した。

 後にリンカンシャーの村落でウマ娘の認可を受けた上で、一年半をウマ娘の解剖に費やした。

 彼の解剖研究は後の医学の発展にも寄与したが、その研究が何よりも活かされたのが彼の絵画であり、当時の貴族やウマ娘達からも『彼の絵が最もリアルである』と評価されたほど。

 彼は解剖した全ての者達を無駄にせず、死するその年まで絵を描き続けたという。

 

 彼が彼女に触れることも、スタッブス同様無駄にはならないだろう。

 身体構造への理解は、絵のランクアップへと直結する。

 これは芸術。

 芸術に必要なことなのだ。

 先人も皆やっている。

 顔を赤くするようなことではない。

 ただただ、その過程がいささか思春期の者に破壊力がありすぎるだけで。

 

 少女自身も知らなかったことだが、耳の付け根を異性に触れられるという感覚は、足の付け根を舐められるようなむず痒く・気持ちが良く・気恥ずかしい感覚があった。

 少女の顔が加熱する。

 でも、別に嫌ではなかった。

 

「『ウマ娘の耳に念仏』なんて言うけど。

 よく聞こえそうでいい耳だ。

 お嬢さんはいつも人の話をちゃんと聞いているから、好ましいよ」

 

「センセー、ボクが何しても好きって言ってそう」

 

「いや……さすがにそんなことは……」

 

「じゃーボクの嫌いなところ言ってみてよ」

 

「……そういう、子供っぽくいじわるをするところかな」

 

「あははっ」

 

 少年の手が耳から離れ、指先が下りて―――少女が叫ぶ。

 

「ちょ、ちょっと待った! 待ってぇ!」

 

「やめるかい?」

 

「い、いや、そこまでしないでいいけど……お腹と背中以外の胴は嫌かな……」

 

 顔の赤さで、少年が一気に少女を上回る。

 

 彫刻に触れその形を知る時のように、無神経に、全身隅々まで触れようとして、その結果として『胸や尻』に触れるようなことがあれば、彼はまた自殺しようとしていたかもしれない。

 

「! ご、ごめんね。わたしには無いものだから夢中になっててついうっかり」

 

「腕、腕からにしよ、ね? センセー」

 

「あ、うん、そうだね」

 

「いやー! センセーもウッ……うっかりするもんだねー!」

 

「そっ……そうだね!」

 

 変な空気になって、変な会話になって、それを切り替えようとして何か言って、"うっかり"で済ませようとして、笑い合って、微妙に噛み合いの悪い会話で話を切り替えた。

 

「ちいさいね、お嬢さんの手は」

 

「へいへい、手合わせ~! センセーの手はボクよりおっきいよね」

 

「そうだね」

 

 二人の手を合わせて、指と指を合わせて、互いの手の大きさを比べる。

 少女が人差し指を動かすと、少年の人差し指も動く。

 少女が親指を押し込むと、少年の親指がちょっと反り返る。

 少年が薬指で押し込んできて、少女の薬指がちょっと反り返る。

 なんでもないことなのに、なんでか意味もなく楽しくて、少女はにへっと笑った。

 

「センセーの手、いつも油と絵の具の匂いがしてる」

 

「お嬢さんの手は、土と芝の……レースの匂いがするね」

 

「え、そんなにする?」

 

「ちょっとね。

 爪は綺麗に切り揃えられてる。

 わたしの爪より厚いね。厚み以上に頑丈だ。

 これなら転んだり踏まれたりしても割れにくそうだね。

 手を広げて押す手の筋肉じゃない……

 手内筋が幅広く発達してないから細かい作業もしてない……

 ダンベルとかかな。そのくらいの太さのものを握った筋肉だ。

 きみはまじめにトレーニングを繰り返してきた子なんだね、わかるよ」

 

「おお……すっごい……合ってる……んっ」

 

「腕は……

 腕で長時間物を持つタイプの鍛え方じゃない……

 押す筋肉も、格闘家が持つひねる筋肉もそんなに……

 腕を前後に振る筋肉が発達して……ああ!

 走る時に腕を振ってるのか!

 そのための筋肉! なるほど、腕の振りを推進力に変えてるのか」

 

「んんっ……そうだね、ここも大事な筋肉だってトレーナーに口を酸っぱくして言われたよ」

 

「いやもう、そのトレーナーさんは優秀なひとだね。会ったことないけど尊敬できるよ」

 

「尊敬なんかするようなやつじゃないと思うけどなあ。

 まあ、でも、そうだね……尊敬はできないけど、信頼はできるかな」

 

 ウマ娘とトレーナー。

 その関係は千差万別だが、それぞれの形の絆があると、少年は小耳に挟んでいる。

 この少女にもそれはあるのだろう。

 少年が知らないだけで、沢山の物語が、大きな物語があったに違いない。

 彼女の表情が見えなくとも――あるいは、見えないからこそ表情に惑わされず正確に――彼女からトレーナーに向けられる確かな信頼を、少年は感じ取っていた。

 

 腕を離し、少年がその手を下に向けたところで、少女はビクッとする。

 身構えた少女に対し、少年は改めて丁寧に確認を取りにいった。

 

「足は……どうする? ウマ娘さん達にとってはとても大事な部分だと思ってるけど」

 

「ぼ……ボクは全然平気だけど? マッサージの人とかによく触れてもらってるし?」

 

「ああ、そっか。リハビリ中のウマ娘ならそういうこともあるかもね。じゃ、遠慮なく」

 

 事実である。

 少女は足を四度も折っている。

 骨折後のスポーツマッサージはアスリート治療の鉄則だ。

 

 嘘ではない。

 彼女にはマッサージの経験がある。

 プロの女性に年単位でマッサージをしてもらい、足の治療に役立ててきた。

 

 慣れている。

 足に触れられるくらいのことで今更恥ずかしがる理由なんてない。

 足はウマ娘にとって命であり、生涯を共にする肉体の最も優れた部分であり、赤の他人が気安く触れることを嫌がるウマ娘も多いらしいが、治療過程で見知らぬ人間に大いに触れられた彼女にとって、足に触れられることにハードルなど存在していない。

 

 なのに、何故、こんなにも落ち着かない気持ちになっているのか、少女には分からない。

 

 彼の手が足に触れて、愛する宝物を扱うような優しい手付きが、筋繊維の一つ一つすらも知って覚えようとする探究心の手付きが。

 "彼女の身体の知った部分"を全て愛おしく思う心根が、彼女の全てを愛せるという心情が、削られた薄い手の皮膚から伝わる体温と想いが。

 何か、とてつもなく、少女に変な気持ちを湧き上がらせる。

 

「あんっ……ご、ごほん。今日は空が青いね、センセー」

 

 変な声が出てしまって、少女は爆速でごまかした。

 

「……そうだね」

 

 少年も聞かなかったことにする。

 

 少女の足は、強く、柔らかく、しなやかで、それでいて美しかった。

 おそらく、彼が想像で描いていた彼女の体のパーツの中で、絵と現実の差異が最も大きかったのは、その足だった。

 絵の美しさが実物の美しさに完全に負けている―――そう、少年は己の絵の稚拙を恥じる。

 

 柔らかいのは、『伸縮する力』が非常に強いから。

 ゴムより柔らかく、ゴムより丈夫で、ゴムより伸縮する力が強い。

 疾走するのに特化した足の筋肉は人間と似て非なるものであり、人間と同じと言うには違いすぎて、人間と別種と言うには近すぎる。

 そんな"異なる肉体構造"における『最適解』のような筋肉配列。

 半ば、生来の資質。

 半ば、鍛錬の成果。

 先天性の美しさと後天性の美しさが相乗効果を生み出しているような足だった。

 違和感があるのは、少年も触れて理解した、折れた骨周りの不揃い具合だけである。

 

 少年は甘酸っぱい感情以前に、その芸術的な完成度に感動すら覚えていた。

 

 その間、少女は口を抑え、必死に変な声が出ないようにしていた。

 

「すごいな。芸術家の木っ端の自信すら無くしそうだ」

 

「え、なんで?」

 

「折れたのはわかる。

 これはそれが前提の足だ。

 でも……それでもなお、完璧だ。

 生体芸術、というよりは自然芸術かな……

 上泉華陽が見たような、自然とウマ娘の両方にある非人工的な美……うん、すごい」

 

「なんかやっぱおおげさじゃない!?」

 

「おおげさではないよ。

 きみは先天的にも後天的にも芸術なんだ。

 きみの身体が芸術なんだよ。

 『走る芸術品』なんだ。

 美しいもの、きれいな芸術、そういうものを生み出すのがわたしたちだから。

 人工品では結局、天然のもの、本物には勝てないんだろうか……なんて思っちゃうね」

 

 かつてウマ娘は『走る芸術品』と呼ばれ、一時は車に『走る芸術品』の名を取られ、やがて『走る芸術品』の名を車から取り戻した。

 

 フェラーリがそう称賛されるのと同じように、この少女もまたそう称賛されている。

 

「……ボクはボクより、センセーの絵とか、描いてる姿とかの方が、芸術っぽいと思うよ」

 

 けれども。

 ちょっと、この少女にも思うところはある。

 彼に褒められるのは好きだ。

 それは彼女の偽りのない本音。

 バンバン褒めて、どんどん褒めてほしいと、少女は思っている。

 

 けれど、"少年が自分を下げて少女を褒める"というのが……彼女はどうにも嫌だった。

 芸術の話であれば、なおさらに。

 彼を下げて自分を上げる言葉が、彼のことを遠回しに悪く言っているような言葉が、どうにも嫌だった。

 謙遜ではなく、彼が本気で言っていると分かるから、なおさらに。

 

 二人は、『互いの芸術が一番だ』と思っていた。だから、少女はちょっと膨れる。

 

 あまりにも真っ直ぐで、あまりにもひねくれてなくて、あまりにも純情で、他人の凄さを素直に認められるがゆえに、ちょっと不機嫌になる理由すら可愛らしい。

 心、技、体。

 全てに美がある、人間とは少しだけ違ういきもの。

 この心まで含めて彼女は完成された芸術なのだと、少年は、そう思った。

 

「ははは、ありがとう。"隣の芝生は青く見える"だね、これは」

 

「芝生まで青いとは……本格的にボクはセンセーの青いウマ娘になってきたね!」

 

「はははっ」

 

 フランツ・マルクとエリック・カールがそうであったように、画家が絵に描き、その画家が死んでも世界に残るのが青いウマ娘ならば、彼女はきっとそれになれる。

 彼はそれを望んでいる。

 彼女はその望みを叶えられる。

 青いウマ娘から不死鳥のウマ娘へと至った彼女だけが、彼の死に満足を添えられるのだ。

 

 かつて、『皇帝』に憧れ『帝王』を目指す彼女に、青等高貴な色をあしらった勝負服を仕立てた人達は、何を思っていたのだろうか。

 足が折れた後の彼女に、何度倒れても立ち上がる不屈の『不死鳥』をイメージした勝負服を仕立てた人達は、何を思っていたのだろうか。

 彼女のトレーナーは、何を思っていたのだろうか。

 

 最近、少女は、いつもふざけている自分のトレーナーが普段何を考えているのか、考えることが増えてきた。

 足を折る前は、ほとんど考えていなかった。

 折った後は、心配してくれるトレーナーが自分を想ってくれていることを理解した。

 そして、『絵の向こうにある他人の意図を考える』という芸術の思考癖を得たことで、『行動の向こうにある他人の意図を考える』という技能が、少女に定着していた。

 

 "ああ、足を折る前からトレーナーに気遣われてたんだ"と理解できるようになった。

 "トレーナーはふざけないと優しくできないんだな"と分かるようになった。

 "トレーナーとして真面目なんだ"と汲み取れるようになった。

 少年の絵から少年の意図を把握する過程で、これまでぼんやりと感じられていたトレーナーの意図を、しっかりと把握できるようになっていた。

 昔以上に、少女は他人の気持ちが分かるようになっていた。

 

 少女が少年に与えたものは多い。

 少年が少女に与えたものもまた多い。

 ただただ、二人は自分が与えたものに無自覚であるというだけのこと。

 

「センセー、うちのトレーナーと話合いそうだよ。理由は言わないけど」

 

「えっ、なんで?」

 

「あんまり言いたくない……うちの恥部だから……」

 

「ええ……」

 

 少女のイメージの中で、少女の足に触れてその芸術性に感動している彼と、ウマ娘の足に触れてその可能性に感動しているトレーナーが重なって、少女は苦笑した。

 

「……」

 

 足に触れ終わった少年が、手を止めて考え込んだのを見て、少女は意を察し、声が裏返らないように気を付けて、必死にいつも通りの声色で言った。

 

「……ね、根本まで触れなければ、尻尾に触っても、いいよ?」

 

「! ……よくわたしの言いたいことがわかったね」

 

「ま、まーね! そうじゃないかなって! ま、そのくらいならへーきだから!」

 

 そうして。

 

 少年が、最後に残った部分に手を伸ばす。

 

「んむっ」

 

 声を漏らして、少女が身を捩った。

 

 ウマ娘の耳は、位置と構造こそ違うものの、人間の耳の代わりに付いているもの。

 基本用途は変わらない。

 言い方を変えれば、"形は違うが人間にあるもの"だ。

 だが尻尾は違う。

 これは人間にはないものだ。

 

 女性が胸を触られる感覚・タブーと、男性が胸を触られる感覚・タブーが違うように、知的生命体にはそれぞれの身体構造に即したタブーが存在する。

 尻尾が存在する知的生命体にとっての生理的タブーは、人間にとって未知の領域。

 それこそ社会生活の中で学んでいくしかないものであり、人間同様、そのタブーには個人差というものが存在する。

 頭を撫でられることを受け入れる女性、嫌がる女性。

 尻尾を触れられることを受け入れるウマ娘、嫌がるウマ娘。

 それらは個人差により、多様に世界に存在している。

 

 いや、個人差だけではない。

 

 "関係性"も、イエスかノーかを決定付ける。

 

 根本まで触れなければいいと、彼女は言った。

 『尻尾に触れるほど気を許している』と見るか。

 『尻に直結する根本には触れさせない程度の距離感』と見るか。

 見る人によって、その判断は違うだろう。

 

「尾の骨は細かい骨の集合体なんだね。

 関節が多い指みたいな。

 腰椎と仙椎……尾の骨を支える腰部骨格構造は人間に近いのかな。

 触れないと確定だとはわからないけれど。

 根本の方に筋肉が集中しててそれで動かしてるのかな?

 先端は骨も筋肉もなくて……毛並みもきれいだ。髪の毛とは違うんだね」

 

「んんっ」

 

 尻尾の毛並みを撫でる。

 毛並みの下の、尾の肌、すなわち女の子の柔肌をなぞる。

 尻尾に骨がある部分とない部分の境界を、ふにふにとつまむ。

 ちょっと敏感な神経の集中してる部分を、爪でカリカリと優しく掻く。

 そうするたびに、彼はウマ娘の尻尾への理解を深めて、彼女はひそかにビクッと反応する。

 少女の顔が赤くなって、口元を必死に抑えている。

 

 尻尾に触れられた時、尻を撫でられているように感じるか、第三の腕を撫でられているように感じるか、頭を撫でられているように感じるか、それはウマ娘次第である。

 尻尾の敏感さも、おそらくは個体差があるだろうから。

 

「見た感じ、付け根の、内側の方の毛が薄い……?

 いや、推測するに内側の根本の方にはもう毛がないのかな。

 蒸れるから?

 あるいは排泄の時に汚れにくいようになってるのかな?

 なるほど合理的……尻尾が垂れてれば全裸になってもここは見えないのだろうか」

 

「! そ、そこあんまりジロジロ見ないで! 禁止禁止!」

 

「え、ああ、ごめん」

 

 だがそこで、尻尾の裏側の方に手を這わせたところで、少女が飛び退って逃げた。

 

 これまでにないくらいに顔を赤くし、声を裏返らせて、腕をブンブンと振り、尻尾をショートパンツの中に逃げ込ませるようにして、尻尾を隠す。

 

 どうやら彼女にとって――あるいは、ウマ娘の生物的構造から生まれる羞恥心において――ここはアウトだったらしい。

 

「ストォーップ! ああぁーもぉー! 終わり終わり! 尻尾終わり!」

 

「……しまった、ウマ娘さん達の生理的タブーを見誤ったか、死にたい」

 

 そして理性的に探求する少年と羞恥心が爆発した少女という偏った熱量は、ちょっとの間を置いて、熱心に頭を下げる少年と頭が冷えてきて許そうとする少女という形に移行していた。

 

「ごめん。本当にごめんね。もうちょっと気を付けておくべきだった、わたしが悪いよ」

 

「あ……謝らなくていいよ。別に、許可出したのボクだし……」

 

 熱量の逆転である。

 会話をすればノリがよく、話を振れば響き、二人からちょっと目を話すと次に何を話しているかわからない。

 そんな親しい友人特有のノリが、二人の間にはあった。

 

「それでも」

 

「あーはいはいここで終わり! センセーは悪くない、ね?」

 

「……ありがとう」

 

 ちょっとラインを見誤っても、謝って、許して、それで終わりで元通り。

 この二人の間に友情以外の感情が何か生まれても、二人の関係が友人以外の何かになっても、きっと二人の間にこの友情は在り続けるだろう。

 友情があるから、許し合える。

 

「じゃあ、もう一周していいかな?」

 

「ええ!? もう一周!?」

 

「もう一周」

 

「ボクの身体でもう一周を!?」

 

「だめ?」

 

「……どうしよっかなぁ!」

 

「どんな名画の美女よりも、きみをただしく描きたいんだ」

 

「しょ……しょうがないなあ! センセーは!」

 

「ありがとう」

 

「言っとくけど、ボクだから許可してるんだからね? 他のウマ娘だったら断ってるよ!」

 

「うん、わかってる」

 

「ボクに心底感謝するよーに!」

 

「ああ、いつもしてるよ」

 

 結局その日は、一枚の絵も描かなかった。

 

 ずっと彼女に触れていた。

 

 途中からは、我慢ならなくなった少女がお返しで少年の全身に触れ始めた。

 

 バトルが始まり、少年と少女が互いに触り合う第一次タッチ大戦が始まった。

 

 第一次タッチ大戦はドイツの敗北に終わり、やがて第二次タッチ大戦が始まった。

 

 加熱する戦争は止まらない。

 

 第二次タッチ大戦で大日本帝国は敗戦し、二人は頭が冷えてから自分が相手のどこに触って、相手が自分のどこに触ってたかを思い出し、かくして戦争の愚かさを知ったという。

 

 戦争は、よくないということだ。

 

 

 

 



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16 ブーゲンビリア ■■■■

「大切なのは、生の側から死を見る以上に、死の側から生を確かめるという視点だ。これが定まらないと、自分の人生も芸術も実り多いものにならない気がする」

   ―――横尾忠則



 前よりも色んなところを楽しく歩けるようになったと、少女は思った。

 

 丁寧に手入れされた街路樹と、そうでない公園の木の違いがよく見えるようになった。

 木の葉が沢山舞い落ちるはずの道路区画が、他の道路よりも綺麗だと、そこをこまめに掃除している誰かが居るのだと、誰かの思いやりを感じられるようになった。

 地面に書かれた『止まれ』の字が不揃いにかすれているのを見て、「ああ、タイヤがあそこをよく通るんだ」と想像できるようになった。

 小鳥が六羽、ポストの上に綺麗に並んでいるのを見て「あ、いいな」と思うようになった。

 

「ふふっ」

 

 あの少年と出会う前と出会った後で、まるで違う世界を生きているかのよう。

 

 道を歩いているだけで、彼から貰ったものを感じられる。

 街のそこかしこの色彩が魅力的に見える。

 寂れたビルも、変な形に色の剥げた街灯も、ペンキ塗りたてでピカピカのブランコも、塀の上で寝ている子猫も、小学生がたくさん足跡を残した泥道も。

 何もかも、"発見"するのが、楽しくて楽しくて仕方が無かった。

 

 街中に、昔は気付けなかったものが山程あったことに気付ける。

 景色が違って見える。

 世界が違って見える。

 ただ生きてるだけで、世界が素敵に見えて、人生を生きているのが楽しく感じられた。

 

「片方なら、センセーにボクの目あげてもいいのになあ。

 センセーならボクより、きっともっとたくさん、良いものや面白いもの見つけられるのに」

 

 彼がくれたのは『世界』。

 

 新しい世界を丸ごと一つ、彼はくれたのだ。

 

 "目が見えないセンセーはあれにどんな色を与えるんだろう"と思うだけで、なんてことのないつまらないものも、なんだかとても面白いものに見えてしまう。

 

「そうだ、すごいもの見つけたら、センセーに話して、そしたらセンセーが描いて……」

 

 そう、思って。

 そう、言って。

 思考と言葉が止まって、彼の死が思考にちらついてくる。

 

 何かを見るだけで抱く幸せな気持ちを、素直に喜べない。

 トップ・オブ・ジョイフル(Top of joyful)(幸せの絶頂)が、長く続かない。

 まるで、呪いのようだ。

 彼は、あるいは……この呪いを解いて、彼女を自由にしたいのだろうか。

 

 お姫様の呪いを解くのは、王子様の役目なのか。

 

 色んなことを考えて、頭をぶんぶん振って、少女は己の頬を抓る。

 

「あーもう、ボクらしくもない。

 なーに自分の気持ちだけ考えてるのさ。

 ……見送る側でしかないんだ、ボクは。

 死ぬのはセンセーで、ボクは死ぬわけでもないんだ。

 幸せの頂点から転げ落ちるのに慣れてるボクが、ちゃんと気丈なところ見せないと……」

 

 あの微笑みに。

 この世でただひとり、ある一人の少女にだけ向けられている特別な微笑みに。

 あの優しい微笑みに、相応しい自分で在りたいと、少女は思うのだ。

 

「ボクが悲しむかどうかが全てなんだ。

 ボクが強いウマ娘で居られればセンセーの心残りはないんだ。

 絶対にボクは大丈夫、って思わせないと。

 絶対に、絶対。

 "あの子は絶対大丈夫だ"って、ボクが絶対だって、センセーに、ちゃんと信じさせないと」

 

 いつもの、比較的真新しいレース場を見下ろせる小高い土手の草原に向かいながら、テイオーは手鏡で――ダイワスカーレットが勘違いでくれた化粧品群に混ざっていたもの――自分がいつも通り笑えてるか確認する。

 いつもの自分で居られれば、いつものように接せると信じて。

 

 その時。

 ウマ娘の高い聴力が、聞きたくもない、聞かなければならない音を捉えた。

 

「ごほっ、こほっ、ガハッ、ギッ、がふっ、ぐっ、ヴッ、あっ……」

 

 むせこむ音。

 咳き込む音。

 気管支どころか、肺まで吐き出してしまいそうな音。

 耳を塞ぎたくなるような、激痛と苦痛の極みにある音。

 それを耳にした瞬間、少女は全力で駆け出した。

 

「センセーっ!!」

 

 激痛と苦痛にまみれたそれは、少年の声の原形を留めていなかったが、この地上でただひとり、その少女にだけは分かった。

 彼が苦しんでいる。

 彼が痛がっている。

 そこに理屈も、条理も無かった。

 

 少女が駆けつけると、そこには平然とした少年が居た。

 

 あれ? と、少女は目をパチクリさせた。

 

「おや……こんにちは、お嬢さん。どうかしたかい?」

 

「え……あっ、センセー、大丈夫!?」

 

「ああ、ごめんね、勘違いさせちゃったかな。今お茶が気管に入っちゃったんだ。気をつけるね」

 

「……」

 

 手に持ったお茶のペットボトルを揺らして、少年は微笑んでいる。

 

 少し。

 少しだけ。

 少女は、言葉に迷った。

 

「……そっか。もー、センセー気を付けてよー! ちょっと勘違いしちゃったじゃーん!」

 

「ごめんごめん、まぎらわしかったね。でもほら、せきこむのってそんな非日常じゃないから」

 

「うんうん、分かるよ、でも体にも気を付けてよね?」

 

「……ああ、そうするよ」

 

 少女は嘘に気付いていた。

 このお茶は、小物だ。

 演出に使う小道具だ。

 どこかで咳き込むのを止められなかった時、その時少女が少年の方を見ていなければ、お茶でむせただけだと言い張れる。

 

 少女に心配させないためだけの嘘。

 少女の笑顔を曇らせないためだけの嘘。

 少女の幸せな気持ちを削がないためだけの嘘。

 

 だから。

 気付いていないふりをした。

 気付いたら暗い空気になってしまう。

 自然と「彼がそう望むなら気付かないでいてあげたい」と思い、少女はそれに気付いていないふりをした。

 

 けれど、少女は強がる嘘には慣れていても、騙す嘘には慣れていないから。

 少女が気付いていることに、少年も気付いてしまった。

 少年は自身の不足を恥じると同時に、少女の嘘に気付いていないふりをする。

 

 互いが互いを思っていて。

 互いが互いを嘘で騙せず。

 互いが互いを理解していて。

 互いが互いを、気付いていないふりで、気遣う。

 

 優しさという薄氷の上で、互いの心を暖め合うような、儚く、脆く、不安定で、第三者が触れればその瞬間に溶けて消えてしまいそうな―――そんな、思い合う温度。

 

 少女は少年が描いている絵と、並ぶ道具を覗き込んだ。

 

「なんか今日はいつものとは違う道具多いね。あと……この香り……はちみつ?」

 

「エンカウスティークだよ」

 

「え……エンカウスティーク! 過去イチで必殺技っぽいかっこよさ!」

 

「着色した蜜蝋を使って書く絵だよ。蝋画だね。

 そうそう、みつばち農家さんから分けてもらったんだけど……

 はちみつも厚意でわけてもらったんだ。そこのビンふたつ、きみにあげるよ」

 

「え!? いいの!?」

 

「わたしは少食だから食べきれないんだ。もらってくれたらうれしいな」

 

「わぁ……! センセーの好感度が5000兆ポイント上がったよ! 何にして食べよっかな~?」

 

「ふふっ、そんなに喜んでもらえて、こっちまでうれしくなってしまうよ」

 

 少女が素直に喜んで、少女が喜んだことが嬉しくて、少年も笑う。

 

 エンカウスティーク。

 『死者達の肖像』。

 『灯を灯すもの』。

 『ようつべで検索しても全然出ないから課題で出ると死ぬやつ』。

 様々な名で呼ばれる、最古の絵画技術の一つだ。

 

 少女が見慣れていない道具は、ヒートアートツール。

 Michael Bossom氏のEncaustic Artの流れを汲む、『蝋を溶かして塗りつけ描く道具』。

 蝋に絵の具を溶かして、塗りつけ、描くのだ。

 

「エンカウスティークは、絵画古代ローマ起源説を取る人には、『最古の絵画』とよばれるね」

 

「へー! じゃあ、これが世界で一番古い絵の描き方なんだ?」

 

「別説を取る人も多いけどね。

 でも、"絵画らしい"技術で最古と言えばこれ、と言われるものではあるかな。

 なにせ2000年以上前にはもうあって、2世紀くらいまでは使われてたらしいからね」

 

「にせっ……すごい! 歴史の授業か漫画の古代文明くらいしか出てこないやつだ!」

 

「ははは。

 エンカウスティークには三世代ある、と言われるね。

 第一世代は、古代ローマで生み出されエジプトなどに伝わったもの。

 古代ローマの滅亡とともに滅びてしまった。

 第二世代は18世紀に、フランスの探検隊がエジプトのミイラと見つけたもの。

 みな狂ったように再現しようと研究し、その結果が残されている。

 最後に第三世代。

 現代でエンカウスティークを知った現代アートの担い手が生み出した独自技術。

 わたしもこれだね。もっともわたしは、調べた技術を盲目用にアレンジしたものだけど」

 

 じゅっ、と、ミツバチの蝋が溶け、色と共に塗りたくられていく。

 

 エンカウスティークは、現代アートでも注目される技法の一つ。

 麻布に蜜蝋を染み込ませることで現れる独特の色彩、及び独特の絵肌(マチエール)による感触は、見る者にしっとりとした印象を与える。

 少女を書けばしっとり帝王。景色を描けば日本の水墨画などの技術が活きる。

 どこか郷愁を感じさせる、エンカウスティークだけの質感が出来るのである。

 

「きみの身体を隅々まで知ってからの絵、第一号だ。

 心機一転。これを第一号とするなら、世界最古の絵画の技術こそがふさわしいよね」

 

「……センセー、言い方がえっちじゃない?」

 

「ええええ!?」

 

「うそうそ! 全然えっちじゃないよ、あははっ!」

 

「……きみにこの手のつっつくネタを与えたのは失敗だったかもしれないな」

 

 少女はそういう経験がこれまで完全に0という子であったが、好きな異性ができたらいじめることはしなくとも、好きな異性をからかいたい子供らしさを備える子ではあったらしい。

 少女は、初恋の相手にちょっかいを出しに行くタイプだった。

 そして、自覚を持つと気恥ずかしさでそれができなくなるタイプだった。

 彼女が異性をからかえるのは、特定の時期だけである。

 

「はっちみー、ふんふんふーん、なーにして食べよっかなぁ~」

 

「お嬢さんが好きなはちみつ、昔は大分味が安定しなかったらしいね」

 

「ええっ!? そうなの!? 美味しくなかったりするの!?」

 

「うん、そうだね。ハチを吹き飛ばしたり死なせてしまったりする気候とか。

 蜜源の植物の種類が地方で違ったり、ハチが違う植物から集めたり、花畑が無くなったり」

 

「ふぇー……そんな昔には生まれたくないなぁ……」

 

「ははは。エンカウスティークもそうだね。はちみつも蜜蝋も近い存在だから」

 

「ん? あ、そっか。

 昔のはちみつが安定しないってことは、画家さんなら毎日絵の具がランダムで変わる?

 そういうことだよね? ……大変じゃん! いやこれめっちゃ大変じゃない!?」

 

「うん、まったくもってそうだ。

 あつめられてきた花粉。

 ハチのヤニ(プロポリス)

 ハチの排泄物。

 ほかにもいろんなものが混ざった巣の素材、これを蜜蝋という。

 その時代、その土地、その地方、そのハチに与えた花々によって変わるものなんだよ」

 

「はちみつと一緒に作られたものかぁ……美味しそう……」

 

「消化はよくないよ……多分。

 だから、ね。

 厳密に言えばこの色味は、わたし達の時代にしか存在しないんだ」

 

「……あ」

 

 今、この時代にしか居ない画家が。

 今、この時代にしかない蜜蝋を使って。

 今、この時代に生きるウマ娘を描く。

 

 約2000年前、誰も名を知らない、一人の画家がそうしたように。

 

「紀元前1世紀から200年ほどの間、エジプトで流行した芸術があった。

 ミイラの肖像(أحدث التغييرات)と呼ばれるものだね。

 埋葬されたミイラの顔の上に置かれていた、故人の顔の絵というものさ」

 

「そんなのがあるんだ……ボク全然知らないや。

 死んじゃった人の顔を覚えておいてもらいたかったのかな?」

 

「かもしれないね。好きな人が死んでしまって、その人の顔を描き残したものもあるのかも」

 

「……」

 

「その中でもっとも有名なものが、ファイユームで発掘された一枚。

 そこには、蜜蝋で描かれた美女が在った。

 その絵を描いた技法がエンカウスティークで、当時のひとたちは熱狂したんだ」

 

「おお……世界最古のお絵かきテクニック……すごいねえ、2000年以上前でしょ?」

 

「ああ、すごいのさ。

 その絵がね。

 きれいな美女の絵だったんだ。

 "このミイラはこんなにきれいな人だったんだ"と言わんばかりに。

 "この人は美しい"と言わんばかりに。

 特別な感情があったのかな?

 技術が未熟な古代に、何を思ってあんなに、絵を書き込んだんだろう?

 描かれた女性は若くて、若くして死んでしまったことは明らかだった。

 若くして死んだ美女を、丁寧に描いたその絵を、なにを思って描いたんだろう……」

 

「……ふふっ。2000年以上経ってるのに、描いた人の思いって伝わるものなんだねぇ」

 

「エンカウスティークは、経年劣化に耐えやすいんだ。

 2000年以上経ってもほとんど描かれた当時のままだったくらい。

 特別な女性を思ってしっかり描けば何千年も残るのは、もう立証済みたいなものさ」

 

「……んんっ」

 

「だからこれは、保存に気を付けておけば、未来に届く絵なんだよ」

 

 『彼が此処に居た』ことを残す絵ではない。

 美麗な死骸で、それはもう一つの完成形を見ている。

 これは、『遠い未来に好きになった女の子の姿を伝えようとする』絵。

 

 未来の絵だ。

 

 遠い未来に、恋を届ける絵。

 

「……未来のことなんてしっかり考えたの、久しぶりだなあ、わたしは」

 

「―――」

 

「きみのおかげだ。わたしに無い明日の先を楽しみにするのは……生まれて初めてだよ」

 

「……センセーはさぁ……ズルだよ。全部。何もかも」

 

「わたしはなにかズルしていたのかな。ごめんね、そういうつもりはなかったんだけど……」

 

「ううん。悪いズルは、一つもしてないよ。大丈夫、大丈夫!」

 

 少女は、少年に未来をあげられないのに、未来を夢見る心はあげられる。

 

 それがなんだか嬉しくて、幸せで、苦しくて、辛い。だから、少女の笑みは少し苦い。

 

「2000年後の男の子が一目惚れするような、そんな女の子の一枚にしたいよね」

 

「……や、やだなー! センセーはさぁー! あははっ!」

 

「2000年前の人と、惚れ込んだ女の子の絵で勝負して、負けたくはないかな」

 

「あ、あはは、えと、それならもっと美人なウマ娘がいくらでも居ますよーなんて」

 

「君がいいんだ」

 

「せ……センセーはさぁ……」

 

「ふふふ。なんだか、きみと出会ってからわたしは、熱を取り戻すような毎日だよ」

 

「ボクもだいぶ熱持ってるよ……」

 

「?」

 

「なんでもない!」

 

 2000年前、綺麗な女性を描いた画家に、対抗心を燃やしている。

 画家特有の変わり者、ここに極まれり。

 彼はただ、羨ましかったのだろう。

 今も、ルーヴル美術館に飾られている、2000年前に描かれた美女の絵が。

 2000年を越えてなお、人々に"美しい"と思われる絵が。

 『素敵だと思う女性を描いた絵』の中で、この世で最も永遠に近い、その絵が、彼は心底羨ましくて、ちょっと子供のような対抗心を燃やしていたのだ。

 

 大好きな彼女の好物、それに属するものを使って描いた『蜂蜜蝋』の絵の分野で、他の画家に競り負けてしまうことが、彼は嫌だったに違いない。

 

 わたしが出会った子が一番だぞ、と。

 

 少年は世界に、歴史に、筆という名の口で叫んでいる。

 

「センセー、ちょっと明るくなったよね」

 

「そうかい?」

 

「うん、ちょっと透明じゃなくなって、きらきらした感じ。いいと思うよ」

 

「そっか。君がそう言うなら、嬉しい変化だと思えるかな」

 

「そ、そう? そっかー」

 

 初恋に振り回されるのは、女だけなのだろうか。

 いや、男も初恋には振り回される。

 男女問わず、初恋には、それはもうぶん回される。

 

 特に意味もなくその異性をからかってみたり。

 特に用事もなく暇な日は全日土手に会いに来たり。

 街で髪型しか似てない男性をちらっと見て「あ、センセー」と言いかけたり。

 コンビニで『必見! イマドキの男性がイチコロなファッション』と描かれた信用度最底辺のゴシップ雑誌をつい買ってしまったり。

 お風呂の時にその人のことを思ったり。

 ご飯の時にその人のことを思ったり。

 街を歩いてその人のことを思ったり。

 夜、自室でその日あったことを思い出して、にやにやして、ベッドの上で足をバタバタして「な、なんで突然笑ってるの……」とマヤノトップガンに冷静なコメントを貰ったり。

 

 2000年前のエンカウスティークの描き手に無駄に対抗心を燃やしてしまったりする。

 

 誰が、というわけではないが。

 人は人それぞれの形で、初恋に振り回されるものである。

 誰が、というわけではないが。

 

「……っと、タッチがわるくなってきたな……お嬢さん、ちょっと休憩してもいいかな」

 

 少年がそう言い出し、いつからか『二人で座るため』に一個だけでなく二個持ち込まれるようになった折りたたみ椅子を広げた。

 

「どうぞどうぞー、あ、学園で貰ったお菓子がバッグに入ってたんだった。食べよ?」

 

「おや、以心伝心だね。今日の私は飲み物持ってきたんだ」

 

「いいね、以心伝心! お茶の時間だー!」

 

 彼女の中の彼は、放っておけばいつまでも描き続け、休憩なんて必要としない、細身の鉄人―――強靭で綺麗な、銀色の針金のようなイメージだった。

 

 それももう、過去の話。

 

 両者どちらも口に出すことはないだろう。

 

 朝から晩まで休憩なしに描き続けられるほどの彼の集中力、及び大部分を根性に支えられた体力は、もうとっくに無くなっていた。

 

 

 

 

 



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17 イチゴ ■■■■

「恋をして恋を失った方が、一度も恋をしなかったよりもましである」

   ―――アルフレッド・テニスン


 少年は目が見えないなりに、どこに何を置くかを綿密に意識し、動き始めた。

 少女にあげた蜂蜜をひと掬いし、容器に入れ、何らかの黄色い液体を入れる。

 ふわりと、爽やかな香り、甘い香りがして、僅かにローズマリーの香りが広がった。

 少女の五感が反応する。

 

「!」

 

 じっと見つめる少女の前で、少年はくるくるとそれをかき混ぜる。

 そして、取り出したるは奇妙な形のコップ。

 まるで、自分がコップだと勘違いしたまま育ってしまった花のようだった。

 そのコップは透き通っており、赤・桃・黄・黄緑の四色による淡いグラデーションで、その側面に美しい模様が描かれている。

 

「!!」

 

 少年がかき混ぜていた飲み物が、奇妙なコップに注がれる。

 注がれた飲み物はコップの内側からその色合いを変化させ、少しだけ違う景色を見せた。

 注ぐ前と注いだ後で、違う姿を見せるコップ。

 まるで、朝方と夕方で違う姿を見せるステンドグラスのよう。

 ステンドグラスは『ガラスの絵画』と呼ばれることもあるが、このコップはまさしくそれだ。

 

「!!!」

 

 そして、このコップはステンドグラスではない。

 それどころか、ガラスですらない。

 少年はするりと、透明なシートを、コップの持つ部分に巻いた。

 

「コップに見えるのは飴細工。

 中に入ってるのははちみつレモン+αのノンアルコールカクテル。

 持ち手の部分に巻いてあるのは手が飴でべたべたしないためのでんぷんシート。

 飲み終わったらコップごと食べちゃっていいよ。飴もはちみつの味にしてあるから」

 

「わぁ……なんか絵本に出てきそうなやつ! すっごい!」

 

 少女は飛びつき、ぱぁぁぁと輝く笑顔を浮かべて、少年お手製のドリンクを飲む。

 

 少女の喜びを肌で感じて、少年はとても幸せそうだった。

 

 そう、これは、彼女のためだけに作られた、ステンドグラスの飴だった。

 

「美味しい! 面白い! すってきぃー! なんかセンセーっぽい!」

 

「気に入ってもらえて何よりだよ」

 

「これどうやって作ってるの!? すごくない!?」

 

「や、飴細工自体にはそんな高い技術は使ってないんだよ。

 わたしの場合は側面の絵に手が込んでるだけ。

 器が飴だから触れれば絵の形もわかるしね。

 基本の形状はただのコップで、難易度は低いんだ。

 この手の造形は総合力だから、わたしは絵でちょっとごまかしてるのさ」

 

 事実である。

 彼の技術は、浅草の工房に由来する。

 浅草には名の知られた飴細工職人集団、及び飴細工の伝統技術保持を目的とする株式会社が存在しており、その内の数人から彼は技術指導を受けていた。

 逆に少年も独自技術を提供しており、少年と工房は近い界隈の創芸技術を交換するような形になっていた……と、書けばご立派なもののようにも見えるが。

 彼は、彼女にプレゼントするためのものを作りたかっただけである。

 

「いーや、すごいよ! センセーはすごい!」

 

「うん、よかった、喜んでもらえて。三月には渡せそうになかったからね」

 

「え? 三月? なんで?」

 

「ホワイトデーってのがあるらしいじゃないか」

 

「ああ、あるね。そういえばもう結構近いや。それより先にバレンタインだけど」

 

「そうそう、その準備で作ってたのがこれだったんだ。親愛を示すおかしね」

 

「バレンタインより先にホワイトデーのプレゼント渡そうとする人初めて見た……」

 

 何気なく、少女は聞いて。

 

「三月どうしたの? 忙しいの? 何か用事あるならボクもしばらく来ないけど」

 

「ああ、いや、そこまで生きてられないかもしれないって言われてさ」

 

「―――」

 

 何気なく、少年は言った。

 

「自覚症状としてはそんなに……って感じなんだけどね。

 たぶん急に悪くなるだろうってさ。

 わたしの気力次第で余命は伸びるかもしれないけど、夏は迎えられないだろうって」

 

「……そう、なんだ。大丈夫?」

 

「うん、まあね。

 ひとの夢らしいよ。

 苦しまずに、恐れずに、安らかに、眠るように死ぬ。

 死ぬのがこわくなくてよかった。わたしは平然と死ぬことができそうだよ」

 

「ん、そうだね。センセーは……平気そうに見えるよ」

 

「ああ、よかった。そう見えてるなら、わたしはいまちゃんとそう思えてるんだろう」

 

「……」

 

 少女は、絶対大丈夫だと、言えるものなら言いたかった。

 「ボクは絶対悲しまないから安心して安らかに眠ってね」と、言えるものなら、言っていた。

 分かっていたはずの『絶対』が重い。

 「センセーは絶対助かるよ」と夢のようなことも言えない。

 『絶対』が重たくて、口に出せない。

 

 必要なことを口に出せれば、たぶん、そこで一つ区切りがつくはずなのに。

 

 彼の死を受け入れたい自分と、彼の死を受け入れられない自分が、少女の中で矛盾する。

 彼のために受け入れて上げたくて、己の心が拒んでいる、二律背反。

 その矛盾もまた、心ある生き物の証。

 どちらも自分だと受け入れて、飲み込んで、少女は自分らしく振る舞った。

 

「センセー、もうお昼食べた?」

 

「あれ? もうそんな時間だったんだ。朝から描いていたから……」

 

「じゃあさ、一緒に食べに行かない? どこか、適当なところでも。思い出作りに行こうよ!」

 

「思い出?」

 

「そう、思い出! "あの日は楽しかったなぁ"って思える日、増やしに行こう!」

 

 冬の、蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のような太陽の下。

 

 太陽のような少女に手を引かれ、少年は駆け出した。

 

 

 

 

 

 少女に手を引かれ、少年は歩く。

 かつ、かつ、と杖が路面を叩く音が、少女の耳に心地良い様子だ。

 ひと目でまだ大人でないことが分かる少年少女であるためか、街を歩く二人を赤の他人が視界に入れても、微笑ましいデートなのだと見る者ばかりであった。

 "鼻が利く者"は、それ以上の何かを思ったりもしたようであったが。

 

「ど、こ、に、し、よ、う、か、な~?」

 

「どこでもいいよ。きみといっしょなら」

 

「んん。ぬ~、こういうのにいちいち反応するからボクは悪いんだよなぁ……

 センセーの好きな食べ物出してるお店がいいんだけどなあ、むむむむむむむむ」

 

「ふふふ。いまならなにを食べてもおいしく感じるよ、きっとね」

 

「いつものセンセーは外食だとどこに行くの?」

 

「定食屋さんが多いかな。

 みんなとおなじものがすきなんだ。

 やっぱり他人がご飯を作ってくれると、自炊より事故も起きにくいし……」

 

「そっかぁ。普通が好きなんだね」

 

「特別もすきだけどね」

 

 生まれつき"皆と同じ"に憧れる少年の気持ちを、理解できるものは多くない。

 皆と同じものを食べても、皆と同じにはなれない。

 それでも、無意味でも、皆と同じように生きてみたいと思う気持ちを捨てられない。

 そう思い知らされる人生を同じように体験しなければ、理解できるようなものではない。

 この少女は、なんとなく、理屈抜きに本能的に理解しているようだけれども。

 

「検索検索~。あ、評判いい定食屋さんがあるみたいだね、この辺に」

 

「じゃあ、そこにしようか。お嬢さんもいいかげんおなかペコペコみたいだからね」

 

「え゛っ……な、なんで分かるの……?」

 

「この前よく触れたから、きみの体温の基準がつかめたんだ。

 生理的には、空腹と満腹は体温に微細な変化をもたらすものなんだよ」

 

「手を繋いでるとお腹具合が把握されちゃうってこと……!?」

 

「うん。食事の影響で一番下がってる時と上がってる時の差で0.3度くらいかな」

 

「風邪引いたら一瞬で見抜かれそう……」

 

「そうしたら看病かな。ゼリー買ってこなきゃ」

 

「ボクはちょっと濃い目のたまごのおかゆがいいな~」

 

 二人で店に入ると、そそくさと少女が動き、空いている二人席を見つけ、椅子を引いてちょっとふざける。

 

「どうぞセンセー! お席にお座り下さい!」

 

 椅子を引いてふざけつつ、少女は椅子の足で床をこつこつ叩き、椅子を引く音をちゃんと聞こえるようにして、音で自分が何をやっているか分かるようにしている。

 

 だから、少女の気遣いで、二人は"目が見えている普通の友人二人のように"、ふざけられる。

 

「ははは。どうぞお姫様、お席におすわりください」

 

 少年も合わせて同じようにふざけて、椅子を引く。

 そして笑い合った。

 自分が引いた椅子の方に座ればいいのに、両者共に示し合わせたように、相手が引いてくれた方の椅子に座る。

 

「何にしよっかなぁ」

 

「すみません、店員さんはいらっしゃいますか? 定食メニューがあったら教えてください」

 

 メニューを見てウキウキで選ぶ少女に対し、少年は店員に定食を聞いてすぐそれにする。

 

「ボクさ、ニンジンとかはちみつとか大好きなんだ。

 だからはちみつバニラとかいうデザートが楽しみ!

 飲み物のはちみつレモンも美味しそうで楽しみだよね?

 色鮮やかサラダは頼むつもりなかったけど、リハビリのために必要だから。

 玄米ミックスにしたのは、仲間のウオッカがこの前良さを語ってたから。

 照り焼きチキンにしたのは、友達のターボって子がこの前美味しいって言ってたから!」

 

「そうなんだ。知らなかった」

 

「センセーはなんでそのメニューを選んだの?」

 

「ええと……

 大抵のお店だと、メニューが見えないから。

 定食があるか聞いて、それを頼むかな。

 熱いものが来るか慎重に確認して、温度を把握しながら指先で詳細を把握して……」

 

「そっか。やっぱセンセー大変だよね。今日はボクがセンセーの目で指だよ!」

 

「ふふふ、ありがとう」

 

 支え合う男女、というにはあまりにも片方が片方に寄りかかっている関係。

 けれど、少女は喜んで支え、少年は心からそれに感謝している。

 少女は、それを当たり前だと思い、彼を助けられている今に喜んでいる。

 少年は、助けてもらうことを当たり前だと思わず、少女の優しさに感謝している。

 

 誰が見ても分かるような、二人の間にある『特別』を見て、一人の料理人が動いた。

 

「オホホホ、話は聞いたでございますよ」

 

「え、誰?」

「センセー、多分店主さんだよ、なんでこっち来たかはわかんない」

 

「メニューを上から説明して差し上げますわ、オホホホ。お好きなのを選びなさいませ」

 

「店長! 店長! 厨房から抜けないで!」

「今忙しいんですよ! カレー定食上がりました持ってって!」

「てんちょー!」

「黙らっしゃいな! 今この少年少女に心を尽くさないで飲食店の主は名乗れないですわよ!」

 

 店長がメニューを上から下まで一つずつ、料理人視点の解説をしていって、目が見えなくとも「美味しそうだ」と思わせる空気が作り上げられていく。

 常連の客が、楽しそうなものを見る目をして、くすっと笑っていた。

 

 少年は店長の語調から一番自信のあるメニューを察しオムライス定食を選び、店長は特に明言もしていないのに一番自信のあるオムライス定食が注文されたことに、にやりとした。

 

「ありがとう! てんちょー!」

「ありがとうございます、店長さん」

 

「オホホホ! お気になさらず!」

 

 セルフサービスの水を少女が取りに行って、床に少々ついていた油で転びそうになって。

 

「おっ、とっとっと」

 

「お嬢さん!」

 

「へーきへーき、転ばないよっ。あははっ、センセーすごく心配してる顔!」

 

「……今完璧にころぶ音だったのに、ころばなかったんだ。

 いや、水が落ちた音もなかったから、水もこぼさなかった? すごいね……」

 

「ふっふっふ、片足立ちバランス(アラベスク)のポーズに慣れたボクはこんなことでは転ばないのだ!」

 

「へぇ……アラベスク……」

 

 そろそろ来そうだから箸を出しておこうか、となって。

 

「あれ、お箸の箱どれだろ?」

 

「さっき席についた時、この箱の中で木がすれた音がしたから、ここじゃないかな」

 

「え、これ? 飾りの彫刻だと思ってた……おお! ほんとだ! さすがセンセー!」

 

「ふふふ」

 

 駄弁って駄弁って、料理が来たら、食事開始。

 料理が来て"もう来たんだ"と思ったところで、少年は気付いた。

 いつもより、注文してから料理が来るまでが短く感じる。

 いつもより、料理が来るまでが楽しい。

 "まだ来なくてもよかったのに"とすら、来た料理に思ってしまうなんて、今まで無くて。

 

 『注文してから料理が来るまでが楽しい』だなんて、彼には生まれて初めての経験だった。

 

「センセー、そのオムライス一口ちょーだい?」

 

「ふー、ふー。はい、どうぞ」

 

 目が見えないと相手の口に入れられないから、オムライスをスプーンに乗せて、火傷しないように少し冷まして、彼女に差し出して、彼女が食べるのを待つ。

 少年心の気恥ずかしさは、抑えて隠して。

 

「はい、お返し。照り焼きとごはんセットだよ~、ふーふー! センセー、あーん」

 

「……あ、あーん」

 

 目が見えないと自分から食べにいけないから、口を開けて少女が入れてくれるのを待ち、先ほどを超える羞恥心に身悶えして、昔母がそうしてくれたのを思い出して、父と母が交通事故で死んだ日のことを思い出して、彼女がフーフーと冷ましてくれた料理を咀嚼した。

 

 恥ずかしげもなくやる少女に、少年は照れに照れる。

 

 ……本当に恥ずかしげもなくやっているのか、少女の顔がどのくらい赤いのか、そのあたりが見えない彼が分かるわけもないのだが。

 

 今日までの日々、互いが互いにしていたことが、両者無自覚に、ナチュラルに"羞恥の壁"を越えさせていた。

 

「あのね。ボクさ。

 こうやって二人でご飯食べてると、マックイーンと二人で食べ歩きしてたこと思い出すんだ」

 

「たのしかった思い出かい?」

 

「うん!

 てんぷら食べてる時は、ボクのてんぷら勝手に食べたゴルシ思い出すし。

 センセーのデザートのバナナ見てると小さな口で食べてたスズカ思い出すなぁ。

 合間にゆっくりお茶飲んでるのは、センセーとネイチャくらいだなって思ったり。

 こうやって照り焼き食べてると、食堂で美味しそうに鶏肉食べてたスペちゃん思い出すんだ」

 

「たのしそうだ。きっと……毎日がそうなんだろうね」

 

「うん!」

 

 食事にまつわる楽しい思い出が全然無かった少年と、山程思い出を語れる少女。

 幸福度の天秤は、過剰なくらいに傾いている。

 けれどそこには劣等感も、優越感もない。

 少女が食事にまつわる友達との楽しい思い出を話すだけで、少年は楽しい気持ちになれた。

 

「センセーがさ、クッキー食べてたじゃん?

 それで、笑って食べられるようになったって言ってたよね?

 誰かと一緒に何かを食べてて、楽しいと思うのって、そういうことなのかなって」

 

「そういうこと?」

 

「思い出が蘇ると楽しい。

 思い出ができると楽しい。

 そういうのなんじゃないかな、って。

 あはは、前のボクならこんなこと思わなかったんだけどさ。

 センセーと出会えたことで広がった世界が、いっぱいいっぱいあるんだ、ボクは」

 

 誰かとご飯を食べて、その時間が楽しかったら、それは一つの思い出になる。

 

 ふとした時に思い出す、なんでもない思い出に。いつまでも在る大切な思い出に。

 

 そういう思い出も、そういう思い出の価値に気付ける感性も、人が人へと手渡す贈り物だ。

 

「……わたしも、きみの中にずっと残るものをなにか、きみにあげられたのかな」

 

「そりゃもう、数え切れないくらいだよ」

 

 一緒にどこで食べるか考えたことも。

 水を持ってきた少女が転びかけたことも。

 少年がその聴力で箸を見つけたことも。

 変な店長が居たことも。

 あーんって、し合ったことも。

 こうして、楽しく話し合ったことも。

 

 これまで楽しく食事をしたことがなかったという少年への、幸せな贈り物であり。

 

 そして同時に、少女が納得するための、割り切るための思い出作りでもあり。

 

「こうやって、楽しい記憶作ってさ。

 幸せな思いを一つずつ増やしてさ。

 それで少しでも、ほんの少しでも、幸せになれたらさ。

 最後の最後に……"よかった"って、言えるかな……センセーは……」

 

 死に行く少年に何を贈れるか、何を渡せるか、それをずっとずっと考えていた少女が考えた、彼女なりの『幸せになれる贈り物』だった。

 

 少年は微笑む。少女の優しさに、筆舌に尽くし難い愛おしさを覚えながら。

 

「もう言えるよ。死の間際に。"よかった"って。きっと、何度も、何度だって」

 

 頬杖をつく少女の頬が、柔らかく変形する。

 少年が、姿勢良くテーブルの上で手を重ねている。

 どちらからともなく、笑い合った。

 少しだけ無理をして、笑い合った。

 

 死の絶望を前にしても笑い合えるなんて人は、きっと自分の一生にこの人ひとりしか出会えないんだろうな、なんて、二人は思った。

 その笑顔を見るだけで、お互いに幸せだった。

 

「もっと"よかった"って言えるようにしてあげる。だから見ててよ、ボクを」

 

「おや、自信満々だね。心の目で見て、たのしみに待ってるよ」

 

「楽しみにしててよ。いっぱい、楽しくて、幸せで、忘れられない日々にしてあげるから」

 

「ふふふ」

 

「あははっ」

 

 何気なく語り合って、笑い合って、たまにつつきあって。

 一つ一つ、思い出にして覚えておこう、と考えて。

 ふと、少女は思う。

 

 彼の気持ちを、少女は察している。

 口に出さなくても、絵が雄弁に語っていたから、知っている。

 どう思われているか分かっているから、からかったりできる。

 だって、もう少女は"彼が自分を嫌うかもしれない"だなんて、微塵も思っていないから。

 むしろその逆だと知っているから。

 だから、ふと、少女は思う。

 

 『彼の初恋』を、無かったことにせず、それを覚えておいてあげられるのは、その気持ちを少しでも永遠に近付けることができるのは―――自分だけなんじゃないか、なんて。

 

「ね、センセー」

 

「なにかな?」

 

「センセー、ボクのことどう思ってるの? 全部言ってよ~、ほれほれ」

 

「……絵で伝わってなかったのかな?」

 

「んー、伝わってるけど、本音は口でも言ってほしいなって。ボクはそういうウマ娘なんだ」

 

「……また今度ね」

 

「あ、逃げた!」

 

「きみがわたしのことをどう思ってるか、ぜんぶ言ったら答えよう。さ、どうぞ」

 

「ぬぐっ……せ、センセーが全部言ったら言うし……」

 

「きみね……きみは平気かもしれないが、そんな気軽にする話題じゃないと思うよ」

 

「こういう話題するの、平気じゃないんだよボク? 結構、ドキドキしてるんだからね」

 

「……わたしもだよ」

 

「あははっ」

 

 顔を近付けて二人がひそひそ話していると、突如店主が襲来、テーブルにドンとはちみつソースがかけられた小さなパンケーキが置かれる。

 

「あらやだそんなにひっついて、オホホホ! これはうちの奢りよ、お代はいらないわ!」

 

 二人はちょっとびっくりして、"店の中でするような話じゃなかったな"と思いつつ、少年は店主に恐る恐る話しかけた。

 

「あの、なぜそこまでよくしてくださるんですか……?」

 

「オホホホ!

 だってお二人とも、体から同じ匂いがするんですもの。

 おーんなじ、はちみつみたいな香り!

 どこかでずっとひっついてたのかしらん?

 フフフ、同じ香水か知らないけれど、同じ匂いがするカップルは初めて見たわ!」

 

「か、かかかかカップル! ボクらが!?」

 

「ふぁ……じょ、冗談がうまいですね、店主さん」

 

「隠さなくてもいいのよ! みなまで言わないで! ごゆっくり!」

 

 スタコラサッサと、店主は煽るだけ煽って厨房に引っ込んでいった。

 

 二人は顔を赤くして、自分の服の匂いを嗅ぐ。

 加熱され、間接的に吹き付けられたエンカウスティークの香りが、二人に染み付いていた。

 そう、ペアフレグランスである。

 

 現代において人気な"香りのペアルック"、ペアフレグランス。

 同じ服やセットの服を着るのがペアルックなら、同じブランド・同じ香水・高め合う二種のフレグランスを男女で着け、二人の絆や特別な関係を示すのがペアフレグランスである。

 匂いは、意外と鼻につく。

 ペアルックがそうであるように、ペアフレグランスは「ぼくたち付き合ってます」と周囲に宣伝しながら歩くようなものであり、同じ香りを身に着けた二人は普通そういう目で見られる。

 

 同じ香りを身に染み付かせて、二人で手を繋いで街を歩いていたとは、そういうことだ。

 

 二人とすれ違って、振り返って、二人を見た人間の何人が、"そういう"勘違いをしたことか。

 

「……」

 

「……」

 

 二人して、顔を赤くしていた。

 

「……で、出よっか、お嬢さん」

 

「そ……そうだね!」

 

 そして、食べ切って、ごゆっくりせず店を出る。

 

 良いことも、恥ずかしいことも、辛いことも、全てひっくるめて人生だ。

 

 これもきっと、忘れられない思い出の一つになる。

 

 何があっても、少女はきっと、死ぬまで永遠に忘れない。

 

 

 



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18 アマ ■■■■

「私にとって作品とは、愛らしく楽しく、美しいものでなければならない。
 人生にはうんざりするものが余りに多いので、我々はそれと別のものを作り出す他はない」

「素敵な胸を見てドキドキしない奴は信用できない」

「もし女性のおっぱいと尻がなかったら、私は絵を描かなかっただろう」

   ―――ピエール=オーギュスト・ルノワール


 少年の体力、気力は、日々摩耗していっている。

 本人は隠そうとしているが、一緒に居る時間が長く、彼をよく見ている少女相手にはまるで隠せていなかった。

 休憩の回数は増え――それでも、平均的美大生よりは少ないくらいだったが――椅子に座ったまま描く時間が長くなり、日が沈んでもなお描き続けようとすることはなくなった。

 

 なのに、一週間あたりに描き上げる絵の枚数は増えていた。

 

 筆が速くなっている。

 筆に迷いがなくなっている。

 筆が一回動くたびに絵に"乗る"ものの質と量が、爆発的に増している。

 

 以前から彼は盲目の限界点に近い描画効率を極めており、ほとんど『思う』と『描く』を一体化したノンストップの筆使いを身に着けていた。

 絵の具の乾き具合くらいしか、彼を止めるものは無かったほどだ。

 それが、更に加速している。

 速く、巧くなっている。

 盲目ゆえの限界はあるものの、凡百の画家よりはずっと速いだろうというレベルだ。

 

 まるで、燃え尽きる前に一瞬だけ強く輝くロウソクの火のようだ。

 死が迫っている。

 終わりが迫っている。

 描けなくなる瞬間が迫っている。

 その意識が、少年の潜在能力を引き出し、過大に強化し、焦燥が筆を走らせる。

 少女と出会うことで変化を遂げた少年の形質と、それが噛み合い、質・量・速度・感情に訴えかける力が、飛躍的に伸びていた。なのに。

 

 この世に生きた証を残す時間が、あまりにも残り少なすぎる。

 

 それでも、少年は描き続け、少女は見守り続けた。

 描いて、話して、描いて、笑って、描いて、休んで、描いて、贈って。

 少年が少女に贈った絵は、目も見えていないのに現実の彼女を見事になぞっていて、彼の独特な色彩が作り上げる世界に、そのままの姿の少女が降り立っていた。

 彼女と出会ったことで、彼の絵は段違いのレベルアップを果たしている。

 何枚も、何枚も、彼は彼女を描いていった。

 

「センセーが描くボクってさ、やっぱ他のウマ娘よりちょっとだけ気合入ってるよね」

 

「ま、そうだね。否定はしないよ」

 

「んふふー」

 

 それを眺めて、少女が微笑む。

 少女が嬉しそうな気持ちになると、少年もつられて同じ気持ちになり、焦燥は落ち着き、されど筆の速度は落ちず、前のめりな気持ちが無我の境地に昇華されていく。

 少女には、一人で描いているように見えるだろう。

 けれどその実、それらの絵は全て、二人で描いているようなもの。

 

 ただ描くだけで彼女の人生を変えていることに、少年は自覚がない。

 ただそこで笑っているだけで彼を変えていることに、少女は自覚がない。

 

「今日ボクさ、お弁当作ってきたんだ!

 それでさ、その……

 ああいや、無理にってわけじゃないんだけど。

 よければ……でいいんだけど。

 二人分作ってきたからさ、その、ええと。

 美味しいって言ってほし……じゃなくて。

 き、気が向いたらさ、後で、今日のお昼は、ボクが作ってきたお弁当食べない?」

 

「へぇ……きみがよければ、その厚意を受け取りたいな。

 このまえ、定食屋に行ったときに自炊がこわいって言ってたの、覚えててくれたのかな」

 

「ま、まーね! センセーが無理して自分でご飯作って包丁や火で怪我したら大変だし!」

 

 少年は柔らかに微笑む。

 少女はおそらく、少年の見ていないところで検索し、知ったのだろう。

 突発的な病気、持病の発作、症状の末期発症、それらを起こした者の死因には、事故が伴う。

 運転中の発作、油料理中に動けなくなって火事に、めまいがして手首に包丁、etc…

 自分で食事を作る機会が減れば、そういうリスクがほんの僅かにでも減らせる。

 専門家でないなりに彼女が考えた、彼の延命方法なのだろう。

 

「ありがとうね。

 それにしても、お嬢さんは料理できたんだ。

 これは本格的に、まんがに出てくる完璧ヒロインみたいなすてきな女の子だ」

 

「……ふっふっふ、そうかもね!

 ちょっとは頑張って作ったよ! ちょっとは! ちょっとだけど!

 仮にそんなに美味しくなかったとしても本気出したらもっと美味しいからね?

 それだけは覚えておいて食べてね?

 あ、それでいて、お世辞じゃなくちゃんと美味しかったらちゃんと言ってね?

 ま、これからは会うと決まってる日は、ボクがお弁当作ってくるから、楽しみにしてて!」

 

「そこまできみに迷惑をかけるのは……」

 

「ボクがやりたいからそーするの! はい決まり!」

 

「……まいったな。せめて、食材のお金くらいは出させてほしいな」

 

 "褒めて"と彼に言いたいのに、"褒めてと求めなくても言ってほしい"と思って言えない。

 "本気出してないから"と予防線を張り、"本気を出せば"と前置きをする負けず嫌い。

 "不味い"と言われることを恐れ、"美味しい"と言われることを期待している。

 複雑なのに真っ直ぐで、とてもその少女らしかった。

 

 彼女らしさに、少年は笑い、気合いを入れ直す。

 

 十二時まで、あと二時間ほど。気合いが入る理由が出来たというものだ。

 

「さて、わたしももうひとがんばりしないと」

 

「頑張れー!」

 

 少年の絵は、間違いなく上手い。

 写真のよう、という意味での上手さではない。

 『この人にしかこれは描けない』という方向性の上手さがあった。

 

 ただし、一部。

 ごく一部だけ、正確でなかった。

 具体的に言うと、少年が最後まで触れることを許されなかった胸腰尻などの部分。

 そこが、オリジナルより凸凹がハッキリした体型になっていた。

 "まあボクもその内このくらいになるし……"と、少女は思い特に修正はしない。

 

 描いて、描いて、また描いて。

 

「センセー、そろそろ疲れて来たんじゃない? 休憩しようよ」

 

「ん……確かに、自覚してなかったけど、絵肌の仕上がりが無難だな……休憩しようか」

 

「あ、飲み物ないや。自動販売機で買って……いや、センセー、たまには一緒に買いに行こ!」

 

「おや、めずらしい。いつもはわたしが行くと言ってもひとりで行くのに」

 

「いつもはセンセーが危ないからあんま歩かせたくないじゃん?

 でもさ、こういうのも思い出かなーって。一緒に行って、一緒に買お!」

 

「よろこんで」

 

 二人は建物が立ち並ぶ地帯まで行き、最寄りの自動販売機を目指して歩き始める。

 

 ちょっとの移動でも、少女の手は少年の手を取り、優しく引いていく。

 

 最初は目が見えない少年への優しさだけで握られていた手が、今は別の想いを込めて握られていることに、気付けない少年ではない。

 

 少女は少年を気遣って休憩を申し出たのか。

 少年のハンディキャップを気遣い、その手を取ったのか。

 それとも、自動販売機に一緒に行くと理由をつけて、彼の手を握りたかっただけなのか。

 あるいは全部か。

 少女のみぞ知る。

 

「ん?」

 

「どしたの、センセー?」

 

 手を繋いで歩いて、優しく二人の肩が触れ合った時。少年は何かに気付き、少女の顔に自分の顔を近付けて、互いの顔がくっつきそうなくらいの距離で、集中した。

 

「せ、センセー!?」

 

「……お嬢さん、今日お化粧してる?」

 

「!」

 

「そっか。じゃあ、今日のお嬢さんはいつもよりきれいなんだ」

 

「よ……よく分かるね。分かんなくてもいいや、って思ってたのに。えへへ」

 

「気づくのに遅れてごめんね」

 

「いーよ!

 センセーはボクのことちゃんと見てるんだなって思えたし!

 スカーレット……友達に貰ったやつつけてみただけだから。

 化粧品とかぜーんぜん知らないし、塗り方も検索して見ながらやったくらいで……」

 

 先日、ダイワスカーレットが置いていった化粧品があった。

 化粧品が分からない少女は、ずっとそれを放置していた。

 しかしふと思い出し、手を伸ばし、よく分からないまま少女は手に取ってみるも、よく分からないのでちんぷんかんぷん。

 ネットで検索して調べるだけの期間が随分長かった。

 

 検索して、答えを見つけて、「でも初めてだから間違ったやり方だったとしても分からない」と思って、また検索して、複数のサイトの情報を総合し、間違ってない化粧のやり方を見つけて、それでもなお「変じゃないかなあ」と練習するたび不安になって。

 

 今日の朝にようやく、鏡の前で化粧をする勇気を出せた。

 それがこの少女だった。

 塗ったのも唇のリップだけで、化粧と言うにはあまりにも可愛らしすぎる、とても幼気な一歩だった。

 

 目が見えない相手でこれだ。

 彼の目が見えていたなら、きっとどこかで「やっぱボクには似合わないよ!」と言って、化粧を拭って来ていたに違いない。

 少年が、目が見えないにもかかわらず気付いてくれて、その上で褒めてくれたので、少女はふんにゃりとした笑顔でにやけていた。

 

「香りがはちみつ……

 ホホバオイル……

 あとはワセリン……

 ああ、香り付けと乾燥割れ防止のリップクリームMDNかな?」

 

「! えええ、リップに塗っただけなのに商品名まで分かるの!?」

 

「分かるやつはね。

 ホホバオイルは油絵に使う人もいる。

 ワセリンは皮膚に塗って特殊なインクから肌を守ったり……

 京都芸大の受賞者が蜜蝋とワセリンで作品作ったりしてたかな。

 はちみつを表現に使う人もいたし。

 逆にエンカウスティークで使った蜜蝋を素材にした美容品もあるくらいだよ」

 

「へぇ~、センセーの鼻はやっぱすご……んんっ」

 

 少女が何かに気付き、咄嗟に口元を抑えた。

 

「……わたしは健康的で魅力的に感じるからいいと思うけど、朝食から餃子は気を付けようね」

 

「ぐえーっ! や、やっぱり、嗅ぎつけられてる!」

 

 唇のはちみつの香りである程度誤魔化せても、少年相手には誤魔化せない、少女が朝にたくさん食べた餃子の臭い。

 

 少女はぱっと手を離して、自動販売機に向かって駆け出した。

 

「さ、先に行って飲み物選んでるね! ゆっくり追いついてきて! な、何飲もっかな~!」

 

「お嬢さん、走るなら足元には気をつけ……ん?」

 

 少年が唐突に上を見上げ、柔らかな微笑みが一瞬で強張り、杖を脇に抱えて、少年は何も見えない暗闇の世界を転ぶ覚悟で駆け出した。

 ギギ、ギギッ、と電柱の上方で人が乗る足場が軋む音。

 ガキン、と足場の留め具が外れる音。

 「あっ」と小さく漏れる作業員の声。

 手の上を重い工具が滑り落ちる僅かな擦過音。

 シュルッ、と電線に落ちた工具がその上を滑り落ちる音。

 

 学校で、隣の教室で、誰かが机の上にスマホを落とした程度の音の大きさ。

 されど、少年は聞き逃さない。

 落ちていく工具の先は、自動販売機の前で立ち止まった少女の頭上。

 少年の見えない視点で、少女の足音が止まった地点と、工具が立てる僅かな音が、重なる。

 

 走って、走って、走って。

 少女を抱き締めるようにして引き寄せる。

 「えっ」と少女が顔を赤くして。

 少女が一瞬前まで居た場所を工具が通り過ぎ、落下した工具が路面を粉砕し、砕かれた路面の破片が二人の頭より高くまで跳び上がって、少女がぎょっとした。

 

「す、すまん! 大丈夫か坊っちゃん嬢ちゃん!」

 

 電柱の上から、顔を真っ青にした作業員が呼びかける。

 

「わたしは大丈夫です……お嬢さん、怪我はない!?」

 

「う、うん」

 

「よかった……本当に……よかった……」

 

「……センセーはさぁ」

 

 少年視点、少女が今どんな表情をしているかは分からないが、少女がにししと笑っていることだけは、音から察せられた。

 少年のとても心配そうな顔も、心底安心した顔も、少女には見えている。

 

「センセー運動不足で身体能力低いと思ってたけど、必死に走るとかけっこ並くらいだね」

 

「な、並……平均以下と言われないだけマシかな……」

 

「あははっ、センセーにしては上出来上出来!

 かけっこはボクが得意で、センセーはお絵描きが得意。

 ボクたちはそれでいいんじゃないかな。

 それに、なんかセンセーがすごい必死な顔で走ってきたの、なんか面白かったよ!」

 

「……そっか」

 

「ふっふっふ、"助けてくれて嬉しかった"って言ってほしかった?

 やだなーもー、分かってるよー!

 センセーありがと!

 ボク、割と天才だからね!

 センセーの顔だけじゃなくて、抱き締め方からも色々分かっちゃうんだよね、ボクは!」

 

「……ちょっときみの顔にふれて表情と温度を確かめてもいいかな?」

 

「ぜっっっっっっっったいダメ!!」

 

 そう答えた時点で、答えを言っているようなものなのだが、頑として少女は触らせない。

 

 電柱を降りてきた作業員は、すぐさま土下座しようとしていたのだが、「これ邪魔していいのか……?」と思ってしまい、止まってしまった。

 ちょっと声がかけられない。

 ちょっと邪魔をしたくない。

 オーラがある。

 雰囲気がある。

 空気がある。

 二人の掛け合いの間に入れない、不可視の斥力のようなものがあった。

 

 瞬間、作業員の脳内に溢れ出した、存在する記憶。

 十年ほど前。

 作業員は、学生だった。

 作業員が学生だったある日、学校の教室で仲の良い三人で話していたが、作業員以外の二人が最近付き合い始め、ラブラブカップルになっていてしまったため、作業員以外の二人だけで会話するのが熱烈に盛り上がってしまい、作業員は中々会話に入れなかった。

 邪魔できなかった。邪魔したくなかった。それでも楽しかった。

 "自分が会話に入れないほどの特別を持つ二人"を見ていて、なんだか笑顔になれた。

 作業員は二人を祝福し、"彼女欲しいなあ"と思ったが、結局卒業まで彼女は出来なかった。

 

 ―――かつての悲しくも楽しかった青春の記憶が、作業員の涙を誘う。

 

「俺は何を見せられてるんだ……おーい! 本当に怪我ないかー?」

 

 それでも、謝らないわけにはいかないので。

 

 勇気を出して、作業員は声をかけた。

 

 

 

 

 

 後日。

 

 少女は、その作業員が想像できないほど、変な声で変な大声を少年に叩きつけていた。

 

「センセーっ!」

 

「はいはいなにかな」

 

「これ……これなに!?」

 

「なにって……きみを描いたんだけど……」

 

「なんか……なんか体型がひんそーになってる! 凸凹が減ってる!」

 

「うん」

 

「いや、っていうか、正確なボクの体型になってる!?

 いつ触っ……あああ! この前センセーがボクを助けて抱きしめた時!?」

 

「うん」

 

「ばか! ばか! えっちー!」

 

「……それは、うん、ごめんね」

 

「くあー! あんな一瞬で完璧に把握されてる!

 他の所入念に触ってるとあんな一瞬で分かっちゃうもんなの……!?」

 

 少女は頭を抱えて、原っぱの上を右往左往する。

 

 少年は苦笑して、少女の絵ではなく、少女に向き合った。

 

「でもさ、お嬢さんはこれが正確な体型じゃ……」

 

「まだ成長期!

 まだ成長期だから!

 これからうーんと女性らしくなって会長みたいになるんだから!

 会長にボクは追いつくんだよ将来的に!

 スズカやマックイーンみたいにスットーンで止まってるわけじゃないんだよ、ボクは!」

 

「あ、圧がつよい」

 

「会長に……会長にボクが追いついてさえいれば……

 せ、センセー! ボクは平均だから!

 ボクより大きい子いっぱいいるけど、ボクで平均だから!

 比べてボクを下に見たりするのはちょーっと待って!

 いつか勝つから! 期待値込みで評価して! 今のボクは勝ちの途中!」

 

「……ああ、そういう心配なのか。

 大丈夫だよ、肉があればあるほど良いと公言してたルノワールじゃあるまいし。

 それに、常々思ってるんだけどね。

 "貧乳"とか、人の体を表現してるのに侮蔑的な意味合いが強すぎると思うんだ。

 たとえ、相対的なものでもね。

 人の身体は誰もが貧しくないと思う。

 豊かな身体は何かって話になるしね。

 小さいを貧しい、大きいを豊かと言うのは、そもそも時代の美的感覚に寄り過ぎて……」

 

「あーもーセンセー微妙にズレてるから変な会話になるぅー!」

 

 少女はウマ娘としては、成長の果ての究極系の一つとまで言えるレベルに到達していたが、女性としてはまだまだ発展途上。成長の途中である。

 

 子供らしく頬を膨らませた少女が、腕を組んで爪先で地面をじょりじょり踏んでいる。

 

「ボクはちょっと傷付きました」

 

「はい」

 

「よってセンセーに罰を与えます!」

 

「いったいなにが……?」

 

「ボクに対するご機嫌取りのデートを要求しまーす!」

 

「ごきげんとりの……デート!」

 

「ボク、ここに行きたいな~」

 

 少女がかばんから取り出した『美術展覧会』のチラシの説明をされて。

 ああ、と。

 少年は少女の演技、内心、企みを察した。

 

 "彼女が行きたいところ"なら。

 "デートしたい場所"なら。

 もっと少女らしい場所を選んでいたはずだ。

 商店街なり、遊園地なり、ゲームセンターなり、彼女らしい場所が提案されていたはずだ。

 これは彼のための、彼と思い出を作るための、彼の嗜好に合わせた提案だ。

 

 "館内で走るのは禁止の美術館"を、ウマ娘が好きな人の趣味に合わせてデートの場所に選ぶということ自体、ほんの少しばかり、特別な意味を持っていた。

 

「ふふふ。それ、罰になってないよ」

 

「罰だよ! センセーはちゃんとおめかししてくるよーに! デートだからね!」

 

「ああ、分かったよ」

 

「そうじゃないと、ボクばっかりおめかししてるのがバカみたいじゃん」

 

「……ふふふ。そうだね。お化粧できれいになったお嬢さんに見合うようにしないと」

 

 少女が塗っていたリップのことを思い出し、少年はくすりと笑った。

 

 最後の方、ちょっとばかり少女の声が裏返っていたのは、聞かなかったことにする。

 

 裏返った声すら可愛くて、少年は絵を描きながら、愛おしさで笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 デートの約束の日。

 二人は"この展覧会で一番大きな絵の前で待ち合わせ"と約束し、少年は待ち合わせの時間よりずっと早くから、その絵の前に立っていた。

 駅前で待ち合わせて一緒に行くとか、美術館の前で待ち合わせとか、普通の待ち合わせをせず、二人だけの特別な待ち合わせをしようとするのが、この二人らしい。

 

 待ち合わせの絵は、趙無極(ザオ・ウーキー)の一品。

 宋朝の王族の名家に生まれ、中国美術学院で絵画を学び、パリに引っ越して絵画を学んだことで完成を迎え、ミロやピカソに称賛された画家。

 中国水墨画とフランス近代前衛芸術を融合させ、昇華させた人物である。

 美術館の壁に据え置かれ、横10m、縦2.8mというサイズで見る者を圧倒するその規格は、実際に近くで見なければその迫力の一割も伝わらないだろう。

 

「ふむ」

 

 この美術館は、2017年2月1日からパナソニック汐留ミュージアムで導入された、最新式の『視覚障害者向け鑑賞ガイドサービス』をより昇華させたものを導入している。

 美術作品に彼が近付くと、高指向性ビーコンがそれを検知。

 ビーコンがスマホに信号を発信。

 スマホの専用アプリが受信した信号に合わせて、骨伝導ヘッドホンを通して、盲目の人間に絵画の詳細の解説をしてくれるのである。

 色彩、タッチ、大きさ、構図……事細かな解説は、盲目の人間の脳内に絵画を映し出す、盲目のための映写機である。

 

 骨伝導であるため耳を塞がず、盲目の人の目である耳を開けたままにできる。

 美術館の静寂を保ち、芸術堪能の邪魔になる音も出ない。

 盲目の人間が一人で楽しめる最新技術の塊だ。

 

「すごいなあ、回りやすい」

 

 少し歩けば、盲目向け芸術『マリス』などが集められた区画が現れる。

 マリスとは、2010年代後半から名が知られてきた、盲目の人間のための絵画技法である。

 人が触ることを前提としており、表面の触り心地を十段階に分け、色の種類ごとに個別の香りを設定することで、触覚と嗅覚で全ての色を識別することが可能という美術体系だ。

 まさに、絵画の点字である。

 この区画にはマリス、及び同系の盲目向け芸術がたくさん集められていた。

 

 盲目の人間に至れり尽くせりの美術館だが、決して一般的な美術館の仕様ではなく、またここがデート場所に選ばれたことは偶然では無いだろう。

 きっと、少女はたくさん調べたのだ。

 彼のために。

 彼に合わせて。

 彼が楽しめる場所を探した。

 普通の美術品では彼が触ることさえできないため、少女は彼が喜ぶデート先を考えるにあたり、頑張って調べ尽くしたに違いない。

 

 その気持ちだけで、少年の胸は暖かいものに満たされていっぱいになる。

 

「後でちゃんとお礼を言っておかないと」

 

 軽く、ぐるりと、大きな美術館をひとまわりする。

 

「うん。はやく来て内部を把握しておく必要はなかったかな。

 これならわたしが変なところでころんで絵にぶつかったりする心配もなさそうだ」

 

 まだ少女との待ち合わせ時間まで、時間がある。

 

 少年はぼんやり適当にふらふらして、マリス再現画のルノワールの絵の前で立ち止まった。

 

「人の性癖はそれぞれだなあ……」

 

 ルノワールと言えば、世界で最も有名な画家の一人に数えられる名画家である。

 印象派の先駆け。風景に卓越しながらも、女性に並々ならぬ興味を持った者。

 そして、世界一有名なデブ専画家の一人でもあった。

 

 ルノワールは、それはもうデブ専だった。

 評論家は口を開けば「ぶよぶよした脂肪の塊だろ」。

 「太くて肉を積みすぎだと思う」。

 「ごめん色まで変だと胴体が腐った肉の塊にしか見えん」。

 散々色んなことを言われてもなお、基本的にずっとデブ専だった。

 細い美人の恋人ではなくデブを選んで嫁にしたので本物の中の本物である。

 普通に細い美人を描いても桁外れに上手かったくせに、本当にデブが好きだった。

 

 そんなルノワールがずっと好まなかったもの。

 それが、ウマ娘であった。

 

 ウマ娘は現代基準での美人しかいない。

 いや、この世界においては、ウマ娘の容姿が美人の基準になっていった、という面も少なからずあるが……それは本題ではない。

 つまり、醜いデブがいない。

 ルノワールが好む、腹に階段が出来るほどのデブがいない。

 皆、細くてすらっとした美人なのがウマ娘。

 これはルノワールには憤慨ものであった。

 

 そんなルノワールが出会ったのが、現代でのオグリキャップやスペシャルウィークに並ぶ、希少な超大食いウマ娘―――デブるウマ娘であった。

 

 とにかく食って食って、腹は膨らみ体重は増える。

 そんなデブデブウマ娘を、ルノワールは愛した。

 大食いのウマ娘の中でも、体重がさして増えていないオグリキャップのようなタイプより、しっかり体重も増えてしまうスペシャルウィークのようなタイプを愛した。

 太れ、ウマ娘。

 走れなくていい、太れ。

 その姿こそが美しい。

 今ここにある一枚は、そんなルノワールの名画を模倣したレプリカの一つ。

 

 少年が眺めるマリス再現画のルノワールは、めちゃくちゃに腹がデブったウマ娘を描いたというものであった。

 迫力だけは、桁外れに凄まじい。

 性癖が爆発している。

 胸腹尻、全ての脂肪が爆発している。

 

「……すごいなあ……」

 

「芸術なのは分かりますが、同じウマ娘としてはこうなりたくはないものですわね」

 

「やあ、おはよう」

 

「おはようございます。お久しぶりですわね、盲目の画匠の方」

 

 足音で接近に気付いていたが、彼女が声をかけるのを待っていて、それを承知の上で彼へと声をかけるウマ娘がいた。

 

 メジロマックイーン。メジロ家の令嬢、薄紫のウマ娘であった。

 

「きみも鑑賞に?」

 

「ええ。とはいえ、半分は仕事、責務のようなものですが。

 家名の冠を乗せて、少し感想を言って、それが広告に載る。

 それだけですわ。

 面倒でも、家名を背負う令嬢ならば成すべき責務というものです。

 メジロ家もこの展覧会も、"有名なメジロの美術感想"が出ると得になるのは同じですから」

 

「なるほど。たいへんだね」

 

「さしたる労力でもありませんわ。もう帰るところですし」

 

「そっか。今すこしだけ時間があるんだけど、出口まですこし話さない?」

 

「喜んで」

 

 杖をつき、ゆっくり歩く少年。

 目が見えない少年に合わせ、マックイーンもゆっくり歩く。

 手を繋いで、手を引くことはない。

 そんなことを自然にするほど、二人は仲が良いわけではないから。

 

「あとから名前を知ったよ、メジロマックイーンさん。有名なひとだったんだね」

 

(わたくし)も後から知りましたわ、貴方の名前。

 こんな大きな展覧会に絵が貸し出されて展示される方だったとは思いませんでした」

 

「普通だよ。盲目という付加価値があるからだね」

 

「ご謙遜を」

 

 マックイーンが上品に笑う。

 あの子とは違うな、と笑い声を聞き、彼は思う。

 明るさが、上品さが、そして何より楽しそうな度合いが、あの少女と明確に違う。

 人それぞれの笑顔の魅力を、少年は見えないままに感じ取る。

 

「わたしは永遠にズルをしているんだ」

 

「ズル、ですか」

 

「創作に一番はなく、それぞれのうつくしさがあるのに、なぜかみな比べたがるんだ」

 

「至言ですわね。その矛盾、(わたくし)も気にならないと言えば嘘になります」

 

()()()()()()()()()()()()()()()と絶賛される。

 どんなすごい絵がわたしの絵の横にあっても()()()()()()()()()()()()()

 そしてきっと、わたしとおなじくらいの出来の絵がわたしの絵の横に飾られたら……

 言われることはこうだろうね。()()()()()()()()()―――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ええ、想像に難くないですわね。貴方の絵は、見えている人と遜色ありませんから」

 

「わたしが画商さんに売って。

 画商さんがだれかに売って。

 そのひとがここに貸し出した絵。

 だからもう、わたしの絵じゃないんだけど。

 わたしがなにか、とやかく言う権利はないんだけど。

 ……やっぱり、こういう色んな絵が並べられる展覧会は少し苦手かな」

 

「心中お察しします。ですが、拝見した貴方の絵は、素晴らしいものだったと思いますわ」

 

「ありがとう」

 

 ゆっくり二人は歩く。

 

 出口に向かって、並ぶ絵を一つ一つ眺めながら。

 

「足、よくなったんだ。よかったね」

 

「ええ、おかげさまで。

 医者からは精神的によい作用があったのでは、と。

 それでもレース復帰はするなと言われていますわ。

 まったく、こんなに生は上手くいかないというのに。

 神、そらに知ろしめす、すべて世は事も無し。ですわね」

 

「もっとよくなることを願ってるよ」

 

「ありがとうございます。嬉しく思いますわ」

 

 談笑して、なんでもないことも語り合いながら、二人は歩く。

 

 そして、ある一枚の絵の前で立ち止まった。

 

 

 



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19 アカンサス ■■■■

「もし君が偉大な才能を持っているのなら勤勉がそれに磨きをかけてくれるだろう。
 もし君が普通の才能しか持っていないのなら勤勉がその不足を補ってくれるだろう」

「人より秀でようとするならば起きてから寝るまでその事だけに全身全霊を傾けなければならない」

   ―――ジョシュア・レイノルズ


 骨伝導での解説が、その絵がそこにあることを、盲目の少年に教えていた。

 

「日本でいまの時代に描く人がいるんだ、『グラディアトゥール』」

 

「メジロのおばあさまが主催に展示品のリクエストを聞かれ、求めたものだそうです」

 

「なるほど……企画時点で注文を出して、展示品集めてる間に描いてもらったのかな?」

 

「そう聞いていますわ」

 

 それは、150年ほど前に書かれたウマ娘の肖像画を参考に、今になって描かれた新品のウマ娘の肖像画だった。

 

「『グラディアトゥール』。

 フランス最強のウマ娘の一人。

 エクリプスの再来。

 ワーテルローの復讐者。

 フランスウマ娘伝説のヒーロー。

 展示品のモデルの要望を聞かれて、おばあさまはまず彼女の名を出したそうです」

 

「なるほど。そのおばあさまという方の、周りのウマ娘への願いが見えるようだ」

 

「かもしれません。グラディアトゥールは(わたくし)も好ましく思い、また憧れる存在です」

 

「奇遇だね。わたしもすきなウマ娘だよ」

 

 『唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)』―――18戦18勝の伝説のウマ娘、エクリプス。

 その再来と呼ばれ、当時世界最大のウマ娘激戦区イギリスでクラシック三冠馬となった、フランスの伝説的英雄ウマ娘が存在する。

 名を『グラディアトゥール』。

 "剣闘士のウマ娘"と、人は呼ぶ。

 

 「フランス産のウマは資料が明確に少ない」と言われるように、栄光の規模と比較して資料が少ないものの、それでもなおよく知られた存在の一人。

 先日マックイーンが見た少年の絵の元絵、マネが描いた"ロンシャンレース場"のモデルの場所には現在も、グラディアトゥールの銅像があるという。

 

「ふふ。残念ながら、いつも身内には苦い顔をされますわ。

 『グラディアトゥールを真似ようとしたウマ娘は皆破滅する』と言われて」

 

「それはそうだろうね。わたしも知り合いがグラディアトゥールの名前を出したら身構えるよ」

 

「そうなれるとは思いませんが……憧れる怪物の一人ではありますわ」

 

 グラディアトゥールは出生直後の事故で足を壊してしまい、これは一生治らなかったという。

 事実上、先天性の障害を足に抱えた状態で、グラディアトゥールはデビューした。

 デビュー一年目からグラディアトゥールは歩様が異常で、レースの直前もずっと咳が止まらなかったという。

 

 しかしそこから、歴史上初のイギリス産ウマ娘以外による英ダービー制覇。

 グラディアトゥールはまたたく間に伝説となる。

 何度も足を悪くするが、なんのその、勝ち続けて二冠。

 なんと片足が動かない状態でセントレジャーステークスに出馬、実質片足だけで走り、オークス優勝ウマ娘・レガリアに圧倒的な差をつけて一着。

 でたらめな強さでイギリスクラシック三冠馬となった、と記録されている。

 

 グラディアトゥールの足は一生治らず、常にその足には激痛が共存していた。

 足が一本動かなくなるという致命的な症状はその後も現れたが、それでもグラディアトゥールは勝ち続けた。

 グラディアトゥールを恐れたウマ娘が逃げ、単走で勝ったこともあった。

 名ウマ娘ばかりが並ぶG1ゴールドカップでのレガリアとの再戦では、先頭集団から100バ身後方をまったり走り始め、終盤に本気を出して二着のレガリアに40バ身差をつけて勝っている。

 

 1886年、イギリスのある報道誌が競馬関係者を対象にアンケートを取り『19世紀名ウマ娘ランキング』『最も偉大なウマ娘ランキング』などを作成した。

 イギリスとフランスは仲が悪く、どちらも一位はイギリスのウマ娘が選ばれるだろう……と言われていたが、どちらも一位を取ったのはグラディアトゥールであった。

 国境を越え、しがらみを超え、二つの国の人々は共に、壊れた足で頂点を獲ったグラディアトゥールを褒め称えたのである。

 

 まさに伝説のウマ娘。

 事実上、先天的な致命的障害を抱えたまま勝ち続けた怪物である。

 先天的に障害を抱えた者達、足を壊して復帰が絶望的になったウマ娘達、その全てに夢を見せる空の星。彼方の光だ。

 "奇跡は起きる。それを望み奮起する者の下に"―――マックイーンは幼少期からずっと、グラディアトゥールの存在に、『壊れた後の奇跡は在る』と信じる気持ちを貰ってきた。

 

 生まれつき目が壊れている少年と、もう正式にレースに復帰が望めないほどに足が壊れたウマ娘が、グラディアトゥールの勇壮な絵を見つめている。

 

 二人は互いに対し『このくらいは知っているだろう』という前提で話しているため、互いに説明を述べることなく、言葉少なに共感し、目の前の芸術に集中していた。

 

「怪我をものともせず不可能を越える、奇跡の人に、(わたくし)はいつも憧れています」

 

「わかるよ」

 

「体が壊れても……奇跡は成せると……その姿に、みな心惹かれる……」

 

 二人はそれぞれの瞳で、その絵を見つめる。

 本物の奇跡の存在、グラディアトゥール。

 片足が完全に動かなくなっても最強で在った伝説。

 足が一本動かなくなってもなお三冠になった存在であれば、足が折れてしまっても、繋靱帯炎を発症してしまっても、目が見えなくても、重病を患っても、あるいは勝てるのかもしれない。

 

 生まれた時から抱えた理不尽、どうしようもない運命を、全て跳ね返したウマ娘。

 人類史上、人間のアスリートにも、ここまでの規格外な奇跡を起こした者は他にいない。

 同族の頂点集団と走って競い、片足で勝った者など他に居るわけがないからだ。

 

「諦めないことは美徳ですわ。今でもそう言い切れます。けれど、それでも……」

 

 誰もがグラディアトゥールにはなれない。

 グラディアトゥールに憧れても、憧れはあくまで憧れだ。

 メジロマックイーンには、片足で走って三冠になるなどという異形の偉業を成し遂げられる自信はない。

 松葉杖が無くても歩けるようになったものの、レースなどできようはずもないマックイーンの足が、鈍く微かに痛んだ。

 

「奇跡。それはきれいな言葉だね。

 でも実際、奇跡というものは、出会いくらいのものだと思うんだ」

 

「出会いだけ、ですか。出会いの奇跡は信じて、それ以外は信じていらっしゃらないのですね」

 

「出会いは偶然だから。

 そこには奇跡があると思う。

 でも、基本的に奇跡はないと思うんだ。

 グラディアトゥールは強かった。

 強いから折れても勝てた。

 それは別枠に置いておくべきだよ。

 本当に奇跡があるのなら、まずウマ娘全員勝者にして怪我も治して、なんて私は思うよ」

 

「……まずご自分の眼ではなく、赤の他人のこととは。優しい方なのですね、貴方は」

 

「そうでもないよ。

 眼のことはもう慣れただけだから。

 でもたぶん、他人が……

 ……知り合いの同族のウマ娘が夢破れるのを見て、平気でいられる気がしないんだ」

 

「ええ。あれは当事者としても、聞き慣れるものではありませんわ」

 

「赤の他人でも、奇跡もなく負けた子の声を聞くのがつらいんだ。

 馴れ合ってる画壇みたいにさ、ウマ娘みんな一番でよくないかな? って思ってしまう。

 レース聞くたびにそう思ってしまうんだよ。

 負けてるウマ娘の声を聞いてるだけで、知らない子なのにつらくてつらくて。

 ああいう負けた子に、奇跡がないなら、他の子にも、私にも、奇跡はないんだろうなと……」

 

「だからこそ、勝利の栄光が輝くとも言えます」

 

「うん、わかるよ。

 その上で……こう、思うのさ。

 ウマ娘のきみには、もしかしたら新鮮味のない意見かもしれないけど」

 

「いえ、そうでもありませんわ」

 

 マックイーンは共感し、僅かな痛みをこらえるような顔をする。

 マックイーンの脳裏に思い出される、マックイーンが負かしたウマ娘達の泣き顔と、マックイーンが負けた時の気持ちが混ざっていく。

 少年は勝者の栄光ではなく、敗者の悲しみに寄り添っている。

 夢叶えた者の心ではなく、夢破れた者の心に寄り添っている。

 だから。

 頑張った敗者に奇跡が無いならば、自分にもそれは無いだろうと思っているのだ。

 

 彼は自分に奇跡が舞い降りることを、これっぽっちも信じていない。

 

 本質的に、奇跡がそんなに都合よく与えられるものだとも思っていない。

 

 それは、この世界中のどこにもいる『奇跡に恵まれなかった全ての人』の心に寄り添う優しさであり、十数年かけてへし折られ続けた心が出した結論であり、彼の目も、彼の病も、何もかもどうにもならなかった彼の人生が出した、唯一無二の答えだった。

 

 それでも。

 彼が奇跡の全てを否定していないのは。

 少女と出会ったことで、『彼女と出会えた奇跡』だけは、本物の奇跡だと思っていて―――その奇跡だけは、いかなる厭世観でも否定できないからに違いない。

 彼は、彼女と出会ったことだけは、奇跡であると信じているのだ。

 

「ふふっ……優しすぎるとウマ娘には向かないといいます。

 貴方はウマ娘には向いていないでしょうね。

 これに侮蔑の意味はありませんが、貴方がウマ娘に生まれなくてよかったと思いますわ」

 

「驚いた。そういうこと言われたの二回目だよ」

 

「あら? 他のウマ娘が言ったのかしら……」

 

 マックイーンがかの少女と同じことを言い出したので、少年は思わずくすっとしてしまう。

 

 少年の感覚が本質を見抜き、なんとなくに理解させる。

 メジロマックイーンも、かの少女と同類。

 普通の女の子の延長にいながら、他者の人生を変えかねない『特別』。

 彼がその人生で出会った中で、二つ目の遥かに貴き輝き(ノーブルライト)

 『本物』に数えられる一人だ。

 

 『お嬢さん』ほどの特別となることはありえないが、僅かな出会いと会話だけで少年の記憶に強く残る人間であることは間違いない。

 マックイーンは、とにかく少年と会話の拍子が合う少女であった。

 

「奇跡は無い。

 一理はあると思いますわ。

 奇跡を諦めてしまう気持ち、分からないとは言えません。

 ただ……(わたくし)はそれに頷けないのです。(わたくし)は、奇跡を信じています」

 

「……奇跡を?」

 

「ええ、揺るぎなく。

 この先に何があろうとも。

 (わたくし)は、奇跡というものを信じていますわ」

 

「……」

 

(わたくし)は、知っています。

 誰よりも幸運の女神に嫌われ……

 誰よりも奇跡の女神に愛された子を知っています。

 頷きたいところですが、(わたくし)だけは"それ"に頷いてはいけないと思うのです」

 

「それは、きみのともだちのウマ娘のこと?」

 

「ええ。……そうですわ、あとどのくらいお時間いただけますか?」

 

「時間? ちょっとまってね」

 

 少年は手首の新品らしきEONE――盲目の人間用の、表面に触れるだけで時間が分かる、針の代わりに鉄球が動く特殊な時計――に触れ、時間を確認する。

 

「あと30分と少しくらいなら」

 

「ありがとうございます。ではこちらが前金です」

 

「何事!?」

 

 マックイーンがいきなり小切手を押し付けてきたので、少年はかなりびっくりした。

 

「余計な前置きは無用、まず払えるものの話を。メジロの教えですわ」

 

「ああ、お仕事の依頼か……いやこれ、0の数多くない……?」

 

「多くありませんわ。値段を決めるのは(わたくし)ですもの」

 

 小切手にボールペンで書き込まれた数字を、筆圧の溝に指を這わせることで理解し、少年はちょっと引いた。

 

「0の数一つ二つ減らしてもいいよ、知り合いだし……」

 

「少なくしませんわ。それで、あなたにお願いしたい内容なのですが」

 

「この子パワーあるな……」

 

 少女は取り出した木箱から、更に紙を数枚取り出し、少年に手渡す。

 

 紙は何の変哲もない紙にしか見えないもので、やや大きめのメモ帳程度の大きさだった。

 

「ここに、簡易で構いませんわ。怪我から復帰しようとするウマ娘に向けた絵をお願いします」

 

「え、それだけでこの値段? 確かに30分以内にできるけど……0の数三つ減らさない?」

 

「ええ。手に乗る御守りに入れるだけのものなので。0は減らしません」

 

「がんこだねきみ……うん? これ越前奉書?」

 

「はい、その通りです」

 

「重要無形文化財……これに描けとはまた、緊張する……」

 

「触れただけでそれと理解したのが貴方ですわ。何の心配もしていません」

 

 16世紀には生まれ、後に安く低質な紙に駆逐され、現代においても伝統工芸として保護されている上質和紙。それが越前奉書である。

 お守りに入れるということは一見して見えないものになるはずだが、見えない部分にもこだわるあたり、マックイーンは相当生真面目で、かつ完璧を求める精神性があるのだろう。

 

「そういえば、毘沙門天の姿絵を入れておくおまもりがあるというのは聞いたことがあるね」

 

「ええ。簡易で構いません。あなたにウマ娘を守ってくれるような絵を描いてほしいのです」

 

「あと30分だと、多分そんな大したものは描けないけど」

 

「構いませんわ。これは、(わたくし)が貴方の絵と、貴方の30分に付けた値段です」

 

「……まいったな。きみ、わたしのやる気を引き出すのがうまいね」

 

 以前の優美な屍骸作成時以降、少女が描きたいと思った時に貸せるように、常にホルダーに収めていた多色ペン十本を少年は取り出した。

 普通の筆では間に合わない。

 多色ボールペン、及びその類で描くしかない。

 でなければ、この短時間で描き上げる段階まで行けないだろう。

 

「きみに向けて描くってことでいいのかな?」

 

「? (わたくし)は復帰する予定はありませんわ。

 怪我をして復帰する予定なのは、(わたくし)の友人です。

 復帰は絶望的だったはずが、どうやら相変わらず、見惚れるほどに不屈だったようで」

 

「あれ、そうなんだ」

 

(わたくし)はメジロの悲願を叶えました。

 彼女とまた走るという、叶うはずのないことも叶いました。

 十分にすべきことは成しましたわ。

 だから、もっと走りたいという欲はあれど、後悔はありません」

 

 描き始める直前に、ペンがいきなり軌道を変えた。

 下書きと線取りを同時に行い、少年は一分で線画を終える。

 話しながらも眼は紙から離れず、その手は何も見えていないのに異様に正確に線を引き、手の稼働限界までペン速度を引き上げてなお、脳には会話する余裕がある。

 

 日々"お嬢さん"と喋りながら描き続けた結果、彼の一部技術は、普通ではない飛び抜けた領域へと到達していた。

 

「じゃあ、その子は怪我にも負けず復帰する子なんだ。すごいね」

 

「珍しくもなんともありませんわ。

 無茶をしたウマ娘が故障を押して出場、そして怪我、そして引退。

 よくあることです。だから偉くもなんともないのです。我儘を押し通しているだけ」

 

「手厳しいね」

 

「……正直に言えば、応援したいのです。

 ですが怪我の状況が、流石に悪すぎました。

 次の怪我があれば、日常生活も送れるかどうか……

 そういう段階で無理をして、普通の暮らしもできないウマ娘は多いと聞きます」

 

「ああ、それなら、応援しないことも友情だろうね」

 

「尊敬はしています。

 同時に、心配もしているのです。

 (わたくし)の足は事実上の不治の病ゆえに諦めがつきましたが、彼女は……」

 

 グラディアトゥールの絵の前の、横長のベンチに二人は座り、話している。

 少年は猛烈な勢いで描きながら。

 マックイーンは壊れた足を撫でながら。

 

「一つ(わたくし)の願いが叶うなら、彼女には無事に引退してほしいのです。どうか、後悔なく」

 

 それは、切実な祈りであった。

 

 先程『自分の眼そっちのけで他人のために奇跡を望むなんて優しい人だ』と、少年に対して言っていたマックイーンの言葉が、無自覚に、そのままマックイーンに返ってきていた。

 

 一つ願いが叶うなら、マックイーンは自分の足の治癒ではなく、友の幸を願うのだ。

 

 一つ願いが叶うなら、己の病気の快癒ではなく、あの少女の足が治ることを祈る少年のように。

 

「だからおまもりね」

 

「ええ。神頼みのようで、少し気が引けるところもあるのですが」

 

「大切なひとの無事を願っておまもりを渡すのは、神頼みとは違うし、すてきだと思う」

 

「……ありがとうございます。その言葉に救われます」

 

「きっとどこかに届くよ。その祈りは」

 

「あら、奇跡は無い、そう信じているのではないのですか?」

 

「それは……」

 

「ふふふっ。

 申し訳ありません。

 分かっていて、意地悪なことを言ってしまいました。

 そうですわよね……奇跡が無いと信じる人は、かつて奇跡を信じたかった人でしょうね……」

 

「……」

 

「普通の人は、奇跡が有るとも無いとも言い切りませんもの」

 

 少年のペン先は、止まらず凄まじい勢いで描き上げていく。

 そこに、マックイーンは確かな命の煌きを見た。

 普通に生きている人間が、決して発することのない命の煌きを。

 

「ケガしたみんな、グラディアトゥールみたいだったら……いや、なんでもない」

 

「夢、ですわね。優しく儚い夢です。見る人がほとんど居ないくらいに」

 

 多色ボールペンという子供のお絵描きのような道具で、信じられない色彩を作っていく。

 「クレヨンでもなんでも、身近にあるものをなんでも使って絵を描いてみなさい」などは芸大生や芸大志望生によく出される課題だが、これはその先。

 どんな道具でも一流の作品を仕上げられる領域の技術だ。

 

 ボールペンの同色筆先一本で、筆圧や紙への擦り方を変えることで、千変万化の色合い・線の太さ・タッチの違いを作り、それを織り上げていく。

 色Aをうっすらとした色合いで紙表面に擦り当て、そこに色Bをしっかり乗せて、たった二色で見事なコントラストを作り上げる。

 繊細なタッチと神業じみた筆圧の支配で、まるでボールペンが筆より優れた道具であるかのように錯覚させる、そんな絵を描いていく。

 

 小さな上質和紙の上に、人が一人、ウマ娘が一人、背景が一セット。

 絵のウマ娘の髪を描く彼の技術を見て、マックイーンは無言で舌を巻いた。

 

 たとえるならば、『~』のような、波打つ髪の毛。

 それを迷いなく、ガッと直線を引くような速度で引いていく。

 そしてその下に寸分違わず同じ線を引いていく。

 隙間も空けず。

 ほんの僅かな白い空白も作らず。

 波線の下に、1/100mmのズレもなく、同じ波線を引き、それを髪の毛に仕立てていく。

 

 描いた0.28mmの髪の毛の下に、0.28mmの髪の毛をぴったり隣に描き、そのぴったり隣にまた描いて、髪の毛として魅せる十本の波線は、僅かなズレもなく幅0.28mmの線の束となった。

 本来ズレて当たり前の波線を、僅かなズレもなく、僅かなミスもなく引き切る。

 度胸も技術も並外れている。

 その精度は既に精密機械でなければ誰も模倣できない、職人芸の域にあった。

 

 それだけではない。

 少年は波線を引くように髪を描きながら、その途中で筆圧とタッチを調整し、描いている髪の毛の質感を絶妙に調整していた。

 汎的技術にある、筆で髪の毛を大まかに作り、最後に光沢を調整するというやり方ではない。

 髪の毛を、ボールペンの線の無数の集合体で表現しつつ、その線を引く際の繊細な加減を調整することで、非常にレベルの高い質感の表現を成し遂げているのだ。

 

 更に少年はペンで一度線を引いたところを、近似色のボールペンで、ほんの僅かなズレもなくなぞって、色を重ねる。

 インクを重ね、発色を調整する。

 そうして、ごく自然に、リアルに見える色彩調整を行う。

 リアルな色彩、ではない。

 リアルに見える、である。

 

 彼は盲目ゆえに、リアルに見える技術を使っても、それで生まれるものはやはり、どこか幻想的でどこか非現実的だ。

 ボールペンのインクを薄く擦り乗せ、ボールペンで『空気』を描き始めたのを見て、マックイーンは魔法の世界に迷い込んだかのような気分になってきた。

 

 精密機械に並ぶ精度と、人間らしい柔軟な表現能力。

 死が迫る中で獲得した爆発的な速度と、迷いがなくミスもないペン運び。

 筆で描く以上に滑らかな質感と、生命力を強く感じる髪のタッチ。

 即座に構図を組み立てる、絵画とウマ娘の歴史に対する深い造詣。

 精密機械であっても、これを再現するのには相当苦労するだろう。

 

 いつも指先で、マイクロメートル単位のものを正確に知覚し、ほんの僅かな情報から色の違いすら指先で把握する彼にとって、この程度は精密作業の内にも入らない。

 

 今の彼は、描くたびに進化を続ける状態にある。

 

 おそらくは、命と引き換えに。

 

 燃え尽きる過程にあるからこそ、極みに近付いている。

 

 今の彼の能力が、逆説的に彼の残り時間を示している。

 

「……ジェームズ・ミルンのボールペン画を見たことがありますわ。

 2005年の、写真とほぼ変わらない白黒のウマ娘の絵。

 あれを見た時も、驚愕したものですが……今はそれ以上ですわね」

 

「そうかな」

 

「ええ。ボールペン画の欠点は、色の劣化、色彩の乏しさ、ミスと言いますが……

 劣化対策が行われた近年のボールペンインク。

 多色化が進む近年のボールペンと、色彩を多様化させるタッチ。

 そして、ミスしても描き直せないという前提を無視するその勇気。

 欠点がまるで見当たりません。

 "ウマのボールペン画"において有名なのはミルンでしたが、貴方もそこに入れそうですわね」

 

「そうかなぁ」

 

 ミスをしない。

 全くミスをしない。

 ミスを恐れないからミスしないんだ、とでも言わんばかりに、小さな紙の枠内を走る神速のペンは止まらない。

 

 ボールペン画はミスできない。

 ミスをしても描き直せず、最初からやり直しになるからだ。

 だから皆、慎重に描く。

 なのに彼には恐れがない。

 恐れがないから勢いよく、大胆に線を引いていけている。

 その感覚でずっと描き続けているために、結果としてミスもない。

 

 幼少期からずっと死の恐怖に蝕まれている彼が、今更何を恐れるというのか。

 

 凄まじい技術を見せながら、少年は平然とマックイーンとの会話を続ける。

 

「きみがおまもりを渡したいその子は、きみにとって大事なウマ娘なんだね」

 

「ええ。(わたくし)の人生で最大の存在だったと言い切れます」

 

「いいことだ、大切なひとを得られる人生は、いいものだから」

 

「ふふっ……実感のこもった言葉ですわね。やはり、貴方に依頼して良かった」

 

 そして、絵は完成した。

 

 出来上がったのは、顔が見えない高貴な男が、切り揃えられたターフの上で、礼儀正しく膝をついているウマ娘を、褒め称えている一場面。

 男の服装が紫地に金の飾緒、緋色の袖、黒帽子と、『当時のイギリス王室の服飾色だ』……と、教養がある者にはひと目で分かるようになっていた。

 

「あら。『最後の放蕩王』とは、予想していてませんでしたわ」

 

「流石だね。構図は今思いついたやつを描いただけだから、ちょっと自信無いけど」

 

「まあ、てっきり前々から考えていたものを使ったものかと……素晴らしいですわね」

 

 『最後の放蕩王』、エドワード7世。

 

 イギリスでは三冠や王の名を冠する賞を目指すウマ娘が現れた時――日本で言えばクラシック三冠や天皇賞を目指すウマ娘が現れた時――には、まず思い出される王である。

 

 エドワード7世は、とにかく美女とウマ娘が好きな王であった。

 関係を持った女性の数、実に101人。

 育てたウマ娘は王族旗下初の三冠ウマ娘ダイヤモンドジュビリー、現役国王が育てたウマ娘としては初のクラシック制覇ミノル、彼が最初に育てたクラシック勝者タイス、クラシック二冠ウマ娘パーシモン、王室旗下のグランドナショナル初優勝ウマ娘アンブッシュなどが並ぶ。

 彼はとにかく美女とウマ娘が好きで、美人よりも優しい女が好きだったという。

 

 日英同盟を成立させ、ウィンストン・チャーチルの父親と女を争って決闘を申し込んだとか。

 美女とウマ娘が好きすぎて国民が不安視する中即位し、かねてより仲の悪かったフランスやロシアと瞬く間に関係を修復、日本などと連携し、また当時少なくなかった白人から非白人への差別意識にも反対という先進的意識を持っており、『ピースメーカー』とも呼ばれたとか。

 そして平和を作りつつ、一生美女とウマ娘の尻を追いかけていたとか。

 義務教育の範囲の世界史を知っているだけでも分かる、あんまりにも愉快な王であった。

 

 1909年。

 ウマ娘・ミノルがダービーを制覇した時、エドワード7世は貴賓席から駆け下り、ゴール直後のミノルの手を取ってその勝利を讃えた。

 ミノルはウマ娘の身に余る光栄、優勝の感動、王の称賛に顔を真っ赤にしていたという。

 興奮した観客が数千人、一気に観客席からなだれ込み、これを警官隊が必死に押し戻して王の身の安全を守り、エドワード7世はそれにドン引きしていたと、新聞に記録されている。

 

 少年が紙にボールペンで描いたのは、その時のことを描いたものだ。

 語り継がれる、奇跡の三冠馬を育てた王、エドワード7世。

 王の期待に応えたウマ娘、ミノル。

 後の時代に、レスター男爵は、この時のダービーを「この勝利はおそらく競馬の歴史のなかでももっとも有名なもの」と書き残している。

 

 ミノルは走り続けたが、エドワード7世が政治の激化によって九ヶ月休み無く働き、呼吸器を悪化させる形で過労死したのを受け、主君の死と共に引退を決意し、表舞台から消えた。

 

 エドワード7世は5月6日に崩御したが、死の寸前まで公務を続け、5月5日までずっと息子とウマ娘の話をし、エドワード7世の育てたウマ娘の優勝に心底喜んでいたという。

 

 誰よりも美女と平和とウマ娘を愛した王。

 三冠ウマ娘を夢見た不良少女、ダイヤモンドジュビリーに夢を叶えさせた男。

 親しみと尊敬とほんのちょっぴりの呆れを込めて、人は彼を最後の放蕩王と呼ぶ。

 

 『可愛いウマ娘なら誰でも大好きなあの王様なら、きっとどんな怪我をしたウマ娘でも守ってくれるだろう』という、女性画家からはあまり出にくい、男性画家らしい発想。

 しからば、マックイーンが予想していなかったのも当然と言えた。

 名の知られた過去の偉人に加護を求めるのは、学業成就を願うお守りの中に、菅原道真公への請願を書き込んだ木片を入れるそれに近い。

 

「……ああ、そういえば、エドワード7世が育てたパーシモンも、足を折っていましたわね」

 

「たぶん、彼は怪我したウマ娘にはやさしいと思うよ。根拠はないけれどね」

 

「いいえ、きっとそうでしょう。(わたくし)もそう思いますから」

 

 マックイーンは受け取った絵を様々な確度から眺め、うんうんと満足そうに頷いている。

 

 3分か4分ほど見つめていたマックイーンに、少年が横合いからもう一枚、同じ紙に描いた絵を差し出した。

 

「それと、こっちもね」

 

「これは……もしかして、今(わたくし)が見てる間に、一枚描いたのですか?」

 

「代金貰い過ぎだったし、5分最後に余ったし、二枚目描いちゃった」

 

「描いちゃった、ってそんなに早く……描けるでしょうね、貴方なら」

 

「新しいものを生み出したわけではないからね。

 記憶してるものをわたしの画風で描いただけだから。

 それもおまもりにして、きみが持っておくといい。きみのためのものだから」

 

「……ダーラナホース」

 

「うん、きみならわかると思った」

 

 別名、ダーラヘスト。

 スウェーデンのダーラナ地方で18世紀初頭に生まれた、独特の形状をした木彫りのウマ娘。

 "幸せを運ぶウマ娘"と言われるそれは、北欧を代表するウマ娘芸術の一つだ。

 結婚、出産、応援、告白……様々な場面で贈り物として選ばれ、現在ではダーラナ地方の代名詞のような特産物となっている。

 これを描いた絵画やイラストも多いため、少年はそれを参考に、ダーラナホース特有の『デフォルメされた花柄のウマ娘達』を紙に何人も描き込んでいた。

 

 マックイーンのために描かれた、何人ものウマ娘達が、ふわふわと楽しそうに漂っている。

 

「どうか、きみの行き先にも、幸がありますように」

 

 そう言って、少年はマックイーンと別れ、待ち合わせの場所に向かった。

 

 流石に最初の一枚ほどの出来ではないが、それでも十分な出来だった。

 

 そして、どちらの絵にも、速さや上手さの印象を塗り潰すほどの、思いやりに満ちていた。

 

「罪な人ですわね。あの青いウマ娘の絵を見る限り、あれで一途そうなのがまた尚更に」

 

 暖かな印象を受ける二枚の絵を見て、マックイーンは尊敬の気持ちを顔に浮かべる。

 

「……あれで余命幾許も無いかもしれないとは、受け入れ難いことですわね」

 

 そして二枚を折りたたみ、取り出した赤いお守りの袋の中に収納した。

 

「あるいは、奇跡など無いと信じられれば、諦めがついて耐えられるのか……」

 

 その呟きは、どこにも届かない。

 

 

 

 

 

 ちょっとした時間に一仕事を終え、少年はデートの待ち合わせ場所である、この美術館で最も大きな絵の前に戻る。

 巨大な絵を前にして、左右10mはある絵の両端を往復し、少年は見えないままにその大きさに感じ入り、圧倒されていた。

 

 少年は彫刻の方が楽だと少女に言っていた。

 マックイーンの依頼による、手の平に乗るサイズの紙に描く絵には神業を発揮できた。

 小さいものは、彼にとって楽なのだ。

 眼の代わりの指先が、それを把握しやすいから。

 普通の人間でも、目を瞑ってスマホの形状を把握するのは容易だが、目を瞑って車の形状を把握するのは困難というものである。

 

 大きな絵には、大きな絵を描く技術が要る。

 サシャ・ジャフリがドバイで描いた2000平方メートルのビッグ・アートのように、そもそも目が見えていないと不可能に近いジャンルが存在するほどだ。

 大きな絵は、少年が"死ぬ前にやってみたい"と思っていても、おそらく死ぬ前に技術習得が間に合わないジャンルの一つである。

 求めても、手が届くことはないだろう。

 

 人は、自分が得られないもの、己が持てないものにこそ、強く憧れる。

 

「あ、おはよーセンセー!」

 

「やあ、お嬢さん。はやかったね」

 

「時間ぴったりだよ? っていうかセンセーの方が早いじゃん!」

 

「きみと会うのがたのしみすぎて、はやく来すぎてしまったんだよ」

 

「……えへへー、それなら仕方ないかなー、次からはボクの方が先に来るからねっ!」

 

「何を張り合ってるんだ何を」

 

「会うのが楽しみゲージの大きさ! 絶対ボクの方が大きいから!」

 

「ふふふ。なんだい、それは」

 

 少年が最も強く憧れ尊敬するものが、今、目の前に在る。

 

 彼の中で、グラディアトゥールよりも上に置かれているウマ娘が、そこに居る。

 

 自分では描けない大きさの絵に羨望を覚えていた少年が、絵の大きさではなく、会うのが楽しみな気持ちの大きさを比べている少女につられて、笑って、色々どうでもよくなってしまう。

 

 ああ、彼女の方がわたしよりずっと大きいな、と、少年は思うのだ。

 

「実はここ、わたしの絵が飾られてるんだよ」

 

「あー見た見た! もう見ちゃった! びっくりした!

 もー、センセーあらかじめ言っといてよ! びっくりするじゃん!」

 

「びっくりさせたかったんだよ」

 

「センセーはさぁ!」

 

 楽しそうに笑い合う。

 

 目が見えない彼には、少女が肩からかけている小さなかばんに、赤色のお守りがくっつけられていることなど、分かるはずもなかった。

 

「三周くらいゆっくり回ろうよ! センセーの解説聞きながら回りたいな~」

 

「いいね。ベクシンスキーの所謂『三回見たら死ぬ絵』もあるらしいから、ちょうどいいかも」

 

「ちょっと待って!?!?」

 

「ふふふ」

 

 

 



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20 ランゲージ・オブ・フラワーズ

「幸福とは 心が充たされること」

「わたしにとって、人生でいちばん大切なことは、心の充足です。
 与えられた運命、自分が置かれた環境に満足して生きることです」

   ―――ターシャ・テューダー


 少女は、寮の同室のマヤノトップガンに「いつまで服に悩んでるの……?」と呆れられるくらいの準備時間を費やし、おめかしして出立した。

 少年はリスクマネジメントの観点から早くに出立して館を下見し、それを"楽しみだったから"と六割ほど本当のことを混ぜて言い繕っていた。少女に無駄に気遣わせたくなかったからだ。

 が。

 実際のところ、デートが楽しみすぎて早く来すぎてしまうというのは、彼ではなく彼女の方がやらかしやすい案件であった。

 

 この日、少女がそんなに早く出立しなかったのは、一つ不安があったからだ。

 

「……ボクが待ってる間に、センセーがどこかの道で倒れてたりしたらどうしよう……」

 

 少女が先に行って、うきうきした気持ちで少年を待って、そうして楽しい気持ちで待っている間にもし彼がどこかで倒れていたら……そう思ったらもう、先に行って待っているという選択肢は存在しなかった。

 一度でもそう思ってしまえば、楽しい気持ちで彼を待つことなどできないから。

 

 少女は彼女なりに考え、電車が一本遅れればギリギリになるくらい、限界まで遅く出立した。

 

 仮に、彼が少女より先に出立したとする。

 そして道中で倒れたりしたとする。

 電車やバスの中で倒れたなら誰かが病院に連れて行くだろう。

 最悪になるのは、誰にも発見されず道端や路地裏で転がっているパターンだ。

 

 なら、遅刻しない程度に確実に少年より後に出て、注意深く見渡しながら行けばいい。

 どの交通機関を使うとしても、乗り物を降り、この大通りを行くのが展覧会への最善の道。大通りと脇道を注意深く見ておけば、少年に万が一があった時のケアが可能だ。

 

 デートの待ち合わせに向かう時と言えば、普通はどちらが先に着いているか、どのくらい相手を待ったか、どんな気持ちで行くか、などが重要である。

 だがその日、彼女にとって最も大事だったのは、彼と同じ道を選ぶことと、彼より確実に遅くに待ち合わせ場所に向かうことだった。

 

 何もなければよし。

 何かあれば、運が良ければ自分が助けに行けるかもしれない。

 少女はそう思い、楽しみで仕方ない気持ちをぐっと堪えて、少し遅めに出立したのである。

 

 美術館に向かい、道中"もしセンセーが倒れてたら"と考えながらキョロキョロ、キョロキョロ、忙しなく首をあっちこっちに動かしていく。

 デートに出発する前は一人のことばかり考えていて、デートに向かう途中も一人のことばかり考えていて、デートが始まれば、きっとずっと一人のことばかり考えているだろう。

 そして、少女は気付いた。

 

「……ああ、ボク、本当に最近ずっと、センセーのことばっかり考えてるなあ……」

 

 まだ一度も足を折っていなかった頃、寝ても覚めても夢のこと、レースのことを考えていた。

 今も同じように、寝ても覚めても、一人のことだけを考えている。

 いつの間にか自分の中で『それら』が同じくらい大切なものになっていたことに、少女はふと気付いて、紅潮する頬をぱんぱんと叩いた。

 

 一途で、真っ直ぐで、ひたむきで、純情で、愛情が強い。

 そんな少女だから、一度好きになれば本当にとことん好きになる。

 レースも。

 夢も。

 彼も。

 その熱量が、いつも少女の前に降りかかる『絶望』に立ち向かう力になってくれる。

 

「あれ」

 

 道中で少年を見つけなかったことで、少女はちょっとひと安心。

 さあ中で彼に会おう、と美術館の受付まで入ったところで、知った顔を見つけた。

 

「マックイーン!」

 

「あら……ごきげんよう。こんな所で珍しいですわね、美術館に何かご用ですか?」

 

「えっ……え、えと、友達に誘われて、その付き合いで。マックイーンは?」

 

「野暮用、というやつですわ。少々芸術を拝見させて頂いていましたの」

 

「へー、やっぱマックイーンってたまに本物のお嬢様みたいだよね」

 

「たまに? みたい?」

 

 入学当時確かに存在したはずの、マックイーンを教養豊かでお堅い高嶺の花なお嬢様だと思っていたウマ娘は、既に学園から絶滅していた。

 

「今、帰るところだったのですが……

 これも縁ですわ。少しばかり同行して、案内してさしあげましょう」

 

「んー。ちょっとだけだよ? このボクが同行を許そう!」

 

「ふふ。こんな場所を貴女と回るなんて、想像もしていませんでしたわ」

 

「ボクもだよ。そもそも、こういうところあんま興味無かったのもあるけど」

 

 小なり大なり減らず口。なんでか出てしまう挑発的な言葉。相手から自分に向けられる友情、気遣い、親しみを分かっているのに、分かっていないようなふりをして会話する。

 それが、いつものこの二人。

 友達以上と迷いなく言える、仲間でライバル。そんな関係。

 

「貴女を誘うなんて、どんな方ですか?

 トレセン学園には芸術に興味がある方は多くなかったと思いますが」

 

「え゛っ……す、スペちゃんだよ!」

 

「あら……意外ですわね。

 貴女同様に色気より食い気のスペシャルウィークさんが?

 食べられない一億の名画より五千円の食べ放題を選びそうなあの人が……?」

 

「な、なんか、ネットで芸術がダイエットにいいみたいな記事見て興味出たんだって~」

 

「そうでしたの。

 ……あいちトリエンナーレが掲げていた『アートダイエット』を何か勘違いしたのかしら」

 

 なまじ教養があったのと、基本的に人を信じる性格なのもあって、マックイーンはとりあえず素直に信じる。

 

 少女は、反射的に嘘をついてしまった。

 特に嘘をつく理由はない。

 やましいこともしていないし、悪いこともしていないのだから。

 それでも、少女は嘘をついた。

 隠したいこと、知られたくないこと、言いたくないことがあったからだ。

 

 そうなった場合のマックイーンの言動を、少女は正確に予想できていた。

 まず「まあ! 貴女にそんな人が!」と驚く。

 続いて何を言っても「ええ、大丈夫、分かっていますわ」と深読みと邪推をする。

 そして「(わたくし)にも紹介してくださいませ」と言うだろう。

 それが、どうにも、なんとなく、ぼんやりと、嫌だったのだ。

 

「……」

 

「どうかなさいました? (わたくし)の顔に何かついてますか?」

 

「な、なんでもないよ」

 

 少女自身にも明確には自覚されていない、意識と無意識の境界にある想いが、嘘をつかせた。

 万が一。

 億が一。

 兆が一。

 もし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という―――不安と言うには甘酸っぱくて、嫉妬と言うには無垢すぎて、警戒というには穴だらけの気持ちがあった。

 

 少女は彼とマックイーンの両者をよく知り、よく理解していた。

 なので分かる。

 彼とマックイーンは、話せば話すほど仲良くなるタイプの相性抜群だ。

 おそらく、十度会えば親友になれる。

 そのくらいには相性が良い。

 それは彼女が理解しているただの事実であるが、彼女は事実を理解しつつ、不安を抱いて邪推してしまう。

 "その先まで発展してしまうのではないか"、と。

 

 少女は、マックイーンを多大に評価している。

 だから思ってしまうのだ。

 「マックイーンは美人だし」「美人なだけじゃなくかっこいいし可愛げもあるし」「たまーに隙や弱さを見せるのがずるいよね」「普段強くてかっこいい感じだから尚更」「面白い美人のお嬢様って男の子にモテるやつじゃん」「走ってる姿が凄いんだ、皆見惚れるから」「おうちがあれだからレースの外でもファン増えるんだよねマックイーン」「すごいんだよマックイーンは」「ボクが男だったら女のボクよりマックイーンの方を好きになってると思う」―――なんて。

 

 センセーがマックイーンを好きになっちゃうかも、という不安があった。

 それはとても子供らしく、甘酸っぱい気持ち。

 それは嫉妬というには、あまりにもマックイーンへの悪意や敵意がなかった。

 "ボクをさしおいてマックイーンに恋することもある、というかそれが普通かも"という、マックイーンへの高評価が生む納得さえあった。

 

 そのくせ、警戒は適当にもほどがある。

 その場限りの先送りにしかならないようなこんな牽制に、何の意味があるのか。

 マックイーンがちょっと疑問に思えば、こんな嘘はそこで終わりだ。

 本当の恋愛上手なら、もっと上手く彼とマックイーンが知り合わないよう、知り合っても彼と付き合わないよう、もうちょっと上手い牽制をするだろう。

 

 焼き餅はある。

 嫉妬はない。

 尊敬はある。

 劣等感はない。

 

 そんな、混ざり混ざった、淀みなく人間味に溢れた春風のような気持ち。

 ここに生来の負けず嫌いが混ざることで、彼の存在をマックイーンに教えたくないという、少女の気持ちが出来上がる。

 

 他のウマ娘だったらこんな心配はしていない。

 実際、スペシャルウィークには全て話して、長話でスペシャルウィークをぐったりさせていたのだから、他のウマ娘には普通に少年のことを話せるのだ、この少女は。

 マックイーンだから言えない。

 「スペちゃんなら大丈夫」という気持ちがある。

 「マックイーンなら、センセーも好きになっちゃうかもしれない」という気持ちがある。

 マックイーンを信じていないからではなく、マックイーンの魅力を信じているから、マックイーンを尊敬しているから、不安になるのだ。

 

 メジロマックイーンは、いついかなる時でも、この少女にとっての特別である。

 

 その特別は、特別な相手だから負けを素直に受け入れられる、という意味での特別ではない。

 『特別な相手だから負けられない』という意味での特別だ。

 レースの一番はボクだ、と少女はいつもマックイーンに張り合ってきた。

 今は、『センセーの一番はボクだ』という気持ちで張り合っている。

 恋に負けず嫌いが混ざるのが、彼女の抱える子供っぽさ、少女性であると言えるだろう。

 

 "とりあえず後でスペちゃんに口裏合わせておいてもらわないと"、と少女は思った。

 

 こういう時、一切警戒されないのもまた才能である。

 持ち前の善良さや素直さで、どんなウマ娘の恋人と二人で歩いても誤解されることがない。

 少女がマックイーンほど警戒せず、彼のことをバリバリ話せる。

 スペシャルウィークは、そういうウマ娘であった。

 

「ボク待ち合わせがあるからあんまり一緒に居られないんだよね。

 ぱぱーっと、マックイーンの一番のオススメだけ見に行って紹介してみてよ」

 

「そうしますか?

 一番のお勧め……そうですわね。

 歴史に名を残す画家の一品もありますが、今日は奇縁もありましたし、そうしますか」

 

「?」

 

 今回の展覧会は当たりで、マックイーンが一番のお勧めに選べるものはとても多かった。

 

 マックイーンはその中から、ちょっとした気まぐれで一番のオススメを選んだ。

 

 "これも何かの縁ですわね"と、『彼』のことを宣伝するくらいの気持ちでそれを選んだ。

 

 少女は『彼』のことをマックイーンに知られないように嘘をついたが、マックイーンは『彼』を少女に知ってほしいと思い、その絵の前に連れて行った。

 

「これが、今回の展覧会における(わたくし)の一番のお勧めになりますわ」

 

「……え」

 

「タイトルは『想いを育てるもの』。作者名はその下に描かれていますわね」

 

「これ……」

 

「一際目立つでしょう?

 上手いから信じられないでしょうけども、これは目が見えない方が描いたのですよ」

 

 マックイーンが一番のお勧めと言って連れて行った、そこには。

 

 とても見慣れたタッチで描かれた、少女がよく知る色彩の絵があった。

 

「……ね、マックイーン。この絵、どこがどうすごいの?」

 

(わたくし)の解説を聞かずとも、横に簡易な説明文がありますわよ」

 

「マックイーンから聞きたいんだ。マックイーンの目にどう見えたのかが聞きたいんだよ」

 

「そうですか。では、(わたくし)なりの解釈になりますが……」

 

 それは、太陽と花の絵だった。

 太陽を、太陽よりも上から見下ろす神の視点で、太陽に照らされる花々を描いている。

 花々は不思議な模様の石らしきものに囲まれ、整理されている。

 花は一本一本が別々の種類で、普通の絵画であれば組み合わせられないものも隣り合って配置されており、されど画力で互いに引き立て合っているように見える。

 

 真に優れているのは、モチーフの選択ではなく、構図だった。

 この絵を見た時マックイーンは、初めてコミックの遊戯王のコマ割りを見た新人漫画家のような驚愕と感動を覚えた。

 『自分の視線が誘導されているのは分かるがどういう計算でこの構図を作っているのか、まるで分からない』という驚愕と感動。

 太陽と、花と、模様を刻まれた石と、それらの間を埋める背景。

 それらがあるのは分かるのに、どういう間隔でこの絵の構図を作っているのか、マックイーンにはまるで分からないのである。

 

 分からないなりに、マックイーンは言語化を始めた。

 

「絵には情報量が多い部分ほど目を引く、という性質がありますわ」

 

「そなの? じゃあいっぱい描いた方が得なのかな」

 

「描き込んだ数イコール情報量ではありませんわ」

 

「あれ?」

 

「一例ですが、繊細に描き込んだ背景は、

 『素晴らしい風景』

 というぼんやりした印象を残します。

 しかし、一見した情報量は多くありませんわ。

 背景がまっさきに目を引くということもあまりなく、中心に置かれた人間がまず見られます」

 

「なるほど~」

 

 "見た人が素直に感じたものが、わたしの作品の全てだよ"と少女に言い、自作について長々として解説をしないあの少年に対し、マックイーンは素晴らしいものは出来る限り言語化しようとする者であった。

 

「ただし、これは目が見える者の常識ですわね」

 

「んん? 目が見えないからそういうルールに縛られてないとか?」

 

「逆ですわ。

 おそらく作者は、その常識をまず真っ先に理論的に学習したのです。

 知らない世界を。

 見えない視線誘導を。

 目が見える者の感覚を。

 そして、感覚的な自然誘導作り0の、完全に理詰めの視線誘導を構築した」

 

「……それって、すごいの?」

 

「ええ。それはもう。

 もっとも作者の過去の絵を見る限り、最近になって飛躍的にこの技術が伸びたようですが」

 

「……」

 

 死の間際になってようやく、彼がこれまで積み上げてきた技術が噛み合い、新たな領域へと届こうとしている。

 それを、少女は知っている。

 

「まるで、人を学んだエイリアンのようですわね。あ、褒め言葉ですわよ?」

 

「エイリアン? なんで?」

 

「人を知らず、人に共感できず、人の気持ちも分からない。

 そんなエイリアンが、理詰めで人間を研究し、人よりも人に詳しくなる。

 ……そんなSF映画のようだと感じますわ。

 見えない人間が、見える人間の視線の動きを研究し、視線誘導を極める。

 そして、見える人間よりも、見える人間に見えているものに詳しくなる……」

 

「ああ、なるほど。確かにこれ、ちょっと怖いのかもね」

 

「怖気がする出来ですわ。ここ一ヶ月ほど、この作者の絵の評価は上がりっぱなしですわね」

 

 ちらっと見た時、ほぼ全員が同じ一つの花に目をやる。

 続いて、ほぼ全員が同じ順番で一つ一つ花を見ていく。

 見て抱く感想はそれぞれ違う、が。

 ほぼ全員が、"最後の花"が太陽に向かって咲いているのが特に印象に残る。

 その『ごく自然に在るありえない異様さ』が、この絵の持つ力を示していた。

 

「なんか……すごく胸に響くな……なんでこんなに、ボクに響くんだろう……」

 

「花言葉はご存知でしょうか?」

 

「花言葉? ……もしかしてこの花、何かのメッセージになってるとか?」

 

「察しが良いですわね。この手の作家を他に知っていたりしましたか?」

 

「……い、いやー、初めてだよ。続き続き! どうぞ!」

 

「この花々の花言葉こそが、この絵の本質、心臓と言ってもいいでしょう」

 

「へー、そうなんだ」

 

「多少意訳と、流れを汲んだ花言葉の選択があると思いますが……」

 

 少女とマックイーンには違う世界が見えている。

 教養の差が、違う世界を見せている。

 この絵もそうだ。

 教養の差と、この絵を描いた少年が"誰に向けて描いたか"という要素が、少女とマックイーンにまるで違う絵を見せていた。

 

 花言葉がなんなのさ、と少女はたかをくくって耳を傾ける。

 

「ハーデンベルギアの花言葉は『運命の出会い』。

 視線誘導を計算して、最初に目に入るようにしてますわね。

 最初に相応しい花だと思いますわ。

 そしてそこから、流れるように視線が誘導される花々の流れ。

 アザレアの花言葉は『恋の喜び』。

 アカシアの花言葉は『秘密の恋』『気まぐれな恋』。

 シロツツジの花言葉は『初恋』。

 ふふっ、恋愛小説のような、生まれたての恋の繊細な初動を感じますわね」

 

「―――」

 

 少女が、息を呑む。

 

 マックイーンのちょっとした解説で、絵の見え方がぐるりと変わる。

 

 絵を見直した少女は、何故か出会ってすぐの頃の、彼との日々を思い出した。

 彼と出会ってから、彼に青いウマ娘、フランツ・マルク、エリック・カールたちのことを教わるまでの日々。

 彼にとって自分が特別で、自分こそが『彼だけの青いウマ娘』なのだと知るまでの日々を、なんでか思い出した。

 

「イベリスは『心を惹きつける』『細やかな人情』『初恋の思い出』。

 ここで花の選びに少し変節を感じますわ。

 初恋の花から、初恋の思い出の花への切り替え。

 何かの心境・認識の変化を現したのでしょうか?

 椿は『恋しく思う』ですが、赤椿なら『控えめな素晴らしさ』。

 まるで、一目惚れの後に、その人物の素晴らしさを知ったような――」

 

 少女自身にも、わけが分からない。

 分からないけれども。

 本能が理解できないまま連想して、記憶を蘇らせる。

 

 少女が少年のことを『友達』と呼んで、少年が「本当に嬉しいなぁ」と言って、少女が「夢見ちゃおう!」と言った日から。

 初めてのウイニングライブに行き、互いの夢がとっくに終わっていること、少年が未来に夢見られないこと、少女が再び夢の舞台を目指すことを決めたこと、それを語り合った夜まで。

 思い出が、蘇る。

 

「――いえ、これは深読みのしすぎかもしれませんわね。

 そして、ナンテンの『私の愛は増すばかり』。

 オドントグロッサムの『特別な存在』。

 ヒヤシンスの『心静かな愛』『悲しみを超えた愛』『どうか許して』。

 ホテイアオイの『揺れる心』『恋の悲しみ』。

 このあたりをひとところに固めて置いているのは、きっと偶然ではないでしょう」

 

 そして、海に行こうと決めて、海に行って、忘れられない思い出を作って、幸せなまま帰ろうとして……南青山の三浦に見つかって、真実を知った日のことを、思い出させられる。

 

 この花々は、彼の心そのものだ。

 初恋。

 愛する想い。

 恋や愛を抜きにしても、誰か一人を心底尊敬する気持ち。

 恋の過程で得た変化、感情、そして罪悪感。

 一つの太陽を見上げ、全ての花々(きもち)がすくすくと成長している。

 己の心を、言語化して口に出すのではなく、絵という形に出力して、キャンバスという水面に映し出したのがこの一枚なのだろう。

 

「花の色や種類、画調で示される花言葉が、既に一つの物語。

 この花畑が示す物語は、きっと途中まで、悲恋が前提だったのでしょうね……」

 

「……」

 

「悲恋の理由までは分かりません。

 推測はできますが、作者の個人情報なので、そこは隠しますわ」

 

「そこはいいよ、うん。ボクも分か……推測してみるから」

 

「そうですか。続けますわね」

 

 少年の特大の恋愛感情と、その裏に隠されていた途方も無い罪悪感を改めて知り、少女の胸の奥がきゅぅっと締め付けられる。

 マックイーンに見えないよう、少女は服の裾をぎゅっと握り締めた。

 

「そして、最後の五本。

 少し間を空けてまとめられたこの五本。

 これこそが、この絵を描いた作者の方にとって、今もっとも大事な部分でしょうね」

 

「もっとも大事な部分?」

 

「ええ。

 ブルースターは『幸福な愛』『信じ合う心』。

 これは、悲恋と罪悪感を振り切った気持ちの主張。

 ブッドレアは『あなたを慕う』『私を忘れないで』。

 これは、おそらく作者の願い。

 ラナンキュラスは『晴れやかな魅力』『輝かしい魅力』『魅力溢れる』。

 誰かに対する、熱烈な称賛の愛。

 パンジーは『慎ましい幸せ』『私を見て』。

 誰かと過ごす日々の中、作者が感じているもの、思っていること。

 そして、エキザカムの『あなたを愛します』『あなたの夢は美しい』。

 この愛の花言葉の物語の最後は、愛の言葉と、夢を応援する言葉で終わるのです」

 

「―――あ」

 

「恋と愛。

 この二種の花言葉こそが、この花の物語に一括するテーマですわ。

 その中で、花の花言葉ごとのイメージを上手く合わせ、己の人生を……

 そう、作者の誇る人生を描いているのでは?

 それが(わたくし)の解釈です。

 どこかで夢を追う誰かと出会ったのかもしれませんわね。

 最後をエキザカムで締めたのは、その人が夢を追うのを応援する気持ちを感じます」

 

 マックイーンの解説を聞いている間、少女の心は、ずっと震えていた。

 叫び出したい気持ちがあった。

 泣き出したい気持ちがあった。

 今ここに絵の作者である少年が居たら、少女は抱きついて、抱きしめて、胸の奥から溢れてくるこの気持ちを全て、言葉にしてぶつけていたかもしれない。

 

「花の本数、種類は、15本。狙ったのか、そうでないのか分かりませんわね」

 

「え、本数にも何かあるの?」

 

「ええ、もちろん。恋愛題材で花と来て、このあたりの本数なら、12本が理想ですもの」

 

「12本……?」

 

「本数の花言葉、というものがあります。

 聞いたことがありませんか?

 バラは本数で伝える言葉の意味が変わる、と」

 

「あー、なんかマヤノがそんなこと言ってたような……」

 

「あれはバラ以外でも同じ本数なら似た意味、同じ意味があるのですけどね。

 とにかく、本数自体に意味があるのです。

 プロポーズ、最上の愛を告げるなら、12本が基本です。

 海の向こうの本場のウマ娘レースが行われる国でも、愛を奉るならば12本が基本ですわ」

 

「へー。あ、じゃあじゃあ、15本にも特別な愛の言葉があるとかそういうやつ」

 

「……いえ」

 

「?」

 

「いい意味が繋がっているのは14本目までです。

 15本の花が持つ意味は『ごめんなさい』。15本が示すのは、謝罪の意ですわ」

 

「……え」

 

「この絵には、一貫して愛と恋があります。

 同時に、好きになったその人への謝罪も。

 一体、何が彼の気持ちを支配しているのか……」

 

 少女には分かる。

 少女にだけは分かる。

 マックイーンに解説されていなければ、少女にもその深奥は理解できなかっただろう。

 少年も、少女がこの絵を本当に理解できるとは思っていなかったに違いない。

 

 この絵を理解するためには、令嬢たるマックイーンレベルの教養と、この世で唯一彼が己の心に踏み込ませた一人の少女の二つが要る。

 その二つが揃わなければ、この絵を理解することはできない。

 

 幸せにしてあげたいと、少女は強く強く拳を握る。

 幸せにしてあげたいのに、死から救うこともできないと思うと、握った拳がゆっくりほどける。

 謝らないで、と彼に言っても、彼は心の中で謝ることをやめることはないだろう。

 ただ、彼女に気を使わせないために、優しく微笑むだけだ。

 

 幸せにしてあげたいと、少女が思っていて。

 この絵を見れば一目瞭然なほど、少年は今幸せなのに。

 少女は泣き出したい気持ちを抑えるのに、いっぱいいっぱいだった。

 

「この絵の作者はこう言いたいのではないでしょうか。

 『この気持ちは、全てあの太陽に育てられたもの』だと。

 この花々こそがこの絵の心臓。

 花々全てが、『あの太陽を愛した気持ち』の象徴ですわ。

 あるいは、花の一つ一つが何かの思い出の象徴かもしれませんわね」

 

 絵が、言葉よりも如実に、言葉にし難い気持ちを形にしている。

 

「この太陽は、人生の中で見つけた希望の象徴……

 物か、人か、あるいは抽象的な何かか。

 とにかく、何かであることは間違いないと思います。

 (わたくし)は誰か、大切な人の象徴だと思っていますが……

 実際のところは分かりませんわ。家族か、恋人か、あるいは片思いの相手か」

 

 彼は想っているのだ。ずっと、ずっと。

 

 死ぬまで、想っている。あるいは、死んでも。

 

「全体としてイスラム調の印象を受けるのは……

 花に添える花壇の煉瓦の代わりに、アラベスクを入れ込んでいるからですわね。

 精神の美を示す幾何学模様。

 "世界は完全で美しい"と示すための美術文様。

 イスラム美術圏における最上の美の表現。何を讃えているのかしら。

 そういえばテイオー。

 テイオーが好んで時々しているバレエの片足立ちも、アラベスクという名でしたわね」

 

 たとえるならば、これは。

 

 『書いたけどあまりにも恥ずかしくて机に隠した』ラブレターだ。

 だから少女は見たことがなかった。

 だから少年は少女に見えないところで描き上げ、画商に任せて売ったのだ。

 この世でただひとり、マックイーンの解説を得たこの少女にだけ分かる。

 これは、展覧会に晒し上げられたラブレターである。

 

 少女にデートに誘われた先で、売り払ったはずのこれが飾られているのを見た少年は、果たしてどんな気持ちだったのだろうか。

 

 少女はちょっと、笑ってしまった。

 

「ふふっ」

 

「? この絵に笑うところがありましたか?」

 

「ちょっとね」

 

 少女は絵の全てを知って、ふぅと艶めかしい息を吐き、一歩下がって、絵を眺める。

 

 絵のタイトルの下に、この絵を描いた少年の名前が刻まれていた。

 

「……センセー、そんな名前だったんだ。いい名前じゃん」

 

 そうして。

 

 少女は、彼の名を知る。

 

 感情の爆発が情緒をかき混ぜる心の一部と、何も考えずに素直に絵から感情を受け取っている凪のような心の一部を両立させながら、少女は叫び出したい気持ちと、静かにこの絵を眺めていたい気持ちが、己の中で共存していることを感じ取る。

 

 絵に夢中になっている少女に、横合いからマックイーンがお守りを差し出した。

 

「その作者の方に協力していただいて、御守りを一つ作りました。受け取ってくださいませ」

 

「お守り?」

 

「貴女がどうか、無事に……いえ」

 

 マックイーンもまた、彼の影響を受け、少女にかける言葉を変える。

 

「復活した貴女がグラディアトゥールを超える者と成ることを、願っていますわ」

 

 少女はきょとんとして、にこっとして、お守りを受け取った。

 

「よくわかんないけどありがと! グラディアトゥールってなんだっけ?」

 

「……学園の授業でも触れたでしょう!?

 というか、テストにグラディアトゥールが出た時、貴女100点取っていたでしょう!?」

 

「あははっ、そうだっけ?」

 

「天才肌はこれだから……いいですか、グラディアトゥールというのは―――」

 

 マックイーンの講釈もなんのその。

 少女は特に後悔も、気にした様子もなく、マックイーンの話はちゃんと聞きつつ、無邪気に明るく笑っている。

 またふとした時に忘れるのでしょうね、とマックイーンは思った。

 

「うん、分かった。ちゃんと覚えておくよ」

 

「もう忘れてはいけませんよ?」

 

「分かってる分かってる! マックイーンの言ってることはちゃんと覚えてるよ」

 

 にこにこして、少女はマックイーンのお守りをかばんにくくりつけ、マックイーンに向け無邪気なピースサイン。

 

「だって、マックイーンは大切なことばっかり言うもんね!」

 

 この明るさに。

 この無邪気さに。

 このまっすぐさに。

 

 何度救われたか、分からないから―――彼女にはいつも笑っていてほしいと、メジロマックイーンは、心の底から思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、おはよーセンセー!」

 

「やあ、お嬢さん。はやかったね」

 

「時間ぴったりだよ? っていうかセンセーの方が早いじゃん!」

 

「きみと会うのがたのしみすぎて、はやく来すぎてしまったんだよ」

 

「……えへへー、それなら仕方ないかなー、次からはボクの方が先に来るからねっ!」

 

「何を張り合ってるんだ何を」

 

「会うのが楽しみゲージの大きさ! 絶対ボクの方が大きいから!」

 

「ふふふ。なんだい、それは」

 

 そうして。

 

 マックイーンと別れた少女は、一番大きな絵の前で、少年と合流する。

 

 楽しいデートの始まりだ。

 

「実はここ、わたしの絵が飾られてるんだよ」

 

「あー見た見た! もう見ちゃった! びっくりした!

 もー、センセーあらかじめ言っといてよ! びっくりするじゃん!」

 

「びっくりさせたかったんだよ」

 

「センセーはさぁ!」

 

 あっちに行ったり、こっちに行ったり。

 

 今日のために少女が練りに練ったデートプランが火を吹いた。

 

 デートの前の準備は万全。心の準備は不完全。

 

 ドキドキしながら、彼と美術館を楽しく回る。

 

「三周くらいゆっくり回ろうよ! センセーの解説聞きながら回りたいな~」

 

「いいね。ベクシンスキーの所謂『三回見たら死ぬ絵』もあるらしいから、ちょうどいいかも」

 

「ちょっと待って!?!?」

 

「ふふふ」

 

 途中、美術館が置いていたノートを見つける。

 

 『ご自由にお書き下さい by 館主』の言葉と共に、たくさんのイラストや芸術画が、所狭しとノートに書き込まれていた。

 

「センセー! 屍骸だよ屍骸!」

 

「こういうのを優美な屍骸に数えて良いものなのか、ちょっとわからないけどね」

 

「描く? 描いちゃう?」

 

「描いちゃおうか」

 

「よーし! いくよセンセー師匠!」

 

「先生師匠とはいったい」

 

 二人してボールペンを握って、熱々カップルしかしないような、二人で二キャラ描いて仲良く手を繋いで歩かせるというお遊びをしたりして。

 

「うわあなんかめっちゃデブなウマ娘がいる! なにこれ!?」

 

「……性癖かな……」

 

 ルノワールとかいうデブ専の絵に、びっくりしたりして。

 

「あはははっ!」

 

「ふふふ」

 

 楽しい時間を。

 

 幸せな時間を。

 

 かけがえのない時間を。

 

 二人で過ごした。

 

 一生の思い出になるくらい、楽しい時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 大病院から、少女に連絡があった。

 

 曰く、救急車で緊急搬送されて来た患者が、意識が無いままこの電話番号を連呼していたと。

 その患者は現在、集中治療室で治療中だと。

 患者は気力だけで生きている状態で、気力が切れればすぐに死にかねないと。

 だから、急いで来てください、と。

 親しい方の声が生きる力になるかもしれないから、どうか、と。

 

 電話の向こうの看護婦が、そう言っている。

 

 頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなって、少女は寮を抜け出し、走り出した。

 

 

 

 

 

 




■■■■には花言葉、あるいは花言葉に近似した彼の気持ちが入っています

https://twitter.com/Aitrust2517/status/1413452987461107716
https://www.pixiv.net/artworks/91123704
碑文つかさ様から支援絵をいただきました。ありがとうございます


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21 約束

「だまされて人間がわかる。失敗して世間がわかる。悲しんで幸せがわかる」
「失敗して利口になる。挫折して強くなる。人生に無駄はないんだな」

   ―――荒了寛



 彼が倒れる、一日前。

 

 美術館でデートをしながら、二人は様々な絵を眺めていった。

 

「センセー! 見て見てアレ! 青しか使ってない絵! よくわかんないげーじゅつだ!」

 

「ちょっと待って、これは触れて良いものかな。

 うん、触れていいものだ。

 ……単色系だね。

 現代アートだと白しか使わない絵とかも多いけど……

 これは……そうか。

 触れて盲目の人にも分かるようにしてるから、凸凹がハッキリしてる。

 その上でそれを活かして、遠近感の演出を……"遥か彼方の青"を表現したのかな」

 

「どゆことー?」

 

「青はね、絵の中に"遠くにある印象"を作るんだ。

 遠くにあるものはかすかな青で表現するんだよ。

 でも、これは逆かな。

 『遠くのものを青で表現する』んじゃない。

 『青は遠くにあるものだ』という意図で、遥か彼方の青を表現してるんだと思う」

 

「そうするとどうなるの?」

 

「青は遠く彼方に在り、手の届かない価値ある高貴……

 そういうものだって言いたいのかも。

 三原色にあたる色彩の定義見直しを訴えかけるタイプの現代アートかな? たぶん」

 

「ほへー、色んな青があるのですなー」

 

 青だけで作られた、青を魅せ、青を再解釈させるために在る、青の絵画。

 少年は興味津々に絵を探っていたが、その手にぐりぐりと少女の頭部が押し付けられる。

 少女の長い髪は髪留めでポニーテールにまとめられ、髪留めをぐるりと巻く形で、彼がプレゼントした青いスカーフが巻かれている。

 青い絵を手先で見つめる彼の手に、青いスカーフが押し付けられて、「こっちを見ろ」という可愛らしい無言の圧力がかかる。

 さりげない(さりげなくない)少女のアピールに、少年は温和に微笑んだ。

 

「ま、センセーの青いウマ娘はボクだけだけどね!」

 

「……ふふふ、そうだね」

 

「この青は遥か彼方じゃないから手が届くよ。よかったね、センセー」

 

 "ボクをほっとくなよー"という声無き声が、口に出さずとも聞こえてきそうな、そんな所作。

 

 少年は青い絵を意識から外して、青を纏うウマ娘に手を伸ばした。

 

「ふふふ、かわいいことを言うなあ、この口は」

 

「ふわっ……ちょ、ボクの顔はおもちゃじゃないよー!?」

 

「わたしの青いウマ娘というなら、わたしに可愛がられるのも受け入れたまえ」

 

「いーやーだー! ボクがセンセーを可愛がる!

 この、この、ぬっ、むっ、おのれ、センセーの手の方がボクの手より長い……!」

 

「はははっ」

 

 少年の両手が、少女の両頬をぐりぐり、ふにふにと撫でるように押す。

 少女は口では文句を言うものの、抵抗せず逃げもせず、されるがままに受け入れる。

 触れる手から、触れられた頬から、彼の抱く愛おしいという気持ちが伝わってくる。

 少女は頬をぐりぐりする彼の手を引き剥がすようなふりをして、彼の手の上に、こっそりと自分の手を重ねた。

 なんだかそれだけで、不思議と幸せな気持ちになれたから。

 

「こほっ」

 

 その瞬間、楽しい流れが消え失せ、空気が凍った。

 

 空気が凍ったことすら"無かったこと"にしたい少年の意思と、少年の意思を尊重してやりたいが無かったことにしたくない少女の間に、逡巡が生まれる。

 

「大丈夫?」

 

「ん、大丈夫。息の仕方をちょっとまちがえたみたいだ。ほらげんきげんき」

 

「……無理してると思ったら、ボクはボクの勝手にするからね」

 

「たとえば?」

 

「センセーを病院までおんぶしてく、とか?」

 

「それは……また、なんとも。わたしの腕力だとあらがえなさそうだね……」

 

「そうだよ、有無を言わせぬ帝王超特急が火を吹くんだ!」

 

「超特急が火を吹くんだ……」

 

 楽しいデートの空気が戻ってくる。

 

 それでも、心配する気持ちは消えないから、少女は少年の袖を引き口を開いた。

 

「ほらほら、ちょーっと耳貸して。ボクの電話番号、忘れられなくなるまで連呼するから!」

 

「電話番号を? なぜ?」

 

「いざという時のため! ほらはやくはやく!」

 

 少女は少年の耳元でこそこそ電話番号を囁こうとするが、少年の方が12cmほど身長が高いために耳まで口が届かない。

 やむなく、少女は無言で少年の袖を引いて、少年に屈んでもらう。

 そして少年の耳元に手を添えて、小声でこしょこしょと囁いた。

 

「ボクの電話番号はね―――」

 

 耳を可愛らしく特徴的な声がくすぐる。

 耳に口元が寄りすぎて、時々少女の唇が少年の耳に触れる。

 ピンと張った少女の白い前髪が、少年の耳周りをこちょこちょとくすぐっている。

 少女は何度も自分の電話番号を繰り返し早口で囁き、合間合間に息継ぎをして、そのたびに少女の吐息が耳に吹き込まれていった。

 

 衝動的に、変な気持ちになりそうになって、少年は少女を守るべく、自分自身を抑える。

 

 二人はこれまで、たまに連絡が必要になった時は、盲目の人間でも使えるメッセージアプリで連絡を取り合っていた。

 少年はかつて通話した内容を病気の苦痛で忘れてしまったという痛い失態があり、通話しながらメモを取るなどの手段も取れず、長年の模索の末に見つけたのが音読機能付きのメッセージアプリで『後で読み返せる連絡』を取るという手段であった。

 

 iPhoneのVoiceOver然り、近年は盲目の人間も使えるように補助機構を組み込まれたシステムがかなり多くなってきている。

 一度方法を見つければ、後はそれなりに頑張れば便利なものだった。

 なので電話番号はそこまで使わなかったのだ。

 だから少年は、少女の電話番号を今日まで知らなかった。

 

 少女はちょっとドキドキしながら、自分の電話番号を彼に教えている。

 

「センセーが急に病気で倒れた時とか、ボクを頼るよーに!」

 

 もしも、何かあった時。

 

 全身で、全霊で、全力で、全速で、彼の下に駆けつけて、助けられるように。

 

「はいはい。ふふふ」

 

「あーもーなんか反応が軽ーい!

 そこは泣いて喜んでよ!

 何があっても、どんな大事なことより優先して駆けつけるって言ってるんだよ?」

 

「うれしいけどね。

 そこまでしてもらうのは申し訳ないよ。

 まずは救急車呼ぶから、だいじょうぶだいじょうぶ」

 

「申し訳ないとかそういうのはなしなしっ。約束でしょ?」

 

 約束、と言われて、少年は少女が過去にした何気ない約束を忘れていないことに気付く。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「すごいなあ、ウマ娘……」

 

「ふっふっふ、センセーと腕相撲したらボクが勝っちゃうくらい強いんだからね!」

 

「おや怖い。不良に絡まれた時は守ってもらって、お礼にごはんをおごらないといけないかも」

 

「まっかせてっ! どんな敵からでもセンセーを守ってみせるからね!」

 

「ふふふ」

 

「センセーは安心して健やかに幸せな毎日を過ごすといいぞよ~!」

 

「ぞよ~」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 彼と彼女で過ごした記憶は、一つ一つがかけがえのない思い出で、忘れられることはない。

 

 何が相手でも彼を守ると、少女は約束した。

 

 触れれば溶けて消えてしまいそうな彼を守り、共に在りたいと思ったから、そう言った。

 

「大丈夫。わたしが死んでもお嬢さんが悲しまなくなるまで、わたしは死なないよ」

 

「おっ、言い切るねセンセー。その約束、信じちゃうよ~?」

 

「ある画家は言ったのさ。

 『明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ』

 ってね。まだまだ死ねないよ、やり残したことがけっこうあるんだ。約束とかね」

 

 彼女の悲しみを全て拭い、納得に満ちた、少女の心に傷を残さない死を迎える。

 それが彼の誓い。

 今の彼の夢。

 だから、それを果たすまでは死ねない。

 その想いが彼の命を支えている。

 

「それに、いざとなればわたしのかけっこは並くらいはあるんだろう?

 心配ないよ。まだそのくらいに走れる程度には、体力がのこってるってことだからね」

 

「そっかぁ。あ、自動販売機の時の話。そういえばさ、あの日の帰りにね―――」

 

 少女は忘れていた。

 

 いや、気付いていたけれど、直視できなかったのかもしれない。

 

 彼の言葉には、何の根拠もなく、少女を気遣う気持ち以外に何も無かったことを。

 

 

 

 

 

 彼に電話番号を教えた夜、少女は自室でスマホを見つめていた。

 今日、電話がかかってくるかもしれない。

 緊急事態以外でも、何かかかってくるかもしれない。

 

 ちょっと声が聞きたかったから、とかけてくれるかもしれない。

 寂しいから話したくて、なんて彼らしくもないことを言ってくるかもしれない。

 悩みがあるからお嬢さんに聞いてほしくて、と頼ってもらえるかもしれない。

 星を見ながら話さない? なんて、ロマンチックなお誘いがあるかもしれない。

 

 全て妄想だ。

 実現の可能性は低い。

 しかし、可能性は0ではない。

 だから少女は、想像の翼を羽ばたかせて、楽しそうにずっとスマホを見つめている。

 

 子供らしく、少女らしく、乙女らしい。

 そんな心の動きがあった。

 

「んふふ」

 

 ベッドの上でスマホを見つめて足をバタバタする奇行を、少女は繰り返す。

 スマホに夢中になりすぎて、奇行を繰り返す少女をマヤノトップガンが撮影してウマスタetcにアップロードし、はちゃめちゃにバズっていることにも、少女は気付いていなかった。

 ハッシュタグは『#今日のトウトイテイオー』。

 

「んふふのふ~」

 

 楽しそうで。

 幸せそうで。

 見ている方まで楽しく、幸せな気持ちになってしまう。

 そんな笑顔を浮かべる少女を見て、マヤノトップガンもまた楽しそうに微笑んでいた。

 

 少女はスマホを見つめて待つ。

 なんでもよかった。

 どんな用件でもよかった。

 "今、話したいなあ"と思っているのが自分だけじゃなくて、彼もそう思っていてくれたら、その気持ちを共有して確認できたら、それだけで幸せだった。

 ただただ、彼と話したい。

 そんな夜だった。

 

 待つだけのことがこんなにも楽しくて、天にも昇るような気持ちになるだなんて、少女は知らなかった。

 

 

 

 

 

 そして、今。

 彼女の望んだ通りに、望んだ形で、電話番号は使われた。

 少女は少年の死に間に合わないという最悪を回避し、マヤノトップガンに学園と寮長への連絡を任せて、遮二無二急いで病院に一人駆けつける。

 時は夜。

 空に形の欠けた、少し壊れたようにも見える月が輝いていた。

 

 少女は自身の『ウマ娘としての知名度と社会的信用』、美術館で知った彼の名前、今日までの間に知った彼のプロフィールを語り、他人ながらに治療室の前まで案内される。

 事実上、家族と同じ扱いをされていた。

 集中治療室の前の長椅子で、少女は治療室の扉を見つめる。

 

 病気が、少女の大切な人を殺そうとしている。

 少女の大切な人が、それと戦っている。

 少女は見ているだけ。

 結果を待つだけ。

 何もできない。

 何も守れない。

 

「センセー……」

 

 バタバタと人が入れ替わり、人が入って、人が出て、新しい人が来たと思えば、まとめて数人がどこかに行く。

 ウマ娘の優れた聴力が、廊下の向こうの会話、完全に閉められていなかったドアから漏れる医者の声、廊下に出て固定電話で誰かと話している遠くの誰かの声を、拾っていく。

 

「なんだあれは、どうして生きている」

「このカルテを見てくれ。記録を見る限り、ありとあらゆる治療を試しているレベルだ」

「この安定度……この発作を乗り越えれば数ヶ月は確実に生きられるんじゃないのか?」

「分からん。どうなってるんだこれは。繰り返した各種治療と気力が噛み合っているのか?」

「この患者、聞いたことがある。病気の複合による、前例の無い奇病だ。治療例が無い」

「手を尽くそう。手術はできない。切開は避けてAEDと投薬準備を」

「集中治療室担当だと外科は今回出番無さそうですね。集中治療部と薬剤部が忙しくなる」

「部屋移して別の処置した方がもしかしたら良いかもしれん」

「とにかく生かせ。それと過去にあの少年を担当した医師全員に連絡を取るんだ」

「最近の中では一番どうしたらいいか分からない急患ですね……」

 

 不安、絶望、悲嘆、苦痛、そして何より無力感。

 

 手を合わせて、弱々しい表情で、笑えなくなった少女が祈る。

 

「……お願い、お願い、お願いだから……

 残酷な運命の神様なんてものがもしいるのなら……

 もうこれ以上、ボクから……これだけは、ボクから……奪っていかないで……」

 

 廊下に備え付けられた鏡を見て、少女はそこに既視感を覚えた。

 その表情を、どこかで見たことがある気がする。

 病院ではなく、レース場で。

 そして気付いた。

 

 今の彼女の表情は、少女のトレーナーが、少女のレースの対戦相手であるウマ娘達のトレーナーが、観客席最前列でいつも浮かべていた表情だ。

 

「ああ、そっか」

 

 ただ無力で、ただ祈るしかなくて、ただ待つしかなくて、『負けて終わった』瞬間に、膝から崩れ落ちてしまいそうな表情。

 

 信じたい。勝つと、成功すると、報われると信じたい。なのに信じられない。

 トレーナー達がウマ娘を信じたいのに、信じられない時に浮かべる表情。

 少女のトレーナーが、足が折れた後の少女を見守っている時。

 少女が最強無敗のウマ娘だった時代、ほぼ確実に負けることが決まっていた対戦相手のウマ娘達を、そのトレーナー達が見守っている時。

 トレーナー達は、皆、今の少女のような表情だった。

 

 不安げで、揺れていて、光り輝く未来を信じていたいのに、報われない未来を心のどこかで確信してしまっている、そんな表情。

 希望を抱こうとして、心に湧く諦めに負けている。

 

 そのくせ、諦めきれていなくて。

 奇跡を願って、祈っている。

 祈りに力などないのに、祈っている。

 自分のためではなく、大切な一人の幸福のために祈っている。

 

 そしてその祈りのほとんどは叶わずに終わった。

 奇跡は起こらず、祈りはどこにも届かなかった。

 最強無敗のウマ娘として、数え切れないほどの祈りを踏み潰してきた少女は、そんな無慈悲で妥当な結末の光景を、数え切れないほど目にしてきた。

 祈りの無力さを、少女は誰よりも正しく知っている。

 

 少女はかつて、祈られる側だった。

 "彼女に報われてほしい"という祈りを捧げられる側だった。

 それが今、彼のため、祈る側に回っている。

 祈ることしかすがれるものがなくなって、祈ることにすがりついている。

 

 祈るしかない。

 祈る以外に何もできない。

 祈りは無力で、ただ結果を待つしかない。

 勝っても負けても、その結果を受け入れるしかない。

 

 待つだけのことがこんなにも辛くて、地獄に落ちていくような気持ちになるだなんて、少女は知らなかった。

 

 

 

 

 

 一時間は経っただろうか。

 病院は未だに少年の発作を抑え込み、平常な生命活動を取り戻すため、あの手この手を費やしている。

 今日は休みだったらしい医者が何人か、休日返上休み無し上等で彼を救うため駆けつけ、入れ替わりに何人かが仮眠室に入っていく。

 大病院の優秀な医者が額を突き合わせて急場しのぎの対策、長期的な彼の治療を議論するも、ハッキリ有効だと言える解決策が出てこない。

 少年の容態、症状が何度も変わって、そのたびに対症療法で生かし続けるのが精一杯。

 途中から現行画壇のそこそこ名の知られた大物の使いが現れ、なんとしてでも期待の若手を生かしてほしいと要望が来て、医療費の一切を肩代わりすると申し出てきた。

 

 少女はずっと祈っていた。

 だから、誰が来て、誰が処置に入って、誰が何をしているのかも、まるで把握していない。

 祈っているだけの少女は、周りが大分騒がしくなってきていて、かつ深夜ゆえに静かに騒がしくなってきていることに、気付いていなかった。

 

「あれ、あなたは先生の……恋人じゃないでしょうね。まだ。お友達でしょうか?」

 

「……え。あ」

 

「あなたがここに居る理由は……聞くまでもないでしょうね。デートするほどの仲ですし」

 

「えっと……北赤川の四表さん」

 

「南青山の三浦です。その節はどうも」

 

 ずっと一人佇む少女に、男が声をかける。

 その男に、少女は見覚えがあった。

 忘れるわけがない。

 あの日、海で突然やってきて少年と親しげに話していた男だ。

 この男がきっかけで少年は隠し事のことごとくがバレて、少女に全てを話し、少女と新しい関係に進んだのだから、少女が忘れるわけがない。

 

「心中お察しします。

 自分も同じ気持ちです。

 自分の健康と寿命と視力の半分でも、先生に差し上げられるなら、そうするのに……!」

 

「……そうできたら、よかったのにね」

 

 三浦は人一人分くらいの距離を空け、少女の隣に座る。

 

 そこでふと、少女は気付く。

 三浦の手首にある時計に、針がない。

 デートの時に少年が持ってきていた、針の代わりに鉄球が動く全盲用の時計と同じ種だ。

 

 いや。

 違う。

 同じ商品なだけではない。

 あの時少年が手首に巻いていた腕時計は、今彼が手首に巻いているそれそのものだ。

 

 そしてこれは、()()()()()()()()()()()()()()()()時計だ。

 日常使いらしい割には丁寧に手入れされていて、いつでも他人に貸せるよう、新品とそう変わらないくらいに綺麗な状態が維持されている。

 普通の時計より高く、使い勝手で言えば普通の時計の方がずっと利便性が高いはずなのに、あえてこの時計を身に着けているのは、その裏に明確な意志がある。

 "目が見えない人をいつでも助けられる自分でいたい"という、強い意志が。

 

 今更になって少女は、自分がデート前に浮足立って準備を重ねに重ねたのと同様に、あの少年も浮かれに浮かれて、周りの人にデートの相談をしていたことに気がついた。

 

―――聞くまでもないでしょうね。デートするほどの仲ですし

 

 少女はおめかししてきて、と言った。

 少年は少女のはちみつリップを理由に、そのお願いに応えた。

 そして、デートは何の失敗もなくありったけ幸せに終わった。それが事実である。

 

 なら、目が見えない彼は『目が見える人にどう見えるか』を考慮するため、目が見える人の手を借りて服装をコーディネートしてきた可能性もあったはずだ。

 誰かがあの少年の服を選んであげた可能性もあったはずだ。

 それまであの少年が一度も手首に巻いていなかった腕時計を、『盲目の人に貸し出すための腕時計』を、あの少年に貸した者がいた可能性もあったはずだ。

 

 もっと踏み入って、もっと深くまで洞察すれば。

 そうしてあの少年を大事に思う誰かこそが、名誉欲の薄いあの少年の代わりにあの少年の絵を有名にするために走り回り、少年が死ぬ前に、展覧会に少年の絵が飾られるところまで持っていったのだということも分かる。

 誰も宣伝していない絵は、誰の目にも映らないからだ。

 

 少年の生まれて初めてのデートに助言し、少年の絵を宣伝して売って回って少年の名を売り、少年が死に至る前に、少年の生きた証を残して少年に見せようとする……そんな誰かが居なければ、点と点が繋がらない。

 その人が、今、少年を襲う病魔に嘆いていないわけがない。

 

 三浦の痛ましい表情からは、彼があの少年をどう思っていたかが痛いほどに伝わってくる。

 

「あの……

 センセーの傷かな、って思って踏み込まなかったんだけど……

 センセーの家族とか親戚の人ってどうなってるの? 来ないの? 連絡した方がいい?」

 

「先生の両親は事故で亡くなられています。

 親戚は目が見えない彼を重荷と感じ、誰もが引き取るのを拒みました。

 彼が死の淵にある時、来る親族は一人もいません。

 遺産の相続に関わる書類と手続きも、見えない彼の代わりに自分がしました」

 

「!」

 

「目が見えない彼ですからね。

 上手くやれば、遺産を全て横取りして、先生を孤児院に入れられた。

 そうすれば親族は丸儲けです。

 なんとか阻止できましたが、盲目の者は無力なのです。

 特に、悪意に弱い。

 先生はそれをよくご存知です。

 彼は親族を誰も信用していません……自分は呼んでも悪影響だと思います」

 

「……そうだね」

 

 生まれつき、目が見えなかった。

 すぐ、不治の病と言っていい病に余命を宣告された。

 親は死に、親族は敵だった。

 その人生に長らく幸はなく、彼は絵に打ち込むしかなかった。

 それでも、綺麗なものも醜いものもその目で見ないでいられたから、彼の描く絵は吸い込まれそうなほどに透明だった。

 

「センセーの病気……治せないのかな……」

 

「目も、内臓の方もそうですが……

 できる限りのことはしました。

 遺伝子治療を初めとした最新の対人医療を片っ端から試しました。

 ですが、駄目だったのです。

 特に余命には改善の余地も見えませんでした。

 医者曰く、明日目が見えるようになる可能性は0ではない。

 しかし今現在見えていない以上、この先も見えることはないだろうとのことです」

 

「……どうして、センセーなんだろうね」

 

「自分もそれは幾度となく思いました。

 しかし、先生は言いました。

 『どうしてわたしなんだ、なんて考えてたら、無駄に一日が終わっちゃうよ』と」

 

「……」

 

「先生は描く。

 自分は売り、宣伝し、知らしめる。

 それが自分達の約束。

 先生が生きた証を残すための戦いでした。……それももう、終わるかもしれません」

 

 夜の病院は静かで、騒がしい。

 寝ている患者を起こさないように、皆静かにしようとして、大声なんて出しもしない。

 だが今、死にかけている一人のために走り回り、議論を重ねている。

 静かなのに、騒がしい。

 

「ねえ、センセーについてもうちょっと質問してもいい?」

 

「自分が知っていることであれば、彼が秘密にしたいこと以外は、なんなりと」

 

 少女が聞き、男が答える。

 三浦は子供にしか見えない少女にも一貫して敬語を使い、不躾な質問にも丁寧に対応し、答えにくい質問にも真摯に応えていった。

 

 少年の昔のこと。

 絵描きとしての少年のエピソード。

 まだ絵が下手だった時期の苦悩。

 少年が今のように落ち着き払う前の、荒れていた時期のこと。

 死を受け入れる前の、少年が死の恐怖に怯えていた毎日のこと。

 多くのことを聞き、多くのことを知り、少女は少年への理解を更に深めていく。

 

 それは、恐怖に耐えるための行動だった。

 扉一枚挟んだ向こうで、あの少年が死にかけている。

 今この瞬間にも死ぬかもしれない。

 無言で扉を見つめて待つには、この絶望の夜は長すぎた。

 ただ無言で待っているだけで、気が狂いそうになってしまう。

 あの少年について語り合うことは、狂気と絶望に耐えるために必要な行動であり、またあの少年への想いを蘇らせることで、この先に希望を持とうとする行動でもあった。

 

「ねえ」

 

「なんでしょうか」

 

「なんでこんなに親身になってくれるの? ほとんど初対面みたいなものなのに」

 

「先生は自分の推し画家です。

 人生を賭ける価値のある画家だと思っています。

 推しが同じなら同志です。

 まだ名が広く知られていない先生の良さを知る同志。

 それだけで、自分から見ればとても好ましいのです」

 

「……あはは、変な人だね。でも分かった。センセーの絵が大好きなんだね、三浦さん」

 

「ええ。

 どうか先生によくしてあげてください。

 自分は、歳が離れすぎていたのもあって、先生の友人にはなれませんでしたから」

 

「そっか」

 

 二人は語り合う。

 同じものが大好きだから。

 同じウマ娘が好きなファン同士が一気に仲良くなるように、二人は同じ絵描きを一番に好み、その一人の無事を願った。

 

 祈る。

 ただ祈り、待つ。

 祈りが無力でも、祈ることしかできないなら、祈って待つ。

 

 気を張り詰めて、張り詰めて、張り詰めて、待って、待って、待って……何時間も待ち続けた結果、精神的に疲弊していた二人は、眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

「バカな!? 動けるのか!? 昨日まで危篤状態だったんだぞ!?」

「集中治療室から動かした後なんで誰も見張ってなかったんだ!」

「動けるわけないと思ってたんですよ!」

「夜勤も含めてかなりの数を処置に回し続けた結果、人手が足りなくなってたな」

「あの少年は気力によるところが大きいです、安定した今ならすぐには死なないのでは」

「発作が出たら終わりだと思います」

「患者の一人が見てたようですわ、一人で病室を勝手に出ていったようです」

「夢遊病? 神経の症状の可能性もありますよね、意識の混濁とか」

「生命維持のためとはいえかなりギリギリまで投薬した、事態が読めん」

「とりあえず警察に連絡します。患者衣は目立つので、交番に目撃情報があるかもしれません」

 

 本当に騒がしくなってきた病院の喧騒で、目を覚ました。

 

 目を覚ますなり少女と三浦は頬を打ち、意識を覚醒させ、周囲のてんやわんやになっている人達の会話から、現在の状況を理解する。

 

 一も二もなく、二人は走り出した。

 

「不味いですよ! 先生は割と心境次第で自殺するタイプです!」

 

「知ってるよ! ボクは特に! 本当によく知ってる!」

 

 探して、見つけなければ。

 

 何が目的で、あるいは何が起こって、彼が外に出ていったのかは分からない。

 

 だが、昨日まで死にかけていた人間が外をうろついて何かがよくなるわけがない。

 

 少女には、彼に言いたいことがあった。

 まだ彼女は迷いの中に在る。

 何もかもに迷っている。

 されど、せめて彼が死ぬ時は、そのそばにいたかった。

 そして、彼に言いたいことがあった。

 それは一つではなく、無数に連なる少女の想い、その全てを言葉にしたものだった。

 

 知らないところで知らない内に少年が野垂れ死んでいて、最後に何も伝えられないなんて終わりは、この少女には耐えられない。

 

「あーもう! センセーはさぁ! ……これ何回ボクに言わせるのさ!」

 

 今の少女が出せる力のギリギリ上限、足がまた壊れない限界値まで力を込めて、少女は辺りを見回しながら駆けていく。

 

 なんとなく。

 

 これが最後の予感がした。

 

 何かが終わっていく予感がした。

 

 終わりが始まったような感覚を、少女は肌身に感じていた。

 

 

 

 

 



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22 あなたの為に

「過去の苦しみが
 後になって楽しく思い出せるように
 人の心には仕掛けがしてあるようです」

   ―――星野富弘


「三浦さん、いた!?」

 

「いません! ですが、バスに乗ったのを見た人が居たらしく……」

 

「このあたりにはいないってこと……!?」

 

「車で出ます。心当たりを巡ってみます!」

 

「待ってボクも乗せて! 一人より二人でしょ!」

 

 病院周辺を探してみても、少年はどこにも見当たらない。

 

 焦燥だけが先走る。

 気持ちが体より先に行く。

 冷静にならないといけないと分かっていても、誰かを大切に思う気持ちが、冷静さを食い荒らしていく。

 無駄という怪物が時間を食い潰していく。

 

「バスに乗ったって言っても、ボクらはどう探したら……」

 

「先生に目的地が無く、あてもなく彷徨っている場合。

 あるいはどこかで倒れている場合。

 自分達には見つける手段がありません。

 広範囲を草の根分けて探すのは二人ではどうしても無理です」

 

「っ」

 

「それは無い、と信じて割り切りましょう。

 彼はバスに乗ってどこかに行った。

 あてもなくうろつくなら歩き回っている方が自然です。

 しかしバスに乗っているのであれば、どこか遠くに目的地がある可能性が高い」

 

 三浦がエンジンをかけた車に、少女も急いで乗り込んで、助手席でいい子らしく生真面目にシートベルトを締めた。

 

「警察には連絡しました。

 広範囲の人探しならば彼らがプロです。

 万が一の時には彼らが最速で見つけられるはず……

 病院と警察にはこまめに連絡を取っておきます。

 自分達にできることは、彼らでは見つけられない場所、つまり」

 

「センセーが行きそうな場所に心当たりがあるボク達にしか探せない場所……?」

 

「はい、そういうことです。

 幸い、消える前の先生のバイタルは安定していたとのことです。

 すぐに容態が急変するわけではない……そう、思いたいですが……」

 

 三浦と少女を乗せた車が発進する。

 三浦と少女は互いに心当たりを教え合い、東京都内の彼が行きそうな場所を回りに回った。

 少年の両親の墓、少年が一時期通っていた小学校、少年が子供の頃ずっといた病院、初めて少年の絵が売れた展覧会が開かれたテナント。

 少年と少女が出会った土手、二人がいつも見ていたレース場、二人で見たウイニングライブの会場、二人で行ったあの海、二人で楽しく食事をした定食屋、少女を抱きしめた自動販売機の前。

 

 思い出を一つ一つ確かめるように、三浦と少女は心当たりを探っていく。

 しかし、見つからなかった。

 探し回って、行った先で聞き込みをしても、少年が来て去っていったという目撃情報すらも見つからず、手がかりさえ皆無という状況が続く。

 少女の焦りはどんどん顔に出て、逆に三浦の表情はどんどん落ち着いていった。

 

「センセー……どこなの……」

 

「多少は考える材料も増えたと思いましょう。不安な時間帯も過ぎましたし」

 

「不安な時間帯? そんなのあるの?」

 

「徘徊者や行方不明者が見つかりやすいのは朝です。

 家に帰る道を見失いやすい盲目の人間もそうです。

 夜、外を歩いている一般人はほとんどいないからです。

 反面、朝は人がもっとも出歩いています。

 出勤する大人。

 通学する学生。

 散歩する老人、ジョキングする社会人、陸上部の朝練、警官の巡回……

 病院から抜け出した者が最も見つかりやすい朝の時間帯が、朝にはあるのです」

 

「あ、そっか、そうなるんだ」

 

 一人であてもなくうろうろしている盲目の人間、患者衣で外を出歩いている人間、道端で倒れている少年……どの形でも目立つはずだ。

 まっとうな交通機関の人間であれば報告から通報に移るだろうし、良識ある人間なら見過ごすことはない。警官が普通に見つけることだってあるだろう。

 

 逆説的に言えば、盲目の人間が病院から移動するのに使うような、一定以上に人が移動しやすい経路であるならば、その道中のどこかであの少年が倒れていた場合、誰にも見つかっていないという可能性はかなり低い。

 少年が病院を抜け出した後に、道半ばの発作で倒れ死にかけているという可能性は、これでかなり低くなったということだ。

 また、少年が目指した目的地であるどこか、そのどこかを見つけられれば、そこで少年を見つけられる可能性も高くなった。

 

 三浦はほっとした様子で、少女はちょっとした疑問を持った。

 

「なんだか……三浦さん、変なことに詳しいね」

 

 三浦はきょとんとして、苦笑した。

 

「あまり、分かってもらえない話だと思います。このあたりは」

 

「?」

 

「先生は、一人で生きたがっていたんです。盲目であるというのに」

 

「一人で……?」

 

「ええ。

 親の補助をなくした盲目の子供にそんなことができるはずもないのに。

 実際、最初は食事さえままならないようでした。

 自分がヘルパーを呼んで最初はどうにかなりましたが、それも途中で辞めさせてしまって」

 

 車で回って、少年が昔よく行っていた公園なども確認しに行くも、見つからない。

 

「親をなくして、先生は『大切な人をなくして一人になる気持ち』を知りました。

 絵に没頭して、なんとかそれを乗り越えたように見えます。

 だから……先生が死んだ時に、誰かが悲しむのを嫌がったのだと、そう思います」

 

「……あ」

 

「一人ぼっちを選んだのです。

 どんなに苦しい道だとしても。

 一人になれれば、先生が死んでも悲しむ人は居なくなるから。

 彼は……先生は……自分が死ぬことで大切な人が涙を流すことに、耐えられなかったのです」

 

 今、思い返せば、あの少年はこの少女以外の手助けをほとんど受けていなかった。

 ならば、少女と出会う前はどうだったのか?

 決まっている。

 一人でずっと生きて、一人でずっと描いていたのだ。

 

 そう生きて、そう死ぬつもりだった少年を、たった一つの出会いが、救ってしまった。

 彼は、一人ぼっちを選べなくなってしまった。

 "この人と一秒でも長く一緒にいたい"と、思ってしまった。

 

「だから、あなたの存在を知って驚きました。

 先生がまた、大切な人を作り、その人と一緒に居る。

 あなたが先生を根本から変えた。

 あるいは、先生に生き方を曲げさせた。

 嬉しかったんです。

 先生はおそらく、あなたに出会うことで、一人ぼっちをやめたんですから」

 

「ボクと、出会ったから……」

 

 車を走らせ、車内で三浦は少女に己が知ることを語る。

 

 それが、あの少年を救ってくれた少女への礼儀だと思ったから。

 

 この少女には、あの少年のことを知る権利があると、そう思ったから。

 

「心配だったんです。先生は、目を離したら、どこかで溶けて消えてしまっていそうで」

 

「うん。分かるよ」

 

「だから、彼の親代わりになれればと、そんな風に思ってしまったんです。

 その目が治らないとしても。

 その病が治らないとしても。

 彼が描く絵が。

 その絵を生み出す心が。

 綺麗だと、長く残ってほしいと、そう思ったから……

 何かしてあげたかったんです。先生を救えないとしても、何か、自分にできることを」

 

「そうだね。その気持ち、すっごくよく分かる」

 

「それが余計だったのでしょうね。自分の前から、先生は消えてしまいました」

 

「……」

 

「『ごめん』などと、書き残して。謝る必要など、どこにもないのに……」

 

「センセーは……自分の死で三浦さんも悲しませたくなかったんだよ」

 

「分かっています。

 ですが、失敗だったとは思っています。

 彼から預かっていた絵を売り、彼の口座に振り込み続けていました。

 それがどこからか引き落とされていたから、彼が生きていると分かってはいました。

 それでも。

 病気の件があったから、ある日引き落としが止まってしまう日が来るのが、怖かった……」

 

「それで、朝に見つかりやすいって知ってたんだ。……心配だったんだね」

 

「はい。

 朝になるたび、誰かが彼の死体を見つけたりする時が怖かった。

 野垂れ死にした彼を誰かが見つけるのが怖かった。

 警察公式サイトの身元不明死者情報ページを一日に一度見ていました。

 彼と似た背格好の情報があれば、不安になって確認していました。

 だから、本当に、本当に……

 あの日の海で、あなたに救われた先生を見て、本当に安心したんです」

 

「センセーはさぁ……

 ホント、他人にいっつも優しいくせに、時々存在が他人に優しくないんだからもう……」

 

 三浦は、ある意味では少女の同類だった。

 あの少年に出会い、仲良くなり、つながりを持って、絆を結び、その運命を嘆き、自分なりに何かをしてやろうとして、そして失敗した。

 少女にとっては、先輩と言えるのかもしれない。

 

 だから、少女は聞いた。

 それは、彼女の中で、未だにどうにもなっていない、未解決の迷いの塊だったから。

 

「ねえ、あのさ、センセーが死んじゃった時、悲しまないでいられる自信、ある?」

 

「ありません。泣きますよ、自分は。耐えられる気がしません」

 

「っ」

 

「先生は望まないと思いますが……自分には、先生の死に泣く権利があるはずです」

 

 それは、少女が聞きたかった言葉であり、聞きたくなかった意思であった。

 

 彼が死を迎えた、その時。

 彼のことを思うのであれば、泣くべきではない。

 笑顔で送るべきだ。

 そうするのが一番、死に行く彼を穏やかに送ることができる。

 少年には逃れられない死しかない。少女が泣いていれば、ただそれだけで少年には心残りが出来てしまい、後悔しながら死を迎えてしまうかもしれない。

 

 けれど、泣く権利もある。

 人が死んだ時、泣くかどうかを決めるのは周りの人間だ。

 自分が死んだ時に誰も泣いてくれない寂しい人間が居るのと同様に、死者には生者が泣く権利を奪うこともできない。

 それを決めるのは、生者だ。

 

 三浦は大人だ。

 少女にとっては先輩で、もうしっかりとした大人の男性だ。

 彼にもう迷いはない。

 彼は少年の死に向き合い、何年もの間苦悩し、自分なりの結論を出している。

 

 だから、画商として走り回っている。

 彼は少年が生きた証を世界に刻むことで、少年の死と向き合った。

 そして、少年が望まなかったとしても、その死に涙することを決めている。

 そういう人間だからこそ、少年は三浦から離れ、三浦が自分を忘れるように仕向け、自分が死んでも彼が気付かないようにしていたのだ。

 

 誰かが死んだ時、その人の葬式で泣いた人間の数こそが、その人の人生の価値であるという考えを、三浦は持っている。

 だから泣く。

 その決断は揺らがない。

 

 三浦はちゃんとした大人として、少年の死を受け入れ、向き合っている。

 彼は少女のように、子供ではないから。

 死と向き合えないほど、子供ではないから。

 

 少女は少年の死を受け入れようとして受け入れられていない自分の現状を突きつけられ、それでもなお迷いが消えることはなく、"死んじゃやだ"という想いは、いつまでも消えてくれなくて。

 走る車の中、少女は服の裾をぎゅっと握った。

 

 

 

 

 

 ある街の一角で、車が停まる。

 

 車から降りた少女と三浦は、そこで一軒の建物を見上げた。

 

 二階建ての、やや大きな民家。

 家の外見はなんてことのないものだが、草が伸びっぱなしの庭、家の外側を這い上がる植物のツタなどがかなり目につく。

 少なくとも、一見した限りでは、誰も手入れしていない廃屋のようにしか見えなかった。

 

「先生は"もうここに用はないから"と言っていたので、最初に外していましたが……」

 

「もうここしか心当たりないんでしょ? 行くしかないよ」

 

「ええ。ここが彼の生家。彼が両親と最も長く、かつ最後に、共に過ごした場所です」

 

 三浦は昔、少年の生活を支えるために彼から預かっていた家の鍵を取り出し、少年期が幼少期を過ごした家に二人で踏み込む。

 

 三浦はあまり期待していなかったようだが、少女が扉が開いた瞬間"あ、センセーの匂いだ"と、匂いだけで何かに気がついた。

 

 その家の中は、少年が絵の具につけた匂い、嗅ぎ分けるためラベルにつけた匂い、少女に贈る絵につけていた顔料の匂い……少女が大好きな匂いで、満ちていたから。

 

「あれ、なんか綺麗じゃない?」

 

「……時々戻ってきていたようですね」

 

「わっ、絵がいっぱい。どこもかしこも絵だ……」

 

「乾いてから時間が経ってない絵もあるようです。

 つまり、最近先生が描いた絵ですね。

 だいぶ最近までここに入り浸っていたのは確実であると思います」

 

 壁にはところ狭しと絵。

 廊下の隅に平積みにされた大量の絵。

 ダイニングの半分を埋め尽くす絵。

 リビングに置かれた大量のダンボールにはクシャクシャに丸められた絵が放り投げられ、うず高く積み上げられ、それが三メートルはあろうかという複数の塔になっている。

 絵、絵、絵。

 どこを見ても絵。

 絵の上に絵があって、絵の横に絵があって、千切られた絵を集めて作られた絵や、床に描き上げられた絵もあって、天井に貼り付けられた絵もあり、単品で完成している無数の絵が集まって一枚の絵を作り上げるという特殊芸術まである。

 

 息苦しい。

 絵が喉に詰まる。

 空気にまで絵が溶け出していて、絵で窒息してしまうかのような錯覚がある。

 

 これは、普通の人間が当たり前に持つ眼や長生きする権利を、生まれた時から当たり前のように持っていなくて、絵だけが誇りで、その生に絵しかない者が生み出した、絵だけの世界。

 

 少女は上下左右前後全てが絵の世界で、あることに気がついた。

 

「なんか、書いてある文字列が主役の絵が多くない? センセーこういうの描く人だっけ?」

 

「星野富弘さんの真似ですね。昔の先生は彼を一番にリスペクトしていたんですよ」

 

「ほしの……?」

 

「世界的に有名な日本の画家の一人です。

 うちの画廊の人間からは『花の言葉の魔術師』と呼ばれています。

 詩人にして画家。

 花と言葉を操らせたなら、星野富弘が世界一と言う者も少なくはないでしょうね」

 

「……花の、言葉」

 

 少女は、少年が描いたラブレターの絵を思い出す。

 花の言葉。

 太陽に育まれた花の想い。

 少年から少女の向けられた恋と愛、それに負けない感情の全てが乗せられた絵。

 思い出すだけで顔が赤くなりそうになるので、少女はそれを必死に抑える。

 

 今、思い返せば。

 少年が最初に少女にあげて、スーパークリークが反応して、少女が"センセーの絵"を客観的に見てもすごいのだと知った絵は、黒い花と白い花の絵であった。

 星を花に見立てた絵であった。

 星の花に、星野の花。

 彼は最初から、少女に花の魔法を見せていたのかもしれない。

 

「星野富弘は、首から下が動かない画家です」

 

「え」

 

「彼は元は教師でした。

 そして不慮の事故で、頸髄を折ってしまったのです。

 それ以後、彼は首から下が動かなくなってしまいました。

 二年後、彼は口で筆を咥えて詩や絵を描き始め……

 事故から十一年後。

 とうとう新聞に詩や絵が載るようになりました。

 事故から十三年後には理解のある女性と出会い、結婚。

 そして『花の詩画』と呼ばれる彼の作品は、日本で、世界で、有名になっていきました」

 

「……すごいね」

 

「十代で絵画の極みの一つに手を届かせかけている先生は……

 ……既に、星野富弘に匹敵する十年を過ごしたと言えるのかもしれません」

 

 首から下が動かなくても、絵は描ける。詩も書ける。

 恋もできるし、結婚でもできる。

 幸せに、なれる。

 星野富弘は、世界中の障害を持つ者達の希望になった男だった。

 

「センセーはその、センセーのセンセーな人の絵が好きだったのかな」

 

「いえ、絵ではなく、先生は星野富弘の言葉が好きだったんです」

 

「言葉?」

 

「詩画の芸術家でしたからね。

 それに、背負うハンデも大きかった。

 先生は大きな障害を持った星野富弘の言葉に、大きな共感を抱いたようでした。

 だから先生は絵を描いて、そこに星野富弘の言葉を刻み、飾るようになっていきました」

 

「ここに書いてある言葉、全部それなんだ」

 

「そうです。

 先生は見えなくとも、彼の言葉に囲まれていたかったそうです。

 絵に触れて、文字を指でなぞれば、その言葉が励ましとなってくれるからと。

 ……どうやら、星野富弘の言葉を刻んだ絵も、定期的に新しく描いて飾っているようですね」

 

 数年前に描かれた、絵に星野富弘の言葉を刻んだ絵。

 どう見てもここ一ヶ月以内に描かれた絵肌をした、星野富弘の言葉を刻んだ絵。

 少女は少年を探して家の中を回り、絵に刻まれた"センセーのセンセー"の『花の言葉』を、一つ一つ目にしていった。

 

『川の向こうの紅葉が

 きれいだったので

 橋を渡って行ってみた

 ふり返ると さっきまでいた所の方が きれいだった』

 

「綺麗な言葉だね。センセーが好きなのも、なんだか分かる気がするや」

 

 出来の良い絵に、星野富弘の言葉が刻まれている。

 生まれつき目が見えず、ひらがなも漢字も見たことのない盲目の彼が、指先で文字の形を記憶してそのまま写した、丁寧な言葉の列が刻まれている。

 あの少年が、星野富弘の言葉を大切にしていて、その言葉に囲まれて生きる力を貰っていたということに、実感が湧いてくる。そういう文字主体の絵であった。

 

『辛いという字がある もう少しで 幸せになれそうな字である』

 

「……」

 

 少年の絵をずっと見てきた少女だから、これらの絵を描き、文字を刻んでいる時の少年が、どんな想いだったかが分かる。

 どんな表情だったかさえ、おぼろげに分かる。

 絵の上に、文字を書いていた。

 すがるように書いていた。

 泣きそうな顔で書いていた。

 運命を憎む顔で書いていた。

 どうしようもない自分を叩きつけるように書いていた。

 星野富弘の言葉に共感し、その言葉を自分の言葉として刻んでいるかのように、吐き出せない想いをぶちまけるように、星野富弘の言葉を書いていた。

 

『この道は茨の道

 しかし茨にも

 ほのかにかおる花が咲く

 あの花が好きだから この道をゆこう』

 

「ボクにとっての、会長が……

 センセーにとっては、星野って人だったのかな……?」

 

 壊れた憧れを、少女は絵の中に感じ取る。

 

 茨の絵があった。

 茨の中に青い服の少女が居た。

 茨の道の中に咲く、ほのかに香る青い花のように、少女が言葉の横に添えられていた。

 

『私にできることは小さなこと でも それを感謝してできたら きっと大きなことだ』

 

 口癖のように、彼はありがとうと言っていたことに、少女は今気付く。

 数え切れないくらい、彼はありがとうと言っていた。

 数え切れないくらい、少女はありがとうと言われていた。

 それは、少女が数え切れないくらいに少年を助けてきたことの証明でもあるけれど。

 

 『違う』、と少女は思った。

 『ボクの方がもっとずっとありがとうって言いたいんだ』と、少女は思う。

 彼より多く、彼よりずっと、彼に『ありがとう』を言いたい己の気持ちが、少女の心にゆっくりと芽生えていく。

 

 ふと、少女は、仲間のスペシャルウィークがいつだか、感銘を受けたトレーナーの言葉をパクって自分の言葉にしていたことを思い出した。

 言葉は、他者と自分の境界を越える。

 国語の教科書の文章が、各々の言語に浸透し、"皆が使っている普通の言葉"になるように。

 他人の言葉は、己の内にある固有の部分にくっついて、自然と自分の言葉となる。

 それが自然な人間というものだ。

 

 星野富弘の言葉は、既にあの少年自身の言葉でもある。

 ここに在る絵に刻まれている文字列は、言語に落とし込まれた、あの少年の感情だ。

 

『冬があり夏があり 昼と夜があり

 晴れた日と 雨の日があって

 ひとつの花が咲くように

 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく』

 

 "センセーをセンセーにしたのはこの言葉達なんだ"と、少女は理解した。

 

 彼が共感し、心の支えとして、"こうなりたい"と願った、首から下が動かない悲劇の画家。

 

 悲劇の画家、されどその言葉には悲劇の気配がない。

 

 あまりにも悲惨な人生から生まれた言葉達は、絶望の人生にも負けない強さと、周囲の人間への感謝と、この世界の全てを肯定するような光輝く想いが感じ取れる。

 

『神様がたった一度だけ この腕を動かしてくださるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう』

 

 父も母もなくした後の少年は、星野富弘の言葉に何を思ったのだろうか。

 あの少年のことを何も知らなかった時期の少女であれば、きっと微塵も分からなかった。

 けれど、今は違う。

 少女はその言葉に何を思ったのか、彼がどんな気持ちでこれらの文字を絵に刻んだのか、それら全てが寸分違わず理解できてしまう。

 

 少年が少女に見せなかった、彼の心奥の更に奥。

 苦痛。

 絶望。

 嫉妬。

 悲嘆。

 羨望。

 尊敬。

 憧憬。

 称賛。

 共感。

 その他諸々、数え切れないほどの気持ちが、文字と共に刻まれている。

 

 あるいは、星野富弘のことをよく知る者であれば、何の事前情報も無しに、あの少年にかすかに残る"憧れの残り香"に気付けたのだろうか。

 それとも、星野富弘の言葉を受け、自分なりに考えて答えを出し、自分なりの生き方を作り上げた少年であるからして、それを見ても何も気付かないのだろうか。

 今となっては、語る意味の無いことかもしれない。

 

『黒い土に根を張り

 どぶ水を吸って

 なぜ きれいに咲けるのだろう

 私は大勢の人の愛の中にいて

 なぜ みにくいことばかり 考えるのだろう』

 

 少年は、優しかった。

 何でも許すような人間だった。

 多くを肯定するような人間だった。

 柔らかに他人を受け入れて生きている人間だった。

 

 少女はそう思っていたし、それも彼の一面だ。

 彼が普通の人より優しいことに間違いはないだろう。

 けれど。

 それでも。

 あの少年は、聖人などではなかった。

 

 顔に出さないようにしていた想いがあった。

 抑え込んでいた想いがあった。

 頑張って小さくしていった想いがあった。

 無かったことにした想いがあった。

 

 死が怖い。死にたくない。そんな気持ちも、長らく胸中に居座っていたに違いない。

 

 あの少年の人生とは、そんな自分と戦い続ける日々であり、この文字列はその記録だ。

 

 死にたくない、死にたくないと思いながら、「なんでこんなに自分は弱く、醜いんだ」と自分を嫌いながら、自分の気持ちをぎゅっと押し込んで、小さくする。

 小さくなった気持ちを、表に出さないようにする。

 そうして表向きは平気なふりをして、「死ぬのは怖くない」と(うそぶ)き、「心残りはきみがわたしの死で悲しんでしまうことだけ」と語る。

 そして、優しく微笑むのだ。

 彼女のために。

 

 死が迫る絶望など、大好きな少女に味わわせたくない。

 死という悪魔に苦しめられるのは、今は自分だけでいい。

 その一心で、彼はそうしてきた。

 

 誰にも言わない。

 誰にも語らない。

 ぐっとこらえて、一人で耐えて、自分の想いと重なる星野富弘の言葉を、ありったけの想いを込めて絵に刻んで、溜め込んだ想いを吐き出す。

 そして、昼に少女と会う頃には、本心から平気な自分になって優しく微笑んでいる。

 

 他人の言葉を借りないと、一人ぼっちの部屋で弱音を吐くことすらできない少年に、少女は泣き叫びたい気持ちを抑えきれない。

 

『暗く長い

 土の中の時代があった

 いのちがけで

 芽生えた時もあった

 しかし草は

 そういった昔を

 ひとことも語らず

 もっとも美しい

 今だけを見せている』

 

 言葉は、彼の思い出を描いた絵に刻まれていた。

 

『痛みを感じるのは

 生きているから

 悩みがあるのは

 生きているから

 傷つくのは

 生きているから

 私は今

 かなり生きているぞ』

 

 自分の醜さを見つめる言葉は、人が集まる喧騒の絵の上に。

 感謝の言葉は、腕だけが描かれた誰かが少年を助ける絵の片隅に。

 傷つくことで生を実感する言葉は、二人で見たレースの勝者と敗者が描かれた絵の真ん中に。

 

『いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった

 いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった』

 

「あ、ああ、ああっ……センセー……」

 

 その言葉は、青いウマ娘を描いた絵の右上に。

 命より大切なものを描いた絵の右上に。

 青いウマ娘は、太陽と見間違えてしまいそうなほど、眩い笑顔を浮かべていた。

 

 彼がその少女に恋していることが伝わって来るような、そんな絵だった。

 

『わたしは傷を持っている。

 でもその 傷のところから

 あなたのやさしさがしみてくる』

 

「センセー……せんせぇ……ボクは……ボクは……やだよ……! やだよ、こんなの……!」

 

 その言葉は、不死鳥のウマ娘を描いた絵の左下に。

 優しく微笑み、こちらに手を差し出してくれている少女を描いた絵の左下に。

 不死鳥のウマ娘は、女神か何かかと思わされるほどに、優しい笑顔を浮かべていた。

 

 彼がその少女を愛していることが伝わってくるような、そんな絵だった。

 

 少女の涙が、ぽたり、ぽたりと、床に落ちていく。

 

『しあわせが集ったよりも

 ふしあわせが集った方が

 愛に近いような気がする』

 

 少年と少女が二人で食事をしている時の思い出が絵になっていて、そこに文字が刻まれていて、見るだけで心に響くほどの想いが刻まれていた。

 

「絵に気持ちを全部込めたって言うなら……

 絵を見れば分かるって言うなら……

 絵を見れば分かるから口では言わないって言うなら……!

 こんなところに絵を隠さないでよ……! 分かんないじゃん……!」

 

 少年が少女の姿を想像で描いた絵があった。

 少女に触れ、容姿を知り、それをありのままに描いた絵があった。

 海に立つ少女の絵があった。

 優美な屍骸があった。

 蜂蜜の香りがする絵があった。

 

 ここにあるのは、ただの絵ではない。

 想いだ。

 人生だ。

 物語だ。

 残酷なる運命に人生をもてあそばれた少年が、最後に幸福な光を得た物語が、その人生の最後に在ったものが、そこで得た想いが、全て詰め込まれている。

 

 悲劇ではある。

 悲しみはある。

 悲嘆が消え去ることはない。

 されど、それだけではない。それだけではなかった。

 彼の絵に、彼が刻んだ言葉に、悲しみと絶望だけが在ったなら、少女が流す涙は、きっとこんな色をしていなかっただろう。

 

『今日も一つ

 悲しいことがあった

 今日もまた一つ

 うれしいことがあった

 笑ったり 泣いたり

 望んだり あきらめたり

 にくんだり 愛したり

 そして

 これらの一つ一つを

 柔らかく包んでくれた

 数え切れないほど 沢山の 平凡なことがあった』

 

 そして、初めて二人でレース場を見下ろした場所で、いつも絵を描きながら話していたあの土手で、二人並んで草原に座って、笑い合っている絵に、その言葉が刻まれているのを見て。

 

 何気ない日々の一つ一つが、彼にとって宝石だったと、心の底から実感して。

 

 涙が溢れ、もっと溢れ、どんどん溢れて。

 

 溢れた沢山の涙がこぼれ落ちるのも気にせずに、少女は笑った。

 

 彼が好きだと言ってくれた笑顔を浮かべて、泣いて笑った。

 

「センセー……センセーはさぁ……!

 そんなだから……そんなだから……!

 待っててよ……会えたらさ……言いたいこと、いっぱいあるんだからっ……!」

 

 そして、涙する少女が二階に上がり、そこで見つけたのは。

 

 彼が、誰の言葉の真似でもなく、星野富弘の言葉から引用するでもなく、ただただ心から溢れる言葉を絵に叩きつけただけの、絶望だった。

 

 

 

『だめだ わたしは 星野先生には なれない』

 

『憧れるだけで そうなれなかった わたしは 優しくも強くもなれない』

 

『笑って死ねる気がしない でも そうしなければ』

 

『そうしなければ』

 

 

 

 血を吐くような、苦しみに塗れた筆跡だった。

 絶望が整合性を破綻させた、絶望を孕む色彩があった。

 尊敬できる絵描きの言葉を山のように書き写しても、そうなれなかった少年の挫折があった。

 少年は表面を取り繕えても、感情を押し込んで小さくして優しく微笑むことはできても、星野富弘のように強くも、美しくもなれなかった。

 

 あの少年は聖人などではない。ただの、頑張っているだけの子供だった。

 

 少年が絶望から筆を叩きつけたキャンバスを、少女は初めて見た。

 

 それを目にしただけで、流れ出していた涙が、もっともっとたくさん、流れ出そうだった。

 

「誰か……誰かさ……

 『優しい人に憧れる君は優しい子なんだよ』

 って……センセーに、言ってあげる人……居なかったのかな……」

 

 それは彼にとっての夢ではないのだろう。

 なぜなら、彼はずっと夢なんて持てていなかったからだ。

 子供の頃、"他の子供と同じようになりたい"と夢見て、叶わず折れた時点で、彼はずっとずっと夢を見られないまま生きてきたのだから。

 

 これは夢ではない。

 夢にすらなれなかった思いの残骸。

 まともな憧れにさえなれなかった死産の感情。

 

 始まりの夢で、シンボリルドルフを目指した少女。

 先人の言葉を支えとして、いつしかそれを生の指針とした少年。

 

 その二つに共通するのは、"ああなりたい"と願った誰かになれない自分を突きつけられた、どうしようもない絶望だけだ。

 "そうなれない"と理解した時、心に刻まれた傷だけだ。

 少女はシンボリルドルフになれず、少年は星野富弘になれなかった。

 

 少女はまた一つ、彼と自分の共通点を見つけ、互いが互いに優しくなれた理由を理解した。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「本当に欲しかったものって、なんでボクらのものにならないんだろうね」

 

「なんでだろうねぇ」

 

「ねー」

 

「お嬢さんも大変だったんだね。よくがんばった。えらいよ」

 

「センセーが言えたことじゃないでしょー」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 あの時。

 彼が隠し、こらえていた気持ちを、彼女は知った。

 彼女を気遣い押し込んでいた気持ちは、きっとまだ他にもあるのだろう。

 探せばまだここにはいくらでもあるのかもしれない。

 けれど、今はそれよりも探さなければならないものがあった。

 病院から消えた彼を、探さなければならない。

 それは彼の想いを探すことよりも優先されるべきことだ。

 

 彼は少女を弱くも、強くもする。

 

 今流している涙は、彼が与えた弱さによるもの。

 

 この悲しみにも負けないのは、彼との出会いがくれた強さによるもの。

 

 両方とももう、彼女の一部だ。捨てたりはしない。

 

 この先に何が待っていたとしても、どちらももう、捨てたりはしない。

 

 そう決めた。そう向き合うと決めた。

 

 まだ弱くても、まだ迷っていても、そう決めたのだ。

 

「待ってて、センセー。絶対に見つけるから」

 

 隠されていた少年の想いを見つけ、けれどまだ見つけたいものは見つからない。

 ゆえに、探す足は止めず。

 

 少女は、力強く歩み出した。

 

 

 

 

 




 1991年、群馬県勢多郡東村にて、障害をものともせず諦めなかった星野富弘に皆が敬意を表し、村立富弘美術館が設立されました。今年度5月をもって設立30周年を迎えています。おめでとうございます


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23 必ず、きっと

「与えようとばかりして、貰おうとしなかった。
 なんと愚かな、
 間違った、
 誇張された、
 高慢な、
 短気な恋愛ではなかったか。
 ただ相手に与えるだけではいけない。相手からも貰わなくては」

   ―――フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ


 もしも運命というものがあり、もしもそれに意思があり、もしもそれに口があるのなら、それはずっと少女に対して囁いているだろう。

 

『運命は不動』

 

『結末は不動』

 

『お前は運命をなぞる』

 

『決められた敗北、挫折、絶望をなぞり、決められた勝利を果たせ』

 

『決められた勝利のための、奇跡を起こすための努力を当然に積み上げろ』

 

『そして、なぞれ』

 

『定められた通りに勝て。如何なる強敵も、お前の前では定められた通りに負ける』

 

『そして、四度目の骨折を経て、引退レースを決めるも、勝負さえできずに引退する』

 

『それまでは、定められた勝負の中で、お前は勝ち続ける』

 

 

 

『必ず、きっと、そうなる』

 

 

 

 

 

 ふと、鏡の向こうから自分自身が話しかけてきているような気がして、少女は鏡を見た。

 

 気のせいだったと思い、(かぶり)を振って自分の中の変な思考を振り落とす。

 鏡の向こうの自分が自分を嘲笑しているように見えるなど、疲れている証拠だろう。

 

 廊下で鈍く反射しているその鏡を見て、少女は何故か既視感を覚えた。

 本日二度目の鏡への既視感。

 一度目は病院、二度目はここで。

 病院で自分の顔を見た時、少女はトレーナーを思い出した。

 期待と諦めが混ざる、ただ祈って待つしかない、そんなトレーナー達と今の自分が同じ表情をしていることに気付いた少女は、半ば折れかけていた。

 

 この家に隠されていた彼の想いを知った少女は、もうその時と同じ顔はしていない。

 凛々しさと強さを取り戻した表情は、トレーナー達とは重ならなかった。

 なら、少女は何に既視感を覚えたのか。

 

「ああ、そっか」

 

 少女はぐるりと辺りを見回し、自分がモデルで描かれた数々の絵を見つめた。

 

 その全てに、彼女が居る。

 

 ここは絵で飽和した家。そして、彼が見た輝く彼女が飾られた家でもある。

 

「ここには、いや、センセーの絵の多くの中には、ボクが居るから……」

 

 病院で、少女が鏡から得た既視感があった。

 その既視感が、少女の心を追い詰め、弱らせた。

 

 この家で、少女が鏡から得た既視感があった。

 その既視感が、追い詰められた少女に奮起と、心を立ち上がらせる気力をくれた。

 

 鏡の向こうには何もない。

 自分自身が居るだけだ。

 弱い自分が鏡に映れば、いつかどこかで見た弱った誰かの顔と重なる。

 いつもの強い自分に戻ることができれば、この家に並ぶ、彼が惚れ込んだ青いウマ娘を描いた絵と、鏡の向こうの自分が重なる。

 

 全ての絵の、全ての彼女が、煌めいていた。

 全ての絵の彼女が、あの少年を惚れさせる魅力に満ちていた。

 だから。

 それらの絵に並ぶ自分に戻ってようやく少女は、それらの絵に描かれていた魅力、強さ、輝き、そして―――『彼女を彼女たらしめるもの』を失っていた自分に気付いたのである。

 

 ただ光を反射するだけの鏡が、絵画という名の真実を映す鏡の存在に気付かせた。

 

 絵画に映し出された己にこそ、奇跡の帝王の真実が在る。

 

 少女が胸を張って、背筋をピンと伸ばして、その眼光に強さが戻った。

 

 愛された絵画(じぶん)を見つめ直すことで、愛された少女は原型の光をより強い形で取り戻す。

 

「そっか。

 これがボクだ。

 こういうのがボクなんだ。

 センセーが大好きになったのは……ボクらしいボク、だよね」

 

 鏡が映す自分を見て、絵画が記した自分を見て、少女は思った。

 彼に悲しみを拭われるだけ、救われるだけの自分は間違いだ。

 彼に媚び、弱さを見せ、彼に寄り掛かるだけの自分も間違いだ。

 彼の死に絶望し、何をしていいか分からず、泣きそうな顔で迷うだけの自分も間違いだ。

 

 強く、かっこよく、前を向いて―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 先程まで、彼が好きになってくれていた自分を見失っていたからこそ、彼が好きになった彼女のことを絵に沢山描き留めてくれていたからこそ、それに気付き、そう思えた。

 

「あ、ちょうどいいところに」

 

「三浦さん。何かあった?」

 

「え、あの……何かあったと聞きたいのは、こちらもですが……」

 

「こっちは何もなかったよ」

 

「……いえ、なんでもありません。気のせいかもしれませんし。それより、見つけたものです」

 

 三浦は少女の空気の変化に戸惑うも、かの少年を探すという主目的を優先し、気になった部分の追求を放棄した。

 

 先程までの彼女とは、何かが違う。

 あの少年の運命を前にして、迷いと悲しみしか抱けていなかった少女とは見違えている。

 『死を受け入れないといけないのに受け入れたくない』という気持ちが、その表情にまでにじみ出ていた、弱さと逃避に蝕まれていた雰囲気が消えて無くなっていた。

 何かが違っていて、何かが変わっている。

 大人ほど強くもなくて、子供ほど弱くもなくて、大人ほど冷めてもいなくて、子供ほど幼稚でもなくて、現実が見えていないわけでもなく、夢を見れないほど情けなくもない。

 

 ただ、彼女の存在そのものに根付く、言葉にし難い何かが。途方もなく、強くて熱い。

 

「我々に心当たりはもうありません。

 しかし手がかりはありました。

 絵を描く道具が今日持ち出された形跡があります。

 乾いていない絵の具の混成試行の形跡もありました」

 

「センセーはここに道具を取りに来てたかもしれないってこと?」

 

「はい。おそらくついでに着替えも。だとすれば、どこかで絵を描いているのかも」

 

「そっか。うん。

 絵を描こうとしてるなら、ちょっとは安心できるかな。

 前は向いてるだろうから……発作がまた起きない限りは、多分まだ大丈夫」

 

「自殺はしない、かもしれません。

 ですが心当たりがもうない。

 彼ならなんだって描けるでしょう。

 もう、どこを探せばいいのか……自分には……」

 

「大丈夫、諦めなきゃきっと見つかるよ。

 今日までセンセーと話したこと、交わしたもの、それを思い出して。信じて行こう?」

 

「……そう、ですね」

 

 この家に来るまで、この二人の行動は三浦が主体であった。

 三浦が語り、三浦が教え、三浦が車を走らせて目的地に向かい、三浦の心当たりからこの家まで辿り着いた。

 三浦が大人の男で、既にあの少年の死を受け入れていた先人だったのもあり、三浦が何気なく主体であることに違和感はなかった。

 

 だが、今は違う。

 二人だけの捜索隊は、いつの間にか主体が入れ替わっていた。

 おそらくは、当人の二人さえもが気付かないままに。

 

「もう少し手がかりを探してみたいと思います。

 彼が今日ここに来たことは間違いないと思いますし……」

 

「うん、そうだね。手伝うよ」

 

「ありがとうございます」

 

 二人で協力し、痕跡が残っていそうな場所を探る。

 あまり時間をかけてはいられない。

 ここに痕跡があるという根拠も無いのだ。

 ある程度探索して何も見つからないならば、切り上げるべきである。

 彼がこの家から道具を持っていった痕跡を頼りにして、その周辺を二人で探った。

 

 ぼそりと、少女の口から言葉が漏れる。

 

「センセーはさ。

 たぶん、怖かったんだよね。

 だから『自分が死ぬのは大したことじゃない』ってずっと自分に言い聞かせてた。

 そう思ってれば、死ぬのが怖いと思っても、大したことじゃないって思えるもんね」

 

「先生もまだ子供です。彼なりの答えだったのだと思っています」

 

 床、壁、天井、棚、引き出し、どこを探っても何も見つからない。

 

 人生であれ、手がかり探しであれ、何も見つからないことが続くと人は不安になり、焦燥から何も見つけられなかったり、間違ったものを見つけがちだが、焦燥に飲まれつつあった三浦は、何か揺るぎない自分を見つけ出した少女の落ち着き払った雰囲気に触れ、冷静さを保っていた。

 

「透明な絵の理由が分かった。

 センセーは色を見たことがない。

 色を知ったことがない。

 想像で色を創るしかなかった。

 でもそれ以上に……センセーは他人の色がどうでもよかったんだよね」

 

「それは……」

 

「どうでもいいなら、他人を嫌いにならない。

 たぶん、めったに好きにもならない。

 自分が大したものに感じられないなら、他人だって大したものじゃないから」

 

 どの色も見たことがない。どの色にも執着しない。どの色も嫌うことがない。主観的に感じた美しさではなく、客観的な美しさを調べ、研究し、それを突き詰めた、透明な絵。

 芸術のための芸術、かつて提唱されたその概念の究極地点。

 他人の心色(カラー)にも興味がなく、ゆえに左右されない。

 長らく彼の絵に、『人のための芸術』の概念はなく、ゆえにこその最高純度があった。

 

「色が無いから透明。でも綺麗。

 それはきっと……センセーは、世界には綺麗であってほしいという願いを持ってたから」

 

 その上で『自分の人生には絶対的に未来も希望もない』という認知を与えたことで、頭の中のどこかのネジが外れて、出来上がったのが彼の絵だった。

 人の気持ちが分からないまま、人より人を理解してしまったエイリアンの同類。

 永遠を目指す透明な自動機械。

 それが変わったのは、彼の絵を、芸術のための芸術から、人のための芸術に引き戻した出会いがあったから。

 

「センセーは、本当は、センセーが死んだらボクがどのくらい悲しむかも分かってない。

 このくらい悲しむんだろうなあ、って過小評価してるんだよね。

 自分が死ぬのは『大したこと』じゃないと思ってるんだろうな、って。

 自分が死んだ時の他人の心の色を、ちゃんと想像で見えてないんだよ。

 じゃあ、さ。

 ボクがどのくらい『大したこと』だと思ってるのかなんて、分かるわけがないんだよ」

 

「……その通り、でしょうね」

 

「センセーは分かってない。

 ボクがどのくらい悲しむかなんて分かってない。

 ただ、ボクがほんのちょっとでも悲しむことさえ嫌がってるだけ」

 

 透明は綺麗だ。

 

「センセーの罪悪感は、ボクを分かってるからじゃなくて、ボクが大好きだからなんだよね」

 

「……」

 

 何も混ざっていないから透明でいられる。

 透明人間であれば、死んでも誰も悲しまない。

 己の死で誰も悲しまないようにするなら、誰の目にも映っていない透明人間になるしかない。

 三浦の前から消えたのも、少年は三浦にとっての透明人間になりたかったから。

 だが、芸術のための芸術から人のための芸術になった時点で、ただ綺麗で在ることなど許されない。綺麗に死ぬことさえ、とても難しくなってしまう。

 

 彼の透明には、とっくに色がついていた。

 彼女の色がついていた。

 透明な飴細工に色のついた光を当てると、その光の色に合わせた色がついて見えるように、彼の透明を、彼女の光が染め上げていた。

 

「その通りです。

 それは自意識過剰でもなんでもない、ただの事実。

 彼は、あなたのことを……まぎれもなく、一人の女性として……」

 

「ストップ。その先は、センセーが言わなくちゃダメなことだよ?」

 

「っと、申し訳ありません」

 

 三浦が焦った様子で頭を下げて、少女はくすくすと笑っていた。

 ありとあらゆる理屈を抜きにして、あの少年の生存と無事を確信し、揺らがない姿勢と落ち着き払った振る舞いを見せる少女に、三浦は冷静さを分けてもらっている。

 

 この少女は今、何か、どこかで、他の人間には絶対に理解できず共感もできない理屈で、あの少年と繋がっている―――そんな、常識的に考えれば錯覚以外にありえない感覚的推測が、三浦の中に生まれていた。

 

「彼の絵は、随分と変わりました。おそらくは、あなたのおかげで」

 

「ボクの? そうかもね」

 

「過去の論評曰く、彼の絵は『努力し頂点を目指したことのある者』に特に響くそうです」

 

「……へえ」

 

 喋りながらも痕跡を探す手を止めず、二人の目は目聡く動き、小さな痕跡も見落とさない。

 

「彼の絵は透明感の強い、無垢の幻想の世界。

 世界を一度も見たことがない者のみが描ける絵です。

 と、同時に、その裏面には憧れがある。

 彼が憧れても決して手に入らないものへの憧れが。

 芸術にはない明確な勝ち負け。

 夢の熱。

 頑張り、鍛え、己を高め続ける精神。

 頂点を目指す懸命なる者達の競走……絵の裏側にそれらへの尊敬がある」

 

「あるね。センセーの絵は、ボクの絵だけじゃなくて、ウマ娘の絵全部が凄かったもん」

 

「けれど、現代でその絵画特性は必ずしも汎的な武器にはなりえません。

 なぜなら、人は大して頑張っていないからです。

 ほとんどの人は手を抜いて日々を生きています。

 頑張ったつもりで、自分は辛いと主張し、それだけ。

 頂点を目指さない人間が大多数を占めています。

 だから……頂点を目指した者によく響く彼の絵は、人間相手には売れにくかった」

 

「過去形?」

 

「過去形ですね。

 数年前の話です。

 今はもう随分と、違う色合いの絵になりました。

 頂点を目指していない、ささやかに頑張っている人にも、刺さる絵になったと思います」

 

 それは画商の見解。

 教養のあるマックイーンでも持てない視点。

 客観的に世界を見て、時代を見て、民衆を見て、これまでの歴史上どの時代にどの絵が売れたかを研究した者だけが持てる眼。

 あの少年の代わりに見る眼。

 この時代におけるあの少年の絵の立ち位置を言語化した見解だった。

 

「社会で苦しんでいる人が増えれば増えるほど売れる。

 苦しい人が多い国でこそ売れる。

 彼の絵は頑張っている人間へのエールになるものだからです。

 星野富弘の作品が、先生を救ったのと同じ。

 救われない人生から生まれた創作こそが、救われない人生を送る人間の心を救う。

 彼が死んだ後、社会が今よりも幸せでなくなった時、彼の絵は売れると目されていました」

 

「死後に絵が売れる人、結構居るんだっけ」

 

「はい。彼の絵は、救われない人生の反映で、救われない社会で受けるものである、と」

 

 救われない盲目の人生からしか生まれない透明こそが、人の心を救う飲み水となる。

 

 少女にとって、理解もできる、納得もできる、肯定もできる、けれど受け入れたくはない、正しい見解だった。

 

「なので、先生は死後になるまで真に評価されない……

 うちの画廊のボスはまだそう思っています。

 無論、ウマ娘からの受けは非常にいいですし。

 最近の変化が、明確に評論にも影響をもたらしています。

 先生は変わりました。

 様々な変化を得ました。

 それをひとまとめにすると、どういう言葉になるか。

 きっと、『生前に評価される画家になった』と……そう言うんです」

 

 三浦は、少女を全面的に褒めている。ずっと、ずっとそうだ。

 

「死後に評価されるはずだった画家を。

 生前に評価される画家に変えた。

 芸術の世界において……これがどれだけの偉業であるか、分かりますか?」

 

「ちょっと、ボクには分かんないかな」

 

「それでも構いません。

 自分は、この奇跡に感動しているんです。

 誰も起こせなかった奇跡を、あなたは起こした」

 

「奇跡……かぁ」

 

 大勢が見ている中起こして記録された奇跡ではない、たった一人のために起こした、記録されたわけでもない、たった一人を救うためだけの奇跡。

 

「死の運命が変わらないとしても……

 最後の最後に、先生とあなたが言葉を交わせば、そこに何かが……

 きっと、いえ、必ず。あなたなら先生を救えるはずだと、思うのです」

 

 三浦は自覚なく語っている。

 彼も最初はここまで夢見がちなことを語る人間ではなかったはずだ。

 大人として、現実を見て、あの少年の死をどう受け入れるか決めた者であったはずだ。

 それが、これまでの少女が少年に与えてきた変化が、少女が成してきた全てが、そして何より、今の少女が纏う別格の雰囲気が、三浦に自覚なき変化を与えていた。

 三浦は徐々に姿勢を変化させ、いつの間にか少女に大きく"期待"するようになっていた。

 

 いつの間にか少女は、彼にも夢を見せていた。

 

 この悲劇で終わるしかない物語を、結末が決まりきっていたはずの少年の人生を、自分が予想できていない結末(ゴール)に連れて行ってくれるのでは、と。

 三浦は、その背中に夢を見ていた。

 勝利に繋がる夢ではない。

 幸福に繋がる夢を。

 そのウマ娘が夢を叶える未来を、ごく自然に、無自覚に、夢見ていた。

 

「……これ以上時間をかけるのは得策ではありませんね。

 手がかりはなかった、と割り切りましょう。

 一旦、我々の心当たりの場所をもう一度回ってみるべきです」

 

 とにかく、彼を見つけなくては。

 そう思い、二人が家を出ようとした時、少女は青いウマ娘の絵を見つけた。

 日本画の技術を用いた、純和風の絵であった。

 花が咲き誇る池の中、池の真ん中に伸びた一本の橋の上で、青いウマ娘が佇んでいる。

 角度的に、家に入った時には見えない絵。

 家を出る時にしか見えない絵。

 それを目にして、なんでもない背景の一部、花の中を凝視して、少女は首を傾げていた。

 

「なんかここー、文字入ってない?」

 

「……驚きました」

 

「え? なんで?」

 

「それは昔の先生が使っていた独自表現技法です。

 平安時代に描かれた絵画化した文字を入れる『葦手絵』。

 イタリア語や英語の文字列を入れる『カルテリーノ』。

 その二つを組み合わせた難解な、絵に混ざる文字表現です。

 最近先生と出会った人が気付けるようなものではないんですよ」

 

「そうかな? センセーのこと知ってたらなんか気付けそうじゃない?」

 

「……」

 

 三浦は顎に手を当て、少女を見やり、何やら考え込み始めた。

 

「なんて書いてあるの?」

 

「これは……唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)、ですね」

 

「……あ」

 

「エクリプス……確か伝説のウマ娘で、この格言を生んだウマ娘と聞いたことが……」

 

 探すつもりは無かった。

 探せばいくらでも、彼が彼女に向けた想いを見つけてしまうことは明白だったから。

 今はいい、後でいい、そう思って探していなかったのに、不意打ちで見つけてしまって、少女はむず痒くなって頬を掻く。

 

 一見して美しい風景画に見えるが、その実レースに挑む者へのエール。

 いつか彼女がレース復帰した時にでも、これを贈るつもりだったのかもしれない。

 

「目が見えない者から、目が見える者への挑戦。

 そういう概念も含めた上で、一つの完成された芸術ですね。

 『お前の目は本当に見えているのか?』

 『見えているなら、読んでくれ』

 『気付かなくてもそれでいい。君は花を楽しんでくれ』

 と……そう言ってくるような、深く優しい絵に感じますね、これは」

 

「そっか」

 

 少女は暖かに照らす太陽。

 少年は照らされ癒やす月。

 

 結局、彼は失敗したのかもしれない。

 間に合わなかった。

 だが彼がまだ諦めていないのであれば――少女から学んだ『諦めない』を胸に抱くのであれば――まだ、自分の死が彼女を傷付けないようにしたがっているはずだ。

 彼が、己の死で少女が涙する結末を受け入れられるわけがない。

 

 月が太陽を陰らせる日食(エクリプス)など、あってはならない。そう思っている限り。

 

 されど。

 

 唯一抜きん出る者(エクリプス)を目指す、全てのウマ娘達の頂点であり無敗の最強としてかつて君臨していた一人のウマ娘は―――彼に迎合するだけの存在ではない。

 

 彼女には彼女の考えが、意思が、信念がある。

 

「行こっか、三浦さん」

 

 彼が絵に入れ込んだ文字列から一つの文言を発見した三浦を見て、少女はふと思う。

 

 彼を見つけたいのであれば……()()()()()()()()()()()()、と。

 

 そんな彼女をよそに、何やら考え込んでいた三浦は、一つの結論を出した。

 

「……もしかしたら、貴女にしか彼を見つけられないのかもしれません」

 

「えっ?」

 

「先生は昔から、こういうものをたまに仕込む人でした。

 毎回ではありません。

 たまにです。

 見る人が注視していない時に、そっと仕込むのです。

 だからこそ、真に見る目のある人、真に先生を理解する人にしか分からなかったのです」

 

「見る目のある人と……理解する人?」

 

「今の先生に対し、そういう存在になれるのは……きっと、あなた一人だけです」

 

「!」

 

「自分はノイズだったのかもしれません。

 もしかしたら、自分が同行していなければ、すぐ見つかっていたのかも。

 ……不安になりすぎているのかもしれません。

 しかし、思うのです。

 あなた一人ならば、と。

 信じたい気持ちがあるのです。

 昔自分が全く気付けなかった先生の仕込みを、一瞬で見抜いたあなたなら……」

 

 横で余計なことを言えば邪魔になるかもしれない。少女に余計なことを言って思考を乱してしまうかもしれない。三浦の存在が少女の感覚の邪魔になるかもしれない。

 そういうことを思えば、三浦は同行を選べなかった。

 

 ウマ娘の世界では、"今の自分ではもう彼女についていけないから"と、今の自分とずっと先を行く誰かを比べて引退する者が珍しくないという。

 ついていけない。

 ついていけない自分に気を使わせたくない。

 自分は置いていって、その人には一人で成せることを成してほしい。

 そう思って、引退するウマ娘はそれなりに多いという。

 

 今の三浦は、それに近い気持ちを持っていた。

 あの少年の昔のことしか知らず、今の少年を熟知していない、足手まといな自分を置いて、少女にはあの少年のところに辿り着いてほしいと―――そう考えたのである。

 

「きっと……いえ、必ず、あなたは先生を見つけられます。そんな気がするんです」

 

「そんなにボクのこと、信じられるの?」

 

「はい。走るあなたに夢を見た人達の気持ちが、今なら分かる気がします」

 

「……」

 

「あなたと先生が、許される範囲で最大の奇跡を掴めると、信じたい気持ちがあるのです」

 

 何度挫けても、そのたびに夢は見られる。

 

 目の治療法を探して、希望を持って、否定されて、挫けて。

 病の治療法を探して、希望を持って、否定されて、挫けて。

 幾度となく折れた果て、今死というゴールに到達しようとしている。

 それでも。

 そんな絶望の底でも新たに見られる夢は、あるのかもしれない。

 

 "せめて優しい最後があってほしい"と、画商の三浦は夢を見た。

 

「ノイズになるかもしれない自分は離れます。

 一旦別れて、手分けをして探すんです。見つかったら連絡をお願いします」

 

「……いいの? 一緒に見つけて、一緒に言いたいこと言っちゃおうよ」

 

「もしも、先生が……

 芸術家の理想のような、美しい終わりを迎えられるのなら……

 死は悲劇でないと、証明できるのなら……

 自分がそのノイズとなり、その邪魔をしているのなら……

 自分は先生が終わりを迎えた後に合流します。それが、彼のためになるのなら」

 

 三浦は駅前まで彼女を送り、『自分では見つけられないだろう』という悲しき確信を得て、それでもなお諦めることなく、少年を探して車を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年が少女への愛と恋を謳った絵の中には、飾られた花言葉にも、その本数においても、常に少年の謝罪があった。

 

 ごめんね、ごめんねと、絵の中で謝っていた。

 言葉にできない思いが、絵の中にあった。

 

 『好きになってごめんね』と。

 『出会ってごめんね』と。

 『悲しませてごめんね』と。

 

 三浦との離別を選んだ時に彼がそう書き残したことから見ても分かるように、彼は己の病気が原因で他人が苦しむことに対し、いつも心の中で謝っていた。

 

 それこそ、一歩間違えれば"出会わなければ良かった"と言ってしまいかねないほどに。

 

 あの少年が一度もそう言わなかったのは、彼の中でそれほどまでに、少年少女の出会いが価値あるものだったからだろうか。

 

「後悔なんて無いよ。

 出会わなければ良かったなんて思わない。

 ぜったい、思ってあげない。

 だから、ボクはセンセーが嫌だって言っても、そばに居てあげるんだ」

 

 そんな彼の想いを、少女は全力で否定して跳ね除ける。

 

 だが、彼の"ごめんね"を直接言って否定したくて探し回っているのに、見つからない。

 どこを探しても彼が居ない。

 もう少し。

 もう少しで何か分かりそうだと思うも、少女は答えに辿り着けない。

 必要な情報の断片は全て揃っているという確信はあった。

 だから少女は考えているが、分からない。

 

 ピースが一つだけハマっていないパズルを見つめているような、そんな気分。

 あと一つ。

 あと一つ何かがあれば、答えが見つかるという感覚だけがあった。

 少女はあと一つ、何か必要なことを知ることができれば、それで何かが分かる気がしていた。

 

 三浦が残した"美しい終わりを迎えられるのなら"という言葉が、ずっと少女の脳裏にちらついている。

 

「美しい終わり、か」

 

 その言葉が、ウマ娘である彼女のどこか、魂の奥深いところで、よく分からないままに引っかかっている。

 

 この世界におけるウマ娘は、人間の延長、あるいは平行、かつ異生物という存在である。

 人間とは違うが、その生態は人間に近い。

 

 しかしながらこの世界に存在しない競走馬は、ウマ娘とは根本的に違う。

 競走馬は根本的に動物である。

 その末路も、"動物に対する慈悲"による悲しいものが相当に多い。

 

 レース中に粉砕骨折、その場で安楽死させられたライスシャワー。

 同じくレース中の骨折から予後不良と判断され安楽死させられたサイレンススズカ。

 休養無く走らされ続け、体調不良でも走らされ続け、安楽死処分が妥当と判断されたにもかかわらず、金目的の馬主の強い要望で苦しみの中6度の手術を受けさせられ、蹄が腐り苦しみながら心臓麻痺で死んでいったサンエイサンキュー。

 高松宮杯で骨折した翌日、屠殺され食肉化されたハマノパレード。

 怪我の治りが悪くて二度と勝てないまま引退した馬、レースには勝ったのに子供を残すことすらできず死んでいった馬、一度も勝てないまま空気のように消えていった馬。

 

 競走馬の歴史とは、『美しい終わりを迎えられなかった者達』の歴史である。

 

 『奇跡の帝王』と呼ばれた競走馬もまた、引退レースを決定していたものの、引退レースまでに回復することができず、引退レースにも出られず、引退式を迎えた馬だった。

 それでもまだ、マシな方ではあったと言える。

 その終わりは骨折の悲劇にまみれていても、醜悪ではなかった。

 奇跡の帝王はただ、"最後に約束した勝負のレースができないまま終わった"だけだったから。

 奇跡の帝王がそれまで見てきた馬達の末路の方が、よっぽど美しくはなかっただろう。

 

 "美しい終わりを迎えられるのなら"という三浦の言葉は、ウマ娘の魂のどこかに引っかかる。

 

 『美しい終わりを迎えられるならそれ以上はない』という気持ちが、何故か湧いてくる。

 

 終わりが近い。

 

 その実感がある。

 

 あの日、偶然(うんめい)の出会いから始まった二人の物語の終わりが近付いている。

 

「もし、ボクが、そういうの好きだったなら……

 あの時、引退撤回せず、引退ライブで終わりを受け入れてたのかな。

 センセーの死に悩むこともなく、最後をどう飾るかを考えてたのかな。

 だとしても。ボクが、センセーと出会ってから、思ったことは、得たものは……」

 

 少女は既に、向き合い方を決めている。

 後は最後の選択だけ。

 何をするか。

 どうするか。

 そして、どんな結末を望み、どんな願いを叫ぶのか。

 選択し、彼を見つけ、それを口にして、彼らの物語はようやく最後の幕を上げる。

 

 少年を探しに次の場所へ行こうと、少女が一歩踏み出したその時。

 

 少女の前で車が止まり、中から一人の少女が現れた。

 

「あら。随分とマシな顔になりましたのね。最近は毎日辛気臭い顔をしてましたのに」

 

「え、マックイーン?」

 

「ごきげんよう」

 

 車から降りた優美な私服のメジロマックイーンが、優雅にそこで微笑んでいた。

 

 いつものような優雅な微笑み。

 

 しかし何故か、今日だけ何故か、その微笑みに距離を感じて、少女は少し身構える。

 

「あ、そうだ。マックイーン。

 白い杖の人見なかった?

 髪はこう、普通の黒髪を短く切り揃えてた感じで……

 目が見えないから、ずっと目を瞑ってて、でも表情がずっと優しい感じで……」

 

「ええ、見ましたわ」

 

「そーだよねーマックイーンも見てないよねーってえええ!? ど、どこで!? 教えて!」

 

「教えませんわ」

 

「え?」

 

「今日の(わたくし)は、彼の味方ですもの」

 

「は?」

 

 一瞬、少女の思考が止まった。

 

「彼と約束しましたわ。

 彼の居場所は誰にも教えない。

 今は一人になりたい彼を、(わたくし)は一人にしてあげると」

 

「ちょっと待ってよマックイーン!

 マックイーンは今何がどうなってるか知らないんだよ!

 センセーは持ち直してたから普通に見えたかもしれないけど、病院から抜け出してて……」

 

「ええ。彼を運ぶ車の中で事情は聞きましたわ。

 それと、貴女が聞いていないであろうことも。

 今の彼が発作を起こす可能性も考慮し、打てる手は全て打ってあります」

 

「ボクが聞いていないこと……?

 いや、そうじゃない。マックイーン、どういうつもり?」

 

(わたくし)は貴女が正しいとも、彼が正しいとも思っていない。それだけですわ」

 

「わけわかんないよー! 何がしたいの!?」

 

 少女は、まったくもってわけがわからなかった。

 少年が何を考えているのか分からない。

 マックイーンが何を考えているのか分からない。

 少年とマックイーンが二人で何を企んでいるのか分からない。

 そもそも、少年とマックイーンが何やら仲良さそうというだけで困惑の極みであった。

 

 混乱する少女に対し、マックイーンは会話の主導権を握りに行く。

 

「問答で『勝負』でもしてみますか?

 (わたくし)を言い負かせれば、あるいは彼の居場所を聞き出せるかもしれませんわよ?」

 

「え、勝負って……」

 

「今彼が居る場所は、(わたくし)が教えなければ、いくら外をうろついても見つかりませんわ」

 

「! ……分かった。なにがなんでも教えてもらうからね!」

 

 混乱に乗じて、マックイーンは話の流れを作り、上手いこと少女をそこに乗せた。

 

 他の誰のためでもなく、マックイーン自身の願いのために。

 

 

 

 

 

 少女は珍しく真面目な顔で、凛々しい表情で、マックイーンを問い詰める。

 

 対しマックイーンは柳のような姿勢、涼やかな表情で、少女の威圧をのらりくらりと受け流していた。

 

「マックイーン、センセーと知り合いだったんだね。全部知ってたの?」

 

「さっき知ったばかりですわ。

 中々点と点が線で繋がらなかったものですから。

 まったく、知っていれば早くに(わたくし)も相応の動きをしていたものを……」

 

「……」

 

「貴女が隠していた理由は聞きませんわ。

 それなりに想像もできますもの。

 彼と貴女の日々のことも、かいつまんで聞けましたしね」

 

「そ、そっか」

 

「ふふふっ、でも、貴女がまさかそんな……驚きましたわ。

 もう冬が終わり、春になりますものね。貴女にも春が来たというわけです」

 

「う、うるさいなぁもう!」

 

 くすくすとからかうマックイーンに会話の主導権を握られたまま、少女は顔を真っ赤にした。

 

「なにさ! わざわざボクにいじわるしに来たの!?」

 

「意地悪? (わたくし)が?」

 

「だってそうでしょ!

 センセーの居場所も隠してるし!

 何が目的かも言わないし!

 いじわるで適当なこと言って遊んでるんじゃないの!?

 今ボクそういうことしてられないの! 早く教えてよ!」

 

「意地悪なのは貴女じゃありませんの?」

 

「……え?」

 

 核心をついたような言葉を、冷えた表情のマックイーンが口にして、言葉をまくし立てていた少女が止まった。

 

「彼と出会い、彼を惚れさせ。

 彼を変え、死を受け入れるだけだった彼に希望を見せ。

 なまじ希望と幸福を見せた分、死の瞬間の喪失は大きくなる。

 彼の人生において最大の意地悪は、貴女の存在だったのではないかしら?」

 

「そ、それは……」

 

「ああ、それとも。

 彼が意地悪だったのかもしれませんわね。

 全てを知った上で、繋がりを絶たなかった。

 悲しみを拭うことに失敗してしまった。

 悲しむ必要が無かった貴女が悲しむのは、彼のせいとも言えますわ」

 

「それは違うよマックイーン!

 それだけは絶対に違う!

 センセーは悪くない!

 普通に生まれてたらそれだけで、センセーは誰も傷付けてなかったはずだよ!」

 

「……ええ、そう思うなら、それでいいと思いますわ。

 貴女も彼も悪くない。

 貴女達二人は心を通わせただけ。そこに罪はありませんもの」

 

 マックイーンは穏やかな表情で、会話の流れを作っている。

 話をどこに持っていきたいのか。

 少女に何を言わせたいのか。

 それを分かっているのは、会話の主導権を握っているマックイーンだけである。

 

 会話の主導権をマックイーンに握られたまま、マックイーンとの問答で振り回され、少女はとにかく食らいつく気概で問答を続けた。

 

「それとも、運命のせいにでもしてしまいましょうか。

 運命はいじわるですものね?

 理不尽に起きた悲劇は、全て運命のせいにできますわ。

 ああ、悲劇の運命、悲しき運命、運命に人格があれば、そこに悪態でもついたものを……」

 

「……やっぱ、マックイーン、ボクにいじわるしに来たんじゃないか」

 

「いいえ、意地悪なんてしていませんわ」

 

「どこがさ!」

 

()()()()()()()()()()()みたいですわね」

 

「え」

 

「貴女を悪く言われたら困惑。

 運命を悪く言われても気にしない。

 でも、彼を悪く言われるとすぐに怒って、すぐ言葉が出たでしょう?

 慣れたから、すぐ言葉が出たのでしょう?

 彼とは数回話しただけですが、彼は自分のせいにだけはするタイプに見えましたわ」

 

「あ……」

 

「彼だけは特別。

 分かりますわ。

 同時に、貴女が何もかもを彼のせいにだけはしたくないというのも分かります」

 

 マックイーンの言葉が、彼と彼女の関係、そして二人の関係に根ざすもの、そこから生まれたあまりよくないものを解体していく。

 

 事此処に至るまで、少年と少女の関係性に問題は無かった。

 何一つ歪みもなく、マイナスの効果に繋がるものも無かった。

 しかし、今は違う。

 今、指摘されなければならないものがある。

 今、摘出されなければならないものがある。

 

 この少女に対しそれができるのは、メジロマックイーンしかいない。

 

「だ、だってさ、センセー優しいもん。

 誰のせいにもしないし。

 いつも頑張ってるし。

 何でも受け入れてるし。

 わざわざ悪く言うところなんてないよ。

 センセーのせいにするのだけは間違ってるって。

 たまに何か思うことあっても、ボクはセンセーに何か言えるほど立派に生きてないし……」

 

()()()()()()()()()()()

 

「……え?」

 

「彼も苦労しているでしょうね。

 いえ、どうかしら。

 これは彼に引っ張られてるのかしら。

 彼にとってはこの方が生きやすい面もある?

 それとも、優しい帝王様の気持ちを尊重したのかしらね……」

 

「ちょ、ちょっと、一人で納得して独り言つぶやくのやめてよ」

 

 少女は彼を悪く言うことを許せない。

 

―――……ボクはボクより、センセーの絵とか、描いてる姿とかの方が、芸術っぽいと思うよ

 

 彼自身が彼自身を悪く言うこと、低く言うことすら許さなかったのだ。

 

 誰かが彼を悪く言うことも。

 彼が彼を悪く言うことも。

 マックイーンが彼を悪く言うことも。

 ともすれば、自分が彼を悪く言うことも、少女にとってはとても嫌なことだった。

 

「彼を思いやって。

 彼を気遣って。

 彼に優しくして。

 彼を傷付けないようにして。

 彼と喧嘩にならないようにして。

 ええ、いいことですわ。

 彼は視覚障害者ですものね。

 誰もが無自覚に、無意識に、彼をそうして、割れ物のように扱うのでしょう」

 

「それ、は」

 

 一つだけ。

 事態が此処まで転がって、それでようやく問題になる、彼と彼女の間に存在する問題未満のものがあった。

 その問題がある限り、現れない『叫び』があった。

 

「貴女、彼に一度も本気でぶつかってないでしょう?

 ()()()()()()()()()()()()()()意見をぶつけ合ってすらいない。

 全力で彼の何かを否定する言葉すら発していない。

 (わたくし)に対しては、(わたくし)の想いも、夢も、願いも、叩き潰す勢いでぶつかれたのに」

 

「……あ」

 

「自分の心の底まで見せ合える。

 相手が心の底まで見せてくれる。

 そんな関係まで行っているのに宝物を扱うようにしか触れない。

 "そんなこと言わないで"と大声を上げたことすらない。

 そんなだから、いつの間にか彼の願いや望みに引っ張られ、流されるのですわ」

 

 マックイーンは、二人の関係を否定していない。

 二人の関係が生んだものを否定していない。

 素晴らしい関係だと、そう素直に思えている。

 

 だからこそ、その関係が、最後の最後で一つだけ間違えて台無しになってしまうことを、マックイーンは許せない。

 許せないものに立ち向かい、勝つ。それがメジロマックイーンだ。

 

「気持ちは分かりますわ。

 死は絶対。

 不治の病は治せません。

 レースの中で諦めないことと同列に語れるものではありません。

 諦めなければ治るものでもないのですから。

 迂闊な提案が死に繋がることさえあります。

 それは(わたくし)達が負った怪我よりなお理不尽で救い難いものでしょう」

 

「……うん」

 

「今日まで随分と苦悩したでしょう? それを否定はしません。貴女は優しい子ですもの」

 

「マックイーン……」

 

「でも、貴女が最大限彼に優しさだけを与えるから。

 彼は貴女に最大限に優しさだけを与えるしかない、そういう面もあるのです」

 

「―――」

 

「貴女が彼を強く否定しないから。

 彼も貴女を強く否定できない。

 だから彼は、貴女を尊重し続けたのです。

 貴女の意思を尊重しながら、貴女の悲しみを拭おうとしたのです。

 貴女の泣きたい気持ちを尊重しながら、自分が死んでも貴女が泣かないように、と……」

 

 それは矛盾である。

 矛盾を孕んでいいなら、方法はいくらでもあった。

 何かを妥協すれば、方法はいくらでもあった。

 少年は子供であってもバカではなかったから、選ぶ方法はいくらでもあった。

 

 だが、『でもそれじゃ彼女の人生にとっての最善じゃない』という思考が、ひたすらに選択肢を殺していった。

 

 二人が互いが無傷であることを望んだ。

 無傷であること、幸福であること、それをひたすらに祈っていた。

 

 少女にはいつも本音で話しつつ、口に出さないようにしていたことがあった。

 それは、少年も同じ。

 少年には愛する人の最善の未来のため、選べないものがあった。

 それは、少女も同じ。

 

 今日までの何気ない会話の一つ一つ、その全てが、少年を想う少女と、少女を想う少年の、相手のためを想う気持ちに満ちている。

 

「彼の心は、パンクしました。

 そして倒れてしまいました。

 彼は今、絵を描きながら言い訳を考えています。

 貴女に心配させないために。

 貴女の意思を尊重するために。

 貴女に涙無く彼の死を受け入れさせる、彼の理想の結末、その未来に繋げるために」

 

「……センセー……」

 

「それが彼が隠れている理由ですわ。

 貴女に会いたくないのです、彼は。

 貴女のために。

 貴女が泣かない未来のために、言葉を考えているのです。

 本当に……言葉がありませんわ。心底呆れて、心底尊敬しています」

 

「……センセーはさぁ。ホント、なんだろうね。……いや、ちゃんと面と向かって言わないと」

 

 その時、少女が浮かべていた表情を見て、マックイーンは背中側に隠した拳を強く握る。

 

 人知れず固められた、マックイーンの覚悟があった。

 

「『愛』と言ったら陳腐ですが、『愛』以外に表現する言葉が見つかりません」

 

 少女の目と、マックイーンの目が合う。

 

「死は運命。けれど、それでも、運命を無言で受け入れる責務など、誰にもありませんわ」

 

「―――」

 

「貴女に問います。

 貴女の最大のライバルとして。

 貴女の全ての叫びを受け止められる者として。

 貴女は彼がこのまま死んでしまって、平気なのですか?」

 

 ライバルの目が。

 声が。

 言葉が。

 意思が。

 問いかけが。

 ここまでの会話の全てが。

 かの少年の絵が蘇らせた、少女の強さと熱さ、そして滾る感情が。

 

 ようやくその言葉を、その少女から引き出した。

 

 

 

「―――平気になんてなれるわけ、ないじゃん!」

 

 

 

 感情のダムが決壊し、次から次へと言葉が溢れる。

 

「好きだよ!

 好きなんだ!

 どうしようもないくらい!

 好きじゃなくなれば平気になるかもしれないって!

 そう思って好きを捨てようとしてたのに、次の日にはもっと好きになってた!」

 

 それは想い。溢れる想い。今日までずっと積み上げられてきた想い。

 

「センセーはさ、ボクのこと好きすぎだし、信じすぎ!

 それでいて、その信頼は正しいんだ!

 センセーはボクのことちゃんと分かってるから!

 ボクの強さをボクより分かってくれてるから!

 乗り越えられるって理解したから、納得させようとしてるセンセーは正しいよ! けど!」

 

 どんなに押し込んでも、どんなに抑えようとしても、消えて無くなることのなかった、少女の中の不滅の想い。永遠の恋で、永遠の愛だ。

 

「センセーが死んで、そりゃ乗り越えられるかもしれないよ!

 辛いことだって、頑張れば乗り越えられる!

 ボクは知ってる!

 だってそう生きてきたんだから!

 皆が居るから!

 居てくれるから!

 ボクが頑張れば、センセーが死んだって乗り越えられる……けど!」

 

 それは、愛であり。

 恋であり。

 怒りであり。

 不満であり。

 けれどやっぱり、愛だった。

 

 

 

「乗り越えたくなんてないんだよ! 大好きなんだから!」

 

 

 

 センセーはズルいと。

 でも悪いズルはしてないと。

 事あるごとに、少女は言っていた。

 

「なんでボクの悲しみを削ろうとするの!

 ボクはセンセーが大好きだから悲しいのに!

 なんでボクを納得させようとするのさ!

 ボクは納得なんてできないのに!

 なんで……ボクの心配だけしてるんだよ!

 死ぬのはセンセーなのに!

 ボクのこと思ってるみたいな顔されたら……拒めないじゃん……ずるいよ……」

 

 マックイーンは知っていた。これを抱えたまま、これを口に出さないまま、何かの結末を迎えたとしても―――その先に、幸せはないと。

 

「ボクのこと好きなら、ボクのこと悲しませないでよ!

 ボクのこと好きなら、ずっと一緒にいてよ!

 ボクのこと好きなら、ボクのこと隣で一生幸せにしてよ!

 ボクのこと好きなら! 絵だけじゃなく口でもっと言えー! 恥ずかしがり屋ー!」

 

 叫ぶ。

 

「こんなこと思ってて、思ったこと口に出したら、センセー困らせるだけのボクも嫌いだ!」

 

 叫ぶ。

 

「センセーをいじめる、何もかもが、嫌いだ……!」

 

 泣きそうな声で、叫ぶ。

 

 強い意志をもって、叫ぶ。

 

「ボクはセンセーを守りたいんだよ、何もかもから」

 

「ええ、知ってますわ」

 

 マックイーンは何一つ笑うことなく、真っ直ぐな瞳で、それを見つめていた。

 

「ねえ、マックイーン。ボクはこんなにも無力感があるの、初めてなんだ」

 

「ええ、分かります。

 今の(わたくし)も、足が壊れた時より大きな無力感を覚えています。なので」

 

「なので?」

 

「だからこそ(わたくし)は、(わたくし)の信じるもののために動いています」

 

「マックイーンの、信じるもの?」

 

 薄紫の長い髪をかき上げ、真摯な表情で、マックイーンはすぱっと言い切る。

 

「奇跡は起きます。それを望み、奮起する者のもとに、必ず、きっと」

 

 迷いの無い言い切りだった。

 

「―――ああ。マックイーンは、本当にマックイーンなんだね」

 

 奇跡を見せる少女と、奇跡を信じる少女。二人は永遠に対等である。

 

「貴女が貴女である限り、(わたくし)は奇跡を信じています。いついかなる時も」

 

 その言葉に感情を動かされ、そして、少女は気付く。

 

 メジロマックイーンは、彼の病気の完治という、奇跡の中の奇跡を目指していることを。

 

 長い薄紫の髪をかき上げて微笑むマックイーンは、揺らがない信念に生きていた。

 

「心のどこかに諦めがあって、難病を乗り越えた者など居ませんわ。

 この世でただひとり。

 ほんの僅かな可能性でも、彼を救える可能性がある者……それが貴女なのです」

 

「ボクが……?」

 

「ええ。

 貴女の尻を叩いているのもその一環ですわ。

 貴女が貴女で在ればいいのです。

 ただそれだけで、貴女の周りの人間は、心を強く奮い立たせますから」

 

「……センセーは今日まで、どの治療法でもどうにもならなかったって言ってたよ?」

 

「それでも、地球上の医者全てをあたったわけではないでしょう?」

 

「!」

 

(わたくし)(わたくし)が信じる者を拠り所としています。医療はまず管理ですわ」

 

 マックイーンが、ぱちんと指を鳴らす。

 

 すると、マックイーンが乗ってきていた車から、ぞろぞろと謎の人間達が現れた。

 

「理学療法士!」

「理学療法士です」

 

「鍼灸師!」

「鍼灸師です」

 

「シェフ!」

「シェフです」

 

「パティシエ!」

「パティシエです」

 

「主治医!」

「主治医です」

 

「そんじょそこらの大病院より優秀な人間を集めたメジロの総力をもってあたりますわ」

 

「わああああああ全員来てるううううううううう!? あ、センセーの発作対策この人達!?」

 

 以前、少女やマックイーンが怪我するたびに名家メジロ家で見た、名前もよく分からない推定優秀な人間達がずらっと並んだ。

 

 富豪の家付きの主治医などの場合、最も多い者は二種類存在する。

 先祖代々の仕事や親の代からの付き合いなどで、実力関係なく名家に雇われている者。

 大病院などで活躍して有名になり、大病院よりも良い待遇で名家に引き抜かれた者である。

 どうやら彼らは後者であるようだ。

 

 ウマ娘と人間は基本的な身体構造が共通である。

 ウマ娘が人間を遥かに超えた力を出せることが不思議がられるほどに、その身体は近い。

 彼らにとって、治すという点においては、人もウマ娘も限りなく近しいようだ。

 

「主治医、現状を」

 

「はい、マックイーンお嬢様。

 細かい専門用語で説明しても冗長になります。

 なので、一言でまとめます。

 現状、お嬢様の望む彼の完治は、非常に難しいと言わざるを得ません」

 

「あら……絶対に治らないと彼に言った医者も居たそうだけど、絶対とは言いませんのね」

 

「医者は"絶対"を使わず、詐欺師は"絶対"を多用する。医療の戒にございます」

 

「そう、ありがとう。下がって構いませんわ」

 

「お嬢様」

 

「何?」

 

「救えなかったとしても、延命にはなります。

 お嬢様のお気持ちに応えるべく、一同、全力を尽くします」

 

「……ありがとう」

 

 ぞろぞろと全員車の中に戻っていく。

 

 巣に帰るアリを眺める気分でそれを少女が見ていると、フッ、と不敵に笑ったマックイーンが明後日の方向を見つめる。

 

「ちょっと手詰まりですわね。

 彼が会話の中で何かいい感じの手がかりを口にしてませんでしたか?」

 

「もう万策尽きたの!? ……そんなもの覚えてたら、病院で真っ先に言ってるよ」

 

「そうでしょうね。

 でも何かあるかもしれませんわ。

 1%助かる、99%死ぬ。そのくらいの話で構いません、何かありませんこと?」

 

「だからボクがそんな話聞いてたら真っ先に……話し……て……」

 

 その時。

 

 マックイーンの何も考えていない発言が、ピンポイントで少女の記憶に刺さり、ほとんど忘れかけていた記憶の一部が、蘇った。

 

 それは、彼が余命僅かということが判明した帰りの電車でのこと。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「生まれつき眼が見えなかった。小児癌にかかってしまった。それから体に色々あってね」

 

「治せないの? ほら、手術とか!」

 

「『99%死ぬ手術なんてできない』と、お医者さんには言われてしまったよ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 彼はいつも、自分が絶対に助からないという口ぶりで話していたが。

 あの時だけは。

 『1%助かる方法がある』と―――そういう言い回しをしていた。

 

 数え切れないほど会話してきた二人の会話において、たった一回だけ出た発言。

 おそらく、言い回しの綾ではない。

 そういう言葉の隙を生むタイプの人間ではないと、少女は彼をよく知っている。

 実際にあったのだろう。

 そういう治療法が。

 99%死に、1%助かるようなものが。

 

 あの時の彼は罪悪感に飲まれていた。

 "ごめんね"の気持ちで、らしくない行動も少々取っていた。

 だからうっかり、罪悪感に冷静さを剥ぎ取られ、うっかり漏らしてしまったのだろう。

 彼の余命の話を聞いて、その日の会話の細かいところの記憶が全て吹っ飛んでいたため、マックイーンに記憶を刺激されるまで完全に忘れていた少女だけは、彼のことをとやかく言えないが。

 

 閉塞感に満ちた現状の突破口は、彼の罪悪感と"ごめんね"の中にあった。

 

 酷くか細い、蜘蛛の糸のような希望。

 

「……怖いなぁ、これに懸けるの」

 

「そもそも、今もできる処置なのかは分かりませんわ。

 それでも調べてみる価値はありそうですわね。

 1%は比喩なのか、事実そうなのか、今もその処置ができるのか……

 希望を抱けば裏切られた時にその分の痛みが返ってくる……とはいえ、信じたくはあります」

 

「うん、希望が……」

 

「見えてきたわけではありませんわよ?」

 

「え」

 

「彼は過去にそれを選ばなかったということでしょう?

 今、健康状態が悪化した状態で選ぶとは思えませんわ。

 彼が望まないのであれば、(わたくし)も、貴女も、彼に強制できないでしょう?」

 

「うっ」

 

 二人は善良なウマ娘である。

 彼の生存を望んでいるのは確かなのだが、彼の意志に反したことを強いることはできない。

 二人が彼の家族か何かであれば、あるいは彼の両親が生きていれば、本人が望まない手術や投薬を打診することもできたかもしれないが……現状、それができる人物はいない。

 突破口が見つかったと思ったら、また塞がってしまった。

 希望を得ては、突き落とされる。

 

「彼が恐れるのは、これだったのかもしれませんわね」

 

「どゆこと?」

 

「生きてほしいと貴女が願う。

 彼に99%死ぬ治療法を貴女が望む。

 彼が貴女を尊重して受け入れる。

 彼が死に、貴女が罪悪感を抱いて残る……というパターンですわ」

 

「あー……センセー、そういうのは絶対嫌がるね。だから隠してたのかな」

 

(わたくし)が見た限り、彼は絶対に承諾しません。これは実質不可能な選択肢ですわ」

 

「……もうちょっと、もうちょっと思いつけば、なんかもっと思いつけそうなのに……」

 

 何か。

 もう少し何かがあれば。

 そう思いながらも、その何かが見つからない。

 あがけばあがくほど、状況の閉塞感と絶望感は強くなっていく。

 

「とにかく、(わたくし)はその1%を探してみます。

 一番辛く、苦しいのは彼なのです。

 何の病苦も背負っていない(わたくし)が弱音を吐けませんわ。最後まで全力を尽くします」

 

「マックイーンはマックイーンだなぁ……」

 

「貴女も大概ですわよ」

 

 もし、この二人のどちらかが一人ぼっちでこの絶望と向き合わされたなら、昨日までの少女がそうであったように、どこかで挫けて間違えてしまっていたかもしれない。

 

 けれど。

 二人で向き合っていると、心が萎えない。

 何があっても心が負けない。

 互いの何気ない言葉が、想定していないところで互いを助けてくれる。

 弱音なんて吐いてられない、負けるか、という気分になれる。

 

 だから、まだ戦える。

 相手が、どんなに頑張っても勝てやしない、病魔の絶望であったとしても。

 

「それで、貴女はどうしますの? 他の皆が何を選んだか、その選択肢は出揃いましたわ」

 

「ボク、は……センセーを見つけて、とにかく話したい。

 そこでボクの口から出て来た言葉が、ボクの真実だと思うんだ。なんとなくだけど」

 

「……ふふ。貴女らしいですわね。でも、それがいいのかもしれませんわ」

 

 二月の風がざわりと肌を撫でる中、マックイーンの凛とした表情が引き締まる。

 

「ハッキリ言いますわ。

 この件に限っては正義はありません。

 誰も正しさの保証を持っていませんわ。この(わたくし)を含めて」

 

 そう。

 事此処に至り、正しい選択肢は存在しない。

 全ての主張に正しさがあり、他の選択肢の正しさの分だけ、間違っている。

 此処に在るのは、各々が掲げる正しさだけだ。

 

 正しさは人を救わない。

 病を治すこともない。

 だから、各々が信じるものの反映でしかない。

 

「画壇の著名人は彼の死ではなく、死後に残る絵を見ています。

 彼が抜け出した大病院の医師達は、延命か治療かで意見が割れています。

 彼の絵を有名にした三浦画商は、既に彼の死を受け入れています。

 (わたくし)はどんなに可能性が低くとも、彼の完治を目指したい。

 全員が各々の立場で好き勝手言っています。

 誰も正しくはありませんわ。

 そして、運命が誰の選択を正解として選び置くかもまた、分かりませんの」

 

 彼の絵を世界に広めることが彼の救いだと思う者。

 延命が救いだと思う者。

 根治が救いだと思う者。

 彼の死に涙することが救いだと思う者。

 奇跡が救いだと思う者。

 

 人の命という重いものが失われようとしているこの瞬間、それぞれの信念が浮き彫りになる。

 

「貴女もまた、何かを選ぶことが許されているのです。そして、それに正解保証はありません」

 

「うん。分かってる」

 

「貴女の意思で選んでくださいませ。

 貴女の言葉でそれを語ってくださいませ。

 (わたくし)(わたくし)の信念で動きます。

 ですが同時に、(わたくし)は貴女の味方ですわ。

 できる限りの助力を約束します。

 (わたくし)は貴女のライバルで、友達で、そして……チームスピカの仲間なのですから」

 

「……ありがと! マックイーン!」

 

 激励するマックイーンの微笑みに。

 感謝する少女の笑顔に。

 両者共に、"頑張らないと"と、パワーを貰う。

 

「彼が生を諦めてるから、それに従う。

 彼が死から悲しみを無くそうとしているから、それに従う。

 彼が己の死に悲しまないでと言っているから、それに従う。

 それでいいんですの?

 惚れた男の言い分を全部聞き、その言いなりになってるだけなんて、"帝王"らしくもない」

 

「うん、そうかもね」

 

「一度くらいは彼に怒鳴ってみるといいですわよ。

 なに勝手にボクの幸せを決めてるんだー、なんていいかもしれませんわ」

 

「……あはは、マックイーンがボクの立場だったら、言いそうだね」

 

「ええ、言いますとも」

 

 長い付き合いの少女のことだけではなく、あの少年のことも早くも理解しているマックイーンに対し、少女は安心感や尊敬を覚えたが、同時に危機感や羨望も覚えていた。

 

「ホント、マックイーンとセンセー会わせたくなかったよ。相性抜群だもん」

 

「あら、そうですの? 当事者としてはまだそういう実感はありませんわね」

 

「『わたしが死んでも泣かないでほしい』

 って言ってくるセンセーと。

 『負けても泣かないでくださいます?』

 って言ってくるマックイーン。

 センセーの方が優しいけどさ、二人が仲良くならないわけないんだよ」

 

 マックイーンは目をぱちくりさせて、ちょっと驚いた様子を見せて、やがてとても楽しそうに笑った。

 

「ますます、死んでほしくないと思えますわね」

 

 マックイーンの"向き合い方"に、かつて少女は大きく影響を受けた。

 悲嘆がない。

 その向き合い方に暗さがない。

 奇跡を信じている。

 諦めずに頑張り続けた人間は報われるのだと、言い続けている。

 かつて少女が何度も何度も足を折った時、マックイーンがこの向き合い方をしてくれたことがどれだけ少女の救いだったことか、マックイーンは三割も分かっていないだろう。

 

 かつて少女を救ったマックイーンの性情が、今は少女の大切な人に向けられていることが、少女は心底嬉しくてたまらない。

 あの日マックイーンに自分が救われたように、彼もまた救われてくれるかもしれない……そんな風に、夢を見られるから。

 だから、嬉しいのだ。

 

「でも、良かった。

 マックイーンが味方で。

 ボクが何を選んでも、それならなんだか安心できるや」

 

「? 何を言っているんですの?」

 

「え?」

 

(わたくし)達は仲間の前にライバルですわ。

 貴女が何を選ぼうが構いません。

 (わたくし)は貴女を手助けします。

 けれど最善を尽くすのは、(わたくし)(わたくし)の信じるやり方においてですわ」

 

「え? え?」

 

「言い換えましょうか。()()()()()()()()()このメジロマックイーンですわ」

 

「―――!?」

 

「のろまな貴女は二着以降に甘んじるといいでしょう」

 

「ちょ、ちょ、ちょっとぉ!」

 

「貴女のように恋愛感情はありませんが……

 彼の絵には惚れ込むのに十分な魅力がありますわ。

 できる限り長生きしてほしいと願うのは当然のことでは?」

 

「そりゃボクも願ってるけど!」

 

 ところが梯子を外されて、少女はたいそうびっくりした。

 

 困惑し狼狽える少女を見て笑い、マックイーンは薄紫の髪をかき上げる。

 

「尽くしなさい、想いを。

 尽くしなさい、言葉を。

 全部伝えてしまいなさい。

 (わたくし)が信じているのは奇跡ですが、愛は奇跡では伝わりませんわよ?」

 

「うっ……そ、そうだね……」

 

「今の貴女なら大丈夫でしょう。

 彼の意に反することになりますが、彼の居場所を教えますわ。彼は今……」

 

「あ、待って」

 

 少女への義理を通すため、少年への不義理をやむなく働こうとしたマックイーンを、少女は手で制した。

 

「いいよ、センセーの居場所は言わなくても。マックイーンは約束したんでしょ?」

 

「それは、そうですが……」

 

「大丈夫。

 すぐ見つけるよ。

 だって、ボクはボクで、センセーはセンセーだから」

 

「……理由になっていませんわよ?」

 

「そう? ボクはなってると思うよ。すぐに、絶対に、見つけられる。そういう理由だもん」

 

「ふふっ」

 

 "ああ、彼女はこうだから、いつも奇跡の女神に愛されるのですね"と、マックイーンが本調子に戻った少女を見て思う。

 

 合理的な理屈は全くない。

 そもそも、ここまで見つかってないというのに、どうしてこれから見つけられるのか。

 手がかりは全く無い。だからこそマックイーンを問い詰めようとしていたのだ。

 彼がどこに居るのか、未だに全く見当もついていないのに、少女は自信満々な様子で『マックイーンが彼との約束を守る』ことを重んじた。

 

 "ライバルと話してる内に大丈夫な気がしてきた"と言わんばかりで、常識外れのことを常識のようにこなす少女だからこそ、見ているマックイーンもなぜか大丈夫な気がしてきてしまう。

 

 少女は信じてくれるマックイーンにさよならをしようとして、そこでふと、マックイーンの影響で蘇った何気ない記憶について問いかける。

 

「あ、そうだ。マックイーンなら、黄色、黄緑、緑、青緑って聞いて何か分かる?」

 

「? 並んでいる色でしょうか?」

 

「多分わっかみたいな並びだと思うんだよね、一周したら元のところに戻ってくるみたいな」

 

「ああ、それなら―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年はその絵の前で、解説を繰り返し聞き、ひたすらに高精度の構図を脳内に作っていった。

 骨伝導イヤホンから解説が流れている。

 盲目の彼のため、視覚情報に等しい聴覚情報を流し込んでいる。

 それを頼りに、少年が絵を描いている。

 絵を描きながら、あの少女を幸せにするための言い訳を考えている。

 

 骨伝導イヤホンによる解説を聞いていたがために、外の声がちゃんと聞こえる彼の耳が、近付いてくる足音と声を捉えた。

 

「奇跡ってさ。

 それを望み、奮起する者のもとに、必ず、きっと、起こるんだって。

 マックイーンがそう言ってた。

 あれ、素敵な褒め言葉だなって思ってたんだけど……

 それを望まず、奮起してない人は、救えないのかなって最近は思えてきたよ。ボク」

 

 とても、聞き覚えのある声だった。

 

 少年は驚き、姿勢を正して向き合う。

 

「救われたいと思わせないといけない。

 ちゃんと奮起させないといけない。

 そうじゃないと、どんなに頑張っても救えない。

 いい言葉に見えるけど、厳しい言葉なのが、マックイーンらしいなって」

 

 少女が苦笑しながら言うその言葉が、少年にはとても重い言葉に感じられた。

 

「センセー、見つけた。最初の、ちっさな奇跡かもね」

 

「お嬢さん……」

 

 あの少女が自分を見つけられるわけがないと、少年はそう思っていた。

 でなければこんなところでのんびり絵を描いているわけがない。

 少女が死に悲しまない結末を作るため、そのための言い訳を編み出すため、必要な時間を稼ぐべく、少女が来ない場所で絵を描いているつもりだった。

 

 だが現実に今、彼は少女に見つかり、逃げようのない状況に追い込まれている。

 

「どうしてここが? メジロマックイーンさんが教えたのかな」

 

「マックイーンは最後まで約束を守ったよ。マックイーンは約束を守るウマ娘だもん」

 

「そうなんだ。いま一瞬でも疑ったことを、あとで改めて謝らないといけないな」

 

 マックイーンが、何気ない会話を通して、少女のおぼろげな記憶を刺激した。

 そして、最後の知識のピースを嵌めた。

 ただそれだけでよかった。

 それだけで全てのピースは繋がった。

 三浦がそう期待した通りに、少女は今この地球上でただ一人の、今現在のこの少年を完全に理解し尽くした、最大最高の理解者となったのである。

 

「センセーの絵、メインの色があるよね。

 それで、その色がローテーションしてる。

 知らなかったんだけど、色相環ってのがあるんだって?

 なんか、色がわっかの形に並んでるやつ。

 あれをスキップみたいに、間の色飛ばして、時計回りに色を選んでたんだよね?」

 

「よく勉強したみたいだね。えらいよ」

 

「えへへ。

 色相環って勝負服デザインの基本なんだって。ボク全然興味無いから知らなかったんだけど」

 

 色相環。

 美術の基本中の基本。

 色の関係性とバランスを整理した、環状に色を体系化したものである。

 美術を生業とする者が、絶対に触れるもの。

 一般人であれば、美術の教科書でちらっと見る程度で忘れてしまうもの。

 それが、彼を見つけるために必要だった、マックイーンが知り少女が知らないヒントだった。

 

 21世紀においては、佐川工学博士らの研究で、先天的盲目の人間も色相環同様の色彩認識を持っていることが確認されている。

 なまじ賢しい人間、たとえば三浦などが居れば、『盲目の人間が色相環を使うだろうか?』という常識的な判断を口に出して、少女の直感的な正しさを妨害していたかもしれない。

 

 少年はここ一年はずっと、円環状に色が並ぶこれを参考に、メインカラーをローテーションさせて描いていた。

 彼のことが好きな女の子が、ずっと横でそれを見ていれば、少年がそれを秘密にしていたとしても、自然とそれはバレるだろう。

 

「センセーの絵が完成したところで、マックイーンが会ってたって言ってたからさ。

 ボクが最後に見たセンセーの描き終わった絵の色、次の、その次の色。赤描いてるかなって」

 

「うん、ちゃんと色相環が頭に入ってるね。

 さすがにお嬢さんは優秀だ。

 色相環で次の次の色は赤、というイメージができてるなら十分だね」

 

「ふっふっふ、もっと褒めてもいいよ?」

 

「でもそれだけじゃ、わたしがここにいるとまではわからないはずだ」

 

 今ここに、赤色を使った絵はない。

 赤い絵をモチーフにして赤い絵を描こうとしている、などということはない。

 しかし少年の手元の絵には、鮮やかな赤色が刻まれていた。

 

 赤が周りにないのに、彼は赤を描いている。

 

「最近のセンセー、ウマ娘しか描いてないよね?

 風景とかも描くけど、あくまでウマ娘の添え物として力入れてた。

 だから次に描くとしてもウマ娘かな……って、そう思ったんだけど」

 

「うん、正解だ」

 

「この前さ、展覧会でデートした時。

 マックイーンが長々とグラディアトゥールのことを言ってたんだ。

 グラディアトゥールを絵に描く時、ええと。初めて描く人が最初に参考にするのは二つ」

 

「150年前のグラディアトゥールを描いた絵と、ロンシャンの銅像だね」

 

 グラディアトゥールの基礎知識は、マックイーンが改めて叩き込んでいた。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「よくわかんないけどありがと! グラディアトゥールってなんだっけ?」

 

「……学園の授業でも触れたでしょう!?

 というか、テストにグラディアトゥールが出た時、貴女100点取っていたでしょう!?」

 

「あははっ、そうだっけ?」

 

「天才肌はこれだから……いいですか、グラディアトゥールというのは―――」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

「なんか、その時の話で覚えてたんだけど。

 ロンシャンレース場に置かれたグラディアトゥールの銅像、周りに緑が多いんだって。

 だからそれで覚えてたんだ。

 展覧会のグラディアトゥールの絵の周りには、緑がいっぱい描いてあったなあって」

 

 少年と少女が初めて会った日、少年が題材として使ったものの中に、マネがロンシャンレース場を描いたものを元にしたものがあった。

 グラディアトゥールの銅像がある場所であるそこを描いたものが、既にあった。

 

―――これはジョン・コンスタブルの『白いウマ娘』。1821年。

―――これはエドガー・ドガの『観覧席前のウマ娘』。1872年。

―――これはエドゥアール・マネ『ロンシャンレース場』。1867年。

 

 盲目の人間がアレンジした絵を見て、ひと目でその場所がパリのロンシャンレースであると見抜ける程度には、マックイーンはロンシャンレース場についての知識を持っていた。

 当然、グラディアトゥールの銅像の周りの緑についても知っている。

 知っているから、何気なくこの少女に教えられる。

 そして。

 

「それにほら。センセーの絵の緑って、赤色だったなあって」

 

「……ああ」

 

「グラディアトゥールのこの緑に囲まれてる絵をセンセーが描いたら、真っ赤になるかなって」

 

「うん。大当たりだ」

 

 そう、彼の描く樹は、ルビーのような赤に染まる。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

 樹は緑ではなく赤。

 それは彼の目が見えないから。

 ルビーのような樹の下で、宝石の輝きを受ける人がいる。

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 出会った初日、彼が絵を描いているところを少女が初めて見た時、彼は彼女の目の前で、緑の木を赤色で塗りたくっていた。

 それは、その後も同じように行われた表現だった。

 少女はそれを覚えていた。

 そして、点と点を線で繋いだのである。

 

 ここは少女が初めて来た画廊。

 二人がデートをした展覧会に昨日まで飾られていたグラディアトゥールの絵は、今日だけはこの画廊に貸し出す形で移されていた。

 少女が一度も来たことがなく、思い出もないこの場所に居れば、普通は見つからない。

 長居しすぎれば画廊の人間が不審に思い、警察に連絡されてしまうかもしれない、程度のリスクしかない。

 少年はここで、グラディアトゥールと周囲の緑を描いた元の絵を、色相環に沿った色のローテーションに準じて、真っ赤な絵として描いていたのである。

 

 それを少女が読み切って、グラディアトゥールの絵の現在地から一発で当てたのだ。

 

「すごいね。もしかしたら今わたしは、過去最高に君をすごいと思ってるかもしれない」

 

「すごくはないんだ、これ。すごいわけじゃないんだよ」

 

「?」

 

「ボクはさ、好きなもののことはよく覚えてるんだ。それだけなんだよ」

 

 今日まで共に過ごした時間。

 今日まで彼を見つめた時間。

 今日まで彼を理解した時間。

 全ての結実のような、正解だった。

 

 彼のことを誰よりもよく知らなければ、こんなことができるわけがない。

 

 三浦が自分が邪魔であると理解し、歯を食いしばって消えていなければ。

 マックイーンが少女にいい影響を与え、記憶を蘇らせ、知識を与えていなければ。

 今日までの少年と少女の、心を交わすような日々がなければ。

 きっと、少女は少年を見つけられなかっただろう。

 そして少年は言い訳を考えるだけの時間を得て、また崩れない優しい微笑みを湛えて、今度こそ少女を言いくるめて、少年の死に納得させようとしていたはずだ。

 

 それを拒みたいのであれば。

 これが最後のチャンスだった。

 その最後のチャンスに、奇跡のように、少女は少年を見つけ出したのだ。

 

 『今日まで二人で過ごした日々』という、何の力もないはずのものを、双眼鏡にして。

 

「ボクとマックイーンはライバルだから。手を取り合えば、誰にも負けない。運命にだって」

 

「……きみたちふたりが揃ってる時に会っておきたかったな。

 まさかきみたちふたりが揃って話すだけで、ここまで高め合うなんて、思ってなかった」

 

 少年の人生には、ライバルというものがいなかった。

 何も見えない視界の中、戦うべきは自分自身。

 盲目の彼に張り合う健常者など居るわけもなく、彼はその人生で『ライバルが居るからこそ得られる力』というものを、欠片も知ることがなかった。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「メジロマックイーンさんは知り合いなのかな?」

 

「ライバルだよライバル! マックイーンにだけは負けられないんだ! 絶対!」

 

「いいね。うらやましい。わたしはライバルというものを得たことがないから」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 ライバルの存在。

 ライバルがくれる力。

 それが、少年の計算と予測を狂わせた。

 あるいはそれを知らなかったからこそ、少女から逃げ切れなかったとも言えるだろう。

 

 少女はもう逃げられない少年を見据え、口を開いて、大きな声で彼に言葉と想いをぶつけ―――ようとして、言葉に詰まってしまった。

 

「どうしよっかな。

 何言おうかな。

 ボク、言いたいこと……本当にいっぱいあるんだ」

 

「うん」

 

「ああ、なんかボク変だ。

 順番に言えばいいのに。

 胸の中が色んな感情がいっぱいで。

 想いで、胸が破裂しそう。

 何を言えばいいのか、全然分かんなくなっちゃった。ボクらしくもないや」

 

「待つよ。わたしに残り時間がどのくらいあるかは知らない。でも、待つよ」

 

 感情が喉に詰まるような感覚。

 思っていたことが多すぎた。

 抱えている想いが多すぎた。

 言ってやりたいことが多すぎた。

 言葉と想いが、乙女の唇を前にして、交通渋滞を起こしている。

 

「センセー」

 

「なにかな?」

 

「ボクさ、センセーの意思で選んでほしいから、ええと、センセーを、待ってるんだ」

 

 結果、飛び出した言葉は、ひどく曖昧で、中身が無かった。

 

「……わたしは、きみになにか、おねがいされると思っていたよ」

 

「あ……やっぱ分かっちゃう?」

 

「まあね。わたしを分かってもらった分、わたしもきみを分かってるつもりだから」

 

 柔らかで、切なくて、不可思議な空気が、二人の間に流れる。

 

「"生きていたい"なんてささやかな夢すら見ることが許されないセンセーが、嫌だった」

 

「……お嬢さん」

 

「センセーがその夢を見て、その夢を叶えて、生きていくのを見たかった」

 

「無理なんだよ。お嬢さん。それは無理なんだ」

 

「うん。"不可能を可能にして生きてよ"って……センセーに言って良いのか、分かんなかった」

 

「もしかして……わたしの過去の失言に、気づいてしまったのかな」

 

「ね、1%に賭けなかった理由、聞いてもいい?」

 

「わたしは臆病なんだよ。

 きみが思ってるより、ずっと、ずっと。

 99%死ぬと言われたら……試す気もおきなかった。

 若いうちに死ぬことが決まっていても、すぐ死ぬよりマシだと思ったんだ」

 

「そっか。でもそれ、普通だよ。臆病なんかじゃないって、ボクは思うな」

 

「そうだろうか」

 

「臆病な盲目の人は、ボクの上に工具が落ちてきて、危ないのに助けに来ないと思うな」

 

「そう、かな」

 

「普通は、転ぶのが怖いよ。

 落ちてきたものが当たるのが怖いよ。

 あそこは道だったから、車とかだって怖いよ。

 でもセンセー、すごい顔で、ボクのことめっちゃ心配して、助けてくれたじゃん」

 

「うん」

 

「あれさ、本当に嬉しかったんだ。センセーは臆病なんかじゃないよ、ボクは知ってるもの」

 

「……うん」

 

 少女には勇気がある。

 少年には勇気がある。

 凡人と比べればそれこそ天地ほどの差がある、とても大きな勇気がある。

 それでも、1%は選べない。

 99%即座に彼女と死に別れ、彼女を傷付け悲しませる選択を、彼は選べない。

 99%大好きな彼と死に別れ、彼と永遠の別れを迎える選択を、彼女は選べない。

 

「ボク、さ。

 無責任に言うのが怖いんだ。

 その背中を押すのが怖いんだ。

 だって、失敗したら何もかも駄目になっちゃうんだから。

 センセーが……死んでしまうかもしれないんだから。

 気軽になんて言えないよ。

 不可能に挑んでなんて言えない。

 ……それでもボクは、センセーに少しでも長くじゃなく、ずっと長く生きてほしいんだ」

 

「それは……」

 

「あはは。ごめんね。勢い付けて、1%に挑んでって言おうとしたんだけど……言えないや」

 

 重い。

 命が重い。

 命を左右する言葉が重い。

 誰も死なないレースであれば、『僅かな可能性に賭けて挑もう』と言えるのに。

 失敗すれば即座に死ぬ医療行為だからこそ、気楽に言えない。

 

 "諦めず挑戦しよう"という、ウマ娘の世界では腐るほど言われてきた一言が、命がかかっているこの場面では、一度口にすることさえ重苦しい。

 

「怖くて言えない。不可能を可能にしたこともあるのに、ボクじゃ言えないや。なんでだろ」

 

「……」

 

「マックイーンと同じ選択、したはずなのに。

 マックイーンみたいに言えないんだなあ、ボク……マックイーンはすごいや」

 

 軽率でも、無責任でも、適当でもない。真剣だ。

 

 精一杯考えて、精一杯苦しんで、今、彼女は彼の命に向き合っている。

 

 彼女にとっては、この星よりも重い一つの命に、向き合っていた。

 

「センセーがあの日言ってくれたこと、嬉しかったよ。

 ボクのしたいようにすればいいって。

 夢に殉じて死んでもいいんだって。

 ボクの願いを尊重してくれて嬉しかった。だから、ね。

 ボクも言うよ。センセーの好きなようにすればいい、って。センセーの人生だから」

 

「! お嬢さん……」

 

「その上で祈るんだ。センセーに、命を賭けて挑んで、生きるための挑戦してほしいなって」

 

「わたしにそう望めばいい。きみの望むことなら、わたしは全力で叶えたいと思うから」

 

「ううん。

 センセーの命だもん。

 ボクがそんなこと望めないし、約束もしてもらえない。

 だって、センセーの『気持ち』を人質に取ってるみたいじゃない?」

 

「……それは、確かにそうかもしれないけど」

 

 マックイーンが言う通り、難病から奇跡の回復を迎えるのに、患者本人の心の力が必要であるのなら、必要なのは少年の心の変革、そして成長である。

 少女が"1%に挑戦してくれ"と願い、少年の生きようとする意思が強まらないまま、少女への恋愛感情だけを理由に頷いたなら、きっとその1%が成功することはないだろう。

 

「これはそうあってほしいな、っていうお祈り。

 センセーが救われる方にいってほしいな、っていうお祈り。

 だからね、決めたんだ。ずっと考えてた。でも、ボクはこれしか知らないから」

 

「お嬢さん……?」

 

 少女の手が、ぎゅっと少年の手を握る。

 

 握った手から伝わる体温は、とても暖かく、優しかった。

 

「ボクはセンセーに何もお願いしないよ。

 センセーも、ボクに何も約束しなくていい。

 ボクはその日、挑戦するんだ。

 そして奇跡を起こしてみせる。

 それを見ててほしいんだ。

 その上で、センセーが信じられたものを……センセーの意思で、選んでほしい」

 

「きみは……わたしに、なにを信じさせたいんだい?」

 

「ボクを」

 

「きみを?」

 

「うん。だから見に来て。

 ボクはやっぱり、ウマ娘だから。

 今言いたいこと、全然センセーに伝わってないと思う。

 センセーの絵、ボクの走り……それだけが伝えるものって、きっとあるから」

 

 そうして、彼らは。

 

 運命の日を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ての絵の、全ての彼女が、煌めいていた。

 全ての絵の彼女が、あの少年を惚れさせる魅力に満ちていた。

 だから。

 それらの絵に並ぶ自分に戻ってようやく少女は、それらの絵に描かれていた魅力、強さ、輝き、そして―――『彼女を彼女たらしめるもの』を失っていた自分に気付いたのである。

 

 それは、『諦めないこと』。

 

 諦めないことは、諦めないことでしかない。

 そこに本来、奇跡の力は宿っていない。

 諦めない者に運命の加護があるのなら、SNSの荒らしはそのほとんどが勝っているだろう。

 

 諦めないことが奇跡に繋がる。

 されど、諦めないことの全てが奇跡には繋がっていない。

 諦めなかった者のほとんどは、諦めなかっただけの敗北者である。

 彼らは口々に言う。「早めに見切りつけとけばよかった」と。

 諦めなかった者の大半は、諦めなかったことを後悔し、以後諦めが早くなる。

 "諦めない"とは、所詮その程度のものだ。

 

 諦めないことが、奇跡に繋がることも、繋がらないこともある。

 

 その差異はどこにあるのか。

 

 その答えはどこにあるのか。

 

 誰も知らない。

 

 誰もが知りたがっている。

 

 奇跡の帝王と呼ばれた者すら、それを知らないまま、今に至っている。

 

 その少女が知っていることは、たったひとつだけ。

 

 彼が描いた全ての絵の、全ての彼女が煌めいていた理由―――絵の中の青いウマ娘、不死鳥のウマ娘、その全ては、『諦めない心』を宿していた。

 

 彼が愛した自分は、諦めない自分なのだと、奇跡の帝王は知り、その双眸を見開いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、準備できたから説明するね、センセー」

 

「いつもボクらが見てた、このレース場」

 

「実はボクさ、ここのレコード持ってるんだよね。歴史上一番速いってこと」

 

「ボクが一番強かった時。

 一番速かった時。

 一番調子が良かった日に。

 一番場が良かった日に、取ったんだ」

 

「足を四回折っちゃったボクは、あの頃のボクには遠く及ばない。単純に遅いからね」

 

「挑戦したところでこのレコードの更新もできない。昔のボクの方がずっと速いから」

 

「でも……もし、それができたらさ」

 

「1%なんて目じゃない、とびっきりの奇跡だと思わない?」

 

「過去にあったどんな奇跡より、すごい奇跡だと思わない?」

 

「心と意思で、奇跡を起こせるんだって、センセーが思う理由にできない?」

 

「見てて、センセー。ボクはこれから、一人で走って、絶対の不可能に挑む」

 

「正直言って、レコード記録更新なんて出来る気は全然してないよ」

 

「他のウマ娘と一緒に走ってる時の方がウマ娘は速い、なんて言うしね」

 

「でも」

 

「センセーに、『奇跡はあるんだ』って、信じさせたいんだ」

 

「ボクが勝ったら、センセーに何かしてって言いたいわけじゃないんだ。何もしなくてもいい」

 

「ただ、ボクは」

 

「センセーに、信じてほしいんだ。ボクを。奇跡を。……もっと、素敵なものも」

 

 

 

 

 

 もしも運命というものがあり、もしもそれに意思があり、もしもそれに口があるのなら、それはずっと少女に対して囁いているだろう。

 

『運命は不動』

『結末は不動』

『お前は運命をなぞる』

『決められた敗北、挫折、絶望をなぞり、決められた勝利を果たせ』

『決められた勝利のための、奇跡を起こすための努力を当然に積み上げろ』

『そして、なぞれ』

『定められた通りに勝て。如何なる強敵も、お前の前では定められた通りに負ける』

『そして、四度目の骨折を経て、引退レースを決めるも、勝負さえできずに引退する』

『それまでは、定められた勝負の中で、お前は勝ち続ける』

 

『必ず、きっと、そうなる』

 

 

 

 "ウマ娘"。

 彼女たちは走るために生まれてきた。

 時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。

 それが、彼女達の運命。

 この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない。

 

 刻まれた運命の名は『奇跡の帝王』。

 

 その名は三度目の骨折の後の奇跡を保証し、奇跡の後、やがて来たる終わりを保証する。

 

 四度目の骨折は既に迎えた。この後に彼女に保証された奇跡はない。

 

 少年の運命が悲劇を望み、少女の運命が終わりを望んでいる。

 

 抗うことをやめたなら、笑って終わることさえも、きっとできない。

 

 

 

 

 

 少年が病院を抜け出した日から、数日が経過していた。

 

 今、少女が不可能に挑もうとするその姿を、僅か数人が見つめている。

 

「貴女が勝負服を着るの、久しぶりに見た気がしますわ」

 

 マックイーンの落ち着いた声が、今日は何故か乾いて聞こえる。

 

「GIでもなんでもないけど、ボクはセンセーの青いウマ娘だからね。ちゃんと着ないと」

 

 少女は可愛らしく笑い、青の勝負服を見事に着こなしている。

 少女はその腕周りに巻かれていた青いスカーフを外し、マックイーンに手渡した。

 

「マックイーン、これ預かってて」

 

「これは……」

 

「センセーの気持ちがボクについてたら、あっさり過去のボクに勝っちゃうから。

 それだとズルだからね。ちゃんとボク一人の力で、過去のボクに勝たないとさ」

 

「……ふふっ、言いますわね。分かりましたわ」

 

 軽口か、虚勢か。

 いずれにせよ、少女が緊張していないことは確かであるようだ。

 落ち着き払った少女の姿に、マックイーンは内心ホッとしていた。

 受け取った青いスカーフ『馬と不死鳥』を握り締め。

 

「知っていますか? 青いウマ娘を描いたマルクが、絵の裏に何を書いたのか」

 

「へ? 絵の裏? なんか書いてたの?」

 

「『存在するものは全て燃えるように苦悩している』と……そう書いてあったらしいですわ」

 

「……」

 

「胸を張って行きなさい。苦悩する彼を救える青いウマ娘は、一人しか居ないようですから」

 

「うん!」

 

 マックイーンから離れて少女は、心配そうに、苦しそうに、少女を見つめていた少年の横に移動して、そこでストレッチを始めた。

 

「ボクが思うに、くらいの話なんだけどさ。

 美しいウマ娘ってマックイーンみたいな走りをする子のことを言うと思うんだよね」

 

 明るい笑みで話しかけてくる少女に、少年は返す言葉を持たない。

 

「たまにファンに言われた。

 ずっとセンセーに言われてた。

 『君は美しいウマ娘だ』って。

 皆に言われたら嬉しいよ。

 センセーに言われたらもっと嬉しかった。

 だから頑張ってたんだ。

 でもね……ボクはどっちかというと、泥臭いウマ娘だったと思うんだ」

 

 少女にとってメジロマックイーンとは、とても綺麗で、穢れ無く飛ぶ白鳥であり、水面下で足をばたつかせつづけ、水面上で優雅な姿を見せる、そんな"綺麗の極み"だった。

 

「マックイーンが泥もつかず天まで昇るなら、ボクは泥にまみれながら地の果てまで走ってた」

 

 頑張るがゆえに美しく、諦めないがゆえに美しく、反吐を吐きながらでも走り続け、速くなろうとするからこそ、マックイーンは綺麗で美しい。

 

 逆に、芸術の世界でたまにある"若さと美しさを持ったまま自殺した美女"を『綺麗な終わり』と扱うような、終わりを静かに受け入れることを綺麗・美しいと表現するものが、少女にはどうにも肌に合わなかった。

 

「綺麗な終わり。

 綺麗な別れ。

 綺麗な死。

 いいと思うよ、そういうのも。

 否定できないもん。

 ボクもそれに納得しようとしてた。

 でもね。……『それは本当に貴女らしい選択なのか』って、ライバルの目が言ってたんだ」

 

 だから。後者を受け入れかけていた少女は、前者のマックイーンに省みさせられたのだ。

 

「気付いたんだ。センセー。そうじゃなくてボクは……君に、勝ってほしいんだ」

 

 そして、本当の願いに行き着いた。

 

「何があっても。

 どんなに恐ろしい病気が敵でも。

 絶望的に不可能であっても。

 芸術的に死ぬんじゃなくて……病気にも勝って、生きて、ずっと一緒に居てほしいんだよ!」

 

 美しい終わりではなく。生を勝ち取る勝利こそが、少女の望んだもの。

 

「勝手なこと言ってるのは分かってるんだ。

 先生に強いることができないのも分かってる。

 でも、ようやく分かった。

 分かったんだよ。

 ボクが引退しようとした時の皆の気持ちが。

 『諦めないでくれ』って。

 『また勝ってくれ』って。

 そうボクに対して叫んでくれた、皆の気持ちが、ようやく分かったんだ」

 

 "これで終わりなんて嫌だ"と、人は叫ぶ。

 

 少女が引退宣言をした時に叫んだ人々も、彼の死を前にして叫んだ少女も、根底は同じ。

 

「ボクは、君に、勝ってほしいんだ。勝利のその先に、生きる未来に行ってほしいから!」

 

 誰よりも応援され、誰よりも勝利を願われた少女が。

 今、誰よりも強く彼を応援し、彼の勝利を願っている。

 誰かに応援されながら走ってきた少女が、誰かを応援するために走ろうとしている。

 

「だけど、お嬢さん。

 わたしは君の足に触れて理解している。きみの足はもう全力では走れない」

 

「―――」

 

「クッキーでできた足に等しい。ゴールまで辿り着けるかどうかすら怪しいんだ」

 

 その叫びを、叩き潰すのが現実である。

 

「ここでやめよう。

 きみの足は、全力を出した最初の一歩で砕けかねない。

 物理的に走れないんだ。

 わたしは……きみの足が折れるところなんて、見たくない。見たくないんだ」

 

「ありがと、センセー。

 心配してくれるの、すっごく嬉しい。

 でもね……ボクはボクに負けないよ。ボクに勝つ。だからセンセーも、勝ってほしいんだ」

 

「っ、君は……!」

 

 自分との戦い。

 無敵の帝王と無敵の帝王。

 無敵と無敵。

 全盛期の彼女と、壊れ果てた今の彼女。

 自身の勝利を揺るぎなく信じていた頃の少女と、絶対に負けられない今の少女。

 夢を追うために走っていたウマ娘と、明日の希望を夢として与えるために走るウマ娘。

 

 環境はかつてレコードを記録した時よりも悪い。

 地面はやや凸凹で、(ターフ)の慣らしも悪かった。

 土壌に混ぜる山砂の質が変わったのか、弾力も下がってしまっている。

 おまけとばかりに、一時間ほど前に天気予報になかった通り雨。

 総じて、あの日よりずっとスピードの出ない土壌に成り果ててしまっていた。

 

 全てが敵だ。

 世界が敵だ。

 運命が敵だ。

 過去が敵だ。

 自分が敵だ。

 足を折るまで無敗であった帝王が、彼女が生涯で最も速かった時期の帝王が、運命の意地悪により速さを失う前の帝王が、記録の数字として立ちはだかる。

 それは、彼女にとっては過去最大最強の敵であると言えるのかもしれない。

 少女自身が無敵の帝王であるがゆえに、少女は無敵の帝王に勝ったことなどなかった。

 

 少女の目に、幻影が見える。

 それはかつての自分。

 過去にそこを走った自分。

 少女の幻が、それまでの最速を塗り潰して走り切り、仲間達の幻に抱きしめられている。

 最速を超える最速を記録したという奇跡が、かつて彼女の誇りだった。

 

 最速の誇りは、今、最大の敵になる。

 

「ね、センセー。応援してよ」

 

「応援なんてできるものか……いますぐにやめてほしい……」

 

「もー、寂しいなぁ。ま、いっか」

 

 いつも、二人で遠巻きに見ていたこの舞台に。

 

 いつも、二人で眺めて、絵に落とし込んでいたこのレース場に。

 

 今は、二人きりで立っている。

 

「見てて、センセー。見えなくても、見てて。

 君を救えない君の中のボクを、過去のボクの全てを、今此処に居るボクが超える。

 君を救えるだけの奇跡を、ボクが掴める奇跡の全部を、君にあげて……ボクはボクに勝つ」

 

 どんなに奇跡に奇跡を重ねても、越えられない絶対の壁。

 

 あまりにも巨大な不可能が、そこにある。

 

 

 

 

 

 レコード記録用の機械を、マックイーンが操作している。

 公式に記録されるレコードではない。

 ゆえに、時間さえ測れればそれでよかった。

 

「主治医、どう見ますか?」

 

「彼の見解が正しいでしょうね。

 数ヶ月前のテイオー様のカルテを見ました。

 スタートの第一歩で足が折れる可能性もかなり高いと見ています」

 

「……テイオー……」

 

「私は完走できると思っていません。担架の準備はできています」

 

「ええ、お願いしますわ」

 

 メジロ勢は見守る姿勢に入っているが、少女が勝つと信じられているかと言うと、そうでもないというのが現状だった。

 彼らは知っている。

 全盛期の少女の速さを。

 今の彼女の脆さを。

 四度足の同じ部分を折っている少女は、限りなく絶望的な足をしている。

 最初に少年と出会った時、少女がどこか冷めた様子だったのは、この足があったから。

 

 おそらく、ちょっとした喧嘩で他のウマ娘にちょっと蹴られただけでもここは折れ、二度と繋がることはないだろう。

 それほどまでに、四度折った部分は極端に弱くなっていた。

 カルテにそう記されている。

 

「彼女が骨折を軽い怪我に抑えられることを祈るばかりです。

 骨折しないこと、それ自体が難しいでしょう。上手く転倒さえできれば……」

 

「彼女が勝つとは思っていないのですわね」

 

「彼の難病を直せるとも思っておりません。

 ですが無駄になるとも思っていません。

 仮に、救えなかったとしても……

 彼が気力で生きている以上、少しでも長生きさせるためには、心に力が必要ですから」

 

「あら、主治医。策士ですわね。そこに話を持っていきたかったのかしら?」

 

「あくまで、個人の見解としては、死力を尽くして彼の延命に当たりたいと思います」

 

「そう」

 

「ですが、マックイーンお嬢様の意を足蹴にするつもりもありません。

 完治を目指し、全力を尽くします。……私とて、奇跡を信じたい気持ちはあるのです」

 

「感謝しますわ。無茶を言っている自覚はありますから」

 

 マックイーンは少女から受け取った青いスカーフを握り締め、祈るように合わせた両手で挟み、空に祈った。

 マックイーンは、神などというものが居るとは思っていないが、それでも今だけは、何かに祈らずにはいられなかった。

 

「本音を隠したままでいいわけがありませんわ。

 どんな形でも、苦難を二人で乗り越えるならば、お互いのことを全て知らねばなりません」

 

 マックイーンの瞳が、押し潰されそうな不安の中、笑っている青い少女を見やる。

 

「そして、挑まねばなりません。

 逃げることも時には有用。

 しかし、逃げてはならないこともありますわ。

 傷付けないため、傷付かないために生きることは、時に逃げることにもなります」

 

「あのお二人のことですか、マックイーンお嬢様」

 

「もうあの二人が、お互いから逃げることはないでしょう。それが肝要なのですわ」

 

 マックイーンの瞳が、擦り潰されそうな不安の中、少女の無事を祈る少年を見やる。

 

「『闘病』という言葉を生み出したのは、誰なのでしょうね。

 病死を『病に負けた』と言い出したのは、誰なのでしょうね。

 患者の彼らは、戦ったのでしょうか。

 病に勝てるのは患者ではなく、医者だというのに。

 病気に頑張って抗って、医者ではなく患者が、病に"負けた"と言われるのです。

 病気の世界に『無敗の帝王』が生まれるはずもありません。

 どれだけ才能に溢れ努力した豪運の者でも病には負けます。世界は残酷ですわ。それでも」

 

 勝ってほしいと、マックイーンは願う。少女に対しても、少年に対しても。

 

「心在る限り。

 (わたくし)達は。

 "何かに勝って"、胸を張るために生きているのです。

 できる限り傷付かずに負けるために生きているのではない。

 彼らだって……運命に負けるために生まれてきたわけではないと、信じています」

 

 彼らが運命の意地悪さえ、蹴っ飛ばして先に進めることを願って。

 

 確実な未来の展望も、明るい知らせも、希望が持てる話も、何もかも無いまま。

 

 マックイーンは、青いスカーフを握り締め、ただ祈った。

 

 祈ることしかできないから、ただ祈った。

 

 

 

 

 

 発バ機に指で触れ、少女がレース場を眺める。

 

 それだけで、少女の身体がぶるりと震えた。

 

 少女の胸に巣食う、途方も無い恐怖があった。

 常人(つねびと)では想像もできない、折れる恐怖だ。

 普通の人間は、全力で走ることに恐怖など無い。

 しかし、人間より遥かに丈夫な足を桁外れの力で折ったウマ娘は、その恐怖を持ってしまう。

 

 『全力で踏み込んだ瞬間に足が折れた感触』を、覚えている。

 『楽しく気持ちよく走っていたらいきなり足が折れた感触』を、覚えている。

 『折れ、地面を転がり、土にまみれて、激痛が走る足にのたうち回った』のを、覚えている。

 一度でも経験すれば、走るたびに途方も無い恐怖がその身を突き刺していく。

 その恐怖は、猛烈な勢いで沸騰する缶に素手で触れようとする方がまだマシ、というほどだ。

 

 少女の足が折れた回数、実に四度。

 名の知られたウマ娘の中でも、トップクラスの回数である。

 彼女はこの恐怖を誰よりも知っていて、誰よりも骨折の感覚を覚えている。

 

 震える体に心中から鞭を打ち、幻覚の痛みが走り始めた足を、少女は平手で打った。

 

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、ボクは大丈夫……」

 

「お嬢さん」

 

「え、センセー?

 や、やだなーこんなとこまで来て。

 もう走り始めるから離れてた方がいいよ?」

 

「もうやめよう。きみにつらい思いをさせてまで、欲しい物なんてない」

 

「……センセー」

 

「ここで終わりにしよう。きみの足も折れない。それでいいじゃないか」

 

 痛みと恐れが入り混じり、それを勇気で抑え込もうとしていた少女の表情が、少年への感謝と愛情がまぜこぜになった表情へと変わる。

 そして少女は目を閉じ、表情の一切を消し去った。

 少女が閉じた瞳を開くと、そこには凛々しき帝王の表情。

 

 彼の優しさが、少女を強き帝王に引き戻す。

 折れた足は、もうどこも痛みはしなかった。

 

「ね、聞き忘れてたんだけどさ。

 『青いウマ娘』のマルクが最後に描いた『赤い不死鳥』って、どうなったのかな」

 

「どうなった、って。絵の場面のあとにどうなったか、ってことかい?」

 

「うんうん。確か真っ黒な、絶望とか、理不尽とか、そういうのの象徴と戦ってたんだよね」

 

 『青いウマ娘』と、『戦うフォルム』。

 その二つの絵のことだけは、すっかり覚えてしまっていた。

 

「定説的な解釈では、不死鳥が勝ったということになってる。

 勝者を雄々しく凛々しく描くのが絵画の鉄則さ。

 赤き不死鳥は、黒い絶望・恐怖・理不尽に立ち向かい、勝つ。

 絵の黒い塊は酷い現実の象徴であり、最悪の運命そのものだ。

 勝利のその先に何があったかは誰も分からない。マルクはそれを語らなかったから」

 

「絵にすっごく詳しいセンセーでも知らないんだ。不死鳥の勝利の先のお話は」

 

「そうだね。その先の話になると、未来の話になるから」

 

「未来の話……か」

 

 震えも痛みも無くなった少女が、出走の準備を終える。

 

「センセー。これからその先、見せてあげる。だからちゃんと見てて」

 

 そして、走るその前に、少年に微笑んだ。

 

 

 

「大丈夫だよセンセー。君は夢を描けるよ。これからも、ずっと」

 

「―――」

 

 

 

 その微笑みが見えた気がして、けれど幻視であることに気がついて、少年は目を擦る。

 

 少年のこれまでの人生全ての記憶、その大半を、その衝撃が脇に押しやっていく。

 

 幻覚であっても、心が揺れた。

 

「君は夢を描ける。

 ボクは夢を駆ける。

 ……ここで終わらせたくないんだ。何もかも」

 

 少女の勝負服の腰に、彼が描き、マックイーンが入れたお守りが固定されている。

 彼の祈り。"どうか無事で"という祈りが、その腰で揺れている。

 その祈りを塗り潰すほど大きな祈り、少女の祈りが、溢れ出している。

 ただただ、大好きな男の子のためにある、清廉なる祈り。

 

「君は絶対に助かる。

 君は絶対に死なない。

 君は絶対に生きていける。

 大丈夫、奇跡は起こるよ、頑張ってる君の下に。必ず、きっと。絶対に、絶対―――」

 

 かくして。

 

「―――君が信じられる『絶対』は、ボクだ。ボクを信じて、絶対に生きて!」

 

 少女は走り出した。

 

 過去の自分という、最強最悪の敵と共に。

 

 治らない病気という、最強最悪の敵を見据えて。

 

 壊れた体という、最強最悪の敵に裏切られながら。

 

 その人生において、最大最悪のレースに、奇跡の帝王は果敢に挑んだ。

 

 

 

 

 



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24 夢をかける

「人間は醜い。されど人生は美しい」

   ―――アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック


 少し、前のこと。

 

 少年が病院を抜け出し、絵を描きながら言い訳を考えていた頃、マックイーンは彼を拾って、彼が行こうとしていたグラディアトゥールの絵の前まで連れて行くことを約束した。

 誰にも彼の居場所を教えないことも約束し、それでようやくマックイーンは彼を車で運んで行くことを許される。

 マックイーンが対応を間違えれば、彼は約束をすることも、送迎の申し出を受けることもなかったかもしれない。

 

 そのくらい、マックイーンが見つけた時の彼は荒れていた。

 

 死の間際まで追い詰められ、発作で死にかけ、薄皮一枚まで死が迫り。

 なのに「どうすればいいのかわからないけど自分が死んでも彼女を悲しませないように」という願いは未だにまったく実を結んでいない。

 死の恐怖がどんどん大きくなり、どんどん色を濃くして、どんどんその形を明確にしていっているのが、見えない目に見えるかのようだ。

 

 発作を起こして病院に運ばれ、病院でなんとか命を繋ぎ、病院で目覚めた少年は、直前まで眠っていたにもかかわらずまた眠りに落ちた。

 消耗が激しすぎたからだ。

 そして、迫る悪夢を見た。

 死が具現化して襲ってくる夢だ。

 死に捕まってしまう夢だ。

 

『やあ。ようやく捕まえたよ』

 

 そして、恐怖で飛び起きる。

 飛び起きて、けれど発作に体力を削り切られているため、すぐまた気絶するように眠る。

 すぐに、また、死が悪夢となって彼を襲う。

 

『逃げられないよ』

 

 絶叫を噛み殺しながら飛び起きて、また気絶するように眠り。

 そして、また。

 逃げられない、死がやってくる。

 

『逃さないよ』

 

 寝て、飛び起きて、寝て、飛び起きて。

 悪夢の記憶が次の悪夢に塗り潰され、前の悪夢の記憶が消えて、次の悪夢が刻まれて、ふとした時に前の悪夢の記憶が蘇り、また新しい悪夢を見て。

 数時間の内に、数回の悪夢を見たのか、数十回の悪夢を見たのか、少年は自分自身でも分からなくなってきて、ただただ『死が怖い』という感情だけは、微塵も消えずに積み重なっていく。

 

 身体を動かせるようになったらすぐに、這いずるようにベッドから逃げ出した。

 ベッドから、眠りから、悪夢から、死から、逃げ出すように、病院から抜け出した。

 病院から抜け出そうとする間、少年はずっと"もう自分は死ぬまで悪夢しか見ないだろう"という確信に、蝕まれていた。

 死を24時間恐れるあまり悪夢しか見れなくなる人間というものは、実在する。

 

 そんな状態だったから、マックイーンが見つけた時の彼は荒れていた。

 

 油断すると柔らかな口調が抜ける。

 応対に余裕がない。

 会話の速度から緩やかさが失われている。

 言葉の選択もトゲトゲしかった。

 

 マックイーンは自分なりの言葉で彼を諭そうとしたが、あの少女と同じ『彼が優しくする最大の理由』を持たないマックイーンでは、彼の逆鱗に触れるだけだった。

 

「じゃあ、わたしの病気を治してくれよ! 奇跡を起こしてみろよ! できないだろ!」

 

 かの少女がここに居たなら、驚いていただろう。

 彼が彼女の前で、こんな言葉遣いをしたことはない。

 

 いや、きっと、かの少女がここに居たなら、彼はこんな言葉遣いをしなかっただろう。

 どんなに辛くても、苦しくても、彼があの少女の前で、こんな言葉を発するわけがない。

 

「絵を描くことしかできないわたしが!

 どんな絵を描いても治りはしない病気をかかえて!

 それで、なにをすれば、どう生きたらいいのか、そんなもの、分かるわけが、わけが……!」

 

 メジロマックイーンだからこそ果たせる役目が、メジロマックイーンだからこそ自分に吐き出させることができる想いがあった。

 

「希望のある話がきらいなんだ!

 わたしにはないから!

 希望のある話をするのもきらいだ!

 わたしは最後に希望を取り上げられたことしかない!

 希望を語る人もきらいだ!

 わたしと違って、しあわせそうに生きてるから!

 ……それでも、それでも……彼女が希望を語るなら……叶ってほしいと思うんだ……!」

 

 吐き出す想いはまさしく無数。

 その全てをマックイーンは否定せず、反論せず、マックイーンらしく受け止めていった。

 

 奇跡を信じていない少年。

 奇跡が自分に降りかかることだけは無いと信じている少年。

 なのに、少女と出会ったことで、その出会いを奇跡だと思ってしまったことで、自分の中に揺らぎが生まれてしまった少年。

 

 彼は優しい。それは事実だ。

 彼は綺麗なものが好き。それも事実だ。

 彼は素晴らしい人間を尊敬している。それも事実だ。

 友情、希望、信頼、夢、愛。そういったものが彼は大好きだ。それも事実だ。

 

 されど、迫る死と無敵の病魔は、彼の心の柔らかい部分を、少しずつ、少しずつ、削り落としていっている。

 

「……ごめんね。すこしうろたえた」

 

「かまいませんわ。

 それが自然な人間の反応ですもの。

 もっと大いに感情を出して、言いたいことを吐き出し尽くしてもいいんですわよ?」

 

「落ち着いていないといけないんだ。

 じゃないと、まわりの人が不安になる。

 不安にさせたくないんだ。

 わたしが落ち着いて死を受け入れてないと、みんなが不安になってしまうんだ」

 

「……」

 

「わたしの病気のことで、まわりのひとを不安にさせたくないんだ」

 

 人知れず背中側に回し、隠していた拳を、強く握るマックイーン。

 "こんな人をこのまま死なせていいわけがない"という覚悟を、そうして強く固める。

 

「少し、話しませんか? どうせ車の移動中です。手慰みにはなるでしょう」

 

 そして、マックイーンは彼と話し、少年と少女の物語、これまでの経緯、そして問題となる諸事情の詳細を聞き出した。

 

 少女に対する罪悪感で、つい1%の治療法について口を滑らせてしまった時と同じだ。

 余裕こそが、嘘の質を作る。

 余裕を無くした人間に情報を吐かせることなど、造作もない。

 余裕の無い人間は、全体の整合性を取った大嘘などつけないのだから。

 

 少女は、少年がマックイーンに全て話したと聞き、二人の関係や親密さを疑ったが、その実情はまるで正反対。

 少年は全ての余裕を無くしていたから、マックイーンに対し隠し事をすることができなかった、それだけだったのだ。

 

「なぜ、そんなに綺麗に死のうとするのですか?

 もっと情けなく弱音を吐いてもいいのではないでしょうか。

 死にたくないと思ったら、その時にそう言っていいのですよ

 我慢して、彼女のために……テイオーのために優しく微笑むことだけが正解なのですか?」

 

「好きな子に格好悪いところ見せられるわけがないじゃないか」

 

「―――」

 

「口に出さないでおくべきことというのは、あると思うんだ」

 

 マックイーンは話すたびに、彼のどこかを気に入っていった。

 そのたびに、彼がこういう性格になった経緯に同情し、彼の個性に好感を持ち、そして「それでもこの人は死ぬ」と思うたび、かの少女が今日まで感じてきた絶望を追体験していった。

 

 マックイーンも弱音を吐きたい気分になってきていたが、全員が弱音を吐く状態になっては誰が誰を救えばいいのか分からない。

 "唯一自信満々に堂々としている強い女・メジロマックイーン"を演じ、彼と彼女が救いの道に向かう指針となる。マックイーンは、そう決めていた。

 内心の不安は、努めて悟られないよう努力していく。

 

 彼がこの状態では、彼の方からのアプローチによる解決が望めない。

 マックイーンは彼を見て、そう判断する。

 『彼女に任せるしかない』と、一番肝心な部分をライバルに任せ、彼女の奇跡が彼を救うと信じて、後で彼女にかける発破の形を決めた。

 

 そして、ここで彼にかけるべき言葉を考え始める。

 マックイーンには彼は救えない。

 彼を救えるのは、彼が永遠にしたいと願った帝王の少女、ただ一人。

 それ以外の誰にも彼を救えないということを、マックイーンは半ば確信していた。

 

 けれどそれでも、マックイーンには、マックイーンにしかできないことがある。

 マックイーンにしか言えないことがある。

 奇跡の帝王が彼を救うために、ほんの僅かな一助にしかならないとしても、

 

「一つだけ、(わたくし)から言わせてもらってもよろしいでしょうか?」

 

「なにかな」

 

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「……!」

 

「あなたには絵で何かを伝える才気があります。

 しかし、最後に伝えるべきことを黙っていることは許しませんわ。

 あなたがあなたで、彼女が彼女である限り、あなたにはその想いを口にする義務があります」

 

「……わたしに、テクストの外で頑張れと、そう言うのか」

 

「決めるのはあなたですわ。(わたくし)には強要する権利がありませんもの」

 

 テクストの外は存在しない(il n'ya pas de hors texte)

 

 20世紀、芸術や哲学を中心として行われた大きな思想運動『ポストモダン』に対する一種の批判として、批評家ロラン・バルトらが生み出し確立した概念である。

 主に小説、また絵画や彫刻などの批評に関し、用いられるものだ。

 

 テクストとは、言語・記号・表象が織り交ぜられた『形態』―――すなわち『作品』であり、その外側は無い。そう考える真理的な思想である。

 

 「皆が批判してるから駄作だと思う」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 外野の声は作品の評価に無為である。

 

 「人の数だけ作品の解釈と真実が生まれる」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 観測者の数で作品の本質が変わることはありえない。

 

 「作者の性格がクソだから作品も楽しめなくなった」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 作者などというものは存在しない。

 作品は単品で評価されなければならない。

 

 「この作品には作者のこういう意図がある」?

 違う、テクストの外には何も無い。

 作者の意図などなく、それを推測することに価値はない。

 作者の意図を好意的に解釈することも、邪推することも邪魔でしかない。

 作品の外側に在る『作者の言いたいこと』などというものを考慮しては、作品自体に存在する『絶対の真』を見逃し、惑わされ、大切なことを見失ってしまう。

 だから、テクストの外と内は分けて考えなければならない。

 

 テクストの外には何も無い。

 

 無かったことにされていいのか。

 

 テクストの外側にある『彼が彼女にまだ伝えていないこと』を、無かったことにしていいのか。

 

 絵に描きこんできた想いの他に、伝えたい想いはないのか。伝えるべき想いはないのか。

 

 彼女のためとのたまって、絵の中に入れ込んでこなかった想いはないのか。

 

 テクストの内だけで伝える何かで―――本当に、後悔はないのか。

 

「……」

 

 テクスト論とは、『作品は作者の心と思想の鑑である』という思想や解釈を一度否定し、芸術を見直すためにある。

 彼が今日までかの少女に見せてきた絵には、彼の『言いたいこと』が確かにある。

 彼はそれをテクストの内に収め、彼女にちゃんと伝えてきた。

 だが、彼が自分の全てをテクストの内に収め、自分の全てを彼女に見せてきたかと言うと、僅かに疑問が残る部分もある。

 

 彼が彼女に隠したかった気持ちも、彼の中にはあるのではないか。

 彼が絵にしてきた気持ちだけが、彼女が目にしてきた彼の気持ちなのではないか。

 彼が隠していて、絵にはしていなくて、だけどあの少女とマックイーンが薄々存在に感づいているような想いが、あるかもしれない。

 

 それをちゃんと大事な人の前で口にしろと、マックイーンは言っている。

 

 目は無くても、言葉があり、絵がある。伝えるならば、全部使って、全力で。

 

(わたくし)はだいぶ身勝手ですわ。

 貴方に随分と押し付けをして、不快な想いをさせる気がします。

 だから貴方に否定されれば、何一つ反論できませんわね。

 "生きろ"という(わたくし)の提案に意味が宿るのは……

 貴方がこの先、生きたいと願い、諦めないことを選んだ時のみ」

 

 人は誰もが影響を与え合う。

 

 少年が少女に、少女が少年に。

 かつては少女がマックイーンに、マックイーンが少女に。

 そして今、あるいはこれから、少年がマックイーンに、マックイーンが少年に。

 影響を与え、その生き方に僅かなりとも変化を生じさせる。

 

(わたくし)はあの子を信じます。

 奇跡を起こすあの子を。

 奇跡を繋ぐあの子を。

 そして……貴方が愛し、貴方が信じ、貴方が心の底で頼りにしている、あの子を」

 

 そして。

 

「貴方の心の叫びが、彼女の背中を押してくれれば……などと、思ってしまいますわね」

 

 マックイーンの願いが、どこに届いたかも分からないまま、青き少女は走り出した。

 

 少女の腰に固定されたお守りを見ながら、マックイーンは空に祈る。

 

 女好きでウマ娘好きの『最後の放蕩王』、エドワード7世。

 その加護をマックイーンは求める。ささやかでもいい。育てたウマ娘の足が折れたかの偉大なる王が、青いウマ娘である彼女の足を、ささやかにでも守ってくれることを願う。

 既に故人である誰かに祈ってまで、強く強く、"報われてほしい"とマックイーンは願う。

 空に祈るマックイーンのその想いは、雲の上の今は亡き偉人に届くのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 右回り芝2000、天候曇り、馬場状態・稍重。部分的に良。

 

 運命の壁は、過去の記憶の姿をとって、少女の前を走っていた。

 

「くっ……!」

 

 幻影が見える。

 過去の自分が。過去の帝王が。過去の最速が。

 確かに見える幻となって、少女の前を走っている。

 

 最強最速、無敵の帝王。

 長い長いウマ娘の歴史の中で、天才が記録を作り、もっと凄まじい天才が記録を塗り替え、新たな天才がまた記録を更新し、その繰り返しで作り上げられる、頂点の記録。

 レコードとは、そういうものだ。

 その時代の最強の指標ではない。

 全時代の最強の指標であるものの一つ。

 レコード更新とはその時代最強のみならず、それまでの過去全てを凌駕した証明であり、過去の少女がそれを記録したということは、過去の少女がそれほど飛び抜けていた事を意味している。

 

 先を走る幻影が速い。

 過去の自分の幻影が速い。

 スタートがそもそも昔の少女の方が上手くこなせており、スタートの時点でつけられた差が、序盤から更に広げられていく。

 

 幻影と実体、二人の帝王の一騎打ち。

 

 されどその速さにおいて、実体は幻影に及ばない。

 

「ぐっ……!」

 

 速さが足りない。

 偶然の通り雨のせいで馬場が悪い。

 僅かに濡れた芝が滑る。

 足の骨が折れる恐怖が、いつまでも少女の足を引っ張っている。

 幻影と少女の差はどんどん、どんどん、広がっていった。

 

「負けるかっ……負けるかぁ……! 昔のボクなんかに、負けるかぁ……!」

 

 スタートからほどなくして、幻影と少女は第一コーナーを迎える。

 歪んだ円の、最初の曲がり角だ。

 先を行く幻影がいい位置取りをしながらコーナーを曲がるのを見ながら、少女は肺が破れる勢いで距離を詰めようとして、ふっ、と、背筋に冷たいものが流れる。

 

 "ここで折れる"、という感覚的恐怖が湧いてきた。

 

 このレース場は右回りだ。

 当然、コーナーでは右に曲がる。

 するとどうなるか。

 遠心力も相まって、左足に大きな負荷がかかるのだ。

 車が右に曲がる時、左側の太く強固なタイヤがぐにゃっと潰れるように、右に曲がる時、ウマ娘の左足にも同様の負荷がかかってしまう。

 ウマ娘は並の車よりずっと速い。

 当然のように、脆い足はそのまま折れる。

 

 一つ不安が芽生えれば、一瞬でいくつもの不安が芽生えてくる。

 少女の優れた目と並外れた思考瞬発力が、コーナー周辺の馬場状態が明確に悪いことに気付いてしまった。

 芝が濡れ、通り雨の排水状態が悪い。

 このままだと良くて想定以上の減速、想定したラインからの逸脱は間違いなく、低確率でそのまま転倒、最悪足に変な力がかかって足がそのまま折れてしまうかもしれない。

 

「ボクは……ボクはっ……!」

 

 その時、ふと。

 何気ないことを、少女は思い出した。

 今思い出しても、何の意味もない記憶を思い出した。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「今はこんなものしかないけど、これですこしお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」

 

「ええっ!? 貰っていいの!? あ、何か頼まれ事か。何してほしいの?」

 

「またどこかでたまたま会った時は、わたしとお話をしてほしいのさ」

 

「……え、そんなことでいいの?」

 

「わたしが見えていない段差をきみに教えてもらったりするかもしれない。必要なことさ」

 

「そのくらいならいいよ! 目が見えない人が一人で歩いてるの、危なっかしいもんね」

 

「ありがとう」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 その瞬間、奇跡のような帝王のステップが、コーナーを駆け抜けた。

 斑のような地面の良悪を、足先が見切って、地面の『踏むのに理想な部分』だけを少女の足が踏み蹴って、滑る部分やぬかるんだ部分の全てをその足がかわしていく。

 

 少女は足元を見ていない。

 足元なんて見ていたら減速してしまう。

 少女は足元を見ないまま、雨が生んだ地面に存在する不可視の斑模様を、最適中の最適によって駆け抜けた。

 

 まるで、隣人に足元に何があるかを教えてもらって、その通りに走った盲目の者のように。

 見えていない段差だろうと、誰かに教えてもらえば上がっていける盲目の者のように。

 あの日、見えないまま少女を守るため走った盲目の少年のように。

 見ないまま走って。

 見ないままに成功した。

 "センセーはいつも見えてないんだ"なんて声が、幻覚で聞こえてきそうなほど、熱い想いの宿る奇跡の不見走法。

 

「ボクは……運命なんかに祈らない! 蹴っ飛ばして! やるんだぁ!」

 

 最適なコーナリングを行った少女は、先を行く幻影との距離を僅かに縮め、その背中を―――かつての自分の背中を追った。

 

 

 

 

 

 マックイーンの命令で、理学療法士が少年の横についている。

 理学療法士が解説してくれるおかげで、少年は今少女がどういう状態なのか、どこを走っているのか、レコードまでどのくらいか、そういったものも把握できていた。

 走る少女の足音を繊細に聞き分けながら、少年はただ祈っていた。

 

 少年は、ずっと祈っていた。

 だがそれは、少女が少年の運命を知った時の祈りとも、今マックイーンが捧げている祈りとも、過去に多くのウマ娘の後ろでトレーナー達が見せていた祈りとも違う。

 勝利を願っているわけでもない。

 報われることを願っているわけでもない。

 その祈りは、少女がとにかく無事に終わってほしいという願いのこもったものだった。

 

「どうか、どうか無事で……足が折れませんように……」

 

 ただ、彼は心配していた。

 

「まだ彼女には未来がある……折れなければ、なんとか……」

 

 ただ、彼は想っていた。

 

「日常生活だってすごせる、普通の女の子としてすごせる、だから、だから」

 

 ただ、彼は願っていた。

 

「わたしは慣れてる。

 ずっと慣れてたんだ。

 報われなくてもいい、慣れてる。

 すぐ死ぬのもいい、ずっとわかってたことだから。

 なにもないことも、希望がないことも、慣れてる。

 わたしは贅沢じゃないし欲しがってるわけでもないんだ、だから」

 

 ただ、彼は祈っていた。

 

「"わたしのために"なんてくだらないもののために、彼女からなにかを奪わないで……!」

 

 ただ、彼は愛していた。

 

「おねがいします……

 わたしからはいくら奪ってもいいから……

 彼女からはもう、なにも奪わないでください……おねがいします……」

 

 ただ、彼はこの時間が何事もなく終わってほしかった。

 

 

 

 

 

 第一コーナーを抜け、第二コーナーに入るまでは、(うね)った坂路だ。

 右に曲がりながら登る坂の道。

 こんなものがレース場の終盤にあれば、ウマ娘の心臓がそこで破裂してしまいそうだと思えるほどの、曲がる坂。

 少女は先を走る幻影を追おうとするが、過去の帝王は無重力かと錯覚するほど軽やかなステップで、坂を凄まじい勢いで駆け上がっていく。

 

「あっ、くっ!」

 

 この時、過去の彼女はがっつりと逃げに入った先頭を追いかけていた。

 先頭のウマ娘はレースの途中で死んでもいいという勢いでガンガンスパートをかける、スプリンター寄りの中距離ウマ娘であったが、過去の少女はその後に悠々ついていっていた。

 途中までそのウマ娘に"引いてもらっていた"からこそ、その日の少女はレコードを更新できたとさえ言えるだろう。

 だから、速い。

 この坂でも幻影が速い。

 速い奴の後ろにぴったりくっついているから、とても速く、とても熱い。

 "負けるか"という熱意を、幻影が途方も無い規模で発している。

 

 熱意に溢れた幻影に、振り落とされる予感があった。

 少女は歯を食いしばってついていこうとするが、熱が足りない。

 過去の熱に、置いていかれる。

 全力を出しているから足が折れそうだという感覚が、今の少女から酷く熱を削いでいる。

 そう、不安になった少女の脳裏に。

 

「ボクは!」

 

 特に理由もなく、特に何かの参考になるわけでもない、なんでもない日々の記憶が蘇る。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「夢はどう見ればいいものだったかな。わたしはもう、その方法を思い出せない」

 

「……」

 

「すまないね。優しいきみに気を使わせてしまっている。気にしないでいいんだよ」

 

「気にするよ。だってもうボクら、友達じゃん」

 

「……友達。友達か。ははは。嬉しいな……本当に、嬉しいなぁ。わたしもそう思ってるよ」

 

「うん。だからさ、ボクは友達が元気満々になる方法を勝手に考えちゃうだけなんだよ」

 

「ああ……そうか。きみはやっぱり、まぶしいな」

 

「ほらー、もっと熱くなれー! 元気になるんだよセンセー! 夢見ちゃおうっ!」

 

「はははっ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 "センセーにそう言ってたボクが、そうじゃなくてどうするんだ"と、想いが沸騰する。

 熱が足に伝わる。

 恐れず、熱を込めた足を踏み切る。

 そうして少女は、うねりの坂で加速した。

 

「ボクがぁ! センセーが、唯一夢を見た、ウマ娘なんだぁ!!」

 

 大差がつくはずだった流れが、失せる。

 つくはずだった差が、止まる。

 ほんの少し幻影と少女の差が縮まったが、また差が開いていく。

 

 息の代わりに血を吐き出すような、命を絞り出し走るウマ娘の叫びが、芝を揺らした。

 

 

 

 

 

 少女の走りを見て、マックイーンは祈りながらも、困惑していた。

 

「おかしいですわ」

 

 レコード記録の過去の彼女には及ばない。

 少女が見ている幻覚と少女の間には、かなりの大差がある。

 記録数値を見ているマックイーンの視点からも、それは明白だ。

 少女は過去の自分に及ばない今の自分に歯ぎしりし、もっと速く、もっと速くと自分を叱咤しているが、マックイーンは『遅い』だなどとは思っていなかった。

 

「何故……何故こんな、『速い』んですの……?」

 

 あの少女も、マックイーンも、既に再起不能と判断されるほどに足を壊したウマ娘である。

 あの少女は、足を四度折った。

 マックイーンは、ウマ娘にとって不治の病と言える繋靭帯炎を発症した。

 両者共に、かつてのようには走れないと太鼓判を押されている。

 少年が助からないと太鼓判を押されたのと、同じように。

 

 なのに、速い。

 過去の帝王には及ばないにしても、十分すぎるほど速い。

 そもそも、振り落とされずにいい勝負になっているという時点でおかしいのだ。

 四度折れた足でその速さが出るわけがないのだから。

 

 少年が使った比喩を引用するのであれば、今あの青いウマ娘は、クッキーの足で車と同じ速度を出している。

 足が壊れず走っている今が、あまりにもありえない。

 

 気合いだとか、想いの力だとか、そういうのもあるのだろうが、それだけではない。

 それだけでは『速さ』は生まれない。

 物理的な何かがあるはずだ。

 そうでなければ、ここまで過去の自分に食らいつくことなどできはしない。

 

「足も折れる気配がない……骨に、いえ、体に? 一体何が」

 

「2017年には、

 『医者と患者の関係が良好であると症状が有意に改善しやすくなる』

 という腰部骨格の研究結果があったそうですよ、マックイーンお嬢様」

 

「絆の力とでも言うつもり? (わたくし)もそういうのは嫌いではありませんが……」

 

「はい、理屈に合いませんな。これは一体どういうことなのか」

 

 何か、おかしな空気の中、少女は一人走っている。

 

 その姿を応援したいと思うのが、人情というものだろう。

 

 だが、記録機械の時間表示を見て、マックイーンは眉を顰める。

 

「それでも、レコードにはまだ届かない。テイオー……」

 

 走っているのに足が折れていない奇跡。

 四度折れた足で最強最速の過去に少し劣る程度の速さを出している奇跡。

 状態の悪いレース場で、状態最高時の記録に迫るという奇跡。

 少女は既に三つの奇跡を起こしている。

 なのに、まだ足りない。

 

 『かつて最強と呼ばれたウマ娘』に勝つには、奇跡が三つ程度ではあまりにも足りない。

 

 最強無敵の帝王は、追い縋るには速すぎる。

 

 

 

 

 

 第二コーナーを抜けると、そこで急な上り坂は終わる。

 その先に待つのは、第二コーナーと第三コーナーを繋ぐ直線だ。

 軽微な上りになっているこの直線でこそ、身体能力差が如実に現れる。

 能力差ではない。

 身体能力差だ。

 思う存分加速できる直線でこそ、生来の資質、才能の最高速が試される。

 

 そして。

 最強最速の時代の帝王と、足を四度折った帝王では、そこに雲泥の差が生まれてしまう。

 この直線に、その差を埋める小細工の余地はない。

 

「はぁっ……ハァッ……はぁっ……あああああああ!!」

 

 少女は全力で疾走するが、徐々に、徐々に、差が開いていく。

 これまでは坂、コーナーと、ある程度"最高速を出せない理由"があった。

 しかしここは違う。

 ここは単純な直線だ。

 幻影は万全な体で、規格外の最高速を発揮できる。

 過去に走った時も、この直線で先頭のウマ娘を追い越して、そのままの勢いでノリノリに加速して、そのまま一着。そうして彼女はレコードを取ったのである。

 

 追いつけやしない。

 差は開いていく。

 運命の具現たる幻影が走る。

 運命に挑む少女は追いつけない。

 

 現実が、少女の想いを叩き潰しにやってくる。

 

 運命が、『お前の最後の奇跡は終わっている。この先はない』と囁いている。

 

 現実が、運命が、世界が、誰も少女の味方をしない。至極妥当に、夢が終わる。

 

「はぁ、はぁっ、ハッ、ハッ、うっ、あっ、くあああああああああっ!!!」

 

 そんな中。

 思い出が蘇る。

 そして、少女は気付いた。

 なんともなしに気付いて、ふんわりと笑った。

 

 その思い出には何の力もないけれど、ただの記憶には何の力もないけれど。

 

 それを覚えている彼女が、それを心に宿す限り―――どこかから湧いてくる、力があった。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「でも、お嬢さんなら犬より猫だろうね」

 

「猫~? なんで~?」

 

「気まぐれ。

 自由。

 少し生意気なこともするね。

 それと気位が高いところもある。

 勝負事になると負けん気が良い方向に作用するタイプだ」

 

「へー……あー、うん、そうかも」

 

「きみが犬に感じられるのは……

 一途だから。

 まっすぐだから。

 『好き』を曲げないから。

 きみのそういうところをちゃんと見てくれている人は犬に見えるんだと思う」

 

「ああ……そっか、そういう感じなんだ」

 

「きみに好かれた人は安心するだろうね。

 きみは犬みたいなところがあるから。

 きみの忠実と言えるほどの好意を疑う人はいないだろう。

 きみを好きになった人は大変だろうね。

 きみは猫みたいなところがあるから。

 きみは自分が好きになったものしか追いかけないから、自由なきみを追いかけるのは大変だ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 特に、意味も無いけれど。

 

 目の前の幻影を追いかける気分をやめて、どこかに行ってしまいそうな彼を追いかける気分に、少女は気持ちを切り替えた。

 

 ふつふつと少女の胸に湧き上がる思いが、足に乗っていく。

 どこに行っても追いかける。

 死後の世界になんて行かせない。

 彼を幸せになれない世界になんて行かせない。

 死が彼を連れて行こうとしても、絶対に追いつく。

 絶対に連れ戻す。

 絶対に、絶対に、絶対に。置き去りになんて、させない。

 

 『センセーが死んで後に残される女の子が泣くことを、先生が嫌がる』のなら。

 『センセーを行かせない、センセーに追いつく、センセーを一人にしない』。

 そうする。

 そうしたい。

 少女は、素直な気持ちでそう思う。

 

 追いかけて、追いついて、一人にさせない。

 そう思い、そう願い、そう誓う。

 想いが、足の動きを変えていく。

 

「好きになったから追いかけてるよ、センセー」

 

 そうしたら、何故か、少女の足は、限界を超えて動くようになった。

 

 『心境の変化が走りに出る』―――ウマ娘にはよくあることである。

 それで速くなることも、遅くなることも、特定の時期に無双することも、スランプになって勝てなくなることも珍しくはない。

 だが、"これ"は凡百のそれとはわけが違うものだった。

 

 今、ここで。『四度折った後に何かがあった足』への、走りの最適化が完了した。

 

 歯車が噛み合うように、微細な調整が完了された足が、最強最速を超える速度で動き出す。

 

 少女の背中に隠していた爆弾でも、爆発したのか―――そう錯覚してしまうほどに急激に、幻影の背中を追いかける少女が、加速した。

 

「センセーのっ」

 

 差が縮まる。

 最初は僅かに。

 次に少しずつ。

 直線が終わる直前で、劇的に。

 

 最強最速の帝王が、走れない体になっていたはずの帝王に、追いつかれていく。

 

「センセーのことも知らない過去のボクなんかにぃ―――」

 

 その理由を。

 

「―――負ぁけぇるぅかぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 

 語るのは、無粋かもしれない。

 

 あまりにも無茶苦茶な、運命という言葉の対極にありそうな、ありえないの上にありえないを重ねたような、ありえない疾走。

 

 それを見て、マックイーンが、メジロ家の人間達が、物語の中心である少年が、揃って心底驚愕し、各々の声を漏らした。

 

 

 

 

 

 その時、ふと、少年が漏らした、何気ない一言が。

 

「……ああ。そうだ、これだ。お嬢さんの足音が……一番きれいで、すてきなんだ」

 

 "センセーには最高にかっこいいボクを見てほしい"という気持ちを呼び覚まし―――少女は更に加速した。

 

 医学の常識の全てを、折れたはずの足で踏み潰しながら。

 

 

 

 

 

 マックイーンは目を擦る。

 目の前の現実が信じられなかった。

 マックイーンは彼女を信じていた。奇跡を起こすと信じていた。

 しかし実際に奇跡を起こされると、もはや自分の目を疑うことしかできない。

 少女が加速し、レコードラインを超えるまで、あと少し。

 

(わたくし)は……夢を見ていますの? それとも、これが本当に、現実?」

 

「思い出しました、マックイーンお嬢様」

 

「何を? 今この状況を説明できる何かですの?」

 

「はい。骨延長デバイスの特許などで知られるDr.カルメスの狂気の研究があります」

 

「狂気の研究……?」

 

「Dr.カルメスは背骨の骨折を数え切れないほど治してきた医師でした。

 そしてDr.カルメスは狂気の判断を選択しました。

 背骨の圧迫骨折等、整形手術が必要な患者130名に対し、何もしなかったのです」

 

「!」

 

「そして、彼らに『手術は行った』と説明した。

 結果、何もされなかった患者も手術を受けた患者同様の回復を見せたそうです。

 手術をされたと思った。だから治った。

 以前、同様に背骨を折り手術を受けた経験がある患者も、この偽手術を受けていたとか。

 しかしその患者・アンダーソン氏も、偽手術であったことに完治するまで気付かなかったと」

 

「……()()()()()()()()()()()、ということですの?」

 

「はい。そういうことでございます」

 

 少女の損傷は筋や神経ではない。骨格だ。

 かつて観測された事例の通りに、手術が必要なレベルの損傷すら精神状態で回復するというのであれば、四度の骨折の悪影響を踏み倒すこともあるのかもしれない。

 ただし、あくまで理論上の話だ。

 

 足を四度折った後に、精神の力でそのマイナスを打ち消したウマ娘など、人類の歴史上、ただの一人も存在しない。

 存在しない。

 存在しない、はずだった。

 

 ならば今、足が折れもせず平然と走っている奇跡の帝王を、他にどう説明するというのか。

 

「ありえますの? そこまでの希少例が、ここにたまたま実現するなど」

 

「私は今、合点がいきました。点と点が線で繋がった気分です。マックイーンお嬢様」

 

「一体何の話?」

 

「展覧会の前の週、申し上げたはずです。

 マックイーンお嬢様の治りが予想よりも遥かに早く、精神的によい作用があったのでは、と」

 

「……? ……あっ」

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「足、よくなったんだ。よかったね」

 

「ええ、おかげさまで。

 医者からは精神的によい作用があったのでは、と。

 それでもレース復帰はするなと言われていますわ。

 まったく、こんなに生は上手くいかないというのに。

 神、そらに知ろしめす、すべて世は事も無し。ですわね」

 

「もっとよくなることを願ってるよ」

 

「ありがとうございます。嬉しく思いますわ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

「貴女が生き証人なのです。

 マックイーンお嬢様。

 貴女こそが、彼の絵がウマ娘に与える影響を示す第一例、あるいは第二例」

 

(わたくし)が……なんとも、まあ……」

 

「特異な精神的影響を、テイオー様に与え続けたものがあるはずです」

 

「彼の存在。いえ、彼の絵……ですわね」

 

「はい。

 無論、芸術が全てそんな影響を生むわけではありません。

 そうであれば、医者など要りません。

 絵画鑑賞趣味がある者は全て万事健康でなければなりません」

 

「そう、ですわね」

 

「固有の精神状態が必要なのです。その症状に有効な、固有の精神状態が」

 

 主治医は苦しそうにしながら、医学から外れた疑似科学じみた現象に、なんとかまっとうな知識から理屈をつけようとする。

 

「彼の絵はウマ娘からの人気は数年前から高かったと聞きます。

 そうであれば、数年前から話題になっていなければおかしい。

 画風が変わったことが絵の力を変質させたのでしょう。

 同時に、彼自身が治療効果を持っている可能性も否定できます。

 劇的に変わったのは彼の絵だけのはずですから。

 彼の絵にこそ特異な力が宿っている、と、すれば。

 "彼女のための絵"……そういう気持ちで描いていたものが……真実その力を……?」

 

 彼だけが描く透明な絵でなければならなかった。

 そこに、彼女だけが影響を与えていなければならなかった。

 二人で作り上げる絵でなければならなかった。

 それこそが、『ウマ娘の怪我に対して劇的な治癒効果をもたらす』精神状態を作り上げる、奇跡の画風へと到達した。

 で、あるならば。

 

「だとすれば……彼の絵の効果に隠された、誰もが気付かなかった本質、それは……」

 

 今、ここで。

 

 存在を証明されようとしている奇跡は。

 

 一つではない。

 

 

 

 

「皆自分勝手だったんだよ。

 ボクの引退ライブ、あの時……

 『引退がいいよね』なんて誰も言わなかった。

 『その方が君のためだ』なんて皆言わなかった。

 皆、勝手なこと言ってたよ。

 『君に引退しないでほしくない』とか。

 『寂しい』とか。

 『奇跡は起こります』とか。

 そんなことばっかり、自分の願いばっかり、全力で言ってた」

 

「今、分かった。

 言う側になってようやく分かったんだ。

 皆ずっとボクに言いたかったんだ。

 ずっとボクに我儘を言いたかったんだ。

 でも言えなかった。

 それを言ってもし何もかも失敗したらどうなるかって、皆分かってたから」

 

「ボクのことを想ってくれてたから、言えないことがあって。

 それでも、ボクと見たい未来があったから、ボクにわがまま言ってて。

 ボクのことを想いながら、ボクに『そうあってほしい』っていう、夢を語ってた」

 

「ボクが奇跡を起こせたのは、あの人達の気持ちがあったから。

 皆、ボクのことをちゃんと考えてくれてた。

 皆、ボクに夢を見てくれてた。

 ボクは、皆に夢を見せたかった。

 ボクは、皆の期待に応えたかった。

 諦めて終わりたくなくて……この夢を頂に届けるために、諦めたくなかったんだ」

 

「この夢を……この夢を! 終わらせないために! 頂に届けるために!」

 

「夢をかけるみんなために、ボクの足はあるんだ!」

 

「それがボクの夢でもあるから!」

 

「絶対に、叶えてみせる!

 この夢を! 今見てる夢を!

 破れるための夢じゃない、絶対に叶う夢を!

 ボクが見て、ボクがボクを見てる人に見せる夢を!

 ボクも、ボクを見てる人も、叶ってほしいと願う夢を!

 一緒に生きて、笑い合える未来(あす)を生きる夢を!」

 

「どんな奇跡にも繋がる奇跡を、夢見て、叶えるんだ!」

 

「一緒に行こう! 皆で行こう! 迷わないで! ボク達で! 止まらずに行こう!」

 

「誰も知らない明日へ!」

 

 

 

 

 

 第三コーナーを抜けて、下り坂を一直線。

 ここを越え、第四コーナーを越えれば、ラスト400mの直線。

 そして、ゴールだ。

 

 もはや幻影と実体は、完全に並走していた。

 奇跡のオンパレードで信じられない速さに到達した少女だが、幻影も同じ少女である。

 終盤の爆発力は、どちらの帝王にも備わっている。

 数多くのウマ娘の心を折ってきたレース終盤の爆発力で、幻影は更に加速する。

 

「うああああああっ!!!」

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「そんな時にね、聞こえたんだよ」

 

「聞こえた? 何が?」

 

「きみが聞こえたんだ」

 

「……ボク?」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 無敵の帝王と無敵の帝王。

 二つの最速は完全に拮抗している。

 いや。

 違う。

 今を生きる帝王の方が、ほんの僅かに、差がつかない程度に、速い。

 

 そこに在る僅かな差は、体になど宿っていない。

 幻影と実体、二人の帝王が持つ、思い出の数の差に在った。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「きみに耳を傾けている間、嫌なことを全部忘れられた。

 死にたいという気持ちも忘れられた。

 "ああ、もっと聞いていたい"って思えた。

 そのくらい、きみから生まれる音は全てがたのしそうで、きれいだったんだ」

 

「ふぇっ」

 

「きっと、きみの周りの人なら皆思ってるよ。

 きみがたのしそうなら、こっちまでたのしくなってくるって。

 きみがはちみつの歌を歌ってるのを聞いてるだけで、ちょっとしあわせになるんだって」

 

「そ、そこまでのことは……ないと思うなぁー……」

 

「あるよ。わたしはそう思う」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 リハビリ期間の長さ、現役から離れて長いという前提、本格的な体力作りをまだ再開していなかったという状況。

 それらが、少女に牙を剥く。

 毎日のようにハードなトレーニングを繰り返している幻影はこの程度ではバテない。

 されど少女はまだリハビリを徐々にこなしている程度の状態で、ハードなトレーニングを日常的にこなしていない分、バテるのが早い。

 

 幻影が、少女より僅かに先行する。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「わたしだって生きたかったさ。

 ほしかったものには手が届かなかった。

 でもだからって同情してほしいわけではないんだ。

 わたしは今、手が届かなかった星とはちがう、別の星に手を伸ばしているから」

 

「……」

 

「わたしはずっと沼ばかり見ていた。

 わたしの足をとらえる、おおきくて深い沼だ。

 きみがわたしに空を見上げさせてくれたんだよ、お嬢さん」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 だが、踏ん張った。

 負けてたまるかと、踏ん張った。

 ふらつきそうな体に鞭を打ち、減速した体を再加速して、幻影に追いつく。

 相手も自分。

 自分も自分。

 どちらも帝王。

 だけど、彼を知らない自分にだけは負けられない。

 それが少女の意地だ。

 

 『彼と出会って弱くなった』だなんて、誰にも言わせない。

 『彼と出会って強くなった』と、胸を張って言うために。

 

 彼と出会った自分は、負けてはならないと、自分に言い聞かせながら走る。

 

 『彼と出会ってから無敗の帝王で在りたい』と、突然に自分の内側に湧いてきた想い、願い、夢であるそれに―――少女は、とても楽しそうに笑った。

 

 彼と出会ってから無敗で居たい、だなんて。なんとも少女趣味な夢だった。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「どうか気に病まないでほしい。わたしが生まれて初めて見た太陽は、きみだったんだ」

 

「あ」

 

「きみはなにも悪くない。きみがわたしを救ってくれたんだ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 第四コーナーを回り切った。

 最後の直線、400m。

 幻影が僅かに先行する。

 ラストの直線、ここの勝負が少女の十八番だ。

 幼く、若く、気が速くて、ちょっとでも早く仕掛けたいという気持ちから、過去の帝王は早めの仕掛けを選択し、幻影もまたそれをなぞる。

 

 少女もぐっと足に力を込める。

 ここが本当のラストスパート。

 ここで勝ったらそれは奇跡。

 負けても妥当、当然のこと。

 そうだとしても。

 他に、負けられない理由、負けたくない理由が多すぎた。

 だから、少女は全力の負けん気でぶつかっていく。

 

 最後の全力を踏み出そうとした、その瞬間。

 

―――わたしには見えない綺麗な世界の中で、ずっと笑っていてくれないか、わたしの太陽さん

 

 かけがえのない思い出が、背中を押してくれた気がした。

 

 

 

 

 

 レコードの記録と今の少女の記録は僅差。

 ほんの少し躓いただけで、ほんの少し気を緩めただけで、ほんの少し足の動きが遅くなっただけで達成不可能なほどのギリギリ。

 少女が見ている幻影と、少女の体は、ほぼ並行している。

 本当に、鼻先ほどの差しかない。

 

 奇跡があった。

 ここまでの全てが奇跡だった。

 奇跡の上に奇跡が重なっていた。

 そして今、数え切れないほどの奇跡が合わさった、最高の奇跡が生まれようとしていた。

 ゴールの瞬間に、それは生まれようとしていた。

 最後の奇跡が起これば、それは生まれる。

 

 いつの間にか、少年の心から、心配などというものはなくなっていた。

 ただただ、少女の記録更新を願っていた。

 少女が過去の自分に勝つことを祈っていた。

 

 過去の自分と戦うレースに魅せられた。それもあるだろう。

 だがそれ以上に、彼は彼女の頑張りに報われてほしかった。

 頑張って走っていた。

 頑張って過去の自分に挑んでいた。

 頑張って限界を超えようとしていた。

 そんな彼女に報われてほしくて、ただそれだけを、少年は祈っていた。

 彼女が報われるゴールが、そこにあってほしかった。

 

 ただ一つの想いが、他の全ての余計な想いを、駆逐していた。

 

 たった一つの想いを込めて、少年は少女の走りを見つめる。

 

「行け」

 

 少年が呟く。

 

 マックイーンも、メジロ家の人間も、少年以外は皆、黙って最後の瞬間を静観していた。

 

「行け」

 

 少年が応援の声を呟くたび、優れた聴力でウマ娘がそれを拾う。

 

 少年が応援の言葉を口にするたび、青いウマ娘は加速する。

 

「行け」

 

 彼が応援してくれているから、誰よりも速く走りたいと、心が先走る。

 最高最速で駆ける心に、体が追いつく。

 幻影の最高速を越え、幻影の先を走り、それでもなお加速する。

 

 風も追い越して。

 音も追い越して。

 光も追い越して。

 誰よりも速く。

 何よりも速く。

 無敗の皇帝、無敗の帝王をも超える、最高の帝王の領域へ。

 

 そして、少年が口を開いて、生まれて初めて、少女の前で大声を上げて。

 

 

 

「行けえええええええ!! "トウカイテイオー"っっっ!!!」

 

 

 

 生まれて初めて、彼に名前を呼ばれたウマ娘が、とても嬉しそうに笑って。

 

 レコードどころではない、世界記録すら飛び越す速度にまで加速して、そこから更に加速して、加速して、加速して―――ゴールイン。

 

 幻影をはるか後方に置き去りにして、青き少女は勝利する。

 

「……ボクの勝ちだぁぁぁ!!!」

 

 少女が浮かべた満面の笑み、天に突き上げたピースサインを見て、メジロマックイーンは人生最高の笑みを浮かべて、拍手した。

 

 少女の声を、マックイーンの拍手を聞いて、少年は微笑み、そして勇気の決断をする。

 

 この奇跡に相応しい自分で居よう、と。少年は、戒めるように己に言った。

 

 

 

 

 

 汗でびしょびしょになった少女を、主治医が見ている。

 今のところ、足に異常はないらしい。

 今回のレースで骨折しなかったということは、もうしばらくは何があっても折れないだろう。

 彼女の足は、ありとあらゆる意味で完治したということだ。

 

「センセー! センセー! これも奇跡にカウントしといて!」

 

「はいはい」

 

 少女はやけに上機嫌で、少年も穏やかな表情ながら同様に上機嫌そうに見える。

 

 少女は勝った。

 運命に勝った。

 1%どころでない不可能の中の不可能に挑み、完璧な勝利を収めてみせた。

 今日彼女が起こした奇跡の数は、もう数えるのがバカらしくなる数になっている。

 

「センセー」

 

「分かってるよ」

 

「……どうするの?」

 

 ひと目で分かるほど緊張した様子で、少女は問いかけた。

 

 彼の答え次第で、全てが決まる。ゆえに緊張しているのだろう。

 

 それを遠くから見て、マックイーンは心底呆れる。

 

 もう、彼が選ぶ答えなど、誰が見ても明らかだろうに。

 

「少し、弱音を聞いてくれるかな?」

 

「! うん、どうぞ」

 

 少年は深呼吸し、"テクストの外"の言葉を紡ぐ。

 

「本当は現実から逃げ出したかった。

 怖くて怖くてしかたなかった。

 今眠れば、次に起きる前に死んじゃうんじゃないかって。

 ベッドに入る度に怖かった。

 朝起きるたびに、かろうじて生きてることにホッとしてたんだ」

 

「……」

 

「きみが救ってくれたんだ。きみと一緒にいる時だけは、怖いのを忘れられたから」

 

「……うん」

 

「生まれた時から光なんて見えなかった。

 死が迫ってきて、もっと濃い闇に呑み込まれた。

 世界も、明日も、希望も、何もかも闇に遮られて見えなかった。

 そんな中、見えた光が、唯一わたしを照らしてくれたのが、きみだったんだ」

 

「うん」

 

「生きていたい。わたしは、生きていたい」

 

「―――! うん、うん!」

 

「きみが居るだけで、この世界は何よりも素晴らしいから。

 きみが笑っているだけで、他にどんなものがあっても、この世界を理想郷だと思えるから」

 

「うん! うん!」

 

 いつの間にか、最初からあったものが消えていた。

 それは『諦観』。

 彼に最初からあったもの。

 二人が出会った時からあったもの。

 二人の物語に、いつもついて回っていたもの。

 

 それが、綺麗サッパリ消えていた。

 

「わたしは……わたしは……この世界に、生きていたいっ……!」

 

「うん! そうだよ! どんなにできそうになくても……生きてよ、センセー!」

 

 心底嬉しそうに少女が笑うものだから、少年もつられて笑ってしまう。

 

「きみが示してくれた道なら、絶対に、信じられる」

 

 笑い合って、口を開いて、同時に言った言葉が、重なった。

 

「絶対は、きみだ」

「絶対は、ボクだ」

 

「……ふふふ」

 

「あははっ」

 

 そして、二人が笑い合うのに合わせたかのように、雲の切れ目から光が差す。

 

「おや……これは……」

 

「昆布の箸!」

 

「ヤコブの梯子ね」

 

 今日はずっと曇っていたはずだ。

 しかし通り雨で馬場が多少荒れたように、今日の天気は大分移ろいやすい。

 妥当な自然の動きと見るか。

 あるいは、"こんなタイミングで二人を照らすように太陽光がピンポイントで差すのは普通に奇跡だろ"と受け取るか。

 見る人によって、だいぶ受け取り方が違いそうな空模様になってきた。

 

「おお……ボクを照らしてる……!」

 

「肌の感触からしてそうみたいだね……これも、奇跡カウントしちゃおうか」

 

「しよしよ!」

 

 雲の切れ間から、本当に細い陽光の線が、少女と少年の居るその場所へと伸びていた。

 

「あーあ、センセーの目が見えてたらなー。

 そしたら今の最高にかっこいいボクが、世界一かっこいい青いウマ娘が見れたのに」

 

「おや、それはなんとも惜しいな。あとで触らせてくれるかい?」

 

「な、なんで!? えっち!」

 

「え、あ、いや、ごめんね。今日を記念して描き残しておこうかなって思って……やめとくね」

 

「あ、ああ、そ、そういうの。こほん。誤解させるセンセーが悪い」

 

「ははは」

 

「もー、軽く流してー。自画自賛だけど、今日のボクは結構かっこいいと思うんだけどなー」

 

「そうだね、こんなに感動させられたんだ、ちょっと見たかったかも」

 

 奇跡は起こる。

 望み奮起する者のもとに。

 必ず、きっと。

 

 

 

 

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 生まれて初めての感覚に、少年は至極戸惑った。

 "見えた"とすら思わなかった。

 "見えた"を彼は知らなかったから。

 ただ、『何か綺麗な一つの色』があると、直感的に理解していた。

 それが『青』と言うのだと、それすら彼は知ることもなく、今日までずっと生きてきた。

 

「え……なんで……目が……」

 

 色彩の無い世界を、かの少年は生きてきた。彼は盲目だったから。

 

 『芸術家になれなかった男』と揶揄されたアドルフ・ヒトラー、及びナチス・ドイツは、各研究家ごとに見解の差異があるものの、大まか皆ナチスに対して「彼らはドイツから色彩を破壊した」と考えられている。

 その時代、ドイツにおける芸術の自由は段階的に殺されていた。

 気に入らない芸術を破壊し、晒し者にし、美術学校は閉鎖されていった。

 

 青い馬/青いウマ娘もまた、センスの欠片もない独裁者に目をつけられた。

 アドルフ・ヒトラーは「青いウマなど存在するわけがないだろう」と断じ、青いウマを退廃芸術と認定し、それを根絶してしまおうとした。

 青いウマ娘の概念は、かつて悪によって滅ぼされる運命にあった。

 

 その時代を、エリック・カールは生きた。

 色彩が殺されていく、モノクロに向かっていく世界。

 センスの無い独裁者によって、芸術がすり潰されていく国。

 「色に乏しい幼少期」と形容された子供時代を、彼は生きた。

 

 そして、エリック・カールは出会ったのだ。

 フランツ・マルクの『青いウマ娘』に。

 色彩が失せていく世界の中で、ただその一枚が、エリック・カールの心を救ったものだった。

 青いウマ娘の絵こそが、彼の人生を変え、彼に画家としての未来を与えたものだった。

 

 色彩の無い世界に生きるエリック・カールを、青いウマ娘こそが救った。

 

 色彩の無い世界に生きる少年を、青いウマ娘は救い、希望を見せた。

 

 そしてエリック・カールが継承し、後の時代に繋いだことで、青いウマ娘も救われた。

 

 悪の迫害により根絶の未来に向かった青いウマ娘を、救われた少年が救い返した。

 

 これまでも。

 

 これからも。

 

 そして、今も。

 

 色彩の無い世界に生きる少年を、青いウマ娘が救う。

 救われた人が、青いウマ娘を苦しめるものから救う。

 

 青いウマ娘ならば、人を救える。

 人ならば、青いウマ娘を救える。

 助け合い、救い合い、愛し合える。

 

 青いウマ娘と、色彩の無い世界に生きる少年というものは、ずっと昔からそうしてきた。

 

「え……見え……」

 

「センセー? センセー? もしかして……見えてる……?」

 

「これ……これが、青……? 初めて見た……これが青なら……青い君が……」

 

 

 

 

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「うそ、センセー、本当に見えてるの……?」

 

「はっ、ははっ、ごめ、ごめん、なんか泣いちゃって、これが、これが世界?」

 

 其は、幾度となく蘇り、立ち向かい、打ち勝つ不死鳥。

 其は、色彩無き世界に苦しむ少年の前に現れ、希望を見せる青きウマ娘。

 其は、彼の太陽。夜明けの青より、夕焼けの赤へと向かう者。

 其は、光。希望の光。此処にある奇跡を、未来の奇跡へと繋ぐもの。

 

「すごい、きれいだ。

 世界が、きれいだ。

 思ってた以上だ。

 きみが、とてもきれいで……ああ、だめだ、言葉にできない」

 

「センセー……よかったね。センセーの嬉しいが、なんか、ボクのことみたいに嬉しい」

 

「ああ。本当に良かった。

 目が見えて最初に見えたのが、きみでよかった。

 生まれて初めて見たものがきみだなんて……これ以上ない幸運だよ」

 

「……あ、あははっ! なんか照れるなー! でもありがとね!」

 

 こほん、と咳払いして、少女は凛々しい表情で少年をまっすぐに見る。

 

 少年も向き合うが、生まれて初めての目と目が合う感覚に、戸惑ってしまう。

 

 見惚れるような美少女が、なんだか楽しそうな顔で、なんだか嬉しそうな顔で、なんだか真面目そうな顔で、凛々しいことしか分からない微笑みで、少年の顔を見つめていた。

 

「ね、センセー」

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「ボクはトウカイテイオー。改めて、初めまして」

 

「……はじめまして」

 

 少女が笑って。

 

「君の名前は?」

 

希望(のぞむ)。希望と書いて、のぞむって読むんだよ」

 

 少年が笑って。

 

「いい名前だね。祝福の名前だ。ライスみたい」

 

 笑い合って。

 

「きみの名前もかわいいよ。ずっとかわいいと思ってた。有名人だからすぐ分かったしね」

 

「えへへ」

 

 少年と少女は、屈託なく笑顔を交換する。

 生まれて初めて、少年は誰かの笑顔を見た。

 生まれて初めて見た笑顔が、彼女のものでよかったと、少年は心の底から思えた。

 他の笑顔を目で見たことがない彼にも、素敵な笑顔だと分かるような笑顔は、きっとそんなに多くはないだろうから。

 

「トウカイテイオーさん」

 

「ちゃんがいいな」

 

「……テイオーちゃん」

 

「うんうん。何?」

 

「ありがとう。本当に……ありがとう」

 

「ふふっ、好きでやったことなのだよ、希望くん!」

 

 初めての色、初めての世界、初めての景色に感動し、少年はぽろぽろと涙を流す。

 笑顔を浮かべながら、涙を流す。

 感謝しながら、涙を流す。

 

 そして、ようやく、互いの名前を呼び合った。

 

 ありったけの、愛を込めて。

 

 『今、そこに在るもの』。

 今日までずっと、アウラは在った。

 彼が創り、彼女が見て、そこにアウラが在った。

 だが、今は違う。

 彼女がただそこに在り、それを彼が見て、そこにアウラが存在する。

 『見えた』という今この瞬間にのみ在る奇跡が、ここに在る。

 

 アウラは奇跡に宿る。

 奇跡は、今そこにしか無いものだから。

 今そこにしかない感動だから。

 

 今、此処にあるものが、彼らの全て。彼らの真実。

 

 彼らの辿り着いた結末だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを、マックイーンと愉快な仲間達が遠巻きに見つめていた。

 

 全員が腕を組み、後方保護者面をしている。

 

「やりましたね、マックイーンお嬢様。……私はこの光景を、一生忘れることはないでしょう」

 

「ええ」

 

 主治医のコメントに、マックイーンはフッと笑った。

 

 そして応援の旗を振るように、テイオーから預かった青いスカーフを、遠くでイチャついているテイオーに向けてぱたぱたと振る。

 

「おめでとう、テイオー。

 恋はダービーと言いますが、貴女一人の独走なら誰にも文句は言わせませんわ」

 

 マックイーンと愉快な仲間達は、レース場の後片付けを初めた。

 レース場を一日貸切というのは、大分無茶である。

 無茶であったが、この演出のためには必要だったとマックイーンも割り切っていた。

 ちゃんと後片付けまでしていかないと、今後無茶を通すのが不可能になってしまう。

 よって後片付けしながら、マックイーンと主治医は"これはなんだったのか"を考え始めた。

 

「まさかとは思いますが、"ピエトレルチーナのピオの奇跡"……?」

 

「主治医。心当たりがあるなら説明なさい」

 

「ピエトレルチーナのピオ。

 通称、ピオ神父。

 多くの人を奇跡で治したと言われる聖人です。

 曰く、ガンを祈りで治し、盲目をも治したとか。

 20世紀後半まで生き、2002年に聖人と認定された、比較的新しい人物です」

 

「胡散臭くありませんこと?」

 

「眼科医の調査では、ピオの影響で治った盲目の少女は、どう治ったか理解不能だったそうで」

 

「……理屈抜きの奇跡。この光景に、それを連想すると? そう言うのですか?」

 

「いえ、私は医師です。

 "奇跡は理解不能"で終わらせることは認められません。

 ゆえに私以外にもそこに合理的な理屈を考えていきました」

 

「たとえばなにかしら?」

 

「たとえば、プラシーボ効果の一種。

 ピオ神父が見せた希望が体に良い影響を与えた、という仮説です。

 プラシーボ効果の仕組みはまだ解明されておりません。

 ここはまだ、医学が足を踏み入れたばかりの部分。

 しかしながら……心に希望を得て治った事例があるというのも、また事実」

 

「心に規格外の希望を与えることで、目の疾患が回復した……?」

 

「だから、この事例はこう言われるのです。『心を救うことで目を治したのでは』と」

 

 其は青の奇跡。

 彼が愛した永遠(しょうじょ)が、彼に返した愛の奇跡。

 全ての医学、全ての常識を覆し、されど前例は存在する、諦めぬ者が起こした奇跡。

 

 

 

 ―――心を救う、永遠の帝王。

 

 

 

 奇跡は少女に微笑んだ。

 諦めなかったその心への報酬だ、と言わんばかりに。

 夢を追い、決して諦めず、自分一人のために走らず、信じたものを最後まで貫き、どんな運命にも負けず、運命を蹴り飛ばした者への、一生懸命への報酬。

 誰よりも奇跡に愛されたウマ娘であることを、少女はその在り方で証明する。

 

「……本当に、尊敬に値しますわね。トウカイテイオー」

 

 永遠のライバル。

 恥ずかしげもなく、マックイーンはそう言える。

 トウカイテイオーというライバルを得られたこと、それが人生最大の幸福であると、マックイーンは迷いなく言えるのだ。

 そんな在り方をするマックイーンに、テイオーも憧れているというのに。

 

「他の人に説明しなければならない時が大変ですわね、これは」

 

「マックイーンお嬢様。全く医学的でない仮説ならば、立てられます」

 

「言ってみなさい。今はなんであれ納得がいく説明が聞きたい気分ですわ」

 

「まず、彼と彼女が出会った。

 そして彼の絵を彼女が見た。

 この時点では彼女の骨への影響などは薄かったはずです。

 初期段階から目に見えて影響が出ていたならリハビリなどで発覚していたはず」

 

「そうですわね」

 

「その絵を見て、まず彼女から彼への感情が生まれたのだと思います。

 彼女の変化により、関係が生まれ……

 二人の繋がりがまずここで生まれた。

 そして彼女の影響で、彼の絵が変化を始めていったと思われます。

 そこからです。

 彼の変化した絵が、彼女の身体を変化させていった。

 身体が変化した彼女が奇跡を起こし、それが彼の身体にも変化を起こした。

 あの二人は、片方が片方を救ったのではなく……

 互いが思い合い、助け合い、変化させ合ったことで、互いの全てを救ったのです」

 

 人の少年の因子と、ウマ娘の少女の因子。

 画家の因子と、アスリートの因子。

 絵で他者を変える因子と、走りで他者を変える因子。

 目無しの因子と、足無しの因子。されどもう夢無しではなく。

 二人の因子が相互に力を与え合って、混ざり合って、継承された想いが、動かないはずの目を、壊れたはずの足を、奇跡の領域まで導いた。

 

 比翼の鳥、連理の枝。そんな表現ですら、きっと過小になってしまうだろう。

 

「まるで、夢を見せられているような話ですわね」

 

「そうです、マックイーンお嬢様。きっと、我々は……」

 

 そう。『テイオーと希望』の物語は――

 

「我々は夢を見せられているのでしょう。あの二人に。そうでなければ、ありえません」

 

 ――『夢を見せる』、物語だった。

 

 夢を見るように、あやふやな可能性に賭けた。

 夢を持つように、危ういほどに高望みをして挑んだ。

 悪夢を見るように、どうしようもないことが積み重なった。

 優しい夢を見るように、優しいものだけが溢れる時間があった。

 望み奮起する者の前に奇跡がやって来てくれることが、まさに夢のようだった。

 

 彼の悪夢は終わっていない。

 死の病はまだ、彼の命を蝕んだままだ。

 まだ本当の戦いは終わっていない。

 

 だが、主治医達は、『こんな奇跡を見せられて"できません"などと言えるものか』……などと言わんばかりに、気力に満ちた仏頂面でマックイーンの前に立っていた。

 

「命じてくださいませ、マックイーンお嬢様。我らは医師として全力を尽くします」

 

「主治医」

 

「1%を100%にしてみせます。必ず、きっと」

 

「……まったく、あの二人に当てられすぎですわよ。ですが……期待して任せますわ」

 

 後片付けを終えて合流に入ったマックイーン御一行だが、マックイーンと主治医達の一団が突然現れたため、テイオーは心底ぎょっとした。

 

「ひええ、なんかお注射持ってる人達が来たぁ!」

 

「主治医です。愛の奇跡を愛の必然に変えろとの、マックイーンお嬢様のご命令です」

 

「マックイーン……」

「マックイーンさん、詩人だね」

 

「それは言ってませんわよ!?」

 

 やんややんやと言っていると、少年が目を擦る頻度が増えてきた。

 視線も周囲の人間の誰かに向いているということがなくなってくる。

 どうやら、奇跡の時間は終わりのようだ。

 テイオーは、少年の視力がまた失われつつあることに気が付いた。

 

「希望くん……」

 

「一時的なものだったみたいだ。でもよかった。

 そのほんの一瞬の奇跡で、たくさんテイオーちゃんのことが見られたから」

 

「……えへへ。なんか、名前呼ばれるの恥ずかしくて、かゆくて、嬉しい感じしない?」

 

「……まあね」

 

 二人してちょっと顔を赤くして、見つめ合って変な笑いでふにゃふにゃしている。

 

 マックイーンは微笑ましいものを見るような顔で見守っていたが、咳払いを一つして、からかい表情と雰囲気を作って、二人に絡んでいった。

 

「仲が良いことで、(わたくし)も少々妬けてしまいますわ」

 

「え!? マックイーン、どっちに!? ちょっとやめてよそういうの!」

 

「独占欲が強いですわねえ」

 

「質問に早く答えるんだよマックイーン! ボクの目を見て!」

 

「独占欲が強い女性と付き合うと将来苦労するらしいですわよ、希望さん」

 

「このくらいかわいいもんじゃないかな?」

 

「……! ほら見てよマックイーン!

 センセ……希望くんはボクにメロメロだからね! 見た!?」

 

「そんなに心配なら名前でも書いておいたらいかがですか? はい、マジックペンですわ」

 

「お、いいね! ボクの名前~、どこに書こっかな~」

 

「わたしが服で隠せるところにしてね……」

 

 希望が困惑しながら、なんだかんだ抵抗しない。

 希望が抵抗しないことを分かっていて、テイオーが自分の名前を書き込んでいく。

 水性ではなく油性ペンを意図的に渡したマックイーンが、愉快そうに笑っている。

 主治医達が車を此方に回して来ながら、こっそり微笑んでいるように見えたのは、気のせいなのか、そうでないのか。

 

「ね、希望くん」

 

「なんだい?」

 

「永遠なんて無いかもしれないけど、死ぬまで一緒に居ようよ。ボク、そういうのがいいな」

 

「……ああ、そうだね」

 

 こっそりと、二人は手を繋ぎ、指を絡める。

 "もう離さない"と、絡めた指が想いを伝える。

 もうきっと大丈夫だと、何もかもに対して、そう思える。

 それがどんなに幸せなことか、二人が忘れてしまうことはないだろう。

 この二人がお互いを離すことは、もうないだろうから。

 

 車に全員を乗せた帰り道、暗くなっていく夜空の片隅を、マックイーンが指差した。

 

「あら……テイオー、希望さん、見てくださいませ。スピカがよく見えますわ」

 

「あ、ボク達のチームの星だ」

 

「ふふふ。もう一回眼が見えないかなあ。星座、見えないし触れないから憧れるんだ」

 

「希望くん、星好きだもんね。あ、ボクとマックイーンがチームスピカなんだよ!」

 

「うん、それは知ってる。

 素敵な名前だね。

 乙女座の一等星。

 つまり、『乙女を一番に輝かせるチーム』。

 意味合いがすてきだし、スピカのトレーナーさんはよく考えてる人なんだろうなあ」

 

「えー、ボクあのトレーナーがそこまで考えてるイメージ無いけど……」

 

 冬が終わる。

 冷たい季節が終わる。

 暖かな季節が来る。

 彼らの人生における冬の季節も、終わろうとしている。

 

 春は出会いと別れの季節。

 雪は溶け、命が芽吹き、春風が吹いて、人生の新しい一年が始まる。

 そう、誰もが皆、春に新たな人生を始めるのだ。

 

「スピカは春の星ですわ。もうそろそろ、冬が終わって春になりますものね。それに」

 

 マックイーンは周りに見えないようにこっそりずっと手を繋いで居る二人を見やり。

 

「スピカはアークトゥルスと合わせて、『春の夫婦星』と呼ばれていますのよ」

 

「「 ……! 」」

 

 うふふと、笑った。

 

「ま、マックイーンっ! 言いたいことあるならハッキリ言えー!」

 

「いいじゃありませんの。スピカのようなお二人を、(わたくし)は祝福しますわよ?」

 

「ぜったいこの後からかうつもりだ! ボクには分かる!」

 

「ははは……二人とも元気だなあ。うん。わたしもがんばって、生きて付き合わないと」

 

 空に輝くスピカを眺めて。

 

 苦難を乗り越えた少年少女達は、笑い合った。

 

 この先に待つものが、よい未来であると信じて。

 

 

 

―――そうして、センセーとボクのおはなしは終わった。

 

―――そして、トウカイテイオーと希望のおはなしが始まるのだ。たぶん。きっと。

 

―――それがなんだか、楽しみだ。

 

 

 

 

 




 次回、最終話


 碑文つかささんのアカウントなどでは掲載されてない光量調節改善版支援絵などを裏でいただいていた(作者特権)のでこっそり使っています
https://twitter.com/Aitrust2517/status/1413452987461107716


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25 響け、ファンファーレ

「私の創造の源泉は、私が愛する人々である」

   ―――パブロ・ピカソ


 希望(のぞむ)とテイオーが噂になる、少し前のこと。

 

 希望(のぞむ)はメジロ家の医療施設に移送されていた。

 かつてマックイーンもメジロの療養施設で長期間怪我を癒やしていたが、そもそも病院の方が施設として優れているなら、金に困っていないメジロ家のマックイーンはそちらを使っている。

 つまり基本的な施設能力が――おそらくは、施設に対しての投資額が――大病院すら上回っている。それがメジロの医療施設なのである。

 

 様々な人間が集まっていた。

 メジロ家お抱えの人間達。

 主治医が招聘した今は後進の育成にあたっているはずの名医。

 三浦が探し、アポを取って、善意半分仕事半分で参加した、希望(のぞむ)の難病の研究と治療法発見を目指している大学病院の研究者。

 今は個人のクリニックで評判が高い、希望(のぞむ)の幼少期の担当医。

 医者の意地で、有給を使って手伝いに来た、かの少年が運び込まれた大病院の若き医者。

 理学療法士のかつての同僚。

 鍼灸師が連れてきた同業の異端。

 シェフが連れて来た"医食同源の極み"と呼ばれる料理の鉄人。

 集まった人間全員を満足させる完治祝いの特大ケーキを作り始めたパティシエ集団。

 

 八方手を尽くし、名の知れた名人に呼びかけ、集まったのはほんの一部。

 しかし、十分すぎるほどの人材が集まっていた。

 

「なるほど、これは難敵だ」

「実は最近こんな治療例があって……」

「使えそうな論文集めてきたっす、参考にしてください」

「クランケのカルテまだ見てない人居ませんか? ここにコピー置いときますね」

「え? 何? あたし何故ここでこき使われてるの? 安心沢はそう思います」

「1%に挑むよりは貴女使った方がマシだからよ。あ、100%成功させるつもりでやりなさい」

「ひええ~」

「『絶対失敗しないから』と言え、安心沢。刺し間違えたら死ぬ患者だぞ」

「ぜ……ぜったいに……失敗しま……全力を尽くします……」

「絶対、絶対かぁ。"絶対失敗しません"って、言ったことねえや……でも、やるか」

「やってやりましょう! ここで治療法が確立できれば、未来の患者も助かります!」

 

 才能に溢れた人材がある。メジロの財力で、人材を活かす。

 努力を怠る者もいないだろう。医師達は全力を尽くし、希望(のぞむ)もまた全力を尽くす。

 ならば、あとは、運。

 人事を尽くして天命を待つべし。

 

 希望(のぞむ)は一日二回の精密検査を受け、食事単位で精密に管理される毎日を過ごし、今は主治医とあれやこれやの話をしていた。

 

 たとえば、『99%死に1%生き残る処置』とはなんのことだったのか、その詳細だとか。

 

「……1%とは、そういうことでしたか、いえ、噂には聞いていたものでしたが……」

 

「主治医さんはご存じでしたか。"ウマ娘の力を借りる"という、治療法を」

 

「はい。

 注目度の高い発展途上の医療技術ですので。

 ウマ娘からの臓器移植。

 ウマ娘からの輸血。

 ウマ娘の抗体や固有の毒物耐性の利用。

 骨格筋の共生微生物転用研究……

 人体が未知である以上に、ウマ娘の体は未知です。

 可能性という点では、不治の病を治す可能性を、最も高く保有しています」

 

「なので、確率が低くても、可能性自体はあったんです。

 成功率1%というのも大分サバを読んでいたらしいですけどね。

 わたしは……こわかったんです。

 わたしとおなじ病気の人もいない。

 わたしが最初の症例。

 だから、その方法で助かった前例もいない。

 助かる保証なんてどこにもなくて……なさけなく尻込みしていたんです」

 

「……資料は十分に集めてあります。

 その1%、今からでも挑戦できるでしょう。

 しかしながら、保険適用外の臨床試験も乏しいようなものばかり……」

 

「調べるには人体実験になりますし、しかたないですよ。人でも、ウマ娘でも」

 

 

 

 

 

 『人移植医療』。

 

 それは、最先端にして最異端。

 

 医学界では『異種移植』と呼ばれる技術が、この世界においてのみ、『ウマ娘』という特異存在の影響で、特徴的な研究と発展を繰り返した結果生まれた、特殊な医学体系であった。

 

 異なる動物を掛け合わせる医療は、400年前ハーベーが始めたとされる。

 ハーベーの血液循環説が発表されるまで、人類は基本的な血液の概念を持たず、また輸血などの救済方法を持たなかった。

 ハーベーの発表を受け、血液研究は一気に加速する。

 人々は犬の血を猫に注いでみたり、ビールやワイン、牛乳や尿まで動物に注いでみたり、「鹿の血を牛に注げば鹿の角が生えるに違いない!」といったレベルの思考で、様々な実験を行った。

 

 しばらく後、フランス人医師のジャン=バティスト・ドニが、事故にあったウマ娘を助けたいという少年の意思を汲み、少年の血液をウマ娘に輸血した。

 結果は成功。

 1667年のこの事例が、人類史上初めての科学的な記録が取られた輸血であると言われている。

 一部の輸血事業者がウマ娘を会社のアイコンとしているのは、この偉業があったからである。

 

 そして、ドニは羊の輸血を、人に輸血することを開始した。

 当時の医学では『人間とウマ娘は極めて近似である』という科学的な根拠が出揃っておらず、人間とウマ娘が子供を作れること、人間からウマ娘が生まれること、人間とウマ娘が似ていること……そういったことが認知されていながらも、人間とウマ娘が別の動物であるというイメージは、現代より遥かに強く根付いていた。

 そう。

 ドニには「ウマ娘と人で輸血が大丈夫なら羊でも大丈夫だろ」という認知があったのである。

 

 しかもこの輸血、最初の二例は成功し、患者を救ってしまう。

 調子に乗ったドニは次々と羊の血の輸血を行ったが、貴族が拒絶反応で死亡し、便乗して輸血で死んだと見せかけて夫を毒殺する妻が出てきて、その妻が殺人を誤魔化すためドニを訴訟し、医師達が大論争を繰り広げ、輸血が1670年に禁止……と。

 それはもう、大騒ぎとなった。

 皆が、「ウマ娘から輸血すると死ぬかも」というイメージを持つには、十分だった。

 

 それから『輸血』には宗教的禁忌感から逆風が吹き、医学から輸血の存在は消されてしまう。

 特に、ド二の悪印象と共に、人とウマ娘の輸血行為も禁忌と見る風潮が出来てしまった。

 当然ながら、移植手術の類もタブーとされ、長らく研究する者はいなかった。

 

 人から人への輸血も、1818年まで実行されることはなくなり、150年もの間、輸血という手段が医学に戻ることはなかった。

 1875年頃、ランドイスらが『異なる動物の血液を輸血すると溶血反応などで死ぬ』ということを証明したことで、異種の輸血などに対する忌避感は、あらゆる意味でピークを迎える。

 日本でも、最初の輸血が行われたのは1919年だった、というほどだ。

 

 人間にウマ娘の何かを移すことで救う医療の歴史は、一度止まってしまった。

 

 しかしながら現代では、既に再開されている。

 

 時の流れは禁忌を薄め、命を救うため、人が全力を尽くすことを求めるものだ。

 

 様々な代用実験の発明、基本的な技術の発展により、未だ未知も未知ながら、人とウマ娘は『自分達の体』という最大の未知を知り始めている。

 何故、ウマ娘は人間とほぼ同じ体で重機じみた力が出せるのか。

 何故、人は奇跡を目にしただけで、先天的な盲目が治り、折れた骨すら繋がるのか。

 分からないことは、まだまだ山のようにある。

 けれど、人とウマ娘は、助け合い、調べ合い、かつては治せなかったものを治せるようにしてきた。不可能を踏破し、可能にしてきたのが、人とウマ娘の歴史である。

 

 ならば。

 

 希望(のぞむ)が絶望した時代より数年進んだ、今の医学なら。

 

「数年前ならば1%だったかもしれません。

 時の流れと症状の悪化で更に可能性は下がったかもしれませんが……

 技術は日進月歩です。

 昨日誰かを救えなかった後悔が、明日の医学を進歩させます。

 昨日救えなくとも、今日救えるようになることが肝要。

 あなたや、テイオー様が、変化することで"救える自分"になっていったように」

 

「お願いします。わたしは……生きていたいんです。トウカイテイオーと一緒に」

 

「お任せを。今はあなたとマックイーンお嬢様の主治医ですので」

 

 かくして、多くの人間の集合知により、希望(のぞむ)を救うプランニングは完了した。

 

 お嬢様の望みは完治。

 求めるものはハッピーエンド。

 倒すべきは彼に巣食う全ての病魔。

 

 今現在、希望(のぞむ)を苛む全ての病魔は、ひと繋がりとなっている。

 一つだけ治すということはできない。

 全て治せるか、その場で全て治せず死ぬか、どちらかしかない。

 オール・オア・ナッシングだ。

 

 治療を行わなかったわけではなく、かといって行った分見えるようになったわけでもない。治療に成功したわけでもなく、失敗したわけでもない。そんな眼がまず強敵だ。

 過去に行われた治療の全てを確認し、眼の精密検査を繰り返し、その治療跡で"事故"を起こさないよう綿密に計画を立て、先日起こったという『奇跡』を頼りに、視野を再建する。

 

 2021年に、海外で失明を理由に引退を決定された名ウマ娘テアカウシャークが『奇跡の目の復活』で引退撤回したのを受け、その眼球を再建した最新技術の導入、それが決定された。

 十数年間、どんな医者でも治せなかった眼を治す。

 なんと高い壁だろうか。

 ウマ娘の眼球再建技術として生み出された技術を、人間に導入する、世界初の手術。

 チームAが、それを担当する。

 

 第二の難敵は病巣の摘出。

 複雑で、健常な部分と混ざり合い、モザイク模様の如き最悪の体内を作り上げている体内から、命を蝕む部分を取り除き、代替の人工臓器等を精密に埋め込まなければならない。

 

 肉には腫瘍、骨にも腫瘍、内臓は生きているのが不思議なほどで、血管は変なところが繋がっていて不意打ちで破けやすく、神経まであっちこっちに地雷があり、迂闊にメスを入れれば気付けば体の障害が増え、最悪死ぬことになる。少年の体内は最悪の状態だ。

 メスで触れれば即座に終わりの地雷が、体内に大量に埋まっている。

 どんなに調べても、体内の地雷を全て見つけられた気がしない。

 如何な名医とは言え、独力で挑むには難しい案件であった。

 

 そんな体内を手術で整理し、人工臓器等を入れ込み、長生きできるよう形成する。

 難易度は推して知るべし、である。

 希望(のぞむ)が抱えた奇病は前例が無いもの。

 当然、手術も医師達の経験則に頼るしかなく、彼らにとっても初の体験となる。

 当たり前のように、これも世界初の挑戦だった。

 チームBが、それを担当する。

 

 体内整形は医師の外科的な技量だけでなく、マイクロレベルまで作り込まれた人工の人体パーツを作る者が必要となる。

 希望(のぞむ)の体に合わせ、病気に合わせて、それを短期間で作成しなければならない。

 間に合わないようであれば、研究所などからコネで分けて貰うしかない。

 彼の新しい体のパーツを揃え、手術中に精密に埋め込む。

 チームCが、それを担当する。

 

 ウマ娘が力んでも破れない、ウマ娘の毛細血管をモデルにした人工血管。

 動物の細胞から汎用性が高く頑丈な人工臓器を作る技術を応用し、ウマ娘と人の細胞から生成した、強靭で拒絶反応が起こりにくい臓器。

 ウマ娘の足が折れて引退することに心痛め、その足をどうにかできないかと考えた医者が生み出すも、ウマ娘の力に耐える強度の骨を結局生み出すことはできなかったという、寿命より長い耐久年数の人工骨格を生み出す製造機械。

 

 近年生まれた3Dプリンタで人工心臓などを作る技術、マイクロチップを埋め込み臓器の機能を再現する技術、ウマ娘の抗体を用いた生命力の増進技術、ウマ娘の体毛を加工した人体に優しい特殊縫合繊維の技術―――彼らは何にでも手を伸ばし、『生存の可能性』を模索した。

 

 そして。

 必要な種類と量の人工靭帯部品を、チームCは数日で揃えた。驚異的な速度であった。

 こういった『強いもの』で補ってようやく、『死にかけ』を『普通に生きられる少年』にまで押し上げることが可能となるのである。

 

 集められるものを集められるだけ集め、細い糸をより集めるように、彼らは1%の成功率を、ほんの少しずつでも上げていく。

 

 そして、最後に、心肺機能。これをチームDが担当する。

 

 希望(のぞむ)は体調が悪くなると、よく咳き込んでいた。

 また、テイオーと会っていた日々の中で、徐々に体力がなくなっていった。

 これは、心肺機能が低下している典型的症状である。

 肺の劣化が呼吸を、心臓の劣化が体力を、それぞれ削り落としていた。

 彼の奇病を治すにあたり立ちはだかった最大の壁が、この心肺機能の根本的低下である。

 

 心肺機能は心臓と肺を新品と取り替えればすぐどうにかなる、というものでもない。

 更に彼の奇病は、根本的な心肺機能を低下させるというもので、過去に手術を行って心臓と肺に手を入れても、一向に改善に向かわないという最悪の症状を伴っていた。

 

 かつて希望(のぞむ)が99%死ぬ手術を拒んだ医者は、ウマ娘の身体を研究して得られた新技術を導入すれば、1%の生存の可能性があることに気付いた。

 気付いたが、成功率の低さゆえに拒んだのだ。

 

 人間の臓器移植には、『ドナー因子』という概念が存在する。

 また、臓器移植の後に何らかの不具合が起こる"悪い因子"を指して、『予後不良因子』などと呼ぶこともある。

 因子は、移植元の身体に備わったものであり、移植先に伝わるものだ。

 

 かつて唯一、希望(のぞむ)に1%の生存の可能性があることを見抜いた医者は、気付いたのである。

 "悪い因子"があるなら、その逆もある。

 "移植先に因子が悪い影響を与える"ことがあるなら、その逆もある。

 "拒絶反応が起こらない"に留まらない、その先の可能性がある。

 人の因子より強い、ウマ娘の因子がある。

 ならば、ウマ娘の協力が得られれば……極めて特殊な事例に対応できる、特殊な治療法が確立できるのでは? と、考えたのだ。

 

 ドナー因子を厳選すれば、狙った影響を移植先に与えられる可能性がある。

 心臓などを移植などせずとも、特殊な加工を施した輸血程度で、ある程度効果がある。

 血液の受け皿になる臓器が専用の調整がなされた人工臓器であれば、更にその効果を高められる可能性がある。

 

 "馬の物語は名馬から受け継がれる血が全て"―――などと、言ったのは誰であったか。

 

 少なくとも、この世界では言われない言葉で、他の世界では定期的に言われる言葉だろう。

 

 ウマ娘の体の一部を人間に移植したところで、人間は人間だ。

 ウマ娘の能力を得られるわけではない。

 プロボクサーの心臓を引きこもりに移植したところで、引きこもりがプロボクサーと同じ性能を得られるわけがない。

 

 だが。

 

 『彼を救えるウマ娘の因子』を、彼に導入して、心肺機能を補うことはできる。

 

 ウマ娘の因子を人間の側に僅かなりとも導入するという、世界初の手術。

 数年前、少年に提案された時は、技術不足で『99%死ぬ』と言われたそれ。

 因子継承という、最先端にして異端の救済方法であった。

 既存医療の延長でありながら、あまりにも基礎部分に異様な技術が前提として在る、ウマ娘が存在する世界にしか生まれない、ウマ娘が存在する世界でも実用に至っていない奇形の医療。

 

 進歩している現在の人類の技術レベルでも、これら全ての手術が漏れなく完璧に成功する可能性は非常に低いだろう。

 才能のある医師が集まって、最大限に努力して、それでも最後は運次第。

 

 成功率1%未満。そう言われるに相応しい絶望的な患者へ、医師達は挑む。

 

 ウマ娘を救うための医学と、人間を救うための医学の融合。

 

 これは、前例の無い医療であり、事実上の不可能への挑戦だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手術は手術当日から始まっているのではない。

 それ以前から始まっている。

 

 手術に至るまでの日々は、理学療法士、鍼灸師、シェフ、パティシエの独壇場であった。

 理学療法士は弱った希望(のぞむ)を的確に回復させていく。

 鍼灸師は科学的ではないアプローチから希望(のぞむ)の生命力を高めていく。

 シェフは食事面から完璧なコントロールを行い、健康第一の治療食にありがちな味の悪さなどなんのその。美味くて健康に良い食事で、希望(のぞむ)の体調をピークに持っていく。

 パティシエは死を前にして不安になりがちな希望(のぞむ)に夜食をこっそり差し入れメンタルをケアし、友人が心配なマックイーンに夜食を差し入れてその腹を少し太らせた。

 

 そして、同僚の主治医に託した。

 

 手術が始まれば、彼らにできることはなかったから。

 

「大分体調が改善できたようです、希望様。

 病気の進行が進む前に、予定を早めて手術に入りましょう」

 

「はい、主治医さん」

 

 一日二回の診断で希望(のぞむ)の体調の波を把握し、彼の体調が最良のタイミングで、手術を行う……ほんの僅かでも、生存率を高める工夫をしていく。

 本当に僅かな積み重ねを、主治医らは重ね、その時へと向かっていた。

 

 翌日、主治医に連れられ、多くの最新機械が運び込まれた手術室に向かっていると、希望(のぞむ)の耳に『彼を助けようとしてくれている者達』の声が届く。

 

「準備できました?」

「いつでも」

「初めて手術した時と同じ気分ですよ」

「今日は大先生の胸を借りる気持ちで臨みます」

「こちらこそ」

「我々鍼灸担当は手術前に彼の生命力を高めて終わりですが、失敗できませんよ」

「あの、"強い人間になれる秘孔"とか、あたし体感二割くらいしか成功しないんですけど」

「気合いで十回連続成功させなさい安心沢。外したら死を選ぶくらいの覚悟でね」

「ひええ……」

「ふぅ」

「頭と胸の同時手術はやったことあるが……深呼吸、深呼吸」

「失敗して元々、とか思わないでいきましょう。気が緩んで成功するとは思えません」

 

 申し訳ない、と少年は思った。

 

 少年はずっと、透明人間になりたい想いを抱えて生きてきた。

 その想いを実質、テイオー以外の誰にも見抜かれずに生きてきた。

 透明人間は死体が見えない。

 透明人間は死んでも気付かれない。

 透明人間は、死んでも悲しまれないことができる。

 自分が死ぬことで誰かに迷惑をかけたり、誰かが悲しんだりすることを、彼は嫌がり、その性格が彼の絵の透明な魅力を増加させていた。

 

 だから、当たり前なのだ。

 希望(のぞむ)が、自分を救おうとする医者達に引け目を感じてしまうのは。

 それがウマ娘の"勝ちたい"という本能にも匹敵する、医者の"救いたい"という本能によるものだと分かっていても、気が引けてしまう。

 

 それでももう、『わたしを救うためにそこまでしなくていい』だなんて、言うことはない。

 

 誰に迷惑をかけてでも、誰のお世話になってでも、誰かを何かで悲しませることになっても、生きたい。彼女と生きたい。一緒に生きたい―――

 

 そう、希望(のぞむ)は思えるようになっていた。

 

 奇跡が、彼を変えたのだ。

 

「……」

 

 主治医は言葉少なに、患者の心に、無愛想に寄り添っている。

 

 されど、喋る時は喋る。

 

「死が迫り、テイオーさんと仲を深め、貴方は成長しました。

 急成長した貴方の絵が、テイオーさんの足を限界を超えて治しました。

 そしてテイオーさんの起こした軌跡が、貴方の身体に奇跡を起こしました。

 ……類似の事案なら、確かに存在することです。

 完全に理解不能なことでも、非現実的なことでもありません。

 皆が医学を投げ出したくなるほどの無茶苦茶です。

 しかし……皆、それに応えたいと思う気持ちもあります。今日がその時です」

 

「主治医さん……ありがとうございます。あの、そろそろお名前を教えてくださいませんか?」

 

「こちらへどうぞ、マックイーンお嬢様がお待ちです」

 

「マックイーンさんが? あの、お名前を」

 

「マックイーンお嬢様、希望様をお連れしました」

 

 手術の場に連れて行かれると思って覚悟していた希望(のぞむ)は、マックイーンのところに連れて行かれると知って拍子抜けして、ちょっと首を傾げる。

 

 そして何故か手術室の手前の部屋で、手術衣に身を包み本を読んでいたマックイーンを見て、少年はかなり首を傾げてしまった。

 

「やっと来ましたのね。読み終わってしまうかと思いましたわ」

 

 マックイーンが読んでいた本の裏表紙には、ピカソの言葉が刻まれていた。

 

できると思えばできる、(He can who thinks he can,)

 できないと思えばできない。(and he can’t who thinks he can’t.)

 これは揺るぎない絶対的な法則である。(This is an inexorable, indisputable law.)

 

 不可能に挑む言葉。

 ピカソの言葉であるということは、芸術の本なのだろうか。

 マックイーンは本の途中に栞を挟み、テーブルの上に置き、席を立つ。

 そしてすぐ本に触れていた手をアルコールで消毒し始めたため、しばらく本の続きを読むつもりはないようだ。

 

 何故マックイーンが手術を受けるような風体なのか。

 希望(のぞむ)には何も分からない。

 彼は何も聞いていない。

 いつも華美か可憐な私服とアクセサリーに身を包んで居たマックイーンが、今日はそういうものを一切身につけていない。

 長い髪を纏めて上げて、手術衣の透明な帽子で頭を包み、手術衣一枚でそこに立っている。

 

 病院の通院年数であれば同年代の誰にも負けない希望(のぞむ)は、布の擦れる音の違いからマックイーンの格好を把握する。

 マックイーンのその素朴さが、違和感を通り越して困惑を生んでいた。

 

 "髪の毛一本たりとも床に落とさない"というマックイーンの意思が伝わってくるかのようだ。

 美しさより完璧を求める。

 今のマックイーンは美しくは見えないかもしれないが、手術室に入る人間の格好としては、これ以上無いほどに完璧だった。

 

 主治医がマックイーンに頭を下げる。

 

「マックイーンお嬢様。お嬢様の献身、無駄には致しません。絶対に結果を出してみせます」

 

「……ふふ、主治医。貴方、いつから詐欺師になりましたの?」

 

「少しの間だけです。

 信じることで起こす奇跡……

 信じられる『絶対』を、私も増やしてみたくなりました」

 

「貴方、意外とノリがよかったのですね。知りませんでしたわ」

 

「私も知りませんでした」

 

 そして、主治医は扉の向こうに消えていった。

 

 この扉の向こうに、手術を行う部屋へ繋がる道がある。

 

 多重に施設を区切り、そのそれぞれで殺菌消毒を行っているため、基本的にこの施設のこの区画で病気の元が無自覚に持ち運ばれることはない。

 

「ちょっとしたお久しぶりですわね、希望(のぞむ)さん。

 まさか手術当日まで、ここまで会えないとは思っていませんでしたわ」

 

「マックイーンさん、なぜここに……いや、それより、そのかっこうは」

 

「主治医からどんな治療をするか、説明はされたのでしょう?」

 

「え、ああ、うん。

 最新の医療とウマ娘から提供されたものを使うんだって。

 人の医療とウマ娘の医療を技術の最先端レベルで合わせた、世界初のものだって……」

 

「手術に使うそれを提供していたのが、(わたくし)ですわ。血だの骨の細胞だの」

 

「えっ」

 

 涼しい顔で言うマックイーンに、思わず希望(のぞむ)の素の声が出た。

 

「臓器移植や輸血は健康で、より肉体的に優秀な方がよいというな話はあるでしょう?

 不健康な者や、親戚に遺伝病がある者からの臓器移植は不安視される、とか。

 そうであれば、これは自慢ではありませんが、(わたくし)はメジロで最的確のウマ娘ですわ」

 

 マックイーンは微笑み、いつもの癖で髪をかき上げようとして、髪を纏め上げていることを忘れていて、かき上げようとした手が空振る。

 マックイーンは気品のある微笑みで、無言で空振ったことをごまかしにかかった。

 少年は見なかったことにした。

 

「まさか、ずっと裏で治療に協力を……!?

 あ、いや、今日もか!

 マックイーンさん、なんで……

 あ、いや、ちがう。まずはありがとうだ。

 ありがとう、マックイーンさん、きみの好意に感謝します」

 

「ふふふっ。混乱していてもまず感謝を選ぶのは、少し可愛らしいですわね」

 

「なんできみがそんなことを?」

 

「まず、最初の検査で適性があったので候補に入っていたそうですわ。

 本格的な検査で、最初に用意したサンプルの中だと(わたくし)しか候補が残らなかったそうです」

 

「……そんなことあるんだ」

 

「ふふふっ。他のメジロのウマ娘に大分心配されましたわ。心配ご無用ですのに」

 

「そりゃ、そうだよ。普通はそうだよ」

 

 テイオーは直感的に、希望(のぞむ)とマックイーンの相性は最高だと最初から思っていた。

 だから警戒していた。

 他のウマ娘に対してはそうする気配も無かったのに、マックイーンに対してだけ、『センセーと相性最高だから』という理由で警戒していた。

 帝王の直感だけを理由に、希望(のぞむ)とマックイーンが話しているところを見たこともないまま、異様なほどに二人の相性の良さを確信していた。

 

 その通りだ。テイオーの直感は正しい。最初からずっと正しかった。

 

 希望(のぞむ)とマックイーンの相性は最高だ。

 それこそ、互いの臓器を交換しても拒絶反応が出ることは無いと言い切れるほどに。

 彼の体はマックイーンの血を拒まず、マックイーンの体もまた彼の血を拒まないだろう。

 

 二人の相性は、医学的見地から見ても"この上ない"ほどに最高だった。

 

(わたくし)の異名、ご存じでしょうか?」

 

「うん、知ってる。実況が言ってたよ。『史上最強のステイヤー』さん」

 

「何故そう呼ばれているか、根本的な理由をご存じですか?」

 

「え? ごめんね、ウマ娘のその辺りについては、そんなくわしくないんだ」

 

 マックイーンは微笑み、息を吸って、吐く。

 ただ姿勢良く息をするだけでサマになるのは、令嬢の特権だろうか。

 綺麗な呼吸をするマックイーンの呼吸音の長さを耳で見て、少年は気付いた。

 

「……長距離が得意そうだね。息がなかなか切れなさそうだ」

 

「正解ですわ。

 心肺機能が高いウマ娘ですの、(わたくし)

 お分かりですわね?

 (わたくし)なら、貴方の()()()()()()()()()()()()のですわ」

 

「……!」

 

「テイオーは貴方を心配していましたわ。

 下がる心肺機能。

 出る咳。

 心肺機能の低下に追随する体力の低下。

 ふとした時に倒れてしまうほどの心肺の弱化。

 けれどそれも今日までのこと。

 これは自慢ではありませんが、ウマ娘でも一、二を争う心肺機能を持ち合わせていますのよ」

 

 この世界におけるウマ娘のメジロマックイーン、ここではない世界に存在する競走馬のメジロマックイーン、その両方が最強のステイヤーと呼ばれた最大の理由。

 それが、その心肺能力だ。

 周囲が絶賛するほどに、その心肺能力は飛び抜けて高かった。

 心肺能力の高さは持久力や回復力に直結する。

 長距離走において、メジロマックイーンが最強たる所以である。

 

 体調不良がまず咳として出て、咳を基準にテイオーに心配される、まず弱さが心肺に出てくるのが希望(のぞむ)という少年。

 その強さが心肺に現れるのがメジロマックイーンである。

 誰もが希望(のぞむ)の心肺に弱さを見て、誰もがマックイーンの心肺に強さを見た。

 

 ゆえに、異端の医療でドナー・マックイーンの因子を継承できたなら。

 

 主治医らが探し求めていた、最後の希望のピースが嵌まり込む。

 

 彼女がこんな格好でここに居るということは、そういうことだ。

 

「主治医には好きなだけなんでも持っていきなさい、と言ってありますわ。

 ……メジロの肩書きがある以上、血を抜くくらいしかしないでしょうけども。

 希望(のぞむ)さんの治療が苦戦したら、大変かもしれませんわね?

 リアルタイムで抜いた血でないと効果がない治療だと聞きますもの。

 うっかりうっかり、血を抜きすぎて(わたくし)が死んでしまったりしてしまうかも……ふふ」

 

「! そ、それはさすがに……そこまでしてもらうのは……」

 

「……? ああ、いえ、貴方のその想像はおそらく間違ってますわ」

 

「え?」

 

 マックイーンの心を読んだかのような涼やかな否定に、希望(のぞむ)は困惑する。

 テイオーのことは理解できていても、マックイーンのことはまだ理解できていないから、少年はマックイーンに事あるごとに驚かされている。

 トウカイテイオーに迫るほど、この少女も、運命を蹴り飛ばす強い心の力を持っていた。

 

「これは自己犠牲の精神ではありませんわ。

 それが正義の行いだと思っているからでもありません。

 (わたくし)の命より貴方の命が重いと想っているわけでもありません。

 これは私がそうしたいからそうしている、強いて言えば信念の延長でしょうね」

 

「信念……」

 

 誇り高くも、美しい。

 

 されどマックイーンのその美しさは、穢れないがゆえの美しさではない。

 

 泥に塗れることを恐れない、泥中の蓮華のような美しさだ。

 

 仲間一人に泥を被らせず、一緒に泥を被り、一緒に走る白鳥。

 

 それがメジロマックイーンである。

 

「貴方達の背中を押して、命を賭けさせたのです。

 無責任にも、当事者でもない、友人の一人でしかない、この(わたくし)が。

 ならば、貴方と比べれば随分と過小でも、この命を賭けなければ。平等になりませんわ」

 

「―――!」

 

「貴方に一人で命を賭けさせるつもりはありませんわ。共に行きましょう」

 

 "死ぬのが怖い"という気持ちが。

 "最悪自分は"という不安が。

 "一人で死んでいくのはどんな感じかな"という竦みが。

 "手術中、眠っている間に、死んだら、気づかないまま、そのまま"という恐怖が。

 

 マックイーンの言葉で吹き飛ぶのを、希望(のぞむ)は肌身に感じていた。

 

 彼はもう、一人じゃない。

 

「ありがとう。きみに出会えたことも、わたしの誇りだ」

 

「大袈裟ですわ。それに……」

 

 自然と二人は笑い合っていた。

 

 笑顔を交換し合える、不安な時に共に居てくれる友人。それのなんと素晴らしいことか。

 

「互いにその関係を誇れるからこその友人関係。そうは思いませんこと?」

 

「……うん、その通りだ」

 

 二人は一つ二つ言葉を交わして、主治医と同じ経路を進み、手術室へと向かった。

 

 その道中は、歩行入室形式の手術室と、そう変わらない仕様が感じられる。

 

 傷に響かない清潔なこの施設において、更に清潔で、過剰なほどの清潔感が在る。

 この先の領域に、細菌の一つも入る余地はない。

 この先に在るのは人を治すための空間だが、人を救うために特化しすぎた手術室という領域は、ただそう在るだけで一つの異界のようだ。

 

 事実、そうである。

 手術室は、リアルな科学の極みであると同時に、ホラー映画でよく使われるオカルティックな物語の象徴でもある。

 手術室はいつの時代も、『生と死の境に最も近い異界』であるからだ。

 

 この先に、誰の目にも明らかな、生と死の境界がある。

 

「この先に進むにあたり、私物は持ち込めませんわ。

 と、いうわけで。随分と遅れましたが、先に渡しておきますわね」

 

 私物を入れるためのカゴを前にして、マックイーンは唐突に、手術衣のポケットから、ハート型の箱を取り出した。

 

「? これ何……あっ」

 

 少年が受け取り、触れてその形を知る。

 

「ゴタゴタが続いている間に過ぎてしまったでしょう、『2月14日』」

 

「……バレンタイン!」

 

「テイオーからですわ」

 

「!」

 

「全く、テイオーから預かっていたものの、(わたくし)も中々面会できなくて焦りましたわ」

 

 希望(のぞむ)はずっと面会謝絶状態で、手術の下準備、体調管理、精密検査に日々を使っていた。

 当然、テイオーも彼に全く会えていない。

 手術当日にマックイーンが会えたのも、状況が生んだ特例である。

 テイオーが真心を込めたチョコレートを預かり、冷蔵庫に入れて、彼に会おうとしても会えず、数日頭を抱えていたマックイーンの姿は想像に難くない。

 

 テイオーのチョコを受け取り、希望(のぞむ)は驚き、嬉しそうにして、やがて照れ、諦観という逃げ道無くテイオーの気持ちを真正面から受け取ったことで、顔を仄かに赤くした。

 

「あ、あはは……な、なんか思ってたよりずっとうれしいし照れるね。なんでだろ」

 

「あら。初めて見る顔ですわね。ふふふ、テイオーも中々やりますわ」

 

 流石に、手術前に食べるわけにはいかない。

 私物を入れるカゴの中に、希望(のぞむ)はチョコを優しく置いた。

 丁寧に扱われた少女の愛と勇気の塊を見やり、マックイーンは満足そうに頷く。

 

「正直に言えば……テイオーに本命のチョコレートをあげる勇気は無いと思ってましたわ」

 

「ははは。手厳しいね」

 

「勇気にも種類がありますもの。

 恐ろしい者に立ち向かう勇気と、顔を真っ赤にして告白する勇気は別ですわ」

 

「うん、それはそうだ」

 

(わたくし)の知らないあの子の勇気を、また一つ見れました」

 

 恋する相手にチョコレートを作り、こうして人伝てでもちゃんと渡せたトウカイテイオーの愛と勇気を、マックイーンは最大級に評価する。

 

(わたくし)も、貴方も、勇気を出すべき時ですわ」

 

「ああ。がんばろう」

 

「ええ。あの子の本命のチョコレートの感想、あの子に直接言わなければ許しませんわよ」

 

「……ほんとうに手厳しいなあ」

 

 "それが言いたかったんだなあ"と、希望(のぞむ)は納得する。

 このチョコは優しい応援ではない。

 厳しい鞭打ちである。

 このチョコを受け取った時点で、手術に失敗して死ぬことは許されない。

 チョコの感想を言わずに死ぬなど許されない。

 トウカイテイオーの本命チョコの感想を本人に言うまで、マックイーンは希望(のぞむ)が死ぬことを許さないだろう。絶対に。

 

 『死ねばその恋と愛を裏切ることになりますわ。それで平気ならどうぞご自由に』、と―――そういう、厳しいマックイーンの言葉が、チョコから伝わって来る気すらする。

 

 メジロマックイーンは、大事な友人を甘やかさないタイプであった。

 

 命を懸けて一緒に居てくれるが、甘ったれたことは許さない。そんな女であった。

 

「チョコの箱の裏面を見たら……いえ、触れたら、もっと良いですわよ」

 

「裏面? ……これは、おまもり?

 もしかして……

 わたしが描いて、テイオーちゃんに渡された、絵の入ったおまもり?」

 

「ええ、そうですわ。テイオーに頼まれました。これで貴方を守ってほしい、と」

 

「……そっか。いま思うと、ちょっとはご利益あったのかな。守ってくれたのかな」

 

「テイオーはあったと思っていますわ。でなければ貴方に渡そうとはしないでしょう?」

 

 希望(のぞむ)が描いた絵が。

 マックイーンの手で、お守りとなって。

 テイオーを守り、彼女を奇跡の果てまで送り届け。

 今、マックイーンを通して、テイオーから希望(のぞむ)の元へと返ってきた。

 

 善意のリレー。

 あるいは、奇跡のリレーか。

 ともすれば、祝福のリレーかもしれない。

 

 "自分のように奇跡がありますように"と、トウカイテイオーは祈りを込めて、このお守りを希望(のぞむ)へと送ったに違いない。

 

「人間の男のわたしにどのくらいエドワード7世の加護があるのかは、わからないけど」

 

「え?」

 

「え?」

 

 マックイーンは少し驚いて、虚を突かれた様子で少し考えていたが、数秒の沈黙の後、なにやら何かを理解した様子で頷いた。

 

「……貴方はどうにも忘れてるようですわね。いえ、独学ゆえに抜けがあるのでしょうか」

 

「?」

 

「最後の放蕩王エドワード7世は、最後までドイツに敵視されていました。

 そんなドイツからウマ娘専門画家エミール・アダムを呼び、愛バ達の絵を描かせた。

 敵対する国からお気に入りの画家を呼び、お気に入りのウマ娘を描かせる……

 そんな逸話が残ってるくらい……かの王は、ウマ娘を描く画家も愛していた王ですわ」

 

 ちょっとだけ、育ちと教養の差が表れて、芸術に関する少年の知識……いや、『王が愛したもの』に関する少年の知識を、マックイーンが上回る。

 

「人間の画家とウマ娘の少女が両思いなら、あの王が応援しないわけがないでしょう?」

 

「……!」

 

 マックイーンは、思うのだ。

 目には見えない、運命の意地悪などというものが、もしあるのなら。

 目には見えない、『頑張れ』と雲の上から言っている、美女とウマ娘と画家が大好きな王様の加護だって、ほんのちょっとくらい、どこかにあるんじゃないか、なんてことを。

 

「無病息災のお守りのつもりが、縁結びのお守りになっていた……ってことかな」

 

「世界一有名な絵描き好きでウマ娘好きの王ですもの。そういうこともあるかもしれません」

 

 ふっ、とマックイーンは笑む。

 

「まったく。誰のための御守りだったのか、分かったものではありませんわね」

 

 皆、皆。

 何かを愛している。

 誰かを愛している。

 それがどこからか、どこかへと繋がっていく。

 奇跡というものは、その繋がりの先にあるのでは、と―――マックイーンは、ふと思った。

 

「あの、さ」

 

「はい、なんでしょうか」

 

「このお守りは、きみが持ってるといい。

 もうテイオーちゃんを守ってくれた実績つきだ。

 たぶん……いや、かならず、きっと、きみを守ってくれる」

 

 テイオーから渡されたお守りをマックイーンに手渡そうとする希望(のぞむ)に、マックイーンは一瞬何を言われているのか分からなかったが、理解した瞬間、優しく微笑んだ。

 

 この期に及んで、マックイーンの心配。

 筋金入りである。

 何故手術を受ける方が、自分より生存確率の高いマックイーンにお守りを渡そうとするのか。

 

 テイオーのお守りを受け取って、そのお守りに宿っているかもしれない奇跡も、テイオーの想いも受け取って、その上で、マックイーンにお守りを渡そうとしている。

 『わたしはわたしで生き残る』。

 『だから、この奇跡はきみに』。

 『きみに死んでほしくない』。

 『一緒に生きて戻ろう』。

 そんな想いからの行動だろう。

 

 マックイーンは微笑み、いつも持ち歩いているもう一つのお守りを、彼の手に乗せる。

 

(わたくし)には、友人に貰った最高の御守りがあります。要りませんわ」

 

「あ……」

 

「これは友人が(わたくし)のために作ってくれたもの。(わたくし)をきっと守ってくれます」

 

「……あ、あー。その。もうちょっと時間くれたら、きみのおまもりの絵を描き直し……」

 

「これがいいのですわ、これが。他は要りません」

 

 友情の証ですわ、とマックイーンが微笑み、希望(のぞむ)が苦笑する。

 

 二人の二つのお守りを重ねて、カゴに入れる。

 手術室には持ち込めないが、きっと守ってくれるだろう。

 画家も、ウマ娘も、雲の上の王様は守ってくれるだろう。

 二人はちょっとばかり、お守りのその加護を信じている。

 

「第一、(わたくし)もテイオーも、貴方の絵によって足が治っていますのよ」

 

「うん、そうだね」

 

「貴方以上に、そばにあって安心する御守りはありませんわ。

 御利益という点では、どんな大明神よりも大明神かもしれませんわよ?」

 

「そ、そこまで言う……?」

 

「ええ、言いますわ。

 いっそ拝んでみましょうか?

 希望(のぞむ)大明神の御守りに御利益が無いと(わたくし)も困りますわね……」

 

「か、かんべんしてくれないかなあ」

 

「ふふふっ」

 

 必ず、生きて終わると。

 必ず、あの子の元へ帰ると。

 必ず、あの子に"ただいま"と言うのだと。

 同じように、ちょっと泣き虫な一人の女の子のことを想う、二人の友達関係があった。

 

「春が来たら、皆でお花見に行きましょう。テイオーが喜びます。きっと、楽しいですわ」

 

「ああ、それは……いいね。花見なんて、まともに一度も行ったことないや」

 

 "見る"を知らなかった少年は、花見という言葉に感慨深そうに、そろりと呟いた。

 

 

 

 

 

 手術室に入った二人を、看護師達が出迎える。

 優しい言葉をかけながらも、これから始まる手術に、看護師達もどこか緊張した様子だ。

 

 主治医が出てきて、マックイーンが少々安心した様子を見せる。

 マックイーンがメインの手術台の横に置かれた、サブの手術台の上に寝かされる。

 その身体に計測器がつけられていくが、これはあくまで参考にする数字を出すためのもの。

 マックイーンは最後の肝心なところで彼に輸血するための献血、あるいは途中にそれ以外のことをするため、途中までは待機である。

 

 長大な手術は一回で30時間を余裕で超える。

 しかも、疲労で手元が狂えば終わりだ。

 医師達は交代交代で手術を担当し、最高精度の手元を保ちながら、ちゃんと休憩を取って精度を取り戻し、また幾度となく手術室で処置を繰り返す。

 学生のバトンリレーくらい気楽であれば、どんなによかったことか。

 

 『自分のところで失敗できない』。

 『自分が担当の時に遅れたら患者が死ぬかも』。

 『僕の後の人は上手くやれるだろうか?』。

 『俺が寝てる間に患者が死んでたら俺は耐えられるのか?』。

 『死なせたくない』。

 『この子は何十時間も苦しんでるんだ』。

 『疲労で手元が狂うのが怖い』。

 

 無限のプレッシャーの中、彼らは戦うことになる。

 自分以外が失敗したら全部終わり。

 自分が失敗しても終わり。

 大手術とはそういうものだ。

 皆を信じるしかない。

 自分を信じるしかない。

 その戦いは、どこまでも()()()()()()()()()()()()()

 

 ちょっと手元が狂えば、仲間全員の努力が無に帰る。

 ちょっと気を緩めれば、自分ではなく、患者が死ぬ。

 

 どこまでも、他人。

 自分の失敗の責任を、他の人達が被ってくれる。

 ゆえにこその地獄。

 

 この手術もまた、途方も無い時間を前提とするものだった。

 当然ながらマックイーンも、その終盤まで起きていなければならない。

 合間に多少寝ててもいいが、必要な時には必ず起きてなければならない。

 そんな状況で平然と寝ること自体が難しいだろう。

 マックイーンからの輸血が必要なタイミングは、大まか見当はつけられているものの、全員が世界初の手術に携わっている以上、誰も本当に必要なタイミングは分かっていない。

 マックイーンは起きていなければならない。

 30時間か、40時間か、50時間か。

 

 "楽にこなして終わらせる"ことが許されている者など、この場には一人も居ない。

 この場の誰もが、戦場の只中にいるかのような気分だった。

 

 手術台の上に寝かされた希望(のぞむ)に、麻酔の準備が施されていく。

 まずは心電図のシール。

 次に血圧計など、モニタリングのための計測器。

 最後に酸素マスクが口に当てられ、麻酔の準備が完了した。

 

 心電図が心臓の動きを見つめている。

 血圧計、パルスオキシメータ、体温計、その他諸々の機械が動き出す。

 とくん、とくんと、少年が生きている証が可視化される。

 点滴が差し込まれて、全身麻酔が始まる。

 全身麻酔が始まると、少年の目がとろんとして、やがてその瞳が閉じられる。

 

「……」

 

 チューブを差し込み、気道を確保して、チューブからガス状の麻酔薬が微細に流れ込み、少年の全身麻酔をコントロールする。

 麻酔は多ければ死に、少なければ目覚めてしまうもの。

 熟練の麻酔医は今回の特殊な状況に合わせ、序盤は呼吸器、途中からは静脈点滴を用いて、少年の麻酔を維持し、手術の途中に彼が起きてしまうことを防ぐ役割を持っている。

 

 心臓と肺の代わりをする、人工心肺装置がいつでも動ける状態で待機している。

 執刀医である主治医の周りの医師達が、無言で頷いている。

 かたん、と、メスが銀色の皿の上で揺れた。

 不可能と死を前にして僅かに震えた指先を、拳をぎゅっと握ることで、主治医は無理矢理に抑え込み、己の恐怖を踏破する。

 

「開始します」

 

 銀色の刃が、手術室の光で煌めいて。

 

 希望(のぞむ)の肌に、赤い線が走った。

 

 

 

 

 

 ゆっくり、ゆっくりとやらなければならない。

 ゆっくり走るようにしなければ、この手術は成功しない。

 全力で歩くようにしなければ、この手術は間に合わない。

 

 人体が手術に耐えられる時間には限界があり、それは医師の技術によって長くなる。

 それでも、限界はある。

 制限時間がある。

 人は無限の手術に耐えられない。

 そしてこの患者は、名だたる名医達が見てきた全ての患者の中でも、間違いなく一位争いができるほどに、『しなければならないこと』が多かった。

 

 だから、しなければならないことを分け、チーム単位で各処理を仕分けた。

 オール・オア・ナッシング。

 全て治せるか、その場で全て治せず死ぬか、どちらかしかない。

 神業でないとこなせないような状況が、次から次へと降って湧いてくる。

 

 少し間違えれば、即死に繋がる。

 予想外の病巣が次々に出てくる。

 先週検査で確認したはずの部分が、一週間で形を変えている。

 少年の体内は、少年の絶望に相応に、『絶対に治せない』と言われるに足るものだった。

 熟練の医師達の心を折るには十分すぎる絶望が渦巻いている。

 気力と生への執着だけで生きてきた少年の体内は、手遅れに手遅れを重ねた、奇跡すら塗り潰す最悪の宝庫だった。

 

 ゆっくりしないと、少年が死ぬ。

 速くしないと、少年が死ぬ。

 針の穴に糸を通すように丁寧にしないといけないのに、処置しないといけない部分が多すぎて、このままでは間に合わない。そんな焦りがある。

 針の穴に糸を通すように丁寧にしないといけないから、慣れた速度でやろうとしても、難易度の高さに失敗しそうになってしまい、医師の背中に冷や汗が垂れる。

 

 それは地獄であった。

 "救いたい"を前提とした地獄。

 "救えない"がちらつく地獄。

 救おうとしても、救えない地獄。

 希望(のぞむ)を長年蝕んできた絶望が、名だたる名医達の前に立ちはだかっている。

 

 十数年間、生を諦めたくなかった少年をへし折り続け、踏み潰し続け、叩き壊し続けた、どうしようもない絶対の絶望。

 いかなる医者も匙を投げた絶望が、少年の命を掴み続けている。

 

 死ね、と。

 逃さない、と。

 お前は幸せにはなるな、と。

 病魔が、死が、少年の命を掴んでいる。

 

 希望(のぞむ)生命活動の証(バイタルサイン)が、揺らいだ。

 死が近付いている。

 死神が来ている。

 彼の生を許さない運命が、にじり寄っている。

 

 医師達の心に染み入る不安、弱気、僅かな諦観が、死神の声となって囁いた。

 

―――お前の積み上げてきたものは、酷く情けないものだったんだな?

 

 それは、幻聴であったが。

 

 「ふざけるな」と、医師達は奮起した。

 

 まだ先は絶望的に長い。

 予定された手術過程は無限に思えるほど長い。

 生命活動が弱まっている。

 最初の想定以上に、少年が死に向かう速度が速い。

 十数年かけて蝕まれた少年の命は、既に死神の玩具であった。

 されど、だからどうしたと、医師達の手は止まらない。

 

 人を救うことが好きだから医者になったような奴らが、この程度で折れるわけがない。

 

 皆同じだ。

 誰かに強制されたわけではない。

 好きだからそうしてきた。

 好きだからその生き方を選んできた。

 苦しいこともあった。

 辛いこともあった。

 誰もがそうだ。

 幸せなだけの人生を生きてきた者などいない。

 誰もが挫折、苦難、絶望を味わい、その中で歯を食いしばって生きてきたのだ。

 

 走ることが好きだから、ウマ娘の競争の道を選んだ。

 絵を描くことが好きだから、目が見えないという最悪のハンデがあっても、絵を描いた。

 人を救うのが好きだから、何度患者を救えなくても、何度目の前で人が死んでも、医師を志した者達は人を救おうとする。

 皆同じだ。

 だから。

 

 『死ぬな、生きろ、まだ死ぬな』と、少年に心の中で叫びながら、医師達は諦めない。

 

 一時間。

 二時間。

 三時間。

 四時間。

 砂粒を一つ一つ積み上げて城を作る作業のように、途方もなく長く感じる時間が過ぎる。

 燃え滾る鉄板の上に降る白雪のように、貴重な時間が一瞬で溶けていく。

 

 まだ終わらないのか、と思う看護師がいた。

 まだここまでしか手術が終わってないのか、と思う医師がいた。

 

 まだ、まだ、病魔との戦いは終わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 逃げ出せない悪夢の中に、希望(のぞむ)は居た。

 

 もう目覚めるという逃げ道は無い。

 悪夢の中で、希望(のぞむ)は迫る黒き死から逃げ惑う。

 真っ黒な死は、希望(のぞむ)をひたすらに付け狙う。

 黒い絵の具をキャンバスにぶちまけたようなその姿は、姿が明確な死神よりずっと『死』そのものに近く見えて、途方もなく恐ろしかった。

 

「はぁっ、はぁっ」

 

 これは悪夢が見せる幻覚ではない。

 本物の死。

 手術中の彼に迫る、生の終端だ。

 

 悪夢の荒野には底の見えない谷があり、そこに落ちれば死ぬという確信があった。

 追いかけてくる黒き死に捕まれば、その瞬間に死ぬという確信があった。

 上を見上げれば、今に落ちてきそうな空があって―――それが落ちてきても、その時点で死ぬ、そういう確信があった。

 

 ここは悪夢の荒野。

 そして、間近に迫る死の具現。

 一瞬であっても気を抜けば、その瞬間、死に飲まれる。

 ウマ娘は己が生の存在証明をするかのように世界を走るが、この世界において、走ることをやめた者は死に至る。

 生を嘲笑うような、死の世界だ。

 

 テイオーが、マックイーンが、希望(のぞむ)の周りの人間が、これまでの一つでも選択を間違えていたら、この世界に彼の心が置かれた次の瞬間には、彼の生は終わっていただろう。

 

「まだ……まだだっ!」

 

 そんな中、彼は諦めていなかった。

 走る。

 走る。

 走る。

 テイオーのように。

 マックイーンのように。

 あのレース場で耳を傾けた、夢を追う無数のウマ娘達のように。

 必死に、懸命に、前を見て、胸に抱えた祈りのために走る。

 

 彼が見えない目で見てきたウマ娘は、皆一生懸命だった。

 誰もが頑張っていた。

 誰もが実体のない夢を追いかけていた。

 その熱に、そのひたむきさに、その素晴らしさに、彼はずっと惹かれてきた。

 

 だから、忘れない。今でも覚えている。

 

 諦めずに走ることの大切さを。

 諦めずに走り続ける方法を。

 諦めずに走っていく心の在り方を。

 

 誰よりも諦めなかったトウカイテイオーが、彼に何もかもを刻んでくれたから。

 

 諦めずに夢を追うウマ娘の真似をするように、諦めずに死から逃れ続ける。

 

「死にたくなかったのは、死にたくないって言えるようになったのは、生きてたからだ!」

 

 叫ぶ。

 そして、走る。

 死は速い。

 きっとどんな生よりも速い。

 死はどんな生よりも速いから、どんな生にも追いつける、最悪の走者だ。

 

 けれど、希望(のぞむ)は走り続ける。

 絶対の死から逃れ続ける。

 まだ、まだ、死ねない。

 ここで死を受け入れるには、残してきたものが多すぎる。

 

 何より、ここで死を受け入れては、あの少女が泣いてしまうかもしれない。

 

 それだけは、絶対に、絶対に―――受け入れられない。だから、少年は荒野を走る。

 

「生きてるのが、楽しくなったから!

 もっと生きていたいと思えたから!

 だから……死にたくないって、叫べたんだ!」

 

 ウマ娘は走る。

 人は走る。

 彼も走る。

 何のために?

 

 希望(のぞむ)の場合は、生きるために。

 

 目が見えない者は走らない。

 転ぶ危険性が高いから。

 気を抜いた瞬間に大怪我する可能性が高いから。

 事実、希望(のぞむ)はほとんど走ったことがなく、テイオーの上に工具が落ちて来た時も、ただ走るだけで命懸けだった。

 落ちてくる工具も、足元の突起も見えない彼にとって、暗闇の世界を走ることは命懸けであったが、命が惜しくないほどに彼女を好きだと思う気持ちが、死の恐怖を振り切った。

 そうして、彼は『走る』を正しく知ることができた。

 

 『走る』を、トウカイテイオーが彼にくれた。

 

 『走る』が、今彼を、迫り来る死から逃してくれている。

 

 彼女のために走ること。

 生きるために走ること。

 誰も知らない明日へ向かうために走ること。

 希望(のぞむ)の中で、それらは全て同じことだった。

 

「お前なんかに捕まってたまるか……彼女を置いて死んでたまるか!」

 

 彼女のためなら、生きるために、懸命に走れる。

 

「過去の、最強最速の自分と戦って、彼女は振り切って、勝ったんだ!」

 

 彼女のおかげで、生きるために、懸命に走れる。

 

「わたしが、よわくても!

 わたしが、なさけなくても!

 わたしのかけっこが、並でも!

 おまえなんかに追いつかれるものか!

 わたしは……だれよりも速かったトウカイテイオーの、その心を追いかけた男だ!」

 

 走ることの無い盲人が、走ることで生きるウマ娘と出会い、得た物語があった。

 

 今ここにあるものが、その物語の結実の一つ。

 

 少年の足に宿る帝王のステップが、最強最速のステップが、死すら置き去りにする。

 

「死が待っているゴールになど行くものか!

 おまえ程度に追いつかれてたまるものか!

 わたしは……わたしは……!

 あの子が待っているゴールに、生きて、一着で、辿り着くんだ!」

 

 叫び、走った。

 

 諦めないことだけが、彼女の奇跡に報いる生き方だと、そう信じて。

 

「―――絶対に!」

 

 それは永遠の絶望。

 この悪夢に終わりはない。

 脱出口などない。

 黒き塊の死神を倒す手段はない。

 逃げることしかできない。

 そして、黒き塊は永遠に追ってくる。

 いつかは捕まるしかない。

 これは希望(のぞむ)が負けるしかない鬼ごっこだ。

 終了時間が設定されていない、永遠にして最悪の鬼ごっこ。

 

 死に捕まれば終わり。

 そして、最後には死に捕まるしかない。

 なればこそ、絶望しか無い永遠の鬼ごっこ。

 

 けれど。

 

 少年は、その絶望を跳ね除けるだけの希望を、もう胸から溢れるほどに貰っているから。

 

 そんな永遠の絶望では、永遠の帝王を愛する彼の心を、折ることなどできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 機械が冷たく、波長と数字を表示する。

 希望(のぞむ)はまだ生きている。

 かろうじて、と頭につくが。

 手術室は人がどんどん入れ替わっていくが、少年が生還する気配はまだ見えない。

 紙一重で少年の命を繋ぐ処置を行いながら、少年の病巣を処理していく、綱渡りを通り越して糸渡りと言うべき状況を、医師達は超人的な技量で乗り越えていく。

 

 一秒一秒、一瞬一瞬が、気を抜けば全てを終わらせてしまうほどの、危機的状況の繰り返しであった。

 

 五時間。

 十時間。

 十五時間。

 二十時間。

 二十五時間。

 三十時間。

 

 終わらない。

 ずっと手術を続けているのに、終わらない。

 まだまだ終わりが見えない。

 希望(のぞむ)の体内に蓄積された"最悪"は、まだ尽きない。

 女性看護師の一人が長時間の緊張と疲労で倒れたが、まだ終わる気配もない。

 

 担当時間の朝の9時から3時間も集中して手術を行い、交代して昼12時の食事を取り、3時間ほど仮眠を取って、15時に起き、予想外の病巣について1時間以上他の医師と議論し、手術プランを状況に合わせて修正し、1時間ほど自分の手術担当の予習をして、失敗できない超高度の手術プランを頭の中に叩き込み、18時からまた執刀。3時間集中して手術を行い、倒れた看護師の代わりに21時から他の医師の補助に入り、24時に一旦抜けて食事を取って、3時間仮眠。3時に仮眠を終えて、また予想外の事態が起こった少年の身体について1時間弱議論。次の手術の準備を1時間して、それでようやく20時間だ。

 

 そして、まだ終わらない。終わる気配がない。

 

 常人であれば一分と保たないほどの全力の集中を、何時間と継続させ、それを何度も何度も繰り返す。

 そうでなければ救えない。

 そうでなければ間に合わない。

 ローテーションを組んで負担を分担し、それでようやくこれである。

 

 名医の補助に名医がついていないと回らない。

 全病巣を並行して処理しないと間に合わない。

 希望(のぞむ)を殺さんとする死神は、あまりにも凶悪だった。

 メスを入れれば入れるほど、医師達は自分達の見解の甘さを思い知らされていく。

 

 もはや人類が積み上げてきた医学という巨人は心の支えになどならず、彼らは信念のみで、この悪夢的な難病に立ち向かっていた。

 

 技量的に最も優れている老いた名医が、一時的にローテから落ちる。

 若き医者が、命を削る勢いで穴を埋めるも、技量が足らない。

 才気溢れる医師が、その場の思いつきで奇跡的な再建手術を思いつく。

 生真面目なだけが取り柄の看護師が、一度だけ見たマイナーな論文の内容を思い出し、それが些細なヒントとなって、なんとか手術計画を立て直すことに成功した。

 

 誰も彼もが必死で、けれど『手術失敗』の烙印が押される瞬間が迫っている。

 

 心電図が心臓の、血圧計が循環状態を、パルスオキシメータが血液中の酸素の状態を、ガスモニターが呼吸状態を、体温計が体温を、尿量測定器が腎臓の状態を、中心静脈圧計が体内の水分量などを。他の計器も希望(のぞむ)の体に関する、様々な数値を知らせていた。

 知らせていた。

 過去形だ。

 もはや手術はそういう段階にない。

 全身を解体して再構築するような現段階で、生命活動の波が上がっては下がり、上がっては下がり、もはや測ろうとしても使える数字が出ないものが増えすぎている。

 

 ただ、手術が完遂する前に彼は死ぬかもしれない―――そんな経験則から来る予見だけが、医師達の周りを包み込んでいる。

 

 誰もがいっぱいいっぱいな中、マックイーンが声を上げた。

 

「もっと(わたくし)から取った血でも内臓でも好きに使いなさい!」

 

「!? いけませんマックイーンお嬢様!

 先程一度大量に血を抜いたばかりです! これ以上の献血は命に関わります!」

 

「彼の命を救えるならいくらでも関わってさしあげますわ!」

 

「!」

 

「冗談じゃありませんわ! こんな結末、何が良くてこんなものが肯定できますの!」

 

 真っ青な顔で、袖をまくって、マックイーンは真っ白な腕を医師に突き出す。

 

 さあ針を刺せ、と言わんばかりに。

 

「彼を嘘つきにしないためなら、(わたくし)はなんでもしますわ! さあ、早く!」

 

「マックイーンお嬢様……!」

 

 誰も彼もが崖っぷち。

 

 希望を僅かに見たと思った瞬間、容赦なく絶望に叩き落されている。

 

 されど、誰も彼もが諦めてはいなかった。

 

 諦めかけていた人間も、メジロマックイーンのその姿に、情けない自分を奮い立たせていた。

 

 

 

 

 

 悪夢の荒野が、どんどんと死の世界に近付いていく。

 

 今にも落ちてきそうだった空は、もう十メートルと少しくらいの高さしかない。

 その空に触れたら、死ぬ。

 荒野だった地面は、もう六割ほどが滑落し、地面のほとんどが底の見えない奈落となった。

 そこに落ちれば、死ぬ。

 黒い死神は形を変え、大きさを変え、どんどん速く、どんどん大きくなり、もはや希望(のぞむ)が全力で走っても距離を離せず、ぴったりとその後をくっついてきていた。

 

 『諦めなくてもいずれは死ぬ』と言わんばかりに、黒き塊は大きくなっていく。

 

 『諦めないまま死ね』と言わんばかりに、黒き死神は速くなっていく。

 

 空の死に呑まれて死ぬか。

 地の死に呑まれて死ぬか。

 黒き死に呑まれて死ぬか。

 選択肢は三つに一つ。

 

「どれもごめんだ!」

 

 ぐっ、と足に力を込めて、希望(のぞむ)は気力で加速する。

 

 心を削るような加速。もうこれ以上の加速は無理だ、というくらいの気概で加速したのに、死神は平然とついてくる。

 

 人間にしてはありえないほど粘り、死神もそれについていくのがやっとであったが、もう命の限界が近付いている。

 

「負けない、負けない、絶対に、負けない……! わたしが信じる絶対は、きみだ!」

 

 命の限界まで追い詰めている。

 なのに、折れない。

 折れていない。

 死の恐怖を前にして、心が死に屈していない。

 それは『死』に心があったなら、最大最悪の屈辱だったことだろう。

 

 このまま死に呑まれても、それはきっと負けではない。

 この命は死に向き合い、死に立ち向かい、折れなかった。

 なればこそ、この命はもう何があっても、真の意味で死に敗北することはない。

 

 十数年少年の心を折り続けた死が、今ここで初めて、希望(のぞむ)の最終的な生死に関係なく、希望(のぞむ)の心に敗北しようとしている。

 

 何かが。

 何かが、変わろうとしている。

 何かが、生まれようとしている。

 それは死に抗う彼の心が生み出さんとしているもの。

 しかし、そこに至るまでに何かが足らず、死がそれを阻まんとしている。

 

「絶対に、生きて帰って、きみにもう一度―――」

 

 逃げる生。

 追いかける死。

 

 また、空と、地と、背後から迫る三つの死が、膨らんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医師達の経験則が、"間に合わない"と叫んでいる。

 手術を受けている少年が保たない。

 予定の全過程はあと数時間で終わる見込みだ。

 しかし、医師達は経験則から、希望(のぞむ)があと一時間保たないことを予測していた。

 

 現在、朝6時。

 手術の開始から45時間が経過していた。

 日本では55時間の手術を成功させた医師が『これをこなすには鍛えないといけない』とコメントしたことがあったが、真実そうだろう。

 鍛えていない医師は明確についていけなくなっており、普段から鍛え上げている医師の負担がどんどん増して行っている。

 

 施術順序を考えて希望(のぞむ)の体の負荷を抑え、ローテーションで医師の負荷を抑え、騙し騙しやってきたが……もう、患者である彼が保たない。

 不可能への挑戦が、終わる。

 不可能が不可能なまま、終わる。

 治せない病が、治せない病のまま、終わる。

 

「あと少し、あと少しなんだ。あと数時間保ってくれれば……!」

 

 諦めたくない医師達が、決して諦めない意思を固めたまま、その心に一瞬"諦め"がよぎった、その時。

 

 限界まで血を絞り出したせいで気絶し、別室で治療を受けていたはずのメジロマックイーンが、十時間で肉体が絞り出した血液を回して、真っ青な顔で壁を叩く。

 

 鮮烈な音が、萎えかけていた皆の心を奮い立たせた。

 

「いい時間ですわ……出せる切り札が、増える、時間です……」

 

「マックイーンお嬢様! 横になっていてください! 本当に貧血で死んでしまいます!」

 

「死にませんわ……死ぬものですか……理学療法士、壁の、電話を。番号を、指示通りに」

 

「は? どこかに電話をかけるということですか? ここで?」

 

「そう、です……窮地にこそ……言葉は真に響き……起死回生となるのですわ……」

 

 もう電話の番号を押す体力さえ残っていないマックイーンが指示を出し、理学療法士がマックイーンの言いなりになって番号を押していく。

 どこかの病院か何かか?

 いや、違う。

 この場のほとんど全員が、その番号に覚えがなかった。

 

 それは、マックイーンの友人の電話番号だったから。

 

「ここは、手術室。携帯電話は、通じませんわ。しかし、備え付けの電話なら……!」

 

 今にも死にそうな顔色で、マックイーンは今にも死にそうな友人を救わんとする。

 

 ロクに思考もできない頭で考えて、思いついた打開策は一つ。

 

 ここに、()()()()()……それだけだった。

 

「彼女がいつもの日課の早朝走り込みをしているなら、この時間に起きているはず……!」

 

「! それは、まさか……」

 

「さあ早く! 彼女が走り始めたら電話になんて出ませんわ!」

 

 手術室と、遥か彼方の携帯電話が、繋がる。

 

『おはよー、マックイーン。あ、あのさ。

 なんか電話かけてもらってすぐこれ聞くのどうかなって思うけど、手術どうなっ』

 

「今死にかけてますわ! このままだと死にますわ! 貴女、未亡人ですわよ!」

 

『!?』

 

「力を貸しなさい、テイオー!

 今日はライバルとしてではなく、仲間として!

 窮地にこそ響く貴女の言葉で、彼を強引にでも死の淵から引っ張り上げなさい!」

 

 マックイーンの叫びが、一秒のもたつきさえも生まないまま、彼女に状況を理解させた。

 

 

 

 

 

 彼の悪夢は、いつも死と繋がっていた。

 死を恐れれば悪夢が生まれる。

 悪夢に苛まれれば死が近付く。

 精神的な衰弱が死を近付け、死が近付けば精神が衰弱する。

 最悪のループである。

 

 画家の夢は、時に死後の世界を初めとする異界を垣間見る……そんな考えがまことしやかに語られたこともある。

 そして今、死から逃げ切れなくなった希望(のぞむ)の命は、夢という形で、逃れられない死の接近を理解させられていた。

 

「くっ……」

 

 空が近い。

 近すぎる。

 触れれば死ぬ空が、もう数m程度の高さもない。

 

 走って逃げることももう無理だ。

 もう荒野がない。

 もう地面がない。

 猫の額ほど狭い地面しか残っていない今、走り回って逃げることもできない。

 少し足を滑らせれば地面を呑み込んだ『死』に食われ、そのまま消えてなくなりそうだ。

 

 そして、もう、逃げる場所がないから。

 黒き闇が集まった、黒き死神から逃げられない。

 死神は、急に速度を落とした。

 恐れろ、と言わんばかりに。

 折れろ、と言わんばかりに。

 逃げ道を失った希望(のぞむ)を、ゆっくりと死神が追い込んでいく。

 

「……諦めるもんか」

 

 なのに、少年の瞳から、希望が消えない。勇気が消えない。祈りが消えない。

 

 誰かがくれた、永遠に消えない光が、その瞳に宿っている。

 

「トウカイテイオーの勇姿を見たやつが、諦めるなんて、なんて冗談だ。笑えない」

 

 死は永遠である。

 死ねば終わり。

 覆されることはない。

 絶対の永遠。

 静寂の永遠。

 真に不敗であり、無敵であり、最強であるものこそ『死』なのだと、そう言う者も少なくはないだろう。

 『死』に勝てるものなど居ない。

 奇跡でも起きない限り、死の運命は覆らない。

 『希望』は、『死』に殺される。

 

「諦めて、たまるかっ……!」

 

 そして、黒き塊が膨らんで、少年を呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 それは、確定の死をもたらすものであり。

 

 避けることも防ぐこともできない、彼の悪夢を死で終わらせるもの。

 

 だから、もうどうしようもない―――はずだった。

 

 

 

 

 

 どうしようもないはずだった。

 少年を呑み込んだはずだった。

 死は運命を成したはずだった。

 

 はずだった。

 

希望(のぞむ)くん、ボクの声、聞こえてる?」

 

 現実で、電話から声がしている。

 それが少年の耳に届いている。

 夢の中で、少年の前で、少女が微笑んでいる。

 現実で聞こえているはずの声を、夢の中の彼女が喋っている。

 

「死なないでよ、希望(のぞむ)くん」

 

 それは、青いウマ娘だった。

 それは、赤き不死鳥のウマ娘だった。

 二つが混ざり合う、希望(のぞむ)の最高の希望(きぼう)だった。

 悪夢の中で少女が希望(のぞむ)を庇い、纏う光が死を一方的に焼き尽くしていく。

 その光景を、希望(のぞむ)はどこかの絵で見た気がして、すぐに気が付いた。

 

 フランツ・マルクの、『()()()()()()』。

 

 青きウマ娘を生み出したフランツ・マルクが最後に描いた絵は、おぞましく描かれた黒き何かに立ち向かい、勇猛果敢に勝利する、赤き不死鳥である。

 マルクは、死・絶望・理不尽を、黒き塊として描いた。

 それを倒す赤き不死鳥を、その対として描いた。

 その絵こそが、『小さな青いウマ娘』の後継、『戦うフォルム』。

 

 宇都宮美術館では、その絵はこう語られた。

 

『"戦うフォルム"には、抗うことのできない運命を乗り越えようとする、フランツ・マルクの意思が込められているのだろう』

 

 そう。

 その姿こそ。

 如何なる運命も、如何なる死も、理不尽を押し付けること叶わない、赤き不死鳥。

 

 今、青きウマ娘は、その背に燃える反逆の翼を翻す。

 

 赤く燃え盛る、不死鳥の翼を広げた、運命を蹴り飛ばす青きウマ娘。

 

 それが、悪夢の中で、自分の心が生み出した存在だと、分かっているのに―――希望(のぞむ)は、かつて彼女と交わした会話のことを、思い出していた。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「ああ、なるほど」

 

「? 何納得してるの?」

 

「夢の中で怖い鬼が出てね。

 わたしはきみを守ろうとしたんだけど……

 きみがぱぱっと倒しちゃって、わたしを子供扱いしてなでていたんだ。謎が解けたよ」

 

「あー」

 

「ありがとう、お嬢さん。夢の中でもわたしを助けてくれて」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 これまでもそうだった。

 これからもそうだろう。

 彼女は、夢の中でも彼を守る。

 

 夢を見せるのがウマ娘だ。

 が、夢の中でまで好きな人を守るウマ娘は、きっと彼女くらいのものだろう。

 

 後ずさる黒き死神をよそに、夢のテイオーは――現実では電話の向こうのテイオーは――、少年に優しく語りかけた。

 

「ね、希望(のぞむ)くん。約束覚えてる? 約束、二つ」

 

「二つの、約束?」

 

「一つは、ボクが君を守るって約束。

 今のボクは遠くにいるから、それはちょっと分かんないかな。

 でも、心はそばにいるよ。

 希望(のぞむ)くんを守りたいって気持ちは、いつも希望(のぞむ)くんと一緒。

 もう一つは……ほら、初めて出会った時に、どこに行こうとしてたか、って話した時」

 

「……ああ」

 

 希望(のぞむ)は、テイオーが何の話をしているのか理解した様子で頷いた。

 

 現実の希望(のぞむ)は眠っている。

 眠っている希望(のぞむ)にテイオーが語りかけ、その声が夢に届いているにすぎない。

 会話に見えるが、会話が成立しているのは夢の中だけだ。

 現実では一方的にテイオーが話していて、その声がここにそのまま届いている。

 

「テイオーちゃん、あの約束のこと、覚えてたんだ。わすれてるかと思ってたよ」

 

「ふふふー、驚いてる? 希望(のぞむ)くんと話したことは全部覚えてるからね!」

 

 全部、全部、忘れられない思い出だ。

 心の力になってくれる思い出だ。

 だから、テイオーは忘れない。

 

希望(のぞむ)くんも、ボクと同じ気持ちだったって信じてる。

 覚えててくれてるって信じてる。

 だからね。

 どうしよっかなーって思ってたんだけど……覚えててくれてるって前提で言うね」

 

 青い不死鳥のウマ娘は、頬をほんのり赤く染めて、希望(のぞむ)に向き合った。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「目も見えないのに一人でどこに行こうとしてたの?」

 

「ウマ娘というものを知りたくてね。ウマ娘さんたちが居るところに行こうとしていたんだ」

 

「え、珍しい。今時ウマ娘を知らない人って居るもんなんだね」

 

「学術・芸術においてはある程度知っていたのだけどね。実物はさっぱりなんだ」

 

「へぇ~。あ、じゃあレースやってる所に連れて行ってあげる! いっぱいいるよウマ娘!」

 

「いいのかい? 是非お願いしたいが、迷惑じゃないかな」

 

「いいっていいって! あ、いつかボクのお願い一個聞いてくれたらそれでいいよ!」

 

「お願いか。わたしがお願いしてる立場だからね。わたしにできることであれば、なんでも」

 

「おっけーおっけー、じゃあいこっかっ」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 そう。

 二人が初めて出会った日の、初めて会話をしたあの時。

 一つ、交わされた約束があった。

 彼は言った。

 なんでも言うことを聞くと。

 男に二言は許されない。

 あの日、彼女が得た『お願い』の権利を、彼女は今日まで使わなかった。

 

 "なんでも言うことを聞く"だなんて希望(のぞむ)がテイオーに言ったのは、その一度だけだ。

 

 お願いを使わず、絆を育み。

 お願いを使わず、彼に好かれて、彼に尊重されて。

 お願いを使わず、彼が自らの意志で奇跡を信じられるよう、走り。

 最後の最後に、ただ一人の少女として、その『お願い』の権利を使う。

 

 麻酔で眠る彼の耳元で、電話から彼女の声が響いている。

 

『お願いは一つだけ、たった一つだけ』

 

 その声が、彼の心を震わせた。

 

 

 

『ボクは、君が大好きだから。誰よりも大好きだから。一生、そばにいてほしいな』

 

 

 

 現実で、受話器から少女の声が響く。

 夢の中で、不死鳥の青きウマ娘が、死を砕く。

 ただ、ただ。

 そこには、奇跡があった。

 

 奇跡に、死が負ける。

 愛に、死が負ける。

 恋に、死が負ける。

 想いに、願いに、祈りに、青いウマ娘に、不死鳥のウマ娘に、死が負ける。

 

 絶対の永遠であったはずの死が、"永遠の愛"に滅ぼされていく。

 

『待ってるよ。ずっと。また一緒に夢をかける日が来ないなんて、ボク思ってないからさ』

 

 心こそが、奇跡を起こす。

 心に諦めがある者は、難病を克服することなどできない。

 心の強さのみが、土壇場で病と死に打ち勝つ力である。

 

 機械の計測値が動いていく。

 あと数時間で、手術が終わる。

 なのに、あと一時間命が保たない。

 そういう状態のはずだった。

 救えない命だったはずだった。

 

 それももう、終わった話。

 

「マックイーンお嬢様、これは……!?」

 

「当然の結果ですわ。

 だって、テイオーが以前言っていましたもの。

 テイオーは約束したのでしょう?

 どんなものからも、希望(のぞむ)さんを守ると。

 約束したなら、テイオーは守りますわ。

 運命の意地悪を受けても、何度も夢破れても、テイオーは最後に約束を守るのです」

 

 立て直した生命活動は、残り時間を爆発的に延長する。

 それこそ、手術の残りを全て終わらせてなお、時間が有り余るほどに。

 展望が見え、希望を抱いた医師達が、一気に手術を進めていく。

 

 その光景を、真っ青な顔色で、心底誇らしそうに、マックイーンが眺めていた。

 

(わたくし)は、運命ではなく、奇跡を信じ……トウカイテイオーを信じています」

 

 手術が始まる前から、希望(のぞむ)に取り憑いていた死があった。

 十数年、希望(のぞむ)の心を擦り潰し続けてきた死があった。

 幼少期からずっと、彼に寄生し続けていた死があった。

 それが今、消し去られていく。

 あと数十年は寄って来れないくらいに手酷く、『死』は不死鳥の青いウマ娘に倒された。

 

 どんどんと『生』に近付いていく少年の顔色を見やり、マックイーンは勝ち誇る。

 

「去りなさい、無粋な死。貴方如きが無敵の帝王に勝とうなどと、百年早いですわ」

 

 トウカイテイオーと、希望(のぞむ)の間に挟まろうとして、無様に負けた死を見つめ。

 

 マックイーンは笑った。

 

 心底愉快そうに笑った。

 

 本当に楽しそうに笑った。

 

「百年後、あの二人が同じ墓に入る頃なら、また来ることを許してあげます」

 

 奇跡は、死の運命を覆すもの。

 マックイーンはそういうものだと知っている。

 知っているつもりだった。

 なのに。

 

 いざ、その目で見てみると―――笑えて、笑えて、仕方なかった。

 

 マックイーンは笑った。二人が幸せになれることが嬉しくて、ずっと、ずっと、笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年が絵を描いている。

 透明感の薄い絵だ。

 写実的で特筆すべき点はない。

 ただ、単純に上手かった。

 彼が描いているのは人物画だったが、モデルにされた少女の可愛らしさ、美しさ、凛々しさ、それら全てが最高レベルにまで高められている。

 この絵と写真を見比べれば、ほとんどの者が『写真の方がリアルなはずなのにこの絵の方が本物っぽいのなんでだろう……?』と首を傾げる、そんな絵だった。

 

「なーんでこんなに上手いのに、なんかちょっと売れなくなっちゃったんだろね?」

 

 イスに座り絵を描いている少年の肩に顎を乗せ、胴に手を回して、彼が描いている絵の隅っこをつんつんとつついて、テイオーはぼやいた。

 

「んー、テイオーちゃんの目はわたしの絵を大分贔屓してるからね」

 

「いやいやいや、贔屓目抜きにしても、希望(のぞむ)くんの絵は前より上手いよ!」

 

「ははは。ありがとう。

 でも、うん。

 世界が見えるようになっちゃったからね。

 世界を見たことがない人だけが描ける絵は、描けなくなっちゃったんだ」

 

「んー、今の方が上手いと思うのにー」

 

 少年は絵を描いている最中、遠くをマックイーンが通りがかったのを見て、手を振った。

 マックイーンがそれに気付き、手を振り返してくる。

 テイオーは手を振り返してきたマックイーンがゆっくりこっちに来るのを見て、ややむっとしつつつ、少年の身体を抱きしめた。

 "渡さないぞー!"という言葉にされなかった想いが露骨に伝わってきて、少年は苦笑する。

 

 絵の中の少女の服に最後の色を乗せ、少年はその場で背伸びをした。

 

「はい、出来たよ。顕彰用のテイオーちゃんの絵」

 

「わぁい! ふっふっふ、これがずっと飾られるのか~」

 

 『顕彰ウマ娘』。

 かつて、初めて会った日に、マックイーンが彼に教えたもの。

 すなわち、ウマ娘の殿堂入りである。

 

 この年、トウカイテイオーはそれに選ばれていた。

 彼の絵はテイオーやマックイーンの足にあった不治の損壊を快癒に向かわせ、全盛期と同等、それどころか全盛期を超える足を得た二人は、現役に復帰。

 また、新たな伝説を打ち立てていった。

 

 テイオーとマックイーンのどちらが顕彰に選ばれるかは諸説あったが、どうやら今年はテイオーがマックイーンに明確に勝利し、殿堂入りしたようだ。

 

 顕彰ウマ娘はその姿を肖像画に描かれ、肖像画に描かれた者の名前と、描いた者の名前と共に、URA競争博物館に飾られる。

 ウマ娘レースの最高機関であるURAが残っている限りは、ずっと。

 つまりウマ娘のレースが存在する限りはずっと、トウカイテイオーと彼の名前は、彼が描き、彼女が描かれた肖像画と共に、そこに飾られ続けるということだ。

 博物館に行けば誰もが、並べられた二人の名前を目にすることができるだろう。

 

「本当にわたしでよかったのかな? もっと上手い人がいくらでも……」

 

希望(のぞむ)くんより上手い人はいないから、これでいーの」

 

「いや、普通にいる……」

 

「いーまーせーん! いない! そうでしょ!」

 

「……ふふふ。そうだね。わたしは、ずっときみの一番だ」

 

「そうそう! ボクにとっての一番はセンセー! じゃなくて希望(のぞむ)くん!」

 

 顕彰ウマ娘取り消しや抹消などというシステムはない、つまり。

 

 彼と彼女は、『()()』になったのだ。二人一緒に。

 

 顕彰という歴史に組み込まれた以上、突然施設と資料が全焼でもしない限り、彼と彼女の名前はずっと残り続けることだろう。

 仲睦まじく並んだ二つの名前は、ずっと残る。

 ウマ娘のレースが文化として残り続ける限り、殿堂入りが語られなくなることもない。

 

 なんとも恐ろしいことに、この二人は、この世界にウマ娘のレース文化が存在する限り永遠に残り続ける、二人の愛の証を打ち立ててしまったのだ。

 URAの賞に便乗して、である。

 URAは組織の資金でこの二人の名前をセットで語り継がなければならない。

 ずっと。

 ずっとである。

 肖像画を描いた者と描かれた者の名前をセットで並べない理由がない。

 よってずっと、URAはテイオーと希望(のぞむ)の愛を宣伝し続けなければならない。

 

 おそらく、日本史上最大規模の『ここに二人の名前を相合い傘で書いて行こうよ!』だ。

 

「うん、でもよく描けた。だれもが絵を見てきみに恋をするような一枚が描きたかったからね」

 

「えへへー、で、でも好きになってほしいのは希望(のぞむ)くんだけだったりしてー?」

 

「……照れずに言えたら完璧だったね」

 

「い、今の無し! もうちょっと上手いこと言うからリテイクリテイク!」

 

「ええ……」

 

 伝説になった永遠の愛だった。

 おそらく、この先百年は語り継がれるだろう。

 URAの殿堂入り記名を、消しゴムに好きな人の名前を書くおまじないか何かと勘違いしたようなウマ娘は、後にも先にもトウカイテイオーしか現れないかもしれない。

 

「はっ、マックイーンが来てる、牽制しないと……希望(のぞむ)くんまたちゅーしてちゅー!」

 

「また今度ね」

 

「今じゃなきゃ意味ないよ!?」

 

 最高のウマ娘と、最高の画家による暴力。

 これがまた最悪であった。

 ウマ娘が弱ければ、顕彰に選ばれるわけがなかった。

 画家がヘタクソだったなら、それを理由にURAが拒めた。

 しかし"バチクソに勝ちまくってる"としか言いようがない連戦連勝で新たな伝説を作ったウマ娘が、最近絶大な人気を誇るウマ娘画家を指名してきたなら、URAももう断れない。

 

 もはや誰も文句がつけられない。

 URAの殿堂入りは、顕彰ウマ娘の栄誉は、教室の黒板の隅っこに落書きされた両思いの相合い傘の同類となってしまった。

 URAは少なくとも今年度いっぱいは、バカップルの愛を宣伝する広告代理店となる。

 もはや伝説。

 伝説としか言いようがない、輝ける至高の惨状であった。

 

「ごきげんよう、おふたりとも」

 

「おはよう、マックイーンさん」

 

「おはようマックイーン。でも希望(のぞむ)くんとは距離取ってね!」

 

「ふふっ、今日もテイオーはテイオーですわね」

 

「だね」

 

 マックイーンがやってきて、少年が描いていた絵を見て、感嘆の息を漏らす。

 

「いい絵ですわね。以前と画風が違うものの、間違いなく最高の一枚ですわ」

 

「うん、人生最高の一枚にするつもりで描いたから」

 

「ふふん、どーだマックイーン。

 希望(のぞむ)くんの絵を推してるマックイーンは羨ましいでしょー?」

 

「今回はテイオーに顕彰の先を譲りましたが、次は譲りませんわ。

 まず次の顕彰を(わたくし)が取ります。

 その時は希望(のぞむ)さんを指名するので、テイオーより美人に書いてくだしましね」

 

「うん、わかった」

 

「分からないで!? ボクを人生最高の一枚にしたって話はどこに行ったの!?」

 

 わちゃわちゃするテイオーとマックイーンの、ころころ変わる表情を楽しそうに眺め、少年が穏やかに微笑んでいた。

 ちょっとしたことで感情豊かに動く耳や、魅力的に動く二人の表情を、少年は飽きる様子もなく眺めている。

 

希望(のぞむ)くん! 帰ってきたらデートだからねデート!」

 

「はやくガッコー行きなさい、お嬢さん」

 

 二人がトレセン学園に行ったのを見送って、少年はどこへともなく歩き出した。

 目的地はない。

 どこでもよかった。

 どこに行っても楽しかった。

 何を見ても楽しかった。

 世界は素敵だと、迷いなく言える。

 そんな人生が、楽しかった。

 

 ふと、そんな人生の合間に、人助けをすることもある。

 

「きみ、財布落としたよ」

 

「へ? あ、ありがとうございます!」

 

 短めの黒い髪。

 くせっ毛をまとめる和花の髪留め。

 ウマ娘の特徴である飛び出た耳が、ピンと天を突いていた。

 美人系に属する顔つきに、幼い表情が乗っている、そういうタイプのウマ娘に見える。

 

 財布に"キタサンブラック"と名前が書いてあったのが、少年の目にも見えた。

 財布に名前が書いてあるあたり、見た目以上に幼いのかもしれない。

 

「画家さん……ですか?」

 

「ああ、さすらいの絵描きさ。

 似顔絵なら1枚5分100円で受け付けてるよ」

 

「安っ……いや、速い!? 100円で生活できるんですか?」

 

「おべんとう作ってもらってるから、お腹空かないし平気かなあ」

 

「思いっきり浮世離れしてる感じの芸術家さんだ……漫画以外で初めて見たぁ……」

 

「そんなにしてるかな? 普段は公園で子供に絵を描いてあげたりしてるくらいだけど」

 

「……あ。最近ちょっと噂の『公園の魔法使いさん』ってあなたのことですか?」

 

「魔法は使えないかもね。もしかしたらそのうち使えるようになるかもしれないけど」

 

「なんか……こう……人生に余裕がありすぎる人とか言われてませんか……?」

 

「ははは。最近言われるようになったよ。余裕が出来たのは最近なんだ」

 

 ふむふむ、と頷いたキタサンブラックなる少女は、財布を開いて五十円玉を二枚取り出し、少年に差し出した。

 

「これも何かの縁ですね。一枚お願いします!」

 

「うん、まいどあり。世界で二番目に美人に描いてあげるからね」

 

「一番じゃないんですね……」

 

「本人が居る所で言うと調子乗るから控えてるけど、一番はもう決まってるから」

 

「これは……ノロケ……? 私初対面で惚気を撃ち込まれている……?」

 

 最初に、変な人だな、とキタサンブラックはまず思った。

 

 次に、瞳の色が深い人だな、とキタサンブラックは思った。

 

 やがて、話していると落ち着く雰囲気の人だな、とキタサンブラックは思った。

 

「きみはどんな自分になりたい? なりたいきみを描いてあげよう」

 

「なりたい私……?」

 

「なににだってなっていいよ。

 なににだってなれる。

 人は変われるからね。

 だれかと出会えば、変わろうと思えば……どんな自分にだって変わっていける」

 

 少年は、柔らかく微笑んでいる。

 

「きみが夢みる未来のきみは、どんな姿をしていたのかな」

 

「……夢」

 

「なんでもいいんだ。きみがそれを望み、きみがそれで幸せになれるものであれば」

 

 かつて、夢を見られない少年がいた。

 かつて、夢を諦めた少年がいた。

 かつて、夢に憧れる少年がいた。

 

 夢を見るような物語があった。

 

 少年は今、誰かの夢を応援するため、夢をえがく筆を取っている。

 

「この筆は、きみの夢をかける。きみの夢を聞かせてもらえたら、うれしいな」

 

 キタサンブラックは少し考えて、自分の中の想いを整理する。

 

 そして、とてもシンプルな答えを口にした。

 

 

 

「……私、夢があります。なりたい自分があります。私のなりたい未来の私は―――」

 

 

 

 ゆめをかける。

 

 ゆめをかけよう。

 

 今日も、明日も、明後日も。

 

 ゆめがあるなら。

 

 ゆめをかける。

 

 きみとなら、いつまでも、ゆめをかける。ずっと、いっしょに。

 

 そう思えるなら、きっといつまでも幸せだ。

 

 トウカイテイオーは、いつまでも希望と共に。

 

 

 

 

 




https://www.youtube.com/watch?v=668cIbMGoHI

【顕彰馬とその肖像画を描いた人物】

・1987年
 顕彰馬:シンボリルドルフ
 絵:中川一郎氏
・1994年
 顕彰馬:メジロマックイーン
 絵:久保田政子氏
・1995年
 顕彰馬:トウカイテイオー
 絵:加藤助八氏
・2020年
 顕彰馬:キタサンブラック
 絵:長瀬智之氏(JRA公式サイトは早く最新のキタちゃんのだけ画家さんの名前記載忘れしてることに気付いて……)



 これにて完結です。
 お付き合い頂きありがとうございました。
 終盤大分加筆しまくったので文字数膨らんで更新遅れたりしたの申し訳ないです。
 本編はこれで終わりです。おまけ程度に後日談何か書いたりするかもしれませんが、彼らの物語はここで終わりとなります。
 「最初と最後がピカソだった」とかそういう小ネタを探してみたりすると楽しいかもしれません。
 私から説明していくことはそんなありませんので。
 今後こういう感じの二次増えたらいいな、なんて読者視点で少し期待しております。
 それでは改めて、感想や評価や支援絵などの応援、ありがとうございました。


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