家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。 (夜桜さくら)
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夏夜の海、出逢いの日

 

 海の泡ぶくに憧れていた。

 この体を泡に変えて、空へと昇って、空気の娘になりたい。そう思わずにはいられなかった。

 ……だけど、海に濡れた服は重くて、浮かぶどころか沈んでしまいそう。

 

 ただ、それも、悪くない。

 波の音。月の明かり。海のゆりかご。

 ほどよくぬるい、水の温度。

 どこか落ち着く、夜の闇。

 

 どうしようもなく嫌なのは、どうしたって、このままじゃいられないということ。

 このまま、消えてしまえたらいいのに、と。

 そう願わずには、いられないこと。

 

 

 

 


 

 

 

 

〈 7月25日 〉

 

 

 夜は、昏い。

 そんな当たり前は、文明の光によって覆されて久しい。

 赤黄青の信号ランプ、街灯、24時間営業のコンビニエンスストア、あるいは単純に電気をつけている一般家庭など。それらが、光となって暗闇を照らしている。

 

 夏の季節。

 夏だからこそ、夜という時間は特別になる。

 月がいくぶんか西に傾いた時間帯。多くの人が、眠りについている時間帯。夜が、深みを増している時間帯。

 この時間帯でも、街中を歩いて“昏い”という印象はあまり抱かない。

 

 だから彼は、海へ行く。

 

 この地域で一番夜が濃いのは海である──……彼はそう思っているからだった。

 墨汁で染めたのか、と言わんばかりの“黒い海”。

 まるで生き物であるかのようにうごめく暗闇の主。

 

 それを見るために、彼は海へ行く。

 まるでハイキングへ行くように足取りは軽かった。街路を抜けて、海沿いの大通りへ。

 それだけで、もう、海が見える。

 遠目に見ても、今日の海は、どこか幻想的なオーラをまとっていた。

 街角から海をぼんやり眺めながら、彼は『何故だろう』と考える。少しの間静止して考えたが、答えは出なかった。

 まぁいいか、と、より海に近い場所へと向かう。

 

 夜。夜。夜。

 

 人のいない、夜だった。

 ときおりエンジン音をともなって車が走り抜けていくくらいで、雑音もほとんどない。

 人のいない、静かな、深い夜。

 けれど耳を澄ませば波の音が聞こえる。無音ではない、静寂。

 

 アスファルトから砂浜へ。

 

 彼の耳に届く波の音は、わずかながら大きくなっていて。あと数十メートルも歩みを進めれば、波に手を触れることができる。

 手先を海に差し入れるくらいの距離感が彼は好きだった。

 だから彼は、いつも通りの散歩コースを守るために、波打ち際へと歩を進めようとして──……足を止めた。何故足を止めたのか、本人も把握しきれていなかったが、それはきっと驚いたからなのだろう。

 目に映った光景に、驚いていたのだ。

 

 

 

 

 海の中に、ひとりの女の子がいた。

 

 

 

 

 月明かりと海水を、ドレスのように着こなした少女。

 ぐっしょりと濡れた白服、同じく濡れそぼった黒髪。

 遠目にそれらを見て、彼は、今日が満月であることに気付いた。大きなまあるい月が、空に浮かんでいる。

 ムーンライトロード。

 海に映る月明かりが、まるで、少女を月へと導く道のように映り込んでいた。

 

「なんか買ってくればよかったな……」

 

 美しい風景は、それだけで素晴らしいが、夏の夜は暑い。

 アイスなり飲み物なり、何かがあると、なおよかった。

 そんなことを頭の片隅で思いつつ、きれいだな、と。遠いな、と。ずっと見ていたいな、と。

 彼はそんな風に思いつつ、海のほうを眺めていて。

 だけれど、数分経っても、少女は海から上がってはこない。

 どうしようかな、と彼は少しの間逡巡して、コンビニエンスストアに向かうことにした。

 夏の暑さに少しばかりげんなりしつつ、疲れすぎない程度に、早足で。買うものも頭の中で決めてしまう。コンビニエンスストアについて、アイスココアを一つとアイスバーを一つ手早く購入。これまた少し早足で、最後は少し駆け出して、また海へと戻ってきた。

 

「ん……」

 

 彼が海から離れて戻ってくるまで、徒歩でおおよそ20分といったところだろうか。

 その間に、幻想を纏う少女は姿を消していた。

 彼はがっかりと気落ちしながら座り込み、ココアを一口。この場を離れなければよかった、と思いながら、あおるように飲んだ。

 ぷは、と息を吐きながら、次にアイスに取り掛かる。しゃくしゃくとかじりながら、砂浜に尻をつけ、海を眺めていた。

 

 すると、すぐに気づく。

 

 別に少女はいなくなっていたわけではないことに。

 どうやら、海の中に姿を隠していたようだ。息継ぎをするように、海面にあがってきている。まるで人魚みたいだな、と彼は思った。息継ぎをしている時点で、魚というには少しおかしいのだが、そういう風に見えた。

 

 それから、30分ほど時間が過ぎた。

 

 ココアもアイスももう胃の中におさめてしまった。いまはただ、少しふわついた感覚のまま、ずっと海を眺めているだけだった。

 月が綺麗だった。

 月明かりが映る海が綺麗だった。

 月明かりと海を纏う少女が綺麗だった。

 好きな、光景だった。

 暗がりの中で、暗がりの中だから映える光を見ていた。

 

 気付けば、さらに1時間が経っていた。

 深き夜がさらに深まって、ねむけも相まって、いい加減帰ろうかな、とあくびを一つ。

 彼が重い腰を持ち上げようと気力を振り絞っていると、人魚が陸へと向かってきていた。

 彼は、じっと、その挙動を見つめていた。

 そしてわかったことは、人魚は人魚でなく、人間の女の子だということだった。

 彼にとっては目を瞬く話で、そして、少女にとっては当たり前の話。

 

 

 ──髪も服も足も、何もかも重たくて、このまま沈んでしまいそう。

 

 

 こんなのじゃどこにも行けはしない、と少女は体を引きずるように、二本の足で砂浜を歩いていた。

 

 ふと、目があった。

 彼から見える距離なのだから、少女からも見えるのは至極当然と言える。少女は、離れた位置から自分を見つめる視線に気付いた。

 より正確に言えば、視線に気付いたというよりは、人影に気付いたというほうが正しい。

 人気のない暗がりの場所で人影を見て、年頃の少女が何を思うか。この少女は、素直に「怖い」と感じたようだった。

 少し露骨に、避けるように、遠回りをして、少女は海辺から遠ざかって行く。

 その背中を見送りながら、彼は少し肩を落とす。気のせいかもしれないが、自分を避けるような所作を感じた。確かに客観的に見て、自分は不審者そのものだったな、と彼は思う。

 

「……綺麗だったな」

 

 ぽつりとつぶやいて、波打ち際へ。

 押し寄せる波を手で感じる。夏の暑さには心地いいぬるさ。

 

「……ぬるいなあ」

 

 夜だからとて、特別海の水は冷たいわけではない。冷たいというほど水温は低くなく、熱いというほどでも当然なく、ぬるいという印象。

 心地いい、温度だった。

 そうして少しの間波と戯れて、彼はもともとの散歩の目的を達成した。

 こうして、波打ち際まで来ることがもともとの予定だったのだ。

 

「もう少し時間をつぶしたほうがいいかな……。そろそろ大丈夫かな」

 

 少女の後を追うような形でこの場を後にするのが嫌だった。ストーカーじみているようにも思えるし、それで不信感や不安を相手に与えることを思うと、できなかった。

 けれどもう姿は見えないし、いいだろう、と彼は海辺を後にする。

 彼は、濡れた手をハンカチで拭きながら「あの子、全身ずぶ濡れで大丈夫なのかな……」と、考えていた。

 

 当然、大丈夫なわけがない。

 彼がそれを知ったのは、彼が少し歩いた先の道端で、少女が座り込んだのを見つけたからだった。

 普通に考えて、シャワーを浴びるなりすぐ着替えるなり迎えの車なりなんなり何がしかの考えがあるものだと思っていた。

 けれどどうやらそうでもないらしかった。

 

「…………」

 

 三角座りをして、顔を膝にうずめている。少女が居座るアスファルトは、滴る水で湿っていた。

 一見すると、ただのホラーである。

 彼も先ほどから一連の流れを見ていなければ、「呪い?!」と身構えていただろう。いや、一連の流れを見ていても、かなり呪いの世界に足を突っ込んだかのような感覚に陥っていた。

 つまり、彼はいまだいぶ恐怖を感じていた。

 

「……あの」

「……」

 

 隠れていた顔が見えた。年頃の、若い女の子のように見えた。

 そして顔を見た瞬間に、彼の中からホラージャンルという可能性が消えた。

 少女の顔に映っていたのは、恐怖、怯え、辛苦などに類する、マイナスの感情。

 

「もしかして、家に帰れない、とか?」

 

 少しの逡巡。

 そしてその後、小さな首肯。

 

「…………お金貸そうか。ホテルとか。深夜でも受け付けはしてるだろうし」

「……ええと、はい。お心遣いはありがたいんですが……遠慮しておきます。普通に、私なら大丈夫なので、放っておいていただければ」

 

 会話が成立した! と彼は内心驚いていた。

 

「いやでも」

「──それに、こんな風体で行ったら……警察とか呼ばれそうで嫌なんですよね。いかにも訳ありって感じじゃないですか。それは、ちょっと」

「あぁ……そういうものなのかな……? まぁ確かに可能性は否定できないか……」

「……」

「…………じゃあ、うち来る?」

 

 無言で見つめ合った後、こくり、と少女はうなずいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャワーの水音。

 うら若き少女が、一人暮らしの男の部屋へとやってきて、シャワーを浴びている。

 彼に畜生じみたことをする気はさらさらないが、しかしどうにも落ち着かない。

 もうしばらくすれば、深夜というより、早朝に近い時刻となる。

 

「ねむい……」

 

 眠気はピークに達していたが、しかし状況ゆえに、ねむるにねむれない。

 しかし逆に男が寝ていたほうが、少女にとってはリラックスできていいのかも……と考えたり、彼は彼で、そわそわとしていた。

 彼の部屋は、一人暮らしには少しだけ広い、1LDKの部屋だった。

 

 奥の寝室にはベッドとクローゼット。もう一つの部屋にはローテーブル、ソファ、テレビ、ノートパソコン、クッション、本棚。

 

 ソファに座り、どうしようかと頭を抱えていると、ドライヤーの音が聞こえ始めた。

 少女の長い髪を乾かすには時間が必要だろうと思われるので、面と向き合うのはもう少し先にはなる。

 

 しばらくして、ドライヤーの音が止んだ。

 ひょこり、とやや身を隠すような位置取りで、少女が姿をあらわす。

 彼のスウェットをぶかぶかに着ていて、頬は上気したように赤く色づき、髪がしっとりと湿っている。

 

「あの、すいません。……お風呂、お借りしました。あとそれから着替えも。……ありがとうございます」

「うん。まぁ、服はいま洗濯してる。乾燥もそのあとにするから、まぁ、少しの間我慢してください」

 

 きちんとした検証をしたことはないが、彼の部屋はそれなりに防音性能が高い。

 環境音を気にするのが嫌だったとか、周りへの配慮を事細かにするのが面倒だったからとか、会社から補助金が出たとか、色々な理由はあってそれなりの部屋に住んでいるのだが、深夜中の深夜でも周りへの配慮をしなくてもよかった。

 だから洗濯機もまわせるし、シャワーも使える。

 だからきっと大丈夫だろう、と彼は苦笑しながら、少女に話しかける。

 

「ところで……ココア、珈琲、水、牛乳、オレンジジュース、野菜ジュース、緑茶。どれがいい?」

「えっ」

「五、四、三、二、一……」

「み、水でっ」

「じゃあ水で。適当に座ってて」

 

 萎縮している少女を置いて、キッチンへ。

 ミネラルウォーターを冷蔵庫から出すつもりで──、小さな手鍋にココアパウダーをいれていた。

 頭で考えていることと、手の動きが異なってしまう。それが疲労によって引き起こされていた。

 あ、間違えた……と思いつつ、それはそのままに、グラスを出して、ミネラルウォーターを注ぐ。

 

「はい、お水」

「ありがとうございます……」

 

 テーブルに水を置き、彼はまたキッチンへと戻る。

 少し遠めに、少女が彼の様子をうかがっている。

 彼は落ち着いた声で、話す。

 

「間違えてココア出しちゃってさ。作ろうと思って」

 

 薫り高いココア粉末を、鍋にいれて、ほんの少しミルクをいれて、ペースト状に。

 さらにミルクを足して、希釈。少し火をかけて、加熱。溶けやすいようにして、また混ぜる。

 

 ココアの芳醇な香りが、空間を満たしていた。

 チョコレートと似通う、“芳醇”と呼ぶことがもっとも適した、ココアの香り。

 普通は砂糖をいれるが、彼は無糖のミルクココアが好きだった。

 

「…………」

 

 気付けば、少女の視線がこちらに向いている気がした。

 少女のほうを振り向くと、びくっ、とあわてて視線をそらす。

 かわいいところあるなぁ、と彼は微笑んで、無糖のミルクココアに砂糖を足して、かき混ぜる。最後に氷を足してアイスココアの出来上がり。

 そして、新しいグラスを取り出して、先ほどとまったく同じ手順でアイスミルクココアを作った。けれど最後に砂糖は加えず、無糖で仕上げる。

 少女のぶんにはストローもさして、二人ぶんが完成した。

 

「はいこれココア。ちょっと量が増えすぎちゃって、飲んでくれるとありがたい」

「……はい、いいえ。あの……ありがとうございます」

 

 ちぅ、と少女はおそるおそるストローを含む。

 ココアの力に彼は少し期待したが、少女の表情は変わらない。

 

「…………」

「…………あぁそうだ。歯ブラシいるよね。確かちょうどストック切らしてたんだよな。あとでコンビニで買ってくる。」

「え、あ。……ええと、はい。お気遣いなく。別に、大丈夫ですから」

「いや歯は磨かなきゃだめだよ」

「……はい、いいえ。そうですよね。口が汚い女とは嫌ですよね。……お願いします」

「? うん」

 

 はぁ、と鉄を吐き出すように、少女は重たいため息をする。

 ココア(甘いもの)パワーは効力を失ったらしいと、彼は自分のぶんのココアをぐいっと飲み干す。

 

「じゃ、行ってくる。他なんかほしいものある?」

「あ──」

 

 少女は、目を泳がせ、たっぷり10秒ほど口をもにょもにょとさせた後、言った。

 

「あの……ゴムってありますか?」

「? ゴム?」

「いえ、まあ、別にないならないで……。どっちでも」

「……あー。あーはいはい。いや何考えてるか知らないけどそういうのではないよ」

「……? …………もしかしてただで泊めてくれるつもりだったんですか?」

「当たり前でしょう。ぼく、大人。君、子ども」

 

 彼は自分を指差し、少女を指差し、身振りで『そういうのは違う』と表現する。

 

「でもおじさん、いつからか知りませんけど、私のこと見てましたよね? 砂浜にいたの、そーゆーの待ってるひとだったのかなって」

「おじっ……?!」

 

 ぐあー、と彼は膝から崩れ落ちる。

 

「……明らかに自分より若い子に『おじさん』って呼ばれるとちょっとクルものがあるね……。まぁ、まぁまぁ……まぁ、ぼくももう26だしな……」

「26……意外と上なんですね。結構若く見えるので、20代前半くらいかなと思っていました」

「ありがとう」

「ちなみに私は16です。ちょうど10個差ですね」

「おお……10年……。10年の差は大きいね……」

「……」

 

 少女は、ずっと能面のような固い表情をしていた。

 暗く重い深海に、心を沈めているかのような、そんな表情。

 彼はどうしたもんか、とかぶりを振って悩む。

 

「……まぁいいや。とりあえず好きにしてて。部屋にあるものはどうしてもらってもかまわないから」

「……はい、いいえ。ありがとうございます」

 

 それだけ言って、彼は部屋を出ていく。

 そうして、少女はひとり残される。少女は、彼の背中を、不思議そうに見送った。

 

「あのおじさん、知らないひとを家に置いて行って、怖くないんでしょうか……」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、数刻後。

 

 

 

 

 

 

 彼が買い物に行って帰ってきたころには、時刻は午前4時になっていた。

 

「……まぁ、もう朝だもんね……」

 

 彼の部屋にあるソファ。

 それに身をあずけるように、少女はねむっていた。すやすや、と穏やかに。小さく丸まって、ねむっていた。

 

「……とりあえず、洗濯乾燥終わらせとこうかな」

 

 少女に薄手の毛布をかけ、彼はなるべく静かに、少女のためのことをした。

 衣類の洗濯、乾燥。それから、ずぶ濡れの靴をなんとか乾かそうと奮闘していた。

 それは彼なりの倫理観に基づいた、エゴと呼ばれても仕方のないことでもあるのだが──……

 

 

 

 

 

 

 

 

〈 7月26日 〉

 

 

 朝、8時。

 少女が、ぼやけた意識で感じたのは、知らないひとのニオイだな、ということだった。

 男の人の、ニオイ。

 少女が顔をうずめているソファを代表とした、部屋に染み付いた、彼のニオイ。

 

「──っ」

 

 跳ね起きて、自分の体をぺたぺたと確認する。……少女が思うに、特に異常はないように思われた。

 服にも、体にも、違和感はない。なにも、されていない。

 

「……おじさん、寝てる」

 

 次に気付いたのは、家主のこと。

 何故かベッドに横にならず、隅のほうで壁に寄り掛かるようにしてねむりについている。

 最後に、わかりやすいところにおかれた少女の服が、綺麗に畳まれて置いてあることに、気づいた。

 

「…………」

 

 少女は、ぼぅ……っとしていた。

 どうしよう、と思っていた。

 けれど、思考が停まっていても、体というものは正直なもの。のどは乾いているし、トイレには行きたい。それがさらに、思考のノイズ。

 気持ち悪いな、と少女は自己嫌悪に陥っていた。

 

 ひとまず、彼にごめんなさいをして、少女は色々と間借りすることとした。

 トイレを借りて、顔を洗わせてもらって、歯を磨いて。昨日飲みきれなかった水と、ココアを飲む。

 ぬるくなったココアは、甘かった。

 のどが渇いていることも相まってか、そのココアは、

 

「……おいしい」

 

 少女がこれまで口にした中で、一番おいしいココアだと、感じた。

 ……その実、ココアというものは、丁寧にとかさなければならない。

 いきなり大量のミルクや水で溶かそうと思っても、ココアの粉はダマになる。

 少しずつミルクをいれて、ほぐすように。

 手を抜かず、丁寧に。

 そうしてはじめて、ムラなく、滑らかな口当たりのココアになる。

 

「……洗い物くらいは、したほうが、いいのかな」

 

 少女が飲むココアがおいしい理由の一つは、ココアが丁寧に作られたから。

 少女が警戒をといてねむってしまった理由の一つは、邪気を感じなかったから。

 少女がいま感謝の念を抱いている理由のすべては、ただ彼が優しかったから。

 

 だけど少女が自己嫌悪に陥る理由の一つは、ココアが甘かったから。

 少女は自分が許せないと思う理由の一つは、眠ってしまったから。

 少女が死にたいと思う理由のすべては、死ねなかったから。

 

「死ねなかったな……」

 

 少女は自嘲するようにつぶやいて、家主が起きてしまう前に帰ろうとして。

 けれど尾を引かれるような思いがあって動けなくて。

 しばらくして、少女は机の上にメモ用紙とペンがあることに気付く。

 少女はペンをとって、

 

 

 

 

『色々とありがとうございました。ココア、おいしかったです』

 

 

 

 

 一言だけメモに書き残した。

 それからグラス、マグカップを洗って。目につく部屋をほんの少しだけ整理して。

 少女は、ひっそりと、彼の部屋を後にした。

 

 



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いってらっしゃい/いってきます

 

 

〈 8月9日 〉

 

 

 時刻は深夜零時を過ぎてしばらくしたころ。

 日付自体は変わっているが、ひとによっては「寝るまでは今日だから! 日付変わんないから!」という時間帯。

 かくいう彼も、気持ちとしてはその派閥で、自分が寝るまでは日付が変わっていないものとして処理していいだろうと思っている。だからこうして、外に出ている。別に、夜を満喫することは悪いことではない、と。

 彼が夜をぶらつくのは、久しぶりだった。彼にとっては、だいたい半月ぶりくらいの深夜の散歩。

 

 夜。夜である。

 夜であるにも関わらず、じっとりと暑い。

 以前散歩をした七月よりも、彼の体感ではだいぶ暑いように感じた。

 Tシャツにはじっとりと汗がしみこみ、首筋には玉になった汗が流れていく。

 

「……暑いな」

 

 けれど今すぐに帰ろうなんてことは思わなかった。

 暑いことは、彼も知っていた。家の外に出た瞬間から暑いことは知っていた。

 それでもいまこうして歩いているのは、散歩をするということが好きだったから。

 

 そうして歩くこと、約15分。

 

 彼は砂浜へとたどり着いた。より正確に言えば、砂浜へと降りるための階段までたどり着いた。

 そこで見知った顔を見つけた気がして、彼は目を瞬かせる。

 

 少女が、いた。

 暗闇に馴染むストレートの黒髪、同色の瞳。それとは対照的に、真っ白なワンピースを着ている少女。

 約半月前、海でびしょ濡れになっていて、彼が自分の部屋に上げた少女──……である気がする。

 気がするというのは、正直記憶が曖昧だったからだ。たった1日。半月前。面と向かっていた時間は計1時間あるかどうかというところだろう。加えて現在も、対面しているわけでもなく、やや距離が空いていて、周囲は暗い。

 

 彼は物陰からひっそりと見ていたわけでもなく、空間は開けている。

 であれば視線を注がれる側も気付くことは可能であり、少女も彼の存在に気付いた。

 

「…………」

「…………」

 

 約10メートルの距離を空けて、視線が交差する。

 彼らの思考は、実のところ一致していた。

 すなわち、話しかけるか見なかったことにするか。

 これだけ長い間視線が絡まっていることから、少女が‟あのときの少女”であるという可能性は高くなっており、同様に少女も“あのときのおじさん……?”などということを考えていた。

 

 しかし、だからと言って「こんばんは! 今日はどうしたんですか?」など気さくに話しかけられるわけがない。

 彼は「いや普通に犯罪では……? 10歳年下の女の子に深夜に声かけるサラリーマンってもう犯罪じゃない……?」と考えるし、少女は少女で、「普通に迷惑……。いや、そもそもどの面引っさげていけば? ううん……」と考える。

 

 少し似た者同士な二人は、ぼけーっと、考えごとをしながら見つめ合っていた。

 そして少女は、「これだけ凝視したあとになかったことにするのは無理がある」と判断し、彼に近づいていった。

 

「おじさん、もしかして深夜徘徊が趣味なんですか?」

「第一声!」

「冗談です。すいません」

 

 少女の軽快な台詞に彼は表情をゆるめ、それを悟った少女も安心したように息をつく。

 

「まぁでもそれを言うなら、君のほうもあれじゃない? 深夜徘徊が趣味なの?」

「……いいえ、はい。そうですね。趣味というと語弊があるかもですが、よくふらついてはいますね」

「へー。この暑いのに物好きだね」

「ブーメランの勢いすごくないですか?」

「ぼくはほら……物好きだから……」

「……なるほど」

 

 少女はかしこまった面持ちでうなずく。

 

「実際、こんなあっついのに外ふらついてる人ってそんなにいないよね。なんせ暑いし。正直、地球ちゃんは温度設定を間違えすぎだと思う。あと湿度。まぁ……たまにそれに負けない元気を持った中高生が花火とかしてたり、コンビニの前にたむろしてたりはするけど、深夜にいるのは物好きな人を除くとそれくらいな気がするな」

「ですねぇ……。花火とかは怖いなって思います」

「怖い……まぁ怖いこともあるか。ぼくあれダメだな。打ち上げ型の花火、手で持ってひとに向けてる人。こっちにも飛んできそうだし単純に危ないし見てて不安になる」

「ですよね! あれほんと怖くて! 危ないしあぁいう人に限ってゴミも放ったらかしに──……ふー。こほん。熱くなってしまうところでした」

「熱中症には気を付けていきたいよね。なったことないけど」

「私もないです」

「とりあえず塩分と水分摂ってれば大丈夫かな~って思ってそうしてたら大丈夫だったことしかない。知識って大事だよね」

「大事ですね」

 

 あはは、と二人して乾いた笑みを浮かべる。

 その表情は固く、どこかぎこちない。

 

「……」

「……」

 

 彼は、長く引き留めても仕方ないし、とっとと話を切るか、と思った。

 

「……まぁ、変に声かけて悪かったよ。じゃあまた、縁があれば会おう」

「え。あっはい」

 

 彼は会釈し、軽く手を挙げて、少女に背を向ける。

 そして少女は、あわわ……と視線を泳がせ、口をぱくぱくと開閉させる。

 

「あ、あのっ」

 

 ぴたり、と彼は足を止める。

 振り向いた彼の目に映るのは、切羽詰まったような、少女の顔。

 

「ええと……その……ごめんなさい一言だけ言っておきたいことがあるんですけど」

「うん? うん」

 

 彼は、てくてくと歩き、離れた距離をもとに戻して、首をかしげる。

 少女は、叱られた猫のように身を丸めていた。

 

「あの、この間はすいませんでした。お世話になったのに何も言わずに出て行っちゃって。それだけちゃんと謝りたくて。……すいません」

「なんだ。全然気にしなくていいのに。ていうか、メモ書いていってくれただろ? あれ結構嬉しかったよ、ぼくは」

「……そう、ですか?」

「そうそう。正直『(うち)来る?』と言ったのはぼくだけどさ、おじさんが女子高生に声かけてる状況がもう犯罪だし、だいぶ偽善者じみたうざい行動したなぁって思ってたんだよ。だからさ、『ありがとう』って言ってもらえてだいぶ安心したよね。嬉しかったよ、ぼくは」

「……おじさん、変わってますね」

「いや年食うと実感するんだけど、ぼくはなんとかなり普通なんだよね。深夜徘徊くらいしか個性がないんだ」

「だいぶ個性的じゃないですか?」

「……そうかな……そうかもしれない……いやしかし……」

 

 彼が、ううむ、と唸っていると少女はまた、ほっ、としたように胸をなでおろす。

 それを見て、険しい顔をしたりそれがゆるんだり、感情のせわしない子だなぁ、と彼は思った。

 

「ていうかもしかして、今日も帰る家がない感じ?」

「…………あの、いいえ、あの。そういうわけではないですっ。別にそれが理由で呼び止めたわけじゃないですからっ!」

「ないんだ」

「そういうわけではないですっ」

「そっかー」

「そうなんです」

 

 こくこくっ、と少女は首を縦に振る。

 彼はどうしたもんかな、と頭を悩ませる。実際それが理由で呼び止めたわけではないだろうし、かと言ってこの様子だと帰る家はないのだろうし、放っておくのも気が引ける。

 『ありがとう』と『ごめんなさい』が言える時点でこの少女はいい子だ。だから、放っておけないな、と彼は思う。

 

「……あのさ、一個提案があるんだけど」

「……はい」

「アイス買いに行かない?」

「はい?」

「暑い」

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありゃっした~」

 

 コンビニエンスストア店員の声を聞き流しながら、彼と少女は退店する。

 彼が手に持つ袋の中には、バーアイスや缶コーヒー、それからおにぎり、サンドイッチ、ポテトチップスなど……とにかく目についたものを放り込んだ、というようなラインナップだった。

 彼はがさごそ、とその中からバーアイスを取り出し、少女へと差し出す。

 ガリガリ君、ソーダ味。『アイスといえばこれ!』と言っても過言ではない定番の一品である。

 

「はいこれ」

「え……。あの、いえ。結構で──」

「さすがに二本も食べられないし、食べてくれると嬉しいなーなんて」

「……いただきます」

 

 おずおずと受け取る少女を見て、彼は(なか)ば確信を得ていた。

 

 ──この子、押しに弱い!

 

 どうでもよければ無視すればいいものを、ついてくる筋合いのないコンビニエンスストアにも、「行かない?」と言っただけで後をとてとてとついてくる。

 おそらく、この子は、臆病ではあるものの、臆病であるがゆえに、押しに弱い。

 そう、彼は感じ始めていた。

 

「ソーダアイス……夏以外にはあんまり食べないんだけど、夏には食べたくなるんだよね。なんていうか、見た目が涼しいし」

「あぁ……わかります。ソーダ色、いいですよね」

「ソーダ色って言い方いいね。そう、あのソーダの水色が好きなんだよな」

 

 しゃくしゃく、とアイスをかじる。

 食べている間は自然と黙ってしまう。けれど少女はそれが気にかかるようで、ちらちらと彼のほうに視線をおくっている。

 

「……とけるよ?」

「! ……はい、えと、い、いただきます?」

「どうぞ」

「……んむ。……冷たいです」

「わかる。おいしい」

「はい」

 

 少女は、ぺろ、とアイスを舐めてそのあと、しゃく、とかじる。

 そして、幸せそうに、笑みを浮かべる。

 

「甘いもの好き?」

「……はい。えと、人並みには」

「そうかそうか。ぼくも人並みには好きだ」

「そう、なんですね?」

「自分にご褒美あげたいときとかは、三個くらいアイス買ったりするなぁ……。食欲は大事だし」

「……まぁ、ご飯は大事ですよね」

 

 一喜一憂の反復横跳びが達者な少女は、不安そうに彼を見つめつつ、アイスがおいしいなと思っていた。アイスは、おいしい。夏場は特に。それは不変の事実である。

 歩きながらアイスというのも、あまり褒められた行為ではないが……目の前の()()がやっているし、そもそもアイスには罪がない。

 そんなことを思いつつ、少女は、抱いていた疑問を口にする。

 

「…………あの、これ、どこに向かってるんですか?」

「ぼくん家」

「……私、帰ってもいいですか?」

「いいよー」

「……」

「……」

 

 帰ってもいいか、と聞いた少女は未だアイスをかじりながら、彼の少し後ろを歩いていた。

 視線が絡むと、バツが悪そうに、言い訳をするように口を開く。

 

「わ、私もこっちなんです……」

「あぁ、そうなんだ。……送ってこうか? ぼくも不審者の一員といえば一員ではあるんだけど、危険度の低いほうだし」

「不審者のかたの送迎はちょっと……お断りさせていただいています……」

「それはかなしい」

「仕方のないことです」

「まぁそりゃそうだ」

 

 少女は、先日見たときと比べるとずいぶんしっかりとした立ち姿、歩き姿をしていた。

 髪も服も濡れに濡れた状態、明らかに普通じゃなかったときと比べるのもお門違いかもしれないが、だからこそ、ギャップがあった。

 背筋も伸びているし、ほぼ初対面であるということを差し引いても、よくしゃべるしよく笑う。

 彼は、自分がわざわざつまらない気を回す必要はなかったかもしれない、とホッと息を吐く。

 

「やっぱりなんだかんだ言って行く場所ないのかもなー、って思ってたから少し安心したよ。いい感じに、ぼく以外の不審者に気を付けて帰ってくれよな」

「…………」

「…………え、何。やっぱり家に帰れないとか言い出す?」

「い、いやー。……そんなことは……ないですよ?」

「君、嘘つくの下手って言われたことない?」

「正直者ですからね。嘘はつかないことにしています」

「そうなの? 正直者なら嘘つかないし安心だ」

「…………いや、嘘つくの嫌いなんですよね」

「そうなんだ」

「そうなんです。こう……なんていえばいいんですかね、嘘をつかないほうが善人っぽいかなって、思うんですよね」

「んー。まぁ例外は多々あれど、そうだね。まぁ他人を傷つける嘘を言わなきゃ、それでいいみたいなとこもあるけど」

 

 少女は、ん~~、と小さく唸っていた。

 悩むような表情。迷いの表情。

 それは罪悪感から生じたものであり、かつ、自分の中の“善人で在れ”というポリシーに自分が反したことに由来するものであった。

 少しの沈黙のあと、少女は決まりの悪い顔で、口を開く。

 

「…………すいません。帰る場所がないってことはないんですけど、家に帰りたくないというのが実情です」

「正直者~」

「嘘ついてごめんなさい……」

「いや、別に謝らなくても」

 

 しかしやっぱりそうか、と彼は彼で、困っていた。

 ついさっきまでなら見て見ぬふりでもいいかなと、正直思っていた。助けを求められているわけでもないのに口をはさみすぎるのは、よくないことだと。

 いまも決して助けを求められているわけではない。わけではない、が……『困っています』と耳にしてしまっては、放っておけないのが彼だった。

 

「……お金あるの? ないなら貸そうか?」

「お金もらうのはそろそろ本気で犯罪じゃないですか?」

「言うな。ぼくも相当やばいことを言っている自覚はあるんだ」

「じゃあ言わなきゃいいじゃないですか……」

「いやだって……。というか、実際にはどうなの? なんとなく言動から察するに、懐は微妙なのではないかと思っているけど」

「…………」

「正直者だなぁ」

「いえ違うんです。家にはへそくりが多少あるんです。持ち出すの忘れてたんですよね」

「なるほどね?」

 

 憂いを帯びた静かな表情で、ふふ、と少女は笑みを浮かべる。

 

「まぁそんなことはどうだっていいんですけど、私もお金が大事だってことくらいはわかっているので、お金を借りようとかそういうのはちょっとなーってところです」

「……なんか、君、いい子だな」

「ものすごく悪い子でないといいな、とは思いますかね」

「いい子か悪い子かはさておき、ぼくは良いと思うよ」

「もしかしていま私口説かれてますか? ごめんなさい無理です」

「いろはすかよ」

「?」

「もしやいろはすをご存じでない?」

「知ってますけど……。というか、知らないひと、いますか?」

「なるほどね」

 

 一色いろはを知らないということがわかった、と彼はうなずく。

 この人は本当に何を言ってるんだろう……と少女は首をかしげる。

 

「なんかやっぱりおじさん、変わってますよね」

「そうかな」

「そうですよ。例えばですけど、普通は、あの日海で何をしてたとか、そういうことをまず聞きません?」

「普通は、他人が何を思ってどう行動してたとか、初対面で聞かないんじゃないかな……」

「でも正直今更なところありませんか? すでに初対面……正確には初対面ではないですけど、それにしてはいろんなことを話した気がします」

「そう……? 判定ゆるくない?」

 

 でも確かに、彼も自分の口が普段より軽いことに自覚があった。それがなぜなのかは、彼にも明確に解答をすることはできない。

 だが、要因として挙げられるのは、少女がココア程度のものに『ありがとう』を言えるいい子であるということ。それから、アイスを口にして笑みを浮かべたり、悩んでいるときに唸ったり、表情がころころ変わる女の子であるということ。

 きっと、そういう理由で、彼は少女に対して口が滑らかになっていた。

 

「まぁでも、ぼくもなぁ、興味がないといえば嘘にはなるから……君が教えてくれるっていうなら聞きたいかな? くらい?」

 

 少女は、「ん~~」と唸り、彼の顔を、下からのぞき込む。

 その唇は、悪戯っぽく弧を描いていた。

 

「何してたと思います?」

 

 少女も、普段より自分の口が軽いことに自覚があった。それがなぜなのかは、少女にも明確に解答をすることはできない。

 だが、要因として挙げられるのは、彼が置き書き程度のものに『嬉しかった』なんて言ってくれる人だったということ。それから、近すぎず遠すぎない距離感がちょうどよかったのもあるだろう。平たく言えばどうでもいい存在だった。近い人に悩み相談はできない。遠い人にも当然悩み相談はできない。

 遠い存在には、何を思われても傷つかない。だから何を話してもいい──なんて。

 きっと、そういう理由で、少女は彼に対して口が滑らかになっていた。

 

「言わずに解答だけ教えてもらうのはだめな感じ?」

「だめです」

「そっかぁ」

「別に、何言ってもいいですよ」

 

 少女はうっすら笑みを浮かべていた。

 平常時なら、むしろ言及されたくはなかった話題。他人にも友人にも、触れてほしくはない地雷原。

 だけどいまの少女の心は、どこか不思議な領域にあった。

 頭の奥が鈍いような、冷めているような。けれど本当は、夏の熱に浮かされているだけなのかもしれなかった。

 理由はなんであれ、少女はいま、目の前の変なおじさんが何を言うのかを少し楽しみにしていた。自分の話を聞いて、どんな顔をするのか少し、興味があった。

 

「え、ほんとに笑わない?」

「? はい」

「えー……」

 

 少女は不思議そうに首をかしげる。

 何をどうやっても、笑うような展開になる話題ではないという自覚があった。

 

 何故なら、少女が海に身を投げていたのは、“身投げ”──つまりは自殺が目的だったからだ。

 泳ぎに行ったわけではなかったから、服は着たままだった。そして、いま生きているのは、純粋に苦しくて、怖くなってしまったから。惨めになってしまったから。

 

 かなりデリケートな話題であるという自覚があったからこそ、何を言うのかある程度の予測を立てていたからこそ──、

 

 

「月に行きたいのかなって、思ってた」

 

 

 バツの悪そうに言う彼の台詞が、少女にとっては意外なものでしかなかった。

 少女は呆気にとられて、ぽかん、と口を開ける。

 言葉を言葉としてとらえるために、少女は時間を要した。ツキ、月……月。(Moon)。いやそれとも、憑き? だけどやっぱり月のことだろう、と。そういう処理を終えるまで、少女はずっと、目をまんまるにして、口を開けて……幼い子どものような、あどけない表情を見せていた。

 

「月って、あの月ですか? 空にあるあの?」

「よーし、的外れなことはわかった。解答をたのむ」

「いやいやいやいやいや、だめです。もうちょっと詳しくお願いします」

「えぇ……? 詳しくって何。月に行きたいは月に行きたいでしょ。これ以上話すことは特にないんだけど……」

「いやいやいやいやいや、何かあるでしょう。わけがわからないんですけど」

「えー……」

 

 彼は溶けそうなアイスを口に放り込み、飲むように嚥下する。

 氷菓子のさっぱりとした味で口の中をうるおしながら、考える。

 言葉を探している彼を見ながら、少女もしゃくしゃくとアイスを食べ進める。

 二人の口の中は、ソーダ(青い)味で埋まっていた。

 

 

「……なんだろな。遠目ではあったけど、陸地に背を向けてただろう。海のほうをずっと見てた」

 

 

 感じ入るものがあって、思い至る節があって、少女はわずかに声をもらす。

 

「月が海に映って、光の道みたいなのができてたんだよ」

 

 未だ言葉は足りず、説明は説明としての体をなしてはいない。

 けれど、伝わるものはあった。

 彼が何を見て、何を感じて、どう思ったのか。

 月に行きたい──……そう感じたその理由の一端を、自分の心と、少女は重ねて……理解した。

 

「……詩人ですね?」

「だから言いたくなかったんだ……」

「笑ってはないじゃないですか。いや、やっぱりおじさん、今まで私が出逢った人の中で、一番面白いですね」

「それはどうも」

 

 少女は、自分のことを少し理解してもらえた気がして、嬉しそうに微笑んだ。

 彼はやっぱり言わなきゃよかった、と渋い顔をして、そっぽを向く。

 

「まぁでも、ちょっと合ってるかもです。月がどうっていうか、泡になって、風になりたいみたいなことは思ったりしてましたね」

「詩人ですね」

「やめてください。セクハラですよ」

「勘弁してくれ。世の中の成人男性はセクハラという言葉にめっぽう弱い」

「セクハラ~」

「こいつ……!」

 

 人と人が、心を縮める瞬間。

 そのきっかけを明確に答えることができる人は、あまりいないだろう。よほど劇的なことでもなければ、人と人が心を縮めるのは、“なんとなく”であることが多い。

 なんとなく同じ時間を過ごして、なんとなく話すようになって、いつの間にか仲を深めている。

 人間関係というものは、往々にしてそういうものだ。

 けれど、言語化できないだけで、小さなきっかけというものは絶対にある。

 彼と少女にとっては、いま行っている、少しだけ踏み込んだこの会話が、それと等しい。

 夏の夜。ソーダアイスをかじりながら交わした言葉が、彼ら二人が仲を深めるきっかけの一つだった。

 

 彼らは、他愛のない会話をしばらく続けていた。

 街灯に照らされた夜道。

 月の無い夜。月の引力が、薄い夜。

 彼は彼の家に、少女は彼にただ着いて行っていて──……それは、海から離れる道のりだった。どこか遠くに行ってしまいたいと思っていた少女の願いとは別方向の、道のりだった。

 

「ところでおじさんって、何してるひとなんですか? 明日月曜ですけど大丈夫なんですか?」

「……? あー、そうか。学生さんはいま夏休みなんだ。そうかそうか。そういえば8月ってそうだった気がする」

「ええと、はい。一応8月末くらいまでですね」

「まぁ夏休みのひとにはあんま関係ないんだろうけど、明日は月曜だけど祝日だから休みだよ。じゃなかったら流石に、こんな時間に外出歩いてない」

「おじさんの深夜徘徊日ってそんな感じに決まってるんですか?」

「徘徊日……。いやまぁうん。前会ったときもたぶんあれは土曜か金曜かだったとは思うけど」

「はー、そうなんですね」

 

 二人分の足音がする。アスファルトを足裏でたたく音、擦る音。普段とは違う、二人分の足音。

 ゆっくりと、彼らふたりのペースで、足が進んで行く。

 その間もずっと話し続けていて、話題は二転三転、色々な方向に進んでいた。

 

「話し戻すけど、君、十六歳って言ってたっけ? 高一? 高二?」

「すごい勢いで戻りましたね。半月前まで戻りましたよ今」

「まぁまぁ」

「……高二です。なんなら最近17になりました」

「へぇ……なるほどね」

「8月5日なので……三日前? あー、四日前になるんですかね」

「えっそうなんだ。ほんとについ最近だ。誕生日おめでとう」

「……ありがとうございます。……しかし、今日ほんと暑いですね」

「ね」

 

 少女は歩きながら手扇でぱたぱたと自分を煽ぐ。

 誕生日を祝われるのがむずがゆいという、少女なりの精一杯の話題そらしであった。

 彼は、それに気づかないふりをして、「暑いね」と相槌を打つ。

 

 そうして街を歩いて行って、彼は、彼と少女は、彼の家まで着いたのだった。

 

「──というわけでぼくん家の前まで到達してしまいました」

「来ちゃいましたね……」

「どうする?」

「どうする、とは」

「うちあがってく? それかホテル代かコミックカフェとかの料金一晩ぶん立て替えようか? それか普通に家に帰る?」

「さっきも言いましたけど、金銭のやり取りはちょっと……」

「だよね」

「…………」

「…………立ち話もなんだし、あがってく? ほら、暑いし」

「……」

「おいで」

 

 所在なさげな少女を手招きして、彼はマンション玄関を通っていく。

 少女は先ほどの軽快な様子とは裏腹に、借りてきた猫のように、おどおどとしていた。

 彼の部屋は賃貸マンションの二階。

 部屋の前まで至るのもほんのすぐのこと。

 

「はい、いらっしゃい。……とは言っても、二度目だけどね」

「お、お邪魔します……」

「一応防音性はそれなりだからそこまで気を遣わなくてもいいけど、深夜だし相応にね」

 

 少女を部屋に通して、彼はさてどうしようと、少女に隠れて苦笑い。

 ひとまずエアコンをつけて、部屋の快適さを上げてゆく。

 

「なんか飲む?」

「お、お構いなくっ」

「まぁまぁそう言わず。……ココアでいい?」

「……ええと、はい」

 

 ──ココア、おいしかったです

 

 あのときのあの言葉が嘘でないなら、これで外れることはないだろうと、彼はキッチンへゆく。

 すると少女は、キッチンを覗き込むように、扉のすぐ近くまでやってくる。扉は開放状態で、彼我の距離は1メートル程度。

 意外と近い。

 彼は、遠慮しいなところはある割に、距離感は近めなのはよくわからないな……と思いつつ、手を動かしはじめる。

 手鍋にココア粉を大さじ4杯、ミルクを少々入れて固練りをする。

 その様子を、少女は興味津々といった様子で見ていた。

 

「ソファにでも座ってればいいのに」

「……ええと、はい」

「あー別にあっち行けとかそういうニュアンスではないです」

「はい」

 

 距離をとろうと膝を立てた少女が、すちゃっと再び座り込む。

 

「ちょっと前から疑問に思ってたんだけどさ」

「なんですか?」

「思ったより……なんだろう。なんと言えばいいのかわからないけど、妙にぼくに対してガード緩いのなんで?」

「緩いですか?」

「ガードが緩いって言い方は違うかもしれないな。心を比較的許してくれている……と感じている。けど、その理由にあまり心あたりがないから、不思議に思っている、かな」

「それを言われると、そもそもおじさんも赤の他人を部屋に上げててガード緩いなって思っちゃいますね」

「それはガードの問題ではなくない……?」

「でも前、私一人残して買い物とかいってたじゃないですか。結構無防備だなって思いました」

「なるほど?」

 

 からん、と二つのグラスに氷が入る。

 そして少し熱を持ったココアが注がれ、、しゅわ、と氷が小さくなって、冷えて、混ざる。氷塊を残したグラスをしばらく、ぐるぐると混ぜる。

 ココアのブラウン、ミルクと泡のホワイト、(アイス)の透明。

 熱が落ち着いていくにつれ、すべてが混ざって、綺麗なココアブラウンになっていく。

 

「できたー」

「ありがとうございます」

 

 ココアブラウンが入った透明なグラスを、ローテーブルに置く。

 彼がいる対角線上にまわりこんだ少女へとグラスを差し出して、席に着く。

 

「……おじさんってココア好きなんですか?」

「好きだよ」

 

 少しるんるんとした様子の彼をぼんやりと見つめて、少女は、裏表がわかりやすい人だな、と感じていた。

 

「私がおじさんにあんまり警戒心抱いてないって話、そういうところだと思いました」

「……? まぁココアはおいしいからね。ポリフェノールたっぷり」

「ポリフェノールって、体にいいんでしたっけ?」

「ポリ袋よりはいいと思う」

「でしょうね」

 

 そうして二人して、アイスココアをくぴくぴと飲む。

 馴染むのが早い二人は、やはりどこかチャンネルの合う部分があるのだろう、同じように息を吐いて、同じように少し口角を上げる。

 

「おいしいですね、おじさんの淹れたココア」

「なんせポリフェノールたっぷりだからね」

「ポリ袋よりは体にいいですからね」

「なんとポリエステルと比べても、ポリフェノールのほうが体にいい」

「でしょうね」

 

 彼は、家に帰ってきて、家にあるものを口にして、ホッと一息ついていた。

 大抵の人は、家の中が一番落ち着くものだ。彼もその例にもれず、穏やかな気持ちを強めていた。

 そして、目の前の人間が落ち着いていると、やはりそれだけでも落ち着いてくるものだ。ヒリついている人間がいる空間がヒリつくのと同じように、心穏やかな人間がいる空間は、空気が弛緩する。

 だから少女も、水分を摂って、甘いものを摂って、弛緩した空気を吸って……より一層、固いものがほぐれてきた。

 

「ところで、今晩結局どうしたい?」

「ええと、はい。……やっぱり、もうしばらくしたら出ていきます。……すいません」

「いいよ。見送りは?」

「いいです」

「そう」

 

 彼は、結露で濡れたグラスを持ち上げて、笑う。

 

「まぁ、これ飲み終わるまでくらいはゆっくりしていきなよ」

「ええと、はい。……おいしいです」

 

 そうして彼らは、グラス一杯のココアを飲み終わるまでの短い時間、だらだらと睦み合うように、話をした。

 その光景は、はたから見れば、ごく普通の仲のいい友人のように見えて。

 だから、最後別れるときも、ささくれ立つ様子はまったくなくて。

 

 

 

 

「いってらっしゃい」

「……い、いってきます」

 

 

 

 

 そうして、少女は、彼の家を去って行った。

 



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私の名前/ぼくの名前

 

 

〈 8月28日 〉

 

 

 蝉の生態について、詳しく知っている者はどれほどいるだろうか。

 『なんとなく』知っている。そういった曖昧な認識をしているひとがほとんどなのではないだろうか。

 もちろんそれは悪いことでは決してない。虫、という括りにしても、一種につき驚くほど様々な違いがあり、かつ虫の種類は膨大だ。

 その中の一つである蝉への知識など、多くの人は持たない。

 

 けれどそれでも、蝉の存在を知らないひとはいない。

 

 ミンミン。シャンシャン。カナカナ。ジーン。ツクツクホーシ。

 夏。蝉たちは大きな声で訴えている。だから誰しもが、その存在を知らないということはない。

 蝉に対する偏った視方が生まれるのも、その存在主張の強さにあるのだろう。大きな声、多数の抜け殻、そして同じく多数の死骸。

 だから『蝉は地上に出てから、1週間しか生きられない』という俗説が信じられる。けれど事実はそうではない。

 

 それは結局、思い込みの問題。視たいものを見た結果の話だ。

 

 ミンミン。

 蝉、蝉が鳴いている。

 昼だった。蝉が鳴くのは、基本的に明るい時間。

 

 夏は夜──などというが、夏が“夏らしい”のは、やはりどうしたって、昼である。

 それを示すかのように、蝉の合唱が大きく響いている。

 そんな、太陽を見上げれば目が焼焦げてしまいそうな、そんな夏の日のこと。

 深夜徘徊は趣味の彼は、太陽が高くのぼっている時間帯に、外出をしていた。

 

「……あづい」

 

 思わず、苦悶の声が口から漏れる。

 夏は暑い。それはもうどうしたって変えられない事実である。

 彼は滴り落ちる汗をぬぐいながら、休める場所に向かっていた。

 

 カランカラン。

 

 喫茶店の扉をぐぐると、入店を示すベルが鳴る。

 昼前であることもあって、店内はなかなかに盛況だった。座れる場所があるかとぐるりと店内を見渡すが、一見して空席はないように思われた。

 待つことがそこまで苦であるわけではないが、やはり少し気落ちしてしまう。

 

 ──ただいま店内満席となっておりまして。恐れ入りますが、そちらの用紙に名前を記入しお待ちください。

 

 そして店員の声にうなずき、ペンをとろうとしたそのとき、

 

「あ」

「……あ」

 

 見知った少女の顔を、店内に見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四人掛けのテーブルについた彼は、対面に座る少女を認め、少し不思議な気持ちになっていた。

 これで少女と会うのは3回目になるが、そのどれもが偶然で、その偶然が約1か月の範囲で起こっている。

 しかし取り立てて驚くことではなく、もしかしたら顔を認識するかしていないかの問題で、今までも同じくらいはすれ違っていたのかも──と思ったりして、もしそうだとしたら、妙に縁があるな、とやはり不思議な気持ちになる。

 

「なんかごめんな。相席」

「いえ、別に。……それに、まぁ、店内混んできたし居座るのやめようかなー帰ろうかなーって思ってたところだったんです。相席してもらえて、私もちょっとありがたいなーという打算もですね」

「あぁ……まぁ四人掛けはね。この時間帯ちょっと罪悪感あるよね」

「そういうことです」

 

 ちゅー、とストローで飲み物を吸う少女は、なんでもないような表情をしていた。

 それを見て彼は、『どうやら本当に気にしてないらしい』と思い、肩の力を抜いた。そしてパラ、とメニューをめくり、中身に目を滑らせる。

 

「今日はどうしたんですか?」

「あー、映画見ようと思って」

「そこのモールの映画館ですか? いいですね。何見るんですか?」

 

 彼は今日見る予定の映画のタイトルを口にする。

 少女はピンとこなかったらしく、はてな、と首をかしげる。

 

「……?」

「ホラー映画」

「なるほど。おじさん怖いの平気なひとですか?」

「いや、無理。苦手。かなり無理だな。夜お風呂入るときとか怯えてしまうくらいには苦手」

「……え、なんで見るんですか?」

「真夏に摂取するホラー映画からしか摂れない栄養素というものが世の中にあって──あ、すいません。ありがとうございます」

 

 お冷を持ってきてくれた店員さんに礼を言いつつ、彼は注文をすませる。

 

「アイスココアと、えー……ミックスサンドください。サイズ普通、無糖で」

 

 かしこまりましたー、と遠ざかる店員さんを見送りつつ、少女に向き直る。

 

「…………おじさん、ココア好きですね」

「まぁね。でも君もそれココアじゃないのか? 大概君も好きだよね」

「や。これは……メニューにココアがあったので……」

「それは好きとは違うのか」

「……好きなのかもしれません」

「はい」

 

 しどろもどろとして目を泳がせる様を見て、彼は表情には出さず、少し驚いていた。

 おそらくだが、様子からして、あの2晩の影響が大なり小なりあって、ココアを注文したのだろう、と。

 好きとまでは言わずとも、印象に残ってはいたのだろう、と。

 

「と、ところで無糖なんですね」

「ん? うん。ぼくはだいたい無糖だな」

「……へー。おいしいんですか?」

「無糖だと甘くなくておいしい。加糖だと甘くておいしい」

「なんか、大人って感じしますね」

「そうかなぁ……」

 

 すごい、と微笑む少女に、「砂糖の有無で大人かどうか決まるわけじゃないけど……」とは思いつつ、彼はほんの少し照れ臭い思いをしていた。

 どんな理由であれ、褒められて悪い気をする人間はあまりいない。それも邪気がない笑みと共に言われたなら、なおさらだった。

 

「ところで、君は今日どうしたの?」

「あぁ、私もモールに用がありまして。……友達とお買い物する予定があって、いまはその待ち合わせですね」

「あ、そうなんだ。ほんとに相席よかったの?」

「それは別に……──」

 

 ちらりと視線を流し、少女は開いていた口を閉ざす。

 トレイを持った店員さんが少し離れた位置にいて、少女につられてよく見ると、トレイの上にはサンドイッチとココアが乗っている……気もする。

 断定するほど近くなく、良く見えない。

 けれど少女の目は確かだったようで、何秒かした後、店員さんがやってきてアイスココアとサンドイッチを置いて行った。

 そして、店員さんが遠ざかっていくのを認めて、少女はまた口を開く。

 

「待ち合わせしてるんですけど。なんでか連絡つかなくて。別にここで待ち合わせしてたわけとかじゃないので、席は別に……って感じです」

「なるほどね」

「私のことは気にせず、食べてください」

「ありがとう。じゃあ……いただきます」

「はいどうぞ」

 

 両手を合わせて食事をはじめる彼を見ながら、少女はまたちゅー、とココアを飲んでいた。

 彼が入店する前からいた少女のココアは、もう底をつきかけていた。

 少女は追加注文しようかどうか悩みつつ、新しい飲み物を頼んだ場合もう少し店内にいることになり、彼が退店するころにはまだ席にいることになる──など、頭の中でぼんやり予定を整理していた。

 すると、少女のスマートフォンに通知が一つ。

 

「あ」

「ん?」

「あぁいえ……噂をすればなんとやらと言いますか……友達から連絡がきたんですよ」

「へぇ」

「親に捕まったとかどうとかで、来れないそうです。困りましたね」

「それは困ったね」

「ね」

 

 サンドイッチをぺろりと一つ平らげ、彼は一息吐く。

 ココアを一口。やっぱり、ココアはおいしいと思うのであった。

 

「おじさんは食べたらすぐ出る感じですか?」

「んー。……そうだな、あと一時間半くらい後ので予約してるから……まぁある程度はのんびりしようかなとは思ってたけど」

「そっか。そうですか。……じゃあ私も少し一緒にいさせてもらってもいいですか?」

「うん」

 

 ぴんぽん、と少女は流れで呼び出し鈴を押す。

 そうして店員さんがやった局面で、少女は迷うそぶりを見せる。彼のほうを一瞥した後に、店員さんに言葉を投げる。

 

「ミックスサンドひとつ。それからアイスココア一つ、サイズは普通で、無糖でお願いします」

 

 女性の店員さんは、オーダーを聞きつつ、彼のほうをちらりと見る。

 第三者の目から見た彼らは、兄妹のようにも見える。けれどそうではないのだろう、と店員は思っていた。

 入店したときの様子。交わす言葉。距離感。

 その片鱗をつなぎ合わせると、少し見えてくるものがある。

 友達の妹、友達の兄。塾講師と生徒。

 そのどれかはわからないが、それに準ずるような関係なのだろう──、と店員は感じていて。いずれにせよ、「年上の男の人を意識している女の子が可愛い!」と非常ににこにこしていた。

 

 ──すぐお持ちしますね。

 

 妙に嬉しそうな店員の視線の意味を悟りつつ、少女は気恥ずかしそうに口元に手を当てる。

 店員の背を見送って、言い訳がましく口を開く。

 それがまた大なり小なり意識していたという証左になってしまう。それを示すように、少女は頬をほんのりと紅潮させていた。

 

「わ、私もお昼まだだったんです」

「まぁ、まだ12時になってないしね」

 

 彼は彼で、状況をなんとなく察知しつつも、特にからかったりすることもなく、事もなげに流していた。

 

「むしろそれだけで足りるの?」

「その言葉そっくりそのまま返していいですか?」

「ぼくはほら……映画館でポップコーンとか食べるし」

「ポップコーンとか飲み物ありなタイプですか」

「有り無しでいえば、無し。あんまり映画見てる最中に飲み食いするのは好きじゃないなあ」

「えぇ……」

 

 じゃあなんで、と疑問を浮かべている少女の意をくんで、彼は「んー」と考えながら話す。

 

「……別に映画見る人間全員にしろって言いたいわけじゃないし、ぼくも正直あんまり飲み食い好きじゃないし──という前置きをした上で言うと、映画館の売り上げって基本チケットじゃなくて映画館で販売してるポップコーンとか飲み物がメインらしいんだよね。だからかな」

「あぁ……」

 

 少女は納得したようにうなずく。

 

「なんか、おじさんらしい感じですね」

「まぁ別に売り上げに貢献しなきゃ! みたいなことが言いたいんじゃなくて、そういうの聞いちゃうと買わないと気分よくぼくが映画見れないみたいな感じ」

「らしい感じですね」

「そう……?」

「はい」

 

 ふふ、と淡い笑みで少女はうなずく。

 彼は、別にそんなんじゃないのに、とバツの悪そうな顔をする。

 

 ──お待たせしました〜。

 

 そうしていると、にこやかな店員さんが少女のサンドイッチとアイスココアを持ってきた。

 ごゆっくりどうぞ〜、と去っていく店員さんの後ろ姿を見送って、少女は無糖のアイスココアに口をつける。

 ほんのり苦くて、コクがあり、ミルクの味がやわらかい。

 

「これが、大人の味なんですね……」

「どうやら、大人の階段をまた一つのぼったようだな」

「セクハラじゃないですか?」

「まぁ……はい……すいません……」

「はい……いえ、気にしないでください……」

 

 頬の紅潮を冷ますように、少女はアイスココアに口をつける。

 そして、人差し指をぴん、と立てて、彼と目を合わせる。

 

「そういえば、おじさんの名前って小池(こいけ)であってますか? 小池さんですよね?」

「あってるけど……。あぁ、表札?」

「です」

「そう、小池」

「じゃあ、小池さん」

「……なに?」

「いえ、今のは『これからは小池さんって呼びますね』の意味です」

「あぁ、なるほど。何か改まって言われるのかと思っちゃった」

 

 はは、と彼が笑い、少女もはにかむように笑みを浮かべる。

 

「まぁでも、まともに自己紹介もしてないもんね」

「ですね。……ぇと、私の名前は、桶内(おけうち)です。桶内真魚(おけうちまお)。……漢字はこう書きます」

 

 スマートフォンのメモ帳に素早く名前を打ち込んで、少女は彼に画面を見せる。

 

「なるほどなるほど。ぼくの名前は小池。小池千夜(こいけせんや)。えーと、漢字はこう」

 

 同じくスマートフォンを使って、彼も自分の名前を紹介する。

 

「いい名前ですね」

「いい名前とか生まれてはじめて言われた気がする。ありがとう。君もいい名前だね。可愛い」

「ありがとうございます」

 

 夜行性だな、と()()は思った。

 人魚だな、と()()は思った。

 この人/この子に似合っているな、と彼らは思った。

 

「……まぁ君も食べなよ」

「はい。いただきます」

 

 両手を合わせた後、真魚はサンドイッチを食べはじめる。

 

「むぐ。……おいひいです」

「良きかな」

 

 そして彼らは、まただらだらと他愛のない話をし続けた。

 じゃあそろそろ映画の時間だから、と千夜は席を立って、合わせて席を立った真魚と二人で退店して、彼らは店の前で、分かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、一口にホラーと言っても、いくつかに分類されるだろう。

 そもそも“ホラー”というのは要素の一つであって、主題と直結するわけではない。

 ゾンビなどが登場するパニックホラー。

 幽霊などが登場するオカルトホラー。

 人間心理への恐怖を描いたサイコホラー。

 グロテスクな表現を用いたスプラッタ系統も、ホラーに分類されるだろう。

 

 これらの中で千夜が基本的に好んでいるのは、パニックホラーとオカルトホラーに分類されるものだ。

 

 そして今回千夜が見ていたのは、洋もののオカルトホラー。

 幽霊に取り憑かれた男の子がいて、その男の子が、幽霊を体から引き剥がすまでのお話。

 約二時間に及ぶホラーの物語を、薄暗い空間で、じっと見ていた。

 

 心拍数は高いのに、背筋は冷えているような。

 ホラー映画を見ているときの感覚は、筆舌に尽くしがたいものがある。

 いや、そもそも映画館で映画を見るという行為自体、特別なものがある。

 今のご時世、スマートフォン一つあれば、無料で閲覧できるコンテンツがたくさんある。有料にしたって、AmazonプライムやNetflixなどで、月に千円程度で数多の物語が見放題だ。

 それでも映画館で映画を見るのは格別で、だからみんな見に行くのだろう。

 映画を見るために映画館に行って、ポップコーンの香ばしい匂いで鼻腔を満たして、薄暗い空間で明るい大きなモニターを見て、視界を埋めて、──最後にエンドロールを余韻と共に眺める。

 

 これが、満ちるという感覚なのだと、思い出す感覚。

 

 その感覚に浸りながら、千夜はエンドロールを見つめていた。

 エンドロールの合間に、ぱらぱらと立ち上がる人影があるのも、なんとなく映画館らしくて、いい。

 

 余韻。 

 

 千夜は、それに包まれていた。エンドロールが終わり、自分の周囲からほとんどの人が消えてから、立ち上がる。

 よいんよいん。

 自然と、歩幅はせまくなって、歩く速度が落ちる。

 面白かった。面白かったな、と千夜は思う。

 

 そしていつも通り、手元にはほとんど満タンのコーラとこれまたあんまり減っていないポップコーン。

 両手をふさいだまま、入場する前と同じような状態で退場し、千夜は受付前・フードドリンク販売場所前まで戻ってきていた。

 

「……?」

 

 そして、気のせいか。

 いるはずもない人影に、目を瞬く。

 そして、()()()()()()()()()()()()()人影に、近付いていく。

 遠目でもわかる。白色のシャツワンピース。千夜の目に映ったその少女は、つい二時間ほど前に分かれたはずの、真魚だった。

 

「なにしてるの?」

「え、映画を見てました……」

「なるほど?」

「言い訳いいですか?」

「どうぞ──と言いたいところだけど、先座ろうか。両手ふさいだまま立ち話もなんでしょう」

「あ、はい」

 

 いそいそ、と都合よく空いていた四人かけ椅子に腰かける。

 千夜は手持ちのコーラに口に含みながら、「それで?」とうながす。

 コーラは氷がとけていて、ひどく水っぽい。

 

「今日、友達と約束をしてたって話はしたじゃないですか」

「うん」

「……暇になったんです。それで、まぁその、映画もいいかなと思いまして」

「はいはい。いいと思います」

「また顔合わせるのも……と思っていたので、すぐ帰るつもりではあったんですけど……」

 

 真魚は、自分の手元にあるポップコーンと飲み物を見つめていた。

 千夜が手にしているそれと同じくらい、中身は減っていないように見える。

 それを見て彼は、ぼくが言ったことを気にしたんだな、と思った。きっと普段は、あまり飲み食いをしないタイプなのだろう、と。

 

「食べきれないなら半分くらいもらおうか?」

「……いえ、自分で食べますっ」

「そ。じゃあお互いがんばろう。いや、結局ぼくもだいぶ残してしまった」

「……いつもそんな感じなんですか?」

「まぁ……そうだなぁ。捨てるのももったいないし、映画はじまる前に食べきれなかったぶんとか飲みきれなかったぶんは、終わってから適当に。捨てちゃうのはちょっともったいないし」

「なんか、おじさ──、こほん。……小池さんらしいですね」

「別におじさんでもいいよ。否定しがたい年齢であることに自覚はある」

「いえ、なんというかその……こういうことを言われると迷惑かもなんですが、あんまり他人っていう気がしないと言いますか、だいぶお世話になったので、おじさんって呼ぶのも失礼かなとか思ったりもしてですね」

「気にしいだなぁ」

「そう、でしょうか」

「いいと思うよ。君──、桶内さんのいいところだ。いい子なのがすごくよくわかる」

「……」

 

 照れ臭そうに真魚は顔をそむけて、ポップコーンをしゃくしゃくとかじる。

 千夜も苦笑して、ポップコーンを口にする。香ばしい。

 

「ところで見てた映画って何?」

「え? ……あぁ、小池さんと一緒です」

「なるほどなるほど。え、じゃあさ、ラストシーンなんだけど────」

 

 千夜は、嬉しそうに好きだった点について話しはじめる。

 演出。台詞。情景。キャラクター。表現。

 今日彼らが見た映画は、とても完成度の高い話であった。

 だからというわけではないが、千夜には話したいことがいくつもあった。というより、同じものを見たのだから、共通の話題として挙がるのが自然だったとも言える。

 そして真魚も、相槌を打ちながら、怖かったシーンのことなどを話し、なんだかんだ、とんとんと話がつながっていく。

 

 二人は、あまり会話に熱を込めるタイプではない。

 

 大笑いをすることはあまりないし、大きく顔をゆがめることもないし、自己主張が殊更強いわけでもない。

 だから二人の会話は、小さく笑って、ぼんやりとしたペースで進んでいく。

 その会話のテンポは、特別楽しいわけではないが、ぬるま湯のような安心感がある。冷たくもないし、熱くもない。そういう、生ぬるい空気があった。

 

「────小池さん、ホラー好きなんですね」

 

 ひとしきり映画の内容について話した後、真魚はしみじみとそう言った。

 

「……まぁ? それなりには……? でもひたすら陰鬱な感じのはだめだな。こう、日本のホラー映画とかは、本当にだめ」

「呪怨とかですか?」

「そうそう。途中で見るのやめちゃう」

「何が違うんです?」

「んー……表現が難しいんだけど、救いがあるか、救いがないか、かな。海外のは傾向的に、ゾンビとかさ、悪魔とか、そういうのを明確に敵として倒して終わってくれたりするからさ」

「今日の結構バッドエンドじゃありませんでした? それは別にいいんですか?」

「それねぇ……」

 

 千夜は腕を組んで、うーん、とうなる。

 真魚から見て、今日の映画はよくできていた、と思う。ホラーがあまり得意ではない少女にも、比較的口当たりが優しく、ただやっぱり怖くて──悲劇的な結末だった。

 いわゆる一般的にはバッドエンドとされる展開のそれを、先ほど彼は『面白かった』と言っていて……ただそれは今言った彼の好む傾向とは異なるように思えた。

 

「すごく言葉にするのが難しいんだけど、悲劇は悲劇でも、有りと無しは結構きっぱり分かれるんだよね。今日のは大丈夫……。あー、綺麗か綺麗じゃないか、ってのは、あるかもしれない」

「……」

「いやごめんね。ちょっとだけ語ってしまった」

「あぁいえ。でもちょっとだけわかります、言ってること。私もあの結末は結構好きでした。……確かに言葉にしづらいんですけど、綺麗でしたよね」

「おぉ。うん。そうそう」

 

 真魚はぼんやりと、一つの物語のことを思い出していた。

 ポップコーンを口に運ぶ千夜を見て、真魚は、少しの期待を抱く。

 もしかして、理解してくれるかも、と。

 

「人魚姫って知ってます?」

「自己紹介?」

「え?」

「いやごめんつい。……ええと、どの人魚姫?」

「あぁ、えと。原作……ですかね」

「ハンス・クリスチャン・アンデルセン?」

「はい」

「ついこの間読んだばかりだ。タイムリーだね」

「ついこの間、ですか?」

「そう」

「なんていうか、珍しいですね? 私が言うのもなんですけど、童話を読もう、ってなる機会ってあんまりない気がします」

「ぼくもそう思う」

「……もしかしてゲームとかですか? FGOとかやってたりします?」

「嗜む程度には」

「なるほど……そうでしたか……」

 

 ううん、とうなずく真魚を横目に、別にそれが理由ではないが口に出すのも野暮だろう、と否定はしないことにした。

 千夜が人魚姫を読んだ理由なんて、彼の隣に腰掛けている少女以外の理由なんてなかった。

 夜、月、海。

 それらを纏う少女が、人魚を彷彿させたと、ただそれだけの、理由。

 もちろん彼も、当時から本気でそう思っていたわけではないし、高尚な理由で少女があそこにいたとも思っていない。

 

「人魚姫いいよね」

「! ですよねっ。人魚姫の結末、すごく綺麗なんですよっ」

 

 人魚姫は、端的に言うと、報われない恋をした人魚の話だ。

 恋をして、気付いてもらえさえしなくて、最後は泡となって消えていく。

 悲劇的な話の、代名詞。

 

「悲しいのも苦しいのも痛いのも投げ出して、泡になって、空気になったんですよ。あの結末がすごく好きで、なんというか……救いがあるなって思うんです」

「いわゆるメリーバッドエンドってやつなんだろうね」

「めりーばっどえんど?」

「ああ。えーと、解釈によってハッピーエンドとバッドエンドが変わる──ってやつ」

「それなら確かに人魚姫は、メリーバッドエンドなのかもしれないですね」

 

 視方が変われば世界は変わる。

 人魚姫は確かに悲劇ではあるのかもしれない。ただそれを不幸(バッドエンド)と捉えるかは、また別の話。

 

「まぁでもそれはそれとして、人魚姫のことに王子様が気付く、順当なハッピーエンドとかも想像しちゃうな。物語の結末として、きれいではなくなるかもしれないけど、でもまぁそういうのもいいよねって思う」

「……それはそうですね。ただ幸せなひとたちっていうのは、見てて、いいなぁって思います」

「ね」

 

 真魚は、少し目をほそめて、笑みを浮かべる。

 悲劇を尊ぶからといって、喜劇を(いと)うわけではない。だけどそれでも、喜びは、悲しみからは遠いものだ。

 

「親身に寄り添う時間はあったわけだし、人魚どうのなくても仲は良かったし、あとは相互理解がもうちょいあれば結末は違ってたのかなと思ったりする」

「かもですね」

「あなたが好きです! みたいなアピールは、ちょっと大げさにやってもいいのかもしれないなぁとか思うよね」

「でもやっぱり難しいところもありますよね」

「それはそう」

 

 人魚姫は声を持たない。

 ゆえに、声を張り上げて主張することができない。

 私はここよ、と。

 曖昧な輪郭に、芯を持たせることができなかった。

 それができたのなら、あるいは結末は違ってきたのかもしれない。

 

「まぁ悲劇は悲劇で完成してるってことに特に異論はないけどね」

「ですね。あの結末は、すごくきれいで、完成してますよね」

「うん」

 

 千夜は、少し感慨深い気持ちになっていた。

 人魚。人魚姫。隣にいる少女が、人魚のようだと感じたあのときの情感。

 その答えに少し触れたような、そんな気がした。

 

「桶内さんて、結構映画とか小説とか、そういうの見る人?」

「えーと、あんまり? 図書室で本を借りたりとかもするのはしますけど、詳しいってほどじゃないですね。漫画アプリとかで漫画読んだり、Twitter漫画とか見たりするほうが多いかもです」

「なるほどね。漫画でも全然いいし、なんなら漫画が一番好きだから漫画でもいいんだけど、ぼくあんまり詳しくなくてさ。どの媒体でもいいし、古くてもいいし、何かおすすめないかなーって思って」

「なるほど? んー……。普段どういうのを見てるんですか?」

 

 真魚は、こてりと首をかしげて問いかける。

 

「そうだなぁ。最近面白かったのは────」

「あ、それ私もちょっとだけ見たことあります。えーと、────のシーンとか────」

「わかる、いいよねあそこ。そのシーン好きだな」

 

 

「────とか」

「────、──」

「──。────、────」

 

 

 水っぽく、味の薄いドリンク。

 なかなか減らないポップコーン。

 それらがなくなるまで、彼らはあちこち話題を跳ねさせながら、色々な話をしていた。

 

「……すみません。結局最後食べてもらっちゃって」

「いいよいいよ。ちょっと量多いもんね」

「Mサイズを舐めてましたね……」

 

 顎に手を添え、真魚は真剣な顔で『次買うなら……』と考えていた。

 その横顔がやけに面白くて、千夜は、ふ、と吹き出してしまう。

 

「えっ、どうかしましたか?」

「いやごめん。別になんでもない」

 

 えっえっ、と慌てふためく姿が可愛くて、彼の笑みはまた深くなる。

 

「小池さん、やっぱり変なとこありますよね」

「残念ながら桶内さんも大概だよ」

「じゃあお互い様ですね」

「そうなるね」

 

 さて、と席を立つ。

 話が落ち着いて、ごみを片付けて、ようやく映画館を後にするときがきた。

 

「桶内さんはどうする? ぼくはそろそろ帰ろうかなって思ってるけど」

「私は、もうちょっとぶらついてから帰ります」

「そ」

 

 じゃあここでお別れだね、と言外に言っていた。

 

「悪かったね。なんか今日は散々付き合わせるような感じになっちゃってさ」

「いえ、私こそ、今日はお時間いただいてしまって……。邪魔じゃなかったらよかったです」

「邪魔ってことはないよ」

 

 薄暗い映画館から、その外へ。明るい場所へ。 

 ほんの少し一緒に歩いて、はた、と足を止める。

 千夜は真魚の顔を少し見つめ、ふ、と少し目尻を下げる。

 

「でも少しだけ、安心した。初めて会ったあの日はどうなることかと思っていたけど、思っていたより、元気そうで」

「まぁ……はい。その節はお世話になりました」

「うん。それは別にいいんだけど……」

 

 この前会ったときも、今日も、千夜の目に真魚の陰りは映らなかった。

 だから、少し、安心した。

 でもやっぱり心配なところが多々あって、不必要なまでに、口を出してしまう。必要か不必要か、それは彼個人の主観の問題で、憶測でしかない。

 やはりコミュニケーションの基本は言葉であって、聞いてみないと不明瞭からは抜け出せない。

 不明瞭と明瞭、彼らの関係は、未だ不明瞭。

 

「どこ住み? 何歳? てかLINEやってる?」

「LINEはやってます。17です。住所は……ええと、駅の──」

「ごめんぼくが悪かった」

「?」

 

 はてな、な顔をして首をかしげる真魚を見て、彼は片手で顔を覆い謝罪する。

 そして、彼は自分のスマートフォンを取り出して、自分の連絡先となるQRコードリーダーを表示した。

 

「はいこれ。なんか困ったことがあったら連絡して。一人暮らしの不審者を頼るのはなるべく控えたほうがいいというのはさておき……いざってときの逃げ場所、候補は多いほうがいいと思うからさ」

「別にもう、不審者とは思ってませんよ」

「ありがたき幸せ」

「……いいえ、はい」

「どういう意味?」

「返答に困りましたという意味の『いいえ、はい』です」

「なるほどね?」

「はい」

 

 真魚は少し考えた後、自分のスマートフォンを取り出して、千夜のアカウントを友達に追加した。

 LINEのQRコードによる友達追加は、基本的に一方通行である。

 読み込んだ側にしか情報がいかず、読み込ませた側は情報を提供したにすぎないからだ。

 つまりこの状態なら、──別に友達じゃないから! 倫理的にアウトな関係になりたいわけじゃないから! という彼のささやかな心の防波堤を維持することができるというわけだ。

 

「適当にスタンプ送りました。お願いしますね」

「……」

 

 しかし連絡先を交換するなら自然とそうするよね、という真魚の対応により、彼の内に秘めた想いは無残に散ってしまった。

 千夜のスマートフォンの画面には、デフォルメされた鯨が『よろしくね!』と言っているスタンプが写っている。

 

「鯨だ」

「鯨のエールちゃんです」

「そっか……」

「はい」

 

 こんなところも海属性なんだな、と感心する千夜の表情を見て何を思ったか、「かわいいんですよ」と真魚は一言添える。

 

「とりあえず、ぼくはもう帰るよ。じゃあね。楽しかったよ」

「あ、はい。お疲れ様です。私も楽しかったです」

「うん。縁があれば、また会おう」

「はい」

 

 千夜は軽く手を振って、背を向ける。

 真魚は、彼に合わせて手を振って、その場にとどまりながら微笑んでいた。

 

 そして少女は、なんだか友達と遊んでたみたいだったな、と思った。

 喫茶店でお茶をして、映画を見て、見た後に映画の話をして、関係ない話で盛り上がったり。

 それはきっと、仲が良ければ起こりうる、至極普通の出来事で。

 

「……縁があれば……」

 

 二人が出逢ったのは、再会したのは、何の裏もなく本当にただの偶然だった。

 だけど偶然というのは必然に等しい。

 海を好む。風を好む。夜を好む。

 そういう、好みの指向性が少なからず合致したからこそ、二人は必然的に偶然な出会いを果たし、必然的に偶然な再開を果たした。

 けれど、だからこそ、それは選んだ結果。

 

 三度。

 

 少女が彼と出会ったのは、今日で三度目になる。

 そして彼の家を知っていて、彼の好みもなんとなくわかってきて、行動圏内もある程度の当たりをつけることはできている。

 つまり出逢う可能性を高めるも低めるも、少女の自由。

 

 縁。

 

 二度あることは三度ある。けれど、四度目以降は、自分の意思で選ぶ必要がある。

 事実、‟次”に会うときは、偶然ではなかった。

 

 

 

 

 彼らが再び出会うのは11月4日……今から約2か月後のことだった。

 

 

 

 


 

 

 

 

人魚姫 -あらすじ-

 

 ……あるところに、歌声の美しい人魚の姫がおりました。

 ある日、人魚姫は、王子様に恋をしました。

 王子様に恋焦がれた人魚姫は、声を代償に、人間の足を手に入れ、陸に上がることができました。

 人魚姫は一人の娘として王子様と仲良くなることができましたが、王子様はかつて自分を救ってくれた人魚に恋をしており、人魚姫に振り向いてはくれません。

 王子様を救った人魚というのは、他でもない人魚姫のことなのですが、ひれの代わりに二本の脚を得てしまった人魚姫は、もう人魚には見えませんでした。

 声も失っているものですから、王子様の想い人は私なのよ、と伝えることもできなかったのです。

 

 しばらくして、王子様はとなりの国のお姫さまと結婚することが決まりました。

 

 人魚姫は、となりの国のお姫さまと幸せそうに踊る王子様を、心が裂けるような思いで見つめていました。

 そんなとき、人魚姫の姉たちが、一振りのナイフを持ってやってきました。

 なんと、このナイフで王子を刺せば、人魚姫の両足は魚に戻り、海に戻ることができるというのです。

 

 人魚姫は、王子様と花嫁がねむるテントに忍び込みました。

 二人は抱き合いながらねむっていました。幸せそうでした。王子様の心は、花嫁で満たされており、他のことはすっかり忘れてしまったかのようでした。

 

 それを見た人魚姫は、ナイフを波間に投げ捨てました。

 そして、自分の身も、海に投げてしまったのです。

 かくして人魚姫の体は、泡になって……そして、空気の娘になったのです。

 

 

 



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おやすみ/……おやすみなさい

〈11月4日 〉

 

 

 ──今夜泊めていただけませんか?

 

 

 千夜のスマートフォンに、そのメッセージが届いたのは午後10時くらいの出来事だった。

 食事を済ませて、入浴もすませて、適当にだらだらと過ごすか……というときに、連絡がきた。

 

 はじめて少女と出会ったのは7月25日、次に出会ったのは8月9日、そして最後が8月28日。

 そして今日が、11月4日。

 連絡先を交換してから、早二か月が経っていた。

 あの頃はなんだかんだと、一か月程度で三回の邂逅を果たしていたので、記憶に新しい状態が維持されていた。

 けれど、二か月。

 たった二か月と見るか、二か月も、とみるかは人によるだろうが、やはり二か月もまったく音沙汰がないと、仕事や遊び、日常のさまざまなことで記憶は塗り替えられていくものだ。

 

 眩しい太陽も光を弱め、木々は秋色を帯びている。

 それくらいの月日が経っていたから、やはり思うところが少なからずあった。

 少しの驚きと、納得と、心配と。

 彼はメッセージを認識するや否や、特に事情を詳しく聞くこともなく、了承の意を返信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お久しぶりです。……すいません、夜分遅くに」

「いや、いいよ別に。あがってあがって」

「明日平日だし、お仕事ありますよね? 本当に大丈夫ですか?」

「まぁ……否定はしないけど、実際そこまで困らないっていうのも本当だよ。徹夜で一緒にゲームしよう──みたいなこと言われるとすごく困り始めるけど、徹夜でゲームとかする?」

「しません」

「なら問題ない」

 

 時刻は23時。

 早ければ眠りにつく人もいるだろう、という時間帯。

 深夜、と区分する人間もいる時間帯。

 

 そして今日は木曜日。明日は祝日でもなんでもなく、普通に仕事や学校のある平日だった。

 

 暗い外、薄暗い廊下を通って、明るい部屋に少女を通す。

 部屋の明かりで、少女の姿がよく見えた。暗がりではよくわからなかった部分が、よく見えた。

 長袖の白いシャツワンピース。夜にとけこむ、さらさらとした綺麗な黒髪。同じくきれいな黒い瞳。

 

 それから、()()()()()()()()()()()

 

「……どうした、それ」

「あ、やっぱりわかりますか。まぁ、ですよね。気付かれないかなと思ってたんですけど、無理がありましたかね……」

「殴られた?」

「……」

「相変わらず嘘を吐くのは下手らしい」

「まぁその……はい。そういうわけで、友だちに泊めて、ともちょっと言いづらくて……。変にどこか泊まろうにも、その、怪我してる高校生が……その……」

「うん。なんとなくわかるし、いいよ。いつまででもいていいよ」

 

 なるほど、と千夜は納得をした。

 確かに友達には、あまり知られたくないことなのかもな、と。

 それに、基本的には問題ないだろうが、妙な話になって事態がややこしくなるかも──、という危惧をすることも、わからないではない。

 

「着替えとかは?」

「あります。今日は持ってきました」

「お風呂は?」

「……借りてもいいですか。すいません」

「はいはい」

 

 聞くべきことを手短に聞いて、彼は心の中でため息を吐く。

 女の子の顔に、傷。

 ごく普通の精神をしていて、これを気に病まない男はいないだろう。

 暗がりだと気付かなかった程度、少し腫れている程度、軽傷と言っていい程度だが、それでも女の子の顔が傷ついているのは、それだけで少しクるものがある。

 加えて、当人は、なんでもないことのように微笑んでいる。

 

 少女の心は、傷ついていないわけではない。

 

 けれど痛みというものは、我慢ができてしまうものだ。

 許容限界値は人によってさまざまであろうが、少女の自然にも思える微笑みからは、少女の許容限界値が高い位置にあることが窺える。

 そして、そんな少女から、赤の他人と言っても過言ではない彼まで連絡がきたという事実が、また痛ましい。

 そこしか、もう頼れなかったのだと。

 その事実が何より、彼には心苦しかった。

 

「……とりあえず、いま追い炊きしはじめたけど……。そうだな、またココアでも飲む?」

「……ええと。はい。いただきます。ありがとうございます」

 

 キッチンに向かおうとして、はた、と彼は足を止める。

 

「…………いや待て。違うな。ちょっとぼくも混乱しているらしい。風呂とか飲み物とかより先に、手当てが先か」

「大したことないですよ。ちょっと腫れてるだけですし」

「えぇ……いや、だめ。だめだよ。血は?」

「えーと……口の中が少し切れてますかね。でも、もう止まってるので……」

「そう? そうか……」

 

 彼は、口元に手を添えて考え込む。

 しかし、混乱しているときというのはやはり、考えがまともに定まらないもので、今回も例にもれなかった。

 

「とりあえずいったんソファ座って、ゆっくりしてて」

「はい」

 

 彼は手早く氷枕を引っ張り出し、トタパタと動いて、枕にタオルを巻いて、少女のもとへ。

 ソファにちょこんと、借りてきた猫のように縮こまって座っている少女に、「はい」と渡す。

 

「……ありがとうございます」

「気楽に──って言っても難しいだろうけど、まぁ気楽にしてくれると嬉しいな」

 

 ちべた……と。

 そんなことを呟く少女を横目に、彼は迷いを継続していた。

 何を迷っているのかと言われれば、傷ついた少女への対応方法である。

 心というのは繊細で、触れ方を間違えれば、簡単に傷が入るものだから。

 特に、すでに傷心だというなら、傷口に塩を塗る行為へと簡単に発展してしまうだろう。

 

「…………」

「…………」

 

 少し考えて、彼は、過度に触れないことを選択した。

 触れれば傷つくなら、触れないのが一番いい。

 傷には薬を塗るものだが、心への特効薬なんてものは簡単に用意ができない。

 なら、変につつかず、安静に、穏やかに。

 大袈裟に拒否するでもなく、歓迎するでもなく、ただ普通に過ごそう、と。

 きっとそれが一番だろうと、彼は思った。

 

 ピー。

 

 そんなことをしていると、電子音が鳴った。

 どうやら湯船の準備が整ったらしい。

 

「着替えは持ってきたって言ってたっけ? バスタオルは?」

「……すいません、忘れてました……」

「じゃあちょっと待って」

 

 彼はまた、トタパタ、とバスタオルを持ってきて、少女へと。

 

「ぼくは割と、何もなくても深夜まで……二時くらいまでは起きてるタイプだし、別に時間は気にしなくていいから」

「……ええと、はい」

「深夜徘徊の実績は伊達じゃない。嘘じゃないよ」

「……じゃあ、ちょっとだけ、長いこと入っててもいいですか? 髪の毛乾かすとかも含めると、たぶん、一時間半くらいはかかっちゃうかなって……」

「ああうん。余裕」

「……ありがとうございます」

 

 彼が微笑むと、少女は、目を逸らして逃げるようにバスルームへと足を運ぶ。

 千夜は後ろ姿を見送って、ため息を一つ、ひっそりとこぼす。

 

 

「──……念のため、日用品買い足そうかな」

 

 

 次のさらに次があるかわからないが、少女用のバスタオルや毛布などは、置いていてもいいかもしれない。

 もし次のさらに次が訪れなくても、それ自体は平和の証とも言えるし、それに自分用の予備としての役割は果たせるので、悪くはないアイデアのように思えた。

 今日のところの寝具をどうするかは悩みものではあったが、ソファは簡易ベッドとして使用可能ではあるし、暖房と加湿器さえつけていれば、夏用の掛け布団でいいと思える。

 千夜のベッドに寝てもらい、彼がソファで眠るという選択もあるにはあるが、あの少女はそれを是とする性格でもないだろう。

 

「まぁ、どうとでもなるか」

 

 でも過度な干渉はしたくないとはいえ、もう少し負荷をかけない形でどうにかできないか──、などとやっぱり考えてしまったりして。

 ただやっぱり、人の心に触れるのは難しい。

 

 直接の言葉を投げるには、心の距離が遠すぎる。

 なら、間接的になら、そういう触れ方なら、刺激も少なくていいんじゃないか──、と。

 

 最善ではないけれど、次善ではあるかもしれない。

 千夜は、机の上に置いてあるメモ用紙と、ペンに、目を落とす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、1時間と少ししたころ。深夜、1時。

 ドライヤーの音が止んで、少女が居間へと入ってきた。

 

「──……」

 

 彼は、居間の大きなモニターで、アニメ映画を見ていた。

 少女は、ぴた、とドアを開けたところで静止して……。

 そろりそろり、と。

 物音を立てないように、という足取りで、動く。

 そんな少女を、彼は床に直座りしながら、一瞥する。

 

「や。思ったより早かったね」

「そう、ですか?」

 

 モニターの映像は動いていて、音声は流れ続けている。

 彼はそれに頓着することなく、モニターではなく少女を見て、話していた。

 

「髪乾かすのとか、まぁ色々。もっと長くかかるかと思ってた……。ていうか、ちゃんと乾いてる?」

「……まぁ……はい。ある程度は」

「……」

 

 じ、と彼は少女の髪を見つめる。

 お風呂上がりの女の子。

 心なしか、目元が腫れている気がする。気がするだけかもしれなかった。

 それから、ほかほかと、肌がしっとりしている……のは良いとして。

 少女の、夜に濡れたような髪は──……まだずいぶん、水気を含んでいるようにも見えた。

 髪が長いと、それ相応に乾かす時間も必要だろう。けれど、人の家で、深夜で、やっぱり時間は気になるだろう。だから時間を使うに使えなくて──と、そういう結果の話だった。

 

「ぼくは見ての通り映画見てるし、別に時間とか気にしなくていいよ。……あぁ、一回見たことあるやつ適当に流してるだけだから、音も気にしなくていい。半分くらいは見てないし」

「……ありがとうございます」

 

 そう言って、少女はまた、洗面所へ。

 やがてドライヤーの音が、また聞こえ始めた。

 

「……」

 

 彼はひっそり、吐息を一つ。

 映画を流し始めたのは、良かったのか、悪かったのか。

 彼が就寝の準備を始めていれば、気を遣わせるだろう。けれど映画を見ていれば、それを邪魔しないようにと、それはそれで気を遣わせるだろう。

 結局どうなるにせよ気を遣わせるのであれば、何が正解なのか……と。

 彼は、そんなことを思っていた。

 

 

 そして、幾ばくかして。

 

 

「すいません。終わりました……」

「ん。何か飲む? 水とか」

「ええと……大丈夫です」

「そ。まぁのど乾いたら、冷蔵庫にあるものは好きに飲んでもらっていいし、コップも何使ってもいいし」

「ありがとうございます」

 

 少女は、少し目を泳がせたあと、そろりそろり、とソファにすとんと座った。床に直座りしている彼からは、幾分か離れた位置。

 

「……それ、『秒速5センチメートル』、ですか?」

「ん。知ってる?」

「はい。えーと、前に放送してるのを見たことがあって」

「なるほどね?」

「……好きなんですか?」

「うん」

 

 少女は静かに、納得したように頷いた。

 秒速5センチメートル。

 その物語の形は、結末は。

 あぁ確かに、前に聞いた話を踏まえると、彼が好きそうな雰囲気ではあった。

 

「最初の台詞が好きなんだよね。……なんだっけ。さっき見たのにもう忘れたな。桜の花びらの落ちる速度が秒速5センチとか言ってるあたり」

「……『ねえ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル』……ってところですか?」

「……よく覚えてるね」

「まぁ、一回見たので。……その、記憶力はいいほうなんです」

「へー」

 

 彼は少女のほうを、感心したように見つめる。

 そして少女は、バツが悪そうに、身をすくめた。

 

「まぁでもその、いま言ってくれた台詞が好きでさ。その台詞に映画の魅力の半分は詰まってるなーって思う」

「……?」

 

 もちろん異論は認める、と彼は言いつつ、疑問符を浮かべる少女に向かって、付け加えるように言葉を続ける。

 

「桜の花びらの落ちるスピードって、秒速5センチじゃないんだってさ」

「え、そうなんですか?」

「そうそう。だからこの映画好きなんだよね。本当は秒速5センチじゃないらしい」

「へー……」

「そう、秒速5センチっていうのは、本当のことじゃなくて。けど本人がそう思ってるならそれが本当なんだろうなって思えたりする。言わなかったこととか、言えなかったこととか。未練があるとかないとか。そういう……なんていうのかな。すれ違いとか? ちょっと言葉に迷うけど、人の未完成な形がきれいな映画というか。で、なんできれいなのかなって思うと、それはやっぱり、桜の花の落ちる速度が、秒速5センチだからなのかなって」

「……小池さんって」

「……はい」

 

 彼の言葉を聞いて、少女は、少し、驚いた。

 少女は基本的に、一度目にしたもののことは、覚えている。経験したことを忘れることはない。だから、今話している映画の内容についても、ごくごく普通に記憶している。

 基本的には、男の未練の話だと。未来を向くに向けない男の、長い時間をかけた失恋の話。

 少女自身、別に、あのような話が苦手なわけではなかったが、煮え切らないような感情は抱いていたから。

 まるで、光が瞬くような。

 少女は、そんな気持ちで、息を吐いた。

 

「小池さんの選ぶ言葉って、なんだかやっぱり、変わってますよね」

「……はい」

「あ、えと、褒めてます。面白いなって意味です」

「え、ほんと?」

「はい」

「だいたいこういうこと言うと気持ち悪がられるから、新鮮なリアクションだ」

「まぁ……この映画が苦手ってひとの気持ちもわかるので……。大半のひとはそういう反応になるんでしょうね」

「そうだなぁ」

「私も、もうちょっとこう……手紙とかメール、頻繁に出せばいいのに、みたいなことを思った記憶があります」

「まぁ……出せなくなっていく気持ちもわかるんだけどね。出したくないというか、出したいけど躊躇われるみたいなのは誰でも思うところな気がする」

「それはそうなんですよね」

 

 少女は、ううん……と、唇に手を添えて、少し考える。

 遠方への引っ越し。物理的に離れ離れなった少年少女のつながりは、手紙という形でしかなくて。

 だけれど、顔も見えず、本音も書けないのであれば……徐々に心が離れてしまうのは仕方のないところもある。

 

「でも、もらうぶんには……もらうぶんには気にならない気はします。出すのは確かにまぁ、思うところがあるのはわかるんですけど」

「時間と距離が空くとどうしてもね」

「一般論としても、遠距離恋愛っていうのは難しいでしょうしね。それに、子ども同士ですし」

「まぁ大人同士なら、またちょっと違う話にはなるだろうけど」

「……ですね。……なんだか変な方向な話持ってっちゃって、すいません」

「いやいいよ。はじめから中身のある話はしてないし」

「なら、いいんですけど」

 

 モニターにはなおも映像が流れ、音が響いている。

 しかし、もともと彼は間をつなぐために流し始めたものだったから、そこに対して、あまり注視はしていなかった。

 ぼぅ、と。

 眠気などで少しふわついた頭と、少し浮いたような視界。

 ねむたいな、という感情。

 そういったことを思っているのは、彼も少女も同じで……だからぼんやりと、滑るように空間を走る音と映像を、漠然と捉えるだけになっていた。

 

「……」

「……」

 

 少女は、ただシンプルに、彼の行動に自分の行動を合わせる必要があるから、特に何もすることができなくて。

 彼は彼で、少し迷っていた。

 先ほど話題に出た、手紙というものの扱いについて。

 手紙を出すことが躊躇われるのは、手紙というものが、重たいからだ。口頭で話すのとは、質の違う言葉の重み。

 なぜなら、その言葉を綴っている間は、送る対象のことだけを考えて、言葉を選んでいる。

 口頭よりも、考えて言葉を選ぶということを、より高い次元で行っている。

 けれど。

 

「まぁ、いいか」

「……?」

「実は少し前に、ちょっと変なテンションになって、手紙書いてたんだよね」

「へぇ〜。いいですね。私、LINEとかばっかりなので、ちょっと憧れがあったりします」

「わかるよ。ぼくも昔、若干の憧れを込めてレターセットを買ったんだけど、使いどころがなくてさ。ずっと死蔵してて」

「わ、レターセット。見た目おしゃれなの多くて、いいですよね」

「そうそう。そうなんだよね」

「小池さんが買ったレターセット、どんなやつですか?」

「えーとね」

 

 彼は近くにある棚の上に置いてある、未使用のレターセットをパッと取って、少女のほうへと差し出す。

 深い海色のデザインで、便箋も海の生き物がたくさん描かれている。

 

「これ」

「うわきれ〜……。小池さん、こういうの好きそう……」

「まぁ……」

「わー……」

 

 彼の想像の十倍は、少女の食いつきがよかった。

 目はきらきらとしていて、今日見た中で、一番活力を感じた。

 彼は、おぉ……と少し目を瞬きつつ、これなら意外といけるのでは、と思い始めた。

 

「…………ところで、ちょっといい?」

「……? はい」

「はい、これ」

「……? なんですかこれ」

「桶内さんへの手紙」

「……?」

 

 彼は隠し持っていた一通の手紙を、少女のほうへ差し出す。

 いま少女が手にしているレターセットと同じデザイン。違う点は、封がされていること、中身が伴っていることだった。

 

「……え、と」

「いまこの場で開けられると、紙で文字にした意味がないので、まぁ明日とか、ぼくが仕事行った後とかにでも……──って、そうだ。ところで、明日学校とかはどうするの? 一日で腫れは引かないだろうし、休むのかな」

「えっえっ。明日はたぶん、休む、と思います、けど……」

 

 手紙のこと、明日のこと。

 二つのことを同時に言われて、少女はやや戸惑いの声をあげる。

 

「それこそ日中、家に帰るの憚られるなら、ずっとここにいてもいいし。……でも、そうだな、何にせよ、やっぱりどこに何があるかくらいは、軽く話とこうか」

「……」

「おいで」

「はい」

 

 彼はよいしょ、と立ち上がって、少女を手招きする。

 説明したのは、冷蔵庫の中身、洗面所に置いてあるもの。使ってはいけないものは基本的に存在しないことを、改めて伝える。

 それから、今日少女が寝る場所について。彼が起きる時間について。

 思いつく限り、必要な情報を、すべて伝えた。

 

「──……まぁ洗顔料とか化粧水とか、女の子からすると、男性用のはどうかなーって思うんだけど。……まぁシャンプーとかリンスもそうなんだけど。ないよりはマシだろうし、明日の……今日の朝になったらこのへん使ってくれていいから」

「はい」

「ぐらいかな。何か聞きたいことある?」

「えー、と」

 

 居間に戻りながら、少女に問いを投げかける。

 少女は、てとてとと後ろを着いてきていた足を、ピタ、と止め……目を泳がせる。

 

「…………ぁ、ぇ」

 

 言いたいことはあるような、けれど口にしづらいような。

 うめき声にも似た、口から漏れる、わずかな声。

 少女は、口をもにょもにょとさせながら、その場に立ち尽くす。

 

「……」

 

 とりあえず座ったら? とジェスチャーで示すと、少女はすとん、とソファへと膝をそろえて座る。

 

「全然、関係ない話なんですけど……」

「うん」

「嘘、吐く人のこと、どう思いますか?」

「……?」

「今日お父さんと喧嘩して……。今日お母さんいなくて。明日帰ってくるので、私が家にいないのとか、お母さん知らなくて……」

「あぁ……」

「お父さんと揉めた理由とか、そういうの、お母さんには知られたくなくて」

 

 記憶の想起。

 声が震え、嗚咽じみたものが言葉にまじり、瞳は潤んでいる。

 泣きそうで、けれど泣くまいと。

 

「お母さんには、何も知られたくない?」

「……うん」

「……そっか」

「全部話したら、お母さんとお父さん、喧嘩しちゃうと思うから……」

 

 父親と揉めて、母親は揉めたことを知らなくて。

 事実として、殴られていて。

 それを含めた一連のことを、知られずに終わらせたい、と。

 

「……そうだな。君は嘘とか苦手そうだから、ありのままのぼくの本音で話すけど。そのあたりは、正直、ほんとのことを話してもいいんじゃないのかなって思う」

「……」

「だって、泣くまで悩んでて。そこまでの話なら、じゃあ周りに甘えるなり任せるなりしてもいいんじゃないのかなって思う。……ただ」

「……?」

「両親に喧嘩してほしくない──って、理由は、とても尊い。最初の質問、『嘘を吐く人のことをどう思うか』、だけど……素直に尊敬する。嘘を吐いてても吐かなくても、君は立派だよ。頑張ってるね」

 

 彼がそう言うと、少女は、大きく息を吸って、吐いて。

 また息をして、吐いて。

 震えるような吐息を、こぼして。

 だけれど、潤んだ瞳から、涙はこぼれない。

 

「……ふぅ」

「……」

「すいません。落ち着きました」

「それはよかった」

 

 やはり、心というものは繊細で。

 少しふれるだけで、感情がこぼれてきそうになる。

 

「…………お母さんには、何も言わないことにします」

「うん」

「……明日は、学校休みます」

「うん」

「……明日、少しの間、この家にいてもいいですか?」

「いいよ」

「あとそれから……」

 

 少しの、沈黙。

 

「……ココアが飲みたい、です……」

「いいよ。あったかいのでいいかな」

「……」

 

 彼はよいしょと立ち上がって、キッチンへ。

 少女はその背中を見つめ、ハッ、と止めるように手を伸ばす。

 

「ごめんなさいやっぱりいいです変なこと言ってすいません」

「えー」

「もう夜も遅いですし……」

「まぁそれはそう」

「ですよね」

「甘いのと甘くないのどっちがいい?」

「……」

 

 事もなげに、淡々と、彼は作業をはじめていた。

 ココアの缶を取り出して、蓋を開け、軽く香りを嗅いで。冷蔵庫からミルクを取り出して。片手鍋を引っ張り出して。

 それを眺めて、少女は、ただ不安で。

 つらいことがあって、ただそれだけでもしんどくて。他人の家というのは、落ち着かなくて。夜は孤独で、寂しくて。

 だからぬくもりが、ほしくて。

 誰でもいいから抱きしめてほしい──、なんて。

 でもそんなこと言えるわけがないから。

 

「……甘くないほうがいいです」

「よろしい」

 

 ふらふらと引き寄せられるように、手を動かす彼のもとへ。

 狭いキッチンに、体一つぶんほどの距離を空けて、のぞき込むようにして入り込む。

 

「……ココア作るの、結構好きなんだよね。缶からココアパウダー取り出すときの香りも好きだし、ミルクちょこっと入れて、ペースト作るところも、練り物してる感じが結構好き。最後加熱して仕上げるところも、香りがぶわーって広がって好きなんだよ」

 

 二人ぶん。ココアパウダーを、スプーンで軽く四杯。

 ミルクを少々。入れすぎないように。そして、スプーンで練るように混ぜ合わせる。均一に混ざったら、ミルクを継ぎ足して、また混ぜて。

 軽く火にかける。

 芳醇と呼ぶにふさわしい、まろやかな香りが広がる。

 そういう様子を、彼がココアを作る過程を、少女は、浮いたような心で眺めていた。

 

 

「……──と、いうわけで、完成です」

 

 

 彼はマグカップを二つ取り出して、均等に注ぐ。

 

「ここまでやっといてなんだけど、飲む?」

「……飲みます」

「はい」

 

 白い湯気が、立ち上がっている。

 ミルクブラウンの液面は、ややまだらで、白とブラウンが対流しているようで。

 そして、細かな泡が、まるでクリームのように現れては、消えていく。

 

 彼は、目を細めてそれを見て、カップを持ってテーブルへ。

 

 こと、とカップをテーブルの対方向に一つずつ置いた。

 

「……」

 

 ふー、ふー、と彼は、息を吹きかけて。

 ずず、と一口飲んで。

 はぁ〜〜、と吐息をもらす。

 

「……」

 

 少女は、倣うように、ココアを一口。

 (あつ)、と声にならない声をもらして、嚥下する。

 

「……」

 

 モニターに流れていた映画は、いつの間にかエンドロールを終えていて。ずっと空間を満たしていた音が、なくなっている。

 吐息の音。カップが机に置かれる音。衣ずれの音。エアコンの音。夜の音。

 空間を満たすのはそれくらいで、つまりは少女に馴染みのない他人の音だった。

 

「ココア、お好きなんですね」

「ん。一日一回は飲む。……桶内さんは? 好きな飲み物とかある?」

「好きな飲み物……」

 

 少女は、少しだけ考えた。

 自分が好んで飲むもの。いくつかある候補を、思い浮かべる。オレンジジュース、ミルクコーヒー、抹茶ラテ、タピオカ、など。

 そして、その好きなラインナップの中には、自然と入りつつある、いま口にしている飲み物があった。

 

「私も、ココア好きですよ」

「そう。それはよかった」

「甘くないのもいいですね」

「甘くないのは甘くなくておいしい。甘いやつは甘くておいしい。……って、前も似たようなこと言った気もするけど」

「言ってましたね」

 

 彼は目尻を下げて、微笑む。

 それを見て、少女も、ようやく肩から力を抜くことができた。

 今日一日、彼と会ってからずっと、迷惑をかけて負担をかけることしかできなくて。情けなくて寂しくて辛くて、それがまた苦しくて。

 あぁ、だけど、言葉を交わして、自然と笑ってくれるのだというその事実が、やっぱり嬉しくて。

 

「……おいしいですね。あったかい」

「それはよかった」

 

 少女は、マグカップを両手で持って、こくり、と飲んで。

 そして、安堵にも似た、吐息をもらす。

 夏の日に飲んだそれと違うのは、温かいこと。

 熱が、のどを通って、胃まで届いて、お腹の中から暖まる。

 

「これ飲んだら、歯磨いて、寝ようか」

「はい」

 

 しばらく二人で、同じテーブルについて、同じ飲み物をのんで。

 交代ごうたいに、洗面所で歯を磨いて。

 

 消灯。

 

 パチリ。

 

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

 

 彼が寝室へ消えるのを、少女は毛布のおかれたソファから、見送った。

 扉が閉まる。一人になる。

 

 

「……──」

 

 

 ソファのひじ置きに頭をあずけて、少女は暗闇の中、毛布をかぶる。

 スマートフォン一つあれば、夜明けまで、時間をつぶすくらいのことはできるだろう。けれど、そういうことをする気もあまり起きず、素直に目を閉じる。

 誰かと時間を合わせて眠るというのは、どことなく、旅行のような気分で、不思議で、落ち着かないようで落ち着いていて。

 夜。暗闇。静寂。

 頬の痛みも忘れて、少女は、穏やかにねむりに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

〈11月5日 〉

 

 

 ピピピ、ピピピ。

 軽やかな電子音、ぼやけた視界、重たい体。

 少女はソファで横になりながら、アラームを止める。

 時刻は6時過ぎ。

 彼が起きる、──と先日言っていた時間に合わせて鳴らしたアラームで、少女は目を覚ます。

 

 別に、少女自身は、この時間に起きる必要もないのだけれど。

 

 学校を休むという、やや後ろめたい行為をする予定がある手前、何がしかの基準を守りたいという気持ちがあったから、きちんと起きようと努めた。

 ねむった時間が深夜である上に、寝床が快適と言えるわけでもなかったから、肉体のコンディションはやや低め。

 精神のコンディションは、普通だった。悪くない。悪くないということは、異常がないということで、良いと言い換えてもよかった。

 

「…………」

 

 少女は、彼の眠る寝室をじっと見つめる。

 そろそろ彼も起きて、ドアが開いてもおかしくない。

 少しの間、少女はぼんやりドアを見つめ続けていて、やがて洗面所へと向かった。

 顔を洗って、歯を磨いて、髪をとかして。

 そうして、少女が起きてから、約15分が経過したが、特に寝室のドアが開く気配はない。

 なお、寝室のドアの向こうからは、アラームの後が、鳴っては消えて、鳴っては消えてを、5分おきのペースで繰り返している。

 

 

 ──6時から7時くらいまで、何回かアラーム鳴るけど、寝てていいよ。

 

 

 実際のところ、彼が言っていた台詞はこれで、少女は一番最初の6時に合わせて起きたのだが。

 まぁ、あの言い方だと、7時までに起きればいいのだろう、と少女は結論づけた。

 

「……んー」

 

 寝間着から普段着に着替えてもいいけど、と少女は自分の服をつまんだりして。

 でも変に洗面所で鉢合わせても気まずいし……と、そこで、一つのことを思い出す。

 

 手紙。

 

 彼が、自分のいないところで開けて読んでほしい、と言っていたもの。

 今の時間の使い方として、ちょうどいいかもしれない──、と期待半分怖いの半分で、少女は手紙を開封した。

 ソファに座りながら、便箋を取り出すと。

 取り出すときに、まず、何かが落ちた。

 

 硬質の、小さいもの。

 金属でできた、鍵。

 

 床に落ちたそれを拾い上げて、少女は、手紙を読み始める。

 

 

「…………………」

 

 

 読み進めて、読んで、読み終わって。

 少女は、頬をほころばせる。

 そして、ぽすん、と腰かけていたソファへと横に倒れる。

 にまにま、と。

 そんな形容がよく似合う笑みを、少女は、浮かべていた。

 

 ──あぁ、あの人らしい。

 

 出会って間もないのに、なんだかそんな風に思える、内容だった。

 少女は、思った以上に手紙に喜んでいる自分にやや驚きながら、全身で喜色をあらわにしていた。

 手紙の内容はともかくとして、しれっと入れられていた合鍵と思わしき物体の取り扱いには悩むところではあったが、それを差し引いても嬉しいことが書いてあった。

 穏やかな、ココアを飲んだときのような気持ちになれる、手紙だった。

 

 

「〜〜っ」

 

 

 感謝の気持ち。喜びの気持ち。

 それを彼にちゃんと返したいと思って、少女は跳ね起きる。

 

 モーニングココアでも、作ろう。

 

 彼ならきっと喜ぶ。そう思って、少女はキッチンへと向かった。

 

 

 



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いま何でもするって──/言いました

〈 12月11日 〉

 

 

 冬は時間が止まっている。

 空気は冷たく、体は委縮し、あらゆるものはにぶくなる。

 

 秋の気配は遠ざかり、冬の温度が、世界の動きを止めようとする。

 

 さて、そんな寒い冬であるからこそ、温かいものは、ひと際おいしい。

 お鍋、おでん、シチュー、ポトフ、うどんなど……。

 それから、あたたかいお茶、あたたかい紅茶、ホット珈琲、ホットカルピス、ホット日本酒……そしてホットココア。

 

 千夜(せんや)は年中ココアを愛飲しているが、やはり冬に飲むココアが一番おいしいと感じている。

 体がぽかぽかする。ほっとする。安心する。

 そういう、穏やかな心を、あたたかい飲み物というのは与えてくれる。

 

「ココア、そっち持っていきますね」

「ありがとー」

 

 キッチンからひょこ、と顔を出したのは、彼の家に頻繁に訪れるようになった少女、桶内真魚(おけうちまお)

 オフホワイトのセーターにジーンズといった、外着でありつつも、少しラフな格好をしている。

 

 少女が本日この家にやってきた理由は、特に、ない。

 しいていうなら、ココアを飲みに来たとか。のんびりしに来たとか。映画を見に来たとか。そんな理由になるのだろう。

 そんな理由で、訪れるようになっていた。

 

「はい、お待たせしましたー」

 

 少女は二人ぶんのマグカップを、コトリ、とテーブルの上に置く。

 マグカップの中には、ホットココアが満ちていた。ミルクブラウンが、ほかほかと湯気をあげている。

 少女は彼のほうにココアをススス……と差し出して。彼をジッと見て、そんな少女に彼は苦笑して、少女のいれたココアを口に運ぶ。

 

「……おー。ミルクとココアの比率が完璧だ」

「ありがとうございます。嬉しいです」

「天才」

「ふふ。褒めてもなにもでませんよ」

 

 真魚の言葉はフラットであったが、唇の端は緩んでいて、まんざらでもない様子であった。

 実際のところ、少女の淹れるココアはおいしい。一番最初に淹れたココアはダマも多く口あたりが良いとは言えなかったが、いまではなめらかなココアを淹れるようになっている。

 真魚がこの家を訪れる頻度は、週に一回から二回になっていて。

 その度、この家に訪れるたびに、少女はココアを淹れている。

 だから自然と、上手に丁寧に、優しい味に仕上げることができるようになっていた。

 

「今日は何を観るんですか?」

「何が見たい?」

「なんでもいいです。合わせます」

「じゃあずっと見たかったやつ」

「はい」

 

 また、少女がこの家に来た際は、映像作品を見ることが常だった。

 アニメ、映画、ドラマ。

 動画の配信サイトにある色々なものを、観て、聴いて、共有する。

 もともとは沈黙が気にならないとか。話題にもなるとか、そんな理由で流しはじめたものだったが。

 なかなかどうして、一緒に映像作品を眺める時間は、比較的、穏やかで心地いい。

 だから、映像作品──……音声を流し、それを共有することが常だった。

 

 

 時刻は、午後の15時。

 

 

 外は明るく、室内も、明かりをつけているため明るい。

 壁紙はクリーム色、カーテンは黒色、テーブルはガラス。明るい色と、暗い色。どちらかに偏るでもなく、どちらもこの部屋には存在していた。

 そして、モニターからは音声が流れる。

 エフェクト、環境音、台詞、BGM。

 その音声を受け止める彼らは、無言。だが、無音ではない。呼吸音や衣擦れなどといった、わずかな所作で生まれた音は、身に纏っている。

 

 そんな無音ではないが無言の彼らはというと、映画の内容に集中してはいなかった。

 モニターを見てはいるし、耳も傾けている。けれど食い入るように画面を見ているわけではなく、別のことに、気をそらしていた。

 

 

ずっと前から聞きたかったことが

あるんですけど

なんだって?!

大したことじゃないんですが、

この家マグカップたくさんある

じゃないですか

集めるの好きなんですか?

いい質問だ。

ありがとうございます

趣味というか、たまに水浸けたまま

放っちゃうことがあるから、まぁ二個

くらい手元にあってもいいかなって。

そんな感じ。

5個くらいありません?

あるかもしれない。

趣味じゃないんですか

うむ…。

 

 

 真魚の口から、ふふ、と声が漏れる。

 小さな笑みをかみ殺すような、映画の音でかき消されてしまうような、小さな音。

 そう、彼らが映画の片手間によく見ているのは、スマートフォンだった。お互いに、メッセージを送り合いつつ、映画を見る。

 

 おうち映画と、映画館映画の一番大きな差はやはり、こういうところに存在する。

 ながら見。

 映画館で映画を見ているときに、スマートフォンなんて取り出したら折檻ものだが、家でそれをして咎めるものはいない。ゆえに、映画館ではできないこと、というニュアンスでおうち映画ならではの楽しみ方の一つと言える。

 リアルタイムで、誰かと感想を言い合ったり、単純に家事など別のことをしたり。そういうことは、おうちで映画を垂れ流しているときにしかできないことだ。

 

 映画を楽しんでいないわけではなくて、ただ単に、別の楽しみに並行で触れている状態。

 

 

これなんてタイトルでしたっけ

ハッピー・デス・デイ

誕生日に殺されるループ系らしい

わ~

ホラーすきですね

うむ…。

 

 

 画面では主人公の女性が刃物で殺されたところだった。

 殺されて。誕生日の当日の朝に戻って、また殺されて、また誕生日当日の朝に戻る話。死を媒介にした、ループ作品。

 

 映像の中で人が死ぬのを見ながら、千夜はココアを飲む。温かい。もうしばらくすれば冷めるだろう。

 映像の中で人を死ぬのを見ながら、真魚は「ぅゎぁ……」とクッションを抱きしめる。

 

 ホラー。このジャンルの物語が苦手なひとほど、映画館より、おうちで鑑賞するほうがよいだろう。

 目を背けることが比較的容易だし、それこそ先述したように、気を紛らわせるように別のことをすることもできる。

 少女は、クッションを片手で抱えつつ、空いた手でスマートフォンをぽちぽちと操作する。

 

 

話だいぶ戻しますけど

小池さんって、誕生日いつなんで

すか?

今どこに戻った?

4か月前くらいですかね…?

ループ級に回帰したなあ。

 

 

 どこに戻ったんだろう……4か月前……8月……? などと千夜は首をひねる。

 

 

殺害予告?

えぇ…?

なにをどうしたら殺害予告になる

んですか?

ハッピー・デス・デイ…。

えぇ…?

そっち8/5だっけ?

 

 

 YES! という鯨のスタンプが真魚から千夜へとおくられる。

 

 

よく覚えてますね

ぼくも某月の5日生まれなのでね

何月ですか?

12

終わってるじゃないですか…

そうかもしれない。

 

 

 しょんもりした顔で、少女は小さく息を吐く。

 もうすぐ、という話ならプレゼントとかもいいな、と思っていたのだ。

 真魚はそのままカレンダーアプリを開いて、じーっと眺める。今日は12月11日。6日しか経っていない。むむ、と思案顔。

 少し悩んだ後に、スタンプを一つ。

 『お誕生日おめでとう~!』とキャラクターがかわいらしく言っているスタンプだった。

 

 

6日過ぎてますけど

 

 

 そう一言コメントも添えて、真魚は体二つぶんほど間を空けた、となりを見る。

 ちら、ちら。

 千夜が真魚のほうに目線をやり、視線が絡むと、あわてて画面を見に戻る。画面の中ではまた主人公が死んでいた。

 彼は、ふ、と笑みをこぼし、少女に倣うように『ありがとう!』とスタンプを返す。

 続けて、彼も手持ちのスタンプで、『HAPPY BIRTHDAY!』のスタンプをおくる。

 

 

4か月と6日過ぎてるけど

ありがとうございます。

 

 

 少しぬるくなったココアを飲んで、やわらかな停滞に身をゆだねる。

 彼らの過ごす空間は、すごく落ち着いていた。

 冬の停止。時間の停滞。少し気持ちが溶けるような、心の奥底に封じられているような。

 夏が浮かされるものなら、冬は沈むものなのかもしれない。けれどその沈んだ場所が、必ずしも居心地の悪い場所とは限らない。

 空調。飲み物。同じ空間にいる人。

 それらの要因によって、その空間の居心地の良さというものは、変わってくる。

 

 彼らのいる空間が居心地が良いのか悪いのか。その答えは、先のやり取りで心に生まれた、心の温度の通りだった。

 淡くて、つかみどころがない、あたたかい色。

 

 そしてそんな彼らの心象とは裏腹に、画面の中では、また主人公が死んでいた。

 けれど死を繰り返しながら、話は前へと向かっていく。

 

 

想像とだいぶ展開が違う。

ですね

タイトルとはだいぶ受ける印象が

違います

もしかしてギャグなのでは?

ホラーではない感じ。

ギャグ…

というかミステリーかもですね

ミステリーホラー。

面白いですねこれ

わかる。

 

 

 なぜ死んでいるのか、犯人は誰なのか。

 それが謎なまま話が進んでいっていて、どのように話が運ぶのかわからない。

 どきどきわくわく。

 時折、推理や純粋な感想を互いに投げ合いながら、鑑賞を続ける。

 

 

 そして、物語は終盤へ。

 

 

 もとより1時間30分の映画。特筆して長いわけではない。

 集中して見るようになれば、クライマックスが近づいていけば、時間はあっという間にとけていく。

 エンドロール。

 

「うむ……」

「今日結構な頻度で『うむ』って言ってますね」

「突発的な口調のブームってたまにあるだろう?」

「えぇ……? 特には……」

「なるほどね」

 

 応答をしつつ、「んー……」と真魚は伸びをする。

 ずっと似たような姿勢でいて、少し疲れたようだった。

 

「ホラーってこういうのあるんですね。なんか思ったより内容が明るくてびっくりしました。いや、人は死んでるんですけどね」

「ね。バッドエンドとかも綺麗で完成してるけど、こういうエンディングも、やっぱりいいよね。なんていうの、一流のバッドエンドより二流のハッピーエンドのほうがいいみたいな」

「これは一流のハッピーエンドじゃないですか?」

「それはそう」

「面白かったですね、これ」

「続きあるらしいし、また今度見よう」

「えっこれの続きあるんですか? なにやるんですか? もう話終わってません?」

「さぁ……? まぁでもこれ以上ないくらいの終わり方だったね」

 

 えぇ~~、と真魚は少し難色を示したような反応をしている。

 完成したところに手を加えるのは、少し気持ちが悪い。

 その気持ちは千夜にもわかるので、素直に同意する。

 

「でもまぁ、見てみたら面白いかもしれないし。変な先入観で、本当は良いものを良くないものとしてしまうのも……と思ったりもする」

「それはまぁ……そうですね」

「だからまた今度──なんならいまから再生してもいいけど」

 

 現在時刻は16時を過ぎたころ。

 仮に1時間休憩しても、17時。そこから2を再生した場合は、18時半に終わる計算になる。

 

「私はどっちでもいいですけど……。映画見てたら、ご飯はだいぶ遅くなっちゃうかもですね」

「まぁ……桶内さんの帰りあんまり遅くしてもあれだしね」

 

 今日は夕食まで一緒にして、そのあと少女は帰宅する予定になっていた。

 だからあんまりスケジュールを後に後にと押していくのは、あまり少女としては、嬉しくないのだろう。

 少女は、ホッとしたように、小さく息をつく。

 そんな少女を彼が見ていると、はにかむように笑う。

 

「というか私、あんまり料理が得意とは言えないので、ちょっと時間がほしくて」

「普通に上手いと思うけどな」

「……いえ、まだまだです。がんばります。おいしく作ります」

 

 むん、と拳を握る少女を横目に、彼はなんだかなぁと思っていた。

 

 今日の夕食は、少女が作ることになっていた。彼と少女のぶん、二人前。

 だから少女は、そのための時間がちゃんとほしいと思っていて。彼は、なんだか悪い気がするなぁと思っていた。

 

 少女が、この家で家事をやりたがるようになったのは、いつからだろう。

 合鍵を渡した後から、ちょこちょこ、掃除をさせてほしいとか洗濯をさせてほしいとか料理をさせてほしいと、そんなことを言うようになった。

 ただ、代償行為としてしようと言うなら、別にしなくていいと、彼も言い切れたのだけれど。

 

「……料理、楽しい?」

「はいっ」

「それはよかった」

 

 目をここまでキラキラされると、止めるほうが間違っているように思える。

 いわく、家で料理をする機会がほとんどないから、楽しいのだとか。

 

「そういえば小池さんって、ふわとろオムライスのほうがいいですか? 固めのほうが好きとかあります?」

「……? オムライスを家庭で作るのに、ふわとろという選択肢が……?」

「ちょっとやってみたくて。上手くできるかわかんないですけど……」

「やってみたいならやるしかない。まぁ、ぼくはどっちでも好きだし。それに、家でふわとろ仕上げできたら楽しいし、いいと思う」

「やった。じゃあやります」

「うむ……」

「ネットで『失敗しない作り方』とか見てると、いける気がするんですよね」

「わかる。まぁがんばってくれ」

「がんばります」

 

 同じソファに腰かけて、体二つぶんほどの距離を空けて、談笑する。

 

「まぁ……とはいえ、まだ準備するにも早いだろうし、のんびりしていこう」

「はい。……ココアとかお代わりします?」

「んー、飲んでもいいけど、お腹たぷたぷになってしまうしな。夕飯が入らなくなってしまう」

「じゃあやめておきましょう」

「うむ……」

「とりあえずマグカップ洗っちゃいますね」

「あー、あとでやっとくよ。置いといてくれれば」

「洗っちゃいますね」

「……まぁいいけど」

 

 るんるん、と弾むような足取りで、少女は髪を揺らしてキッチンへ。

 間取りの関係上、ソファに座っていても、キッチンの様子を見ることができる。

 セーターの袖をまくって、蛇口をひねって、水と食器、それから手が触れる音が響いて……と、そんな様子がうかがえる。

 ここ最近よく見るようになった、他人が自分の家にいる光景。

 

 

「………………」

 

 

 幾ばくかして、洗い物を終えた少女が、居間のソファへと戻ってくる。

 ぽふん、とお尻を沈めて、クッションを抱えて、「ふふ」と笑う。

 

「ありがとう」

「どういたしまして。何かしてほしいことがあったら何でも言ってくださいね。可能な限り、がんばります」

「いま何でもするって──」

「言いました」

「じゃあ、今晩映画見ない? オンラインでさ」

「……オンライン?」

「ほら、画面共有とか。それこそアマプラならウォッチパーティとかできるし、オンラインで映画の同時視聴しつつチャットするみたいなの、そういうのもちょっと面白いかなーって、ふと思ったりした」

「……」

 

 少女は、目をぱちくりと瞬き、口もとに触れながら考える。

 なんでもすると言った手前、別に断るつもりはなかったが、お願いの内容が。

 そもそも本当に何かを言われるとは露にも思っていなかったため、少女は驚いていた。

 

「私は別に……はい。別にいいんですけど、いいんですか?」

「いや……ぼくのほうにダメな理由は別にないんだけど。そっちに私用のパソコンとかタブレットないなら、ちょっと厳しいかなと思って。スマホでもいいけど、チャットとかやるなら画面小さすぎるし」

「それは別に。お古のiPad持ってるので」

「おっけー完璧だ」

 

 少女はやや困惑しつつ、髪をくるくると弄ぶ。

 そう、困惑していた。

 その理由は明白で、何でも言うことを聞く──、と冗談交じりに言ったものの、本当に何かを言われるとは思ってなかったから。

 彼が少女に何かを要求するのは、珍しい。プライベートな時間に踏み込むのであれば尚更に。

 珍しいというより、初めてかもしれなかった。だから、驚いた。

 

「……いやほら、普通に、シリーズものなら、せっかくだし一緒に見たいし。でも毎日毎日うちに来てもらうのも難しいだろうし、そういうのもありかなーって」

「今日の奴の続きってことですよね? いつでも──、あっでも、うちで登録してあるのアマプラくらいなので、他のサブスクだと無理かもです」

「大丈夫大丈夫。世の中、Amazonプライムを信じてさえいれば強く生きていけるから」

「なら安心ですね」

「うむ……」

「いつにします? 別に今日でも私は全然いいですけど。明日休みですし」

「奇遇だね。ぼくも実は明日休みなんだよ」

「いいですね」

「じゃあ今日の──」

 

 

 そんな、約束をした。

 今日の深夜、0時に、今日見た映画の続編を一緒に見ようと。

 そういう予定を立てた。立てて。立てたから、そこで一息。

 呼吸をして、笑みを浮かべて。

 そんなぬくもりと共に、時間が動いていく。

 

 

「……でもあれですね。話変わりますけど、誕生日お祝いできなかったの、ちょっと残念です。ケーキとか食べました?」

「……あー」

「?」

「ケーキは、食べてないかな……」

「あ、そうなんですね。甘いの好きって言ってたから、食べてるかなって思ってました」

「んー……」

「……?」

 

 バツの悪そうな顔で、彼はうなる。

 少女は、何か変なこと聞いたかな、と首を傾げる。

 

「とりあえず、『嘘をついたつもりはなかった』という前置きをしつつ、話をしてもいい?」

「はぁ……。どうぞ」

「誕生日、12月5日じゃないんだよね」

「あれ?」

「いや確かに5日だと思われる感じのこと言ったんだけど、あのときは『5がつくのお揃いだな』くらいのニュアンスで言ってて、誕生日祝ってもらった手前、否定するのもなぁと思ってたりして……」

「へー……。5がつくのはお揃いで……12月なのはほんとなんですよね? てなると、15か25ですか?」

「25のほう」

「クリスマスじゃないですか」

「Yes」

「キリスト」

「の聖誕祭」

「クリスマスが誕生日って、そりゃそういう人がいるのは当たり前なんですけど、なんだか不思議な感じですね」

「うむ……。クリスマスプレゼントと誕生日プレゼントがまとめられることに定評がある素敵な生まれだよ」

「あぁ……やっぱりそういうものなんですね……」

「別に今となっては、さして気にしてもないけど」

「そういうものですか」

「そういうものです」

 

 少女は話しつつ、スマートフォンでカレンダーを見ていた。

 今日が、12月11日。25日まで、14日。ちょうど丸々二週間。

 二週先ということはつまり、土曜日ということで、普通に考えれば休日ということだった。

 

「……ちょっと考えたんですけど」

「うん」

「小池さんって彼女とかいるんですか?」

「どっちだと思う? ぼくはいないと思ってる」

「小池さんがいないと思ってるのにいたら、もうそれはホラーなんですよね」

「怖いね」

「いないんですよね?」

「いないね」

 

 年頃の少女を平然と家にあげたり、合鍵を渡している時点で、恋人の類はいないことは窺えていた。

 けれど、本人の口からハッキリと聞いたのはこれが初めてで、少女は納得をしつつ、『それならば』と考えていた。

 

「友達と会ったりとか、そういうのはどうなんです?」

「いや特に……? ご飯誘われたりする可能性もなくはないだろうけど……ここ数年そんなのなかったし、今年もない気がする。クリスマスっていうか忘年会はどっかであるかもだけど、まぁクリスマスにそれねじ込まれることはないだろうし……」

「もしかして、クリスマスに暇あったりします?」

「あったりしますね」

「……」

 

 真魚は、考える。考えていた。考えた。

 やりたいこと、望む形は脳裏に描かれていて。だけど実現するためには、他人の時間をもらう必要があって──と、そんなことを考えていた。

 だけど。

 そういう話をするなら、もう前々から、彼の時間をもらっている。

 心理的抵抗を理由にするなら、合鍵をもらったときに、返すなりなんなりをしておけばよくって。

 でもそれをしなかったのは。今もあまり、そういう選択を取る気にはなれないのは。

 

「……えっとじゃあ……プレゼントだけ当日渡したいので、ちょっとだけお時間いただいてもいいですか?」

「いいけど」

「ではそういうことで」

 

 そして、また一つ約束をした。

 約束。次につながる言葉の形。

 今晩は、一緒に映画を見る。クリスマスには、プレゼントを渡す。

 そういう‟次”があるから、期待をする。安心する。あぁ、私はここにいてもいいんだ、と思える。

 

「そろそろ、おゆはんの支度はじめますね」

「おっけー。何を──」

「何もしなくていいので、座って待っててくださいね」

「はい」

 

 少女は、心底嬉しそうに、笑みを浮かべた。

 月の光のような、自分だけでは照らせない、優しい明かり。

 誰かがいるから輝ける、そんな笑みを伴って、少女はキッチンへ。

 

「~~♪」

 

 そんなこんなで、彼らは同じ時間を共に過ごした。

 真魚の作るオムライスが案の定ふわとろ仕上がりにならなかったり。それはそれで楽しかったり。次どうする、なんて話をしたりして。

 最後には人通りの多いところまで送る、という名目で夜の散歩に興じたり。

 

 別れた後も、各々の家で一人になって、けれどインターネット上で繋がって、一緒に映画を見たり。

 そして感想を言い合ったり。

 

 今日何をしていたか、ということを言い表そうとするだけで、原稿用紙が複数枚必要になるような、そんな時間。

 冬の冷たい空気の中では、他人の温度がより鮮明で。

 彼らは、そうして、同じ時間を過ごしていた。

 

 



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メリークリスマス/ハッピーバースデー

 

〈 12月25日 〉

 

 

 クリスマス。

 イエス・キリストの降誕祭であるわけだが、恋人を持たない一人暮らしの社会人からすると、これといってなんてことはない日である。

 平日なら、ただ普通に仕事をする日でしかないからだ。

 事実昨年は平日だったため、千夜(せんや)はごく普通に仕事をして、コンビニエンスストアでケーキとチキンを買って帰ったくらいの思い出しかない。

 

 けれど今年は休日だった。

 12月25日、土曜日。24日は仕事だったが、今日はお休み。

 だからというわけではないが、彼は今日外出をしていた。

 もともとは特に予定もなく、休日だからといって特に例年と変わらない日を過ごすつもりだったのだが。

 

 

 ──プレゼントだけ当日渡したいので、ちょっとだけお時間いただいてもいいですか? 

 

 

 千夜は、真魚の言葉を思い出していた。

 つい先日、空いている時間を尋ねられたので、『17時以降ならいつでも』と返信した。『では17時ごろ伺います』と言われたので、17時には自宅にいなければならない。

 さて、プレゼントを渡すと言われているのだから、こちらも渡さねば無作法というものだろう。

 これを考えたとき、色々と思うところがある。

 

 

 Q. いまどきの女の子が喜ぶものってなんですか?

 A. さぁ……?

 

 

 どうせ渡すなら喜んでもらいたいし、と思いつつ、なんだかんだ先週は忙しくて当日になるまで何も用意することができていない現状だった。

 そんなわけで、クリスマス当日、千夜は近場のショッピングモールに訪れていた。

 モールというだけあって大きく、専門店も色々と入っている。一日ぶらつきつつ色々見ていれば、なにかは見つかるんじゃないかなぁ……という楽観思考である。

 

 時刻は13:00。

 家に帰るまでざっくり1時間として、16時までの3時間でプレゼントを選定する必要がある。

 楽勝では? と思いつつ、それでもやっぱり色々悩んでいると3時間くらいはあっという間である気がする。

 

 事実として彼がモールを訪れたのは11時ごろで、軽食をはさんだのを考慮してもすでに1時間は見て回っている。

 しかし現状まったく候補には巡り合えていない。

 

 最終的には無難な消え物にはなるだろうが……と、思いつつ、彼は通路を歩く。

 すると、先方に、見知った顔を見かけた。

 

 ぽかん、と開いた口。桜色の唇。夜色の髪。あどけない表情。

 白いダッフルコートに青いセーター、黒のスカート。

 夜と海の映える少女、桶内真魚(おけうちまお)がそこにいた。

 

 思わず足を止めてしまって、向こうも足を止めて、ばったりと視線が合う。

 予想の外だったというのと、プレゼントを贈る相手との出逢いというのもあり、思考が混乱。

 お互いに、つい停まってしまった。

 

 

「あら、お知り合いですの?」

 

 

 そんな沈黙を破ったのは、真魚の隣にいた女の子だった。

 明るく染まったミルクティーブラウンの髪を、サイドテールにまとめた女の子。

 真魚と千夜を交互にしげしげと眺め、ははーん、とニヤニヤしていた。

 

「もしかしなくても、真魚ちゃんの──」

「わーっ、わーっ!」

「むぐ。まだ何も言ってませんわ」

「絶対ロクなこと言わないでしょ!」

「そんなことありませんのに……」

 

 ぎゃー、と威嚇するように真魚は友人の肩を揺らし、肩を掴まれた女の子は、ぐわんぐわんとされるがままに遊ばれていた。

 そして、ぽかん、とその様を眺めていた千夜と友人の女の子との目が合う。

 

「あら、すいません。わたくしとしたことが申し遅れましたわね。佐々木礼(ささきれい)と申します。以後お見知りおきを」

「あぁ、ご丁寧にどうも。えーと、小池千夜(こいけせんや)です。どうぞよろしく」

 

 すごい口調をしている割に、名前はすごく普通だな……と千夜は思っていた。

 礼はにっこりと笑みを浮かべ、ずずい、と千夜との距離を詰める。それを見て真魚は、ぎょぎょ、と動揺していた。

 

「真魚ちゃんから色々話は伺っております」

「えっ。そ、そうですか。……不躾ながら、何を聴いてるんです?」

「あら、わたくしのような小娘に敬語なんて不要ですわ。聞いた内容は……そうですわね。……悪い内容ではないとだけ」

 

 礼は笑みを浮かべながらウインクをする。

 千夜も真魚も、そんな礼に動揺を隠せてはいなかった。

 真魚は、あわわ、と慌てふためいている。

 

「べ、別に悪いことはなにも言ってませんからねっ。最近お世話になってる方がいるとかそういうのですっ」

「えぇ……? いやそれはそれでどうなんだ……?」

 

 いったい何を聞いているのか、と千夜は身構える。

 27歳の男性と17歳の少女というだけでも、なにかと邪推をしたくなる要素しかない。

 なにを聞いてもよろしくない方向の認識にしかならなそうだが……良いところだけを言えば、好意的になるのは当たり前なのかもしれなかった。

 

「ところで、小池さんもお買い物ですの?」

「そうだね」

「もしよろしければですが、ご一緒しませんこと? そのほうが楽しそうですわ」

「え?」

「礼ちゃん?!」

 

 礼は飄々としており、千夜と真魚は唖然としていた。

 

「両手に花ですわよ。いまならセット価格でお買い得です」

「いや売り物じゃないんだから」

「まぁいいではありませんか。それともなんです? 嫌とおっしゃいます?」

「ものすごく解答しづらいことを聞くね。まぁ、嫌ではないです」

「では、示談は成立ということですわね」

「……」

 

 いいの? と千夜は真魚に視線を送る。

 真魚は、ゆるゆると小さく首を振って、『よくない』という熱を込めて礼を見つめた。

 

「では行きますわよ~」

 

 想いは通じなかったらしい。

 真魚と千夜は顔を見合わせ、先行する礼の後ろを着いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 礼の先導に従いつつ、彼らはウィンドウショッピングに勤しんでいた。

 本来の目的は“プレゼント選び”であるが、渡す当人が目の前にいる以上、それを行うことは少々難しい。

 ……そう、実のところ、千夜だけでなく真魚もまだプレゼントを用意してはいなかった。

 理由は端的に言うと、以下の通りである。

 

 

 Q. 10歳年上の男の人が喜ぶものってなんですか?

 A. さぁ……?

 

 

 そんなわけで、()しくも同行することになってしまったが、互いが互いのことを意識しつつ動いているのだった。

 意識、と言っても色めいたものではなく、ただ単に「選びづらいなぁ」というどちらかというとマイナスの感情である。

 

 ゆえに、ウィンドウショッピングとなる。

 主目的となる行為に手を出せない以上、色々な品物を見て、「わぁ~」とすることしかできない。

 

「小池さんは、好きな色とかございます?」

「言うほどこだわりはないけど、白とか黒とか青とか、寒色系かモノトーンカラーあたり?」

「ちなみに真魚ちゃんは青ですのよ」

「あー、ぽいね」

「ちなみに礼ちゃんはオレンジですよ」

「なるほどね」

 

 きゃぴきゃぴと品物を見ている女の子二人から一歩離れ、千夜も陳列棚を眺めていた。

 彼が眺めているのは、陶器製の箸置き。色々な種類が置いてあって、可愛らしいお猫さまの形状をしていたり、犬の形状をしていたり、焼き魚の形状をしていたりしていた。

 魚。海。鯨。

 青。

 彼は、真魚の好きなものを連想ゲーム的に、考えていた。

 

 真魚は真魚で、モノトーン……? と思いつつ、小さな猫のぬいぐるみを手に取っていたりした。白色。ふわふわで可愛らしく、真魚の好みであった。自分の好みだった。()()()()()()()()()()()、と思った。わからなかった。

 ちらり、と真魚は千夜へと視線を向ける。

 彼はぼんやりと、陳列棚を見つめていた。

 

 そしてそんな真魚を、なんとも言えない気持ちで、礼は見ていた。

 

「わぁ、それ可愛いですわね! 猫さんっ」

「ねこさん~。ねこさんはいつも可愛いね」

「……小池さんはどう思われます? やっぱり殿方は、こういうものには興味がないのでしょうか」

 

 ん? と千夜は真魚が手にしているぬいぐるみに目をやる。

 

「んー、そうでもないんじゃないかな。男の部屋には似合わないからあれだけど、ぼくは普通に好きだしね」

「別に殿方の部屋に似合わないとか、そんなこともないとは思いますが」

「それはまぁ……。確かに一つくらいぬいぐるみとかがあったら、部屋がちょっと明るい感じになるかもしれないし」

「ですわね。可愛らしくていいと思いますわ」

 

 ところで真魚は、千夜のことはあまりよく知らない。

 まださして長い付き合いでないというのもそうだし、好みであるとか、そういうことにはあまり触れてこなかった。

 ホラーが好きであることや映画が好きなこと、食べ物や飲み物の好みの傾向はなんとなく知っているし、なんならどういうときに困った顔をするとかどういうときに裏の無い笑みを浮かべるかもなんとなくわかっているし、言動の癖もなんとなくわかってきてはいるのだが、やはりまだ知らないことが多かった。

 けれど真魚は、礼のことはよく知っていたから、この短時間で何を意図しているのかを、理解した。

 

「礼ちゃん、ちょっと」

「はい?」

 

 ちょいちょい、と真魚は棚の陰に手招きする。

 そして、千夜には聞こえないように、ささやく。

 

「好み聞き出そうとしてる?」

「まぁ、そうですわね。……余計なおせっかいでしたか?」

「気持ちは嬉しいけど……ううん……うーん……」

 

 ひそひそ、ひそひそ。

 

「『どうせなら喜んでもらいたいから』──と、そうおっしゃっていたでしょう? ちょっとでも聞き出せたら御の字ですわ。わたくし、別に図々しい女だと思われても構いませんし」

「礼ちゃんは図々しくなんてないよ」

「まぁそれはともかく。……構いませんこと?」

 

 真魚は逡巡したのち、こくり、とうなずいた。

 そして二人は物陰からひょこりと戻り、千夜が視線を送っていることに気付いた。

 真魚は、あせあせ、と千夜に近づいていく。

 

「も、もしかして聞こえてましたか?」

「え、いや別に。なにか話してるなーと見てただけ」

「ならいいんですけど」

「うん」

 

 別にないがしろにしていたわけでも邪魔に思ってるわけではないです、と言わんばかりの表情をする真魚。

 それを見て、わかってるよ、と言わんばかりの笑みを浮かべる千夜。

 そんな二人を、礼は興味深く眺めた後、ずずい、と会話に割り込む。

 

「ふふん。実は真魚ちゃんと、次に行くお店の話をしていたのですわっ」

「あぁそうなの。というか、君ら今日なにしに来たの?」

「えぇ、実は書籍を買いにきましたの。わたくしたちは冬休みに入るので、家で読む本がほしいという話をしていたのです」

「あーいいね。じゃあ行く?」

「えぇ」

 

 そうして、三人は移動をする。

 

 

「礼ちゃん礼ちゃん、私別に本を買う予定とかないんだけど」

「わたくしもありませんが……。ついノリで……」

「えぇ……」

 

 

 千夜の前を行き、またも、ひそひそ、と言葉を交わす二人。

 彼は少しの疎外感を抱きつつ、『この展開本当になんなんだろう。何故一緒にいる……?』と改めて疑問を感じていた。

 そして本屋へと赴いた。

 雑誌、小説、漫画、参考書など様々な文書が置いてある。

 千夜は入店して早々に、「ちょっと新刊みてくる」と二人から離れた。

 そんな彼を眺めて、少女二人は、言葉を交わす。真魚は少し困ったように、礼はなんでもないように。

 

「どうしよう礼ちゃん。私ほしい本特にないんだけど、何も買わないと不自然な流れな気がする……」

「普通に店頭で見て、電子で買うつもりだった──とかでいいのではないですか?」

「礼ちゃん頭いい……」

「この世でもっとも賢いのはわたくしですからね」

 

 えへん、と胸を張る礼に、真魚はささやかな拍手をおくる。

 

「さて、ではわたくしは、あの人の口をつるつるに滑らせる仕事へと取り掛かります。真魚ちゃんは少し時間をつぶしててくださいます?」

「え。私いちゃだめなの?」

「そうですね……。今日使用予定の術式は、真魚ちゃんが……というか人目があると少し使いづらいので……」

「私以外にも、大勢お客さんいるけど……」

「それはいいんです」

「はぁ……左様ですか……。じゃあちょっと時間潰してくるね……」

「申し訳ありませんわね」

 

 真魚は少し逡巡した後、雑誌コーナーへと向かう。

 そして華麗なトークで真魚を遠ざけ、礼は千夜がいるであろう本棚の向こうへと歩みを進める。

 千夜がいたのは、いかにも桃色な空気のする恋愛小説をまとめたコーナーだった。

 ぶっちゃけサシで千夜と話してみたかった礼は、これ幸いと話しかける。

 

「あら、ごきげんよう。……恋愛小説を嗜まれるんですの?」

「まぁ、たまにはと思ってね。君もかな?」

「まぁそんなところです。女の子は皆、恋のお話が好きですわ」

「なるほどね」

 

 主語が大きいな、と思いつつ、彼はうなずく。

 

「てなると桶内さんも、恋愛もの好きだったりするのかな」

「えぇ。好きですわよ。真魚ちゃんはロマンチストですし……。そうそう、なのでそれこそ、花とか宝石とかをプレゼントしたりするとかなり喜ぶと思いますわ」

「……」

「あら、もしかしてもう何か用意してらっしゃいます? それか何も渡さないつもりだったとかでしょうか」

「あぁいや別に。ただそういうのは把握してるんだなと思っただけです」

「色々聞いていると言ったとは思いますが」

「まぁ……」

 

 プレゼント、という単語を出そうと思うと、経緯を知っていないと無理だろう。

 なんだか気恥ずかしいなと思いつつ、女の子だな……などと彼は思った。

 しかし花はともかくとして、宝石はなかなか頭がおかしい。

 

「色々聞いてるなら色々知ってるんだろうけど、あの子とぼくが仲良くなるの、止めようとか思ったりしないの? 客観的に、ぼくはそこそこ怪しいと思うんだけど」

「思います」

「……思うんだ」

「正確に言うならば……自分の目で見てないひとを、丸きり信用するのは馬鹿ではないですか? 別にあなた個人がどうという話ではなく、わたくしの価値観の問題なので、そこはお気になさらないでください」

「別に気にしてないよ。そりゃそうだ」

「だからというわけではないのですが……個人的に少しお伺いしたいことがありまして、だから少し強引に着いてきていただいたのですが……。お時間いいですか?」

「いいけど……。つまり桶内さん抜きでって話?」

「そういうことです」

「いいよ。場所変えようか」

 

 一緒に買い物を──、その台詞の真意に、ようやく彼は得心した。

 そして、二人は書店から出る。

 真魚に気付かれないように、悟られぬように、場所を移動した。

 数多の本棚が死角になり、特定の人の目を避けるのに、書店という場所は都合がよかった。

 少しだけ離れた場所にある椅子のところに、腰かけて、「さて」と会話をはじめる。

 

「……聞きたいことって?」

「そうですね……。真魚ちゃんを放置してる真っ最中なので手短に聞かせていただきますが……真魚ちゃんが悩んでること、何かご存知だったりしますか?」

「悩み?」

「8月の頭くらいからでしょうか。何かと思いつめてるようで……最近はそうでもないのですが……」

「あぁ……」

 

 これまた、納得した。

 聞きたかったことというのは、そこか、と。

 夏。夜。海。月。

 少女と初めて逢った日のことは、よく覚えている。何か思いつめているような、悲しみを海にとかすようなあの振る舞いを。

 

「真魚ちゃんの話だと、あなたと初めて会った時期と、真魚ちゃんの様子がおかしくなり始めた時期が重なっていていまして……。何か知ってたりしないでしょうか」

「……んー」

 

 時期が重なっている、というのは彼にとって初耳であった。

 だから礼は、千夜が直接関与する何がしかがあって、それで真魚にも何かあったのだろう、とそんなことを思っているのだろう。

 だけどそうではなくて、彼は純然たる部外者で、真魚と出会ったのはただの偶然だった。

 おそらく、根本的な原因は家族で、父親なのだろうと思う。

 これまで真魚と接してきた中で、なんとなく、そこまでは察しがついていた。

 

「とりあえずぼくは無関係というか、なんか傷心中のあの子に偶然会っただけだから、細かい経緯とか何も知らないんだ。ごめんね」

「そう、ですか……。わかりましたわ。ありがとうございます。わざわざこんな話に付き合っていただいて。ご迷惑でしたでしょうに」

「いやいいよ別に。……心配するのわかるんだよね。結構……なんか、大丈夫なのかなってなる。あんまり他人に泣きついたり甘えたりしないタイプに見えるし……」

「そうなんですよねぇ……。一回直接聞いたんですけど、『大丈夫だから』の一言で終わりましたわ」

「結局何か干渉するにしても、会話の主導権持ってるのは向こうだからなぁ」

「ですよねぇ……」

「うむ……」

 

 ふぅ、とため息を一つ。

 他人の悩みにふれて、サパッと解決することができるなら、人間関係で悩むことなんてそう多くはない。

 どうにもならないから悩むし、苦しいし、愛おしい。他人というのは、そういうものだから。

 

「そろそろ戻りましょうか。真魚ちゃんが探してるかもしれませんし」

「そうだね」

 

 そうして立ち上がって、書店へと戻るために、歩き始める。

 

「……でも、ちょっと安心した。君くらい真剣に心配してくれる友達がいるなら、まぁ大丈夫な気もするな」

「それはこっちの台詞ですわ。……なんというか、真魚ちゃんの居場所になってくれてありがとうございます。……やっぱり同年代だと頼りないのか、とか色々思うところもありますが……頼れるところが一つあれば、人間強く生きていけるものですしね」

「まぁなんか知らないけど、結構懐かれてる感じはある」

「いいことですわね」

「いいことかなぁ」

「いいことです」

 

 喧噪の中に声と気配を混ぜ込みつつ、千夜と礼は、書店へと戻った。

 パッと周囲を見渡しても真魚の姿は見えない。おそらくはまだ店内をぶらつくか何かしているのだろうと思われた。

 

「真魚ちゃん、どこにいるのかしら」

「向こうかな」

「かもですわね」

 

 店内の端のほう、雑誌類が置いてあるスペース。

 目に映る範囲にはいないので、可能性として色濃く浮かび上がってきたスペース。

 すすす、と二人はそちらのほうへ移動をして──真魚はすぐに見つかった。

 どうやら雑誌を見ているらしい。じーっと、熱を持って、目を落としている。

 彼は足を止めて、礼は『何を見ているのかしら』と後ろから、ひょこりとのぞき込む。

 

「あら、お料理ですの」

「! ……礼ちゃん、と小池さんも」

 

 彼の位置からはよく見えないが、真魚が見ていたのは料理についての雑誌であるらしかった。

 真魚はあわてて棚に戻して、二人に向き合う。

 

「えぇと……二人はもういい感じ、ですか? 私を待ってた、のかな?」

「待つというほど待ってないですが……まぁめぼしい本もなかったのでいいかなと思いました。真魚ちゃんは何か買って帰ります?」

「ううん、いい。……小池さんは?」

「ぼくも別に……」

「映像派ですもんね」

「まぁ……」

 

 ふふ、と真魚は微笑みつつ、じゃあ次に行こう、と店外へと歩みを進めた。

 結局本を買うと最初に言っていたにも関わらず冷やかすだけで終わってしまったが、元々大した目的があって来たわけではなかったため、自然な流れと言える。

 そんなわけで、よくわからない時間を過ごした三人は、礼の「これからコスメでも見に行こうかと思っていますが、どうしましょう。殿方は興味ないでしょうし……」という遠まわしな『解散しません?』という言葉によって、二人と一人に戻った。

 そしてようやく、当初の目的通りに双方が動きはじめ、──時刻は17時になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 他人について考えること。気持ちを込めるということ。想いを交換するということ。

 プレゼント交換というのは、言い方を変えれば気持ちの交換に等しく、それはある種、視方を変えれば儀式の一つといってもいい。

 一方的では成り立たず、双方向であるから成り立つ、心を通わす儀式。

 気安い契約である場合もあるだろう。だが重い場合もあるだろう。

 

 重きを厭う場合は、いわゆる消え物をプレゼントに選ぶことが多いかもしれない。

 逆に想いの質量のみを重視するなら、指輪や衣類などの残るものを選ぶかもしれない。

 

 何を選ぶかは人それぞれ。

 どんな気持ちを込めるのかも、人それぞれ。

 ゆえに、自然と交わされる契約の形も、人それぞれと言える。

 

 さて、時刻は17時を少し過ぎたころ。

 日は沈み、夜闇が世界を覆いはじめている。いかにクリスマスといえど、やはり一人暮らしだともの寂しいものだ。家にツリーもなく、イルミネーションとも縁がなく、せいぜいがチキンとケーキがあるくらい。

 そのチキンとケーキも、一人で食べるだけ。

 真魚が夕飯を一緒にするというならまた別の話だったかもしれないが、今日はそうではない。ただただ、プレゼントを渡すだけ、ほんの少しの間時間を共有するという、ただそれだけ。

 そういう重すぎない約束だったから、訪れること自体には思うところは少なくて。

 

 ピン、ポーン。

 

 ベルが鳴る。来客の知らせ。

 扉が開く。開いて、開いた瞬間、隔絶した相手が、身近な相手になる。

 

「やあ、いらっしゃい。メリークリスマス」

「……えと、ハッピーバースデー? こんばんは」

「ありがとう。あがってあがって」

「お邪魔します。……ココアですか?」

「うん、そう。外寒かっただろう」

「ありがとうございます」

 

 彼の部屋に入って真魚が真っ先に感じたのは、ココアの香り高さだった。

 自然と頬が緩む香り。心が安らぐ香り。

 自分が来るのに合わせて用意してくれていたんだな、ということも容易にわかって──その心遣いが、嬉しかった。

 

 一か月前か二か月前なら、申し訳ないとだけ思っていただろう。

 けれど今はそうではない。

 そうではなくなりつつあるから、真魚はいま、ここにいる。

 

「クリスマス、あの子と予定とかあったりしないの?」

「礼ちゃんですか? ありますよ。この後おゆはんご一緒させていただいて、そのままお泊り会です」

「なるほどね」

 

 テーブルに二人分のホットココアを置き、千夜は座り込む。

 真魚は勝手知ったようにコートを脱いで掛けて、彼の近くに、同じように座り込む。

 

「あったかいですね」

「うん。ぼくはやっぱり、冬場のココアが一番好きだな」

「わかります。私も好きです」

 

 少女はかじかんだ手をあたためながら、はー、と身震いをする。

 

「すぐ出ていく感じ?」

「あぁいえ。うーんと……30分くらいは平気です」

「そ」

「すいません、こんな時間に。小池さんのおゆはん前には帰ります」

「まぁそっちの時間都合に合わせてくれればいいよ。どうせ暇だし」

「ならいいんですけど……。チキンとか買いました?」

「一応ね」

 

 まったり。のんびり。ゆるやかな会話のテンポ。

 けれどそんな時間も長くは続かない。

 今日は時間の制限があるというのもあるし……やはり、どういう風に話を切り出すか、というのは少し悩むものがある。

 なんでもないように、さらっと。

 それができるなら理想なのだろうが……いろいろと考えてしまうと、それもまた、難しい。

 

「……ところで小池さんって、シーズンに合わせて映画とか見ないんですか?」

「……? というと?」

「クリスマスにクリスマスっぽい映画見たりみたいなことです」

「あー、あんまりない。あんまりそういうの意識したことないかな。そっちは? 結構意識する?」

「多少は。クリスマスにクリスマスの映画見れるのは、年に一回だけですしね」

「期間限定の罠」

「はい……」

「でも一理ある」

「ですよね」

 

 ココアの入ったマグカップを両手で持ちながら、ふふ、と少女は笑みを深める。

 そして息を吹きかけつつ、ココアを飲む。

 もう慣れ親しんだ味だった。温かかった。おいしかった。

 

「あったか……」

「どうやらココアの魔力に魅入られたようだな」

「参りました……」

「うむ。……というわけで、こっちのターンからはじめます。ドロー。クリスマスプレゼントを召喚」

「えっえっ。では私からも、こちらをどうぞ……!」

 

 真魚はあわてて、手元のかばんから、一つの包みを取り出す。

 千夜が出したプレゼントと、真魚が出したプレゼントが、一体ずつフィールドに揃った。

 彼の出した包みが手のひらより少し大きいくらい。少女の出した包みは、手のひらにはもう収まらないくらい。

 

「結構大きいな……」

「いえ……色々考えはしたんですけど……まぁはい……。お気には召さないかもですが……」

「まぁそこはお互いさまということで。……開けていい?」

「どうぞどうぞ。えと、私も開けていいですか……?」

「どうぞどうぞ」

 

 千夜は、ふんふふん、と口ずさみながら丁寧に包装を剥がしていく。

 

「プレゼント交換ってだけで楽しくなってきちゃうな」

「それはよかったです。……というか、小池さんも用意してくださってるとは……」

「思わなかった?」

「いえ、まぁ、はい。……正直小池さんはなにかくださる人だろうとは思ってました……」

「ぼくのことをよくわかっている。──と、おお。バームクーヘン……!」

「はい。ええと、普段口にされてるものからしてもアレルギーとかはないとは思ったのと、日持ちもするので……」

「いいね。賢い」

 

 バームクーヘン。お祝いの席でも出されることの多い、縁起のいい菓子だった。

 真魚にそのような知識はなかったが、本人も言うように、アレルギーなどのリスクを考慮しなくてよいことや日持ちすること……それからココアにもまぁ合うだろうというような理由で選んだものだった。

 

「小池さんのは、これ……金平糖ですか?」

「そうそう。ギフト用のやつ。かわいいし綺麗だなと思って」

「ありがとうございます。瓶もかわいいですね……」

「そうそう。インテリアにも──みたいな謳い文句で売ってた。実際かなりきれいで好き。最悪観賞用として楽しめるし、こういうデザインは、桶内さんも好きかなって」

「はい。嬉しいです」

 

 わー、と目を輝かせる真魚に、彼はほっと一安心する。

 言わないことはわかりきってはいたが、しょーもない、などと言われることを想像すると、やはり怖いものはあった。

 

 そんなわけでプレゼント交換もひと段落し、また穏やかな時間が戻──、りはしなかった。

 

 少女はちらちらと時計を見たり、彼の顔を見たり、手元に目を落としたりと、せわしない様子だった。

 どうしたのかな、と彼は思いつつ、ココアを飲みながらバームクーヘンへと思いをはせる。

 夕飯をまだ食べていないのでバームクーヘンに心を奪われていた。お腹が空いている。

 

 

「あのですね」

 

 

 少しの沈黙のあと、先に口を開いたのは真魚だった。

 緊張をしているのか、目が泳いでいる。あわわ、と動揺もしているようだった。

 

「ほんとにいらないかもなんですけど。ええと、お守りとしての意味もあるので、よかったら家に飾るだけでも、とか」

 

 コトリ、と包みを一つ、机の上に。

 なんでもないように渡せれば、気軽でいい。なんでもないように渡せれば、気負わせる必要もないし、重くない。

 理性はそう言っているが、そう上手くは運ばない。

 けれど想いがこもっているものは自然と重くて正解で、だからきっと、この渡し方も正解なのだろう。

 

「じゃあぼくからも、もう一個」

「えっ」

「はいどうぞ。二度目のプレゼント交換だ」

「えっ」

 

 戸惑う少女に、彼は微笑みながら、手渡しで一つの包みを渡す。

 重きには重きを、少し照れ臭そうに頬をかきつつ、彼にとっての重いものを、贈る。

 

「これは……まぁ正直、渡すか渡さないかはだいぶ迷ってたんだけどさ」

「……開けてもいいですか?」

「いいよ。こっちも開けていい?」

「はい」

 

 プレゼント交換、二回戦。

 千夜に贈られたのは、オニキスのブレスレット。オニキス、漆黒の石。魔除け、邪なるものを遠ざけるお守り。

 真魚に贈られたのは、エプロン。家庭的。家にいる人。家事をする誰か、の象徴。

 それぞれがどういう意味をもってこれらを選んだのか。

 重い。重たく。重くとも。

 だからこそ、心の奥に届くものも、ある。

 

「! ……あのこれ、この家に置いててもいいですか?」

「いいよ」

 

 わぁ、と嬉しそうにエプロンを見つめる真魚から、彼は照れ臭そうに目を外す。

 そして千夜も、オニキスブレスレットを、手首に通す。黒い石が、ずっしりと重みを伝えてくる。少女は、エプロンを抱えながらその様子をこれまた気恥ずかしそうに見つめていた。

 繰り返しになるが、何がしかの想いが込められているものは、やはり少し重いものだ。

 気持ち悪いだとか。意味が分からないとか。怖いとか。

 そんな風に思われても仕方がない。

 ただそれでも「たぶんこの人はそんなことを言わない」と信じているから、想いのこもったものは贈ることができる。

 

「ありがとう。かなり嬉しい」

「あの、いえっ。……よかったです」

 

 てれてれ、と真魚はほんのり頬を染める。

 千夜は千夜で、嘘偽りなく、本当に喜んでいた。好意の証明。関係性にもよるが、プレゼントというのはそういう側面を持つ。

 

「ところで、二つあるのって誕生日とクリスマスみたいなこと?」

「そうです。……ぇと、小池さんが二つ用意してたのは……?」

「あぁ同じ同じ。せっかくだし、ほんとに四か月越しにはなるけど、まぁ別にお祝いはお祝いだしいいかなと思って」

「……ありがとうございます」

「こちらこそ、わざわざありがとう」

 

 そんなこんなで、クリスマスプレゼント──それから誕生日プレゼントの交換という、想いを双方に受け渡す儀式は無事に終わった。

 バームクーヘンを選んだ理由。金平糖を選んだ理由。

 オニキスを選んだ理由。エプロンを選んだ理由。

 それぞれの思惑があって、だけどその気持ちの方向は同じ色をしていて。

 

 冬の夜。ゆるやかな時間。

 ココアを飲んで、プレゼントを交換したあたたかい時間。

 

 未だに関係性をあらわす言葉を持たない彼らは、けれど、お互いの存在を、より色濃く感じつつあった。

 

 



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千夜さん/真魚さん

 

 

〈 1月9日 〉

 

 

 吐息の温度は36℃。気温は0℃。

 白いもやが、空気の透明にとけては消えていく。

 外気と、肺の中身が入れ替わっていく。

 

 冬の朝の空気は、透明度が高い。

 

 そう感じるのはきっと、吐く息が白いからなのだろう。

 

「最近、めっきり寒くなりましたわね。うぅ~、寒いですわ~……」

「礼ちゃん寒いの苦手だもんね」

「こういう日は炬燵でお蜜柑を食べるに限りますわ……」

「炬燵蜜柑いいよね、わかる。ごめんねなんか、買い物付き合わせちゃって」

「いえいえ。真魚ちゃんとのお出かけはわたくしも楽しいですもの。むしろ付き添わさせていただいて、わたくしがお礼を言いたいくらいですわ」

 

 真魚の手には、スーパーの袋が下げられていた。

 礼はそれに目をやって、うむむ……と唸る。

 

「なんというか、もう立派な通い妻ですわね」

「え゛」

「いやだって……料理して掃除してって……付き合ってるようなものではないですか」

「え~……。でも泊まりはしてない、よ?」

「いや当たり前でしょう。まぁ付き合ってるも同然、傍からみれば恋人同士にしか見えないというのはありますが、さすがにそういうのはですね」

「はい……」

「とはいえ、わたくしは正直、どんな関係でも当事者がそれで満足しているなら問題ない──と思っていますので。…………だからまぁ、お互いが望むならいいとは思いますけど……わかるでしょう?」

「まぁ、うん……」

 

 真魚の行動──、そして感情は徐々にエスカレートしている。

 きっかけはどうあれ、小池千夜(こいけせんや)桶内真魚(おけうちまお)の二人の関係において、行動の主導権を握っているのは真魚であることに間違いはない。何故なら家に通っているのは少女であるし、家事に精を出しているのも少女であるし、求めているのも少女であるからだ。

 そしてその結果、恋人のように見えるというのが現実だった。

 一緒に映画を見る。ご飯を作る。同じ空間で同じ時間を過ごす。

 加えて、双方向に悪感情はなく、基本的には好感情がある。

 

「まぁでも別に咎めたいとかそういうのではなくて……」

「いやうんわかってる。言いたいことはわかる。大丈夫だよ。心配してくれてありがと」

「ならいいんですけど……」

 

 はたから見るのと、実際のところのそれとは、大きく異なる。

 礼はおおよそは知っているが、細かな経緯などは知らない。そして千夜も知らない。すべてを知った上で、選んでいるのは、真魚ひとりだけ。

 だから真魚は、実のところ常に悩んでいる。

 

 

 ──恋人に見える、か。

 

 

 どうなのだろう、と真魚は空を見上げる。

 薄雲に覆われた冬の空。光の霞む、冬の空間。

 自分が何を感じているのか、どうしたいのか、真魚にはまだよくわからなかった。

 

 

 

 

「いらっしゃい」

「……お、お邪魔します」

 

 色々と考えごとをしていたからか、真魚は変に緊張してしまっていた。

 声はどもってしまい、彼の顔を直視できない。

 部屋の中にはいつも通り、ココアの芳醇な香りが広がっている。いつも通り。そう感じるまでになってしまった。

 

 この部屋に訪れることへの抵抗感というものは、だいぶ少なくなってしまっている。

 その理由は何故なのかと考えたとき、やはり第一に“彼が嫌な顔をしない”というのが挙がってくる。拒否をする素振りを見せない。それは表面上の話だけでなく、内心でもそう感じてくれているのだと、少女は思っている。

 他人の心を見透かすことなんてできないし、これはただの真魚の想像。

 だけどきっと、そう外れてはいない。

 

 千夜は、桶内真魚という少女のことを、受け入れている。

 ただ、それが何故なのかはわからない。

 

「……どうしたの。立ち止まって」

「あ、いえ。……なんでもないです。洗面所借りますね」

「どうぞ」

 

 真魚はあわてて、洗面所に移動する。外から帰ってきたら手を洗おう! というわけで手洗いである。

 水を出して、石鹸で手を洗う。

 手を洗って、拭いて、居間へ。

 テーブルの彼が座っていて、対面の位置に、マグカップが置いてある。よく少女が座っているあたり。定位置と言っていい場所。

 そこにマグカップが置いてあるという事実が、そういう細かなところが、──『ここにいてもいい』と思える理由になっていた。

 

「はいお待たせ。外は寒かったでしょう」

「年越すと、本格的に冬って感じしますよね」

「うむ……」

 

 真魚はすとんと座って、おなじみの無糖ミルクココアが注がれたマグカップに、手を当てる。あたたかい。

 

「お昼まだだよね?」

「はい」

「よしよし。じゃあ昼はぼくが作ります」

「夜は私が作ってもいいですか?」

「うむ……。楽しみにしておく」

 

 夜は真魚が作る。それについては事前に許可をもらっていた。

 だからスーパーに寄ってから来たわけで、だけど改めて口頭で許可をもらうのは、やはり大事だと少女は思う。

 

「何作るんですか?」

「パスタ。キャベツとベーコン」

「わぁ~」

「わー」

 

 のんびりとした空間の中、ふーふー、と冷ましつつココアを一口。

 熱くて、ほろ苦く、まったりとしている。安心する味。

 これを飲むと、この家に来たという感覚がする。身体に熱が入る。あたたかい。

 真魚は頬をほころばせて、ミルクブラウンの液面を見つめる。

 

 そして、ちらりと、対面についた彼を盗み見る。

 

 落ち着いた表情で、ココアを飲んでいる。

 その所作を見て、なんとなく真魚は、『大人だな』というようなことを思った。

 大人。27歳。真魚の10歳年上。10年ないと追いつけない。

 少女は、ごくごく普通に、届かないな……と感じた。

 

「では本日は過去の名作アニメ観賞会ということで、しばらくの間お付き合いいただきます」

「なんですかその話し方」

「デフォが敬語の桶内さんには言われたくない台詞だな……」

「まぁ……」

「とりあえず今日はグレンラガンから……」

「わぁ~」

「わー」

 

 まず、少し早めのお昼を食べた。

 彼が作ったのは、事前の発言通りキャベツとベーコンの入ったパスタだった。少々オイリーで粗雑な味付けではあったが、“男の人”という感じがして少しどきりとした。

 

 こんな風なことを思うのは、きっと礼が言っていたことが尾を引いているのだろう。

 真魚は心中で、友達のことを責めた。

 昼食の片付けは、真魚がやった。ある種の共同作業だな、と思ってしまった。だんだん恥ずかしくなってきた。

 

 いつの間にか真魚の耳は熱を帯び、赤くなっていた。

 気付かれなければいいな、ともじもじしていたが、彼は気付いていた。

 彼は年頃の女の子だしな、と思った。可愛いな、とも思ったが何も言わなかった。

 

 彼曰く、このアニメはだいたい15年前の作品であるらしかった。

 15年。すごく昔。真魚は17歳であるから、真魚が物心つきはじめた頃合いだった。

 そうなると、彼は中学生くらいだろうか、と。

 そんなことを思いつつ、オープニングを眺める。

 

 地下の生活。閉塞した世界。その破壊。

 それは、まだ自分の運命に気づかぬ一人の男の物語。

 

 15年前ということが信じられないくらいに音も映像も魅力的で、正直真魚から見てもすごく面白かった。

 そして何より、彼が少年のように瞳を輝かせてアニメを見ていて、よかった。

 好意的な感情を抱いている相手が喜んでいるのは、それだけで嬉しい。

 

 そうしてそのまま、ちょこちょこLINEでメッセージを送り合ったりして、2, 3話と見進めていく。

 

 

 

 

 …………────。

 

 

 

 

 ぼやけた思考。視界。鈍い体。

 ワンテンポ遅れて、真魚は自分がねむっていたことを自覚した。

 

 悪いことをした、と億劫ながら体を起こして、時間を見る。

 時計は17時過ぎを示していて、想像以上に寝てしまったことを表していた。

 彼がかけてくれたのであろうブランケットから抜け出し、真魚はきょろきょろと周囲を見る。

 

 太陽は大地の奥に隠されてしまっていて、もう外は薄暗い。

 隣の部屋の明かりがついていることに気が付いた。彼の寝室だ。扉は開いていて、彼の様子がうかがえる。

 彼は険しい顔でスマートフォンを見ていた。そして、大きなため息をついている。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

 真魚は彼に近づいて、その物音に気付いた彼は気づき、「あぁ起きたのか」と何でもないような顔に戻る。

 

「すいません。私寝ちゃってたみたいで」

「いいよいいよ。食後はちょっとねむくなるもんな」

 

 続き見る? どこまで覚えてる? とにこにこし始めた彼に、ひとまず夕飯の支度をします、と真魚は言う。

 もうそろそろ夕飯時だ。

 真魚はもらったエプロンをつけて、調理を開始した。少し不慣れな手つきで、トン、トンと野菜を切っていく。

 

 そして横目に千夜の姿をうかがう。一見すると普通に見えるが、見えるが。真魚は先の憂いを帯びた表情が気にかかっていた。

 

「何か嫌なことでもあったんですか」

「んー。そう見えた?」

「ということは何かあったんですね」

「まぁ……大したことではないんだけどねえ……」

「ならいいんですけど」

 

 トントン、と材料を切っていく。

 今日のメニューはポトフ。じゃがいもほくほく、寒い冬にぴったりのお料理。

 おいしくできるといいな。煮込むだけ。大丈夫。小池さん何かあったのかな。どうしたんだろう。──色々な雑念があった。

 

「いたっ」

 

 包丁は刃物。指に滑らせれば当然切れる。

 幸いにも深くはなかったが、赤い血が、滲んできた。

 

「……大丈夫?」

「ええと。はい。ちょっとだけ切っちゃって」

「……ひどくなくてよかった。とりあえず救急箱とってくる」

「そこまでしなくても……」

「怪我は怪我の後の、適切な処置が大事なんだよ」

 

 しゅん、と落ち込む真魚を尻目に、千夜は奥へと引っ込んで、すぐに戻ってきた。

 手には小さなプラスチックケース。

 彼にうながされるままに水道で傷を洗い、水気をとる。

 

「はいこれ。バンドエイド」

「……」

 

 丁寧に粘着面を露出し、あとは傷口に巻くだけという状態にして、彼はバンドエイドを差し出す。

 テープを露出した状態で出したのは、片手だとうまく貼れないと思ったから。

 バンドエイドを差し出した状態で止まったのは、指に触れるのは違うと思ったから。

 真魚が指を出したまま硬直しているのは、このまま貼ってくれるのかな、という思考が一瞬よぎったからだった。

 

「……」

「……」

 

 少しの沈黙のあと、血色の箇所に、彼がバンドエイドを巻き付ける。

 固い男の人の指が、少女の柔らかで細い指に、触れていた。

 無言のやり取りが妙な気恥ずかしさを産んでいて、真魚は頬を赤らめて、彼の様子をうかがう。

 相変わらずなんでもないような表情をしていて、少しショックだった。

 やっぱりこの人は私のことはなんとも思っていないんだな、と真魚は肩を落とす。

 

「あと代わろうか?」

「いえ。大丈夫です。やります」

「そ。じゃあ完成楽しみにしてる」

「はい」

 

 彼はまた居間に戻っていった。

 真魚も、調理に戻った。

 少し集中力を欠きつつも、あとは特にミスすることもなく、ポトフが完成した。

 

 そして場を改め、食卓。

 

 再三ではあるのだが、やはりこの状況はだいぶ特殊だ。

 友人というにはあまりにも歪で、恋人ではなく、本人同士もなんと呼べばいいかわからない関係性。

 そんな二人が、同じ食卓を囲んでいる。

 恋人であるならば、別に問題ではない。10歳差──学生と社会人という世間体の問題はあるが、本人同士が是としているなら、本人たちにとっての問題にはならないだろう。

 

 けれど、けれど。

 

 本人たちが、この状況を疑問に思うならそれは──。

 

「……どうですか?」

「うん。おいしい」

「よかったです」

「味がしみてていい。野菜がうまい。味付けの濃さが好み。濃すぎなくて、いい。煮物のにんじんってなんか好きだな。おいしい」

「わかります。にんじんいいですよね。色もきれいだし」

「うむ……」

 

 ほっと、安心する味になっていた。

 あたたかいものは心も安らぐ。レシピ通りに作ったそれは、ごく普通においしい出来だった。

 真魚はそう感じていたが、彼もそう思ってくれてよかったと、胸をなでおろす。

 

 好きだな、と思った。

 

 ごくごく自然に、真魚はそう思っていた。

 というより、そう思い始めていたからこそ、いまこうしてここにいて、それを許されているから頻繁に来るようになっていて。

 居心地がいいな、と思ってしまっていた。

 打算があると言われればそうだし、別に純粋な気持ちだけがあるわけではないのは間違いない。

 

 だから恋をしている、と一口では言えないのだけれど。

 

「私、都合のいい女になる才能あると思うんですよ」

「急にどうした?」

「まだ料理とか家事とかは未熟ですけど──」

「そう? 十分じゃない? 頑張っててすごく偉いと思う。というか、今日のご飯もおいしいしケチつけるところが特にないのでは?」

「……」

「話遮ってごめんなさい」

「……まぁ、愚痴くらいは私でも聞けますよという話です」

「愚痴……。あー、わかりやすかった? ごめんねなんか」

「てことはやっぱりなにかあるんですね」

「……」

 

 彼は苦笑いして、じゃがいもを食べる。

 じゃがいもは、ほくほくしていた。

 

「別に楽しい話じゃないしなぁ。ぼくがちょっと失敗したってだけの話」

「いいじゃないですか、失敗しても。私もまぁ……散々失敗してます……」

 

 真魚はバンドエイドの巻かれた指を、ひらひらと眼前に持ってくる。

 

「ぼくがカッコ悪いだけの話だしなー」

「えっ」

 

 真魚の顔は反射的に、聞きたい、という表情になっていた。

 好きな人の欠点を聞いてみたいというのは、ごくごく自然な感情だろう。

 優れているところ、駄目なところ。それら全部を、見て聞いて、感じたい。そういう、心の動き方。

 

「……え、なに。聞きたい?」

「…………はい。聞きたいです」

「トーンが本気なんだよな。怖い」

「こわくないですよ」

「はい……」

 

 まあいいでしょう、と彼は口を開く。

 

「実は詐欺? に遭ってさ~」

「え」

「100万円ほどロスった感じです」

「え?」

「終わり」

「……え?」

「まぁ悲しかったですという」

「思ったよりヘビーでびっくりしました」

「ね。ぼくもびっくりした」

 

 彼は話をそらすように、スープが美味しいね、と口にする。

 少女はそれに対し、いやいやいやいやいや、と手を振る。

 

「それ大丈夫なんですか? 警察とか」

「さぁ……?」

「さぁじゃなくて」

「この話口にしたぼくが悪かった。この話やめよう。ちょっと惨めになってくる」

「……私が口出しすることではないのかもしれませんが、お金のまわりのことはしっかりしましょう。もう一度聞きます。警察は?」

「いや、そもそも詐欺と確定したわけではなく」

「というと?」

 

 彼はだらだら、と冷や汗を流し始めた。

 少女の圧が、強い。にっこりを笑みを浮かべてはいるが、その奥に隠し切れない圧があった。

 

 ちょっと悲しいことがあった、ではもう済まされない流れになってきたな、と彼は悟った。

 これは洗いざらい話さないとダメなパターンに入っている、と。

 

「……あとでもいい? ご飯冷めちゃうし」

「それは……はい」

 

 せっかく作ってくれたのだから美味しく食べたい、と彼は言う。そこに対しては、おいしく食べてほしい真魚は、うなずくしかなかった。

 おいしいね、とまた彼が言って、ありがとうございます、と少女が答える。

 

 そして、食後。

 食器を水につけて、彼の言い訳タイムがはじまった。

 

 

 いわく、加害者とは友人関係であったと。

 状況を客観的にみると詐欺であること。自分にはメリットしかなく、デメリットはゼロ。

 話の流れで、友人の口座に百万円振り込んでしまっていること。

 

 

 そこまでを聞いて、真魚は、重く深いため息をついた。

 

「小池さんって、馬鹿、だったんですね……」

「そうかもしれない」

「その人と連絡は?」

「え?」

「とれるんですか?」

「連絡はとれるよ」

「じゃあ早く連絡とりましょう」

「え?」

「こういうのはスピードが大事なんです。もう手遅れかもですが。本人に連絡とれるならそれが一番いいでしょう。早く、呼び出してください」

「え、今日?」

 

 夕食を終えて、話をして、時刻は20時に迫らんとしているころ。

 千夜は時計をチラリと見て、「さすがに時間が遅い」と言おうとして、口をつぐんだ。

 

「はやく」

「……はい」

 

 いつぞや少女に“押しに弱い!”などと思った彼であったが、逆である。

 押しに弱いのは彼で、人の言うことに従ってしまうのは、彼のほうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 場は、喧噪に包まれていた。

 夜、居酒屋。

 生まれてはじめて足を踏み入れる場所。そして、詐欺。色々な要素が相まって、真魚は非常に緊張していた。

 曖昧な言葉で濁す千夜に代わって、事態を解決しないといけない。そう思っていたからだ。

 

 現れた人物は、井上と名乗った。

 スーツを着た、かっちりとした身なりをした男だった。

 けれど表情は軽薄で、信用できなさそうな人だ、と真魚は身構えた。

 

「よ、千夜。元気そうだな」

「元気そうに見える?」

「事前連絡無しに女連れてくるやつが元気じゃなくてなんなんだよ。……えー、桶内さんだっけ? 聞いてるかもしんないけど、俺、コイツとは高校からの付き合いなんよ。で、今も色々仕事とか…………細かい話はいいか。とりあえずよろしく」

「……はぁ」

 

 井上という男と、千夜は、真魚の目から見てとても仲が良さそうに見えた。

 騙した側と騙された側。何も知らなければとてもそんな風には見えなかった。

 ひとまず生を二杯、ウーロン茶を一杯。

 つまみとなる食べ物をいくつか頼み、ごく普通に飲み会がはじまった。

 

 困惑。困惑、である。

 

 真魚は、戸惑っていた。

 この状況に、である。

 

「ところで今日はどうしたんだよ」

「あぁ、それは……──」

 

 もっと、声を荒げるような事態になると思っていた。

 どんな会話になるにせよ、どんな人が来るにせよ、もっと声を荒げて……あるいは、彼が何も言えない状況が続くのではないかと、そう、真魚は思っていたのだ。

 だけど、そうなってはいない。

 

 千夜は、淡々と、なんでもないような顔と声で、告げる。

 

 

 ──あのときの金って、詐欺かなにか?

 

 

 そして、対面する男の反応もまた、淡々としていた。

 

 

 ──そうだよ。

 

 

 そこからの話は早かった。じゃあ返して、に対するOK。

 来週には100万耳揃えて返す、という言葉。

 騙して金を盗ったということを認めつつも、険悪な空気にはならず、どうでもいい世間話をしているかのような声のトーン。

 ははは、と談笑している二人が、真魚には気味が悪くて仕方がなかった。

 

「……つかぬことをお聞きしますが、もしかして詐欺というのは勘違いで、そういう名称でのただの友人間のお金の貸し借りだったりしたのでしょうか」

 

 おずおず、と手のひらだけで挙手をして、真魚は千夜に問いかける。

 千夜は苦笑して、どうなの、と目で井上問いかける。

 

 

 ──返せって言われなければ一生返さないもんを友人間の貸し借りって言うならそうなんじゃねえ?

 

 

 井上はへらへらと、そう言った。

 千夜は、それを耳にして、苦笑していた。

 真魚は──、表情を、ストン、と落としていた。

 

 

「ふざけないでください」

 

 

 怒っていた。怒っていた。怒っていた。

 真魚は、怒りで燃え上がりそうなほど、怒っていた。

 善が悪に虐げられているのは許せない。悪がのうのうと生きて、善が困っていることが、許せなかった。

 

「なんで人を騙してそんな笑ってられるんですか。お人好しにつけこんで、良い思いをして、それを恥ずかしいと思わないんですか。あなたは──なんで…………」

 

 唇をゆがめて、真魚は声をしぼるように。

 それを聞いて、井上は面白そうに笑う。

 

「ていうか、金は返すって。この話これで終わりじゃいかんのか? というか、赤の他人にあれやこれやと口をはさむ権利ないと思うんだが」

 

 その言い方はあんまりだろう、と千夜は眉をひそめる。

 さすがにどうかと思い千夜は口を開こうとして、──それよりも先に、真魚が口を開く。

 

 

「私は、千夜さんの恋人です。口をはさむ権利くらい、あります」

 

 

 真魚は、唇をきゅっと結んで。目には強い力を宿して、言い切っていた。

 こんな顔できたんだ──、と千夜は思った。

 井上は楽しそうに唇の端をゆがめながら、「へぇ」と声を漏らした。

 

「じゃあ彼女さん的には、何をどうすれば満足なわけ?」

「謝ってください」

「なるほど。そりゃ最もだ」

 

 怒り心頭──といった様子の真魚を見ても変わらず、やはり井上はへらへらとしている。

 

「ごめんなさい」

「……」

「謝ったじゃん。まだ怒ってんの?」

 

 チクチク言葉。

 他人の神経を逆なでする言葉。

 それをあえて選んでいることがわかって、わかってたから、やっぱり千夜は苦笑する。

 

「なんかあれだよね」

 

 千夜は軽くため息を吐きつつ、口を開く。

 空気が重かった。気が重かった。心なしか、このテーブルの空気にあてられて周りのテーブルもピリついていた。

 

「好きな子いじめる癖、なおってないんだなあ」

 

 この場合の好きな子、というのは彼自身と、その隣にいる真魚を指す。

 

「まぁとりあえずぼくの恋人いじめられるのもちょっと困るので……ううん……どうしたものかな……」

 

 千夜は、隣にいる真魚を見やった。

 ぽかん、と口を開けていて、先ほどと比べるとだいぶ緩んでいるようには見えるが、それでもやっぱり空気は張り詰めているし、表情は家にいたときと比べて固く重い。

 これを引き起こしたのは自分の情けなさであるからこそ、千夜は。

 

「とりあえず今日は帰るよ。また今度会おう」

「ん。おっけー。また連絡するわ」

「はいはい」

 

 ガタ、と千夜は席を立って、なおもぽかんとした表情をしている真魚に、声をかける。

 なんと言うべきか少しだけ逡巡して──……。

 

 

「おいで、真魚さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手を伸ばせば届くような距離であるはずなのに、やけに遠く感じていた。

 1メートル。

 真魚と千夜の距離感は、おおよそそのくらい。

 片手を伸ばして届かない程度の距離感を保ちつつ、真魚は千夜の後ろをついていっていた。

 

 彼が歩幅を縮めると、少女も歩幅を縮めて……二人が横に並ぶ状況には、ならなかった。

 真魚の視線は水平よりやや下を向いている。

 応答はできるものの、声にも元気がなく、客観的にも気落ちしているように見える。

 

「……今日は寒いね」

「そう、ですね。ここ最近だと最低気温を記録していたような気はします」

 

 当たり障りのない会話。

 とんとん拍子に言葉がつながることはなく、一つの言葉を交わすごとに、少しの沈黙が訪れる。

 

「……」

「……」

 

 冬の夜は冷たく、少し痛い。

 肺の中身が冷えていく感覚。自分の輪郭が鮮鋭になる感覚。

 外に出て、歩いて。

 真魚は、自分の惨めな心が浮き彫りになるのを感じていた。

 

 だから自然と、距離をとりたくなってしまう。

 歩みが、遅くなる。

 

「ごめんね。今日はなんか。かっこ悪いところを永遠に見せちゃったな。あいつもあいつで人間性終わってるから、気分悪かったろう」

「……いえ、あの。私もなんだか、余計な口はさんじゃってすいません。……たぶん……たぶんというか、絶対私がいないほうが話ややこしくなかったですよね」

「もともと話はややこしくなかったけど……桶内さんがいなかったらそもそも話がはじまらなかったろうし、それはちょっと違う気がするな」

「口では『返す』って言ってましたけど、お金ちゃんと返してくれるんですかね、あの人」

「まぁそこは、嘘をつくような奴ではないし平気だとは思うけど。……まぁなんていうか、人を困らせることが主眼の奴なんだよ。だから一通りからかったらそれで満足……なんだとは思うけど、正直よくわからないな。返してくれないかもしれない」

「そう、なんですか……」

 

 やっぱり警察沙汰の話じゃないのかなぁ、と真魚は思っていた。

 だけど彼にとってはそうではなく、その理由はなんなのか。

 

「騙されてるかも、とか。返してくれないかも、とか。そういうの考えるのがあんまり好きじゃなくてさ」

 

 だからとりあえず信用することにしてる、と千夜は苦笑する。

 そんな彼を見て、少女は少し納得をしてしまった。

 

 

 きっと、この人は誰にでもこうなんだ、と。

 

 

 こんな人だから、合鍵を自然と渡してきたり、出会って間もないころ真魚を一人部屋に残して外に出たり、そんなことをするのだろう、と。

 そしてそれは対象がどんな人間であっても、同じ振る舞いをするのだろう、と。

 私は別に、この人にとっての特別枠でもなんでもないんだと、真魚はそう理解した。

 

「なんだか、小池さんらしい感じですね」

「そうかな」

「そうですよ」

「悪い意味で言われたわけではないと思っておく」

「悪い意味ではないです」

「それは重畳。……それはさておき、らしいらしくないの話とは少しずれるけど、桶内さんが怒ってるとこ初めて見たからちょっとびっくりしたな」

「わ」

 

 わ? と思い、千夜は真魚のほうを振り返る。

 真魚は口をまんまるに開けて、ピシ、と固まっていた。頬には少し、赤みがさしている。

 

「──忘れてください。すでに黒歴史になりつつあります……」

「え、なんで」

「いやだって……普通に……その……」

 

 真魚は吐息をもらしながら、少し上目遣いに、ぼそぼそと話す。

 言葉は夜にまぎれて、消えていく。

 空気は冷たく、肺は冷え、手も足も、冷え込んでいる。

 

 自然と動きはにぶくなって、少女は足を止める。それにつられて、彼も足を止める。

 

 人気のない冬の夜。住宅街。切り取られた空間で、彼らは向き合っていた。

 

「……私、普通に迷惑じゃないですか?」

「自分のために怒ってくれるひとに、感謝する理由はあっても、迷惑に思う理由はないかな」

「……そうですか」

「そうなんですよ。というか、普通に、逆に、ぼくが幻滅されたんじゃないかなって。今日のあれはどっちかっていうとそっちだと思うんだけどな。本当に桶内さんには何の落ち度もないし、落ち度があるのはぼくなんだよ。本当に情けなくてさ」

「……そうですか?」

「そうなんですよ」

 

 意味がわからない、とでも言いたげに少女は首をかしげる。

 そして、まぁいいか、と二人はまた歩き始める。

 歩調を合わせるために、とててっ、と少し駆けた少女。二人の距離は、自然と少し縮まった。片手で届かない距離から、片手を伸ばせば届く距離まで。

 

「でも、せ──……こほん。名前とか呼んだり、その……こ、恋人とか? 自称しちゃったのはちょっと我ながら痛かったなとですね」

「あぁ……。でもぼくも同じこと言ったしな」

 

 そんなことを気にしてたのか、と千夜は少し思って。

 同時に、そりゃ気にするか、と納得をした。

 

 言葉は夜に紛れていて、その本当の姿を目に捉えることはできない。

 想いは、口にしなければその本当の真意は伝わらない。

 

 だけどそれでも、迂遠でも、伝わるものというのはあって。

 口にすると無粋な想いというのも世の中にあって。

 

「真魚さん」

「?! な、なんですか……?」

「呼んでみただけ」

「……」

 

 たかが名前、されど名前。

 識別だけなら、苗字で事足りることがほとんどだ。名前で呼ぶ行為は少なからず特別なもので、だからこそ、大なり小なり意識する。

 識別以外を目的とした名前を呼ぶ行為は、どうしたって、親愛の念がこもるものだ。

 

「あの。……せ。……せ、背筋が冷えますねっ」

「寒いもんね」

「そうですね。あったかいココアが飲みたいです」

 

 千夜は、真魚の贈ったオニキスブレスレットを身に着けていた。

 暗い、夜の色をした石。

 真魚もそのことには気づいていた。つけてくれていることを、知っていた。

 

「せ──。セバスチャン……家にセバスチャンが一人いるといいですよね」

「そうかな……そうかも……」

 

 恋という言葉をどう表現するだろう。

 愛という言葉をどう表現するだろう。

 手の届かないものに、手を伸ばすことが恋。

 手もとにあるものを、大事にすることが愛。

 

「……千夜さん」

「なに?」

「よ、呼んでみただけです」

「そ」

 

 触れてみたくなる。

 手を伸ばせば届くような距離に、彼の手がある。

 手を伸ばせば、きっと届く。

 だけど触れるなんてとてもできなくて──だからきっと、この想いを恋と呼ぶのでしょう。

 

「千の夜。私、千夜さんの名前……好きです。綺麗な響きですよね」

「いつだったかもそんなこと言ってくれたね。ぼくも真魚さんの名前好きだよ。語感がいい」

「……ありがとうございます」

 

 好き。好き。

 その言葉を反芻しつつ、真魚は視線をあげて、夜に覆われた空を見る。

 雲一つない夜。星月が、空に浮かんでいた。

 自分が何をどうしたいのか、どう在りたいのか、少女にはまだわからないこともあったけれど。

 少しだけ、わかることが増えた気がした。

 真魚は、自分の唇に触れる。

 名前を呼んで、呼ばれて。そういうやりとりを、この口でしたのだと。

 色々な感情が入り交ざって、少女は、小さく息を吐く。

 

 肺の中身は、すっかりと冷え切っていて。

 

 吐息はもう、白くない。

 

 



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おかえりなさいっ/……ただいま

 

 

〈 1月18日 〉

 

 

 恋は盲目──、なんて言葉がある。

 視野が狭くなる。それ以外のことがどうでもよくなる。理性が機能をしなくなる。

 そういう、流行り病にも似た心の動きは、誰にでも起こりうるもの。

 ごくごく普通の精神性をした少女である真魚もまた、例外ではなくて。

 

 少女の鏡を見る時間が増えたのは、きっとそのせいだった。

 

 変じゃないかな、とか。可愛く見えるかな、とか。香水つけてみようかな、とか。

 真魚は、鏡を見て、いろんなことを思うようになった。

 もともと少女は、特別着飾ることが好きではなかった。もちろん年相応の興味はあったが、熱をあげるほどではなかった。

 周りに呆れられなければいいかな、という塩梅。空気を乱さなければそれでいいだろう、という付き合い方。

 だから真魚にとって、おしゃれというものは、少し距離のある存在だった。

 

 癖の少なそうな……かつ、()の好きそうなマリンノート()の香水をワンプッシュしてみたり。

 唇を色づけるための色付きリップ……発色が控えめの、気付いてもらえなさそうな程度のものを塗ってみたり。

 

 普段しない背伸びをする高揚感。

 胸がどきどきする感じ。

 香水を吹きかけた部分を、すんすん、と嗅いで違和感がないことを確認して──、

 

「真魚ちゃ~ん」

「うひゃあ! ……お母さん、びっくりさせないでよ」

「えぇ~。人の化粧品漁っておいて、それはないんじゃない?」

「……」

「都合が悪いとすぐ黙る~。そういうところ、お父さんそっくりね」

「……」

「はいはい怒らない怒らない。それで何? 彼氏?」

「違うけど」

「……ふーん」

「嘘は言わないよ、私」

「はいはい。わかってますよ。真魚ちゃんはそういう子だものね」

 

 うふふ、と洋子(真魚の母)は笑みを浮かべる。

 むくれている真魚は、誰がどう見ても、デート装備だった。

 髪はきちんとセットしてあったし、服装も普段より背伸びをしているきれいめコーデ、それから化粧。

 

 ずっと子どもを見てきた親にはわかる、子どもの変化。

 

 恋をしているということが、よくわかる。

 

「今度、料理教えましょうか」

「え」

「最近よく聞いてくるでしょ。『これなにで味付けしてるの?』って」

「え……と。いいの? 昔キッチン入ったらすごく怒ったでしょ」

「いつの話? それ。10歳とかのときでしょ」

「……」

 

 真魚は過去を振り返り、確かにそのくらいのときだったかな、と思った。

 でもまぁそこそこ真剣に怒られて、怒られたからキッチンを避けていたところがあったのだが、もう別に構わないというならそれを教えてほしかった、と眉をひそめる。

 

「……教えなくていいの?」

「教えてください! お願いします!」

「よろしい。まぁまた明日以降にね。今日はおゆはんいらないのよね?」

「うん」

 

 洋子()の目がおめかしバッチリの真魚の姿を、上から下まで、舐めるように移動した。

 何を言いたいのかを察して、真魚は、すんっ、と表情を落とす。

 

「……彼氏のところじゃないの?」

「そういうのじゃないし……」

「まぁ、真魚ちゃんがそう言うなら信じるけど。気をつけなさいね」

「うん」

「あとそれから──……」

「……?」

「……家に居づらいのはわかるけど、お父さんと早く仲直りしなさいね」

「…………」

 

 押し黙った真魚()を見て、洋子()はため息を吐く。

 

「まぁいいわ。……水を差してごめんね。……行ってらっしゃい」

「……うん。行ってきます」

 

 逃げるように、そさくさと真魚は部屋を出ていって。

 そして手早く荷物をもって、家を出る。

 玄関を出ると、身を引き締める冬の寒さが襲ってくる。

 陽光は降り注いでいるはずなのに、何もかもが冷たくて。

 

「仲直りとか」

 

 真魚は、しぼり出すように、誰にも聞こえないように、声を吐く。

 

 

「一生無理だよ、お母さん」

 

 

 一度壊れたものは、そう簡単には、戻らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタン……ガタ……ゴトン……。

 バスが揺れながら、走っている。

 真魚は、後方の座席にすわって、窓の外を眺めていた。

 

 実のところ、真魚と千夜の家は近い位置にある。

 徒歩で30分、1駅も離れていない程度の距離感。

 バスに乗れば、本当にあっという間に、彼の最寄りのバス停に着いてしまう。

 

 

 風景が流れていく。

 

 

 真魚は、ぼーっとしながら車窓の外を眺めていた。

 普段より高い目線で、移りゆく街並みを、眺めていた。

 乗車人がぼんやりした意識でも、バスは目的地へと問題なく到着する。公共交通機関というのはそれが良いところで、そして世の中のものは、大抵そういうものだ。

 当事者に意思があろうとなかろうと、常に、社会は動いている。

 

 

 プシュー。

 

 

 バスから降りて、真魚は歩く。

 泊まりなので、荷物は比較的多め。

 

「……別に、そういうのじゃない」

 

 誰に言うわけでもなく、真魚はそう呟いた。

 きっと千夜は、真魚の家がすぐ近くにあることを、教えなければ気付かない。知ろうとしない。

 知ってくれてもいいのに、と思いながら、もうひと踏ん張り、歩く。

 

 

 

 

 時刻は、18時を過ぎたころ。

 

 

 

 

 家主のいない部屋に、真魚は合鍵を使って、上がり込む。

 部屋が暗い。

 ドアを開けて感じるのは、人のいない部屋特有の、寂寥感(せきりょうかん)

 冬の18時、誰もいない部屋なら暗いことは当然で、それは特別寂しさを覚える理由のないはずの光景。

 

 だけどセンチメンタルな気分のときは、他愛のないことでダメージを受けてしまうものだ。

 夕焼けがやけに赤かったとか、財布の中から期限切れのクーポンが出てきたりとか、服にシミがついてしまったとか。

 そういう、なんでもないはずのことが、暗い気持ちを引きずり出す。

 

「ふー……」

 

 大きく息を吸って、吐く。

 一瞬気持ちが弛緩した気がして、でもやっぱり気のせいで、胸の中に重石が入ったように息苦しい。

 真魚はソファに崩れるように座り、これまた重たいため息を吐きながら「帰りたくないな」と思った。

 だから帰らないのだが、帰らないという選択もまた、じわじわと心を蝕んでいく。

 やってはいけないこと。やましいこと。

 自分のしていることが、負側面の行動であるという事実が、心を蝕んでいく。

 

 真魚は、現実から目をそらすように、スマートフォンを取り出す。

 

 

あとどのくらいで帰ってきますか?

 

 

 千夜が家にいないのは、仕事をしているから。

 それで単純にまだ帰っていないから。

 たぶん残業とかはないと思う──と今朝の時点では言っていたが、実際のところは直前になってみないとわからない。

 

 じゃあそんな状況で遊びに来るのはどうなのか、家にあがるのはどうなのか──という至極まっとうな否定的な意見がまた、心の中に浮いてくる。

 

「あ゛~……」

 

 呻く。呻く。

 LINEをおくったってすぐに返信があるわけがなく、やっぱりすぐに気落ちしてしまう。

 ソファに体を沈めて、またスマートフォンを見て、やめて。

 ただジッとしているのも気持ち悪くなって、立ち上がって、うろちょろと歩き回る。

 

 はじめて来たときと比べて、ずいぶんこの部屋は変わったな、と真魚は思う。

 少女は記憶力がいいほうで、一度見たものや感じたことを忘れることはほとんどない。

 だからこの部屋に来た当初のことも覚えている。現在との差異も、わかる。

 

 まず座椅子がなかった。──年明けに増えていた。いわく、年末年始のセールで安かったとか。

 ブランケットが増えた。──本当のところは知らないが、あからさまに真新しいものを使わせてもらっている。

 歯ブラシ。洗顔料、化粧水。それから食器。──真魚専用になっているものが部屋に点々と。

 

 少女の色が、部屋の各所に散りばめられている。

 これらは真魚が生活の一部をこの部屋にあずけている証左であり、千夜だけは真魚がここにいることを許してくれているということをあらわしている。

 真魚が家に居づらい理由を聞かずとも、この場所に逃げてきていい、と。

 

「別に聞いてくれてもいいんだけど……」

 

 話さなくていいなら話したくはない。話しても楽しいことじゃない。

 でも、聞いてほしいという気持ちも同時にある。

 相手のことを知りたい──その気持ちは、相手への興味から生じる心で。逆を言えば、相手のことを知りたくないということは、その相手に興味がないとも言える。

 興味があるのだと、そう思いたいから聞いてほしい。そんな気持ち。

 

 

 人生というものは、ままならないものだ。

 

 

 そんな気持ちを込めて、また一つため息を吐く。

 今日は真魚の、たくさんため息デーである。

 そして、手にしていたスマートフォンに通知が一つ。千夜からのメッセージの返信だった。

 

 

たぶん19時くらいまでには家

着くと思う。

!!!!

おいしいご飯を作っておきます!

 

 

 千夜と軽いメッセージのやり取りをして、真魚は跳ねるように動き出す。

 えいえいおー。

 スイッチが入ったように、テキパキと準備をはじめる。千夜が帰ってくるまで、もうさほど猶予は残されていない────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──おかえりなさいっ!」

 

 花咲く笑顔。

 千夜が自宅に帰ってきて、はじめに目にしたのは、真魚のきれいな表情だった。

 女性はよく花に例えられるが、その意味がわかったような気がした。花咲く笑顔というのは、こういうものを指すのだろう。

 

「……ただいま、帰りました」

「ご飯すぐできますよ。あ、先お風呂とか入りますか?」

「ううん。ご飯食べる」

「そうですか。あと、おうどん煮込むだけなのですぐですよー」

「最高です」

 

 玄関を開けた瞬間から香っていたのは、優しい出汁の香り。

 鍋焼きうどん。

 やや狭苦しいキッチンで、お鍋がぐつぐつと煮えていた。

 玄関から居間へゆく通路の関係上、彼は自然とキッチンで調理されているそれを見た。

 きのこ、ねぎ、白菜などなど。

 冬の寒い外から帰ってきて、鍋が家にあると、すごく嬉しいなと、彼は思った。

 

「もう、おうどん煮ちゃっていいですか?」

「いいですいいです。ありがとうございます」

「なんで敬語なんですか」

「ご飯作ってくれるひとには感謝の念を捧げろと、おばあちゃんが言っていました」

「なるほど?」

 

 彼はネクタイを緩めつつ、着替えてくる、と言って通り抜けていった。

 そんな彼を横目に、真魚は『スーツ姿の男の人だ……』などと思っていた。

 

 結婚って。

 

 新婚さんって、こんな感じなのかな……と。

 真魚は高鳴る胸の音を、手のひらで感じていた。

 胸に何か詰まったように、呼吸が少し苦しくて。

 恋というどっしりした感情を、少女は未だに消化しきれていなかった。

 

 ふぅ、と吐息を一つ。

 真魚は、味見をしようと小皿に出汁をすくい取って、舐めるように嚥下する。

 うん、大丈夫。おいしい。問題ない、はず──……と、うなずく。

 

「真魚さん」

「うひゃあ!」

「え、ごめん。驚かせた?」

「驚きました」

「ごめん」

 

 白のカットソーにカジュアルな綿パンという、少しだけ崩した格好に着替えて、千夜がキッチンにやってきた。

 謝りつつも、彼の表情はフラットで、特に申し訳なさそうではない。

 それはきっと、驚いたからといって、少女が傷ついているわけでないことをわかっているから。

 一定以上の、理解を示していることの証左。

 

「あとぼくがやるよ。座ってて」

「ええと……」

「……」

「千夜さん」

「?」

「座って待っててください」

「はい」

 

 目元は柔らかく、表情も柔らかく、声も穏やかで。

 けれどその台詞には、力があった。

 キッチンにいる女性は強い。

 そんな波動を感じ取って、彼はずこずこと引き下がる。

 

「……お皿だけ出しておきます」

「ありがとうございます」

 

 彼の家で食事をする場所は、基本的に居間である。

 ローテーブルに、食事を置いて、座って食べる。

 ソファもあるにはあるが、基本的にはくつろぎ目的のもので、食事の際には座らない。

 ソファと座椅子、二種類がテーブルの周りにあるとやや窮屈ではあるのだが、なんだかんだこちらのほうが利便性がよく、彼はこのレイアウトをそれなりに気に入っていた。

 

「……」

 

 彼はとり皿をおいて、鍋敷きを敷いて、……真魚のほうを見ていた。

 彼は、「あちち」と味見をしている真魚を見ていた。

 味に不安があるのだろう。何度もすすっては首を傾げている。

 

 千夜と真魚の目があう。

 少女は困ったように笑みを浮かべ、悩むように鍋に目を落とし、はにかむ。

 そして彼は、エプロン姿の真魚のそんな挙動に、いたたまれない気持ちになって、目をそらす。

 

「ごめんなさい。お待たせしました」

「とんでもない。ありがとうございます」

「おいしいといいんですけど……」

「この匂いでおいしくなかったら、びっくりしちゃうな」

 

 おいしそうだね、と彼は手扇ぎで香りを嗅ぐ。

 ゆったり穏やかな表情で笑む千夜を見て、真魚はほっと一息吐く。

 

「とりわけますね」

「よろしくお願いします」

 

 真魚はにこにことしながら、雑用ともいえることに取り掛かっていた。

 彼は、お客さんにこんなことをさせるのもな……と、いつものように思いつつ、でもやっぱり、本人が嬉しそうだからいいか……と、これまたいつも通りの結論へと至る。

 手持ち無沙汰でやることがない──という状況よりも、何かしら役割を持っていたほうが人は安心する。それは実際、そういうものだ。

 

 一つのお鍋から、取り皿へ。

 

 熱を持っていることを示すように、ほかほかと湯気が立ちあがっている。

 

「め、召し上がれ?」

「……いただきます」

 

 千夜から見て、真魚はいつにも増して浮足立っているように見えた。

 平日に夕食を共にすることは稀有なほうであるが、それ自体は、これまで数度行っている。

 メニューも、ひと際難度が高いわけでもない……ように、彼には見えた。

 もしかして、何か隠し味をいれているとか、創意工夫がなされているのだろうか、とうどんを箸で掴んで、しげしげと眺める。ごく普通に見えた。

 

「……」

 

 ずず、とうどんをすする。

 

「あ、おいしい」

「それはよかったです」

 

 社会人も学生も、大抵夜には疲れている。

 加えて冬は、寒い。外から帰ってきたなら、体の芯が冷えている。そして千夜が帰ってきてから、まだ幾ばくも経っていない。

 部屋の暖かさ、うどんの温かさ。

 それらも相まって、沁みるように美味しく感じていた。

 

「うま……」

「……」

「冬はやっぱり鍋だよ……」

「ですねぇ」

「……食べないの?」

「ああ、いえ……」

 

 彼はもぐもぐと食べ進めていたが、少女の箸は進んでいないようだった。

 真魚は鍋と、取り皿を見つめ、一つのことを考えていた。

 

 

 ──これは、間接キスなのでは?!

 

 

 一つの鍋から取り分けて、それを食べるという行為は、すごくセンシティブに感じられた。

 もちろん理性的に考えればそんなわけはない。取り箸は別にあったし、食事用の箸は鍋に突っ込まれてはいない。これで間接キスになるのであれば、バイキング形式のものは、すべて間接キス判定になってしまう。

 

「い、いただきます……」

 

 ちゅるん、と真魚もうどんをすする。

 咀嚼して、呑み込む。

 そのごく普通の工程が、やけに恥ずかしいことのように思えて、真魚はゆだるような熱を感じていた。

 

 そもそも物理的な距離も、普段より近い。

 普段は対面だが、今日は鍋を囲む都合上、斜め前。距離感はおよそ、いつもの半分くらいまでになっていて、少し足を伸ばせば容易に接触できてしまう。

 

「~~っ」

 

 でも結局、そういう変なことを考えすぎていること自体が、恥ずかしい。

 ゆっくりまばたきをして、気にしないようにと思いつつ食事を進めることにした。

 

「なんか見る?」

「映画とかですか? いいですよ」

「なにか見たいのとかある?」

「いえ特に……千夜さんは? 色々あるんじゃないですか? 見たいホラー映画とか」

「うーん……いやでも、食事中に見るものではないし……」

「まぁ……」

「それに、真魚さんはホラーより恋愛とかのが好きなのでは?」

「別にホラーも苦手というほどでは──というか、ホラーは得意じゃないんですけど、千夜さんが好きなタイプの作品は、私も結構好きなことが多いです」

「そうなんだ。……でもまぁ、やっぱりちょっとはまったりしてるやつがいいな」

「お任せします」

 

 彼は端末を操作して、少し逡巡した後、一つの映画作品を選んだ。

 タイトルは『阪急電車』。文字通り、阪急電車をメイン舞台とした、ヒューマンドラマである。

 別に二人で黙々と食事をしていてもいいが、真魚はどうにも気が逸っているようであったし、のんびり落ち着いた食事のためにも、映画を流すのはそう悪い手ではないと彼は思った。

 

 けれど、モニターを見やすい位置へと身じろぎをして。

 足が触れて。

 真魚は、びくり、と身を震わせた。

 意識をしないでおこう──という意識は、意識をすることにつながる。

 

 映像が流れだしても結局、真魚の箸は緩慢なままだった。

 冬の風に撫でられて、肌の感覚を失うような。自分の輪郭を失うような。自分の言葉を失うような。

 それと似たような気持ちに、少女はなっていた。

 

 心の機微というのは難しく、本人にその自覚があっても、軌道修正することは難しい。

 極度の高揚のあとに、不安がやってきたりして──つまるところ、今日少女は、情緒不安定だった。

 それは傍から見ていても、『なんだか様子がおかしいな』ということはわかる程度だったから。

 

「ところで、今日なんかあった?」

「いえ別に……何かあったわけじゃないんですけど。うーん……変でしたか?」

「変ってほどじゃないけど……。そういえば、今日香水つけてる?」

「え」

「あぁ、やっぱりつけてるんだ。帰ってきたとき、ちょっとぽいなーって思ってたんだよ」

「わかるんですね……」

「まぁそりゃね」

「気付いてるなら言ってくださいよ!」

「えぇ……うん……」

 

 実は香水をあまりつけたことはなく、少し不安だった、と少女は言う。

 変な香りだとは思わなかったし、いい香りだと思った、と伝えると、少女は頬をほころばせる。

 

「まぁそれはそれとして。うどん伸びちゃう」

「あ、そうですね」

 

 一転してにこにことする真魚に、千夜も安心しながら、食べ進める。

 おうどん、お鍋。あたたかい。

 ほっとする空間。

 

 モニターからは、雑踏の音が流れてくる。

 

 千夜も真魚も、実家では食事をしながらテレビを見るタイプであったから、映像と音を流しながらの食事は、とても彼らの日常の色に近いものだった。

 

「唇もなにか塗ってた? よね?」

「よくわかりますね……」

「まぁいつもより赤みあったし」

「……え、えっち」

「えっち?!」

「私の唇いつもそんなに見てたんですか……」

「いやいや、自然と目に入るから!」

「え~?」

 

 食事をはじめて、もうリップクリームの色は落ちたはずで。

 香水なんかも、ご飯の匂いにまぎれて気づくことは難しくて。

 つまりそれは、最初帰ってきたとき、そのときにはもう気づいていたということで。

 

 それがもう嬉しくて嬉しくてたまらなくて。

 

 真魚は、可憐に、嫣然に──女性らしい、花のような笑みを浮かべる。

 それを直視し、罪悪感のようなものに駆られて、千夜は視線をわずかにそらす。

 

 

 ガタン、ゴトン──と。

 電車が、モニターの中で動きはじめる。

 人の心というものは、推移していく。人々の思惑は、交差する。重なり合う。

 高揚は安寧へ。ときめきは信頼へ。恋は愛へ。

 

 

 恋は盲目──、けれど一度落ち着くことができたなら。

 視野を広く持つことができたなら。気配りができるようになれたなら。理性でも相手を想えるようになれたなら。

 きっとその恋は、愛としての側面を持つようになる。

 やがて、自分の中にある想いを育むことができるようになる。

 

 

「ところで千夜さんは、映画見ながら話すとか、好きじゃないと思ってましたけど」

「あぁ、まぁ、そういう気分のときとそうでない気分のときがあるんだよ。わかるかなあ」

「はいはい。なんとなくですけど、わかりますよ」

 

 

 相手の価値観を理解できる。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。

 少女と女性の境目、恋を知って、愛を育むそんな時期。

 真魚は、その喜びのままに、邪気なく笑う。

 

 



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約束ですよ/はいはい。約束ね

 

 

〈 2月13日 〉

 

 

 チョコレートの日。彼らの暮らすこの国が、一年で最も、甘い香りに包まれる日。

 バレンタインデー。Valentine's Day。

 

 ……その前日の、13日。

 

 バレンタインデーこと2月14日は、月曜日である。つまり13日、今日は日曜日である。

 そんな日、真魚は、ひとの家のキッチンにいた。

 時刻は、約15時。

 いつも通り──と言っていいほど習慣化してきた映像鑑賞。そのお供になる飲み物を生成した真魚は、マグカップにそれを注ぎ、居間へと運んだ。

 

「今日は何見るんですか?」

「そっちは? 何か見たいのとか」

「んー。なんでもいいです」

「言うと思った」

 

 どれにしようかな、と千夜は動画配信サービスを開いて、候補を選んでいた。

 コト、と真魚は、いつも通りマグカップを置く。

 相変わらずマイリストやおすすめに出てくる作品はホラーばかりで、彼の趣味嗜好が、傍からでもありありと感じ取れる。

 

「どうぞ」

「ありがと」

 

 マグカップが二つ。

 中には、いつも通りの、ミルクブラウンの温かな液体。

 

 映画を物色する彼が、ながら作業のように、画面を注視しながら、ごく自然な動きでマグカップを口に運ぶ。運ぼうとして、何かを疑問に感じたのか、くんくんと香りを嗅ぐ。そして、ズ、と一口。

 その様を、真魚はドキドキしつつ、穴が開きそうなほど、じ~~っと見ていた。

 

「あ」

 

 一口嚥下した彼が、つぶやくように、言葉をもらした。

 何かに気付いたような、けれど確信を持てないような。

 もう一口、ゆっくりと味わって……千夜は、パッと、顔を真魚のほうに向ける。

 

 その表情には光があって、ほころんでいて──、つまりはそう、誰が見ても嬉しそうだった。

 

「これもしかして、チョコレート?」

「はい」

「あー……そう。そうか、バレンタイン……?」

「はい。……の、前日ですけど、明日は月曜日ですし……今日のほうが渡しやすいかなって思って」

「なるほどなるほど。不意打ちだったな。すごい嬉しい。ありがとう」

 

 チョコレートと、ココアは似ている。

 そもそも一体何が違うのか。何も見ずに、チョコレートとココアの違いを答えろと言われて、解答できるひとは一体どれくらいいるだろうか。

 きっとそう多くはないはずで、実際チョコレートとココアは、色も見た目も香りも味わいも、やはり似ている。

 

 

 だからもしかしたら、気付いてもらえないかも──と。

 

 

 気付いてもらえないなら、それはそれで、まぁ仕方ないかな、と。

 面と向かってラッピングをしたチョコレートを渡す勇気はとてもなくて、だからいつもと変わらない形で、誰よりも早く渡せたらいいなと思っていた。

 そんな乙女心が叶って、真魚は、やんわりと微笑む。

 

「ホットチョコはじめて飲んだ気がする……」

「そうなんですか」

「うむ……。ココアと似てるけど、やっぱなんか違うね。おいしい。ホットチョコのほうが……まろやか……? かな」

「語彙力が試されますね」

「まぁ、おいしいということだけわかってればいい気もする。いいね。甘くなくしたんだ?」

「そっちのほうが好きかなって思ったので。ビターなホットチョコレートです」

「いいね」

 

 千夜は普段、ココアを無糖で飲む。

 子どもの好きなココアという飲み物から、砂糖を抜いて、少し大人向けに。

 それを真魚も知っていたから、いつも彼が飲んでいるのと同じように、ビターな仕上がりに。

 ビターとは言っても、ミルクはたくさん入っているから、口当たりはまろやかで。

 そういうところが、やっぱり少し、子ども向け。

 大人も子どもも、みんなが美味しく飲める。ホットココアとホットチョコ。それを彼は愛していて、それを好む彼のことを、少女は好ましく思っていた。

 

「バレンタインとかあんまり意識してなかったな。そうか、もうそんな時期か」

「ですです」

 

 真魚は座椅子に腰をあずけて、少し恥ずかしげに縮こまって。

 少女は、「ふー。ふー」と冷ましつつ、自分用のホットチョコレートを飲む。

 うん。……甘くなくて、おいしい。

 少女は小さく微笑んで、ちらりと、彼のほうを盗み見るように視線をおくる。

 

「千夜さんって、職場でチョコレートとかもらわないんですか?」

「なくはないよ。同僚とかがくれたり、上司ちゃんが差し入れにくれたりすることもあるし」

「義理ですか?」

「義理義理。よその会社は知らないけど、うちの会社で社内恋愛してるの聞いたこと……なくもないけど……ぼくの周りではまぁないかな」

「へ~」

「そっちは? 社会人より、そういうのは学生のほうがホットでしょ」

「まぁ……明日は大なり小なり色めき立つとは思いますけど。私は礼ちゃんに友チョコあげるくらいですかね。……男の子にあげる予定は、特に」

「じゃあ男でもらえるの、ぼくくらいか。光栄だな」

「……まぁ、はい」

 

 露骨な特別扱い。

 少し勇気を出して、あなただけですよ、と伝えて。

 それで微笑んでもらえるのは、嬉しいような、ちょっと余裕ぶってるのが寂しいような。

 

「学校どう?」

「話題の振り方が驚くほど雑ですね。まぁ楽しいですよ、受験がなければ」

「受験は強敵だからな……」

「実際のところ、社会人の千夜さんからして、勉強……例えば数学とかって大事なんですか?」

「え、うん。うん……? いや……うん……」

「……?」

「学生に『なくても困らないとは思う』とはとても言いづらくて困ってしまった」

「つまり、なくても困らないんですね?」

「なんだろうな……。選択肢を広げるってのは大事だとは思うんだよ。いま高二の終わりだと思うけど、来年から高校三年生。高三になってから、例えば科学者になりたい! ってなったとしたら、やっぱりそれまでに蓄積がないとしんどいだろうし……みたいな」

「あぁはい。それは、そうですね」

「まぁ基本的な学力はあったほうが絶対いいけどさ。数学とか特にそうで、電卓とか叩けばいいとは言っても、正しい計算式を導けないとその時点で詰みだし」

「あぁ~……」

「いや、実際多いんだよ。そういう──……。と、危ない。仕事の話になってしまいそうになった」

「別に話してくれてもいいですけど。というか、ちょっと聞きたいです」

「そう? まぁ社会人の話面と向かって聞くことなんてあんまりないし、有りっちゃ有りなのかな」

「ですね」

 

 2月13日。2月の中旬。

 彼らがはじめて会ったのは、7月の末で。

 出会ってから、半年以上が経っていた。

 人が仲良くなるために必要なのは、時間と時間濃度、それから人としての相性。

 仮に一目惚れ同士だったとしても、それは“仲が良い”というには語弊があるであろうし、付き合いだけ長くとも嫌いな相手というのは当然存在している。ゆえに、時間を共有し、お互いを尊重し合う程度の好意があってはじめて、仲が良いと言える。

 

 年を越す前であったら、プライベートの話などしなかっただろう。

 ただの初対面同士からのスタートであったならともかく、彼らの出会いの形は、少しばかり特殊だった。だから関係性の積み上げ方も、少しズレていて。

 実際仕事の話や学校の話、お互いのプライベートに突っ込んだ会話というのはほとんどしたことがなく……それはつまり、ようやく彼らが、ごく普通に仲が良いと言える段階までに至っているということだった。

 

「ところで、何も見ないんですか?」

「あーうん。どうしよっかな。ホットチョコに魅了されて忘れてた」

「……」

「せっかくだし、バレンタインっぽいの見ようか。まんま『バレンタインデー』ってタイトルのやつとかあるよ。どう?」

「安直すぎません?」

「正直、真魚さんが好きなタイプの作品をあんまり知らないから知りたいというのはあるよね。何が見たい?」

「ずるい聞き方ですね……」

 

 ふふ、とマグカップを口に運びながら、真魚は苦笑する。

 好きとか、嫌いとか。

 そういうものは、誰にだってある。

 真魚はいつも、千夜が選んだ千夜の見るものを、一緒に見ている。

 そこに少女の“好き”も“嫌い”も介在していない。彼の好きなものを好きに思うか嫌いに思うか、彼の嫌いなものを好きと思うか嫌いに思うか。

 

「正直いいですか?」

「どうぞ」

「あんまり映画見ないので、好きとか嫌いとか、あんまりよくわからないんですよね」

「あー。確かに、映画って若干空気独特だもんね」

「そうそう。そうなんですよ。アプリで漫画とかはよく見るんですけど……」

 

 漫画や小説、映画。

 それらはすべて、口当たりが異なる。

 恋愛、という大きな括りで見たとしても、漫画でそれを見るのと小説でそれを見るのと映画でそれを見るのとでは、まったく評価が異なる。

 恋愛小説を好きな人が、恋愛映画を好きとは限らない。

 それはその作品を作っている国・レーベルなどの違いもあるし、映画という短い尺と長編化しやすい漫画とでは、物語構成が異なるというところでもある。

 

「じゃあなおさら、一回いろんなの見てみるほうがいいね」

「……そう、なるんですかね?」

「ならないかもしれない」

 

 真魚は「んー」と少し悩んで。

 

「じゃあ、その『バレンタインデー』で。恋愛ドラマとか映画はあんまり見ないんですけど、恋愛主体の漫画とかは好きなんですよね」

「あいあい」

 

 

 そうして再生開始された、『バレンタインデー』。

 2月14日、一年で最もロマンチックな日を描いた映画。

 舞台は日本ではないから、女性から男性へ──という日本の形式とはだいぶ異なっていて。

 愛の形・結末というのは、十人十色なもので。

 結婚50年を過ぎてなお愛し合う夫婦。バレンタイン当日にプロポーズをした/されたカップル。バレンタインに出張になった男性と、それを見送る女性。小学生の男の子と、小学校の女性教師。飛行機で偶然隣り合わせただけの、男性と女性。

 

 

夫婦間の秘密ってどうなんで

しょうね

時と場合によるよね。

この夫婦は秘密にしてたから、

丸く収まったと言えなくもない

まあそんなこともありますか

幸せならOK…うむ…。

まあ…

浮気の発覚は割と離婚ものだし…。

ですよね…

 

 

 彼らはメッセージを送り合いながら、映画を見ていた。

 

 

 結婚50年を過ぎてなお愛し合う夫婦、実はずっと前に一度浮気をしていたり。バレンタイン当日にプロポーズをされた女性は、その直後に荷物をまとめて家を出て行ってしまったり。バレンタインに出張になった男性と、それを見送る女性──実は女性は浮気相手で、男性は既婚者だったり。小学生の男の子と、小学校の女性教師、小学生の男の子は先生に恋をしていたり。飛行機で偶然隣り合わせただけの男性と女性が、ごく普通な距離感で仲良くなっていったり。

 

 

 そんな、様々な人の、バレンタインデーの過ごし方。結婚への考え方。愛の伝え方。愛しているということ。

 

 そしてエンドロールを迎えて、千夜はマグカップに残ったホットチョコレートを、名残惜しみつつ飲み干した。

 真魚はというと、少し微妙な顔をしていた。

 千夜の目から見て、映画のクオリティ自体はそれなりで、なかなかに面白いなというところだった。

 しかし、浮気や寝取り、嘘といった不誠実なことが作中にやや多く、正直・誠実を尊ぶ少女には合わない部分があったのもまた事実だった。

 

「どうだった?」

「普通に面白かったですよ。浮気の決着とかスカッとする仕上がりでしたし、バットか何かでハートのオブジェ破壊するシーンとか最高でしたね」

「あそこよかったなぁ。手を叩いちゃった」

「ね」

 

 ただまぁ、と少女は一つ付け加える。

 

「なんというか……我が家も若干家庭内が……。みたいなところはあるので、ちょっと考えちゃったところはありますね」

「あぁ……感情移入しちゃうやつ……」

「ですねぇ。まぁ、それはともかくとして、あの飛行機に乗ってた女性の──」

 

 

 なんでもないような顔で家の話をして、なんでもないように映画の話に戻る。

 

 

「──という感じで。あの二人の周辺は終始穏やか〜でよかったですよね」

「飛行機組な。安心して見れた」

「バランスよかったですよねー」

「うむ……」

 

 映画が終わって、会話が止まって、夜の静寂(しじま)が場を満たす。

 もう時刻は18時に差し掛かろうとしていた。

 夜。

 季節によって昼夜の境界は異なるが、この時期、この時間は、どうしたって夜である。

 

 長時間一緒に過ごしていれば、自然と、沈黙というものは場に訪れる。

 

 そして彼は、割と、そういう、止まったような、ぬるいような、無音ではない静寂が好きだった。

 そして少女は、その呼吸に合わせることを、好ましく思うようになっていた。

 

 ふと、脳がじんとして、浮くような感覚。

 体の感覚を、失うような感覚。

 冬のまどろみの中では、そういうような感覚を、抱く。

 

「……ホットチョコ、もう少し飲みますか?」

「あるの?」

 

 空になったマグカップに、わびしく口をつける彼に、ぽつりと少女が言葉を投げた。

 

「いいえ、はい。まぁ材料は多めに用意しておいたので」

「じゃあ、お願いしようかな」

「ちょっと待ってくださいね」

 

 衣擦れの音。

 フローリングが、きしむ音。

 他人の発する、音。

 

 彼は、自分以外の人間が、女性が、立っているのを見ていた。

 ミルクを温める。まな板の上で、チョコレートを刻む。ミルクに、チョコレートを溶かしていく。

 そんな少女の動作を、彼は見ていた。

 

「……あの、どうかしましたか?」

「いやぁ」

 

 キッチンに立つ少女は、エプロンをしていた。この家に置いておかれている、少女の私物になったもの。

 訝しげな表情をした真魚の頬は、うっすら色づいていた。唇も、同じく少し色づいていて。

 それらすべてが相まって、どうしようもなく──……。

 

 

「そろそろ、子どもっぽいことは、やめたほうがいいのかなってさ」

 

 

 正しき選択を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのときはスルーしましたけど、あれどういう意味ですか?」

「あれって?」

「子どもっぽいのやめるとかどうとか……」

「あぁ……」

 

 冬の空の下を、二人で歩いていた。

 足の向く先は、海。

 ホットチョコレートを飲み終えたあと、「海が見たいです」と少女が言って、彼が了承をして、今に至っていて。

 夜の散歩を、していた。

 

「感覚的な話なんだけど。このままでもいいのかもしれないけど、そろそろ(ひず)みが大きくなりすぎるかな……みたいな。わかるかな」

「いえ全然わかんないです。なんの話ですか?」

「まぁそりゃわかんないよね。一応あれだ、将来の話?」

「明日はバレンタインデーですね」

「ついでに一か月と一日後にはホワイトデーが来るね」

「ありがとうございます」

「まだ何もしてないのに感謝されてしまった」

「よろしくお願いします」

「……何か考えておくよ」

「やった」

 

 彼らが歩き始めて幾分か経っていて、視界の端には、真っ黒な海があった。

 海沿いの道。さざ波の音が、かすかに耳へ届く。

 それはさながら、自然の生み出す円舞曲。

 たんたんたんっ、と真魚はステップを踏むように、浮かれた様子で先行する。

 オフホワイトのコートに身を包んだ少女は、黒に溢れた夜の中で、より浮き立っていて。

 彼はそんな少女を、目を細めて見ていた。

 

「ほっわいとで~。……ふふ。楽しみですね」

「ハードルがあがっている気がしてならない」

「私は謙虚なのでー」

 

 パッと振り向いて、後ろ足に。対面する形で歩く。

 そしてすぐに、くるんとターンして、横に並ぶ。

 

「なんでしょうね。アクセサリーとか、高級そうなお菓子とか? コスメとか? そういうのはいいです。普通に、普通でいいです。普通に、お返しくれたら、それが」

 

 一番嬉しい、と。

 

「また逆に難しそうな……。はい。まぁ、楽しみにしておいてくださいと言っておく」

「約束ですよ」

「はいはい。約束ね」

 

 言葉を交わしながら、彼らは歩く。

 

「なんだか夜歩いてると、初めて会ったときのこと思い出しません?」

「初めて……?」

「えっあっ……。なんでもないです……」

「いや、初めて会ったときのことは覚えてるけど……。歩いてるってシチュエーションだと、二回目会ったときかなって思っただけ」

「あぁ……なるほど……」

「今だから言うけど割と真面目に最初は幻覚か幽霊だと思ってた」

「ひどすぎません?!」

「いやだって……ねぇ?」

 

 あの日は月がよく見えた。

 満月だった。

 静かな夜だった。

 月へゆくための道が、海に映っていた。

 光を纏う人魚がいた。

 美しかった。

 綺麗だった。

 人魚は人魚でなく、人間の女の子だった。

 

「ずぶ濡れで髪の毛とかさ……真魚さん髪長いから。まぁホラーだったよ。真剣に幽霊じゃないかと思った」

「それは……まぁ……」

 

 否定できない、と真魚は歯噛みする。

 千夜は当時のことを思い返して、秘めやかに笑う。

 昨日のことのように思い出せる──、というのはこういうことを言うのだろう、と。

 ただ、少女が幽霊のように見えたのは、別に髪とかだけの問題ではなくて。そう、雰囲気が──、と。

 

「? どうかしました?」

 

 じっ、と彼は少女のことを見て、少女はそんな彼に怪訝な顔をする。

 

「いや──」

 

 千夜は、なんでもないよ、と言おうとして。

 その刹那、彼が言葉をつむぐ最中に、少女は顔を引きつらせて、彼の体の陰に、身を隠すように動いた。

 

 ぽかん、として。

 

 一拍おくれて千夜は、向かい側から歩いてくる、真魚が顔を引きつらせた要因に、目を向けた。

 そこには40代~50代くらいの女性がいた。真魚の反応からして、知り合いかつ会いたくなかったのだろうか、と彼は思った。

 とはいえ、あからさまに身をひるがえすと目を引くことは否めない。

 

 実際、向かいの女性も少し気になったようで、少し遠くから、怪訝な顔でこちらを見つめて──。

 

 

「……真魚ちゃん?」

「うぇ……。お母さん……」

 

 

 何してるの我が娘、という()()の目。

 うわ~、という()の苦し気な表情。

 ついでにそんな親子を眺める()()()()

 

 この三人が、海沿いの道で、出会った。

 三人のうち、最初に口を開いたのは、真魚の母親だった。

 

「ええと、はじめまして。洋子と言います。そこの真魚の母です」

「あぁこれはどうもご丁寧に。……小池千夜と申します。真魚さんにはいつもお世話になってます」

「あらあら……」

 

 洋子は、頬に手を当てにこやかな笑みを浮かべる。

 おっとりしてるような、柔らかいような、そんな印象を受ける女性だった。

 

「……もしかして、真魚ちゃんの彼氏?」

「ち、ちがうから!」

「あらあら……」

 

 相変わらず彼の背に身を隠しながら、真魚は母親の言葉を否定する。

 

「千──、この人は、ええと……」

 

 真魚の言葉は、尻すぼみになっていた。

 そして千夜へと、言葉をパスする。

 

「よくしてくれてる……知り合い? ですかね?」

「そこでぼくに振るのか。知り合い……まあ……。順当に分類するなら友達なんじゃない?」

「友達……?」

「あ、そこ疑問はさむ余地あるんだ……」

 

 ううむ、と考え込む真魚を横目に収めつつ、千夜は対面の位置にいる真魚の母、──洋子を見やる。

 

「えー、と。お母さんは──」

「お義母さん?! 千夜さんいきなり何言ってるんですか?!」

「え、なに。……え?」

「ッスー……」

 

 真魚は反射的に叫んで、その直後に天を仰ぐ。

 冬の夜空は綺麗で、今日は空に月が浮かんでいた。

 

「仲良しさんなのねぇ」

「別に仲良しじゃないし……。ていうか、お母さん何してるの?」

「実は今日ステーキなんだけど。『さぁ焼くぞ』というところでにんにくがないことに気付いちゃったのよね。ほら、お肉ってにんにくを入れれば入れるほどおいしいみたいなところあるじゃない?」

「……? 納得しかけたけど、どう考えてもこの道通らなくない?」

「そこはほら、海が見たくて。少し遠回りだけど、こっちの道のほうが素敵だから、ね?」

 

 うふふ、と頬に手を当てる真魚の母親(洋子)

 そんな洋子が口にした、海が見たい、という言葉。

 それは奇しくも、真魚が数刻前に口にしたのと、同じような言葉だった。

 家族のつながり。血のつながり。子は親に似るものなのだろう。

 

「ところで真魚ちゃん。今日、帰りが遅いとは聞いてたけど……」

 

 ちらり、と千夜の姿を見やって、母は娘に問いかける。

 

「あーえー……。えと、もう帰る……」

 

 真魚は口もごりながら、少し嫌そうに、言葉を吐き出す。

 そももそも母親と道端でばったり、という状況が、好ましいとは言えない。

 仮に女友達()と歩いているなら何とも思わなかっただろうし、にこやかに会話をしたかもしれない。けれどいま隣にいるのは、心の中で非常に微妙なバランスの上にいるひとで。だから。説明に窮する部分があって、好ましいとは言えなかった。

 

「ごめんなさい。私、今日はここで帰りますね」

「わかった。気を付けてね。……すいません、お母さん、娘さんをこんな遅くまでお借りして」

「あぁいえいえ。むしろこちらのほうがご迷惑をお掛けしてないか心配──」

「お母さんっ」

「あらあら」

 

 千夜の陰から真魚は出て行って、母親のもとへ。

 そして、またね、と言わんばかりに小さく手を振って。

 早くいこ、と母親に声をかけて場を離れる真魚を、千夜は眺めていて。

 

 ハッピー・バレンタイン・トゥー・ユー。

 幸せなバレンタインをあなたに。

 そんな想いのあった2/13は、最後、少し梯子を外されたように終わってしまって。

 

 梯子外し。拍子抜け。……言い方はなんでもいいが、そのようなことを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、洋子と真魚(母と娘)は二人きりになって。

 

「ねぇ真魚ちゃん」

「うん?」

「あれで付き合ってないの?」

「付き合っては、ない、けど」

 

 そうなんだ、と洋子はうなずいて。

 

「いつもあの人の家に行ってるの?」

「……うん」

「うーん……」

 

 真魚は怒られた子どものようにシュンとして、洋子は困ったように眉をひそめる。

 

「別に文句が言いたいわけじゃないのよ。色々思うところがなくもないけど、いいことだと思うわ」

「……うん」

「あの人のこと、好きなの?」

「…………………………」

 

 問いかけに対する返答は、無言。

 答えたくない。

 答えられない。

 わからない。

 理由は一つにしぼれないのかもしれないが、結論として、無回答。

 

「私は、真魚ちゃんが幸せでいてくれたらそれでいいから、あれこれ口出しする気はないんだけど。……そういうやるべきことをやらないと、いつまでたっても子どものままだよ」

「……子ども? やるべきこと? なにそれ」

「んー」

 

 

 目を瞬く真魚に、洋子は曖昧に微笑み、思ったことを淡々と言う。

 

 

 

 

「好きとか、嫌いとか?」 

 

 

 

 

 まずは認めて、そのあと選んで、口にしよう。

 認めず選ばず口にしないままでは、きっと何も前には進まないから。

 

 



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言っておかないといけないことがあって/……なんですか?

 

 

〈 2月21日 〉

 

 

 ところで、転機というものは突然訪れるものである。

 転機とは、環境の変化によって訪れるもので。

 だからそれは往々にして、自分の意思では気付けないものだ。

 

 カタカタ、と千夜はキーボードを叩く。

 

 手元の資料を見ながら、報告書をまとめていた。

 

「千夜。プチ会議するから第一会議室来れるか?」

 

 投げられた言葉に顔をあげると、友人兼上司ちゃんである、井上が立っていた。

 同年代でありつつも上司という、少しややこしい関係。

 作業を止めて、見上げるような形で、向き合う。

 

「……ええと、何時からですか?」

「いつでも。まぁ俺からちょっと伝えることあるだけだから」

「……?」

「仕事上の連絡事項」

「わかりました。じゃあ今からでも?」

「おけ」

「パソコンとか資料とかなくても?」

「おけ」

 

 じゃあ、と席を立って、二人そろって会議室へ移動する。

 事務所と会議室はそう離れているわけでもないので、世間話をして間を取り持つ必要もなく、到着。

 第一会議室はそこそこ広めの部屋だが、特に使用予定もなかったらしく、がらんとしている。

 千夜は空いている椅子に適当に腰掛け、メモとペンを取りだして、待機する。

 

「……」

「お前最近あの子とどうなの?」

「……あの子、とは」

「魚類っぽい子」

「井上さん……魚類っぽいって言い方はちょっと……。というか、仕事の話じゃないんですか」

「同級生なんだからため口でいいだろ。ここ今二人なんだからさぁ……。で、あと、別にその魚ちゃんも別に無関係じゃないっちゃ無関係じゃないんだよな。だから聞いてんだけど」

「……まぁいいけど。よくはないが。まぁよしとする」

「で?」

 

 えー、と千夜は露骨に嫌そうな顔をした。

 眉間にしわをよせて、唇を曲げ、不満そうな表情を形作る。

 

「いや嘘じゃなく結構マジで仕事に無関係じゃないんだよなこれが」

「井上が嘘つかないっていうの信用ならなさ具合が凄まじいんだよな……」

「信じろって」

「……まぁ別に、そこまで隠すようなことでもないからいいけど」

 

 他人に好かれているか嫌われているか、あるいはどうでもいいと思われているか。

 そのあたりの感情というのは、ある程度類推が可能だ。

 単純に考えると、好意的な言動をされているなら、好かれていて。敵意的な言動をされているなら、嫌われている。

 もちろん反感を抱かれていても、面と向かって「嫌い」だなんて言う人は少ないだろうし、そういうところが感情を類推するにあたって難しいところではあるのだが。

 

 だけど、それでも。

 

 嫌いな相手にチョコレートなんて贈らない。

 あんな表情をしない。甘い声で話さない。

 どういう感情を向けられているのかは、多少は、わかっているつもりだった。

 

「たぶん好かれてるとは思うんだけど、そろそろどうしていいかわかんないんだよな……」

「あ? ん? 別れる予定でもあんの?」

「……あー。いやあのときはそんな流れの会話してた気もするけど、別に付き合ってないよ。なんかまぁ……ちょっと縁があって最近よく遊んでるんだけど……うん……」

「遊ぶって……。千夜お前、いつから女を弄ぶような男に……」

「殴っていい?」

「じゃあなんだよ。ただの女友達じゃねえの?」

「うーん……」

 

 ただの女友達、というには関係性が特殊。

 けれどただの知り合い、というには距離が近すぎる。

 とはいえ、ついこの間、少女自身は「知り合い? ですかね?」などと言ってはいたのだが、それはそれ。

 シチュエーション的に、照れ隠しというのもあっただろうし、今まさに彼が言葉に困っているように、少女にとってもそうなのだろう。

 

「実はあの子未成年なんだよね」

「えっまじ援交じゃん」

「殴っていい?」

「やべーな衝撃の事実だ。通報していいか?」

「馬鹿」

 

 はー、と大きなため息。

 

「……まぁ実際、色んな問題がありすぎて、どうしていいかもうよくわからないんだよね」

「問題って、例えば?」

「いやまぁ未成年。年齢差」

「それ以外は?」

「……あ、とは……」

 

 プチ家出状態、であることとか。

 それにまつわることに、いくらかの問題はあるような気はしていたが、ただそれは千夜には直接の関係のないことだった。

 彼が本質的には関与できない問題。彼ができるのは、少女を精神的に安定させることだけで。だからそれは、彼らの周囲を取り巻く問題ではあっても、彼らの関係性に影響を及ぼす問題では、ない。

 

「……なんだろう」

「特にないのかよ草」

「いやないことはないんだけど」

「ふうん?」

「……いやまぁ、この話もういいでしょ」

 

 はぁ、とため息を一つ。

 

「で、仕事上の連絡事項って、結局なに?」

「あぁそれは────」

 

 友人兼上司が放った、一言。

 それを聞いた千夜は、ピタ、と見事に固まった。

 

 


 

 

〈 3月3日 〉

 

 

 チャイムの音が鳴る。

 耳の奥に響く音、授業の始まり/終わりを知らせる音、時間の区切りをつける音。

 

 カチ、とシャーペンの芯を引っ込める。

 パタ、と教科書とノートを閉じる。

 テキパキ、と卓上の色々なものを片付ける。

 

 そして、ドッ、と教室が喧噪に満たされる。

 休み時間、お昼の時間、学校生活で最も長い休憩時間。

 食堂など教室外で食べる人たちはガヤガヤと外に出て、あっという間に教室の人口密度が減っていく。

 

 そんな中、真魚は、悠然とかばんの中からお弁当箱を取り出して、てくてくと席移動をする。

 窓際の前から三番目の位置に、真魚の友達である礼が座っている。真魚は礼の前の空いた席に座る。ここ最近の、通例の位置だった。

 

「ひな祭り、ですわね」

 

 お弁当をつつきながら、礼が神妙な顔つきで、ぽつりとつぶやく。

 

「……」

「桃の節句、とも言いますわね」

「そうなんだ……」

「えぇ、そうなんです」

 

 つんつん、と真魚は自分のお弁当の白米を箸でつつく。

 お米を一粒だけつまんで、口に運んで、もぐもぐと咀嚼して、呑み込む。

 特に続きの台詞はないんだな、と思って、真魚は言葉を返す。

 

「それで、ひな祭りがどうかしたの?」

「特別何かあるわけではないんですが。3月3日ですし、ふと、ひな祭りを思い出したんですの」

「季節感は大事だもんね」

「ですわね」

 

 意味のあるわけでもない、パッと頭に浮かんだだけの言葉のラリー。

 

「でももう三月なんだよね……。なんか一年あっという間だったけど、次も同じクラスだといいよね」

「噂によると、ある程度は仲良し同士で三年のクラスは固めてくれるとかどうとか聞いたことがありますが……眉唾ですしね……」

「あっそんな噂あるんだ。へー」

「真偽のほどは定かではありませんけれど……まぁそこは論議しても仕方ありませんわね」

「確かに」

 

 二人はお弁当を食べながら、いつも通り他愛のない話を続ける。

 もうすぐ高校三年生になる──、という話を皮切りに、進学・進級・受験勉強の話など。

 

「──ところで真魚ちゃん」

「?」

「あの方に告白とかはなさらないんですの?」

「…………」

 

 真魚は、お弁当に入っているミニハンバーグを半分に割り、パクリと一口。

 ケチャップの味がするなと思いつつ、もぐもぐごくん。

 

「……急に何?」

「やけにインターバルをはさみましたわね」

「だって……」

 

 都合が悪くなると、沈黙をはさむ。

 それが真魚の癖だった。

 

「いやでも、なんでまた?」

「あぁいえ……普通に四月になりますし……?」

「え? だから何?」

「クラス替えなどの前の告白とか、割と定番じゃありませんこと?」

「……なるほど? …………確かに、そういう人もいるんだろうね。あれだよね。卒業式前の別れ際の……みたいな?」

「そうですそうです」

「まぁあの人は社会人だし、あんまり関係はないかなって」

「確かに!」

 

 目から鱗、と言わんばかりに、礼は目を見開く。

 

「小中高とクラス替えや進学があったので、なんとなく春と言えばそんな感覚がありましたが、そうですわよね。社会人になったら早々変わらないんですのね」

「ね。私たちにはあんまりイメージできないけど」

 

 厚焼き玉子焼き。

 おいしい。

 

「それはともかくとしても、告白はしないんですの?」

「あっその話まだ続くんだ」

「まぁ」

「んー……」

 

 告白するしないについては、真魚ひとりで、自宅で考え事をしていたときに、結論が出ていた。

 

「まぁ、しないと思うけど」

「あら。なんでですか?」

「なんでって……」

 

 真魚は言葉に迷って、水筒からカップにお茶を注ぎ、んく、と一息つく。

 少女にとっては比較的タイムリーな話題だったから、ある程度のことは考えた。

 好きとか、嫌いとか。

 告白するとか、しないとか。

 でもやっぱり、リスクのほうが目立っていたから。

 

「別に話してもいいけど……この話教室でするの?」

「それは……デリケートな話になるなら場所は変えたほうがいいかもですわね。真魚ちゃんの好きにしてもらえれば」

「まず、順を追って話すと……」

「あ、教室でいいんですのね」

「まぁ、別に」

「どうぞ続けてくださいまし」

「……えーと、なんだっけ、そうそう、まず『好きか嫌いか』だけど……。それはまぁ、好きなんだよねぇ……」

「LIKE or LOVE問題はありますの?」

「らぶ」

「あら即答」

「そこはね」

 

 真魚は淡々と答えていたが、言葉として少女が彼への好意を口にしたのは、これが初であった。

 

「ちなみに、どんなところが?」

「どんなところ……。優しいところ?」

「出ましたわ! つまらない長所ランキング一位!」

「優しいの何が悪いと……いや言わんとすることはわかるけどさー……」

「はい」

 

 好きな人が悪く言われた感じがして、真魚は、イラァ……と眉を顰める。

 

「言い方変えると、怒らないとか。まだ付き合い浅いから〜、みたいなことも思わなくもないんだけど、あの人たぶん怒るより悲しいって思うタイプで、だから怒鳴られたりとかそういうことはずっとないだろうなーって感じがする。怒らないのいいよね。私怒鳴る人とかすごく苦手。しゅんってしちゃう」

「あー、怒る人はしんどいですわよね。顔面へこませてやろうかと拳を暖めてしまいます」

「ね」

「将来的に見ても、怒らない人相手だと主導権握れそうな感じでいいですわよね」

「う、穿った見方……」

「でも思いません?」

「まぁ……うーん……微妙……」

 

 あれがしたい、これがしたい。

 そういう欲求の話をすると、まだ未知な部分が多いように、真魚には思えた。

 だって、映画を見てばかりで、他に特に何もしていない。

 映画を見て、ココアを飲んで、他愛のない話を永遠に。

 そんな風に、過ごしていたから。

 

「でも歩調というか、生きる速度感というか、そういうのは近いんだろうなあって感じはするかな」

「歩く速度、ですか?」

「歩行スピードじゃなくて、気持ち的なほうね。せかせかして効率優先! ──ってタイプとは私付き合えないし、しんどいだろうなーって思う。そういうのはかなり合う感じする」

「あー、すごくいいじゃないですか。素敵ですわね」

「そうそうそう。でしょ?」

「はい」

 

 ふふん、と真魚は満悦した表情で、ミニトマトを口に運ぶ。

 かり、と皮を破ると、トマトの味が口に広がる。

 もぐもぐ、ごくん。

 

 

 ──もっと言うなら、と。

 

 

 真魚は、言葉を続けようとして、気恥ずかしくてやめた。

 初めて会った日、真魚が人生に一番絶望していた日、そんな日に優しくしてくれたからというのはあるのだろう。

 ココアが甘くて、おいしくて。

 あの家の空気は、心地が良かったから。

 たったそれだけの、他愛のない理由が、きっとはじまり。

 ただ、そんなことは、わざわざ教えてあげる必要なんてなくて。

 真魚は秘めやかに、目を細める。

 

「ところで、これ、なんの話だったっけ?」

「告白の話からの派生ですわ」

「あぁ……」

「まぁ急いては事を仕損じると言いますしね。慎重なのはいいことかもしれません」

「だよね。私もそう思う。やっぱり慎重派だからさ」

 

 急いては事を仕損じる。

 まぁ実際、告白するにしても、もうちょっと異性として意識してもらえるようになってからだろうな──、と。

 真魚は、そんなことを思った。

 

 

 

 

 落ち着いた色味の紺のブレザー、赤のラインが入ったプリーツチェックスカート。

 学校の、制服。

 学校の制服というものは、それを着用しているものが“学生”であることを示すものだ。

 大学生にもなれば、制服を着ることはなくなると言ってもいい。

 

 だからこそ、制服という存在は、中高生の──子どもの象徴的なものとなる。

 

 だから脱いでしまう。脱いでいた。脱いで、私服に着替えて、彼の部屋に行っていた。

 一番はじめは、なんとなく、私服のほうがラフ感が少なくていいかもしれない──、とあえて、きれいめの私服を選んでいた。気軽に、軽々しく、帰り際に適当に寄るような扱いをしていい場所ではないと思っていたから。

 制服は比較的フォーマルな存在であるからして、真魚のその思考はややズレていたとも言えなくもないが、そこは本人の心情の問題であるからして仕方がないとも言える。

 

 ともあれ、結局のところ事実としてあるのは、真魚が千夜の前で制服を着たことが一度もないという事実だった。

 

 しかしだからといって、その事実が直接二人の関係に関与するわけでは当然ない。

 直接は。

 間接的には、どうだろう。

 制服を着ない女子高生は、子どもには、見えない。

 

 

 ぴんぽーん、とチャイムを鳴らして、反応がないことを確認。

 その後、ガチャ、と。

 ドアを開ける。

 

 

 彼の家、千夜の家。真魚の家ではない場所に、足を踏み入れる。

 

「お邪魔します」

 

 少女が学校を終え、彼の家に遊びに来る時間と彼が帰宅する時間は、当然ぴったり同じではない。

 来る前に了承はもらっているが、それでもやはり無人の家に足を踏み入れるのはどことなく背徳的な気分になる。

 こればかりは、早々慣れるものではない。

 実のところ、今日は大した用があるわけではなく、その事実も足を踏み入れるのに抵抗を生む一助になっていた。

 より正確にいうと、用がないというよりは、何か用事を済ませるほどの時間がないというほうが正しいのだが。長い時間留まっていられるのなら、やれることは多岐にわたるが、そうではない。

 

「告白……」

 

 

 ──年相応の付き合いをするなら構わないけど、付き合ってもないんだから節度はしっかりと。

 ──あとそれから、ご飯はちゃんと家で食べなさい。

 

 

「むぅ……」

 

 もっともすぎる、母の言葉。

 彼と二人でいるところを母に見られたあの日、家に帰ってからやっぱり絞られて、そのときに言われた言葉だった。

 

「でもどうせ……」

 

 告白なんてしても受け入れてなんて、もらえない。

 そんな言葉を呑み込み、代わりにため息を吐く。

 

 今日学校で告白についての話をしたというのもあり、母の言葉もあり、思考がどうにもそっちに寄ってしまっていた。

 そもそも告白をする理由とはなんだろうか。

 

 まず一つ、関係の区切り。これまでの関係を終わらせて、次のステップに移るためのイニシエーション。

 内実的には、確認作業というのもあるだろう。好きとか、嫌いとか。言葉にしてみなければ、内に秘めたものは、いつまで経っても曖昧だ。

 実効としては、確認作業を踏まえた、お互いがお互いのものであるという誓約を結ぶこと。もっとも言葉で軽く交わされただけの軽いものにはなるが、この誓約があるからこそ、告白以降は浮気という概念が生じることになる。

 

 なにはともあれ、その前後で決定的に違ってしまうものがある。

 だから怖いし、勇気が必要になるわけだが。……が。

 

 逆を言えば、『今がずっと続けばいい』──、そう思えるなら、告白なんてする意味がない。

 

「……よし」

 

 とりあえず、ココアを淹れよう。

 いつも通り。彼の好きなものを、私が好きになったもので、この部屋を満たそう。

 そう思って、真魚は、キッチンに向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい!」

「……ただいま」

 

 香り高いココア、花咲くような笑顔、そして他人のいる明るい部屋。

 部屋に満ちる寂寥感というのは、冬に色濃く出やすい。寒く、日が落ちる時刻が早いからだ。

 あとそれから、一人暮らしの部屋で「ただいま」というむずがゆさ。

 

 別に今日この日がはじめてではないが、やっぱりどうしたって、早々慣れるものではない。

 

「今日はすぐ帰るんだっけ?」

「はい。お母さんが早めに帰ってきなさいって」

「そ」

 

 千夜は真魚に背中を向けて部屋の奥へと進む。

 コートを脱いで、ジャケットを脱いで、手を洗ってうがいして。

 そんなことをしていると、真魚が居間のテーブルに、ホットココアを用意してくれていた。

 

 千夜はいそいそと座り込み、「ありがとう」と一言。

 ココアを一口飲み、ほっと一息。

 

「来て早々なんだ──って思われるかもなんですが、このココアを飲んだら、私帰りますね」

「あ、すぐ帰るってほんとにすぐなんだ」

「まぁ……鬱陶しいかなとも思ったんですが、まぁその……」

 

 お話したかったので、と真魚は肩を丸めて、小さくなっていた。

 

「あぁ、全然いいよそれは。ぼくもやっぱり、帰ってきて電気ついてたり暖房ついてると……なんだろ。安心感があったりして、嬉しいなって思うし」

「なら、よかったです」

 

 真魚は自分のマグカップに、あちち、と口をつけ、ちみちみと。

 

「千夜さんには悪いなって思うんですけど、私最近……この家やっぱり落ち着くなって思ってまして。隙あらば足を運びたくなるんですよね」

「──、……それならよかった」

「はい」

 

 やんわりと、真魚は、はにかむように小さく笑う。

 そして、千夜は内心、ドキッとしていた。

 言うべきか、言うべきでないか。

 そんなのは考えるまでもなく、言うべきことで──、と。理性ではそう思っていても、なかなかどうして、うまく言葉にはできなかった。

 

「そういえば」

 

 わずかな沈黙のあと、口を開いたのは真魚だった。

 

「今日何食べるんですか?」

「ん。コンビニ弁当」

「え~」

「何か言いたそうだ」

「いえ別に。普通に冷凍食品とかレトルトとか、おいしいですよね」

「そう。割と普通においしいんだよな」

「ね」

 

 一人暮らしで、毎日自炊というのはめんどくさい。

 時は金なり。

 お金で時間にゆとりができるなら、そっちを選びたくなることは、ある。

 

「まぁ手作りとかしようと思うと、 大変ですもんね。作る量とかも複数人のほうが調整はしやすそうだなって最近思います。私がするときはいつも最低二人前なのであれなんですけど」

「まぁね。ある程度はぼちぼち慣れたけど。……でもまぁ、平日にちゃんとした料理ってのは実際めんどくさいところもあるというのは正直なところかな」

「お仕事お疲れ様です」

「ありがとう」

「肩でも揉みましょうか?」

「……じゃあお願いします?」

「えっ」

「そっちが言い出したんでしょ」

「そう、なんですけど~……」

 

 どうしましょう、などと言いながら少女はマグカップを机にいったん置き、手をわきわきとさせる。

 比較的、乗り気なような、そうでもないような。微妙な塩梅。

 

「えっほんとにいいんですか?」

「いやそういうリアクションされるとなんか……うん……」

「えぇ〜……」

 

 露骨に肩を落とす少女に、彼はなんだか悪いことをしたような気分になっていた。

 別に千夜は悪くはないし、真魚も別に、心底求めていたわけではなかったが。

 そういう文脈で、そういう戯れだったから。

 

「じゃあ代わりに、じゃんけんでもしませんか?」

「なんで? いやいいけど」

「じゃーんけーん」

「ホイ」

 

 

 そうやって、わーきゃー、とたわむれて。

 少し落ち着いた後に、ココアを飲みながら別の話をしてみたり。

 そうしていたら、ココア一杯分の時間なんてあっという間に過ぎてしまった。

 

 

「──……」

 

 

 空になったマグカップを、真魚はぼんやりと見つめていた。

 千夜もぐい、っと自分のカップの中身を飲み干す。

 

「……バスでいいんだっけ? 送ってくよ」

「はい」

 

 二人は、コートを羽織って、靴を履いて、外に出た。

 

 夜。

 どこか滲むような色をした、夜だった。

 風のない、穏やかで寒すぎない、夜だった。

 千夜にとっては滲む空で、真魚にとっては穏やかな空。

 

 ごくごく当たり前のことなのだが、ものの見え方というものは、人によって異なる。

 受け止め方が異なる、と言ったほうが近いかもしれない。

 ともあれ、結果として、千夜には少し澱んで見えて、真魚にはきれいに見えたという事実だけがそこにはあって。

 

「──……、──? ──」

「──、────」

 

 そんな中、いくつかの言葉を投げ合いながら、夜道を歩いていた。

 ほとんどが他愛のないこと。

 ごくごく普通の会話。

 コンビニのプリンは、どこのが一番おいしいとか。そんな程度の、中身のない楽しいだけの会話。

 

「私、いつか猫を飼うのが夢なんですよね」

「へぇ。いいね。家ではペットとか飼ったりしてないの?」

「お母さんがアレルギーあるんですよ」

「なるほどね」

 

 そう、こういう、中身のない会話には“ただ楽しい”という意味がある。

 他愛のない話で愛を感じるという、贅沢。

 

「……ん。次のバスまで、あと5分ってとこでしょうか。もうちょっとのんびり歩いてもよかったかもですね」

「5分かぁ」

 

 バス停に着いて、時刻表の近くで立ち話。

 周りに人がいないわけではないので、少しだけ声を控えめに、そして少しだけ周りから距離をとって、少しだけパーソナルスペースを縮めて。

 そんな風にして、立って、話していた。

 

「送ってくださって、ありがとうございました。もう大丈夫ですよ」

「んー。まぁあと数分くらいだし。最後まで」

「そうですか? まぁそれなら……」

 

 少女は首を傾けて、「んー」と唇をなぞるように、思案していた。

 そして、「そういえば」と、指をピンと立てて。

 

「今日学校で、来年の話してたんですよね。三年生になるんですけど」

「うん」

「そこでちょっと話題になったんですが、社会人だとどうなんですかね。なにかイベントとかあるんですか?」

「あー、総決算とかってこと? 普通に新入社員さんがいらっしゃるからチームのパワーバランスが変わったりとか……まぁ会社によって細かいことは変わったりするだろうから、なんとも言えないところはあるけど」

 

 千夜はそこまで話して、重いため息を吐いた。

 隠しておくことなんてできないし、話さなければならないことを。

 自分の家を居心地がいいと言ってくれた少女には、必ず伝えなければならないこと。

 伝えようと思って、伝えられていなかったこと。

 切り出そうと思って、切り出せていなかったこと。

 

「仕事のことなんだけど」

「? はい」

「真魚さんに言っておかないといけないことがあって」

「……なんですか?」

 

 空気が、ピリリと張り詰めたような気がした。

 真面目な顔、声のトーン。

 嫌な予感がする、と真魚は思った。

 

 

 

 

「転勤が決まった。四月までには、あの部屋を出ていく」

 

 

 

 

 関係の区切り。卒業、転校、転勤、進学──様々な外的要因により、縁というのは自然と切れる。

 それを切らずに続けるには、友情や愛情という名の、強い錨が必要となる。

 そして、千夜と真魚の間に、そのような強い(誓約)は存在しない。

 

 だって彼らは、別に特別な関係でもなんでもなくて。

 だからつまり、このまま何もしなければ、縁が切れる。

 

 そんな現実が、いま目の前にあって──……真魚はただ、口をぱくぱく開閉させることしか、できなかった。

 

 だけど時間は動く。バスが来る。世間は彼らを、待ってはくれない。

 

 



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将来の話をしようか/……はいっ

 

 千夜が真魚に、転勤の事実を告白してから、早2週間が経っていた。

 あれからというもの、二人の関係は、少しギクシャクするようになっていた。

 

 例えば3月14日、ホワイトデー。

 

 千夜にバレンタインのお返しをしない選択肢はなくて、だから直接会って、彼はそれなりの値段のするクッキーを渡していた。

 けれど。

 けれど、けれど。

 

『ぇ、と……ありがとうございます』

 

 真魚の浮かべた表情は、少しぎこちなくて。

 どういう感情を浮かべればいいのかわからない、という雰囲気だった。

 

 また、3月14日を除けば、直接会うこともなくなっていて。

 理由はなくとも会うようになりはじめた矢先の、関係の断絶。

 だってじきに会わなくなることが決まっているなら、これ以上仲良くなっても辛いだけなら、理屈上、これ以上会う理由なんてなかった。

 

 そう、理屈の上では、会う理由に乏しい。

 そう、理屈の上では。

 

 でも、忘れてはいけないのは。

 私生活をおくる上で、他人に時間を割くということは。

 理屈ではなく、感情で、ただそうしたいから。

 

 それはもともと、理屈で説明できないことだったから。

 

 だから。

 

 

3月19日、空いてませんか?

 

 

 ここから先の話は、理屈をある程度すっ飛ばした、感情の話。

 想いを第一にした、彼らの話だ。

 

 

 

 


 

 

 

 

〈 3月19日 〉

 

 

 海というのは、普通、昼のほうが綺麗だ。

 陽光が反射して、海面がきらきらと、まるで宝石のように煌めく。

 冷たい風と、海の匂い。

 右手のほうに見える煌めく海を見ながら、千夜は海沿いの道路を歩いていた。

 

 約束の場所は、千夜と真魚がはじめて会ったところだった。

 

 昼に会うのは初めてではない。

 海で会うのも初めてではない。

 けれど、昼の海で会うのは、はじめてだった。

 

 夜の海辺という特殊なシチュエーションでは、複数回一緒にいたことがあるというのも、また不思議なことだった。

 視界の隅に真魚が引っかかるように歩きながら、彼は、海辺へと歩みを進めていた。

 時間には、比較的ゆとりがあって。

 約束の時間の、だいたい20分前に約束の場所に着くこととなりそうな具合で。特に問題なく、場所自体には、着いた。

 真魚の姿を、見つけた。

 

 さて。

 さてさて。

 

「…………」

 

 千夜は約束の場所へと訪れて、言葉を失っていた。

 何故か。それは驚いてしまったから。

 真魚が、ナンパをされていたから。

 

 砂浜と道路の境界に位置する、コンクリートの塀に腰掛けている真魚に、どこかの誰か、知らない男が声をかけている。

 細かな台詞は聞き取れないし、文脈もいまいち理解できないが、ニュアンスとしては「何してんの? 俺らと遊ばね?」というような感じで。

 それを認識して、千夜は、距離を縮める。

 

「あの。その子、ぼくの連れなので」

 

 そう声をかけると、見知らぬ男は、「なんだ男連れか」と落胆して、去って行った。

 あまりにも古典的な流れに、千夜は、去って行く男の背を、目を丸くして見送ることしかできなかった。

 幾ばくかの間、思考停止をしてしまった後に、改めて、真魚のほうへと向き直る。

 

 真魚が見上げて、千夜が見下ろす位置関係。

 真魚は縁に腰かけて座っていたので、自然とそういう形になっていて。

 そんな風に、視線を交差させる。

 今日の真魚は、化粧をしているようだった。きれいだった。昼の海にも、よく映える。

 薄く色づいた唇が印象的で、『あぁなるほど。これは声を掛けられるのにも納得がいく』、と千夜は心の中でうなずいていた。

 

「……大丈夫だった?」

「ええと、はい。……まぁなんというか……びっくりしましたね。あんな風に声かけられたの、はじめてだったので」

「あぁ、そうなんだ」

「はい」

「……」

「……」

 

 少しの、沈黙。

 海辺、砂浜。周囲には人がいないわけではなかったが、シーズン外の今、そう人が多いわけでもない。

 海は綺麗で、砂浜は広くて、だけどそのどちらにも足は踏み入れず、ぼんやりと眺めていた。

 

「移動する?」

「……千夜さんが構わないのであれば、ここででもいいですか?」

「ん。いいよ全然」

 

 真魚は自分の隣のスペースを軽くタップし、そのあと、かばんからハンカチを取り出した。

 千夜は手でそれを制して、座る。彼が地べたに座ったのは久方ぶりで、少しだけ若くなったような気がした。

 二人の距離は、約60センチ。

 手を伸ばせば相手に触れられる。そんな距離だった。

 

「なんか久しぶりだね」

「まぁそうかもですね。カレンダー見るとそこまでかなって気もするんですけど……そうですね、久しぶりです」

 

 そう言う真魚のお尻の下には、ハンカチが敷かれていて、千夜は『女の子だなぁ』という漠然とした感想を抱いた。

 そして、少女の手に握られているのは、

 

「ところで、それなに?」

「む。これに目をつけるとはお目が高いですね」

 

 黄緑色のチープな筒と、ちっちゃな容器。

 子どものころ、一度は手に取ったそれは。

 

「……しゃぼん玉?」

「はい、そうです。千夜さんもどうですか。今ならもう一個、新品があるんですよ」

「そうなんだ」

「そうなんです」

「じゃあもらおうかな」

「! どうぞ……!」

 

 いそいそと、真魚は、新しいしゃぼん玉のセットを取り出す。

 千夜は受け取って、「懐かしいな……」と、言葉をもらす。

 

「あ、そうだ。もし肌寒かったらカイロとかありますよ。いりますか?」

「んー。いや、いいや。結構あったかいし」

 

 3月も、もうじき終わる。

 4月を春のはじまりとするならば、春がはじまるまで、もう半月もない。

 気温も冬と呼ぶにはだいぶ暖かくなっていて……そう、つまりは冬が終わろうとしていた。

 

 春。

 

 出逢いの季節。はじまりの季節。新生活の、オープニングとなる季節。

 ひるがえして、その直前には別れがあり、終わりがあり、既存の生活のエンディングがある。

 

「……──」

 

 ふー、と。

 声にならない息を、筒に。

 

 そうして生まれるのは、滑らかな虹の光沢を伴った、しゃぼんの泡。

 次々に生まれては、どこか見えないところまで広がる、しゃぼんの泡。

 

 陽光と、海と、しゃぼん玉と。

 

 そして、少女の横顔と。

 

「……おー。すごい」

「久しぶりにやると、楽しいですよね」

「うん」

「実は今日、これをやりたいがために呼ばせてもらったみたいなところがあるんですよね」

「そうなんだ」

「そうなんですよ。まぁあとは、普通に、せっかくだからお話ししたいなって」

「なるほどね」

 

 そう言って、ふー、と。

 また、しゃぼん玉を飛ばす。

 

「しゃぼん玉好きなんですよね。子どものころ……小学生くらい? のときに、お母さんと、こうやって腰かけて、一緒にやってたことがあるんですよ」

「あー。いいね。海とかあって。そういうのも相まって、なんかいい」

「そうそう。そうなんですよね。昔……会ったばかりのころに、人魚姫が好きとか言ってたの覚えてますか?」

「あー。あったねえ。懐かしい」

「その理由もだいたいこれなんですよね。普通に話として好きってのはもちろんあるんですけど、きっかけはこれで」

「あー、あー……はいはい。しゃぼん玉と人魚姫ね。なんとなくわかる気もする」

「ね」

 

 空気を内包する、泡。

 人魚姫は泡になる。泡になって、空気になる。

 しゃぼんの泡はきれいで、いつかは消えるものだけど、でもそこに残るものはある。

 

 泡は、海にあっても空気の中にあっても、いつだってきれいで。

 

 少女はそう思うから、人魚姫のことも、きれいだと感じている。

 仮に結ばれないエンディングだったとしても、それでも美しいものは美しい。王子の命を奪えず、愛に生きた人魚姫は、美しい。

 

 

「…………」

 

 

 しゃぼん玉を、ふかしている。

 だから会話というものは生じなくて、非常にゆったりとした空気になっている。

 千夜は、それに対して、なんとも言えない気持ちを抱いていた。

 前に会ったときは、少し空気が軋んでいたから。

 今はすごくリラックスしているように見えて、でもそんなことはないのだろうな、と。

 

「……あんまり口にしたことはなかったけどさ、真魚さんのこと、真魚さんとこういう時間過ごすの好きなんだよね」

「……? ……え、あ、ん。ん? ……わ、私もです、よ?」

「すごいキョドるじゃん」

「いやちょっと不意打たれちゃったので……」

「なるほど」

「もう一回言ってもらっていいですか?」

「えぇ……?」

 

 じ、と真魚に見られて、千夜は反射的に、少し身を引く。

 そして、数秒が経過して。

 真魚が待ちの姿勢であることを理解して、千夜は改まって、言葉を口にする。

 

「……会ってわりと間もないとき、映画館で会ったときとか。そう……さっき言った人魚姫の話とかをちょうどしてたときかな。

 ポップコーンと飲み物を、わざわざ買ってたのがすごく印象的なんだよな。普段そういうのは口にしないって言ってた気がする。

 そういうところが、好感持てるなっていうのは、結構前々から思ってて……。

 そう、クリスマスとかもそうだよ。誕生日とクリスマスと、二種類用意してる感じが性格出てるなって思ったんだよね。

 あとは、ぼくのつまんない趣味に付き合ってくれたりとか、一緒にココア飲んでくれたりとか、ココア作ってくれたりとか。ご飯作ってくれたりとか。

 そうそう、仕事帰りに、家で待ってくれてたのとか、地味に印象的でさ。地味にっていうのもおかしいか? まぁ家に帰ったときに、誰か待ってる人がいるのっていうのが嬉しいって感覚……」

 

 そこまで口にして、彼はひっそりとため息を吐く。

 

「ともかく、楽しかったな、という話かな」

「…………」

「なに?」

「いえ、少し、寂しいな、と」

「なるほどね」

 

 真魚は、脚をぷらぷらと揺らし、遠くを見つめる。

 彼の、今の台詞の意味は。

 少女の存在の、肯定に近い。

 どこまでいっても、口にしなければ想いというものは曖昧だ。何かをして、それで相手が笑ってくれていたとしても、愛想笑いということもあり得るだろう。だけど『そういうのじゃないよ』と、そんな一言があるだけで、だいぶ気が楽になるだろう。

 今の台詞は、内実的な確認作業に近いものだった。

 だから嬉しい。嬉しかった。

 だけど、嬉しいからこそ、寂しいし、悲しい。

 

「ごめんね」

「別に、千夜さんは悪くないじゃないですか。転勤。仕方ないですよね」

「それはそうなんだけど。せっかく仲良くなれたのになぁ……とはやっぱり思っちゃうよね」

「それは……」

 

 それは。

 その言い方は。

 その言い方だと、もう会ってはくれないのだと。そういう言い方に聞こえてしまう。聞こえてしまった。

 それに先ほどの、『あまり口にしたことはなかったけど』という台詞も、穿った見方をするなら、“どうせ最後だから”とも受け止められてしまう。

 

「ここから新幹線で何時間だったかな。まぁ三、四時間だったと思うけど」

 

 関係が終わりを迎える、必然性に満ちていた。

 あぁやっぱりそうなるよね、と真魚は諦観にも似た感情を抱いていた。

 

「……遠いですね」

「そうだね」

 

 真魚は大きく息を吸って、ため息を吐くように、しゃぼん液に浸されたストローに息を吹き込む。

 重苦しい吐息は、きれいなしゃぼんに変換されて。風に乗って煌めいては、消えていく。

 暗い気持ちも、何故だかきれいに見える。

 

「どうせ最後なら、一つ聞いてほしいことがあるんですけど」

「いいよ」

「本当は絶対に知られたくないなって思ってたし、千夜さんじゃなくても、一生誰にも話さないだろうなって思ってたことなんですけど」

「うん」

 

 しゃぼんの液にストローをさして、ちょんちょん、と。

 

「私、処女じゃないんですよね」

「……?」

「普通に好きな人と、っていうならともかく…………私の場合、父親だったので。お母さんはそんなこと知らないし、友だちにも言えるわけないし。……お母さんとか、『お父さんと早く仲直りしなさい』なんて言うんですよ。笑っちゃいますよね。話はつけたし、お父さんにも、お母さんには絶対に言うなって言ったし、だからもう、あとは私が忘れちゃえばいいだけなんですけど。……まぁ一生忘れないだろうなって」

 

 自嘲気味に笑って、ストローを咥えて、ふー、としゃぼん玉を吐き出す。

 しゃぼんの泡はきれいであったが、真魚の心の中はドロっとしていた。

 思いの外、汚い。吹き溜まりのような気持ちが表層に。

 だけど、

 

「……がんばったね」

 

 よしよし、と頭が撫でられて。

 まるで、心の奥底の汚泥が流れるように、少女は涙腺は決壊した。

 ぽろぽろ、と悲しみと苦しみを溶かした、悲哀の雫が、こぼれていく。

 

 真魚が千夜とはじめて会ったあの日、海の中で流していたもの。

 真魚がシャワーを浴びながら、人知れず流していたもの。

 

 海もシャワーも何もない陸地では、涙を薄めるものは何もなくて。

 だから少女は、ただただ、泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……すいません。みっともないとこ見せて」

「そんなことないよ」

 

 ずびずびと鼻をすする真魚の頭から、彼はようやく手を離した。

 けれど、自然と、二人の距離は0センチに。

 肩は寄せられ、少女は体の一部を彼に預けていて。

 そんな少女の甘い香りに、千夜は頭をくらくらとさせていた。

 

「……」

「……」

 

 しゃぼんの溶液は、横に置いて。

 ただ、身を寄せ合ってるだけの時間を共有する。

 はたから見れば、とんだバカップルだろう。

 そんなことを、二人ともが自覚して、その上で「まあいいか」と思っていた。

 

 浮ついた心というのは、それを自覚していても、特別やめる気にはならないものだ。

 

 それこそ、倫理観とか。正義感とか。恋愛観とか。

 何か特別なこだわりがあって、それが想いを縛るものならば、やめる理由になるかもしれない。

 だけど今回の場合は、どちらかというと、少女の背中を押す理由として機能している。

 

「あの……真魚さん?」

「はい」

 

 真魚は何を思ったのか、余っている彼の手をとって、触れはじめた。

 指をなぞって、爪の形を確かめて。

 

「……楽しい……?」

「わりと」

「それならまぁいいけど」

「いいんですか?」

「いいよ」

 

 真魚が彼のほうに、顔を向ける。

 たったそれだけのことで、互いの顔が、近距離に。

 互いに互いの吐息の熱を感じられそうな距離に、何を思うのか。

 それは名状しがたいものがあるだろう。

 愛情。恋慕。庇護。寂寥。諦観。

 そこには、さまざまなものが含まれているだろう。

 

 さて、さてさて。

 

 繰り返しになるが、想いというものは、口にしなければ伝わらないことがほとんどだ。

 心を読めるなら、言葉なんてものはいらないわけで。

 心が読めないから、言葉が必要。

 

 それでも言葉を用いずとも、心を察することはできる。

 確定はできない。だけど察することはできる。

 目、声、吐息。仕草。

 その人のありとあらゆる挙動から、心を、察することはできるから。

 

 

「あの、好きです」

 

 

 真魚は、思わず口に出していた。

 だって、だって、貴方がそんな風に笑うから。

 優しい目の色をしているから。私のことを、愛してくれているように見えるから。

 

「千夜さんが、いまこういうこと言われて困るっていうのもわかるんですけど、でも、あの、私は──……」

 

 真魚は、口をパクパクと開閉して、最後に噤む。

 千夜は、自分の抱える感情に、驚きと納得の色が、混ざっていく。

 

「別に、困ることはないよ。普通に嬉しい」

「…………」

「いやそんな疑わなくても、別に嘘じゃないよ。いやまぁ……色々思うところがあるというのは、そうだけどさ」

「思うところって、なんですか?」

 

 そうだなぁ、と、彼は目尻を下げて、言葉を続ける。

 変に誤魔化さなくていいのは、良い。

 

「……別に困りはしないんだけど、色々気にはするよね。真魚さん未成年だし。こういうのは、ほら、極端な話、通報とかされたらぼくは捕まってもおかしくないと思うしさ。世間様から褒められることはないんだろうなって思うし。……でも結局は、困る理由ってそこなんだよね。“周りに何か言われたとき”がめんどくさいな──とは思うけど、でも、真魚さんのことをめんどくさいとか困るなとか、そんな風に思ったことは、一度もないよ。これは本当」

 

 仮にこの世界に二人だけしかいないとするなら、まったく気にすることなんてなかっただろう。

 

「若干ニュアンスが難しいんだけど。わかる?」

「要するに私が子どもだからダメってことですよね?」

「……いや……まぁ……」

「逆に言うと私が大人になったら、千夜さんはいいってことですか?」

「まぁ、そうなるかな」

「………………少々お待ちください。脳内シミュレーションをします」

「あ、はい」

 

 むむ、と真剣な表情をする真魚を横目に、千夜はしゃぼん液とストローをあらたまって手に取る。

 正直、千夜は安心していた。

 彼としては、若干空気が澱んだあとの呼び出しで何を言われるのかと、思っていて。実際に言われたこととしては、想定よりも重たかったりもしたのだが、それでも険悪にはなっていない。

 それがよかった。安心した。と、彼は童心に返った気持ちで、しゃぼん玉を吹いていた。

 

「脳内シミュレーションをしました」

「お疲れ」

「色々考えたんですけど……」

「うん」

 

 そもそもなんのシミュレーションだったんだろう、と彼は思いつつ、相槌を打つ。

 

「……………………」

「……」

「……ちょっと待ってください」

「うん」

 

 少女は胸に手を当て、すーはー、と大きく息をしていた。

 彼は彼で、言葉を待っている間、しゃぼん玉をふかしていて。

 

「……あのですね」

「……」

「………………ちょっと待ってもらっていいですか?!」

「うん」

 

 あまりにも言葉を溜めるので、何を言うつもりなんだこの子、と千夜は身構えはじめた。

 じ、と真魚の顔を見つめると、あわわ、と少女の視線が迷子になる。

 なんだか、一周まわって、彼も緊張をしてきてしまった。

 

「なんか、ぼくまで緊張してきたんだけど」

「……はい……いやっ、うーん……そうですね……」

「うん……」

「じゃ、じゃあ言いますよ?!」

「うん」

 

 すー、はー。

 大きな深呼吸。

 また、目が合う。視線が交わる。互いの瞳に、互いの姿が映る。

 風が流れる。髪が揺れる。唇が、震える。

 

 

 

 

「私と、結婚してください」

 

 

 

 

 陽光に満ちた世界で、身を寄せ合いながら、言葉をつむぐ。

 言葉をおくった少女は、ぎゅっと身をこわばらせていて。

 おくられた彼は、ぽかん、と口を開けていた。

 

 想定していた台詞に近いような、遥かに遠いような。

 

 結婚とは、夫婦になること。夫婦とは、婚姻をした男女のこと。

 そういうものになろうと、少女は言った。

 

「だって」

 

 言い訳をするように、澱みを絞るように、少女は言葉を続ける。

 

「私と千夜さん、結局、ただの他人じゃないですか……。さっきは『どうせ最後なら──』って言いましたけど、最後でなくていいなら、最後じゃないほうが……」

「あぁ……」

 

 シミュレーションとやらの、事細かな内容は終ぞよくわからなかったが、それでも真魚の言いたいことはわかった。

 同じ時間を過ごすことへの不満はない。問題視されるのは世間体、ひいては年齢だけ。とはいえ、結局のところ今後は物理的な距離が開く。じゃあどうするか、という話で。

 

 ようするに楔がほしいのだ。

 

 他人じゃなく。知り合いでもなく。友人でもなく。恋人でもなく。より強固な、楔。

 お互いがお互いのものであるという、誓約を結びたいと。

 だからといって結婚という言葉が出てくるのは、だいぶ話が飛躍している気がするが、彼にも、真魚の言いたいことは、わからないでもなかった。

 

「正直、話がすごく飛躍してて反応に困っている」

「……はい」

「あとついでに、真魚さんいま17だよね? 法律的に無理では? いやまぁ婚約ならいいのか」

「そこは……はい……別に今すぐという話では……」

「なるほどね」

「……」

「まぁでも……んー……」

「他人の記憶を消したい場合って、後頭部を全力で殴ればいいんでしたっけ?」

「ただの暴力なんだよな」

「入水とかどうでしょう」

「どうでしょうじゃないんだよな」

「練炭焚きましょうか」

「今日は風が気持ちいいね」

「わかります。今日天気いいですよね」

 

 空が、きれいだった。

 青い、空。そして未来の方角からは、黄昏の色がやってきている。

 青いだけだった空に、朱色が混ざって、連続的な変化が生まれていた。

 

 そう、昼の海で同じ時間を過ごすのははじめてだった。

 だからつまり、夕方の海も初めてで。

 屋外で、ここまで近い距離で、話すこともまた、初めてだった。

 

 それに対して、仄かな喜びがあるように、感じていた。

 じゃあ、まぁいいんじゃないか、とも思えた。

 

「そういえば真魚さんって、好きな宝石とかあるの?」

「? サファイアですかね」

「うわ……」

「え、なんでいま引いたんですか? きれいじゃないですか、青くて」

「いや、すごくぽいなと思って。特に他意はないんだけど。……まぁ、サファイアで給料三か月ぶん用意しとくよ」

「……? え?」

「いきなり結婚っていうのはかなりどうかしてるとは思うので、そこはまぁまた相談するとして、結婚を前提にお付き合いを──って、そういう形がいいなら、それはそれでいいのかもしれないなって思った」

「ん?」

「遠距離恋愛というものは生まれて初めてなので正直よくわからないんだけど、なんとかなる、はず。なるといいな」

「……? え、付き合ってくれるって意味ですか?」

「……あぁ、もっと直接的に言ったほうがいいか。ごめん。悪い癖が出た」

 

 えー、と彼は唸って。

 

「正直色々なことを、前々から思ったりはしてて。真魚さんの仕草にドキッとしたことも一度や二度じゃないし、そういう目で見たことがないといえば嘘になる。……ので、うん。……ぼくも真魚さんのこと好きだよ」

「……」

「……真魚さん?」

「えっあっはい。ごめんなさい。ちょっと放心しておりました」

「左様か」

「いやなんかあの……顔すっごい熱い……」

 

 黄昏よりも赤く。

 涙よりも熱く。

 そんな顔をしている真魚を見つめて、彼は、自分の心が喜色にあふれるのを感じていた。 

 

「また今後、将来の話をしようか」

「……はいっ」

 

 人生は長く、時間はあふれている。

 それでもやはり、問題も多く、上手くいかないことのほうが多いだろうが。

 また今度。

 その言葉の響きに、少女は、花開くような笑みを浮かべた。

 

 



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夏夜の海、思い出の場所

 

 

〈 8月5日 〉

 

 

 このまま消えてしまえたらいいのに、なんて。

 その気持ちを、月に行きたい──、なんて風に言い換えてくれたのを、よく覚えている。

 そんなことを思って、彼女は微笑む。

 

 特別な時間、というものが、人によってはある。

 それは、人によって違うもの。大切なものは、ひとによって異なるもの。

 それは趣味嗜好であったり、思い出によって形作られたりするもので。

 

 夜、夜、夜。

 

 すべてを包む安寧の闇も、やさしく闇を照らす月も、闇を溶かした真っ黒な夜海も。

 それは彼女に思い出をくれたから。

 

 彼女のための千夜一夜物語(アラビアンナイト)

 

 だから彼女は、夜が好きになった。

 夜の中にいることが、好きになった。

 

 そして、もう一つの、特別。

 それは、海。

 

 艶やかな黒髪を夜に溶かした、夜の魚。

 彼女は、ゆったりと歩きながら、海へ行く。

 

「……早く明日にならないかな」

 

 時刻は23時を過ぎたころ。

 日付が変わろうと変わるまいと、普段は気にしないのだが、今日だけは、これまた特別だった。

 8月5日は、真魚の18歳の誕生日。

 だけどそれは特別の理由ではなくて、いやそれも理由の一つではあるのだが、本質的には、違う。

 

「明日になれば、会える」

 

 そう、それが理由だった。

 彼女の恋人は、遠方で暮らしている。

 だから、そう気安く会うことなんてできなくて。

 明日は、8月6日は、久しぶりに逢える日だった。

 

 デート。日時や場所を定めて、逢引きをすること。

 

 彼らが初めて出会ってから、早一年。

 一年経つが、まだ恋人らしい関係になって間もなく、距離も離れていたから、デートらしいデートをした経験というのもあんまりない。

 そういう意味で、特別だった。

 もちろん誕生日の翌日であるから、そういう意味でも特別で。

 

 まぁなんにせよ、浮き足立つ──という形容がよく似合う、足取りだった。

 るんるん、と。

 そんな気持ちで、海へ。

 

「──……」

 

 静かな、深い夜だった。

 けれど耳を澄ませば波の音が聞こえる。無音ではない、静寂。 

 アスファルトから砂浜へ。

 彼女の耳に届く波の音は、わずかながら大きくなっていて。あと数十メートルも歩みを進めれば、波に手を触れることができる。

 

 真っ黒な、海。

 月明かりを帯びた、夜の海。

 

 それを視界いっぱいに広げて、砂浜の上で、彼女は息を呑んでいた。

 驚愕と、確信と、高揚と。

 それから、喜色と。

 

 彼女は、頬をほころばせて、波打ち際へと足を運ぶ。

 そこには、予想外の、それでいて嬉しいものがあった。

 

 

 

 

「……相変わらず、深夜徘徊がお好きなんですね」

 

 

 

 

 浅瀬に足を浸した、見知った男性に、声をかける。

 振り向いた彼は、一瞬驚いた顔をして、頬をゆるめる。

 そこにいたのは、彼女の意中のひと。

 たった今頭の中で考え続けていた、千夜だった。

 

「……相変わらず、第一声がひどいな。久しぶりだね、真魚さん」

「……はい、いいえ。ちょうど一か月ぶりくらいですかね。お久しぶりです、千夜さん」

 

 穏やかな声と、表情と。

 夜風と海の香りと、空の月と。

 じっとりした夏の熱と、夜の静寂(しじま)と。

 そういうものに包まれて、特別な情感を、自然と抱く。

 

「もうこっち来てたんですね」

「あぁそりゃね。今晩着いてないとスケジュールがタイトすぎてさ。朝はやっぱり、ある程度のんびりしたいし」

「典型的な夜型ですもんね」

「こんな夜にほっつき歩いてる真魚さんに言われたくないな……。夜は危ないよ? 何かあったらどうするの」

「それはまぁ……。でも、海が見たくて」

「なるほど」

 

 海。

 浅瀬で、彼は素足で、海面をちゃぷちゃぷと混ぜるように、撫でるように触れる。

 彼は彼で、海が見たくて、海に触れたくてここに来ていたから、「海が見たくて」と、その言葉を否定することはできなかった。

 

「帰りはおくってくよ」

「ありがとうございます。……でももうちょっとだけ、ここで立ち話しててもいいですか?」

「いつまでも付き合う──と言いたいところだけど、まぁ、明日しんどくならない程度にね」

「それはもちろん」

 

 真魚は少しだけ考えたあと、片足をあげて、靴を脱いで、靴下を脱いで、素足になった。

 そしてもう片足も同じように脱いで、裸足になる。

 これもある種の脱衣シーン。

 なんだか見てはいけないようなものを見た気がして、少し彼は年甲斐もなく、目をそらした。

 

「……あ、気持ちいい」

 

 裸足になった彼女は、彼がそうしていたように、浅瀬に足を踏み入れる。

 波が引いては押し寄せてくる場所。

 足首だけが、浸かる場所。

 今日の彼女は、白いワンピースを着ていたから、靴とソックスさえ脱いでしまえば、特に支障はない。

 

「海入るの、すごい久しぶり。やっぱり気持ちいいですね」

「夏だしね。夜はまだ気温が落ち着くけど、やっぱり暑いものは暑いし……海は気持ちいい。冷たいわけじゃないけど、暑くない」

「ね。ぬるくて気持ちいいんですよ」

 

 手が触れあいそうなところまで、彼女は距離を縮める。

 肩を並べて、彼がそうしていたように、陸に背を向け、海と月と地平線のほうへと、体を向ける。

 夏の夜の、海の音がする。波の音。無音とは違う、夜の静寂。

 

「そういえば昔──、……。昔、『月に行きたいのかと思ってた』とか言ってましたよね、千夜さん」

「ん? あー……? あーはいはい。急に言うからびっくりした。言った言った」

「ごめんなさい。つい。懐かしくて」

「いやそれはいいんだけど。……でもあれ? ほんとにほぼ一年前? たぶんそんくらいだよね」

「ん-。ですかね。そうだと思います」

「うっわ……時間が経つのは早いな……」

「ね」

 

 空には半分の月が在って、それが落ちて消えようとしているところだった。

 月の明かりが海を照らして、道ができていて。

 このまま進めば、どこか遠くに行ってしまえそう。

 だけど彼女は、かつてそうしていたように、深みに足を進めることはなくて。

 それはきっと、それよりも深い夜が、隣に存在しているからだった。

 

「月、きれいですよね」

「そうだね。いい感じ」

「私実は、あの言葉、結構嬉しかったんですよ」

「なにが? 月に行きたいってやつ?」

「はい」

「なんで?」

「それは秘密です」

「ふうん……?」

「女は秘密を着飾って美しくなる……らしいですよ?」

「なるほど。通りで」

「……いやあの、つっこみとか……」

「君はきれいだよ」

「……」

「そういうとこだよ」

「……!」

 

 ばんばん、と真魚は千夜の肩を叩く。

 そんな彼女に、彼はふき出してしまって、彼女はそっぽを向いてしまう。

 

「ごめんごめん」

「……最近千夜さんそういうところありますよね」

「えー」

「女たらし……」

「じゃあ言わないほうがいい?」

「それは毎秒お願いします」

「はいはい」

 

 最近──、という話をするならば、彼女も大概だと彼は思った。

 少しずつ、砕けてきている。

 だからこれは、どちらがどうという話ではなく、お互いに、少しずつ変わってきているのだろう。

 あくまで他人だった距離が、そうではない距離に。

 

「……ところで、最近どう?」

「どうしたんですか? 急に話題に困った親戚のおじさんみたいなことを言い出しましたね」

「……」

「千夜さんはまだ若いと思います。ごめんなさい気にしないでください」

「いや、別に」

「……ま、まぁ、『どう?』と聞かれても特に……普通にいつもLINEしてるのと同じ感じです。心身ともに、健康、です!」

「ならよかった」

 

 なんだかんだと、彼女の家庭は複雑だからずっと心配していたのだが。

 本人いわく、「大丈夫。普通に生活できないくらいまでまた悪化したら、そのときは時間かけても、千夜さんのとこ逃げ込みます」とのことで。

 逃げる、逃げ込む。他人を頼る。

 そういう判断ができる女性だから、ひとまずは信頼をすることにしている。

 それに、

 

「進学ってこっち来るってことでいいんだよね?」

「えぇまぁ。……それがどうかしたんですか?」

 

 どうせ間もなく、居住地も近くなる。

 

「別に大したことじゃないんだけど。暇なときに物件見とこうかなってさ。大学近くて良さそうなとこ」

「気が早くないですか?」

「……いやでも……もう8月だし……? 半年くらいなら一瞬じゃない……?」

「一理ありますね」

「だよね」

「大学に近いより千夜さんの家に近いほうが嬉しいので、そんな感じで見といてくれると嬉しいです」

「……なるほど?」

「まぁ大学から遠すぎても嫌なんですけど……でも私の志望大学と千夜さんの家、そこまで遠くないんですよね。大学はバスとか電車で通える距離でいいんですけど、まぁ千夜さんの家には徒歩で通えるといいなーって」

「……」

「……え、なんですかその顔」

「照れ臭いなという顔」

「そうですか」

 

 夜は深く、世界は暗く。

 彼らを照らすのは、遠方の街灯と、淡い月の明かりだけ。

 近くにいても、相手の表情の変化を正しく捉えることも、難しい。

 だけどちゃんと伝わるものがある。だから嬉しい。笑みがこぼれる。

 

「どうせなら同棲とかも興味あるんですけどね」

「まぁ……」

「お母さんは結構推奨派なんですよね、同棲」

「ぼくの預かり知らぬところで話が進んでいる。……いやまぁ確かに一回挨拶しに行ったときも、大概フリーダムだったけど……」

「そうなんですよねぇ……。曰く、『そういうのを知るのは早ければ早いほどいい』って」

「一理ある。……けどなんか、言い方が怖いですね……」

「そうなんですよね……。なんか、上手くいかないことのほうが多いからうんぬんって最近死ぬほど言われます。最近その関連で、うちの家事がすべて私にまわってくるんですよね……」

「真魚さんって受験生じゃなかったっけ」

「わがまま言うなら全部両立しろと、我が母は仰せです……」

「そんなことなってたんだ……」

「なってるんです……いやまぁ愚痴が言いたいわけじゃないんですけど、つまりは結構家事スキルが高くなりつつあるということなんですよね」

「素晴らしい」

「えへん」

 

 LINEや通話、あるいは直接会ったり。

 そういうことは定期的にしていたが、そういう努力をしていたのは知らなかった。

 あえて口を噤んでいたのか、特に口にする理由がなかったから言わなかったのか。

 細かいことはわからなかったが、頑張っていることだけは間違いがなくて。

 千夜は、ごくごく普通に、真魚へ尊敬の念を抱いた。

 

「えらいね。すごい」

「えへ~」

 

 よしよし、と頭に触れる。

 夜に溶ける艶やかな黒髪は、するりと抵抗なく、指が通る。

 

「頭撫でられるのとか、子どもっぽくてあんまり好きじゃなかったんですけど。やっぱ嬉しいもんですね」

「それならよかった」

 

 相手に触れる距離、パーソナルスペースを限りなく埋める行為というのは、当然だが親しくないとできなくて。

 3月の末、それから4ヶ月ほどのインターバルをおいて、彼らはそれらを許容し合うことができるようになっていた。

 

「…………」

「…………」

 

 お互いを正確に捉えることができない夜の中では、特に距離感というのは縮むものだ。

 闇は境界を曖昧にするという、ただそれだけの自然なこと。

 だから彼らも、より一層、距離を歪めて、溶かして、……自然と手を絡めていた。

 彼からすると、彼女の手はひんやりとしていて。

 彼女からすると、彼の手は暖かかった。

 

「手を繋ぐのってかなりテンション上がるんですけど、やっぱりそのうち飽きるんですかね」

「人によるんじゃない? 歩きづらいとかはあるかもだけど、ぼくは割と好きなほうだし、ずっとこのままでもいいかな」

「じゃあ一生このままで」

「手のひらが洗えなくなってしまうな」

「困りましたね」

「ね」

 

 彼女は繋いだ手に目を落として、これまた夜に馴染む黒い石を目にした。

 オニキス。

 割と安価に買える、パワーストーンの一種。黒一色で、“夜”が名前にある彼に似合うと思って購入したのをよく覚えている。

 今日会ったのは偶然のようなものだったから。

 普段からつけてくれていることが窺えて、真魚は嬉しく思った。

 

「普段からつけてるんですか?」

「ん?」

「ブレスレット」

「基本的にはね。それこそ……海で泳ぐとか? お風呂とか。そういうときには外すと思うけど」

「私、千夜さんのそういうとこ好きですよ」

「……ありがとう?」

 

 ふふ、と真魚は笑みをこぼして、彼の腕にぎゅっと抱きつくように、腕を絡める。

 より密着度が高くなって、より熱が混じる。

 

「千夜さん」

「なに?」

「暑いですね。暑いですか?」

「暑いです」

「帰りコンビニ寄りません?」

「買い食いですか……。言われたらすごいアイス食べたくなってきちゃったな」

「ではそういうことで」

「……でさ、今ふと思ったけど、家に連絡しなくて大丈夫? たぶんだけど散歩行くくらいの感じで出てきたんでしょ?」

「あー……。ですね。連絡しときます」

 

 えーと、と真魚は彼と腕を組みながら、片手でスマホを取り出し、操作を始めた。

 

「……落とさないようにね。海に落ちたらスマホくんがお亡くなりになってしまう」

「そんなこと言われたら緊張するじゃないですか。落としたら千夜さんのせいにします」

「えぇ〜……」

「まぁ、防水性能は高いはずなので大丈夫だと思いますけど。たぶん落としてもヘーキですよ」

「へぇ〜」

「平気ではないので揺らすのやめてもらってもいいですか?」

「はい」

 

 彼は肩を揺らすのをやめ、彼女はスマートフォンの操作を終えて、スマートフォンをポケットに仕舞う。

 

「とりあえず連絡はしといたので。まぁ、もしかしたら画面見えたかもですが」

「文面までは見てないよ」

「秒で既読ついてオッケー返ってきました」

「なるほど」

「なので永遠にここに留まってても特にお咎めなしです」

「ご飯……」

「この場で採取します」

「睡眠は……?」

「ウォーターベッドというものを知りませんか?」

「少なくともこの場にはない」

「もちろん結婚式も葬式もこの場所で執り行います」

「そういや、海辺の、ほんとに砂浜とかでする結婚式ってあるらしいね」

「ビーチウェディングですか? ちょっと楽しそうですよね。めんどくさそうですけど」

「へー。意外」

「そうですか?」

 

 彼が海で出逢った彼女は、海が好きだった。

 好きな色は青色で。好きな宝石はサファイアで。

 今もこうして、海で立ち話をするくらいだから。

 

「ビーチウェディング? とかに憧れ抱いてそうな感じがしてもおかしくないなとは思った」

「おしゃれだとは思いますけど……別に……普通でいいかなって。なんなら結婚式とかしなくてもいいんじゃないですかね」

「んー……。嫌ってわけじゃないなら、式は挙げたい派です」

「……千夜さんって、結構そういうの大事にするタイプですよね。いや、色々してもらってる側の私が言うことじゃないんですけど」

 

 真魚は、左手の薬指に嵌っている婚約指輪をジッと見つめる。

 普段使いにできるようにと、少し落ち着いたデザインに仕上がっている、サファイアのついた婚約指輪。

 彼女は、この指輪をもらったときのことをよく覚えている。

 6月の中頃、休みの日に一緒に指輪を選びに行った日のこと。

 こんなに高いもの受け取れない、とずっと渋っていたときのこと。

 

 ──遊びじゃなくて、軽い口約束じゃなくて、ちゃんと本気だってわかってほしいから。だから持っててほしい。

 

 真魚が望むからではなく、千夜が真魚に持っていてほしいのだと。

 そんな言葉と共に、左手の薬指に、一途な愛のお守り(サファイア)の指輪が通されたのだ。

 

「やっぱり千夜さんって結構尽くしたいタイプですか?」

「なにがやっぱりなのかは知らないけど、普通になにかやって、相手が喜んでくれたら嬉しいよね」

「世界平和ですね」

 

 真魚は、彼の腕をかき抱きながら、夜の熱で心を満たしていた。

 どきどきするのに落ち着いていて。

 浮ついているようで鎮まっていて。

 そんな、矛盾しているようで成立している、複雑怪奇な人の心。

 

 恋と愛が同居した、心の熱。

 それは、うるむ瞳に、こぼれる吐息に、震える唇に、掴む指先にやどっていて。

 触れたところから、相手に熱が伝播する。

 

 そして彼は、そんな彼女の頬に手を添えて、唇を重ねる。

 

「……ん」

 

 濡れたやわらかな感触。

 汗のにおいと、海の香りがして。

 夜の闇で二人の境界は、より一層曖昧になっていて。

 

「……私、あなたのことが好きです」

「何、急に。照れ臭いな……。ぼくも好きだよ。ちゃんと大事にする」

 

 夏の海、月明かりに照らされて。

 夜に包まれ、海に揺られて。

 彼らは、これからのことに想いを馳せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈 8月9日 〉

 

 

「“夏は夜”──、清少納言の気持ちがよくわかる季節になってきたな」

「どっちかというと、夏は昼には動けなくて、夜にしか外に出れない感じだけどね。私、毎年エアコンを発明した人には毎年感謝の手紙を送りたくなるもん」

「間違いない」

「ね」

 

 夏の夜は、比較的涼しい。

 昼間は肌が焼けるほどに陽が照りつけ、過ごしやすい過ごしにくい以前に、熱中症の心配があるほどである。

 だから相対的に、早朝や夜は涼しくて、外に出ても問題のない程度の気温になる。

 しかし、比較的涼しいとはいえ、あくまで比較的な話。

 暑いものは暑い。

 だから、夜だからとて外を出歩くのは、暑さを気にしない人か、用がある人か、夏の夜を楽しむ物好きくらいで。

 そして()()は、物好きに分類される人たちだった。

 

「まさか盆休みにここ来ることになるとは」

「えー、いいじゃない。私、ここ好きだけどなー」

「いや来たことに不満があるとかじゃなくて。単純に感慨深いな、と」

「そこまで久しぶりってわけでも──……あ、もしかして夏に来るのがってこと?」

「そうそう」

「それは確かにそうかも……? あれ、ほんとに久しぶり? 私の記憶だと、4年ぶりくらいな気がするけど……千夜さんは?」

「真魚さんの記憶力にぼくの記憶力が敵うわけないんだよね」

「えー、そう?」

「そうだよ」

 

 砂浜に続く石階段に腰掛け、千夜と真魚は、他愛のない話をしていた。

 かたわらに置いてあるビニールには、空のペットボトルやアイスが入っていて、先ほどまでそれらを口にしていたことがわかる。

 

「どうせなら花火とか買えばよかったなー」

「あのコンビニ、そんなのあったっけ」

「あったよー。私の目は誤魔化せなかった」

「なら買いに行く?」

「んー。んー……そこまでしなくてもいいかなって気分です」

「なるほど」

「それより海入ろうよ。ね」

「やりたいことの反復横跳びが凄まじい」

「思い出の場所補正があるので……」

「気持ちはわかる」

 

 じゃあ決まり、と真魚は立ち上がり、千夜へと手を伸ばす。

 

「いやかばんとか……」

「見える場所に置いとけば大丈夫だよ。行こ」

「なるほどね?」

 

 彼は、彼女の手を取り、立ち上がった。

 そして砂浜に足を沈めて、波打ち際へと向かう。

 手早く靴を脱いで、靴下も脱いで、スカートの彼女はそのままに、彼はズボンの裾をきちんと捲って、海の中へ。

 

「うーん。こうしてると夏って感じがするね!」

「だいぶ特殊な夏の感じ方だなぁ」

「でもするでしょ?」

「まぁね」

 

 彼らは、波打ち際で足元を遊ばせるのが好きだった。

 引いては寄せる波の感触。乱れた砂が、波で戻る。単調な繰り返し。

 やがて飽きてしまいそうで、それでもやっぱり飽きない繰り返しの形。

 

 月はいつも空に浮かんでいる。欠けていたとしても、見えないだけでそこにある。

 

 それでもやっぱり月は綺麗だ。それと同じこと。

 

「あーきもちい」

「真魚さん、ほんと海好きだよね」

「千夜さんも好きでしょ」

「好きだけどさ」

 

 どちらかというと彼は、単純に海が好きというよりは、彼女と海と夜のセットが好き、というほうが近い。

 夜の中で、月明かりと海水を纏う、世界で一番きれいな女性。

 そんな彼女の左手の薬指には、二つの指輪が重ねてつけられていた。青玉のついた婚約指輪(エンゲージリング)と、彼とお揃いの結婚指輪(マリッジリング)

 彼はなんとなく愛しくなって、彼女の手を取る。

 指を絡める。

 笑みを深めるでもなく、怪訝な顔をするでもなく、なんでもない日常の動作の一つとして、それらは行われた。

 

「私、夏自体はそこまでだけど、夏の夜のことは、この世で一番愛してる気がする」

「まぁわかる」

「でもココアがおいしい冬も好き」

「わかりすぎる」

「春と秋は特に言うことなく好き」

「過ごしやすいもんね」

「ね」

 

 春夏秋冬を、ずっと穏やかな気持ちのまま過ごすことができる。

 そんなありふれていて、だけど、ありふれているからこそ、それを愛せることは尊いことで。

 

 秋の月はひと際美しく、心が奪われるようで。

 冬のココアはとてもおいしくて、身も心も温まることができて。

 春のしゃぼん玉は、秘めた想いを、いつも煌めかせてくれて。

 夏の夜海は、ぬるくて、心地よくて。

 

 だから好き。だから生きてる。だから愛してる。

 

「すごい当たり前のことを言うけどさあ」

「……?」

「季節にまつわるものって、その季節にしか味わえないから、年一回って思うとすごい希少なんだよね」

「あー」

「仮に80歳くらいまで生きるとした場合、ぼくなんかだと、あと50回ないくらい」

「……あー。そう言われるとすごい少ないね」

「うむ……」

「じゃあ、せっかくだし花火する? 私、線香花火耐久したいな」

「耐久の二文字いる?」

「いる」

 

 ふふ、と微笑み、するりと手をほどいて、彼女は我先にと海からあがる。

 海と月に、背を向けて。

 

「行こ、千夜さん」

 

 そして彼女は、また彼へと手を伸ばす。

 手を繋いではほどいて、ほどいては、手を繋いで。

 そんなことを、いつも繰り返している。

 繰り返して、繰り返して。

 かつて歪だった彼らは、ごくごく自然な、仲睦まじい夫婦になった。

 

 

 ──病めるときも健やかなるときも、共に喜び、悲しみ、あなたを愛します。

 

 

 そんな誓約を胸に抱いて、彼らは、これからも、寄り添って生きていく。

 

 



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