世界救い終わったけど、記憶喪失の女の子ひろった (龍流)
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勇者と記憶喪失ちゃん
世界を救ったら、やることがなくなってしまった。
婚活でもしたら?
というのが、共に激戦を潜り抜けたパーティーメンバーの談である。要するに、早く身を固めろというのだ。
「まあ、立場もあるだろうし、勇者くんがいろいろ悩むのはわかるけどさ。でも、そんな風に迷ってると、好きな人とちゃんと恋愛して、結婚できる機会もなくなっちゃうかもしれないよ? もちろん、あたしが心配することじゃないし、余計なお世話かもしれないけどさ」
と、これはパーティー前衛担当としてがんばってくれた女騎士ちゃんの言葉だ。たしかに自由恋愛は人生の華だし、憧れるよな、と。そう言いながら頷くと、女騎士ちゃんは金髪のポニーテールを揺らして苦笑していた。そんなに笑うことだろうか。
おれは腐っても世界を救った勇者なので、地位や名声やら土地やら、そういう類いのものは大体もらった。おれと一緒になるということは、そういった地位や名声やら土地やら権力やらを間接的に得ることに繋がるわけで、なんでも王国の上流階級に位置する貴族のみなさんは、すでにお見合い、縁談、パーティーと、あらゆる手段を用いておれと接点を作ろうと躍起になっているらしい。
これを教えてくれたのは、パーティーの頭脳労働担当の賢者ちゃんである。
「勇者さんは、本当にこういうことに疎いですからね。私と……私たちから離れたら、政治闘争にでも巻き込まれてコロッと死んじゃいそうで心配です」
そんなことを言われても、おれの仕事は基本的に女騎士ちゃんと一緒に前に出て敵を斬ることだったので、旅先での交渉やら物資や人員の調達やら、そういうめんどくさい仕事は途中からすべて賢者ちゃんに丸投げだった。まあ、何に巻き込まれてもそう簡単に死なない程度には鍛えているから安心してほしい、と。そう返すと、賢者ちゃんは真っ白な銀髪を横に振ってめちゃくちゃ大きなため息を吐いていた。解せぬ。
しかし、これといってやることがないのも事実。女騎士ちゃんは元々隣国のお姫様だから、お国に戻れば公務が待っているだろうし、賢者ちゃんは持ち前の頭の良さと腹黒い暗躍ムーブで、既に王国の中枢に深く食い込んでいるとかなんとか。つくづく、俺のパーティーのみなさんは世渡りが上手いと思う。おれが人生設計へたくそなだけ? まあそうですね。
パーティーで一番の常識人である死霊術師さんに至っては、魔王軍のモンスターを輸送に転用して、大規模な運送会社を一代で築き上げてしまった。
「やることがない、というのはまた贅沢な悩みですわねぇ。いっそのこと、わたくしのように勇者さまも何か事業を立ち上げてみるというのは如何でしょう? 生産的な趣味は人生の潤いですよ?」
そうは言われても、おれには商売の心得がまるでない。それこそ、根がとてもいい子で実家も権力がある女騎士ちゃんや、驚くほどに頭が回る賢者ちゃん、人付き合いが抜群に上手い死霊術師さんならともかく、腕っぷしに任せてノリと勢いで人生を駆け抜けてきた俺が、今から何かはじめてもうまくいくとは思えない。
「どうすっかなー」
お日さまが空の上で一番元気な真っ昼間から、特に当てもなく街の中をぶらぶらと歩く。
夢のように大きな目標を達成した人間は燃え尽き症候群にかかるというが、今のおれはまさにそういう状態なんだろう。
魔王も四天王も結構強かったけど、倒してしまった今となっては良い思い出である。あの頃の血湧き肉躍るバトルは、つらかったけど楽しくもあった。まあ、もう一度やれとか言われたら絶対にいやなんですけど。
「あ、勇者さまだ」
「勇者さまこんにちは!」
「おう。少年少女達。今日も元気がいいな」
顔見知りの男の子と女の子が一人ずつ、元気よくあいさつをしてくれたので、手をあげて振り返す。かわいい。やっぱ子どもは人類の宝だよな。
魔王を倒して無職ニート生活をはじめてからはずっとこの街で暮らしているので、街の子ども達ともすっかり顔馴染みになってしまった。世界を救った勇者、なんて大げさな肩書がついているから、最初の頃は遠巻きに見られていたけど、今ではすっかり近所でいつも散歩してる暇そうなお兄さんというポジションに落ち着いている。よかったよかった。いやほんとによかったのか?
「勇者様なにしてるのー?」
「散歩だよ」
「勇者さまいつもひまそうだね!」
「ばか! 勇者様は戦いの疲れを癒やしてるんだよ」
お嬢ちゃんにひまそう、と言われた俺を、少年の方が慌ててフォローしてくれる。この年頃の男の子にフォローされると逆に傷つきますね。
「勇者さま、暇なら森の方いこ!」
「探検ごっこしよ。探検ごっこ!」
「お前らなぁ、子どもだけで森の方行くのはダメだぞ。危ないから」
魔王軍が壊滅してから、モンスターの数は減少傾向にあるし、街と街を繋ぐ街道で人が襲われるような被害も、随分と減った。でも、街の外はまだ小さな子ども達だけで遊びに行けるほど、安全でもない。
「うん! だからお母さんが勇者さまと一緒なら行ってもいいよ! って言ってた」
「えぇ……?」
おれ、完全に引率の先生じゃん。遠回しに暇だったら遊んであげてって、お世話頼まれてるじゃん。
しかも、この子達のお母さんには野菜とかもらっていろいろお世話になっているので、どうにも断りづらい。しかもおれはちょうどひまである。悲しいくらいに断る理由がない。
「じゃあいくかー」
「やったー!」
「探検探検!」
「勇者さまみて! お花みつけた!」
「かわいいな。どれどれ、勇者さんが髪飾りにしてやろう」
「やったー! ありがとう!」
「勇者さまみてみて! かっこいい棒拾った!」
「マジかよ超かっこいいじゃん。じゃあおれの勇者ソードと勝負しようぜ」
「するー!」
お花を被せたり、棒を振ってチャンバラしたり。なんだかんだ、子ども達と遊ぶのはめちゃくちゃ楽しい。だから、パーティメンバーのみんなが「はやく結婚したら?」っておれに言ってくるのは、ある意味正しいんだよな。おれ、子ども大好きだし。人並みに性欲もあるし。さっさとかわいい奥さんを見つけて家庭を築いて、サッカーチーム作れるくらいの大家族で楽しく過ごすっていうのは、結構夢がある。
「勇者さまー、喉かわいたー」
「ん。じゃあ、水汲みに行くか。こっちに川あるし」
そういえば、賢者ちゃんは首都の方で魔術の講師として教鞭をとっているというし、学校の先生とかやるのも悪くないかもしれない。でも、おれが教えられることってあんまりない気がするしな……。
あーだこーだと考えを巡らせながら、水筒に水を汲んで飲ませてあげる。
「勇者さま、あっち見てきてもいい?」
「いいけど、あんまり離れるなよ。あんまり行き過ぎると、崖があるから危ないぞ」
「はーい」
あるいは、おれが先生になるのはダメでも、学校の運営とかはありかもしれない。女騎士ちゃんと出会った騎士学校は悪いところではなかったけど、何かを学ぶ場所っていうよりも、強くなるための訓練場みたいな学校だったし。せっかく世界が平和になりつつあるのだから、普通の学校を建ててみるのは悪くない。
もしくは孤児院とかね。どうせお金はじゃぶじゃぶと余っているのだから、少しでも世のため人のために使うのは、かなりありな気がする。うん。
「ちょっとがんばるかぁ」
「勇者さま、なにをがんばるの?」
「いや、なんか人生の目標みたいなもんがまた見えてきたからさ」
「やっと働くの?」
うっせぃわい。
と、男の子の方が声を張り上げて戻ってきた。
「勇者さま、こっちきて! みてみて!」
「どしたー?」
「なんかあっちからお馬さんが来るよ?」
「馬?」
声を追って草をかきわけてみると、やはり少年は森から出て、崖の方まで身を乗り出していた。
「こら。お前、崖の方は危ないから行くなって……」
「勇者さまみてみて! お馬さんたくさん!」
「先頭のお馬さんを追ってるみたいだよ!」
言われて、おれも身をのりだして目を凝らす。森の切れ目は結構な高さの崖になっており、ここからは眼下の荒野が地平線まで一望できる。
なるほど。たしかに子ども達の言う通り、東の方から馬が走ってくる。先頭の一頭を、後ろの三頭が追いたてる形。どの馬も、鞭を入れてトップスピードで駆けている。明らかに、ただ事ではない。しかも、先頭の人影はローブを頭から被っているせいで詳しく判別はできないが、体格が小さい。おそらく、女の子だ。
「勇者さま」
「勇者さま」
子ども達の期待の視線が、まぶしい。それはもう、とてもまぶしい。
まいったなぁ……。
おれは大きく息を吐いてしゃがみ、二人と目線を合わせてから、ぐりぐりと強めに頭を撫でた。
「ここから、絶対に動かずに待ってろよ」
森に入れば、逃げ切れるかもしれない。
少女は、そんな自分の考えが甘いものであったことを痛感していた。乗りなれない馬に、相手は複数。視界の開けた荒野で、逃げ切れるわけがない。
体を預ける馬の息遣いが、少しずつ。けれど確実に、荒くなっていくのがわかる。
「ごめん、ごめんね……でも、お願い。もう少しだけ、がんばって」
か細い声に、ここまで駆けてくれた雄馬は任せろと言わんばかりに鼻息を震わせたが、限界が近い事実は変わらなかった。
スピードが落ちたところに、左右を挟まれる。三人の追手の内、一人は弓を構え、二人は剣を引き抜いた。もはや彼らに自分を捕まえようとする気は欠片もなく、ただ命を奪おうとしていることは武器を構えるその動作で明白だった。
手綱を握る手が震える。
唇が、自然に言葉を発した。
「……死にたく、ない」
少女は、自分の命を奪おうとしている相手に、それを言ったわけではない。
最初から、返事は期待していなかった。ただ、言わずにはいられなかった。
「わかった」
だから、不意に降ってきた返答は、幻のようで。
まず最初に、真後ろで弓を構えていた一人が、吹き飛んだ。
「は?」
間抜けな声は、少女ではなく、追手のもの。
無理もない。突然、隣を並走していた仲間が、跨っていた馬を残して消えたのだ。驚くな、という方が無理な話である。
せめて、何か意味のある言葉を発しようとした二人目の覆面は、しかし何も言うことができなかった。口を動かす前に、その顔面に拳が叩き込まれたからだ。
また落馬する仲間を、ぽかんと眺めて。そこでようやく、最後の一人は追う側である自分達が、何者かの襲撃を受けていることを認識した。
馬の上に、人が立っている。
地味な色のかざらないシャツに、動きやすそうな麻のズボン。騎士ではない。魔術士でもない。ただの村人にしか見えないその服装を見て、最後の一人は警戒心をより一層強めた。
仲間を馬上から引きずり下ろした、異常な挙動。尋常ならざる膂力。殺さなければ、こちらの命に関わる。
何者だ、と。問いかけることすらせずに、彼は剣を振り上げた。
一撃で、確実に首を落とせるように。背後から斬撃を浴びせた。
最後の一人の対応は、全て正確で正解だった。その結果、白銀の剣は真っ二つに叩き折られ、錐揉みするように回転しながら、彼は仲間と同じ末路を辿った。
「え……?」
ようやく、少女は声を発した。
「大丈夫?」
優しいその声に安心して、緊張で張り詰めていた意識の糸が、ぷつんと切れた。
女の子を拾ってしまった。さて、どうしよう。
「美人さんだ〜」
「きれいな人だね」
うむ。たしかにかわいい。子ども達から見たら美人のお姉さんなんだろうけど、あどけない顔立ちは美人というよりもかわいいと言ったほうがしっくりくる。
そのわりに、胸が結構大きい。けしからんサイズ……ではなく、グッドなサイズだ。
しかし、なによりも目を惹くのは炎のように鮮やかな色の赤髪だろう。背中まである長髪は逃避行で汚れていたが、それでも燃える炎のような気品を漂わせていた。
「ん……」
あ、起きた。
瞳も髪と同じ色なんだな。つくづくめずらしい。
「あれ、わたし……」
「お姉ちゃん、起きた!」
「おはよう! お姉ちゃん!」
「え、えっと……?」
「お姉ちゃん、勇者さまが助けてくれたんだよ!」
子ども達にわちゃわちゃと絡まれて、困惑した視線がこちらに向く。本当に、綺麗な朱色の瞳である。
「追手はおれが倒したよ。安心して」
「じゃあ、あなたがわたしを、助けてくださったんですか……?」
「そういうことになるかな」
「あ、ありがとうございます!」
「いいよいいよ。そんなかしこまらないで。はい、お水飲んで」
「あ、はい」
「ほい、手拭いどうぞ。顔拭ける?」
「は、はい!」
お水を飲んで、顔を拭いて、赤髪ちゃんはようやく落ち着いたらしい。ふう、と息を吐くと、少し頬に色が戻ってきた。
「気がついたばかりで悪いんだけど、あんな物騒なヤツらに追われていた事情を聞かせてもらってもいいかな? 騎士団の詰め所に連れて行くにしても、おれも事情を把握しておいた方がいいだろうし」
「それが……わたし、なにも覚えていないんです」
へ?
「なにも覚えていないっていうのは、つまり……?」
「はい。ここがどこなのか。今が何日の何年なのか。自分が誰なのか。そういうことを、まったく覚えていないんです」
マジか、と。言いそうになったのを、ぐっと堪える。
「ということはもしかして、自分が追われてた理由もわからないってことかな?」
「ご、ごめんなさい。わたし、気がついたら捕まっていて……なんとか馬を奪って逃げ出してきたんです。もちろん、わたしが逃げたから、あの人たちは追ってきたんだと思うんですけど」
いや、まいったな。
どうやらおれは、想像以上になにやらわけありな女の子を拾ってしまったらしい。
しばらく俯いていた彼女は、けれど急に何かを思い出したように、顔をあげた。
「あ、でも、まってください! わたし、名前だけは! 自分の名前だけは覚えてます!」
ああ、うん。こまった。
名前だけは、覚えている。
それは……ますます最悪だ。
「わたしの名前は『 』です!」
おれは、それを聞き取ることができない。
「ダメだよお姉ちゃん!」
「勇者様に名前を言ってもわからないよ!」
「え?」
本当に、最悪だ。
「だって勇者様、自分の名前も人の名前も、聞こえないし、言えないもん!」
「そういう呪いにかかってるんだって!」
子ども達に言われて、少女の顔が固まった。
「……名前が、聞こえない?」
「いや、なんというか、この子たちが言った通りの意味なんだけど。おれ、きみの名前を聞き取ることができないし、自分の名前も言うことができないんだよね」
ええ、まぁ、はい。そういうことなんです。
子ども達の言う通り、おれは人の名前を認識できない呪いにかかっている。魔王を倒した時に、ヤツから置き土産として浴びてしまった。
それは、一緒に冒険してきた大切な仲間を……
だから今のおれは、そこそこ付き合いが長くて、仲の良いこの子ども達の名前すら口にすることができない。ついでに、自分の名前も覚えていないし、発音することすらできないのだ。
少女の顔が、愕然と冷たくなる。
無理もない。広い世界にたった一人で放り出されて、ただ一つ。覚えているものが自分の名前だったのに、よりにもよってそれを聞くことすらできない男に助けられたのだから。
「……そんなわけで、おれはきみの名前も自分の名前もわからないんだけど」
極めて情けない自己申告をしながら。
それでも、目の前で座り込んで、困りきった表情のまま俯いている女の子を放っておくことはできない。
まず、彼女に立ち上がってもらうために、おれは手を差し伸べた。
「だからとりあえず、おれのことは『勇者』って呼んでほしい」
自分の名前しか覚えていない、記憶喪失の少女が一人。
魔王が遺した呪いにかかった、言語障害の勇者が一人。
彼女が覚えているのは自分の名前だけで、それが唯一の手がかり。
……うん。
これ、普通に詰んだのでは?
このお話の登場人物
・勇者くん
思っていたより世界がヤバかったので、強いヤツを片っ端から集めて世界救済RTAを敢行し、見事魔王を撃破。世界は平和になったが、魔王から人の名前に関する呪いを受けてしまい、引退ニート生活をすることになってしまったかわいそうな勇者。巨乳が好き。
・記憶喪失ちゃん
記憶喪失で、自分の名前以外覚えていない。ケツがデカい巨乳の赤髪。
・騎士ちゃん
パーティーの前衛担当。隣国の姫君で女騎士。引き締まったケツの巨乳で金髪。勇者のことが好き。
・賢者ちゃん
パーティーの後衛、頭脳担当。毒舌で腹黒。スレンダーという言葉で形容するのが憚れるくらいの貧乳で銀髪。勇者のことが好き。
・死霊術師さん
パーティーの追加メンバー。良識があり人付き合いも巧く、ついでに経営センスもある。巨乳の黒髪。勇者のことが好き。
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勇者と賢者ちゃん
女の子ひろった。名前はあるけど、おれがくそな呪いを浴びているせいで聞けない。ついでに記憶喪失。
「繰り返し確認をするようで申し訳ないんだけど、本当に名前以外は何も覚えてない、と」
「はい。そうなんです」
頷きながら、彼女はパンを一口かじった。この子、良いペースでよく食べるな。
「そうか……」
うーん、だめだ。何度確認してもこまったね。すごくこまった。具体的には女騎士ちゃんと賢者ちゃんが二人揃って四天王に人質に取られた時くらいこまったね。
赤髪の記憶喪失ちゃん、はちょっと長いので、とりあえず赤髪ちゃんとでも呼ぼうか。自分の名前しか覚えておらず、行くところがないというお話だったので、子ども達を家に返したあと、我が家にきてもらうことにした。寒そうだったので、さっさとお風呂を沸かして入ってもらい、余っていた服を着てもらって、さらにおれが作った勇者メシを食べてお腹を満たしてもらっている。パーフェクトだ。なんか流れが完全に捨て猫拾ったみたいだけど、パーフェクトなおもてなしだ。
「あの」
「うん?」
「失礼なことかもしれないんですけど」
「全然いいよ、なんでも聞いて」
「勇者さんは、本当に人の名前がわからないんですか?」
「あー、それね」
トマトを頬張りながら、本当に困った顔の赤髪ちゃんに見詰められて、おれはたまらず頭をかいた。どう説明したもんかな。それにしてもこの子、よく食べるな。
「えーと、まず、おれは勇者をやって冒険してたんだけど」
「はい」
「魔王っていう、この世の諸悪の根源みたいな悪いやつがいたんだよね」
「魔王」
「で、そいつはおれが仲間とめちゃくちゃがんばって倒したんだけど」
「すごいですね」
「トドメを刺す前に、呪いを受けちゃって」
「その呪いのせいで、人の名前がわからなくなってしまった、と」
「そういうことです」
ふむふむ、と会話の合間にチキンを口に放り込みながら、赤髪ちゃんはあごに手をあてて頷いた。コイツ、よく食うな……
とはいえ、理解がはやくて助かる。記憶喪失という話だったけど、なんとなく地頭が良さそうなのが短い会話でわかった。
「また質問になるんですが」
「いいよいいよ。どんどん聞いて」
「名前がわからない、というのは、具体的にはどのような?」
「うーん。説明が難しいけど、人の名前は聞いても全然頭に入ってこない感じかな。話していても、そこだけ聞き取れなくなる」
名前を聞く時だけ、ノイズがはしるというか、雑音がはいるというか。とにかく人名はまったく聞き取れない。
「じゃあ、自分の名前もわからないってことですか?」
「わからないんだよね。呪いをくらった時に、自分の名前も他の仲間の名前も、全部記憶から吹き飛んじゃった」
我ながら、そこらへんのボケ老人より質が悪いと思う。あの性悪魔王も、やっかいな呪いを残してくれたものだ。
「なるほど」
立ち上がった赤髪ちゃんは、部屋の中をきょろきょろと見回して、紙とペンを手にとった。さらさらと、ペン先が動いて滑らかに文字を紡ぐ。
「これはどうですか?」
「あー、ごめん。字も無理なんだ。読めん」
赤髪ちゃんはおそらく自分の名前を書いた紙を見せてくれたが、おれは読むことができなかった。厳密に言うと、おれには名前が書かれている部分だけ黒く塗りつぶされているように見える。
「聴覚だけでなく、視覚にも作用する呪い……ということは、感覚器官だけじゃなく、魂そのものに作用するような……」
「赤髪ちゃん?」
「……あ、すいません」
「いや、べつに大丈夫だけど」
この子を拾ってから、しばらく観察してて、わかったことがある。
まず、語彙力がある。知識量は、多分成人前の村の子ども以上。食器も問題なく使えて、自分が口に運んでいるもの……例えば、パンや卵がどういうものなのかを知っている。ペンが文字を書くための道具であることも理解しているし、実際にそれを使って自分の名前も紙に書くこともできる。少なくとも、日常生活を送る上であまり支障はなさそうだ。
そしてなにより、呪いが何かも理解している。
助けた子を疑うようなことは、あまりしたくないけど。それでもこの子は、記憶喪失というにはあまりにも……
「勇者さん?」
「え? ああ、ごめん。なんだっけ?」
「いえ、その。おかわり、もらってもよろしいでしょうか?」
「ん、ああ。いいよ」
お椀にスープのおかわりをたっぷりよそおうとして、気づく。昨日から作り置きしておいたおれの特製スープが、すっかり空である。
「赤髪ちゃん。きみ、ほんっとうによく食べるね……」
「す、すいません! その、なんと言いますか、ちょっとお腹が空いていて……」
「いや、全然いいけど。むしろじゃんじゃん食べて。追加で作るから」
赤面した顔をお椀で隠している様子は、なんとも可愛らしい。それにおれは、少食な子よりもたくさん食べる子が好きだ、うん。
この子のことは、まだよくわからないけど。
とりあえず、ご飯をおいしそうに食べる子、っていうのはよくわかった。ひとまずは、それだけでも貴重な収穫だ。まだ残っている野菜を漁りながら、おれは言った。
「まあ、善は急げということで。お腹を満たしたら、うちのパーティメンバーに会いに行こうか」
「パーティメンバー……勇者さんのお仲間、ですか?」
「うん」
おれにはわからないことでも、頼れるパーティのみんななら、わかるかもしれない。
「まずは、賢者ちゃんに会いに行こう」
王国の中枢には、魔術の全てを解き明かした賢者がいる。
魔王討伐からたった半年で、そんな噂が辺境の地まで届くようになったことが、彼女の才能を何よりも雄弁に証明していた。
魔術分野における、万能の天才。
勇者パーティーの一員であった彼女は冒険が終わった後、宮廷魔導師として王に直接仕えることを望んだ。本来、宮廷魔導師という存在は、魔術の道を志した者が自身の一生を懸けて得ることを望む称号である。しかし、若き賢者はたった17年という時間で、魔王討伐という実績を引っ提げて、その頂きに手をかけた。
天才が、それに相応しい地位と権力を得た。ならば、あとは駆け上がるだけである。
これまで魔王討伐に向けられていた彼女の情熱は、魔術の関連学問の発展と後進の育成に注ぎ込まれ……その結果、魔術の歴史は彼女の存在だけで10年の発展を遂げたと言われるまでに至った。
王城に宮廷魔導師として籍を置く彼女の名目上の役職は相談役だったが、実際は首都の学院に赴いて、教鞭を取る機会の方が圧倒的に多かった。当初はその特殊な出自も相まって、貴族や騎士達から警戒の目で見られていたものの、後進の育成に心血を注ぐ彼女の姿と実績に、それらの非難の声はすぐにかき消えた。
もちろん、理由はある。
「まだご自分の立場が理解できていないようですね、騎士団長」
若き賢者は、宮廷内の政争にも、全力で臨んでいたからだ。
「くっ……殺せ」
人目につかない暗い部屋の中で、甲冑を纏った大の男が、這いつくばって床を舐めていた。白銀の鎧にあしらわれたぎらついた金の装飾と、きらびやかな勲章の数々が、彼が王国内で高い地位についていることを物語っている。事実、彼は王国の主力を担う長の一人、騎士団長であった。
「殺しませんよ。あなたを殺したところで、私に何の得があるというんです?」
その頭を、踵で踏みつけにしている少女がいた。
部屋の闇に溶け込むような黒のローブには、騎士団長と同じく金の刺繍がなされていたが、彼女が纏うそれには不思議な気品がある。フードを目深に被っているせいで、顔の大半は隠れていた。しかし、こぼれ出る銀の長髪は、ろうそくの光を受けて怪しく輝いている。
おそろしいほどの美貌を、フードの中に隠して。少女はあやしく笑いながら、騎士団長の頭をなおも踏みつけにした。
「古臭い純血派の騎士団が魔術学院を目の敵にしている、というのは王国に来る前から知識として知っていましたが……しかしよくもまぁ、飽きもせずにかわいらしい嫌がらせを繰り返せたものです」
「……シャナ・グランプレ」
苦々しげに、騎士団長は声を吐き出した。
それが、賢者と呼ばれる少女の名である。
「何が、何が賢者だ……忌々しい、この魔女め!」
「やだ、魔女だなんて……そんなに褒めないでください。胸がむず痒くなります」
「ほざけ! 私は貴様の本性を、既に見抜いているぞ!」
「私の、本性?」
「ああ、そうだ! 言ってみろ! その腹の中に隠したどす黒い本性を! 曝け出してみろ! お前は、王国に相応しくない!」
「ふぅん? では、正直に言わせてもらいますね」
賢者、シャナは開いた手のひらを口元に当て、その白い肌とはどこまでも対称的な朱色の唇で三日月を描いた。
「ざぁーこ♡」
騎士団長は、絶句した。
「ふふっ……ねぇねぇ。王国を守護する騎士様が、貴族に唆されて、慣れない駆け引きをして、それをすぐに看破されて、年端もいかない少女に踏み躙られて……今、どんな気持ち? どんな気持ちで、その口は言葉を吐いているんですか? 一つ、若輩者な私に教えてくださいな?」
「きっ……貴様ッ……!」
「だから教えてくださいよ」
「ぐぎっ……?」
みしり、と。既に指一本すら動かせない騎士団長の身体に、重圧がかかる。
シャナは表情を変えぬまま、机の上に置いてあった紙に手を取った。
「まあ、証拠はいくらでもあります。というか、証拠がなければいくらわたしでも、王国に五人しかいない騎士団長さまを、こんな風に足蹴にはできませんし」
彼が裏で行ってきた不正の数々。せめて、証拠を記したその紙を奪い取ろうと、騎士団長は必死で手を伸ばす。
「ぐっ」
「へえ。意外と根性はありますね。いや、単細胞な分、腕力だけはある、というべきでしょうか?」
遂に、床に貼り付いていた右腕が動いた。意地と根性で動いたその手に免じてか、シャナは奪い取られた紙をあっさりと手放した。
「貴様なんぞに……貴様なんぞに、私が積み上げてきた誇りを奪われてたまるかっ!」
ぐしゃり、と。紙が握り潰される音が鳴る。
だが、シャナはやはり表情を変えなかった。むしろ、さらに嗜虐的な笑みを濃くして、手のひらを広げた。
「……積み上げてきたぁ? こんな感じに、ですか?」
白い、紙吹雪だった。
騎士団長は唖然として、室内に舞い散るそれを見る。自分がたった今、奪い取ったものとまったく同じ内容を記したものが、部屋の中を埋め尽くすように広がった。ローブの中に隠していたわけではない。空間転移で、手元に引き寄せたわけでもない。本当に唐突に、目の前で紙が増えたのだ。
「なん……っ」
「よかったですね。これだけあれば、王国内にバラ撒くのに困りませんよ」
「やめっ……やめてくれ。そ、それだけは……なんでも、なんでもするから、だから……」
彼女のやろうとしていることを理解して、騎士団長は遂に自ら頭を床に擦りつけた。
殺されるだけなら、いい。だが、曲がりなりにも王国を守護する騎士団の中で、トップの一人に位置する地位を得た彼にとって、殺されずに罪を暴かれ、全てを奪われることは何よりも屈辱だった。
生きて、辱められる。
その恐怖は、死よりも重い。
「おっす! 賢者ちゃん、ひさしぶり! 元気してたか!?」
扉が、開いた。
それはもう、唐突に。
「……」
「……」
世界を救った勇者は。
ひさしぶりに会うパーティーの頭脳担当が、大の大人の頭を踏みつけ、ニコニコと楽しそうに笑っている様子を、じっくりと眺めた。
「……」
「……」
「あの、勇者さん? どうかしました?」
「だめだ。まだ純粋なきみはこれを見てはいけない」
背後で響いた少女の声に、毅然とした声でそう告げてから、世界を救った男は、シャナと騎士団長をさらにじっくりと観察し……ようやく納得がいった様子で、手のひらを叩いた。
やたら生温かい目で、こちらを見詰めて。
「……ごめんな。そういう特殊なプレイの途中だったんだな。本当にすまん。また後で来る」
「あっ、ちょっとま……」
扉が閉まる。
沈黙と紙の束が、室内に残った。
「……ふ、ふぅぅう……」
ぷるぷる、と小柄な体が震える。
賢者と呼ばれた少女の目に。
騎士を弄ぶ魔女の碧色の瞳に。
大粒の涙が浮かび上がった。
「……勇者さんに、勘違いされた」
「え」
「……あなたのせいで」
「おい、ちょっとまて。それは冤罪……」
3秒くらい遅れて、騎士団長の絶叫が響き渡った。
このお話の登場人物
・賢者ちゃん
本名、シャナ・グランプレ。銀髪メスガキ天才賢者。貧乳。魔王討伐後、王国中枢で権力を振るうようになった宮廷魔導師。性格が歪んでいる。
就任してから自分に反感を抱く敵対勢力を手段を選ばず黙らせてきたが、水面下でしつこく嫌がらせを続けてきた騎士団長の尻尾をようやく掴み、楽しく遊んでいたところを勇者に見られた。もうお嫁に行けない。
自身の境遇もあってか、後進の育成にはわりと真面目に取り組んでおり、学院に通う魔術士見習いの生徒達からの人望はすこぶる篤い。
・騎士団長
王国に五つ存在する騎士団を率いる長の一人。わりとえらくてそこそこ強いが、賢者ちゃんには敵わずSMプレイとご褒美を受けた。
賢者ちゃんが半年で大体掌握した魔術学院以外に、王国には騎士学校と呼ばれる軍事教練校が存在する。この学校を出た生徒は『騎士』の称号を王から賜り、中央の騎士団か、地方へ配属。治安維持と国の防衛に当たる。勇者くんはここに通っている時に女騎士ちゃんと知り合い、入学早々ケンカをふっかけられ、彼女と壮絶な一騎打ちを演じた。つまるところ学園ラノベの導入である。
・勇者くん
諸事情で自分の名前も人の名前も頭の中から吹き飛んでしまったかわいそうな勇者。パーティーメンバーの個人の趣味は尊重するタイプ。死霊術師さんの行ってきたあれやそれについては、見て見ぬ振りをして目をつぶってきた。
・純粋ちゃん
記憶喪失。赤髪。巨乳。わりとねこの交尾とかを興味津々で見守るタイプ。
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純白の賢者
「で、あの踏んでた人どうしたの? 大丈夫? まだ生きてる?」
「……ひさしぶりに会う仲間への第一声がそれって、勇者さんは本当に、私のことをなんだと思ってるんですか?」
「こわい子」
「名前と一緒に語彙も失ったんですね。かわいそうに」
ひさしぶりに会う賢者ちゃんは、案内された応接室のソファーにどかっと腰を下ろして、ほっそい足を高い位置で組み、かわいそうなものを見るようにおれを眺めていた。めちゃくちゃえらそうだなコイツ。
なんだか取り込み中みたいだったので、また日を改めて訪ねようかとも思ったのだけれど、賢者ちゃんは予想以上に早く用事を済ませて、おれたちに会う時間を作ってくれた。決して暇な身の上でないだろうに、ありがたい話である。
「はぁ……殺してませんよ。どちらかといえば、彼は都合よく利用された側の人間ですし。まだまだ私にとっても利用価値がありそうだったので、解放してあげました」
「それはよかった」
「良い豚になりそうです」
「あの人、一応王国に五人しかいない騎士団長だよね?」
どんだけこわいことしてるの、この子。曲がりなりにも国防のトップを担う人材を気軽に豚さんにしないでほしいんだけど。
「それで、そちらが勇者さんの新しい彼女さんですか?」
「い、いえ! 彼女だなんてそんな! わたしは勇者さんに助けて頂いただけで……」
「ちっ……」
でかい舌打ちが漏れた。
赤髪ちゃんが身を固くして、賢者ちゃんとの間に緊張がはしる。おれは慌てて間に入った。
「お行儀悪いぞ、賢者ちゃん。あと、おれはこの子を普通に助けただけだから、べつにそういうのじゃないから」
賢者ちゃんの圧に押されて、赤髪ちゃんは明らかに小さくなっていて、肩身が狭そうである。
「は、はじめまして。わたしは」
「自己紹介はいらないです。おおよその事情はさっき勇者さんから聞きましたし。この人は私の名前も、あなたの名前も聞こえないんですから」
なんかおれ、気を遣われてるなぁ。申し訳ない。
「あなたも、私のことは名前で呼ばずに、適当に『賢者さん』とでも呼んでください」
「は、はい。えっと……賢者さんは、勇者さんと一緒に冒険されていたんですよね? ということは、魔術士さんなんですか?」
赤髪ちゃんの質問に、賢者ちゃんはむっとした表情になった。
「賢者っていうのは『魔術士』じゃなくて、高位の『魔導師』の別称なんだよ」
「役職名ってことですか?」
「えーと……そもそも、魔術を使う魔術士にも種類があるのはわかる?」
「いえ、全然」
まあ、記憶ないもんな。
「魔術を使える人間は、その上手い下手に関わらず魔術使いって呼ばれるんだけど。学校に通って正式な学問として魔術を学んだ人間のことを、魔術士っていうんだ」
「ふむふむ」
「人に魔術を教えることができる人間は、魔術士とは区別して、魔導師って呼ばれる。魔を導く師、と書いて魔導師だ」
賢者ちゃんは、一流の魔導師である。
その中でも『賢者』とは、魔道を修めた者達の中でも、より高いレベルでそれらを伝え教えることができる高い位の魔導師を指す。生まれついての感覚やセンスに頼って魔術を使う者も多い中で、そのメカニズムを正確に理解し、解き明かした者。文字通りの、賢き者。それが賢者なのだ。
付け加えて言えば、賢者ちゃんは『魔法使い』でもあるんだけど、まあ『魔導師』も『魔法使い』も、やることに関しては似たようなもんなので、そこはどうでもいい。
「あの、少し聞いてもいいでしょうか?」
「どうして私があなたの質問に答えなければ」
「賢者ちゃん」
「……はぁ。どうぞ」
「あの、賢者さんはどうして部屋の中でもフードを被ってらっしゃるんですか?」
「ああ。そんなことですか」
ばさり、と。特に迷う様子もなく、黒いフードが捲られて落ちる。賢者ちゃんのきれいな顔がはじめて陽の光に当たった。
というか、一年会ってないだけでまた美人になったなこの子……
「ご覧の通り、厳密に言えば私は人間ではありません」
賢者ちゃんの顔を見て、その美しさに目を惹かれる人はとても多いと思うけど。多分、それ以上に、はじめて彼女の顔を見る者は、その耳を見てしまうはずだ。
常人とは明らかに違う『とがった耳』を見て、赤髪ちゃんははっとした。
「えっと……変わったお耳ですね?」
おいおい。赤髪ちゃんは、ボケの才能もあるな。
「ぶっとばすぞ」
「ひっ」
「どうどう」
そろそろ賢者ちゃんが杖から何か撃ち出しそうだったので、手で抑える。
まあ、多分知らないというか、覚えていないと思うので、説明しようか。
「賢者ちゃんは『ハーフエルフ』なんだよ」
「はーふえるふ?」
「エルフ族と人間の混血ってこと」
「そんなことも知らないなんて、ほんとに無知ですね」
「記憶喪失だって言ってんだろ。知識マウントやめろ」
暴言がひどくなってきたので、手を伸ばしてぐりぐりと、きれいな銀髪の頭を押し撫でる。
「……むぅ」
ふわふわの銀髪は、最高級の絹糸のような手触りだ。髪は女の命、というのはもちろんおれも理解しているつもりだし、あんまり雑に触ってはいけないことはわかっている。わかってはいるのだが、賢者ちゃんがまだ小さかった頃から一緒に旅をしてきたので、なんとなく癖になってしまっているのだ。
「…………」
きゅっと唇を真一文字にして、翠色の瞳が細められる。口を開けば罵詈雑言が飛び出すが、こうしていると子犬のようだ。美貌のわりに子どもっぽい仕草に、赤髪ちゃんが目を丸くした。
さて、説明に戻ろう。
「エルフ族は長命で、魔術を扱うことに長けた亜人種なんだ。半分エルフの血が入っている賢者ちゃんには、元々魔術の高い才能があったってわけ」
「我ながら天才過ぎてこわいですね」
「謙遜も美徳だぞ」
この子は昔から褒めると伸びるタイプなのだが、褒めまくってたらこうなってしまった。ちょっと育て方を間違えてしまったかもしれない。
「エルフ族は長命、ということは、もしかして賢者さんも、見た目よりお年を……?」
「いや、賢者ちゃんは16歳だよ」
「わかっ!?」
赤髪ちゃんは、賢者ちゃんのローブに包まれた細い肢体を眺めて、それから自分の身体を自分で確認して、頷いた。
「なるほど。見た目通りのご年齢なんですね」
「賢者ちゃん賢者ちゃん。そのままの意味だから。きっと他意はないから」
賢者ちゃんの杖を押さえて止める。
コイツ、煽りの才能もあるのか?
「さて……」
十分後。部屋の中には、おれと賢者ちゃんだけになった。赤髪ちゃんは、街に買い物に出かけている。
さすがにおれの用立てた服では限界があるということで、賢者ちゃんの従者に頼んで赤髪ちゃんの生活に必要なものを、街で見繕ってもらうことになったのだ。首都の商店なら、おれが住んでいる片田舎の街よりもずっといい品物が揃うので、正直かなりありがたい。
それに、賢者ちゃんと二人きりで話したいこともあった。
「で、どうだった?」
「特にあやしいところはありませんでしたよ。まあ、白なんじゃないんですか」
すっと賢者ちゃんが指先を振ると、足元にミニサイズの魔導陣が浮かび上がった。
これは、近くの対象を魔術的に精査して、呪いや特別な魔法を持っていないかチェックするためものだ。
「ていうか、最初から私に魔術精査させるつもりでここに連れてきたんですか?」
「まあ、うん」
「悪い人ですね」
「仕方ないでしょ。本人、何も覚えてないって言うんだから。調べられるところから調べないと」
「それは正論ですけど、女の子に隠し事は良くないですよ」
「うっ」
相変わらず、痛いところを突いてくるなぁ。
昔は、話してる時はもっと素直で可愛げがあったのに、一体いつからこうなったのか。今となっては、もう話術で勝てる気がしない。
「賢者ちゃんのことだから、この部屋だけじゃなくて、別の部屋からも魔術精査かけてたんでしょ?」
「私のことだからってなんですか。私のことなんだと思ってるんですか。まあ、両隣の部屋から彼女のことはじっくり観察して丸裸にしてましたけど」
「やってるじゃん」
「おっぱい大きかったですよ」
「マジで? 死霊術師さんとどっちがでかい?」
「なに食いついてるんですか。へんたい。カス」
「話振ったのそっちだよなぁ!?」
この子は時々、マジで口が悪くなる。育った場所でいろいろあったので、仕方ないんですけどね。
まあ、賢者ちゃんが一番胸のサイズが小さいのは明白なので、そこは揺らぎようがない。小ぶりな胸を張って、ハーフエルフの天才賢者は続けて言った。
「しかし、天才の私にもちんぷんかんぷんですね。記憶喪失になった原因が気になりますけど、残念ながら魔術的なものではなさそうですし。ぶっちゃけ何もわかりませんでしたよ」
何もわからなかったのに、なんで胸張ってんだコイツ。元々張る胸もないくせに。
「魔術的に何もわからなかったということは、心の病気とか、何らかの外傷によるショックとか、そういう感じの原因ってこと?」
「そんな感じですかね。私は魔導師であって医者ではないので、心理的な病気のお話になってくるとお手上げです」
「うーん。賢者ちゃんに相談してだめ、か。困ったなぁ」
おれが唸ると、賢者ちゃんはなぜか嬉しそうに「ふふっ」と笑った。なんで笑ってんだコイツ。元々かわいいくせに。笑ったらもっとかわいいだろうが。
「騎士さんでもなく、あのクソネクロマンサーでもなく、最初に私を頼ってきたことだけは、勇者さんにしては良い判断だったと褒めてあげます」
「はあ。褒めて頂き、ありがとうございます」
「しかし、私では手詰まりなのは間違いないので、次は騎士さんのところに行くのがいいでしょう」
上機嫌なのか、わりとまともなアドバイスをくれた。
「おれもそうしようと思ってたんだけど、騎士ちゃんの領地まで行くの、結構時間がかかるんだよね。向かうなら、もうちょっときちんとした旅支度を整えたいな」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。数ヶ月前に、私が空間転送用の魔導陣を敷設しました」
空間転送用の魔導陣、というのは人間を運ぶことができる高位の術式のことである。術式を刻んだ魔導師が対応する魔導陣を繋げることで、ある距離を無視して一瞬で移動することができる。少人数でしか使えないのが難点だが、今では各地を繋ぐポピュラーな移動手段の一つになっている。
「もちろん、騎士さんの領地と繋げておきました。勇者さんがここまできたように、一瞬であちらまでひとっ飛びです」
「便利な時代になったもんだ」
「騎士さんのところで、何かわかるといいですね」
「そうだなあ。今のところ、あの子に関わることって何もわかってないし。騎士ちゃんなら他の領主に働きかけて戸籍も調べられるから、それに期待かな」
そういえば、と。賢者ちゃんはカップの紅茶を皿に戻して言った。
「あの子を追っているあやしいヤツらがいたのなら、捕まえて縛り上げるなり、拷問するなりして、情報を聞き出せばよかったのでは?」
紅茶を口に含んだまま、おれは固まった。
「……賢者ちゃん」
「なんです?」
「やっぱり、賢者ちゃんは天才だな……全然思いつかなかった!」
「で、そいつらはどうしたんですか?」
「ごめん全員ぶっ飛ばして捕まえるの忘れてた」
「ドアホのクソバカ」
夜。
宿に帰る勇者を見送ってから、シャナは光が落ち始めた街の中を、一人で歩いていた。
あの赤髪の少女に必要なものは、一通り用立てたつもりだし、魔導陣の用意も完璧だ。なにもなければ、明日の朝には出発できるだろう。
そう、なにもなければ。
わざと人気のない路地に入り、立ち止まる。
「さて、そろそろ出てきてくれませんか?」
空間へ向けた問いかけに、返答があった。
夜の闇に溶け込んだ影の中から、音もなく。シャナの二倍はあろうかという体躯が浮上する。
狭苦しい道を全て塞いでしまいそうなサイズの、漆黒の翼。赤褐色の、鋭い爪。総じて、明らかに人ではない、人外の威容。
「いつから気づいていた?」
牙を生やした口から発せられる、驚くほど滑らかな人の言葉。
「悪魔ですか。それも、上級の。ひさしぶりにみましたよ」
モンスター、と呼ばれる人に害を為す存在の多くは、この世界の生態系に組み込まれた生き物だが……いくつかの例外は存在する。
人語を理解し、巧みに人間を誘惑し、闇の中に落とす魔の眷属。これを、人は『悪魔』と呼ぶ。
「質問に答えてもらおう」
「もちろん、最初から気づいていましたよ。わたしを誰だと思っているんですか?」
「あの勇者と肩を並べた賢者、と聞き及んでいる」
「それだけですか。まあ、いいですけど」
異形の悪魔に向けて、にこり、と。シャナは気安い笑みを向けた。
「じゃあ、さよなら」
モンスターならば、調教してペットにできる。そもそも、偶然出会ったところで牙を剥いてこないのなら、無理に殺す必要はない。
だが、悪魔は最初から、人の敵。害にしかならない存在だ。
言葉とは、相手とコミュニケーションを取るためのもの。コミュニケーションを取る必要のない存在と、言葉を交わす必要はない。
故に、速やかに殺す。
最速、最短。悪魔の足元に展開された魔導陣は、眩い光を放ち、
「え」
止まった。
魔導陣が、作動しない。
賢者は、己の影を見た。深い闇に紛れて、貼り付けられた、見たことのない紋様の呪符。
(まさか、魔封じのッ……!?)
高いヒールが、石畳を蹴る。華奢な身体が、後ろに向かって飛び退る。
判断の早い、回避行動。
しかし、それはどこまでいっても、近接戦の不得手な、魔導師の動きでしかない。
「遅い」
悪魔は、人間と契約し、闇の中にその存在を落とすために、言葉を学ぶ。
だが、人間はそもそも悪魔の餌。格下の、塵芥のような存在だ。
最初から殺すことを決めていたゴミと、言葉を交わす必要はない。
「……ぁ」
原始的な爪が華奢な身体を貫き通し、そのまま二つに裂いた。
生きているだけで、この世界は地獄だった。
人との間に生まれたというだけで、シャナはその村で迫害された。苗字はない。元より、エルフという種族には名前以外に家名を戴く文化はなかったが、人間の父親に認知されなかったシャナは、自分の苗字すら知らぬまま育った。
名前だけではない。母親は、シャナを生んですぐに死んだ。どんな人かも知らなかった。せめて、どんな女性であったか知ることができたなら、恨みようもあったのかもしれない。しかし、顔も性格も知らない母を、恨むことはできなかった。
シャナの耳はエルフの特徴をたしかに受け継いでいたが、それ以外は人間の身体そのものと言っていいほどに、彼女の身体はエルフ族の中で平凡だった。羽根はなく、空を飛べず、同族に馴染めない少女を、エルフの里は容赦なく排斥した。
シャナが母親をなくした『ただのエルフ』であったなら、里の人間はその境遇に同情し、優しく教え導いただろう。
しかし、シャナは特別なハーフエルフだった。
自分とは違う存在に、共感はできない。同情もない。ただ、理解できない存在は気持ち悪いだけだ。
だから、村に訪れたその少年は、シャナにとってはじめて出会う、自分に近しい存在だった。
「きみは、エルフじゃないのか……」
面と向かって、少年は言った。
「この村は、好きか?」
面と向かって、シャナは首を横に振った。
「じゃあ、一緒に行こう」
それ以上は何も聞かずに、少年はシャナに手を差し伸べた。
理由はない。事情もない。たった一つの質問と答えだけで、少年はシャナを連れ出すことを選択した。
「あー、でもちょっとお願いがあるんだ」
少年は、少しだけ悩む素振りを見せて、シャナに言った。
「おれ、これから世界を救うために魔王を倒しに行くんだけど……手伝ってくれる?」
シャナには、そもそも世界が何かわからなかった。
シャナには、魔王がどれほどおそろしい存在なのか理解できなかった。
しかし、目の前の少年が救いたいものは救いたいと思ったし、倒したいと思ったものは、倒さなければならないと確信した。
シャナにとって、手を差し伸べてくれた少年が、はじめて知る世界の全てだった。
だから、
「あの、私……いっこだけ、特別な魔法が使えます」
気持ち悪い自分の力も、役に立てるかもしれないと思った。
「魔術を封じられた魔導師ほど、脆いものはないな」
目の前の死体を見て、悪魔は嘲笑う。
これが騎士であれば、魔術を封じられても剣で立ち向かうという選択肢もあっただろう。悪魔が切り札として用意してもらった『魔術封じの呪符』は、あくまでも魔力の放出と特性を封じるもので、魔力そのものを封じるものではない。つまり、魔導師殺しに特化した代物だったのだ。
魔力による身体強化を基本とする騎士ならば、あるいは肉弾戦で、悪魔に一矢報いることもできたかもしれない。
とはいえ、死体を前に可能性を考えることは、ただの時間の無駄だ。
「なにが最強。なにが無敗のパーティーか。王国最強の賢者がこの程度の実力なら、勇者も底が知れるな」
「そうは言われても、魔術が封じられたら私は非力な女の子なんですよねぇ」
ほとんど反射で、悪魔はその場から飛び退いた。瞬時に翼を広げ、爪を構えて、振り返る。
「オマエ……これは、どういうことだ」
「どうもこうも、見ての通りですが?」
悪魔は、死体を確認した。ソレは、たしかに死んでいる。
悪魔は、前方を確認した。そこには、たしかに王国最強と呼ばれる賢者がいた。
シャナ・グランプレは笑顔だった。
殺したはずの相手が、目の前にいる。
その理由をいくつか考え、悪魔は口にした。
「バカな……幻覚か? それとも、ゴーレムか?」
「冗談はやめてください。幻覚でも身代わりでもありません。だってあなた、たしかに私の腹を貫いて、心臓を握り潰したじゃないですか。とっても刺激的に、乱暴に」
己の胸を、人差し指で示して。
「すっごく、痛かったですよ」
悪魔が口にした可能性を、賢者は否定する。
「よもや、死霊魔術ではあるまいな?」
「……ウチのパーティーには、たしかに最高に腕が良くて最高に趣味の悪いネクロマンサーがいますけど。蘇生されたのなら、わたしの死体がそこにあるはずがないでしょう?」
くるくる、くるくる、と。その場で黒のローブが舞い踊る。
「私、
それは、どこまでもシンプルな答え合わせだった。
悪魔の背後から、三人目の声がした。
王国最強の賢者。シャナ・グランプレが、三人いた。
「……魔法」
「だいせーかいっ♡」
病的なほどに白い頬が、高い声と共に紅潮する。
人が解き明かし、魔力を用いて運用することができる超常の力は『魔術』と呼ばれる。これは、素質がある人間なら、誰もが平等に扱うことができる力だ。
しかし、人々は魔の深淵を、完全に解明したわけではなかった。
魔術とは一線を画す、異能力。選ばれた者だけが生まれながらに持つ、唯一無二の力。世の理を歪める異法。
それこそが『魔法』である。
「分身、か」
悪魔は、冷静に賢者の力の正体を分析する。
「分身? この期に及んで、まだ寝ぼけてるんですか? あなたのお粗末な魔力探知でも、もう答えは出ていると思いますけど」
悪魔が人に嗤われる、その屈辱。
歯噛みしながら、目を見開いた。ありえない。そんなことは、ありえない。
しかし、少女の言葉通り、悪魔の魔力探知は、一つの答えを明示していた。目の前に立ち並ぶ二人と、先ほど殺した一人。その魔力は、間違いなく全て同様のもの。
つまり、
「ふざけるな。本当に、実体を伴って増えているとでも言う気か!?」
「だから、さっきからそう言ってるじゃないですか」
新たな一人が、顔を出す。
「私の魔法は、ものすごく単純ですよ。
新たな二人が、魔導陣から現れる。
「増やしたものは、幻ではありません。現実に存在しますし、実体があります」
「食べ物を増やせば胃の中に収めることができますし、お金もやろうと思えばそっくりそのまま同じものが作れます」
新たな三人が、空中から飛び降りる。
「理屈ではありません」
「ものを増やす。一つだったものが、二つになる」
「これはそういう力。そういう概念です」
新たな四人が空中に浮かび上がり、悪魔を完全に包囲した。
「魔術を完全に封じる呪符。たしかに、とても厄介でした」
「私が一人だったら、完敗していたかもしれません」
「でもまぁ……そういう強いマジックアイテムを用意するのなら」
「人数分用意してくれないと、困るんですよね」
最後に現れた五人が、魔力の充填を開始する。
「ちなみに、増やせる数は100まで。これは、明確に決まっています」
「べつに頭の出来が良くない私が、どうして「天才」だなんて呼ばれているかというと」
「これは本当に単純な話なんですけど」
「100人で学べば、効率は100倍になる」
「ただそれだけのことなんです」
悪魔は、絶句する。
その魔導師は、触れた全てに神秘を与えた。
その魔導師は、存在そのものが神秘だった。
恵まれない出自を跳ね除けて、たった数年で魔術の頂点に手を伸ばした稀代の賢者は、それでもなお満足せず、決してその歩みを止めない。
それは、万物の理を捻じ曲げ、手にした全てを咲き狂わせる、欲望の純白。
『
この世界を救った、最高の賢者にして、魔法使いである。
「……」
たった一人の悪魔は、それでも居並ぶ最強を見上げて、不敵に笑ってみせた。
「……ぺらぺらと、よく回る口だな。そんなに自分の魔法の性質を語って、大丈夫か?」
「え?」
しかし、数え切れない賢者達は、誰一人として笑わなかった。
「だってあなた、ここで死ぬじゃないですか」
魔力が人間に宿る不可視のエネルギーであるならば、きっと人を想う気持ちにもエネルギーの総量があるのだろう、というのがシャナ・グランプレの持論である。
「一箇所にこの人数を集めたのは」
「ひさしぶりですね」
「まあ、いいでしょう」
「とりあえず、この悪魔をバラして、出所を探るところから」
「はじめよっか」
「こういう時、死霊術師さんがいたら楽なんだけど」
「でも絶対に頼りたくないですね」
「うん。やめとこやめとこ」
ぐちゃぐちゃにした悪魔の死体をかき集めながら、シャナは昔のことを思い出す。
幼い頃は、増える自分をコントロールできなかった。
増えたり減ったり、彼には随分と迷惑をかけた。
それでも、彼は優しく笑って、腕を目一杯に伸ばして、二人の自分も、三人の自分も、四人の自分も、たった一人きりの自分も、頭を撫でて抱きしめてくれた。
──私がたくさんいて、迷惑じゃないの?
──迷惑じゃないよ。もしもシャナが百人いたら、百回頭を撫でればいいだけだ。
シャナ、と。
彼に名前を呼んでもらうのが、大好きだった。
愛は見えない。愛は可視化できない。
それでも、もし。人を想う気持ちに総量があるのなら、彼ほど愛を持っている人間を、シャナは知らない。
だから、愛そう。あらゆるものを増やすことができるなら、それら全てで彼を愛し尽くしてみせよう。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に好意を寄せる者が多いのは知っている。
それでも、シャナ・グランプレは断言できる。
──私の愛が、最も多い。
今回の登場人物
・賢者ちゃん
本名、シャナ・グランプレ。銀髪生意気メスガキハーフエルフ貧乳賢者。今回、悪魔の手によって魔術を封印されて『わからせ』かけられたが、本人が最強なので返り討ちにしてぶっ殺した。
パーティー屈指の恵まれない幼少期を過ごしたので、出世欲と知識欲の塊になっているが、彼女の基本行動原理は『勇者のため』という大前提の元に成り立っている。シャナにとっては勇者が世界であり、世界が勇者。勇者さえいれば、基本的にそれでいい。小さな小屋に一口のパンとスープがあれば満足するレベル。現在、首都でいろいろやっているのも、勇者をなるべく幸せにしたいから。手を差し伸べられたあの日から、彼女の中でそれが揺らいだことはない。
・悪魔くん
自然の生命とは異なる存在の闇の使徒。いろいろ対策してたが、最強を『わからせ』られた。
・勇者くん
エルフの里に立ち寄った際、10歳の賢者ちゃんを村から拉致った。そのため、世界を救ってもエルフ族からの印象は最悪だったりする。ロリコン疑惑あり。
・赤髪ボケ女
記憶喪失。自分の胸がでかいという自覚はあるらしい。
今回の登場魔法
固有魔法『
魔術とは異なる、選ばれた人間の心身にのみ刻まれる異能力を魔法と呼ぶ。勇者が率いたパーティーのメンバーは、全員がそれぞれ違う固有魔法を所持していた。
シャナの魔法の固有効果は『増殖』。自分自身と、その手で触れたものを、そっくりそのまま増やすことができる。増やした物体、対象に差異はなく、シャナが能力を解除しない限り消えることはない。触れた対象の増殖制限数は100。それ以上は絶対に増やすことができない。幼い頃のシャナは能力の制御がうまく行えず、しばしば複数人に増えていたため、魔術に通ずるエルフ族からも理解されず忌み嫌われていた。
ダイヤが一つあれば、百個になる。伝説の聖剣を一振り手に入れれば、それを増やし百人の味方に装備させることができる。まさに一を百にする、この世の法則に唾を吐きかける魔法。
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勇者と女騎士ちゃん
賢者ちゃんの協力で、騎士ちゃんが治めている領地にやってきたおれ達は、早速ピンチに立たされていた。
「ご、ごめんなさい……勇者、さん」
「大丈夫。きみが謝ることじゃない」
「でも、わたし……もう、ダメかもしれません」
「大丈夫だよ。全部吐き出せ。おれが、受け止めてあげるから」
「ゆ、勇者さん……っ」
綺麗な真紅の瞳を潤ませた赤髪ちゃんは、肩を震わせながら頷いて、
「うぉええええええ」
「よしよし。全部げーってしなさい。げーって」
はい。赤髪ちゃん、絶賛リバース中です。
理由は単純で、どうやら転送用魔導陣の独特の浮遊感がダメだったらしく、一発で酔って気分が悪くなってしまったようだ。文明の利器、便利だけどまあそういうこともあるよね。
背中をさすりながら、おれは奥に向かって叫んだ。
「おばちゃーん! やっぱバケツもう一個ちょーだい! あと水と布巾!」
「あいよ! ちょっと待ってな!」
このあたりには何回か来たことがあったので、土地勘があったのが幸いだった。こうして、知り合いのおばちゃんがやっている宿屋に緊急避難して、赤髪ちゃんを介抱することができる。
「ほら、嬢ちゃん大丈夫かい? しっかりしな?」
「うぅ……すいません」
「いや、きみは喋らなくていいから。とにかく楽になるまで、げーってしなさい。げーって」
「やっぱ魔導陣の転送って、酔う子は酔っちまうんだねえ。王都までひとっ飛びできるのはありがたいけど、アタシはあんまり使いたくないよ」
魔術による長距離転送は、距離が長くなればなるほど酔いやすいらしい。おれの家がある町から王都まではそこまで距離がなかったので問題なかったが、ここは辺境の土地。かなりの距離を魔術に頼って移動してしまったので、無理が祟ったのだろう。
「おれ達が来る前に、あの転送魔導陣、誰か試したの?」
「そりゃもう、あのかわいらしい賢者ちゃんが設置したら、いのいちばんに姫様が試したよ」
「どうだった?」
「吐いてたよ」
「ダメじゃん」
「ダメだったねえ」
姫様、というのは騎士ちゃんのことだ。ていうか、アイツも吐いてるんかーい。
なんか酔い止めの魔術とかないのかな? 船用に酔い止めの薬草とかは売られてるし、それを使えば気休めくらいにはなるか? 今度、賢者ちゃんに改善案出しておくか。
「それにしても、やっぱ世界を救った勇者さまはモテるねえ。こんなかわいい子を」
「おろろろろ……」
「……こんなかわいい子をひっかけてくるなんて」
赤髪ちゃんの見た目は文句なしに美少女だったが、リアルタイムで汚いものをリバースしている美少女を美しいと言うのは少し無理があったのか、おばちゃんは言い淀んだ。仕方ないね。
「いろいろと訳ありでね。この子を騎士ちゃんに紹介してあげたいんだ」
「まったく……人助けはいいことだけど、ひさびさに顔を見せたと思ったら女連れなんて。『 』様が悲しむよ」
「騎士ちゃんはそういうこと気にしないよ」
「けどねえ、『 』様はアンタのことを」
「おばちゃん」
トントン、と。おれは赤髪ちゃんの背中ではなく、自分の耳を叩いてみせた。
「あ、ああ……ごめんよ。気をつけていたのに、つい……」
おばちゃんも最初は騎士ちゃんのことを『姫様』と呼んでいたが、喋りに熱が入るうちに、無意識に彼女の名前を言ってしまっていたらしい。
おれには、彼女の名前は聞こえない。
「いやあ、全然大丈夫だよ。ただ、聞こえないから気をつけてね、ってだけ。むしろ、気を遣わせちゃってごめん」
「……アンタが謝ることじゃないだろう」
くしゃっと。顔を歪ませたおばちゃんは「追加の水をとってくるよ」と言って、カウンターの奥に引っ込んでしまった。
ああいう気持ちの良い元気なおばちゃんに、あんな顔をさせてしまうのは、ちょっとつらい。
「うぉおおおえ……」
「はいはい。よーしよしよし」
いやだめだ。やっぱこっちの方がつらそうだ。
コイツ、よく食ってたからほんとよく吐くな……
「すいません。ごめんなさい。申し訳ありませんでした」
「謝罪のフルコースみたいだ」
赤髪ちゃんが回復したので、宿屋のおばちゃんにお礼を言って、騎士ちゃんの屋敷に向かう。
「謝らなくていいよ。それより大丈夫? すっきりした?」
「はい! 全部吐いたからバッチリです!」
ふんす!と赤髪ちゃんはガッツポーズする。まあ、気持ち悪いのって基本的に全部吐いてしまえばすっきりするからね。根拠は死霊術師さんと飲んでる時のおれ。あの人マジで酒強すぎておかしい。
「ところで勇者さん」
「はいはい」
「騎士さんは、勇者さんとは一番付き合いが長い人なんですよね?」
「そうなるな」
「最初は、どちらでお知り合いになったんですか?」
「えーと、まず騎士学校で出会って、退学になって」
「退学!? なんでですか?」
「いやほら、なんというか、おれもちょっとバカをやってた時期があってね……」
そうなんだよ。おれ、高等学校中退してるんですよ。学歴があかんことになってる。今回の件が片付いたら、賢者ちゃんに魔術学校通わせてもらえないか頼んでみよっかな……
「まあ、とにかく。そこから一緒にパーティ組んで、冒険はじめてからは基本的にずっと一緒だったから……かれこれ六年くらいは、一緒にいた計算になるか」
「ほえー、すごい。どんな方なんですか?」
「まず、めちゃくちゃ強い」
「は、はい」
「次に、美人」
「お、おぉ」
「あと、隣国の第三王女」
「えっ!? お姫さまなんですか?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ! そんな高貴なお家柄だったなんて……じゃあ勇者さん、お姫さまと一緒に六年以上も旅してたってことですか?」
「そうなるね」
「す、すごいなぁ」
うう、となぜか赤髪ちゃんは肩を落として、体を固くした。
「わたし、記憶喪失なので隣のお国のこととか全然わからないんですけど」
「そうだろうね」
「でも、本物のお姫さまに会うなんて、多分はじめてですよ」
「記憶喪失になる前に会ったことあるかもしれないじゃん」
「また勇者さんはそういう屁理屈を言う!」
ぽかぽか、とじゃれてくる手をいなしながら、メインの街道から外れて、脇道に入っていく。家や商店の数はめっきり減り、畑ばかりが目立ってきた。というか、ここまで来るともう畑しかない。
「……なんか、街の中心から外れているように感じますけど、こっちで合ってるんですか?」
「うん。合ってる合ってる。そろそろ会えると思うよ」
「うぅ……本当に緊張してきました。わたし、無礼なこととか言ってしまったらどうしましょう。勇者さん、ちゃんとフォローしてくださいね」
「だから大丈夫だって」
赤髪ちゃんは記憶喪失のわりに、言葉遣いや礼儀作法がしっかりしているので、そこの心配はしていない。初対面でも、相手ときちんとコミュニケーションを取れる。賢者ちゃん? あれは精神的にまだメンタルクソガキなところあるから例外です。
「おーい! 勇者くーん! こっちこっちー!」
畑のど真ん中から大声が響いて、赤髪ちゃんがぎょっと振り返った。
遠目でもわかる、女性にしては高い背丈。長く艶やかな金髪は後ろで括られ、ちょうど収穫期の稲と同様に、ぴかぴかと輝いている。
おれも、手をあげて大声で叫び返した。
「こっちだと思ったよ!」
「ははっ! 相変わらずいい勘してるねー! ほんとは屋敷の方で待って、ちゃんと出迎えようと思ってたんだけど。人手が足りないから、収穫に出てきちゃったよー! ごめんねー!」
「相変わらずよく働いてるな!」
「そりゃもちろん、領主ですからー!」
庶民と変わらない作業着に、大きめの帽子。汚れが目立たない紺色のズボンに、首元には汗を拭うためのタオルをぶら下げている。
「おひめ、さま……?」
うん。赤髪ちゃんの困惑はわかる。
「うちのパーティーの姫騎士様、めちゃくちゃ庶民派のいい子なんだよ」
「さあさあ、遠慮せずに食べて食べて!」
「いただきます!」
田舎のメシというのは、得てして味つけが濃くて、量が多い。要するに、雑に美味い。
じゃがいも! なんかデカい肉! トマト! 土地のパン! デカい器に並々のスープ! そんな感じのメニューだ。
騎士ちゃんの屋敷に案内されたおれたちは、テーブルの上に所狭しと並べられたご馳走にありついていた。
「おいしい〜!」
胃の中身がからっぽになってお腹が空いていたのか、赤髪ちゃんはもりもりと皿の上の料理を口に運んでいる。すごいなコイツ。さっきまで胃の中身吐き出していたのに……いや、胃の中身を出したからこそ、これだけ入るのだろうか。
「今年は野菜が全体的に良い出来でね〜。ほら、賢者ちゃんが転送用の魔導陣置いてくれたじゃない? だからアレで勇者くんのところに野菜送ろうと思ってたんだよね」
「ああ。騎士ちゃん、あれで移動して吐いたんだって?」
「うぇ!? ちょ、誰に聞いたの!?」
「宿屋のおばちゃん」
「も〜、ほんと口が軽いんだから、恥ずかしい……」
「いや、わかるよ。昔から船とか乗ると絶対酔ってたもんな。思い出したわ」
「それも言わないでよ!」
短いやりとりの合間にも、喜怒哀楽がくるくると切り替わる。
矛盾していることを承知で言うが……表情豊かな美人は、とてもかわいい。
騎士ちゃんは、よく笑い、よく喋り、よく食べ、よく飲む。死霊術師さんほどじゃないが、実はこの子も結構酒に強い。
「はい、勇者くん。お姫様がお酌をしてあげよう」
「ははっ……ありがたき幸せ」
それっぽく頭を下げて、土地の酒を騎士ちゃんに注いでもらう。美人にお酌してもらって申し訳ないね。
昼間から酒なんて、冒険していた頃には考えられなかった贅沢だけど、なんだかんだ一年ぶりの再会だ。たまには豪勢にいかせてもらっても、バチは当たらないだろう。そもそもおれ、神様とか信じてないし。
「それにしてもやりますなあ、勇者くん。ぐだぐだ引退生活を満喫してると思ったら、こんなかわいい子を連れてくるなんて!」
「それさっき言われた」
「え、誰に言われたの!?」
「宿屋のおばちゃん」
「あたし、宿屋のおばちゃんと一心同体じゃん!?」
騎士ちゃんの叫びに、ついに給仕に徹していたメイドさんが、くすっと吹き出した。
ふと、横を見るともりもりとご飯を食べていた赤髪ちゃんが、手を止めて騎士ちゃんを見ていた。
「ん? どうかした? 何か足りないものがあるなら、持ってこさせるよ」
その視線に気がついた騎士ちゃんが、横目でにこりと微笑む。
そのやわらかい笑みには、ほんのりと気品が感じられた。
「それとも、お料理がお口に合わなかったかな?」
「そ、そんなことないです! とってもおいしいです!」
「よかったよかった。それ、あたしが作ったやつだから、うれしいよ」
じゃがいも料理を指差して、騎士ちゃんが言う。赤髪ちゃんも表情が豊かな方なので、目を丸くして驚いた。
「お姫さまが!? お料理、されるんですか?」
「するよ? バリバリやっちゃうよ。あなたも食べるの好きなら、お料理は習っといた方がいいぞ〜。男を掴むためには、まず胃袋からって言うしね」
「な、なるほど」
「あたし、こう見えても騎士だから、聖剣を二本持ってるんだけどね。そのじゃがいもは炎が出る方で、こう、パパーっと」
「焼いたんですか?」
「焼くわけないじゃん。フライパン使うでしょ普通」
「えぇ……ゆ、勇者さん!?」
おもしろいくらいに。からかわれている。
赤髪ちゃんに助けを求められたけど、おれは視線をそらして料理を口に運んだ。じゃがいもうめぇ。
「酒入ったらこんなもんだよ。慣れな」
「えええ……」
「この子、かわいくておもしろいね〜」
よしよし、と。騎士ちゃんは赤髪ちゃんに横から抱きついて、頬擦りする。美少女と美人が絡んでいると、大変眼福ですね。ありがとうございます。
「あの、す、すいません……お姫さまに対して、失礼に、あたるかもしれないのですが」
「いや、赤髪ちゃん。おれは一方的に頬擦りしてくるヤツの方が、普通に失礼だと思うぞ」
「勇者くん、うるさい。まぁたしかに、そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。で、なになに?」
「ええっと、お姫さまって……隣の国のお姫さま、なんですよね?」
おそるおそる、といった様子で赤髪ちゃんが聞く。
なんか謎掛けみたいだな。
「あぁ、うん。あたし、お姫様っぽくないでしょ。よく言われるよ」
「実際、お姫様やってた期間より、おれと冒険者やってた期間の方が長いまであるからな」
「それはある」
横から茶々を入れると、騎士ちゃんは大仰に腕を組んで「うんうん」と頷いた。
オンオフはしっかりしているが、騎士ちゃんは元から堅苦しいのは好きではない性分だ。
「だからさ。あたしは勇者くんがせっかく連れてきてくれたあなたとも仲良くなりたいなって。あたしのことは、気軽に『騎士さん』とでも呼んでよ」
「……はい! わかりました、騎士さん!」
「よしよし。それで、何か聞きたいことはあるかな?」
「そうですね、じゃあ……勇者さんの恥ずかしい思い出、とか?」
「急にぶっこんでくるのやめない?」
「いいね。長くなるよ」
やめてやめて。長くしないで。
長くなった。
日が落ちて、もう外はすっかり真っ暗だ。おれと騎士ちゃんは、酒のグラスを持ってテラスに出た。アルコールで火照った体に、風が気持ちいい。
「赤髪ちゃん、寝ちゃったね」
「お腹いっぱいになって寝ちゃうのは、完全に子どもなんだよな……」
「かわいいよ、あの子」
「それは間違いない」
「記憶喪失っていうのが、いまいち実感が沸かないけど」
「普通に会話はできてるからなあ。話していても、違和感はそんなにないし」
「どこで助けたの?」
「ウチの街外れの、森と荒野の間。馬に乗って、追手から逃げてた」
「あなたのことだから、どうせ追手は全員ぶっとばしてそのままにしちゃったんでしょ?」
なんでわかるんだよ。
肩を竦めて、それらしく酒を煽ってみせる。
「賢者ちゃんにも怒られたよ」
「当然でしょ」
「調べられるか?」
「あのあたりの騎士団に働きかければ……あんまり当てにはしないでほしいけど、やってみる」
「助かる」
なんだかんだで、騎士ちゃんは本当に頼りになる。
「でも、それよりもこっちだよね」
言いながら、騎士ちゃんは一枚のメモを懐から取り出した。そこに記されているのは、現状唯一の手掛かり。赤髪ちゃんの名前だ。
「名前だけで王国の隅々まで戸籍名簿を辿るのは、さすがにちょっと厳しいけど……」
「時間がかかってもいい」
「……うん。そうだね」
透けるような金髪が、風に揺れる。メモ帳に記された名前を、騎士ちゃんはじっと見詰めた。
おれが読めない、あの子の名前。
「どんな名前だった?」
「え?」
「赤髪ちゃんの名前だよ。なんかこう、響きがきれいとか、そういうのあるだろ?」
「……ふぅん」
今日、出会ってからずっと笑顔を見せてくれていた女の子が、はじめて表情から明るさを消した。
「あたしの名前は忘れたのに、あの子の名前は気になるんだ?」
テンポ良く進んでいた会話が、ぴたりと止まる。
「いや、それは……」
「うそうそ。ごめんね。いじわる言っちゃった」
表情に、笑みが戻る。けれどそこに、先ほどまでの明るさはない。蒼色の瞳に、こちらの心まで見透かされてる気がした。
「……なにか、つまむもの取ってくるよ」
言い残して、揺れる金髪が視界から消える。
騎士ちゃんのああいう顔を、ひさしぶりに見た。見てしまった。いや、ああいう顔に、させてしまった。
「……最悪だなぁ、おれ」
グラスの中に残っていた液体を、一気に煽る。
あー、くそっ。酒の味がしねぇ。
「……はぁ」
調子に乗って飲み過ぎたから、余計なことを言ってしまったのかもしれない。なんだか、視界がぐらぐらと揺れている。
手から力が抜けて、グラスが滑り落ちた。
「……あ?」
グラスを、落とした。砕けて、割れた。
音でそれを認識したのと同時に、膝から力が抜ける。
「ゆっくりおやすみ。『 』くん」
その声を最後に、おれは意識を手放した。
今回の登場人物
・勇者くん
一服盛られた。
・ゲロ女
記憶喪失。同じく一服盛られた。
・宿屋のおばちゃん
とても良い人。
・女騎士ちゃん
一服盛った。
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女騎士ちゃんと賢者ちゃん
アリア・リナージュ・アイアラスは、勇者が率いるパーティーに所属していた騎士である。
彼女は隣国の王家、アイアラス家の第三王女であり、現在はこの土地を治める領主でもある。
「……勇者くんを、あの子と同じ部屋に運んでください。丁重に」
口調が、がらりと変化する。明るく温かい、気さくな女性から、冷たく硬質な、集団の長の声に。
「畏まりました」
どこからともなく現れた二人の従者が、勇者を抱えて姿を消す。
同時に、アリアは着ていたブラウスのボタンに手をかけ、脱ぎ捨てた。実用性しか考えていない飾り気のない下着と、女性とは思えない鍛え上げられた裸体。そして、数え切れない傷跡が、空気に晒される。が、三人目の従者はそれを見ても眉一つ動かさなかった。むしろ当然のように、脱ぎ捨てられたブラウスを受け取って一礼し、下がる。
アリアはそのまま屋敷の地下に続く階段を降りて、地下室の扉を開いた。
「姫様」
「姫様!」
「そのままで良い。優先度の高いものから、状況報告を」
地下室とは思えないほど広い部屋の中央には、物見の水晶が設置され、既に数名の騎士に、魔術士と魔導師が陣取っている。その様子は、まるで砦や基地の司令室のようだった。とはいえ、それも当然である。
魔王軍全盛の時代、各地で防衛戦を敷き、人間側の戦線維持に貢献していたのは、各地の力ある領主達だったからだ。
「姫様……やはり、キナ臭いですぞ」
「勇者様がお使いになられた、街の中央の転送魔導陣が遮断されました。現在、外部への転移魔法が使用不可能になったようです」
「日が落ちてから、騎士団の巡視隊からも見慣れないモンスターの目撃情報がいくつかあがっています」
アリアは、先ほどまで酒を嗜んでいたとは思えないしっかりとした足取りで、物見の水晶に近付いた。彼女が椅子に腰掛けると同時、女性の騎士が後ろから歩み寄って、ロングの金髪をアップに結いはじめる。
家に長年使えてきた老練の魔導師に、アリアは問いかけた。
「来ると思いますか?」
「ええ。十中八九、ここが狙いでしょうな。街が襲われる可能性もありますが……」
「対応はします」
「それがよろしいかと」
髪をやらせているので頭を動かせないアリアは目だけで頷いて、直立不動の姿勢で待機している何人かの騎士に手を振って合図した。
「騎士団、自警団の詰所にわたしの名前で連絡を。すぐに厳戒態勢を敷かせなさい」
「承知いたしました」
「姫様、お召し物です」
「ありがとう」
戦闘用に、魔術が編み込まれたインナーを身につける。同じく、革制の胸当てをつけて、グローブにブーツ、手袋、と。手早く装備を固めていく。
「……姫様! 王都が交信に出ました!」
「やっと繋がった? あのバカ賢者……」
顔をあげたアリアの口調が、少し戻る。
魔力で音声を伝える通話装置はとても高価なものだが、これだけの施設ならば、当然それに相応しい設備も備えている。
アリアは受話器を取った。
「シャナ! あたしの方からずっと連絡はしていたでしょ? どうしてすぐに出ないの!?」
『私が出なかったんじゃなくて、そちらと繋がらなかったんですよ』
通話の相手はもちろん、賢者である。
生意気な声は、しかしいつもよりも早口だった。
『取り急ぎ『私』を何人かべつの街に派遣して、魔力のラインを繋いでますが、今もギリギリ通話できている状態です。そちらの領地全体に、大規模な魔力妨害がかかっていますね。外との連絡と転送を遮断するためでしょう』
「あなたが敷設した転送魔導陣、あっさり遮断されてるんだけど。欠陥品?」
『文句が多いですね。それはわがままが過ぎますよ、お姫様。ピンポイントで魔力妨害されれば、いくら天才の私が設置した魔導陣でも、正常に作動はしません』
「狙いはあの女の子?」
『逆に、それ以外あると思います?』
それはそうだ。
『しかし、あちらに認知されていない転送魔導陣なら、内側からの脱出にまだ使えるはずです。あなたのお屋敷なら、あるでしょう?』
「……うん。あるよ」
相変わらず、賢者と呼ばれている少女はおそろしいほどに察しがいい。アリアは、部屋の隅に隠れるように設置されている小さな転送用魔導陣に目をやった。これはいざという時、領主やその血縁の人間だけでも脱出できるように作られたものだ。シャナが敷設したタイプとは違い、転送先は指定できず運任せになるが、とりあえず少人数を避難させることはできる。
『それを使って、勇者さんと彼女を敵から逃してください。その場所だから、できることです』
「転送先がランダムになるの、わかってる?」
『得体のしれない敵に居所を知られたままになるよりは、はるかにマシでしょう。それに、こんなこともあろうかと、勇者さんが私の頭に触れた時に、手のひらに魔力マーカーを仕込んでおきました。これで、どこにいようとある程度の居場所は追跡できます』
「え、こわ……」
ストーカーかよ。
アリアはドン引きした。
『うっせぇです。それよりも、早く勇者さんを説得してください。あの人、話を聞いたらどうせ自分も残って戦うって言い出しますよ』
「あ、それは大丈夫。食事とお酒に薬を盛って、もう眠らせてあるから」
『え、こわ……』
サイコパスかよ。
シャナはドン引きした。
どっちもどっちである。
『……ごほん。あとは、手短に重要なことだけお伝えします。昨日、私が殺した上級悪魔は、こちらの『魔法』を把握していませんでした』
「それは……つまり」
『ええ、あの悪魔は「新しい存在」だということです』
アリアの表情が、一段と険しくなる。
二人の会話を固唾を呑んで見守っていた魔術士と騎士達も、そのただならぬ空気に体を固くした。
しかし、
「……えーと、ごめんねシャナ。あたし、そういう回りくどい言い方されてもちょっとよくわかんないっていうか、シャナは頭がいいから良いかもしれないけど、今は緊急事態で通信も切れそうだし、もうちょっとストレートに伝えてほしいっていうか」
『バカ姫』
「うるさいなぁもう!」
冒険ばかりしていたせいで、自分達の主はわりと頭の出来が残念だったことを思い出して、彼らはさっさと担当の仕事に戻った。
『ほんっとに、察しが悪い脳筋ですね』
シャナのため息が深い。
しかし、賢者は声高に言い切った。
『襲撃してくる悪魔は、魔王が討伐されたあとに生まれ落ちた、ひよっこということです。存分にぶっとばしてください』
「……最初からそう言ってくれる?」
『他にも色々言いたいことあったのに、かなり噛み砕きましたからね!?』
賢者の絶叫が響いた瞬間、ぶちっという音がした。
「あ」
「切れましたな……」
切れたらしい。
「……ごほん」
咳ばらいを一つ。それで、また切り替わった。
「皆、聞いてください」
一糸乱れぬ動きで、その部屋の全員の人間が背筋を伸ばす。
「まず、ここは放棄する。地下通路を使って、街へ早急に移動。ただし、持ち出せる物資は持ち出しましょう。総員で、街の防衛に全力を尽くしなさい」
「しかしそれでは、姫様がお一人に……」
「だから、そう言っている」
アリアは言い切った。
「敵は、わたしが迎え撃つ」
その声音に、迷いはない。
「鎧と剣の準備を」
「はっ」
「それから、彼らの転送はすぐにはじめてください」
「承知致しました」
眠ったままの勇者と少女が部屋に運び込まれ、緊急転送用魔導陣の上に乗せられる。本当に、二人を一気に転送するのがギリギリのサイズだ。
呑気に眠りこけている勇者の顔を見て、アリアは笑う。
「……あーあ」
膝をついて、頬に触れる。
「せっかくひさしぶりに会えたのに、またしばらく離れ離れだね」
しかし、今はこうするしかない。
「絶対守るよ」
短い宣言は、彼の耳には届かない。
「燃えろ」
もう数刻で、朝がくる。
しかし、朝日を迎える前に、その屋敷はあまりにも唐突に、あっさりと炎に包まれた。
発火地点はない。一瞬で、全体が燃え上がった。
常軌を逸した炎の勢いは、明らかに魔術によるもので……事実、それを仕掛けた張本人は、闇に紛れて煌々と燃え盛る建築物の様子を眺めていた。
否、正確に言えば、人ではない。
「あーあ。もったいねぇ。女がいたなら、捕まえて楽しめたのによ」
「文句を垂れるな、グズが」
口調の荒い、獣のような外見の悪魔は舌を出してせせら笑う。
「ここまで用意する必要があったのかねぇ。こんなに強く炙っちまったら、骨も残らねえよ」
「どれだけ準備し、用心しても、し過ぎるということはない。相手はあの勇者なのだからな」
冷静な口調の双角の悪魔は「事実、一人はもう賢者に消されている」と。忌々しげに、付け加えて言い捨てた。
「オレは備えを怠って敗北する気はない。だからこうして念入りに、対拠点用の広域魔術を、用意もする」
「やることがなくてつまんねえな」
「勇者と少女の死体を確認したら、お前は好きにしていい。街に降りて人間と遊んでくればいいだろう」
「それはいい。きたねぇ焚火を見守る楽しみができた」
獣の悪魔は、笑いながら白い息を吐いた。
「……あ?」
吐き出す息が白くなるほどに、周囲の気温が下がっていることに、ようやく気がついた。
「おいおい、コイツぁ……」
「無駄口を叩くな。構えろ」
双角の悪魔は、燃え盛る屋敷を睨み、言う。
「くるぞ」
そして、次の瞬間に、炎は消えた。
より厳密に言うのであれば……屋敷全体が、一瞬で
「ハハッ……マジで凍ったぞ! オイ!」
「見ればわかる」
この周囲には、木々と畑しかない。しかし、それらの葉にすら、うっすらと霜が降りている。
あれほど賑やかに響いていた、ものが燃えて崩れ落ちていく音の一切が消失し、無音になった。
あれほど周囲を照らしていた、燃焼による炎の光源が消え失せて、闇の色が濃くなった。
雲の合間から漏れる月明かりが、凍りついた屋敷を照らし出す。
正面玄関が、砕け散って吹き飛んだ。
きらめく薄氷を踏み割って、それは姿を現す。
ゆったりと歩を進める、音が重い。
全身を覆う無骨な蒼銀の甲冑は、もはや華奢な女性のシルエットではなく。頭までフルフェイスの
全身甲冑。
フルプレートアーマーと呼ばれる類いの装備を、さらに機能的に突き詰めたような、特異な鎧装だった。
「けっ。これじゃあ、イイ女かわからねぇな」
獣の悪魔は、吐き捨てる。
少しの露出もなく、身体の全てが装甲に覆われている。男に比べればやや低い背丈と豊かな胸の膨らみだけが、辛うじてその性別を判別できる要素だった。
「しかも、二刀かよ」
騎士は、身の丈と並ぶほどの大剣を、二振り。それぞれの手に携えていた。
「こんばんは」
驚くほどかわいらしく、明るい声音が、
「さっきの火遊びをやったのは、きみたち?」
「肯定する。そちらは、騎士殿とお見受けする」
双角の悪魔は、丁寧な口調で応じた。
「うん。そうだよ」
「赤髪の少女と、勇者がそちらに滞在していたはずだ。居所をご存知なら、教えて頂きたい。こちらも、無用な殺生をしなくて済む」
「なるほど……取引というわけか。悪魔らしいね」
彼女が軽く頷くだけで、軽い金属音が鳴った。
頭の全てを覆い尽くす
「然り。返答を聞きたい」
「お断りするよ。逆に聞きたいんだけど、きみたちの方こそ、あたしに情報を提供する気はない?」
「代価は?」
「この場での、命の保証」
「断る」
「ひひっ……交渉決裂だなぁ」
獣の悪魔は、笑みを浮かべて舌なめずりをする。
双角の悪魔は、翼を大きく伸ばした。
「そうか──」
声音が変わる。
右手の大剣が、無造作に振るわれる。
何かが、閃いた。
たったそれだけの動作で、獣の悪魔の首が、跳ね飛ばされて地面に落ちる。
目を見開く双角の悪魔の、足元。
氷上に、血の花が咲いた。
「──警告はした」
今回の登場人物
・女騎士ちゃん
本名、アリア・リナージュ・アイアラス。金髪で料理上手な庶民派姫騎士。隣国のアイアラス家第三王女。魔王討伐後、王国では一部の魔族から取り戻した領地の統合整理が進められており、現在は王国辺境の土地と民を預かる、領主の座についている。これについては、王国から隣国への政治的配慮もあったとかなんとか。
明朗快活、英名果敢を地でいくアクティブプリンセス。現在の土地は自分自身が戦線に参加し、解放に携わった場所であるため、領民、臣下からの信頼も厚く、深く慕われている。誰にでも親しく話しかけるタイプだが、己の責務を果たす際のオンオフの切り替えは、非常にしっかりしている。勇者と同じく学校を中退しているので、頭の出来があんまりよろしくない。脳筋。騎士なので敵は正々堂々正面から倒す。
戦闘の際は、特殊な甲冑を身に纏って戦う。二刀流。
・賢者ちゃん
アリアが面倒見の良い性格なので、子どもの頃はよく懐いていたが、知恵をつけて賢くなってからは、舐め腐るようになった。しかし、なんだかんだ信頼しているので、勇者と赤髪ちゃんを送り出している。面倒な追手を押しつけただけともいう。
・双角の悪魔
入念に下準備を行った有能。
・獣の悪魔
出落ち。
・勇者くん
スヤァ……
・食ってすぐ寝たら豚になるぞ
記憶喪失。スヤァ……
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紅蓮の騎士
なんだ、このバケモノは?
それは、双角の悪魔が目の前の騎士に抱いた、純粋な恐怖だった。
悪魔の表皮は、生半可な刃なら通さない。突き立てた剣が鈍らなら、そのまま砕けてしまうことすらある。
そんな同族の首が、一撃で落とされた。
そもそもの話。今の斬撃は決して、剣の間合いではなかったはずだ。
何をされたのか、わからない。
故に、双角の悪魔が最初に選んだのは、攻撃ではなく回避行動だった。
「くそがっ!」
翼を広げ、上空への跳躍。
魔術士や魔導師との戦闘とは違い、騎士を相手に戦う際のセオリーは、距離を取ること。こちらに遠距離攻撃の手段があるのなら、剣の間合いの外から攻撃していれば、一方的に嬲り殺せる。
だが、この騎士は剣の間合いの外から、斬ってくる。だから、さらに距離を取らなければ……
「遅い」
無慈悲な宣告の通り、その思考がすでに遅い。
騎士の持つ大剣は二振り。二刀であるということは、そのまま手数の多さを意味する。
「なっ……」
結論から言えば、悪魔は跳躍することができなかった。
地面に突き立てられた、左の大剣。
そこから、地面を通じて網のように放射状に広がった氷が、その片脚を捉え、凍結させたからだ。
そして、二撃目。
「ッ……ァァアアアアア!」
再び閃いた右の斬撃が、双角の悪魔の片翼を両断した。
騎士の多くは、魔力の多くを身体強化のみに回して戦うが、中には魔術を併用して戦う器用な人間も存在する。
断たれた翼の根元から、血液が垂れ落ちる。しかし、双角の悪魔は、痛みを堪えて思考を止めない。
この女は氷雪系の魔術を使う。魔術の相性的には、こちらが有利。
足を凍らせて動きを止めたつもりかもしれないが……こんなものは、一瞬で溶かせる。
一歩ずつ、重厚な音を響かせながら、またゆったりと近付いてくる騎士を睨めつけ、悪魔は己の牙を砕かんほどに噛み締めた。
右の大剣が、構えられる。
女騎士が片手剣のように振るっている大剣は、俗に『ロングバスターソード』と呼ばれるもの。両手で構えて振るうことが前提の、大きすぎる得物だ。それを片手で軽々と振るう、身体強化の魔力出力には目を見張るものがあるが……得物が大き過ぎる以上、どうしても隙は生じる。
「バカが」
短く呟くと同時、異形の両手から、炎が噴出した。
双角の悪魔が操る魔術の特性は、炎熱。大規模な魔導陣を用意すれば、屋敷を一瞬で焼き尽くし、たとえ魔導陣を用意せずとも、手のひらから吹き出す炎は、直撃すれば人をいとも簡単に火達磨に変える。
足を固定していた氷が、一瞬で蕩け落ちる。
そのまま、炎の噴射を自身の推力に変換して、悪魔は今度こそ跳んだ。正面への、捨て身の突貫。逃げるためではない。目の前の相手を、確実に殺すために。
それは、大剣による斬撃の間合いの内側。必死の中に決死の覚悟で見出した、渾身の一手。
かつん、と。
鋭い爪が鎧に触れて、僅かに音が鳴る。
思考の駆け引きに打ち勝ったのは、悪魔だった。
「燃えろ」
頭兜の中で、息を呑む気配がして。
そして、蒼銀の鎧は爆炎に包まれた。
勇者と出会った日のことは、今でもよく覚えている。
パンツを見られた。
それが、アリア・リナージュ・アイアラスと勇者が出会ったきっかけだった。今でもよく覚えているが、たしかあの日は白だったと思う。
王国の首都にある、騎士学校の入学日。アリアは着慣れない制服に身を固め、入学式の会場に向かって一人で歩いていた。
「……はぁ」
これから始まる、三年間の学生生活。希望に満ち溢れた門出の日に、深い溜め息を吐く。
隣国の第三王女を、騎士学校に特待生として迎え入れる。自分の強さが認められた、と言えば聞こえは良いが、これは要するにアイアラス家が王国へと献上した人質である。アリアは同級生達と仲良くなりたかったが、向こうがアリアの身分とその強さに萎縮して、ろくな世間話すらできやしない。
人と関わるのが好きなアリアにとって、そんな環境は気分を憂鬱にさせるには充分過ぎた。
「やめたやめた。入学式さぼろっと」
どうせすでに一線を引かれているのだ。今さら不良のように見られたところで、関係ない。むしろ、体調不良による欠席だと後で言っておけば、いかにも『お姫様』らしくて、角も立たないだろう。
人気のいない、簡単には見つからないような場所を、まだ慣れない学校で探す。なんとなく高い場所から景色を眺めたくて、アリアは屋上を選んだ。
しかし、扉を開くと先客がいた。
「あ」
「お」
短い呟きが重なる。
アリアと同じように、制服の胸に造花をつけていたので、その少年も新入生であることは一目見てわかった。
「きみも入学式、サボり?」
「そちらも?」
「うん」
「度胸あるなぁ」
「堅苦しいの苦手で」
「わかるわかる」
中身のない会話だった。しかし、そういう気を遣わない会話がひさしぶりで、楽しかった。
「隣、いい?」
「どうぞどうぞ。べつにおれの場所じゃないし。お名前をお聞きしてもいいですか、お嬢さん?」
気安い少年の口調は、話していて好きなタイプだったが……名前を伝えたら、また引かれてしまうのかな、と。アリアは少し躊躇った。
「あたしは……」
その時、風が吹いた。
いい感じに、スカートが捲れた。
とても自然に、少年の目が下に吸い寄せられた。
それから、間があった。
一拍の沈黙を置いてから、アリアは聞いた。
「……見た?」
「……その、なんというか、はい。正直に言うんだけど……見ました。というか、見えました」
「……」
「ごめんなさい。ごちそうさまです」
あたしのパンツはごはんじゃない。
「……はぁ」
アリアはまた溜め息を吐いた。
ついてない日には、そういうこともあるだろう。
「まぁ、べつにいいけど。じゃあね」
気まずくなってしまった。
やっぱりこのスカート、式典などでの見栄えを意識しているとはいえ短すぎるな……などと思いながら、踵を返して歩き出す。
だが、慌てたのは少年の方だった。
「あ、ちょ……まってまって!?」
「なにか?」
「なにかって……いや、なにか見ちゃったのはおれの方だけど。その……なんというか、びっくりしちゃってさ。てっきり、悲鳴をあげるかビンタくらいはされるものかと覚悟してたから」
「いやだって……たかがパンツだし」
所詮は下着である。もちろん、裸を見られればアリアだって恥ずかしいが、布を一枚、ちらりと見られたところで、どうということはない。むしろ、同年代の少女達がパンツをみられた程度で、どうしてあんなに悲鳴をあげてきゃーきゃー騒ぐのか、アリアにはわからなかった。
「えぇ……見ちゃったおれが言うのも変な話だけど、自分のパンツはもっと大事にした方がいいって。きみのパンツには、きみが思っている以上の価値があると思うぞ? お姫様なんだし」
「……ふふっ。なにそれ……え?」
パンツを大切にするってなんだよ、と。
アリアはあきれて笑ったが、その後の一言の方が引っかかった。
「あれ? あたしのこと知ってるの?」
「うん。特待生のアイアラスさんでしょ。隣の国のお姫様って聞いてたけど、違った?」
「いや、あってるけど……」
知っていて、自分と話をしていたのか。
ぷくり。アリアの心の中に、少年への興味の芽が出た。
「ねえ、きみ。どうせ暇でしょ?」
「それはもう、見ての通り」
「じゃあ、あたしと模擬戦しない? パンツのお詫びってことで。色々鬱憤が溜まってて、体動かしたいんだ」
「……お、いいね」
予想以上に、少年は乗り気だった。
「お姫様、強いんでしょ?」
「そりゃもう、あたしは強いよ」
「やったぜ」
にっと少年が笑う。それは、話し始めてから、最も嬉しそうな笑顔だった。
「おれ、魔王を倒して世界を救いたいから、なるべく強いやつと戦いたいんだ」
結果。
ヒートアップした激闘の余波で屋上が吹っ飛び、それはもう大変なことになった。
学校中に響き渡る警報。警備の騎士達の怒声。それらを、どこか他人事のように遠くに聞き流しながら、
「やり過ぎたね……」
「やり過ぎたな……」
アリアと少年は二人揃って、なんとか崩れずに残っている屋上の隅に、大の字に寝転がり、空を見上げていた。
少年が勝った。アリアは負けた。
アリア・リナージュ・アイアラスにとって、人生はじめての敗北だった。
「あたし、結構強いつもりだったんだけどなあ」
「強かったよ。すごく強かった」
上半身を起こした少年は、ボロボロになった制服の上着を脱いで、アリアの体にかけた。同じようにボロボロになっている、アリアの制服への配慮だった。
「さっきも言ったけど、あたし、べつに見られても気にしないよ」
「おれが気にする」
「……そっか。ありがと」
少年の上着を前に抱いて、体を起こす。
「きみは、どうしてそんなに強いの?」
「まだまだ弱いよ。おれはこれから、魔王を倒して世界を救わなきゃならない。お姫様一人を相手に、こんなにボロボロにされてたんじゃ、先が思い遣られる」
「え〜、なにそれ? 負けたあたしに対する嫌味?」
冗談めかしてそう言ってから、アリアはふっと体の力を抜いて、また地面に寝転んだ。
「きみはかっこいいなぁ。強さの芯に、おっきな目標があって」
「ん?」
「あたしには、そういうものがないから。責任がある王家に生まれて、生まれた時から体に『魔法』があって。才能があるって言われたから、言われて流されるままに訓練して」
でも、そんな強さはどこまでもいっても空っぽだ。
少年のように、確固たる信念と意志を宿した強さには、どれだけ手を伸ばしても届かない。
「だから……羨ましいな」
「じゃあ、おれと一緒に行こうよ」
「え?」
ぐっと膝に力を入れて、彼は立ち上がる。
「さっきも言った通り、おれはこれから世界を救いに行く。でもほら……さすがに、一人だと死にそうだから、おれのことを守ってほしいんだ」
大きく背伸びをして、腰に手を当てて、空を見上げて。
そんな何気ない背中が、なぜかアリアにはとても大きく見えた。
「お姫様で騎士なんだろ? それなら、ますますちょうどいい」
守れるし、守ってもらえる、と。振り返って、彼は笑った。
「きみのことは、おれが絶対に守る。だから、時々でいい。おれの背中を守ってほしい」
言ってから恥ずかしくなったのか、彼は少し目を逸した。
「……だめ、かな?」
冷えていた心に、熱が宿る予感がした。
「だめじゃないよ」
起き上がって、彼の横に並ぶ。
「わかった。あたしが、あなたの騎士になってあげる」
それから、ゆっくりと跪き、戦いでやはりボロボロになった剣を掲げた。
「それでは、主よ。名前を教えていただけますか?」
「……やべえ。おれ、まだ名乗ってなかったっけ?」
「うん。聞いてない」
「ごめんごめん。おれの名前は」
かくして、アリア・リナージュ・アイアラスは誓いを立てた。
その誇り高き剣を、勇者に捧げることを。
燃える。
鎧に触れた、双角の悪魔の右腕が、爪の先から肩に至るまで、燃え上がる。
「グッ……グォオオオオアアアア!」
絶叫し、痛みを堪えきれず、悪魔は膝をついた。
「熱そう、だね」
消える。
鉄すら溶かし尽くす、悪魔の渾身の火炎が、蒼銀の鎧から一瞬で消え失せる。
なんだこれは。
なんだこれは?
なんだこれは!
これは、自分が撃ち出した炎ではない。目の前の騎士から放たれた炎だ。
声にならない叫びが、心をかき乱す。
完璧だった。読みを通した。勝てるはずだった。
それなのに、なぜ?
「なぜだっ! なぜだっ! なぜだっ! オマエの魔術は、氷雪系のはず……!」
「え、違うけど?」
声の調子が戻っていた。
かわいらしく首を傾げるその仕草に、恐怖を覚える。
「だってあたし、騎士だからろくな魔術も使えないし」
一瞬、燃える痛みすらも忘れて。双角の悪魔の全身から、血の気が引いた。
「そ、そんな……そんなバカな話があるかっ! ならば、あの氷はなんだ!? この炎はなんだ!」
叫びながら、悪魔は胴体に炎が移る前に自身の腕を引き千切った。怒りと痛みで、全身が痙攣するように震える。
「あたしの魔法は、
飛び散る血の赤を踏み締めて、騎士は宣言した。
「この剣、一応『聖剣』でね。右の大剣は、魔力を喰って火を放出し、操る。逆に左の大剣は、魔力を喰って水を放出し、操る。あたしはそれを変化させて、魔術の真似事をしているだけなんだよ」
最初の攻撃は、一瞬だけ薄く伸ばした火炎の斬撃だった。次の攻撃は、地面に流し込んだ水流の凍結だった。
火を炎に。
水を氷に。
たったそれだけの種明かしに、悪魔は慟哭する。
「変化させる……? 聖剣は、莫大な魔力が注ぎ込まれた遺物だぞ! その魔力性質を、触れただけで変えられるはずが……ッ」
「変えられるよ。だって、それが『魔法』だから」
悪魔は、絶句する。
その騎士は、触れた全てに熱を与える。
その騎士は、触れた全ての熱を奪う。
心に誓いを宿した騎士は、何ものにも屈しず、倒れず、迷わず、ただ前へと進み続ける。
それは、燃え上がる情熱と、凍える冷徹さが一つとなって完成した、絶対零度の紅蓮。
『
この世界を救った、最高の騎士にして、魔法使いである。
自分自身と、触れている物体の温度を自在に変化させる、ということは。
彼女には、悪魔の炎は絶対に通用しない。
万事休す。
遂に、双角の悪魔は、人間に頭を垂れることを選んだ。
「騎士よ……どうか、どうか慈悲を」
「ん? 何か話す気になった?」
「それ、は……」
「無理だよね。だってきみたち、どうせ何も知らないだろうし」
表情は見えない。ただ、
ようやく、双角の悪魔は理解する。
怒りだ。
この騎士は、最初から怒っている。鎧の内側で、最初から、滾るような怒りを燃え上がらせている。
彼女にとって、それほど大切な存在に手を出そうとしたことが、そもそも間違いだったのか。
二刀が交差し、首筋に当てられる。
「もういいよ」
どこまでも冷たく、
「勇者を殺す、と。そう言ったな?」
どこまでも熱く、
「もっともっと、命乞いをしなよ。悪魔くん」
騎士は、剣を振り下ろす。
「あたしが守るべき誇りに、唾を吐きかけた罪。その命だけで償いきれるものではないと知れ」
世界を救う直前。魔王が放った最後の攻撃は、勇者ではなくアリアに向けられたものだった。
仲間を狙えば、彼は必ず庇って守る。幾度も交えた激戦の中で、最後の最後に魔王は、勇者の性質を看破し、悪辣にその優しさを突いた。
動けなかった。
限界だった。
そんな言葉は、言い訳だ。
勇者は、決して消えない呪いを浴びた。
──どうして、あたしを庇ったの?
──おれが、絶対に守るって。約束しただろ。
ああ、そうだ。約束をした。誓いを立てた。
その背中を見上げるのではなく、隣に立って一番近くで彼を守り抜くと。そう誓ったはずだったのに。
守れなかった。
彼の名前と、彼が好きだった人達の名前の全てを、奪われた。
あたしのせいだ。
アリア、と。
彼に名前を呼んでもらうのが、大好きだった。
愛には触れられない。愛の温度は測れない。
それでも、もし。人を想い、世界を想う気持ちに熱量があるのなら、彼ほどの熱を持っている人間を、アリアは知らない。
だから、愛そう。彼が自分を大切にしてくれた想いに、精一杯の献身で応えよう。
最後の最後に、騎士としての自分は彼を守ることができなかった。その後悔は、片時も衰えることなく、胸の中で燃え続けている。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に好意を寄せる者が多いのはわかっている。
それでも、アリア・リナージュ・アイアラスは断言する。
──あたしの愛が、最も熱い。
今回の登場人物
・女騎士ちゃん
本名、アリア・リナージュ・アイアラス。金髪巨乳庶民派姫騎士。今回、上級悪魔の周到な下準備によって領地を襲撃されたが、本人が最強なので返り討ちにしてぶっ殺した。
隣国の第三王女でありながら、剣と魔法の才覚に恵まれ、交換留学という名目で16歳の時に王国の騎士学校に特別推薦枠で入学。同年に入学した勇者と知り合った。その後は様々な事情が重なり、勇者と共に騎士学校を退学、家から出奔。冒険を繰り返し、魔王討伐という実績を得て生家に帰還した。
本人は高貴な身分にありながら、心身に刻まれた魔法と強くなりたいという目標に、病的に囚われてしまった戦乙女。出会った時に交わした勇者との約束と、魔王討伐の際に彼を守りきれなかった後悔から、彼女の行動原理は『勇者を守る』という呪いめいた感情に縛られている。単純な魔法の性質でいえば勇者パーティー中で間違いなく最弱だが、収集した聖剣や鎧、積み上げてきた鍛錬と戦闘経験で、それらの差を補っている。
・双角の悪魔
かなりがんばったが、相手が悪かった。
・勇者くん
屋上の件はひたすら謝って許してもらったが、その後に別件で退学になってしまった。現在の騎士学校には、入学初日に屋上で決闘すると強くなれるというジンクスがあるとかなんとか。屋上は立入禁止になった。
今回の登場魔法
固有魔法『
アリア・リナージュ・アイアラスの有する固有魔法。
その効果は、自身の身体と、その身体に接触した全ての温度を自由に『変化』させるというもの。温度変化の上下幅は、悪魔との戦闘で用いた白色炎の6500度から、絶対零度のマイナス273度まで、自由自在。燃やされるか、凍らされるか。いずれにせよ、アリアに触れたものは熱と冷気への対応策がない限り、触れた瞬間に敗北が確定する。
相手の接触を阻む、という点だけでも強力な魔法だが、その真価は効果範囲の広さと応用性の高さにある。アリアは勇者と冒険の旅をする中で、火と水……二振りの聖剣を入手した。聖剣には常に『触れた』状態であるため、所有者の魔力を元に放出されるそれらの温度を能力で自由に変化させることで、攻撃範囲やバリエーションを大幅に引き上げている。
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勇者と赤髪ちゃん
知らない青空だった。
「……あ? どこだここ?」
勇者、起床。
おれは、がばりと起き上がって周囲を見回した。ヤバいヤバいヤバい……赤髪ちゃんはどこだ?と思ったら、おれのすぐ近くで丸まってスヤァ……と寝ていた。ヨダレ垂れてる。かわいい子はヨダレ垂らしてる姿もかわいくて、お得だね。そうじゃねぇよ。
「まてまて……たしか……」
まだ動きが鈍い脳みその中から、必死に記憶を手繰り寄せる。まず、赤髪ちゃんがお腹いっぱいになって先に寝て、それから、おれは騎士ちゃんと一緒に酒を飲んで……言葉選びを間違えて、
「あ〜」
思い出してると、自己嫌悪で爆発しそうになってきたので、頭を振る。今は、後悔していても仕方がない。騎士ちゃんには、次に会った時に謝ればいい。というか、絶対謝る。
頬を叩いて、気持ちを切り替える。重要なのは、なぜ騎士ちゃんがおれたちに薬を盛って、眠らせたか、だ。
ちなみに騎士ちゃんに薬を盛られて眠らされるのは、これで四回目くらいである……いや五回目だったかもしれない。ひさしぶりだったからマジで油断した、うん。
「転送魔術、だよな……多分」
周囲は見渡す限りの荒野で、木々が時々点在しているくらいで、集落も人影も見当たらない。そもそも、道がない。照りつける太陽の陽射しは、王都よりもかなり強く感じた。
ざっくりと、予想を立てる。
多分、頭の良い賢者ちゃんは、赤髪ちゃんを追う敵の襲撃を予測していた。予測した上で、おれと赤髪ちゃんを騎士ちゃんの元に送った。地方領主であり、各地に顔も効く地位にある騎士ちゃんに、赤髪ちゃんの名前を調べてもらう……っていうのがメインの目的だったけど、多分賢者ちゃんは、その先まで読んでいた。
あんな盗賊なんかよりも、もっと危険な敵の追撃。それを振り切るために。
「緊急転送用の魔導陣で、おれたちを逃した、と」
うわぁ、なんか世話をかけっぱなしでほんとに申し訳なくなってくるな……多分、追手の撃退もしてくれているんだろうし、あとで二人にはたくさんお礼を言わないと。
全然知らない場所に転送させられた、っていうのが中々にめんどくさいが、致し方ない。手のひらを軽く広げて、確認する。
おれが頭を撫でた時に
「さて、と。おーい、赤髪ちゃん。起きろ〜」
「ぐへへ……もう食べられません」
コイツほんとに肝が太いな。
「暑いですね……」
「暑いね」
起きたら知らない場所でびっくり!な赤髪ちゃんにサクッと事情を説明して、とりあえず歩き出したのはよかったものの、歩けど歩けど、似たような景色が広がるばかりで、おれと赤髪ちゃんはすでにうんざりしていた。
「なんかここまで、賢者さんのところに行ったり、姫騎士さんのところに行ったり、いろいろな場所に行って旅してきた気がするんですけど……」
「うん」
「ほとんど転送魔術で、ぽいって感じに移動してたので、こんな風に歩いてると『旅してる』って実感が沸きますね」
「楽しい?」
「お腹空きました」
はえーよ。
「ふーっ」
赤髪ちゃんは息を吐きながら、手で扇を作ってパタパタと仰ぐ。女の子はこういう時、ロングヘアだと熱くて大変そうだなって思う。
「木陰を見つけたら休もうか」
「はい。ありがとうございます」
思っていたより、赤髪ちゃんが疲れるのが早い。というかそもそも、赤髪ちゃんの今の格好が、あまり歩くのに向いていない。
王都で賢者ちゃんが「はあ、記憶喪失という事情があるとはいえ、助けた女の子にこんな色気のない服を着せるなんてほんと信じられませんね。そういえば私が子どもの頃も勇者さんが用立ててくれた服はほんとにセンスなかったですもんね。私に選んでくれた服は本当にダメダメでしたから、あなたも勇者さんに服を選ばせちゃダメですよ。あんな思いをするのは私だけで充分です、ええ」などとおれのセンスのなさを連呼してバカにして、従者に選ばせてきた服は、たしかにかわいらしいものだった。
シンプルな白のフリルブラウスに、黒のロングスカート。首元には髪よりも淡い色合いのリボン。赤髪ちゃんの服の好みがわからなかったのか、素材の良さを活かす方向で上品にまとめたようだった。騎士ちゃんが「かわいい! かわいい!」と騒ぎ立てていた気持ちも、まあわかる。
ただ、この服装は人を訪ねたり街中をぶらつく分にはいいかもしれないが、こんな荒野のど真ん中を歩くには、絶対に向いていない。
それに加えて、あれだ。
ほら、白のブラウスにこの気温で、汗もかいてて日差しも強いからね。透けそうなんですよね。何がとは言わないけど。
ふと、赤髪ちゃんがぽつりと呟く。
「わたし、こんなにきれいで良いお洋服を着るの、はじめてだったので……汚しちゃうのがもったいないです。用意してくださった賢者さんにも申し訳無いですね」
しゅん、と。本当に残念そうに言うその横顔は、なんだか本当に、女の子そのものといった感じで。
「……ふーっ」
おれは自分の中で悶々としていた煩悩を殴り飛ばした。消えろ、カスが。
「あ、勇者さん、見てください。あっちに少し、木があります」
「よし休もう。すぐに休もう。汗も拭こう」
木陰に入って、リュックと剣を下ろす。おれの手荷物を転送する時に側に置いてくれたのは、騎士ちゃんらしい配慮だった。できれば赤髪ちゃんの荷物もお願いしたかったけど、仮にあっても邪魔になるだけだっただろう。
いやでも、せめて着替えと靴はほしかったかな?
「勇者さん勇者さん! 見てください!」
「ん?」
手のひらに何かを乗せた赤髪ちゃんが、抱えていたそれを広げて見せる。
チュンチュン、と。
かわいらしい小鳥が囀った。
「いや、赤髪ちゃん……さすがにこのサイズの小鳥は、捕まえても焼き鳥にすらならないと思うけど」
「食べませんよっ!?」
え、ちがうの?
「この子、ケガをしているみたいで……全然飛ぼうとせずに、そこの木の下にいたんです」
「あー、なるほど」
とても心配そうに、赤髪ちゃんが言う。この子、やっぱりやさしいんだよな。
「ちょっとみてみようか。簡単な治癒魔術くらいなら、おれでもなんとかなるかもしれないし」
しゃがみこみ、小鳥ちゃんの状態を見てみる。が、軽い気持ちで触ってみて、おれは少し後悔した。
「……赤髪ちゃん。この子は」
その瞬間だった。地面が、大きく揺れた。
「ん?」
「地震でしょうか?」
小鳥ちゃんを大事そうに抱えて、赤髪ちゃんが周囲を見回す。
しかし、地震にしては縦揺れがでかい。というか、揺れ方がおかしい。まるで、足元の地面が生き物のように動いているような……
「いや、動いてるわこれ」
「え?」
片手に赤髪ちゃん、片手に剣を手に取って、魔力を足に集中。力を込めて、跳躍。
そして、眼下の地面が起き上がった。
「ゴーレム!?」
赤髪ちゃんが叫ぶ。
ゴーレム。岩と大地に生命を宿す、モンスターの一種だ。その姿は、石で形作られた人形に近い。
それにしても、バカでかいゴーレムである。
目算でざっと、20メートルくらいはあるだろうか。足元で見上げていると、首が痛くなってくる。
「あ、あわわわわ……ゆ、勇者さんこれ」
「おお、でっかいなあ」
「言ってる場合ですか!?」
小鳥を抱えた赤髪ちゃんを抱えて、再び地面から跳ぶ。
おれたちが立っていた場所に岩石の拳が突き刺さり、大地を文字通り叩き割った。
「あ、あぶなっ」
「ん……? 赤髪ちゃん、もしかして太った?」
「だから言ってる場合ですか!?」
「小鳥ちゃん、しっかり抱えてろよ」
「え」
怒られそうだったので、太ったという軽口がジョークであることを証明するために、赤髪ちゃんの身体を空中へと放り投げる。
剣を引き抜き、ゴーレムの拳を切り裂こうとして……おれは思わず、真顔になった。
「うお、かた……」
最後まで言い切れずに、真横にぶっ飛ばされる。
「勇者さ……!?」
「……やっべ」
しくじった。
油断である。ゴーレムの力を見誤って、真横にぶっ飛ばされたのは、まあいいとして、赤髪ちゃんを危険に晒してしまったのは、完全におれの油断だった。
目測で、約50メートル。全力でダッシュしてキャッチできるかどうか……
「……いい。私がひろう」
囁きが、俺の真横を駆け抜けた。
「え?」
それは、どこからともなく現れた、幼女だった。
おれの腰ほどしかない小さな体に、空色のショートヘア。シンプルな道着。賢者ちゃん以上につるぺたの胸。
そのあまりにも小さな手足が、豊満な赤髪ちゃんの身体を空中でキャッチし、見事に衝撃を殺して地面に着地した。
「大丈夫?」
ぴくりとも表情を変えないまま、幼女が聞く。
「あ、えっと。はい。ありがとうございます。ていうか、その……どちら様ですか?」
赤髪ちゃんのその質問には答えずに、吸い込まれそうな黒の瞳がこちらを見た。片手を挙げて、幼女はやはり無表情のままに、言った。
「よっ」
いやぁ……なんというか、うん。
いろいろと、思うところはあったが。
とりあえず、この人は相変わらずだなあ、と。そう思った。
「……おひさしぶりです、
「し、師匠!?」
赤髪ちゃんが目を見開いてその幼女……もとい、師匠を見る。
「え、このちっちゃい方……勇者さんの、し、師匠!?」
「うん。まあ、おれが師匠って勝手に呼んでるだけだけど。あと、元パーティーメンバー」
「えええええええ!? パーティーメンバー、四人じゃなかったんですか!?」
「あれ? おれ、パーティーメンバーは四人って言ったっけ?」
「いや聞いてないですけど!?」
「勇者、ひさしぶり。元気?」
「はい。おかげさまで」
「わたしをだっこしたまま普通に会話しないでください!」
「む、ごめん」
自分よりかなり大きい赤髪ちゃんを腕から下ろして、師匠は赤髪ちゃんの顔をじっと見詰めた。
「あなた、かわいい」
「えっ、あ、はい。重ねてありがとうございます!」
「おっぱいも大きい」
「え」
「私、小さいから羨ましい。いくつある?」
「勇者さん!」
「こういう人だから諦めてほしい」
もう少し会話を楽しんでいたかったが、そんな暇もないらしい。
「師匠」
「ん」
ゴーレムが、再び襲ってくる。師匠は何も持たないまま、ゆらりと歩を進めた。
モンスターが蔓延り、争いも絶えないこの時代。
魔術の存在。加えて、ある程度のコネと金を積めば手に入るマジックアイテムや武器の存在もあってか、素手での戦闘は、軽視されがちなのが現実だ。
当然である。剣は拳よりもリーチが長く、魔術は剣よりもリーチが長い。高位の魔術士と相対する騎士は、まず距離を詰めるところから戦いを始めなければならない。おれだって、戦うための武器として、最初に自然に剣を取った。女騎士ちゃんだって、いつも元気に両手の聖剣をぶんぶん振り回している。
そう。だからこそ。
おれは彼女の戦い方に、最上の尊敬と畏怖を抱く。
「下がって」
短く、一言。ただ指示だけを呟いて、師匠はおれたちを守るように、さらに一歩。前に出る。
右手を、前に。左手を、後ろに。たったそれだけの構えだけで、彼女の纏う空気が変化する。
しかし、あまりにも巨大なゴーレムは、足元のありんこが迎撃準備を整えたことに、少しも気が付かなかった。
「勇者さ……っ」
赤髪ちゃんの悲鳴が響く前に、拳が迫る。風圧で、声がかき消える。
彼女の小さな手のひらが、バカでかい拳に触れて。
「え?」
赤髪ちゃんの間抜けな声と共に、岩石の塊が一瞬、停止した。刹那、軌道を逸らされた拳は何もない空気だけを殴り抜き、そしてバランスを崩したゴーレムは、足元からひっくり返る。
重力、運動エネルギー、常識。それら全てを無視した結果が、当然のものであるように、師匠はおれに聞く。
「これ、コアはどこ?」
「多分、頭ですね」
「わかった」
それだけ聞きたかった、と言わんばかりに、小さな体が弾丸のように跳ねる。
「ゆ、勇者さん! あの人!」
「大丈夫だよ。よく見てな」
非常に、月並みな感想になってしまうが。
それでもおれは、隣で大口を開けて見守る赤髪ちゃんに、言わずにはいられなかった。
「やっぱり……ありが象を倒す瞬間は、ワクワクするよな」
踏ん張りが効かないはずの空中で。彼女はまた、構えを取る。一拍。それを打ち放つための呼吸と間合い、己の全てを調和させて。
拳が、巨人の頭を突いた。
小さな点の衝撃は、ゴーレムの頭部の中心から静かに広がり、震えて、波打つ。
かくして、岩石で作られた巨人は、たった一撃で上半身の軸から、粉々に砕け散る。
最強は、この世に一つだけではない。人間の数だけ、最強には種類がある。
しかし、この限りなく広い世界の中で。
拳を用いた格闘に限って言えば、天下無双という言葉は……きっと、彼女のためにある。
「む。意外と脆かった」
着地した師匠が呟いた。
違いますね。あなたが明らかにやり過ぎなだけですね。
「あ、あわわわわ」
開いた口が塞がらず、もうあごが外れそうになっている赤髪ちゃんのお口を、そっと下から支えてあげる。
「ゆ、勇者さん……わたしもう、何が何だか……」
「ああ、ごめんごめん。説明し忘れてた。師匠は武闘家なんだ」
「説明になってないです!」
「あとめちゃくちゃ強い」
「もう勇者さんの知り合い、みんな大体強いじゃないですか!? さすがに、こんな小さな子があんな大きいゴーレムを倒すとは思いませんでしたけど……」
赤髪ちゃんの感想に、師匠が不満そうに喉を鳴らした。
「一つ、訂正。わたし、あなたより多分年上」
「えっ、おいくつなんですか?」
「1023歳」
「……はあ?」
もう驚くことはない、といった様子で、赤髪ちゃんの間抜けな声が漏れた。
「ちっ……最悪ですね。かっこよく助けに入る私の出番が完璧に奪われました」
「なに言ってんの。ここからじゃ助けられないでしょ」
賢者、シャナ・グランプレは物見の水晶でその光景を見ながら、盛大な舌打ちを漏らしていた。もはや、発言が賢くない。そこらへんのチンピラと同レベルである。
「武闘家さん、生きてたんだ。あまりにも連絡つかないから、どこかで野垂れ死んでいるものかと」
隣でくつろいでいるアリア・リナージュ・アイアラスが言う。もはや、発言がまったく姫らしくない。
この騎士、さらっとひでぇこと言うな、とシャナは思ったが、口喧嘩と近接戦闘では勝てる要素が微塵もないので口には出さなかった。
「あの人が死ぬわけないじゃないですか。殺しても絶対に死にませんよ」
「いや、それはそうなんだけどね? いつも増やしたそばから死んでた賢者ちゃんと違って、武闘家さんは無敵だし」
「なんですかケンカ売ってるんですか。やるなら買うぞコラ」
「あ、なんか移動するみたいだよ。ほらほら、居場所がわかったんだし、あたしたちも早く向かおう。その遠隔監視の追跡魔術、長くは保たないんでしょ?」
「ちっ……」
「もう、そんなにイライラしないで。ほら、飴食べる? 能力で増やしていいよ」
「いらねーんですよ!」
この女騎士、お姫様のくせにいちいち態度がふてぶてしいので、どうにも調子が狂う。
「それにしても、武闘家さんまで戻ってくるなんて、なんだか本当に昔に戻ったみたいだね」
「それがいいことなのかは、甚だ疑問ですけどね」
「でも、心強いよ」
アリアは、懐かしいものを見るように、目を細めた。
「搦手ありで勝ち負けを競うならともかく……純粋な一騎打ちなら、あの人がウチのパーティーで最強だからね」
今回の登場人物
・武闘家さん
近接格闘特化型無表情幼女師匠。ペチャパイだが、賢者ちゃんのようにそれを気にしてはいない。20メートル級のゴーレムと正面から打ち合っても砕けない拳を持つ。身体強化系の魔力運用に特化しており、魔術は一切使えない。真正面からのガチンコ一筋だが、ガチンコに頭と技術を使う、騎士ちゃんとは似て非なるタイプの脳筋。
勇者パーティーの一員なので、当然魔法は所有しており、その影響で体の成長が止まっている。正しく、1023歳のスーパー幼女。死霊術師さんは武闘家さんのことをめちゃくちゃ嫌っている。
・賢者ちゃん
自分より胸が小さい武闘家さんをこっそり見下しているが、そういう浅い精神構造を武闘家さんにかわいいと思われている。
・女騎士ちゃん
どうやって武闘家さんに勝つか、いつも考えている。
・あごがはずれそうな赤髪
いつからパーティーメンバーが4人だと錯覚していた?
・勇者くん
冒険2年目のこと。みんなと離れて身包みを剥がされ、地下闘技場的な場所に放り込まれた際に、デスマッチを通じて武闘家さんと知り合った。さらにいろいろあって武闘家さんに弟子入りすることになり、勝手に師匠と呼ぶことに。剣に頼らない近接格闘技術を、この頃に少しだけ身につけている。
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勇者と武闘家さん
「それで、師匠はどうしてここに?」
「このあたり、なにもない」
「はい」
「修行にぴったり」
「なるほど」
「それでいいんですかっ!?」
「だからこういう人なんだよ」
こういう人だが、しかしなんだかんだ生きるのはうまいので、師匠は荒野のど真ん中に湧き水が出る場所を見つけ、拠点としていた。簡素だがテントのようなものも建てていて、三人くらいなら寛げるスペースがあった。陽射しから逃れて、水を飲んで寛げるっていうだけでも、かなりありがたい。やっぱり屋根って人間の偉大な発明だわ。
「でも、これでゆっくり休めるね」
と、赤髪ちゃんは小鳥ちゃんに語りかけている。まるで返事をするように、小鳥ちゃんは小さく鳴いた。ただし、その声は先ほどよりもか細い。
「さっきは助けていただき、ありがとうございました」
「気にしなくて、いい。弟子を助けるのが、師匠の役目」
「恐縮です」
師匠はやはり無表情のまま、バリバリと備蓄の品らしい乾パンを貪り食っている。ついでに、干された肉やら塩の壺やら、どこから調達してきたのかわからない野菜やらもあるので、本当にこの辺りで修行していたのだろう。マジで自由過ぎるな、この人。
「あの、お師匠さん」
「なに?」
「いえ、なんというか……勢いよくたくさん食べられるんですね。お体はそんなに小さいのに」
お前だけはそれを言うな、とおれは思った。
「よく食べるの、大事。あなたの方こそ、もっと食べた方がいい。さっきから、全然進んでいない」
言われてみると、たしかに。あれほど食い意地の張っている赤髪ちゃんに取り分けたパンや肉が、なぜか全然減っていない。ゴーレムに襲われる前は、お腹が空いたと早くも愚痴っていたので、腹が減っていないわけがないだろうに。
「お、お師匠さんは、どうしてそんなに長生きなんですか? 何かこう、秘訣みたいなものがあるんですか?」
話を逸したいのか、赤髪ちゃんが支離滅裂な質問を師匠に投げる。1023歳に、長生きの秘訣もクソもあるわけがない。おかしいに決まってんだろ。明らかに生命の摂理に反してるって。
「よく食べて、よく動いて、よく寝る。人の健康は、それだけで保たれる」
「な、なるほど」
「師匠、適当に答えないでください」
「む。わたし、いたって真面目。これは、真理」
いや、それはそうなんですけど。
「あ、あの勇者さん」
「はいはい。どうした?」
「この子のこと、また診ていただけませんか? さっきからパン屑をちぎってあげているんですけど、あんまり食べてくれなくて」
上目遣いでおれを見て、赤髪ちゃんは小鳥ちゃんを差し出した。
ああ……わかっている。赤髪ちゃんの元気がないのは、さっきから手のひらにのせた小鳥ちゃんに、ずっとかまっているからだ。なんとかしてあげたいところだけど、しかしおれには他にやることがある。
ちらりと、師匠を見た。ぐびぐびと、ひょうたんに口をつけて水を飲んでいた師匠は、おれの目配せに気がついて、軽くウィンクした。
よし。師匠なら、赤髪ちゃんと小鳥ちゃんを任せても大丈夫だろう。
「ごめん。赤髪ちゃん、おれ、さっきゴーレムを倒した場所に、忘れ物してきたみたいで」
「忘れ物?」
「うん。ちょっと取ってこなきゃいけないから、小鳥ちゃんは師匠にみてもらってくれるかな?」
「わ、わかりました。じゃあ、わたしも一緒に」
「いや、おれ一人だけでいいよ。ほんとごめんね」
きれいな赤色の髪を、ぽんぽんと軽く叩いて、おれはテントの外に出た。
肩を引き下げ、膝をほぐして、背を大きく伸ばして深呼吸をする。
「うし。いくか」
さあ、
予感があった。
あのゴーレムは、おそらく野生のものではない。
勇者が出て行ったあとの、少女の横顔を眺めていた。ここまで、ずっと彼を頼りにしてきたのだろう。勇者が出て行ってからしばらくは落ち着かない様子だったが、しばらく経って、少女はようやくこちらに視線を向けた。
「えっと、お師匠さん」
「ムム」
「はい?」
「ムム・ルセッタ。わたしの、名前。勇者はああいう呪いを受けているから、みんな気を遣って名前を使わない。でも、わたしと二人でいる時は、名前を呼んでいい」
「あ、ありがとうございます。ムムさん」
ムム・ルセッタは、勇者パーティーに所属していた武闘家である。そして、勇者の師匠でもある。
片手にパンを、片手に肉を持ちながら、ムムは少女に聞いた。
「あなたの名前は?」
「あ、はい。わたしの名前は……」
その名を聞いて、ムムは頷いた。
「そう。いい名前」
「えへへ、ありがとうございます」
「自分の名前、好き?」
「は、はい。わたし、自分のこと、これしか覚えてないので」
「そう。わたしも、好き」
「はい! ムムさんの名前も、とってもすてきだと思います」
「ありがとう。うれしい」
固いパンを咀嚼して飲み込んでから、ムムはさらに聞いた。
「勇者に、名前。呼んでほしい?」
少女の目が、ほんのわずかに見開かれた。
視線が下を向き、左右に揺れ動いて、それから前に戻る。
「そう、ですね。勇者さんは、とてもやさしい人なので、名前を呼んでもらえたら……きっとわたしは、うれしいなって思います」
「ふむ」
「でも」
「でも?」
「出会ったばかりのわたしなんかより、賢者さんや姫騎士さんや、お師匠さんの方が……ずっとずっと勇者さんに名前を呼んでほしいんだろうなって。そう思います」
「うん」
ムムは、食事を開始してからはじめて、パンと肉を机の上に置いた。布巾で指を拭いて、清潔にしてから、手を伸ばす。
「あなた、やっぱりとてもいい子」
なでなで。
ムムは目を丸くする少女の頭を、やさしく触り続けた。
「えっと……」
「ん?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ぴぃ、と。されるがままになっていた少女の手のひらの中で、小鳥が鳴く。
「あ! ムムさん!」
「なに?」
「この子のこと、診てあげてください!」
「診るって、なんで?」
「え、だって勇者さんが……」
「わたし、治癒魔術、使えない」
少女のやわらかな表情が、険しいものに変化した。
当然だと、ムムは思う。
「そんな……じゃあ」
「そもそも、この子、もう長くない。翼が、折れてる。絶対に、助からない」
「それ、は」
なんとなく、この子もそれをわかっていたのだろう。驚きよりも、失望の色を表情に出して、赤髪の少女は手のひらの小鳥をじっと見詰めた。
優しい子だと思う。勇者があれほど入れ込む理由も、うっすらとだが、理解できる。
「そもそも、死ぬって、そんなに悪いこと?」
だからこそ、ムムは少女に向けて問いかけた。
「はい?」
「わたしは、ずっと生きてる。でも、自分が死ぬ時が来たなら、死んでもいいと思う」
「ムムさん……?」
か弱く、ちいさなちいさな小鳥に向かって。
無表情のまま武闘家は、その拳を向けた。
思い出話を、一つしよう。
自分が年を取らないことに気がついたのは、10歳の頃。ただし、10歳の時に自分が10歳だったのか、少女は覚えていない。その頃にはすでに、少女の時間の感覚は狂い始めていた。
親は知らない。山の中で、気がつけば暮らしていた。その頃は、自身の魔法のコントロールもうまくいかず、死にかけることもあった。
水を啜り、肉を食み、今日を生きて、明日を考えずに眠る。ずっと、その繰り返しだった。
そんなある日、男に出会った。巨大な岩のような、あるいは熊のような、ひげ面の大男だった。
「なんだ、お前。一人か?」
「……?」
「なぜ、答えぬ?」
「…………」
「お前、言葉がわからんのか!?」
男は修行をするために山奥に来たようだったが、何故か少女にかまった。
男は強さを求める武道家だったが、何故か学もあった。
「強くなることと、学ぶことは表裏一体! よく学び、よく強くなれ! 少女よ!」
ある日はペンを。ある日は拳を。
ただ生きるだけなら、少女は一人でもできた。ただ生きる以外の全てを、少女は男からもらった。
「名前を決めたぞ! 今日からはこの名と、わしの家名を名乗れ!」
少女は、ムム・ルセッタになった。
「良い名前」
「おお! そうかそうか! 気に入ったか!」
「短くて、書きやすい」
「短くて書きやすい!?」
男は、ムムの師父になった。
「師父、修行したまま、寝ないで」
「ははっ! すまんな! 疲れておったのだ!」
「せめて、体は拭いて。臭い」
「なにぃ!? わしは臭うか!?」
「うん」
「むぅ……!」
師父は、本当に馬鹿な武道家だった。
起きては拳を振るい、食べては拳を振るい、寝て起きてはまた拳を振るう。
「お前は本当に小さいな、ムム! もっと飯を食え!」
「昔から、食べてる」
「量が足りないのだ!」
「でも、わたし……ずっと、大きくならない」
歳を取らない。
5年ほど暮らして、ついに師父はムムの体の異常……『魔法』に気がついた。気づくのが遅すぎてあまりにも鈍いと思ったが、もしかしたら彼はわざと気づかないふりをしていたのかもしれない。
「ふん! ならば、わしが治してやる!」
「え?」
病の一種だと、思ったのだろう。あれほど強くなることに執着していた男が、修行を投げ捨てて、医者を訪ねるようになった。武道大会に出ては賞金を得て、戦争に兵士として参加しては地位は望まず金だけを望んだ。そうして得た資産の全てをムムに注ぎ込み、治療に当てた。
医者は匙を投げた。
魔導師は首を振った。
あやしげな呪詛師は絶対に治ると言いながら高額な治療代を請求してきたので、師父が殴り飛ばした。
また10年くらい時間が過ぎて、あれだけ若々しく、精力に満ち溢れていた男の髪に、白いものが目立つようになった。
「すまない、ムム……わしは」
「いい。大丈夫。自分の体。自分が、一番よくわかってる」
「だが、だが……わしは、お前の嫁入り姿を、楽しみにしていたのだぞっ!」
「……は?」
師父は、やはり馬鹿だった。
「お前が良い男に嫁ぎ、良き幸せを掴み、子どもを育み……そしてあわよくば、お前によく似たかわいい孫に我が流派を継いでもらおうと! わしはそれだけを楽しみにしていたというのに!」
「師父、そんなこと考えてたの?」
「そんなこととはなんだ!? お前はせっかくそんなにきれいな顔をしているというのに、いつまでもちんちくりんな体では、嫁の貰い手が来ないではないか!?」
「うるさい」
「脛を殴るな!?」
馬鹿親父の足を、習った武術でげしげしと殴ってから、ムムは言った。
「いい。わたしはどこにも行かない」
「なに?」
「師父がいれば、それで良い」
「ムム……!」
そうして、また20年ほどを二人だけで過ごして。
師父の寿命がきた。
ムムは、彼の布団の横に座って、硬くゴツゴツとした手を、ずっと握っていた。何日も何日も、ずっと握っていた。
「すまないな、ムム。先に逝くぞ」
「気にしなくていい。師父、とっても長生きだった。わたしが、へんなだけ」
そう。これが普通なのだ、と。ムムは思った。
生まれて、生きて、老いて、人は死ぬ。
自分が、おかしいだけなのだ。
「変、か。己を卑下するな。お前は立派に、わしの隣で武の道に励み続けた。わしはそれが、なによりも誇らしい」
「でも、わたし。まだ師父より弱い」
事実を言うと、死にかけの男は何故か嬉しそうに笑った。
「くくっ……ははっ! そうだな、お前はまだ、わしより弱い!」
「うん」
「だが、
「うん」
「故に……ムムよ。お前は、その拳を磨き続けろ」
「師父が死んでも?」
「ああ。わしが死んでも、だ」
その笑顔は、死に際の老人とはとても思えないほどに、強く温かな輝きに満ち満ちていた。
「お前の体は小さく、お前の体は弱い。だが、だからこそ……お前には、どこまでも許された時間がある」
それはどんな武道家が望んでも叶わない、最上の願いなのだと、師父は語った。
「でも、師父が死んだら、わたしは、師父より強くなったかわからない」
「……」
「師父が死んだら、わたしはさびしい」
死にかけの男は、最後の力を振り絞って体を起こした。左手は、ムムと手を繋いでいる。だから彼は、布団の中から右手を出して、持ち上げた。
「すまない」
その腕を見る。
自分は全然変わらないのに。あの頃と比べると、随分と肉が落ちて、細くなった。
その手を見る。
武の頂きを極めるために。あれだけ堅く握り締められていた男の拳が、やさしく花開いた。
72年間。一緒に生きてきて、はじめて頭を撫でられた瞬間だった。
「ムム」
「なに?」
「愛している」
師父から贈られた最期の言葉は、武道家の言葉ではなかった。
ムムは、師父の手を離した。師父は、ムムから手を離した。
そうして、ムムを愛してくれた男は死んだ。
また一人になった。
愛している、というその言葉の意味を、彼が生きている間に知りたかった。
魔法の力で、涙は止まらなかった。
泣いて、泣いて、泣き続けて。
ただ、自分の頭を撫でてくれた彼の拳は、絶対に継がなければならないと思った。
ムムの、次の100年が始まる。
拳を振るう。
研鑽を積み重ねる。
拳を振るう。
研鑽を積み重ねる。
拳を振るう。
研鑽を積み重ねる。
また100年。さらに100年。続けて100年。
自分の体は変わらない。絶対に年を取らず、成長しない。だから、技を磨き続けるしかない。否、技を磨き続けることを、ムムは師父に望まれた。
あの拳に追いつくために、ただ拳を振るい続ける。
磨いて、磨いて、ただひたすらに、磨き続けて。
拳が磨かれれば磨かれるほど、ムム・ルセッタの心は、少しずつ擦り切れていった。
磨くのは良い。自分の武が前に進んでいることは、疑いようもない。そこに、疑念はない。
ただ、純粋な恐怖が在った。
このまま拳を握り続けて、強くなって、彼が目指した武の頂きに、辿り着いたとして。
一体、その先には何があるのだろう?
誰が、自分を認めてくれるのだろう?
違法な武闘会に参加するようになった。何でもいい。ただ、強さの証明が欲しかった。
相手を倒せば、少しだけ心が満たされた。相手を殴り倒せば、少しだけ心が軽くなった。
そうやって、戦って、戦って、戦って。
「すごいですね。あなたの拳」
ある日。
「おれに、教えてくれませんか?」
ムム・ルセッタは、勇者と呼ばれることになる少年に出会った。
「やっぱりいたなぁ……それも、うじゃうじゃと」
予想通りというべきか。本当はこういう予想は当たってほしくなかったのだが……戻る途中に、やはりかち合ってしまった。
ゴーレムが、ざっと数えて10体。明らかにおれたちを探すように、群れで移動していた。サイズは人間より少し大きいくらいの小ぶりな感じで、師匠が倒したヤツよりも弱そうに見えるが……それぞれの魔力量は、あのバカデカいやつよりも、大きい。
「師匠の魔法を見極めて、小型に切り替えた……切り替えて、差し向けたヤツがいる、ってことだよな」
さっきは、本当に不覚をとった。
師匠が助けてくれなければ、赤髪ちゃんは危なかった。おれのミスだ。バカでアホな、おれの油断だ。師匠に怒られてしまう。
世界を救ったのに、女の子一人を助けられないなんて、勇者失格だからだ。
「よし、やるか」
ここまで走ってきたので、汗をかいた髪をかきあげる。何本か、髪が指にまきついた。そういえば、最近髪を切っていなかった。この面倒事が片付いたら、ぜひとも散髪に行きたいところだ。女の子の長い髪はきれいだけど、男が長くても気色悪いだけだし。
「そういや、髪の手入れを怠るとハゲるって、賢者ちゃんも言ってたなぁ……」
おれは絶対にハゲたくない。
指に絡みついた、赤髪ちゃんとは似ても似つかない、
拳を、握り締める。
勘を取り戻すには、ちょうどいい相手だ。ひさびさに、本気でやろう。
今回の登場人物
・武闘家さん
本名、ムム・ルセッタ。髪の色は澄んだ水色。ちなみに武闘家さんは髪も伸びない。
・師父
武闘家さんを育てた人。髪の色は……晩年はハゲた。
・赤髪ちゃん
髪の色はきれいな赤色。
・勇者くん
髪の色はくすんだ赤色。赤髪ちゃんに比べると薄汚れてる感じ。ハゲたくない。
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黄金の武闘家
ルール無用。武器の持ち込みは自由。どちらかが、倒れるまで。
それが、血と欲に塗れた地下闘技場の絶対の掟だった。
金が欲しかったわけではない。ただ、金払いが良い武闘会には、やはり強い人間が集まった。より強い人間と戦えば戦うほど、乾いた心が満たされる気がした。
年若い少年と、決勝で当たった。
他人の試合になど興味がなく、他人の試合を見なくても勝つことはできたので、何故そんな少年が勝ち上がってきたか、立ち合った瞬間は疑問に思った。
立ち合いの次の瞬間から、直感の疑問は確信の警鈴に変化した。
初手で、自分が持ち得る最大の打撃を打ち込んだ。その後も、打って打って打ち続けた。
こいつは、なぜ倒れない?
どうして、わたしの拳を受けても、平然と立ち上がる?
その少年の強さは、言うなればおかしな強さだった。積み上げてきたものは感じる。積み重ねてきたものは、間違いなく在る。けれど、デタラメでめちゃくちゃで、理屈が通じない強さ。底知れない、深い闇に少しずつ飲み込まれていくような、そんな強さ。
はじめて、だった。
無我夢中で拳を振るった。全力を尽くした。師父から受け継いだ技を否定させないために、師父から受け継いだ強さを証明するために、勝たなければならなかった。
しかし、ムム・ルセッタはそれまで生きてきた1000年という時間の中で、はじめて闘技場というリングの中で、背中を地面につけた。そして、もう立ち上がれなかった。
負けた。完膚なきまでに。
地下闘技場は、ルール無用。武器の持ち込みは自由。勝敗の決着は、どちらかが倒れるまで。
つまり、倒れた相手をどうするかは、勝者が自由に決めていい。
死ぬかもしれない、と思った。1000年という時間の中で、はじめて人に殺されるかもしれない、という恐怖を覚えた。
リングに、剣を突き立てる音が鳴る。ブーツの音が、死神の鎌のように近づいてくる。
そして、勝者である少年は言った。
「ありがとうございました。いい勝負でした」
差し伸べられた手を、ムム・ルセッタは信じられない面持ちで、ただ唖然と見上げた。
殴られる。
彼女のただならぬ雰囲気に、赤髪の少女はそう思った。
「む。こわかった?」
だが、目を開けてみると、やはり無表情のままのムムが、少しだけ不思議そうな色を瞳に混ぜていた。
「?」
「こわがらせてしまったなら、もうしわけない。わたし、魔法を使う時、少し力んじゃう」
ムムの小さく細い指先が、小鳥に触れていた。
小鳥の、今にも消えそうな息遣いが、しかし今にも消えそうなまま、ゆったりと続く。鳥に表情はないが、それでも少しだけ、楽そうになったように見えた。
まるで、出血と傷の広がりが静止したように。
「これって……?」
「わたしの魔法。
その体は不変。
その心は不動。
されど、その拳だけは不変にあらず。
歩みを止めず、新たな強さを求めて、一日を、一秒を積み重ね、弛まぬ進化を続けてきた。
決して変化しない体の中で、その拳だけは成長を続け、研鑽によって輝きを増し続けた。
それは、全てを永らえ、長き時の中、決して色褪せることのない誇り高き黄金。
『
この世界を救った、最高の武闘家にして、魔法使いである。
けれど、
人の手は、拳を握り締めるためだけに、あるものではないと。ムムは、師父と彼に教えてもらったから。
「わたしは今、この子の出血を止めてる」
「それって……じゃあ、この子は助かるってことですか!?」
「ううん。助からない」
抱かれた淡い期待を、しかしムムははっきりと断言の形で否定した。
「わたしは、この子の時間を止めているだけ。治療しているわけじゃない。仮に、この子の全てを『静止』させたとしても、ケガの状態は、変わらない」
「でも、お医者さんに見せれば……!」
「ここから治療して、治すのは不可能。勇者も、それをわかってた」
あの馬鹿弟子はいつもこういう面倒なことをわたしに預ける、と。ムムは口の中だけで溜め息を吐いた。
それは、目の前の少女に突きつける、残酷な選択だ。
生き物は死ぬ。だから、選ばなければならない。
「ここからは、あなたに質問。あなたは、この子をどうしたい?」
赤髪の少女が、伏せていた顔をはっと上げる。
躊躇いながらも、指が伸びた。少女が指先で触れると、傷の広がりが止まって楽になった小鳥は、嬉しそうにくちばしを持ち上げた。
きゅっと、形の良い唇が絞られる。
「……少しだけ、この子のことをお願いできますか?」
「わかった」
ムムは小鳥を受け取った。少女が、テントの外に駆けていく。
指先で小さな体温を感じている時間は、思っていたよりも長くなかった。もしかしたら戻ってこないのではないか、とムムは思っていたが、その心配は杞憂だった。赤髪の少女は十分ほどで、手の中に小鳥とは別のものを抱えて戻ってきた。
「お花」
「はい」
それは、湧き水の出るこの場所にだけ咲いている、小鳥と同じちいさなちいさな花だった。その花を、少女は短い時間できれいに編んで、円の形にしていた。
「……この子に」
「わかった」
テントの外に出て、軽く土を掘る。その下に編まれた花を敷いて、小鳥の体をそっと寝かせてあげた。
拾われてから、ずっと一緒にいた少女が戻ってきたことが嬉しかったのか、ぴぃ、と。短く鳴き声が響いた。
「もう、大丈夫?」
「はい」
「悲しい?」
「……はい。おかしいですよね。さっき、たまたま拾って、わたしが勝手に同情して……」
「そんなことは、ない。生き物の死に、涙を流すことは、心が豊かな証拠」
自分よりも高い肩に、ムムはそっと寄り添った。
失われていく温かさを、少しでも埋められるように。
「わたしも、同じ。勝手に同情してきた男が、勝手にわたしを拾った」
だからか、と。
ムムはどうして自分が、こんなにもこの少女に入れ込んでいるのか、今さら気がついた。
「でも、だからわたしはここにいる。勇者に出会って、あなたにも出会えた。人生は、そういう偶然の繰り返し」
命は短く、儚く、脆い。
ほんの些細なきっかけで、命は唐突に消える。ほんの些細なきっかけがなくとも、命はいつか消える。
「この子は本当は、荒野で一人で死ぬところだった。でも、勇者とあなたが来た」
それは運命のいたずら。様々な出来事が自然に噛み合って生まれた、偶然の出会いだった。
「だから、あなたに見守られて、お花の中で命を終えることができる」
歌うように、ムムはそれを少女に説く。
「死ぬことは、悲しいこと。悲しいけど、自然なことだから……その終わりを、幸せな形にしてあげることはできる」
ムムは、小鳥から手を離した。少女は小鳥に手を触れた。
小さな体が、少しずつ冷たくなって、やがて小鳥は動かなくなった。
懸命に生きようとした一つの命が、静かに終わった瞬間だった。
「お別れは、できた?」
「……はい」
「そう。よかった」
「ムムさん」
「ん?」
「ありがとう、ございました……」
声は、震えていた。
無理をしている、と思った。
「もう一つ。人生の大先輩から、お節介なアドバイス」
小鳥を抱いていた、両手が空いた。だから、できることがある。
背伸びをしたムムは、赤髪の少女の頭を、なるべくやさしく撫でた。
「泣きたい時は、泣いて良い」
こういう時だけは、小さな身体が本当に不便だと、ムムは思う。泣きじゃくる子どもに胸を貸すのは、とても大変だからだ。
ムムは、忘れ物を拾いに行ったままいつまでも戻ってこない勇者を、迎えに行った。
あまりにも遅いからまさか、と思っていたが。どうやら、心配は杞憂だったらしい。
「なんだ。出る幕、なし?」
「ああ、師匠」
勇者は、倒した敵の残骸を積み上げて影を作り、その下で涼んでいた。
そのゴーレムの数は、およそ10体。サイズは遜色なかったが、明らかに強い魔力の残滓を孕んでいる。大きさだけなら、自分が倒したゴーレムの方が格段に上だが、それぞれの強さはこのゴーレム達の方が上だったろうと、ムムは思う。
「赤髪ちゃんは?」
「泣き疲れて、寝た」
「子どもか?」
「あの子は、子ども」
「それもそうか」
足元に落ちている石を適当に拾って、ムムはそれをくるくると回した。
「この数、よく一人で倒した。えらい」
「師匠と赤髪ちゃんの時間の、邪魔をされたくなかったので。ああいうことを教えるのは、絶対に師匠の方が上手いでしょう?」
「またそうやって、師匠を便利に使う」
「すいません」
勇者は苦笑を交えて、服についた埃をはたいた。
「……会ったときは、腕が鈍ってるって思ったけど。勘が、戻ったみたい」
「どうでしょう。おれなんてまだまだですよ」
「懐かしい」
「え?」
「わたしに弟子入りした時も、同じことを言っていた」
「そうでしたっけ?」
「そう」
あの日のことを、思い出す。
勝者になった少年は、倒れ込んだまま動けないムムを担ぎ上げ、賞金も責任も何もかも放り捨てて、その場から全力で逃走した。このままリングの中にいたら、ムムが殺されてしまう、と思ったらしい。
あれだけ命を賭けて戦ったくせに、金も貰わずに一目散に逃げ出したことが、あまりにも信じられなくて。ムムは少年に聞いた。おまえは、何が欲しかったのだ、と。
──あなたが欲しかったんです
憎らしいほどけろっとした表情で、少年は言った。これから先も強くなるために、自分の体の使い方を見てくれる師匠が欲しかった。おれにとっての優勝賞品はあなただ。おれの師匠はあなたしかいない、と少年は熱心に語った。
控えめに言って、あきれた。
敗北した相手の師匠なんて、できるわけがないし意味がない。負けた自分に、教えられることは何もない。最初はそう言って断り続けたが、少年は頑なに引かず。とうとう、ムムの方が根負けした。
修行といっても、ムムは人に拳の振り方を教えたことはなかった。仕方がないので、師父の教えを頭のなかで思い返しながら、少年に自分がやってきたものと、同じ修行をさせた。
結果、少年は3ヶ月足らずで、ムムが割るのに一年かかった巨岩を打ち砕いた。
はじめての弟子が、本当に嬉しそうに振り返った時。胸の中に、何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。つい先ほどまで、固く握り締めていた拳を勢い良く広げて。笑顔で、拳を開いて、少年はやはり手を伸ばした。
──ありがとうございました。師匠
ムムも自然と、その手をとって強く握った。
温かかった。
思えば、あの時も同じだった。
ムムがはじめて岩を砕いた日、師父は馬鹿のように喜んだ。子どものように「その小さな体でよくやった!」だの「わしの時は3年かかったぞ!」などと、本当に馬鹿のように騒いで、ひとしきり騒いだあとに、静かに岩のような手を開いて、差し出した。
──それ、なに?
──む、そうか。お前はまだ知らなんだか。これは礼だ。
──礼?
──うむ。出会った時、別れた時。あるいは、相手に好意を示す時、相手の健闘を称える時。人はこうして、互いの手を握り合うのだ。
記憶の中の師父の笑顔と、少年の笑顔が、きれいに重なった。
拳とは、手を握って振るうもの。その硬さを以て、敵を砕くもの。
だが同時に、人と人が分かり合う時。その手を取り合うことを、人は『握手』と言う。
少年と手を繋いで、900年あまりの時間をかけて、ムム・ルセッタはようやくそれを見つけた。900年と少しの時間をかけて、ムム・ルセッタはようやく二度目の涙を流した。
師父があの日、自分に遺していったものは、ずっと変わらず、こんな近くに、
──ありがとう
自分の手の中に、あったのだ。
「もう行く?」
「はい。追手の追撃もこわいので」
「わかった」
また軽く、握手を交わす。
しかし、それだけでは物足りなくなって、ムムは勇者が積み上げていたゴーレムの残骸を、適当に打ち壊した。
「し、師匠?」
「少し待って」
もはやただの岩の塊になったそれを、また適当に積み上げて、ムムは自分が乗れる台座を作った。その上に立って、弟子を見る。なんとか、目線が彼よりも高くなった。
「うん。これは、良い」
すごく良い。これまでぴくりとも動かなかった表情が、自然に綻ぶ。
きっと師父も、こういう目線で自分のことを見ていたのだろう、と。ムムはそう思った。
勇者はいつも、賢者の頭を撫でていた。さっきはあの子の頭も撫でていた。撫でていてばかりでは、不公平だ。だからたまには、こうして撫でてやるのもいいだろう。ムムは、くすんだような赤色の勇者の頭に、そっと手を置いた。
「道中、無理はしないように。気をつけて」
「……師匠」
「なに?」
「師匠はやっぱり、笑ってる方がかわいいですよ」
「…………生意気」
なんとなく気恥ずかしくて、他の仲間がいる前では、師匠とそのまま呼ばせていた。
二人で修行をしていた半年間。彼が岩を砕けるようになるまで、ムムは自分のことを『師匠』と呼ぶのを許さなかった。岩も砕けない馬鹿弟子はいらない、と。意地を張っていたのだ。
ムムさん、と。
彼に名前を呼んでもらうのが、好きだったのかもしれない。
人の命は、いつかは尽きる。
人の命に、限りがあるように。愛は移りゆくもの。愛は、いつか消えてしまうもの。
それでも、もし。人を想い、世界を想う気持ちに永遠があるのなら。ムム・ルセッタは、彼とぶつけた拳ではなく、彼と交わした手のひらの中に、それを見た。
だから、愛そう。彼が思い出させてくれた大切な父の気持ちと、同じ愛を彼に注ごう。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に好意を寄せる者が多いのはわかっている。
だからこそ、ムム・ルセッタは静かに思う。
愛は比べるものではない。愛の種類は一つではない。
久遠の時を生き続けるこの体にできるのは、彼を愛し、彼女らを愛し、彼と彼女らの行く末の、その幸せを祈ることだけだ。
故に。
──我が愛、永遠に不変。
今回の登場人物
・武闘家さん
近接格闘特化型無表情お節介焼き幼女師匠。自身の心身に刻まれた魔法によって、悠久の時を生きる拳聖。
長生きでそこそこ物知りだが、俗世から離れて拳ばかり磨いてきたので、最近の文化には疎いおばあちゃん。精神的にはパーティーの中で最も成熟しており、加入したあとは勇者を見守る良き助言役として、彼と彼女らを支え続けた。しかし、俗世には疎いしどこにいるかもわからないので、勇者の思い返す婚活相談からはナチュラルにカットされていた。基本的に勇者に対して後方保護者面をしているので、多分知ったら少し泣く。
パーティーメンバーの誰が勇者と幸せになるのか、やはり後方保護者面で見守っている。子どもができたら目一杯お祝いして、はしゃいで、騒いで、孫弟子に自身の流派を継がせようと画策している。
・師父
親バカ。彼の愛は、彼女の中で永遠に生き続ける。
・赤髪ちゃん
はじめて人の前で泣いた。
・ゴーレムくん
勇者のサンドバッグ。砂だけに。
・勇者くん
ちょっとリハビリして感覚を取り戻した。
今回の登場魔法
固有魔法『
魔法の研究は、魔術の黎明期から並行して進められてきたが、その性質についてわかっていることは少ない。心と体に刻まれたそれは、絶対に引き剥がせず、所有者が死なない限り、永遠に消えることはない。中でも、色の名を冠する魔法は、その特異性から権力者達の羨望の的として知られていたことが、最古の歴史書には記されている。
自身の身体と、その身体に接触した全てを『静止』させることができる。ムムが触れたものは、ムムが触れている間は動きが止まり続け、手を離せばまた動き出す。ムムの体が成長せず、時間が止まったままなのは、彼女の時間という概念が静止しているからである。
同時に、触れれば止まる、というのは何者も彼女を傷つけることができないことを意味する。長い時間をかけて、ムムは触れたものに対する静止の切り替えと識別を鍛錬したが、身体を傷つけようとする攻撃には、静止の魔法はオートで作動する。ムムが己の時間に対して静止の魔法を切ることができないのは、魔法が老いることを『時間による身体への攻撃』と認識してしまっているからである。
終わらない永遠、瞬間に焦がれる久遠。万物が頭を垂れる時の流れに唾を吐きかける魔法。
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勇者と死霊術師さん
「勇者さん! 海です!」
「海だねえ」
師匠と別れたあと、教えてもらった道を進んで、約半日。ようやく人里に辿り着いて、さらに半日ほど馬車に揺られて辿り着いたのは、それはもうでっかい港街だった。いくつもの船が停泊し、白い砂浜、眩い太陽が燦々と輝いている。
人がいない荒野を野垂れ死にそうな思いで進んでいたので、まさか一日ちょっとでこんなに大きなオアシスみたいな街に辿り着けるとは思わなかった。師匠は「あの街に行くのは、ちょうどいいと思う。あそこ、死霊術師の拠点の一つ。匿ってもらえば、安全」とも言っていた。偶然とはいえ、次は死霊術師さんに会いに行くつもりだったので、非常にありがたい。
記憶を失ってからはじめて見る海に、いたく感激しているのか、赤髪ちゃんは身を乗り出してはしゃいでいる。
「勇者さん勇者さん! わたし、海見るのはじめてです!」
「それはよかった」
なんだか懐かしいなぁ。女騎士ちゃんは良いとこのお姫様だったから、避暑地に行ったり海で泳いだ経験も当然あった。でも、村から出る機会が皆無だった賢者ちゃんは、生まれてはじめて海を見た時は、年相応にはしゃいでたっけ。
もしも今、海に連れて行っても「潮風がうざいですね」とか言って全然はしゃいでくれないんだろうな……。娘の成長を喜ぶお父さん的な悲しみに耽る。
「赤髪ちゃんは純粋な心を忘れずに、どうかそのままでいてね」
「え、あ、はい!」
いや、でもよくよく考えたらそのままでいたらダメだな。おれの目的、基本的にこの子の記憶を取り戻してあげることだし。
「それにしても、ほんとうに大きな街ですね。賑わいだけなら王都にも負けないように感じます」
「そうだなぁ」
事実、そうだろうな、と思う。
港を中心に街は貿易の品々で溢れ、様々な商店が軒を連ねている。飲食店や娯楽施設も充実し、人々の賑やかな声が絶えない。
来たことがない街だったが、死霊術師さんが関わっているというなら納得だ。むしろ、あの人が拠点として選んだ街が、発展しないわけがない。
そのあたりの事情を説明しておこうと思ったが、赤髪ちゃんは飽きずに海の方を眺めている。とても楽しそうでなによりだ。
「勇者さん! みてくださいみてください! なんか食べ物の出店もありますよ! もう匂いからしておいしそうです!」
ああ、はいはい、うん。お腹もとってもペコペコなようでなによりだ。
でも、本当によかった。小鳥ちゃんの一件で元気がなくなっているんじゃないかと心配していたけど、師匠の赤髪ちゃんへのメンタルケアは万全だったらしい。むしろ、この子の横顔は、昨日よりもどこか凛々しくなったようにすら思える。
「勇者さん! あの氷みたいなやつはなんですか!? 緑色のソースがかかってます!」
凛々しくなったか? いや、おれの気のせいだったかもしれん。
「ちょっと待って、赤髪ちゃん」
「はっ……そうですよねすいません。いくらなんでも全部のお店で食べて回るというわけにはいきませんよね。ごめんなさいちょっと待ってください。三つくらいに絞ります」
「ああ、いや。それはべつにいいんだけど、」
「いいんですか!?」
「セリフまで食わないでくれる?」
おれのお財布が爆発しない範囲であれば好きなだけ食べてもらって構わないが、そういうことではなくて。
「砂浜に下りるんだったらさ。海に入ってみない?」
「海に、ですか?」
きょとん、と。赤髪ちゃんが首を傾げる。
「うん。せっかくだし、水着買いに行こうよ」
その意味を理解した頬が、髪色よりも赤くなった。
「なーにーをーしているんでしょうねえ。ウチのバカ勇者さんはぁ」
そんな二人の様子を路地裏から眺めていた賢者、シャナ・グランプレはイライラしていた。整った顔をしかめて歯軋りしている様は、まったく頭が良さそうではなかった。
とはいえ、シャナの機嫌が悪くなるのも無理はない。転送魔導陣やら、馬車やら船やらを死ぬ気で組み合わせて活用し、なんとか追いついたと思ったら、なにやら楽しそうに海デートを楽しんでいる勇者がいたのだ。キレるなという方が無理である。
「まあまあ。あの何もない荒野からがんばってここまで来たんだし、二人がはしゃぐのは仕方ないって。ていうか、そんなに気になるならもう勇者くんのところに行って交ざってきたら?」
「だって……だってそれは本末転倒でしょう? 勇者さんをあのいけ好かない悪魔どもから守るために急いで飛んできたのに、勇者さんとのんきに遊んでいたら意味がないじゃないですか!」
「それはそうなんだけどね」
シャナの隣でゆったりと頷く女騎士、アリア・リナージュ・アイアラスは、やはりニコニコと笑っていた。
商店の方へ歩いて行く勇者と赤髪の少女を追いながら、空いている屋台を冷やかす余裕まで持っている。
「おじちゃん、何かジュースある?」
「おう、悪いなお嬢ちゃん。冷やしてる分はさっき売り切れちまって、まだ冷えてないんだ。すまねぇがべつの店で……」
「ああ、それなら大丈夫大丈夫。自分で冷やすから、お一つくださいな。あ、でもちょっとおまけしてくれるとうれしいかも?」
「自分で冷やす? まあいいや、それなら隣のちっこいお嬢ちゃんの分も持ってきな!」
「ありがと。おじちゃん」
さっさと値段交渉して、さっさとお金を渡し、ジュースを二人分受け取ったアリアは「やったー」と小さく呟いて、それをシャナに見せびらかした。
「シャナも飲むでしょ?」
「わざわざ交渉しなくても、一つあれば私の能力で増やせましたけど?」
「わかってないなぁ、賢者さまは。こっちはオレンジジュース、こっちはリンゴジュースだよ。シャナの能力だと同じやつしか増やせないじゃん。どっちがいい?」
「……リンゴジュース飲みたい」
「ふふっ。そう言うと思った。あたしはオレンジ飲みたかったからちょうどよかったね」
受け取ると、ぬるかったはずのジュースはアリアの能力で器からキンキンに冷えていた。その冷たさを喉に流し込んで、シャナはほっと息を吐く。
「武闘家さんとは一緒じゃないみたいですね」
「あの人は自由気ままだからね」
「あまり気が進みませんが、この街は会社の運営拠点の一つのようですし、先に死霊術師さんと会いますか。あまり気が進みませんが」
「わざわざ二回言わなくてもわかってるし、気持ちは同じだよ」
苦笑しながら、アリアもオレンジジュースをストローで口に運ぶ。人混みに紛れていく背中を追いながら、
「シャナがさっき言った通り、あたしたちの目的はあくまでも勇者くんを守ること。そのためなら、手段なんて選んでられないよ」
氷よりも濃い、深い蒼の瞳が、すっと細められる。
この人はこういう温度差がこわいけど信頼はできるんだよな、と。シャナは口には出さず、ジュースをちゅーちゅーとすすった。
しかし、
「それにしては、今日はまたずいぶんきれいな服で来ましたね?」
「え?」
じっとりとした目で、シャナはアリアの服装を上から下まで眺める。
つばが広い麦わら帽子に、真っ白で清楚な印象を受ける、かわいらしい丸襟のワンピース。足元の淡いブルーのサンダルが、良いアクセントになっている。対して、シャナは気候に合わせていつものローブを脱ぎ、白の半袖パーカーを引っ掛けてきただけだ。
「ははぁーん……ふぅーん」
「な、なに?」
「かわいいですよ、アリアさん」
「だから急になにっ!?」
「いえいえ。早く悪魔を倒して勇者さんと合流できるといいですね」
「そ、それはシャナも同じでしょう!?」
冷たかった声音が、一転して裏返る。
「ええ、もちろん」
からかう側に回ってくすくすと笑いながら、シャナは空を見上げた。高い魔力探知の能力を持つシャナだからこそわかる、濃密な魔力の気配。
「彼女の船が上空に入ったようです。ここまで来ればわたしの簡易転送陣で、あのいけ好かない死霊術師のところまで跳べます。行きましょう」
「ど、どうでしょうか?」
「うん。めちゃくちゃ似合ってる」
赤髪ちゃんの選んだ水着は、意外にもビキニだった。赤をベースに、腰には同じ色のパレオを巻いている。よく食べるわりに、出るとこは出て締まるところは締まっているメリハリのある体のラインが、より一層際立っていて、とても艶めかしい。うん、繰り返しになるけど、よく似合っています。
そのままだと少し恥ずかしそうだったし、ちょうど良さそうな薄い白のパーカーも売っていたので、そちらも追加で買って羽織ってもらう。
俺も浮き輪とビーチサンダルをゲットして、短パンとアロハに着替え、サングラスまで装備して準備は万端だ。賢者ちゃんに見られたら殺されそうな格好だけど、まだ来てないみたいだし大丈夫だろう。多分。
「勇者さん。これもおいしいです」
「こういう露店のメシってなんか美味く感じるよね」
「はい! 新鮮です!」
赤髪ちゃんは控えめに言って美人なので、周囲から注目されるかと思って少し身構えていたが、両手に露店の料理を大量に抱えて片っ端から口に運んでいるので、違う意味で注目されている。どちらかといえば、食いしん坊な妹にご飯を食べさせてあげているお兄ちゃん……みたいな。そういう類いの生温かい視線を感じますね、はい。
「でも、水着。その色でよかったの?」
「え? なんでですか?」
「だって、もうちょっと濃い色合いの赤もあったからさ。そっちの方が赤髪ちゃんの髪色に近いから、もっと似合うかなって思ったんだけど」
おれがそう言うと、赤髪ちゃんは一瞬きょとんとしたあとに、続けて「ふふん」と笑った。得意気にしてるところ申し訳ないけど、口の端に青ノリついてますよ。
「わたしは、こっちの方がいいんです」
「そう?」
「はい。だって、勇者さんの髪の赤に近いのは、こっちの水着の色でしょう?」
…………うーん。なるほど。
「赤髪ちゃんはさ」
「なんです?」
「多分、記憶を失う前は悪女だったと思うよ」
「あ、悪……なんですかそれ!? どういう意味ですか!?」
「言葉通りの意味ですね」
赤髪ちゃんがぷんすか腹を立て始めたので、そのまま砂浜で追いかけっこをする羽目になると思ったが……ちょうど良いタイミングで『ソレ』はやってきた。
「ゆ、勇者さん! あれ、見てください!」
上を見上げて、赤髪ちゃんが叫ぶ。
「船が空を飛んでいます!」
ここは港街だ。海から船が来るのは、珍しくもなんともないだろう。だが、空を飛ぶ船は、他の港でも早々お目にかかれるものじゃない。
砂浜にいる他の人間からも、赤髪ちゃんと同じ種類の歓声が上がる。が、おれは特にテンションを上げることもなく、太陽に手をかざしてそれを見上げながら言った。
「まあ、あれ……どっちかっていうと、飛んでるんじゃなくて、ワイヤーで船を吊り下げているだけなんだけどね」
「……それって、どういう」
意味ですか、と赤髪ちゃんが言う前に、力強い咆哮が響いた。砂浜の上空をパスした船は、そのまま港近くの海面に着水し、さらにその上にいたものが、はっきりと見える。
巨大な船を牽引していたのは、さらに巨大な怪物だった。
視界の中に、全長をギリギリ収められるかという、その威容。灰褐色の鱗に、大空を舞う強靭な翼。しなやかで美しさすら感じる、長く鋭い尾。最強のモンスター、と聞いて誰もが思い浮かべる、神話の存在。
その名は。
「ドラゴンっ!?」
「はい、ドラゴンです」
驚きのあまり赤髪ちゃんの手からこぼれ落ちたたこ焼きをキャッチして、口に運んであげる。
「うちの死霊術師さんは、ああいうのを10匹ほど使役して、船や荷物を空路で輸送するビジネスをやってるんだよ。多分、めちゃくちゃ儲かってる」
「……!」
たこ焼きをもぐもぐしながら、赤髪ちゃんはただただ目を丸くしていた。
ドラゴンに牽引され、着水した船は、豪華客船と言って良いほどのサイズと設備を備えていた。
当然、その船と竜の主は、船内で最も広く、飾られた部屋の中にいる。
「社長、お客様です」
「ええ、どうぞ。通してください」
船の中に設置された転送魔導陣で船の中まで跳んだシャナとアリアは、使用人の案内を受けて部屋の扉を開いた。
「……事情はお伝えしたはずですが、よくもそんな風に、のんびり構えていられますね」
「あらあら。ひさしぶりにお会いしたのに、随分ツンツンしてらっしゃいますのね。まぁ、お気持ちはわからないでもありませんが」
女が、いる。
身を預けた毛皮のソファーに、腰まで届きそうな長い黒髪が広がり、蠱惑的な印象を醸し出している。シャナが普段身につけているものとは対照的に、ローブの色はその黒髪と真逆の白に、紫のアクセントが入ったもの。彼女らしい、どこまでも品の良い口調に、しかしシャナは逆に苛立ちを募らせていた。
「勇者さまが、狙われている。いえ、厳密に言えば、あの赤髪の少女が狙われている、と言うべきでしょうか。由々しき事態ですわね」
「その通りです。正直、こんなところでくつろいでいるあなたの態度が信じられません。早急に敵を探しだし、対応すべきです」
「ええ、ええ。本当にまったく、その通りですわね。ですから……ならばこそ、わたくしはお二人に問いたいですわ」
髪をかきあげて、死霊術師は言う。
「あなた方……今まで、一体なにをしていましたの?」
女の背後。
洒脱な部屋にかけられた、赤いカーテンが左右に引かれて広がった。
「えっ……?」
アリアが、絶句する。
「なっ……!」
シャナが、目を見開く。
信じられない光景だった。ガラス張りになった部屋の向こうには、ズタズタに引き裂かれた上級悪魔が三体、折り重なって息絶えていた。
「お二人とも、
本当にあきれた、と。
シャナが言った言葉をそのまま返すように、死霊術師はせせら笑う。
「勇者さまの身近に、危険が迫っている。ならば、その脅威は先手を取り、徹底的に叩き潰し、肉片に変える。そこまでしたあとで、ようやく腰を落ち着けて今後の対応を話し合うべきでしょう」
「……まさか上級が、3体。駆逐済みなんてね」
「はい、本当に。流石と言う他ありませんね」
皮肉を隠そうともせず。むしろパンにバターを塗りたくるように、言葉の表面に皮肉をたっぷりと滲ませて、シャナは言った。
「魔王軍、元最高幹部……
『四天王・第二位』リリアミラ・ギルデンスターン。腕は衰えていないようで、安心しました」
「ええ、ええ。もちろん、磨き上げておりますよ」
にっこりと微笑んで、リリアミラは言う。
「だってわたくし、勇者さまを心よりお慕い申し上げておりますもの」
今回の登場人物
・死霊術師さん
本名、リリアミラ・ギルデンスターン。元魔王軍最高幹部で、四天王の第二位だった過去を持つ。四天王には純粋な人間のメンバーが二人おり、彼女もその内の一人。自分の考えに賛同すれば人間も取り立てる、という魔王の主義は彼女ともう一人の存在によって広く知れ渡っており、それが人間側戦力の一部の離反を招いたとも言われている。
勇者が殺し合いをしている真っ最中に口説いて仲間にした。勇者パーティー最後の追加メンバー。世界を救ったあとは『魔王に洗脳を受けていた』ということにして人間社会に復帰。あまりにもヤバすぎる前職の肩書きを帳消しにする勢いで復興と物流に貢献し、社会的な信用を得るまでに至った。もちろん魔王に洗脳を受けたことなんて一度もない。というか基本的に彼女に洗脳は効かない。
勇者が大好きなので、危険な悪魔はすでにワンターンスリィキルゥ……した。とにかく仕事が早い有能。
・女騎士ちゃん
昔は死霊術師さんをどうやって殺すかずっと考えていた。
・賢者ちゃん
昔は死霊術師さんをどうやって殺すかずっと考えていた。
・赤髪ちゃん
水着回。
・勇者さん
視線を悟られないサングラスは便利だなぁ、と思っている。
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死霊術師さんと魔王
「ほえ〜。でっかいですねぇ」
「でっかいでしょ?」
赤髪ちゃんと一緒に、停泊した船の前までやってきた。この前戦ったゴーレムも大きかったが、アレは縦にでかかったのに対して、この船は横にもでかい。豪華客船、と言っても遜色ない大きさだ。
その近くでは、例のドラゴンが海水で水浴びをしている。ぶるぶると体を震わせる様はむしろかわいらしいくらいで、子どもたちが喜んでいる。
「ドラゴンさんも、大人しいですね……」
「あの竜は、完全に死霊術師さんの管理下にあるからね。万に一つも、暴れ出したり、勝手に暴走する危険はないよ」
「それって、やっぱり死霊術師さんの……」
「勇者さまぁあああ!!」
なにか、声が聞こえた。
右からではない。左からではない。当然、下からであるはずがない。
つまり、上である。
おれは落ち着いてジュースのコップを地面に置き、足を大きく開いて腰を下げて重心を落とし、さらに両手を広げて落ちてくるそれをキャッチする姿勢を作った。
「おひさしぶりですッ!」
そして、落ちてきたそれを、受け止める。
「……ひさしぶり」
「ああっ! 勇者さま! 勇者さまですわ!」
見ての通り勇者さまですよ。そのきれいな瞳は飾りか?
「お会いしとうございました! お体は大丈夫ですか? お変わりはありませんか?」
抱きとめた腕の中で、パーティーの中で最も豊満な体がうねうねと動く。頼むから目に毒なのでやめてほしい。
「おれは大丈夫だよ。死霊術師さんも、元気そうでよかった」
「ああっ……うれしいですうれしいです。そんなにわたくしのことを、ずっと想っていてくださったんですね!」
相変わらず普通に会話すると、いろいろ抜け落ちる人である。まあ、パーティー入りしてからずっとこんな感じなのだが。
「とりあえず、空から落ちてくるのやめない?」
「申し訳ありません。船の窓から下まで迎えに来てくださっている勇者さまが見えたので、いてもたってもいられず……ですが、わたくしは信じておりました。勇者さまなら、必ず重力に引かれて落ちる哀れなわたくしを、地面とキスする前に受け止めてくださる、と」
「自分で落ちてるよね?」
本当に話を聞かねぇなこの人。
「仕事は終わってるの?」
「いいえ。港についたばかりですもの。むしろ、ちっとも終わっていませんわ」
「だめじゃん」
「ええ。わたくしはダメな女です。ですが、勇者さまが近くにいるのに、勇者さまに会わないという選択肢は、わたくしの中にはございません! たとえ急ぎの仕事があったとしても、です!」
「ますますだめじゃん」
「ええ、ええ。わたくしはダメな女です……さあ、勇者さま、ダメダメなわたくしを、お叱りください」
「死霊術師さんって、基本的に打つよりも打たれる方が好きそうだよね」
「もちろんですわ」
「そこはせめて照れてほしい」
会話がアダルトな方向に行きそうになったので、ちらりと赤髪ちゃんの方を見る。今までのメンバーとは全く異なるノリの死霊術師さんに、赤髪ちゃんはやはり固まってしまっていた。そりゃそうだ。
「赤髪ちゃん、悪いけどそこらへんで何か食べるもの買ってきてくれるかな? なんでもいいから」
「あ、えっと、はい!」
「あら、すいません。ありがとうございます」
死霊術師さんはおれに抱きついたまま、走り去っていく赤髪ちゃんの背を眺めていた。いつまでも抱き止めているわけにはいかないので、地面に下ろして、代わりにさっき置いたジュースを拾う。
「あの子ですか」
「事情は?」
「もちろん、賢者さまから聞き及んでおりますわ」
「それはなにより」
「あの子と、二人でここまでいらしたんですか?」
「うん。道中、他のみんなのところに寄ったりはしたけど……あ、そういえばひさしぶりに、武闘家さんに会ったよ」
「あら、野垂れ死んでいなかったんですの。残念ですわ。わたくし、あの方はキライなので」
「えぇ……」
元は敵とはいえ、最終的には一緒に世界を救った仲になったんだから、そんなに嫌わなくても……
なんとも言えないので、困り顔のままジュースを口に運ぶ。
「勇者さま」
「ん?」
「勇者さまは、あの少女のことが好きなのですか?」
ジュースを口から噴き出す、なんて。そんなお約束の反応ができれば良かったのだが、おれはその質問に真顔になった。
「ダメかな?」
「ええ、ダメです」
肩が寄せられ、手が伸びて、素肌が触れる。そのぬるま湯のような体温に、おれは目を細めた。
「わたくし、嫉妬してしまいます」
耳元で、囁きかけられた。
愛とは、どこまで醜いものなのだろう。
リリアミラ・ギルデンスターンは、代々魔導師を輩出することで知られる良家の一人娘として、この世に生を受けた。親の愛情をたっぷりと受けて育ち、兄達は年の離れた妹をかわいがり、リリアミラは何一つの不自由なく、健やかに成長した。
家同士の繋がりを強固にするため。あるいは、より恵まれた才能を持つ魔導師が生まれることに期待して。リリアミラには、幼少の頃から結婚することを定められた許嫁がいた。家柄にも才能にも恵まれた彼は、しかし決してそれをひけらかすことなく、優しく穏やかで、誰よりも静かにリリアミラのことを愛した。リリアミラも、そんな彼のことが大好きだった。
「わたくしは、あなたのことを愛しています」
「ぼくもだよ。かわいいリリア」
ある日、彼が馬車に轢かれた。
瀕死の重傷だった。足は千切れ、血があふれ、どんな治癒魔術をかけたところで間に合わないと、それを見た誰もが確信するほどの、致命的な外傷だった。
あるいはもし、ここで彼が死んでいれば、リリアミラは普通の少女として一生を終えていたのかもしれない。だが、少女は心から愛する許嫁の死体を見て、泣き叫びもせず、錯乱するわけでもなく、ただひたすらに彼の治療を行うことを選択した。
「死なせません。絶対に」
そして、死ぬはずだった彼は生き返った。
奇跡だ。これが愛の力だ、と。誰もがリリアミラの治癒魔術を称賛した。祝福と称賛の中で、リリアミラと彼の愛は、ますます強固なものとなった。
ギルデンスターン家の誇る、最高の医療魔術士が誕生した。その噂は街中を駆け巡り、この事件以降、リリアミラは治癒魔術のみを専門とする、医療魔術士としての道を歩み出す。
しかし、リリアミラの治癒魔術の適正は、何故か恵まれたものではなかった。まったく適正がないわけではないが、精々が中の下といったところ。首を傾げた指導役の魔導師は、実験用のラットを使った指導の中で、少女の中に眠る特異な才能にようやく気がついた。
一度は完全に死んだはずのラットが、息を吹き返したのだ。
「お嬢様の才能は、魔術ではありません。あれは『魔法』でございます」
どんな天才魔導師が力を尽くそうと、研鑽を積み上げようと、その心身に刻まれなければ、絶対に手が届かない存在、魔法。
ギルデンスターン家はじまって以来の『魔法使い』の誕生に、両親は狂喜した。兄達もその才能に嫉妬するわけではなく、心からリリアミラを称えた。なによりも、その特別な力に助けられた彼が、リリアミラの秘められた魔法に惚れ込んだ。
「きみの魔法は、ぼくの誇りだ。リリア」
「それはわたくしも同じです。わたくしは、はじめて使った魔法で愛する人を救えたことを、生涯の誇りとして生きていきますわ」
リリアミラの成人を待って、結婚式の日取りが決まった。魔法の性質の研究と鍛錬も進み、日々が充実していた。それは間違いなく、リリアミラの生涯の中で、最も幸せな時間だった。
その矢先に、彼が倒れた。今度は外傷ではない。当時、治療の方法が一切見つかっていなかった、不治の病。その難病に、少しずつ彼の体は冒されていたのだ。誰もが彼の回復を諦める中、しかし少女だけは、目の前で病と戦う愛する命を救うことを、諦めていなかった。
「死なせません。絶対に」
一度は息を引き取ったはずの彼は、リリアミラが触れると、蘇った。
奇跡だ。これが愛の力だ、と。誰もがリリアミラの魔法を賛美した。あの時と同じ、惜しみない祝福と称賛の中で、リリアミラと彼の愛は、ますます強固なものとなる……
「……ごほっ」
「え?」
そのはず、だった。
結論から言えば、リリアミラの魔法は、彼を蘇らせることはできても、救うことができるものではなかった。たしかに彼は蘇ったが、蘇った彼の体は蘇る前と変わらず病に冒されており、リリアミラの力で根治できるものではなかったのだ。
「死なせません。絶対に」
それでもなお、リリアミラ・ギルデンスターンという少女は、諦めを知らなかった。
彼が死ぬ度に、触れて治す。何度でも何度でも、たとえ何度死んだとしても、蘇らせる。並行して、病の原因を必死に探った。魔術だけではない。少しでも効果が期待できそうな薬草は大金を積んで取り寄せ、自ら調合して彼に飲ませた。常にベッドの横に座り、果物を切って食べさせ、楽しそうな本を持ってきては読み聞かせた。
「大丈夫ですわ」
リリアミラは、必死に言い聞かせた。
「必ず、あなたは良くなります。だってわたくしは、あなたのことを愛していますもの。わたくしがいる限り、あなたは絶対に死にません。死なせません!」
「リリア……」
固く抱擁を交わしている間は、安心できた。口吻を交わしている間だけは、安堵できた。
たとえ、その間に弱りきった彼が死んでしまったとしても、リリアミラが触れていれば、彼は蘇ることができたからだ。
リリアミラは、意志が強い少女だった。彼の肉親が病室に近づかなくなり、彼の存在が触れてはならないタブーになりつつあることがわかっていても、リリアミラは絶対に諦めなかった。
故に、先に限界がきたのは彼女ではなく、彼の方だった。
「もういい」
「え?」
「もういいよ。リリア」
「どうしたの、あなた。今日はね、東方で評判の薬草を煎じてみて……」
「触れるなぁ!」
病人のものとは思えない、怒号が響いた。リリアミラは驚いて、りんごを切っていた果物ナイフを取り落した。
16年という人生の中で、怒鳴られたのは、はじめてだった。彼に拒絶されたのも、はじめてだった。
「ごほっ、げほっ……」
「……だめですわ。無理をしては」
「……すまない。怒鳴ってしまって」
さっきの声がまるで嘘だったかのように、彼は体を丸め込んで咳き込んだ。その背中を、そっと触れて撫でる。骨と皮しかない、病人の体。それ以上に何か大切なものが抜け落ちているような、蘇った死人の体だった。
「リリア。一つ、お願いがあるんだ」
「なんでしょう? なんでも仰ってください。あなたの願うことなら、わたくしは必ず叶えてみせます!」
「ありがとう」
およそ数ヶ月ぶりに、彼は心から安堵したやさしい笑みを浮かべて、
「ぼくを、殺してくれ」
およそ数ヶ月ぶりに、彼女は彼の前で笑顔を保てなくなった。
「なにを、言っていますの……?」
「もう無理なんだ。こわいんだ。誰よりも、ぼく自身がわかっているんだ。この体は、もう治らない。蘇っても、生きることができない」
両手で顔を覆って、彼の言葉は止まらない。
「ぼくはもう、死にたくない。何度も何度も、何度も……死にたくないんだ」
愕然として、リリアミラは両手を見詰めた。
がんばれば、報われると思っていた。諦めなければ、実ると思っていた。自分の『魔法』は、神に愛された奇跡の力だと思っていた。
だが結局のところ、この力は、愛する人の命すら救えない。
「殺してくれ、リリアミラ」
「で、できません」
「ぼくの最後の願いだ。頼む」
「できません! 絶対に、いや!」
彼の体が、ベッドの上からずり落ちる。
まるで幼子のように、リリアミラはただ首を横に振って、床に膝をついた。
「……仕方ないな」
果物ナイフがそこに落ちていることに、気がついたのは鮮血が吹き出したあとだった。
「あ、あ、ああああああ……!」
彼にきっと似合う、と。せめて、病床でなるべく過ごしやすいに、と。選んだ服が、鮮血に染まっていく。
病人とは思えないほどに力強く、彼は自分の首筋にナイフをあてがっていた。
「待って、待ってください。今……」
「やめ、ろ。来るな」
彼は、即死できなかった。
口の端からこぼれ落ちる血に溺れそうになりながら、それでもなお、彼はリリアミラを睨みつけ、言葉を紡いだ。
「もう二度と、ぼくに触るな」
なぜだろう?
どうしてだろう?
こんなにも愛しているのに。こんなにも愛しているからこそ。
自分は彼に、指一本。触れることすらできないのだ。
「お前、なんか……」
聞いてはいけない、と思った。
それを聞いてしまったら、何かが壊れてしまうという直感があった。
しかし、リリアミラは目を見開いて、流れていく彼の血を見た。耳を手で塞がずに、彼の声を聞いた。
それが、愛する人の最期の言葉だったから。
「お前なんか、愛さなければよかった」
「リリアミラの様子は?」
「あれはもう駄目ですな」
「食事は与えているのかね」
「どちらにせよ、もう表には出せないでしょう」
「なんということだ。死因は刃物だと聞いたぞ!」
「彼の家には、どう説明したものか……」
「一族の汚点になる! 末代までの恥だ!」
「どうせ治らなかったのだ。あちらも厄介払いができて清々しているに違いないさ」
「リリアミラが殺したのか?」
「自殺と聞いている。同情するよ」
「彼女が殺したようなものだろう」
「不幸だな。もっと早くに死んでおけば……」
「そもそも、人を蘇らせることが異常なのだ」
「あれは危険な魔法だ」
「だが、魔法であることに間違いはない」
「左様。使い道はあるだろう」
「彼女の血縁は?」
「構わん。両親と兄は殺せ」
「実験の邪魔になるからな」
「ああ。彼女は地下へ。くれぐれも、丁重に扱ってくれたまえ」
「魔法は身体から引き剥がせないのでは?」
「やってみなければわからないだろう」
「そういう意味では、彼女の身体はうってつけだよ」
暗闇の中に囚われてから、時間を数えるのをやめた。何をされても、心は動かなくなった。
親は死んだ。兄は死んだ。愛する人は、自分を恨んで死んだ。
首と手足に鎖を繋がれ、様々な実験の対象になって、それでもなお、リリアミラは死ねなかった。
いつしか、彼と同じ感情を抱くようになった。
扉が開く。
数ヶ月ぶりに見る光に、目が焼けそうになった。
「こんにちは」
鈴の音を転がしたような、かわいらしい声だった。
「かわいそうに。こんなところに囚われて、辛かったわね。もう大丈夫よ」
慈愛に満ちた、やさしい声だった。
「わたしが来たわ」
すべてを見通すような、透明な声だった。
「……殺して」
「え?」
「わたくしを、殺してください」
「あら、あなた……死にたいの?」
闇に慣れた目で、光の中に立つ彼女の顔を見ることはできなかったけれど、
「いいわよ。それならわたしが、あなたを殺してあげるわ」
彼女が微笑んでいることは、不思議とわかった。
「自分は嫉妬している」と、自己申告するタイプのヤンデレが好きだという気付きを得ましたが、いやそれはヤンデレではないのではないか……?と悩んだり悩まなかったり。
今回の登場人物
・死霊術師さん
本名、リリアミラ・ギルデンスターン。幸せで恵まれた人生を、たった一つの魔法の存在で粉々に砕かれた女。勇者が大好きだが、魔王のことも好きだった。
・勇者くん
死霊術師さんがいつも人目を気にせず抱きついてくるので困っていたが、慣れた。
・パシリちゃん
記憶喪失で赤髪。焼きそばかたこ焼きかお好み焼きにするかめちゃくちゃ悩んでいる。
・賢者ちゃん
倒した悪魔を前にわりとマジメな話をしている最中に死霊術師さんが窓から飛び降りたため、ついに頭が狂ったかと思った。
・女騎士ちゃん
倒した悪魔を前にわりとマジメな話をしている最中に死霊術師さんが窓から飛び降りたため、ついに頭が狂ったかと思った。
・魔王
彼女の存在は、最初から人に知られているものではなかった。時間をかけて浸透し、広まり、恐怖される概念そのものに名前がついたものが、結果的に彼女であったと言われている。
リリアミラにとっては、自分の魔法を利用しようとする人間よりも、気まぐれに手を差し伸べた彼女の方が優しかった。それだけのことである。
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紫天の死霊術師
リリアミラを拾った少女は、王だった。
権力を持っているわけではない。家柄が優れているわけでもない。少女は、ただ純粋な力のみで、王としてそこに在った。
「そう。彼はきっと、あなたに殺してほしかったのね」
ただし、少女が力のみの存在であったかと言えば、それもまた違った。
魔の王を名乗る者として、彼女は相応の知恵と器量を備えていた。相手の話を聞き、心を気遣い、自分の思うところを素直に述べる人間らしさがあった。
リリアミラの話を聞き終わった王は、静かに頷いて、瞳から雫を落とした。
涙だった。
「あなたの魔法は、世界を歪める力。残念ながら、今のわたしの力でも、あなたを殺してあげることはできないわ」
だから、と。リリアミラが探していた答えに、少女は解答を用意した。
「わたしが、あなたを殺せる力を手に入れるまで。あなたは、わたしに仕えなさい。リリアミラ・ギルデンスターン」
「そうすれば……あなたは、わたくしを殺してくださるのですか?」
「ええ、殺してあげるわ」
少女の華奢な手が、リリアミラの黒髪を掴んだ。
暴力を振るわれる。殴られる。そう思って体が竦んだ。
逆だった。
少女は強引に、力だけで、リリアミラの唇を奪った。
数秒の間を置いて、熱っぽい吐息が離れた。
赤い瞳が、冷たく。それでいて、どこまでも美しく、リリアミラを見ていた。
「かわいそうなリリアミラ。わたしが、あなたを愛してあげる」
この瞳の中でなら、輝けるかもしれない。そう思った。思えてしまった。
「……魔王様」
「なあに?」
しばらく、唇に残る温かさに呆然として。
彼を殺せなかった自分を思い返し、リリアミラは問いを投げた。
「殺すことは、愛なのですか?」
魔王は、即答した。
「殺すことも愛よ」
本当に、美しい微笑みだった。
「だって、あなたはそれを心の底から欲しているもの」
そして、リリアミラ・ギルデンスターンは、世界最悪の死霊術師となった。
リリアミラが部屋に戻ると、やはりというべきか。賢者と騎士が不機嫌な顔で待っていた。
「遅かったですね」
「ええ。噂の少女にも会っておきたかったので」
シャナの皮肉はさらりと流して、ガラス張りの扉を開く。当然のように、悪魔達の血の臭いが部屋の中に広がった。とはいえ、その程度のことで動じる女は、この場には一人もいない。
「うふふ。それにしても、勇者さまとお会いすると、体に活力が漲ってきますわね。やる気がぐんぐん湧いてきましたわ」
「はぁ……仲が良さそうで、なによりですよ」
「それはもう、わたくしと勇者さまの間には、切っても切れない絆がありますから」
「絆ねぇ」
アリアの何か言いたげな視線はするりと流して、リリアミラは仕事の準備に入った。
「先ほども申し上げましたが、あまり意味はないと思いますよ?」
「承知の上です。それでも、何もしないよりはマシでしょう」
「そういうこと」
「まあ、お二人がそこまで仰るのであれば、わたくしもパーティーの一員として、力を貸すのはやぶさかではありませんが」
蘇生の魔術は、複数存在する。
例えば、ゾンビ、リビングデッドと呼ばれる動く死骸。これは、脳に魔術的な刻印を埋め込むことで、電気信号の代わりとし、術者が単純な行動を命令することができる最もポピュラーなネクロマンシーである。
「……では、はじめます」
だが、リリアミラ・ギルデンスターンの魔法は、それらの魔術的な蘇生とは、根本から異なるものだ。
「ひとーつ」
彼女の指が、肉片に触れる。
「ふたーつ」
ゆっくりと。けれど確実に。物言わぬ肉塊となっていたそれに、命が戻り始める。
「みーっつ」
バラバラになっていた体の部位が繋がり、滴り落ちるだけだった血液が全身を巡り回り、停止していた脳が活動を再開し、鼓動を止めていた心の臓が軽やかなリズムを刻みはじめる。
「よーっつ」
最後に、肺が大きく膨らんで。
文字通り、ソレは息を吹き返した。
ゆっくり数えて四つ。それが、彼女の魔法が発動する合図だった。
「……あ?」
困惑極まる、といった様子で、蘇った悪魔は周囲を見回した。
つい先ほどまで死体だったものに触れていた指先を唇に添えて、リリアミラは微笑む。
「はい。おはようございます。悪魔さま」
その様子を部屋の隅で眺めていたシャナとアリアは、顔を見合わせて溜め息を吐いた。
「いつ見ても本当にえげつない魔法ですね」
「生命の倫理に反してるよね」
「あらあら。ひどい言われ様ですわ。わたくしはお二人の指示に従って、貴重な情報源を生き返らせただけですのに」
そこでようやく、自分の置かれている状況を正しく認識できたのか、悪魔はリリアミラを睨み据え、
「……一度は滅びたこの身、貴方様の神秘で蘇らせて頂き、誠に光栄です。リリアミラ・ギルデンスターン様」
「あら?」
深々と、頭を垂れた。
予想外の反応である。リリアミラは悪魔の全身を興味深げに眺めた。
「先ほどは言葉も交わさず殺してしまいましたが、わたくしのことをご存知でしたのね」
「もちろん存じ上げております。我らが王の、最も尊き四人の使徒。その第二位に、人の身でありながら座していた、稀代の魔法使いよ」
「あらあらあら! 聞きましたかお二人とも! わたくし、稀代の魔法使いですって!」
「悪魔に褒められてそんなに嬉しそうな反応するの、あなただけだと思いますよ」
「右に同意」
体をくねらせて喜ぶ死霊術師を、シャナとアリアはやはり冷めた目で見ていた。
「しかし、だからこそわからない。一度は闇の頂にまで上り詰めておきながら、あなたは何故、あの方を裏切ったのか?」
「はい?」
こてん、と。首を傾げたリリアミラの耳元で、イヤリングが揺れる。
静と動。悪魔とリリアミラの感情の熱は、どこまでもすれ違っていた。
「あなた様さえ、あなた様さえ裏切ることがなければ……混迷の時代は終わることなく、人の世は魔が支配する楽園となっていたはず! あの方も、負けることなどなかった!」
悪魔は人を騙す。悪魔は嘘を吐く。
しかし、それは嘘偽りのない、悪魔の本心。彼だけではない、彼ら全体の本心の吐露だった。
「なるほど。あなたの葛藤はよくわかります」
リリアミラは、同意した。
跪き、悪魔の肩に静かに手を置いて、目線を合わせる。
「ですが……裏切った、というのは、少し違いますね」
お互いの認識の相違を、改めるために。朱色の唇が、滑らかに言葉を紡いだ。
「わたくしは、惚れただけですわ」
シャナとアリアが、黙って頭を抱えた。
「惚れ、た?」
「ええ」
悪魔の困惑を他所に、リリアミラは胸の前で手を合わせて、思い返す。
「人生で、三人目でした」
リリアミラ・ギルデンスターンは、その生涯の中で、三人の人物を愛している。
一人目は、自分の魔法によって壊れてしまった哀れな男。
二人目は、自分の魔法によって世界を壊そうとした、魔の王。
「わたくしは、一人の男に惚れたのです。価値感が根本から変わるのは、当然のことでしょう?」
そして三人目が、世界を救おうとした勇者だった。
「惚れてしまった弱み、ですわねえ。だって、致し方ないと思いませんか? 大好きな男に影響されてしまうのは、女の本能のようなものです」
リリアミラ・ギルデンスターンは、あの裏切りを恥だと思ったことは一度もない。何故なら、リリアミラの中で、その信念と行動の指針がブレたことは、一度たりともないからだ。
「昨日まで滅ぼそうとしていた世界も、救いたくなりますわ」
「き、貴様……」
悪魔の翼が、尾が、肩が。まるで人間のようにぶるぶると震える。
「恥ずかしくないのか!? 人の身でありながら、あの方に拾ってもらった恩も忘れ、いけしゃあしゃあと生きる己を、恥じたことはないのか!?」
「ええ。これっぽちも」
悪魔は叫んだ。
「貴様ァァァァァ!」
絶叫と同時、リリアミラの首が貫かれ、切断されて、地面に落ちた。続け様に振るわれた爪がローブを引き裂き、汚れ一つないその白を血の赤に変えていく。
「恥知らずがっ! 恥知らずがっ! どこまでも浅ましい人間の、恥知らずめがっ!」
肉を裂き、骨を割る音がひとしきり響いて、ようやく悪魔は爪を振るうのをやめた。怒りを鎮め、我に返ったように、この場に残る二人の人間に問う。
「……いいのか? 仲間が殺されるところを、黙って見ていて」
「べつに」
腕を組み、その場から動く様子も見せないまま、アリアは言った。その反応を、悪魔は鼻で笑う。
「人間は、絆を重視する生き物だと思っていたが……貴様らにとってもこの女は、所詮その程度の存在でしかなかった、ということか」
「ええ、まあ。わたし、その人あんまり好きじゃないですし」
フードの間から溢れる銀髪を指先でいじながら、シャナも気のない返答をする。
「ふん。世界を救ったパーティーの実態が、こんな有様だったとはな。ならば、次は貴様らをコイツと同じ場所に送ってやろう」
「いいんですか?」
「なに?」
欠伸を噛み殺して、賢者は言葉を続けた。
それは、悪魔に向けた、純粋な警告だった。
「──もう、四秒経ちましたよ」
ゆっくり数えて四つ。それが、彼女の魔法が発動するまでの時間だ。
悪魔が振り向く前に、耳に吐息がかかった。
「おはようございます」
艶やかな黒髪が、肩に落ちる。悪魔が切り裂いた衣服はそのままであった証拠に、豊かな胸が翼に当たる気配がした。
それは、紛れもなく生の女の感触だった。
「あ?」
自分が蘇生された時と、まったく同じ種類の声が、牙の間から漏れる。
「まさか、貴様……自分自身に、ネクロマンスを?」
「前提条件が、少し違います」
死霊術師は、否定する。
「わたくしの魔法は、
彼女に触れられたものは蘇る。
彼女自身も、蘇る。
彼女の前では、命の価値そのものが書き換わる。
それは、生命を操り、魂の尊厳を意のままに弄ぶ、傲慢なる紫天。
『
この世界を救った最悪の死霊術師にして、魔法使いである。
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか! 貴様のように志のない者が、そんな力をっ!」
「ああ……やはり魔王様は、あなたのような徳の低い悪魔とは、器が違いましたわね。あの方は、わたくしを送り出す時も、いつもと変わらぬまま、言ってくださいましたよ?」
お幸せに、と。少女は言った。
その裏に秘められた真意は、おそらくこの悪魔には一生理解できないだろう。
「わたくしの魔法のことをわかっていないくらいですから、何も知らないとは思いますが……しかし、知っていることを絞り出すために、尋問の真似事はさせていただきますね? わたくしの心強い仲間も、ちょうど二人いることですし」
「……や、やめてくれ。殺さないでくれ。もう、死にたくない……死にたくない!」
「あら、何を言っているのでしょう? あなたは死んだのですよ?」
死霊術師の左右に、賢者と騎士が、無言のまま並び立つ。
「一度死んだモノが、生き返ったらダメでしょう?」
愛とは、どこまで醜いものなのだろう。
それは乱戦の中の偶然だった。
その勇者とは幾度となく殺し合ってきたが、主戦場から外れ、他の仲間からも離れ、二人きりで対面するのは、はじめてだった。
その頃になると、勇者もリリアミラの魔法の性質を理解していたのだろう。他のモンスターを蘇生させるリリアミラを付け狙い、徹底的に潰そうとするようになっていた。
リリアミラは基本的に、戦場において前に出ることはない。戦闘は他の四天王と、操ることができる蘇生対象に任せ、後ろに下がっていることがほとんどだった。故に、その瞬間は勇者にとって、最大の好機だったのだ。
雨が、強く降っていたのを覚えている。
──覚悟しろ
リリアミラは、呆気なく勇者に押し倒された。
口の中が、砂利まみれだった。
全身がずぶ濡れで、寒くて、今すぐシャワーを浴びたいと思った。
激昂する勇者の表情を、リリアミラは降りしきる雨のように、どこか冷めた気持ちで見ていた。
それが、なによりも勇者の心を逆撫でしたのだろうか。彼の中で、何かが切れた音を、リリアミラはたしかに聞いた。
──お前さえ、お前さえっ……いなければ!
自分の身体に馬乗りになって、剣を向ける勇者の体の熱が、心の熱が、肌を通してリリアミラの体に伝わってくる。
温かい、と思った。
──殺してやる。殺してやる……絶対に、俺が殺してやる
どす黒い感情を吐き出しながら、勇者は幾度も死霊術師の体に剣を突き立てた。
腕を刺された。
足を刺された。
頭を刺された。
心臓を貫かれた。
それでも、リリアミラは死ぬことができない。勇者は、リリアミラを殺すことができない。
やがて、勇者は剣を取り落とした。
──お前さえ、お前さえ……
素手で女の細い首筋を掴み、勇者は言う。
──お前さえ、殺せれば……お前さえ、おれの味方だったら、みんなは、死なずに済んだのに……!
涙だった。
リリアミラは、見た。
殺意と憎悪と悲しみと、あらゆる感情がごちゃ混ぜになった涙の中に、世界を救うということの本質を。なによりも、自分が求めていたものを見た。
これだけの憎しみがあれば、きっとこの人は、いつか自分のことを殺してくれる。絶対に、終わらせてくれる。
だから、
──味方になって、差し上げましょうか?
その憎しみが、裏返る瞬間を見たくなった。
首を締められながら、静かに絞り出したその一言を。聞いてしまった瞬間の勇者の顔を、リリアミラ・ギルデンスターンは生涯忘れない。
だって、あんなに美しい顔を見るのは、はじめてだったから。
──条件は、何だ?
震える声で、勇者が問う。
この瞳の中でなら、死ねるかもしれない。そう思った。思えてしまった。
──簡単ですわ。いつか、わたくしを殺してください
死霊術師は答えた。
それだけだった。たったそれだけで、二人きりの契約は完了した。
だから、殺させるわけにはいかないのだ。
だって、彼に殺してもらうのは自分なのだから。
仕事を終えて、再び勇者の元へ戻ると、彼は椅子に座ってゆったりと海を眺めていた。赤髪の少女の方は、遊び疲れたのだろう。机に突っ伏して寝ている。
「お隣、よろしいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
リリアミラは静かに、彼の隣に腰掛けた。
「お仕事は終わった?」
「ええ。滞りなく」
「さっきのことだけど」
「さっきのこと?」
「……嫉妬がどう、ってやつ」
「ああ。お忘れください。馬鹿な女の戯言ですわ」
「忘れないよ」
リリアミラは、逸していた視線を戻した。
からん、と。彼が持つコップの中の氷が、砕けて割れた。
「おれはあの日から、きみとの約束を、片時も忘れたことはない」
勇者は、リリアミラを横目で見た。
その冷たい横顔を、リリアミラは知っている。その横顔は、リリアミラしか知らない。
「だから、安心していい」
勇者は、リリアミラに言った。
その低い声を、リリアミラは知っている。その声は、リリアミラしか知らない。
シャナも、アリアも、ムムも、誰も知らない。他の誰にも見せたことがない、勇者の表情と声音と……その心を、リリアミラだけが知っている。
「……うふふ」
ああ、そうだ。
これだけは、自分のものだ。この感情だけは、自分にしか向けられないものだ。
だから、絶対に誰にも渡さない。
「勇者さま」
「ん?」
椅子から立ち上がり、背を伸ばし、腕を広げて振り返る。
今にも溶け落ちてしまいそうな夕焼けを背に、リリアミラ・ギルデンスターンは微笑んだ。
「わたくし、やっぱり勇者さまのことが大好きですわ」
ミラさん、と。
彼に名前を呼んでもらうのが、少し恥ずかしかった。
愛とは、優しく温かなものだけではない。冷たく、残酷で、時に人を殺すものを、愛と呼ぶこともある。もしかしたらそれは、正しい愛ではないのかもしれない。
それでも、もし。人を憎み、世界を壊す気持ちに正しさがあるのなら、彼ほどの愚直さを持ってそれを為す人間を、リリアミラは知らない。
だから、愛そう。彼がいつか、自分を終わらせてくれる日まで……あの硝子細工のような激情と同じ愛を彼に注ごう。
殺してくれ、と彼は言った。
彼女は、彼を殺すことはできなかった。
故に、魔の道に堕ちた。
殺してくれ、と彼女は言った。
彼は、彼女を殺すことを誓ってくれた。
故に、世界を救う支えとなった。
嘘偽りのない、彼と彼女が交わしたたった一つの約束を、何人も否定することはできない。
愛とは、どこまで醜いものなのだろう。
そう思っていた。今は違う。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に想い焦がれるものが多いのは知っている。
それでも、リリアミラ・ギルデンスターンは、信じている。
──わたくしの愛が、最も美しい。
今回の登場人物
・死霊術師さん
本名、リリアミラ・ギルデンスターン。黒髪巨乳死にたがり死霊術師。魔王軍の元四天王、第二位。その魔法を以てして、勇者達を苦しめた最大の要因の一つ。魔王はリリアミラの魔法を効率的に運用し、モンスターが撃破されることによる戦力の低下を防いだ。数で劣る魔王軍が、人類を苦しめ続けたのは彼女の魔法があってこそ。逆に言えば、彼女が寝返った時点で、魔王個人の討伐という根本を除いて、人間側の勝利は決定的なものになったと言える。
魔王を討ち取った際、勇者は彼女を殺すに足るだけの力を蓄えていたが、魔王が遺した呪いによって、その力は失われてしまった。リリアミラはそれを、魔王が自分に向けた嫉妬のようなものだと思っている。勇者と魔王、二つの相反する存在を愛した、おそらく唯一人の女。
・悪魔くん
ラッキースケベ
・賢者ちゃん
尋問した。
・女騎士ちゃん
尋問した。
・赤髪ちゃん
ラブロマンスの傍らで、彼女は眠る。
・勇者くん
死霊術師さんに対して、パーティーメンバーの中で最も複雑な感情を抱いている。
・魔王
唇は強引に奪うタイプのカリスマ少女。リリアミラのことを愛していた。裏切られた際は、彼女に『良い人』が見つかったことを、むしろ喜んだという。結果として、勇者との最後の決戦に望む決意が固まった。
今回の登場魔法
固有魔法『
言うまでもなく、魔法はその所有者によって使い方が異なる。善であるにしろ、悪であるにしろ、時の為政者の影には、常に魔法使い達がいたと言われている。剣技を極めようと、魔術の深淵に辿り着こうと、その先に待つ最強には、常に魔法の存在があった。
『
奇跡を謳う毒。落ちた生命を掬い上げる薬。全ての人間を幸せにも不幸せにもできる、この世に生きる命の価値に、唾を吐きかける魔法。
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そして、すべてが裏返る
「勇者さん勇者さん! わたし、ドラゴンに乗るのはじめてです!」
「厳密に言えば、ドラゴンに乗るというよりも、ドラゴンが吊り下げている船に乗ってるんだけどね」
海水浴をたっぷり楽しみ、お土産をたくさん買い込んだ、その翌日。
おれと赤髪ちゃんは、空にいた。厳密に言えば、空を飛ぶ船の上にいた。今まで転送魔導陣でぽんぽんと自由に移動してきたが、あれはどこにでもあるものではない。この街から移動するには、またそれなりにお金と時間がかかる。そんなわけで、死霊術師さんの「せっかくですから、わたくしの船に乗って空の旅を楽しんでくださいな」というご好意に甘えて、そのまま船に乗り込んで移動することになった。部屋まで用意してもらって、ほんとにありがてえありがてえ。
「すごいですすごいです! 雲が下にあります!」
「ドラゴンの飛行能力はモンスターの中でも随一……というか、これ以上のサイズで飛行できる魔物は理論上存在しないからなぁ」
死霊術師さんは魔王軍からパクったドラゴンを十匹ほどサクッと蘇生して使役して、空輸をメインに莫大な利益を得ている。が、最近は空輸だけでなく、空中運行船を使った観光業にも精を出しているとかなんとか。たしかに、普通の人は空を飛ぶ経験なんて中々できないので、これは人気が出そうだ。事実、赤髪ちゃんも窓際から離れずに、すっかり外の景色に夢中だ。
この調子なら、しばらく一人にしても大丈夫だろう。
「じゃあ、おれはちょっとみんなと話してくるよ」
「あの、勇者さん」
「ん?」
「それ、わたしについてのお話、ですよね……?」
やはり、というべきか。赤髪ちゃんはのほほんとしているようで、察しがいい。
「うん。今のところは問題ないけど、赤髪ちゃんが狙われてるのは間違いないからね。それについての相談」
悪魔が云々、という話はする必要もないので伏せておく。
「すいません。わたし、ご迷惑ですよね。勇者さんのことも、みなさんのことも、危険に晒して……」
「はいはい。謝るの禁止」
それより先を言われる前に、言葉を押し留める。
「そんなに心配しなくても大丈夫。自分で言うのもおかしな話だけど、こう見えてもおれ、世界を救った勇者だからさ」
盗賊に追われ、あちこちに転送され、ゴーレムにまた追われ……大変なことも多い旅だったが、それよりもおれは、赤髪ちゃんと一緒に過ごす時間の中で、ワクワクして、楽しいことの方がずっと多かった。
「女の子を一人、助けることくらい、どうってことないよ」
だからちょっとくらい、かっこつけてもいいだろう。
『女の子を一人、助けることくらい、どうってことないよ』
「おーおー。勇者さん、かっこいいですねぇ」
『女の子を一人、助けることくらい、どうってことないよ』
「どうってことない、だって。これ勇者くん、めちゃくちゃかっこつけてるよね」
『女の子を一人、助けることくらい、どうってことないよ』
「はぁ〜、勇者さまはやはり素敵ですわ〜!」
ダメでした。
「やめてくださいゆるしてくださいおねがいしますなんでもしますから」
床に膝をついて、頭をこすりつける。
会議室に来たら、おれのさっきの言葉が録音され、大音量で繰り返し再生されて、パーティーメンバーに聞かれていました。なんだよこれおかしいだろ即死呪文だろ。
「ていうか、なんでおれの声拾われてるの? この船の客室、もしかして安普請なの? 見掛け倒しなの?」
「あら、失礼ですわね。勇者さまたちに用立てたお部屋は、最高級のスイートルーム。防音性能にも拘っていますから、激しく夜の営みをしてもなんの問題もありませんわ」
「私が仕込んだ魔力マーカーのおかげです。これだけ近くにいれば、声くらい簡単に拾えます」
「おれのプライバシー!」
絶叫して拳を床に叩きつける。が、そんなおれの慟哭を無視して、賢者ちゃんはおれに椅子をすすめた。はいはい、さっさと着席しますよ。
「さて、揃いましたね」
「うん、揃ったね」
「ええ、揃いましたわね」
今後の方針を話し合おう、ということで。
死霊術師さんが用意してくれた会議室には、懐かしい顔ぶれが勢揃いしていた。
「いや、師匠がいないんだけど」
「あの人は最初から頭数に入れてません」
「どこにいるかわからないしね〜」
「繰り返しになりますが、わたくしはあの方がキライです」
師匠の、扱いが、ひどい!
とはいえ、あの人は本当にいつもふらふらしているので、仕方のないところはあるんだけど。
「それで、何かわかったことは?」
「すでに勇者さんも気づいていると思うのですが、あの子は明らかに上級悪魔に付け狙われています。まず私が、最初の一体に王都で接触。殺しました」
「で、次にうちの領地に二体が来たから、迎撃したよ」
「わたくしは三体倒しました。わたくしの勝ちですわね」
「は? 最初に倒したのは私なんですが?」
「単純に接触してから倒すまでの時間なら、あたしが一番早いと思うよ」
「お二人とも、見苦しいですわね。数に勝る実績はないでしょうに」
「競争してんの?」
思わずツッコむ。
さらっと言い争っているが、本来、上級悪魔というのはそれ単体で街に甚大な被害をもたらす災害のようなものである。討伐のために、騎士団の団長、副団長クラスが出張るレベルだ。少なくとも、倒した数やスピードを競って勝負するような敵ではない。
「この短期間で、上級悪魔が六体。明らかに、異常な数です」
「しかも、どの悪魔もあたし達の『魔法』の性質を知らなかった」
「だから、取るに足らない雑魚だった、とも言えるのですが」
三人が口々に言った意見に、軽く頷く。
「ただ、いくら雑魚でも悪魔は悪魔。無視はできないよ」
「それについては、私も同意見です。あの子を連れ歩くことで、ほいほいと悪魔を引き寄せるわけにもいきません。勇者さん達が滞在した場所に迷惑がかかります」
「それもそうだ」
「あのぉ……賢者さん? うちのお屋敷、それで全壊しているんですけど?」
顔は笑顔のままだが、騎士ちゃんが持っているマグカップのコーヒーが、目に見えて沸騰する。
マジか、お屋敷全壊しちゃったのか……それは本当に悪いことしたな。騎士ちゃんに謝ることがまた増えちまった。
「人的被害をゼロで撃退したのは、流石という他ありませんね。私の見立て通りでした」
「素知らぬ顔でほんとよく言う……こっちに悪魔の処理を押しつけたくせに」
「おや、そんな風に皮肉を言われると残念ですね。修繕費はこちらで出すつもりだったんですが」
「うん! ちょうど建て替えたかったんだよね!」
騎士ちゃん、変わり身が早すぎる。それでいいのかお姫様。
ごほん、と賢者ちゃんが咳払いを一つ。
「そんなわけで、騎士さんの時のように物理的な被害を出すのを避けるために、彼女の身柄の安全を確保できる場所として、この船を選んだというわけです」
たしかに、空の上なら襲撃の確率はぐっと減る。何せ、船を牽引しているのが最大級のモンスターであるドラゴンだ。そこらへんの騎士に護衛を頼むよりも、数百倍安全である。
「仮になんらかの手段で空中のこの船を襲撃されたとしても、死霊術師さんに被害が出るだけで済みますからね」
「あらあら、その口ぶりだとわたくしの会社に物理的な被害が出るのは構わない、と言っているように聞こえますわ」
「その通りです。しかも、死霊術師さんの魔法なら人的被害が出ても安心ですよ」
「遠回しにわたくしに死ねと仰る?」
「あなた絶対に死なないじゃないですか」
剣呑な視線が、ねっとりと絡み合う。うちのパーティーは仲良し! 仲良しです! 本当です!
喧嘩になると面倒なのでおれが止めようかとも思ったが、それより早く騎士ちゃんが仲裁に入る。
「でも、死霊術師さん、よく引き受けてくれたよね。襲われるかもしれないのに」
「まあ、あの程度の悪魔なら、わたくし達が揃っていれば迎撃は可能ですし」
口元に手をあてて、死霊術師さんは余裕綽々といった様子で微笑む。
「それに、わたくしもあの子のことは気に入っております。かわいいじゃありませんか。大事にしてあげたいでしょう?」
「そうだね。それについては同意、かな」
「べつに私はあの子がどうなろうとどうでもいいですが、勇者さんがここまで気にかけているなら、仕方ないですね」
「またまた〜、賢者さまもなんだかんだで気にしてるくせにー」
「素直じゃないですわね」
「だぁー!? 頭撫でないでください! 髪が乱れる!」
「いつもフード被ってるんだからべつにいいじゃん」
「そういう問題じゃねぇんですよ!」
うん。本当に、昔に戻ったみたいでなによりだ。
話し合いの結果、当面はこの船で赤髪ちゃんを匿いつつ、敵の出方を伺う、ということになった。立ち上がって扉を開けたところで、死霊術師さんに声をかける。
「死霊術師さん」
「はい?」
「申し訳ない。迷惑をかける」
「勇者さまが謝られることは何もありませんわ。あの子を助けてあげたいと、そうお思いになったのでしょう?」
「うん」
「ならば、お心のままに。成したいことをなさってくださいませ。今は一般の乗客も乗せていますが、次の寄港地で関係者以外は降ろします。危険があっては困りますので」
死霊術師さんの有能さは、こういう時に際立つ。配慮が行き届いていて、もうマジで頭を下げるくらいしかおれにはできることがない。
では、と去っていく白いローブの背中を見送っていると、後ろから服の袖を引っ張られた。
「あたしに、なにか言うことは?」
女騎士ちゃんである。
「……いろいろ、ごめん」
「いろいろ、とは?」
「おれたちをあの場から逃してくれたこと、屋敷を壊しちゃったこと、自分の領地を留守にして、こんなところまで来てくれたこと」
「それから?」
「……あー」
気まずいな、と思う。しかし、誤魔化すつもりはない。
──あたしの名前は忘れたのに、あの子の名前は気になるんだ?
碧色のきれいな目を正面から見て、逸らさずに謝罪する。
「……名前のこと、ごめん」
「うむ。よろしい」
「お姫様かな?」
「お姫様ですが?」
お姫様でしたね……
特に騎士ちゃんは、人と話すのが好きなお姫様だ。言葉を交わしていると、表情も自然とやわらかくなる。
「うそうそ。あれは、あたしも悪かったよ。自分が助けようとしてる女の子だもん。名前が気になるのは当然だよね」
「そう言ってもらえると、助かる。ごめん」
「だから、もういいよ。それよりも、勇者くん」
くるり、と。
その場で騎士ちゃんが回る。金髪と、白のワンピースが、花びらのように舞って広がった。
「あたしに、何か言うことは?」
「はい。とてもよく似合っています。お姫様」
「うむうむ。よろしい」
にしゃり、と。騎士ちゃんが笑う。
向日葵みたいなその笑顔は、全然お姫様らしくはなかったけど、やっぱりこの子にはこういう顔で笑っていてほしいな、とおれは思う。小っ恥ずかしくてとても口には出せないけど。
「さて……」
今にもステップを踏み出しそうな、軽やかな足取りのお姫様を見送る。そのまま、素知らぬ顔で横を通り過ぎようとしている小さな黒いフードを、おれは片手で引っ剥がした。
「わー、なにするんですかー」
「棒読みやめろ。何も言わんでもわかってるくせに」
中に隠れていた銀髪がこぼれ出て、不健康なほどに白い肌が露わになる。賢者ちゃんは、乱れた髪の毛を整えながら、上目遣いにおれを見た。
「なんのことだか、さっぱりです。私、何か勇者さんに怒られるようなこと、しちゃいましたか?」
「魔力マーカー、もういらないでしょ。剥がして」
「ちっ……」
かわいい顔で舌打ちをするな!
「一応、勇者さんにはわからないように仕込んだつもりだったんですけどね、これ」
「それはおれを舐めすぎ。何年一緒に旅してたと思ってんだ」
「うぅむ……次は誰にも気づかれないように改良しておきます」
「しなくていい」
おれだってプライベートは守りたいんだよ。
「何回も確認することになって悪いんだけど、何かわかった?」
「残念ながら何もわかってないですね。ここにいる私と並行して、かなりの人数を調査に割いているのですが……」
「襲われたりはしてない? 大丈夫?」
いくら増えることができるとはいえ、おれの知らないところで賢者ちゃんが襲われているのは、なんというか心苦しい。
そんな質問が飛んでくるとは思っていなかったのか、賢者ちゃんは何回か目をぱちくりさせて、それから「むふー」と息を吐いた。なんだコイツ。
「心配はご無用ですよ。私は正体不明の敵に襲われてすぐ死ぬようなヘマはしません」
「じゃあ王都の悪魔も普通に倒したの?」
「いえ、一人死にましたけど」
「一人死んでるじゃん!」
「でも、死霊術師さんもさっき、悪魔を尋問してる時に死んでましたよ?」
「あの人は厳密に言えば死んでないから死んでもいいんだよ!」
いや、よくはないけど。うちのパーティーメンバーの倫理観がおかしい。
片手で頭を抱えながら、片手を賢者ちゃんに差し出す。杖すらも使わず、指の一振りで手のひらに刻印されていた魔術マーキングは解けた。
「……また腕あげたなぁ」
「励んでますから」
ない胸を張っているので、よしよしと頭を軽く叩いて撫でる。
「む。そういえば」
「何かあった?」
「私を襲った悪魔は、魔封じの呪符を使ってました。それも、結構強力なやつです」
「呪符、か」
貴重な情報であることに間違いはないけど、それだけで悪魔たちの正体や狙いを推し量れるものではない。
「とにかく、調査は続けます」
「わかった。無理はせずに気をつけて」
「うちのパーティー、勇者さんのために無理をする人しかいませんよ?」
「ありがたいけど、困るなぁ」
本当に、俺は仲間に恵まれていると思う。
いかにも広い船らしい、細く長い廊下を、ぼんやりと歩く。
やれることは、やっているつもりだ。賢者ちゃんも騎士ちゃんも、意外なことに死霊術師さんも、赤髪ちゃんのためにとてもがんばってくれている。だが、根本的な解決に繋がっているわけではない。さっきも当たり前のように流してしまったが、悪魔と戦うのは当然、命の危険を伴う行為なわけで。
おれは、あの子を助けたいという自分のわがままで、仲間を危険に晒してしまっている。なにより、彼女達の強さに甘えてしまっている。
「あ、勇者さまだ!」
「勇者さま!」
いつの間に下を向いていたのか。唐突にふってきた、明るく元気な二つの声に顔をあげた。
「おお! 少年少女じゃん!」
目の前には、かわいらしい笑顔がワンセット。利発そうな男の子と、勝ち気な女の子が一人ずつ。おれが住んでいる街で仲良くしている少年少女……赤髪ちゃんを拾った時に一緒にいた、あの男の子と女の子である。
「なんでここに……」
いるんだ、と言いかけて、死霊術師さんが言っていたことを思い出す。
「お父さんがねー、商店の福引きでこのお船のチケット当ててくれたんだ!」
「すごいでしょ!」
「ははっ、なるほど。そりゃたしかにすごい」
そういえば、一般の乗客も乗ってるって言ってたもんな。
死霊術師さん、本当に商魂逞しいというか、如才ないというか、実にしっかりしている。こういうラッキーな家族から空を行く船の評判が広まれば、自分も乗ってみたい、というお客さんも増えるだろう。一時期は魔王軍の資金面の管理をしていたのは伊達ではないのか、商売に関しては本当に手抜かりというものがない。
「勇者さまも、しばらくお家いなかったけど……」
「わたしたちと同じで、旅行してたの?」
「ああ、そんな感じ。あのお姉ちゃんも一緒だよ」
「お姉ちゃんもこのお船乗ってるの!?」
「勇者さま、もしかして新婚旅行!?」
「はっはっは。全然違うぞ」
まったくこれだから最近のマセガキは。
立っているとどうしても見下ろしてしまう形になってしまうので、おれは膝を折って二人に目線を合わせた。
「ほら、あのお姉ちゃん、自分のこと何も覚えてなかっただろ? だから、自分のことを思い出すお手伝いができればいいなって考えてたんだけど」
「だめだったの?」
「そうだなぁ」
まったくこれだから最近の素直な子どもは。
思ったことをはっきり言ってくれるぜ。
「でも、わかったこともたくさんあったよ」
言い訳かもしれない、と自分でも思ったが。
「まず、赤髪のお姉ちゃんはとてもよく食べる。見ているこっちが楽しくなってくるくらいに、よく食べる」
「たくさん食べるのえらいって、お母さんが言ってた!」
「うんうん。そうだな」
なんとなく、子どもたちの顔を見ながら、言葉を止める気にはならなかった。
ある意味、子どもたちだからこそ、話しやすかったというのもあるかもしれない。一つずつ、赤髪ちゃんのことを思い出しながら、二人に語る。
「乗り物とかには、ちょっと酔いやすかったかな。苦手なのかもしれない」
これから、一緒に船に乗ることなどがあったら、気をつけてあげたい。
「地頭は良くて、でも意外と抜けてるところがあって。わりと、人のことはよく見ていて。口調は丁寧でも、言いたいことや聞きたいことはハッキリ口に出すタイプで」
でも、そういうちょっと押しが強いところは、おれは案外嫌いではなかったりする。
「動物が好きで、優しかった。海が好きで、空も好きだった。さっきも、窓の側から離れなかったよ」
「わたしたちと同じだー!」
「同じ〜!」
「そうだなぁ……同じかもな」
師匠も言っていた。赤髪ちゃんは、まだ子どもだと。
見た目はこの子たちよりもずっと大きいけど、赤髪ちゃんにはまだまだ知らないことがたくさんあって。だから新しいものを見る度に、あんなに目を輝かせて喜んで。
そんなかわいい女の子のために、おれは何ができるのだろう?
「勇者さまは、お姉ちゃんのこと、たすけてあげたいの?」
やはり、子どもは鋭い。
まるでおれの心の中を読んだかのように、男の子が聞く。
「うん。なるべく助けてあげたいって思うよ」
「勇者さまは、お姉ちゃんのこと、好きなの?」
女の子が目を輝かせて、おれの手を握る。
「そういう聞き方をされると、照れるな」
「照れちゃダメだよ! 勇者さまはすごいよ!」
「ね! はじめて会った、全然知らないお姉ちゃんのことを助けようとするなんて、普通の人にはできないよ」
「そうかな?」
「そうだよ!」
「勇者さまは、やっぱり勇者さまなんだよ!」
「だからやっぱり、傲慢だね」
その一言で。
何かが、致命的にズレる音がした。
「あ?」
振り払う。立ち上がる。離れる。後退る。
それらの動作を考えず、脊髄の反射だけで行った。自然と飛び退いて、子どもたちから距離を取った。
「あ、よかった」
「やっと気がついた?」
「……お前ら、
自分でも、驚くほど低い声が漏れた。
それを絞り出すのが、やっとだったと言った方がいいかもしれない。
「わたしたちは、わたしたちだよ」
「そう。ぼくたちはぼくたち」
「勇者さまと、ずーっと一緒にいたもんね」
「いつも遊んでもらってたもんね」
顔を見合わせて、くすくすと笑う声が、廊下に響いて満ちる。
おれと、子どもの形をしたソレ以外。廊下には、誰一人として他の人間はいなかった。忽然と消えていた。
「質問に答えろ」
「わたしたちの、正体?」
「もうなんとなく、わかっているくせに」
翼が生えたわけではない。牙がぎらついているわけでもなく、肉を引き裂くための鋭い爪が見受けられるわけでもない。
そんなわかりやすいバケモノの記号があれば、どんなに楽だろう、と思えた。
悪魔の中でも、
「それにしても勇者さま、助けたい、なんてよく言えるよね!」
「そうだよね。ぼくたちがいなかったら、お姉ちゃんと出会うことすらできなかったのにね!」
「あの日、勇者さまを遊びに誘ったのは、誰だったかな?」
「あの日、勇者さまにお姉ちゃんのことを教えてあげたのは、誰だったかな?」
ああ、そうだ。
そもそも、おれがあんなにも都合良く、彼女を助けられたのがおかしかった。
おれがあの子を拾ったのは。あの子に出会って、手を差し伸べたのは……
──勇者さま、こっちきて! みてみて!
──なんかあっちからお馬さんが来るよ?
──勇者さま
──勇者さま
「
きっと最初から、運命などではなかった。
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裏切り者
正直に言えば。
子どもの皮を被ったその悪魔が口にした事実を聞いて、おれは動揺した。間違いなく、心が揺れ動いた。
コイツが、黒幕なのか。コイツは、いつからおれの側にいたのか。そもそも、何の目的で、あの子をおれと近づけたのか。
様々な疑問が、頭の中でぐるぐると、ぐるぐると渦巻いて、その結果、
「うるせえ」
困惑よりも、怒りが勝った。
芝居がかった目の前のバケモノのセリフが続く前に、手と足が前に出た。自然に体が動いた、と言った方がいいかもしれない。
ソレは少なくとも、見た目は子どもの姿をしている。だが、目の前に溢れ出る異常な魔力の気配は、明らかにソレがバケモノであることを示していた。故に、先手必勝。
的が小さい。しかし、容赦する必要はない。肩を掴み、膝を顔面に入れようとして、
「手が早いね」
次の瞬間には、おれの体は十数メートル後ろに飛ばされていた。
物理的に、ではなく。何らかの特別な力によって、だ。
「っ!?」
奇妙な浮遊感から、重力が体に戻って、着地。足が触れて、台座が倒れる。そこに飾ってあったはずの花瓶が、何故か少年の手元にあった。
空間転移の魔術、ではない。高位の魔導師であれば、短時間で自身や他者の転送も可能だが、いくら短距離とはいえ、これだけのスピードで転送魔導陣を構築できるとは考えにくい。
「……魔法か」
正体を現してから、はじめて。得体の知れない子どもの表情に、純粋な驚きの色が浮かんだ。
「へえ、びっくりしたなぁ」
「今の一回でわかるなんて、すごいすごい」
パチパチ、と。なんの重みもない軽い拍手の音が響く。
剣は、部屋の中に置いてきた。拳で戦うしかない。しかし、相手は二人。殴ればなんでも壊せる師匠ならいざ知らず、鈍っているおれの腕では一撃で致命傷を与えるのは難しい。
不幸中の幸いというべきか、ここは船内の狭苦しい廊下だ。接近はしやすい。片方を組み伏せて、関節を決めれば……
「いろいろ考えてるみたいだけど」
視界が、暗転した。
「それじゃ遅いよ」
目の前に、朗らかな少女の顔があった。
咄嗟に交差させた腕に、先ほどのお返しとばかりに、拳が叩き込まれる。みしり、と骨の軋む嫌な音と共に、全身が勢いのままにふっ飛ばされた。
突き当りの壁に、衝突。息を吐いて、膝をつく。少し遅れて、床に落ちた花瓶が割れる音が響いた。
「……ガキのくせに、パワーあるな」
「だって、ガキじゃないもん!」
「人を見た目で判断しちゃダメだって、習わなかった?」
空間を操作する類いの魔法であることは、確かだ。しかし、タネがわからない。
「一発入れた程度で、調子に乗るなよ」
強がりと一緒に、血が混じった唾を吐き捨てる。
「こわい顔して凄んでみせても、ダメだよ勇者さま」
「こっちの
間違いない。コイツらは、おれたちの魔法を知っている。厳密に言えば、おれの魔法を把握している。
「ぼくたちは魔法が使える。きみは魔法が使えない」
「これじゃあ、勝負にならない。子どもでもわかることだよ」
子どもの姿で、バケモノはさぞ楽しげに嘯いてみせる。
「生憎、こっちは世界を救った勇者なんでね。今さらちょっとばかし格の高い悪魔が出てきたところで、なんとも思わないんだわ」
「強がりもそこまでいくとおもしろいね」
「滑稽だね」
間合いを取っても意味がない。あの空間操作系の魔法の正体を看破しない限り、攻撃の主導権は常にあちらにあると言って過言ではない。
「仲間が来てくれるの、待ってるんでしょ?」
しかも、頭までよく回るときた。もう本当に、勘弁してほしい。
「ぼくたちとお話をして、時間を稼ぎたい気持ちはわかるけど」
「無駄だよ、仲間はこない」
小さな手を繋いで、バケモノは少しずつ歩み寄ってくる。
「だって、きみのパーティー、裏切り者がいるもの」
なんでもないことのように、悪魔は言ったが、
「お前ら……」
言葉が、続かない。
戯言だと。切って捨てるには、その一言はあまりにも強烈だった。
「勇者さま、勇者さま」
「世界を救ってから、ずーっと勇者さまのことを見ていたよ」
「魔王様の呪いは、辛かったねぇ」
「でも、もう大丈夫だよ」
「わたしたちが、勇者さまをその呪いから解放してあげるよ」
「……お前らが何を企んでいるにせよ。あの子は、渡さない」
呪いから解放する、とコイツらは言った。
基本的に、高位の呪詛の解呪は、それをかけた術者にしかできない。
必然的に、二匹の悪魔は自分たちの目的を声高に宣言していた。
魔王の復活。それが、このふざけた悪魔の狙いだ。
「あの子は渡さない?」
「そんなこと言って、勇者さまだって、もう気がついているんでしょう?」
「何に?」
「またまたぁ。とぼけちゃってぇ」
「残念ながら、お前らの正体に気がつけなかったくらい、鈍感なんでね。あんまり察しがいい方じゃないんだ」
「無知を誇れるのは、人間の美徳だね」
少女が笑い、少年が言う。
「あの子、記憶喪失じゃないよ」
あまりにも、あっさりと。それを言われた。
「……」
驚きはなかった。
わかっていなかった、と言えば嘘になる。
──ここがどこなのか。今が何日の何年なのか。自分が誰なのか。そういうことを、まったく覚えていないんです
本当に記憶喪失であるのなら、まず困惑があって然るべきだった。何を覚えていて、何を忘れているのか。あんなにも落ち着いて自己申告できるわけがない。
──聴覚だけでなく、視覚にも作用する呪い……ということは、感覚器官だけじゃなく、魂そのものに作用するような……
明らかに、魔術の知識があった。呪いがどういうものであるかを理解し、おれの体にかけられたそれを、冷静に分析していた。
──でも、本物のお姫さまに会うなんて、多分はじめてですよ
──わたし、こんなにきれいで良いお洋服を着るの、はじめてだったので
──勇者さん勇者さん! わたし、海見るのはじめてです
──勇者さん勇者さん! わたし、ドラゴンに乗るのはじめてです!
はじめて、と。繰り返し言っていた。
最初は誤魔化していた。だけど、途中からはもう誤魔化せなくなっていた。
あんなにも、キラキラと顔を輝かせて。自分がそれを見るのが、触れるのが、はじめてであることを、彼女自身が確信していたのは明らかだった。
悪魔の言葉の根拠は、あの子と過ごした時間の中にいくらでも転がっていて。
だから、反応が遅れた。
「殺しはしないよ。そういう契約だからね」
「最後に一つ、教えてあげる」
気がつけば、手を触れられていた。
「ぼくは『
「わたしは『
声が、はじめて重なって。
「「
その名を聞くことができた事実に、おれは目を見開いた。
「お前、名前を……なんで」
「さあ」
「どうして、でしょう?」
答えを、掴む前に。
「──
告げられた魔法によって、おれの視界は闇に閉ざされた。
「で、どうしたんですか、リリアミラさん。折り入ってお話したいことがある、なんて。珍しいですね」
「そうだね。もしかして、勇者くんがいたら話しにくいことなのかな?」
「はい」
勇者と別れたあと。シャナとアリアはリリアミラに呼び出され、その私室に案内されていた。いつもうすっぺらい笑顔を絶やさずはりつけている彼女が、表情に深刻な色を滲ませている。それだけで、二人は居住まいを正した。
「単刀直入に申し上げます。わたくしたちの中に、裏切り者がいます」
アリアは片方の眉を吊り上げたが、シャナは表情を少しも動かさなかった。
「根拠をお聞きしても?」
「女の勘、と格好をつけてみたいところですが……疑問が確信に変わったのは、賢者さまからお話をお聞きしたあと。わたくしが襲撃に先んじて、悪魔達を討ち取った時です」
あくまでも淡々と、リリアミラは語る。
「勇者さまとあの少女の居場所を把握しているかのような、襲撃の手際。先読みとも言える行動の早さ。わたくしは身辺に気をつけていたので、何とか事前に察知できましたが、普通の人間なら寝首をかかれるところですわ」
「ですが、私達の魔法を知らないことはどう説明するんです? 我々を殺すにしろ、最低限足止めするにしろ、それぞれの魔法の性質については、知識として持っていなければ勝負にすらなりませんよ」
「捨て駒、だったのでしょう。もしくは、黒幕もわたくし達の魔法を知らない、新しい存在だった、と考えた方が妥当かもしれません。このあたりの分析については、賢者さまのご意見と一致すると思いますが?」
「そうですね」
顎に手をあてて、シャナは頷いた。
「……で、あなたは裏切り者として、私達を疑っている、と」
ぴり、と。いやな空気が、視線の間に満ちる。
しかし、リリアミラはあっさりと首を振ってそれを否定した。
「いいえ。わたくしは、お二人を裏切り者だとは思っていません」
「まって。それって、つまり……」
「ええ。いるでしょう? この場にいない、勇者さまの危機に都合よくかけつけた、得体の知れない女が一人」
視線を落とし、険しく細めて、シャナはその名を口にする。
「武闘家さん、ですか」
「はい。わたくしは、あの方が今回の事件の黒幕……裏で糸を引いている人物だと睨んでおります」
「なるほど。あなたの考えはよくわかりました。たしかに、頷ける点も多々あります」
「ちょっとシャナ!?」
「事実でしょう。リリアミラさんの分析は、一応筋も通っています」
「さすが、賢者さま。聡明で冷静ですわね」
「なので、私からも提案があります」
「なんでしょう?」
室内でいつも目深に被っているフードで、シャナの表情は伺い知ることができない。リリアミラは身を乗り出して、賢者の解答を待った。
「本人に聞いてみましょう」
「はい?」
腹に響くような轟音と共に、ドアが蹴破られた。
「……心外」
完全に破砕されたドアの破片を踏み砕いて、その少女は部屋の中に踏み入ってくる。
「わたし、裏切り者呼ばわりされるようなことなんて、なにもしていない」
どこまでも広がる空色のような髪に、飾り気のない道着。小柄な体に、溢れんばかりの存在感。そんな彼女を、見間違えるわけがない。
「ムム……ルセッタ」
「よっ」
ムムは、挨拶という礼を欠かさない。入室する時に扉は壊しても、きちんと片手を上げて死霊術師に振ってみせる。
リリアミラの頬を、いやな汗が流れて落ちた。
「どうして、わたくしの船に。いや、そもそもいつから……」
「勇者、心配だったから、やっぱりこっそりついていくことにした。シャナにも、こっそりついてきてほしいって言われた。船には、離陸する時に飛びついた」
「しかし、魔力探知には何も……」
「わたし、魔力をほとんど外に出さない。でも、ずっとドラゴンの脚に張り付いてたから、ほんと寒かった」
「温めよっか? ムムさん」
「ありがとう、アリア」
アリアが腕を伸ばし、ムムがその手を取る。ほうっ、と息を吐いて、ムムの表情が和らいだ。
そんな気の抜けたやりとりを、リリアミラは呆然とした表情で見ることしかできなかった。そして、そんな呆然とした表情を見て、黒いローブの肩がくつくつと震えた。
「くくっ……ふふふ……あっはははははは!」
震えて、震えて、震えて。
堪えるのがもう限界、と言わんばかりに。賢者、シャナ・グランプレはフードを引き上げて笑い声を部屋中に響かせた。
「ばぁーか♡」
そして、見下す。
賢者は、死霊術師を見下して、言う。
「ねぇねぇ、今どんな気持ち? 安っぽい三文芝居を仕掛けて、この場にいない人間を貶めようとして、その本人が出てきてびっくり! 心の底から驚いて失敗して、ねえ、どんな気持ち? どんな気持ちで、そんな涼しい顔を保っているんですかぁ? 私に教えて下さいな!」
「…………そうですわね。いつから、わたくしの目を盗んで武闘家さまと連絡を取り合っていたのか。それが気になりますわ」
「はっ! そんなことですか」
リリアミラの反応が、期待外れだったのか。
上がりきっていたテンションを、一段落として。シャナは自分の手のひらに刻まれた魔術を見せびらかした。
「魔力マーカーですよ。さっきの勇者さんとの会話、聞いてなかったんですか? 私の魔力マーカーは、近距離なら声も拾えます。さっきまでのあなたとの会話は、筒抜けでした。拾った音声はパスさえ繋がっていれば、刻印された側に伝えることも可能ですからね」
「連絡手段はわかりましたが、それでもわかりませんわね。あなたは、武闘家さまと接触する機会はなかったはず。それを一体、どうやって……」
「ああ、私はムムさんとは一度も会っていませんよ。あなたに監視されている可能性があったので、身の振り方には気をつけていました。でも、私とムムさんは接触していなくても、勇者さんとムムさんは接触しているでしょう?」
ムムの手のひらに、勇者と同じ種類の光が浮かぶ。
そう。ムムは勇者と、握手を交わしている。
「まさか……勇者さまの手を握った時に? 間接的に、武闘家さまにも魔力マーカーを仕込んだのですか?」
「はい。だってその人、いつもどこにいるかわからないんですもん。居場所くらいは把握しておきたいでしょう?」
「勇者と握手したら、なんかくっついた。びっくりしたけど、シャナの魔術の匂いがしたから、べつにいいかなって」
子どもに水をかけられた、という調子で、ムムは言う。
「……術者自身は指一本触れず、遠く離れた場所から、接触しただけでマーキングをしたのですか?」
「できますよ。私、天才なので」
ない胸を張って、シャナは嘲笑う。
「ていうか、語るに落ちてますよ、死霊術師さん。あなた、どうして勇者さんとムムさんが会って、握手をしたことなんて知っているんです?
「……」
「答えろよ。クソ女」
シャナの指摘は、全て正しかった。
困惑と驚きが満ちていた死霊術師の表情から、感情がごっそりと抜け落ちる。
「裏切り者がいる。それは、あたし達も考えていたよ。あんまり考えたくはなかったけど、可能性として考えられるなら仕方ないよね」
「可能性が生まれた時点で、私はもう確信していました。それにしてもまさか、こんな手で私達を仲間割れさせようとするなんて、思ってもいませんでしたけどね。そもそもの話、このパーティーに裏切り者がいるとしたら……」
手元に大剣を出現させて、騎士はその切っ先を死霊術師に突きつけた。
杖を器用に一回転させて、賢者はその照準を死霊術師に向けた。
解答は、一つ。
「お前に決まってんだろ」
「アンタに決まってるでしょ」
つまるところ、リリアミラ・ギルデンスターンは、最初から他のパーティーメンバーに疑われていたのだ。
「……はぁ」
両手を挙げて、リリアミラはあっさりと降参の意を示した。
「参りましたわ。まさかわたくしが、ここまで信用されていないなんて。せっかく上級悪魔を三匹も潰して、それらしく振る舞ってみせたのに、全て無駄だったとは……悲しくなってしまいます」
「むしろどうして、何を根拠に、どんな理由で信用されていると思ってたんですか? このアバズレが」
「口が悪いよ、シャナ。もっとも、それについては完全に同意するけどね」
「二人とも、気持ちはわかるけど、リリアミラを締め上げて懲らしめるのはあとでいい。今は、目的を聞き出すことが先決」
今にも怒りが沸騰しそうなシャナとアリアを、後ろで腕を組んでいるムムが、言葉で押し留める。
リリアミラは手を挙げたまま、唯一自由な首で頷いた。
「武闘家さまはやっぱり違いますわねぇ。いつも理性的で素晴らしいです」
「伊達に、年は喰っていない」
「その落ち着き、他のお二方に見習ってほしいですわ」
「……リリアミラ」
あくまでも一定のトーンで、ムムは会話を続ける姿勢を崩さない。
「わたしは、あなたが何の理由もなしに悪魔と手を組むとは思えない。あなたの目的は、なに?」
「わたくしの目的は、今も昔も変わりませんわ。勇者さまに名前を呼んで、殺してもらう。それだけです」
「イカレ女が」
シャナが毒づく。
「なんとでも仰ってくださいな。愛のカタチは人それぞれですから」
「……質問を、変える」
ムムは、組んでいた腕を解いて一歩前に出た。
「あの子は、誰? どうして、記憶がないの?」
「……本当にあなたは、一言で核心を突いてきますわね」
それまで侮蔑と嘲りしか含まれていなかった声音に、ほんの少しだけ尊敬が混じる。
「お察しの通り、あの子は記憶喪失ではありません」
「記憶喪失じゃない……?」
困惑の声をあげたのは、アリアだった。
「あらあら、騎士さまは鈍いですわね。記憶がない、と武闘家さまも仰っているでしょう?」
「でも、あの子は……」
「前提条件が、そもそも逆なのです。なぜなら──」
「──失ったわけじゃなくて、最初からわたしには、何もなかったから」
その答えは、リリアミラが言ったものではなかった。死霊術師に向けられていた全員の視線が、声の主を求めて振り返る。
少女が、いた。
触れたものを火傷させてしまいそうな、赤い髪。瞳に写したものを燃やし尽くすかのような、赤い瞳。腰まで届く長髪を靡かせて、いつの間にか、その少女は部屋の入口に立っていた。
まるで、全てを諦めたような表情で、そこにいた。
「……ごめんなさい」
それしか、自分にできることはない。そんな様子で、赤髪の少女はただ、頭を下げる。
シャナが、アリアが、ムムが。全員が呆然と少女の謝罪を受け入れる中で、唯一リリアミラだけが、彼女の言葉を拒絶した。
「おやめください。頭を下げる必要なんてありませんわ。あなた様は、汚れを知らぬ魂に、世界の美しさを刻んでいただけなのですから」
背筋が、凍るようだった。
リリアミラ・ギルデンスターンの、その恍惚とした視線と尊敬の声が向けられる対象を、シャナは知っている。アリアは理解している。ムムは覚えている。
世界で、たった二人だけ。勇者と、もう一人。
「……説明、してください」
「は? まだわからないのですか?」
「答えろ! リリアミラ!」
「はぁ……やれやれ」
一と一を足せば二になることを、幼子に教えるように。
世界最悪の死霊術師は、その
「この少女の魂は、魔王様のものです。わたくしが、悪魔と協力して蘇生させました」
今回の登場人物
・勇者くん
いろいろ気がついていたが、赤髪ちゃんが楽しそうならそれで構わないと思っていた。根本的に、人が笑っている顔を見るのが好き。最近、パーティーメンバーがちゃんと笑うところを見ていなかったので、少し寂しかった。なので、赤髪ちゃんが笑顔でいることは、彼にとってはなによりも救いだった。
・賢者ちゃん
シャナ・グランプレ。秘密裏に武闘家さんと連絡を取り合い、上手い具合に死霊術師さんをハメた。増殖した自分と遠く離れた場所からでも連絡、意思疎通を行うために『通信、位置関係の魔術』の開発には、特に力を注いでいる。すでにこの分野に関しては、シャナの右に出る者はいないと言われるほど。勇者くんの手に仕込み、武闘家さんにも仕掛けた触れたら移る魔力マーカーもその成果の一つ。普通にストーカー案件だが、本人の先読みも相まって死霊術師さんの企ての先を行き、嘲笑うことに成功した。
・騎士ちゃん
アリア・リナージュ・アイアラス。冬の寒さに晒されても、彼女と手さえ繋げばそれだけで安心。まるで身体の芯から温まるような、至福の時間をお届けします。勇者くんと騎士学校に通っていた頃は、この湯たんぽみたいな魔法効果をダシにして、手を繋ぐ理由にしていたらしい。
・武闘家さん
ムム・ルセッタ。離陸するドラゴンの脚に飛びついて、強風に晒されながらずっとスタンバってました。実は勇者が赤髪ちゃんの水着を選んだりしている時も、バレないように後方保護者面してその様子を眺め、ついでに自分の分の水着も購入して、屋台を食べ歩きしていた。魔法の性質と戦闘スタイルも相まって、魔力探知に引っかかることがほとんどなく、アサシン的なスタイルで敵地に潜り込むこともできる。扉はノリと勢いでなんとなく壊した。勇者の中では殴ればなんでも壊せる枠に入っているらしいが、なんでもは壊せないわ壊せるものだけ、という感じらしい。
・死霊術師さん
リリアミラ・ギルデンスターン。元凶、その一。最上級悪魔と手を組み、小粒な上級悪魔をけしかけ、裏から糸を引いていた。目的は魔王の復活……というよりも、復活した魔王に、勇者の呪いを解いてもらうこと。ちなみに、リリアミラとしてはパーティーを裏切ったつもりはあまりない。
・赤髪ちゃん
元凶、その二。魔王の魂だったもの。本来は蘇生不可能だったが、リリアミラとジェミニの魔法を組み合わせることで、強引に呼び戻した。
最初から失う記憶がないのなら、それは喪失とは呼ばない。
・最上級悪魔くんちゃん
ジェミニ・ゼクス。第六の双子。元凶、その三。最上級悪魔は原則として人の姿を取るが、彼と彼女が二人で一人なのは、彼ら自身の特性によるもの。上級悪魔と最上級悪魔の違いは明確であり『固有魔法を所持しているか』で決まる。勇者は人の名前を聞けない呪いを受けているが、何故か彼と彼女の名前は聞くことができた。魔王が敗れてから、ずっと勇者の側で潜伏して一緒に遊んでいた辛抱強い頑張り屋さん。
今回の登場魔法
『
アリアの固有魔法。湯たんぽ。
『
ジェミニの固有魔法。詳細不明。
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覚醒
「ふふ」
「はは」
悪魔は、乾いた笑いを漏らしながら、手元のキューブを見た。
ジェミニが手を組んだ女に特別に用意させたその箱は、封印魔術が刻印された一種の監獄。小さな箱の中に作られた異空間に、対象を封じ込める。
「やったね」
「うん。やったね」
自身の固有魔法によって、勇者をキューブの中に『転送』することに成功したジェミニは、勇者を完封したといっても過言ではなかった。
魔王を倒した、あの勇者を、だ。
「「やったぁあぁあああああああああ!」」
絶叫。
全身で、手を取り合って、ジェミニは喜びを発露する。
多くの悪魔にとって、世界を救った勇者とは、それほどの相手だった。
「……ふう」
「うれしいね」
「うん。とってもうれしいね」
勇者を封じ込めたキューブを大切に抱えて、ジェミニは歩き出す。
「じゃあ、ぼくたちの」
「わたしたちの魔王様を、迎えに行こうか」
悪魔の悲願まで、あと少し。
「みなさんがご存知の通り、わたくしの魔法は触れれば四秒で、触れた対象を完全に蘇生させます」
リリアミラは語る。
杖を向けられ、剣を突きつけられた状況で、自慢気にそれを語る。
「ですが、万能に思えるわたくしの魔法には、根本的に重大な欠陥がありました」
「……そもそも、触れることができなければ、蘇生できない」
「ええ、正解ですわ。賢者さま」
自分に殺意を向けるシャナの言葉を、リリアミラはゆったりと肯定する。
「勇者さまが魔王様を殺したあと、騎士さまが跡形もなく魔王様の身体を焼き尽くしてしまったせいで、死体は文字通り塵も残らない有様でした」
「あなたに、万が一にも蘇生されたくなかったからね」
今度は、アリアが答えた。
リリアミラは顔を覆って、わざとらしく体を振ってみせる。
「これでは、蘇生することなどできない……わたくしは、愚かにもそう思い込んでおりました。ですが、諦めなければ奇跡を起こすのが、魔法です! その結果は、ご覧の通り」
赤髪の少女を見て、リリアミラは誇らしげに豊かな胸を張る。
「結論から言えば、わたくしの魔法に不可能はありませんでした。もちろん、完全な蘇生、とはいきませんでしたが」
「……魂だけ、と言ったのはそういうことですか。あなたの自慢話を聞く気はありませんが、よく魔王の肉体の一部を見つけられましたね」
「わたくしが契約した悪魔の能力ですわ」
「……それも、魔法ですね」
シャナの表情が、あからさまに歪む。
「はい。わたくし、悪魔に取引を持ち掛けられまして」
「取引?」
「単純な話です。魔王様を蘇らせる代わりに、勇者さまの体に刻まれた呪いを、解いてもらう。そういう契約を、最上級悪魔と交わしました」
「ということは、この船にその悪魔も……」
「ええ、ええ。乗っておりますよ。もちろん『呪いを解いてもらう』という誓約がある以上、彼らが勇者さまを殺すことはできません。そこは、安心して頂いて結構ですわ」
「いけしゃあしゃあと、よくもほざけたものですね」
「それはこちらのセリフですわ」
「はあ?」
怒りと疑問をないまぜにした声が、シャナの口から出た。しかし、不遜な死霊術師はそれを一切気にする様子もなく、自分に向けられているのと同じ種類の視線で、パーティーメンバー達を見た。
怒りと疑問が、満ち満ちた瞳で。
「あなた方は、わたくしの行動をありえない、と罵るでしょう。ですが、わたくしから言わせてもらえば、あなた方のほうが、ありえなくて、信じられません」
言葉が、感情が、止まらない。
いつも人を食ったような言動で煙に巻く、リリアミラらしからぬ激情の熱を。付き合いの長いパーティメンバー達は感じ取っていた。
「どうしてみなさまは、勇者さまに名前を忘れられてしまったことを、そんな風に受け入れられるのです?」
死霊術師は、賢者を見て言う。
「名前を忘れたことを気にしないくらい、幸せで満ち足りた環境を作って誤魔化そうとしていたんですか?」
死霊術師は、騎士を見て言う。
「己の行いを悔いて、今度こそ守れるようにと自己満足の努力を続けていたんですか?」
死霊術師は、武闘家を見て言う。
「大人ぶった価値観で、都合の良い諦めの中に沈んでいたんですか?」
忌々しげに、シャナは歯軋りした。
アリアは手のひらを固く引き絞った。
能面のような表情のまま、ムムは黙っていた。
リリアミラは、言葉を紡ぐことをやめない。
「わたくしは、いやです」
己の欲望を、ありのままに発露する。
「好きな人に、名前を呼んでもらいたい」
それは、一人の女性としての望みだった。
「わたくしは言い訳を並べ立てて、自分の気持ちを諦めるつもりは毛頭ありません」
この場にいる全員の心を、リリアミラは正確に突いていた。
シャナが押し黙る。アリアが唇を引き結ぶ。赤髪の少女は、そんな彼女達の様子を黙って眺めていて。
沈黙を破ったのは、やはりこの場で最年長の女性だった。
「……あなたの気持ちは、理解できる」
ムムが最初に口にしたのは、リリアミラへの素直な共感。
「でも、その子はまだ魔王じゃない。あなたの魔法と、悪魔の魔法だけで蘇生できたなら、わたしたちと対立する前に、事を終えているはず」
次に提示したのは感情論を抜きにした、単純な事実と可能性の話。
「なにが仰りたいのでしょう?」
「……魔王の完全な復活には、まだ何らかの手順を踏まなければならない。そのために、あなたは勇者とその子を一緒に行動させていた」
「つまり?」
「もう一度言う。その子はまだ魔王じゃない。魔王じゃないのなら、魔王にさせるわけにはいかない」
最後に、対立の姿勢の明示。
武闘家は、拳を構えて、死霊術師を見据えた。
「……はっ」
リリアミラは、それを鼻で笑う。
「やっぱり、クソババアに何を言っても、無駄なようですわね」
「………………は?」
瞬間。比較的、高い声色のムムの口から、これまでで最も低い声が漏れ出た。
「今、なんて、言った?」
「あらあらあら。やはり耳まで遠くなっているようですわね。見た目だけ若作りのクソババア、と言ったのです」
シャナとアリアの顔が、わかりやすく青くなる。
端的に言ってしまえば、それは武闘家の、最大の地雷だった。リリアミラも、わかっていて踏んでいた。
自分で年齢を言う分には構わないが……ババア、という言葉はムム・ルセッタには禁句である。
返事はなかった。
ただ、地面を踏み締める音がした。
「黙れ、小娘」
達人の足運びは、間合いという概念を超越する。
杖を構えていたシャナと、剣を突きつけていたアリアの隙間を、小柄な体を活かし、音もなく抜けて。
振り抜いた拳の、たった一撃で。武闘家は、死霊術師の胸に手のひらを突き刺していた。
「……ごっ、がっはぁ……?」
それは、明らかな致命傷。
リリアミラの口から、血が湯水のように溢れ出る。赤髪の少女も目を見開いていたが、それ以上に慌てたのは、怒りを必死に押し殺していたアリアとシャナだった。
「む、ムムさぁーん!?」
「なにやってるんですか!? なにやってるんですかちょっと!? コイツからなるべく情報を引き出さなきゃいけなかったのに!?」
「良い。もうコイツ、殺す」
「だからその人、殺しても死なないんだってば!」
「ダメですよ! そりゃ、手を出したくなる気持ちはわかりますけど!?」
「殺しても死なないなら、死ぬまで殺してわからせる」
「ぐっ……ぶ。む、無駄、ですわ」
胸に突き刺さった腕を掴んで、リリアミラはそれでも笑ってみせる。
「いくら、殺した、ところで……わたくしの『
「四秒あれば、蘇生する。それは、知ってる。でも、わたしの『
息も絶え絶えなリリアミラの言葉を、ムムは強引に遮った。表情は変わらないままでも、押し殺した怒りが言葉を震わせている。
「これは、純粋な疑問。
「なっ……!」
「試して、みようか」
肉の塊を、潰す音が響いた。
「お前がわたしを嫌う理由は、単純」
リリアミラの息の根が止まる。文字通り、息の根が止まった状態で、静止する。血液の循環が停止し、肉体の活動が停止する。
「わたしの魔法と、お前の魔法の相性が、致命的に悪いからだ」
ダメ押しとばかりに、ムムは左の拳を無造作に振るった。その裏拳を受けたリリアミラの首が、有り得ない方向にあっさりとひん曲がる。ありえない方向に曲がった状態で、ムムは左手でそのポーズを固定した。
いや、そもそも前衛芸術の銅像のようになってしまったその姿勢を、果たして人間のポーズと呼んでいいものなのか。
「これで、よし」
満足気に、ムムは鼻を鳴らした。
「うわ……」
「グロ……」
シャナとアリアはドン引きした。むしろ、引かない方がおかしい。
「……まあでも、これで落ち着いて赤髪ちゃんと話せるか」
「それはそうですね。ムムさんのやり方は些か強引に過ぎますが、とりあえず結果オーライということにしておきましょう。ムムさん、その死霊術師を、しばらく黙らせておいてください」
「うむ。うるさい女を、黙らせたわたしに、感謝」
「感謝はしますが、あとで聞くことはたっぷりありますからね。ちゃんと逃さないように抑えておいてくださいよ」
どこか弛緩した空気の中で、しかしようやく話をできる環境が整った、と言いたげに。二人は赤髪の少女に視線を向けた。
シャナが聞いた。
「で、大丈夫ですか?」
少女を気遣って、質問をした。
ああ、同じだ、と。少女は少し驚いて、それから納得した。
──大丈夫?
最初に会った時、勇者も同じことを聞いてきた。
この人達も、同じことを聞いてくるのだ、と思った。
立ち竦む少女の態度を気にもせず、賢者と騎士はずかずかと歩み寄って、じろじろと少女のことを観察する。
「外見に異常はなさそうだけど……」
「魂を蘇生させた、というさっきの言い回しが気になるところです。そもそも、普通に蘇生することができたなら、さっきムムさんが言っていた通り、呪いを解いてもらって終わりですから」
「この子は、魔王を復活させるための器みたいな存在ってこと?」
「アリアさんにしては、良い線を突いてますね。繰り返しになりますが、魂だけ蘇生させた、とあの女は言っていました。つまり、肉体は異なるものだということです。実際、魔王の外見と、この子の見た目は全然違います」
「うん。あの魔王、たしかにおそろしい美人さんだったけど、あれは赤髪ちゃんとは種類の違うきれいさだったもん。髪色も違ったよね」
ああだこうだと言いながら、賢者は少女の手を勝手に取って、魔導陣を展開し、体の状態をチェックする。
「あ、あの……」
「なんです?」
「わたしが、魔王だって聞いて……なんとも、思わないんですか?」
「は? 思うに決まってるでしょう。今もわたしの天才的な頭脳と魔術が、あなたを助けるためにフル回転していますよ」
助ける、と。賢者は言った。
「どうして……どうして、わたしを、助けてくれるんですか?」
「勇者くんなら、そうするからだよ」
事も無げに。騎士は言った。
「あと、あたしは赤髪ちゃんと一緒にご飯を食べてる。食事をして、話して、赤髪ちゃんが魔王じゃない普通の女の子だってことを知ってる。助ける理由は、それで十分かな」
「そういうこと。あなた、魔王と違って、いい子」
心臓を握り潰して止めたまま、ムムが頷く。
「……先に断っておきますが、私はこの二人ほどお人好しではありません。だから、きちんと事情を聞かせてもらえますか?」
フードの中から覗くシャナの瞳が、少女を見据えていた。
「あなたに、何があったのか」
「おはようございます」
目覚めた少女が最初に見たのは、流れるような黒髪と、何かに期待するような甘ったるい笑みだった。
腕を動かす。体を起こす。周りを見回す。
「無事に目が覚めたようだね」
「よかったよかった」
男の子と女の子が、一人ずつ。手を繋いで、こちらを見ていた。なんとなく、それが人ではないことは、すぐにわかった。
「わたしは……」
自分が誰なのか、わからなかった。
知識はあって、脳は働く。体は動いて、不自由はない。
ただ、自分が誰なのか、まったくわからなかった。闇の中で微睡んでいたら、唐突に光のあたる場所に引きずり出されたかのような。呼吸をしているのに、息ができないような、そんな矛盾した感覚だけが、体中を満たしていた。
「混乱していらっしゃるようです。やはり、失敗だったのでは?」
「ううん、成功だよ」
「魔王様の魂は、間違いなくここにある」
「不完全な形で蘇生されることは、わかりきっていたからね」
「では、どうするのです?」
「単純な話だよ」
「借り物の器に、不完全な中身。何もかも足りないけど、何もかも足りないなら、これから満たしていけばいい」
会話の内容はこれっぽっちも理解できなかったけれど、自分のことを話しているのは、なんとなくわかった。
手を繋いだまま、少年と少女は、恭しく頭を下げる。
「お目覚めを、心より嬉しく思います。わたしたちの王様」
「わたしが……王さま?」
「うん。あなたは、生まれながらにして王だったんだよ!」
「あの忌々しい勇者のせいで、あなたの記憶と力はなくなっちゃったけど……」
「わたしたちの言う通りにしてくれれば、必ず取り戻せるよ!」
「わたしは……その人に、殺されたんですか?」
「そうだよ!」
「勇者が、あなたから全てを奪ったんだ!」
「憎いよね! 悔しいよね!?」
わからなかった。
何もわからない。
「うんうん。わかるよ」
「起きたばかりで混乱しているよね」
「何か、欲しいものはある?」
「なんでも言ってよ! あなたの欲しいものなら、なんでもすぐに用意してあげる!」
なんでもいい。
自分がここにいることに、何か存在の証明がほしかった。
「名前」
「え?」
水。食べ物。衣服。
多分、そんなものを想像していたのであろう悪魔は、少女の呟きに首を傾げた。
「名前が……ほしいです」
縋るように。少女は悪魔に、それを求めた。
「ダメだよ、魔王さま。そいつらは勇者の仲間なんだから、勝手に仲良くしちゃ」
割って入った声と共に、少女の前にいた賢者の姿が、かき消されるように消失した。
「っ……シャナ!?」
賢者が立っていた場所に、コップが落ちて砕ける。次の瞬間には、剣を構えようとしたアリアの姿も消えて、代わりに小さなティースプーンが落ちた。
「なんだよ。リリアミラ、やられてるじゃん。かっこ悪いなぁ」
「お前……!」
あるいは、ムムが素の状態でそこに立っていたのならば、姿を現した悪魔に、すぐに対応できたかもしれない。だが、ムムの腕はリリアミラの胸の中に埋まっていて、それが結果的に彼女の初動と、俊敏な対応の妨げとなった。
ムムとリリアミラがいた場所に、フォークが転げ落ちる。からん、と。無機質な音を響かせて、少女と悪魔は、その空間に二人きりになった。
「みなさんを……どこにやったんですか?」
体の震えを堪えて、問う。
「外に捨てた」
少年の皮を被った悪魔……ジェミニは、とてもつまらなそうに言った。
「ぼくたちの魔法……『
少女は、絶句した。
ジェミニの魔法は、その存在が二人であることで、はじめて真価を発揮する。船の中から、いきなり船首に、それも豪風が吹き荒れる空の中に放り出されて、助かる人間などいない。
「そんな……」
「……やっぱりダメだなぁ。ねぇ、魔王様。ぼくたちがどうして、魔王様を勇者さまのパーティーに近づけたか、ちゃんとわかってる?」
呪いとは、術者の魂が色濃く反映された『残り続けること』を前提とした魔術。名前、という概念に干渉する強大な呪いを受けた勇者の体には、今もまだ色濃く魔王の残滓が眠っている。
リリアミラの蘇生が不完全に終わった理由の、半分がそれだ。蘇った少女が赤子のように、別人のように、なんの記憶も持たない状態だったのも……勇者の中に、魔王が己の大半を遺していったからだった。少なくともジェミニは、そう仮定している。
「魔王様にはね。勇者との交流の中で、彼の中に眠る自分を見つけてほしかったんだ。だからぼくはがんばって、素敵な出会いをお膳立てしてあげたんだよ? でもきみはそうやって、勇者に対する余計な感情ばっかり育てちゃってさ」
手の中のキューブを玩びながら、悪魔は心底がっかりした目で、少女を見ていた。
「やってられないよ。きみはいつになったら、ぼくたちの魔王様になってくれるのかな?」
膝をついて、少女は崩れ落ちる。
「やっぱり、ぼくが強引に魔王様にしてあげるしかないのかな?」
小さな手が、無邪気に少女に伸びて、そして……
「え」
何かが、割れる音がした。
悪魔が手を組んだ女に特別に用意させたその箱は、封印魔術が刻印された一種の監獄。小さな箱の中に作られた異空間に、対象を封じ込める……はずだった。
男が、立っていた。
「お、お前……うそだ、どうやって」
「どうやって?」
窮屈、だったのだろう。
固くなった身体をほぐすように。世界を救った男は、首を鳴らして言った。
「ひたすら殴って、壊して出てきた」
「は?」
「だから、ひたすら殴って、壊して出てきた」
手の皮が剥がれ落ち、血だらけになった拳を、勇者はそれでもなお、強く握りしめる。
泣いている女の子がいる。笑っている悪魔がいる。
そういう光景を、勇者はこれまで、飽きるほど見てきた。世界を救う過程で、数え切れないほど目に焼きつけてきた。
「おい、悪魔。お前、さっき一発殴ったよな?」
そういう絶望を、勇者はこれまで飽きるほど壊してきた。
だから、手の皮が剥がれ落ち、血だらけになった拳を、勇者はそれでもなお、強く強く握りしめる。
「まずは、一発だ」
これからも、壊し続けるために。
少年の姿をしたバケモノの顔面に、拳が突き刺さった。
今回の登場人物
・勇者くん
ピンチになってエンジンがかかった。基本的にスロースターターの主人公気質。
・賢者ちゃん
外に放り出された。
・女騎士ちゃん
外に放り出された。
・死霊術師さん
死んだ状態で静止中だが、どうせ死なないだろうと悪魔に武闘家さんごと外に放り出された。
・武闘家さん
キレるとこわい。ババアは禁句。死霊術師さんをハートキャッチ(物理)してたが、ハートキャッチ(物理)の状態のまま外に放り出された。
・赤髪ちゃん
何もない状態で世界に放り出されたので、まず何者であるかの証明がほしかった。
・最上級悪魔くんちゃん
勇者相手に勝ち誇ってたら、一話も保たなかった。
今回の登場魔法
固有魔法『
最上級悪魔、ジェミニ・ゼクスの固有魔法。自分自身と触れている対象を、視界の中にあるものと入れ替える。瞬間移動、テレポートのような使い方でトリッキーな運用がメインだが、最も強力なのは、ジェミニが二人で一人の悪魔であること。ジェミニAが見ているものを、離れた場所にいるジェミニBが触れているものと入れ替えることなども可能。そのため、魔法の応用性に関してはトップクラスの性能を誇る。
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そして、少女は恋をした
あー、すっきりした。マジですっきりした。
クソ悪魔を殴り飛ばした手を開いて、軽く振る。外に出れたらとりあえずあのニヤケ面に一発ぶち込んでやろうと考えていたので、本当に清々した気持ちだ。吹っ飛ばした悪魔は、きれいに壁をぶち抜いて、外へすっ飛んでいった。これで殺せたとは思わないが、簡単には戻ってこれないだろう。
とはいえ、敵を殴り倒したところで、泣いてる女の子が笑顔になるわけではない。暴力は問題を解決するための手段の一つではあっても、根本的な解決策には成り得ない。おれはそこそこ長い旅の中で、それを痛いほど学んでいた。なので、まずは座り込んでいる赤髪ちゃんに手を伸ばす。
「大丈夫?」
声をかけると、彼女は驚いた様子で顔をあげた。
ひどい顔だ。目元は真っ赤になっていて、腫れ上がっている。流れた涙の跡が筋になっていて、頬を汚している。べっぴんさんが台無しだ。
「……あの時と、同じですね」
その返答には、少し間があった。
「あの時も勇者さんは、わたしに……わたしのことを、そう言って助けてくれましたね」
しゃくりあげながら話す赤髪ちゃんの言葉選びはガタガタで。言われてみればそうだったかもしれない、と。はじめて会った時のことを思い返す。
はじめて会った時も、随分ひどい顔をしていた。一緒に過ごす時間を重ねて、一緒に交わす言葉を重ねて、ようやく少し、笑ってくれるようになった。そう思っていた。
「勇者さんは、やっぱり勇者さんなんですね。こんなわたしを、何度も何度も助けてくれて……」
違う。おれは勇者失格だ。助けたいと思った女の子に、こんな悲しい顔をさせている時点で、おれは勇者の風上にも置けない、情けない男だ。
呼んでもらえる名前があったら、勇者という称号を今すぐにでも返上したい。穴があったら、入りたいくらいだ。
「でも、もういいです」
女の子は、そんな情けないおれに向かって、それでも優しく微笑んでくれた。
自分が一番つらいはずなのに、泣きながら笑ってくれた。
「わたし、魔王だったらしいんです」
笑顔を添えないと、彼女自身が壊れてしまいそうな、残酷な告白だった。
「もう気づいているかもしれないですけど……わたしを生き返らせてくれたのは、死霊術師さんです。最初から、全部仕組まれていました。勇者さんと出会うことも、一緒にいることも、全部全部、あの悪魔に仕組まれていたんです」
「うん」
予感はあった。違和感もあった。
──は、はじめまして。わたしは
賢者ちゃんと会った時。
──でも、本物のお姫さまに会うなんて、多分はじめてですよ
騎士ちゃんと会った時。
──えええええええ!? パーティーメンバー、四人じゃなかったんですか!?
師匠と会った時。
赤髪ちゃんは、はじめて出会うおれの仲間に、いろいろな反応を見せてくれたが、死霊術師さんと会った時だけは、一言たりとも言葉を交わしていなかった。予感はあった。違和感もあった。だから、本来なら問い詰めるべきだったのだ。
でも、おれはそんなことがあるわけないって、自分に言い聞かせて誤魔化していた。魔王の死体はもう残っていない。だから、死霊術師さんが関わっているわけがない、と。彼女の願いを果たせていなかったから、彼女を殺すことができなかったから、なんとなく負い目があったのかもしれない。でも、それは自分の不甲斐なさを言い訳にして、現実から目を背けて、死霊術師さんを信じているふりをしていただけだ。
おれの甘さが、この子を、こんな風に泣かせてしまった。
「
絞り出された言葉が、なによりも痛かった。
「わたしが、魔王だった頃の一部は、勇者さんの中にあるから……だから、勇者さんと一緒にいて、好きになって、互いに心の結びつきが強くなれば、わたしはわたしに戻れるって。あの悪魔は言いました」
視線が、おれから離れる。
「おかしいですよね。わたしは、魔王だったわたしなんて知らないのに。戻れるって言われても、昔の自分なんてわからないのに」
俯いた顔の陰から、ぽたぽたと。また大粒の雫が落ちる。
「おかしいですよね。わたしには大切な思い出なんて一つもなくて、自分のものだって胸を張って言えるものは名前しかなくて。その名前が、絶対に伝わらない、聞こえない人を、好きになれ……なんて」
それを口にする度に、つらいのは自分のはずなのに、彼女はそれを言葉にすることをやめない。
「命令された相手を好きになるなんて、絶対にありえないと思っていました」
下を向いて、彼女は思いを吐いて、吐いて、吐いて。堪え切れないように吐き出して、
「でも、好きになっちゃいました」
それだけは、おれの顔をはっきり見て、言ってくれた。
「……」
気の利いた言葉が出てこなかった。目の前で泣いているのに、声が出てこなかった。
項垂れていたのがまるで嘘だったかのように、彼女は背筋を伸ばして立ち上がる。おれに背を向けて、歩き出す。
「……わたしの魂は、強引にこの器に入れられたもの。次に死ねば、元通りにはならないと、あの悪魔も言っていました」
彼女の言っていることが、よくわからなかった。
死んだら、もう元には戻れない。特殊な蘇生だからこそ、死霊術師さんの魔法を使っても、死んだら取り返しがつかない、と。
だから、なんだ?
「わたしは、みなさんを騙して、取り返しのつかないことをしてしまいました。これで、罪が償えるとは思っていません。でもせめて、責任くらいは負わせてください」
大穴が空き、風が吹き抜ける壁だった場所の前で、彼女は足を止めた。
くるり、と。振り返ったその表情に、おれの全ては釘付けにされる。
「ありがとう。大好きでした」
笑顔だった。
きれいな長髪が、風を孕んで大きく揺れる。羽のように広がった、その焼けるような赤と共に。
止める間もなく、背中から落ちていく。彼女の体は、空の中へと消えて行った。
「勇者さんがどんな人か、ですか?」
「はい。お会いする前に、知っておきたくて」
少女の質問に、死霊術師は首を傾げた。
慇懃な態度の裏に、どこか少女を馬鹿にしているような態度が滲んでいた悪魔とは違い、死霊術師の態度には裏表がなく、話しやすかった。そもそも、目覚めてから最初に会った人間が彼女だったので、小鳥の雛の刷り込みのように、親近感が湧いていたのかもしれない。
何一つ記憶はないくせに、思考を回していると知識が自然と湧いてくる。少女は、そんな自分の頭の中が気持ち悪かった。
「すてきな方です」
口数が多いはずの死霊術師は、しかし質問への回答を、たった一言でまとめた。
「あの、それだけ……ですか?」
「あら、それ以上何か必要ですか?」
死霊術師は、素知らぬ顔で少女の体に手を当てて、健康状態を細かくチェックする。しばらく考えてから、朱色が引かれた唇が、また開いた。
「男は、女性という花を落とすために、言葉を尽くして口説くものです。ですが、女は男性のために、言葉を尽くす必要はありません。言葉にしてしまったら、無粋なものもありますから」
「じゃあ、相手に好意を伝えるためには、何を言えばいいんですか?」
「簡単ですわ」
死霊術師は、すぐに答えを示してくれた。
「大好き、と。ただそれだけを伝えればいいのです」
とてもシンプルで、わかりやすい答えだった。
「……でも、わたしがその人のことを好きになるとは限りません」
「まあ、それはそうですわね。あの悪魔も乙女心がわかっていないと言いますか、二人いるわりには頭が回らないと言いますか……」
「リリアミラさん、意外とあの人達のこと、悪く言いますよね……」
「あら、当然ですわ。わたくしがこの世で心からお慕い申し上げているのは、世界でたった二人。勇者さまと魔王様だけですから」
「はぁ……なるほど」
明日には、この場所を出発して、勇者に会いに行く。何の事情も知らない追手が手配されて、勇者に助けてもらう。そういう出会いができるような計画になっている。
「……わたくしは、あなたに酷いことをしています」
尊敬と友愛と。それ以外にも様々なものが入り混じった表情で、リリアミラは少女の頬に手を添えた。
「恨んでくれて構いません。憎んでくれて結構です。わたくしは自分自身の想いを成就させるために、あなたを蘇らせたのですから」
不思議と、不快ではなかった。何故か、彼女の言葉には少しだけ嘘が混じっているのを感じた。
なんとなく、この指の感触を、少女は知っている気がした。
「……よく、わかりません。あなたのことも、勇者のことも」
「そうでしょうね」
率直な気持ちを述べると、やはり死霊術師は薄く微笑んだ。
「それでもきっと、あなたは勇者さまを好きになると思いますわ」
「……魔王も、勇者が好きだったんですか?」
「さて、それはどうでしょう?」
横になった少女の体に、死霊術師は優しく毛布をかけた。
「その答えはわたくしではなく、あなた様の心の中にあるはずですわ」
空に墜ちる。
魔王になったら、きっと今の自分は消える。なら、この死に方はもしかしたらすごく幸せなのかもしれないと、少女は思った。
結果に後悔がないと言えば嘘になる。だが、選択に悔いはなかった。
自分が死ねば、悪魔とリリアミラの計画は失敗する。魔王は、復活できなくなる。勇者は、人々の名前を取り戻せなくなる。
けれど、自分は、自分のまま死ぬことができる。
それはきっと、少女にとって最初で最後の、最高のわがままだった。
限られた時間の中で、彼といろいろなことをした。ご飯を食べて、かわいい服を着て街を歩いて、海にも入って、空まで飛んで。そのどれもが、最高に楽しかった。
でも、シャナは、アリアは、ムムは、リリアミラは、自分なんかよりも、もっともっと長い時間、彼と一緒に、彼の隣で冒険していたのだ。
ずるいな、と少女は思う。
だってそんなの、勝てるわけがない。
賢者は、勇者のことを愛していた。口では憎まれ口を叩いていても、彼のために尽くし、彼のために努力する。その姿に、自分とは比べ物にならないほどの、たくさんの愛を感じた。
いいな、と思う。
騎士は、勇者のことを愛していた。ずっと前から冒険を支え、彼のことを心から想いやり、彼の隣で屈託なく笑う。その姿に、自分とは比べ物にならないほどの、あたたかな愛を感じた。
うらやましいな、と思う。
武闘家は、勇者のことを愛していた。一人の弟子として勇者を導き、短い時間の中で少女にも多くのことを教えてくれた。その背中に、自分とは比べ物にならないほどの、決して変わらない愛を感じた。
すごいな、と思う。
死霊術師は、勇者のことを愛していた。在り方が歪んでいたとしても、彼を信じ、自分の想いを迷いなく貫き通そうとする。その姿に、自分とは比べ物にならないほどの、きれいな愛を感じた。
勝てないな、と思う。
そうだ。認めよう。認めなければならない。
少女は勇者に恋をして、でも彼の隣にはもうたくさんの愛があって。
自分は、彼女達に嫉妬していた。ほんの一月にも満たない時間、彼の隣にいただけなのに、一人前の女のように、嫉妬していたのだ。
彼女達と話す時だけは、勇者は少女の知らない顔になっていた。
彼らの愛は、名前が失われただけでは、絶対に揺らがない。
だから、妬いて、妬んで、欲しがって。なんて見苦しいんだろう。なんて浅ましいんだろう。なんて愚かなんだろう、と。自分で自分が、恥ずかしくなる。
でも、それが本当だった。それが本物の気持ちだった。
魔王になって消えるくらいなら、自分から消えることを選んで。
勇者の中に、自分の存在を刻みたかった。
彼は名前が聞こえないから。せめて、思い出だけになっても、彼の中に。
「バカだ、わたし」
漏れ出た声は、一瞬で風に溶けて消えていく。
でも、これで最後だ。これが最後だ。だから、少しくらいのわがままは許してほしい。
この気持ちが矛盾しているのはわかっている。
それでも。
自分以外の女の子が、彼の隣で幸せに笑う未来が、きっとあるはずだから。
その幸せを、祈りたい。
体を丸めて、目を閉じる。自分の身体を、自分で抱き締める。
風を切る音。空気を裂く音。
ただその音だけが満ちている、と思っていた。
「手を」
声が聞こえた。
「手を伸ばせ!」
大きな声が、はっきりと聞こえた。
「え」
無意識のうちに、手が伸びた。そんなに長く伸ばしたつもりはないのに、一瞬で掴まれて、引き寄せられた。最初に会った時よりも、その力はずっとずっと強かった。
目蓋を開くと、彼の顔があった。
「勇者、さん」
その名を呼ぶ。その名を呼んで、はじめて理解する。
どうして、この人が世界を救ったんだろうと、疑問に思った。どうしてこんなにやさしい人が呪いを受けて苦しまなきゃいけないんだろうと、やるせなかった。
違うのだ。
こんなところまで、自分を追いかけて、手を伸ばして、まだ強引に、この手を繋ごうとしてくれる。強いからじゃない。世界を救ったからじゃない。
だから、この人は勇者と呼ばれているのだ。
「おれは聞いたぞ!」
怒声が、吹きつける風を裂いた。
それは、少女がはじめて見る顔だった。とても怒った顔だった。
繋いだ手から伝わる熱が、冷めきっていたはずの心を引き戻す。
「覚えてるか!? 最初に会った時、きみは、なんて言った!?」
ああ、覚えている。忘れるわけがない。
「忘れたなんて、言わせない!」
その気迫に気圧されて、あの時と同じように。少女はそっと口を開いた。
「死にたく、ない……」
「今は!?」
「え」
「今はどうだ!?」
勇者は、少女に問う。
死にたくない、と。ただそれだけを、縋るように呟いていたあの頃から。
「おれと一緒に! 世界を見て! どう思った!?」
何を見て、何を感じて、少女の心の、何が変わったのかを、彼は問いかける。
「……ご飯が、美味しかったです」
「ああ! 美味かったな!」
食べることは、生きることだ。
たとえ心がくじけても、おいしいものを食べれば、嫌なことなんて忘れられる。ものを食べる、ということにはそういう力がある。
少女は、それを知った。
「また食おう! もっと食おう! もっともっと、世界中のおいしいものを食べに行こう!」
馬鹿みたいな提案に、けれど彼女は全力で頷く。
「きれいな服を着れて……うれしかったです」
「ああ! 赤髪ちゃんは美人だけど、かわいい服を着たらもっとかわいくなる!」
服を着ることは、心を飾ることだ。
着飾ることは、偽ることではない。自分をもっと好きになるための、人間の知恵と工夫。美しさの答えだ。
少女は、それを学んだ。
「いろんな服を着よう! おれだけじゃない! 騎士ちゃんや賢者ちゃんと一緒に、たくさんお洒落すればいい!」
ある意味男らしい、けれど一歩引いた提案に、彼女はくすりと笑う。
「……動物を、飼ってみたいです。大事に、育ててみたいです」
「ああ! なんでも飼おう! でも、世話はちゃんとしないとおれが怒るからな!」
命は、育むものだ。
人間だけではない。どんな生き物も、この世界で生きて、その生を謳歌する権利がある。
少女は、それを体験した。
「あと、命を大事にするなら、まず自分のことを大切にしないとな!」
「っ……はい」
身を以て、彼の隣で、教えてもらった。
掴まれた手の力は、まだ強い。もう離さない、というこの気持ちは、今だけは自分だけのものだ、と。
そう自惚れても、良いのだろうか?
「勇者さん」
「なんだ!?」
「お願いをしても、いいですか?」
「もちろん! おれにできることなら!」
「……わたしは、勇者さんと──」
二人の体が、雲を抜ける。
太陽が、眼下に広がる大地を、固く手を繋いだ青年と少女を、どこまでもどこまでも、鮮やかに照らし出す。
「──勇者さんと、冒険に行きたい!」
まだ見ぬ空を、まだ見ぬ大地を、まだ見ぬ世界を求めるその声は、輝きに満ちていた。
生きたい、と言っていた。
少女の、最も強いその叫びを聞いて。
勇者は、はじめて呆気に取られたように、目を丸くして。
少女は、そんな彼の表情がおかしくて。
全身で風を感じて、落ちていくまま、手を繋ぎ合ったまま、見詰め合って。
「……うん。一緒に行こう」
最後だけは、大声ではなく。
囁くように、勇者は約束をした。
彼は、少女のその華奢な体を、力いっぱい抱き締める。生きることを決意した、心臓の鼓動を、全身で感じて受け止める。
「行こう」
「はい」
大空の中で、この瞬間だけは、勇者と少女は二人きりだった。
「で、これ着地どうしようか……」
「え」
鼻が触れそうな距離で、少女の顔からさっと血の気が引いた。
「……なんにも考えてなかったんですか?」
「うん」
「こんなに、こんなにかっこよく助けに来てくれたのに?」
「必死だったからね」
「空を飛べたり、しないんですか?」
「いやほら、おれ、鳥じゃないし」
「……」
「……」
また、しばらく見詰め合う。
「どうするんですかぁ!?」
うわ、生きることを決めた声、マジで元気だな、と。抱き締めたまま、勇者は耳を塞ぎたくなった。
「いやだから、どうしようって相談をしているんだよ。今、現在進行系で」
「勇者さんそういうところありますよ! 前にわたしを放り投げた時もそうだったじゃないですか!?」
「あれは仕方ないでしょ。師匠いたし」
「結果論じゃないですか!? どうしてもうちょっと後先考えて行動できないんですか!?」
「はーっ!? 後先考えたら間に合わないこともあるでしょうが!? 世界を救ったり女の子を助ける時は、迷ったら負けなんだよ!」
「いやだーっ! 死にたくない! 死にたくないです!」
「さっきまで自分から死のうとしてたのに、めちゃくちゃ生きようとするじゃん!?」
「ダメですか!?」
「いや、めちゃくちゃうれしいけどね!」
そんな馬鹿なやりとりをしている間に、地面がどんどん近づいてくる。
もうだめか。腕に全魔力を集中して、潰す覚悟で衝撃を殺すしかないか、と。勇者が少女を抱きとめていた片手を解き、構えた、その瞬間、
「セーフ」
地面と顔がキスをする、直前。二人の身体は逆さまのまま、まるで空中に浮遊しているかのように、唐突に静止した。
「よっ」
「師匠……助かりました」
ぎりぎりのところで滑り込むようにして二人の身体を静止させた武闘家は、止まったままなのをいいことに、抱き合っている二人の体勢をじろじろと眺めて、それからとても満足したように頷いた。
「うむ。仲が深まったようで、なにより」
「あ、いや、これはその……」
あたふたと慌てて動こうとした少女だったが、ムムの魔法の前には為す術もない。
「はいはいはい。そういう反応はいらねーんですよ。まったく……」
足早に寄ってきたシャナがさっと杖を一振りして、二人の身体に蓄積していた運動エネルギーを逃がす。それでようやく、ムムは静止の魔法を解除した。
「ところで師匠。なんで右腕に死霊術師さんを突き刺したまま持ち歩いているんですか?」
「コイツが裏切った上に、わたしに、生意気な口を利いたから」
「なるほど」
「勇者くん! 赤髪ちゃん! 無事でよかった〜!」
「騎士さん! みなさんも、やっぱり生きてたんですね!」
「やっぱりとはなんですか。やっぱりとは。普通はあの高さから外に落とされたら死ぬんですよ。まあ、私達はご覧の通り最強なので、ピンピンしていますが」
まだ固く手を握ったままの勇者と少女を、シャナはじっとりとした目で眺めて、深い溜め息を吐いた。
「大丈夫か、とは……もう聞きませんよ。その人に、随分甘やかされたようなので」
「っ……はい!」
「良いでしょう。では、さっさと立ってください」
上空を睨み据えて、賢者は警告する。
「ヤツらが来ますよ」
まるでそれが合図だったかのように、雲が割れた。
空気を震わせる轟音と共に、翼をはためかせ、爪を突き立てて、巨大な化物が大地に降り立つ。
「さっすがだねぇ! 勇者さま!」
「魔王様を助けてくれて、ありがとう! 助かったよ」
モンスターの王。竜の頭頂部に、跨るようにして、悪魔の双子が座っていた。
「あれですか、黒幕は」
「ていうか、ドラゴンとの契約、あっちに取られてない?」
「本当に、面倒。つくづくこの女、悪いことしかしない」
全員が口々に文句を言っていたが、しかしようやく倒すべき敵が見えたことに、間違いはない。
シャナは杖を、アリアは二振りの大剣を、ムムは腕に突き刺した死霊術師を構える。
「じゃあ、魔王様をこっちに渡してもらっていいかな?」
「断る、と言ったら?」
「もちろん、力尽くで奪い取るよ」
「大した自信だな」
「勝算があるからね」
「そうか」
勇者は、一歩、前に出た。
騎士は、その隣に並んで大剣を真横に倒した。
賢者は、大剣にそっと触れ、聖剣であるはずのそれを一瞬で複製し、勇者に恭しく手渡す。
武闘家は、無言のまま勇者の背を守るように立った。
「やる気だね」
「勝算があるからな」
「傲慢だね」
勇者がオウム返しにした言葉に、悪魔もはじめて会った時と同じ皮肉で答えた。
しかし勇者は、その皮肉こそを鼻で笑う。
「傲慢、大いに結構」
構えた剣に、迷いはない。
突きつけた意志に、曇りはない。
「世界も、女の子も、両方救う。それが勇者だ」
世界を救い終わった勇者の、たった一人の少女を助けるための戦いが、今、始まる。
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そのパーティー、最強
威勢の良い啖呵を切って、今度こそあのいけ好かない悪魔の息の根を止めるために、先陣を切ろうとしたおれは……しかし、賢者ちゃんに首根っこを掴まれて、止められた。
「まってください、勇者さん」
「ぐぇ」
首が締まって、情けない声が出た。
なんだなんだ。これからかっこよく戦闘開始、って時に。
「何か、忘れていませんか?」
「何かって……あ」
さすがに、賢者ちゃんは冷静というべきか。おれも知らず知らずのうちに頭に血が上っていたのだろう。言われてから、ようやく気がついた。
目の前には、おれたちが乗っていた船を牽引していた、巨大なドラゴンがいる。豪華客船という重荷を捨てて、身軽になった竜は、従順に悪魔に付き従っている。
そう、
「船……どこいった?」
「あ」
やはり、言われて気がついた、といった様子の赤髪ちゃんが、空を見上げて体を青くする。その反応で、もう何も言わなくてもわかった。何も言わなくてもわかってしまったが、わかっていても上を見上げてしまう。
視界が、覆われそうだった。
雲を突き抜けて、おれたちの頭上に、死霊術師さんが己の財を投じて作らせた豪華客船が、真っ逆さまに落ちてくる。
「船がっ……船が、落ちてきます!?」
説明ありがとう赤髪ちゃん。
そりゃそうだ。ドラゴンが上空で牽引用ワイヤーを切り落として急降下してきたなら、そのあとにぶら下げていたものが落ちてくるに決まってる。まさか自由落下でおれたちの上に落ちてくるとは思わなかったけど。
あの双子悪魔どもが、やけに自信満々な理由の一つがわかった気がした。
「ごめんね、勇者さま」
「初手から、チェックをかけさせてもらうよ」
まるで船の落下が合図であったかのように、ドラゴンが口の中に炎を充填し始める。最上位のモンスターであるドラゴンが吐き出すブレスは強力無比。まともに食らえば、一発で全滅する。
「む……」
船を止めるために、死霊術師さんを腕に刺したまま先んじて動こうとしていた師匠が、立ち止まった。その攻撃態勢を見て、迷う様子を見せる。
無理もない。うちのパーティーで確実に、絶対に攻撃を止めることができるのは、師匠の魔法……『
前門の竜の火球。直上から落下する豪華客船。異なる方向から同時に襲ってくる、大規模な範囲攻撃に対応するためには、どうしても一手足りない。
「よく考えたな……」
「感心してる場合じゃないです! どうするんですか!?」
赤髪ちゃんの言うとおり、感心してる場合ではない。
「賢者ちゃん」
「船の中を魔術探査しましたが、あの女が言うところの『一般客』とやらは、いませんでしたよ。自分の職員も乗せていたのは側近だけで、彼らもすでに脱出させていたようです」
おれが欲しい答えを、賢者ちゃんはすぐにくれた。
ということは、あの船はもう無人か。
「それなら、なんの問題もないな」
「へ……?」
何を言ってるんだ、という目で赤髪ちゃんはおれを見たが、おれから言わせてもらえれば、そっちの方が何を心配しているんだ、と言いたい。
「師匠はドラゴンへの対応を」
「ん。わかった」
おれたちは、世界を救ったパーティーだ。
この程度のピンチは、まったくもってピンチの内に入らない。
「おわりだよ! 勇者さま!」
終わらねぇよ、馬鹿が。
「上は任せた」
「まかされた」
指示と同時に、おれが背中を預ける騎士は、頷きもせずに上空へと跳躍した。同時に、かわいらしい白のワンピースがうっすらと透けて消失し、瞬きの間にその全身が蒼銀の鎧を身に纏う。頭兜が金の髪を包み込み、表情の全てが完璧に覆い尽くされる。
右手には、火の聖剣。左手には水の聖剣。
彼女が振るえば、それは炎と氷に変わる。
両手に構えたそれらが、まるで飛び立つ鳥の羽根のように広がって。
一刀両断。
豪華客船を、二つに切り分けた。
「いっ……!?」
うーん、お見事。
どうだ、うちの騎士さまはすごいだろ!と大いに自慢したいところだったけれど。驚く赤髪ちゃんにかまってあげる暇は、さすがにもうない。おれは剣を構えて、叫んだ。
「なるべく細かく頼む!」
「注文多いなぁ!」
「できない?」
「はあ?」
騎士の声のトーンが、一段深く落ちる。
「誰に言ってんの?」
それが大剣であることが嘘のように、立て続けに斬撃が炸裂する。大剣を片手で振るう魔力の身体強化と、積み重ね、習熟された剣技がなければ、絶対に不可能な所業だ。これ、騎士ちゃんもまた腕上げてますね。おれも負けてられねぇわ。
大まかに炎の剣でカットされた船のパーツはそれでもまだ一つ一つが巨大で、頭上に落ちれば命はない。とはいえ、ここまで細かくなれば、あとは砕くだけで事足りる。
赤髪ちゃんと賢者ちゃんの頭上に落下してくる船の残骸を、おれは大剣を振りかぶって破砕し。騎士ちゃんは左手を翻して、氷の波で切り裂いたそれらを押し流した。
「……この船、保険とか下りるんですかね?」
「知らん」
賢者ちゃんは守銭奴なので、そこらへんの事情が気になるのだろうが、それについても考えている暇はない。
落下する大質量に対処したのも、束の間。すでにドラゴンはブレスを撃ち放ち、巨大な火球がおれたちを飲み込もうとしていた。見事な挟み撃ちだ。
まあ、まったく問題ないが。
「おい、死霊術師」
「っ……ハァ! 武闘家さま! ようやく心臓への『静止』を解いてくださったのですね!? とりあえず、勇者さまにお話を……」
「今から、多分少し、熱い」
「熱いってな……ちょ、あなたまさか……」
死霊術師さんを装備したまま、師匠は巨大な火球に躊躇いなく手を触れた。
炎の揺らめきが、流れが、この世の法則の全てを無視して、空中で静止する。
その魔法を知っているはずの赤髪ちゃんが、その有り得ない光景に、目を見開いた。
「炎が、止まって……!」
はじめて見たら、驚くのも無理はないだろう。魔術には理屈があり、理論があるが、魔法は違う。理屈も理論も笑い飛ばして、世界を根本から塗り替えるのが『魔法』という力の本質。
故に。師匠が触って止めることができる、と認識したものなら、『
ついでに補足するならば、おれの師匠は意外と負けず嫌いなところがあるので、攻撃を止めた程度では絶対に満足しない。小柄な幼女は、自分の身の丈以上の妖艶な美女の足首をひっ掴み、魔法で固めた状態で一本の棒のようにして、空中でそれを振りかぶった。
「よっ──」
「は? まってくださいまってくださいそんなことをしたらわたくしの体がやめろクソババ……」
「──せい」
気の抜ける掛け声にもなってない掛け声と共に、師匠は必死の制止を無視して、静止させた死霊術師さんを片手でフルスイング。ものすごい悲鳴が聞こえた気がしたが、途中で熱に焼かれて跡形もなく消える。
問題、ドラゴンのブレスは打ち返すことができるか?
正解、仲間との絆があれば打ち返せる、だ。
「は?」
悪魔の間抜けな声も聞こえた気がしたが、それすらも飲み込んで。師匠が打ち返した火球の剛速球は、寸分違わずドラゴンの頭部へと返され、直撃した。
自分が吐き出したものとはいえ……いや、自分が放った攻撃だからこそ。モンスターの王もさすがにただでは済まなかったらしい。絶叫を響かせて、竜は激しく頭を揺らし、のたうち回った。
「ありがとうございます、師匠。たすかりました」
「ふ……我ながら、完璧なスイング。これなら、王都の野球で、プロデビューも狙える」
師匠はいたく満足した様子で、焼け落ちて持ち手……もとい、足首しか残っていないバット……もとい、死霊術師さんを地面に放り捨てた。
「師匠は身長制限で選手にはなれないと思いますよ」
「身長、制限……? あ、ごめん勇者。あのバット、捨てた」
「ああ、いいですよ」
おれは足首しか残っていない死霊術師さんを見て、溜め息を吐いた。
「どちらにせよ、そろそろ生き返らせないと、全員集合できませんから」
驚愕という言葉すら、生温い。
「くそ」
「くそっ!」
回避はした。しかし、悪魔は無傷ではなかった。
ジェミニは打ち返されたドラゴンの火球が直撃した瞬間に、自身の固有魔法……『
しかし、ジェミニの全身は燃えるように熱かった。
「「この、くそったれが……!」」
二つの体の内側から、怒りと屈辱が炎のように沸き上がる。
見くびっていているわけではなかった。
最初から全力で潰そうとしていた。これで仕留めるつもりでいたのだ。それでも、勇者という存在は、勇者パーティーという存在は、あまりにもあっさりと悪魔の想像を超えてきた。
「魔王さまは……」
「魔王さまは、どこだ?」
ジェミニは、目を見開いて正面を見た。落下した船の残骸によって、凄まじい砂埃が巻き上がっている。ジェミニが最も視界の中に収めたい、赤髪の少女の姿は砂埃に隠れて見えなかった。
「ちっ」
だが、よろよろと立ち上がる、半裸の女性の姿は見えた。少年は、ニヤリと笑みを浮かべる。次の瞬間には、少年の姿はかき消え、女性のすぐ近くに転がっていた船の残骸と入れ替わった。
「おい、リリアミラ」
一瞬で自分の目の前に転移してきた悪魔に驚いた様子もなく、リリアミラ・ギルデンスターンは、乱れた黒髪の隙間から、見上げるようにジェミニを見た。
「仲間にいいように使われて、ひどい有り様だな。はやく、ぼくと一緒にこっちに来い」
勇者のパーティーは、たしかに最強だ。魔王を倒し、世界を救い、その力を疑うものは、この世界に誰一人として存在しない。
最強とは、最も強い、ということ。だから倒せない。だから勝てない。
ならば、と。悪魔は、逆に考えた。敵が最強であるのなら、その一部を取り込み、こちらも最強になってしまえばいい、と。
「お前がいれば勝てる。ぼくたちが死んでも、お前がいれば何回でもやり直せる。だから、はやくこっちに来い! ぼくを手伝え!」
「……ですが」
歯切れの悪い返事に、ジェミニの中で何かがキレる音がした。
「いい加減にしろよ、このクソ女が! お前はもうパーティーを裏切ったんだよ! 元に戻れるわけがないだろ!」
並べ立てた言葉に、死霊術師が押し黙る。
「安心しろ。勇者は殺さない。そういう契約だからな。お前にとっても、悪い取引じゃないはずだ」
悪魔は、彼女の望みの、その核心を突く。
「自分の名前を。勇者に呼んでほしいんだろう? リリアミラ・ギルデンスターン」
長い黒髪が、辛うじて女の大切な部分を隠している。リリアミラの体が、大きく揺れた。
「さあ! わかったら一緒に」
「おれの仲間に、手を出すな」
差し出した腕は、噴煙の中から飛び出してきた腕に、止められた。
「お前……!?」
「死霊術師さん」
声を荒らげて睨む悪魔の一切を無視して、勇者はリリアミラに向かって語りかける。
もちろん、ジェミニは勇者の腕を振り払おうとした。しかし掴まれた腕は、まるで万力に挟まれたかのように、ぴくりとも動かない。
それは、ありえない膂力。ありえないパワーだった。
(身体能力だけで、ここまで差があるのか……? そんな、そんなバカなことが……!)
「おれは、死霊術師さんが裏切ったとは思ってないよ」
悪魔の手を凄まじい力で掴んだまま、勇者は静かに言葉を紡ぐ。
「おれは、きみと交わした約束を果たせなかった。だから、きみが不安になって、おれの力を取り戻すために、この悪魔と契約したのは、仕方のないことだ。きみの優しさにかまけていた、おれの怠慢だ」
それは、平坦な口調だった。事実を事実として、受け止めた上で発言している、フラットな口調だった。
「海で言ったけど、不安ならもう一度言うよ。何度でも、伝わるまで言う」
それは、本来なら決して仲間に向けるべきではない言葉だった。
人間の口から出たとはおもえない、悪魔のような一言に、ジェミニは耳を疑う。
「おれは必ずきみを殺す。殺してみせる」
けれどそれは、なによりも熱に満ちた宣誓だった。
「だから、こんな悪魔に頼る必要はない。戻ってきてよ、死霊術師さん」
それは、間違いなく。一人の女性に向けられた、たしかな愛の告白だった。
「……勇者さま」
強張っていたリリアミラの表情が、ゆったりと。氷の塊が太陽の光で溶け出していくように、やわらかなものに変化していく。
「ふ、ふざけるな! 騙されるなリリアミラ! こんな、力を奪われた勇者なんかに、できるわけがないだろう? お前を殺すためには、魔王様のお力が……」
必要だ、と。続く言葉は、しかし最後まで続かなかった。
「少し、黙って。そのまま、動かないで。今、勇者が、死霊術師と話をしている」
武闘家が、ムム・ルセッタが、ジェミニの背後に忍びより、背中にそっと触れていた。
(こいつら……揃いも揃って!)
動けない。武闘家の固有魔法の特性は、静止。触れた対象の、動きを止める。接近に気がつけなかったのは不覚だったが、そういう魔法である以上、その特性によって口の動きを含めた全身を止められているのは、理解できた。
理解できたからこそ、勇者を名乗るその男に、魔法も使わず、何食わぬ顔で腕を止められたことが、なによりも悪魔の神経を逆撫でした。
「死霊術師さん」
「はい」
艶やかな視線が、勇者に釘付けになる。
「そんなことは、ありえないと思うけど……もしも、もしもこのまま、この悪魔と手を組んで、赤髪ちゃんのことを魔王にしようとするなら」
それは、心の内側に染み込むような、
「おれ、死霊術師さんのこと、きらいになっちゃうよ?」
最悪の死霊術師に、ある意味相応しい、最悪の発言だった。
脅しだった。
──は?
なんだそれは、と。
口を挟むことすら、全ての動きを止められた悪魔には許されていなかった。
「ふぇ?」
お前、その声どこから出した?と。
疑問を口にすることすら、今のジェミニにはできなかった。
「わたくしのことを?」
「うん」
「きらいに?」
「うん」
「それはつまり」
「うん」
「わたくしのことを、殺してくださらない、ということですか?」
「そうそう」
妖艶な美女の、絵画のような横顔が崩れて歪む。
「い、いやですぅー!?」
両手を広げ、両足を広げ、涙目になって……じたばた、と。どうして見えてはいけない部分が見えていないのか、不思議になるような体勢で、リリアミラは地面に寝転がったまま、全身でいやだいやだと駄々を捏ねた。
「いやですいやですいやです! わたくし、勇者さまに嫌われたくありません!」
「うん、だよね」
当然のように、勇者はそれを肯定する。
「じゃあ、戻っておいで」
「はい!」
素肌を晒しているのも気にせず、リリアミラは勇者に抱きついた。
ちっ、という深い舌打ちが背中から聞こえて、その冷たさにジェミニの背筋は凍るようだった。
対照的に、最高に幸せを滲ませた表情で、リリアミラは銅像のように固まったジェミニを見る。
「申し訳ありません。悪魔さま」
やめろ。
「あなたの提示してくださった条件は、とても魅力的だったのですが……」
やめろ。
「勇者さまに嫌われてしまったら、わたくしの人生は、なんの意味もないので……」
やめろ。
「あなたさまとの契約は、ここまでにさせていただきます。今まで、お世話になりました」
やめてくれ!と。叫ぶことすら、全てを止められたジェミニは許されていなかった。
パーティーの一角を崩す、という悪魔の勝利の目算が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「じゃあ、そういうわけなんで」
まるで迷子だった仔猫を見つけたような気軽さで、勇者は言う。
飛びついてきた死霊術師を抱きかかえたまま、剣を振り上げる。
「お前は、消えろ」
(転移を……)
もうなりふり構ってはいられない。自分自身を魔法によって転移させようと、ジェミニは視線の先に意識を集中したが、
(
「動かないで、って。さっき、言った」
ムム・ルセッタの『
それが魔法であったとしても、同じ魔法であるのなら、例外はない。
悪魔の肩に、大剣が食い込み、肉が裂ける音がした。
今回の登場人物
・勇者くん
比較的まともな心の持ち主のはずだが、死霊術師さんと絡んでいる時だけドロドロのヤベー彼氏みたいな言動になる。
・わかりやすく状況説明を行うリアクション芸人
赤髪で魔王。勇者くんと死霊術師さんの関係にちょっとドキドキしてる。どちらかといえばS。
・賢者ちゃん
一見、Sに見えるがその実はM。
・騎士ちゃん
くっ、殺せ、とか言えないタイプの強すぎる女騎士。早くドワーフに謝って女騎士をやり直してきた方がいい。SかMかで言えば間違いなくドS。敵を切り倒してる時に強くなってる実感を得てキャッキャしてるタイプ。わりと頭兜の下とかが見せられない表情になっている。
今回も、勇者くんに頼られて内心ウハウハだった。
・武闘家さん
打率十割。
・死霊術師さん
半裸の痴女。精神性と挙動が幼児で、何かある度に裏切る峰不二子みたいなタイプ。地獄の底まで突き抜けたドM。
・動けなかった悪魔の片割れ。
死霊術師に裏切られた。SかMかで言えばSだが、相手が強すぎて一方的に殴られて斬られている
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黒輝の勇者
「あ?」
途中で消えた手応えに、おれはたまらず間抜けな声をあげた。大剣で肩口から真っ二つにするはずだった小さな体が、目の前から忽然と消失したからだ。
「ちょっと師匠? 止めてたんじゃないんですか?」
「ふむ。大悪魔とやらの魔法、甘く見てた」
滅多なことで表情を動かさない師匠が、少なからず驚いた様子で振り返る。
「わたしが、直接触れれば止められる。でも、外側から干渉されたら、止められないらしい」
足元に転がっている小石、おそらくジェミニと入れ替わったのであろう石を、師匠は蹴っ飛ばした。視線の先には、肩の傷口を抑えて荒く息をしている少年と、手をかざしている少女がいる。
軽く舌打ちしながら大剣を軽く振るうと、刃から血が滴り落ちた。逃しはしたが、無傷では済まなかったらしい。
「あの悪魔の魔法は、自分自身と触れているものを、視線の先にある対象と入れ替える効果を持っているようです」
半裸でおれに抱きついたままの死霊術師さんが、得意げな顔で解説してくれる。説明はとてもありがたい。ありがたいのだが、そろそろ離れてほしい。胸とか当たっていて、さっきから師匠の視線がすごく痛い。
「武闘家さまの魔法で、触れていた少年の方の魔法は
「は?」
「師匠。落ち着いてください、師匠」
今にも体に巻き付いた死霊術師さんごとおれを殴りそうな師匠を宥めていると、
「……調子に、乗るなよ」
負け犬の遠吠えが聞こえてきた。
いや、違う。何も聞こえないな。
「何だ? 言いたいことがあるなら、もっとでかい声で言ってくれ」
「なら、言わせてもらうよ」
「わたしたちは、まだ負けていない」
あれほど激昂しているにも関わらず、悪魔の視線はおれを見ていなかった。
どこを見ているんだ、と。疑問に思ってから、気付く。
「赤髪ちゃんっ!」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
後ろに隠れていた赤髪ちゃんを目敏く見つけだしたジェミニは、たった一瞬でその体を手元に転移させ、引き寄せ、捕縛していた。
「ゆ、勇者さん!」
「馬鹿が」
「わたしたちを馬鹿にするから、こうなるんだよね」
まずい。完全にしくじった。
「む。抜かったな」
「あの魔法は『見る』だけで、対象を手元に捕まえられるようなもの。厄介ですわね」
師匠と死霊術師さんは呑気にそんなことを言っているが、冗談ではない。早く、赤髪ちゃんを取り戻さないと……
「落ち着いてください。勇者さん」
沸騰しかけたおれの頭に、冷ややかな一言が水をかけてくれた。
「あの最上級悪魔は、2体で1体の特別な存在。それなら、同じ魔法を扱うことにも納得がいきます」
「……賢者ちゃん」
「空間操作系の能力かぁ。あたしは近づいて斬るしかできないけど、接近しても逃げられそうで困るね」
「……騎士ちゃん」
「その女を許すのは、甚だ不本意ですが……とはいえ、私たちが5人、揃っているのです」
いつも通りの自信に満ち溢れた顔で、賢者ちゃんが言い切る。
「女の子を1人助けるくらい、何の問題もないでしょう? 違いますか?」
……いいや、違わない。
「赤髪ちゃん!」
声を張り上げて、言う。
「すぐに助ける!」
「っ……はい!」
ジェミニは、それを鼻で笑い飛ばした。
「はっ! 自信満々だね」
「きみたちは、仲間の力を頼りにしているようだけど」
「でもそれは、きみたちだけのものじゃない」
羽の音が聞こえた。
ドラゴンの翼ではない。もっと小さくて、耳障りな、虫のような羽音。
「ぼくたちにだって、仲間はいるんだ」
「協力、団結、絆」
「数の力が人間の専売特許じゃないってことを」
「教えてあげるよ」
なるほど、と少し納得する。
ジェミニが無駄に自信満々だった理由が、ようやく理解できた。
まるで空を覆い尽くすかのような、黒い影。各地からかき集めたのであろう、地獄の使徒達。上級悪魔の群れが、まるで肉に群がる蝿のように集結していた。
「うわ……なに、あの数」
「数え切れない。賢者、あれ何体いるの?」
「ざっと数えて、72体ですね。よくもまぁ、ここまで集めたものです」
呆れたような賢者ちゃんの呟きをかき消して、ジェミニが叫ぶ。
「聞け! 我が同胞たちよ!」
「よくぞ集まった! 魔王さまの魂は、すでに我が手の中にある!」
「あの目障りな勇者を排除し!」
「我らの主を! 我らの時代を取り戻すのだ!」
拡声魔術によって広がったジェミニの声に、悪魔たちが賛同の雄叫びをあげる。あの双子悪魔、見た目は子どものくせに、士気を引き上げるのは無駄に上手いな。
「恐れるな!」
「このジェミニ・ゼクスが、お前達に力を授けよう!」
「肉を切り裂かれ、骨を砕かれようと、お前たちは蘇る!」
「あの人間どもを、蹂躪しろ!」
ジェミニの腕が、紫色に妖しく輝き、悪魔の群れを照らし出す。
ん?
「ちょっと死霊術師さん。あれなに?」
「ふふ。いやその、なんというか……わたくし、あの悪魔と契約していたので」
「うん」
「取引内容に合わせて、ドラゴンの支配権を譲り渡したり、わたくしの魔法の一部を貸し出したりしておりまして」
なんかすげー不穏な単語聞こえたな。もしかして、魔法を貸し出すって言った?
「先ほど、一方的に契約を破棄してしまったので、わたくしの魔法が強制的に、あちらに権能として吸い上げられているようですわね」
「わかりやすく言ってくれない?」
「あのドラゴンや上級悪魔の群れ、多分自己蘇生します」
「最悪じゃん」
「そんなに褒めないでくださいませ。照れます」
「勇者くん、この人殺していい?」
殺したくても、殺せないんだよなぁ……
わらわらと湧いてきた上級悪魔を見て、深い溜め息を吐く。たしかに、あれらが全て自己再生するというのは、かなり手間だ。正直、すごく困る。
「どうすれば止められる?」
「契約破棄のペナルティによって、能力の一部を吸い上げられているのなら、契約者である双子を殺せば止まるでしょう」
「双子が蘇る可能性は?」
「それは殺してみなければわかりませんが……自分が蘇生できるなら、あんなにわかりやすく、情けないツラを晒して勇者さんの剣から逃げると思いますか?」
「いや、思わない」
「なら、そういうことです」
賢者ちゃんはやっぱり頭が良い。
つまりこれは、ジェミニという頭を潰せば終わりのゲームというわけだ。わかりやすくて助かる。
「じゃあ、作戦立てようか」
「立てる作戦とかあります? 突撃すればいいでしょう?」
「すいません。役職をお聞きしてもいいですか?」
「天才賢者ですが?」
発言が賢者じゃないんだよなぁ。
「勇者くんが言いたいこともわかるよ。突撃するにしても、どう突撃するかとか、そういうのあるもんね」
頭兜のフェイスガードを上げた騎士ちゃんが、ドヤ顔の笑みで鎧に包まれた親指を立ててきたが、うーんちょっと違うっていうかもう脳筋ですね。だめだこのマッスルプリンセス。
「勇者」
「なんです師匠? 何か名案が?」
「あのドラゴン、殴ってみたい。殴っていい?」
「……」
よし、決まったぜ。
「突撃だ」
それはもはや、戦闘ではなく戦争の様相を呈していた。
72体の上級悪魔と、それらを統べて魔法を司る、最上級悪魔。そしてモンスターの王、ドラゴン。その軍勢と正面から対峙するのは、たった5人の人間だ。
上級悪魔とは、本来それ単体で街一つを容易に滅ぼすことができる、人知を超えた存在である。それが72体。さらに、リリアミラから奪った自己蘇生の権能まで保有している。
まるで群れを成すように笑い声をあげる悪魔の群れを、シャナ・グランプレは積み上がった船の残骸の上から冷めた目で見上げていた。普通の感性を持っている人間なら、この光景を地獄と呼ぶだろう。あるいは、世界の終わりというべきか。
「もう救ってしまったので、いまいち実感が湧きませんね」
シャナは、杖を一振りした。
頭上には、72体の悪魔。ならば、こちらも相応の数を用意する必要がある。
瞬きの間に、1人だったシャナの姿が、悪魔と同じ数……72人に『増殖』した。
「大した魔法だ」
「けど、増えれば勝てるとでも、思ってんのかぁ?」
悪魔の嘲笑に、まともに耳を傾ける方が馬鹿である。シャナは無言のまま杖を振って、攻撃の準備を整えた。
「攻撃魔導陣……
小柄な少女の周囲から、岩石が削り取られ、弾丸となって浮き上がる。
一般的に、魔導師はあらかじめ構築した魔導陣を高速展開して、戦闘に用いる。並列処理に優れた腕の良い魔導師であれば、同時に二つ、三つの魔導陣を展開することができるが、シャナは攻撃用の魔導陣を一つしか展開しなかった。一見、雑兵のように見えるが、群れているのは人間を遥かに上回る魔術耐性と身体能力を持つ上級悪魔である。撃ち出す攻撃の威力も考慮し、魔力を込めた魔導陣の展開は、それぞれ一つずつに留めた。
それでも、居並ぶのは総数72門にも及ぶ、岩石の大砲。その威容に、悪魔達が狼狽えた様子を見せる。
「一つ、良いことを教えましょう」
賢者の声が、戦場に響き渡った。
それはジェミニが士気を高めるために用いたのと同じ、広範囲に声を届けるための拡声魔術だ。
「私の魔法特性は、自分自身と触れた対象の増殖。同一のものは100までしか増やせない制約がありますが、触れたものは完璧に、そのまま増やすことができます」
淡々とした声が、広がっていく。
いくら敵に能力の性質が知られているとはいっても、わざわざそれを大声で喧伝する理由はない。メリットもない。にも関わらず、賢者が己の魔法性質を開示する理由は、たった一つ。
「当然、72人に増えた私も、問題なく魔法の行使が可能です」
己の力の誇示である。
72人の賢者が、72の魔導陣に触れた瞬間、それは起こった。
無限に溢れているのかと、錯覚するほどに。増殖していく魔術の紋様が、空を覆い尽くす。
「は……?」
「なんだ、これは……」
シャナの魔法は、全てのものを無条件に増やすことができる……わけではない。
例えば、池に張られた水をそのままそっくり『増殖』させることはできない。それはシャナが、池の中の水を数えることができないから。見ただけでは、その池に満ちる水の総量を把握することができないからだ。だが、手元のコップに満たした1杯の水であれば、1杯を2杯に、2杯を3杯に増やすことができる。
発射準備を整えた魔導陣は、シャナにとって魔力という水が並々と満たされ、可視化されたコップであった。自らが生成した魔導陣を、シャナは増やせる『もの』として認識している。ならば、増やせない道理はない。
72×100=7200
合計7200門もの大砲が、悪魔達に牙を剥く。
「堕ちろ、雑魚ども」
轟音、という言葉すら相応しくない。断末魔の悲鳴すら、掻き消える。まるで暴風雨のような岩石の砲弾が、細腕の一振りで放たれた。
これこそが、世界最強の賢者。
現実を真っ白なキャンパスに変えて、彼女は自分が望むものを、意のままに描き出し、知恵を以て使い潰す。
『
咲き乱れる花を、何人も汚すことはできない。
「さて、上を飛ぶ蝿はこちらで落としました。制圧砲撃から援護射撃に切り替えますので、前に出て頭を討ち取ってください」
逃げ場のない空中では叩き落されてやられる、と考えた悪魔達が、次々に地上へ降下する。このまま魔術砲撃で面制圧をかけてもいいが、72人に増えたシャナの魔力も、決して無尽蔵ではない。なにより、人質を巻き込んでしまう可能性がある以上、大味なシャナの攻撃は、ドラゴンとジェミニに向けることができない。
故に、シャナの仕事は、ここまで。戦闘は、白兵戦に移行する。
「待ってました」
かしゃん、と。上げていた頭兜のフェイスガードを下ろして、アリアは大剣を構えた。
「打たれ強いやつはまだ普通に生き残ってそうだな。再生してくるのもいるだろうし、一番でかい獲物のドラゴンもいる」
「突っ込みながら、一匹ずつ潰していけばいいよ」
火の聖剣を肩に置いて、騎士は水の聖剣を突き立てた。
「あの双子悪魔まで……あたしが、道を切り開く」
瞬間、溢れ出した氷の波が、怒涛のように広がって、戦場の中央に文字通りの氷の道を作る。
勇者は、あきれた顔でアリアを見た。
「え、なに? これで滑って真ん中突っ切るの?」
「うん」
「いや、うん、じゃなくて」
「滑り台みたいで楽しいでしょ?」
「おお。たしかに、滑るの、おもしろそう」
「ほら、武闘家さんもこう言ってるよ?」
「……では、お先にどうぞ、師匠」
「なら、お言葉に甘える。よし、いくぞ死霊術師」
「は? なんでわたくしを掴むんですの? いやちょっと動けな……ぁああああ!?」
リリアミラを掴んだムムは、そのまま自分よりも大きく豊満な体を静止させ、横に倒した。これで、即席の『人間そり』の完成である。
「一番乗り、いただき」
「どうぞどうぞ」
「あぁぁぁぁぁああああああああ!」
死霊術師に上に飛び乗った武闘家が、凄まじい勢いで氷の道を滑っていく。勇者と騎士も、それに続いた。
「突っ込んでくるぞ!」
「殺せっ! 殺せぇ!」
「取り囲んで八つ裂きにしろ!」
当然、敵がそれを黙って見逃すわけがない。
賢者の魔術砲撃を生き残った、あるいは蘇生によって復帰した、気骨のある悪魔達が立ちはだかる。
「邪魔」
「どけ」
「消えろ」
立ちはだかっては、吹き飛ばされる。
闘争本能に満ち満ちた化物達が、人間の振るう拳に、剣に、冗談のように、その身を砕かれ、切り倒されていく。
「なにをしている! 魔力を出し惜しみするな! 全力でかかれ!」
「一斉に攻撃して致命傷を与えろ! 少しでも手傷を与えて、やつらの勢いを削げ!」
ジェミニが悪魔達に出した指示は正しい。進む道が一本である以上、どうしても避けられない攻撃は出てくる。いくら個人個人が強くても、根本的な数の有利は覆らず、どう戦ったところで魔力と体力の消耗は、人間の方が早い。
少しでもダメージを負えば、それが積み重なって、致命傷に繋がってしまう。
「勇者、使え!」
「はいっ!」
ならば、致命傷を負っても問題のない人間に、ダメージを肩代わりしてもらえばいい。
世界最悪の死霊術師。醒めない悪夢と謳われた、元魔王軍四天王、リリアミラ・ギルデンスターンの、勇者パーティーにおける運用は──
「いやぁああああああああああ!」
──死なないメイン盾である。
「騎士ちゃん、危ない!」
「おっと」
「ぎゃあああああああああああ!?」
触れたらヤバそうな黒い炎を浴びそうになったアリアは、勇者から投げ渡された『リリアミラ・シールド』で炎を完璧に防御。返した剣で炎を吐き出したまま驚愕している悪魔を、一刀で切って捨てた。切って捨てている間に、リリアミラはもう灰から生き返っているので、また掴んでは振り回す。
もはやほぼ全裸の美女が、死んでは生き返り、生き返ってはまた死ぬ。肩で息をしながら、リリアミラは黒髪を振り乱してぐったりとしていた。
「はぁ、はぁ……はぁ。む、無理です。もう無理です。死んでしまいます!」
「だからあなた死なないでしょ」
「ほんとだよ。なに言ってるの、死霊術師さん」
再び騎士から投げ渡されたリリアミラを空中でキャッチして、勇者は言う。
「また裏切ったんだから、もっともっと働いてもらわないと」
「はぅぅ!?」
あまりにも残酷な勇者の一言に、リリアミラは胸を打たれたように顔を赤らめた。その一言のどこに頬を染めて照れる要素があったのか、周囲にいた悪魔達は疑問に思ったが、その疑問を口にする前に、彼らは勇者に斬り殺されて息絶える。
止まらない。72体の上級悪魔に、不死の権能を上乗せしても。そのパーティーの進撃が止められない。
「もういいっ……! 消し炭にしてやる」
痺れを切らしたジェミニが、ドラゴンを前に出させる。
勇者達は、それを待っていた。
「アリア。あれに向かって、飛ばして」
「了解。いくよ!」
鎧に包まれた両足が、氷を踏み砕いて踏ん張る。
ぐるん、と騎士が回した大剣の腹に、パーティーで最も小さな武闘家の体が乗る。同時に、アリアは肉体への魔力強化を全開にして、全力でそれをフルスイングした。
結果、ムム・ルセッタの体は一発の弾丸のように、戦場を切り裂いて飛ぶ。
「でかい的、狙いやすくて、助かる」
ドラゴンに比べれば、あまりにも小さな拳が、ぎゅっと握りしめられる。
攻撃そのものを『増殖』させるシャナと異なり、ムムの魔法は防御性能には優れていても、攻撃に関して有効に作用するわけではない。
触れた全てが『静止』する、という特性から、勇者パーティーの中でも一段上の魔法使いとして見られている彼女の強みは、しかし実のところ、魔法ではない。どんな人間でも持っている、誰もが握れば構えることができる、原初の武器。
最もシンプルな、拳による打撃である。
それは、単純な魔力強化に過ぎない。
それは、日々の積み重ねに過ぎない。
けれどもそれは、どこまでも正しく、一撃必殺の拳であった。
衝撃が巻き起こった。誰もが、耳を疑った。
顎を殴られた竜が、大きく仰け反って。一拍を置いた後に、悲鳴のような鳴き声を轟かせる口の牙が、砕けて割れる。
「……やっぱり、急所は、顎か」
これこそが、世界最強の武闘家。
修練を絶やさず、ただひたすらに磨き続けてきた金色の拳は、人の身の限界を超え、竜ですら殴り倒す。
『
永遠の研鑽に、果てはない。
「ドラゴンは抑える。悪魔をやって」
武闘家の短い指示を聞いて、沸き立ったのはむしろ悪魔達だった。あの化物がドラゴンに掛かり切りになるなら、まだ勝ちの目はあるのではないか、と。
「じゃあ、よろしく」
そんな安堵を、突撃する騎士が切り裂いていく。
迂闊に触れた悪魔が、燃え尽きた。逃げようとした悪魔が、骨の芯から凍りついた。
女騎士と勇者の進撃は、むしろ勢いを増して、加速していく。
「結局、2人になっちゃったね」
「ご不満か?」
「ううん。たまにはいいんじゃないかな」
頭兜の下で、勇者には気づかれないように、アリアは笑う。
「勇者くんのテンポを、一番知ってるのはあたしだもん」
「じゃあ、合わせてくれ」
「うん。わかった」
戦場の中心で、その2人はまるでダンスを楽しんでいるようだった。
密着するような近さで背中を預けあって、身の丈を優に超える大剣を振るっているにも関わらず、その刃は襲い来る悪魔だけを的確に切って捨てる。むしろ、お互いの死角を補い合って、美しく舞い続ける。
それは、互いの呼吸を完璧に把握していなければできない動きだった。
「それなら、片方を引き剥がせばいい!」
遂に、ジェミニが動きだす。
女騎士に視線を合わせ、魔法によって位置の入れ替えを行おうとした、その瞬間。
分厚く張られた氷の壁が、女騎士と勇者の姿を覆い尽くした。
「なっ……!?」
「同じ手は、二度は食わない」
騎士が呟く。
見ただけで、対象を捕捉できる。ジェミニの魔法は、間違いなく強力だ。しかし、いくら強力でも『視界に入らなければ能力は発動できない』というタネは、すでに割れている。
「タネが割れた手品ほど、つまらないものはないな」
勇者が呟く。
刹那、氷の壁が、内側から溶け出して、ジェミニは目を見開いた。
出力最大。剣から迸る炎の刃を限界まで延長したアリアは、それを躊躇いなく振るった。たった一閃で、数え切れない悪魔達がその身を焼き裂かれ、地面に沈んでいく。
身を低くして横薙ぎの斬撃を避けたジェミニの頬を、熱気が掠めていった。
「無茶苦茶な攻撃を……」
しやがって、と。言い切る前に、ジェミニはそれに思い至る。
地面に膝をついてしまった。凍った地面に、長く触れてしまった。蛇が獲物に纏わりつくように、ジェミニの脚を霜が這い上がる。
「しまっ……」
「ご自慢の魔法でも、
戦いとは、力が全てではない。
戦いとは、数が全てではない。
互いの持つカードを把握し、手の内を読み合い、狙いを通す。
「やっちゃえ、勇者くん」
その騎士は、隣に立つ勇者の思考を完璧に把握し、呼吸を理解し、言葉がなくても考えを読み取って、実行に移す。勇者にとって、最高の騎士という言葉は唯一人、彼女のためだけに存在する。
『
誇りを掲げる剣には、情熱と冷厳が矛盾なく宿る。
「終わりだ」
動けない悪魔に、勇者が剣を振り上げる。
「終わって、たまるか!」
小柄な少年に大剣を受け止められ、勇者の表情が僅かに揺らぐ。当然、刃渡りの広い聖剣をまともに受け止めたジェミニは、無事では済まなかった。肉が裂け、骨が砕け、肩の傷口から鮮血が吹き出す。受け止め切れなかった刃が、腹に食い込む。
それでもなお、悪魔は笑っていた。
勇者の背筋に、悪寒が走る。そういう笑みを浮かべる敵が何をするのか、勇者はよく知っている。
密着した状態で。ジェミニの手刀が、寸分違わず、勇者の胸を貫いた。
「ご、はっ……」
「勇者くんっ!?」
ずるり、と。胸からべっとりと血が付着した、小さな手のひらが引き抜かれる。
戦闘を開始してから、最も色の濃い笑みを浮かべ、少年の悪魔は歓喜した。
「やった……やったぞ! そうだ! 刺し違えてでも、ぼくは、お前を……」
世界を救った勇者はその瞬間、たしかに命を落とした。
「──あらあら、いけませんわ」
女の、声がした。
「その方を、わたくしの許可なく殺すことは許しません」
どこから、現れたのか。
いつから、そこにいたのか。
まるで影の隙間から、這い出てきたかのように。彼女は、死んでしまった勇者の背中に覆い被さって、熱く抱き締めた。白く長い指先が、愛おしげに、心臓の鼓動が止まった身体に触れる。
甘えるように、女の顎が男の肩にのった。唇が、甘い言葉を紡いだ。
「さあ、早く起きてください」
そう。忘れてはならない。
彼女こそ、世界最悪の死霊術師。
決して覆せないはずの死という結果を、零れ落ちた命を、指先一つで覆し、
『
その傲慢には、死すらも頭を垂れる。
「リ、リリアミラぁああああああ!」
「邪魔をするなっ! この、裏切り者がぁ!」
絶叫と共に突き出された拳を顔面に受け、死霊術師の頭が文字通り千切れ飛ぶ。首なしとなった女の体から、力が抜け、地面に崩れ落ちる。
それだけの間があれば、十分だった。
ゆっくり数えて、四秒。それが、彼女の魔法が発動する合図。
鼓動が戻る。
呼吸が戻る。
視線が射抜く。
「よう。おはよう」
剣が、翻る。
「あ」
断末魔の叫びはなかった。
そこにあったのは、結果だった。
無造作に振るわれた一閃が、双子の名を冠する悪魔の首を落とした。
「悪いな。相討ちじゃ、おれは殺せない」
「あ、あああ……!」
勇者の言葉は、もう殺した少年に向けられているわけではなかった。赤髪の少女を取り抑える、もう一人のジェミニに向けられていた。
勇者の剣が、ジェミニの半身を殺した。
首を落として、殺した。
その意味を、最上級悪魔はよく知っている。
「早く、こっちに来い」
立ち竦む悪魔を、勇者はつまらなそうに
たったそれだけの動作で、ジェミニは勇者の目の前に転移させられていた。
「わ、わたしの、魔法を……
「そうだ」
勇者は肯定する。
その魔法を、最上級悪魔は知っている。
「おれの魔法は、
魔法とは、自身の体と心を中心とする魔の法。世界を己の理で塗り替える、神秘の力である。
だからこそ、色の名を司る高位の魔法の中で、唯一。その力だけが特殊な起動条件を課せられ……魔法使いを殺すカウンターとして完成したのは、必然であった。
「おれは、お前がきらいだ。それでも、お前はおれを、この子に会わせてくれた」
世界を救う、その日まで。
折れず、屈せず、砕けず、諦めず。
鉄の強さに、鋼の意思を伴って、勇者という存在ははじめて完成した。
なにものにも染まらない輝きは、なによりも美しく、しかし同時に、この世に満ちる全ての色を否定した。
「礼を言う」
それは、魂を塗り潰し、あらゆる魔を従える、救済の
『
たとえ、讃える名が失われていたとしても。
彼は、この世界を救った、最高の勇者にして、魔法使いだった。
今回の登場魔法
『
魔法の力は、いとも容易く人間を狂わせる。故に、その魔法に相応しくない担い手が現れた時には、魔法使いを殺し、魔法を剥奪する必要があった。長い歴史の中で、二つの魔法だけが、それを可能とした。黒の魔法は勇者に。無の魔法は魔王に。世界を命運を賭けて彼らが激突したのは、やはり運命であったと言える。
相手を殺して名前と魔法を得る、というシステムがセットであるため、勇者は魔王の呪いを浴びた今の状態でも『殺した相手』の名前なら、覚えて口にする事ができる。逆に言えば、殺さなければ相手の名前を覚えることができない。なお、リリアミラはいくら殺しても『殺した』という結果が残らずに生き返ってしまうため、この魔法だけでは彼女を殺すことはできない。
均衡を保つ抑止力。望めば全てを塗り潰す黒い輝き。世界を変える魔法を否定する力。
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世界を救い終わったけど記憶喪失の女の子ひろった
青かった空は、いつの間にか雲に覆われていた。
雨の雫が落ちて、悪魔の頬を濡す。ここまでか、という悔しさに、奇妙な納得があった。
勝算はあると思っていた。いくつもの準備を重ね、計略を張り巡らせてきた。それでもなお、自分の半身をむざむざと殺され、魔法を奪われ、すべてが終わろうとしている。
ジェミニは悪魔だ。人間が言うバケモノだ。しかし、目の前に立つ人間は、悪魔以上にバケモノだった。だから負ける。それだけのことだった。
「……」
振り上げられる剣に、言葉はない。切っ先が鈍く輝いて、恐怖に染まる悪魔の表情をまざまざと照らし出す。
ジェミニは迷った。
魔王を、この少女を盾にすれば、なんとか生き残れるだろうか? あるいは、自分の生存は保証されるだろうか?
そんなわけはない。この黒い勇者と敵対した以上、もはや生き残る術はない。たとえ何度殺そうが、この男は何度でも蘇って、自分を必ず地獄の底に突き落とすだろう。
勇者の視線には、そういう力があった。
ジェミニは決断した。
その意を決した上で、あれほど欲していた少女の体を、突き飛ばすようにして解放した。
「え?」
困惑する少女とは裏腹に、勇者に迷いはなかった。
「潔いな」
呟きには、賞賛と殺意が同居していた。
最小の動作を、最速のスピードで。悪魔を殺すための動きを、勇者は実行に移す。
胴体を、一突き。
肉体を貫き通す大剣の感触に、ジェミニは目を開いた。しかし、その口から苦悶の声は漏れない。無言のまま、悪魔の手は、勇者の心臓に向けられる。
「二度も続けて、急所狙い。芸がないぞ」
が、その胸板に指先が触れたところで、勇者の手が少女の手首を掴んだ。悪魔の指先は、心臓には届かない。
「……ううん、見えたよ、勇者」
しかしたしかに、悪魔の指先は、勇者の心に触れていた。
「あなたの殺意が、あなたの魔法が……あなたの心が、わたしには見えた。見えたなら、触れられる」
そして、悪魔は自身の主である少女を手放してはいても、その視線までは決して外していなかった。
魔法とは、世界を書き換える概念である。
二体で一柱である特別な悪魔の魔法は、まだ完全に黒く塗り潰されたわけではない。
触れている対象と、視線の先にあるものを入れ替える。それが、ジェミニ・ゼクスの魔法。『
「魔王様を、返してもらう」
自分の命と、魔王の復活。その重さを、天秤にかけるまでもない。ジェミニのすべては、最初から主君に捧げられている。
勇者の中にある『魔王の存在』を、少女の心と入れ替える。
双子の名を冠する悪魔の、最後の魔法が発動した。
夢を見ているようだった。
赤髪の少女は、目を開く。
心の内側で、欠けていたピースがかちりとハマった音がした。
呼吸をする。周囲を見回す。そんな当たり前の挙動をしながら、ここはどこだろうと考える。
透明な部屋だった。何もない、白とも違う、本当に透明な空間。
「こんにちは」
透明な少女がいた。
透き通るような白髪と、折れてしまいそうな肢体。造りもののようなその身体には、不思議と目が引き寄せられてしまうような魅力があって。同時に、目を離してはいけないような威圧感があった。
じっと見入って、思考が答えを出す前に、心が呟いた。
「あなた、は」
「ひさしぶり。元気だった?」
頬を持ち上げ、破顔する。たったそれだけの表情の変化が、こんなにも魅力的に見えるのは何故だろう?
「勇者の中から、ずっとあなたを見ていたわ」
唇を動かして、言葉を紡ぐ。たったそれだけの当たり前の所作が、こんなにも魅力的に聞えるのは何故だろう?
「魔王」
「そうね。わたしは、そう呼ばれていたものよ」
透明な少女は、あっさりとそれを肯定した。
どこまでが地面で、どこからが天井かもわからない。
その場に立ち尽くす赤髪の少女に向かって、魔王と呼ばれた彼女は一歩ずつ近づいていく。
「大丈夫?」
「え?」
手を、差し出された。
なぜか、勇者とはじめて会った時のことを、赤髪の少女は思い出した。
その表情は、本当に心から、自分のことを気遣っているようで。
「わたしと、一緒になる気はない?」
その提案は、なによりも甘く、魅力的だった。
「一緒になる、って……?」
「元に戻る、ってことよ。何者でもない自分でいることは、なによりも辛かったでしょう?」
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「わかるわ。だって、あなたはわたしだもの」
謳うように、囁くように。
もう楽になっていいのだと、魔の王は告げた。
「できません。わたしがあなたと一つになるということは、勇者さんやみなさんを裏切るということです。そんなことは、絶対に……」
「ほんとうに?」
「え?」
「あなたは、ほんとうにそう思ってるの? あなたの愛じゃ、どうせあの子たちには勝てないのに」
ただ当然の事実を、突きつけられる。
その指摘は、たしかに正しかった。
少女は知っている。
彼に向けられる気持ちが、多いことを知っている。彼に向けられる気持ちが、熱いことを知っている。彼に向けられる気持ちが、永遠であることを知っている。彼に向けられる気持ちが、美しいものであることを知っている。
そして、自分の想いが、そのどれにも勝る保証がないことを。他ならぬ、自分自身が知っている。
「重ねてきた時間も、想いも、あなたは他の子たちには勝てないでしょう? だったらわたしと一緒になって、いっそのこと、ぜーんぶ壊してしまわない? 大好きなあの人を、独り占めにしたいと思わない?」
魔王の言葉は、少女の本心でもあった。
少女の心の、一番奥の部分にある。浅ましい嫉妬を晒け出す言葉だった。
魔王の言葉に、偽りはない。魔王の言葉に、嘘はない。その提案はやはり魅力的で、少女の心を、強く強く揺り動かした。
だから、少女は、
「うらやましいんですか?」
魔王の提案を、鼻で笑って蹴飛ばしてみせる。
疑問形のその返答は、自分自身への問いかけと、確認だった。
「え?」
きょとん、と。
透明な少女の大きな瞳が、さらに大きく丸くなる。純粋な、困惑だった。
「わたしが、勇者さんと一緒にご飯を食べて、街を歩いて、海に行って。そういうのが全部、うらやましいんでしょう?」
赤髪の少女は言った。
あろうことか、世界最悪の魔王に向かって「お前、嫉妬してるだけだろ」と言っていた。
「わかるんです。だって、あなたはわたしだったから」
あなたはわたしだから、と。魔王は言った。しかし少女は、あなたはわたしだった、と。今の自分は違うと、魔王の共感を根本から否定する。
少女は、記憶喪失ではなかった。最初から少女には、記憶というものすらなかった。
けれど、世界を救った勇者の隣で、様々なものを見て、いろいろなものを感じて、それら全ての経験が、一人の少女を形作るアイデンティティに変わった。
少女には、名前しかなかった。決して勇者に聞いてもらうことができない名前しか、自分という存在を証明するものがなかった。
「でも、あなたはわたしじゃありません」
今は、もう違う。
「わたしは、勇者さんが大好きですから」
勇者のことが大好きな自分がここにいると、胸を張って断言できる。
「世界を一緒に見に行くって、約束しました。世界を壊す魔王になるなんて、死んでもごめんです」
だから、一人の女として、彼女は魔王の提案を、正面から否定する。
「そっか」
なによりも自信に満ちたその返答を聞いて。
魔王は、静かに微笑んだ。
「じゃあ、気をつけて」
胸に、手が触れる。やさしく突き飛ばされて、少女の意識は薄れていく。
ずっとこちらを見詰めていた瞳は、
「がんばってね」
最後の最後まで、優しいままだった。
魔法による入れ替えをはじかれた、と認識するのに、さして時間はかからなかった。
ジェミニは、自分の魔法が正しく働かなかった理由を考えようとして、しかしそれがなによりも不毛な思考であることに気がついた。
赤髪の少女が、ジェミニを見ていた。
(どうして……)
その目を、知っている。
記憶の底から、悪魔の最も大切な記憶が、走馬灯の如く鮮明に浮上する。
──魔王様は、何か欲しいものがありますか?
──わたしたちに用意できるものなら、必ず用意してみせるよ!
それは、ただの戯れだった。
玉座でつまらなそうに座る王の表情が、少しでもやわらげばいい、と。臣下が思いついた、ささやかな気遣いだった。
とはいえもちろん、主が欲するものがあれば、悪魔にはそれを用意する自信があったのだが。
──そうね
十二の悪魔に、主君として崇められることになった特別な少女は、その時はじめて、何かに迷う表情を見せた。顎に手を当てて、悩んで、考えて、
──あなた達みたいに、双子の妹ができたら……とっても楽しそうね
荒唐無稽な提案に、ジェミニは思わず吹き出した。そして、敬愛する主が温かい笑みを浮かべたのを、よく覚えている。
そう。悪魔はその笑顔を、片時も忘れたことなどなかった。
あの笑顔を、取り戻したかった。あの笑顔を、もう一度目にするために戦ってきた。
けれど、それはもう叶わない。何を引き換えにしたところで、絶対に。
──本当に?
声が、聞こえた気がした。
悪魔が主の残滓から目を離さなかったように。彼女もまた、ジェミニのことを見詰めていた。
少女の口が、言葉を紡ぐ。
「……ありがとう」
彼と、出会わせてくれて、ありがとう。
名前をくれて、ありがとう。
どちらか、あるいは両方だったのか。
ジェミニは、人ではない。
その感謝の言葉にどんな意味が込められているのか、人ではない悪魔は理解することができない。
だが、それは紛れもなく、悪魔が成し遂げようとした契約に支払われた、明確な代価だった。
「……ああ」
かくして、悪魔の夢は、ここに終わる。
剣が、意識を引き裂いて。
その名と魂を、勇者は心に刻み込む。
夢を見ているようだった。
その日、すべてが終わり、すべてが変わった。
それは、最後の戦いだった。
「……ここまでだな、魔王」
疲労と痛みを少しでも排するように、息を吐く。
魔王をそこまで追い詰めることができたのは、はじめてだった。賢者ちゃんも師匠も、死霊術師さんも限界で、最後までおれの隣で戦ってくれていたのは、騎士ちゃんだった。
千載一遇の好機。もう二度とこないであろうチャンス。それに釣られて、おれは判断を見誤ってしまった。
「それは、どうかしら」
騎士ちゃんが膝を突いたのと、満身創痍の魔王が手をかざしたのは、まったくの同時。隣の騎士ちゃんの体を突き飛ばしたのは、ほとんど反射だった。
「っ!」
死に際に遺す、己の命を代価にした呪い。
浴びてはいけないものを浴びてしまった、と。すぐにわかった。それでも、おれには足を踏み出して、剣を振るう以外の選択肢は残されていなかった。歯を食いしばり、その華奢な身体に魔剣を突き立てる。魔王と呼ばれた少女の口の端から、鮮血が零れ落ちた。
「……ごほっ」
こいつの血も赤いのか、と。なぜか、ほっとした。
手にした剣から、伝わってくる命の鼓動は、今にも消えてしまいそうだった。
「……ああ、すごいわ、勇者。ほんとうに、あなたはすごい」
血と一緒に吐き出された言葉は、怨嗟ではなく、おれを讃えるものだった。
「わたしを倒すために、あなたはここまで辿り着いた。わたしを倒すことだけを目指して、あなたはここまでやってきた」
語る言葉に、熱が籠もる。
「なにが、言いたい?」
死に際の戯言に、どうして問いを投げたのか。自分でも、わからなかった。
「うれしいの。だってわたしは……世界で最も、あなたに想われた女ということでしょう?」
「ほざくな……っ!」
足場が崩れる。おれの体も、もう限界だった。膝にろくな力すら入らず、そのまま突き刺した剣と、魔王と一緒に、斜面を転げ落ちる。おれの名前を叫ぶ騎士ちゃんの声が聞こえた気がしたが、返事はできなかった。
「っ!?」
唇を、奪われたからだ。
一体、瀕死の体のどこにそんな力が残っていたのか。首の後ろに手を回されて、脚を絡められて、まるで抱きつかれるような形で、一緒に落ちるしかなかった。求められるその熱に、舌を噛みそうになる。口の中に、血の味が溢れだす。落ちて落ちて、転がって、ようやく背中の鈍い痛みと共に、体の回転が止まった。
おれは、すぐにその生温い感触を振り払って突き飛ばした。突き飛ばしたその手で、唇を拭う。
「はぁ、はぁはぁ……お前、なにを……?」
「ふぅ……ふふっ。照れてるの? かわいい」
魔剣は、腹に突き刺さったままだった。
今にも死にそうな息遣いで、それでも少女は、なぜかとてもうれしそうだった。
「どうして、こんなことを」
「理由はないわ。ただ、あなたと唇を重ねてみたかっただけ。わたし、あなたのことが大好きだから」
まるで普通の女の子のように、少女はそれを語る。
「わたしは今まで、欲しいものをすべて奪って生きてきた。だからね、勇者。わたしは、大好きなあなたのすべてを奪うわ」
まるで悪魔のように、少女はそれを語る。
「数え切れない人たちの魔法を、想いを、名前を、世界を背負って。あなたはわたしを殺した。この世は平和になって、魔の時代は終わる……でもね、わたしは嫉妬深いから、そんな一方的なハッピーエンドは、絶対に許さない」
体が熱を帯びていることに気がついた。胸の内側から吐き気が湧き上がって、思わず頭を抑える。
「だってあなたは、わたしの名前も、自分の魂に刻んで生きていくんでしょう? 平和になった世界で、わたしを殺したことも、背負って生きていくんでしょう?」
それが、義務だと思っていた。
それが、おれの使命だと思っていた。
だが、魔の王はそれを否定した。
「だめよ。絶対に許さない。あなたは……わたしの名前を一生忘れたまま、わたしの名前を呼べないまま、わたしという存在に囚われて、生きていくの」
焼けつきそうな頭を抱えながら、まだ間に合うと思った。
意識をして、言葉を紡いだ。
「────」
おれは、はじめて魔王のことを、名前で呼んだ。
「……ああ、うれしい」
本当に、本当に嬉しそうに。
「やっと、名前で呼んでくれた」
この世の皮肉と矛盾を、集めて押し固めたような事実が、そこにあった。
世界のすべてを賭けて戦った、命のやりとりのあとで。
おれが殺した女の子の笑顔は、見惚れてしまうほどに美しかった。
「愛してるわ、勇者」
「……違う。お前のそれは、愛じゃない」
「……そっか。うん、そうね。あなたがそう言うなら、これはきっと、愛じゃないんでしょうね」
ずっとおれを見詰めていた瞳は、
「わたしは……あなたに、恋をしていたのかな?」
最後の最後だけは、おれを見なかった。
体を強く揺さぶられる感覚に、目を覚ます。
「勇者さん!」
「勇者くん!」
「勇者!」
「勇者さま!」
勇者、勇者、勇者、勇者……と。ああ、もう。本当に、うるさくて仕方がない。
こんなに名前を呼ばれたら、おちおち寝ていられない。
「……いや、死んでないから。大丈夫だって」
起き上がって、大きく伸びをする。
せっかく勝ったのに、一番思い出したくないことを、思い出してしまったようだ。
「勇者さん!」
起き上がったところで、赤髪ちゃんに抱き着かれる。よしよし、と頭に手を添えていると、4人分のじっとりとした視線が突き刺さってきたので、おれは誤魔化すように大きく咳払いをした。
「あー、とりあえず、状況報告を」
「あの悪魔を勇者さんが倒してくれたおかげで、敵の不死性が消えたので、とりあえず片っ端から殲滅しました」
「討ち漏らしはあったかもしれないけど、少なくともこの周囲にもう敵はいないよ」
「たくさん、殴れて、すっきりした」
「わたくしは今、全裸です!」
なるほどなるほど、よくわかった。なんか一人、自分の状況報告をしてるアホがいるけど、放っておこう。
「みんな、ありがとう。本当に助かった。みんなのおかげで、赤髪ちゃんを助けられた」
「本当ですよ。もっと感謝して崇め奉ってください」
「ひさびさに良い運動になったね〜」
「修行の成果を、発揮できる機会をくれたのは、有り難い」
「ふふ……これも全て、わたくしが彼女を蘇生したおかげですわね! あ、ちょっと待ってください。今のはジョークですわ。うそです。もちろん反省して……」
死霊術師さんがドヤ顔で言い放った瞬間に、残りの3人が取り囲んでリンチをはじめたので、おれはそっと目をそらした。
「赤髪ちゃん、大丈夫だった?」
「大丈夫って、何がですか?」
「あの悪魔の、最後の魔法」
「ああ……」
おれを見詰める瞳の赤が、うっすらと滲んだ気がした。
「もちろん、全然平気です! わたしは、わたしですから!」
「そっか」
なら、よかった。
「よーし、じゃあ帰るか!」
「え、本気で言ってるんですか、勇者さん?」
「へ?」
死霊術師さんをぶん殴っていた杖を振るう手を止めて、賢者ちゃんが聞き返す。
「帰るといっても、ここがどこかもわからないのに、どうやって帰るつもりなんです?」
「ん……? いや、それはなんかこう、賢者ちゃんの魔法とか、位置探知で」
「方位くらいはわかりますが、ここがどこかまではわかりませんよ。各地の主要な都市に散らばっている『私』との通信も繋がりませんし。どうやらこのあたり、かなり辺境の土地みたいですね」
たしかに、見渡す限り荒野で何もないけど、いやそれにしても!
「でも、ドラゴンを飛ばしていたのは死霊術師さんじゃなかった?」
「あら、そうは言われましても、目的地はあの悪魔が設定していたので、どこに向かって飛んでいたかなんて、皆目見当がつきませんわ」
つ、使えねぇ……この死霊術師、使えねぇ。
「でも、死霊術師さんの魔法でドラゴンを蘇生させて乗って行けば……!」
「申し訳ありません。それも無理です」
「なんで!?」
「わたくしの
「うん。知ってる知ってる」
「先ほど勇者さまに施したような、意識を奪わない普通の蘇生には何の制限もないのですが、意識を奪ってわたくしの手駒にする蘇生には、当然いくつかの制限がありまして」
「……つまり?」
「4回以上死んだら、もう蘇生できないのです」
「師匠!? あのドラゴン4回も殺したんですか!?」
「うむ。4回くらい殺した気がする」
おかしいだろ!?
なんでこの短時間であのサイズのドラゴンを4回も殴り殺せるんだよ!?
「すまない。興がのって、つい……」
ちょんちょん、と。指先を合わせて、師匠はしょぼんとした。そんなかわいらしい顔をされても困る。
「じゃあ、あのドラゴンはもう蘇生できないし、乗っていくこともできない、と」
「はい」
なんてこった……帰りの足が消えた。
「まあ、ちょうどよかったじゃん、勇者くん。その子と、約束したんでしょう? いろんな世界を見せてあげるって」
いつもポジティブな騎士ちゃんが、にっこりと笑って赤髪ちゃんの方を見る。
「いや、たしかに言ったけど……おれはなんかこう、もっとちゃんと準備とかして、旅に行くつもりだったんだけど……」
「準備もクソもないですよ。まず人がいるところまで辿り着かないと、私たちはこのまま野垂れ死にます」
「いやぁ、昔を思い出すねぇ。あたし、ちょっとワクワクしてきたよ!」
「これもまた、修行ということ」
「会社が気になるので、なるべく早く帰りたいところですが……勇者さまと一緒にいられるなら、わたくしは全てを投げ捨てる覚悟ですわ!」
ああ、なんてこった。
世界を救い終わって、おれは悠々自適にセカンドライフを満喫するはずだったのに……
「──これ、もしかしてまた冒険の旅に出なきゃいけない感じですか?」
質問の答えは、すぐに返ってきた。
「そういうことです」
「楽しみだね〜」
「うむ」
「お供いたしますわ」
うちのパーティーメンバーは、本当に最強で最高だ。
「では、出発です。武闘家さん、とりあえずこの女を背負って、動きを止めておいてください。自由にしておくと、何をしでかすかわかりませんから」
「わかった。トレーニングのために重りが欲しかったから、ちょうどいい」
「そんな……わたくしを、またモノのように扱って! 人権はないんですか!?」
「そうそう。さすがに服は着せてあげようよ。全裸だとあたし達の人格を疑われるし」
「じゃあこのズタ袋でも被せておきましょう」
「ああっ……扱いがひどい! ひどいですわ!」
さっさと歩き始めたみんなを見て、やれやれ、と。ため息を吐く。
赤髪ちゃんだけが、座り込んだままのおれに手を差し伸べてくれた。
「行きましょう! 勇者さん!」
その手を取ろうとして、その表情をまじまじと見詰める。
あの時と変わらない朱色の瞳は、あの時とは違う輝きに満ちていて。だから、少しからかってみたくなった。
「赤髪の、きれいなお姉さん」
「え、あ、はい!?」
「あなたに、伝えなければいけないことがあります」
「えぇ……? えーっと、なんでしょう?」
突然敬語になって、小芝居を打ち始めたおれに、赤髪ちゃんは戸惑いながらものってくれた。それに甘えて、言葉を続ける。
「それが……おれ、あなたの名前を聞くことができないんです」
──それが……わたし、なにも覚えていないんです
あの時と、正反対だ。
赤髪ちゃんの目の前で座り込んで、おれは困りきった表情のまま、俯いてみせる。
屈託のない笑顔で、おれの戯言はくすりと笑われてしまった。
「そうですか。それは困りましたね」
まず、おれに立ち上がってもらうために、彼女は手を差し伸べた。
「じゃあとりあえず、わたしのことは『赤髪ちゃん』とでも、呼んでください」
あの時から、何かが変わったわけではない。
自分の名前しか覚えていない、まっさらな少女が一人。
魔王が遺した呪いにかかった、情けない勇者が一人。
「うん。わかった。あらためてよろしく、赤髪ちゃん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。勇者さん」
でも、何も問題はない。
この鮮やかな赤髪の少女が、食いしん坊で、意外と毒舌で、おしゃれが好きな、かわいい女の子であることを、おれは知っている。
だから、一緒に歩いていけばいい。これからこの子のことを、もっともっと知っていけばいい。
差し出された手のひらを強く掴んで、おれは立ち上がった。
「あ、勇者さん! あっちの方、みてください! 晴れてますよ」
「おお、たしかに」
おれたちの門出を祝福するように、青く染まった空の境界線に、色鮮やかな橋が架かる。
「虹を見たことは?」
興味が湧いたので、聞いてみた。
「はい! もちろん、はじめてです!」
元気の良い答えに、おれも釣られて笑ってしまう。
「いいね。じゃあとりあえず、あっちの方に行ってみようか」
「え、そんな適当に行き先を決めちゃっていいんですか?」
「いいんだよ」
歩幅を合わせて、手を繋いで、歩き出す。
「虹を見上げて、その根本を目指して進む。冒険なんて、そんなもんだ」
それでいい、と。
気づかせてくれたのは、きっとこの子だった。
かつて、世界は魔に包まれていた。
紅蓮の騎士と純白の賢者。黄金の武闘家と紫天の死霊術師。力を持つ多くの仲間の助けを得て、黒輝の勇者が魔王を打倒した。
魔王と呼ばれた、少女がいた。少女は、勇者に恋をした。
少女の愛は、そんなに多くない。
少女の愛は、そんなに熱くない。
少女の愛は、それが永遠だと、断言するにはまだ自信がない。
少女の愛は、それが誰よりも美しいと、自惚れるには足りなかった。
そう。少女の中にあるこの気持ちは、きっとまだ愛と呼べるものですらなくて。
でも、だからこそ、少女は自分の中に芽生えたこの気持ちを、大切にしたいと思った。
彼に名前を呼んでもらったことは、残念ながら一度もない。これから、彼が呼んでくれる保証もない。しかし、それでも構わないと、少女は思った。
愛とは、なんだろう?
この気持ちを積み上げていけば、それは多くの愛になるのだろうか?
この気持ちを静かに温めていけば、それは熱い愛に変わるのだろうか?
この気持ちを磨き続ければ、それは永遠の愛として認められるのだろうか?
この気持ちをどこまでも深く求めれば、それは美しい愛として讃えられるのだろうか?
疑問は尽きない。答えはわからない。
だから、これから探しに行こう。
空に虹。地には風。雨が降って、固まった地面を踏み締めて、彼女は彼と歩み出す。
少女は、世界を救った勇者の隣を歩いていく。その横顔を、こっそり盗み見ながら歩いていく。
彼に想い焦がれるものが多いのは知っている。
多くもなければ、熱くもない。永遠だと言い切ることはできないし、美しいと胸を張って自慢もできない。
──わたしの愛は、最も幼い。
けれど少女は、空にかかる虹色を見て思うのだ。
想う心は、何色にだってなれる。鮮やかな色彩を描いて、人と人を繋ぐ架け橋になれる。
だから、ここからだ。
──わたしの恋は、ここからはじまる。
みなさんの応援のおかげで、ここまで書き切ることができました。本当にありがとうございます。
勇者と少女の出会いのお話はこれにてとりあえずおしまい。ですが、彼らの冒険はこれから、ということで。書ききれてないこともあるので、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。
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これまでの登場人物まとめ
◆勇者くん
・名前 不明
・年齢 23歳
・職業 勇者
・魔法 『
・魔術属性 炎熱・迅風
・好きなもの 人間
・嫌いなもの 魔王
・備考 婚活中 騎士学校中退
世界を救った勇者。世界を救い終わったあと、やることがなかったので悠々自適の引きこもり生活を過ごしていたが、赤い髪の女の子をひろっていろいろあった結果、また冒険の旅に出る羽目になった。わりと場の空気に流されやすく、困っている人はほっとけないタイプ。薄いくすんだ色合いの赤髪が目を引くが、地毛ではない。将来ハゲないかちょっと気にしている。
戦闘に関しては基本的に脳筋。生まれ持った才と戦いで培ってきたセンスで、真正面からゴリ押しする。騎士ちゃんからは「昔の方が頭が良かったし、機転も利いていた」とか言われるが、ある意味その通りで、様々な命のやりとりを繰り返してきた結果、力押しで勝てる時は力押しで正解という嫌な結論に至ってしまった。勇者なので戦闘の際には専ら剣を使うが、師匠から教わった格闘技術を活かして、拳でもそこそこ戦える。魔術も使えるものの、斬って殴った方が相手が確実に死ぬので、やっぱり近接戦しかしない。どこまでも脳筋。
魔王が遺していった呪いによって、相手の名前を聞くことができず、自分の名前も思い出せない難儀な体になってしまった。聞く、言うだけでなく、書いて見ることすらできないため、この呪いは口や耳、目といった肉体部位に対してかけられたものではなく、魂そのものに刻まれたものである。しかも、術者である魔王が死んでしまっているので、誰にも解くことができない。王国全土からあらゆる魔導師が集結して解呪を試みたが、すべて失敗に終わってしまった。現国王はそのことをかなり気にしているらしい。
魔王討伐後はさっさと静かな街に引っ込み、あまり人と関わらない生活を送っていた。基本的に人が好きで、人と言葉を交わすのが好きなので、名前を呼べない呪縛は彼にとって深い傷になっている。パーティーのみんなのことはもちろん大好きだが、昔のように名前が呼べないことが少しつらくて、距離を置いていた。なんだかんだ、みんなとまた冒険に出ることができてうれしい。
・魔法『
勇者の固有魔法。魔法は自分自身と何らかの身体的動作をトリガーとして発動するものがほとんどだが、
魔法使い相手でなければ意味がなく、勝って殺さなければそもそも能力を得ることもできないため、最初は役たたずの魔法。冒険をはじめた当初は、勇者本人も魔法の性質を理解しておらず、かなり苦しんだ。
・魔法『
ジェミニから奪った魔法。自分自身、もしくは触れている対象を、視線の先にあるものと入れ替える。魔術に区分するなら、空間移動、空間操作の能力にあたる。かなり応用力が高く、2人で1人というジェミニの性質も相まって、一時は勇者を完封しかけた。
勇者をこの魔法をジェミニ・ゼクスの名と共に魂に刻んだため、二度とその名を忘れることはない。
・パーティーメンバーへの感情
赤髪ちゃん←かわいい。いろいろ心配
賢者ちゃん←かわいい。守ってあげたい
騎士ちゃん←かわいい。笑顔を見ると安心する
武闘家さん←師匠。頭が上がらない
死霊術師さん←美人。殺してあげたい
◆赤髪ちゃん
・名前 不明
・年齢 不明(推定16〜18歳)
・職業 なし
・好きなもの 勇者 ご飯
・嫌いなもの なし
・備考 記憶がない
赤髪赤目の真っ赤な少女。きれいとかわいいの中間のような外見。仕草や反応が子どもっぽいので、少女に見られることが多い。性格は明るく生真面目で人懐っこいが、思ったことはそのまま口に出すタイプ。わりと勇者にはっきり文句を言う。記憶がないため知識や常識に乏しい面があるものの、地頭は決して悪くない。ご飯を食べるのがとても好き。なんでも食べる雑食だが、野菜よりも肉を好む。
自分の境遇や生まれに思うところは多いが、今はとにかく冒険に行けるのがすごく楽しみ。勇者のことを、もっと知りたいと思っている。
・パーティーメンバーへの感情
勇者さん←好き。もっと好きになりたい
賢者さん←自分よりちっちゃいのにすごい
騎士さん←明るくてすごい人
お師匠さん←長生きですごい人
死霊術師さん←目がこわいけどやさしい
◆賢者ちゃん
・名前 シャナ・グランプレ
・年齢 17歳
・職業 賢者 王室相談役 王室付魔導師
王立魔導学院校長 実戦魔術科最高指導者
王立騎士学校魔術科特別顧問
魔術協議会事務局長 他多数
・魔法 『
・魔術属性 砂岩・迅風・流水・炎熱
・好きなもの 勇者 勉強 魔術開発
・嫌いなもの エルフ
・備考 人間とエルフの混血。ハーフエルフ
勇者パーティーの賢者。触れれば折れてしまいそうな細い体を黒のローブに包み込み、目深に被ったフードから波打つように溢れる銀髪に、翠色の瞳が特徴。典型的な魔導師らしい風貌だが、外見に関しては国王が「お前のように美しい魔導師は見たことがない」と褒め称えるほど。社交界でローブを脱いで着飾った時の可憐な容姿は、貴族の間でも評判だとか。
パーティー最年少でありながら、頭脳労働担当。10歳の時に勇者に拾われてからもりもりと勉強しゴリゴリと知識を身に着け、すくすくと育ってあっという間にクソ生意気になった。肌は真っ白なくせにお腹の中が真っ黒であり、魔王討伐後はせっせと根回しを行い、わずか一年で王国内に魔導師中心の一大派閥を築き上げた。エルフの里では迫害されていたので、基本的に人間不信。権力や利益、恩義がなければ人心は掌握できないと思っている。普段は敬語で誤魔化しているが、根本的に口が悪く、相手を煽って挑発するのが大好き。テンションが上がるとさらに口が悪くなる。
室内でも大抵フードを外さないのは、エルフの特徴である尖った耳が嫌いだから。背中の中ほどまで届く銀髪はややくせっ毛で、鬱陶しい、とシャナはよく愚痴っているが、勇者が髪の長い女性が好きであるため、切るつもりはまったくない模様。ハーフエルフなので視力は悪くないが、気分の問題で集中して執務に取り組む時はメガネをかける。
・『
シャナの固有魔法。自分自身と、その手で触れたものを『増殖』させることができる。複製魔術、分身魔術といったオリジナルを元にコピーして増えたように見せかける魔術はいくつか存在するが、それらはどこまでいっても偽物。
魔力を込めた魔導陣を『増殖』させることも可能で、魔術を用いた対集団への制圧能力は、パーティーの中でも随一。シャナが魔術砲撃で敵を圧殺し、討ち取れなかった相手を残りのメンバーが仕留めていくのが勇者パーティーの基本戦術である。
・パーティーメンバーへの感情
勇者さん←好き。世界そのもの
赤髪ちゃん←胸がでかいなと思っている
アリア←お姉ちゃん。無意識に甘えている
ムム←頼れる人。でも自分の方が胸が大きい
リリアミラ←基本的に死ねと思っている
◆騎士ちゃん
・名前 アリア・リナージュ・アイアラス
・年齢 23歳
・職業 騎士 領主
・魔法 『
・魔術属性 適正なし
・好きなもの 勇者 鍛錬 料理 お酒
・嫌いなもの 弱い自分
・備考 アイアラス家第三王女
勇者パーティー所属の騎士。流れるようなやわらかな金の長髪に青い瞳。鍛え抜かれた肢体と生まれからくる高貴な雰囲気が人を寄せ付けない……ように見えて、明るい陽だまりのようなやさしい笑顔がよく似合うお姫さま。作業をしたり体を動かす時は、髪をポニーテールにまとめていることが多い。
隣国の第三王女にして騎士。農地で領民と一緒に鍬を振るい、鍛錬で汗を流し、酒を酌み交わして一日の疲れを落とすタイプの庶民派パワフルプリンセス。現在の領地と領民はいろいろあってアリアが勝ち取った成果の一つなので、とても大切にしている。直属の部下からの信頼も厚く、姫としても騎士としても人柄は申し分ないが、頭の方に関しては少々残念だと思われている。
戦闘時には全身に特殊な鎧を身に纏い、力こそパワーを地で行く、強襲突撃型姫騎士に変貌する。持って生まれた魔力を身体強化に全振りし、二振りの大剣を二刀流のようにぶん回す。オークは間違ってもこの姫騎士にだけは喧嘩を売らないほうがいい。
敵に捕まったら「くっ……殺せ」とか言う前に、勇者を守るために自分の舌を噛み切るタイプなので、あまりにも生け捕りに向かない。よく勇者くんに薬を盛ったりするが、基本的に盛ったほうが事態が好転する時にしか盛らない。彼が無理をしている時は、さり気なく疲労回復効果のある薬草や、よく眠れる薬を料理に混ぜ込んで美味しく食べさせたりしていた。2人で旅をはじめた頃は料理をしたことすらなかったが、旅を通じて酒屋の厨房に入っても問題なく切り盛りできるほどに家事スキルを上げている。とにかく何事に関しても努力家。
・魔法『
アリアの固有魔法。自分自身と触れた対象の温度を『変化』させることができる。体に触れるだけで熱耐性や凍結耐性がなければ勝負が決まる強力極まりない魔法だが、アリアはパーティーの中で自分の魔法が最弱だと思っており、それがややコンプレックスに繋がっている。事実、戦闘における発動範囲や決定力が低いのは間違いなく、アリアはこれを鍛錬と装備でカバーしている。
とはいえ、冒険者が持つ魔法としてこれほど便利な力もなく、自分自身の体温操作が自由自在なので、暑くても寒くても問題なし。温い水を冷たい水や氷に、冷えたスープを湯気の立つ状態にしたりと、生活面で非常に役に立つ。ぬるくなったビールをいつもキンキンに冷やした状態で飲むことができるので、アリアは姫という立場であるにも関わらずビールが大好きになった。コイツはそろそろ王女の看板を下ろした方がいい。
・パーティーメンバーへの感情
勇者くん←好き。守るべき人
赤髪ちゃん←かわいくて素直で好き
シャナ←妹みたい。甘やかしている
ムム←超えるべき壁。いつか倒したい
リリアミラ←殺すべき相手。いつか殺したい
◆武闘家さん
・名前 ムム・ルセッタ
・年齢 1024歳
・職業 武闘家
・魔法 『
・魔術属性 適正なし
・好きなもの 勇者 鍛錬 観光地巡り
・嫌いなもの とくになし
・魔術属性 適正なし
・備考 武術大会で多数の優勝実績あり
勇者パーティー所属の武闘家。勇者の師匠。魔法の特性によって1000年以上の時を生きる仙人だが、外見は青髪ショートヘアのロリっ子。背丈も手足も非常にちんまい。街では子どものふりをしてお菓子をもらったり、屋台で値引きしてもらったりしている。涼しい顔をして食えないロリ。
見た目に反して精神的には非常に成熟しており、赤髪ちゃんに命の大切さを説いたり、勇者の頭をなでなでしたり、シャナからの無茶振りに応じたり、とても頼られている。が、他人と時間の感覚が根本的にズレているせいで非常にマイペースな性格であり、すぐにふらふらといなくなることが多い。年齢に関してはそこまで気にしていないが、他人にババアと呼ばれるとすぐにキレる。ババアと呼んでくるのは基本的にリリアミラなので、彼女をよくおもちゃにして遊んでいる。
魔術適正は皆無なので、素手による戦闘を行う。育ての親である師父から十数年に渡って拳の使い方を学び、その腕前は拳聖とでも呼ぶべき域にまで達している。長い旅の中で様々な強者と出会ってきた勇者が「拳だけなら間違いなく人類最強」と太鼓判を押すほど。千年の時を経て研鑽された黄金の拳は、巨大なゴーレムを砕き、モンスターの王であるドラゴンすら殴り飛ばす。
・魔法『
ムムの固有魔法。司る権能は『静止』。自分自身と、触れた対象の動きを完全に停止させる。彼女が年を取らないのは、体の時間が止まっているから。格闘戦では触れただけで相手の動きを封じ込めるため、無類の強さを発揮する。また、ムムが「止めることができる」と認識しているものなら何でも静止させることが可能で、実際に炎や魔術の類いすらも止めてみせている。勇者パーティーの守りの要を担う、絶対防御。
静止効果のオンオフはムムの自由自在だが、コントロールに不慣れな頃は、うまく扱えなかった。今では、リリアミラの体の動きを止めて、悲鳴だけを聞いてみたり、精密な操作をものにしてよく遊んでいる。
・他のパーティーメンバーへの感情
勇者くん←好き。自分の時を動かしてくれた弟子
赤髪ちゃん←たくさん食べて大きくなりなさい
シャナ←たくさん勉強してるけど無理はせずに
アリア←たくさん鍛錬して強くなりなさい
リリアミラ←装備品。武器。玩具
◆死霊術師さん
・名前 リリアミラ・ギルデンスターン
・年齢 26歳
・職業 死霊術師 ギルデンスターン運送社長
南部ギルド連盟特別理事
・魔法 『
・好きなもの 勇者 魔王 会社経営 酒
アクセサリー インテリア 美術品
各地の特産品・名物 甘いもの
・嫌いなもの 自分の魔法 自分以外の四天王
武闘家 治癒魔術全般 虫 辛いもの
・魔術属性 炎熱
・備考 元魔王軍幹部四天王第二位
作戦参謀 資金運用担当
勇者パーティー所属の死霊術師。ついでに元魔王軍四天王第二位。妖艶な美女、という形容表現をそのまま肉付けしたような魔性のお姉さん。腰まで届く黒の長髪は、服がなくなってしまった時に大事な場所を隠すのに必要不可欠。よく頭が破裂したり吹っ飛んだりして髪型が崩れるが、平時はハーフアップで黒髪を結わえている。洒落た服や小物の類いに目がなく、勇者パーティーの中で最も装飾品を多く身に着け、外見には気を遣っている……のだが、全身を吹き飛ばされるような死に方をしてしまうと全てなくなってしまうのが悩みの種らしい。そもそも全身を吹き飛ばされるような死に方をするべきではない。
物腰柔らかで教養も気品もあり、冗談を解して軽く返すユーモアも完備しているので、パーティー内ではコミュニケーション能力が高い部類に入る。魔王討伐後に会社を設立、運営しあっという間に地位を築いてみせたことからもわかるように、その商才は本物。優秀な人材の選定にも優れており、魔王軍にいた頃は配下への勧誘などを積極的に行っていた。彼女がいたからこそ魔王軍は組織として問題なく機能しており、逆に言えば彼女がいなくなって魔王軍の戦力は一部が機能不全に陥った。
勇者パーティーへの加入は最も遅かったが、元四天王という肩書に恥じない働きを果たし、魔王討伐に大きく貢献していた。「死霊術師さんがいなかったら魔王は倒せなかった」とは、勇者の談。口には出さないが、他のパーティーメンバーもそれに関しては認めている。勇者のことは尊敬しており、異性としても好ましく思っているが、最終目的が『自分を殺してもらうこと』なので、勇者には別の誰かと結ばれて幸せになってほしいとこっそり考えている。
・魔法『
リリアミラの固有魔法。自分自身と触れた対象を四秒で完全に『蘇生』する。生命の倫理を一切無視した外法。魔王軍に所属していた頃はこの魔法を用いて討伐されたモンスターや幹部格の悪魔を片っ端から蘇生させており、戦力を根底から支えていた。自分自身も死ねばオートで魔法が起動するため、基本的には不死。ただし、不老ではない。老化を肉体への攻撃と認識して魔法が働いているムムの『
自分の蘇生と他人の蘇生にはいくつかの条件やリスクがあり、リリアミラはそれを巧妙に偽装している。例えば、
・蘇生した対象は意思を消して操ることができる
ということは知られていても、
・操って手駒にした蘇生対象は四回以上死ぬと蘇生できない
というリスクは隠し通していた。やはり食えない女である。
パーティーでは
・他のパーティーメンバーへの感情
勇者さま←好き。殺してほしい
赤髪ちゃん←わりと好き。魔王様みたい
シャナ←結構好き。才能があるなと思っている
アリア←結構好き。努力してるなと思っている
ムム←お前は死ね
◆魔王
・名前 不明
・年齢 19歳
・職業 魔王
・魔法 不明
・魔術属性 雷撃・炎熱
・好きなもの 部下 配下の悪魔 晴れた日の空
・嫌いなもの 人間
・備考 故人(享年19歳と推定)
人類を脅かした最強最悪の脅威。魔を統べる王という概念が、形を成して現れたもの。
本格的に活動を開始したのは、10年前。悪魔やモンスターと共に行動する少女の目撃報告が各地で散発的に報告されるようになり、統率された動きを取るようになったことから、その存在に裏付けが取れた。北方に本拠を構え、勢力を徐々に拡大。人間の生息域を脅かすまでに至る。
5年前、勇者が旅に出て2年後の冬に、王国軍は周辺諸国と呼応して、大規模な反抗作戦を敢行。当時の五大騎士団の団長が戦列に加わり、魔王の討伐は確実と思われたが、1人を除いて全員が戦死した。これ以降、勇者が魔王の元に辿り着くまで、人類側は生活圏を維持するべく守りに徹することになる。
カリスマの塊。王になるべくして生まれた存在。無色透明の悪意。彼女との謁見が許された者は、それだけで忠誠を誓うようになった、と言われている。天然の人たらし。
・人間への感情
勇者←大好き
リリアミラ←好き
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幼女を助けたらエルフの森が焼けた
ある日、森の中、エルフに、出会った
やはり、こんな荒野のど真ん中に飲食店を構えたのが間違いだったのだろうか。
「今日も暇だねぇ……」
昼間なのに薄暗いバーカウンターの中。その店主は、グラスを磨きながら静けさを紛らわすように、呟いた。もちろん、店内に客は1人もいない。
この土地で店を開き、商売をはじめたのはほんの数ヶ月前のことだ。彼にとっては、余生を静かに過ごすことが主な目的で、利益や売上はどうでもよかった。だからこんな場所で開店したわけだが……そもそも人が来なければ商売として成り立たないことが、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。おかげで、店はいつも閑古鳥が鳴いている。なんというか、無欲故の誤算である。
本当に時々、この辺りを通り過ぎる人間が寄って行ってくれるが、それすらも数日に一度という有様だ。これでは営業がたち行かない以前に、暇過ぎて死にそうになってしまう。
「団体様でも来てくれれば、目一杯もてなしてやるんだけどなぁ」
耳まで隠す長髪をかきあげながら、愚痴をこぼす。まるで、その呟きに応えたかのように。
からん、と。来客を示すベルが鳴った。
「すいませーん……やってますか?」
入ってきたのは、くすんだ赤髪が目を引く青年だ。歳は20を過ぎたくらいだろうか。比較的整った、いかにも好青年といった顔立ちだが、なんとなく表情に苦労の跡が滲んでいるように見える。
「おう、いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
ああ、よかった。今日は客が来た。
店主がほっとして、にこやかに席を勧めたその瞬間、
「よぉーし! ほらみろぉ! やっぱりちゃんとやってたじゃん! 営業してるじゃん! 幻覚なんかじゃないって!」
青年は後ろを振り返って叫び、とても喜びながらその場で感激の涙を流し始めた。
「……お客さん? 大丈夫かい?」
「ああ! すいません! おれたち、実はここ数日歩きっぱなしで……やっとこの店を見つけて!」
「なるほど、冒険者だったか。そりゃ疲れただろう? 見ての通り狭い店だが、ゆっくり羽を休めていくといい」
「ありがとうございます!」
頭を下げる青年の服装は、よく見るととても汚れている。しかも、冒険者というわりには随分と軽装だ。まるで、そこらへんの町中を歩き回っているような格好である。
もしかして、まだろくに装備も整えられていないような駆け出しの冒険者なのだろうか、と首を捻っていると、2人目が入ってきた。
「ほほう。こんなところに店なんてあるわけがないと、思っていましたが。なかなか良い雰囲気ですね」
2人目は少女だった。質が良さそうな黒のローブ、目深に被ったフード、そして携えている杖で、私は魔術師です、と。全身で全力で主張しているような少女だった。
「辺鄙なところですし、味に期待はできませんけど、この際飲み食いできればなんでもいいですね」
あと、普通に口が悪かった。
しかし、人が寄り付かない場所にあるのは事実なので、否定のしようがない。
「はっはっは。これはかわいらしいお連れ様だ。お好きな席にどうぞ」
「どうも」
澄ました様子で、少女は青年の向かいではなく、すぐ隣に腰掛ける。
そういえば、彼は「おれたち」と言っていたので、まだパーティーメンバーがいるのだろうか、と。目をやった扉がこれまでで一番勢いよく開かれた。
「やったー! お店だ! ご飯だ! お酒だー!」
口が悪く、素直じゃなさそうな2人目の少女とは対照的に、元気一杯に入店してきたのは、3人目の女性だった。絹糸のような金髪に、思わず目を惹かれるような美貌。そして、一目で鍛え上げられていることがわかる体。まるで、存在感の塊のような美女だった。
「マスター! ビールある!? ビール!」
「ああ、もちろん」
「じゃあビールふたつ!」
こんなに嬉しそうに注文してもらえると、こちらとしてもうれしい。店主も釣られて笑いながら、冷えたビールの瓶を取り出した。
「なんで勝手にビール頼んでるの?」
「きみも飲むでしょ?」
「いや、飲むけどさぁ……」
女性は、当たり前のように青年の前の席に座った。金髪のポニーテールが、犬の尻尾のようにふりふりと揺れる。
これは両手に花だな、うらやましい、と。女性2人に囲まれた青年の様子を微笑ましく見ていると、なんとまた扉が開いた。
「ふむ、こんなところに店があったとは」
「あらあら、これでやっと一息つけますわね」
なんと、3人目と4人目も女だった。しかもそれは、見るからにまだ小さい幼女と、簀巻きにされた妖艶な美女だった。より詳しく説明するなら、まだ小さい10歳くらいの幼女と、麻袋に突っ込まれてその幼女に担がれている、妖艶な美女である。
なんだろう、この取り合わせは?
店主の困惑を気にもせず、幼女は軽々と美女を担いだまま入店し、カウンターの席に麻袋の美女を立て掛けてから、自分もよいしょっと、カウンター席に腰を落ち着けた。
「マスター、ミルクをもらいたい」
「あ、はい」
「では、わたくしは何にいたしましょう……紅茶でもいただきましょうか。失礼、メニューを見せて頂いてもよろしいですか?」
「あ、ええ。もちろん」
なんで、この美女は麻袋で巻かれたまま当たり前のようにメニューを見れるのだろう?
「あらあらあら、中々良い茶葉が揃っていますわね」
「まぁ、なんというか、それなりに拘ってるんで」
「しかも、そちらのグラスは東方のウィンチェスター地方のものではありませんか? 調度品の雰囲気と合っていて、とてもすてきです」
美女の的確な目利きに、店主はぎょっとした。とてもじゃないが、麻袋で巻かれている女とは思えない審美眼である。
「……まさか、一目見ただけで言い当てられるとは。良い目をお持ちだ」
「ふふっ、ありがとうございます。わたくし、こう見えても運送会社を営んでおりまして」
本当にどう見ても会社の経営者には見えなかったので、店主はさらに驚いた。
「……仕事柄、客の事情には立ち入らないようにしているんだが、一つ聞いていいか?」
「はい。なんでしょう?」
「なんで、麻袋に入ってるんだ?」
「どうしてだと思います?」
「…………奴隷、とか?」
「はい! 大正解です! わたくし、何を隠そう愛の奴隷でして! だからこうして麻袋に巻かれているわけなのですが!」
「はぁ」
「店主さん! その人の言うことは気にしないでください!」
「マスター、このバカの話に付き合う必要はないから、早くミルク持ってきて」
事情はよくわからないが、この麻袋の美女が他のパーティーメンバーからひどい扱いを受けていることはよくわかった。
「あ、マスターさん。お手数ですが、わたくしのアイスティーにはストローをつけて頂けますか?」
「ストローを?」
「はい。わたくし、この下が全裸ですので、腕が使えないのです」
「…………はいはい、ストローね。ちょっとまってな」
あと、ついでに変態だった。
水とビールとミルクと紅茶を出しながら、店主は考える。この美女が変態の可能性もあるが、パーティーのリーダーはおそらく最初の青年だ。もしかしたら、あの男、穏やかな顔をして、えぐい性癖の持ち主だったりするのだろうか? 今のところ、パーティーメンバーがほぼ女性なのもあやしい。
「勇者さん、みなさぁーん……急に走らないでくださいよぅ……」
またまた扉が開く。もう驚かない。5人目も女性だった。
見るも鮮やかな、赤髪の少女である。
店主は思う。やっぱこのパーティー、あの男以外全員女じゃねぇか。
「ああ、ごめんごめん赤髪ちゃん。こっちこっち」
「うぅ……もう無理です。わたし、お腹が空いて死にそうです」
よほど空腹だったのだろう。赤髪の少女は青年たちのテーブルに座り込むと、スライムのようにテーブルの上にへたり込んだ。
「ここにメニューあるよ」
「ご飯ですかっ!? じゃあここからここまでください!」
「注文が雑!? 頼みすぎだろ! 誰の金だと思ってんの!?」
「もちろん勇者さんのお金ですっ!」
「自覚があるならよし!」
「よくないでしょう。なに甘やかしてるんですか」
「ぷはーっ! 生き返ったぁ! マスター! ビールおかわり〜!」
「ペースはやいよ!? まだ乾杯もしてないんだけど!?」
どうやら食いしん坊の少女だけでなく、全員それなりに空腹だったようで、店主は手早く出せるものから食事を用意した。
料理が出揃い、テーブルの上を彩ると、会話にも花が咲く。
「ところでわたくし、持ち運ばれるのは百歩譲っていいにしても、そろそろお洋服がほしいのですが……」
「お前のそのデカい乳を収める服がないから、無理」
「すいませんマスターさん、このスープは人参とか入ってますか? 入ってるなら抜いてくれるとありがたいんですが」
「賢者ちゃん! 好き嫌いはやめなさい!」
「好き嫌いじゃなくてあんまり食べたくないだけです。必要に迫られれば食べます。べつに嫌いじゃないんですよ。なるべく食べたくないだけで」
「賢者さん人参食べないんですか!? じゃあ人参だけわたしにください!」
「やめなさい! 恥ずかしいでしょ!」
「勇者くん勇者くん。このおつまみおいしそうだよ。頼んでいい?」
「好きにしなさい!」
「勇者さまっ! ちょっとこちらに来てください! わたくし、ご覧の通り腕が使えないので、あーんしてください! あーんって! さぁ!」
「床に這いつくばって食ってろ!」
「なんだ、あーんしてほしいのか。ほれ」
「あっっっづぅぅ!?」
「武闘家さん。それ私のスープです。遊ばないでください」
先ほどまでの静けさがまるで嘘だったように、一瞬でくそ忙しくなった。騒がしいパーティーである。
しかし、悪くない。料理と酒で温まったこの雰囲気が、店主はとても好きだった。
「じゃあ、勇者さんは騎士さんとはぐれてる時に、賢者さんと会ったんですか?」
「そうそう。賢者ちゃんと会ったのは、まだ冒険をはじめてから半年も経ってない、ほんとに駆け出しの頃で……」
客の思い出話に耳を傾けるのも、この仕事の楽しみの一つだ。
店主は、追加の料理と酒の準備を整えながら、なぜか『勇者』と呼ばれている青年の話に耳を傾けることにした。
一言で状況を説明するなら、森の中でおれは遭難してぶっ倒れていた。
「……うーん、やっちまったな」
昼間なのに夜のように暗い、深い森の中で独りごちる。全身はそこそこズタボロ。傷がない場所がないくらいのやられっぷりだが、とりあえず命に別状はない。
騎士学校を追い出されて、はや数ヶ月。世間知らずな姫騎士様との冒険にも慣れてきて、魔王軍の幹部も撃破して、旅の首尾は上々……と思っていた矢先に、この有様である。
世界を救う。そんな御大層な目標を掲げて冒険の旅に出たのはいいが、あっさりと簡単に世界を救えるわけもなく。細々とクエストをこなして、お金を貯めて、装備を整え、経験を積む。魔王軍の本拠地を目指して、単純な作業を繰り返しつつも、冒険そのものはわりと順調だな、と。そんな風に考えていた矢先に、この有様である。
「まいったなぁ……」
まさか、幹部格を倒してすぐに、最高幹部である四天王に手を出されるとは思っていなかった。正直な話、まだあのレベルの敵には勝てる気がしない。おれとアリアの戦闘経験も、装備も、何もかも足りない。あまりこんなことは言いたくないが、死なずに逃げ切れたのが奇跡みたいだ。あれで四天王の第四位だというのだから、はっきり言って先が思いやられる。
とはいえ、今は自分の命が無事だったことを喜ぶべきだろう。アリアが無事かどうかも気になるところだけど、おれが死ぬまであいつは死なないので、そこまで心配はしていない。
「アリアー! アリア〜! ……まぁ、近くにいるわけないか」
声を張り上げてみたものの、返事が返ってくるわけもなく。
急に襲われたのが逆に不幸中の幸いだったというべきか、手荷物の類いは大体手元にある。すぐに食料や水に困ることがないのは助かった。
森の中に限らず、冒険の旅でまず気をつけなければならないのは、水源の確保だ。小規模なパーティーなら、流水系の魔術を扱える人間が1人いれば事足りるが、人数が増えてくるとそうもいかない。数百人単位で行動する大規模なパーティーは、水源を確保してから大型モンスターの討伐作戦に望むのが常だ。
なので、ここはおれもセオリーに従って、まずは飲み水を確保できる川を探すことにした。
数ヶ月の旅で、森の中の獣道を探すことにも慣れてきた。道に見えないような道を辿っていくと、細い糸のような水音が聞こえてくる。
草をかき分け、頭を出すと、そこにはたしかに川があった。あったのだが、
「あ」
「……」
女の子が、いた。
年は10歳に届くか届かないか、といったところだろうか。艶のない銀髪。かろうじて胸と下半身を隠す、植物を加工した衣服。透き通った水晶玉のような碧色の瞳が、こちらをじっと見詰めている。だが、なによりも目を引いたのは、ベリーショートの髪だからこそ目立つ尖った耳だった。
尖った耳、人間からかけ離れた神秘的な美貌……そんな特徴を見て思い浮かぶ亜人種は、他にない。
「エルフ?」
問いかけた、というよりは疑問がそのまま漏れ出してしまったような形で、思わず呟いてしまう。
しかし、少女は無表情のまま、細い首を横に振った。水浴びから上がったばかりだったのだろうか。水滴が溢れて、地面に染みを作る。
あれ? エルフじゃないのか?
「えーと、はじめまして、こんにちは」
「こんにちはって、なに?」
「……はい?」
なんだなんだ。挨拶をしただけなのに、なんか哲学的な問答がはじまったぞ。エルフは森の賢者って騎士学校の授業で聞いたことがあるけど、こんな小さい子もすごく頭がよかったりするのか? 挨拶の意味を問われているのか?
いや、でもさっき、エルフって聞いたら首を横に振られたしな……なんか、よくわからなくなってきた。
「お嬢ちゃん、名前は?」
その質問に女の子が答える前に、水面が持ち上がる。思わず剣に手をかけたが、顔を出したのはモンスターの類いではなく、もう1人の女の子だった。まさか、他にもいるとは……
「は?」
2人目の少女を見て、おれはものすごく失礼な声をあげてしまった。本当は視線をずらすべきだとはわかっていても、まじまじと凝視してしまう。素っ裸のその子の体を、ではなく。その子の顔を、穴が開くほどに見詰めてしまう。
鼻筋、眉、瞳、唇。どこをとっても、その少女の顔が、2人目とまったく同じパーツで構成されていたからだ。
「……えーと、きみたち。双子だったりする?」
「わたしは、シャナ」
「わたしも、シャナ」
まったく同じ名前を口にして、2人の小さな女の子は、おれの両手をそれぞれぎゅっと握りしめた。
「「お兄ちゃん、だれ?」」
勇者くんがヒロインズとはじめて出会った時系列は、
騎士ちゃん→賢者ちゃん→魔王さま→武闘家さん→死霊術師さん→赤髪ちゃんの順です
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エルフの里にはなんとなくえっちなイメージがある
「これはこれは、よく参られました」
「どうもどうも」
シャナちゃんとシャナちゃんに事情を説明すると、2人はおれの話をわかったのかわかってないのか、表情をぴくりとも動かさずに真顔のまま「じゃあ、うちの村にくる?」と、すごく軽いノリで提案してくれた。ちなみに提案してくれたのは、最初に会ったシャナちゃんの方である。ややこしい。最初に会ったシャナちゃんを、シャナちゃん1号、おれが裸を見てしまったシャナちゃんを、シャナちゃん2号と呼びたいくらいだ。番号つけて呼ぶとか、失礼なのでやらないけど。
特に行く宛もなかったし、噂のエルフの里とやらも見てみたかったので、シャナちゃんの後にほいほいついていくと、村は意外と近くにあった。エルフ族は、人間以上に魔術に精通している魔導師が多いと聞く。きっと外から見つけられないように、認識阻害の結界でも張ってあるのだろう。
「里にいらっしゃるのは、はじめてですか? 冒険者の方でしょう? よく自力でたどり着かれましたな」
最初に声をかけてきたのは、入口に立っている門番のエルフだった。その姿を見て、シャナちゃんが自分たちはエルフではない、と否定した意味がようやく理解できた。
槍を持った男性のエルフの背中には、明らかに人間ではないことを示す、半透明の翅が生えていたからだ。もちろん、耳も尖っている。シャナちゃんには、その翅はない。
「実は、この子たちとすぐ近くの川で会って……」
「……ああ、なるほど。そういうことでしたか。体の傷は大丈夫ですか? 腕の良い治癒魔術の使い手がおります。すぐに呼び出して治療させましょう」
「ああ、いやいや。お構いなく。こんなもんツバつけとけば治りますんで」
ありがたい申し出だが、アリアを探さなきゃいけないし、この里にそんなに長居する気もない。
しかし、服の裾をくいくいと引かれて、おれは振り返った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「治してもらった方がいい」
「その方がいい」
頼むから、そんな風に見上げないでほしい。ただでさえかわいいのに、2人揃って上目遣いでこっちを見てくるのはずるいだろ。
「……じゃあ、お願いします」
「ええ。こちらへどうぞ」
木で形作られた門を潜って、息を呑む。おれの一面の視界を塗り潰したのは、深緑の暴力だった。
森の中から、さらに深い森の中に迷い込んでしまったのか、と。そう錯覚しそうになる大木の数々は、木々の中央がくり抜かれ、住居として機能するようになっている。むせ返るような花の匂いに溺れてしまいそうになるが、しかしそれは不思議と不快ではない。夢の中で微睡んでしまうような、朗らかな甘さが香ってくる。
「……すごいですね。ほんとに、森の中で暮らしてるって感じだ」
「人間の方から見れば、めずらしいでしょうな。我々は、ずっとこの森と共に暮らしてきました。森があってこその我らであり、我らあってこその森です」
そんな生活をしているくらいだから、他所者には排他的かもしれないと思ったが、そんなこともないらしい。地面に近い商店には、何人か普通の人間の姿も見える。
「意外と人間もいるんですね」
「一部の商人の方とは、村の門戸を開いて取引をしております。誰とでも、というわけにはいきませんが、そこまで閉鎖的な村でもありませんよ」
門番さんに苦笑される。ちょっとこっちの考えを見抜かれたかな?
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「シャナちゃんは、エルフではないんですよね?」
「こ……ゴホン、失礼。この子は、ハーフエルフです。半分、人間の血が混じっています。ですから、私たちのように翅がありません」
ああ、なるほど。人間とエルフのハーフなのか。それなら納得だ。
「我らは翅を使って村の中を移動しますが、シャナにはそれがありません。少々不自由を強いられるでしょうが、シャナは飛べない人間の村の中の移動を心得ております。よろしければ、このまま案内させますよ。長老には、私の方からお伝えしておきましょう」
「そうですね。お願いします」
「シャナ、ご案内して差し上げろ」
「はい。お兄ちゃん、こっち」
門番さんに言われて、シャナちゃんの顔が少し嬉しそうに綻んだ。そのまま駆け出していきそうな勢いだったので、あわてて手を掴む。
「……手、繋いだまま歩くの?」
「あ、ごめん。いやだった? こっちの方がはぐれなくていいと思ったんだけど」
「ううん。いやじゃないよ。うれしい」
「なら、よかった」
ふと気がついて、周囲を見回す。そういえば、いつの間にかもう1人のシャナちゃんの姿が消えている。
「すいません、門番さん。もう1人、シャナちゃんがいたと思うんですけど……」
「ああ、彼女にはべつの仕事がありますので」
「シャナちゃん達って、双子なんですか?」
そう聞くと、門番さんはおれに背を向けた。
「……ええ、そうですよ。同じ名前だとややこしいですが、そういう文化なので」
はぁ、なるほどなぁ。
「お兄ちゃん、いこ」
「おっと。はいはい」
シャナちゃんが連れて行ってくれた診療所のエルフは、女医さんの治療術師だった。とても優秀で、おれの傷をしっかり診てくれた。なんか呆れた口調で「よく涼しい顔でいられますね……何と戦ったんですか?」とか聞かれたけど、いや普通に魔王軍の四天王と戦ったんだよな……。傷だらけになるのは当然だと思う。
「お兄ちゃん」
「ん? どうした?」
「長老。ご挨拶したいって」
シャナちゃんの後ろから、のそりと大きな影が出てきた。豊かに蓄えた白い鬚と後ろにくくった長髪。門番さんと同じように翅があるけど、加齢と共に衰えてしまったのか、皺が目立って小さい。失礼だが、この翅では満足に飛べないだろうと思った。
「すいません、おれは……」
「いやいや、どうぞそのまま治療を受けていてください。自己紹介は結構ですぞ。お噂はかねがね、伺っておりますからのぅ」
長老さんの口調は、思っていたよりも気安かった。
「あれ? おれのこと、ご存知なんですか?」
「はっはっは。もちろんです。あろうことか隣国の姫君を抱き込んで攫い出し、騎士学校から飛び出した、自称勇者の命知らずな若者がいると。愉快な噂がこんな森の奥まで轟いておりますぞ」
うわーっ!?
え、なに? おれが学校を出た経緯、そんな感じになってるの? 話に尾ヒレがついてるってレベルじゃないんですけど!?
「ほほっ、冗談です。もちろん取引に来る商人からそういう噂も聞きますが、悪い噂ばかりではありません。むしろ、良い話の方が多いくらいです」
「あー、えっと……恐縮です」
「ま、何はともあれ、今日はごゆるりとお休みください。部屋を用意しておきました。明日、よろしければ食事をご一緒しましょう。そこのシャナに、身の回りの世話をさせます」
「はぁ……ありがとうございます」
なんだか、すぐに帰るって言いづらい雰囲気になってきたな。少なくとも、一泊はしていかなきゃいけない感じだ。まあ、仕方ないか……
「はい。これで一先ず終わりです」
かわいいエルフの女医さんに、ペシッと包帯を叩かれる。
「いいですか? しばらくは無茶をしないように!」
「ありがとうございました。なるべく死なない無茶で済ませるようにします」
「無茶するなって言ったんですけど!?」
「いやぁ、世界を救うために無茶するのが勇者の仕事なんで」
「命がいくつあっても足りませんよ!?」
「はい。だからいつも足りないなぁ、って思ってるんですよね。できれば、いっぱい命が欲しいですよね。いくらあっても困りませんし」
なぜかどん引きしてる女医さんとは対照的に、長老さんはおれの言葉を聞いて豪快に笑い声をあげた。
「はっはっは! 流石ですなぁ。噂と違わぬ
「いやいや。そう呼んでもらうのは、まだ早いですよ」
おれはこれから、勇者にならなきゃいけないんだから。
長老さんと女医さんにお礼を言って別れたあと、おれはシャナちゃんに連れられて村の中をぐるりと見て回った。はじめて訪れる場所を見て回るのは、冒険の楽しみの一つだ。
「お兄ちゃん、見せたいものがあるの」
シャナちゃんに手を引かれて、村の中から細い道を抜けていく。あ、これ1人だったら絶対迷うな、と確信できるような道をいくつも通り過ぎていくと、周囲を大木に囲まれた、とても小さな広場のような場所に出た。薄暗いが、鬱蒼と茂った葉の隙間から、夕焼けの明かりが漏れて光の池を作っている。
「私の隠れ家なの。お兄ちゃんに見せたくて」
「いいね。きれいだ」
「ほんと?」
「もちろん。こういう隠れ家、楽しいよな」
「うん。教えたの、お兄ちゃんがはじめて」
「それは光栄だ」
地面に生えている花を潰さないように腰掛けると、シャナちゃんがその花を指さした。
「このお花、すごくきれいだけど、摘むとすぐ枯れちゃうの」
「へえ」
目を凝らしてよく見てみると、たしかにきれいな色をしている。白に光沢がある……銀色に近い色合いの花弁だ。とてもめずらしい。
魔術的な薬効が期待できる植物は、その土地にしか自生しないもので、土から離れるとすぐに枯れてしまうのだと聞いたことがある。もしかしたらこの花も、そういう植物なのかもしれない。
「ふーむ……シャナちゃん、このお花、持って帰りたい?」
「……持って帰れるの?」
「よしよし。じゃあ、ちょっと待ってな。このお兄ちゃんに任せなさい」
少し失礼して、地面に倒れている木から、適当な大きさの枝を拝借する。それらを紐で組み合わせて、シャナちゃんがギリギリ持てるくらいの骨組みを作った。余っている布を骨組みの周りにピンと張って、簡易的な植木鉢の完成だ。
銀色の花を、周囲の土と一緒に手のひらで丁寧に掘り起こして、植木鉢の中に入れる。これなら、多分持ち帰ることができるだろう。
「お兄ちゃん……すごい!」
今まで一番キラキラした表情で、シャナちゃんはおれの手元を見ていた。これはうれしい。ちっちゃい子からの素直な尊敬の眼差しは、とても気持ち良いものだ。
「水をあげればしばらく大丈夫だと思うけど、できればどこかに土と一緒に植えさせてもらうといいよ。ちゃんと育つかもしれない」
「うん。わかった! お兄ちゃん、ありがとう!」
あー、かわいいなあ、もう! 思わず、表情が緩んでしまう。なんかひさびさに、妹がいるお兄ちゃんの気分を堪能させてもらった。
「じゃあ、暗くなる前に帰ろっか」
「うん!」
はじめて、真っ直ぐ目を見てもらえた。
はじめて、やさしく名前を呼んでもらえた。
はじめて、手を繋いでもらえた。
枕元に置いた花の植木鉢は、月明かりを受けてきらきらと光っている。シャナはその煌めきを、ずっと眺めていられる気がした。
ひさしぶりに横になるベッドのやわらかさはなによりも魅力的だったけれど、起き上がってしまったのは、それ以上に彼に心を惹かれていたからだろう。
シャナは、隣の部屋の扉をそっと開いた。
「お、どうした? トイレ?」
「……トイレは、1人で行けるよ」
「はは、ごめんごめん」
彼はまだ起きていて、ランタンの灯りを頼りに剣を研いでいた。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「寝れないから、お兄ちゃんの側にいてもいい?」
「おー、いいよ」
客人に用意されたベッドは、とても大きい。
ぼふん、と。余裕のある彼のベッドに割り込むように横になる。
「お兄ちゃん」
「んー?」
「外のお話、してほしい」
「外の話か〜。そうだよな。村から出れないなら、気になるよな」
「うん。すごく気になる」
「おれが通ってた学校の話とかでもいい?」
「学校?」
「そうそう。騎士学校っていって、立派な騎士になるための訓練を積む学校なんだけど、そこには強いやつが7人くらいいてさ。上から順位がつけられていて、それで……」
はじめて、話をしてもらえた。
命令ではない。自分との会話を、この人はしてくれる。
いつの間にか眠くなって、彼の手を握ってうとうとしながら、シャナは思った。
明日には、きっとこの人はいなくなってしまう。
いやだな。
この人に、ずっと側にいてほしいな。
結局、シャナちゃんと添い寝してしまった。
「……あー、うん……」
寝顔もかわいいなぁ、などと。最初は寝起きの頭でのんきなことを考えていたが、なんとなく後から罪悪感が湧いてきた。
……これ、知られたらアリアに怒られるかなぁ? いや、べつに何かいかがわしいことをしたわけじゃないし、大丈夫だよな? 大丈夫ということにしておこう、うん。
考えても仕方がない反省を頭から振り払って、上体を起こした。
「は?」
シャナちゃんは、右手でおれの手を。そして、左手でもう1人の手を握っていた。
そして、ベッドにもう1人、知らないやつがいた。
いや、厳密に言えば、知っている人間が寝ていた。
おれとまったく同じ顔。同じ髪型。同じ服。
まるで、親子が子どもを挟んで川の字で寝るように。おれの目の前には、シャナちゃんの腕を握ったまま呑気にいびきをかいて寝ている、おれがいた。
何度でも繰り返し言おう。
「シャナちゃん! シャナちゃん! 起きて!」
小さな肩を全力で揺すって起こす。
寝ぼけ眼で、シャナちゃんは上半身を起こして、それから自分が握っているおれの手を見た。
「……ごめんなさい。お兄ちゃん、増やしちゃったみたい」
「増やしちゃった!?」
おれ、増えちゃったらしい。
今回の登場人物
・勇者くん
増えた。
・シャナ
増やしちゃった。
・勇者くん(2号)
まだいびきかいて寝てる。
・門番さん
強そう。
・長老さん
エルフの村の長。人によって差はあるものの、長命のエルフの寿命は200年を優に超え、300歳まで生きる者もいるという。ただし、肉体の全盛期は200歳を超えたあたりから衰え始め、その後は段々と弱っていき、背中の翅で飛べなくなる。ただし、身に宿した魔力だけは、時間が経過するごとに、その力を増していくと言われている。
里の長老は完全な実力主義であり、しきたりで村で最も強いエルフが、長となる。
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勇者、増える
おれは、おれと向かい合っていた。
朝、起きたらおれがもう1人増えていた。正直、意味がわからない。
「……それで、お前本当におれなのか?」
「いや、見ての通りおれはおれだぞ。だって、どこからどう見てもおれだろ?」
だってじゃねぇんだよ。おれのくせに口答えしやがって……なんかもう喋るだけでもややこしいわ。
しかし、いくら見た目がおれそのものとはいっても、中身まで本当におれとは限らない。
「今から、お前が本当におれかどうか確かめるために質問をする」
「ああ、なんでも答えてやるよ」
「好きな食べ物は?」
「食えれば何でも。強いて言えばでかい肉」
「体を洗う時は?」
「右足から洗う」
「利き腕は?」
「元々左だったのを右に直した」
「女の子の胸は?」
「大きい方が好き」
「アリアと学校の文化祭を回った時、最初に行ったのは?」
「アンデッド屋敷」
「名前は?」
「もういいだろ。いちいち質問しなくても、おれは本当におれだよ」
ぐぬぬ……
今のところ、質疑応答の内容がちゃんとおれっぽいのがなんとも言えない。誰かが魔術で化けた変装ってわけでもなさそうだし、幻覚の類いではないし、そう考えると……
「え、これ本当に増えてるのか……?」
「だからさっきからそう言ってるだろ」
やれやれ、といった様子で肩を竦められる。なんだこいつムカつくな。おれだけど。
しかし、本当におれがそっくりそのまま増えているとなると、原因はもう「増やしちゃった」と言った目の前の女の子にあるとしか考えられない。
「シャナちゃん、おれの体に何が起こったか、説明できる?」
「……ごめんなさい」
「いや、怒ってるわけじゃないよ。ただ、どうしてこうなったか、理由がわかるなら説明してほしいんだ」
「そうそう。おれ、全然怒ってないから。ゆっくりで大丈夫だし、わかることだけでいいから教えてほしい」
「お前ちょっと黙っててくれない?」
「なんで?」
「ややこしいんだよ! シャナちゃんも困ってるだろうが!」
考えてることも言いたいことも大体一緒だから、セリフを分割してるみたいで気持ち悪い!
だが、文句を言われたおれは不満気に口元を尖らせた。
「ていうかそもそも、なんでお前が仕切ってるの?」
「え?」
「べつに、おれがお前に遠慮する必要はないだろ? だって、おれも間違いなくおれなわけだし」
「いや、お前は普通に遠慮しろよ。だって、おれが増えて急に生えてきたのがお前だろ?」
「はあ? おれとお前に違いなんてありませんけど? 差別やめてくれませんか?」
「はあ? 昨日シャナちゃんの右腕を握って寝てたのはおれなんですけど? そっちこそ自分が本物みたいに言うのやめてくれません?」
なんだぁ、テメェ?
こういうのを同族嫌悪というのだろうか。どうやらおれは、おれと仲良くはできないらしい。しばらく向かい合ってガンを飛ばし合っていたが、
「お兄ちゃん……ケンカしないで。悪いの、私だから」
シャナちゃんの目に涙が滲んでいるのに気がついて、はっと我に返った。
「あー! ごめんごめんごめん!」
「大丈夫大丈夫! お兄ちゃんたちめちゃくちゃ仲良しだから!」
「ほんと?」
「もちろん本当だって! なあ!?」
「ああ! 肩だって組めるぞ!」
がっしりと肩を組んで、空いた手でシャナちゃんの頭をよしよしと撫でる。
なんだぁ、コイツ……意外と良い身体してるじゃねぇか。いや、コイツの身体おれだったわ。そりゃ良い身体してるわ。だっておれだもん。
「すいませーん、おはようございます。起きてますか?」
と、そこで扉の外から声が響いた。声色から察するに、昨日おれの治療を担当してくれたエルフの女医さんである。きっと様子を見に来てくれたんだろう。こんな朝早くから、うれしい気遣いだ。
「はいはい。今、開けます」
言ってから、現在の部屋の状況を見て、はっと気付く。
なぜか朝っぱらからおれの部屋にいる涙目の幼女。ワンアウト。
なぜかもう1人いる、おれ。ツーアウト。
うおおおおおおおおおおお!?
「どうする!?」
「とりあえずシャナちゃんとおれには隠れてもらおう!」
「そうするしかないかっ……シャナちゃん、こっち来てくれ」
幸い、ベッドの下にスペースがあったので、シャナちゃんを抱えて潜り込む。よし、これでとりあえず見つかることはないだろう……
「あ」
なんでおれが隠れてるんだよ!?
おかしいだろ!? なんで本物のおれが隠れて偽物が応対するんだよ!?
普通逆だろ!?
「おはようございます。あら? お部屋の中から声が聞こえたと思ったのですが……」
「ええ、朝の風と戯れていました」
「あらあら、詩人ですね」
「それほどでもありません」
クソみたいな返事が聞こえてきて、頭を抱えたくなる。
おれのことだから、よくわかる。あれはべつにかっこつけてるわけではなく、何を言っていいかわからずに適当なことを口走っているだけである。恥ずかしい。
「では、昨日の傷口を見せていただけますか?」
「ははは、きれいなエルフのお姉さんに裸を見せるのは照れますね」
「なに言ってるんですか、昨日も散々見たでしょう? いいから早く見せてください」
そのやりとりを聞いて、思わずぎょっとした。
まずい。昨日、治療を受けたのは女医さんと話しているおれではなく、こちらのおれだ。中身がおれに近いことはさっき確認したけど、細かい生傷までそっくりそのまま同じだとは限らない。見られたら、バレてしまう可能性が……
「……やっぱり傷の治りが早いですね」
「でしょう? 鍛えてますから」
「一応、念のためにお薬出しておくので、ちゃんと飲んでくださいね」
「はーい」
女医さんが出て行ったのを確認してから、おれはベッドの下から這い出た。
上半身裸で立っているもう1人のおれが、こちらを見下ろしていた。その全身には
ここまで見てしまったら、もう疑いようもない。
「……お前、本当におれなんだな」
「だからさっきからそう言ってるだろ」
抱きかかえたシャナちゃんは、固まったままだ。
「「どうすっかなぁ……これ」」
漏れ出た呟きまでもが、いやになるほどきれいに重なる。
とりあえず、いつまでも部屋の中に引きこもっているわけにはいかない。またいつ、誰が訪ねてくるかわからないし、おれとおれが2人揃っているところを見られてしまったら本当にお終いだ。
まずは、今日。村に出てシャナちゃんと一緒に行動するおれを、どちらか決めなければならない。
「なにで決める?」
「あれでいこう」
「恨みっこなしだぜ?」
「当然だ。手加減なしでこいよ」
先ほどの巻き直しのように、おれはおれと向かい合った。ついさっき、シャナちゃんからケンカしないでと言われたばかりだけど、この勝負だけはやめるわけにはいかない。言葉通りの手加減なし、真剣勝負で挑まなければ……!
「「さいしょは、ぐー! じゃんけん……」」
流石はおれ、と言うべきか。
あいさつとばかりに突き出した拳のタイミングは、完璧に重なった。あとは、何を出すか。
単純な好みでいけば、おれはパーが好きだ。しかし、それは相対するおれも同じのはず。そして、おれがおれであるのならば、まったく同じ思考をしているに違いない。
パーに勝つなら、初手はチョキ。相手のおれも同じ考えの元で動いているとしたら、初手はグーでくる……
「「……ぽんっ!」」
と、見せかけて、あえてのパー!
「ちっ……」
「互角か」
出した手は、互いにパー。ここまで考えていることが一緒だと、もういい加減気持ち悪くなってくる。
「「あいこで……しょっ!」」
チョキとチョキ。
「「しょっ!」」
パーとパー。
「「しょっ!」」
グーとグー。
「……なあ、おれ」
「ああ、おれもちょうどそう思ったぞ、おれ」
これ、決着つかねぇな。
「どうする?」
「いっそのこと、シャナちゃんにどっちと行くか決めてもらうか? それなら文句もないし」
「おいおい。そんなの、ぽっと出で増えたお前じゃなくて、昨日一緒に過ごしたおれを選ぶに決まってるだろ。なぁ、シャナちゃん?」
結果が見えている勝負を鼻で笑って、おれはシャナちゃんに判定を委ねたが、肝心の幼女はおれとおれを見比べて、少し悩んでから首を傾げた。
「ごめんなさい……どっちがどっちのお兄ちゃんかわからなくなっちゃった」
もぉおおおおおおぉおお!
「おれが本物! 本物だよ!」
「諦めろ、おれ。傷跡まで一緒で見分けがつかないんだ。どっちが本物とか偽物とか、そういう話じゃないぞ、おれ」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「とりあえず、コインでも投げるか。表が出たらおれがシャナちゃんと出かけて、お前が部屋で留守番。裏が出たらお前が出かけて、おれが留守番だ」
「なんでお前基準みたいになってるんだよ? 表がおれの外出、裏がおれの留守番にしろ」
「なにいちいち細かいこと気にしてるんだよ。どっちでも変わらないだろ」
「じゃあお前、表面譲れよ」
「いやだよ。さっきから言ってるけど、なんでおれが影みたいな扱いになってるんだよ。おれもお前もどっちもおれだからな? 本物だからな?」
「本物のおれなら譲ってくれるぞ。心広いから」
「本物のおれならこんな小さいことに拘らないぞ? 心広いから」
「……」
「……」
不愉快極まる自分の顔を見詰めて、大きく息を吸う。
「「じゃんけんっ!」」
「お、お兄ちゃん!」
また不毛な争いをはじめようとしたところで、シャナちゃんからのストップがかかった。
「私は、どっちのお兄ちゃんも好き……だから、2人一緒がいい」
「「よし、一緒に行こう」」
時間ズラして部屋から出ればなんとかなるだろ。
「私、魔法が使えるの」
人目につくのがまずいなら、最初から人目がない場所に行けばいい。
村から出て、昨日教えてもらったお気に入りの場所まで来ると、ようやくシャナちゃんはぽつぽつと事情を話し始めてくれた。
「私の魔法は、さわったものを増やすことができて……だから、多分お兄ちゃんは私のせいで、2人になっちゃったんだと思う」
そう言われて、おれはおれと顔を見合わせた。
「そりゃすごい魔法だけど……」
「何の制限もなしに、人間までぽんぽん増やせるものなのか?」
と、言ったあとに、自分が馬鹿な質問をしていることに気付く。
シャナちゃんは、最初に会った時から2人いた。双子、なんて言って門番さんは誤魔化していたが、あれが自分の魔法で『増えた』もう1人のシャナちゃんだったのなら、簡単に説明がつく。
「お兄ちゃんが……私のはじめてだったの」
俯きながら、躊躇いながら、小さな女の子はそれでも懸命に言葉を紡ぐ。
「私、魔法使うの下手だから……いつも、なんでも好きなものを増やせるわけじゃなくて。他の人を増やせたのは……お兄ちゃんが、最初。ほんとに、はじめて」
「……ひとつ、聞いてもいいかな?」
「……うん」
「どうして、おれのことを増やそうと思ったの?」
魔法は、現実の理を曲げる力。超常の力。それでも、意思を持つ生き物が扱う力だ。
魔法がもたらす結果には、当然のことながら理由がある。魔法を使用する者の強い意思がなければ、その結果は目に見える形で現れない。
シャナちゃんの目尻には、またいつの間にか涙が溜まっていた。
「お兄ちゃんと、もっと、話したかったから……ここに、いてほしかったから……」
こんにちはってなに、と。この子はおれに聞いてきた。
それは、普段からあいさつをする習慣がないということ。この子に普通にあいさつをするエルフが、あの村に誰もいないということだ。
ハーフエルフという存在が、あの村でどのような扱いを受けているのか、おれは知らない。もしかしたら、他所者の目には入らないようにしているのかもしれない。
それでも、シャナちゃんがあの村でどんな思いをしているか。ぽろぽろと溢れる大粒の涙を見るだけで、想像するのは容易かった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私の魔法、気持ち悪いかもしれないけど……でも、シャナのこと、きらいにならないで」
「大丈夫」
「きらいになんてならないよ」
おれが明日には村を出て行ってしまうから。だから、村に残ってもらうために、もう1人おれを増やした……というのは、きっと正解の半分だ。
おれの前で泣きじゃくるこの子は、無表情なふりを装って、感情を表に出さないように努めていたこの子は……ただ自分の顔を見て、自分の目を見詰めて話をしてくれる人が、もっと欲しかっただけなのだろう。
「ほらほら、泣くな泣くな」
「むしろ、おれはシャナちゃんにありがとうって言いたいくらいだよ」
「ありがとうって……なんで?」
「そりゃあ、おれは勇者を目指してるからさ」
小さくて軽い体を、抱き上げる。
「おれは元々、1人でも世界を救いに行くつもりだったけど」
「そんなおれが2人も3人もいたら、全員で協力して、もっともっと早く世界を救えるかもしれない」
だから、
「ありがとう。きみの魔法は、本当に、とってもすごい」
「お兄ちゃん……」
握られた小さな手に、力が籠もった。
一瞬、何かが重なるような感覚があって、視界が揺らぎ、しかし次の瞬間には元に戻っていた。
「ん?」
妙な違和感と、嫌な予感があった。
「……」
右を見る。おれがいる。
「……」
左を見る。おれがいる。
「……」
もう一度、両隣を見直して、完璧に確認する。
おれの両脇には、おれが2人いた。
シャナちゃんは、もう言葉すら出てこないのか。小さな顔を真っ青に染めて、ぱくぱくと口を動かしている。
子どもは、褒めて伸ばせ、というけれど。
しかし、これはあまりにも成果が出るのが早すぎる。
「……おいこれ」
おれが呟く。
「……どうするんだ?」
おれが聞く。
「……どうするって言ってもなぁ」
おれが天を仰ぐ。
腕を組んで、おれは……いや、おれたちは唸った。
「「「まさか3人になるとは」」」
これ、もうおれたちだけでパーティー組んで世界を救いに行けるんじゃないの?
今回の登場人物
・勇者
ガイア!
・勇者
オルテガ!
・勇者
マッシュ!
・シャナ
ジェットストリームアタックをかけるぞ!
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欲しいのは、あなたのすべて
状況を整理しよう。
「とりあえず、これからどうするかを決める」
「ああ」
「まかせとけ」
ここまで増えたら、もう驚かない。おれも開き直って今後の方針をおれたちと話し合うことにした。
「まず、3人全員が村に戻るわけにはいかない」
「そりゃそうだ」
「当然だな」
「お前ら、会話進まなくなるから、いちいち相槌打たなくていいぞ」
というか、返事しなくてもどうせおれ同士だから考えてることわかるんだよなぁ。
「そういえば、装備とかどうなってんの?」
「身につけているものは、そのまま増えてるぞ」
「ほんとに?」
「見た目だけじゃなくてパンツとかも増えてる」
「ほんとだ!」
「おいやめろ。ズボン下げるな。自分でも気色悪いんだよ」
「パンツまで増えるのはありがたいな。この前破れちゃったし」
「一緒におれが増えてるんだから、パンツが増えても何も変わらないんだよな」
「そうやって考えるとおれら、今同じパンツ穿いてるのか」
「なんかやだな」
「一緒に洗濯とかしたくないな。交ざるのもやだ」
「でも装備をある程度共有できるのは強いんじゃないか?」
「パンツは共有したくねぇよ」
「靴下もいやだ」
「パンツに比べれば靴下はセーフじゃないか?」
「パンツの話から離れろ」
とはいえ、増えたおれたちのパンツの有無は、わりと重要なポイントだ。
シャナちゃんの魔法は、増やしたいと思ったものを増やすこと。人間をそっくりそのまま増やしたことからなんとなく察しはついていたが、本人が認識していなくても、見えない部分や付属品……要するに、身につけている剣や衣服まで一緒に増やすことができるらしい。この場合、シャナちゃんはさっき宿で増えたおれではなく、剣などを身につけていたおれを増やした。だから、宿で増えたおれは剣を持っていないが、今増えたおれは剣を持っているというわけだ。うん、ややこしいね。
「まあ、おれはとりあえずここで待機してるよ。幸い、装備も一通り揃ってるし」
「いいのか?」
「ああ。どっちにしろ、明日にはもう村を出るだろ?」
流石はおれと言うべきだろうか。話が早い。考えが同じで助かる。
「じゃあ、おれも装備がないおれと一緒にいるわ」
「ちなみに、このあとの予定は?」
「長老さんと食事の約束がある」
「なら、最低でも村にもう一泊する感じになるな」
「明日の昼までに出発できれば問題ないだろ」
「じゃあ、それまでに方針を決めておく感じで」
「了解了解」
話がまとまったところで、俯いたままのシャナちゃんに声をかける。
「シャナちゃん。おれと村に戻ろっか」
またおれを増やしてしまったことを、気に病んでいるのだろう。
返事はない。視線も合わない。小さな手のひらが、おれの服の裾を掴んだ。
「……お兄ちゃん、明日、いなくなっちゃうの?」
「ああ。離れ離れになった仲間がいるんだ。あんまりゆっくりもしていられない」
「私、お兄ちゃんと離れたくない」
引っ張る力が、強くなる。
「お兄ちゃん、3人いるでしょ? 私が、増やしてあげたでしょ? だから、1人だけでもいいから、私の側にいて」
それは本当に、何かを絞り出すような声音だった。
「私を、1人にしないで」
かわいらしい顔が、さらに下を向いて。どうしていいかわからずに、おれはやわらかい銀髪の上に、手を置いた。右にいるおれが、腕を組む。左にいるおれが、深く息を吐く。
おれたちは、黙って顔を見合わせた。
「シャナちゃん」
「おれは、明日には村を出ていく」
「これは変わらないし、変えられない」
打ち合わせたわけでもないのに、おれたちの声はきれいに重なった。
「おれたちは、いくら増えても結局おれだから」
「だから、世界を救いたいっていう気持ちは全員同じなんだ」
「1人だろうが、2人だろうが、3人だろうが、おれたちは絶対に世界を救いに行く」
むしろ人数が増えた分、もっと世界を救いやすくなった、と。おれはそう考えてしまっている。最初のおれが死んでも、まだ2人のおれが残っているなら、そこそこ無茶ができるな、なんて。そんなことを考えてしまっている。それくらい、おれにとって魔王を倒して世界を救う、というのは大切な目標だ。
この村に残って、シャナちゃんの側にいてあげる。そんな選択肢は、この場にいるどのおれの中にも存在しない。
「だからさ」
「シャナちゃんに提案があるんだ」
「提案?」
「うん。シャナちゃんが1人にならない、おれと一緒にいられる方法」
昨日、シャナちゃんが教えてくれた花が目に入った。この場所でしか咲けない、この森の土でしか育つことができないと言われている、銀色の花。
でも、それはそう言われているだけで、実際に試してみなければわからない。
膝を折って地面につく。これだけはしっかりと、目線を合わせて、おれは逆に問いかけた。
「おれと一緒に、冒険に行かないか?」
ぴくん、と。肩が跳ねたのがわかった。
「もちろん、今すぐに決めなくていいよ。おれが村を出るまでに、決めてくれればいい」
その言葉は、今のおれが、この子に伝えられる精一杯の気持ちだったけど。
結局、村に着くまでシャナちゃんはおれの手をぎゅっと握って離さないまま、目を合わせようとはしなかった。
村を出る前に、まだ確かめたいことが残っている。じっくり聞き込みをしている時間はないので、事情を知ってそうな人物に、単刀直入に尋ねることにした。
「もしかしてシャナちゃんは、魔法を使えるんですか?」
時刻は夜。場所は、おれを歓迎する食事の席である。
長老さんは、約束をきっちり守る人間……もとい、エルフであるらしい。昨日の言葉通り食事に招かれたので、ちょうどよく2人きりになれたタイミングを見計らって、こちらから切り出した。
深く皺が刻まれた瞼が、大きく持ち上がる。食事の手を止めた長老さんは「ほほぅ」と呻いた。
「よくお気づきになったものだ」
「気づくも何も、見てしまったので」
何を増やした、とか。
どこで見せてもらった、とか。
そういう余計なことは、自分からは言わない。とりあえず『シャナちゃんは魔法が使える』という情報を元手に、かまをかけてみた。
どうやら、うまく釣れたらしい。
「驚いたでしょう?」
「はい。びっくりしました」
「しかし勇者殿も、魔法をお持ちだと伺っています。同じ奇跡をその身に宿しているのなら、そこまで驚くこともないのではありませんか?」
耳聡いな、と思った。
「おれの魔法は、そんなに大したものじゃありませんよ」
「機会があれば見てみたいものです」
「……そうですね。まぁ、機会があれば」
歯切れの悪さを察してくれたのか。ふむ、と長老さんはあごひげに手をやって、話を戻した。
「それで、何を
「……果物です」
これは真っ赤な嘘だ。
しかし、長老さんはおれの適当な答えを気にする様子もなく、うんうんと頷いた。
「シャナの魔法は、触れたものを増やすことができるのです。もちろん、なんでもかんでも自由自在に増やせる、というわけではないのですが……我々も、あの子の魔法には大いに助けられています」
「……間違っていたら申し訳ないのですが、シャナちゃんは『自分』も増やすことができるのではありませんか?」
「ほほぅ。未来の勇者殿は、良い目をお持ちだ」
「おれは最初に、2人でいるシャナちゃんと会っています。あそこまでそっくりなら、すぐにわかりますよ」
否定されるかと思ったが、あっさりと肯定された。
「左様。シャナは人間も増やすことができます」
魔法は、現実の理を捻じ曲げる超常の力。
その力を理解し実際に体験していても、こうもあっさり認められるとなんだか拍子抜けしてしまう。
「……では、シャナちゃんは、何人いるんですか?」
さらに、突っ込んだ質問をしてみる。すると、間髪入れずに答えが返ってきた。
「4人です」
おれが実際にこの目で見たのは、2人だ。
それが本当なのか、嘘なのか。残念ながら、おれには確かめる術がない。
質問を重ねるしかない。
「おれが会ったシャナちゃんは、2人だけです。他のシャナちゃんは普段、何をしているんですか?」
「勇者殿が顔を合わせているシャナ達は、よく村の仕事を手伝ってくれています。他の2人は、社交的な性格ではないので、部屋に籠もって魔術の研究に精を出しております」
おれがまだ会っていない2人は、社交的な性格ではない。おかしな話だと思った。
「元は同じ存在なのに、性格が違う?」
「もちろん、増えた直後は同じです。あの子の魔法は完璧だ。身も心も、すべて同じ自分自身を増やすことができます。しかし、人間という生き物は経験や境遇によってその在り方を変える。在り方が変われば、好みや性格に変化が出てくるのは当然のこと。あなたが会ったシャナも、髪の長さが違ったでしょう?」
たしかに。あの2人は、髪の長さで外見の区別がつく程度に、違いがあった。
「あの子たちは、魔法で増えてからもう3年ほどになります。同じものを食べ、同じように生活していても、細かな違いが出てくるのはむしろ自然なことだと思いませんか? 事実、あなたに懐いているシャナは、他のシャナに比べて、花が好きなようだ」
「……質問ばかりで恐縮なのですが」
「どうぞ、勇者殿」
「無礼を承知でお聞きします。シャナちゃんは、この村にあまり馴染めていないように見えます。長老さんは、そのことについて、どのようにお考えですか?」
本命の問いかけを、ぶん投げた。
灰色の瞳に、今までとは別の色が浮かぶ。
「そう見えますか?」
「そう思えます」
客人であるおれに気を遣ってか、村のエルフが露骨な対応を見せることは少なかったけれど、シャナちゃんがろくな扱いを受けていないことは明白だった。
「……あの子には、人間の血が混じっている」
「はい」
「加えて、魔法の力も持っている。我々は、魔術に精通した種族です。その術理を知り尽くしているからこそ、得体の知れない魔法の力に恐怖する者も多い」
自分たちとは違うものは、こわい。
自分たちに理解できないものは、もっとこわい。
種族こそ違えど、人間もエルフもそれは変わらないようだった。
「シャナは、自分の魔法を理解はしていますが、まだ正しくコントロールすることはできていません。先ほども言った通り、我々もあの子の魔法には助けられています。ですが、唐突に2人に、3人に増えるあの子のことを、完全に理解できているわけではない」
「だから、自分たちのために都合良く利用しながらも、疎んじるんですか?」
それまでゆったりと飲んでいた杯の中身を、長老さんは一気に呷った。
「……勇者殿。恥を忍んで頼みたい」
おれよりも遥かに長い時間を生きてきたエルフの長は、躊躇いなく頭を下げた。
「あの子を……シャナを、村の外に連れ出しては頂けませんか?」
何を言われるか。何を問われるか。
ある程度、会話のカードを用意してから席についたつもりだったのに、それは思ってもない提案だった。
「我々がシャナを同じ名で呼ぶのは、あの子をどう扱っていいかわからないからです。村を預かる長として、情けないことを言っているのはわかっています。ですが、あの子はきっとこの村では幸せになれない」
「……だからおれに預ける、と? おれはまだガキですよ。しかも、目指しているのは魔王の討伐です。シャナちゃんの幸せを簡単に保証はできません」
「だからこそ、です。あなたは若く、これから多くのものに触れ、多くのことを学ぶでしょう。それはきっと、シャナにとって新しい自分を形作る、かけがえのない経験になるはずだ」
そもそも、と。長老さんは言葉を繋げて、
「自分とまったく同じ存在が側にいて、幸せになれると思いますか? 己という存在のアイデンティティが、保てると思いますか?」
「それは……」
「答えは急かしません。村を出るまでに、決めて頂ければ結構です」
「……わかりました」
食事が終わるまで、おれはもう長老と目を合わせることができなかった。
よかった。今日は寝ている。
彼が眠っている寝室の扉を開いて、シャナはほっと息を吐いた。
穏やかな寝息の側に、歩み寄る。そこは昨日、シャナが一緒に眠ったベッドだ。
昨日は、彼の話を聞きながら、ひさしぶりにぐっすり眠れた。いや、本当の意味で安心して寝ることができたのは、生まれてはじめてかもしれない。
──おれと一緒に、冒険に行かないか?
そう言ってもらったことが、うれしかった。
なぜだろう。
きっとこの人なら、自分のことをずっと見ていてくれると思った。
離れてほしくない。いなくなってほしくない。すぐ近くで、笑っていてほしい。
「……お兄ちゃん」
だから、一緒にいるために。
「ごめんね」
ナイフを抜いて、寝ている男に突き立てる。命令されたのは、シャナにもできる簡単な作業だった。
暗闇の中で、少年の体が強張る気配がした。
「……長老が、言ったの。約束、してくれたの」
彼に、シャナは言い聞かせる。
自分に、シャナは言い聞かせる。
「私が、お兄ちゃんを3人に増やしてあげたから。だから……だからね? 1人は殺して長老に渡して、1人は私のお兄ちゃんにして、1人は世界を救いに行けばいいって。長老が、教えてくれたの」
命は、かけがえないのもの。失ってしまえば、決して取り返しのつかないもの。そう考えることができるのは、命に唯一性があるからだ。
同じ母親の腹から、どれだけ顔が似通った双子が生まれようと、その中に宿る心は違う。この世に、まったく同じ命は存在しない。
「3人もいるんだから、1人くらい……いいでしょう? お兄ちゃん」
誰もが持つそんな当たり前の価値観を、魔法は簡単に歪めてしまう。
外見も、心も、すべてが同じ命すらも増やす。増やすことができるなら、それはもう替えの利く消耗品だ。欲しいと思ったなら増やせばいい。他にも欲しい人間がいるのなら、増やして渡してしまえばいい。
けれど、少女の不幸は、そんな魔法を持って生まれてきたことではない。
それを間違いだと正す者が、周りに1人もいなかったことだ。
「一緒に、いようね」
シャナは、きっとこれから好きになる男の体に、もう一度ナイフを押し込んだ。
おまけ
勇者パーティーのいろいろランキング
身長
1位勇者くん(179。わりと体格は良い)
2位リリアミラ(169。女性にしては高めなのを実は気にしていたり)
3位アリア(165。リリアミラより小さいのを明らかに気にしてる)
4位赤髪ちゃん(162。平均身長くらい)
5位シャナ(155。まだ伸びると信じている)
6位ムム(143。とにかく小さい)
良く食べる人
1位赤髪ちゃん(食欲の悪魔)
2位アリア(お酒もご飯も大好き)
3位勇者くん(きみたち食べ過ぎじゃない?とか言いながら自分もよく食べる)
4位リリアミラ(好きなものだけよく食べる)
5位シャナ(ここから少食。あまり食事を重要視してない)
6位ムム(たくさん食べたいが体が小さいのであまり入らない。ご飯はとても好き)
頭の良さ(教養などを問う一般的な学力)
1位シャナ(私が一番若いのに恥ずかしくないんですか?)
2位リリアミラ(良家の出なのでかなり頭が良い)
〜でっかい壁〜
3位勇者くん(学校中退なのでいろいろお察し)
4位アリア(座学は勇者くん以下だった)
5位ムム(歴史だけはちょっと得意。あと体育)
6位赤髪ちゃん(知識はインプットされているが使い方がわからない。早く学校行け)
酒の強さ
1位リリアミラ(アホほど強い。よく魔王軍幹部を潰していた)
2位アリア(普通にめちゃくちゃ強い。よく勇者くんを潰す)
3位勇者くん(強いはずなのだが上がイカれている)
4位赤髪ちゃん(まだ飲まない方がいい)
5位シャナ(飲ませたら大変なことになる)
6位ムム(スヤァ……)
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勇者、がんばる
くすぐったくて、目が覚めた。
「え?」
閉じていた目を開けると、めちゃくちゃかわいい女の子がナイフを握りしめて、おれの上に馬乗りになっていた。どこからどう見ても、完全に事案である。どうやら、おれは寝込みを襲われて刺されそうになっていたらしい。
目は口ほどにものをいう。きれいな色の瞳は、動揺で揺れていて。その中に、おれの顔が写っていた。
うーん。わりとひどい顔をしているな……やれやれ。
「……!」
また、ナイフが振り下ろされた。殺すつもりで刺してきた、というのはわかる。
しかし、刺さらない。おれの肌は、非力な力で振るわれる刃を、簡単にはじいた。
「なんで……?」
「ん? 勇者だから」
「……勇者は、ナイフ刺さらないの?」
「うん。勇者だからね」
シンプルに答えて、ナイフを払い除けて起き上がる。おれが力を込めると、華奢な体は簡単に倒れて、上下が逆転した。
「長老に言われた? おれを殺せって」
「……」
「うん、わかった。言いたくなかったら、言わなくてもいいよ」
瞳の色が、滲む。
ああ、この子は最初から泣いていたんだな、と。今さらながらに気がつかされる。
鈍感野郎、とアリアにまた怒られそうだ。これは反省しなければなるまい。
「……ごめんなさい」
掴んだ手首の、脈が早くなる。
人間の声って、こんなに震えるんだな、と。やけに冷めた頭で思った。
おれの中に、二種類のおれがいる気がする。
泣いている女の子の頭を撫でて、今すぐにでも安心させてあげたいおれと。
殺されかけたなら、相応の対処をすべきだと警告を告げるおれだ。
「私、お兄ちゃんに、側にいてほしくて。お兄ちゃんが、ほしくて、だから」
声音に嘘はない。しかしその言葉は、吐き気を催すような矛盾を孕んでいた。
こんなにも熱く求めながら、殺そうとする。
こんなにも涙を流しながら、強く欲する。
その致命的な食い違いの原因は、きっと本来この子の中にはなかったもので。この子の体に宿ってしまった魔法と、それを利用しようとした汚い大人たちが、この子をこんな風にしてしまって。
「ごめんなさい」
繰り返される空虚な謝罪に、耳が痛む。
この子は『おはよう』は知らなかったのに『ごめんなさい』は知っているのだ。
もしかしたら、穏便に済むかもしれないと思っていた。この子を連れていくか、と聞かれたから。だから、なんとかなるかもしれないと思っていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私、お兄ちゃんのこと、殺そうとしちゃった」
でも、甘かった。
「だから、いいよ。私のこと、殺していいよ」
すべて、おれが甘かった。
「殺そうとしたから、殺されるのは……当然だと思うから。大丈夫。私、
増やしてしまえば、代わりがいる。だから、大丈夫だと。
おれよりもずっと小さい女の子は、そう言っていた。
「だから、私を殺していいから……私のこと、きらいにならないで」
わからない。
この子が言う『私』とは、一体誰のことを指すのだろう?
この子はきっと今までもたくさん増やされて、使い捨てられて。そしてこれから先も、いくらでも増えて、周りの都合で使い捨てられていくのだろう。
おれは良い。これから世界を救いに行くのだから、いくら魔法があっても困らない。どんな魔法でも欲しい。
アリアだってそうだ。己の魔法を見詰め直して、研鑽し、懸命に自分の力にしようとしていた。それはいい。それは、問題ない。
でも、こんな小さな女の子に、こんな残酷な魔法を与えるのは、やはり間違っている。
奪わなければ、ならない。
「シャナちゃん」
ナイフは、手の届く距離にあった。
「おれの魔法は……殺した相手の力をもらうんだ」
「え?」
手を離して、立ち上がる。床に落ちていたそれを、拾い上げる。
実際に持ってみると、抜き身の刃は予想していたよりも重かった。でも、まだ軽い。
だからおれは、ナイフをベッドの上に置いて、自分の剣を引き抜いた。より効率的に人を殺すために作られた刃の切っ先を、少女に向けた。
「正直に言う」
身に纏う空気が変わったのを、理解したのか。小柄な体が、まるで獣から逃げるように、後退った。でも、扉には鍵がかかっている。外には出られない。
そう。人間は、心臓を一突きすれば、簡単に死ぬ。
「おれは、きみの魔法が欲しい」
剣を、突き立てる。
彼女の呼吸が、止まる。瞬間が、永遠に感じられるように、静止した気がした。
「っ……が」
シャナちゃんの、背後。
おれが突き立てた剣は、
とんとん、と。肩を軽く叩く。止まっていた呼吸が戻った。
「……はっ……はっ」
「驚かせて、ごめん。脅すようなことをして、本当にごめん」
ぽろぽろと、また瞳から雫が落ちる。でもその涙は、さっきまでとはまた種類の違う涙だった。絞り出すような冷たさではなく、自然と溢れるような温かさがあった。
頬が、興奮で赤くなっている。薄い胸が、上下に揺れている。
おれの目の前で、この子はたしかに生きている。
「でも、どう思った?」
「……どう、って」
「死にたくないって。そう思ったでしょ?」
わかってほしい。
その気持ちに、替えなんて効かない。
「それは、きみだけのものだ。きみだけの命だ。だから、いくら増やせても、簡単に捨てちゃいけない」
わかってほしい。
今を生きている自分に、代わりなんていない。
「おれが助けたいのは、きみだ。シャナ」
おれは、世界を救うために、この子の魔法が欲しい。
だから、おれの都合で、おれがこの村から奪う。そう決めた。
もう一度だけ、手を伸ばす。
「おれと一緒に、来てくれる?」
返事はなかった。伸ばした手は掴まれずに、胸の中に飛び込まれた。震える背中をさすって、抱き止めた小さな体を持ち上げる。
これが、おれが抱える命の重さだ。
「よし、行こうか」
子どもに殺しを任せて、それで安心するような馬鹿はこの世にいない。
夜闇に紛れて、エルフの戦士達は、勇者の寝所を取り囲んでいた。
「出てこないな」
「部屋の前にも、1人置いていたはずだが」
舌打ちと、嘲るような笑いが混ざる。
元より、シャナが失敗することは想定済みだ。だからこそ、彼らは年若い勇者を、こうして待ち構えている。
「あのガキ、強いのか?」
「さあ? ただ、王都では『勇者の再来』なんて持ち上げられて噂になっていたとか」
「人間の話だ。我々にはわからんよ」
「どうする? 踏み込むか?」
「いや、出てきたところを狙えばいい。どうせ」
どこにも逃げられはしない、と。
最も前で弓を構えていたエルフの言葉は、最後まで続かなかった。その顔の中心に、寸分違わず銀色のナイフが突き刺さったからだ。
「は?」
反射的に短剣を構えたエルフは、しかし仲間の顔面に突き刺さったナイフの柄に見覚えがあった。それは、彼があの勇者の少年を殺させるために、シャナに持たせたナイフだった。
顔を上げて、息を呑む。少年の部屋の窓が、薄く開いている。
「……構えろっ! 気づかれているぞ!」
そして、その言葉を最後に、彼もまた絶命した。
窓から弾丸のように飛び出してきた影が、無造作に頭を踏み砕く。胸を剣で貫きながら、有り得ない素早さで地面に着地する。悲鳴すら残して逝くことも許されず、脱力した腕から槍が落ちた。
「……ッ!?」
エルフの戦士の判断は素早かった。一瞬で死体になった仲間には目もくれず、少年に向けて大剣の刃を横に薙ぐ。獲った。そう思った時には、太い両腕が、肘から切り離されて宙を舞っていた。
可動域を離れた腕と、感覚の喪失。それらの理解が追いつくと同時に、鮮血が吹き出した。少年の右手には、既に拾い上げた槍が握られており……驚愕と痛みに歪む顔面が絶叫をあげる前に、口の中に差し込まれた刺突が、声と意思を奪い去った。
たった10秒足らずで血袋に変化した仲間達を見て、ようやくエルフが声を発した。
「な、なんのつもりだ! 我々は……」
「今さらそれは無理があるだろ」
声を発することが許された、と言った方が正しかったかもしれない。
しかし、その言い訳を最後まで聞かずに、少年は死体から引き抜いた剣を回して、首を刎ねた。
これで5人か、と。確認するように呟く。
「いいや、6人だ」
直上。仲間が殺されても機会を窺っていた狡猾なもう1人が、巨大な斧を薪割りの要領で振り下ろした。
エルフには、人間にはない特徴がある。背中から生えた、虫のような翅。それは当然飾りなどではなく、空中を自由自在に駆け、人間の戦士とは異なる立体的な戦闘を可能にする。
そもそも、人間の警戒が最も薄くなると言われているのが、頭上という死角。人である以上、少年もそれは例外ではなかった。
避けることはもちろん、反応することすら叶わず、少年の頭に、薪を割るように分厚い刃が直撃する。
「あ……あぁ!?」
ただし、その少年はただの人間ではなく、勇者だった。
近接戦を得手とするそのエルフにとって、直上からの奇襲は完璧なタイミング。頭どころか、股の下まで裂けて真っ二つになってもおかしくはないほどの、全力の振り下ろしであった。にも拘わらず、エルフが感じた手応えは、まるで鋼鉄の塊に斧をぶつけたようなもので、
「な、なんだお前……!」
「勇者だ」
ぐりん、と。頭で刃を押し返した少年は、軽く話しかけるような気安さで斧を持つ腕を掴み、中ほどからへし折った。と、同時に開いた手のひらで顔面を掴みこみ、前に突き出す。
さながら身を守る盾のようになったそのエルフの体に、前方から3本の矢が突き刺さった。顎が絶叫で開きかけたところを見るに、おそらく毒矢なのだろう、と。判断した少年はまだ息のある盾を矢の方向に向けて投擲した。次に右手の槍を、最後に斧を回転をかけて放り投げる。それらはまるで自分から吸い込まれるかのように、樹上に息を潜めていた射手達に命中した。
「……バカな」
槍が心臓に突き刺さり、斧に頭を割られた2人が、呆気なく息絶える。仲間の体をぶつけられた1人だけは、潰れたカエルのように地面に落下して呻いた。
「くそっ。なぜ、こちらの場所が……」
立ち上がろうと地面についた手のひらを、刃が貫いて縫い止める。
「ぎっ!?」
「仲間は? あと何人いる?」
どこまでも冷たい声だった。
問いかけと共に、ねじ込まれた剣が回る。だが、エルフは少年を睨めつけて言った。
「……人間如きが、図に乗るなよ」
「わかった」
頷いて、首を落とす。
「まだ、いそうだな」
勇者とは、魔王を討つ者。人々を導き、救う者。
それが敵に回るということが、何を意味するか。彼に刃を向けるエルフ達は、身を以て知ることになる。
エルフの血の匂いも、そんなに人間と変わらないらしい。うれしくない発見だ。
ふっと息を吐いて、鉄臭い空気を肺の中に入れる。
おれを待ち構えていた集団は片付けた。あとは、親玉が残るのみ。
わざとゆっくりと、振り返る。気配の主は、おれが気がつくのを待っていたようだった。
「……いつから、生かして帰す気がないと気がついていた?」
「なんとなく、価値観が違うなって思った」
笑顔と言葉で、それは巧妙に取り繕われていたが、違和感は拭いきれなかった。
「夕食の席の時。あんた、シャナのことを思い遣るような言い回しをしてたけど、一度もシャナのことをエルフって言わなかったんだ」
人間、とだけ言っていた。村の誰もが、一度たりともシャナのことをエルフとは呼ばなかった。自分たちと同じ種族だと言わなかった。それが、もうそのまま答えだ。
付け加えれば、やはり最初からこの老獪はおれの体を……魔法を目当てにしていて、逃がす気など毛頭なかったのだろう。
「シャナは連れて行く。あんたを殺しても」
「良い威勢だ。しかし、これを見てもそう言えるかね?」
無造作に、長老は右腕を振って、地面に何かを放り捨てた。
それは、死体だった。見覚えのある剣は折れていて、見覚えのある服装はボロボロになっている。なにより、見覚えのある顔が、恐怖で歪んだまま固まっていた。
「わしが殺した」
――おれの、死体だった。
「……そっか」
この老人はどうやらおれを殺せるらしい。状況は、明らかに悪化した。
でも同時に、少しだけ良かったとも思った。
自分と同じ存在を、殺される。シャナの気持ちがわかるようになったから。
「自分の敵討ちをさせてもらえるなんて、貴重な体験だ」
今回の登場人物
・勇者くん
覚悟ガン決まりになった。この時点で『
・シャナ
彼に攫われることを決めた。
・長老
苦しまずに死んでくれればよかったが、バレたなら仕方ない、くらいのスタンス。
・勇者くん(2人目)
殺された。
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救いたいのは、きみのすべて
魔術戦において、情報はある種最大のアドバンテージである。
扱う属性、得手とする攻撃距離。それらを知られるだけで、戦闘の有利は簡単に覆る。
故に、魔術を扱う人間の戦闘の鉄則は、一つ。先手必勝だ。
「やはり若者は威勢がいいな」
「うっせえ」
跳躍、接近。一太刀で首を落とすつもりで、剣を振るう。
だが、おれが横に薙いだ刃は、クソジジイの首を捉えることができなかった。手応えのないその感触に舌打ちする。
「飛べるのか、その翅で」
「飛べるのさ、こんな翅でもな」
回避された、というのは正確ではない。厳密に言えば、刃が届く範囲から逃れられた、と言った方が正しい。
顔を上げ、天を仰ぐ。
まるで枯れ枝のような老体が、風に攫われて浮いていた。地面から両の足を離して、エルフの長は宙に浮かんだまま、静止している。
エルフが飛べることそのものに、驚きはない。さっきの戦士も、おれの頭上を取って奇襲してきた。ただ、あの明らかに衰えきった翅で飛べるのは、完全に予想外だ。
しかし、剣が届かないからといって、やりようがないわけではない。
「
その名を呼ぶ。
「──ゲド・アロンゾ」
思い出して、行使する。
体の内側から、魔法を引き出す、独特な感覚。
「『
エルフの戦士たちが使っていた武器を拾いあげ、クソジジイに狙いを定める。瞬間、おれが触れた武器に、魔の力が宿る。
ナイフと剣を、投擲。物理法則を無視して回転するそれらは、まるで吸い込まれるかのように、目標に向かって飛翔する。
「ああ……
だが、阻まれる。
浮遊する老人の、さらに頭上から舞い降りたのは、重装騎士が携えるような大盾だった。ジジイの体と同様に宙を舞う鉄の塊が、投擲したナイフと剣をあっさりとはじきとばす。
身を守る盾を周囲に回転させながら、老獪は笑う。
「それは、さっき見た」
「ちっ」
やはり、というべきか。
魔術戦において、情報はある種最大のアドバンテージである。
そして、魔法戦における情報の重要性は、魔術戦のそれよりもさらに上。すでに息絶えているおれは、きっと持てる力を以てあのジジイに抵抗し、手持ちの魔法を駆使して、全力を尽くした上で殺されたのだろう。
つまり、おれが所持している魔法が、すべて把握されているかもしれないということだ。
「では、反撃させてもらおう」
軽い声と同時に、それらは降ってきた。
「……ちっ!」
人が抱えられない質量の、岩。
おそらく砂岩系の魔術に分類されるであろう塊が、十数発。着弾と共に、地面を揺らす。
避けられなかった。直撃だった。
「
とはいえ、おれは落石が全身に直撃した程度では死なない。
「『
衝撃は気合で耐える。砕けた石の粒を、払い除ける。
もちろん、痛みがなかったわけではない。粉塵を掻き分けて、喉もとにこみ上げてきた血の塊を、地面に吐き出した。クソジジイは、おれを見下ろしたまま目を細める。
「
だが、と。
長老はいやらしいほど間を置いて、言葉を紡いだ。
「なによりも素晴らしいのは、他者の魔法を奪い、自由自在に操る……きみ自身の魔法だ」
まるで足元の虫を相手にしていたかのような口調に、はじめて明確な熱が宿る。
「素晴らしい……素晴らしい素晴らしい! 本当に、実に素晴らしい! 複数の魔法を自在に操る魔法使いなど、聞いたことがない! 直接目にして、戦って、殺してみたあとでも信じられない! ああ……っ! きみは本当に、噂と違わぬ勇者殿だ」
噂と違わぬ勇者殿だ。
最初に出迎えられた時と同じ言葉を言われて、痛みからくるものとは違う吐き気を催しそうになった。
「正直に言えば、きみを一目見たときからその脳髄を開いてみたくて堪らなかった。臓物の色を、一つ一つ確かめてみたかった。きみの体に宿る神秘を知ることができれば、魔法という魔術とは異なる力の真実が、きっと解き明かされる。この世すべての魔法を手にすることも、夢ではないだろう」
「ジジイの与太話に興味はない。体をいじりたいなら、そこの死体を使ってくれ。調べ放題だろ」
「…………ふむ、それもそうだな」
深く考えたわけでもない、脊髄反射で返した悪態。
けれど、それを聞いた老人は少し考え込む様子を見せて、髭を撫でながら言った。
「ならば、やめよう」
「は?」
次にどう動いて、どのように相手の息の根を止めるか。会話に付き合って時間を稼ぎつつ、それだけを考えていたおれは、耳を疑った。
何を言われたかは、わかる。でも、どうしてそんなことを言われたのかが、わからない。
「いや、きみの言う通りだと思ってな。未来の勇者殿。もう、きみの死体は手に入れた。べつに、わざわざ骨を折って3人目を殺す必要もあるまい」
さらり、と何の事も無げにクソジジイはそう言ったが、それはつまり最初に増えたおれも殺されている、ということで。
「……つまり?」
「見逃してやろう」
生きるか、死ぬか。
選択の瀬戸際に立たされたおれにとって、それはなんとも魅力的な提案だった。
「理由は?」
「才能に満ち溢れた未来ある若者の命を奪うのが惜しい……とでも言えば信じるかね?」
「いいや、全然」
「だろうな。わしも正直、人間の命はどうでもいい。が、我らエルフとて同じ世界に生きるもの。闇に包まれつつある世界を、憂う気持ちはある」
もはや本性を隠そうともしないのが、いっそ清々しい。しかし、何も隠そうとはしていないからこそ、今この瞬間だけは語る言葉に嘘が含まれていないことがなんとなく伝わってきた。
「きみは思う存分、その魔法を成長させ、研ぎ澄まし、魔王を倒して、世界を救ってくるといい。そこにいるシャナも連れてな」
まずいな、と思った時にはもう遅かった。
「わたし、も……?」
あれほど隠れているように言い含めたはずなのに、小柄な銀髪が物陰から顔を出す。
思わず舌打ちしそうになったが、釣り下げられた甘いエサに反応するな、という方が無理な話だ。それだけ、クソジジイの提案が魅力的な証拠でもあった。
「長老
「ああ、いいとも。どうせ、まだ里にお前の代わりはいる。これからお前は、いくらでも増える。彼と一緒に、この村の外で生きていくといい」
意外にも、シャナを見下ろす老人の瞳には、労りがあった。声音はぬるく、そのまま浸かれば引き込まれるような優しさを含んでいた。
ただし、それはどこまでいっても、人間に対する言葉ではなかった。
いくらでも代わりがいる、いくらでも新しく作ることができる、消耗品をゴミ箱に放り捨てる前に、ほんの少しだけ名残惜しくなるような、そんな感情の向け方だった。
「……シャナ、戻れ。隠れてろ」
短く言って、老人を見上げる。
「魅力的な提案だ。見逃してくれるならありがたい」
「ふむ。賢明な判断だ。きみは幸運だったな。わしと会うのが最後だったおかげで、殺されずに済む」
「ああ、そう思うよ。土産代わりに、最後に質問をしていいか? 長老殿」
「わしに答えられることなら、良いとも」
「じゃあ聞こう。あんた、シャナを今まで何人殺した?」
「そんなこと、覚えているわけがないだろう」
ほんの少しでも、あの子に情があったか、なんて。
悪辣の中にほんの一匙の善性を期待していたわけではない。
「……とか。そういう返事を、期待していたかね?」
それでもやはり、返答はバカみたいなおれの返答よりも、ずっとずっと黒い感情に塗れていた。
「もちろん、すべて覚えているとも。最初にアレが生まれてから、ずっとずっと……世話をして、管理してきたのが誰だと思っている?」
おれの問いの意図が、どこにあったのか。
「喜びも悲しみも苦しみも。魔力を絞り尽くされて、息絶える瞬間の涙の一滴まで……アレから排出されるすべてがエルフという種族の財産だ。記録し、保管し、この頭の中に焼きつけているに決まっている」
見透かすように、嘲笑された。
「アレは貴重な魔法だ。世界を変える魔法だ。いくら調べ尽くしても、興味は尽きない。しかし……
「ああ、よくわかったよ」
どこまでいっても、そういうことだ。
人間とエルフでは、価値観が違う。
おれがシャナを連れて行っても、また別のシャナがこの村で死んでいくことになる。
そんな事実を許容して、のうのうと世界を救いに行くおれを……死んでしまったおれは許さないだろう。
「シャナを全員解放しろ。それなら、この村から出て行ってやってもいい」
「やれやれ。1人だけならくれてやると言っているのに。少年……強欲は、身を滅ぼすぞ」
「強欲、大いに結構」
ちびっ子をたくさん連れて戻ったら、アリアにはなんて言われるだろうか。きっと「旅は遠足じゃないんだよ!」とか言いながらも、文句たらたらでお世話してくれるに違いない。
おれはまだガキで、あの子に対して、何の責任も持てないけど。幸せにしてやると、断言することはできないけど。それでも、道具としてではなく、人間として彼女の隣に立つことだけはできるから。
「これから世界のすべてを救いに行くんだ。欲が深いくらいじゃないと、勇者なんて名乗れない」
「……なら、仕方ない。死んでくれ」
どうやらここが、おれの甲斐性の見せ所らしい。
威勢よく啖呵を切った少年の最初の行動は、結局のところ先ほどまでと同じだった。
地面を這いずり回って、武器を拾い上げる。その行動を見下ろして、エルフの長は嘆息する。
(惜しいな)
若者らしい蛮勇だと思う。
センスはある。研鑽も年齢を考えれば、十分過ぎるほどに積んでいる。そして、身に宿す魔法はこの世の理を根底から覆しかねないもので。ともすれば、あの少年はあの魔王を打ち倒し、世界に光をもたらす存在になれるのではないか、と。エルフの長は、たしかにそう思った。
だから、見逃そうと考えたのだ。シャナの1人は貴重なサンプルだが、またいくらでも補充できる。くれてやることに、不満はなかったのだが……
「本当に、残念だよ」
殺してしまおう。
少年を見下ろして、長老は手をかざす。喉を枯らして叫ばなければ声が届かない高さまで、さらに高度を上げる。
間合いのアドバンテージは、最初から最後まで、こちらにある。自分は飛べる。少年は飛べない。いくら足に魔力を流して強化したところで、人間の跳躍力には限界があるのだ。唯一、届く攻撃手段は、先程のような武器の投擲のみだが、それは
故に、エルフの長は余裕を持ったまま、少年を殺す方法を思案し、
「あ?」
眼下の光景に、思考の停止を自覚した。
膝を曲げ、地面を踏みしめて。
少年の体勢は、その構えは、まるで「そこまで届くぞ」と、声なく告げているようで。
事実、次の瞬間に弾丸の如く飛翔した体は、あまりにもあっさりと空中を駆け上がった。
「いつまで、上からもの言ってんだ」
囁くような、声が聞こえた。
振り下ろされる斧と体の間に、咄嗟に盾を挟み込む。それでも、少年はその上から斧を叩きつけた。
結果、長老の体は垂直に落下し、大地に叩き落される。
「あっ……が!?」
胸を打ちつけた衝撃で、胸の中から空気が漏れ出した。
「やっと同じ目線になったな」
自分を見下ろす、声が聞こえた。
「あんたは最初から大嘘吐きだ。そんなくたびれた翅で、若いエルフみたいに飛べるわけがない」
──飛べるのか、その翅で
──飛べるのさ、こんな翅でもな
交わした言葉は、どちらも欺瞞だった。
ある意味、当然だ。最初から、どちらにもわかりあう気などなかったのだから。
「
口の中の砂利を噛み締めながら、顔を上げる。
大盾を地面すれすれの高さまで下げ、追撃を警戒しながら、それでも老いたエルフは精神的な優位を保つためだけに、言葉を紡いだ。
「……よく、見破ったな」
「ああ。逆に、こっちの魔法は全部知られてるわけじゃないみたいだな。安心した」
「……ッ」
理解する。
世界を救う。そんな大言壮語を当たり前のように口にし、当然のように成し遂げようとする人間が、普通であるはずがない。
一度、二度、殺せたとしても。三度目まで、黙って殺されるとは限らない。
「言われた通り、おれは強欲だよ」
ここに至って、エルフの長は理解する。
奪ったつもりでいた。見下ろし、上に立っているつもりでいた。
「あんたのそれは、とても良い魔法だ」
違う。
アレは、最初から自分を獲物として見ている。
「クソジジイにはもったいない。おれに寄越せ」
命と魔法を。
奪うか。奪われるか。
「……若僧が」
人間とエルフ。
異なる種族の魔法使いの、殺し合いがはじまる。
今回の登場魔法
・『
勇者くんが最初にゲットした魔法。体を鋼の硬さにすることができるらしい。冒険序盤で勇者くんが死ななかった理由の九割はこれ。元々はシエラという女性が所持していた。
・『
勇者くんが二番目にゲットした魔法。投げたものを必ず目標に命中させることができるらしい。冒険序盤で勇者くんが頼っていた遠距離攻撃の九割はこれ。元々はゲドという盗賊が所持していた。
・長老の魔法
自分自身と触れたものを浮かせることができるらしい。
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その勇者、未だ最強ではなくとも
不意打ちで地面に叩き落されたとはいえ、老人の立て直しは早かった。重力も慣性も一切を無視して、枯れ枝のような体が不自然に浮き上がり、再び上昇。距離を取る。
その動きを見ながら、少年は思考する。エルフの長の魔法は、物体の浮遊に関連する能力でほぼ確定したといっていい。だが、まだ疑問は残っている。自身を含めた物体を自由に浮遊させる……たしかに強力な魔法だが、それだけで『
(浮遊の魔法以外に、何かもう一手。おれを殺した隠し玉がある)
それを見極めなければ、あのクソジジイには勝てない。無策で挑んでも、あそこに転がっている死体が二つに増えるだけだ。
考えをまとめつつも、動きは止めない。暗闇の中を、少年は疾駆する。
そして、思考を回しているのは、そんな彼を見下ろす老人も同じことだった。
(……想像以上の跳躍力だった。先ほどは身体能力を見る前に殺してしまったが、認識を改めるべきだな)
エルフ族は、そもそも魔力の扱いに秀でた種族である。村を守る屈強で若い戦士達は、当然魔力による身体強化も高いレベルで習熟している。しかし、眼下の少年は長老が知るどの戦士よりも高く高く跳んでみせた。人間として、異常な脚力と魔力操作と言う他ない。
(そもそも、異常でなければ勇者は名乗れない、か)
もっと高度を取れば少年の攻撃範囲から逃れることができるかもしれない。が、このまま攻めてもこちら側に勝ち筋はない。
魔法戦とは、つまるところ互いの腹の探り合い。思考の先読みである。自分の魔法で、何ができるか。相手の魔法で、何をされるか。それらを予測した上で、己の強みを押し付けた方が勝つ。
両者の思考がまとまったのは、奇しくも同時だった。
(──次で終わらせる)
(──次で仕留めよう)
先に動いたのは、エルフの長だった。
位置取りで常に優位に立つ長老は、魔法戦のセオリーに従って、己の強みを押し付けることを選択する。
「もう一度だ。潰れてくれるなよ」
体の中身を調べるための死体は、いくつあっても困らんからな、と。呟きは胸の内に収めて、攻撃を再開する。
振り上げた手の動きに合わせて、飛来するのは岩石の雨。
それは、体を鋼に変化させる少年の耐久力を見極めるために最初に放った攻撃だった。ただし、今度の数は先ほどよりもさらに多い。
通常、岩を砲弾として操る
それは言うなれば、自分の腕の力を一切使わず、弓に矢を番えて放つような暴挙である。
「……っ!」
再び轟音が鳴り響き、大地が揺れる。舞い上がる噴煙の中に消えた少年の姿を見据えながら、それでもなお長老は岩石の砲弾を投下し続ける。
いくら体を鋼の硬さに変化させることができたとしても、激突の衝撃を殺すことはできない。直撃を受ければ、少年の内蔵にはそれ相応のダメージが入る。
戦闘のために事前に用意し、空中に配置した岩石は、およそ50と少し。このペースで投下し続ければ、頭上に待機させている残弾はあと十数秒で使い切ってしまう。きっとあの少年は、その瞬間を虎視眈々と狙っているはずだ。だが、懐に向かって飛び込んでくるのであれば、こちらにとっても望むところ。
やはり、というべきか。応戦のリアクションは、すぐにあった。粉塵の中から飛び出してきたのは、攻撃に用いていた岩石である。
「ははっ! 岩を投げ返してくるか!」
落下して砕け、サイズそのものは小ぶりになっているとはいえ、投擲した物体に必中効果を与える『
「ちっ……!」
身を守るためには盾を使わざるを得ない。結果、防御に用いた大盾が衝撃で吹き飛ばされ、守りが手薄になる。
当然、少年がその隙を見逃すはずもなかった。
二度目の跳躍。一度目よりもさらに速い。自分に向かって突進してくるそのスピードと勢いに、長老は少年の身体能力をまだ甘く見積もっていたことを実感した……
「しかし、読み通りだな」
……が、動きそのものは、どこまでも予想通りだった。
老人の表情に驚愕はなく、少年の表情には困惑が満ちた。
轟音と共に、頭上からそれが降り注ぐ。
岩ではない。岩石の弾丸であれば、少年には砕く自信があった。武器ではない。剣や弓の類いであれば、少年には打ち払う自信があった。
しかしそれは、砕くことも打ち払うこともできない、最低最悪の武器だった。
「あ……がっ……ゴボッ……!?」
冷たい、と感じた時にはもう間に合わなかった。
まるで、池をまるごと宙に浮かべたような、大量の水。不定形の質量の塊が、流れ落ちる滝のように少年の体を飲み込んだ。
視界が、真っ青に染まる。竜の尾のようにうねる濁流に押し流され、跳躍の勢いが殺される。為す術もなく、少年は水の中に飲み込まれた。
「我が魔法の名は『
このままでは、水に押し流されて地面に叩きつけられる。そんな少年の懸念を払拭するように、長老は指先を折り畳み、拳を握りしめた。
「故に、このような芸当もできる」
瞬間、流れ落ちる水の動きがぴたりと止まって、少年を中心に球形に変化して浮遊する。本来なら、重力に引かれて地面に落ちるはずの体が、魔法の浮遊効果で操作された水流によって、木の葉のようにくるくると回る。いくらもがいても、どんなにも水をかいても、決して逃れ出ることができない。
それは、空の中に作られた、水の牢獄だった。
「空中で溺れて死ぬ。貴重な経験だろう?」
この方法で、多くの人間を長老は葬ってきた。
水が喉の中に侵入し、声帯に入れば、気管が凝縮反応を起こす。本来、肺には水の侵入を防ぐ機能が備わっているが、一度でも肺の中に入ってしまえば意味はない。酸素が欠乏し、やがて死に至る。
絶命する瞬間まで、その苦しむ様を見届けるのも、老いたエルフの楽しみの一つだった。
「……ぷっはぁぁぁ!」
故にこそ。
その悪辣で傲慢な楽しみを、少年は真っ向から否定する。
水牢を叩き割り、中から飛び出してきたその勢いに、長老は目を見張った。
「……なに?」
「……ふぅぅ……わかってても、息が詰まるもんだな」
声を発して、会話を行う。
それが行える時点で、少年が水牢の中から見事に脱出してみせたことは、十分に証明されていたが……それだけではない。
長老が形作った水球の上に、彼は悠然と立っていた。
「どうやって、おれを殺したか。自分の死体を見るのはいやな気分だったけど、なんとなく苦しんで死んだのはわかったし……なによりも、髪や服が濡れていた」
付着した水滴を振るって落としながら、まるで他人事のように言う。
「空中に浮かべた水の塊の中で、溺死。趣味の悪い殺し方だ。たしかに、なんでも浮かすことができるあんたの魔法なら、そんなありえないこともできるんだろうが……そういう攻撃がくる、とわかっているなら、対応はできる」
エルフの長は、絶句する。誤算は二つ。
一つは、彼が彼自身の死体に恐怖せず、ただ淡々と『どのように死んだのか』観察していたこと。
そしてもう一つは、彼の魔法特性の応用を、見誤っていたこと。
「なぜ、沈まない。なぜ、そこに立てる!?」
「水を硬くしたから」
コンコン、と。踵でつついた水面から、ありえない音が響いた。
原則として、魔法とは、自分自身と
少年は今、自身の足で水の塊を踏み締めていた。足で触れたそれらの水を、鋼の硬さに定義していた。ならば、踏み締めて立つことに、なんの不都合もありはしない。
「良い足場だ」
「……っ!」
長老の判断は素早かった。即座に水の塊に対して働かせていた浮遊の魔法効果を切り、落下させる。
少年の判断も素早かった。水の塊が落下する前に『
それは、地面からの跳躍ではなかった。宙を舞う両者の間に、今までのような距離はない。最速かつ最短で、少年が振るう剣は、長老に届き得る。
「見事……! だがなぁ!」
はず、だった。
枯れ枝のような老いた体が、まるで突風に晒されたように、加速する。
『
長老が行ったのは、魔法と魔術の併用。
「惜しかったな」
剣の切っ先が頬を掠める。だが、届かない。すれ違う少年の瞳が、大きく見開かれる。
いくら足場があろうとも。
いくら跳躍したところで。
自由に空を飛ぶことができるわけではない。
少年は空中で、自由に方向転換できない。長老は空中で、自由自在に方向転換できる。ほんの少し、横にずれて避けるだけで、攻撃は当たらない。
空中戦という土俵で、勇者の少年は最初から致命的なまでに敗北していた。
最後の足掻き、と言わんばかりに。横に逃れた標的に向けて、剣が投げられる。それすらも、エルフの長は余裕を持って回避する。
そうして、足場を失い、武器を失い、空中で足掻く少年の体は、
「『
この世の一切の物理法則を無視して、直角に折れ曲がって加速した。
「あ?」
避けきれずに、それは直撃した。
押し固めた手刀が、老人の薄い胸に突き刺さる。
鋼の指先が、内蔵を貫いて鮮血に染まる。
「なぜだ……その魔法は……投げたものを、必中させる……はず」
喉元からこみ上げる血の塊と共に、エルフの長は疑問を吐き出した。
吐き出しながら、己の致命的な思い違いに気がついた。
「そうだ。おれの『
忘れてはならない。
魔法とは、
跳躍する前の大げさな準備動作も、溜めの時間も、すべてがフェイク。異常な身体能力と魔力強化に見せかけていただけで、最初の跳躍から、少年は魔法を使用していた。
ただ、それを駆け引きの手札にしていただけで。
「見誤ったな。クソジジイ」
「……くくっ。このわしを、嵌めたか」
自嘲に塗れた笑みが漏れる。その全身から、力が失われる。
自信があった。驕りがあった。慢心があった。
だが、なによりも、それ以上に。
互いの能力を欺き合う魔法戦という土俵で、老人は最初から致命的なまでに敗北していた。
「その名と魔法、貰い受ける」
体の中を貫く指先が、心臓に触れる。
「複数の魔法の、使い分けと組み合わせ……あぁ……やはり、なんと、素晴らしい魔……」
言葉は、最後まで続かず。
心が破裂する音を、どこか遠くに聞いた。
◆ ◆ ◆
「馬鹿な……!」
「長老が……負けた」
つまるところ、最初からエルフの長は
雑兵では、勇者に無駄に殺されるだけ。しかし、自分が戦い、手の内が割れ、消耗したあとなら、複数の魔術師で包囲して討ち取ることができる、と。
「狼狽えるな! 長老の指示通りに動くのだ。あの勇者も疲れ切っている。取り囲んで不意を突けば、必ず殺せるはずだ!」
両者の戦いには参加せず、伏せていた30ほどの兵達と魔導師は、各々に杖や剣を構えた。
「弔い合戦だ!」
「必ずあの人間を殺し、あの魔法を我らのものとするのだ! さすれば、我らが悲願も……」
「うーん、でも、あの黒の魔法は彼だけのものだから……あなたたちには使えないと思うの」
「え……あ?」
気づいた時には、周囲を鼓舞するために腕を振り上げていたエルフの首が、落ちていた。
まるで、森の果実を無造作にもぎ取るかのように。ぽたぽたと血の雫を落として、取った頭を掲げて眺める少女がいた。
少女が、いた。
「こんばんは」
一体、いつからそこにいたのか。
そもそも、結界が張られているこの村の中に、どうやって入ったのか。
そんな疑問がどうでもよくなるほどに、その場に佇む少女は、ただただ美しかった。
月光の光を受けて艶やかに透ける白銀の髪が、滴る血の色と相まって、目も眩むような濃いコントラストを作り出している。
「あの子はね、これから勇者になるんだって」
エルフ達は、誰もが口を開くことすらできなかった。
目を合わせてはならない。そう理解しているはずなのに、見てしまう。
声を聞いてはならない。そう理解しているはずなのに、耳を傾けてしまう。
そこに在るだけで、心惹かれてしまう。
それは紛れもなく、生まれながらの魔性だった。
その魔性が。蠱惑の塊といっても過言ではない存在が、一心に勇者の少年に見惚れている。
「だからね……ダメよ?
エルフの長にとって、なによりも誤算だったのは。
魔の王が、すでに黒の魔法の
今回の登場人物
・勇者くん
この頃はまだ賢かった。
・長老
殺し方に拘ったせいで台無し。彼が生まれてからは、彼以上の魔法使いはエルフの里で生まれていない。その心の奥底には、自分の魔法がシャナよりも劣っているという嫉妬めいた感情もあったらしい。
・魔王様
きちゃった♡
今回の登場魔法
・『
自分自身と触れたものを鋼の硬さに変化させる。自分自身を硬くして防御に用いるのが基本だが、水を硬くして水上を歩行したり、張った糸を硬化させてピアノ線のように罠に用いたりと、様々に応用が効く。師匠に出会う前の勇者くんは、この魔法で全身を固くして近接で殴り合い、硬化させた指先で急所を抉り抜くのが必勝パターンだった。お前もう勇者やめて剣捨てろ。
当然現在は使用できないが、勇者くんは今でもこの魔法があった頃の感覚で無茶を行い、大体すぐ血だらけになる。
・『
投げたものがなんでも当たる魔法……ではなく、自分自身と触れたものを、定めた目標に向けて高速射出する魔法。定めた目標とは、
①視界の範囲内で
②一点のみ
を指す。生物か無生物であるかは問わない。
狙いが厳密であればどのような軌道で投げようと、どれだけ力を抜いて投擲しようと必ず的中するが、逆に言えば視界の外に逃れてしまった目標には誘導が切れてしまう弱点を抱えている。
自分自身にも効果があるので、勇者くんはこの魔法により擬似的な飛行が可能……とはいっても、一度目標を決めたら片道で特攻するロケットのようなものなので、移動手段としての使い勝手はクソ中のクソといったところ。今回のように、跳躍したあとに空中で速力を得たり、緊急時の方向転換として用いることがほとんどだったようだ。
・『
自分自身と触れたものを浮遊させる魔法。魔術による自由飛行は人間にとって悲願と言っても過言ではない一つの目標であったが、迅風系の魔術をベースに開発された飛行技術は、結局大成しなかった。自由に宙を舞うことができるこの魔法は、魔術では結局どこまでいっても魔法には勝てない現実を端的に示しているといえる。
長老はこの魔法の所有者として人間よりも遥かに長い時間を生きてきただけあって、『触れたもの』に対する解釈の幅とキャパシティが大きく、水のような不定形の物体や、複数の岩石を長時間に渡って浮遊させることも可能だった。
ただし『浮遊させる』ことが根本的な魔法効果なので、横方向への移動や加速スピードに難があるのが弱点。長老はこの弱点を、魔術による空気の噴射で補っていた。
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幼女を助けたらエルフの森が焼けた
「で、おれはそのエルフの村の長老を一騎打ちでぶっ倒して」
「そんなこんなで村の中で迫害を受けていた私は、勇者さんにまるで攫われるように助け出され……そして、今に至るわけです」
なんかおれが思い出話をしていたはずなのに、後半の語りの主導権を賢者ちゃんに握られちまったな。
フォークを握ってデザートのケーキを食べていた赤髪ちゃんは、食べるのと同じくらい夢中になって、おれたちの思い出話に耳を傾けていてくれた。ていうかコイツ、めちゃくちゃ器用だな……頷きながら全然食事の手止まってなかったんだけど。
「ほえー、勇者さん、若い頃はそんなにやんちゃしてたんですねぇ」
「は? おれは今でも若いが?」
「やめといた方がいいですよ勇者さん。絶対あの頃よりは老けてるんですから」
「今よりちっちゃい賢者さんも、ちょっと見てみたいですね」
「は? 今よりってなんですか。今も小さいみたいな言い回しはやめてくれませんかね? 私はこんなに立派に成長しているんですが?」
「やめといた方がいいぞ賢者ちゃん。絶対成長はしているけど、いろいろと小さいままなんだから」
「加齢臭が臭ってくるので、口を閉じてもらえますか。おじさん」
「言葉遣いが汚いぞ。チビ」
そのまま無言で賢者ちゃんと取っ組み合っていると、めずらしくちょっとむくれた表情で、騎士ちゃんが言葉を挟んだ。
「でもいいよねー、勇者くんは。あたしは四天王の1人にふっ飛ばされて、痛む身体を引きずりながら必死で行方を探していたのに……自分は伝説のエルフの村に行って、小さな女の子と戯れてたんだから」
「あのねえ、騎士ちゃん。ちゃんと話聞いてました? おれ、実際殺されてるし、殺されかけてるんですけど? 全然そんな楽しい時間を過ごしてたわけじゃないんですけど!?」
「しらなーい」
騎士ちゃんは昔からこの話をすると、目に見えておへそが曲がって機嫌が悪くなる。まあ、死に別れたと思った仲間の男が、能天気に幼女を拾って戻ってきた……と考えると、おれにも少し非があるのかもしれないが。
「ええ、ええ。騎士さまがむくれるのもわかります。他の女との思い出話なんて、詳しく聞かされたところで一文の足しにもなりませんもの」
「武闘家さん、その女捨てていいですよ」
「わかった。食後の、運動」
「は? ちょっとやめてください。なんで窓を開けてるんです? いや、もちろん興味深いお話でしたわ。わたくしが勇者さまにお会いできたのは、そのずっと後でしたからね。まだ未熟な果実のような勇者さまを、わたくしもぜひたべ……」
「せいっ」
「あぁあぁぁぁあぁぁぁ!?」
賢者ちゃんが窓を開け、そこから師匠が放り投げる見事なコンビネーションで、死霊術師さんが一足先にダイナミック退店した。うん、とてもお行儀が悪い。
「よく飛んで行きましたね」
「うむ。死霊術師投げの、新記録樹立は、近い」
こんなところで競技記録の更新を目指さないでほしい。
「死霊術師さん……見えなくなっちゃいましたけど、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫大丈夫。どうせこれから向かうのはあっちの方角だし、殺しても死なないし、武闘家さんはああ見えてコントロール抜群だし」
「なら大丈夫ですね!」
騎士ちゃんの言葉に、軽く頷く赤髪ちゃん。この子、うちのパーティーにかなり毒されてきたな……
「でも、わたしはお二人の話が聞けて楽しかったです」
「べつにお世辞はいりませんよ」
「いえ、本当です」
賢者ちゃんにぐっと顔を近づけて、赤髪ちゃんはニコニコと笑う。
「わたしが勇者さんに助けられたみたいに、賢者さんも勇者さんに助けられて……なんていうか、やっぱりその頃から、勇者さんは勇者さんだったんだなって!」
賢者ちゃんは、少し困ったような表情で、助けを求めるようにおれを見て。
「……」
おれも、黙って肩をすくめた。
「……よっし。腹ごしらえと休憩も済んだし、そろそろ行きますか」
さてさて。
結構長いこと話していたので、テーブルの上の料理はそのほとんどがきれいに平らげられ、デザートや食後のお茶もほとんど消えていた。死霊術師さんは今消えた。
食事も栄養補給もばっちり。そろそろ、この店を出るには良い時間だろう。
「じゃあ、おれと賢者ちゃんは支払いを済ませておくから、先に外出て待ってて」
「はい、わかりました」
「よろしくね」
連れ立って扉を開ける赤髪ちゃんと騎士ちゃんの背中を見送る。店の中に残るのは、おれと賢者ちゃんだけになった。
なんだかひさしぶりに、2人きりになった気がする。
「……なんかさぁ」
「はい」
「……なんというか、こう……おれ、赤髪ちゃんのああいうところに、たぶん弱いんだよな」
「惚気ですか?」
「違う違う。こそばゆいなって話だよ」
お勘定をお願いするために、マスターに手を上げながら、おれは隣に座る賢者ちゃんのフードを軽く叩いた。
「それにしても、よくおれに話を合わせられたね。賢者ちゃんは、ほとんどあの夜のこと……
「こう見えても、今では教壇に立って生徒に講義したり、無駄に権力を持った貴族と腹の探り合いをする立場ですから。軽く話を合わせるくらい、造作もありませんよ」
「成長したなぁ……」
「保護者面はやめてください」
「しれっとした顔で嘘を吐くようになっちゃって」
「嘘なんて言ってません」
目深に被ったフードに隠れて、この子の表情は見えない。
「私はあの夜、勇者さんに助けてもらった。それは、本当のことです」
いいや、違う。
赤髪ちゃんも言っていた。おれが、賢者ちゃんを救った、と。だが、それは違う。それだけは、絶対に違う。
あの夜。まだ勇者ですらなかったおれは、たった1人の少女を救うことすらできなかったのだから。
「シャナ! シャナっ!」
不格好に地面に着地し、大声で叫ぶ。
なるべく、巻き込まずに戦闘を行ったつもりだった。あのクソジジイの狙いはあくまでもおれと、おれの魔法。だから、おれに引き付けて戦闘を行えば問題ない、と。そう思っていた。
だから、勝った瞬間に。
その命を奪った瞬間に。
致命的なまでに、選択を間違えていたことに、気がつかなかった。
忘れていたのだ。おれが息の根を止めた魔法使いが、何を『浮かせていた』のか。
「シャナっ! どこだ! 返事をしろ!」
クソジジイを殺した、その刹那。直上に残されていた、大量の岩の砲弾のコントロールが、すべて失われた。
おれの『
落ちる。
留めきれなかった。コントロールしきれなかった。おれの周囲は、辺り一面がまるで絨毯爆撃を受けたような有り様で、
「シャ……ナ」
おれが助けたかった小さな女の子の下半身は、岩に潰されていた。
「お兄……ちゃん」
息はまだある。だが、息があるだけだった。
「ごめん……ごめんね。私は、やっぱり……人間じゃないから。エルフだから。お兄ちゃんとは一緒に行けないみたい」
「そんな、そんなことはない。そんなはずない!」
否定しながら、手を握る。
どうすればいい?
「村の東の、外れ。地下室に……最初の、私がいるの」
「やめろ、もう喋るな! おれが絶対に助け……」
「うん。お願い」
絡まった指の、その力が、とても強くなった。
「絶対に、助けて」
けれど、それは本当に一瞬で。
繋がった指から、熱が失われていく。
「私は、もうダメだけど……でも、私は、まだいるから」
嘘だ。代わりなんていない。
最初に出会って。言葉を交わして、花を摘んで、一緒に笑った。
おれが知るシャナは、今ここにいるシャナしかいない。
「いやだ……だめだ。シャナ」
「大丈夫だよ。お兄ちゃん」
平気だ、と。
「私は、私だから。きっとまた、お兄ちゃんのことを、大好きになるよ」
少女は、最後まで強く笑っていた。
まるで、明日から冒険の旅に行くような、そんな明るい笑顔で。
「……」
熱が失われた指を離して、立ち上がる。
立ち上がらなければ、勇者にもなれないおれに、価値はない。
「……助けなきゃ」
きみしかいない、と言ったはずの少年は。
少女の影を探して、炎の中をさまよい歩く。
そんな彼を、魔の王は炎の中から眺めていた。
「魔王様ぁ……いいんですか? せっかく、あのひよっこ勇者くんを探してこんなところまで来たのに」
森が、燃えていた。
その熱の中心には、魔王と呼ばれた少女と、もう1人。朱色の中に影を落とす、漆黒が在った。フリルとリボンがこれでもかとあしらわれた可憐なドレスを身に纏い、火花を添えてくるくると踊り舞うその姿は、舞踏会の華のようだった。
「うん。今は、会わなくていい」
「えぇ。それじゃあ、わたしがここまで連れてきてあげた意味がないじゃないですかぁ」
「いいじゃない。そういうのが、あなたたちの仕事でしょう?」
「ちーがーいーまーす! こういうのは『四天王』の仕事じゃありませーん!」
「じゃあ、仕事をあげる」
魔の王は、何ともない口調で命じた。
「この森、全部燃やして。おねがい」
「お……おぉ! おぉ! わかりますよ! これは、あれですね! 嫉妬の炎ってやつですね!」
「そういうのじゃないわ」
瞬く間に広がっていく炎の光を受けて、透明な髪が妖しく煌めく。
「ただ、わたしの勇者に手を出した翅虫が鬱陶しいだけ」
魔の王は微笑む。
わたしの勇者には、たくさん悲しんで、たくさん泣いて、もっともっと、強くなってもらわなければ……でなければ、彼は勇者にはなれない。
それに、
「どんなに寄り道をしても、どんな冒険をしても……彼は最後に、必ずわたしの元にやってくるから」
だから、嫉妬する必要なんてない。
もう死ぬのかな、と。少女の意識は、諦観と失意の底にあった。
最初の1人であるが故に、少女はそこに囚われていた。日も当たらず、変化もなく、ただ暗く冷えた地下牢の中で、鎖に繋がれて観察されていた。
だから、地下室にまで回ってきた火の手を見たときの感情は、恐怖でも驚きでもなく、やわらかな安堵だった。
ああ、これでようやく死ねる。楽になれる。そんな安心だった。
一つだけ、気掛かりがあるとすれば。魔法によって増えた自分がどうなったのか。それだけは、知りたかった。ろくな扱いを受けていないのはわかっている。それでも、きっと他の自分は、ここにいる自分よりはましな生活をしているはずだから……もしかしたら、この村から逃げ出して、外の世界で幸せに暮らしている自分もいるかもしれないから。
そう考えることだけが、少女の希望だった。
そう考えることだけが、少女の希望だったはずなのに。
扉が開いた。
「……よかった」
はじめて見る少年だった。そして、はじめて見る人間だった。
「あぁ、よかった、生きてる。よかった」
うわ言のように呟きながら、少年はシャナの口に嵌められた自決防止の口枷を、次に手足の動きを封じていた鎖を外してくれた。
「にん、げん?」
「ああ、人間だよ。遅くなって、ごめん」
炎の光に目を焼かれそうになりながら、それでも少女は懸命に少年の表情を見た。
少女には、わからなかった。
どうして、この人は……こんなにも、泣きそうな顔をしているんだろう?
「
「……きみを、助けに来たんだ」
助けに来た。
諦観と失意の底にあった少女の意識は、その一言で、引き上げられた。
もうほとんど諦めていたはずの、生への渇望が顔を出した。
「私、エルフじゃないのに……人間なのに、助けてくれるの?」
「……そっか」
また、もう一つ。
確かめるように、少年は頷いた。
「きみは、エルフじゃないのか……」
おそるおそる、血まみれの手が少女の頬に伸びた。
不思議と、こわくはなかった。
まるで、自分を決して壊してしまわないように触れる指先に……鉄の臭いがする手に、やさしさがあったから。
「……よし」
その一言で、彼の中の何かが切り替わった。
面と向かって、少年は聞いてきた。
「この村は、好きか?」
面と向かって、少女は首を横に振った。
「じゃあ、一緒に行こう」
それ以上は何も聞かずに、少年は少女に手を差し伸べた。
理由はない。事情もない。たった一つの質問と答えだけで、少年は少女を連れ出すことを選択した。
少女の名は、シャナ。
「あー、でもちょっとお願いがあるんだ」
わざと、おどけるように。
少年は、少しだけ悩む素振りを見せて、シャナに言った。
「おれ、これから世界を救うために魔王を倒しに行くんだけど……手伝ってくれる?」
シャナには、そもそも世界が何かわからなかった。
シャナには、魔王がどれほどおそろしい存在なのか理解できなかった。
しかし、目の前の少年が救いたいものは救いたいと思ったし、倒したいと思ったものは、倒さなければならないと確信した。
シャナにとって、手を差し伸べてくれた少年が、はじめて知る世界の全てだった。
だから、
「あの、私……いっこだけ、特別な魔法が使えます」
気持ち悪い自分の力も、役に立てるかもしれないと思った。
けれど、それを聞いた彼はなぜか笑った。
ただ、笑って、答えた。
「うん。知ってるよ」
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そして、少女は賢者になった
やはり、こんな荒野のど真ん中でも、飲食店を構えたのは間違いではなかったらしい。
「ごちそうさまでした。おいしかった」
「いやいや、こちらこそ。おもしろい話を聞かせてもらったよ」
代金を受け取り、店主はそう言葉を返した。
出した食事にきちんと礼を言ってくれる客は好ましい。それが、この世界を救った勇者なら尚更だ。
「まさかこんなところで、噂に名高い勇者さまが拝めるなんて思わなかったよ」
「……あー、わかっちゃいました?」
「最初は随分と大仰な呼び名で呼び合う変わったパーティーだと思ったけどなぁ。まあなんか、漏れ聞こえてくる会話の内容から、ああ、こりゃ本物の勇者さまだなって」
「あはは……」
相変わらず、勇者の青年は人の良さそうな、ちょっと困った苦笑いを浮かべている。
女性ばかりのパーティーだからそんなに値段はいかないものとばかり思っていたが、ずいぶんたくさん注文して飲み食いしてもらったので、合計金額はそれなりになっていた。ぎりぎりサービスできる範囲を頭の中で算盤をはじいて計算して、店主は青年にいくらかの釣り銭を返した。
「あれ? 多くないですか」
「おまけしとくよ」
「ありがとうございます。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「どうぞどうぞ。道のことなら、もう半日も歩けば村に着くと思うが……」
「マスター、エルフですよね?」
「……おっと」
純粋に、店主は驚いた。
「……いや、まいったな。わりと、上手く誤魔化せてるつもりでいたんだが、いつ気づいた?」
「まず、こんな荒野のど真ん中にぽつんと店がある時点で、私は最初からあやしいと疑っていましたよ」
賢者の少女が、ゆったりとした口調で答えを提示する。
「そうかい? どこに店を開こうが、俺の自由だと思うが」
「もちろん、冒険者向けの休憩所や宿泊施設ならどんな辺鄙な場所にあってもおかしくはありませんが、それにしてては少々内装や雰囲気が凝りすぎています。粗野な冒険者や旅人は、べつに高級な皿や調度品の類は求めませんからね。休めれば十分です」
私はお皿やティーカップのことは詳しく知りませんが、うちの死霊術師は運送業を営んでいるので、どこの特産品かまでわかったみたいですね、と。店内で使っている備品にまで言及されてしまっては、もはや言い逃れのしようがない。
年齢よりも、彼女はずっと優秀な魔導師なのだろう。おそらく、魔術的に店の中も調べられていた。
「違う、というのであれば。とりあえず、その長髪をかきあげて、見せて頂けますか? 私の耳と差があるかどうか、見比べてみましょう」
とどめと言わんばかりに、少女は被っていたフードを下ろしてみせた。
ボリュームのある、ややくせの強いウェーブがかかった銀髪が、波のように広がってこぼれ落ちる。その美しい髪の間からは、エルフ族の特徴である尖った耳が存在を主張していた。
「同族に会うのは、ひさしぶりだな」
観念して、店主は長髪の右側をかきあげる。賢者の少女と同じ耳の形を見て、勇者の少年は軽く頷いた。
「失礼ですけど、おいくつなんですか?」
「そうさなぁ。いくつにみえる?」
「え」
「年頃の娘のような返しはやめてください。勇者さんが困ってるでしょう」
「はっはっは」
からかうと楽しい青年だな、と店主は思った。
とはいえ、見かけよりも若作りしているつもりなので、年齢がばれる心配はない。
「店主さんは、村を出て長いんですか?」
「それも、お嬢ちゃんのご想像にお任せするよ」
「では、質問を変えます。どうして村を出たんですか? 私のようなハーフエルフはともかく、普通のエルフにとってあの村はそう悪い場所ではなかったでしょう?」
そういう客観的な評価が下せる程度には、この少女はあの村に対して抱いていたであろう複雑な気持ちを、もう精算しているのだな、と。店主は目を細めた。
「さてね。たしかにあそこは、お行儀のいい花にとっては居心地のいい咲き場所だったのかもしれないが……俺みたいな鼻つまみものには、どうにも落ち着ける場所じゃなかったんだよ」
「エルフの村は、もうありません……多分、私のせいで、すべて燃えてしまいました」
「お嬢ちゃんのせいじゃないさ。俺は自分の種族のいろんなところがいやになって、あの村を出た。遅かれ早かれ、消えてなくなる運命だったんだろうよ」
「……村を出た理由を、お聞きしても?」
「ああ。きみと同じだよ。いや、逆というべきかな?」
「え?」
自嘲気味に笑いながら、少女と真正面から目を合わせる。
「人間の女性に、惚れちまってな。この店も、元々その妻がやっていたものでね。おれが引き継いだんだ」
それまで、常に余裕をもって会話を回していた少女が、はじめて息を呑む気配がした。
水晶玉のような碧色の瞳で何を考えているのか。それを覗きこむことはできないが、なんとなく、少女が何を思っているのかはわかった。
「失礼ですが、奥方は……」
「ああ。90歳だったよ。おれに合わせて、ずいぶんと長生きしてくれた」
自分のことでもないのに、少女はそっと顔を伏せた。それだけで、やさしい子であることがわかる。
なので、ちょっとからかいたくなった。
「お嬢ちゃんは、この勇者の兄ちゃんのことが好きなのかい?」
「はい。愛していますが、それが何か?」
「おぅ……」
いや、だめだった。からかって遊ぶ余地すらなかった。
顔を赤らめて手で覆っているあたり、まだ後ろの勇者の方が可愛げもからかい甲斐もある。
「じゃあ、もう言うことはねえや。お幸せにな、お二人さん」
「ええ。ご飯、おいしかったです」
振り返り際に、少女はさらに一言。フードを目深に被り直しながら、言った。
「また来ます」
からんからん、と。退店を告げるベルの響きだけが残されて、あれだけ騒がしかった店内が、再び静寂に包まれる。
素直じゃない分、あの子は幸せになるのに苦労しそうだな……なんて。隣にアイツがいてくれたら、そんな呟きに同意してくれただろうか、と。らしくない物思いに耽った。
「ちょっと! おじいちゃん! お客さん帰ったんだったら、洗い物手伝ってよ!? あたし、めちゃくちゃ料理作って大変だったんだから!」
が、そんな風に沈んでいた意識は、奥の厨房から飛んできたやかましい声に一瞬で吹き飛ばされた。
「……あー、うるっせえなぁ! 今行く! 今行くよ! ……ったく、やかましいところだけ遺伝しやがって」
「あ、今悪口言ったでしょ!? こんな寂れた店を手伝いに来てる孝行者の孫娘に向かって、その言い草はなに!?」
「ああ言えばこう言いやがる。べつに手伝いに来てくれなんて、頼んでないんだがなぁ……どうせ、俺の道楽なんだしよ」
「だっておじいちゃん、1人じゃろくに料理も作れないでしょ!」
「……んなこたねぇよ」
「でもあたしが作った方が美味しいでしょ!?」
「そりゃ、まぁ……」
ひたすらにやかましい孫娘が、料理の修行を終えて押しかけ同然にやってきたのは、つい最近のことだ。店主は深く、ため息を吐いた。
結局、自分の胃袋は死ぬまでアイツに掴まれたままだった。まさか、料理上手なところまで、きっちり孫に遺していかなくてもいいと思うのだが。
「ひさしぶりのお客さん、あたしも接客したかったなぁ……」
「それはだめだ。お前に接客はまだ早い」
「おじいちゃん、前にあたしがお客さんに口説かれたの、未だに根に持ってるでしょ?」
「べつにそんなんじゃない」
顔の良さまで遺伝したのは、嬉しいと同時に少々複雑である。
どちらにせよ、あの青年は明らかに生粋の女たらしだったので、絶対に孫娘を会わせるわけにはいかない。ろくなことにならないに決まっている。
「さて、次はどのあたりに店を出すかね」
店全体に仕込んである、
「今度はもうちょっと人が通る場所にしてね」
「忙しすぎると、おれが疲れちまうんだよ。なんせ、良い年だからな」
「まだまだ元気なくせに。で、おじいちゃん。さっきのお客さん、どんな人たちだったの?」
「ああ」
腕まくりをして、洗い物をするために厨房に入った。
「世界を救った、勇者の御一行様だったよ」
「……おじいちゃん、やっぱりボケた?」
「はっ倒すぞ」
狐に化かされたことは一度もないが、狐に化かされるとはこういうことを言うのだろうな、とおれは思った。
「……消えたな」
「……消えましたね」
扉を開けて、店を出た瞬間。厳密に言えば、店を出たと認識して、振り返った瞬間、おれたちがさっきまで食事を楽しんでいた店は、忽然と姿を消していた。
「勇者くん! 大丈夫!?」
「お店! お店が消えちゃいましたよ、勇者さん!」
外で待っていた騎士ちゃんと赤髪ちゃんも、あわてた様子で駆け寄ってくる。ついさっきまで入っていた店がいきなり消えてしまったのだから、驚くのも無理はない。
ていうか、もしかしなくてもあのエルフの店主、めちゃくちゃすごい魔術の使い手だったのでは?
「どう思う賢者ちゃ……」
「空間転移用の魔導陣を店全体に仕込んでいたとして、どこに仕込んでたのか全然わからなかった……人やモノを転送させるのとはわけが違う……だって建物をそのものを転移させたのにそこに建物があった痕跡すらない。つまりこれは地面に仕込んだものではなく建物をそのものを転移対象として認識させているということ。だとしてもこんなに一瞬で何の予備動作もなく忽然と消えるなんてありえない……でも認識阻害の類いじゃなくて明らかに建造物そのものが移動している……店そのものを単一の存在として確立させている? その場合、建築の土台から魔術的アプローチをする必要が……でもその方が明らかに手っ取り早いし、一応の辻褄が合う……だったら」
ぶつぶつと呟きながら、賢者ちゃんは乾いた地面に杖の先でガリガリとおれにはよくわからない式を書き込んでいく。
あ、これだめみたいですね。スイッチ入っちゃってるわ。
「騎士ちゃん、赤髪ちゃん。悪いけど先行ってて。多分、師匠が死霊術師さん拾いに行ってるから」
「はいはーい。じゃあ、先行ってるね」
「わかりました」
隣にしゃがみ込んで、うわ言のように呟きを止めない賢者ちゃんをしばらく隣で眺める。
「はっ! すいません。つい……」
「いいよ。気が済んだなら行こっか」
「そうですね。30人くらいに増えて、じっくり思考を共有して取り組みたいところですが」
「だめだめだめ。それ、絶対日が暮れるパターンでしょ」
さっきの魔術はおそらくあーだこーだ、と。うんちくを垂れ流すモードに入った賢者ちゃんの話を、笑いながら聞き流す。
しかし、口と同じくらい滑らかに動いていた足が、ふと止まった。
「ん、どうかした?」
「ああ、いえ……」
すぐに視線は逸らされてしまったが、何に目を留めていたかはすぐにわかった。
花だ。草木すら少ない荒野の中で、それでも懸命に咲こうとしている、小さくてかわいらしい一輪の花。
賢者ちゃんと同じように、おれの目も何故かそれに強く惹かれてしまった。
「賢者ちゃんは、花は好き?」
「そうですね」
視線が、前に戻る。
「好きだったんだと思います」
花を見る時。
賢者ちゃんはいつも嬉しそうに、寂しそうな表情をする。
自分の中にいる誰かを思い出すような、そんな顔をする。
そして、決まってどこか遠くを見る。
「なんで過去形なわけ?」
「……はぁぁ。そういう質問します? 今の私は成長しましたからね。お花に無邪気に喜んでいたあの頃と違って、大人になったんですよ」
ぐだぐだと言いながら、しかし賢者ちゃんは花の前で膝を折った。
水の魔術だ。かざした指先から、雫が落ちる。根付く地面がやさしく濡れて、花を支える緑色が、少しだけ背伸びしたように思えた。
「お、やさしい」
「気紛れの慈悲です」
「またかわいくない言い回しを……お水をあげたくなった、でいいじゃん」
「よくないですよ。だって、わたしがずっとここにいて、この花に水をあげられるわけじゃないでしょう?」
しゃがみこんだまま、賢者ちゃんはじっと花を見詰める。
「こんなところじゃなくて、もっと楽な場所で咲けばいいのに、とか。今はそういことを考えちゃいますから」
……なんというか、本当に素直じゃない育ち方をしたなぁと思う。
とはいえ、質問にはしっかり答えてほしいものだ。
「過去形じゃなくて、現在進行系なんだよね」
「はい?」
「さっきの質問」
むぅ、と。ローブに包まれた背中がもぞもぞした。
「……答えをわかっている問いを投げる方が、いじわるだと思いますよ」
「つめたっ!?」
すくっ、と。立ち上がって。ちょん、と。
背伸びした指先に鼻をつつかれて、おれはたまらずあとずさった。
「──花は好きです」
不意打ちだった。
「特に、その場所でがんばって咲こうとしている花は、もっと好き」
花が咲くような笑顔、という表現を最初に考えた人は、間違いなく天才だと思う。
だって、いつもは素直じゃないくせに。
急に昔みたいな笑い方をされると、おれの心臓が少し跳ねてしまう。
「でも、人は一輪の花よりも、一面に広がる花畑に惹かれるものでしょう?」
「……そうかな?」
疑問を返して、おれは見た。
水を浴びて、心なしか艶やかに輝いているように見えるその花を。
「おれも好きだよ。小さくてかわいい花は、特に好きだ」
「そうですか。それは……よかったです」
小生意気で、あっけらかんとした、鈴の声。
それでも、さっさと歩き出した背中には、また笑う気配があった。
燃え盛る森から脱出するために、彼が選択したのはいちかばちかの賭けだった。
「いくよ。しっかり掴まって」
「はい」
「コール……マーシアス。『
少女の身体を強く抱き締めると同時に、彼と少女の身体が、重力を無視してふわりと浮き上がる。
その魔術に、否、魔法に、少女は覚えがあった。
「長老の……」
そのままぐんぐんと高度を上げた少年は、遠方にちらりと見えた明かり……おそらく、遠く離れた村のものであろうそれを見据えて、呟いた。
「これならいけるか……」
その明かりに向けて、
ぎゅん、と。ただ浮かぶだけだった身体が、まるで風に押し出されたように、加速して射ち出される。
「きゃっ……」
眼下を、見る。
燃え盛る、生まれ故郷の森。風は冷たくて、指先はかじかんでしまいそうなほどに寒い。
「ごめん。本当に、ごめん……」
彼は悪くないはずなのに、なぜか、彼はそれを心から悔いているようだった。
「でも、絶対に……絶対に、おれと一緒に来てくれたことを、後悔はさせないから」
それを、認識した瞬間に。頬で受ける風の冷たさを、強く抱きしめられた熱が上回った。
下を見るのではなく、前を見る。
顔をあげると、闇の中に浮ぶ月があった。ささやかに、けれどたしかに光る、いくつもの星々があった。
それは、少女がはじめて誰かと見る、夜の輝きだった。
だから、不思議と、こわくはなかった。
「大丈夫?」
「はい」
これだ、と少女は思った。
彼に恋した『私』の想いを、私は知らない。それがどれほど深い気持ちだったのか、わからない。その無念を晴らすことは、きっとできない。
だって、私は私だとしても。
この世界に、まったく同じ恋は一つとして存在しないから。
この夜、この瞬間。彼を見詰めるこの気持ちは……それだけは絶対に、私だけのもの。
ああ、そうだ。
きっと『私』は、この人に恋をした。
「お兄さん」
「ん?」
「名前を、教えてくれませんか?」
そして多分、これから私もこの人に、何度でも恋をするのだ。
静かに咲かせた想いを、幾重にも重ねて、花束のように。
──このささやかな恋を、愛に変えていくのだ。
今回の登場人物
・勇者くん
長老の魔法を奪ったあとは、魔法を組み合わせることにより、ある程度の自由飛行能力を得た。普通にチート。花を見ているときの賢者ちゃんの横顔が好き。
・賢者ちゃん
花を育てるのが趣味。勤務している魔導学園には、シャナが自分で栽培している花壇がある。その花壇の前で告白すると想いが成就すると、生徒たちには専らの噂。元々凝り性なのできれいに咲かせる方法をいろいろと模索しているが、冒険の途中に足元に咲いている花を見るのが、一番好き。
・店主
実はエルフ。実は魔導師。村から出て生活することは、当時のエルフの里では重罪にあたるので、殺されずに逃げ切っただけでありえない凄腕の魔導師。
妻が亡くなったあとは、残された店を暇そうな場所に出して、余生を過ごしながら一人でゆったり切り盛りする予定……だったのだが、最近孫娘が押しかけてめちゃくちゃ騒がしくなった。どんなに生意気でも孫はかわいいので、満更ではない模様。
・孫娘
厨房担当。店主の奥さんに似て、とても美人らしい。おじいちゃん一人では店をやっていくのは難しいだろうな、と思って王都で料理の修行を積んでいた。貴族向けの一流店に放り込まれても鼻歌交じりに包丁を振るうことができる腕前。
賢者ちゃん過去編、完。タグの『ギャグ』があまりにも仕事してないので、騎士ちゃん過去編入る前に、ちょっとクエストしたりすると思います。
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最強パーティーの二周目な冒険
金がなければ冒険はできない
なんとか辿り着いた人間のいる場所は、街というよりも村といった方がしっくりくるような、辺鄙なところだった。とはいえ、無理もない。村人に話を聞いてみると、どうやらこの村は魔王討伐後に住民が移り住んだ、開拓地の一つらしい。つまり、できてまだ一年足らずの村だということだ。
北部と極東は魔王軍側の勢力が強く、当時のおれたちは旅をするのに随分苦労したが、今では人が普通に住んで暮らせるようになったんだなぁ、と。少ししんみりしたりしなかったり。
あらためて、地図で村の詳しい場所を確認してみたが、やはり栄えている街までは行くにはそれなりにかかることがわかった。賢者ちゃんが敷設している転送魔導陣がある街か、もしくは死霊術師さんの運送会社のドラゴンが立ち寄るような商業都市に向かわなければならない。まずはこの村を拠点に装備や準備を整えて、それから出発しよう……と、とりあえず宿を取ったまではよかった。
「路銀が尽きました」
「は?」
賢者ちゃんの無慈悲な宣告に、おれは思わず真顔になった。
テーブルを囲むみんなも、きょとんとした顔になっている。
「路銀が尽きた、というのは?」
「要するに、もうお金がありません」
「いやいや、いやいやいや!」
そんなはずはない。腐ってもウチは、世界を救ったパーティーだ。お金がなくなるなんて、そんなことはありえない。
「いや、だって騎士ちゃんとか」
「ごめん。あたしそんなにお金を持ち歩く習慣なくて」
このリアルプリンセスが!
そういえば冒険はじめたての頃は金銭感覚の違いにかなり苦しめられたのを思い出したわ!
「師匠は?」
「人間は、金がなくても、生きられる」
五七五。俳句ですね。含蓄があります。そうじゃねぇんだよ。
「死霊術師さんは?」
「わたくしが身につけていたものは、みなさんに盾にされまくった時にすべて吹き飛んでいるので、すかんぴんですわ」
それについてはごめんなさいって感じだな。
死霊術師さんが持ち歩く用に、吹き飛ばしても大丈夫なお金とか欲しくなってくるね。うん。
「賢者ちゃんは?」
「わたしを誰だと思っているんです? そこらへんの宿屋なら一ヶ月滞在できるくらいの金額は持ち歩いていましたよ」
「で、そのお金は?」
「さっきスられました」
「ドアホのクソバカ」
賢者ちゃんは頭がいいし、とてもしっかりしているが、こういう時になんというか、年齢相応のドジを踏む。
「……」
「……」
最後に赤髪ちゃんを見つめて、しばらくたっぷり無言で見つめ合って、おれは溜め息を吐いた。
「どうすっかなー」
「どうしてわたしには何も聞かないんですか!?」
うがーっと食って掛かってきた赤髪ちゃんの頭を、ぐいぐいと片手で抑える。
おれはさらに深い深い、それはもう深いため息を吐いた。
「あのねぇ、赤髪ちゃん」
「はい」
「例えば赤髪ちゃんは、捨て犬を拾ったら毛皮までひん剥いて、何を持ってるか確かめたりするかい?」
「そんなことするわけないじゃないですか」
「だからそういうことなんだよね」
「犬なんですか!? 犬なんですかわたし!?」
しかし、これは深刻な問題だ。
「マジで少しもないの?」
「ほんとに一銭もないですね」
ですが、と賢者ちゃんは言葉を繋げて声を小さくした。宿屋の人に聞かれないようにするためだろう。
「不幸中の幸いというべきでしょうか。この宿の代金は先に一週間の滞在分を先払いしているので、晩ごはんと寝る場所の心配はしなくて済みます」
「なるほど」
「一週間程度なら、最悪、一日一食でもいい」
ちまちまとパンを摘みながら、師匠が言う。同じくちびちびとシチューを飲んでいる賢者ちゃんも、こくりと頷いた。
「まあ、そうですね。べつに、死ぬわけじゃありませんし」
だが、それで満足できるのはこの2人だけだ。
「えーっ!? 無理です無理です! 一日一食なんて、絶対死んじゃうに決まってますよ!?」
「そうだよ! あたしに一週間も禁酒しろっていうの!? 夜にビールを飲めなかったら何を楽しみに生きていけばいいの!?」
「そうですわそうですわ! わたくしなんてそもそもまだ服もありませんのよ! 衣食住の最初の一字は衣という字です! 文明人としてまず衣服を身に纏う権利がわたくしにはあるはずです!」
赤髪ちゃん、騎士ちゃん、死霊術師さん。3人の心の叫びと抗議の声に、賢者ちゃんはそこらへんに落ちてる生ゴミでも見るような目で、舌打ちを漏らした。
「どいつもこいつもうるせえですね」
「なんで賢者さんはそんなに落ち着いてるんですか!?」
「そうだよ! そもそも賢者ちゃんがお金を取られてなかったらこんなことになってないんだからね!」
「そうですわそうですわ! そこの貧乳コンビは胸と同じで欲がないのかもしれませんが、わたくしたちは違いますのよ! 人間としてそれ相応の欲があるのです!」
「じゃあ今すぐ一週間分の宿代払ってくださいよ。払えないならそれでいいですよ。3人叩き出せば、私と勇者さんと武闘家さんで滞在期間を二週間に伸ばせますからね」
「ごめんなさい」
「すいませんでした」
「靴を舐めますわ」
変わり身早いなコイツら……
「まあ、でもとりあえず宿代が払えてるのは不幸中の幸いだったな」
「そうですね。とにかく一週間は寝る場所があるわけですから、その間にお金を稼げばいいわけですし」
「ですわね。衣食住の最後の一字は住という字です。住居の確保は文明人としての生活を支える根幹の問題ですもの」
「死霊術師さんは今日から野宿ですよ」
「靴を舐めますわ」
「胸にぶら下げてるそのデカい脂肪があればしばらく生きていけるでしょう」
「わたくしラクダですの?」
とはいえ、そううかうかもしていられない。さっさと手早くお金を稼いで、王都に帰るだけの手段、もしくは長旅に耐えうるだけの、きちんとした装備を整えたいところだ。
「金かぁ……お金にはしばらく困ってなかったから、懐が寂しくなるのもなんだか懐かしい感覚だなあ」
「成金のクソ野郎みたいなこと言うね、勇者くん」
きみも冒険に出るまではお金に困ったことがないお姫様だったでしょうが……と言うのは抑えつつ、おれは賢者ちゃんに問いかけた。
「どうしようか。みんなで日雇いの仕事でも探す?」
「安心してください。わたしに、良い考えがあります」
ボロ布を被ったその少女を見て、荷物を抱えた商人は足を止めた。
魔王が討伐され、昔より格段に魔族の被害が減ったとはいえ、親のいない子はめずらしくない。冒険者や荒くれ者が多い開拓村ならなおさらだ。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
「あの、私……昨日から、何も食べてなくて……行くところもなくて、それで」
旅は道連れ、世は情けともいう。
見るから人の好さそうな商人は軽く頷いて、荷物を下ろして探る。そして、ボロ布を被った少女に向けて硬貨を数枚、差し出した。
「かわいそうに。わたしも旅の身だ。こんなものしか渡せないが、今日のご飯くらいはなんとかなるだろう?」
「いいの? おじさん、ありがと……」
めちゃくちゃ人の好さそうな商人のおじさんが硬貨を渡す前に、物陰からその一部始終を見守っていたおれは、飛び出して少女の背中を蹴り倒した。
「は?」
「すいませんごめんなさいこれ身内なんです失礼します!」
「あー」
そのままずるずると路地裏まで少女を引きずっていき、いつもより乱暴に放り投げる。
「ちょっと何するんですか勇者さん」
「逆に聞きたいけど何してるんですか賢者さん」
いつものローブを脱ぎ捨て、いい感じに顔を泥で汚し、頭からボロ布を被っている少女……もとい賢者ちゃんはとても不満気な様子で頬を膨らませた。
「見てわかりませんか? 身寄りのいない不幸な少女を演じて、お金を恵んでもらおうとしてたんですよ」
「良い考えってこれ? バカなの? 賢者ちゃんバカなの?」
「はー? 私は賢者ですが? 頭が良いに決まってるでしょう」
ない胸を張りながら、賢者ちゃんは言うが、これっぽっちも頭が良さそうに見えない。
隣でおれと一緒に賢者ちゃんの奇行を見守っていた赤髪ちゃんが、おずおずと片手を上げる。
「あのー、ちょっといいでしょうか?」
「なんです?」
「仮にお金を恵んでもらったとして、硬貨数枚じゃ、わたしたちのご飯代にもならないと思うんですけど……」
「わかってませんね。これだから巨乳はダメなんですよ」
「おいやめろお前。死霊術師さんにさっき言われた分を赤髪ちゃんに当たるな」
おれの注意は無視して、賢者ちゃんは足元の小石を拾った。
「いいですか? 私の魔法『
ぽんぽん、と。いつものように手品の如く小石を増やして手の中で玩び、賢者ちゃんはちょっと悪い笑みを浮かべる。
「つまり、たった1枚のコインでも、それを増やして100枚に……さらに増やした100枚を両替していけば」
「なるほど! いけますね!」
「なるほどじゃない!」
おれは2人の脳天にチョップをかました。
「はうっ!」
「なんですか勇者さん! 何が不満なんですか!?」
「全部不満に決まってるだろ! そもそもお金は増やしちゃダメだって旅を始めた頃に教えたじゃん!」
う、と。賢者ちゃんが親に叱られた子どものような顔になる。
「それは、その、なんというか……今は非常事態ですし」
「ダメなものはダメ」
「えー」
「えーじゃありません!」
頭の痛いことに、賢者ちゃんの魔法は、戦闘だけでなくこんな場面でもその力を発揮する。『
「まさか、おれの見てないところで変なもの増やしたりはしてないよね?」
「……してませんよ」
「なんで目ぇ背けてんの? こっち見て答えてごらん」
「してません、してませんよ。わたしはちょっと歴史的価値のある美術品を増やしたりしてるだけで、べつにお金を増やしたりとかは……」
「もっとダメだ! それから……」
また脳天へのチョップを警戒して頭を押さえる賢者ちゃんの頬を掴んで持ち上げ、自分で泥だらけにしたその整った顔を、ぐりぐりと手荒く拭いた。
「あうっ……」
「自分から物乞いのふりをしたり、そういう自分自身の価値を貶めるようなこともダメ。斜に構えて自分のことを蔑ろにするの、良くないって何回も言っただろ?」
そういうこところは本当に相変わらずだな、と。おれは懐かしくなる反面、少し言葉を厳しくした。
昔の境遇のせいか、その魔法のせいか、賢者ちゃんは自分という存在のことを軽く扱う節がある。それはよくないし、おれも悲しい。だから、ちょっと怒る。
「……はい。ごめんなさい」
「うん、わかればよろしい。ほら、杖持って。ローブ……あれ? 赤髪ちゃん賢者ちゃんのローブ知らない?」
「ああ、それならさっき死霊術師さんが……」
すると、タイミングを見計らったようにドタドタと足音が近づいてきて、騒がしい黒髪が顔を出した。
「勇者さま〜! 見てくださいまし! 賢者さまのローブをパクって羽織ってみましたが、全っ然前が閉まりませんわ!」
「せいっ」
賢者ちゃんは真顔で杖を死霊術師さんのケツに向けてフルスイングした。
「痛い!? 杖の先端が痛っ……あ、賢者さま、前が閉まらなくてもいいので、このローブ増やしてくださいな。前が閉まらないのも、これはこれで殿方には惹かれる魅力があると思いますし……」
「絶対増やしません。早く返せ」
「剥ぎ取らないで! 剥ぎ取らないでください!」
組んずほぐれつしはじめた2人を呆れた目で見ながら、赤髪ちゃんはおれに視線を移した。
「勇者さん……もしかして、明日のご飯は晩御飯だけになっちゃうんでしょうか?」
「あー、大丈夫だよ。赤髪ちゃん。今頃、騎士ちゃんと師匠が……」
◇◆◇◆
扉が開き、下卑た男達の視線は一斉にその女性に吸い寄せられた。
「おい、見ろよアレ」
「ほほう……へへっ」
女の冒険者は、べつにめずらしい存在ではない。しかし、このあたりでは見ない顔の冒険者が……しかも、まだ10にも満たないような小さな子を連れてやって来るのは、とてもめずらしい。それが、どこに出しても恥ずかしくないような、美しい金髪の上玉なら尚更である。
「よう、アンタ。まるで姫さんみてぇだな」
「ええ、どうも。よく言われる」
褒め言葉をさらりとあしらう、その尊大な態度がますます好みだ。昼間からやることもなく、酒を呷っていた冒険者の男の心を掴むには、彼女の外見と態度は充分過ぎた。
「なあ、どこから来た? こんな小さな嬢ちゃんを連れて訳ありだろう? このあたりに来るのは、はじめてなんだよな? 俺が案内してやるよ」
「申し出はうれしいけど……お断りしておくね」
「つれねぇこと言うなよ。俺ぁこの村を拠点にして長いんだ。それなりに顔も利く。なんなら……」
「ねえ、お兄さん」
そこでようやく、金髪の女性の瞳が正面から男を見た。
「あんまり女性にしつこく言い寄ると、火傷しちゃうって習わなかった?」
「……ははっ! いいねぇ! おれを火傷させてくれるような女は、大歓迎だぜ!」
冒険者の男は、迷わなかった。
そのまま、女性の腕を無遠慮に掴み取って、
「あ……熱っ!? ぎぃやぁぁぁ!?」
次の瞬間には、手のひらをフライパンに押し付けたような、その熱さに絶叫した。
「あーあ、もう……だからあたし、ちゃんと
手のひらを抑え、床に倒れて這いつくばる男を見下ろして、金髪の女性は息を吐く。
その熱とは対照的な、まるで氷のような冷たい瞳に見下されて、男はガタガタと全身を震わせた。
ヤバい、この女は明らかにヤバい。
「ひ、ひぃ……」
そそくさと退散していった背中を見送って、金髪の女性はやれやれとポニーテールの頭を振る。そうしてようやく、ここに来た目的を果たすために、口を開いた。
「騒がしくしてごめんなさい、受付のお姉さん」
同性でも思わず見惚れてしまうような、微笑みを伴って。
アリア・リナージュ・アイアラスはギルドの受付嬢に問いかけた。
「ところで、何か良い『
今回の登場人物
・勇者くん
金銭感覚はわりときちんとしてる。こう見えてお金はコツコツ貯金するタイプ。
・赤髪ちゃん
金銭感覚は破滅している。このご飯いくらですか!?
・賢者ちゃん
金銭感覚は麻痺している。幼少期はパン一切れすら貴重な身の上だったので、お金を稼いでも使い道があまりなくて困るタイプ。ただし、魔術書関連に関してはぽんと大金を出す。勇者くんに怒られてからお金は増やさないように気をつけている。魔術書はぽんぽん増やして将来有望な魔術師に配り歩いている。
・騎士ちゃん
金銭感覚は昔よりは多少マシになった。多少マシになっただけなので、妙なところでお姫様感覚が抜けていない。魔法のおかげで痴漢対策は万全。基本的に人当たりが良いが、腐ってもお姫様なので不躾な相手には塩対応。
・武闘家さん
金銭感覚がそもそもない。昔のお金を溜め込むと、なんか高く買い取ってもらえてお得だと思っている。
・死霊術師さん
金銭感覚にかなり優れている。良いものと悪いものの区別がはっきりつき、それに対して適正価格を付ける判断もブレない。良家での教育が活きている。魔王軍にいた頃は、死霊術師さんが財源の管理の一部を担当していたほど。しかしまだ服は着れてない。
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最強の女騎士の致命的な弱点
「仕事を! 取ってきました!」
「「「おー」」」
胸を張る騎士ちゃんに向けて、パチパチと拍手の音が響く。賢者ちゃんがボロ布被って遊んだり、死霊術師さんが賢者ちゃんのローブを被って遊んでいる間に、騎士ちゃんはちゃんと仕事を取ってきてくれたわけですからね。頭が上がりませんよまったく。
「まあ、あたしたちはこの村では新顔だし、そんなに大きな仕事じゃないけど……」
「いやいや、仕事取ってきただけですごいよ。流石だよ」
「えっへへ。まあ、それほどでもあるかなー」
「これでわたくしの服を買うお金もようやく確保できますわね!」
「ダメだよ死霊術師さん。先にお酒買うから」
「服よりも酒を……?」
騎士としても姫としてもちょっとどうかと思うことをほざいているが、お仕事を取ってきてくれたのは騎士ちゃんなので、何も言えない。
「というわけで、明日はみんなで依頼主さんの農場に行くよ」
「農場?」
「うん。なんでも、最近モンスターが出るようになったらしくて、見張りとモンスター狩りをしてほしいんだって」
「へえ」
ほんとに初心者みたいな依頼だが、しかし騎士ちゃんがせっかく取ってきてくれた仕事である。おれたちも全力で取り組まなければなるまい。それに、騎士ちゃんも見るからに張り切っているし。
だが、パンをもぐもぐしながら師匠が言った。
「すまない。わたしは、ちょっとパス」
「ええ……? いくら師匠でもわがままはダメですよ。そりゃ、師匠と満足に殴り合えるモンスターは畑には出てこないと思いますけど」
「そうだよ武闘家さん。働くもの食うべからずだよ」
「やれやれ。わたしを、甘く見ないでほしい。わたし、こう見えてもみんなより長生き。今まで、一人で生活してきた時間も長かった」
まあ、たしかに1000歳くらい年上ですけれども。
「騎士が取ってきた仕事とは別に、わたしはわたしで、もう仕事を取ってある」
「え!? ほんとですか師匠!?」
「ぶい」
「そうだったんだ……わたしが交渉してる間もおじさんからアメ玉とか貰ってたから、てっきり暇潰しについてきただけかと」
なにやってんだよ師匠。
「え!? お師匠さんアメ玉貰ったんですか!?」
「うむ。分けてあげよう」
「甘いもの! ありがとうございます!」
それでいいのか赤髪ちゃん。
「じゃあ、明日は師匠は別行動で。おれと騎士ちゃん、賢者ちゃんと……赤髪ちゃんも来る?」
「あ、えっと……わたしも一緒に行っても、大丈夫なんですか?」
「もちろん」
小さなクエストとはいえ、これもまた貴重な経験だ。元々、興味があったのだろう。両手を挙げて、赤髪ちゃんは喜んだ。
「ありがとうございます! お役に立てるかわかりませんが、お供します!」
「おっけー」
「勇者さま! ちょっと待って下さい勇者さま!?」
「なに? どうしたの?」
麻袋に入ったままの死霊術師さんが、体をくねらせる。
「わたくしは連れて行ってくださらないのですか!?」
「連れて行かないよ。当たり前でしょ」
「即答!?」
いやだって、素っ裸の美女を麻袋に入れたまま持ち歩いて、奴隷商人に間違われたくないし……
「でも勇者くん。明日行く農場、結構広いらしいんだけど、人手足りるかな?」
「あ、そうなの?」
「うん。武闘家さんだけじゃなく、死霊術師さんまでいないとなると、ちょっと……」
「じゃあ、死霊術師さんも連れてこっか。畑に差しておけばカカシにはなるでしょ」
「わたくし、ここでみなさんの帰りを心よりお待ちしております」
この女、言うことコロコロ変えやがって……
「勇者さん」
「どうしたの賢者ちゃん」
「まかせてください。私に良い考えがあります」
……ほんとにぃ?
翌日。
依頼された農場は、村の外れにあった。
「こんにちは! ギルドからご依頼を受けて来ました!」
「ああ。今日はよろしく頼むよ。それにしても……」
依頼主の農場主さんは、おれと赤髪ちゃんと騎士ちゃんと、賢者ちゃんと賢者ちゃんと賢者ちゃんと賢者ちゃんと賢者ちゃんを見て言った。
「こいつは驚いた。兄弟で仕事をしてる人は時々見るが、そこの魔術士のお嬢ちゃんたちは、どこからどう見てもそっくりだねぇ」
「五つ子です」
「よく似てるって言われます」
うん。人手が足りないから増えてもらったけど、わりと誤魔化せるもんですね。
「はっはっは! 似てるなんてもんじゃないねこりゃ! まるでそっくりそのまま増えたみたいだ」
「ええ」
「それもよく言われます」
賢者ちゃんもしれっとした顔で頷いている。成長してるなぁ。
「それで、ご依頼というのは?」
「ああ、そうそう。これから農作物が収穫シーズンなんだけど、モンスターの被害がちらほら出ていてね。その退治をお願いしたいんだよ」
なんでも、今回の依頼主のおじさんはこの村の中でも大きい畑を持っている豪農らしく、しかしそれ故にモンスターによる農作物の被害も馬鹿にならないらしい。騎士団が常駐しているような大きい街はともかく、小さな村ではギルドを通じて、あるいは直接冒険者にこういった仕事の依頼をすることが一般的だ。
とはいえ、
「どうしてこの仕事をおれたちに?」
「え? いやアンタたちが一番安かったからさ」
ですよねー。
仕事とは、つまるところ責任と信頼で成り立っている。この村に来たばかりの新米のぺーぺー冒険者であるおれたちの賃金は、まあ当然のように安い。
しかし、こうして仕事を積み重ねていくことで信頼と実績が蓄積されて、お賃金の向上に繋がるので、決して手は抜けない。そもそも無一文のおれたちに仕事を選り好みしている余裕はない。
とりあえず、おれたちは手分けして見張りに立つことにした。おれの隣には、またしれっと賢者ちゃんが1人いる。なにやら、効率的な見張りのために良いアイディアがあるらしい。
「さて、それでははじめますか」
「で、どうするの? 長女の賢者ちゃん」
「私は次女の賢者ちゃんですよ。ちゃんと見分けてください」
「いやわかんねーよ」
五つ子ネタが気に入ったのだろうか。
「要は、この農場全体を良い感じにカバーできる探知魔術を組めばいいのでしょう?」
「できる?」
「私を誰だと思ってるんです?」
言いながら、賢者ちゃんは地面に杖を突き刺した。てっきり、浮遊系の魔術で上から監視するのかと思っていたが、違うようだ。
「ああ、上から見張るわけじゃないんだ」
「上から見張る時は、上からずっと監視する手間があるじゃないですか。それに、空中に浮遊する魔術はとても手間がかかりますからね。昔の勇者さんの魔法とは違うんですよ」
今のおれは昔のように魔法を使えず、浮いたり飛んだりできるわけではないので、耳の痛い話である。
地面に杖を突き刺した賢者ちゃんは、そのまま魔導陣を展開して満足気に頷いた。
「これでよし、と」
「何したの?」
「砂岩系の魔術で、地面に探知網を敷きました。農場の四方で監視している他の私達も、同じ魔導陣を展開、リンクして繋げているので、何か入ってきたり、あやしい動きがあれば、中央にいるわたしがすぐに気付けます」
「おお! すごい!」
「ええ、私はすごいですからね。私は末っ子なので褒めると伸びますよ」
「さっき次女だって言ってなかった?」
とはいえ、すごいのは間違いないしとても助かるので、賢者ちゃんの頭を撫でて存分に褒め称える。
「おや、早速反応があったみたいですよ」
「早いな」
数が出るから困る、と依頼主のおじさんは言っていたが、それにしても早い。これは外から入ってきたというより、元々この中にいたと考えた方が良さそうだ。
これ、どんなモンスターかにもよるけど、もしかして巣とか作ってるんじゃないかな……だとしたらわりとめんどくさい。
「どこ?」
「私達からはちょっと離れてますね。騎士さんの近くです」
「なんだ、騎士ちゃんの近くか」
赤髪ちゃんにはモンスターを見つけても「近づかない、騒がない、すぐに知らせること」と、口を酸っぱくして言い含めてあるし、モンスターが出たらおれがすぐにすっ飛んで行こうと思っていたが、騎士ちゃんなら安心である。悪魔が降臨しようがドラゴンが飛んで来ようが、正面から斬り倒せる。
「あれ? 妙ですね」
「何が?」
「騎士さんと向かい合ったまま、モンスターの反応が消えません」
「なんで?」
「さあ?」
おれと賢者ちゃんは無言でしばらく見詰め合い、
「……あ、やばいな」
「……あ、やばいですね」
騎士ちゃんの唯一と言ってもいい、致命的な弱点である『天敵』の存在を思い出した。
アリア・リナージュ・アイアラスは、この世界を救った最強の騎士である。
最強という言葉の定義は人によって異なるが、魔王軍四天王の首を落とし、世界を救った勇者の傍らで常にその背中を守り続けてきたアリアの実力を疑う人間はいない。事実、アリアは立場的には隣国の姫君であり、辺境の領主という地位にありながら、その実力は王都を守護する最強の騎士……5人の騎士団長達に勝るとも劣らない、と讃えられてきた。
そんな世界最強の騎士が、全身を鎧兜で完全に覆い隠し、凶暴な悪魔を尽く切り裂いてきた愛剣を両手で構え……がくがくと震えていた。
「ふ、ふぇあ……ああああ」
それはもう、ありえないほどに震えていた。
完全装備の頭兜の下から、間違ってもお姫様や騎士様が出してはいけない、情けないにもほどがある声が漏れる。
フェイスガードでその表情は誰にも見えず、そもそもこの場にアリア以外の人間は誰もいなかったが、すでに涙腺は崩壊していた。
「こっ……来ないで……」
びくびくと小刻みに震えている大剣の先には、モンスターというにはあまりにも小さな……ぶよぶよと蠢く不定形の青い塊がいた。
その名を『スライム』という。
決まった形を持たない、その出自からして特殊な、めずらしいモンスターである。少なくとも、人里の畑の中に出没することは、滅多にない。
しかし、その滅多にない事態に、女騎士はちょうどよく遭遇してしまっていた。
「うぅ……無理……無理無理無理!」
完璧な人間など、この世にはいない。
人には必ず、弱い部分があり、何かしらのウィークポイントが存在する。
アリアの弱点は『スライム』だった。
もう、思い出したくもない。騎士学校に通っていた頃に巻き込まれた事件の、そのトラウマから、アリアはこの『スライム』というモンスターが、どうしても生理的にダメだった。見ただけで気絶しそうになるレベルで、本当に無理だった。直接触るなんて不可能だし、指先が少し触れただけでも、気絶してしまう自信があった。要するに、とにかく無理、ということだ。
「ま……負けない。負ける、もんか……っ」
しかし、けれど、だとしても。
これは、自分が責任を持って取ってきた仕事。そして、たった一匹のスライムを前にして剣を引いては、騎士の名折れである。鎧兜と歯をガタガタと震わせて、目尻と剣には涙と魔力を溜めて、アリアは覚悟を決めた。
ちなみに。アリア・リナージュ・アイアラスがスライムに向けて全力で構える剣の銘は『
その一撃は、悪魔を切り裂き、竜すらも落とす。
そんな聖剣を、畑のど真ん中で振るえば、どうなるだろうか?
「騎士ちゃん……っ! ストッ……」
何か、呼ばれた気がしたが。
アリアは、炎の大剣を持てる力で振り切った。
世界を救った騎士の、渾身の斬撃が……世界最弱といっても過言ではない、小さな命に炸裂する──!
爆炎が、巻き上がった。
「ハァ、ハァハァ……」
「お……おぉ……う、おぉぉ……」
「……やっちゃいましたね」
騎士の剣は、主に捧げられるもの。
そして、騎士が振るう剣に責任を持つのが、主の務めである。
炎上する野菜畑を見ながら、泣きそうな顔で世界を救った勇者は呟いた。
「賢者ちゃん。とりあえず火消そっか」
「おじさんにはどう言いましょうか?」
「何か言う前にとりあえず土下座するよ」
今回の登場人物
・勇者くん
新しい冒険の旅は、所持金マイナスからスタートすることが確定した。泣いていい。
・赤髪ちゃん
あ、あの炎の渦は一体……まさか!?
今回は武闘家さんからせびったアメ玉を舐めてた。
・騎士ちゃん
弱点・スライム←NEW!
基本的に強くてかっこよく頼れる存在だが、スライムを目の前にすると泣きながら震えることしかできない女の子になる。騎士学校時代にスライムにひどい目に遭わされた。
・賢者ちゃん
五等分の賢者。
・武闘家さん
伊達に年食ってないので自分で食い扶持を稼ぐことができる。
・死霊術師さん
カカシルート回避。服がほしい。
今回の登場モンスター
・『スライム』
かつて当代最高の流水系魔術の使い手が、自身の魔法のシステムを組み込んで生み出したとされる、ちょっとレアな魔物。野に放たれたことで野生化したが、とても弱い。小さな個体は、子どもが棒で叩いても倒せると言われている。遭遇することはめずらしく、一部の冒険者の間では「スライムを見かけたら良いことがある」なんて迷信まで生まれているほど。世界を救った炎の一撃で蒸発した。
もうすでにあらすじにデカデカと掲載しちゃってますが、碑文つかささんからパーティーメンバーのイラストをいただきました!すごく!かわいい!ありがとうございます!!
【挿絵表示】
以下、イラストと一緒に頂いたデザイン小話
赤髪ちゃん
「髪型はブラックマジシャンガールをイメージした」
たしかにそれっぽい。ブラマジガールが嫌いな男子なんていない
騎士ちゃん
「姫騎士ロイヤルおでこ。海外では前髪を下ろしてるのは子どものイメージ。立場上、イヤリングとかもつけそうだが、普段は動くのに邪魔になるので小さなピアス」
動くのに邪魔になるからピアス、完璧な解釈一致で土下座した。
賢者ちゃん
「逆に前髪あり。アイドルのふんわり感。基本はドラクエ賢者のイメージ」
尖った耳が見えるアングルが最高ですね
武闘家さん
「ほとんど隠れているが、背中はもろ空きで服はわりとえっちぃ」
ありがとうございます
死霊術師さん
「最初はこちらもデコ出しかと思ったが、姫に譲ったのでダークに目隠れ」
メカクレもさることながら、太腿もアツい
コメントまで頂き、本当にありがとうございました!
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最悪の死霊術師のちょっとかわいいところ
「いやあ、駆け出しの冒険者と思っていたが、こいつは驚いたねぇ……」
もはや驚き過ぎて一周回った落ち着いた口調で、農場主のおじさんはそう言った。
「恐縮です」
地面に頭を擦りつけているせいで前が見えない。正確に言えば、前を見たくないというべきか。あの温厚そうで、人の好さそうなおじさんの表情がどのように豹変しているのか、おれは確認したくない。
「まさか、うちの畑を焼野原にできる炎熱系魔術の使い手がいるとは……」
「失礼ですがやったのは私ではなく、あそこで体育座りをしている騎士なので、それだけは訂正させてください。もちろん、すべての責任は今頭を下げている彼にあります」
賢者ちゃんもきれいに横一列に5人並んでおれの隣で頭を下げてくれているが、会話の内容はいっそ清々しいほどに保身に走っている。まったく、さすがは王都で悪徳貴族どもを相手に駆け引きをしているだけはある。もうちょっとおれのことも庇ってほしい。
「ごめんなさい……ダメな騎士でごめんなさい」
一方、騎士ちゃんはまだ全身甲冑のフル装備のまま、焼け野原に変わった畑の隅っこで、小さくなっていた。普段は強くて頼れる鋼の女のような騎士ちゃんだが、昔から精神的なダメージを受けるとわりと引きずるところがある。赤髪ちゃんが隣で慰めているけど、あの調子だとショックから復活するのにもう少しかかるだろう。
「……あんまり、こういうことを聞きたくないんだどね」
「はい」
「アンタら、うちの畑に損害を出した分の補償はできるのかい?」
「大丈夫です。なんとかします」
ぎょっとしたのはおれではなく、隣で頭を下げている賢者ちゃん5号である。うん、多分5号だと思う。
小声を伴って、ぐいぐいっと袖を引っ張られる。
「何が大丈夫なんですか。お金を稼ぐどころか、負債だけでもヤバい額ですよ。これはいよいよ、私の魔法を使ってでもどうにかしないと……」
「いや、おれにいい考えがある」
うちのパーティーには、まだ1人だけろくに働いていない人間がいる。
働かざるもの、食うべからず。こうなったら、彼女の力を借りるしかないだろう。
「こ、これは……なんと凄惨な破壊の跡なのでしょう。まさか、勇者さまたちが苦戦させられるほどの超大型モンスターが!?」
「いや、騎士ちゃんがやった」
「だと思いましたわ」
そんなわけで急いで宿まで戻って、麻袋に入れた死霊術師さんを連れてきました。
ただでさえ疑心暗鬼だったおじさんの目が、さらに険しくなって、ついでにおれから数歩分、体を引いて距離を置く。
「袋に入れた美女……! アンタら、奴隷商だったのかい?」
「違います。ただパーティーメンバーに服を着せていなかっただけです」
「そっちの方が問題あるんじゃないかね?」
そう言われるとぐうの音も出ないが、まあそれは置いておいて。おれは死霊術師さんが入った麻袋を地面に置いて、さらに死霊術師さんの前に洋服が入った紙袋を置いた。
「はい、死霊術師さん。これ、途中で買っておいた服ね。地味なやつだけど」
「服……服!? 勇者さまが、わたくしに!?」
「うん」
「まあまあまあ! 何日ぶりでしょうか!? まさか、こうして再び服を着れる日が来るなんて」
「おい」
「違いますよ」
おじさんに冷たい目で見られるの、なんかもう慣れてきたな。
小声を伴って、またぐいぐいっと袖を引っ張られる。これは賢者ちゃん4号かな? 4号だと思う、多分。
「お金はどうしたんですか?」
「帰りに必ず払いますから、って言ってツケで買ってきた」
「付き合いもコネもないのに、よくツケ払いにできましたね」
「土下座した」
「世界を救った勇者の頭がこんなに軽いなんて、泣けてきます」
「うるせえ」
世界を救ってもお金がなければ頭を下げなければならないのが、資本主義経済の世なのだ。
「それでは、早速失礼して……と」
ずるんっ、と死霊術師さんが麻の袋から出る。
長い黒髪にちょうどいい感じに隠れていても、ばるんっ、とたわわな果実が胸で揺れたのがわかった。
おれたちは普段から生きる盾として死霊術師さんを使いこなしているのでなんとも思わないが、驚いてひっくり返ったのはおじさんである。
「おわああああ!? お、おい! いい加減にしないか! どうして目の前で着替える!? これはあれか!? そういうサービスか!?」
「違います」
「び、美女の生着替えで損失を誤魔化そうたって、そうはいかねぇぞ!」
「違います」
おじさんの目がめちゃくちゃ生暖かくなっていたが、賢者ちゃん1号、賢者ちゃん2号、賢者ちゃん3号、ついでに赤髪ちゃんもさっと死霊術師さんの前に入って生着替えシーンをガードしたので、そんなに見えなかった。とはいえ、死霊術師さんはそもそも羞恥心が死んでるので、あまり気にしている様子はない。なんせ、普段から数え切れないくらい死んで裸になっているし……
「ああっ! 何日ぶりでしょうか! 我が身に服を身に纏えたのは!」
ようやく素っ裸から人前に出れる状態になって、くるくると上機嫌に回っている死霊術師さんに、おれは尋ねた。
「それで、どう? 死霊術師さん。いけそう?」
「あらあら、そんなに情熱的な目で求められてしまうと、わたくし、照れてしまいます」
そりゃ生活がかかってますからね。自分でも、捨てられた子犬が通行人に縋るような死霊術師さんを見詰めている自覚がある。
死霊術師さんは落ち着いた色合いのロングスカートが土で汚れないように、気を遣いながらしゃがみ込んで、もはや炭としか形容しようがない物体に触れた。ふむふむと頷きつつ、蠱惑的な唇からこれみよがしにため息が溢れる。
「しかしまぁ、本当によく燃やしましたわね。どこの加減を知らない騎士さまがやったのかは知りませんが」
「……う」
「バーベキューにしてはいささか、強火が過ぎます。こんなまっ黒焦げになったお野菜さんたち、もう死んでるも同然ですわ」
「…………うぅ」
騎士ちゃんのメンタルがねちねちとした死霊術師さんの言葉でゴリゴリと削れていく!
「でも、だから死霊術師さんに頼むしかないって思ったんだよ」
「ふふ……ええ! ええ! だから勇者さまはわたくしに頼んだのでしょうね! わかります! わかりますとも! そんなに頼られては、もう仕方ありませんわね! それでは、失礼して……」
もはや原型が残っているかもわからない、まっ黒焦げになった野菜に死霊術師さんの指先が触れる。
一秒、二秒、三秒、四秒。
きっかり四秒。それだけで、彼女の魔法は発動する。
「は?」
たったそれだけの時間で、死霊術師さんが触れていた炭の塊は、色鮮やかなトマトに変化した。
いや、元に戻った、という方が、より正確な表現かもしれない。
「え……えぇ!?」
「おー、よかった。いけるもんだね」
「ふふっ……当然ですわ。わたくしの手にかかればお安い御用です」
当然、おじさんはあんぐりと口を開いているが、おじさんだけでなく、赤髪ちゃんも賢者ちゃんも騎士ちゃんも、全員その場で固まっている。
「……どういう手品ですか、これは」
「あらあら、手品ではありませんわ。わたくしは騎士さまが誤って
魔法とは、解釈だ。その効果と性質は、本人の解釈、性質、言ってしまえば心の持ち様によって広がる。
死霊術師さんの魔法は、触れたものを蘇生させる。より厳密に解釈すれば、死んでいるものに触れることで、それを蘇生させる。
つまり、死霊術師さんが触れた『それ』を『生きているもの』と定義しているのなら……魔法の対象に『人間』や『動物』という制限はない。
「だって、草も木も花も……人間と同じように生きているでしょう? そこに違いはありませんわ」
だから、生き返らせることができるのだ、と。
にっこりと、花のように微笑みながら死霊術師さんは言った。
便利に使われるのは、嫌いではない。
誰かの役に立つのはうれしいし、誰かに必要とされていると、安心できる。きっと自分という女は、尽くされるよりも、尽くす方が好きなのだろう。
死霊術師、リリアミラ・ギルデンスターンには、そういう自覚があった。
なので、自分と同じように。彼の役に立とうとがんばろうとして、空回りしてしまった彼女の気持ちも、とてもよくわかる。
「ほらほら、いつまでしょげてらっしゃるんです?」
「……しょげてないし」
未だに騎士甲冑を身に着けたまま体育座りをしているアリアは、しかしその重厚な甲冑の上からでも、意気消沈しているのが丸わかりであった。でかい騎士が負のオーラを放っていると、なんというかもう、単純に邪魔くさい。
黒焦げに変わってしまったすべての野菜の再生……もとい蘇生が完了し、畑を荒らしていたスライムも完膚なきまでに灰燼に帰した、ということで。本日の依頼は、とりあえず達成したことになった。少し離れた場所では、勇者とシャナが農場主と顔を突き合わせて今日の支払いについて話しており、赤髪の少女がお土産にもらったトマトをさっそく齧っている。
「ほらほら、顔を上げてくださいな」
「うぅ……みないでぇ……今、ひどい顔してるから」
「それはいいですわね。ぜひ拝見したいです」
「……いじわる」
「はいはい」
かしゃん、と。嫌がっているアリアの頭兜のフェイスガードをあげると、目元と鼻先が赤くなった金髪の美人が出てきた。元から涙もろいこともあってか、しばらくこっそりと頭兜の下で泣いていたらしく、目元が腫れかけている。
「うふふ、ひどい顔ですねぇ。美人が台無しですわ」
「……いいよね。死霊術師さんは、どうせ美人だもんね」
「ええ、もちろんわたくしは、常に美しいです。当然ですわ」
言いながら、リリアミラはアリアの目元に濡らしたハンカチを当てた。擦って腫れてしまわないように、軽くあてがって、目元の熱を取ってやる。
言葉にしなくても気遣いに満ちているその手つきに、されるがままになるしかないアリアは、ますますいじけた表情になった。
「……さっきは、あたしのことバカにしてたくせに」
「ええ、ええ。失敗した人をイジってバカにするのは、とても楽しいですからね」
「さ、最低」
「よく言われます。それは褒め言葉として受け取っておきますわ。でも、美人が台無しになるのを見過ごすのは、流石に趣味がわるいですからね。これで、ちゃんと冷やしてください」
言われなくても、自分の性格が悪い自覚はある。
アリアの言葉を軽く流しながら、リリアミラは指先で乱れた前髪をちょいちょいと整えた。このパーティーのメンバーは、みんな彼のことを大切に思っていて……それでいて感情の向け方が少々ねじ曲がっている。
失敗しちゃったごめんなさい! と開き直っていつもの様に笑えばいいのに、それをしないあたり、アリア・リナージュ・アイアラスという騎士は、ちょっとめんどくさいところがあった。ある意味、こういうところはお姫様らしいとも言える。そして、アリアのそういう部分が、リリアミラは意外と嫌いではなかったりするのだ。
「素直に甘えればよろしいのに」
「うるさいなぁ……放っておいてよもう」
「このままあなたを放っておいたら、日が暮れてしまいますわ。それとも、今すぐ戻って、幼子のように腫らした目元を勇者さまに見られたいのですか?」
「やだ」
「ふふ。だと思いました」
ぶんぶん、と。重い頭兜ごと首を振る反応は、まるで年相応の少女のようで愛らしい。
リリアミラは、くすくすと笑った。決して、バカにした風にではなく、共感を示すやわらかな笑みを浮かべて。
「あちらにお手洗いがありました。鏡もあったので、お化粧も直せます。お顔が落ち着いたら、鎧を解いて戻ってきてくださいね」
「リリアミラさん」
「はいはい。まだ何か?」
「ありがと」
彼の前では、互いの名前を呼ばないことに決めている。彼には自分たちの名前が聞こえないから、自然とそうなった。
「ええ。どういたしまして」
だから、死霊術師という名前ではなく。リリアミラ、という自分の名前を呼ばれるのはひさしぶりで。そう呼ばれると、少し嬉しくなる。
ガシャガシャ、と。トイレの方に歩いていく後ろ姿を見送っていると、後ろからすっと近づいてくる気配があった。
「騎士ちゃんの様子はどう?」
「それはもう、びちゃびちゃでぐちゃぐちゃのひどいお顔でしたわ」
やれやれ、と。リリアミラはタイミングを見計って近づいてきた勇者に向けて、これ見よがしに肩を竦めてみせた。
「わかっているなら、勇者さまが慰めて差し上げればよかったのに。そちらの方が騎士さまも喜びますよ?」
「いやいや、それはだめだよ。騎士ちゃん、おれに泣いてるところ見られるの、大っきらいだもん。こういう時にフォローしてくれるのは、やっぱり死霊術師さんじゃないと」
慰めは、時に善意の押し付けになる。想い人から気遣われるのは嬉しいものだが、それでも素直になれない時があるのが、人間というものだ。女心は難しい。フォロー役をリリアミラに任せた勇者の選択は、ある意味アリアのことを最も繊細に気遣っていた。
人たらしだな、とリリアミラは思う。
「まったく、便利に使ってくれますわね」
「頼りにしているってことだよ」
「それは光栄です。でもまぁ、あまりわたくしを信頼していると、後ろからぶすりと刺されるかもしれませんから、気をつけてくださいね?」
呑気にキュウリを齧っている赤髪の少女にちらりと視線をやって、リリアミラは皮肉を言った。しかし、勇者は特に表情を変えることなく、あっけらかんとした口調で答える。
「んー? まあ、あの時はあの時で懲りたけど、それはそれ、これはこれでしょ。死霊術師さん、やさしいし」
「あらあら、勇者さまはわたくしのことを『やさしい』と思っているのですか?」
「やさしいでしょ」
視界一杯に広がる野菜畑を眺めながら、彼は笑う。
「人間も、動物も、草も、花も、木も、野菜も。みんな同じように生きてるって考えてる人は、絶対にやさしい人だと思うよ」
「……」
本当に。
こういうところが、彼が勇者である所以であり……ずるいところだと、リリアミラは思う。
だから、なんだかんだと文句と皮肉を言いながら、自分は彼と、彼がいるこのパーティーが好きになってしまったのだ。
「……さてさて、わたくしにも何かご褒美がほしいですわね! これだけ便利に使い倒されたわけですし!」
「服買ってあげたじゃん」
「服を着ることは人として最低限の権利ですが!?」
「死霊術師さん!」
言い争っていると、元気の良い声がぐっと近づいてきていた。
「あら、どうしました? 魔王さま」
「……あのさぁ。死霊術師さん、赤髪ちゃんのこと魔王さまって呼ぶのやめなよ」
「べつに良いではありませんか。わたくしがみなさんのことをどう呼ぼうと、わたくしの自由ですわ」
「あはは、わたしはべつにどっちでもいいですよ?」
「ほら、ご本人もこう仰っています」
「だめだめ。だめですよ。勇者として許しません」
「死霊術師さん、これよかったらどうぞ」
「赤髪ちゃん、これ結構大事な問題だからスルーしないで?」
「あら、美味しそうなトマトですわね」
赤髪の少女は苦笑いしながら、熟れたトマトをリリアミラに差し出して。
「……いただきます」
がぶり、と豪快に齧りついた。
少し甘酸っぱいその風味が、今は心地良かった。
「さて、じゃあ帰ってメシにしますか」
「お腹空きました〜」
「魔王さま、さっきお野菜食べていませんでした?」
「あれはオヤツです!」
労働を終えると、やはり気持ちが良いものだ。
騎士ちゃんも死霊術師さんのおかげで元気を取り戻したみたいだし、今日は本当によく働いた。村に帰り着く頃には、すっかり日が落ち始めていた。
「師匠、宿に帰ってるかな?」
「そういえば、今日は別行動でしたわね。あのクソババア、ちゃんと働いているのでしょうか」
「死霊術師さん、師匠の前でそれ絶対に言わないでね。死ぬのはいいけど、買ったばかりの服破かれたら、おれ泣くよ?」
「……あれ?」
と、騎士ちゃんが何かに気がついたように声をあげる。
「なんか、人が村の中心に集まってない?」
「たしかに……?」
「お祭りか何かでしょうか? 辺境の土地ですから、何かしら土着の催しがあるのかもしれませんね」
「勇者さん! わたし、お祭り見たいです!」
「あいよ。でも買い食いはダメだからね」
「はい!」
「親子みたいなやりとりしますねこの人たち……」
年齢がはっきりしている中では最も年下の賢者ちゃんにあきれた目で見られながら、赤髪ちゃんに手を引かれてずんずんと人混みの奥へ進んでいく。
赤髪ちゃんに出店で買い食いされると稼いだお金が一瞬で吹き飛ぶので、先手を取って封じたが……どうやら、そういう催しではないらしい。近くにいたおじさんの肩を叩いて、聞いてみる。
「すいません、これ、何やってるんですか?」
「おや、兄さん。この村に来たばっかりだね? 観ていくと良い。今、ちょうどいいところだ。賭けるなら、オレは断然あのちびっこをオススメするね」
……賭ける? ちびっこ?
『さぁぁあ! 盛り上がりに盛り上がった、今宵の『殴り祭り』も、いよいよ佳境だぁぁ!』
拡声魔術を通して、やたらデカい司会らしき声が響き渡る。
「……殴り祭り?」
「おお! この村の名物でな! 月に一度、腕っ節自慢の冒険者たちが、武器なしで殴り合うのよ!」
『青コーナーからは、前回のチャンピオン! 『骨拾い』の異名を持つ凄腕冒険者! バロウ・ジャケネッタ!』
歓声と共に飛び出してきたのは、見るからに筋骨隆々の大男。
「あ、あの人……」
「知っているのか、騎士ちゃん!?」
「うん。この前火傷させた」
なに? 火傷させた?
『そして赤コーナーからは……正体不明! 飛び入りでの参加で、並み居る強豪たちを薙ぎ倒してきた、謎の美少女!』
大袈裟なリングコールと月の光を背に、空中で華麗に身を捻らせながら、
『ゴールデン・サウンザンド・マスクッ!!』
──なにやってんだよ師匠。
今回の登場人物
・勇者くん
野菜はじゃがいもが好き。お腹に溜まって食べ応えがあるから。
・赤髪ちゃん
野菜はなんでも好き。出されればなんでも食らい尽くす。雑食。
・騎士ちゃん
果物はりんごが好き。お母さんの好物がりんごだった。
・賢者ちゃん
野菜くずは嫌い。地下牢にいた頃は野菜くずをまとめた粥が食事のほとんどだったので、食べ飽きた。
・死霊術師さん
野菜はトマトが好き。血のように赤いからとかではなく、トマトジュースも普通に好きらしい。
・バロウ・ジャケネッタ
騎士ちゃんに手を出そうとしてたチンピラ冒険者。素手での格闘に自信があるらしい。結構強い。
・ゴールデン・サウザンド・マスク
月夜に舞い降りた謎の美少女仮面。初参加で腕っ節自慢の冒険者たちをちぎっては投げ、投げてはまたちぎりそうになるのを手加減しつつ、あっという間に決勝まで駒を進めた。その正体は謎に包まれている。
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おれの隣の席の姫騎士が最強過ぎる
勇者の騎士学校生活。一日目
バロウ・ジャケネッタは冒険者である。
魔王が勇者によって討伐されたあと、人類の生活圏は以前よりも広がり、怪物たちが跋扈する危険な地域の開拓も、進んで行われるようになった。必然、腕が立つ冒険者は安全な生活圏よりも、スリルと一攫千金の夢を追い求めて、このような辺境の土地に進出することが多くなった。バロウも、そのような冒険者の1人だった。
腕っ節には自信がある。殴り合いに限定するなら、王都の騎士とタイマンを張っても勝てる自信がある。事実、その程度の自惚れと自尊心を育める程度には、バロウという男は中途半端に強かった。
(なんなんだ、このガキは!?)
だが、不幸にも彼の前に立っているのは、殴り合いに限って言えば人類最強の頂に手を掛けている拳聖だった。
その名も、ゴールデン・サウザンド・マスク。
はじめは、村の子どもが遊びで入ってきただけだと思った。だが、一回戦。少女をあやすように場外に出そうとした青年は、冗談のように高く打ち上げられ、吹き飛ばされた。
──次。
少女は、静かに言った。
二回戦で出てきた男に、油断はなかった。最初から全力で少女にタックルをかけにいき、流れるように拳による一撃を入れられ、地面に沈んだ。三回戦も、四回戦も、大の大人が小柄な少女に遊ばれるように叩き伏せられ、吹き飛ばされ、その度に周囲の観客の熱気はヒートアップした。
今宵、この祭りの主役は、間違いなくゴールデン・サウザンド・マスクだった。
バロウは攻める。ひたすらに攻める。だが、その殴打はまったくと言っていいほど通らない。
ストレートを打ち込んでも、まるで水の中に手を突っ込んだかのように受け流される。蹴りを振っても、タイミングが完璧に悟られているかのように、跳躍で避けられる。相手は小柄で、手足のリーチでは圧倒的に自分が勝っているはずなのに、拳も脚も、何もかもが当たらない。
「身体の基礎は、できている。でも、技がなってない。力任せの拳に頼っていると、いつか必ず自分にしっぺ返しがくる。意識して、直した方がいい」
しかも、戦いながら、なぜか上から目線で指導までしてくる。
バロウははぐれ者から身を立ててきた冒険者である。修行などしたことはないし、戦い方は我流で、師もいない。故に、その少女の指摘が、彼の神経をどこまでも逆撫でした。
「……んだとぉ!」
中途半端に強いせいで、実力差を正しく理解できなかったのが、彼の不幸であったとも言える。
「その仮面を引っ剥がして! 力の差ってもんをわからせてやるよ!」
男らしい、分厚い手のひらが握り込まれた拳が、弾丸の如く加速する。大の大人が真正面から受ければ、それだけで倒れてしまいかねない、強烈な一撃。
それを、謎の少女……ゴールデン・サウザンド・マスクは、
「暴言、反省」
巻き取るように受け止めて、目にも留まらぬ反撃をお見舞いした。
「が、ふっ……!」
その一撃を身に受けて、バロウは確信する。
これは、ただがむしゃらに振るわれる拳ではない。これは、何の思考も伴わずに振るわれる拳ではない。
肉体の、どこを突けば相手が倒れるのか。この少女は、それを知っている。
自分にはない知恵と、自分とは異なる、鍛え上げられた拳の強さを、バロウは自ら体で体験するに至って、ようやく理解した。
薄れいく意識の中で、それでもなんとか声を絞り出す。
「なに、もんだ、テメェ……」
「名乗るほどの、者じゃない」
仮面の下で、うっすらと微笑む気配を感じながら、
「今夜のわたしは、謎の美少女、ゴールデン・サウザンド・マスク。それ以上でも、それ以下でもない」
「へっ……そうかよ」
完敗である。バロウは、どこか晴れやかな気持ちで地面に倒れ込んだ。
ぼやけていく意識の中、飛び込んできた青年がゴールデン・サウザンド・マスクを抱えて走っていったように見えたが……きっと、幻覚だと思った。あんな達人が、黙って抱えられるわけがない。
もしもそんなことができる人間がいるとしたら、世界を救った勇者くらいのものだろう。
「師匠! 何してるんですか師匠!?」
「殴り合ってた」
「そういうことを聞いてるんじゃなくて!」
なんとかあのお祭りから師匠を連れ出すことに成功し、宿屋に戻ったおれは師匠に対するお説教タイムに入っていた。
「なんですかあのイベントは!?」
「人を殴って勝てばお金が貰える、素晴らしい催し」
むん、と師匠はドヤ顔で言う。
相変わらず1000年くらい生きているせいで、倫理観がぶっとんでいる。流石だ。全然流石じゃないけど。
「まさかとは思いますけど、昼間言ってた仕事って」
「もちろん、これ」
おれはもう言葉を紡ぐことを諦めて天井を仰いだ。深く考えなくても、思い出さなくても、師匠はそもそもこういう人である。そういえば、騎士ちゃんたちとはぐれて2人で旅をしていた時期も、よく賞金があるアウトローな大会に参加して日銭を稼いでいた。
「だめです。ちゃんと仕事をしてください」
「えー」
「えー、じゃありません! ていうか、よくその見た目であんな物騒な祭りに参加できましたね?」
「子どもっぽく駄々こねてみたら通った。ああいうのは、一度出てしまえばこっちのもの。あとは、勝手に盛り上がる」
この師匠、自分の子どもっぽい見た目を活用するのに本当に躊躇いがない。ある意味、開き直りが激しいともいう。
「この趣味の悪い仮面は?」
「趣味の悪い?」
「あ、すいません。このかっこいい仮面は?」
「ふふん。大会とかに、出る時用のやつ。顔を覚えられると、面倒なことになることもある。長生きだから」
「無駄に歳食ってるわりにこんなにダサいのをみると、やはりセンスというものは持って生まれたものなのだと痛感致しますわね」
「残念。死ぬまでに理解できるようになることを、せつに祈っている」
「勇者さま、勇者さま。なんということでしょう。皮肉すら通じていませんわ」
ひそひそと、師匠にも聞こえる声で死霊術師さんが言うが、師匠は泰然とドヤ顔で仮面を見せびらかしている。やべえなこの人。メンタルにまで『
「とにかく、こういう大会に出て荒稼ぎするのはダメです」
「えー」
「えー、じゃありません! 師匠ももういい歳なんですから、落ち着きというものを覚えてください」
「わたしは、いつも冷静」
「じゃあ、もうやんちゃしないでください」
「拳を交わすのは、わたしの人生の楽しみ」
「ああ言えばこう言うなぁもう!」
おれが師匠をお説教する、というめずらしい構図をしばらく見守る構えだった騎士ちゃんが、しかしそこで口を挟んできた。
「でも、勇者くんも昔はかなりやんちゃしてたじゃん」
「え?」
思わぬところから刺されて、ちょっと言葉に詰まる。
「そうだったんですか?」
「そうだよー。前もいろいろ話したけど、騎士学校に入学した頃の勇者くんとかほんとにやんちゃしてたからさ」
そこに好奇心の塊とも言える赤髪ちゃんが絡むと、もう手がつけられなくなってしまう。
「勇者さんの昔の話、もっと聞きたいです!」
きらきらした目でそう聞かれてしまうと。赤髪ちゃんに弱いおれとしては、観念するしかないわけで。
「あー、まあ。おれと騎士ちゃんが出会った時のことは、前も話したと思うけど。わりと学校でも、結構いろいろあって……」
なんとなく、みんなが昔話を聞き込む気配になる。
話は、おれが騎士ちゃんと出会った、その翌日。おれがまだ、未熟極まるガキだった頃に遡る。
太陽の光に顔を照らされて、目を覚ます。
起き上がって背伸びをする。春の香りをのせた風は、まだ少し冷たかったが、眠気を覚ますにはちょうどよかった。
「……良い天気だ」
思わず、そんな独り言が漏れ出る。
空が青い。見上げれば白い雲が浮かんでいて、肺の中に吸い込む空気が美味い。爽やかな1日のはじまりを実感するには、それで十分だった。
入学式初日から校舎を半壊させてしまって散々だったが、いよいよ今日からだ。今日から本格的に、おれの騎士学校での生活が始まる
「あ……」
そこで、おれはようやく根本的な問題に気がついた。
まず第一に、昨日までの記憶が、すっぽりと抜け落ちている。いや、アリアと屋上でバトルしてめちゃくちゃ怒られて、寮に戻って同室のやつと話に華が咲いたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶がない。ベッドに入った記憶はおろか、いつに寝たかの記憶すらない。
第二に、おれが起床したのは、寮の部屋の中ではなく、道路のど真ん中だった。妙に体が痛かった理由はこれである。そりゃ、太陽の光を全身に浴びることができるわけだ。だって外だもん。春先の冷たい風に、全身が晒されるわけだ。だって壁ないもん。
「……れ?」
そして、第三に。
おれは、全裸だった。制服の上着も、シャツも、ズボンも、パンツすらない。紛うことなき完璧な全裸だった。
そりゃ、寒いわけだ。だって服ないもん。
「そこのきみ、ちょっといいかな?」
かけられた声に、自分の顔が引き攣るのを自覚する。振り返れば、そこにいたのはとりわけ優秀なことで知られている王都の憲兵団だった。紺色の制服をかっちりと着こなしたガタイの良い彼は、きっと朝のパトロールの途中だったのだろう。汚れたものを見るような目で、問いかけてくる。
「詰め所までご同行願いたい」
おれの学生生活は、全裸の全力ダッシュからはじまった。
今回の登場人物
・勇者くん
師匠におかんムーヴしてる
・ゴールデン・サウザンド・マスク
驚くべきことに、その正体はムム・ルセッタ。日銭は拳で稼ぐタイプ。
・バロウ・ジャケネッタ
チンピラだが、負けは負けとして認めるタイプ。
・昔の勇者くん
ぐ ら ん ぶ る
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勇者の騎士学校生活。決闘全裸編
アリア・リナージュ・アイアラスは、窓から差し込む朝日で目を覚ました。
「ん」
騎士学校の宿舎のベッドは、やはり王城のそれと比べると硬い。しかも、1人ではない部屋で起きるのはひさしぶりだ。
「あ、えっと。おはようございます、姫様」
「うん。おはよう。でも、姫様はよして。あと、敬語もいらないよ? これから同じ部屋で生活していくわけだし」
「あ、あはは。ごめんなさい。わかっているんですけど、なんとなく緊張しちゃって」
同室の女子は、縮こまるように体を固くした。またやってしまったな、とアリアはため息を吐きたくなった。
無理もない。アリアは人と話すのが大好きだし、いろいろな人と仲良くなりたいと思っていたが、残念ながら王女という立場と生まれ持った魔法がそれを許してくれなかった。
(でも、大丈夫)
昨日は、とても良い出会いがあった。
自分と同じように入学式を抜け出して、自分と遠慮も手加減もなしに剣を交えてくれた、あの少年。彼は自分の顔色を伺うこともなく、ありのままのアリアと本気で向き合ってくれた。
彼が勇者になる、というのなら。自分はそれを助けたい、と強く思う。
制服のブラウスに袖を通して、ネクタイとリボンを選ぶ段階に至って。彼はどちらが好きだろう……とアリアは考えた。そうして、とても自然に彼に
「……」
なんとなく、頬が火照るのを自覚しながら、リボンを置いてネクタイを手に取る。
これはよくない。自分は、彼の騎士になる、と言ったのだ。たとえ口約束でも、約束は約束。そして、その誓いは誇りに懸けて撤回できない誓約だ。
キュッとネクタイを締めると、身も心も引き締まる気がして、アリアはふぅ、と息を吐いた。鞄を持ち、部屋を出る。同室の女子もそれを待ってくれていたのか、一応2人揃って寮の門を潜った。
「あの、姫様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
敬語と姫様呼びを取ることは、これから先の目標にしよう。アリアは諦めて、まずは友人との会話を楽しむことにした。
「昨日、姫様は入学式を無断でサボって、私的な決闘で屋上を爆破したと聞きました」
「……」
最初から、全然まったく会話を楽しめる気配がなかった。
というか客観的にそう言われて考えてみると、アリアは入学初日からあまりにも盛大にやらかしていた。普通の生徒なら退学になっていてもおかしくないレベルである。
冷や汗を流しながら、アリアは顔を背けた。
「ば、爆破はしてないよ? ちょっと壊しただけっていうか、なんていうか」
「でも、すごい音が響いて、見に行ったら屋上が明らかに半壊していましたよ?」
「他のみんなの反応って、どうだった?」
「めちゃくちゃ怖がってました」
もしかしたらしばらく自分は同級生に馴染めないのかもしれない。アリアは心の中で泣きたくなった。
「それで、気分を害されたら申し訳ないのですが」
「もう、なんでも聞いて」
ぐったりと項垂れながら、投げやりに返す。
もはや下がる評判もなさそうだ。
「姫様とそれだけ打ち合った新入生に、皆は興味を抱いているようで」
「……!」
ああ、なるほど。そういうことか。それを聞いて、アリアは下がっていた肩を戻した。
納得するのと同時に、少し誇らしくなる。
「どのような人だったのですか?」
問われて、どのような答えが相応しいか考える。
「とても、強い人」
「え?」
「とても強くて……」
同年代の人間に剣で負けたのは、はじめての経験だった。
しかし、それ以上に、
「……すてきな人だったよ」
くすり、と。
含むものを感じさせる笑みといたずらっぽい口調に、それを聞いたルームメイトの顔が、ちょっとだけ赤くなる。
「す、素敵、とは!?」
「えー、言葉通りの意味かな」
「ひ、姫様は、男性の方との交友関係が豊富なのですか!?」
「んー、そんなことはないけど」
なんとなく、萎縮していた雰囲気が解けて、普通の女の子らしい会話ができるようになって。
これはちょっと楽しいな、と。アリアは嬉しくなった。
「そ、それはもしかして」
「アリアァあああ!」
自分の名前を呼ぶ、絶叫が響いた。
横に向けていた視線を戻すと、前方から走り駆けてくるのは、肌色の物体。
「は?」
それを見て、アリアは言葉という概念を一瞬、忘れかけた。無意識に口から出たその呟きが、辛うじてアリアの発声機能を繋ぎ止めたと言ってもいい。
「アリア! 助けてくれ! 追われているんだ!」
「ひ、姫様の名前を気安く口にするな! この不審者め!」
「あの、えっと」
「いけません姫様! こんな全裸の男と言葉を交わしては!」
「聞いてくれ! なんか起きたら裸だったんだ!」
「ち、近寄るな!」
それは普通に、知っている人だった。
というか昨日、アリアが己の剣を捧げると誓った勇者の少年だった。
「む! そこの騎士学校の生徒たち! 離れなさい! その不審者は全裸だ!」
さらに後ろから、紺色の制服を着込んだ憲兵もやってくる。
「むむ! そこにいらっしゃるのはアイアラス殿下! いけません! その全裸の不審者から離れてください!」
「はあ!? おれのどこが不審なんだ憲兵のおじさん! 一切合切包み隠さずきれいさっぱり曝け出してるだろ!」
「黙れ! 特に股間が不審だ!」
「おいアリア! 頼む! この憲兵さんになんとか言ってくれ!」
縋るような目で見られても、アリアは少年の方を直視することができない。直視しようとした瞬間に、下半身に目がいってしまいそうになるからだ。
つい昨日の出来事が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。
──わかった。あたしが、あなたの騎士になってあげる
──それでは、主よ。名前を教えていただけますか?
遂に意を決して、アリア・リナージュ・アイアラスは答えた。
「…………知らない人です」
アリアァァァァ!
昨日言ってくれたじゃん!
おれの騎士になるって言ってくれたじゃん!
自分で言うのもなんだけど、結構良い感じだったじゃん!
昨日、やさしい微笑みを見せてくれた蒼い瞳は、今は「知り合いに思われたくない」という目でこちらを見ている。正直泣きそうである。
「あの、憲兵のおじさん」
「何かね。全裸の少年」
「おれ、あの子と同じ騎士学校の生徒なんですよ」
「騎士学校の生徒? 馬鹿は寝てから言いなさい。キミのような全裸の少年が騎士学校の生徒なわけがないだろう」
「いや、ほんとなんですって。ほら、おれ結構良い筋肉してると思いませんか?」
「ああ。たしかによく鍛えているな」
「でしょう!?」
「胸を張るな。股関を隠しなさい」
「男同士で何恥ずかしがってるんですか?」
「はっ倒すぞ」
おれに向かって暴言を吐きながら、裸のおれの両手に手錠をかけ、ぐいぐいと引っ張っていこうとする憲兵さん。
やばいやばいやばい。ただでさえ入学式の日から屋上を半壊させてやらかしているのに、通学初日からお縄についたりしたら、マジで退学になってしまう。せっかくシエラが入学のために手を尽くしてくれたのに、何も学ばないまま退学するなんて絶対にいやだ。
仕方ない。ここは強引にでも振り切って逃げて、あとで謝りに行く作戦でいくか、と。おれが覚悟を決めたその時。
「──その逮捕、待って頂きたい!」
唐突に。頭上から響いた声に、おれも憲兵のおじさんも揃って上を見た。
赤を基調にしたマントを翻し、見覚えのある制服……というかおれが今日から通うはずだった騎士学校の制服に身を固めた少年が、屋根の上に立っていた。
「とうっ!」
うわ。高い場所から飛び降りる時に「とうっ!」って言うヤツ、はじめて見た。
おれがドン引きしてる合間にも、その少年の身体は宙を舞い、何故か無駄に一回転をきめて、地面に着地する。白い歯を見せながら、その金髪男は憲兵のおじさんに一礼した。
「憲兵殿。朝から変態の捕縛、誠に御苦労様です。しかし、彼を捕まえるのは、このボクの顔に免じて、どうか再考を!」
今、おれ変態って言われた?
「その制服、きみも騎士学校の生徒か? いや、しかしその『
「はい。新入生です。そして、彼も騎士学校の生徒です。身元は、このボクが保証しましょう」
言いながら、金髪のイケメンは憲兵さんにおれの学生証を提示した。転写魔術で写し描かれているおれの顔写真を、憲兵さんは胡散臭いものを観察するように、見比べる。
「むう。たしかに、本人のようだが……?」
ああ、よかった。信じてもらえた。
いや、ちょっとまて。そもそもどうしておれの学生証を、この金髪のイケメンが持っているんだ?
「おい。あんた……」
「ボクの名は、レオ・リーオナイン!」
「あ、これはご丁寧にどうも。おれは……」
「自己紹介は不要だよ。昨日、もう済ませているからね。まあ、キミは忘れているようだが」
「ん?」
「ボクは、キミの『ルームメイト』だ!」
「ルーム、メイト?」
首を傾げながら、朧気な記憶を引っ張り出す。
そういえばこのイケメンの顔、なんとなく見覚えがあるような……
昨日の夜。寮の部屋に行った時のことを、少しずつ思い出す。
──これからよろしく
──やあやあ、こちらこそ。お近付きの印にこれは如何かな?
──おい、これ酒か? 気持ちは嬉しいけどそういうのはちょっと
──ああ、心配はいらないよ。ボクの実家は商家でね。これは今度売り出そうと思っている新商品のポーションなんだ。滋養強壮の効果がある
──ポーション。へえ……
──さあさあ。お近付きの印に、一緒にぐぐっと
──じゃあ、お言葉に甘えて
「あーっ!?」
思い、出した。
「お前、おれのルームメイトの!?」
「だからさっきからそう言っているだろう」
「おれにポーションを飲ませたヤツ!」
「フフッ。昨晩はお楽しみだったね」
ふぁさぁ……と前髪をかきあげながら、金髪のイケメンは不敵に笑う。
「お前、まさか。あのポーションに変な細工を!?」
「いや、それはしてない」
「え」
「ただ、中の成分に悪酔いしたキミが、もっと飲みたいとか言い出して」
──おい、まだあるなら出せよ
──えぇ、しょうがないなぁ。特別だよ?
──うへへ
──うふふ
「それで、寮の部屋から飛び出して行ったんだ」
「……」
おれは押し黙った。
たしかに。たしかに、そうだった、かもしれない。
いやしかし、だとしても、だ。
「じゃあ、どうして止めてくれなかったんだよ!?」
「フッ……ボクもポーションの効能に悪酔いして熟睡していたからに決まっているだろう?」
もう売るのやめちまえ! そんな強い酒みたいなポーション!
「しかし、こうしてキミを見つけることができて安心した。大事になる前でよかったよ」
そうかな?
服を脱ぎ捨てて全裸で捕まりかけてる状況って、まあまあアウトだと思うんだが。
「まあ、いいや。とりあえず、そのマント貸してくれないか? さすがに股間は隠したい」
「断る。キミに貸したらその汚いイチモツがボクの上着に触れてしまうだろう。それは断じて許容できない。ふざけたことを言うのも大概にしてもらおう」
「お前がふざけるなよ。誰のせいでこんなことになったと思ってんだ」
「たしかにボクはちょっと悪酔いするポーションを親交の証としてキミに勧めたが、服を自発的に脱ぎ捨てているのはキミだ。責任の所在をすり替えるのはやめてもらおう」
「お前……ああ言えばこう言うな」
「率直に言って、ボクは今この瞬間も生まれたままの姿で平然と会話を行うキミの無神経っぷりに驚いているんだ」
「隠すものがないんだから仕方ないだろ」
そもそも、レオはおれに向かって言葉を繋いだ。
「この『
「っ……やはりそうか!」
「何か知っているんですか、憲兵のおじさん?」
おれが問いかけると、憲兵のおじさんは頷いた。
「ああ。今年の騎士学校の入学主席といえば、魔法を持つ隣国の王女、アリア・リナージュ・アイアラス殿下で持ち切りだったが、もう1人……男子の主席入学者が、試験会場で三年生を打ち倒し、『
解説ありがとうございます、って言いたいんだけど、なに?
ペリース? エスペランサ? ちょっと専門用語が多すぎてわけわからん。
「きみにもわかりやすく言ってあげよう。この騎士学校の中で最強の称号を持つ7人が、これを着用することが許される。そして、ボクは入学した時からその称号を手にした、最強の1人ということさ!」
なるほど! わかりやすい!
「つまり、お前は強いんだな?」
「ああ、ボクは強いよ」
赤い肩幕が、風に揺られる。
おれの股間のアレも、風に揺られる。
視線が、空中でぶつかり合う。
「いいね。そんな強いヤツとルームメイトになれたなんて、幸先が良い」
「それはこちらのセリフだよ。入学初日にあの姫様を倒した新入生と知り合えるなんて、やはり運命はボクを愛している!」
芝居がかった仕草で腕を広げたレオは、その細腕で抱えきれるかあやしいほどの、巨大な戦槍を顕現させた。魔力を帯びた装備品を縮小して持ち歩くのは、騎士の中でも高等技術と聞く。どうやら、大口を叩くだけの腕前はあるらしい。
「ボクはキミを倒さなければならない! 本来なら、入学式のあとはボクの話題で持ち切りになるはずだったのに、キミと姫様に注目を攫われてしまったからね!」
「ああ、そういう理由なのか……」
「どうする? 逃げても構わないが?」
「逃げる? それは冗談だろ」
あまりにもわかりやすい挑発に、笑みを返す。
「おれは魔王を倒す勇者になる男だ。騎士の1人や2人を前にして、尻尾巻いて逃げられるか」
「フフッ……やはり、耳にした噂は本当だったか。では、勇者を志すキミに、ボクは決闘を申し入れる! 受けてくれるか!?」
「こいよ」
「良いだろうッ!」
レオが高らかに叫ぶのと同時、肩幕がうっすらと魔力を帯び、輝いた。
ブーツが踏みしめた足元に、魔導陣が浮かび、おれとレオを中心に広がっていく。すぐ近くにいた憲兵さんとアリアたちが、はじき飛ばされるように外に出た。
「これは……!?」
「
はじき飛ばされた憲兵のおじさんが、起き上がりながら目を見開いて叫ぶ。
「
解説ありがとうございます、憲兵のおじさん。
その言葉通り、おれとレオを中心にして、円形のドームのようなものが展開されている。端の方まで寄っていき、軽くドームの壁を叩いてみると、コンコン、と硬質な音が鳴った。なるほどたしかに。なにやら特殊な魔術を元に練られているらしい魔力の壁は簡単には壊せそうになかった。
「ん?」
ちょっとまってほしい。
「おい」
「何かな、我が好敵手よ」
「これ、決闘の決着がつくまで出られないんだよな?」
「ああ! もちろんだ!」
今さら、あらたまって説明するまでもないが、あえてもう一度言わせてもらおう。
──おれは、一糸纏わぬ全裸である。
「……服も武器もないんだけど」
「いくぞっ!」
おれの人生初の決闘は、やはり全裸からはじまった。
「ああ、勇者様は臆することなく、動じることなく、正々堂々とリーオナイン団長との決闘に望んでいましたね。あれは、自分の身体に恥ずかしい場所はないという、自信の表れだったのでしょう」
今では名所の一つになっている勇者の銅像を懐かしそうに眺めながら、当時を知る憲兵は語った。
〜勇者秘録・二章『勇者、その青春』より〜
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勇者の騎士学校生活。決着全裸編
槍という武器の特筆すべき強みは、やはりなによりもそのリーチにある。
剣よりも間合いが長く、急所を的確に突き穿つ。槍使いと相対した時、もしもこちらのリーチが相手よりも劣っているならば、まず最初に考えなければならないのは、その間合いの差をどうやって埋めるか、である。
とはいえ、今のおれには槍に対抗できる得物どころか、服すらもない。おれの股間の槍は決して小さくないし立派だが、さすがにあの槍とは打ち合えないし……
「困ったな」
「言うほど困っているようには見えないな! 器用に避けるじゃないか!」
称賛と共に繰り出される槍撃を、避けて、かわして、また避ける。
レオの操る槍は、普通の兵士が持つようなそれと比べてかなり長大だった。手持ちの槍、というよりも馬に跨がる騎士が使うような巨槍に近い。
それを至近距離でぶん回してくるのだから、本当におっかないことこの上ない。
「危な……お前、おれの大切なイチモツに何かあったらどうする気だ!? おれが子ども作れなくなったら責任取れるのか!?」
「心配しなくていいよ。決闘魔導陣は魔法全盛の時代に作られた、高位の魔術だ。致命傷に至るような攻撃が判定されたり、中の人間が意識を失えば、そこで決闘は終わる」
「あ、そうなの?」
なんだよかった。あまりにも自然に抜き身の刃を向けてくるから、普通に死ぬまで戦うような野蛮人の結界かと思った。
「この中で戦う人間は絶対に死なないし、万が一怪我を負ったとしても決闘が終わればすべて回復する。だから安心してボクに突き殺されるといい」
「今、殺すって言わなかった? 今殺すって言ったよな?」
「そもそもキミと姫様だって、昨日屋上で決闘に近いことをやっているだろう? ボクとしては、場も整えずに戦うキミたちの行いの方が、よほど危険だと思うんだけどね」
くっ……反論しにくいことを。
いけ好かないイケメンの指摘は、たしかに的を得ている。おれとアリアはその場のノリと勢いで剣を交えて、初日から生傷を作りまくって保健室の先生のお世話になっているので、本当に何も言えない。
ちらりと結界の外を見ると、お姫様は気まずそうな表情で顔をぷいっと横にそらした。いや、今あなたのことを言ってるんですけど……
「なあ、金髪イケメン」
「ボクはレオだ」
「なあ、レオくん。決闘をやりたいのはわかったから、とりあえずこの結界解かないか? おれ、武器ないし、全裸だし。とりあえずおれを文明人として最低限の生活が保障されている格好にしてほしい」
具体的には服を着せてほしい。
派手な結界の展開に釣られてか、アリアや憲兵のおじさん以外にもわらわらとギャラリーが集まりつつあるので、このままだとおれが全裸を晒す人間が加速度的に増えていくことになる。
しかし、金髪イケメンは槍を振るいながら悲しそうな表情で首を横に振った。
「そうしたいのは山々なんだが、この結界は一度展開すると勝者が決まるまで解除できないんだ」
「なんでそんなもん展開したんだよ」
「ボクがその場のノリで挑んだら、キミも了承してくれたし……」
いや、たしかに「来いよ」とは言ったが……それだけで出られなくなるのはもはや罠だろ? 決闘開始の判定があまりにも緩すぎる。
「くそがっ!」
槍を避け、受け流して後ろに下がり続けていたので、背中が結界の壁に当たる。
やばい。逃げ場が……!
「さて、追いかけっこは終わりだ」
「ちっ……」
魔法を、使わざるを得ないか。
戦闘を開始してから、はじめて。おれは振るわれる槍の一撃を、まともに浴びた。
構えたおれの腕に当たった槍が、火花を散らして高く硬質な音を立てる。
「おっと?」
生身の腕で、槍の穂先を弾いた。その事実に少しは怯むと思ったのだが、優男はまったく躊躇せず、すぐに体勢を整えて連撃を繰り出してきた。
何発も鋭い突きを受けてはいられない。体を転がして、もんどり打つように回避。一目散に、金髪の横を駆け抜ける。それでなんとか、結界の端に追い込まれた状態から脱することができた。
「追い詰めたと思ったのに。すばしっこいね」
「そりゃどうも」
なるほど。たしかにこの結界の壁は凄まじい強度を誇っているようだ。半透明で外は見えるがわりと分厚い造りのようだし、槍の穂先が掠めても傷一つ付く様子がない。どんな魔術で構築されているのかは知らないが、鉄よりも鋼よりも硬いのは間違いない。あれを壊して脱出するのは諦めた方がいいだろう。
となると、やはり決着をつけて外に出るしかない。
全裸で?
考えを巡らせながら、間合いを測り直す。互いに、距離を取って再びぶつかるタイミングを測り合う。
「ふむ」
ぐるぐる、と。
巨槍をルーティンのように片手で回転させながら、優男は顎に片手をあてた。
「おかしいね。さっきの一撃、腕が取れてもおかしくないくらいには、強く打ち込んだつもりだったんだが」
「ああ、そうだな。まともに受けてたら危なかった」
「いいや、誤魔化さないでくれ。あれはクリーンヒットだ。手応えはあった。しかし、その手応えが妙だった」
とんとん、と。
ブーツの踵が回る思考を整えるように、リズムを刻む。
「キミの身のこなしはたしかに素晴らしいが、ボクの攻撃を捌いている間、常に一定の余裕を保っていたね? それはつまり、ボクの槍を正面から受けても問題ない、防御手段があったということだ。先ほどの腕への直撃、その感触から鑑みるに……」
つらつら、と。
事実と分析を端的に並べたてながら優男は笑う。
「キミは魔法を持っている。そして、その魔法は防御に特化したもの。体を硬くする類いの効果があると見た」
なんてこった。
このイケメン、救いようないバカだと思っていたが……どうやら、ただのバカではないらしい。
「さて、どうだろうな」
「ああ、答え合わせはいらないよ」
おれの苦し紛れの返答をさらりと流して、優男は……否、おれの目の前に立つ強敵は、再び槍を構えた。
「これから、自分で確かめる」
刹那、加速があった。
溜めがあったわけではない。まるで、一迅の風が吹き抜けていくかのような。自然体の踏み込みから繰り出される、瞬間の突貫。槍が届かない間合いを保っていたはずなのに、その間合いが一瞬で潰される。
赤い肩幕が翻ったと思った時には、おれの腹部に一撃が突き刺さっていた。そのインパクトに、体全体が押し出され、踏み留まった足の裏が削れる感触に顔をしかめる。
「ぐっ!?」
「やるね。この速度でも硬化は反応するのか。ああ、それとも、致命的な一撃には、オートで発動するのかな?」
言いながら、さらに一撃。繰り出された一閃は今度はおれの頭部を捉え、体が大きく仰け反った。
先ほどまでとの小手調べとは、まるで違う。繰り出される槍の軌道が、穂先の動きが、まったく読み切れない。
「突いても突いても弾かれる。はじめての経験だ。人間の体じゃないみたいだね。本当に、鋼か何かに打ち込んでいるみたいだ」
「そりゃ、どうも……!」
皮肉に、言葉を返すのが精一杯だ。
レオがおれの回避を観察していたように。おれもまた、レオの槍の動きを観察していた。その一撃一撃は洗練されていて、美麗とも言える鋭さを伴っていたが、攻撃の軌道そのものは一直線で、避けきれないほどではなかった。
だが、それが切り替わった。まるで穂先が自由自在にしなっているかのように、槍の軌道が読み切れない。おれの防御に魔法というタネがあるように、この攻撃にも何らかの秘密があるのは明らかだった。
しかし、呑気に思考を回している余裕はない。
「やはり、思っていた通りだ」
まるでおもちゃを見つけた子どものような、嬉しげな声と共に。
おれの膝から、薄く血が流れ出た。
「魔法を発動させる際の、意識の差かな? 可動する
おいおい。本当に、勘弁してほしい。
執拗に上半身を狙ってくると見せかけての、下半身狙い。この金髪、技の冴えだけじゃなく、対峙する相手への分析が尋常じゃなく早い。腕だけでなく、頭もよく回るタイプだ。
おれは、胴体を腕の前で交差させ、防御の体勢を取った。
「おや、もう避けないのかい?」
されるがままに、連撃を浴びせかけられる。おれの『
少しでも動けば、関節を狙われる。だから全身を硬化させて、ここは耐える。
その思考そのものが、大きな油断だった。
「は……?」
関節部、ではない。
おれの両腕が薄く裂け、出血した。
「驚くことじゃないさ。ボクがキミの硬さに慣れてきただけだ」
事も無げに言われて、絶句する。
「ボクの槍は、鋼だって貫く」
連撃がほんの一瞬静止し、溜めの気配があった。
全身の感覚が、全力で警鐘を鳴らす。
足に魔力を込めて、おれは背後へと跳躍した。
「いや、よく避けたね」
「バカ言え。当たってるわ」
掠っただけ、と言えば聞こえはいいが、掠る程度にはぎりぎりの回避だった。
へその上あたりに、真一文字に赤い線が入ってしまった。致命傷でもなんでもないが、これが直撃していたら、と思うとぞっとする。
大きく飛び退いて回避してしまったので、もう逃げ場もない。背後の壁は、手を伸ばせばもう届く距離だ。これ以上下がることもできない。
「フッ……心なしか、キミの股間の槍も先ほどより小さくなっているようだ」
「は? どこ見てんだよ。ちょっとひゅんってなっただけだ」
「ひゅんしてる事実は否定しないようだね」
「ひゅんしてるのは事実だからな」
手強い。魔法の分析に関しても見事だったが、おれの全身を観察して精神状態まで見抜いてくる。今のおれは魔法の性質も含めて、丸裸にされているに近い。
いやまぁ、裸にされるまでもなく全裸なんですけど……
「じゃあ、そろそろ終わりにしていいかい?」
「ちょっとまってくれ。お前のその槍、迅風系の魔術を併用してるだろ?」
少しでも情報面でアドバンテージを取りながら時間稼ぎをするべく、おれは口を開いた。それまで常に余裕を保っていた優男の表情に、ほんの少しだけ驚きが混ざり込む。
「……へえ。そう思う根拠は?」
「槍のデカさに比べて、動きが機敏過ぎる」
「魔力による身体強化で、振り回しているだけかもしれないよ?」
「それにしては動作の起こりや繋ぎがしなやかだし、さっきの連撃はまるで突いたあとに攻撃の軌道が変化してるみたいだった」
つまり、槍そのものから圧縮した空気を噴射して、攻撃の加速に利用している。そう考えるのが、最も自然だ。
「素晴らしい。立ち会ってすぐにここまでバレたのは、はじめての経験だよ」
「お前もおれの魔法を見抜いてるから、おあいこだな」
「ああ、そうだね。たしかにおあいこだ」
でも、と。やわらかい顔つきに不似合いな好戦的な笑みを浮かべて、優男は告げる。
「いくら仕掛けがわかったところで、キミはボクの攻撃を防げない」
「なら、試してみるか?」
もう逃げない、という意思を示すために。
おれは腰を低くして完全に受ける体勢に入った。
「もしかして、さらに体を硬くすることができるのかな?」
「試してみたらどうだ?」
「矛と盾、というわけだね。いいだろう。それこそ、ボクの槍の本領だ!」
もはや隠す気もないのだろう。意気揚々を構えられた槍から、髪を吹き上げるような勢いで旋風が荒れる。
先ほどの言葉は、ただのはったりだ。『
だが、それでいい。
瞬間、槍そのものが、消えたように見えた。
受ける、と見せかけた。ぎりぎりまで引きつけた一撃を、右か左か。半ば勘だけに従って避ける。避けることが、できた。
銀色に輝く巨槍が、魔導陣の壁を突き刺す。
「なっ……!?」
そして、鋭利な切っ先が、絶対に壊れないはずの壁を貫いた。
その一撃を打ち放った張本人の表情が、驚愕で歪む。
「どうして……!?」
「お見事。本当に鋼を貫く威力があるんだな」
おれは今、後ろ手に結界の壁に触れている。触れたものを鋼の硬さに変える……というのは、何も硬くするだけじゃない。
発想を、逆転する。
物質の硬度を変える、ということは。例えば鋼よりも硬い物質を、
勝負とは駆け引き。どんなに力で負けていても、どんなに速さで負けていても、持っているものを最大限に利用すれば、勝機が見えてくる。
全裸の、身一つでも勝てる。
あの一撃の回避に成功した時点で、おれは優男との駆け引きに勝っていた。
「結界の強度を、魔法で下げた……? まさか、これを狙って壁を背後に!?」
どんな高位魔術で作られた物質であろうと、それは所詮どこまでいっても魔術止まり。
魔法を使えば、いくらでも書き換えることができる。
「くっ!」
渾身の力で壁に突き立てられた槍は、そう簡単には抜けない。
そして、この距離ならおれが今、唯一まともに使える武器が届く。
「何か、言っておくことは?」
拳を握り締めてそれを問うと、優男は槍を引き抜くことを諦めて両手を上げた。
「フッ……決闘を強行して、済まなかった」
それから、と言葉を繋げて、
「キミとは、良い友達になれそうだ。是非、思いっきりやってくれ」
「ああ」
諦めが良いというよりも、潔いと言うべきだろう。
おもしろいヤツだ。
「これからよろしくな、レオ」
そしておれは、きれいな顔面に全力の拳を叩き込んだ。
魔導陣によって形作られた結界が、消失していく。
「……勝ちやがった」
憲兵は、言葉を失ってその光景を眺めていた。
レオ・リーオナインの噂は、一般の憲兵である彼すらも耳にしていた。今年度の騎士学校の主席入学者。間違いなく次代を担うであろう、新星の1人。
そんな実力者が、全裸の少年の前に倒れ伏してしまった。自分だけでない、戦闘の音を聞きつけ、結界を見て駆けつけてきた見物人たちも皆、一様に絶句している。
ごそごそ、と。気絶したまま動かないレオの体から少年は『
だが、全裸の少年はあろうことかその資格を腰に巻いて満足気に頷いた。
「よし」
──いや、よしじゃないが?
「アリア! 学校行こう! 間に合わなくなるぞ!」
「え、あ、うん……じゃなくて! もしかして、そのまま学校行く気!?」
「いやだって、初日から遅刻はまずいだろ。不良になっちまうよ」
「いやもうその格好がすでに……」
「とにかく行くぞ!」
「あ、あたしの上着、着れるかな? 上裸に上着……?」
「姫様! その人、やっぱり知り合いなんですか!? ああ、ダメです! 上着を脱がないでください! 姫様の制服を貸すくらいならわたしが!」
「え。ほんとに?」
騒ぎながらギャラリーの間を器用に縫って、彼らは人波に紛れて消えていく。
そこで、憲兵はようやく自分の職務を思い出した。
「む! しまった、逃げられる!」
「いいじゃないか。今日のところは、とりあえず見逃してあげなさい」
喧騒の中で、しかしその声だけははっきりと憲兵の耳に届いた。
振り返れば、倒れている金髪の少年を助け起こす、1人の騎士の姿がそこにあった。
「……団長」
「お
「いつからご覧になっていたんですか?」
「んー、お前が全裸の不審者を見つけて「詰め所までご同行願いたい」って言ってるところから、かな」
「最初からじゃないですか」
「はっはっは」
鍛え上げられた、明らかに体格の良い体を存分に活かして、気絶したままの少年を騎士はひょいと抱え上げた。
「今年の新入生はどいつもこいつも、活きが良くて良いな。実に結構だ」
「笑い事ではありませんよ。入学初日の朝から、全裸で肩幕を懸けた決闘を行うなんて、前代未聞です。必ず騒ぎになります。あんな少年が本当に騎士になれるのかどうか……」
「ふむ……そうだなぁ。たしかに、礼節を弁えた立派な騎士にはなれんかもな」
顎に薄く生やした髭をさすりながら、騎士は答えた。
「しかし、ああいうおもしろい人間が案外、世界を救う勇者になるのかもしれないぞ」
勇者が現第三騎士団団長、レオ・リーオナインから肩幕を勝ち取った逸話は、現在でも語り草になっている。誇り高い騎士であるリーオナイン団長はその敗北を隠すどころか、今でも部下たちに自慢気に語って聞かせているらしい。
銅像の前では観光客向けに転写魔術の記念撮影が行われているが、もしもリーオナイン団長がそこに居合わせてくれたら幸運である。サービス精神旺盛な彼は、観光客と一緒に写真に入ってくれるという。もちろん、地面に倒れた姿で。
〜王都ガイドブック・勇者名所十選より〜
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勇者の騎士学校生活。壁尻パンツ編
はやいもので、おれが騎士学校に入学して一週間が経った。
今までずっと辺境の土地で暮らしてきたので、王都での生活は結構楽しい。山奥で極貧生活を送っていた頃に比べると、衣食住と学びの環境が保証されているのが、もう本当に最高すぎる。これ以上ない贅沢だ。
一緒に授業を受ける同級生とも大体顔見知りになって、仲良くなることができた。
唯一、問題があるとすれば……
「おはよう、全裸くん」
「お、全裸野郎は今日も早いな」
「ぜんらっち! 昨日の宿題やった!? やってたら見せて! お願い!」
おれのあだ名が『全裸』で固定されつつあることくらいだろう。
「おれの名前は全裸じゃないんだが」
「知ってるよ」
「知ってるなら直せよ」
今度飯奢ってくれ、と交換条件を提示しながら、課題のノートを手渡す。
クラスメイトたちがフレンドリーに話しかけてくれるのはおれとしてもとてもうれしいが、あだ名が『全裸』で固定されつつあるのは、実に悩ましい、由々しき事態である。もちろん、原因はわかっている。
「おはよう! 諸君!」
この金髪バカイケメンのせいだ。
「レオ……」
「やあ、親友。ひどいじゃないか。一緒に登校しようと思っていたのに」
「お前が身支度の準備に時間をかけ過ぎるのが悪いんだよ。あと親友はやめろ」
「何を言うんだ。騎士たるもの、服装の乱れに気を配るのは当然だろう」
「だからって鏡の前で女子みたいにいつまでも髪整えなくてもいいだろ」
「フッ……ボクはくせっ毛だからね。整えるのに少し時間がかかってしまうのは仕方ない」
「レオっちとぜんらっち、仲良いよね〜」
「よくない」
「良いとも」
くそっ!コイツがさも「彼とは昔からの友人なんだ」みたいな顔で隣にいるのが腹立つ!
べつに悪いやつじゃないから普通に話してて楽しいのもなんか逆に腹ただしい!
「しかし、レオも災難だよな。入学早々、
「まったくだよ」
「待ってくれ。災難だったのはおれの方だろ。全裸だったのにコイツに無理矢理決闘申し込まれたんだぞ?」
「それはそもそも全裸だった全裸が悪くない?」
ぐうの音も出ない正論に押し黙る。
正直、全裸で町中で決闘とか、やらかし以外のなにものでもなかったので厳罰を覚悟していたのだが、意外にもおれへのお咎めは反省文の作成だけだった。まあ、仕掛けてきたのはレオの方だし、全裸になった遠因もレオの方にあるので、悪くないといえば悪くないのだが、思っていた以上に軽い措置である。
おれの目の前で、レオが胸を張る。
「ボクの説明がよかったからね。感謝してくれたまえ、親友」
「いや、それくらいは当然だからな? あと親友はやめろ」
「
「じゃあ、またこれ賭けて再戦するか? 今度はちゃんとした場所で」
一応、規則ということで制服の上から身に着けている
加えて言えば、現在のレオとおれの実力差は、ほとんどないように感じる。この前は全裸で勝つことができたものの、あれは偶然に偶然が重なった奇跡のようなものだ。また戦えるなら、ぜひ戦いたい。強いヤツと戦うのは成長への近道だし。
「いや、遠慮しておくよ。キミの股間に触れた肩幕を着用したくはないからね」
レオの一言で、おれの周囲のクラスメイトたちがさっと距離を取った。
おいおい。そんな汚いものから距離を取るような反応をされると、さすがにおれも傷つくな。
「は? ちゃんと洗ってるんだが?」
「ちゃんと洗っててもいやだよ。ボクはまた適当にキミ以外の相手を倒して肩幕を取ることにするさ」
「遠慮するなよ」
「遠慮はしてない」
なぜかレオもおれの肩幕からじわじわと距離を取る。なんだよ。一回腰に巻いただけだぞ。
また文句を言ってやろうかと思ったが、騒がしい足音を伴って、教室の扉が開いた。
「ゼンラ! ゼンラはいるか?」
入ってきたのは、おれたちのクラス担任のナイナ・ウッドヴィル先生。銀髪で褐色で巨乳が特徴。見た目がキツめの美人である。外見に違わず言動は厳しいが、生徒想いで冗談も返してくれる良い先生だ。
「ウッドヴィル先生、その名前っぽいイントネーションで呼ぶのはやめてください。あとおれの名前はゼンラじゃないです」
「ああ、すまない。生徒の顔と名前はいつも早く覚えるように努力しているんだが、まだきみたちが入学して一週間だからな」
嘘つけ絶対わざと呼んでるだろ。
「その
「まさか先生も汚いっていうんですか?」
「ん? 汚したのか? 綺麗に身に着けていて感心だと思ったんだが」
「いえ、なんでもないです」
汚れていたのはおれの心だったようだ。
「リーオナインもそうだったが、入学して一週間も経たずに七光騎士になった一年生は、ほとんど前例がない」
「フッ……照れますね」
「お前もう落ちてるだろうが」
いつの間にかレオがおれの隣に並んでドヤ顔をしていた。コイツ気配消すの異様に上手いんだよな。なんか気がついたら隣にいるからやめてほしい。
「
「じゃあ、おれがその生徒会長に決闘を挑んで勝ったら、一気にトップに立てるってことですか?」
「きみの発想は蛮族のそれに近いな……」
でも、一番強い人間が、生徒たちのトップに立つってことでしょ? わかりやすいシステムだ。
肩幕に備わっている結界魔術も、決闘を推奨するような仕様だったし、上の立場に就きたいなら実力で奪い取れ、ということなのだろう。
「これは親友としての忠告だけど、やめておいたほうがいいよ。当代の生徒会長は、歴代でも屈指の実力者と言われている。入学式でも挨拶をしていただろ? ほら、黒い
「いや、おれ入学式出てないし……」
「ああ……」
レオに遠い目をされてしまった。
まあ、ウッドヴィル先生が伝えたいことは大体わかった。
「とりあえず、おれもその生徒会の仕事に参加しろってことですよね?」
「うむ。私としては、初日から屋上を爆破し、二日目に全裸で決闘をしたバカ者を生徒会に参加させるのは、誠に遺憾なんだが」
「そう言わないでください、先生。おれほど模範的な生徒はなかなかいませんよ」
「鏡をみてこい」
「精悍な顔つきのやる気に溢れた若者が写るだけだと思いますよ」
「フッ……照れてしまうな」
「お前の話はしてないんだよ」
おれとレオと漫才をしていても埒が明かないと思ったのだろう。先生は呆れを隠そうともせずに手を軽く振って話を締めた。
「とにかく放課後、授業が終わったら生徒会室に行きなさい。きみもそれを身に着けるからには、他の生徒からも先生方からも注目される。皆の模範にならなければならない立場になったということだ。わかったな、ゼンラ」
「先生、その名前だと模範になれません」
「全員着席! 授業をはじめる!」
この人絶対わざと呼び続ける気だろ。
騎士とは、王から認められ、叙任を受けた人間の総称である。古くは各地の諸侯が王都に赴き、国王から騎士の称号を賜ることで任命されていたが、それはもう昔の話。現在では専門的な訓練を受けた王都直轄の兵士の総称として認識されている。
騎士学校では、三年間の訓練過程を経て、卒業と同時に騎士の称号を取得。各地の騎士団や王都の守護として配属されるのが基本的な進路になる。まあ、おれは強くなったらそのまま世界を救いに行きたいので、騎士になる気はないんだが……この学校を卒業しても職業騎士にならない人間はいくらかいるらしいので、べつに大丈夫だろう。おれの就職希望は勇者一択である。
「……」
レオと同じクラスになったことも驚いたが、アリアと同じクラスになったことにも驚いた。そういえば、ウッドヴィル先生は「問題児はまとめて見ることになった」とか言っていたので、それを中和するためにおれやアリアのような模範的な生徒を固めているのかもしれない。レオは間違いなく問題児だ。
隣の席のアリアは、真面目という言葉をそのまま形にしたような表情で、ノートにペンを走らせていた。窓から漏れる太陽の光が、うしろで二つにわけたツーサイドアップの金髪を照らしている。こうしてふと横に目をやると、本当に美人だなと思う。
すっ、と。ノートの切れ端が差し出される。見てみると、そこにはきれいな文字が綴ってあった。
『授業中の盗み見は罰金だよ? 』
なんだコイツ。全然集中してないじゃねぇか。
視線を黒板の方へ戻しつつ、おれも切れ端に返事を書き込んだ。
『これは失礼しました。お姫様』
『全裸くん、最近人気者だね』
『全裸はやめてくれ』
『上の学年の人たちも、全裸くんの噂で持ち切りらしいよ』
『レオが無駄に広めたからだろ』
視線はお互いに前の黒板に向けたまま。テンポよく言葉を書き込んで、切れ端をやりとりする。
『いいなぁ。あたしもみんなとお話したい』
『すればいいじゃん』
『なんかまだ距離とか遠慮があるみたいで』
『やっぱりお姫様だからじゃない? 』
『きみまでそういうこと言う』
『ごめんて』
こういうやりとりが、案外楽しい。
『放課後はひま? 』
『生徒会から呼び出し受けてる』
『やっぱり人気者だ』
『茶化すなよ』
『ごめんごめん。じゃあその用事がおわったあとでいいから』
さらさら、と。ペン先が紙の上を踊る。
『放課後、一緒に遊びに行こうよ』
くすり、と。前を向いたまま、横顔が笑った。
「間違いないね、それはデートだよ」
「やっぱり!? やっぱりそうだよな!?」
昼休み。
おれはレオを裏庭のベンチまで引きずっていき、先ほどのアリアとのやりとりについて話していた。
「やるじゃないか。まさか入学早々に、しかもプリンセスと放課後デートの約束を取り付けてくるなんて。ボクも鼻が高いよ」
「お前はおれの何なの?」
「親友だとも」
サンドイッチをもぐもぐと頬張りながら戯言をほざいているこのバカに相談を持ちかけるのは癪だったが、しかし背に腹は代えられない。おれは思い切って、次の言葉を紡いだ。
「それで、ちょっと聞きたいことがあってだな」
「相談!? キミがボクに!? これはめずらしいね。はじめてじゃないかい?」
そりゃまだ知り合って一週間しか経ってないからな。
「おれ、王都に来たばかりで右も左もわからないんだけど、その……なんというか、女の子が喜びそうな店とか、そういうのを教えてもらえると助かるというか……」
「ふむふむ」
「あと、なんかこう……女の子と二人で歩く時に気をつけるべきこととか、そういうことがあるなら」
「童貞丸出しだね、親友」
おれは立ち上がった。
「お前に頼んだおれがバカだったよ」
「冗談だよ。そう怒らないでくれ」
くっ……恥を偲んで頼んでいるとはいえ、やはりこの恥ずかしさは耐え難いものがあるな。
しかし、レオはどこに出しても恥ずかしくないタイプのイケメンである。すでに性格の方が残念であることはクラスメイトに周知されつつあるものの、他クラスや上の学年の女子からの人気は相変わらず高いらしい。入学早々、七光騎士になったが全裸の変態に負けてしまった悲劇の貴公子、というのがコイツに対する大まかな印象なのだという。なんかおれが変態扱いされてるみたいで腹立ってきたな……
とはいえ、繰り返しになるがレオはどこに出しても恥ずかしくないタイプのイケメンである。認めたくないが、おれよりも女性経験は断然豊富だろうし、力にはなってくれるはずだ。自称親友だし、現在進行系で訳知り顔で頷いているし。
「なるほど。理解したよ。キミの力になってあげたいのは山々なんだが、しかし一つ問題がある」
「なんだ?」
「ボクも童貞だ。レディの手とか握ったこともない」
おれは立ち上がった。
「お前に頼んだおれがバカだったよ」
「冗談じゃない。これは真実だ」
冗談であってほしい。
なんでこんなナルシストの金髪イケメンで売っているようなヤツが、女の子の手も握ったことがないタイプの童貞なんだよ。それは詐欺だろ。
「待ってくれ親友」
「待たないぞ童貞」
「ボクは今まで己の研鑽に全力を注いできた。だから女性経験を積むような遊びにかまけている暇がなかったんだ」
「ものは言い様だな」
「でも、キミと違って王都には何度も来たことがある。商家の息子として、女性が喜びそうなお店に心当たりがないわけじゃないよ。どうする?」
「よろしく頼むぜ親友」
「素直で結構だよ」
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。聞くと愚か者に見えるが、聞かなければ本当の愚か者になる、とも言う。おれはレオに向かって深く頭を下げた。
うむうむ、と満足そうに頷いて、今度はレオが立ち上がった。
「じゃあ、ボクは次の授業の準備を手伝うように言われてるから、先に行くよ。デート先の候補はあとでリストアップして渡してあげるから、キミは口説き文句でも考えておくといい」
「……困るなぁ」
「最初から弱気なのは良くないよ、親友。女性を落とすのも勝負事と同じさ。弱気だと、勝てる勝負も勝てなくなるだろう?」
めちゃくちゃ良いこと言ってくれてるけど、コイツもめちゃくちゃ童貞なんだよな。
レオを見送って、ベンチに座ったままぼーっと空を見上げる。先日の全裸決闘事件以降、アリアのおれに対する態度はちょっと余所余所しくなっていたが、今日はなんとなく普通に話せた気がする。話せたというか、切れ端に書き込んでやりとりをしただけなんだけど……
「……ん?」
ガサゴソ、と。物音が聞こえた気がした。
ベンチの裏。植え込みで死角になっている方からだ。もしかして、猫でもいるのだろうか。ちょうど良い、猫は好きだし、話し相手になってもらおう。
「へーい。猫ちゃーん。出ておいで〜」
ガサゴソ、と。植え込みをかき分ける。
が、そこにいたのは、断じて猫などではなかった。
「……」
そこにあったのは、形の良い女性の臀部だった。
要するに、お尻である。
厳密に言えば、スカートが捲れ上がり、黒のタイツに包まれたパンツが薄く透けている……そういうお尻だった。ついでに言えば、色は白である。アリアの時といい、おれは白パンツに縁でもあるのだろうか。
とにもかくにも、上半身を壁に空いた穴に突っ込み、パンツを見せびらかしている下半身が、おれの目の前にあった。
なんだろう、これは。
「こんにちは」
ケツが、喋った。
「え、あ、はい。こんにちは」
「驚いているようだね」
そりゃ、いきなりケツに話しかけられたら、誰だって驚くだろう。
とりあえず、見るに耐えないのでおれは捲れ上がっているスカートをそっと戻してあげた。すると、ケツが左右に動いた。
「今の感触。もしかして、スカートを戻してくれたの?」
「ええ。まあ」
「紳士な後輩だ。感心感心。もしかして、ワタシのパンチラには魅力がなかったのかな?」
パンチラじゃなくてパンモロの間違いだろう。
「ところで、ちょっとお願いを聞いてほしいんだけど」
ケツがさらに言葉を紡ぐ。
「な、なんでしょう?」
「実は猫さんを追ってたら、見ての通り壁の穴に嵌って抜けられなくなっちゃったんだ。ぐいっと引き抜いてもらえるとうれしい」
「な、なるほど……?」
しかし、見る限りケツさんが通り抜けようとした穴はかなり小さく、腰の部分で完全に詰まってしまっている。引っ張っても抜け出すのはちょっと難しそうだ。多分、周りの壁を壊して出してあげた方が早い。
「ちょっと音が響くと思いますけど、踏ん張っててくださいね」
おれは拳を魔法で硬くして、壁に向かって振り上げた。
「うわっ!?」
雑に殴った壁が、雑に砕ける。元々穴が空いてたみたいだし、こんなものでしょう。
ぶっ壊した勢いで嵌っていたお尻が抜けて、こてんとこちら側に倒れてきた。それでようやく、おれは彼女の下半身だけではなく、上半身も確認できた。
首元のタイの色は、最上級生を示す青。対して、腰まで伸びる髪の色は漆黒。ブレザーの下に重ねているカーディガンも、髪色と同じ黒だった。きれいに切り揃えられた前髪から覗く琥珀色の双眸が、こちらを見上げる。
おれは、思わず固まってしまった。
それは彼女が美人だから、とか。見惚れてしまったから、とかではなく。壁の向こうに隠れて見えなかった上半身に、
──ほら、黒い
朝聞いたレオの言葉が、頭の中でフラッシュバックする。
「ありがとう〜! 助かったよ! 後輩くん」
その
「お礼は、デートの相談でいいかな?」
今回の登場人物
勇者くん
あだ名が『全裸』で固定されつつある悲しき存在。わりとカタカナで『ゼンラ』って語感は主人公として悪くないと思う。
アリア・リナージュ・アイアラス
アオハルプリンセス。勉強は好きじゃないが育ちが良いので字はきれい。まだ勇者くんとの距離感とか、そういうのを探ってる時期。はやく仲良くなりたい気持ちでいっぱい。というか友達がほしい。
レオ・リーオナイン
勇者くんの親友。王子様キャラぶってるが恋愛耐性がない。月刊少女野崎くんの御子柴から可愛げを取り除いてギャグに全振りしたような存在。顔だけはイケメン。サンドイッチはかぶりついて食べるタイプ。
ナイナ・ウッドヴィル
銀髪、褐色、巨乳の先生。以上です。これ以上何か必要でしょうか?
壁尻さん
パンツを見られても気にしないタイプの黒髪ロング先輩。七光騎士第一位。生徒会長。最強。
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勇者の騎士学校生活。修羅場編
授業前に、なんとか教室に戻ってくることができた。
「やあ、親友。お姫様の良い口説き文句は思いついたかい?」
「あ、聞いてくれよ、レオ。おれ、さっき生徒会長のパンツを見たんだけど」
「うん。待ってくれ。お願いだからきちんと会話をしてくれないか?」
かくかくしかじか。
先ほどの出来事を手短かに説明すると、レオはふむふむと頷いた。
「なるほど。生徒会長か……」
顎に手を当てて、目を細めて感慨に耽る。そうした所作だけでも、顔が良い男は様になるのだからずるい。
「何か知っているのか?」
「いや、ボクもパンツ見たかったなと思って」
「黙れ顔だけ童貞」
「何色だった?」
「白だった」
「いいね」
よくはない。
「それで、キミはパンツを見てどうしたんだい?」
「いや、べつにどうもなかったけど」
「え。パンツを見たのに? 何もなかったのか!?」
「お前さてはパンツ好きだろ」
「逆に質問を返すけど、この世にレディのパンティが嫌いな男がいると思うかい?」
「いや、いない」
「だろう?」
しかし、今はパンツの話はどうでもいい。
「で、生徒会長ってどんな人なんだ?」
「キミ、本当に何も知らないね……」
「悪いな。田舎育ちなもんで」
「その無知。まるで汚れを知らない白の布地のようだよ」
「お前が白派なのはもうわかったよ」
余談だが、おれはやっぱり黒の方がえっちだと思う。
「で、生徒会長の話をすればいいのかな?」
「ああ」
「彼女は、平民の出でね。出自に関してはあまりはっきりしてないんだ。家族に関する情報はなくて、入学の際には騎士団長の一人が後見人になったという話だよ」
「へえ」
騎士学校の入学試験は、希望すれば誰でも受けれられるわけではない。レオやアリアのように家が特別な力を持っていたり、もしくは魔力や剣の才能に秀でた人間でないと、まず門を叩くことすら難しい。
しかも、騎士団長といえば王都を守護する五人の精鋭……すべての騎士の頂点に位置する存在。そんな人物が後見人になっていて、それでも出自がはっきりしていない、というのはかなりおかしな話だ。
「それはなんともあやしいな」
「キミもあまり人のことは言えないと思うけどね?」
「お前、さてはおれのこと調べただろ?」
「情報は武器だよ、親友。それに、実家が商売をやってると、噂話には耳聡くなるのさ」
もう少しその噂話とやらについて問い詰めたかったが、レオは素知らぬ顔でおれに話の続きを促してきた。
「で、会長は、何か言っていたのかい?」
「いや、授業がはじまるまでもう時間もなかったし、どうせ放課後に会うから……」
──またあとでね
と。耳元で囁きかけられた感覚がまだ残っていて、おれはなんとなく押し黙った。
顔は赤くなっていないと思う。多分、きっと。
「そういえば、放課後に生徒会室に呼び出されていたね」
「そういうこと」
「ボクの分までがんばってくれよ、親友」
「めんどくせえなぁ」
「生徒会の仕事にプリンセスとのデート。今日の放課後はイベントが目白押しだね」
「やることが多くて困っちまうよ」
「学生はそれくらいの方がちょうどいいのさ。三年間の青い春は短い。目一杯楽しまないと」
コイツ、他人事だからってジジイみたいなこと言うな……
放課後。
アリア・リナージュ・アイアラスは特にやることもなく、ぶらぶらと校内を歩いていた。すれ違う生徒は、何かを思い詰めているようなその表情に遠慮して、そっと道を空ける。
簡潔に言ってしまえば、アリアは焦っていた。
その焦燥の原因は、勇者志望の全裸少年である。
アリアはこれまで、己の魔法と自身の強さを疑ったことがなかった。幼い頃から同年代で自分より強い人間に出会ったことはなかったし、自分が最も強いことが当たり前だった。
だが、そんな当然の自負は、騎士学校に入学して一日目で崩された。より厳密に言えば、たった一人の少年に破壊された。
それだけではない。全裸による街中での決闘。文字に起こしてみると本当に馬鹿みたいだが、しかしその結果、彼は入学から僅か一週間で、この騎士学校で最も強い七人に名を連ねてしまった。
アリアの常識は、この一週間ですべて彼に壊されてしまったのだ。
──おれ、魔王を倒して世界を救いたいから、なるべく強いやつと戦いたいんだ
あの屈託のない笑顔が、頭の中に焼き付いて離れない。
今のままでは、きっとダメだ。彼は、これから『勇者』になるという。それなら、自分もその強さに相応しい騎士にならなければならない。
(あたしも、もっと強くならないと……)
一般的に。
それが出会って一週間の人間に対して抱くには『重い』と呼ばれる感情であることを、アリアは自覚していない。
「アリア・リナージュ・アイアラスだな?」
不意に背後からかけられた声に、アリアは振り返った。
「……そうですけど」
「はじめまして。不躾で申し訳ないが、少しお時間をいただいてもよろしいだろうか?」
「え? は、はい。大丈夫です」
「では、こちらへ」
アリア・リナージュ・アイアラスは、隣国の姫君である。姫であるが故に、基本的に、人が好くて世間知らずだ。他人を疑ったりはしないし、こちらへどうぞとエスコートされればほいほい連いていく。
(学校の先輩に、はじめて話しかけてもらえた……ちょっとうれしい)
しかも寂しがりで会話に飢えていたので、そのチョロさは純然たるポンコツプリンセスと言っても過言ではなかった。
案内された場所は、校舎の裏だった。薄暗く、人通りも少ない場所である。
「あの、先輩……?」
「……すまない。騙すつもりはなかったのだが、こうするのが一番早いと判断した」
「それは、どういう?」
「くくっ……まさか、素直にノコノコ着いてくるとは思わなかったぜ」
物陰から、まるでチンピラのようなガラの悪い声が聞こえた。出てきたのは、長身痩躯の、目付きの悪い声の印象をそのまま形にしたような外見の上級生だった。
「彼女を馬鹿にするような発言はやめなさい。騎士としての品性が疑われるわよ」
次に現れたのは、三年生の女子生徒。こちらは毅然とした声音で、ショートヘアがよく似合っている。
「ああ? そもそも、こんな校舎裏に呼び出てる時点で、やってることは後輩いびってんのと変わらねえだろ。品性もクソもあるかよ」
「だとしても、相手への敬意というものがあるでしょう?」
二人に共通しているのは、そのどちらも『
学園最強と謳われる、七人。その内の三人が、アリアの前に肩を並べていた。
この段階に至ってようやく、アリアは自分が騙されてここまで連れて来られたことに気がついた。
「……これは、どういうことですか?」
「重ねて、非礼を詫びよう。アリア・リナージュ・アイアラス。しかし、きみと話をするには、こうするのが一番早いと判断した。また、人の目がある場所での話も避けたかった」
「前置きは結構です。用件は何でしょう?」
「話が早くて助かる。我々は、きみに
思ってもなかった提案に、アリアは目を丸くした。
「それは生徒会に入れ、ということですか?」
「そうだ」
「でも……
「その通り。だからあなたには、決闘をしてもらいたいのよ。例の、街中で全裸の決闘をして神聖な『
「…………」
なんということだろう。
アリアは、頭を抱えてうずくまりたくなった。その提案はめちゃくちゃだったが、しかし納得もあった。
彼らは要するに「街中を全裸で駆け回ったアホを生徒会に入れるのは認められないから、さっさと決闘して
「無理を言っているのはわかっている。しかし、きみはすでに入学式の日に、彼と剣を交えていると聞く。正式な場で、決着をつけたい気持ちがあるのではないか?」
「それは……」
「場所は、こちらで用意しよう。どうかな?」
「……わかりました」
「では」
アリア・リナージュ・アイアラスは、彼に追いつきたい。彼の隣に立つのに、相応しい騎士になりたい。
だからこれは、絶好のチャ