家族の仇は、娘でした (樫鳥)
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人狼の村


 主人公の武器、装備はフロムソフトウェア様のBloodborneに強く影響を受けています。続編ほしいなぁ…


 「愛した相手を貪り食わずにいられない性か、報われないな」

 

 半壊した村落の奥地、まるで大型の竜巻でも過ぎ去ったかのような惨状。そんな村の中心、噴水が中央に存在する広場にて、月明りに照らされた一人の少女に声をかける。

 

 ロングのスカートに安物の上着、古い鹿革のジャケットを着たのは十代半ばの村娘だった。まだ幼さが残る顔には鮮血。口の端から腸を垂らしこちらに振り向いた勢いで新鮮な血液と共に壁に叩きつけられる。

 

 熱を帯びた視線が冷たさを帯びた、と変化を感じた瞬間後ろに飛びのく。少女の身体が夜空に舞い上がり月を陰らせた瞬間、巨大な質量の拳が先程まで自分がいた場所に叩きつけられた。当たれば確定でミンチになる一撃、村落の自警団や狩人程度では相手にならないのがよく分かる。

 

 ここに至るまで、胴体や頭蓋を潰された死体が幾つあったか。数えるのも億劫になる程だった。

 

 着地した少女の身体は、飛び上がってから着地するまでに変貌をとげていた。大柄の男性の三倍程ありそうな巨体は白く柔らかな体毛をまとっており、両腕や足もそれ相応の巨大さに変貌を遂げている。指先からは短剣のごとく鋭い五本の鈎爪。まるで大柄な狼男…この場合は狼女か。原種よりも遥かに巨大だ。

 

 視線からは殺意。目の前に現れた邪魔者、いや邪魔者だと思われていればまだいい方か。目の前に現れた鬱陶しい羽虫を払うことになんの躊躇も持たないような瞳をしている。

 

 そうだろうな。今のお前は成人男性一人ミンチにすることくらいなんの苦もなければ労もない、そのうえ躊躇も罪悪感すらないだろう。ちょこまかと動き回る標的に向け、右腕を無造作に振り払う。全力で飛びずさりギリギリで回避する。潰しにくいのに周囲を飛び回る羽虫は、苛立たしいだろう?とは考えるものの当たれば一撃死、飛び回る羽虫だって命がけだ。

 

 

 幾度かの命の危機を伴う攻撃を回避した後、片手で潰すのは面倒だと考えたのか、右腕で握りこぶしを作り左手の爪を動かして挟み撃ちの構えをとる。ここまで恥も外聞もなく全力で後方に下がっていたがここで急反転。前にのめりこむように全力で疾走。左右から挟まれる攻撃をかいくぐり腰のホルスターから武器を引き抜いた。

 

 ストックを切り落とした、二発の弾丸が入る中折れ式散弾銃。踵が地面をこすり仰向けに倒れ込むように滑り込んで銃撃、二発の散弾が柔らかな皮膚に無数の穴を開け皮膚をズタズタに引き裂いていく。

 

 銃身を折り、空薬莢を排出して新たな弾丸を装填。再度腹部に鉛玉を叩きこもうとした瞬間、こちらを覗き込む憎悪の目と視線が交錯した。

 

 極大の悪寒。追撃を諦め横方向に転がった刹那、先程まで自分がいた場所に巨大な顎と鋭い牙が襲いかかっていた。立ち上がる間もなく、そのまま転がり続ける。だが牙の追撃はそれよりも僅かに早い。戦闘用外套に牙が食い込み身体が止まる。顎はそのまま身体を持ち上げ、大きく頭を振り持ち上げた身体を振り回した。

 

 「やっ…!」

 

 やばい、と思う間もなく振り回された身体は木材と石材でできた廃墟に直撃、木端に廃材を砕きながらそれでも留まらず、上から下へと振り回す方向を変えて赤レンガで作られた屋根に背中から叩きつけられそのまま貫通し地面に叩きつけられた。

 

 血反吐が口内から溢れる。臭いに興奮したのか振り回しが激しくなり、外套が千切れて吹き飛び、多数のテーブルとカウンター席が見える元は料理店か酒屋と思われる店舗に頭から突っ込んだ。

 

 そのまま追撃をしようと迫る巨体が停止。濁った視線は店の看板、『ロンド食堂』という文字を見たまま硬直していた。

 

 『グッアアアアァアアアぁあああああああ!』

 

 獣の咆哮が人の嘆きの声に変化する。ボコボコという音と共に巨大な獣はいつの間にか一人の少女に姿を戻していた。先程散弾銃により腹部に傷を負っていたが、それでも少女はそれを気にすることなく頭をかきむしり月に向かって咆哮を続ける。

 

 少女は狩人であった。妻を早くに無くした不器用な父が、これしか伝えられる物が無くてすまんと今際に謝罪してきた、狩りの技術。

 

 機織り、料理、家事の代わりに得物を追い詰める知識、猟銃の使い方、皮なめしや血抜きの方法などを教わった少女は村の変わり者ではあった。狩人の技等女性がすべきものではないという偏見は、村民はもとより同じ狩人達からも忌々しく思われていた。父の凄腕を、才能と努力でそのまま受け継いでいればなおさらだ。

 

 だが少女が狩りとった質の良い肉を好んで仕入れていた男がいた。

 

 優男だ。半日山を歩き回れば、疲弊で動けなくなってしまうようなか弱い男。しかし彼の作る料理は味がよく繊細で女性にも食べやすく健康にいい。そんな料理ばかりかと思えば豪快な職人連中が好むような酒と共によく食べる大味な肉料理まで作ってしまう。

 

 そんな彼は、常連客に遠回りではあるが少女から肉を卸すことに反対されていた。みんなここの食堂が好きではあるが、それでも口にださないだけで狩人達を中心に快く思ってないものが何人もいると。あんな肉は、余所者向けに販売されるものでここにはふさわしくないと。だがしかし彼は、それを拒否をした。

 

 彼女のお父さんの技術を、ボクの師匠は血抜きから加工の処理まで高く評価していた。彼女もそれを継いでいる。ボクの料理には欠かせない。

 

 そんな話を偶然聞いてしまってから、少女は意識をしてしまった。会う機会があれば、今まで気にしたこともないお洒落を意識し都会で流行しているという動きにくいことこのうえないロングのスカートまでわざわざ行商人から買い付けて着替えていったものだ。

 

 彼に好きとは言えなかった。男の領域に足を踏み入れ成果をだす自分がいかに、村の調和を乱した面倒な存在であると自覚していたからだ。そんな自分が告白すれば彼を困らせてしまう。

 

 だから、彼が少女の技術を便りそんな彼の役に立つだけで、それだけで幸せであった。だがしかし…

 

 「おい、まだ変身は解くな」

 

 男の声に、少女は、怪物は、食堂の奥を睨みつける。戦闘用の外套に身を包み、全身から血を流す男が瓦礫の中から現れる。普通は死んでいてもおかしくない程の衝撃を与えたにも関わらずだ。

 

 

 少女はまたボコボコと肉を変化させ、骨を太く、顔を異形へと変える。男はそんな様子を見ながら、腰にぶら下げた棒と呼んでも差し支えないような古くボロボロなかろうじて剣に見えなくもないなにかを引き抜いた。男は剣のようなものに嫌悪感混じりではあるが、ある種の期待を込めた眼差しを向けるが、怪物はそれがなにを意味しているのか分からなかった。あんな武器ですらないようなものになにを期待するのか。

 

 「……この期に及んでだんまりかよ!」

 

 男が悪づく。狭い建物の奥に逃げ込むが、たかだか木材の壁なぞ怪物にとっては意味がない。

 

 食器が納められた棚ごと剛腕と鈎爪は壁を破壊する、カウンターに足を乗せ粉々に破砕し逃げ込んだ得物を追い込むように前進。親しんだ店内を破砕することに後悔を感じることなく、獣としての本能と狩人として負傷し追い込んだ得物を仕留めることとに思考が支配されていた。

 

 食堂の奥、調理場に顔を突き入れた瞬間右目に激痛。なにかが刺さったような感覚に、のけぞり飛びのく。

 

 男が調理場から飛びだし接近、散弾銃を構え放たれる二発の銃声。腕を交差させ衝撃を防ぐが、その腕になにやら紐のようなものが巻き付いた。そう感じた瞬間、両の腕が切断。断面から鮮血が飛び散り広場中央の噴水を赤く汚す。

 

 男が手にもつのは汚らしい鉄の棒、ではなかった。まるで生物のように浮遊する分裂した刃を血菅のようなものが繋ぎ結合している。血菅が脈打ち分裂した刃が血だまりに飛びつき、刃に付着した血液が吸収するように吸い込まれていった。

 

 男は苦々しいものを見るように刃を見ていた。よくみると首筋に切り傷がついておりドクドクと血を流していた。

 

 男は前進する、引きずられるようにして刃が血から離れたがらなそうにしていたが、柄を一振りすることで連結された刃が宙に浮き無防備な胴体に叩きつけられる。丸太のような足でカウンターの蹴りが繰り出されるが、前に腹部から飛び込み地面に這いつくばることでそれを回避。

 

 前転をしながら立ち上がり連結刃の柄を宙に放り装弾。怪物が振り向く前に膝に向け後ろ側から引き金を引いて二発の散弾を叩きこむ。筋繊維と筋肉をズタズタに鉛が引き裂き、怪物が前のめりに倒れこむ。

 

 宙に投げられた連結刃が蛇のように空を泳ぎ、自我があるように倒れ込んだ怪物の身体を斬り刻む。まるで戦っているというより傷をつけることを楽しんでいるような、そんな感情があるかのような動きだった。

 

 「クソ!勝手に動くなこの野郎!」

 

 男が慌てたように連結刃の柄を掴み、無理矢理制御を奪い切っ先を地面に叩きつける。血の蒸気を放ちながら、刃は不承不承とでも言いたげに脈打ちながらも、徐々にその脈動を収めていき一本の棒に戻る。

 

 男は隙を見せていた、もはや両腕もなく脚も破壊されたが、その破壊された足に最後の力を振り絞り身体を男に向ける。牙をもって男の胴体を寸断しようとするが、迫る額に銃口が付きつけられた。

 

 いつの間に装弾していたのか、一発の銃声が怪物の頭脳を半分吹き飛ばす。怪物の力と姿をもってしても、致命の一撃。膨れあがった筋肉は収縮し、骨格が人のものへと戻り、柔毛が抜け落ちていく。死に行く獣は少女の姿へと戻っていった。

 

 死にゆく少女の脳裏に浮かぶのは、最後の記憶。

 

 今日は新鮮な鹿肉を卸す為、彼の店へと向かう。村の中央部、噴水の近くにある彼の店の前には見慣れぬ馬車が一台止まっていた。周囲の村人は困惑と興味の視線を、こんな村落には似つかわしくない華美な装飾をほどこされた馬車に目を向けている。

 

 店の中に入るのを躊躇してしまうが、意を決して店内へと歩を進めた。彼が食材を待っているのだ、足をとどめる理由はない。

 

 「あら」

 

 村ではみない清潔感と派手ではないが、気品を感じるようないで立ちのドレスを着た女性は、こちらを見てまるで臭い物でも見たかのように扇で口元を隠した。それは不快ではあるが、いちいちつっかかるのも彼の迷惑となるだろうからグッと飲み込む。

 

 「では、私はこれで。貴方の為に席を開けて待っておりますわね。これは契約の前金ということで、お納めくださいませ」

 

 傍らに立つ男が、カバンから白い袋を取り出す。袋のフチから除くのは金貨と銀貨。

 

 「では、失礼いたします」

 

 優雅な一礼をし、女性は店から出ていく。こちらに向け侮蔑と不愉快さを感じる視線を残し。

 

 彼はそんなことには気づかず、喜色満面の笑みを浮かべていた、馬車が立ち去るのを待ってから、大きく握りこぶしを振り上げ大声で歓喜の声を叫ぶ。

 

 嫌な予感がした、この先は聞かない方が良いと瞬時に考えたが。聞かない訳にはいかなかった、理性も本能も聞けと脳内に命令がくだし、口が恐る恐る質問の言葉をまるで鉛を吐き出すように言葉を紡いだ。

 

 首都で店を持てる。長年の夢を叶えられる。彼の歓喜の言葉は、そのまま自分にとって呪詛だった。

 

 『あああああああああああ!』

 

 咆哮。男は驚愕の表情を浮かべる。

 

 脳内での記憶巡りを終わらせた少女は、少女の姿に戻った存在は立ち上がった。両の腕がボコボコと再生し、再生と同時に誕生した肉でできた筒状のなにかを握りしめる。人に戻りかけた顔は、半ば獣の顔で固定しボロボロだった足もなんとか立ち上がることができるまで再生した。

 

 筒は、その形状は少女が使い慣れた猟銃だ。引き金を引くと同時に骨でできた弾丸が射出され咄嗟に回避行動をとろうとした男の右肩を削り取る。

 

 「っぁ!」

 

 苦痛による呻き声。少女は目の前にいる存在を正しくとらえていない。姿かたちすらも歪み、混ざり、異なっていた。

 

 あの女が、全てを奪ったあの女が目の前にいる。半分吹き飛び混乱した脳と歪んだ視界が、そう捕えた。

 

 『オまえサえ!おまエさえいなケレば!おマえさえお前サエオマエさエェエエエエ!』

 

 再度構えて引き金を引こうとした瞬間、目の前になにか小袋のような物が投げられる。袋から導火線が伸びており、火花が散っていた。爆発物かと少女は考え爪で袋を斬り裂く。その瞬間、発達した鼻に凄まじい臭気が流れ込んだ。狩りの獲物を逃がさず警戒されないことを第一にする狩人には縁遠い道具、臭い袋。

 

 身体をふらつかせる程の強烈な臭気。隙を見つけた男は大きく踏み込み懐から短刀を取り出し、垂直に構える。心臓部に短刀を突き刺し押し倒し、再生する端から幾度も突き刺し続けていく。返り血が周囲に飛び散るがまだ死なない。まだ、まだ、まだ。頼むから早く楽になってくれ。男はそう念じながら、願いながら幾度となく心臓部めがけて短刀を振り落とした。

 

 どれだけ時間が過ぎただろうか、男は肩で息をする。完全に動きが無くなった相手から身体を退かす。それと同時に、怪物の身体が変化をおこし元の少女の姿に戻る。頭が半分飛び散り、腹部をズタズタにされ、両足は奇妙なささくれた骨が飛び出る程破壊され、心臓に差しすぎてグチャグチャになった刺し傷。

 

 失敗した。男は疲弊した思考でそう考えた。異形は人の形で殺した際、怪物の姿で死亡し、怪物の姿で死んだときは人の姿に戻る。人の姿の時に奇襲をせず声をかけ、変身を促す言葉をかけたのもそれが理由だ。せめて死ぬときは元の人の姿でと考えた結果できたのがこの惨殺死体だ。

 

 いやそれ以前に死にかけた。一筋縄ではいかないと予想はしていたが、最後の再生は予想外もいいところだ。まさか肉が猟銃の姿を形どり骨を飛ばしてくるなど想像の埒外だ。

 

 興奮が収まってきたのか強力な痛みと、吐き気。少女の惨殺死体の前で理性が拒否反応を示したのか、喉奥から湧き上がる不快感にすぐにその場から飛びのき地面に向け反吐をぶちまける。

 

 『大丈夫ですか?お父様』

 

 凛とし、それでいてあどけなさを感じる鈴のような可愛らしい声。男はすぐさまうつぶせ状態から立ち上がり散弾銃に装填、周囲に向ける。

 

 『妖狼ルーガルーの単独討伐、お見事ですお父様。こんな立派なお父様をもてて、娘冥利につきますね』

 

 「ふっ…ざけるな。どうせこれもお前の仕業だろうが」

 

 『ええ、もちろん』

 

 夜の闇よりもさらに濃い深淵。そんな影の中からなまめかしい程病的に白い足が伸びる。交易により他国から仕入れた東方の民族衣装。腰から伸びる白くふわりとした太い尻尾。水色の瞳に銀色の髪の毛、頭部に生えた三角の耳。

 

 「疎まれ差別された彼女は唯一自分を認めてくれていた相手に、叶わぬと知りつつ恋焦がれていた。それでも相手に必要とされていたことに、自身の存在価値をみいだしていた。それが無くなる恐怖と絶望は、さぞ強力な存在へと昇華するにふさわしかったのです。そう…お父様が強くなるための贄として」

 

 散弾銃が火を噴く。散弾が豊満な胸と腹部に命中し血霧を作るが。それを気にした様子もなく微動だにせず、狐の女がほほ笑んだ。

 

 「まだ足りません。お父様」

 

 尻尾が目にもとまらぬ速さで振られる。ガードが間に合わず脇腹を殴られ吹き飛び、身体を壁に叩きつけられる直前ふわりと背中から身体を抱きとめられた。

 

 「お父様はまだ力をつけなければなりません。血を流し肉を削り骨を断つような経験を繰り返し、繰り返し、繰り返さなければ。私を殺すことはできませんよ」

 

 

 短刀を背後に立つ女の首筋に向け突き刺そうとするが、柄を指で絡めとられる。握りしめていた筈なのにまるで魔法のようにあっけなくナイフが奪われ、地面にストンと落下した。背後をとられ、武器を失う。耳元にかかる吐息、生暖かい風と甘い血と臓物を嗅ぎ慣れたなか不意に来る甘い香りは、普段ならば歓喜するものだろうが嫌悪の対象だ。

 

 「なにがお父様だ。こんなデカい娘なぞもった覚えはない。遊郭通いもろくにしてこなかった」

 

 「だが経験はあった。嫌ですね、娘に対して男の情事を言うものではありませんよ?教育に悪い。でもこのような姿の方が、好みなのでしょう?情欲を抱いても受け入れますよ?」

 

 胃袋の中身なんてだいたい出し終わったばかりだというのに、提案に吐き気を男は感じていた。化物の繰り言だと、冷静になれと心中言い聞かせ続けなければ、気持ちが嫌な意味で昂ってしまうのも無性に腹が立つ。

 

 割れ物を扱うように白く細い指が、外套の中に差し込まれる。折れた骨や抉られた傷口を指先が、愛おしそうに這いまわり激痛と苦痛が視界にちらつく勢いで身体中を襲い掛かった。振りほどこうにもそれ以上の力でしめられる。この化物が。

 

 「お前なぞ拾わなければ良かった、見捨てて…野垂れ死にさせていればっ!」

 

 「それは同感ですね。お父様にとっての不幸はそれがすべての始まり。ですが、万物の主でも今更過去は変えられない。私にも反省すべき点が、恥ずかしながら多々存在するものですが、これはもうどうしようもないこと。今は過去を振り返り未来を考えましょう。行き倒れの幼子を拾い、育て、怪物にしてしまった、なってしまった。そしてお父様は私を怨み、私だけを考え全てを投げうってくれる。今はそれがたまらなく愛おしい。家族の情愛とはこのような歪んだ形であっても素晴らしく慈しむべきものなのですね」

 

 「だが獣も人間も親離れが必要だ。子離れできない親の責任か?お前も親離れできないのも問題だな。その首落とさせてくれれば全てが丸く収まるぞ。あるいはさっさと殺せ、今ここで。物理的に子離れ親離れをしちまえば良い」

 

 「足りません」

 

 肩を骨の弾丸が抉った跡に、指先が突き入れられる。苦痛で悲鳴をあげながら、頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響き身体が悲鳴をあげていた。

 

 「憎悪も怨みも全て愛おしいお父様ものは全て受け止めます。ですがもっと長く、もっと強く、もっと激しくしてもらわないと私の渇きは収まりそうにありません。だから今はその時ではないのです。強くなってくださいお父様、この身体に何時か致命を叩きこむまで。それまでは、どうか親離れさせないでください。まだまだ私、愛情に…いえ、愛憎に飢えております」

 

 狂ってやがる。率直な感想だ。それだけの為に、鍛える為だけに村落一つを巻き込む被害をおこし、獣の衝動に任せ愛する存在を食い殺すことでしか自我が保てない化物を生み出したというのか。

 

 情けは人の為ならずとは言うが、地獄への道は善意で舗装されているともよく言ったものだ。最悪の地獄への道を自分がしいてしまい、その道の途上にあったありふれた他人の平凡や幸せに悲しみまで一緒くたになって踏みつぶし道の下にしてしまった。

 

 ふと視界の端、転がる鉄さびの浮いた剣というより棒のようなもの。暴走ぎみだったので無理矢理変形を戻したが、それが再度勝手に変異をはじめ切っ先をこちらに向けていた。

 

 伸びた先端が背後へと流れる。だがしかし音からして刃は、肉を裂くことなくその向こうにあった壁を粉々に砕くのみであった。いつの間に拘束が解け身体が揺らつく、その場に倒れふし息を整えすぐに周囲を見回すべく起き上がったが、娘の姿はどこにもなかった。

 

 『また会いましょう、お父様。来るべき日を、心から楽しみにしています』

 

 空に響く言葉。気配が無くなるのを感じ男は握りこぶしを堅く作った。グローブをしているが、そのまま握りしめていれば爪が皮膚に食い込み出血をしていたかもしれない。それほど強く握りしめていた。

 

 「クソッ…たれがぁあああ!」

 

 男が叫び声をあげる。

 

 男の名はランザ=ランテ。復讐相手に弄ばれる、惨めな存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、お父様。貴方は私が立ち去ったと思っているのですが、今も見ているのです。

 

 気配遮断などとうの昔にまっさきに習得した技術、こうして貴方を見守る為に。

 

 野垂れ死にしそうな小娘を拾い、育て、不慣れながら慈しみ育ててくれた義理の父。血の繋がらない義理の父に向けたのはほのかな恋心。だがそれは、世間というものから見れば例え血の繋がりがないとしても娘が父に向けるものではないことは幼心にも理解していた。

 

 頭を撫でてくれる大きな掌、大味でガサツな料理、知識や教養も必要だろうと本を買い込み、一緒に勉強しつつ私よりも顔をしかめ頭を抱えながら文字と睨めっこする困り顔。娘と父としての時間を、何時までも共に過ごしていれば良かった、それで幸せだった。

 

 だがしかし彼は、妻を迎えた。そしてあろうことか血の繋がったその娘までこさえてしまった。

 

 独占していた私への時間は半分以下にまで縮みあがり、それだけで心の中でまるで煉獄の炎が広がるように内心が焼けただれていく。その笑顔は、自分だけに向けられていた筈なのに。その安らぎは、自分だけが与えていた筈なのに。お姉ちゃんになるんだから我慢しなさい、我慢できるはずがない。あの人の全ては自分のものだった。

 

 地獄しか過ごしたことがないものが別の地獄におもむこうと意味はさしてない。だが天国を覗き過ごしたものが地獄に落ちたのは耐えがたい苦痛であった。

 

 気づけば斧を手にとっていた。気づいていたが安らかな鼾をかく赤子に斧を振り下ろした。そして死体にすがりつき、飛び散る赤子の脳みそを元に戻そうとする母親に、殺意を持って斧を叩きこんだ。

 

 計算違いはそれを見られてしまったこと。おかしいな、お父様は行商の手伝いで別の街にしばらく向かっていたはずなのに。そう思ったが、お父様が手から落とした紙袋が落ちて年頃の娘用の髪飾りと高級な砂糖菓子が転がり落ちる。

 

 ああそういえば、お父様と出会った日。便宜的に誕生日と定めた日が今日だった。

 

 やりましたよ、お父様。と声をかけようとした瞬間、身体が吹き飛ぶ衝撃。壁にかけられた猟銃に手が伸ばされ、発砲されていた。

 

 身体が壁に叩きつけられたが、痛みよりも生命の危機よりも訪れたのは高揚感と恍惚。ああ、その瞳で私を見てくれる、殺意をたぎらせ私のみを考えてくれる、他のなにもかもがかいざいせず真っ直ぐこちらを見つめる瞳に、初めてだろうか。雌として興奮まで覚えてしまった。

 

 もっとこの感覚を味わいたい、甘露の実のようにしゃぶりたい。だが残念ながらこの身体はもう死を迎えようとしている。なんで、なんで、なんでっ!

 

 そうだ…この身体を捨てれば良い。疑問の解は驚く程すんなりと、あっさりと答えを教えてくれた。

 

 さて自分はいったいどこから来たのか、何物であったのか。不吉がられた黒髪はこの周囲では見かけないものであったし、黒い瞳も同様だ。そんな特異な血筋になにかが潜んでいたのか、願いは即座にかなえられた。

 

 髪の色は脱色したかのように銀に生え代わり、身体の傷が治癒されていくと共に変異をし、全能感が心身全てを満たしていく。

 

 化物がっ!そう叫ぶ声が生えた新たな耳に突き刺さる。それすらも歓喜を覚え、それだけで身体の急激な変異以上の幸福が心も体も包み込んだ。この幸せをもっと感じるためには、どうすれば良いか。頭の中でそれはすぐに理解できた。

 

 時が過ぎ、あの時の歓喜と興奮は色あせることなく今なお強烈に鮮やかに続いている。そしてそれはさらなる刺激と憎悪により高い段階に向かっていた。

 

 「ああ、そんな歪んだ顔もいじらしいです」

 

 妖狐は身体をもだえるようにくの字に折り曲げた。口の端から唾液が滲み、下腹部が疼き、身体を抱きしめていなければ暴走してしまいそうだ。

 

 「テンは、貴方の娘は何時までもお待ちしています。何時か最高に憎悪と狂気がこもった殺し合いを、いたしましょう。テンは何時までもお待ちしておりますお父様」

 

 水色の瞳が濁り、黒瞳を片目に浮かばせていた。その瞳は、狂気と興奮に曇りドロリと深淵のような暗闇を浮かばせていた。



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 廃墟といっても、疫病や戦乱で住民が避難していった訳ではない。僅かながら治療の為に必要な道具や食料は家屋に残っている筈である。物盗りとさして変わらない行動であるが、幸いなことに目撃者はいない、みな逃げたか殺されている。原型が残る家屋に入り、手近な棚に近づき中を引っ繰り返す。

 

 この家は村落の中では比較的大きく裕福に見えた、手持ちの治療道具よりもしっかりとした医療道具等が中にあるかもしれない。本当は村の診療所でもあれば良かったのだが、この周囲に見つからず重症で動き回るのは命取りであるため妥協をした。

 

 あとは食料があれば、拝借したいところだ。手持ちの携帯食はあるが、身体のことを考えればしっかりとした料理を食べたいところだ。あの食堂は、ダメだった。調理場の壁が破壊されたさい、食料の類は後に崩れた屋根のせいで瓦礫の下だ。

 

 食料の置き場所は目星がついているので先に怪我を治療できるものを探し、見つける。身体に身に着ける道具類や装備を投げ捨て戦闘用の外套を脱ぎ捨てる。誰かに見られている気がしてふと顔をあげるが、それは巨大な姿見に映る自分だった。

 

 血の気が引いて色白な肌に顔色の悪い顔。瞳は赤いがまるで幽鬼のように生命力がなく、疲労でクマが浮き出ている。血を浴びすぎた水色の髪は、ほぼ赤に染まっていた。

 

 激痛が思考を遮る。落としてしまった救急箱が衝撃で開き中に入った道具が床の上を転がっていく。慌てて拾おうと床を這い、ハサミや消毒薬が入った便を回収していく。最後に遠くまで転がった包帯を回収しようとした時、褐色の足がその包帯を軽くつま先で止めていた。

 

 極大の危機感。痛みを無視して、事実無視はできないが気にしていられない。床に落ちた散弾銃を拾い銃撃。散弾は窓ガラスに当たり木片とガラス片を散らすのみにとどまった。

 

 「何時までそんな玩具に頼るんだ?相棒」

 

 右から声、銃口を向けようとしたが肩を踏みつぶされる。銃弾で抉られテンに押し広げられた傷口を直接踏みやがる。この野郎!

 

 「ざまあねえな。最初から俺を使えばあんな雑魚にも雌狐にも後れをとることはなかった。なにを遠慮しているんだ?なあ俺と、お前の仲じゃないかよ」

 

 「ふつー相棒っつ…てのはな!開かれた傷口に踵を差し込んで踏みにじりは…しねえ!」

 

 「それは、よりにもよって俺に向けてそんな玩具をぶっぱなしたお仕置きだな。でも嬉しいだろう?只人が死なない程度に俺に踏まれるなんて例え人生が七度あっても訪れるものじゃねえさ」

 

 足の先には細いように見えて頑強な胴体と形の良い胸。金色の瞳が愉悦の色が浮かび、舌なめずりをしている。身体中には背中から生えた血菅のような紐に連結された幾本もの刃。それが身体の女性が見せてはいけないものを隠してはいたが、見えていたとして大して変わらない。

 

 こいつが、この悪竜が、この姿で現れたことはとんでもなくよろしくない。連結刃を覗けば、申し訳程度に自分は竜ですよと言わんばかりに身体の一部に鱗を覆っているだけの痛い小娘だが、本質は最悪で災厄だ。身体をさらす相手に再度銃撃、しかし弾丸は折り重なる刃に防がれ火花をあげるのみに留まった。

 

 「だからこんな玩具に頼るなよ相棒。俺だって女の子なんだぜ?嫉妬しちまいそうでしょうがねえよ」

 

 「常識論で考えて、相棒と言われる存在に向けて銃撃はしない」

 

 「つまりそういうことか?」

 

 悪竜は楽し気に笑みを見せた。相棒などとのたまうが、こちらが気を許した瞬間こいつはこちらの身体を貪り食うことになんら躊躇いもないだろう。その程度の関係、危うい綱渡りだ。正直実力に釣り合わない武装であることは自覚しているが、好むとも好まざることこれを使わざるえない自分の天運には唾を吐きたくなる。いややはり、できるなら使いたくない、どこかに山の中にでも穴を掘って投棄してしまいたいくらいだ。

 

 「分かってんだろ?今日だってお前は俺に泣きついてきた、俺はそれに応じてやった。そんな玩具であの狼娘を殺せると思ったなら、そいつは初見で聖職者が変じた獣を殴り倒すくらいの実力がほしいな。まあ、あの話は多分ほら吹きだがよ」

 

 「あれ程の獲物を前に銃だけで事足りてしまえば、お前は確実に邪魔をしに来ただろう。適当な理由をつけてな」

 

 正解と、言わんばかりに踵がもう一ひねりされる。傷口が大きく広げられ今日何度めかも分からない悲鳴をあげる。強敵相手に使わなければ気を害し、使おうとしたらすぐには反応せずに焦らし、使ったら使ったでこの仕打ちだ。悪竜云々はもとより人格的に最低のドSが、呪われろ。

 

 「なあなあなあ、今はよ、俺の出自のことはすべて忘れてくれねえか?お前は俺を扱いこなし、隅々まで理解し屍の山を築くことことそがあの雌狐を屠る為の唯一の方法だ。近道とかそんなんじゃねえ、もう一度強調して言うぜ?『唯一』の方法なんだぜ。あの雌狐の格はどこをどう違ったのかまともじゃねえのは確かだ。只人ごときになんとかできると思ったら大間違いよ」

 

 ようやく傷口から踵を離す。四つん這いになり覆いかぶさり、喜色満面の笑みを浮かべてこちらの顔を覗き込んだ。

 

 傷口に舌を這わせ血をなめすすり、艶っぽい吐息を漏らす。

 

 「まったく手間がかかるガキだぜ。俺が最初から手の内にあったならこんな傷だってつかずにすんだのによ。まあいい、サービスしてやるよ。今度はもっと俺に頼れるように魂に立場ってのを刻んでやる」

 

 「クソ…やめ!」

 

 停止を求めた声は無駄に終わった。悪竜の顎が裂け鰐のように大きく開き傷口よりも更に大きく肉と骨を抉り取った。さぞ美味そうに目を細めながら咀嚼をし、喉をゴクリと動かし体内に肉と骨をまるごと咀嚼する。大量の出血が部屋中に飛び散り脳内に危険信号が鳴り響く。

 

 「なんだ相棒、あばらの骨も数本やられてやがるなぁ。それじゃこれも」

 

 ゴキリという音と共に肉と皮と共に骨が持っていかれる。こちらは死にそうで仕方ないほどの激痛だというのに、目が潤んでやがる。恍惚に表情を染め、息を荒げ、まるで激しい性行為の最中であるかのように肉を咀嚼し骨を砕き血を飲み干す。

 

 只人の肉でここまで喜べるなら、そりゃあ悪竜には生贄を捧げるという儀式が肯定される訳だ。なんて適当なことを考えていなければ発狂してしまいそうだ。いっそ狂えば、なんて考えてしまったがすぐにあの雌狐が、テンの顔が頭に浮かぶ。それだけで意思に力が戻る。こんなところで狂ってしまえば、いったい誰が報われる。

 

 「ああ、その目だよ。あの日と同じその目が俺は好きなんだ。濁り腐り、そんな瞳でも光を失わず前を向こうとしている。それでこそ俺の相棒に相応しい」

 

 悪竜は、傷口に手をかざす。贄と引き換えの治癒による術式。手をかざした瞬間、抉られた傷口から骨が整形され肉が盛り上がり血が溢れる。皮膚が肉の上を覆っていき、傷口を塞いていく。

 

 「あっがあああああああ!」

 

 激痛に身をよじり悲鳴をあげるが、傷口が塞がるにつれ痛みが消え失せ、急激に眠気が襲い来る。実体化しているこの悪竜の前で意識を失うなんて、屈辱もいいところだ。

 

 「今は寝ておけ、俺が見ててやるからよ」

 

 人の口に戻った顔で血をぬぐい、悪竜はほほ笑む。抵抗をしようと試みるが、疲弊を重ねた身体はあっさりと眠りにいざなわれ、意識を手放した。だが最後までその瞳は、濁った目で相手を睨みつけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 悪竜は考える。世は既に人の時代、神も悪魔も竜も衰退して久しい。

 

 投石で巨人を殺した英雄がいたように、技術に医療、ペンと印刷機は神をも殺す投石器へと昇華した。知識の共有の容易さと人類の緩いが広い連帯。そしてその数の暴力。超常の奇跡よりも華美な神殿と中身の無い像に信仰は集まり、悪魔の知恵よりも書物の知識が頼られ、竜の甲殻は装飾品や珍品に成り下がる。

 

 悪竜などともてはやされたのは当の昔、死に場所を得られず時代に取り残された竜の力は、全盛期に比べると良くても三割に満たぬ程衰退していた。竜狩りと呼ばれる存在に幾度も追い回され、消耗を繰り返し、せめて霊脈残る古き地へと落ち延びようとした。

 

 殺されるのは仕方ない、今日まで自分は悪名を馳せ楽しみすぎた自覚はある。だがせめて最後は力を蓄え、一矢報いてやろうと。せめて暴れに暴れ、神話の最後を飾る一ページになってやろうと。俺を倒した英雄を万年先まで語られるような素晴らしい英雄譚、その悪役に!だがしかし、未開の蛮地まで人は押し寄せてくることはなかった。時代遅れの竜一匹、高い金銭を払い探検隊を組織して追うまでもない、その程度の価値もないと無視をされたのだ!かつて複数の国から毎年のように千人単位で生贄を捧げられていたこの俺が!

 

 惨めだった、悔しかった、悲しかった。自分は既に過去の遺物なのだと、討伐隊に追い立てられた時よりも感じたのだ。あれからまた幾年の年月が過ぎたか、荒れ地や蛮地と言われた土地は開拓されていき、さらなる土地を求めて人の子が探索をしてきた。

 

 そのころのにはかつての力は失せ、一割に満たぬ力しか残されていなかったが。とある探索団の一団がそんな悪竜と対峙する。伝承にかろうじて残る、神話の存在。

 

 亡骸を持ち帰れば一儲けできると考えたのか、探索団の団長は襲撃をしてきた。だがしかし腐りきっても竜、たかだか十数人程度造作もなく返り討ちにできる。襲撃を指導してきた団長の女を瞬時に引き裂き挽肉に変え、指揮能力が消えた一団を半壊に追い込む。

 

 恐怖と怒りの悲鳴と命が途切れる感覚は、長い余生のほんの慰みとなった。と本来ならばこれだけで話は終わるところではあったが、竜は自分の物語がまだ終わっていないことを確信した。

 

 若い男がいた。目立たない存在だと思ったが、男は諦めない。手持ちの道具と生き残りをまとめ、最後の最後まで抵抗をやめない。戯れに放つ一撃も、人一人楽に絶命できるものであるが、恐怖を乗り越えこちらに一矢を報い、一人でも生きて帰そうとあがくその男の行動。

 

 ああ、英雄だ、待ち望んだ英雄だ。竜は内心歓喜をした、涙を流した、だが悲しいかな、男は若すぎる。自分を殺すにはいたらないだろう。だが今はこんなものでも、きっとこの先は…自分が追い求めてやまなかった、歴史書に書かれない物語を魅せてくれるはずだ。かつて自分が刻もうとして、失敗してしまったものを!

 

 悪竜は追い詰められた、ふりをした。最後の抵抗の演技をした、その演技で男の仲間は全滅した。血にまみれた男の一撃を受けた、ふりをした。力を失い身体を崩し、どこかの誰かが妄想した竜を封じる為の神剣という、骨董品なガラクタに封印されたことにした。

 

 悪竜は決めたのだ。もはや自分は埋もれた存在、歴史的には過去の遺物であり現在の自分になんの価値もなどない。だからこの英雄が血を流し、苦しみ、最後には万人に認められる栄光か、誰にも顧みることもないが知る人ぞ知る栄達を掴むのを見届けてやろうと。

 

 目論見が外れ例えこの先、平々凡々な日々であろうと人の寿命なんて自分には刹那。軍でも専門家でもないのに自分に最後まで諦めず挑みかかった英雄を看取ってから自分も長い眠りにつこうと考えた。

 

 問題はこの男から離れないこと。男から離されようとしたら、封じられた竜らしく封印が解けかけたと暴れよう。それだけで問題はおこらなかった。お前が持っている間は、大人しい骨董品だよ。

 

 そして男は今、悲劇と悲運の中にあり、濁った瞳をしながらも暗い熱を蓄え血と臓物が溢れる道をかき分け進んでいる。空虚と平凡とは正反対の道を進む男の道に悪竜はすっかり魅了されていた。

 

 「俺が近くにいてやる。お前を護り、刃となり、血を恵み、肉を捧げてやる」

 

 悪竜の身体に激痛。本来他者を癒す治癒の儀式は同等以上の血肉と命を代価に行われるものだ。死にたくないと喚く凡愚と呼ばれた重篤の王の為に、何十人もの生贄を捧げさせその身体を治癒させたこともある。

 

 だが今は、足りない代償でほどこした儀式のせいで。人を模した身体に同等以上の痛みや苦痛を受けていた。こんな痛み、普通の人間ならば苦しみのたうち回っているんじゃないかなと思う。だが男は、ランザは泣き言一つ漏らさない。そしてそんな状態にも関わらず、悪竜たる俺に油断もなく武器を向けて来る精神力の強さ。

 

 ああもう、何故こんなに愛おしい。俺の英雄、俺だけの英雄。苦しんでくれ、苦難にぶち辺りのたうちまわってくれ、千の夜を嘆きで満たし、そのうえで諦めず進んでくれ。俺にその物語を魅せてくれ。

 

 「なあ相棒…いや、俺の英雄様よ」

 

 恋に火照る乙女の顔で、悪竜は首筋をひと舐めした。どこかでまだ見ている化け狐に見せつけるように。

 

 悪竜ジークリンデは、今この瞬間を心の底から楽しんだ。独占欲というのだろうか、こんな感情は長年生きてきて初めてだ。初めての感情に高揚するように、ジークリンデは長い時間男の汗と血の味を堪能し続けた。

 

 「雌狐、お前の『お父様』はもう俺の物なんだよ」

 

 ジークリンデは、宙に向けてつぶやいた。その爬虫類を思わせる瞳は、爛々と輝いて見えたが、彼女の英雄同様濁った輝きを放っていた。

 




 聖職者の獣を初見で素手で倒した人。Bloodborneプレイヤーの間で、知っている人は知っている、偉大なるレビュアーたる上位者栗本のことです。

 初見で武器を取らずに死なずにボスまで倒した功績を追う行動は、一部界隈にて栗本チャレンジというやりこみとして語り継がれています。 

 なお、この栗本という人物のレビューにおける真偽の程は…非常に怪しかったりします。


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森の毒針


 広大な大陸の西南、海に面し巨大な貿易港を持つリスム自治州。州と同じ名前を持つ港街リスムは相も変わらぬ活気に満ち溢れていた。複数のルートを持つ貿易路と巨大な捕鯨船、そしてそれを加工する港に面した加工場はリスム自治州において大きな財政を担う存在だ。

 

 特に鯨油は、まだ活用の歴史は浅いものの様々な用途が見つかりつつあり各国が資源確保の為に高値で購入してくれる金の泉と言われている。使い道としては灯火用の燃料に蝋燭や洗剤の素材、潤滑用の油や魔術の触媒に薬の材料、変わったところでは農業用の害虫駆除剤として他国から買い付けに来る商人だって存在している。

 

 鯨油に限らずともその巨体の肉は安価で民衆の腹を満たすのに役立ち、食用に適さない部分でも肉から骨まで油を搾り取る為の用途に利用される、まさに鯨に捨てるところなしだ。

 

 パンパンに油が詰まった樽を運び馬車に積み込み、その馬車が離れたら次の馬車に再度樽を積みいれる。冒険者ギルドなどという真面目に働くことを嫌い、刺激と成り上がりを夢を見た少年少女達が憧れ、刺激的な生活を求めて門戸を開く先に待っているのはこんな日雇い労働だ。

 

 民衆を襲う害獣の討伐でも、盗賊団の撃退でも、未知の遺跡の探索でもなく、誰もやりたがらないような臭くてキツイ仕事を優先してまわされ、壊れても幾らでも替えが効く。はて冒険者とはなにかと首を傾げたくなるところだが、過去の探索と発見の時代、未来の入植や開墾予定地を探す為危険な未開の地へと捨て駒のように送り込み二十人に一人帰ってくれば良いくらいの軽さで、死んでも困らないような者を集める為にできた組織である。

 

 英雄譚で人を引き集め、人柱として活用すること。それこそが冒険であり、そんな冒険が必要なくなりつつある現代では代替可能な人員を安価で集めることが目的の組織というのが実態だ。

 

 それが公民により運営されている冒険者ギルドであり、地下にいけばまた別な人身御供のような悪辣で危険な冒険者ギルドがあるのだが、どちらにしても憧れや英雄譚からほど遠い存在だ。

 

 世間知らず達が夢見るギルドの仕事というのは、大抵は商会や国が実力があり個人で事務所を構えるような傭兵達の依頼するものであって、信用も学もない連中に任せるものではない。そんな連中が使える先は消耗品のような労働現場、それが上の考え方である。

 

 だが利点もやはりないものではない。ギルドのが運営する各地の安宿には、輪にかけての安価や無料で泊まれるし、併設された食堂には安酒と簡易な料理が材料費がほとんどの安値で提供されている。定期的にギルドの仕事を受けなければそれを使用する権利が剥奪されてしまうが、それでも各地に取りあえず横になれる寝床と腹を満たす料理が出てくると考えれば早々投げ捨てて良いと思える権利ではない。

 

 そしてこの手の単純な力仕事は嫌いではなかった。これも鍛錬だと割り切り、鍛錬により金銭がもらえるのならば悪い話ではない。幸い鯨油を扱う漁港組合からの仕事は確かに辛いが、金銭的には他所の仕事より格段に恵まれている。

 

 ふと視界に、武装満載の捕鯨船が目に映った。大陸最大手のオーデン技術連合と帝国魔術院の共同開発されたと噂される武装が満載された捕鯨船は、港の中であるためその兵器はしまわれ覆いを被されているが、三国が集めた大艦隊の一員として民間船として参加をし長年交易路である大海に出没し数多の船員達に悪夢を見せた海竜リヴァイアサンの討伐に貢献したとして歓声と共に凱旋を果たしていた。

 

 鯨油による黄金時代が加速したのもその後からであり、人は陸でも海でも着実に勢力圏を広め過去の恐怖と畏怖を克服しつつあった。

 

 だがしかしと、ランザは思う。外敵の弱体化に合わせるように、人の内部から異形が存在し始めてきた。あのルーガルーにしたって、テンの介入があったとはいえただの村娘であった。神話の時代はとうに終わりを迎えている。これからは、人の敵として人が異形なりえる時代となったのか。人と人との争い等日常茶飯事だというのに、これ以上抱えこむか。

 

 作業終了の鐘が鳴る。時刻は夕刻近く、作業証明書に判をもらいそれを冒険者ギルドに提出し、手数料を差し引かれた報酬を受け取る。この後再度寄るところを考えたのだが、思いとどまる。作業用の麻布で作られた上着ごしに身体を触る。ルーガルー討伐から数日、悪竜ジークリンデの治療というか呪いのような儀式の影響は見られないが、しばらくは無理をせず様子を見るべきだろうか。

 

 伝承では古の凡愚王ガルダスの不治の病を多数の生贄と引き換えに快癒させたという。病と怪我という差異はあるが、贄無しに治療をしたという善意の施しをするほど丸くなったと考えるのは流石に無理がある。遅効性の呪いかはたまた別のなにかがある、そう考えるのが自然だ。

 

 あるいはあの悪竜のことだ。贄等必要ないのに、自身の歪んだ楽しみの為に多数の命を捧げ命乞いする為政者というのを見て嘲笑いたかっただけかもしれないのだが。

 

 港から通りに出ると、大きな天井つきの金持ちが使う馬車が止まっていた。御者がこちらを見つけ恭しく頭を下げ、いぶかしげな顔をしたが、馬車から降りて来た人物を見て疑問は解消された。

 

 「久しいなランザ。昨日は尋ねてきたようだが、会うことができずに悪かった」

 

 顎を一周する髭に赤髪、大柄で服の上からでも分かる程の筋肉隆々で無骨な身体。眉の上から頬まで鋭い爪痕を残し、その身体には似たような傷がこれでもかと存在する古参の戦士。帝国で五本の指に入る巨大な、民間武装組織たる『掲げる大盾』。冒険者ギルドの連中が本気で羨む組織であり、このリスム自治州において支社を任される男が馬車の扉を開いていた。

 

 「地下迷宮に探索者気取りで侵入したボンボンの捜索と保護。金回りもよさそうだが、大手に入る仕事は胃が痛くなるものばかりだなグロー」

 

 受付から聞いた不在の理由を話す。この手の依頼は守秘義務も絡むものだが、支部長同様受付の男も古くからの知り合いであり掴み得た情報だった。やけに疲れたような表情から、どんな結末になったかは想像がつく。

 

 「その顔からするとボンボンは怪物の胃袋だったか?」

 

 「幸か不幸か生きていた、二度と人前にはでれない顔と身体になってしまったがな。まあ顔色が悪いのは別の理由だ、今はいい。話をしに来たのだろう?俺もだ、乗ってくれ」

 

 グロー=カザルタフ。古くは未開地の探索と開拓で送られた、今では数少ない探索者達の生き残り。最後の探索前に編成の都合で別々での行動となったが、随分と長い間背中を合わせ同じ釜の飯を食った仲だった。

 

 馬車に乗り込むと、御者が馬を走らせる。四人乗りの馬車であったが、目の前の男のお陰で圧迫感がすごい。

 

 「ここ最近の異変について、ついに上が帝国が本腰入れての調査を開始した。お前が前に話していた狐について、改めて教えてくれ。いったいなにがおこっているんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 掲げる大盾は、民間武装組織。身も蓋もない言い方をすれば企業から個人まで依頼を通して行使できる制御された暴力装置である。

 

 主だっては治安組織では手に余るような強盗団や賞金首、テロリストの討伐や、街外や地下迷宮から這い出てきた人に害をなす異種や怪物の掃討。商業隊の護衛やパーティー等催し物の警備など荒事が絡みそうな依頼を幅広く受けている。

 

 当然ながら厳重かつ様々な審査が依頼が通るまで必要で、ともすればそれが武装したごろつき集団になりかねない組織を正義の味方側として制御をしている。悪事への加担は許されない、という訳だ。

 

 異形ひしめく地下迷宮や不法滞在者や禁制品が出回る地下街、闇組織や武装ギャングが縄張り争いをする地域まであるここリスム自治州において、掲げる大盾は民間人保護を第一の信条として動いているため役所や企業にウケが良い。

 

 つまり金回りが良い。支部長室には様々な彫刻や巨大な絵画、ともすれば成金趣味と言えるような装飾が並んでいた。

 

 「正義の事務所の支部長室なのに、タチの悪い汚職警官の所長室に来た気分だな」

 

 「前支部長の趣味だ、俺の趣味じゃない。貼るならマリア=テレジアの裸婦画か、伝説のポールダンサー、メリ二ムの奇跡を切り抜いた絵が良い。飲み物はいるか?」

 

 「コーヒーと言いたいところだがお前の事務所は豆が悪い。あの質の悪い泥水はここ以外では警察署でしか飲んだことがない」

 

 「それは俺の趣味だ。ミルクと砂糖と練乳をたっぷりぶちこんでさらにタチの悪いものにして出してやる」

 

 扉側に待機していた秘書に向け頼むと一声かける。女性ではあるが仕立ての良い執事服を着ているが、恐らくは彼女も荒事慣れした人材だろう。足さばきだけで分かる。

 

 大きなソファーとその前にあるテーブル。その上にグローは数枚の紙を投げ出した。

 

 「人が異種ないし怪物に変異する現象は、確かに以前から観測されていた。だが精々五年に一度あるかどうかくらいの局地的なものであり、変異したものの野垂れ死にしているか、言い方は悪いが住民から迫害を受け死んでしまう程脆いものだ。だがここ数年はどうだ、うちの支部だけでも把握しているのは三か月で十六件。被害も洒落にならん。三年前お前がここに来たときは、変化の予兆すらなかったというのに爆発的に増えている。あの時は、家族を失いお前が混乱しているだけだと思い対策が後手に回ってしまった。まずそれを謝罪させてくれ、すまなかった」

 

 紙を拾い上げると、各地でおきた事件の調査報告書が並んでいた。その紙の向こうで、グローは大きく頭を下げる。

 

 「人の異形化なんて吸血鬼伝説みたいなもんだ。存在はするらしいが見たことがある奴は驚くほどに少ない。まして目の前で娘が異形化した姿なんて、ショックで記憶を捏造したと考えてもおかしくはないのは分かる」

 

 だからこそ、だ。

 

 「力を貸してくれグロー。俺には調査の為の組織力は、ない。持ち得る情報をすべて渡すから、協力をしてほしい」

 

 「話を聞かせてくれ」

 

 扉が開き、先程出ていった女性がコーヒーを入れてきた。本当に自分の目の前には明らかに様々なものが入れすぎな色をしたコーヒーがおかれたが、文句を言わずにそれをすすることにする。どぎつい甘みの暴力を舌先で感じながら、どこから話すべきかと逡巡。

 

 結論として、改めて最初から話すことにした。自分が衝動的に義理の娘に向けて猟銃を放ったあの瞬間より、更に前から。

 

 娘は、テンは拾い子だった。海にて、浜辺に流れ着いたマストにしがみついていた彼女を保護したのが始まりだ。

 

 物静かでひっ込み事案であり友達を作るのが苦手。運動は苦手だが手先が器用。本を買い与えると凄まじい勢いで吸収していき、勉強を教えていこうかと考えていた手前であるのに、自分で図書館に通うようになってからはあっという間に追い抜かれてしまった。

 

 つまりは捨て子で、普通の子供に比べ知識の吸収は早いが、それ以外どこにでもいるようなそんな娘だった。

 

 だが娘は、斧で後に結婚した妻と赤子を惨殺。その数日前まで、なんら変わらない様子であったというのに。

 

 

 「卵が先か、鶏が先かだな」

 

 「なんだって?」

 

 「つまりお前の娘、テンはお前の話を聞いた通りならば、殺した瞬間変異を開始した。だがしかし、そういう因子のようなものがあり、それがなんらかの影響で目覚め凶行を行った。つまり、殺してから変異したのではなく、殺す前から既に変異を終えていたと考えられはしないだろうか」

 

 グローの言葉に、考え直す。殺す前から既に異変は終わっており、それが原因で妻子を殺害したのか。自分の目には、猟銃で殺した瞬間あの姿に代わったかのように見えたためその可能性を考えつきはしなかった。どちらにしろ、殺すには変わらない為考えてなかっただけかもしれないが。

 

 「お前の奥さんとの結婚式には俺も出た。テンという娘にも会った。謝罪した手前ではあるが未だに信じられん。あんな大人しくか細い子が、この一連の事件の黒幕かもしれないと考えるには未だに理解が及ばない自分がいる。未知の呪術で無理矢理変異させられたなんて、なんらかの外部的要因が絡んでいるのではないかと考えてしまうんだ」

 

 「だとしても変わらない。テンは俺が殺すし、もしお前の言うと通りならばその呪術をかけた奴も殺す。奴のせいで、この加速度的な異変の増加はもう疑いようもないんだ。その原因はあれを育てた俺にある」

 

 グローは険しい目をこちらに向けてきたが、すぐに首を小さく左右に振り小さくため息をついた。そして続く言葉を紡ぐ。

 

 「帝国の情報部と研究チームも動いており専門の対策チームを編成しているらしい。どうやら今の研究所長が外国から流れてきた札呪士のようで、故郷の国で似たようなことがおきたことがあったらしくそれにならい人妖と正式に名付けられたらしい。今はまだ知る人ぞ知るだが、いずれどこでも通じるようになる」

 

 「そうか」

 

 人妖。正式に名前がつき帝国程の巨大な国が調査に乗り出しているのであれば、情報にさえ価値が付加され値がつくだろう。つまり金銭目当てに動くものも出てくる。情報網が活きてくればこれまで以上に調査が楽になる筈だ。

 

 「親が浮かべて良い顔ではない。いくら憎い相手といえ、自分の子供のことで」

 

 グローに指摘され、顔をあげた。部屋の壁にかけられた趣味の悪い調度品の鏡には、やつれた悪鬼のような微笑みを浮かべた顔が張り付いている。

 

 

 「月並みだが、復讐をやめる気は?」

 

 「なにを言っている」

 

 「お前まともに睡眠をとっているのか?最後に食べた食事はなんだ。ここ数年身体は鍛え直されているがそれとは真逆にまるで幽鬼を見ているようだぞ。お前、家具職人になっていた時期があったな、知り合いの工房にいる親方が、お前の作品を知っていて是非うちにと…」

 

 衝動的に立ち上がり、テーブルに足を叩きつける。頑丈な筈の高価な机は中央に向けヒビが入り爆ぜ割れ、上に乗っていたコーヒーカップや書類が床に散乱し、陶器が割れる鋭い音が響いた。

 

 視界の端で、執事服の女性がまるで魔法のようにどこからともなくレイピアを取り出すのが見えたが、グローは座ったまま手をあげてそれを静止。しばらくの間睨みあいが続いた。

 

 「……お前は」

 

 先に言葉を放ったのは、こちらだった。

 

 「お前は数少ない戦友で、今は貴重な親友だと俺は思っている。些細な行き違いで、こんな喧嘩はしたくない、同感だと言ってくれないか?」

 

 それからたっぷりと数分、沈黙が続いた。観念したようにグローがため息を吐く。

 

 「同感だとは言えん、それだけは言えない。だが今のお前を止めることは、それこそ命をかけた説得をしてもなお足りないと痛感した。口惜しいがな。俺はお前の立場に立てない、復讐の気持ちを誰よりも理解して肯定するのはやはり自分自身だからだ。他人の浅い理解で説得はできない」

 

 「それでも良い。お前と仲たがいしたくないのは本当だ。机、悪かったな」

 

 ソファーに再度座り込む。一口も飲んでいないと肩をすくめるグローを見て、少しだけ表情が緩んだその時だった。

 

 「支部長!昨日の件で話が!」

 

 ノックも無しに踏み込んでくる。年は十代後半程だろうか、整ったルックスではあるが幼さが残る表情をした金髪の男が無遠慮に侵入をしてきた。

 

 「これは」

 

 「来客と話し中だ!それに昨日の話は既に終わっている!」

 

 流石に入室した際の状況が、破砕されたテーブルを挟んで向かい合う二人の男の構図ということで驚愕をしたようではあるが、グローの苛立たし気な言葉に意識を戻したようである。

 

 「終わっていません!何故あの男を腐りきった自治州警察に受け渡したのですか!説明を要求します!」

 

 男は引く様子はない。来客がいるといういのに大した面の皮の厚さだ。

 

 「我々は私刑を行う集団ではなく法治による管理された民間武力組織です。我々には法の元に行動する権利と義務があります」

 

 女性がグローに代わり応じる。だがしかし、その言葉を聞いて更に激昂しそうに表情を歪ませていた。

 

 「新入りか?」

 

 「例の、頭痛の種だ」

 

 女性となにやら言い合いを続ける男を見て、頭を抱えて大きなため息をはく。剛腕で戦闘集団の支部長まで上り詰めたグローであるというのに、何故こんな若造の無礼をそのまま放置しているのだろうか。

 

 「くどいぞ!今すぐ退出を命ずる!」

 

 「あら、良いのかしらそんなこと言って、お父さんから彼には可能な限り融通を利かせるように言われているでしょう?」

 

 栗毛の少女が続けて部屋に押し入ってくる。ロングソードと軽量化ライフル。武器の種類だけでみれば一般的なものであったが、華美な装飾をほどこされた剣と高貴な彫刻がほどこされたライフルはとてもではないが実戦向けには見えない。

 

 「直接内部に干渉できる程の効力はない」

 

 「だけど、彼の意見を蔑ろにする程効力が弱い言い付けでもない。そうでしょう?」

 

 何者なのかは知らないが権力を盾にという言葉がこれほど似あう相手というのは初めて見た。少なくとも、この場に似つかわしくないように思える。栗毛の少女の一言に鬼の首をとったかのように、男はグローの許可もなく再度強気な口を開いた。

 

 「あの男は地下迷宮にある秘密の一室にて密やかに非合法組織から買いあさった女子供を慰みものにし、禁止麻薬を乱用し、仲間達とおぞましい行為に身をそめていた!偶々その秘密パーティーのすぐ近くに異形が現れたせいで戻れなくなっただけで、何人も女達を囮にして自分だけでも助かろうとした愚物だ!」

 

 「だから法に裁いてもらうべく、警察に突き出した。女達は保護ししかるべき施設や病院に搬送した。なんの問題がある」

 

 「この自治州の法に問題がある!あの男は金の力で牢獄とは無縁の広々とした空間でワインを飲みながらメイドの世話を受け刑期の終わりを待つのみで終わるだろう!犠牲者の心を思わずぬるい法に任せてなにが正義だ、掲げる盾だ!」

 

 金持ちだけが入れる特別牢というのは、実在する。そこでは数万種類の書籍や豪華な個室に世話役のメイドまで入ることができ、大道芸人などが芸を披露し女を買うことまでできる、外に出れないためだけの金持ち御用達の牢獄というなにかだ。

 

 「現状を憂慮し待遇の公平化や裁判の透明化を目指す者達も全力で活動をしている、法の中でだ!我等が率先して法を破り私刑を平然と行うならず者集団となれば彼らに顔向けできようか!」

 

 「遺族や被害者にも顔向けはできません!彼らの代わりに正義の名の元に断罪をし被害者の復讐をしなければならない!奴らは反省なぞしない!」

 

 「それでも奴は数年以上は牢獄だ、後に続く被害者を絶つことはできた!我々にできることは警察組織に協力をし治安を改善、奴に違法な奴隷売買をしたマフィア達の活動を制限し潰すことだ!」

 

 「非合法組織の奴隷売買を潰しても、自治州法が認めている人身売買は合法だ!警察は賄賂で腐っている!なんの意味がある!あんな男殺して見せしめにした方が「正義だとでも言いたげだな」」

 

 ヒートアップをし、敬語を忘れた男の言葉につい口を挟んでしまった。

 

 「誰よあなた。彼の邪魔をしないで」

 

 栗毛の女がロングソードに手をかけた。ここで本気で抜くつもりなのか、表情は険しい。

 

 「ただの外様だ、気にするな。」

 

 「いいえ、気にします」

 

 多少冷静さが戻ったのか、男はツカツカと歩み寄りこちらを見下ろした。嫌悪が混ざった敵意を帯びた目である。

 

 「初めて見る顔ですね、お名前は?」

 

 「人に名を尋ねる時は…というのは手垢がつくほど言われているマナーだ」

 

 それだけの言葉に怒りのあまりロングソードを半ばまで抜こうとした少女を男が手を前にだし止める。だがしかし、その表情は怒りのあまりひきつっていた。

 

 「レント…レント=キリュウインです」

 

 「ランザ=ランテだ」

 

 「ではランザさん。貴方は悪を断罪するのが正義だというのを否定するつもりですか、是非ともそのお考えをお聞かせください」

 

 グローは苦々し気に額を抑えため息をついた。適当に相手をして追い払えと、目が語っている。不用意に口をだしたお前にも、この面倒の責任ができてしまったぞと語っているようにも見えた。間違ってはいないだろう。

 

 「ではレント、お前にとって法とはなんだ」

 

 「欠陥はあるものの正義の天秤です。そして天秤を触る者が腐っていては、意味のない長物でもあります」

 

 「だがしかし、それを改善する努力をするもの達もいるのは確かだ。帝国では四年前に奴隷解放宣言と奴隷売買禁止法令がだされた、ここリスム自治州でも市民活動や抗議運動等の動きもあり、人身売買反対派の議員達も議席を増やしつつある。法曹にメスが入れるまであらゆる人間が努力をしている、欠陥ある天秤を完璧に近づける為にな」

 

 「だがそれでは間に合わない。目の前で苦しむ人達を前に力のあるボク達が立ち向かわなくて良いという道理はないでしょう」

 

 「だがそれは違法だ。歯がゆい思いをしながらも改善に向け努力をしている者達の努力を、踏みにじる行為だ。お前は抗議運動に参加したことはあるのか、署名活動は?政治家の討論会を聞いて内容を考えたことは?法について一度でも深く勉強をしたことはあるのか」

 

 「関係ないじゃない!なにこいつうざ「外野は黙っていろ!」」

 

 前に出てきた栗毛の女だが、大きな声に驚いたのかその場で立ち止まる。ランザは声で驚いて止まったと思ったが、実際には底冷えする濁った瞳にたじろいてしまっていた。

 

 「それでもどうしても加害者を殺したい、我慢できず殺害したい、法になど任せたくないと思うのは、ほかならぬ被害者や遺族の怒りだ。そうでなければ一歩も前に進めないほどの悲嘆と怨恨を持つ者達が最後の一線を飛び越えて、法を無視する権利を違法に持つ。無論それは不毛だ、正義なんてない、意味すらないかもしれない。そして努力する全て者の意思と更生の機会すら与えず相手の命を踏みにじる行為、それが復讐だ」

 

 半歩、足を後ろに動かす。ユラリと立ち上がったランザの目を正面から見てしまい、無意識に身体が逃げの体制に入ってしまっていた。

 

 「復讐を、それも第三者が行う私刑を二度と正義などと言うな。そんな言葉でくくるな。反吐がでるクソガキ」

 

 「ぐっ…うっ」

 

 今すぐにでもこの場から立ち去りたい衝動にかられ、踵を返し扉もしめずに部屋から出ていく。その後ろを慌てて栗毛の女がついていき、部屋内に静寂が戻った。

 

 「すまんな、若いのが迷惑をかけた」

 

 沈黙を破ったのはグローの言葉だった。立ち上がり、自身の執務机に座り替えのコーヒーを女性に頼む。

 

 「なんだありゃ」

 

 「帝都で大物政治家の娘に気に入られた成り上がりの新米職員。才能はあるようだが、自分勝手で組織としての行動ができない、正直不要な人材だ。本部から押し付けられてしまってな。不甲斐ないところを見せた」

 

 執務机の中から紙を一枚取り出し、広げる。契約を交わす時に扱われる公用書であり、そこにスラスラとなにやら書き込んでいった。

 

 「簡易書式で悪いが詫びに一つ仕事をまわしてやる。西北にある森林地帯に巨大なクイーンビーが巣を張りキラービー共が数を増やしつつある。我々に退治の依頼が来ているが、事前に生息域の確認をし、報告をしてくれ。報酬はこれだ」

 

 計算用数珠版を弾き金銭を表示する。それを見て、思わず歓喜よりも疑いに眉をひそめた。

 

 「たかだか調査のわりに、報酬が破格だな。だいたいこういう依頼は罠か地雷だと相場決まっている」

 

 「おいおい意地の悪いことをいうな、だから詫びだといっているだろうが。その仕事の対価で、美味い食事を食べて柔らかく暖かい布団で眠れる宿をとれ。そこまで含めて依頼で、詫びだ」

 

 依頼を受けるのはやぶさかではなかった。この簡単な仕事なうえこの破格の報酬は魅力的だ。もっとも、テンを追うための費用や弾丸費にあてる為、後半までの依頼は聞いてやれないかもしれないが。

 

 ペンを手にとり受諾の為名前を書き記す。契約成立の握手をかわした。天井裏からそれを見ていた影が動く、愛しの人に、この情報を伝える為に。その瞳は、激しい怒りの炎を燃やしていた。

 

 



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 グローから受けた仕事は討伐の必要すらない、事前情報と大きな差異はないかを確かめる為の簡易的な調査ではあった。しかし、戦闘用の外套にホルスターには散弾銃。腰に悪竜を封じた剣をぶら下げ、大振りな近接戦用ナイフと今回は投擲用の短い棒剣まで用意をしている。臭い袋に煙袋、携帯用の医療道具。現在の予算でできる完全装備を整えるのは何時テンが姿を現しても良いように、という心構えからである。

 

 流石に街中をそんな姿で練り歩けば街角ごとに治安維持をつかさどる警察に連行されかねないのにで完全武装は諦めているが、街の外にでてしまえばこれが一番落ち着く姿となっていた。

 

 まずは予想生息域外を歩き、キラービーやその他猛獣等が生息していないか調査をする。簡単な仕事とはいえ、ハイキング気分で歩くように手を抜くつもりはない。油断が原因で殉職していく者達を過去幾度目にしたか分からない。

 

 夕暮れ時が近づき、森の中に開けた平地を見つけ野宿の支度をする。後は明日念には念をいれて追加で調査をし、掲げる大盾に報告をし、報酬をもらって契約を終えるだけ。予測生息域からは充分距離をとり、獣避けの香を焚き、夜に備える。

 

 野宿は嫌いだ、我慢できない訳ではないが。未開地の探索において、メンバー全員が共に就寝することなどありえない。未知の生物、危険な蛮族、おぞましい自然現象。物音に目を覚ましたら、隣で寝ていた仲間が丸太のような巨大な蛇に腰まで丸のみにされていたこともある。

 

 一人での野宿は、眠りが必然浅くなった。環境というものもあるが、見張りがいない外の暗闇は恐ろしくおぞましい。その中で、一人無防備をさらすのは、苦手だった。

 

 横になって見上げるのは見事な満天の星と月、だったら良かったのだが雲に隠れてなにも見えはしない。今日もなかなか寝付けないかもしれない、だがそんなちょっとした悩みも、すぐに望まぬ形で解決することとなる。

 

 巨大な羽音は、シンと静まり返る森にまるで警告音のようによくよく響き渡る。跳ね上がるように起き上がり、二連装の散弾銃を構える。木々の隙間から飛び出て来た二匹の羽虫に向け続けざまに銃撃。

 

 飛び散る散弾が、空を飛び回る為に軽量化された黄色の甲殻と薄い羽根をズタズタに斬り裂き、緑色の体液を後背にぶちまける。人の顔面より更に一回りでかい体躯に、それに恥じぬ槍の穂先に似た鋭い針。針の尖端には細かな穴が無数に開いており、刺しこんだ相手に弛緩性の麻痺毒か致死性の腐毒を選んで注入できる。

 

 生餌にするときは麻痺毒を、敵対者を殺す際は腐毒を。人畜無害とは程遠い害獣害虫の代表格にあたる一角だ。

 

 二匹を落としたところで、羽音は消えない。むしろ存在感を伝えるように森の中をグルグルとこちらを囲むように動き回っていた。薬莢を排出、新たに装弾すると共に今度は三匹が飛来。二匹を散弾で叩き落とし、迫る一匹の針を横飛びで回避をする。こちらに向けほぼ直角に曲がり軌道修正をしようとしたキラービーの額に衝撃。投擲用の棒剣が突き刺さり額から後方に向け貫通。

 

 グラリと体制を崩し、半ば落ちかけたキラービーを見て、弾丸を装弾しようとしたが、それが誤りとなる。落ちたと思った体制が急速回復、再度こちらに向け突進を敢行する。頭を潰しても死なないなど、人妖じゃあるまいに!

 

 頭を振り針を回避、人差し指と中指を尖らし人体を槍とし薄い甲殻に突き入れ、銃を落として開いた傷口に更に指を押し込み千切り破る。ルーガルーとの戦闘で、脳を半分吹き飛ばしたのにも関わらず、そんな状態で息を吹き返すように攻撃された経験が役に立った。どいつもこいつも、取りあえず頭が吹き飛んだのなら素直に死んでおけ。

 

 しかし、と冷静な声が苛立つ自分の内心に響く。いくらなんでも頭を飛ばされて生きている生命体がこの地上に数日に一回単位で巡り合える程溢れかえっている訳ではない。それにキラービーといえば集団戦に猪突猛進。対策と専用の駆除道具、人手さえあれば、罠にかけさらりと一斉駆除することもできる。

 

 だがしかし、数を増す羽音はまるでこちらを苛立たせるように響かせるくせに、森の中を旋回するだけでこちらに向けて飛来する様子はない。これはまるで、苛立たせようとしているようだ。

 

 「人為的な悪意か」

 

 戦時中、ハラスメント攻撃という手段があるのを聞いたことがある。深夜に大砲を射ち続けたり、極々小規模の奇襲を防衛側に何度も何度も繰り返したり、休息と睡眠という機会を削り精神と体力を消耗させていく作戦だ。

 

 休息すべき夜、飛び回る耳障りな羽音、消極的な攻撃、そして脳を破壊しても構わず攻撃を仕掛けてくるキラービー。方法は定かではないが、敵はこの昆虫を操っている。そして自分なら、この作戦を行うならば包囲の突破を図ろうとする獲物にはそれにふさわしい罠を張り巡らせる。

 

 危険を承知で包囲から抜けるか、それともここで何時終わるかも分からない緊張を強いられるか。敵は恐らく、こちらが疲労が重なり決定的なミスをおかすまでは出て来ないだろう。もしくは弾切れを狙っているか。

 

 敵を近寄せずに、一撃で粉砕する威力が保証された散弾はあと…。

 

 『お前が躍っているのを見たいんだと、良いじゃねえか。踊ってやれよ、希望通りにな』

 

 脳内に響く声に頭を抑える。ふざけるな、人の姿で現れられたり時に勝手に連結刃を動かしたり、封印が弱体化していると思ってはいたが、まさか頭の中に声をかけて来るなんざ異常事態もいいところだ。少なくとも過去、こんなことは一度たりともない。

 

 『安心しろ、お前の考えまでは読めねえよ、まだな。だがな相棒、敵は悪知恵を使い、姑息に追い立てようとしている。ならば悪知恵に対抗しよう。効果があるのはさらに悪ーい知恵だ。しばらく踊ってやれ、悪竜様からのアドバイスだぜ?』

 

 舌打ち。装弾をし、飛来する二匹を撃墜。意図を理解できてしまい、そしてその策が有効であることを理解した。

 

 装弾、射撃、撃墜。疲労の吐息を吐き、装弾。続けざまに襲い来る三体のキラービーに射撃。一発で二匹の半身を砕き、片羽では威力が足りずに落ちていく。しかしもう一発は狙いをそれ背後に弾丸をぶちまけるに留まった。

 

 攻撃を回避して、近接用のナイフで二つに裂く。顔に浮かばせる疲労は隠さない。この綱渡りをあと何度続ければ充分だ。頭に響く声に何十にも響く羽虫の音と、思うようにいかない戦闘。なにもかもがクソったれだ。

 

 『踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなりゃ踊らにゃ損損ってな、アハハハハ!』

 

 悪竜の高笑いが脳内にこだます。今の自分は相当酷い顔をしているだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 掲げる大盾の室長室。グローは今日何度目か分からないため息を吐いた。

 

 二つに割られたテーブルは既に跡形もなく撤去されており、明日には業者が同じテーブルを搬入する手はずとなっていた。経費では落とせませんと、秘書兼護衛のマリアベルにピシャリと言われてしまい、自費での出費となってしまうのは計算外だ。

 

 詫びなどといって金回りが良く楽な仕事をお友達特権で回してやったが、こんなことならやめておけば良かったかと自嘲気味に表情を崩す。だがしかし、まとまった金をくれてやり、ちゃんとしたものを食べて、良質な睡眠を短い間でもとってほしいという純粋な思いもあったのは確かなのだ。

 

 冒険とは聞こえは良い、栄光が待つ男達の危険な冒険。蓋を開けてみれば地獄めぐりもかくやという惨状、そんななか生き残った戦友が、やつれて死んでいく姿など誰がみたいものか。目だけは爛々としているが、それは曇りきった光だ。常人がしていいものではない。

 

 「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」

 

 「頼んでいないぞ?」

 

 マリアベル=フロマンド、公私混同はしないが冷静で頼れる秘書であり、戦闘技術も、特に室内での戦闘においてはリスム支部に詰めている戦闘員の中でも三本の指入る。そんな彼女が運んできたのは熱々のコーヒーだった。

 

 「考え事をしている時には、何時も頼んでおりましたので」

 

 「お見通しか、さっきはああ言ったものの、実は頼もうと思っていた」

 

 香りを楽しみ、コーヒーを舌先で転がし嚥下する。熱く、そして苦い。特上の苦さだ。豆が悪い、泥水などとランザは喚いていたが、あの子供舌にはこの味が分からないのか。

 

 「ランザ様のことで?」

 

 盆を持ったまま、尋ねてくる。頷き背もたれに深く寄りかかった。

 

 「酷い物だ。しばらくぶりに見たが、過去知っているランザと今のランザとはまるで別人に見える。実は一瞬声をかけるのをためらってしまうくらいにはな。復讐の念というのは、ああまで人を変えるのか」

 

 「私も聞いていた話とは随分違う様子で、同一人物かと疑う程でした。尊敬する支部長の相棒ということで、密やかながら会うのを楽しみにしていたのですが」

 

 「さりげなく上司をたてるのは流石だな。だが好みではなかったか?」

 

 「そのようで、とても余裕があるようには見えません、まあ…」

 

 彼よりはマシですが、という言葉を続けようとしてマリアベルは最後の一言を呑みこむ。周囲に誰もいないのは確認しているが、壁に耳ありというか、どこで迂闊な話が漏れるのかは分からない。帝都の本部にて、掲げる大盾を強力にバックアップしている大物議員、彼が溺愛している娘がアレの後ろ盾についているのだ、不要な話がどう変異して伝わるか分かったものではない。

 

 「気にするな。帝都の本部では強大な抑止力だが、ここ自治州ではそれなりの影響力しかないだろう。お前が今言いかけて呑みこんだ人物については、おおむね同感の評価だ」

 

 才能があり、力がある。それに過信し慢心し独善的。おおよそ組織を運営するにあたって、性格を覗いた個人の優秀さを差し引いても必要ないと断じて切り捨てたい存在であった。

 

 地下の事件であっても、グローがじきじきに待ったをかけなければ死んでいた。市政の味方を公言していても自分達は本質的には武装集団。時には確かに非合法の方法をとることはあるかもしれないが、それでも犯罪者を私刑にし殺害するなど、どんな目で周囲に見られるかまるで理解していない。

 

 子供にたいして『君には世界平和の為に力をもたせたよ、なんでもできるよ』と神が囁き『悪い人を皆殺しにするー』と無邪気に子供は応じた。では子供のいう悪い人とはいったいなんなのか。ともすれば、クラスのいじめっ子から万引き犯でさえ絞首台まで引きずっていくような結果になりかねない。

 

 判断が幼い者が強大な力をもってもロクなことにならない。レントは、卓越した才能という名の強力すぎる銃火器を装備した子供なのだ。しかもその銃は、暴発を抑える為のセーフティーがいかれている。

 

 「レント=キリュウインを呼び出してくれ。やはりじきじきに釘を刺す必要があるだろう」

 

 「明日のクイーンビー退治についてですか?」

 

 「ああ、現地にはランザがいる。報告で一度合流する必要があるから、奴は必ず揉め事をおこそうとするだろう。奴には別の仕事をまわす。なるべく波風立たないような無難なヤツをな」

 

 かしこまりました。と一礼をしマリアベルは支部長室を去っていった。その十数分後、レントの不在を聞かされることとなるグローの行動は早かった。

 

 即応隊を率いて、クイーンビーの生息する森へ急行するというもの。疑問を呈するマリアベルの声に、グローは即座に応じる。

 

 「勘だ!確実に面倒なことになっている!」

 

 マリアベルが頷いた。支部長の勘は、悪いもの程よく当たるのだ。



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 数時間、時には途切れなく、時には間を置いてのキラービーの攻撃を回避し続けていた。額に汗は滲み、銃撃の精度も悪く、装填すらも弾丸を落とすなど覚束ない。肩で息をし、集中力が途切れる。

 

 暗闇から覗く影はほくそ笑んだ。さあもうすぐだ、もうすぐ終わりが訪れる。

 

 ついにその時が訪れた。二発の弾丸を外し、一匹をナイフで突き刺してしとめたもののもう一匹の針が奴の左腕をかすめた。傷をつけた瞬間、身体の位置の関係で命中した瞬間は見えなかったが、戦闘用の外套が破け血が溢れている。

 

 投げ剣を投擲し羽をむしり飛行を無力化したようだが、麻痺毒が効いたのかふらつくように身体を揺らし地面に倒れふした。時は来た、影は舌なめずりをして木のうえから飛び地面に着地する。

 

 使い慣れた直刀。彼からいただいた異国の暗殺者が使う刀剣をスラリと引き抜く。彼をクソガキ呼ばわりし、威圧した男なぞ許さない。

 

 この襲撃は、自分の提案だった。彼は二つ返事で頷いた。『よく気づいてくれたね。彼は今まで見たことのない程の悪人だ。あの目はそういう濁り方をしている。ボクの邪魔になると気づいてくれたんだね。任せて良いかな?ボクの剣』そう言い彼は、頭を撫でてくれた。それだけでポカポカし、気持ちが高揚する。

 

 公認商売人による許可を得た奴隷売買。法により地下で行われる違法なオークションよりもマシではあるが、あくまで奴隷は奴隷。自分を助けだしてくれたレントには、命をもって恩を返すと決めていた。なんならこの身体を差し出して添い遂げたい。

 

 今回の仕事が上手くいけば、また頭を撫でてくれるだろうか。にやつきそうな表情筋をなんとか抑え、痺れで身体が上手く動かないランザ=ランテに近づく。

 

 仰向けに倒れるランザに向け直刀を向ける。斬り刻んで苦しめて殺そうか、そう考えた瞬間、その場にいた者達の耳に虚空から声が響いた。

 

 『ほら、阿呆が釣れた』

 

 ハッとした瞬間、ランザが凄まじい勢いで起き上がり飛び掛かってきた。

 

 

 

 

 

 三日三晩睡眠をとらずほぼ飲まず食わずの逃避行。妖獣、怪獣、異形の化物。十六人チームでの探索者グループ、生き残りはたったの三人。羽虫が飛んで来るなか、たかだが一晩の攻防戦などで音をあげるものなど、その生き残りの中には存在はしない。

 

 「疲労し、隙を見せれば出てくると思った。」

 

 フードをかぶった小柄な刺客は、直刀でこちらのナイフの一撃を防ぐ。ナイフを押し返して横に一閃するが、速さはあるが軽い。ナイフで受け止めて前蹴りを繰り出す。刺客は腹部に蹴りを喰らい地面に転がった。

 

 腰付近、もぞもぞとなにかが動く感触。キラービーから攻撃を受けたと錯覚させることができたのは、実のところ極少の刃を生み出した連結刃が外套の裏側を通り服と皮膚を斬り付けたせいである。

 

 そして痺れて倒れる演技。これだけ用意周到に獲物を追い詰める準備をしていた相手ならば、殺す際は自分でトドメを刺したいと予想をし、痺れて倒れるふりをした。長時間の観察で、針から漏れる毒液が麻痺毒だというのは過去の知識から理解ができた故の演技だ。これが腐毒であれば、傷口から泡を吹き皮膚や肉が腐っていくような演出が必要なため、ひと手間演技をする面倒が増えたので厄介なことになっていただろう。

 

 「どこの誰か知らんが、生憎殺しは好かないタチでな。だから死ぬほどひどいめに合わせる、覚悟しろ」

 

 四つん這いに崩れ、口内から血と唾液を吐きだす相手の直刀を手首ごと蹴り武装解除をさせる。慌てて武器を回収しようと動いたようだが、それは不正解だ。胸倉をつかんで持ち上げる。腹部を再度殴打。連続で拳をねじ込んだ後、顔に頭突きを叩きこむ。大きく持ち上げ、地面に身体を叩きつけるように投げ飛ばした。

 

 過剰防衛。そういう法律があるのを聞いたことはあるが、それはただの一国。アステリア同盟での話である。帝国法であっても、リスム自治州法であっても、その他すべての国であっても、襲撃者に対する苛烈な攻撃を禁止している国はないのだ。「いきなり襲いかかってきた強盗は、できれば生きて連れてきてくださいね。あっ死んでても別にいいですよ」が一般人と司法のやりとりにおいて当たり前なのだ。

 

 だからといって、私刑をしても良いという訳ではない。やむをえずの抵抗のうえこうなったという状況が重要だ。自己防衛が激しすぎて犯人を殺してしまいました、私刑ではないです。という状況に対して法解釈は裁判所を中心にあちこちで論争の議題になってはいるが、それはまた別の話である。

 

 大切なのはうっかり殺してしまわないことだ。注意をして痛めつけなければならない。脅しもたっぷりとのせて。

 

 「これからお前の面を拝む、そして覚えたら殴る。抵抗したら更に殴る。そのうえ歯を全てへし折る。良いな?」

 

 フードに手をかけてめくりあげる。衝撃、動機が激しくなり吐き気がこみ上げる。灰色が混ざった短い黒髪にあどけない顔、可愛らしい顔を赤く腫らし理解できない化物を見る顔でこちらを怯えた目で見ている。これは、こいつは。

 

 「ガ…キ?」

 

 吐き気が込み上げる。胃袋が激しく動き、吐き気と嫌悪感で思わず口を押えてしまった。それを隙と見た少女をこちらの腹部を蹴り上げ、拘束を逃れ直刀を回収する。蹴りの衝撃はたいしたことない、だが動揺の隙をつかれたことで取り逃がしてしまった。

 

 「なんだ、なんだなんなんだお前のその目は!化物、化物め!」

 

 少女の高い声での罵倒。ガチガチと顎を鳴らし、表情が強張っている。お守り代わりのように直刀を持ち、距離をおくようにまっすぐこちらに向けていた。

 

 『はは!目か、化物の目だと!襲ってきたくせにひどい言いようだなぁ相棒!ほら呆けてる場合じゃないぞ!へっぴりごしだが殺意がある、心はまだ萎えていない。これは殺さなきゃかもなぁ!俺にやらせろよ、偶には出来損ないの血もいいものだからな。ははは!』

 

 出来損ないの血と聞いて、その姿と顔をよくよく凝視する。耳の上にピンと立つ猫の耳、腰から垂れる灰と黒の混ざる尻尾、闇夜に光る丸いネコ科の瞳。

 

 テンのような、人妖と違い産まれながらの半獣。祖先が禁忌をおこし、稀に先祖返りをおこすという半獣という存在は、この大陸のほとんどにおいては差別の対象とされていた。こうして見るのは、初めての経験だ。今は関係ないが。

 

 『さあ殺すぞ。殺さなきゃ殺されるぞ相棒!ガキの命一つだ、俺を使い派手に散らしてやれ!』

 

 五月蠅い黙れ、黙ってくれ。とにかく今は、なんとかこれ以上無駄な傷をつけさせないように無力化を。

 

 羽音。少女の背後から真っ直ぐキラービーが飛んで来る。少女が呼んだ?いや違う、あの攻撃方向は。

 

 「死ねえええええええ!」

 

 少女が駆け出す、直刀をナイフではじき返し大きく体勢を崩させて無力化するのは、今はできない。直刀の軌道をナイフで弾いて足に突き刺させる。身体を抱きかかえ、無理矢理右に位置を動かす。無防備な背中を狙うキラービーの針が、庇う左腕に突き刺さる。刺し傷と同時に焼け付くような痛みと立ち上がる煙。これは腐毒か!

 

 「っ…あああああ!」

 

 ナイフでキラービーを刺し殺し、少女を突き飛ばす。直刀を引き抜き、左腕に添え肉と血を切り落とす、死ぬほど痛いが毒が回る前に処理をしなければ腕をなくすことになる。

 

 「おまえっ…なにして」

 

 「馬鹿野郎油断するな!」

 

 突き飛ばした少女の背後にもキラービーが迫るのが見えた。足から抜いた直刀で斬り伏せる。毒を排除しきれていないのか、ズクズクと外傷以外にも未経験の痛みが身体の内部に浸食してくるようだ。

 

 庇われたことにも、今自分が助られたことにも、支配していたキラービーが襲って意に反して襲ってきたことにも、少女は理解が及ばず呆然としていた。それもそのはずだ、蜂達は少女の使役術、テイムにより縛られていた。彼に加護によりもらったその術で。自分を庇う男と、キラービーの反乱に二つの疑問とある違和感に少女は混乱しきっていた。

 

 『お優しいこって』

 

 舌打ち交じりの悪竜の声が聞こえた。子供を、殺したくなかった。痛めつけたくはなかった。脳裏によぎるのは、頭を割られた赤ん坊と妻の死体、そして衝動的に撃っていまい、血の華をさかせながら飛んだまだ人間だったテン。

 

 優しくなんかない。その光景が脳裏に点滅するように浮かびその度に拒否反応がでてしまう。それがたまらなく気持ちが悪い。最低で最悪だ。

 

 「なにをしたの?」

 

 あどけない、場に似つかわしくない幼い女の子の声、少女と同時に声の咆哮を見る。

 

 「あたしの家族になにをしたのーーーーっ!』

 

 幼い子供が異形に変貌していく。身体を作り上げ巨大化し、虹色にきらめく八枚の羽と、波状槌のように巨大な針にその周辺に生えた八つの棘。そのいずれからも毒を漏らし、地面の草を腐らせていた。

 

 最悪だ最悪だ最悪だ!なにがキラービーだ、クイーンビーだ!こいつも人妖、しかも子供が変異した人妖じゃないか!

 

 森がざわめく、幾百か幾千か。少女が使役したよりもはるかに多い数のキラービーが森のあちこちから姿を現し、襲いかかってきた。逃がさないとばかりに、逃がす訳にはいかないとばかりに。

 

 「ひっ…やっ!」

 

 「伏せていろ!命の保証は…できんぞ!」

 

 命の危機に少女は委縮したが、ランザの声を聞いてはっとこちらを見上げて来る。その傷では無茶だと言おうとしたが、ある変化に気づき言葉が止まる。彼が掴むボロボロの鉄錆が浮き出た、質屋で二束三文以下で投げ売りされていそうな剣が、禍々しい血菅に繋がれた連結した刃を持つなにかに変化をしていた。

 

 「お前は…」

 

 連結刃が振るわれる。先端が枝分かれをし更に大量の刃が出現し嵐の如く奔流がまとめてキラービーを薙ぎ払った。毒々しい体液が弾けて飛散し草木を汚染し、雨となり残骸と共に降り注ぐ。刃の暴風、圧倒的な破壊力を操りながらランザの顔は痛みとはまた違う感情で歪んでいた。

 

 「そんなに殺させたいか!」

 

 轟音と風が伏せる少女の真上を通り抜ける。スッと衣服に切れ込みが入り血が滲むような気がしたが、少女は目の前の光景、もっと言えばランザの顔から視線を離せないでいた。

 

 「そんなに死にたいか!」

 

 感情の吐露。それに呼応するように刃がうなり、風を切る音が歓喜の声になる。慟哭を楽しむように、悲観を嘲笑するように、それの報酬を払うよう、近づくことすら許さずにキラービー達は宙で爆散していく。

 

 「俺に子供を殺させたいのかぁぁあああああ!クソッタレがあああああああああ!」

 

 人妖は、殺さなければならない。例え変異元が幼子であっても、どんな過去を背負っていようともだ。望むとも望まぬとも、歪んだ形で変異をした者達とその周囲の末路は、悲惨かつ凄惨なものであった。ランザが見てきたものでも、グローが見せた報告書にも、平穏無事で終わった件などただの一件すらない。

 

 『やぁああああああめぇええええええろォォオオオオオオ!』

 

 人妖が動く。キラービーの大群などもはや一割以下、その半分まで嵐のような刃に呑まれ命を散らしていった。

 

 少女は見た、人妖をとらえた瞬間彼の目が途端に激情から零下のごとく冷え込むのを。少女には人妖の突撃は、弓矢から放たれた矢のように鋭く見えた。だがしかし、暴風は矢を掴みその羽をズタズタに引き裂く。身体は両断され、人の面影が残る顔がついた上半分の身体が地面に投げ出されさそこから更に刃が降り注ぎ斬り刻まれた。

 

 地面に投げ出された人妖の顔とその周辺の身体めがけ、飛び散る肉や甲殻が寄っていく。まるで身体を集め再生しようとしているように。

 

 禍々しい連結刃は、その時点で興味をなくしたようにバラバラに散った。コトンと地面に落ちたのは、錆が浮いた古臭い剣。ランザは直刀を持ちながら再生する肉体に近づき、馬乗りになる。

 

 直刀を突き立てる、突き立てる、突き立てる。耳を塞ぎたくなる人妖の、しかし幼子の悲鳴がこだます。両手で覆うように耳を塞ぎたくなるような衝動に少女はかられた。

 

 少女は目を閉じた、耳を閉じた、身体を丸くしふさぎこんだ。聞きたくない、これ以上は、こんな残酷なものは見たくはない。それからどれくらい経ったか、数分か数十分か。目を開けると、再生しようと蠢いていた人妖の肉片は停止をしていた。

 

 だが耳障りの悪い音と共に、ランザは未だ直刀を突き立て続けている。足からの出血に毒のせいで顔も土気色をしていたがそれでもやめる様子を見せない。

 

 「やめ…もうやめろ!」

 

 少女は叫んでいた。今なら暗器をつかい無防備な背中を襲えるとしても、叫んだ。そうせざるえなかった。この残酷な光景をこれ以上繰り広げさせてはいけないと衝動的に思った。

 

 「もう死んでいる!死んでいるからやめろ!」

 

 人妖が絶命した証として、バラバラの肉片や身体が人のそれに戻る。だがそれでも、死んでいると近づき叫んでも、ランザはやめない。口からはまるで呪詛のように、言葉が漏れるだけだった。

 

 「殺すんだ。そう決めた、人妖は殺す、子供だろうと殺す、そうじゃなければいけない、そうじゃなければならない、何時になったら死ぬ、死ぬ死ね死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 

 ゾクりときた。まるで背中に氷柱を突き入れられたような感覚。その壊れた目に、おぞましいなにかを感じた。そしてそれは、後に少女は気づくのだが、その瞳を見てある変異を心の奥底でもたらした。だが今は、止めなければこの男は死んでしまう。おかしな話だ、この男を殺しに来たというのに。今は死んでしまうことがとてつもなく怖い。

 

 「やめ…やめて!これ以上は貴方が死ぬから!死んじゃうから!」

 

 ランザは止まらない。やめてほしいという懇願も届かない。どうすれば良い。この男は命を取りにきた自分の命を二回救い、そしてそのうちの一回は自分の代わりに傷を受けその身に毒を打ち込まれた。早く止めなければ、取り返しのつかないことになる。

 

 「やめてください!お願いします…やめ…やめてぇ」

 

 背中に抱き着きながら静止を訴えるも止まらない。分からない、どうすれば良いのか分からない。誰か助けてほしい、だれか。

 

 「手間のかかる英雄様だぜ、本当によ」

 

 深く呆れ、それと同時に慈しむような声。急に出現した気配に顔を向けると、そこには褐色で全裸の女性が立っていた。

 

 悪竜ジークリンデは、驚く程加減をしながら繊細に、一部の狂いも許さずランザの意識だけを刈り取る為に手刀を繰り出した。昏倒し倒れるランザの頭を抱え、ゆっくりと地面に落として寝かせやった。

 

 「メス猫」

 

 「え…あっ」

 

 「本来なら俺が治療してやりたいが、森から西の方向に多数の気配を感じる。お前はこいつを担いでそこに走れ。俺の存在は誰にも話すな、そしてなによりもこの男を死なせるな。万が一のことがあったら…食い殺す」

 

 生物としての格の違い、本能が委縮し、ひゅいっ!というマヌケな返事をあげてしまう。ジークリンデが消えたと同時に、いつの間にか彼の腰にはただの剣としてぶら下がるように装着されていた。

 

 肩を持ち支え、西に向け歩きだす。体格のわりに男は軽い。いや血を流しすぎたのだ、これは毒のこともあり一秒でももう無駄にできない。

 

 「死なないで」

 

 一歩進む。

 

 「死なないで」

 

 祈るように、一歩。

 

 「死なないでください、お願いします」

 

 脅されていたが、それとはまた別に少女は強く祈った。頭をよぎるのは、狂気と憎悪と悲観で濁り絶望に汚れた、目。恐怖し畏怖し、そして強く惹かれてた。惹かれていたのだ、男を担ぎ歩くなか、死なないでほしいと祈ると同時に自覚した。

 

 願わくば、もう一度その目を見せてほしいと。

 

 グロー支部長と、その部隊が電灯や照明魔術を手に駆け付ける。安堵感に緊張の息が切れ、ランザを支部長に託したと同時に倒れ伏せた。瞼が重く、意識を手放す。その心の奥に、自分ではもはやどうしようもないなにかを埋め込まれてしまったことを自覚しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 岩山の上、眼下に広がる惨殺の跡を見下ろす影が一つ。東方の民族衣装を着こみ、豊満な胸と鎖骨を惜しみもなく露出し、愁いを帯びた表情で小さくため息を吐く。それは見るものを魅了するものであり、芸術家達がこぞって自分の絵のモデルにと頭を垂れる程の美しさであった。

 

 しかし、女性は、テンは、苛立っていた。余計なことをしてくれたものだと、心中で再度深いため息をつく。

 

 「やあ、良い夜だね」

 

 「風情ある月も美しい景色も見えない場に良い夜とは、言葉を考え無しに話す人なのでしょうか?」

 

 「君と出会えたから良い夜さ、ボクにはね」

 

 歯が浮くようなセリフに嫌悪感を覚える。扇を取り出し口元を隠し、声の方に顔を向ける。

 

 金髪の男、ええと確か、お父様の活動を見ていたらレントとか名乗っていただろうか。いかにも自分が優れた存在であると誇示するような、隠しても隠しきれない傲慢さが爽やかな笑顔から漏れ出している。正直関わりたい人間ではない、価値という意味で言えば皆無…いや害悪だ。

 

 「君は人妖なんだろう?おおっと人妖なんて言葉は無理解な連中が勝手に名付けただけの名詞だなんて分かっているよ」

 

 「……」

 

 「君には君の名前があるだろう?ボクは人妖だからといって君達を差別しない、区別もしない。きっと悲しい行き違いがあったんだ。君みたいな可愛い子が、あいつらが語っているような存在だとはどうしても思えないんだ」

 

 「………」

 

 「ボクらに必要なのは相互理解、そうだろう?手始めにボクのことを知ってほしいんだ、ボクも君のことを知りたい。そうしてお互い理解し信頼し、家族になっていこう。血の繋がらなくても信頼しあえる家族に、ボクはそう…」

 

 ぶしゅ…という音が響く。扇を振るうと共に、鮮やかな蒼と月色の色彩が描かれた絵が現れ、それが巨大な壁になり噴き出る血液が身体に届くのを阻害した。

 

 「その大層なお言葉、一物がとれても同じものが言えますか?」

 

 地面に転がるのは、ズボンの一部と下着の残骸、そして睾丸と怒張した男性器が血だまりに浮いていた。

 

 人妖になり手に入れた豊富な魔力、東方風には妖力という。とりわけテンは書物で読み語感が気に入った妖力という言葉を好みそう呼んでいた。ともかく妖力を実体化させ獣の爪にかえ、レントの下腹部を斬り裂いた。

 

 怒張した男性器から分かるように、この男は発情していた。中身のない薄い台詞を一皮剥けば、出てきたのは性欲と下卑た情欲。

 

 「あっ…うわああああああああ!」

 

 「五月蠅い」

 

 獣の爪が四肢を引き裂き、胴体を八つ裂きにし、首を飛ばす。ただでさえ不機嫌なのに、不快な言葉を聞かされ、不潔なものを見せられて生かしておく道理はない。肉と内臓の塊になり、レントだったものはぐちゃりと岩肌に張りつく肉塊となった。

 

 「あの妖蜂は、まだ調整中の個体でしたのに、まだお父様に会わせるつもりはなかったというのに、貴方のせいで台無しです。ああお父様、申し訳ありません。不出来な娘のせいであんな出来損ないのお相手をさせてしまうなんてっ…でも」

 

 嘆くようにテンはあえぎ、悲観の声をあげる。あくまでも自分本位の嘆きではあるが、テンは本気で悲しみに囚われ、そしてにんまりと笑顔を見せた。

 

 「お父様のあの表情、瞳、感情。ああ…ああ!結果論ではあるものの一体試練を犠牲にしてでも見た甲斐があったというもの!テンは幸せです!幸せですお父様!あの顔が、目が、感情が何時か私の為だけに向けられると思うと…それだけ果ててしまいそうです!…だから」

 

 そういえば、昔お父様は何時か猫を飼いたいといっていた。家具職人として一人前になったら、家族を一匹新しくいれようと。私としては反対だった、たかが畜生とはいえお父様を分け合うには我慢が必要だ。ともすれば、かわいそうなことに、猫を殺してしまいかねない。だが今は。

 

 「ぺットの一匹くらい、許してあげるべきでしょうか。でももう蜥蜴を飼われているのですが…いえいえ、今日の私は寛大ですからね。役立つ猫なら、目を瞑りましょうか」

 

 フフフと笑い頬に手をあてる。お父様は喜ぶだろうかと、半月を横にした笑みを浮かべて。

 

 もうここには用がないと、立ち去ろうとした際妙な気配。ああ成程、そういうことか。

 

 「アバズレの女神め、信仰心が枯渇しそうだからと手駒を送り込んだのですか。でもこの程度の作品であるならば、その神格ももはやたかがしれていますね」

 

 テンの色素が徐々に薄れ、消滅する。侮蔑と軽蔑の視線を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 レント=キリュウイン。いや鬼龍院蓮人は目を覚ます。

 

 バラバラだった身体はすっかり再生をしており、少しだけ頭はボウッとするがすぐに意識が鮮明になった。そして記憶を脳内で再生し、すぐに歓喜に打ち震える。

 

 見つけた、ボクの理想。ボクの寵愛にたるべきヒロインが。

 

 ボクは神に選ばれた。多彩なスキルを得た。常人より遥かに超える身体能力を得た。女達もそんなボクを敬い、少し心を許したふりをして甘い言葉を囁き、戦闘で仲間思いで理想に燃える主人公を演じることで簡単に股を開かせた。まったく頭の緩い女達だ。抱くには飽きないし、利用価値があるうちはそばにおくけど。

 

 ああでもあのノラ猫は人が怖いとすぐには抱けなかったな、時間の問題だろうけどさ。いやそんなことよりも、真にボクの心を震わせる存在に出会えたのだ。

 

 凛とした表情、豊かな胸、ひきしまった身体。そしてあの超常の力。バラバラに引き裂かれたことなど既に些事だ。一目惚れとはこのことか。

 

 あれがメインヒロインなら、必ず攻略法がある筈だ。まずはあのお父さんこと、ランザ=ランテを調べるところからかな。お父様か、まったく忌々しい。あの不吉で気味の悪い目を持つ男は、用が済んだら殺してやる。

 

 ああ、それにしても…自慰がしたくなったのは久しぶりだ。今はあの顔を思い出して浸るとしよう。男は何時までも、薄ら笑いを浮かべていた。

 



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市場の活気あるざわめきと心地の良いそよ風が入る一室。ベッドと丸テーブル、椅子が二つと本棚のみが置いてある部屋にてランザは横になっていた。本棚には低俗な娯楽小説からサバイバル技術のマニュアル書、資格取得の専門書に古今東西の娼館を行脚した男の回顧録など節操なく様々なジャンルの書物が並んでいた。

 

 掲げる大盾支部の仮眠室にある本棚は、団員達が不要になった本を持ち寄り押し込んでいき、興味を惹かれた人物がそれを拝借し持ち帰るというある種リサイクルの場になっていた。それを知らないランザは頭に疑問符を浮かべていたが、こう手持無沙汰ではやることも限られる。サバイバルの技術マニュアルでも目を通しておこうかと考えていると、扉をノックする音が聞こえた。

 

 「俺だ、入るぞ」

 

 グローが無遠慮に入室をしてくる。まだどうぞとは言っていないが、この支部における主の入室なだけに止めるだけの権限はない。

 

 「どうだ、最新の呪符治療は。それ一枚だけで港湾労働者の三か月程の給料が医療費としてむしられる」

 

 「医療費がそちら持ちじゃなかったら、医者が来る前に窓から逃げていたところだ」

 

 左腕や足に貼られた呪符は、包帯越しにも分かる程緑色に発光をしていた。毒ごと肉を抉りとった左腕の自己治癒能力を助け、自然治癒のスピードを加速度的にあげている。まだ治療途中ではあるが、体感としてほとんど日常生活には問題を感じられない程度に回復していた。

 

 「こんな便利なものが増えたら、また医療管轄でもめそうだな。新技術は何時も、既存の職人の仕事を奪っていく」

 

 「だがまだ高価すぎる代物だ、加速度的な普及はおこらない。対立は医術組合と宗教組織の医療協会との間でしばらく続いていくだろう」

 

 解毒や製薬、精神医療に悪魔憑きの分野は宗教組織お抱えの、杖に巻き付く蛇を紋章に掲げた医療協会が強いが、骨接ぎや縫合、切断治療に家畜の治療分野などにおいては、民間における医術組合が長けている。

 

 お互い専門分野での強みがあるものの、医療という分野を独占できれば利権が強いため日夜相手組織のノウハウや利権を吸収し、独占しようと暗闘が繰り広げられているというのはよく聞く噂話だ。

 

 古くからある話にこんなものがある。壊死した腕を切断するのに、教会医療者は斧を使い、骨が砕け肉が潰れ、治りが致命的に遅くなり患者は衰弱して間もなく死亡してしまう。民間医術者はそれを嘲笑った。治療に斧を使うなど、意外と宗教関係者も野蛮でガサツなのであるなと。

 

 一方民間の医術者は、怪我をしたものに薬を塗布をした。だがその薬というのはガマ油や由来も知れぬ薬草に、馬糞を煮たてたものをスライムで軟膏状にしたものであった。当然傷は悪化し、昔からの占星術にて素材を選んだ伝統の薬が何故効かぬと頭を悩ませる。教会医療者達は呆れはてた、あんな不潔なもの、人体に塗るくらいならその人体を傷をつけた武器にでも塗っておけと。あれなら自己治癒に頼った方が幾分もマシだと。

 

 この二つの話は昔から語られている例え話であり、今はお互い知恵と知識を得て無茶な治療をすることはなくなった。だがそんな遥か昔から二つの組織は互いを理解できぬものととして対立してきたようである。

 

 近頃は、船による外洋航海の機会が増え二つの組織のそれぞれの力と知識が入用となり、長年の謎であった船乗り達を苦しめる歯茎からの出血や壊死を引き起こし、最悪死を招く壊血病の原因と対策を共同で編み出したりと協力できるところではしているが、やはり仲は悪い。

 

 「解毒も縫合も術後の容態観察も、札一枚ではい終了か。帝国の研究機関とやらは、どうやら利権争いに一石どころか大砲で炸裂弾でもぶちこみたいようだな」

 

 「俺達にはありがたい。これが一般的な治癒方式として広まれば、現場で即座に治療ができる。殉職者や戦闘離脱者を減らすことができれば、ありがたい話だ」

 

 もっともそれは、敵に対しても言えることではあるが。

 

 「……医療費については気にするな。事前情報と大きく違う仕事に行かせた落ち度がある。だがランザ、お前も随分と人が悪いな。俺達の間に隠し事はないと思っていたが」

 

 紙束が、丸テーブルに投げられる。クイーンビー、性格には人妖になったクイーンビーに似たなにかの事後調査による報告書であった。

 

 「本物のクイーンビーは森の奥地にて引き裂かれた死体となっていた。人妖はその巣をのっとり、家族としてキラービー達を従えていたようである…ということだ、概要はな。そしてこの中にある調書では、生息域を広げようとしたキラービーと遭遇、森の幸をとりにきていた民間人の保護のため戦闘、人妖出現により討伐と書かれている。マリアベルがお前からとった調書だ。だがお前の散弾銃では、この成果を望める訳がない。いくら卓越した達人であろうとな」

 

 明らかに嘘しか話さないこちらに対して、聞き取り調査を繰り返し行っていたマリアベル、という名のグローの秘書兼護衛が何度も苦々しく表情を歪める様子が頭に浮かんだ。かたくなに口を割らないが、尋問をする訳にもいかないと、渋々このまま報告書として提出するしかなかったのだろう。

 

 「キラービーの討伐は、本来であれば専用の毒粉をガス状にして噴出し生息域全体を根絶やしにするというものだ。クイーンビーは生き残るが、毒で弱っている為トドメを刺すのは楽な仕事と言える。だがお前は単独にて、繁殖しきったキラービーを鋭い刃物のようなもので大多数を斬殺。満身創痍ながら人妖まで討伐、事実は事実だが重要な過程が抜けている。ついでに言えば民間人の保護というのも怪しすぎるが、そこはまあ置いておこう。なあ、お前にいったいなにがあった、お前は本当に俺が知るランザ=ランテなのか」

 

 「男子三日会わざれば刮目して見よというだろう。俺はどうやら成長期らしい」

 

 「人払いはしてある、適当に受け流さないでくれ」

 

 腕を組み合わせ深く座り、動く様子が見られない。誤魔化しきれるものではないのかもしれないと、小さくため息をついた。

 

 「悪竜ジークリンデは知っているよな」

 

 「ああ、お前の最後の探索だ。太古の遺跡で弱り切った竜であったが、交戦により死者十六名。生き残り一名、編成が別れた俺が所属していた探索隊が異変に気付き急行、到着した時にはすべてが終わっていた、凄惨な様子だったがな。遺跡に残されていた情報を元に封印したと聞いたが」

 

 「封印が緩んでいる」

 

 グローの目が見開かれる。しばらく言葉をなくし、額に掌を打ち付け、忌々し気に頭を振った。伝説の竜との対峙、その栄光に目がくらんだ者達は全て原型をとどめないほどの肉塊となりまともな形で残ってはいなかった。

 

 竜など過去の遺物、とは言いつつもやはり竜は竜だ。記憶に新しい海竜リヴァイアサンの討伐も、地の利が向こう側にあるとはいえかき集められた軍艦六十隻のうち四十二隻が轟沈、討伐後ですらいくらかの船が破損が酷く操船不能となり、無事に港に戻れたのは僅か十一隻であったという。

 

 充分な頭数と潤沢な資金による準備があれば、竜狩りというのは可能であるが、逆に言えばそれだけの準備が無ければ決して手をだしていい存在ではない。ランザはそれを身に染みて思い知らされ、グローも戦闘の残滓からそれを感じとっていた。

 

 「封印は封じた者が近くに置き、封印を保つ必要があるという。だから俺がずっと管理していたが、ここ最近はその効果が薄れているようにも感じる。あのキラービーの大群を退け、人妖を討伐できたのもこの剣の力だ。血と戦闘を求め、気に食わなければ自ら封印から這い出ようと動きまわっている」

 

 「なんということだ」

 

 部屋の片隅、荷物と共にたてかけられた錆びた剣。それが災厄を呼び込む呪物のように見え、グローは思わず後ろを振り返った。見られているような気がしたのだ。いや、気ではないのかもしれない。言葉を信じるならば、あの剣の中にいる悪竜は今もこちらを見ているのだろう。

 

 「本当なら帝都の特級災害対策室の竜狩り達に申し送らなければならない、特級危険事項としてな。隠し通すにも限度がある…が」

 

 「そんなことをされたら、関係者として拘束され俺の自由は二度と訪れない」

 

 「……最悪二度と、陽の光はおがめんだろうよ」

 

 ことあるごとにこの竜は姿を現し、自分が引き離されればどうなるかの脅しをかけてきている。人型になり出現し、物理的に接触してくるなど言えばグローは友人の自由より万人の平和の為にすぐさま報告するだろう。そしてそんな状態をジークリンデが座して見ているなどありえない。最悪このリスム自治州が、血みどろの戦場となる。当然俺は、この悪竜ジークリンデを振るい人類の敵とならなければならない、テンを殺害するまで、なにを敵に回してでも留まる訳にはいかない。

 

 自分が大人しく拘束されてくれるだろうと考えているであろうグローに、それは口が裂けても言えない。グローが平和と住民の為に、いざという時俺を差し出すのをいとわないように、こちらとしてもいざという時は帝国とこの友人を相手に刃を振るいあがく腹積もりだ。

 

 「今はまだお前を売るような真似はしない、今はまだな。だがしかし…」

 

 苦渋の表情を浮かべる。お前はいざという時、平和と友情を天秤にかけることができる、そういう奴だ。そういう奴だからこそ、俺は信頼している。

 

 「テンを殺したら、出頭でもなんでもしてやる。だから今少し、時間をくれ…戦友」

 

 昼時を伝える鐘が鳴り響く。マリアベルが入室し、仕事の話があると退室をうながした。グローは最後まで、苦虫をかみつぶした顔をして、退室していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーラ。奴隷商人から便宜的につけられた名前。リスム自治州法において、奴隷の名前を縛るのは数ある禁止事項の一つとして最低限の尊厳を守る為の法律として存在していた。

 

 名前も分からないような存在を売ることは禁止されている。あくまで奴隷とは、借金で首が回らないものが自分を売り出す為の最後の手段であり、名も分からない孤児に少数民族や被差別階級、どこから拉致してきたかもわからない、言語も通じない異国民など犯罪が絡みそうな存在を売りにだしてはいけないという意味を持つ法であった。

 

 だが奴隷商人達は、自分達が名付けることで、架空の戸籍まで作り出し、拉致してきた存在ですら合法的に売りさばいていた。穴の開いた法律であるが、奴隷商人と懇意にしていた当時の議会によって制定されたものであり、現在は反発運動もおこっている。しかし法改正がおこるのは現野党が次の選挙で議席をしめてからだ。道のりは果てしなく長い。

 

 だがしかし、クーラは気にしなかった。名前なんてつけてもらったことがなかったし、やはり名前という存在があるのは便利なためさして抵抗もせずにそのまま名乗り続けていた。

 

 半獣ということで、誰に買われどんな扱いをされても不思議ではない境遇のクーラは、自分を救ってくれたレント=キリュウインに感謝をし、その武器であらんと生きてきた。今までは盲目的にそう考えいた、それが正しく自身の道だと思っていた。しかし、今はその内心に黒く大きな痣が植え付けられていた。

 

  瞳だ。濁り、腐り、だが爛々と鈍い輝きを放ち、憎悪を糧に邁進せんと目の前を睨みつける瞳。おぞましい、恐ろしい、自分に向けられたのではないとしても、ランザ=ランテの殺害を半ば衝動的に提案する程に、怯えていた。何時か自分とレントになによりの災厄をもたらす、そんな不吉さを感じる存在だ。

 

 だがしかし今はどうだ。その瞳に殺意を込めて睨まれ、殺される恐怖を味わい、そしてそんな目を持つ人物に二度助けられてしまう。そして子供の人妖相手に見せた、絶望とそれを踏みにじりながら顕現させた殺意と憎悪。そしてそれは、ともすれば少しの衝撃で砕けて壊れてしまいそうな危うい脆さを伴っているように感じた。

 

 クーラの心に根付いたその染みは、その視線は、徐々に心を蝕んでいった。文字通り寝ても覚めて、夢の中まで現れてしまう。夜中に飛び起き、寝汗で激しく濡れた身体を首筋をぬぐい、紅潮した身体は再度の安眠を拒否する。自分で処理をし鎮めなければならないほどだった。正直に回顧しよう、身体が雌として興奮していた。

 

 あの瞳で睨まれ、ねじ伏せられ、殺されかける。そんな悪夢なのに。おかしいおかしいおかしい。自分はおかしくなってしまった。

 

 だから今、こんなことをやっている。掲げる大盾、職員用の仮眠室に忍び込み、寝息をたてるランザ=ランテの前に立つ。顔を覗き込むと、苦し気に唸っているのが分かった。この男も悪夢でうなされるのだなとそんなことを考えていた。

 

 瞼で閉じられたその瞳の裏側には、あの瞳がある。もう一度だけ、見てみたい。そう思ったら、我ながら馬鹿なことを思いながらも寝所を抜け出しこんなところまできてしまった。

 

 人は怖い。異端に対しての嫌悪と拒絶の強さ、あるいはその逆、物珍しさからの好奇心と加虐欲。その怖い人のなか、目の前の男は抜きんでた恐怖を叩きこんできた。なのにこれほどまでに、興味を抱く。

 

 自身の疑念に没頭をしすぎたのか、ランザの瞳が見開かれた瞬間身体の反応が遅れてしまう。かけ布団を頭に被せられ視界を封じられ、腕をとられベッドの上に押し倒される。突然のことに呆気にとられ、鋭敏な聴覚で荒い呼吸を聞いた瞬間、思考はまったく呑気な、しかし危機が訪れたと考えていた。

 

 貞操の危機。それはまあ、自分は女としては背は低く胸は発達途上どころか成長の兆しが見えない。尻も腰もおおよそ男受けとは程遠い位置にあるだろう。だがしかし、こうして押し倒されてべッドに引き込まれて、これからのことに抵抗できるだろうかと、自分を慰めてもまだ足りない熱に思考が浮かされた。

 

 だがしかし、ランザの狙いは違った。馬乗りになり腰を抑え逃れられなくした状態で。白い細首に親指を二本押し込む。ググゥ、と肌と肉に指がうまり爪が皮膚を傷つけ血を流し、クーラの呼吸を遮断した。

 

 「がっ…あっ……ぎ…いぃ」

 

 浮かされた熱も急速に冷める命の危機、身をよじり足をばたつかせ、腕に爪を突き立てる。だが相手は微動だにしない。眉一つ動かさず、こちらをまっすぐ見下ろしてくる。

 

 クーラはその時、出会ったことのないランザの仇、テンと似たような思考を抱いた。濁る目の中に見える、爛々とした光。まるで毒沼のごとき泥中に誰も見つけたことがない色鮮やかな禍々しく輝く宝石を見つけたような。

 

 テンはその宝石を、自分だけのものにしようとしていた。殺意という色彩を全て自分に向けさせ、自分もそれに応じることで研磨と加工を繰り返し、その宝石を愛することに意義をみいだした。そしてクーラは、泥中で鈍く輝く宝石そのものに魅了された。汚れと腐れにまみれた美しさ。何故こんなにも冷たいものが愛おしい。

 

 頭の中の酸欠による警告を無視し、身体は抵抗をやめていた。足はべッドに固定されたように力を失い、身体はなすがままを受け入れ、両の手をランザの頬にあてる。ああ、その輝きをもっと見せてほしい。その何時壊れても不思議ではない色を、一秒でも長く、一瞬でも長く。

 

 頬に手を当て愛おし気に撫でた瞬間、ランザの目が大きく見開かれる。慌てて身体をどかしベッドの端まで弾かれたように後退し、表情がみるみるうちに土気色に染まっていった。大きくえづき手を口にあて、慌てたように窓を開き外に顔を突き出す。解放されせき込みながら呼吸を貪るクーラの生理現象と、ランザの反吐をだす音が、夜の闇のなか響いた。

 

 十数分は、そうしていたか。クーラはおずおずと、丸テーブルの上に置いてある陶器製の水差しを手に持った。

 

 「水…」

 

 ランザは声に振り向き、奪い取るように水差しを手に取ると口の中に大量に含み呑みこんで、残りを頭の上にぶちまける。顔色は多少よくなったようだが、困惑の色は未だ隠せていない。

 

 「俺は…」

 

 それでもランザは、口を開いた。

 

 「俺は殺そうとしていたか?」

 

 子供を殺すことに、強い拒絶をもっている。それなのに、子供といえる年齢である対象を殺そうとした、そんな自分を苛むようにその瞳は陰りと濁りを増す。

 

 その問いにかろうじて頷くしかできない自分とランザを挟み、静かな沈黙が夜の闇のなか流れていった。

 

 喋るでもなく、立ち去るでもなく。月が雲から覗き部屋の中に明かりがさしこまれる。そうしてまた幾分か時間が過ぎ、ランザは少し落ち着きを取り戻したのか、ベッドから足を降ろし腰をかけてクーラと真っ直ぐ対峙した。

 

 「俺は首を絞め続けるべきだったか、やめて良かったのか。殺しに来たなら、さっきの続きをするが、どうする?」

 

 わざわざ聞いてくるあたり、やせ我慢だ。そんな気はもうないだろうし、殺意というものはすっかり抜けているようだった。瞳を見に来た、なんてことは言えない。その代わり、一つの疑問をぶつけることにした。

 

 「何故黙っていた」

 

 純粋な疑問。殺意をもち罠を仕掛け待ち構えていた刺客を、子供だからと助けた。それはまだいい、だがグロー達の事情聴取において彼は、自分のことを山菜取りだか薬草取に森に訪れ、迷子になり巻き込まれただけだといささか苦しい嘘をつき、それを無理矢理つきとおした。

 

 グローはこちらのレントとの関係に勘づいていたが、その件にマリアベルやグローが積極介入できなかったのは、あの場の異常を優先させたのとレントが裏からこちらに害が及ばないように工作をしたせいではあるが、司法の罰に問う姿勢すら見せないその嘘は疑問だった。

 

 「あの時、自分はお前を殺そうとした。なのに何故それを隠し庇いだてしたんだ。自分どころか、背後関係すら聞いてこないのは些か以上に奇妙に感じる」

 

 「気になりゃ藪蛇つつくタイプかお前さん。害がこないなら放っておけば良いだろうに」

 

 「教えてくれなきゃお前を殺す。再度首絞めの続きをするか?」

 

 血が流れ、痣が残る首筋に親指を差す。それを見て、ランザの顔は曇る。そして観念したようにため息をはき、頭を軽く抱えた。

 

 「俺に似ていた」

 

 「どこが?」

 

 自分にあんな、狂気の目はできない。なにをもって似ていたというのか。そこはやや不思議で少し不本意だ。

 

 「自分にとっての恩人、その為ならば命も厭わない。俺にも昔そういう人がいた、時に意見が食い違うことがあっても、自分が間違いでその人が正しいと考えることを放棄していた。そんな時の顔だ」

 

 レント=キリュウイン、彼の顔が脳裏によぎる。彼に威圧をし、そして危険な目をした異常人物だとランザを殺す決意をし進言した。だがどうかしていた、それだけの理由で人を殺すなど、本来ならば考えるべきではない。だが、レントはそれを承諾し、そしてあの夜を迎えた。

 

 「その果ての結果が、最後にして最悪の決断を頭の中では反対しつつも肯定してしまい、その人は死に十六名の仲間が残酷な肉塊に成り果てた。なにがあっても、嫌われても、止めていればと今でも後悔しているし、彼らのことを忘れたことはない」

 

 掲げる大盾支部長、グロー。その戦友で古い友となれば、ランザがいた環境は開拓地の調査のため未開地に生贄同然に放り込まれていた、初期冒険者ギルドの探索者のことだろう。死亡率の圧倒的高さは、開拓において美談にはできず闇に葬り去られている。その悪辣な探索にて、死んでいった者達を忘れることはできないのだろう。

 

 「お前はまだ後悔する前に引き返せるように見えた。その道を盲目的に進むか、矯正しつつ妥当な線で折り合うを見つけながら進むか、それとも引き返すことができるのか選択をするチャンスを与えたかった。人は剣でも槍でもない、きっかけ次第で曲がったり折れたり、凹んだりを選べるし、誰にでもその権利がある。こんな話をさせるな、こういうのは黙っているのが華なんだよ」

 

 自分語りに、吐き気とは違う気持ち悪いものを吐いたと言わんばかりに顔を背ける。頬が少し赤いのは、先程の興奮だけではないのだろう。クーラはクスリと、思わず笑ってしまった。そしてその時、一つ心に決めることにした。進むべき道を、選んだ。

 

 「お前の背後関係なんて知らんし興味はない。お前がどう思い、どう行動し、その結果に対して再度対応していくだけだ」

 

 「そうか…夜分遅くにすまなかった…いや…うん…言い直す。夜遅くに、本当にごめんなさい。今日はもう帰る」

 

 この人なら、自分を見せてもいいかもしれない。危なくて暴走気味で怖い危険人物。でも、この人にならば自分を見せたいと、思えた。だから、壁を一枚壊し素の自分を見せる。

 

 「今日は?」

 

 ランザの声を無視し、影に溶け込み夜闇に消える。剣として使われることが恩返しかと思っていたが、ここは曲がって折れてみようか。当然剣として自分は曲がり折れれば不良品で破損品だ、役には立たない。だがそれでもいいのであれば、それを選べるのであれば。

 

 「貴方を護る、矜持も恥も忘れた恩知らずになろう。曲がり、折れ、それでも良いと言ってくれるならば。そして…」

 

 クーラの、熱に浮かされたような、恩人に対する羨望で曇った目はなくなっていた。その代わり、薄く透明な、静かな、さりとて見え辛い狂気の色が目を覆う。

 

 月が陰る瞬間、気配を感じた。街の中央部たる時計塔の足元、役所が管理している倉庫の屋根で足を止める。跳躍、時計塔の彫刻や針を掴み頂上まで昇っていく。頂上で待ち受けていた人物は、何時ものように優し気な微笑みを浮かべていた。

 

 「レント様」

 

 「ボクがいるとすぐ分かったかい。流石はボクの剣だ…と言いたいところだが。何故君はアレの元へ向かったんだい?もう関わるなと命じた筈だ」

 

 言葉は優しく、しかし有無を言わせない言外の圧力。取り巻きは近くにいないものの、単独での強さは言えば自分を幼児程度にあしらうことなど簡単だろう。個人の武力で言えば、一騎当千。西方を長年荒らして回った人喰いの悪鬼や、地下迷宮にて屍術士率いるグールの大群や蟻人の巣窟の単独制圧。帝国における反政府勢力の掃討。卓越した身体能力と、桁外れの魔力、そして多彩な技を駆使する。なによりも奇怪で、恐ろしいのは。

 

 「困ったなぁ。君がそういう勝手な行動ばかりとるならば、ボクは君に対してなんらかの処罰を下さなければならない。加護の剥奪、取りあえずはそんなところかなぁ」

 

 加護。レントが扱える技術を他者に分け与える異能の術。素人を瞬時に一流の剣士にし、魔術の素養がない者を大魔術師に変え、獣に人の言葉を理解させる。女神の力と語ってはいるが、それは現在広く信仰されている宗教とはまた別のものであるらしい。

 

 キラービーの支配権をのっとり、使役したテイムの技、これも加護の力により授けられた超常の業だ。インスタントとはいえ、一流の獣使いの業を余すことなく扱えたのはこの為である。この力が失われるということは、現在の戦闘力は半分以下になるだろう。

 

 「いかようにも」

 

 「本気かい?」

 

 「歩むべき道を見つけたので。貴方から受けた恩はありますが、もうそれに縛られるのはやめようと思います。その証明として、これもお返しします」

 

 下賜された直刀を腰から抜き床に置く。この剣で、彼の命令で、いったい何人闇討ちしてきたことだろうか。彼の命令なら絶対だと考え、思考停止をしていた。殺すという行為を、いとも軽い行いと考えていた。殺さずにすむ命もあったというのに。ランザの言う通りだ、彼の言うことは正しいのだと、自分を正当化していた。

 

 「解せないね。君がそこまで恥知らずとは思わなかったよ」

 

 よく言う。ツラの皮が厚いとはこのことか。

 

 内心歯噛みをする。あの時、人妖が訪れる前に襲い来た二匹のキラービーには、自分が仕掛けたよりさらに強力なテイムによる支配がかけられていた。レントは、あの戦闘を観察していた。そして子供を相手に殺すことを忌避するランザの特性を見切り、自分に向けキラービーをけしかけたのだ。必ず庇い、代わりに負傷するだろうと読んだのだろう。

 

 テイムの業を仮初とはいえ行使していた。その支配権の移り変わりは、人妖が支配を取り返したように偽装されてはいたが、違和感を覚えることはできた。そして後に、密かに行った死体を見聞で違和感と疑問は確信へと変わる。

 

 気づかない、とは思わない筈だ。だがしかし、それでも自分についてくると思っているのだろうか。

 

 いや、昔の自分であればそれでも盲信しついて行っただろう。しかし今はもう違う。

 

 「いやすまない、恥知らずは言いすぎたな。ボクは君のことを真の仲間だと思っている。みんなはボクに対して理想を押し付けるばかりだけど、陰から支えてくれる君は真の理解者だと考えているんだ。確かに奴隷として縛っていないが、離れることはお互い大きな損失だとは思うんだ」

 

 大きく手を広げる。何時ものように抱きかかえ、頭を撫でようとしてくるためか、そのまま近づいてきた。

 

 「近づくなという命令は取り消そう。その代わり君にはランザに張り付いて調査をしてもらいたいんだ。そして彼の周囲を逐一報告をしてほしい。今回は暗殺を頼む訳じゃない簡単な仕事だろう?またボクの為にはたら「名前」」

 

 一つだけ、言いたいことがあった。後ろに下がり、壁を一枚作る。

 

 「自分の名前、憶えていますか?君としか、呼んでもらった覚えがないのです。一度呼んでみてください。お願いします」

 

 レントは笑顔を張り付けたまま、固まった。笑顔のまま目が吊り上がっていき、友好的な雰囲気が消えていく。

 

 殺しをした。何人も暗殺を繰り返してきた。慣れないうちは吐き気もしたし、夜も眠れないし、悪夢にうなされることもあった。そして今は、そんなまともな感情は摩耗していた。ランザと違い、人間性という意味では自分の方が汚れていると思えた。だがそこまで尽くしても、自分は彼にとってその他大勢の便利な『君』に過ぎなかったのだ。

 

 「『君』が多すぎて、言えない?」

 

 クーラは笑っていた。恩義があったとはいえ、何故こんな存在に忠義を尽くしていたのだろう。敬語を使う気も、失せた。ただ笑った、笑えた、レントに対しても、自分に対しても。名前も覚えてくれない相手の為に手を血に染めてきたのだろうか。

 

 「さようなら、クソ野郎」

 

 時計塔から飛び降り、夜闇に紛れ消え失せる。この技術は、必死に身に着けた自分だけの技。決して与えられたものではない。誰にも奪うこともない、まして返すこともない、培われた能力だ。これはもう二度と、レントの為に使われることはないだろう。

 

 旅の支度をしなきゃ、代わりの武器を手に入れなきゃ、人妖について調査報告書を盗み見て勉強し、少しでもランザの力になる努力をしなければ。

 

 例え断られても、迷惑がられても、しつこく食い下がりついていく。それが今の自分の、新しい人生で生き甲斐になるだろう。

 

 時計塔から充分離れたところで立ち止まり、血が止まりつつあった首筋に触る。食い込んだ爪跡の傷をなぞり、熱く甘い吐息を漏らす。首絞めと命の危機、そしてそれに対しての興奮を思い出し、身体が熱くなり思わず自分を抱きしめ倒れないように壁に背を押し当てた。

 

 仲良くなったら、お願いしよう。無理だろうけど、もし仲良くなって、なにか功績をたてて、万が一でもお願いに頷いてくれるならば、またしてくれるだろうか、あの『ご褒美』を。

 

 夜の闇の中、猫は、酷く歪んだ笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 立ち尽くすレントは、ゆっくりと手を降ろした。返された直刀まで近づき。足で踏みつぶし、踏みにじり、鞘ごと粉砕をする。直刀は、名のある業物として数えられる程のものではなかったが、良品質な玉鋼から職人が作り出した、市販品として充分に高品質な代物だった。

 

 単純な筋力操作にて、南国の未開地に生息する、彼の知識から言えば像に似た生物が踏んでも壊れない鞘と刀身を砕いたが、気分はいささかも晴れない。たかが裏切り者一人、今の自分には痛くもかゆくもない、暗殺についても奴隷あがりの半獣の言葉を信じる奇特な人間はいないだろう。捨て置いても問題はないが…気持ち的には問題がでかかった。

 

 帝国の大物政治家に溺愛された娘を零落させ、希少種族のエルフを侍らせ、小国ながら精強な騎士の団長を務める女武芸者を堕とし、難敵と言われた敵たちもスキルとチートで前世界にて捨てられた子猫を蹴飛ばすように蹴散らしてきた。今まで、順風満帆だった筈なのに!

 

 「ランザ=ランテ」

 

 便利な暗剣を無くした時点で、今下手に動き評判を落とす訳にはいかない。リスム自治州にて、掲げる大盾にて多彩な人脈を持ち剛腕を振るうグローの友人を襲うのは、今はまだリスクが高いしなにより、あの狐の姿が混ざる人妖テンの行動を把握するのに殺す訳にはいかない。

 

 もどかしい、殺すのは楽なのに殺せないとは。理性が押しとどめるだけで、腸が煮えくり返ってしかたない。

 

 「ボクの邪魔者は、必ず殺してやる」

 

 今一度、決意を新たにする。今は煮え湯を飲んでも、大団円とはボクの為にある言葉なのだから。

 



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 「本当にそれで良いのか」

 

 晴天に恵まれたある日、傷が癒えたランザを見送る為グローはわざわざ時間を作り出向いて来た。掲げる大盾の正門前、革製の保護カバーと幾本かのベルトに巻かれた、女王蜂と化した人妖の巨大な針をランザは背中に背負っている。

 

 人妖は死ぬと、変異が解けて人に戻る。だが元の姿と大きく違う器官は、そのままの状態で遺骸として残ることがある。背負った針のほか、ルーガルーの腕から採取した鈎爪が背負う荷物の中に含まれていた。

 

 「当初の予定とは違ったが、キラービーの大群と人妖退治はお前の功績だ。報酬に色をつけることだってできるんだぞ」

 

 「これはこれで使い道がある、主には欲しがる奴がいるからな」

 

 邪魔な荷物ではあるが、苦労する価値はある。しばらくは窮屈な旅路になるが、致し方ない。金銭よりも貴重な報酬を得る為に、選んだ討伐の対価がこの大針だ。

 

 「これから自治州警察署長と面会があります、これ以上は予定に差し障りがでます」

 

 几帳面がマリアベルが、懐中時計を見てグローに伝える。支部長というのは、やはり忙しいようだ。特にこの自治州は、非合法組織や不法滞在者が住み着く地下街とダンジョン化した地下迷宮。大橋で繋がれた島には経済特別区という名の非合法組織達が運営する売春島。逮捕しても減らない賞金首と賄賂を受け取る悪徳警官。トラブルは日々の茶飯事におきている。民間の保護を第一とする掲げる大盾は今日も大忙しだ。

 

 「お前に頼まれたことは、遂行しておく。人妖の分類は発生条件の考察に報告書の写しの保管。またこちらに戻った時情報を見れるようにしておく。それと、お前の娘のこともだ。片手間にはなってしまうが、情報を意識して集めてみよう」

 

 「頼む。最近は振り回されてばかりで、一人ではなにかと限界を感じていたところだ」

 

 「それと…いや、なんでもない。生きてまた戻れ、以上だ」

 

 悪竜ジークリンデのことは、言いかけてしまうが流石に呑みこんだ。なにを言わんとしたのか察し、軽く笑ってやる。

 

 今日も粋の良い掛け声と汗にまみれた労働者達が働く港道を歩き、西北にある街道に抜ける門までたどり着く。顔なじみの若い門兵が軽く手をあげたので、返しておいた。グローからの証明書をつけているため大針を没収される訳ではないが、一々門兵の前で荷物検査として厳重な拘束を開封し、証明書の記載と内容物の相違がないのか確認させるのは手間がかかる。

 

 安給料でこき使われている門兵に、少しずつ他国の甘味という賄賂を渡して来た成果だ。経験則ではあるが、なり立ての門兵はプライドが高いが懐は寒いという共通事項がある。金銭を渡すような賄賂は、プライドを逆なでするがさりげなく外国の高級な甘味をすすめるとなんやかんや言いつつ食べてしまう。それが重なり、賄賂となり今では自然と顔パスになっていた。グローの顔見知りという理由もあるだろうが、なんにせよ面倒を避けられるのはありがたい。

 

 港町を出てしばらく歩けば、商魂逞しく街の外にて旅人や傭兵向けに場所代という税を払うのを嫌い商売する屋台の喧騒も遠くなり、静かで心地良い風と丁度いい日差しを浴びながら歩くことができる穏やかな街道が続いていた。

 

 街道の脇で岩の上に止まっていた鳥が、人が近づいて来たことに気づき羽ばたく。数羽が空のかなたに飛んでいくのを眺め、視線を下に降ろすと片膝をつくフードの少女が目に入った。ホルスターの散弾銃を掴みかけたが、殺気がなく動きもないので抜くことはなかった。抜いたところで、脅しの牽制にしか使えないのだが。

 

 舌打ち。無視をして通り過ぎようとし、傍らまで近づいたところで声がかかった。

 

 「遅れながら、非礼を詫びにきた」

 

 「いらん」

 

 返事をしなければ良かったと、言ってから後悔。望もうが望むまいが、これで会話が成立してしまった。

 

 「詫びの内容を考えて来たのに、そんなこと言わないでほしい。貴方は、貴方を殺そうとした自分の命を救い道を考えなおすチャンスをくれた。その借りを返したい」

 

 「ボランティア活動でもしてろ。なんにせよ、礼だの恩義だのに縛られる必要はない」

 

 「自分はっ!」

 

 少女が目の前に踊り出た、被っていたフードを脱ぎ、身体を覆うマントを外し地面に落とす。灰交じりの短めに切られた黒いの髪の毛に立つ半獣の証である耳に、禁忌を破った者が先祖にいると信じられている差別の証となる尻尾。首筋には、スカーフをまいており、それをとると今まで気づかなかったが首の後ろ側から焼き印を無理矢理削りとったような跡が少しあるのが見えた。

 

 「自分はクーラ。奴隷故に性はないし、元々名前なんてない、この名前も便宜的につけられただけ!この身体のせいでまともに生きる道もない!でも貴方はそんな自分を殺さず選択肢をくれた!考え直すチャンスをくれたのっ!そして…っ!」

 

 少女は、クーラは言いよどむ。最後の言葉を勢いで出そうとして慌てて呑みこんだように見えた。

 

 「恩返し…なんて傲慢。こんな力も武器もない小娘が役に立つとは思えない。貴方の足を引っ張ることは想像に難くない。迷惑ばかりかけると思う。それでも…ついていきたい背中を見つけたの!だから、旅の仲間なんて言わないから…対等だなんて思わないから、どれ」

 

「待て」

 

 言いかけたことを、言わせないように手を前にだし静止させる。奴隷でも良いからなんて言葉、こんな年齢の子供の口から簡単に言わせる訳にはいかない。

 

 食いしばるような目つき。これを断れば恐らくこの少女、クーラに未来や次といった考えはないだろう。ジークリンデに殺された隊長、彼女に俺が反対されたうえで懇願を続け、仲間に加えてもらったように。この目は、瞳は、あの時の俺と同じ目をしていた。断ったら、恐らくは待つのは悲惨な末路である。元奴隷という持たざる者の立場だ、自暴自棄になりかねない。

 

 改めて姿を見ると、色合いが暗く人気がでずに染料が何時も余っている黒で染められたシンプルなシャツに摩耗し薄くなった革の胸当て。腰には銃器のホルスターはなく、表面が削れ塗装が剥がれた青い鞘に入れられたショートソード。肩にかけれた鞄もガタがきているように見え、ところどころ補強している有様だった。

 

 あの直刀はない、売り払ったのか。安物や中古で身体を包んできたとはいえ、旅装備を一通り揃えたのであればそれは無視できない出費となっただろう。許可を与える前からこの入れ込みようは、次のことなんて考えていない良い証拠だ。

 

 「旅の目的は人妖を探して狩り続け、何時かある人妖を討伐すること。あっけなく死んでもおかしくないうえに、俺自身何時爆発するかしれない危険物を持ち歩いている。百害あって一利なし、そんな旅路だ。それでもついてきたいのか」

 

 「承知済み」

 

 「何時切り捨てるかも分からない。最悪囮にするし、窮地に立てば状況により見捨てる」

 

 「むしろそうであってほしい」

 

 引く様子は、やはり見られない。確認の言葉も、予想の通り無駄になった。

 

 「物好きめ、勝手にしろ」

 

 クーラは目を輝かせた。そしてはっとし、慌てたように解いた装備を装着しなおして最後にフードを被り頭を隠す。

 

 歩き始めたランザにの後ろ、ぴったりと歩きついてきた。行き先も聞かず、ついてくることこそが目的だとでも言うように。



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祭り


 直上より振り下ろされる一撃。大鉈の如き分厚い金属がクーラの頭上から振り下ろされる。必要最低限の動作で身体をずらし刃を回避し、ショートソードによる突きを首筋に向け放つが弱点狙いに気づいた敵は腕を前に出し甲殻ではじき返す。

 

 沼地に潜む難敵、リザードマンとの正面きっての戦闘は、想像以上に苦戦を強いられた。堅い甲殻に低品質で粗悪ではあるが、筋力に任せて振り回される大鉈に大槌。一体一体が戦士であり、野生の獣とは違い状況判断に優れ今もジリジリと自分が得意な間合いを保ち対峙をしてくる

 

 舌打ち。暗殺ならばたいしたこともない相手である故油断をしていたが、ここまで手が抜けない相手だとは思わなかった。

 

 背後に飛んで間合いを離すと、それに呼応し大鉈を振りかぶり前進を開始する。低い姿勢で這いつくばり横薙ぎの一撃を回避しつつ、手の中に手頃な大きさ石を幾つか握り込む。

 

 顔面に迫る蹴りを後方に一回転がり回避。鱗に覆われた足は、巨大な体躯と筋肉、骨格を支える太さと頑強さを誇りまともに喰らえば顔が背中側に向いていただろう。正面から迫る命の危機、暗殺が主だった仕事であり、テイムによる使役で正面からの戦闘を任せていた自分にはどれもが身に慣れぬ命の危機。身体が恐怖で硬直しそうになる。

 

 だからといって敵は待ってはくれないし、ランザが助けてくれる訳ではない。足手まといになると宣言はしたが、堂々と足を引く存在になる訳にはいかない。

 

 身震いする身体に活を入れ、後ろに一回転。手に握る石を顔に向けて投擲する。いくら鱗が堅かろうと、顔に鋭い岩を受けて平気な訳ではない。リザードマンは鉈を顔の前にし岩の直撃を防ぐ。地面に這いつくばる相手に、今度こそ攻撃を当てようと殺意宿る目を大鉈の後ろから露わにさせた。

 

 だがその刹那痛み。右眼球に飛び込んで来た鋭い何かが眼球にのめり込み、視界の半分がブラックアウトする。雑に顔面狙いで投げた複数の石は囮、本命はひっそりと手の内に残しておいた鋭く尖った小さな石ころ。親指で弾いた石は、苦し紛れだと思わせた相手が防御を解いた瞬間飛燕のように飛び込んでいった。

 

 リザードマンが痛みにもだえふらつく。視力が潰れた右側から回り込み跳躍、肩と頭に足を置きショートソードを構える。手を振り回しこちらを叩き落とそうとしたようだが、それよりも早くショートソードを眼窩に突き刺し垂直に押し込まれる。脳が破壊されリザードマンは停止、背中から倒れ込み絶命した。

 

 「はっ…はぁ」

 

 怖かった、本当に。これが戦闘、正面からの殺し合い。

 

 震える手でショートソードの柄を握り直し、引き抜く。ピンク色をした脳の一部が剣に付着しており、それを振るい落とし緊張がほぐれたようなため息を吐く。

 

 と同時に二発銃声。背後から巨体に似合わない隠密性で近づいてきていた軽装備をしたリザードマンの頭部が吹き飛び、振り返った自分にも脳変と血液がバラバラと降り注いだ。足にも吹き飛んだかのように肉とささくれた骨が覗いており、まず足を殺してから頭部を飛ばしたのだと推測できた。

 

 ランザが近寄りながら弾丸を装填。軽装備のリザードマンが持っていたナイフを回収し、それを振りかぶり林の中に投げる。林の中から一体のリザードマンが現れ、倒れる。頭には投げたナイフが突き刺さっていた。それをきっかけに潜んでいた数体が飛び出し、襲い来る。

 

 迂闊。目の前の敵に気をとられすぎて、自分が得意な隠密の知識で隠れていた敵を把握できていないなんて。

 

 油断を責めるでもなく、ランザは前進。リザードマンが持つ原始的な飛び道具、石弩の攻撃を射線から把握して回避をする。前衛二体が槍と斧を盾に当て打ち鳴らし威嚇。だがそれに付き合う暇はないとばかりに、手元から煙玉を取り出し火をつけて投擲した。

 

 煙幕のなか飛び込み、二発の銃声。煙から飛び出してきたのは斧を持つ一個体のみ。その場から離れようと飛びのいたが、それを逃がさないとばかりにランザは追撃をする。装填していない散弾銃を鈍器がわりにし顔面を殴打、鉄部品に当たり甲殻の一部が砕け口から血が出たのが見えた。

 

 近い間合いでは、斧は使えない。そう判断したリザードマンの選んだ攻撃は大きく開いた口での噛みつき。首筋に迫る口は、下からの衝撃で無理矢理閉じられる。ショートアッパーが顎を捕え、敵の攻撃を拒否した。

 

 怯んだ隙を見て散弾銃を落とし、煙の中で回収していたのか石弩の短い矢が戦闘用外套の袖から滑るように出現をする。鱗の薄い首筋に矢が突き刺さり、呼吸器を破壊。矢の尻めがけて掌底が叩きこまれ、更に深く突き刺し敵を絶命させた。

 

 倒れた敵には目もくれず、散弾銃を回収し装弾する。銃口を向けた先には、新手が十数頭。クーラも慌ててショートソードを向けるが、複数の銃声が響きライフルの弾丸がリザードマン達に飛来していく。

 

 「待たせたなぁ客人!」

 

 威勢の良い声に振り向くと、そこには肥満体の二足歩行をした大豚を中心に、人と豚鬼の混成部隊が駆けつけてくれていた。

 

 「さぁあ!生臭い蜥蜴共を似合いの泥沼に追い返してやれぃ!突撃ぃ!」

 

 戦槌、大剣、大槍、ガントレットを装着した豚鬼達が、その体系に似合わぬ勢いで突撃を開始する。堅い鱗なら、それを破壊する威力で粉砕すれば良いと言わんばかりに力押しながら最効率な戦いに持ち込んでいく。

 

 過去差別階級であり、今も一部では嫌悪の対象と語られてはいるが、豚鬼は広くは人類社会の一員として認められている。特にここリスム自治州内においては、州軍を置くことは列強の圧力で難しくあり、良いところ国境管理隊という名目で警備部隊が組織されているのみだ。

 

 豚鬼達は、好んで辺境地に住む特性がある。そこを拠点に、警備部隊の人手では手が回らない主要な街から離れた位置におこる国内の不安を解消し街道警備や危険性物の駆除を生業として行政が報酬を得ていた。そこに人間の志願者や街ではすめない変わり者等も加わり、今や一族全体で傭兵隊のような存在になっている。

 

 後は彼らに任せて大丈夫だろうと、ランザは散弾銃をホルスターにしまった。クーラは、せめて自分の得意分野ならと甘く考えていた自分を呪う。潜んでいた敵を炙り出すのは、自分の役目と決めていたというのに。

 

 決着がつきあがる勝鬨と、四散していくリザードマン達。周囲の歓喜とは半比例し、クーラは落ち込んだ顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 豚鬼達や人間の傭兵達と共に、最寄りの村に入る。沼地から生息域を広げようと村の近くにある水源に目をつけていたリザードマンの対処を行政に依頼していた村であり、無事襲撃を撃退できたことで不安がっていた村民達は嬉しそうに礼を言ってくる。

 

 もとよりここは村とはいっても、リスムの港町とこの先にあるモスコーという街の中間にある宿場通りに併設した村であり、近々数日間続けて行われる大きな祭りの為に観光客が沢山通り金を落としていくため、リザードマンの襲撃は迷惑極まりなかったと聞いてないのに話してきた。

 

 豚鬼達から協力金として報酬の一部を分配してもらう。彼らは、戦士の一族だ。共に肩を並べて戦った戦友に対して、意外なことに外からの人間だからといって金払いにケチをつけるようなことはなかった。レントは醜悪で不潔な存在と忌んでいたが、豪快な笑みは見ていて爽快だ。だが報酬を受け取った瞬間女を買うことを楽しみにしていたと談笑する者達もかなりおり、そこは流石に辟易せざるえなかったが。

 

 ランザは、握手と共に豚鬼達から離れ冒険者ギルドの小さな支部に向かう。食費を安く抑えるため、宵越しの金を持たない気質が多い豚鬼の宴会から逃れるためだ。その後ろをクーラはついていくが、やはりその顔は暗く沈んでいた。

 

 旅を初めてまだ二日めだが、早くも挫折が目の前に横たわる。潜んだ敵を見つけられなかったのもそうだが、戦闘にしたって自分はもう少しやれると自惚れがあった。レントの加護による力は、想像以上に自分の中に食い込んでおりそれが無くなるとぽっかりと大きな穴が開いたような気分になる。

 

 テイムによる使役を使わなかったこと、使えないことに、ランザは疑問を持たれぬ訳でもないだろうが、なにも聞いてくる訳でもなし。それは、まったく期待をしていないよう考えているように思えてネガティブな感情が強くなる。

 

 騒がしい冒険者ギルドの食事処。銅でできた会員証を受付に提示し、併設された食堂に向かい、適当に盛り付けられた干し肉とふ化した芋、茹でられた人参に黒パンが与えられた。当然のようにメニューなどないし、アルコールの類は有料で提供されるが、ランザは頼まなかった。

 

 両手が盆で塞がる為、空いている席を先に占領する。水はセルフサービスの為、相手が行動する前に一言水をとってくることを告げて足早に向かう。せめてこれくらいは、と小間使いのようなことを考えてしまうくらいには意識の他無意識にも追い詰められていた。

 

 大きな水差しから木のコップに二人分の水を汲み、戻ろうとする。それと同時に、泥酔していた男がよろけてぶつかり、そのまま倒れてしまった。考え事をしていたせいで視界が狭くなっている、普段ならなんなく避けられた筈なのに!

 

 「なんだぁ…ガキがいっちょ前にギルドで冒険者きどりかぁ?」

 

 赤ら顔で、絡んでくる酔っ払い。この手の存在は相手にするだけ時間の無駄だ、立ち上がり落としてしまったコップを拾おうとしたが、男の手がその背中に手を伸ばした。

 

 「無視してんじゃねぇメスガキがぁ!」

 

 男が荒く、フードを掴みめくる。声で危機を感じ咄嗟にかがんで頭を掴まれることはなかったが、逃げ遅れたフードが除かれ衆人に半獣の証である耳が露わになってしまった。

 

 「なっ…獣憑きじゃねえか気色わりぃ!」

 

 男の叫び声に、周囲からの注目が集まる。なんでこんなところに、忌まわしい血が、呪われてやがる先祖に獣姦好きでもいたんだろう。様々な嘲笑や罵倒が浴びせられる。レントのそばにいる間、浴びせられなかった悪意を久々に全身に浴びていた。

 

 周囲のどこを見回しても、男も女も、嫌悪の視線と悪意を持つ言語を向けて来る。思わず自分を抱きしめなければ、そのままフラフラと尻もちつきそうになるくらいの敵意に、リザードマン戦からの自信の喪失も伴い不安定な精神は追い込まれそうになった。

 

 思わずランザの方を見た。彼は、ただなにもせずに芋をかじりながらことの顛末を見ていたが、薄く笑い顎を少し動かした。それくらいは、自分でやれと。

 

 あっ…。と内心、声をだす。手をだすことで巻き込まれるのを危惧したような顔ではない、それくらい自分でなんとかしなければ、この先どうあがいてついていくことなど叶わない。人の悪意より数段上の、人妖と対峙する人生を歩む男の笑みは、この程度の敵相手に尻ごみしていた自分のケツを蹴り飛ばしているように思えた。……実際に蹴り飛ばしてくれても良いのに。

 

 「なに笑ってやがる、本当に薄気味わりぃ!出ていきやがれ、半獣が人間様の食事処に…」

 

 肩を掴もうとしてきた泥酔した男の腕を回避し、昼間ランザが見せたショートアッパーを繰り出す。突然顎にくらった衝撃に男はグラリと後ろに倒れ、尻もちをついた。

 

 「おっ…お……お…お前ぇ!」

 

 「半獣はギルドに登録してはいけないという決まりはないよ。ついでに人の食事処に入ってはいけないという法律もね」

 

 手加減した一撃であるが、予想外の反撃を受けた男は頬をさらに紅潮させた。自分の周囲にも殺気立つ人間達が集まり、ぐるりと取り囲む。所詮は底辺にいる人材の集まり、ギルドの職員は喧嘩など日常茶飯事だと介入をする様子はない。

 

 「上等だぁ!袋にして奴隷市場にでも売りさばいひぃ!」

 

 男が殴り飛ばされ、長机の上を滑りその向こう側に頭から落ちた。足がひくひくと動いていたが、力なく垂れ下がる。

 

 「人間様なら、餌くらいお行儀よく食べろ。無理なら獣らしく床で食っていろ」

 

 干し肉をかじりながら、ランザは悪態をついた。多勢に無勢ということで、助太刀にきてくれたようである。嬉しくて、涙腺が緩むが、今はそんな場合でもない。気にしていないふうに笑みを浮かべ、ファイティングポーズをとった。どこかで見た路上喧嘩の見様見真似な構えであるが、ランザは獣耳の上から頭を少し撫でまわす。

 

 「半獣のガキに味方するか、ケダモノのガキに欲情でもしたかお前!」

 

 「ツレなんでな。下品な妄想は、トイレで性欲と共に流して来い」

 

 殴りかかる男の腕をとり、そのまま背負い床に叩きつける。常に人妖を相手に想定した戦闘を繰り広げているものにとって、脅威にはなりえない。武器を抜く相手も見えたが、クーラにとってそれはリザードマンの戦士に比べ遅い反応で鈍重な動きだった。武器を構える前に懐に潜り込み、睾丸に掌底を叩きこむ。効果はてきめんだったが、気持ち悪くてやったことを少し後悔。

 

 周囲の敵意が、二人の動きに反応をして同時に襲いかかってくる。しかし、襲い来る前に囲いの一角が崩れ赤髪の男が乱入してきた。手には、使い込まれたオレンジ色の長い棒。どうやら囲いの一角にいた者達を背後から殴り昏倒させたらしい。

 

 「差別、多勢に無勢、武器を抜く程殺気立つ考えなしの兄ちゃん姉ちゃん。どう考えても、加勢するならこっちだわなぁ」

 

 男は二カリと、舞台俳優のような眩しい笑みを浮かべる。テーブルを飛び越えてこちらに立ち、よろしくなと笑みを見せ周囲に向けて棒を構えた。

 

 「酔狂なことだな」

 

 ランザが苦笑をうかべ、前に一歩出た瞬間が、乱闘開始の合図になった。



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何時の間にか滅茶苦茶UA伸びて、お気に入り数が百を超えていました。

急激に伸びたので驚いています。皆さんありがとうございます!


「あーあ、今夜は宿なしかぁ」

 

 三人の人影が、夜の道を歩んでいた。有象無象とはいえ多勢に無勢、頬が赤く張れ、鼻血を拭った跡もあり、身体の所々服をめくれば青痣ができているだろう。最後の一人をクーラが後ろからビンでぶん殴った後、肩を軽く叩かれ、ギルド職員に三人ともつまみ出された。

 

 この時期はモスコーにおける祭りの期間に、出店や芸で稼ぎを出す為に訪れる外部の者が多くこの宿場通りを利用する。ギルドでの宿泊施設が使えない以上は野宿がほぼ確定だ。赤髪の男は、清々しい声で大きく伸びながら宿なしを嘆く。だが声色は、宿を嘆くより暴れたことによりストレス解消ができたと言わんばかりだった。

 

 「巻き込んで、すまなかったな」

 

 「首突っ込んだの間違いだ。大勢で少数をボコろうとするのが気に入らねぇ。あとは差別もだ」

 

 ランザの謝罪に、男は笑いながら応じた。自分も続けて頭を下げ礼の言葉を言ったが、気にすんなと男くさい笑みを浮かべる。極めて稀ではあるが、人の中にはこういう人物もいる。後先考えず、自分がしたいと思ったことをする者。非常に好感がもてた。

 

 「ああそうだそうだ。俺はベレーザ=ハルベルト。この先宿場通りから先にあるモスコー街出身で、街に帰る道中だったんだ。アンタ等は?」

 

 「ランザ=ランテだ、こちらもモスコーに向かっている最中。こっちは…訳あって共に旅をしている」

 

 「クーラ=ネレイス。よろしく」

 

 ネレイス。奴隷あがりであることがバレると、珍しくはないものの色眼鏡で見られることも少なくない。奴隷が持たないファミリーネームは偽名であるが、詳しく調べようとしなければ分かるものではない。ネレイスというネームは、わりとこの世界には溢れかえっている。

 

 「行き先が同じなら丁度いいな。道中一緒しても良いか?モスコーは古い街だが、だからこそリスムにはない名所が数多くある。良ければ道中語らせてくれよ」

 

 ベレーザは好意からか、道中ではあるが街の紹介をさせてほしいと切り出した。そういえば、目的地はモスコーであるとは聞いていたが、何故モスコーに向かうかの理由はランザから聞きだせてはいなかった。祭りを控え活力が満ちた街に、人妖の情報やそれに準ずる怪しい話はない。まさか本当に観光しにいくとは思えないが。

 

 もしくは人が集まるからこそ、モスコーで情報を集め精査し次の目的地を決めることに主眼をおいているのかもしれない。祭りとなれば、それこそ各地から人が集まってくる。もしかしたら、人妖が絡んでいいるだろう話の一つでも聞けるかもしれない。

 

 宿場通りを抜け、近くにある村落近くまで足を延ばす。水場が近いためか、村落と宿場通りの間の短い道の間にはテントが立ち馬車が止まっており、宿からあぶれたか金銭をケチった者達が野宿の準備に勤しんでいた。

 

 薪となる枯れ枝の確保、水汲み、野宿の準備をする者達に対して食料を売ってもらう交渉。各々が役割を決め行動を開始する。二時間程経った頃には、焚火の上の鉄鍋。鶏肉と人参、玉ねぎやジャガイモを煮込んだトマトのスープと保存用の堅くて平べったいパンが各自の手元に行き渡っていた。

 

 あぶれた旅人に対する商売をやっている、少し足元を見た商人から仕入れた食材類。普段ならばこんな贅沢はしないと呟くランザであったが、それでもわざわざ半獣の為に厄介をこうむったベレーザに礼の意味を込めての夕食であるのだろう。資金を出すと言い出す相手の言葉も、丁寧に断る。一番時間がかかる薪探しにベレーザを割り振ったのは、食材購入時に気まずい思いをさせないためだ。買ってしまえば、目の前にある料理を平らげない訳にはいかない。

 

 「ま…まあそういうなら」

 

 声は遠慮がちだったが、目は輝いていた。胸元を護る鉄具を外し、背中の棒を地面に置き手近な岩に座り込む。堅く味気ない平パンであるが、塩気がきいたトマトのスープに浸すとジワッと浸透し柔らかくほぐれる。熱々のそれを口に含めば、トマトの風味と野菜の味、鶏肉の旨味が染みたスープの味がし、かみしめることで味蕾が喜んだ。

 

 「今日の礼と詫びだ、遠慮なくいってくれ。生憎酒はないが」

 

 「ランザ。酒まであったら、流石に申し訳なさすぎて立つ瀬がねぇよ」

 

 平パンを食べようとしたクーラの前にも、木製の碗が突き出される。騒動の原因であった自分は食べる資格がないと、思い込んでいたがランザは無言で鶏肉や野菜が浮かぶ碗が差し出した。ランザに向けて慌てて首を振る。自分さえいなければ、ベレーザを巻き込むこともこうして無駄な出費をして無駄に豪勢な夕食をだすことにもならなかった。自分は、このスープを食べる資格はない。

 

 ため息を吐かれた。手をとられ無理矢理持たせられる。多くは語らないが、悟る。客人の前で、一人だけ平パンのみを貪る半獣の子供。それを目の前にしてスープを食べるランザ。成程体裁が悪い、悪すぎる。そこら辺の危惧を見抜けないなんて、自分はまだまだ子供だ。

 

 スープは塩気が効き美味しかった…と思う。申し訳なさが尾を引いて、味がよく分からない。

 

 「ランザとクーラは、街についたらやはり祭り巡りか?今年の夏祭はすごいぞ、なんせ街成立から五百年の記念祭だ。気合の入り方がちげぇ」

 

 「街に知人がいて、会いに行こうと考えている。街巡りは…まあ二の次だな」

 

 「そうかい、そりゃあ残念。まあ祭りは数日続くからな、時間がある時に巡れば良いさ、急ぎ旅じゃないんだろ?」

 

 スープを飲み干し、いそいそとおかわりを盛り込む。最初は形のみとはいえ遠慮をしていたが、一度建前が崩壊してしまえば関係ないらしい。大味ではあるが、男好みの味付けというのがこのスープの良さだった。まだまだ年若い食べ盛りは、遠慮をする理由を見失っている。

 

 「なんだなんだクーラ、食えてないじゃないか。肉食え肉、成長期だろうが」

 

 無遠慮不躾に、こちらの様子を見て半分しか減っていない碗に大き目な鶏肉とスープをどかどか盛ってくる。やめてほしい。ただでさえいたたまれないのに、ランザに冷たい目で見られるのを想像して…悪くなかった。

 

 「しばらくはニンニクと茹でただけのジャガイモで食いつないで来た。久々の贅沢ができて嬉しいよ」

 

 「旅をする人間にとっては毒だけどな。舌が肥えれば、道中食事の貧しさに辟易することになる」

 

 「違いねえ」

 

 共感の笑みが、二人の間でこぼれた。打ち解けた雰囲気のなか、何時までも黙っていると疎外感を感じる。気づいた、というか気になっていたことを切り出してみた。

 

 「銃、持っていないのね。荒事慣れはしているみたいだけど」

 

 「ん?」

 

 ベレーザの装備はオレンジ色に塗装された長棒一本。腰には申し訳程度にナイフが差されていたが、多くの冒険者や荒事慣れした連中がしているように、銃器と近接武器の併用をしていないようである。旅の道中では危険な生物や野盗が跋扈している。近接攻撃の相性悪い生物や、銃器が苦手とする装甲や鱗で身体を固めた敵などどちらにも対処できるように、多くは二つの武器を持ち歩いている。

 

 それに関しては自分だって、今まで直刀一本できたが、使用用途が暗殺であったため、音が響き火薬の臭いが立ち昇る銃火器と相性が悪かっただけだ。現在は、単純に準備金不足に起因している。

 

 「こちとら金欠が常でな。整備に弾丸にと手間と時間がかかる銃器はちと財布に優しくない。それに、銃は簡単に敵を殺す。だからなるべくなら、殺さずにことをすませたいってのもあるかね。棒術はだから俺に合う、どこでも手に入るし、多少注意すれば相手を殺すこともない。例え相手が悪者でも、襲撃者でも、夢見が悪いからなぁ」

 

 傍らに転がる棒に視線を落とす。流派として槍が破損した際、そのまま鈍器として使用する槍術の派生技術はあるのだが、最初から棒を主力として使う者はなかなかいない。少なくとも、自分が見るのは初めてだった。

 

 「変か?」

 

 「ん」

 

 しばらく考え、首を縦に振る。人を殺すことは本来嫌悪を伴うものであるし、殺さずにすむならばそれにこしたことはない。そして銃器は、引き金一つで相手を殺すことができる。そして人の命は、軽い。例えるならばリスム自治州にて販売されていた男の奴隷。そのほとんどの出荷先は港町らしく外洋にでる船の最底辺だ。

 

 水夫としてではなく、べた風のなか船の漕ぎ手としてすし詰めにされ、一本につき三人がかりで大きなオールをひたすらこがされる。皮の手が剥け、尻の皮膚が破れ、不衛生な環境の仲徐々に弱っていく者達を、使えないと判断を下し次第海の中に投げ捨てていく。中型の肉食魚類が、大型船の後ろを何時までついてくるのは船乗りにとっては見慣れた光景だ。そして船が水没する際、まっさきに奴隷達は沈んでいく。人数分必要な救命艇の設置は法令で義務付けられているが、『物品』としてカウントされる奴隷達にはそんな救済は存在しない。

 

 殺したくない。それ自体は尊い考えだろう。だがしかし、現状人の命は、軽く安い。悪人であっても殺さずにすむならと考えるだけならともかく、それを徹底しているとしたら、変な分類だろう。嫌いではないのだが。

 

 「そもそも半獣だと分かって、加勢してくる時点で変」

 

 「産まれや体質で差別される方が、俺には変に思えてなぁ。体質で苦労する奴の気持ちは、他の奴よりぁあちょっとは分かるつもりだよ」

 

 体質、と聞いてベレーザを見る。見た感じ体のどこかに疾患や異常があるようには思えない。

 

 「どこか身体に不良が?」

 

 「んーああ、俺じゃなくて知り合いがなぁ。そうだ、ランザにクーラ、良ければだけどモスコーについて夜になったら夕食を招待してぇ。大したもんは出せないけど、会ってほしい奴がいるんだ。身体が弱い奴でな、旅の身なら、あちこちの話を聞かせてやってほしい」

 

 クーラはランザを見た。しばらく考えていた様子だが、小さく頷く。ベレーザに向けクーラも頷いてみせ、彼は満足そうな笑みを浮かべた。

 

 「よし決まりだ。それじゃあ友人達よ、明日はアンタ等の話を聞く代わり、今日は俺からモスコー観光における名物やおすすめポイントをレクチャーしてやる。まず街に入り目を引くのは、古くからある古城でな…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モスコーの観光地に名物料理、ちょっとした歴史や隠れたおすすめポイントなどひとしきり語った後、少し自分がうつらうつらしてきてしまい、料理もほぼ食べ終えてしまったため会話を打ち切り就寝準備をして休むこととなった。

 

 一通りの片づけを終え、各々が寝静まるなか、クーラの目は開いた。眠たくなってきたと思ったが、片付けの最中にあった出来事で目が冴えてしまっていた。

 

 睡眠中のランザには近づかないこと。うなされていた夜、不用意に近づき首を絞めてきたことを今なお気にしているようであり、旅をするうえで注意をしろとくぎを刺されていた。

 

 ベレーザの大きな鼾。ランザは静かな寝息をたてるなか、先程のことを思い返す。

 

 泉で鍋や木椀を洗っていた最中である。布の端切れで水気をふき取り使用済みの食器を重ねる。それを回収しようとランザが近づいて来たさい、少しなにか言いよどむように、なんて声をかけて良いのか悩むような顔をして、一声かけてきた。

 

 「あまり美味く、なかったか?」

 

 食が進まない様子を見ていたのか、少しバツが悪そうに聞いてくる。予想外の質問にしばらく固まってしまい、そうかと呟くと同時に首を大きく左右に振った。

 

 やや大味気味ではあるものの、冒険者ギルドでだされる最底限食材を食べれるまで弄っただけの料理とは訳が違う。充分以上に美味しかった…とは後々思い返しての感想ではあるが、食べている最中は追い出される原因を作った要因として本当に申し訳なく、食事中はろくすっぽ味を感じられなかった。

 

 美味しかった。ただ、それを食べる価値が自分にはあったのか。命を狙い、命を助けられ、無理矢理ついていき、厄介の原因となった自分には本当にあの鍋を共に囲む資格があったのか。

 

 ランザが手を動かした。大きな手が上から近づき、視界いっぱいに広がる。その瞬間、身体がビクンと大きく跳ねてしまった。頭に手を置かれるのは、仕置きの合図だったからだ。調教用の道具として魔法装具に手袋のようなものがある。魔力を痛みに変換し脳に直接送り込むことで、身体の様々な場所に激痛を与えることができるものだ。

 

 だから、視界いっぱいに手が覆われたさい、思わずのけぞってしまった。なにをされても良いと思考は思っても、身体に刻まれた記憶が脊髄反射で怯えを見せてしまう。酒場での乱闘前、不意打ちで少し撫でられた時は大丈夫だったのに。

 

 逡巡。自嘲気味にランザは笑い鍋と木椀を回収した。

 

 「今日はよくやった。それだけだ」

 

 軽率な行動を忌まわしむように、ランザが自身を責める目が、なにを考えているのか物語っていた。自分でも不思議だった、レントに撫でられた際、今のような脊髄反射の拒否反応はおきなかった。環境が変化した故の、変異なのか。それとも、撫でられることに喜びを強制されるような、なにかがあったのか。

 

 クーラは起き上がり、禁止されている距離まで布団ごと近づいた。よく寝ていたが、今起きられたらちょっと困る為一工夫。火をほんの少し拝借し、自作の眠り草を乾燥させたものに少し灯す。小さくあがる煙は、対象の眠りをひと際深くしちょっとやそっとじゃ起きないようにする。

 

 鼻先に小鉢と眠り草をおき、しばらく待つ。頃合いを見て回収し、ゆっくりと近づき隣に横になる。殺そうとした相手、命を救ってくれた相手、そして今は、押しかけぎみではあるが旅を共にする相手であり…。

 

 手を借り、フードの上から自分の側頭部に乗せてみる。大丈夫、少し震えたが怖くはない。少し胸板まで顔を近づけてみる。水浴びをしていないので当然汗の臭いが鼻孔をくすぐり、お世辞にも清潔な香りとは言い辛い。それは自分も似たようなものなので、致し方ないだろう。でもこの臭い、安心する。

 

 心臓が高鳴ってきた。変なことをしているという自覚が、益々膨らみ目がさらに冴えてくる。慌てて布団を身体に被り、身体全体を隠すように外部と視界を遮断する。

 

 父性というものに飢えているのだろうか。冷静になった訳じゃないけどこんなバカなことをしている理由は、それ以外考えられない。そして思い返されるのは、あの夜。

 

 意識した瞬間、身体が大きくビクンと跳ねる。記憶が頭の中を巡る。華奢な身体に覆いかぶさり、抵抗を許さない筋力の差で圧倒し、首に指をかけられる。

 

 喉にかけられた指が押し込まれ呼吸が圧迫され脳が危険信号を発し生存本能が酸素を求め抵抗をうながしでもどんなに力をこめても足をばたつかせても弱々しく引っかいてもそれを歯牙にもかけず込められる体重と筋肉の圧力で更に喉は絞られていき命の危険に視界と頭はチカチカとしはじめるがその瞳だけは静かにこちらに見下ろしておりその魔眼めいた魅力にああもうだめなのかと力が抜け全てを委ね捧げたくなってか細い抵抗が制圧され生殺与奪を相手の指に完全に委ねその代わりその瞳を今だけでも独占できて自分だけを見てくれて目をそらしてほしくなくて恐れ多くも頬に手などあててしまい意味不明の歓喜と理解不能の幸福に包まれながら逝ってしまいそうになり首から流れ落ちる血と食い込んだ爪の痛みを最後に意識が徐々に遠のいていき

 

 「……っ」

 

 身体がピクンと小さく痙攣し、布団の中で荒い息を吐く、無意識に指は動いており、なにをしていたのかは熱に浮く身体と濡れた指がすべてを示していた。

 

 「ランザァ…」

 

 目を開けてほしい、あの時みたいにその瞳をのぞかせながら覆いかぶさり、有無を言わせず締め上げてほしい。あの先まで、見せてほしい。

 

 狂っている、狂ってしまった。だけどしょうがない、あの視線が何時までも頭の中にちらつくのだ。我を忘れて胸板にしがみつき、声を殺し涙を流す。この先何時まで我慢できるのだろうか、この呪いのような衝動に。

 

 もっと役に立ちたい。もっと近くにいたい。もっと力になりたい。頑張る足手まといではなく、対等な仲間として認めてほしい。そして…

 

 「もっと絞めあげてほしい、貴方のその指で。もっと見てほしい、あの瞳で。その為なら…」

 

 まったく、頭を撫でられそうになってビビっているのに、まさか自分が首絞めに興奮する変態になっていたなんて。布団の中、自嘲気味な、そして愉悦に濡れた笑みを浮かべていた。



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 UA一万越えに、お気に入り二百越をしました。皆さんありがとうございます!

 これからも、旅路を見守ってくださると幸いです。


辺境の小領主が代々収めていた古城。現在は帝国の一部であるが、かつて存在した王国に属する位が高い貴族が住み、管理をしていた土地である。長い間、子々孫々貴族達は城から城下町を見下ろし、王国が解体され帝国の一部となったと同時に子孫が途絶え管理する者がいなくなった。

 

 政変や近隣諸国との紛争、騎馬民族の襲来、様々な思惑や偶然が重なり、その土地は自治州の一部として食い込まれる。それが古き城と歴史の街モスコーであった。ブドウとワイン、酪農により作られた乳製品と炎水晶や木彫りが名産である街は、古城や穏やかな気候、古き時代を思わせる建築様式や記念碑などによって観光都市として周辺国に周知されている。

 

 五百年の歴史があるモスコーの街が有名な観光地として知られる要因として、かつて東方から訪れ猛威を振るった騎馬民族の軍勢を、当時の領主が持ちうる力を全て行使して討伐したことに起因する。

 

 当時の騎馬民族は、異様であり、異常に強力であった。今の帝国領は当時バラバラであり、あらゆる諸国が群雄割拠をしていた時代。戦争は何時もどこかしらで行われていたが、それは騎馬民族からしてみれば、様々なルールに基づかれた戦争ごっことのようなものだったのだろうと歴史家は語る。

 

 例えばだが、貴族の務めとして当時の戦場には率先して跡を継ぐ子弟が立っていた。捕縛をすれば莫大な身代金が出たため、当時の戦争の一面としていかに相手の大将を殺さずに捕縛するかが優先されていたという資料が存在する。両陣営の大将や将軍である貴族の嫡男を、うっかり殺さないように時の宗教家が貫通力が高く殺傷能力が高い石弩の使用を禁じたほどだ。

 

 英雄達が駆け巡る、騎士道に基づいた猛々しく誇り高い戦争。それが良くも悪くも、凄惨や悲惨というものから一歩退いたものになっていた。

 

 だが、騎馬民族達に容赦はなかった。殺戮も拷問も簒奪も悪意も、あらゆる諸国から頭一歩抜きで出ていた。その侵略速度の凄まじさに騎士道という半ば暗黙の了解に縛られた戦争観で戦った者達はのきなみ倒され、現在の帝国領における東半分以上が支配下となったと思えばかなりの勢いだろう。

 

 そんななか、モスコーの最後の領主ウラヌスは、自治領を最後まで護り抜いた。だが戦中ウラヌスの細君と子孫はもれなく怪死しており、ウラヌス自身も戦後城の地下室にて胸と首に直剣を刺され暗殺をされている。下手人は、今をもって不明。

 

 この一族郎党全てが死んだ裏側には様々な憶測や仮説がたてられているが、中には悪竜と密約をしたウラヌスが、異形の力で騎馬民族を退けその代償として一族の者を捧げ、それを察知した竜狩りにより暗殺されたなんていう話もある。

 

 ともかく、このモスコーにおける祭りは騎馬民族から故郷と民を護りきった英雄を称える祭りである。特に最後の三日間は凄まじい戦闘であったらしく、ウラヌス以外にも戦い散った騎士や兵達、義勇兵を祀り称える意味があり、終戦までの三日間を街全体の祭りとしていた。

 

 騎馬兵をかたどる藁と木材で出来た人形と、着色した木の板を甲冑に見立てて着せた大きな人形が街路の中心で見物人に見られながらぶつかり合う。街のあちこちでこれと似たような激戦が行われており、当時の戦闘が再現されている。そして、この手の祭りでは珍しく騎馬民族に見立てた側が騎士に勝っても良いらしい。

 

 騎馬民族側は外部から飛び入り達で参加をした者達が人形を押したり、ロープを引き身体を動かしたり、魔道具を駆使して行動を制御し騎士を攻撃することができる。騎士に勝てば昔の騎馬民族よろしく用意された報酬を『略奪』できるのだが、街に長年住みつく百戦錬磨の男衆達が操る騎士人形にはなかなか勝てず、かつての侵略者よろしく騎馬人形が煉瓦の通路に倒れ歓声があがった。

 

 だがしかし、騎馬人形側、外部の人間で結束した者達もおり一筋縄ではいかないところもある。この祭りのためにわざわざ専用のチームを作って自作の人形を造る為のパーツを持ち込み、騎士に挑む者達もいるのだ。

 

 どこかの通路で歓声があがる。「騎士が倒れたぞ!」という叫び声と共に男どもの野太い雄叫び。ベレーザの話では十数体の人形が合戦をしているというが、それでも二、三体は騎士を倒してしまうような猛者達が所属するチームがあるらしい。

 

 そんな話を事前にベレーザから聞いていた。見学するつもりはなかったが、街の通りが幾つか通行禁止となっており足止めをくらい、望むとも望まぬとも祭りを見学することになっていた。

 

 しかしながら、見応えがあるのは確かだ。傍らに立つクーラは、目を輝かせ巨大な人形同士の合戦を眺めている。子供らしく目を輝かせ、手には露店で売っていた名物であるブドウ果汁と新鮮なミルクで作られたドリンクの杯が握られている。

 

 リザードマン退治の報酬は、ランザとクーラで二分していた。珍しい飲み物に興味を示し、足止めされているということで自分で買おうとしたのだが、近くにいた奥さん方がひそひそとこちらを見て話していたのに気づき購入してやることとなった。それくらい保護者が買ってやれということか。

 

 少し申し訳なさそうにしていたクーラだが、祭りの見世物を眺めその顔は興味津々といったものになっていた。子供らしく、目を輝かせている。

 

 「子供らしく…か」

 

 ランザはポツリとつぶやいたが、幸い祭りの喧騒で独り言は誰の耳に届くこともなかった。旅の動向を申し出た、半獣の少女。殺しにきた相手であり、殺しかけてしまった相手でもある。

 

 こんな危険な旅についていきたいという奇妙な申し出には、流石に困惑をした。人妖は、文字通りの化物だ。各地に分布する異種や異形に害獣達と酷似した生態に変化をするが、その強さは原種より並外れて強くなっている。

 

 各地をさまよいいくらかの人妖を葬ってきたが、弱い個体が相手でも手練れが最低四人以上いるチームが最適ではないかと常々感じている。そんな存在を狩り続けることを、テンの足跡を追うことを目的とした旅。まともに考えれば、ついてきたいなどと思う筈はないのであるが。

 

 それに、正直距離感を測りかねていた。昨夜は失敗だった。リザードマンを一体倒し戦闘に貢献、ギルドで絡まれた時も自分から反抗をする等、自分を卑下したわりにはそれなりに活躍し、自分というものをしっかりともっている。それを褒めてやるつもりで、無意識に頭を撫でようとしたら怯えられた。

 

 自分でもどうかしている。首を絞めて殺そうとした張本人が頭を撫でようなど、怯えられて当然であるのに無遠慮に手を頭に伸ばしてしまった。もっとも、一夜を開けたらすぐ脇で静かに寝息をたてるクーラをみてますます訳が分からない思いをしたのだが。

 

 睡眠時の接触や接近は緊急時以外禁止をした。それを破ったことに対する注意は行ったのだが、やはり分からない。怯えるくらい怖いなら、何故横で寝ている。寝相かと、わりとどうでも良い考えまで頭に浮かんだ。

 

 「終わっちゃった」

 

 この通りでは騎馬人形が敗北し、祭りの運営者達が手際よく最低限の片づけが行われ通りを行き来する人も増えていった。露店に木の杯を戻し、戻ってくる。口についた牛乳の跡を自分の顔に向け指を差し指摘をすると、慌てたようにクーラは拭った。

 

 「口についた跡に気づかない程、美味かったのか?」

 

 恥ずかしそうに、うつむく。からかいに聞こえたのか注意として受け取ったのか、もしかしたら今の言葉も失敗したかもしれない。変に気にしなければいいのだが。

 

 通りを抜けて路地に入る。石造りで縦に長い建物の路地は、パブや民家の入口が並んでおりどこからも陽気な祭りを楽しむ声が響いていた。そのまま手近なパブに入り一杯…とはいかず更にその先へと進んでいく。

 

 街の陽気さから離れ、人通りも少なくなり、日差しも悪い一角に突如として広がるガラクタ置き場のような空間。雑に詰まれた樽や廃材、木材の山の向こうには煉瓦造りの広い工房のような一軒家。家の前には鉄板が張り付けられたテーブルに足を乗せ、二本脚でバランスがとれた椅子に灰色のコートをまとい帽子で顔を覆い寝息を立てている男がいた。

 

 近づくと酷い酒臭さ。クーラが少しうっとした表情になりこちらを見るが、残念ながらモスコーに来た用事はこの男に会うことだ。椅子を蹴飛ばし、男を強制的に目覚めさせる。

 

 蹴り飛ばした椅子はバランスを崩し、後ろに倒れる。地面に投げ出されそうになった男の周囲にあるガラクタから、鎖のようなものが伸び身体の下に張り巡らされ落下を防止。自動制御の魔術具を開発したのだろうが、居眠りからの転落防止に使うのは多分この男くらいだ。

 

 「祭りの日は休業中、無粋にも仕事をもってきたのはどこの誰だい?」

 

 帽子をずらし、無精ひげを生やした中年がこちらを見上げてきた。グレーのもじゃ毛をかきむしり、大きく欠伸をする。

 

 「それは悪かった。週休六日がモットーとかほざいていたから、よそ様が休みの祭りの間くらいは働いているもんだと思っていたよ」

 

 「世間が仕事でも安息日、世間が安息日なら安息日。たまには十連休以上はとらないとオジサン身体がきつくてなぁ」

 

 背中の包みを鉄板の上におく。ベルトを外し被せていた保護布をとり、人妖と化した幼子の遺体から、異形のまま落ちていた毒針が露わになった。

 

 「人妖についての、新しい情報がほしい。報酬はこの針と、ルーガルーの鈎爪でどうだ?」

 

 「輪にかけて無粋だな。今は祭りの期間、物騒な話くらい今だけ忘れたらどうだ?」

 

 中年は針を蹴飛ばし、再度足を上げて座りなおす。酒瓶から直接酒を呑み、大きく息を吐いた。

 

 「それよりそこのお嬢ちゃんは初顔だな。なんだお前、ツレは作らないと思っていたが幼児趣味でもあったか?」

 

 「ガスパル」

 

 幼児趣味と言われ、ムッとした顔をクーラがつくったが、変な方向に話を持っていかせる訳にもいかない。クーラと中年男、ガスパルの間に挟まるように身体を入れ込み、声をかけた。

 

 「待ってりゃ良い、果報は寝て待てって奴だ。ははは、祭りの間くらい滞在しろよ、カッカッしてりゃ見えるもんまで見えなくなるぞ?ああだが」

 

 ガスパルが、荷物袋に指をさし。そして手の甲を下に向けて手招きをする。

 

 「ルーガルーの鈎爪も置いていけ、今の話が情報、その対価だ」

 

 無遠慮に、ガスパルは要求をした。



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 領主ウラヌスの古城は、現在はモスコーの役所が管理を担当しており、財政を潤わす為に観光資源として利用されていた。平時には庭先が解放され、広大な広場や隣接した森林道に現地の住民が憩いを求め訪れている。城内は資料館として開放され、当時使われていた道具や歴史を振り返ったり、古城内をガイドつきで敢行する特別なツアーを組まれている。

 

 古城の尖塔。街を見渡せる位置でランザは複雑な顔をし見渡していた。あのガスパルという男の話を聞いてから、悪態の一つでもつきたげな顔で観光客と共にモスコーを巡っている。

 

 彼が言った、滞在しろということが情報でありそれに対価を求めるのならば、つまり、この祭りに浮かれたモスコーの街に人妖が現れる又は、潜んでいる可能性が高いということだ。

 

 後は足で稼げということか。ほぼ一日利用して街中を練り歩いたが人妖の存在を確認できるような痕跡や噂はなにも聞けなかった。街を見渡せる場所に行こうと提案したのは、自分である。上から街を見渡せばなにか気づくこともあるかもしれないと。最悪でも良い風に当たれば気分転換になるかもしれないと考えたが、どうやら二つの意味で空振りになりそうだ。

 

 祭りの期間くらい滞在、つまりなにかがおこるとしたら最終日だろうか。そう予想できたとしても、心穏やかに過ごすことなんて無理なのだろうけど。

 

 人妖。ランザと関りを持つまでそんなに意識をしたいた訳ではなかったが、盗み見た掲げる大盾が集めた資料を見ればその被害は、悲劇で片付けるには収まらない程の被害をだしていた。

 

 ルーガルーの暴走で村一つ丸ごと壊滅、ウォーリアバニーによる辺境警備隊斬首事件、歌鳥による浜辺でおきた船舶の連続座礁事件。目を覆いたくなるような惨劇が各地で起きていることがよく分かる。

 

 人妖の厄介なところは、それぞれ原種より強大になっており同時に人に対して恐れや忌避を抱かないところだろう。元は人なのだ、人の脆さは一番分かっている。

 

 そんな存在が祭りに浮かれる街に解き放たれれば、いったいなにがおこるだろうか。少なくとも、被害者ゼロで事件の解決なぞありえないだろう。

 

 「ランザ」

 

 ランザが、ガスパルの言葉をどのように考えどこまで信じているかはまだ分からない。あの胡散臭い男の言には、人妖の亡骸を引き渡してでも良い価値があったのだろうか。いや、彼がこうして文句を言わずに街を見て回るところを見ると価値はあったと判断しているのだろうが、自分にはそうは思えない。

 

 声をかけると、こちらに振り向いてきた。街の探索を中止しようと声をかけようとしたが、言葉を選ぶことにする。ただ休みたいじゃあきっと彼は、自分のみ祭りを楽しませ単独で異変がおこっている場所の特定作業に戻るだろう。

 

 「ベレーザに話、聞いてみるのは?現地人だし、戻ってきたばかりといってもなにか有益な話が聞けるかも」

 

 幸い、ベレーザには夕食を招待されている。客としてベレーザの元に赴き食事という団欒を囲めば、少しは休めるだろうと考えての提案だ。断られにくいように、もっともらしい理由もつける。それこそただベレーザの話を出せば、お前だけでも行けと言われかねない気がした。

 

 「待ちあわせの約束が、あったな」

 

 「うん。まあ手土産でも持ってさ。ベレーザ自身は街から出ていても、知り合いと一緒みたいだし、街に住む人からも深く話を聞けるんじゃないかな」

 

 祭りに浮かれるモスコーは、観光客と現地住人がごちゃ混ぜになっていた。そして祭りごとの最中物騒な話や変な話は流石に渋い顔をされてしまい、人を使った情報収集も上手くいっていないのが現状だ。変なところがあるかと聞いても、街全体が祭りで浮かれ特別な状況、変わった環境になっている為情報収集ははかどらない。

 

 ランザはしばらく考えを巡らせていた。夜の間ベレーザ宅にて話を聞くのと、夜も街の外に繰り出しあてはないものの人妖の気配を探るのをどちらが優先させるべきかと。自分としては、ランザをベレーザに元に向かわせて、夜の街は自分が探るのは良い気がする。街の夜の顔は、恐らく自分の方が馴染みがある。

 

 「行くなら一緒にだぞ」

 

 「ひぇい!?」

 

 「俺一人行っても体裁悪いだろう。子供一人夜遊びさせるのは、常識的に非難される。それにだ、お前も少しは肩の力を抜け」

 

 考えを読まれていたかのような、ランザの言葉に間抜けな返事をしてしまった。まあ確かに子供を一人放って自分一人が夕食にお邪魔するなど普通に考えれば常識外れだ。半獣など外に繋いでおけというのが世間の感覚ではあるが、差別を嫌うベレーザにとっては逆効果であるだろう。

 

 舞台の俳優のような笑顔が脳裏に浮かぶ。差別を嫌い豪快で弱きを助けようとする姿勢は、まるで物語の主人公のようだ。これで訳アリ貴族などであったら、各地を旅する貴族漂流譚として上流階級でちょっとしたブームがおこるだろう。

 

 「そもそも、せっかくの祭りなのにずっとただついてきて良かったのか。素直にパレードの一つ見てみたいとか言っても良いんだぞ」

 

 「自分一人でそんな…」

 

 「目が泳いでいた」

 

 うっ…と内心えづいてしまう。賑やかな催し物に大道芸人による曲芸。見たこともない異国料理や街を一巡りするパレード。匂いや喧騒に何度も目を奪われそうになってしまった。いやまあ奪われていた。人の三倍程巨大な怪鳥の背に乗り祭りを上空から眺めることができる出し物など上空からの景色もそうだが、なにより本物のテイマー、魔物使いのによる技等紛い物とはいえ元魔物使いとして興味を惹かれるものがある。

 

 「ごめんなさい。浮かれている場合じゃないのに」

 

 「子供がこの環境で浮かれるなと言うのは無理があるだろう。俺はなにも強制しない、明日になったら楽しんで来ると良い」

 

 「えっ…」

 

 楽しんでくると良い。という言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。

 

 お前は必要ない、と言われているような気がしたのだ。遊んできても良いということは、いてもいなくても問題ないし必要がないということ。足手まといになると伝えても、必要ないと言われることはいささか以上に堪えるものがある。だが、なんの躊躇もなくランザは口にした。

 

 子供だから楽しんで来いと、はたから聞いたらそれだけの話だ。だがしかし、その意味は当事者には大きく異なる。人妖という宿敵を前にして、なりふり構わず前進をするのがランザだ。必要な物は何でも利用するような雰囲気や気迫があるように感じた。だが逆に言えば、必要じゃないものは捨て置かれる。

 

 役に立ちたいのに、道具でも良いのに、奴隷でも良いのに。

 

 ショックで走りださなかったのは、ギリギリ自制心が勝ったためだった。役立たずと言われ逃げ出すようでは、ますますいる価値すらない。子供だから、という理由で感情に振り回されてしまうことはもっとも避けるべきことだ。今、子供だから祭りを巡れと言われたばかりなのだから。

 

 「土産か、リスムでなにか買っておけば良かったか?まああの時はこうなるなんて予想はついていなかったが。モスコー内で買えるものなんて…どうした?」

 

 それに気づいていないのか、気付きていながら無視をしているのか、硬直するこちらに向けてランザは尋ねてきた。顔面の表情筋を総動員させ、笑みを浮かべてみせる。貴方の言葉の裏側に、自分は気づいていないと言うように。

 

 「ま…つりだから、屋台で珍しいものがいっぱいでてたよ。チラ見していたから、お土産にはこれが良いんじゃないかって出店を幾つか目星つけておいた」

 

 「助かる。よく見ているな」

 

 本心からの言葉だとしても、皮肉に感じてしまうのは自分の人間性による問題だろうか。乾いた笑みが表情に張り付く。こんなことで、助かる、助かったなど言われたくはなかった。

 

 こんな筈ではなかった。レントにいた頃はテイムの加護を駆使して街中でネズミや鳥を使役し、怪しい場所を探しその状況を情報として提出する。この手の情報収集等楽勝の仕事だった。

 

 今はどうだ。戦闘も今一つ、隠れた敵の気配を察知できず、気を使わせ、役に立たず後ろをついて歩くだけで、それを非難すらされない。

 

 思いつめるな、思いつめるな、表情に出てしまう。ただの足手まといが、鬱陶しいお荷物になってしまえば益々理想の自分からは遠ざかるだろう。

 

 「案内頼む。今日はもう手土産買ってベレーザの元に向かおう」

 

 「ええ、任せて」

 

 任せてほしいのは、こんなことじゃないのに。歯噛みをしながらクーラは、尖塔から降りる階段を先に進んだ。

 

 

 

 

 

 

 イボイボがついた果実。なんだこれはといぶかしんでいたが、それを包丁で切ると鮮やかな黄色い果肉が現れた。浅黒い肌の外国人が、それを絞ったものをモスコーの酒に混ぜ合わせ差し出してくる。目が冷め疲労が飛ぶ豊かな酸味や甘みとアルコールが合う。クーラにも水と少量の蜂蜜が混ぜ合わせたものが出されていた。

 

 飲み物の代金を払い、果実を購入。異国から来た果物であり値は多少張るが、これは珍しい土産物としては喜ばれるだろう。最初は酒でもと考えたが、ベレーザの知人が呑めないのでは考えるともう一つ誰にでも食べれるような珍しいものが求められた。

 

 さてどうしようかと思ったが、クーラは良い屋台に目星をつけていた。褒めようかと思ったが、杯を片手に表情が死んでいた。よほど味がお気に召さなかったのか、陽気そうな店主もおろおろ顔になったところでクーラの顔が動き、笑みをみせ味の感想を言う。店主としては、自店の前で微妙な顔をされながら商品を飲まれたらたまったものではなかっただろう。

 

 少なくとも俺は悪くない味だと思った。一応出店から離れて味の良し悪しを聞いてみたら美味しかったと笑ってみせた。子供が浮かべてはいけない、なにかを隠そうとする裏側をのぞかせながら。

 

 クーラは今日一日、だいぶ無理をしていたと思う。遊びたいざかりであるのに、それに我慢してずっと後ろをついて情報収集に協力をしていた。楽し気な出し物も、珍しい屋台も、華やかなパレードも無視をしながらだ。

 

 配慮が足りなかった。遊びたい盛りが、こんな環境で遊べない等ストレスが溜まるだろう。ガスパルの言葉を精査しても、祭りの前半や中盤でなにかがおきる可能性は低く感じる。こうして街を祭りを抜きにして練り歩いているのは俺が落ち着かないだけであり、クーラをそれに付き合わせる必要性はまったく存在しなかった。

 

 自分の子供との接点、テンを思い出す。テンは物静かで主張せずに、催し物の場でもずっと後からついてきて勧める物をなんでも楽しいと言っていた。それを基準に考えたら、妻との初デートは大失敗だった、相手のことも考えながらエスコートしろと、一連の流れを手紙で相談したらグローから指摘されたのは恥ずかしい思い出だ。

 

 状況は違えど、それを今繰り返しているような気がする。だからこそ、遊んで来て良いと伝えたのだが、それが正解だったかどうかはよく分からない。女心と子供心は、まったくもって専門外だ。

 

 チリッと、心の中が痛んだ。

 

 テン。あの物静かな表情の中に潜んでいた狂気を何故分からなかった。悔やんでも悔やみ切れない、どうすれば正解だったのかと今も悩んでしまう。道端で生き倒れていた子供を、見捨てていれば今頃俺は実の娘が行う行動一つ一つに一喜一憂する平凡な家具職人となれていただろうか。

 

 いやどの道、ジークリンデの封印が解けかけてきているなら、そんなことを考える余裕はないかもしれない。だが、娘の成長を離れた場所から見守る程度のことはできた筈なんだ。

 

 なにかのきっかけで思い返してみれば、心の傷は容易く広がり血が溢れだす。ああしていれば、ああならば。無意味に反芻しその度に憎悪が深まる。

 

 「ねえ」

 

 そして、各地でテンが撒いた種が、芽吹くことで悲劇が起きている。ルーガルーも失恋した村娘で話は終わっていた。ウォーリアバニーも行き過ぎた闘争本能に踊らされることもなく、歌鳥だって嫌いだった自分の声を好いてくれるただ一人のリクエストに応じて歌うだけで良かった。

 

 命乞いをし、情にほだされた瞬間手のひらを返し襲い来る者。子供を護るため、殺した子供を食べて自分の中で護ろうとした矛盾に気づかない者。道を踏み外し、殺してほしいと懇願するも、同時に戦いの中でしか自分は死ぬことができないと本能と理性の狭間で苦しんだ者。それぞれ自分の人生があり、例え悲劇でそれが終われども、人妖になどならずに人のまま終われば少なくとも周囲に憎悪と惨劇を振りまかせずにすんだ。

 

 「後はお酒だけどさ」

 

 そのどれもが、テンが介入していた。自分を殺すために、俺に強くなってもらいたいと。あれはそう宣言をしたのだ。俺が育てた災いの芽は、各地で災禍となっている。必ず殺さなければならない、必ず。これはもはや、俺の復讐だけにとどまる話ではない。

 

 「お酒の良し悪しは、自分には分からな…っ!」

 

 クーラがこちらの顔を覗き込むように前に出てきた。ふと気づいたら、酒屋の棚を見ながら硬直したいたらしい。怯えつつもマジマジとこちらの瞳を覗き込むクーラに、棚の前で固まっていたことに一言謝罪をしてから改めて選びなおす。

 

 現地の人間に地酒を持っていくのは、呑みなれていると喜ばれるかそれとも違う味が呑みたかったとガッカリされるか。考えてから、少し高めの地酒を選ぶ。旅に出ていたなら、やや値が張る地元の酒を久々に呑めることに喜ばれるかもしれないという期待をかけてだ。

 

 「土産はこんなもので良いか」

 

 「あ…う…うん」

 

 考えが顔に出てしまい、すっかり委縮させてしまったのだろうか。怯えつつ返事をするクーラを見て、少し後悔する。

 

 やはり、クーラにはこんな旅についてこさせるより、どこかで安住の地を見つけ暮らしてほしい。半獣というハンデを背負っても、人妖狩りの旅なんかに比べれなどこであっても穏やかに暮らせるならばマシな筈だ。俺といるより良い生活があると教えるべきだ。だからこそ、怯えさせたことに謝罪はせず、少しでも気配りができない悪い人間に見せる必要があるかもしれない。

 

 手始めにこのモスコー。半獣の差別はどこにでもあるが、ベレーザという理解者がいれば正体を隠しながらもなんとかやっていけるかもしれない。だからこそ街に興味を持ってもらうのが一番だろう。祭りを巡ってこいとうのも、その作戦の一環だ。奴隷と半獣という不幸があったのならば、その分これからは幸福に生きていってほしい。

 

 だが口に出して、旅はここで終わりだと厳しく当たれば反発をされ、意地でもついて来ようとするだろう。かつての俺がそうだったため、同じ轍を踏ませることはできない。

 

 クーラの頬が赤くなっている。そんに怖い顔をしていたのだろうか。感情をあまり表情に出さないように気をつけなければならないだろうか。他人と話す時、似たようなことがおこれば自分の首を絞めることになる。

 

 店を出て、待ち合わせに教えてもらった場所に移動する。街の中央にある柱時計と噴水の広場は、出店や観光客でごった返しており普段なら落ち合うには丁度いいと教えてもらったが今日は都合が悪いと、代わりに教えてもらった公園前ベンチにまで移動をした。

 

 約束の時間にはまだ早い、ベレーザは来ておらずひとまずベンチに腰を降ろし土産を脇におく。クーラは何故か座るかどうかに悩みを見せており、けっきょく思い切った表情で隣に座った。

 

 会話もなく、気まずい時間が続く。

 

 子供がはしゃぐ声と、楽し気な町民の笑い声。公園では街に来た観光客の子供と地元の子供が打ち解けたのか遊んでおり、平和な声が響いていた。

 

 「良い街だな」

 

 クーラはその言葉に、一つ頷いた。はしゃぐ子供達よりは年は上だろうが、年齢的にもさして変わらない。祭りでの高揚もあるだろうが、こんな街ならばクーラも安心して暮らせるだろうかと考えてしまう。

 

 街を練り歩くうち、モスコーの奴隷事情も多少知ることはできた。モスコーには常駐している奴隷商人はなく、時折リスムから来ることはあるそうだ。だが、モスコーの奴隷というのは他とは違い伝統を護りたいが後継ぎがいない職人達が、いずれは自立させ技術を学ばせるため購入することが多いそうだ。

 

 古い街だけあってモスコーには、伝統的な技術産業が多い。鯨油により好景気に沸くリスム自治州や都会である帝国首都に憧れ街を出てしまう若者も近年問題となっており、伝統技術には早くも跡を継ぎたがらない子息が飛び出していく問題が浮き彫りになっていた。

 

 必然的にモスコーにおける奴隷事情は、他所よりは悪くない。元奴隷であるクーラも、視界に入る奴隷により胸を痛めることが少なくなるだろう。

 

 「俺は暮らすならこんな街が良いと思っている。歴史や伝統があり、町民は笑顔で、近場には自然も豊富だ。帝都に行ったこともあるが、あそこは少し人が多すぎる。祭りに浮かれる今のモスコーよりも人混みが辛い」

 

 クーラは、話しをただ聞いていた。フードを被っているせいで、横顔は見え辛い。

 

 「人妖を片付けたら、良い街になるだろう。だからこの街に、少しの間でも…」

 

 言葉を続けることは、できなかった。こちらを向いた、クーラはその目じりに涙を溜めていた。

 

 「よー待たせた待たせたランザにクーラ!男ベレーザここに推参……って。そんな空気じゃない?」

 

 空気を壊して、ベレーザがクーラの向こう側から角を曲がり現れる。クーラは立ち上がり、こちらから顔を背けベレーザを見た。

 

 「時間よりちょっと遅いよ、遅くてあくびでちゃった」

 

 「いやー悪い悪いって。はは、夕食の準備に手間取って…おおっとそいつは…なにそのトゲトゲ」

 

 クーラのあの顔は、なにを考えているのか分からなかった。だがベレーザの前で、そんなことを尋ねる訳にはいかない。

 

 「物凄く美味いトゲトゲだ。食べて腰ぬかすなよ」

 

 ランザは笑みを見せ伝えた。内心を隠し笑みを見せる、大人の対応。クーラと話し合う時間を設けるのは、また別のタイミングになりそうだ。



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 何故自分がと思わないこともない。どうしてかと疑うこともない。

 

 これが運命だというのであれば、それを受け入れても良いだろう。その為の準備は延々と続けてきたし、実行することに今更躊躇はない。

 

 いや嘘だ、躊躇はある。この最後の時間を待たずに終わらせてしまえば、誰に迷惑をかけることなく終わったであろう。言ってしまえば、あれがこれがとごちゃごちゃと用意をするよりも、縄一本使えば良いだけなのだ。共同墓地の無援塚に葬られそれで終わり。世は事もなし。

 

 街の人間にはあまり良い顔で見られていない。当然だ、昼間外に出ようともせずに夜な夜な暗闇の中で活動し、なおかつその成果物が彫刻なんて言われれば薄気味悪いに決まっている。首をくくった死体が出てきたところで、悲しむ者も少ない。

 

 いや一人くらいは、いてくれるかな?

 

 その一人の為に、この最後の時が迫るなか無様にも生き延びてしまっている。せめて思い人と過ごしたいと、欲がでてしまった。おかしいな、未練を残さないようにと周囲と距離をとっていたのに、彼はその垣根を飛び越えてきてしまった。迷惑だけど、嬉しかった。世界に楽しいことはちゃんとあるんだと、教えてくれた。

 

 せめて最後は、この祭りの間は。ベレーザ、貴方と共に過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ランザとクーラは、ベレーザの案内により祭りの喧騒から少し離れた住居通りを進んでいた。ほとんどの町民は祭りの催し物や見物に忙しく家を出ているが、すでに出来上がった酔っ払いが歩き騎士と騎馬民族の衣装を着こんだ子供達が駆けていった。

 

 「そういえば、この街では敵である騎馬民族達もあまり忌避されていないんだな」

 

 モスコーについて早々見た騎士と騎馬民族の対決を催したものでも、騎士が勝割合が多いとはいえ騎馬民族側も勝利を得れば報酬が得られていた。この手の祭りは、全て網羅している訳ではないが大抵は敵対側は惨めなやられ役になるものであるのだが。

 

 「あー、当時モスコーの領主は他の国とも色々揉めてたみたいでな、騎馬民族襲来のお陰でそれが色々どさくさに紛れたりしてだいぶラッキーなこともあったらしい。だがなによりも、敵だって異国の地で死にたくはなかった筈だろう。そんな連中の鎮魂でもあるんだと。お人好しというか国民性かねぇ」

 

 「国民性?」

 

 「モスコーに残る伝説では、未練を残して死んだ魂は甦り悪いもんになると言われている。死んでしまえば敵も味方も関係ない仏さんだ。いかに憎くても、その墓くらいは祀ってやりゃにゃならんのさ」

 

 そういえば、一時旅を共にしていた剣士に聞いた事がある。彼の故郷では、祟りを鎮める為の悪霊の鎮魂が長く続けられており今でもその祭壇でなにか粗相をしたり故意に汚すと祟られてしまうという。それと似たような話であるだろうか。伝承というのは、根を辿ればどこも同じようなものに行きつくのかもしれない。

 

 狭い路地の先には細い石造りの階段と滑らかに削られた丸い手すりが続いていた。正面から誰かが来れば、身体を横にしあいなんとか通れるような狭さだ。ベレーザの正面に男が通りかかり、お互い短く笑いながら挨拶を交わし通りすがる。狭いからこそ、こういったコミュニケーションもあるのかもしれない。

 

 階段を登り切り、石畳みで舗装された道を歩く。だいぶ丘の上まで昇って来たため、祭りで賑やかな街を見下ろすことができた。

 

 噴水広場にて、沢山の櫓が立っておりその上では一つ一つが巨大な松明であるかのように篝火が焚かれている。魔道技師と思われる男が、装着型魔具と思われるアームを嵌めて篝火に手を入れ炎をすくい腕を振るうと、街中にある松明や街灯に向け炎がひとりでに散り街を照らしていった。木材や鯨油を燃料に火は燃え、夜が近づく街を照らしていく。

 

 魔道技師が再度炎に巻かれたアームを振るう。街中に吊るされるモスコーの職人が作った炎水晶に火が灯り、様々な色をした水晶が内部から照らされ煌びやかに街を彩った。異次元のような光景に、クーラは思わず歓喜の声をあげる。

 

 「良い眺めだろ。モスコー名物の炎水晶、今は専用の職人や魔道技師も少ないから、数も少ないがそれでも名産品だ。クッッソみてぇに制作というか調整みたいなのが難しいらしいのに、一回こっきりの使い捨てなんだぜあれ。まあだが、あれ目当てでモスコーに来る観光客もいるくらいだ。」

 

 「綺麗…」

 

 「あれ見ると、一年過ぎたんだなぁって気分になるよ。統一された暦のうえで年末は決まっているが、俺にとっての年末は今日この日だね。ああ、でも綺麗だからって点灯直後を近くで見るなよ?目が潰れる程眩しいからな」

 

 名物なだけはある。だがそれでも職人の後継ぎがいなければ何れ廃れ無くなるものだ。好景気に沸く都会に憧れを抱くのは分からないではないが、こういう風景こそ残していくべきものなのではないかと思うのは、些か年をくったせいであるか。

 

 田舎でくすぶりながら、伝統はあるが地味な作業を続けるならば都会に出て一攫千金を狙いたい。気持ちは分かるが、辛くとも平凡な生活も振り返れば良いものだと分かる日が来ることもある。家具職人として腕を磨いていた期間は、俺にとっては無意味や退屈とは程遠いものだった。初めて作った椅子が座った瞬間バラバラに砕けた時は流石に苦い笑みが溢れたものだった、今となってはそれも良い思い出だ。

 

 少なくとも、人妖を追いかけているよりは、よほどに。

 

 石畳みの道をしばらく歩き、道が途切れ一番端の家まで到着した。白い塗装を施された石造りの家屋であり、煙突から煙が昇っている。入口の脇には小さく色も鈍いがほんのりとオレンジ色の明かりを放つ炎水晶。

 

 「炎水晶には来客を歓迎する明かりという意味もある。アンタ等二人のことは、もう話してあるよ」

 

 「そいつはどうも、ありがたい」

 

 「サグレ。俺だ、ベレーザだ。昼間話した客人を連れて来た、開けるぞ」

 

 扉を開けると、建物内は暗かった。外は日暮れ時であるが、食器棚や収納棚に窓が阻まれており明かりが入ってきていない。玄関脇に置かれたカンテラにベレーザは火を入れ。中に入っていく。扉から入ってすぐのところは台所になっており、部屋の中央にはテーブルが置かれていた。黒パンやスライスされた鶏肉の香草焼き、牛乳が入った瓶、色とりどりの生野菜に自家製のドレッシングのようなものがかけてある。

 

 奥は住居人の寝室に繋がっているのだろうが、カーテンで覆われていた。少し手前の部屋よりは狭まっているようであり、左側に裏口に繋がる扉が暗闇の中にぼんやり浮かんで見えた。

 

 「いらっしゃい、お客人」

 

 暗闇の中でカーテンをめくる音。明かりをつけずに、背の高い女性が現れた。まるで脱色したかのような白いロングの髪と青白い病気を疑いたくなるような皮膚。目は閉じており、手には杖を握っている。床をコンコンと叩きながら前に進み、玄関の方へ歩いてきた。

 

 「暗くてすまない。火や明かりは、私には不要なものでね」

 

 「あなた、目が」

 

 「うん、盲目なんだ。こんな杖を持ち、不躾ですまないと思っているよ」

 

 ベレーザが部屋に入り、照明台に火を灯していく。大して使われていない照明台は、よく磨かれているのもあってまるで新品の同然だった。使いもしないものをよく手入れしていたということは、この女性は来客を、多分それよりベレーザを、心待ちにしていたように思える。

 

 「ランザ=ランテさんにクーラ=ネレイスさん。初めまして、私はサグレ=イグロス。しがない彫刻職人なんかをやっているものだよ」

 

 サグレは優雅な所作で頭を下げて見せる。まるで貴族のそれを思い浮かばせる動作に、クーラは慌てて頭を下げた。こちらも目礼で返答をする。目が見えない相手とはいえ、なにもリアクションをしない訳にはいかなかった。

 

 「招いていただいて感謝する。手土産も用意させてもらった、台所を借りても?」

 

 「お客人には仕事をさせないさ。目は見えなくても、この家の中のことなら問題はない。台所ということは、包丁を使うようなものかな?ありがたくいただこ…ん?」

 

 イボイボした果物受け取りサグレは自信に満ちた笑みから困惑気味の顔になる。ベレーザが苦笑いでそれを眺め、クーラは少しだけ肩をすくめ笑ってみせた。物珍しさを求めたが、物珍しすぎたかもしれない。

 

 「海竜リヴァイアサンが倒れ、新規に開拓された交易路から流れて来た新しい果実らしい。パインという果物だ、味は保証する」

 

 「そ…そうか。保証…うん」

 

 このイボイボをどう処理したものかと、サグレは困惑していた。結局ベレーザやクーラ含め、四人で台所に押しかけ屋台の店主に教わった切りかたをあーだこーだ言いながら実践をした。

 

 

 

 

 

 

 

 「それでベレーザったら、ワイン樽を破壊してしまってワインをもろに顔面に受けてね。逃げ出そうにもそれを呑んでしまいぐでんぐでんに酔っ払っちゃったんだよ。本当にあの時は参ったよ」

 

 「けっこーなクソ餓鬼だったんだなお前。まあでも、男子故悪いことはしたくなるのはしょうがない」

 

 「だよなぁ!流石はランザ、野郎の子供時代なんてそんなもんよそんなもん!」

 

 「えぇ…そこはランザもそんなんだったの」

 

 「故意に蒸留酒樽を破壊して飲んで、バレた」

 

 「お前は心の友だ。てことでもう一度乾杯!」

 

 男同士木の杯が打ち合わされ、酒を煽る。この男どもはとでも言いたげな顔でクーラはミルクを呑み、サグレは微笑みを浮かべている。

 

 クーラがミルクの入った杯を置いたところで、なにかに気づいたようにテーブルのフチに指を当てる。滑からな触り心地の植物の葉と蔦の彫刻がテーブルのフチに彫られていた。

 

 「凄い」

 

 「ん?テーブルに彫り込んだ模様のことかい?気に入ってもらえたならなによりだよ」

 

 「目が見えないのに、どうやって彫っているの?」

 

 サグレは立ち上がり、奥の部屋に入って行く。そして戻ってきた手の中には、木製の手の十センチ程の木彫りが幾つか握られていた。テーブルに広げると、木彫りは旅の安全を祈願する走る馬のお守りや家内に害が入るのを防ぐ足の大きな蜘蛛。災い避けで知られた教会で祀られている聖印が彫られた木彫りが並べられた。

 

 そのどれもが、小さいながらもレベルが高い。よく鑢をかけ表面にニスを塗っているのか、一つ手にとってみると触り心地も滑らかだった。そういえば彫刻で生計を立てているふうなことを言っていたが、盲目でこのような品ができるものなのかと興味は湧く。

 

 「手触りさ。頭の中で大まかな完成形を形作り、ある程度それに近づけたら何度も何度も触りながら調整を繰り返していく。人様より時間はかかるけど、出来栄えはそこらの芸術家なんかには負けていないと自負できるよ。自分の作品を見たことは、ないけどね。商人の評判を聞くとそうらしい」

 

 「それでも見たこともないものを、彫れるものなのか?」

 

 「私の盲目は後天性なんだ。記憶が残っているから、そこから彫っているよ。ランザにクーラも旅人ならば、良ければお守りにどうだい?ベレーザが無理矢理引っぱって来たお礼に、サービスで一つタダにするよ」

 

 お守り。なにかを護り安心感を与えてくれるもの。そういったものとランザは、縁なく生きてきた。願をかけてもロクなことなど起こらない。未開の地に赴いた時も、人妖との戦いの時も、なにかに祈ったり物品を心の拠り所にしたことついぞなかった。

 

 家具職人をしていた頃は、教会に祈りを捧げに行ったりもしたこともあったが、妻となる女性を初めて見かけた日からはロクに祈りも捧げずどう口説こうか手を組みながら悶々としていたこともある。平時でも異常な場でも、なにかに祈るというのは向いていないのだろうか。

 

 造形の素晴しさはあるが、小さいものでも荷物になりかねない不用品というのはどうだろうか。少し考えていたら、クーラが手をあげた。

 

 「よければ、他にどんなものがあるのか見てみたい」

 

 「そう?なら明日にでも裏の工房に来てみるかい?」

 

 幸いクーラが興味を示したため、こちらからはそれ以上は言わない。人の荷物にケチをつけたくはないし、なによりもできればクーラにはこの街で新しい人生を見つけてほしいと考えている。炎水晶もそうだが、街の文化や芸術に興味を持ってくれるなら願ったりだ。

 

 「でもその前に…そろそろ冷えたかな?」

 

 サグレが立ち上がり、杖をついて台所に向かう。慌ててクーラが立ち上がり、サグレとなにやら話しながら作業に勤しんでいた。その後ろ姿を見ると、母親の手伝いをする年頃の子供のように見えなくもない。

 

 「良い子だよな、クーラちゃん。半獣ってだけで色々言われる立場なのに、すれずによ」

 

 ベレーザが小さい声で話しかけてきた。ベレーザにとってサグレは、昔からいる少しだけ年が上の幼馴染であり、よく遊びに顔をだしに行く仲だったらしい。

 

 しかしサグレは、小さな頃から家から出ずに暗闇の中引きこもりがちだった子のようで、何度冷たくあしらわれたか覚えていないようだ。両親も早死にしているようであり、その病的なまでの肌色と鋭い目つき、やさぐれたような言動。そしてなによりも、陽の光に浴びると急激に体調が悪くなる体質のせいで周囲から冷たい目で見られていたらしい。

 

 ベレーザにとって、それはなんら忌避されるものではなかった。だが、周囲の人間は気味悪がり、親に影響され石を投げるような悪ガキすらいたという。誰にでもある体質という個性で、何故そこまで他者を攻撃できる。ベレーザには、分からなかった。

 

 「先祖がなにかやらかしたからって、その子孫がなにをやらかした訳でもねぇ。誰にだって、石を投げる資格なんてない筈だ。サグレだってそうだ、人と違うことで随分苦労しているうえ今は目も不自由だ。偏見は未だに、消えない。俺は冒険者組合の仕事をこなしつつ、アイツの品物を他所にアピールするまでモスコーの土産物屋は置いてすらくれなかった」

 

 ベレーザのフォークが、ほとんど無くなった鶏肉の香草焼きの残りをまとめて突き刺し、口の中に放り込む。苦い物を飲み干すように酒を煽り、空になった杯をテーブルにそっと置いた。

 

 「被差別階級、奴隷、異端。どこでも聞く話だ。モスコーだって例外ではないか」

 

 「そうだな、むしろモスコーの外はさらに輪をかけてひでぇ。リスムでの人身売買と奴隷の扱いを見て、俺は正直ビビったねぇ…それでも非合法の奴隷オークションよりなんぼかマシなんて話もある」

 

 掲げる大盾で主張したレント=キリュウインの話もある一面では正しい。法改正や法曹にメスが入るまで、消費されていく人命は確かに存在する。ただその道を走りたいのなら、掲げる大盾を抜けて迷惑がかからなくなってから個人でやるべきであるのだが。

 

 「ベレーザこの話の流れから察してほしいことがある。クーラは、強い子だが訳アリだ。出来ればどこか安住の地を見つけてやりたいと思っている。ここは問題は無い訳でもなさそうだが、大抵の土地よりもこのモスコーまだ良い方だと思う。お前みたいな理解者もいてくれているという意味でもな」

 

 「どういうこと…いやそうか、成程」

 

 ベレーザが難しい顔をした。半獣という生い立ちに、親子ではない年の離れた男女の二人旅。薄々ながらなにか事情があるということは前々から思っていたのだろう。理解は、早かった。

 

 「クーラをこの地で根付かせたい。面倒をかけるが、しばらくはベレーザに助けてほしいと思っている。報酬や生活費は、俺の方から前金を用意するし自立するまで定期的に支援をしたいと思っている。お前の生活スタイル、冒険者組合に顔を出したり商人に会ったりしながらモスコーに戻っているんだろ?それに付き合わせ、モスコーに戻る度に少しづつこの地に愛着をもってほしいと思っているんだ」

 

 「いやまあおまっ…そりゃ俺は別にいいがよぉ…クーラちゃんの意思ってのがあんだろ」

 

 「俺のそばにいるよりは幸せだよ。些か以上に訳アリの旅をしていてな、子供を巻き込むようなもんじゃない」

 

 ベレーザは、腕を組み合わせ眉間に皺を寄せる。腕の上をトントンと指で叩き、しばらく考えた後大きくため息をついて首を左右に振った。

 

 「いやダメだ。俺にゃその役目はおえねぇよ」

 

 「報酬はこれから話していくが、俺からできる限りは」

 

 「バッカおまえバッカちげぇよちげぇ」

 

 呆れ果てた目でベレーザはこちらを見てきた。大きく一つため息をつき腕組みをとる。

 

 「事情は知らねぇが、クーラちゃんはお前と離れてたくないように見えるぜ。短い道中でも今日の会話でもそれを感じた。俺の見当違いならすまねぇが、どの道俺は預かれねぇよ。怨まれるのはごめんだぜ」

 

 首の後ろをかき、ベレーザは語る。クーラは感じなくても良い恩を感じついてきているだけだ。すがるものもなく、それでもなにかにすがりたいと。離れたくないというのは、そう見えるからであろう。平和で穏やかな毎日を送ることができれば、ハンデを背負いつつ今まで生き延びてきた賢い彼女ならばどちらの生活に価値があるのか分かる筈だ。

 

 「おや、男二人でコソコソなにを話しているんだい?」

 

 クーラが盆を持ち、サグレと共に戻ってくる。盆から木の杯をテーブルに置くと、内部の白い固形物が振動でプルンと震えた。その中には切り分けられたパインと絞った果汁。緑色のハーブを添えた料理が目の前に運ばれてきた。

 

 「知っているかもしれないが、モスコーは酪農が盛んでもあってね。牛乳から作るヨーグルトに、パインを添えて絞った果汁を混ぜてみたよ。まずくはならない筈さ」

 

 「ヨーグルト、聞いたことはあるが食べるのは初めてだな」

 

 「保存がきかずにダメになるのが早いからね。デザートとして召し上がれ」

 

 サグレに指示を受け、クーラが手伝ったのだろう。平凡な家庭でよくある光景。俺が欲しくても手に入れられなかったもの。この暖かい光景にこそ、クーラはいるべきだとなおさら思ってしまう。

 

 だがベレーザは乗り気ではないようで、出会ったばかりのサグレにいきなりする話でもない。ここは大人しく、引き下がった方が良いだろうか。

 

 「てあれ、杯三つしかねーぞ」

 

 ベレーザが指摘をした。パイン入りのヨーグルトは、クーラの前とベレーザの前、自分の前に置かれているがサグレの分はなかった。

 

 「食が細くてこれ以上はね…なに。いくらヨーグルトの足が速いといっても、明日の朝までは大丈夫さ。折を見て食べさせてもらうよ」

 

 そういえば、サグレはほとんど話してばかりで食事にもロクに手をつけていなかった。それなのにこれすら食べることができないとなると、肌の色と言いなにか病を疑ってしまう。

 

 ベレーザもそれが分かっているのが、なにか言いたげな顔をしているが、客人を招いての食事の場でこれ以上追及したくなかったのか、口をつぐんだ。

 

 「ごめんね、久しぶりの楽しい夕食で、少しはしゃいで疲れてしまったかな。悪いけどベレーザ、それ食べたら客人と共にお引き取り願っていいかい?」

 

 「あ…ああ、まあ。疲れてならしょうがねえよなぁ、何時もより長くは話していた方だし」

 

 「明日に備えて体力を温存させておきたいのさ。ほら、明日は厚く曇り空が貼りそうだろ?偶には私も祭りではしゃぎたいからね。ランザさん、クーラちゃん。今日は本当にありがとう、楽しかったよ」

 

 丁寧にお礼を言い頭を下げる。こうなれば長居をするのは、よろしくはないだろう。ヨーグルトを食べながら、目を細める。舌先が甘みを感じながらも内心は、酸味と甘味の楽しさよりも、何故、気づいてしまったと、気づかなければ良かったと後悔の念が押し寄せてきた。ベレーザに街の異変を尋ねるまでもない。

 

 「ランザさんとクーラちゃんはベレーザのところに泊まるんだろう?クーラちゃん、明日工房に案内してあげる。そこでお守り、一つ貰って行ってね」

 

 「ありがとう、サグレ。」

 

 「それじゃ俺達は行くか。食事、本当に美味しかったよ」

 

 ランザとクーラ、ベレーザは建物から出た。ランザは扉がしまる刹那、色の悪い顔がさらに青ざめるのを見逃してはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰もいなくなった部屋の中、夕食会から数時間は経っただろうか。サグレは何度めかも分からない嗚咽を漏らす。なるべく心配かけないように、それでいて身体の負担にならないように少量ずつをよく噛んで食べた鶏肉や黒パンは既に体外に排出されていたが、それ以上に胃液が拒否反応をおこしなにもでないにも関わらず桶に向け嘔吐の動作を繰り返していた。

 

 「は…はは。もう食事すら間々ならないのか」

 

 暗闇の中で自虐的な笑みを浮かべる。否、暗闇の中ではなかった。明かりを灯し、わざと聞かせるようにつま先を床に叩く。

 

 「誰!?」

 

 「すまんな、忘れ物を取りに来た」

 

 「その声は…ランザさん」

 

 サグレは察した。ランザの声色が忘れ物などという平穏な目的できたことでないことを。サグレは知る。ホルスターから散弾銃を引き抜き、その頭に銃口を向けていた。引き金を引けば、何時でもサグレの脳漿を吹き飛ばすことができる。

 

 「忘れ物は…あったかな?」

 

 「まあな。とんでもなくデカイ忘れ物だったが」

 

 サグレの口からは、二本の鋭い八重歯が覗いていた。上半身の服を脱いでおり、背中がなにか渦巻くように肉が蠢いている。白髪はうっすら金糸が混ざっており、それはまさに人が人ならざるなにかになろうとしている変異の途中であった。

 

 日に弱く色白、食が細く人の食べ物を食べても身体が受け付けず嘔吐してしまう。陽を入れない家具の配置に、曇りの空だからこそ出掛けたりという訴え。

 

 人妖。そう称される前の遥か昔。元人でありながら人外に変異し、伝説の厄災とまで言われた人類史上最悪の敵対種における一角。伝説の怪人、吸血鬼のなりかけを目の前にしていた。

 

 腰の剣、興奮するように震えている。吸血鬼の人妖なのか、テンが介在していない、天然の吸血鬼になろうとしている人間なのかは判断つかない。だが、伝承が正しければ、並みの人妖とは比べ物にならない程遥かに強力な敵対種となる。ここで頭を吹き飛ばしておかなければ、とんでもないことになる。

 

 「殺す?」

 

 「まあな。残念だが」

 

 「残念だと思ってくれる余地があるなら、命乞いをしても良いかな?ランザさんはその為に、わざと足音を鳴らしてくれたんだろう?」

 

 言われて、怯んでしまう。あの台所に並ぶクーラとサグレを見て、見たこともない幻影を心の中に抱いてしまった。成長した自分の娘と妻が台所に並ぶ姿。出来ればそこにテンも加わり、三人で料理を作りなにか手伝おうと声をかけ邪魔だと追い払われる自分。

 

 そんな存在しない過去を幻想してしまい、躊躇なく引き金を引くことができなかった。サグレは手探りでなにかを探し銃口に触れると柔らかく掴み、自分の額に押し付けゆっくりと立ち上がる。何時でも引き金を引いて良いと言わんばかりに急所から離さずにこちらに対峙をした。

 

 「ランザさんの仕事は、私のような存在を狩る仕事だと推測させてもらうよ。そのうえで聞くけど、私は今どんな状況に見える?もう化物みたいな存在なのかな」

 

 「なりかけだ。卵の殻にヒビが入り、これから中からなにかが出てくるだろう、といったところまで変異が進んでいるのが分かる」

 

 「ならもう少しだけ時間が残されている訳だろう?私はね、自殺をするつもりだったんだ。血筋か体質か分からないが、特異な血がこの身体には流れている。両親ですら知らないが、血が頭に教えてくれた。これは遥か昔から流れる血脈の、先祖帰りのようなものであろうとな」

 

 「吸血鬼の子孫…という訳なのか。そんな伝説は」

 

 「まあ聞いたことないだろうね。私も調べてみたが見つけることはできなかった。でも、何故かそういう知識がさらりと頭に入り刻まれていく。これも先祖返りの現象なのだろうかね」

 

 トントンと、自分の頭に指をさし軽くつつく。銃口が未だ額にピッタリとついているのに、どこか達観している様子は、自殺するという宣言通り本当に命を絶つ予定があるものの諦めと余裕に思えた。

 

 「私はね、人を吸い殺してまで生きたくはないよ。でもギリギリ、この祭りまでギリギリ我慢をし間に合わせたんだ。ベレーザと最後に過ごすこの日を迎えたくて、耐えて耐えて耐え抜いてきた。私はね、ベレーザが好きなんだ、なによりも、掛け値なしに。そんな彼と最後の時を過ごしたいというのは、化物の我儘かな?」

 

 人妖であれば、こんな戯言はと無視をして引き金を引いていただろう。だが目の前の存在は、あやふやなものの未だ人間、少なくとも理性は人の域にいるように思える。そんな存在からの、愛する人と最後を過ごしたいという願い。

 

 「人の血を…吸ったことは?」

 

 「あったら私は、とっくに名実ともに吸血鬼だろうね」

 

 それでも殺せ。殺さなければならない。悲劇を否応なく呼び寄せる人妖を何度見てきた。吸血鬼が伝承通りの怪物であるならば、それよりもさらに上の惨劇が巻き起こるだろう。引け、引き金を引いてしまえ。人間性など捨てろ。今まで何度痛い目をみてきた!

 

 「祭りの最終日の夜、ベレーザはモスコーから離れることになっている。その後私は自殺するし、もし良ければ介錯に付き合ってほしい。いざという時、万が一にでも怯んで失敗したらいけないからね。だからどうか、聞き入れてくれないか?多分生まれて初めての、我儘なんだ」

 

 懇願するような、潤んだ瞳。思い出せ、今まで何度あった。人外の言葉を聞いて痛い目にあったことが何度あった。サグレの発言を信用し、後におこる悲劇の種を摘み取らず後悔するのはどこの誰だ。いや後悔できればまだ良い、伝説に語られるような化物と対峙して生きている保証はあるのか。

 

 引いてしまえ、引き金を。まだ人間であるうちに引き金を引いて脳をぶちまけてしまえば、世は事もなし。ベレーザには申し訳ないが、リスクを天秤にかければここで殺してしまった方が、後に怨まれてしまうが、それで良い。さあ、引けっ引けっ!殺せ!

 

 グッ…と息が詰まる。ランザは力なく後ろによろめき、床に座り込んだ。銃口から指は離れていないが、銃口は当然額から離れ無意味な方向に向いていた。殺せない、今は殺せない。彼女は、人間だ。こんななりでも、まだ人間なのだ。死ぬ覚悟を固め、それでもベレーザとの時間の為に耐え忍ぶ人なんだ。非情に、なりきれない。

 

 「ありがとう」

 

 サグレは微笑みを浮かべ、しゃがみこむ。こちらの手を両手で掴み、頬に当てて少し撫でた。冷たい感触、そしてサグレの手が震えているのが分かる。

 

 「暖かい手、貴方はやっぱり人間ね。それも暖かい人」

 

 「暖かい手の人間は、心が冷たいなんて話を聞いたことがあるけどな」

 

 「それ、初耳だよ。でも貴方は違う、本当にありがとう」

 

 ありがとう、という言葉には確かに暖かな感情と感謝の気持ちが籠っていた。引き金を、引けなかった。それは人間性という意味では褒められたことかもしれないが、まだ自分が甘いのではないかと不安に苛まれる。

 

 それでも、愛する人と最後を過ごしたいと願う気持ちに、なにか意義というか、意味をみいだしたかったのかもしれない。今まで散々情に流され裏目に出てしまったのに、何故まだ俺は、非情に徹し切れていないのか。乾いた笑みが自然と顔に張り付いた。

 

 我ながら、学習しない奴だ。

 

  



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 家の裏側にあった小さな工房。様々な種類の彫刻刀がキチンと整理されしまわれており、作業台の上には小さな木板が幾つか残っていた。作業途中の作品なのか板よりも少し小さい薄く短い布がかけられており、表面になにが彫られているのかは分からない。

 

 作品展示をしているのか、壁にはこれまで造られた作品がケースに入り飾られていた。四季の花、大空を飛ぶ鳥、銃火器と剣が交差された盾のように大きな吊るし看板、犬の頭に乗る子猫、交差するように絡み合う蛇。販売用のお守りを造る傍ら、最近は武器屋の看板等様々な依頼が来ているようであり様々な彫刻作品が並んでいる。

 

 「売買先が決まっているのは、明日ベレーザが持って依頼人に届けに行くんだ。選べないからほしいのがあったら特徴を教えてね。判断するよ」

 

 サグレの一声に、クーラは壁を端から端まで目を通す。どれも素晴らしい出来であるが、一通り考えてから口を開く。大きさといい、お守りの祈願内容といい、昨日の作品が思い当たる。

 

 「馬が良い。昨日見せてもらった、小さいやつ」

 

 「あれかい?旅人のお守りだね。苦をせず労もなく旅先に辿り着けるようにって願いを込めて。確かに君達二人には良いかもしれない、荷物にならないし、なんなら首飾りにでも加工しようか?」

 

 「それは良いかも。お願いしていい?サグレ」

 

 「大した手間じゃないしささっと今日中に仕上げるよ。明日渡すから、楽しみにしていてね」

 

 手先が器用なのだろう、サグレは提案に甘えさせてもらう。苦もなく労もなくとはいえないだろうけど、隣を歩いていきたいというちょっとした意思の自己表示。意味が通じるかどうかは分からないけど、通じてくれたら嬉しいなと思う。

 

 ランザは、一人旅に戻りたがっているように見える。脈絡もなく投げ捨てるような扱いはしないつもりであるようだが、それでも何時ふらりといなくなってもおかしくはない。人妖を追うと、彼は言うが、何故人妖を追うのか。目的は話してくれても理由を聞けてはいない。

 

 その理由は、タブーに触れそうな気がして未だ聞けずにいた。なにかの弾みで捨てられてしまいそうな、気がするからだ。

 

 「良い人だよね」

 

 「え?」

 

 「ランザさん、彼は良い人だ。昨日会ったばかりだけどそれは、分かるよ。でも脆い人のようにも感じた」

 

 サグレは手探りで腕を伸ばし、腕に触り、肩にポンと手を置いた。そして綺麗な笑みを浮かべ、何度か肩を叩く。

 

 「でも男なんて勝手なんだから、なにを言われても折れたらダメだよ。支えてあげな、クーラがね」

 

 「ぅ…ん」

 

 サグレ自身、今まで様々な障害に立ち向かい乗り越えてきた強い女性なのだろう。言われたことはストンと心に落ちてきたが、同時にまだまだ支えられる程の力がないため強くならなければいけない。そしてなにやら、ちょっと照れくさい。

 

 「さ、男連中二人にして残していたら、悪巧みくらいしか考えないんだ。二人のところに行こうかな」

 

 作品を鑑賞してから工房から出る。家の裏口は小さな庭になっており、雨避けの屋根が張られた通路を通じて家と繋がっていた。家には入らず隣家との間にできた狭い道を通り玄関側に戻る。ベレーザとランザがそれぞれなにか話をしながら待機をしており二人がこちらに気づいたのか顔を向けてきた。

 

 ベレーザがランザに少しだけ話した後こちらに近づき、遮光の効果が強い黒色の日傘を差し出す。受け取るサグレは傘を開き、曇天のなか躍り出た。

 

 彫刻家らしく作業用エプロン姿が多いらしいサグレも、今日のような町娘の姿をするのは珍しい。帝都で今流行りのロングスカートは、白を基調にした上着もあいまり清楚なお嬢さんといったところだ。

 

 ランザの元に近づくと、彼は難しい顔をしていた。なにかを堪えるような、抑え込むような複雑な顔をしながら腕を組んでいる。

 

 「ランザ、今日は」

 

 「朝伝えた通り別行動だ。用事を片付けなければいけないからな」

 

 ベレーザが非難の目を向けてきたが、ランザは気づかないふりをする。懐から革袋を取り出しクーラに渡す。金属がこすれる音とそれなりの重み、要するに貨幣が入っていた。

 

 「子供が来るところじゃない、これで今日は一日祭りを楽しめ」

 

 「一人で祭りを…ううん。分かった」

 

 口から出そうとした言葉を、呑みこむ。一人で祭りを楽しむことなどできない、それよりも役に立ちたい。だがしかし、ランザの重く苦しい雰囲気がそんな言葉を放つことを許さない。

 

 「じゃあ、俺等と来るか?」

 

 見かねたベレーザが助け舟をだすが、首を左右に振る。この二人のせっかくの楽しみを邪魔をする気にはなれない。それに、一人ででも動いて情報を集め、人妖に繋がる話を掴めばランザに貢献したことになる。

 

 「子供は子供で楽しんで来るよ。じゃあねベレーザ、サグレ、ランザ」

 

 石の手すりに飛び乗り、飛び降りる。着地してから上を見ると、ベレーザが慌てたように覗き込んでいたが、なんでもないと軽く手を振ってから賑やかな通りに向け歩きだした。

 

 向かう先としての候補は、昨日巡らなかったところ。例えば職人街や低地通りの住宅街。職人街では昨日見た炎水晶や彫刻等様々な商品が観光客向けに並べられており、土産物や仕入れを行う外から来た人間が多く集まる。低地通りも露店が存在しているのが、昨日尖塔から街を一望した時確認できたためその二つを中心に巡ってみても良いだろう。

 

 職人通りまでまっすぐ歩き、中に入る。普段ならば親方と工房の徒弟達が働く場も、この祭りの期間に限ってはまるで市場のようである。様々な色の炎水晶や神や動物をかたどった彫刻を眺めながら歩き、時折年若い地元住民と思われる店番を押し付けられた見習いを見つけては声をかける。

 

 商品の質問から入り、上手く糸口を見つけだして世間話から街の様子で変わったことはないか聞く。まあこの祭りじたいが日常である普段とは違うことであるため、上手いこと目当ての情報にありつけず小さな欠片のような炎水晶を礼儀として購入し店を出る。炎水晶の欠片を荷物袋にしまうと、袋がシャリシャリと音をたてた。まったく買いすぎたか。

 

 奥で目を光らせている親方に、散々無駄話をした挙句売り上げ無しで逃げられるなんてなにをしていやがると、ぶん殴られるのを防ぐためだ。店番の坊主に話しかけるなら、情けと思いなにかを買ってやらなければいけない。まったくどこの世界も、見習いは辛い。まあこれも、昨日の酒の席でベレーザに聞いた話ではるのだが。

 

 そんな調子で職人通りを歩いて行くと、銃のショップを発見した。工房と一体化している店であるらしく、祭りらしく『期間限定特別価格!』などといった触れ込みがあちこちに書かれていた。

 

 リザードマン討伐の報酬や、小遣いをもらっていたとしても、銃は自分には手が出せない程高い。そりゃあ使い捨てのような安物なら買えないこともないが、そういったものは精度が悪かったり暴発の危険がありロクなものではないというのは、銃素人の自分でも知っている。

 

 だけどまあ見るくらいなら、そう思い扉を開く。狩猟用ライフル、速射用短銃、大型の散弾銃、店の中を所せましと壁や木でできたショーケースに銃が飾られていた。馴染みが深いのはランザが持っている散弾銃だが、この店に置いてあるのは軽量化と取り回しを重視したものより安定性を高めたストックがしっかり付いたものばかりだった。

 

 考えてみれば、普通に射撃すれば両手でなお凄まじい反動が来る筈なのに、軽量化し衝撃がモロに襲う散弾銃を片手で振り回し射撃をし、あまつさえリザードマン相手に鈍器のように殴りつけていた。ああ見えて、意外とかなりの筋肉質らしい。それだけで片付けて良い疑問なのか半ば疑問だが、考えも仕方ないのでそれで良しとしておいた。

 

 「やはり帝都の品質に比べるとダメね。田舎の玩具じゃ興味が惹かれないわ」

 

 フードの中、耳がかすかに動く。店の奥川、試射室と書かれた看板がぶら下がった木製の扉が開き、栗毛の女性が現れる。肩に背負われたのは、オーデン技術連合の最新式軽量化ライフル『射殺すレグザス』に腰にぶら下がっているのは同連合所属の鍛冶職人が叩いた見事な彫刻が鞘に施されたロングソード。

 

 オーデン技術連合の銃職人達は、なにやら大仰な名前をつけたがる。型番だと味気ないのだが、たかだが飛び道具にそんな珍妙な名前は必要なのかと疑問に思わずにはいられない。

 

 と、数日前、レントの元にいた頃はそんなことを考えていたものだが、今は違う。なんでこの女がこの街にいる、腰巾着がここにいるということは、この街にレントも来ているのか。

 

 「あら、獣臭いと思ったら。どら猫が迷い込んでいたのね」

 

 「ご挨拶だね」

 

 見下す視線と、冷たい視線が交差する。帝都大物議員の一人娘にして、手に負えない放蕩娘。少しカールした栗毛と仕立ての良い洋服に身を包んだカリナ=イコライが侮蔑と敵意を含んだ眼差しを向けてきた。

 

 このカリナという女、自分がレントの元にいた頃から悪意を持つ視線を投げかけ度々口論をしかけてきたものだ。レントの目があるところでは抑えめではあったが、よく悪意ある罵倒や差別をぶつけ嫌がらせをしてきたことを覚えている。

 

 もっともこちらとしては、気にしている余裕もなかった。レントの敵を暗殺することや周辺の情報を集める役目を担い、相手をしている暇もあまりなかったからだ。

 

 かろうじて同じ男を慕う仲間といった間柄、かろうじて大きな衝突はなかったが…あの視線は典型的な差別の視線。半獣である自分を憎らしく、今は裏切者として汚らわしく見てくる。

 

 「こんなところで裏切者に会うなんて厄日かしら?まあここには暴発しやすい安物が沢山ある、不慮の事故でもおこってしまうかもしれないわね。不運な事故がおきれば、それを見て僥倖だと笑えるかもね」

 

 「その不運な事故の当事者になりたいのか。祭りの最中、普段よりもトラブルに敏感だろう。それが例え偶然の事故であっても、立会人のお前は自由に動けないよ。レントの傍にいれないね」

 

 「なっ!」

 

 顔がこわばり、みるみる赤くなる。なにやら何時もより沸点が低い?

 

 「ああ、もしかしてレントはいないのかな。腰巾着の君が傍にいられないなんて、用済み判定でもされたい?あ、カリナはレントに名前を呼ばれたことがある?名前呼ばわりは最初だけで、もしかして今は『君』としか呼ばれていなかったりして」

 

 レントの周囲には、続々と新しい女性の取り巻きが増えていった。帝都の大物議員の娘といっても、父が立派なだけで彼女自身に目立つ能力は自分が見る限りはない、もっとも彼女も加護は受けている。自分が持っていたテイム同様、なにかしら異様な力を秘めている筈だ。

 

 揉め事はまずい、だが以前から続く犬猿の仲、滑り出した口は最後まで止まらない。

 

 「ああ、ごめん。図星かな?」

 

 「この…ケダモノォ!」

 

 カリナが叫び声をあげ掴みががってくる。フードを掴もうとしたのか、ギルドの時と同じ轍を踏む訳にはいかない。一歩後ろに下がり手を回避する。やはり余裕がない、こんなにキレやすかった記憶はないのだが。

 

 「レントに救ってもらった癖に、この恩知らず!薄汚い半獣、先祖が獣姦した結果できた存在の癖してこのあたしにこれ以上喋りかけるな!」

 

 周囲から注目が集まる。まずい、いくらなんでも何時もと比べ沸点が低すぎる。レントが近くにいない時でさえもう少し嫌味の応酬が続いたものなのだ。もしかして、図星かなとは言ったものの話した内容全て本当に的を射ていたとでもいうのか。

 

 「店主!店主!あの娘半獣よ!まったく汚らしい、この店の評判を落としに送られて来たに決まっている!袋にしてつまみ出してよ…早く!」

 

 口五月蠅いお嬢様育ちに、作品である銃を暴発しやすい安物と言われ、祭りの賑やかな日に無駄ないさかいをおこさぬよう我慢していた店の者達。そのストレスのはけ口である半獣という、誰も文句を言わない暴力の対象を目の前に腕を鳴らしながら前に出る。

 

 前から二人、横から一人。威圧はもとより、またあの目だ。ギルドの連中達と同じ、汚らしい物を見る視線。今は傍らにランザやベレーザがいない。屈強な男三人相手に勝てる訳がない。

 

 掴みかかる腕をかわし店を飛び出す、後ろから何時までも嫌悪の視線が追いかけてきているような気がしたが、今はそれに構わず走り続ける。

 

 たった一人で、沢山の嫌悪の視線にさらされる。だだ一人でそれを受けるのは、自分が考えている以上に堪えてしまう。職人街を抜けしばらく走った後、もうこれ以上誰も追いかけてこないことを確認してから動揺を抑えようと胸に手を当てる。

 

 半獣。我がことながら何故こんな存在が世に産まれ落ちたのか分からない。両親の記憶はない、いった自分はなにから産まれ落ちてしまったというのだろうか。

 

 もしランザから見捨てられてしまったら、自分はこの悪意による重圧に耐えることができるのだろうか。分からない、分からない、怖い。動悸が止まらない、何故。怖い怖い怖い。離れたくない、今すぐ走り出してランザの元に向かいたい。怖い。なんでこんなに落ち着かない。何時もならもう、怖い、クソッダメだ、まずは息を。

 

 「もし」

 

 声をかけられ、慌てて顔をあげる。声をかけてきたのは女性のようだった。見慣れないどこかのゆったりとした民族衣装に身を包み、綺麗な銀髪とまるで彫刻のような白い肌と整った顔をしていた。

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「はっ…はっ…あっ…はっ」

 

 大丈夫、と言おうとしたが乱れた呼吸が留まらない。なんとかジェスチャーをしたが、自分を客観視しても大丈夫には見えないだろう。

 

 「無理はしてはいけません。私、今この街で祭りの期間占いをしています。冷たいものをだしますから、少し休憩していってください。大丈夫、無理矢理占ってお金なんてとりませんよ」

 

 手の甲を柔らかく掴まれる。振りほどくのは簡単に思えたが、何故か反発する気が湧いてこない。青いテントに案内され、中に通される。月夜を模した天幕のなか、占い師らしく水晶やタロットといったいかにもなアイテムが置かれたテーブル、その対面の椅子に案内された。

 

 「祭りなのにお客様が少ないのです。みなさん、占いには興味がないのかしら?だから気にしないで休んでくださいね」

 

 銀色の水差しから、透明な杯に水が注がれる。渡された杯を見ると、驚くことにガラス製だ。壊れやすいガラス製品の杯は、職人が一つ一つを手作りする為高価なものである。庶民でも無理すれば買えないことはないが贅沢品の分類だ。一般家庭の普及率は低い。

 

 水を一口飲む。まるでつい先ほど井戸から組んできたばかりのような、もしくは魔術具で冷やしていたかのような冷たい水だ。一口飲んでからはとまらない、貪るように水を飲み走ったせいで身体から立ち昇る熱を冷ます。

 

 「ぷっは…美味しい。」

 

 「それは良かった。さあ、もう一杯いかがですか?」

 

 空になった杯に水がさらに注がれる。それを飲む度、冷たさが身体に染みこんでいく。味のない水の筈なのに、冷たさ以上に美味しく感じられた。

 

 「ごちそうさま、ありがとう占い師さん」

 

 「ふふ、占い師さんですか。ふむ…そうですね。占い師らしく名前をあてて見せましょうか?……んん、クーラさん。でもこれは本当の名前ではなさそうですね。貴女の本当の名前は…自分でも分からない?」

 

 思わず椅子から立ち上がる。だがしかし、占い師は小首を傾げながら純朴そうな笑顔を向けてきた。なんだか毒気を抜かれ、座り込んでしまう。

 

 「正解だけど、占いなんてものは残念ながら信じていない。自分を知っていて、声をかけてきた?」

 

 「さてどうでしょうか。ですが一つ言うのであれば、実のところ私自身占いなんてものは、あまり好んでいないのですよ。当たるも八卦当たらぬも八卦なんて、無責任な言い回しだと思いませんか?」

 

 「さあ、それは知らないけど、占い師が占いを嫌いなんてそんな…」

 

 頭が、揺れる。なんだ、と考えるまでもなく視界がなにやらトロンとふやけるように歪んできた。疲労?いや違う、まさか毒でも盛られたか。揺れる頭を手で押さえながらテンを見ると、瞳がなにやら怪しくピンク光っているように見える。先程まで、水色だったと思ったのに。

 

 思考までふやけ、考えがまとまらない。身体に力が入らずただ座ったまま、目の前の女性と対峙することしかできない。

 

 「占いではありませんが、私はあなたを知っています。羨ましい、妬ましい、私ですらまだされたことがないのに」

 

 異装から覗く陶器のように白い腕、細く滑らかな腕を占い師は掲げる。そして、少しの力でへし折れてしまいそうな自分の細い首元に指をかけキュッと絞める。悪意のある半月の笑み、苦しくない筈なのにその姿を見ているだけで何故かまた息がまた乱れてくる。

 

 「なっ…にを言って」

 

 「ケダモノ」

 

 占い師が微笑み、首に手をかける腕とは反対の手を軽く振るう。どこから出したのか、夜空と月の扇が宙を舞い落下。それにほんの僅かな間視線を向け、すぐに相手の方を向いた瞬間対面から相手は消えていた。

 

 首に回る冷たい感覚、背後から伸びた人差し指から小指までの八本が、ナメクジのように首にまとわりつく。何時背後に回られたと、ショートソードを掴もうとするが、力が抜けた身体は意思による命令に反して遅く、逆にしっかりと身につけられていた筈の武装の類が音を立てて落下した。

 

 指に力は込められていないのに、酸欠のような感覚が身体を襲う。苦しいが何故か分かる、これは続けたところで死ぬようなものではない。だがしかし、抜け出せない。身体が言うことを聞いてくれない。耳元に生暖かい息がかかる。フードも外され、獣の耳が露出をしていた。

 

 「華奢な身体を力づくで抑えられ、キュウッと首を絞められる。あら大変、命の危機だというのに何故貴女はあんなにも興奮したのでしょうか。普通は違いますよね?怖いですよね?苦しいですよね?辛いですよね?しかしながら、どういったことでしょう」

 

 背後からの感覚が消える。椅子とテーブルが消滅したと思ったらどこかも知れぬ森林の中にいた。いやこれは違う、見覚えがある。リスムから近いキラービーやクイーンビーの縄張り近く。ランザと戦闘を行ったあの森の中にあった広場だ。雑草の上にはキラービーの死体が散乱している。

 

 衝撃、首になにかがフワフワとしたなにかが巻き付き締め上げられる。身体が宙に浮かび、見下ろせばテンが扇で口元を隠しながら臀部から生える尻尾で締め上げてきた。あの夜にはなかった満月と月明が幻想的にテンとクーラを照らし出す。

 

 「貴女はお父様に助けていただいた。キラービーから庇ってもらい、背中に隠してもらいながらお父様が戦っているのを見た。ああ、本当に羨ましいです、妬ましいです。お父様の愛憎を一身に受けた幸福な身であれど、届かぬ果実を見てしまえば、無理だと思いつつ何故こうまでも手を伸ばしたくなるというものか。私はもうその役を担えないのです」

 

 尻尾が緩み、離れる。落下し柔らかいものに尻を打ち付けそのまま仰向けに転がった。酸素を求め大きく呼吸をしようとした瞬間、正面から首を抑えられ体重をかけられる。掲げる大盾、職員用仮眠室は窓から入る月明かりに照らされた。

 

 異装を着崩し、胸の上半分と肩が露出している。紅潮した頬、愉悦と悪意が入り混じる瞳でこちらを見下ろし締め上げる。

 

 「そして、興奮したでしょう?あの瞳で射竦められれば命の危機等些細なこと。ああなるように私が丹念に丁寧に育てたのですよ?数ある惨劇、悲劇、嗚咽。本来存在しなかった筈のありとあらゆる不運は、自分の娘が巻き起こしたもの!そして今の力ではそんな娘を討ち果たすことなどできはしない!無力と諦観、でも絶望は決してしない。汚れ腐れても輝く黒宝こそあの瞳!ねえ、最高だったでしょう?甘美でしょう?幼子を殺してしまい悪意と悪夢に苛まれた直後の余裕がないお父様に見られながら首を締め上げ、締め上げ、締め上げ、絞め殺されるのは!私は本当に妬ましい!あと少しで貴女は、幸せの中で逝けたのです!」

 

 ははは、狂っている。この女は。この女こそが、ランザが話したがらない旅の、人妖を狩る理由なんだ。あんな目を、瞳を育てるなんて。ランザは少なくとも、子供を殺したがらない理性が残っている。そんな人間らしい感覚を残しつつ、亡者のような瞳にするなんて。

 

 狂っている、自分は。焼き印を押され、暴行を受け、侮蔑の視線を向けられ生きてきた。だが、あれ程強烈な感情をぶつけられたことはない。痛みに耐性はできたと思っていた。敵意にも。だがそれを軽く超える程の衝撃。薄いベールで護られた心の中に突き刺さる心地の良い視線に乗せられた殺意。

 

 多分、自分は笑った。それを見て、テンが微笑み返す。視界が暗転し、あのテントの中に戻る。テーブルを挟み向かい合う二人の顔には、笑みが張り付いていた。あの目は、貴女が作ったのか。

 

 「いらっしゃい」

 

 占い師が、手招きをした。なにも考えられないが、とにかく従わなければならないと思った。何故?知らない。

 

 膝上にまぬかれ、その上に腰を降ろす。視界の端に数本の銀色の尻尾が揺らめいているのが見えた。

 

 「許します」

 

 後ろから抱きすくめられ、ピクンと身体が跳ねた。許された、嬉しい。二つの単語だけが頭の中をグルグルと巡り続ける。

 

 「クーラ、貴女はもうお父様のぺットです。そうであるならば、私の愛玩動物でもあります。家族なのですから。その代わり役に立ってもらいます。お父様に、捨てられてしまわないようにおまじないもかけておきましょう」

 

 「役…に?」

 

 「ええ、ご褒美もあげますよ。想像してみて」

 

 指先が下腹部に伸びる。黒いシャツに一枚隔て、優しく淫靡に指先を立てて撫でまわされた。

 

 「貴女の前には傷だらけのお父様。何時死んでもおかしくないような重症だけど、それでもまだ生きて両の足で立っている。向けられているのは、殺意。受け入れましょう?受け入れて。ほら来た、分厚い皮膚に覆われたゴツゴツした指が拳の形を作り、ここに叩きこまれる」

 

 人差し指、中指、薬指が押し込まれる。子猫のような悲鳴をあげ身をよじるが、柔らかく幾本にも増えた尻尾が四肢を拘束しているため動けない。尻尾の一本が首に巻き付きながら登り、耳に近づく。耳の中に生えた短い柔毛を押しのけ中に、ありえない話の筈だが、まるで尻尾は半規管や蝸牛を貫通し脳内を直接まさぐられているような感覚がした。

 

 「やめてって身体が叫びますよね。そこは女の子にとって大事な場所があるところですから。でもおかしいですね、クーラの心は喜んでいる。何故でしょうね?自分が一番良く知っている。役に立てない自分は、こうされるべきだ、こうされて嬉しい、存在している意味があると実感が湧いてくる」

 

 脳内をまさぐられているような感覚とは別に、反対側からは生暖かい吐息まじりの解説。頭が白く染まり、背筋がまっすぐ伸びる。いやいやと首を振ろうにも、それが本心からの行動かとちぐはぐな感情が問いをなげかけてきた。そんな葛藤とは無関係に語り掛けは続く。

 

 「ほら、人差し指と中指に手がかけられました。利き手の指、武器を握るには欠かせない。それを破壊して優位を崩さないようにしようとしていますね。キュウッと握られ、可動域の限界まで力込められる。やめてって言ってみた?言ってないですよね、嬉しいんですから。ほらもう少し、後少しで…バキッ」

 

 存在しない痛みが指先から身体中に駆け巡る。頭がのけぞり天井を向き、だらしなく口が半開きとなった。これじゃ役に立てない。でも嬉しい、彼にそうされることが嬉しくて仕方ない。

 

 「ほかにも色々してもらいたいけど時間が来ちゃう。名残惜しいけど、終わりは来るもの。最初のご褒美なんてそんなもの。お父様はクーラ、貴女の肢体を壁に押し付けた。憎悪の視線。心地いいですね。さあ、二本の腕が首に近づき、親指が喉に食い込む。身体が浮き上がる。足をバタバタさせるも床に届かない。二人だけの世界で、誰に見られることなく存分に絞められ、甘美な感触のなか…殺される」

 

 身体が痙攣、力なくうなだれ全ての体重をテンに預ける。それを優しく受け止め、頭を撫で、テンはささやいた。

 

 「ああもうハッハッハッとだらしなく口を開けて、喜んで。でも良いのですよ、貴女はそれで。畜生となりなさい、ケダモノで良いのです、半獣のなにが悪いのですか。その力を振るい、お父様の助になる。そして私の役に立つ。それが貴女の産まれた理由なんですから」

 

 「りゆう…りゆう」

 

 「そう、理由です。そうすれば、この光景を見せてあげます。私からの偶にのご褒美として。そうですね、じゃあ今夜聞き分けよくお利巧にお話を聞いてくれた褒に、仮想の世界で見せてあげます。楽しんでくださいね。だから役に立つのですよ」

 

 「うん」

 

 「良い子ですよ、クーラ。私の家族。今は全て忘れましょう。大丈夫、もう貴女の魂には刻みましたから、安心してください。人格を弄ることもしないでおいてあげましょう。その代わり…」

 

 頭の中に直接衝撃のようなものを感じ、クーラの意識はそこで飛ぶ。耳から尻尾が引き抜かれ、四肢を拘束していた尻尾も離れ、クッタリとした幼い身体は疲労困憊といった様子で寝息をたてていた。

 

 「未だ私の知らないお父様。たっぷりと引き出し私に見せてください。それだけが、貴女が存在して良い理由なのですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はえ!?」

 

 起き上がる。ここはどこ?すぐに理解できた、公園のベンチだ。慌てて身体をまさぐる。フードはとれていない、尻尾の露出もない。頭が少し重いくらいだ。時間を確かめるまでもない、日は既に暮れかかっていた。工房から飛び出してから記憶がない、なんでこんなところでグースカしていたんだ?

 

 「え…あれ…今日はなにを、私はどこに」

 

 私、あれ、いや自分だ、うん。まいった、まるで自分なのに自分じゃないような。自分が誰かになっていたかのような錯覚まであるなんて。どうかしている、しっかりしないといけないのに。

 

 「成果ゼロ…か。まさか寝過ごして情報をあげられずなんて、口が裂けても言えないな」

 

 ため息をつき、立ち上がる。夕飯もどこかで食べてくるように託られているので、どこか適当な屋台ですますことにしよう。幸い祭り期間は、食う場所に困らない。

 

 食事と摂ったら、もう一回り情報を集めてみることにしよう。自分は役に立つとアピールすると決めたんだ。それなのに一日中寝ていたんだから、自分で自分をぶん殴りたくなるが、それでも取り返すだけの行動をしなければ。



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 講演用の広場には、人だかりが出来ていた。音楽や演劇をやる為の野外ステージには演劇が行われており、ベレーザとサグレは席に座りながら公演を鑑賞していた。

 

 もっともサグレは目が見えない為、俳優や女優の演技を声で楽しんでいるようであるが、コミカルな掛け合いに笑い声がおこり二人も楽し気に笑っている。日傘は閉じているが、二人が座るベンチは丁度両脇がスロープ状上に昇る通路になっており、この時間帯なら日差しは当たらない。

 

 その反対側、ベンチに座り観光客のふりをしながら二人を見張る。帽子を被り衣服を変え、町人に変装をしているがバレないかが不安だ。

 

 昨晩サグレは短い間見逃してほしいと懇願し、甘いことではあるがそれを受け入れた。そのサグレの提案として、こうして二人の逢瀬を見張るという嫌な役回りを演じている。万が一なにかがあったら、周囲に被害が出る前に片を付けられるように。

 

 できることなら、何事もなく二人の楽しみが続けば良いとは思う。だがしかし、だからといって何時崩壊するか分からない均衡をただ眺めるだけというのは想像以上に神経が磨り減る。

 

 「野郎一人でカップルに向けてそんなに鋭い目ぇ向けてたら、目立つだろうが」

 

 かけられた声に、内心驚愕をしつつ腰のホルスターに手を伸ばす。散弾銃を掴もむ手が、それ以上動かないように褐色の手がそれを止めた。

 

 「んなもん振り回したら、尾行どころじゃなくなるぜ相棒」

 

 悪竜ジークリンデが、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを向けて来る。赤いシャツに黒く染められ、袖を乱暴に破ったような革の上着。所々破れて、いや意図的に破いたのか、穴が開いたズボンを着用しこれまた黒色の革靴まで履いていた。

 

 「隣座るぜ」

 

 「遠慮しろ。というかどこから盗んできた」

 

 一目がある街中で、こんな堂々と顕現するジークリンデに、驚きは隠せないが無理にでも押し込めないといけない。この悪竜に、隙を見せる訳にはいかない。

 

 「あ?」

 

 「その服だ。裸族がどこから調達してきたと聞いている」

 

 「ああ、これだよこれ」

 

 ズボンの一部が、小さな連結刃となり、すぐに戻る。身にまとうのは全て身体の一部ということか、無駄に器用な真似をしてくれる。

 

 「なあ」

 

 「断る」

 

 「まだなにも言ってねぇ。この姿だと腹は減らねえけど、見たことねえもんだらけだぜここ。オレにもクイーンビー討伐の分け前よこせ」

 

 「分けたら消えてくれるならな」

 

 「そりゃ無理だ。てか少しは感謝しろよ相棒。傍目から見ても滅茶苦茶目立っているから、わざわざこのオレが連れ合いの雌役してやろうって言うんだぜ?さっきも言ったが目立つんだってお前。だから金寄越せ、そこらの出店ぶっ壊して騒ぎの一つおこしてやろうか?」

 

 タチの悪い冗談だ。演技とはいえ彼女面の悪竜を隣に吸血鬼になりかけの人間を見張れときたか。そこまで付き合いが良いとは思わなかった。知りたくもなかった。クソが。

 

 「生憎だが、人肉を売っている屋台はない」

 

 「食い飽きたってんだ。味変もクソねぇくらいには。ああでも、お前の味なら好みだぜ?指の一本でもつまみ食いしてやろうかぁおい」

 

 舌なめずりをしながらこちらを嘗め回すような視線を向けて来る。ため息をつき、懐から銀貨を取り出し親指で弾く、それを受け取り「しけてやがんなぁ」と肩をすくめジークリンデはフラフラと離れて行った。銀貨だってそれなりの価値があるが。生贄と共に捧げれられた金銀財宝に見慣れた悪竜には子供の小遣い以下の価値しかないだろうが。

 

 もっとも、悪竜が金を使い買い物をすることなどないのだろうが。いや少し待て、店で騒ぎの一つおこしていないだろうな。例えば行列を後ろから斬り刻んだり、些細なことで店主と口論して屋台が首ごと分断されたり、トッピングと称して食べ物に辻斬りした人間の血をぶちまいたり。

 

 見張る対象から目をそらすのはあまりよろしくないのだが、視線を脇に反らす。以外にもジークリンデは和やかに店主と会話をし、銀貨を放り投げ適当に見繕えとのたまっている。帰ってくる金とは思えないが、まさか屋台一つに銀貨を全て使うつもりか。

 

 一本でもボリュームのある、様々な牛や豚の部位が刺さる肉オンリーな串焼きを指の間に八本挟み込み戻ってくる。何故かドヤ顔を向けられるが、買い物できて偉いですねとでも言ってほしいつもりか。もしそうだとしたら、誉め言葉は銃弾と共にぶち込んでやる。

 

 「やんねー」

 

 「いらん」

 

 椅子にドカリと座り込み、端の串から牙をくい立てる。野郎一人でカップルの監視は目立つとか言っていたが、果て目から見れば珍しい褐色肌の野性的な美女が器用に肉に噛り付く様はかなり目立つ。

 

 幸い二人は観劇中、こちらに注意を払う様子はないが、それでもこの奇妙な状況は落ち着きようがない。ついでに、先程これを『美女』と表現してしまった自分に腹が立つ。いかに人間らしく振る舞い、店で買い物をし、串焼きをほお張ろうとこいつは悪竜だ。気を許して良い存在ではない。

 

 そして自由奔放に振る舞うこの竜を見ていると、本当に封印が機能しているのかと不安になってくる。本当は既に封印など存在しなく、気紛れで封じられたフリをしているかもしれない。嫌な考えばかりが頭をよぎる。今は、サグレの問題に集中したいというのに。

 

 「昨夜は大失敗だったな相棒。何故殺さなかった」

 

 早くも三本目の串焼きにとりかかるジークリンデは、おもむろに聞いて来た。この竜に恋愛感情が理解できるのかどうかは分からないが、伝説の上では悪竜に番がいたという話はない。可能な限り古い伝承を調べて読み漁ってはみたが、そのほとんどは気紛れに人間を弄ぶか、気に食わないと判断すれば暴れるだけだ。

 

 サグレは、ベレーザと最後の時を過ごしたいと語った。吸血鬼になりかけ、その衝動を抑えるのがどれだけ難しいことかは分からないが、並大抵のことではないのは昨日の様子を見れば明らかだ。その根底には間違いなく恋愛感情が汲み取れる。

 

 あれを容赦なく殺せる者は、感情や人間性という意味では良くも悪くも人間をやめているだろう。非道や非情というものは、修羅の道だ。

 

 「彼女は自害の覚悟を決め、そのうえで懇願してきた。俺の役目はその最後を手伝うことくらいだ」

 

 「そーやって騙され続けてきたんだろうが。いや、騙す気はなくても未練のせいで最後の最後、死にたくないなんて意見を翻してきたらどうするつもりなんだ?」

 

 「その時、手を汚すのは俺の役目だ」

 

 へえ、とジークリンデは嘲笑するような笑みを見せる。手に握られた串焼きの肉は、既に全て食べつくされていた。

 

 「まあその方が、余計な罪悪感は抱かずにすむわな。少なくとも、時間をくれと懇願する半分化物な人間もどきを殺すよりは」

 

 余計な罪悪感。言い返そうとしたが、的を射ている。被害を出さずに確実に事態を収めるには、昨夜はうってつけであった。なりかけとはいえ未だに人間、銃弾一発射つだけで、災厄の可能性をゼロにすることができた。

 

 だがしたくはなかった。できなかった。根底にあるのは罪悪感、ほんの後少し生きたがる相手を殺せなかった。

 

 「自分を重ねたとか、そんなどうでも良い言い訳を理由にはできねぇよあなぁ相棒。結局は我が身可愛ささ。余計な罪悪感を担ぎたくなくて、もしかしたら大丈夫かもしれないなんて曖昧な可能性に委ねちまったんだ。まあ俺としちゃ吸血鬼と一戦やりあうのに反対はねぇが、まさか自分が善行を積んだなんて思っちゃいねぇよな。ただ感情に押しつぶされたくなくて、リスクから目を反らしただけなんだからよ」

 

 この竜は、まったく嫌なことを言ってくる。覚悟の無さを説いてきているようであり、口から紡がれるのはこちらの内心を暴く呪詛だ。

 

 サグレは自殺する。少なくとも、俺はその自殺を介錯として補助することになっている。どの道少なくとも、見殺しにすることには変わらない。それなら、あの夜一発でことをすまさなかったこととなにが違う。

 

 いや、そんなことを考えるな。サグレはベレーザとの思い出を望んでいた。それを許容することが人としてはやはり大事なのではないか。逆の立場だったら、俺も懇願するだろう。

 

 「お前には分からんよ」

 

 返答が面白くなかったのか、ジークリンデはその面白みのない返事を鼻で笑う。

 

 「そんなんで、化け狐を殺せる気でいるのかよ。何時まで寄り道をしているつもりだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何時まで寄り道をしているつもりだ、その言葉でランザの顔は強張った。

 

 あの猫の処遇にアレコレ頭を悩ませたり、吸血鬼モドキを殺したくないと打つべき手を打てなかったり、ガキを殺すことに過剰な罪悪感を抱いたり、まったく何時までどうでも良いことに頭を悩ませているのやら。

 

 まあそれこそが、可愛いかったりするのだが。テンを連想する言葉をだした瞬間、表情に余裕さが無くなり強張り始めたのを含めてだ。

 

 テン。控えめに言ってもアレは、どこをどう間違ったのか俺から見てもただの妖狐の人妖にしちゃ化物だ。神話の時代、只人がなにかの拍子で神または悪魔に成り代わるのを見たことはあるが、あらゆる神格や悪魔の格が零落したこの時代において、当時のそれに匹敵するようなものを感じた。それも超常の力に頼らず、自力でその域まで行く仕上がりだ。

 

 アレが仮にただの人のまま育てば、歴史においてなにか大きな意味をもたらした一角の人物となれただろう。まあ破綻した性格のせいで面倒くさい雌に成り果てている訳ではあるが。それだけ、様々な意味で素質という面ではずば抜けている、時代が時代なら英雄の器だ。俺の好みじゃねえがな。

 

 とにかく、それを殺そうっていうのに、未だにこいつは余計なことばかり囚われ考えている。能力云々の問題ではなく覚悟の質で既に負けている。向こうは気持ちわりぃことにお父様一直線なんだぜ?

 

 「例えばあの猫は、お前に心酔している破綻者だ。もう中身がぶっ壊れかけているんだからよ、都合よく育てりゃ良いじゃねえか。捨て駒、身代わり、特攻なんでもござれだ。胸が痛むか?ならば春でも売らせて情報集めの資金に充てる足しにでもしたらどうだ?半獣を嬲りたい奴なんて男女問わずどこにでもいるだろうよ。お前の命令となりゃ、クソ猫は喜んで行うだろうぜ。雌狐殺すことを考えるなら、そちらの方が有用だ」

 

 「そんなことに使って良い訳がない。クーラはこれまで、不幸続きだった。そろそろ自分の幸せを見つけても良い頃だ。流石悪竜か、よくもまあそこまで非道なことを言えるものだな」

 

 キレてやがる。だが騒ぎはおこせねぇよなぁ。収集がつかなくなったら吸血鬼どころの話じゃなくなるからな。何時もみたいに玩具をぶっぱなして来るのも健気だが、こういうのも悪くはない。

 

 だが甘い、甘ったれだ。

 

 「非道になれなきゃ雌狐にゃ勝てねえって言ってんだよ。そうだな、良いこと教えてやるよ」

 

 耳元に、顔を寄せる。嫌そうに身体を離そうするが逃がさない。腕を回し、反対側の肩をがっしり掴んでやった。

 

 「ここでオレを使え」

 

 驚愕の表情。意味が分からないのか、混乱した顔を向けて来る。

 

 「オレは悪竜、贄を力に変える能力がある。祭りに浮かれた生命力が集まった呑気な連中を根こそぎ撫で斬りにし絶望に堕とせば、俺は数多の贄を得ることができる。その分をお前にくれてやるよ。超速再生でも、鬼神の如き膂力でも、飛燕の如き速さでも、才能無しな魔力を神話の時代の天才並みに高めることだってなんでもござれだ。そのうえでオレを振るえば、敵はいねぇ。帝国にいる竜狩りだろうが、同じ竜だろうが雌狐だろうが敵じゃあねえ」

 

 ランザがなにかを叫びそうになる前に、口を塞いでやる。擬態の一部を刃に戻し、振るう。誰の目にも留まらない鋭い速さの刃が伸び、舞台の上のセットや大きな照明を支える照明立ての一部を破壊した。街並みを模していた、舞台上の背景は土台が崩れ、照明台が倒れ舞台役者に襲いかかる。

 

 周囲は騒然とし、事故だ!という叫びがあちこちから響いた。誰も注目していないうちに、ランザの首元を掴みベンチの後ろ、木々や深い林が生い茂る中に放り投げる。まだ軽いな、ちゃんと飯食ってるのか?

 

 「やりやがったな!おまっ…」

 

 起き上がろうとするランザの胸板を足で踏む。地面に縛り付けられた身体はもがくが、動けない。まだまだか弱い人間だ。

 

 擬態を解き、刃の列がランザの四肢を貫き地面に縛り付ける。鼻孔をくすぐる血の香り、何度嗅いでもたまらない。憎悪の視線を向けて来るのが分かり、身体がゾクゾクする。か弱い小動物のクセして、その目力だけは一流だ。

 

 ランザの身体の上を、這いつくばる。傷が広がることを厭わず貫かれた四肢を動かそうとする様が哀れだが可愛い。そして無意味だ。無意味に傷を広げていく、まったく加虐欲をどこまで加算させてくれるんだこいつは。

 

 だがそろそろ大人しくしてもらいたい、貫いた四肢の中でさらに刃を増殖。筋線維をズタズタに斬り裂き、行動する為に必要な器官を軒並破壊していく。あ、やりすぎた、左足の骨が砕けた。

 

 ランザの顔に液体が振りかかる。よだれを垂らしていたようだ、はしたないが、仕方ないな。これほどまでそそらせるお前が悪いんだから、よだれくらい許せ。

 

 「クソ雑魚。お前はオレがなにをしようと、止めることすらできやしねぇ。封印されて力がでない俺が相手ですらこのざまなんだぜ?復讐をしたいですぅ~、でも人道には背きたくないですぅ~。まったくもって馬鹿らしいと思わねえか?んで今馬鹿を見ている、それがお前だ相棒」

 

 「見境なくお前を使って、人を斬り殺し続けろと?お前は…甘言で封印を破る力がほしいだけ…だろっ!封印が解けたらまず最初の犠牲者は俺で…次はなにをするつもりだ?力を分け与える?そんな旨い話があるかっ!」

 

 「そうだな、そうかもしれねぇ。だがそうじゃないかもしれねぇ。それに対するオレの気紛れはリスクってヤツだ。だがリスクを恐れた奴は大成をしねぇだろ。何度も言うがよ相棒、オレはこう見えてお前を気に入っているんだ、信じてねぇみたいだがな」

 

 ミチミチと、身体の中身を壊す刃が伸びていく。これはダメだ、止まらねぇ。こいつの中身を壊しながら浸食していく。御馳走を喰い漁りながら進むような感覚だ。オレだけの英雄、その中身にオレを刻み込んでいく。中に入って一つになるなんて、これはもう交尾なのでは?人と交尾なんておぞましいけどな。

 

 だからこそ、こいつとは興奮するんだが。

 

 「なあ、一つになろうぜ?猫も狐も吸血鬼も関係ねぇ。この街の人間皆殺しにすれば、お前は一線を越えた力を手に入れることができる。無論オレは、話しに乗って狂気の行動を選んだ、そんなお前を裏切らねえ。悪竜と呼ばれようが、オレは嘘をついたことはあまりねえ。気に入ってるんだよ相棒。竜の力を得て、竜の力を振るい、竜を従える。封印もクソもなくなるが、雌狐だろうが屠ってみせる。」

 

 痛みに悶えるが、ランザは声をあげない。そりゃそうだ、せっかく隠したのに声をあげてこれが見つかればいろいろアウトだ。代わりに憤怒の表情を向けて来る。たまらんね。食い散らかしたい。

 

 「今のお前は、雑魚なんだから。クソ雑魚なんだよ。だから、考えろって…な?」

 

 その発言を聞いた瞬間、ランザは笑みを漏らした。予想外の反応、何故こんな状況で笑えたんだ?

 

 「そんなクソ雑魚に封印された…お前はどうなんだ。クソ雑魚に封印される…ナメクジか?そんな奴の封印解いても…贄を捧げても…得られる力はたかがしれてるな」

 

 「っ…クッ…アっハハハハハハ!ハハハハハハ!」

 

 マジかこいつ、マジかよ。この期に及んで断るどころかそんな挑発的な言葉を並べてくるなんて、激痛で思考すら鈍っているというのにこの口減らなさと敵意だけは異常だな。だから良いんだ、だから好きなんだ、だから交わりたいんだ。

 

 四肢を侵食している刃が興奮で暴れる。皮膚の内側から小さい刃が溢れるように斬り裂き、出血が激しくなる。止めることなんできない、だってこいつが大好きなんだから。

 

 「OKOK分かったよ、今回はオレの負けだな。ナメクジか、長い間生きてきて、そんなこと言われたのは初めてだぜ。最高だよ相棒、お前は最高だ。でも流石に、ナメクジ扱いはオレだってプライドが許さねえんだぜ?だからよ」

 

 ランザの肩に食らいつく。皮膚が裂け肉に刃が食い込み、食いちぎる。よく咀嚼をすることで唾液とよくよく混ぜ合わせ、口を開けてやった。血肉と唾液が入り混じる肉片を、よく見せてやったあと呑みこんだ。有象無象の生贄より、焼いた豚や牛の肉より、この味がたまらない。

 

 睨みつけてくる敵意の心地良さ、この健気さの愛おしさは雌狐に同意をしてしまうな。小動物の必死な威嚇が可愛らしいように。

 

 「生意気なクソガキには身体にたっぷりと分からせてから、また治してやるよ。オスガキ分からせなんて誰が得するんだと思うだろうが、残念ながらオレが得をする。じっくりオレに、貪られてくれよ」

 

 おっとその前に、一応吸血鬼モドキの気配を確認しておくか。……どうやらあの場から離れたようだな。これで邪魔されずにお楽しみを続けられる。一日はこれで潰れるだろうが我慢してくれよ、多分あの吸血鬼モドキの精神力ならば、今日くらいは大丈夫な筈だ。

 

 そこまで考えて一つ思う浮かぶ。吸血鬼、弱い人間にとっては天敵種、産まれたてとはいえその力は有象無象とは群を抜いて強大だ。そんな吸血鬼に嬲られれば、少しは考えを改めるだろうか。

 

 どちらにせよ、明日が楽しみだ。悪竜はニヤリと笑い、再度捕食にとりかかる。死なない程度に、再生を繰り返しながら。その時間は、とても甘美で尊かった。




 ランザとジークリンデ、俺で一人称が被ると今更気づいた為悪竜の一人称をオレにしました。

 オレっ娘もっと流行れ。


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 崩れる舞台の背景や照明を見て、あたりは騒然としていた。どうやら役者の何人かが巻き添えになったらしく、救助に手を貸すように人手を求める声が舞台から響いている。

 

 「悪いサグレ、少し待っていてくれ」

 

 ベレーザが肩を叩いてそう言った後、飛び出して行った。音や声から判断すると瓦礫となったセットを持ち上げているようであり、誰かを救出したのか大声で叫びかけているのが分かる。

 

 風にのってほのかに血の香りが鼻孔をくすぐる。誰かが出血でもしたのだろうか、甘美な香りであると同時に私には毒だ。だからといって、ベレーザに無断でこの席を立つ訳にはいかない。彼が来るまで待つことはできるだろう。

 

 本当ならば、ベレーザに救助活動には参加させずにすぐに二人でこの場を離れたかった。だがしかし、お人好しな彼のことだ、事故を前にしてじっとしていることはできないだろう。お人好しか、ベレーザは誰に対しても歩み寄りを見せる。ランザさんやクーラちゃんと会った時の話もそうだった。少しだけ嫉妬してしまうな。彼の優しさは私にだけ向けられたものではない。

 

 余計なことを考えたものだ、自己嫌悪で嫌になる。どうせ私はもうすぐ終わる人間だ、嫉妬になんの意味があるのだか。

 

 小さくため息を吐こうとした瞬間、ベンチやステージの側面方向、自分が座る方向とは反対側にある、確か雑木林がある方面から強い血の臭いが漂った。

 

 何故、という疑問が頭によぎる。だが同時にその香りは酷く食欲をそそるものだった。吸い付いて飲み干してみたい、いったいどんな味がするんだろう。自然と頬が緩んでしまう。舞台上の役者は、骨折等はともかく出血という意味ではたいした怪我ではないのだろうが、林の方向にいる人物は今も血の臭いを強めている。

 

 ああクソ、こんなタイミングで、どこの誰だ。こんな美味しそうな匂いをばら撒く奴は。

 

 「こんな曇天で日傘、『めくら』がなにをしに来た。事故がおこっているのに笑うなんて、気持ちの悪い」

 

 誰かは分からない声が聞こえた。声の主は知らないが、聞いたことがある声だ。数か月前だろうか、曇天の日を見計らい食料品を買い込みに出た時何人かに罵声を浴びせられたことがある。暗闇で作業する、盲目なのに彫刻を続ける気味の悪い女。陽に焼ける悪魔の子孫。確かそんなところだった。

 

 どうでも良い存在だったが、今この場においてはよろしくはない。黙ってくれないかな、今自制に必死だというのに。

 

 「ベレーザがいない時にわざわざ嫌味を言いに来たのか?ご苦労なことだね」

 

 「あんなみなしごのクソガキがなんだって?迷惑してるんだよ、俺達は俺達のルールで商売しているのに、かってにそれを荒らしたり外部にお前みたいなやつの品物を売り付けたりな。馬鹿なクソ野郎め、モスコーにはモスコーのルールが」

 

 傘を、取り落とす。思わず声の方向に手を伸ばし、男の首を掴んだ。勢いのまま立ち上がりその首を締め上げる。そのまま立ち上がると、男の身体が宙に浮いた。あんな優しい子を、バカにするのは許さない。

 

 「ベレーザをバカにするな。口先だけのお前達よりよほど人間らしくて、優しくて、私にたいして…」

 

 男が苦し気に声をあげ、周囲で悲鳴がどよめきがおこる。しまった、と慌てて手を離すももう遅い、舞台の上の騒ぎとは別に、ざわめきが自分の周りでもおきはじめている。

 

 アイツだ、あの家の娘だ、親殺し、盲目、不幸を呼んだ、メクラで彫刻を掘る、気が違った女。

 

 傘を回収し、走り出す。濃くなる血の臭い、周囲から投げかけられる悪意、変異していた自分の力。

 

 最悪だ、最低だ、先程まで楽しかったのに。なんでこんなことになった。私は、あの男を一瞬でも絞め殺そうかと考えてしまった。殺すなんて考えたこともない、ましてやそんなことができる膂力なんて自分にはなかった筈なのに、大の男を片手で持ち上げ、殺意をみなぎらせる。私が私でないみたいだ。

 

 自宅まで走って戻り、傘を叩きつける。玄関先で傘は衝撃でバラバラになり、まるで自分の内心のように砕けて散った。

 

 「なんでだ!」

 

 なんで私の身体はこうなんだ。何故この皮膚は太陽に焼ける、嗅覚は血を求める、腕力は並外れる、感情は人とずれる。私だって太陽の元で歩きたい、汗をかいて作業をしたい、身体をかきむしったところで、昔はまだ時間がかかったのに今では血が出る端から治っていく。

 

 ランザさんはまだギリギリ人間だと言っていたが、どこがだ。もう化物だ、私は。ベレーザのことを少しでも悪く言われた瞬間、相手を引き裂いてしまいたくなった。絞め殺しても良いと思えた。

 

 うずくまって、何時まで泣いていたか。ゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に進む。用意をしていた銀のナイフを掴むと、嫌悪感があると同時に自然と心が落ち着いていくような気がした。

 

 首筋に刃を向ける、少しだけ震えた後慌てたように腕はナイフを放り投げた。身体の全身が震え、芯から冷えていく感覚。諸々の感情や感覚を無視して、ベッドに座り込み大きくため息をつく。死ぬなら、約束の一つ果たしてからのしなければならない。クーラちゃんが気に入ってくれた馬のお守り、首飾りにすると約束していた。

 

 道具を準備して、作業を始める。穴を開けた後紐を通すだけの仕事ではあるが、それでも作品と向き合う作業は心を空にできる。

 

 半獣。いろいろ噂は聞いたことがあるが、他人事とは思えない。紐を通し終えた馬の彫刻に、願をかける。どうか貴女は、満ち足りた人生を送れますようにと。

 

 コンコン、と壁が叩かれる。

 

 「すまねえな、遅くなってよ」

 

 ベレーザの声、わざわざ探して走ったのか、息が切れていた。

 

 「謝らないでほしいな。勝手に帰ったのはこっちだ」

 

 「いや、お前を一人にしたらいけなかった。後で騒ぎを聞いて、離れたことを後悔したよ、舞台の」

 

 「舞台の怪我人なんて放っておけば良かった、なんて言わないで。あそこで走りだすのが、ベレーザなんだから」

 

 いや、と呟く声が聞こえる。彼は今日の計画を色々考えてきてくれていたようだった。盲目でも楽しめるような場所を巡る。それを壊してしまったのは、私なのに。

 

 こちらに歩き寄り、椅子に座る私の前に片膝をついたのか座り込むような音。手をとられ、薬指にリングをはめられる。薬指に鈍い痛みが走った。

 

 「ベレーザ、これ」

 

 「金欠の理由だ。リスムの職人に造らせた婚約指輪、今日の最後、お前に渡したいと思っていた。明日俺はまたモスコーを出るからな、それまでに返事がほしくて…少し段階が早すぎるか?」

 

 「ふふ、ははは。まずは、愛の告白とお付き合いからじゃないかな?段階を踏むならね」

 

 「そ、そりゃそうだがもう付き合いは長いっていうか今更そういうのっているのかって気持ちが先走ったという…かっ!と、とにもかくにもだ、受け取ってくれれば」

 

 「ごめんね」

 

 虚を突かれたようなベレーザの息を飲む反応。気持ちに答えてあげたい、受け入れたいと思っても、私は明日には死ぬつもりだ。そうでなければ、未練で生き汚くなれば待ってくれたランザさんに申し訳がたたないし、自殺をしたと後でベレーザが知れば、彼の心に大きな傷と未練を残してしまう。

 

 指輪を外し、そっとテーブルに置く。本当はつけていたいが、それを許さない理由がある。

 

 沈黙が二人の間に流れる。恐らく今は男前になったであろう顔を歪め、彼は傷をついてしまっただろうか。だが、ここで受け入れてしまった方が残酷な結末になる。ベレーザには、私は過去にいた知り合いの一人という立場で思い出にならなければならない。

 

 「そうかぁ、すまん。絶対いけると思ってたが、どうやら勘違い野郎だったか」

 

 「ベレーザが嫌いじゃないよ、感謝している。でもダメなんだ、私は誰かと一緒にはなりたくない」

 

 ここで体質が、目のハンデが、子供の不安がと漏らせばベレーザは後ろには引かずさらに前に出て説得をしようとしに来るだろう。だから断る理由は出来る限り身勝手でなければならない。

 

 「結局私は外面よく振る舞えるふりをしていても、一人が好きなんだ。偶に遊んだり話をするくらいの関係で丁度いい、昔馴染みといっても必要以上にベタベタする趣味はないしね」

 

 「本心か?」

 

 ベレーザの声が震えているが、言わなければならないだろう。今日分かった、もう私は感情のコントロールすらままならなくなっている。ここで意見を翻し幸せになってしまえば、私はみっともなく生に執着をするだろう。血塗れの手でベレーザを抱きしめ、愛に応える。それはおぞましいことだ、そして彼には酷な話になる。

 

 だから、言わなければならない。この男の手を振りほどき、一人にならなければ。

 

 「気づかなかったのかい?本心だよ。君との遊びは楽しいけど、こういのは正直迷惑なんだ。今仕事の上り調子だし、こんな詰まらないことに時間を費やしたくないんだ。すまないけど疲れた、今日は引き上げてほしいな」

 

 ベレーザは立ち上がる。そのまま離れて玄関まで歩いていくのが足音で分かる。引き止めようと伸ばそうとうする右腕を、左腕で抑える。

 

 待っていかないで傍にいて。そんな言葉をひりだそうとする自分勝手な口を理性がねじ伏せる。顔に笑顔を張り付けろ。ベレーザが振り返った時、酷いことを言ったのに笑顔で見送る女であれ。

 

 扉が開き、閉まる音。再び訪れる慣れ親しんだ静寂。

 

 立ち上がり、支柱の一つである木を指でなぞる。小さいベレーザが彫刻刀を振り回しうっかりつけてしまった傷。

 

 長い間使ったテーブルには、成長した彼がモスコーの外に出て戻ってくる度に各地の思い出話を語ってくれ、さらには昨日はランザさんやクーラちゃんとの談笑も思い出に混じっていた。

 

 この家も、裏の工房も、気軽に外に出れない分その全てに思い出が詰まっている。その思い出が多いがゆえに辛い、心臓が張り裂けそうだ。身体から力が抜け、その場に両手をつく。

 

 なんで私は、あんな良い人の気持ちに応えてあげられない。この身体が憎い、運命が憎い、両親が憎い、この街が憎い。こんな思いをするならば、ベレーザに出会わなければ、両親が私の未来を案じ殺してくれれば、街の住民は遠巻きに罵倒をするだけでなく、暗黒時代の魔女狩りのように取り囲んで、家に直接火でもかけて燃やし殺してくれれば。

 

 なにもかも憎い、この世は何故ここまで生き辛い。閉じた瞼から涙が溢れだす。一度こぼした、水分と化した感情の吐露はとめどなく溢れる。口を押えても嗚咽が収まらない、床に水滴が落ちる音。声を抑えることすらできない。

 

 「何故私は…」

 

 この世に産まれ落ちたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 安酒を煽る。

 

 空になった瓶が、地面を転がる。最後の瓶が空になったため、寝転がり空を見上げる。空を覆う曇天のせいで、何時もは綺麗な星空すら見えない。

 

 古城の裏側は木々生い茂る山になっており、林の中で寝転がる。虫の鳴き声のみが耳に届き、街の喧騒はかすかに届くのみにおさまっている。

 

 惨めな気持ちをぶら下げて、賑やかな祭りのさなかにいることはできなかった。幸せそうな顔を見るのが辛かった。

 

 祭り料金で足元を見まくる割高な宿を使うくらいなら、祭の間は滞在してい良いとランザやクーラには伝えてある。冒険者ギルドの運営宿は当然満杯であるし、盗られて困るような高級品は自宅にはないため鍵も開けっぱなしだ。家の鍵は手元にあるものの、今日は帰らなくても二人が困ることはないだろう。

 

 それにしても、我ながら、人懐こいという自覚はある。だがそれは、サグレにとっては鬱陶しいと感じる程のものだったのか。ランザやクーラもそんなことを考えているのだろうか。

 

 それでも俺は楽しかった。ランザやクーラとの談笑もそうだが、なによりサグレとの思い出は楽しいことばかりだ。

 

 中には楽しくない思い出もある。理由は分からないがサグレの両親が急死した時、少し遅れて彼女は両目から光を失った。

 

 どのような事故があったのかは、分からない。もしかしたら故意かもしれないと考えたこともある。それくらいサグレは、両親の死後やさぐれていた。自分自身どうなっても良いような投げやりな生活ばかりおくり、綺麗に整頓された今とは真逆に荒れ果てた家の中で暮らしていた。

 

 目が見えないのにそんな環境にいれば、当然生傷は絶えない。なかには自傷したとしか思えないような傷まであった。

 

 そんなサグレを見ていられなかった。孤児院にいた俺に対して、ある縁から両親共々家族のように気にしてくれていたサグレが、荒れ果てていく姿を見るのはできなかった。

 

 そんなサグレに対して、以前から冷たかった世間の目はますます冷たくなっていく。最初は両親を亡くした年若い女の子に優しくしようという者もいたが、その全てをサグレは口汚く罵り拒絶した。まるで人と距離をとりたいと願うように。

 

 だがそれでも、俺だけはサグレの傍にいたかった。そして、今盲目の彫刻師としてリスム商人の間で人気になった彼女の傍らにいるだけで。家族のように鼻が高い思いをしていた。

 

 しかし、もしかしたら、サグレの内心はあの日からまったく変化していないのだろうか。誰も彼も拒絶をすれば、私生活に悪影響がでるのは当然だ。成長する度に外面を取り繕う社交性を身に着け直し、俺という存在を利用すれば必要最低の外部に対する接触だけで生きていける。

 

 もうリスムには、サグレを名指しで指名をする商人だっている、知る人ぞ知るといった知名度の存在だ。黙っていても、注文は向こうからやってくる。精々俺は便利な伝票と商品の運び役くらいしか役目がない。

 

 「まぁ…釣り合わねぇよなぁ」

 

 孤児で学もなく、棒を振り回すしか能がない、底辺の人材が集まる冒険者組合で仕事を漁る俺と、彫刻という才能を開花させたサグレとは釣り合いがとれない。

 

 利用された、それならそれで良いんだ。怨むこともない、そうしたいと思ったから、そうした。助けになった。それだけの話なのだ。

 

 だが、それでも特別な存在だと思い込んでいた自分自身が気持ち悪かった。受け入れてもらえると、無条件で思い込んでいた自分が。段階も踏まず、相手の気持ちも考えず、全てが独りよがりの行いによる自滅。こんなことなら、今の関係を続けていく方が楽しかった。

 

 「全部自業自得か、気持ちわりぃなぁ俺。でも」

 

 今夜くらいは、気持ち悪く泣かせてくれ。小さい頃、出会ってから気にかけてくれた少し年上の女の子。年頃になり、荒れ果て、自分を返りみない少女。作品について話し合いをしながら、初めて彫刻が売れたと報告した際満面の笑みを浮かべてくれた彼女。

 

 その全てが愛おしかった。

 

 懐を探る。指輪を空に投げようとした見当たらない。机の上に置かれたそれを、回収したと思ったが置いてきてしまったか、もしくはここに来る道中落としてしまったか。

 

 未練を断ち切ろうとして、中途半端な事態になり軽く笑みが戻る。半端物の俺にはお似合いか。

 

 明日、どのツラ下げてだが、サグレの元に向かいリスムで卸す為の作品を回収させてもらったら、それでこの付き合いも終わりにしよう。大丈夫、もうサグレは俺がいなくても生きていける。

 

 こんな惨めな気持ちをぶら下げながら、以前と同じ関係には戻れない。引き止めてくれるだろうか?いや、それはないだろうな。

 

 だから、やはり、今夜は泣かせてくれ。明日は笑顔で別れられるように。



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 木窓が開かれ、月の光が差し込んでくる。

 

 扉を開けた先は簡素な家の中、台所に食事用のテーブルにはスープの鍋と二人分の食器が乗っており湯気をたてていた。歩を進めようとすると、なにかを蹴飛ばしてしまう。下を見ると猟銃が床を滑り、その銃口からは煙が上がっていた。

 

 違和感。少し身体を調べ判断がつく。視線が何時もより高い。まだ成長期であろう身体は、まるで成人のそれと変らないような背の高さになっていた。胸はたいした成長を見込めていないのはどこか悲しいところであるが、とにかく今の姿は何時もの自分ではない。

 

 奇妙だが思考は楽観していた。考えても仕方ないので改めて前を見ると、二つの部屋が見えた。右の部屋はカーテンで仕切られているが、左には作業台と工具が壁にかけられている部屋があり、覗いてみると幼子が遊ぶ為の足に歪曲した滑らかな木製の板がつけられた、乗ると揺れるタイプである馬の形をした玩具が作りかけのまま鎮座していた。

 

 壁には図面が貼られており、走り書きしたメモや寸法の計算が書いてあるが、左の角に女性のような柔らかい文字で『こういうのは三歳くらいになってからだから!』と書かれていた。

 

 気が早いお父さんが、産まれたばかりの子供の為に造っているのだろうか。少しだけ、優しい気持ちになる。

 

 ゴトッという音が、隣の部屋から響く。作業部屋を覗くのをやめ、カーテンを開けて隣の部屋を見るとそこは寝室だった。三つの木製ベッドに、赤ん坊用の周囲を転落防止用木枠に囲まれたベッドが一つ。赤ん坊用ベッドの上には、これまた木を削り作ったデフォルメされたクマやドラゴン、鳥が紐に吊るされていた。

 

 それだけなら良かった。それだけなら何の変哲もない部屋だった。だが、室内は異様の一言だった。

 

 転落防止用の柵は乱雑に斬り裂かれ、赤ん坊用ベッドは赤黒く染まっている。木製の足を持つ大人用サイズのベッドには、茶色に染められた掛布団のうえ、人型の肉塊が転がり、腕や身体の一部が柘榴を割ったように爆ぜていた。

 

 ベッドの縁には、二つの肉の塊を抱きかかえたままむせび泣く男。見たことある顔に、すぐに気づく。

 

 ランザ。

 

 駆け寄ろうとしたが、足が止まる。近づく者全てを呪わんばかりの形相で抱え込むのはサッカーボールのような大きさの球体と、小さな小さな足と手が生えたなにか。

 

 ランザの身体も、傷がついていた。四肢から絶えず血を流しており、頭部からは流血、食いちぎられたように肩には噛み跡が残り、なにより見覚えがある傷。キラービーに刺され、泡を立てながら血を流すあの時の傷。

 

 ゴトンと背後から音が響く。振り向くと、狼と人間の中間にいるような頭を吹き飛ばされた異形の少女が床に転がっていた。寝室の壁にクイーンビーと混ざり合う幼子の死体が張り付き、天井からは両腕をヒスイの翼に変え趾を縄で括られた歌鳥が吊り下げられており、風も無いのに揺れていた。

 

 一歩下がると、思わず食事用のテーブルにぶつかる。後ろを振り向くと、人間と同じ大きさであるウサギの頭部がスープに浮いていた。台所近くの窓からは人面の巨大なオオサンショウウオが木窓を砕き身体の半分を引き裂かれながら部屋の中に頭部を入れている。巨大な蝙蝠が十字架に突き刺され壁に打ち付けられており、その足元には穴だらけの蝶々の翼が生えた女性が鋭い刃物に寸断されたようにバラバラになっていた。

 

 狭い家の中は、あらゆる異形の死体が転がっていた。生唾を飲むと同時に、ランザが顔を上げる。

 

 すぐにでも死んでしまいそうな傷だらけの身体。敵意のある視線に射抜かれ、ドクンと心臓が大き跳ね上がる。

 

 あれ?どこかでこの光景を聞いた?見た?ような…気がする。

 

 あ…ああ、そうか。これがそれなのか。自分が、ご褒美として約束してもらった、夢なんだ。誰に与えられたご褒美?どうでもいいか。

 

 そう考えた瞬間、ランザの姿が変異を始める。身体から体毛が生え始め、口元が大きく裂け牙が覗き、大きな耳が髪の毛をかき分け出現する。髪色と同じ水色の尻尾。

 

 クッ…と小さくクーラは笑う。そういう願望も、自分にはあるのか。ランザが同じ半獣だったなら、同じ種族として寄り添えたら…なーんて。だがどんなに姿が変わろうと、あの瞳だけは変わらない。

 

 「遊んで良いよ、お父様」

 

 何故、お父様なんて呼んでしまったのか。まあ、それもどうでも良い。暴力的な嵐の予感に胸が高まり、身体全体が火照るようだ。

 

 腹部に手をかけ、上着をめくりあげる。腹部を露出し、挑発的な笑みが浮かべた。 

 

 言葉に反応し殺意をたぎらせ、まるで半獣ならぬ獣人と言えるまで変異をしたランザが動く。指が折りたたまれ拳の形が作られ腹部に叩きこまれた。身体が浮き上がり、床にうつぶせに倒れそうになる。胃液が逆流する感覚お覚えかけるが、嘔吐の前に乱暴に首を掴まれ持ち上げられる。

 

 クイーンビー騒動の時、ランザはこちらを誘い出し腹部に数発の殴打をかました。内臓が衝撃で歪み細胞が苦痛を訴え、大事なところが悲鳴をあげる。この感覚はあの時以上。殺す気で放つ殴打。

 

 「はぅっ!あ゛ぁっ!ぐゥがッ!は…ははは、あはははははは!ランザ、ねえランザ!楽しい?気が晴れる?楽しいよ凄くっ!この身体を…貧相な身をっ…ハァああああ…ランザが求めてくれる!嬉しいよ!嬉しい!楽しいよ!ああははははハハ!」

 

 旅のお荷物、役立たず。そんな自分を初めてランザは求めてくれていた。行き場のない悲しみ、怒りありとあらゆる負の感情が拳に込められ叩きつけられる。

 

 一打叩きつける度に、苦痛の息が漏れる度ランザの両眼、今は獣の目が苦し気に歪む。身体は止まらない、感情も止まらない、それなのに苦しんでいるのだろうか。まだ晴れないのか、そのやり場のない感情は。だからこそ、自分が存在する価値がある。

 

 床に叩きつけられる。仰向けに衝撃が加わり口の端から唾液を噴きだした。身をよじろうとすると、背中に衝撃。右腕が掴まれ、持ち上げられる。あれ?ここって指を折る場面だった筈じゃ。

 

 その考えは、無散する。二の腕が固定され、持ち上げられた右腕が噛みつかれる。何本もの杭が腕の中に差し込まれる激痛に視界が点滅。だがそれはメインの前に訪れる前菜。腕が稼働限界まで引き上げられるが、子供が玩具の人形を扱うように手荒にそれ以上の力が込められる。

 

 「がぎ…あっ…いっ……ん゛っ!」

 

 乾いた木材を割ったような音が響いた。牙が離され、ズルリと妙な方向に向いた腕が落下した。もうどんな用途にも使えない、正真正銘の役立たずの腕。使い捨ての玩具のように破壊された身体。元から役立たずなんだから、なんの違いがあることか。

 

 いや、意味はあったか。ランザに壊してもらった。それだけで、充分。

 

 「グギ…イッ…ツゥ…クッ…ひひ…あハハハハハハ!」

 

 身体がゆっくりと持ち上げられる。壁に叩きつけられる。太い指が喉に当てられ、添えられる。歪んだ瞳と視線が交わる。腕を伸ばし、指を伸ばし、獣毛に覆われた頬を撫でた。あの時と同じように。

 

 「自分は…役立たずだよ。力になりたいと…思っても……寄り添いたいと……共にいたいと願っても…力不足だよね。ランザを、困らせている。でもね」

 

 大人になった自分は、どんな表情を浮かべているんだろうか。

 

 「貴方の行き場のない憤怒に絶望、幼子のように泣きじゃくる貴方から、少しでも自分に背負わせてほしい。だから…ほら」

 

 やろう?

 

 喉に指が食い込む。大丈夫、今度は最後まで付き合える。

 

 ギリギリと締め付けられる度に、心臓が高鳴る。心地良い苦痛は夢の中でも健在、現実と遜色なく身体の中に刻み込まれていった。それでも頬を撫で続ける。これがお礼、これしかできない自分からのお礼。

 

 夢の中でくらい、全てを忘れてほしい。恐らくだが、この家の中はランザの凄惨な過去を現しているのだろう。この部屋にいる彼は、酷く傷つき泣きじゃくり、お互い今の外見はともかく、まるで自分と同じ小さな子供のようにも見えた。

 

 だからこうしている間は、全てを忘れてほしい。どこを見ても悲劇と惨劇しかない景色ではなく、自分だけを見て、腹の中に溜まった黒々としたものを全て吐き出すのに利用をしてほしい。

 

 だから泣かないで。苦しまないで。夢の中くらい、安らかにいて。

 

 「い゛…あ゛っ…ラ…」

 

 頬から手が、落ちる。意識はあるのに、もう身体の自由が利かない。死んだなぁ、と自分のことなのにどこか他人事のように考えていた。

 

 それと同時に、ケダモノめいた目に理性のような色が戻り始めていた。喉から手が離れ、落ちる身体を慌てて抱え込む。こちらを覗き込む瞳からは、また涙が零れていた。

 

 ランザも意外と、泣き虫なんだなぁ。

 

 大きくなった身体に包まれ、獣毛の中に身体が沈む。現実でも自分が死んだら、貴方はこうして泣くのかな。そうだとしたら、嬉しいかも。

 

 薄れる意識に身を委ねる。最後まで、大丈夫だよと思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体を起こす。ベレーザの家、床に敷物をしき荷物を枕に夜を明かした。

 

 頭が酷く重い。右腕をあげようとすると抵抗、モスコーでの初日に長椅子の上で寝るよう指示をだしていたクーラが、またいつの間にか布団の中に潜り込んでいた。無防備に服をはだけ腹部をだしながら、頬を緩め、スピスピと静かな寝息をたてている。取り敢えず、服を降ろし腹だけは隠しておく。

 

 悪夢を見ていたような気がするが、よく思い出せない。普段より寝汗をかいているような気がするが、何時ものように気怠さと気持ちの悪さは感じられなかった。その代わり、目元を触ると濡れたような跡があるのを感じた。泣いていたのだろうか。

 

 昨日、ジークリンデに好き放題身体を貪られ治癒を繰り返された後、ふらつく身体でなんとかベレーザの自宅まで戻ることができた。

 

 ベレーザの家は、街中で高低差があるこのモスコーの中でも低地に位置しており、一度サグレの様子を見ておいた方が良いと思いつつそこまでの体力は残っていなかった。

 

 床に倒れ伏し、意識を飛ばしたと思ったがこうして起きてみれば、枕に掛布団。クーラに世話をかけたか、それともベレーザか。そういえば、外の様子を見るにまだ太陽は昇ったばかりのようだが家主のベレーザは戻っていないようだった。サグレのところに、泊まっていたのだろうか。

 

 そうだ、サグレ。結局昨日はあの後尾行することすらできなかった。窓の外を見る限り街はまだ平穏無事なようだが、サグレ自身はどうなっているか分からない。

 

 起き上がり、クーラに布団をかけなおす。大きな水桶に溜めてある水を、小さな木桶に適量移し顔を洗う。水面に映る顔は、悪夢を見た後は何時も酷い顔であるのだが、今朝はまだ多少はマシな気がした。

 

 ホルスターを掴み装着。忌々しい剣は大人しくしていた。何時にもまして持ち歩きたくない気分だが、手元においてなければそれはそれで不安しかないので我慢して装備。

 

 クーラになにか書置きを残しておくべきかと考えたが、用意をする前に布団がめくれる音が響いた。

 

 寝ぼけた眼をしていたが、トロンと陶酔したような緩んだ顔に、服がずれたのか肩や鎖骨を露出させており子供の身体で奇妙な色気を放っていた。馬鹿なことをと頭を振る。こんな時に妙なことを考えている場合か。

 

 「おはよう、ランザ」

 

 「ああ、起こしたか。それよりお前、また決まりを破って…」

 

 「楽しかった?」

 

 クーラの一言に、身体が止まる。ただの一言でゾクリと背筋が凍る思いをした。猫の特徴を持つ半獣の少女が、何時もと違う恐ろしいなにかに見える程蠱惑的な笑みを浮かべている。この顔はどこかで見たことがある気がする。どこだ、どこで見た。

 

 四つん這いになりながら近づき、硬直していたこちらの腕をとる。生暖かい吐息を吹きかけたあと、指を絡めるように掴み頬にあてた。酔っぱらったように頬を赤らめ、マーキングをするように摺り寄せている。

 

 臭い付けという、自分の所有物や縄張りをアピールする為に身体をこすりつける行為をすると、昔猫を飼いたいと考えた時調べてしったことがある。半獣であるクーラの行動は、普通の人間にはない部位もあいまりどこかそれを思い起こさせるようなものだった。

 

 「なににたいしての、楽しかったなんだ?」

 

 「え?あれ?なんだっけ。……夢を見ていたような気がするけど」

 

 「寝ぼけるのも、ここまでにしておけ」

 

 自分を落ち着かせるよう、敢えて深く呼吸をしてから大きくため息をはく。手を離し、軽く額を叩いて離しておく。寝ぼけているなら少しは目を覚ましてもらわないと、何時帰ってくるかも分からないベレーザに不必要な誤解を与えてしまいかねない。

 

 先程の発言も、寝ぼけた故の一言。起きたばかりで頭が上手く働かず、なにか楽しい夢を見てそれと現実を混同させてしまったのだろう。

 

 普通に考えれば、それですむ話だ。しかし頭の中では、なんだか普通ではない、おぞましいなにかがおこっているような、そんな違和感を覚えた。しかしそれを追求する手段も、必要もない。

 

 「朝飯はまた適当に外の屋台で食べてくれ。それと、ベレーザが戻ってきたらなにか泊まったお礼がしたいって尋ねて少しだけ引き止めておいてくれ」

 

 「また一人で行くの?」

 

 「ガスパルのところに行ってくる。野暮用の続きだ、長くなる」

 

 嘘をついた。恐らくガスパルは、これ以上なにか事態が進行するまでは動きはなく行く意味もないだろう。問題なのはサグレの方だ。どうなっているか分からない以上、場合によっては家に入って即散弾銃を抜くような場面に出くわすかもしれない。そんなことは願い下げであるが。

 

 そしてなによりも、仲が良くなったサグレを目の前で殺すのを、もしくは自殺するのを見せたくはない。仲良くなった相手の悲痛な死にざまは、心に傷を残すのには充分だ。

 

 しかしジークリンデと自分につくづく腹が立つ。体力を無駄に浪費し一日をほとんど消費したため、情報がなく不安しかない。

 

 「んん…分かった」

 

 以外にも、クーラは二つ返事で了承した。問答の必要がないのは、正直助かる。

 

 出る準備を整え、ベレーザ宅から出る。扉を閉めようとした瞬間、家の中から鈴のような声が響く。

 

 『とても情熱的で、素敵でした。お父様』

 

 あの甘ったるい声。反射的に散弾銃を抜いて閉めかけた扉を蹴り開け家の中に向ける。家内は掛布団をだきしめ長椅子に座るクーラしかおらず、どこを見回しても声の主、テンはいない。

 

 気のせいか、聞き違いか。何事かと表情を変えるクーラを見て、少し冷静さを取り戻す。なんでもないとジェスチャーをした後、扉を閉めた。

 

 ランザは、気付かなかった。クーラの背中、丁度ランザが立つ扉側から死角となる位置に、狐の尻尾が揺らめき、一瞬で消えてしまったことに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りの三日めとなると、最後の盛り上がりを見せるところと逆に興奮も冷めはじめ翌日からの仕事や生活に向け片づけや準備を始める者達もおり、街は二つの顔を見せ始めていた。

 

 初日や二日目は街全体で盛り上がりを見せていたが、どこか落ち着いた雰囲気もあり昼間から酒を呑む者達も乾杯をしながらのバカ騒ぎというよりは知人友人とのんびり談笑しているような雰囲気が出ていた。

 

 狭い階段を昇り、街の景色を歩きながら眺める。職人街の方ではもう片づけもだいぶ進んでいるように見え、店番に駆り出されていたという弟子筋の人間もこぞっていなくなりようやく祭りを楽しめているのだろう。

 

 家具工房に新米として入った時は、それなりに大きめな組織であったため売買担当と製作担当に分かれていた。近くの大きな街で祭りがある時は、簡単な椅子やテーブルの注文が多くなった為祭りの期間まで忙しかったがそれが過ぎたら工房全体が休みなったためその街の祭りじたいは満喫できたものだった。

 

 一年めにして思ったのは、簡単な造形とはいえ家具など使い捨てにするものでもないのになんでまた毎年大量注文が来るのかということだった。椅子や重ねて、机は畳んでしまえるようにしているのに毎年毎年似たような注文が来るのは不思議だった。

 

 その謎は解けることがなかった、もうわざわざ解明することもないだろう。

 

 サグレの家まで訪れる。扉を叩き、しばらく待つと中で誰かが動くような気配を感じた。

 

 「……だれ?」

 

 「ランザだ。入らせてもらうぞ」

 

 家の中に入った瞬間、記憶との齟齬に一瞬混乱がおきる。

 

 玄関先でまず目につくのは、バラバラに砕けた日傘。台所では容器や食器の類が散乱し木製の椀や皿が床に散乱していた。食堂、テーブルの上には半分に折れた杖の先端が乗っており手元の部分は床に落ちている。照明立ても床に転がり、棚の中にしまっていたのか生活用品や小物も床に散乱していた。

 

 部屋の奥をしきるカーテンは外れており、足を折りたたみベッドに背中を預けもたれるように床に座り込むサグレが見えた。いざという時すぐ終わらせる覚悟の現れか、すぐ近くに銀のナイフが刺してあった。

 

 寝室の床小さな小物ならば、寝る前にこの部屋で少しずつ彫刻をしていたのか、数本の彫刻刀と小さな木彫りが辺りに散乱している。小さなテーブルには封筒と、銀の指輪が置かれていた。

 

 盲目故に元々物持ちが少ないようであるが、それでも整理と整頓がされた初日の様子に比べ手当たり次第八つ当たりをしたような様相であった。

 

 「ああ…もう朝なのかな」

 

 「そうだな。照明台を借りるぞ」

 

 床に転がったマッチを拾い、照明台に火を灯す。扉を閉めて日光を遮断し中に入り腰を降ろした。

 

 「荒れているな」

 

 「まあそうだね、一度やってみたかった…なんてことはないけれど。少しだけ思うところがあってね、最後にひと暴れしたくなったのさ」

 

 クックッ…と押し殺したような笑みを浮かべてから顔を伏せる。ベレーザが近くにいたら、恐らくこんな凶行をおこす前に彼女を止めただろう。ということは、昨晩はベレーザが帰らなかった可能性もあるが、ずっとサグレの近くにいた訳でもないということだ。

 

 まさかとは思うが、もう既にベレーザは吸い殺されて、なんて考えが頭をよぎるがそれは違うと考えなおす。目の前のサグレの姿は、まだ人間のそれだ。どれだけ内側が変わっていようとも、感じる生物としての気配のようなものは人間として留まっている。

 

 「ランザさん、私はまだ」

 

 「人間だ、一応な」

 

 「そうかな、そうとは思えないよ」

 

 サグレは手探りで床を探る。見つけた一枚の木片はまだなんの彫刻もしていない円形のものであったが、サグレは指を折り曲げまるで粘土細工のようにその木片を握りつぶした。

 

 ささくれた木屑が皮膚を突き破り血を流すが、即座に煙をあげながら再生をし肉に食い込んだ木片も追い出されるようにひとりでに落ちていく。広げた手には、圧縮され破壊された木片の屑とほんの少量の出血跡のみ残った。

 

 「こんなざまで、そう言ってもらえるとは嬉しいね」

 

 自嘲するようにサグレは笑う。目元を隠しながら、自身に対しての嘲笑はしばらく続いた。それを邪魔はしない、今サグレは自分の中身と向かいあっているところなのだろう。異形の変化する心情は、その本人にしか分からない。復讐者の執念が外部の者には分からないように。

 

 「クーラちゃんは?」

 

 一通り笑い終えた後、しばしの沈黙。顔を伏せたままサグレは尋ねてきた。

 

 「遠ざけてある。知人となった相手を殺害するなんて、酷な話だろう。この件は、伝えていない。仮に伝えるとしても、全てが終わった後だ」

 

 「そっか。いや、それで良いんだろうな。好き好んで、自殺とか殺すところなんて見せるところじゃないしね」

 

 「いざという時、手を汚すのは俺一人で充分だ」

 

 それだけに、昨日は失態だった。悪竜は大丈夫だろうと高をくくるようなことを言っており、現に今日までサグレは耐え抜いたようであるが、そのいざという時に近くにいれない可能性が高かった。我ながら、呆れ果てるしかない状況だ。舞台を破壊した件も合わせ、全てをジークリンデのせいにはできない。言い訳のしようもない。

 

 「ランザさん」

 

 サグレは力なく、名前を呼んだ。

 

 「頼みごとをして良いかな。死ぬ前に気にすることでないかもしれないけど」

 

 「できることなら」

 

 「荒らしてしまった家の中を掃除したいんだ。あとは遺品整理ってやつもかな。遺書も、一応は用意したんだけどこの目ではちゃんと書けているのやら…代筆、出来栄えによっては代筆もお願いしたいかな」

 

 時間は、あまり残されていないかもしれないが、とにかくキチンと整理と整頓をしていた彼女らしい頼みに思えた。そんな気持ちに出来うる限り寄り添ってやりたいのは、正直な気持ちだ。

 

 「分かった。だが作業中はそこにいてくれ。もしなにか変化があったら、全てを中断してその場で片をつけることにしよう」

 

 「そうだね、それと一つ注意。彫刻刀でうっかり怪我をしないでね。人の血の臭いは、極上のスープの香りと違わないからさ」

 

 暑さを我慢しつつ着込んで来た戦闘用外套を椅子にかけ、腕をまくる。万が一暗闇で、サグレのいうように彫刻刀の刃に触っても言いようにグローブはつけたまま作業を始める。少しの間とはいえ滞在した家、手抜きはしない。

 

 「あとはベレーザが来たら…居留守を使うつもり。鍵をかけて、ノックしても出ないようによろしく頼むよ。彼なら、勝手知ったるで裏の工房から持っていく物を選んでくれるからさ。表と裏の扉、鍵もかけておいてくれないかい」

 

 もう、こんな姿を見せたくはないということか。分かった、と短く返事をする。

 

 最後に知り合いに会いたい、というのはもう既に叶わぬ思いなのだろう。本当にそれで良いのかと、問いただすようなことはしない。それが俺ができる、最大の気遣いだった。



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10

 散乱した道具類をひとまとめにし、床の上から余計な物を片付ける。どれがどこに入っていたかは流石に分からないが、見栄えはだけはつくように棚の中や小物入れにしまっておいた。遺品整理といっていたが、死後空き家になれば、家を売りたい役所のものが勝手にまとめてゴミにだすからそれで良いということだ。

 

 机の上を濡らした布で拭き、彫り込まれた植物の彫刻の溝まで綺麗に吹き上げる。しかし、彫刻の目利きはさっぱりではあるがこうしてみると改めて見事なものだ。細部まで、荒や手抜きは見られない。

 

 「何故盲目で彫刻家を目指そうと?」

 

 「それしか、能がなかったからね」

 

 聞いてから、自分の考え無さを恥じる。このご時世、盲目者がつける職業は物乞いか見世物くらいだ。奴隷解放等弱者救済の動きは様々な形で存在しているが、身体にハンデを持つ者に対してのケアまでまだ届かない。

 

 視力を無くしたのは後天的だと語っていた。それまで技術を培ってきたのなら、いかにそれが茨の道であろうとその道を進むしかなかったのだろう。それこそ、文字通り血のにじむ努力をしてきた筈だ。

 

 「すまない」

 

 「良いんだ、気にしないで。この目を潰したのは、自分の意思だからね」

 

 机の掃除を終え、棚の上を拭きにかかる。あまり塵や埃は積もっていないのは、普段からマメに拭き掃除をしているのだろう。

 

 フフ、という笑い声が聞こえる。声の方を見ると、疲れたような顔を少しだけ緩ませサグレは笑っていた。

 

 「聞かないんだ。結構衝撃発言をしたつもりだけど」

 

 「話したくないことかと思ったが」

 

 「誰かの思い出くらいには、残しておきたいのかもね」

 

 恐らくベレーザすらも聞いたこともない話ということは、吸血鬼化となにか関係があるのだろう。伝承でしか聞いたことがない存在になりかけている者との対話。変異の症状等恐らく研究畑の人間には金を払ってでも聞きたい話なのだろうが、踏み込んで聞いて良いことなのか分からない。先程、それで失敗したばかりというのに。

 

 だがサグレが話したいのであれば、聞く。手を止めることなく、続きが語られるのを待つ。

 

 「夕焼けが怖いんだ。私の家から外に出れば、時間帯によっては夕日が沈んでいくのがよく見える。それを見るとね、身体がゾクゾクと疼くんだ。両親が死んでからはそれが加速した。朱色の夕日を見る以外にも、布地の赤や塗装された赤色にも興奮するようになってね。それが嫌だったから、潰したのさ。幸い、経験則で銀を使えば再生はしないことは知っていたしね」

 

 ナイフを床から引き抜く音。音の方を見ると、手の中でナイフを弄んでいた。

 

 「実際潰したことはある程度は正解だったよ。赤色が視界から除かれるだけで、かなり心に平穏は戻った。ただその代わり、嗅覚が優れちゃってね。困ったことになったから、それ以来ベレーザにはこの家の中で刃物や彫刻刀握らせたことがないんだ。万が一のことがおこったらね」

 

 「我慢ができないか」

 

 「そうだね。でもまあ、血を流さなけばまだ大丈夫だし、かすり傷くらいなら我慢することはできた。そういえばランザさん、貴方からも血の臭いがするかな。気を悪くしたら謝るけど、古い血の臭い、死臭のようなものを漂わせているよ。ベレーザが最初、どこの殺し屋を連れてきたと思ったものさ。……クーラちゃんにもね」

 

 人妖との戦闘においては、血を流し血を浴びるような戦闘が続く。ましてその戦闘でジークリンデの力に頼ってしまえばなおさらだ。死闘の終わりに、文字通りの血の雨が降り注ぐ。拭っても消えない微かな臭いを死臭と称するなら、そうなのであろう。

 

 だがクーラはどうなのだろうか。リザードマンと戦闘の際、背後に迫る敵を倒す為に足と頭蓋を吹き飛ばしたがそれのせいで血や脳漿が派手にかかってしまっていた。だが、同じような臭いがするというならば、クーラの臭いも自分と同じように重ねてきた同質のものだろうか。

 

 クーラは元々暗殺を生業としている半獣だ。今現在殺しの仕事はしていないし、させるつもりもないが、それ以前はどこで何人狩りとってきたのか、本人は語ることはなく、語らせる気もない。出来うるなら、忘れてほしいと願っている。

 

 「だから、気兼ねなく頼めたのかもね。自殺をしくじった時の、介錯をさ」

 

 「こんな殺し屋じみた真似は、二度とごめんだがな」

 

 「本当に、無理を頼んだね」

 

 会話の間に掃き掃除まで終わり、一通り掃除を終えたということで使用した用具を元に戻す。家主の寝室は流石に遠慮をした。妻でもない恋人でもない女性の寝室など、男がおいそれと手を出す訳にもいかない。そこは了承しているだろう、サグレもこれ以上の催促はしてこなかった。

 

 「後は遺書の代筆についてだが」

 

 「静かに」

 

 サグレの言葉に、口を止め気配を殺す。ドンドンと扉を叩かれる音が響いた。

 

 「ベレーザだ、いるか?」

 

 ベレーザの声を聞き、サグレはなにかに怯えるように表情を歪ませた。出る訳にもいかない為息を殺す。しばらくの静寂の後、扉の前から小さなため息を漏らすような音が響く。

 

 「もし会いたくないなら、それで良い。昨日の指輪、もしまだ家の中にあったら処分を頼む。特に名前や文字を刻んだ訳じゃないから、それなりの値段で売れる筈だからよ。それじゃあ俺は彫刻だけ回収させてもらうなぁ」

 

 気配が家の側面を通り裏側に回る。裏にある小さな工房には、商人に卸す為の彫刻を回収しているのだろう。ベレーザの足止めを遠回しにクーラに頼んでおいたが、向こうも仕事としてここに来る用事がある為期待はしていなかった。ベレーザの近くに、クーラの気配はない。家に帰らずまっすぐここに来たならば、足止めは当然空振りだ。

 

 数分おいてから再度足音が家の外側を通り過ぎ、無言でベレーザは去って行った。机の上に残されていた、銀の指輪。シンプルな婚約指輪であるが、この手の装飾品は相応に高い。

 

 冒険者組合の仕事をこなしながら、貧しい食事で耐え凌いでいた理由が、これなのだろう。これで良いのか?とは聞かない。事情は察するが、サグレは覚悟を持ってベレーザの求婚を拒んだのだろう。他人がそれをどうこう言えようものか。

 

 例えばこれが、大衆小説であったのならばここでベレーザを追うように声をかけるだろう。全てが上手くいく解決策が土壇場で出てくるかもしれない。だがしかし、現実は違う。

 

 サグレだって、こうなるまで座して待っていた訳ではないだろう。そのうえで、この道を選びとったのに高々出会って三日程度の自分になにができようか。諦めるとか、諦めないとかの問題ではない。その問題の土俵にする立てていないのだ。

 

 本当に、嫌な役回りだ。クーラを連れて来なくて本当に良かった。

 

 「ランザさん。独身?」

 

 「今はな」

 

 「今はね…奥さんがいたことがあったんだ。幸せだった?」

 

 終わりは悲劇だったが、幸せだった。家族の為に一喜一憂できる。妻は少々危なかっしい人間だった。料理も下手、赤ん坊をあやすのも不得意、買い物をすれば言葉巧みな商人に余計な物を買わされそうになる。顔はクールな鉄面皮だったくせに、中身はポンコツだった。手がかからないテンとは真逆のタイプで、心配事は増えてしまったがそれでも楽しいし幸せだったのは確かだ。

 

 「幸せだった。上手く言えないが…そうだな。毎日が新鮮だったよ、良い意味でな」

 

 「そっかぁ」

 

 サグレの肩が震える。身体を抱きしめ、身体を小さく丸める。

 

 「クーラちゃんは?好きな人がいるとか聞いたことある?」

 

 「さあな。まだ長い付き合いでもない、成り行きの出会いだ。そのうち良い男でも見つけるだろう」

 

 「そうだね。でも、女の子の成長は早いよ?そのうちなんて言っていても、もうランザさんロックオンされてたりして」

 

 小さな笑いがおこる。既に涙は流し終えたと言わんばかりの顔でサグレは、冗談を言った。馬鹿いえと、笑いながら返しておく。彼女の中で、もう涙は十二分に流したのだろう。出てくるのは空元気、精一杯の強がりだ。

 

 立ち上がり、机の前に並ぶ。便箋に包まれた遺書があり、開けるように促され中を見てみる。触って感触を確かめ微調整できる彫刻とは違い、触ってもよく分からない字は分かるような分からないようなミミズが這ったような文字であった。

 

 「書き写すのもありかと思ったが、すまん読めない。口頭で伝えてくれると助かる」

 

 「遺書を読み上げるなんて、なんか恥ずかしいなぁ。でも頼んだのは私だしね、よろしくお願いします」

 

 新しい紙に、ペンを添える。サグレの読み上げる覚悟を、一文字一句違わず書き残しておく。ベレーザに向けた、最後のメッセージを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必要なものをサグレの工房から回収し、一度自宅に戻る。少し時間は早いが今から出ないと丁度いい時間に宿場町に到着できないからだ。別に野宿をしても良いかもしれいないが、商品を片手にのんびりと寝ていられる程肝が太いわけではない。

 

 盗まれて困るものがある訳ではないが、それでも家の戸締りだけはキチンとしなければいけないだろう。もしもまだランザやクーラが残っていたら、申し訳ないがその時点でチェックアウトしてもらうしかない。

 

 家の前に立ち、扉を開けようとしたら靴跡のようなものがついていた。誰だ蹴り開けようとした奴は。少し腹は立つが率先して綺麗にする気は今はおきない、どうせ誰が気にする訳でもないのだから。

 

 扉を開け中に入ると、クーラが壁を眺めながら布団を抱きしめ呆然としていた。迂闊にも耳も尻尾も出しっぱなしだ。どこか心ここにあらずといった様子で、放心している。出自が出自だ、気配には敏感に反応して自身の身体を隠すことには気を使っていたように思えたが具合でも悪いのかどこか呆然としていた。

 

 「あ…お帰り」

 

 「おう。ランザは?」

 

 「知人のところに行くってさ。戻れるか怪しいみたいで、ベレーザにいろいろ礼をしろって」

 

 知人。そういえば、モスコーに来た理由は祭りではなく知人の訪問といっていたような気がする。クーラもその知人についてはよく知らないようであり、別段興味を向けるそぶりもないように見えた。もしかして、自分に話を持ち掛けたように、クーラをどこか孤児院なり里親なり探す活動を続けているのかもしれない。そうであれば、ランザと共にいたがるクーラがそれに同行しないのも頷けるだろう。

 

 「礼?」

 

 「屋根を貸してくれた」

 

 クーラの指が天井をさす。モスコーで祭りの期間まともな宿をとるならば、事前に部屋を確保しておくのは必須だ。それをしないのは、世間知らずか長居する理由がないからか。ランザは、前者にはあまり見えない。

 

 それなのに滞在をしたということは、長居する理由ができたのだろう。祭りを楽しんでいる風にも見えなかったし、もしかしたらクーラを預かってくれる候補が見つかり交渉事を進めているのかもしれない。

 

 「気にすんなよ。せっかくモスコーに来たのに、変なところに泊まって嫌な思いをするくらいならなぁ。ギルド経営の宿はともかく、そこらの安宿は、安いなりの理由がある」

 

 不衛生な寝床やトイレ、本当に食べて良いのかと思えるような食事。素泊まりの木賃宿では、盗難の危険もあり、聞いた話では泊まった旅人を殺して金品を剥ぐようなとんでもないところもあったらしい。

 

 部屋に鍵があっても、ちょっとした細工や力づくで簡単に開くようなものもある。ある時、帝都の端にある集落にある素泊まりの安宿で女性と部屋が隣になったことがある。両腕を広げれば壁に手がつくような、そんな狭い部屋で寝ようかと思った瞬間男が数人乗り込んできたことがあった。

 

 隣の部屋でお楽しみをするので、お前も共犯者になるかこの口留め料で耳と口を塞いでいろという。断ればどうなるか、分からないと脅しをかけられた。

 

 腰のシミターや大鉈を確認、銃器の類は背中にありとっさに抜けないと判断。宿主はおそらくグル、となればここでこのクソ野郎共をぶちのめさないとどうなるか分からない。

 

 騒ぎを聞きつけた治安維持組織が来るまで、棒一本で立ち回りができたのは本当に奇跡だった。それ以来、安宿を扱うのも勧めるのも避けている。

 

 モスコーはそれなりに大きい街中とはいえ、祭りの熱気に当てられた酔客が粗相をしでかさないとはいえない。ランザならなんとかするだろうが、それでも騒ぎを避けるのに家を貸すだけですむなら安いものだ。知り合ったばかりの間柄で信用しすぎな気もするが、万一なにか盗られても本当に盗まれて困るものもない。

 

 「前も話したかもしれないけど、今日、これから俺はまたモスコーを経つんだ。だからまあ、時間もあんま無いし、気にする必要もとくにはねぇなぁ」

 

 「それでも、なにかないかな」

 

 「なにかかぁ」

 

 しばらく考えながら旅の準備を整える。荷物袋に、ここに帰る前に買っておいた携帯し日持ちができる食料を詰め込んでいく。堅くて乾燥ぎみの平パンに、ニンニク。ガチガチに固まったチーズやナッツの類、干し肉を整頓して入れていく。桶から水を出し、鹿の膀胱で作った水筒に入れていく。最初は動物の膀胱を利用した革袋に抵抗があったが、慣れればさして悪いものでもない。そんなことより、なんらかの理由で遭難なりして水場が近くにない時の方が怖い。

 

 旅支度をしている間、クーラはじっとこちらを眺めてきた。手伝いやお礼を言い付けられたのだろうが、そんな目で見られても困る。扉についた蹴り後の清掃も考えたが、別についていたところでなにか思うこともない。多少、蹴りつけた奴に憤りはあるが。

 

 水桶を持ち出し、残った水を全て扉にぶっかける。これからまた家を空けるなら、水を残しておいても悪くなるだけだしこれで清掃完了ということにしよう。

 

 水桶を元に戻そうとすると、フードを深く被り尻尾を隠した何時もの姿にクーラは戻っていた。部屋内にランザの荷物はない。徒歩で旅をする者の荷物は、何時も最低限だ。

 

 「それじゃ、街から出るまで荷物でも持とうか?」

 

 旅道具や彫刻は全部背中のカバンにおさまっている。それなりの大きさがある為、クーラに持たせて良いものか。しっかり持てて歩いたとしても、小さな子供に荷物を押しつけてついてこさせるのは些か抵抗がある。

 

 まあそれでも言うならばと、玄関近くに立てかけていた棒を手に取り、クーラに渡す。多少の長さはあるし、先端を金属で補強しているがそのほとんどは木製だ。ちょっと持ち方を工夫すれば、クーラに負担を与えることはないだろう。

 

 大したことのない手伝いに、クーラは不承不承ではあるようだが言っても仕方ない。だってなんも思いつかん。

 

 家の扉を施錠し、鍵をしまう。モスコーを出てリスムまで行ったら、取りあえず商人に品を卸す。金銭については商業組合を通して、サグレの個人預かりに振り込まれる。本人に直接金銭を渡す訳ではないため、詐欺を働こうとする輩もいるかもしれないが、そうなればサグレはもうその商人相手に商品を卸さないだろう。長期的に見れば損害は大きくなるため、義理人情より金勘定が好きな者だからこそ、そこは安心しても良い筈だ。

 

 あとは、サグレとの仲介役の引退を伝え後の注文に対する仕組みを相談して、自分が行う必要がある一連の流れは終了。その後は、さてどうしようか。

 

 今まではリスムを中心に活動をし、帝国や連合国に偶に行きつつ折を見てモスコーに戻るような生活を続けていたが、今後はモスコーに戻る頻度は減らしても良い。

 

 戻ったところで、サグレとは会い辛くなった。昨日は傷心で二度と会わないなんてことも考えたが、冷静になれば知人として顔をだすことくらいはしても良いだろう。だが、我ながら女々しいことだがしばらくは時間をおいて、傷を癒す必要がある。

 

 いっそ、帝都の観光地巡りでもしてみようか。各地にある冒険者ギルドを利用すれば、微々たるものだが日銭を稼ぎながらフラフラと名所巡りくらいはできるかもしれない。

 

 モスコーにいると、古びた古城も街並みも見慣れたもので感慨は薄いが、観光客はそれを喜んでいる。ならば、自分も各地の名所に辿り着けばそれなりに感動できるものかもしれない。それは多分、傷心を癒すにもちょうどいい筈だ。

 

 まずは帝都北西ある、湯が湧き出る雪山でも目指してみようか。そういうものがあると、リスムで聞いたことがある。

 

 「ねえ、ベレーザ」

 

 「あ…おお。なんだ?」

 

 「なにかあったの?こんなに静かなんて、珍しい。嫌なことでもあった?」

 

 考えながら歩いていたら、それなりの距離無言で来てしまったらしい。ランザ達とモスコーに辿り着くまでの間や、サグレの家に案内するまでの間かなり長いこと話し込んでいたので、クーラには奇妙に思えたのかもしれない。

 

 「なんでもないって言ったら?」

 

 「悪いけど、女の勘って想像以上に鋭いよ。男は理屈で考え、女は感情で考えるって誰かが言ってたけど…それが本当かどうかは別としてね。それでも、この手の読みあいでベレーザが勝てる要素は薄いんじゃない?」

 

 「おお…言ってくれるな」

 

 「それで」

 

 クーラが小走りになり前に出る、こちらを見上げなら小首を傾げる姿があどけないが、この女の子が年頃以上の苦労を重ねてきたのは想像に難くない。下手に子供相手にするように適当な返事をするのは失礼だろうか。

 

 失恋の話をほじくり返したくはないものだが、吐き出してスッキリすることもあるかもしれない。こういうのは、酒の席で親しい友人に涙ながらに吐き出すものだが、その機会はかなり後になりそうだ。

 

 「求婚して振られてた」

 

 クーラの表情が、固まる。相手を確認するまでもないのか、誰が対象者なのかは聞かずに歩きながらまた隣に戻る。

 

 「意外だね。仲良さそうに見えたけど」

 

 「男女に友情は存在しないなんて言葉もあるけど、あるらしいぜ。LOVEとLIKEをはき違えた例の典型かな、今回のはな」

 

 俺の代わりに、クーラが大きくため息を吐いた。心情的にこちらに味方をしていくれるつもりなのか、なにか元気付けようとする言葉を探すように表情がコロコロと代わる。名案を思い付いたとばかりに晴れたと思ったら、その案になにか引っかかりがあるのか表情が曇る。

 

 その顔を見ているだけでも楽しいが、注意をしてみればフードが微かに動いていることに気づかないだろう。あそこに獣の耳があることを知っていれば、そんな動物的な動きに愛らしさを感じてしまう。動物と触れ合うことで日々感じる辛さを軽減できるらしいが、そんなことを言えば怒られるだろうな。

 

 「こ、こっちに来る前に彫刻取に行ったと言っていたよね。その時どうだったの?」

 

 元気付ける為の打開策を得る為に、情報を集めたいようだ。だがしかし、渡してやれるものがない。

 

 「家に声かけたが、出なかった。多分出掛けている訳じゃないだろうが」

 

 「ああぅ」

 

 サグレの体質では、曇天の空でも日傘を差さなければ家から出ることすら苦労する。今日も曇りではあるが、昨日より厚い雲は張っていない。確実にとは言えないが外を出歩きはしないだろう。ほとんどの確立で、居留守を使われたことになる。

 

 八方塞がり、といった感じでクーラは硬直してしまった。これは脈無しも致し方ないと、内心で結論づいてしまったか。

 

 「次来た時、気まずいね」

 

 「まあそこはあんまし心配するな、その次はだいぶ先になるだろうからよ」

 

 「え?ベレーザはリスムとモスコーを中心に動いていたんじゃ…」

 

 「所謂傷心旅行って奴に行くかなとね。取り敢えず帝国の北西に湯が出る泉がある雪山地帯があるって聞いたことがあるから、そこを目指そうとかなとなぁ。クーラやランザは行ったことあるかい?」

 

 クーラの表情がますます曇る。帝国の版図はこの大陸において凄まじく広大だ。徒歩でそんな帝国の北西にある雪山地帯に向かうとなれば、それこそどれくらいかかるか分からない。それも、路銀を稼ぎながら、寄り道をしつつののんびりした旅になる為少なく見積もっても半年以上はかかるだろうか。

 

 クーラは立ち止まり、ベレーザの服の裾を掴んだ。歩こうとして振り払えないものではないが、それでも有無を言わせない迫力はある。

 

 「それ、サグレには話した?」

 

 「彫刻を受け取ったさい話そうとしたが、出てくれなかったからな。まあそれならそれで踏ん切りが」

 

 「ダメだよ」

 

 首を左右に振ってこちらの手を掴み、方向転換させる。身体が向く先は、当然サグレの家がある方向。

 

 「見知らぬ土地に出向くなら、道中なにがあっても不思議じゃない。それこそ生きてモスコーに帰れないかもしれない。それなのに、こんなお別れの仕方なんて自分が許さないよ」

 

 「でも出てくれるかどうか」

 

 「扉くらいこじ開けてあげるよ、ランザに後で怒られようとね。これが自分が考えたお礼、拒否権はないものとするよ。それにしても、ランザもベレーザも、男ってみんな勝手なんだから。なんでも自己完結しちゃってさ」

 

 「あーそれはまあ、自己完結ってところには異議を挟めないが」

 

 ランザが、おそらくクーラの了解をとらずに里親や土地に根付く行き先を探している。さして深く相談した訳ではないのは、丸わかりだ。それと一緒くたにされても、文句は言えないというやつか。

 

 それでも、と思う。クーラにワンクッション挟んでもらえるなら、お互い感情的にも感傷的にもならず事務的に連絡事項を伝えられるだろうか。正直言えば、あの時点で扉を開けてもらえなくてどこかホッとした自分もいたのは確かだ。

 

 長く離れることや、後のことをサグレを名指しで彫刻を仕入れてくれる商人にお願いすること。一人で話していたら、きっとどこかで感情が漏れて上手いこといかないであろう予想はついた。

 

 子供の前で、これ以上かっこ悪いところを見せたくないという矜持くらいはある。幾分かは、冷静に話し合いができる筈だ。例えそこで塩対応されたとしても、取りあえず涙くらいは節約できるだろう。

 

 「自分は、ベレーザの味方だよ。あの時、ベレーザが自分とランザの味方をしてくれたみたいにね。サグレには悪いけど、ベレーザの側に立ってあげる」

 

 「かなわねぇなぁまったく。んじゃ、よろしく頼むぜクーラ。ほんと、お前とランザに会えて良かったよ」

 

 サグレの家までそれなりに距離があるところまで来てしまったが、引き返して歩きだす。その足取りは、彫刻を取りに行った時と比べ驚くほど軽かった。



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11

 遺書の代筆。既に書き示した物を改めて聞きながら再度書き直すだけかと考えていたが、会話相手がいるせいか心境に変化があったのか、内容は最初に用意されてあったものに比べ増大していた。それに書き直しまで加われば、想定以上に時間がかかった。サグレの髪には金色への変色が多くなり、いつの間にか口から八重歯のようなものが見え隠れしている。

 

 時間がかかった。それじたいに文句はないが、精神的な疲弊がデカイ。少しでも長くいるとやはり情もその分湧くもので、変異していく様子を見てやはり、殺しておかなければならないと思うが、酷な話だと首を振りたくなる。

 

 だが、遺書は書き上げることはできた。ベレーザはもう既にモスコーにはいないが、郵便で彼の宅へ届けるようにすれば何時かは目につくだろう。

 

 「手順を確認する」

 

 散弾銃の銃身を折り、弾丸の装弾状況を確認。吸血鬼相手にまともな銃弾は致命傷にはならないが、自ずと巨体化することの多い人妖を相手にする際、面での破壊力とストッピングパワーのある散弾は効果的だった。人と大して大きさの変わらない吸血鬼相手であるならば、殺せなくても身体の一部を吹き飛ばし脚を留める威力はある。

 

 「時間は、俺の体内時計で恐縮だが、そちらの希望で三分間猶予をとることにする。それを過ぎたり、少しでもこちらに対して加虐、或いは逃亡の気配があり次第こいつで動きを留めて、予備の銀製ナイフで俺がトドメを刺す。問題はないか」

 

 受け取った、銀製のナイフを見せる。よく磨かれており、切れ味も良い。人の皮膚くらいは容易に引き裂けそうである。吸血鬼は常識外れの生命力と再生を繰り返すタフさを持っているが、身体が岩のように固い等といった話は聞いたことはない。致命傷かどうかは別として、少なくとも、並みの人体同様に傷はつく。

 

 動きを止めたら、狙いは頭部か心臓。このどちらを狙うことになるかは、状況によるだろう。

 

 「大丈夫だよ。それと…」

 

 ベッドに腰掛けるサグレの視界がチラリと動く。テーブルに乗せられた指輪を見てから、小さくため息をつきこちらを見た。ベレーザに処分を任されたが、サグレはどう思うだろうか。

 

 「指輪か」

 

 「うん、まあね。色々考えたけど、その便箋に入れておこうかなと思う。やっぱり、断ったからにはちゃんと持ち主に返さなきゃね」

 

 「墓に共に入れることもできるが」

 

 「墓ね。そこまでアフターケアをしてくれるつもりかい?でも良いよ、ただでさえ死体を担いで墓地や山まで歩いたら、どんな深夜でも万が一人目につくことがある。ランザが殺人者で指名手配なんてされたら、目も当てられないじゃないか、ベレーザにいらない誤解も与えるよ。それにこれは、クーラちゃんには内緒の筈だ。墓穴掘りなんて見られたら、言い訳一つできやしない」

 

 墓穴くらいは用意してやるつもりだったが、サグレは肩をすくめ断る。あくまで、盲目の女性がただ自殺した事件として全てを終わらせようとしているのだろう。ここに俺がいるのは、あくまでも保険の為だ。

 

 「分かった、それなら…銃身を戻すぞ」

 

 弾丸を装填した銃身を、元に戻す。それが三分という猶予の合図だ。

 

 盲目ではあるが、瞼を強く閉じている。これまでの様々な走馬灯が頭をよぎるっているのだろうが、酷く落ち着いた顔をしていた。

 

 その顔に銃口を向ける。それだけの行為でも、やはり気持ちの良いものではない。だがしかし、体内時計だけは出来る限り正確にカウントする。それはサグレに対する、最大限の敬意だ。覚悟には、覚悟で応じる。

 

 二分が経過した。目を開いたサグレは、ナイフの刀身を少し指でなぞった。指先から煙があがり軽い火傷のように赤く変色し、小さな煙があがっている。効果の再確認をしたのか、それに満足したように頷き刀身を喉に向けた。

 

 二分半、サグレの手が震えていた。だがもう少し待てる。深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせているように見える。まだ、引き金を引くのは待て。

 

 十秒後、意を決したようにナイフを握る手に力が込められた瞬間、外から二つの怒声。鍵が閉められた正面扉を、鞘に入れられたままのショートソードと尖端が金属で覆われた棒が叩きつけられ、扉より先にお世辞にも頑丈とは言い難そうな、スライドをしてロックをするタイプの木製の留め金が破壊された。

 

 「「サグレ!」」

 

 二つの声に、驚いたかのようにサグレの動きは止まった。銃口をサグレに向けながら、ベレーザと視線が交わる。

 

 「お前等、どうしてここに」

 

 「っ!」

 

 疑問の言葉に応じるより、ナイフを自分に向けるサグレと、その彼女に銃口を向けるランザ。その異常事態に、ベレーザの判断は早い。何故こんなことをしていると問答をするよりも素早く身体が前進。

 

 銃口をサグレから外し、額の前に銃身を持っていき盾にする。顔面の殴打により昏倒を狙ったか、見切った訳ではないが咄嗟の読みあいに勝ち銃身の金属パーツで棒術の一撃を裁く。

 

 「なにをしているんだお前ぇええええええ!」

 

 なにをしているもなにも、言い訳のしようもない程の自殺幇助。正直にそれを言えばどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。サグレの身体も限界近い、出血がでないように無力化しなくては動揺したサグレは何時までもナイフを首に突き刺さない。

 

 選択としては、絞め技。間合いに入り棒術の得意な長さを潰し、格闘により制圧後絞め技に移行する。そこまで頭で構築したが、素早い切り替えしによる連続攻撃が間合いを詰めるのを許さない。散弾銃を盾にしながらなんとか防ぐのみで精一杯であり、狭い室内が側面からの回り込みを封じている。

 

 「退けえええええ!」

 

 地の利は向こうにあるうえに、散弾銃は扱えない。ジークリンデ等もっての他だ。だがそれ以上に、気迫。出来うる限りギリギリまでサグレを殺せなかったランザのそれを、全力でサグレを害する者から護ろうとするベレーザの圧は比べるまでもなかった。

 

 呆気にとられているクーラ。自殺をしようとしているサグレに、何故か散弾銃を向けるランザ。そして全て今のベレーザとランザの戦闘に理解が追い付いていない。

 

 だがしかし、クーラの視線は再度サグレを見た際に事情を大方把握したのか目が険しくなる。

 

 祭りの最終日に、人ではないなにかに変異しているように見えるサグレは、ガスパルの言動とも一致する。人妖、あるいはそれ以上のなにかとんでもないものにサグレは変わっていっている。

 

 殺しに情は必要ない。ショートソードを引き抜き、オロオロするサグレに向けて構える。後で後悔に蝕まれようと、吐き気をおこそうと、悪夢にうなされようと、殺す瞬間だけは無表情、無感情に務める。

 

 百パーセント感情を遮断できる訳ではないが、割り切りという感情がクーラの中には大きく占めている。それは諦めとも言い換えることができた。サグレはなにかに変わろうとしており、ランザはそのサグレを殺害しようとしていた。ならば、ベレーザには悪いがその時点で優先順位は上書きされる。

 

 変異を食い止める為、サグレを討つ!

 

 「よせクーラァ!」

 

 ランザの叫び声も、今は無視。取り敢えず首を落とせば、だいたいの生物は死ぬ。

 

 盲目の女性を相手にした殺害等、背後から対象の首を落とすのとさして変わりはない。しかし、振られたショートソードがサグレの首筋に届くことはなかった。

 

 クーラの尻尾から、まるで淡い炎のようにぼんやりとした白色の尾が、腕に絡まる。そのまま身体全体を巻きつけサグレへの攻撃を中断させ床に落下した。目の前の事象に、一番反応を見せるたのはランザだった。

 

 あの尻尾、あれは間違いなく。

 

 戦闘から思考が離れたせいで、隙が産まれる。肝臓、腹部、胸元へ流れるような三連突きが繰り出され仰け反る。その隙にテーブルを飛び越えベレーザがサグレの元に辿り着く。手に持つナイフを弾き、棒を放り出しサグレの肩を掴んだ。

 

 「なにを、お前なにやってるんだ!なんなんだこの状況は!」

 

 「あ…ベレーザ、私」

 

 「ふっざけんなお前!俺を振ってもまでやりたかったのはこんなことか!それとも死ぬように脅されたのか!?どうなんだサグレェ!」

 

 サグレの肩を掴み、ベレーザは激しく揺さぶる。引き離すべきか、説得するべきか。相応のダメージを負った身体を立て直そうとテーブルに手をつかんだ瞬間。腰に違和感。確かめるまでもない。

 

 「やめろジークリンデ!」

 

 静止の言葉も聞かず、細い刃が剣から変異をし伸びていく。刃が、ベレーザの肩を背後から斬り裂く。

 

 「ツァッ!」

 

 傷は深くないが、ベレーザは少し仰け反った。刃が振るわれた勢いで血が飛び散り、サグレの頬にかかる。その瞬間、ランザとクーラは目撃した。サグレの顔から、怯えや恐怖といったものが抜け落ち、人らしい感情が抜き落ちた仮面のような顔になるのを。

 

 そしてそれは歓喜へと、変わる。初達した八重歯がベレーザの首筋に襲い掛かり、噛みつく。牙で開けた血から流れ出る血液を、サグレは音を立てながら、下品といった形容ができる程激しくすする。

 

 髪の色素は凄まじい勢いで金色に染まり、元々不健康な肌の色は益々色素が抜けるように透明な白へと微かな変化が見えた。なにより、気配、圧が増してきている。一秒時間が経つごとに、生物として格が上の存在へと変異をしているような。

 

 だがしかし、そこで怯む訳にはいかない。余計なことをしてくれたジークリンデも、床に転がるクーラも今は無視し散弾銃を向けながら突進。

 

 中途半端な位置からでは、散弾によりベレーザにも確実に銃弾が当たってしまう。吸血に夢中のサグレの額に銃口を押し当て、接射。子気味の良い火薬の炸裂音と共に散らばる鉛玉が、サグレの頭蓋と脳髄を破壊し背後の壁やベッドに散乱させた。

 

 身体をのけぞらすサグレの胴体に大雑把に銃口を構え射撃、胸元を狙うつもりだったが胸よりも下の腹部に命中。内臓を散らしながら大穴を開けサグレをベッドに縫い付ける。預かった銀のナイフを、胸に刺そうとしたがサグレの表情には微笑み。

 

 悪寒、身体にブレーキをかけ後ろに飛ぶ。その直後サグレの蹴り上げた足裏が腹部に当たり、背後に吹き飛ぶ。背中から壁に激突、ルーガルーのように分かりやすい変異でないのにかか関わらず、細足の癖にアレと顕色のないパワーが身体を吹き飛ばした。

 

 サグレは身体を起こし、軽く払う。頭蓋と腹部に穴が開いているのにみるみるうちに治癒されていく様子は、もはや人間のそれではない。余裕な笑みを浮かべていたが、腹部に違和感。治りかけの腹に空いた穴には、小さな火花つきの子袋が肉片に引っかかっていた。

 

 散弾銃を握っていた、右腕をあげてやる。蹴り飛ばされると感じた瞬間、後ろに飛ぶ前に弾丸を放ち終えた散弾銃を手放し小物入れから火薬袋を取り出し着火。置き土産として置いてきた。

 

 超速再生により、腹部の中に小袋があっという間に取り込まれる。再生が吸血鬼の専売特許だと思ったら大間違いだ。大なり小なり、人妖には標準搭載されている能力である。

 

 対テン用に考えていた策の一つ。不用意に接近したがる性質を利用し、散弾銃で身体に大穴を開けた後そこに爆発物をねじ込み離脱をする。それでは殺せないかもしれないが、最低限嫌がらせにはなるだろうと考案したものだ。ルーガルー戦後には使いそびれた策であるが、同等の治癒能力を持つであろう吸血鬼には効果的であった。サグレの盲目が、吸血鬼になっても治ってないように見えるのも大きい。双眼の瞼は、未だに閉じたままである。

 

 火薬が、ほんの小さな鉄片をまき散らしながらサグレの腹部で爆発。あの鉄片が銀製ならこれで決着はついただろうが、生憎ながらそんな便利な準備まではしていない。あらゆる状況を見込んで準備をすればと後悔する。これも詰めの甘さか。

 

 だがしかし、流石に腹部の中での爆発は堪えたようであり、サグレは小さな悲鳴をあげながらよろつき、背後の壁に力任せにぶつかり破壊をして蝙蝠の翼を生やして逃亡。起き上がり追おうにも、想像以上の痛みに瞬時に起き上がれず喉からせりあがってきた血を吐き出す。

 

 散弾銃を拾い上げ、外を覗く。しかしそらを飛んだサグレの姿は、寝室側。工房と隣家に囲まれた狭い庭からではどちらに飛んで行ったのか目で追うことすら不可能であった。

 

 ベレーザの呻き声。意識が朦朧としており、サグレの名前をか細く呼んでいる。サグレ追跡は諦めベレーザを抱える。首筋にベッドのシーツを押し付け緊急的に止血。携帯用の医療品から消毒の瓶を取り出し乱暴にふりかける。

 

 「ランザ」

 

 クーラの声が聞こえ、立ち上がるような音も響いたが手をだして静止。

 

 「クーラ!テンと会ったのか!?何時だ!どこで出会った!」

 

 「え…あ」

 

 「狐の耳と尻尾を生やしたふざけた服着た雌狐の人妖だ!正直に話せ、お前はどこで!」

 

 振り向くと、クーラは頭を抱えていた。酷く頭痛するのか顔を大きく苦痛に歪めながら、両手で髪の毛をかきむしっている。

 

 「狐…テン。分からない、思い出せない。会った?どこで…」

 

 「クソォ!」

 

 重ねて、迂闊だった。クーラには落ち着いた地で平和に過ごしてほしいと思い、人妖を狩ることは話しても明確な旅の目的、標的であるテンという存在については話していなかった。だが考えてみれば、意味不明な理由で家族を殺した奴が、赤の他人とはいえ旅路に同行するクーラに手をださないと何故言い切れる。

 

 相手は、赤ん坊さえ殺す殺人鬼なのにだ!

 

 弱々しい呻きに冷静さが多少は戻る。あの吸血でだいぶ血を吸われたのか、ベレーザの身体が冷え肌が青ざめている。これはまずい、問答をしている暇はない。

 

 「クーラ!動けるならありったけ湯を沸かせ!暖炉に薪を大量にくべ部屋全体も温めろ!急げ!」

 

 吸血中に散弾銃で頭部を吹き飛ばしたせいで、牙が食い込んでいた肌はナイフで裂かれる傷口が広がっていた。血を大量に失っている。この街に医者がどこにいるのか分からない以上、ここでベレーザを放ってサグレを追えば確実にベレーザは死ぬ。

 

 「あ…はい!」

 

 湯ができるまで出血を止めることが肝心だ。本当は熱湯で茹でて、針を消毒したいがそんな悠長なことは言っていられない。医療バックから針を取り出す。照明台の上で揺らめく炎に炙り急ごしらえの消毒を行ってから、糸を取り出し針に通す。

 

 本職ではないでやや雑にはなるが、急いでこの傷口を塞がないと血液が足りなくなり死亡する。自分自身で縫合したことはあるので、その時のことを思い出しながら針を通す。

 

 それなりの時間が経過しただろうか、ようやく縫合を終える。用意したお湯に乱暴に布地を押し込み、煮込む。雑ではあるがこれで消毒をすませた後、軽く冷まして包帯と重ねて傷口を覆う。本当は乾くまで待った方が良いのかもしれないが、生憎とその時間は残されていない。

 

 「ランザ、サグレは」

 

 「お前はベレーザを見ていろ」

 

 散弾銃に装弾。腰のホルスターに戻す。クーラの言葉を聞く余裕も、今はない。

 

 「自分もっ!」

 

 「大人しくしていろと言っているんだ!」

 

 クーラの中には、テンによりなにかが埋め込まれている。こんな子供にまで、なにを仕込んだ。

 

 異形と化したサグレ、死にかけているベレーザ、蝕まれたクーラ。なにもかもが自分の注意不足、油断、見落とし、詰めの甘さ、そして情けなさだ。壁に拳を叩きつける。こうなったら、全力でサグレ追い仕留めてやるしかない。

 

 異形と化したサグレに、善意の類は期待できない。人妖と化した者は、生前の価値観がズルリと負の方向へ引きずり込まれる。それは抗いようもないものなのであろう。美しい歌声で船を惑わせて座礁させ、船員の生き胆を貪る歌鳥の元になった存在は、歌が好きだが自分の声が嫌いであった。

 

 ただその声を好きだというただ一人に、歌を聞かせることだけが生き甲斐であったが、様々な不幸により不特定多数をおびき寄せて惑わせる歌声として多数の命を奪うのに利用された。

 

 吸血鬼化が、本質的には人から人外へと成り代わる根本が同様のものだとしたら、サグレはその力をモスコーの者達に向けるのになんら躊躇いはないだろう。

 

 テンになにかをされた、クーラは監視の意味で傍においても良いかもしれない。だがしかし、それ以上になにがおこるか分からない爆弾を抱えたクーラを近くに戦闘をするのはデメリットの方が大きく感じる。

 

 デメリットといえば、連結刃、ジークリンデの存在もそうであるが。残念ながら体術と散弾銃だけで吸血鬼を抑えらえるかと言われれば自信はもてない。技術は膂力に打ち勝つ為にあるものだが、圧倒的な力を前にして自身の技術が通用するかと言われれば不安しかない。

 

 結局は、人外には化物。こいつの力に頼らざるえない。

 

 「クーラ、説教も謝罪も説明も今は全て後回しだ。それに本当のことを言えば、俺もお前に偉そうになにかを言える資格なんてない。サグレはガスパルが示した、人外だ。俺はそれを追い討つ。ただそれだけの話だ」

 

 「でも自分だって、ランザの仲間で」

 

 「仲間?半獣が人間の仲間だなんて言えるか!物珍しさに連れて歩いたがもうごめんだ!これきりにししろ!」

 

 机の上、使えるかどうかは分からないが放置された物品を握り扉を蹴り開け、家から飛び出る。クーラの反応は、確認はしない。酷く傷ついた顔をしているかもしれない、心に根深い亀裂を与えたかもしれない。だがしかし、それでも、テンを狙い狙われ、化物どもと延々と殺しあうこの傍らに立たせ続けるよりはいい。サグレを殺す手伝いをさせるよりはよほど良い。

 

 後悔や心を痛めている暇はない、まずはサグレを探し炙り出す為の人手がいる。初日に、情報収集がてら場所を確認しておいた冒険者ギルドには、有象無象とはいえ常にある程度人数がいる為頭数はそろっている。ギルド長に訳を説明して緊急事態宣言をだして動員すれば、少なくとも町民避難やサグレ捜索の人手として使えるだろう。

 

 地元の警察、もしくは治安維持隊、警備隊は駄目だ。この祭りの警護や酔客の喧嘩のような細々とした厄介ごとの解決に向け散っているだろうし、なによりも余所者が吸血鬼、化物が出たと騒ぎ立てても門前払いにされるのがオチだ。

 

 お役所仕事、門前払いにされかねないという意味では冒険者ギルドも同じだが、余所者の集まりであるギルドは地元の連中よりは多少は聞く耳持ってもらえるだろう。

 

 段差を何段か飛び降り下方へ。通路の曲がり角を勢いをつけて曲がり、どこでも目にする看板を見つけ飛び込む。

 

 叫ぼうとする前に、血臭。冒険者ギルドが、職員やギルド登録の者達は既に鈍い刃を持つ凄まじい暴風に巻き込まれたかのように、死体が散乱していた。

 

 そしてその死体を貪る人の姿。半数近くの生気ない顔をした者達が、転がる死体を貪っている。

 

 ここに来ることをいの一番に予想したのか、サグレは一足早くギルドを襲撃していたようであった。やられた、と考えたがそれよりも凄まじい絶望が襲い掛かる。

 

 食人鬼。吸血鬼伝説は、こんなところまで正確なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目は見えないが、五感の全てが研ぎ澄まされて感じる。杖が無くても、今まで入ったことのない通りでも、どこになにがあるかはまるで住み慣れた自宅のように分かる。

 

 腹部の違和感はそれなりに続いたものの、今は対外に排出されそれに悩まされることももうない。

 

 「フン」

 

 曇天の元、日傘はない為忌々しい太陽が身体を痛めつけるが、この程度なら自動でおこる再生が傷つく端から癒していく。

 

 ステップ。身体をクルリと回し大きく跳ねる。着地先に障害物はなく、華麗に地に足をつける。

 

 「フン♪フフン♪」

 

 狭い路地に翼を降りたたみ床に足をつけた。ゴミ捨て場や汚らしい木箱、空き瓶の類がそこかしろに転がっているが、それにかすりもせずにサグレは跳ね、舞い、踊る。

 

 ダンスを習ったことのないその動きはとても精錬されたものではないが、輝かしい程の金髪と人並み外れた美貌があいまりそれは、名声を得た舞台女優の演目であるような踊りだった。

 

 「フフ♪アハハハハ♪」

 

 濃厚な血の味、世界が祝福してくれるような高揚感。サグレは踊る、踊りながら進む。そして狭い路地から出た先は、比較的大きめな通り。ごろつきと変わらないような連中がたむろする、地域住民は近づかない冒険者ギルドの建物が目の前にあった。

 

 お世辞にもお行儀のよくない余所者がたむろする冒険者ギルドがある一角は、モスコーに住む住民からは人気がない。それを逆手にとり、冒険者ギルドの運営は近くの建物のを買い取り直営の宿に変えており、リスムでも帝都でも似たような手法がとられていると聞いたことがある。

 

 ならばここは、それなりに頑強な男女が集う場だ。実験には丁度いい。

 

 先程は少し失敗した。興奮のあまりベレーザを吸い殺すところだった。頭を吹き飛ばし冷静さを取り戻させてくれたランザさんには感謝しなきゃ。お礼にベレーザと同じく、私の物にしてあげようかな。

 

 そのためにも、まずはこの能力を試さなければならない。彫刻もそうだが、何事も初めては力加減が肝心だ。ここは練習するにはもってこいだ。

 

 ギルドの扉を開けると、安酒を煽りながらつまみを食べるギルド員達がいっせいに見てくる。それはそうだ、血塗れでボロボロになった服を来た女性が入れば嫌でも目に付くだろう。

 

 「なんだァその姿、乱暴でもされたかぁ?」

 

 遠慮のない男の声が近づく。

 

 「助けでも求めに来たかぁ生憎だがここに正義の味方はいねぇ、出すもんだすかその身体で支払いをしてもらわにゃ」

 

 男の首筋に飛び掛かり、押し倒す。酔った男はそのまま床に押し倒され、周囲からは下衆な笑いが巻き起こる。

 

 お嬢ちゃんやるなぁ、情熱的ぃ、などといった声が飛び交い誰も危機を感じていない。男の首筋に牙をたてる。

 

 しばらく飲んで、違和感。まっずい。飲み物としてなんとか体をなしているだけで、褒められた味じゃない。

 

 これで実験する気は、おきないな。口を離し、自分の腕に浮き出る血菅を食いちぎり血を流す。下の男は、まだほんの少し飲んだだけなので、ピンピンとしていた。

 

 「なんだお前、気がちがってんのか!?退け!」

 

 起き上がろうとした男の四肢と首が切断される。両腕から流れる血は意思に従い鋭い血刃となり、鮮魚を裁くように男を裁断した。

 

 突然おきた殺人に、周囲が言葉を失う。少しした後、賢明な者がライフルを構え発砲した。ライフル弾は首筋を貫くが、死なない。更に血が流れ、空気中に新たな刃として精製される。

 

 「死なねぇだと…」

 

 ライフル銃を構えた冒険者が呟いた。

 

 翼を生やし羽ばたきながら飛び掛かり、銃を持つ男を背後から抱きしめる。先程よりは臭くないし、貴方で試してあげようかしら。

 

 首筋に牙を突き立て、吸い上げる。急激に萎れる身体に、血刃が刺しこまれ直接輸血を開始する。吸い込む血と送り込まれる血が循環され、ライフルを持つ冒険者は悲鳴をあげた。

 

 「人のツレに…離れなさいよ!」

 

 双剣が背中に襲い掛かる。男ごとそれを回避し、離してあげる。

 

 身体を激しく痙攣させる男は、眼の焦点が合っていなく諤々と激しく痙攣させていた。その異常な状態に、双剣の女がすがりつき肩を揺さぶる。

 

 「ねえ!どうしたの!?しっかりして、ねっ…え?」

 

 跳ね上がるように起き上がった男は、女の首筋に噛り付いた。成功かと、閉じた瞼の裏側で目を輝かせたが、すぐに獣のような唸り声と肉を貪るような音が響き期待は落胆に代わる。これは、調整を間違えた。上手くすれば、こんなケダモノじみた存在にはならない筈なのに。

 

 まあ上手くいったらいったで殺すけど、『眷属』はそんなに沢山いらない。

 

 「ば…化物だぁ!」

 

 武器を抜く者、逃げ出そうとする者、隠れる者。辺りの気配は騒然となったが、気になるのは味の良し悪し。さっきよりは美味しかったけど、同じ血なのに個体差で味が違うのかな?

 

 銃声が響き渡り、身体のあちこちに穴が開く。まあ、考えるのは後だ。モルモット達に逃げられる前に、実験と練習を終えてしまおう。

 

 サグレは、微笑みを浮かべ両手を大きく広げた。

 



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12

 リスムの地下迷宮をはじめ、各地には魔獣猛獣、魑魅魍魎が巣くう忘都と呼ばれる古代遺跡が点在している。

 

 冒険者ギルドに入る仕事で、唯一世間で語られる冒険者らしいものは、現在ではこの失われし過去の遺跡たる忘都を探索し、宝物や貴金属、なにより遺物を掘り出すことと言われている。まあ実際は各国の正式な発掘隊が侵入する前の露払いや様子見の捨て駒、情報の持ち帰りくらいなのが関の山である活躍なのであるが。

 

 そんな忘都における最大の掘り出し物が遺物。現在の魔工学問ではいまだ解明しきれない魔術の触媒が掘り出されることがある。

 

 遺物の発掘はかなり珍しく、興味がない人物でも新たな遺物が見つかれば耳に届く程である。記憶に新しいのは、リスム地下迷宮にて長年探索団や冒険者を苦しめていた屍霊術士を名乗る、人外に片足突っ込んだとある人物が装備していた品物が禁忌指定の遺物としてリスム自治政府預かり封印処理を施された。

 

 とある冒険者が、偶然にも生き延び遺物を手に入れ、地下迷宮の一角を溢れ返る動く死体で占拠し、高値の賞金首がついていた。殺された賞金首と殺した人物の話はさておき、問題となったのはこの封印指定された遺物だ。

 

 形状の詳細については公開されていないが、屍を自在に操るその触媒に制御された動く死体は、過去の伝承になぞらえ食屍鬼と便宜的に名付けられた。

 

 その過去の伝承とは、神や悪魔や竜が、徐々に歴史という枠組みではなく、伝承や伝説として語られ始めようとした時代。そんな時代に君臨しようとした死者の王という異名をほしいままにした吸血鬼が率いた使い捨ての雑兵集団。それが本来の名称でいうところの食屍鬼だ。

 

 動きは獣並みで統率は今一つとれず、知能は低い。だが抜きんでた耐久力と知能の低さを逆手にとった恐れなしの猛進、そして噛まれて死んだ者は同じ食屍鬼になるという、人にとっては最大級の恐怖で猛威を振るった。

 

 子供を怖がらせる昔話、物語を盛り上げる為の伝説。古い話には圧制者とその部下をいかにも人外、魔王と称してそれを倒した者達を勇者と祭り上げる風習があった。暴君や圧制者、恐怖政治の数だけ魔王がおり、それを打倒した反乱軍や異国の将軍こそが勇者と祭り上げられる話は山のようにあり各地に根付き、その何れもが誇張されたものだ。

 

 この夜の王とそれに率いられた眷属、そして雑兵である食屍鬼の話もその一つとみなす歴史研究家もいるが、残念なことに少なくとも食屍鬼については本物だと認めざるえないだろう。

 

 向かってくる男女の食屍鬼に散弾銃を向ける。二つの発砲音が響き、女性の頭を吹き飛ばし男の首を引きちぎり、その頭部を床に転がした。

 

 伝承では頭を切り離せば動きは止まるというが、どうだ。

 

 排莢をし新たな弾丸を詰めながら観察、二体の死体はしばらく頭脳無しで前進した後、痙攣しながら倒れ伏した。本当に、伝説というのも馬鹿にはできないものだ。こんなことなら、掲げる大盾にも届けられているだろう、紛い物であっても地下に出没した食屍鬼の情報にも目を通しておくべきだったか。有効な対処法は、多く知り得てこそだ。

 

 銃声に反応し、店内の至る所から人肉を貪っていた食屍鬼が起き上がる。生気のない顔をしている。

 

 カウンターの奥からギルド職員が飛び掛かる。動く屍という特徴に反して素早いのは、死にたてのせいか?いずれにせよ、あの歯に噛まれたら恐らく連中の仲間入り。丁寧に迎撃をしていく必要がある。

 

 飛び掛かるギルド職員の頭部に銃撃。吹き飛ぶ胴体の下を素早くくぐり反対側から噛みつこうと迫る禿頭の男を回避。這いながら足に牙を向けて来る男の背中を踏みつけ、後頭部に向け射撃。

 

 場を移し丸テーブルの上に飛び乗り、更に跳躍する。着地点にいた食屍鬼の額を蹴り倒す。倒れた相手の頭部にストンピングで潰しつつ弾丸を詰めなおす。店の奥川、壁付近まで到着しギルド内をグルリと改めて見直す。

 

 少なくとも見えている範囲で動く死体は七体ほど。動かないまま倒れている死体もあるが、何時動き出すかも分からない為脅威認定しておく。つまりは多勢に無勢。

 

 左の階段からなにかが動く気配。二階から飛び掛かる食屍鬼の顔面を蹴りで押し返し、追撃の銃撃で沈黙させる。二階もやはり、もう無理だろう。ここにいる食屍鬼を殲滅するべきか否か。サグレは既にここにはいない、新たなところで食屍鬼を量産している可能性が高い。だがしかしこいつらを放置すればそれはそれで悪性腫瘍のように街全体に被害と汚染が広がる。

 

 振り向き、木窓を討ち抜く。結論は、殲滅。だがしかし、この建物内で前後左右から襲い来る食屍鬼を回避しつつ仕留めるのは骨が折れる。

 

 ここは一度外に出窓からから、知能の低さと獲物に対して猪突猛進な性質を利用して一体一体片をつけることにする。窓から出ようと顔を出すが、背後から飛び掛かる気配を感じて身をかがめる。

 

 その刹那、ランザの顔があった部分にライフル弾が通過、背後から襲い掛かろうとしていた食屍鬼が代わりに弾丸を受け額から上が貫かれた。

 

 「援護射撃じゃ…ないな」

 

 ライフル弾による狙撃。力を手に入れたばかりの、吸血鬼の仕業ではない。悪意ある人為的な行為。人に怨みを抱かれる覚えはあるが、こんな土壇場で狙い撃ちしてくるなんてどこのイカレだ。

 

 迂闊に外に出れなくなる。ギルドの入口がゆっくり開き、付近の建物にでもいたのか追加の食屍鬼が侵入してくる。サグレどころではなくなった。まずは、脱出口が監視されているこの場を、生きて出られるかどうかだ。

 

 窓から離れ二階を目指す、階下から食屍鬼が迫ってきていた。二階からも新たなうめき声、階段の手すりを乗り越え顔を下によだれを垂らしながら飛び込んで来る。肩を狙い噛みつこうとする落下する食屍鬼の顔面に薙ぎ払うように振るわれた散弾銃の銃身がめり込み、骨が砕ける音が響き顔面を陥没させる。首の骨が曲がり、階段の段差に垂直のまま落下する。

 

 突き刺さるように落ちた食屍鬼の足首を掴み持ち上げ、階下に向け蹴り飛ばし下から迫る脅威に牽制する。それと同時、何故かその胴体にライフルの弾丸が直撃。木窓の位置からは、階段までは水平。壁を貫通し食屍鬼の側面に弾丸が命中するならばともか、どういう絡繰りか背中から弾丸はのめり込み食屍鬼を貫通した。

 

 長距離を飛び、さらに障害物を挟んだせいか、弾丸は直進性を失ったように足元に着弾。まっすぐ飛んでいたら、間に食屍鬼が挟まらなかったら命中したのは俺の心臓だった。

 

 迫る食屍鬼に、奇怪に曲がった弾丸。不気味な現象に、歯噛みする。状況は、悪くなる一方だ。

 

 

 

 

 

 余計なことをした。クーラは、歯噛みする。

 

 状況が分からない故に、ベレーザの為を思い伝えた言葉が全て裏返り最悪の竹箆返しとなり状況を悪化させる。

 

 サグレの変貌、重症のベレーザ、そして焦燥したランザ。ランザのあの言葉は本心ではないとは思う、しかし想像以上にそれは心を抉り、物理的な痛みとなって心中を渦巻いていた。

 

 全ては、自分のせいだ。情けなくみっともない、今すぐにでも首をくくってしまいたい衝動にすらかられる。

 

 心が、折れそうになる。力なくベレーザを寝かせたサグレのベッドに項垂れていると、背後からなにかの気配。

 

 「ひにゃっ!」

 

 振り向いたそこには、青白く揺らめく狐の尾。それが頭部に襲い掛かり獣耳に突き入れられ頭にザラザラとした感触を与えてくる。気持ち悪いのに、気持ち良い。相反する二つの感覚が頭を中心に全身を覆い、意味の分からない刺激に身体が痙攣した。

 

 『なにをサボっているのですか?』

 

 脳内に声が、響く。これは、この感覚は…思い出した。

 

 テン、ランザが追い続ける、決して語ってくれなかった不俱戴天の仇。占い小屋の、この国にはない他国の奇妙な装束を身にまとう狐耳の女。その女に身体、頭を弄ばれ執拗な、まるで調教とでも言うような洗脳をしてきた相手。

 

 「お前なんだ!クソ…自分の中から、出ていけ!」

 

 『ふふ、それは出来ませんね。色々言いたいことはあるでしょうが、まずはお父様のことです。クーラ、外を見なさい』

 

 これがお父様と呼称する存在。恐らくはランザのことか?身体が軽くなり、まるで操作されているように跳ねあがる。慌てて外に出て、街を一望できる場所から下を覗く。

 

 『そこから少し顎を左へ。酒屋の看板が見えるでしょう?そう、三回建てのデカイ建物です。そこの窓から、ライフル銃を持つ女が見える筈です。見覚えはありませんか?』

 

 「ある。あれは…」

 

 こんな辺境都市で、まだ帝都の一部しか出回っていないオーデン技術連合の最新式ライフルを持つのは、一人しかいない。レントの取り巻きにして腰巾着、今は何故かこんなところにいるが帝都の大物議員を父に持つ差別主義者の塊のような女。カリナ=イコライがなにかに狙いを定めていた。

 

 「カリナ、いったいなにをして」

 

 『彼女は、冒険者ギルドにいるお父様を暗殺しようとしています。雑兵が下らない横槍を挟むものです』

 

 カリナが、ランザを狙う。かつての自分がそうしたように、カリナはレントの命令でランザの暗殺を目論んでいるということか?

 

 怒りが、湧いてくる。例えもう、完膚なきまでに嫌われているとしても、ランザを殺すことだけは許さない!

 

 『あれは、貴女に任せますよクーラ。お父様のお役に立ちなさい。期待していますよ』

 

 耳に突き入れられた尻尾が消え。身体が大きく揺れて膝をつく。石でできた柵に手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。ランザを殺そうとするものは、絶対に許さない。例え、かつて同じ相手に従い付き添っていたカリナでも。

 

 と言いつつ、カリナとは水と油だった。ランザを狙ったことで万死に値するが、それでも殺すのに気を病む必要もなさそうだ。

 

 跳躍し、柵から飛び降り屋根の上に着地。酒屋に近づくに連れ片目を閉じたカリナの顔が徐々に露になる。

 

 彼女の戦闘は、土壇場では別行動をとり連携したことは一度もないため分からない。だがしかし、加護を持つとしたらそのライフル銃に関係するなにかだろうと予想はつく。

 

 新たな弾丸を装填するカリナの瞳が動く。こちらに向け直進する半獣を見つけ、カリナの顔は意地が悪い、ニタリとした笑みを浮かべた。

 

 不規則に屋根の上を飛び交い、狙いをつけさせないように飛び移る。カリナの目が見開いた。腰から煙袋を取り出し、足元に投げる。煙の中に身を隠してから敢えて、その場に立ち止まりバックジャンプ。

 

 煙幕の向こう側で、ライフル銃を射撃した音が響いたが、煙幕の壁のせいでまず当たることはない。装弾の間近づこうと足に力を入れた瞬間、頬に痛み。

 

 弾丸が右頬の肉を抉り流血が後ろに飛ぶ。まぐれ当たりか卓越した射撃センスか。かすめたくらいの傷の為経戦能力に支障はないが、煙玉一つ使ってこれとは運がない。

 

 一度路地に降りて酒屋を目指す。建物を利用し複雑な路地を縫うように進めばカリナからは死角となり、多少時間はかかるが安全に目的地を目指すことができる。本当は近道をしてでもたどり着きたいが、急がば回れ。カリナの加護が分からない以上、先程の命中をまぐれかセンスかで判断することも危険に思える。

 

 先程考えた二つの理由で弾丸が命中したなら、対策も立てられるが、加護によるなんらかの効果が表れていたとしたら、下手な小細工は意味をなさない可能性がある。

 

 銃声。ランザに再度狙いをつけたのか、それともなんらかの意図があり一見無意味な射撃をしたのか。疑問を晴らすため上を見上げると、一発のライフル弾が空中で静止していた。重力や推力に抗い停止する弾丸。疑問符を浮かべるところであったが、刹那、驚愕。

 

 空中に静止した弾丸が、直角に曲がり獲物を見つけた猛禽のように襲い来る。すぐその場を飛びのくと、先程自分がいた場所で弾丸が急停止、生物のように弾丸がこちらを向いた。悪寒がし、ショートソードを抜いて停止していた弾丸に叩きつける。切断はされなかったが、叩かれた虫のように弾丸は地面に落下した。

 

 「誘導…弾?」

 

 言っておいて、脳裏ではありえないと呟いた。自分に与えられた加護、テイムは修行を積んだ魔物使いの能力を簡易化し、薄く広くではあるが即戦力としてその場にいる生物を短期的に支配し役立てる物であった。一方本職は、最大の数体の魔物や魔獣に類する存在を長い間調教して手足にする。

 

 多少方向性は違うが、本職と自分の加護は似たような兄弟じみた能力だ。だが、弾丸を意のままに操り死角にいる対象すら追尾する加護は、能力と言うには些か異常である。

 

 だが、なにか違和感。誘導弾で煙玉の効果範囲にいた自分に攻撃が当たる。それ自体はおかしくはないが、負傷具合がどこか中途半端だ。なぶりものにするつもりで敢えて重症を負わせなかった?これも違う気がする。敵は、なにかを情報にして自動ではなく手動で弾丸を操っている?

 

 疑問は浮かびはするものの、大まかには加護が理解できたのは良しとする…が、これはまずい。攻撃射程の意味では完全に負けているのは最初から理解しているが、追いかけて来る弾丸となるとこの距離の脅威が跳ね上がる。こちらの加護が残っていればなにかしら対応はできるが、現状少し身のこなしが上手い半獣でしかない。

 

 だがしかし、ここで自分が隠れてしまえばランザにあの弾丸が襲い掛かる。それは、避けなければならない。

 

 壁を蹴り上げ再度屋根の上に昇る。弾丸を装填したカリナはこちらに銃身を向けにやついていた。フードを外し、奴の嫌う半獣の耳をあらわにさせる。親指をたて数回自身の頭に突き立て、小首をかしげ、舌をだす。

 

 プライドが高く沸点が低い、これだけの行動でカリナ注意は完全にこちらに引きつけられた。なにやら罵声をあげるように口を動かしてから、弾丸を放とうとトリガーに指をかける。挑発をして注意をこちらに向けたからには、少しでも安全に距離を詰める為に出し惜しみはしない。

 

 煙玉は数に限りがあるが、数個まめて進行方向に投擲。弾丸が放たれてると同時に煙の中へ。

 

 煙から煙に飛び移ると見せかけ、民家二階の木窓に身体を滑り入れる。足裏で窓を破砕し二階の寝室と思われるスペースを直進、風切り音のようなものを耳が感知する。振り向きながら飛んで額を護るようにショートソードを掲げる。

 

 金属音が響き弾丸が剣の腹に突き刺さる。挑発するように頭部を指し示せば、そこを狙ってくる。冷静さを欠いてさえくれれば、ある程度の弾丸軌道における予測はたてられる。

 

 だがしかし、今のような方法は恐らく一度しか使えないだろう。馬鹿正直に何度も頭狙いなら良いが、対策を立てられると知れば執拗にそこを狙うことはしない筈だ。

 

 向こうは狙撃手、獲物に近づかれるのはなによりも嫌がる。次は攻め方を変えてくるかもしれない。こちらもなにか近づく為の方策を考えなければ。

 

 反対側の木窓を突き破り跳躍、隣にあった建物の木窓を蹴り破って中に着地。建物の中、二階部分は進行方向の壁は窓がなく、一階から階段で繋がった吹き抜きぬけのロフトのような構造になっていた。後に改装したのか吹き抜け部には薄いベニヤ板が敷き詰められており、下の階は暗い。なにかの倉庫のようだがどうやら窓も扉も締め切っているらしく一階全体が暗闇に包まれている。

 

 階段手すりやテーブルを見ると覚書が幾つか貼られており、モスコー近くで採掘された鉱石の出荷先が書かれていた。なんらかの特殊な原料の保管場所、太陽の光を可能な限り遮断しているのは、光を当てることで品質の変化してしまうからだろうか。

 

 一階に向け階段を飛び降りた直後、悲鳴。どこかで見た覚えがある顔が慌てたように建物の扉を開け中に入り、閂をかけて倉庫を封鎖し、扉に背を預けズルズルと座り込む。

 

 暗闇の中入ってきた男と目が合ったような気がした。猫の目を持つこちらと違い、暗闇に順応するまで多分ほとんど見えていないだろうが、慌てて耳を隠す。男は、荒い息のままなにか言おうとしていたが上手く口が回らないのか言葉にならない言葉を発していた。

 

 そういえばどこかで見たと思ったが、思い出す。この男は、初日にサグレの家に行く途中で見た炎水晶や照明台に魔術具を使い炎を操り灯を灯していた魔道技師だ。手にはめたグローブに見覚えがあった。

 

 荒い息の男がこちらに手を伸ばす。腰が抜けたから起こしてほしいのだろうか。少し迷った後、引き起こそうとした瞬間、風切り音が耳元を通過した。

 

 高速回転した弾丸が男の口内に突き刺さり、突き抜け、壁に突き刺さる。瞬時に身をかがめる。九死に一生といったところだが、再度疑問。何故ライフル弾は、自分ではなく男を貫いた。お互い暗がりにいたことが、関係しているのか?

 

 もしかしたら…

 

 男の遺体を見て、策をひらめく。いろいろ不安はあるが、こうなればぶっつけ本番だ。

 

 仮説が正しく策が浮かんだとしても、とにもかくにも酒屋に近づかなければならない。

 

 策の為に亡骸に触れ、グローブの形をした魔術具を拝借する。これが炎に関連する技能を扱える物品であるというのは承知済みだ。目を瞑り小さく借りていくと呟いた後、少しサイズの違うそれを腕に嵌めて閂を開け外に出る。

 

 酒屋に近づくに連れ、街のあちこちから射撃音や怒号、騒ぎの音が大きくなってきた。サグレを逃したことでなにか大きな異変が起き始めている。

 

 少し広い通りに出ると、逃げ惑う人々に火がついた屋台と散乱する果物や商品、泣く子供、そして生気のない死者のような群れが闊歩し人々に襲い掛かる地獄絵図が待ち構えていた。倒れた人を、生気のない者が、貪り喰らっている。

 

 レントが言っていた、リスム地下迷宮にいたという食屍鬼という亡者の特徴に似ている気がする。もっとも、こちらはその時別行動をしレントに言い付けられた任務をこなしていた為、伝聞に聞いただけなのだが。

 

 これを、サグレが?怯みそうになるが意を決して逃げ惑う人混みの中にスライディングをし忍び込む。姿を隠し肉を壁にする人の盾。自分を追う弾丸が誰かに命中するかもしれないが、そうなったら許してほしい。普段半獣相手に差別をする者達であるため、罪悪感も半減だが。

 

 人混みに上手く紛れながら、酒屋付近まで近づく。路地を抜け、施錠された扉に向かい爆薬袋を取り出し投げつける。

 

 自分も様々な小道具を使ったが、ランザは主にこういった着火をし投げつけるタイプの子袋を多用している。サグレの腹部を弾き飛ばした爆弾袋は、数は少ないが一個前に持たせてもらったものだ。

 

 小規模な爆発の為、木製の扉でも一発での破壊は不可能だ。だが多少はボロボロになったようであり、そこに身体全体で体当たりをして店内に押し入…れないっ!

 

 「バリケード!?」

 

 カリナがそうしたのか、少しだけ開いた入口から覗く隙間には棚が横倒しになっていた。完全に足を止めてしま。恐らく今の爆発音でカリナも異常を察しただろう。

 

 飛び上がり壁を蹴りつけ、二階の窓から店内に飛び込もうとした瞬間、銃声。弾丸が足を捕え、二階に転がり込みながら着地ができず足から鮮血が飛び散る。

 

 「グッ…うぅ」

 

 弾丸が、左足を貫通していた。鮮血が流れ落ちる。急いで服の一部を食いちぎり足をキツく縛り上げる。止血のつもりだが、ジワリと血が浮かび上がる。これはどれだけ意味というか効果があるかは分からない。

 

 二階は事務室のようであり、テーブルや書類、棚にはいくつかの酒瓶と応接用の長椅子等が置いてあり、開け放たれた窓から明かりが差し込んでいる。

 

 ここでは策には不十分。敵は上にいるが、痛む足を引きずりながら静かに、しかし可能な限り急いで階段を駆け下りる。狙撃手のおひざ元に来たならば、すぐに襲撃が来ると思い向こうは待ち構えているだろう。その逆をつき、敵から離れていく。射程を重視したであろう形状をしたあのライフル銃は連射が効かない。待ち伏せして一撃で仕留めるつもりだろうが、気が変わるまでに理想的な場所を確保しなければならない。

 

 一階に降りると、通路になっていた。スタッフルームや販売所に続いているようである。扉の一つに、地下貯蔵庫と書かれた木板が貼ってある扉を見つける。静かに手をかけ開けると、階段と暗闇が続いていた。思わずニヤリと笑いながら、暗闇の中に向け階段を降りていく。

 

 「おい、狐…どうせ自分の中にいるんだろう?」

 

 白色の尻尾が、伸びる。この暗がりでは、この淡い光を放つ尻尾は目立つと思ったが、何時にもまして半透明。多少は空気を読んでくれたか。

 

 「作戦がある、お前の『お父様』の為に手を貸せ。内容は頭に聞けよ、どうせできるんだろう?」

 

 尻尾が伸び、脳内に再度ザラザラした感覚が走る。数秒してから、それが引き抜かれた。

 

 『ま、良いんじゃないですか?失敗しても、たかだか貴女が死ぬだけですから。お父様の役に立てない駄猫の最後には、丁度いいかと』

 

 「なら」

 

 作戦開始だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カリナは、扉に銃口を向け何時迫るかも分からないクーラに備えていた。

 

 あの半獣の機動力は殺した。自分が相手の立場ならこれ以上飛んだり跳ねたりが無理ならば、外からではなく階段を使い直接ここを叩きに来るだろうと警戒。だがしかし、半獣は二階に留まったままこちらに来る気配はない。

 

 怪我が痛くて動けないなんていう、可愛げのある存在ではないのは理解している。半獣のしぶとさはそれこそゴキブリ並みだ。身体能力、とりわけ身のこなしについては認めざるえない。

 

 だがしかし、大空を飛行する鳥すら追いすがり撃ち落とす弾丸操縦の加護、追視弾。弾丸に意識を乗せ飛行させ、勢いがなくなるまで追いかけるこれなら殺せる。

 

 だが、当初の目論見からは外れ、絶対命中というあだ名まで持つ名称の加護を受けながら、未だランザもクーラも仕留めていないことに腹が立つ。名前負けとはこのことだ。

 

 煙幕やその他小細工もあり、弾丸の動きじたいが高速なだけあってギリギリの操作まで利かず、視界がぶれて何度も仕留めそこなった。呼吸音で追いすがる術の、練習が必要だ。暗がりにいたさいは、つい呼吸音が大きく聞こえる方に飛び込んでしまい関係ない下民の頭が破裂した。

 

 レントは、どうしても外せない用事があると帝都に向かった。帝都といえば、あたしの実家もあるお父様のおひざ元。当然ついていこうとしたら、ランザとかいうあの男の監視を押し付けられた。

 

 どうしても知っておきたいとこがあると頭を深く下げられたら、従わない訳にはいかないが、こんな田舎の祭りでは埋まらない程苛立ちによる心の穴は消えない。

 

 なにが監視だ。ランザ=ランテさえいなければレントと帝都まで楽しくおしゃべりしながら迎えたというのに。他の女達も今は申し付けられた仕事がある為各地に散っていおり、文字通りお邪魔虫はあの半獣のみだった。

 

 その半獣はあろうことかレントに意見をし怒鳴り付けた男についた。そしてレントは、自分から離してでも重要な駒であるあたしをランザの監視に割り振った。

 

 もとはといえば、あの半獣がランザの始末にしくじらなければ、それも裏切らなければこんな役目は背負わずにすむというのに。

 

 こんな仕事、あたしの役目ではない。レントの傍にいてこそ、あたしの仕事が果たせるのだ。だからこそ、この場でランザとクーラをこの騒ぎに乗じて消して監視という役目じたいを消滅させる。なにがおこっているのかは分からないが、この混乱ならばいくらでも死因は偽装できるしそもそも余所者の死体、調べようとする者もいないだろう。

 

 だからまずは、汚らわしい裏切者。半獣の人間もどき。お前が標的だよクーラ。

 

 来ないなら、こちらから行く。弾丸を射撃。扉の隙間を抜けて弾丸が階段を降りるように二階へ飛び込み、部屋の中央で時間が停止したように静止。

 

 弾丸に意識を乗せ対象を追い詰める。誘導の種明かしは視力、それが使えない状況ならば呼吸音。不思議なことに生物がだす呼吸の音は聞こえても、会話やその他は雑音はいっさい拾えない。しかし息をしない生物はほぼ存在しない。吐息の音のみで標的を追いかけることができる。

 

 二階に呼吸の音は聞こえないが、微かな血の跡が下へと降りる階段へ続いている。破れて汚れた布地の破片、慌てて止血をしたようだがどうやら不十分のようである。

 

 これではどこに行ったか等丸わかりだ。獲物を追いかけるハンターの気分で階段を降り、血の跡をたぐる。血痕はさらに地下、暗闇へと続く扉が開け放たれたままの貯蔵庫に続いていた。闇の中に隠れやり過ごすつもりだろうが馬鹿なことを、こちらは視力のみで追跡をしている訳ではない。

 

 勢い良く地下に飛び込んだ弾丸が再度停止。地下は暗く静寂に満ちているようであるが、よくよく耳を澄ませてみると、微かに、ほんの微かに苦し気な呼吸音が聞こえた。そちらの方向に注意を向けると、暗闇に浮かび上がるシルエット。さあ見つけた。空中で固定された弾丸が人影に向けられる。

 

 その胸元に飛び込もうとした瞬間、シルエットの足元で小さな炎の光が灯る。

 

 上着を脱いで座り込み、目を瞑る半獣が、火がついた魔術具ごしになにか袋を握りしめていた。

 

 それを認識した瞬間、世界に焼け付くような光が溢れだした。



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13

 追尾する弾丸の絡繰り、それは恐らく目視による手動の操作。または心音、あるいは呼吸音。

 

 追尾する弾丸はまるで視力がついたように、或いはその音を聞き分けるように攻撃をしてきた。

 

 煙の中では呼吸音を狙い、街中や家の中では視界による追尾、物置小屋では荒い呼吸の魔道技師に弾丸は飛び込んで行った。加護の特性を推測するには、充分だ。

 

 ここまで強力な力を持っていながら、足一本と頬をかすめたことのみという詰めの甘さは逆に不気味であったが、考えられる理由としたら練度不足。

 

 自分の加護のテイムもそうであったが、ただ使うだけでも強力な力ではあるのだが思考錯誤や繰り返し扱うことで使役対象の拡大や使役数を増やすことが可能になった。ならば、カリナはどうであろうか。

 

 彼女の主な役割は、帝都における親族の権力を利用したレントの為の根回しが主だった。そしてカリナがレントの信者になった頃には、彼女よりも強力な戦闘職が何名か取り巻きにいたため、仲間として加護を与えたにしても使う機会があまりなかったのだろう。

 

 暗殺に利用するという使い方はできるが、奇襲からの殺人が主となる殺し方では試行錯誤の幅が狭くなるし、なにより暗殺とは本番よりも事前の情報収集や行動パターンの分析、対象の思考を考えたり暗殺後の事後処理と殺しじたいよりも前準備や後始末の方が大変だ。そしてその手の役目は、自分の仕事だった。ますますカリナには、実戦で加護に対する知識を深めることはない。

 

 少し疑問なのは、帝都の根回しが主な仕事の人物がモスコーにいるということ。彼女の存在はさして重要ではなくなったということか。レントは、カリナを利用した根回しでいったい帝都でなにをしていたのだろうか。思考停止をして、命令服従を恩返しに動いていた自分は彼がなにを最終目標にしていたのかは知らない。

 

 だが、今はどうでも良い。

 

 足から布越しに血が滲むのが分かる。階段を昇りながら、最上階を目指して足を引きずりながら進んでいく。

 

 首筋には新しい絞められたような痣、手には未だ炎が弱々しく灯る魔術具のグローブから小さな炎水晶の欠片がぽろぽろと零れ落ちた。

 

 視界で敵を探しているなら、暗闇の中に入り込み、呼吸音で敵を見つけるならば、自身の呼吸を最低限の音量まで絞めてしまえば良い。

 

 上着を棒きれやガラクタを組み合わせた適当な大きさの人型に被せ、自分はその足元で姿勢を低くする。普通に呼吸をしていれば、座り込んだ自分の居場所はバレる為、忌々しい狐の尾っぽに首を絞めてもらい微かな呼吸音を漏らすに留める。そうすれば、練度の足りないカリナは大まかな居場所しか特定できないと踏んだ。

 

 大まかな位置を特定し視線を向ければ、暗闇の中に浮かび上がる人型のシルエット。そこに飛び込んで来るタイミングを見計らい、近距離で見れば目が焼けるとベレーザが忠告していた炎水晶に火を入れる。

 

 聞き込みで大量に購入していた一番安値の炎水晶でも、ジャラジャラと音が鳴るまで買い込めば即席の閃光爆弾となり暗順応した視界を潰して焼くには充分すぎるほどの効果を生んだ。こちらは、猫の目だ、暗闇の視界は昼間と変わらない。着火の瞬間、眼を瞑れば良いだけだ。

 

 三階の扉の前まで訪れ、扉を押し開く。扉の外からでも聞こえていたが、眼球を強い光で焼かれ叫び声をあげてうずくまるカリナの姿がそこにあった。

 

 負傷していない足で、腹部を蹴り上げる。胃液と血を嘔吐しながら転げまわるカリナに、ショートソードを抜いて利き腕である右腕を貫ぬき、床に縫い付ける。反撃の芽は、先に潰しておかなければならない。元仲間とかの躊躇はない、自分等はお互い相手のことが大嫌いだからだ。

 

 「やあ、カリナ。散々苦労させられたよまったく」

 

 痛みで叫び声をあげるカリナの返事は特にはなかった。そんな叫び声を聞いたら、外の動く死体みたいな化物が集まってくるんじゃないかな。まあ一階は閉鎖してあるから、そう簡単には入って来れないだろうけど。

 

 「治療してほしい?」

 

 「あたり…まえでしょう!この私にこんな真似してただですむとっ!」

 

 「そんなどこでも聞くような言葉はいらないよ。なんで、ランザを狙ったのかな?それを答えてくれれば、止血くらいはしてあげるけど」

 

 喚き声には付き合わない、だがこれ以上過剰な暴力は行わない。生殺与奪を餌にした取引のみを相手に与えて、追い込みすぎないように動く、過剰な拷問からの情報は、その信憑性が非常に怪しい。相手次第や状況次第であるが、痛みに慣れていないお嬢様育ちにはこれで充分だ。

 

 「レント様がそれを許すことは…」

 

 「じゃあレント様に助けてもらいな。自分はトドメも刺さない、外の化物達が血の臭いを嗅ぎつけ集まり、一階の扉が破られるまでゆっくり助けを待てば良い。やったね、君は助かる…来ればだけど」

 

 恐らくレントにとってカリナは既に役割を終えた、居れば多少は役に立つかもしれないが、いなくても支障はない程度の駒だろう。さて、別行動をとっているレントが英雄同様助けに来てくれるかどうかだが、自分は助けに来ない方に賭ける。

 

 奴隷解放というパフォーマンスに対して、丁度良く虐げられた半獣奴隷という旨味がある存在。それが多少暗殺の役に立ってくれただけの駒。お互い使い捨ての対象と推測できるからこそ、賭けの対象にするとしたら全力でそちらに有り金つぎ込むことができるというものだ。

 

 「……暇だし、そろそろ避難しようかな。むっつり黙り込むお前を見るのも飽きてきたよ」

 

 「待て!いや待って…待ってください!話します、話しますからこのまま置いていかないで!治療して連れて行ってください!お願いします!」

 

 治療の他に、安全地帯までの護衛まで勘定に入れてきた。ちゃっかりしているというか、ある意味強かというか、呆れたもんだね。目が焼かれ視力が死んでいるなら、自身安全を保障することと引き換えならば当然の要求ではあるかもしれないが。

 

 「レント様は…ランザ=ランテに注目している。お前が裏切った代わりに、監視をして情報を集めてくれと言われた」

 

 「理由は?」

 

 「分からない。そもそも、ひと悶着あったにしてもあんな一個人をわざわざ見張る必要性なんてない。理由も聞いていないのよ…いや、です」

 

 こればかりは責められない。自分も、何故対象を暗殺する必要があるのかというのを考えたことはなかった。正確には、一度は考えたが考えることを放棄した。思考停止、命令服従。過去の自分をぶん殴りたくなるが、恐らくこの女もそれと同じなのだろう。カリナがどんなきっかけで、レントに酔ったのかは分からない。命を救われるくらいのことは、あったのだろう。

 

 「監視をしていた相手を殺そうとした理由は?」

 

 「この騒ぎに乗じて死んでしまったことにすれば、その話だけを持ってすぐにレント様の元に戻ることができるからです。本当に、それだけのことなんですっ!信じてください…腕が…痛いの、早く治療を」

 

 「ついでに裏切者の自分を殺せば万々歳、世は事も無しか。まあ、もう聞くこともないかな」

 

 カリナとは元から犬猿、自分を殺す機会があれば理由はいらないのは分かる。ランザは、あの事件のせいかレントに目をつけられた。暗殺はカリナの暴走であるが、何故レントはランザの情報を集めようとしているのか。ひょっとしたら、自分の仲間に入れようとしているのだろうか。いや、あの女しか囲わないような男が一度は口論までした相手を引き入れようとするだろうか。

 

 疑問はあるが、なんにせよもう聞くことはなさそうだ。治療を求めるカリナは、ほっと安心したような顔をする。何故そんな顔ができるのかなぁ。

 

 ショートソードを傷口から引き抜いてカリナの首筋を掴み、無理矢理立たせる。再度蹴りを腹部に喰らわせ、後ろによろつかせる。

 

 突然のことに、動揺するカリナ。その後ろには、先程まで狙撃を行っていた窓があった。姿勢を崩し、背中から地面に落ちそうになるところだったが、咄嗟に窓枠に無事な手を掴み落下を防ぐ。

 

 窓下、正面入口付近には動く死体が集まっていた。このまま落ちれば、まあ助からないだろう。

 

 必死に戻ろうとするカリナの腹部に靴裏をあて、ショートソードで木枠を掴む指に添える。

 

 「なんで!助けるって、治療するって言ったのに!」

 

 「馬鹿。ランザを狙ったお前を許す訳ないじゃん。いや、そもそもお前のことは殺してやりたいくらい大嫌いだった。お前もそれは同じだろう?偶々、レントという重い石があったからお互い行動に移らないだけだ」

 

 「そう、それでも殺し合いはしなかった!レントが怒るから…私を殺したら、レントが許さない!ランザもろともお前は死ぬことになる!」

 

 「それはおかしいな、カリナ=イコライは偶々モスコーの観光に来ていて、騒動に巻き込まれ、動く死体に激しく暴行を受けて死んだ。ランザや自分になんの関係がある?」

 

 足に力を込めていく。

 

 初めての暗殺を、思い出す。いや忘れることすら困難だ。カリナ=イコライの父の政敵。その暗殺。

 

 表向きのパフォーマンスだっただけかもしれないが、彼は博愛主義者であり差別撤廃に向け動き、半獣という存在にもなんとか最低限の権利や福祉を与えようとしている動きもあった。そんな相手を、自分は暗殺した。

 

 本来ならばレントの掲げる正義の理想と共に歩ける人材を暗殺するという矛盾を内心疑問に思いながら、半獣の為にまで動こうとしていた相手の暗殺。そして政敵を無くした、カリナの父親の躍進により帝都内ではさらに民族至上主義が増えた気がする。

 

 確かにカリナの父親は、世論に乗る形で奴隷解放と人身売買撤廃を帝都内で進めていたが、その不満のはけ口を半獣等にすり替えガス抜きをすることを同時に進めていた。

 

 そのことに気づき、吐いた。レントは必要な犠牲だったといい、今の半獣差別もなんとかする準備はあると囁いた。当時はその言葉を救いにしたが、今はもうなにも信じられない。

 

 ここでカリナを殺せば、少しでも気は晴れるだろうか。

 

 命乞いの言葉とレントを出汁にした脅しが、ちゃんちゃらおかしい。そもそも差別主義者が、被差別民に情けをかけられるとほんの少しでも思ったのか。そもそも自分本位にランザを殺そうとして、お前を許すと思ったのか。

 

 ランザは、殺したい相手がいる。その相手に向けて一直線に向かっている。その露払いをするのが自分の役目、そしてそこに導くのが『私』の役目なんだ。

 

 「虐げられる立場は、環境が変われば虐げる立場に変わるんだよ。少しでも、半獣に優しく…いや、やっぱりそれでも、殺すか」

 

 「や…あっ…」

 

 窓枠を掴む指を少しづつ斬りこんでいく。一思いに斬り裂いてしまっても良いかもしれないが、そんなことはしない。

 

 「個人的にお前は万死に値する。カリナ、もしかしたら環境や状況次第ではお前を元仲間のよしみで一度は生かす選択肢があったかもしれない。だがもうダメだ、お前が善人でもそれはない。自分はね、ランザに一度壊された。殺されかけてさ、首を絞められてね。

 酸欠で脳がくたばりそうになると、視界が極端に狭くなるんだ。その中で、暗闇に包まれる中で、あの爛々としたイカれた輝きは…もう最高だったんだよ。ああいうのを、昔の伝承では邪眼とかって言うのかな?御伽噺みたいな話だよね。でもあるんだよ、空想を超えたなにかっていうのは。

 そして気づいてしまった、その瞳は本来自分に向けられたものではないく別の誰かに向けられている。ああもう羨ましいよ。あれがもし自分に…なんて思うとさ、こう…ゾクゾクして身体が火照るというか、濡れるというか…フフ、興奮するんだ。

 ああもうお前には理解不能で意味不明だと思うけど全部言っちゃう。実はね、全てを思い出した。狐からのご褒美だ」

 

 カリナは、もう絶句していた。今から殺されようとしているのに、恐怖で顔が引きつっている。命乞いの言葉すらもう出てこない。ただ震えながら、理解不能のなにかを前にしながら怯えていた。

 

 「夢の中でっ!あの目をっ!向けられながらねっ!首を絞めてもらったんだよっ!それも…死ぬまでね!ああもうなんで一時的にでも忘れていたのかな、ランザがこんな自分を…痛めつけ、締め上げて、見つめて睨んで、殺してくれたんだ!あれが何度でも味わえるとしたら…それ以上なにがいる!?

 理解しなくていい、理解しないでほしい!あの鋭利に磨かれた暴力性が刻まれる感覚は、自分だけが知っていれば良い、この権利は誰にも譲りたくないんだよ!……本当はね。でもランザは、それをぶつける相手を決めている、ならばおこぼれをもらっていくしかないのさ。ああ、人格的にも好いているんだ。こんな半獣の為に里親探しや居場所作りまで骨を折ってくれてさ、そこも純粋に好き、大好き。だからお前は許さない、彼の闘争を邪魔するな。消えろ消えろ消えろ消えろ!そこから落ちて、消えてしまえ!」

 

 指を全て斬り落とし、足に力を込め突き落とす。間の抜けた叫び声をあげならカリナは落下。動く死体達はそんな半死半生で這いずり建物から離れようとするカリナに群がり、覆いつくす。

 

 まず二の腕が噛み千切られる。巻いた栗毛が掴まれぶちぶちと髪の毛が引き抜かれながら首が持ち上げられ、頬を齧られる。服が千切れられ白い肌に歯が食い込み、失禁する様子が見えた。落ちた時足から地面についたせいか、両足が変な方向に曲がっている。そんな足も引きちぎられ、大量の出血が石畳みを濡らした。

 

 あれだけ身体を壊されたら、蘇ってもなにもできないだろう。

 

 視線をそらし、壁に寄りかかり座り込む。応急処置しかしていない足を再度治療しなおす。といっても、便利な治療道具なんてないが、至急の止血が必要だ。それと、落ち着く時間がいる。

 

 まだ熱が火照るグローブを傷口に近づける。幸い弾丸は貫通しているようであり、考えるのは止血だけで良い。

 

 「イ゛…ア゛ァ…」

 

 熱した鉄を押し付けたかのような痛み。熱により傷口に熱凝固をおこし、無理矢理出血を止める。焼き印を押された時に似た、懐かしい痛みだ。おそらくこの火傷は、残り続けるだろう。

 

 だがしかし、そんなことはどうでも良い。この騒ぎ、サグレがおこし、ランザはそれを止めに向かっている。サグレの異変は分からないが、ランザは最初からそれを阻止しようと動いていたのだろう。

 

 自分は、それを邪魔してしまった。それを取り返したい、なんて思わないが、せめて彼の盾になりに行くことくらいはできる筈だ。

 

 「よお、随分と苦労しているな」

 

 窓の外から、声。飛びのきショートソードを構えると、見覚えがある男が屋根に立ちこちらを見ていた。

 

 くたびれたコートを着込み、無精ひげを生やしたグレーももじゃ毛。モスコーに訪れた最初の日に出会った中年、ガスパルがそこにいた。

 

 「なんでここに」

 

 「なに、顧客からの依頼を果たすためだ。だが渡しに行くのが面倒くせぇ。落とすなよ?割れ物注意だ」

 

 ガスパルは革袋を投げる。落とすなよと言う割に、随分と雑な扱いだがなんとか落とさずそれをキャッチすることができた。

 

 「ランザに渡せ。奴は今、古城を目指している」

 

 「なんで、分かるの?そもそも顧客って…」

 

 「うるせぇな。俺は可能な限り働きたくないんだ。余計な問答も無しにしてくれ、面倒くせぇ」

 

 ガスパルは窓際から離れ、飛び降りる。カリナに群がっていた幾人かの動く死体が、派手な音を立て飛び降りた対象に狙いをつけ群がり始める。

 

 鼻で笑い、不動の姿勢。だがそのコートの下から、幾本もの鎖が現れる。鋼鉄の鞭が乱舞し、群がる死体の頭部を破壊。まるで台風のように歩く度、鈍器で殴られたように身体の一部が爆ぜ割れ吹き飛んでいく。障害物があっても、無機物有機物問わず吹き飛ばす光景は、まるで小さな災害だ。

 

 あくびをしながら歩くガスパルの視線の先は、この街で一番巨大な建造物。

 

 「竜と狐に憑かれた男と、産まれたての災厄の対戦か。勝率で考えるなら、九割五分で吸血鬼だが」

 

 小さく笑う。それでも、あの男が勝つ可能性があるとしたら。

 

 「いかに非情になれるかだ。竜の理想通りに、狐の思惑通りにな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 先程から、射撃はやんでいた。いや、正確にはなにか別の物を狙っているようだがこちらに向けライフル弾が飛んで来ることはない。

 

 ギルド内の食屍鬼を無力化しつつ、脱出。少なくとも、これで救いを求めてギルド内に避難しようとした住民達が中で噛まれてしまい動く屍を増やすことはなくなった。

 

 ライフル弾は飛んでは来ていないが、正面入口側、二階の木窓から建物を出る。もう各地で悲鳴や銃声、怒号が聞こえる。災禍は街中に浸透していっているようであった。

 

 吸血鬼としての本能に従い、食屍鬼を作っているのか?それとも、血をすする快楽が止められず意図せず食屍鬼を生み出し続けているのか。その両方か。

 

 石畳みに着地をし駆け出す。吸血鬼が本能に従い向かうとしたら、どこに行く。過去の伝承が人妖対策に役に立つと考え調べたことはあるが、いかんせん浅く広くであることは否定できない。こんなことなら、もっと吸血鬼の伝承の理解を深めていけば良かったか。

 

 しばらく街路を走り、交差広場まで歩みを進める。初日に土産としてパインや酒を購入した区画であるが、屋台は崩れ建物は炎上していた。だがしかし、そこはギルドの中のように悲惨ではなかった。

 

 「おお!お前さんは!」

 

 「辺境警備隊の!」

 

 この区画には、リザードマン討伐で協力していた豚鬼達が詰めていた。大盾やガラクタを並べ街路でバリケードを作り、押し寄せて来る食屍鬼達を圧倒的膂力で押し返している。区画の中央には避難民達がおり、街中を空中から観る出し物をしていた、クーラが興味ありそうにチラ見した大鳥使い数名が避難民を街の外に逃がしている。

 

 「よくこの事態に素早く駆け付けられたな。いや、モスコーの祭りに参加していたのか?」

 

 「この区画、西側には娼館街があるでな。娼婦達を逃がすのに吾輩らが奮闘するのは当たり前であろう。幸い、その流れで他の者達にも協力をつけることが成功し、ここで防衛線を築けた。どうやらこのゾンビみたいな連中は一方向から来ないようだしな」

 

 「いや、俺はこの後ろ、冒険者ギルドの方から来たがもう既に食屍鬼で溢れていた。ギルドも全滅している。街中に被害が広がっているし、別の道からもいずれ湧いてくるぞ。ここで籠城戦を続ければ、お前等の退路がなくなるし囲まれる」

 

 「なんとギルドが…協力を求めに行った勇敢な街の者がいたが、それは恐らく…」

 

 辺境警備隊の隊長である、豚鬼は悲痛な顔を浮かべ、そして赤く紅潮していく。義憤に駆られたのだろうか、怒りに唇を震わせた。

 

 「いずれ四方から食屍鬼が押し寄せて来る。ここは路地が多い、バリケードを張るのは良いかもしれないが、いずれ囲まれ押しつぶされるかもしれない。お前達も非難した方がいい」

 

 「だがそれは少なくとも、ここにいる避難民達を逃がしてからだ。魔獣使いの者が頑張ってくれているが…何時までかかるか分からん」

 

 大鳥に乗れるのは、使役する人物を含めて無理して三人乗りといったところ。避難は進んでいるようであるが、それでもまだ十数人ほど市民が取り残されている。警備隊として職務をまっとうするにあたり、残りの避難民達を残してはいけないのだろう。徒歩で、安全地帯まで護衛というのは現状些か異常に危険だ。

 

 「取りあえず、全方位囲むようにバリケードを作ろう。籠城に向かなかろうが時間を稼げば…「東通路だァ!」」

 

 隊長の言葉を遮るように、誰かが声を張り上げた。

 

 東通路の方を見ると、食屍鬼が両手を前に上げ走り寄ってくるのが見えた。まだ、そちらの方向にバリケードは構築していない。

 

 「手すきの者はバリケードを手早くつくれいぃ!辺境警備隊ゴストールの名にかけてこれ以上やらせはせんぞ!」

 

 巨大な双頭斧を手に持ち、隊長は東から来る食屍鬼と対峙する。

 

 「ふぬらあああああああ!」

 

 低く腰だめに構えた斧を振り上げるだけで、三体の食屍鬼が腰から胴体を切断され吹き飛んだ。リザードマンの甲殻をもろともしない力任せの一撃が相手では、元が人間である食屍鬼は散り散りに吹き飛ぶしかない。

 

 だが多勢に無勢。散弾銃を構え前に出る。メイン火力を隊長に補ってもらい、側面から回り込もうとする食屍鬼の頭を散弾で吹き飛ばす。一度は仕事を共にした相手だ、指をくわえて見ていることはできない。

 

 「協力感謝するが、謝礼はだせんぞ!なんせ女遊びで手持ちはすっからかんだ!グハハハハハ!」

 

 「報酬の相談は街の外で、なんて言いたいがこれじゃ金儲けは期待できそうにないな」

 

 軽口に冗談で返答する。危機においてのジョークを言えるのは、心に余裕がある証拠。または、その余裕を無理矢理作り出す手段となる。

 

 本当は、サグレを逃がした時点で報酬謝礼等といったことをいう資格はないのだが、相手の言葉に乗り士気を高める。それは、戦う上で大切なことだ。

 

 普段は一人で戦う為に前に出ることが多いが、強力な前衛がいるとこうもやりやすいものか。ギルド内での戦闘と比べれば、かなりの余裕がある。

 

 「ゴストールの親分!もうすぐバリケードが完成しまさぁ!」

 

 「おおう!ならばもうひと踏ん張り」

 

 敵を蹴散らし、余裕が出たところで隊長は部下の声掛けに反応して振り返った。だがその瞬間、物凄いスピードで詰め寄る男の食屍鬼が懐に入り込み手に持つなにかを突き刺した。

 

 「ぐうおっ」

 

 「こいつ!」

 

 近寄り、散弾銃を鈍器にし縦に振り下ろすが、食屍鬼は手に持つなにかを隊長から引き抜き後ろに飛んだ。

 

 手に持っていたのは、鋭いレイピア。よく見るとそいつは、有象無象の食屍鬼に比べると生気のある肌と綺麗な身体を保ち、その瞳には微かに意思のようなものが見えていた。レイピアを持つ手つきも、理性が失った者や意思を持たない者のそれではない。経験者のように、落ち着き払っている。

 

 なにかが、違う。

 

 散弾銃を構えると、側面に飛び壁に張り付いた。続けて狙いを向けるが更に飛び上がり反対側の建物の中に侵入していく。追う為に建物に入ろうとしたが、その必要はなかった。入口から凄まじい突進速度で迫りくる。迎撃の為引き金を引くと食屍鬼は飛び上がり上からレイピアで脳を貫こうとしてきた。

 

 頭を横にそらしギリギリ回避するが、身体同士がぶつかり互いに床を転がる。急いで立ち上がろうとしたが、それよりも素早く食屍鬼が起き上がり馬乗りになる。鋭い切っ先が腹部を突き刺そうとしたが、散弾銃を挟み込み防御。

 

 弾き返して脳天に狙いをつけ引き金を引くが、射撃前に食屍鬼は後ろに跳ねるように飛び散弾銃を回避した。

 

 「親分!」

 

 「隊長をバリケードの中へ!こいつは俺が止める!」

 

 辺境警備隊の部下達が体調を引きずりバリケードの中に連れていく。散弾銃を装填し、レイピアの食屍鬼を睨みつける。

 

 速いうえに、危機察知能力に優れている。まるで突然変異のようだ。

 

 「バリケードをしめろ!」

 

 「お客人、それは…」

 

 「良いから早くしろ!」

 

 後ろに怒鳴り声を浴びせ、バリケードを積ませる。なるべくなら使いたくはないのが本音だが、時間がない。

 

 『ああ、良いぜ。ちょっと物足りねえが遊んでやるよ』

 

 ジークリンデの声。腰の剣を掴み振るうと、現れるのは連結した刃。

 

 鞭のようにしなる刃が、二回三回と振るわれる。卓越した視力と運動能力で刃の奔流を回避するが、想定内。地面を滑るような刃を飛び上がり回避するが、着地地点を渦巻く刃の群れが選ばせない。

 

 着地をする直前、発砲。両足の太腿が吹き飛び、下腹部から上のみになった身体が前のめりに倒れる、両腕で這いながらこちらにゴキブリの如く這い寄る食屍鬼の頭から下腹部を、振るわれた刃が両断。脳から胴体を二つに割ることで、ようやく動きを止めた。

 

 『玩具作りの練習作品如きにてこずるなよ相棒』

 

 どこか不満そうなジークリンデの声。

 

 「練習作品?」

 

 『気づいていねえのか?こいつは、眷属作りの実験作だよ。そもそも吸血鬼は最初の始祖と呼ばれる連中から枝分かれしてい増えていった。血液感染か、線虫の類か粘菌か、たたでさえレアな吸血鬼の中でもさらに極レアな住血吸虫由来か。まあどんな種類の連中でも似通う特性を持ってやがる。その一つが眷属作りだ。だが調整は難しい、眷属作りの失敗作が食屍鬼の始まりよ』

 

 楽し気に語るジークリンデの刃は、付着した血を吸収した。まるで味わうかのような喉の音までが頭の中に響く。

 

 『だいぶ完成には近づいているな。眷属の肉や血は、熟成されたワインのように甘美なんだぜ。これはまだ熟成手前だが、それなりの味に仕上げてきてやがるよ』

 

 こうならないように、覚悟を決めていたサグレの顔が脳裏に浮かぶ。分かってはいたが、他人を能力の実験台にするほど向こう側に思考を引きずられてしまっているのか。

 

 『サグレを止めてぇか?お前の身体能力じゃ無理だよ、無理無理』

 

 「知るか」

 

 刃を地面に叩きつけ、ただの剣に戻す。バリケードをよじ登り内部に入り、負傷した隊長の様子を尋ねようと近寄る。

 

 「傷は大丈夫そうか」

 

 「あんな小枝みたいな剣、どうってことあるか!…ぐおおお」

 

 包帯を巻かれた身体を抑え起き上がろうとしたが、痛みで悶え、部下が慌てて起き上がるのを留める。大柄な豚鬼の種族でさらにもう一回り巨体なこの身体では、ここから動かして安全地帯に運ぶのは厳しいだろう。大鳥三羽なら運べるかもしれないが、あまり期待はできない。

 

 「元凶を止める」

 

 「元凶?そんな存在が…居場所にあてにはあるのか?」

 

 「いや…ない。街中を虱潰しに探すしか…」

 

 「ならば、空から探したらどうだ」

 

 大鳥を従えた男が歩み寄る。確かに上から探せれば、地上を走り回るより効率は良いだろう。

 

 「避難は?」

 

 「だいたい終わらせた。後は弟子二人に任せていいだろう。元凶、心当たりがあるなら協力させてくれ。モスコーの祭りは安全に稼げる良い機会だったのにそれを滅茶苦茶にした奴がいるなら、是非とも俺もぶん殴りにいかたいからな。兄ちゃん、騒動の大本にいる奴の面が分かるなら、兄ちゃんに協力するのが一番効率が良い」

 

 提案に、頷く。すぐに男は白い大鳥を伏せさせ、その背中にある鞍に跨った。その後ろにある客席に座り込む。

 

 「安全帯を締めてくれ。落下防止の為だ」

 

 革ひもでできた安全帯を締め、準備を終える。飛び上がる直前辺境警備隊の隊長、ゴストールと目が合う。親指を立てながら、腕をあげる。それに頷き返してから、大鳥は飛びあがった。サグレを止めなければ、ゴストールや辺境警備隊の連中まで命を落とす。

 

 これ以上の被害を出す訳には、いかない。

 

 『古城だ。吸血鬼は、本能的にカビたところが好きだからな』

 

 ジークリンデの囁き。妙に協力的なところが不気味だが、男に行き先を伝える。まずは、街の上の方から見ていきたいと、自ずと行き先は、街で一番高いところにある古城になる。

 

 サグレを、必ず止める。



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14

 石畳みを叩く下駄の音。騒動のおこる街中を、一人の女は進む。

 

 逃げ惑う民衆や食屍鬼は、まるで女が目に入らないといった様子であった。誰もが近づかず、まるで海を割る預言者のように堂々と混沌とした街中を闊歩する。

 

 だが、そんな女の前に立つ男が一人現れた。血塗れの鎖を蛇のように宙に浮かせ、返り血一つないくたびれたコートを纏う男が前に立った。

 

 「あら、ガスパルさん。良い夜ですね、こんばんは」

 

 「良い夜ってのは、静かに酒を呑める夜のことだ。空を見ながら静かに安酒を呑むのは、今晩は無理くせぇだろうが、狐」

 

 「あら、ならばお少しでも楽しくお酒を呑めるようにお酌でもしてあげましょうか?実は、練習していた時期があるものですから。偶には師を、弟子から労ってもバチはあたらないでしょう」

 

 ガスパルは、苦笑いを浮かべた。見た目こそ絶世の美女といえる狐娘であるが、そのうちに潜む者は自分にも理解できないものがある。なにより、内心他者のことを考えられながら酌をされたとしても興覚めも良いところだ。

 

 自分を師と呼ぶテンは、恐らく内心師に対して敬意の一つ払っていないだろう。それを気にする程、入れ込んでいる訳でもないが。

 

 「あら、こう見えても敬意の一つ抱いておりますよ」

 

 「人のツラから内心を察するな。だから可愛げがないんだよお前さんは」

 

 「ふふ、可愛げがないですか。中身はともかく、少なくともこの容姿、私は非常に優れたものであると自覚しているのですが」

 

 妖艶に微笑むテンに、ガスパルは肩をすくめる。なにを言っても暖簾に腕押し、相手にするだけ時間の無駄であろう。そんなことより、気になることが一つある。ガスパルにとって、今回の騒動にて一つだけ疑問があった。

 

 「あの吸血鬼は人妖じゃない。千年近くぶりに先祖返りをおこした天然物、マジモンの吸血鬼だ。いかに竜の力を借りようが、その竜だって全盛期に比べてれば弱体に弱体を重ねた抜け殻みたいなものだろう。お前の親父には、少々荷がかちすぎていないか」

 

 まともに考えて、ランザがサグレという吸血鬼に負ける確率は、九割五分程度。今までランザがギリギリ血反吐を吐いて勝てるレベルの人妖を用意し続けたのは、死闘を経験させ奴の成長を促し、待ちに待った殺し合いのさい簡単に殺されない実力を身に着けさせること。

 

 もしも自分がランザなら、と考えた策はある。だがしかし、それを実行できるかどうかは分からない。人道に背きすぎた、外道用の策であるからだ。非情になれるかどうか、根底が未だ甘いランザがそれを行うことができるかどうかは分からない。

 

 とにもかくにも、サグレはその気になればあっさりとランザを殺害できる。それをにやけ面で拝んでられるような存在ではない筈だ。

 

 「ええ、だから手助けをしてあげようかと。間接的に、ですが」

 

 「間接的に…な。だから、この先か」

 

 「流石はガスパルさん、私の師ですね。考えが悪辣です。私も、ようやく師に追いつき始めたでしょうか?」

 

 「性悪という意味では俺はお前の足元には及ばんよ。俺は対価に応じて情報を与えるだけだ。時代が流れ、必要性が皆無となった今であってもそれは変わらん。それが俺という悪魔の存在意義だからな」

 

 ざわりと、二人の間の空気が変わる。一夜にして凄まじい人外に変異を遂げた人狐と、古より贄と引き換えに様々な恩恵を与え続けた悪魔。それは、混乱する異常な状況のモスコーの中でも更に異質な空気を放っていた。

 

 「謙遜はやめてください。吸血鬼と同様、極々稀に発現する人妖を安定して製造する方法。それを伝えてくださった師には感謝の言葉もありません。尊敬する貴方の悪辣さに近づけて、こう見えて私は嬉しいのですよ」

 

 「あくまで俺を立てようとするか。だが、悪辣さで立てられても嬉しかぁねえな。まあ、人畜無害と言われたら否定するしかないがね」

 

 ガスパル自身も、テンの行動には興味を抱いていた。これだけの力を持ちながら、それを使う方向はただ一人の個人に自分を殺させるだけの実力を身に着けさせること。だからこそ、テンの行動により得た情報はランザに流してやった。

 

 それはつまり、テンが生み出した人妖の居場所。次の修行相手に対しての道案内。その対価として、人妖の一部を融通してもらっていたがそれは表向きの情報に対する報酬にすぎない。テンが、この風変りな弟子が、いったいこの先どうなっていくのか。興味を惹かれるのは確かだからだ。

 

 「私はお父様の勝利の為に、動きます。そのためには、彼の力が必要不可欠ですので」

 

 テンの手の中で、扇が開く。それをゆっくり大きく掲げ、舞うように下へ。視界が歪み、場所が転移をする。出現した場所は、モスコーの高所住宅街。吸血鬼と化した、サグレの自宅。

 

 唸り声をあげ汗を流し、顔色悪くベッドで横になるベレーザに、テンはその白い指を這わせる。指先から青白い光が溢れ、蛇のように光が身体を這い抉られた傷口を覆った。包帯の下で肉が盛り上がり、皮膚が再構築される。深手であった傷口はみるみる完治していった。

 

 「それが、どんな過程であろうがか」

 

 「はい。これでお父様は、最善の手を打つことができます。そして、その後も…ね」

 

 二人の人外は、揃って笑みを浮かべる。

 

 それから、数分後。目を覚ましたベレーザは、ベッドから起き上がる。体力が低下し朦朧とした意識のなかで見回した視界。その先には、テンもガスパルもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街が、焼けていく。良い思い出も悪い思い出も沢山あるモスコーは、今は死体と人間が入り混じり殺し合いを行う戦場と化している。

 

 良い人間も、悪い人間も区別なく死んでいく。領主ウラヌスが護ったモスコーの地と歴史は、今日で終わりだ。

 

 私は、迫害した人達に復讐を行いたかったのだろうか、それともただそこに人間という他種が存在していたから攻撃を行ったのだろうか。

 

 いや、もう迫害や復讐なんて言葉は頭の中から綺麗に抜けている。ただの実験の結果がこの惨状だ。力を使うのが楽しくて、楽しくて、仕方がなかった。それは初めて思い通りに彫刻を彫れた快感の、何倍も上回る。そのための犠牲が、このモスコー。

 

 ありがとう、蛮族に滅ばされないでくれて。おかげで私は、ここを踏み台にして理想の力を手に入れた。

 

 なりそこないの食屍鬼とは違う、本当の同族を増やすことができる力。これで、ベレーザを迎えに行く。彼だけじゃない、ランザさんもクーラちゃんも、私と彼の数少ない友人も同じ力を持ってもらう。

 

 私より力は劣るが、同じ能力を持つ吸血鬼が四名。各々が成長し段階を踏みながら食屍鬼も増やしていけば、そのうち大陸最強の帝国軍でさえ相手にならなくなるだろう。

 

 何者も恐れることなく、全てのしがらみから解放された世界で、私は今度こそベレーザと愛を紡ぐことができる。それはきっと素晴しい毎日となる。そうなったら、私はまた彫刻を彫り始めようか。生活の為に彫るのではなく、彫りたい物を彫りながら毎日を過ごす。

 

 クーラちゃんの為に、ランザさんが、クーラちゃんとずっと一緒にいられるように誓約でもかけてあげようか。永劫に続く年の差カップル、それはそれで尊い。

 

 子供も、生まれるだろうか。そうすれば一族がどんどん増えて行くのかな。今度こそ、幸せな家庭というのを築ける。私が欲しくて、手に入れられなかったかつての輝きを。

 

 末路に絶望するまで、優しかった父と母の記憶。それを子供に与えてやれる。暖かい、家庭だ。

 

 家はこの城が良いだろうか。しばらくは掃除が大変で仕方なさそうだけど、眷属以下で食屍鬼以上の知性と能力を持つ存在を作ることができれば肩代わりさせられるだろうか。ああ、早くも新しい目標ができてしまった。この力の使い方、もっと深く体得をしなくちゃね。

 

 サグレは、モスコー城内、石造りの通路で立ち止まる。ベレーザとランザ達を眷属にした頃には、まだ実験用の人間は街から調達できるだろうか。そんなことを考えながら、外の景色を見る為の四角い、城壁に空いた穴から外を見た。全盲のサグレが外を見た、というのはおかしな話だが。とにかく外に向け顔を向けた。

 

 そんなサグレの目の前に、無粋な鋼の穴が出現する。

 

 大鳥の足に腕を掴み、散弾銃を構えた男が目の前に現れた。

 

 「あら」

 

 銃声が、響く。サグレの頭蓋と顔面が砕けて吹き飛び身体が後ろに吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「しゃおらああああ!頭吹き飛んだぜ!」

 

 大鳥の上、男がガッツポーズをとる。常識的に考えて頭蓋の脳内を地面にぶちまけてしまえば生きている生物はいない。だがしかし、常識が通用しないのが人妖で、吸血鬼だ。

 

 頭が再構築される前に、その胴体、心臓部に銀のナイフを突き刺さなければならない。

 

 身体を大きく揺らし、人一人なんとか通れる穴から城内に向け飛び込む。ナイフを突き刺そうと、腰の鞘から引き抜き突き刺そうとするが頭が完全に再生する前に腕が伸び、持ちての腕を掴まれた。

 

 力任せに引き寄せられ、振り回され、投げ飛ばされる。通路の端まで吹き飛び壁に背中をぶつける。やはり身体能力に関しては、並みの人妖よりもタチが悪い。

 

 元々目に頼らない生活をしていたが、頭ごと耳を吹き飛ばしても行動をとれるのは文字通りの化物だな。

 

 「やあ、こんばんはランザさん。良い月の夜になったわね」

 

 「ご機嫌そうだなサグレ。取り敢えず、罵倒くらいなら聞く覚悟できたが」

 

 「罵倒?」

 

 サグレは笑いながら、小さく首をかしげる。といっても、まだ口までしか形作れていない為鼻から下しかない顔で微笑むのは不気味ではあったが。

 

 「お前を殺してやれなかった。今のお前がどう思っているかは知らないが、約束を護ってやれなかったのは俺だ」

 

 「ああ、ふふ。律儀なんだね」

 

 顔が完全に再生する。纏う服はボロボロになっていたが、それでも上位の存在としての圧のようなものを感じる。奇襲は失敗、間合いをとられた。吸血鬼の戦い方は高速移動と膂力を両立した機動戦が得意。だがしかし、それだけの敵ならば時の権力者や英雄が手を焼く理由にはならない。他には、どんな攻撃手段がある。

 

 「おい兄ちゃん!なんであの女まだ生きてるんだ!」

 

 外でライフルを向けながら魔獣使いが叫んだ。大鳥に乗っている以上、屋上や入口から経由をするしか内部に入る方法はない。

 

 「外を任せる!跳ね橋付近に食屍鬼や避難民が城に近づいてきたら追い払ってくれ!」

 

 「おいお前それは…クソッ!死ぬんじゃないぞ!」

 

 大鳥が城から離れていく。跳ね橋は、駆動部が数百年前の骨董品で修理もしていない為動くことはない。入ろうと思えば、食屍鬼も避難民も入りたい放題だ。だが、単純な敵である食屍鬼も、それになりかねない市民も等しく不安要素であり邪魔だ。

 

 「死にたくはないがな」

 

 「殺しはしないよ。でも、それ一歩手前まではいってもらおうかな。抵抗されながらだと、手元が狂うかもしれないからね」

 

 自分の腕に鋭い犬歯を押し付け、横に裂く。流れる血が地面に滴り始めた瞬間、重力に逆らい鎌首をもたげるよう鎌のような形になり刃を向けてきた。吸血鬼だから血を操れるってか?ひねりがない。

 

 血の鎌が分裂しつつこちらに向かう。三分裂した一つに向け射撃するが、分裂した鉛玉は液体を散らすのみでまるで意味がない。ならば、こちらしかない。

 

 前に飛び込み三方から襲い来る鎌を回避。背後で血の鎌同士がぶつかり液体が弾けるような音が聞こえた。

 

 銀のナイフを口に加えて剣を引き抜く。横の壁に切っ先を叩きつけると、質量を無視した肉厚の刃と血管に似た連結部が現れる。長物の扱いは、不本意ながらこちらに一日の長がある。この手の武装は間合いに入られるのは苦手だ、身体を縫い付け一撃で銀のナイフを叩きつける為の間合いまで詰めさせてもらう。

 

 連結刃が伸び、石壁を砕きながら横薙ぎに払う。サグレは後ろに飛んでそれを避け、余裕な表情を浮かべた。速さも間合いも足りないとでも言うつもりか。

 

 だがしかし、ついこの間まで彫刻刀しか持ったことのない戦いの素人。戦闘は、安心した瞬間こそが一番危険だ。

 

 手首を折り曲げ、先端を操る。最大射程だと思わせた連結刃、ジークリンデの刃はある程度の長さであれば自在に長さを調節できる。

 

 攻撃を回避した刹那に追撃する刃に、サグレの胴体が斬り裂かれる。上半身と下半身が泣き別れした瞬間、噴き出る血液が互いを繋ぎ引き寄せて身体を再構築。追撃で散弾銃を放ち、まだ間合いが離れているため最大威力の貫通力は期待できないが大きく面で広がった鉛玉が皮膚の表面をまだらに傷つける。

 

 弾丸装填されていない散弾銃をホルスターにしまい、駆けながら連結刃を縦に振るう。天井を砕きながら迫る刃を、何度も受けるのは趣味じゃないと言わんばかりに瞬時に血液を自身の近くに戻し頭上に集め刃の形造り盾にした。液体と刃がぶつかり火花をおこす。

 

 さて次は、ナイフの対応かと余裕な顔を浮かべるサグレ。その胸元に向けて繰り出すのは、振りきったばかりの連結刃でも、構えるのにほんの僅かな時間がかかる銀のナイフでもなく、勢いを乗せ繰り出した飛び蹴りだった。

 

 二つの膨らみの間に叩きこまれる踵だが、まるで水面を蹴ったように手応えがない。見ると太腿から先が、サグレの胸元にのめり込むように沈んでいる。

 

 肉体の変異も、自由自在か。舌打ちをして足を抜こうとしたが、それを逃がさないと言わんばかりにサグレの体内にめりこんだ脚部に、先端が鋭い棒のようななにかが大量に食い込む感覚。

 

 「こんなことも、できるんだぁ」

 

 新しい発見に喜ぶようなサグレの呟き、悪寒に身体が震える。無理矢理足を引き抜こうとした瞬間、確かに感じるのは傷口から血を吸い取られるような感覚。

 

 おぞましいのは、吸い殺されると考えた瞬間、背筋を貫くように電流のような快感が走る感覚。力が抜けそうになるが、連結刃が意図的に背中を斬り付け新たな痛みに引きずられそうになった感覚が戻る。足を引き抜き、腑抜けそうな身体の筋力を全力で動かし背後に退く。

 

 小袋から数を考えず煙玉や火薬入りの炸裂球を取り出し足元にばら撒き、石窓から外へ飛び降りる。それなりの高所からの身投げであったが、この祭りの期間下の通路には天幕が幾つも張られ古城の敷地内でも出店がでていた。

 

 天幕の上に身体を落とし衝撃を殺し転げながら外通路に落下。出血は激しいが、違和感があるものの激痛を感じない足。吸血には、痛みを無くする麻酔効果でもあるというのか。確かに、血を吸う時に対象が激痛で激しく動き回れば面倒なものだろうとは思うが。

 

 『吸われたな?落ち着け、奴の体液は多少混入したかもしれねぇがまだ眷属にも食屍鬼にもなる量じゃねえ』

 

 ナイフを口から離し、一度鞘にしまう。上を見るが急いで追撃をしてくる様子はなし。多少なりとも煙玉と炸裂球が足止めの効果を現しているのかもしれない。あるいは、ただ遊んでいるのか。多分後者のほうだろう。

 

 「血を吸われた即アウト、という訳でもないか。それはそれでありがたい」

 

 『だが何度も受ければアウトだ。痛みがないから気にならないかもしれないが、その足だって普通に考えればわりとボロボロだぜ。さて、これからどうする相棒』

 

 「確かに、痛みで言うなら背中の方が痛いくらいだ」

 

 足に違和感を抱えながら露店の間を走る。露店にいたであろう市民や観光客は、逃がすに留めたのか不思議なくらい死体一つなかった。だが床に散る血痕や荒れた様子から考えればなにかがあったことくらいは想像に難くはない。

 

 「どこかに身を隠して一度止血をしたいが、奴は間違いなく血を便りに辿ってくるだろうな。クソ、痛みが無いせいで自分がどれくらいの傷なのかが分かりづらい。見た目は酷いが、なまじ動けている分なおさらだ」

 

 傷の具合を確認しよと足元に視線を落とした瞬間、月明りを遮る陰。反射で飛び込みながら一回転。赤い刃のようなものが自分がいた場所の石畳みを抉っていた。振り向きざまに連結刃を振るうが、月夜に浮かぶ影は苦し紛れの攻撃を背中の翼を羽ばたかせ容易く回避する。

 

 「ねえランザさん。痛くなかったでしょう?どうだった、私の吸血技術は」

 

 「くっそ下手くそな肉ごと血を貪る奴が近くにいてな、それに比べれば上等だ」

 

 「あら、その身体、もうツバでもかけられているのかな?」

 

 炸裂球や散弾銃の弾丸のせいで、サグレの平民服は既にボロボロに千切れ果てており残骸になっていたが、白い肌と傷一つない身体が月明りに照らされ浮かび上がる姿はある種神々しくさえあり、自傷した腕の傷さえ消えている。ほぼ半裸、そんななりであっても、クスクスと微笑みながらこちらを見下ろす様は夜の支配者のようだ。

 

 心を揺り動かされる程の光景であるが、それでも月夜に笑う人外の女というシチュエーションは苦手だ。

 

 テンが現れる時は、蒼白の月が何時も浮かんでいたからだ。それに重ねてしまえる光景というだけで、闘志は萎えることがなく湧いて出る。

 

 「ランザさん。貴方の血は苦みが強い。それはそれでコクがあって良いけれど、辛い人生ばかり送って来たんじゃないかな?」

 

 サグレが降り、両手を広げる。敵意はないと言わんばかりの姿。

 

 「大丈夫、どんな辛い記憶もこちら側にくれば些細なことになる。私がそうだったから。ランザさん、貴方やクーラちゃんも私の眷属にしてあげられる準備は整っている。一番大事なのは勿論ベレーザだけど、その友人である二人ともそれなり以上に気に入っているんだ」

 

 「気に入っていると言われて悪い気はしないが、生憎と人間のままが」

 

 「こちらの方が、楽に仇をとれるとしても?」

 

 言葉が、止まる。サグレのような細腕で繰り出される膂力や速さ、血を媒介にした戦闘方法、なにより高速の再生能力。人よりも上位の存在になれば、確かにテンという存在に対して対峙するのに大きなアドバンテージになる。

 

 それはジークリンデの甘言に比べ、多数の人間を殺す必要はない。自分が血に吸われ眷属とやらになり人外の力を容易く手に入れれば良いだけだ。その後は、生きていくのに人を殺す必要が出てくるかもしれないが、大量殺人という選択肢だけは除外ができる。

 

 しかし、何故仇のことをサグレが、知っている。

 

 「不思議そうな顔ね。血が、教えてくれたの。ランザさん、貴方も辛い人生を歩んでいるのね。だからこそ、益々、こちら側に招待したくなっているの。ねえ、もうこれ以上遊ぶ必要はないでしょう、一度私に身体を預けてみないかしら」

 

 誘惑するような笑み。並みの男ならそれだけで、骨抜きになるかもしれない。

 

 「……血だけでそこまで分かるのか。お手上げかもな」

 

 ジークリンデが暴れないように、地面に突き刺す。先端が深々と石畳みに埋まり、剣から手を離し降参するように手をあげた。

 

 「今のままじゃどうあがいてもお前には勝てない。分かった、悪いようにしてくれないならばその申し出を受けるのもやぶさかじゃないな」

 

 「ありがとう。ああでも、そのナイフだけは一度遠くに捨ててくれないかしら。疑う訳じゃないけど、少し気持ち悪いからね」

 

 鞘ごと、ナイフを外し後ろに放り投げる。それを見てサグレは安心したように息をつき、ゆっくり近づいてきた。

 

 両腕をあげたままのこちらの腰と背中に両手を回し、背中の傷を撫でられる。流石に少し痛い。

 

 「酷い傷。でも眷属になれば、新しい吸血鬼になればその傷はすぐ治る。私の眼は時間が経ちすぎていいて治らないけど、ついたばかりの傷ならばどうにでもなるから安心して」

 

 「嬉しい特典だらけだが、流石に少し怖いな。……情けない話だが、腰がぬけそうだ。血を吸う間、抱き着いていても良いか。思い人がいる相手に頼むことじゃないが」

 

 「ふふ、許可してあげる」

 

 サグレの腰に手を回し、力の限り抱きしめる。向こうも優しく抱き返し、牙を首筋に近づけた。

 

 「ねえ、吸血鬼になったら最初にどうしたい?」

 

 「それは重要な、質問か?」

 

 「ええ、重要。血からは強い過去の記憶は分かっても、現在の考えまでは分からないみたいなの。万が一下克上とか考えていたら、残念だけどやめておいた方がいいからね。ランザは眷属、仕方ないことだけど私より下位の存在になるの。どうあがいても勝てないこと、最初に教えておかないとガッカリするかもしれないから」

 

 「ならば、安心してくれ」

 

 サグレを、強く抱きしめる。『逃がさない』ように。

 

 「ここまでしておいてもらったうえで残念極まりないが、やはり化物になる気はない」

 

 ささやいてから、手を離し全力で頭突きを喰らわせる。不意を突かれ液体にもなり損ねたサグレはふらつき、一歩離れた。

 

 石畳みを突き破り、地面の中から複数に枝分かれした連結刃の刃が伸びる。股関節から頭上まで、鋭い刃がサグレの身体を両断した。



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15

 二つに裂けた身体が下半身から癒着していく。頭を吹き飛ばして死なない、身体を裂いても死なない、痛みはあるのかは分からないが、こうまでしても悲鳴一つあげない。

 

 だがしかし、こうして油断して近づいてくれればとれる策が一つあった。荷物袋から一つの小さな塊を取り出す。手のひらで弾ませるそれは、ベレーザからサグレへと贈るつもりだった小さな小さな、銀の指輪だった。

 

 「悪いがやはり、俺からベレーザに返すことはできないな」

 

 既に胸元まで再生していっている身体の中に指輪を握る込んだ拳をねじ込む。拳の周囲を囲むように遺物を避けて再構築されていく身体。その内部に、指輪を置いて手を引き抜いた。

 

 サグレの言動、過去の記録。銀は吸血鬼の弱点だというのは疑いようはない。ならば、そんな遺物を体内に入れられればどのような反応を見せるのか。銀製の婚約指輪は、サグレの中でどのような毒となるか。

 

 いや、反応など見る暇なんてない。首元まで再生していく身体に向け近接格闘を試みる。不意打ちの頭突きは身体の液体化をされずに有効打になった。ならば、再生という能力を使っている最中ならばどうだ。

 

 吸血されていない無傷の足が半月の軌道で蹴りを肝臓に叩きこむ。華奢な身体が揺れたところで裏拳を喉元に打ち込み振り抜く。液状にならない身体に二つの打撃が食い込んだのを確認。体重の軽いサグレの身体が再度よろめいたのを見て、追撃に移行する。

 

 腕を絡め交差、踵を上げてでサグレの膝を踏みつぶし体重をかけて潰し、背負い投げで再生していく頭部から地面に落とす。スタンピングで首から口まで踏みつぶそうとしたが、手が動き足首を掴まれる。

 

 握りつぶされると、悪寒がした瞬間ジークリンデの刃が手首を切断。認めたくはないが、危機を救われる形となった。吸血鬼になりかけの状態でさえ、彫刻の素材をやすやすと握りつぶす握力だ、まともに喰らえば骨も肉も潰れた肉の塊となる。

 

 連結刃の柄を掴んで退避。投げ飛ばした銀のナイフを回収しようとするが、液状の物が蠢く音を聞いて緊急回避。ナイフに固執し飛び込んでいたら、腹部を中心に身体が二つに裂けていた。

 

 「ランザ…さん。残念だよ」

 

 顔まで再生したのだろう。手首から先を切断され、そこから溢れる血液を武器としたサグレが怒りを込めて呟いた。

 

 「そんなに私が嫌い?吸血鬼がいや?」

 

 「ただの意地だ。気にするな」

 

 ジークリンデの誘いも、サグレの勧誘もこうして抗い続けているのは、本当にただの意地。

 

 人外を殺す為に人外になる。一番てっとり早い、テンを殺害する為のてっとり早い手段だろう。だがしかし、テンの変異を目の当たりにしてから、人以外の怪物になった者達の悲劇を多く目の当たりにしてきた。もうサグレは気にもしないだろうが、このモスコーに住む者達は既にかなりの死者をだしている。

 

 その中には、家族連れの観光客もいただろう。公園で遊んでいたあの子供達もいただろう。全員が無事に逃げ切っているのを願うしかないが、それは希望的観測にすぎない。つまり、死者の数だけ近しい者に絶望に悲観、憎悪と怨恨を産む。

 

 吸血鬼になってしまえば、クーラと俺は同じ立場となってしまう。それだけは、意地でもごめんこうむりたい。自分を正義の側だと思ったことは一度もないが、喜々として目的の為に他者を踏みつぶす輩には人並み以上には嫌悪感はある。

 

 サグレの切断された手首の先から出た血の糸が落ちた手首に繋がり、再生する。再生能力に衰えのようなものは、見えない。

 

 散弾銃の弾丸を装填。連結刃の柄を握りしめ臨戦態勢。こちらに向け直進してくるサグレに向け鞭のように刃が振るわれる。袈裟懸け、横薙ぎの刃を身体を大きく弾ませ回避される。着地地点を制限し散弾銃を叩きこむ、レイピア持ちの食屍鬼に行った策を行おうとしたが、あれよりもさらに間合いを詰めるスピードが速い。

 

 銃口を包むように手で掴まれ、明後日の方向に向けられる。

 

 「無駄だよ。もう、なに一つ攻撃は喰らってあげない。全てすり抜けさせる」

 

 舌打ちをしつつ、引き金を引く。

 

 サグレの顔に、疑問符が張り付く。宣言通り液状になる筈が、何故かなんの能力も無い鉛の散弾が手のひらから上と、四本の指を吹き飛ばした。

 

 「効果アリ…なのか?」

 

 色々な感情か、感覚か、ごちゃ混ぜになり気づけなかったのか。サグレは今更のように、指輪を埋め込んできた部位に視線を落とす。

 

 吸血鬼ってのは痛覚の鈍るのか。それとも何度も身体が吹き飛んだり再構築したりしているから、単純に気づけなかったのか。サグレの家、ベレーザの血を吸った直後、最初に散弾銃で吹き飛ばした身体の穴に火薬袋を置いてきた時も、サグレは肉片に引っかかったそれに注意を払うことはしなかった。

 

 吸血鬼になる直前は、銀製ナイフの刀身に触るだけで煙をあげた程だ。それを身体の中に置いてきたことでどんな効果を産むのかは未知数だった。

 

 いくら身体が再生しようが再構築しようが、攻撃を当てられるならばまだ勝ちの目は見える。銀のナイフを回収してからの話にはなるが、四肢を壊し動きを封じてからトドメを刺す。一番最初、変異を遂げる前のサグレに提示した殺し方を実践すれば良い。

 

 散弾銃を胸元に向け射撃し、身体を離して先程ナイフを捨てた場所まで飛びのき間合いを取りなおす。銀のナイフを回収し、構えようとするがそれより前にサグレの手のひらから溢れる血液が空中で停止。四本の鋭い針となり両肩に二本づつ突き刺さり行動を封じられる。そのまま持ち上げられ、足が地面から離れた。

 

 サグレの無事な手の指から爪が鋭く伸びる。このまま身体を裂かれるかと覚悟した瞬間、サグレの頬に風穴が開きライフル弾が顎を貫いて貫通した。

 

 「つああああああああ!」

 

 弾丸の発射地点。空を飛ぶ大鳥から銃を構える魔物使いの男と、その背中から飛び降りる人影。フードを深く被り、足に酷い火傷傷を負っているクーラが、サグレに向け飛びかかった。

 

 手には何時ものショートソードではなく、見覚えのない歪な形状の短刀が握られている。

 

 短刀が二本の血針を切断、身体の一部が自由になる。痛みが身体傷口から広がるが、それを気にする前に身体が振り回され血針から抜けるように放り投げられる。

 

 「ランザ!」

 

 立ち並ぶ屋台の中に放り投げられ、商品が詰まる木箱や看板に身体が叩きつけられる。クーラがこちらに駆け寄ろうとしたが、血刃に阻まれて行動を制限された。そもそも、足の痛みが酷いのか彼女自身何時もの俊敏性が死んでいる。

 

 クーラが懐からなにか袋を取り出し、こちらに放り投げる。足元に落ちる直前、なんとか伸ばした手の中に袋が落ちる。

 

 カシャッと、袋の中身は小さな、なにか割れ物が触れ合うような音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 異形と化したサグレと対峙する、クーラに握られたのは歪な形状の短刀。

 

 それは、ランザがガスパルの元へ持ち込んだルーガルーの牙を刃物の一部に使用した特注品であった。

 

 吸血鬼と対峙するのに有効なのは、銀の他意外なことに飼いならされた犬や狼がよく使役され吸血鬼に対して一定の効果を得ていた。それについての由来や起源は、過去の人間が多大な犠牲を払いながら得た経験則であり、詳しい理由等の情報は時代の中で紛失してしまっている。

 

 ガスパルに尋ねれば、理屈としては吸血鬼全盛期時代に一番種類が多かったウイルスを由来とした一団に対し、一番の対抗策として、病原菌どうしの相性が悪かった狂犬病の元となる病原菌が…と長々と語るところであるが、生憎とその機会も無ければ語られたとしても理解はできない。ましてウイルスという単語じたいまだ世間には浸透していない。

 

 効果としては銀製品のナイフの方が殺傷能力は高くはあるが、そこら辺の量販店で売りだされているショートソードに比べればただの刃物と考えていても優れたものだった。

 

 クーラにとっては、その切れ味こそが信用におけるものだった。一番長く使い続けていた直刀と比べれ僅かにリーチは劣るが、軽さと小柄な対角でも使いやすい長さはありがたい。

 

 ランザの方向に投げた袋の中にある物品。それはガスパルから預かったものであった。ランザがガスパルに、これらの物品を依頼したのかもしれない。幾つかある品のうち、苦戦しているランザに代わり扱えると思えたものを使わせてもらっているが残りの品に関しての使い道は素直に彼に任せるしかないだろう。

 

 サグレは、未だランザの方向を見ていた。なにか憎々しく、複雑な表情でそちらの方向に足を一歩進めようとする。行かせは、しない。

 

 ショートソードも引き抜き、投げつける。回転しながら飛ぶ剣が、サグレの背中に当たろうとした瞬間顔面から血の刃が伸び、弾きあげる。

 

 黙っていれば見ていれば良いのに、と言いたそうな顔でサグレはこちらに振り向いた。弾丸に破壊された頬と顎が煙をあげながら再生しつつあり、それだけでも普通の人間には真似できない人以外のなにかに代わってしまったのだと理解できるものだった。

 

 治りかけた顎を動かし、サグレがなにかを話そうとするが単語を聞く必要はない。

 

 サグレがなにを話そうが、それは人外の、ランザの敵からの言葉だ。例え知らない間ではないとしても、躊躇や疑問を自分から一時的に切り離し仕事をする時のように淡々とこなしていくのみ。

 

 「お兄さん!」

 

 「おう!」

 

 サグレの手がこちらに延ばされた瞬間を見て、上空の魔獣使いに合図をする。ここに駆け付けた時、城の中には入るなと上空から周囲を見張っていたこの男に声をかけられた。話を聞き、ランザと思える特徴を持つ人物が事情を理解した後、こちらからの事情も話ランザと知り合いであると伝えた。

 

 それでも多少の押し問答があるかと思えたが、城の中で爆発音がしたため最終的に揃って中に戻ることとなった。

 

 敷地内の外通路では、ガスパルの情報通りランザが敵と対峙をしていた。その敵とは、案の定サグレ。今回の騒動の火元。

 

 足が死んでいる代わりに、サグレと対峙する自分の機動力を彼に肩代わりされる策を頼んでいた。事情は知らないが女子供は避難した方が良いというまっとうな意見を寄越されたが、その問答の時間すら惜しいと押し切った。

 

 上に伸ばした腕を大鳥の足が掴み身体が持ち上がる。高速で攫われ、空中に浮かび上がる身体。成牛を掴み運ぶ翼と足の力強さは、クーラの軽い身体等容易く空中に連れさる。

 

 魔獣使いの男は、再度ライフル銃を上空からサグレの方に向けた。破壊した頬と顎の再生、散弾銃で頭が吹き飛んだ後普通に行動をしている化物じみた再生力を一度まのあたりにしているが、改めて見ても怖気が止まらないといった表情を浮かべている。

 

 「外野は邪魔しないでほしいんだけどな」

 

 サグレが、ぽつりと呟いた。

 

 口が動きなにかを呟いたなとクーラが認識した瞬間、背中に蝙蝠のような翼を生やし上空にサグレが飛翔する。

 

 「来るか、化物がァああああ!」

 

 男がライフル銃を射撃、直線に迫るサグレの右肩を貫通し血華を咲かせるが、それでも彼女は止まらない。大鳥が急いでその場から更に上空に飛翔。素早く接近するサグレを回避し古城の上空へと逃れた。

 

 大鳥の上で銃弾を再装填する音。男の視界はサグレから外れてしまったが、近くで見ていたクーラは全力で叫び声をあげた。

 

 「まずい!もっと全力で逃げて!」

 

 「もっとって、間合いは充分に…」

 

 巨大な翼で大空を縦横無尽に飛び回る大鳥よりも素早く、サグレは間合いを再度詰め直していた。大鳥の胸元にサグレの右腕がのめり込み、肉を斬り裂き飛翔の為に発達した筋肉を斬り裂く。腕じたいが巨大な鈍刀と言わんばかりに無理矢理大鳥の巨体を引き裂いていき、勢いそのままに男の胸元にも爪と指先が食い込み引きちぎれた。

 

 大鳥と男の絶命により浮力を失い落下する。高所からの着地は得意分野でもあるが、空中で大鳥に容易く間合いを詰めるサグレ相手に対峙するのは無謀も良いところだ。

 

 「あまりやりたくはなかったけどっ!」

 

 以前から考えていた緊急回避方法を、ぶっつけ本番ながら行動に移すことにする。ランザは火薬が詰まった袋や玉を便利なサブウエポンとして多用しており、旅の最中幾つか作り方を教えてもらった。その応用として、殺傷力をあげる為に石や鉄片を中に仕込んだりするのだがそれは行わず火薬のみを多めに入れる。

 

 マッチをするように、着火板に導火線の先端をこすりつけ摩擦力で染み込ませた薬剤に火をつける。魔獣使いの男を始末し、こちらに飛ぼうとするサグレと自分の間にその袋を投げ、目を閉じて腕を交差させた。

 

 炸裂した火薬が二人の間で炸裂。爆風が巻き起こり、パンパンになるまで詰めた火薬の爆発で自分の小さな体を飛ばす。

 

 全身に熱さと痛みを感じるが、ただの火薬は火傷の危険があっても致命傷にはならない。むしろ爆風に身体を委ねることで大きく吹き飛び、行動距離や空中での慣性を生み出すことで瞬間的に回避や相手との間合いを離すことができる。

 

 思いついた後も試すかどうか考える代物であったが、四の五の言ってもいられない状態だ。空中で自由軌道をとる敵相手に落下するまでどう命を保てというのだ。

 

 爆風に飛ばされ地面に転がる。幸い、着地には自信がある。地面を数回転がり傷を最低限のかすり傷ですます。

 

 立ち上がった同時に、背後に物音。振り向きざまにナイフを逆手に振るうがその腕を掴まれる。

 

 「痛々しいよ、クーラちゃん」

 

 火薬を利用した回避行動に、想像の埒外な動きをしたせいか悲し気な声をあげていた。サグレの身体にも多少焦げたかのような黒い火傷跡が見えたが傷は即座に再生していっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「火傷、傷、打撲痕。その小さい身体に、いったい幾つの傷を負う気なの?」

 

 幼いクーラの身体は、フードのついた長袖を着た姿では分からなかったが古傷や火傷跡、更には奴隷の焼き印に一生肌に残る痛々しい暴行の後等酷いものだと理解できた。目は見えずとも、身体に触っただけでその全体をサグレは理解できた。

 

 「傷なんて、どうでも良いよ。まだ死んでいないんだから」

 

 「どうでも良いなんて、なんでそんなこと言えるのかな」

 

 純粋な疑問による問いかけ。その問いの答えは、一つしかないと言わんばかりの食いしばった敵意の顔を浮かべる。

 

 「こうして時間を稼いでいる間、ランザはサグレ、貴女を倒す方策を考えているよ。生きてさえいれば、こちらに構ってくれていれば、その分ランザには策を編み出す時間も逃げる時間も作り出すことができる。傷があってもまだ身体が動くなら、少しでもその時間を稼いでみせる!」

 

 「クーラちゃん。私は貴女を少し誤解していたみたいね。貴方はランザを好いている、それは親愛の情だと思っていたけど、それだけではそんな顔はできない。そんな状態なら、仲間になってほしいと言っても、無理でしょうね」

 

 「自害の為のナイフなら、あるからね。それがどんなに強制力があるものでも、仲間になる前にこの首かき斬るよ。ランザの足を引っぱるくらいならね」

 

 「そう」

 

 腕が引き寄せ、腹部に蹴りを叩きこむ。内臓が軒並み悲鳴をあげ、身体が吹き飛びそうになるが掴まれたままの腕がそれを留めた。そのまま軽い玩具を扱うように、地面に身体を叩きつけ、全身が痛みがはいり、口から血が溢れだした。

 

 「もう良い、分かったよ。どの道こうなればみんな逃れようもない。本当は自分の意思で仲間になってほしいけど…ああ」

 

 サグレが、なにかを思い付いたように視線をあげた。

 

 「先にランザさんを再起不能にしよう。彼はどうしても仲間にはなりたくなりみたいだけど、その生殺与奪をクーラちゃんに握らせるのはどうかな?」

 

 「ガフッ…ハッ…どういう…つもり」 

 

 「ランザさんは、クーラちゃんの眷属になってもらう。私からしたら眷属の眷属、孫みたいな関係かな?吸血鬼にならなければ助からない程、ランザさんから血を吸わせてもらう。私は治療しない、生き延びさせるのは、吸血鬼になったクーラちゃんだけ。大丈夫、やり方は教えてあげるから。ほら、そうすればクーラちゃんは自分から私の仲間になってくれるよね」

 

 「手段と…方法が…無茶苦茶っ…」

 

 「まあ、そこで待っててよ。文句は後で沢山聞いてあげる、それを言うだけの意思が残っているかは分からないけどね」

 

 人外を力を得て、最愛の人物の髪の毛一筋から血の一滴まで、眷属という形で自分の物にできる。意識や考えが、こちら側に引き込まれれば、泣いて感謝をするだろう。

 

 自分がそうだった、この身体的特徴のせいで、幸せも人生も全てを投げ出してしまうなどどうかしている。あらゆる誓約を取り払い、自由に力を行使できる素晴しさはこれまでの人生を差し引いてもおつりがくる程の高揚感だ。

 

 手を伸ばすクーラから離れ、翼を広げてランザの元へ向かう。

 

 逃げるか策を講じるとクーラは話していたが、肝心のランザの気配はまだ屋台の残骸の中でうずくまったままだった。

 

 潰れた屋台の前に降り立ち、近づく。なんだか呼吸が弱々しく、体調が悪そうであった。それなりに痛めつけたんだ、弱っていても無理はない。

 

 「抵抗は?」

 

 問いかけにもランザは応じない、身体をダラン投げ出し顔を降ろしているだけだ。

 

 「もうひと暴れするかもと思ったけど、クーラちゃんはどうやら過大評価をしているみたいだね。まあ、ランザさん。悪いけど、一度ここで人としての人生は終わってもらうよ。まあ、あまり怖がらないで受け入れて。絶対嫌だろうけど、私からがヤダってならこれはしょうがないことだからさ」

 

 ランザの反応はない。弱りきった身体に近づき、首筋まで顎を近づけても反応のひとつない。

 

 「それじゃあ、一度お休みなさい。次起きた時は、きっと全てが楽になっているから」

 

 首筋に噛みつき、あふれ出る血を思いきりすする。眷属にするために行う、こちらからの血液供給はない。それを行うのはクーラの役目であり、自分は殺さない程度に、しかし後少しで死んでしまうという状況を作る程度にとどめなければならない。

 

 先程ランザには、身体の中に忌々しい銀の欠片を埋め込まれた。常に体内に毒素が回るような感覚に、身体を液状化するような精密な動きはできなくなっていたが、この吸血で実験や検証を繰り返し慣れない戦闘で消耗した体力を回復させれば身体を自分で裂いてかきだすこともできるだろう。

 

 そういう意味でも、ここまで手間をかけてくれたランザには、血を捧げてもらい償ってもらわなければならない。それだけで、今までの行いはチャラにしてあげよう。

 

 血を思いきりすすり上げた瞬間、味に違和感。疑問に感じながら吸血を続け血を吸い取り続けようとした瞬間、心臓が大きく跳ねあがる。

 

 身体全体に僅かな痺れと、血菅を内から焼き付かせるような痛み。すぐに口を離して、血を吐き出す。

 

 「お前が呑んだそいつは、クソみてぇな味した毒と血の混合物だぞ」

 

 サグレが、顔を上げる。瓦礫の上、今まで気配すらなかった場所に突如現れた異形の気配。

 

 その下、座り込むランザの傍ら、崩れた屋台の瓦礫に隠されるように注射器が転がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーラが投げ渡して来た袋の中身は、二つの小さな瓶と一つの注射器。

 

 見覚えのある色をした液体の色は、キラービーが持つ痺れと溶解性の持つ二つの毒素だ。

 

 それを見た瞬間、この贈り物が誰からの物かが瞬時に理解できた。クイーンビーの巨大な針の中に残留した毒物を、ガスパルが抽出したか。それとも、針を触媒にし毒素を産み出したのか。過程は分からないが、重要なのは目の前に毒物という札が二枚あるということ。

 

 『本気か?』

 

 「ああ」

 

 脳内で響くジークリンデの声。この毒物をサグレの内部に打ち込む方法を思案する。

 

 銀の指輪を体内に置いてきた時のような騙し討ちの奇襲はもう使えない。だが注射針を持ち背後から襲いかかろうが、その身体にこんなか細い針と器具で毒を打ち込む方法等はない。

 

 ならば、吸血鬼という習性を利用する。自分にこの毒を打ち込み、充分に回ったところでその毒を血ごと吸い上げてもらえば良い。二つの毒を吸い上げた注射針を首筋にあてる。流石に正気を疑ったようなジークリンデの声だが、こう見えてもまだ自暴自棄にはなっていない。

 

 『毒と麻痺を首尾よく打ち込んだところで、お前自身は動けねえだろうが。貧血と毒と痺れと、どの道お前はここでおしまいだろう』

 

 「そうでもない」

 

 『あ?』

 

 「お前がいる。そうだろう、相棒」

 

 『……は?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相棒。戯れに呼び、臭い物を投げつけられたかのような顔を今まで何度も浮かべたランザの顔。

 

 それはそれで楽しめたし、それ以上の意味はない言葉だと思っていた。

 

 実体化していたら、あんぐりと口を開けた間の抜けた顔をしていただろう。こいつが、オレに、相棒と初めて呼んだ。

 

 『お…おお』

 

 「歯切れが悪いな。何時もの調子はどうした」

 

 『いやまあそりゃお前…えぇ…』

 

 正直、困惑している。そりゃあある程度の効果を狙い、おだてる為に相棒という言葉を使ったのだろうが、追い詰められてきているとはいえ初めて認めたような言葉を投げかけてくるのは虚をつかれた。

 

 本心ではないだろう。だが、そういう腹芸が得意な奴でも器用な奴でもない。だが、得意でも器用でもないなりに、言葉を飾りこちらの力を借りようとしている。悪竜の力を。

 

 流石に都合が良すぎる、と思いつつ。今オレの顔はさぞ緩んだ表情をしていただろう。

 

 見せかけだけとはいえ、表面上だけとはいえ、こいつはオレに対して譲歩するように言葉を口にした。それはつまり、この男の内面にそれだけ踏み込めたということ。想定した事態とはいささか違うが、オレの目的は危機を前にしてこちらに依存せざるえない状況を作り出すこと。

 

 それは何時か、ランザという男が外敵を全て排除した後、やるべきことも目標も失った男の心を独占することに繋がるだろう。英雄は宿敵を討ち果たした後、伝承の竜の寵愛を受けた新たな災厄となる。うん、完璧だ。

 

 ランザがこちらに依存すれば、それに比例してこの先今まで忌避していたであろう提案すら受け入れていくだろう。そうなれば雌狐の葬る実力を身に着け、その頃には帝都の専門部隊竜狩りさえも敵にはならない。そうなるように、心の中に染みを作るようにオレという存在を浸透させていく。

 

 悪竜に頼るというのは、そういうことなんだぜランザ。お前は今、こちらの世界に一歩足を踏み入れた。それだけで、あの吸血鬼という存在を焚きつけ覚醒させた意味がある。

 

 サグレもベレーザも、ただの過去の悲劇と言う踏み台だ。

 

 『オレ流に、やらせてもらうが文句はないか?』

 

 「頼んじまったからな」

 

 『なら相棒らしく、サポートしてやらないとなぁ』

 

 苦虫を噛むような顔をランザは浮かべる。まったくそういうのは、もう少し隠しておけってんだ。演技は最後まで徹底しろ、詰めが甘いんだからよ。

 

 そうしてランザは、二つの毒を混合したものを自身に打ち込んだ。心臓が高鳴り危険な異物の侵入に身体が悲鳴をあげる。身体能力が低下し身体が弱る。これを、後になんとか使いものになるようにしなければいけない。面倒な仕事を押し付けられたもんだ。

 

 そうして時間が流れ、勝ち誇った顔で吸血鬼が現れた。口上をするように話しかけ、ランザの血を貪る。そいつの血は、うめえよ?だが今は、クソみてぇなもんだがな。

 

 小さいとはいえ銀という猛毒の頸木を既に体内に打ち込まれた吸血鬼は、異変に気付きよろけながら身体を離した。

 

 そんな女に、実体化して宣言をしてやる。

 

 「お前が呑んだそいつは、クソみてぇな味した毒と血の混合物だぞ」

 

 こちらに気づいた吸血鬼はなにかを言おうとしたが、その前に背中から生えた刃が五月蠅い蠅を追い散らすように攻撃を繰り出す。

 

 慌てながら後退する敵に、追撃はしない。ある程度の間合いが離れればそれで良い。

 

 中指をたて、舌をだしてやる。こういう動作が人間の中では敵対する相手に向けるものだと聞いたため実践。多分、悪竜らしく決まった。

 

 さてここからは文字通り荒療治。最低限戦えるようになるまで急速に血を失い毒に蝕まれたボロボロの身体を立て直さなければならない。だが毒を喰らったとはいえ、サグレがそれを大人しく見ているとは思えない。死なないように応急処置、戦えるように治療、それを邪魔されないように牽制。それらを全て一人で行う必要がある。

 

 簡単な話だ。いや簡単な話だったか、過去のオレならそれすら片手間以下の労力だが、今ではそれに全力を尽くす必要がある。

 

 「この気配、お前は」

 

 「ああ、あの時ぶりだな。お前が吸血鬼になる為にちょっとばかり手を」

 

 「ベレーザを傷つけたな」

 

 サグレの敵意が殺意となる。おいおい、傷つけたってその後思いきり血を啜り殺す手前までにしたのはお前だろうが。背中を押してやったのに、感謝されこそすれ逆恨みされる覚えはないっていうのによ。

 

 爪を伸ばし、こちらに飛び掛かるサグレ。迎撃しようとした瞬間、一つの気配が走り寄り一時的にでも弱ったサグレの一撃を間に入り受け止めた。

 

 噂をすれば、という奴か。その身体に残留する力の気配、どうやら狐の差し金か。

 

 まったく、人間というのは外道なことを考えるものだな。オレにはとんと理解できん。

 

 狐の考えが見抜けてしまい、軽く肩をすくめる。おそらくランザも、それに乗るだろう。吸血鬼という存在を、倒す為に。



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16

 棒。打ち所が悪ければ、危険ではあるが可能な限りは非殺傷能力の高い信頼のある武器だ。それが今は、文字通り頼りない棒きれに見える。

 

 だがしかし、こんな物にでも縋らなければ足腰から力が抜け座り込んでしまいそうになる。だからこそ、その棒を手放した。

 

 腰が抜けそうになってでも、醜態を晒そうとも。目の前の相手にはありのままで対峙しなければならない。そう感じたからだ。

 

 「サグレ」

 

 「もう、来てしまったんだねベレーザ。いろいろ話したいこともあるけど、取りあえず」

 

 「取りあえずもクソもあるか!」

 

 羽織っていた上着を脱いで、投げ渡す。サグレは平然としているが、身に纏う衣服は切断され、穴だらけにされ、破れて千切れ、ほぼ全裸に布の残骸が僅かに残っているのみとなっていた。

 

 クソ程場違いな考えかもしれないが、今の惨劇や状況を差し引いても意中の相手が全裸で平然としている様子に対する対応がなによりも優先すべきだと考えてしまった。衣服の様子を見れば、幾度も攻撃にあったのだろうが、傷一つ残っていない肌に乳房、下腹部の茂みまで見えてしまっている。

 

 「さっさと身体を隠せ!積もる話も積もらん話もそれからじゃなきゃできやしねぇだろうがぁ!」

 

 サグレは、顔に覆い被さった上着を取りキョトンとした顔をしていた。そんな顔をしないでくれ、こちとら娼婦すら抱いたことがないというのに。そんなことをしている場合じゃないと思いつつも、これではなに一つじたいが進まない。

 

 「は…ははは。まったく予想外だよ、ベレーザ。一言めがそれ?」

 

 「俺にとっちゃ重要だ」

 

 サグレは苦笑いを浮かべながら、上着に袖を通す。成長した身体に合わせ購入したそれは、サグレの下腹部まで隠すのに十分な長さだった。

 

 「分かってはいたけど、改めて成長したんだね。昔は私の方が大きかったのに」

 

 「何年前の話をしているんだよ。もうとっくに追い越してんだ、身長くらい」

 

 「そうだね。でも何故か、私には昔のベレーザも今でも強く覚えているんだよ。ほらこの古城も、昔忍び込んだりして遊んだりね」

 

 孤児院には子供を育てるだけで精一杯で、ほんの一年に一度あるかないかの行事以外は外部に出て金がかかる遊びをすることなんてほとんどない。古い古城だけあって、抜け道も子供が入れる穴もあちこちにあったこの古城は、そんな自分達の遊び場だった。

 

 こっそりと忍び込み。立ち入り禁止の場所に入り見学をしたり尖塔の上まで昇り街の景色を眺めたり。鍵を盗みだして地下を探索したら牢獄や、器具は既に撤去されていたが古い血の跡残る拷問場に迷い込んでしまったりし半泣きになりながら上への階段を探したこともあった。

 

 その頃は、サグレの身長は女の子としては高く俺よりも頭半分は高かっただろうか。成長し思春期を迎えるころには越えてしまっていたが、その頃はサグレが荒れていた時期になってしまい他者を拒絶していた為印象が残っていないのかもしれない。

 

 「地下の拷問場。上がりの階段が分からなくなって暗闇の中で泣きべそかいてた俺に、お前は母親が焼いてくれたって包みに入れられた焼き菓子をくれたな。よく覚えているよ。そんな状態でも、お前を必ず護るとかいってたっけ」

 

 「真っ暗なのにランプの明かりが切れちゃったからね。私はまだ目が見えていて、夜目が異常に効いていたから問題なかったけど、ベレーザはなにも見えなくて怖いってね。落ち着かせる為に、お菓子をあげた。本当は、独り占めしたかったんだけどね。あまり裕福じゃなかったし、甘味は貴重だったからさ。そしたら約束してくれたよね、半べそかきながらも護ってくれるって。ちょっと頼もしさがなくて可愛らしさが勝っちゃってたけど」

 

 「そうだな。頼りない男の子だと思われたと感じて、少しばかり気にしていたよ。だけど…こんな惨劇を引き起こさなければならない程追い詰められていたのに、何故相談の一つしてくれなかった。俺は今でも、そこまで頼りないか」

 

 サグレは、複雑そうな顔をし、小さくため息をついた。そして首を左右に振る。

 

 「迷惑をかけたくなかった…てのはあるかもね」

 

 サグレは、自分の首筋に爪を這わす。止める間もなく爪が皮膚を斬り裂き太い血管を破き、大量の血液が宙にあふれ出た。だがその血は空中で止まり固定され、みるみるうちに傷口に戻っていく。傷口が泡を吹きながら元に戻り、何事もなかったかのように閉じた。

 

 「私はこんな生物になった。今、身体の中に変なの複数打ち込まれて痺れるし気持ち悪し、なんか痛いしでわりと普通じゃないけど、それでもこんな芸当ができる身体にね。さっきだって、ベレーザが止めに来たけど身体が半分痺れてなければ棒ごと二つに裂いてしまうところだったんだよ。人だった私は、こうなることを忌んだ。だからこそ、ベレーザには何一つ伝えず全てを自分で終わらそうとした。

 ランザさんに介錯を頼んだのもその一環。私の身体が人じゃないなにかになろうとしているのを察した彼に、自殺の手伝いをお願いした。万が一の保険としてね。もっとも、その保険も有効にはならなかったけれども」

 

 「俺だって、お前がそんな状況だと知れば!」

 

 「自死を手伝ってくれたとでも?それとも、モスコーから逃げる?ダメなんだな、私は変異をした瞬間、理性が解けていた。君だって、ランザさんが割り込まなければうっかり吸い殺す一歩手前だったんだよ」

 

 サグレの言葉とどこか投げやりな微笑みに、言葉が詰まる。異質ななにかに変異を遂げたサグレ。そうなりたくなかった、だが時間もなかった。全てを諦め命を絶つ覚悟を決めた彼女にその話をされて、自分はどうしただろうか。

 

 まず間違いなく、モスコーに辿り着いてからの短い期間でもサグレがなんとか助かる手段を探すだろう。それがどんな無為でも、諦めることはできなかったと容易に予想ができる。もしくは、サグレを連れて街を出てどこかに隠れ住むだろうか。

 

 そうなれば、サグレの言う通り。彼女が殺した、一番最初の死体に地面に転がる死体は俺だろう。

 

 「私はそんなことで無為な努力に振り回されたり、死んでしまったりする君を見ることなんて嫌だった。最後くらい、一緒に楽しく街巡りをしたかった。恋人のような関係を、ただの数日でも築きたかった。でもね、そんなことは今どうでも良いんだよ」

 

 サグレが両手を広げる。夜空を見上げ、笑い声をあげた。

 

 「ベレーザ。私は力を手に入れた。自由に人生を謳歌する為の、迫害や無理解をねじ伏せる為の力をね。私は貴方のプロポーズを断ったけど、本当は凄く、物凄く嬉しかったの。だからね、ベレーザ、今度は私から言わせて。

 共に歩んでほしい、近くにいてほしい、永遠に添い遂げてほしい。ベレーザも分かる、こちら側にくれば不安も恐怖もなにもない。私の眷属。ううん、眷属なんて立場じゃなくて伴侶として共に夜を生きていける。今は少し、体調も悪いけどこんなものほんの少しすればすぐによくなる。もう痺れも、痛みも引いて来ているんだ。

 全部が終わったら、貴方の手でもう一度指輪が欲しい。銀製はちょっと無理だけど、木製でも鉄製でもなんでも良いの。二人で永遠に、生きていこう」

 

 両想い…か。想いは報われた。良かったじゃ、ないか。これからサグレと、永遠に生きて行ければ。

 

 俺は、泣いていた。泣きながら、足元の棒を蹴り上げ手のひらに収めサグレに向ける。

 

 「ベレーザ?」

 

 「なあ、サグレ。ウラヌスの古城って、モスコーの一番高い場所にあるよな。俺はさ、階段や坂を頑張って上がったんだ。お前がここに、来ているような気がしてさ。どんな状態でも、お前を護ってやりたかった、約束通り。

 でもさ、見たんだ。高いところから見えた、俺が育った孤児院は燃えてたし、院長先生の死体っぽいのが食われてたよ。家の前で子供がまとめて死んでいて布がかけられていて、その前に自害した父親の死体があった。バラバラに裂かれた、男の子を女の子が食べていた。

 市場も、広場も、井戸端も、どこもかしこもこの世の地獄だ。お前の仕業だと、思いたくなかったけど、そうじゃねえんだよ。悪いサグレ、気付いてやれなくて。本当に悪い。全部俺の責任だよ」

 

 棒のひと突きが、サグレの腹部に吸い込まれる。衝撃にサグレの軽い身体がよろめき、畳みかけるような攻撃を受けながら、サグレは不思議そうな顔をしている。

 

 「だが、それでもなにも思わないのか、この状況に!景色に!人々に!本当になにも思わないままそんなこと口から出すほど変わっちまったのかお前は!」

 

 なんだかんだ言いつつ、モスコーの街を好いていた。ここは古い伝統を今に残しつつ、暗部や問題を抱えながらも穏やかに人達が生きていけるところだ。奴隷問題だってリスム程酷くはないし、過疎という緩やかに訪れる難題を抱えつつも魅力がある自慢の故郷だった。

 

 故郷を、家である孤児院を、人々踏みにじられてしまい、それに対して悪びれもせずにサグレは共に生きようと手を差し伸べてくる。多数の命を踏みにじりながら自分と生きる未来を語るサグレは、もう俺の知っている幼馴染ではなくなっていた。

 

 感情では、サグレの手をとり言葉を呑みこみ受け入れ、眷属とやらになって愛する人と過ごすことを選びたい。だがしかし、別の側面ではこの地獄を産み出したサグレを許してやることができない自分がいた。

 

 確かにサグレは、辛い毎日を送り腫物のように扱われたり偏見や、嫌がらせを受け差別までされていた。だがしかし、街全体の人間がそれをしていた訳ではない。無理解ややっかみに引きずられた人達に囲まれたまま盲目の女性がただ一人で生活をしていけるものか。

 

 例えば、サグレが生活用品や食料を買っていた市場の店主。彼女に対して、盲目だからと値段を偽らずに安売りやお得な商品が並んでいればおススメしたり、分け隔てなく接していた。

 

 伝手のない俺に外部の商人を紹介してくれた彫刻家の男は、芸術家同士の狭い界隈では表立って庇ったり助けたりはできないが、あの腕を腐らせたり埋もれさせるのは惜しいと内緒で紹介や商人相手に交渉をするノウハウを俺に教えてくれた。

 

 みんながみんな、サグレの敵ではなかった。だがしかし、そんな彼らが今生きている保証はない。その彼等の家族や友人達も、この惨禍の中で苦しみ今この時にも息絶えているだろう。

 

 そんなことに、気付いていない程サグレは頭が悪い訳じゃない。だがしかし、本当に人以外の者に成り果てた時から考慮に値しないと考える程どうでも良くなったのか。それが悲しくて、悔しくて仕方がない。

 

 「どうして?」

 

 サグレが、肩をわなわなと震わせ口を開く。

 

 「どうしてベレーザは、他人のことを気にするの。私の味方をしてくれないの」

 

 「人は一人じゃ生きていけないからだ!それは綺麗ごとでも道徳でもなんでもねぇ!分担し得意分野を活かし補い支えあい、それでも衝突しながら生きていかなきゃいけないからだ!街全部滅ぼして罪悪感の一つ感じねえか?ふざけんじゃねえ!お前の為に骨を折ってくれた人達まで殺しておいて、なにが味方をしてくれないのだ!いたんだよ!お前の味方だってここには、この街にはな!」

 

 こちらの叫びと共に、突き出された棒の先端をサグレが掴む。先端が握りつぶされ破損し、払うように腕を振るった。細腕には似合わない膂力で今度はこちらの体制が崩される。間合いを詰められ、首筋の襟を掴まれた。

 

 「なにが味方だ!私が辛い時直接助けてくれた人が何人いた!そんなものは、いない!ただ敵意の他には同情と哀れみの視線を向けていただけだ!ねえベレーザ、貴方はモスコーから離れることが多かったけど、私が貴方がいない間なにをされたと思う?ベレーザ、私の容姿ってどうなの?優れている?少なくとも醜くはないでしょうね。性的興奮を向けられるくらいには」

 

 「なに…を」

 

 「分からない?分かるように言おうか。ベレーザ、残念だけどこの身体は綺麗じゃないの、汚されているの。ある日男が数人夜中に押し寄せて来てね、抵抗しようとしたけど組み伏せられて」

 

 「やめろ!」

 

 怒りに満ちた、サグレの表情。聞いたこともない、必死に隠していただろう話。それが何時頃の話しかは分からなかったが、モスコーに寄る度にサグレは何もないふうに歓迎して旅先の話や彫刻の話を共にしていた。そんな裏で、そんなことがあったなんて知る由もなかった。

 

 「やめてくれ、頼む…やめてくれ」

 

 「……私だって、姦された話しなんてしたくなかったよ。でもねベレーザ、その時から私は街の住民なんてどうでも良いんだ。全員が悪人ではないと分かっていても、どうでも良い。ただ、こんな姿に、吸血鬼になれば確実にベレーザに迷惑をかけると思っていたの。

 私に直接味方をしてくれた人はいなかったよ。復讐心なんて今更ないし、犯人はどうしているかなんて分からない。もしかしたら外部の人間かもしれないけど、まあ多分街の人間だしこの騒動でまとめて死んでくれていたらラッキーかなってね。無関心な人も、同情で優しくしている自分に酔う人もみんな死んで構わない。ベレーザ、私に本当に味方をしてくれた貴方ただ一人を除いてね。

 後は、まあ。ランザさんにクーラちゃんもかな。二人とも頑固だからちょっと手を焼いているけどね。でもベレーザの友人も、私の友人。彼等も助けてはあげる」

 

 全身から力が抜けるようようだった。怒りもなにも湧かず、ただ悲しさだけが心の中に占める。涙が滂沱のようにあふれ出し、棒を取り落とした。

 

 サグレが、そんな俺の背中に手を回し抱きしめる。優しい抱擁、頬をすりよせポンポンと優しく背を撫でた。

 

 「ごめんね、こんな話ベレーザが傷つくのは分かってた。本当は一生隠していくつもりだったのに。そのことだけは、許してほしい。綺麗な身体のままでいられなかったことで、嫌わないでほしい。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさいベレーザ」

 

 サグレが綺麗な身体じゃなかったことなどどうでも良かった。むしろ、サグレの一番の理解者だと信じていた自分のとんだ間抜けぶりが許せなくなった。

 

 サグレの中身は、様々な苦痛や業火がくすぶっていた。冷静で落ち着いて、過去を乗り越えた天才彫刻師。それは表向きだけの話であり、何故そんな心の傷に俺は気づいてやれなかった。

 

 サグレを、責める気持ちはもう湧いてこなかった。理性は彼女がおこした災厄に対する嫌悪が声を荒げていたが、それよりも大きく感情がサグレに対して同情し許してあげなければならないと必死に訴えていた。

 

 そうだ、例えサグレがどんなになろうと、俺だけは彼女の味方になるべきなんじゃないのか。

 

 護ると誓いながらも、何一つサグレを護ることができなかった罪滅ぼしか。それとも、どんな状況になっても愛する人に受けいれられ生きていけるという欲望と嬉しさか。もう、サグレを責める気も止めてやる気持ちも湧いてこない。これからは、ただ彼女に寄り添い生きていってやろう。

 

 視界の端、サグレは大きく口を開けていた。身体の不調を話していたが、それでもだいぶ回復したのだろうか。これから彼女が俺の血を吸い、眷属とやらにするのだろう。それが彼女の望みなら、選び抜いた方針ならば、今度は俺がすぐ近くで彼女を支えよう。今度は世界が敵だとしても。

 

 だが、吸血はおきなかった。サグレの盲目の瞼が開き、まるで見えているかのように瞳が驚愕に見開かれ、首筋に噛みつこうとした身体から口を離し抱きしめたまま俺と自分自身の位置を踊るように入れ替え突き飛ばす。

 

 思わず尻もちをついてしまい、サグレの方を見る。その瞬間、大量の血液が顔に降りそそいだ。

 

 「あっ」

 

 間抜けな声を、あげてしまう。腹部から飛び出た刃はまるで生きた蠢く血菅に繋がったような造形をしており飛び出た腹部の先端から触手生物のように蠢いている。サグレがその刃から身体を抜きだそうとするが、先端が枝分かれをし無数の刃と管を精製し四肢や胴体に巻き付くように縛り上げていく。

 

 縛られた端から細腕や白い足に刃が食い込み、無数の斬り傷が身体中を覆った。

 

 「ベレ…ザ」

 

 「サグレ、お前」

 

 「怪我…は?」

 

 首を左右に振ると、サグレは安堵したように微笑んだ。

 

 「心配しないで…こんな拘束、すぐに…」

 

 サグレが力を込めようとした瞬間、身体が浮き上がり高速でサグレが刃の伸縮が戻るのに合わせ引きずられていく。

 

 その刃の先には、連結した刃を持つ奇妙な形状の剣の柄を持つランザがおり、逆手に銀色のナイフを持っていた。

 

 引き寄せられたサグレが、なにかを言おうとしたがそれより前にランザの腕が動き。サグレの頭部にナイフが刺しこまれる。甲高い悲鳴をあげ、サグレが今まで聞いたことがないような苦痛の声をあげていた。

 

 ナイフを引き抜き、今度は背中から、身体の陰になって見えないが恐らく心臓と思わしき場所にナイフを突き立てる。身体を引き裂きながらナイフを引き抜き、最後に首の骨を両断せんとする勢いでナイフが首筋に叩きこまれた。

 

 連結した刃が蠢き、サグレの四肢や胴を激しく斬り付けながら切断して離れる。先程見せたような再生がされる様子はない。両足と両腕が切断され、べちゃりとサグレの身体が地面に落ちる。サグレはかろうじて繋がっているような首を動かし、ランザの方に顔を向けた

 

 「な…ぜ…ベレーザを」

 

 サグレの苦し気な言葉が、口から洩れる。端から血を流していた。その表情は、信じられないといったような、顔をしていた。

 

 「お前は必ず、庇うと思ったからだ」

 

 「……そん…な」

 

 サグレがこちらに顔を向ける。

 

 「ベレーザ…たすっ」

 

 ランザの足がナイフの柄を踏みつけ、貫通した刃が首筋と地面を刃で縫い付ける、半ば以上に首が千切れかけほとんど繋がっていないような状態になる。ランザは、そんなサグレの頭部に散弾銃を向けた。

 

 一発の銃声が、響く。サグレの頭は、粉々に潰れたままもう二度と再生をしなかった。

 



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17

 硝煙と血の臭い、嗅ぎ慣れた香り。何度も何度も、何度も、この結末に向けて攻撃を繰り返して来たのではなかったか、サグレという吸血鬼を倒す為に、心身を削りチャンスを掴もうとしたのではないか。

 

 いや、違う。結果だけを見れば確かに望んだとおりの結末になっただろう。だが、その過程はどうだ。

 

 考えていない訳ではなかった。吸血鬼という存在のスぺックが、今の俺には手に負えない難敵であるならば、突くべき弱点はサグレという人物の感情や考え、油断や慢心だ。

 

 現にサグレがその気であるならば、これまでの戦闘で何回殺されていたか分からない。それだけ、吸血鬼の戦闘力や特殊能力は驚異の一言だった。だからこそ、心に揺さぶりをかける必要がある。そのことを、考え策に組み込もうとしていた。

 

 現にサグレに毒を打ち込む作戦は成功した。キラービーの毒を二種類、自分の血の中に混ぜ合わせ直接吸い取らせる。サグレが、こちらを眷属にしたいならば、血を吸い取る必要がある為だ。興味ない対象にするように、血の刃で急所を抉りに来られれば破綻していた作戦だ。

 

 その前の降参したふりをしてからの、頭突きと奇襲攻撃だってそうだ。ベレーザの友人、自分の知人という立場を最大限に利用させてもらい銀の指輪という頸木をサグレに打ち込んだ。

 

 だが、体内に置いて来た銀の指輪も、二種の混合毒となったキラービーの毒素もサグレはそこまで影響を受けていないように見えた。毒はどもかく、指輪に関してはもっと怯んで悶え苦しんでくれるような効果を期待していただけに、能力の一つを封じたにしても平然と戦いを続けるサグレに対しては正直お手上げだった。

 

 毒でサグレが弱っている間に、ジークリンデに身体の治癒を頼み動きが鈍いうちに畳みかける。そういう作戦であったが、ベレーザが来なければ破綻していた可能性が高く思える。平然とベレーザと会話をし、少し体調が悪い程度にすまされるとなれば、期待していた効果を望めはしない。

 

 だから、最後の最後。ベレーザが来たタイミングで頭に思い浮かんでしまった最低の考えを、それでもなお実行に移すしかなかった。

 

 あのまま手をこまねていていれば、ベレーザも新たな吸血鬼になり、こちらの勝ちの芽が完全に消える。俺も、クーラも、人外の仲間入りだ。

 

 「はっ…はっ……あ」

 

 それで、良かったのではないか。それならば、少なくとも友人となった若者二人の仲を引き裂かなくても良かったのではないか。サグレの願い、吸血鬼になる前に殺してほしいという計画は破綻した。ならば、それに固執する必要はあったのか。

 

 いや、あった。モスコーの惨状を見ろ。今まで人妖が引き起こした悲劇を思い出せ。人外と成り果てた化物の行く末などロクなものではなかっただろう。それを止めた、終わらせてやった。これから引き起こされていくだろう新たな災禍を食い止めることができた。

 

 どんな手を、使ってでも、サグレを止めた。

 

 だから、罪悪感を覚えるな。騎士でも戦士でもない。全身を汚泥に浸し進んででも、人外となった者を下しテンを倒すととっくの昔に誓っただろう。

 

 唇をかみしめ、叫びだしそうになるのを堪える。俺の選択は、この最低の行動は、最低ながら間違ってはいない筈だ。

 

 ベレーザが立ち上がり、ヨロヨロと歩み寄る。四肢が寸断され、うつぶせになった胴体に触る。顔を見ようとしたが、その顔はもう散弾銃の弾丸を近距離で受け弾けて潰れていた。もう逆再生をするように、身体が治っていく様子はない。

 

 「ランザ」

 

 ベレーザが、声を絞り出す。身体が痙攣するように、跳ねた。心臓の鼓動が、五月蠅い。

 

 「言ってくれ、必要なことだったって」

 

 ベレーザが立ち上がり、こちらの胸倉をつかむ。睨み殺さんばかりの憎悪の視線。歯を全力で食いしばりながら大きく口を開いた。

 

 「言えよ!言ってくれよランザ!サグレはもう人じゃない、沢山の人を殺したから退治した!その為に俺を利用しなければならなかった!そう言えよ!なに苦しそうな顔をしてやがる!頼むから言えよ!仕方のないことだったとな!」

 

 「俺が…」

 

 ベレーザの腕を掴み、振り払う。こちらも胸倉を掴み引き寄せた。

 

 「俺がそんなことを言ったところでお前は納得できるのか。確かにサグレは人じゃなくなった。モスコーの惨状もサグレのせいだから仕方なく殺した。殺す為には汚い手も使わざるえなかった、しょうがなかったと。俺がそう言ったところで、お前は納得できるのかよ!」

 

 ベレーザの顔に、拳を叩きこむ。身体が離れて石床の上に倒れた。口の端から血が流れ、赤く染まる。

 

 「そんな言葉を引き出させて自分を納得させたいか!?お前にとってサグレはその程度の存在か!?自分を騙す言葉を俺から引き出させようとするんじゃない!お前は…ベレーザ…お前は…サグレが好きだったんだろう」

 

 ベレーザとサグレ、モスコーでお互いを支えながら生きてきた。そして、この先は親愛なる伴侶として家族になり共に過ごしたかった。そんな相手を、外道の手段で殺した敵が目の前にいる。

 

 ベレーザは、感情では怒りが吹き荒れているのだろう。だがしかし、どこかで、モスコーを壊滅させた災厄を葬ったこちらに対し、正しいことをしたと感じているのかもしれない。だからこその、仕方なかったという言葉。

 

 その言葉を呑みこんでしまえば、今は良くても後々まで後悔と悲観が募る。当たり前だ、自分を騙しているのだから。憎い相手に対しての感情を封じているのだから。そんな気持ちを背負いながら生きていては、ベレーザはそのうち壊れてしまうだろう。サグレの、最愛の人を失った世界で緩やかに、確実に。

 

 俺自身が、その生活に耐えることができなかった。復讐など二人は望まないと、前を向くべきだと言い聞かせたことも何度もある。だが、それでも耐えることができなかった。テンを、殺して自分の自己満足を満たすしか、俺には生きる道が見つからなかった。

 

 だから、決めていた。サグレをこの手段で殺すと決意を固めてから。身体はボロボロだ。サグレが死んだことで無痛だった足は痛み、最低限までの治療しか間に合わなかった負傷箇所は悲鳴をあげ、体内では残留した毒が蝕んでいる。

 

 だが、逃げない。逃げることだけは、決してしない。それが、サグレとベレーザという二人の仲を引き裂いた俺にできる全てだ。

 

 「ベレーザ、顔をあげろ。目の前にいる男はなんだ」

 

 先端が破損した棒のところまで歩き、拾い上げる。ベレーザの足元に投げてやり、カランと音をたてて転がった。

 

 「街を襲う災厄を倒した存在か?それとも、同じ鍋のスープを食べた仲間か?」

 

 決めたからこそ、だからこそ、悪びれもせずに胸を張れ。謝罪の言葉など口にはするな。俺はベレーザにとって、憎き仇となったのだからだ。

 

 「お前の目の前にいる男は、お前の一番大切な人を外道の手段で殺した男だ!お前の恋人の…仇なんだ!」

 

 「ああああああああああああああアアアアアあ゛あ゛あ゛ああああ!」

 

 ベレーザの感情をギリギリせき止めていたなにかが破砕する。棒を持ち飛び掛かり、こちらに向けて頭上めがけ振り下ろした。

 

 散弾銃を頭上で横に構えガード。弾薬はまだ一発銃の中に残っている。ベレーザに銃口を向けるがそれより前に棒による連打が襲い掛かり、狙いをつけ引き金を引く隙を与えないように立ち回る。

 

 『ハッ焚きつけやがる。だが、吸血鬼と比べりゃ棒きれ振り回すクソガキなんぞに負ける理由があるかよ。さあ相棒、さっさと俺を』

 

 「邪魔せず見ていろ!これは、俺とベレーザの問題だ!」

 

 『はぁ?お前なにを』

 

 「喧しい!へし折るぞ骨董品!」 

 

 連結刃となる為、実体化を解いて剣の中に戻ったジークリンデの声が頭の中で響いたが、一喝。頭の中で策を考え、隙をうかがい、実行をしたのは俺なんだ。悪竜如きに、でしゃばらせてなるものか。俺だけが、ベレーザの復讐心を受け止めてやる義務がある。例え、このまま負けて死んでしまったとしても。

 

 再度銃口をベレーザに向けようとするが、それを囮に自由な手を戦闘用コートの中に入れる。案の定銃が弾かれたところで、中から取り出した棒剣を投擲。

 

 肩を狙った三本の刃のうち一本は弾かれもう一本は命中せず。だが近距離からの投擲行為に避け切れなかった一本が肩口に突き刺さる。

 

 手の中で散弾銃を反転。銃口を掴み鈍器として木製のストックを棒剣に叩きこむ。

 

 苦痛でベレーザが背後にややそれる。追撃をしようと前にでようとするが激痛、痛む足のせいで踏み込みが足りずに顎を狙った鈍器としての散弾銃が防がれる。

 

 ベレーザの蹴りが股間に向け放たれる。後ろに飛ぶが、それを逃がさないのがリーチに優れる棒とその間合いを活かす技術に特化した棒術。

 

 振り払われた棒が散弾銃に当たり叩き落とされる。銀のナイフも手放し、ジークリンデを回収してない状況では丸腰だ。

 

 「ラァアアアアアンンンンンンザァアアアアアア!」

 

 怒涛の追撃を、腕を交差させて防ぐ。だがしかし、一発一発が重い。このままでは両腕が使い物にならなくなるのも時間の問題だ。

 

 「お前さえいなければ!お前さえ、お前さえ!俺は、俺だけはサグレを護ってやらなければいけなかった。なのに、それなのに!」

 

 ガードの隙間から、顔面狙いの一撃が繰り出される。だがその隙間は、敢えて残した隙。激情にかられ痛打を与えようと攻撃を繰り返すベレーザはまんまとそれに誘われる。攻撃の場所を誘導したため、先読みで頭をそらして一撃を回避。戻されようとする棒を握りしめ、二人の力がきっ抗。

 

 硬直した棒の真ん中を蹴り上げる。二つに爆ぜ割れた棒をそれぞれが握りしめたまま、対峙。

 

 剣のように上段で構えるこちらに比べ、ベレーザは刺突剣を持つように、割れたひょうしにささくれて尖った先端を向け真っ直ぐ構える。

 

 一歩前に出て、頭上に向け棒を振り下ろす。軽い足さばきでそれをかわされ、間合いに踏み込みささくれた棒の先端を突き出す。腹部に痛みと熱、ジワリと血が滲み苦痛が身体に伝わった。

 

 「殺しやがって、サグレを殺しやがって!許すかよ、許されてたまるものか!みんながお前を認めても俺がお前を認めない!」

 

 棒を握りしめたままグリグリと傷口を抉る。痛むには痛むが、鋭利な刃物や槍の切っ先で刺された訳ではない。多少無茶をしても、重症化はしないと判断し傷を無視して一歩前に出る。

 

 ベレーザの顔を掴んで地面に向け力強く押す。軸足に力を込め耐えようとしたが、その足にこちらが手に持つ棒を叩きこむ。ささくれが靴を貫通し、足の甲に突き刺さる。

 

 体制が崩れ地面に背中からベレーザは叩きつけられ、持っていた棒が転がる。その額に向けスタンピングをしようとしたが、横に転がり一撃を回避。獣のように四足で起き上がり、低空に飛び掛かる。

 

 狙いは、出血で真っ赤に染まったサグレに吸血をされた足。気づいた頃にはもう遅く、低空からの飛び掛かりからしがみつかれ、穴だらけにされた足に歯が食い込む。痛みにうめき声があがり、視界がよろめいた隙を狙われ再度拾った棒での一撃が顎に直撃する。

 

 仰向けに倒れてこんでしまい、そのうえをベレーザがまたがりマウントをとる。下からの拳を打ち込みベレーザの頬に食い込むが、姿勢がのせいか腰の入らない一撃となり、痛そうに顔をしかめるものの手応えを感じない。

 

 逆に空の手を拳に握りしめたとなったベレーザからの一撃が顔面を狙い襲い来る。手を交錯して防御をするが、こちらの護りが堅いと見るや否や棒のささくれを先程噛みついた部位に突き刺す。痛みに怯んだ隙に防御の為交錯させた腕が無理矢理こじ開けられ、頭突きが叩きこまれる。

 

 身体を暴れさせ振り落とそうとするが、バランス感覚か絶対に逃がさないと誓う執念か。振りほどくことも落とすこともできない。そんな無駄な動きをしているうちに、ただでさえ少ない血液が身体から流れていく。

 

 激しく動いている筈なのに、眠気のようなものまで訪れ頭がクラクラとしてきた。力が入らず防御も反撃もままならない。そんなこちらの隙を見逃さず、更に顔面に拳が叩きつけられる。音がなにもかも遠くなって聞こえる筈なのに、こちらを殴り続けるベレーザの慟哭だけはえらく耳に響いた。

 

 ベレーザは、殴りながら泣いていた。殴るお前が、そんなに苦しそうな顔をするなよ。殴りたくないってツラで泣くんじゃなねえよ。なんでこんなことをしているか、分からなくなるじゃねえか。

 

 しばらく殴打の音が響き、ベレーザの拳が止まる。こちらからの抵抗がもう無いと判断したのか、足に突き刺していた棒を引き抜きこちらの額に狙いを定める。そのまま体重をかけながら、全力で打ち下ろせば頭蓋が陥没し俺は死ぬだろう。一度は無理でも、何度でも繰り返せば良い。

 

 だが、そこでベレーザの動きが硬直する。身体を震わせ、嗚咽をあげながらなかなか行動に移そうとしない。

 

 「なんて…ツラしてやがる。サグレの仇…とれよ」

 

 「なんで…ランザ」

 

 「俺もいるんだ、殺したい……奴がな。家族を殺した…奴がいる。だから……お前の気持ちは…分かるんだ。だから…やれよ。俺の気持ちより…お前の気持ちの方が強かった……それだけなんだから」

 

 テンを殺したい。それだけの為にここまで生きてきた。だが、志半ばでここで散ることになるだろうか。だが、それこそ仕方ない。ベレーザが俺を殺したい理由は、他ならぬ俺がよく分かるんだから。

 

 視界の端でなにかが動くのを捕える。とっさに腕をあげ払うと、俺の左腕が半ば以上千切れて鮮血が飛んだ。ギリギリまで気づかれないように細くしたジークリンデの刃でベレーザの首を狙ったようだが、割り込んで来た俺の腕に払われベレーザの首筋に刃がかすめるにとどまった。とっさに手をだして無理矢理払いのけなければ、ベレーザの首が飛んでいただろう。あの悪竜め。

 

 「時間……ねえぞ」

 

 「ハッ…ハッ…ハッ…」

 

 「やれぇええええええええええ!ベレーザぁあああああああああ!」

 

 「ああああああああああああ!」

 

 ベレーザが、棒を大きく持ち上げた瞬間、一発の銃声が響く。ベレーザの衣服に穴が開き、ゆっくりと血の染みが広がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「え?」

 

 腹部に穴が開いたベレーザが、間抜けな声をあげ、ゆっくりと後ろを、こちらを振り向く。

 

 サグレとランザ。二人の戦いに加勢に入ろうと、大鳥使いの男が持っていたライフル銃を杖にして牛歩のごとく歩いてきた。

 

 辿り着いて視界に入ったのは、頭が潰れたサグレの死体と、ランザに馬乗りになり棒を構えるベレーザ。ランザはほぼ全身から血を流し、なにかをベレーザに向け話しかけていた。

 

 状況の理解が、遅れてしまったが。瞬時に一つ気づいてしまう。

 

 ベレーザは、ランザを殺そうとしていた。

 

 頭が真っ白になる。たが、一つだけ理解できることがあった。ランザが、殺されようとしている。ただそれだけだった。

 

 杖代わりにしていたライフル銃を構える。銃を扱ったことなどほぼないが、使い方は理解していた。狙いを定め、引き金を引くだけ。薬莢の火薬が破裂をし、高速回転した弾丸が放たれる。鋼鉄の弾丸は、狙いを寸分もそれずベレーザの背中に吸い込まれ、腹部から飛び出していった。

 

 そうしてベレーザは、なにがおこったか分からないといった顔でこちらに振り向いた。だが、ライフル銃を構える自分を見て、少しだけ微笑みを浮かべ背中から倒れる。

 

 「ベレーザ…ベレーザァ!」

 

 ランザが身体を支えながら起き上がり、それでも支えきれず倒れたベレーザにすがりつく。震える手で止血をしようと傷口を抑えるが、意味がない。よく見ると、ランザの左手も半ば千切れかけていた。血を失いすぎて青白い顔をしているのに、鋭い目をこちらに向けてくる。

 

 「ランザ、怪我を…」

 

 ランザになんとか駆け寄り、肩を掴もうとしたが拒絶するように手を弾かれる。殺されようとしていたのに、殺そうといていたベレーザの命の方が大切だと言わんばかりの形相だった。

 

 「クーラ…お前。なんで…クソ」

 

 「だって…ランザが殺されようと」

 

 「それでも良かったんだ!ベレーザと俺の気持ち、どちらがより強いか、それだけの話だったんだ!それがこんな…クソッ!」

 

 「よせよ」

 

 怒鳴りつけるランザを留めるように、ベレーザが口をゆっくりと開く。怒りに歪んだランザの表情とは対照的に、これから死んでいくとは思えないほど穏やかな顔だった。

 

 「お前の気持ち…なんて誰がしったこった…なんだぜランザ。クーラちゃんは…大好きなお前を護った…そんだけだろうが。怒鳴るなよ…俺がお前にキレるぜ」

 

 「だけどベレーザ…お前は、俺を殺す資格があった。正面からぶつかり…お前が勝ったんだ。なのにお前が…」

 

 「いや…これで良かったんだ。……どの道、この世界にもうサグレはいない。お前を殺して生き延びたところで…俺になにが待っているんだ。それによ」

 

 ベレーザの手が、伸ばされランザの肩に置かれる。もう片方の手も伸びてきたので、膝をつくと自分の肩にも乗せられた。

 

 「良かったんだ…これで…友達を…殺さずにすんで。はは…殺したいほど憎かったのに……俺は甘いよ。やっぱり…殺したくなかったし、殺さなくて良かったと…ほっとしてんだぜぇ。……おい…ぜったい…クーラちゃん怒んなよ。お前のこと……ほんとに大好きなんだからさ。あとは……まあ…生きておけよ。殺したい奴…いんだろ。」

 

 「喋れるな!分かった、分かったから!今…血を止めてやるから!」

 

 ベレーザは、笑った。口から血を流しながら、それでも人懐こい笑みを浮かべて。ランザが。ベレーザの手を掴む。自分も肩に乗せられた手が落ちないように腕を両手で掴んだ。

 

 「俺はもう…いい……もう…なんも見えねえ。サグレのところに行くよ。そこが…俺の居場所……ああ、サグレ…待たせた……い…ま…」

 

 「ベレーザ!べレ……」

 

 ランザが声をかける。だが、ベレーザ耳にはもう声が届いている様子はなく、瞳はなにも映していなかった。拳を強く握り、ベレーザを手を掴んだまま静かに顔を伏せている。その顔は、涙をこらえているようにも見えた。しばらくそうしていただろうか、突如どこからか声がかかる。

 

 「おい」

 

 ランザの背後から、褐色肌の女性が現れる。キラービーのいた森で、現れた異質な存在。尻尾が逆立ち冷や汗が流れるが、ランザはその女に声をかけられても振り向きすらしなかった。

 

 「何時までもそうしていると、死ぬぞ」

 

 「………」

 

 「ベレーザに、お前を殺させるつもりか。ここでお前が死んで、誰が喜び得をする。オレも、雌狐だって嬉しかねぇよ。お涙頂戴の三文劇はもうしまいにしてさっさと…」

 

 ランザが立ち上がり、女に向け殴りかかろうとした。褐色肌の女は一撃を頬に喰らうが、血のツバを吐き出しそれでもまっすぐランザを見つめる。

 

 「オレの好みじゃねえ、まったくもってオレの好みじゃねがよ。そいつは一つの矜持ってのを若造なりに持ち、お前に示したんだ。それに比べてお前はどうだ相棒。何時までそこで固まってりゃ気が済む、死ぬまでか?お前は、ベレーザを人殺しにしたいのか」

 

 ランザは黙って、千切れかけた腕に視線を落とした。ジークリンデはその手を掴み、先程まで人の大きさだった顎を爬虫類のように大きく裂けながら噛り付き食いちぎる。

 

 「ヒッ!?」

 

 あまりに異常な光景に思わず立ち上がり、ルーガルーの短剣を抜こうとしたがランザが手を上げて静止。女が裂けたランザの手を掴んだまま、咀嚼をしつつ目を閉じると。まるで新しい手のひらが生えて来るように新たな手首が再生し傷口が塞がっていく。

 

 咀嚼を終え口から血を流しながら、肉ごと骨を呑みこむ。口から垂れる血を拭いながら、女は口を開いた。

 

 「強い男だった。それに強い女だった。ベレーザもサグレもな。そんな二人からお前は、なにを感じて学びとった?よく考えてみろ。そして、もう二度と勝ちを譲るような真似をするんじゃねえ。今後そんなことをしたら、それはお前に殺された二人に対する侮辱になる。忘れんな相棒」

 

 「……ああ」

 

 頷いたランザ、白んで来た空が照らしていた。夜が明け、朝日が昇り惨劇に見舞われたモスコーを照らし始める。

 

 一夜にして死都と化したモスコーを、朝日は何時もと同じように照らしていた。モスコー成立後、五百年記念祭は、こうして朝の光と共に終わりを告げた。

 

 



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18

 モスコーの古城、その裏山は遊歩道も整備され観光客が自然を楽しみながら散策をできるようになっている。

 

 途中ある東屋からは、景色がよく街が一望できるため平時の休息場所としては、もってこいの環境だ。

 

 しかしそんな東屋から見える景色は半焼し、いまだくすぶる火のてから煙が巻き起こる街並みだ。騒動から二日、街には各地からギルドや個人事務所からの応援が駆けつけ生存者の捜索や瓦礫の撤去が行われているのが見える。

 

 この街が再建することがあるだろうか。少なくとも、以前のような古都として魅力は取り戻せないかもしれない。この街に滞在した時間は短いが、それでも多少なりとも思うところがある。

 

 東屋がある道から少し外れ、遊歩道から外れた細い道の先に歩みを進める。遭難防止の為の柵を乗り越えて飛び、着地をした拍子に手に持つ紙袋がガサリと音を立てた。商魂逞しい商人達は、この惨劇の後でも自らの店内をひっくり返しながら使える商品を見繕い天幕を張って商売をしている。そんな連中から、買ってきたものだ。

 

 森の中をしばらく進むと、開けた場所に辿り着く。崖際に、盛られた土と墓標代わりに刺された半分に折れた棒。その前には、シャベルを片手に汗を拭うランザの姿があった。

 

 「ランザ」

 

 声をかけ、紙袋の中から水の入った革袋を投げ渡す。掴んだランザは、蓋を開けて中身を一気に飲み干した。一つ大きくため息をつき、革袋を自身の子袋の中にしまいこむ。

 

 「手間をかけさせたな」

 

 「ううん。それよりもこれ」

 

 酒瓶を取り出し、封を開けて近づく。ランザがそれを受け取り墓に琥珀色の液体を振りかける。最後にほんのわずかに残った液体を、目をつむり黙とうをしてから飲み干す。それに習い、自分も黙とうをした。

 

 サグレとベレーザ。二人の墓は静かで誰にも邪魔をされない、そんな空間を探した。自分からの提案だったが、ランザもそれには頷いた。共同墓地に葬るのは二人は望まないように思えたし、それ以前に下の様子からとてもそんなことはできそうにないと感じていたからだ。

 

 しばらくの沈黙。サグレとベレーザがどんな宗教を信仰していたかは聞きそびれたし、もしかしたら自分と同じように無宗教なのかもしれないが、とにかく天国とか来世とかあるならば二人ともそこで幸せになってほしいと願う。

 

 生き延びた者の傲慢な願いかもしれない、殺した相手への罪悪感を軽減する為の行いかもしれない。だが、この悼む気持ちは本当である。誰にも文句は言わせはしない。

 

 サグレもベレーザを愛していたからこそ、ベレーザの求婚を一度断ったとランザに聞いた。自分は、ベレーザの心中を深く本人から聞いていた。ベレーザが本当にサグレを好いており、どんな決意を持って求婚をしたのかを。

 

 ベレーザを吸血鬼にして共に愛し合おうとしたサグレと、街一つ滅ぼしたサグレを変わらず愛しランザに仇を求めたベレーザ。二人の愛は最終的に歪んでしまったのかもしれないが、それでも自分には眩しく思える。歪んだ愛を抱えるのは、『同じ』だからだ。二人を見て、自分も一つの感情と歪みを自覚してしまった。

 

 「クーラ」

 

 しばらくしてから、ランザが呟くように名前を呼んだ。ピン、と尻尾と耳が跳ねる。ランザに対しても、話すことが山積みとなっていた。

 

 テンのこと、レントのこと、自分のこと。どれからまず話せば良いかは、分からない。

 

 「悪かったな」

 

 「え?」

 

 「半獣呼ばわりして、傷つけるようなことを言った」

 

 しばらくキョトンとしてから、記憶を巡らせてようやく思い出す。サグレがベレーザの血を初めて吸い飛び去った後、ランザは自分に半獣に対する差別発言をしてから追いかけて行った。あの時は少しショックだったかもしれないが、その後がその後なのですっかりと忘れていた。

 

 そんなことは、こちらとしてはもうどうでも良いが、それでもしっかり覚えていて謝らずにいられなかったのだろうか。ランザという人物の人柄が、少しだけまた理解できた気がした。

 

 恐らく彼は全部、覚えているのだ。自分が行動したことに関しての過程と結果を。

 

 あの夢を思い出す。小さな家屋の中に転がる人妖の死体達と、二つの人間の死体。あれがもしランザの内面を現した世界だとしたら、あの中にサグレとベレーザが加わるのだろうか。そして、自分が死んだら、その死体も。

 

 それを全て引きずって、また次の人妖の元へ向かう。テンを倒すか自分が死ぬまで、その歩みは止まらない。ひょっとしたらランザは、自分でも気づかないうちにそれに疲れているのかもしれない。

 

 ベレーザはサグレの仇を討とうした。だがそれは、あのクイーンビーの人妖を討ち取った時に扱った連結刃を扱えばいくら手負いでも容易く返り討ちにできただろう。同じ仇討ちという志を目の前に、終われるなら、ここで終わっても良いと無意識に考えたのか。だとしたら、救われない。

 

 自分は、ランザを殺そうとしたベレーザを殺した。だとしたらベレーザ、化けて出るなら自分のところに出てきてくれ。人一人、背負える人数にも限界があるというものだ。負担を少しでも、背負うことができるならば願ったりだ。

 

 「許さないって言ったら?」

 

 「どうするかな、少し分からん」

 

 「嘘、許すよ。でも教えてほしいことが沢山あるし、こちらから伝えることもある。ランザ、あの褐色の女性は誰なの?テンという女は何者?なにを…目的で人妖を狩ってまわっているの?」

 

 弱ったような表情を浮かべ、しばらくなにかを考えているようだが小さくため息をついた。手近にあった丁度いい大きさの岩に座り込み、スコップを地面に刺す。

 

 「話したくはないが、話さなければならないか。本当はクーラ、お前にはこんな話を伝えずにどこかに根を張ってまともに暮らしてほしかった。だが、お前はもうテンに目をつけられ、なにかを身体に埋め込まれている。ならばもう、ついてくるしかないだろうしな」

 

 ランザにとっての私は、得体の知れない爆薬を埋め込まれた時限爆弾か不発弾のようなものなのだろう。今までは、どこかで安心で平穏な暮らしをしてほしいと考えていたようだが、今は近くに置くしかないと、腹に決めたようだ。

 

 テンが、捨てられないようにとこの身体になにかをほどこした。そのなにかは、今は沈黙しているが内部で未だに奇妙なものが渦巻いているような感覚がある。また時と場合を見てそれは出現するのだろうか。それとも、何時でもこの身体を自由にできるのに敢えて泳がせているのだろうか。不安がない訳ではない、むしろ積もるばかりだ。

 

 だが、同時にある種の安心感があるのも確かだ。これのせいで、少なくともランザは自分を切り捨てるという選択肢をとることはできなくなった。望むとも望まぬとも、その旅路に同行することになるだろう。

 

 話せば長くなる、という前置きをしてランザは自分のことを話し始めた。

 

 若き日に冒険者に憧れ、未開地の探索に足を踏み入れたがそこで尊敬していた隊長と苦楽を共にした仲間達を全て失い、その代わり伝説に残る悪竜ジークリンデを封印したこと。

 

 冒険者を引退してから、しばらくなにもする気がおきず抜け殻のような生活を送っていたが、ある日浜辺で子供を拾いその子を育てる為に手に職をつける努力を始め家具工房に努めながら娘と二人暮らしを始めたこと。

 

 好きな相手ができて、なんとか口説き落とし紆余曲折をへて結婚をし、人生において一番幸せな期間を過ごしたこと。

 

 そして、その生活のなにが気に入らなかったのか。テンが自分の伴侶と血を分けた実の娘を斧で斬殺したこと。そして、狐の人妖に変貌し各地で人妖を量産し災いを振りまいているということ。

 

 浜辺で倒れており、二人で生活をし、実の妻子の命を奪ったのはテンというあの占い師に扮していた人妖。そして腰にぶら下がる切れ味も見た目もひどいボロ剣こそが、悪竜ジークリンデを封じた剣であり、もしかしたらその封印はもうほとんど解けかかっているかもしれないという疑念がある危険物。

 

 遥か格上の仇をとる為に、何時暴発するかも分からない爆弾を抱えながら旅をする。ランザは、自分を旅に同行させたくなかった訳だ。ともすればこの人は、周囲を巻き込みながらともうすればあっさりと死ぬだろう。

 

 いや、逆か。周囲の全てを犠牲にしてでも二体の人外は何時までもこの人を生かすかもしれない。自分達の愉悦の為に。

 

 テンは謎の執着をランザに向け、ジークリンデは甘言を囁きランザを誘惑する。二つの大きな力に板挟みになり、何故擦り切れていないのかが不思議なくらいだ。奴隷となった半獣、自分の人生もたいがいだと思っていたがランザには負けるかもしれない。

 

 だからこそ、その瞳に惹かれたのかもしれないが。

 

 そこまでランザは話し終えた。ランザにとっては、全てを打ち解けたのは二人目だそうだ。一人は掲げる大盾、リスム支部長のグロー=カザルタフ。冒険者時代からの顔なじみで親友。そしてもう一人は、自分だった。

 

 まとまりがなく脱線も含んだ話だったが、ランザにとってはあまり他人には話したくないし、話す気もない内容だからだろう。その全てを傾聴し終えた頃には、すっかり太陽は低くなり夕日となって輝いていた。

 

 「これが俺の半生でおこったこと、そして旅の理由だ。こうなってしまった以上、クーラには否が応でもこの旅に付き合ってもらうことになる。もしくは、その身に降りかかっている、テンの呪いをどうにかできれば話はまた別になるが」

 

 「そんな充てはない、めどもない、そうでしょう?」

 

 「俺達家族の問題に、お前を巻き込んだ。本当に申し訳ない、全ては俺の責任だ」

 

 ランザが深くため息をつき、頭を下げた。何時までも頭をあげる様子を見せないランザに、近づく。

 

 「ランザ」

 

 悲痛な表情のランザが、呼びかけに応じて顔をあげた。責任を感じているようだ。その責任に、漬け込む。

 

 「自分は、テンになにかされた。それは、自分も人妖になってしまうということなのかな。テンは人妖を各地に造っているんでしょう?ならばその可能性は…」

 

 「残念だが、ゼロとは…言い切れない」

 

 「怖いよ、ランザ」

 

 嘘だ、怖くはない。むしろ感謝をしているくらいだ。ランザはもう自分を切り捨てることは絶対にできない。狐と竜に占拠されあえぎもがくその心中に、罪悪感というスペースをつくりその中に自分を刷り込んでいける。

 

 宿敵たるテンにも、強者たるジークリンデにもそれはできない。自分だけに許された、武器だ。内心ほくそ笑む。

 

 テンは殺意を自分に向けさせることで、それがなによりも代えがたい強固な絆だと思い込んでいるイカレタ女だ。余裕綽々で、自分の優位性を微塵も疑っていないだろう。

 

 ぺットとこちらを呼び、ご褒美なんて言葉を使ってくるあたりこちらに対する認識など文字通り愛玩動物と変わらないだろう。つまり、障害としての自分はほぼ眼中にないとみえる。

 

 ジークリンデはどうだ。悪竜の格は落ち、長く大海に君臨をしていた海竜すらも人の手で倒されたが、それでも人間と比べれば頑強で強力な種族だ。甘えと罪悪感をつくことで感情を占拠することなどできはしない。治癒等のメリットを適度に与えながら、悪竜としての存在を加害という形で表し自分に注意を向けている。

 

 甘言で、力をつけそれを施すからと贄を捧げさせようとしているということから、もしかしたら、自分の力に依存させて関係をつくるのが目的かな?これは女の勘だが、ジークリンデはランザが思うように封印を破り元に戻りたいなんて今は二の次であまり考えていないだろう。こちらは、共依存の関係を作ろうとしている。

 

 そんな二人には真似できないもの、それは庇護欲。半獣の身も奴隷の身分もレントとの確執も、全て利用する。変異に対する怯えを見せる。それは妻子を失ったランザに対し、新たに護らなければならない存在だと認識させることができるだろう。

 

 正直傍から見れば自分の行いは浅ましい屑の行いだ。演技をし、ランザの妻子が殺されたことにすら漬け込んで、その心中に居場所を広く大きく作ろうとしているのだから。あんな過去を聞いた後にそれを利用する、最低も良いところだ。

 

 だが、止められない。なにもかも出遅れ、周回遅れも良いところな自分にとってはそれがすべてだ。そして然るべき時に全てを打ち明けようか。ランザと自分の関係が、切り離せない程深くなったとしたら。

 

 その時ランザはどんな顔を浮かべるだろう。どんな感情を抱くのだろう。どんなおしおきをしてくれるのだろう。考えただけで、口角が上がりそうになる。表情筋を全力稼働させ、不安な顔を維持。苦労するよまったく。

 

 「テンは必ず俺が殺す。お前は助かる。なにも心配しないでくれ、クーラ」

 

 「うん……ううん。やっぱり今は無理、怖い。だからせめて今は、落ち着くまで抱きしめてほしい。それで、大丈夫だって言ってほしい。お願いランザ」

 

 ランザの手が、躊躇するように背中に回される。少し触るだけで、思いきり抱き締めるような真似をしないのは悩んでいるからだろうか。それとも、まだ少女といえるこの身体に対する配慮か遠慮からだろうか。もう十年、いや五年分身体が成長すればと歯がゆい思いでいっぱいだが、今はこれが限界か。

 

 その代わり、こちらから背中に手を回し胸板に頬を押し付ける。鼻いっぱいに香りを吸い込み、陶酔してとろけそうになる頭を必死に回転させにやけ面が浮かぶ表情を阻止。今はまだバレる訳にはいかない。

 

 新たな決意を腹に決め、どこかにいるテンを睨むように宙を見つめるランザ。テンが死んだ後、仇を果たしたランザはその怒りや決意の分中身が空になるだろう。その時、その心中に滑り込むのは自分だ。その内心を制圧した時全てを打ち明け、浅ましい思いや今の心中を全て語る。

 

 当然ランザは怒るだろう。愛する妻子を出汁にして自分に取り入った自分に対して。だがその頃には、自分はランザにとって離れがたい存在になっているように仕込み、仕向ける。

 

 愛憎混じるランザとの交わりは…暴力的で、救いようもなく、悲観すら混じり。そして自分の望んだものとなる筈だ。その手でもう一度あの夜を、今度は男女の関係となった後で再現してくれればこれまでの人生全てと交換でお釣りがくる。

 

 ただ暴行を受ければ良いという訳ではない。そこに愛が伴って、それでもなお加害に走らなければならないという止められない憎しみがほしい。

 

 それはテンが持つもの。ジークリンデが、ランザに向けるもの。そしてサグレとベレーザの間にあった、形は変えてはいるがある種純粋な、しかし最後には歪んでしまった愛情だ。

 

 サグレ、ベレーザ。自分は失敗しない。どんな手を使ってでも、テンを倒し、ジークリンデを抑え込み、ランザを自分の物にしてみせる。

 

 首にかけられた、サグレが彫った馬のお守りに意識を向ける。形見分けとして、生前くれると言っていたそれはちゃんと加工され首にかけられるようになっていた。目的地まで無事にたどり着く願いがこめられたお守り。ちゃんと、自分の願いの果てである目的地にたどり着くように気持ちを込めて祈る。

 

 胸板から顔を話し、肩に首をおくように首の真横に顔を近づけた。ランザの視界から外れたその時、表情筋が崩壊。顔が緩まってしまう。

 

 そのまま暗くなるまで、ランザを抱きしめ続けた。自分の顔が、見られてもよくなるように戻るまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「君か」

 

 質の良い調度品、高級な革張りの長椅子、棚に飾られた高級酒とガラスのグラス。全てが質の品の良い品物で囲まれたシャンデリアに照らされた部屋にて、男は不機嫌そうに口を開いた。

 

 「こんばんは、イコライ上院議員。夜分突然の訪問、申し訳ありません」

 

 四十半ばを過ぎた帝都のやり手政治家バザード=イコライはこの数日間、非情に不愉快な感情が心中渦巻いていた。政敵との暗闘や市民の人気取り、政策についての駆け引きなどもそうだがそれ以上に、実の娘であるカリナ=イコライが自治州の一都市であるモスコーに消息を絶っていた。

 

 娘はどうやら祭りに参加したいが為に一人でモスコーに向かい、暴動に巻き込まれて行方不明になっている。それだけでも気に病む事態だが、目の前の男がモスコーに向かい娘の安否確認をするでなく悠々と帝都に残りこうして顔をだしてくることが心底気に入らない。

 

 娘であるカリナは、この男にいれこんでいた。甘いと思いつつ色々優遇をしてやっていたのだが。そんな献身的だった娘を放りだしてまでこの帝都でなにをしているのやら。

 

 「正直私は君に失望している。君に時間をとりこうして室内に通した理由は、もう二度と君に援助をする気も助け船をだすつもりもないと伝える為だ。分かるかね、レント君」

 

 「それは、娘さんを探しにいかない僕に対する憤りでしょうか」

 

 「分かっているじゃないか。ならばもう失せたまえ、これ以上君に時間を使う訳にはいかないのでね」

 

 「本当にそんなことを言って、よろしいのでしょうか」

 

 レントは鞄の中から、紙の束をとりだしテーブルに投げる。それを見て、バザードの表情はみるみるうちに青ざめた。

 

 「貴様…これは」

 

 「連合王国の大物議員との密会や裏取引、非合法組織との繋がり、政敵暗殺の証拠、選挙やその他不正に献金賄賂などなどなど。本当に大した大物議員ですねあなたは、これだけの悪事を同時に進めているのだから」

 

 「何故分かった、どうして」

 

 「娘さんですよ。彼女はボクには非常に従順、貴方の不利になる行いも、喜々としてやってくれましたよ。あとボクには特別な力とそれを分け与えた仲間がいる。その気になれば、この手のスキャンダルを掴むこともできる。まあ、それでもなかなか骨が折れました。流石はイコライ上院議員。凡庸な他の議員と比べ、場数を踏んでいますね。あ…ちなみに仲間も写しを何枚も持っているので、僕を殺しても意味はありませんよ」

 

 警護を呼ぼうとして、半殺しにして仲間の居場所を吐かせようか…とまで考えてやめる。地下迷宮をはじめ相手は数々の功績と人脈を得てきた存在だ。下手に警備を読んで返り討ちにされ、相手を怒らせるよりは交渉事に持ち込んだ方が傷は浅いかもしれない。その可能性に、賭ける。

 

 「告発をするつもりか?それとも、脅しか?」

 

 「いえ、これまで通りの協力を…ああ、脅しになってしまいますね、これは。ならば脅しということで」

 

 「なにをさせる、つもりだ」

 

 レントの背後で扉が開く。ノックもなしに不躾に入ってきたのは緑髪を背中まで伸ばし、バカみたいに薄いスケそうな布地のみで身体を覆う女性だった。緑色の瞳と目が合うと、自然と足が一歩下がってしまう。

 

 「真の信仰を取り戻すのだ、人の子よ」

 

 尊大な口調から、有無を言わせぬ迫力。魑魅魍魎渦巻く政界に長年席を置き、あらゆる策謀を競わせてきたがそのどんな相手にもこのような迫力を持つ者はいなかった。

 

 「今ある宗教は、かつて神の存在を嫌った愚かな背信者が人々を欺いたもの。人々に真の信仰を取り戻させる必要がある。その為に、そなたの力が必要であるようでな。光栄に思え、我に仕えることに」

 

 「ボクは、彼女を信仰の対象とした古い宗教の復活を目指しています。その為に上院議員、貴方には表から裏から強力にサポートをしてもらいたいのです。現存する宗教に対して古くからあるとはいえ、世間的には新興と思われてしまうこちらはあまりにも無力、しかし政治的な後押しがあれば、そのスタートの不利を払拭できます」

 

 「馬鹿な…政教分離がこの国の基本政策の一つだ。政治家の立場でどれだけの役に立てるかなど」

 

 「裏から手を回す手段は、いくらでもお持ちですよね」

 

 レントの言葉に、歯ぎしりをする。こちらに不利な情報を大量に握られている現状、協力するしかないのか。

 

 「ボクはボクの約束を果たす為に彼女を押し上げます。そしてそのあかつきには…いえ、今はやめましょう。具体的な方針の提示は後日、おやすみなさいイコライ上院議員」

 

 レントが芝居がかった仕草で指を弾くと、二人の人影が部屋から消失した。テーブルに残された不正の証拠を、片端から破り捨てる。

 

 娘を失い、その娘に暗部を暴かれた。怒りと憤りのまま、散り散りに紙を破り捨てていった。



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浜辺にて


 海岸で、子供を拾った。

 

 その日暮らしの労働をしながら日銭稼ぎ。日々の生活を飯と酒代だけで消費していく毎日、やりがいはないがある種の安定に満足をしていた。命の危険がなにもない、刺激とは正反対の退屈な日々は少しずつ腐っていくような感覚はあるが、それでも今更なにかをしようとは思えない。

 

 そんな毎日ではあるが、今日は仕事にありつけず久々に休日というものが訪れた。まあなにをする気もなかったため、近所の知人に釣竿を借りて昼飯と、あわよくば夕飯代金を浮かそうという魂胆だった。

 

 釣りは、正直嫌いではないが好きでもない。やることもないため、ただ呆然として過ごすならば海に浮かぶウキを見ていた方がいくらかマシだと考えたくらいだ。それくらい、人生に目標もなにもなかった。

 

 といっても海辺に住んでいるくせに釣り素人の俺は、どこに竿を投げ込めば良いかも分からない。適当にぶらぶらと散策をしながら良いところを見つけることしていた。

 

 海流の影響か、時折この浜辺には木箱や木材の残骸が流れつくことがある。賊に襲われたか、戦争か、はたまた海竜の仕業か。流れ着いた木箱の中身はたいていしみた海水でダメになったり、腐った食料だったりすることもあるが、一度だけ魔術具がまだ使える状態で入っていたことがあったらしい。

 

 近くの街でそれを売り払い一儲けした釣り人の話も聞いたことがあったため、あわよくばそんな木箱が転がっていないかなと探しまわるのも兼ねての散策だ。

 

 「ゴミだらけだな」

 

 浜辺は、木材や布切れが散らばっていた。またぞろ、どこかで船が沈没したかなにかしたのだろうか。だが木箱の類や、金に換金できそうなガラクタは見つからない。目ざとい奴がもう持ち去った後かもしれない。

 

 ゴミから売れる漂流物を探すことに飽き飽きしてきた俺は、どうせ適した釣り場所も分からないのだからと適当に見つけた岩場の上に昇る。岩石できた自然の桟橋の上から餌を針につけて糸を垂らす。素人考えながら、浜辺から糸を投げるよりは少しでも海に近い方が良いんじゃないかと考えたからだ。

 

 さてそれじゃあ、しばらく退屈を楽しむかと座り込もうとした際。その死角となっていた岩場のすぐ下に視線がむいた。

 

 なんのことはない、それも船の残骸の一部だ。マストだろうか、ただこんな長くて重そうな残骸も沈まずに流れて来るんだなとその棒の先まで視線を向ける。

 

 「おいおい」

 

 見つけてしまった。あまり見つけたくないものを。

 

 ボロ布を着た黒髪の少女が、木の板にしがみついたまま浜辺に打ち上げられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「申し訳ありませんが、これ以上は無理です」

 

 見つけてしまった以上、面倒事だと思いつつも少女に近づく。これが死体ならば、多少手間はかかるがこれもなにかの縁だと簡単に埋葬だけはしてやるつもりであったが厄介なことにまだ息があった。

 

 取りあえず釣りを中断し、集落にあった教会に少女を持ち込む。孤児院も併設している教会だ、神の慈悲とやらでこの少女を助けてもらえば良い。発見者の義務は、これで果たしただろう。

 

 そう考えながら、身体をふかれ着替えをされる少女を預け俺は教会の神父兼院長と話をする。少女はここに運ばれる最中意識を取り戻しており、怯えたような顔をしながらずっと俺の顔を見つめていた。そうして今は、周囲から話しかけられる年配のシスターに困惑しながら視線を泳がせている。

 

 立ち去ろうとした瞬間、呼び止められた。なにか手続きがいるのだろうかと気楽に考えて、案内された一室に通されたが、出てきた言葉は冷たいものだ。

 

 「は?」

 

 「当孤児院の受け入れ可能人数は既に超過しています。運営も寄付金や本部からの支援でまかなっておりますが、それももう限界なのです」

 

 「いや、知るかよ。神の僕にたいするあれ、神の愛は無限大なんだろ、確か」

 

 「それはその通りですが、我々にも限界があるということです。それにあの髪に瞳、言葉が通じないところを見るにどうやら彼女は異国の者。普段ならともかく、信ずる神の違う、言語も違う、そんな子供を受け入れる余裕はとても…」

 

 神父の顔は、とても残念そうな表情を浮かべていたが、その目は早く連れて帰れと訴えていた。子供に対するノウハウなんぞこちらにはない。それも、異教徒はともかく異国の子供なんて接し方すら不明瞭だ。そもそも言葉が通じないってどうしろっていうんだ。

 

 「俺だってガキの面倒みる余裕なんて…」

 

 「いえ、この出会いも神の導きであるでしょう。主は無意味な試練をかしません。この出会いが、なにか貴方にとって意味があるものなのではないでしょうか」

 

 それっぽいことを言っているが、俺がこの子供を山まで連れて行き捨ててきたらどうするつもりなんだ。やりかねない、今の生活は自分の生存を維持するだけで精一杯なんだ。もしくは、物珍しい髪と瞳を売りにして人買いに売りつけると考えないだろうか。

 

 本当に、やりかねないぞ。

 

 「すまんがやはり無理だ、里親探しは悪いがそちらで行ってくれ」

 

 立ち上がり、部屋の扉を開ける。シスターに三人に囲まれた少女は、身体をふかれ身なりのボロ布からボロ服にランクアップしていたが、怯えた顔をしておりこちらの顔を見た途端にスットンできた。腰辺りに抱き着かれ、震えているのが分かる。

 

 「おいやめろ。懐くなくっつくな。あのシスター達のところに行け。分かるか?ゴーだ、GO」

 

 無理矢理引きはがす。しゃがんで視線を合わせ、指をシスター達のところに向けた。だが少女は目じりいっぱい涙を溜めて首を左右に振った。拾っただけの男に感情移入をしすぎだ、なにを基準に俺が優しいシスター達よりも逃げ込む先だと判断していやがる。子供は本当に、分からねえ。

 

 「ほら、そんなに懐いているではありませんが。それを引きはがすのも、酷というものではないですか?」

 

 後ろから追いついて来た神父が、これ幸いにと言葉を紡ぐ。この流れは非常にまずい。

 

 「駄目だ、俺は悪い大人だ、あの人達のところに行きなさい」

 

 言葉は通じてはいないが、ジェスチャーはある程度通じているのか、涙目で首を左右に振る。内心舌打ちをし、立ち上がる。

 

 「俺から離れろ!俺はお前をどこかに売り払う悪くて汚い大人だぞ!近づくんじゃない!」

 

 腕を振るい殴る仕草をしてみせる。少女が怯んだ隙に、さっさと離れ教会の扉を開ける。背後からシスターの非難の声が聞こえたが、聞こえていないふりをして、一応寄付として出口近くにある受け皿に安い銅貨を放り込んでから乱暴に扉を閉める。今は、とにかくあの少女の近くにいない方がいい。

 

 その後釣りを再開しようとしたが、もしかしたら追いかけて海まで戻るかもしれないと考え釣りじたいを諦める。あれだけ怖がらせたのだから多分それはないとは思うが、念には念を入れてだ。

 

 釣り竿を近所に住む持ち主の爺さんに、謝罪と共に返却する。事情を尋ねてきたが、自分にはむいていないということにしておいた。ならば時間が空いただろうと、家の片づけや庭の手入れを手伝わされた。面倒くささに舌打ちをしようとなるが、こちらは移住してきた余所者だ。笑顔で了承しないと、近所付き合いに支障がでる。

 

 その後流れで爺さんに、干した魚とスープの昼食を奢ってもらうことになった。薄い塩味のスープだが、食事をだしてくれるのに文句は言えない。わりと汗水流したので、塩分がもっとほしかったが爺さんの年齢を考えれば塩辛いのはもうきついのだろう。

 

 その後薪割り、屋根の修理といいように使われる。お礼にと干した魚と昨日釣ったばかりで生け簀で泳がせていた新鮮な魚を数匹もらった。干し魚は紐を通し、鮮魚は小さなツボにいれてもらい家を後にする。労力の対価としては微妙なところかもしれないが、偶にはこういうのも悪くはないか。昼食と夕食を確保するという、当初の目的は果たされた訳であるし。

 

 家を出るころには、もうすっかり日が暮れていた。取り敢えず鮮魚を捌いて単純に焼き魚にするか。塩のストックはどれくらいあっただろうか、明日には爺さんにツボを返さなければなどといろいろ考えていたら、暗闇の先から歩いてくる人影に気づくのに遅れてしまった。

 

 目が合った、と思った瞬間しまったと内心毒づく。

 

 とぼとぼ一人で歩いていたあの少女が、こちらを見てパアッと顔を輝かせた。走って逃げようかとも考えたが、もう家は目と鼻の先だ。相手が駆け寄ってきたが、すぐに家に入り扉を閉めて鍵をかける。

 

 「なんだって俺なんだ」

 

 扉をドンドン叩かれていたが、もう無視を決め込む。異国の言葉でなにかを話していたが、なにを話しているか分からない。なにも聞こえないふりをして調理場で火をつけ魚をあぶる準備をする。

 

 鱗と内臓を綺麗に落としヒレを切断。水で軽く洗った後、塩を振りかけ鉄串を刺して、火の近くにたてるように刺しておく。あとは備蓄の、黒パンがあった筈。

 

 棚から安酒の酒瓶を取り出す。腹になにかを入れないうちに呑むのも普段はあまりやらないが、この日ばかりはさっさと飲んで床につきたかった。

 

 焼けた魚と黒パンを齧り、酒で煽る。爺さんの家で散々こき使われたというのに、今日は食事が喉をなかなか通らない。子供を見捨てることへの、罪悪感だろうか。

 

 だがしかし、もうなにかを背負ったり誰かに関わるのはごめんだった。グローが個人経営の傭兵のような事務所に所属するからと、誘いの手紙が来ていたがそれも無視していた。今更斬ったはったをするのも、勘弁したいしなにより顔なじみをもうこれ以上作りたくなかったからだ。

 

 それだけ、悪竜に殺された同じ探検隊のメンバーの死が未だに堪えているのだろうか。グローは先に進む道を見つけたというのに、俺は未だにこんなところでくすぶっている。

 

 悪酔いしやすい粗悪な安酒とはいえ、酔いが何時もより早く回り、夕食を半ば残して寝台に潜り込む。今は、一度全て忘れて酔いにまかせ惰眠を貪る。今はなにも考えず、ただ眠りにつきたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。来てほしくなくても朝はやってくる。

 

 取りあえず井戸まで出向き水を汲み、冒険者ギルドまで顔を出すことが日課だ。今日こそなにか仕事にありつければいいのだが。

 

 扉を開けると、なにかにひっかかる。もしやと思い隙間から覗くと、少女が扉の前で倒れふしていた。

 

 隙間に身体をねじ込み外に出ると、昨夜は暗がりでよく分からなかった少女の身体が朝日に照らされ見ることができた。

 

 顔がやや赤く、体調を崩しているようにも見える。目は泣き跡が残っており、苦し気な顔をしていた。足は土だらけであり、裸足だった。教会から飛び出し俺のことをずっと探していたのか、泥の中に血が滲んでいるように見える。

 

 「ああクソ、本当になんだってんだこのガキ」

 

 教会の連中も、飛び出したなら何故探してやらない。そんなにも異国の子供は面倒をみたくないか。

 

 軽い身体を抱え、家の中に入れる。残っていた水を全て使い足を綺麗に洗ってやり、救急箱から包帯と消毒液を取り出して治療をほどこす。痛そうに呻くが、少女は目を開けない。取り敢えず新鮮な水がもっといる。

 

 当初の予定通りに井戸水を汲みに家を出る。近所の住民に子供を締めだした大人だと認識されていないが不安だったが、その日は不思議なことに誰ともすれ違わなかった。放っておけば、どこかに行ってくれると思っていたので、玄関先に一晩放置は流石に体裁が悪すぎるってもんだ。

 

 問題の先送りかもしれないが、ひとまずホッとする。井戸水を桶に汲み持ち上げる。普段なら一杯で足りるが、今日は二杯分。もし熱をだしてきたら、それを収める為の冷たい水が必要だ。

 

 桶を二つ持ちかえると。少女は既に目を覚ましていた。机に乗る食べかけの黒パンと焼き魚を熱心に見ている。そしてこちらに気づき、恥ずかしがるように顔をそむけた。そんなに飯に意識をもっていかれたことが、恥ずかしいか。

 

 舌打ちをし、黒パンを手に取り少女に差し出す。おずおずとそれを受けとり、こちらが食べるジェスチャーをしてみせると明るい顔を見せパンにかじりついた。まずく固いパンであり、弱った身体には不向きである。案の定噛み千切るのに苦労をしはじめたので、一度受け取り水にパンを浸して柔らかくしてから再度差し出した。

 

 「食い終わったらさっさと出ていけ」

 

 言葉だけそういうが、通じていないだろう。少女を放置して、仕事を見つけに行く。一人少女を残していくからには、帰った時になにか物や備蓄の食料が無くなっていても文句はない。いやむしろ、それを持って消えてくれればいいとすら思う。他人と深い関係になり意識をしあうのは、もうごめんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギルドの仕事は、新しい開墾地の手入れだった。畑を耕すのに邪魔な木を切り倒し根を掘り返して、大小問わず植物の生育を妨げる石ころを退かしておく。まる一日働いて給料はそれなりであるが、こんな仕事でもありつけるだけまだマシだ。

 

 家に帰宅し、少女がいなくなっていることを期待して扉を開ける。だがそんな思いも虚しく、少女は家の中にいた。

 

 寝台の上には乗らず、それにもたれかかるように寝息を立てている。その手元には、ろくに使わない掃除用具が握られていた。よく見れば、ロクに掃除をしない家の中の清掃がされていた。空の酒瓶等のゴミは、だす場所が分からないのか一か所にまとめておいてある。

 

 恩を返すつもりなのだろうか。この少女なりに、考えに考えて。できることとして部屋の清掃を行ったのだろう。まだ体力も戻っていないというのに、恐らくは休みながら少しずつ少しずつ。足だって完治はまだまだなのに、痛みを耐えながらだ。

 

 酒瓶を持ち椅子に座るこちらの音に気付いたのか、少女は目を覚まし近づいてきた。なにかを話しているがどの道分からないので無視をし、木の杯に酒瓶を注ぐ。

 

 食事前に酒を呑むのは、やはり普段からやならないがこれで二日連続だ。酒をおもいきり煽り、杯をテーブルにおいた。酒瓶を掴もうとした手が、なにも掴まず宙をきる。

 

 見ると、背伸びをした少女がビンを掴みこちらの杯に酒を注ごうとしていた。しかし成熟していない身長に体力が戻らない身体、重い酒瓶に手が震え、注ぐ前に落として瓶を割ってしまう。

 

 しょうがないと立ち上がった瞬間、少女は怯えた顔でと頭を庇うように両腕をあげた。ただ瓶の破片を拾おうとしたたけなのだが。

 

 いやこれは、分かる。俺と同じだ。もう記憶もおぼろげであるが、親父は俺をなにかある度に殴りつけた。親父が立ち上がり腕をあげる動作、それだけで殴られると思い反射的に顔の前に手をかざしたものだ。もう親父の顔もその死因もロクに覚えていないといのに、その記憶と恐怖だけはジークリンデの脅威と同じく頭から消えない。

 

 もしかして、こいつもそうなのか。

 

 気づけば、俺は少女の細い身体を抱きしめていた。父にも母にも、そんなことをされた覚えはない。だが、こうしてやれば少しは安心するかもしれないと思ったからだ。

 

 少女は泣き、戸惑っていた。しかししばらくした後、俺の背中に手を回し大声で泣き始める。俺も、泣いていたかもしれない。少女が泣きつかれて寝てしまうまで、俺はずっと大丈夫だと言い続けた。言葉は通じなくても、意味は通じてくれるだろうと願いをこめて。

 

 泣きつかれた少女を寝台に寝かせ、薄い布団をかける。割れた酒瓶を回収し、ひとまとめにし床を拭く。ついでにしばらく酒は封印しよう。酒瓶をまとめて棚から降ろし、下の戸棚に片付ける。捨てるには、まだ少し思いきりが足りないがしばらくは視界にいれないようにする。

 

 「たく…今の稼ぎで二人暮らしは無理だっての」

 

 少女の寝顔を見ながら、呟いた。名前も分からない、言葉も分からない、年齢も国すら分からない子供を引き取るなんて我ながらどうかしている。しかし、もう切り捨てることだけはやめにした。かつての自分を重ねてしまった。そんな子を切り捨てるのは、かつての俺を捨てるのと同じに思えたからだ。

 

 「まともな仕事、探さねえとな」

 

 ランザ=ランテは、ポツリと言葉を漏らした。この暑い夏の夜は、後に言葉を覚え、テンと名乗った少女と義理の親子として二人暮らしを始めた最初の日となった。




 皆様の応援もあり、なんとか前章の祭りを終わらせることができました。この章も一話の番外編であり、次より新しい話が始まります。

 お気に入りが増えたり減ったりで、一喜一憂している日々ではありますが、感想を書いてくださる皆様や誤字や間違い描写ミス指摘をしてフォローしてくださる方のお陰で、めげずに続けることができました。この場を借りてお礼をもうしあげます。

 次回から新たな話も始まります。因みに、狐や竜、猫の行動指針や考え方が露わになりはじめたため、もし良かったら誰が人気かのアンケートなども面白そうかなと考えてはいます。やるかどうかはまだ分かりませんが。

 是非これからも、作品をよろしくお願いします。


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ノックの森妖


 リスムの沖、海に浮かぶとある島は二つの大橋に繋がれており、経済特別区と呼ばれていた。

 

 時代は遡り、リスム自治州が設立された当時、この地は帝国と連合王国二つの大国に挟まれた緩衝地帯として設立されたものの、その運営や法律、支配者や政治に至るまで二国の思惑が露骨に反映され、古くから住まうその土地の住民は散々煮え湯を飲まされていた。

 

 自治州とは名ばかりの緩衝地帯。二国からの利権を吸いたいがため、それぞれの国の息がかかった政策を打ち出す政治家達。まだノウハウの蓄積がなく、有用性から注目はされていたものの目立つ成果があがらない鯨油産業。ロクな軍隊の組織もできず、警備隊の前進である治安部隊も予算が吸い上げられ、時折地下迷宮から這い出る敵対生物の対処さえ後手に回っていた。

 

 そんな鬱屈した日々を送る住民達のなか、不満が爆発しないようガス抜き政策の一つとして認められたのがこの経済特別区という存在だった。

 

 表向きは、二国からの貿易品や他国の交易品が並ぶ、税がほぼ免除された商売のしやすい環境としての特別区。そしてその裏側では密輸品や盗品等の違法な取引。無許可の売春小屋を見て見ぬふりをするという、犯罪の温床を見逃す違法組織との密かな取り決めがあった。

 

 そんな自治州のおこりから十数年。鯨油産業が軌道にのりリスム独自の強みが出はじめ、自治州一の港湾都市として発展していくのに比例して、経済特別区も同様に成長していった。

 

 賭博場や酒場街、売春区に見世物小屋に闘技場、保養地としてビーチと高級宿泊施設までなんでもござれ。本土では縛りがキツイ商売もこの特別区の中だけは慣習によりあらゆる免除や優遇がされ、その利権を巡り元から島を牛耳る土着の組織レガリアとその利権を奪おうとする他国から流れて来た新参組織の間で、常に暗闘が起きていた。

 

 数年前大規模な抗争がおき、ついには自治州の行政や治安維持部隊等が介入せざるえなくなり、現状は三つの組織により島の利権は分割されているが、未だ危険な臭いが耐えない島である。

 

 そんな島の一区画、娼館と連れ込み宿が軒を連ねる北西通りに俺達は足を踏み入れていた。

 

 道行く女性達は服を半分以上着崩し、猫撫で声で男を誘い、木製の仕切りの奥では半裸の娼婦が思い思いに過ごし道行く男に流し目を送り手招きをする。男の客引きもおり、色気で誘惑する女達とは違いうちの店では他より安いだの性病の心配はないだの、特殊なプレイに対応しているだのあちこちから声が聞こえてきた。

 

 何度か声をかけられたが、先約があると道の奥に指をさすと、それだけで男も女も引き下がる。本土で待っていろといったのに強引についてきたクーラは辟易した表情を浮かべていた。子供を連れてこんなところを歩くさまは、人売りに来たのだと思われたのかもしれない。

 

 「呼び出しってなんなの、こんなところで」

 

 「さあな」

 

 壊滅したモスコーを後にしリスムに一度戻り、ギルドの安宿を利用しようとしたら受付から手紙を来ていると言われた。

 

 内容は、依頼したいことがあるからこの手紙を受け取った日付の二十時、リスム経済特別区のとある娼館に来いという内容だった。

 

 探索団から足を洗い、日銭稼ぎで過ごしていた時期は当然金がないから娼館には通えず、テンを拾ってからは職人の修行やテンの面倒を見ているから行く暇すらなく、妻を口説き落とす為にそんなところに行くなんてもっての他で、復讐の旅に出てからは女漁りなど考えたこともない。経済特別区にはあまり近づいたことはない。ただ一度を除いて。ある期間を除いてだが。

 

 だから呼び出した相手という意味では、心当たりがあった。

 

 娼館通りの中でもひときわ大きい屋敷のような建物。庭には噴水がついており、色とりどりの花や植木が植えられたそれはまるで迎賓館とでもいったたたずまいである。娼館であるにも関わらず、この建物の中には宿泊施設やカジノ、劇場に酒場まで入っているという。勿論ただ金を賭けたり劇団に公演をさせては他の通りにある同業者から苦情が来るが…ようはここでは金ではなく身体を賭け、いかがわしい劇を公演させているというだけだ。

 

 入口でガードマンに止められそうになる。紹介制の娼館なので当たり前の対応だが、こちらの顔を見るだけで謝罪の言葉と共に急いで玄関の扉を開け、中に入るのを許可する。

 

 玄関を開けたロビーはまるで洋館の一室。煩わしい受付カウンターなどなく、長椅子や照明台の近くで美女達がだむろし雑談をしていた。客が入り、好みの女性を引き連れそれぞれの部屋にそのまま連れていけるシステムらしい。

 

 当然帰る際には、荒事なれしたお兄さんに支払いをしなければならないが、ことが終わるまで彼等が出てくることはあまりない。

 

 「相変わらず時間通りで面白みがないな、お前は」

 

 「遅れて良かったことなど今まであったか?」

 

 「良いこともあるさ。お前のことだ、どうせ他所を見向きもせずにまっすぐ来ただろう。それとも…そういう趣味があるとは知らなかったが。小人族の娘を今度あてがってやろうか?」

 

 洋館中央の階段。夜会のスリットがはいったドレスを着こんだ金髪碧眼の美女が中腹から話しかけてきた。手には扇、いかにもな夜の時間を過ごす女性だ。

 

 クーラはフードの下でムッとした顔を浮かべたが、その次の瞬間にはなにかに気づいたのか物珍しさに目を丸くした。

 

 スレンダーな身体つきに長身、美貌は高級娼館にあたるこの舘ではさして珍しいものでもないが特筆すべきはその耳。人類とは敵対種、相いれない存在として認識されている精霊種、森妖族と呼称される俗にいうエルフというものの特徴だった。

 

 古くは蛮族、現在でも未開地や聖地と呼称される場所で立ち入る人類に容赦なく弓弩を向けてくる種族であるが、それがこんな娼館にいることが奇妙だとでも言いたげだ。理由はまあ、簡単だ。彼女の住む森を探索者時代に発見、綺麗な泉と肥沃な土地は耕作地として有用だったので報告。今その森は、小麦の畑と家々が連なっている。

 

 「十年程昔からお前を知っているが、相変わらず皺一つ浮かばないとはな。エルフはやはり化物だ。あとこいつとはそんな関係じゃない、妙な誤解をするな」

 

 「だがその化物としての性質は男受けをするのでね。十年、森にいたら欠伸をする間の期間だけど、この島は楽しいねぇ。初めて密度の高い十年を過ごしたよ。それと、相変わらず冗談をそのまま受け取るのは変わらないな。まったく成長していないとみえる」

 

 生存範囲を広げたい人類と、住処を護りたいエルフ達。探索者たる俺等は生存域拡大を邪魔する存在を見つけたからには、その調査結果とこの集落までの道筋を大本に報告しなければならない。

 

 エルフの集落から離脱する際に三人の仲間が殺されたが、後日の討伐隊結成後は多大な被害を受けながらも集落のエルフ達の三分の一を捕縛し残りは激しい抵抗戦のすえ殺害された。

 

 そしてあるエルフだけは、捕縛も殺害も免れ逆に金銭の褒美を受け取った。それが目の前にいる裏切りのエルフ、エレミヤだ。

 

 エレミヤは一時は全滅寸前まで追い詰められた調査団を助け逃げ道を提示し、その引き換えに自身の望みをぶちまけた。この集落のエルフを皆殺しにし、自由が欲しいと。

 

 エレミヤにどんな背景があったかは詳しい話は定かではないが、どうやら狭い世界と集落だからこそその中でも格差と差別のようなものがあり、異端の考えを持つとあまり良い扱いを受けてはいなかったから裏切ったのだと伝え聞いた。人間の間でもエルフの裏切り行為は珍しく、討伐隊や探索団でもそこそこ噂になっていたのだ。

 

 容姿端麗なエルフ族だ、人類の一員に数えられなくてもほぼ同じ姿かたちをしていれば売買先等選ばない。捕縛されたエルフは、世界各地のあまりよろしくはないところに売られていくだろう。縄で繋がれたエルフ達が鞭を打たれながら歩いていくさまを、エレミヤはほくそ笑みながら見ていたのが印象に残っている。

 

 報奨金で大陸各地を見て回ると言い俺達の前から消えていったが、その再開は三年前に遡る。

 

 グローに人妖という存在を告げ注意や情報提供を促すがイマイチ信じてもらえず、むしゃくしゃした気分のまま建物を出た後の再開だった。

 

 当時はまだ人妖の被害が各地から報告もあがらず、そういう現象が極稀にある程度にしか認識されていない為、妻子を失い気が動転したと勘違いしたグローには腫物を触るような対応された後掲げる大盾の支部を出た。

 

 雨の降るリスムの街、ずぶぬれになりながらやり場のない怒りを抱えながら歩いていたら、すれ違った馬車が止まる。降りてきたのは、どこをどう進んだらそうなるのか、高級娼館にて高級娼婦どころか経営に携わるところまで成り上がっていたエレミヤだった。

 

 屈強な護衛二人に拉致られるように強引に馬車に連れ込まれ、経済特別区にて建物の中に連れ込まれ事情を尋ねられる。親友にすら信じてもらえず半ば自暴自棄なっていた俺は、洗いざらい全てをぶちまけた。

 

 流石はこの世界で成り上がってきた女だ。聞き上手で、ついでに酒を勧めるタイミングもうまい。気づけばすべてをぶちまけた後号泣していた俺は、まるで触手に絡められた獲物のように寝台に誘われていた。

 

 なにもかもが、どうでも良くなっていた。青ざめたのは翌朝になってからだ、高級娼婦どころかその経営者まで昇りつめた女を抱いてしまい、いったいいくら請求されるか分かったものではない。

 

 朝日の中頭を抱えるこちらの肩が叩かれる、振り向くとにんまりと笑うエレミヤ。いったいいくら請求されるかと思ったが提示された条件はしばらくこの舘のガードマンとして働くことだった。

 

 激務だった。この島じたい脛に傷持つ者が集まる島だ、問題は毎日のようにおきる。それを説得、あるいは武力行使によって鎮圧していく必要がある。荒事から遠ざかっていた俺は、二日に一度は暴走した客にぶっ飛ばされていた。

 

 そんな俺を鍛え直してくれたのは、警備主任であり東方から流れてきたという投げ鬼という異名をもったクダ=ガンゼン。そして副主任のエイラ=マルーシャという二名だった。

 

 決められた期間この娼館でガードマンとして過ごした日々に、焦りはなかった。慣れてくればここは、戦闘の勘を取り戻すのには丁度いい。そしてこの島じたい、あちこちでトラブルがおこり不慮の事態における対応法や武器がない状態での格闘術を磨くのに丁度良かった。

 

 一年の期間で貯めた金銭を使い、高品質な装備に分類される戦闘用の外套とこの島で販売されていたストックを切り詰め取り回しと頑丈性を重視した散弾銃を購入した。

 

 エレミヤには引き止められたがそれは固辞した。必要だったとはいえ、回り道はこれでおしまいだ。

 

 それから二年、久しぶりの呼び出しに応じることになる。経済特別区にあれから近づくこともなかったが、自暴自棄になり技術も装備も未熟なままテンを探そうとしていた俺を止めたという意味では、ある意味では恩人と言える。その呼び出しくらいは、一度は応じなければならないと考え今日の再会である。油断ならない相手ではあるが。

 

 「部屋で話をしよう。来な」

 

 階段を昇るエレミヤに続いていく。あちこちから響くわざとらしい程に響く女性の嬌声に、クーラは耳を塞ぎたそうにしており無意識に頭の上のフードごしにある獣耳に手を置きそうになってしまいそうであった。自制心で堪えるが、子供にはまだ目が回るように酷な雰囲気だろう。

 

 どこかの部屋で悲鳴。ガードマンが二人侵入していき、男の両腕を掴み連行していく。小太りの男は、いかにも金持ちの親を持つ苦労知らずの男といった風貌だ。

 

 「リスムが鯨油で好景気をうみ、それに引きずられ他の産業もうなぎ上りに売り上げ伸ばしている。未曽有の好景気は良いが、成金が増えたせいか今はあの手の輩も多い」

 

 本気だ、俺が幸せにするからと叫びながら男は引きずられていった。部屋からは頬に濡れタオルをあてた可愛らしい娼婦が出てくる。エレミヤと目があい、肩を軽くすくめてみせ近づいて「慰謝料ふんだくってくださいね」と言いタオルを巻いた姿のまま立ち去っていった。

 

 「性と愛の区別がつかない輩が最近は増えたよ。特に金持ちの子供は拒否の経験が少ない。身体を抱けば心まで自分のものだと勘違いをする痛い思考が増えてきたがゆえ、この手のトラブルが珍しくはなくなった」

 

 「金額にあった対価の提供。それを越えて夢想をする奴が増えてきたということか」

 

 「拒絶の経験が少ない勘違い男は苦労するよ。ある程度までは対応する施設はあるが、それはそれを了承している娘にしかできないというのに、それがダメな娘にまですぐ変態的プレイを要求する。変な思い入れをする。そしてそれが受け入れられなければ暴走する。そして娼婦殺しは、何時の時代にも現れる」

 

 リスムの経済特別区ではないが、帝都よりもさらに向こう側、海を越えた島国である鷲獅子の王国で連続した娼婦殺しがおこっているようだ。犯人は未だ捕まっていない。最新情報までは知らないが、エレミヤの言う通りこの経済特別区にそれがおこっても不思議ではない。

 

 三つの裏組織が幅を利かせ睨んでいるこの狭い島では、それを行うことじたいが難しいかもしれないがそれでも可能性がない訳ではないのだ。

 

 話を聞いていたクーラはげんなりとしていた。理解ができない世界の話だろう。理解はしなくてもいい。一生関りのない世界であってほしい。

 

 客室に通され酒を勧めらるが、断る。ならば果実を絞ったジュースをと、人を呼んで二人分それを頼みガードマンに下がらせた。あの夜以降、この舘で酒を呑んだことはない。この先もない。

 

 「カンゼンのおっさんは元気か?あとエイラは」

 

 「カンゼンは一年半前、年からか死病を患い死に場所を探しに行くとこの舘を出た。エイラは、チンピラ同士の争いに巻き込まれた娼婦を庇い死んだよ。今は、警備主任と副主任は別の人間が担当している」

 

 「そうか」

 

 カンゼンの投げ技と、エイラの打撃技術は師事していた身にとっては素晴らしいものだった。そんな二人がこの数年でもういなくなったという事実は、素直に残念でならないし驚愕した。

 

 「カンゼンはともかく、エイラの墓は館の裏側にある。よければ、後で祈りでも捧げていってくれ」

 

 「そうさせてもらう。惜しい人達だった」

 

 あいた時間に自らにかした鍛錬に首を突っ込み、身体で覚えるに限ると何回も投げ技をかけてきたカンゼンには感謝と怨みが半々ずつある。暴徒が数人いようと単独かつ素手で流麗に鎮圧をするエイラには、頼みこんで師事をしてもらった。体躯や才能であの動きは無理だと言われたが、それでも基礎以上の格闘術を仕込んでくれた。

 

 この舘を出る時、カンゼンは笑顔で見送ってくれたが、エイラは罵倒混じりだった。それでも見送りに来てくれたことは忘れない。それが、最後に二人を見た姿になるとは思いもしなかった。

 

 「こちらとしては、お前も惜しい人材だ。人手はいくらあっても足りない、どうだ?またこの舘で働いてはくれないか」

 

 「それが用事だったら、話しは切り上げるが」

 

 「冷たいことを言うな。実は気になる話があるんだ」

 

 ガードマンが飲み物を運ぶ。給仕ではないのだなと考えたが、ここの職員はみななにかしらの戦闘技術を持つ者ばかりだったことを思い出す。この男も、普段は給仕だが何時おこるか分からないトラブルに備えて他のガードマンと同じ装備なのだろう。

 

 運ばれて来た飲み物は、柑橘類の汁を砂糖を溶かした牛乳で割ったものだった。本来ならばならここにアルコールも入る飲み物だが、断りをいれたうえクーラもいる為ノンアルコールだ。

 

 「このリスム自治州から帝国へと向かう道の途中、森林道があるのが分かるか?普段なら鯨油や交易品が帝都へと運ばれる為の道だ」

 

 エレミヤが机に自治州の地図を広げる。自治州と帝国を繋ぐ主要な道は幾つかあるが、そのうちの一つに森林道がある。ノック森林道。人の往来も多く特別おかしな道という訳ではない。

 

 「この道がどうかしたか」

 

 「エルフの目撃情報がある」

 

 「は?」「え?」

 

 俺のリアクションと、地図を見ていたクーラの疑問が重なった。

 

 エルフは可能な限り人里から距離をとる傾向にある。ましてノック森林道は山の麓にある道ではあるが、その山も既に人の手が入り植林と伐採を繰り返す材木の生産場ができているほどだ。そんな山、ましてや往来の多い森でエルフが目撃されるとはおかしな話だ。

 

 「この道は自分も通ったことがあるけど、どういうこと?とてもエルフがいるなんて思えないんだけど」

 

 「お嬢さんも…」

 

 「そういえば自己紹介していなかったね。クーラ=ネレイス」

 

 「これは失礼、クーラ。私はエレミヤ。エルフに姓はない、気安くエレミヤちゃんとでも呼んでくれていいぞ」

 

 ちゃんなんて年か、と内心毒づいた瞬間満面の笑みでこちらを見た。目が笑っていなくて、怖い。

 

 「話を戻そう、お前と同じようにはぐれのエルフという可能性は?」

 

 「なくはないけど、私はこう見えてエルフ世界でも突然変異という自覚があってね。その考えは除外しても良いと思う」

 

 人との接触すら極端に嫌うエルフが、男と肌を重ねる世界にいるということじたいが異常なことだ。その言には、納得できる。

 

 「目撃されただけか?実害は?」

 

 「この森林道を通る荷馬車や人が行方知れずになることがある。最近はよくない話が広がり護衛をつけて通る者も増えたけど、狙われるのは一人で旅をする者や、護衛なんて金がもったいないと数人で抜けようとする人達さ。巧みなのは少しずつ少しずつ人を浚っていること。私の娼館の利用者である若者が攫われ、エルフの目撃情報からその父がこちらに相談に来なければ気づかなかったほどさ」

 

 「実害がでているうえに、エルフの目撃情報があるのだろう?そこら辺の暇人がエルフで一攫千金を狙おうと森や山を調べにいきはしなかったのか?警備隊や掲げる大盾等の事務所の動きは」

 

 「知っている限り、警備隊の調査団は無傷かつ情報無しで戻るがそれを除いた個人調査の者は全滅。掲げる大盾は街道の護衛に努めているのみだよ」

 

 エレミヤが肩をすくめた。警備隊のみが生存したということか、なんとなく相手の考えが分かってきた。

 

 「警備組織の調査団にはなにも掴まさず帰らせ、個人できた者を軒並拉致している。予算不足の警備隊は長々調査をする余力はないし、掲げる大盾はそもそもこのリスムの港湾都市における治安を護るのに精一杯だ。知っているかい?さらには今その二つの組織は、最近モスコーでおきた事件に駆り出されて人手が足りない。モスコーでおこったことについては?」

 

 「ああ、知っている。成程な」

 

 モスコーでは瓦礫の撤去や生存者の捜索であちこちの組織や他国からも救助隊が派遣されている。リスム自治州に席をおく掲げる大盾としては、リスム内で不測の事態に対処する最低限の人員を残しほぼ全員でモスコーに出ているのだろう。警備隊もろとも、そちらに構っている暇はないらしい。

 

 本隊とは別で行動をする辺境警備隊も似たようなものかもしれない。豚鬼の部隊長、ゴストールの顔を思い出す。レイピアに貫かれ重症であったが、その後の応急処置やサグレを倒した後沈静化した食屍鬼のおかげで治療が間に合い生還。三日後にはもう瓦礫の片付けに手を貸していた。豚鬼の生命力は計り知れない。

 

 クーラが少し暗い顔をするが、背中を軽く叩いておく。俺等のできることは、あの街ではもうないのだから。

 

 「組織の調査団を潰せば、大本が本気になって潰しにかかってくるという仕組みをよく分かっているな。エルフがいるとして、多少人間社会を見聞きして、人慣れしたやつなのか?」

 

 「かもしれないな。なんにしても」

 

 エレミヤが地図の森に、冷たい目で睨みつける。

 

 「忌々しい」

 

 底冷えする憎悪を込めた言葉に、ゾクリとクーラが背筋を震わせていた。エレミヤは、理由は定かではないが同族を異様に嫌悪している。理由を聞いたことはないが、まるでエルフと言う種族全てが絶えてしまえば良いと思っているかのようだ。

 

 「時代遅れの引きこもり達が今更なにをしに出てきたかは知らないが、分相応という言葉を知らないようだ。私は、信頼おける元部下で、エルフについて知識もあるお前にこの事件の調査をお願いしたいと思っている。報酬については心配するな、言い値で払うがどうだ?」

 

 「エレミヤ、アンタがエルフに対してどれだけ憎んでいるかは分からないが、俺には俺の目的があり旅をしているんだ、報酬いくら積まれようとあまり寄り道をしている余裕は」

 

 「そういうだろう。だが、こちらとしてもそれは予測はしてある。これを渡しておこう」

 

 茶色い封に包まれた手紙が差し出される。封は破かれていないが、ランザに渡せという言葉とそれに書いてある名前に目がひかれた。

 

 「ガスパル」

 

 クーラが驚いたように名前を読む。モスコーの騒動の後一度二人でガスパルの元へ向かったが、彼のあばら家だけ残しガラクタ諸共ガスパルは姿を消していた。手元に残ったのは、クーラの腰に差してあるルーガルーの牙を研いだナイフのみで、毒瓶の中身は、翌日にはくすんで悪臭を放っていたため廃棄した。

 

 ガスパルは依頼で製造したと言っていた、受け取ったクーラは俺が依頼をしたと思っていたようだが、こちらはその覚えはない。あの祭りの期間は、サグレとベレーザの動向を気にするので精一杯だったからだ。

 

 誰に依頼をされたのかと聞こうとしたが、そんなガスパルは最初からいなかったかのように消えていた。死ぬような輩には思えないが、その後の行方は不明のままだ。

 

 だからこそクーラは驚愕し、俺も内心の鼓動を抑えながら手紙の封を開く。中身はシンプルだった。

 

 『ノック森林道及びノック登山道、人妖の気配あり』

 

 「胡散臭そうな男だったがね、ランザの名を知っていて、これを渡せば間違いなく依頼を受けてくれるといっていたよ。知り合いなのかい?」

 

 「ああ、確かにこれを見せられたら間違いなく俺は依頼を受けるだろうな」

 

 実害ある事件に、人妖が関わっている。それならば、俺が断る理由はない。傍らのクーラも、やろうと大きく頷いた。

 

 クーラはあれから、不安を隠し気丈に振る舞っている。内心はまだ恐れがあるだろうが、俺と旅を同行するというのが、人妖という怪物に挑むことと同じということは理解している。

 

  サグレという吸血鬼に比べれば並大抵の人妖は格が下となるが、もしもエルフとつるんでいるというならば森というホームグラウンドの下では相当のリスクがある。地の利を利用されれば、もしかたら変異したてで感情の隙をつくことができたサグレよりも危険な相手になるかもしれない。

 

 だがしかし、引くべき理由は見つからない。ガスパルがいなくなり、グローや掲げる大盾がモスコーの事件に手一杯の今手掛かりとなる情報を掴むこともできずいたからだ。まさに、渡りに船。

 

 「今日はもう遅い。良い食事と酒でゆっくりと英気を養ってくれ。それと準備に資金がいるならそれも遠慮するな、今日中に伝えてくれるなら明日の出達までに用意させてもらおう。そろそろあの豚の折檻が終わるころだから、慰謝料について話してくる。それが終わったら、食事ついでに久々に話でもしないか?特に」

 

 エレミヤが立ち上がり、クーラに視線を向ける。舌なめずりでもせん勢いだ。

 

 「ランザがどういう経緯で連れに選んだのか気になるしね。それに、成長したら良い女になる、稼ぎ頭になってくれそうだ」

 

 「早く行け。あと誘うな、こんな子供を」

 

 「おお、怖い怖い。それじゃあまたあとで」

 

 エレミヤが立ち去り、扉がしまる。ランザとクーラの視線は、ノック森林道とノック山道に注がれた。 



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 「これが、人の手が入った森というのものか。あまりに、あまりに惨い」

 

 ノックの山道を外れ、獣道を通り山頂付近から下を見下ろすエルフの若者は呟いた。若者とはいっても年は二百を過ぎていたが、人やその他種族の基準であって千年生きる者もでる可能性があるエルフにとっては若輩といっても差し支えはなかった。

 

 視界の端に映るのは、山の下腹部にある植林地帯である。本来山に生えるべき、森にすむ生物を慈しみ育てる為の果実や木の実を育てる種類は切り倒され、建材や船の材料に適した品種ばかりを植えられ育てられ歪な生態系となっていた。

 

 植えられた木々に罪はないが、歪んだ山林という現状は唾棄すべきものだ。自然のサイクルを自分達の言いように操っているという傲慢がみてとれる醜悪さ。植林地帯の下には木材の加工をし運搬を行う施設もあるが、歯ぎしりをしながらも今はそこを襲うことはできない。

 

 帝国と自治州からの出資を受けているその施設を攻撃すれば、リスムも帝都も黙ってはいないだろう。人の力というのが恐るべきものであるというのはよく知っている。おいそれと攻撃できるものではない。

 

 今少し、少しだけ我慢をする必要がある。幸いなことに贄は順調に集まっている。反動をおこさないように、少しずつ捧げていくだけでいい。

 

 森の中腹まで降り、天然の洞穴の中に入る。潜伏先が故に目立つことができない為、土堀りのコボルト共のような住まいになることは苦痛ではあるが、耐えられない訳ではない。

 

 志を同じくする同志達とすれ違いざま二言三言会話をし、進む。洞窟の最奥、一人のエルフが広い空間の真ん中で膝をつき目を閉じていた。

 

 異様なのはその姿であり、衣服を全て脱ぎ棄てた身体から背中と両腕から木の根が伸びており洞窟の天井を貫き外まで伸びている。根が揺れる度に苦し気に表情を歪め、口からは苦痛の声を漏らしていた。

 

 「ミハエル」

 

 声をかけると、うっすらと目を開ける。口からはポツリポツリとなにかを呟いているが、なにを話しているか聞こえない。耳を近づけて聞いたところで、それはもう言語としての体をなしていない。もう本人の意思を持ち話していることかどうかなのかすら分からない。

 

 だがしかし、その心中に思っていることは分かる。分かるとも。

 

 「今日の贄は」

 

 「これからです」

 

 「急げ」

 

 短く伝えると、同志が動き別部屋に建設した洞窟から男を一人連れてきた。半殺しにされ、足首の腱を切り逃走を不可能にしている。縄で縛り上げたまま、男を洞窟の中央まで運び床に降ろす。

 

 「ミハエル、今日の贄だ。君の苦しみを少しでも軽減させてくれるだろう。もう少しだけだけ耐えてくれ、あのリスムさえ落とす力を蓄えることができたら、我々の目的は結実する」

 

 連れて来られた男は、猿轡を噛まされていた。その男にどこからか伸びてきた根が近づく。身体のあちこちに鋭い尖端が突き刺さり、男は悲鳴をあげた。水分をすするように男の体液を啜り上げ、一気に身体が乾燥していく。それと同時に、ミハエルと呼ばれた女性の顔は苦し気な顔から穏やかな表情に変わった。

 

 それを眺めながらも、男の脳裏には十年前の記憶が蘇っていた。古くから深緑の古き地を護る一族の集落に、たどり着いた人間達。掟に従い罠にはめたあと、人間達は皆殺しにして森の養分にする手筈だった。

 

 だがただ一人の裏切者の仕業により、人間達の大多数には逃れられ、先の報復と言わんばかりに戦闘に秀でた一団が森に攻め寄せてきた。

 

 産まれて初めての里でおこる本格的な闘争であったが、地の利があるこちらならばいかに人間達が攻めてこようと余裕で返り討ちにできる算段はあった。

 

 しかし、姿をくらましていた裏切者は人間についていた。こちらの戦術や武装に森の地理地形、全てを洗いざらいぶちまけこちらの優位性を潰し、そのせいで集落は壊滅した。

 

 猛々しく戦った男達は殺され、女達の大多数は拉致される。ある程度の年齢以下の者達はあらかじめ避難しており難を逃れたが、集落を護ろうとした者達は撫で斬り、女達は連れ去られた。

 

 神聖な森は焼き払われ、人間の食料を作る畑へと変貌し、憩いの泉は手が加えられ飲料水を確保する為のだけの場となった。

 

 エルフの集落は、全て焼き払われ、今そこには人間達の住居が立ち並んでいる。

 

 人により、全てを奪われた。それなのに我々生き残りは、さらに奥の僻地に逃れまた何時来るかも分からない人間達に怯えなければならなかった。

 

 惨めで、悲惨。環境がガラリと代わった僻地での生活に、体調を崩したり絶望からか多くの同胞が病でこの世を去っていった。

 

 そんな生活を送るなか、一匹の狐が隠れ里へと現れた。もう二年半も前の話になる。

 

 「時間がかかりますが、人類に対して切り札となりえる手段が存在しますよ」

 

 人外の力を持つ狐が提示したのは、外道の法。だが強力にして強大な、呪法と呼べるものであった。効果は絶大、しかしそれを成す為には、誰かが犠牲にならなければならなかった。

 

 ミハエルは、その贄に名乗りをあげた。自分はこの中で一番体力がなく、弓の技術もない。足手まといだ。だが、それでも故郷をあんなにした人間達には一泡吹かせてやりたい、やり返してやりたいと。

 

 一晩の話し合いの結果、生き残りの一族達で狐の案にのることとなった。狐は呪法をミハエルに施し、然るべき地と然るべきタイミングを提示してから立ち去った。

 

 そうして一族全体でミハエルを護り続け、その身体から呪法の息吹が芽吹くタイミングでここに場所を移してきたのだ。容易ではなかった、だがやり遂げた。

 

 後少しで、人類に対して痛打を与えることができる。大規模な人口を持ち、それと半比例して街を護る防人達が貧弱なリスムの地ならば新たな苗床として丁度いい。リスムの人間達は、全てミハエルの贄となってもらう。

 

 「もう少しだけ耐えてくれ、ミハエル」

 

 一番最年少のエルフに背を向け、無意識に拳を握りしめる。

 

 「同志諸君。我等の宿願、その第一歩も後少しだ。各々運命の日まで油断せずに、計画通りに進めてくれ」

 

 後ろに集まっていた、あの夜の生き残り達に声をかける。神妙な顔で頷く者や、笑みを浮かべる者。ようやくだと涙を流す者等そのリアクションは様々だった。

 

 「取り戻すぞ、奪われた全てを」

 

 暗い洞窟の中で、雄叫びが響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 経済特別区の一区画。元々ここが他所から来た者が住み着く前に、この島に元から住んでいた者達が住む住居が並んでいる。この島での最大勢力の組織であるレガリア発祥の地であり、一見本土でも見るような街並みではあるがその内部は笑顔で会話をしながら懐にナイフを忍ばせるような住民達が暮らしている。

 

 だがそれでも、治安は良い方だ。ほぼ毎日のように小競り合いのような争いがおこるこの島では、高級リゾート地としてのビーチとホテルのある区域と同じくらいには穏やかな治安である。

 

 「できたぞ」

 

 エレミヤの娼館に泊まって一夜過ごし、翌日。そんな住宅街のなか、ガスパルのところほどではないが、ガラクタを敷地内に転がしたガンスミスのいる武器工房兼販売所へと足を運んでいた。

 

 ジークリンデには玩具扱いされているものの、この散弾銃も二年の間狂気じみた化物相手に共に戦ってきた相棒だ。ぶっきらぼうに銃器を返してきたまだ年若い男は、この銃を作り上げた職人でもある。

 

 「随分無茶な使い方をしたな。その分手入れはしているようだが、あまり酷使しすぎるとそのうち暴発するぞ。取り敢えず摩耗したり、傷がついた部品は交換しておいた。支払い請求は、本当にエレミヤのところで良いんだな」

 

 「未だに暴発はしていないがな。アンタの腕がいいおかげだ。エレミヤに話は通してあるから、そうしてくれ」

 

 散弾銃の調子を確認。中折れ式の銃器を開き、弾はこめないものの弾丸を装填する動きを再現し銃器を戻す。引き金をひき、カチンという音が響いた。

 

 あまり気になってはいなかったが、弾丸を装填する際に動かすパーツの動作が滑らかになっているのが分かる。それだけ、気付いていないだけで酷使された銃身のパーツは疲弊していたということか。秒で生死が決まる戦闘中は、それだけの違いでもありがたい。

 

 「良い仕上がりだ。ありがとう」

 

 「どうも、仕事だからな」

 

 お互いに握手を交わし仕事の契約終了となる。懐が痛まない買い物はありがたい。他には、火薬や白粉に布袋等各種道具の素材も調達をしておきたい。

 

 「そんなボロでよく今まで折れずにきたな」

 

 別のカウンターから声が聞こえる。クーラのショートソードを見聞していた男は、呆れたような声をあげた。リスムの中古市場から二束三文で購入した中古品らしいが、もう何時折れてもおかしくはなかったらしい。

 

 「鍛え直すとかじゃなくて、悪いことは言わないから新しいのを買え。こんな装備で戦って死にたいっていうなら話は違うがな」

 

 「どうせエレミヤが支払いをする。遠慮しておくだけ損だ」

 

 「じゃあ…」

 

 棚に目を泳がせる。あの体躯にあう刃物となると、剣よりもナイフの類になるだろう。それでも壁に目を泳がせ銃剣付きのライフル銃から槍のような長物まで目を向けており、ある一本の前で視線を止める。

 

 片刃の直刀。クーラと初めて敵として出会った時に装備していたものとほぼ同じ長さの代物だ。許可をもらいそれを握りしめ、片手で軽く振るう。重心に違和感でもあるのか何度か試した後、納得をしたように頷いた。

 

 「おじさん、これにする」

 

 「おじさんはやめてくれ。だが了解だ、あとは…ちょっと待ってな」

 

 直刀の鞘を渡し、おじさんと呼ばれた男は店の奥にひっこんでいった。手に持っているのは、頑丈そうな鱗に覆われた胸当てとボロではない布製の上着。黒革の戦闘用ブーツ、そして投げナイフをしまう穴を多数設けた革製品の肩掛けだった。

 

 「直刀のオマケだ、お嬢ちゃんのサイズにもあう」

 

 「オマケにしては数が多いな。それに、何故サイズがあう。小人族ようの特注品でもなければ、女の子に武装させる趣味でもあったのか」

 

 「昨晩のうちにエレミヤの使いが来て、これくらいの女の子サイズで着れる装備が欲しいと徹夜させられた。大きさを直すだけだから、なんとかなったがな。ブーツは小人族用に用意したもんの売れ残り、この街に根を張ろうとした新参のリド同盟という組織がトップを殺され半壊し、退却した。注文を受けていたが、受け取る前に消えたから用意していたもんが無駄になっていたが…渡す先が見つかって良かった。

 ブーツの代金は無しだ、急な注文に多少腹は立ったが、あれに恩と顔を売っておいて損はない。あの娼館は、何時か使いたいからな」

 

 エレミヤは昨晩の夕食会でも、クーラを嘗め回すように見ていたが身長や体型を測っていたのだろう。会話の中で戦闘方法や投げナイフもできるという言葉も出てきたため、それに合わせて用意をしていたという訳か。

 

 サイズの調整が難しいブーツの出所は、壊滅した新参組織の注文か。リド同盟という組織は知らないが、小人族の多かったのだろうか。そういえば、エレミヤが小人族の娼婦を勧めてきていた。壊滅したリド同盟にいた情婦が、流れたのかもしれない。

 

 「あとはそのグローブだが、残念ながら魔術具は弄り方が分からん。それの調整は諦めてくれ」

 

 モスコーの騒動の際、クーラはどこから拾ってきたのか炎を操ることができる魔術具であるグローブをはめていた。サイズがやや合っていないようだが、手放すのも惜しいと本人は売りにだす様子もないようだ。ここでサイズ直しができるなら良かったが、それは上手くいかないらしい。

 

 「ランザ」

 

 「ああ、着替えてこい」

 

 装備の試着室を借りて、クーラは着替えにいった。ボロ服の旅人装備と薄い胸当て、古いショートソードでモスコーの騒動を乗り越えたのだ。衣服はボロボロであったし、恐らくは靴も限界だったのだろう。

 

 しばらくしてからクーラは、戻ってきた。足を適度に絞めて疲弊や衝撃を軽減する戦闘用ブーツを履き、暗い黒で人気はでないが、汚れが目立たず穴一つない布服。肩から投げナイフを刺しこんでおける肩掛けを装着し、緑色の鱗に覆われた胸当てが身体の急所を守っていた。

 

 直刀は腰の後ろに差し、フード付きの上着の下に隠すように装備をしている。腰には、ルーガルーの牙を削り出したナイフがぶら下がっていた。

 

 「だいぶマシになったじゃねえか、いっぱしの戦士ってところだな。ついでに投げナイフもオマケしておいてやるよ。」

 

 「まあ、外見で侮られることは減りそうじゃね?」

 

 ガンスミスとクーラに対応をしていた男が揃って声をあげる。少し恥ずかしいのか照れながらクーラは身体をあちこち見ており、最後にこちらを見上げどうかな、と小首を傾げていた。

 

 胸当てという最低限の防具と、衝撃を吸収するブーツ。軽量級の武器ならば動き回ることが得意なクーラの邪魔になることはないだろう。良いんじゃないかと頷くと、顔を赤くしながら笑った。

 

 「ふー」

 

 「ひゅー」

 

 男二人がなにやら囃し立てるが、取りあえずここでの用事はすでにすんでいる。投げナイフを数本装着するのを待ち、店を出た。気前がやたらと良いが、そのサービスの裏側は俺達のバックに娼館街の大物であるエレミヤがいるからであろう。

 

 俺達からの評判が伝われば、商売の足しになるどころかあの紹介制である高級娼館に入れるかもしれないというオマケつきだ。サービス過剰にも、なるだろう。

 

 そんな気持ちは男として分からないのでもないので、今回の依頼が終わり生還したら取りあえずサービスの良さくらいは伝えておこう。あとは、彼等次第だ。

 

 「あとは本土に戻って、飲料水と食料、爆薬の買い足しだな。今日はギルドの宿に泊まって調合や山登りの支度をして、翌日朝一番に向かおう。問題はあるか?」

 

 「いや、ないよ。山登りなんて久しぶりだしね。ノックの山道や街道の詳しい地図も今夜中に頭に叩き込んでおきたいし、いざという時遭難したくないからね」

 

 依頼に期日は設けられなかったため、痛んだ装備や消耗品の買い足しを行い、地理地形を頭に叩き込んでからの出発となる。ノックの周辺は向かう用事がなく地理が不透明なため、クーラだけではなく自分も周辺地図や山道を脳内に叩きこんでおく必要があった。

 

 経済特別区から出て、大橋の上を歩く。石畳みの橋を歩きながら、クーラは経済特別区の方に振り向いた。

 

 初めて渡った島ではあるが、もしかしたら自分もなにかが違えばあの島に売られていた可能性があると考えているのだろうか。

 

 エレミヤが仕切る高級娼館は、よほどの器量よしでなければ奴隷などという無粋な存在は購入しない。技術や接客能力に美貌を揃えた娘達は勿論いるが、それ以外には昼間は表で違う仕事を持っており、夜は高級娼館で稼いでいるという者達もいる。大金を払ってでも、昼は別の顔を持つ美人な素人を買いたがる客もいるのだ。

 

 そんな者達は、今更奴隷等見向きもしない。矛盾をするようだが、奴隷には存在しない気品や清楚さを娼婦に求める客層というもの確かにいるのだ。娼館での男女の関係は、複雑怪奇という訳だ。

 

 だが、それでも下級に位置する娼館では奴隷あがりの娘や他に行き場のない者達がごまんとしたりする。伝え聞いた話では、北峰の小国にて反乱があり国を追われた者達の中には難民申請が通らず、娼婦に身をやつすしかない者達が入ったという話もある。規制が緩い経済特別区の中には、当然そういう者達も入っているだろう。

 

 そして、そんな娘達は立場が弱い。使い潰されることなど日常茶飯事だ。男はいよいよ追い詰められると野盗や奴隷、物乞いになるしかなくなってくるが、どちらが辛いかなどは想像もつかない。

 

 「ランザはあの島で、一年いたんだね」

 

 「ああ、まあな。長くもあり、短くも感じた一年だった」

 

 「美人に囲まれて、楽しい一年だったんじゃないの?」

 

 思わずハッと鼻で笑ってしまった。

 

 投げ鬼のシゴキとエイラの手解きは当然辛いし、三大勢力がひしめく経済特別区の中では中立を公言する娼館街は、一応戦闘禁止地帯となっているがそれでもうっかり出くわした勢力同士の下っ端による小競り合いが絶えなかった。

 

 そのうえ、リスムに憧れたおのぼりさんのチンピラ達が、場を弁えず若さにかまけ暴走することもあれば、昨日おこったような男女関係のいざこざやトラブル解決に奔走したこともある。

 

 とてもじゃないが、争い処理に修行、男女のいざこざ仲介に娼婦たちのスケジュール管理やストレス緩和等奔走していたら、とてもではないが楽しい一年とは言えなかった。

 

 しかし、目の前の出来事に奔走された毎日というのは、逆に言えばそれだけ復讐やテンのことを一時的にでも忘れさせることができた。そして寝る前、ごちゃごちゃになった感情を少しずつ整理をすることができ、そして最終的によく考えたうえで復讐の旅を選ぶことができた。

 

 もしかしたら、エレミヤは自暴自棄になっていたこちらを見かね、一度感情をリセットさせ考え直す時間といものを与えてくれたのかもしれない。多少なりとも使えると踏んだ知人の首に、期間付きとはいえ首輪を嵌めて使い倒すという目的はあっただろうが、もし想像が正しかったとしたらやはり表には出せないが彼女には頭が上がらない。

 

 面と向かい言えば、にんまり微笑みながら「そうなんだよーようやく気付いたかい?にぶちんめ」と肯定し恩返しを要求されそうであるため絶対に言わないが。

 

 「客のトラブル、男女関係のいざこざ、行為後の寝台の後始末、暴力沙汰ええとあとはなー心霊騒動なんてものもあったかな」

 

 目の前で笑いながら指折り数えてやる。それを聞いたクーラは顔をしかめ、額に手をあて小さなため息をついた。

 

 「ごめん、もういい」

 

 「楽しい一年を過ごせていただろう」

 

 「そだね…」

 

 若干引き気味にクーラは肯定した。いたずらを仕掛けてきたつもりかもしれないが、反撃には成功した。年場のいかない女の子にこんなふうに反撃して反応を楽しいと思うなんて、多少なりともセクハラを含む回答をするなんて、俺も品のないおっさんにまた近づいたのかもしれない。

 

 「でもそんな環境で、よく格闘術なんて学べたね。道場でもないのに」

 

 「娼館のガードマンはボーイも兼ねているからな。剣やライフル銃なんて威圧的なものぶら下げながら客とすれ違えば、委縮してしまう可能性もある。だから、問題がおこっても素手で鎮圧できる者達が必要だったんだ。同じ理由で、リゾート区画の警備員達の武装も可能な限り隠したり威圧感がでない色で塗装をしている。物騒なものを見てからでは、楽しむ気分が台無しになるからな」

 

 「へー」

 

 「こちらが素手でも相手は腰の武器を抜いてくることもあるから、鎮圧も場合によっちゃ命がけだ。だからこそ、高い金払って実力者を迎え入れているのさ。俺がいた頃には、投げ技の達人と打撃術の逸材がいた。二人とももういないが、俺の師匠といっても良いかもしれないな」

 

 そして、娼館街での職員が極力武装をしない理由は、あくまで三勢力の争いからは中立を保つため。下手に武器を蓄え武装をし、トラブルとなればどんな難癖をつけられいずれかの組織に呑み込まれてしまうかもしれない。自衛を捨てた自衛、というのもエレミヤの方針だ。

 

 橋を渡りきり、しばらく海岸沿いを歩きギルドの安宿を目指す。買い物前に宿を確保しておかないと、リスムのような大きな街では夜に来た頃には空き部屋無しになりかねない。途中で掲げる大盾支部の前を通りかかり、顔をだしておこうとしたがやめた。だいたいの者達はモスコーの騒動を対応にあたっているし、残った者も忙しくしているだろう。

 

 なにより、事件前にモスコーを目指すとグローにこちらの旅先を告げていた。万が一事情を知る者に捕まり、根掘り葉掘り当時の状況を聞かれるのも面倒な話である。

 

 掲げる大盾の前を通り過ぎ、ギルドの安宿に辿り着き二人部屋を確保する。盗難の危険がある為、道具類を置いて外出することはできないがこれで夜に野宿を気にする必要はなくなった。

 

 少しだけ休んでからまた出ようというクーラの提案に頷く。二つある寝台の片方に腰を降ろすと、クーラも一度荷物を降ろす。首から彫られた馬のお守りをだし、少しだけ撫でながら視線を落としていた。

 

 「無事目的地に、たどり着く為のお守りだったか」

 

 「うん。いろいろサグレには見せてもらったけど、やっぱりこれが良いかなってね。ランザは色々考えていたみたいだけど、やっぱり離れたくなかったんだよ」

 

 「それが未だに分からない。俺はもうお前を近くに置くしかないが、それ以前のお前はなんでわざわざ殺されかけた相手についてきたんだ」

 

 疑問を尋ねると、クーラは顔を急激に赤くした。フードの下で耳がせわしなく動き、尻尾もブンブン動きまわっているのが分かる。無意識か、首に指を這わせながら口をあわあわとさせていた。目が前後左右に動きまくり、とてもじゃないが平然ではない。これはどういうリアクションなのだろうか。

 

 「は、話したくないってこともあるんだよね。秘密、トップシークレット」

 

 「なんだそりゃ」

 

 「トップシークレット!」

 

 クーラが顔を背ける。これ以上は聞けそうにない。興味本位では、これ以上聞きようもないだろう。

 

 「じゃあ話せることを話してくれ。サグレとベレーザを埋葬した日、お前はこちらからも話すことがあると言っていたな。あれはいったいなんだったんだ。結局、聞けていなかった」

 

 「あ…うん」

 

 コホンとクーラは咳ばらいを一つして、何時もの顔に戻る。表情は真剣そのものだった。

 

 「話というのは自分の古巣のこと。自分は、レントに忠誠を誓っていた。恩義もあったし、キラービーを嗾けランザを襲撃したのもその一環。あ…ちなみにだけどレントは覚えている?掲げる大盾の支部長室で、乱入してきたあの男だよ」

 

 「ああ、覚えている。来客中に気にせず乱入した無礼なやつと印象だがな」

 

 クーラはそれになにかを言いかけ、本筋とは関係がないと飲み込んだ。言っておいて気づいたが、足で踏みつけ机を破壊した俺は、あの場では無礼という意味では群を抜いている。それをつっこみたかったのかもしれない。

 

 「レントは、俺の殺害をお前に命令したのか」

 

 「ううん、半ば自分の独断。だけどそれを伝えたレントは反対しなかった」

 

 能力があるとはいえ、こんな子供を暗殺者として使うというてんではレントやらも、口ほど聖人ではないようだ。あれから出会ってはいないが、次もし会話をすることがあったらそれを念頭に置いて接した方が良いだろう。

 

 「自分はランザについていきたくて、レントと袂を分かった。レントにとって自分は多少便利な使い捨ての駒だっただろうけど、何故かモスコーまでランザに対して監視をよこしていた」

 

 「監視だと?」

 

 「奇妙に曲がりながら襲う、弾丸に襲われたでしょう」

 

 頷くと、クーラも頷き返した。目を鋭くし、続きの言葉を紡ぐ。

 

 「あれはレントに命令された監視役の暴走。早くレントの元に戻りたいが為に、ランザをモスコー騒動のどさくさに紛れて殺そうとした。覚えている?レントの近くにいた栗毛の女が、それだよ」

 

 「あの女か。そいつはまだ、俺を監視しているのか?」

 

 「自分が、殺しておいた」

 

 人を殺した、それも知っている人間を。それを平然とクーラは、言ってのけた。こちらの表情が険しくなってきたのか、それに気づいたクーラが慌てて口を開く。

 

 「ああでも、死体はちゃんと食屍鬼に乱暴されて殺されたようにしておいたよ。万が一にでも自分が殺したってことにはならない筈だからさ。だから安心してほしいな」

 

 「いや…いや、いい」

 

 クーラは暗殺者として教育をされていた。人を殺すことになんの躊躇いも今更ないだろう。それはもう、育つ環境や価値観の差異というものだろうか。だが俺だったら、いくら敵対したとはいえ知人を平然と食屍鬼に食わせて殺せるだろうか。それは、分からない。

 

 そしてそれを怒ることは、できない。あのまま弾丸に狙われ続けたら、サグレどころではなかったからだ。クーラは俺の命を救ってくれていた。ベレーザのとの決闘の結末も合わせ、あの日だけで二度もだ。

 

 「慌てるなクーラ。俺は命を助けられたんだろう?礼を言うのは俺だし、非難の言葉を向けるつもりはない」

 

 「あ…ふう。良かった」

 

 クーラは、安堵の息をついた。安心した顔で続きを話し続ける。

 

 「でも油断しないでね。また監視をレントは送り込むかもしれないし、その監視は絶対にモスコーで暴走したやつより強い。自分が目を光らせておくけど、ランザもそれを覚えておいてくれると助かる」

 

 「こんな野郎監視してなにが楽しいんだ。レントはなにを考えているんだ」

 

 「それは…ごめん分からない。レントの自分に対する執着はたいしたことないだろうし、なにを目的にランザを調べているのか…見当がつかないね。だから、これからも油断しない方がいいと思う」

 

 「付き合っている暇は、ないんだけどな」

 

 「あと彼には特殊な力がある。特殊な技量を他人に授ける技、加護っていってたな。それのおかげで自分はキラービーを操り、監視の女は弾丸を自由に操れた。もっとも自分は、加護の力はレントから離れた時点で消失しているけどね。世間では未発見の未知なる魔術具を使っているのかもしれないけど、原理は不明」

 

 面倒なことになったものだ。妙な執着に特殊な力。レントが送りこむ監視が監視に留めてくれるなら面倒も少ないが、ただ一言二言と会話しただけの相手にこうまで執着されるとは想像の埒外だ。最近の若いのは、なにを考えているのやら。

 

 「一時間程休んだらまた出よう。仮眠でもしておくか?」

 

 「良いの?ありがとう。昨夜はエレミヤに散々質問責めされてまいっちゃったんだよね。それじゃ、先に横にならせてもらうね」

 

 クーラがコテンと横になり、寝息をたてはじめた。

 

 クーラから聞いた話を、脳内で整理をする。本当にレントは、いったいなにを考え目的にしているのだろうか。



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 リスム自治州と帝都を繋ぐ道は、海上を含めれば、密入国者が使うような険しく危険な狭い道を除き四つ程存在する。

 

 まずは港湾都市らしく、海上を大型船に乗り移動する海路。海岸沿いにしかれた陸路。モスコーを通り過ぎ、山に開かれたトンネルを通り過ぎる整備された山道。そして、ここノックの森林道だ。

 

 それぞれの道では、行きかう商品や通行する人の種類もガラリと変化する。例えば、ここノック森林道は製材所と植林地が存在する為主に行きかう品物は建材だ。ここで伐採、加工された木材はリスムや帝国にて大型船の材料や建物の建材に使われる。そして、リスム名産の鯨油も多く運ばれる。

 

 ノック森林道の先は帝国内陸部へと続いている。鯨油は海路で運べば、大型船での輸送となる為大量の鯨油が輸送でき、到着した帝国の港街から各都市へと運ばれていく。ならば何故わざわざ森林道から運ぶのかと言えば、個人で買い付けをした商人達が各々の商業路に応じて中規模な都市や村落へと売りに行くためだ。

 

 大型船を利用し、帝都の各都市へと販売路を持つのは大商会だ。六から七割、帝都に運ばれる鯨油の販売を担っているといっても良い。だが、そんな商会でも流石に帝国の全てをカバーできる程ではない。残りの四から三割を中小規模の商会や個人商人達が輸送や販売を担当しているのだ。

 

 そんな彼等が、このノック森林道を利用している。道を歩いている最中でも、武装した護衛を連れた商人達とすれ違った。三から五人程度ではあるが、槍やライフルで武装した護衛だ。あまり大人数になれば損得分岐点に引っかかる。小規模の護衛ではあるが、儲けを考えればこれが精一杯なのであろう。

 

 内心歯噛みしている筈だ。前のように穏やかな道であるならば、この護衛の分売り上げが増えるというのに…と。

 

 ノック森林道を歩き続け、製材所と帝国の国境へと続く分岐点へとたどり着く。ここまで来れば、帝国との国境までほぼ目と鼻の先。多少なりとも賢明ならば、この先で騒ぎをおこそうなどと思わないだろう。

 

 リスムからここまでで異常は無し。腰にぶら下がる散弾銃を警戒したのか、襲われることもなければエルフが出てくることもなかった。

 

 製材所に話を聞きに行こうかとも考えたが、やめる。エルフで一攫千金を夢見る者が大挙として押し寄せ情報を得ようとしただろうし、警備隊の調査も入り情報収集の一環で聞き取り調査を行った筈だ。この手の手合いは、うんざりしているだろう。

 

 前日、警備隊に調査の結果をダメ元で聞こうとして失敗した。グローがいたら伝手でなんとかなったかもしれないが、エルフについて少しでも情報を得ようとした連中と同じ扱いをされ門前払いをされてしまった。向こうも、連日のように似たような連中が訪れ辟易していたのだろう。

 

 いっそ帝国の連中が介入してくれればとも考えるが、お偉方の腰は重い。海上輸送路が無事であれば、ノック森林道の重要性はどうしても低くなってしまう。ましてリスムは、帝国と連合王国の緩衝地帯。帝国は、経済協力や政治闘争以外、自治州に対しての直接介入は極力控えている。

 

 共同出資の植林場や製材所が潰されたり、街道を通る半分程が行方不明になる程酷くならないと、重い腰を上げてはくれないだろう。帝国の介入を促すには、まだ被害が足りない。

 

 昨夜叩きこんだ地図を脳内で広げる。分岐路から離れ、元来た道を戻る。

 

 ノックの山道に入る為に脇道に侵入し、取りあえず頂上を目指すことにする。ここには古い時代にはのろし台が存在し、山頂まで行けば昔使用していた台の跡地があるそうだ。観光名所にするにはいささかパンチ力が足りないが、登山が好きな者達にとってノックの山は初心者向けということで、昇りに来る者もいるらしい。

 

 山道に入り山道をしばらく歩く。植林された杉が高く育っていた。

 

 杉は俺にとっても慣れ親しんだ素材だ。空気を含んでいるから軽く、真っ直ぐな繊維は加工がしやすい。触ると温かみも感じる、良い材木である。

 

 同じ杉でも育った環境により、色合いに違いもでたりする。生きている木でも伐採すると丸太の中心部と外側で色合いが違い、中心部を心材、外側を辺材と呼ばれている。

 

 家具工房に働いていた頃に聞いた話だが、中心部の心材というのは木の活動が眠りについた部位。外側の辺材は生命活動が活発な部位であるらしい。すべての生命が活動していれば、吸い上げる水分では生命活動が追い付けず足りない為、成長するにつれ少しづつ中央部に近い部位が眠りについていくそうだ。

 

 そして先程の話だが、心材は育った環境によって赤茶色だったり黒かったり、うっすらとピンクに見えたりと様々だった。

 

 家具職人としては、それをどう使うのかが腕の見せ所の一つだ。軽い杉で作られた家具は持ち運びがしやすく楽であるし、香りが良く、蟲もあまり寄り付かない。なにより年数が経てば味わい深い色合いになる。杉の加工は、家具職人として一人前どころか半人前になる為の登竜門であった。

 

 懐かしい気分に浸りながら歩くが、今なにをしにきているのかと自分を叱咤し前を向く。植林場での被害はでていないが、俺がその最初の被害者になりかねない。

 

 植林場は想像以上に続いていたが、山の中腹辺りまで昇れば流石に途切れていた。そこから先は、シイやカシ、ナラ等の広葉樹林が多く見える。

 

 秋に色を変え、山を彩どる広葉が多く見える。成程、これを観に登山をする人間もいるのかもしれない。

 

 荷物から革袋を取り出す。なかの水を飲もうとした瞬間、足元に一本のナイフが突き刺さった。

 

 すぐさまその場から飛びずさると、先程までいた場所に矢が数本突き刺さる。腰から剣を引き抜く、質量を無視して出現する連結刃を自分を中心に周囲を一回転しながら振り回す。以前より、躊躇なくジークリンデの力を借りることが多くなった気がする。我ながら気にいらない、計画通りだ。

 

 エルフの常套手段。木々の上に身を潜め待伏せ、高所からの奇襲。事前知識が無ければ手を焼く戦法だが、今回は対策済みだ。

 

 ギルドの安宿にて、クーラにエルフの生態やその戦法を知る限り伝えた。山林でエルフと対峙するのは、熟練の山岳兵団と対峙するのと同等に厄介である。まず森に溶け込むように待ち伏せるエルフを見つけなければ、人妖どころの話ではない。

 

 その話を聞き、クーラは一つ策を打ち出した。ランザ、すなわち俺が先頭に立ってノックの山林や山道を歩き、クーラ自身はその後ろを潜みながら気配を殺しこちらを狙うエルフを見つけて見せると。

 

 クーラ自身が、暗殺や隠密を専門にしてきたのは分かる。だが、街中と違い森にいるエルフを見つけることができるのか。

 

 クーラはこう答えた。待ち伏せをする者は、攻撃しようとした瞬間気配が漏れるものだ。熟練者もそうだとは言い切れないが、エルフが目撃されたという情報じたいが気にかかるという。

 

 それはすなわち、待ち伏せあるいは潜伏にヘマをした者がいるということ。そんな間抜けがいるならばありがたい話だ。だが、エルフの目撃情報はなんらかの理由で意図的に流したもの、という可能性もある。

 

 しかしそうであっても単独のはぐれエルフではないだろうというエレミヤの予想から、ある程度の人数がいると考えることができる。そして、待ち伏せや潜伏の熟練度にバラつきがあるとすれば、付け入る隙を見つけることができるという。

 

 根拠はあるが仮説にすぎず、クーラは自分を信じてくれるかどうかだと話したが、それを採用する。この作戦なら囮役は俺ということだ。危険を被るという意味では、俺の方が適任だ。

 

 そしてクーラは見事、敵を見つけてくれた。合図の投げナイフにより矢を避けることを成功する。刺さった矢は三本だが潜んでいるのが三人とは限らない。

 

 待ち伏せをやり過ごせたとしても、高所をとられているという不利は変わらない。だがしかし、ジークリンデの存在がそれを覆す。

 

 一回転した刃は、軒並み木々を伐採していく。心なしか、モスコーでの戦闘を経てより斬れ味に磨きがかかっているような気がする。

 

 四人の弓矢を装備したエルフが、倒れる木から飛び降りたり、落下をする。後ろから駆け寄るクーラが投げナイフを投擲。体制を崩さず着地した二人の膝にナイフが突き刺さった。

 

 膝を曲げ痛がる二名に接近。喉元に拳を叩きこみ、呼吸器を潰す。近場にいたもう一人には、裏拳を叩きこみ体制が崩れたところ顎を蹴りあげた。片方は激しくせき込み行動不能、顎を蹴り上げた側は脳を強く揺さぶられ気を失った。

 

 起き上がろうとするあとの二人にクーラが接近。直刀を逆手構えながら低く走り込み、すれ違い様に足の筋を断ち切る。起き上がったもう一人が、クーラに向けてナイフを抜いて斬りかかろうとしたが、連結刃を一度手放し接近、ナイフを持つ腕を振るわれる前に握り阻止。

 

 強引にこちらに身体を引き寄せ腹部を殴打。前かがみになったところで腕を離し、腕の肘と足の膝を挟み込むように首筋と喉に叩きこむ。武器が振るわれる軌道を読み腕を掴んでから投げ技や打撃へ繋げるのは、カンゼンの得意技だった。

 

 喉元と首筋を挟みこむ打撃は一撃で敵対者を沈める。制圧用に教えてくれたにしては妙に殺意の高い打撃は、エイラの技だ。本当に俺は、良い師匠に恵まれた。

 

 「チームワーク」

 

 クーラが軽く手を掲げて見せたので、それをパチンと叩いておく。こういうのが好きなのは、少しだけ意外だ。

 

 「ある程度敵のやり方を理解していたとはいえ、よく待伏せを見破ってくれた。助かった」

 

 「ん…ふふ。こういう仕事なら得意分野。これからも頼ってね」

 

 太腿を切断したエルフが這いながら逃れようとするが、斬り付けた太腿を踏みつけて阻止しながらクーラはしまりのない笑顔を浮かべた。小さくガッツポーズをしており、「よーやく役にたてた」と小さく独り言を呟いていた。

 

 そんなことはないと言おうとも思ったが、独り言にわざわざ突っ込むのも些か野暮というものだ。

 

 「それにしても最後のあれなに?急所を挟み込むような打撃とかえっぐいね」

 

 「まともに決まればほぼ一撃必殺だな。加減はしたから死んではいないが、後遺症は免れんレベルだろう。女を食い物にするゲス野郎にはこれをぶちこめと、師匠の一人が一度見せてくれた技だが、正義の鉄槌にしては残酷な殺し技にしか見えん」

 

 「もうそんなゲスは殺せ…ってことじゃないかな。本当に死んでない?そいつ」

 

 「一応まだ生きてる」

 

 改めて、無力化した待伏せ部隊を確認する。呼吸ができず喉を抑えて苦しむ者が一名、半死半生で泡吹いているのが一名、気絶が一名にクーラの足元にいるまだ元気なのが一名か。

 

 クーラの足元にいるエルフに近寄り、しゃがみ込む。髪の毛を掴んで顔をあげさせ、翡翠色の目を持つ容姿端麗な顔と視線を合わせた。

 

 「ハイキングに来た一般人相手にえらいやりようだな、山賊かなにかかお前等は。いや、山賊なら金目の物を置いていけ云々の前置きがあるからまだ向こうの方がマシだな。いったいなにが目的で、ノックを根城にしていやがる」

 

 エルフは答えずに、顔を背けようとする。殺しに来る勢いの相手に、こちらはなるべく穏便に対応してやったようだが、どうやら誠意が伝わらないらしい。

 

 「ノックには何人エルフがいる。お前等だけなのか?アジトがあるのか?この山の中に化物を匿っていないか?好きな質問から答えて良いぞ。質問に応じてくれれば、治療もしてやる」

 

 質問にだんまりを決め込んでいる。太腿からの出血だ、あっという間に血を失い、顔色が悪くなっていく。早急に治療をしなければ死んでしまうが、それでも口を頑なに閉じていた。

 

 「お喋りは苦手か?まいったな、コミュニケーションは社会に出てから大事だというが。そうだクーラ、まずは異文化交流としてお互いを知ることから始めようか。仲良くなった方が口が滑りやすいだろうしな」

 

 クーラの方に手を差し出すと、言い回しがどこかおかしかったのか少し苦笑いを浮かべながら腰にぶら下がるルーガルーの短剣を差し出してきた。短剣を受け取り、手の中で軽く回してから指に近づける。暴れようと腕を振るおうとするが、クーラが肩を踏みつけそれを阻止。

 

 「人間社会では、爪をちゃんと手入れするのはマナーの一つでな。まあ身嗜みってやつだ、お兄さんの爪、伸びているみたいだからちゃんと切ってあげよう」

 

 爪、と言いつつ右手の人差し指と中指に刃を添える。弓矢を射るには大事な指であり、なにをしようとしているのか理解したのかエルフは暴れるが、クーラが左腕を持ち、間接を外したようで抵抗を潰していた。

 

 「まっ…待て!待ってく…」

 

 人差し指の半ばまで刃が食い込んだところで、エルフは叫んだが鋭利な刃は想像以上にあっさりと人差し指を斬り落とした。お喋りする気になるのが、遅いんだよ。

 

 人差し指から血が溢れる。中指を少し斬り付けた状態でナイフを止める。

 

 「すまんな、深爪してしまった」

 

 「この…クソ野郎!よくも俺の指を…」

 

 「悪い悪い、今度はちゃんと切ってやるよ。次は中指の爪いっとくか?お喋りしてくれる気になったら、仲良くなる為の異文化交流も終わるんだが」

 

 少々過激かもしれないが、人妖が関わっている案件であり、恐らくは行方不明になっている者達は人妖の餌食になっているか、なろうとしているところだろう。エルフの出現と人妖が同一時期にノックに潜伏している以上、無関係は絶対にありえない。

 

 こいつらがなにを企んでいるのか、人妖がどこにいるのか。もしかしたら、まだ生存している拉致の被害者がいるかもしれない。優先目標ではないが、生存者がいるならなるべく助けたい。被害者の生死が時間に直結しているならば、紳士的に質問をしている時間はないだろう。

 

 「それじゃもう一度質問しようか、この森に…」

 

 言葉が途切れる。森の中で、なにか様子が、形容し難いが雰囲気のようなものがザワッと変化した。

 

 クーラもなにかを感じたのか、顔をあげて周囲を見回している。なにか大きな気配、気配といってい良いのか、単純に人妖とも、吸血鬼の圧力とも違う、なにか異質、異様なものが近づいて来るような感覚。

 

 「大人しく捕まれば、多少は長生きできたものを」

 

 「どういうことだ」

 

 エルフが嘲笑するような笑みを浮かべる。この余裕な態度は、決して強がりではない。

 

 「終わりだよ」

 

 「ランザ!」

 

 エルフに問いかけを続けようとする前に、クーラが叫び声をあげる。近づいて来るなにかは、枝葉をかき分けながら凄まじい音を立てていた。まるで複数人が激しく枝を揺さぶっているような、少なくとも単独ではない、群体が近づいてくるようだった。

 

 「ああ、走るぞ」

 

 視界が木々や緑で遮られる。なにかが近づいてきていることは確かだが、迎撃するには場所が悪い。

 

 倒木を飛び越え、自然の段差を駆け下りる。近づいてくる気配の方が早い、いずれは追いつかれる。散弾銃を引き抜き走りながら背後へ向ける。木々の間から見えたのは、先端を鋭く尖らせた樹木の枝に似た色合いの茶色い触手だった。

 

 銃撃で散弾を射ちこむ。鉛の塊が広範囲に広がり、迫る触手の一本を千切り飛ばす。地面に落ちた残骸はしばらくのたうちまわりながら緑色の液体を垂れ流し、急速に水分が抜けるように萎れ踏めば容易く折れてしまいそうな枯れ枝に変化した。

 

 なんだこいつは、人妖にしても異質すぎる。いったいなにに変異をした。

 

 「左右からも!」

 

 走りながらクーラが叫んだ。背後からのみでなく、左右からもこちらを取り囲むように複数の触手が蠢いているのが見えた。逃げ場所は前方のみ、まるで追い込み猟だ。この先になにがあったか昨夜頭に叩き込んだ山の地形を思い出す。

 

 気配に反応したクーラが前方に飛び込み一回転。首に巻き付こうとした触手を回避し、素早く立ち上がる。散弾銃を放ち、クーラに再度襲い掛かろうとした触手を破壊。自分に襲い来る存在にも連結刃で迎撃。散弾銃は空になったが、リロードをする暇はない。

 

 なるべく近くまで来ている音源に向け連結刃を振るう。人妖ではない木々の枝葉ごと触手を斬り落とすが、焼け石に水だ。捕まるまで、ほんの少しだけ時間を先延ばしにするくらいの成果しかあがらない。

 

 「まずいよランザ、もう!」

 

 クーラも気づいている。そしてもう、逃走の終点となるその場所は目の前に現れていた。底に勢いのある水流が流れている、断崖絶壁。反対側は、空でも飛べない限り届かないほど遠い。

 

 逃げ場のないこの場所に、誘導された。逃げた先になにがあるかは分かっていたが、他の逃走ルートを選べなかった。振り向くと、半円を囲むように大量の触手がこちらを取り囲んでいる。

 

 「飛び込むぞ」

 

 「え!?」

 

 「それしか逃げ場がない」

 

 一歩後ろに足を下げるが、その分触手が詰めてきた。一斉に攻撃するタイミングを計っているように見える。そしてその時は、次の瞬間にも訪れるだろう。ざっと見て百本以上の触手が蠢いているように見える。連結刃で対処しようにも、限界があるだろう。

 

 「ランザ」

 

 「一、二でいく。準備しろ」

 

 「ランザ!」

 

 「なんだ!?」

 

 「お…泳げない」

 

 猫だから、泳げないか。はは…生き延びたら、エレミヤからふんだくった金でリゾート地の宿を借りてなくなるまで泳ぎの特訓でもしてやるか。

 

 内心苦笑いを浮かべる。この状況を突破する名案が思い付くまで待ってほしいところだが、触手はまごつくこちらを待ってはくれない、百を超える触手が殺到してきた。

 

 「なにも聞こえないことにする!取りあえずしっかりしがみついていろ!」

 

 「い!?え…ひっ…いひゃああああああああ!」

 

 散弾銃をホルスターにしまい、立ち止まり躊躇をしているクーラを抱えて飛び込む。重力に従い水面が近づいてくると思ったら、連結刃を振るう腕に触手が絡みつき落下が止まる。

 

 ジークリンデの意思か、自動で刃が動き触手を切断しようとするがそれよりも早く足や腰にも触手が絡みついていく。どうやら逃がすつもりはないらしい、クソったれが。

 

 「クーラ」

 

 涙目のクーラが、こちらに振り向いた。

 

 「取りあえず、山を下りてエレミヤと掲げる大盾にこのことを話しに行ってくれ」

 

 「え?や…ランッ…」

 

 クーラを抱えていた手を離す。それを触手が追跡しようとしたが、自動で動いた連結刃が腕を縛る触手を斬り落とし一瞬でも動きが自由になった。刃を振るい、クーラを捕まえようとしていた触手を切断、しかしすぐに自由になった手首が拘束される。

 

 叫び声をあえるクーラが水面に落いて、水飛沫をあげた。

 

 『こっちは万事休すだな。どうする?オレでもここから全部触手ぶった斬るのは骨が折れるぞ』

 

 「ジークリンデ」

 

 『あ?』

 

 「お前がクーラを助けて、なんとか応援連れて戻ってこい」

 

 手を緩め、連結刃の柄を手放す。脳内で『はあああああああああああ!?』という激しい疑問と怒りの叫びが響いたが、重力に従い連結刃はクーラを追うように激流に落ちていった。

 

 『テメええええええ!なに考えてやがるんだぁああああああああ!』

 

 「相棒ならクーラと助けに戻ってこい!精々俺が死ぬ前にな!」

 

 『ふっざけんなあああああああああ!』

 

 ドボンと、激流の中にクーラに続いて連結刃が落下した。それとは反対側に急速に引き上げられていく。崖上まで戻され、全身縛られ地面に転がされた。何人かが歩いて近寄る音が聞こえ、そちらの方に顔を向けようとするも、首や頭まで押さえつけられ顔をあげることができない。

 

 「まさかたかが二人組に、四人がやられ切り札を見せるはめになるとはな」

 

 「どうしますか?ここで殺しておきます?贄として捕えておくこともできますが」

 

 「前回よりも少々早いが、この場で贄にしてしまっても良いだろう。吸わせてやれ」

 

 行方不明になったものの死体はあがっていない。あのエルフは、捕まれば多少長生きできるといっていた。何時まで無事かは分からないが、しばらく監禁されるだろうことに賭けてクーラとジークリンデを逃がしたのだが、どうやらここで処刑をする腹積もりのようだ。

 

 「に…え…と言ったな。いったいなにを」

 

 「さっさと殺せ」

 

 少しでも生き延びる可能性にかけようと口を動かして会話を試みようとしたが、雑音を聞く気はないというように無慈悲に命令が下される。背中になにかが突き刺さる感触。激痛で視界が歪み、急激な眠気が襲いかかってくる。

 

 血液を吸われる感覚。ジークリンデといい、サグレといい、本当にこの手の相手ばかりよくであう。

 

 内心苦笑をする。薄れる意識の中、最後に浮かぶのはやはりテンの顔。こんなところで死ぬ訳には…こんなところで……



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 急流から褐色の手が大きな岩を掴む。ズルリと身体を水面からあげるのは、背中から連結した刃を複数生やした美女。肩を息しながら、頭を大きく振るい髪の毛についた水滴を振り払う。

 

 「飛び込み水泳なんぞ二度とするっかぁ!」

 

 手を置いていた岩が砕ける。そのまま潰れたように這いつくばっていたが、思い出したかのようにこの姿で普段はあまり現さない尻尾を動かした。先端には襟首をひっかけ吊るされたクソ猫がひっかかっており、その辺に放り投げておく。

 

 あんのクソバカ野郎が。よりによって、このオレを猫救出の為に放り投げるなんざ、丸腰で連れていかれるなんざどうやって助かるつもりなんだ。野郎の意識を探る、薄れちゃいるようだが、まだ死んではいないらしい。なんで死んでないかは分からねえが。

 

 「チッなんにしても…おいクソ猫、何時までも潰れてると置いていく…」

 

 放り投げた後にしては、文句の一つ飛んでこない。近づいて首根っこ掴み持ち上げてみると、青い顔をして息をしていないのが分かる。まだ死んではいないようだが、文字通りの死にかけだ、まったく面倒な話だ。死にかけているなら潔くさっさと死んでおけ。蘇生する手間が増えやがる。

 

 ランザには連れて来いと言われていたが、個人的な感情のみで語るならば見捨てたところでなんの問題もない。クソ猫じたいはいてもいなくてもどうでも良いような存在だが、気になるのは中に憑いている雌狐の因子。

 

 雌狐はこのクソ猫を通じて、こちらの様子を観察できると同時に、時によっては直接介入を行うことが可能。猫はその為の入れ物、ぶっ殺して放置しておいた方が良いようにも思うが、たかが因子とはいえ雌狐の力を観測し分析をする為には役には立つ。

 

 旅の最中何度か雌狐とぶつかったことはある、たいていランザの野郎は遊ばれていたにすぎないが、何故そうなったかと言えばその一つは不死性だ。

 

 吸血鬼とも違うその不死性は、手応えの無さ。斬った感触はあるのに、傷を負わせたという感覚がない。ならば狐狸の如く幻の類かと考えることもできるが、向こうはランザに接触ができる。この謎を解き明かさない限り、あれと同じ土俵に立つことはできない。

 

 吸血鬼の弱点は銀、非常に分かりやすかったが、雌狐のそれは未だ不明。だからその力を分析する為には、このクソ猫の内部にある力を可能な限り近くで観察する必要がある。あの狐は、ランザや猫のみでなくオレのことすら嘗めてやがる。猫に埋められた自身の一端が解析されることはないと、高を括ってやがる。

 

 「んーだよ、やっぱ息もしてやがらねぇ」

 

 クソ猫の身体は冷え切っており、再確認したが呼吸がなかった。そういう時の蘇生方法を思い出す。あれは確か、歌鳥の人妖と戦闘した際だったか、戦闘の際に使っていた船が最終的には横転し、操舵をしていた男が足を折った状態で海に投げ出され、それを助ける為にランザが行っていた。

 

 顎を持ち上げ首を後ろに反らせ、胸の中心部に掌を押し当て、押し込む。押し込むのにもタイミングがあった筈だ、確か人間のガキが好きな御伽噺の歌、頭がパンのよく分からん生物を歌った歌に合わせたタイミングで押すのが良いんだとか。……そんなもん興味がなかったからさっぱり覚えてねえ。

 

 取りあえず適当なタイミングで押し込んでおく。猫を食ってから、麻痺した部位を再生させることも考えたがやめた。止まっているのは心臓、食べる部位が部位なため、再生する前に死ぬだろうしなにより半獣はまずい。昔二回か三回ほど食ったが、肉が臭くて食感が悪かった。

 

 口元に顔を近づけ、呼吸を送ってやる。だいたいの生物の死因は、頭に空気がいかなくなることで死ぬ。蘇生措置をし始めたなら、多少面倒でも無駄にならないように少しでも息を吹き返す可能性をあげた方が良いだろう。一連の行為が、無駄になるよりはマシだ。

 

 「がっはっ!」

 

 クソ猫が口から水を吐き出した。弱々しいまでも呼吸が戻っているが、目を覚ます様子はない。身体が冷え切っているうえに、体力を消耗している。自力での回復を待っていても、何時までかかるかも分からない。

 

 周囲の様子を確認する。岩場が多く木々は崖の上、あの触手が辺りを漂っている気配もない。視界の端に、岩場に隙間のようなものを見つける。猫を背負いそこまで言ってみると、奥行きは大したことのないが小さな洞窟になっていた。

 

 大人が三人横になれば、もう余裕がない程の広さであるが身を隠すには丁度いいだろう。洞窟の中に猫を放り投げ、身体の衣服を剥きにかかる。

 

 濡れた衣服は体温を奪う。引き裂いてやれば楽なのだが、蘇生したところで山の中を全裸で動き回るのは脆弱な生物にとっては自殺と大差ない。

 

 「ここが…こう?あん?どうなってんだこれ…訳分からん」

 

 当然ながら服なんて着たこともなければ脱いだこともない。まして脱がせたこともない。ランザを治療する時は、大抵野郎が重傷を負っていて、その部位を食っていたからだ。

 

 そういえば、あの戦闘用外套も考えてみれば大したものだ。人妖と戦闘を続けているが、いかに戦闘用とはいえ購入時から今まで着続けることができた理由は、あの外套に組み込まれた高度な自動再生の魔術のおかげである。

 

 専門に開発された魔術具と、専用に訓練された術士の技だろう。大した高級品を買ったものだ、死闘の旅に買い替えを行う手間と金を考えれば、費用対効果としては優れたものではあるが。

 

 なんとかクソ猫を全裸にする。こんな細かい作業、二度とごめんだ。

 

 火をおこしたいが、火の手からエルフ共に見つかれば面倒なことになる。横になり、猫の身体を自身の肌に密着させる。腕を回させ、正面から軽く抱き寄せるように合わせ胸元同士を近づけ、足を絡める。背中の刃は依然モスコーでやったように布に近いものに変異をさせ互いの身体に巻き付かせる。

 

 この刃にも血は通っている。包んでやれば暖かさで多少は回復も早くなるだろう。

 

 「たく…泣けるぜ」

 

 まさかこんなに献身的に誰かを介助するとは思えわなかった。ランザにだって、野郎を回復する時は対価の贄としてその肉と血を貪っている。趣味と実益を兼ねた、かなり有意義な行いだ。

 

 あと、思い出すとしたら昔不治の病に侵された愚王に懇願された時か。あの時は気紛れで、いったい自分が助かる為に何人生贄を捧げるのか興味が沸いた為ふっかけるつもりで五百人と告げたら、野郎はそれを承諾した。

 

 カスみたいな命を助けるなら、費用としてはオレの気分と身体に負担がかからない程度と考えて五人程で充分だったが、その百倍を野郎はさらりと了承する。そこまで助かりたいものかと面白いものだった。王都の一区画を丸ごと貪り食い愚王を助けたが、その後それがきっかけで反乱がおきて死んだんだったか。大爆笑したものだ。

 

 それから、その話がどこからどう伝わったのか、各国の重鎮や王達が定期的に贄を捧げるようになってきた。命に対する保険がほしい、しかし大規模に一度に捧げれば愚王の二の舞だ。だがそれが重なりまくり、一時期千人を超える生贄が短期間で捧げられたものだ。まさに踊り食い状態、より取り見取りだ。

 

 そしていざ死病に侵されたタイミングで、贄の質が悪いとかそんな約束はしていないと伝えた時のあの顔ときたら、間抜けも良いところだ。

 

 それが今や、こんな雌狐の因子が入っていなければさして興味もないクソ猫の命を繋ぐ為に、こうして肌を重ね合わせながら身体を温めてやっているというのだから、無駄に長い竜生、なにがおこるのか分からないものだ。

 

 あの海竜の野郎だって、数千年単位で海の覇者として君臨していたのに、まさか人間共に敗れるなんて夢にも思わなかっただろう。オレもだ、こんなところでこんなことをしているなんて思いもしなかった。

 

 しかし、海竜がやられたことで竜の連中も大半は逝ってしまった。新たな世代の竜と呼ばれる生物は、身体が小さく知能が低くなり多少強い程度の害獣に成り下がっている。

 

 オレ達の全盛期を共に生き、今も生存しているのは知る限りでは、火山の奥底で眠りこける炎竜に、雲の上で天候を気紛れに操作する空竜、あとはこの世界における北の果てに鎮座する氷竜や砂漠に埋もれる砂竜くらいか。昔馴染みも、随分と減ったものだ。

 

 まあ昔馴染みといっても、合う機会も極稀なうえにツラ合わせりゃ喧嘩や殺し合いくらいしかすることはなかったが。

 

 「オレ達も随分落ちぶれちまったもんだな、リヴァイアサンよ」

 

 今生きているのは、人類と関りあいが元から薄かった、天災をおこす空竜を除けば伝説にも残らないような連中ばかりだ。増長する人に海までは自由にさせんと長い間怨敵として人類と敵対していた海竜が死に、これから先は人の増長は留めなく続いていくだろう。

 

 神は元から存在した信仰が、別の信仰にすり替えられ結果的に力を落とし零落した。悪魔の連中は、自身が分け与えた知識を元に人は想像以上に発展をし、自力で成長をすることができるようになった人間連中に顧みられなくなった。

 

 まさに、人の世か。神連中は覇権を取り戻すことを諦めてはいないようだが、悪魔はなにを考えているのだろうな。

 

 そう悪魔だ。あのガスパル。奴が何故ランザに人妖の情報を漏らすのか。もしかしたら、裏で雌狐と繋がっているのかもしれない。状況証拠ばかりで決定的な証拠はないが、ほぼ間違いないだろうと睨んでいる。

 

 そんなガスパルからの情報。予想が正しいのであれば、この件は雌狐が仕込みをし、時期が来たらからガスパルが伝えたということになる。雌狐的には、ランザが苦しみもがくのは見応えがあるだろうが、自分と殺し合いをするまでは死んでほしくはないとは考えているだろう。

 

 現状ランザは、意識が途切れているようだがまだ生きている。これも雌狐のシナリオの上なのか。だとしたら気に食わないことこのうえない。

 

 布地に変化していた身体の一部に思わず力が入り、猫が無意識ながら苦しみの声をあげた。おっと、潰してしまえば後処理が面倒だ。

 

 この狭い空間、身体を包まれた猫はその小さな体の中からかすかな鼓動を鳴らしていた。思えば、こんなふうにただなにかを抱いたまま過ごすのは初めてだ。ランザにしたら、暴れられるのは容易に想像がつく。

 

 「本当に、面倒くせぇ」

 

 ランザはオレを長い間手放さなかった。そりゃ仕事に行く為に家に置いておくこともあったが、基本的には封印を見張る為長い間持ち歩いていたからだ。こうして離れていることも、考えてみれば久しぶりである。

 

 あのモスコーでの相棒呼びの時、オレは奴の内心にさらに深い根を張れたと思った。だがしかし、野郎はもしかして今後相棒という言葉を、便利なキーワードとして使っていくつもりだろうか。もしそのつもりなら、オレとしても考えがあるというものだ。悪竜が、ただの単語で煽てられる便利な駒扱いされるのはよろしくない。

 

 あくまでまだ今は、そんな気安い感情で接して良い間柄になるのは望まない。まだ野郎にとってオレは、油断ならない危険物で良いのだ。野郎が心の底からオレに頼るようになる前から、あまり雑に普段使いが過ぎるようだと、いざという時のありがたみがなくなる。

 

 匙加減が難しい。ゴールとなる着地地点が見えているのに、そこに向かう為の道筋というのが不透明だ。

 

 「んぁ…」

 

 「あ?」

 

 「クシュッ!」

 

 小さなくしゃみだが、唾液の飛沫が顔までとんだ。このクソ猫め。

 

 この面倒のカリはまとめて後でランザに返してもらおう。本当に、自分で言うのもあれだがかの悪竜様も丸くなったもんだ。それは環境に適応しているということ、それが竜にとっていいことかどうかは分からない。変えられなかった、海竜は死んだのだから。

 

 小さな心音を感じながら、目を閉じる。せっかくだ、久々になにも考えず過ごしてみようか。遺跡の奥で怠惰に寿命を待っていた頃のように。この身体に疲労はほとんどないが、それでも体力を温存しておいた方が良いかもしれない。

 

 「お前がクソ猫連れて来いといったんだ、多少拷問されても怨むなよな」

 

 悪竜は、軽く欠伸をした後眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うっすらと目が開く。目の前に見えるのは、ゴツゴツした自然の岩肌でできた床に木材を削り出して作った格子状の壁。両手首は縛られており、Yの字になるように木製の器具に張り付けられていた。季節はまだ夏だが肌寒い、戦闘用の外套は脱がされ、上半身裸になっている。

 

 身体が気怠い。背中が痛むが、簡単に治療がされているのか血が流れだしているような様子はない。死んだと思っていたが、何故まだ生きている。

 

 「不思議そうな顔をしているな」

 

 死角から、恐らくは坂道を降りて来るような足音。若いエルフが、といってもエルフは成人してから老年までずっと同じ容姿の為本当に若いかどうかは分からないが、とにかく若そうなエルフが二人の護衛を引き連れ牢獄の前に現れた。

 

 「何故死んでいないか」

 

 「お優しいことに、情けでもかけてくれたのか?」

 

 「まさか、何故貴様が死んでいなか等こっちが聞きたい。彼女は今まで捧げた贄の体液は全て枯れ果てるまで吸い取っていた。何故死んでいないのだ」

 

 そう言われても知らんと、言いたいところだったが少しばかりであるが思い当たるふしがあった。

 

 モスコーの古城、サグレとの対峙の際蹴り技を繰り出したさい、足は吸血鬼の液体となった身体を貫通し身体の内部で傷をつけられ血を吸われた。その後ジークリンデが言っていた。『奴の体液は多少混入したかもしれねぇがまだ眷属にも食屍鬼にもなる量じゃねえ』と。

 

 つまりこの身体の内部には、サグレの血が取り込まれている。実は身体に違和感がまったくなかった訳ではない。大なり小なり、気にもならないような変化もあるのだが、一番の変質は目だ。あの日から、夜目がよく利くようになっていた。視界の暗順応が早く、まるで昼間のようにとは言えないがはっきりと見える。

 

 つまりこの身体は、ほんの僅かとはいえ吸血鬼のお手付きになっている訳だ。そのせいで、命拾いしたとか…であろうか。推測の域をでないし、伝える訳にはいかないが。

 

 奴が不思議がっているおかげでまだ生きているとしたら、この不思議を知られた途端に用無しだ、檻の向こう側から矢が飛んで来るだろう。

 

 「彼女か、グルメな女だな。よほど俺の血はお気に召さないとみえる」

 

 「ほざけ。まあ何故貴様が生きているか、疑問は当然あるが我等も我等なりに推測することができたぞ」

 

 どういうことだ。そう聞こうとする前に、エルフは牢を開けてこちら側に入ってきた。手にはナイフが、握られている。

 

 「私は栄えある六士族、弓矢の家に産まれた里の防人の代表ローガーの子孫ナロクだ。本来であれば、このような穴倉に潜むのではなく森の中防人の代表として育てられ次代における指導者の一人として数えられる筈だった」

 

 「だったらさっさと森に帰ったらどうだ」

 

 「貴様が言うか!」

 

 エルフ、ナロクが握りしめた拳が頬を打った。口の端から血が流れる、口内を切ったようだ。

 

 「貴様は覚えていないだろうが私は覚えているぞ!エルフの里に現れた外部の人間、その中にお前が確かにいた!その後、人族の戦士達を引き連れた戦争でもだ!貴様等は我等の裏切者であるエレミヤと手を組み我等を貶めた!貴様は我らが士族、一族の怨敵の一人だ!」

 

 冒険者時代、自分達とはまた別のグループをエルフの集落を見つけたり滅ぼしたりもしたらしい。だが他人の空似をしようにも、エレミヤという名前がでたからにはこのナロクという男は間違いなくあの集落にいた者だろう。口からの出まかせは、通用しそうにないかもしれない。

 

 「生き残りがいたとは、思えなかったな。事前に避難させていたのか」

 

 「まだ年若いエルフはな。おかげで、安全な場所から歯噛みをしながら貴様等の所業を見ることができた。あの光景を今日まで一日たりとも忘れたことはない」

 

 「俺の仲間も、初接触と、脱走してからの逃亡戦で何人か殺された。エレミヤの助力と情報が無ければ、全滅していたことは想像に難くない。あの時から俺達とお前達は、滅ぼすべき敵と侵略者となった訳だ。怨みを語るなら、こちらも仲間の仇だ、お前達は」

 

 「貴様等が来なければ良かっただけの話だ!そこまでして生存域を広げたいのか、貴様等人間は!」

 

 私怨だ。向こうは侵略者としてこちらを蛮人、俺は罠にかけ襲いかかってきた蛮族としてエルフを見ていた。最初の接触で敵味方がはっきりとした戦闘になってしまえば、あとはもう戦争にしかならない。その結果が、連中の末路だ。

 

 「お偉いさんは広げたかったらしいな。俺はただ金を稼ぎたかっただけだが」

 

 「金だと…たかだが金銭の為に貴様等は」

 

 「たかだが金銭…か。エルフの集落に金はないのか?主流は物々交換か?随分と原始的だな、悪いとは言わないが」

 

 軽く鼻で笑う。種族の特性を武器に短い間で高級娼婦から成り上がり、経営に携わるまで凄まじい勢いで出世したエレミヤを思い出す。変化を好む気質が彼女にはあるのだろう、だとしたらなにも変わらないエルフの里は、退屈だった筈だ。

 

 金銭の類がない、全てが物々交換で成り立つとしたらそこに発展の兆しはない。すべての者に役割が決まっているということが想像についてしまう。外部との交流が無いというじてんで、新しい刺激が無ければ永遠と閉じた環境の中で変わらない毎日を生きていくだけだろう。

 

 「エレミヤが嫌気がさす訳だ。いや、それ以前の問題か。何故お前等は彼女をあそこまで迫害していたんだ。里の者全てを差し出した時の顔は、とても保身のみの選択には見えなかったぞ」

 

 「あの薄汚い裏切者か。まだ交流があるのか貴様は」

 

 「さあ、知らんね。あの日以降会ったことがない」

 

 本当は違うのだが、ここは嘘をついておく。この件を知るきっかけはエレミヤであるが、ここで口を割るような真似してわざわざ彼女の居場所を怨み骨髄のこいつらに教えてやる意味はない。

 

 「あの裏切者には、何時か見つけだし我らが家に伝わっていたありとあらゆる拷問を受けてもらって、一族全てに許しを乞い殺してほしいと懇願してから殺してやる。だがまず貴様だ。きっと彼女は、貴様が怨むべき我等が一族の仇であると理解し殺さなかったのだろう。我等が、今までの怒りの十分の一でも晴らせるようにな」

 

 牢の向こう側、何人かの男女がぞろぞろと現れる。見覚えのある顔は、ない。

 

 「これから拷問なりする訳なのに、俺に怨み骨髄の奴はいないのか?ああ、あの俺を殺そうとした奴等のことだ。まっさきにでて来ると思ったがな」

 

 「貴様が気にすることではない。自分のことを考えるんだな、ミハエルが殺さなかったその命、我等にも怨みを晴らせというメッセージだ。簡単には殺さんぞ」

 

 これから怨みを晴らすべく私刑を行うというのであれば、彼等が出てこないのはどこか奇妙に感じるが、それを気にしている様子はないだろう。今気にするのは、クーラ達が戻ってくるまでなるべく正気を保っている努力をすることか。

 

 いやそれ以前に、ジークリンデはクーラを助けるだろうか。あの時は、かなり分の悪い賭けとして悪竜にクーラを頼んだが、今考え直してもとてもアレがクーラを助けるとは思えない。

 

 普段クーラに対してどんな感情を抱いているのかは分からないが、良くて視界の端でチョロチョロする生物くらいにしか思っていないだろう。

 

 だが託すしかなかった。少なくともあの瞬間では、それ以外の選択肢が思い浮かばなかった。か細い可能性ではあるが、生存する見込みを考えるとすればこいつらの私刑で死なないように、発狂しないように耐えながら助けを待つか逃亡のチャンスをみいだすことだ。

 

 爛々とした憎悪の目が向けられる。因果応報かもしれないが、さて…俺はどこまで我慢強いのか。こんな形で試すことになるとは、思わなかった。



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 なんだか生暖かく、心地の良い感覚。身体全体がなにか暖かいものに包まれているような、まどろみの中でそのまま溶けていきそうな。

 

 半分とろけた頭で、思考が巡る。ランザはもう起きただろうか、この寝心地はギルドの安宿のような硬くて薄い寝台ではないから、ひょっとしたら疲れが蓄積して彼も眠りこけているかもしれない。だとしたら、寝顔の一つでも拝めるだろうか。

 

 半目を開けると、褐色の双丘が目に映る。目の前になにがあるのかよく分からない、触ると柔らかい。かすかな声が聞こえる。そちらの方に目を向けると、女が寝息をたてていた。見覚えがあるような、ないような。はて自分はいったいどこでなにをしているのやら。

 

 しばらく呆然とし、二度寝をしそうになったがその前に頭脳が急速覚醒。目を見開き改めて女を見る。女はランザの腰に何時もぶら下がっていた連結刃、その正体。悪竜ジークリンデが人の姿を真似たものだと分かり、喉奥から声が溢れた。

 

 「ぎにゃあああああああああああ!」

 

 「うおおおおおおおおおおおお!?」

 

 思わず爪が伸び、ジークリンデの頬を引っかきそうになるが、その前に身体を包んでいた暖かいものから放り出され石床に転がった。全裸!?全裸だ今これ!

 

 「なななななにゃななにしてるのほんと!」

 

 「うっるせえ!でけえ声だすなボケ!」

 

 気を失っている間になにをされた?貞操は無事?なんで悪竜が自分を抱いて寝ている?頭の中で疑問がグルグルと巡るが、なにより一番大事なことを思い出す。そうだ、全部思い出した。寝ぼけている場合じゃない!

 

 「ランザは!?ランザはどこに!?どうなったの!?」

 

 「こっちから声が聞こえた!生きているぞ!」

 

 ランザのことを尋ねようとしたが、その答えを聞こうとした瞬間洞穴の外から男の声が聞こえる。ジークリンデが面倒くさそうに額に手を当てる。迫る危機を前に急速に、強制的に冷静さを取り戻すことができた。

 

 隅に追いやるようにぐちゃぐちゃに濡れて団子のように丸まったまま放置された衣服から突き出る直刀と投げナイフを一本を回収する。洞穴の入口に張り付き、息をひそめた。足音は…近くを流れる渓流の音で聞き分けることができない。

 

 「クソ猫が騒ぎやがるから」

 

 胡坐をかきながら頭をかきむしるジークリンデは無視。

 

 洞穴を覗き込んだ最初のエルフが、ぎょっとした顔をした。そりゃそうだ、全裸の女が胡坐なんぞかいていたら色々丸見えだ、隠す気もないらしい。

 

 だが想像外のものに出くわした時の驚愕は隙としては致命的だ。柄に掌底を添え突き出された直刀の切先は滑り込むように首筋に吸い込まれる。派手に斬り裂くと飛び散る鮮血は、後続にいたエルフ数人に向け血の目つぶしとして飛び散った。殺した奴を除いてここにいるのは、2…いや3人。

 

 「この害獣が!」

 

 エルフの装備は全員が短弓。あとは腰に、恐らくはエルフの噂を聞きつけ森に踏み入ったものが身に着けていたと思われる統一感のない近接用の武器がぶら下がっていた。

 

 だが距離があるならともかく、この間合いは自分のものだ。弓弩に優れたエルフだが、近接戦闘で半獣についてこれるものか。

 

 地面を蹴って飛び上がる。目を覆いうずくまるエルフの頭上に直刀を突き立てる。モスコーに向かう途中に遭遇したリザードマンとは違いこいつらには強固な鱗も頑丈な鎧も、ついでに膂力もない。油断はできないが、あの時程の脅威は感じない。

 

 直刀を引き抜く前に投げナイフを投擲、目つぶしの効果が薄かった者が柄に手を添え剣を抜こうとするが肩にナイフが突き刺さり痛みで怯む。その隙に懐に潜り込み腹部を突き刺す。

 

 背後になにかが動く音。振り向いた瞬間、血を拭いさった瞼から覗く充血した瞳と目があった。向こうはナイフを握っておりこちらに突き立てようとしたが、腹部から連結刃が生えた。触手のように動く刃が踊り、目の前で八つ裂きに引き裂かれ血と臓物が飛び散る。

 

 顔や胸に血が飛び散る。舌打ちをし、頬をこすりのっそりと出てきたジークリンデを睨みつけた。

 

 「かかったんだけど」

 

 「るせぇ我慢しろ。気になるお年頃か?」

 

 直刀を刺したままのエルフを蹴り倒す。まだ息があるのは、わざとだ。色々と聞きたいことがある。

 

 「獣……か…好き…の……ケダ…ノ…一族が」

 

 「どいつもこいつも罵倒の際は必ずそれね。人間もエルフも、もうちょいレパートリー増やしてくれてもいいんじゃない?まあいいけど。それよりも聞きたいことがある、答えたら楽に殺してあげるけどどうする?」

 

 投げナイフを抜き首筋に添える。エルフの憎悪の視線は、弱まらない。

 

 「あっそ。じゃあこいつに食わせる。こいつはこんななりをしているから分かると思うけど、結構な淫姦好きでね、死にかけた奴の男性器はよく精がでると大好物なんだ。エルフは他種族と交わるのは禁忌とか、魂が穢れるから死ぬより恐ろしいとかって聞いたことがあるけど本当?試してみたいんだよね、知的好奇心的に」

 

 「お前も今オレと似たような姿だろうが、人を好き放題言いやがって」

 

 「まあそうだね。じゃあ自分が食べちゃおっか」

 

 舌なめずりしてみせると、エルフの顔が歪み瞳が恐怖で濁る。本当はランザ以外となんて死んでもごめんだが、ランザやエレミヤから聞いた話から考えると下手な拷問よりはこの手の脅しの方が効果的だ。なにせ向こうにとっちゃ自分や自分の祖先は獣姦好きの穢れまくった魂の持ち主である。脅しの効果も二倍以上だ。

 

 しかし、なんで半獣なんて存在がこの世界に存在するのだろうか。俗説にすぎない獣姦という話も強ち間違いではないのかもしれない。豚鬼の一族だって、その巨体と猪に近い顔ではあるがあれは一族特有のものであり妙な伝承も存在はしない。

 

 「それじゃ、死んじゃうまえに最後におもいきり気持ちよく…」

 

 「待って…話す…話すから」

 

 手をズボンの方に動かそうとした瞬間、懇願するようにエルフが口を開いた。それにしても、こちらも死ぬほど嫌だったが、向こうから泣きそうな顔で拒否されるとそれはそれで堪えるものがあった。そんなに嫌か、まあそれを目当てにした脅しだったけど。

 

 気持ちを、切り替える。

 

 「ランザは、自分といた男はまだ生きているか?今どうなっている」

 

 「生きて…る。アジ…ト」

 

 生きていると聞き、取りあえず一安心。街道を通ったものは攫われていた。攫うということは、人目のつかない場所で殺したいか、もしくはしばらく生かしておかなければならない理由があるかだ。そこは不安だった後者のようだった、だが胸をなでおろすのはまだ早い。

 

 「アジトの場所は」

 

 「洞く……おく」

 

 洞窟。エルフの連中は森の中ではなくそんな洞穴に拠点を構えているのか。なにか理由があるのかもしれないが、森の中に居を構え自然と調和するという事前の情報とはまた異なる状況だ。向こうは、まるでゲリラ兵のように潜んでいる。

 

 「洞窟の入口は?そしてあの触手はいったいなんだ」

 

 「………」

 

 反応がない。調べると、既に絶命していた。ため息をつき立ち上がる。流れが速い渓流に向かい、落ちないように気をつけながら水を掬い身体についた血を洗い流していく。

 

 「なんだ、お前サラリと殺せる方か。相棒とは違うな」

 

 ジークリンデが腕を組み、壁を背に寄りかかりながら話しかけていた。水で身体を洗い流して、最後に頭を濡らして振り払う。血の臭いはこれだけでは完全に落ちないが、今はこれでいい。

 

 「クソ猫の分際で害獣呼びがそんなに堪えたか?罪悪感も無しでさらりと殺せるくらいには」

 

 「うるさいよ、悪竜の分際で。伝説ではとんでもない数の生贄を殺したんでしょ。お門違いな非難でもしたいの?」

 

 ジークリンデは、命の恩人だ。ランザから助けるように頼まれたのだろうが、それには変わらない。だがランザのことを気安く相棒呼ばわりするこの竜の存在は正直疎ましい。イライラするし、内心舌打ちが止まらない。

 

 「いんやあ別に。それに贄が必要なのはオレが悪竜たる所以だからな。それよりもありがとうございましたの一言も、聞いちゃいねえんだがよォ」

 

 「ふざけるな!」

 

 ジークリンデに近づき。直刀の先端を向ける。にやけ面を浮かべこちらを見る悪竜は意にも返さないが、敵意だけは向け続ける。

 

 「相棒呼ばわりするなら、なんでランザをすぐに助けにいかないんだ!自分は足を引っぱった。そんな奴見殺しにしてランザを早く助けに行けばいいのに、なんでこんなところでそんな余裕そうな顔を浮かべているんだ!」

 

 あの瞬間、飛び込む前。自分が躊躇して足を止めてしまったため結果的にあの触手に空中で捕まってしまい、ランザのみ攫われた。もし自分が泳げていたら、いや泳げなくても怯まずに躊躇せずに飛び込んでいたら少なくともランザは攫われることがなかった筈だ。

 

 自分を助ける為に強力な武器であるジークリンデまで手放し、彼は捕まった。自分が足を引っぱったせいだ、責任を他人に求めるのは間違いであるのは分かる。だが、だからこそ自分なんて見捨てて早く彼の元に向かってほしかった。悔しいが、いくら全盛期から遠ざかろうと悪竜ならばそれができる筈だ。

 

 「オレはわざわざ尋問なんてしなくても、野郎がまだ生きているのは分かる。焦る必要もねえ」

 

 「焦る必要はないって…それでも!」

 

 「勘違いすんなクソ猫。お前如きが野郎と天秤にかけて助ける価値があるかどうかと聞かれちゃ、こう答えるしかねえ。ある訳ねえだろうがボケ。お前の価値は雌狐の因子が入った入物としての存在価値しかねえよ」

 

 分からず屋な子供の癇癪に、辟易するようにジークリンデはため息をついた。無意識に、お腹を触っていた。狐の因子、自分に中にあるよく分からないなにか。それは悪竜にとっても考慮、或いは監視せざるえないなにかなのだろうか。

 

 「今のお前は情報の宝庫だ。あの雌狐をぶち殺す為に必要な観察体、そうじゃなければ俺が半獣なんぞ助けると本気で思ってるのか?おめでてえクソ猫だな、そうじゃなきゃ今のやり取りの間に三回くらいは殺している。いや…」

 

 ジークリンデの目が鋭くなり、頬が笑みの形に歪む。悪寒、後ろに飛んで間合いを離すがすぐ目の前にはもう連結刃の先端が迫っていた。直刀で防ごうとしたが弾かれ、身体ごと薙ぎ払われる。軽い身体が吹き飛び河原を転がり、起き上がろうとした瞬間首筋近くに刃が突き立てられた。

 

 ジークリンデが悠然と近づき、腹部を踏みつける。踵がグリグリと押し込められ、苦し気に呻き声があがる。足を両手で掴み退かそうと力を込めるが、びくともしない。

 

 「いっそ殺しかけた方があの雌狐の力は出て来るか?そうすりゃよりよく観察できる。ほら、ドンドン力を込めていくぞ、内臓潰されたくなきゃとっととひりだせよ」

 

 この細い足にどれだけの筋力があるというのか、押し込まれる踵に全力で抗うも意に介する様子もない。自分は痛いのが、好きな訳じゃない。ランザが与えてくれるあの痛みが好きなのだ。似たようなものと人は答えるだろうが、雲泥の差がある。

 

 できることは睨みつけることだけ。テンの因子はうんともすんとも言わない。向こうにしても、自分は偶々ランザの近くにいただけで入物なんてなんでも良いし誰でも良い、遊びにすぎないのだろう。特別な力とやらが顕現する様子は微塵もない。

 

 「くだらねえ。やっぱり殺しちまおうか?」

 

 「殺し…たら……後悔…するよ」

 

 「ほざきやがる。なにを後悔するって?」

 

 痛みというより、感じるのは苦しみ。だが頭を働かせろ。理由ありきで向こうは自分を助けたが、気分次第では別に殺しても構わない言わんばかりなのだ。ここでなにか、自分を生かすメリットを言わなければこのまま殺されてしまう。

 

 「エルフ……洞窟…それだけで…ランザを見つけられる?」

 

 「ほお」

 

 「どうせ…悪竜様は追跡術も…知らないでしょう。自分は都市が専門……だけど森でも多少は行動ができる。洞窟の場所、割り出すことが…できるのはここでは自分だけ」

 

 笑みを顔に張り付けろ。気を強く持て。相手は竜とはいえ、怯んだらその場で命が終わる。お前なんか怖くない、自分を殺したら困るのはお前だ。傲岸不遜にいくしかない、例えそれがハリボテの強がりだとしても。

 

 さあどうだ。考えろ、悪竜ジークリンデ。

 

 「まあ良いだろう。多少の度胸は認めてやるよクソ猫」

 

 踵が腹部から退かされる。鈍痛が酷いが何事もなかったかのように立ち上がってみせ、洞穴に残る自分の服を着に向かう。冷静さを顔に張り付けているつもりだが、内心は心臓が張り裂けそうだった。

 

 向こうは殺気さえ発していない。つまり、虫を殺すような手軽さと心持ちで殺されかけた。それを行うだけの実力と冷酷さが向こうにはある。今はこの内心だけは、悟られないようにするのが精一杯だ。

 

 濡れた衣服を確認する。装備を身に着けていき、ブーツを引っくり返し中に残っていた水分をなるべくだしておく。道具袋の中は、想像していたが火薬袋や煙袋の類は完全に濡れて使い物にならなくなっていた。平パンなどの携行食も軒並みやられている。使える装備は、直刀と投げナイフくらいだ。

 

 せっかく買い足したばかりなのに、ほぼ全てが駄目になってしまった。手持ちの札を大量に失った現状はよろしくないが、気にしても仕方がない。

 

 装備を整え終えると、悪竜は足を汲みながら大き目な岩に座っていた。連結刃をエルフの死骸を突き刺しており、自分の目の前まで引き寄せ持ち上げている。

 

 エルフの首筋に噛みつき、食いちぎる。しばらく咀嚼をしたあと喉を動かし肉と血を呑みこんだ。そのまま腹部に顔を近づけ皮膚を裂く。ドロリと小腸と大腸が溢れだすし、それを乱暴に放り捨てると骨にこびりついた肉を食い始めた。

 

 腹ごしらえという訳か。正直見ていて気分が良いものではなかった。

 

 「エルフ連中は味が淡泊なんだよな。どいつもこいつも似たような味しやがって、半獣同様オレの好みじゃねえ」

 

 貪った死体を放り投げる。ぐちゃ…と胸が悪くなるような音が響き、岩場の上に死体が落下した。

 

 「だが好みじゃなくてもオレは食える。好き嫌いはあるが、だされた肉は取りあえず食うのがオレだ。精々役に立てよ、ランザを見つける為にな。クソ猫」

 

 これは脅しだ。役に立たなければ、次こうなるのは自分だと。忌々しい悪竜め。お前もいずれ、テンと一緒に無力化させてやる。

 

 鼻で笑ってやり、歩き始める。その後ろを悪竜が続いた。あの触手に最大限注意をしながら、エルフの痕跡を辿り洞窟に辿り着く。今はランザを助けることだけに集中をする。まずは彼を、助けなければ話が始まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一冊の、古びた本。それがすべての始まりだった。

 

 私は他のエルフと違い弓は扱えない。薬草の調合も分からない。里の掟とやらもほとんど理解できていない。ただ他のエルフと違うのは、幼少期に外の知識を与えられていたということだ。

 

 その書物は、だだの娯楽小説だった。実在の人物をモデルにした貴族漂流譚の一つであり、さる高貴な家柄の男児が権力争いに巻き込まれそうになったため、殺されそうになりながらもなんとか乳母が小舟で川から男児を逃がした。

 

 その後、川下にて洗濯をしにきた老婆に拾われ老夫婦に育てられるが、自身の生家であるとは知らず、悪政をしく領主を倒す為に各地で仲間を集めて領主を討ちに向かうという物語である。

 

 史実ではもっと残虐な行いや政治的駆け引きを多分に含んだ話ではあるが、子供向けに脚色されたそれはとにかく明るくシンプルな勧善懲悪ものにしあがっていた。

 

 外で遊ぶことを両親に固く禁止された私はその本のみを与えられた。それが読み終わればまた別の本、別の本と里の外の話ばかりを読まされていた。

 

 そんな日が何年か続いたある日、急に両親は私を外に連れ出し他の同年代の子供達と会わせた。

 

 本の中しか知らない私と違い、同世代の子供達はみな弓弩の技術にすぐれ、森という環境で年月を過ごしておりみな立派な体格をしており、弓も薬草も森のこともほとんど分からず、身体能力では劣り、話しといえば人間達の娯楽小説しか語ることができない私は蔑まれた。

 

 後で知った話ではあるが、私の世話をしてくれた二人は本当の両親ではなかった。

 

 エルフ達は種族としての数が絶対的に他種族に劣る為、団結や結束を重んじる。だが狭い集落だとしてもどうしても爪弾きや対立はおこるものだ。鶏ですらおこる問題だ、エルフであってもその問題から逃れられない。

 

 だからこそ、対立というものをおこさないようにわざと村八分を作り上げる。他の子供達には外の世界がいかに酷いものかを教育し、外の文化しか話すことがない様々な面で劣る子供を一人作り出すことで、その子供を虐げる対象とし全体の結束を高めるのだ。

 

 何故私がその白羽の矢に立ったのかは分からない。本当の両親がいないからか、それともなにか罪をおかしその子孫にもバツとしてその損な役回りがまわってきたのか。

 

 本来であれば、その子供は村八分にされながら、それでも慈悲とか情けとかそのあたりの理由付けをされ餌を恵んでもらい、死ぬまでただ生き延びていく。逃げさそうにも、里の外を出ようとすれば防人に連れ戻されてしまう。

 

 私は、里に迫害を受けながら毎日のように外での生活を夢想した。そして夢想すると同時に、何時か来るかもしれないチャンスの為に考えて考えて、考え抜いた。

 

 防人に連れ戻されない程度に森の中を歩き回り、大人達の訓練風景を観察し、その全てを知識として頭の中に叩き込んでいく。例えば、エルフは弓弩に優れる防人達がこの森の中ではどこに陣取れば最大のパフォーマンスを発揮できるか。逆に、どこから攻められれば脆いのか。

 

 射られるやすい道はどこなのか、逆にどこからなら逃げること、或いは外部から近づくことができるのか。幸いなことに私は、成人してからは最底辺の下働きのようなことばかりをさせられていた為、自ずと里の中を右へ左へと駆けずりまわることになったため特に怪しい目で見られることもなかった。

 

 どいつもこいつも呑気な顔でこちらを嘲笑する。私の幼少期、外の古い本ばかり読まされていたことは里でも一部の者しか知らない。外の世界などに憧れた恥知らずの落ちこぼれ、それが私の里での評価だった。そんな低能が、里から逃げるには。いや、里を滅ぼすにはどんな方法を使えば効率が良いのかなんて毎日考えていたなんて夢にも思わないだろう。

 

 かくして機会は訪れた。ランザを含めた探検隊、その役目というのは土地の情報を持ち帰り、人が入植に適した開拓地であるかどうかを見極めること。

 

 相手が開拓団であるならば、先住民族とは必ず争いになる。そしてエルフは人類所属を見下し、人類所属はエルフを同等の銀塊並みの価値があるとみていた。これを利用しない手はないだろう。

 

 罠にはまり攻撃を受ける開拓団を導き、情報を渡して里から立ち去らせる。後は渡した情報から作戦を立てた、争い慣れした戦士団さえ来てくれれば、地の利と弓弩の技術しか取り柄がないエルフに勝てる道理はない。そして、笑いだしそうになるほど思惑通りにエルフ達は死に、そして捕まっていった。

 

 ざまあみろ、それしか思い浮かぶ言葉は存在しなかった。

 

 だがしかし、高揚していて気付くのが遅れてしまったな。後から気づいたのは、捕虜の列を見ていた時だ。若いエルフがいない。人間にはエルフの見た目から年齢はまったく分からないそうだが、私から見れば一目瞭然だった。

 

 その頃には、もう逃げ延びた連中は里から遠く離れていただろう。いざという時の落ち延び場所等があるのかもしれないが、爪弾きにされていた私にはそれを教えてもらっていなかった。

 

 まあ、二度と会うこともあるまい。私は報酬金をもらい、この大陸を巡る旅に出た。

 

 「館長、失礼します」

 

 ノックされた扉が開き、黒服の男が入室する。手には大きなケースを持っており、応接用のテーブルのうえにおいた。

 

 「ああ、ありがとうね。しばらく触っていなかったけど、どんな状態だったかな?」

 

 「ランザ殿が利用していた武器工房に依頼をだして、整備をさせました。状態は元々悪くはなかったのですが、新品以上の質になっていますよ。しかし良いのですか?我等は原則非武装、こんな物誰かに見られたら、変な噂の一つや二つたちかねませんよ」

 

 「君達みたいに争い慣れしていないからね。それに館長の前に私は女の子だ、護身用くらい必要だろう?」

 

 「はあ、護身用というにはいささか物騒なブツではありますが」

 

 視線がテーブルの上に注がれる。ケースにいれられたものは、護身用と言い張るには言い訳にしても無理がある代物だと黒服は内心呟いた。

 

 「しかし今更何故このようなものを?」

 

 「予感がしたんだ。使う機会が来るってね。ふふ、近頃女優にデカい銃器や大剣を持たせてポーズをとらせる遊びが流行りだけど、うちもレプリカとかとりよせてみようかな」

 

 ケースを開ける。中には分解された凶器が、軟かい素材でできたくぼみの中に綺麗に磨かかれしまわれていた。表面に彫られた彫刻が、高貴さまで醸し出している。

 

 「問題を、退けたらね」

 

 パーツの一部を手に取り頬ずりをする。これを使う機会が来たとしたら、それは私にとっては喜びだ。



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 広く開いた、幾つかある洞窟の入口の一つ。そこには人間から剥ぎ取った装備品や衣服の類、解体して持ち運びしやすくした馬車の残骸や幾つかの樽が無造作に打ち捨てられていた。

 

 洞窟の奥から二人組のエルフが訪れる。干からびた枯れ木のようななにかを運び込み、声を合わせて残骸の中に投げ入れる。馬車の残骸に当たり、乾いたなにかは音を立てて胴体から割れた。変色した骨が身体からむき出しになる。

 

 よく見ると残骸の合間に似たようなものが何体か転がっており、それは大陸に住む者にとってはまず見ることはない、砂漠地域の埋葬法で製造された木乃伊と呼ばれるものに似ていた。

 

 汚いものを触ったのを嫌悪するように、布越しに掴んでいたにも関わらず手を軽く払う。腰の飲料水が入った布袋に手を伸ばそうとしたが、そこは我慢するように手を引っこめた。

 

 「これを投げ込んだら、巡回だ。Dチームを返り討ちにした二人組だが、そのうちの一人がまだ見つかっていない。油断せずに行くぞ」

 

 「見つかってないって、渓流に落ちた奴だろう。カルリのチームが捜索にいってなかったか?というかあそこから落ちたら、もはや死体の確認みたいなもんだろ」

 

 話し込む二人の間に、女のエルフが現れる。両腕に抱え込んだ雑多な不用品を投げ込み、手を軽く払った。

 

 「それでも油断しちゃダメだよ。死体が見つかるまでは安心しない、あのランザ=ランテの仲間ならなおさらね、皆殺しにしておかなきゃ」

 

 「ああ…四人か。そういやあの四人はどうなった?ランザにボコボコにされた連中」

 

 「さあ、治療中じゃねえ?そういや見てないな……ん」

 

 洞窟の外に向かおうとした男女のエルフ。それにはついて行かずにゴミ捨て場を眺める。

 

 ノックの山内部には複雑な洞窟が形成されており、幾つかの入口が存在しそのうちの一つであるここは、ある程度の広さもあり外からも中からもいらないものを隠して廃棄するのには丁度いい場所である。そしてこのエルフは、何度もここに物や死体を投げ込んでいた。

 

 だからこそ、なにか違和感があった。それがなにかと言われればよく分からないが、あるいはじっと観察していればそれに気づくことができるだろうかと眉を顰め不用品の山を眺める。

 

 「ねえ!早く行くよ!」

 

 「あ…ああ、おう!」

 

 それがなにかが分からないまま、外に出る。まあなにかがあったとしてもたかだか不用品の山だ。たしたい問題ではないだろうと思いなおす。

 

 洞窟の外から出ると、広がるのはノックの山林。渓流での捜索はカルリを中心にした四人組が行っている。普段の巡回路を警戒してから念の為下流から上流に向かうように逃亡者を捜索。成果があろうがなかろうが、報告に帰還。

 

 やることは決まっていた。自分の役目をこなす為、先に行った二人に合流しようと歩を急ぎ足に頬を進める。

 

 「悪い、待たせた」

 

 「臭い」

 

 巡回は基本、木の上を移動しながら行うものであるが、しばらく先に進んだ二人は地面にしゃがみ込み土を触っていた。人差し指と親指で土をつまみ、鼻の近くに近づけて疑問符を頭にうかべていた。

 

 「なんの臭いだ?」

 

 「さあ…よく分からない。あの樽に詰められていた液体?」

 

 近くにいき土の臭いを嗅いでみると、確かに異臭はする。それは、よく人間達が馬車で運んでいた樽に詰められている液体が悪くなった時の臭いに似ていた。いや、それが正しいだろう。だが何故、そんな臭いが土に染みついている。

 

 「なんにしたって、さっそく異常ありだ。リーダーに報告しに一度戻ろう。逃げ延びた奴か違うのかは分からないが、我々以外にも誰かがいる。応援を頼み何時も通りに捕まえて…」

 

 そこまで話したエルフの足元に、頭上からなにかが落下する。それは丸めた紙に火がついたものだったが、その小さな種火が地面に落ちた瞬間、火炎となり地面を舐めるように広がっていった。

 

 「上か!」

 

 各々がその場から飛びのき、弓矢を上に向ける。そこには獣の耳を生やした忌むべき半獣が、木の枝に腰掛けて薄ら笑いをうかべていた。

 

 弓矢を向けられているのに、余裕な態度。矢を射ろうとした瞬間、まるで身体を巻き付くように炎が蛇となり身体に巻き付いてきた。呼吸をしようとした瞬間、顔まで炎が覆い喉と口内を焼く。

 

 悲鳴をあげながら、地面に転がる。火を消そうとするものの上手くいかず、身体全体を火で包み込み植物性を由来とした素材で作れた衣服をあっという間に燃えやしつくし皮膚と脂肪が焼けていく。

 

 「魔術具な、これはこれで便利な玩具ってことか」

 

 「贄三体確保。贄と引き換えにあらゆる奇跡をおこすのが特性の悪竜様なら、これで足りるんじゃない?」

 

 「ハッ…調子に乗んなクソ猫。まあいい、火竜の真似事なのは癪だが、たまーにはオレも悪竜らしい災厄をおこさなきゃな」

 

 まだ転げて回るエルフ三体に、腰から伸びた三本の刃が貫く。身体の中をミチミチと小さな刃を侵食させ、絶命しないように身体の中を這わせていた。三人の男女が炎に焼かれた喉で声にならない苦痛の悲鳴をあげる。

 

 革袋が破裂するような音を響かせ。三体のエルフが身体の中から増殖した刃により爆ぜ割れた。血と臓物があちこちに飛び散り、それに悪竜はグローブを向ける。飛び散る血や臓物が炎を上げて広がり、木々を呑みこみ緑を燃やし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「リスム近郊はここ最近雨が降った兆候はない。本当なら、秋ならもっと景気よく燃えてくれるんだけどね」

 

 広がる火の手は、贄による命が込められている。悪竜の言葉を信じるならば、だが。

 

 あの後、四人組の捜索隊が歩いて来た痕跡を辿ると一つの洞窟の入口を見つけた。中を覗き込むと広い空間になっており、干からびた死体や、街道に放置していれば問題となるのはもっと早かったであろう、商品たる鯨油や解体された馬車が放り込まれていた。

 

 このまま乗り込みたいところではあるが、我慢が必要だった、中の構造も不明瞭であれば何人エルフがいるのかも分からない。あの触手とは息をひそめた山林の移動中遭遇しなかったが、洞窟の中で根を張っていないとはかぎらない。

 

 狭い蜂の巣の中に侵入するようなものだ。自分は一度に複数のエルフの対応をすることはできないし、狭い洞窟内では悪竜の連結刃も些か相性が悪いと予想ができる。中の毒蜂は、覗いてみるまで何体いるのかも分からないのだ。

 

 ならば、蜂の巣をつついてしまえばいい。燃え広がる炎は、巣を燻る煙だ。

 

 このまま火が広がれば人目がつくし、植林された杉まで火の手が広がってしまえばリスムも帝国も事態の収束に黙ってはいないし、火災の原因調査にも来るだろう。一刻も早く火を消し止める必要がでてくる。

 

 だが規模が時間とともに圧倒的な比例と共に広がっている山火事に対応するならば一部の人員に任す訳にはいかない。洞窟から飛び出し、総動員でことにあたる必要があるだろう。

 

 この策を実行するにあたり、クリアする条件は三つ。まずは気候条件、これは運よくクリア。先程も言ったが、本当なら空気が乾燥する秋であるならば効果は絶大なのだが、ここ数日晴天が続いていたリスム及びノックの山のことを考えれば幸運であると言えるだろう。

 

 炎を効果的に広める燃料。山火事というのは、たかが焚火からでも広がることがあるとはいえ注ぐべき燃料がなければ即効性に期待はできない。だがエルフどもは樽にいれられた鯨油を用途も分からずゴミのように廃棄していた。これは連中の世間知らずが幸いしている。

 

 最後は着火方法。自分はまだモスコーで手に入れた魔術具の扱い方をまだ熟知はしていなかった。そもそも魔術の才能があるかどうかすら怪しいものではあった。しかし、すぐ傍らには遥か昔から生きる竜がいるのだ、利用しない手はない。

 

 下手に出たらこの悪竜は首を縦には振らないだろう、そんな気がする。だから、自分が考えた作戦を全て打ち明けた。

 

 『山一つ禿げるぜ、オレに任すとな。その意味が分かるか?』

 

 『この山に住む生命体がどれだけ犠牲になるか分からない。動物も植物も巻き込んで…でしょ?』『だから?』『悪竜様は、意外とみみっちいこと考えるね』

 

 『ほお?』

 

 『ランザとこの山の全部、どっちが大事なの?』

 

 悪竜ジークリンデと、半獣の自分。その二人に共通しているのはただ一つだけ。

 

 ランザという存在を一度壊し、自分の色に染め上げること。その点一つに対しては、悪竜も、自分も、恐らくはテンだって同じ穴の狢だ。悪竜はどういう考えで共依存の関係を目指しているのか分からないが、彼女からは自分と似たような匂いしか感じない。

 

 壊して、依存させたい。それが共依存が、それとも愛の伴う暴力性か。それにどれだけの違いあるものだろうか。

 

 自分は目的を果たす為に、利用できるものは全て利用してみせる。それが例え、恋敵といっても良いかもしれない悪竜であってもだ。幸い、向こうはテンという存在への警戒から自分を簡単に壊すことはできない。ならば、少しでも強めに出て利用させてもらう。

 

 そして悪竜は、その返答に笑みを浮かべた。

 

 『良いだろう。答えが気に入った。この山の無数の生命体を犠牲にして、ランザ一人を助けてやろうか』

 

 悪竜の性格ならば、いくら不利でもただ一人で洞窟を突き進むことを選ぶだろう。だがしかし、こちらの案に乗った理由があるとするならば、その後の影響をまったく考えない策の悪辣さ、自分勝手な考えからだろうか。

 

 かくじて、貸し与えた魔術具たるグローブを想像以上の火力で使いこなすジークリンデの活躍により、山の一角は火に包まれた。

 

 山頂から麓まで吹き付ける風は、火の手が広がるのにも効果的だ。どんどん燃え広がれ、それだけ騒ぎが大きくなる。

 

 洞窟の入口から幾人かのエルフが溢れてくる。なにやら怒声をあげながら言いあっているが、声で火が消えてくれるならば苦労はない。

 

 エルフの世界に、魔術具という存在はない。魔術具とは、人間達の研究機関や工房が資金や人員を駆使して改良や生産を行っている人類の英知なのだ。これに対抗するならば、水流を操るようなタイプの魔術具が必要であるが、容姿端麗で神秘的な雰囲気とはいえ、森に潜む蛮族たるエルフにはその準備はない。

 

 それに関しては、エルフと戦闘経験があり村の中も見たことあるランザからの情報で理解していた。伝説では遥か昔には、魔術具という触媒無しに呪文だけで様々な現象を行使することができる存在がいたらしいが、そんなものは吸血鬼達の全盛期よりも遥か昔の話だ。都合よくエルフ達の中にそんな異能者はいないだろう。

 

 混乱する現場から離れるエルフが一人。桶を持っていることから、沢に水を汲みにいくつもりか。

 

 隠れて様子を見守っていたが、そのエルフの背後をとり直刀を首筋にあてる。

 

 「案内人がほしかった。君に頼もうかな」

 

 「なっ…貴様等。ふざけやがって」

 

 「この混乱なら、攫い放題。君にこだわる必要も特にはないんだよ。無駄口はやめて、ランザの…捕まった者達の場所に案内してもらおうか」

 

 観念したような顔をして、ついてこいと言い残骸の多い入口に向かおうとするエルフの肩を突き刺す。

 

 「騒ぎの渦中の中に連れて行こうとするのは、関心しないね。この周辺は調べてある、入口は複数あるんでしょ?火に巻かれないように、あっちの安全な方から向かおうか」

 

 舌打ちをしエルフが歩きだす。直刀を背中に押し付けながら、その後ろを歩いていく。

 

 「しかし、なかなか手慣れてやがるな。汚れ仕事がよ」

 

 「元々こういうのが専門だっただけ」

 

 ここまで思い切った策を行うことは少ないが、少なくとも陽動や脅しに関しては暗殺をする者にとっては必要な技術の一つだ。レントの元にいた頃は、奴隷という境遇から解放してもらったという一応の恩はあるのだが、恩知らずと言われようが半ば黒歴史に近い。だが皮肉にも、その技術がランザを助ける為の役に立っていた。

 

 別の入口から洞窟の中に侵入し、耳に意識を集中する。洞窟の中は混乱の渦中であり様々な音が反響しているが、やはり火災現場に一番近い投棄場所の入口に人員が集中しているようである。

 

 「仲間の元に誘導したり、声を出したら殺す。ただ捕虜のところまで歩け、そうすれば少なくとも殺しはしない」

 

 自分はね、という言葉は呑みこむ。何故ならその後ろでジークリンデが連結刃同士をこすり合わせるような音が微かに響いていたからだ。自分は見逃しても、オレはそんな約束は知らんとばかりに逃げる相手を後ろから刺し殺すんだろうなと思う。

 

 混乱する洞窟内を、三人は息を殺して進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「何事だ!」

 

 「火事、山火事です!火の手が凄まじい勢いでまわっています!人為的な工作の仕業です!」

 

 持っていたナイフを投げ捨てる。投げ捨てられたナイフが転がった先は、ランザの足元、ナイフで爪と肉の間に刃を挿入し、無理矢理剥がされた爪が八枚、肉片と共に転がっていた。九枚めにとりかかろうとした瞬間の報告は、最悪なものだった。

 

 「すぐに消せ!帝都やリスムにいる連中の注目を集めたら取り返しがつかんぞ!最優先だ、動かせる奴は全員動かせ!最悪でも植林地帯に火の手が広がる前に食い止めるんだ!……ミハエルはどうしている」

 

 「変わらず、休眠状態です」

 

 「そうか、いざとなったら…私はミハエルの元に向かい様子を見る!消火活動にただちに取り掛かれ!」

 

 「はいっ!」

 

 指示を受けた部下が走り去る。牢屋内にまだ残る数人が動揺したような顔をしている。ここにきて計画が狂う可能性が出てきたことに対しての不安だろうが、同時にこの手の企みには予想外のじたいがおこるのは当たり前の話だ。ここまでが、上手くいきすぎていたともいえる。

 

 「なにをのんびりとしている!お前等もすぐに火を消しにいけ!」

 

 「こいつの見張りは…」

 

 「ふざけるな!痛めつけるだけ痛めつけた後だ、簡単には逃げられん!牢番にだけ任せておけ!さっさと動け、無能扱いされたいか!」

 

 怒声でケツを蹴り上げることで慌てたように各々が刃物や鈍器を放り投げ牢屋から出ていく。危機に対しての動きが遅い。元々本職である戦士の家系が自分と一部の者達だけなのであるが、これは訓練不足を嘆くべきだろうか。

 

 だが背に腹は代えられない。ミハエルの変化に合わせてこの計画は進行していく。準備に時間をかけ、最低限の弓弩を始めとした戦闘訓練以外はあまり時間を割けなかかった。だが、元よりそれを承知の上で始めたのだ。泣き言は言ってられないし、この計画はなんとしても完遂させなければならない。

 

 リスムさえ陥落させることができれば、もはやミハエルを止められる勢力はいない。モスコーの騒動で戦闘力のある人員が離れている今この時が、最大のチャンスなのだ。

 

 「テロリストも楽じゃないな」

 

 「なんだと…」

 

 繋がれているランザが、嘲笑する顔でこちらを見ていた。左腕を斬り刻まれ、右腕は火傷により肌が黒く焦げ筋肉が所々炭化している。指の爪は都合八枚まで肉事抉られ、足の指は全て潰されていた。身体には殴打や鞭を打ち付けた痕が複数あり、もはや痣がないところを探す方が困難だ。

 

 そのうえに、相手を長く苦しめる為のただ拷問の為だけに造られた傷の刺激が増す軟膏が塗られている。過去これをやられた里内の罪人は、薬を塗られた部位を抑えながら悶えて転がっていたというのにこの男はうめき声をあげるのみにとどまっていた。

 

 そのうえで、どこか嘲笑うようにこちらに笑みを向けてくる。なんだ、この男は、尋常の忍耐力じゃない。

 

 「私達がテロリストだと。そのような言葉で一括りにされたくはない、取り消せ」

 

 「人妖を扱い、なにかでかいことを企んでいる。それは、リスムや帝都には知られたくはないなにかだ。怨み言を散々ここで聞いたが、その会話の合間合間にある情報から推測すればそんなところだと分かる。どう考えても、テロリズムの準備にしか聞こえなかった」

 

 「ふざけるな!これは私達の全てを賭けた復讐戦だ!有象無象の反乱勢力に使われるような言葉で…」

 

 「一つ聞く、それは狐の助言で建てられた計画か?」

 

 こちらの抗議を無視したその言葉に、思わず口を止めてしまう。この男は、何故それを知っている。

 

 ミハエルの変異と、モスコーの騒動に合わせたタイミングで始動するリスムの蹂躙作戦。その策の原型は、確かにあの狐の助言からだった。何故、この男がそれを知っている。

 

 「その反応…人妖に関わる出来事は、やはりテンの仕業か。一つ警告しておく、計画に綻びが出たならば、すぐに作戦を白紙に戻して逃げるんだな。アレに関わった奴の末路は、ロクなもんじゃない。なにかの拍子で破綻したら目も当てられないことになる。敵ながら、そこだけは同情しておいてやる」

 

 「同情だと…貴様はどこまでもっ!」

 

 握り拳を作り、ランザの頬を殴り飛ばす。血の唾を吐きだし、ランザは鼻で笑った。これほどの責め苦を受けてなお、皮肉も混ざっているだろうが同情という言葉を使う余裕さが気に食わない。

 

 「貴様がどれだけのことを知っているか、あの狐を何故知り得ているか。それじたいに興味が湧かないでもない。だがしかし、仮に我々の計画が貴様の言うように破綻した結果そのなにかがおこるとしても…」

 

 脇に立てかけられた、エルフの一人が放り出して行った剣に手を伸ばす。垂直に構え、ランザの胸元に向け切先を向けた。

 

 「貴様だけは今ここで殺しておく。その後の心配は、しなくても良い」

 

 「そうか」

 

 ランザの瞳はまっすぐとこちらを見ていた。その瞳は、この危機的状況に対して恐怖の色は見えない。

 

 いや、拷問している最中すらその瞳の色が揺らぐことはなかった。代わる代わる怨みがある仲間達が罵声と共に痛めつけていたというのに、その瞳は、最初から濁ったような目は一度たりとも恐怖に類する感情に支配されることはないように見えた。それに恐れをなして、怨みを晴らさず牢から抜けた仲間もいたほどだ。

 

 「その目、気に食わん。最初に抉りとっておけば良かったよ」

 

 「どうにも不評らしいからな。そんなに目つきが悪いか?」

 

 「減らず口を…お前はこれから死のうとしているんだぞ。何故拷問を受けている時も、今も、怨み言一つ、命乞い一つ言わんのだ。何故言われるままで受け入れている。死ぬのが怖くない筈がない、そこだけはどうしても解せん」

 

 それを言われたランザは、嘲笑するような顔をやめ穏やかな笑みを浮かべた。その顔は、殺意をもって睨みつけるでもないのに、どこか薄ら寒く感じるものだった。

 

 しばらく考えるように目を瞑った後、ランザは口を開いた。

 

 「お前達にはその権利があるからだ」

 

 「なに?」

 

 「復讐、その一点についてだけは俺は全てを肯定する。お前達にとっては、里を追い出し一族を根絶やしにした集団の一人だ。殺したくて殺したくて仕方ないから、リスクを背負い代償を払いながら人妖を利用する計画をたてここまで来たのだろう」

 

 「ああ、その通りだ。私はお前も、お前達人間達も許さない。無論あの裏切者もだ、全員殺してやりたいと毎日のように思っている」

 

 「その信念だけは、怨恨だけは、俺は全て肯定する。例え、それが俺に向けられたものであってもな。本来であれば復讐などなんの生産性もない、ただの自己満足にすぎない。死者がそれを見て喜んでいるか、無念を晴らせたかなど死んだことないから分からん。だがそれでも、止めることができない、止めてしまえば自分が自分でなくなる」

 

 初めて、ランザは腕と足に力を込めた。拘束具がその力に反応し音をたてる、全身に激痛がはしっているのに関わらず、無意味と知りつつ止めることができないといったように。

 

 「だからこそ俺はお前達の怨み言になに一つ反論はしなかった。命乞いなどもっての他だ、流石に四肢が自由なら無抵抗ではないがな。俺は殺したくて仕方ない奴がいる。復讐を果たしたい奴がいる。気持ちだけは、多少は分かる」

 

 「なら過去の行いを後悔しながら死んでいけ!まずお前の亡骸を、父母と一族の霊に捧げてやっ…!」

 

 全てを言い切る前に、肩になにかが飛び乗った。上を見ようとする前に、首に足のようなものが巻き付いた。上を見る前に、飛び乗ったなにかが全体重をかけて前のめりになる。首から上からの重みの変化に体制が崩れ、身体全体が一回転してしまい背中から叩きつけられた。

 

 「ぐがっ!」

 

 立ち上がろうとする前に、なにも履いていない素足が胸元に叩きつけられた。激痛に身体が悲鳴をあげ、視界が一瞬くらむ。女陰のようなものが見えてしまうのは、いったいなんの冗談だ。

 

 「ランザ!」

 

 半獣の少女が叫んだ。しくじった、その思考が頭の中をグルグルと巡った。



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 「よくもまあ、そこまでボコられたもんだな」

 

 エルフの胸板を踵で抑えながら、拘束されているランザを見る。手に持つ骨がついた肉に噛り付き、味気の無さに軽く唾を飛ばす。この骨付き肉は、先程まで案内を頼んでいたエルフのものだった。牢獄のある部屋から何人かバタバタと出ていった後、どうやら残った奴はここの巣穴のリーダーだ。なら雑魚は必要ない。

 

 始末しておいたら、クソ猫に『ああ…やっぱり』と言いたげな目で見られたが、オレが猫が勝手にした約束を律儀に守る訳がないだろう。

 

 拘束されているランザの身体は、酷いものだった。個人的に目を引いたのは、足の指だ。指先は神経が集まって激痛がおこりやすいといのに、丹念に一本ずつ潰していた。これでは歩くことすらままならないかもしれない、普通の奴なら。

 

 「死ななきゃ、安い」

 

 「どっかで聞いたことある台詞だな」

 

 クソ猫に拘束を解かれたランザは、流石に青い顔をしていたがそれでも泣き言は漏らさない。携帯の治療道具から使えそうなものを見繕い、足先や爪、皮膚等応急処置を猫が施していき、痛みや傷の具合をランザに確認しながら手を動かしていた。

 

 「オレが治してやろうか?脂汗スゲーぞ」

 

 「敵地でお食事タイムを楽しむのは、いささかリスクが高いぞ。それに、青い顔はお互い様だろう」

 

 「あ?」

 

 「顔に疲労がでている」

 

 え?といった様子でクーラがこちらを見る。オレ自身、思わず口を覆うように手を当てていた。顔に疲労がでていた?オレが?

 

 「モスコーでの戦闘前から、ルーガルー戦からか、短時間で無理をしてきたせいだろう。前から気になっていた、お前は贄を力に変える特性を持つ悪竜。なのに何故、俺の治療にはこれといった命を捧げていないのに、そんなに力を行使できるのかとな。エルフとの戦闘で刃の切れ味が上がっていたから杞憂かと思ったが、今その顔を見ると、そうでもないように見える」

 

 手に持つ肉を齧り取った骨を放り投げる。そういえば、飯は先程渓流にてエルフを食ったばかりだった。いや、そもそも食事という概念は剣という存在に徹していた間ほぼ必要なかった。

 

 よくよく考えてみれば、刃ごしに血を啜ることはあっても、モスコーでの祭りの際豚や牛でも良いから肉を食いたいと思ったのは何時ぶりだ。その後ランザを貪ったのは、ただこいつの味を楽しみたい以外にも無意識に飢餓感があったせいか?

 

 もっともあの時は、壊しながら食べて治療の繰り返しだったのでどちらかと言うと消耗の度合いの方がでかかったのだが。あの時、オレは苦しめながら食べることを楽しんでいたが、実は純粋な食欲の面でも抗えなくなってきた?

 

 それに、クソ猫を助けた後グースカ眠りこけたのは、今考えたらオレらしくない。

 

 クソ、調子が狂う。吸血鬼の血を刃で逆に啜り取り、刃物じたいのキレは増したというのに。

 

 「クソ餓鬼が悪竜様の心配してんじゃねーよ」

 

 なんだかムズムズする。取り敢えず、中指をたてながらそっぽを向いておいた。顔が熱いような気がする。なんだこれ、訳が分からん。

 

 「人妖狩りだ、いざという時使い物にならなければ困る」

 

 「ちょ…ランザ!」

 

 半分死んだような身体の癖に、ランザ自身はまだ人妖を狩る気満々のようだ。オレとしちゃ大歓迎であるが、猫は必死こいて止めにかかっていた。

 

 「そんな身体で無茶なこと言わないでよ!今この山は混乱しているし、一度退いて体制を立て直そうよ!死にに行くようなものじゃない!」

 

 「逆だ。この混乱ではどの道リスムの警備隊や帝都の連中、もしかしたら連合王国の連中だって介入してくるかもしれん。そうなれば、ここにいるエルフ共は根絶やしを避ける為に引かざるえないだろう。いや、もしくは自棄になって最後の一兵までとか言うつもりか?どうなんだリーダーさん」

 

 ランザの言葉に、足元で転がるエルフは顔を背けた。返答するつもりはないとでも言いたげだ。

 

 「今しかないんだ。この混乱でエルフ連中は出払っているタイミングで、俺達は辛くも敵中枢まで食い込むことができた。あの触手程大規模な人妖は見たことがないが、もしかしたらこの洞窟の中に最低でもなにかの情報一つあるかもしれん」

 

 確かにもぬけの殻となった今ならば、この洞窟を自由に動き回れる。そしてそれは、最後のチャンスになるかもしれない。だが猫は、それでも納得できないといった顔で顔を左右に振っていた。

 

 「あの触手と警備隊や軍が激突したら、まずどんな手を使ってでも敵を根絶やしにする軍が勝だろう。だが被害は甚大だ、少なくともそうならないようにアレの情報を渡す必要がある。幸い、掲げる大盾は帝国に本社を持つ組織だ。地元として支部にも協力要請がかかる、グローに情報を流しておけば被害がグッと減るだろう」

 

 「……なら、使える情報を手に入れたらすぐに引き返すこと、それなら妥協はできる」

 

 「お前は降りても良い。多分だが、ここに来るまでの時間を考えても助けを呼びに行ってはいないんだろう?だったら改めて…」

 

 「ダメ!」

 

 座り込んだランザに応急処置をしていたクーラが、その身体に抱き着いた。この前から、やたらと距離を縮めようとしているなこの猫は。まあ、そいつは下心バリバリな無駄な努力って奴だが。

 

 「ランザが行くなら自分も行く!仲間でしょ!放っておけないよ!」

 

 鼻で笑ってやると、クーラが視線だけ動かしてこちらを睨みつけていた。健気なふりした臭い芝居しなくても、ランザがオレを持って行くことだけは決定事項だ。そこら辺は、オレとこの猫との違いだ。奴はオレに対して遠慮はしない間柄だ。

 

 涙が出てきそうな程の健気な芝居だが、見逃さない。お前がズタボロのランザを見た瞬間、安堵の笑顔の中に僅かに狂喜のようなものが覗いていた。救えねえドⅯな雌猫がズタボロのランザを見てなにが嬉しかったかは知らんが、そんな状態の相手に嬲られる妄想でもしたことがあるのか?

 

 もしくは、自分と重ねたか?服一枚めくれば、この猫の身体は古傷だらけのひでぇ有様だ。好きな相手が自分と同じになる、共通する部分が増えていく、そんな状況に無意識に喜びを浮かべる。お前も立派に壊れてるよ、まあ知ってたが。

 

 「薄ら寒いな」

 

 足元でエルフが呟いた。ほう、違和感のようなものにでも気づいたか?人を見る目はあるようだ。足に力を込めて圧力を増してやる。加減はしているが、少し間違ったら踵が身体を貫通しちまいそうだ。

 

 「よう、言ってることは同意だがお喋りの許可をした覚えはねーぜ」

 

 「いや、これからはお喋りしてもらおう」

 

 ランザが立ち上がり、こちらに歩いてきた。おーおー、足の指潰れてるのによくやるよ。

 

 エルフの前でしゃがみこみ顔を見合わせる。しかしまあ、よくも拷問してきた相手に向けて憎悪を込めたツラ一つ向けねえもんだ。おそらくこいつが殺されずにズタボロにされたのは、過去エルフ共との間にあった因縁からだろう。怨みを晴らす為に、すぐには殺さずにボコられ続けたって訳か。

 

 こいつの悪癖だ。復讐に対しては自己のみならず他者の行動原理にも肯定する。それが敵対者に対してでもだ。モスコーでベレーザに殺されかけたってのに、何一つ改善してやがらねえ。どうしてそこまで、面倒な道を歩きたがるかね。

 

 そこが、面白いんだけどよ。

 

 「人妖の位置を教えろ。もしくは情報だ、そうすれば解放してやっても良い。仲間を纏めて落ち延びろ。いくらなんでも、帝都とリスムを同時に敵に回して計画が上手くいくと思っている程楽天的じゃねえだろうが」

 

 「情けをかけているつもりか?……つくづく見下されたものだな」

 

 「俺達にも時間がどれだけ残されているかは分からない、外の山火事の広がり具合では逃げるに逃げられなくなるかもしれないからな。拷問にかける時間も惜しいし、教えないならここで殺しておいて、指揮者不在になったエルフ共が各個撃破されるのを眺めているだけだ。頭なら、冷静な判断を下せ」

 

 エルフはしばらく嫌悪感に眉をひそめたが、大きくため息をついた。

 

 「まずは足を退けろ、案内しようにもこれでは無理があるだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーラから受け取った散弾銃に銃弾を詰める。山火事をおこす為に、鯨油が詰まった樽を廃棄物置き場から拝借して利用したらしいが、そこでゴミの山と一緒にホルスターや荷物ごと転がっていたそうだ。

 

 エルフ連中は銃器を使う様子がない為、不用品として処理されたのだろう。せっかくパーツを新品に交換したばかりだと言うのに、買い替えるのは些か堪える。上着や戦闘用の外套は後から利用するつもりだったのか、囚人の捨てられていなかった道具類とまとめておいてあった。弾丸や各種道具が詰められた腰袋の回収も成功する。

 

 「他の生存者は」

 

 「見ていない。牢はここ以外幾つかあったけど誰も収監されていなかったよ」

 

 ジークリンデが長年の親友にするように肩を汲みながら、しかししっかりと連結刃を首筋に添えたエルフの方を見る。

 

 「もう死んでいるよ」

 

 「大方人妖の餌にでもされたか」

 

 触手が突き刺さった傷口に、外套ごしに触ってしまう。こいつらの言うように怨恨を晴らさせるためか、それともサグレの血が多少なりとも混じったせいか。理由は分からないがこうして生きているのは奇跡に近いだろう。人妖が、加減などできる訳がない。

 

 「そういえば、何故お前等は人妖に襲われない。俺が知る限り、連中は敵味方等の区別はつかない。抗えない本能のまま暴走する奴等ばかりだった」

 

 失恋をきっかけにルーガルーに変化した少女は村一つ壊滅させた。他に色濃く記憶に残っているのは、ウォーリアバニーと化した戦士だった。

 

 彼は自分が人外と成り果てたことに、後悔の念を抱きながら生きていたが、自死という選択肢をとろうとしても、どうしてもとれなかったことを話していた。死にたくて仕方がないが、どうしても殺し合いの中で死にたい、その過程で手を抜くことは自分の中のなにかが許さない、許してくれないと語っていた。

 

 彼の仲間達である傭兵集団は、その本能に抗えない人妖の暴走により全滅していた。

 

 元々ウォーリアバニー、首狩り兎の一族はエルフ達と同じく人類としてはカウントされず害獣、もしくは蛮族扱いされている。その理由は、血に酔った戦闘民族であるがゆえだ。流浪をしながら人類諸国に戦争を挑み、時として傭兵として自らを売り込み外門から狩った獲物の首を吊るしていくような猟奇的な種族である。

 

 半獣が忌避、差別や軽蔑される一因の一つに、二足歩行の兎のような彼等彼女等がどうしようもないほどに戦闘狂で容赦なく、慈悲がないことが理由になっている。まるで獣人のような見た目の怪物じみた連中に近い、獣の特性を持つ半獣はそれだけでも嫌われてしまうという訳だ。

 

 考えを戻すが、あの触手の人妖は何故敵味方と明確に分けて攻撃を繰り出しているのだろうか。

 

 元々そういう特性を持つ、生物になったせいか?だがそれはどんな生物なのか、そもそもあんな大規模な触手を持つ生物がこの世界に存在するのだろうか。分からない。

 

 「人類憎しで動いている我々と同じ志だからではないか」

 

 「それじゃ答えにならないな。救助者がいないなら、残念だがここは諦めていくぞ」

 

 やはり今回の相手は、今までとは違う。イレギュラーという意味では吸血鬼であるサグレもそうだが、今回の相手は考えや生態が読めてこない。不気味さが、何時まで経っても拭えない。

 

 牢屋が連なるエリアから出るさい、二体のエルフの死体が転がっていた。牢番と、ここまで案内させたエルフだろうか。二人とも首が飛ばされており、片方は太腿の肉が持ち去られている。先程ジークリンデが食していた骨付きの生肉を思い出す。あれはこいつの肉だったか。

 

 同胞が食べられた、ということを再確認できたようでリーダーのエルフはさぞかし青い顔を…していなかった。凄惨な現場で仲間が死んでいるというのに、いくらなんでも眉一つ動かさないなんてことがあるだろうか。意外と薄情なのか?それだけで片付けられないような気がする。

 

 「さっさと行くんだろ、こっちだ。それとも、休憩が必要か?」

 

 「無駄口叩くな」

 

 装備は身に着け隠れているものの、身体は一歩先に進める度に悲鳴をあげている。ジークリンデからの治療の申し出を断ったので当然といえば当然であるが。

 

 悪竜の顔色が疲労していたのは確かであるが、こいつはあくまで悪竜だ。頼りに頼り、いざという時裏切られる可能性を忘れてはならない。

 

 モスコーで、渓流で、いささか借りを作りすぎた。それがどんな代償となって影響してくるか分かったものではない。あくまで封印された悪竜の気紛れ、それを忘れてはならないのだ。

 

 「ランザ」

 

 「ああ」

 

 「辛くなったら何時でも言って、肩くらい貸すから」

 

 クーラが横から声をかけてきた。何時でも肩を貸そうとスタンバイしているが、どちらかと言えば痛みを我慢して集中力が途切れがちになる俺に代わり、周囲の警戒に専念してほしいくらいだ。だが助けられた手前、偉そうなことはいえない。

 

 「その申し出は助かるが、大丈夫だ。それよりも警戒を頼む。頼りにしているぞ」

 

 「任せて」

 

 顔を見せないようにフードを深く被ってから、クーラは改めて周囲を警戒していた。耳を隠す為のフードだが、目深に被れば顔が見えない。今顔を隠す必要があったのかと思うが、どうでも良いことなので思考から排除。

 

 「しっかし馬鹿に広い洞窟だな。この周辺にコボルトの犬コロ連中でも生息していたか?」

 

 「さあな。いたかもしれないが、少なくともリスムの自治州成立前よりも遥か昔になるんじゃないなか?」

 

 コボルト。半獣のルーツの一つであると仮説される二足歩行の犬に似た種族であるが、現代において生存報告や目撃情報があがらない絶滅したのではないかと言われる種族だ。元々鉱山地帯に生息していたが、人類の鉄鋼生産が加速度的に跳ね上がった際、鉱山という採掘場所と生息域を巡る戦闘がありことごとく駆除されたと言われている。

 

 そんなコボルトが巣を造っていたとなれば、複数ある入口や複雑な通路に多数の部屋。まるで蟻の巣のような構造の洞窟が形成されていたとしてもおかしくはない。そうなれば、古くはこのノックの山は僅かにでも鉄鉱が掘れたのかもしれない。

 

 「この曲がり角の奥。二人、いる」

 

 しばらく洞窟の奥へ奥へと進んでいる最中、クーラが静かに呟いた。

 

 エルフのリーダーは苦い顔をした。伝えなかったということは、その二人を利用してなんとか拘束から逃れようとしたのだろう。残念ながら、アテは外れてしまったようだが。

 

 クーラが角から様子を覗き込む。すぐに顔を引っこませ、こちらを振り向いた。

 

 「でかい扉があって、その前に二人。男女一人ずつ、武装は二人とも短弓とショートソード」

 

 「制圧する」

 

 袋から煙玉を取り出す。クーラは、直刀を引き抜き構えた。

 

 「クーラ、一つ言っておく。殺しは無しだ」

 

 「……今更?」

 

 「殺さずにすむならそれにこしたことはない。命は尊いなんぞと言うつもりはないが、必要以上に怨みは買わない方が良い。今更な忠告だがな、俺みたいになるぞ」

 

 「殺してしまった方が、本人からの報復を考える必要はないと思うんだけどね。まあ、ランザがそう言うなら」

 

 着火板に導線をこすり、火をつけた煙袋をクーラに投げ渡す。クーラはそれを、手の甲で軽く弾き足で蹴り飛ばして角の向こう側に飛ばした。火薬の爆発と広がる白煙に合わせて、クーラが突撃した。俺もそれに続く。

 

 この身体でどこまで動くことができるか、それを確かめる為の奇襲戦。果たしてどこまで、足を引かずに戦えることができるのか。

 

 「なんだ!」

 

 煙に飛び込んだクーラは、位置的に距離がある男の方に向かって行った。ならば俺は女エルフが相手か。

 

 この四肢で格闘技、投げ技を行使できるのか不安が残る。散弾銃を引き抜き手の内で回転、銃口付近を握り、エルフの気配、側頭部と思わしき所へ向け横振りに振る。

 

 一撃は硬い物に防がれた。視界を塞がれた不利から短弓ではなくショートソードを抜いたのだろう。突然視界が覆われたのに関わらず、対応にそつがない。身体の負担から何時もよりこちらのスピードが落ちているという理由もあるが、流石なにか護っているように立っているだけあって多少の腕はあるようだ。

 

 煙が少しだけ揺らめき、互いの視線が一瞬交錯した。女エルフが動く、散弾銃を押し返した後右手から左手へ柄を投げて持ち替え、胴体を狙い斬り付けに来る。

 

 と思った瞬間、相手の身体の軸が僅かにぶれたのが見えた。ショートソードは囮、急いで右足の腿を左へ向けてあげる。

 

 股間狙いの一撃を、右足で食い止めた。急所狙いの一撃、これは直撃すれば堪える。だが読み勝つことができた。

 

 顎を打ち上げるような掌底が女エルフに直撃し、脳震盪をおこしたのかふらついた。その額に、全力のストレートで殴り抜く、爪の剥がれた指先が痛み撒かれた包帯が滲むが、吹き飛ばされたエルフは後頭部を打ち付け気を失った。少し確認するが、死んではいない。

 

 煙が晴れたころ、クーラはもう片方のエルフを打倒していた。股間を抑え悶絶している、読み間違えたら俺がああなっていた訳だ、くわばらくわばら。

 

 少し冗談めかしてみたものの、身体が何時もより動かない。本来ならば煙玉からの奇襲であれば、リザードマン戦の時のように、散弾銃の発砲込みとはいえ二体は倒すことができた。戦えないことはないが、やはりやり辛い。

 

 「平気?」

 

 「見ての通りだ」

 

 クーラが心配しながら聞いて来るので、笑みを見せておく。やせ我慢だと見抜かれるかもしれないが、ここで平気じゃないなんて言えばこの後に差し障りがでるだろう。

 

 「それよりも、この扉の奥だ。気をつけろ」

 

 「OK、何時でもいけるよ」

 

 扉は、やはり後から急ごしらえで造られた木製の物だった。完全に締め切っている訳でなく、所々隙間が見える。閂を外して、左右から押し開き、後ろでエルフを捕えているジークリンデ以外、散弾銃と直刀を構え素早く中に侵入した。

 

 扉の奥は広い空間となっていた。まるで半円の空洞のような形状の中心地、背中と腕から木の根が生えた小柄な女のエルフが目を瞑り膝たちのような姿でまるで吊るされるかのような姿をしており、その周囲に四体の干からびた死体達。

 

 「なんだ、これは」

 

 予想とは違う光景に、思わず呟いてしまう。想像では、全身から触手を生やしたなにか生物がいるものと考えていたが、目の前にいるのは別のなにかだった。

 

 「ミハエルーーーーー!」

 

 ジークリンデに拘束されていたリーダー格のエルフが叫ぶ。その瞬間、エルフが、恐らくミハエルという呼び名の人妖が目を見開いた。

 

 洞窟の岩を砕きあちこちから木の根が、それに似た触手が伸びて来る。ジークリンデが迎撃の為に背中の連結刃を振るう。唐突のことに、拘束が緩んだか。リーダー格のエルフが走り出した。

 

 「この野郎!ふざけやがって!」

 

 ジークリンデが叫び、後を追おうとする。しかし、大量の触手が目の前に降り注ぎそれを薙ぎ払うのに足を止めてしまった。

 

 「ミハエル!最後の贄だ!今こそ決起の時、我等にはもう時間がない!この二人を!」

 

 散弾銃を構え、クーラがこちらに飛んで直背中合わせになり直刀を構えた。

 

 「捧げる!」

 

 こちらに来ると思っていた触手が、俺達をスルーして入口方向に向かう。倒れ伏していた二人のエルフ、その胴体に根を突き入れその全てを吸い取り始めた。

 

 ドクドクと、気色の悪い音を浮かべながら木の根は無抵抗の二人から体液を吸い上げる。そしてその死体は、みるみるうちに土色に枯れ果てていった。

 

 「多少予定は狂ったが今こそ我らが大願をなさん!好機は今この時!ミハエル、森妖なりて人族を滅ぼさん!」

 

 『ぢあああああああああああああああああああああああああああ!!!!』

 

 凄まじい叫び声に耳を塞ぐ。触手の向こうでジークリンデが、うるせええええええ!と文句の叫びをあげていたがその声すらかき消される程の声量だった。あの小さな声帯から、なにをすればこのような叫び声があがるのか。

 

 リーダーのエルフが大量の触手に包まれ、瘤のような形を作り天井を砕きながら上昇をしていった。ミハエルと呼ばれたエルフの両腕から木の根が折れダランと垂れ下がり、背中の太い一本を残しまるで拘束具が外れたかのように全ての根が引き抜かれる。

 

 地面全体が大きく揺れ、立っているのも困難なほどだ。身体がふらつき、膝をついて地面に片手を当てて安定を図る。クーラがこちらの肩に捕まり、倒れまいと踏ん張っていた。

 

 深緑の瞳が、こちらを見た。今までの人妖とは違う、おぞましさを感じる瞳であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「火の手が止まらない!クソ、このままじゃ植林地帯にも燃え広がるぞ!」

 

 外で消火活動を繰り広げていたエルフ達であったが、その火の勢いは既に止めようのないものになっていた。このままでは、植林地帯及び木材の加工所に投資をしているリスムや帝国の注意をひいてしまう。そうなれば、作戦は絶望的だ。

 

 ミハエルがいかに強力であれ、休眠時間も必要であるしなによりもリスムを蹂躙して苗床にする前にその力を見せびらかすのはよくはない。帝国の介入を一度は退けても、そうなれば次に来るのは恐らく精強に名高い竜狩り隊、はたまた第一砲兵師団、近衛兵団か。

 

 これは計画失敗、口惜しいがリーダーのナロクに撤退を進言する必要があるかもしれない。忌々しい、ここまで長い間準備に時間をかけてきたというのに。

 

 「エルバンネ、これじゃもう作戦は!」

 

 「ああ…ナロクに報告にいく!消火活動はもう諦め、ノックから逃走する準備を!」

 

 そう叫んだ刹那、山全体が大きく揺れた。立っていられない程の揺れだ、手近な木を掴みなんとか持ちこたえたが、何人か転倒し斜面を転がり落ちるものもいた。

 

 「まさか…」

 

 山頂付近で爆発に近い衝撃。巻き上げられた木々や岩、土がまるで雨のように降り注いでくる。何人かが巻き込まれて下敷きになってしまったが、それでもエルバンネは上を見ていた。

 

 山を砕き登場したのは、まるで触手の束を集めたような巨人。ノックの山はあまり標高の高い山ではなかったが、それと同じような大きさを誇っている。

 

 「お…おお!」

 

 「ミハエルか!?」

 

 「やった!間に合ったんだ!」

 

 若いエルフ達は歓喜の声をあげて喜んでいた。しかし、里を襲った人間達との戦い、非難した若者とは違い、実力で追いすがる人間達を討ち取り生き延びたエルバンネは、その防人としての経験と本能から嫌な汗を流していた。

 

 「総員退避!」

 

 「え?」

 

 「分からんのか!あれは我々が求めたいた物ではない!あれは…」

 

 その瞬間、巨人の身体から無数の触手が伸びる。それは歓喜に沸くエルフ達に巻き上げられた土や岩石以上の勢いで降り注ぎ、その身体に突き刺さっていった。

 

 「え?」

 

 「いだいいだいいだいいいい!」

 

 「私達はちがう…ちがうのおぉおおおやめてぇえええええ!」

 

 あちこちから悲鳴が聞こえる。エルバンネは知る由もなく、本人は見ることもできなかったが、仮にランザがこの光景を見たらきっとこう言っだだろう。

 

 人妖になった者が、人の意思に沿って行動をする訳がない。まして、あのテンが吹き込んだ計画通りに進んだならなおさらだ。

 

 「やめてええミハエルゥーーー!」

 

 体液を吸われ干からびる仲間達。よく見てみると、山に生息する動物達にも触手が突き刺さりその体液を吸い上げていた。

 

 それはまるで憎悪。生けるもの全てに、自分の苦痛を分け与えそれ以上を奪い取る憎悪の吸血に見えた。

 

 「まだ捕まっていない者は集合しろ!ノックの山から生き延び、逃げて、落ち延びるぞ!」

 

 「そんな!エルバンネ…計画は!?」

 

 「そんなことを言っている場合か!人間が殺されるよりも先に、アレの餌食になりたいか!?」

 

 エルバンネは叫び声をあげる。矢ではあの触手は止められない。生き残りのエルフがほんの数人集まった。全員、恐怖で顔が歪んでいる。

 

 おそらくミハエルの覚醒を促したのは、ナロクだ。もう待てないと決断をしたのだろう。

 

 「殿は俺が受け持つ!装備を捨ててなるべく身軽になり、全力で山を下りるんだ!」

 

 逃げ延びるエルフ達の退却を助けながら、エルバンネは歯ぎしりをする。復讐は確かに賛成だったが、それは仲間達と共に成し遂げて初めて意味があるもの。暴走するミハエルに、次々と仲間達が殺される様はもはや常軌をいっしている。

 

 「ナロク…お前は」

 

 襲い来る触手の大群を前にして、エルバンネは仁王立ちをした。顔には悲痛さが、張り付いている。

 

 「これ以上はもう、待てなかったのか。こうなると分かって、次の機会を、待てなかったのか」



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 帝国の玄関口、リスムとの国境を警備する第十二連隊はその日も何時もと変わらぬ日常を過ごしていた。

 

 午前の業務をつつがなく終え、食堂にて何度目か分からないほど何時もと変わらないメニューである魚介スープと黒パンを平らげ、午後からは午前訓練をしていたチームと交代で演習を行う予定だ。

 

 とはいえ、訓練内容は身体が鈍らない程度のものであり、正式採用品である帝国軍需品のライフルによる射撃と銃剣格闘、体力を維持する基礎訓練に各種装備の分解、組み立て練習。

 

 仮想敵国として、リスムを挟んで反対側に位置する連合王国が存在するが、ここ五十年以上は戦争はおきていない。精々あるとしたら、リスム内での政治的な暗闘。お役所や政府の役人達の小競り合いくらいだ。

 

 目下、注目されているのは鯨油産業による利権の扱い方。もしくはノウハウの吸収や捕鯨組合の買収等々のマネーゲームだ。

 

 鯨油産業は、当初帝国も連合王国も重要視していなかった。だがしかし、飛ぶ鳥落とす勢いで急速成長した経済効果を見るに二国はとてつもなく置いて行かれている。人材の引き抜きは競争も過熱しているようだが、まあそこは国境警備の兵隊には関係ない話だ。

 

 ただもし、鯨油産業が帝国でも加熱すれば鯨肉が毎日のように食堂のメニューに加わるかもしれない。ただでさえ海の幸には飽きてきているのというのに、毎日似たような物ばかり並ぶのは勘弁したいところである。

 

 「なあ見ろよこれ、新規のマニュアルマニュアルマニュアルマニュアル。訓練で疲れてるってのに二晩以内で頭に叩きこめだと、ふざけてるぜ」

 

 午後の訓練も終え、夕食を食べるまでの僅かな自由時間。割り振られた部屋の机に資料の束が投げられた。海竜が討伐され貿易路が広がった影響で、関税の規定や貿易に許可がいるもの、警戒すべき密輸品一覧に取り扱いに注意が必要なもの等々等々。辟易する量だ。

 

 「仕事が増えた、なんてレベルじゃねえな。だいたい予算削減の為か知らんが警備や監視の他に関税職員の真似事なんぞさせるなよって話だよな。ほんと、ふざけた話だぜ」

 

 「役人連中は、こんな帝国の端っこまで来たくないとよ。その点は連合王国が羨ましい、聞いた話じゃ向こうさんはわざわざ国境ぞいに辺境都市並みの街一個造ったんだとよ。兵隊ならば、遊興施設や食事処で割引し放題らしい」

 

 「そりゃいいな、亡命でもするか」

 

 資料を軽く流し読みをしながら、同僚の軽口に応じる。亡命話等戦時中にすれば銃殺刑もまったなしだが、上官がいないということもあるがただの冗談で受け流せる程には平和だ。

 

 流し読みした資料を放り投げようとした瞬間、建物じたいが大きく揺れる。立っていられない程の揺れに、私物入れの棚が倒れたり、あちらこちらでなにかが落ちて割れるような音が響いた。

 

 「な、なんだおいこれ!」

 

 「知るか!終末戦争でも始まったか連合王国の攻撃じゃねえか!?」

 

 しばらくして揺れが収まり、その後すぐに緊急事態を告げる鐘が鳴る。同僚と顔を見合わせ、すぐに装備と武装を整え持ち場に向かう。作戦開始前は、一度指定の場所に集合し部隊事のミーティング後行動するものだが、この鐘の鳴り方はそれをすっ飛ばしてすぐさま防衛任務にあたる必要がある。

 

 「おいマジで連合王国が攻めてきたか!?宣戦布告とかあったか!?見張りの連中はなにしてやがった!」

 

 短い合間に連続で鳴らされる鐘は、敵襲及びそれに準ずる異常事態がおきた時のものだ。最悪の可能性は、連合王国が掟破りの奇襲攻撃を仕掛けてきたかということ。帝国と連合王国、大陸のほとんどを支配し同程度のパワーバランスを誇る二国がぶつかれば、中小の同盟国を巻き込んで五十年ぶりの大陸戦争となるだろう。緊張が、一気に高まる。

 

 「敵はもう見えるのか!」

 

 砦の上、持ち場に辿り着いた瞬間、先についていた兵士に声をかける。だが返事はなく、ぽかんと口を開けたまま首を上に向けていた。

 

 「巨人」

 

 ポツリと呟く兵士。続いて顔をあげると、リスム方面の山を抉り巨大な人影が二足で立っていた。こちら側には背を向け、ゆっくりと歩いて行く。

 

 「マジで終末戦争、始まるんじゃねぇの…」

 

 同僚の呟きが、強ち冗談ではない重みが込められていた。仮想敵国の連合王国や害獣狩り等の訓練は受けていたが巨人相手の戦闘方法など、訓練では教わったことはない。

 

 情けない話ではあるが、巨人がこちらに背を向けリスムに向かっていくのをただ安堵しながら見ているしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リスム市街は恐慌状態になっていた。神話や伝説の中でしか語られていることがない巨人が、このリスムに迫ってきていると、信じられない報告がリスムの政治中枢である政同院に報告されてから初動が遅れに遅れてしまったからだ。

 

 巨人を見つけた巡回警備隊の報告を受け、まずリスム代表が側近に話したのは、警備隊は巡邏中に酒か禁止薬物でも試しているんじゃないかと疑う話だったという。

 

 しかし、徐々に近づく地鳴りのような足音に、帝都方面の端から徐々に広がる混乱。そして政同院からも見える位置からでも巨人が見えるようになり、ようやくことの重大性が政治中枢に広がった。

 

 だがしかし、徐々に膨れ続けるリスムの住民達を避難させ、外敵に当たるマニュアル等存在しない。いや、存在しないというのはいささか語弊があった。自治州成立当初、まだ小規模な都市程の人口しかいない状態であるならば、船もしくはモスコー方面に住民を避難させる計画が確かにあった。

 

 だがしかし、リスム自治州は緩衝地帯として帝国と連合王国が作り出した都市。それはつまり、大国二国に挟まれた政治的圧迫感があると同時に、大陸有数の国々の庇護下にあるものと同じだった。

 

 モスコーでの騒動はあったものの、まさかこのリスムに警備隊の手に負えない外敵が…という風潮は、親帝国だろうが親王国だろうが、中立だろうが住民だろうが誰一人考えていないことだったからだ。

 

 だからこそ、警備隊の予算不足や装備の貧弱さに、当の警備隊以外が頭を悩ませる必要がなかった。このリスムに危機が訪れるとしたら、帝国と王国、どちらかの国が相手の国に宣戦布告をした場合くらいだろうと。そしてその兆候は、今に至るまで確認されていない。

 

 そして避難計画は、内容が更新されることなく放置され、ましてや現在はモスコーに警備隊の半分以上と掲げる大盾、ギルドを始めとした戦闘要員達や避難を誘導できる職員が応援に行っている現状。ただでさえ脆い防御システムが、更に薄くなった最悪のタイミングだった。

 

 「点火ァ!」

 

 非番と巡回の警備隊を可能な限りかき集め、外壁の上に並べられた火砲に火を入れる。

 

 砲ならば魔具を使用した、オーデン技術連合と帝国魔術院謹製の最新式誘導砲が捕鯨船に積み込まれかの海竜討伐にも活躍したのは記憶に新しいのだが、リスムに配置された砲は旧式のただ丸石や鉄球を飛ばすのみに留まる旧砲だった。

 

 鯨を捕えたばかりの捕鯨船は時として海賊に狙われることもあり、武装拡大は重要視されているが、狩りにも街を防衛する組織が民間船より装備の質が劣っているのは警備隊としては嘆かわしいかぎりの話だった。まあいくら、武装を最新式にしたところで害獣には過剰火力であり、帝国や連合王国相手ならばそれとて張り子と同じくらい頼りないものであるのだが。

 

 だがしかし、旧式とはいえ砲は砲。巨人の腹部に着弾が確認され、表面に蠢く触手でできた皮膚を弾き飛ばし身体の中に叩き込む。

 

 砲弾は貫通し腹部に穴が開き、一瞬歓声があがったがすぐさまその周囲の触手がすぐに穴を塞ぐように触手が覆う。

 

 「次弾、装填!」

 

 指揮官の一声で、次の砲弾が装填され火薬が準備される。掛け声と共に、放たれる。砲弾が直撃する瞬間、触手が蠢き着弾地点に穴が開く。向こう側の景色まで見える穴を砲弾は通り抜け、街道に着弾した。

 

 「対応…されただと!?」

 

 地響きがさらに大きくなる。戦々恐々とした顔で対応にあたっていた警備兵達は、それでも大砲という運用は難しいものの当たればどんな生物でも大抵一撃で殺せる兵器が、役に立たなかったという事実に完全に浮足立っていた。

 

 「ライフル隊構え!」

 

 「正気ですか!?あんな巨人相手にライフルが効くとでも!?」

 

 「市民の避難ができていない!我々の持つありったけで少しでも足止めするしかないんだ!」

 

 「ふざけんな!無駄死にはごめんだ!」

 

 想定外の敵と人手の足りなさ、捨て駒にされるという事実に完全に指揮系統は乱れていた。辛うじて指揮が届いた一団が発砲するが、予想通り表面の触手を一部砕く程度で大した効果が出ているようには見えない。

 

 「来るぞ!抜刀!」

 

 巨人の触手が、蠢く。城門の上にいる警備兵達に向け触手の群れが降り注いだ。警備隊正式採用品である片刃のサーベルが抜かれるが、踏みとどまった者達には正面から、逃げる者には背面から肉質の雨が降り注ぐ。

 

 接敵後、大した足止めはできず警備隊の一団は干からびていき全滅してしまう。それは、まだ避難が完了していない帝国側市民から、混乱が街全体に広がるのが加速していくのに繋がった。

 

 街全体の統制が完全に取れず、ないよりマシ程度の避難計画さえ狂い、城壁をあっさりと蹴り破りながら侵入する巨人が逃げ遅れの市民に食欲のまま触手を伸ばす。

 

 『ハッ…ハハッ……ひゃひ…ウひハハハハハハハ!』

 

 巨人の額、男の笑い声が響く。蔦をかき分けるように、エルフの上半身が露出した。

 

 瞳孔があちこちを乱雑に向いており、舌を垂らしながら唾液に似た液体を振りまき、狂気に顔は引きつっていた、エルフのリーダーであるナロクの上半身が生えてきた。その身体は、エルフ特有の陶磁のような白肌ではなく、蔦と同色の毒々しい緑色に染まっている。

 

 まだ不足していた贄の数を、使えなくなったり足を引っぱったり、戦えなくなった同胞の命を捧げミハエルの覚醒を急がせた。その代償が、今の彼と言えた。

 

 ミハエルの中に取り込まれた彼は、例にも漏れずその体液を吸われ殺されてしまった。しかし予想外だったのは、干からびて死んだと思われた者達感情がミハエルの中で渦巻いていたということ。

 

 その全てが、憎悪を根源とした負の感情で渦巻いていたといこと。

 

 『何故ェエエええええええこんなメにぃいいいいい!』『ノドがかわくやけるやける死ぬ死ねシネシネェ!』『ゆるさないぃいいいだせェええええええ!』『ふくしゅうなんてどうでもいいだせシネだせたすけててあすたえたすけェーー!』『ゆるじてくだざい許してミハエルやめてぇゆるじでェーーー!』

 

 エルフも、人間もそろいにそろって憎悪の呻きをあげていた。そして憎悪とは逆に、安堵と安らぎの感情が一つ。ミハエル自身のものだった。

 

 取り込まれ、ミハエルと一つになった今なら分かる。狐の吹込みで、時間と贄が必要な特別な人妖、いや、切り倒され燃やされ、全てを灰にされ畑となった森の怒り、森妖と化したミハエルの苦痛は想像以上のものだった。

 

 贄と共に身体の変異がおこり定期的に休眠をとっていたと思われていたミハエルは、その内部で刹那の猶予もなくバラバラ身体を引き裂かれ再構築を繰り返すという、常人ならば幾度死んでもおかしくない苦痛に常にさらされていたからだ。

 

 その苦痛と、何故自分がここまで苦しまなければならない、変異を自分自身で受け入れたという愚かさ、その全てがミハエルの思考を支配していた。それは、エルフ族全体の為人類に復讐をするという当初の目的を全て吹き飛ばすものだった。

 

 変異が完全に終わるまで大人しくしていたのも、ナロク達エルフが定期的に持ってきたりする生贄が絶えないようにする為。そして時が来たら、自分の苦痛を同じだけ味あわせるという意思からくるものだった。

 

 そんなミハエルの唯一の安らぎは、自身の内部に溜まっていく他者の感情が、自身と同じ苦痛に苛まれ苦しむもの。それが同胞であったエルフならば、その苦しみは甘露を舐めた時のように心が満たされた。

 

 そして今、時が満ちた。大量の人間を取り込んで、自分の苦痛を分け与える対象を増やす。それだけの為に、ミハエルは前進した。

 

 『しねしねしねシネェー人間共!死んで我々のクルシミを味わえェ!』

 

 額から生えたナロクが、絶叫する。視界の先、なにかを見つけたナロクの腕が変異しそれはエルフが使い慣れた弓と矢が出現した。矢には触手が融合しており、こちらも毒々しい色をしていた。

 

 ナロクがつがえた矢を、放つ。避難誘導を行っていた警備兵の背中に命中。矢の先端がワームのように開き、中の血と臓物をすすっていった。

 

 目の前で干からびながら死んでいく警備兵を見て、市民のパ二ックは更に広がる。そんあ市民達に、緑色をした矢や弾丸が射込まれていく。いつの間にか巨人の上半身、至る所から犠牲者達の上半身が生え市民達を道ずれにしようと遠距離攻撃を繰り返していた。

 

 触手よりもよく届くその攻撃は、範囲外の市民をも殺していく。

 

 道ずれが増える度に、ナロク達犠牲者はほんの一瞬楽になれる。その刹那の快楽の為だけに、憎悪の攻撃は続いていった。

 

 新たな犠牲者で、思考がほんの僅かに落ち着いたその額に風穴が開く熟れすぎたスイカのように爆ぜ割れる。痛みはないが、そちらの方に残った顔を向けると、一人の女性と数人の黒服が建物の上に立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「んー…当たったけど、効果ありと思うかい?」

 

 「残念ながら」

 

 「だよねぇ」

 

 商会の屋根によじ登っていたのは、特注と思われる巨大なライフルのスコープから目を離したのはエレミヤだった。

 

 「しっかし肩が痛い。固定具とか君達の協力とか借りてようやく撃てる代物だけどさ、身体がバラバラになりそうな衝撃だよ」

 

 「そんなバカみたいな大きさの銃なんて造るからですよ。ガンスミスにも止められたのに」

 

 「男は大きければ大きい程いいだろう?いろんな意味で」

 

 「……テクニックも必要です」

 

 それもそうだね、とエレミヤは笑みをこぼす。再度スコープを覗くと、巨人の額にいるナロクはこちらに顔を向け口だけで憎悪を向けなにかを喚いていた。

 

 「予感ってのはあたるもんだね。一番嫌いなやつが出てきたよ」

 

 排莢し、新たな弾丸を装填。もう狙いをつけて銃を放つ。今度は首に命中し頭部と身体部分を切り離したが、すぐに触手が伸びて身体を繋ぎ合わせ、吹き飛ばした頭部も元の形に戻っていった。

 

 「へえ意外、指揮権でもあるのかな」

 

 ナロクの憎悪に反応するように、巨人がこちらに向き直り足を進める。まだ距離は充分あるが、歩幅を考えればここが危機に陥るのも時間の問題だ。

 

 「ナロクがこんな手段に出てくるのは予想外だったけど、だからこそこちらも予定外の手が打てる。あの方向は、除草剤がある場所だね」

 

 「ええ、まあ。しかし我々にも内緒であんなところに延々と溜め込んでいたとは…経済特別区の他の連中に知られたことでしたよ」

 

 「問題ないよ、あくまで除草剤だからね。人様には使わないさ、用法容量を…てね。それより、そろそろ逃げても良いよ。エルフの尻ぬぐいは、エルフの仕事さ。うちの今年の目標は、ホワイトな職場環境をみんなに…てね」

 

 「給料分を超過するまでは、働きます」

 

 言わせてもらえば、この状況、娼館でのボーイ兼用心棒からはかけ離れている。しかし、これも仕事のうちと融通を利かせる黒服達には感謝半分呆れ半分だ。そこまで人望があったとは、我ながら知らなかった。

 

 「巨人が進路を変えました!こちらに来ます!」

 

 「準備に時間がないよ!除草剤散布の用意は!?」

 

 「大丈夫です!何時でもいけますよ!」

 

 「合図をだすから、そのタイミングでお願いするよ!」

 

 屋根の端から顔をだした黒服に親指をたててみせる。それに頷き、彼は下に飛び降り散布の準備に向かった。

 

 巨人が近づいて来るが、餌である自分が動く訳にはいかない。挑発するように弾丸を連発し、取りあえず怨恨も込めてナロクに集中砲火をしていく。このライフルじたいが特注品で、鋼鉄の盾や鎧を貫通できる威力があるといっても、あの巨人からすれば豆鉄砲もいいところだ。ならば嫌がらせの意味も込めて、ナロクに集中砲火をしていく。

 

 「矢の有効射程範囲内に入りました!」

 

 飛んで来る触手つきの矢から庇うように、護衛二人が大盾で前に出る。幸い矢についた触手は独立して襲ってくるようなこともない。外れた矢についた触手は自律的千切れ、本隊に戻っていく。

 

 『ええええええれええええええみええええええやああああああああ!』

 

 「馬鹿の大声が届く距離になっちゃったか」

 

 『貴様だけは許さん!ゆるさんぞ裏切り者めぇ!我等エルフの怒りを、怨みをしれェええええ我等と同じ苦しみを味わえぇえええええ!下等な種族にくみした恥知らずがァああああ!』

 

 怨み骨髄だ、知っていたが。それと同じくらい、こちらもエルフという種族が嫌いだ。互いが大嫌いという一点では、非常に気が合うようだ。

 

 「排他的!差別的!優劣思考!狭い世界で完結している未開地の蛮族がなにを言う!はは、森は斬り拓かれたし泉は利用されてるのに、君達の信仰であるところの精霊とやらはなにかしてくたかい!?あそこは今年も麦の成長がよく豊作が期待できるってさ!笑っちゃうよねぇ!故郷の森を燃やして作った小麦パン、わざわざ麦を取り寄せて焼いているけど味はかなり美味しいよ!」

 

 『ふざけるあなあああああ!お前のような恥知らずさえわれわれは見捨てず仕事をくれてやったというのにぃいいい!恩を仇でかえしよってえええええ!』

 

 「仕事をくれた!?奴隷の間違いじゃないかな!?私は最初から見下される為だけに教育を受けてきたんだ!防人の長たる家に産まれた後継ぎの君が、常識を知らない落ちこぼれを意図的に作り、それを虐げ結束を固めるシステムを知らない訳がないじゃないか!鶏のついばみ問題って知ってるかな!?まるであれと同じ、エルフは鶏と同列の下等種族さ!人間からは蛮族扱いされているよ!家畜と同じ扱いさ、笑えるよね!森の中という閉じられた僻地の部族にはお似合いの扱いだよ!」

 

 『貴様もエルフだァああああ!よくもそこまえ言えたものだなああああああ!』

 

 「恥ずべきことにね!だけど、私はお前達とは違う!私は…お前達を皆殺しして、エルフを皆殺しにして、エルフという種族をこの世から消してやる!その時私は、人間として数えられるんだ!まだ潜むエルフと一族を地上から一掃し、森を燃やし尽くし、全て畑に変えてやる!そこで君達の骨の上で鍬を振るってやるさ!あははははは!君の死体から土を肥やして、秋には良い実りを期待しているよ!」

 

 『殺してやるぞォおおおおエレミヤァあああああああ!』

 

 巨人がまた一歩、近づく。その足元には、巨大な倉庫が建っていた。名義はガレウン貿易、エレミヤの代理の代理がおこした、ダミー企業の看板だった。

 

 「点火ァああああああ!」

 

 エレミヤの合図で、ハンドルつきのスイッチが押される。導火線に火が灯り、火花をあげてガレウン貿易、倉庫の中に続いていった。

 

 その瞬間、建物を吹き飛ばす大爆発がおこる。倉庫の中には大量の鯨油、火薬、弾薬、発火性の液体、他国から貿易で取り寄せた火薬石と呼ばれる衝撃で暴発の危険がある岩石に刃物の類や銃器の類が大量に格納されていた。

 

 非武装が信条なのは娼館の内部のみ。エレミヤは経済特別区の外に、大量の武器弾薬、危険物の類を集め貯蔵を続けていた。然るべきタイミングで、生き残りをエルフを狩りつくす為の武装。幾つもの業者を介入させ、存在しない企業を通し、複数の欺瞞で誤魔化しながら蓄えたそれはエレミヤの執念によるものだった。

 

 それが今、とてつもない大爆発をおこし巨人を吹き飛ばす。それを見ながらエレミヤは、大きく肩をすくめた。

 

 「やれやれ、かなり頑張って蓄えたんだけどなぁ。銃器だけでも、運びだす時間があれば良かったのに…あれ、ドン引きしてる?」

 

 エレミヤとナロクの常軌を逸した会話に、護衛の黒服達は引き気味な顔を浮かべていた。

 

 「その、それなりには」

 

 「まあまあ、人間同士も戦争とかで同族で殺し合いするでしょ?あれあれ、一緒一緒。ちょっとエルフ達殺して土地とか奪って、森とか焼きたいだけだってー」

 

 「まあ人類同士の戦争を出されて、それを言われればぐうの音も出ませんが…ごめん!」

 

 突如護衛の一人が、こちらの身体を抱える。煙の中から伸びる触手から逃れる建物を飛び降りて、そのまま疾走。

 

 巻き起こる粉塵から現れたのは。身体の下半身を吹き飛ばされるも徐々に触手を生やし身体を再構築していく巨人。そのあまりの不死性までは、計算にいれていなかった。というか、そもそもエルフが率いる巨人じたい計算の埒外だ。

 

 『我々の執念がぁあああああこの程度でェえええええ終わるかぁあああ!シネェえええエレミヤァあああ!』

 

 ナロクの絶叫と共に、触手が伸びる。護衛の男が全力で走るが、逃げ切れそうには見えない。

 

 「放り出して、逃げても良いよ!私を連れていたら…」

 

 「ここで貴女を捨てて逃げたら、退職金をもらい損ねるもので!」

 

 泣けることを言ってくれるが、このままでは二人とも死んでしまう。万事休すかと、内心呟いた瞬間。上空から陰。

 

 「化物風情が、これ以上街のみんなを傷つけることは許さない!」

 

 陰は手に持つ蒼色に輝く大剣で、触手を切断。

 

 大剣の持ち主は、帝都から戻ってきた、レント=キリュウインだった。

 



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 随分と長い地揺れだった。天井からも大量の岩石が降り注ぎ、空を覆っていた岩盤が消え去り白い雲が空を漂うのが見えていた。

 

 額から血が流れるのを感じるが、何故か生きている。天井が見える程岩石が降り注いで来たなら、生き埋めになってもおかしくはない筈なのだ。だがその疑問は、チラリと見えた巨大な人影から、解消できるものだった。

 

 あの巨大な人影。あれが襲い来る触手の大本だとしたら、いつの間にかこのノックの山がほとんどが吸収され擬態となっていたならば降り注ぐ岩石の量が少ないのも納得できる。

 

 しかし、いくらノックの山が、標高が小さめとはいえそんな山のほとんどを吸収してしまうまで巨大化した人妖とは、これはもはや今までの常識を大きく外れている。森妖とでも、言うべきだろうか。

 

 いや、名前決め等学者連中がやることだ。身体はうつぶせに倒れている。背中の岩を退かし、傍らにいるクーラに目をやる。幸いなことに、目立つ外傷はない。軽く揺すってやろうとした瞬間、足音が耳に届く。

 

 視線だけそちらの方に目を向けると、エルフが一人天に向け両手をあげていた。雲の隙間から日光が降り注ぎ、まるで日光欲をするように目を細めうっとりしながら太陽の光を浴びていた。その瞳は先程とは違い濃い深緑を宿しており、髪の毛は雨露に濡れ覗いた太陽に輝く緑色に染まっていた。

 

 クーラは、息がまだあるが気を失っているのか動く様子が見られない。洞窟の入口は半ば崩落している。地揺れがおこった際、入口近くで大量の触手が降り注ぐのが見えた。ジークリンデは襲われたか、どうなっているのか分からないが、分断されたのは確かのようだ。

 

 どうする?今なら奇襲で一撃を喰らわすことができる。クーラが目覚めるまで待っていたら、こちらに注意を向けて来るかもしれない。立ち去った巨人も気にはなるが、これはもう勘のようなあまり信頼をおけない感覚なのだが、アレの存在の方をなんとかした方が良いかもしれない。

 

 日暮れ前に、決着をつけてやる。

 

 腰にぶら下がる、取り返した道具入れに手を入れる。火薬球をあるだけ掴むと、着火板に全て火をつけた。導火線が燃える音に、首をかしげるようにエルフがこちらを向いた。その顔面に向け、全力で袋を投擲する。

 

 放物線を描き飛ぶ複数の球。それを目で追いかけるエルフの顔近くまで落下する瞬間、球に向け散弾銃を二発連続で放つ。

 

 顔面近くで火薬が爆散し、金属片が飛び散る。素早く散弾銃に弾を装填。クーラの手から直刀を借り、前進。

 

 爆発により巻き起こった煙が晴れ、深緑に染まる瞳と視線が交差した。頬が裂け口内が覗いているように見えたが、ダメージは軽微。まともに当たっていたら、頭が吹き飛んでいてもおかしくはない。

 

 疑問はすぐに氷解した。投擲物を見てから回避する様子はなかったが、奴の緑色の長い髪の毛が束ねられ蔦のように蠢き爆風を凌いだようだった。髪の毛が尖端が蠢き、焦げた臭いを放つ痛んだ個所を切り捨て、腰の長さまで目に見える速さで伸びていく。

 

 もっとも相手は人妖、この程度で終わってくれる程可愛げがある相手でもない。

 

 敵は、ミハエルと呼ばれていた人妖はあどけなさの残る顔でこちらを眺める。攻撃されたことに意に返していない、だがその口はまるでなにかをかみしめるようにモグモグと咀嚼を繰り返していた。

 

 散弾銃を向け、胴体と胸部に向け連射する。面を破壊する散弾を、髪の毛の蔦が盾になりガード。広範囲での破壊を得意とする散弾であるが、それよりも盾のように大きく広がる髪の毛に遮られた。

 

 だがその広い防御範囲は視界を大きく狭める。直刀を水平に振るい、盾と化した髪の毛を切断。爆風でも千切れる耐久性は、衝撃には強いようだが切断には弱いらしい。

 

 散弾銃を手放し、指先を保護していた包帯を幾つか噛みつき千切る。まだ血止めは完全ではないが、それゆえに剥がされた爪からデロりと血が滲みだした。

 

 無造作に腕を振るうと、血のしずくが飛ぶ。眼球を付近に血液の目つぶしが被さり、相手の視界を潰す。そのまま直刀で首を跳ねようとした瞬間、足元に違和感。なにかに掴まれ、凄まじい力で引きずられ体制を崩し転倒してしまう。

 

 足を引いたのは、千切れて落ちた筈の髪の毛だった。落ちた束がいつの間にか寄り集まり、強固な岩の肌に植物のように根を張り、足首に輪をかけて力づくで引いたようだ。

 

 「だれだ、おまえ」

 

 血液が眼球についていようが、拭うこともなくミハエルは、口をむぐむぐと動かし終え、一言喋る。

 

 「俺の顔を見ても分からないか、お仲間は怨みの対象として記憶していたようだが」

 

 直刀で草の輪を切断し二歩の間合いで距離をとる。追撃はせずに、食事の最中にきた無礼な客人に向けるような冷ややかな視線を浴びせてくる。

 

 「……しらん、もしくはわすれた」

 

 言葉足らずの子供のような口調で喋り、ここで初めて目を中心に付着した血液に気づいたのかミハエルはそれを腕で無造作にふきとった。赤い血痕に舌を這わせ、チロチロと舐めた後大きく這わせて付着した血を全て口内に含む。

 

 「このマズイ血はわかる。おまえへんなチのやつ」

 

 「約一匹美味いとかいいながらすすって来るが、そんなに変な味か?」

 

 「なんどもつくりかえられている。オリジナルの改善、もしくは改あく。カンゼンなもほうじゃない。すこしずつだれかのコノミに、なっているような感じ。それに、ヒエタちもわずかに混ざっている。ふつうのチやぞうもつじゃない」

 

 ぺッと唾ごと舐めた血を吐き出した。美味しいと啜られても困るが、粗末にされたような気がするのはある意味微妙な気分だ。

 

 「どッかイケ。おまえはまずい」

 

 「なんだ、見逃してくれるのか?そりゃありがたいことで」

 

 「口直しがアルからな」

 

 視線がクーラの方へ行く。舌なめずりをする様子を見て、どうやらその食欲をクーラの方へ向けたのだと理解した。この人妖の行動原理は、敵意よりも食欲。目の前にいる襲い来る味の悪い獲物は無視して、後回しにして良い筈の気を失っているクーラに目をつけたようだ。

 

 腕を伸ばすと、指先が変化。植物の蔦に変異シュルシュルとクーラに向け成長をしていくのが見える。直刀でその蔦を裁断、鬱陶しそうな視線を向けられ髪の毛が蠢き左右から挟むように襲い来る。

 

 邪魔者がいたら食事も満足にできないぞ。さあ、来い。

 

 足元に落とした散弾銃を蹴り上げる、爪先から激痛がはしるが、根性で我慢。空中で散弾銃の銃身を掴み前のめりになり倒れそうになる程身体を傾けてから前進。

 

 左右からの髪の毛の蔦触手を回避し、間合いを詰める。散弾銃のストックで顎を打ち砕こうとした瞬間、ミハエルは喋る以外はなにかを咀嚼するように動かしていた口を開いた。

 

 顎を打ち砕くまでに、ミハエルの黄色く視覚化された吐息が顔にかかる。異物や汚物の香りではないが、強烈な甘臭が鼻孔をくすぐり脳内や感覚器官を直接殴られたような錯覚に陥る。臭いの発生原は口内から育った、清らかな白い六つの花弁が連なる花だった。

 

 まるで酔ったようにふらつく身体、視界までチカチカし千鳥足のようにふらついた。

 

 腕に、足に、紐のような巻き付く。物凄い力で上空に引っぱられ、あっさりと身体が浮き上がった。子供がぬいぐるみを乱暴に振り回すように、巻き付いた触手は身体を振り回す。

 

 岩壁に身体を打ち付け、口内、内臓の奥から血が溢れた。地面に叩きつけられ、身体がバウンドする。天井まで振り上げられ、骨が悲鳴をあげた。

 

 腕をもたれた状態で宙吊りにされる。下からミハエルが小首を傾げながら見上げていた。

 

 「なんだ、お前、悲鳴くらいアゲないのカ?」

 

 正直なところ、あげる余裕すらない。全身が痛むし視界がちらつく、痛くない方を探す方が難しいくらいだ。

 

 「薄キミ悪いやつ。ナンダそのめは、死にたいノカ?」

 

 「目付きの悪さは、よく…言われる」

 

 「ナンニせよ、メ障り。大人しくシテいてもらうナ」

 

 触手が四肢に、胴体に巻き付く。四方から万力のようにギリギリと力が込められ、ドンドン筋線維が引っぱられ千切れていく感覚、骨が軋むのを通り抜け離れていくような激痛が襲った。この女郎、まさか。

 

 「そくしはさせない。じゃましたバツ。苦しんで、シね」

 

 皮膚が、血管が、筋繊維が引き裂ける。右腕が千切れ、左腕が離れ、両足が分断された。悲鳴がこだます、痛みと身体のあるべき部分が一気に無理矢理引きちぎれるショック。激痛でも、感情でも、死にたいと思う程の痛みが襲った。

 

 ショック死というものがある、何故それをおこさないのかと刹那でも憎々しい感覚を自身に抱いてしまう程の苦痛。それを見てミハエルは興味を失ったかのように、触手を緩め引きちぎれた四肢と胴体が地面に落下した。

 

 「マチについたか」

 

 ミハエルは独り言を呟いたあと、また空を見上げ始めた。トドメを刺すつもりはないらしい、クソみたいに憎々しい。

 

 「死ぬのか…俺」

 

 血が急速に失われ、身体が冷えていくが分かる。

 

 「こんなところで…こんな場所で…クーラを巻き込んで……仇すら討てずに……」

 

 顔を僅かにあげることしかできない、視線の先にはまた太陽の方を見上げながら薄ら笑いを浮かべ咀嚼の動作を繰り返すミハエル。

 

 恋人の仇、一族の仇討ち。その報復や復讐で襲い来る者に打ち負かされるのは良い。俺がテンに抱く感情と同じものを抱きながらやってきたものだ。無論抵抗はするし、場合によっては殺す。だがその末に競り負け殺されるなら、未練は残るが致し方ないと納得はできる。

 

 だがしかし、目の前のミハエルは違う。一族の仇など既に興味は持たず、ただ味の良し悪しと邪魔かそうでないかだけで判断を行う。今ではもうこちらに興味すら持たず、恍惚とした顔をしていた。

 

 あんな、食欲だけでしか判断をしないような奴に殺されるのか。引かなかった俺の、判断ミスか。クソ、死んでも死にきれない。

 

 テンを殺していないのに、こんな死因で死ぬことなんざ、できない。

 

 「せめて…なにか……クーラだけでも…」

 

 這おうにも、腕も足もない。それどころか意識が遠のいていく。もう、打つ手がない。クーラを逃がすこともできない。

 

 うつ伏せに落とされた身体が、引っくり返され仰向けにされる。閉じかける視界の先には、悪竜たるジークリンデが似合わない慈愛に似た眼差しでこちらを見ていた。閉じられた入口を掘削してきたのか、身体には小さな小石や埃が付着していた。

 

 「よう」

 

 「ジー…ク……クーラ…を」

 

 「は?オレの顔を見て言うのがそれか?しかも一日で二度めだぜそれ」

 

 クーラを救ってもらおうとしたが、拒否された。うんざりした顔で大きくため息を吐かれる。

 

 「人妖狩り、人を超えた人外との連戦。まあ、只人には荷が重い、かち過ぎている。何時かはこんなことになると、お互い予想していなかった訳じゃねえだろう。だからこそ、お前は嫌いつつオレを振るった、だがそれでも何時か限界が来る。今日みたいな…な」

 

 死にかけた俺に唾でも吐きかけるか、その血肉を貪るだろうと思っていたが、穏やかな顔でジークリンデは話し続けた。その瞳は、歪な優しさと静かな狂気を含んでいるように見える。何故、悪竜がこんな顔をしているんだ。

 

 俺が死んだら、封印が解けるだろう。今まで時には気紛れ、退屈凌ぎと称して力を貸し、延命させてきたが、俺が死んでジークリンデもとっては得しかない。だからこそ、想像していた自身の死に際の一つに、死体をこの悪竜に貪り食われるというものがあった。

 

 ジークリンデの手が、額と頭を優しく撫でる。何時ものようによだれ一滴垂らさず、ただただ穏やかにだ。

 

 「運が良いぜ、お前はよ。お前はここでは、死なない。この悪竜様も、他者から学ぶことがあってだな。サグレ、悲運の吸血鬼。奴から学びとったことが一つ…いや二つある。オレはこれからお前を、人の域からはみ出させる。だが、それはお前の自由意思に委ねてやるよ。このまま死ぬか、オレを受け入れるかだ…時間はねえぞ」

 

 もう視界にジークリンデの顔は見えない、なにも見えない。奴がなにを考えているかも分からない、思考が霧散してきている。何故、どうしてだと考える余裕すら浮かんでこない。

 

 だが、どうするかと聞かれた。そう聞かれたならば、選択肢は一つだ。

 

 俺は、テンを殺すまで、納得のいかない死を選ぶわけにはいかない。

 

 ジークリンデの問いかけに、最後の力を振り絞り頷いた。その提案が悪魔よりもタチの悪い、悪竜からの誘惑であろうとも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ランザは、頷いた。

 

 愛おしいその身体を抱きしめて、頬ずりしてやりたい程喜ばしいことだが呑気をしていたらこのまま失血死で死んでしまう。

 

 悲運の吸血鬼から学んだのは、二つのこと。一つは知識としては知っていたが、吸血鬼の眷属作りというやつだ。

 

 吸血鬼は、最初の覚醒者を始祖と呼びその系譜たる吸血鬼を眷属と呼ぶ。先祖返りではあるが、サグレは始祖と呼ばれる資格があり、ウイルス性吸血鬼としてあのまま知識と経験を蓄えていけば強大な存在となっていた。

 

 ぶっちゃけた話、あの時勝てたのはサグレがランザを殺さないで眷属にしようとしていた心理につけこんだこととサグレ自身の慢心の他、産まれたてで経験や能力が共に不足していた点があげられる。

 

 強大な化物の赤子を、潰しただけの話だ。それでも苦戦したものだが。

 

 オレとしてのモスコーでの収穫は、ランザがこちらに対し受け入れ始めたこと。そして眷属作りというサグレの行いを直接見てはいないとはいえ、モスコーという死都と化した街で間近に観察できたことだ。

 

 奴が作るグールを血を啜り、サグレ自身の血を刃に染み込ませた。長いこと生きてきたなかで吸血鬼とは別段敵対もしていなかったため、対峙することはなかった。だがしかし、サグレの血を刃で吸ったことで奴の経験をある程度理解することができた。

 

 以前、モスコーの林でしたようにランザの胴体に細く枝分かれさせた連結刃を埋め込む。瀕死の半死人に鞭打つようなものだが、まあこれは必要経費ということで取りあえず死なずに堪えていてほしいところだ。

 

 「いや、死ぬ訳がねぇ。死ぬ筈がねぇよなぁ英雄様」

 

 頬に手を当てる。冷えつつある身体だが、これからは新たな熱を灯す。

 

 しかし、まあ、オレも変わっちまった。

 

 神や悪魔、竜が時代の中心にいた時代オレは好き勝手に生きた。そしてそんな黄金の時代が終わりを迎える際は、オレを殺しにきた英雄との死闘を繰り広げ、果てに満足のいく死にざまで逝きたかった。

 

 だが死に場所を失い、半分死人のように生き、なにもかもが色褪せて見える世界のなか、ランザと出会いなにもかもが変わった。

 

 最初は、こいつの余生を見届けるだけで良かった筈だ。だがしかしいつの間にか、肩入れに肩入れを繰り返し吸血鬼の真似事なんぞに手出しをし始めている。悪竜全盛期のオレが今のオレを見たら、嫌悪で眉を顰めるような行いだろう。それだけただ一人に執着する等、愚かを通り越して呆れ果てると。

 

 切断された四肢から連結刃が肉を食い破りはい出る。そのまま千切れた四肢まで伸びて行き、引き寄せて傷口を合わせる。斬られた四肢の内部にも刃が伸びていき骨や筋肉と一つに合うように内部で絡み合う。

 

 「最初は、お前がオレに贄を捧げさせることで、オレからお前に恩恵を受けさせる。一番負担のかからない方法でお前を依存させようとした。だがお前は、それを了承しなかった。人一倍、自身の力不足をあちこちで痛感しれているのにも関わらずだ。まったく強情というかなんというか、普通お手軽に力を手にする方法があったら、一も二もなく飛びつくところだってのによ」

 

 だがランザはそれをよしとしなかった。他人の人生だ、いくらでも自身の為に踏みにじれば良いものを。

 

 「でもそれだけに、オレはお前から目を離せない。悪竜ジークリンデがただの人間に首ったけなんだぜ。そして今、お前はオレを内部に取り込む。ほんと光栄に思えよ、竜の因子を含んだ眷属なんぞ、多分人類史上初めてなんだぜ」

 

 自分の手首を斬り付け、血を溢れさせる。噴き出る血を口内に含み唾液とよく混ぜ合わせ攪拌させた後、覆いかぶさってランザの口に近づけ唇同士を合わせた。

 

 舌を絡ませ、嚥下の邪魔をさせないようにし血を送り込む。体内に潜らせた連結刃の根元を切り離し、その全てをランザの身体内部に侵入させる。

 

 臓器に、骨に、身体の全てに竜の刃を絡ませる。瀕死の身体だ、生命維持を優先させる為に限度はあるものの、こいつの身体に深くオレを刻み込んで一つとなる。

 

 身体を一つにする、まるで性行為だ。あまり間違ってはいない、子孫ができるかどうかの行いをしていないだけで、深く身体を絡み合わせている訳だから。

 

 存分に血液と唾液を呑ませてやった後、口を離す。飲ませるというよりは、喉奥に無理矢理送り込んだけではあるが問題はない。血のしずくが、額に数滴落ちた。

 

 「なあランザ、オレは好き勝手生きてその果てに英雄に殺される。そんな竜生で良かったんだ、海竜みたいに有象無象に発展した技術で殺されたり、炎竜のように眠りこけるだけの毎日を過ごすなんてまっぴらごめんだったからよ。だけど今は、お前と一緒になりたい、お前の傍らにいてずっと見ていたい、お前の身体だけではなく心も染めあげてしまいたい。見ているだけで満足だと思ったが、オレの好奇心や楽しみ、予想を何度も超えるお前が悪い」

 

 切断された四肢が癒着していくのが分かる。オレの身体を削りとって分け与えた成果が出てきている。その代償は、オレ自身の負担。だがそれがどうした。

 

 「なった。お前はオレの眷属にだ。他の誰でもない悪竜ジークリンデ様の物にだ。オレの身体が、血が、英雄様を汚している。汚染している。ああもう、たまらない、最高だ。もっとオレに染まれよ、もっとだ。もっとオレ無しじゃいられない身体にしてやる。これからがもっともっと楽しみだ。クッ…クカカ…ハハハハハ」

 

 歓喜に打ち震えるあまり、この洞窟内部にいる存在の動きを認知するのが一瞬遅れる。

 

 我関せずで、恐らくはあの巨人が吸収しているだろう魂を咀嚼するミハエルはともかく、もう一体まだ生きている存在がいることを興奮から失念していた。

 

 ランザの首筋に、蒼い尻尾がのめり込む。なにか力のような、蒼白い光が送り込まれていた。

 

 「しまった!」

 

 背中から伸びる連結刃を振るうが、蒼い障壁に阻まれる。夕暮れ時の空から蒼白い月が覗き、何時の間に世界が月明りに照らされる空間になっていた。

 

 「雌狐がぁあああああ!邪魔すんじゃねぇえええええ!」

 

 「貴女はお父様の道具で、ぺット。多少のやんちゃは許容しますが、限度と言うものがありますよ」

 

 扇を片手で弄ぶクーラが、いや、クーラの口と身体を借りたテンが軽蔑するような視線を向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノックの森妖。復讐鬼と化したエルフ達の暴走によりリスムは壊滅間近まで追い詰められることになるのがシナリオだ。

 

 あの巨人はミハエルの分体。本体は洞窟に残る少女。本体さえ潰してしまえば、巨人は瓦解し無力化する。逆に言えば、ミハエル自身を打倒さなければ分体の巨人はほとんど不死身といっても過言ではない能力を持つ。

 

 今回お父様には、ミハエル相手に負けてもらう。そのうえで、私の介入により命を救われるという屈辱を味合わせ、そのうえで壊滅したリスムという街並みを見てもらいさらなる絶望を植え付け、そこからまた燃え上がる憎悪をたぎらせるのが目的だった。

 

 だがしかし、リスムの方面に奇妙な気配を感じそれの観察でこちらへの介入が遅れてしまった。悪竜め、竜がそこまで、いくら相手がお父様だとしてもそうまでいれこむものだろうか。

 

 気持ちは分からないでもないが、これ以上はいささか度が過ぎるというものだ。

 

 生命維持を繋げるだけだけに留めれば良い物を、まさか吸血鬼の真似事まで始めるなんて、竜のプライドはどこにいったのやら。

 

 「お父様は貴女の眷属になどはなりません。分を弁えなさい、時代遅れの蜥蜴風情が」

 

 「狂ったファザコン狐が。父離れできないその様が、傍から見たらどれだけ痛々しいか理解していねえのか?」

 

 「年ばかり重ねた化石が、若い男に欲情している様よりはましかと思いますが」

 

 ジークリンデが、立ち上がる。敵意をむき出しにした顔で、背中の連結刃を揺らめかせる。手に嵌めたままの魔術具からも、凄まじい炎が噴き出ていた。隙さえあれば持てる力を全て叩きつけてやろうといった魂胆だ。

 

 迎撃は容易。と言いたいところだが、この身体は借り物で力は分霊。本体ならば返り討ちは容易いとはいえ、今の身体では不毛な消耗戦になることは間違いない。

 

 「殺してやりたい、その点は互いに同意のようですが」

 

 「……チッ」

 

 ジークリンデからしたら、こちらを殺すメリットは薄い。仮に殺せたとしてもたかだが分霊、本体にはまったくダメージはないし入物のクーラが壊れるだけだ。

 

 こちらとしてはジークリンデを攻撃する理由はある。躾のなってないぺットにはお仕置きが必要だからだ。だが必要以上に痛めつけては、ミハエルを止める手段がなくなる可能性がある。

 

 警戒が必要な相手が出てきたからだ。本体が観察しているあれが、とうの昔に格が堕ち、零落した筈の存在が表舞台に這い上がってきた。こちらの分霊をメインにすえ戦うことはできない。

 

 「一つだけ告げておきます。覚えておきなさい、ジークリンデ。『女神』が暗躍しています」

 

 「ああ?神さんだって今は、信仰もすげかえられた偽物に分捕られたクソ雑魚じゃねーか。今更そんなんのなにに警戒しろってんだよ」

 

 「愚かですね。その信仰が、この瞬間にも爆発的に回復するかもしれませんよ。下手をすれば、やや大げさかもしれませんが神の一強時代が訪れます。そしてそれは、私にとってもお父様にとっても、無論貴女にとっても良い時代になる筈がありません。今彼女の手の物が、こちらに向かっております」

 

 現在この大陸一の宗教は、帝国も連合王国も国境関係なく広まった教団だ。それはかつて、神による信仰の強制を嫌がった、家畜となることを拒んだ人間達が悪魔の知恵を借り、神という存在がいない宗教を作り出し信仰をそちらに、長い年月をかけてすり替えた。

 

 そのおかげで今の本当の神は信仰を受けられなくなり零落してしまい、落ちぶれている。

 

 「ああ?てめえなにいって」

 

 睨みながら言うジークリンデの言葉を最後まで聞かず、口を挟む。あの女神は、信仰を取り戻そうとしている。信心という鎖と首輪で人類を嵌め、支配下におこうと企んでいる。それは、私の計画の障害となるだろう。万が一でも、信仰に目覚め家畜化されたお父様等見たくもない。

 

 「ミハエルを殺しなさい、貴女達の手で。私は私で対策を講じる必要がありますので、任せます」

 

 「手前の撒いた種の後始末だろうが、勝手な奴め」

 

 「自覚はあります。だからこそ、余計なことまでしようとした貴女を今ここで殺さないのです。それは、慈悲ですよ。弁えなさい、蜥蜴風情が」

 

 パチン、と扇が閉じる。それと同時に月が消え周囲が元の空間に戻った。

 

 ジークリンデの腕の中、ランザが瞼が動き、目をゆっくりと開いた。

 

 



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10

 逃げ惑う住民達の中、甲冑姿の女性騎士がただ一人逆流しながら歩いていた。背中には巨大な円錐形の槍である馬上槍を背負い、手には巨大な盾を持っている。

 

 住民達が途切れ、その向こう側からは触手の群れが迫りくる。騎士は大盾を石畳に突き刺し、大きく息を吸った。最後尾には、掲げる大盾の戦闘員とみられる者達が絶望的な殿を勤めている。銃器は効果が薄いとみて片刃刀や双刃を振るい、盾で触手を払いながら懸命に犠牲者を増やさないよう奮闘していた。

 

 「ここで犠牲を更に増やしてみろ!支部長が帰ってきたら、夏の賞与が吹き飛ぶぞ!死ぬ気で踏みとどまり、一人でも逃がせ!」

 

 リスムに必要最低限の備えとしてグローが残していた精鋭であるが、決定打がないうえに住民を護りながらの防衛線ではいささか以上に分が悪かった。顔には疲労が色濃く見える。それでも軽口混じりの檄を飛ばし、遅滞戦闘を行うあたりは冒険者ギルドや警備兵とは練度が違った。

 

 「戦士達よ!ご苦労だった!あとは私に任せろ!」

 

 突然現れた、重装兵の言葉に掲げる大盾の戦闘員は場違いな奴が来たと舌打ちをする。どこの馬の骨かは知らないが、この触手は捕まるとアウトだ。鋭くなった先端に貫かれ、血液や臓物を吸われ殺される犠牲者をもう何人も見ている。あれは分厚い盾はともかく、鎧でどうにかなるものでない。必要なのは俊敏性だ。

 

 「無辜の民を貪る暴魔め!我が信仰、エンパス教の加護!抜けるものならぬいてみろ!」

 

 下がるように声をかける前に、騎士が盾を石畳に再度叩きつける。盾と同じ色をした純白な膜が現れ掲げる大盾の戦闘員や逃げ遅れた市民達を保護するように広がった。

 

 触手はその膜に突き刺さるが、膜を貫けず電撃がはしったような衝撃と共に弾かれる。何十何百という触手が突き刺さるも、膜が貫通するような様子はない。

 

 「なんだこれ…魔術具なのかあの盾は」

 

 「いや違う。普通の盾だし魔術具を使っている様子はない、なんだこれは…お前は何者だ」

 

 「これが奇跡の力だよ。私は元グロルダール騎士団団長、カナリヤ=エルだ。レント=キリュウインの元信仰を護る騎士をさせてもらっている。疲れているところすまないが、力を貸してほしい。仲間がいるとはいえ、広大なリスムを護るのは少々手が足りなくてな」

 

 「仲間だって」

 

 結界上空。空を漂う触手が白い防壁を破ることを諦め迂回を選択した触手達が漂っていた。逃げ惑う住民に襲い掛かろうとした刹那、猛禽の速さで人影が飛来。素早いなにかが、触手を切断し無力化していく。

 

 「ヤッホー♪」

 

 空を舞うのは、両腕を翡翠色の翼に変えたハイピュリアの少女。厳密には違うが広義においては半獣と同じような存在とされているが、違うのは凶暴性。エルフ同様人類とは敵対種族として扱われている有翼種が、空を飛んでいた。

 

 上空を飛ぶ生命体に向け、触手が四方から伸ばされる。それを見て、少女は舌をだしながら小馬鹿にした笑みを浮かべた。

 

 「バーカ。お前達の動きで、ボクを捕えられる訳ないじゃないか。遊んであげるのはいいけど、ボクのダンスに何人付き合えるんだい?」

 

 四方から伸びる触手を上空に蛇行しながら飛んで避けていく。雲近くまで飛び立った後、反転。ハイピュリアには背中の他、腕を任意で変異させ四つの翼を広げることができる。その翼が鈍い煌めき放ち始めた。

 

 鋼鉄化した翼は、一本一本が刃のように鋭くなり錐揉み回転をしながら一個所に集まった触手群を斬り裂いていく。触手達は、空舞う猛禽を捕えるどころか散々に散らされ残骸を地面に落としていった。

 

 「さあまだまだいこうよ。ボクのブレードダンス、付き合える自信があるならね♪」

 

 少女はカラカラと笑い、目に愉悦を浮かべながら、触手の塊に突貫していった。

 

 「あの馬鹿はまた、考え無しに」

 

 屋根の上からそれを見上げる魔導士が一人。

 

 そう、魔導士。まるで物語の世界から出てきたような、尖り帽子にローブ、杖を持った奇怪な姿の人物がそこにいた。仮装にしたって、今日日昔話でも、こんなスタンダードな魔女は出てこないと、人が見たら痛々しさに失笑を誘う姿だ。

 

 呆れた顔で上空で舞い踊るハイピュリアを見上げていたが、彼女自身に心配はいらないがやはり体積の大きい巨人から放たれる触手群。しかもそれは、やられた端から再生し街中に広がっていっている。

 

 撃墜の心配はなくとも、手が足りない。

 

 「この街が発展した街で良かった。石材には困らない」

 

 屋根から飛び降り、石畳みの上に着地。

 

 なにやらブツブツと呟きながら石畳みや家の石壁に杖の先端でコツコツと叩きながら歩く。奇怪な姿をしていようと、歩く生命体がいればそれは獲物。魔女に向け触手が襲い来る。

 

 なにか硬い物に、触手が直撃。地面から石畳みがめくれ上がり魔女に襲い来る触手を防いでいた。杖で叩く素材が多くなればなるほど、空中に石畳みが浮かび上がりそれはやがて一体の岩人形となり咆哮をあげる。

 

 魔女が歩いた後ろから、次から次と人形が製造されていき、攻撃へ、壁へと石を持つように行動を開始する。しばらく歩行が続いたと思えば、その前後左右にはあっという間に岩人形の一団ができていた。

 

 岩人形の護衛達がガードをできない、直上から触手が襲来。それに帽子を少しずらして見上げると、その杖の先端を上空に向ける。

 

 「ハイ・サラマンダー」

 

 杖の先端から、蜥蜴の形をした炎が出現する。襲い来る触手を逆に呑みこみ消し炭にし、上空で消滅をした。それはまるで、今時子供でさえ鼻で笑う、滑稽な童話や御伽噺に出てくる魔法使いの業だった。そんな存在を実物で見て、笑う者はいないが。

 

 「馬鹿ウェンディ!あっぶないよー!ボクに当たるだろうがー!」

 

 「ついでに焼け死ねば良かったのに」

 

 「聞こえてるぞー根暗魔導士!」

 

 ゴーレムが散開する。それぞれリスムの重要拠点を防衛する為に散っていった。

 

 街中には、あちこちで戦闘がおきていた。特殊な力を振るい町民を救うのは、いずれも美女、或いは美少女と呼ぶに相応しい容姿をしていた。

 

 それは、特殊な才能を持つ者を集めたというよりは、容姿を優れたものを集め特殊な才能を施したといった表現の方が正しい。平時であれば、そんな戦闘集団、なにかのくだらない思惑で編成されたお飾り部隊かタチの悪い貴族のお遊び集団にしか見えなかっただろう。だがしかし、今は緊急事態、それもかなりの町民や警備隊に犠牲が出た後の救世主達だ。

 

 ある者は刀剣で、盾で、籠手で、銃で、特殊な能力を行使して街中で市民を救う。その彼女達が口を揃えてこういうのだ。『エンパス教の救いの元に』と。

 

 街の為に戦う、特殊な力を持つ美少女や美女達。それは『宣伝効果』としては確実だ。

 

 彼女達はレント=キリュウインが集めた私兵部隊。本当は好青年風のイケメンを中心にした美男子達がいればなお効果は高いだろうが、いかんせん野郎に加護を受け渡すのは気がすすまない。

 

 しかしそこまでしなくても、これだけ犠牲が出た後だ、名前を広げるには充分だろう。

 

 元の世界でもかつて某国の独裁者は、美少女と美女だけ集めた応援団を組織してオリンピックで歓声をあげさせていた。とある国で開催されたさいなど、ボランティアの名目で集められたスタッフが全員美男美女であったことさえある。

 

 そこまで大規模に考えなくても、宣伝にアイドルや俳優を使うのはありふれたことだ。偶像崇拝を禁止している宗教もあるが、やはり磨かれた偶像というのは効果がデカい。

 

 「趣味と実益を兼ねるって、こういうものだよなぁ」

 

 大剣を背中に担ぎ、誰にも聞こえないようにレント=キリュウインは呟いた。こちらに転生させた女神がある程度、僕を自由に動かしていたのはこの為だった。

 

 信仰を集める方法、信仰を取り戻す方法。それには地道な布教活動でもしていれば良い。僕には関係ないことだと言いたいが、拒否をすればチート能力を全て没収すると言われれば従うほかない。

 

 まあ異世界でハーレムなんて、誰にだって思いつくものだ。どうせならそれを使って、なにか大きいことをしてみたいとも思ったため、強い拒否はしなかった。

 

 別に元の世界で熱心な宗教家だった訳ではないが、どうすれば大衆の人気が集まるかはなんとなく経験則で知っている。

 

 例えば、戦隊ヒーローものや魔法少女ものは、ある程度怪人や化物が街や人々を襲った後に助けに入り救済をしている。そうすることで、前半のピンチや危機といった苦難を、解決後には苦難の突破に対する快感や街の住民の感謝といったカタルシスに繋げることができるのだ。

 

 そう、人気集めだ。

 

 信仰なんて政治の選挙と同じだ、自分がどこの政党に支持をしているかというのを、自分がどこの宗教に支持をしているかに置き換えるだけで良い。選ばれるのは、人気者。

 

 容姿も重要だ。以前駅前で新興宗教の信者集めをしていた三人組を見たことある。そのうち一人は自称大学教授のおっさんだったが、自称その学生の二人がとんでもない美人だったのを覚えている。ちょっと意味は違うかもしれないが、これがハニートラップかと感心したことすらあった。

 

 閑話休題。まあ、だからこそ、ねらい目は港湾都市リスム。鯨油産業を発展させ貿易都市として二大国を中心に人の往来が激しい街に狙いをつけた。人の噂は悪性の感染症のように広がっていくものだからだ。これで圧倒的に足りないエンパス教という新興宗教の知名度を広げることができる。

 

 当初の作戦は、地下迷宮を刺激し中にいる異形や害獣を街中に解き放ち、人々の犠牲が広がったところでそれを討伐する、いわばマッチポンプの計画だった。

 

 だからこそ、ある程度の情報を集め街や地下迷宮を下見し計画の細部を詰める為に掲げる大盾に入団した。正義感に燃える青臭い若造として。

 

 しかし、幸か不幸かそんな計画が台無しとなる。地下から異形を溢れさせるまでもなく、エルフ共が暴発させた人妖が街の半分に壊滅的被害をもたらしてくれている。

 

 ここまで犠牲者が増えれば、それを信仰という信念の元人を護る為に戦った英雄達として感謝の念を集めるだろう。

 

 「エルフさん。黒服さん達も早く逃げてください。ここはまだ戦場だ」

 

 「君は、何者だ?助けてもらって感謝はするが、あれに正面立ち向かうつもりか?」

 

 「弱き者に加護と庇護を、それがボクの信仰するエンパス教の教えですから。さ…僕が戦っているうちに逃げてください」

 

 ちゃんと宣伝も、忘れない。黒服が軽く頭を下げ、エルフを抱えたまま去っていった。

 

 しかしエルフ、エルフか。奴隷市場でもめったに見つからない希少種族。僕の下で一度は喘がせてみたいものだ。しかし今は、一番の狙いがいるから後回しだけどね。

 

 「と…仕事仕事」

 

 大剣を頭の上で振りながら、前進を開始する。ステータス強化のチート能力、筋力操作で常人なら持ち上げるのも困難な大剣もまるでチャンバラで使った木の棒のような軽さだ。

 

 しばらく歩くと。革装備を身に着けた冒険者風の紫髪の美女が槍と銃を構えながら戦闘をしていた。確かあの子の名前は…付与した加護は…忘れた。ただマグロ過ぎて退屈で、一度しか抱いていないことだけは覚えている。周囲の気配もないし、丁度いい。

 

 「レントさっ!…ま?」

 

 こちらに気づき、歓喜の表情に染まるがその刹那、その顔に鮮血が飛ぶ。

 

 「ど…して」

 

 「質の良い果実を作るには、間引きが必要なの。信仰を集めには、殉教者も必要。でもみんな加護持ちだからなかなか死なないしね、君くらいなら死んで良いから、死んで僕の役に立って」

 

 冒険者風美女の胸部に、大剣の切先が突き刺さる。それを引き抜いた直後、抵抗を無くした彼女に触手が何本も突き刺さり内臓や血液、脳漿を啜り上げていった。

 

 「うわえっぐ、間近で見ると死に際キモイな」

 

 街の為に戦い、命を落とした英雄。その存在が、信仰の次元をより高次元に導く。元の世界のとある宗教を参考にしたものだ。殺したやつも、名前も与えた加護も思い出せない程の存在なので別に心も痛まない。

 

 この調子でもう何人か間引いていく必要があるだろう。この大惨事で、犠牲者が零というのはそれはそれで神の加護と言えるかもしれないが、世間の目を引くには偉大な奇跡よりも同情の力の方が強い。

 

 「でもまあ、しかしなぁ」

 

 思い返すのは、僕のところから出奔していった猫。あの夜名前を思い出せなかったが、あまりに腹が立ってしまいその衝撃でか思い出すことができた。

 

 クーラ。ベタベタと慕ってきたくせに、いざ抱いてやろうとしたら人間がまだ恐い、こんな身体見せたくないと拒否をしてきた駄猫。

 

 仮にまだこの場にいたら、彼女も間引く対象だっただろう。だがしかし、僕の元からランザ=ランテの元に行くのは腹立たしいことこのうえない。NTRを楽しむ趣味嗜好があれば一興だったかもしれないが、そんな性癖は残念ながらなかった。一度ボクに助けられておいて、加護を与えられておいて、恩知らずめ。

 

 「なにを遊んでいる」

 

 背後から、尊大な口調。僕に対してそんな口をきくのは、今のところ一人しかいない。

 

 緑の瞳に同色の髪の毛。雪のような白肌に鋭い目つき。ボクをこの世に異世界転生させた女神、エンパスがそこにいた。

 

 「遊びって心外だな。仕事ですよ仕事、貴女の加護集めの為にせっせと知恵を絞って、ついでに間引き作業もしているんだから。人聞き、悪いですよ」

 

 「そのわりには、なにやら余計なことを考えていたようであるが?」

 

 「チェ…物思いくらい自由にさせてくださいってもんですよ」

 

 紫髪の美女を吸いつくした触手が、背後でこちらに襲いかかる気配を感じた。後ろを見ずに大剣を一振り、充填された魔力が衝撃となり背後の建物ごと触手を散り散りに吹き飛ばす。

 

 「あんたは僕をこの世界でやりたい放題するだけの力を与えてくれた。僕はその見返りに、僕がいた世界でのやり方を参考にあんたの信仰を取り戻す知恵と力を貸す。それは良いですが、やることはやってんだ。過干渉は気持ち悪いですよ女神様」

 

 「報酬と引き換えに…であろうが」

 

 「ええまあ。信仰を取り戻し、神の時代が来ればその力で僕はもっと美味しい思いができる。だいたい僕は元々、宗教とか信仰とか欠伸がでるくらい面倒くさいのは大嫌いなんですよ。でもそういうあと腐れなさそうな人材と望んだからこそ、僕が転生対象にされたのでは?」

 

 「さあ、どうであろうな」

 

 そのすました顔も何時か快楽と歪ませてやりたいが、ここは内心舌打ちにするだけに留めておく。

 

 「それよりも、あの巨人の本体であるエルフ殺害の方はどうなっているのだ。あれはそちらを叩かねば無限再生する。消滅させることができんでもないが、我の身がもたんぞ」

 

 「問題ありませんよ。僕の部隊から腕利きを一人、そしてその保険にもう一人遅れて派遣させましたから」

 

 「そのうちの一人は、これですか?」

 

 どこからか響く声。女神エンパスと僕の間に、死体が落とされ転がった。

 

 「ラミーネーダ」

 

 異国の風貌を持つ曲刀使い。近接戦においては、加護を与えた部隊の中ではトップクラスの腕を持つ女性の頭が、泡を口から吹きながら恐怖に歪んだまま絶命していた。

 

 上を見上げると、建物上には扇で口元を隠す妖艶な狐。何故か僕の故郷、日本の着物を身に包む、最高級の美女が怒り交じりの視線をこちらに送っていた。

 

 「狐か」

 

 女神が興味も無さげに呟くが、僕は違う。今すぐにでも襲い掛かり叩き潰し、そのボロボロの身体を抱きしめたい衝動にかられた。それは本気になれば可能かもしれないが、どうせなら確実な状況で、なるべく無傷で捕獲をしたい。

 

 「一物を斬り落とし、引き裂いてやったというのに生きているなんて。ゴキブリでももう少し可愛げのある生命力をしていますよ」

 

 「あの時のことかい。あいにく僕はあの程度では死なないよ、少し違う次元で生きているからね」

 

 「やれやれ、興奮して生死確認を怠ったのも悔やまれますが、それだけに腹が立ちますよ。あの巨人は、このリスムは、ミハエルを起点とした一連の事件は全てお父様の為の捧げものだったのに。横合いから尻馬に乗る形で計画を利用するなんて、気分が悪い。本当にあの時殺しておけば良かったですよ」

 

 三人の視線が交錯する。女神が手をあげると、ランザが時折使用する棒剣のような形状をした光の刃物が高速でテンに飛んだ。

 

 しかしそれがテンに届くことはなく、空中で弾かれる。光の剣を弾いたのは、無骨な鉄鎖。鉄の輪が引き戻されていく先には、くたびれたコートを着た男がたたずみ、その袖の中鎖が消えていった。

 

 「ガスパル」

 

 「神さんどもはみんな隠居状態ってのに、わざわざ異世界からクソみてぇな指定外来種連れて来るなんてな。そこまでして、かつての絶頂を取り戻してえかい」

 

 「ガスパル、悪魔、忘れはせんぞ。貴様が施した入れ知恵のせいで、人間達の信仰は離れ我等は零落していった。貴様等悪魔が人類を無用に進化させたせいで、我等全てがこのような有様になっているのだぞ」

 

 「ハッ…そうまでしてかつて手前等が目指した楽園を実現させたいか。人が真に従順に、盲目に、ただ神のみを信頼し信仰し生きて行く。そこには発展も進歩もない、この世の始まりから終わりまで平穏無事な世界。そんな退屈な世界、今の人の世を見てまだ目指したいというつもりか」

 

 「貴様等発展を好む悪魔も、進歩した人類に対し必要とされなくなり落ちぶれたではないか。人類は何時か発展のすえ身を滅ぼすぞ。自分で自分の首を締めた阿呆共が、したり顔で説教の真似事をするでない」

 

 レントとしては、少し身に覚えがある話だった。まあ確かに、原子爆弾とかどっかの国が発射すれば、報復合戦で世界中で核が爆発して、北斗の拳が始まるんだろうなと呑気な考えが頭に浮かぶ。

 

 テンとレント、ガスパルとエンパス。それぞれの間に圧が産まれる。しばらくの対峙の後、口火を切ったのはガスパルだった。

 

 「不毛だ、やめやめやめ」

 

 両手を広げやれやれとため息をつく。三人の視線が、ガスパルに集まった。

 

 「ここで喧嘩しても、互いに無傷じゃないうえ無意味にすぎる。今のところランザをいたぶることと、信仰を広めること、二人の目的は互いに干渉せずに進んでいるんだ。俺達が今目くじら立てる必要は、感情を抜きにすればあまりねえ」

 

 「痛めつけてなどいませんよ師匠。あれは私からのお父様への試練です」

 

 「……面倒くせぇな。まあとにかくそういうことだ」

 

 ガスパルが頭をぼりぼりとかく。どこか弛緩した雰囲気に、戦闘の空気ではないと、互いに警戒しつつも一触即発の雰囲気だけは消えた。

 

 「信仰集めも勝手にやればいい。おそらく企みは上手くいくだろうさ、十全ではないにせよ」

 

 「ええ、十全ではないにせよ…ね。ミハエル、敵の首はお父様が落とします。貴女達はその首も利用して信仰集めのダメ押ししたかったでしょうが、それは上手くはいきません。まあ巨人を倒した功績じたいで、民草の人気は集まるでしょうが」

 

 テンは、扇に隠した口元でクスリと笑った。

 

 「事前に準備に準備を重ねた計画が十全に上手くいかなかった。予言します。このほんの僅かな綻び、それは後々貴女達の首を締めることになる。私とお父様の関係に余計な茶々を入れたバツ、その時支払ってもらうことになりますよ」

 

 「お父様、ランザ=ランテか。娘に愛情を注がなければならない親と殺し合いをする為に計画を進めるなんて、とても健全じゃないな」

 

 「そういう貴方も健全には見えませんよ。私の眼からはとても…ね」

 

 「くだらん」

 

 エンパスが一言で斬って捨てる。ミハエルの存在なんて公表しなければ民衆が知ることはない、それでも一部情報が早いものや勘の良い者は、エルフがノックで出没している情報から勘ずくかもしれないが、それでも大多数の住民には関係ない。

 

 ただエンパス教の加護を受けた信者達が、民を護り、あの巨人を屠ったように見せればそれで充分だ。ミハエルの首級など、ただのオマケだ。

 

 「貴様等の無知蒙昧には嫌気がさす。悪魔に狐よ、見ているが良い。神代の時代をこの我が取り戻す。地上に楽園を築いたさいは、貴様等の居場所はないと思え」

 

 「俺は飼いならされた人間なんぞに興味はない、発展し、争いあい、時には自滅する人類を見るのが好きなんだ。平凡で退屈な楽園なんぞ願い下げだね。まあもっとも、そんな世界が来るとは思えんがな。人類を、あまり甘く見るな神様よ」

 

 互いの口撃が、終了の合図となった。テンは、相手の目的が確認できた成果とし扇をパチンと閉じた。その瞬間、ガスパルとテンはその場から消え去った。

 

 テンは、間違っている。親子で殺し合いをするなんて、間違いの極みだ。それは正さないといけない、寝台のうえで忠誠を誓わせ、ランザのことなんて二度と考えられないようにしなければならない。

 

 今はやるべきことをやりにいこう。あの澄まし顔を、何時か歪ませ僕に対して忠誠を誓わせる為に。



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11

 身体が軋む。だが動けない程では、ない。

 

 腕を伸ばすと、なにかに当たる。暗闇に包まれた視界が戻ると、それはジークリンデの肩だった。

 

 「相棒、目ェ覚ましたのか」

 

 「頭がいてぇが…」

 

 「色々ありすぎた。すぐ慣れるよう祈るんだな」

 

 肩を借りて、上半身をおこす。それと同時に、戻りつつある聴力になにか風切り音のようなものが響いた。

 

 「ああァ亜あああアあ!邪魔なヤツらァ!キエロキエロ消えろ消えろォ!」

 

 身体を揺らしながら暴れ、髪の毛を振り乱し触手があちこちに暴れ苛立っている様子だ。どうやら、向こう側でなにかアクシデントにみまわれているのだろうか。

 

 「その色々ってのを聞きたいところだが、今は好機だな。なんだか知らんが、いくぞ」

 

 「半死人が、ちっとは身体を労われ。と言いたいところだが…良いぜ、むしゃくしゃしてたところだ」

 

 戦闘態勢に入る前に、クーラの位置を確認。もう少し離れた位置にいた筈だが、いつの間にか傍らにて横たわっていた。傷ついたクーラが自ら来た訳じゃないので、ジークリンデが運んできたか。

 

 「フッ…は」

 

 「んだよ、なにがおかしいんだ」

 

 「いや、クーラを連れて来てくれたか。お前も意外と面倒見が良いんだなと思ってな。この礼を言う」

 

 他者に対して辛辣な面があるジークリンデが、この一日に二回もクーラの面倒を見た。それは以外だったし、素直に感謝するべきことではあるが、それを聞いたジークリンデは苦虫を噛み潰したような顔をして、うるせえとだけ答えた。

 

 相当苛立っているのか、背中から伸びる連結刃が荒ぶっている。

 

 「んなどうでも良いことより、行くぞボケ」

 

 ジークリンデがこちらの手に手を絡ませる。それと同時に出現するのは、赤黒い禍々しい刃の列。心なしか、以前よりも手になじむ感覚がある。

 

 横に大振りに刃を振るうと、大振りの刃が分離し鞭のように振るわれる。それに気づいたミハエルがこちらを憤怒の視線で射抜くように睨み、髪の毛を変異させた触手で迎撃。

 

 切断力がある刃が触手を斬り裂くが、刃の軌道は変えられる。首を刎ねようとした一撃は上にそれ、外れてしまう。

 

 戻った刃を上段から振るうが、今度は身体を横にずらし回避をされた。ミハエルが大口を開くと、喉の奥から芽がでるように緑色の蔦が伸びて来る。蔦の先端からは、毒々しい紫色の花弁が咲き誇り、周囲に種を振りまいた。

 

 地面に置いた種は、それが土か石かなどお構いなしに根を張り急速成長していく。常識外れに成長していく種子は、蕾を作りカラフルな花弁を生成していった。

 

 『相棒』

 

 「ああ、ただお花畑を作る為の技術じゃないだろう」

 

 『散らしてやろうぜ。花には嵐が必要だろうが』

 

 蕾を伐採するように、超低空に刃を振るう。洞窟の戦闘範囲ほぼ全てを包み込む伸縮力で蕾を根こそぎ刈り取り美しい花弁を散らしていった。

 

 ミハエルは低く唸り、歯で喉から伸びる紫色の花弁を切断。再度喉奥から花が産まれ始め、今度は地面だけではなく側面の壁にも種子を飛ばし始める。

 

 壁にのめり込む種からはすぐさま緑が伸び始める。

 

 「壁だ!」

 

 『分かってる!』

 

 周囲の岩壁を削り取るように刃を振るうが、いかんせん地面に生えたもののように一度に刈り取ることは困難を極めた。全てを抉りだすことはできず、赤、黄色、青といった色彩豊かな花が咲き始める。

 

 ひと際大きな、人の顔以上の花弁を持つ花が震えた。花弁の中央に穴が開き、粘着質なねばっこい黄色い液体が放たれる。

 

 クーラを抱えて飛びのく、先程までいた場所に液体が着弾した液体は岩肌を音をあげて溶かし始めた。甘ったるい臭気と岩をやくたびにあがる蒸気の香りが悪い意味で鼻孔をくすぐる。

 

 「白い花は前後不覚になる毒!赤い花は酸みてぇな液体!色合いで効果が違うってか!?」

 

 『花ばっかに気ィとられんな!あの髪の毛も来るぞ!』

 

 ジークリンデが自動で動き、触手と化した髪の毛を迎撃。一対一の筈が、これでは一対多の集団戦だ。そのうえまだ特性を見極めた花弁は二つしかない。

 

 エルフ達が贄を捧げ続けながら護り続けた人妖。あの巨人も規格外だろうが、やはりこいつ自身の戦闘能力も他の人妖とは違う。

 

 黄色い花弁の中央から触手が伸びる。先端は液体を滴らせた針がついており、そこからあふれ出る液体は麻痺毒か弛緩薬か、シンプルに劇毒か、考えたくはない。

 

 棒剣を投擲し針を劇劇。細いゆえに脆いのか、棒剣は針を砕きそのまま花弁の中央に突き刺さった。

 

 だがそれと同時に、肩に衝撃。青い花から放たれたなにかが右肩に命中した。血を啜われる感覚。恐らくは先端が鋭利に尖った種が深々と突き刺さり身体の中に根を張っているのだろう。

 

 体幹がぶれるのと同時に、赤い花弁からの酸性の液体が発射された。やや手荒ではあるがクーラを投げるように手放し、上空に飛ぶ。だが上に飛ぶという選択は、悪手だった。足元に輪を描くように大量の触手が集まり、それが追いかけてくるように浮遊する。空中で両腕ごと捕縛され、そのまま固定された。

 

 ジークリンデは手元にあり、蔦を裂こうとするがそれより前に肩口から高速で花が生えてくる。青色の花は植物の癖に、中央に牙が生え唾液のように液体を眺め首筋に噛みついてやろうと大口を開けていた。

 

 『相棒』

 

 落ち着き払った声でジークリンデが語り掛ける。その瞬間、身体の中から激痛。無理をおして戦ったからかと思ったが、そうではなかった。

 

 『使えよ』

 

 そう言われた瞬間、まるで脳髄になにかを直接打ち込まれたかのように頭痛が酷くなる。脳には痛覚が存在しないと聞いたことはある。本当かどうかは分からないが、存在しない筈の痛覚が悲鳴をあげているように頭を揺さぶられた。

 

 それはまるで、新しい神経を作られているかのような。今までなかった、身体のなにか一部を動かす期間が製造されたかのような感覚だった。

 

 意識か無意識か、急造された神経系に命令が伝達される。身体の中で蛇のようななにかが蠢き、肩に到達。青色の花弁が根を張る肩口を突き破るように、ジークリンデの連結刃が現れた。

 

 背中からも刃が露出、拘束する蔦を斬り裂き、身体が地面に落ちる。肩口と背中から生えた、ジークリンデの身体の一部である筈の刃の群れは、まるでかつてから俺の一部だったかのように命令に従い動いていた。

 

 「たまげたな、こいつは。……?もう痛みも感じねぇ」

 

 『お前の四肢を繋げるのに、俺の身体の一部を植え込んで譲渡した。そいつはもうお前の神経系や脳髄から命令を受ける、立派なお前の一部だ。粗末にしたらぶっ殺す』

 

 悪竜の一部が、人の身体の支配下に入る。このところイレギュラーが多すぎて、驚きも慣れてきたと思ったが何時まで経っても慣れることはない。ただ、説明をするジークリンデの口調はどこか苛立たったものだった。

 

 こういう時は、この苛立ちは、自分の思い通りにいかなかった時の苛立ちだ。死にかけた俺は藁をも掴む思いでジークリンデに全てを委ねたが、それが気に食わなかったか。それとも、施術の際になにかイレギュラーがおきたのか。

 

 だが身体の変化に対する考察は後だ。

 

 ミハエルは苛立たしげに、頭をかきむしる。両腕を大きく振るうとそれが枝分かれし触手に変化し、髪の毛と合わせて今までよりも大量の触手を精製し襲いかかってきた。

 

 手に持つジークリンデ本体と、肩や背中から生えた連結刃、三本の刃が触手群を迎撃、切断する。奥の手とばかりに手数を増やしてきたようだが、それが全て迎撃されてミハエルは吠えた。

 

 「うえあああああああああああああああああ!」

 

 口から巨大な、緑色の花弁が生え始める。花弁の中央には見ているだけで呪われてしまいそうな巨大な目玉。黒目の周辺に、よくよく見ればまるで布を押し付けられ絶叫をしているような人の顔が大量に浮かんでいる。刃を急いで花弁に向かわせ切り取りたいか、次から次へと襲い来る触手群のせいでこれでもまだ手が足りない。

 

 だがその花弁が能力を発揮する前に、歪な形状の刃が突き刺さった。ルーガルーの牙を削りだして精製した短刀が、深々と突き刺さる。

 

 クーラがうつ伏せになったまま顔をあげ、刃を投げつけていた。背中から青い花弁が咲き誇ろうとしていたが、その痛みで目が覚めたのか。背中の変異を無視して、まずこちらの援護に短剣を投擲してくれた。

 

 最大の攻撃であると共に、弱点でもあったのか。ミハエルは硬直し、触手の全てが動きを止めた。

 

 三本の連結刃が、渦巻く竜巻のようにミハエルの胸部に突き刺さる。そのまま脳天、左右の下腹部へと広がり、流れるように身体を斬り裂き人妖の肉体を五分割にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『エレミヤァああああああああ!どにいッタァあああああああああ!』

 

 リスム西部、大量の触手が迎撃されているのに関わらず、巨人の額でナロクは雄叫びをあげエレミヤを探し続けている。

 

 巨人の行動は、ナロクの意思に左右されていた。いざという時はミハエルにさらりと支配権を奪われる程度の権利であったが、それでも今は怨みをまき散らしながら逃走し隠れたエレミヤを探している。彼女を殺さないかぎり、人を食う邪魔者が増えたところでそれの相手は二の次でしかない。

 

 そんな巨人の進行方向、建物の上に二人の人影いた。人影の傍ら、レント=キリュウインは大剣の柄に手をかけ大きく息を吸う。

 

 「スキル発動、空渡り」

 

 レントが走り出す。建物の端からから空中へ足を踏み入れた瞬間、まるで見えない階段があるかのように巨人の額へと駆け上がっていった。

 

 急速にこちらに近づく空を浮かぶ人間。それに触手が反応し、四方から迎撃に襲い掛かる。

 

 「うおおおおおおおおおお!」

 

 熱い雄叫びと共に、大剣が連続で振るわれる。四方から近づく触手群は裁断され、四散し、バラバラと地面に落ちていった。

 

 『なんだァああああ貴様ァアあああああああア!』

 

 「エンパス教の名の元に、悪しきものよ!裁かれろ!」

 

 空中で飛び上がり、大剣を上段に振り上げる。大剣に赤い魔力が充填し一回り巨大になり、まるで炎のように魔力が揺らめき切断力をあげた。

 

 「るあああああああああああ!」

 

 大剣が巨人の頭部から股間にかけて刃で切断していく。着地をした瞬間、二つに裂かれた巨人が左右に倒れ始めるが、その前に切断面から触手同士で繋がり癒着をし始めている。

 

 だが、動きが止まる。癒着や再生が止まり、巨人そのものが静止した。

 

 「司祭様!今です!」

 

 「主よ、エンパスよ。我らが羊は貴女にその命運を貴女様に託します。どうか、我等に悪しきを払う導きの光をお与えくださいませ」

 

 司祭服に身を包んだ女性が、高々と声をあげる。両手を空にかざした瞬間、雲が黄金色に輝きそこから円柱状の光の柱が降り注ぐ。轟音と地揺れ、巨人を包み込むその光は衝撃力となり地面に神の怒りの如く着弾した。

 

 『馬鹿なあああああァ!こんなことが…我等の復讐がァアああああああ!』

 

 「そんなことの為に無辜の民を傷つけることなど僕が許さない!消え去れ!」

 

 『うがあああああああああああああ!』

 

 触手の巨人が光の柱の中に消え去り、光が消え去った後にはなにも残らなかった。リスムを襲った謎の巨人は、神の裁きにより消滅した。

 

 「奇跡だ」「なんだ…あれは」「神の御業?」「助かった…の?」

 

 街のあちこちから生き残り達のどよめきが、強化された聴力に聞こえる。好機だ、すぐに強化した身体能力で司祭の傍まで行き、ひざまずいて肩で息する女性を立たせる。ここからが、本番なのだから息切れしてもらっては困るのだ。

 

 「この街を襲う悪魔は討滅した!我らが神の加護、エンパス様の裁きによりこの街は救われたんだ!」

 

 「た…み達よ」

 

 司祭がなにかを言いかけている。すぐに魔道チートから拡声魔法と映像魔法を使用。美麗な司祭の顔が空に浮かび上がった。

 

 「民達よ!」

 

 今度は張りのある声で、司祭が告げる。

 

 「危機は去りました!しかし今は、目の前の危機を退けたのみにすぎません!今日のようなことが何時おこるのか分からないのです!どうか我等と一緒に、祈りを捧げてください!我が神に、エンパスに感謝の祈りと導きの訴えを…私と共に、どうかお願いします!」

 

 奇跡と、可憐な司祭の訴え。膝をついて両手を握り頭を垂れて祈る司祭に、それを見て感化された者はすぐさま同様の祈りを捧げた。戸惑っていたものも、同じように祈りを捧げる。祈らないのは、この大陸に広く信仰される教団の教えに傾向している者達であろうか。困惑した様子であるが、突如沸いた異教徒の宣言に文句を言う者はいない。そしてチラホラと、同じように祈りを捧げる者が出始める。

 

 「カハッ…カハッ」

 

 司祭がせき込みを始めた。慌てて映像を消し去り、様子を尋ねる。

 

 「大丈夫ですか、司祭様」

 

 「大丈夫、ありがとうございますレント。エンパス様の加護を受けた身であるも、非才なこの身体には少々荷が重かったようです」

 

 「なにを言っているのですか、貴女以上に神、エンパスに愛された者はおりません。今は身体をお休めください、誰か来てくれ!司祭様を建物の中へ!」

 

 すぐに来た僕の僕達が、丁寧に声をかけながら司祭の両肩を支える。

 

 司祭は丁寧に二人に礼を言い、建物の中へ支えられながら歩いていった。それを見送りながら、建物の外に残るレントは呟く。

 

 「司祭か、茶番もいいところだな」

 

 司祭は、エンパスと同じ顔を持つ者は。いや、エンパスにのっとられた操り人形たる彼女の元の人格がどれだけ残っているのだろうか。今のか弱いが芯の強い女性といった見せかけも、いったいどこまでが彼女の元の人格で、どこからがエンパスのそのものなのか。

 

 「まあ、なんだかんだ言いつつも効果は絶大だな。銃とかあるから近世くらいの年代なんかなとも思ったけど、信心深いのは古い時代の人間の特徴かな」

 

 祈りを捧げる生き残り達を見ながら、レントはぼやいた。そして考えるのはもう一つのこと。

 

 「ミハエルを倒したのは、僕の送った保険か、それともランザ=ランテか。死んでるといいなーランザ=ランテ」

 

 巨人が動きを止めたあれは、僕の力ではない。本当ならもう少し苦戦する演技をしても良かったが、動いを止めてしまったのでそのままトドメに移行した。

 

 結果としては八十点以上九十点未満の出来といったとこか。ランザが死んでミハエルの首を持ちかえれば、百点満点となる。

 

 「精々さっさと信仰を広げてくれよ、信者ども。信者と書いて儲けると読むって聞いたことがあるけど、精々僕の儲けになるようにさぼらず動いてくれよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ランザ!」

 

 目を覚ましたクーラが、起き上がり駆け寄る。背中から生えていた花は枯れ始めており、走る最中に花弁や茎が下に落ちていった。

 

 「大丈夫!?というかその身体…なに!?…って…いてて」

 

 「説明はおいおいしてやる。というか俺自身まだなにがどうなっているのかよく分かっていないのが現状だ。とにかくお前も無事じゃないんだから、無理するな」

 

 刺さったままのルーガルーの短刀を引き抜き、クーラに渡す。クーラはそれを受け取り、腰にしまった。

 

 「俺達もボロボロだが、街が気になる。今すぐこの洞窟を降りて、エレミヤの元へ向かうぞ」

 

 クーラから眼を離し死体に目を向けた瞬間、驚愕した。フード付きのマントを身に纏う何者かがミハエルの死体をしゃがみながら見下ろしていた。何時からここにいたのか、まったく分からなかった。

 

 「標的、既に死亡。任務続行は不可能」

 

 男は女か分からない、少し低めの中性的な声。マントの人物は立ち上がり、数歩歩いて離れる。

 

 「何者だ、何時からそこにいた」

 

 「……」

 

 「おもいきり声をだしていたな。お喋りできない訳じゃないんだろう?」

 

 お互いの視線が交差する。動いたのは同時、身体から生える刃を振るい、マントの人物はそのマントを外し横に振り払った。

 

 石壁に咲き誇っていた、既に萎れつつある花弁がマントの人物を背後から狙うように種を飛ばしていた。それを肩から生えた刃で迎撃、種を斬り裂き無意味なものに変える。

 

 一方マントの人物は、振り向くと同じように萎れかけた赤い花弁から発射された最後の酸性と思わしき液体を、マントの布地で払い叩き落としていた。

 

 「え?」

 

 クーラが困惑したような声をあげる。銀色の髪の毛を短いテールのように縛り上げた人物の顔が、フードがとれたことで明らかになったが、これまた男か女か分からない顔をしていた。その顔には深い切り傷が残っており、片方の瞼が眼球ごと潰れている。

 

 華奢な男にも、それなりに鍛えた女にも見える人物、そのままなにも言わずに飛び上がる。天井に空いた穴から洞窟を抜け出し、こちらを覗き込むこともなく去っていった。

 

 「なんだったの彼…彼女?……あ、あの人」

 

 「さあな、少なくともお友達になりたいって雰囲気はなかった」

 

 「そうだね…ってランザ!」

 

 「ん…ああ。しくった」

 

 突然の事態に無意識に行動してしまったが、種の迎撃に使ったのは肩から生えた連結刃。意識をすると背中と肩から生えた刃はスルスルと身体の中に戻っていったが、これを見られたのは非常にまずかった。

 

 こんなバカみたいなミスを犯すとは、疲労かなにか、頭が上手く働いていないのか。

 

 頭の中でジークリンデのため息が聞こえたが、今回ばかりは俺の落ち度すぎる。ミハエルを倒し、気を抜いてしまったか。

 

 「なにがあったかは知らないけど、それ悪竜の刃だよね。そんなの身体から生えているのが見られたら…」

 

 「情報の回り具合によっては、帝都の竜狩り隊が出向いてくるかもしれないな。最悪だ」

 

 過ぎたことを悔やんでも仕方ないかもしれないが、気を抜いてしまった自分に腹が立つ。この油断が何時、災いになって襲いかかってくるか分からない。

 

 「とにかく今は、エレミヤのところに戻ろう。可能ならしばらく匿ってもらいたいところだな。迷惑はかけるが」

 

 「うん…身体、支えるよ」

 

 クーラがこちらに寄り添い、肩を支える。洞窟の外へ向け歩き始め、最後にチラリと残骸を見た。

 

 植物のような風貌の髪や身体が元に戻り、そこにはバラバラにされたエルフのみが残る。

 

 タイミングが良くというか、天井がまた崩れ岩雪崩がその死体に覆いかぶさるように落ちた。まるで山が墓を作ってやったように。

 

 エルフ達の執念は、あそこまでの化物を産んだ。結果はとしては失敗だったのかもしれないが、その信念までは否定できるものではない。俺自身、特にだ。

 

 やり方を間違えていた。人妖となり思考回路が当初の思惑から外れてしまった。だがしかし、人妖になってもかまわないと思うほどの復讐の念は、敬意を評するものであった。

 

 俺はどうなのか。テンを追い求める為に、奴が産みだした惨劇を片付けていくだけの毎日、少しでもテンを倒すことに近づいているのだろうか。

 

 竜狩りに狙われるという最悪のシナリオまでが頭をよぎるなか、自分にどれだけの時間が残されているのか。

 

 下山したあとのノックの山は、それ自身がエルフの墓標のようだった。俺は目的を遂げる。ベレーザの、エルフの復讐の念を踏みにじった今、前に進むしか道は残っていないのだから。

 



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12

 リスムの西部はモスコーもかくやという程の壊滅具合だった。ただ流石は自治州一の都市リスムだ、復興の着手とスピードは速かった。

 

 リスムがそんな様子であるためか、経済特別区の娼館に人の通りは少なかった。エレミヤの館も街の様子が落ち着くまでは店を休業させるらしい。店を開けば客は来るが、いらぬやっかみをもらう訳にはいかないという理由があった。

 

 初日に通された応接室。運ばれた紅茶には薄切りのレモンが浮き、心地良い香りを放っていた。口に近づけるとほのかに甘い香りが鼻孔に届く。紅茶の良し悪しは専門外だが、品の良いカップのせいか応接室の雰囲気のせいか、例え安物の茶葉であっても高級な紅茶を使っているんじゃないかと錯覚ができていしまうだろう。

 

 クーラは紅茶の香りをかいて、今まで見たことない顔をしていた。なんだか渋そうな顔をしている、好みじゃなかったかと思ったが、一口飲んだ後目を見開いてプルプルと震えていた。目が輝いている。

 

 その後チラチラと、テーブルの上にあるお茶請けのスコーンに視線を送っていた。食べたいが、こういうのは礼儀的に食べても良いものなのだろうかと迷っている様子だった。

 

 「話は分かったよ。ただのエルフのゲリラ活動だと思っていたけど、巨人といいミハエルといい、想像以上に根が深い事件だったね。ボロボロながら、よく帰ってきてくれたものだよ」

 

 「まあな、しかし…エンパス教か。新興宗教を旗頭に掲げた戦闘集団、巨人を倒したのは連中の手柄になっている訳か。エンパス…聞いたことがないな」

 

 「興味があるなら聞きにいけば良いさ。今なら街のあちこちで、布教活動に精をだしているよ。まあちょっと聞いた限りだと、おもいきり既存の教団や特に魔具産業やそれに関する組織は反発するだろう内容だよ。一神教という考えで暗に教団の神を否定したり、人は神の寵愛で生きるべきで進み過ぎた技術は災いを呼ぶとかね。平時では相手にもされないだろうけど、今は耳を傾ける人も多いだろうさ」

 

 宗教まわりの利権争いは面倒な話が多い。代表的なものとして、教団に所属する医療協会と、民間の医術組合の仲の悪さは折り紙付きだ。

 

 「まあその辺りは勝手にやってくれというところだな」

 

 「そうだね、報酬の話に入ろうか。こうして生きて、あの山でなにがおきていたのか、エルフ達はなにを考えていたのか、そしてミハエルという存在を報告してくれた君は感謝をしている。ナロクが想像以上に大それたことを考えていたのは予想外だったけど、だからこそ重ねて言うよ。よく生きて帰ってきてくれた」

 

 肩の力を抜いたように、エレミヤは話した。ナロク、あのエルフのリーダーは俺達が見つけ滅ぼし、開拓した集落の生き残りだった。裏切者のエレミヤと、異形に取り込まれたナロクは会話まで交わしたという。結果はどうあれ、肩の荷を一つ降ろすことができたエレミヤはどこか晴れ晴れとしているようだった。

 

 「報酬というか、できれば金品のみでなくしばらく部屋を貸してほしいと思っている」

 

 「へえ?」

 

 「今回の戦いは些か身体的疲労以外にも、精神的に来るものがあった。しばらく療養したいと思っていてな、迷惑だというなら諦めるが」

 

 今回の戦いで、俺の身体には些か以上に変異を遂げていた。その中でも、特に際立つのは今は身体の中にしまっているが、出そうと思えば皮膚を突き破り動かすことができるジークリンデの連結刃だ。悪竜の話では、体内に完全に定着するまで今しばらく時間がかかるらしい。それまでは、動かすだけで身体の内部が傷がつく。

 

 つまり逆を言えば、完全に定着してしまえば、それを動かすのに体内の負担を考えなくてもすむようになるということだ。

 

 ジークリンデは、この結果にどこか納得がいかないというか、不服そうでありそれ以上多くのことは教えてくれなかった。だが、これで俺も普通の人間とは呼べなくなってしまったらしい。そのうえミハエルは、冷えた血が混じっているとも言っていた。少量とはいえ吸血鬼、サグレの血液。様々な要素が混じりあい、この先この身体がどんな化学反応をもたらすのか分かったものではない。

 

 懸念事項といえば、洞窟に現れた中性的な、男とも女とも判断がつかない人物。一触即発かとも思ったが、結果的にお互いの背後から迫る危機を潰しあっただけに終わった。ただ向こうから見たら、こちらは肩と背中から異形の刃を生やした人妖と変わらないような存在に見えただろう。

 

 エレミヤに話で聞いたエンパス教と関係が深い、監視の目を寄越した人物。クーラが元々慕い、従っていたレント=キリュウイン。話を聞く限りでは彼が送ってきた刺客という線が濃厚に思える。

 

 レント=キリュウインは恐らく巨人とミハエルの関係性という絡繰りをどこからかつかんでいた。だかこそ、ミハエルの暗殺に人手をよこし巨人殺しという栄光と奇跡をリスムの中で達成しようとしたのだろう。

 

 エルフ達の、ミハエルと俺達の戦闘は、レントとエンパス教の踏み台にされたということだ。エルフ達の復讐劇は、彼等の一人負けという最悪の結末を迎えた訳だ。

 

 そういえば、山火事を鎮火しにいった一団がいた筈だ。彼等は皆逃げ延びたのだろうか。いずれにせよ、確かめる手段はもうない。

 

 今回の件で、帝都から調査団が派遣されノックの山及び森林道はリスムと帝国の名の元入山禁止、及び通行禁止になっている。エルフの足取りを追おうともそれはできないし、それをするのは俺達の役目ではない。

 

 もう、ノックの山に森の化身のような、あの人妖はいないのだから。

 

 「問題ないよ、君と私の仲だからね。娼館ももうしばらく閉めるつもりだし、部屋も開く。プライベートビーチも解放しよう、羽休めだと思って、存分に休息していっても良いよ」

 

 「助かる」

 

 握手を求める為に手を差し出す。向こう側も、手を差し出し上下に振られた。交渉成立の合図だ、期間は定めていないが、身体の様子を見ながら街のほとぼりが冷めるまでしばらくゆっくりして良いだろう。

 

 「あの!」

 

 それと同時に、クーラが口を開いた。話し合いには参加してこなかったが、互いの話がひと段落するまで待っていたのだろう。

 

 「レント=キリュウインは、エンパス教を信仰する集団はどんな様子だったの」

 

 「ああ、まあ…なんというか、難しいね。私はこういう商売をしているから、臭いで分かる。一応命の恩人ということになるし、滅多なことは言いたくはないのだが」

 

 エレミヤは複雑な顔をして、紅茶の杯に手を伸ばし一口飲んだ。そして、小さくため息をつき悩まし気に言葉を放つ。

 

 「あれは宣伝部隊さ。美女ばかりを集めた…ね」

 

 「美女ばかりだと?レント=キリュウインは女ばかりの部隊を作り今回の戦闘に送り出したのか」

 

 「そうさ。結局のところ今回の戦闘が布教活動も兼ねたものだとしたら、宣伝としてこれ以上ない効果はあるよ。私が言うのはなんだけど、顔が良いというのはそれだけで看板として立派だからね。今回の戦いで戦死…彼等は殉教といっていたな。その者達の顔が似顔絵として慰霊の場にあったし、一応命を助けてもらった身として、花を手向けにいったけどなかなかどうして、大層な美人揃いなものだったよ。遺体は見る影もないがね」

 

 「街を救った英雄による宣伝効果も、街を護り殉教した者達の同情心も、顔が良い者を揃え上手く賞賛や同情による悲しみの念を誘う訳か」

 

 クーラは、押し黙った。フードで半ば隠れてはいるが、この少女も容姿は良いものだと客観的に見て判断ができる。クーラ自身呟いていたが、今回の犠牲者やレントに忠誠を誓う一団のほとんどは顔も見たことないような者達も多かったようだ。

 

 それだけ、自分自身は多少便利だから傍に置かれていて、いてもいなくてもどうでも良かった存在だったと理解したのだろう。決別できたようで、やはりどこまでいってもレント=キリュウインは一度は奴隷身分から救い上げた恩人でもある。腹にうずまく感情は、こちらには想像もつかないものがあるのだろう。

 

 「ま、彼の行動は善意だけではないのは私の経験からの結論さ。こういのもなんだけど、同族嫌悪かあまり好きじゃないね。でもだからといって、君達にはあまり関係のない話だろう。気にしなくても良いと思うけど」

 

 エレミヤは、レントとクーラの関係を知らない。そして、レントがこちらを監視していることも知らない。さらには、ジークリンデと俺の身体の秘密が早くも情報として渡っている可能性が高い。新興宗教、エンパス教。警戒するにこしたことはないだろう。

 

 グローには、もう会えないな。彼はジークリンデに対して当然ながら最大限の警戒を払っている。レントは掲げる大盾にも席をおいていた。話が伝わったとしたら、もう次出会う頃にはただの友人でという訳にはいかなくなるかもしれない。

 

 俺は、ジークリンデを受け入れすぎたか。確かにかの悪竜は仲間の仇でもあるが、それよりもテンの存在が色濃く復讐相手として心の中で広く深く染み付いている。モスコーでの戦闘やクーラを助けてもらったこともあり、だんだん悪竜に対する警戒が薄れていくような感覚すらある。

 

 いや、思い出せ。サグレが吸血鬼に変異しようとした時、ベレーザを傷つけ焚きつけた奴はいったい誰だ。あの惨劇の引き金を引いた要因の一人は誰だった。もっともらしいことを言おうが、悪竜は悪竜だ。それに頼るしかない情けない俺が言うのもなんだが、これ以上気を許してどうするんだ。

 

 ジークリンデを受け入れ始めている俺と、受けいれてはいけないという俺。理性は受け入れるなといい、感情は利用をし続けろと囁き続ける。レントのこともあいまり、頭の仲がぐちゃぐちゃになりそうだ。

 

 だからこそ、しばらく休息が必要だ。精神的に疲労したというも、強ち嘘ではない。

 

 「失礼します。エレミヤ様、来客です」

 

 ノックの音と、扉越しに黒服が声をかけてきた。

 

 「今日来客の約束はない。適当に言って帰ってもらえ」

 

 「は…ですが」

 

 扉が開かれる。傍らでクーラが目を丸くし、意識してか無意識かコートの中で直刀に手を置いたのを感じた。

 

 「不躾で申し訳ありません。僕の仲間達に献花をおこなってくれたということで、是非お礼をしたいと思いいてもたってもいられなくなってしまったもので」

 

 黒服が申し訳なさそうに頭を下げる。話を聞くと、彼も巨人に襲われたリスムでエレミヤを抱えて逃げる時、レントに助けてもらった。その恩に負い目を感じ、どうしても門前払いにできなかったのだろう。

 

 取り巻きが一人、まだ夏の最中である季節にも関わらず重装兵のいで立ちで、兜までしっかりと被っていた。常在戦場という言葉もあるが、場違いな雰囲気にすぎる。

 

 「街を救ってくれた英雄の為だ、献花くらいならいくらでもしてあげるさ」

 

 「それでも、経済特別区において名高い人物の一人である貴女に祈ってもらえるなんて、ありがたい限りの話ですよ。そうだ、僕達の信仰する神へ、貴女も祈りを捧げてはくれませんか?老若男女、誰に対してもエンパス教は門を開いていますよ」

 

 「悪いが私は、教団の教えではないが精霊信仰をもっている。この年齢だ、今更祈る先を変えようとは思えないさ、申し訳ないがね」

 

 上手い。エレミヤは実際エルフ達の間に根ずく精霊信仰を屁とも思っていないだろう。それを否定しエンパス教の教えを強要すれば、それはまぎれもない宗教弾圧だ。

 

 英雄として祭り上げられたエンパス教は、この好機、しばらく良い顔をして教えを広げなければならない。弾圧や無理矢理改宗に誘われたなんて話があったら、現状が面白くないであろう教団や根強い教団の信者はさっそくその話をプロパガンダとして広めるだろう。

 

 「そうですか、信仰の自由は人それぞれですからね。とにかく、僕達の仲間の為に祈ってくれて、ありがとうございます。彼等がエンパス様の導きを受けられるように」

 

 レントはしばらく祈るように手を組み合わせた後、こちらを向いた。クーラの緊張感は高い、無意識か身体をこちらに寄せている。

 

 後ろ手で背中を撫で、落ち着けと合図をする。まだ向こうの出方が読めない以上、警戒は必要だが行き過ぎはよろしくはない。

 

 「しばらくぶりです。ランザさんでしたよね、リスムの掲げる大盾支部で会った」

 

 「そうだな。大層な活躍ぶりだったそうじゃないか。レント=キリュウインだったか、今度リスム代表から感謝状も贈られるんだろう?グローも鼻が高いだろうな」

 

 「感謝される為にやったのではありませんよ、街のみんなを護るため、ですが尊い犠牲もでてしまいました。全ては僕の至らなさからです」

 

 「随分謙虚じゃないか、このリスムにおいて今やお前は時の人だろうが」

 

 静かに視線が交錯する。レントは俺に対してなにを警戒、或いは観察しているのか。そしてもう、この身体とジークリンデのことは伝わっているだろうが、それを何時脅しかなにかで切り出してくるか。それが分からないだけに、何気ない会話の裏側も警戒しなければならない。

 

 「そういえば、リスムの掲げる大盾支部はモスコーの支援で大多数が向かっていた筈だが、居残り組にいたのか?ここまでのイレギュラーがおこるとは誰にも予測がつかなかっただろうが、グローの采配にも感謝だな。礼を伝えておいてくれ」

 

 「いえ、残念だから。掲げる大盾からは既に暇をもらっています」

 

 「なに?」

 

 「今の僕は、エンパス教の教えを守護する盾。教団騎士、騎士団長として正式に活動しています。掲げる大盾の理念や仕事は確かに素晴らしいものでしたが、僕には進むべき道を見つけることができたので、少々名残惜しいですが去らせていただきました」

 

 エンパス教は新興宗教だ。宗教団体の懐具合というものは、自ずと信者の数に左右される。このリスムでの活動で信者は爆発的に増えるだろうが、教団騎士なんて大層なものを組織する金銭は新興宗教のどこから湧き出るというのか。金鉱脈でも発見した訳でもあるまいし。

 

 「よければランザさんも、どうですか?僕達はまだできたての組織です、グロー支部長の友人である貴方のような戦闘慣れした人がいれば、頼もしいかぎりですが」

 

 社交辞令もいいところだが、腹の中でなにを考えようと表向きは好青年にしか見えない。狸か蛇といったところか。そう考えると、やはり最初に出会った時の青臭い宣言も巧妙に思えてくる。ただの世間知らずな理想家、その印象が強かった。

 

 そうなると、掲げる大盾経由でリスムに来たことも理由があったのだろう。エルフの暴走がなければ、地下迷宮を利用するつもりだったのか。地下迷宮侵入には行政の許可が必要であり、依頼を受けた捨て駒の冒険者や正式な調査員は許可を得て侵入できるが、掲げる大盾は諸々の特権で複雑な手続きをほぼ免除で入れる。

 

 地下迷宮で消息不明になった調査員を、自治州や企業が捜索を掲げる大盾に依頼するのだが、その時の煩雑な手続きを少しでも省略しすぐにでも救出活動に赴くためだ。

 

 ましてレントは、噂に聞けば地下迷宮にて、古の魔具を利用し食屍鬼を使役した者を討伐し、魔具を持ち帰る功績がある。地下迷宮にはフリーパス同然で入れていたのだろう。

 

 「すまんが遠慮しておく、知り合いに教団の関係者が多くてな、俺自身あまり熱心ではないが、あまり良い顔はされないだろうことは想像に難くない。せっかくスカウトしてくれたのに、申し訳ないな」

 

 「そうですか、残念です。まあ無理強いはできません」

 

 お互い社交辞令を交わして、視線を交錯させる。向こうの考えはなにか、レントはこちらになにを企んでいるのか。

 

 「クーラがお世話になっているようで」

 

 「ほお」

 

 クーラが最初、レントに俺の暗殺を提案し、それを了承した結果襲いかかってきたことを、こちらが知らないとは思わないだろう。ただそれでも、あくまで他人のふりをしようとするだろかと思ったが、予想外に向こうから言及をしてきた。

 

 傍らのクーラが、一気に緊張度が高まるのを感じる。

 

 「ああ、何時も助けてもらっているよ」

 

 「それは良かった、彼女が僕達の元を離れてやっていけるかどうか、心配だったのです。彼女にはあまり人に知られたくない秘密がある。それを受け入れてくれる人がいて、僕としては一安心しているところなんですよ。……クーラ」

 

 穏やかな声で、クーラを呼ぶ。クーラが少し肩を跳ね上げ、レントの方を半ば睨むように見つめていた。なにか少しでも怪しい動きがあれば、直刀を片手に飛び掛からん勢いだ。

 

 「君が元気で暮らし、信頼できる人を見つけてくれたようで良かったよ。君の友人として、祝福をさせてもらおう」

 

 「そ…う。ありがとう」

 

 クーラは、顔面の筋肉を総動員して愛想笑いをうかべた。向こう側もにこやかな笑みを浮かべている。

 

 「僕はしばらく、リスムに残りこの街の復旧を手伝います。なにかあれば、何時でも来てください、エンパス教とは関係なくても、友人としてなんでも相談にのりますよ」

 

 「俺とクーラは、お前の友人か?」

 

 「ええ、ご迷惑でしたか?クーラが信頼をおきかつて共に過ごした仲間。貴方は道が分かれたとはいえ、尊敬するグロー支部長の友人です。お近づきになりたいと思ったのですが、迷惑でしょうか」

 

 「いや、今をときめくエンパス教の騎士団長様の友人とは、鼻が高いと思ってな」

 

 「そんなふうに言わないでくださいよ。僕個人は、なんてことのない一人の男です」

 

 レントが手を差し出した。その手をとり、握手を交わす。表面上はにこやかに、大人の対応として。

 

 しばらくの握手のあと、どちらともなく手を離す。レントは、笑みを残しその場から立ち去ろうとした。

 

 「茶くらい飲んでいかないのか?」

 

 エレミヤがそう告げる。招かれざる客だろうが、客は客。茶の一杯も出さずに帰られては、それはそれで困るのだろう。

 

 「少し忙しくて、時間の合間を見つけて礼をしに尋ねたものですから。ではエレミヤさん、ランザさん、クーラ。『また』お会いしましょう」

 

 レントが立ち去り、それに重装兵も続き足音が遠ざかる。緊張が抜けたようにクーラは、大きくため息をついた。

 

 「成程、想像以上に強かなやつだったか」

 

 「嫌な人だよ。わざわざ自分等がいる時にくるなんて。こっちが、向こうをどう思っているのかなんて知っているくせに」

 

 「それを理解してなお足を踏み入れてくるところが、強かなんだ。腹芸もできるタイプらしい。面倒な奴だな…エレミヤ」

 

 「なんだか分からないけど、分かったよ。彼がここに来ても、なるべく君達に会わせないようにするさ。それでも期待はしないでくれ、うちの黒服達も命を救われた者もいる、エンパス教はともかく、それに恩義を感じている奴は少なくないからさ」

 

 エレミヤはこちらの考えを察し、頷いた。

 

 エレミヤの前だからだろうが、露骨な脅しをかける様子はなかったが、やはり秘密は握られていると予想をした方が良いだろう。用心にこしたことは、ない。

 

 「酷い顔をしているよ、ランザにクーラ。まだ夕方を過ぎたばかりだけど、今日はここまでにして、もう休んだ方が良い。正式に泊まる部屋を用意させよう」

 

 「よろしく頼む。今ならまた泥のように眠れそうだ」

 

 エレミヤの提案により、話し合いはお開きになった。結局クーラはスコーンに手をつけることはなかったが、それどころではないだろう。まだ顔が強張っている。

 

 クーラは、俺よりもレントという人間を理解している。レント側に俺の秘密が漏れている可能性が高いとしたら、クーラにとっても気が気ではないのだろう。それが何時、どのような形で利用されるか分からないからだ。

 

 テンの後を追うだけでも過酷な旅に、更に面倒事が増えた訳だ。一筋縄ではいかないどころの話では、なくなってしまった。

 

 案内された部屋は、べッドが二つある豪華な部屋だった。娼館という建物の関係上、自ずとべッドは一つの部屋は多いものだが、すぐに乱交用の部屋を割り当てられたのだなと思い出す。嫌な思い出がよみがえる、この部屋は後片付けにすこぶる苦労するのだ。

 

 この舘に戻った時点で、エレミヤは話し合いの前にすぐに湯あみをさせてくれた。汗や血、泥ももう落ち、用意された食事を食べた後すぐに、話し合う場を設ける前に体力の限界で泥のように眠りこけてしまう。起きたと思えば翌日の夕方まで時間が進んでおり、簡単な食事のあとようやく話し合いができたしだいだ。

 

 それでも、まだ疲労感は重く身体にのしかかっていた。クーラも同様だ、モスコーでも戦闘の疲労も抜け切れていなかったのかもしれない。身体が睡眠をほしがれと、強烈に訴えて来る。

 

 「今日はもう寝よう。明かりを消すぞ、良いか?」

 

 「うん。大丈夫」

 

 燭台の火を消し、寝台の布団に潜り込む。しばらく瞼を閉じて沈黙していた後、布団の中になにかが潜り込む音。傍らに横になり、クーラが簡易な布服の記事を摘まんできた。

 

 「自分のベッドに戻れ」

 

 「……や」

 

 「馬鹿野郎。また寝ぼけて首を、絞めることになるかもしれないぞ」

 

 「それでも今は、離れたくない。ノックでは、ずっと怖かった。ランザから離れて、エルフに殺されちゃうかもしれないって思って。ジークリンデの前だから虚勢を張れたけど、本当はずっと怖かった」

 

 クーラは震えていた。子猫のように、布団の中で、がたがたと身体を震わしている。

 

 「結果的に助かることができた。でもその代償は大きいし、なによりあのレントに身体の秘密が握られたかもしれない。それが本当に怖い、私はレントを知っている気でいたけど、今なにを考えているか分からない。ランザがこの先無事でいられるという保証がない」

 

 「そんなものは元からだ、クーラ。テンを追う旅じたいが、命の保証のない旅だ。どんな形であり生きているならば、儲けものだ。今更レントの問題が増えたところで、なにが変わる。だからお前は、心配しなくていいんだ、だから戻れ」

 

 「今日は、やだ。自分の我儘。だけどこの我儘だけは聞いてもらう、絶対に」

 

 頑なだ、だが追い出す気力もない。

 

 意識がどんどん遠くなる、睡魔に身体が貪られていった。誰かが部屋に入ったら、問題だな。それだけを最後に考え、俺は意識を睡魔に委ね眠りに落ちた。

 

 



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赤い服の女


 砂浜の上では、堅い地面とは違う柔らかな足場である為踏ん張りが効きにくい。縦横に動くのは体力を消耗するため、自ずと行動範囲が狭まってしまう。

 

 正面から来る黒服の正拳突きの連打をいなす。この真夏の日照りのもと、黒い服のままとは恐れ入るが、それを気にする程の余裕はない。流石はエレミヤに雇われた職員、一撃一撃が重く、捌くだけで手が痺れる。

 

 だが真正面からの連打を馬鹿正直に喰らい続ける程、こちらもお人好しではない。

 

 額狙いの一撃をいなさず、頭を横にそらして回避。踏み込みすぎた腕を掴み、投げ技に移行としようとしたが拳に形作られた手が手刀へと変化する。

 

 頭を今度は後ろに反らすが、髪の毛が数本宙を舞った。よく見ると手、指先は部位鍛錬を繰り返し歪な形状をしており、指の一本一本がまるで小さな槍の如く威力を誇るものになっていた。

 

 拳ではなく手刀、いや、貫手の連打。まともに受け止めたら皮膚と肉に穴が開く。後ろに飛び間合いを開け、仕切り直しをする。

 

 好機とばかりに相手が大きく踏み込み、槍のように尖らせた指先を突き出してきた。だがこの追撃を誘導こそが、こちらの狙い。

 

 かがみながら貫手を回避し両腕で掴み、右側に大きく引き寄せる。体制を崩されまいと抵抗する相手の軸足に蹴りを喰らわせ、身体を浮き上がらせ地面に叩きつける。ストンピングを叩きつける前に黒服が地面を転がり回避。身体を回転させ、寝た状態のまま飛んで来た足技を両腕で防がせることによりこちらの追撃を防いだ。

 

 「やれやれー、ランザを倒したら給料一割増しだぞー。賞与に色もつけちゃうよー」

 

 パラソルに水泳着。長椅子に身体を預けながら、エレミヤの気の抜けた声援が飛んだ。

 

 「俺がいた時は賞与なんてなかったが」

 

 「最近福利厚生に力を入れているようなので。賞与、退職金、有給、今度は社員旅行も検討しているとか」

 

 「至れり尽くせりだな、羨ましい」

 

 起き上がる黒服と対峙を再開する。今組み手をしている相手は、現在エレミヤの娼館における警備主任。拳の打撃や足技等の基本的な技術はもとより、破壊しては修復を繰り返し強固に鍛え直されたその指先はまるで槍の穂先のように鋭いものとなっている。

 

 先代のクダ=カンゼンが死に場所を見つける為旅に出た後、スカウトした人材であるらしく、俺が先代の警備主任と副主任の教えを受けていたと知ると是非にと組手を申し込んできた。

 

 休養により体力が戻りつつある今、その申し出を断る理由はなかった。身体の変異は、現状日常生活を送るにいたって支障はないが、戦闘行為による激しい行動に出たさいどんな差異があるのか、確認をしたかったというものある。

 

 「まだやってるの?男どもは」

 

 海からクーラが、あがってきた。腹部を露出した水泳用の水着を着こんでおり、その頭は既に耳も露出している。腹部や腕、背中には様々な火傷や深い古傷が覗いているが、獣耳共々他者が侵入しないプライベートビーチでは隠すこともしていなかった。

 

 数日間の休養をとるにあたり、クーラの半獣という特徴を隠し通すのは困難を極める為本人の了承を得て先んじて明かした。娼館主がエルフという特殊性のある職場、奇異な目を向けられることも覚悟したがそこまで大きな衝突もなく、すんなりととは言えないがそれなりに受け入れられることができた。

 

 心の中でなにを思おうと、館の主であるエレミヤが目を光らせていれば、陰口はともかく直接クーラに文句を言う者はいない。

 

 エレミヤが所有する、経済特別区のリゾート区画にあるプライベートビーチ。そこでまずやったことといえば、クーラに泳ぎを教えることだ。

 

 猫の特性故…とも言えるクーラは、海水に腿まで入れることすら最初はガタガタしながら浸かっていたが、元々身体能力が高い半獣だ。水にさえ慣れてしまえば、泳ぎのコツを掴むところまではあっという間だった。

 

 課題であった、ノックの山であったような緊急事態を想定し、衣服や装備を着こんだままの水泳でさえ数日あればクリアできた為、今は自主練に励むクーラから目を離しても安心できる程の成長を見せてくれた。

 

 「やってるやってる。今のところ、攻めているのはうちの警備主任だけど、一度のチャンスでランザ君は一気に有利を持ち込んでケリをつけようとするね。時間制限ありの判定勝ちなら、こっちの勝ちなんだけどねー長々やればランザ君が勝てるかな」

 

 「ふーん。なんだか目が輝いているけど、楽しいの?」

 

 「めっちゃ楽しいよ。男達が汗を流しながら、お互いの身体能力を駆使して殴り合い、削りあう。雄々しいというかなんというか、フェロモンムンムンで凄く良い。筋肉も最高、熱いんだから二人して脱がないかなー」

 

 「ああ、うん…そなんだ」

 

 どさっという音が響く。二人が目を向けると、ランザのガードに貫手が突き刺さり、血の跡を引いて抜かれる。怯んでガードが緩んだ瞬間を、渾身のストレートで黒服が締めにかかった。

 

 だがその瞬間、黒服の視界からランザが消える。身体全体を背中から地面に向け倒れながら、右ストレートの手首を掴み、足裏を腹部に押し当て、背中を地面につけながら足首を軸に上空を一回転させるように黒服を投げ飛ばした。

 

 決めの一撃からの唐突な投げ技に、なにかおこったのかと黒服の判断が一瞬遅れる。その額に、身体をおこしたランザの右ストレートが叩きこまれようとし、寸止めされた。

 

 「参りました。大したものですね、なんですか最後のあの技は」

 

 「相手が決めの一撃に来た際、その勢いを利用して身体全体を使い叩きつける投げ技だ。背面投げとかいう技術だったか。ストレートへのカウンターだったら、見切れさえすれば伸ばされた腕を叩き落として首筋の裏に打撃、正面から腕で喉を潰しながら押し倒す技もある。こちらは後遺症が残るから、組手ではまずやらないがな」

 

 「……まず?」

 

 「やられたことがある。しばらく喋れなかった」

 

 「先代警備主任は、なかなか厳しいお方ですね」

 

 ランザの手をとり、黒服が立ち上がる。そんな二人に、「お昼にしようよー」というエレミヤの声が響いた。

 

 背広をただし砂をはたき落とし、黒服が頷いて先に準備をしに向かう。クーラとエレミヤが喋りながら、砂浜に降りる石階段を昇り個人所有の海岸に立つ保養施設へと向かっていった。

 

 しばらく息を整えてから、それに続こうと歩きだそうとする。だがその時、背後に気配。

 

 少し振り向くと、見覚えのある人影が見えた。

 

 この暑い夏の海岸だというのに、その人影は赤いコートのようなものを羽織っている。髪は腰まで伸びているが、ぼさぼさで手入れをされた様子はない。手足はボロボロに皮膚が剥がれ色白。顔は見えず、真下をうつむくように向いていた。

 

 いる筈のない、季節感を無視した人影。それを見て思い出すのは、かつての記憶。娼館にて黒服の一人として働いていたとある時期。俺は、嬢達の噂話で、こんな噂をよく耳にしていた。

 

 この経済特別区の島は、昔からとある亡霊が目撃されていると。それは、赤いコートの女と呼ばれていると。普段なら一笑にふす噂話であるが、半ば無視ができない事情がその頃にはあった。

 

 娼館を利用する客の何人かが、館で嬢でも黒服でもない、赤い服の女を見たと訴えていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グルン、と景色が一回転した。背中から地面に叩きつけられ、激痛に視界が歪む。意識が飛びかけるが、すぐに起き上がらなければならないと本能が身体に警告。

 

 だがその警告も虚しく、視線の目の前に拳が突き出された。

 

 「情けねえな若造。若いんだからこれくらいで動けなくなるんじゃねぇ。まあそれはともかく、これで今日の酒代もお前持ちだな」

 

 拳を退かされて顔を覗いてきたのは、白髪が所々頭に混じる平たい顔の中年。腕は束ねられた筋肉で隆々としており、頑丈な肉の鎧で纏われた胴体が足腰。無駄なく満遍なくつけられたその肉体はまさに格闘家といったものだった。

 

 額に大きな傷がついており、かつて合戦にてつけられた傷だと男は嘯いた。男の名前はクダ=カンゼン。彼の故郷にておこった、西と東の権力者による大合戦にて所属陣営が負け、この国に落ち延びたという異国の格闘者だった。

 

 異国の者といっても、もうこの国にいて長いのか言語の発音は完璧だ。時折、元の国の言葉にて夏のとある時期に祈りを捧げていると聞いたことがあるが、生憎俺はそれをまだ見たことがない。

 

 「人の鍛錬に首突っ込んで、毎度毎度酒代請求してくるのはやめろ。金が溜らねえよ」

 

 「鍛錬?実戦を超す鍛錬がこの世にあろうものか。組手の相手をしてやっているんだから、ありがたく思え若造が」

 

 「ドタンバタン五月蠅い、阿呆共!」

 

 クダの物言いに文句をつけようとする前に、二階のバルコニーから赤髪の女が不機嫌そうに告げる。鋭くこちらを睨みつけ、バルコニーから飛び降りると横になるこちらの首筋を掴み立ち上がらせた。

 

 「こっちは夜勤開けなのにどったんばったん何時までやってるんだ!ああもう、昨夜は客も客だし、本当にイライラするなぁ!」

 

 「それは…申し訳ありません。エイラ副主任」

 

 いやな予感がしたので、素直に謝っておく。しかし謝罪が気に食わないのか、エイラ=マルーシャの眉はどんどんと吊り上がっていった。

 

 男顔負けの麗人。嬢達の間でもファンが多いエイラは、客前や嬢の前では優しく、そのやや低い声で男前の口調で優しく話すことが多い。が、俺の前では何時もこの調子だ。

 

 「いや許さない。謝っても遅いから、あたしもお前をボコることにする」

 

 「ボコるって、せめて組手とか鍛錬といってください。あと俺もうボロボロなんで、できればもう休息をいれたいのですが」

 

 「口答えをするな!エレミヤ様に寵愛を受けているんだから、それくらい我慢しろ!なんでもうエレミヤ様はこんな男と……ああ過去の知り合いだとかいうのもムカツク。ボコる、滅茶苦茶ボコる。鍛錬という名目でボコりまくる」

 

 エイラがこんな調子なのは、本当に何時ものこと。原因といえば、俺がこの娼館にて強制的に働かされるきっかけまで遡る。

 

 本人は隠していないが、エイラは同性愛者だ。そしてそのうえ、エレミヤに一目惚れをしていた。

 

 偶然リスムの街中で見かけたエレミヤに劇的な恋(本人談)をし、その素性を執念で調べあげる。そのエルフは高級娼婦として娼館で働いているという話を聞き、何度も男に身体を売ることをやめさせるように説得や、付き合ってほしいとアタックを繰り返したらしい。

 

 だがしかしエレミヤは、そんなエイラを何時もどこ吹く風で受け流していた。同性を口説けば簡単に恋に落とすエイラは、その態度に益々惚れ込んでいき、ついには金を貯めて紹介状を手にし直接抱きにいくという、惚れすぎた故に血迷った強硬手段にまでうってでた。

 

 しかしその頃には、ほんのタッチのタイミングでエレミヤは娼婦から経営者の立場成り上がり、当然エイラの求めには応じなかった。ならばせめてとエレミヤを毎日眺める為に、黒服としてこの娼館で働き始めたという訳だ。

 

 そんな日々であったが、雨の日に連れ込まれたどこの馬とも知れぬ男をエレミヤ本人が寝台まで誘い、抱いたうえで条件つきとはいえここのスタッフにしてしまったのだ。目の敵にされるには、充分すぎる。

 

 「今日こそ殺す、とにかく殺す。訓練中の事故ってことで殺す。あたしの自慢の四十八の殺人拳を全て叩きこんであの世に送ってあげる。大丈夫これは訓練中の事故だから安心して死んでねランザァ」

 

 「心の声みたいのが駄々洩れで、隠す気がねぇ」

 

 こうなればしょうがない。ボコボコにされながらも致命傷をなんとか回避して、なんとか反撃を繰り出すしかない。

 

 「遊びはここまでにしようか」

 

 飛燕の如きスピードで踏みこんだエイラが、ピタッと止まる。首をまるで壊れかけの人形のようにギギギ、と館の方に向けると窓を開けたエレミヤがこちらを見ていた。

 

 「エレミヤ様ぁああああ!おはようございます!今日も一段とお美しい!」

 

 「よう大嬢ちゃん。おはよう」

 

 「はああああああ!?クダ!貴方雇い主に向かってなにその態度!ちゃんとエレミヤ様と言いなおしなさい今すぐ!」

 

 「おいおい、普段お前男装の麗人とかってキャラ作ってるんだからあんまり大声で喚くな。あと文句があるなら、拳で来い拳で。俺にとって、嬢ちゃんはあくまで嬢ちゃんだ、エルフだろうがな。それを直したければ、打撃で説得しに来い」

 

 エイラが、忌々し気にクダを睨む。エレミヤの傍に少しでも近づく為に、娼館の黒服達をごぼう抜きに追い越し実力を示して来た彼女にとっても、現主任クダは目の上のたんこぶであると同時に高すぎる壁であった。

 

 クダは前娼館主が経営している頃からここの警備主任として活躍する古強者だ。勝てるものがあったら立場を譲ると公言しているが、エイラを始めただの一人もクダを打倒した者は先代の頃からいない。

 

 「警備主任、副主任、それとランザ。今から緊急ミーティングを行いたい、時間はいいかな」

 

 三人が顔を見合わせる。エイラは、なんでこいつまでといった表情を浮かべていた。

 

 「緊急ミーティング。もしかして、議題はあれのことか」

 

 「そう。心霊騒動、赤い服の女。取るに足らない噂だと言いたいけど、この娼館で客が目撃したという問題が多発している。そのせいでよくない噂も立ち始めているんだ」

 

 エレミヤの話を聞いて、そういえばそんな噂があったと思い出す。馬鹿馬鹿しい、幽霊なんてこの世には存在しないというのに。

 

 「苦情がでているからには、対応しなければいけないね。今日の議題は、ゴーストバスターさ。」

 

 エレミヤの呑気な笑顔から飛び出した言葉は、俺の顔が曇るには充分すぎるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ことの始まりは、九月二十三日。一般的な個室へと案内されたお客様が、部屋の中で赤い服の女を見たと言い錯乱。黒服が駆けつけた時、お客様は寝台の上で目を充血させ、鼻血を流しながら気を失っていた。ひとまず空き部屋で療養させ様子を見ていたのだが、回復の兆しは見られない。同様の件はもう七件おきている。共通事項は」

 

 「赤い服の女と、目の充血や鼻血等の出血ですよね、エレミヤ様」

 

 品の良い調度品も洒落たステンドグラスもない職員用の待機室にて、エレミヤによる改めての説明が行われていた。

 

 既にこの娼館で働く者にとっては承知の事実ではあるが、それでも正しい知識の改めての共有は大切だろう。

 

 「赤い服の女…なぁ」

 

 クダが、背もたれに深く寄りかかりながら呟いた。

 

 「その噂は、俺がこの経済特別区に来る前からあるな。先代によると昔から存在する話のようだ、興味がなかったので詳しくは聞いておらんが…まあ別にこの娼館特有の話ではなかった筈だ。この島のあっちこっちで似たような話があったが、鼻血に目の充血、意識の混濁なんかは聞いたことがない」

 

 「ただの心霊現象だったと?まあ心霊なんて、俺は見たことがないが、取りあえず本土から医者を呼んだ方が良いんじゃないか?」

 

 疑問を挟むと、エイラが舌打ちをしてきた。いかにも、こんなことも知らないのかと馬鹿にするような目を向けて語ってくる。

 

 「馬鹿かランザ。もうすでにエレミヤ様は本土どころか帝都から凄腕の医者を招待しているに決まっているだろうが。犠牲者の一部は既に医療教会や、医術組合の病院に搬送し協力を求めている。ランザァお前この異常事態に対して興味が無さすぎるんじゃないか、そんなやつだから何時までも…」

 

 「それ、君が訓練中の事故と称してランザを五日間意識不明にした時の話だからね。彼にかけた医療費は私持ちなんだけど、申し開きはあるかなエイラ」

 

 不敵な顔からあわあわ顔となったエイラに釘を刺してから、腕を組み合わせエレミヤは怖い笑顔を浮かべた。

 

 あの、意識が途切れていたと思ったがいつの間にか五日間経っていた時か。今思い出しても、まるでタイムスリップをしたような感覚だった。それからしばらくは、寝台の上から動けなかったが。食事もほとんどが流動食。あれは、辛かった。

 

 「まあいずれにせよ、これまでとは変わったなにかがこの娼館内でおこっているのは確かさ。クダ、エイラ、ランザ。君達には調査と対策をお願いするよ。解決できるんだった祓い屋でもご祈祷でも構わないからさ、ここのところうちの嬢達も怖がり始めているし、なによりも原因不明の急病人続出ということで客足が遠のき始めているんだ。嬢のケアや、評判や印象操作の対応は私がやるから、早急に対処をお願いするよ」

 

 「お任せくださいエレミヤ様!幽霊なんてこのエイラがボッコボコにして引きずりまわしてあげますからご安心くださいぃ!」

 

 幽霊に物理技が、格闘技が効くのだろうがと内心突っ込みたかったがそれを言えば藪蛇というやつだろう。

 

 しかし、霊的存在がいるかどうかの是非はともかく、この娼館でなにかがおこっているのは確かだ。充血、鼻血、新しい流行り病か、それとも別のなにかか。

 

 「で、どうするよ。お?なにか考えでもあるのか若造」

 

 「考えという程でもないが。俺は幽霊なんてものは存在しないという前提で動こうと思う」

 

 クダの言葉に、自身の考えを述べる。幽霊、心霊、亡霊。既存のそれらの目撃情報は、工夫にもよるが魔術具により容易に再現できるものばかりだ。鼻血や充血等の症状はともかく、商売仇からの嫌がらせの可能性があるのではないか。

 

 まず流行り病に類するものと幽霊騒動が本当に繋がっているのか、嫌がらせの類で片付く話なのかを見極める必要がある。椅子から立ち上がり、三人に一度頭を下げる。

 

 「俺は一度、娼館の外で似たような話や症状がでた者がいないかを探ってみる。赤い服の女も、生きている人間による仕業と考えて動こう。その女、姿形はともかく容姿はどうなんだ」

 

 「だいたい見た人は気を失ってい寝込んでいるから、なんとも言えないけど。唯一気を失う前に、聞けた話があるよ。まっ赤なんだってさ、顔がね。判別できないくらい」

 

 エレミヤがおどろおどろしい顔つきを作り、亡霊というより食屍鬼のような顔芸を見せてきた。クダはその顔を見て、思わず吹き出している。

 

 「はっは…おお、おっかねぇなあ。ぶるっちまいそうだ」

 

 クダがわざとらしく肩を震わせる演技をした。そして、立ち上がる。

 

 「じゃあランザの小僧がそういう方面で当たるなら、俺は本当に幽霊がいるという仮説の元動いてみようかね。噂じたいは昔から島に根付くもんだ、無駄足かもしれんが探してみるさ」

 

 「クダ、あんたは幽霊肯定派か?」

 

 「別に、いたらいたで夢がある話だと思うくらいの感覚かね。ただ俺の国には火の無いところに煙は立たぬという言葉がある。ひょっとしたら、とんでもない爆弾が眠っているのかもしれないからな」

 

 「分かった。よろしく頼む」

 

 外に出ようとした瞬間、出口を塞ぐように足が突き出される。エイラの蹴り技が、壁に突き刺さっていた。

 

 「副主任、なにか」

 

 「島に来て日がまだ浅いお前が、別組織の縄張りで面倒事をおこされたら厄介だ。あたしが監視をしてやろう。情報収集も共同で行う、ありがたく思え」

 

 「それはありがたいですが、副主任…夜勤明けですよね」

 

 「だからどうした。……エレミヤ様!あたしがこの頼りないランザよりも決定的な証拠を掴んで来ますよ!その時はどうか、なにとぞご褒美を…褒美をよろしくお願いします!」

 

 「あーはいはい」

 

 エレミヤの塩対応も見慣れたものだが、それでもエイラには満足したものだったのか。黙っていれば本当に男前な美女といった、なんだか矛盾をするような表現が似合いそうな顔つきだというのにだらしなく破顔をしていた。

 

 「よし行くぞランザ!一秒でも早く幽霊だか亡霊だか訳の分からない話をねじ伏せる!さっさとしろ!」

 

 喜び勇んで飛び出るエイラ。エレミヤが頑張ってねと小声でエールを送り、クダに至っては敬礼をしていた。

 

 ああ、これは道中別の意味に面倒なことになりそうだ。存在しない幽霊に頭を悩ませる日々が来るなんて、今まで考えたこともなかったが、エイラの監視付きの情報収集なんて頭が痛い限りである。

 

 こうして、娼館を襲う赤い服の女を調査するというよく分からない厄介ごとが、幕を開けたのだった。



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 リスムに観光や仕事で来た者にとって経済特別区は、夜の島だと勘違いする人物も多いがそれは間違いである。

 

 そもそも、建前であったとしても経済特別区が制定された理由は、輸入品等の関税軽減、もしくは撤廃をした商売ができる区域を作り経済や流通を刺激し商売のしやすい環境を作るといったものだ。

 

 島の表の顔として、港町らしく各地より海路により運ばれた異国の品物や果実が露店に並んでいる。そんな商品を求め、本土から一般人も多く訪れており露店通りは沢山の人が溢れかえっていた。

 

 これはまだ噂程度の話なのだが、帝国を中心にした強力な海軍を持つ国々が連合艦隊を編成し、遥か昔から大海を支配する海竜リヴァイアサンを討伐する計画が持ち上がっているのだとか。

 

 それが本当だとしたら、鯨を狩る為の漁場も増えるし、これまでは危険度が高く通れなかった海路が開かれるだろう。そうなれば、リスムは益々景気が良くなりこの露店通りに並ぶ商品も増えるだろう。

 

 「ライムの値が急激にあがってるな」

 

 ついこの間まで露店に大量に積まれていたライムが、ほとんど消え失せていたうえに値段が倍近くまで跳ね上がっていた。

 

 「最近医療教会と医術組合が買いあさっているんだ。なんでも壊血病に効果があるとかなんとか、倍近くの値段でも飛ぶように売れるそうだよ」

 

 露店の様子を見た呟きを、隣の男性が解説しながら会話を繋げる…男性?

 

 一瞬脳が錯覚してしまったが、隣を歩き会話をするのはれっきとした女である。というか、エイラである。

 

 髪の毛を短くまとめ、切れ長の目と中性的な顔。控えめに施した化粧と男性のような私服のせいでどう見ても男にしか見えない。なんだか時折背景で光のようなものがちらつくような気がしたが、取りあえず疲れているのだろう。……ああ、疲れているんだな、主にこの状況に。

 

 娼館の従業員部屋で寝起きしている立場であり、同僚の私生活は見慣れている。相手が異性であっても、流石に部屋の中は見れないし見る気はないのだが、油断しきった姿で廊下をうろつくのはよく目撃するし、エイラに対しては稽古と称してその姿のまま殺しに来るので、油断した姿か仕事着である黒服の格好で見ることが多かった。

 

 「なあ、少し聞きたいがこの露店通りで…」

 

 露店にて売り子をしている女性に話しかけるが、無視をされた。正確には反応されかけたのだが、手元になにも持たずにただ会話をしてきた男を相手するより後から来た別の客を相手にした方が金になると判断したのだろう。商売人としては、正しい判断かもしれないがいかんせん多少傷つく。

 

 「お嬢さん、リンゴ一つ。……うん、うんそう。そうかい?僕も嬉しいよ、君みたいな可憐な娘にそんなことを言われて」

 

 隣のエイラが前に出て露店に並ぶリンゴを一つ手に取って話しかけた。笑顔の周囲から光が飛んでいるような顔、眩しい。

 

 うっとりとした顔を浮かべる露店の娘は一瞬呆然としていたが、慌てて返事をして会計をすませてしまう。そのまま情報収集に入るエイラの手練手管は、成程これはと思うようなものだった。適度に日常会話を挟みつつ、時には容姿を褒めながら上手く世間話ふうに本題にはいり情報を集めていく。

 

 一から十まで真似をしろと言われたら、容姿の時点で不可能であるがこの姿勢と技術は学に値するものだ。少なくとも、商品を一つも買わずに単刀直入に情報のみを得ようとする俺の筋は通らない。今後の参考になるだろうとは、素直に感じた。

 

 情報じたいは露店の娘は持ち合わせていなかったが、学ぶものはあった。露店からしばらく離れてから声をかける。

 

 「情報集め一つにも技術がいるんですね。俺一人だと色々面倒なことになるところだった」

 

 「当たり前だ馬鹿。道一つ聞くのも、ただ尋ねるだけでは相手にとって邪魔者でしかないんだぞ。まずは相手の商売に足しがあるよう行動し、そのうえで手を煩わせてもらうんだ。そうじゃなければ、迷惑極まりないだろうが」

 

 リンゴを齧りながら歩き、呆れ顔で言われた。まともに就職してからは、職人としての仕事についていたり時折商人の手伝いをする時も、設営やちょっとした手仕事ばかりだったため、分からなかった。

 

 一時的な話とはいえ今は、些か特殊ではあるが接客として業務にあたっている身だ。なにも格闘術や戦闘術ばかりではない、対人スキルというか、こういうところも学びとっていくべきなのだろう。

 

 「しかし見るからに、平和そのものだな。昼間ってのもあるが、パッと見では妙な話どころか活気がある露店街にしか見えないですね」

 

 「この露店街は島最大組織であるレガリアの縄張りだ。ここで悪さをする阿呆はいないし、いたとしても、カタギの人間が多いここで問題がおきれば本土の治安組織や掲げる大盾が介入してくるだろう。この島に多少なりとも関りがある者ならば、ここが非戦闘地帯としてある程度知れていることだ」

 

 「逆に言えば、他の場所はその限りではないと」

 

 この島には大小様々な裏稼業の組織があるが、最大と言われているレガリアは露店街を中心にした商業エリアやリゾートにホテル等を牛耳っている。本土に近い島の北半分は彼等の島といっても良く、治安は比較的良い方だ。

 

 一方島の南半分は、大まかには二つの組織が縄張りを広げている。リスム地下に広がる地下迷宮。その入口の一つを非合法に占拠し、迷宮を利用し表沙汰にはできない商売をしている武闘派組織デラウェア。闘技場での収入を要に、非合法の奴隷売買やこの経済特別区でも禁制品であるヤバい品物を捌いているハーウェン。

 

 娼婦街はレガリアとハーウェンの境目にあり、中立を保ってはいるがどちらかと言えば商売の関係上エレミヤはレガリア側と交流を深めている。一方、別の娼館はハーウェンの奴隷市場から人間を仕入れている為ある意味ではバランスはとれていた。

 

 「レガリア側で問題をおこして、エレミヤ様の顔にドロを塗ることは許されない。一見平和に見えても、バランスとりが重要なのだ。なにかあったらいっきに面倒なことになるからな」

 

 確かに、娼館関連の売り上げなどどこの組織も稼ぎとしては上等といえるので、機会があればのっとろうと虎視眈々と狙っているだろう。

 

 エレミヤ、いやその先代か。先代の娼館主は初老の男性だったそうだが、どうやってあの区域の独立を保てたのか興味がでてくる。まあ、それを調べる余裕はないのだが。

 

 それからしばらく、聞き込みや調査を進めていたがなかなか成果がでない。ここに来る前に娼館通りでも聞き込みを続けており、空振りだったため時間を無駄にしているという徒労感だけが肩にのしかかってきた。

 

 「時折島に伝わる都市伝説っぽく、赤い服の女がでることがあってもそれを起点にした騒ぎは無しか」

 

 薄く引き伸ばした小麦に厚切り肉や季節の野菜を挟み閉じ込め甘辛いソースで味付けしたあと油で揚げた、異国の料理を齧りながら呟く。時刻は既に正午となっており、食事処はどこも混みあっていた為こうして屋台で買ったものを立ち食いしていた。

 

 「一度休息と報告で館に戻った方が良いかもしれませんね、エイラ副主…」

 

 凄まじい目つきで、睨まれていた。

 

 「露店でなにやら話し込んでいたと思ったら、よくもまあそんなどうどうと、あたしの前で食べられるなランザァ」

 

 いかん、一人称が僕じゃない。麗人のキャラ造りが何時も間になくなっている。

 

 「……情報収集のついでに。副主任の分もありますよ」

 

 「ふざけるな。よそ行きのあたし、つまり『僕』の時はランチも常に気を使っているんだ。こんな人込みの隅で壁に寄りかかりながら食事を貪っていたらキャラが崩れるだろう。夜勤明けで腹も減ったというのによくもそんなもさもさと…」

 

 「それは…はあ。すいません」

 

 だったらキャラ作り等やめれば良いのにと言いたいが、彼女にも譲れないものがあるのだろう。まあ確かに立ち食いはマナー的な意味でも良くはないが、今は黒服姿でもなくお互い私服だ。そこまで気にするものでもないと思っていたが、想像外のところでアウトだったらしい。

 

 確かに俺は、妻との初デートは散々だったが、あの時からまったく成長していないのではないかとため息が出る。

 

 大きな街の方へ赴くが、人混みがすごくてはぐれそうになったり、思わず仕事道具に目を奪われデートとしては些か華のない場所に寄ってしまったり、テンの話ばかりを…

 

 「いっちょまえにため息か、まだ新人とはいえ仕事でもその尻ぬぐいをしているあたしの方がそのため息をつきたいと何度…おい?」

 

 エイラに肩をゆすられ、ハッとした。手の中にある包み揚げが破れ中身のソースと具材が漏れ出し、地面に落ちていた。

 

 テンの顔を頭にうかべた瞬間、嫌な記憶がフラッシュバックしてしまう。忙しい日々に忙殺され、最近は思い浮かぶことも多少なりとも減っていたがなにかをきっかけにまた出てしまうのか分からない。

 

 テンが、斧を持って、笑顔でこっちに……振り向いた顔が。

 

 「……うっ」

 

 急激に吐き気が催してきた。胃袋の中身が乱れ、胃液が揺れる。喉を通った筈の食料が逆流してくるようで、口を押える。

 

 「なに青い顔して…おい!」

 

 すぐに露店通りから少し外れたところまで離れ、激しくむせた。ギリギリ吐きはしなかったものも、喉まで逆流しかけたせいで胃液で焼けた喉元が痛い。

 

 「呆れた奴だな。体調不良か?自己管理すらろくにできないなんて…」

 

 「少し黙っていてくれ!」

 

 後ろから追いかけてきてまで小言を言う相手に怒鳴り、何度か深呼吸をする。落ち着け、落ち着け、落ち着ける筈だ。

 

 少しだけ気持ちに余裕がもてたところで、軽く背中を叩かれる。

 

 「ようやく落ち着いたか?」

 

 「……多少」

 

 「認めたくないがランザ、お前は従業員で部下だ。体調不良ならちゃんと報告しろ、報連相という言葉、社会に出たなら聞いたことくらいはあるだろうが」

 

 肩を掴まれ、立たされる。まだ少し心がざわつくが、なんとか記憶からの興奮を心の奥に追いやることができた。

 

 「さっさと館に戻るぞ。エレミヤ様に途中経過を報告して、あたしもなにか腹に詰めたいところだからな。積極的に関わりたくはないが、ハーウェンの縄張りにいる連中や、金はかかるが情報屋に当たってみるべきかもしれないな」

 

 「ハーウェン、闘技場方面ですね。分かりました、一度エレミヤに…」

 

 俺の言葉を遮るように、市場通りの方から悲鳴が響いた。二人で顔を見合わせ、急行する。

 

 露店の前に人だかりができ、その中央には露店を背にしてナイフを手にした男が一人。いや、男は小さな男の子を腕で抱え首筋に刃物を向けていた。

 

 「ち、近づくなぁ!近くに来るなぁ!」

 

 唾を飛ばしながら若い男が叫ぶ。馬鹿な、レガリアの縄張りで騒ぎをおこしたらなにがおこるか分からない筈がない。もしくは、この島の勢力図や情勢すらろくに分かっていない余所者か。男は露店で売っているような異国の仮面で顔を隠していたが興奮しているのがよく分かる。

 

 「さっさと掲げる大盾の連中を呼べェ!さっさとしないと、こ…この子供がどうなっても知らねえぞ!」

 

 男の叫ぶ声に、エイラが頭上に疑問符を浮かべる。

 

 「なんだ?金をよこせとか逃がせとかならともかく、掲げる大盾だと?あの男錯乱しているのか、いったいなんでまた…っておい!」

 

 エイラの声が後ろから聞こえるが、前進をする。子供を人質にするということは、なにか問題や間違えがおこってその子供が死んでも問題ないと考えているのだろう。

 

 だからこそ、普通だったら犯人を刺激できないし要求は極力呑んだ方が良いだろう。だけど、今は我慢できるほど気持ちに余裕がなかった。

 

 「おい、落ち着け」

 

 「なんだぁお前!こ、こ、こいつが目に入らねえのか!」

 

 男が叫びながらこちらに振り替える。しっかりと首筋にナイフをつきたて、少し切れたのか血が滲んでいた。

 

 「だから落ち着け。俺は掲げる大盾の職員、ルーベルだ。現在休暇中だが、偶然居合わせた。なにか訳あって俺達を呼ぶんだろう」

 

 ハッタリだ。多少ではあるが、掲げる大盾に繋がりがある。その知識を動員し、なんとかこの事態を優位に動かさなくてはならない。

 

 「嘘をつけ!偶々この場に居合わせたなんてそんな偶然が…」

 

 「百パーセントないと、言い切れるか?お前は掲げる大盾がこのリスムにあることを知っている、ならばここで問題をおこすということがどういうことになるか分からんでもないだろう。こうして押し問答をしている時間も惜しいんじゃないか?」

 

 男が慌てたように周囲を気にする。男は完全に余所者という訳でもなさそうだ。ここはこの島で最大勢力を誇るレガリアの膝元だ。三大組織の中では以外にも一番の穏健派でもあるが、騒ぎをおこしたものが裏社会に連行されたらその後とうなるかなど分かったものではないだろう。

 

 「時間がないぞ、掲げる大盾の支部は本土にあるし、情報が渡って橋を渡って来る前にレガリアの組織の方が近い。治安維持局も常駐しているが、ここの連中のやる気の無さはよくわかるんじゃないか?連行されても、行き先は牢獄ではなくレガリアの事務所の一つだ。例え一時預かりでも、掲げる大盾の拘留されたいならば素早く決断しなければならないんじゃないか?」

 

 「ま、待て!お前が本当に掲げる大盾ならなにかそれを証明できるものは!」

 

 「休暇中にそんなもん持ち歩くとでも?どうするんだ。言っておくが、それ以上子供を傷つけたりしたら、グロー支部長には内緒で俺は問答無用でお前をレガリアに引き渡す。連中の事務所で可愛がってもらうんだな」

 

 男が怯み、ナイフを下げた。その瞬間に走り出しナイフを持つ手を蹴り上げる、宙にナイフが舞った。

 

 「んなっ!」

 

 それを手に取ろうと空に手を伸ばす男。それを遮るように陰ができる。

 

 俺の背中を蹴ってエイラが跳躍、身体を一回転した踵落としを頭部に叩き込んだ。男は昏倒して倒れ割れた仮面の破片が周囲に繋がる。男の体重を支え切れず共に倒れた子供は、慌てて離れていった。

 

 目に入らなかったが、家族が逃げた方向にいた。子供の母親が泣きながら男の子を抱きしめている。

 

 なんだか少しほっとした気分になったが、すぐに首筋を掴まれ引き寄せられる。鬼の形相のエイラが、こちらを睨んでいた。

 

 「レガリアの縄張りで勝手な真似をするなといった筈だ。上手くいったから良かったが、なにかあったらどう責任をとるつもりだったんだ」

 

 露店通りでの、家族連れの男の子が殺される。風評としてはよろしくはない。

 

 「……すいません。あの光景、我慢ができなくて」

 

 「我慢ができないだと?この男がなにか間違えをおこしても、それを解決するのは治安維持の連中かレガリアだ。万が一になったとき、お前がごとき下っ派がどう責任とるんだ!エレミヤ様の足を引っぱるいだけの話じゃない、娼館街全体にも…!」

 

 エイラが気を失った男を蹴り飛ばす。うつぶせに倒れた男が仰向けになり、そこでエイラの言葉が止まった。

 

 仰向けになり初めて気づいたが、男の腕には無数の粒々が浮き出ていたのだ。

 

 「注射痕?こんなに」

 

 エイラがしゃがみ込み、仮面を外し瞼を持ち上げる。まっ赤な瞳が、そこには隠れていた。

 

 「ランザ。こいつ目が充血している、とてつもない寝不足か、そうれでなければ…」

 

 「副主任、ぶっ倒れた連中の共通点に、注射痕とかはありませんでしたか?」

 

 「確認をしなければ断言できないが、あたしが見たのはあった。これは…もしかしたら」

 

 瞼から指を離し、エイラは腕を組み合わせた。

 

 「なあ、こいつは、掲げる大盾を呼んでいた。それはつまり、掲げる大盾に連行されることでこの島を出ようとしていたということじゃないか?」

 

 「島から、逃げようとしていた。なにかに追われていた、しかし見張りかなにかが出口にいて島から出られなかった…ということですか?」

 

 「かもしれない。こいつはもしかしたら大きな収穫なのかも…」

 

 エイラは目をつむりながら考え、大きくため息をついた。

 

 「ランザ、お前はこいつを連れて舘に戻ってこい。あたしはエレミヤ様に経緯を報告し、この男を舘に監禁する許可をもらう。しばらくすれば息を吹き返すから、この男を尋問できる」

 

 「レガリアに引き渡すのが筋かもしれませんが、良いのですか?」

 

 「良くはない。多少なりとも懇意にしているとはいえ、エレミヤ様には時間稼ぎを頼むだけでも迷惑がかかる。だがしかし、ようやくつかんだ手がかりでもある。エレミヤ様に報告をし、リスクを天秤にかけ了解をもらいさえすれば、多分この事件は大きく進展する」

 

 頷いて、男を抱える。この男と共に舘に戻るならそれなりに時間がかかる。それまで事情を話して、レガリアに対して打つべき手を打っておくということだろう。

 

 「レガリアの下っ派が来るまでにさっさと戻ってこい。お前が戻る前には、エレミヤ様の判断がでるだろう」

 

 エレミヤが走り出した。男の肩と足を掴み、肩に全身をかけるように持ち上げる。

 

 「ありがとうございました!」「本当に、ありがとうございました!」

 

 振り向くと、男の子とその家族が頭を下げていた。昼間の露店通りで事件に巻き込まれるとは思ってはいなかったのだろう。だが、今回のように完全になにかがない訳じゃない。

 

 「こういうところに家族を連れて来るなら、子供がもう少し大きくなってからにするんだな」

 

 それだけ伝え歩きだす。男を抱えながら歩くには、娼館街までそれなりに距離があるが、歩いて幾分には距離が分かるだけ探索者時代より気は楽だ。

 

 「我が主より、後にお邪魔したいと、エレミヤ様にお伝えください」

 

 人混みを歩き中、誰かにささやかれた。慌てて振り向くがもう誰がささやいたかは分からない。レガリアの連中、到着が遅れた訳ではなかったようだ。

 

 どうやら、この場では見逃すつもりらしい、後に舘でエレミヤになんらかの交渉を吹き込むつもりだろうか。

 

 「分かっちゃいたが」

 

 曲者だな、間違いなく。

 

 エレミヤがどういう判断を下すのかは分からないが、少なくともレガリア側はなんらかの話を持ち掛けてくるだろう。

 

 俺は、間違ったことをしたのだろうか。子供を救ったのは、ただの自己満足だったか。

 

 あのフラッシュバックの直後でなければ、冷静でいられただろうか。手がかりという成果はつかめたものの、そうでなければただ厄介事に首を突っ込みエレミヤやエイラに迷惑をかけただけだっだろうか。

 

 思わずため息が漏れてしまう。まだしばらく、いや恐らくは一生、あのトラウマからは逃れられそうにないだだろう。

 

 



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 「すまねぇな。突然訪ねちまって、忙しい身だろう?」

 

 「とんでもございません。レガリアのガルデ様をお迎えできて光栄ですよ。些か準備不足であり、もてなしが不十分なのを恥じるあまりです」

 

 大柄なガタイに似合わず長椅子に姿勢よく座り、出された茶を口元に運ぶのは経済特別区最大組織であるレガリア頭領、ガルデ=ウェンディだ。

 

 この島出身で元々は船乗りとして大陸各地に輸入品や輸送品を運んでいたらしいが、海賊に襲われた際ほぼ単独で奮戦し返り討ちにし、その時の乗組員と降伏してきた海賊を従え武装護衛船として独立。その後経済特別区成立と同時に故郷に帰りレガリアを設立する。

 

 地元の人間や彼の名声を慕い集まった人間とレガリアを動かし、リスムにおける表にはでない裏の名士として有名人だ。

 

 しかし、輸入品を運ぶという前職のせいか禁制品の薬物や奴隷の売買を行わないことで知られている。薬物は輸入品を仕入れる別大陸で中毒者の酷い末路を見たから。奴隷に関しては、商品の代わりに人間を詰めて運ぶ奴隷船をいやという程見たことがあるということでレガリアでは禁止されている。

 

 しかしその隙をついて、血生臭い興行である闘技場と禁制品売買や違法の奴隷売買を躊躇なく行い急速成長したハーウェンが島の東南に君臨していしまう。

 

 レガリアとハーウェンは当然険悪であり、互いに睨みあいや抗争が続く隙をついてとある一団が島西南の未開発地域において行政ですら把握していない地下迷宮の入口を発見。それを利用し武闘派組織としてデラウェアが旗をあげた。

 

 レガリアとデラウェアは一応は中立、相互不干渉を保ってはいるが、血気盛んで問題を多くおこすデラウェアの人間とは度々、喧嘩等の小競り合いをおこしているようだ。時には刃と血を見ることもあるらしい。

 

 ちなみにハーウェンとデラウェアもすこぶる仲が悪い。というのも、デラウェアの首領は元は闘技場での剣闘奴隷であるらしく、逃亡の際にギリギリのところで発見した地下迷宮に潜伏し生き延びた経緯があり、何時かはハーウェンを叩き潰すと敵意を丸出しにしているようだ。

 

 ならばレガリアと手を組んでハーウェンと敵対すれば良いとは思ったが、組織としては個人の戦闘力は高いがまだ総合力が劣る。いずれ島の頂点にと考えているのだとしたら、ハーウェイとレガリアはまだ存続し潰しあってもらい漁夫の利を虎視眈々と狙っているのだろう。

 

 三組織がいずれも仲が悪く、かつ均衡を保っているため時折小競り合いのような抗争があってもまだ島内はそれなりに平穏無事という訳である。

 

 「馴染みのない味だが、嫌いではないな。これはグリーンティーか?」

 

 「ええ、輸入をするとたいそうな値がつきますが、うちの警備主任が生産国出身でして、趣味で敷地内で栽培しているのですよ。お口にあうようで、安心しました」

 

 「成程、投げ鬼クダ=カンゼンか。良い仕事だ、素晴らしい」

 

 エレミヤの後ろで、護衛の代表として控えていたクダが頭を下げる。この場での騒ぎは早々おこさないだろうが、彼の後ろにいる双子の男女であるカイトとライトはレガリアにおける若手衆の中では二枚看板と呼ばれている凄腕の双剣使いだ。

 

 線は細いが背の高い兄カイトが手を後ろで組み姿勢正しく立っており、妹のライトは黒い長髪をボサボサにしながら眠たげに、立ちながらこくりこくりと舟をこいでいた。

 

 あの二人が万が一でも主に牙を剥いたら、ギリギリ対応できるかもしれない。それにガルデも加われば、時間稼ぎが精々だ。レガリアに対しては好意的中立であるため、流石に暴挙はしないとは思いたいが。

 

 「こちらも手土産を用意したかったが、急な話なもんでな、申し訳なかった。さて、本題を単刀直入に行こうか、今日の正午近く、露店街の辺りで騒ぎがおきて子供が人質にされる事件がおきた。ご存知かな?」

 

 「勿論、うちの新人が関りあった件ですから。お騒がせいたして申し開けありません」

 

 「いや、幸い巻き込まれた子供は無事。成果としては上々ではあるが…解せないのは何故犯人をこちらに匿った?そちらにかかわりがある訳でもない借金まみれのどこにでもいる男だ。君の親族や身内という訳ではないだろう」

 

 「私の親族だったら、匿うどころか街のど真ん中で公開処刑にしてやりますよ。フフフ、エルフがここにいたら、私はそれを狩りとる為に手段を選びませんよ。……まあ、それは置いておいて、現状あの男に関しては、残念ながら我々には価値があるものとなっているのですよ」

 

 クダが黙礼をし、懐から紙を数枚取り出しテーブルに広げた。

 

 「時に、ガルデ様。赤い服の亡霊を知っておりますか」

 

 「そいつはまた懐かしい話だな、俺がガキの頃からこの島にある噂話だ。本当に何時からこの島に根ずく話しかは知らねえが…な」

 

 「その赤い服の亡霊が、なんの関係があるのやら私の娼館に度々出現し、更には被害がでています。しかし、私ははこの事件を亡霊の仕業ではなく何者かの悪意ある行為ではないかと推測しております。そちらの報告書、医療組合、医術教会からの報告書です」

 

 ガルデは報告書に軽く目を通す。専門的なことはある程度の知識ではないが、身体特徴として、二の腕に複数ある注射痕に目をつける。

 

 「恥ずかしい話ですが、なまじこの島に古くから根付く赤い女の亡霊という言い伝えにより先入観が働いてしまっていました。目撃者は暴れだし、そして気を失い昏睡状態になる。目は充血し、鼻血をだしたものすらいる。まあ暴れた人間に対処するため鼻血の方はうちのスタッフが手荒なことをした可能性もありますが…注目すべきは女よりもその目の方でした」

 

 ガルドが報告書から目を離し、こちらに興味深げに視線を向ける。この御仁が、娼館でおこる騒ぎや不始末を知らない訳ではないだろう。なにがおこっているか既に知り得ている、その答え合わせを求めているようだった。

 

 「我々は、違法薬物によるなんらかの幻覚作用の可能性があるかと考えております」

 

 ガルドの薬物嫌いは有名な話だ、彼の眉がほんの少しだけ吊り上がるのが分かった。

 

 「南大陸には、とあるシャーマニズムに基づき幻覚による奇妙な世界の中神と通ずることができると信じられている宗教があり、その為の植物が盛んに栽培されています。この大陸にも小麦を蝕む麦角が原因で聖アントレリウスの業火と呼ばれ様々な疾患の中に幻覚、幻聴作用が確認されています。その報告書でも、主に医療教会から気を失う前の様子からの推測でその可能性が示唆されています」

 

 小麦に黒い爪のようなものが生じる麦角と呼ばれる症状は、古くは堕胎薬としても使われていた。

 

 しかし、アントレリウスの業火はそれで終わるような生易しいものではない。

 

 痙攣性の発作、呼吸困難、手足の焼けつくような痛み。症状が進むと幻覚や幻聴といったものが出始め、手足が壊死によりボロボロに崩れていくと言われている。

 

 その惨さはすさまじいもので、当時の画家である混沌派のエイル=クレッセラーが描いた『業火と悪意の導き』が凄まじい画力と共に患者の苦しみと混乱を描き出していた。

 

 「原料がその類のもの、それをちょっと弄ることができれば…どうですか?複数の注射痕、中毒性のある幻覚作用を持つ薬物が精製できるのではなと思いませんでしょうか」

 

 「君が言いたいのは、それを注入して中毒者にした後ここに送り込んでいる奴がいると」

 

 「その通りです」

 

 「ならばことの震源地はハーウェンだな。あの蛇女が使う手にしては些か稚拙だが、薬物となると出所が知れるというものだ」

 

 レガリア内部では薬物と奴隷売買は御法度。その隙をつかれハーウェンの魔女、蛇使いカナリア=ウェリアには出し抜かれてしまったがそれでも成立当初から続くその方針は変わっていない。

 

 あそこなら、薬物の研究も非合法に行われていると噂されている。闘技場に出てくる理性を失った、死ぬまで戦うことをやめない狂戦士達は、そんな薬物を注入されているという話はよくあがっている。

 

 「いえ、薬物の出所はハーウェンでほぼ間違いないでしょうが、震源地はレガリアにあると考えております」

 

 「なに?」

 

 ガルデの呟きで、室内の重力が増したような錯覚。背後にいる双子も兄の姿勢は変わらないが、妹の鼻から出てきていた提灯がパチンと音を経てて割れた。

 

 「あの男は、どこかの施設から隙をついて逃亡したと話しておりました。だがしかし、幸運にも施設から抜けだせたとしても、前後不覚で冷静を欠いているのに無傷でハーウェンの縄張りから出てきたとは考え難いのです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「俺は…嫁が借金を作ってそれを押し付けたうえで男と逃げたんだ。なんとか働いて返そうとしたが、複数からの催促で利子を支払うだけで精一杯、元金を払う余裕なんてない。そんな時、藁にも縋る思いで副業を探しに訪れた、非合法な冒険者ギルドに治験の依頼を見つけたんだ」

 

 子供を人質にとった男は、大人しくベッドの上で語り始めていた。万が一に備え手足を縄で拘束していたのだが、暴れだす出す気配はみられない。

 

 「副業でも金を稼ぎたいなら、合法的な冒険者ギルドでも良いだろうが。別にそういう奴はそれなりにいるし、わざわざアングラなところを当たらなくてもいいだろ」

 

 「分かってないな、冒険者ギルドは大量の借金があるやつは入れない。過酷な肉体労働や危険な調査前の露払いが多いだろう?首が回らない奴は、そういうところで事故で死ぬ。そうするとほんのスズメの涙だけど遺族がいればそこに雇い主から見舞金がはいることがあるんだ。そんな金でも、とってこいと入らされる奴が昔から多くいたんだとさ。だから、行政が運営する冒険者ギルドは身元チェックは厳しいし登録後でも大量の借金を抱えた奴は追放される」

 

 俺がいた頃もたいがいだったが、家具職人として働いていた期間にも色々なことがギルドにはあったようだ。

 

 冒険者ギルドとは底辺達の最後の受け皿でも、その受け皿に入りきれない奴はどこまでも落ちていくしかない。そこまでの落後者を救える程、今の世の中は優しくはないという訳か。

 

 「それで、治験とやらに手をだしたか。半ば自暴自棄になっていたようだな」

 

 窓辺に座りながら、エイラが呆れたように呟いた。普通の冒険者ギルドでさえ、地下迷宮探索前の生贄調査のようなろくでもない依頼があるというのに、裏ともくればそれこそ非合法組織の使いっ走り以下の扱いだ。

 

 「治験か」

 

 「おかしいだろ、医療教会でも医術組合でもないのに新薬の治験だぜ。ぜったいろくでもないと思っていたけど提示された報酬に目がくらんでな。それこそ何度か足を運び、報酬をもらった。最初はぼろいと思ってたけど、何時の頃からか薬を打ってない状態が続くと心臓がバクバクと動くし身体が妙に暑い、酷いときは鼻血まででて来るんだ。もう治験関係なしに、施設まで向かったら急に襲われた。それで逃げて来たんだ」

 

 「逃げてきた?あんたわりと限界近くにみえたけど、よくもまあハーウェンの施設から露店通りまで逃げて来れたな。逃げ出すことすら奇跡に近いのに、そんなことがあるのか?」

 

 「ハーウェン?あんたなに言ってんだ」

 

 「え?」

 

 「俺がいた場所は…ええと、娼館通りから北にしばらくいった場所だから…あそこは確かもうレガリアの縄張りじゃねえのか?まったく、万が一は確かに何度も考えたけどさ、レガリアは違法薬物に手をださないって噂を聞いていたから、治験もちょっと怖いけど最悪はないと思って受けたってのに、ショックだったよ。」

 

 俺とエイラは、互いに顔を見合わせた。薬物嫌いのレガリアに、違法薬物を打つ施設がある。これはいったい、どういうことなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それが君達が監禁、いや保護した男の証言か」

 

 「ええ。これは私も経営方針を考え直すタイミングがきたかと頭を抱えるところですよ。今後は、この娼館は会員制もしくは紹介制にした方がいいかもしれないとね」

 

 バレバレではあるが、エレミヤはまったく気づいていないといった様子で肩をすくめてみせた。それはバレることが前提の演技ではあるが、こちらから下手に向こうの危険物を触ることはない。

 

 おそらくは、ハーウェンの組織から手引きを受け、レガリアの何者かが違法薬物を取り寄せ利用している。

 

 目的は、レガリア側とエレミヤ側の不仲を招く為の工作か。それとも親レガリア路線をとっている、娼館街の顔とも言えるエレミヤの資金源を潰し、ハーウェン派に属する何者かがレガリアの違反者を利用して成り代わろうとしているのか。少なくとも、それが組織に所属していないチンピラでもレガリアの裏切者だとしても、ハーウェンから薬物供与を受けているのは間違いないだろう。

 

 この島で継続して違法薬物を供与できる能力を持つのは、現状ハーウェンしかいないのだから。

 

 「男の証言では、治験には複数の男が参加をしていたということ。薬を投与して頃合いとなったものから薬物の供給を経ち、こう囁いたのではないのでしょうか」

 

 「エレミヤの娼館に行け。そうすれば追加の薬を打ってやるとな…か。成程、だがしかし、妙な話がまだある」

 

 「妙な話ですか」

 

 「その男は冷静を欠いていた。ハーウェンの組織から逃げ出すのも奇跡だが、それは同様にレガリアに属する者が持つ施設から逃げ出すのも困難を極めるということだ。そりゃハーウェンの縄張りから露店街まで向かうよりかは距離的にも楽だろうが、そこは解せない」

 

 「それはまだ私にも分かりかねます。わざと逃がした、とも考えましたがそれをする意味が分からない。私の娼館も多少経営にダメージはでていますが致命傷とはいえないタイミングです。まあ、そこでなにがおこっているのかは私の組織の者が明かしてくれるでしょう」

 

 クダが深々と頭を下げる。そして、視線を鋭く尖らせた。

 

 「今回の事件、裏がどうであれ喧嘩を売られたのは私達です。ケリは私達がつけます、その報告をこの場でさせてください」

 

 「俺の縄張りでおきているなにかを、お前達が解決するというのか?うちの問題はうちで処理する。それが組織の裏切者だろうが、無謀な外部の馬鹿かは知らないがそれが筋というものではないか」

 

 「いえ、筋というならば被害がこうむったこちらが正当な報復を果たす為にあたるのではないかと考えております。私の経営する娼館を攻撃した、これはまさに宣戦布告です。敢えて口に出させていただきますが、これがレガリアからの工作という可能性も僅かとはいえあるのですよ」

 

 刃が引き抜かれる音。双剣士ライトが、長椅子を蹴りエレミヤに向け刃を振るっていた。瞳孔が開きぎみの表情を迎え撃つのは、クダ。

 

 テーブルの上で交差される刃は振るわれる前に、クダが両手首を掴んで阻止する。この反応の速さは、動いてからの対応ではなく動く前の対応。クダは寝ぼけ半分なライトが突如この凶行を及ぶというのを読んでいた。

 

 クダは、硬直する隙すら与えずライトの頭に頭突きを喰らわせる。怯んだ隙に両手をまとめて抱え床の上に背負い投げた。

 

 鈍い音が響き、ライトはうめき声をあげる。カイトが双剣を抜こうとしたがガルデが手を上げて静止。

 

 「流石は投げ鬼だな。若手衆とはいえ、将来の幹部候補が子猫扱いとは恐れ入る。非礼を詫びよう、お前等、少しは大人しくしておけ」

 

 ライトが唸り声をあげなら起き上がり半獣のように牙をむきだしにしながらクダから離れる。カイトも双剣を鞘に戻し元の直立不動の姿勢に戻った。

 

 「信頼されるかは知らないがね、少なくとも薬物絡みの命令は、徹底的な排除以外はこの口からは命令を下すことは過去にも未来にもない。それだけは、信じていただきたいものだ」

 

 「それは間違いないと考えております。ただ、もし相手がレガリアの裏切者だった場合、被害を被った私達か、それとも裏切者あるいは余所者の始末をするべき貴方達どっちが報復、あるいは見せしめをするか。私は、こう見えて頭にきています。私には、倒すべき敵がいるというのに、こんなことで手を煩わせるなんてとね」

 

 テーブルの上で騒ぎがあったというに、置かれた紅茶も緑茶も杯から零れることなくたたずんでいた。紅茶の杯を手に取り、エレミヤが一口飲む。

 

 「奴らの縄張りを駆逐し、この世から絶滅させ、文化も森も燃やし、そこに小麦と紅茶の耕作地を作ってやる。それを邪魔する奴は許さない、絶対に」

 

 殺されかけた直後だというのに、エレミヤは笑みを浮かべながらその目は鈍く輝いていた。

 

 「成程、度胸に分析能力、そして良くも悪くもその内心には一本の芯がある。前任のご老体がエルフで娼婦の君に後を継がせた理由が分かったよ。あの人のことは昔から、俺がガキの頃から知っている島にいた人だ。ご老体の後任、こうして話を交わしてみて成程と納得したよ」

 

 ガルデはカイトに目配せをした。それに頷き、カイトは鞄の中から紙を数枚取り出しそれを広げる。紙の一枚は男の似顔絵と、その経歴が書かれていた。

 

 「その男の名前はデル=エンパイアー。レガリア幹部の一人だが、最近はきな臭い動きが多いしハーウェイの者と密会の席を設けていたのも知っている。与えた縄張りも、娼館通りから近い。十中八九この男が事件の主導者だろう」

 

 「……人が悪い、初めて聞いた話のように振る舞っていたのに、ある程度目星をつけてからきたのですか?」

 

 「奴がなにをしているかまでは、まだ調査途中だった。まあ粛清まで秒読みといったところではあるが、新たな娼館街の主に敬意を評そう。この件、我々は君達が失敗するまで動かない。ことが成功したら、我々から君達にさらなる便宜を図ろう。無論、派閥に加われと言う訳でも組織に入れという訳でもない。ただ、我々から君の不利益になるようなことはいっさいないと責任をもって宣言する」

 

 「ありがとうございます、ガルデ様」

 

 「しかしだ、相手は腐りきった下衆に落ちたような奴だが、それでもこのレガリアの幹部だ。強さはそこらのチンピラとは比較にならないし、その部下も多く詰めている。だが対抗するだけの人員を動かせば、その行動は筒抜けだ、逃亡なりなんなりされるだろう。本当に大丈夫か?」

 

 クダが一礼をして、部屋から出ていく。紅茶に再度口元まで運んだエレミヤは、ゆっくりと微笑んだ。

 

 「ええ、私達は少数精鋭。私がスカウトした、人材達の働きを是非ご覧ください。とても楽しいことになると、思いますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 娼館街から北にしばらく進んだ場所。開発から取り残された、ややさびれた住宅街のなかひと際大きな三階建ての建物の内部にて、男の怒声が響く。

 

 「馬鹿野郎ォ!」

 

 巨大な錨がが、男の脳天に突き刺さる。錨の先端が脳を砕き身体を潰し、肉塊と成り果てた身体をミンチにしながら床に突きたった。

 

 「おめぇ等それでもレガリアの一員が!薬中のボケ野郎一人掴めることができずに身柄を確保されましたなんぞ、笑い話にもならねえぞ!」

 

 「で、ですが兄貴、あの男が逃げた時も追いかける時も妙な連中の妨害が」

 

 「あんな借金まみれのクソボケに護衛がいたとでも言いてえのかぁ!ふざけるな、言い訳にしてももう少し足りない脳みそ働かせてからもってこいやぁ!他の薬中どもと、薬の廃棄はすんだのか!」

 

 「え…廃棄するんですか。あんなに金かけて買ったのに」

 

 「当たり前だぁ!クソ…新レガリア派のエレミヤを潰して、俺の息がかかった奴を代表にしその売り上げを手土産にハーウェイに寝返る計画が台無しだ。情報が渡ったらすぐにでもレガリアの連中は粛清しにくる!本部の動きはどうだ!?」

 

 デルの叫びに、部下はまだありませんと泣きそうな声で応じた。

 

 レガリアにおいて、海賊あがりのデルは現状に不満を募らせていた。確かにガルデはクソみたいに強い。その強さは掲げる大盾にて頭角を現し始めているという、まだ新人ながら部隊長を任されるグローと互角以上に渡り合える程だ。

 

 奴に負けて軍門に降るのは良いが、その甘いやり方のせいでこの島の統一ができずハーウェンやデラウェアにでかい顔をされるんだからたまったものではない。俺ならもっと上手く、使えるものは何でも使いこの島を牛耳れたはずなのだ。

 

 まずは手土産を持ちハーウェイに寝返り、そこでやりたいようにやり成り上がり長の側近となったら蛇女の殺し地位を奪う。組織力を身に着けてガルデとレガリアを葬り、勢いのままデラウェアも傘下におく。その計画が破綻しかけている。

 

 「レガリアが動く前に証拠を全て廃棄するんだよぉ!さっさとやれ、ぶち殺されてぇか屑共!」

 

 錨を向けて叫ぶと、部下達は散っていった。まだだ、証拠さえ見つからなければ俺はレガリアにて成り上がりのチャンスを狙うことができる。次こそは上手く、使えるものはなんでも使いこの島の王として君臨してみせる。

 

 「なんだお前!」

 

 「何者だぁ!」

 

 二つの声とが外から響くと同時に、なにかが砕ける音が響いた。まだレガリアは、動いていない筈なのに。

 

 「なんだぁ!」

 

 「兄貴ィ!妙な黒服のオヤジが正面から!」

 

 「黒服ゥ?エレミヤからの刺客か?殺しておけぇ!銃だろとなんだろうと使っても構わねえ!レガリアが動く前に手早く片付けるんだ!」

 

 デルが唾を飛ばしながら指示を飛ばす。その様子を天窓から眺める視線が、一つ。部下が離れたと同時に、その陰は窓を突き破り三階に侵入した。



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 「デルのクソ餓鬼はいるかぁ!?礼参りに来たぞぉ!」

 

 見張りのため入口近くにいた二人組が投げ飛ばされ、建物の入口が粉砕した。クダが叫びながら中に侵入し、にたりと笑みを浮かべる。

 

 「正面から来るとはな!馬鹿め!」

 

 何時本部からの探りが来るかと臨戦態勢だった組員が、ライフル銃を構える。銃持ちの警戒体制が四人と近接武器を手に持つごろつきが二人。階段の上や地下に通じる降り口。またはあちこちの扉から複数人の気配を感じる。

 

 「死ね!」

 

 放たれた弾丸がクダの背後に流れる。当然ライフルの弾丸よりクダが素早かった訳ではなく、敵の行動を読んで直立不動の姿勢から相手の行動前からトップスピードで移動したにすぎない。だがそれは、組員にとってはまるで瞬間移動のようにも見えただろう。

 

 「この!」

 

 続いて放たれる三発のライフル弾丸も壁や棚に穴を穿つのみに終わる。巨体に似合わぬ速さで近づいた、ナイフを持つ組員の目の前で歩みを止める。

 

 反応して振るわれようとしたナイフは、その刃を身体に食い込ませるどころか振るわれる前に静止。

 

 「我が投げ術、極意は先の先にあり」

 

 「このオヤジ!」

 

 足払いで組員の身体が宙に浮き、まるで子供がぬいぐるみを振り回すように大の大人が片手で宙に浮かび上がり振り回される。勢いをつけ、組員を投擲。ライフルを持つ二名を巻き込み壁に激突した。

 

 まだ無事なライフル持ちが次弾を慌てて装弾しようとしている間に、クダは次の武器持ちを狙う。シミターによる首を狙った薙ぎ払いを回避し、握られた拳で頭蓋と鼻、顎を殴打。速さのみで衝撃力が少ない連撃ではあるが、急所を三発撃ち抜く拳にシミターの組員がふらつく。

 

 そのまま首に手をかけ、背後から拘束。弾丸を装填したライフル持ちが銃口を向けるが、拘束した組員を盾にして向ける。

 

 「ほーれ、お仲間に風穴があくぞ」

 

 「人質かよ…卑怯だぞ!」

 

 「待て待て待て刺激するなってというか、撃つなよ撃つな!」

 

 動揺からか、銃口が微かに揺れたのを確認し腕に力を込めて盾にしていた組員の首をへし折る。

 

 「殺しやがった!」

 

 ライフル銃二丁、慌てたように発砲されるが僅かにでも先端を狂わせたら直線で飛ぶ飛び道具等当たらない。一階の隅に備え付けられていた長テーブルを掴み、強引に振り回し放り投げる。

 

 テーブルと壁に挟まれ、残りのライフル銃持ちも沈黙。手を軽く叩く。

 

 「それでもレガリアの一員名乗ってやがるのかぁ!もっと本気で来いガキどもぉ!」

 

 地下から、階上から、凶器を手に持った組員が現れる。クダは大きく両手を広げ、それを迎え撃った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木窓が破壊され、昏倒した組員の上半身が突き出てきた。そこから中を覗き込むと、多数の武器持ちや銃器持ち相手にクダが大立ち回りをしているのが見える。

 

 ガルデからの資料にて、デルの拠点に少数精鋭にて気取られないように襲撃をかける。その作戦じたいに特に思うところはない、俺が何故かその襲撃役に組み込まれていることを除けばだが。

 

 「館は今日も通常営業だよ。まあ君達三人いればなんとかなるだろうし、頑張ってねー」

 

 指示をとばしたエレミヤが笑顔で手を振りながら見送る姿を思い出す。調査と称してカジノで博打に励んでいたクダはともかく、エイラは仮眠を少し挟んだだけなのにもうやる気満々であった。

 

 館での夜勤、ともかく警備の副主任となれば通常業務だけでも相当ハードなのにどこからその体力が湧いてきているのか不思議でしかたない。愛の力だとでも言うつもりなのか。

 

 作戦は至極単純だった。ガタイがでかくて目立ち、制圧力のあるクダが正面から殴り込みをかける。注目がそこに集まっている間に別の入口からエイラが潜入し敵の首級をあげる。俺は取りあえず、裏側から逃げないように見張りをし場合によってはフォローに入るという訳だ。

 

 「敵の目がクダに向かった。遅くても三分で戻るから、そこであたしが手柄をあげてくるのを指をくわえて見ているんだな」

 

 「見ているもなにも、ここで見張っているから見れないんですが」

 

 「詰まらん奴だな。ああ、もし戻らなかったらその時は一時撤退しなよ。奇襲は、即効だからこそ意味がある。腐っても敵の拠点、ダラダラと時間をかければ全員が危険になるからね」

 

 エイラが裏口に回り込み、エイラの蹴りが扉のロックを蹴り破る。扉の向こう側は廊下となっており、銃器で武装した三人組と目が合った。大きな袋を背負っており、なにかを運び出している最中にも見える。

 

 「なっ…おま!」

 

 相手がなにかを言い切る前に、エイラが動く。飛び上がり側面の壁を蹴り勢いをつけた膝蹴りを一番近くにいた男に叩き込み着地。慌てて銃口を向けようとする二名の間を側転しながら抜け、背後に回る。

 

 振り向こうとした男の一人が顎が蹴り上げられ、宙に浮かび通路に倒れふした。息つく暇もなくもう一人にも連打を浴びせる。速さ重視の軽い拳であるが、顔面と喉元に計五発の乱打を喰らえばタダではすまない。怯んだ隙に股間を蹴り上げ、声にならない悲鳴と共に三人目も倒れた。

 

 「速い」

 

 エレミヤから聞いたことはあった。クダが投げ技の専門家なら、エイラは打撃戦、特に閉所での戦闘が得意分野だという。

 

 狭い通路や空間では、武器持ちが逆に不利になる。それを逆手にとり壁や天井等の行動を阻害する要素を逆に利用し敵を翻弄し打ち倒す。

 

 これはなにも建物内や室内だけではなく、場所によっては入り組んだ構造になっているこの経済特別区のあらゆる場所や港湾都市であるリスム内での戦闘でもいかんなく発揮することができるという。

 

 それでもフィジカルや単純に経験の差でクダの二番手として副主任という立場に甘んじているが、本来ならばどこにだしても一番手を狙える戦力であるのだ。

 

 「これを見ろ」

 

 エイラが気を失った男の袋から、瓶を取り出す。透明な液体が入っており、瓶にはなにも記入や記述はないがこの状況下で運び出そうとしていたのならこれがハーウェイから降ろされていた薬に間違いないだろう。

 

 「これは、もしかしたらレガリアとハーウェイの本格戦争の引き金になるかもね。やれやれ、蛇女は勝てると踏んでいるのかな」

 

 「少なくとも、こうならないと予想はしていない訳ではないとは思いますが…どうでしょう」

 

 「まあ少なくとも、あたしがやることには変わらない。エレミヤ様の敵対者は滅殺する。精々誰も逃げださないように見張っていろ」

 

 エイラがそういって、階段を昇っていく。大多数の戦力をクダが引き連れて、敵のボスをエイラが倒せばこの騒動も決着となるだろう。落とし前に関しては、上の人間同士で話し合ってくれればいい。

 

 しかし、こうして改めて規格外の二人を見ると自分の力の無さを実感できて辛い。素手で多数の敵相手に大立ち回りを行うクダと、素早さや柔軟性を持ち息つく暇なく複数人を無力化するエイラに比べ俺の技量はさしたるものではない。

 

 この三人だって、やれないことはなかったかもしれないが無傷ではすまないだろうし時間も食うだろう。

 

 「銃が、通用しない相手か」

 

 倒すべき敵は人型ではあるが、得体がしれないなにかに変化してしまっている。攻撃手段として銃を選ぶにしても、薄く広くでも良いから一撃で面としての攻撃ができるものが良い。近くによる必要があるというならば、足腰周りと間合いの詰めかたを学びなおす。その為に格闘技術を学ぶのは決して間違えていない筈だ。

 

 最初は借金の代わりだと思ったが、やはりここで二人の戦い方を吸収するのは遠回りに思えて案外目的の為の近道かもしれない。

 

 その為には、まず自分の役割をまっとうしよう。三分、彼女の宣言した時間通りに物事が進むことを祈りながら、ここに来る敵を迎え撃つ。ゆっくりと呼吸をする、一番楽な役回りを与えられた俺が、しくじる訳にはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 筋力、体格、体重。格闘戦においてあたしのなにもかもは男に劣っている。

 

 ならば必要なのは速さか。その回答としては間違ってはいないが正解でもない。

 

 筋肉達磨は鈍重、なんてことはまずほとんどない。結局のところ身体を瞬間的に動かすのは筋肉の増量は必要不可欠だ、つけるべき個所を見極める必要はあるが。

 

 なら必要なのはなにか、それは身体の柔軟性だと考えた。それと頭からつま先まで精密に動かす身体コントロール、意外と人間というのは自分の身体を思い通りに動かせていない。

 

 眼前に迫りくる刃を身体を後ろに折り曲げ回避、毎日かかさず行う柔軟運動により、間接を柔らかくした蹴り技で側頭部を抉る。死んでもおかしくはないが、生死確認をする程気になる訳でもない。

 

 この建物は三階建て、地下に一階もある。現在地は二階であるが、ここに残っていた連中は数が少なく特に労もなく制圧することができた。

 

 「クダに任せすぎかな」

 

 この程度の相手であれば何人いようが問題はない。

 

 幼少期から身体の柔軟性は高かった。それを活かす為に格闘技の道に進み、相手が誰であろうと何人だろうと特に苦労することなく蹂躙することができた。

 

 自分で言うのもなんだか容姿も、一般的な美人と呼ばれるものとはやや毛色が違うものも男にも女にもチヤホラされて生きてきたくらいには優れていると自負している。まあ男女関係或いは女同士の関係で長続きしたことはなかったが。

 

 だがここにきて、二人の高い障壁が目の前に立ち塞がった。一人はクダ=カンゼン。正面きっての戦闘で子供扱いされたのは、まだ武術の素人だったころ道場の指南役に手も足もでなかった頃以来である。

 

 急所狙いの一撃は的確に捌かれ、手数を増やして隙を作ろうとしたらそれがそのまま一撃必殺になる投げ技のチャンスを与えてしまうはめになった。急所狙い以外で、一撃で相手を沈黙させる手段が乏しいあたしには正直相性が最悪だ。

 

 警備主任の座を何度も狙いかすめとろうとしたが、その成果は一度たりともあがったことはない。

 

 もう一人の壁とは、雇い主であるエレミヤその人だ。多少人見知りでも異性愛者でも、声をかければそれなりの反応が返ってくる。幾度か繰り返せば、いつの間にか恋仲へとなることも容易であった。

 

 それがあれだけそっけなくされ、袖にされてたのは初めてだった。人生初の経験、屈辱的とすら言えた。

 

 あの二人を、片方は打倒しもう片方を恋に落としてこそあたしの人生における屈辱を拭いさることができる。そんなことを考えているからこそ、エレミヤ様にはそれを見透かられているのではないかと考えることもあるが…まあ、気にしても仕方がない。あたしは、あたしなのだから。

 

 そしてそこに現れたのは件の新人だ。エレミヤ様とは昔の知り合いらしいが、さらりと懐に入り込んできた。さらには、彼はクダにより確実に鍛えられている。

 

 戦えばまだあたしの方が強い、ただ彼は見た目以上にタフさと、あきらめの悪さがある。手合わせと称して少しばかり痛めつけようとしたが、いくら叩き伏せようとも立ち上がってくる執念のようなものには恐怖を覚えてしまった。だが必要以上に痛めつけてしまい、しばらく立ち上がれない身体にしてしまったのはいくらなんでも酷すぎたと今は反省している。

 

 超えるべき壁と、追いすがってくる後輩がいる職場。ストレスばかり溜まるものだと思っていたが、意外なことにそう悪い生活ではなかった。

 

 一つどころには留まらない生活をしていたが、これだけ長く同じ場所に滞在したのは、子供の頃を除けば初めてだった。それだけ、居心地が良い職場だ。

 

 だからこそ、あそこを攻撃してくる存在は許せない。敵対者とは、侵略者には全力で抗わせてもらう。

 

 階段を昇りながら周囲を警戒する。しばらく建物を監視し、デルがこの拠点から出た様子はなかった。ならば、だいたいお山の大将というのは高い場所に陣取るものだ。

 

 三階は幾つかの小部屋に入れる扉が見えるが、一番目立つのは最奥にあるバカでかい両開きの扉だ。扉を開けた瞬間、待ち構えていた銃によりハチの巣なんてことになりたくはない。

 

 狙われていると仮定をし射線が通らない隅により、拳で軽くノックをする。

 

 反応がない、ドアノブに触れてほんの僅か扉を押して開く。小さなドアが開く音のみが響くが、銃撃等が飛んでくることはなかった。

 

 不在の可能性を少し考えた、もしかしたら地下の方に避難通路のようなものを用意しておりそこから退避をしたのか。仮にもここはレガリア幹部が持つ拠点だ、その手の隠し通路があってもおかしくはないしハーウェンと裏取引をする際そんなものがあれば便利だからだ。

 

 だがなんにせよ、確認してからでないと引き下がれない。意を決して扉を蹴り開けて侵入する。

 

 中に飛び込んだ瞬間左右から息遣い。斧とハンマーの振り下ろしを前転して回避をし、床に手をつけ足を広げ逆立ちしながら回転蹴りを繰り出し顎に強打を加え昏倒させる。待ち伏せがあったことには驚かない。無い方が驚くというものだ。

 

 「たかが娼館の警備如きが俺の手駒を散々打ち破ってくれるとはな。お前等を褒めるべきか、部下の質の悪さを嘆くべきかどちらにしたら良いだろうか」

 

 「ここがレガリア本部だったらここまで容易くはないだろうね。それと渡り合うハーウェン、武闘派で鳴らしているデラウェラだったら更に酷い殺し合いになるだろう。要するに、君は部下の質を嘆くべきな方かな」

 

 「売女の蛮族に仕える尻尾を振る犬が、よく言うぜ。縊り殺してその首娼館に送り返してやる」

 

 デルが、一歩前に出る。百九十センチはありそうな大柄な男が手にする武器。部屋を照らす蝋燭の灯りを反射するのは、両手から生える鋼鉄製の四本の爪。

 

 一本一本をナイフのような斬れ味なるまで研いた、獣の武器を人間の拳に再現したクローが構えらえる。

 

 「ルアアァ!」

 

 突進からの薙ぎ払いを側転で回避し、壁を蹴り頭上から蹴り技を繰り出す。交差した爪により蹴りが防がれ、靴底を補強していた鉄具とかすれ火花が飛んだ。

 

 

 情報によると海賊時代から使っていた武器であるらしいが、流石に使い慣れてはいるようだ。蹴りを防がれた後連撃を繰り出してくるが、決して深追いをしないため回避をするだけでは隙をみいだせない。腐ってもレガリア幹部、やはりそれなりの実力を持ち合わせているようだ。

 

 大きく後退し、家具の近くに飛ぶ。椅子を足で絡ませ蹴り上げ、空中に浮かんだ椅子を相手に向けて蹴り飛ばす。

 

 「あめェ!」

 

 腕を交差させてからバツを描くように両腕を振るい、爪が飛んできた椅子をバラバラに引き裂いた。

 

 「どちらがだ?」

 

 だが椅子は、直接相手に当てる為のものではない。視界と注意を大幅に奪い、こちらが急速接近するのを気づかせない為だ。

 

 横薙ぎに爪が振られるが、スライディングをしながら懐に潜り込む。

 

 「あたしの間合いだ」

 

 睾丸狙いの一撃。当然相手はそれを警戒し護りを固めようとしたがそれは囮。防いだ一撃は想像以上に軽かったことに、デルは疑問に思うだろう。

 

 本命は、下半身に警戒がいき手薄となった上半身。肝臓を狙い拳を叩きこみ、体制が崩れたところに下腹部から額までかけて連続で拳打撃を叩きこむ。

 

 デルが吹き飛んだが、手応えがない。

 

 両腕を掲げ額と喉を抉る一撃を防がれた。肝臓から上半身にかけて連打で痛覚により怯ませ、隙だらけになった相手の喉と額を討ち抜き殺害する技だったが、それに繋げるための一撃一撃の威力が足りなかったか。

 

 「たいした…クソアマだな。徒手空拳でここまでやるとは、嘗めていた、娼館の警備にしておくにはもったいねえ実力だ」

 

 「殺し損ねたけど、格の違いは分かったんじゃないか?降参すれば、まあ死なないくらいの処罰ですむようお前等の頭に話しておこう。条件としては、先程のエレミヤ様を侮辱した言葉を取り下げることだ。無様に命乞いするなら許しても良い」

 

 「レズという噂は本当だったのか。これは驚いた…ならばやることは一つだな!」

 

 デルが立ち上がり、よろよろと壁に近づく。なにをするかは分からないが早々にぶちのめした方が良いのは確かだ。

 

 壁にかけられていた絵に、手をかける。額縁でも投げて来るのかと思ったが、手をかけた額縁が九十度回転し床が揺れ始めた。

 

 「追える度胸があるなら、追ってきな!」

 

 デルの足元にある床が開き、そこに滑り込むように逃走をしていった。

 

 駆け寄り覗き込んでみると、まるで滑り台のような斜面となっていた。ここからでは光が届かずに下がどうなっているのかは分からないが、いざという時の逃走経路だとしたら二階や一階に繋がっている訳がない。だとしたら地下だ、恐らくは地下牢や逃走用通路があるであろう場所に直通だと考えるのが一番しっくりくる。

 

 階段を経由して戻れば、逃れられるかもしれない。

 

 「三分、間に合うか?」

 

 飛び込み、滑り落ちる。一番下には着地用の衝撃吸収材が敷き詰められていた。

 

 牢獄が複数並んでいる。あちこちで照らされた蝋燭により灯に困らないが、現状目が届く範囲にデルの姿が見当たらない。

 

 「逃げても無駄だ!手間をかけさせるなよ三流ヤクザが!」

 

 「逃げる?もう既に、お前等が来た時点でレガリア本部からのバックアップも控えているんだろう?例え情報共有がなかったと仮定しても、この騒ぎが本部にバレない訳がない。こうなった時点で、俺はもう詰んでいる」

 

 「だったら何故こんな無様に逃げだした。お前も裏社会でそれなりに渡り歩いてきた者だろうが。引き際を弁えることくらいできる筈だ」

 

 「引き際だぁ?命乞いしたところで、ガルデは裏切者を決して許さない。例え命が助かっても、ハーウェンに命を狙われる。いや、ハーウェンにとって俺はもう切り捨てるべき駒なのだろう。だとしたら、露店通りでのあの騒ぎがおこることがなかった。薬の効果を確かめたなら、あとはレガリア同士で潰しあい戦力を潰し合わせれば手前の戦力と財布を削らずにレガリアに嫌がらせができるということだ。まったく、道化もいいところだったよ俺は」

 

 蝋燭の光が届かない奥から、デルが歩いてくる。片腕で女を捕まえ、その首筋に刃を添えていた。女の目は瞳孔が定まっておらず、口からなにかをぼそぼそと呟いている。全裸で手かせが片腕についており、複数ある痣と語るにもおぞましい行為をされた痕が見て取れた。

 

 「もう逃げ場も次もないとしたら、俺を追い詰めたお前を道ずれにすることに全力を尽くす。お前噂ではレズビアンなんだって?両刀という噂も聞いたことはあるが、どちらにせよこの現状、多少なりとも効果があるんじゃあないか?」

 

 デルが薄ら笑いを浮かべていた。

 

 こいつは、ゲスだ。やり方や末路はともかく、危険な橋を渡ってでも上を目指す心意気くらいは多少かっていたのだが、性根が腐りきっている。

 

 「ゲスめ」

 

 「おい!いるのは分かっている、出て来い!」

 

 デルが叫ぶ。一瞬ランザが隠れているのかと思ってしまったが、出てきたのはガラクタを積み重ねその隙間で布を被り隠れていた下っ端だった。

 

 「す、すまねえ兄貴。オレ死にたくなくて」

 

 「普段なら絶対ぶっ殺してやるところだが、今のお前はここにいたということで価値がある。ナイフくらいは持っているだろう!」

 

 「へ…へい!へへ、成程。オレが女を人質にとっておけばいいのでね」

 

 下品な、半ばやけくそじみた笑みを浮かべ下っ端が女の首ナイフを添えて後ろに下がる。あれが首筋にナイフをつきつけている限り、下手に動くことができない。

 

 「しかし、マジかお前。見ず知らずのヤク中くらい放っておけばいいのによぉ。あの女は借金まみれの屑だ。いくらレズでも見捨ててもあかまわないんじゃないか?」

 

 「………」

 

 「だんまりか、それはそれで選択肢としては嫌いじゃない。わざわざ俺の好奇心を満たす義理はお前にはないからな。だがしかし、大人しくはしていてもらおうっか!」

 

 腹部にデルのつま先が突き刺さる。腹筋に力を込めるが、衝撃を殺しきれる訳でもなく胃液を吐きそうになりながら床に転がった。

 

 「本当にやっかいなクソ女だよお前は、間違いなく俺より格上の戦闘力、それだけは認めてやるよ。こうして弱点つけなければ負けていた。だがしかし、こうして這いつくばる姿を見ているとあの世への土産というか、道ずれとしては上等にすぎる」

 

 デルの靴裏が腹部に突き刺さる。何度も踏みつられ、内臓が悲鳴をあげた。

 

 「殺す前に痛めつけて殺してやるよ。時間があるなら、最後に楽しむのもありかもしれないなぁ。両刀かレズビアンかは知らないが、本当のレズだったら男に挿入されるだけでも辛いだろう?」

 

 見上げたら、ズボンが盛り上がっていた。クソ、そんなところまでゲスなのかこいつは。

 

 「爪をつけたままズボンを降ろすつもりか?事故って傷つけてもげてしまえ」

 

 「例え死ぬ前でも、一物切断された死体なんざ笑い話にもなりゃしねえからな。まあいい、こいつを外すのも少々手間がかかる。あまり時間はかけられないから…」

 

 「時間か。三分どころか五分過ぎています。宣言よりかなり過ぎていますよ」

 

 「誰だ!?」

 

 デルが振り向く。後ろでは、ランザがナイフをつきつけていた下っ端を絞殺せんばかりに締め上げているところだった。手に握られていたナイフが床に落ち、乾いた音をたてる。

 

 「上にいったと思ったら地下にいる。どんな面白い動きをすればそうなるんですか」



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 散発的に表れる奴を何人かのしていたが、指定された時間を過ぎた。行動をなにかおこすべきかと考えていたが、なにやら階下が騒がしくなったことで様子を見に行くことにした。

 

 状況は、これ以上ない程分かりやすい。人質をとられているとはいえ、相手は見ず知らずの、様子を見る限り薬中毒になった女だ。見捨てても支障はないだろうに、ここで追い詰められてしまうのが彼女の良いところであり悪いところか。

 

 「大将首で相違ないな」

 

 「手柄でもほしいのか?ならこの首が手柄だ」

 

 デルがこちらに身体を向ける。元海賊だけあって、卑怯な手段を使うと同時に肝が座っているのか自身の首筋に鉄の爪を向けながら言ってきた。

 

 踏み込み、間合いを詰めて近距離まで詰め寄る。四本爪はリーチが優れているが、だからといって尻ごみしていてもしょうがない。

 

 スライディングをしながら足払いをかけるが、それを跳躍され回避される。足を回転させ螺旋蹴りを繰り出しながら立ち上がり、攻撃をさせない。

 

 だが立ち上がる直後、爪が顔面に向かい突きを繰り出される。四本の爪が額と頭脳を貫通する前に頭をそらすが、頬をかすめ血が噴き出るのが分かった。規約上武器を持てないが、盾になる鈍器がほしいところだ。

 

 リーチの差がモロに出ている。デルの連続攻撃を回避することは難しくない、と言いたいが衣服を斬り裂き肌が先程が裂けていくのを感じる。まだ体裁きの技術が足りないだろうが、実戦は達人になるまで待ってはくれないとこいうところか。

 

 いや、多分だがそれだけではない。戦い辛いのだ。

 

 牢獄が並ぶ地下という環境、狭い通路に剣や爪等は戦い辛いと思っていたがこいつは慣れているような気がする。懐に潜り込む隙をなかなかみいだせない。

 

 「っ」

 

 足元に転がっていた、小さな木桶に足を絡めとられる。隙をつかれ、逆袈裟の斬撃が腹部から肩口まで斬り裂かれ血が噴き出る。

 

 「惜しいな、一歩間合いが足りなかったか」

 

 「そのようだ」

 

 血が溢れだすが、戦えない程じゃない。間合いを少し離し、対峙する。

 

 「流石は海賊上がりか、狭い場所や足場が悪い場所での戦いは慣れているといったところか?」

 

 「船乗りじゃねえくせに語るじゃねえか。まあ間違いではないな、揺れる床や狭い船室、状況が悪いところでの戦闘は慣れている。少しクセーがここは俺のテリトリーって訳だ」

 

 「自分の得意なポジションに移動する為に、三階からここまで直通でいける隠し通路でも用意していたという訳だな。隠し通路を作っておく周到さに、結果的には失敗に終わりそうだが、成功か失敗か、下策か上策かはともかくある程度計画の道筋をたてて、実行する行動力もある。このままレガリアにいても、充分のし上がれる余地はあったんじゃないか?何故、危険な博打をうってでも寝返りを考えた」

 

 少なくともその行動力や、危機的状況でも部下の離反があまり見られていない統率力。同じことをしろと言われても、少なくとも俺には無理だろう。能力はある人間なんだとは思う。博打を打たずに、まだ積み上げていけるのではいかと疑問に思った。

 

 「……自分より能力があるものはいくらでもいる。俺は海賊船でそれを見た、こいつには勝てないと戦意が失せるようなな。現にそいつは、武装護衛船で資金を溜めこの経済特別区にて根を降ろした。だが、そいつはそこで守りに入っちまった。昇れる能力があるというのに、ヘタレちまったんだ」

 

 デルは、どこか寂しそうな顔を浮かべた。ついていくと決めた男が、中途半端なところで停滞していしまい、そこに満足をしてしまった。それに憤りと虚しさを感じたのだろうか。

 

 「俺達がどんどん拡張すれば、新参組織に隙を見せることはなかった。島で一番勢力が大きいと声高々に言えばするが、俺にとっちゃそれはなにもかもが半端な野望の残骸だ。ならば、俺は俺のやり方で縄張りを広げ、レガリアを打倒する。その時初めて、お前は間違っていたと頭に言うことができる。俺の進言を散々否定したアンタが間違いだとな。それで俺は、あの人に賭けた俺の人生を取り戻すことができるんだ」

 

 少し、分かるような気がする。冒険者時代、俺は女性でありながらリーダーである人物に憧れていた。半ば以上の忠誠を、抱いていた。その人がもし、護りにはいったら、危険を切り開くことに難色を示し始めたら。

 

 今ならば事情を考え、呑みこむことができるだろう。だが当時は、まあ若かった。そんなことを言えば、大なり小なり反発していたことは確かだろう。理想を抱いた相手には、理想のままでいてもらいたいのだ。

 

 幸か不幸か、いや不幸にもリーダーは最後まで俺の理想通りだった。その結末が悪竜との対峙、そして出来上がったのは彼女含めた仲間達の肉塊だ。

 

 「成程、まあ分からんでもない話だ」

 

 返答に難色を示したのか横になっているエイラの目が、きつくなっているのを感じる。取り敢えず心配はなさそうでなによりだ。

 

 「だがその感情に、アンタは他人を巻き込みすぎた。少なくとも、俺達を巻き込んだのは失策だったな」

 

 「ぬかせ、今度は首でもはねてやるよ」

 

 先程足をとられた桶を、蹴り飛ばす。顔面に向かう桶を爪が弾き飛ばし、木片が周囲に散らばった。

 

 視界が一秒封じられた隙に再度間合いを詰める。タイミングを合わせ迎え撃つように、デルは爪を構えた。袈裟斬り、首を跳ねると宣言したわりには今度こそ胴体を破壊し全てを終わらせるつもりだ。

 

 爪が振るわれるタイミングで横に飛び、壁を蹴る。いるべき場所から移動した対象物に当たることなく、爪は空を斬った。

 

 対クダ用に考えていた、間合い内での攻撃タイミングをずらす戦法。クダとの手合わせでは素直に攻めた攻撃は、回避されるか攻撃動作までに潰され、その直後に手痛い投げ技というカウンターが炸裂した。

 

 ならば考えるのはフェイント。それもなるべき勢いを殺さないよう、痛烈な一撃を叩きつける必要がある。

 

 案を考えるなかで一つに浮かんだのが、この壁を利用したバウンド。狭い通路や壁の近くでなければ使えないが、条件を満たす、今俺が思い付く中では数少ない手段だ。

 

 「ぬお!?」

 

 蹴りが顎をかすめる。デルはとっさに半歩のみだが後ろに下がりクリーンヒットを防いだ。だが、並行感覚が揺れているのかその足にはわずかにふらつきが見える。

 

 「デル、お前の行動力と野望は俺にはない。そこは尊敬すべきところだ。命まではとらないでやるよ、少なくとも俺はな」

 

 「お前にその気がなくても…俺には…後がねえんだああああああ!」

 

 最後の反撃を身をかがめて回避。素早さに陰りが見えた、顎を打ち付けられ脳が揺れているのだから当然だ。

 

 近接戦闘の間合いに入る。爪が振るわれる前に腕を掲げ、デルの二の腕を抑えの行動範囲を狭める。側頭部を殴り、体幹がぶれた身体を鉄格子に打ち付ける。

 

 間髪入れず、腕と胸倉を掴みよろけた身体を山積みされた樽に目掛けて投げ飛ばした。樽が砕け、内部の液体がぶちまけられる。赤い液体が床を濡らし、まるで大量の血が流れているようにも見えた。

 

 「上で争う音が途切れた。アンタには悪いが、クダに勝てる奴が早々いるとは思えない。降伏する気はないか?効果があるかどうかは分からんが、死なないように口添えくらいはしていやるよ」

 

 もっとも、組織の違う下っ端がなにを言おうが意味はないだろうが。

 

 デルがなんとか壁を背にしながら立ち上がる。身体がぐらついている為隙だらけだが、その目は死んでいなかった。

 

 「質問されてないが…教えてやるよ。この樽の中身が、レッドアイだ」

 

 「もしかして、例の話に出た麻薬の新薬か」

 

 「ああ…麻薬には気分が落ち着き陶酔状態になるロウと気分が高揚するハイがあるが、こいつは最初はロウで薬が切れかけるタイミングにハイになる効果がある。そして、中毒者が…薬が切れるタイミングに目が酷く充血し、視界が赤く染まる」

 

 「それが、赤い服の女の正体?」

 

 薬が切れかけるタイミングで、中毒者を娼館に向かわせる。ハイになった中毒者が暴れだし、赤い服の女がいると騒ぎ立てるのはそれのせいだったのか。

 

 幽霊騒動で経営が成り立たなくなるわけではないが、そんなことが続いてしまえば娼館内での薬物使用や何らかの危険行為が自ずと広がり評判を下げるだろう。親レガリア派であることを表明する立場、薬物使用は疑惑であってさえ二つの組織仲がこじれるのには充分だ。

 

 そこから次の策、次の策と用意をしまずレガリアという後ろ盾の信頼を失っていくエレミヤを料理するつもりだったか。

 

 「何故それをお前が俺に教える」

 

 「どうせ最後だ、ならばちっとでも共感みたいなものを示してくれたお前に手柄を渡してやろうと思ってな。どうせもう、島から生きてでられない身だ」

 

 壁にかけられていたランタンをデルが手にもった。それを思いきり血の泉のようなレッドアイの中に叩きつける。

 

 まるで泉が、鯨油のように火が凄まじい勢いで燃え上がった。当然レッドアイにまみれたデルの身体も炎に包まれ、薄暗い牢獄ないがオレンジ色の光が広がる。

 

 「おい!」

 

 「頭に…伝えろ……ハーウェンの蛇女を……甘くみるなと。これはやつにとって…遊び……だ」

 

 炎にまみれたクダが、最後まで叫びだしたいだろう熱量を我慢して俺に伝えてきた。呼吸器を燃え広がる炎が焼いたのか、最後にはなにも喋ることができなくなり膝をついてその場に倒れふせる。

 

 「……」

 

 デル。こいつは悪党だし裏切者だし、褒めらえた人間ではないことは確かだ。だが、俺にはどこかこいつを嫌いになれない部分があった。

 

 俺は最後まで盲目的に、冒険者時代のリーダーに従った。彼女の行いや言動は全て正しいと信じ込んだ。しかし、こいつは正しかろうが間違いだろうが反旗を翻すだけの気骨があった。俺には、デルを心底軽蔑することができない。

 

 「……あ」

 

 しばらく呆然としていたが、気付いてしまった。

 

 よく見たら、あっちに樽、こっちに樽。樽、樽樽樽。樽。全部可燃物だとしたら?

 

 「まっずい!」

 

 薬中の女を肩で抱え、エイラに近づく。

 

 「この地下牢、あれ全部レッドアイだとしたら燃え広がりえらいことになります!抱えますけど、良いですか!」

 

 痛めつけられたダメージが残っているのか、エイラは上手く話せないようだったが。ようやく気付いたかというような視線を向けて来る。それに関しては、面目ない。本気で。

 

 成人女性を二人担いで、階段を目指す。流石にいささかしんどすぎる。すぐ背後では、火が勢いを増す音が聞こえた。

 

 「両手に華だな。羨ましくはねぇが」

 

 階段から降りて来たクダが、冗談を飛ばしてきた。かすり傷はついているようだが、裏社会の構成員複数人相手にこの程度ですませてしまうのはやはり、この男は常識外れだ。

 

 「片方持ってくれると助かる。特にこっちの、今にも噛みついてきそうな方を」

 

 「噛みつかれてたくはないから遠慮をしておこう。そちらのお嬢さんをよこせ、それでなんとかあがれるだろう」

 

 煙により身体が動かなくなる前に出るしかない。エイラを預かってほしかったが、やむおえないか。

 

 クダが中毒の女性をお姫様だっこで軽々抱え、階段を昇る。そのあとをエイラに肩を貸しながら、地下牢を退避する。

 

 燃え広がる、レッドアイ。何故デルが麻薬に火をつけたのか。

 

 例え離反を企てた組織とはいえ、レガリアは反違法薬物を看板に掲げている。そのおかげで三組織の中では掲げる大盾や治安組織からはある程度見逃されているふしがある。レガリアよりも、ハーウェンの方がよほど過激で危険だからだ。

 

 だがしかし、例え一組織からでも違法薬物を使用した痕跡がでてきたらどうだろうか。レガリアにもこれまで以上に治安組織などから監視の目を向けられるだろう。最後にそれを防いだのかもしれない。

 

 もっとも、自殺をするのに丁度いいだけだったかもしれないが、最後にレガリアの為を思いレッドアイをわざわざ焼き払ったと考えるのは些かロマンチストすぎるかもしれない。

 

 地下から這い出て、外に出ると。レガリアからの構成員が周囲に詰めていた。デルの部下は拘束されたうえで外に出されており、火事に巻き込まれた奴はいなさそうだ。

 

 ……一人いた。地下にこの中毒になった女にナイフを突きつけていたやつ。あいつはそのまま燃えただろう。一階で戦っていれば、クダにのされたうえで外に引きずりだされ生き延びる芽があったかもしれないが。

 

 火の手が周りが早く、一階も燃え広がり始めていた。このまま火事が広がれば危険だということで、レガリアの構成員達が消化活動にあたっている。

 

 中毒になった女性を、療養施設に送るということでレガリアの構成員に預け身軽になった。意識不明の原因が、薬物にあったとすれば彼女やこれまでの重傷者を様子を見ながら治療薬が作られていくだろうか。レッドアイのサンプルがあれば良かっただろうが、それの確保には失敗してしまった。

 

 「もう、こちらのやることは残っていないだろう。エイラを休ませたいし、お前の治療もしなければならない。舘に戻ろう」

 

 「ああ…だがクダ。先に行ってくれ。ここで止血の道具だけ借りて、応急処置をしてから俺は戻る」

 

 「そうか、なるべく早くな」

 

 クダがエイラを抱えたまま立ち去った。レッドアイ、自殺したデル。俺も舘に戻り報告をしなければならない。

 

 止血のための包帯と布を借りて、応急処置のみをすませる。

 

 火の手から離れるように歩き始め、曲がり角を曲がろうとした瞬間、俺は息を飲んだ。

 

 女がいた。暗闇のなか、赤い服を着て、顔が潰されているような、まるで黒いクレヨンでぐしゃぐしゃに塗りつぶしたのような表情の分からない女がいた。

 

 しばらく女と俺は、対峙をする。

 

 「……俺は幽霊なんて、信じてない。お前は多分、島に昔からいる未確認の種族かなにかなんだろう」

 

 女は、答えない。ただ黙ったまま、こちらを眺めているだけだった。

 

 「そうだと言ってくれよ。幽霊なんざ、この世にはいないんだ」

 

 痛みからではない、たが自然と涙腺から涙があふれてくる。呼吸が苦しくなり、身体が脱力感に襲われる。思わず近くの壁に腕をついた、前に歩きだそうとしたが、足が崩れその場にうずくまってしまう。

 

 「だって」

 

 幽霊なんて、いる訳がない。

 

 「そうじゃねえかよ」

 

 俺が幽霊なんて存在を、認める訳にはいかない。

 

 「この世に幽霊なんているのなら、なんでアリアとミーナは、俺の妻と子供は俺の前に出て来てくれないんだよ」

 

 幽霊は、この世に強い未練を残した者がなると言われている。

 

 表情は鉄面皮、クールで何事もそつなくこなしそうに見えて実はドジで騙されやすくて、目を離すことができないが誰よりも優しかったアリア。これからが育ち盛りの可愛い時期で、俺とアリアどちらに似ているか、それを楽しみにしながら成長を見守りたかったミーナ。

 

 彼女達は、殺された。ミーナを護ろうとしたアリア。なによりも大切だったミーナ。

 

 テンは、俺の家族だった女は、斧で無残に惨殺した。

 

 何故だ、どうしてだと、今でもあの瞬間を夢で見て俺は叫んでいる。テンは薄ら笑いを浮かべ、人外になった姿と幼い姿の両方で俺をただにやけ面で見ていた。

 

 「何故!」

 

 テンが何故二人を殺したのか、アリアとミーナは殺されるようなことをしてしまったのか。

 

 いや、理由を知りたいだけじゃない。幽霊でも亡霊でも、怨霊でもなんでも良いから俺の前に出て来てほしかった。もう一度でもいい、二人に会いたい、会いたくてしかたない。

 

 だが二人は出て来てくれない。当たり前だ、この世には幽霊も怨霊もいないのだから。いると認めてしまえば、俺自身が我慢ができない、壊れてしまう。会いたい、会いたい、でも会えないのだから仕方ない。その前提を、俺が壊す訳にはいかない。

 

 肩に、手をおかれたような気がした。目の前の赤い服の女かもしれないが、俺は顔を、あげられなかった。

 

 「どうして!」

 

 お前が本当に幽霊ならば、教えてくれ。何故二人は俺の前に来てくれないのか。別れの言葉一つ、かわせないのか。

 

 墓場の前でいくら慟哭しようと、泣きじゃくろうと、分かれを呟こうと、相手に伝わることは二度とない。お互い言葉をかわし、ただの一言でもさよならを言い合えればどれだけこの気持ちはマシになるだろう。

 

 だがそれは許せされない。二人は来て、現れてくれないのだから。

 

 だから許さない。俺の最愛の人を奪ったテンを、許さない。俺の大事な宝物を、殺したテンを許せない。

 

 必ず、殺してやる。必ず、必ずだ。お前のおかげだ、赤い服の女。俺のこの気持ちは、この経済特別区において足をとどめている最中であっても憎悪を再確認することができた。

 

 涙が枯れ、立ち上がる頃には女は消えていた。傷の痛みも、感じなかった。ただ、目の前に向け歩き始める。俺は、なんおためのこの島にいるのかを思い出せ。

 

 「テンを殺す。化物を殺す為には、手段がいくらあっても足りないことはない」

 

 軽量性で頑丈さを兼ね揃えた衣服。ライフル銃のように点ではなく面を破壊する銃器。どんな相手にも十全に立ち回ることができる足さばきと体裁き。全ての武装や手段を封じられたとしても、戦闘を続けるための格闘術。

 

 エレミヤの娼館で金と経験を稼ぎ、その全てを手に入れる。俺が目指す、最後の局面。テンを殺し、二人の墓に報告をするという自己満足のために。

 

 死者の霊等存在しない。全ては俺自身の為だ。俺は全てを賭けて、この自己満足を完遂してみせる。

 

 火事の灯から離れ、暗闇に消えていく。この道の先が、夜の闇のごとく困難でおぞましかろうと進むしかないのだ。

 

 それが俺の、生きる道なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハーウェンとレガリアがどのように話し合いをつけたのか、エレミヤはレッドアイの問題をどう片付けたのか。

 

 それは、もう俺の関与するところではなかった。

 

 「びびるな!まだ踏み込みが浅い!」

 

 目の前で対峙するエイラの怒声が響く。びびっていたつもりはなかったが、まだ身体が痛み対する恐怖で出遅れたか。

 

 踏み込めなかった分のカウンターの拳が、頬にのめりこんだ。倒れず踏みとどまるが、強烈な一撃だ。

 

 回復し復帰をしたエイラに、俺は地面に額を打ち込んで頼み込んだ。デルに後れをとったとはいえ、人質をとられていたという理由があってこそだ。流麗な格闘術を全てマスターはできないだろうが、それに近いところまではなんとしても身に着けたい。

 

 『本意ではないが、助けてもらったことは確かだし…』と不承不承エイラは言うが、その訓練はやはり過激だった。具体的にいうと容赦がないが、それが逆にありがたい。

 

 「クダのように待ちに徹しても勝てるのは一流だけだ、三流のお前が攻めてに転じないで、ペースを握られ勝てると思ってるの?自惚れるな!」

 

 「はい!もう一本願います!」

 

 以前のサンドバッグにするためだけの手合わせではなく、本格的にエイラも訓練に付き合ってくれるようになったおかげで足りないものを補完するかのように俺自身が強くなっているのが分かる。

 

 クダのように投げ技の達人になるように、エイラのように柔軟さと速さで戦えるようになるには時間が足りなすぎる。ならば、二人から教わりその中間となるスタイルを確立することはできないか。それを目指すことを、当面の目標とした。

 

 エイラからの連打を捌き、足払いをかけるがそれを横へのスウェイでかわされる。頬に向けた一撃を防ぐが、軽い。その直後腹部に衝撃、本命のストレートが突き刺さる。

 

 「相手の狙いをよく考えてないから、そうなる!うずくまっている暇はないぞ!」

 

 「っ…はい!」

 

 そんな日々を送ることで、復讐の炎は落ち着くことがなかった。

 

 日々に忙殺され、復讐心は落ち着き心の整理がつくだろうかとも思ったこともあったが、測らずともあの正体不明の女が燃料をくべてくれることになった。

 

 テンを必ず殺す。その為に、俺はこの舘での日々を過ごすことを、契約ではなく自分の意思で決めたのだ。

 

 もう、迷うことはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お前のおかげだよ、俺はあの日々で、感情が状況に埋没することがなくなった」

 

 浜辺にて現れた女は、あの日と寸分たがわぬ姿をしていた。今でもこいつが幽霊なのか、そうじゃな新種のような存在なのかは分からない。だがどうでも良い。

 

 「ある意味アンタはこの島にいる俺のもう一人の恩人だ。だがなにをしにきたんだ、なにか俺にしてほしいことでもあったのか」

 

 女は首を左右に振った。しばらくそうしていると、女はこちらに近づいてくる。

 

 互いになにをするでもなく、すれ違う。肩をまた叩かれたような感覚。だが振り向くと、女はもう消えていた。

 

 「アンタは幽霊じゃない。俺はそんな存在、今でも信じない」

 

 誰もいない空間に向け話しかける。

 

 「だが全部終わったら、アンタの為になんかやっても良いかもな。幽霊じゃないとか思いつつも、慰霊碑くらいは作ってやろうか」

 

 あの女の行動も、目的も、なにも分からない。だがしかし、この島には確かに存在する謎の女。なにか目的があるからこそ、でてきているのかもしれない。全てが終わったら、その謎を解き明かしても良いだろう。

 

 三人が向かった、保養施設に向かう。傷が癒えた身体の調子も上々だ、クーラも水泳を覚えたし、そろそろ行動を再開しても良いだろう。

 

 「失礼」

 

 建物に入る前に、声をかけられる。そこにいたのは、剣や銃を腰にぶら下げた三人の護衛を連れた中年の男性だった。見覚えのない顔だ。

 

 「ランザ=ランテ様で」

 

 「……そうだが」

 

 「私は帝都、災害対策本部の調査員ガルシア=ニコライです。モスコー事件、そしてリスムの巨人事件の話をお聞きしたいと願い参上いたしました。お話を、聞かせてもらっても良いですかな?」

 

 中年はほほ笑んだが、目が笑っていなかった。こういう顔をするやつは、ロクな奴がいない。



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帝都へ


 「どうぞ」

 

 「いやいや、お食事前に申し訳ありませんねぇ。突然の訪問、お許しください」

 

 長椅子に座るガルシアに暖かい紅茶が出される。ガルシアの後ろには護衛が二人直立不動の姿勢で立っており、威圧感があった。もう一人は、外で待機をしている。

 

 こちらは一人のみ。エレミヤやクーラには別室にいてもらっている。紅茶をだしてくれたエレミヤの警備隊長は一礼をして、退室いった。

 

 「これは美味しいですなぁ。私紅茶には疎い方ではありますが、味の良し悪しくらいは分かりますよ。流石に良い茶葉を使っておられる」

 

 社交辞令を口に述べながら、さてさてとこちらに向き直った。視線が細くなったのを感じる。

 

 「いやしかしランザさん、貴方も災難でしたなぁ。モスコーの食屍鬼騒動に、リスムの巨人騒ぎ、立て続けに危険なめにあうとは」

 

 帝都災害対策本部、或いは災害対策室。帝国にとってありとあらゆる災害の予兆を調査し、未然に防ぐことやおこった災害に対する情報収集を行う部署として知られている。

 

 かの高名な竜狩り隊が所属をしていることから、その活動範囲は自然災害の類に囚われず竜やその他危険性物に対する対抗や、他国からの防諜のような役割まで担っていると言われている。

 

 噂では、民間組織や治安維持組織では対抗できない大規模犯罪組織や危険思想の個人を捕縛または殺害する部署まであると言われている。

 

 活動について、記憶に新しいところではかの海竜討伐のさい主導となったのは帝国だがその主力としての中核は竜狩りの連中が絡んでいると言われているそうだ。

 

 「人生、ツキのない時もあるもんですよ」

 

 「言えていますなぁ。いや実はこう見えて私、妻と子供がおりましてね。子供にのびのび育ってほしいと、その資金の為に一念発起して外国から輸入される果実の取引に一枚噛んでみたんですがね、なんと船が沈没してしまい金をかけた分が全ておじゃんですよ。いやはや、ツキが無い時におもいきったことをするものではありませんなぁ」

 

 「それはまあ、ご愁傷さまです」

 

 にこにこしながらまったく関係ない話を挟んでくる。

 

 リスム自治州でおきた内容である為、まだ探りを入れつつの対応になるのか?これが帝国内でおこった事件や、俺が帝国民だとしたらもっと直接的にくるのだろうか。

 

 「時にランザさんは、冒険者ギルドに所属しているとか。それも過酷な、本物の危険な冒険が行われていた時代から。その後に一度、引退をされているが最近また複帰しているようですね」

 

 こちらの素性は、調べているということか。これはますます、二つの事件に偶々関わった人間に対する聞き込みではないようだな。

 

 「モスコーの冒険者ギルドには、寄られましたか?当時のモスコーは祭りの真っ最中でしたからねぇ、臨時の雑務が依頼としてだされたり、格安の宿を目当てに詰めていたギルドの所属員達も多かった」

 

 紅茶の杯を片手に、ガルシアの目が細く鋭く尖る。

 

 「モスコーの冒険者ギルドは壊滅しました。そのことはご存じで?」

 

 「ええ、街で騒動がおこった際真っ先に向かいました。たどり着いた頃には、もう職員や冒険者達は死んだか動く屍になっていました」

 

 「貴方はその後どうされましたか?」

 

 「冒険者ギルドから飛び立つなにかを見ました。それと追いかけていこうとしたら、辺境警備隊や難を逃れたギルドの生き残り、街に訪れていた戦闘の心得のある者と合流したのでしばらく共闘をしました」

 

 飛び立つなにかを見たという嘘を一つだけ混ぜる。冒険者ギルドは、サグレが早い段階で襲撃をした施設だ。俺がたどり着いた頃には、とっくにサグレの姿はなく動く屍と死体のみの状況だった。

 

 サグレの名誉と、俺自身の保身為に彼女のことは話せない。彼女が自殺をし損ね、俺が殺してやれなかったことでおこった事件なのだ。この事実は、隠し通しておきたい。

 

 「おお、成程。それで貴方は、その場にいた使役獣の使い手に、今回の元凶が飛んでいった方向を話して連れていってもらった訳ですね。モスコーで生き残っていた、使役獣使いのお仲間様がそのようなことを話していたと記憶しておりました。その飛んでいった先が、モスコーの古城だったと。それで、飛び去った何者かはいたのですか?」

 

 「いえ、ただ争いの後のみがありました」

 

 あの戦い、サグレの隙をついてギリギリ勝利をおさめたものの、こちらとしては出せるものはほぼ全て出し尽くした死闘だった。

 

 ジークリンデもフルに活用して、吸血鬼に勝利をしました等口が裂けても言えるものではない。ジークリンデの力とは、竜の力だ。こいつらの背後に情報が渡ってみれば、面倒なことになるのは間違いない。

 

 だからといって、ただの人間が道具も頭数も事前準備もなく吸血鬼に勝てる訳がない。俺はそこまで英雄的な力を持っている訳ではない。

 

 サグレの遺体は、ベレーザと共に山の中に埋葬をした。死体が残っていないということは、俺がたどり着いた頃にはなにも残っていなかったといってもまあ、恐らくは矛盾はない筈である。

 

 「信じ難い話ではありますがね、ランザさん。我々としてはモスコーの騒動は現代に蘇った伝説、吸血鬼の可能性が高いと踏んでいるのですよ。かの生物が伝承通りの存在であるならば、我々対策室としては野放しにはできません。理解してくださいますか?」

 

 「帝国国民ではありませんが、災害対策本部の噂はかねがね。苦労されているのではないかと、想像はしております」

 

 「ではそれを踏まえて、聞かせていただきたい。吸血鬼はどこに消えたのですか?ランザさん、二つだけどうにも我々にも腑に落ちないことがあるのですよ」

 

 「と、言いますと?」

 

 ガルシアが杯の中身を呑み干す。小さな音をたてて、杯が受け皿の上に戻された。顔は相変わらず柔和であるが、それだからこそ不気味な雰囲気で穏やかに言葉を続ける。

 

 「かの使役獣使いですが、彼とその魔獣はまるで怪腕で引き裂かれたかのように絶命しておりました。とても、人間や食屍鬼の仕業とは思えません。あんな真似ができるとなれば、豚鬼以上の腕力と傷の大きさから、信じられないことにそれに半比例する細腕が必要になります。ランザさん、貴方がいた時にはまだ吸血鬼はいたのではないのですか?彼、或いは彼女が魔獣とその使い手を殺害した」

 

 「亡くなったのは、残念な話です。彼とは自己紹介もロクにしませんでしたが、死んだ事実には心を痛めました。モスコーの古城は、規模の話をすれば比較的小規模かもしれませんがやはり城は城です。元凶を探す為に、二手に分かれました。それきりです、彼が吸血鬼を見つけてしまい殺害され、吸血鬼はその場を飛び去ったのではないのですか?」

 

 「かもしれませんね。ああ、それと我々としてはもう一つ気になることがあるのですよ」

 

 「気になることとは?」

 

 「貴方が向かったモスコーの古城ですが、戦闘の跡がみられました。ですがその戦闘というのが、なかなかに奇妙なものでしてね。例えばですが古城の一部はまるで抉られているような跡がみられました。鋭利な刃が凄まじい力で壁を削り付けたようなね。我々としては、今は行方不明の吸血鬼よりはそちらの方が気になるのです」

 

 心当たりがあるかどうかと言われれば、ありというしかない。ジークリンデの連結刃の威力は、有象無象に使えば雑に殲滅できる威力がある。例えばキラービーをクイーンごと斬殺した時のようにだ。

 

 その分、人目につくところでは使えない。悪竜の伝承を知らずとも、異物のような力であるとは誰でも予想がつくからだ。隣国の事件ということで調査に訪れた災害対策室の連中から注目されるのは致し方ないことか。

 

 しかし、あの場ではジークリンデの連結刃を十二分の活用しなくては生き延びることはできなかった。痛し痒しか。

 

 「ランザさんもご覧になりましたか?たどり着いた頃には、全てが終わっているというのなら、その跡をご覧になったことは?」

 

 「全てではないかもしれませんが、多少は。吸血鬼とはかくも化物なのかと驚愕したものですが」

 

 「その化物と相対する別の化物が存在いたということですよ、ランザさん。心当たりは本当にありませんか?」

 

 穏やかな質問であるが、感じるのは重いプレッシャー。他国の人間に強く出れていないだけで、これは尋問だ、間違いなく。

 

 一問一答、返事を誤れないことは分かってはいるが、この手の会話は得意な方ではない。ボロをださないように気をつけなければ。

 

 「私にはなにも。ただ荒れた古城といくばくかの戦闘の後、血痕くらいしか見れませんでしたよ」

 

 「現場には多量の出血あとがみられたりもしました、人一人バラバラになったような派手な飛び散りようでしたが肉片すら落ちていません。何者かに持ち去られた可能性すらあるのですよ。吸血鬼か、それに相対した化物か、何者かが地に潜っているのです」

 

 「そんな相手に鉢合わせしなくて、良かったと思っていますよ。あの時は異常事態すぎて、ギルドを壊滅させた相手を追いかけるなんて無茶をしたと今では思います。こうして生存しているのは、あの時なにも見ていなかったから、それ以上は話せることはないのですが」

 

 二人の間で沈黙が流れる。重苦しい空気に、肩の力を抜くこともできない。

 

 「そうですか。良いでしょう、モスコーの件についてはそれ以上は今は聞きません」

 

 「今は、ですか」

 

 「ええ、調査が進めばまたお話を伺うこともあるかもしれませんからね」

 

 さて、とガルシアが明るく言い空気を換えようとした。温度差が激しくて、思わずこちらも肩の力を抜いてしまうところだった。

 

 「リスムの巨人事件。痛々しい事件でした、リスムの港湾都市はかなりの被害をこうむっております、人命に対しては言わずもがなでありますが、建造物に対しての被害で考えてしばらくは家を失った者や職を無くした者が大勢でています」

 

 「モスコーの救援活動で戦えるものの人出が裂かれたのが被害を拡大してしまいました。せめて掲げる大盾のメンバーがそろっていれば、民衆の犠牲を抑えられたかもしれませんが」

 

 「そうですね。さてでは、その巨人がどこから出て来たかはご存知ですか?まあこれはもう噂でかなり出回っていますし、ご存知でも不思議ではありませんね」

 

 「ええ、ノックの山から現れたのですよね」

 

 ノックから脱出した際巨人が抜き出た山の一角を見た。今まで見たどの人妖よりも異質、恐らく昔から人を吸い続け力を蓄えたのだろう。まるで自然が驚異として形をもった痕を見ていたようだった。

 

 あれはノックの森林道から見ても充分見える。知っていても、問題はないだろう。

 

 「こんな話をご存知ですか?事件がおこるしばらく前からまことしやかにあの山にはエルフが出現すると言われていました。調査によって浮き彫りになったのですが、あのノックの山や付近の道では行方不明者が出ているようであり、帝都側の商人組合やリスム側の冒険者ギルドと情報の調査や精査、統合をするとかなりの人数が行方不明になっていることがうかがえました。これはご存知でしたか?」

 

 「そう言われましても。エルフがでるという噂じたい、初めて知ったのですが」

 

 「そうですか。ではあの事件があった日、何故リスムの山道で貴方によく似た人物が目撃されているのですか?」

 

 あの日、確かに行商人とその護衛達とすれ違った。彼等を見つけ、話しを聞いたということか。

 

 これはどうするか、よく似た別人だと嘘をつくか。いや、向こうは恐らくモスコー事件と巨人事件で注目すべきポイント二か所にいた俺という存在に完全に目星をつけている。どうするか。

 

 「ランザさん、正直に話してもらえますか?リスムから帝都方面への道を進んだ貴方は、帝都の国境を通過したり近づいたという証言はとれていないのですよ。ならば、貴方は件の山に入った可能性が高い。そして、あの山には干からびちゃいたがエルフの死体もそれなりの量見つかっています。大半は化物、人妖の仕業でありますが、中には人為的な傷で殺された死体もあった」

 

 「ノックの山は、ハイキングにも向いている道があります。少し自然を満喫しにいったといっても、信じてもらえるでしょうか」

 

 「ええ、信じますよ、信じますとも」

 

 信じていない目だ。厄介な連中に目をつけられたものだ。自治州とはいえ他国でおこった事件を、ここまで早い段階で俺と言う重要参考人を炙り出すまで調査をしたというのか。だが他国の人間だという事情を抜きにしても強制連行されないということを考えても、まだ俺は黒に近いグレー、なにかを知っている可能性が高い人間だということくらいしか掴んではいない筈だ。

 

 「では貴方は、エルフや行方不明者続出の噂も知らずにただ自然を満喫しにいったと。お一人で」

 

 あの時クーラには、見つからないように姿を隠しながら尾行してもらっていた、あの場に彼女がいたということは知られてはいない。

 

 「ええ、少し酷い思いをモスコーでしましたから、少し自然に癒されたいと思いましてね」

 

 「モスコーではお連れ様がいたようですね。彼女を連れてはいかなかったのですか?」

 

 「山登りやハイキングは、私の気分転換です。連れはその手の趣味はなかったものですから」

 

 ガルシアが唇を歪ませる。また少し沈黙が続くと思ったが、ガルシアが笑みを浮かべた。

 

 「いやはやそうでしたか。エルフの集落と交戦経験がある貴方が、エルフの存在を嗅ぎつけたのかなぁなんて面白い推理が頭を浮かんでいたのですがね」

 

 「あまり、良い思い出ではないです」

 

 「そうでしたか、失礼しました。ああ、そうだそうだ。先程の口ぶりから察したかもしれませんが、冒険者ギルド時代の貴方の経歴も調べさせていただいたのですよ。とある遺跡にて、お仲間を全て失った。その遺跡ですがね、今では開拓も進んで、護衛さえ雇えば研究者達もなんとか頑張れば行けるくらいにはなったのですよ、ご存知ですか?」

 

 背中に嫌な汗が流れ始めた。こいつ、急になにを言い出すつもりだ。

 

 「いやあ、考古学というのはロマンがありますね。これは私の趣味で、過去に資料を取り寄せたのですよ。昔の人がなにを思いなにを考え、そこで暮らし信仰をしていたのか興味が尽きないものですから。偶然ですがねぇ、その資料の中には悪竜ジークリンデを恐れ敬い、同時に封印することを模索していた一族の祭壇兼研究施設のようなものが見つかったことが書かれていました。ランザさん、貴方が最後に訪れた遺跡ですよ。そこで仲間が全員殺され、三番探索隊はただ一人を除いて全滅をした」

 

 表情筋が引きつりそうになる。あの光景を他者から聞かされて、脳裏によぎるのは残酷な映像だ。表情を、崩せず保てなくなるかもしれない。

 

 「そこにはなにやら、恐ろしい魔獣がいたと当時の報告には書かれていましたな。魔獣はどこかに消えてしまったと。まるでおぞましい刃のようなものが、壁面を抉り地面を穿ち、それはまるであのモスコーでの壁にできた傷によく似た…」

 

 「やめてくれ!」

 

 テーブルを叩きつけて立ち上がってしまった。即座に護衛二人が動き、首筋と胸元に瞬時に刃が突き付けられる。

 

 「おい、大丈夫だ、やめろ。刃をおさめろ」

 

 ガルシアが手をあげ、護衛を静止する。

 

 「狙われているぞ」

 

 護衛の一人と俺が、ハッと部屋の角を見た。

 

 クーラが、天井の僅かな装飾品や壁のくぼみに手や足をかけ、ルーガルーの刃を口に加えているのが見えた。異様な雰囲気に、飛び込んできたのか。それでもこの男、護衛や俺でも気づくのが遅れたクーラに瞬時に気が付いてみせた。ただの調査員じゃない。

 

 「はぁ…すいませんねぇランザさん。貴方の古傷を抉ってしまったようだ、その点に関しては謝罪をします」

 

 ガルシアが頭を下げる。俺が腰を降ろしたのと同時に、護衛二人が剣を収めて元に位置に戻った。

 

 クーラに視線で合図をすると、彼女も少し悩まし気に頷き着地をし、護衛達に威嚇をしながら俺の隣まで歩み寄る。

 

 「ランザさん、腹芸はなしにしますよ。貴方にはなにかがあると睨んでおります。それももしかしたら、とんでもない秘密を隠しているのではないかとね」

 

 威嚇するクーラには目もくれず、穏やかな顔にガルシアは語る。自然と、膝の上で拳に力が込められるを感じた。

 

 「まだそれがなんなのかは、憶測の域を出ず測りかねています。しかい、私の勘が正しいのであればその秘密はいずれ周囲を全て巻き込んで破滅する類のものです。ここは一つ、対策室として我々にお話しをしていただけないでしょうか。我々は、噂程非情な組織ではないと自負をしているつもりです」

 

 「お断りいたします。私には、貴方がなにを言いたいのかはさっぱり分からない」

 

 認めるのは悔しいが、ジークリンデの力はテンを倒すには必要不可欠となる。さらには俺の身体の中にはもう既に、悪竜の一部が入り込んでいる。こいつらにとっては、災害の芽であると同時に研究対象にもされかねない。そんなことになれば、テンを追うことすら不可能になる。

 

 「困りましたね。今を逃せば、次我々が貴方の前に現れる時はそれこそこちらも引くことのできない確信をもった情報を抱えて訪れることとなる。そうなれば、貴方は身の破滅は免れませんよ」

 

 「帝国の方の冗談は恐ろしいですね。しかし、身に覚えのないことで連れていかれることはできません」

 

 「分かりました。平和的な解決は、我々の間では望めないかもしれませんね」

 

 ガルシアが立ち上がる。服装をただし、出口の方へ向かっていった。

 

 「ああ、そうだ」

 

 出ていく前に振り替える。護衛二人の間で、ガルシアは口を開いた。

 

 「かの遺跡は、悪竜ジークリンデに関する遺跡なのは間違いがない。もしもかの悪竜に縁があるならば…こう伝えておいてもらってもよろしいでしょうか」

 

 ガルシアの目が細く鋭い刃のように尖る。傍らにいたクーラが、緊張感からか尻尾を膨らませピンとたてていた。

 

 「死にぞこないの時代遅れは、今の世の中には不要だと。今度は確実に息の根を止めると、そう伝えてください」

 

 扉が開き、僅かな風を室内にいれてしまる。しばらくしてから、クーラが大きくため息をついた。

 

 「なにあれ…いや、肩書は知っているんだけどなにあれ」

 

 「帝国で一番強力な暴力装置を持つ、面倒な奴等だよ。あんな連中に目をつけられちまうとは、遅かれ早かれかもしれないが困ったことになったもんだ」

 

 緊張感からか飲み物に手をつけられなかった。落ち着かせるように杯をつかんで口をつけるが、すっかりと冷めてぬるくなっている。

 

 「エンパス教って問題もあるし、あんな面倒な奴らにも目をつけられた。新しい人妖の情報はないし、これからどうするのランザ」

 

 「帝都に向かおう」

 

 「え?」

 

 クーラが、なにを言っているのか分からないといった様子でこちらを見た。俺だって考え無しで言った訳ではないが、よほど予想外だったのか目を丸くしている。

 

 「モスコーでお前と俺に狙撃してきたカリナは、帝都の上院議員の娘さんでなにかとレントに融通していたらしいな。だがしかし、そのカリナは死んでレントの後ろ盾はなくなったが、エンパス教という宗教組織想像よりも大きく感じる。恐らくは、何者かのバックアップがあるのだろうと踏んでいるんだ。俺達がモスコーにいた間、レントは帝都にいたらしいじゃないか。自然と帝都でエンパス教が拡大もしくは産まれたんじゃないかと推測ができる。どうせ連中に目をつけられたら、しばらく派手な動きはできないんだ。こうなったらいっそコソコソ逃げ回らずに、帝都で連中のことを知っておくのも良いだろう」

 

 災害対策室にレントが所属するエンパス教。仮想敵となる組織が多いのならば、少しでも敵の情報を掴んでおいた方が良いと考えている。帝都ならば、今まで概要しか知らない災害対策室の話も掴めるかもしれない。

 

 どうせ人妖の情報はないし、ここはおもいきって動けるうちに敵の懐に飛び込んでみようと考えている訳だ。

 

 「分かった。ランザがそうしたいなら、ついていく」

 

 「悪いな。テンからかけられた呪いを早くなんとかしてやりたいのに、今回ばかりは回り道だ」

 

 「言いっこなしだよ。それにエンパス教について、古巣が関わっている以上自分にも関係ある話だから」

 

 「ならば、休憩は終わりだな。明日には動くぞ」

 

 敵は三つ。テン、レント、災害対策に所属している竜狩り隊。どれも一筋縄ではいかないだろうが、どのみち引き返す道はないのだ。



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 大陸に住む者にとって、誰もが帝国とは無関係な立場ではいられない。

 

 大陸の三分の一以上を締める最大規模の国土、豊かな土地、大陸最強の軍事力、最先端の魔術具の開発、研究。その全てが他国に比べ秀でている。

 

 ある国にとっては輸出入における最大の貿易相手、ある国にとっては危険な仮想敵国、またある国にとっては資源を搾取していき、伝統的な農作物を廃止され国土のほとんどをプランテーション農業に無理矢理変えられた免れざる指導者だった。

 

 かの国に対抗できるのは、大陸東部の連合王国くらいではあるがそこにかろうじてとの言葉がつく。戦史の研究家や軍事評論家なる者達が下す判断を鵜呑みにするならば七対三の割合で帝国軍が優れており、さしもの連合王国もタイマンで殴り合いをするのは分が悪いと言われている。

 

 まあ戦争というのは当然ではあるが、リングの上で殴り合いをするようなスポーツではない。大陸において一強と言える帝国をおさえる為に、連合王国は広く帝国と隣接する中小国と手を組み緩い包囲網のようなものをしいていた。

 

 万が一帝国が領土的野心を燃やし、隣国を攻撃したら同盟に参加した国がその反対側から帝国を攻撃し飽和攻撃を仕掛ける算段である。

 

 もっとも帝国もその状況を俯瞰している訳ではない、今日も元気にあちこちで、帝国と連合王国を中心とした根回し合戦と情報戦争が行われているのであろう。

 

 新資源である鯨油と、その利権を巡り一番ホットな諜報合戦が行われていたリスムにおいてあの騒ぎがおきたのだ。連合王国側も放ってはおかないだろうし、帝国側からすれば自身が出資した植林場があるノックの山から災害が沸いて現れたということで黙ってみているということはできないだろうことは想像に難くない。

 

 「経済特別区組合所属の、貿易商人か」

 

 偽装の身分証を手にとり、国境に配備された兵士は眉を顰める。

 

 「帝国への入国目的は、商売か?後ろの荷はなんだ」

 

 「鯨油です。リスムにおいて加工しました」

 

 帝国は現在、リスム側からの入国者に制限をかけている。あの事件があった後だ、政情不安のリスムから逃げ出すように帝国に流れてくる者を止めているのだろう。そうでなくても、例の騒ぎがひと段落がつくまで対応は厳しくなるだろうと想像ができる。

 

 先日、帝国から来た災害対策室の調査員との会話をエレミヤにかいつまんで話、帝都に一度向かうことを決めた。

 

 そのエレミヤから聞かされた話だが、どうやら現在国境の検問は何時もより厳しくなっており、ただの観光等物見遊山で立ち入ることは禁止されているという。モスコー、リスムの事件が立て続けにおこった後であるので、怪しいと少しでも感じた人物を国内にいれないのは当然と言えば当然の対応かもしれない。

 

 だが、そんな状況でも停止をしていないものがある。それは商いだ。

 

 帝都の人口は膨大だ。人間の生活を支えるのは、当然資源である。

 

 追随してきているとはいえ、捕鯨や鯨油の加工においてはリスムの組合に比べるとまだ量も質も劣っている。品質の悪い品物より、輸送費等で多少値が張ろうと質と量が安定して供給されるリスム産を買いたがるのが向こうの商会や消費者の心情であるらしい。

 

 さらに言えば、帝国はここぞとばかりにリスム自治州への影響力を強めようと協力金の援助や災害復興の為の人材派遣政策を強力に推し進めているうえ、リスムから帝国へ資材や釘等の建材の買い付けも多い。

 

 ちなみにリスムを挟んだ反対側の隣国である連合王国も当然似たようなことをしており、帝国としても検問を強めながらあちら側に遅れをとる訳にはいかないという事情ができていた。

 

 制限をかけつつ人通りが激しくなる、奇妙な矛盾が国境でおこっていた。

 

 「商い相手は?」

 

 「エルディム商会です」

 

 「そこの商会では、なにか買い付けを行うか?」

 

 「リスムの情勢が情勢です。食料、釘等の建材、魔術具諸々、足りないものは山ほどあります。それらの買い付けを命じられているのです」

 

 エルディム商会は、帝国全土に拠点を持つ。そしてその意向は、帝国の政情に寄り添うように決められておりまるで国営企業だと揶揄されることの多い商会でもある。

 

 当然、リスムの復興にも力を入れるよう商会は動いており、ここの名前を出せば検問を行う兵士達も強くは詮索はできない。

 

 「通行税は金か、品か」

 

 「品でお願いします」

 

 馬車から樽を二つ程兵士が降ろした。本来ならば一つ一つ内部を確認するだろうが、作業に携わる兵士達はランダムに選別した二つの樽の内部しか確認はしない。

 

 密入国を企むものがいないように、注意せよ。或いは、輸出禁止品を混乱を利用し通すものがいないようによく警戒せよ。

 

 なんて、上から厳命をされていても現場を動かしているのは人間だ。

 

 帝国の国境は、現在大渋滞の様相をていしていた。ノック森林道を通る道が調査の為現在封鎖され、資源の買い付け等々の理由により、人員と物資が普段の三から五倍近く行き来をしている、それらを全て確認し通行させるのは人手がとても足りていないようにはたから見ても分かる程だった。疲労が顔に張り付いているのが、よく見える。

 

 「中身は確かに鯨油だな、よし…通れ」

 

 「いや待て」

 

 詰所のようなところから、他の兵士よりも幾分派手な鎧を着た者が現れる、部隊長のような存在だろうか。

 

 「リスム方面から来る、経済特別区に関りがある商人の顔はだいたい知っている。だがお前の顔は見たことがない。行商人が本業ではないな」

 

 混乱の隙をつき、通れる算段が高いと踏んでいたがどこであろうと真面目なものはいるようだ。

 

 「状況が状況です、どこも人手が足りず、普段ならば露店を任されている身ではありますがこうしてお役目を受けた次第であります」

 

 「そういう言い訳をして、密入国や禁制品を持ち込む輩も絶えん。一人か…おい!荷は全部確認したのか!?」

 

 「は…え…いえ」

 

 「つったって通すのが我等の役目だと考えているのか!規則は規則、手順は手順だ!我等が腑抜ければ帝国全土に悪疫を及ぼすことになるだぞ!樽の中身を全て確認しろ、その商人の身体検査もだ!」

 

 後がつかえているのだが、兵士達は渋々といった様子で荷を確認し始めた。蓋が一つ一つ開けられ、中身を改められる。

 

 「武器の類の携帯は…なんだこれは、ボロボロだが…剣か?」

 

 「曾祖父が戦場で使っていたものらしい。我が家に伝わるお守りですよ。私は、武器なんて扱えませんがね」

 

 「そのわりにはよく鍛えられているじゃないか。ただの商人と言うには、その腕…指の一本まで見てもただの商人と言うには無理があるんじゃないか」

 

 「商売人といっても、下積み時代は力仕事ばかりですよ。小麦袋、木箱、鯨油の樽、筋肉がつく環境はいくらでもありましたので」

 

 部隊長と目があう。しばらく見つめあっていたが、他の兵士から樽の中身を改め終わったと報告が来た。

 

 「全て鯨油でした!」

 

 「本当か!?棒でもなんでもつっこんで、液体の中も確認したんだろうな!」

 

 「やりましたが、なにも入っていません!鯨油だけです!」

 

 「よろしいでしょうか?」

 

 後がつかえているんでしょう?と続けてしまいそうになったが、ここは笑顔でそれのみにとどめる。口は災いの元だ。

 

 「……良いだろう。通れ」

 

 「ありがとうございます」

 

 荷馬車に乗り込み、歩かせる。急ぐような様子すら見せず、なにもない晴れた日の街道を進むかのように平然とだ。なにやら、納得いっていない顔である部隊長の視線が背中に突き刺さるが、別のところで問題があったらしくそこに急行していった。

 

 国境から帝都に入り、しばらく馬車を走らせる。周囲になにもない街道になったところで、ようやく肩の力を抜いた。

 

 「時世が時世だからな、昔はもう少しあっさり通れたものだが」

 

 その声に反応するように、道端にある背が高い草むらがガサリと揺れた。フードを目深く被った人影が現れる。

 

 「ランザ。無事に通れたね」

 

 「ああ、ご苦労クーラ」

 

 クーラがまとうマントをはだける。ストックを落とし軽量化し取り回しをよくした散弾銃とその弾丸、戦闘用のコートがしまわれた布袋がその下に隠されていた。

 

 「このご時世だ、物騒な物を持ちながら国境越えは面倒なことになる…が、大荷物を任せて悪かったな」

 

 「問題ないよ、これくらいね。それに密入国は慣れているし、多少警備に目が光っていようと問題なかったよ。それに、はかどったし」

 

 「はかどる?」

 

 「んぁ!……うん、いやなんでもない」

 

 「なんにせよ、あとはエレミヤとの打ち合わせ通りに馬車を先にある村でレガリアの構成員に渡して俺達は帝都に向かう。帝都に関しては、俺よりもお前の方が詳しいだろう、期待しているぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は遡る。

 

 ランザが海岸道から国境と越えて帝国に入るまでは、まだまだ時間が残されている。なにせこの渋滞だ、入国手続きがすむまで万事問題なくすすんでもいささか以上時間がかかるだろう。

 

 海岸通りを並ぶ馬車や人の行列を見た後、クーラは森の中に姿を消した。

 

 レントの手助けをするための諜報活動で、国境越え等はよくおこなっていた。朝飯前とは言わないが、昼飯前くらいの労力でこえる自信はある。なにより自分は半獣だ、どうせ平時からまともに検問を超えることはできない。

 

 今回は預かりものがあるせいで、いささか以上に普段より荷が重くはあるが、まあ問題はない。逆にお楽しみが増えて嬉しいくらいだ。

 

 森の中を駆けながら、クーラは思いをはせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハーウェンという組織を、覚えているかい?」

 

 館の部屋で、エレミヤは告げた。ランザから休息の終了を告げられたその日の夜のことだ。

 

 ランザの隣に座る自分は、記憶を掘り起こす。

 

 このリスム経済自治区において、南東部を牛耳るマフィアの一角だ。闘技場や違法な奴隷市場、なにより薬物の生産、輸出において金を稼いでいる。

 

 どこの所属でもない立場を維持しいてるエレミヤと娼館エリアではあるが、やはり武力による衝突の火種がチラホラするこの経済自治区だ、比較的穏健派となるレガリアと繋がりを持ち他への牽制としている。

 

 レガリアとハーウェンは、エレミヤの娼館を巻き込み過去ひと悶着あったようであるが詳しくは聞いてはいなかった。

 

 「流石に忘れたとは言えないな、あの幽霊騒動で裏で糸を引いていたのはハーウェンだった。あの蛇女は、レガリア幹部を利用するだけ利用して、そのうえでわざと破綻させた」

 

 「後の調査で分かったことだったね。薬物中毒の男が何故デル=エンパイアーの拠点から逃げることができたのか、それは何者かの手引きがあった痕跡が見つかった。ハーウェンのことだ、薬の効能や成果を確認したならば裏切者を仲間に加えるよりも、レガリア同士で戦力を削りあいをさせて高みの見物をさせる方がリスクが低いと判断したのだろうね」

 

 「しかし、状況証拠ばかりで決定的な証拠がでなかった。……だけど何故、今その話を?」

 

 「帝都に入ることを決めたのは良いけど、今国境は何時も以上に混乱している。それに、現在入国が制限されていて、観光目的等適当な理由では入国できない。偽装の身分証明書が必要になってくるとなると…それを用意できるあてはレガリアくらいでね。手続きを踏もうとしたら、向こうがランザ君を覚えていて今回の話を持ち掛けられたのさ」

 

 エレミヤは、肩をすくめて紅茶を一口飲み唇を湿らせた後、口を開いた。

 

 「レッド…」

 

 「待て、待て待て。それを言う前に俺は俺で確認をしておきたことがある」

 

 ランザがエレミヤの会話を切り、こちらに視線を向ける。

 

 「クーラ、違法に国境越ができるルートに心当たりは?」

 

 「あると言えば、ある。でもあまり期待はしない方がいいかも」

 

 「というと?」

 

 「現状、国境にはリスムから出ようとする人達が集まり、それが追い返されているということでしょう?でさ、そういう大部分の人達の中には諦めきらない人もいる訳だ。みんながみんな素直に帰るならいいけど、普段よりそういうルートを使う人も増えているし、そのせいで何時もより警備が厳しくなっている可能性がある。あくまで可能性だけどね。自分は、専用のルートがあるけど慣れてない人にはおススメできない道だしね」

 

 「難しいか?」

 

 「ランザがやるというなら、全力で案内するよ。でも、自分は反対の立場かな」

 

 自分が使う道は断崖絶壁の難所をいくつか通ることになる。ランザがいかに身体を鍛えていようと、半獣の天性による能力を越えるにはそれ専用の訓練が必要になるだろう。そんなゆっくりと事を構える暇は、ないというのに。

 

 「足手まといには、なりたくないな」

 

 「でもさ、帝国に踏み入ることは急務じゃないんじゃないかな。エンパス教が気になるにしても、ランザの目的とは外れる訳だし、災害対策室から逃れるのに一度連合王国側に行く方が良いんじゃないかな」

 

 「……確かにそれは言える。だが災害対策室に目をつけられた直後連合王国に入るのはやましいことがあるから逃亡しますと言っているようなものだ。今後、帝国には入ることすら命取りになるだろう。そうであるならば、見せかけだけでもなにも知らないという態度で一度帝国に入りエンパス教の調べをつけた方が逆に安全だと考える。それにもし次の人妖が、帝国領土に出た際指を加えて見ていることしかできないのは堪えるものがあるしな」

 

 ランザは、苦い顔で話していた。彼の行動指針の大きな目的である人妖狩り。

 

 人妖が出るところには、悲劇が待ち受けている。自分の娘が行った災厄を放ってはおけない。その考えはもう、脅迫概念に近いのかもしれない。

 

 「リスクを許容してそれでも行くなら、当然自分もついていくよ」

 

 「悪いな。……エレミヤ、話しの腰を折って悪かった」

 

 「良いコンビだね。まったく、焼いちゃうなぁ」

 

 エレミヤがクスクスと笑い、さて…と足を組みなおした。

 

 「レッドアイの改良品が、帝国に流れハーウェンの巨大な資金源になっているようなの。レガリアも違法薬物のルートをおさえ帝国の治安組織にぶちまけようとしているけど、うまくいってないみたいなんだ。このままではハーウェンはどんどん力をつけていくし、なによりレガリアの頭領ガルデは薬物嫌いだ。なんとしても叩き潰したく考えている」

 

 「そのルートを探れと?」

 

 「探って、治安組織にでも災害対策室にでもぶちまけろってさ。期待はしていないみたいだけど、それでもランザ君には災害対策室というあまりありがたくはないとはいえ特殊な組織と縁ができた。ひょっとしたらその特殊な縁から情報を…なんて考えているのかも。引き受けてくれるなら、偽装の身分証明書と入国の為の準備を引き受けてくれるそうだけど…どうする?」

 

 ランザはしばらく無言で考えてから、口を開いた。

 

 「確約はできない、それでも良いならと伝えてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森の中にある窪地にて身体を休める。ここから先は、断崖を渡る為の獣道ですらない道なき道だ。

 

 自分が判断するならば、迷わず連合王国に逃げ出し帝国の影響がほとんどないところでほとぼりが冷めるまで潜伏して過ごすことに専念する。しかし、ランザはその逆を選んだ。テンが生きている限り、座して待つことなどできないのだろう。

 

 「さて…と」

 

 難所に挑む前に。周囲の気配を探る。人も獣も近くにはいない、問題はない。

 

 マントの下からぶら下げていた散弾銃を手にとり、一応中身に弾丸が込められていないことを確認してから脇におく。

 

 背中に背負った布袋から、ランザの戦闘用外套を取り出した。

 

 軽量で動きを阻害しないが、頑丈で自動修復機能までついている高級品。中古とはいえ売ればかなりの値段になるだろう。そんなことは、しないが。

 

 よく洗われており普通は匂わないだろうが、自分の鼻にはランザの臭いがこびりついているように感じる。汗や血を吸い続けた、修羅場を潜り抜けて来た衣服。

 

 「ッ…スー……はぁああああ」

 

 ランザは基本的に同衾を禁止している。まあ向こうとしては、当たり前の話だ。年齢の差も勿論のこと、罪悪感に漬け込んで行動を共にしているのだ。そりゃあまあ、そうなるとは思う。

 

 毎度毎度こっそりと忍び込んではいるが、気づかれてしまうと追い出される為密着はできない。だから精々、近くで添い寝するくらいが関の山だ。

 

 「確かに検問を通るには、怪しい物はいっさい持ち込んだらいけないってのは分かるけどさぁ。こんな臭いがついたものを預けるなんて…信用…し過ぎじゃないかなぁ」

 

 モスコーで抱き着いた時に胸板で嗅いだじかの臭いには劣るが、それでも最高だ。共にテンを追う仲間が裏でこんなことをしているなんて知ったら、ランザはどんな軽蔑の視線を向けて来るだろうか。想像するだけで、口元からよだれが垂れそうになった。

 

 「どんな顔かなぁ、どんな視線なんだろう。例えば…」

 

 ランザが何時も使っている散弾銃を引き寄せる。大抵の敵の装甲を破壊し、一撃で絶命してしまう威力を持つ凶器。銃口を、額にあてる。ヒンヤリとした感触。

 

 ランザはそんなことはしないだろうが、全てを知って嫌悪のままこれを頭に押し付けられたらどうだろうか。もしくは、口の中だろうか。興奮で唾液をたっぷりと含ませた銃口の先端をくわえる。舌先で鉄の味を感じながら散弾銃を抱きしめる。このまま彼は引き金を引くだろうか。引いたら、その後無残な死体になった自分を見てどう思う?

 

 その時の自分は、テンに仕込まれたものが暴走かなにかをしてしまい人妖に成り果てた時だろうか。子供を殺すことに気悲観と嫌悪感がある彼のことだ、殺害じたいは迷いなく行動を終えるだろうが。自分を始末した後、きっとランザは自己嫌悪に陥るだろう。

 

 ……こればかりは、何時もランザの大部分をしめる復讐という殺意を向けられているテンが羨ましくも感じる。だからこそ、彼女を殺した後にぽっかりと開く穴を埋めるという付け入る隙ができる訳だが。

 

 ああもう、それを考えれば自分が人妖になる訳にはいかないじゃないか。でもシチュエーションを妄想するだけでうずいてしまう。

 

 銃口から口を離し、下から先端に向け舌を這わせる。よく磨き、メンテナンス終了時に指で軽くこすり状態を見ていたあとを舌先で舐める。もっともよく触られているだろう引き金の味も当然確認する。本当は指をしゃぶりたい、そしてあの視線で見下してほしいのだが、それを考えるこれでも我慢している方だ。

 

 でも今はもう我慢できない、危険だろうけど弾丸をこめてしまう。リスクが高まるが、興奮に火を注ぐ要素を止められない。

 

 再度銃口をしゃぶりながら、留め金を外し服を脱ぎ捨てていく。産まれたままの姿になり外気に火照る肌がさらされるが、誰もいないので問題はない。彼の戦闘用外套に袖を通し、ぶかぶかな服で身体全体を包む。全身を彼の臭いが包む、これはもうなんというか言語化できない。麻薬だ麻薬。

 

 「あ…ダメだこれ。ダメになるやつだぁ…こんなの覚えて我慢できなくなるじゃん。……やめないと、でも……ああもう少し…あ……もう少しなんて少しで我慢できる訳ないじゃん。それに…これだけは…やらないと」

 

 片腕だけはあえて袖を通さない。長い袖に輪をつくり、首に一周させ目を閉じる。

 

 暗闇の中で、目の前にいるのは、ランザだ。

 

 テンを殺害し、ジークリンデは…まあなんとかし。復習が終わり生きる理由を失い空虚になったランザ。

 

 そんな彼を献身的に支える。そのころには身体的にも成長し、一女として、一匹のメスとして彼にずっと寄り添う。

 

 彼が安定したところで、自分の今までの行いと心情を全て暴露する。気持ち悪がられるだろう、嫌悪感で吐きそうになるだろう。だって自分は、貴方の心の闇に漬け込んだ悪い雌猫なのだから。

 

 でももう離れることはできない。それだけ根強く自分は依存されている。そういう状況を作りあげる。

 

 嫌悪を乗せたあの目で見てほしい、罵倒してほしい、暴力がほしい、でも依存から離脱できない自己嫌悪も抱えてくれれば最高だ。

 

 「うん、良いよ…して…悪い猫にお仕置きしよ?」

 

 袖を、絞る。首に布地が食い込み呼吸器をあっぱく。首筋から香り立つ彼の香りに頭が飛びそうになった。

 

 絞殺。レントの呪縛から逃れる程の、負の衝撃。こうしてほしくて、ほしくて、たまらないのに傍にいることしかできないじれったさ。

 

 やはり夢なんかじゃ足りない。この味を覚えてしまったら、もうそれで満足ができる気がしない。

 

 身体によりかかっていた散弾銃が倒れた。無意識に股の間に挟み込み、膝を折り曲げて銃器を拘束する。

 

 「ラ…ンザ……ラン…ザァ」

 

 ボロボロにされた身体にまたがられ、首をしめられる。或いは性欲を向けられながら、苦しめられる。彼のものなら、嫌悪はない。レントに心酔していた時ですら、逢瀬には拒否感を抱いていたがそれ以上の世界を知ってしまったことで、価値観が崩壊してしまった。

 

 そして崩壊した先には、とてつもない世界が広がっていた。この背徳的で救いようのない業に首まで浸ることが、今の自分にはとてつもない甘美な居心地だ。このまま溺れて死んでしまいたい。

 

 いったい誰がこんな業を肯定してくれるというのであろうか。いや、誰もしなくていい。ジークリンデやテンさえも理解しなくて良い。これは自分だけの世界なのだから。

 

 ダメだ、死ぬ。いやもう少しだけ…もう少し…死ぬ…もっと……死ぬ…し……っ…

 

 「…っ…くはあああ!」

 

 酸欠が解消されて。肺が空気をむさぼる。外套を着たままへたりを倒れこみ、しばらく上を見ながら酔いつぶれたかのように呆然としていた。流れる汗が、外套の内側に染み込んでいく。……バレないかな、これ。

 

 ……

 

 ………

 

 …………

 

 ……………あ…何時までもこうしていてはいけない。いくら時間があるとはいえ、もしかしたらもう検問を通っている頃かも…。

 

 外套を脱いで、自分の服を着こむ。脱いだ時、下腹部の当たる布地に湿り気を感じた。もしかしたら、気づかないうちに粗相でもしてしまっただろうか。まずい、どこかで洗っておかないと。銃口や引き金もしっかりとふいておかないと。

 

 本当は外套をこっそり衣服の上から羽織るだけにしようと思ったのに、興がのってやりすぎてしまった。

 

 いやでも、娼館に泊まっていた時はランザの我儘で別部屋にて寝泊まりすることになったし、あろうことか鍵をかけていたのでキーピックをしたり窓から忍び込むしかなかった。長々いたらバレるし、朝までには戻らないといけないしで普段のように近くで夜をあけることすらできなかったんだ。

 

 我慢できなくなってこんな行為にはしるのもしかたないことだ。

 

 しかし、本当に、こんな変態プレイにはまってしまって今度から添い寝で我慢できるのだろうか。

 

 幾分冷静になった頭で、そこにだけは一抹の不安を感じざるえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「なあ」

 

 「なに?」

 

 「俺の外套、なんだか湿っているがなにかあったか?」

 

 「ごめんなさい、水たまりに一度落としてしまって」

 

 この言い訳の為に、いれていた布袋も水に湿らせて絞っておいた、ぬかりはない。

 

 「謝らなくて良い。ちゃんと回収してくれたし、国境越の難所を荷物をもたせて通してくれたんだ、感謝しかないからな」

 

 気を許した相手には、疑いも欠片もないのか。そんなんだから、悪い猫にもつけこまれるんだよ、ランザ。



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 リスムの国境から帝都まで徒歩で半月程かかる。所々で馬車を乗り継ぎを行ったり、各地の街で名物を食べながら帝都を目指していた。

 

 帝国の食文化は、連合王国側と違い麦文化だ。思えば今では世界中にある冒険者ギルドも発祥は帝国だった。

 

 未開地の調査と大規模小麦畑の開拓。帝国の辺境にてかつての不明瞭な未開地は延々と農場が広がっている。

 

 「はむ」

 

 崖のような地形に埋め込まれるように作られた昔の砦を見上げながらベンチに座り、クーラは油で揚げて砂糖を振りかけたリング状の揚げ菓子を口に含んだ。しかし、食文化の豊かさが国力の証拠というか、食べ歩きが目的の旅ではないものの食材の豊富さとそれに裏打ちされた料理の数々は多少は目移りしてしまう。

 

 海岸部は魚料理、内陸部に進むに従い肉料理が増えてくる。しかし、ここに来る途中何台もの馬車に海水の入った壺を用意し、中に泳ぐ魚を入れた行商隊に出くわすこともあった。長持ちするように加工した魚ではなく、生きたまま鮮度を保ちながら運ぶとなればいくら荷馬車を大量に用意しようがそこまでの輸送量は稼げない。

 

 つまり、鮮魚一匹に輸送量という高額な金額が上乗せされるのに需要があるということだ。中層から富裕層が買うのだろうが、金回りも良さそうである。

 

 そしてなにより、砂糖だ。クーラが食べているリング状の揚げパンにも降りかかっているその粉は、バブル景気に沸くリスムでもまだ高い嗜好品であり、連合王国ならともかく他の中小国では未だ金持ちや貴族しか手が出せない高級品という立ち位置だ。

 

 こんな話がある。とある国の上流階級では、歯が黒く染まり食物を食べると痛みやしびれがはしる歯黒班病がステータスの一つという扱いを受けていた。この病気は、誰にでも起こりえることであったがなりやすくなる条件として、毎日のように甘味を食しているというものがあった。

 

 私は甘いものを毎日のように食べている、というアピールは財力を魅せ付けるのにもってこいであったのだ。

 

 しかし帝国では、そんな砂糖を扱った品物をそれなり程度の値段で食べることができる。

 

 リスムで聞いたことがある話ではあるが、帝国は南方大陸と呼ばれる異国の地にて中小の国を支配下において、砂糖等の嗜好品農業を拡大させている。

 

 その国には雀の涙程の賃金を与え吸い上げたそれを、自国に還元し他国にも貿易品の一つとして売買をしているという話だった。

 

 南方大陸とこの大陸を結ぶのは海路。成程、帝国がリヴァイアサン討伐を強く推し進める訳だ。海竜という壁が無くなった以上南方大陸に対する帝国からの介入は激しくなっていくだろう。そして、帝国以外の国々もそれに追随していくことは想像に難くはない。

 

 それが良いことなのか、悪いことなのかは置いておき、それだけこの大陸において帝国という国力は群を抜いているのが揚げパン一つからでも容易に想像ができてしまった。

 

 その帝国で幅を利かせる二つの組織に注目されてしまったことを考えると頭が軽く痛くなる。

 

 災害対策室のことは今更考えることも億劫ではあるが、エンパス教も放っておくには地雷にすぎる。

 

 レントのこともそうであるが、一番致命傷なのは、人妖ミハエルとの死闘を制した後あの場に現れた男のようでもあり、女のようにも見える中世的な彼(または彼女?)である。

 

 あの戦いにおいて致命傷を負った俺は、ジークリンデの処置により命を繋ぎあの戦場を切り抜けることができたが、身体の中に悪竜の一部を組み込まれてしまった。

 

 今でも意識を向ければ、まるで身体の中に腕かなにかがあるようにグルリと動くのを感じる。不思議と痛みは感じず、出そうと思えば寄生生物のように肩や背の皮膚を裂きながらも露出できてしまうだろう。

 

 それを、見られてしまった。

 

 あの状況でノックの山に刺客として送り込むことができたのは、十中八九でレントが引きつれたエンパス教の戦闘部隊くらいであろう。つまり、俺の身体の秘密は早くもエンパス教の構成員に漏れている可能性が高い。

 

 しかし、それを利用した脅しもなければ災害対策室に情報が渡ったような気配も感じなかった。切り札のつもりで情報を温存しているのか、それとも、もしかしたらではあるが残りの一割か二割の確率であの刺客がエンパス教の関係者ではなかったのか。

 

 経済特別区に長期で滞在したのは、布教活動に勤しむエンパス教の動きを見る為でもあった。だが、レントが一度接触してきた以外では大人しいものだ。

 

 分からないことが多すぎる。

 

 二つの組織の内情と方針を探りたい。エンパス教についてはただ教団の教えを広めるのみに専念するならば、レントのことは抜きにしてもこちらからはあまり干渉する意味はない。災害対策室については、距離をおいておきたいところではあるが人妖という存在についてなにか情報を握っている可能性も多少なりとも考えられる。

 

 レッドアイについては、深く考えなくても良いだろう。頼まれているとはいえ、期待はするなと返答をしておいた。なんらかの成果をあげれば、レガリアに対して多少なりとも恩を売れるかもしれないが、現状優先度で考えれば低く見積もるくらいで丁度いいだろう。

 

 体よく利用した形になり、相手の顔を潰したと思われるかもしれないが、組織の指針として調査をし成果をあげていない事情に対して専門家ではない一個人がどうしろというのだ。向こうも、ダメで元々くらいの感覚なのだろうと思う。

 

 「食べ終わったら、お祈りに行こうか」

 

 「うん、お父さん」

 

 クーラが、屈託のない笑みを向けてくる。少女のような年齢の子供と、かつては一児の父だった男の二人旅だ。奴隷を連れて歩いている訳でもなければ、従者というふうでもなし。まあなんとうか、余計な注目を無駄に集めてしまうものだ。

 

 観光客で賑わうモスコーや、拡充を続けていたリスムにおいてそれほど目立つものでもなかったが、帝都ではない中小規模の村や地方都市では妙に人目を引いてしまう。

 

 ということで、クーラと俺は教団の巡礼を行う帝国民、敬遠な信者という立場をとっていた。

 

 今では廃れていたり簡略化もされているが、教団には巡礼祈祷という儀式が存在している。各地の教会を回り複数の箇所で神に祈りを捧げ、大事な故人の冥福を祈ったりこれからの人生が満ち足りたものになるよう導きを願うことを期待して行う儀礼である。

 

 妻が早逝し、彼女の冥福を祈り娘のこれからを改めて神に祈りをあげるという名分で各地を巡るのだ。

 

 教団の教えは世界中に広がっているが、帝国においてもっとも信者数が多い宗教である。過激な過去とうって代わり他宗教を認めていない訳ではないようであるが、急速に成長しているエンパス教とその信者に対しては面白く思っている訳ではないだろう。

 

 祈りを捧げていると同時に、各地でエンパス教に関しての別宗教から見た情報というものを集めていた。

 

 しかし…クーラと話し合って決めたこの役割分担ではあるが、彼女を娘扱いする度になんとも言えない不快感のようなものが胸の中にずっしりと積もっていくのを感じる。

 

 頭をよぎるのは、当然実の娘であるミーナのことだ。成長したところでクーラとは髪の色も顔立ちも違うだろうが、お父さんと呼ばれる度にまるで金属をひっかく音を聞くような気持ちの悪さを感じた。

 

 クーラが悪い訳ではない。この作戦が有用であることは理解している。感情をコントロールできない自分が悪いのだ。

 

 そんな心の内を知ってか知らずか、演技ではあるがクーラはニコニコと笑っていた。皮肉ではなく、大した役者だ。

 

 「はい!」

 

 「え?」

 

 「半分こ…は出来ないけど、最後の一口はおとーさんにあげる!とっても美味しいよこれ!」

 

 父に懐いている娘。その眩しい笑顔が胸の重責をさらに重くする。周囲の反応を見ると、歩いている中年の女性が微笑ましそうにこちらを見ているので効果はあるのだが、だからこそダメージがでかい。

 

 「お父さんはいらないから、食べなさい」

 

 いらないというか、喉を通る気がしない。

 

 「ううん、お父さん元気がないから甘いもの食べて元気になった方がいいよ!なら…食べさせてあげよっか?ほら、あー…」

 

 やりすぎだ。しかしここまで来たら娘の好意を無下にする父親として変に注目を集めかねない。

 

 揚げパンを摘まむ指がもう口元まで近づく。手で受け取り食べようという作戦も考えたが、ここまで近ければもうどうしようもない。

 

 なるべく重たい気分を顔に出さないようにしながら揚げパンを口に含む。クーラも、この手の行為に慣れていないのか口内にまで二本の指が入ってきた。噛まないように、素早く口を離して抜いたがなんだか益々口の中の物体が喉を通る気がしなくなった。味すら、感じない。

 

 口の中に指が入ったことなどお構いなしな様子で、年相応の笑みを浮かべながら「美味しい?」と聞いていた。

 

 なんとか美味しいぞと返事をするが、未だに口内に小麦と油の塊がへばりついている。いっそ、酒で流しこんでしまいたい気分だ。

 

 なんとか飲み込んで立ち上がる。多少厳しくはなるかもしれないが、この作戦の変更を今夜提案しよう。やたらノリノリなクーラも、なんだか怖い気がする。一生懸命演技をする彼女には申し訳がないが。

 

 街の一角にある教会に入る。リスムにあったものと比べれば質素なものだがそれでも教会は教会だ。重厚な石作りの建物であり、信者が座り祈る椅子と蝋燭をたてる燭台、立派な祭壇と聖像がキチンと鎮座していた。

 

 テンを預けようとしていた教団の教会も、規模は二回りくらい落ちるがそれなりの祭壇が準備されていたのを思い出す。予算不足を嘆いていたが、神が降りる場に金をかけているのはどこも変わらないようだ。

 

 「ようこそ、見ない顔ですね」

 

 神父が話しかけてきた。周囲には祈りを捧げる人物がチラホラといるが、見慣れない顔なので声をかけてきたのだろうか。

 

 「ええ、妻の供養とこの娘の行く末に幸が多くあるように巡礼の儀を行っております。本日は、こちらで祈りを捧げようと考え足を運びました」

 

 「敬虔な信者でも今はあまり行われない儀を行うとは、神もその行いには祝福をしてくださるでしょう。さあ、お祈りください」

 

 さて、巡礼の儀の都合の良いところは聖句を唱える必要がないことである。

 

 祈るのは死者の冥福と生者の幸福。それは、口に出さず神のみに自らの祈りを届けるのが美徳とされていた。

 

 死者の話を口に出して祈るのは周囲の同情を買おうとするあさましい行為、生者をことを口に出すのはその気がなくてもその人物に恩を売ろうとする卑しい行為とされているからだ。

 

 ただ神を賛美する言葉だけは口に出して祈るのが美徳、マナーとされているがそうでないならばただ黙って祈るふりをしていればいい。そうすれば、敬虔な信者ではないとバレるリスクも低い。

 

 注意をするのは、ただ数分で祈りを終えることがないようにすること。心をこめて祈れば、三十分くらいは経つだろうし、それがある種の暗黙の了解となっていた。なぜそうなっているのか、詳細まではよくは分からない。

 

 妻は信心深い方であり、それらの教えも彼女に教わったものだ。生憎こちらはそこまでのめりこみはしなかったので、上辺のみの知識だけしか蓄えてこなかった。

 

 テンを殺すまで、俺は二人の冥福を祈ることができない。幽霊だとか霊魂だとかの存在を信じていなくとも、神に祈りを捧げてしまえばある種の決着を宣言しているような気がしてしまうのだ。

 

 恐らくは、三十分は過ぎだだろう。祈りを終えて、指を解きほぐす。

 

 傍らのクーラは、とっくに祈りを終えて足をぶらぶらと揺らしていた。子供にとって、祈りというのは退屈で長いものだ。騒がないだけ、教育が行き届いていると言われるくらいであり早々に祈りを終えてしまってもまあ多めにみてくれる。

 

 そこまで計算ずくで彼女は行動している。なんというか、国境越えのこともそうだがこの手の欺瞞活動や諜報に繋がる活動、演技力に関しては頼りになるものだ。

 

 「お父さん!終わった?」

 

 「ああ、終わったよ」

 

 「じゃあお外行きたい!山の砦もう少し見てきたいの。良いでしょう?」

 

 「珍しい建物と景色だからな、あんまり遠くに行くんじゃないぞ」

 

 クーラは二カリと笑いながら、分かっていると頷いた。もう遊びを許可されて我慢できない子供といった様子で扉にかけていき、外に出ていく。

 

 ここからはまた、別行動ということだ。

 

 「元気なお子さんですね」

 

 祈りを終えたのを見計らい、神父が語りかけてきた。初老の好々爺といった外見と表情をしており、きっと本当に神に対して祈りと感謝を捧げている人なのだろう。

 

 「ええ、元気すぎるくらいです。ですがあれくらいで丁度いいのかもしれません。あの娘には、何時までも元気に健康でいてほしいものですから」

 

 「ええ、お父さんの気持ちは神も聞いてくださいます。将来のある若者を、これらも見守ってくださることでしょう」

 

 「神父様にそういっていただき、安心しております。あ…そういえばなんですが」

 

 本題に、入る。

 

 「エンパス教というのを、神父様はご存知でしょうか。実はここに来る旅すがら、人を集め説教をする姿を幾度か目撃しています。教団は、あれをどう見ておられるのでしょうか」

 

 神父は一瞬忌々しそうに眉をひそめたが、すぐに穏やかな顔に戻る。嫌悪はしているが、それをどうどうと人に見せるのはよくない行為であると自制しているのだろう。

 

 「なんというか…あまり良い話ではありませんが」

 

 「と、言いますと?」

 

 小さく、ため息をついた。

 

 「エンパス教の教えは、新興宗教としては地に足をつけた教えを広げています。いたずらに布施を巻き上げるようなことはせず、基本的には隣人愛と家族のへの愛を重視し創造主エンパスに対する祈りを捧げるようにしているようです。ただ一つ問題が」

 

 「問題、ですか」

 

 「ええ、エンパス教は一神教を重視しており異なる宗教を認めてはおりません。特に、我々教団には敵意を剥き出しにしているようであり、過激な一部の者が名指しで批判しているという話すら届いてくるのです」

 

 新興宗教が、この大陸で一番の勢力を持つ教団に喧嘩を売っているのか。教義故致し方なしとでも言うつもりか。確かに、教団もかつては遠征軍を組織し異教徒に対して喧嘩を売っていた歴史はあるがそれも遠い過去の話だ。現在帝国においては政教分離が原則となっており、異教徒狩りのような暴走もみられなくなっていた。

 

 それどころか、地方の土着である精霊信仰のようなものにも寛容の姿勢を見せており、上手いこと共存している。そしてそれこそが、弾圧し反発心をおこすよりも教えを浸透させることに繋がっていた。

 

 しかしエンパス教は、その真逆を進んでいる。

 

 規模の違いすぎる教団に批判と否定を繰り返し、この様子では地方の宗教にさえ寛容な様子は見せないだろう。こういうのもなんであるが、まるで狂犬だ。確かに教団にかつての勢いはないにしても、噛みつく相手を選ばないとはこのことである。

 

 「それは、なんとまあ。しかし、そんな動きをしていれば冷めた目で見る人物も多いのではないでしょうか?」

 

 「当初はそうだったとうかがっております。しかし、都市では信者の数は日に日に増えていっているような様子すらある。帝都では、既に立派な神殿すら立っているようであり、災難見舞われたリスムでもすさまじい勢いで教えが広がっているようです。我々としては本意ではありませんが、この街ではまだ人気は下火とはいえ、このままではどこかでぶつかりあうことにもなるかもしれません」

 

 奇跡と呼べるような現象があったリスムならば、まだ話は分かる。しかし、よりにもよって教団が一強であった帝都で、名指し批判を繰り返すような過激な宗教が人気を集めているのはどうにも解せない。なんかしら、絡繰りがあるのだろう。

 

 「そうだ、過激と言えばですが」

 

 一つ思い出したことがあったのか、神父は言葉を続けた。

 

 「かの教団は、魔術具についても否定をしているということを聞いたことがあります。よりにもよって、最大の開発室と研究施設がある帝都でですよ。エンパス教の教義は、我々のみではなくその分野に進む者達にも争いの芽を育てているのです。何故あそこまでと…私には理解ができませんよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教会を出た直後から、クーラの顔が引き締まる。

 

 まだ規模は小さいようであるが、この街にもエンパス教の連中が来ていたのを確認できている。まだ、ただ教えを広げに来ただけの下っ派なのだろうが様子を見ておいて損はない。

 

 熱狂に沸くリスムではエンパス教の教えを受け入れる者が多くみられていたが、帝国においてその拡大具合はどうなのか。組織をしるからには、まずはその組織の下層部や基底部を知るのが重要である。どうのようなものか、見ておく必要がある。

 

 唇から、水音。考え事をしているうちに指先にいつの間にか舌を這わせていた。ランザの口内に侵入した指、唾液の一部を体内に取り込むことに喜びを感じるが今は我慢しなくてはならない。いくら子供でも、挙動不審がすぎる。

 

 街の端まで歩いていき、対象を見つけた。まだ年若い神父とシスターが一人ずつ見つけることができた。

 

 「これは」

 

 繰り広げられていた光景は、想像とは違うものだった。若者は精一杯といった様子で説教をしているが精々聴衆は二人か三人程、それも冷やかしといった様子が見てとれた。

 

 帝都で飛ぶ鳥を落とす勢いという噂のエンパス教が、こんな人気のない新興宗教の布教活動と同じような成果しか叩きだしていないなんて。

 

 しかも様子を見ていると、過激な思考を垂れ流す神父に対して聴衆は批判的だ。情熱だけでここまでやってきたのだろうが、それが空回りしているのも現れては消える新しい宗教ではよくあることだろう。

 

 では何故、帝都では教えを受け入れられたのか?大きな矛盾がある。

 

 もしかしたら、レントの仕業だろうか。彼の、洗脳術にも近い奇妙で魅力であるならば壇上で演説をすれば信者を集められるだろうか。いや、そもそも彼は演説や説法を広げるようなタイプではないように思える。

 

 そもそも自分は、レントの取り巻きの中では比較的新参だ。それでもあの頃のレントの口からエンパスや宗教の言葉をあまり聞いたことはなかった。つまり、エンパス教を作り上げる過程で下地作りはしたのだろうが、信者を獲得するための方法は彼主導ではない。

 

 彼の役目は、恐らくは劇薬。リスムの巨人事件を利用し、街を襲う絶望を払ったヒーローとヒロイン達という武力を伴う広告塔。

 

 ならば、なんだ。帝都でエンパス教が爆発的に広がる要因というのは。

 

 しばらく彼等を観察したが、得る者はなさそうなのでその場を離れる。あまりこの手の説教は聞いたことがないが、熱意だけの素人演説。それも被せものなく批判されがちな別の宗教批判に魔術具批判まで絡めるものだから、空回りも良いところである。正直、三流以下だ。

 

 「帝都でも、リスムと似たようなことがおきた?」

 

 いや、いくら帝都を長く離れていたとしても大陸最大の都市が危機に陥るならその噂を耳にしないのはおかしい。

 

 なんだか、気味の悪さすら感じる。そろそろランザの元へ戻った方が良いだろう。

 

 教会から出たランザと、丁度鉢合わせをした。今晩とる宿に向かうまでは仲の良い家族を演じ、部屋の中に入ったら情報交換を行う。

 

 実のところ、この演技には熱も入れてはいるが、気が進まない面もある。年の差から不自然じゃない方針ではあるが、娘と呼ばれるよりは妻と呼んでほしいものだ。

 

 あ、でも手を掴んで歩けるのは良い。手汗がにじみ出ているのが、ランザの皮に浸透し混ざるであろうことを想像すると暗い愉悦が浮かび上がる。

 

 この前戦闘用の外套を借りてお楽しみをした後から、この手の接触ですら喜びを感じるようになってしまった。確実に変態への道を突き進んでいる。まったく、ランザはこんな女の子の性癖を狂わせて無自覚なんだからタチが悪い。

 

 ああ、あとはあれだ。父と娘という立場から無理なく同部屋に入れるのは素晴らしい。反抗期を迎えた娘ならともかく、父と娘が別部屋に泊まるなんてありえないからね。寝台が二つの部屋を泊まるしかないのは残念だ、今度は混み合っていて寝台が一つの部屋しか開いていないようなところを探してみるか。

 

 まあ、自分がランザの娘なら反抗期なんてこないかもしれないが。

 

 同室に入り、べッドに座り込む。隣に座りたいところだが、反対側に腰を落とす。深入りしすぎて変に警戒されるのも嫌だからね。

 

 「それじゃあ、エンパス教についてだが」

 

 ランザは、こちらが演技をといたと思っているが、まだ演技中の最中だ。今はまだ、気づかれてはいけない。親指と人差し指が、無意識に動く。大事な話をしつつ、洗うのが惜しいと考えてしまっていた。

 



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 少し後書きがあります。本編と関係ないので、煩わしければスルーしてください。


 国境から旅立ち、十日以上が過ぎた。

 

 主要な通路から外れ旧道に入り、道すがらにあった廃村。家屋に大きな崩壊痕はなく、夜盗や害獣の被害を受けた訳でなく、自然と寂れ人がいなくなったような印象があった。

 

 まるでゴーストタウンのような不気味さはあるが、贅沢を言っている場合ではない。旅の道中、山道を進んでいる最中突如降り始めた大雨に足を止めていた。そこらの洞窟ではなく、こうして屋根のある場所で休めることは僥倖というしかない。

 

 普段は目立つ為脱いで旅をしている戦闘用外套を着こみ、村の中を歩く。わざわざ雨の中外出した成果物を片手にかつて宿であり、拠点としている建物内に帰還した。

 

 かまどに火を入れ、残されていた鍋を軽く水洗いしてから、必要分の水を入れて火をかける。

 

 近くに水源があり、人気が消えたなか、気ままに泉で泳ぐ水鳥を射殺するのは簡単だった。鳥類に身体の違いはほぼないため、獲物の大小以外解体の手順はほとんど変わらない。

 

 このカナールという小型水鳥は、というより鳥というのは死後すぐに内臓抜きをしないと肉に臭いがつく為手早く抜くのが重要である。鮮度が落ちるのも早いので、仕留めたならば処理は早めにすませるのが肝心だ。

 

 解体の専門家なら、腐敗をおこさないように肉を処理し熟成をさせることもできるらしいが、俺にはそこまでの技術はない。

 

 カナールの尻付近にある毛をむしり取り、レの字に曲がった小枝を臀部に突き入れる。腸内で枝を半回転、先端を上手く引っかけた後慎重に引っぱる。あとは黒い小腸が見えるまで腸を抜いていき自然に切れるまで引き抜くだけだ。

 

 羽むしりも早めに行わなければならない、時間が経ち亡骸が冷えると、毛穴が閉じて抜きにくくなるからだ。外が雨で今日はまた冷える為、急いで作業をする。

 

 毛を抜いたら関節を抜いて首を落としたら、食道と気道を外す。身体を上身と下身に分けたら、腸以外の残った内臓を全て引き抜いていしまう。

 

 あとは残った部分から、過食部位をよく洗い切り分けていくだけだ。

 

 鍋が煮えてきた。ここまでの旅中で購入した豆類や、食用の野草、小ぶりではあるが野生化して元気に根付いていた芋類も見つけたので鍋に投入していく。カナールの肉も煮込み、味付けは塩を使う。旅中の最中に食べる飯としては、悪くはない。

 

 食べるのには充分な柔らかさまで芋と肉は煮えたが、さらに煮込む。食感は悪くなるが、舌先でついただけでイモ類がほろほろになるまで柔らかくした。ここまで手間をかけるのには、理由がある。出来上がった鍋に平な蓋を被せ、その上に器と匙をおいて階段を昇る。

 

 元は宿だった建物だったのだろう、拠点として使わせてもらっていた建物は寝室が多かった。

 

 その中で、一番まともで隙間風が入らなかった部屋を選ぶ。暖炉の火が暖かく燃えており、室内の寝台ではクーラが小さな寝息をたてていた。

 

 帝都に入るには、道は悪いが山道を通る方が近道になる為、ある程度食料を買い足したうえで山越えを目指した。近くの街で聞いた話では、この時期は雨も少なく山越えを目指す者も多少はいるということなのでそちらのルートを選択したのだが、運が悪く天気が荒れてしまう。

 

 このまま雨が降り続くなら、遠回りにはなってしまうが一度下山し正規ルートを選びなおした方が良い。山に入り初日に滞在する予定の廃村に辿り着いた。一泊し翌日の天気を見ることにしたが、山道ルートは悪手だったと思い知らされる。

 

 急激に振り出した雨に山道。身軽なクーラだが、俺に合わせたスピードとルートで移動をしていたせいか彼女の身体に無理がでてしまい、翌日熱を出してしまった。

 

 クーラは、自身の年齢や誕生日は分からないと言うが、俺と親子だという演技が通じる程である。人並以上の身体能力に本人の頼もしさから意識の外だったが、まだ未成熟な身体であり体力も流石に成人男性に劣る。

 

 連日の旅で疲れもとれきれなかっただろう。そのうえで、身体を冷やしてしまう。体調を崩すのも無理はない。むしろ、今までこの小さな身体で頑張ってきた。

 

 他の部屋から持ってきた、頑丈なテーブルのうえにそっと鍋をおく。寝ているなら、無理におこさなくても良いかと考えたが、視界の端でピクリと耳が動いた。

 

 「お帰り」

 

 「すまん、起こしたか」

 

 「ううん」

 

 クーラが上半身をおこす。顔色は、出る前よりは良くなっているようには見えるが安心はできない。

 

 「食えるか?無理にでも食っておけとは言いたいが、体調と相談してくれ」

 

 「食べるよ。せっかく作ってくれたんでしょう?吐き気もないし、大丈夫」

 

 器にスープを盛り付ける。一応黒パンも用意はしてあるが、こちらは病んでいるなか辛いだろう。

 

 「ごめんね。近道する為に選んだ道で、足引っぱるなんて」

 

 器を受け取るクーラが、申し訳なさそうに首を垂れた。病は気からというが、落ち込んでいては身体も何時までも回復しないだろう。薬の類も胃腸薬の代用品や痛み止めの用意はあるが、解熱剤のようなものは準備していなかった。薬の類がないぶん、少しでも、元気を取り戻して回復に専念してもらいたい。

 

 気にするなと言っても、気にしてしまうような奴だ。となれば、どう声をかければ良いのか。

 

 クーラがスープをすする。猫舌で少し熱いのか、身体をプルプル震わせた後頬を少し赤くして舐めるように呑んでいた。

 

 「ふっ」

 

 「なに、どしたの」

 

 「いや、猫っぽいところもあるんだなとな」

 

 クーラを見ていると、前も考えたことがあったが昔のことを少しだけ思い出す。俺は猫を飼いたがっていた。だが、それと同時に家具をボロボロにされるため、飼うことについては同時に諦めていた。しかし俺以上に妻は熱烈に猫を飼いたがっていた。

 

 仮に飼うことになるならば、上手いこと家具から猫を離す方法はないだろうかと少し調べていたこともある。その知識が、生かされることはなかったが。

 

 「それ、場合によっては半獣差別になるからね」

 

 「っと、そうなのか。そいつはすまんかった」

 

 「んーどうしよっかぁ。自分としては、半獣差別にはノーと言わなきゃいけない立場だしぃ」

 

 クーラがわざとらしい膨れ面を見せる。尻尾が動き、傍らをツンツンと叩いた。

 

 「座るが良い。風邪うつしてやる」

 

 「仰せのままに」

 

 隣に座ると、器を持ちながら寄りかかってきた。体調を崩し今は心細くもなるだろう。何時もなら問題だが、今は好きにさせておこう。

 

 灰色の髪の毛が、肩に当たる。同色の三角耳がピンと立っており、肩に先端が当たりピンピンと跳ねていた。

 

 「そういえば、髪の毛で隠れているけど人の方の耳ってあるのか?」

 

 「見てみる?」

 

 クーラが手で髪の毛を持ち上げる。獣の耳がある代わりに、人の耳がある部位にはなにもなかった。もしかしたら、四つ耳があって人より広い可聴域があるのかとも考えたがそうでもないらしい。

 

 「ないのか。あるもんかと思った」

 

 「耳が四つあったら気持ち悪いから、無くても良いけどね。それとも、ランザには無いほうが気持ち悪い?」

 

 「いや、気持ち悪がる理由がない。ただの興味と言うか、好奇心だ。立派な耳がちゃんとあるから、良いじゃないか」

 

 口では少しネガティブなことを言いながらも、こちらの返事を聞きクーラは笑みを浮かべていた。下手に気遣うより、擁護したりするより、こうする方が良いのだろうか。食事を食べながら、他愛無い会話をする。それが一番気が安らぐだろうか。

 

 自分のスープをよそい、口に含む。肉の油が表面に浮いており、塩味とよくあっているとは思うが病人食として正解かどうかは分からない。

 

 「昔な、猫を飼うか飼わないかで、喧嘩とまではいかないが少し口論を妻としたことがあった。俺はこう見えて、半人前だが家具を作る仕事をしていてな、猫は好きだが作ったものを爪とぎにされちゃかなわないと反対したもんだよ」

 

 「そうなの?」

 

 「猫は好きだが飼うのは諦めていた俺と違い、妻は俺以上に熱烈に猫が好きだった。結局、俺も飼いたい欲が出てしまい最終的には根負けした。ただ条件として育児がひと段落して、俺が一人前の職人だと親方に認められ生活が豊かで、安定したらと話しをつけたんだ。猫を飼う機会はついぞ訪れなかったけど、ぺットがいる生活は良いものだったかもしれないな」

 

 しかし、結果的には飼わなくて正解だった。テンに殺された家族に、ぺットが一匹含まれていたかもしれない。

 

 「そうなんだ。でもランザ、猫飼ってももうなつかれないと思うよ?」

 

 「え?何故」

 

 「もうランザには、たっぷりとマーキングしてあるからね。猫はテリトリーに敏感なの、もうよその猫が介入してこないようにしてあるからね」

 

 頬を赤くしながら、熱でとろけた目でクーラは言った。風邪のせいで思考までとろけてきているのか、先程まで猫っぽいとかは半獣差別だと言いつつテリトリーだのマーキングだの言ってきている。

 

 「猫扱いは差別に繋がるんじゃなかったか。まったく、アホぬかしてないで取り合えず飯食え」

 

 額でも軽くたたいてやろうとも思ったが、病人にそこまでできない。代わりに頭をグリグリと撫でてやってから軽く押して距離を離す。俺によりかかるより、食べられるようなら食事を食べてほしい。

 

 「ランザ」

 

 「お?」

 

 「食べながらで良いから、話してほしい。自分が貴方を知る前のこと。美味しいと思ったもの、楽しかった思い出、奥さんとの出会い、家具のこと、グローとの思いで。自分には、話せるような楽しい思いでがない。だから、聞きたい。こんな機会じゃなきゃ、聞けないしね」

 

 「お前は、まだまだこれからだ。それに、わざわざ過去話なんて聞いても面白いことなんて…」

 

 「聞かせて」

 

 まっすぐと、クーラが見つめてきた。その視線に、思わず目をそむけてしまいそうになる。俺の思い出話なんて、ロクなもんじゃないというのに。

 

 「面白い、話しじゃないからな」

 

 グローと初めて出会った時の話、家具工房での仕事、狩猟解禁日に森でとれる獣肉、妻との馴れ初め。俺は、意図的にテンにかかわるような思いでを除いて話した。楽しいと思える思い出に、仕事での成功体験や失敗談。

 

 クーラの瞼がまた重くなっていくまで、とりとめのない話は続いていく。テンによる凶行後、エレミヤの館でも感じることができたなかった、穏やかな時間を過ごしていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝都メルキオス。帝国における軍事のトップクラス、戦争に関する各分野の専門家が集まり最新技術を研究する国防総局において災害対策室は上位に位置する部署である。

 

 今にも雨が降り出したそうな曇天の空から、小型犬くらいならその鈎爪で浚ってしまいそうな体躯を誇る一羽の鳥が対策室に面した窓辺に添えられた止まり棒に着地する。

 

 足につけられた手紙筒から紙を取り出し、暗号文を解読しガルシアは眉をひそめた。

 

 「廃村にて動かずか。妙な動きもなし」

 

 ランザの傍には、感覚が鋭敏な者が常に控えている。何時もはさらに遠巻きに見はるしかないが、その者が体調を崩しているからこそそれなりに草の物が監視をすることができた。

 

 だがしかし、報告は特に異常もなく穏やかなものだ。エンパス教を嗅ぎまわっていること以外は、特筆すべきことはなし。会話まで拾える距離まで近づけば、なにか情報がとも思ったがランザ自身も相応の修羅場を潜っているようだ。油断は、できない。

 

 「父上」

 

 扉が叩かれ、執務室に若者が入室する。訓練後であるせいか、竜狩りの証たる深紅の軽装鎧を身に着けたままだった。

 

 竜という、規格外の生物の一撃は軽い攻撃でも人体には致命的だ。竜狩りにおいては一部の者以外は基本的には軽装である。

 

 特別な訓練と、竜の一撃を受けても防げる重装備を着こみながら戦える頑健な肉体の持ち主でなければ、どのみち一撃で赤い花を咲かす。ならば、少しでも死の一撃回避する為に、特殊重装隊を除いては軽装備で戦場望むのが最適解と結論付けられている。

 

 鎧と同色の朱色の髪に、力強い蒼色の瞳。ついひと月前、自分の跡継ぎとし竜狩り隊隊長になった息子は心身充実しているようであった。実の息子でもあるが、贔屓めや不正による人事ではいっさいない。まだ若くとも、実力で掴みとった自慢の後継である。

 

 「ランウェイ、訓練は終わりか」

 

 「はい、ぬかりはありません。新制竜狩り隊、命令があれば何時でもいけます」

 

 ランウェイが近づき、運ばれてきた暗号文に目を通す。形の良い眉をひそめ、口を開いた。

 

 「例の男ですか」

 

 「ああ。モスコー事件や巨人事件の生き残り、というにはきな臭すぎる人物だ。探ってみれば、興味深い事実が次から次へと出てくる」

 

 懐からシガーケースを取り出し、葉巻を一本口に加える。喫煙は肺の活力を落とし行動力を落とす為、火はつけず香りを楽しむのみに留める。前線を退いたとはいえ、私はまだ現役でいるつもりだ。椅子に座って情報を精査するのみの詰まらない役に甘んじるつもりはない。きな臭いと思えば、自分の足で現地に赴き金より貴重な情報を集める。

 

 予想通りランザという人物、ただの生き残りではなかった。

 

 ここ最近数が増えている、人間が化物に変貌する現象を追い求め、それを打倒することに情熱を燃やし行動をしている。金銭が関りには関係ない、ただ闘争を求めるような、明確な目的意思があるようであった。この件に関しては、掲げる大盾のリスム支部にて人妖の情報を集めようとするなど裏もとれている。

 

 目撃情報から推測し、彼が立ち寄ったとある村にも足を運んだ。規格外の化物が暴れた痕が痛々しく残り、街のあちこちには惨劇を物語っていた。

 

 何故彼は、人妖を追い続けるのか。帝国入りしたのは、なにが目的なのか。見極めなければ、ならない。

 

 「父上、今なら」

 

 「ダメだ」

 

 「奴が怪しいのは明らかです。帝国でなにか災厄を巻きこす前に、捕らえてしまえばいいではないですか。奴がなにを企んでいるかなど、尋問なり拷問なりして吐かせればいい、わざわざ帝都まで来るのを指を加えて見ている必要はない筈です。今なら廃村にいる為、いかに暴れようが周囲に被害はない。ここでいかなければ何のための、対策室…竜狩りなんですか」

 

 「わざわざ我等の監視下、護りが硬い帝都で問題をおこすような奴ならば、ここまで私も警戒はしない。奴は無秩序な獣ではなく、考え行動をする人間だ。一連の事件におけるキーマンである以上、泳がせて情報を集めるのが一番だと何度も説明しているだろうが」

 

 「しかし父上!状況証拠から奴が、どのような方法かは定かではないがかの悪竜の力を振るっているのは明白ではないですか!眼前の竜を見過ごしてなにが竜狩りだ!我々はいったいなんの為に日々厳しい訓練を課していると思っているんですか!」

 

 「くどい!お前達はヤクザや半グレのような暴力装置ではない!然るべき時、然るべき情報に基づき武力を振るう竜狩り隊だ!弁えろ!」

 

 息子の故郷を思う気持ちと愛国心は強い。だがしかし、目の前の獲物に考え無しに襲いかかるような存在になってはならない。

 

 普段ならばもう少し冷静であるが新隊長となり、親のコネだの取引だの陰口を叩かれて実績を得たいと必死なのだろう。

 

 誰もが認め、納得をするような首級。海竜と並ぶ、悪竜の首をとる機会が巡ってきたと考えれば座して待つには、若すぎるかもしれない。

 

 気持ちは分かるが、断固として独断専行は止めなければならない。文民統制を外れた武力組織など、いかに理念や信念があろうと暴徒の集団と変わらなくなってしまう。民間武装組織でさえ、仕事を受けるのにはいくつもの審査が必要で現地の治安組織に許諾書と報告書を提出しているのだ。国家の組織たる我々が暴発する訳にはいかない。

 

 何度も教えてきたことだ。分かっている、筈なのだ。

 

 「失礼、しました」

 

 ランウェイが一歩後ろに下がり、頭を下げる。納得はできていないだろうが、それでも理性で自制できているならば良いだろう。

 

 外套を着こみ、扉に向かう。

 

 「お出かけですか」

 

 「少し城まで行ってくる。関係部署と情報共有、協力体制の強化の打ち合わせだ。ランザ=ランテは確かに懸念事項だが最近北方では休火山から、不自然な唸り声のような音が響いているという話もあり、怪しげな連中が動いているとの話もある。良いか、くれぐれも早まるな。我等が対応する事柄は一つではないのだ。視野を広くもて」

 

 「分かりました」

 

 ガルシアが部屋を出た後、ランウェイは長椅子に座り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腕を組み合わせ、目をつむりしばらく沈黙する。しばらく時間が経った後、窓から蒼く透明な鳥がすり抜けて室内に侵入してきた。テーブルの上に鳥が止まり、誰もいない室内に音が響き渡る。

 

 『ガルシア殿は予想通りの反応でしたわね。災害対策室の竜狩り部隊は、国内の特殊部隊では最大の大駒。迂闊に動かすべきではないというのは、現役時代とは変わらない。いえ、前線を退き情報畑に転身したことで、その考えは強くなっているように感じますわ』

 

 「父上の考え方じたいは間違いではない。だが、リスムやモスコーで深く事件に関り、悪竜との繋がりを臭わせるような男がこの帝都に近づいて来るのは災厄をただ待っているのと同じだ。北方には不安要素もあり、混乱に乗じて連合王国からの工作も増えつつある。確かに状況を見極めるのは大事だが、時には即断即決で動くことも大切だろう。根回しは?」

 

 『とある伝手から、ガルシア殿の足止めの段取りは既に組んでおります。少なくとも、予定通りにことを進めるならば問題ありません』

 

 「良いだろう、ならば利用させてもらおう。互いにな」

 

 『ええ、お互いに。そして成功の暁には、手柄は山分け。よろしいですわね。では、よろしくお願いいたします、ランウェイ殿』

 

 蒼い鳥が羽ばたき、飛び上がると同時に粒子となり消えていった。怪しげな連中だとは思ったが、利用はできる。我等竜狩りは、帝国に襲い掛かる災厄を防ぎ、その芽を摘み取ることこそが寛容。その為なら、利用できるものはなんでも利用する。

 

 俺は俺のやり方で、この国を護ってみせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「功を焦るか、本心で国防に熱心なのか。いずれにせよまだまだ若い」

 

 連絡用の蒼鳥の消滅を確認してから、一人呟く。部屋の中には古いスクロールが床に散らばり、覚書が書かれた羊皮紙が大量に壁に貼り付けられ、分厚い書籍が本棚から溢れ部屋のあちこちに積み上げられていた。

 

 そのほとんどが年季の入った代物であり、見る人が見れば本の一部は装丁が人皮であることが分かるだろう。

 

 それは、魔術書と言われるものだった。魔王と呼ばれた覇道を進む独裁者がいた時代や、人類と吸血鬼が生存闘争をしていた時代より遥か昔。竜と神、悪魔が存在感を放っていた時代の代物であった。

 

 「だからこそやりやすい。私の目指す先は、エンパス教の目的とは似て異なる。レントの手勢を迂闊には使用できない。武力を行使する手段が必要だ」

 

 扉を開き、部屋から出る。岩肌にボウッと蒼白い光源が浮かんだ通路を進み、突き当りの扉を押し開く。

 

 「マスター」

 

 「当代」

 

 扉の先では数人のローブを着た男女が作業をしていた。こちらを見て立ち上がり、頭を下げようとするが手を前にだして拒否する。

 

 「エンパス教やレントの動きは?」

 

 「どちらも特に変化はありません。ここがバレている心配はないかと」

 

 「血の運用は?」

 

 「信者共で試してみますが、徐々に適正者が現れています。しかし、一度に沢山の人間が姿をくらませばそれこそ気づかれます。効率はあがっていますが…やはり劇的な変化は見込めないかと」

 

 「それで良い。効率の良い血の活用方法が見つかれば、後々我々の大きな推進力となる。今はまだ、帝国にもレントにも、バレないようにことを進めよう。なに、もうすぐ吸血鬼の血が混じり、狐の試練を越え、悪竜の改造を受けた良質の素体が手に入る。万が一に備えて予備戦力も用意した。ふっ…悲願成就は目の前、焦ることはない」

 

 「悲願成就…ですか」

 

 各々が感慨深げな顔を浮かべるなか、ウェンディ=アルザスはその中央を歩く。

 

 魔法使い。今や伝承ですらない作り話と思われている種族。

 

 魔術具という玩具に頼ることなく、自らの力で超常の現象をおこす人を越えた存在。

 

 魔術具を使える存在は、才能によるものと言われているがそれはかなり薄くなった魔法使いの子孫ではある。しかし、血を濃く保ち自らの能力で現象を引き起こす本物の魔法使い達はもうこの世界に二十人もいないだろう。

 

 ウェンディは、その一族を密やかに束ねる長であり、表向きはレントが率いる一団の一人として活動していた。

 

 成程、彼も確かに特殊な力がある。加護と魅了、それ以外にも多数の能力を持っている。しかし、魅了に関して言うなればあの能力は呪いに近い。冷静に解析をしていけば、解呪を行うことも私には可能だ。私に施された加護の力のみ、有用に活用させてもらう。

 

 頭にかぶる帽子をとり、短めに切りそろえた黄緑色の髪の毛を露わにする。見上げる先には、真の目的があった。

 

 「今の有象無象が支配する世の中は歪だ。エンパスが言う、真の神が人類を導くというのも間違っている」

 

 ウェンディは半月のような笑みを浮かべた。愛おしそうに、目の前の存在を見上げる。

 

 「有象無象の人類の上に立ち、正しく導くのは私達のような選ばれた存在だ。決して神などではない」




 閲覧ありがとうございました。お陰様で、UA五万を越えることができ少しづつお気に入りも増えている現状、お礼申し上げます。

 実際、投稿してみて思ったことがありますが、閲覧数やお気に入りも勿論ですが感想をもらえることがなによりも励みになると感じました。

 作品は続けていきますが、感想を書いていただけた時は「ちゃんと読まれてるんだな」と安心とやる気を感じる次第です。よろしければ、ボランティア気分でも少しだけ皆さまに応援していただければモチベがグングン上がるます。

 本編では帝国入国、帝都でおこる一連の出来事にて物語を大きく進める予定です。今後とも、お付き合いの程よろしくお願いします。

 


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 剛健であれ、勇猛であれ、勤勉であれ。大陸最大の国家、帝国。初代帝王が残した三つの指針が礎となり拡大と発展を繰り返してきた。

 

 元を辿れば帝国は、群雄割拠をしていた大陸においては小国、それも比較的群雄の中で大きな力を持つ隣国マズガリーの実質属国のような扱いを受けていたという。

 

 初代帝王となるギルバートは、若者の頃は奔放に遊び呆けており家臣にも王にも、器としても領主というより狭としての性格が前面に出ており、こいつを跡継ぎにさせては国が亡ぶと思わせていた。

 

 しかし、若さに似合わぬ老獪さをギルバートは持ち合わせていた。地方の豪族や自国と同じ小国の有力者、国民の若者世代に軍部の若手将校と接触し抱き込み、彼は着々と、下剋上の準備を進めていたという。

 

 反乱により、現国王を処刑台に送ったギルバートは、徹底した独立主義、小国同士の経済協力法案、脱マズガリー政策を次々と打ち出した。

 

 当然マズガリーは激怒、ギルバートを名指しで批判をし制圧の号令をかける。戦帝、ギルバートの半生を越える戦いの歴史のなか、本格的な戦争はこれが初めてであった。

 

 マズガリーとの死闘、群雄を飲み込む快進撃、騎馬民族の襲来と敗北、そして逆転。その人生ほとんどを戦場に費やし、初代帝王となったギルバートは現在でも国父として民衆に慕われている。

 

 「なんてこった」

 

 帝王ギルバートの彫刻がたつ広場。その向こう側に見える絢爛で巨大な城は、大陸二番目に力を持つ筈の連合王国のそれよりも立派であった。

 

 帝都。ある意味では、世界で一番安全な都市。

 

 人妖等の話を聞くことはなく、仮にいたとしても皇帝のお膝元、軍事国家として名高い帝国だ。多少力を持つ化物くらいなど、瞬く間に蹴散らされるだろう。

 

 そのような理由で帝都には訪れたことはなかったが、自分がつくづく田舎者だと思い知らされるはめになった。人も、物も、領土も、なにもかもが他国とはスケールが違う。

 

 「観光でもする?」

 

 体調が回復したクーラは、ニヤニヤとした顔を浮かべていた。巨大な城に圧倒される様子を見ていて面白いのだろう。こいつめ、とも思うがそれくらいで楽しい思いをしてくれるなら怒ることもない。軽く側頭部を小突いておく。

 

 「宿の確保は終わっているし、まずエンパス教を調べることから始めるか。この手のことについては、お前の方が得意だろう。やり方は、任せて良いか」

 

 「諜報と暗殺が専業だったからね。大丈夫、成果は持ち帰るよ」

 

 「優先事項はエンパス教で良いが、レッドアイ流通経路についても、ついで程度で良いから調べておいてくれ。こちらは成果が無くても構わない。俺はこの都市のエンパス教に対しての教団の動き、そして災害対策室や竜狩りについて過剰にならない程度に探ってみようと思う。まあ、まだ病み上がりだし無理するなよ」

 

 手のひらを出すと、それにパチンと叩きクーラは人混みの中に消えていった。

 

 帝都にて活動経験があるクーラの案内で、主要な街区は一通り案内してもらった。あとは、足を引っぱらないように気をつけて情報を集めれば良い。

 

 広場から離れ、旧街区に向かう。この帝都において古くからあるこの地区では、なにもかもが先鋭的な帝都において一昔前の、ある意味では見慣れた環境で少しだけホッとする。

 

 大衆食堂にて軽食を購入する。小麦を薄く引き伸ばした生地に薄く焼いたベーコンと葉野菜を巻いて辛めのタレがかかったものを購入する。少し早めの昼食であるが、慣れない街を歩くことで少し早めに腹が減ってしまった。

 

 この地区にも教団の教会が存在する。別の地区に行くと、上流階級ご用達のようなこれ以上ない程大きな教会が存在したが、距離の問題で当たるのは少し後回しにする。

 

 「初めまして。この辺りでは見ない顔ですね」

 

 教会に入ろうとした瞬間、声をかけられた。振り向くと若い男女の二人組がニコニコしながらこちらに声をかけてきた。顔立ちは違うのに、貼り付けたような似たような笑顔を浮かべており不気味さを感じる。

 

 「この辺りでは見ない顔というのは、その通りだが帝都の人口は確か六十万人程。この地区だけでも何万人いるか分からないんじゃないか?」

 

 「それはおっしゃる通りで。しかし、この教団に入ろうとする方はほぼ全員把握しているので分かりますよ」

 

 「それはまた、随分と面倒なことをしているな。それで、何の用だ」

 

 予感というか、ほぼ確信に近いものを感じた。探りを入れようとしたら、いきなり本命が近づいて来た訳だ。

 

 「新たな啓蒙活動への、勧誘を行っております。エンパス教というのを、ご存知でしょうか」

 

 「いや、知らないな。どういう宗教なんだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ランザは旧市街の方へ向かった。ならば自分は、どこから当たっていくか。

 

 まず注意しなければならないのは、自分はランザ以上にエンパス教の者に顔が知られているであろうことだ。レントの元で活動していた頃は、宗教絡みの活動はまだ動きを見せていなかったがその下地作りのようなことはしていたようには思える。

 

 最初からエンパス教を探るのは、リスクが高い。思い切ってここは、エンパス教はランザに任せ、自分は副次的な目的から調査を開始することにする。後で調査結果を互いにすり合わせ、その状況に合わせて方針を変えることにしよう。

 

 レッドアイ。液体状であり、注射器で身体に打ち込むタイプの薬物。大抵の精神と身体に影響がある薬物は、テンションが上がり興奮しやすくなるハイと気分がどこまでも落ち込んでいきその中での陶酔感を味わうロウに、大まかには分類される。

 

 レッドアイは珍しく、最初はロウになり時間が経つにつれハイになる珍しい特性を持っていたが、それも二年ほど前の話だ。それから改良が加えられたという情報もあるし今はどのように変化しているのかも分からない。

 

 大抵の薬物は、こういう下層から流行るものだ。明日がない極度の貧困層は、貯蓄したところで大した財もたまらなければ、運が悪ければその貯蓄ごと全てを強盗に奪われることもある。刹那的な快楽に身を浸しやすい者達がいる場所は、リスムだろうが帝国だろうが、連合王国だろうが変わらない…と思ったのだが。

 

 「読み違えた?」

 

 調査を開始して、はや二時間程が経過していたが、それらしい話を掴むことができない。スラムに居を構えるマフィアやその周辺も監視していたが、流通している違法薬物は以前からある既存のものという印象だ。

 

 考えられる原因としては、二つ。一つはこの薬物が、頭一つか二つ分飛びぬけて高価であるという可能性。それならば、売買を行うターゲットとしては貧困層よりも中流階級辺りを探る必要がある。それでも、噂すら聞かずまったくそれらしいものが見つからないのは不自然ではあるが。

 

 もう一つは、リスムでは違法薬物として扱われていたものが、この帝国では合法として取引されているということ。例えば、帝国ではレッドアイに手を加えることにより何らかの医療品として流通することに成功させたとか。

 

 医療といえば、医療教会と国境をまたいだ民間組織である医術組合という二つの大きな組織があるが当然帝国じたいにも国家主導の組織は存在するだろう。そこでなんらかの新薬が開発されその原料に…という流れだ。

 

 そうであるならば、民間にレッドアイが流れてくることはほとんどなくなる。だがそうであるならば、疑問点が浮かび上がる。政府が主導しているような組織にレッドアイが流されているのなら、レガリアも当然それは掴むことができるだろう。

 

 レガリアですらも探り切れない、裏側への流通。いったい誰が、ハーウェンからレッドアイを買い付けているのか。

 

 いっそ、可燃性であるということを考えて燃料として買い付けられているのかもしれない。そうであるならな、お笑いだなと思ったところで腹の音が鳴った。今からだと、遅めの昼食だ。

 

 別行動で食事はしっかりとるようにと、ランザに金銭は多めにももらっている。テンを追うという目的を共にしてから、財産は共通管理をするようになった。今のところ、財布の紐は年長者ということでランザが握っているが、不自由しないだけの金銭は渡してくれるので困ることはない。

 

 しかしスラムで飯を食おうなど、得体のしれないものを口に含むのと同義だ。自分はそれでもかまわないといったらそれまでだが、ランザにそれが知られたらなんの為に金を回したと怒られそうだ。病み上がりなんだし、ちゃんと栄養がとれとも追加で小言が飛んできそうでもある。

 

 一度スラムから離れ、食事を食べに行くがてら中流階級が多く住まう地域を調べることに方針を変えてみるか。

 

 そう考えた瞬間、鼻が美味しそうな香りを嗅ぎつける。スラムには、似つかわしくない香りだ。

 

 角を曲がり臭いの方向を見てみると、得心がいった。教団による炊き出しだ。

 

 薄味ではあるが暖かいスープと、安くはあるが腹を満たす平パン。この手の慈善事業は、単なる善意の施しで終わるものではない。食事を満足に食べることもできずに、犯罪にはしる者達を抑制する役割がある、一種の社会保障ともいえるのだ。

 

 現に、帝国のみではなくある程度の先進国は炊き出しに対して助成金を出している。半分は寄付や運営資金からの捻出だが、もう半分は国の財布という訳だ。

 

 徴収した税金をこんな無駄に使うなと腹を立てる者もいるが、この供給が絶たれてしまえばその分だけ腹をすかした暴徒が出来上がることを分かってはいないからこその文句だろう。善意を止めた時、脅かされるのは生活なのかもしれないのに。

 

 腹の音は、鳴った。

 

 「お嬢ちゃん。炊き出し、もう終わっちまったよ」

 

 ボロの服を着た男が声をかけてきた。腹の音が聞こえたか、炊き出しを食べに来たみなしごかと勘違いされたのだろう。経済特別区で購入した装備品は宿におき、今は中古で安売りされていた古着を身にまといスラムで活動しても目立たないようにしていたので無理はない。そう見えるように、したのだから。

 

 「みたいね。教団の炊き出し?」

 

 「ああ、神の慈悲だかよく分からねえけど、なんにしてもありがてえ…」

 

 「はッ!なんだこの残飯みてェな飯は!俺達を浮浪者だと思って舐めやがって!教団の神様とやらの慈悲は、大したことねぇなぁ!」

 

 男が話を続けようとした瞬間、これ見よがしに周囲に聞こえるように粗暴の悪そうな男が吠える。教団のシスターは困り顔を浮かべており、周囲の者達は不機嫌そうに眉をひそめたり注意をしているようだったが何人かは男の言うことに頷いていた。

 

 「チッ…若造め」

 

 「なにあれ」

 

 「ああ…まあ…あんまり関わらない方が良い。飯が食えることじたい、幸せだというのを分かっちゃいねえんだ」

 

 自分が帝都にいたころは、少なくともあの手の輩はいなかったように思える。

 

 「なにがあったの?」

 

 「最近、教団の他にもエンパス教が炊き出しを始めたんだ。それが、スープの具も多いし味付けも濃い、パンは小麦を使った白いパンを用意してくれている。炊き出しにしては豪勢なもんだが、それで舌が肥えちまった連中が教団の炊き出しに不満をぶつけるようになったんだ」

 

 「炊き出しにでしょう?スープはともかく、ライ麦じゃなくて小麦のパンなんて…どこからそんな金が」

 

 「さあな。だがエンパスの連中がだす炊き出しに参加すると、半ば強制的に奴らの神殿で説法を聞かされる。参加した奴に話を聞くと、菓子と葡萄酒を振舞われたっつーが…」

 

 「菓子に葡萄酒を?嘘でしょ?」

 

 いくらなんでも羽振りが良すぎる。信者数をかさましする為の工作か、それにしたって金のかけどころが極端すぎやしないか。そういえば、このおじさんの言い方も、誰かに聞いたことを話しているような感じだ。

 

 「おじさんは、行ったことがないの?」

 

 「豪華な飯や酒は憧れるがよ、こんな生活をしているんだ。万が一舌が肥えちまったら、日々を生きるだけでも辛くなっちまう。それに、別段神様を信じてなくてもこれまで継続して炊き出しをしてくれた教団相手に喧嘩を売る、エンパスの連中はいまいち信用できねえよ。それに…」

 

 「それに?」

 

 「みんな気にしちゃいねえが、俺の気のせいでなければ説法を聞きに行った連中の中から、何回かに一回は一人か二人消えちまう。それなのに、一度参加した連中は周囲を誘ってまた向かおうとする。美味い飯に誘われても、不気味なところには近寄りたくはねえからな。お嬢ちゃんも、炊き出しもらうだけならともかくついていくのはやめておきな」

 

 思いがけず、収穫があった。連中は金に糸目もつけずに浮浪者相手に対して施しを続けている。そして、連中の施設である神殿に入った者達の中には戻ってきたいないものがいるという。

 

 話しかけてきた男に礼を言い、その場を離れる。レッドアイの情報収集は一度置いておこう。今日の夜にはランザと宿で集合するが、炊き出しというものは比較的明るい時間から始まることが多い。先にランザにこのことを話しに行くか。いや、ランザ自身もう旧市街から出ている可能性もある。

 

 ならばまず、炊き出しには参加せず張り込んで、潜入後内情だけ調査をしておこう。内部でなにがおこっているのかを確認してそれをランザに報告するのがいいだろう。

 

 そうだ、別の浮浪者や近隣の住民からも裏どりをしなくては。情報の精度をあげることも大切だ。

 

 「慈善事業で終わっているのならば、良いんだけどねぇ」

 

 夕暮れ近くまで時間がある、あとは…やることをやったら、時間まで一度この都市にあるエンパス教の拠点と思わしき場所を、調べられるかぎり調べていこう。

 

 あとは竜狩りの動きを見極めたいが、仮にも相手は帝国最強を謡う特殊部隊だ。専用の装備と協力者に、事前の情報収集や準備を確りしないと上手いこといかないだろう。

 

 「やるか」

 

 風邪でダウンした分、取り戻さなければならない。エンパス教の動きから、レントの動きを予想しこちらに被害が及ばないように立ち回る方策を探る。災害対策室にも目をつけられている以上、不安要素は出来る限り減らさなければならない。

 

 人妖相手にする方が楽、なんて言ったらランザに怒られるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人組の男女に案内されたのは、中流の階級が住む区画に建つ石造りの建物の前だった。

 

 元はなにかの施設だったのか、宗教施設というよりは潰れたを商館を改装したという趣だ。荷を入れた馬車を入れる為、玄関口が広く複数ある造り等まさにそのような趣である。

 

 「では、本日は見学ということで」

 

 「知見を広める為にな。誘われて来たのだが、問題はないか?」

 

 「ええ、どうぞ。正しい啓蒙を得る為の糧としてください。我々の門戸は何時でも開いておりますゆえ。ようこそ、神殿へ」

 

 入ってすぐ助祭のような男に声をかけられる。あくまで誘われて興味本位で訪れたという体を保っている為、あくまで今の俺の立場は懐疑的ではあるが頭から否定をするのは良くは無いと考える教団側の信者という立場だ。

 

 誘いをかけてきた二人組も、信者の引き抜きをする為教会に入ろうとするこちらに声をかけたのだろう。矛盾はない。

 

 ちなみにエンパス教では、教団でいう教会のことを神殿といっているようだ。意味や由来はあるのだろうが、今はややこしくなくていいと要素とだけ考えておこう。

 

 まだ商会として運用していた頃と違い、馬車を止めるスペースから商品を取り扱うスペースまで、柱などの建造物を支える大切な部分を除き全ての壁が取り払われていた。

 

 代わりにあちこちにはまだ真新しい木製の長椅子が複数並べられており、一番奥には女神の彫像が安置されていた。先端がリング状の杖のような持ちを、差し伸べたように伸ばされる手には杯のようなものが乗せられていた。

 

 長椅子に座り、周囲の様子を観察する。俺の後ろからも何人かの人間が続々と入り込んでおり、これから集会でもするのだろうか人々が椅子に着席し始めていた。

 

 目の前には前の席の背もたれからでっぱるように板が差し込まれており、その上には木の杯が乗せられている簡易なテーブルのようになっていた。

 

 両隣に、俺に声をかけてきた男女が座った。本来俺は無宗教に近く、ふりとはいえ教団の宗教を信仰している体なので、エンパス教の信者二人に挟まれるのは逃げ道を塞がれたようであり圧迫感がある。

 

 「なあ」

 

 「はい、なんでしょう」

 

 「ざっくりとした知識として知っておきたいんだが、エンパスとはどういう存在なんだ。神様と一言で言っても、いろんな役目を持った神がいるだろう。エンパスはなんの神様なんだ?」

 

 俺の疑問に、男も女も眉をひそめ困り顔を浮かべた。そこまで変な質問をしただろうか。

 

 例えば、連合王国にも教団の宗教は根強く信仰されているがそれと同時に東方から流れてきた宗教観も同時に息づいている。

 

 一言で神といっても、宗教の世界を護る武門の神であったり、増長したものに罰を下す荒神であったり、農耕の神、海の神、太陽の神と様々な存在がいるものだ。

 

 エンパスはなにを守護し、または司る神なのか。それを聞いただけであったが、怪訝な顔をされるとは思わなかった。

 

 「なんの神、ですか。まずはエンパス教を知るうえで、その概念を一時的にでも良いのでお捨てください」

 

 「どういう意味だ?」

 

 「文字通りの意味です。既存の宗教とは全て人が、人の為に作られた架空のもの。その概念をエンパス様に当てはめるのは不敬というものです。それでも乱暴ながら、その概念に乗っ取るのであれば、全ての神というべきでしょうか…難しいですね」

 

 「……欲張りなもんだな」

 

 そうだ、エンパス教は一神教であったか。それが良いか悪いかは置いておき、排他的にになるのは無理はないというべきか。信仰を縛る法律はどこの国にもないが、だからこそ他の宗教を全て批判するような宗教観には違和感を覚える。

 

 しかし、リスムでは奇跡と呼ばれる現象がおきたことを知っている。巨人を消滅させた円形状の光の柱。あれがこの世に顕現した奇跡であるならば、成程、他宗教が全て嘘だというだけの自信が湧くだろう。

 

 だがそんな奇跡も、遠くでおきた現象の一つにすぎない。直接見たリスムの者達ならばともかく、熱心な信者を大量に作り出すにはやはりまだなにかピースが足りない。現実味がないのだ。あの時リスム自治州にいた俺ですら、奇跡を直接見ていないためまだピンとこないほどだ。

 

 しばらくした後に、司祭と思われる男が現れた。語る内容に耳を傾けるが、そこまで突拍子な内容だとは思えなかった。崖に砦がある集落にて、教団の神父に聞いた話とさして違いはない。隣人愛に兄弟愛、人と人とのつながりを大切にしましょう。それをエンパスは大切にします云々。

 

 過激な面があるとしたら、発展しすぎた人類への警告。主だっては魔術具に対する使用を取りやめるように広めるものである。あれは、悪魔の知恵から派生した物品であるらしい。

 

 確かに、地下迷宮から発見された古い魔術具は悪魔の手による代物と言えるようなものが出土することはある。しかし、魔術具を使用することによりそれを仕事としている者もいるのだ。

 

 発展を忌避するような言動は、人の行いを否定することにも繋がる。それだけで、拒否感を浮かべる者もいるだろう。現実、クーラの話では村に来た信仰を広げようとする若者達の話をまともに聞くものはいなかった。まだ、なにかがある。

 

 司祭の話が終わり、先頭の列から一人ずつ前に出て司祭の前に並ぶ。用意された木の杯を持っており、用意された器から司祭手ずから一人一人に葡萄酒を注いでいた。

 

 促されて、前に出る。持っていった杯に葡萄酒を注がれ、傍らのシスターから二口程で食べれそうな茶色い焼き菓子を渡される。

 

 「我等はみな、兄弟であり姉妹です。同じ器から満たされた葡萄酒を呑み、食事を食べましょう。そして隣人を支えあい、兄弟を愛し合うのです。それこそが、人類のあるべき姿なのですから」

 

 酒の臭いは、葡萄酒以外妙なものは感じない。焼き菓子も二つに割ってみたが、中身におかしなことはなかった。バターの香り漂う、甘い焼き菓子だ。

 

 なかなか口をつけずにいると、怪訝そうな顔で見られた。

 

 「酒は苦手なもので」

 

 「そうですか、でも一口だけでも良いのですよ。同じ器から注がれたものを体内に取り入れる、それこそが肝心なのですから」

 

 いつの間にか、周囲の人間の視線が注がれていた。目立つのは、あまりよろしくないか。まあ、舐めるだけに留めるなら問題はないと思われるが…。

 

 意を決して、舌先を葡萄酒につける。半分に割った焼き菓子を一口だけ少量かじり、目の前の板をおいた。時間を見計らい、司祭が声をあげる。

 

 「では、祈りましょう。偉大なるエンパスの加護を信じて」

 

 全員が目を閉じ始める。祈りを捧げているのだろう。

 

 祈りはしないが、俺も目を閉じる。これで終わりだとしたら、結局この帝都において爆発的に広がるらしい信者増大の原因が分からない。何故だろう。

 

 疑問点を頭の中で整理しようとした瞬間。頭の中で奇妙な光景が浮かび上がる。暖かい暖炉、並べられた質素だが腹を満たすことができる量のパンと料理。それを囲む者達。何故こんな、そう思った瞬間胃袋が激しく蠢く。

 

 「ウッ!」

 

 立ち上がり、隣の男を乗り越え長椅子の間にある通路に出る。胃袋が激しく蠢き、内容物を激しく床にぶちまけた。

 

 胃袋の中身を全てだしても、まだ身体の中から異物が吐き出される。まるで、授けられた祝福を身体が拒否するように。

 

 「え…あっ……クソ…なんだ今のは。ふざけるな…なんで…クソが」

 

 内容物を出し終え、少し冷静になってきた瞬間ミスをしたと舌打ちをする。これは、いくらなんでも目立ちすぎる。

 

 顔を上げ周囲を見渡す。しかし、床に這いつくばり嘔吐をするこちらに注意を向ける者は一人もいなかった。目を閉じて微動だにしない。もしかしたら、死んでいるのではないかと疑問に思うほどだ。

 

 シスターや助祭でさえ、立ち尽くしたまま目を閉じている。彼等も葡萄酒と菓子を手渡され、祈りを捧げていた者達だ。静寂だけが、満ちていた。まるでこの中で生きているのは俺一人だけのようだ。

 

 「なにがおこっているか分かるか」

 

 『さあな。どいつもこいつもまともじゃなさそうなのは確かだが』

 

 脳内でジークリンデの返答が返ってくる。もしやなにかしら、新しい遺跡からの魔術具の仕業かと勘繰るものの悪竜がなにも感じないのならそれは違うだろう。

 

 なんにせよ、身体に力が入らない。すぐにでもここから出た方が良い。

 

 「おや」

 

 背後から声が聞こえた。振り向くと、司祭が後ろに立っていた。

 

 「ご気分が優れませんか?でも、祈りの最中に立ち上がってはいけませんよ」

 

 「見りゃ分かるだろう。それに、祈りどころじゃないのは確かな体調だ、悪いが帰らせてもらう」

 

 「祝福を受け入れられませんか、致し方ありませんね。分かりました、一度帰られ安静にした方が良いでしょう。その代わり、夜にもう一度おこしください。貴方にも、祝福を受け入れられる機会をもう一与えたいのです」

 

 司祭の言葉を無視して、出口に向かう。今は少しでも早くこの異様な空間から逃れたかった。

 

 「何時でもよろしいです。必ずおこしください、ランザ=ランテ様」

 

 「お前」

 

 足を止めて振り向く。穏やかな顔を浮かべたまま、司祭はこちらを見た。こちらの素性が、バレていた。

 

 「貴方のような方にも、祝福は訪れます。我々にそのチャンスをいただきたい。お待ちしておりますよ」

 

 「そんな言い方をして、来ない可能性の方が高いとは思わないか」

 

 「その時は、お連れ様を先に招待させていただくのみです。それが嫌ならば、まずはお一人で訪れて様子を見ることがよろしいのではないでしょうか。余計な危機に、巻き込みたくはないでしょう」

 

 司祭としばらく視線が交錯するが、俺は踵を返し神殿から出ていく。

 

 恐らくはあれが、あの酒か菓子に混じるなにかが信者が増える理由だ。それにより、帝都の人民を篭絡していった。

 

 「上等だよ」

 

 湧き上がるのは、怒り。脳裏に浮かんだ光景は、衝撃からもうほとんど消えかけていたがそれがとてつもなく気に食わないことだけは覚えている。心の底から、沸々と嫌悪感のようなものが煮えているような感覚だ。あれは、俺の中のなにかを踏みにじった。

 

 罠かもしれないが、このまま放置はできない。なにを企んでいるか、この際直接聞きだしてやろう。なにもかもが気に入らない、そんな感情が久しく湧き上がっていた。



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 幾つかエンパス教の拠点を抑えた後、クーラは建物の屋上にて監視の体制に入っていた。組み立て式のテーブルが並べられ、野菜が沢山入ったスープと小麦でできた甘いパンが運ばれている。件の炊き出しが始まるまであと少し。

 

 成程、離れていてもこの臭い。昔食べた時の教団の炊き出しもまずくない、むしろ味がついていることに喜ぶべきものだったが、これはもう料理としては格が違うのが食べなくても分かる。

 

 なにより柔らかく甘い小麦のパン。いくら帝国の台所事情が豊だとしてもあのようなものをポンポンと出されたら、惹かれない理由がない。むしろあの浮浪者はよく我慢できているものだ、聖人かなにかか。

 

 炊き出しに並ぶ者達も、暴動だとは言わないがなかなかに殺気立っている。それはそうだ、いくらなんでも全員分に行き渡るだけの食料を毎日のように用意ができる訳がない。

 

 炊き出しが開始され、スープと小麦のパンが配られる。失う物が何もない人間は、どうにでも暴走できる。スープを飲み、小麦のパンにありつく者達は皆笑顔や感謝を浮かべていた。これを手放すとなると、もう迂闊なことはできないだろう。これはこれで、社会保障として成立している。

 

 それから二時間程様子を監視し続ける。パンがなくなってもスープが提供されていき、それが全て無くなった時エンパス教の人間が動いた。それに続く者達の中には、炊き出しにありつけなかった者も多い。

 

 あの集団には紛れず、屋根から屋根を飛び移る。向かった先は目星をつけていた拠点の一つ、昼間外から除いた時には椅子と祭壇があったため仮設の神殿扱いなのだろうか。二階建ての建物であり、屋上から内部に潜入し、一階の梁にて身を潜める。

 

 浮浪者達が集まり、椅子に座っていく。隣人愛と家族愛、エンパスへの感謝を説く言葉が紡がれ、退屈な話が長々と続いていた。数時間は続いたか、欠伸をする者や居眠りしてしまう者。退屈そうに腕を組み合わせる者。イライラと片足を動かしている者などおりまともに聞いている者はほとんどいないだろう。

 

 だがしかし、そんな話が終え全員に菓子と酒が振舞われ始める。あれは確か、マドレーヌといった菓子だっただろうか。帝国西部にある地方が産み出した菓子で、あの差別主義者であるライフル使いのカリナが好んで食べていたのを覚えている。生憎、自分は食べたことはないので味が分からないが、あのお嬢様育ちが気に入る味ならさぞ美味いのだろう。

 

 葡萄酒もそうだが、マドレーヌの甘味に涙を流す者までいた。あっという間に配られた食料が平らげられ、同じ器から飲料と食料を食べた兄弟として、互いの平穏とエンパスへの感謝を捧げる為の祈りが始まる。

 

 さて、本心で祈る者がいったい何割いるであろうと意地悪なことを考えていたが、奇妙なことに気づく。

 

 祈りを捧げる者達が、身じろぎもしない。肩が僅かに動いているから、呼吸などの生体反応を示しているのが分かるが信心深くない者達がここまで祈りを捧げるであろうか。

 

 異様な光景に、背筋に寒気を覚えた。まるで意思をもつ人間が、意思を持たない群体になったかのような。

 

 静寂のなか、音が響く。入口から入ってきたのは、三人の男と一人の女だった。

 

 一番屈強な初老の男が、なにやら麻袋のような物を抱えていた。あれは、外から見ただけ分かる。成人男性、それに近い物が中に入っている。

 

 だがそんなことより注目したのは、女の方だ。レガリアが発行している非公式の手配書に、あの顔が乗っていた。

 

 黒髪を後ろに縛り上げ、細い蛇のような独特の印象がある美形。口には長煙管を加え、その服装はテンが着込んでいたのと同じ極東の民族衣装。

 

 通称蛇女。レジーナと名乗る女が、何故こんなところに現れる。

 

 「地下へ向かう。お前はもういい」

 

 「……お嬢」

 

 「贖罪をしたいという意思を汲み、手伝わせてやったのだ。だがここから先は、裏切者……いや、いざという時逃げ出した臆病者に見せられる領域ではない。下がれ」

 

 他の護衛の二人が、レジーナの前に立つ。初老の男がなにかを言いかけたが、諦めたように肩を落としながら頷き肩に担いだ布袋を渡した。男二人がそれを受け取ると、レジーナが司祭に合図を送る。

 

 司祭が壁に手をつきなにやら唱えると、怪しげな光が祭壇に浮かび上がり、薄れるように壁が消え階段が現れた。レジーナと護衛二人がその階段を降りて行く。

 

 レジーナが降りて行ってから数分後、消えていた壁がまた色を帯び始めた。このままでは、通れなくなってしまうだろうか。

 

 行くべきか、いや戻るべきか。隠すということは、あの奥にはなにか知られたくない秘密がある。それを暴くことができれば、エンパス教には致命傷を負わせることができるかもしれない。

 

 だが同時に、リスクがある。ランザの秘密を握る物がエンパス教に所属している可能性が高く、レントというランザを敵視している存在がこの先どう立ち回ってくるかは分からない。その敵の実体を知る為に、エンパス教を調べていたという前提がある。

 

 つまり、九十の確率で敵対する可能性があっても、十の確率で衝突しない可能性だってあるのだ。ランザも言っていたが、あの中性的な刺客がレントの手によるものだと断言できた訳ではない。現に、レントはまだ致命的なランザの秘密を災害対策室なりにぶちまけてはいない。

 

 悪竜の一部が身体の中に組み込まれたなどと言う秘密を知れば、かの組織は総力を挙げてランザを叩き潰しに来るだろうが、未だ監視に留めているのが良い証拠だ。

 

 無理をする必要はないかもしれない、だがチャンスはこのタイミングしかない。どうする、自分はどうすれば良い。

 

 「身隠れは一流。だがまだ若いな」

 

 初老の男が、こちらを向いた。

 

 バレた、と思った瞬間スイッチを切り替える。一度宿に戻り着替えた為、装備は万全だ。投げナイフが入ったホルダーから二本取り出し、投擲。

 

 初老の男は、軽いステップで二本の刃を回避する。慌てる司祭をよそに、跳躍。丸太のような足が自分がいた梁を粉砕。木の破片と埃が舞い、床に着地せざるをえなくなった。

 

 着地した男と対峙した瞬間、全身の毛が逆立った。なにも装備していない徒手空拳、だが相手はまるで長物を持っているかのような圧力を放っていた。手に構えた直刀が、頼りない小枝に思えるほどだ。達人、という言葉が頭に浮かんだ。そしてその構えは…。

 

 「……何故、そんな構えを」

 

 「ほう、ただの鼠かと思ったが、この型を知っているお嬢ちゃんとはな。ということは」

 

 白髪交じりの眉を人差し指でかきながら、男は構えをとく。腕を組み合わせ、口の端に笑みを浮かばせながら身体を横にずらした。

 

 「行け」

 

 「え?」

 

 「貴様、なにを言って!」

 

 司祭が近づいてきて文句を言うが、唐突な裏拳で吹き飛ばされた。こんな状況になっても、身動きしない浮浪者達は不気味だがそれ以上に目の前の男の真意が分からない。

 

 「かつておこした一度の不義を、一度の義理で返した。もうこれ以上、老いぼれは必要ないようだし、あとはどちらの味方でもない。だから、お嬢ちゃんがここを通ろうとするのを止めはしない、行きたいならば、行けば良い」

 

 目の前でおこった裏切り行為であるが、男はまるでどこ吹く風だ。こちらに近寄り、傍らを抜けて通り過ぎていく。

 

 「なんで」

 

 「さあて、まあ縁というのは奇妙なものだったと言うておこうか。行くも行かぬも自由であるが、行かねば後悔することになるかもな。爺の繰り言だと思うのなら、それでも良い。では、生きていたらまた会おうか」

 

 初老が扉から外に出る。壁の色合いが増して来ており、もうほとんど元通りに戻りかけていた。

 

 意を決して、体当たりするように壁に飛び込む。身体がすり抜け中の階段に足を踏み入れたと同時に、退路が塞がった。蝋燭の明かりすらない完全な暗闇となるが、瞳孔が広がり暗視に視界が切り替わる。

 

 あの男の言葉を聞いてから、胸騒ぎが止まらない。ここまで来たら、もう進むしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の中流階層における神殿は、人の気配がしなかった。人払いが行われたのだろうか、まるで誘うように正門も開け放たれている。

 

 『確実に罠だな。きな臭すぎる、本当に行くのかよ』

 

 「……ああ」

 

 『おい、おいおいおいおい。なんかおかしいぞお前。いつも通りじゃねえ、せめてクーラと合流するまで待つとかの心の余裕はどこに置いてきた』

 

 「俺がかたをつける案件だからだ。人妖もテンも関係ない、余計な危険に首を突っ込むのは俺達だけで充分だろう。場合によってはお前も使う、そうなればもう言い逃れできないしな。指名手配は一人で良い」

 

 『……オレは構わねえよ。だが、やっぱりらしくねえんじゃねえか。なにをそんな憤ってやがるんだ』

 

 最後の言葉は無視して、神殿の中に侵入する。中を進むと同時に、暗闇に蝋燭が自動で灯されていく。

 

 「ようこそ、ランザ=ランテさん。初めまして、自己紹介をしても良いかな?」

 

 祭壇に腰をかけ足を組むのは、黄緑色の短髪でローブを着こむ女性であった。クーラよりも年齢は上であろうが、肉付きの少ない華奢な身体つきであり、童顔っぽい顔立ちから年齢が分かりづらい。杖を片手で弄び、嗜虐的かつ悪意のある視線を向けて来る。

 

 「レントの手下か。なにが目的だ」

 

 あえて、相手の会話を噛み合わせない。少しでもペースを崩し、その余裕面を引っぺがしてやりたかった。苛立ちが、激しく内情を揺さぶっている。昼間からずっと暗い怒りが消えない。それだけのものを、見せられた。なのにそれがなんだったか思い出せないのが、余計に余裕を奪ってしまう。

 

 「表向きはね。でもわた…いや、この場はボクで行こうかな。改めて、ボクは違う。彼やエンパスとは別の目的意識があって動いている。エンパス教やレントは、踏み台さ、ボクの目的を遂げる為の近道になるから、力を貸しているにすぎない」

 

 女性が祭壇から飛び降りたと同時に、目の前に現れた。こちらの瞳をマジマジと覗き、アハッと嘲笑を含んだ歪んだ笑みを見せる。

 

 「成程、なるほどなるほど。これが、クーラを堕としめいた眼か。確かにこれは、魔力を持たない偽物なれど、天然ものの邪眼としては悪くはないね。くりぬいて飾っておきたいくらいだよ。おっとごめんね、自己紹介、しようか」

 

 こちらに背を向け二歩程離れ、こちらに振り替える。両手を大きく広げ、天井を仰ぎ見た。

 

 「ボクは、真なる魔術使い、魔法使いの長たる者。ウェンディ=アルザスさ。会えて嬉しいよ、ランザ君」

 

 「昼間のアレはなんだ、お前の仕込みか」

 

 「ああ、あれ。一から十までがボクの仕込みじゃないけどね、仕組の土台を構築したのはボクさ。そうだね…葡萄酒、あれは赤くて良いねぇ。なにを入れても気づかれやしない色素だよ。おっとこれは冗談だよ、冗談さぁ…フフ」

 

 散弾銃を引き抜き目の前に向ける。一発の銃声が響き渡る前に、ウェンディが石畳の床を杖の先で叩いた。目の前に巨大な石人形が現れ、散弾銃はその腹部を破壊するに留まった。

 

 「おやおや、民間人に発砲しても良いのかい?君は、無益な殺しはしないと聞いていたけれど」

 

 「癪に障るんだよ、その余裕ぶった態度がな。それになにが民間人だ、ふざけやがって」

 

 「はあ…しょうがないねぇ」

 

 ウェンディが指を弾いた瞬間、あちこちでいっせいに気配が動いた。深紅の軽装鎧を着た一団が躍り出て、退路を断ち包囲を完了させる。

 

 巨大な突撃槍と独特の形状である銃器の先端がこちらに向けられた。

 

 「こいつらは」

 

 「竜狩り隊。帝国最強の特殊部隊さ、気配すら感じ取れなかったのは、流石といったところかなぁ」

 

 ウェンディの傍らから、若い精悍な顔立ちをした男が現れる。憎悪を込めた視線を向け、射殺さんばかりの敵意を向けられた。

 

 「ランザ=ランテ!帝国内での無許可による発砲は認められていない!ただちに拘束させてもらう!」

 

 「帝国最強さんが、ちんけな事件待ちで待機していたってか、暇な連中だなおい」

 

 「五月蠅い!貴様にはモスコーやリスム事件との関りや、悪竜との関係性が疑われている!舐めたことをぬかすなよランザ=ランテ、疫病神が!」

 

 左右から突撃槍が迫る。身を低くして回避し、腰の袋から煙球を取り出し足元に叩きつける。

 

 「ただのめくらましだ!よく見ろ!」

 

 冷静な号令が飛ぶ中、ジークリンデが声をかけてきた。

 

 『どうする?蹴散らすか?』

 

 「竜狩り隊の前でお前を使いたくはないが…」

 

 『だからといって、玩具と小手先の技術で包囲を崩せる相手かよ。もう向こうさん、お前を捕まえる気満々じゃねえか。腹、くくれや』

 

 「……っ!なるべく殺すなよ!」

 

 煙から飛び出し、散弾銃をリーダー格の男に向ける。二発の銃声が響くが、男の手には小さな円形の魔術具が握られていた。深紅の盾が空間に浮かび上がり、散弾が防がれる。あれがほとんどすべての防護が意を為さない、竜相手に対する防衛策である紅盾か。人妖の装甲を貫く散弾銃が、役に立たない。

 

 『その余裕があったらな!』

 

 腰から引き抜いた剣が、連結刃へと姿を変える。紅盾に刃がぶつかり、激しい火花をたてて暗闇を照らした。

 

 刃の勢いに膝をつき、紅盾は砕けずとも持ち手が怯んだ。急にここまで圧のある攻撃が来ることは予想していなかったのだろう。

 

 「なんという圧力!そしてこの禍々しさ、やはりこれは悪竜の!」

 

 「気のせいだ!」

 

 四方から銃声が響くが、ジークリンデが蠢きそれを防御する。こちらはただ前に出て、布袋から袋を取り出し投擲した。

 

 とっさに防御を固めるが、内容物は火薬に反応して音を立てるだけの偽爆薬。痛みなどはない為、守りを固めた隙に跳躍し包囲を抜ける。

 

 出口とは反対側の扉を蹴り開け、通路に侵入する。いつの間にかウェンディの姿は消えていたが、今は気にしている余裕はない。

 

 幾つかの部屋が見えるが、一番奥は勝手口のようで開け放たれていた。だがしかし、赤い異形の面を被る男が無手のまま立ちふさがっていた。魔術具を持つ様子もない、ジークリンデを使えば、殺してしまう。

 

 「怪我をしたくなければ、退け!」

 

 散弾銃を空中で回転させ、銃口を掴む。ストックで相手を昏倒させようと振り上げた。

 

 間合いは、充分に離れている筈だった。

 

 にじりよりからの、高速接近。半歩分勝っていた間合いが瞬間移動のような速さで詰められ、手首と腰を掴まれる。足払いで身体が空中に浮き、壁に叩き付けられた、重力に従い落下をする前に鋭い蹴りが腹部にのめり込む。

 

 「格下ばかりを相手にしていたか?鈍る訳だな若造」

 

 「アッ…グッ…アンタ、その声は」

 

 床に落ちてから、後ろに転がり間合いをとる。この赤面の男、今の投げ技の鮮やかさ、何時詰められたかも分からない歩法。いずれも、身に覚えがある。

 

 だとしたら、なりふりは構えない。ジークリンデを握る力が強くなる。だがしかし、振るおうとした前に赤面の男がまた手品のように間合いを詰めた。

 

 「異形の蛇腹剣か。確かに化物相手には有用だろうが、その攻略法は簡単だ」

 

 『ランザ!下がれ!』

 

 ジークリンデの警告に従うまでもなく危険なことは分かっていたが、もう遅かった。

 

 「間合いを詰めてしまえば、その遠大な長距離攻撃は逆に小回りが利かぬ仇となる。もっと、足さばきを鍛えておくんだったな」

 

 顎、心臓、腎臓、股間。正拳が急所に四連撃で叩きこまれた。この速さは、エイラよりもよほど…打撃術もこの水準だったのか、この野郎は。

 

 視界がぐらつき、意思と無関係に膝が崩れる。

 

 「クソボケ!おいランザ、寝てる場合っ!」

 

 ジークリンデが実体となり、背中の連結刃を動かした。しかし、その身体にも巨大な裁縫針のようなものが背中から無数に貫通して突き破る。

 

 「竜狩り隊特製銃。装甲を貫通し竜の毒たる、他竜の血を塗り込んだ弾丸を撃ち出すニードルガンか。怖いねぇ、まるで針串刺しの刑だ」

 

 赤面の男は、肩をすくめた。もう、ジークリンデに脅威を感じていないからだ。

 

 「我々人類は、貴様らを狩る為に日進月歩を続けてきた。悪竜、貴様の時代などとっくに終わっている」

 

 「……分かっちゃ…いんだよ…んなことよォ。なあ…相棒……寝ている場合か…起きろ…ぶちかまそうぜ」

 

 声をかけたジークリンデの喉と額にも、ニードルガンが放たれる。ダメ押しとばかりに、突撃槍が股間部と胸部を貫通させた。

 

 「リ……ンデ」

 

 意識が薄れゆく前で、ジークリンデは串刺しにされたまま顔を下にダランと降ろした。背後からは、「やった」だの「悪竜をこんな簡単に」だのといった声が響く。

 

 「作戦通りですわね」

 

 赤面の男、いや、クダ=カンゼンの隣に黒髪の女が現れる。テンに似た、極東の民族衣装は黒を基調とした色鮮やかな彼岸花で彩られていた。

 

 「竜狩り隊の皆様が追い込み、私の手駒が捕まえる。計画に狂い無く、首尾は上場といったところでしょうか?」

 

 「その男も渡せ、報酬は後日金銭で送る」

 

 「あらあら、異なことを。報酬に関しては、山分け。私はそこのランザ=ランテをもらい受けます、悪竜という手柄を手に入れたのですから、そちらはもう引き下がってもらわないと」

 

 「その男は、悪竜とかかわりを持つ重罪人だ。我等を怒らせるな蛇女、たかだか田舎マフィアの頭の分際で」

 

 「この不正規行動をおこす為に、こちらがどれほど骨を折ったと?貴方のお父様を含め、非合法の手段をぶちまければいかに手柄があろうと貴方はもう竜狩りではいられなくなる。それは忘れてはいませんか?ふふ…脅しには使いません。ランザ=ランテさえ受け渡してもらえれば、その全てを破棄すると約束いたしましょう」

 

 レジーナと呼ばれた女と、竜狩りの若き騎士がにらみ合う。

 

 「引け」

 

 「しかし!」

 

 「ここで無理を通せば、こいつの組織は暴発するだろう。証拠等、我等の手で後でいくらでも消せる。ここは我慢するんだ」

 

 「賢明な判断ですわね、大将」

 

 レジーナの後ろから、護衛の男が二人新たに現れる。手にはズタ袋を持ち、こちらの足を掴もうとしていた。

 

 まだ脳がぐらつくような感覚があるが、ここであがかねば何時あがく。起き上がりの蹴り技で護衛二人の胸と胴を打ち付け、立ち上がろうとしたがその前にクダに押さえつけられ。うつ伏せに拘束された。無駄あがき、ここまでなのか。いや、ダメだ、ここで諦めるのはダメだ、なんとか拘束を解かねばならない。

 

 「呆れたものね、まだ抵抗の意思があるなんて。……おい」

 

 レジーナの一声に、護衛が起き上がり懐から袋を取り出す。中に入っていたのは、レッドアイと注射器。

 

 「久しぶりに見るんじゃないかしら?レッドアイ、本来ならば薄めて使う麻薬だけどね…。特別に原液でプレゼントしてあげる。高価なのよ?こぉれ、頭が馬鹿になって戻ってこれなくなるかもだけどねぇ」

 

 腕をまくられ、注射針を刺される。液体が注入された瞬間、ドクンと身体全体が跳ね上がった。鼻血が止まらず、脳内に霞がかかる。強制的に奇妙な幸福感に駆り立てられ、それと同時に身体から力が急激に抜けていった。まるで、骨と筋肉がなくなっていくかのようだ。

 

 「あら、まだ動くのね。ならばもう一本追加してあげる。私から、貴方に贈るプレゼントよ、感謝しなさいね」

 

 針の感覚はもう感じないが、注入された場所から急激に身体が冷えていった。意識が、保てない。このままでは……なにも……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全に動きを止めたランザを、護衛の二人がズタ袋に包みこちらに手渡した。持つのは俺の役目と言うことか。

 

 竜たるジークリンデも、竜狩りがその遺体を針が刺さったままな布に来るんでいる。下腹部と胸部に開いた空洞が、痛々しかった。

 

 「まさか、ランザの小僧がここで出てくるとはな。だが、すまぬとは言えまい」

 

 蛇女レジーナ。いや、我が主君だった者の姫君、漣姫は変わり果てていた。

 

 故郷の東西有力者の大決戦に敗れた俺は、命を捨てがまることができずに異国に逃走した。かつて仲間から目を背けるように、エレミヤの元で余生を食いつぶしていたが、死病に侵されたと分かってからは故郷を目指し、叶うならばかつての仲間を弔いたいと考えた。

 

 しかしながら、それが叶うことはなかった。エレミヤの娼館から出てすぐに、レジーナ本人から直接コンタクトがあった。成長し、いかに風貌が変わろうと忘れる訳がない、皮肉なことに我が主家の姫、漣様もこの経済特別区に逃れていたのだ。

 

 漣様は情も慈悲も捨て、蛇と呼ばれる悪鬼に成り果てていた。その事実に、この年齢にして俺は絶望に似た気分を味わった。

 

 俺が逃げたから、そうではないと内心言いつつも、目の前の変わり果てた姫に顔向けができない。老い先短い命ではあるが、死んで償おうとしたら止められた。

 

 償いをしたいならば、仕事を一つだけ手伝えと。

 

 俺は、俺の意思でランザという短い間師事した弟子を裏切った。罪悪感はあれど、謝罪はしまい。あの世で俺を責めるが良い。

 

 「行くところがある、ついてこい」

 

 ランザを抱え、漣様…レジーナの後を続く。彼女の足取りは、迷いなきものであった。



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 地底に広がる空間といえば、リスムにある地下迷宮が有名だ。

 

 港湾都市リスムの地下に広がる迷宮は、蜘蛛の巣か蟻の巣のように空間が広がっており、古い遺跡から古い遺物や魔術具が発掘されることがあるのは有名な話だ。

 

 「帝都の地下に迷宮があるなんて、聞いたことないけど…」

 

 構造的には下り階段が多く、脇道がほとんどない状態だ。横にも延々と広がるリスムの地下迷宮とは真逆の造りであり、もしかしたら近年人工的に作られた地下空間かとも思ったが、所々にどんな意味があるのか分からない彫刻や彫像が存在している。

 

 それに加え、所々破損し近年補修をかけられたのであろう道を見るとやはり相当古い年代からあるのではないかと推測できる。

 

 まあその辺りは、調査員や趣味人の領域だ。自分が今気にすることではない。 

 

 罠の類がないか、待ち伏せや不意の遭遇戦が待っていないか。なにより、この先になにが待ち構えているのかだ。隠しているということは、知られたくはないものがあるということだ。まさに、エンパス教の暗部といって差し支えないだろう。

 

 ここでなにか、致命傷になるであろう秘密を握れば交渉材料になるだろう。炊き出しからうかがえる金回りの良さや、あの浮浪者達の尋常じゃない様子から普通ではないことだけは確かなのだから。

 

 「でも、どこまで降りるんだろう」

 

 ひたすら慎重に地下へと降りていく。十数分はひたすら地下へと下っただろうか、突然開けた空間が目の前に現れた。

 

 この帝都において、城の前の広場のように広大な空間が広がっていた。ドーム状になっており、天井も高く照明用の炎水晶がぶら下げられ、梁のように交錯された木材から吊るされている。モスコーでは祭りの為カラフルな照明であったが、ここでは白色の物のみ明かりが灯されている。

 

 梁の上に昇り、下の様子をうかがう。テーブルがあちこちに置かれ、その上には羊皮紙や紙が乱雑に広げられ、水晶や書物等もおかれていた。なにかの記録をとっていたのか、羽ペンやインク壺が用意されている。

 

 この場にいるのは、ざっと十五人以上。空間の真ん中を歩くように、レジーナとズタ袋を担いだ男二人が歩いていた。

 

 空間の奥に、ズタ袋を降ろす。縛られていた口紐を開き、男二人が中に入っていた何かを乱暴に取り出し床に転がした。

 

 「っ!」

 

 思わず声をあげるところだった。ズタ袋の中から出されたのは、ランザだ。瞼は開いてはいるが目が虚ろで、どこを見つめているでもない。散弾銃やジークリンデの剣も手元になく、半開きの口からは唾液が垂れた後が見えた。

 

 「竜狩りの若大将との協定通り、最後の素体を手に入れてきた。本当は解体でもして、この特異性のある身体を調べたいところだけど……目玉の一つくらいは。魔力のない偽物とはいえ、このレベルとなると触媒にするもよし観賞用に保存するもよしだし…」

 

 「当代、自重してくださっ!」

 

 「全員動くな!動いたら、こいつの首を跳ねる!」

 

 梁から飛び降り、近場にいた男の腕を背に回し、首筋に短剣を添えて拘束する。レジーナは少し驚いたような顔をし、周囲の空気が緊張に包まれるのを感じる。

 

 「やあやあやあクーラちゃん、久しぶりだねぇ。リスム遠征時には会えなかったけど、元気にしていたっていうのは聞いていたよ。新しい依存先は、随分と居心地が良いみたいだねぇ」

 

 「久しぶり?なにを言って…」

 

 「え?忘れちゃった?忘れられるような空気感の薄いキャラなのかな、ボクって」

 

 そらとぼけた様子で肩をすくめるレジーナだが、誰かが投げたのか手鏡が宙を飛ぶ。レジーナの前で鏡が停止、移された東方系の顔立ちを確認し、うっかりしていたなぁと彼女はため息をついた。

 

 「実験場兼資金稼ぎの場として利用していたけど、もうハーウェンを使うこともないか」

 

 触手のように指を動かし、首筋に爪を突き立てる。顎から唇、鼻の上から額まで指を動かしていき頭頂部まで動かした後、両の手で顔の中央から表面の皮を這い出いく。綺麗に剥かれた皮が床の上に落ち、皮の下から別の表情が出てきた。

 

 骨や筋肉が変形する音が響き、衣服の下で肉体が蠢く。黄緑色の髪が頭部から除き、人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。

 

 「やあ、クーラちゃん。改めて久しぶり、この顔なら分かるかな」

 

 「ウェンディ=アルザス」

 

 「あ、ちゃんと覚えていてくれたみたいだね。安心安心、それでもって関心関心」

 

 ウェンディ。魔法使いがおとぎ話の中にしか存在しないと言われているなか、彼女は杖一本で様々な超常現象を引き起こしていた。性格的には目立つ方ではなかったが、その力の特異性は与えられた加護によらぬ特殊なもの。一団の中でも、周囲から一目置かれていた。

 

 特筆すべきは魔法を駆使した殲滅能力と即席で疑似生命体を作り出す創造術。しかし、一団のなかでは気紛れな方であり姿を見せることも稀だった。その理由が、明らかになったという訳か。

 

 「ボクの加護は、詰まらない能力でねぇ。他人になりすまし、変装するだけの能力。まあ、お小遣い稼ぎには丁度いいものだったけどねぇ。蛇女と呼ばれたレジーナ、彼女の築いた基盤には随分と儲けさせてもらったものだよ」

 

 どのタイミングかは分からないが、レジーナという女はウェンディが被る仮面の一枚であった訳だ。本物がどうしているかは分からない。もしかしたら、この世にはもう存在しないのかもしれない。

 

 「ボロが出ないように、化けた相手はきっと殺してきたんでしょう?胸糞悪いね」

 

 「他人の為に、自分で納得のいかない殺しを続けてきた君がそう言うかね。レントの為、ランザの為、君は自分というものがない。そんな中身がスカスカな存在から罵られてたところで…ねぇ。馬耳東風さ」

 

 「中身が無いのは認めるよ。それよりも、手を上にあげてランザから離れて。こいつ、殺すのに躊躇があると思う?」

 

 ウェンディがクスリと笑い、両手をあげた。意外と素直だなといぶかしむが、相手はゆっくりとランザから離れていく。

 

 「少しだけ話をしないかい?いやなに、そのままランザに近づきながらでも良いよ」

 

 「……ゆっくり、歩け。妙なことをしたら殺す」

 

 男を拘束したまま、歩かせる。肌に刃が少し食い込み血を流すが、脅しとして機能する為それでよしだ。

 

 「レッドアイ。初期のものは、被験者は目が充血し幻覚症状が出た為にそう名付けられた。君たちやレガリアは、経済特別区のハーウェンで製造、調合され帝国に密輸入していると考えているみたいだけど、逆さ」

 

 「逆…まさか」

 

 「レッドアイは、ここで製造された代物なんだよ。リスムには必要最低限の実験用と資金稼ぎの売買用にしか送っていない。リスム自治州は、大国二つに命運を握られた脆弱性を持つ都市だ。リスムから帝国に渡す分には厳しいが、帝国からリスムに運ぶ分には意外と監視が緩いんだよねぇ。だから、密輸ルートを暴こうとしても無駄だし、もうリスムにレッドアイを送る必要性はない」

 

 「なにが、言いたい。ベラベラと、時間稼ぎのつもり?」

 

 分かっていないなぁ…と言いたげな顔でウェンディが首を左右に振った。

 

 「もう、ボク達の目的は詰めの段階なんだよ。クーラちゃん」

 

 ランザの元まで近づき、ウェンディや他の部下達と対峙をする。背を壁に向けた瞬間、背後から大きな物が引きずられ動くような音が響く。そちらの方に視線を向け、思わず硬直してしまった、

 

 「なっ…あ…ああ」

 

 「レッドアイという違法薬物の出所さ。これの血が、人類すべての福音となる」

 

 複雑怪奇な文様が刻まれた壁が左右に開くように動いたその先には、一面に肉壁が広がっていた。大小様々な複数の眼球が蠢き、ピンク色の肉が脈動をしている。口のような機関がみられないが、身体のあちこちが裂けて開き内部から蒸気をあげていた。生臭さが、鼻につく。

 

 「なに…これ」

 

 「狭義の意味では違うが、広義のうえでは悪魔といっても差し支えはないだろう。そうだね、分類するならば夢魔、とでも言っておこうか。君たちは知らないだろうけど、魔法使いは悪魔ときっては切れない関係にあってだねぇ。残念ながら、長い時の間で悪魔を出現させる方法は失伝しているようだけど…現代の知識を駆使すれば人工的に再現できない訳じゃない。完成まではあと一歩というところかな……本当はデザインにもこだわりたかったけど、効率優先したら悪趣味になっちゃった」

 

 鳥肌が立つ。これを悪魔と言ったならば、本当の悪魔は激怒するのではないだろうか。生物と言ってしまうのも、なにかを冒涜しているように感じる。相容れないもの、そう形容するしかない。

 

 「こんな…こんなの作って、なにをするつもり」

 

 「覚醒のあかつきには、まず帝都を掌握する。エンパス教の連中に服用させたレッドアイを通じ、意のままに行動を操るのさ。まるで人形のように動かなくなった者たちを、クーラちゃんも見た筈だよ。祈りをささげたまま動かなくなった者たちは幸福な白昼夢のなかで微睡、溶け、自我を手放す。幸せを感じさせながら思考力をそぎ落とし、生きた人形とし、傀儡として帝都全域に手を広げていく」

 

 祈りを捧げたまま動かなくなった者を思い出す。白昼夢?夢を見ていたとでも言うのだろうか。口ぶりから、あの状態になったものは自我がどんどんと溶けていくのだろう。おぞましい話だ。

 

 「具体的には、井戸水にレッドアイを混入させたり、酒場の酒に混ぜたりしてね。そうして少しづつ、傀儡を増やしていく。ボクの意思をこの悪魔を通じ伝え行動させる。それを、夢見心地のまま考えることを放棄し汚染された人間は従っていくという訳さ。衆愚をそうして掌握していく」

 

 「そんなことができる訳」

 

 「できるのさ。この策を実行させる為に、ほんの僅かな数まで追い詰められた異能持ち、所謂魔法使い達は長年の研鑽と研究を続けていた。モスコーの巨人みたいな、即席手抜きの木偶とは物が違う。そしてその完成は、彼の生命力を取り込むことで完成する」

 

 開いた穴から、肉の手のようなものが伸びてきた。ランザの足と腕を掴み、引きずり込もうとしている。

 

 「ランザ!」

 

 男を放り出し、直刀を肉に切りつける。出血こそするが煙をあげながら肉は再生をした、そうしている間にも手は増え続けている。

 

 「ランザ=ランテ。悪竜が魅入り、吸血鬼の血を取り込み、最強の人狐からの試練を耐え続けた存在。夢魔の中核たる魂の完成を飾るには、素晴らしい贄だよ。これで完全覚醒した夢魔を使い、ボク等魔法使いは躍進する。内情を調べる為接触してきたけど、ここまできたらもうエンパス教やレントも問題ない。ランザ君は、我等魔法使い達の中で語り継がれるべき最高の人柱となるだろうさ」

 

 ウェンディがなにかを語っているが、聞いている暇もない。ズルズルと引きずられるのを止める術がない。身体を反対側に引っぱろうが、腕を斬ろうが勢いを止めることができない。

 

 「起きて!起きてよランザ!お願い、このままじゃ取り込まれるよ!」 

 

 「無理だと思うよ、起きない起きない。普通は百分の一以下に希釈するレッドアイの原液を直接注入したんだから。でも、注射一本打ち込んでも意識を保っているのは驚愕したよ。でもね、二本も打ち込んだんだ。もう彼の頭はなにも考えていない、廃人さ。二度と元に戻ることも、目覚めることもないんだよ」

 

 「うるさい!ランザ!ランザ!お願いだから、ランザ!」

 

 もう肉の壁が目の前まで迫っていた。止めることが、できない。このままじゃ、ランザはこの肉壁の中に。ジークリンデは、なにをしているんだ。何故この状況なのに力を貸さない!

 

 「君も取り込まれるよ~」

 

 ウェンディの声が、今更ながら耳に届いた。そうだ、そうだね。

 

 ここが、終わりであるのなら。一人では、行かせない。

 

 身体にしがみつき、足を絡める。このまま、地獄に向かうというなら、自分の行き先もそこで良い。これはこれで、テンもジークリンデも出し抜いたことになるかな。

 

 生臭い肉の中に引きずり込まれ、入口がしまる。天井と床が徐々に迫ってくるような、圧迫感が増してきているような気がした。

 

 いや、気のせいじゃなかった。暗闇でもよく見える目が、迫りくる肉の塊をよく見ることができた。

 

 「ね…ランザ。今日は、隣で寝ても良いよね」

 

 返事をしない口に、自らの唇をつける。舌を入れてだの、絡め合わせてだのそんな妄想を何度もしたことはあるが、こんな色気のないところでそんなことをするのは流石に躊躇われた。

 

 目を閉じようとした瞬間、暗闇の中に蒼白い光が輝く。閉じかけた瞼が開くと、自分の臀部から狐の尾が生えているのが見えた。これは、テンに植え込まれた、モスコーにて力を貸したあの尻尾だった。

 

 『諦めるには、まだ早いですよ』

 

 「……むかつく貴女の助言だけど、今だけは最高に嬉しいよ」

 

 テンのおぞましさは、ランザから何度も聞いていた。実際、あの占い師としてのテンと対峙した時でさえ、自分はなにもできなかったうえに良いように弄ばれた。実力を知っているからこそ、今だけは心強い。

 

 本心で言うなれば、ここで終わりにして良い訳がないのだ。こんなところ、理想の終着点からは遠すぎる。

 

 『クーラ、貴女が連れて戻りなさい。お父様を取り戻す役目は、譲ってあげますから。覚悟を決めてくださいね』

 

 「誰にものを、言っているの」

 

 肉がほぼ、真上まで迫ってきていた。狐の尾がランザの腹部に埋まり、繋がる。首筋を選んで唇を近づけ、噛みつき羽交い絞めにして密着する。

 

 肉が完全に閉じ、柔らかく密着した。酸素の供給がなくなり、意識が遠のいていく。

 

 方法があるなら、ここからでも助けだすことができるなら、自分はなんでもする。狐ごときに覚悟を問われるまでもない。

 

 深淵に落ちる意識のなか、最後にそれだけを誓った。なにがあろうが、自分がランザを救う。彼が、自分を救ってくれたように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 殴打の音。

 

 それなりの重さがある陶器が割れる音が響き、成人男性が椅子から床に崩れ落ちた。頭部から広がる血が床板の上を流れ、円形に広がっていく。

 

 酒瓶が机を転がり、落ちた。倒れている男の頭に直撃し、床にさらに酒の水たまりが広がる。透明な安酒が血に混ざり、朱の色となりさらに広がった。

 

 頬を腫らした女性が、泣きながら唇を血が出るまでかみしめていた。眼球付近が青黒く腫れ、髪の毛も乱れている。

 

 男をつま先で軽く蹴り、動きがないことを確認した。幽鬼のような目を、こちらに向け腕を伸ばしてくる。

 

 『アンタさえ、いなければ。産まれなければ』

 

 憎悪のこもる視線で、首を絞めあげられる。アンタって俺か、俺はアンタになにをしたんだ。

 

 覚えていない。父の顔、母の性格、この悲劇のきっかけ。

 

 今となっては探りようもない。

 

 産まれなければ良かった、というだけか。

 

 視界が、暗くなり、それと同時に意識が飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『よう、クソガキ。なんで何時もアタイ等に喧嘩売るんだ?』

 

 路地裏。ゴミ置き場に背中から突っ込み、背中で割れた瓶の破片が突き刺さるのを感じた。

 

 数人の男性がいたが、相手をしていたのは一人のみ。腕に茨の墨を入れ、頬に火傷の痕を持つ眼帯をした女性だった。

 

 『メンバーにも、アタイにも幾度となく痛めつけられている。ガキ相手に本気になる奴はいねぇけど、そろそろ懲りるタイミングだろう』

 

 『イラつくんだよ。なにが冒険者だ、所詮底辺の使い捨ての集まりだってみんな言ってる。なのにでかい面しやがって、偉そうなんだよお前ら』

 

 立ち上がり、瓶の一本をとり壁に叩きつける。先端が割れ、鋭利な先端を相手に向けた。

 

 『底辺が底辺に、嫉妬でもしたかい?』

 

 『うるせえ!』

 

 走り寄り瓶を振るうが、半身を少し動かされるだけで避けられる。二度三度、それを繰り返したところで足をかけられ地面に転がった。起き上がる前に、背中を踏みつけられる。

 

 『確かにアンタの言う通り、アタイ等は底辺だよ。個人事務所を持てるような金や名声、コネもない。傭兵団を組織できるような実力もない。だが、だからって現状をメソメソ泣きながら八つ当たりする屑は一人もいない。アンタと違ってな』

 

 蹴り飛ばされ、転がる。胸倉を掴まれ、無理矢理立たされた。壁に叩き付けられ、隻眼を向けられる。

 

 『底辺から這い上がることを諦めたら、人生は終わりだよ。冒険者?使い捨て?上等じゃないかい。こちとら産まれてこのかた、武術でもなんでもない暴力くらいしか技能のない阿呆の集まりなんだ。その阿呆でも、成功すれば底辺を抜け出せる。それがどんなか細い可能性でもね。諦めて、妬んで、自暴自棄になるんじゃないよクソガキ。お前が今していることは、いったいなんの益があるってんだい』

 

 拳をあげようとしたが、力なくぶら下がる。同じ人種のはずなのに、何故こいつらの目はこんなにも前を向いていられるんだと妬ましかった。それを正面から指摘され、ぐうの音もでなくなる。

 

 もう安心だと判断されたのか、胸倉から手を離された。

 

 『行くよ、飲みなおしだ』

 

 『待て!』

 

 離れようとした女頭領が、こちらに振り向く。呆れたように肩をすくめ、こちらを見た。

 

 『なんだい、まだ殴られ足りないかい?』

 

 『なんでお前、そんなに前を向いてられるんだ…現状を嘆くことがないんだ』

 

 おかしそうに、頭領は笑った。

 

 『ここが最底辺なんだろう?だったら、後は上しかないんじゃないか?アタイ等は馬鹿なんだから、分かりやすい方が良い。昇っていくだけ、それ以外考えなくてすむだろう?やることは単純なんだ、諦めて嘆く必要がどこにある。クソガキ、アンタも諦めない生き方ができるようになれば、分かるんじゃねぇの?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『何故諦めない』

 

 巨大な悪竜が、鰐のような口を開き人語を話した。

 

 仲間はもういない、手には本当に使い物になるかも分からない封印の神剣…という名前のボロ剣。

 

 『お前のお仲間は、まるで塵芥のごとくこの世を去った。なのに、お前は何故絶望もしなければ諦めることもない。本当にそんなボロと落書きみたいな伝承に効力があるとでも思っているのか?』

 

 『俺は学がない馬鹿だからな、あんな伝承にこのボロが本物かどうかなんて考えても分かる訳がねえ。だが悪竜様よ、アンタと対峙してきた昔の軍や英雄はどうだか知らんが、最底辺から這い上がろうとしている人間は、諦めるって言葉を知らないんだよ……受け売りだけどな。可能性がわずかでもあるならば、ぶち込むだけぶち込んでから死んでやるさ。それこそ、姐さんやみんなに向こうで合わす顔がない』

 

 悪竜がニタリとほほ笑んだ。愚かなことだと、内心では嘲笑しているのだろう。

 

 このボロを悪竜に叩き付ける為に、策を張り巡らせるだけ張り巡らせたが、上手くいく可能性はよく見積もっても二割以下だと思う。だがしかし、逃げることもかなわぬ状況だ、精々あがかせてもらう。

 

 それこそが、俺が学んだ最大の経験だからだ。

 

 『俺の人生の大一番だ。詰まらん出し物だが、精々付き合えや悪竜よ』

 

 『良いぜ、付き合おう。オレを楽しませることができたらなら、生存という対価を与えてやろうじゃねえか』

 

 悪竜が、翼を広げた。それが俺の計画開始の合図となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海岸で、子供を拾った。拾った子供は、俺の家族となった。

 

 お父様、お父様と背中に何時もついてくる子供だが、俺にはどう接して良いのかイマイチ測りきれないところがあった。

 

 俺の幼少期の思い出は、ほとんどない。父の顔も母の顔も覚えていない、ただ倒れ伏した父と、首を絞めてきた感触だけは記憶に残っていた。俺と、両親との思いではそれだけだった。

 

 生活が、安定してきて思ったことは、俺の手が何時あの時のようにこの子に伸びないか。あの両親の血をひいている俺は、何時かああなるんじゃないかと不安になる毎日だった。

 

 姐さんや仲間に教育され、多少は矯正されたとは思うがまともな状況で育った訳ではないことは確かだ。弾み、という言葉がこれ程怖いとは思わなかった。なつかれる分だけ、それだけ責任という言葉がのしかかる。

 

 決意を固めて、養子にしたつもりだったが、遠慮がちで頭は回るがふと見せる子供ならではの行動や失敗を見るごとに微笑ましさを覚えると同時に影が増えていくような気がする。

 

 こんなんじゃ、保護者失格だ。

 

 今日は、街まで出向き図書館にテンを置いてきた。街で仕事に関する打ち合わせがあると、嘘をついてまでだ。

 

 彼女は本が好きであり、放っておけば一日中でも本と睨みあう毎日だ。もう頭の出来じたいは、今の俺よりも完成している可能性すらある。

 

 俺は、街の教会を訪れていた。神に祈ることじたいはさしてないが、静寂な雰囲気は考えごとをするのに丁度いい。

 

 考えてしまうのは、何故父と母はああなってしまったのだろうということだ。俺は、お互い愛し合ったから産まれた子供ではなかったのだろうか。一夜の過ちのような、そんな過失でできた結果なのか。

 

 堂々巡りが、続く。

 

 しばらく考えていたら、座っていた椅子になにかが当たった衝撃と、隣で大きな音が響いた。

 

 思考が中断され、そちらを見ると女性が一人倒れていた。まるで万歳をしているかのように手を前に突き出し、顔面を殴打している。あれでは、受け身もとれなかっただろうに。

 

 「失礼」

 

 背中まで伸びた、白金のような髪の毛と白い肌、緑色の瞳。すました顔をした美形であったが、無表情ながらその鼻から血が流れていた。

 

 それに気づかないのか、そのままこちらに頭を下げ通りすぎようとする。

 

 「あの」

 

 「なんでしょうか」

 

 「鼻」

 

 女性は首を傾げ、堅い表情のまま鼻に手をあてる。手についた血を見て、自分の顔がどうなっているのかようやく理解したようであった。

 

 「なにか、血を止めるような物を持ってはいませんでしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 護るべき者が、増えた。支えてくれる人が、いた。多くの別れと出会いがあり、俺はようやく最底辺から抜け出すことができた。

 

 あの、斧の惨劇がおこるまでは。



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幸せ


 血、斧、肉、死体。流れるような映像を拒否するように、脳が緊急覚醒する。

 

 声にならない悲鳴をあげながら飛び起き、薄い掛け布団の下にあった両手を確認する。

 

 猟銃を握る感覚、射撃時の衝撃、硝煙の臭い。生々しく手のひらに残っている感触に、思わず嫌な汗が流れ落ちる。

 

 木窓の隙間から、陽光が室内に入り込んできた。片手で窓を押し開けると、眩しい程の晴天が近くの山を照らし濃い緑を輝かせている。少し水滴でぬれた草花、昨夜は雨だったことを思い出すが今日はよく晴れたようだ。

 

 しばらく呆然と外を見ていたが、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 

 なんだか、えらく久しぶりに泣き声を耳にしたような気がする。夜泣きに悩まされることも多い毎日、そんなことはない筈なのだが。奇妙な話しであるが、この違和感の落としどころを探すより、アリアの手助けにいった方が良いだろう。

 

 「ど、どうしましょう。上手く泣き止んでくれませんアリアさん」

 

 「あやす時は、根気が必要。お腹が減ったとか、お尻に違和感があるとかなら対応しやすいけど、意味もなく泣き出すこともあるからね。そういう時は、とにかく安心させてあげること。必要なのはあやし続ける根性よ」

 

 寝巻に包まれた赤ん坊を抱きながら、焦り顔を浮かべる少女。アリアはその無表情を少しだけ崩しながら少女の言葉に返事をしていたが、その光景に全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。

 

 血、斧、死体。視界と脳内を焼き尽くすようなフラッシュバックが襲い、鼻に血臭すら感じてしまう。

 

 「ミーナに触るな!離れろ!」

 

 大股で近づき、少女…テンから赤子を半ば強奪した。突然の行いに、驚愕するテンに、さらに大泣きするミーナ。さしものアリアも目を丸くしている。

 

 「お前が!テン、お前がミーナを!アリア……を?」

 

 血も、臓物がこびりつく斧も、二人の死体も存在しない。当然、漂う血臭もなくただ朝食の為に焼いたパンの香りのみが室内に漂っていた。

 

 「あ…ご…ごめんなさいお父様。私が…ごめんなさい、本当に」

 

 テンが、怖がりながら、目に涙を溜めながら家の玄関に後ずさる。その身体には猟銃で空いた風穴も、狐の耳も尻尾すらない。髪の毛も黒髪であり、着ている服も何時もの普段着だった。

 

 「お水…汲んできます」

 

 「お…おい」

 

 玄関近くにあった桶を持ち、テンは家を飛び出していった。手を伸ばそうとしたが、ミーナを片手で抱いたままで、それがなにかを掴む訳でもなくただ空気を握りしめたままだった。

 

 頭部に軽い衝撃、振り向くと険しい目をしたアリアが手刀を後頭部に打ち込んできていた。

 

 「朝からなにをやっているの」

 

 口を開けようとして、なにも言葉が出てこない。テンが、斧を持って…クソ。

 

 夢を長時間覚えていることなどめったにない。急激に記憶が薄れてきているような感覚、なにかおぞましい、まるで現実でおきたかのような夢を見たような気がするのだが。

 

 「馬鹿」

 

 アリアが、呆然としている俺の手からミーナを取り上げた。なにもないところでよく転ぶし、包丁の使い方は危なっかしいし、なにより裁縫をしたら手に無数の穴が開くような不器用さであるのだがこと赤ん坊の扱いだけは得意であった。腕の中でミーナがどんどん落ち着いていくさまは流石、母親と言うべきだろうか。

 

 「早く追いかけて、謝ってきなさい。もう寝惚けからは覚めたでしょう」

 

 ジトっとした目で呆れたようなため息を吐き、顔を背ける。今更ながら、やらかしてしまったという感情が沸き上がってきた。

 

 テンは、まだアリアに距離をおいていた。その二人が、ミーナというきっかけで打ち解けようとしていた時に、俺が全部をぶち壊してしまった。テンがミーナを抱いていた、ただの微笑ましい光景じゃないか。怖気がはしり、恐慌に身を任す必要がどこにあったのか。これは呆れられてもしょうがない。

 

 「テンちゃんが一人で帰ったり、連れ戻さなかったら今日のご飯は一日抜きだから。さっさといってきなさい」

 

 背中を押され、玄関の方に一歩進まされる。確かに今回は、百パーセントで俺に落ち度がある。寝惚けていたとはいえ、なんつーことをしてしまったんだ。

 

 「ああ、ちょっと行ってくる」

 

 外に出てから、テンの足跡を追う。村の中央まで行けば井戸があるが、朝の時間はなかなか込み合う為涙に腫らした目でいけば否応にも目立つだろう。注目を集めるのは、テンの好むところではない。

 

 だとしたら、裏にある山での小川だろうか。小さな山道に、湧水がでるところがある。距離的にはそちらの方が近いが、そこに向かう為の道がこれがまあ坂道である為水を入れた桶を持っての往復は余計に疲れるのだ。そのため、村の者でもわざわざそこまで行くものは少ない。

 

 行先にあたりをつけたため、駆け出す。どこからか猫の泣き声が聞こえた、海と山に挟まれた村とはいえ、基本的に猫は海でたむろしていることが多い為この付近では少し珍しい。

 

 何故か首に痛みがはしり、足を止める。猫が少し気にはなったが、探している暇はない。家から離れるにつれ痛みは引いていった。

 

 坂道を上り、裏山に入る。この山はある程度人の手が入った、里山に分類されるところであり熊や害獣の類はあまり奥から降りてくることはない。だが、いくら頭が良かろうと小さな女の子が山まで水を汲みにいくのはいくらなんでも不安が残る。

 

 季節によっては、山菜やキノコを採りに村の者が踏み入り、猟の解禁日には猟銃を持ち山に入る者もいるが今はどちらのシーズンでもないので静かなものだった。

 

 鳥のさえずりを聞きながら、湧水の溢れる場所まで向かう。

 

 テンは、湧水の溢れる沢の近くに設置された古いベンチに腰を降ろしていた。子供の手には大きい水桶を抱えながら、コンコンとあふれ出る水をジッと眺めている。

 

 一気に坂道を上がってきたため、少し息があがっていた。呼吸を整えて、テンに近づく。

 

 「隣、座るぞ」

 

 後ろからかけらえた声に、細い方がビクッと反応した。怯えたような顔が罪悪感をより深く抉るが、すぐに身体を横に移動させ俺の座る場所を確保してくれた。

 

 「テン」「お父様」

 

 同タイミングで、互いに声をかけてしまう。先に話させようとも思ったが、テンが押し黙ってしまったので俺の方からここに来た理由を切り出すことにする。

 

 「さっきは、悪かった。言い訳だが嫌な夢を見てな、平常じゃなかった。本当にすまない」

 

 「嫌な夢ですか?」

 

 テンが水桶を、足元に置いた。こちらの方に顔を向け、まっすぐと瞳を向けて来る。

 

 「差し支えなければ」

 

 「ん?」

 

 「どんな夢なのか、教えてくれればと」

 

 息が少し、詰まってしまった。話すのもおぞましい内容だからだ。今でも完全には忘れていないが、言うべきか言わないべきか、悩んでしまう。

 

 だがテンの方は、父がいきなり怒鳴りながら赤ん坊を取り上げる理由を知りたい筈だ。疑問はとことんと突き詰めるのが、彼女の性格だからだ。

 

 「理由を話してくれなければ、私は納得できませんし許すことも難しいです」

 

 こちらが押し黙っている様子を見て、テンが視線をそらし沢の方を見た。こうなれば、話すしかないだろうか。

 

 「お前がな」

 

 「……はい」

 

 「お前が斧で、ミーナとアリアを殺す夢だ。俺はそれを見て、咄嗟に猟銃でお前を殺した。その後もいろいろあった気がしたが、そこはもう正直覚えていない。……馬鹿な話だろ、なんつー夢見てんだってな」

 

 テンが、唇に手を覆うように動かし考え事を始めた。しばらくの沈黙が流れ、恐る恐るといった様子で声をかける。

 

 「あってはならないことです」

 

 「そうだな」

 

 「お父様が正直に話してくれたので、私も正直に話します。夢の私はあってはならない凶行にはしったようです。ですが、私には夢の私に対して少しだけ共感するところがあります」

 

 え?と間抜けな声をあげてしまった。テンの表情は、少し険しくなっており沢を睨みつけるように、まるでこちらに顔向けできないと言うように目の前を睨み続けている。

 

 「アリアさんとお父様が結婚され、家庭内は賑やかになりました。しかし、そんな家庭を支える為お父様は仕事に今まで以上に精をだし、家に帰れば二人にかかりきりです。親にかまってもらえない寂しさが、ここまで心を抉るものとは思いませんでした」

 

 かまってもらえない、寂しさ。

 

 テンの年齢はあやふやではあるが、同年代だと思わしき子達と比べるとその精神性は成熟している。ある程度目を離していても大丈夫、そう思い確かにここ最近は、忙しさも同時に盾にしてテンと接する機会を意図的に減らしていた。

 

 だがいくら成熟していいようが、まだテンだって小さな、それこそ甘えたがりの年齢であるのは変わらない。俺自身、親には何時もビクビクしながら過ごしていた為それを失念していた。無意識に、喉を撫でる。殴ろうとする動作をする父もそうだが、憎悪の視線を向けながら首を絞めてくる母親も忘れられない。

 

 何故、あの後助かったのか。死んだと勘違いして中途半端で母親が消えたのか、それとも誰かが助けてくれたのか、それすらも覚えていないがあの眼だけは、何時までも忘れられないと思う。

 

 「もしかしたらの仮定ですが、夢の中の私はそんな毎日についに耐えきれなくなったのかもしれません。私はお父様を、慕っております。ですが、いくらあがこうと血の繋がりを持つことはできません。コンプレックス抱えるには充分、養子よりも実の妻子を愛するのは当たり前の話ですからね」

 

 テンの冷静な、分析に俺は言葉をだせないでいた。個人的には二人を天秤にかけたつもりはなかったが、小さな子には十分優遇と不遇を感じるのだろう。

 

 そして、未だにテンはアリアをさん付けで、他人行儀に接している。アリアとミーナは、甘えたくても甘えられない環境を作り出した相手として、もしかしたら見ているのかもしれない。

 

 いずれにせよ、俺の落ち度だ。今朝のあれだって、テンの方から二人への歩み寄りだったのかもしれないのに、ぶち壊しにしてしまった。

 

 「テン」

 

 「はい、お父様」

 

 「説得力はあまりないかもしれないが、俺はお前とミーナを比べたことなんて一度もない。ただ、よくできたミーナの姉として、お前に対して目を向けていなかったのは事実だ。朝のことと合わせて、それも謝る。だけどな」

 

 テンの頭を、撫でる。どことも知らない他国の船、その残骸に捕まり命からがら生き延びた、実の両親を除けば俺の最初の家族。

 

 引き寄せて、軽く抱きしめる。こういうことをしてやるのも、久しぶりだったな。

 

 「お前は、俺の最初のかけがえない人なんだ。家族っていうのを、教えてくれた存在だ。だから、どうか愛に優先順位をつけているなんて思わないでくれ。そう思われても仕方なかったかもしれないが、そんな事実は絶対にないんだから」

 

 テンはしばらくそのままでいたが、そのうち声を押し殺して泣き始めた。

 

 彼女の過去は聞かない、ふれないようにしていた。それが最適解かどうかは分からないが、新しい思い出を沢山作って、それを押しつぶしてしまえば良いと俺は考えていたからだ。だがそれがこの体たらくとは、情けない話だ。

 

 しばらく沢の音を聞きながら、テンに胸を貸していた。どれくらい経ったかは分からないが、顔を離して涙を拭う。

 

 「お父様」

 

 「おう」

 

 「私は、まだお父様を許さないで良いでしょうか?」

 

 ぐう…と思わず口から洩れてしまった。それを見てテンは、クスクスと笑い始める。

 

 「私はまだ、愛情が足りません、不足しています。ですので今日は一日、今から寝るまで私につきっきりでいてください。それで私が満足できたら、合格点と共に許しを与えましょう」

 

 椅子から降りて、沢の水を水桶にいれる。それなりに重量があるそれを、こちらの方に差し出しながらにこりと笑ってきた。

 

 「まずは、私の代わりにこの重い水桶を持ってもらいましょうか。それから村を散歩して、浜辺を歩いて、お昼を食べて。午後になったら街までおもむき、読書にでも付き合ってもらいましょうか。その間、嫌な顔一つしたら私は許しませんよ」

 

 「そーだな。許してもらえるよう、今日のミーナはアリアに任せきりにするか」

 

 水桶を受け取り、両手で支える。腕にテンの腕が絡みつき、しがみつかれた。このまま歩くつもりか、帰り道に顔を向ける。

 

 「街で見て、やってみたかったんですよ」

 

 「これはカップルとかでやるやつだぞ。それも若い連中の」

 

 「良いじゃありませんか?私にもそのうち意中の人ができるのですから、その練習です」

 

 意中の人、テンの恋人。少し脳裏によぎると、少なからず変な焦りが内心に産まれる。まだまだ先の話だと思いつつ、精神の成長が早い彼女のことだ、不意打ちのようなタイミングで男を連れて来たら、俺の心の準備はまだできていないだろう。

 

 幸せの為に、素直にテンを送り出せるか。いやいやいや、揉める可能性が高く思える。ああクソ、思春期のクソったれ。

 

 その日は一日、テンと過ごした。水を家の窯に移した後、彼女の希望にそうように村と海岸を散歩し、休養日の為誰もいない職場である家具工房にも顔をだしこっそりと中を案内してやる。

 

 昼食は家で二人で作り、午後になったら街に出向き図書館や教会に赴いた。いろいろなリクエストを聞きながらあちこちを回り、久しぶりに年相応にはしゃぐテンを見たことで俺の認識が間違っていたことを改めて感じる。

 

 まだまだこの子も、子供なんだ。俺の時のような、怖い思いや寂しい思いをさせる訳にはいかない。そう、決意を新たに抱くことができた一日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「たっ…!」

 

 アリアと共に居間にいた時、寝室から声が聞こえた。

 

 俺が家族全体に気を回すことで、ミーナに何時も気を使っていた頃より家族は上手くまわっていた。

 

 テンはあれから、自主的にアリアと打ち解けるように努力をしているようであり、アリアの方もテンに懐かれていないことを気にしていたのでそれに良く応じ、今ではミーナの育児もテンが手伝うようになっていた。

 

 仕事帰り、夕食の準備をしていてくれたアリアがテーブルにいろいろ持ってこようとするが、鍋を持つときプルプルと腕が震えたり足を何時ひっかけやしないかと不安になる。指に新しい布がまかれていた、料理中か裁縫中、また指を切ったのか。

 

 そういえば挨拶の時、あちらのご両親。俺の義理の父と母になった人に「家事一つロクにできない娘だけど、本当にそれでいいのか」とものすごい勢いで言われたものだ。母の方にいたっては、貰い手ができて本当に良かったとあいさつの時点で涙ぐまれていた。

 

 「料理くらいできるし…」と不満そうにアリアは呟いていたが、包丁の背を素材にあてて刃を上にして、もう片手の指を素材ではなく包丁に添えるやつの言い分をご両親、特に母親が信用できるわけがないだろう。

 

 でもアリアは、自分の不器用さを言い訳にはしない。何事も挑戦するし、知り合って、顔なじみになってからはテンに対する相談によくのってくれた。美人だが愛想がないとよく言われているが、彼女は情が深い人間だ。そんなところを、俺は好きになっていた。

 

 そしてただの美形というだけではなく、初対面で鼻からボタボタと血を流しながらすまし顔をしていた妙なギャップにときめいてしまったのは、墓まで持っていく秘密だが。

 

 人よりも時間をかけて、料理がテーブルに並ぶころに寝室からテンの悲鳴のような声。

 

 二人で顔を見合わせ、慌てて寝室に顔をだす。

 

 俺が作った赤ん坊用の寝台に、ミーナが手を掴んで立ち上がっていた。物凄く足がプルプルと震えているが、赤ん坊とは思えない気合と根性で姿勢を維持している。

 

 「たたたたたた、お、お父様お母さま!ミーナが、たたたた」

 

 何時ものテンが、崩壊していた。それだけに目の前の光景に興奮しているのだろう。

 

 「おい大丈夫か!?転ばないか!?頑張れるか!?頑張れミーナ!」

 

 「落ち着いて、貴方。転んでも良いようにすぐ近くに布とかしいた方が」

 

 足が崩れ、手が離れ、ミーナが尻もちをつく。きょとんとしていた顔をするが、すぐに顔が痛みに歪み大きな泣き声をあげた。

 

 すぐにテンが抱きかかえ、あやしながらアリアに渡す。

 

 不思議なことではあるが、アリアは赤ん坊を抱っこしている間は絶対に転ばない。背中に背負いながらの買い物では、商人に変に言いくるめられて余計なものを買ったりなどもない。だからこそ、テンもすぐに自分よりも信頼がおけるアリアにミーナを渡す。

 

 「成長、しているんだな」

 

 「ええ、本当に」

 

 あやされる赤ん坊を眺めながら、二人てミーナを見守る。

 

 しかしまあ、あんな興奮したテンを見たのは産まれて初めてだったかもしれない。それなりの期間、一つ屋根の下で過ごしていたがまだ知らない顔もあったのだなと驚くものだ。

 

 「しかし、まだ生後十ヵ月くらいだぞ。立ち上がるのってそんなに早いもんなのか」

 

 「えっと、一年くらいが平均じゃないかって聞いたことあるけど。どうなんだろうね」

 

 ハイハイは早い段階でしていたような気がするから、それだけ筋肉とかがついていたということだろうか。立ち上がったのは嬉しい反面、これからはさらに目が離せなくなるだろう。

 

 だけど今は、家族全員が協力しあっている。テンもアリアと打ち解けることができ、つい最近お母様と呼ぶようになったうえ、ミーナを可愛がってくれている。

 

 「良いもんだな」

 

 これが、家族だ。俺が知らなかった、温もりだ。これを護り支え、慈しむことこそ俺の役目だ。

 

 「お?」

 

 「どうしたの?」

 

 近くの木窓を開けて、外を見てみる。猫の鳴き声がしたような気がしたのだ。

 

 「いや、猫がいるんじゃないかってな」

 

 「猫?」

 

 時折、こんなふうに幸せを感じる時に、どこからか猫の鳴き声が聞こえるような気がするのだ。それを聞くと、ひどくざわつくような、不安な気分になる。そして、何故か首筋がジクジクと痛み始めるのだ。

 

 浜辺で猫を見た時や鳴き声を聞いても、こんな痛みや気分にはならない。なんだか、感動的な場面に酷く水をさされたような気がした。

 

 「追い払った方が、良いかしら?」

 

 「どういうことだ?アリア」

 

 「これは俗信の類なのだけども、人間の赤ん坊と猫が近くにいると、弱い方が殺されるって言われているの。単純に衛生面とかの話かもしれないのだけどもね。可哀想だけど、今は追い払った方が良いかも」

 

 腹が立つとまではいかないが、なんだか大事な瞬間に嫌な後味が残るような気分だった。まあ、棒を持って出ていくまでもない。

 

 「追い払うくらいなら」

 

 居間に戻り、小さな桶に水を入れて鳴き声が聞こえた方に振りかける。

 

 小さな音をたてて、気配が離れたように感じた。可哀想なことをしたかもしれないが、これで嫌になって近づかなけばいいだろう。

 

 しかし、なんだか気持ちが悪い。猫に対する罪悪感か、それとも他のなにかなのか。首筋の痛みは徐々にひいていく、なんだか一気に疲れたような感じがした。

 

 「お父様?」

 

 険しい顔を見たのだろう、テンが心配そうにのぞき込んできたので、なんでもないと頭を撫でておく。

 

 なにもかもが、順調な筈だ。何故こんなにも、胸騒ぎがするのだろう。

 


 

 『なんだい、あの灰色は』

 

 『不吉な色ね、火事がおこるから近寄らないでほしいわ』

 

 『棒か石か持ってこい、追い出してやる』

 

 『犬でも離してやれ、ロドンさん家の犬なら獰猛だし良いだろう』

 

 『今度見たら、叩き潰してやる』

 

 『気色悪いったらありゃしないよ』

 

 『見つけたら、必ず殺す』

 

 『灰色は死者の色、灰猫。不吉な猫を見かけたら、迷わず殺して厄を払うのんは、常識ですよね。みなさん』

 

 

 

 



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 家具工房に弟子入りして、早くも数年は経過したか。テンを養う為に冒険者ギルドから足を洗ったが、怒鳴られ殴られの毎日を過ごしながらもようやくある程度の仕事を任せられるようになった。

 

 大抵の工房は徒弟制度を採用している。見習いのうちは、賃金をもらえない代わりに衣食住を工房の主に世話をしてもらいながら作業や技術を身に着けていく仕組みだ。

 

 だがしかし、この制度のスタート地点はだいたい十歳から十五歳であるし、なによりも賃金をもらえるラインを決めるのは親方である工房主であるため、何時までも徒弟扱いをされある意味では奴隷と変わらない環境でいる者も少なくはない。帝都では、それが社会問題にまでなっているらしい。

 

 俺が頭を下げた工房は、今の時代では珍しくそんな制度を採用していないところだった。その代わり、昔気質な親方に少し気に食わないところがあれば罵声は来るし殴られはする。冒険者時代命の危機に何度もあった経験から耐えることはできるが、去る者追わずのスタンスでいなくなる職人も多かった。

 

 「ふう」

 

 汗を拭いながら、完成した長机を眺める。素材選びから完成までの間、親方に罵声を言われずに作業ができるようになったのはつい最近である。規模が十数人の小さな工房ではあるが、直接注文してくる商家や問屋がそれなりにいる為忙しいながらも食うに困らない程仕事がまわっていた。

 

 「親方!ノルマ分終わりました!予定通り、午後からは外の業務に向かいます!」

 

 「ああ!?終わったらとっとと行けウスノロが!例え顔見知りでも、万が一にも客人待たせるんじゃねーぞ!」

 

 「分かってますよ!では!」

 

 そう、今日はこの仕事の延長線にあるとある事業に手を伸ばすことになっていた。家具工房とはいっても、扱う仕事道具や作業は全てとは言わないが大工と被るところも多い。帝国では石造りや煉瓦による建物が多いが、連合王国では木材による家造りが伝統として続いている。

 

 端っことはいえ、連合王国に領土に存在する村であるここも木造建築が多い。本職の大工のようにはいかないが、リフォームやちょっとした修繕等に手を貸すこともあり、今度はそれを事業として始めようという話が持ちあがっていた。

 

 それに渡りに船とばかりに、とある二人組が引っ越して来る為顔見知りということもありまずは俺がお試し価格で本格的にリフォームを主導するという形になっていた。

 

 今日に備えて、親方の伝手で街の大工衆に頼み込み本格的な研修も受けた。気負いすぎるのもよくないが失敗は許されない。

 

 季節は夏真っ盛り。外に出て工房の近くにも小さな井戸に向かい、そこから水を汲んで顔を洗う。比較的過ごしやすい地域ではあるがやはり夏作業は汗をかく。家に一度戻って、着替えてもいいかもしれない。

 

 昼食時を知らせる、教会の鐘が鳴った。工房内でも作業を中断する同僚達が休みに入るタイミングだろう。

 

 しかし、手紙ではやりとりを何度かしていたが会うのはどれくらいぶりだっただろうか。仕事の一環として出迎えをするのだが、それでも楽しみなことには変わりない。

 

 目元を軽く拭い、顔をあげる。目の前には伸びた雑草が広がっているのだが、カサリと背の高い草が揺れていた。

 

 草むらから、猫が現れた。灰色の短い毛並み、よく見たら傷跡のようなものが複数身体に残っており古い傷からまだ生々しく新しい怪我もあり痛々しさを感じる。野良猫かとも思ったが、首に紐がぶら下がっており馬を形どった木彫りの人形がぶら下がっていた。

 

 猫が鳴き声をあげようと口を半開きにしたが、なにかに警戒しているかのように口を閉じる。逃げ出すかとも思ったが、なにを思ったのか小走りでこちらに近づいてきた。

 

 ジクリ…と針で刺されたかのように首筋が痛む。怪我もなにもないのに、定期的痛むこの症状には悩まされていた。

 

 しかし、今はこの猫のことが気になる。もしかしたら、水がほしいのかもしれない。怪我をしているようだし、飼うのはともかく手当てくらいはしてやった方が良いだろうか。いやしかし、包帯を巻くわけにもいかないし手持ちに軟膏がある訳でもない。

 

 食べれるようなものも持っていない。出せるとしたら、井戸からくみ上げる水だけだ。この暑い日差し、毛皮でおおわれている身体には辛かろう。

 

 「野良なのか?それとも、やはり飼い猫?水でも飲むか、お前」

 

 井戸水を手のひらに少し落とす。皿のようなものがあれば良いのだが、近くにはないのでこの手が皿がわりだ。

 

 灰色猫がゆっくりこちらに近づいてきた。手のひらに溜まる水を、舌先で舐め始める。少し元気がないように見えるが、それでも水を飲む体力はあるようで少しほっとした。

 

 「こっだらところでなに油売ってやがる!」

 

 親方の怒声が、響いた。初老だが若い頃から伐採から加工、家具造りに勤しんでおり御年六十以上なのに未だ現役で作業を続ける本物の職人だ。年寄とは思えない筋肉のついた腕が見えるよう袖をまくりあげ、金槌を片手に歩み寄ってくる。

 

 「いや、ちょっと猫が」

 

 「ああ!?灰色の猫なんざ工房に近づけるんじゃねえ!火事になったらどうするんだ!向こうにいきやがれ!」

 

 怒鳴り声をあげながら、石を拾い上げ投げつける。当たりそうになったところで猫は身体を翻し、一声鳴いてから林の中に逃げていった。

 

 確かに、精根込めて作り上げる家具の天敵である猫を毛嫌いするのは職業柄かもしれないが、弱っている相手に石を投げつけるなんていくらなんでもやりすぎた。

 

 「怪我してたんです、いくらなんでも酷くないですか?それに火事になるって、迷信でしょう」

 

 「灰色の毛は焼け跡の色だ。例え迷信でも、万が一でも燃えるもんだらけの俺の城を護るのが役目なんだよ。それよりも、さっさと行け馬鹿たれが!」

 

 林に逃げた猫はひとまず諦め、これ以上怒鳴られないように退散する。理不尽な人かもしれないが、これでも素人同然の俺を仕事をある程度こなせるようになるまで育ててくれた恩がある。これ以上、めったなことは言えない。

 

 昼食をとりに職場や畑仕事から家に帰る者達と挨拶しながら道を歩き、簡易な木の枠で作られた村の入口であるモニュメントの下で待機する。

 

 待つこと十数分くらいか。道の先から、一台の馬車がやってくるのが見えた。馬車に乗るのは、御者である男とその後ろには様々な道具を詰めた荷物袋を担ぐ男女が一人ずつ。

 

 赤髪の男がこちらに気づいて手を振りあげ、白いロングの髪をした女性もこちらを見て微笑みながら頭を下げる。

 

 村の入口まで来た馬車から、二人組が降りた。モスコーから新天地にやってきた、若き夫婦。

 

 「手紙でやりとりしていたけど、数年ぶりだな。サグレに、ベレーザ。いや、ベレーザはひと月前に会っているか」

 

 「いろいろこっちで打ち合わせをすることもあったからな。前も話したけど、結婚式とかにでれなくて、悪かった。とにかくしばらくぶりだ友人よ」

 

 「ほんとうに久しぶり、今日はよろしくお願いするよランザさん」

 

 ベレーザと握手をかわし、サグレと軽く再開の抱擁をする。モスコーで知り合った、彫刻に携わる芸術家の夫婦が、リスム自治州からこの村に越してきた。

 

 今日の俺の役目は、二人を出迎えて新居となる住まいに案内し内装の改築や新しく搬入する家具について打ち合わせをすることだった。

 

 歴史と伝統の街であるモスコー。彫刻や古城等が有名であり観光半分仕事半分で訪れた際材料である木材の調達を通して知り合い、村に戻ってからも手紙のやりとりをしていた。

 

 彫刻と一言で言っても様々な種類があるが、サグレの打ち込む分野は木彫りの彫刻だ。

 

 家具と彫刻。専門分野は異なるものの、木材の加工という似た分類の技術で飯を食う者同士、話がなかなか弾んだのを覚えている。

 

 相方であり、恋人のベレーザは売買交渉と木材の仕入れやある程度の形に切り出す素材の準備を担当している。

 

 モスコーは確かに木彫りの名産地ではあるが、古くからあるしがらみや職人同士の縄張りのようなものが存在しており新規の若手が、自由に作品を創り売買できる状況ではないらしい。そこで心機一転、新天地にて作品の制作や販売を行おうと考えたようだ。

 

 この静かな村で作品を作り、街にて売買を行う。卸先はベレーザが既に確保しており、後は落ち着ける仕事場にて腕を振るうだけだ。

 

 「身一つとは言わずとも、本当に必要最低限の荷物できたんだな」

 

 「愛用の彫刻刀があれば、あとは現地で調達すれば良いさ。モスコーの家や身の回りのものは、ほとんど売り払ってしまったしね」

 

 サグレが馬車から降りる。それに続きベレーザも馬車から飛び降り、荷を背負い御者に礼を言った。

 

 「必要最低限か、それでもせめて杖だけは」

 

 「杖?」

 

 「いや、いるんじゃないか?」

 

 二人が、目を見合わせる。訳が分からなそうな顔をしたあと、ベレーザが小さく鼻で笑った。

 

 「歩くのが億劫な年に見えるかよ」

 

 言われて、気づいた。確かにそうだ、二人はまだそんな年齢でもない、というか俺より年若い。足に障害を抱えている訳でもなければ、目が見えない訳でもない。杖なんて必要ない筈なのだが、何故かそれに奇妙な違和感を覚える。記憶の食い違い?寝惚けるには朝から時間が経ちすぎているが。

 

 「いや、そうだな…気にしないでくれ。ベレーザは何回か根回しの際見ていったけど、早速サグレにも新居に案内しよう。こっちだ、ついてきてくれ」

 

 村の入口から中央の井戸がある広場に向かう。海岸沿いに出るルートに向かうと我が家があるのだが、山林側に近づく道を昇っていく。

 

 申し訳程度の石畳がしかれた道から、民家よりも畑が多くなってきた景色の先に二人の引っ越し先があった。

 

 母屋の方は石を利用した帝国様式。頑丈な土台としっかりした石材を塗り固めた外壁を持つ赤い屋根の家屋である。

 

 玄関とは別の出入り口に渡り廊下が設けてあり、木造倉庫のような建物が隣接して立っている。俺の主な仕事は、こちらの木造建築をアトリエにする為にちょっとした改築と内装の修繕。あとは新生活に合わせて要望のあった家具を用意してやることだ。

 

 ベレーザとざっと下見をすませており、ある程度の段取りまでは話を進めている。あとはサグレの要望を聞きながら細部を詰めていき、話しがまとまったら人手を集めて本格的に始める予定だ。だが今日は、二人が泊まる場所確保の為に打ち合わせ後は家の清掃にかかりきりになるだろうな。知らぬ仲ではないし、これもちょっとしたサービスだ。

 

 「話には聞いていたけど、結構しっかりと造られているね。流石は帝国式かな?」

 

 「一時期ここを避暑地として開発するなんて話があって、帝国様式の造りはそれの名残だな。連合王国では珍しい帝国式を採用して物珍しさを目玉に販売しようとした奴らがいたが…正直こんななにもない村が避暑地に向いている訳がねーんだよなぁ」

 

 「石造りの家屋は慣れているよ。モスコーは、石で造られた街だったからね」

 

 行政から預かっていた鍵を開け、家の中に光を入れる。投げ売りされていたとはいえ、流石は元々避暑地を作るという計画の元建設された建物であり、年数は経ってしまっているものの劣化したところもなく暮らすには問題はなさそうだ。

 

 今は暖炉だけがある殺風景な部屋模様であるが、掃除を終えれば工房からバラにしたパーツを家の中に運び込みテーブルや寝台を組み立てて住める環境にする予定である。

 

 「奥には台所となるスペースや、裏口への勝手口もある。あまりまくっている敷地も庭にして良いそうだから、好きに使ってくれ」

 

 「へえ、庭かぁ。モスコーでは猫の額くらいの敷地しかなかったけど、田舎特有だねぇ」

 

 「田舎だからな、否定できん」

 

 サグレが早速、竈や水場が並ぶ台所に進み勝手口を開いた。想像と違う光景を見たせいか、おや?と首を傾げる。ベレーザもそれに続き、サグレに並んで裏庭を見た。

 

 「手つかずの建物って話に聞いていたから、もっと草ボーボーだと思ったよ」

 

 「いや、伸び放題だった筈だ。少なくとも俺が視察に来たときは」

 

 裏庭は、全面とはいかないまでも少なくとも趣味でやるような小さな畑を作れる程度には草が刈られていた。勝手口から出て左手には、丸太を利用したウッドデッキとベンチが並べられている。

 

 「時間があったから、片手間にな」

 

 モスコーとは違い、せっかく有効活用できるスペースがあるのだから暇を見つけてはある程度の雑草刈りに勤しんでいた。近所の子供にお化け屋敷扱いされる原因は、連合王国では珍しい帝国様式のたたずまいと荒れ放題の庭にある。誰も住んだことのない建物に、幽霊が出てくるわけがない。

 

 「家庭菜園でも、バーベキューでも、好きにやってくれ」

 

 二人に礼を言われるが、個人的にはその礼を譜面通りに受け取ることはできなかった。

 

 一人の時間が、ほしかったからだ。

 

 仕事も順調、子供も成長していき、暖かい家庭を築けている。決して裕福な訳ではないが、満ち足りている生活。腹を満たすには充分の食事と、人間関係にも不満はない。

 

 だがしかし、時折胸をかきむしるような気分の悪さを覚えることがある。理由は分からないが、そういう時はアリアにもテンからも離れて一人になりたかった。住民があまり近づかないここの草刈りは、考え事をするには丁度いい。

 

 無意識に、首筋に指を触れていた。

 

 なにもかもが出来過ぎていると考えることが、時折ある。無論相応の努力による成果だと分かっているが、それでも俺自身がそれを信じ切れていないような、そんな気がするのだ。

 

 いっそこの世界が全て物語だと明かされたならば、ストンと腑に落ちるように納得してしまうかもしれない。家族に愛されたことがないものが、家族をまともに愛して暮らすなんてまるで出来過ぎたフィクションだ。

 

 何時もそこまで考え、その考えを火にくべるように無理矢理霧散させる。なにを馬鹿なことを言っていると。俺が、家族の幸せを疑い否定するような真似をしてい良い訳がないだろう。

 

 「こんにちは。初めまして、サグレさんにベレーザさん」

 

 アリアの声に、意識が外へと向く。

 

 バケットを片手に、成長したミーナを抱えたアリアとその傍ら、もう一つのバケットを持ちヤカンを持ったテンが現れた。

 

 「ランザの妻の、アリアと申します。こっちは娘のミーナ、よろしくお願いします」

 

 「アリアさんと、ミーナちゃん。初めまして、ミーナちゃんはおいくつですか?」

 

 「三歳になりました。目の離せない年頃ですよ」

 

 「いえ、かわいい盛りですね」

 

 サグレとアリアが、自己紹介と談笑を始める。ベレーザもアリアに挨拶をして、テンと顔を合わせた。

 

 「久しぶりだなテン。何度かこっちに来ていたけど、時間が無くて会えなかったが、まあ大きくなったじゃないか」

 

 「モスコーに訪れてから、数年は経ちますからね。私も育ち盛りなんですよ」

 

 ミーナが産まれてから三年、テンは身長も伸び身体的特徴も女性らしく成長してきていた。家事も一通りこなし街の図書館へも一人で出向いており、昔程お父様お父様と後ろをついてくることはなくなったが頼もしくなっている。

 

 勉強ばかりでなく、村での畑作業を手伝ったり、豊穣祭をする際には実行役の手伝いとして自発的に参加をしたりと周囲の者達にも馴染んで村に溶け込んでいった。

 

 そしてまあ、父としては頭が多少痛くなる話ではあるのだが息子の嫁に、なんて話が多く舞い込むようになってきていた。

 

 俺とアリアは自由恋愛で結ばれた仲ではあるが、そちらの方は今の時代においては少数派だ。婚姻は親同士が決めるものという話が多く、田舎であればあるほどその特色は根強い。

 

 俺自身、テンやミーナには自由に相手を決めてほしいと考えており、いろいろ適当な理由をつけて婚約の話を遠ざけるのは苦労している。

 

 まあ、気配りは勿論だが、身内贔屓かもしれないがテンは美しい顔立ちに成長してきている。異国の血のせいか、周りの人達とは雰囲気こそ違うものの野郎共の注目が集まるのは無理のない話だろう。

 

 ……しかし。

 

 「なあ」

 

 「どうされました?」

 

 テンが小首を傾げながら振り向いた。その顔を見て、口から出そうとしていた疑問を飲み込む。

 

 「いや…なんでもない」

 

 仕事の都合で、一度俺は村から離れてリスム自治州のモスコーに行っていた。まだアリアとは結婚する前の話で、当時モスコーにおいて年に一度の祭りが近づいており向こうの家具工房に修行兼雑用等の手伝いにいったことを覚えている。

 

 戦う騎士人形と騎馬人形。モスコー名産の炎水晶や酪農を利用した料理。知り合った、サグレやベレーザといった縁。

 

 それはいい、それは覚えているのだが。

 

 その時傍らにいたのは、本当にテンであったのだろうか。

 

 家を空けるということで、まだ幼いテンを一人残してはいられないという理由はあった。俺の記憶はそう覚えているのだが、共にモスコーの祭りを見て回ったのが何故かテンだと確証をもてないでいたのだ。

 

 サグレとベレーザの家に行くのに、手土産に奇妙な果実を購入し持ち込んだ。それを見つけたのは俺ではない、テンであった筈なのだが、かすかに違和感がある。それを言語にするのは難しいのだが、ひどく奇妙な気分になるのだ。

 

 しかし、杖のことといい時折自分自身の記憶に自信をもてない俺のことだ。些細な記憶違いが、あるのだろう。

 

 「貴方」

 

 声をかけられ、そちらを向くとアリアがバケットの中を丸太から加工して作ったテーブルに並べていた。

 

 卵やサラダ等が挟まれたサンドイッチや村人から好かれるテンがもらってきた季節の果実。井戸から汲まれたばかりの冷えた水が入れられたヤカンから杯に飲み物が注がれ、葉野菜に包まれた奮発して購入した鶏肉の炙りが並べられている。

 

 サグレがミーナと顔を合わせ、何歳になったのか等を訪ねていた。たどたどしい言葉で、返事をするミーナ。

 

 丁度昼食時ということで、ベレーザも長距離移動で腹をすかせたのか腕まくりしながら料理を見ている。

 

 「どうしたの?お昼にしようよ。この歓迎会の主催者が、ボーッとしていてどうするの」

 

 もろもろの疑問を飲み込んで、卓に向かう。冷たい水が入った杯を手に取り、全員が椅子に座るのを待つ。ミーナは、アリアの膝上に落ち着いていた。

 

 「改めて、遠路はるばるご苦労様だなサグレ、ベレーザ。まだ午後からやることが盛りだくさんだから酒の類は容易できないが、本格的な歓迎は後日落ち着いたらやらせてもらうことにして…ようこそ二人とも。この村での生活が、実りのあるものであることを祈り、乾杯!」

 

 それぞれが掛け声と共に杯を掲げて、冷たい水を飲む。

 

 夏の暑い日だ。可能ならば卸したばかりの豚肉や牛肉、狩猟で得た鹿肉等も使い酒と共にバーベキューにしゃれこみたいところではあるがそれでもこの汲んだばかりの井戸水は身体には嬉しい。違和感を、喉奥に流し込むのにはもってこいだ。

 

 女性陣は早くも打ち解け初めているようで、サグレはモスコーでのことをアリアに話していた。テンも自身が見たモスコーでの祭りについて語っている。

 

 「家庭を持ったと文では書いてあったけど、良い奥さん捕まえたじゃねえか」

 

 ベレーザが、サンドイッチ片手に声をかけてきた。彫刻の値を卸先と交渉するのが担当のベレーザであるが、彼の商売人としての武器はフランクなところではないかと考えている。気安いながら、売買交渉においては譲らないところは譲らない。ちゃんとした商人の元で修業すれば、その道で開花するかもしれない。

 

 なにより舞台役者のようなマスクに人懐こさだ、一部では人気もでるだろう。

 

 「そういうお前は、サグレとはどうなんだ」

 

 「どうだと言われればなあ。新天地にうつったばかりだ、しばらくはそういう話も足を引っぱるかもしれねえ」

 

 「モスコーみたいな街と違って、村社会は狭いんだ。サグレ、あれはもてるぞ。ちゃんと捕まえておけよ」

 

 からかいはしたが、同棲して共同で仕事をしている以上結婚をしていないだけでもはや夫婦のようなものだ。サグレとベレーザは、互いを信頼しあっている良いパートナーである。環境が落ち着いたら、自然と結ばれるだろう。

 

 その光景を祝福する時が、今の俺には楽しみだった。あんな血と惨劇にまみれた別れを体験させるよりは…

 

 「おい」

 

 ベレーザが、肩をゆする。

 

 「急に黙って、顔色が悪いぞ。どうした?」

 

 ベレーザのこえに反応し、話していた三人がこちらを見て来る。ミーナは卵で手を汚しながらサンドイッチを掴んでいたが、それ以外は心配そうな顔をしていた。

 

 「いや、なんでもない。ちょっと暑さがキツかったかもな、俺もおっさんかねぇ」

 

 笑いながら誤魔化したが、脳裏によぎったのはありえない光景。死体が転がり壊滅するモスコーと、バラバラになったサグレに銃弾で腹部を貫かれたベレーザ。褐色の女と、ライフルを持つ誰か。

 

 首筋が痛む、かきむしりたくなるほどに。井戸で聞いた、猫の鳴き声が頭のなかを反響しているようだった。

 

 本当は胃袋になにも入れたくない程気持ちの悪さで荒れていたが、午後からの作業もあるしなによりこの場を壊さない為に無理矢理にでも食事をとらなければならない。

 

 「やだやだ、おっさんを言い訳に午後の手伝いや仕事をサボらないでくれよ?」

 

 ベレーザのフォローにありがたみを感じながら、昼食が続く。無性に、酒がほしかった。

 


 

 貴方の声が聞けた。姿が見れた。手を差し伸べてくれた。それだけで、充分。必ずこの地獄のような天国から、救い出してみせる。



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 「では、娘さんをお預かりしますね」

 

 「よろしくお願いします、神父様」

 

 村の教会。テンを引き取ることを断られてからロクに足を運んだことはなく、妻との出会いは街の教会だったので輪にかけてこちらに足を運ぶことはほとんどなかった。

 

 しかし、アリアはこちらに越してきてからは毎週必ず足を運んでおり、そんな彼女から教会で週に一度読み書きや算数を教える勉強会を始めるという話を聞いていた。

 

 テンは言語の壁を乗り越え、こちらでの日常会話を覚えてからはあっと言う間に初歩的な勉学を飛び越えて様々な蔵書を読むようになったため不必要であったが、そろそろ六歳を越えたミーナは違う。

 

 人売りか、それに準ずるなにかか。過酷な半生を送ったと思われるテンとは違いミーナは年相応に成長している普通の子だ。勉強を覚えると同時に、同年代の子達と揉まれるのは良い成長の糧になるだろう。

 

 「とーちゃん、かーちゃん。帰るの?」

 

 まだ親から離れるのが不安な年ごろ。だがしかし、そろそろ家族という枠組みから外に出て社会を知るタイミングでもある。女の子ながら鋭い目元は、母親に似てきている気がするが泣きそうにうるんだ瞳は年相応のものだ。親視点の補正が入るだろうが、たいへん可愛らしい。

 

 「大丈夫ですよ。お父様とお母様は行きますが、お姉さんが残りますからね」

 

 今日は、テンがミーナの様子を見てくれる。この教会で勉強を教えるボランティア活動をしたあと、家に戻ってからもしばらくは面倒をみてくれる手筈になっていた。

 

 偶には夫婦の水入らずを。そう提案してくれたのはテンであり、記念日など無頓着な一家ではあったが偶々俺が告白をした日が近かったこともあり、久しぶりに夫婦でのんびりと街歩きをする計画をたてた。

 

 計画といってもそこまでかっちりとしたものではなく、大まかに行くところだけを決めて後はノープランである。

 

 サグレとベレーザのアトリエに顔をだし、街まで出向き昼食を食べ、市を覗いてテン達へのお土産を見繕う。

 

 夜には二人の下に戻り、家族で団欒を過ごして共に眠りにつく。ありふれた、そんな休日を過ごすつもりだ。

 

 「じゃあテン、よろしくお願い」

 

 「ええ、偶にはゆっくりと過ごしてください。お父様も、ちゃんとお母様をエスコートしなければダメですよ?」

 

 「精々退屈させないように頑張るさ」

 

 教会の神父と挨拶をかわし、縁の欠けた古い銅貨を寄付皿に投げてから外にでる。しかし、あの時テンの受け入れを拒否したのはこの教会であり、あまり良い思い出はなかったのだが今となっては過去のことだと水に流すことができた。

 

 そもそも、テンを家族に迎え入れなければ自分の家庭なんてものを持つこともできずダラダラと惰性で生きていくしかなかっただろう。そう考えると、テンとの出会いはガラにもなく神の思し召しなのではと考えてしまう。

 

 冒険者仲間達が憧れた、底辺から抜け出せた生活。神様とやらに感謝をしても良いのかもしれない。

 

 だができうることならば慈悲の力でみんなを助けてやってほしかった。そんなことを言っても、詮のない話ではある。だが、そのせいで未だ妻のように信心深くなることはできない。

 

 アリアは、宗教は受け取り方次第でありそれもある意味では信心の一つだと言っていたが、俺にはよく分からない。

 

 教会を出てしばらく歩き、村の外れに見える帝国様式の石造りの建物と、その隣にある木造のアトリエが見える。

 

 石造りの建物は、二階部分を二人の住居にして一階を店舗として改装していた。

 

 「おう、いらっしゃい」

 

 「こんにちは、ベレーザさん」

 

 石壁には、様々な魔よけの意味を持つ彫刻作品が並び、机の上には犬や鹿、蜘蛛や猫等の小さな木彫り人形が並んでいる。他にも手作りの木のコップやジョッキ、皿等の日用品が棚に並べられていた。

 

 カウンターには椅子が複数並べられており、時間がある時だけベレーザがここで軽食を出したりハーブを利用したお茶を提供していた。

 

 神経を使い集中力がいるうえ、それなりに重労働にもなる彫刻彫りを行うサグレの為、ベレーザはこちらに来てからは疲労回復やリラックス効果がある薬草を勉強している。裏庭には彼が手入れしているハーブや薬草が畑となっており、不定期ながら彼のいれたお茶と軽食を楽しむこの場は村のちょっとした癒しスポットとなっていた。

 

 「今日の商談は?」

 

 「午後からだ。今日の午前は空けておけと、テンちゃんが念押してきたからな」

 

 「たく、迷惑かけちまったか?」

 

 「かまやしねえさ、元々今日の午前は予定を入れてなかったからな。注文はあるか?」

 

 任せることを伝えると、ベレーザは奥の台所に入っていった。

 

 客がくる度に、湯を沸かす手間を考えると薪や手間から利益を期待どころか大赤字も良いところであるが、最近大金叩いて魔術具を導入したらしい。少し時間をかけて水を沸かすくらいの効果しかないようだが、普段使いするならこれくらいがちょうどいいとベレーザは肩をすくめていたのを覚えている。

 

 「蜘蛛の彫刻?」

 

 アリアが、壁にかけられた大きな蜘蛛の彫刻を見上げていた。嘘か本当か人類の半数近くは蜘蛛に対して嫌悪感を抱くらしいが、それが商品として売られていることが不思議なのだろう。

 

 「モスコーでは、蜘蛛は家の内部に来た外敵を退ける存在ともいわれているんだ。巣を張らないタイプのバカでかい蜘蛛がいるんだが、そいつは黒蟲を見つけては狩り続け食料品を汚染から護っている。獲物を狩りつくし後は家から出ていくことから猟兵なんてあだ名もあってな。まあ、それにあやかって家に害がある存在が来た時追い払ってくれるとようにってやつだ」

 

 「それは、凄いね。蜘蛛は嫌いじゃないけど、好きな人は少ないし疑問だったの」

 

 「ほかにも、馬は目的地に無事にたどり着けるようにだとか、鳥は困難から飛び立つように抜け出せる為にとかいろいろな独自の文化と考えがあるみたいだな」

 

 ベレーザが村の人間にも買ってもらえるように時折店に来た客に解説しているのだが、普段使いする食器の類はともかく異なる文化の商品を説明するのに苦戦している様子を時折見かけている。まあ出来が良い為、お守りや厄除けというより、よくできた調度品として購入されていくのがほとんどのようだができれば文化的な下地も知ってほしいとぼやいていた。

 

 「じゃあランザ、繋ぎ止めておく意味を持つような彫刻はあるのかな?」

 

 「繋ぎとめる?」

 

 アリアの言葉に、記憶を探る。幾つかの由来や謂れは前に聞いたことがあるのだが、流石に全てを把握している訳ではないのですぐには出てこなかった。

 

 カウンターの方から音が聞こえ、ベレーザが二つの手彫りの杯に注がれたお茶をカウンターにおく。

 

 「なあベレーザ、繋ぎと」

 

 「いえ、いいのいいの、ちょっとした興味本位だから。それよりもサグレさんは?」

 

 ベレーザに尋ねようとした言葉を遮られ、アリアがカウンターに向かった。俺よりも専門家に聞いた方が良いのではと思ったのだが質問者がいいと言ってしまえば追及することもできなくなってしまった。

 

 暖かい杯を持ち、一口飲む。砂糖を使っていはいないが、ほんのりと甘い液体が喉奥に滑り込んでいく。

 

 「サグレは、今大口の依頼が来ていて集中したいからってことでアトリエにこもりきりでな。そうなると、俺もあまり邪魔できないし今日も缶詰めだよ」

 

 「なら、邪魔できないわね」

 

 「なに、来たことは後で伝えておくよ。それよりも、大事なデートの日に、家を選んでくれて恐悦至極だ」

 

 ベレーザの笑顔が眩しい。この店の常連の六割強はこの顔を拝みに来る為だとも言われている。まあ、あの二人の隙に割って入ることは難しいだろうが。

 

 「最近売れ行きはどうだよ」

 

 「それなりかな、食器や雑貨の類はよく売れているけどな。外注もまあ好調で、リスムからの注文と連合王国側のクスコってところから半々ってところか。景気よく値をつけて買ってくれるのは、リスムの商人だがクスコの奴等は数を多めに仕入れてくれる。どちらも末永く付き合っていきたいもんだね」

 

 食事と娯楽。その二つに手間と暇、そして金をかけられるようならば世は平和なものだ。紛争地帯では食事に工夫をすることも娯楽として絵画や彫刻、調度品を楽しむこともできないだろう。

 

 連合王国と帝国がリスムを挟んで仮想敵国として睨みあいを続けているのは良いが、なにかの拍子で本格的に開戦となるまではこんな片田舎の村には影響等ほとんどない。平和、万歳といったところか。

 

 他愛のない世間話から、話しはサグレが掘る彫刻についての話題となる。

 

 壁にかける大型のものや、特注品となる看板等はともかくやはり目を引くのは小物の類だ。

 

 様々な動物や魔獣の彫刻品は、基本的には魔よけや厄払い、願いの成就の助けとなる呪いとしての念や意味が込められているのはさっき少し話した後だ。

 

 綺麗に彫刻刀がいれられ、鑢で滑らかに仕上げニスを塗った小物は見ているだけでも和むものがある。

 

 同じ木材を扱う関係の仕事上、多少畑違いなところはあるだろうがその出来栄えには思わず頷いてしまうほどだ。

 

 だが、逆に言えばモスコーの環境ではいくら実力があろうと若手職人が独立して商売をするのがいかに厳しいかを物語っているようにも思えた。職人の層が厚いのもあるだろうが、伝統を重視するあまり若手の台頭が気に入らない者はどこにでもいるだろう。

 

 「一つ買っていくか?」

 

 「ええ、せっかくだしね。どれがいいかな?」

 

 一通り由来や技術面での話で盛り上がった後、次の場所に向かう前になにか購入していこうという話になった。荷物にはなるが、小物ではあるし街に移動する前に家に寄って置いてくれば良いだろう。

 

 「二割引きにしておいてやるよ」

 

 ベレーザの言葉を背中に受けながら、店内を見て回る。棚におくくらいの小さなものが良いだろうと話し合いで決めて、比較的小さな彫刻を二人で眺めた。

 

 「これは」

 

 目に留まったのは、猫の置物。前足で耳の後ろをかいており顔を少し下に向けながら気持ちよさそうに目を細めているものだった。確か、幸運と商売の繁盛を祈願する意味が込められている。

 

 今は充分に幸運ではあるが、その造形がなんとなく気に入った。手に持ち軽く、眺めているとアリアから声がかかる。

 

 「良いのが、あった?」

 

 「ああ、これなんてどう思う?猫の置物だが」

 

 手のひらに乗せられた猫を見せると、あまり気が進まないのか少し難しい顔をする。猫が好きだっと思ったが、なにやら手ごたえがないというか思わしくない。

 

 「今は、こっちの気分かな」

 

 大型犬の木彫り人形が、アリアの手の上に乗せられていた。安全、外敵からの護り、何時までも平和な日々を送れるように願いがこめられたものだ。確かに金はあるにこしたことはないが、今の稼ぎで毎日は満たされている。例えまじないの類とはいえ、必要以上に望みすぎるものではないかもしれない。

 

 「二つ買っていっても良いんだぞ」

 

 「へいへい、商魂たくましいこった」

 

 猫を棚に戻し、犬を手にとった。犬じたい嫌いではないし、どちらかと言えば好きな方だ。今日はアリアの為に時間を使うと決めていた。両方購入しても良いのだが、ここは彼女の意見を聞こう。

 

 棚に戻された猫と、目が合ったような気がした。そういえば、あの灰色の猫はどうしているのだろうか。虐められたのか、それとも他の動物に襲われたのか身体に傷が多くついていた。野良だし、もう生きてはいないかもしれない。

 

 「なあ、ベレーザ」

 

 「あん?」

 

 「……いや、なんでもない」

 

 わざわざベレーザに尋ねるまでもない。俺自身、確認しなくても知っていることだ。馬の木彫り、込められたまじないは目的地へとたどり着くこと。

 

 モスコーから離れたこの村で、偶々木彫りを見ただけだ。だがしかし、こうも思ってしまう。

 

 あの猫は、いったいどこに向かいたいのだろうか。向かいたい場所に、行けているのだろうか。

 

 ふとした拍子、こんなちょっとしたきっかけで気になってしまう。三年前のあの暑い夏の日から、あの子のことは見ていないのに。

 

 「この犬の木彫りを買おう。会計頼む」

 

 会計をしている最中、俺は何故か後ろを振り向けなかった。この一瞬だけ、俺はアリアと顔を合わすことができなかった。理由は、分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 犬の木彫りを家に置いた後、街まで移動する。

 

 畑が広がる田舎道を散歩しながら歩き、街までついたら新鮮な海鮮を使ったランチを食べ、図書館にてテンの好きそうな本を集め、古着市にて使えそうな子供服を探す。

 

 折よく大道芸人等が通路で公演をしており、魔獣使いが使役する大鳥に乗せてもらい空も飛んだ。

 

 日が傾きはじめ、空が朱色に染まり始めるまで街で楽しんだ。あとは、日が完全に暮れてしまうまえに家に戻り夕食の支度をするだけだと思ったが、アリアが寄りたいところがあると言い出した。

 

 たどり着いた先は、二人の出会いの場所となった街の教会。長椅子に座りアリアが両手を組んで祈りを捧げる。それにならい、形だけでも真似をして教会の神に祈りを捧げた。

 

 しばらくの沈黙。どれくらい祈りを捧げていればいいのか分からないが、いつの間にか祈りをやめたアリアが口を開く。

 

 「私は、ここで祈る時はただ毎日の生活を無事に過ごせていることに、感謝だけを伝えているの。ミーナがいて、テンがいて、貴方がいて。家族全員が病や事故もなく過ごせていることにお礼を言っている。それでも、今日は別のことをお願いした」

 

 「別のことだって?」

 

 視線を真っ直ぐ祭壇の方へ向けていたが、こちらに顔を向ける。その表情は、先程まで共に街歩きをしていた楽し気な顔からなにやら思いつめたような、影のある表情を浮かべていた。

 

 「ねえ、ランザ」

 

 慎重に、言葉を選んでいるようにも見える。

 

 「どこにも行かないわよね」

 

 「なんだって?」

 

 単語の意味は分かるが、言葉の真意が分からず思わず訪ねてしまった。反射的に聞き返してしまったが、まだ状況を把握しきれていない思考とは裏腹に背中に冷たい汗が流れるのを感じてしまう。

 

 「貴方は時折、ここではないどこかを見ているような気がする。まるで心ここにあらずというか、上手く言えないけれど、現実を現実として噛みしめきれていないというか。ねえ、ランザ。貴方は今幸せ?」

 

 「そりゃそうだ。疑う余地もないくらい、幸せだよ」

 

 アリアがいて、ミーナがいて、テンがいる。張り合いのある職につき、親方が担当していた仕事を任せられるようになり後輩となる職人に仕事を教える機会も増えた。サグレやベレーザ、時折しか会えないがグローといった交友関係にも恵まれている。

 

 疑いようもなく、微塵の曇りもなく、幸福といえた。底辺だった頃、喉から手が出る程狂おしく焦がれた生活を今おくれているのだ。

 

 「多分、その言葉に嘘はないと思う。でも貴方は、心のどこかで、もしかしたら無意識にでもこの幸福を信じ切れていないようにも思えるの。これまでの生活のなか、貴方はふとしたきっかけでとても遠い目をすることがある。そんな時のランザは、まるで幽霊のよう。目を離したら、いなくなってしまいそう」

 

 「そんなことは」

 

 「ないと、本心から言える?」

 

 ……言えなかった。

 

 サグレとベレーザを迎える準備をする時、庭の手入れを口実によく一人になっていた。他にも、心当たりがないと言えば嘘になる。

 

 普段は忘れている、不安に似た焦燥。本当にここにいて良いのかと脈絡なく考えてしまう。

 

 家族は大事だ、仕事も順調、なのに何故か地に足がついていないような、自分でも訳が分からない感覚が付きまとう。そして、そういう時に頭に浮かぶのがあの猫だ。どこか不安定なその様に、どこか共感性をもってしまっているのだろうか。

 

 「不安にさせたか?」

 

 「だいぶね。嘘でも否定をしないところとかも、特に」

 

 「嘘か。どうせすぐバレるだろ」

 

 頭に手をおいてわしゃわしゃと撫でる。そのまま肩を引き寄せくっつくと、彼女の体温を感じることができた。

 

 「どこにもいかねえよ。むしろ、どこに行けっていうんだ」

 

 路地裏で寝泊まりしていた頃とも違う、冒険者ギルドで未開地に踏み込んでいた時とも違う。俺はもう護る者ができたし、地に根を張り足をつけて生きているんだ。

 

 戦場帰りの歴戦兵は、平穏な生活に馴染むことができず戦地に戻っていくなんていう話を聞いたことがあるが、俺はその類ではないしそうはならない。

 

 そして、今ある幸せにイマイチ信用がおけなくなる感情は傲慢だ。幸福を信じ切れていないなんて、そう見えるということはまだ俺には一家の長として無意識にでも自覚が足りていなかった証拠だろう。

 

 幸せになると決めた。幸せにすると決めたのだ。

 

 記憶にかすかに残る、俺の首を絞めた誰かよ。

 

 いや、嘘だ。あの言葉を覚えている。お前の言葉を覚えている。

 

 『産まなきゃ良かった』

 

 まるで呪いのような言葉だ。望まれない生。だがそれでも、産まれたからには幸福を追求する生き方をしても良い筈だ。

 

 妻は自己肯定感が低いと思っていたが、俺も人のことは言えないではないか。今まで何度も死にそうになりながらも、死なずにここまで生きて来た意味がきっと俺にもあるはずなんだ。

 

 それが、アリアであり、ミーナであり、テンであるならばそれ以上の理由はない。三人を、不安にさせる等言語道断だ。

 

 「どこにもいかない。俺にとって、お前達の傍が居場所だからな」

 

 今ならば、こんな臭いセリフだって臆面なく吐くことができた。でも今は、周囲に人があまりいなくて良かった。

 

 アリアが安心したように頷いた。それからしばらくは、二人で教会で過ごす。

 

 すっかり暗くなった夜道を歩き、家に帰るとテンがミーナを膝に抱えながら頭を撫でていた。妻に似た色の髪の毛を撫でなられながら、静かに寝息をたてている。

 

 「久しぶりに水入らずだったからって、遅いじゃないですか。嫉妬してしまいますよ?」

 

 「はは、悪かった悪かった」

 

 「ミーナを見ていてくれてありがとう、テン」

 

 寝息をたてるミーナを撫でる。静かに寝息をたてており、恐らく初めての学び舎で疲れがでたのだろう。

 

 「ん?」

 

 「どうしました?」

 

 「袖、どうした?」

 

 テンの服の袖に、小さな赤い染み。今気づいたのか、テンも少し驚いた顔をしていた。

 

 「転んだ子供を助けたのですが、その時についたのでしょうか。すいません、服を汚してしまって」

 

 「謝る程じゃない。テンもミーナも怪我がないならそれにこしたことはないからな。それよりも腹がすいただろう、今なにか作るからな」

 

 家族と食卓を囲う、そんな幸せの為にアリアと共に台所に立つ。豪華ではないが腹を満たすに充分な料理と、それを共に食べる家族達。俺には、これ以上に望むものはない。

 


 

  「あら」

 

 「貴方が数年前から噂になっている灰猫かしら。また随分と痛めつけられて…半死半生ながらよく生きていたものですね」

 

 「威嚇、ですか。無理もないことでしょう。でも、貴女そのままじゃ死にますよ」

 

 「悪いことは言いません。今なら近くに誰もいないし、ミーナやみなさんは教会の中です。手当てくらいは、してあげます」

 

 「………」

 

 「私は不思議なのです。貴女になにをされた訳でもないのに、何故か心の奥底から貴女に嫌悪感を抱く私がいる。この感情は、奇妙としか言いようがありません」

 

 「自己分析が完了していない感情で貴女を害することは、私にはできません」

 

 「それに貴女を見ていると、お父様に会った頃の私を思い出します。お父様がそうしてくれたように、私も一度だけ貴方を助けてあげることもやぶさかではないでしょう」

 

 「……しかし」

 

 「何故貴女は、お父様の近くに可能な限り近づこうとしているのですか?驚いた顔をして、私が気づかないとでも?」

 

 「そこも含めて奇妙ですが、貴女はお父様を害するような存在ではない。目を見れば、分かります。たかが猫相手になにを、と人は言うでしょうけどね」

 

 「でも、灰猫さん」

 

 「きっと貴女は特別ななにかなのでしょう」

 

 「貴女は、どこかこの現実味のない空虚な世界のなにかを知っているのでしょう」

 

 「……お父様の言動を見ていれば、分かります。お父様は、時折どこか矛盾を含むような、統合性がとれない発言をすることがある。まるでこことは違うなにかを現実として見ているような。今目の前におこる事柄について信用しきれていないような」

 

 「意識的にも、無意識的にも」

 

 「だけど、私にとってこの世界が。例え都合の良い仮初の色で塗られたベニヤ板のような世界であってもここが全てなのです」

 

 「……ここまで言ってしまえば、ついでに白状しましょうか。最初の発言は嘘です」

 

 「貴女はきっと、仮初でない世界から来た存在。だからこそ、私達は貴方に敵意と嫌悪を向け排除に動かざるをえないのでしょう」

 

 「元の世界ではきっと親しい間柄だったのでしょう?羨ましい、妬ましい、殺してやりたいとすら一瞬でも思う」

 

 「ですが、この世界を護る意味でも私はそれをやりません。例え猫とは言えど、家族の手が血で汚れるのをお父様はよしとしないでしょうから」

 

 「私は、お父様の幸せを第一に望み動きます。だから灰猫さん、それを邪魔しないでください」

 

 「行きなさい。子供たちがでてきます。そしてよく覚えておいてください」

 

 「どうか、この幻想を。私たちの幸せを壊さないでください。私の願いは、それだけなのです。それを邪魔するならば、次からは私も貴女の敵になりますので、どうか悪しからず」



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 平手で頬を張る、乾いた音が響いた。

 

 「二度と、そんなことを言うな」

 

 教育について、俺は手をあげることはこれまで一度もなかった。自分の子供とはいえ、相手はあくまで一個人の人間だ。よほどのことじゃないかぎり、教育的措置とはいえ暴力に訴えることは可能な限り避けてきた。

 

 涙ぐみながら赤くなった頬を抑えるミーナに、列火のごとく睨まれる。だがその瞳は、同時に動揺に揺れているように見えた。

 

 「父さんなんて、知らない!」

 

 「ミーナ!」

 

 扉を押し破る勢いで開き家から出ていくミーナを、アリアが慌てて追いかける。俺はというと、情けないことではあるが手をあげた形のまま固まっていた。

 

 親から受ける、暴行の記憶。少ならからずそれがフラッシュバックを脳内でおこし、家から飛び出す娘を追いかけることができなかった。

 

 「お父様」

 

 テンも、少なからず動揺した声をあげている。身にまとう衣服が、近頃帝都方面や連合王国の都市で流行りはじめているロングスカートと革製の上着の新品衣服だったが、これが騒動の原因となってしまった。

 

 衣服、というのは高級品だ。

 

 普通であれば、新品でおろしたての衣服というものはまず貴族や大商人等裕福な立場の人間が身にまとうものである。様々な流行の動きで着なくなったものや、少し古くなったものが使用人に渡される。そしてそれがしばらくして、廃棄されたり市場の古着市に流されたりし最後に庶民に渡る…というものだ。

 

 勿論庶民向けの新品の衣服というものもあるが、大抵は麻でつくられたシンプルなものである。

 

 だがしかし、俺はとある日に備えて奮起した。

 

 何時もより多くの時間を仕事に割り当て、休みの日にはもう引退した親方の知り合いである人物が経営する街の工房で仕事を受けたり、サグレとベレーザのアトリエにて簡単な手伝いや材料となる木材加工を手伝い手間賃を稼いだりしていた。

 

 テンを引き取ってから、十数年が経っていた。彼女の元の年齢が幾つかは分からないが、成年といえる年となり、立派な大人の女性になっていた。

 

 黒髪、異国情緒のあるが絶妙に幼さも残る人目を惹く顔立ち。

 

 これまでテンには、家のことから村のことまで献身的に働いてくれた。しかし、せっかく年頃になったというのにお洒落の一つできないのはいささか可哀想ではないかと思うようになった。

 

 これまで献身的に家庭を支えてくれた娘の成人祝い。テンも照れつつ、いささか恐縮しながらも仕立て屋で寸法を測り仕上げた流行りの衣服にまんざらでもない様子を見せていた。高級品に遠慮はしていたが、熱意を込めた説得にて最後には喜んで新しい衣服を身に纏った。

 

 アリアも、賛同してくれた。だがしかし、ミーナの気持ちを考えきれていなかった。

 

 『なんで姉さんだけなの!』『あたしだって新しい服がほしいし、流行りの服を着てみたい!』

 

 帝国、王国といってもあくまで富裕層の流行りというものだ。そりゃもう少ししたら、流行も移り少し高めの値段だが頑張れば庶民にも着れる代金で買えるものとして中古にて出回るだろう。

 

 成人してから、中古で出回ってから。

 

 そう何度も説得していたが、なかなかミーナの癇癪は収まらない。そんななかで、ミーナは整理できない感情を抑えきれずこんなことを口走った。

 

 『どうせ姉さんなんてみなしごじゃん!実の娘よりもそんな娘が大事なの!?』

 

 それを聞いた瞬間に、頭の中でなにかが切れる音がした。考えるより先に反射的にミーナの頬を張り、俺は自分の娘が産まれてから初めて暴力を振るってしまった。

 

 そんなざまの俺は固まり、村じゅうの人間に頼られる聡明なテンさえも、自身が原因となった騒動に対して泣きそうな顔をしながらオロオロしているのみだった。

 

 分かってくれると、思っていた。テンはミーナが赤ん坊のころからよくお世話をしていたし、仲睦まじい姉妹に見えていた。

 

 しかし、何時かアリアが話していた。テンは、かなり早熟な子供だし頭も良い。彼女がやすやすとできることにたいして、ミーナは時間をかけたり上手くできなかったりしたことが多くコンプレックスを抱えてしまうのではないかと。

 

 ミーナはあまり要領の良い娘ではない。しかし、それはテンに比べてという話で能力的には年相応なものである。だがアリアは、自分も不器用な人間だと自覚をしており近くになんでもできる存在がいるという劣等感には覚えがあるといっていた。

 

 気にしている、つもりだった。少なくともテンとミーナを比べたり、テンだけを褒めるといった言動は注意していた。

 

 「すいません、お父様。やはり私なんかがこんな高価な物を頂く訳には、いかなかったのです。私が強く遠慮をしていれば、こんなことには」

 

 「お前もそんなことを言うんじゃない。年頃の娘に、綺麗な衣装一つ送りたいと思うのは俺の考えだからだ。ミーナにだって、成人したら仕立て屋で好みの服を送るつもりだった。納得してくれると、思っていたんだけどな」

 

 何時までも固まっている訳にもいかない。立ち上がり、上着を掴む。ミーナとアリアの後を追いかけなければいけない。ここにいるのが少なくとも、最適解というのはありえない。

 

 ミーナとアリアが、どこにいったのか。家の前からどちらに向かったのだろうか。

 

 とにかく、走り出す。通りかかった村の人達や、サグレとベレーザにも協力を仰ごう。

 

 何時も遊んでいた広場、散歩をしていた海岸沿い、山の方には行っていないとは願いたいが万が一の時には山狩りも必要か?村から出ていないと思うのだがもうあの娘も十二歳になる。足はかなり速く、全力で逃げたならアリアでは追いつけない。

 

 噴水広場、海岸沿い、山側にも向かいサグレとベレーザのアトリエにも顔をだす。二つ返事でベレーザが協力してくれることとなり、サグレは動揺しているであろうテンのことを心配して様子を見に行くと共に、もしミーナが戻ってきた時出迎えられるよう一緒に待っていてくれることになった。

 

 「お?」

 

 俺が働いている工房に、灯りがついていた。今は繁忙期でもなく、こんな時間まで残って作業をする者はいない。ミーナがあまり工房に近づくことはない。可能性は低いとは思うが、一応中を覗いてみる。

 

 「誰かいるのか?」

 

 「若さん」

 

 工房の中にいたのは、三人組の若手衆だった。

 

 若さんというのは、俺のことである。親方が半分隠居のような状態であり、同年代の年配の職人たちが働けるまでは働きたいと残っているが、それを除けばいつも間にやらこの工房で一番長く働いているのは俺になっていた。

 

 年配の先輩に聞いた話によれば、親方は早くに妻を亡くし子供もいない関係で、この工房を俺に託す準備を進めているという話があった。

 

 それからしばらくしてその話が広がったのか、若手達からは若頭とか呼ばれるようになったが恥ずかしいからやめるように伝えたら、いつの間にか若さんという言葉が定着しつつあった。

 

 「お前等、なにやってんだ」

 

 「あの、今は時間もあるので端材を利用してちょっと練習をしたいと思いまして」

 

 「気持ちは分からんでもないが、こんな遅くまで作業するのはあまり感心しないな。明かりもタダではないし、目も疲れるだろう。練習は認めるが、休める時には休め」

 

 「すいません。それにしても、なにかあったんですか?顔色が悪いですよ」

 

 休める時には休めといった手前ではあるし、身内の問題という引け目もあるが若い連中が手を貸してくれるとなれば捜索範囲もグッと広がる。万が一という想像を巡らせれば、不安が尽きない為ここは頭を下げることにする。

 

 「娘とトラブルになってしまって、家出をされた。時間も時間だし、もしも村から出てしまっていたら事故や事件の原因になる。休めといった手前ではあるが、すまないが力を貸してもらえるだろうか、頼む」

 

 「テンちゃんが?それともミーナちゃん?」

 

 「ミーナだ。妻がすぐに追いかけたが全力で逃げたなら離された可能性が高い。すまん、年齢の近いお前等の方が行きそうなところとか思い当たるだろうし体力面でも頼りになると思う。力を貸してほしい」

 

 頭を深々と下げると、二人がこちらに近づいてきた。

 

 「頭上げてくださいよ若さん。あのクソおや…親方に責められている時、かばったりフォローしてくれたのは若なんですから」

 

 「任せてくださいよ。次期親方なんですからでっかく恩売るつもりで全力で頑張りますよ。山歩きなら慣れてるし俺が行く、お前はどうする?」

 

 「一応村の外をグルリと回ってみる。流石に街までは行ってないと思うが…一応の心当たりは探したのですよね」

 

 二つ返事で了承する若衆二人に頼もしさを思える。こちらもベレーザという協力者が探してくれていることや、一応思い当たるところは見て回ったことを話しておき大まかに役割分担を決めていく。

 

 「あの、僕は」

 

 一番奥にいた工房の最年少である少年がおずおずと声をかけた。ミーナよりもほんの一歳か二歳程年上であるが早くから働かなければいけない事情があり、家のリフォームを研修させてもらった縁のある街工房から紹介を受けて工房の隣にある倉庫を改装して住み込みで働いてもらっていた。

 

 「フェル。お前はもう遅いから休んでおけ」

 

 「でも」

 

 「良いから。そもそもお前は頑張りすぎだ。身体が資本なんだから、あまり夜遅くまで頑張るな。戸締りだけ頼むな。そうだ、お前ミーナと仲良かったし、こういう時どこに行くとか聞いたり心当たりとかあるか?」

 

 フェルは首を大きく左右に振る。流石にそんな話まではしていないか。

 

 それだけ伝えて外に出る。協力者も募り希望が湧いてきたが、それから時間をかけて村中を探し回ろうとなかなかミーナが見つからない。一度自宅に戻り様子を見ようとすると、同じタイミングで道の反対側からアリアが来るのが見えた。

 

 「ミーナは?」

 

 「ごめん、追いつけなかった。山の方に逃げていったけどその後見失っちゃった」

 

 想像はついていたが、やはりか。山の近くやもしかしたら中まで探していたのか、アリアの靴は土や泥で汚れており必死に探しまわっていた様子が見て取れた。

 

 「すまん、俺がカッとなって手をあげなければ」

 

 「誰が悪い、悪くないは今話しても仕方ないでしょう。まずはミーナを見つけて、ちゃんと家に連れてきてから話そうよ」

 

 そうだな、と頷き一度家の玄関の方を見る。テンはサグレに任せているが、一度様子を見て声をかけておかなければならないだろう。一番傷ついたのは、テンかもしれないのだ。

 

 「若さん!」

 

 扉に手をかけようとした瞬間、工房にいた一人から声をかけられた。山側を探すといっており、そちらの方を任せていた為に、ついに見つかったのかと期待をしながら声がした方に振り向いた。

 

 家出をしたことをしかりつけるのは、まずはやめよう。とにかく心配した、抱きしめてやりたかった。

 

 だがしかし、こちらに来た若いのは顔をまっ青にして、肩で息をしていた。とてもじゃないが、見つかるどころか普通の様子ではない。

 

 「どうした」

 

 「大変だ若さん!工房が…燃えてやがる!火事なんだ!」

 

 アリアの方を向いて、すまんと一言だけ話全力で走る。

 

 工房に近づくにつれ、赤々と燃える炎が見える。工房は木屑も多く出るし、燃えるものだらけだ。火事については常に注意をしていたが、こうなってしまえばもう後は燃えて広がるしかない。

 

 赤々とした炎が工房に燃え広がるなか、一番若い職人、フェルが沢山の水が入った木桶を用意しておりそのうちの一つを頭に被ったところだった。

 

 その顔は必死の形相を浮かべており、今にも火事の中に踏み込んでいきそうだった。

 

 「なにしている!死にに行くつもりか!」

 

 慌てて近寄り肩に手をおく。それを振り払うようにフェルが、身体を大きく震わせた。

 

 「若さん!僕行かなくちゃ!ミーナちゃんが中に…中に!」

 

 「いるのか!?ミーナが…何時から!」

 

 フェルの顔が決意から怯えたような顔に変わる。それだけ聞いて全てに得心がいく。共に走ってきた若衆が、「なんで黙っていた!」とくってかかっていた。

 

 若衆二人は気づいていなかったみたいだが、ミーナはなにを思ったのかは分からないが俺の職場である工房に逃げ込み、年が近く仲が良いフェルにこっそりとかくまってもらうようにお願いしたのだろう。

 

 あまり大きくない工房とはいえ、木材や道具が多い為隠れる場所はどこにでもある。隣の倉庫兼フェルの下宿に隠れなかったのは、動揺している今一人でいるのが怖かったのかもしれない。

 

 改めてフェルの方を見ると、近くに紙袋が落ちておりその口からはパンが頭をだしていた。時間も時間だ、夕食も食べずに飛び出したニーナの為に購入してきたのだろう。その間に、何らかの不手際で火がついたのか。

 

 「いや、何時からかなんてどうでもいいか。どこに隠れているんだ」

 

 桶を一つ掴み、頭から被る。身体にも水をかけ目の前を睨みつける。

 

 「奥の資材庫に…若さん!?」

 

 グリグリと乱暴にフェルの頭を撫でておく。黙っていたことは後で説教が必要ではあるが、火の中に飛び込んでいこうとする根性だけは認めてやる。

 

 「待ってろ。後で拳骨だからな」

 

 扉を蹴り破り、工房の中に突入する。

 

 作業の工程で出た木屑に、家具の材料にする為に加工した木材の数々。掃除は毎回作業後に行っているが、作業の練習をしていた手前新たな火種が増えたせいか想像以上に燃えて広がるのが早い。

 

 煙が喉に絡みつくように感じ気分が悪くなる。こんな環境にいたらまだ成人していない女の子等ひとたまりもない。

 

 屋根の方からギシギシという嫌な音さえ聞こえるような気がする。火事の音に紛れての気のせいなのかもしれないが、グズグズしていると火や煙より先に天井が落ちてきてしまうかもしれない。

 

 朱色の炎に包まれた作業台の横を通り過ぎ、火の線がはしる床を飛び越える。

 

 脳裏には嫌な思い出が思い浮かんだ。エルフの集落を襲撃した時の思い出だ。

 

 エレミヤの高笑いを背景に聞きながら、燃える家屋に隠れていたであろう火に巻かれたエルフ達。呼吸をする度に炎が口の中に入り、喉を焼き尽くす。悲鳴にならない悲鳴が、忘れかけていた記憶を脳髄が引きずり出した。

 

 今は考えないようにしたい。余計なことに思考を巡らせていると、火に包まれるのは俺だ。俺だけならまだしも、ミーナも焼死という最悪の結果が待ち受けているだろう。

 

 因果応報かと言われれば、そうかもしれない。だがしかしその責を負うのは俺なんだ。子供を巻き込むような形にしてしまってはならない。

 

 「ミーナ!」

 

 大声をだすと酸素を必要とする。この現状それさえも苦しいものがあるが、叫ばずにはいられなかった。

 

 「ミーナ!どこだミーナ!頼むから、出てきてくれ!」

 

 「父…さん」

 

 資材庫の手前までミーナは這ってきていた。なにかで斬ったのか、右足から血を流しており痛みで涙を流していた。

 

 だが、生きている。

 

 「ごめん父さん…ごめん」

 

 「言いたいことは後にしろ!喋るなよ、煙を吸い込みすぎたら死ぬぞ。さあ、立てるか?肩を貸すから頑張れ」

 

 ギッという嫌な音が天井から聞こえた。確認する前に咄嗟に身体を動かし、四つん這いになり覆いかぶさるようにする。過去の冒険者時代に培った反射で動く能力、埃を被っていた経験が十数年ぶりに発揮された瞬間だった。

 

 背中に、熱と重圧がかかる。だがここで崩れる訳にはいかない。俺が耐えられなくなった瞬間になにもかもが終わる。

 

 「でれるか!?ミーナ!」

 

 必死に頷くミーナが、なんとか這いながら俺の下から出ていく。あと、少しだ。

 

 「父さん!父さんも早く!」

 

 立ち上がれないまでも、なんとか膝立ちになりながら俺の上に落ちて来た、恐らくは屋根の梁をどかそうとしている。そんな熱いものを触ると、手が火傷するだろうが。

 

 「無理すんな…というか無理だろ、この重さじゃお前の細腕でなんとかなるか」

 

 「そんなこと言わないで!謝る、謝るから諦めないで父さん!あたしが悪かったから、謝るから!」

 

 「逃げろ。立てないんだから、時間がねえ。俺は大丈夫だから、諦めないから誰か助け呼んできてくれ…頼むぜおい」

 

 お涙頂戴している暇はないのだが、ミーナは瓦礫を持ち上げようとしたまま動かない。

 

 「お前を助ける為にここに来たんだ!お前が生きる為だけに行動をしろ!」

 

 一喝した瞬間、ミーナが固まった。涙と鼻水で濡れた顔でなんとか頷いた。

 

 這いながらでも、なんとか出て行こうとしている。早く行け、振り向かずに行け。分不相応な幸せを今まで受けていた自覚はある。あくまでミーナが助かることが前提ではあるのだが、これが最後なら悪くはない。

 

 四肢の力が抜けて来た。興奮作用が抜けてきたのか、焼けた木材が肌を焼き肉を焦がす痛みがひどい。

 

 ここから脱出するのは不可能だ。ミーナやアリアにはこれから苦労をかけてしまうが俺が死んだ後はそこまで心配はしていない。テン、俺よりも数倍出来の良い彼女ならば安心して後を任すことができる。

 

 向こうに逝ったら、冒険者の仲間達には良い報告ができそうだ。なんとか、底辺から這い出ることができましたよと。

 

 目をつむろうとした瞬間、鳴き声が聞こえた。あの頭がざわつく鳴き声を、久々に聞いた。

 

 目の前には、尻尾の先を焦がした灰色の毛並みを持つ猫がいた。なんでここにいるのか分からない、とっくに死んだと思っていた相手ではあり、この子がお迎えかと考えるが現実はもう少し俺に味方をしてくれたようだ。

 

 「クソが!あとちょい耐えろこの野郎!来てやったんだから無駄足踏ませんなよ!」

 

 耳に響いたのは、ベレーザの声。手には棒のようなものを持っており、瓦礫の下にある隙間に挟み込み梃子の原理を利用し瓦礫を少し浮かび上がらせる。

 

 「引っぱりだしますよ!手を伸ばして!」

 

 村の外で探していた筈のもう一人の若衆が目の前まで来ており、俺の腕を両手で掴み一息に引っぱりだしてくれた。

 

 「ミーナは…ミーナは……」

 

 礼を言おうとしても、上手く口がまわらない。なんとか話そうとしても、娘の心配の言葉をうわごとのように零すだけしかできない。

 

 「ミーナはもう、同僚が助けました!後は若だけなんだからもう少しだけ頑張ってください!アリアさんもテンちゃんも外で待ってる!二人にお前の亡骸を見せるのは勘弁ですよ!」

 

 火の手がどんどん燃え広がっている。今から逃げ出せるかどうか分からない。下手すれば全員丸焼きだぞ。

 

 「来た通路は!?」

 

 「ダメだこいつは…通れそうにねえ」

 

 二人の声が耳に聞こえた。そんな中で、鳴き声が聞こえる。

 

 首をそちらの方に向けると、灰猫が俺達を呼んでいた。そして、本来なら行き止まりの筈である資材庫の奥に走っていく。

 

 「向こ…うだ」

 

 「向こうって若さん、あっちは行き止まりじゃ」

 

 「いいから」

 

 どうせここにいても煙か炎に巻かれて死ぬだけだ。ならば、直感ではあるがあの猫の後を追いかけた方が助かるだろう。そもそもあの灰猫がここにいること自体が不思議なのだ、抜け道があると信じるしかない。猫しか通れないようなところであるならば、もう厳しいかもしれないが。

 

 二人に抱えられながら、本来なら行き止まりである筈の資材庫奥に向かう。

 

 「マジか」

 

 ベレーザが呟くように言った。壁が燃えて脆くなっていたのか、焼けて落ちたように大きな穴が開いている。なんだか焼け方が都合が良いというか、不自然な気もするが今はここに飛び込むしかない。

 

 ベレーザが棒で周囲の壁を広げるように破壊し、こちらの肩を抱えてまず俺だけ放り出すように外に逃がす。二人が連続して穴から抜け出し、火事現場から離れるように俺を引きずりなんとか逃げ出した。

 

 「た…すかったあああ」

 

 ベレーザが大きくため息をつく。安心感からか意識を飛ばしそうになってしまうが、目の前に灰猫が近づいてくるのが見えた。しかし…。

 

 「火事現場で灰色の毛並みの猫なんざ…不吉通り越して気味がわりぃんだよ!どっかいけ!」

 

 若衆が蹴り飛ばそうとすると、猫の小さな身体が吹き飛んだ。俺に近寄ってくるのに必死なように見えたため、避けそこなったのか。

 

 「馬鹿お前、そんなことしている場合か」

 

 ベレーザがそれを止めるが、俺は口を開こうとしてもなにも言葉が出てくることもなく意識を飛ばしてしまう。

 

 灰猫の心配、ミーナの足の怪我。気になることはいろいろあったが、今はもう限界だった。

 

 どうやら、俺はまだ向こうに行かなくても良いようだ。土産話を持っていくのは、もう少し先になりそうだ。

 


 

 この世界は、全てが都合の良いように動いているように見えた。

 

 苦労と幸せが天秤で釣り合っているような、絶妙なバランスで形作られているように思えた。

 

 だがしかし、このアクシデントは想像もしていなかった。

 

 いや、自分の想像を超えていただけだ。これもまたシナリオなのだろう。

 

 九死に一生を得る経験で、家族仲は深まるだろう。この世界にますます彼が定着してしまう。

 

 誘導したのは自分ではあるが、あの不自然な抜け道。頑丈な壁があんな一部分だけ火事で焼けて落ちることはない。

 

 だけど、ランザが万が一にでもこの世界で死んでしまうかもしれない。そう思うと、それすらも利用せざるをえなかった。

 

 もう、あまり時間もない。いったいどうすればいいのだろう。

 

 だれか、助けてほしい。だれか。

 



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 家に届いた手紙を広げる。

 

 書かれた内容の中身を改め、一つ肩の荷が降りた気分でゆっくりと紙を折り畳み寝台近くの丸テーブルに置く。

 

 手紙の内容は、工房で働いていた若衆三人の再就職先の工面がなんとか上手くいったということだった。三人の若衆は、付き合いのあった街工房で職人として腕を磨くことになった。家具職人ではなく、大工としての仕事ではあるが今まで培ったスキルは無駄にはならないはずだ。

 

 親方や、同年代の先輩方には全力で頭を下げた。しばらく立ち上がることができない身体であり、見舞いに来てくれた時ではあるが、謝罪することしかできなかった。

 

 しばらく、重い空気が流れたが、親方が動いた。

 

 すっかりと老いてしまった手が俺の肩におかれた。怒りか悲しみか、あれだけぶん殴ってきた手が肩の上で震えていたのを感じた。

 

 「誰も死なんかった。ならそれでいい」

 

 責められるより、ぶん殴られるよりも心に重くのしかかった。俺は、本当に久しぶりに声をあげて泣いてしまった。

 

 自分の人生を捧げてきた工房が焼失したのだ。仕事一筋で生きてきた男にとっては、もう引退していたとはいえ相当堪えることは想像に難くない。許してもらうより、責められた方がまだ気が楽だったともいえた。

 

 火事の原因は、若衆二人がミーナを探し、フェルが夕食を購入しに工房からでていた間にランプを倒して割ってしまったということだった。慌てながら中途半端に消火活動をしようとして、全てが裏目にでてしまい逃げ遅れてしまったという話だ。

 

 家族の行き違い。俺が暴力を振るわなければ、その後硬直せずにすぐに追いかけていればこんなことにはならなかった。

 

 全ては、俺の責任だ。

 

 身体を十全に動かすことができず直接あちこちに出向いて頭を下げることができない分、使える伝手を全力で頼った。難航した部分もあったが、なんとか若衆共を路頭に迷わすはめにせずにすみそうだ。

 

 木窓を開けると、涼やかな風が入り込んでくる。よく晴れた良い天気だ。

 

 今日は、テンは村長宅に出向いている。外部から来る行商人との交渉や、新たに村に酒場を作りたいという若い男との打ち合わせをする為だ。村の外部との交渉事や、新規村民の受け入れ相談等すっかりと集落の窓口のような立場に落ち着いている。

 

 交渉事が無い時は、漁師の街商人に対する魚の卸値が安すぎて商売にならないという悲鳴に対する相談事や、新しい農作物の開発や新しい農法を研究する有志のチームを作り実験的に畑を借りてそれを試す等村全体の為に幅広く知恵を貸している。

 

 アリアも今は家を出ていた。不器用で見ているだけでハラハラする家事全般もすっかりと板についており、今は季節の山菜収集に出かけていた。家庭菜園にも手をだしており、窓から見える庭には時期の野菜が収穫を待ちわびていた。

 

 『これまでは働きっぱなしだったのだから、これを機に少しゆっくりしてほしい』

 

 アリアの言葉を思い返す。俺が仕事に全力で打ち込めたのは、二人のお陰だ。だからこそ、仕事で家庭を支えることを生き甲斐に思えてきたが、身体がまだ思うように動かないとはいえ一日寝台の上で過ごすというのもなかなか落ち着かないものである。

 

 「っと」

 

 丸テーブルに置かれていた、もう一枚の手紙に手を伸ばしたが落としてしまった。

 

 寝台から手を伸ばそうとしたが、火傷が広がる背中が痛む。薬を塗り包帯を巻いているが、皮膚が引きつられるような感覚に思わず眉をひそめてしまった。

 

 俺が硬直している間、白い指が手紙を掴み、こちらに差し出して来た。

 

 「……手紙」

 

 どこか元気がない表情のミーナが、落ちた手紙を拾い差し出してきてた。井戸に水を汲みにいっていたが、いつの間にか戻ってきたのだろう。あれからしばらく経つが、娘の表情は晴れない。

 

 足の傷は、もしかしたら跡として残るかもしれないが日常生活には不便がないくらいには回復していた。火事の現場で立って歩けなかったのも、どちらかと言えば精神的なショックが強くまともに動くことができなかったからだろう。

 

 「ありがとう」

 

 「ん」

 

 どこかぎこちなく、ミーナは頷いた。

 

 時間が経つにつれ、自分がしてしまったことに対する罪悪感が重くのしかかってきているのだろう。それでも、その後始末になにもできないことを気にしているようだった。

 

 子供の失敗は、親がカバーするものだ。例えそれがどれだけ大きいものだったとしても。やってしまったことに対する後悔があるのはいい。しかし、あまり自分を追い込みすぎるのはよろしくない。

 

 「足は大丈夫か?」

 

 「平気。今はもうあまり痛くない」

 

 いくら会話の糸口を探るためとはいえ、分かりきったことを聞いてどうする。ここは、俺の方から踏み込まなければならない、娘の為にも。

 

 「新しい服が、ほしいだったか」

 

 ミーナが、ビクリと肩を震わせた。あの日のきっかけとなった話題がでてきたせいで、一気に緊張感が増したのだろう。落ち込んでいた顔が、少し引きつっている。

 

 「恐らくはそれも本心だろう。でも、俺が思うにミーナ、お前はそれ以外にもテンに反発心を持っていたんじゃないか?」

 

 アリアの言葉を思い出す。優秀な存在がすぐそばにいる時に感じる、コンプレックス。義理とはいえ優秀な姉。年は離れてはいるが、気づかない間にも劣等感や悩みに不満が溜まっていたのかもしれない。

 

 「違うならそうだと言えばいい。でもそうじゃないなら、話しを聞いてくれないか?」

 

 ミーナは否定も肯定もしない。ただ、寝台の隅に座り込み膝の上に手を置いた。

 

 「テン。あの娘は俺とアリアの実の娘じゃないことは知っているだろうが、ならば何故あの娘が家の家族として暮らしているかは話したことがないな」

 

 家族とはいえ、テンの過去については、あの浜辺に流れ着く前の頃は俺自身深く詮索することも尋ねることもしなかった。辛い記憶ではあるし、俺だって冒険者時代のことやその前のことをとやかく話すような真似はしたくなかった。

 

 エルフの集落を壊滅させたことや、実の親に殺されかけた話等アリアにだって可能ならばしたくはない。

 

 当然テンのことも、推測できる断片的な推理でさえアリアに、ましてやミーナにも話してはいなかった。

 

 ガリガリに痩せこけた、粗末な服を着た、浜辺に流れ着いた異国の少女。何故そんなことになっていたかなど、推理しなくても推測くらいはいかようにもできる。そしてそんな過去、思い出すこともないし忘れてほしいとすら思う。

 

 だからこそ、話さなかった。でも、今は話すべきだろう。

 

 「テンは、恐らくは異国からやってきた。乗っていた船が沈没し、偶々漂流して俺が見つけたのだがあの風貌だ、まともな理由でこの国に来た訳じゃない。想像し辛いかもしれないが、この国の言葉どころか単語の一つ分からなかった娘だったんだ。それなのに、ひどく怯えた目をしていた。今のお前より、年が低いだろう時の話だ」

 

 驚愕、とまではいかないようであるが目を少し大きく見開いている。自分と置き換えて考えても、想像し辛いのだろう。

 

 「テンが早熟なのは無理もない。彼女は一刻も早く大人にならなければならなかった。言語を覚え、こちらの国の風習を学び、知識を蓄え、少しでも早く大人にならなければと考えていたのだろう。彼女が優秀なのは、考えてみれば当然だ。そうならなければ、愛想を尽かされ捨てられる。俺がその気じゃなくても、世界の理不尽や不条理をあの年で充分に見て来ただろうからな。お前が産まれた時も、不安でいっぱいだった筈だ。実の子供ができたら、養子は立場が危ういものになる…だけどな」

 

 手を伸ばし、ミーナの頭を撫でてやる。

 

 「だけど、テンはお前の誕生を祝福してくれた。胸にいっぱいの不安を抱えながらも、お前をあやし、立ちあがった時は喜び、沢山話しかけ言葉を早く覚えてお喋りがしたいといってくれた。成長したら二人で料理したり、散歩したりしたいと言った。恋愛相談に乗れるかは分からないけど、大人になったらいろいろ話したいとめいっぱい愛してくれた。お前も、分かるだろう」

 

 ミーナの目から涙がこぼれ、膝上を濡らした。黙ってはいるが、大粒の涙が頬をつたっているのが分かる。

 

 ミーナがまだ小さい頃から、テンはよく気にかけてくれていた。それが分からなかったとは言わせないし、忘れるようなことはないだろう。コンプレックスは抱いていても、優しくて素敵な姉であることには違いはないからだ。

 

 「俺はお前とテンを比べ、どちらかを優遇したことなんてないつもりだ。だがお前の目にそう見えたのならば、俺の配慮が足りなかったからだろう。それは、謝る…だけどな。二度とテンをみなしごだと、孤児だなんていうな。テンは俺とアリアの娘で、お前の姉なんだ。血は繋がっていないが、家族なんだ」

 

 「う…ん」

 

 鼻をすする音が聞こえる。ミーナに対して、俺が言いたい一番のことはそれだった。

 

 家出したこと、火事をおこして沢山の人間に迷惑をかけたこと。その責任は俺が受け持つものだ。

 

 だがしかし、テンに対して孤児だから大切にしなくていいなんて考えは、許容できるものではない。それが例え、本心ではなく感情が先走りついつい口走ってしまった言葉であってもだ。手をあげるまえに、俺の諭すことができれば良かった。しかし、後悔は何時も物事がおこってからだ。

 

 まだ俺も、親としては未熟なのだろう。

 

 「帰ったら、テンに謝ろうな」

 

 身体のことや、その後の始末や後処理の関係で後回しになっていたがまだニーナとテンの仲直りをしていなかった。テンは少しよそよそしく、ミーナは気まずそうな顔を浮かべなにも言えない姿をここ数日見ていた。ほとぼりが冷めたという訳ではないが、関係の修復はそろそろ必要だろう。

 

 結果がどうなったかは、語るまでもないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「やあ、もう起き上がられるようになったかい」

 

 背中の火傷がだいぶ楽になってきた為、家の庭先で薪割に勤しんでいた時のことだった。

 

 普段は工房にこもりきり、とまではいかなくてもあまり外に出ないサグレが珍しくも家に尋ねて来た。工房での作業用エプロンの姿で、思い立ったのでフラフラと出て来たといった様子である。

 

 「完治はまだまだ先だと聞いていたけど」

 

 「グロー…俺の古い友人から見舞いにいけない代わりにって最新式の治療符が送られてきた。高価な代物みたいだが、流石は高給取りだよ。効果も凄まじく傷が楽になる速さが目に見えて違う」

 

 あれから半月程が過ぎていた。しばらくは身体を起こすことすら辛いありさまであるが、リスムに掲げる大盾の支部を任されたという友人からの贈り物は既存の常識を覆しかねないものだった。

 

 そんな高級品を手紙つきで渡されたのだが、どうお返ししたら良いのか分からない。手紙には、気にするなと書かれていたし何時までも寝ている訳にはいかないのでありがたいのではあるがいずれなんらかの形で返さないといけないだろう。

 

 「それはけっこう。お邪魔しても良いかな?」

 

 「今は誰もいない、大したもてなしはできないが」

 

 「かまわないよ」

 

 茶を出そうにも、茶葉もなければアトリエにおいてあるような簡易式の魔術具すらない。出せるものなんて井戸から汲んできてある水くらいだ。せめて白湯でもとも思うが、用意をしようとしたらそれを止められた。

 

 「本当にもてなしは大丈夫さ。今日は、こちらからお願いをしにきたんだからね」

 

 家の中に入り、勧められた椅子に座り世間話もなく単刀直入にサグレは切り出した。

 

 「お願い?それこそ珍しいな。今の俺にもできることなのか?」

 

 「ランザ。君だからこそだよ」

 

 真剣な瞳をしている。いったいなんの話かはまだ分からないが、対面に座り話を聞く体制に移行する。

 

 「俺だからというと」

 

 「うん、君の技術の話だよ。私としては、彫刻という仕事をもう一段階次の領域に広げたいと考えているんだ。ベレーザが持ってくる取引先の話とすり合わせ、自分がなにをやりたいのかを考えた。そして、この機会だからこそ前々から思い描いていたことを実行に移そうとしている訳なんだ」

 

 少しだけ、サグレがもったいぶるように間をあける。

 

 「ランザ、君の家具の技術が欲しい。次期親方であったその技術と、私の彫刻が組み合わせればその価値は飛躍的に上昇するとみているんだ。今日は君を勧誘、ほかに就職先を見つけられる前にツバをつけにきたということだね」

 

 サグレがここ最近、新しい方向性を探っていることはベレーザからなんとなくは聞いていた。彫刻の大型化か、それとも石像のような新たな技術の習得か。だいぶ悩んでいるようであるが、やり方を大きく変えてしまえば今の顧客と築いていた関係性や評判を損なう恐れが大きい。

 

 しかし、新しいことに挑戦せずに現状維持をしているようならば技術力は頭打ち。それなりに腕がある彫刻家という評価で終わってしまう。

 

 何度か彫刻担当のサグレと営業担当のベレーザで話し合いを続けていたようだが、明確な答えを打ち出すことはできなかった。しかし、ここに来て第三の道が見えてきたという訳だ。

 

 家具に施す、彫刻。

 

 制限が多く、ただ単に彫りだすよりもデザインや技術力が必要とされるのは想像ができる。手すりひとつとっても、それがどんなに優れた彫刻が刻まれていても、座って肘を置いた時に違和感や使い辛さを感じてしまったらその家具はもう観賞用だ。

 

 そして観賞用の家具等俺は造るつもりはない。家具は、使われてこそなんぼだ。世の中には座ることを想定されていない本末転倒な椅子や、寝返りを打てば落ちてしまうような奇抜すぎるデザインの寝台もあるが俺から言わせてみればあんなものはごみ同然である。

 

 少なくとも、それについてはサグレとは意見をすり合わせ、不幸な誤解や矛盾がおきないようにしておく必要がある。

 

 「家具とは使い物になるかならないか、実用性があるかどうかがものを言う。あくまで彫刻は飾り付け程度の価値しかもたない。それについてはどう思う?」

 

 「たかが飾り付けでも、それに全力を注ぎこむのが私の仕事さ。そして、観賞用を作ってくれと言うつもりはない。そのつもりなら、貴方を勧誘しない。ついでに言うなれば知り合いだから、友人だから誘うという訳でもない。その腕が、ほしい」

 

 サグレが懐から紙を数枚取り出した。折りたたまれたそれを広げてみると、そこには何枚かの紙に完成予想図と言える彫刻を彫られた家具達が並んでいる。

 

 そのうちの一枚を手に取り見てみる。テーブルの縁に植物の蔦と花が彫られたものであり、足にも同様の彫りがされていた。確かにこの程度なら、実用性に障りはないだろう。

 

 他の紙も数枚見せてもらう。商業の視点は、時折繁忙期の商人を手伝う為に荷物の積み込みや現地での家具の組み立て等をすることはあったが、売買等に関りをもった訳ではないため素人目もいいところだ。売れるかどうか、これでどれほどの価値を産むのかは分からない。

 

 だがしかし、友人関係という縁を脇に置き純粋に技術力を買い勧誘してくれることは嬉しくある。

 

 実は、勧誘という意味では幾つかの工房から誘いがきていた。どの現場でも即戦力となる実力はあると自負しているが、いかんせん距離の問題があった。

 

 新しい現場に向かうとなると、俺は村から出なくてはならなくなる。家族はついてきてくれるかもしれないが、できうることならこの平和な村の中で過ごしていきたい。俺だけ出稼ぎに向かうという考えもでたが、それは仕事先が見つからない時にとる最後の手段としておきたかった。

 

 渡りに船、といえば都合が良いかもしれない。

 

 「試用期間を設けてみてくれ」

 

 「ふむ?」

 

 「怪我が完治し次第働かせてもらうが、実際に完成した物を見てこれじゃないなんて言われても少し困るからな。そして、共に働きだすと互いの嫌なところにも目がつくもんだ。こればかりは考えの違いや相性もある、まずはそこから見極めるべきだろう」

 

 「それに関してはあまり心配していないけど、確かに私はベレーザとしか働いたことがない。外部との交渉に関しても彼に任せきりではあるし、職場での人間関係については君の方が何倍も詳しいか。分かった、それでいこう。契約成立でいいかな?」

 

 サグレが手を差し出して来る。その手を握り返し、握手をかわした。

 

 「伐採、加工、製造。家具に関してなら一から十まで個人できると自負している。ちょっとした家弄りもな。潰れない程度にこき使ってくれ工房長」

 

 「アトリエといってくれないかな?しかし長というのも耳慣れしていないし慣れないね。名目として、必要なものかい?」

 

 「名目だけのつもりでも、誰がトップかははっきりした方が良い。無論意見もだすし、大事な決め事は相談してほしいが、夫婦経営から組織になるならばなおさらな」

 

 夫婦、と聞いてサグレはふきだした。楽しそうにケラケラと笑う。

 

 「まだ結婚していないよ、私達」

 

 「……そういえばそうだったな」

 

 同じ屋根の下で住み、共に働いているというにそういえば籍すらいれていない。本当に奇妙な関係だ。

 

 サグレが活き活きと自分の技術力を高め、ベレーザがそれを支える。今はまだそれで充分なのかもしれない。ベレーザに悪い虫がつくことはあるようだが、それを彼は叩いて落としている。もうしばらくはこの関係が続くかもしれないな。

 

 いや、既婚者といえ外部の人間であった俺が入ることでなにか変化はあるだろうか?まあ、自然な形で落ち着いてほしいものだ。今度怪我が治ったら、ベレーザを呑みに誘いそれについて少し尋ねてみてもいいかもしれない。

 

 「そういえば」

 

 「ん?なんだい?」

 

 「どうして彫刻家を志したんだ?」

 

 ちょっとした疑問を投げかけただけのつもりだったが、彼女は難しい顔をして沈黙してしまった。そしてしばらくしてから、口を開く。

 

 「どうして志した、か。考えてみればさしたる理由はなかった。物心ついた頃にはもう彫刻刀を握っていたような子供だったから、順当に考えれば親の影響と言えるかもしれない。そして私はそれが苦にならなかった、むしろ楽しかったってところかな」

 

 紆余曲折あった俺と違い、サグレの職人としての道筋は昔からできあがっていた。小さい頃からなにか一つの物に打ち込める環境は、少しだけ羨ましくもある。

 

 「そういう君は、なんで家具職人に?前職はなにをしていたのか、そういえば身の上話なんて聞いたことがないね」

 

 「話せば長くなるし、他人の半生なんぞ退屈極まる話だろう。自分語りができる程、俺は大層な人間じゃない」

 

 裏路地の話も、冒険者時代も、人生を食いつぶしながら生きて来た時間も、他人に話すようなものではない。

 

 特に、悪竜ジークリンデの話は妻にさえ話したことはない。家の中で布に包まれた、厳重に封をしてあるあの錆びた剣は俺が死ぬ時は共に埋葬してもらうつもりだ。あの恐ろしくもおぞましい剣は、誰かに託していいものではないと本能が告げていた。

 

 「良いじゃないか。その退屈極まる話こそ、酒の席以外で聞きたいというものだよ。こうして一対一で話す機会なんてそうあるものじゃないし、私の来歴の大部分はもう知られているんだ。前職の話も聞いてみたいし、ここは公平に…ね?」

 

 「物好きめ」

 

 なら、どこから話すべきか。路地裏で姐さんに喧嘩を売ったところか、それともテンと出会った頃の話しか。

 

 「え?」

 

 「どうした?」

 

 サグレの視線が開け放たれた木窓の外にそれた。なにか気になるものでも見たかと振り向くが、草がかすかに揺れるのが見えただけだった。

 

 「いや、なんでもない。少し不思議なものがみえただけだよ」

 

 「不思議なもの?」

 

 「大したことはないさ。それよりも、話してくれないか?」

 

 サグレにせかされて、俺は意識を戻す。あの路地裏でのことから、話し始めることにした。血生臭い話が混じるだろうが、俺もかつての仲間たちのことを誰かに話して聞いてほしかったのかもしれない。その後の話は、数時間かかってしまった。

 


 

 「ただいま」

 

 「お帰り、首尾はどうだった?」

 

 「無事ランザを勧誘できたよ。これからは、ますます忙しくなりそうだね」

 

 「人手が増えるのはありがたい話だな。取り合えず怪我の完治待ちか?」

 

 「そうだね、彼が来た時のことも考えてアトリエの間取りも少し考え直さなければいけないかな?」

 

 「本人が来たら、必要なスペースや道具について話し合おう。専門的な物が必要になるかもしれないしな」

 

 「そうだね。……そうだ、ベレーザ。私も猫をみたよ、灰色の猫を」

 

 「そうか。なあ、気になっちゃいたが」

 

 「うん。ベレーザからの話を聞いて、半信半疑だったけど。あの首にぶら下げた古い馬の木彫りは私の作品で間違いないと思う。少ししか見られなかったし、手に取った訳じゃないけどさ。ただ、年差が入り過ぎてボロボロになっているのは分かったね。多分だけど十数年は経っている」

 

 「俺の気のせいじゃなかったか。あの時はランザが気絶したし工房の若いのがあの猫の脇腹蹴り上げて追い払ったせいで、確信をもてる程長く見ることができなかった訳だが」

 

 「でもそうなると奇妙な話だね。確かに馬の木彫りは造るけど、あんな古いものとなると私がここに来る前からあるということになる。そりゃじっくり見た訳じゃないから、気のせいだったという可能性もあるけれど」

 

 「自分が造った作品を、見間違う筈がない。そうだろう?」

 

 「実は、根拠はそれだけじゃない」

 

 「どういうことだ?」

 

 「上手くは言えないけど、あの馬からは強い気持ちみたいなものを感じた気がするんだ。込めた念の強さというか…なんというか。今の私があれを彫ったとして、まったく同じものを作れても込めた願いまでは同じにはならない。出来れば、もう一度みたいものだけど、難しいかな」

 

 「込めた気持ちか。具体的には」

 

 「……悲痛さかな。あとは、絶望と嘆きと、持ち主に対しての思いやりの気持ち。どれをとっても、今の私には込められない感情。これは技術の話じゃないからなんとも言えないけど」

 

 「実は、俺も少しだけだけど、似たようなことを感じた。せっぱつまっていたから深くは考えられなかったけどな」

 

 「……あの灰色の猫は、何者なんだろうね」 



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 「では僭越ながら」

 

 年長者がこういう時率先しろと言うことらしい。酒場にて、丸いテーブルを囲むのはサグレとベレーザにテンと、俺。そしてお呼ばれしたアリアが卓についていた。

 

 村に新しい酒場ができて三年。そこに入る家具の類はほとんどが俺と時間がある時に技術を教えたベレーザが製造し、サグレが飾り彫りをつけたものである。

 

 アトリエに俺が加わったことで、新たに家具というラインナップが加わった。だが順風満帆とは程遠いスタートであった。

 

 素晴らしい品物ができたとしても、それを購入するものがいなければ在庫の持ち腐れなのは当然だ。ベレーザが新しく取引先を新規開拓しようとしても、大半の彫刻よりも大きな家具の類は輸送費があがる。

 

 普段から取引してくれている商人や商会達との付き合いも継続する為、彼の負担が目に見えて大きくなっていた。

 

 そんななかひょっこりと現れたのは、テンだった。村の相談役という役職のようであり無職であったテンであったが「そろそろ定職につきたいと思っているので」とのことで転がり込んできた。可能な限り引き継ぎはしてきたとは言っていたが、漁師と村長にしばらく生暖かい目で見つめられることとなったのはここだけの話だ。

 

 魚の卸値について相談や交渉をしていた経験もあり、取引については素人という訳ではない。だがまったくの畑違いの環境だ。

 

 最初はベレーザの補助、助手という形で同行していた。

 

 そして、そんなある日リスムでとった宿にてテンは呟いたという。

 

 『売値が安すぎます』

 

 品質に手抜きはないが、大衆向けの生産品を今までつくってきた故に価格設定に関してはあまり違和感を覚えていなかった。サグレにしたって、作るばかりに熱中するタイプで値段決めには無頓着な面があったし、家具については素人のベレーザも俺が工房時代に販売していた値段に多少の色をつけた程度で宣伝していた。

 

 そんな状況を外から見ていたテンは、市場価値を一から勉強し始めた。俺の師である工房長や街の工房にも顔をだし、商人達の間にも話に入り情報収集をし、商会に入り浸り様子を観察する様子をもあったらしい。

 

 そんな真似をしても煙たがられ上手くいく訳がない…が、ここは反則技が火を噴いた。

 

 こればかりは、逆立ちしても真似できないとベレーザは語っていた。つまりは、容姿だ。

 

 『商人として、あれ以上の武器はねぇんじゃねえの?次元が違いすぎて、敗北感すらわかねぇ』

 

 とベレーザが語っていた。なお、自身の容姿を無意識にでも活用し販路の拡大をしたこいつが言っても妙すぎて、俺は乾いた笑いを向けるしかなかった。

 

 『必要なのは適正価格とサンプルです。価格あげることに抵抗があるかもしれませんが、私の戦略としては鯨油で好景気に沸くリスムを足掛かりにするつもりです』

 

 『値段というのは、商品における顔の一つであり化粧です。高価だと自信があるものにはそれなりの値をつけるべき』

 

 『海千山千の商人を相手にするならば、いくらでも値切ってくるでしょう。しかし、例えばリスムの好景気、鯨油バブルに沸く金持ちにとっては値段は看板と同じ。高級品というブランドを彼等は求めている。品質が問題ないなら、彼等をターゲットとした高級路線を開拓するべきです。値段やブランドにしか興味がないような俗物でも、毎日使うのならばお父様の家具とサグレさんの彫刻の素晴らしさに気づきます。そこからさらに販路を広げられる』

 

 『私にお任せください。サンプルさえ用意できたなら、それを強力な武器にして持てる手札を駆使し顧客をたらしこんでみせますよ』

 

 情報を集め分析を解説したテンは、俺を含めた三人の前でそう力説した。不敵に笑う顔は、悪だくみをする狐のようにも見えた。

 

 一番持ち運びがしやすい家具ということで、ベレーザが椅子を一脚背負いリスムに向けて出発した。

 

 半月程経ち、在庫がはけない為彫刻を教わりながらもすっかり掃除とアトリエや住処の家事手伝いやベレーザが育てていたハーブ畑の手入れが板についていた俺と、新たな作品を作ることができず練習彫りを繰り返していたサグレのアトリエ前に荷馬車が三台現れた。

 

 驚愕している間に、商人達は手伝いの人足を使いあっという間に在庫を馬車に積み上げていく。新手の盗賊団かとも思っていた俺にはテンからの手紙が、サグレにはテンが強気と思える値段よりもさらに色をつけた販売価格の金銭が渡された。

 

 『これから忙しくなるはずなので。家事手伝いはほどほどにして、素材の支度をお願いします』

 

 同封されていたのは注文票。特注になるであろうリクエストや要望などが書かれた別紙などもあった。

 

 ……ただ。

 

 『まずいぞこれ』

 

 テンは交渉や商売の才能があった。情報を分析し、市場を短時間で見極め、鯨油で儲けた者達の心を掴んだセールストークを見せた。交渉に際しては、村娘と侮られないように俺がプレゼントしたあの衣服を着用していったという。身なりはアドバンテージになる。あの服がなければ交渉の席に座ることすら難しかったと後にテンは語った。

 

 だがここで問題があった。テンは効果が抜群な薬であると同時に劇毒だったのだ。主な原因は、彼女が彫刻や家具造りに対しては素人同然であったということ。

 

 『工期が短すぎる』

 

 『あー…凄いねこれ。酷いともいう』

 

 ということで、急いで一筆書いてベレーザにすぐ戻ってくるように手紙を託す。彼が帰ってくるまでに、やることは山ほどあるし間に合うかどうかが分からない。

 

 善かれと思ってのことだろうが、嫌な汗が額から零れ落ちてきた。ベレーザがストップをかけないのかとも思ったが、どちらかと言うと彼も営業担当で交渉畑の人間だ。ここまで上手くいかない交渉が流れるように進み楽しくて仕方ないのだろう。

 

 『修羅場だねぇ。でも手抜きはできないよランザ』

 

 『こんなの何時いらいぶりだ。まあ、娘がとってきた仕事に文句をつけるようじゃな』

 

 素材の準備から始めた。ある程度の材料の在庫はあったのだがこれだけだと到底足りない。

 

 一晩経った頃、親方が何故かアトリエに顔をだした。

 

 親方と年代が近い引退していた先輩職人達。紹介してやった本職はどうしたと突っ込みたくなったフェルや若衆達。海の男でもノコギリくらいなら使えるとテンが助けていた漁師の連中や懇意にしていた村の者達。

 

 高級路線の肝となる、彫刻をサグレが集中できるように噂を聞きつけた沢山の人達が手助けにきてくれた。

 

 村の者達がノコギリである程度の大きさに材木を切って運び、若衆やフェルが家具の素材にできるように加工し、親方や年配職人が家具を作る。俺が教わった彫刻である程度の形まで完成形に近づけ、繊細な部分をサグレが担当し実用性と芸術性が揃う商品へと仕上げる。

 

 ミーナとテンが主婦達の力を借りて炊き出しを行い、数日間は続いた修羅場を乗り越える為の手助けをしてくれた。

 

 この修羅場をなんとか乗り切ったことで、リスムの消費者達にも満足してもらうことができた。今後の商売もやりやすくなる。俺はテンに怒ればいいのやら、褒めれば良いのやら分からなかった。

 

 と思ったら、サグレがドヤ顔で戻ってきたベレーザとテンを並べてひたすら説教をかましていた。流石は工房長、いやアトリエ長である。

 

 そんなことがあってから数年。商売は順調だし今年の繁忙期と呼べるような時期をこなし、村にできた酒場にて打ち上げの飲み会を行っていた。

 

 「家族みんな呑んでいるのに、あたしだけ仕事ってどーよ」

 

 人数分の果実酒が入った杯が置かれる。持ってきたのは、酒場でウェイターとして働き始めたミーナだった。

 

 容姿はアリアに似てきたかもしれないが、運動能力は俺譲りかもしれない。酔客のセクハラをかわしながら戦場の酒場内を泳ぐように行き来する姿は流石の一言だ。

 

 「どーせあたしはアトリエとは無関係ですよー」

 

 「言うな言うな。今度埋め合わせしてやるから」

 

 言質はとったとばかりに、泣き真似までしてからあからさまな笑顔を見てミーナは別のテーブルに向かっていった。

 

 「それじゃ飲み物も来たところで、改めて」

 

 挨拶を再開する。こういうのはアトリエ長である主のサグレがするべき役目だろうと言いたいが、無意味に終わる為やるだけ時間の無駄だ。

 

 「事故もなく怪我もなく、クレームもなく全商品の納入が完了した。順風満帆な滑り出しとは言えずとも、ここまでこれたことを仲間のみんな。そしてあの時助けてくれた村の人達に感謝を改めてこめて…乾杯!」

 

 杯が打ち付けられる音が響く。

 

 今は交渉以外にも経理や商売にするまで広がったハーブ園管理を引き受けるテン。素材の加工や家具造りの補助に村内や昔から懇意にしてくれる商人を担当するベレーザ。家具造りや彫刻補助を担当する俺に、肝心要の彫刻による創作で客を魅了するサグレ。

 

 得意になった料理を作り俺やテンだけではなくサグレとベレーザの昼食や弁当を作り、ハーブ園管理の手伝いをするアリアも立派なアトリエの一員だ。ミーナだって、休みの日には美味しいハーブティーの研究をしに顔をだし村民に向けた販売所の手伝いをしてくれる。

 

 最高の仲間と家族達、理想の生活だ。そしてその生活にも、喜ばしい変化が訪れることが決まっていた。

 

 「ミーナの式まで、あと一週間もないな。可愛い娘をよそにとられる気持ちはどーよ、お父さん」

 

 宴会も進み、酒で酔ったベレーザが絡んできた。

 

 そう、ミーナは祝言を控えていた。相手はフェル、あの火事の一件より前から仲は良かったようだが、いつの間にか男女の仲に発展していたらしい。

 

 彼も職人として、まだ一人前とは言い難いが一皮剥けてきているようであり、結婚前の挨拶をしにきた時の顔はかつてより精悍なものとなっていた。努力家という評判も聞いており、口にはださないがあちらの親方に一目置かれているようである。

 

 俺からは、仕事に関してはなにをいうこともない。しかし、炎が渦巻き燃え盛る工房にミーナを助けにいこうと頭から水を被るフェルをこの目で見ていた。彼ならば、娘を任せることができる。悩むことなく、俺は二人の仲を祝福した。

 

 だがまあ、面倒くさい話であるが理屈では頷いてみせても、感情では寂しい気持ちがある。産まれた瞬間から今日まで娘として可愛がってきたんだ、離れることに一抹の寂しさがあるのは誤魔化せない。

 

 「お前も娘ができれば分かる」

 

 肩をすくめそう返答する。全国の親父が共通する寂しさだからだ、これ以上の言葉では飾れない。

 

 「そうかいそうかい。まあ飲めやお父さんよ」

 

 「結婚の際には僕の料理をだしてくれるとのことで、ありがとうございます」

 

 追加の酒と料理を運んできたのは、忙しくあちこち回るミーナの代わりにこの酒場の若き店主である男だった。ミーナを雇ってくれた縁や家具を卸した時からの付き合いもあり、なによりまだアトリエに就職する前のテンが村の代表として酒場を建てるにあたりいろいろアドバイスをしていたらしい。

 

 その繋がりから、披露宴にだす料理を全面的に依頼している。

 

 「僕の友人が猟師をしていまして、彼女も気合を入れていますよ。最良の披露宴にする為に、最高のジビエを用意すると」

 

 彼と共に越して来た、世にも珍しい女猟師。猟銃の扱いや解体作業も手馴れており、今は遠ざかっているが猟の経験もある俺とは山読みも獣の解体も射撃の技術も、なにもかもが優れていた。

 

 どこで教わったのか聞いてみたら、『父の教えで』と一言のみ返してくれた。寡黙な娘だった。

 

 「期待しているよ店長。猟師さんにもよろしくな」

 

 少し人見知りするということで、猟師をする彼女の名前すら実は教わっていない。彼はよろこんでとはにかみ厨房に戻っていった。

 

 「テンちゃんはどうなんだい。引く手あまたは相変わらずだろうに」

 

 「私はお父様とけっこ……ンッ!お父様とお母様の近くにいられることが最大の喜びですので」

 

 ほろ酔いのテンが珍しく失言をもらした瞬間、アリアに脇腹を小突かれた。隙を見せるのも珍しい彼女だが、相当に機嫌が良いのかもしれない。冗談の一つかましたところだが、慣れないジョークはアリアからの軽いパンチにより遮られた。

 

 しかしまあ、冗談でも何時までもファザコンがすぎるのは嬉しい反面少し心配になってくる。

 

 「でも、サグレもベレーザも何時になったらくっつくの?もう夫婦みたいなものなのに」

 

 サグレの表情は変わらないが、ベレーザが頬を赤らめている。

 

 そう、仕事も順調。サグレの技術も向上しなにもかもが上手くいくなか、ついにベレーザが正式な夫婦になる為水面下で動き始めていた。

 

 プロポーズは、ミーナの披露宴が終わった直後。幸せな光景を見たあとで、俺達もああなろうと銀の指輪を送るつもりである。

 

 ここまで引っぱったのは、サグレが良くも悪くも職人肌すぎるからだ。結婚。婚約、彼女はまったく意識をしていない。木と槌とノミと彫刻刀、それさえあれば彼女の世界は素晴らしく回転していた。色恋沙汰関係の話が、でてきた試がないのだ。

 

 ということで、ベレーザの奇襲攻撃はできうる限りの隙をついた、サプライズが良いということでそれを知るのは相談を受けた俺のみ。何も知らないアリアが爆弾を投下しやがった。

 

 この話題は避けたかったと言いたげに、ベレーザが目線で助け船を求める。今からどういうふうに話題をそらせというのか。だが、それを考えて口にだす前にサグレがあっけからんに言い放つ。

 

 「私は何時でも構わないのだけどね。ただこういうことは、男から言うものだと相場は決まっている。待っているのだがなかなかね」

 

 テンが肩をすくめた。通りすがりに話を聞いたミーナがふきだす。俺は、この一言は詰み手だなと盛大な奇襲攻撃の計画が今崩壊したことを悟った。

 

 もうこれは、遠回しではあるがサグレからの愛の告白だ。何時でも構わない、待っている。あとはもうベレーザが勇気を振り絞ればすむだけの話となっているのだ。

 

 目を白黒させるベレーザの背中を思いきり叩く。この場で言わなければ、もう奇襲だのなんだの言っている場合ではない。ここはもう、男を魅せる時なのだ。飛び込めば成功する、あとはこの場で飛び込む勇気だけだ。

 

 「サグレェ!」

 

 状況を理解したベレーザが立ち上がる。大声でテーブルを叩きながら立ち上がったため、周囲の注目を集めた。

 

 「俺と…結婚して…夫婦になって…くれやがりませんかぁ!?」

 

 酔いの勢いもあるだろうが、もう言葉もおかしい。完璧な奇襲攻撃とは真逆の不格好な出たとこ勝負だ。酒場の酔客達も、言葉を止めて固唾をのんで見守った。

 

 「何年待ったと思っているのかな?」

 

 サグレが、立ち上がる。ベレーザを抱きしめて、頬にキスをした。

 

 「勿論OKだよ、ベレーザ。でもできれば、もっと早く言ってほしかったかな」

 

 歓声と拍手があがった。男泣きをするベレーザを周囲が祝福し、サグレが涼しい顔で受けている。

 

 「良いことっていうのは、続くものだな」

 

 果実酒を傾ける。今まで呑んだどんな酒よりも、美味く感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宴会も盛り上がり、酔いが周り眠くなったアリアとテンが連れて帰った。まだまだ呑むぞと興奮するベレーザとそれに付き合うサグレ。俺はしばらく付き合ったあと、後は二人で楽しんでほしいと席を立った。

 

 家に帰ろうかとも思ったが、ふと俺は気分を変えて少しだけ寄り道することにした。

 

 海岸で、子供を拾った。俺自身の人生に価値ができる、始まりの出来事である場所だ。

 

 人気もなく、さざ波の音だけが耳に届く。心地の良い潮風を浴びながら、俺は一人物思いに耽った。

 

 結婚するミーナが、当日に着る花嫁衣裳。街の式場から代金を払い借りて来ることになる衣装であるが、旦那であるフェルと父である俺は当日までその姿を見ることができない。これはしきたりのようなものだ。

 

 衣装と一言で言っても、様々なドレスがあるものだ。花嫁の晴れ姿を見るのは、当日のみ。それまでは徹底した男子禁制である。

 

 それを見るまで、もう指折り数える程になったか。感慨深くなるのは当然だ。

 

 この浜辺で、テンを見つけた。彼女の半生は苦難に満ちたものだが、それでも俺はここに来てくれたことにいくら感謝をしてもしきれないものがあった。

 

 ある意味で、ここは俺の人生における始まりの場所ともいえるのだ。

 

 砂浜に横になり、空を見上げる。星々が輝いており、夜でも明るい月明かりが優し気に周囲を包んでいた。

 

 波の音のみが耳に響く。心地よさに、油断をしていると酔いに任せてこのまま寝てしまいそうになった。

 

 そしてそんな安らかな感覚が、近づいてくる軽い足音を聞き逃していた。

 

 腹部と胸元に、軽い重み。視点を身体に向けると、まず目に入ったのはサグレの作品である小さな馬の木彫りだ。ただしそれは、十数年の風雨にさらされ色あせ、傷だらけであった。千切れかけた首紐も、年月を語り掛けているようだ。

 

 馬の木彫りを首にかけた、灰色の猫。

 

 昔から時折姿を見せては、手ひどく追い返されていたボロボロの猫。

 

 最後に見た記憶は、火事の時。近づいてくるこの子を若衆の一人が脇腹を蹴り上げた瞬間だった。普通なら死んでもおかしくはないが、この子はまだ生きていた。

 

 そういえば、あのあといろいろあり過ぎてその後のこの猫のことを誰に聞けるでもなく記憶の隅に忘却していた。今、目の前に現れはっきりと存在を思い出した。

 

 手ひどく痛めつけられても、人に近寄る灰猫。古い傷、欠けた耳、目も片方潰れており、よく見ると尻尾短くなり千切れているように見えた。俺が見ていない間にも、色々なことがあったのだろうと想像できる。

 

 しかし何故かこの子は、俺をじっと見つめていた。甘えるように首筋に頭をこすりつけ、小さなか細く、弱弱しい鳴き声をあげた。今にも命が途切れてしまいそうな、そんな切ない声に感じた。

 

 「飼ってほしいのか?」

 

 そういえば、本当に昔、アリアとそんな話をした覚えがあった。何時か生活が安定して、子育てが終わったら猫を飼ってみたいと。

 

 この子はもう、ほんの老猫だろう。しかし、最後を穏やかに家で過ごしてもらっても良いかもしれない。

 

 「来るか?うちに」

 

 そう言いながら頭を撫でようとした瞬間、猫はまるで覚醒したように俊敏さを取り戻す。

 

 半ば死にかけていた猫が、最後の力を振り絞りとった行動。大口を開け、俺の首筋に牙を突き立てる。

 

 その痛みは、もうすっかり忘れていた首筋の痛み。傷もないのに定期的に針で刺されたかのような、そんな痛みを思い返すものだった。

 

 急になにをするのか分からずに、反射的に猫を放り出そうとした瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の知る世界が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 記憶が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 感情が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音を立てて、崩壊し、そして溢れかえった。

 


 

 もう身体が思うように動かない。

 

 傷の治りも遅くなった。

 

 片目は潰された、尻尾は千切られた、身体を動かして痛まないところなどどこもない。

 

 最後の最後、自分はもう諦めていた。

 

 熱心に仕事に打ち込む貴方を見たから。穏やかな笑みを浮かべ家族と談笑する貴方を見たから。仲間達と祝いの席を囲み幸せを感じる貴方を見たから。

 

 貴方と仕事をするのは自分がしたかった。貴女と談笑するのは自分だけにしてほしかった。貴方と祝いの席を囲み、家族として語らいたかった。

 

 欲望がこもらない、純粋な祈り。そして今となっては無粋な願い。

 

 ここには貴方が望む全てがある。仮初とはいえ幸福な人生を歩む姿が見られた。

 

 なら、自分はこの世界において異物もいいところだ。あんな苦難と血に、復讐に殺意、悲しみと慟哭ばかりの世界に引き戻ることが本当に正しいことなのだろうか。

 

 この世界は、ランザが本心から望んだもの。こうなれば良かったのにと、それを実現した理想の世界。

 

 苦しみぬいたランザを、このまどろみから救い出すことは本当に正解なのか。

 

 ランザだけじゃない、サグレとベレーザの姿もずっと見てきた。本当に、本当にお似合いの夫婦になる。良かった、幸せそうで良かった。

 

 みんなの幸せを見て、邪魔者はひっそりと消える。身体だけではなく心も擦り切れた自分はそれを受け入れることに異存はなかった。

 

 だが、運命は、最後の最後で自分になにかを投げかけたようだ。

 

 ただの一人で、ランザがこの浜辺に訪れた。潮風に混じる懐かしい香り。それだけで、自分の身体にほんの少し活力が戻る。

 

 せめて息絶える時は、貴方の腕の中で。よろよろと近づき、空を見上げるランザの胸元に辿り着く。

 

 あとは……あとは………

 

 いや

 

 ダメだ

 

 自分はやはりどこまでも卑怯で

 

 勝手で

 

 悪い猫だ

 

 ランザの幸せを壊してでも、貴方の人生を崩して絶望に染め上げてでも

 

 自分は、生きて貴方に寄り添いたいのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのために自分は、この世界を壊した。



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 起き上がり、しばし呆然と海を眺める。

 

 いや、顔だけは呆然自失としていたが脳内では記憶の濁流が凄まじい勢いで流れていた。

 

 猟銃、斧、人妖、吸血鬼。そしてテン。

 

 「お前は」

 

 口から出ようとした言葉を拒絶するように、胃袋の中から飲み食いしたものが先に反吐になって出て来た。灰猫にかからないように四つん這いになって、白い砂浜にまだ形の残る中身がぶちまけられた。

 

 「そんな馬鹿な話があるか!」

 

 この記憶が真実だとしたら、俺の今までの人生はなんだったんだ。ありえない、こんなことはありえない。悪竜と手を組み、サグレとベレーザは悲劇のなかで亡くなり、なによりもあの頼りになるテンが、最愛の妻と娘を斧で惨殺していた。

 

 ありえない、と鮮明に思い浮かぶ記憶を否定しようと頭を振るがそんな時に出て来たのはあの時の出来事だ。すれ違い始めたテンとの和解、それの発端。俺が見た悪夢の話。

 

 あれが悪夢ではなく現実であり、こちらが夢の世界だとしたら。いややはりそんなことがあるものか。

 

 これを肯定するにしても、否定するにしてもなにか証明がほしい。なにかてっとり早い証明の方法はあるのだろうか。いやそれよりも、先にやるべきことが一つだけある。

 

 胃の内容物を吐瀉する時に慌てて脇に灰猫を退かしたが、成人している猫を抱きかかえた時にまるで子猫を抱えたような軽さだった。酒でフワフワしていた気分であり気づかなかったが、よく見ると灰猫はボロボロのうえにさらに栄養が足りていないのかほぼ皮と骨しかないようなゲッソリと痩せこけていた。

 

 衰弱しきっていてほとんど動く様子がない。まずはこの子を……この灰猫をなんとかすることが優先だ。

 

 心中でも、この子の名前を呟くことが出来なかった。例え心の中でも名前を言ってしまえば、今までの十数年を全て台無しにしてしまうような気がしたからだ。

 

 ボロボロの灰猫を抱えて立ち上がる。ひとまず家に連れて帰り、なにか滋養があるものをなんとか食べさせてやるべきだ。このままでは食べられないだろうが、お湯に煮溶かして柔らかくすれば食べられるだろうか?今まで猫を飼ったことがないから、こういう時どうすれば良いのか分からない。

 

 上着で猫をくるみ、走り出す。怖い、見慣れた道を走っている筈が混濁した記憶のせいでこの風景全てが欺瞞と怪しさに満ちている。いやこの世界が嘘なんてそれこそありえない、だとしたら俺はいったいここでなにをしていたんだ。分からない、分からないことが恐ろしい。

 

 子供の頃童話で見た怪物のように恐ろしい。もっとも、俺はそんな童話を見た覚えはないのだが。

 

 家の中に飛び込む。先にアリアとテンが帰っている筈であったが二人がいない。

 

 すぐに湯を適温まで沸かそうかと台所に向かおうとしたが、ふと俺はそれより先にある方向に視線を向けた。

 

 家の一室に、個人用の工具を集め作業台を置いた作業スペースだ。最近はサグレにアドバイスを聞きながら購入した練習用の彫刻刀のセットも置かれている。雑多な木材や工具に道具類の下、こっそりと床板の一枚を加工しとある物を隠した場所。

 

 家族のスペースに置きたくはなく、しかし目の届くところに置いておかなければ不安でしょうがないと考え妥協した場所。工具類や危険物があるから掃除にも入らないで良いと、アリアやテン、ミーナに釘を刺しておいた場所。

 

 上着に包まれた灰猫を作業机の上に寝かせ、重い工具類を退かし、床板の一枚を剥がす。そこに包まれたのは布に包まれた一本の古い剣。

 

 慎重に布を剥がし、剥き出しの刀剣しかなく鞘だけ新調した古い剣。これを見たのは、隠した後には初めてであった。

 

 剣だ。忌まわしい、禍々しい悪竜を封じた剣。記憶の中では、俺は忌避しながらも彼女の力を借りなければいけなかった。そして、今だからこそ言えるかもしれないが、脳内に流れた記憶では心のとこかで悪竜に心を許していた部分があった。

 

 苛烈な物言い、容赦のない行いは、それを非難することで自己を正当化し、時になにも考えずにすむことができた。悪竜がそれを理解していたのか素の言動だったかは知らない。だが、少なくとも過酷な状況で心が壊れないための一助になったのは確かなのだ。

 

 胸が張り裂けそうなくらい高鳴る。額から脂汗が滲み、凄まじい喉の渇きを覚えた。

 

 手が震えてしまい、今すぐにでも床板を戻し灰猫を抱えて外に出て、この子の最後にだけ付き合い何事もなく元の生活に戻りたくなった。そうすれば、良いじゃないか。分かっているのか?もう少しでミーナの祝言なんだぞ。サグレとベレーザの結婚式だって時間の問題なんだ。

 

 忘れろ、忘れろ、忘れろ。忘れろ。こんな記憶なんて消してしまえ、無くしてしまえ。知ったことか、こんなあり得ない記憶なんて知ったことか。

 

 工房で汗水流し、すれ違いをしつつも家族と幸せに暮らし、火事と言う苦難を乗り越えて仲間達と充実した毎日を送る。これこそが俺の人生なんだ。

 

 だが、感情と身体が別の行動をした。震えた手がゆっくりと近づき、剣の柄に人差し指と中指が触れてしまう。

 

 『よう』

 

 脳内に声が響いた。よく知った声、よく知っていたらおかしい筈の声。

 

 『たく、悪竜封印をしたオレの好敵手にしちゃ平々凡々とした毎日だったな。いやくだらねぇとは言わないぜ?そんな姿でもオレが見届けたいと思った光景ではあったからな。だがまあ、なんだこりゃあ。無茶苦茶だな、ふざけてやがる。これじゃオレが見たかったもんじゃねえじゃねえか。反吐がでる』

 

 「どういう…意味だ」

 

 震える声で問いかける。あっけらかんとした様子で軽い世間話でもするように、ジークリンデは問いに応じた。

 

 『お前に触られて理解した。この奇妙な空間はお前が中心だ、あり得たかもしれない、だが道筋が途切れありえなかった世界線に都合の良い展開と砂糖水みてぇな幸福を付与した味気のねぇ物語だよ。不幸も苦労も今まであっただろう?だが当然のように素早く問題は片付いた、あとはもう適度に刺激がある生活がハッピーエンドに向けて路線が敷かれているだけだ。努力と絆の力で幸せに満ちた生活をおくれました、めでたしめでたしってな』

 

 「やめろ!」

 

 『否定したけりゃしろよ。どのみちこの世界においてオレは都合が悪すぎる存在、封印されている以上になにもできやしねぇ。お前がなにもかも見て見ぬふりしてこのまま腐っていくならそれでも良い、それがオレを倒した男の物語だと見届けてやるよ。そうしたいなら、その灰猫を見捨てれば』

 

 扉が開く音が聞こえた。反射的に柄から手を引っこめたと同時に、ジークリンデの声が途切れる。ゆっくりと振り向くと、そこには何時ものすました顔をしたアリアがいた。その表情に、かつてない悪寒を感じてしまう。

 

 「お帰り、もう少し呑んで来るかと思っていたよ」

 

 「ああ…まあ」

 

 歯切れ悪く返事を返す。それ以上になにを言えば良いのか分からなかったからだ。偽物?ありえなかった世界線?そもそも世界線ってなんだよ。グシャグシャになりそうな思考が明確な答えをなにか別に求めていた。そして、壊れてしまうのを防ぐための理性による安全帯のような思考が、思ってもないことを口から紡ぎ平和を演出しようとする。

 

 「眠たくなって、先に寝ていたんじゃなかったのか?テンはどうした?」

 

 「ふと目が覚めてしまってね。テンは、ちょっと貴方達の様子を見て来ると出かけて行ったわよ。入れ違いになったかしら…あら?」

 

 アリアが、作業台に置かれた上着に目を向ける。上着からはみ出る灰色の猫の足を視界にとらえ、そちらに歩を進めた。

 

 「その子、どうしたの?」

 

 反射的に作業台とアリアの前に身体を挟んだ。彼女の澄んだ目が、黒く濁っているように見えてしまったからだ。

 

 「猫を…拾ったんだ。海岸で、死にかけていてな」

 

 ジークリンデの最後の言葉が、脳内を反芻した。

 

 「スープを、作ってくれないか?薄味で、ちょっと魚を煮溶かすようにして。遅くで悪いけど、この猫に飲ませてやりたいんだ。勿論冷ましてからな」

 

 俺は顔面の筋肉を総動員させて、精一杯の笑顔を作ったと思う。何時もの通り笑えたと思う。夜遅くで悪いけど、栄養不測である猫の為にひと肌脱いでほしいと。

 

 「野生で生きて来た子に、中途半端に関わるのはよくないわよ。拾った手前、貴方からは手放し辛いかもしれない、私が元いた場所に戻してきてあげるから……」

 

 アリアが、笑顔で両手をこちらに差し出した。

 

 

 

 「上着とその子を、渡して?」

 

 

 

 まっとうな、物言いかもしれない。野生に中途半端に手を貸すな。だがしかし、俺の知っているアリアの言動とは違った。

 

 「なあアリア、覚えているか?何時か猫を飼いたいと話したことを」

 

 彼女の笑顔は、動かない。手を差し出したまま微動だにしない。まるで、この姿のままで生まれた石像のようだ。

 

 「子供達に手がかからなくなったらと、話しがついたよな。テンは自立しミーナも結婚をするんだ。良いころ合いじゃないか?なあ」

 

 「だとしても、そんな死にかけの老猫よりも新しい子の方が良いじゃない。そんなボロボロで死にかけた全身灰色の、不吉で、工房が火事の時にいたような縁起の悪い猫よりも、エデモンドさん宅で子猫が五匹産まれたそうだから一匹里子にだしてもらいましょうよ。猫が飼いたいなら明日にでも」

 

 「なんでそこからは足しか見えていないのに、全身灰色の不吉な猫なんて分かったんだ」

 

 灰猫は上着に包まれたように寝ている。足だけ灰色であったり、白かった毛並みが汚れ四肢が灰色に見える野良なんて、他にもいる。だがしかし、当然のようにアリアは灰色の猫だといって遠ざけようとしていた。

 

 ダメだ、ここでアリアにこの子を渡すことは絶体に許されない。

 

 「ねえ」

 

 上着を抱え込み猫をかばう。アリアの手が肩に置かれたが反射的に振り払ってしまった。体幹の悪いアリアがそのまましりもちをつき、床に手をついたままこちらを見上げている。

 

 やってしまったと、アリアが怪我をしていないかどうか心配する言葉を口から出そうとした。だがその前に、床に座り込んだままのアリアが無表情で言葉を放つ。

 

 「その子を、渡して?」

 

 今まで最愛の妻だと思っていた女性が、得体のしれないなにかに見えてしまった。後ずさりして、家を飛び出す。外には、一人の狩人が猟銃を持ち立っていた。

 

 「お前は」

 

 知っていた。俺はこの狩人を知っていたんだ。村に来るずっと前から。いや、別世界の記憶でだ。

 

 流行りであった、やや古いロングスカートと革の上着を着ながら、恋をしていた店主を貪り食っていた人妖、ルーガルー。

 

 「『行かせはしない。行く資格は、貴方にはない』」

 

 二重の声が響き、端正な顔が崩れ、狼の顔にと変貌していく。まるで悪夢の世界だ。狩人の人妖、あの皆殺しにされた村にいた猟師。

 

 そういえば、あの酒場の間取り。今思えばあれはあの村にあったものだった。店主の顔は、もしかしてあの時食われていた?

 

 胃袋が再度暴れだしたが、もう吐くものが残っていないうえに吐いている余裕もない。

 

 「クソッ!」

 

 玄関先にぶら下げていた、まだ明かりがついていたカンテラを投げつける。中に入った油が周囲に広がり火が道に広がる。少しだけ怯んだすきを見て俺は集落の中央に走り出した。本当は外に向けて走りたかったが、それを遮るようにあの猟師が立っていたのだから仕方がない。

 

 だがしかし、その炎を乗り越えて人狼はこちらに襲い掛かろうとしてきた。しかし、それを塞ぐように連結された刃が進行方向に降り注ぐ。

 

 家から出て来たのは、褐色の女性。半分透けてはいるが、恥ずかし気もなくその裸体を晒す痴女ぶりは間違いなくあの悪竜だった。

 

 「さっさと行け。今のオレじゃ、時間すらロクに稼げねーぞ」

 

 礼を言おうかどうか悩んだが、そのまま走り去る。空耳かもしれないが、俺の耳にかすかに声が届いた。

 

 「それがお前の道なら、オレは力添えてやるだけだ。達者でな、オレの英雄様よ」

 

 村中央の井戸まで逃げる。このまま海岸線か、それとも山の方まで逃げるべきか。少しだけ悩むが、海岸線なら漁師の船があることを思い出す。その一隻を拝借し海に出れば、少なくともあの人妖は追ってこれないだろう。

 

 人妖、クソ、人妖だ。なんで俺はこんな単語を理解しているんだ。いや、なんでじゃない、分かり切っている。あれこそ俺が目的の為に狩り続けていた存在じゃないか。

 

 海の方に足を向けた瞬間、あちこちの家から明かりがつきバタバタと扉が開いた。松明や鍬や鋤を持った村民達が現れる。あっという間に、取り囲まれた。その中には、見知った顔すらある。村長や師である元親方までがその中に混じっていた。

 

 「村長!?親方……これはなんですか!?急に…なんで」

 

 「破綻がおきたことを知った。誰もが心の奥底で恐れ、だが劇に影響がおきないように隠されていた記憶が開示されたのだ。お前の目覚めで、この世界が終わる。だがここは、我等が暮らす終の住処なのだ、壊される訳にはいかん」

 

 「そういうこったランザ。悪いことは言わねぇから、とっととその猫を渡せ。お前にゃ護るものがいんだから、そっちを優先させたらどうだ」

 

 進行方向を塞ぐ二人が声をあげる。農夫が、漁師が、村民達がじりじりと近づいてきた。

 

 「できません」

 

 「何故だ、ランザ=ランテ」

 

 「なぜって…そりゃあ」

 

 何故、何故だろう。何故俺はこんなにもこの子を見捨てられないんだ。

 

 いや、馬鹿を言うな。俺は決めたんだろうが、誓いを立てたんだろうが。サグレとベレーザの墓の前で全てを語った時に、決めた筈だ。

 

 なにがあっても、この子を、この灰猫を……クーラだけは助けてみせると。

 

 「護るものがあるからです!なにもかもを無くした俺にも、今度こそ護り通さなければいけない子ができたからです!クーラだけは、なにがなんでも幸せにしてやらなければならないんです!」

 

 村長が険しい目つきとなった、親方はどこかやるせない表情を浮かべ顔を下に向ける。

 

 「なあ村長よ、やめにしねえか?」

 

 「なに?」

 

 親方がだした言葉に、村長が鬼の形相でそちらを見た。周囲の動きも、止まり親方を凝視している。

 

 「ランザはもう、ぬるま湯から出る決意を固めてんだ。つまりそいつはこいつの為にあるこの世界の否定だ、だとしたらもうここはお役御免。一人の男が決意したことに何時までも水を差すなんざできねぇよ。所詮、やり直すことなんざ俺にもお前にも」

 

 「親方!後ろ!」

 

 鋤が、銛が、親方の背中や心臓を貫通した。血のしぶきを口から吐き出し、なにかを言おうとしたまま絶命してしまう。

 

 「今更まかり通るかそんなことが!もう御託はいらん!あの猫を引きはがせ!」

 

 老若男女問わず、凶器を持つ村人達が襲いかかってくる。俺は灰猫を、クーラを抱えてうずくまることしかできない。なんとか、なんとかしてここを抜けださないといけないのに。

 

 「まかり通るね!」

 

 空から声。どこからか飛んできたベレーザの棍がせまる凶器を一掃し、背後を護るように俺の後ろに現れた。

 

 「手に馴染むねぇ、ブランク何年振りだよって話なのに」

 

 「きっとここが現実じゃないからでしょうよ。ほら、私だってこんなのだし」

 

 空から聞こえる涼やかな声。血の色をした紐のようなものが降り注ぎ前方や側面から迫る凶器を粉砕させた。そのまま村民の腕に紐が巻き付き、放り投げる。

 

 「ん。吸血鬼って便利」

 

 「サグレ!?ベレーザ!?」

 

 空の、いや夜の支配者と化したサグレが俺の前に舞い降りる。湧いてでた力に覚えはないが馴染みがあるように、平然と吸血鬼と言っていた。

 

 「クーラはどうだ?まだ生きているようでなにより」

 

 「クーラって、お前達も記憶が!?」

 

 「いんや、ぜんぜん知らん」

 

 問いかけに、ベレーザが肩をすくめる。

 

 「ただ俺達にも状況をなんとかしろっていう命令っぽいのが頭の中に来てなぁ。話をちょいと聞いて、その灰猫がクーラとやらだって推測しただけだ」

 

 「急にこんな覚えのない力まで身に沸いてきちゃってさ。でも、アトリエの長として従業員がピンチなんだから、助けるのは当然。……ううん、やっぱり今のは忘れて、少しかっこつけた」

 

 「じゃあなんて俺を助けるんだ。お前等にとって元の世界は……」

 

 そう、元の世界でのサグレとベレーザは死んでいる。俺が、殺した。この二人はこの世界が崩れたら、今まで積み上げた全ての物が崩壊してしまうだろう。

 

 「言うな。まあーその面から想像がつく。どうせろくでもない感じなんだろ」

 

 「元いた場所で私達は、死んでいる。そうじゃない?多分」

 

 表情から全てを分かってしまったようだ。俺は、かすかに頷くしかできなかった。

 

 「じゃあ俺は感謝しかないね。楽しかった、本当に楽しかったよ。サグレと暮らして、お前達家族と交流して、成り上がりの金持ち共をテンと言いくるめて次々契約をとってくるのは最高だったね。いーや見せてやりたかったぜ俺とテンの快進撃」

 

 「家具への彫刻は想像以上に難しかった。でもランザが最高の品を作るものだからそれに釣り合うようにって心血注いだ日々は本当に楽しかったよ。アトリエは私だけの戦場だと思っていたけど、戦友がいることがどんなに支えになってくれたと思う?それに」

 

 サグレが煙をあげる薬指を手をあげて見せて来た。そこには、ベレーザが贈る予定だった銀の指輪がはめられていた。

 

 「私はもう充分。未練はあるけど、充分に幸せだった。ランザが今度は幸せにしてやるのは、誰かな?それは死者相手じゃない筈だよ」

 

 「もうみんな死んでんだよ、多分ここにいる連中みんなはな。生者は生者の為に気を使えや、お前が次幸せにしてやるのは、誰だ」

 

 「裏切り者がこれ以上御託を並べるなぁ!」

 

 村長の檄で、村人達が立ち上がり再び包囲網を組みなおした。

 

 「ふむ、よくないね」

 

 サグレが俺の襟首を掴む。細腕とは思えない程の力で持ち上げられ、山側の方向に思いきり投げ飛ばされた。

 

 木々の枝を折りながら勢いを殺し、なんとか着地する。幸いにもクーラに傷はついていないようだが、サグレとベレーザが中央に取り残された。

 

 「サグレ!ベレーザ!」

 

 声をかけた瞬間、血の紐がドームのように井戸を中心に展開し壁となる。誰もここから出さないように、自分らと村人達を封じ込めた。

 

 「じゃあなランザ!向こうの俺によろしく!年一で墓参りくらい行ってやれ!」

 

 「墓があるならね。元気で、そしてありがとうランザ!私は幸せだったよ!」

 

 そんな、そんなことを言うな。俺がお前達を殺したのに、引き裂いたのに。

 

 そんな風に感謝の言葉をかけてもらう資格なんて、ないんだ。ないんだよ。

 

 「クソッ!」

 

 山道に向かい、俺は走る。何度も足を止めそうになったが、背後を振り返らないことこそが、彼等に向けた手向けだと思ったからだ。

 


 

 「行ったなぁ」

 

 「まあね、後悔した?」

 

 「いや、実はそんなに。エロいことはしたかったけど」

 

 「実に青年らしくて結構。営業の時くらい、娼館に行っても良かったんだよ」

 

 「おお、許可がでるならそれでも良かったな」

 

 「ただしバレないように気をつけること前提でね。……はぁ…ごめんね、ベレーザ。私の我儘に付き合わせて」

 

 「良いって。かっこつけたのは俺の方だ。俺は、本当はどんなに怨まれたとしてもランザを半殺しにしてでも止めたかったからな」

 

 「あのクーラという灰猫が、私の……もう一人の私の作品を持っていたなら仕方ないじゃない。必ず目的地にたどり着くことができる願いが込められたお守り。念を込めた人と同一の私がそれを邪魔しちゃいけないよ。私自身に顔向けできなくなるからね」

 

 「惚れた弱みだ。良いよ良いよ、そこまるごと含めて俺はサグレが好きなんだ。まあランザの前で良い姿は見せられたし、メンツの問題と照らし合わせても、問題ねぇ。それよりも、夫婦初となる共同作業としゃれこみますか」 

 

 「ケーキがあれば、そっちを優先してからにしたかったけどね」

 

 「違いねぇ。さあて、あの男が振り返らなくてもすむように派手にやりますか!今の俺は無敵モード、どっからでもかかってこい!」

 

 「吸血鬼の力か。ふって湧いた力だけど、まあ村民くらいに後れはとらないでしょう。痛い目みたくないなら、お下がりなさいな。もっとも、私を倒さなければランザは追えないけどね」



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 村の中央から山側に向かい走る。後方で響く争いの音も聞こえなくなるくらいには走ってきた。

 

 ふと気づけば、サグレとベレーザのアトリエが見えて来た。鍵の隠し場所は知っていた為、住居の方に滑り込んだ。ハーブティーをいれる為に壺に溜められた水の中に顔を突っ込み急いで飲む。

 

 酔いなどとうにとんでいた。ただ猛烈な喉の渇きを癒やすのに、必死だった。

 

 壺から顔をあげて、大きく息をつく。台所の上に上着を置き、手で水をすくい灰猫に、クーラに近づけてやる。舌先を伸ばしでなんとか水を飲む様子に、まだ命は繋がっているんだと安堵のため息をつく。

 

 これからどうすれば良いのか。ここが、この世界が違うということは分かった。だがだからといって、どこに行きなにをすれば良いのか。なによりも気になることが。

 

 「……テンは」

 

 彼女が今、なにをしているのだろうか。

 

 外から音。先程まで晴れていたというのに急激に雨が降り始めていた。雨雲が近くにあった様子はないようだったのに、まるで俺の心情か世界の不安定に呼応するように雷まで鳴り始めている。

 

 その雷鳴のすぐ後、耳に重い足音が聞こえた。窓から確認すると、巨大な山椒魚が山の中から這って現れるのが見えた。ベレーザが基礎を整えて育て、アリアやテンも手を入れていたハーブが踏みつぶされていく。支え木が折れて、花瓶が割れた音も響く。

 

 空をなにかが飛ぶ音。そちらの方を見ると、色鮮やかな巨大な羽が見えた。なにやら歌のような旋律を奏でている。

 

 家の奥に引っこもうとしたとき、反対側の窓からも見えた。海辺の教会方面から、巨大なキラービーの大群とそれを上回る大きさのクイーンービーが飛んできていた。

 

 「なんで」

 

 クーラを抱えて、後ずさる。なんでこんなところにと言いたかったが、それより先に後ろから声をかけられた。

 

 「えらいことになっとりますよ、若さん」

 

 振り向くと、そこには工房の元若衆の一人がいた。新しい職場で過酷な環境に揉まれ、筋骨が逞しく育ち立派な青年となったフェルがいた。だが記憶が戻った俺には、目の前の青年を以前工房で面倒を見ていた人物として見ることができない。本能が、最大限の警戒を向けても切り抜けることは不可能だと告げている。

 

 「どうにも夢の提供者はアンタにここで天寿をまっとうしてほしいらしい。俺等みたいな存在まで、背景として組み込んでいざという時のセーフティーにしているんだからよ。もーなりふり構わないらしいですよ。どでかい秘密抱えていたもんですねぇ若さんも」

 

 「はぁ……よくもまあ。お前が俺の下で働いたもんだよな。俺が知る中で、一番のウォーモンガーだった奴がよ」

 

 フェル=デルラド。こいつは当然ながら、ここではともかく元の世界ではしがない家具職人見習いなんぞでは決してない。

 

 辺境警備隊斬首事件。クーラと出会うよりも前、警備隊の組織が文字通り全員首を斬られ殺される事件がおきた。

 

 下手人は、原型となる戦闘狂種族であるウォーリアバニーの人妖に成り果てたとある傭兵だった。

 

 そしてこいつは、人狐と化したテンを除けば過去最強と思えるような存在であった。

 

 ウォーリアバニーじたいが種族としては、能力のほとんどを戦闘と闘争に向けているような戦闘種族だ。少数の部族ごとに分かれて傭兵としてあちこちの火種や火薬庫に首を突っ込んでは戦闘行動を行う集団だ。

 

 エルフのように人類と完全に敵対している訳ではなく、雇い主と交渉をするくらいの社交性はあるが異種族間の交流はほとんどない。

 

 こんな話がある。戦場において誰が誰やら分からないような悲惨な状況の現場があっても、仲間を庇いながら死んでいるのは豚鬼、四肢が千切れても敵に向かい這いながら前進しているのはウォーリアバニーと言われている。

 

 とまあここまでは話で聞いていただけだ。希少種族で数を減らしているうえに、紛争がおこれば嬉々としてその場に向かう種族なだけに出会ったことはない。

 

 問題は、だが。人妖は基本的に原型になっている種族よりも能力が高い。

 

 つまるところ、元々戦闘能力が高い種族なうえに、本人も戦闘経験豊富な傭兵。他の人妖のように能力でごり押しをしてくる訳ではない。対人経験に基づいた殺し合いのプロが、その場その場で最適手をとばしてくるような危険性があった。

 

 ジークリンデの力を借りてなお、なにか一つが間違っていればこの首も落ちていただろう。

 

 戦闘力の高さで言えば吸血鬼と化したサグレが最強であろうが、モスコーでの彼女は俺やクーラを殺してしまわないように手加減をしていた。殺し合いでの本気度でいう話なら、フェルとの戦闘が文字通りの死闘だった。

 

 『仲間を殺してしまった』『何度も自殺しようかと思った』『でも死ねなかった』『誰か俺を殺してくれ』

 

 初対面の時から、最後の殺し合いの時まで今でも一文字一句思い出すことができる。まあ、忘れていた訳ではあるが、状況が状況だ。

 

 「僕も、記憶が飛んでいたみたいです。朧気ながらもいろいろ思い出していますよ。若さんとの殺し合いもね、あれは楽しかったなぁ」

 

 「ざけんな。こちとら何度死にかけたと思っているんだ」

 

 カウンターに背を預けているが、手元に置かれているのは、今までどこにあったかすら分からない分厚い戦闘鉈。切れ味等あまりこだわりのない、ただの鉄の塊である鈍器と変わりないがそれだけにガードの上からでも骨を折られるような衝撃が襲い来る。

 

 まして今の俺は、ガードどころか散弾銃もジークリンデもいない。格闘術だって、十数年職人仕事をしていたせいですっかり錆びついているだろう。そもそも、この世界では俺はそんな技すら学んでいないのだ。知識としては分かるが、身体に必要な筋肉がついていない。

 

 どこに、どうやって逃げる?外は異形の人妖が集まりつつあり、目の前には最強格の人妖がいるのに?

 

 万事休す。その言葉のみが頭をよぎった。

 

 「まあ、そう警戒せんでくださいよ。俺がどっちにつくかは、まだ決めていないもんで」

 

 「なに?」

 

 「袋の鼠を処理するのは簡単ですが、貴方に敬意があるのは確かなんですよね。だから、まずは様子見をしてみようかと思いまして。どうぞ、こちらへ」

 

 鉈を肩にかけて親指をある扉に向ける。上着とクーラを抱えて向かう扉の先は、サグレのアトリエに向けて増築された屋根と壁つきの渡り廊下だ。持て余した時間で造ったもので比較的新しく、雨戸も締め切っているので静かに進む分にはバレないだろう。

 

 どうせ逃げても無駄だ。詰みに近い状況なのだから、ここは大人しく従っておこう。これ以上に悪い目はそうそうにない。

 

 静かに渡り廊下を進む俺の背後をフェルがついてくる。殺気のようなものは感じないが、それでもあのウォーリアバニーが後ろにいると思うと背筋が凍り付く。

 

 まだ頭にウサギの耳がついている訳ではないが、あの重そうな鉈を片手で持っている以上、見た目よりは人妖に近づいている筈だ。気分を変えて襲いかかってきたら、どうしようもない。

 

 そんな不安を感じながらも、外から入る以外に増設したアトリエに入る扉に手をかける。暗闇に目が慣れてきており、サグレの作業場に置かれた椅子には一人の女性が腰をかけていた。

 

 雷の光が、彼女を照らす。それは物憂げな顔でこちらを見ていたテンだった。

 

 身体が強張るような感覚。元いた世界での、妻と娘を殺したテンを知っているがゆえの緊張感。理性より前に、本能が反応してしまった。そしてそれを見透かすように、テンは悲し気に微笑んだ。

 

 「朧気ながら、予感はしていました。何時かこんな日が来てしまうのではないかと」

 

 「どういう意味だ?」

 

 「お父様の今見せた顔で確信しました。やはり、この世界は普通ではない。村人の様子や異形化したサグレさん、ここに集まりつつある化物達よりも今のお父様の顔が雄弁にそれを語っています」

 

 思わず、口元を手で隠してしまった。無意味な行為ではあるが、やはりこの子は聡い。悲しいほどに、恐ろしくなってしまうほどに。

 

 「覚えていますか?お父様がまだ赤ん坊だったミーナをあやす私から、彼女を凄まじい剣幕で取り上げたことを。そして、その後お父様と話して謝罪を受け入れた時のことを」

 

 覚えている。あれがきっかけでテンは家を飛び出し、水が湧き出る山道で二人並んで座りながら謝罪と会話をしたことに。あの時話した言葉は、もう思い出せない。矛盾するようであるが、忘れた訳ではない。

 

 クーラに噛みつかれ、記憶が戻った後、まるで用は終わったとばかりに昔の記憶が急激に朧気になっていくのを感じていた。あの日ああいう事件があった、しかしその内容までは、なにを話したのかが思い出せない。昨日までは、つい最近の出来事であったかのように思い出せたというのに。

 

 「違和感はその時からありました。急に態度が変化したお父様と、そのきっかけになった夢の話を聞いた時。私はあの時、気持ちは分かるが許されることではないと言いました。ですが、こうも思ったのです」

 

 テンは、口角を僅かにあげた。非常に薄い、薄い、しかし悪意が滲み出るような、愉悦を感じているようなそんな笑いかたで微笑みかける。

 

 「ああ、私ならやりかねないと」

 

 緊張感が増した。身体全体が強張る。元の世界での人狐が持っていた狂気を、彼女も持ち合わせていた。同一人物と言える存在かもしれないので、その可能性は否定できなかったが目の前でそれを突き付けられると息が詰まるような思いを抱いてしまう。

 

 クーラを抱える力が増す。嫌な汗が流れた。

 

 「お父様の注目を取り戻すためなら、なんでもやると。私は貴方に父子の情以上の、言うなれば執着のようなものを抱いていました。追い詰められた私は、赤子や妻子すら殺すかもしれません。いえ、殺したのでしょうね、本物は。分かるのですよ、殺意でも敵意でも良いから、貴方の注目を独占したい。思われていたいと思う私が。愚かなことですよね、本当に」

 

 テンの肩が小刻みに震える。顔を下に向け、水滴がアトリエの床を汚した。

 

 「ここではないどこか別の話を幾度か失言として漏らすお父様を見て、疑念が募りました。私は、懸命に貴方を連れ戻そうとあがき、不自然に村中から非難や虐待を受けていた灰猫さんにも会い、確信に近い感情を抱きました。お母様を、ミーナを殺してしまった私は存在する。そしてその私は本物で、今ここにいる私は偽物。なにもかもが都合よく進む、願望の世界の私だと。優しい嘘で塗られた鍍金に包まれた、私……だと!」

 

 吐き捨てるように、テンが最後に叫んだ。顔をあげた彼女は、涙をとめどなく流していた。テンが泣いているのを見たのは、あの時以来。酒瓶で殴られると、顔を覆った彼女を抱きしめてやった時以来だった。

 

 「愚かですよ。そんなことをせずとも、話し合い、本音を知ってもらえれば、こんな素晴らしい生活が待っていたというに。愚かでした、浅はかでした。何故私はっ!」

 

 「もうやめてくれ!」

 

 聞けなかった。聞いていられなかった。テンが抱いた子供らしい嫉妬。俺は日々の忙しさと育児の手伝いでそれを放置していた。だがテンは、普通の子供ではない。過去になにがあったかは知らない、だがろくでもない物だというのを想像できるのは簡単じゃないか。

 

 見捨てられれば、愛想を尽かされれば、興味を失ってしまえばどうなるか分からない。やっと出会えた家族の縁が、本当の両親と離れてしまった時のようにまた失ってしまうかもしれないと思い詰めてしまったのだろう。

 

 その時テンを支えて、愛してやれるのは実の両親を除いた最初の家族だった俺だけだった。賢い子だから、分かってくれるとテンを放置していたのは俺自身なのだから。

 

 賢い子だ?知能はどうあれ年相応の女の子だというのを言い訳にしながら脇に置いていたのは俺自身だ。馬鹿野郎は、俺なんだ。

 

 「お父様」

 

 テンが立ち上がる。その背後から、蒼白い狐の尾が浮かんでいた。髪の毛が徐々に脱色し銀色に変色していき、変化をしていく。

 

 「お母様とミーナを殺したのは、私なんですよね」

 

 「お前じゃない!お前な訳がない!テン、俺がやったようなものだ!俺が」

 

 「やめてください!」

 

 テンが歩み寄り、抱きしめてきた。優しい抱擁、抱えるクーラにも気を遣っているのが分かる。泣いて赤く充血した、だが人狐として蒼く輝く目がこちらを真っ直ぐ見つめる。

 

 「謝るのはやめてください。お父様を、この素晴らしい生活が待ち受けている貴方の人生を壊してしまったのは私なんです。もう一人の私だなどと言い訳なんてできません。気持ちは分かるから、そうしてしまってもおかしくないと思うから。ですが、私は本当に幸せでした。出来うることなら伴侶として共にいたいと願う程に。家族の幸せというものを、産まれて初めて体験することができました。それだけで、私は満たされました」

 

 鋭い音が響き、アトリエの壁に巨大な針が貫通した。ここにいるのがバレたのだろう、気づかなかったが周囲に異形が集まり始めている。

 

 開いた穴から侵入してきた、キラービーをフェルが鉈の一振りで叩き切る。手近な棚を穴に向けて蹴り飛ばし塞ぎ、両断した蜂を踏みつぶした。

 

 「野暮なことは言いたくねえが、時間はなさそうですよ」

 

 その様子を見てから、テンは静かに離れた。名残惜しさすらも感じることができない程に、冷徹に自分の感情を切り捨てようとしているように見えてしまった。

 

 「元の世界に帰りたいですか?」

 

 「……ああ。誓っちまったんだ。この子だけは絶対に護るってな。護ることができなかった、アリアやミーナの代わりがほしかっただけの、エゴかもしれない。だが、復讐以外で俺が見出した生きる意味だったんだ」

 

 「……良かったです。お父様に、帰りたい意志があって。私は、それだけでなんの憂いもなく貴方の意思を後押しできます」

 

 テンがクーラに向けて半ば幻のような蒼く輝く尻尾を伸ばす。するとクーラの身体も蒼く光りを放ち、光の粒子のようなものが溢れはじめた。

 

 「おい」

 

 「大丈夫です。出る方法は、この子の中にいるもう一人の私が知っている。今それを聞いているだけです。認めたくはありませんが、同一の存在として教えてもらうことができる筈です」

 

 周囲の音が激しくなる。壁が崩され飾られていた作品が床に落ち、道具入れが倒れ整理されていた彫刻刀が床に落ちる。

 

 倒れた棚に視線を向けた瞬間、テンが弾かれるようにクーラから離れる。「どうした」と尋ねるまでもなく、ひどく動揺しており顔色が蒼白となっていた。

 

 「これは……まるで悪意。こんな選択を……そんな」

 

 「テン!おいテン!どうしたんだ、なにをすれば良いんだ!」

 

 「おいおいおい!揉めているとこ悪いけど時間もないですよ!なにチンタラしているんですかい!」

 

 フェルの叫び声が響く。頭を突っ込んできた山椒魚の人妖を相手に額を蹴りつけて追い返していた。半壊しつつあるアトリエ。もうどこから敵が乗り込んできてもおかしくない。

 

 だがテンは、口を開きかけては閉じる。なにかを言おうとしているが、それを本当に話して良いのかどうかが分からない。残酷な宣告を告げなければならないことに、躊躇をしている。

 

 「やめましょう……お父様」

 

 顔に両手を当てる。動揺している自分を落ち着かせようと首を垂らすが、肩を揺らし薄く笑いながら、無理矢理顔面の筋肉を笑みの形に強制しているひきつった笑顔を向けて来た。

 

 「やはりやめましょう。その方が良い、外の世界になにが待っているというんですか、今ならまだやり直せます。そうしましょう、今の私ならこの始末の後始末だってできます、だから」

 

 「テン」

 

 「そうだ!ミーナの祝言を早めましょう!段取りは私が組ませてもらいます!このアトリエだって、修理しなくちゃいけませんね。街の工房に依頼して……色々伝手も増えたし安値で直してもらいましょうか。そうそう、修理の間はみんなで旅行に行きませんか?今度はリスムをゆっくり回るか、連合王国側の城を見に行くかしましょうよ。足を延ばして帝都というのも捨てがたいですが」

 

 「テン!」

 

 俺の一喝に、テンは硬直した。滑らかに言葉を紡いでいた口が止まり、開いたと同時にまた閉じてなにも言い出せなくなる。その両目から、大粒の涙が頬に線を引いて落ちていった。

 

 「教えてくれ」

 

 貼り付けた笑みを浮かせたまま涙を流すテンが、悔しそうにうつむいた。

 

 「お父様が……紡いできた生活、積み上げた幸せ、それは幻でした。このありえたかもしれない世界と苦難が待ち受ける世界。なにがきっかけで運命が分岐をしたのか、その最大の要因を、お父様なら教えずとも察するでしょう。全ては、長い夜の夢でした。夢から覚めたいのならば、そのきっかけをお父様自身が崩さねばなりません」

 

 「そうか」

 

 テンの頭に手を置いて、クシャクシャと撫でてやる。何故テンがここまで言いよどむのか、全てを理解できてしまった。

 

 「お父様、貴方の、家族の仇は娘でした。ですがこの世界において、家族を殺すのは貴方でなければなりません。ここは淀んだ幸福による微睡の世界。お父様自身がその世界を、幸福を、家族の絆を壊さなければならない。世界の主に否定された幸福と幻想は、音を立てて崩れるでしょう。それこそが、この世界から出る唯一の方法です」

 

 「ああ……そうか。よく話してくれたな」

 

 俺の為だけの世界は、俺自身が否定しなければ崩れることはないらしい。現実世界でテンがやったことを、この世界では俺がしなければならないのか。

 

 「別の方法を、探しませんか?私が力添えします。本物の私がどうだかは知らないですが、私自身も今は人狐として覚醒しつつあるのを感じます。どんな難題だろうと解き明かしてみせます、だから」

 

 「クーラには、時間がない。この子はもう虫の息だ、この世界で俺が死ぬまで過ごすことが目的のゆりかごだとしたら、クーラが死んでしまえば現実世界でも助かる見込みはないだろう。俺は、選んだ。死者の為ではなく、生きている者の為に、この子を護ることにしたんだ。辛いことを話させてしまったな」

 

 クーラを強く抱える。やるべきことが分かった。それがどんなに辛く、残酷なことであっても行わなければならない。全てを忘れて幸せな幻想に浸っていた分のツケが、まわってきたということだ。

 

 「私は、私自身が憎い。もう一人の私は、分かっていた。全てはこの時の為に向けて準備をしてきた。この世界から抜け出せた時、お父様はもうお父様ではなくなる。築いてきた全てが崩壊する絶望を二度も、それも一度めより苛烈に叩きつける。そうまでして、いったいなにを望むのか。分かってしまう私が嫌いだ!本物の私も、偽物の私も、今すぐ引き裂いて消えてしまいたい。私が本物なら、偽物があちらなら!こんな……こんな悪意に満ちた企みなんて!」

 

 「テン」

 

 テンの震える両肩に手をおく。精一杯の笑顔を作り、頷いてみせた。

 

 「お前は本物だよ、自分を偽物だなんて言わないでくれ。例えここが俺の苦痛の逃げ道でできた世界だとして、お前自身の否定を誰ができる。俺が主だというなら、それを許さない。お前は、俺の大事で自慢の娘だ」

 

 テンがなにかを言おうとした瞬間、壁が大きく砕けた。右腕を失い全身切傷だらけの巨大なルーガルーが出現した。

 

 『ミツケタ』

 

 腕の切断面が変形する。傷口から覗くささくれた骨が伸び、ライフルの形となりこちらに銃口を向ける。能力に制限がかかっていたジークリンデは、それでも善戦したようであるがそれでも限界であったようだ。

 

 「フェル!」

 

 「おうさ!」

 

 テンが前に出る。雨の代わりに蒼白い月光が差し込み、骨の弾丸を防ぐように障壁が展開された。

 

 ルーガルーの脇腹にフェルが突撃し、大鉈の側面を全力で叩きつける。ウォーリアバニーの膂力と遠心力で加速した鉄の塊が、ルーガルーの巨体を飛ばして転がした。

 

 「ここでの話は終わりですお父様!完全に囲まれる前に、行ってください!殿は私と彼で勤めます!」

 

 「おいおい俺も勘定にいれてるのか?お前等の敵に回る可能性だってまだあると言うのによう」

 

 「だとしたら、とっくにそうしているでしょう。そもそも最初から、貴方はお父様の側につく腹積もりだった、違いますか?」

 

 「やれやれ」

 

 起き上がったルーガルーの鈎爪を鉈で受け止める。火花が暗闇の中で散り、不敵に笑う顔が映った。

 

 「若さんよ!アンタはあっちの世界で俺を殺してくれた!死にたくても死ねなかった俺をな!その借り、返させてもらうのと……娘さんな!ありゃ本当に良い女だ!アンタの娘は二人とも良い女だよなぁ!できれば、家族になりたかったぜ!」

 

 テンの障壁と、フェルの大鉈が道を開いた。目指す先は、分かりきっていた。

 

 この世界において、立ち寄る必要がない場所。だが、元の世界において特別な意味がある場所。行かなければ、ならない。

 

 「テン、フェル!……すまない!」

 

 包囲を抜けて、走り出す。目指す先は山道の先。この村を、見渡すことができる場所だ。そこで、全てのケリをつけなければならない。

 

 護らなければならない者の為に、護りたかった者を殺める。この子の為に、俺が俺自身の幸せに、引導を渡す。

 

 


 

 「山椒魚、歌鳥、狼人、銀蝶、女王蜂、その他にその他。どんだけ修羅場くぐってやがったんだ?どんどん集まってきやがって」

 

 「ここにいない面子を合わせると、吸血鬼に植物の人妖と化したエルフも加わるようですね」

 

 「んでそんなことを知ってんだ?」

 

 「先程、ここから出る方法を灰猫の中にいる者から探った時に、色々知りました。外の世界でお父様がどれだけ苦労されたか。そして、あの猫……クーラ自身の気持ちも」

 

 「ほう。だがアンタ、若さんの幸せを第一に考えるとか言っていたよな。そんな修羅場だらけの世界に送り出すことが、彼の為になるんかい」

 

 「そうですね、ならないと思います。本当は、止めたいですよ。でも、私は一つ別の思いと願いを抱くことになりました。それができるのは、託すことができるのはやはりお父様しかいないと思ったので。少し、我儘になっちゃいました」

 

 「娘の我儘だ、聞いてくれるだろうぜ。だがまあ、こいつらを黙らせないとその我儘を伝えることもできないだろうよ。やれるか?」

 

 「愚問。お父様の邪魔をする奴は、みな塵芥にしてしまいましょう。ぼやぼやしている時間はありませんよ、フェル。こちらについたというのならば、精々役に立ってください」

 

 「ああやだやだ、愛しのお父様がいなくなった瞬間これだよ、やれやれ。まあいい、んじゃいくか化物ども。化物同士、遊ぼうぜ」

 

 「退きなさい、有象無象ども。本物の人狐、化物の力を見せる前に」

 



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 道を進む足が重い。それは決して、山道が険しいだけではない。精神に気持ちが引っぱられ、まるで足枷がついているような気さえしていた。

 

 だが、萎えそうになる筋肉を無理矢理動かし山道を登っていく。俺が目指す先は、村が一望できる断崖。

 

 アリアも、ミーナも、テンにすらも教えたことがない場所。一人になりたい時に、時折訪れていた所だった。暗くなるまで空を見上げ、これからのことに思いをはせていた場所だ。

 

 そして、記憶が戻った今なら思う。あの場所にこそ、二人がいるのだと。俺が二人の墓を作ったのは、あの断崖だからだ。

 

 「予想通りの展開で、残念に思えたのは初めてだ」

 

 幻想的な月明かりのなか、崖際にたたずんでいたのは二人の家族。手をつなぎながら月光を背に受けこちらを見る様は、どこか美しいものもあり、まるで扉を護る番人のようでもあった。足元には布に包まれたなにかもあったが、今は気にしていられなかった。

 

 アリアは運動音痴だ。育児をしている間は母親としての自覚からかあまりなかったが、子供の手がかからなくなるのに連れそれに比例してつまずいて転ぶことが多くなっていた。正面から放物線を描いて飛んでくるボールもキャッチできないし、走らせれば息切れも早い。

 

 ミーナはそこそこの運動神経を持ち合わせているが、当たり前だが武道の類をたしなんではいないしどこにでもいる女の子だ。荒事とは、とんと無縁。酔客の手のひらを摘まんでねじる程度である。

 

 だが、俺が対峙してきたなかで一番のやり辛さがあった。当然の、話ではあるが。

 

 「ここにいると直感した。だからここにきた、でもやはり後回しにしたい、目をつむりたいとまだ考えていたんだろうな。心底、いてほしくなかったとも、考えていたよ」

 

 「らしくないね、ランザ。残念なのは私の方だよ、もう少しだけ、気づかないでいてくれたら。……ううん、全てが分かり気づいても、選んでくれると思っていた」

 

 「悪いな。どうやら俺は、そこまで器用じゃないらしい」

 

 アリアが寂し気に顔をうつむかせ、ミーナが前に出る。その瞳は怒りに燃えており、こちらを糾弾するように鋭く睨みつけてきた。視線がまるで、短刀のように突き刺さる。目に見えない痛みに、思わず足を一歩下げてしまいそうになった。

 

 「悪いと思っているなら、なんで器用になれないの!?あたし達との数十年はどうでも良いの!?一年にも、半年にも満たないようなその娘の方が大事!?」

 

 そんなことはない、と言おうとしても喉奥から出る言葉を飲み込んだ。大義名分はあるが、逆の立場だったら俺はどうなんだ。

 

 アリアを、ミーナを、似たような言葉で責めるだろう。明確な裏切りにも感じるであろう。不貞や虐待等ではないが、ある意味それ以上に重い裏切り行為。なにも言い返すことが、できそうにない。

 

 そんなわけがない、お前達の方が大事だなんて言えない。そう思っていても、行動がこの言葉を虚しいものに変えてしまう。家族よりもクーラを助ける。理屈では命ある方を優先したいが故ではあるが、こと生き死に関しては理屈で割り切れない。

 

 「ああ」

 

 ミーナの言を、肯定する。

 

 「大事に、なってしまったんだ」

 

 一人で生きていく、つもりだった。ジークリンデが傍らにいた旅路ではあったが、それでも連れ合いを作らないつもりだった。テンとの殺し合い。なにも産まない、生産性がない、自己満足で修羅の道を歩いていただけだ。

 

 それでも、理由づけはしていた。テンが先々で作り出す人妖を狩る。だが俺は本当に、本心では、人妖を狩ることがテンを殺すための近道と思っていたのだろうか。

 

 人妖という存在は行く先々で不幸を巻き起こしていた。それを止めてやり、テンを追いかける。その気持ちじたいに嘘はない。だが同時に、身体能力が格上の化物相手に幾度も挑み続けるなどどこか自暴自棄になっていた一面もあるようだと、今なら思えた。

 

 平和な生活をし、幸せをかみしめ、今突然記憶が戻った今、俺は俺自身をかつてない程客観的に見つめることができた。

 

 ああ、もしかして俺は、死にたかっただけかもしれない。

 

 テンの撒いた災禍を摘むのを言い訳に、ここでは死にたくないと幾度も呟きながらも、死んでしまえば二人に会えるかもしれないと幾度も考えたことに否定はできない。あの時、モスコーでベレーザに殺されても良かった。あの最後なら納得できると内心喜んだのは確かだ。

 

 だが、転機はあった。

 

 クーラ。かつて命を狙われ、首を絞め殺しかけ、それでも奇妙な縁により後をついてきた半獣。身体中傷跡まみれ、周囲から忌み嫌われ、恩返しの為に人殺しという道を選んでしまった少女。

 

 その半生に、過去の境遇に、俺は少しだけテンを重ねていたのかもしれない。クーラの幸せをと願うのを建前に、遠ざけたかった。

 

 だがそれは失敗におわった。手放したかった少女を、手放すことができなくなった。だが申し訳ないと思うのと同時に、心のどこかでどこかホッとしていたのではないか?事情を知り心を許すことができる、仲間であり道づれがほしかったのでは?

 

 テンに介入された、爆弾を抱えたクーラ。彼女なら、理由をつけて共に地獄に引きずり込んでいくのも悪くないと考えたことはないか?

 

 そんな負の面を見て見ぬふりして、俺は彼女を護ると誓った。罪悪感から目をそらすように、どこかで苦行めいた旅路に引きずり込むことができたと仄暗い喜びを抱きながら。

 

 動機としては、最低だ。そして今になって初めて自分の弱い本心に気づいた俺も、ただのクソ野郎だ。

 

 だがそれでも、最低の動機でもクソ野郎の決意でも、誓ってしまったんだ。

 

 護る誓い、逆にこの世界では護られ続けてしまった。今度は俺が、本当にこの子を護る番なんだ。

 

 どこまでも自分勝手、妻と娘には悪いがこれだけは曲げられない。

 

 「死者よりも生者が大事だって、今更言うつもり!?あたしはなんなの!?父さんの慰めの為だけにここまで生かされてきたとでもいうつもり!?ふざけるな!だったらあの火事に巻かれて死んでしまいたかった!人の人生を慰めの為の玩具扱いして、不要になったら捨てるつもりか!?どれだけ最低なことをしているのか、分かっているの!?」

 

 「怒りはもっともだ。俺がいた世界でのお前は、ほんの赤ん坊の頃に斧で殺された。そんなお前よりも長く長く生きて、今更だよな。その弁明はできない、許さなくていい、謝罪をすることすらできない」

 

 ミーナが足元に這いつくばるようにしゃがみ込む、手に握られていたのは拳程の大きさがある石ころだった。それをこちらに投げようとして固まり、落とす。石は、手の内から転がり崖の下に落下していった。

 

 涙を流しながら、膝立ちになる。絶望が顔を覆っていた。

 

 「ねえ、父さん」

 

 絞りだすように、かすかな声が響く。虫の鳴き声すら聞こえないなか、それでもかすかに耳に届くような呼びかけだった。

 

 「祝言まで、一週間もないんだよ。今まで家族の為に身を粉にして、火事の現場であたしを庇って大怪我して、そんな父さんに見せたいんだ。あたしの花嫁衣裳」

 

 地面についた手のひらが、土を握り込む。あげられた顔は、願いを聞いてほしいと訴えていた。

 

 しきたりで、花嫁の衣装は旦那とその父は当日まで見ることができない。だから、どんな姿で晴れの日に望むのか、それが大きな楽しみの一つだった。この子が赤ん坊の頃から思っていた気持ち。立派になった家族を見送る、俺の大事な夢。

 

 「フェル君も昔からの知り合いで、晴れ舞台に二人に望めることが本当に嬉しかった。せめてそれくらい待てないの?どうしても、どうしてもダメなの?あたしはそんなに、父さんの邪魔になるの?」

 

 例え祝言が、明日の朝一番に始まるとしても、ダメなのだ。時間がない、間に合わない。

 

 俺の夢とミーナの願い、その代償はクーラの命。どちらかを選べと言われてしまえば、どんなに苦しくても選ぶしかない。勝手な思いでクーラを護ると決めた俺だ。苦痛と非難は受けるべくして受けなければならないだろう。

 

 言うしかないのだ、残酷な宣言を。

 

 「すまないとは、言えない。俺は謝れない、許されちゃいけない。お前の祝言は、衣装は、晴れの姿は見ることができない」

 

 「あ……ああああああああああああああ!」

 

 ミーナが大声で泣き声をあげる。辛い、近くに駆け寄れないのが。先の言を撤回してミーナの晴れ姿を見ることができないのが辛い。だがこの辛さこそ、俺が背負うべきものだ。

 

 父親失格の、娘『二人』を不幸にした俺が甘んじて受けなければならない。勝手に胸が痛む。そんなことも許されないというのに、本当に、自分勝手な話だ。

 

 アリアがミーナの肩を叩いた。優し気な顔をし、軽く頭を抱き寄せる。

 

 「こうなると思っていたよ。折れてくれるのを、期待していなかった訳じゃないけどランザなら、貴方ならそちらを選ぶとね」

 

 「お前達はなにも悪くない、悪いのは全部俺だ」

 

 「そうだね、知っているよ。でもさ、私は怨まないし責めないよ」

 

 「え?」

 

 アリアの一言に、間抜けな声をあげてしまった。

 

 「皆が灰猫に理由もない嫌悪感を抱いていた。理由を知れば、平和な日常に綻びが出るから、何故そんな気持ちが湧き出るのかは誰も知らなかったでしょう。でも私は、貴方と一番近い私は多少差異がでたのか予感があった。あの灰猫は、貴方にとって良くも悪くも重要な存在であるということに」

 

 諦めたように語るアリア。淡々としつつも、優しくミーナの頭を撫でつつも彼女は語り続ける。

 

 「灰猫は貴方の付近や家の付近に何度も何度も何度も現れた。でもその度に、私が妨害した。殺そうと思ったことも一度や二度じゃない。現に、殺せる機会も何度もあったと思う。いくら私が運動能力皆無のドン亀でも、あれだけチャンスがあったら不可能じゃなかったよ……でもね。できなかった」

 

 顔をあげるアリア。その視線は、上着に包まれたクーラを見つめていた。

 

 「もしかしたら、ランザがやりたいことは、進まなければいけない道筋は、その子が鍵かもしれない。今の生活を壊されるのはごめんだけど、貴方のやるべきことまで奪うことはどうしてもできなかった。惚れた弱みね。まあ、こんな大掛かりな話だとは思わなかったけど」

 

 クーラの、猫の身体を見る。灰猫と化した後もボロボロの身体であったが、このうちの少なくない傷はアリアがつけたものだった。あのアリアが、他の生物を傷つける。素直に信じられない気持ちだ。

 

 「ごめんなさい、灰猫……いえ、クーラさん。夫を支えてくれた貴女に、私はこんなことしかできなかった。でももう、それも終わり。私は貴方達を見送ることにします」

 

 「母さん!?」

 

 「死者よりも生者の為、理屈のうえでは正しい。ミーナ、貴女を巻き込んでしまうのは申し訳ないけれど、死んだ者の悲しみは早く無くしてしまい、思い出になってしまうにかぎるの。サグレさんもベレーザさんも、フェル君だってそう思ったからこそ力を貸した筈。テン、あの娘だって父離れができた。私達も送ってあげなければいけない」

 

 アリアが、傍らに置かれた布に包まれたものを取り出す。それは、半ばから刀身が折れた悪竜の封印剣だった。

 

 両手に持つそれを、こちらに差し出してくる。ジークリンデの気配は感じない。封印してから長年生贄による供物もなく、恐らくはこの世界において不純物に近いものとして制限されていた彼女はルーガルーとの戦いで敗れてしまったのだろう。

 

 片腕を切断されたルーガルーを思い出した。敗北したものの、かなり食い下がったのだろう。

 

 「貴方の世界では存在しない筈の存在こそが分岐点。それを、この世界では存在しない刃で破壊しなさい。やり方は、この剣が教えてくれるんじゃないかしら?」

 

 剣の柄を掴む。

 

 背中側の骨に、違和感。思い出したかのように身体の内側から、皮膚を破り二本の連結刃が現れる。

 

 エルフの人妖との対決時に、四肢を切断され死にかけた際に埋め込まれたジークリンデの一部。これも半ば透明ではあったが、腕を伸ばして刃に触ると確かに感触があった。

 

 分岐点、分水嶺。この家族と過ごした幸せは、当然ながら家族がいたから得られたものだ。テンが動揺しながら止めた、この世界から出る為の方法。自分の幸せを、自ら否定する為の手段。

 

 「なに泣いているの?」

 

 「……え?」

 

 「泣くことが、許されるとでも?」

 

 ミーナの声に、頬に触る。濡れていた頬は、涙を顎まで伝わせている。

 

 「殺すんでしょう、あたし達を。ならせめて、そんな情けない顔で殺さないでよ。心配になるじゃん」

 

 「ミーナ?」

 

 ミーナの顔はまだ、怒りに満ちていた。立ち上がり、目の前まで来て胸元を殴りつける。

 

 「あたし達よりその猫を優先する父さんも、その父さんを送りだそうとする母さんも嫌いだ。あたしの人生は、ここで積み重ねたものなんだ。元の世界の記憶なんて、赤ん坊だったあたしにはない。いかに幻でも張りぼてでも夢でも、こここそがあたしの真実の世界なんだ。それを壊す父さんを許さない。でもね」

 

 胸倉を掴んで、顔をこちらにむけさせる。乾いた頬を張る音が、夜の空に響いた。

 

 「あたしの人生を踏み台にして進むのに、そんな顔をして進むことはもっと許さない。あなたはどうしようもないクソ親父だよ、それでもあたしが大好きな父さんには変わらないんだ。お別れが、そんな腑抜けた顔だったなんて、死んでも死にきれないよ。ねえ、父さんの普段の顔を見せて、せめてそのままあたしを殺して」

 

 「すまな」

 

 「すまないなんて言わないで、謝らないで。絶対に許さないから。苦しんで、苦しんで、苦しみながら全てを終わらせる為に生きて、長生きして。待ってるから、父さんが全部終わらせてからこっちに来るのをみんなで待っている。その時に、謝って……でもさ」

 

 ミーナが、怒り顔から二カリと笑みを浮かべた。酒場で酔客相手に楽しそうに接客をする、明るく朗らかな笑顔だ。

 

 「テン姉さんは、どうなるんだろ。もしかして、二人に分裂してくるのかな。こっちはともかくあっちの姉さんはまだ生きているんでしょう?」

 

 「ああ、生きているよ。俺は彼女を追って旅しているんだ」

 

 「一発は確実にぶん殴るから、よろしく伝えておいて。じゃあ父さん、全部終わらす前にこっちに着たら、それこそ絶対許さないんだから。精々、長生きしてよね」

 

 そう言って、ミーナが俺に抱き着いたまま目をつむる。アリアも、こちらに近寄り肩に手をまわして抱き着いた。

 

 話し合いは、終わった。二人は覚悟を決めたようだった。あとは、俺が実行に移すのみとなる。

 

 すまないとは、言えない。ミーナが言う通り、今この場での謝罪は俺が楽になるだけのものだ。腹はもう、とっくにくくった筈だ。あとは、俺がやるしかないんだ。

 

 二人の軽い身体が、揺れた。胸元を貫く二本の連結刃が、夜の空に血を飛ばす。

 

 血が落ちた端から、世界にヒビが入り始める。殺した感触を、温もりを感じながらガラスに入った亀裂のようなヒビが世界に広がっていくのが見えた。

 

 木々に、山に、家々に、海に。全ての幻がまるで引き裂かれていくようだ。

 

 崖下から見える家々のうち、自宅が見えた。その屋上には、サグレと彼女に肩を組んだベレーザがこちらを見上げていた。視線が交錯したことに気づいたベレーザが、棒を持つ腕を振り上げて見せる。サグレは小さく手を振っていた。

 

 互いに声は届かないが、ベレーザがなにかを叫んでいた。サグレがベレーザの側頭部を軽く小突く、なにを言ったのだろうか。それでも、二人は笑顔だった。

 

 「間ぁに合ったああああああああああ!」

 

 ひび割れた木々が、それとは別の要因で斬り倒される。背後を見ると、片腕を無くし左耳が千切れたフェルが大鉈で乱暴に木々を斬り倒し道を無理矢理作っていた。

 

 「お父様!」

 

 その道をテンが走る。地面から亀裂が靴を伝い、その身体に這い登るように広がっていった。テンという存在にも、例外なく崩壊が訪れようとしているようだった。

 

 「テン!」

 

 「私の、最後のお願いで我儘ですお父様!どうか……どうか!」

 

 テンの口が動く。耳に届いた声に、俺は刹那の間固まり、それでも硬い首を縦に動かして頷いて了承した。

 

 それと同時にテンが足を止める。肩で息をしながら、身体全体まで昇ったひび割れを見つつも、安心したように微笑んだ。

 

 「ありがとうございます、お父様。本当に……安心しました。お父様、私は、テンは、本当に……」

 

 幸せものでした

 

 テンが笑いかけながらそういった瞬間、身体がまるで落としたガラス製品のように砕け散る。フェルも、木々も、村々も世界も。

 

 ただ暗闇のみが覆う世界で、最後まで残った二人の亡骸もまるでガラスの破片が散るように崩れていく。拾い上げようとしても、まるで地面等がないように二人だった破片は深淵に落ちていった。

 

 「うっ……ああぁ」

 

 膝をつき、あふれ出る涙が落ちる。液体は二人のように深淵まで落ちず、まるで透明な板のうえに落ちたように広がりをつくった。涙すらも、二人を追うことができなかった。

 

 殺した、殺した、殺した、殺した、殺した、殺した、殺した、殺した。

 

 俺が殺した、ベレーザもサグレも、フェルもテンも、アリアもミーナも。本当にこれが正しい選択だったのか、間違っていないのだろうか。

 

 だが間違いだろうが、正解だろうが。俺はもう選んだ。

 

 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

 泣いている場合ではないことは、分かっていた。泣く資格がないことも、分かっている。

 

 ただ今は、今だけは、感情が崩壊するのを押しとどめることができなかった。

 

 暗闇に、光が溢れだす。終わった世界から、戻るべき場所に戻る為に。目的を果たす為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この子を護る。この身全てを投げ出してでも。悪魔に魂を売ってでも。

 


 

 必要なのは力だ。

 

 必要なのは体躯だ

 

 必要なのは俊敏性だ。

 

 必要なのは意志だ。

 

 必要なのは、必要なのは、必要なのは、必要なのは。

 

 『そう、なにもかもが足りません』

 

 そうだ。なにもかもが足りない。

 

 『ここまでの旅路、悪竜の力を借りたとはいえ人の身の限界を超えてまで踏破をしてきた。しかし、やはり人間には限りがあります。ふふ、お目覚めのところ悪いですが、お父様はもう死んでしまうでしょう。全てを踏みにじり戻ってきたのは良いですが、さらりと死ぬでしょう』

 

 『さあ、今こそ私達の終幕を迎えましょう。お父様、私の愛おしいお父様。どうか気持ちを楽にさせてください』

 

 『堕ちてしまうのは、存外心地の良い気分ですから』



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人妖


 昔話をしましょうか。

 

 森にある狼がいました。狼は群れのリーダー格、そして高い知能を持ち合わせ森の主として君臨していました。狼は狩りこそするものの、外敵に対しては一番矢面に立ち戦いを続け、資源を奪う人間には恐怖を与え追い払うことを繰り返していました。

 

 強力な主のいる平和な森。しかしそんな森に悲劇がおこりました。近くにあった火山が噴火をし、大量の溶岩や落石、噴煙、土石流が押し寄せてきたのです。炎上する森、焼け死ぬ同族や他の動植物達。難を逃れた者達にも、悲劇が訪れました。

 

 縄張りを失い、新天地に向け流浪の旅を続ける生物達。しかし、火山の噴火は尋常ではなく、何日も何日も荒れ狂い周囲を焼き尽くし天を覆う程の灰は数か月太陽を遮るほどでした。

 

 草花は枯れ、川は淀み、人里の作物も育たず、人も動物も飢えと食料の奪い合いで血で血を洗う闘争がおきていたのです。

 

 群れの仲間は弱り死にました。狼を頼り付き従う別種の動物も死に絶えました。行く先々に転がる痩せた死肉を貪りつつも、全ての仲間達は体力の限界や争いに巻き込まれ死に絶えていきました。

 

 精悍だった狼はすっかり痩せ果て、争いから群れを護り続けた身体は傷にまみれ、ついに最後となった群れの仲間、自身の伴侶が死んだ時その血肉を食らい一匹になりました。

 

 全てを失った狼は、振り向かず進んでいきました。ただ新天地を目指し、楽園を目指し。

 

 その途上にあった村落八つを食らい尽くし、街三つに甚大な被害をもたらしながら進んだのです。その身体には、沢山の仲間の骨をどうやって結んだのか毛に括り付けていたと言います。

 

 最後にとある王国の都市を襲い、三日三晩ただ縦断する為に戦い続け狼は討たれたといいます。

 

 その痩せ狼は、伝説として、時として人にも獣にも対処することができない自然災害に対する恐れを忘れないようにとその王国では語り継がれているようです。

 

 一説にはただ月を追いかけていたとされるその狼は、何時しか月食はこの狼がおこしていることだという伝説が加わり、決して災害が届かない月を追いかける者、ハティと呼ばれるようになったといいます。

 

 何故。そんな話をと?

 

 あの人に、お父様にぴったりだからと、思ったからですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「夢魔は消化が悪いね。待望成就を待つ身にとって、残された時間というのはなかなか堪えるなぁ」

 

 ウェンディ=アルザスは欠伸をする。魔女には不眠の法というものがあるが、人間の三大欲求に従い習得はしていても使用はしていなかった。

 

 魔法を駆使すれば睡眠は不要な要素になるということは分かっているが、その不要こそ人が人である為に必要なものだと思う。まあなにが言いたいかと言えば、人生せっぱ詰まっても良いことがないということだ。

 

 「でも今日くらいは、やっぱり解禁しても良かったかもなぁ~。準備がめんでぃ~けど~」

 

 「いや今日くらいはちゃんと起きていてくださいよ。めんでぃ~じゃなくて」

 

 なにか勘違いした言葉がとんできた。これからのことを面倒くさがっている訳ではないのだが、訂正することこそ面倒だ。

 

 「はいほい分かっているよー。まあ、レントでもエンパスでも来るなら来れば良いさ。百パー気づかれてないとは言い切れないからねぇ」

 

 とは言いつつも、上もここもクーラが入ってきたこと以外に問題はない。あと少しだけ、欠伸を噛み殺しながらゆっくりと待たせてもらうことにしよう。

 

 「まったく貴方と言う人は」

 

 小うるさい話を聞き流しながら、なにか飲んで目を覚ますことに決めた。

 

 「コーヒーはあるかい?」

 

 「豆はありますが、砂糖やミルクはないです」

 

 「ああしまった。どちらもボクの部屋だよ。取りに行くのめんどー、誰かとりにぃ……はいはいボクが行くから睨まない睨まない」

 

 一度個室に向かおうとした瞬間、ドクンと心臓が跳ね上がるような音が響いた。その場にいた十数人が言葉を呑み込む。ついに覚醒かと誰かが呟いた、その言葉には隠しきれない喜びが漏れ出していたし誰もが大なり小なり興奮している気配を感じた。

 

 「おや?もう少しかかると思ったが」

 

 疑問点。まあ誤差といえばそれで納得しても良いようなものであるが、成功を目の前にして落ち着かないのだろうか。

 

 「……ん~」

 

 「いかがしました?」

 

 「念の為結界の確認、あとこの地下の絡繰りについては……ハルが担当していたよね。以上はないかな?夢魔の生体チェックに異常は?変ちくりんなことになってないかねぇ?あとみんな、触媒を持っていない奴はさっさと持って来る、急いで急いでぇ」

 

 数世代に渡り人工悪魔を創造しようとし、その完成が目の前に迫っているというのにどこか浮かない顔をしているこちらを見て、やや怪訝そうな顔をしているが指示した作業に担当者がかかりはじめる。

 

 「どうしたというのですか?多少時間は早いですが、想像していた誤差の範囲内です。既に幾度も確認した作業の再確認、そして触媒を持ってこいというのは武装して集合しろということ 。なにかあると言うのですか?」

 

 「んぁー……ほらあれ、ハーウェイにいた頃の話だけどさぁ。海賊あがりのガルデに奇襲からの海戦仕掛けられたことがあってにぇ。油断もあったけどさ、レッドアイが船一隻分おじゃーんになったん。

 なーんとなくーあの時と同じ雰囲気感じちゃう訳なの。あと少しというところで、大事な計画がおじゃんになっちゃうような……気にしすぎかなぁ」

 

 「そうだということを、願いま」

 

 会話が途切れる。夢魔の巨大な肉体が再度大きく脈打ったかと思えば、肉塊の中央に大きく斬撃のようなものがはしった。血が溢れだし、雨となり部屋中に飛び散る。各々指示された作業をしていた魔法使い達は、突然の出来事に困惑の顔を飛び越えて驚愕の表情を浮かべた。

 

 『ルガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァアアア!!』

 

 夢魔と魔法使い達しかいない地下に似つかわしくない、獣の咆哮が響く。

 

 「なんとまぁ……」

 

 肉の隙間から顔をだし、血生臭い血を全身に浴びた水色の毛並みをした、淀んだ目をした巨狼と目が合った。不思議なことに、その異常事態を前にして思ったことは夢魔の心配や計画が破綻しかけていくことへの焦りや怒りではなかった。

 

 レッドアイは脳内の幸福を司る仕組みを刺激する。夢魔は血液から造られたその薬物は対象を深い眠りに堕としてその中で幸福な夢を見せ、その対価として精神力を貪り食らうことで力をつけている。

 

 薄めて扱うのが基本のそれを、注射二本分も打ち込まれ廃人に等しい程に脳内が壊れた筈だ。そうでなければおかしい、君はいったいなにを見て、そして戻ってきたというんだ?

 

 怒号、喧噪、恐怖。そんな反応を気にせず狼はズルリと上半身を夢魔の中から姿を現す。淀んだ目に浮かぶのは、敵意。

 

 「おーちーつーけー。なんの為に触媒用意したと思っているんだ。夢魔もまだ死んじゃいない、早々に片をつけてしまおう」

 

 号令に応じるように、恐慌状態から正気に戻った者から各々触媒を向ける。それは杖であったり、本であったり、頭蓋骨やランタン、鈴に手袋と様々な触媒を掲げた。

 

 「背後になるべく当てないように斉射。なに、あの狼をもう一度贄としてくべれば良い。見かけに騙されるなぁ、体力も消耗しているようだしそこらの害獣よりも楽だよ」

 

 雷光や火炎、水流のカッターや酸が飛ぶ。狼は嫌がるように顔を振るうが、いかに巨大になろうが膂力を得ようが仮にも夢魔の中で夜明け近くまでドレインを受け続けていたのだ。精神的にも体力的にも疲労困憊している筈だし、レッドアイの後遺症を受けていないとは言わせない。

 

 なにがどう影響しランザ=ランテが目を覚まして化物、いや人妖に変化したのかは知らないが問題はない。現に雷光は肌を焦がし炎は肉を焼き、水流の刃は流血を促し酸が身体を焼いていた。変異して出て来たことにはいささか驚きはしたが、なんのことはない。

 

 「近い二人、離れなよぅ」

 

 自分の触媒たる杖を振るう。杖、魔法使いとしては古典的な触媒であり現在においては、数を減らしている一団の中でも愛用するものはさらに少なくなった。

 

 これととんがり帽子でもあれば、伝統的ないでたちの出来上がりだが生憎そこまでする趣味はない。もっと言えば、触媒の質に拘る必要もない。これなんて適当に古道具屋で買った大量生産品、それも中古のものだ。

 

 ズルリと全身を粘り気がある夢魔の体内から出した狼に、杖から飛んだ火蜥蜴が命中した。爆轟ともいえる衝撃音と巨大な火炎が巻き起こり、視界を埋める程の炎柱となって巻き上がる。

 

 熱により巻き起こる気流と肌を焦がすような暑さが空間全体に襲いかかり、何人かが慌てて資料をまとめたり炎から可能な限り離れるよう避難をしていた。背後の夢魔にも影響があるのではと心配するような顔をしているものもいるが、ランザが異形と化して出て来た時点で計画の遅延は確定したようなものなので多少の被害は今更だ。

 

 それよりも気になるのは、やはりこの急激な覚醒だ。

 

 「あの猫か?」

 

 人妖化のメカニズムはまだ解明していない。というより、さして興味もなかったしやることをやり終えて余暇があったならば、調査をするつもりであった。

 

 誤算ではあったが、半ば以上生命力を吸い上げられた死に体だ、遺体は遺体で生体に劣るが使い道はあるだろうし、夢魔の修復にも活用できるだろう。ああそうだ、こうなったなら今度こそ眼球をくりぬいてもらっておこうか。

 

 視界を覆う炎が揺らぐ。対象を燃やし尽くしたであろう炎が、時間経過により焼失した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハティなぁ。また懐かしい名前を聞いたな」

 

 良い月の夜であったが、朝日が昇らんとする時間になっていた。都市のほぼ中央に位置する時計塔、その上には空の皿が一枚と大衆酒場でも底辺労働者以外、誰も見向きしないような安酒の瓶が置かれている。

 

 「しかし、なんとかは高いところが好きと言う。わざわざこんなところで待ち合わせしなくても良いじゃねえか」

 

 「良いじゃありませんか。師よ、それは高いところに昇ることもできない者達のひがみですよ。愚物はせいぜい下から見上げていればいいのです」

 

 傍らで話しかけてくるテンは、上機嫌にほほ笑んだ。手には朱色の雅な杯を持っており、こちらとは比較にならない程の高級酒を傾けている。

 

 「前から思っていたが、師というならば俺よか高い酒呑んでんじゃねえよ。ちっとは遠慮しろ」

 

 「舌に合わないと散々言って、拒否されるじゃないですか」

 

 「馬鹿野郎、そういう時は舌にあうもん持ってこいってんだ。それか俺に合わせろ」

 

 こいつは機嫌が良い時、杯を傾け酒精に舌鼓を打っていた。本日は相当上機嫌なようで、こうして朝日が昇るかどうかの時間まで酒を共にしている。

 

 「なら今度は、高級な瓶に安酒を入れてもって来ましょう」

 

 「それを俺に言うあたり、良い性格しているぜ本当に」

 

 「お褒めにあずかり光栄です」

 

 軽く肩をすくめてみせる。既に空となった皿の方はどこの料理店からかっぱらって来たのか鶏肉の料理が乗せられていたが、こちらは味だけで分かるが高価なものだった。やはり機嫌が良い、その理由はやはりあれだろう。

 

 「しかし、ハティか。確かにかの狼は伝説扱いされてもおかしくない程暴れてまわったが、楽観しすぎじゃないか?搾りかすになったランザの能力がいかにあがろうと、元の体力が無ければ張りぼて。ウェンディがかき集めた魔法使い集団は、下手な戦闘団よりもよほど上手だぞ。人妖になっても、狩られて終わりじゃねえか?」

 

 悪魔と魔法使いはその原初においては確かに関りがあった。始まりの一人が、悪魔に様々な知識を対価と引き換えに得てから数千年。当時の魔法使いの血脈達は血が薄まり知恵も失い廃れていき、現在では汎用性のある魔術具を扱うことができる人間が残る程度である。

 

 しかし、それでも人目を忍んで細々と受け継いできた者達もいるようで、ウェンディが集めたのはそんな生き残り達だ。迫害や魔女狩りにあい、魔法のことを隠してはいても吸血鬼との戦争に騎馬民族襲来にあい、様々な歴史的事件に揉まれめっきり数を減らしてはいるが一人一人が非凡な集団である。

 

 ランザ=ランテは人妖として産まれた瞬間、狩りとられるだろう。良いところとウェンディに対する嫌がらせで終わる筈だ。

 

 それなのにテンは、ランザを夢魔に捧げられる行いに対してなにも行動をおこさなかった。エンパスがちょっかい出してこない限りは観察するのに留めることにしているが、解せない。

 

 「師よ、計画というのは万事上手くことが運ぶ方が少ない。様々なアクシデントやトラブル、良くも悪くも予想外のことがおこるものです」

 

 「まあ、そうだろう」

 

 「最初に考えていた計画の骨組みは、もっと単純なものでした。私にとって嬉しい誤算は二つ。悪竜たるジークリンデが予想以上にお父様に心酔していたこと。お父様がクーラという野良猫を拾ったことです。エンパス教については、エンパス教やレント等嬉しくない要素も絡んで来ましたが問題はありませんでした」

 

 確かに、と思わないでもない。クーラに関しては、あの多感な年頃にあれだけの衝撃を叩き付けられたうえに、本人にもその素養があったのだろう。刺激的な経験に陶酔し、愛着だか執着だか忠誠だか、洗脳だかを抱くことになっても無理はないかもしれない……が、ジークリンデに関してはそうも言えない。

 

 古来、世界を制していたのは神、悪魔、竜の三つ巴であった。悪魔の知恵で神が零落したのを皮切りに悪魔や竜も人の成長の前に没落していったのは否定できないが、それでもあの竜が。それも好んで人間を玩具のごとく弄んだ悪竜たるジークリンデがただ一人の男に惚れ込むことじたいイレギュラーだ。

 

 求められれば、知識をだす悪魔といえど他人の色恋だけは予測がきかない。だがしかし、それでも、そんな馬鹿なと呟いてしまうくらいにはありえない話である。

 

 「まず悪竜はお父様と共依存の関係を築きたい。過去様々なことがあったでしょうが、人妖との度重なる死闘を経験することによりお父様も心を徐々に溶かしていくでしょう。クーラに関しても言えることではあるのですが、お父様は復讐に全てを注ぎ込むには優しすぎるのです。それは、私にとって業腹なことではありますが、それでも計画に利用することで呑み込みました。頭ではいくら否定しても、心は悪竜に気を許していく、それを良く思った悪竜はお父様の身体に自身を混ぜ込むでしょう。共依存の象徴として」

 

 ノックでの戦闘。人妖と化したエルフ相手にランザは一度四肢を千切られ死にかけたという。その命を繋ぎ止める為には荒療治も必要だろう。全盛期とは程遠い悪竜は、それでも喜々として自分の一部をランザに植え付けた。

 

 「本心では止めたかったですが、これも計画のうち。それ以上はご遠慮願いましたが、それでもお父様の体内に竜の因子とその刃が宿ったことになります」

 

 「ああ、なるほど。欲しかったのは『贄』という力か」

 

 悪竜としての特色、その因子を受けついた人間。それを人妖化させるとなると……か。

 

 「流石私の師ですね。その通りです。そしてクーラ、あの猫がいた為お父様をさらに追い詰めることができました。夢魔の能力、血から精製したレッドアイは対象の意識を奪い幸福な夢の世界に沈めること。最初から目をつけていた効果ではありますが、あの灰猫を挟み込むことでよりお父様を追い詰めてから幸せな悪夢から目を覚まさせることができる。初期の案では、意識の底から行うサルベージはもう少し手前でしたが……これも上手くいったようで」

 

 「そして共に呑まれたクーラから、お前の因子を受け取り人妖化のトリガーとしたか。晴れて、お前のお父様も化物の仲間入りか」

 

 「ええ、ただ惜しむらくは……」

 

 テンが黙り込む。なにかを考えるように下唇を軽く噛み、顎に人差し指の側面を当てていた。聞いている限り、計画は滞りなく進んでいるようだが。

 

 「なんだ、なにかあったのか?」

 

 「お父様が見ていた幸せな悪夢の世界、私は観測することができませんでした。因子として猫に取りつかせていた分霊は、もうお父様の内部に入り込み一体化しており反応がありません。見てみたかったですよ、あの生活が続けばどうなったかを。例えそれが、虚飾にまみれたものであったとしてもね」

 

 問題はないと言いたげではあったが、それでも思うところがあったのだろう。妻子と良好な関係を持ち家族の一員としてその生活を送っていればどうなったか。そんなことを、考えるとはあまり思えないが。

 

 「だが問題はありません。お父様は……クフッ……お父様が大事だったもの。大切にしていたもの、その全てを再度失うことになりました。その憎悪は、怨恨、喪失は、苦しみは全て元凶である私に対する怒りとして燃え上がる筈です。その時こそ、ようやく、ようやくお父様と全てを混ぜあうような殺し合いができます。ああ、早く、早く、早く、早く、早くしてください。その瞳を向け、牙を剥き出し、意識と精神全てを私に向けてくださいませ。それを全て受け止めてこその私の計画!願望!そして生き甲斐!逃げも隠れもしません!幾度、幾度夢見たことか!」

 

 酒の杯を落とし、両の手で顔を覆いながら喜悦に満ちた視線を覗かせ半笑いをするテンを見て、改めてガスパルは思う。

 

 人という種に、対価の代わりに知恵や技術を教えてきた悪魔ではあるが、人間の行動により予想を覆されることは幾度もあった。

 

 その最たるものは、やはり神の零落だ。神は信仰を糧として力を振るう。与えた知識はそれだけであったと伝え聞くが、それを聞いた人はまったく新しい架空の宗教を作り出し、何世紀にも渡りそれを浸透させて既存の神から力を奪った。

 

 驕りに支配され、叩き潰せるうちに手を打たなかった神側のお粗末さもあるが、それでも今の零落ぶりは当時の悪魔は誰しもが予想しなかっただろう。結果を観測した俺ですら、そうであるのだから。

 

 テンも予想外の存在ではあり、計画の完成を微塵にも疑っていない様子である。だがしかし、どんでん返しというものは何時の時代にもどんな計画でもあるものだ。それは歴史が証明している。

 

 「それに、忘れていねえか」

 

 俺の呟きは、興奮しているテンには届いていないようであった。

 

 「あの悪夢にも、お前に準ずる存在はいたんだぜ」

 

 杞憂に終わる確率の方が高いと思うが、それでもと思う。テンの計画が成功しようが瓦解しようが知ったことではないが、夢魔の悪夢が完璧であればある程リスクも産まれるというものだ。

 

 そして、再現された悪夢のテンがなにか毒を仕組んでいないかと言われれば、まあそこは俺にとっての楽しみである。仕組んでいない、不発に終わるならそれはそれでいい。だがしかし、その毒が思わぬところで牙を剥くならば。

 

 この一連の事件、まだまだ目が離せなさそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「なんだ、あれは」

 

 誰かが呟いた。口には出さなかったものの、ボクも同意である。なんだあれ。

 

 いや、なにが出て来たかは分かる。あれは悪竜ジークリンデの一部、まるで連結した刃のような命を刈り取る刃物の群れだ。

 

 狼の背中から二対の刃物が飛び出し、背後の夢魔に突き刺さっていた。ビタビタとのたうつ触手が狼に巻き付き締め上げ、止めようとするが肉を抉り回転しながら刺さる刃物を止められない。

 

 重症だがまだ生きていた夢魔の中心部に刃物が到達したのか、体内から幾つもの刃に分裂しその身体をバラバラに引き裂く。飛び散る肉片が、空間内に降り注いだ。

 

 「夢魔が!」「我々の成果が!」「今からでもいい、急いで止めろ!早くトドメを刺して止めるんだ!」

 

 各々が触媒を向け魔法を放つ。身を焼く炎が、切り裂く水流が、蝕む硫酸が殺到した。だがしかし、先程つけた傷と共に新しい傷口は煙をあげて再生していっている。その速さはまともな攻撃では意味をなさない程だ。

 

 「まずいよ」

 

 もはや夢魔等どうでもいい。計画は破滅したが、それを気にしていられる状況ではなくなりつつあるのは確実だ。

 

 「射撃中止!みんな急いで避難しないと」

 

 ニタリと、狼の口元が歪んだように見えた。夢魔から引き抜かれた刃が、高速の竜巻となり空間内で舞い踊る。

 

 巻き込まれた魔法使い達は、刃の奔流に絡めとられていった。分断どころではない、細切れだ。人が人であったものに代わる、死体とすら形容ができるものではない。

 

 生き残り達も、腰を抜かしていた。あまりの光景に動くことができないのだろう。

 

 当たり前だが、現在まで生きてきた魔法使い達は自身の能力をひた隠しにして生存をしてきた。様々な魔法を扱えても、悲惨な殺しあいや暴力の世界に身をおいてきたものは少ない。僅かにいたそんな経験者は、今の奔流で死んでしまった。

 

 「おのれぇ……あの化物をここに閉じ込めるよぉ!非常の備えを使う!本来ならここを要塞化するためのものだけど、背に腹は代えられないからね!動いた動いたぁ!動かないと死ぬよぉ!」

 

 夢魔の食べ残しがあるのか、狼はまだ動かない。叱咤により生き残りが動き、装置が機動。この地下施設は、何代も前の魔法使い達が作ったもの。外敵にバレたことを前提にした施設操作の為、これで地下の秘密は漏れるだろうがそんなことを言ってはいられない。

 

 あの狼は、ボク達を逃がすつもりはないだろう。ならば、内部を変形させ行動を封じてここに閉じ込めるのみ。あとの始末は、ボク達が姿をくらました後竜狩りにでもエンパス教にでもやらせておけばいい。命があれば、次につなげることができる。

 

 「起動!」「起動しました!」「承認をお願いします!」

 

 杖に魔力を込める。まったく、こんなことになるならば、もう少し時間をかけて低質な贄を数でそろえるべきだったよ。

 

 杖の先端を足元に複雑に浮かび上がった魔法陣に叩き付けながら、そんなことを思った



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 地上の教会を見守る男女がいた。

 

 互いに言葉は交わさず、少し離れた二軒の建物からランザが運ばれた教会を見張る。互いが互いに見える位置におり、死角をカバーするように監視を続けていたが定期的にだす互いのハンドシグナルは異変なしだった。

 

 ランザを捕まえた武闘家の男が出ていってから数時間は経っている。それ以外は中に侵入した路上生活者も出てきていないが、それからはなにもなく夜も白みはじめていた。

 

 新隊長であるランウェイは、なにかあった時何時でも踏み込めるようにエンパス教の情報を逐一収集していた。当然引き渡しをしたランザ=ランテだってそのまま放置をするつもりはない。今は悪竜たるジークリンデの研究と処理に優先度を傾けているが、時間の問題が解決し次第踏み込む予定であった。

 

 人手が足りず、忌々しい。

 

 帝国の災害に即時対応する竜狩り隊ではあるが、北方の異変に対する対応で半数以上が出払っていた。それも業腹なことではあるが、先発されたメンバーは主力級というべき人材達である。

 

 同じ竜狩りを名乗れても、部隊内で格差があった。言うなれば居残り組は後詰めの留守番隊である。この練度の差は、ある理由によるものだ。

 

 全ての人材が同じ練度で、高度な連携を維持して災厄に立ち向かうというのが竜狩り隊の伝統であるが、先代からランウェイへと代替わりしたことにより大きな変換機を迎えていた。

 

 元来の竜狩り、主だっては先代が率いていた竜狩り隊は少数精鋭を維持した特殊部隊であり、採用基準は年齢制限を設けたスカウトのみに絞るという徹底したものであった。貴族の子弟から市街の子供まで、素質があると判断されれば所属することを許されるといった具合だ。

 

 確かにその方法ならば、部隊の練度と連携は飛躍的に高まるだろうが、同時多発的に災害がおきた時手が足りないのではないか。年齢制限に引き上げないし撤廃や、厳しい採用試験を前提としたうえでの志願制導入等部隊の拡張をランウェイは常々提案していた。

 

 新隊長となったランウェイは早速自身の提案を採用し、それによって新たに集められたのが我々だ。

 

 先代は難色を示していたが、それでも託すと決めたからには口を出すつもりはないらしい。しかしそれに反発したのは古参の竜狩り達だ。

 

 採用緩和により練度も連携も未熟な新しい竜狩り隊の隊員達を同列とはみなさず、ランウェイの方針を無視して先代に指示を仰ぐような始末である。

 

 先代は北の異変を重視しており、ランザ=ランテとジークリンデについてはただちに暴発する存在ではないとして監視に努めるように提言していた。しかしランウェイは、例え暴発する可能性が低いにしても帝国内部、帝都に悪竜が入ることは好ましくないとしてその提言には反発をしている。

 

 自身の権限により竜狩り隊をランザ、ジークリンデ確保に使用したが新隊長に反発をする古参達は先代の提言に自主的に従い北方に展開をしている。

 

 新しい竜狩り隊隊員に慕われる一方、古参からは成り上がりと侮られるランウェイは自身の実績不足を原因としていた。再び竜狩りが一枚岩に戻る為、悪竜ジークリンデを討滅、その力を解析する成果をもってして分断している部隊を再びまとめようと目論んでいる。

 

 我々新参の隊員達は、ランウェイの方針には従う。確かに古参と比べれば実力差はあるものの、戦闘経験をそれなりに積み採用基準が狭い試験を乗り越えた実力はあり、連携や練度は訓練により時間が解決する問題たと自負していた。

 

 古いやり方に何時までも固執するのは、時代についていけない証拠だし、新しい方法ややり方は常に批判されるものである。

 

 だからこそ、成功を収めてこその説得力だ。ランザ=ランテを確保していないことは、画竜点睛を欠くというものだ。なんとしても、最悪遺体だけでも確保しなければならない。

 

 人手不足解消の為に組んだエンパス教の連中とは協定で一度は受け渡したが、然るべきタイミングで取り戻す。災害の芽を全て摘んでこその、我々なのだ。それは他人に、まして宗教組織に任せるべきものではない。

 

 気合を新たに入れなおしたところで、身体が大きく揺れた。眠気から船をこいでしまったかと一瞬考えてしまったが、すぐにそれは違うのだと気づく。

 

 建物が、大地が、恐らくは帝都全てが大きく揺れていた。不動の大地が揺れ動くという天変地異、産まれて初めての衝撃によりパニックに陥りそうになるがギリギリ持ちこたえる。頭は混乱していたが、視線はずっと教会から目を離さないでいた。

 

 「なんだ?」

 

 異変はすぐに発見できた。教会を中心に六本の象牙色をした角のようなものが石畳みを割り這い出てきた。故郷に生えている植物、芽が出たばかりの竹かとも見間違える大きさであったがそれは凄まじい勢いで螺旋を描きながら空へ伸びていき、頂点ではまるで花が咲くかのように大きく間を開けて広がった。

 

 空に六芒星が描かれ、難解な古代文字のようなものが線に沿うようにビッシリと描かれている。宙に浮かぶ図形が怪しげな光を放ち始めると同時に、全身の力が抜けていくような虚脱感にみまわれた。

 

 とっさに相方に対して逃亡するようにハンドシグナルを送ろうとしたが、視線の先で彼女も膝をついて脱力からか口から唾液を垂らしている。意識があるかどうかすらも、分からない。

 

 声を出そうとした瞬間、身体が突然空中に放り投げだされた。全身に激痛が覆い、宙に浮かぶなか下を見た瞬間、なにがおこっているのか思考が理解を拒みそうになる。

 

 巨大なドーム状のなにかが、せりだしてきていた。崩壊する潜伏していた建物と共に空に放り出されたとようやく理解した瞬間、迫りくるなにかが身体に激突した。

 

 意識が飛んだ瞬間まで考えていたことは、いったいなにがおこっているのかということだ。分からない、分からないと言うことは報告ができない。あれはいったいなん……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竜狩り隊、古参とは隔絶していた新人達がおこした拠点内は騒然としていた。

 

 「すぐに情報を集めろ!なにがおこっているのか、あれがなんなのか、近隣の住民は避難したのかすぐに調べるんだ!帝国軍や治安組織、掲げる大盾にも情報共有と協力を仰げ!ランウェイ隊長との連絡はとれたか!?」

 

 隊長代理の男が叫ぶ。非常時での行動力は流石試験を潜り抜けて来た者達だということもできたが、それでも地揺れ等誰もが経験していない災害に多少は浮足立つ様子も見て取れた。

 

 「地下の影響は!?」

 

 「魔術具の損傷具合はまだ不明!地下室で数人怪我人がでたようで、一部崩落しています!」

 

 「そんなことはどうでも良い!人的被害なんぞではなく最下層の奴がいる牢で拘束具がダメになっていないかと制御の魔術具が破損していないかをすぐに調べさせるんだ!弱っているとはいえ悪竜ということを忘れるな!さっさと取り掛かれ!」

 

 お世辞にも広いとは言えない執務室は荒れていたが、必要な装備をまとめ情報を集める為に隊員達は散っていった。新隊長のランウェイは、今は先代の様子を見る為に一度城に向かったがすぐに引き返してくるだろう。それとも、都市全体に襲った異変により混乱の対処に追われているか。

 

 少なくとも、ジークリンデを逃がす訳にはいかない。奴から竜に関する情報を引き出し、その肉体を然るべき研究と分析を終え廃棄するまで逃走を許す訳にはいかないのだ。

 

 近隣の情報、住民達の避難状況、そしてランザが囚われている教会を中心とした大規模な異変。見張りが二人ついていた筈だが、あの規模の異変に巻き込まれたとしたら生存は絶望的か。

 

 思わず握りこぶしを長机に叩きつける。エンパスの連中は、いやウェンディ=アルザスはなにを企んでいたというのだ。

 

 「牢獄の報告はまだか!?」

 

 ジークリンデの様子を見に行った者が戻らない。一瞬で最悪の状況が脳裏をよぎる。

 

 同時に馬鹿なとも思う。油断をしている訳ではないが、あれだけの傷を負い重傷となった半死人。死にぞこないの分際でいくら好機がきたとはいえ十数人単位で警戒していた包囲を破れるものか。

 

 いや、そう思うことこそ危険であるかもしれない。現に、様子を見に行った者が戻らないではないか。地下室はともかく、牢獄を見張る担当者すらあがってこない。

 

 「二人続け!一人はここで情報を精査し、残りの者は外の情報を集めにいけ!ランウェイ隊長が戻った時、すぐ動けるように周辺状況の把握に努めるんだ!」

 

 さして広くない地下に、ゾロゾロと人数を増やして降りても互いが互いを邪魔するだけだ。護衛として二名の部下を連れ、直接地下に様子を見に行くことにする。悪寒というか、嫌な予感が止まらない。

 

 解放されたままとなっている地下の隠し通路を通り、秘匿事項隠ぺいの為地下深くまで降りる階段を進む。降りきった先の扉に手をかけようとした瞬間、警戒せずとも異変に気が付くことができた。淀んだ雰囲気とむせ返るような血の香り。部下二人と顔を見合わせ、頷きあう。

 

 護衛が持つ武器は、かのリヴァイアサンの血を先端に塗布した特製の針が装填されたニードルガン。一見弾丸に比べれば頼りなく思えるような細針だが、竜にとって同族の血液は毒物だ。その効果は、実証済みである。

 

 ドアノブに手をかけ、扉を蹴り破る。二丁の銃口が部屋内部に向けられた瞬間、強烈な血の匂いが鼻に届いた。

 

 目についたのは千切れたように破損した拘束用の魔術具と、鋭利な刃物で切断されたかのような鉄格子。そこに拘束されていた悪竜の姿はみえない。ニードルガンで針鼠になり、ランスで急所を貫かれたのにかかわらず生存していた文字通りの化物であるが、動けるような状態ではなかった。まして、拘束を破るなんて。

 

 部下の一人が小さくえずく。床には見張りをしていた団員と、先程地下に状況確認によこした部下の死体が転がっている。腹が引き裂かれており、食用に適さない小腸や大腸が散乱していたが、心臓やレバー、脂肪に筋肉が食い荒らされている。血液と共に糞便の臭いまで鼻につく。まさに最悪の光景だ。

 

 「奴はどこに」

 

 だがしかし、そんな光景で怯むような者はいない。多少顔は引きつっているが、部屋の内部に部下二人が足を踏み入れた。

 

 「入るな!上だ!」

 

 恐怖に固まり、怖気づいてしまえばまだ助かったかもしれない。目の前で部下二人の頭上から連結された刃が降り注ぎ、頭頂部から両断される。天井の角、死角に張り付いていたか。無意識にでもこの光景に呑まれていたのか、気配を探るのが遅れてしまった。

 

 部下二名の死は、自分の責任だ。だが今はそのことを悔やむより、緊急事態の対応をしなければならない。上からの増援を呼ぶか?いや、狭い室内はジークリンデの独壇場。自在に蠢く刃の群れから逃れることは至難だ。

 

 それにここから大声をだそうが、上の階には届かない。背を向けて上階に走るか?背中から斬られてしまうのがオチだ。一歩一歩後ろに歩き階段を昇りながら、襲い来る刃を回避しながら昇ることは可能だろうか?いや、狭く足場が悪い階段で悪竜の攻撃を捌きながら生還できる確率は考えたくもない。

 

 ならば、と死中に活を求める為前に進む。腰にぶら下げた室内戦闘用の短剣を引き抜き血塗れの部屋に飛び込み、余計な情報を脳内に送り続ける視界を、瞼を閉じてシャットアウトする。

 

 盲目であるが故に、他の器官がそれを補う。ある武術の指南役である達人は「常人よりもよく視える」と嘯くこともある。あえて視界を封じることにより、強い気配を放つ竜の挙動を察し、視覚のインパクトにより惑わされぬ戦い方を十六で編み出して早十年。

 

 心眼の真似事くらいはできるようになったと自負をしているが、竜と対峙するのはこれが初めてであった。教会での小競り合いは対峙したうちには入らないであろうし、リヴァイアサン討伐は古参竜狩り隊の功績だ。

 

 二対ある鞭のような刃が迫りくるのを感じる。リングのような形をしている腕に装着した竜狩り隊の正式採用魔術具である赤盾に力を込め、障壁を展開。短剣と盾で刃を防ぐが、身体全体が痺れる衝撃を感じた。だが、死んではいない。

 

 足で、死体となった部下が握っていたニードルガンを蹴り上げる。赤盾を一度消滅させ、片手で気配に向け針を乱射。天井に張り付いていた悪竜は、不利と感じたのかその場から飛びのき扉を壊しながら階段とは反対方向、奥の部屋に消えていく。

 

 確か向こう側は、捕虜として捕らえた者の荷物や拷問用の器具が保管されている部屋だ。戦時国際法でも平和な時代であっても、肉体を過度に傷つける拷問は禁止されているが、だからこその秘匿された部屋だ。一通りの道具は揃っているし、薬品類等も保管されている。

 

 扉の向こうはそこそこ広い空間ではあるが行き止まりだ。適度な緊張感を得ながらも、悪竜相手でも自己流の心眼は通用したことに手ごたえを感じていた。大丈夫、やれる。

 

 深呼吸をしてから、足を踏み込む。棚や荷物のせいで死角が多い部屋ではあるが気配で探るかぎりはどこに隠れていようが分かる。再度の奇襲による一撃がお望みかもしれないが、そう簡単にはやられはしまい。

 

 棚が吹き飛び、重い器具が落ちる音が響いた。二対のしなる刃により頑丈で重い拷問具が保管された棚を吹き飛ばしたようだが、驚くには値せず。むしろがら空きになったその身体に針の群れを叩きこみ心臓に短剣を突き刺すチャンスだ。

 

 銃声が、響いた。しかしそれは、タタタ、という駆け足のようなニードルガンの音ではなく、腹の底に響くような重低音。身体が半回転し左半身、左腕から先の感覚が無くなる。

 

 「わりぃな、アンタちょっと強そうだし節約したくてなぁ」

 

 二つの刃に意識を奪われていたが、なにかを握っているのを遅れながら気づく。目を開けた時見たのは、ランザ=ランテの持ち物だった中折れ式のストックを削り軽量化した散弾銃だった。竜種が、人を見下す超常存在が銃器を使うなんてどういう冗談だ。

 

 「貴様……拘束を」

 

 奇妙な高揚感のせいか、激痛はまだ襲ってこない。予想外のことでしくじりをしでかした俺は死ぬ、それはまあ分かる。だがしかし、半死半生であった存在が何故急にこんなにピンピンしているのか理解ができなかった。

 

 超速再生の能力があるとしたら、とっくに行っているだろう。それとも、何時来るかも分からない絶好のタイミングを見計らっていたというのか。尊大で傲慢な竜が、わざわざ人が見せる隙を待ち続けたというのも奇妙な話ではあるが。

 

 「何故」

 

 「ああ、相棒に仕組んだもんから間接的だがひっさしぶりにでけぇ贄にありつけたもんでなぁ。今までは栄養不足だったけど、十数年ぶりにそこそこの量飯食った感じ?味はクソまずだったけど、なんつーかあれ……ゲロ甘に辛み成分たっぷり混入させたみてぇな複雑なまずさ。ああ、まずかった」

 

 「……なん…だと」

 

 ランザ=ランテか。クソ、やはり放置していい存在ではなかった。悪竜はあの男に、なにを仕組んだのだ。そしてエンパスの連中はなにをやっているんだ!

 

 これ以上ない程の緊急事態だが、血が足りなくなっていくのが分かる。当然だ、左腕があった場所から血がどんどん流れていくのだ。開けていた視界も暗闇に包まれていく。

 

 「今までもちょいちょいつまみ食いはできたけど、足りねえんだよ圧倒的に。まあ奴に合わせていたからというのもあるが、今でも腹五分ってところだ。ほんの少しでも力を取り戻しておきてぇところなんだよ、ということで」

 

 額に銃口を突き付けられる。眼前に迫る死に、不思議と恐怖は湧かなかった。

 

 このままでは、とんでもないことになる。もしかしたら、騎馬民族襲来以来の、いやそれよりも遥かに厄介な災いが訪れるだろう。口惜しいのが、それを止めることができない自分だ。ランザを無理やりにでも確保していたら、悪竜をあの場で殺しておけば。

 

 「安心しろよ。この施設に詰めている連中は、全員オレが残さず喰らい尽くしてやるからよ。せいぜい、安心して逝けや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「チッ。まさかオレがこんな玩具に頼るなんざなぁ。まあ脆い連中には丁度いい凶器か」

 

 相棒の匂いが染みついた散弾銃を片手で弄ぶ。使い方は何度も見て来たものの、まさか使うことになるとは露とも思っていなかった。まあ体力の節約にはなったし、玩具には玩具なりの使い道があるというだけだ。

 

 目の前の頭が吹き飛んだ男がズルリと床に崩れる。帝都の竜狩り隊、一度は不覚をとったが聞いていた以上にはあっけない。こいつはそこそこやる方だったが、他の連中はさして話にならなかった。

 

 まあ今の時分ならむしろ好都合。少しでも腹の足しにして力を蓄えるのが先決だ。

 

 ランザの阿呆はまだ死んではいないようであるが、感じる気配がこれまでとは大きく異なる。人間ではなく、感じるのはアイツが追いかけていた人妖のそれだ。そしてアイツは、よく分からんクソまずい生物はともかく、今の時点で何人か殺しているのを感じる。

 

 アイツが、人殺しを可能な限り避けていたアイツがだ。状況にもよるだろうが、さも簡単に殺してのけた。道中襲いかかってきた賊にすら、殺人を前提にした攻撃を避けていた奴がだぞ。そりゃ不慮の事故ってのはあったがな。

 

 人妖になると、意識や感覚が向こうの方に引きずられると聞く。単純にいえば、理性よりも本能や感情の方が強く前に出る。なにに執着するかは、人妖と成り果てたきっかけ次第だ。

 

 「ハッ……ミイラとりがミイラってか。クソ面白くもねぇ」

 

 少なくともそんなものは、そこらの獣と変わらんような存在はオレが目指すものじゃねえ。野生に狂うのなんざ誰にでもできる。

 

 アイツには、理性的に染まってほしいんだよ。悪竜ジークリンデが目をつけた存在が、畜生風情だったなんてタチの悪い冗談だ。オレは獣を相棒にしたい訳じゃあねえ。力ずくでも引き戻す必要がある。

 

 その為には、これまでのように慢性的な飢餓感に襲われながら戦うのはもはや不可能だろう。人妖と化した奴がどの程度のものかはまだ測り切れていない。

 

 これは勘だが、恐らく人妖化のトリガーとなり核になっているのはクソ猫に憑いていた雌狐だ。そして奴の身体には、オレの一部や吸血鬼の血まで混入しているある種のキメラとなっている。今や、正体不明のよく分からん生物すら贄として殺戮して吸収した。ただの人妖で終わる保証はない。

 

 いやむしろ、あの雌狐が丹念に仕込んだ結果の人妖化だ。エルフのクソ共が時間をかけて作り出した、巨人や植物女とは比べ物にならない程強力だろう。大好きなお父様との殺し合いを望む雌狐ならば、そこに労を惜しまない筈だ。

 

 ぶっ飛ばして冷静にさせるのも、業腹ながら今のオレには厳しいかもしれない。だからこそ、喰らう必要がある。

 

 「アイツが人外の力に溺れ。オレが人間の玩具を使うなんて大した皮肉だぜ。まあいい、なんだかんだ言いつつ、一回は使ってみたかったのもあるがな」

 

 連結刃を宙に振るい、刃の一部を分離させる。空中で弾頭のように変化したそれを散弾銃に振るいながら装填し、銃身を戻す。火薬が必要ではあるが、弾丸はオレの気合で飛ばす。

 

 オレという存在がいながら、散弾銃を多用する奴には思うところがあった。だがそれとは別に、散らばる弾丸が装甲を貫通し人間程度ならやすやす身体の一部を血霧に変えるだろう威力は、多少なりとも興味があった。そういう理由もあるし、仕方ねえから持っていってやらんでもない。

 

 「さあて、メイン前のオードブルだ。しっかり喰わせてもらうかな」

 

 エルフの脂身の少ない味気ねえ肉は喰ったが、人肉も考えてみれば久しぶりだ。勿論、モスコーでの相棒や治療の為に行う捕食はカウントしないことを前提としてだが。

 

 こうして他の野郎や女を喰って思うことだが、やはり相棒の肉が一番美味い。多少人間の生活によって味は上下するものではあるが、もしや感情で味覚が変化することもあるのかと思うほどである。

 

 もっとも、人外に堕ちた野郎の味は分からんが。

 

 相棒が堕落するとしたら、オレの囁きによってだ。決してファザコン拗らせた気持ちの悪い雌狐の執着によってではない。

 

 肉を噛み千切り、呑み込む。血液で喉を潤し、少しでも力を蓄える。この帝都がどうなろうが知ったことではないが、相棒は必ず取り戻す。オレ好みに染めなおす為に。



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 地下施設に施した要塞化の仕掛け。外部への対策であったが、内部の問題で使うとは思わなかった。

 

 内部の仕掛けは外部が突破された際の迎撃装置。足止めに重点をおいたものであったが、最初からそれを目当てに起動するなんて、人生なにがあるか分からないとも言うが予想外のことなんて、生きていて一度か二度くらいで充分なのだが。

 

 「ふざけた話だよね、本当に」

 

 杖を地面に叩きつける。ドーム状に広がる天井に幾つか淡い紫色の光が漏れ出し、鉄鎖を模した光紐が伸び狼の身体に巻き付いていく。狼が動く度に鎖が擦れ揺れる音が響き、限界まで伸ばされた鎖に阻まれ身動きがとれなくなっている。遠吠えをあげようにも、その長いお口はさぞ鎖がまきやすい。唸り声がせいぜいだ。

 

 背中から生える刃も鎖に束ねられ、抵抗により火花をあげるのみ。鎖はしばらくはもちそうではある。頑強な鎖を褒めるべきか、それとも時間をかければそれを破壊できる威力をもつあの刃を褒めるべきか。

 

 「外敵の備えを内部の異変に使うか。それは、二百年前くらい放浪人が伝え聞いた知識から復元した備えだよ。テスト以外で使うのは初めてだけど、どうだい?てそのお口じゃ喋れないかぁ、残念」

 

 呑気なことをと言いたげな視線を向けられたが、減らず口一つ叩けないようでは危機に直面しても冷静に対応することなど不可能だ。

 

 さてこれはこれで良いとして、すぐにここから逃げなくてはならない。地上の異変は当然隠しようもなく、この鎖だって長くもつものではない。早急にここから離脱をする必要がある。

 

 持ち出せる貴重な物は持ちだしたいが、大して時間はないだろう。取捨選択を素早くこなし、さっさと隠し通路から退散するにかぎる。後の始末は、他の連中がやればいい。

 

 「カビの生えた古文書とか魔術書とかは捨て置いても良いよ、全部頭の中に入っているから落ち着いたら復元を作っちゃる。夢魔の肉片もいらね、レッドアイのサンプルはまだリスムのハーウェイにあるしそこからいかようにもなるしね。各々必要だと思うもの鞄に詰め込みなよー」

 

 研究資料だとか、仲間の形見だとか、嵩張る物以外は個人の判断で回収させる。鎖が持つまでの時間は十数分が限度かな?この要塞は外部、ここに近づいた人間から活力を奪いエネルギーに変えている為起動命令にしか魔力を使わない。命令をださなくても自給自足できる良い子なのだ。

 

 要塞管理者であるボクは、要塞の状況を逐一把握できる。鎖の耐久力もそれで把握することができるし、外部に問題がおきればすぐに分かる。

 

 鎖はそのうち破壊されても構わない。あれが暴れてくれれば、首都に混乱がおきるしその分雲隠れもしやすいというものだ。なるべく長く軍やエンパス教、竜狩り相手に暴走してほしいから今攻撃をすることもない。

 

 「ボクも集めたコレクションとか持ちださないとねぇ。まったく、赤字もいいところだよほんっ」

 

 個室に向かおうとした瞬間、ズルッと左足首を紐のようななにかに縛られて引っぱられる。

 

 仰向けに転倒してしまい、凄まじいスピードで引きずられる。散乱した机に杖をひっかけ、床の上に転がった。

 

 引きずられながら仰向けになる。なにがおこっているのかを確認した瞬間、危機的状況にも拘わらず「ひへっ」と変な笑いがでてきた。ランザ=ランテ、君はいったいなにになったというんだい。

 

 巨大な狼になって出現した彼の胸元が、パックリと開いていた。赤い筋肉が露出しており、脈打っている。おいおい、そこには心臓とか必要な臓器とかがある場所じゃないのかい?人妖だとしても、生きている以上内臓なんてどっかにお引っ越し出来るもんじゃないだろう。

 

 「当代!」

 

 「射って!なんかこれーヤバいから!」

 

 生き残りの部下達からの援護射撃が飛ぶが、効いているのかいないのか。傷がついているからには効果はあるかもしれないが身動ぎすらしない。ただその瞳が、偽物とはいえ魔眼と類することができるあの眼がただまっすぐこちらを見ていた。

 

 背中がゾクゾクと震えるのを感じた。この状況で呑気なことを言うが、あれは刺さる者には刺さる。時間があればじっくりと分析をしてみたいものだと思ったのは、現実逃避からの考えだろうか。

 

 「当代!受け取ってください!」

 

 誰かが衝撃魔法で飛ばしたか、引きずられていく進行方向に触媒となる杖が回転しながら転がり込んだ。左手を伸ばしてそれを掴み、至近距離まで近づいた狼の巨体に向けて最大火力の一撃をぶち込むべく先端を向ける。

 

 サラマンダー。火蜥蜴を模した、人間数人程度なら丸呑みにして瞬時に黒焦げにする魔法。暴力的な炎による奔流はボクのお気に入りだ。物語に出てくるような魔法を扱う者は、詠唱というわざわざこれから放つ技を宣言するような無意味な行動をよくしているが、子供の頃はこの魔法にあうカッコいい詠唱を空想したものでもある。

 

 初めて覚えた、小手先ではない大火力魔法。これを近距離から連射してわざわざ見せつけた内部の肉を消し炭にしてやろう。いろいろ台無しにされたので、それくらいの権利がボクにはあるだろう。

 

 「っ!」

 

 なにか言おうとした、その瞬間思考が霧散する。視界の端で捉えたのは、針がついた管のようなものが首筋に向け伸びていること。針が刺された痛みと共に感じるのは圧倒的多幸感。

 

 口が、金魚のようにパクパクと動いたがそれ以上なにもできない。中身のない幸福、意味のない快感。僅かに残った思考する能力がギリギリのなかでこれがなんなのかを過去の記憶から全力で検索をしていた。

 

 レッドアイだ。好奇心からボク自身も試したことがあった。勿論、廃人とならないように一摘を最適濃度に希釈したものだったがその日一日意味もなくウキウキしながら過ごしていたことを思い出した。効果が切れてからは、心の中に穴が開いたような気分になりしばらく自分を律するのに苦労したものである。

 

 おいおい、夢魔じゃないだろうに。なんでまた君にそんな能力が備わっているんだい?

 

 夢魔を殺害してそれを養分にしたせいか?それとも原液を注射二本分君に打ち込んだせいなのかい?ああ、興味深いね。いやどうでも良いね。あれ、どっちだろ。どっちかな。どっちでもいいか。

 

 手に持っていた棒きれがなんなのか分からない。邪魔だったから捨てる。誰かがなにかを叫んでいたけど、なにを言っているんだろう。

 

 足先になにかが巻き付いた。生暖かいぬとりとした感触がブーツとハーフパンツの間にある露出した足に巻き付いている。暖かい空気が身体全体にかかるが、不思議と嫌な気分ではない。

 

 「んっ」

 

 ブーツの隙間に細い紐が入り込み、なにかが刺さる感覚が皮膚のうえで快感として襲う。ハーフパンツの中にも長い物が入り込み太腿にも幾つかの小さな痛みを感じた。刺された場所から液体が送り込まれる度に、無図痒いながらも心地よい、けどなにか物足りない。

 

 そもそも足だけなのが悪いのだ、けち臭いことしてないで一気に全身に注入してくれれば良いのにねぇ。それにレッドアイは経口接種でもかなりの効果があるよ。ああでも、触手状の器官から口に注入するって絵面があれすぎるかな?どうでもいいけど。

 

 「んにぃああああああ!」

 

 フワフワしていた脳髄が、急激な刺激に悲鳴をあげた。下半身より下が、肉の中に呑み込まれパクリと閉じてしまっている。肉の塊にサンドされている状態であるだけなのに、露出している素肌からまるで神経が剥き出しになっているように刺激を伝えてきた。

 

 不快感ではない、むしろ逆だ。性的快楽とも似たようで違う、言語化することが難しい。ただここにいたいと思わせるなにかがあった。

 

 上半身がビクビクと痙攣していた。筋肉が緩んだせいで失禁をしたかもしれないが、もはや下半身がどうなっているかも分からない。

 

 誰かが手を掴んだ。引きずりだそうとしているように引っぱるが、それを振り払う。ふざけるな、どこの馬鹿垂れだ。耳元で喧しいよほんと。

 

 「ひへ?」

 

 ズルズルと吸われるかのように身体が呑み込まれていくが、そんな感覚を楽しんでいたら耳になにかが突き入れられた。バリッという音と共に世界から音が消える。喧しいと思った直後にサービスがいいなぁ。

 

 でもなんだかパリパリだかバリバリだか、クチャクチャだかメチャメチャだか、よく分からないなにかが頭の中に響いていた。そんな音と言って良いのかも分からないものを脳内で反響させながら、呑まれるごとに幸福感に満ちていく感覚を楽しむ。

 

 全てが肉の中に入り込んで、初めてボクは心を落ち着かせることができた。すぐ近くでドクンドクンという生命の鼓動が脈打つのを感じる。もう長らく感じることもなかったが、春の日差しを浴びながら微睡んでいるような気分だ。

 

 頭の中でトロトロと水が流れるような音が響く。耳から届くことがない音を音といっていいのやら。とにかくそれはまるでなにかを、いや魂でも探しているように這いまわっていた。

 

 それでもなお安心感がある。外との感覚を絶ち、この緩やかな肉の牢で腐り果てるのも悪くはないと本気で思えてしまう。まるでゆりかごのようであり、思考を放棄してしまいそうだ。

 

 不眠の魔法を習得して魔法使いとして一人前と認められた思い出も、古文書を解析し脳内に刻み付けた記憶も、夢魔製造の過程において試行錯誤を繰り返した苦労の記憶も全てが緩やかに流されていく。それがたまらなく心地好い。恐怖心すら感じないのが、恐怖だ。

 

 『魂の重さは、21gと言われている』

 

 師であり親である、先代の言葉が脳裏をよぎった。崩壊しかけている思考が緊急事態として過去を強制的に思い起こさせることで自己防衛を働かせているのかもしれない。

 

 なにがきっかけの話だったか、書庫にて勉学の最中始まってしまった講義にやや面倒に思いながらも聞いていたことを覚えている。

 

 『死後人体はそれだけ軽くなり、それが魂の重さと言う学者がいた。だが人間というのは心臓が動いていることで生きている。その心臓は鼓動をし血液を循環させることで各種必要臓器を機能させ生物は生存しているが、魂などという器官は当然ながら存在しない。ならば古より語り継がれる魂とはなんなのか。ウェンディ、お前は分かるか?』

 

 『存在しないが正解だとボクは思うけどなぁ。だいたい21gとかいうけどさぁ、何人の死体で試した訳その人。怖いねぇ、そんなどうでもいいことの為に死体を弄ぶなんてさぁ』

 

 『心にもないことを言うな。魂というのは存在しえる。私が思うにそれは思考能力。信念、哲学、知識、理性だ。それを侵されることこそ、魂が侵されるということ。我等、知恵と魔力を力とする魔法使い達にとってそれだけはなんとしても避けねばならない。我等魔法使いが、洗脳という手法を廃止しつつその対抗策を身に着けるのはその為だ。思考のすり替え、強制は魂の汚染、すなわち自我の崩壊に他ならない。よく覚えておけ』

 

 師である父の言葉が記憶を巡った瞬間、突如身震いするような感覚が脳内の覚醒を促す。

 

 思考が、幾分かクリアになる。そうだ、これがレッドアイによる多幸感によるものならば今頃ボクは夢の世界に堕ちている筈だ。それは何人もの実験体を通じて証明した疑いようのない効用である。

 

 ならば何故、ボクはまだ夢の世界に堕ちてはいない?

 

 そう考えた瞬間、一つの思考が頭によぎった。それはランザの声ではなく、女性の声。彼の記憶のどこかから響く音。

 

 『かしずき捧げるか、屍になるか』

 

 自分の心臓がドクンと大きく跳ね上がる。だが、その問いに応える暇もなく、ボクは外界に排出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「そう、ただの狼では、ハティではないのですよ。その存在を生み出すだけなら、ここまでの苦労はかけませんよ」

 

 「人妖でもない吸血鬼と相争わせたのはそのせいか」

 

 「サグレ=イグロス。現代に蘇った始祖たる吸血鬼の直系。その血は僅かでも影響を色濃く残し、吸血鬼としての本能と性質を血に宿します。あくまで仮初の為お父様の自覚症状はせいぜい夜眼が効くようになった程度でしょうが、その本質は別にある。吸血鬼最大の特徴、眷属作りの能力。その片鱗を無意識にでもお父様は宿しているのです」

 

 ガスパルはここで、背筋が寒くなる覚えをした。悪魔として長らく生活をしており、それなりに様々な人間を見て来た。だが、テンが考えていることを理解できてしまい、類似するような思考回路を持つ存在は今まで見て来たことがなかった。おぞましさ、と言える類の考えだ。

 

 「まさか、お前」

 

 「その先、今は口にしないでください。今私は、抑えて抑えて、必死なのですから。我慢できなってしまいます。フ……フフ。レッドアイ、吸血鬼の血、贄を吸収する力。その三つが混ざり合う効果は……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハッ……ハハハ」

 

 乾いた笑みが漏れる。気づいたら、ボクはランザ=ランテの、狼の前で膝をついて放出されていた。まるで夢のようなひと時であったが、身体中にこびりついた血臭のせいで先程までの時間がそうではないことが証明されていた。

 

 「便利使い出来ると、思ったのかい?それは復讐に体よく利用する為かな?それとも、この場を切り抜ける為だけに?」

 

 成程、あの視線に込められた意志は、悪意でも敵意でもなかったか。

 

 利用価値、この急場をしのぐための最善手。違和感があるのも当然だ、レッドアイを二本打ち込むという暴挙をした相手に敵意がないのだから。こうなって気づくとは、ボクの思考能力も案外稚拙なものだ。

 

 傍目から見れば、ただ呆けているだけに見えたボクの肩に誰かが手を触れた。なにかを喚いているようであるが、よく分からない。ああもう、五月蠅いなぁ本当に。

 

 どうでも良い。

 

 今まで積み上げたものも、夢魔も、魔法使いの復権も帝都掌握もレントもエンパス教もどれもこれもなにもかもあれもそれも全てが邪魔だ!

 

 何故出したのですか。何故選択肢を与えたのですか。あの暖かな揺り籠の中で、庇護の元で、護られる感覚を味わいながら腐りはて溶けていく感覚を味合わせておいて今更こんな世界に放り出すなんて鬼畜もいいところだ。

 

 肩の手の感覚が不愉快、外気ですら肌ささくれ立つように煩わしい。呼吸をする空気に不快な味がある。着ている衣服すら鈍重な枷の如く感じた。

 

 「……がい……す」

 

 口から言葉が漏れた。

 

 「お願いします」

 

 もうこんな世界、心の底からどうでも良い。ボクの今までの人生は、この終着点に辿り着く為に存在した。

 

 これからおこることを想像し、まっ先に呑まれていた下半身が切なく疼く。指先に至るまで神経が張りつめており、早くあの庇護の元役割を放棄してただの肉塊になりたいと切なく訴えていた。

 

 「ボクは……ウェンディ=アルザスは。貴方に隷属します。非礼を詫びます、どうかしていました。どうか、お詫びとしてボクの魔力、いえ魂の一片まで使い潰してください。代わりにボクを、また庇護してください。溶かし、堕として、ください。」

 

 膝をついたまま、地に額をこすりつける。ああ、早く、早く、早く。あの暖かな微睡の中で溶けていきたい。レッドアイに侵された者のこんな気持ちだったのだろうか。こんな世界にはもう、一秒だっていたくない。

 

 ああ、貴方様は何故戻ってこれたのでしょうか。この艱難辛苦しかない世界にと。

 

 狼は、ランザはそれでも動かない。それだけで涙腺に涙が溜まり、泣きじゃくりたくなったがまだするべきことをしていなかった。ボクがこの世界において行う、最後の仕事。

 

 「喧しいよぅ」

 

 足元に転がる杖を拾い、背後に、喚くなにかがいる方向に向ける。近距離から飛び出たサラマンダーが背後の存在を消し炭にする。

 

 背後の存在。ああ、思い出した。ここにいるのはみんな魔法使いの生き残りか。どうでも良い些事だったから、忘れかけていたよ。

 

 杖先に込めた魔力を開放。狼に巻き付いていた鎖が砕けて落ちていく。喚き声と共に、周囲から炎弾や水刃がボクの方向に向けて飛んできたが、二対の連結刃が盾のように降り注ぎそれを防いだ。

 

 一歩前に歩み出た狼が、躍り出る。自由に解き放たれた狼の躍動は、後はもう虐殺といえるようなものであった。全てが、人生が台無しになっている光景を目の当たりにし、ボクの頬は緩んでいた。

 

 性的興奮等の類などともまた違う、なんといえば良いのだろうか。

 

 裏切者、死にたくない、様々な悲鳴が耳に届く。あれ、そういえば鼓膜は破れたものだと思っていたけれどちゃんと聞こえるものなのだなとぼんやりと考えていた。以前なら興味深いくらいは考えたかもしれないが、今は来るべき瞬間を待ち続けるのみとなっている。

 

 逃げ回る者が多い中、時折やぶれかぶれにこちらに向けて攻撃をしてくる者もいたが、その度に連結刃が伸び攻撃を防ぎ、かき消した。ただ立ち尽くしているだけなのに、安心感がすごい。

 

 ああ、分かった。安心感なのか。

 

 もうボク自身がなにをするべきことはない。他者との会話も、魔法の研鑽も、魔法使いとしての矜持としがらみも必要ない。全てを放棄してもなお得ることができる安堵。心のなかで抱えていた重たいなにもかもを切り捨てていく感覚。

 

 もうなにもしなくても良いのだ。この身と魂を捧げるだけで良い。

 

 杖を、取り落とす。片手を動かし、止め紐を解き着ていたローブが床に落ちた。ブーツを脱ぎ捨て、床のうえに足を降ろす。肌着を脱いで、小ぶりで成長が止まってしまった胸が外気にさらされた。もはや、不要な衣服はいらないだろう。心身共に全てを放棄することで、捧げる準備を整える。

 

 「……ああ」

 

 巨体の前で、かしずく。水色のふさふさした獣の体毛が開き、内部の赤い空間が再度露わになった。口端から唾液を垂らしてしまい、待ち焦がれた瞬間が訪れたことに歓喜が身体を震わせた。

 

 「捧げます」

 

 最後に見たのは、内部から延びる触手の奔流。身体に巻き付いていくそれを感じながら、目を閉じた。あるべきところに帰るのだ、もう視界も必要ない。

 

 引きずり込まれた胎内で、肉が閉じる。暗闇の中で水音と共に、心地好い心音が聞こえた。生命の胎動が、まるで子守唄のようだ。

 

 そのまま眠りについてしまえるかとも思ったが、少し違った。気づいたのは違和感からだ。

 

 暖かい感触を肌越しに感じていたと思ったが、いつの間にかその境界線が曖昧になっていた。どこからが自分でどこからが相手なのか分からない。まるで臓器の一つにでもなってしまったかのようだ。

 

 指一本動かせない。いや指という感覚がない。なにもない、ボクにはなにもなくなった。骨や筋肉すらも存在しない、呼吸器や排泄器のようなものなど必要としなくなる。

 

 ……っあ

 

 思考になにかが介入してきた。それに合わせて、魔力が放出され捧げられ、どこかに吸収されていく。身体から力が抜けていく、もう存在するかどうかすら定かではないが、背筋が歓喜に打ち震えた。体内ではまた魔力が製造されており、早く吸いあげてくれと切なくその時を待っている。

 

 狼は、ランザは、ボクのこれが欲しかったんだ。ボク自身の性格や存在、個体としての価値などそれ以外なに一つ不要なのだろう。でも捧げる選択肢を選んだボクはそれでいい。酷使してほしい、使い潰してほしい、この魔力を生み出す魂を染めあげてほしい。

 

 もう嫌だといっても、抵抗できない。吸い上げられる度にボクは、興奮と快感に打ち震えるのだろう。ただそれだけの存在として、利用されながらも安心感に身を任せ、あとはもうなにもせずに微睡んでいられるのだ。

 

 本当に、今まで生きてきて良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天井が開いていく。大量の瓦礫が崩れ落ち、裂け目からまるで天井に向けて花を開くように稼働し夜空が見えた。

 

 天に輝く月に向けて、四肢に力を入れて飛び上がる。地下から這い上がり、空を目指す。

 

 地上に降り立った瞬間、夜の空が優しい月明かりから寒気のする蒼光に変化した。建物の上、目の前に現れた妖狐は半月のような笑みを浮かべ恭しく頭を下げる。

 

 「お待ちしておりました、お父様」

 

 二体の人妖が、帝都にて向かいあった。

 



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 寒村の産まれだった。

 

 食い扶持に困り、春を無事に迎える為に売られる。決して裕福ではない農村であるならば、あの国のみならず世界中どこにでもある光景だろう。

 

 人買いの手に引かれて村を離れる際、小さな弟と妹が泣いていた。あの頃のことはほとんど覚えていないが、残していく小さな家族達を不安にさせないように笑顔で手を振ってやったのを覚えている。深々と雪が降り注ぐ、小さく、小さく、そして貧しい農村だった。あの子達が元気に暮らしているかは、今はもう分からない。

 

 『私は従います』

 

 一言一句、間違えれば殴られる。跡が残らないように、効率的に痛みを与えられる殴りかたというものがあるらしいと、私の担当者は得意気に語っていた。

 

 『私のこの身も、心も、主様に捧げます。貧相な身体つきで恐縮ですが、満足させてみせます。どうか私を使用してください。決して後悔をさせません』

 

 宣言は幾つかあり、そのうちの半分近くが卑猥な言動を織り交ぜるものだった。初潮を迎える前からの仕込み、どういう客層に売られていくのかがよく分かるというものだ。上手く立ち回れば、今までの生活よりも美味しい思いができると言われていたがどうでも良かった。

 

 ただ、痛いのは嫌だった。覚えが良いと言われていたので、殴られることは他の子よりは少なかったがそれでも時折ミスを犯した時には殴打の拳が飛んできた。無感情に生きようと考えていたものだが、流石にそれだけは恐ろしかったのを覚えている。

 

 私の売却先は、先んじて決まっていたようであった。だがしかし、どんな事情があったのかは分からないが急遽船に乗せられ異国へと送られることとなった。

 

 決して少なくはない額で売り払われたらしく、不安しかない異国への旅立ちはとんとん拍子で進んでいった。船には同い年くらいの男女もいたのだが、彼等彼女等がどうなったのかは今となっては分からない。まああの事件のせいで生きている可能性は限りなく低いだろう。

 

 泣いていた子らもいたが、そんなことに意味なんてない。気にしてあげる余裕は私にはなかったし、ここで多少不安が取り除けたとしてもその末路なんて大して変わらない。船室に仮設された狭い牢屋の中、ずっと同じ体制でいた為動くのすら億劫だった。

 

 国を出てから三日後か、四日後だったか。突然船が大きく横に揺れたのを覚えている。狭い牢屋の中で他の子供達とぶつかりあいながら転倒し、その次の瞬間船の側面が大きく裂け船室の壁が鋭利で巨大ななにかに引っかかれたように粉砕した。

 

 壁の亀裂から見えたのは、翡翠色の背びれと美しい蒼色の鱗。大砲の弾が撃ち込まれていたが、その巨大な身体を左右に振りながら直撃を避けその巨体で船に体当たりをかましていた。頭部までは見えないが、甲板の方にその顔を向けているのだというのが分かる。

 

 直後、水圧を凝縮したような水流が船室を斜めに切断するように通り過ぎていく。二つに割れた船は、そのまま重量に引きずられるように左右に分断されたまま海上に倒れ込む。

 

 船の亀裂になんとか身体をねじ込み、切断された船のマストにしがみつく。巨大な生物、全船乗りの悪夢と言われた海竜リヴァイアサンはこちらに視線一つくれず海中に潜り消えていった。

 

 後に残るのは船の残骸と、浮かぶ死体。生存した者が近くにいたようであり、必死に声をだし緊急用のボートを探して冷たい海面を泳いでいるようだった。そして、どこからともなく血の臭いを嗅ぎつけたフカが集まり、死体に食らいついていた。

 

 海面を泳ぐ背びれでさえ恐ろしかったのに、さらに怖かったのはどこかで悲鳴があがり誰かが溺れるような音が響いたことだ。怖くてそちらの方を見ることができなかったが、なにがおこっているのかは必死に考えないようにしても想像ができてしまう。

 

 海面についていた足首になにかが当たった。そちらの方を見たことを、私は今でも後悔している。それは、断面からまだ新鮮な血が流れ続けている手首だった。慌てて蹴り上げたその腕は、しばらく浮いていたあと小さめのフカが食らいついて沈んでいった。

 

 日が落ちて、また日が昇る。疲労が身体に蓄積していたが、とにかく眠らないように意識だけは保つことに専念する。意識が途切れた時、海面に落ちてしまうことだけがなにより恐ろしかった。このマストのすぐ下は、あの世と繋がっていた。

 

 また日が落ちる。飢えはなんとかなるが、渇きはどうしようもない。海水を飲む訳にもいかない為、ただひたすら耐え偲ぶことしかできない。

 

 暗い海面を見ていたら恐怖に押しつぶされそうになる。私は目をつむり、意識を保つ為になにが原因でこうなったかを何度も反芻していた。何度も、何度も、何度も、何度も。

 

 朝から畑仕事に向かう父についていき、昼は弟と妹の面倒を見ながら食事の準備に勤しみ、夜には病にふせりがちだった母親に教わった内職で食い扶持を稼ぐ手段に勤しんだ。

 

 少しでも父の手助けになるよう働き、少ないと泣きじゃくる弟や妹の皿に私の分を分け、母の面倒を見ながら誰よりも遅くまで起きていたのに、その結果がこれなのか。

 

 農作物が不作となると、噂を聞き付けどこからともなく人買いが現れる。家を継ぐ長男は売れない、分別もつかない幼い妹はそもそも値がつかない。ならば白羽の矢がたつのは私の元だ。

 

 『育ててくれた恩を今こそ返します』「ウソだ」

 

 『■■と●●●はまだ小さいです。父様に言われずとも、私が名乗りでるべきだったでしょう』「ウソだ」

 

 『姉さんは行くけれど、二人とも元気でね。ちゃんと父様と母様の言うことを聞くんですよ。私も奉公先で頑張りますからね』「ウソだ!ウソだ!ウソだ!」

 

 後悔するふりをして人買いにもらった金銭に目を輝かせていた父の顔を見て見ぬふりをした。病に苦しむ母が、これで薬を買えるとどこか安堵した顔を浮かべていたのも気づかないふりをした。まだ分別つかない年とはいえ、なにも知らない無邪気な笑顔は引き裂きたくてしかたなかった。

 

 「なんで私ばかり!お前が大事等という戯言を漏らす父も、どこか肩の荷が降りたような顔をする母も、なにも知らず無邪気に笑うお前等も嫌いだ!私は頑張ったんだ!頑張って頑張って、少しでもみんなを楽にしてやりたかったのに!跡継ぎが産まれたから、代わりの娘が産まれたから、私なんていらないとでもいうの!?金なんかと引き換えにしやがって、その方がお前の為だなんて、戯言をぬかすな!ねえ代わってよ■■!一度くらい私を助けてよ●●●!ヘラヘラした顔で見やがって!誰か、私を助けてよ!」

 

 喉の渇きも気にならない程に、気づいていたら吠えていた。極限状態に陥っていたせいか、すぐ近くに父が、母が、弟に妹達がいるように、正面には見えないがまるで視界の端にちらつくように映り込んでいた。みんなは決して助けてくれない、私を売ったお金を元に冬を乗り切り家族一丸となり頑張っていくのだろう。

 

 みんな笑顔だ。私を売った金で購入した食材で鍋を作り、みんなで囲炉裏を囲んでいる。くたばれ、くたばれ!くたばれ!!くたばれ!!!

 

 なんでもしますから、誰か助けてください。愛してくれるふりはいりません。申し訳なさそうな顔をしながら、都合よく利用し、捨てようとしないでください。どんな苦難でも、共に乗り越えていくと言ってください。手を差し伸べてください、一度くらいは誰か私を助けてください。誰か……誰か。

 

 いつの間にか日が昇っていた。呪いのような慟哭を吐き続けていたうちに、いつの間にか時間が経っていたようだ。だがしかし、もう指一本動かない。

 

 『おいおい』

 

 誰かの声が聞こえた。聞き覚えがない、というかなんと言っているかすらも分からない。幻聴かとも思えたが、私の肩に手を置かれ軽く揺さぶられた。口元に指を置かれたり、腕や首筋を触りまだ生きているかどうか確認しているようである。

 

 『生きちゃあ、いるのか。面倒だなおい、釣りなんて来るんじゃなかったか』

 

 大きな手が、私の身体を抱え腕に抱え込む。腰まで海水に浸かりながら、岩の上にあがりしっかりとした足取りで私を助けてくれた。

 

 少しだけ目を開けると、険しい顔をしながら歩く男が目に映った。苦労が刻まれたかのように眉間には大きく皺を作っており、口ではなにやらぶつくさ言ってはいるもののその足は急ぐようにどこかを目指していた。

 

 時折こちらを見て、様子を確認したあとなにかを話しかけてからまた前を向く。言葉は分からないが、私に対する害をなそうとしている様子はないと感じた。

 

 海水にさらされていた身体に、この人の腕は熱い程だった。自分の本心と向き合ってから、ほしくてたまらなかった誰かの温もりを感じられた。

 

 ああ、私にもまだ救いはあったのですね。

 

 石造りの建物で、異国の女性達に介抱される。身体をふかれ、少しずつ少しずつ水を飲まされ、小さくちぎり水でふやかした食べ物を与えられた。女性の一人がボロボロの服を持ち込むが、今の私が着ているものより上等な品物だ。思うように動かない身体を介助し、手伝ってもらいながら着替える。

 

 二人の男性が、なにやら言い争うような声が聞こえる。奥の部屋から出て来た彼に、私はなんとか近づいて抱き着いた。世話をしてくれたのはありがたかったが、それでも言葉も分からない大人の女性数人に囲まれるのは少しだけ怖かったのは確かだ。

 

 彼の元に辿り着くのに、動かないかなと思っていた身体が動いた。私に手を差し伸べてくれた人と、離れていたのが不安だった。しかし彼はそれをよしとはしなかった。怖い顔をしてなにかを言いながら、私を引きはがそうとする。

 

 それでも離れられなかった。この手を離してしまったら、私はなにを支えに立てばいいのか分からない。彼が善人か悪人か、どうでも良かった。崖際に捕まるように、私は彼にしがみつく。

 

 それでも、大人と子供の膂力。弱った身体では彼を掴んでいることができず、引き離されてしまった。

 

 ショックと、疲労からか、私はそのまま意識を失うように眠りについてしまった。目が覚めた頃は、だいぶ時間が経っており私は寝台に寝かされていた。

 

 眠りにつく前のことを思い出す。この国の言葉は分からないが、それでもここに私の居場所がないことは分かっていた。近くに誰もいないことを確認し、木窓を開けて建物から外を出る。あの人を探そう、私の頭には後先考えずそれしかなかった。

 

 もう一度、会いたかった。私が求めてやまない助けに、応じてくれた人。この細い身体でなにができるか分からないが、望むならば差し出してもいい。元よりどこかの誰かに売り払われていく身であったのだ。

 

 数時間は、村を彷徨った。日も暮れて、心細くなってくる。

 

 抜け出した以上あそこに戻る訳にもいかない、かといってあの人の元以外に行きたい場所も行く場所もない。山にあるか海が近いかの差しかないような、私の村と同じ小さな集落だ。きっと見つかると自分で自分を鼓舞しなければ、うずくまってしまいそうだった。時折すれ違う村の人間からも奇異な目で見られる。声をかけられたこともあるが、なにを言っているのか分からず怖くなって逃げてしまった。

 

 そんなことを繰り返しすっかり心が折れそうになっていた。だが運命は、ここにきて私の味方をしてくれた。道の正面から歩く彼と目が合う。

 

 私ははちきれんばかりの笑顔だっただろうが、彼は気まずそうな顔をして家の中に飛び込んだ。その家の扉にしがみつき、私は声をかける。

 

 「お願いします!ここを開けてください!ただお礼を言いたいだけです、顔を見るだけでいいのです!助けてもらった身で要求するのは、筋違いであることは理解していますが、話を聞いてください!お願いします!」

 

 相手は異国人。いやこの場合は私の方が異国人か。言語の壁があることを、忘れていた。ただ、もう一度私を助けてくれた人の顔を見たいというのは本心だった。せめて、それだけは。恩返しもしたいし彼のことを知りたいが、それが不可能でもせめてもう一度目を見てお礼を言いたかった。

 

 迷惑極まりない行為だろうが、それでも私はそうせざるをえなかった。あの冷たい海中から、拾いあげてくれた人。いくら感謝してもし足りない。

 

 ハイになっていたのだろう。限界に気づかず、いつの間にかまた私はその場に倒れ伏していたようだ。

 

 次に目が覚めた時、私はまた寝台の上にいた。ただし今度は、幾分かは男の匂いがついたシーツで寝かされていた。物が乱雑に散らかった家の中を確認していたら、あの人が戻ってきた。

 

 昨晩取り乱していた分、少し据わりが悪い。お礼を伝えようにも、言語の壁を今更意識してしまい縮こまってしまう。

 

 だが空気を読まない腹が音をたてた。ふとテーブルを見ると、焼いた魚となにやら黒い塊が置かれている。それに気づいたのか、彼は舌打ちをしながら黒い塊を差し出した。食べるジェスチャーを見せている為食用ではあるようだが、硬すぎるそれは体力が落ちて弱った顎では噛み千切ることすら難儀である。

 

 彼は塊を取りあげ幾つかの大きさに千切ると、水の中にいれて湿らせた。幾分かは柔らかくなったそれをようやく食べ始めた私に、異国の言葉でなにかを伝え外に出ていく。

 

 どうやら、今すぐ追い出されることはなさそうではあった。

 

 木造建築の建物であるとはいえ、囲炉裏がない内装は大きく違和感があり、改めて私は異国に来たのだなと実感した。家の中は大きな机と寝台があるくらいであり、床には酒精の臭いがする入れ物が無造作に置かれており、窓際に積もっている埃から普段はそれほど掃除などはしていないことがうかがえた。

 

 食事をそこそこにすませ後片付けをしようと台所にと赴くと、こちらもこちらで異質な雰囲気がある。道具類や食器は整理整頓されてはいる。あるべき所に、あるべき物があると言うべきか。それなのに料理の痕というか、魚の油や野菜くず等が清掃されていない。キチンとしているのかズボラなのか分からない。

 

 「……うん」

 

 少し家の中を探索し、掃除用具を見つけた。土地は違っても、この手の道具は変わらないと感心したものだ。

 

 恩返しという訳ではない、ここに置いてもらえるように点数稼ぎをする訳でもない。ただ、掃除という日常行為を私は行いたかった。

 

 故郷にいた頃も、忙しいなか隙間を見つけて行っていた日常の動作。今私はその動きをしたくてしたくてたまらなかったのだ。

 

 生ごみは集めて庭に穴を掘りその中に廃棄する。ボロボロの布巾を使い、油や魚を捌いた痕の血を拭い綺麗に拭いた。酒精の強い入物は一ケ所にまとめ、床の掃き掃除をした。酒の入物以外散らかるようなゴミや荷物もないのがどことなく奇妙な気がした。

 

 目につく汚れを全て綺麗に落とし、掃除という行為に夢中になって行った。満足し、寝台に背を預け座り込んだ瞬間強い眠気に襲われた。やりきった気持ちよさと同時に、気が抜けてしまったか。

 

 物音で目が覚めた。いつの間にか彼が家に帰り、新しい入物の封を開けて酒を注ごうとしている。

 

 顔は疲れ果てており、身体からは土と汗の臭いがした。畑仕事をして家に戻る父と同じ臭いだった。

 

 売られてからの教育の一つに、お酌の練習があった。とにかくそれを思い出して、教育を繰り返された身体と頭は半ば自動的にその行為を行おうとした。しかし、徳利等馴染みの物と違いこの入物は重い。いつも通りの動作をしようとし、床に落としてしまう。

 

 粗相を行った時、行われるのは指導と呼ばれる暴力だ。立ち上がる音。傷物は売り物にならない、だがしかし傷物にならないように痛みを与える方法を人買いは理解していたのを思い出す。

 

 衝撃に備えて思わず腕を掲げて目を瞑ってしまう。だがしかし、感じたのは温もりだった。彼はなにかを優しく語りかけた後、頬に涙を流しながら私を抱きしめていた。

 

 人の温もりに、私も後からあふれ出す涙を止めることができなかった。背中に手をまわし、延々と泣き続ける。

 

 助けてくれて、ありがとう。手を差し伸べてくれて、ありがとう。言葉が通じないのがもどかしかった。この気持ちを伝えたかった。私はこの場にいても良いのですかと、尋ねたい。もう一度家族のような温かい関係を誰かと築きたい。

 

 もう二度と、この温もりを手放したくはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理想の崩壊は早かった。

 

 言語を理解して、交流をし、何時か役に立つ筈だと様々な知識を本から吸収しながら、義理の父となったお父様と生活をしていた。

 

 職を変え、新しい生活をスタートしたが仕事は最初はあまり上手くいっていないようだ。それでもと歯を食いしばりながら、最近ようやく少しずつ認められ始めたと話していた。

 

 それと同時に、彼はある女性との交際をスタートした。一抹の不安を感じながらも、まだ私は耐えることができた。口惜しくはあるがあくまで私は娘という立場で、お父様の庇護下に置かれている身だ。年齢差を考えるのは愚かしいことであるが、もしもそういう関係となった時世間から白眼視されるのは想像に難くない。

 

 私の我儘は、彼の破滅に繋がる。呑み込み、我慢するしかないだろう。ただ一つ、確実にくる未来から目をそらしながら。

 

 表面上は祝福をしたし、私自身波風を立てることを嫌った。なんだかんだで性格上では悪い人ではないが、とにかく不器用すぎるし要領が悪すぎる。これがお父様の選んだ人なのかと辟易しながらも穏やかな生活を演出していた。

 

 我慢ができた理由は、それでもお父様が選んだ人だから。悔しくも私だけでは届かない、癒やしを与えていたのは認めざるをえない事実なのだ。私を邪険にしてくる訳でもなく、表面を取り繕うのに意外と苦労はなかった。

 

 私も、この人なら別にいいかな……とある種の認めと諦めを抱いていたほどだ。

 

 しかしその先に待つのは、当然の結末だ。結婚をして、肉体関係を持ち、そして子供が産まれた。

 

 心構えをしていたつもりだが、女の子を見た瞬間私の顔はさぞかし青ざめていたであろう。

 

 初めての子供を育てる母と、仕事と両立させながらそれを最大限サポートするお父様。必然的に私に割かれる時間は少なくなり、少しずつ内心が蝕まれていくのを感じた。

 

 それでも私も、と何度も考えなおした。だが家事を手伝っていても、子守を手伝っていても、思い返すのは生家での出来事。どんなに家族に尽くしても、結局は売り払われて捨てられる。お父様がそんなことをしないと信じていても、所詮私は義理の家族で偽りの娘だ。

 

 実の父にさえ捨てられたというのに、本当の家族を手に入れた今代用品の私にいかほどの価値がある。いやそんなことはない、私は大丈夫、捨てられない。本当に信じられるのか?お父様はともかく、家計が苦しくなった時母になにかを言われたら?売られたらどこかの成金の性欲処理に付き合わされる?最悪またあの大海原を、怨嗟の声をあげながら丸太に掴んで漂うのか?

 

 眠れない夜を幾番過ごしたか。そんな日々に耐え切れなくなり、私はお父様に不安の一部を打ち明けた。最近構ってもらえずに、寂しいと。無視されている訳ではないが、もっと見てほしいと。

 

 ちょうどお父様は、商人について街に行くタイミングであった。寝台や棚等重くなる品を家具工房で部品を作り、遠方にてそれを組み合わせてから販売をするためだ。

 

 お父様は、少し困り顔をしてからこう言った。

 

 『お姉さんなんだから、我慢してくれな』

 

 初めての赤ん坊の育児。気を遣う職人仕事。そのどれもが大変で余裕はなかったのだろうとは思う。でもそれでも、我慢してくれという言葉に私は目の前が真っ暗になった。今まで我慢をして、して、して、して、して、して、してきたというのに!

 

 本当はあのアリアを家族に迎えたくなかった!事故にみせかけて流産させてやろうと企んだことが何度あったか!あの巨大な妊婦の腹を踏みつけてやれば、後に罪悪感にさいなまれようとさぞ気持ちが良かっただろう!それでも私は我慢してきたというのに、これ以上なにを我慢しろというのか!

 

 所詮は、よその子供だ、拾った子供だ。愛情を注げる優先度等低いに決まっている。このままじゃ私は何時かまた売り払われる。信じていた実親ですら、いくら苦渋があったかもしれないが売り払う時はあっという間であったじゃないか!

 

 数日間は、理性と本能の戦いだったと思う。でも私は、気づいたら斧を握っていた。

 

 ニーナ、ごめんとは言わない。でも貴女がいたらお父様と家族にはなれないの。斧を引きずりながら歩き、お父様の手作りである赤ん坊用の寝台で眠る子供を見る。その寝顔が、これからお父様の愛情を注がれ育っていくこの子が酷く憎たらしい。

 

 ふと、この子が男の子だったらどうなだったんだろうなと考える。お父様によく似た男の子なら、私は可愛がることができただろうか?いや、栓無き事だ、考えても仕方ない。

 

 さて、その後のことはあまり覚えていない。ただ赤ん坊と、無駄な治療をしようとした女を惨殺しただけだ。

 

 こんな汚れたままじゃ、お父様が疲れた顔で戻ってきた時喜べないし安らげないだろう。二つのごみは、片方は大型だ。細かく分断してからじゃないと、捨てるのも苦労しそうだな。まあお父様が戻るまで、あと一日ある。重労働だが充分に間に合うだろう。

 

 これからまた二人きりの生活が始まる。そう考えて私の頬は緩んだ。

 

 しばらくはお父様も悲しみに打ちひしがれるかもしれない。こんな思いをするくらいならと、もう新しい家族を作らないでくれるなら嬉しい。いや、今度は私が嫁になれるかな?白眼視されるならどこかに引っ越そう。お父様の稼ぎが無くなるが、金銭は私がどうにでもできる。そのプランはもう考えてはいる。

 

 ひとまずは成長してからかな、ああ……早く大人になりたいなぁ。

 

 玄関が開く音が響く。思わず振り返ると、そこには予定よりも一日早く戻ったお父様がいた。しばし呆然としているお父様に、私は声をかけようとする。見つかったなぁ……と考えていたかもしれないが直後の衝撃でこの後のことはよく覚えていない。

 

 しかし、お父様大きく目を見開き棚にかけてあった猟銃を握りしめた。弾を装填しこちらに向け、激しい憎悪に満ちた瞳で引き金を絞る。

 

 その瞳を見た瞬間、私は硬直した。

 

 ハッキリと感じることができた、私という存在を強く、強く、これ以上にない程お父様の中に刻み込めたことに。

 

 それを感じ取り、心の底から喜んだ瞬間軽い身体が吹き飛び心臓に風穴が開いた。凄まじい衝撃は、精神的にも肉体的にも大きなショックを与える。まるで雷にでも打たれたかのようだ。

 

 私は、今お父様の、代用が効かない、他者には真似できない立場を手に入れた。今まで以上に激しく心が繋がっている。憎悪、殺意、敵意。風穴があいている筈の心臓がキュンとし、脳髄が、背筋が、下腹部が喜びの声をあげた。

 

 特別に、なれたのだ。

 

 お父様の特別!手に入れたくても、手に入れることだできなかった強固かつ崩れることができない繋がり!怒りと復讐心。なるほど、これは盲点だった。激しい感情はこれ以上ないほど私に向け注がれる。お父様に見てもらっている、内心の感情を私のことだけで染め上げている。なんと素晴らしいことか!

 

 ああ、でも終わり?死ぬ?もう?

 

 そんな訳、ないじゃないか。

 

 せっかく強固に繋がるこのができたのだ。今まで我慢してきた分、これからは遠慮をしないですむ。せっかく紡いだ魂の繋がり、無駄にしてなるものか。

 

 思い描くのは理想の身体。目的を果たす為の力。ああ、まだ終わりにさせませんよお父様。このテンを、もっとその怒りに濁る瞳で、憎悪で曇る眼球で見てください。私は、それでこれ以上ない程幸せなのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてたどり着いた終局。

 

 悪竜の、吸血鬼の、夢魔の、魔法使いの力を取り込んだ巨狼。ついに私と渡り合うのに相応しい力を手に入れたお父様。

 

 ここからはどちらでも良い。お父様の牙にかかり、この身を貪られ血肉になれるならば本望であるし、或いは夢魔の力で私をお父様の都合の良い存在に作り替えて魂が癒着されるのも興奮する。どちらにしても私とお父様は一つとして交わりあい永遠に離れることはないだろう。例え死んだとしても。

 

 逆にお父様に勝ってしまうようならば、その力を全て取り込んでお父様の魂を支配して隷属させる。そうしたら誰にも邪魔されない場所で、二人で永遠に過ごそう。この身体なら、今ならお父様の子供だって作れる。永遠に閉じた世界で交わりあうことだって可能だ。

 

 どちらに転んでも、私の目的は達することができる。

 

 最高だ、最高に興奮する。

 

 「さあお父様、お待たせしました。今こそ殺しあいましょう?さあその瞳を、よく私に向け見せてください。怨恨、憎悪、殺意。これまで丹念に丹念に培った全てを、私に……」

 

 違和感。

 

 なにかが、望みの状況と違う。いやなにかじゃない、気づいていたけど、認めたくなかった。

 

 「……何故ですか」

 

 何故、こうなっているのか。なにがあったのか。信じられない、どうしてという気持ちが心中をしめる。だっておかしいじゃないか、お父様の瞳はこれまで何度も何度も育み慈しんだ憎悪が込められていなければならないというのに。

 

 「何故、その目は憐れみを宿しているのですか?」

 

 殺意でも憎悪でもない、瞳に浮かぶ色。なんでそんな色を浮かべているのか、私は理解ができなかった。



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 「何故ですか」

 

 扇がひらりと宙を舞う。手から零れ落ちたそれは、静かに石床の上へ落ちた。

 

 お父様の目には殺意も、敵意も、憎悪も感じない。あれだけ強く繋がりを植え付け、育て上げた感情が霧散している。私だけが持つ、お父様との強くかけがえのない意志がどこにも見当たらない。

 

 まるであの猫にでも向けているような、憐れみの瞳。どうしてこうなったのか見当もつかない。

 

 殺意すら感じられない。動揺するこちらを、ただ眺めている。私が丹念に丁寧に育てあげたお父様の瞳じゃない。貴方はいったい誰なのですか?

 

 「まだ足りないのですか?」

 

 あんな誰にでも、それこそ道端に捨てられた畜生に向けるような視線など求めていたものではない。唯一無二の、誰にも真似できない立場をもってこその私とお父様なのだ。まだ足りないとしたら、その分また積み上げなければならない。

 

 でも、これ以上お父様のなにを奪えば、踏みにじればいいのだろう。

 

 「あの、猫ですか?」

 

 そうだ、あの灰猫。お父様に拾われた駄猫。使い道があるから放置していたが、目的の一部を果たした今となっては用済みである。くびり殺したところで問題はない。

 

 そうすればまた、お父様は私を憎んでくれる。悲しみから、怒りを生み出してくれる。そうでなければならない。そうしなければならない。もう、誰かの代用品扱いされるのは嫌だ。

 

 ふと、気づいた。気持ちが昂っており、興味すらなかった為注意をしていなかった。あの灰猫は、いったい何処にいったのだろうか。

 

 気配を探るも近くにいるような様子はない。地下に死体でも転がっているのかとも考えたのだが、お父様の落ち着きぶりから死んだということもないと思う。だとしたら、いったいどこに消えてしまった。

 

 なにかしらのイレギュラーがおきたことは間違いないと思う。だが本来そんなものは誤差の範囲である筈。この場に猫がいようがいまいが、関係はない話なのだ。

 

 耳がピクリと動く。風を斬る音が響き渡り、東の空から空を飛ぶ天馬達が飛来してきた。

 

 月明かりの中矢印のような陣形で飛び込んでくるのは鉄の軍馬達。魔術具の開発を専門としているオーデン技術連合の最新兵器である、飛行する騎兵部隊が迫りくる。

 

 「災厄め!帝都を荒らすことは許さん!」

 

 竜狩り隊、新隊長とやらが突撃槍を片手に叫んでいるのが分かった。それに反応し、お父様が私から顔をそむけそちらに注意を向ける。

 

 仇を、憎むべき仇よりもたかだか火の粉に注意を向けるのですか。私の中で、今まで自分を支えていたものが崩壊していく音が、頭の中で喧しい程に響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「クソッ!」

 

 ランウェイは壁に大きく拳を叩きつける。城にて前隊長であるガルシアに成果を報告しにいく途中で巻き起こった異変。監視していたエンパス教の拠点が崩壊、地下より巨大な建造物が出現し周辺市民に害を及ぼしているという。

 

 父であるガルシアは、ランザは監視に留めておき下手に触れるなと告げていた。彼は個人意志で動いており、信じ難いことに悪竜と共存に近い小康状態を保っている。竜狩り隊の一員として接触したのも釘を刺しておく為であると父は語っていた。

 

 父は最後の仕事として、北方に注意を向けていた。休止していた火山活動が徐々に活発化している異変と、その周辺に集まりつつある謎の勢力。そして非公開ながら連合王国の草を重要施設等なにもない筈の北方で捕らえている。

 

 大規模な一向一揆か。連合王国が接触しているということは、もしかしたらレンドリースや軍事顧問派遣、義勇兵派遣等目立たない形で帝国の背後を脅かすべく暗躍をしているかもしれない。そして北方の休火山といえば、火竜の伝説が残る地でもある。父は最後の大仕事として北に残る不穏分子を排除しようと戦力を傾けていた。

 

 私を次代における竜狩りの長にしたのも、後方を磐石にしたかったとも言えるだろう。竜狩り隊は曲がりなりにも帝国最強の部隊。その隊長が帝都を長く離れたとあれば民衆の動揺は避けられない。それは帝国になにか、対処しなければならない大きな災厄が近づいているのを予告しているようなものだからだ。

 

 海竜討伐の際も、貴族院は元老院にはリヴァイアサン討伐の利益を説いて根回しをし、民衆には帝国が千年先まで続く繁栄の為と演説をしていた。こういうのは政治屋共の仕事であるのだが、父はそれに同行して演説をしていたのを覚えている。

 

 父が私の意見案である新規隊員採用条件に賛同したのも、竜狩り隊の主力が出払っている間に帝都に置いておく、竜狩り隊という名前のついた兵隊たちがいた方が政治屋共を説得しやすいと考えたからであろう。ついでに私を新隊長に任命したのもその意図からかもしれない。

 

 だが父には父の考えがあるように、私には私の考えがある。第一このままでは竜狩り隊は分裂したままではあるし、指揮系統が二本あるようなものだ。古参共は新隊長である私を認めない。

 

 手柄が必要なのだ、大きな手柄が。長年行方不明となっていた悪竜の首ならばその手柄には申し分ないし、討伐した悪竜から情報を集めれば今後戦力増加の飛躍に繋がる。

 

 「市民の避難と護衛を優先させろ!治安部隊や駐屯部隊とも連携をとり帝国市民の犠牲を防ぐんだ!」

 

 「しかし、父上!あの異変を止めることこそが我等竜狩り隊の」

 

 「黙れ!我等は討伐隊ではない、その本質は竜のみではなくあらゆる災厄に対する帝国の盾と心得よ!民衆を護れずしての竜狩り等認めん!分かったらなら早く行け!」

 

 父は、皇帝からの勅命により避難までの護衛を受けたようだ。竜狩り隊の新隊長は私であるのに、その信は父に寄せられている。

 

 拠点に戻るその道すがら考える。本当に我等が行うのは、避難誘導か?今こそが竜狩り隊の役目ではないだろうか。

 

 迫りくる脅威の矢面に立つのが我等の役目。それこそ災厄の盾ならんとする信念に基づくと考えるのは間違いだろうか。

 

 「ランウェイ隊長!」

 

 同行していた部下の声が響いた。拠点に辿り着き、目を見開く。地下にジークリンデを監禁していた建物の扉が、無残に破壊されていた。

 

 中に踏み込むと、血と糞尿の臭い、死の臭いが鼻につく。誰かがいる気配はない、勿論悪竜のものさえも。

 

 壁に走る巨大な亀裂と、散弾銃で弾けたような身体の破片。腹を捌かれ食された臓物としゃぶりつくされた肉がついていたであろう骨。武器を持ち最後まで抵抗した者が多かったようだが、それでも蹂躙されていた。

 

 「心眼のデルシアがいたんだぞ。奴は……」

 

 言わずとも分かる。敵前逃亡をするような男でもないし、地上か地下かに無残に殺された死体が横たわっているのだろう。この新メンバーでの戦力が充実してきたら、いずれ分隊長や副長として押そうと思っていた男だったのに。

 

 地上階に生存者はいないかを見て回るが、徒労に終わる。壁に幾つもの裂けたような穴が開いているのを見るに、恐らく悪竜は連結刃を使い壁等関係無しに範囲攻撃を繰り出したのだろう。装備や死に方から近接戦を試みた者もいたようではあるが、散弾銃による射撃で脳漿が吹き飛んでいた。

 

 長大な攻撃範囲と引き換えに近距離での戦い向きではない連結刃。その欠点を埋める為に散弾銃という選択肢をとったのだろうが、悪竜が人の武器を使うとは思えない。もしやランザ=ランテと行動をすることにより心境の変化があったとでもいうのだろうか?

 

 地下に降りる。拘束具に拘束用の魔具、切断された鉄格子の内部は当然ながら空室であった。一歩足を進めるごとに、ねちゃりと音をたてて血液の水たまりが跳ねた。

 

 「ランウェイ隊長!デルシアが」

 

 「皆まで言うな!」

 

 隣室を調べた部下が、デルシアの遺体を見つけたのだろう。万が一に備え、この拠点には半数以上の竜狩り隊を詰めていたというのになんというざまだ。

 

 しかし、対峙した悪竜ジークリンデはランザ=ランテを罠にはめたうえで追い詰めたとはいえ大した圧力を感じなかった。だからこそ、この警戒で封じ込め、研究や解剖終了までは生かしておけると考えたのであるが。

 

 竜という存在を侮っていた訳ではない。海竜との戦闘には私も参加したし、背筋が凍える思いを何度したかも分からない。だがしかし、所詮は遥か昔に人類に追いやられ辺境で過ごしていた存在だと高を括っていたか。

 

 「隊長!すぐに外に!」

 

 地上を見張っていた部下から声をかけられた。急いで上にあがると信じ難い光景が目の前に広がっていた。

 

 エンパス教の神殿があった場所の建物が、まるで花開くように展開されておりそこから巨大な狼が姿を現していた。水色の毛並みで、背中から悪竜の連結刃を二対生やしている。三回建ての建物とほぼ同じか少し大きいくらいであろうか。

 

 「ランザ=ランテ」

 

 「は?」

 

 「分からんのか!?奴だ!あれが奴だ!」

 

 背中から生えた二対の連結刃。あれこそが悪竜に魂を売った人間の証拠だ。いかにして悪竜に取り入り、かの竜が人に力を与えたのかは定かではないがあれこそが全てを物語っている。やはりランザ=ランテは放置して良い存在ではなかった。

 

 「動ける者は全て動くぞ!第二種武装で直ちに出撃!誰か帝国砲兵部隊にも声掛けをするんだ!持てる全力であの狼を叩き潰す!」

 

 「しかし先代は市民の避難と護衛を優先しろと」

 

 「あの災禍を取り除くことこそ盾としての我等が行うべき役目だ!さっさと動け!」

 

 武装保管所に用意されていた第二種装備。第一種は平地での白兵戦、第三種は海上戦を考慮された武装が竜狩り隊には用意されている。ならば第二種はなにか、それは市街戦。建物が密集した市街地にて、地上と空中からの波状攻撃により敵を飽和状態にして壊滅させることに主眼をおいている。

 

 それを考慮して産み出されたのが、帝国のオーデン技術連合が誇る最新式魔術具たる鉄馬の存在だ。従来の馬とは違い、浮遊の魔具が組み込まれたそれはべらぼうに体力や精神力を消耗する代わりに三次元的戦闘を可能にすることができた。

 

 初陣は海竜討伐の際だ。現在人類に多大な被害を出しつつも誰しもが討伐できなかった海竜。その理由はフィールドが敵に有利過ぎたからだ。狭い船の上でしか動けない我等と違い、リヴァイアサンは縦横無尽だ。空を自由に飛行するこの新兵器が無ければ、どれだけ軍艦を集めようと相手にならなかった。

 

 「人員が足りない!全員が鉄馬に騎乗しろ!現地の状況から顧みても、地上からの攻撃が意味のあるものになるとは思えん!」

 

 鉄馬にまたがりながら、そんなことを言ってみたものの実際は全員乗れるほと鉄馬が余っているとも言えてしまう。ただの高級品であれば一人一馬は確実にそろえることができる。しかし最新技術の塊であり数を急激に増やすことができないうえ、北方にかなりの数を持っていかれてしまった。

 

 だがそれでも、残ったその数に全員分が騎乗することができてしまったということは、それだけ人員がいなくなってしまったということだ。なんたる失態、作戦に不成功で壊滅してしまったならばまだしも、戦闘前からこの有様だとは。これは、父の指示を無視してランザ=ランテと悪竜ジークリンデに手をだした報いだとでもいうのか。

 

 「疫病神め」

 

 並べられた鉄馬に全員が騎乗する。出撃する前に、一人の伝令が駆け寄ってきた。砲兵隊へ支援を要請しに走った者だ。

 

 「砲兵隊の援護支援は!?」

 

 「現場が建物密集地、それも帝都の中央部に近い位置では展開も難しいと返答がありました!避難する市民が混乱状態になっており、治安部隊も手が足りず軍部も思うように部隊を展開できないでいます!首都は混乱状態です!」

 

 「どいつもこいつも使えない!いや……私がその筆頭か」 

 

 反省すべき点は幾つもあるが、今はそれを嘆いていても仕方ない。事件が無事解決できたとしても、責任をとることになるだろう。よくて更迭か職務剥奪、最悪は軍事裁判行きか?いや、今は証拠のもみ消しや後のことを考えるべきではない。やるべきことは、帝都の脅威たる災厄に立ち向かうことだ。

 

 「皆聞け!言いたいこともあるだろう、同僚が大量に死んで動揺するのも分かる!責任の所在を求めるというのであれば、全責任は指揮者である私にあるだろう!だが今は、今だけは少しだけ力を貸してくれ!あれをなんとかせぬ限り、誰それの責だと問うこともそれを禊ことすらできないだろう!行方不明となっている悪竜ジークリンデのこともある!今や帝都はかつてないほどの混乱に覆われた!マッチポンプと揶揄されようが、我等しかこの事態を収拾できる者はいないだろう!竜狩り隊、出撃するぞ!」

 

 鉄馬の腹を叩くと同時に、魔術具を起動する。鉄製の蹄が地面を蹴って走り、充分な速度を確保した後飛び上がり、宙に浮かんだと同時に役目を終えた脚部が腹部に収容される。腹部の底面が紫色に光り輝きすさまじい風圧が噴出される。

 

 オーデン技術連合渾身の兵器は、不具合一つなく全員を空の戦場へと導いた。技術屋に感謝をしながら、武装を引き抜く。

 

 銃器が登場してからは時代遅れになりつつあるが、戦場で本物の馬を使った重装騎兵が使うような巨大な突撃用の馬上槍と、腕につけたリングに力を込める展開と同時に盾になる技術連合製の赤盾。

 

 厳格な採用試験を突破し、さらにそのうえで魔術具の扱いに長けたものは私と同じ敵に突撃する為の装備を身につけている。他の者は、特注品である口径の大きなライフル銃と、対竜用のニードルガンを装備していた。

 

 近接用装備六騎と、遠距離からの攪乱用装備が七騎。市街を巡回していて、私の護衛とジークリンデからの殺戮から逃れた者を集めてもこれだけしか揃わなかった。だがしかし、泣き言をいっても仕方ないだろう。

 

 計十三騎が、混乱する帝都の上空を飛ぶ。徐々に近づいていく巨狼の近く、奇跡的に崩壊を免れた建物の上に、見慣れない民族衣装を身にまとう女性がいたが今は保護をしている余裕もない。

 

 「災厄め!帝都を荒らすことは許さん!」

 

 手を掲げると同時に、後方の七騎がライフル銃を構える。幾度も訓練をした動きなだけに、よどみがない。

 

 「ってぇーーー!」

 

 射撃音が響き、特注のライフル銃から大口径の銃弾が放たれる。背中の連結刃が蠢き、その銃撃を弾き返された。動きの速さから考えて、弾丸を見切ったというより射線から直撃位置を計算し刃で防いだような形だ。

 

 狼がこちらに向き直る。女性がなにかを叫んでいたように聞こえたが、なにを言っているかは分からなかったし気にしている余裕はない!

 

 「来るぞ!散会!」

 

 二対の刃が真っ直ぐ斬り込んで来た。いずれも斜めに切断をするように振るわれたそれを、上下左右それぞれに別れるように回避をする。先程の射撃から同時射撃では対応される可能性が高いことは分かった。ならば射撃要因は各々好ポジションを確保して、自由射撃によるランダム性を重視させ注意を四方に向けてしまうのが良いだろう。

 

 鉄板すら貫通する特注ライフル、喰らえば無傷とは言わせない!そして注意が四方に向けられた時こそ、この突撃槍で奴の頭部が心臓部を貫く。いくら形状が変わろうと、四足歩行獣と酷似した形態をとるならばおのずとその弱点も共通している筈だ。

 

 「がぁ!」「なんっ!」

 

 声が背後から響いた。後方を確認すると、全員が回避した筈の刃がまるで蛇のように急激な方向転換をし、背後から射撃要員二名の心臓を貫いている。刃が無造作に振られ、一人は地上に向けて叩き落とされもう一人は鉄馬もろとも切断された。

 

 鉄馬を切断した刃が近くにいたもう一人に向かい伸びていく。

 

 「させるかぁ!」

 

 近接要員の一人が空中で反転。赤盾を起動し壁のような障壁を展開しながら割り込みをかけるが、接触と同時に盾がガラス細工のように崩壊。二名の隊員を貫いて空中でその内臓と血肉を四散させた。

 

 「赤盾が効かない!?」「こいつ、力が尋常じゃないぞ!」

 

 「慌てるな!犠牲は分かりきっていたことだ!赤盾に過信せず回避行動に全力をかけろ!ランダム起動!動きを直線的にして読まれるな!」

 

 迫りくる連結刃を乱数回避で退ける。仲間が四人も犠牲になった攻撃だ、適応しなければその瞬間死神の鎌により餌食となる。恐るべきはその攻撃能力だが我等も、伊達に竜狩りを名乗っている訳ではない!

 

 指示を飛ばし巨狼の顔を見た瞬間、背筋に嫌な予感がはしった。この狼は、笑っていた。『おいおい、そこは退却指示じゃないのかよ』とでも言いたげにだ。

 

 狼の毛並みに覆われた胸部が開く。赤黒い肉の壁が露わになり、そこから同色をした肉のような色をもつ人間の上半身が生えていた。

 

 『獲物を追い込んでくれたのかい?鴨射ちだねぇ』とでも言いたげなにやけた顔。

 

 赤黒い肉の塊となった女性の上半身は、数時間前に見た筈の顔が頭部についていた。悪意に満ちた表情を浮かべるのは、ウェンディ=アルザス。腹部や胸部、後頭部にさえ複数の管を繋げられ、悪意に満ちた笑みを張り付けたまま彼女はその身体を隠すことなく両手を広げる。

 

 「せきっ!」

 

 複数の火蜥蜴が、放たれる。獲物に向かい追尾をする複数の火炎生物は、二対の刃から逃れ、いや誘導された隊員達は火炎に呑まれ叫び声をあげて落ちていった。あれは、あの生物的な動きは魔術具ではない!オーデン技術連合ですらあの域まで火炎魔具を発展させてはいない筈だ!魔法だとでもいうのか!

 

 ウェンディ=アルザスはランザを追い詰める為に手を組んだ者だ。不可思議な力を行使していたが、魔具を用いたトリックだと本人は言っていたし、その範囲も確かに再現ができる範囲であると魔具技術に詳しい隊員は語っていた。理論上は、と付け足してはいたが。

 

 だがあれは、トリックの範疇を越えている。力を隠していたことを責めるつもりはないが、なにがどうなれば、ランザに組み込まれてあんな状態になるというのだ!

 

 「常識を……越えているかッ!」

 

 「ランウェイ隊長!生存……四名!」

 

 飛来する火蜥蜴の速度は、鉄馬の最高速度を超えていた。あれに対応できるのは、噂で聞くところエンパス教、レントとやらの私兵部隊にいる空を飛ぶハイピュリアくらいだろう。現状、この鉄馬では連結刃のことも考えると逃げきることすら難しい。

 

 「突貫する!せめて一太刀、手傷を加えるぞ!」

 

 絶望的な状況ではあるが、懐に潜り込みさえすれば、奴の脳天か胸部のウェンディを破壊することができる。いや、頭部が難しいにしてもあの魔法……仮として魔法砲台となっている人型を壊せば奴の戦闘力が半減くらいはする筈だ。そう信じるしかない。

 

 「申し訳ありません父上!だがせめて、奴の力を削ぐ為に!続けぇえええええええええ!」

 

 あとは、竜狩り隊や帝国軍がなんとかしてくれるだろう。罰を受けずに死ぬのは本望ではないが、無駄死にではない。やり方は間違っていたのかもしれないが、国土を、民衆を護りたいという心は誰にも負けないと自負をしている。自分の汚点とはいえ、今こそがその命を使う時だ。

 

 「ならばこの命、くれてやるのも本望だぁああああああ!」

 

 慢心するその顔に、身体に、全身を叩きつけてやる。

 

 後先考えない全力のスピードに、鉄馬は悲鳴をあげ空中分解しそうになる。オーデン技術連合から、これ以上は危険だという出力などとうに超えているのだ。だがこれでいい、もう帰ることはないのだから。死兵となった生き残り達、私を突撃させてその隙に逃げても良かったのだが、良い部下に恵まれたものだ。

 

 「くぅうううううたぁああああああああヴァああアああああれェえええええええええええええ!!」

 

 突撃していく私の槍が、回転した。何故?手でしかと握っていた筈なのに。

 

 槍の柄には、腕がついていた。なにがおこっているか分からず、それをとろうとして初めて腕がないことに気づく。その瞬間目の前に刃の列が出現した。

 

 身体が縦に切り裂かれていくのが、私の最後の感覚になった。その時、一つの声を絶命直後の聴力が捕らえた。聞いた、声だった。

 

 『二線級虐めて優越感か?ストレス溜まっていやがったんだなぁ相棒』

 

 悪竜ジークリンデの、声が重く帝都に響いた。



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 人類との歴史を紐解いていけば、悪竜ほど深く人と関わった竜種はいないだろう。行動が読めず凶悪、数年間姿を消していた時期もあれば、フラリと現れ街や都市を根こそぎ食らい尽くすこともあった。

 

 時には為政者の懇願を聞き入れ贄と引き換えに力を貸すこともあれば、肩入れしていた勢力の懇願をある時から聞く耳持たなくなり壊滅していく様を楽しんだりもしていた。気紛れでとある作家と対話をし、機転を利かせた会話に褒美をとらせることもあれば芸術の楽園(後に賄賂で腐りきっていたことが判明)と呼ばれた国を壊滅させ『退廃の園』という署名を残していくこともあった。

 

 無秩序で愉快犯。海洋に出た船を襲う海竜や火山地帯で眠りにつく火竜と違い、悪竜ジークリンデ程良かれ悪かれ、積極的に人類と関りをもっていた。悪かれの方に比率がでかい、良かれ悪かれではあったが。

 

 彼女と対峙をして生き延びた、その作家は自身の著書にこう書き残した。『悪竜ほど、人類を愛している竜はいないだろう。それは玩具に対する執着のようなものではあるが』と。

 

 ジークリンデは、長生きするつもりはなかった。刹那的に楽しみ、憎悪を集める。さあ勇者よ、悪辣非道な竜を倒しに来い。それこそが伝説だ、ただ長生きだけして、後におこるリヴァイアサン討伐のような、有象無象共に蹂躙されるだけの害獣に成り果てるのはごめんだった。

 

 勇者は現れた。だがしかし、その結末は期待したものではなかった。身勝手な愛と期待が手酷く裏切られた。勇者とその軍勢は、悪逆非道、殺すべき絶対悪であるオレのトドメを刺しにはこなかった。害獣のように、追い払うだけで良しとしてしまった。

 

 そして今、人類に向けていた寵愛は全て一人の男に注がれていた。伝説にも歴史にも残らない、異形狩りの偉業。当初の夢破れた自分には丁度いい。

 

 あがく。どこまでもあがく。実力不足を痛感し、頼りたくない力にも頼り、血反吐を吐きながら前進をする。ベクトルは違いすぎるが、かつての勇者を思い出していた。こんな男、或いは女との戦闘でオレは、華々しく散りたかったんだ。

 

 夢破れたオレは、こいつの力で良い。平凡な生活を送るならそれでよしであるが、あの時のように修羅の道を歩むなら、絶望的な状況のなかで諦めずにオレに向かってきたこいつを助けてやりたかった。歴史に残らないが、歴史的偉業にどこまで食らいついていけるのか、見たかった。

 

 『解釈違いってやつだぜ相棒。なんだそりゃ、滅茶苦茶じゃねえか。そうまでして、殺し合いをしたかったのか?』 

 

 ぐちゃぐちゃだ。なにを背負い、なにを取り込み、なにをして枷が外れたのか分からない。人妖は人から変異する際、感情や理性に大きな変化がおこりえるが、その魂も肉体も様々なものが混じり合い混沌化している。

 

 主な感情、意志は相棒のものではあるが、力に呑まれているのかまるで魂は三下のそれだ。少なくとも、人殺しをあれだけ避けてきた野郎ではない。

 

 あれでは、ダメだ。まるで物語に出てくるやられ役の怪物。オレのように、惨めな末路を迎える結末しか見えない。そんなものが見たいから、肩入れしていた訳ではない。

 

 『オレは、オレの好みと希望をお前に押し付けるぜ。そんな力に酔った怪物なんかじゃねえ、血反吐まき散らしながら進むお前が良いんだよ。悪竜ジークリンデが宣言する、ランザ=ランテ。オレが、今のお前が進む道行を阻む』

 

 水色のキメラと化した巨狼と対峙するのは、黒鉄鎧のような甲殻に身を包んだ悪竜本来の姿。背中から複数の連結刃を生やし、一本一本がナイフのような並んだ刃をぎらつかせ、長らく人類の表舞台から遠ざかっていた悪竜が姿を現した。

 

 『雌狐』

 

 自慢の怪物となったお父様が、自分以外の羽虫に注意を向けた事実。向けられるべき殺意を、目の前で他に奪われたことに膝をついて座り込み呆然としていたテンに声をかける。テンは肩を震わせ、こちらを見たのが分かった。

 

 『化物の先輩として一つ教えてやるよ。いかに超常存在だろうと、なにもかもが自分中心に回っている訳じゃないってことをな』

 

 さて、と狼に向き直る。今のお前には、オレの相棒たる資格はない。

 

 『こいよ「三下」人間やめなきゃ良かったってこと、教えてやるぜ』

 

 狼が、動く。先程竜狩りの羽虫共と対峙し、迎撃していた時とは違う、敵対者に対する先手をもった突進。ぎらつく牙で首筋に噛みつくつもりのようであったが、二対の翼を羽ばたかせ上空に飛んで回避。この形態、本来の姿をとるのは遺跡にて退屈に過ごしていた時以来だ。久々に、空を飛ぶ感覚を味わう。

 

 胸部の人型から、火蜥蜴の群れが放たれる。刃列で炎をかき消したがそれは目くらまし、散々煙玉なんていう小細工で敵を欺いてきた奴らしい。炎蜥蜴の群れを隠れ蓑に迫る巨狼の連結刃を、こちらの刃で迎撃する。驚愕したように目を見開いていたが、甘い。こちとら本家本元なんだぜ。

 

 『オレには水竜や火竜のようなブレスはねぇ。だがこんなのはどうだ?』

 

 着地し、大きく呼吸をする。胸部を膨らませ、咆哮と共に吐き出したのは骨による散弾。

 

 広範囲に広がる礫に、狼は大きく回避行動をとる。背の高い建物を盾にするように走るが、それでも無傷とはいかずに皮膚にいくらかの骨弾がのめり込んだ。

 

 着想を得たのは、何度も奴が使っていた散弾銃。人間として、可能な限りオレに頼りたくなかったランザが用いた玩具。邪魔くさいと思いつつ、壊そうと思えば何時でも壊せたそれを難癖つけながらも持たせたのはあれは奴が使う人間としての力だからだ。

 

 オレに頼ってほしくても、一から十までオレに頼りきりと言うのもなにか違う気がする。反発心を持っていてもらった方が、関係性というものは心地好かったりするから、心境としては複雑なものだ。

 

 そしてその反発心がへし折られ、心の底からオレに頼った時こそ、奴が悪竜の加護を得た新たな災厄となる資格がある。あんなごちゃ混ぜになった、本能のみで動いているようなキメラこそが奴の終着点等認めない。

 

 端から見ればなんの違いがあろうかと思われるだろうが、譲れない一線というものはあるものだ。

 

 近接戦に持ち込むことを諦めたのか、狼は背の高い建物を選び盾にするように走り回る。背の低い建物を散らしながら、周囲を周りつつ火蜥蜴による牽制が飛んできた。

 

 火蜥蜴の連打を雑にかき消す。どこで仕掛けて来るつもりか、そのまま走り続けてもこちらのブレスによる応撃で盾となる建物はどんどん削れていっている。動くとしたら虚をつく動きをするだろう。対応してやるよ。

 

 こちらからの接近には距離をとる。巨大な時計塔の回り込み、その背後から障害物を周りながら十数匹の火蜥蜴が放たれた。殺到する魔法生物の数はこれまでとは比べ物にはならないが、まだこの程度かと言える。舐めているのか。

 

 『くだらねぇんだよ三下がぁ!』

 

 全ての連結刃が火蜥蜴をかき消し、背後の時計塔を貫き乱暴に切断する。中央部が崩壊した時計塔は崩れ落ち、街並みを潰しながら瓦礫となったがその背後に狼はいなかった。時計塔の上でもない、そのさらに上か!

 

 月明かりをかき消すような、月を喰らう者の跳躍。迎撃し損ねた刃が鱗を貫き身体を裂く。元は我が刃ながら、鋭利にすぎる。

 

 着地をした狼は、牙を剥き出しにして時計塔の瓦礫に前足を置き遠吠えをした。周囲を観察すると、奴が隠れた地点の地面が抉れている。

 

 その跳躍力と、自身の連結刃を地面が抉られる程叩きつけた衝撃により、時計塔よりも遥か高みに飛び上がっていた。火蜥蜴の大群は、それに気づかせない為のもの。精々時計塔の頂上からだと思っていた攻撃は、それよりも遥か高高度からの奇襲攻撃に代わっていた。

 

 獣としての本能と、今まで対峙した異形共との経験が奴の戦闘能力を底上げしている。自分を殺せるように、誘導していった雌狐の成果がことごとく現れていた。演技で敗北した遺跡での一戦とは違い、本当に虚をつかれた一撃。翼を持たない相手に、上空をとられるという不覚。

 

 狼が、笑う。前足を時計塔の瓦礫に叩きつけた瞬間、石の塊が積み上がり、自身と同じ形に作り替えていく。魔法で造られた石くれ、狼の形をしたゴーレムが三体産み出された。

 

 連結刃こそ生えておらず、オリジナルよりも幾分か小柄ではあるが生物のように牙を剥き出しにしたそれは、こちらに襲い掛かってくる。

 

 『オレの力を嫌々使ってたくせに、他人様の力をこれでもかと使いやがって。複雑だなおい』

 

 流れる血を空中に引きながら後退。二体の石狼から逃れるが、そのうえから跳躍してきた石くれが飛びかかってきた。身体を半回転させて尻尾で迎撃、側面をぶっ叩かれた石狼は横に吹き飛び建物を巻き込みながらその身体を礫に変えて飛び散った。

 

 月明かりが陰る。翼を羽ばたかせ背後に下がると、跳躍した狼の牙と刃が先程までいた場所に殺到していた。着地を狙いブレスにより散弾をぶつけようとするが、石狼の一匹がそれを庇う。広範囲に広がるブレスは便利だが、面での攻撃を押し出し攻撃射程が短い散弾では目の前の一頭を潰しても背後の存在を狩るまでには至らなかった。

 

 砕けた石くれを乗り越えて狼が接近。今度こそ掴んだインファイトのチャンスに、獰猛な顔を浮かべていた。連結刃同士が火花を散らしながら打ち合うが、何本かを最後の一体である石狼がその身体と牙で押し留める。懐まで潜り込んで来た狼の顎が、こちらの前足を捕らえた。

 

 『おい』

 

 声掛けに反応するでなく、狼はギリギリと顎の力を強める。前足をこのまま噛み千切るつもりなのだろう。現に、その膂力はある。なにもしなければ、その通りになるだろう。

 

 『はぁあ……成程なぁ』

 

 その殺意剥き出しの攻撃。人殺しに躊躇をしなくなった理由。近距離から観察して、理解した。

 

 『いるんだな、そこによ』

 

 こいつはテンに殺意を向けてはいたが、他者に対する攻撃性はこいつの本質ではない。ランザ=ランテの本質は防人。家族を護りたかった男の自暴自棄が、復讐と言う攻撃性に身を任せていただけだ。現にそれは、護る対象を得たことにより浮かび上がりつつあった。

 

 護る為に、人を殺す。それがこの人妖としての本質。雌狐はそれを見誤った。

 

 しかし、それでもやはり復讐という憎悪は強い。本来の性質を上書きし、アレの思う通り殺し合いになる可能性も高かったとは思う。なにがあって心境が変化し、雌狐に復讐心以外の感情が芽生えたのかは知らんがそれこそが誤算であったのだろう。

 

 『世話、焼かせやがる』

 

 さて、オレの選択肢は二つ……いや一つか。

 

 久しぶりの竜姿での戦闘は想像以上にカロリーを使うものだ。言い訳がましいが、全盛期に比べると身体全体が硬く感じるし、消耗が激しい。元々が贄不足により飢餓状態だったのだから、これだけ動けたことに文句はないのだが。

 

 狼の瞳が見開く。互いの連結刃が絡まり合い火花を散らしていたのだが、徐々に力負けしていっているからだ。複数の刃を抑えていた石狼も軋むような音をあげて亀裂がはいっていっている。今持てる力での全力。不完全な全力であるが、力に溺れ野生に溺れた獣には充分だ。

 

 獣に堕ちた時点で、お前はランザ=ランテではなく三下の害獣。それを教えてやる。

 

 『オレの口は、お喋りするか礫を吐く為だけにあるんじゃないんだぜ』

 

 狼の首筋に噛みつき、その巨体を顎と首の力で横に振るう。前足からズルリと牙が抜け、巨体が建物の瓦礫を巻き込みながら吹き飛び地面に転がった。

 

 『古来において、神話とは力だった。良い言葉だよな、オレのセリフじゃねえけどよ』

 

 刃を抑えていた石狼が砕け、のしかかりで邪魔をしていた重しが消えた翼を羽ばたかせ突撃する。起き上がりかけていた狼を側面から体当たりで妨害し、その脇腹に前足の片方を乗せた。

 

 抵抗しようと蠢く狼の連結刃を残りの前足で踏みつけ、行動を妨害する。火蜥蜴を放とうしていたが、散弾のブレスにより胸部を破壊。千切れかけた人型は胸の中にしまわれ、引っ込んでいった。

 

 連結刃を狼の身体に食い込ませ、首筋に噛みつく。狼がうなり声をあげながら抵抗しようとするが、手段はことごとく潰した。吸血鬼の血が入っているせいか、胸部が煙をあげて再生しようとしているがやはり速度は遅い。他の取り込んだ存在とは違い、サグレの血はほんの少量しか身体に混じっていない。あの超速再生までは再現できないだろう。

 

 最初のブレスで散弾が身体に開けた穴から、触手のようなものが伸びて抵抗するように巻き付いてきた。この気配は、あのクソまずい贄のものか。汚物まで取り込みやがって、節操無しかお前は。

 

 人という器から要領が溢れた力を、贄として吸い出す。これだけ膨大な魂の総量を維持し使用する為に人妖に変異したというならば、その溢れた魂を贄として吸い取り正常に戻してやるだけだ。

 

 ただし、これはオレにとっても非常にまずい。様々な魂を混ぜわせたヘドロのような毒物。滅茶苦茶砕けた言い方をすれば食い合わせが悪い。単体では無害なものが、組み合わせることによって食中毒の引き金になるようなものだ。

 

 分けて喰うことと、一つに混ざりあったものを喰うことには大きな違いある。オレという存在に、流れ込んでくる複数の意思がまるで浸食してくるというものだ。

 

 しかしまあ、相棒よ。これだけ混沌としたものを呑み込んで、主人格はお前なんだな。そりゃ人妖としての行動原理に呑まれちゃいたが、やはりオレの相棒は大したもんだ。

 

 だがしかし、お痛が過ぎたな。

 

 狼の抵抗がどんどん少なくなり、暴れる身体が地に沈む。小さく唸り声をあげて気を失ったところで、口を離す。全ては流石に吸いきれない、オレはまだ余力を残しておく必要がある。まったく気持ち悪いし頭が割れそうだ。不快感がかつてない、吐き気があるのに何時までも吐けない気分で困る。

 

 多数の人間が近づいてくる気配を感じる。怪獣決戦が終わり、残った方を叩きに来るのであろう。ひと暴れする理由はないし、その為に余力を残した訳ではない。

 

 前足で狼をしっかりと掴む。飛び立とうとしたその時、雌狐が目の前に現れた。その顔は、まるで親を連れ去らわれた小さな女の子のように泣き顔で歪んでいる。

 

 「待って、待ってください。お父様を連れていかないでください。違うんです、こんなことを望んではいなかったのです。今度はちゃんとやります、私だけを害するように仕向けます。お願いします、だから連れていかないでください、お願いします、お願い……お願いだから」

 

 大きなため息を一つ。冷静さを欠いていて、気づいていないのか。それとも、気づいていても気づかないふりをしてなけなしの理性を保っているのか。どちらにしても、オレにはどうでも良い話だ。

 

 『もうこいつは、お前に殺意を向けることはねえよ。オレがいない間になにがあったか知らんが、それだけの変質……いや、心境の変化があったようだぜ。この悪竜が断言する、こいつは二度とお前が思うような存在にはならねぇだろうよ。さっさと、別の道か生き方を見つけるんだな』

 

 雌狐、テンの悲鳴が夜空に響き渡った。あれだけ蒼々と輝いていた月光が途切れ、夜の闇が周囲を包んでいる。

 

 瓦礫の山。このなかにどれだけ逃げそびれた人間どもが埋まっているかは分からん程だ。やれやれ、オレが介入するまでもなく、立派な災厄だなお前はよ。

 

 翼を羽ばたかせ、飛び立つ。オレの精神力が尽きる前に、ここを離れるだけ離れる。必要なのは、時間だ。

 

 人間どもの軍を飛び越え、城壁を越え、北を目指す。落ち延びる場所に、一つだけ心当たりがあった。問題はどこまでいけるかだ。

 

 川を越え、山を越え、街や村の上空を通り過ぎる。巨大な飛行生物を見た村や町の連中はパニックになっただろう。少しだけ昔を思い出すが、昔と大きく違うことがある。

 

 ついに、限界がきた。目的地まであと少しだというのに、姿と力が保てない。ざまあねえ、こちらの方が本当の姿だっていうのに、省エネで変化でき、長い間保っていた剣に封印された状態や人型の方がよっぽど楽になっちまったみてえだ。

 

 雪がチラつく空から、雪原となっていた地平に浮力を保てず落下する。地面に線を引き、墜落。狼も投げ出され、雪原に転がった。

 

 形が徐々に縮み、オレは人の姿に変わっていた。それと同時に、狼も姿が光輝き粒子となってその消えていく。

 

 「ああ、やっぱりな。魂が癒着してやがる。たく、混ぜ物みてぇになりやがって面倒くせェ」

 

 雪原には、相棒とその腕の中で小さく呼吸するクソ猫が転がっていた。ランザの腕は、護るようにクーラを抱え、クーラの腕は離さないようにランザの腰に回っている。

 

 「あ~あ……好みじゃねぇ、つくづく好みじゃねえがよ。でも、ひとまず護れてんじゃねえか、お前が護りたかったもんが……な」

 

 酷く、疲れた。沈んでいく意識に身を任せる。ここまできたら、もう良いだろう。本当に、悪竜ジークリンデ様も……丸くなった……もん……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「まさか、本当にいたとは」

 

 雪原を歩む集団の戦闘。フードを被り口元を隠した男が呟いた。

 

 主の指示により雪原地帯に足を延ばしたが、まさか本当に怨敵が目の前に現れるとは思わなかった。悪竜ジークリンデ共々、無防備に雪原にて転がっている。

 

 「エルバンネ、今なら」

 

 「よせ」

 

 憎悪の視線が部下達から注がれ、そのうちの一人が早くもナイフを抜いていた。だがそれを、手で押さえ留める。

 

 「それをしたところで意味はない、我等の気が晴れるだけだ」

 

 「しかし」

 

 「二度も言わせるな。我等とて外様の身だ、ここを離れたら、もう身を寄せる場はない。それとも、ミハエルやナロクのように無駄死にしたいのか。主が必要だと判断したなら、それに従う。それが今や流浪となった我等の役目だ」

 

 あの日、我等の計画が崩れた時、不審な山火事の消火活動を行っていたおかげで僅かな生き残りと共に死地から脱することができた。流浪と逃亡の屈辱に満ちた日々ではあるが、それでも人類に一矢報いてやりたいという気持ちは変わらない。

 

 フードを脱いで、顔を露わにする。直接面識はなかったがあの日、ナロクが捕らえ拷問をした男。我等が森を襲った人間の一人であるランザ=ランテ。憎らしい気持ちはあるものの、今は弁える。肩に手を回し持ち上げ、周囲の生き残ったエルフ達を顎で促す。

 

 「借りるしかないのだ、こいつらの力でも」

 

 そうでなければ、我等は討ち滅ぼされる。どんなか細い可能性でも、私怨を呑んですがるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「見世物としちゃ上等だった。予想外の展開だったからな」

 

 生気なくへたり込んだテンの前に、歩み寄る。人生を欠けて費やしてきたものが崩壊した衝撃から、現実逃避をするように放心をしていた。

 

 「いや、ある意味ではこれも予想内か。別にお前はなにかに負けた訳じゃない、強いて言うなら自分に敗北したってところかねぇ。それで、これからどうするんだい」

 

 呆けていたテンが、口から漏らすように声をだした。それは自信に満ち溢れ、殺意こそが最上の繋がりと公言していた人狐とはかけ離れた生気の無さだった。

 

 「分かりません。なにも分からないんです、師よ。私はこの先、どうやって生きれば良いのでしょうか?なにを目的にしていけばいいのでしょう?」

 

 「悪魔は供物や対価と引き換えに知識や情報を渡す。だがそんな、人生云々や目的云々なんぞ哲学的な知識を渡した悪魔なんぞ有史以来存在しないね。決断するのは、手前だ。俺がなにかを教えるとでも思うか?」

 

 「分からない。助けてください……お父様、助けてください。お願いします」

 

 「なら助けてあげようか?」

 

 歩み寄るのは、優男。背中に大剣を背負った、エンパス教の守護騎士長。

 

 「レント=キリュウインか」

 

 「悪魔の知恵を借りた者の末路だ。哀れなものだな」

 

 人の殻を借りた寄生虫、エンパスもその傍らにいた。瓦礫の山と化した帝都内にて、再度の対峙をする。

 

 レントが歩み寄り、テンの肩に気安く手を置く。以前の彼女であるならば、それすら許さず侮蔑と共に跳ねのけたであろうが今のテンは抜け殻のようなものだ。抵抗の意思を見せず、ブツブツと呟いているのみである。

 

 「おや、抵抗しないのかガスパル。随分とこの狐に目をかけていたようだが」

 

 「テメェ等がどちらか一人だけならしても良いが、二人がかりじゃな。近くに待機しているだろう取り巻きのことも考えると、逃げるのが精一杯かね」

 

 「関心関心、悪魔ってのは引き際をちゃんと心得ているのなぁ」

 

 ニタリとした笑みを、レントが浮かべる。放心状態のテンを抱きかかえ、舌をだして挑発するが別段思うことはない。

 

 「組み込むつもりか、そいつを」

 

 「柱の素体としては丁度いいのだよ。貴様の入れ知恵による人工物ではない、天然にして最高級の人妖。その容量は、常識外れと言っても良い。精々使い道を誤るようなことはせぬさ。貴様のようにな」

 

 エンパスの勝ち誇ったような表情。つくづくこいつらとはノリが合わん。

 

 「お前はなにもかもを強制する。なるほど、計画は上手くいくかもしれないな。だがそんな計画の果てにあるものはなんだ?俺にはユートピアに見せかけたディストピアにしか見えんがね。そんな詰まらない世界を打ち立ててなんになる」

 

 「このテンなる娘さえ、力を持っていても貴様の入れ知恵で破滅した。人に知恵の果実は早いのだよガスパル。我らの管理下に今一度戻す必要がある、人は盲目な羊であるからこそ、生存できるのだ」

 

 「そして家畜化した人間達から、信仰と言う肉を収穫するつもりだろうお前等はよ。だが舐めてやがるよ、人間を。断言してやるよ、お前達の計画は破滅する。いや、悪魔らしく、俺が人間をそそかし、そうしてやるさ。人間は知恵の果実を食う権利を、とっくの昔に取得しているんだよ」

 

 エンパスが鼻で笑い、手を掲げる。二等辺三角形をした光が周囲に浮かび上がり、高速で飛来。袖から伸ばした鎖により迎撃をしながら離脱。本格的に戦闘になったら、周囲に待機させている加護を受けた人間どもも押し寄せるだろう。包囲される前に逃れるしかない。

 

 「負け惜しみを」

 

 エンパスが呟く。心底くだらないと思っての言葉だった。



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帰郷


 心地の良い潮風が頬を撫でる。深く青い海と水平線の彼方にて空と混ざり合う景色は、殺伐とした光景に見慣れた身にとっては心地の良いものだ。さざ波の音も、気持ちがいい。剣戟の音も、銃声も、火薬の破裂音や泣き叫ぶ声、そして断末魔に慣れてしまった耳は、癒しと自然が奏でる穏やかさを感じていた。

 

 「見慣れている時は、なにも感じなかったのにな」

 

 横転して朽ちた漁船の横を通り、砂浜から内地に向けて歩く。崩壊した漁師の物置小屋から少し進むと、雑草が生えつつある道が続いていた。かつての記憶を脳内で思い出しながら、道を踏み敷いて歩いていく。夢の世界では、テンが一時期せわしなく行き来しており、漁師の意見を元に魚を仕入れに来た商人相手に金銭交渉をしていたものだった。

 

 かつて人々が暮らしていた、山と海に挟まれた土地に建てられた小さな村。連合王国でよく見る木造家屋のほとんどは根元から潰れて崩壊し、植物の蔦が巻き付いていた。人の気配は感じず、中心部の井戸まで歩いてもその崩壊具合は変わらない。

 

 「ん?」

 

 人の気配は感じない、と考えた直後であったが、違った。杖をつく音を響かせながら、こちらに近づいて来る足音。隠れずに待っていたら、道の向こうから歩いて来たのは見覚えがある老人であった。手には花束を持ち、難儀そうな顔をしながらゆっくりと一歩一歩こちらに近づいてくる。

 

 「誰か、いるのか。珍しいな、ワシ以外に訪問者など」

 

 そうだ、この人はいなかった、あの夢の中に。あそこでは、俺に釣竿を渡したのは村長の仕事だったか。だが本当の世界で、俺がテンと出会う、きっかけを作ってくれた人。

 

 「久しぶりです。おじいさん」

 

 「この声……もう目は昔に比べ衰えたが、耳はまだ健常。じゃがこれは驚いた」

 

 禿頭の頭をあげ、老人と目が合った。あの時は人をこき使うが自分もよく働く元気な爺さんだったが、腰が曲がり眉毛がすっかり白くなっている。それだけの時間が、過ぎたのか。

 

 「ランザ、生きていたのか。あの日以来一日も帰らず、てっきりもう死んでいるものと思っていたが」

 

 「本当に、久しぶりです。まさか貴方に会えるとは思わなかった……。この村、なにがあったのですか。何故こうまで荒れて、果てているのです」

 

 老人がゆっくりと歩を進める。村の中心部にある井戸の手前まで訪れると、手に持つ花束から花を半分ほど取り出して添える。静かに祈りを捧げた、十数分程そうして過ごしただろうか。目を瞑ったまま、口を開いた。

 

 「妻子を殺されたお前が村を出た後、何か月後じゃったか。この村、皆が寝静まった時間帯に突如高波が襲いきた。ワシは、息子夫婦と孫夫婦が街に住んでおるでな。当時は孫が祝言をあげるということで、ワシは街に泊まりにいっておったので難を逃れたが、高波は村のほとんどを押し流してしもうた。僅かに残こる生き残りも、ここを捨てていった」

 

 老人はそう言って、山側の方向に歩みを進める。杖をつきながら、整備されず草が生える道を進んでいく。この先にあるのは、俺が働いていた工房だ。

 

 互いに無言で歩む。進んでいる最中、アリアやミーナ、テンと暮らしていた家の前も通り過ぎる。誰も住まずに波に襲われたそこは、崩壊こそしていなかったものの今にも崩れそうな廃墟となっていた。

 

 季節の野菜を育てていた庭は雑草で覆われ、穴が開いた壁からミーナが三歳になったら遊んでもらおうと制作していた、安楽椅子の足がついた馬の玩具が作りかけのまま横倒しになり朽ちて黒く変色している。金目のものは物盗りが入ったのか、持ちだした覚えのない工作道具は軒並み消えていた。

 

 テンと庭で野菜弄りをし、アリアと並び料理をして、ミーナをあやそうとして失敗した思い出が詰まった場所は、壊れてしまったそれに相応しいように風化をしている。もうここは、お前の帰る場所ではないと家が語り掛けているようだった。

 

 少し自嘲気味に笑ってから、ゆっくりと歩く老人の歩幅に合わせて歩く。途中何度か休憩を挟んだが、互いに無言であった。老人はなにも尋ねず、俺もなにも言わない。聞きたいことは、山ほどあるだろうがなにかを話すことはしなかった。

 

 四十分程かけて、たどり着いたのは山の家具工房。

 

 俺が働いていたそこは、かつての面影等当然残っていないどころか、黒々とした焦げた支柱や梁を残し焼け落ちていた。老人は残った花をそこに供え、祈りを捧げる。

 

 「火事、ですか」

 

 「火の不始末か、あの親方の理不尽な指導に耐えられなくなった者の付火か。色々憶測は流れたが原因は分からん。ただ、ここで働いていた者の幾人かはそれで亡くなった。お前の師匠である、ドランもだ」

 

 ドラン、親方の本名だ。そういえば、同世代だった。テンを拾い、まともな就職先を探そうと動いた時に親方に紹介してくれたのもこの老人だった。

 

 目を閉じて、祈りを捧げる。結局俺は、半人前程の実力で親方から背を向けて復讐と言う道に進んだ。夢の中でも容赦はなかったが、次期工房長に選んでくれる程面倒を見てくれた人だ。きっと何事もなければ、変わらずに現実でもとことん面倒を見てくれただろう。罵声と暴力混じりではあるが。

 

 「やめる決意は、ついたのか」

 

 重い口調で、老人は呟く。俺が復讐の旅に出るのを、彼は最後まで反対していた。親方もそうだった。説得にも折れなかった俺に『もう弟子でもなんでもねえ!どこにでも失せやがれ。馬鹿垂れが!』と怒鳴られたことを今でも思い返すことができる。

 

 「……いえ。当初と目的は大きく変わりましたが、やるべきことに決着はついていません。そしてそれは、やめて放棄することもできない」

 

 「止めることはもうせん。そのような力も、上手い説得を考え付く頭脳も舌もこの老骨には残っとらん」

 

 「すいません。親方にも貴方にも、本当は合わせる顔等なかったのですが、恐らくはもう二度とここに訪れることもないと思います。最後に一目、見ておきたかった。故郷の風景を」

 

 「そうか。……生き急ぎよってからに。どいつもこいつも、ワシよりも早く死んでいく。連合王国の徴兵に、ワシは息子も孫も連れて行かれた。帰って来たのは、死亡報告書の紙切れのみよ」

 

 老人の背中は震えており、小さくなっていた。その背中に、深くお辞儀をしてから去っていく。俺を気にしてくれた人達と、この故郷に最後の別れを告げる為に。

 

 その場から立ち去るが、風にのって声が聞こえる。小さな声で、「どいつもこいつも」と再度小さく呟いていた。

 

 山頂に向かう道を進んでいき、脇道にそれる。あの夢で二人が待っていた、村と海が一望できる景色の崖には墓石が二つ並んでいる。大き目な岩に二人の名前を彫り込んだものであったが、長い間放置してしまっていた割には綺麗なものだった。

 

 テンを殺すまでは、ここには戻らない。次に戻る時は二人の無念を晴らした報告をする時だと決めていた。だがこうしてここに戻ってきたのは、一つケジメをつける為だ。この村に、この墓に、故郷というものに一度帰って心の整理をつけたかった。

 

 本当の故郷こそ別の場所だが、この村には良い思い出も悪い思い出も沢山あった。戻ってきてしまったら、その思い出に潰されてしまうと考えていた。だがこうして向き合うことができたのは、やはりあの夢のお陰だろう。

 

 山を登る道中、摘んできた名も分からない白い花を供える。

 

 「ただいま。ずっと顔を見せなくて、悪かったなアリアに……ミーナ」

 

 墓石に水筒から流れる水をかけ祈りを捧げる。テンのこと、クーラのこと、ジークリンデのこと。沢山のことを話す必要があった。そして、今俺がやらなければならないことについてもだ。二人は反対するだろうが、それとも賛成するだろうか。それは分からないが、黙っているのも筋違いだろう。

 

 どれだけ、祈りを捧げたか分からない。全ての報告を終えて、背後に向けて声をかける。

 

 「律儀だな。待っていてくれたのか」

 

 「まあな。ことこの場においては、お前の用を優先させねばならんさ。それが帝国最大の怨敵である相手でもな」

 

 「最大の怨敵か。まあ仕方ねえ、エンパスの連中を引きずりだすには帝国軍は邪魔だった。そういえばお前は、帝国民で、掲げる大盾は帝国系の組織だったな。リスムに根を張っていたから、忘れかけていたぜ、グローよ」

 

 振り向いて、腕を組み合わせる大男と対峙する。民間武装組織、掲げる大盾のリスム支部長は臨戦態勢でこの場に訪れていた。手に握るのは、巨大なハルバード。冒険者時代愛用していた山刀は腰にぶら下げているが、現在のメインウエポンは長大な斧槍である。

 

 「しかし、ここは連合王国の領内。帝国民のお前がよくここにこれたものだ」

 

 「コネは作っておくものだ。リスムという環境と立場は、それには丁度良かった。そのお陰で道を踏み外した友を止める機会を得ることができたというものだ」

 

 腰を落とし半身を前にだし、斧と槍が一体化した武器を構える。斧部分を上に向け、石突きをこちらに向けた構えは独特のものだった。

 

 「墓前を荒らすのは、忍びないがな」

 

 「なら遠慮しておけ」

 

 「そういう訳にもいかんよ。先程領土という言葉を使ったが、解せないのはこちらの方だ。北方にいる筈のお前がここにいるトリックはまだ分からん。そろそろここに来るだろうと目星をつけたのは、勘のようなものだ」

 

 「そして、まんまと来てしまった訳か。だが、お前一人とは」

 

 グローが、動く。

 

 にじり寄りからの瞬発力のある突撃。振りかぶられた斧槍が袈裟懸けに振り下ろされる軌道を読んで横に回避。

 

 斧槍、ハルバードは帝国においてその使い手は少ない。国が行うイベント、例えば新しい帝王の戴冠式や国葬、一年に一度ある建国記念日で開催されるセレモニーで行われるパレードにおいて、宮廷近衛兵団が儀礼用として持ち歩いている為市民の認知度は高い。

 

 だがしかし、戦場においてその姿は、一部卓越した傭兵のような存在のもの以外お目にかかったことがない。その理由はただ一つ、使いにくいからだ。

 

 叩き割る。突き刺す、斬り裂く。成程、性能として万能武器にカテゴライズされるだろう。だがしかし、先端の過剰すぎる重量のせいで槍術や棒術で培った経験が活かせず、特に集団戦や室内においては下手に振り回せない。馬上戦においては、突き刺すことに一点特化した突撃槍の方が遥かに採用度が高い。

 

 製作コストも馬鹿にならず、ハルバード一本作るくらいなら槍を十五本から二十本作った方が、効率が良いと言われているくらいだ。専門の職人による技術がいるし、人によっては見た目に性能の全てを振っていると言うものもいる。大剣と同じロマン武器だ。

 

 だがしかし、それ専用に訓練した、恵まれた体格を持つ者がいればどうなるか。

 

 振り下ろされたハルバードは、先端の偏った重量により大地に叩き付けられるかと思われた。重量、重力に従い防御ごと敵を叩き割る武器は地面に吸い込まれるように下がっていく。試しに持ち手が長い土木工事用のハンマーを持って振り下ろしてみれば、その先端が地面につく前に静止することは難しいだろう。

 

 だがしかし、ハルバードは地面にその先端を叩きつける前に静止、斧部分とは反対方向についている鈎爪のような鋭利な返しを、逆袈裟に振り上げてくる。

 

 腰にぶら下げていた、ロングソードの鞘ごと構えその一撃を受け止める。重く、手が痺れた。

 

 重い筈のハルバードを、重量等ないかのように無視をした突きの連撃により圧力と共に迫りくる。この速さは、驚くことに棒術をたしなんでいたベレーザと同等だ。向こうは戦闘が本職ではないかとはいえ、過去長物持ちと対峙したどの時よりも対処が厳しい。

 

 「殺す気だな」

 

 「それで丁度いいと判断している」

 

 後ろに下がり棒剣を投擲。腕についた手甲で払うように薙ぎ払ったグローの瞳が、険しさを産む。

 

 「抜かせはせん!」

 

 ホルスターに入る散弾銃を抜こうとした動作を見逃さず、長物を用いた中距離戦から近距離戦闘に移行。左手にハルバードを握り、右手によるストレートでこちらの顔面を殴打しようと腕を伸ばす。

 

 「おら、捕まえたぜ」

 

 散弾銃を握ろうと伸ばしていた手は、ブラフ。両手でその腕に絡みつき、身体の外側から相手に背を向けるように振り回す。敵の勢いを殺さず、こちらの膂力と遠心力を味方にし敵を放り投げる為の技だ。

 

 だが、誤算がおきた。鍛え抜かれた肉体に天性の体格。それに裏打ちされた確かな体幹、両足は巖のように地面から離れずに大地に根を張っていた。

 

 「悪いが、ブラフを使えるのはお前だけじゃない。そして格闘技、特に投げ技や体幹崩しの対策は、幾度もなく繰り返してきた」

 

 「マジかよ」

 

 左手で短く握る斧槍を、まるで手斧のように近距離から振り下ろす。両手を離して、ロングソードを盾にしながら後退するが、剣が鞘ごと叩き割られ吹き飛んだ。木の幹に背中から激突し、衝撃で口内から血と唾液が飛ぶ。

 

 「二年だ」

 

 斧槍を両手で構え、グローは口を開いた。殺意を感じつつも穏やかな口調とたたずまい、下手な加護持ちよりも圧力と脅威度を感じる。

 

 「帝都災厄から二年。何時かああなることを理解しておきながら、お前を拘留も追跡もできずに、野放しにしてしまった。友を名乗りながら、なにもしてやらなかった。その結果が今のざまで、世界のざまだ。北は戦乱で荒れ、連合王国とその同盟国、帝国と植民地軍が各地で紛争をおこしている。あの事件を引き金にしてな。何人死んだか分からん」

 

 「火種は昔からあった。帝国による外洋進出、他国より国力が二回りか三回り程強大な国力になっていく様を、帝国が世界の覇権を握るのを周辺諸国が良しとしている訳がない。国内では半獣への差別問題に属国にかける圧力の強さ、少数民族に対する排斥と民族浄化。それに連合王国と帝国の諜報戦は水面下で行われていたし、二年前からエンパス教にすら、ある目的を叶える為に連合王国の草がいた。俺がしたことが、きっかけになったと言われれば否定はできないが」

 

 半獣への差別は世界的なものであるが、国土の広さから一定数以上の半獣が帝国には存在する。それ以外の不満が溜まるのも、強大な国家故の問題であるだろう。

 

 「悪竜の剣も使え。魔法だろうが魔具だろうが、人妖の力だろうが使うが良い。今日の為に、掲げる大盾支部長の座を辞任して対策に奔走してきた。俺は帝国が勝とうが負けようが、戦争終結が早まるならどちらでも良い。お前の首、もしくは捕縛は、北で陣営を張る反乱勢力に対して勢いを挫く要因になるだろう。……いや、違う、建前だ、そんなものは」

 

 巖の瞳が鋭くなる。

 

 「お前を止める。それができなかった、できるチャンスがあったなのに不意にした。それこそが俺の役目だ。こ以上破滅に突き進むざまを、見ていられるか」

 

 悪竜ジークリンデが封印された剣。あれを使用したところでグローに勝てる気がしなかった。吸血鬼として超常化したサグレにも、人妖としては最大級に近い大きな変貌を遂げたミハエルにもない雰囲気。

 

 近いのは、やはりクダだろうか。純粋な人間が純粋に努力をし技量を高めた存在。それがなによりも、恐ろしい相手だ。

 

 「分かった、友よ。生半可な抵抗じゃお前に抗うことは不可能だな。差がついたもんだ、上等だよお前は。俺なんかとは、違ってな。もし、理性を無くした獣にでもなった時は、始末を頼むのも良いかもな」

 

 「悪いが、それは今だ!」

 

 間合いを詰めたハルバードの一撃が叩きこまれる。鉄と鉄が撃ち合うような音、戦闘用外套の一部が破けるが、その下に現れたものを見てグローは厳しい顔をする。

 

 「悪竜の鱗か」

 

 「ジークリンデからの、贈り物だ」

 

 「そいつだって仲間の仇であろう。よくもまあ、そこまで親し気に名を呼べるものだな」

 

 吐き出される言葉には嫌悪感が含まれていた。確かに部隊は違うとはいえ、同じ探索隊同士交流も盛んにあった。時には足りない人材を融通しあい、頭数を揃える為のやり繰りだってしょっちゅうしていた。グローと同部隊になったことも少なくなく、ウチの隊長とも付き合いだってあった。

 

 俺よりも思うところは少ないだろうが、それでも悪竜には交流をもった人物の仇という因縁がある。その嫌悪感も、当然のものだ。

 

 「人間生きてりゃ色々あるもんでな。言われるまでもないだろうが、お前にもあったが、俺にもいろいろあったということだ」

 

 「人をやめたそのざまが、色々とでもいうのか!答えろランザァアア!」

 

 化けることはやめていた。ウェンディ=アルザスの変異能力、加護はレントにより何時没収されるか分からないのは、調教や育成をせずに魔獣や動物を操るクーラのテイムが俺との旅をしていた頃には使えなくなっていた前例があった。

 

 ウェンディは独自に加護の力を解析し、似た魔法の開発をしていた。オリジナルと比べ効果はまだ半分以下。なにかあればすぐに、文字通り化けの皮が剥がれるものだ。ここまでたどり着くのにも相応の苦労があったようだが、その力と努力を、無残に俺は吸収して強奪している。

 

 彼女は外道であったが、外道は外道なりに裁かれ方がある。俺がしたこととはいえ、あんな人の尊厳を踏みにじり今でも利用され続けるような結末は、地獄に落ちる以下の終わり方だ。例え本人が、どう思おうとだ。

 

 「色々は、色々だよ。そうだな、知っているか?畜生道というものがあるそうだ。極東で語られる、野獣や魔獣が堕ちる地獄だとよ。悪いが俺はもうそこにしかいけないらしい。もはや畜生だからな」

 

 ハルバードを弾き、蹴り飛ばす。先程投げ技をしようとした時には動かなかった身体が、後方に下がった。

 

 両腕を悪竜の鱗で覆い、戦闘用ブーツが破れ狼の足が現れていた。化けの皮が剥がれた顔は獣のように歪んでいるが、その瞳は爬虫類のように細く研ぎ澄まされ額の一部が鱗に覆われていた。背中から悪竜の連結刃が揺らめき、水色の尻尾が揺れ蜥蜴の姿をした炎を宿している。

 

 狼の脚力で距離を詰める。繰り出した蹴撃を、グローはハルバードの柄で受け止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 打撃の質が変わった。化けの皮とランザは言っていたが、能力も人間並みに抑えていたか。

 

 北峰の戦狼。異形ひしめく一揆勢力の中で、一際異彩を放つ化物の話は聞き及んでいた。獣の脚力で荒れ地を走り回り、奇怪な刃と赤熱した蜥蜴の魔法で軍勢の出鼻を挫く。地形の悪い山岳戦闘では、大軍を導入するのが厳しく軍は常に煮え湯を飲まされているという。

 

 ここからが本番だ。人外に堕ちた友を止める為に、この日の為に鍛えなおしてきた。

 

 しかし、何故だろうな。こうやって対峙していても、ランザの瞳はまるで波紋一つない湖面のように穏やかだ。

 

 リスムで見た、復讐に蝕まれ、疲労に追われ、ぶつけようのない怒りに内面を燃やしていた時のような、腐りきった目ではない。

 

 「あえて言わせてもらおう!」

 

 拳の一撃をかいくぐり、蹴り技を受け流す。一発一発が丸太でぶつけられるように重いが、それくらい予想はしていた。対応はできる。

 

 「復讐の炎に身を焼くのが正しいとは言わない!だがしかし、何事にも動じずというのは、良くも悪くもというものがある!少なくとも前のお前は、人殺しを肯定するものではなかった!敵は帝国兵、軍属とはいえ、何十人殺した!?なのに何故そのような澄んだ目をしているんだ!」

 

 背中の連結刃が蠢き、六本の刃が渦巻き殺到する。ハルバードを振るい可能な限り刃を迎撃し、その場から下がる。受け流しきれなかった刃が身体を削るが気にしていられない。

 

 「二年前、一回ぶっ壊れたもんで、その後俺の目的は固定化した。今は振り返る暇も、余裕もないんだ。エンパス教を表舞台に引きずり出すには、帝国を追い詰める必要があったんだ。一揆勢にいるのも大義からじゃねえ。連合王国や周辺諸国も知ったことじゃねえ。戦火が広がれば、それだけ俺がやることも楽になるってもんだ」

 

 「それでお前は狙われる側になった!賞金、野心、そして復讐だ!お前がテンに抱いた感情を、何百人もの人間が抱いている!なにも思わないのか!?そこまで堕ちたか!?」

 

 「その件に関しては、俺は全てを肯定する。どいつもこいつも、怨み言吐く暇があるなら殺しに来い!俺はなぁ!もう止まらないって決めたんだ!アリア達を殺し!サグレ達の幸せを踏みにじり!それでも叶えるって決めた!俺を送り出してくれたテンの、最後の願いを叶える為になぁ!」

 

 「お前は」

 

 動揺してしまった。激しい感情の吐露、その発言内容は意味が不明瞭のものであるが決して妄想の類ではない背景を感じる。人を殺すことをなんとも思わなくなってしまった男の、後悔の念。見せてしまったその隙を見逃さず、刃の列が襲いかかってきた。受け流そうとハルバードを構えたが、判断がやや遅かった。僅かにできた隙に合わせ、散弾銃を引き抜き射撃。肩が抉られ、負傷個所を抑える。

 

 「悪いな、形勢逆転だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グローの額に、銃口が突き付けられた。引き金を引くだけで、この男の命が途切れる。

 

 死角から物音。凄まじい勢いで、レイピアを構えた何者かが直進してくる。この勢いで、首を貫くつもりか。

 

 「殺らなくても良い、クーラ」

 

 太陽に照らされ、産まれた影。そこから這い出るように、半獣が躍り出る。

 

 下から手首を掴み、絡まるように首筋に足をかけながら巻き付く。肩車をするような体制になった後、前のめりに体重をかけて襲撃者を転倒させた。立ち上がる前に、ルーガルーの短刀を首筋に添えて動きを封じる。

 

 「マリアベル!?何故ここに!?」

 

 グローが驚きの声をあげる。襲撃者の顔には見覚えがあった。二年前、掲げる大盾支部にてキラービー討伐の為に下見を頼まれた時、傍に控えていた秘書兼護衛だった。

 

 「申し訳ありません、グロー元支部長。心配で、この時期に連合王国に向かう貴方をつけさせていただきましたが……この女、どこから」

 

 牙を剥き出しにした眼帯をつけた隻眼の半獣。灰色の髪と、切断され短くなった尻尾。二年で身長も伸び、僅かながら女性らしい成長がでてきたクーラだ。髪の毛も伸ばし、後ろで縛りあげ、以前の中古品で固めた旅装備とフードから、動きやすさを重視したショートパンツと腹部をさらけ出し胸を巻いただけの肌着のような上着を身に着けている。曰く、余計なものを身に着けない方が影に溶け込みやすいんだとか。

 

 「部下に、慕われたな」

 

 「……っ~!分かった、矛を収める。俺達の負けだ」

 

 グローから戦意が消え、ハルバードを手放す。クーラに合図して、首筋から刃を離させ、放棄した武器を蹴り飛ばした。

 

 褒めてほしそうにクーラが抱き着いてきた。片目が潰れ、以前にもまして身体中傷だらけのクーラだが、それが勲章だとでも言うように隠さない。俺を夢から引きずり出す為に受けた、名誉の負傷だとでも言うようにだ。半獣であることも隠さない為、欠けた耳もだしたままだった。

 

 頭を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らし気持ちよさそうに目を細める。感情がほんの僅かに感じるのは、魂が癒着してしまった後遺症だろう。そして死角からきたマリアベルの攻撃を気づけたのは、クーラによる意思の通信のおかげだ。二年前から、ずっと変わらない。

 

 あの事件の前後で、様々なことが変化した。特に、クーラに関してはでかい。

 

 「目的は、もう終わりだねランザ」

 

 「ああ、戻るとするか。グロー、お前はなにも気に病むな。俺のことは忘れて、どこかで生きていてくれや。人間の俺は、もう死んだんだ。お前は、今や初期冒険者ギルドの探索隊、その貴重な生き残りなんだからな。俺は、会えて良かった。もう二度と、会うこともない。死人のことは、もう気にするな」

 

 マリアベルを抱えおこすグローにそれだけ告げる。

 

 四肢が隆起し、身体が変異する。狼の後足と竜の前足、悪竜の翼と身体を覆うまだらな鱗と不格好な獣毛。空に飛び立ち、北を目指す。グローが後ろでなにかを叫んでいたが、風で聞こえなかった。

 

 その背中にクーラは抱き着く。荒い息が背中にかかるが、まあ好きにさせる。なにがあり、なにをしていたとて今更だ。

 

 本当はサグレとベレーザの墓にも寄りたかったが、モスコーは現在帝国軍と連合軍の苛烈な市街戦と化している。現在は王国側が押しているようだが、現在大陸で幾つかある激戦区のうち一つに数えられていた。

 

 エンパスの企み、俺の目的。その中心にいるのは、二年前に身柄を拉致されたテンだ。非道外道に身をやつしたが、ようやくここまで来ることができた。奴の言が正しければ、次の戦闘により巣穴を炙り出すことができるだろう。

 

 空駆けるつつ思うのは二年前。帝都からジークリンデの力で、逃れた時のことだった。



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烏合の衆


 『やあ、また来るとは暇なのかい?』

 

 湯気をあげるコーヒーの杯を片手に、長椅子にふんぞり返るのはウェンディ=アルザス。片手には異国の言語が描かれた本を持ちページをめくっていた。

 

 彼女が居座るのは研究室でも、地下でも、まして見知らぬところでもない。アリアと、ミーナと、テンと過ごしたあの村にある我が家だ。少し様子が違うとすれば、見覚えのない本棚が大量に詰められており台所にはコーヒーを淹れる為の道具と豆が並んでいる。床には紙切れや本が散らばり、まるで覚えのない蔵書で埋め尽くされていた。

 

 彼女がくつろぐ椅子さえも、ふんだんに綿が詰められた高級品だ。とてもじゃないが我が家におけるものではない。

 

 『ここは俺の家だ。なんでお前が好きに模様替えをしていやがるんだ』

 

 『こう言って正しいかは分からないけどねぇ、今はボクの家でもある。もうボク個人という人格と能力は解けて、砕けて、君に混ざった。ここにいるボクは、その表層でしかないのだよ。まあ、ペルソナみたいなものだとでも思っていれば良いさぁ。思いのほかぁここは気に入っているし、人格を乗っ取ろうなんて野心もない無害で可愛い同居人だよぉ』

 

 怨み言を吐くでもなく、ツラツラと語っているがそれを無視。ウェンディが積み上げた蔵書のなか、テーブルの端には、上着が無造作に置かれておりその内側では子猫程の大きさである灰猫、クーラが静かに寝息をたてていた。

 

 頭を撫でると、ピスピスと鼻を動かす。小さな額を手に押し付けるように姿勢を少し変えるが、起きる様子はない。時間間隔というものが、今の俺からはすっぽりと抜けてはいるがもう長い間眠り続けているような気がする。

 

 『話でも、あるんじゃないかい?コーヒーでもいれようか?ここは断片的に残った夢魔の世界、望めば大抵のものは出現する都合の良い夢だからねぇ』

 

 こちららがなにも言わずにいると、肩をすくめながら立ち上がる。台所にて、竈の中で小さな火蜥蜴が踊り薬缶に注がれた水を沸かし始めた。豆が挽かれる音が、静寂の中響いている。外は月明かりすらない暗闇であり、星どころかまるで墨で塗りつぶしたかのような深淵が広がっていた。

 

 『解せないな』

 

 『んぁ?』

 

 『怨み言の一つでも、あるんじゃないかと思っていたが』

 

 あー、となにやら得心がいった顔を浮かべ、少しだけ間を空けた。『今からでも考えようか?』なんてふざけた返事が返ってきたが無視をする。

 

 『ボクは所詮、受け継いできただけの人間だからねぇ。魔力も、能力も、目的も、信念もさ。まあ別にそれが苦痛だとか退屈だとかは思っていなかったけど、君に夢魔を殺された時、自分でも意外だったけどたいして怨む心はなかったかなぁ。あ~あ、くらいには思ったけどねぇ』

 

 『一族の悲願、みたいなもんじゃなかったのか』

 

 『妄執とも言えるかもなぁ。ただまあ、うん……疲れてたのかもねぇ。魔法の習熟や魔力量の増強訓練。魔書や古文書の解読と暗記。エンパスの懐に入って、レントに近寄り加護を得て、経済特別区で活動して、帝都地下で夢魔の製造。他にやることもなかったから、取り合えず一族の使命を果たさんとしてきたよ。でも、計画が破綻して初めて分かった。魔法使い達の執着は、ボクの執着じゃなかった。こうして時間も気にせずコーヒー片手に本を読む、そんな生活がたまらなく心地いいのさ』

 

 ウェンディの笑みと言えば、人を小馬鹿にしたようなヘラヘラしたものという印象があった。だがそのコーヒーを淹れる横顔は、そのようなものではない。

 

 追い求めていたものを失い、解放感と安堵。そして、どこか心に穴が開いてしまったかのような空虚な笑み。とても、帝都洗脳を企てていた魔法使いの長とは思えない。

 

 『君だって同じようなものじゃあないのかい?』

 

 湯気が立つ杯が目の前に置かれる。掲げる大盾で出された、帝都から仕入れた豆や砂糖、モスコーから運んだミルクを大量に投入した、金がかかっているがグロー好みにより過ぎた泥水とは違い芳醇な香りが漂ってきた。

 

 『復讐、やめるんだよねぇ』

 

 『なんで知っている』

 

 『ほら、ボクはもう君だし。まあ飲みなよ、南大陸から仕入れた、ボクが飲んできたなかで一番美味しいコーヒーだよ。記憶の共有、ここなら味わえる筈さ』

 

 コーヒーを一口すすると、心地好い苦みと適度な酸味を感じた。少なくとも今まで飲んだことがあるどんなコーヒーよりも美味い。成程、これが記憶の共有か。ウェンディがかつて飲んだことがある豆を、夢魔の夢で再現し、こうして味を感じることができる。革新的な出来事ではあるのだが、今の興味は別にあった。

 

 『約束かい?』

 

 あの世界でのテンに、最後に言われた言葉。それは、現実世界にいるテンに関するものだった。崩壊していく世界で、身体や顔に硝子のようなヒビを浮かべながらも安堵をし、送り出してくれた顔。

 

 『ボクから言わせてもらえば、それも呪縛だねぇ。結局は、どちらに転んでも君自身は娘に縛られているだけじゃあないかい?親離れできない向こうもアレだけど、子離れできないのも考えものだよねぇ。ま、婚姻も子育てもしたことがないボクが言えた義理じゃないけどさぁ』

 

 一族の目的と言う、ある意味では呪縛に近い物に縛られていたウェンディの感性だからこそ言える言葉でもあるのだろうか。彼女は、もう俺の中に混ざり込んだただの一面といっていた。自問自答のようなものなのだろうか。ならば、応じる必要があるだろう。

 

 『いっそこのまま姿をくらましても良いんじゃないかい?もはやテンに対する殺意はなく、約束したといっても所詮実在しない虚像との約束さぁ。帝都であれだけ暴れたんだ、もう周囲の人間は敵だらけだろうにまだ重みを背負い込むのかい?いっそ、ボクを見習ってクーラと隠居するのはどう?この子はその選択でも、拒否しないだろう。悪竜の方は、ボクは知らんけどにぇ』

 

 『俺自身が、疲れて投げ出したいと思っていると?』

 

 『自覚はなくても、内心を蝕む。復讐も、死者との約束もね。それは呪いだよ、不思議な力でも魔力でも神や悪魔の力でもないけれど、人類にとっては古来から人を蝕む呪いさ』

 

 ウェンディが、テーブルの肘を立てて上で手を組んだ。手の甲に顎を乗せ、顔はニタニタとしていたが笑っていない瞳で口を開く。

 

 『自分から呪われようなんて、健全じゃあないなぁ。いばらの道にも、破滅にも進むことはないんだよ?ランザ=ランテ』

 

 『お気遣いどうも、とでも言えば良いのか?それともここから先のことを無意識にでも想像して、防衛本能辺りがストップでもかけにきたか?』

 

 コーヒーの杯を置く。それが俺の本心だとしても、それをねじ伏せるように言葉を紡ぐ。

 

 『テンを海で救い上げた時から、彼女との関りはもう断ち切れない。中途半端に見捨てるくらいなら、最初から助けなければ良いだけの話だからだ。良くも悪くも、なにがあろうと俺はあの約束を果たす為に進み続ける。一族の執念に縛られたアンタとは違い、俺は自分がら業を背負う。それがあの子の父としての役目だからだ』

 

 『その為に、なにもかも犠牲にする?帝国人、エンパス教をただ信じるだけの信者とも殺し合いになるかもしれない。この先はきっと血が流れるよ。流れる血は、人妖ではなく人間の血だ。君は大勢の人間に怨まれる、殺意を抱かれる、復讐をされる側にまわる。ミイラ取りがミイラにとは言うけど、健全じゃあないよねぇ。良いのかい?』

 

 『悪いだろうな。以前の俺であれば、いささか以上に躊躇しただろう。そのうえで悩み、このまま姿をくらます決断をしたかもしれん。だがしかし、俺ももう化物だ。少しは自分の本心にでも従っておくさ』

 

 帝都の街中であれだけ暴れてしまったんだ。気づいていなかったし気にしている余裕もなかったが、魔法使い共や竜狩り隊以外にも戦闘の余波で巻き込まれ命を落とした市民も当然いるだろう。既にこの手は、取り返しのつかない程に汚れてしまっている。

 

 開き直りかもしれないが、ならばもうそれを気にすることがはないだろう。現に、自分自身の内心はかつてない程落ち着いていた。無益に殺しをしたいとは思わないが、これからは殺人と言う行為に対する敷居が一段と低くなる。そして、その罪悪感も。

 

 『あ~あ、ご立派ご立派。君が生きている限り、ボクの健全ニートライフが続くんだから精々長生きしてほしいんだけどねぇ。ああ、後だけどさぁ……どうすんの、その娘。もう分かっちゃったんだろう』

 

 呆れたように肩をすくめるが、それでももう止めることはしないらしい。自分の本心に、理性が納得したということだろうか。

 

 と、行動方針を決めてひと段落という訳にもいかず、ウェンディはもう一つの話題を続けてだした。この娘とは、上着に包まれてスヤスヤと眠る灰猫、クーラのことだ。

 

 あの逃走劇のなか、クーラを包んでいた上着はまるで自分の布団だと言うように中に潜って眠りこけている。その姿は、子猫の姿であったがそれに関しては心当たりがあった。

 

 夢魔の中で俺は、衰弱するまで過ごしていた。贄として、その命を夢魔に捧げる為に。その中に、異物としてクーラも共に取り込まれる。魂に容量のようなものがあるのかどうかは分からないが、少なくともクーラはあの環境で俺よりも衰弱し瀕死に近い状態だった。それだけ、夢魔に生命だか魂だかを吸われていたのだ。

 

 人妖となった俺が、ジークリンデの刃を使いその夢魔の魂を贄として吸い上げた。つまり、まだ夢魔の中で完全に吸収し消化していなかったクーラの一部も俺の中に吸い上げてしまったこととなる。そして、クーラ自身の身体に残留した分とも、人妖と化した俺と一度混ざり合ってしまった。

 

 可能な限り分離するように努めたが、一度混ざり合ったものは完全には元には戻らない。特殊な繋がりのようなものが、できてしまった。そして、クーラ自身の感情を理解したくなくても、記憶してしまう。

 

 『クーラがレントを裏切ったと知った時、いささか以上にボクは驚いたけどさぁ。まーさーかー、首絞めこそが裏切りの理由を多くしめていたとはねぇ。君、女の子の扱い、酷いの多くない?』

 

 ウェンディの視線に熱がこもる。テーブルの上にあがり、雌豹のように近づいた。耳元に口を寄せ、粘着質な声色で言葉を流し込んでくる。

 

 『ボクのことも、あんなにしてくれちゃってさぁ。ヌチャヌチャ、グチュグチュ、まるで頭の中で粘液にたっぷり濡れた無数の異物がのたうち回る感覚。おぞましい筈なのに、何故か心地好い。尊厳とか生存本能とか、頭の中にあるものを侵食して汚染し、ぶち壊していく感触。たまらなく気持ち良かったよぅ?それに、その後一度外に放りだして、あえて選択させるなんてねぇ。君の趣味の悪さが前面に出ているようで、とっても興奮したよ』

 

 『乗るな、俺が作ったテーブルの上に』

 

 『おろろ』

 

 ウェンディを捕まえて、テーブルから降ろす。やれやれと言いたげに、立ちあがり俺の飲みかけであるコーヒーを横から奪い取り口をつけた。

 

 『ありゃ夢魔の能力だ。致死性というか、依存性のある幸福感の強制介入。文句は開発者であるお前自身に言え』

 

 『夢魔は取り込めば、後は幸せな夢で抵抗を無くした獲物を食べるだけさ。選択権をわざわざ与えた意地と悪さと悪辣さは、君自身の中にあったものだよ。さてじゃあそれを踏まえて、クーラちゃんはどうするのさ。呼びかけて、頭を撫でてあげる代わりに首をしめてやるかい?泣いて喜びそうだけどにぇ』

 

 『……やめないか』

 

 本人が知られたくないであろうことを知ってしまったことと、そのうえにあの夜の首絞めにてこの子のなにかを徹底的に狂わせてしまったこと。最初は命を助けてもらったことに対する恩返し、そしてモスコーでテンから受けた呪いをなんとかする為に共に旅をしてきたと思っていたのだが。

 

 『罪悪感?』

 

 『こればかりはな。どうすれば良いか、見当がつかん。好意はともかく、気持ちを受ける訳にはいかないのは確かだが』

 

 『いやあ愉快愉快。一応ボクは君である、即ちボクの問題ではあるのだけど端から見る分にはとても面白いよう。レントは興味を失った対象には確かに冷たかった。でもにぇ、まさかあの夜の出来事でここまで堕ちるなんて、この子も充分狂っているよ。おぞましい程にねぇ』

 

 『お前人の記憶を……いや、記憶の共有か。魂が混ざるだか、面倒な話だ。知りたくないことも知ってしまい、知ってほしくないことを教えてしまうか』

 

 この件に関しては、こんなつもりではなかったと言い訳の一つでも並べたくなる。

 

 『ウェンディ』

 

 『いやボクの記憶に頼られても困るねぇこればかりは。知らないよ、矯正方法なんて。だいたいボクも、君に酷いことされた一人な訳だし』

 

 あの夜、首を絞めたこちらは襲撃者を殺すこと。そして、その相手を見て子供の首を絞めて殺そうとしていたことに嫌悪感が頭の中にいっぱいだった。あの時冷静だったなら、こんなことにはならなかっただろうか。

 

 自分の撒いた種ではあるが、処理の方法が分からない。この場合収穫方法といった方がある意味正しいのかもしれないが、それはそれで別の意味となってしまいそうで嫌なものである。

 

 『ま、しばらく見守れば良いんじゃないの?君には首を絞めることに興奮を覚える趣味もないことだし、完全に一体化しているボクと君ならともかく、百パーセントとは言えなくてもちゃんと別れることができたんだ。向こうは恐らく、このことには気づいていないし、気づかないふりをしてあげれば問題ないでしょ、多分ね』

 

 『アリア達にも、絶対に知られたくないな』

 

 飲みかけだったコーヒーを全てウェンディに飲まれてしまう。テーブルに腰を寄りかけながら杯を戻し、家の天井を見上げるように顔をあげる。

 

 『そろそろ、時間じゃないかな。休憩はもう充分とったからにぇ。行動方針を定めることができたなら、そろそろ動かないとね、はてさてどれだけの時間が残っていることやら』

 

 『どういうことだ?』

 

 『その記憶、共有はもう少し先にとっておこうか。いずれは思い出すという形で頭に浮かぶかもしれないが、今はボクの僅かに残る権限で秘匿事項とするよ。今色々話しても、ややこしくなるばかりさ。目の前の問題を片づけたら、またこの夢に来ると良い。ボクはここで、本でも読みながら見守らせてもらうよー。まあ、ガンバレ』

 

 ウェンディが指を弾く。なにを隠しているのか問いただそうとする前に、急に意識に現実味のようなものが帯びてきた。

 

 気づくと、視界に暗闇が広がり、準じて明かりが広がる。天井に、不格好な形で吊るされた炎水晶と黒い岩肌が目に飛び込んだ。

 

 「っ!」

 

 起き上がると、右手に重み。全身に包帯を巻かれ、眼帯で片目を覆うクーラが静かに寝息をたてている。なにがおこっているのか分からないが、警戒心がある彼女が安心して寝ているようならばすぐにでも危機が訪れる訳でもないだろう。

 

 左手を、確認する。人間の腕、まるで帝都でおこした暴走が夢か幻のようであった。テンはどうなった、ジークリンデは?そもそもここはどこなんだ。様々な疑問が頭をよぎるが明確な答えは出てこない。

 

 「クーラちゃん!貴女もまだ絶対安静なんだから勝手に抜け出しちゃ…」

 

 出口と思わしき、布で覆っただけの仕切りから二足歩行の犬が顔をだした。

 

 「あ?」

 

 「へ?」

 

 白く長い毛並み。犬の半獣とは過去数回だけで会ったことがあったが、目の前の存在は『半』で言い表せるものではなかった。大型犬のような長い口に、垂れた耳。口の先には黒い鼻がついている。腕から足まで全てが柔毛で覆われており、雑多な道具が詰まった籠をぶら下げていた。

 

 「どうも?」

 

 「い…ひぇ……やああああああああああああああああ!」

 

 獣人が四足歩行になり全力で逃げていく。狭い洞窟と思わしき空間に、声が反響し響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ええ、目を覚ましたそうです。二か月前帝都の五分の一程荒らしてまわった人妖。どうやら、戦力に組み込むつもりのようで」

 

 帝都最北の街。帝国の領土は広いが、ここから先に見える山脈地帯は、その寒冷な天候と痩せた土地から開発は不要と見放されていた。

 

 普段通りであるならば、帝国でも中規模程度の規模であるテシアの街は軍属が入り込み前線基地として改修が施されていた。

 

 様々な資材が摘まれた広場の死角にて、凛々しい女性にも細めの男性にも見える人物が一人呟いている。それだけ特徴がある顔立ちをしておいて、その気配はまるで街中ですれ違っても誰も気にしない幽霊のように薄いものだった。

 

 「もう何人か、草が捕まっていますよ?ここからは、下手に人員を送り込んでも足手まといになるだけの可能性が高い。ええまあ、私はなんとでもなりますが?……え?エンパス?レント?あーそれについてはお待ちくださいっと」

 

 人影の腕の中で、引き金指をかけたボウガンが回る。しばらく弄んだあと、矢を頭上に向け射出。頭部を貫いて、影はバタリと倒れた。

 

 しばらくした後、身体がビクンと反応した。飛び散る肉片が集まり、身体が再構築されていく。それはまるで、はじけ飛んだ肉片一つ一つが意思を持っているような動きだった。

 

 「あっ……すいません代わりました。ええと、レント=キリュウインですが……あ、はい。取り巻きが多いし姿をくらますこともあって……ええ無理ですよぅほんと無理。何度か試したけど上手くいきませんでしたぁ、前みたいにはいきませんてぇ。ええ、神様が釘さしているみたいでぇ……はぁ。まあ、死なない程度には。あーもう代わりますよ、すいません無理ですからぁ。あー、はい」

 

 左手で短剣を持ちだし、自分の首筋に突き立てる。夜空に血が飛び散り、バタリと声色まで変わった女性が倒れ伏した。その後、寝そべった姿勢のまま男の声が暗闇に響く。

 

 「帝都の連中。まずは先遣隊で様子見するつもりですね。これでさらりと潰されるようなら、力を貸すのはむしろリスクと損だと思いますが。ええまあ、せめて竜狩り隊がでても持ちこたえられるくらいじゃないと帝国の後ろ側を引っかくには足らんかと。いずれにせよ、開戦準備はともかく宣戦や大々的な協力についてはもう少し様子見する方が良いんじゃないかと愚考しますね。ええ、こちらはお任せを……では、失礼します室長」

 

 夜の空に、なにかが飛んでいく。男はそれを眺めながら、物思いにふけていた。

 

 『ノックで出会った、ランザ=ランテ。あれがどれだけ戦力になるかだよねぇ。少なくとも、素の戦闘力ではミハエルに苦戦するくらいだけど。まあ、あれも化物ではあるんだけどさ』

 

 「ああ、まあ有象無象よりは働くんじゃねえの?こちらとしちゃ、先遣隊程度に潰されるような脆い勢力じゃ困るんだが」

 

 『そんなことよりレントやエンパス教なんか放っておいて、こっちに集中しましょうよ~。無理ですって一人と三か所の見張りなんて。死んじゃいますってぇ』

 

 『ウェンディ=アルザスはリスムでマフィアの頭と、帝都で魔法使いの長、加護持ちとしてレントの私兵と三足草鞋だったんだぜ』

 

 「まあ、そう思うならお前から上役に伝えてくれ。あちらさんは、新しい外来者に興味津々なんだから。今度はどんなおぞましい実験だか解剖だかをするのかは知らんがよ」

 

 『みんな酷い。泣きたい』

 

 自問自答というには、賑やかな三者の声が一人から響いた。晴れていた夜空から雪がチラつき、寝そべっていた男は「サムッ」と呟き起き上がる。

 

 「まずはどうする?個人的には、この街に運ばれつつある大量の火薬について気になるが」

 

 『普通に発破ようじゃないかな?しばらく、様子見で良いんじゃない?近いうちには、帝国軍がランザ討伐の名目で動くだろうしね。それをどうかいくぐるか、まずはお手並み拝見ということで』

 

 『つまりしばらくはやることないってことですよね。温泉行きましょうよ温泉、最近ポコポコあちこちでお湯がでてるみたいですから。もうそれだけが楽しみでぇ』

 

 人影が呟きながら歩く。資材置き場から出て見上げる先は、空高くまで連なる山脈地帯。

 

 『室長に連合王国の騎士団長、研究棟は、土地も外来者も、人妖とやらも欲しい、とにもかくにも、なにもかもがほしいらしい。精々、祖国の役に立つ連中かどうか、見守ろうじゃないか』

 

 「そして、次の覇権を掴むのは我等が王国ってか。できるのかねぇそんなこと」

 

 『どうでも良いです!温泉!温泉!』

 

 「『はいはい』」

 

 ただ一人の人影は、山脈に向け踏み出す。見張りの兵士がいた筈であるのに、それをとがめる者はだれ一人としていなかった。



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 洞窟内、比較的広い空間を更に拡張した空間にて巨大なテーブルを中央に、様々な顔つきが睨みあっていた。

 

 全身を柔毛で覆い、がっしりとした体格で腕を組み合わせるのは、もはや絶滅したと多く人類に思われた獣人、コボルト達。その傍らには、彼等の系譜と噂される半獣達。険しい顔つきと鋭い目付きで場を威嚇するように睨みつけるのはエルフの生き残り。

 

 蜘蛛の下半身を持つ男女、蛇の肢体をくねらせるラミア。様々な特徴をもった種族が集まっていたが、口論の場においては数の多いこの三種族が各々の意見をぶつけ合わせていた。

 

 「だから何度言えば分かるんだ!」

 

 エルフの一人が机を拳で叩きつける。その目は無理解で頑固な相手を心底軽蔑し、さりとてその力を借りなければならない自分達の現状に対するイラつきが周囲に分かる程よく出ていた。

 

 「帝国軍が一番近い街で軍備を整えているんだ!このままここにいたって準備を終えた連中共に圧殺されるだけだぞ!今動いて連中の出鼻を挫くことこそ重要だ!ここでこもっても飯も無ければ物資もない!時間は敵の味方だと何故気づかない!」

 

 「ふざけたことをぬかすな」

 

 静かに、重苦しく、コボルトが口を開く。犬のような口から人語を放つ様は、人から見れば奇妙で奇怪なものであったがこの場ではそれを気にするものはいない。皆、似たようなものであるからだ。

 

 「我々は積極的な争いを望まない。向こうが仕掛けて来るならば、我等の霊山を護る為奮迅するがそれ以上のことをするつもりはない。人の街に攻めたところで、我等に益はない」

 

 「だからここを護る為に先制攻撃をするんだろうが!奴らの拠点を潰してその資源を奪えばっ!」

 

 「奪えば、またそれで戦うのか?次の戦争の為に、次の次の戦争の為に。流浪の民である貴様等を受け入れた。だが勘違いをするな、確かに人は傲慢にすぎるところはあるが、復讐に盲目となった貴様等とは違い無暗な戦いは望まない。それに、半獣共も勝手な真似をしてくれるな」

 

 コボルトの代表が、睨みつける対象が変わる。犬、狐、イタチ、様々な特徴を持つ半獣達に意見の矛先が向けられるが、先頭にいるハイエナが牙を剥く。

 

 「勝手な真似だと?」

 

 「連合王国の使者を迎え入れ、色々絵図を描いているようだな。奴等は我等を、帝国の戦力分散と弱体化の贄としたいだけだ。それが分からない訳がなかろう」

 

 「分からないのはアンタ等だよ。コボルトはかつてどこの山にもいたが、人間の資源開発や炭鉱、鉄鉱の採掘で追いやられた。ここをわざわざ襲わないのは、過酷な自然環境で開発が後回しになっているだけだ。帝国が本気になったら、一度や二度の撃退じゃすまねえぞ。延々と戦力を差し向けられすりつぶされる。俺達が生き残るには、俺達以外にも味方が必要なんだ。さもなければ、この霊山を捨ててまた逃げるしかないぞ」

 

 テーブルに座ったハイエナの半獣は、苦々しい顔で呟く。差別や迫害から逃げ延びてきた彼等にとって、ここは大陸最北の山脈。少なくとも、正面の帝国を打破しなければ、逃げ出そうにも退路はほとんどないのだ。

 

 「我等はこの霊山を護りきる。力及ばずとも、それが使命だからだ。例え命つきようがな」

 

 「それじゃ無駄死にするだけだろうがよ。戦うのにしても、利用されるにしても、勝ちの目くらいは作らなきゃ全員仲良くお陀仏だ。アンタ等の頭が固いのは今更だが、この程度の大局すら見れないのか?」

 

 「死ぬのが嫌ならば貴様等は逃げれば良い。得意であろう?半端者は、精々連合王国に尾を振り生きていくんだな」

 

 コボルトの一言に、ハイエナが殺気立つ。逃げたくて逃げた訳ではない、苦渋の決断でここまで落ち延びてきた。それを得意などと言われれば、侮辱にも程がある。

 

 拳に力が込められ、争いの気配にコボルトも殺気立つ。互いに一触即発の雰囲気にのまれそうになった瞬間、双方の間に静止の手が差し出された。

 

 「よせ。ここで潰し合っても、それこそなんの益もない」

 

 殺気立つ程に荒れる雰囲気の中、静かに沈黙を保っていたエルフが口を開いた。長い年月を生きるエルフ達は若い姿でいることが多いが、その表情には険しい皺が刻まれ壮年と言える顔つきをしていた。名はエルバンネ、元エルフの森を護る守護人で現在は一族の代表者となっていた。

 

 リスムにて計画が破綻した後流浪となった一族を率いて、どこに行っても狙われ続けるエルフの生き残り達をまとめ誰一人欠けることなく北の地まで落ち延びた統率力は、人の世界で苦渋を舐め続けてきた半獣達には一目置かれていた。だが、山の守護者として誇りを持つコボルトは不快そうにそれを見る。

 

 「貴様等の意見は先程聞いたが」

 

 それでも矛を一度収め、コボルトの代表がエルバンネに向き直った。他の者よりは話が通じるという妥協からの会話であったが、目に宿る落ち延びてきた敗北者に向ける侮蔑の視線は変わらない。

 

 自他共にプライドが高いという評価があるエルフは、当然それに気づく。若者達はそれだけで敵意を向けるが視線でそれを制止する。過度に自尊心を損なう必要はないとはいえ、増長しやすいその性質はトラブルの元になりやすい。特に、この場では種族としての人数としては第三位ではあるが客人ということは忘れてはならない。

 

 「人を駆逐できると言うつもりはないが、奴等は間違いなくここに攻撃をしてくる。資源や環境の問題からか後回しにされていたようではあるが、本気になった人間共はある意味では天災より厄介だ。故郷が焼け落ち、暴発したとはいえ我等の切り札を討滅した者共の力は侮れん」

 

 ランザ、ジークリンデ、エンパス教。想定外のことがおきていたとはいえ、少なくとも港湾都市を半壊させる程の戦力をもっていた。あの人妖は、名実ともに最終兵器だった。

 

 だがそれでも、負けた。地の利がある故郷で、準備を積み重ねていたリスム自治州で。流石は同族同士でも殺し合いを続けてきた種族とでもいうべきか、こと殺し合いと略奪に関しては奴等の上を行く者は早々いないであろう。

 

 近年では、海竜ですら滅ぼされたのだ。寄せ集めを倒すことなどそれの半分以下の労力で事足りてしまうことは想像に難くない。

 

 だからこそ、待ってはいられない。後手に回れば、手詰まりになってしまう。

 

 「寒冷な土地に険しい雪山。確かに防衛向きではあるが、それでも連中の前線基地は潰すべきだ。こちらの地の利を離れ奴らのホームグラウンドで戦うことになるが、それでも勝ち目はあると私は思っている。あの男を使うことができればな」

 

 「ランザ=ランテか」

 

 「帝都の五分の一を悪竜と共に潰した男だ。それも、争いの余波だけでな。利用しない手はないのではないか?お前等の主も、それを見越して匿うように言ったのでは?」

 

 それを言われれば、コボルトも押し黙る。彼等の行動原理は霊山の守護。言ってしまえば、彼等が神と崇める存在を護ることを使命としている。その存在が助けるように言った相手だ、無碍にはできないだろう。

 

 一方でこちらも複雑なものはある。ランザ=ランテは、かつて森の故郷を焼き落として同胞を虐殺、拉致していった一団の一人ではあるし、ミハエルを切り札とした人類への報復を邪魔した存在だ。奴の処遇に関しては正直一族の中でも割れており、下手なことはしないように釘を刺しているのではあるが、許しがたいという気持ちはよく分かる。

 

 だがしかし、使える者はなんでも使うしかないのだ。さもなければ今度こそ、我等はただ暴力的な戦力の前に磨り潰される未来しかない。

 

 「と言っても、奴は寝たきりだぜエルバンネの旦那。何時帝国の連中が押し寄せて来るか分からない以上、あまり頼ってもいられないんじゃないか?第一、素直に手を貸してくれるもんかね。悪竜ジークリンデも、半獣のクーラもあの様子だ。相当に難物じゃねえのか」

 

 ハイエナの半獣が、呆れたような困ったような顔を浮かべる。ここに運び込んだのは三人。悪竜、灰猫、そしてあの男だ。

 

 悪竜ジークリンデは目覚めるのは比較的早かったが、傲岸不遜というか取りつく島もない。エルフや半獣が相手では、下手に接触するさえ危険とも言えるので竜との付き合いではある意味では長いと言えるコボルトの連中に任せている。だがまあ、あまりいい関係を築けているとは言い難い様子だ。

 

 コボルトの主も何度か面会する機会を設けようとしているようだが、『アイツが動くまでは興味もねぇ』とのことらしい。だがまあ、伝説から考えると暴れださないだけまだ良いというべきか。

 

 だがある意味、ジークリンデの態度や行動は分かりやすいといえる。取り合えず、腫物のように扱っておけばすぐにでも暴発する心配は今のところはなさそうだからだ。

 

 ここで問題は、灰色の毛並みをした半獣、クーラの方である。

 

 我等エルフに対しては勿論ではあるが、同じ種族である半獣とも、半獣のルーツとも言えるコボルトにも心を許していない。抜け目がないように見えて、私怨を忘れずに密かに復讐にいったエルフが半殺しにされ、人間と必要以上に関わるなと忠告しに行った半獣の者が腕をへし折られている。

 

 前者はともかく後者は、話しの中でランザのことを侮辱するような言葉を放ったらしい。それが琴線に触れたのだろう、数人かかりで止めにかからなければ腕だけではすまない程の勢いだった。

 

 現在は、ランザの部屋につきっきりでいるようだ。寝ているように見えても、特定の人物以外が近づけばすぐさま飛び起きる。今は、温和なコボルトに様子を見ることに任せているようだ。

 

 扱い方を間違えば危険物極まりないジークリンデに、ランザに対しての暴力や暴言を放つ者に容赦のないクーラ。その難物を二人を抱え込んでいるあの男は帝都、敵の本拠地と言える場所の五分の一を悪竜と潰している。

 

 いったいどんな怪物なのだと見る目も多く、今はともかく元人間だという素性もあいまり計画の一部に組み込むことを不安視する声も大きいのは確かだ。

 

 「もしも、起きるのが間に合わなければ仕方ない」

 

 だが、そのような爆弾でもなければ迫る難局を覆すのは難しいだろう。

 

 「ここを護ることに重点をおく貴方方コボルトの意見は尊重したい、元々ここは貴方方の家であり、我等は外様の存在だ。連合王国に助けを求めることも間違ってはいない。戦力以上に物資も食料もなにもかもが足りない。相手が我等を利用する思惑があろうとも、援助を求める手は苦渋ながら呑み込む必要があるだろう。だがしかし、どのみち帝国にも連合王国にも一度は我等の地力を見せる必要があると私は考える。ランザ=ランテには二度も苦渋を飲まされたが、だからこそ組み込みたい」

 

 力不足と言われたことが気にかかるのか不機嫌そうな顔をするコボルトと、援助を求めるならともかく共に肩を並べて戦うには不安要素すぎる憎き元人間を組み込むことに不信感がある半獣。他の少数種族も議論を重ねるが、やはりこればかりは賛否両論とは言わず否の意見が多い。

 

 我等エルフの中ですら、表面上はともかくこの案を内心快く思わない者は多い。抜け駆けして闇討ちにいった馬鹿がでたのがいい例だ。

 

 だが、折れるしかないのだ。この中で本格的に人間とぶつかったことがあるのは、我等エルフの生き残りのみ。私自身が、苦渋を呑み込み頭を下げる度量を見せねば誰がついてくる。

 

 「散々苦渋をなめさせられた相手に対して、怨みはないのか」

 

 コボルトに一言に、私は心の底から思っていることを返しておく。

 

 「この中で、あの男を一番殺してやりたいのは私だ。先達も、同輩も、後を継ぐ者達も、故郷すらあの男絡みで亡くしたからな」

 

 床に、水滴が響く。強く握りしめた拳の中で、爪が皮膚を突き破り血がしたたったようであった。腹の中が煮えくり返ってはいるが、軽率なことをしてしまった。自傷等、百害あって一利ない。だがしかし、その様子を見てコボルトは目を閉じる。後ろにいるエルフ達の中から、すすり泣くような声も聞こえた。

 

 「すまない、感情的になってしまったようだ」

 

 「いや、愚かなことを聞いた、その点に関しては謝罪しよう。だがしかし、我等の方針は変わらない。この山を護るのに、余所者の力は借りないしこちらから戦端を開くつもりはない。ここは我等が護る霊山、異論がある者は従わなくて結構だ。やりたくば、やりたい者だけで行ってくれ」

 

 それが出来たら苦労はしないと、ハイエナの半獣が唇を軽く噛む。だがしかし、この頑固者達を戦力として数えるのは本当に攻められた時の防衛線。もう後がない時だけになってしまったようだ。

 

 一方でエルフと半獣は共闘路線を組めるかもしれないがここにも不和というか、祖語がある。コボルト達も語っていたが、最悪半獣達は逃げ延びて落ち延びることもできる。連合王国側とコンタクトをとったのだって、帝国と比べればあの国の方が生きやすいからという理由があるからだ。

 

 噂では、異国人を集めた部隊というのものが連合王国には存在し、数年間そこで従軍するだけで市民権を得て国民として生活することができるらしい。各地や他国から追いやられて来た者達であるが、どこにいても差別の境遇はあるにしてもそれでも人浚いや過度な理不尽から逃れる為に、連合王国に亡命を考える者が多いそうだ。

 

 つまり、いざという時逃げ出す先がまだ存在している。そこに辿り着く保証は限りなく低いにしてもだ。

 

 一方我等はそうもいかない。エルフというだけでかなり前から人類の敵対種として有名ではあるし、憎きエレミヤのように人の中に対等な存在として混ざり込めることなどまずないだろう。あれは例外中の例外だ。

 

 皆逃亡生活や流浪の生活には疲弊しきっている。もう、我等には次等ないのだ。

 

 最悪でもまだ逃げ先がある半獣と、もはや次がない我等とでは口にはしていないもののある種の溝が存在していた。結局ここに集う者達のなか多数派を締める三つの派閥は、一枚岩等ではなくバラバラなのである。

 

 まあ、コボルトがまだ生存していたことじたい我等エルフにも驚きであったし、様々な思惑の者達が急場をしのぐ為に集まっただけの寄せ集め、致し方ないのかもしれない。ただこのままでは、帝国相手に磨り潰されてしまう為かろうじて勢力として集まっているだけだ。向こう側からは、反乱勢力扱いされているらしいが内情はそんな立派なものではない。痛し痒しだ。

 

 「結局、なにも話は進まずかよ」

 

 舌打ちをし、投げやりにハイエナの半獣は呟く。だがそれもそうだ、二つの頭を持つ組織は崩壊するというが、もはや我等は痩せほそったケルベロスだ。死角も多く、どこからでも槍につつかれれば死んでしまう。

 

 一応、コボルトの主が名目上の頭目と言えるかもしれないが、ある事情からめったに前に出ることはない。それはしょうがないかもしれないが、代理のリーダー各々の思惑があり選出できないでいる。時間ももうないが、どうすれば良いのだろうか。

 

 「た、大変です!」

 

 一人の半獣が駆け込んできた。まだ年若い男であったが、顔に冷や汗を浮かべている。

 

 「どうした!敵襲か!?」

 

 「例の男が目を覚ましたのですが、その、悲鳴が聞こえてなにがあったかと向かった連中と揉め合って…止めに入った者達がその」

 

 「要領を得ないな、状況を簡潔に話せ」

 

 「あの男が暴れています!負傷者多数!」

 

 思わず舌打ちをする。起きて早々、面倒ごとをおこすとは。エルフが顔を出せば、状況が悪化するだろうか?それでも、止めに入らねばならないか。ただでさえ、ここにいる勢力の心証は悪いというのにこのままでは取り返しがつかないことになる。

 

 「ってうわぁこっち来た!」

 

 半獣が中に逃げ込んで来る。全員が、部屋の出入り口に注目している中その男はゆっくりと現れた。誰もが沈黙する中、ランザ=ランテは全員の顔を見てから静かに口を開く。

 

 「なんの集まりかは、クーラについさっき聞いたばかりだが。成程、これはまた壮観だな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悲鳴を上げて逃げていった二足歩行の犬に頭に疑問符を浮かべていたのもつかの間、押し寄せて来たのはエルフや半獣共であった。彼女になにをしたのかと問い詰めて来るが、しいて言うならば挨拶くらいだ。だがしかし、それを信じてくれる者はこの中にはいなかったらしい。

 

 寝起きだが、身体は動く。強制的な、戦闘行為のリハビリが開始されたがむしろ身体の調子は良かった。視力もあがっているのか、以前よりも敵の動きがよく視える。

 

 打撃と投げ技で二人ほどのしたところ、残りをいつの間にかはね起きたクーラの踵落としが沈めていた。

 

 「おはよ。随分長く寝ていたけど、疲れでも溜まってた?」

 

 腕にすりついてきて、甘えるクーラの頭を撫でてやる。記憶の中にある、帝都で別れた頃のクーラとは違い、片目を眼帯で覆い、耳に傷を負い、尻尾が千切れたように短くなっていた。包帯を身体中に巻いているが、以前よりも大小様々な傷が増えている。

 

 あの幸せな悪夢のなかで、孤軍奮闘していたクーラの身体はこの世界でも同じようにボロボロになっていた。恨み節をいくらでも言える立場なのに、依然と変わらない顔で何事もなかったかのように声をかけてくる。なんと言えば良いのか分からないが、本当に俺には勿体無い一途さだ。

 

 そして、この子の好意を俺はもう知ってしまっている。応じることができないのもあり、気づいていないふりをするしかない。全てではないにしても、一部でもこの子が俺に知ってほしくない暗部を知ってしまったという罪悪感がある。

 

 「状況を教えてくれないか。わりと落ち着いていることから、そこまで窮地でもなさそうだが」

 

 「ま、それに関してはおいおい話すよ。今は、おかわりが来るみたいだからね。あ、殺さないようにね」

 

 「お前からその言葉を聞けるなんてな」

 

 乱闘といって差し支えなかったが、殺意をもったものではない。相手の中では抱いているものもいたようであるが、敵ではなかった。こうしてクーラと背中合わせで拳を振るっていると、モスコーに向かう途上にあったギルドでの乱闘を思い出す。

 

 あの時は、ベレーザの助力もあったが、良くも悪くも俺もクーラもあの時からは変わり過ぎた。

 

 左右から迫る二人を回避し、後頭部を掴み思いきり二つの頭部をぶつけてやる。それが第二派最後の二人であった。

 

 「エルフに、半獣か。エルフはともかく、半獣がこれだけ集まっているのは珍しいな」

 

 「半獣はどうやら、帝国全土やそれも酷いところにいた他国から集まってきたみたい。一時期帝国で、半獣保護の法律がつくられようとしたことは知っている?」

 

 「いや、初耳だ」

 

 「まあ、そうだろうね。それに期待して半獣のみんな集まってきたけど、その政治家は暗殺されちゃったからね。結果は期待の逆、各地で追いやられてみんなこんな北の山奥まで逃げてきたみたい」

 

 クーラは、やや複雑そうな表情を浮かべる。もしかしたら、と思うことはあるのだが話させなくて良いだろう。話題を移すことにする。

 

 「北……帝国北部の山岳地帯か?」

 

 「そ、寒冷地でほぼ一年中雪が降り、作物すらロクに育たない山岳地帯だよ。まあ近年は温泉があちこちで発見されていてね。モスコーにいたベレーザも、そのことを知っていたくらいだからそこそこ有名みたいだよ」

 

 温泉はともかく、薄れる意識でジークリンデに掴まれて、どこかに運ばれたのはうっすらと覚えている。成程、逃げ延びるにはいい場所かもしれない。

 

 「ひとまず、歩きながら話そうよ。ここにいる人達に、挨拶しなきゃいけないかもだしね。ついでに今の状況を聞いてみよう」

 

 「今の状況?」

 

 「主だった人達が、今会議しているってさ。ここから一番近い人の街で、帝国軍が戦闘準備をしているって。まずはそこに案内するよ」

 

 「いや、待ってくれ」

 

 歩き出そうとするクーラを、静止する。彼女は振り向き、続く言葉を待った。

 

 「夢の世界、といってい言いのか分からない。だが、あの世界で俺はお前に」

 

 「なにそれ、寝ぼけた?二か月近く寝ていたけど、しっかりしてよね。ほらほら、行こうよランザ」

 

 あっけらかんと言い、クーラは歩く。だがその腕を掴み、振り向かせる。彼女の隻眼と、目が合った。

 

 「もしかしたら、お前は分からないかもしれない。でも俺は、お前にこれ以上ない大きな借りと感謝があるんだ。ありがとう、クーラ。良い出会いではなかったかもしれないが、俺はお前に本当に感謝をしている。……訳が分からなかったらすまないが、そういうことなんだ」

 

 クーラは、そんな俺の顔を見て首を傾げながら笑う。蠱惑的な笑みであったが、こちらの背中をバンバンと叩き何時もの調子で話した。

 

 「なんだか知らないけど、どーもね。ほらランザ、行こう。自分からはある程度の説明しかできないけど、最新情報からの現状把握が最優先だよ」

 

 あえてとぼけているのか、本当に分からないのか。少なくとも、俺には分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おかしかった。内心おかしすぎた。

 

 自分は、なにもかも覚えている。あの世界は理想の世界だった。ランザが思い描いていた幸せな世界。そこで過ごした数十年を、自分は忘れていないし、その後の帝都での大立ち回りも全てとは言わずとも、ランザの中にいた時分は記憶している。

 

 アリアさん、ミーナちゃん。いささか心が痛んだけれど、ランザは貴女達よりも自分を選んだ。自分を、この自分をだ。

 

 もう、ランザは自分のものだし、自分はランザのものだと胸を張って言える。彼は自分の為に人妖化までした。人の姿を捨ててまで、護ろうとしてくれた。あの安心感のある鼓動を聞きながら、なにもかも身を任せたのは自分だけだ。まあ、ウェンディが混ざり込んで来たのはいささか以上に驚いたがなにも問題はない。

 

 もう、自分とランザは一心同体だ。その証拠といって良いのかは分からないところではあるが、少なくともそう言い張れる根拠が一つある。

 

 毎夜、自分の夢には彼が出てくる。夢の世界でのランザは、静かに寝ているだけではあるがあれが特別なものだということはなんとなく分かる。

 

 本人には悪いけれど、もう毛先から足先まで堪能させてもらっている。何時か現実でそうなった時のような、練習もかねてね。

 

 身体つきは勿論、古傷の一つ、毛穴の一つまでもう自分はランザを知り尽くしている。根拠はない確信ではあるが、あれは間違いなく、妄想ではなく本物の彼なのだ。そのことが、余計に興奮している。

 

 ああでも、動かないのがやはりネックだ。あの逞しい腕で叩き潰して、潰れた自分の上にのしかかり溜まった獣欲をぶつけてほしいのに。あの人妖の逞しさと獣の鼓動、動きでなにからなにまで支配をしてほしい。

 

 無意識に首に指を這わせていた。毎夜の夢でのまぐわりは、冷静に考えれば自慰行為のようなものだ。やはり動く本物に、自分を貪ってほしい。思いきり体重をかけて、またあの時のように首を締めあげてほしい。

 

 その為には、まだ焦るな。なにも知らないふりをしよう。もっともっと、人妖に傾き理性を潰して獣性を高めてほしい。親密になって、全ての問題を片づけて、その後になにもかもを話せば良い。優しい貴方は、きっと受け入れざるをえないだろう。この身体の傷に、罪悪感を覚えているのだから。

 

 尻尾が千切れたことなど、耳がかけたことなど、眼球が使い物にならなくなったことなどどうでも良い。今の身体なら、それを利用した行為だってできるのだから。口にするのもはばかられる内容ではあるが、夢の中ではもうそれも試しているしね。どんなアブノーマルなことをされても、興奮する。

 

 テンも、ジークリンデももう怖くない。彼にとっての、一番は自分なのだから。誰にも、それを譲る訳にはいかない。



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 「お初にお目にかかる」

 

 エルフ、半獣はともかく、まっ先に声をあげたのは獣人と言える存在であった。

 

 コボルト。人類による地下資源の開発が進む遥か昔、各地の山や洞窟にて採掘をしながら居住区を確保する存在がいたという。古い資料に存在が示唆されており、リスム自治州にあったノックの洞窟もかつてコボルトの住居であったらしい。

 

 集団の先頭、巨大な石斧を背中に背負う、筋骨隆々でいかにも戦士と言えるコボルトに声をかけられる。柔毛に覆われた犬のような顔からは、表情が読み取れない。声は重厚で威圧感もあるが、ここに来る以前にこの会議場は殺気立っていたせいもあるかもしれない。

 

 特に今でも、エルフ連中からは敵意をひしひしと感じる。襲いかかってこないのは、他の連中の目があるからだろうか。

 

 「私の名前はロウザ。霊山の守護を司る一族の、戦士長を務めている。ランザ殿、悪竜殿から貴方のことは聞いている」

 

 「ご丁寧にどうも。自己紹介は必要なさそうか?」

 

 「アンタのことはだいたい聞いているぜ。主にはそこの嬢ちゃんにだが」

 

 続いて声をあげた男は、クーラの灰色の髪の毛よりもさらに濃いグレーで、犬や猫のそれよりも少し丸みのある獣耳を生やしていた。クーラよりも年齢は上に見えるが、二十代前半くらいの年に見えまだ若い。腰にはククリナイフを二本ぶら下げている。見た目通り、速さを売りにしていそうだ。

 

 「自己紹介はともかく、一つだけ聞いておきてえ。アンタの産まれはどこだ?帝国人か?」

 

 「何故そんなことを聞く?」

 

 「俺等にとっちゃ重要な話だからだ。それで、どうなんだ?」

 

 帝国は人類至上主義が強い国柄だ。半獣というだけで軽視されるのはよくある話ではあるが、積もる怨嗟は他国の比ではないのだろう。

 

 「連合王国の端っこにあった、田舎の出だ」

 

 「そうかい。帝国人でないのなら、俺から言うべきことは特にねぇ。ガラン=イグザード、後ろにいるのは俺の愉快な仲間達だ。時間があったなら、後で話を聞かせてくれ。王国に興味を持つ奴が多くてな」

 

 ガランという男が、少しだけ緊張を解いた。だがしかし、その発言に少しだけ気にかかる。ガランは自分の後ろにいた一団を仲間と呼称した。つまりグループを作り、他の連中とは一線を引いている。帝国から逃れて来た者達であるようであるが、一枚岩とは言い難い雰囲気だ。

 

 最後にエルフの一団と目が合った。先頭の男は、苦虫を噛み潰したような表情をしている。

 

 「一応、一つ確認しておく」

 

 こちらとは会話もしたくない、とでも言いたげだが、それでも重い口を開く。言葉の端からも圧を感じた。

 

 「ノックの山で、ミハエルを殺害したのはお前か?」

 

 ミハエル。リスムを半壊させた巨人を含めれば、かつて戦った人妖の中では被害規模という意味では断トツの存在だった。吸血鬼として覚醒したサグレとどちらがマシかと言われれば、判断に困る程だ。

 

 結果的にはエルフ共も何人かあの山で犠牲になっている。もっとも、テンの知恵にそそのかされて同胞を化物に変えたことは浅慮としか言えない為同情はできないが。俺とこいつらの、背景を別としてもだ。

 

 「ああ、強敵だった」

 

 「そうか」

 

 目を瞑り、もう一度同じ言葉を静かに呟く。その苦々しい顔はなにを考えているか分からないが、表に出ようとしているものを理性でねじ伏せようとしているのが端から見ても分かった。

 

 リーダー格とみられる男が抑えている以上、奴の下にいるエルフ共も動かない。殺意や敵意はヒシヒシと感じるが、唇を噛みながら抑えていた。

 

 「すまないが、離席させてもらう。少し頭を冷やさなければ、冷静な話し合いを出来そうにない」

 

 こちらとすれ違うように、男は出て行った。後ろに続く何人かの顔は、あの拷問部屋で見た顔だ。しかし、一番怒りをにじませているあいつの顔は見覚えがない。復讐の為行われた拷問等、ノックで奴等が企んでいた計画にはなんの関係も無ければ進展する要素もない。

 

 個人の考えを抑えて、組織の為に行動できるタイプというやつか。腹のうちは煮えているのに、理性で抑え込んでいる。まだ敵意を剥き出しにしてくるエルフの方がやりやすいというものだ。なんの事情があり、ナロクが指揮をとっていたかは分からないが奴がエルフのリーダーであればやり辛さがあったかもしれない。

 

 「勝手な連中だぜ。結局なんも決められていねーじゃねーか」

 

 ガランが悪態をつく。三つのグループと、三人のリーダー格か。

 

 「差し支えなければ、なんの話し合いか教えてもらいたい」

 

 「ああ、良いぜ。ここから南下したところに、人間の街がある。両隣を高い山脈に囲まれた土地柄、北平原と北方の山岳地帯から出る一番安全で大きなポジションだ。ここに人間の軍勢が集まり、街を要塞化している。平原にも前線基地になる拠点を幾つか造り攻撃の機会をうかがっているんだ。丁度、一月前くらいからだぜ」

 

 ガランが壁に貼られた地図を引きはがし、机の上に広げる。地図には赤いインクで幾つかマークがついており、グルリと山脈に囲まれた平原には敵が徐々に近づくように拠点を築いているのが分かった。

 

 「規模、兵力は?」

 

 「とにかくいっぱい。っと…んな顔すんなよ、場所調べてきただけでも、命がけだったんだぜ。まあ分かったのは、連中にとっちゃ俺達は反乱をおこす可能性がある危険組織で、山ごと潰そうと画策していることだ。現にここにいる面子を見て見ろ、人間世界、特に帝国では生きられない連中ばかりだからな」

 

 「だから、連合王国にすがると?それこそ愚かだ。貴様自身言っているではないか、人間世界では生きられないと」

 

 ロウザが口を挟む。ガランが耳を動かし、威嚇するように声をあげ腕を組み合わせるコボルトを睨みつけた。

 

 「黙ってろや穴掘りども。連合王国は俺達の庇護を約束してくれた。あの国は、強大になりすぎた帝国に対応する為に様々な力を集め、敵から逃れてきた者を庇護している。協力をしてくれるなら、人並みの生活を保障してくれるとな」

 

 「半端とはいえ同じ野生を持つ者。人間に飼われるのをよしとするか?」

 

 その一言に、ガランの顔が一気に赤くなる。地面を蹴ってロウザに向かい、腰のククリナイフを引き抜き上空から襲い掛かる。迎え撃つロウザは、腰の石斧を盾にガード。鍔迫り合いがおこる。

 

 「ざけんな!こんな荒れ地に引きこもり、満足に作物を作れず、生息域を広げられず、いずれ数を減らすことを良しとするようなお前等と一緒にするんじゃねえ!俺達に必要なのは思想や矜持じゃねえ!住む場所と飯と、迫害されない環境が必要なんだ!それも今すぐにな!ここまで来るのに、何人も、何十人も死んだ!ここじゃないところでも玩具にされて死に続けている!せめて俺は、俺について来てくれた奴等を安心して生活できる環境を用意してやりたいんだよ!霊山だか知らねえが、価値のあやふやなもん護る為に死ぬことを良しとするお前等と一緒にするんじゃねえ!」

 

 「連合王国に頼った時点で、お前は飼われることに変わらない。奴らの言うこともどこまでが真実かなど分かる訳もない。貴様になにがあったか等知らんが、少々盲目になりすぎてはいないか。哀れだな、利用されるのを良しとされる者達は」

 

 コボルト、半獣。互いの殺意が膨れ上がる。互いの仲間達を敵意を剥き出しにしているのが分かり、今にも殺し合いがおきそうだ。少数種族達の様子を見ると、コボルト側と半獣側に、どちらともいえない者達に別れている。

 

 「こんな感じ。エルフに、半獣に、コボルト達。みんなみんな、敵が同じというだけで見ている方向はテンでバラバラ。内部分裂待ったなしなのよね」

 

 クーラはこの惨状を見せたかったようだ。呆れたように、止めるでもなく頭の後ろに手を回しながら静観をしている。

 

 「お前は、どっち派だ?」

 

 「ランザの傍」

 

 「つまりどちら派でもないと」

 

 所詮俺達は外様の存在。観賞するのは良くないかもしれないが、このままでは本格的に殺し合いがおきかねないしそれはそれで目覚めが悪すぎる。止めようとした矢先、か細い声が聞こえた。

 

 「あ……の~」

 

 振り向くと、見覚えがある白毛のコボルトがそこにいた。先程、何故か悲鳴をあげて逃げて行ったコボルトだ。目があった瞬間、ヒッと身体を縮こませる。

 

 「ラ……ンザ=ランテ……さん?」

 

 「俺だが」

 

 「主様がお呼び……です。是非一度、面会したいと。それと、ロウザさんはもう一度ジークリンデ様に声をかけてほしい……と」

 

 石斧を持つロウザが、構えを解く。背中に戻し、一礼をしてからすぐに退出していった。対峙していた相手の変わりように毒気を抜かれたのか、ガランも鼻で笑いククリナイフを腰に戻す。

 

 「化物からのお呼び出しねぇ。まあいいや、ランザさん。端とはいえ連合王国出のアンタがいるなら、少しは交渉も優位に進むかもしれねえ。出来れば、俺達の味方についてくれると嬉しいぜ。その半獣の子も懐いているなら、信用できる」

 

 ガランも部屋から、仲間を連れて退出する。自分達とそれに賛同する者以外に敵意を振りまきながら。

 

 「ご案内しま……す」

 

 すれ違いざまにガランに威嚇され、さらに縮こまりながらもなんとか声をあげた。エルフ達はよく分からないが、半獣達にはあまり好かれてもいないようだ。状況から考えるに、元々ここを根城にしていたコボルト達の長というところか。

 

 しかし、そうであるならば内部で殺し合いがおきかねない現状にストップをかけにこない理由が分からない。化物と呼称されるからには只者ではない筈であるのだが。それとも、居場所から離れられない理由があるのかもしれない。病か怪我で、寝たきり状態等が考えられそうだが。

 

 「待ってくれ、その前にジークリンデに一度会いたい。そちらの主には悪いが、先に案内してもらっても良いか?」

 

 記憶に残るのは、帝都でのジークリンデとの戦い。あの時は、とにかく周囲の敵対者を全て潰さなければならないと考えていたのを覚えている。攻撃をしてくる気配から、彼女も敵だと考え交戦をしたが今思えばあれは暴走した俺を止める為だった。

 

 あのままあそこで暴れていれば、どうなったかなんて分からない。かの悪竜には、詫びと礼を言う必要があるというものだ。そして、問うてみたい。

 

 悪竜ジークリンデ。彼女は【元の姿】で俺と交戦した。封印剣の力で、封じられていた筈の存在がだ。土壇場で剣が限界を迎え封印が解かれたとしたら、もしくは竜狩り隊が余計なことをして封印を解いてしまったとしたらあの状態で現れることには納得ができる。

 

 だが、もしも……もしもだ。封印等とっくに機能をせず、もしくはかなり前からそんなものは効力をもっていなかったとしたらどうなんだ?

 

 違和感は、前からあった。特にモスコーで、サグレを監視していた俺の前に串焼きを手にしながら現れた時だ。心のどこかで考えていた、もしかしたら封印等、とっくに意味のないものになっているのではないかと。

 

 だとしたら、俺に拘る必要なんてない。好きなように暴れて逃走なり殺戮なりをすればいい。何故悪竜は、俺の旅路についてきてくれたのか。今までは、自由に行動できないぶん、暇つぶしか気紛れで同行していると考えていた。 

 

 思えば、俺はジークリンデのことも、クーラのこともなにも分からない。悪竜の思惑も、クーラが腹の底でなにを考えていたのかも。

 

 「ランザさんが来てくれれば…ジークリンデ様もおこしになるかと。申し訳ありません、今は…こっちを優先…させていただければ」

 

 普通に尋ねたつもりであるが、肩をびくつかせかなりの怯えを見せている。この手の相手に、無理強いをしたら収拾がつかなくなりそうだ。

 

 「分かった、案内してくれ」

 

 ペコリとお辞儀をした後、部屋を出て地下に続く通路を降りる。洞窟内はまるでアリの巣に入ったかのようであり、地下に降りるに連れ幾つかの部屋が存在していた。少しのぞき込んでみると、それは居住区だったり物置だったり様々だ。

 

 下に降りるに連れ、暑くなっていくのを感じる。額が汗ばむほどであるが、長毛である筈のコボルトは慣れているのかどこふく風といった具合だ。

 

 「クーラ、ここまで降りて来たことは?」

 

 「いや、初めてだよ。探索するにしても、エルフがちょっかい出しに来るからランザから離れたくなかったし」

 

 熱気による汗を拭いながら、クーラも告げる。いったいなにが待っているのか、未知に向かっていく感覚は、初期冒険者ギルドの探索を思い出す。あの時は、こんな案内人等いなかったし濃い緑の中でもあったが。

 

 「おぉ……」

 

 案内された先で、思わず感嘆の声がでた。降りて行った先、急に開けた空間に辿り着いたがそこには広大な空間が広がっていた。広い人工的に造られた石でできた通路が奥まで続いており、その下にはドロドロとした液体が流れ炎が所々から炎が噴き出している。

 

 通路の先には、空間の天辺まで届きそうな巨大な建造物。帝国式でも王国式もない、教会との様式が違い、未知の彫刻が刻まれた大木のような柱が幾つも立ち並び天井を支えている。屋根に当たる部分には、巨大な竜が見下ろしている。迫力があるが、白亜の色をした石像だ。

 

 入ったことはないが、リスムの地下迷宮にあるという遺跡もあのような感じなのだろうか。

 

 「いや、違う」

 

 確かにかなりの迫力があるが、どこかで見たことがあるような気がする。歩きながら少し考えたが、すぐに思いつくことができた。悪竜ジークリンデ、彼女がいた遺跡とは保存具合や手入れのほどが違うがどこか似たような気がしている。

 

 「竜神信仰」

 

 「なにそれ、そんなのあるの?」

 

 「いや、分からない。だが昔ジークリンデがいた遺跡になんだか似ているような気がするんだ。もしかしたら、昔は圧倒的な存在である竜に対して神様のように信仰する文化があったのかもな」

 

 しかし、こうなるとここから先で待っている存在に対して、腹をくくる程度ではすまない覚悟がいるかもしれない。ここから先にいるのは、悪竜ジークリンデ、海竜リヴァイアサンの同類だ。

 

 遺跡の柱を越えた先には、巨大な祭壇が存在していた。まるで巨大な寝台のような祭壇の上には、巨大な赤い竜が横たわっている。その身体には、荒く削りだしたような石でできた槍が突き刺さり天井に繋がっており、赤熱したエネルギーのような熱が天井に向かいゆっくりと蠢くように流れていた。

 

 圧倒的な存在を前にして立ち尽くしていると、背中に重さがかかる。後ろを見てみると、ジークリンデがこちらに体重をかけるようのしかかってきていた。

 

 「ジークリンデ」

 

 「あー互いに言いたいことがいろいろあるだろうけど、今は取り合えず後回しにしようや。しかしまあ、なんつーざまだよランドルフよ。オレが言えた義理でもないだろうが、見る影もねぇじゃねえか」

 

 「自分で選んだ結果ですよ、ジークリンデ。私は自分で選んでこの姿になりましたのでね」

 

 ジークリンデに意識をとられていたなか、誰もいなかったところから少年の声が響いた。火炎のようなオレンジと紅蓮が混じった髪の毛に紅色の瞳。鱗を組みながら編んだ防具のような服を身にまとい、身長は低いが存在感のある子供が目の前に現れた。

 

 背中には熱した鉄のような色をした頑強そうな翼に、両腕と両足は鱗に覆われ小さな鈎爪がついている。

 

 「初めまして、ランザ=ランテさんにクーラ=ネレイスさん。私はランドルフ、この休火山にて長い眠りについているただの老いぼれた竜種です」

 

 ペコリと小さく、少年が頭を下げる。つられてこちらも、頭を下げてしまう。これはもう、職人時代に培ってきた対人スキルが自動発動してしまった。なんだか場違いなような気までしてくる。

 

 「これは、ご丁寧に。ランザ=ランテです」

 

 互いに頭を下げ、社交辞令的に握手をする光景にクーラとジークリンデは、そろって呆れた瞳で見つめていた。

 

 「おい、ランザ。なにがどうなってこんなガキになっているか知らんが、本当のこいつはかなりのおっさんだからな」

 

 「そういう貴女は、若作りとでもいえば良いですか?私と同年代なんだから、互いに良い年齢でしょうに」

 

 「殺すぞクソ野郎」

 

 物腰柔らかだが、竜同士はそこまで仲は良くないようだ。キレ顔のジークリンデと何事もなかったかのような顔をしたランドルフであるが、少なくともジークリンデはランドルフを敵視しているように見える。

 

 「言いたいことは、いろいろあるかもしれません。しかし、まずは私からお願い……いえ、懇願を聞いてくれないでしょうか」

 

 ジークリンデとの軽い牽制合戦を終え、ランドルフがこちらを見つめる。火竜相手から頼みごとをされることなど、人生であるとは思わなかった。思わず身構えてしまいそうになる。

 

 「私は自由に動くことができない身です。しかし、竜に関りがある貴方が来てくれたことは天啓に近いものを感じています。どうか、私が護ってきた彼等を……いえ、半獣達も、エルフも、みんなを救っていただけないでしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「かの山脈に根城を構える反乱勢力を駆逐する。それだけの為に、あの量の爆薬はいらないのでは?貴方はいったいなにを考えている?ガルシア」

 

 帝国にとっての最北の街ハボック。本来土地に住み着いていた住民の大半は避難させており、軍事拠点となっていた。この街で一番大きな建物である市民会館は拠点の中枢である指令室が設けられ、反乱勢力の討伐に来た将軍ガルコスと竜狩り隊の長に復帰したガルシアが向かいあっていた。

 

 「むろん勝利の為の策で使うものですよ、将軍。我々は主目的は、ランザ=ランテですから。かの存在に、まともな方法で当たるつもりはありませんので」

 

 「竜狩り隊の独自行動権は知っているが、あくまでこの軍勢は、帝王より勅命を受けた私の指揮下で動くことになっている。あまり勝手なことをされると、こちらとしては困るのだが?」

 

 「将軍はなにも心配することはありません。あくまで、我等の主目的は帝都で暴れた怨敵、ランザ=ランテと悪竜ジークリンデの討滅ですので。そちらも、こちらの邪魔だけはしないでいただきたいものです。我等当てに運ばれてきた補給物資を、自軍の強化に充てているとか。困るのですよ」

 

 「人外どもの一揆を収束することが主目的だ。必要だと判断した物に関しては、ここに流れてくる以上我等の管理下にあると考えていただきたいな」

 

 ガルシアが、わざとらしくため息をつく。

 

 「ならなおさら、早めに動いてほしかったものですな。芽は早いうちに摘むにかぎる。私が何度連中の討伐を上奏しても、それを握りつぶしたのは貴方方だ。仮想敵国である連合王国に対する備えを優先し、益のない痩せた土地の支配等構ってはいられない?連合王国と対峙するならば、なおさら後顧の憂いを絶つべきだというのに」

 

 「竜狩り隊とはいえ、たかだが一部隊の隊長風情が偉そうなことをぬかすな。そもそも貴様等が帝都で奴等を討滅できなかったことが、問題ではないのではないか?分かっているのかいないのか、奴は山に逃げ込んだ。帝国で大立ち回りをした人材を旗頭に掲げれば、たかだが一揆とはいえ面倒な存在になりかねない。貴様等が仕事さえこなしていれば、私が出張る必要もなかったのだ。あまり自分達のことを棚上げするのはやめてもらいたいものだ。貴様が皇帝のお気に入りでも、あまり自由な発言をしすぎるなよ?」

 

 互いに互いが、自分にもある程度の否があることは分かっている。だがそのうえで、譲れない一線を護ための舌戦が続いていた。

 

 一揆勢力の鎮圧。ランザ=ランテとジークリンデの討滅。それぞれ思惑は違う。将軍であるガルコスにとっては、自由行動権があり指揮下にない強力な部隊等、全体の足並みがそろわなくなる厄介なずれた大砲である。そして竜狩り隊の長に復帰したガルシアにとっても、名目上の将軍であり自分よりも立場が上なガルコスは捨て置くことができない存在であり様々な面で摩擦がおこっていた。

 

 帝都事変。かの混乱おかげで帝国中に不況の和が広がり始めており、それを好機と見た連合王国をはじめとした隣接国家が強気な外交姿勢を見せている。国境警備に予算や人員、物資を広げざるをえなくなり、大罪人ランザがいようと戦線として重要度を下げざるをえなくなっていた。

 

 皇帝としては、信頼のおける竜狩り隊とガルシアがいることで安泰と思っているようだが、ガルシアにとっては子の仇であり、なにより油断ならない怨敵であるランザに対して少しでもバックアップと資源、対応策となるカードを用意しておきたいところである。

 

 こうして準備を進めるうち、それは互いの思惑とは反するとガルコスとガルシアの間で衝突が度々おきていた。

 

 「ガルシア、もう最初の手は打ってある」

 

 「中途半端な手段では、奴らの結束を促しますよ」

 

 「なに、役立たずの竜狩り隊はもう終わったと皇帝には報告できるだろう。精々、邪魔だけはしてくれるなよ」



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 「避難壕に潜れ!今すぐだ!」

 

 隕石の如く落下してくる落石から逃れる為に半獣とエルフ、コボルトの一団は監視用トーチカや射手狙撃位置、投石台を用意した迎撃線から地下にめがけて掘り進めた避難壕に潜り込んだ。

 

 命中精度を犠牲に、魔具による補助動作により射程距離を従来の二倍以上伸ばした投石機による一斉射出。銃器、大砲が開発されたと共に時代の流れの中で消えゆく兵器であった筈のそれは、オーデン技術連合により、さらに遠く、より高く放てる距離を競うという開発者同士のお遊びにより魔改造と称される勢いで進化を遂げていた。

 

 何故かそこに貴族から多額の予算がおり、魔具の研究開発者も加わり、悪乗りを重ねた結果時代遅れの兵器はとんでもない長射程を持つほぼ別物と言うべき兵器と化していた。

 

 大砲の方が破壊力と精度の方が優れてはいるが、平原に築かれた拠点から定期的に放たれてくる岩石や爆発物の他、糞尿や蠅のたかったなにか腐ったもの等大砲では放てないものが降り注いてきている。殺傷や拠点破壊を目的としたものというよりは、嫌がらせのようなものだ。死傷者は特にでず、たまたま迎撃拠点に命中しない限りはさして被害がある訳でもない。

 

 そのうえ奴等は、決められた時間通りに投石を繰り返している。今では退避行動も慣れたものであり、危機から逃れてきたというよりは緩んだような、戦場とは思えないようなどこか弛緩した空気すら流れていた。

 

 「敵軍が動く様子もなく、今日も投石だけか」

 

 「投石と同時に攻め寄せて来るとしたら、多少なりとも動きはある筈だしな。毎日毎日、嫌がらせばかりでご苦労さんってとこかよ」

 

 上の連中はいがみ合うように互いに意見をぶつけているようだが、前線で敵を監視して何時攻めて来るかも分からない敵に備えているうちに、見張り達はある種の仲間意識が芽生えていた。それは良いことなのかもしれないが、悪い面に作用することもある。

 

 毎日行われるハラスメント攻撃に、全員がどこか弛緩した雰囲気で対応していた。危険でこそあるが、精度が低く対応が容易な攻撃。種族間の軋轢がでていたうちは、ある種の緊張感が常に保たれていたといえるが、それも弛緩した空気によりどこか危機感が薄れていた。

 

 そして、戦争において慣れと弛緩はどんな結果を生み出すのか、彼等の上層部を含め誰一人として分かっていなかった。投石開始の伝令こそはでていたが、それだけだった。

 

 「あと数十分もすれば、何時も通り攻撃もやむだろう。そうしたら一応は配置について被害が出ているか確認を…」

 

 避難壕の中に、なにかが投げ込まれた。岩が剥き出しの床に瓶が当たり、黄色の液体が周囲に広がり刺激臭のする煙が巻き起こる。

 

 最初に異変を感じたのは、コボルトであった。直後半獣でも、嗅覚に優れた者が口と鼻を抑え始める。眼球の充血と痒み。涙と鼻水がボロボロと溢れ、嘔吐感が身体の内側からこみあげてくる。エルフが吐き気に悶え苦しむ頃には、症状が早い者は喉を抑えながら苦しみのたうち回っていた。

 

 「ぞどだっ!どぐ…ぞどにでれば!」

 

 動ける者が避難壕から出る階段を昇り始めるが、先頭を行く者の頭に風穴が開き脳髄が弾け飛ぶ。その者が最後に見た光景は、雪原に溶け込めるように白色の衣装を着た一団が火薬臭のしない弩をこちらに向けている光景であった。

 

 そして、火薬の臭いは別の場所から流れていた。

 

 「準備良し……3……2……1……っ」

 

 爆発音が幾つか響き、避難壕の出口が塞がれる。穴掘りが得意なコボルトが中にいようが、有毒ガスのおかげでロクに動くことすらできず、なまじ嗅覚が優れている為真っ先に症状が現れ沈黙していった。

 

 同じことが、一部の防衛線で、複数の避難塹壕にて巻き起こる。絶望のうめき声は地下の中で響き、地上に届くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北部反乱軍鎮圧部隊隊長、ガルコス=フォーネ=シュネルウ。伯爵の位を持ち帝国では北西、連合王国との国境に領土を持つ帝国貴族の一人だ。

 

 国境沿いの領土と言っても、壁のような山脈地帯に深すぎる渓谷、毒虫や有害ガスがあふれ出る地形であることもあいまり対連合王国との関係においてさほど重要視される土地ではなかった。

 

 表面上とはいえ、平和な時代が続いたこの時世において齢五十にしてようやくの初陣を果たすこととなる。帝国では十五年前に初の士官学校が開校してはいたが、戦争経験がなく年が行き過ぎたガルコスがそこに通うこともなく連合王国との戦争が予想されるポイントに派遣されることはなかった。

 

 老将軍には、反乱鎮圧をしてもらいそれで戦争貢献ということで納得してもらおう。幸いにもガルコスの持つ部隊は質が悪い訳ではない。むしろ、武装の種類という面では役に立たないと思われることでも投資を続けてきた故に使えるかどうかは別問題として充実はしていた。

 

 「慣れは油断を呼び、油断は死を呼び寄せるというものだよ」

 

 馬に跨り望遠鏡を覗くガルコスは、浸透打撃小隊が敵が作り出した防衛網を破ったという報告に満足げに頷いていた。

 

 「例え蛮族の寄せ集めとはいえ、地の利に加え身体能力を考えればまともに当たれば軍にも被害がでる。まずは防衛網に穴を開け、そこを中心に攻撃を加える。特別に訓練を重ねた浸透打撃小隊は敵本陣にて攪乱し脆弱な伝達システムをさらに破壊する。奴等は上の指示をうかがうこともできず、孤立してバラバラに動く者達を討ち滅ぼす。机上の空論と笑われたものだが、試してみるものだな」

 

 軍史を研究するのが趣味なだけの素人だと考えていたが、存外に策略に関してよく考えられている。時代遅れとなった投石機の研究投資をする等奇特と思えるような行動をおこすこともあるものの、長年領地を平穏無事に運営してきた実績から無能ではないということか。

 

 だがしかし、この方法では奴を戦地に引きずりだすことができない。この山々に連なるコボルトの洞窟、出入り口が幾つあるか等想像もつかないし短時間で調べられるものでもない。そのうちの一つから、ランザ=ランテやジークリンデが抜け出し空に飛び立てばその後の捕捉はまた困難を極めるだろう。

 

 勝ちすぎては、いけないのだ。

 

 勝利に絶対はない。だがしかし、やるからには極めて高い値まで可能性を高めておきたい。この作戦ならば確かに反乱勢力は駆逐できるかもしれないが、それまでだ。こちらの目標を果たすことはできない。奴をこちらが有利な戦場まで引きずりださなければ、次の機会が何時になるか分からない。

 

 今帝都の人心は大きく乱れている。連合王国とそれに続く同盟国の圧力に対抗するのは、人心の心に自信を取り戻すことと、国民の愛国心を回復させ帝国と軍に対する信頼や支持を回復させる必要があるのだ。反乱勢力征伐等、今となってはなんの意味があろうものか。

 

 必要なのは、帝都の五分の一を潰した二体の首級。私はそれを手に入れる為に、手段は選ばないと決めたのだ。それでこそ、愚かな行動をとってしまったが、愛国心こそ本物であった亡き息子への手向けともなる。

 

 ガルコスの近くから離れ、天幕の裏に向かう。

 

 「計画通り、動いてはいるか?」

 

 「ああ、勿論。だが本当に、大丈夫なんだろうな?このままでは、お前の策が上手くいくとは思わんぞ」

 

 「余計なことは考えずとも良い。時期が来たら動け、以上だ」

 

 「時期……ねぇ。まあいい、俺達はアンタとの取引に乗ったんだ。精々、期待させてもらうさ」

 

 手を汚し続けてきた。そしてこれからも、汚し続けるだろう。全ては、帝国の繁栄と人類の誇りの為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハッ!ハハハハッ!……はっ~…馬鹿かお前」

 

 しばしの沈黙の後、声をあげたのはジークリンデだった。手のひらで片目を抑えるように、顔を上にあげて嘲笑する。そして、前を向きなおしたその瞳には侮蔑の色が含まれていた。

 

 「寝ぼける前のお前はそんな詰まらん願いをするような阿呆じゃなかっただろう。巖のように動かず、されど一度動けばなにもかもが灰燼なる。トータルの殺害数はオレやクソアサンよりよほどぶち殺してやがるクセによ。かつての世界最大の都であるボンペイを、噴火からの災害で都市の全部を灰と岩の下に沈めやがったじゃねえか。ああ、あの時は地揺れのせいで高波までおきたっけなぁ。十万人、少なくともそれだけの人間やその他種族を虐殺した。そんな奴の言葉とは、思えねぇなぁ」

 

 十万人。現在の帝都に等に比べれば劣る数ではあるが、それでも桁違いの人数だ。少年の姿と丁寧な物腰で緊張感がもてなかったが、ジークリンデの言うことが本当だとしたらとんでもないことになる。

 

 「まああん時はオレも驚いたぜ。てっきり溶岩でも垂れ流すのかと思ったら、ガスや灰、岩石で住民が逃げ出す間もなく都市を埋め立てるなんてなぁ。いやあ、悪竜なんて名乗っちゃいるが悪意の意味ではオレよりもよほど」

 

 「過去の、汚点です」

 

 なにかを堪えるような表情をしていたが、それでもランドルフは口を開いた。その目は、まっすぐ前を見ている。

 

 「彼等はやりすぎ、私の我慢も限界だった。しかし、皆殺しにするのではなくなにか他に方法があった筈なのです。それに気づくことができなかった、私の若さと愚かさに責任の全てがあります。ランザさん、クーラさん。確かに私は竜種の中では人を殺しすぎた存在です。身勝手な話ではありますが、出来ることならば、先程の懇願とは分けて考えてはくれないでしょうか?」

 

 「まあ、オレが言うのはお門違いって話だけど、見た目通りの善良さじゃあねえよ。反省とか、自戒なんて検討外れなことでもしていやがるのか?追い詰められたひ弱な連中を助けて、罪悪感でも拭いたいのか?どのみちくだらねぇ、やるなら手前等でやりやがれ」

 

 嘲笑混じりの悪竜の言葉に、否定も肯定もしない。ただこれ以上口を開いても、なんの意味がないことを理解しているのだろう。ただ、俺の返答をランドルフは待っていた。

 

 「事情は分からないし、知らなくても良いと思っている。だが、二つ教えてくれ。過去の話が本当ならば、別に俺達の力なんざ借りなくても良い筈だ。そしてなんでお前は、この地に逃れて来た連中に肩入れするんだ?」

 

 「まず一つ目の質問ですが。今私は、この場を動くことができません。この土地は、いえ……この大陸は壊滅します」

 

 どういうことかを問おうとした瞬間、悲鳴に近い声が響いた。声の主は、俺達をここに案内してきたコボルトのものだった。

 

 振り返ったクーラの目が、鋭くなる。背中に、弩から放たれる短いボルトが大量に突き刺さったコボルトが、フラフラになりながらこちらに向かってきていた。この神殿と入ってきた穴を繋ぐ橋の途中で、コボルトは倒れる。

 

 駆け寄り、状態を確認するが助けることができそうにもない程重症だった。ここから回復するとなれば、ジークリンデの贄と引き換えにする回復術くらいではあるが、悪竜は特に動く様子はない。もっともここまで来たところで、それを行うとは到底思えないが。

 

 「敵……強い…助けを……ラン…フ……さっ」

 

 「ダメ、死んだよ」

 

 限界だったのだろう。息をひきとる様子を見て、クーラが首を左右に振った。背中に突き刺さるボルトを一本引き抜き、確認する。

 

 「ここまで小さいボルトは初めて見た。重量を軽くして、携行量を増やしているのかな?重鎧は貫通できないかもしれないけど、原始的な装備や軽装備のコボルトや半獣、エルフには効果抜群だね。本気で来たみたいだよ」

 

 「戦争に備えているのならば、当然防御陣地はあっただろう。なんでまた、こんなにすぐ攻め込まれちまったんだ」

 

 まったく話が進んでいなかった会議の場では、敵の陣地に攻撃するか否かを論じていた筈だ。つまり、まだこちらから先制攻撃ができるチャンスと余裕があったという話になる。殺伐としてはいたが、そこまで余裕がない訳ではないように思えたが。

 

 「まあ、相手は大陸最大の国が持つ軍隊。こっちは団結もできない寄せ集めでできた烏合の衆。帝国が本気になればこんなもんかもしれないけどさ……どうする?ランザ。逃げるなら混乱しているだろう今のうちだと思うよ」

 

 「ここには半獣、お前の同族だっているだろう。逃げても良いのか?」

 

 「別にさ、だからってわざわざ助けなくたって言い訳じゃない?希望にすがりたくなるのも分かるけど、連合王国についたってなにもかも上手くいくとも限らないしさ。ただまあ……」

 

 複雑そうな表情を、クーラが浮かべる。言うべきか、言わないべきか悩んでいるようだ。クーラの心境を多少は垣間見た身ではあるが、大きな感情を理解できただけで本人が隠していることまでは分からない。

 

 「言いたくなければ、言わなくても良い」

 

 頭をグリグリと撫でてやると、クーラが顔をあげた。本当に良いのかと、口に出さずとも顔が語っている。

 

 「ここの連中には、世話になった。火竜の思惑があろうがなかろうが、それに間違いはないんだからな」

 

 振り向くと、肩をすくめるジークリンデが見えたが、なにも言わずに歩み寄ってくる。

 

 ここに俺を運んで飛んできたのは、彼女だ。口では憎まれ口を叩きながらも、見方によっては火竜を頼りに俺を運んできてくれたと言えるだろう。そうなのだからこそ、これ以上はなにも言わないのかもしれない。

 

 「馬鹿な連中だぜ、どいつもこいつも」

 

 「わざわざ付き合う、お前もじゃないのか?」

 

 手を絡めた瞬間、舌打ちが聞こえた。いつの間に手に握られているのは、古ぼけた封印の剣だ。そして剣は、連結した刃となる。やはりお前は、封印なんかされていないのだろう。俺は、この悪竜にずっと護られてきたという訳だ。

 

 そして、それがバレているであろう今もそのスタンスを変えるつもりはないらしい。積もる話は後回しになってしまったが、どう切り出せば良いかも分からんなこれは。

 

 重い物が落ちる音。発生源を見ると、これまでの旅をずっと支えていた散弾銃が落ちていた。帝都にて紛失したものだと思っていたが、このタイミングで現れるということはジークリンデが持ち続けていたのだろうか。あんなにこの銃を、毛嫌いしていたのに。

 

 鈍器にくらいはなるだろうと考え拾うと、少しだけ重量がある。よく見ると、切り詰めた木製のストックは黒く変色し触り心地が鱗のように滑らかになっていた。銃身の内部を見ると、既製品ではない見覚えがない弾丸が詰まっている。骨のような、白色の弾丸。あの戦いで、悪竜が放ったブレスを思い出す。

 

 片手で連結刃を握り、片手で散弾銃を持つ。今まで、ジークリンデを扱う際は毛嫌いしていた散弾銃を使えなかったものだが、何度か思い浮かんべていた戦闘スタイルではあった。

 

 「ランドルフ!」

 

 神殿の入口でこちらを見るランドルフに声をかける。苦渋の表情から、こちらに駆け寄りたくても近づけないことがよく分かった。

 

 「アンタの話は今は置いておかせてくれ!だが今は、俺をここに置いてくれた恩に報いようと思う!まずはそれで、問題はないだろう!」

 

 「ええ、よろしくお願いします。どうか、みんなを助けてやってください」

 

 深々と頭を下げるランドルフに背を向け、クーラと共に走る。彼女も既に直刀を握り腰に差したルーガルーの短剣も何時でも抜けるようにしている。

 

 「片目だが、支障は?」

 

 「慣れるまで流石に時間はかかったけど、問題ないよ。遠近感が掴み辛いから、まだ投擲の精度はそこまで良くはないけど、近接戦闘なら前と同じくらい」

 

 「そうか。背中は任せた、クーラ」

 

 「オーケー。任さーれーたっと」

 

 連結刃を握る拳の甲と、直刀を握る拳の甲を叩き合う。本当に、頼もしい子だ。

 

 戦地に向け、来た道を登りながら戻っていく。その足取りは、想像以上に軽かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ククリナイフの、滑らかにカーブを描く刃が首筋を裂く。血を浴びるのもいとわず、その死体を盾しながら後退。飛んでくるボルトを防ぎながら、岩陰に身を隠す。

 

 「女子供の避難は!?」

 

 「コボルト共の住居にひとまず向かってもらっているが、芳しくねえよ!なんでまたこんなに急に敵が来るんだ!前線の連中はどうしたんだ!?」

 

 「俺が知るか馬鹿野郎!とにかく連中を足止めしろ!なんにせよ、いざという時の避難路に向かわせるにも時間がかかる!」

 

 「分かってるよ!……ガラン!左の通路からも!」

 

 複数の通路からの挟撃。刺突剣や短槍、火薬つきの手投げ弾で反響する音が洞窟に響き渡り、耳がいかれるかと思えば今度は音が小さい弩弓からボルトや投げナイフが飛んでくる。

 

 波状攻撃に、仲間も随分やられただろう。当たり前だ、前線崩壊どころか帝国軍攻撃の報すら来ていない。せいぜいいつも通り、精度の悪い投石が嫌がらせ程度に飛んできていただけだ。洞窟を護る為の配置や武装、迎撃準備などできていない。せいぜい戦えない連中を奥に逃がすだけが精一杯だ。

 

 「手前は行け!」

 

 「は!?なにを言ってやがる!?」 

 

 「ここはもうダメだ!せめて山の反対側に、女子供だけでも連れて逃がしてやるんだ!指揮はテメェがとれ!生き残りをかき集めて落ち延びろ!」

 

 「ふざけんなガラン!お前がいなければ…」

 

 口答えしようとした半獣の首筋に、ククリナイフを添える。突然のことに怯んだ隙に蹴り飛ばし、洞窟の奥におしやる。

 

 「お前等じゃ足止めすらロクにできねえだろうが!それにいると邪魔なんだよ!気が散るからとっとと失せろ雑魚が!」

 

 「ガラ……っ…すまえねえ!」

 

 半獣が、走り去る。二方面から敵は来るが、狭い通路だから迎撃はできなくもない。一度に二人を相手にすることにはなるが、囲まれるよりはマシだ。思い出せ、奴隷商人から仲間を開放した時は今以上に敵の数が多かっただろう。

 

 まあ、その時の敵は目の前に迫る脅威よりも練度が低かった訳だが。

 

 遠距離攻撃をしよと弩を構えた兵士の首に、投擲されたククリナイフが突き刺さる。腰から新たなナイフを引き抜き、構えなおす。

 

 「どうした腰抜け共!チマチマ遠巻きから打ったって俺は殺せねぇぞ!金玉ついてんならかかってこいやぁ!」

 

 刺突剣と短槍を迎撃する。空間の狭さで囲まれる心配はないものの、逆に言えば回り込むことや跳躍により上方からの攻撃ができない。贅沢は言えないが、やり辛さがある。

 

 「っらぁああああああ!」

 

 刺突剣を弾き、懐に斬り込み白く塗装された軽鎧の隙間に刺しこむ。相手が怯んだ隙に壁を蹴り、頭が天井にぶつかるギリギリの低空三角飛びで短槍持ちの頭に蹴りをぶちこんでやった。

 

 二人の兵士が倒れた合間をぬって、ショーテルを構えた兵士が突撃してくる。足元に転がる岩を蹴り飛ばし、そのうちの一つが股間に命中した。

 

 「しゃおらぁ!これは効いただ…ろ?」

 

 スピードを落とさず向かう兵士。僅かに女性から放たれる臭いが嗅覚をとらえる。

 

 「こんなところに、金玉ねぇのいるのかよ」

 

 迎撃、間に合うか?体制が悪い、無理矢理ククリナイフで防御をしようとするが弾かれて飛ばされてしまう。体幹がぶれた隙に、半月のような刃が首に迫る。ざまあねえ、戦場は雄の世界だと思っていた思い込みで、こんな死に際を迎えるのか。

 

 すまねえみんな、大言吐いて行かせたってのに、足止めすらロクにできやしねえとはよ。

 

 ざまあねえ終わり際だが、せめて瞼は閉じない。首一つになっても、その喉笛に食らいつき噛み千切ってやる。

 

 世界がゆっくりに見えたと思い、迫る刃を見ながら走馬灯が駆け巡りそうになった刹那、急激に世界の早さが変わる。

 

 一枚一枚が独立した、黒と赤の禍々しい刃。太い幾本もの太い血管のようなものに繋がれた異形の武器が、迫る兵士を両断した。

 

 「世話になった恩を、返しに来た。微力ながら、助太刀する」

 

 散弾銃と、見たこともない剣を構えたあの男が。凄まじい圧を放ちながら立っていた。




 都市ボンペイの元ネタは、イタリアにあるポンペイ遺跡です。凄まじい悲劇と災害に見まわれた古代の都市ですが、現在は発掘作業が進んだり観光地となっています。一度観光に行ってみたいですね。


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 ランザの噂は、いろいろ聞いていた。主だってはエルフの連中からだが、まあ侵略者だの略奪者だの血も涙もない卑劣漢だの散々な言われようだ。

 

 まあ過去に色々あったみたいだから、話半分くらいで丁度いいとは思ってはおり、あまり悪印象は持てないでいた。クーラ=ネレイス。同じ半獣であり、その風貌から幸せとは言い辛い半生をおくってきたのは想像に難くない。そんな彼女が、懐いているくらいなのだからそこまで悪い奴には思えなかった。

 

 なんだかんだ言って、俺達半獣は人間全員が敵等とエルフ共みたいに排他的な思想を先鋭化するつもりはない。極少数派ではあるのだが、まあ中には嫌悪や敵意以外の感情を向ける存在だっている。それに、この世界の覇者は間違いなく人間だ。最低でも交易や取引等の干渉を受けつつも敬して遠ざけるくらいの関係性を築けなければ、半獣という存在に未来はないだろう。

 

 だからこそ、多かれ少なかれ打算や政治的配慮はあろうかとは思うが、受け入れを表明してくれた連合王国には多少の期待はしている。この男が王国出であるのならば、口利きとまでは言わないが友好関係を築ければ向こうの使者に対してもアピールポイントになるのではないかという打算もあった。

 

 それだけの、存在だった。悪竜とかいう女と帝都の五分の一を崩壊させたとかいう話は聞いたが眉唾ものだ。確かに鍛えられてはいるが、そんな馬鹿なことを生身の人間が出来る訳がない。

 

 俺には理想がある。何時か半獣と、居場所がないと思う者達を集めた、自治州のようなものを打ち立てたい。だが、追いたてられて食うにも困る生活を送る現状ではそれも夢のまた夢だ。何者にも干渉されない力さえあればと、歯噛みしたことが幾度あっただろうか。

 

 そして今、目の前でその力が振るわれていた。それは技というには荒々しく、暴力というには美しく、戦いというには残虐すぎた。

 

 蛇のようにうねる刃が狭い通路で渦巻き、敵を近寄らせない。胴体を貫通した刃が花開き血の雨を降らす。刃と刃の打ち合いさえも許さず、ガードをかいくぐるように敵の急所に吸い込まれていく。まるで刃がそれを望んでいるかのように、派手な流血が周囲に飛び散った。

 

 仲間の犠牲をものともせずに前進をしてくる敵。異質な攻撃に多少は怯むかと思っていたが、目の闘志は消えていなかった。むしろ、殺意と憎悪が増しているようにも見える。

 

 クロスボウによる援護を受けながら、敵が前進を開始する。成程、確かにあの連結した刃は本来なら広範囲に敵をなぎ倒すことができるのが強みの武器だ。リーチの長さに気をとられそうになったが、この狭い洞窟では強みを発揮できない。

 

 数人を犠牲にしながら、兵士の一人が肉薄する。通常の刺突剣よりも幅が広い、斬撃にも対応できる剣が突き出されるがそれを顔を反らして回避する。連続で攻撃をしようと剣を一度引いた瞬間、ランザは踏み込んだ。

 

 頭突きをするのかとでも思った瞬間、顎が裂けその顔は柔毛覆われた狼のものに変化する。大口を開けて鎖帷子で覆われた首筋に食らいつき、引きちぎる。唐突な変化に、束の間訪れた静寂。ただ、肉を咀嚼する音だけが洞窟内で反響した。

 

 『いけねぇな』

 

 血と肉の塊が口から吐き出され、壁にへばりつく。咀嚼された肉が、ぐちゃぐちゃになったそれが粘着質な音をたてて地面にずれ落ちる。

 

 『なかなか美味くてつい呑み込むところだった、そこまで人間やめたつもりもねぇのによ』

 

 それは、本心か、それとも士気を落とす為の演技か。食われてしまうかもしれないという、原初的な恐怖。後ろで見ていた俺ですら怖気がはしるというのに、それを目の前で見せつけられた者達の表情は、兜から覗く目からでも分かる程凍り付いていた。

 

 こうなると、もう近接戦に持ち込もうと考える者はいない。遠巻きにクロスボウを打ちながら少しずつ引き始めている。

 

 ランザは手元の死体を持ち上げ盾とする。その腹部に散弾銃を突き付け、射撃。肉と鎧を貫き散弾が舞った、と思った瞬間銃弾の破片の一つ一つにオレンジ色の光が灯る。

 

 小さな火の蜥蜴達が、生命を与えられたように自立して飛び回る。それは動く者に殺到し、軽装備等軽く貫通し人体の内部から炎を揺らめかせた。まるで人間一人一人が、松明になったかのように燃え上がる。こうなれば、もはや敵に戦意はない。中には武器を投げ捨て逃げ出す者もいた。

 

 そして、恐怖と悲鳴は伝播する。狭い洞窟内に、人間の悲鳴が響き渡った。

 

 「数人間引こっか?」

 

 『任せる』

 

 どこからか現れた、灰色の影が走る。直刀と歪なナイフを手に持ち失踪するのは、ランザと共にここに逃げ込んで来たクーラだった。鎧の隙間に刃を滑り込ませ、血を流す。痛みによる苦痛の声が恐怖を増長し、もはや戦闘どころではなかった。

 

 「追撃、どうしよっか?」

 

 脇腹から刃を引き抜く。飛び散る血が顔にもかかるが、平然と話しかけていた。

 

 そりゃあ、人殺しなんぞこなれていればこれくらいは平然としているだろう。それに年齢なんてものは、関係ないかもしれない。半獣というならば産まれた時点で多かれ少なかれ苦労はしているし、犯罪に手を染める者や俺等みたいに奴隷商人を襲撃したりして人殺しをすることだってある。

 

 だがしかし、その隻眼は輝いていた。まるで児童が親の仕事を手伝って褒められたかのようにだ。

 

 『放っておけ、それよりもこの蜘蛛の巣か蟻の巣みたいな洞窟だ。分散している連中がいるだろうしさっさと仕留めにかかろう』

 

 「オーケー、なら手早くいこっか。一応自分が把握している限りだけど、他に敵が集まってきているとしたら……って、もしかして臭いで分かる?」

 

 『鼻が利くからな』

 

 次の敵がいるであろう場所に、二人は歩く。その後ろ姿を、俺は呆然と見送るしかなかった。

 

 あの二人は、もっている。暴力や理不尽に、屈しないだけの力をだ。

 

 俺自身、最初は周囲にただ反発していただけだった。底辺の肉体労働が気に食わないから労働施設から脱走し、ただ単に半獣を利益として懐を温めている奴らが気に入らないから襲撃し、飯が食えねえって痩せている奴の近くに不健康な脂肪をぶら下げた奴がいたから金や飯を強奪しただけだ。それが気づけば、大所帯を引き連れて歩くことになっていた。

 

 だが本来、俺には群れを率いるカリスマも実力もない。他の連中も、別に立てるやつがいないから暫定的に俺を頭目に据えているだけだ。いざという時、みんなを護れる器じゃないのを知っている。現に、当時異国にいた際、帝都にて有力議員が半獣をはじめとした亜種の保護政策をだした時は後のことまで考えず色めきたったものだ。

 

 だがしかし、そんなものは反対議員に潰される。現にそれを提唱した男は、暗殺により命を落とした。結局それにより勢いを殺され、反対派に法案が叩き潰されてしまう。政策の発動まで秒読みというタイミングでだ。

 

 そのせいで、帝国で集まった俺と仲間達はまたも逃亡を余儀なくされた。それも、今度は袋小路になるこんな北の山脈地帯にしか逃げることができなかったのだ。

 

 本心を言えば、連合王国の甘言だって信じ切れちゃいない。だがしかし、疲れて、心身共に傷つき、飢えた仲間達には希望が必要なのだ。例えその希望が、苦しみを長引かせるようなものであってもだ。ここが最後の山場であると皆に伝えないと、瓦解してしまうのは目に見えている。

 

 「……はっ」

 

 人となりを見た訳ではない。どんな過去があるか等分からない。腹の中になにを考えているのか等、さっぱりだ。

 

 だがしかし、担ぎ上げるだけの価値はある。あの人間であり、人外である男には。幸い同族もよく懐いている。みんなを説き伏せる材料にはなる筈だ。

 

 「どのみち手詰まり感があったんだ、賭けてみるのも悪くはねえだろう」

 

 どうせ、ここで終わりなら後はもうなにも残らない。有り金全部つっ込むのは、悪くないと思っている。みんなには、俺の賭けに付き合ってもらうことになるが、どうせ泥船だ。船に火をつけて敵に突っ込ませるくらいの覚悟が無ければいけないだろう。

 

 「おい!待ってくれ!俺も行く!」

 

 ならば、やってやろうじゃねえか。見極めてやる。この男の行動、戦い、思考を。そして仲間を説き伏せる材料をそろえる。それだけの価値はある筈だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本気じゃない。クーラは、肌で感じていた。

 

 この山脈はコボルトが掘りまくった洞窟が複雑に入り組んでいる。その内部を理解していなければ、どう攻めようが不利だろう。現に、今洞窟内では敵を押し返し始めていた。

 

 コボルト達の住宅地。広い空間に幾つかの階段が作られており、まるで一階、二階、三階と別けられているようだ。壁に添うように幾つかの穴が掘られ、そこに避難した非戦闘員達が隠れている。

 

 「射て」

 

 その段差に、エルフの射手が並ぶ。空間は広くても、入口は狭い。押し込んで来た者達は、交差するように射撃され死体の山を築いている。

 

 「この調子なら、突破されることはないだろうよ。上手く切り抜けられそうだなエルバンネ」

 

 「……」

 

 「エルバンネ?」

 

 難しい顔をしているリーダーを、怪訝そうに見つめる。勝てる戦いでなにをそんなに不満そうにしているのか、彼には分からなかった。

 

 別の場所では、兵士の一団が洞窟を進んでいた。前方には石の盾を並べたコボルト達が槍と石斧を構えている。そのまま突き進むよりは煙幕かなにかで視界を遮った方が良いと判断したのか、それとも火炎瓶のようなものでも投げて来るつもりか。

 

 その瞬間、足を止めた一団の背後にあった壁が崩れる。振り返った兵士の頭上に、巨大なツルハシが突き刺さった。

 

 「我等の住処に押し入って、生きて戻れると思うなよ」

 

 先頭のロウザが突き進む。手に握る石斧を振り上げ、ガードごと敵の身体を叩き割りながら進む。前後から挟まれる形となった兵士団は、圧搾されるように叩き潰されていった。

 

 地形を知り尽くしている上に、その構造すら自分達の有利なように掘り進むことができる。防衛にも奇襲にも、いかようにも状況を変えることができた。

 

 「次に行くぞ。侵入してきた連中に地獄を見せてやれ」

 

 咆哮をあげ三部隊に別れる。ここに初めて来た敵が、どこから来てどこに逃げていくのか、理解しきっている。為すべきことを為す。何故ここに敵が来たのか、考えるのは後で良い。聖地を護る、それだけが吾の行動原理であった。

 

 所が変わり、洞窟で一番広い通路。不揃いの得物を持つ半獣部隊が敵に襲い掛かっていた。その中心には、ガランと彼が強制労働施設から脱走する時について来た仲間達。そして、奴隷商人を襲撃し続けた際に解放した仲間達が並んでいた。

 

 「続けや野郎共!今なら押し切れるぞ!」

 

 ガランの指示で、失いかけていた士気が戻る。先頭にて刃を振るう男のサイドを固めるように、半獣が前進。近接戦闘になれば、普通の人間よりも潜在的身体能力が高い半獣達がものを言う。

 

 形勢逆転することで、逃走する兵士達。敵の撃退に関してはこれで良いのだろうが、襲撃にしては手抜きにすぎる。敵の諦めも、早いように感じる。

 

 そもそも、この装備だ。転がる一つの死体を確かめる。鎖帷子を主にした軽さを重視した鎧に、重火器が遠距離戦の主流になりつつある今のご時世には似つかわしくないクロスボウガンはまるで大きな音を出すことじたい嫌がっているように思える。そして何故、わざわざ鎧に白い塗装を?帝国兵士の様式は、基本的には赤色であったはずだが。

 

 「いや、違う。これは、時間稼ぎだ」

 

 やられた。ここは、ほぼ一年中雪が降る、大陸最北の地であることを忘れたか。白い塗装というのは、つまりそういうこと。自分の得意分野ではないか。

 

 「ガラン!ここの出口ってどこ!?できれば高いところから南側を眺められるようなところに出る道を教えて!」

 

 敵を蹴散らしたことで、一時の歓喜による歓声をあげる半獣達をかき分け、リーダー格であるガランに声をかける。

 

 「早く!取り返しがつかなくなる!ランザも来て!」

 

 「え?お…おお!こっちだ!」

 

 ガランに案内されるまま、駆ける。上へ上へと昇る通路を進むに連れ、最悪に向かっているだろうが、確信を得ないことにはどうにもならない。最悪、ここで臨終となる前になんとしてでも逃げ出すべきなのだ。

 

 光に目が焼き付く。いざという時ここから逃げ出す為に、ある程度の抜け道は把握していたがまだ来たことのない出口に到着することができた。静かに降り注ぐ雪原の情景は、下に広がる景色と半比例したものだった。

 

 帝国軍に対応する為に、有り合わせ、間に合わせで築陣した防衛地帯。そのほぼ全てが、帝国兵の赤い装備により染まっていた。限られた状況と資源でも、地の利を活かして戦えば互角以上に渡り合える。そう考えられた基地は、さらりと陥落したのだ。

 

 「やられたな」

 

 「ごめんランザ、この可能性に気づけなかった」

 

 投石が同じ時間に繰り返され、軍が動く様子はない。その情報だけで、こうなることは予想ができた。

 

 同時刻による投石による嫌がらせ。何時もと同じ行動だろうと高をくくり避難壕に退避した者達等、もう袋の鼠だ。白装備の連中は、雪山という背景に溶け込む為の装備だろう。だとしたら、素早く動く為細剣やクロスボウガン等の軽量装備なのも頷ける。

 

 小部隊であちこちの防衛線を崩したら、そのまま止まらず本陣を襲撃。混乱する本陣から指示が降りる訳でもなく、戦うのも引くのも統制がとれきれない穴の開いた防衛線にいた者達は、時間をおいて押し寄せて来た敵本体により蹂躙されたか逃げ出すしかないだろう。戦っても、足止めすらロクにこなせない筈だ。

 

 たかだか亜人の反乱勢力と油断し、力押しをしてくるような者達ならば話は楽であった。それならばいずれ突破されるにしても防衛線は持ち堪えたであろうし、なによりもそれならば姿をくらます時間が充分にあっただろう。

 

 もう一度あの姿で、空を飛べればまた逃走できるだろうか。ジークリンデが、再度手を貸してくれるのだろうか。時間さえあれば、安全なルートを探索し確保したものを。

 

 あそこでたむろしていた連中が陣形を整えなおし進軍すれば、今度こそひとたまりもない。いくら洞窟内がこちらに有利であろうが、もう今度は力押で充分すぎる程引き潰されてしまう。

 

 「エルフだ、コボルトだなんだ言ってる場合じゃねぇなこれ」

 

 すぐに情報を伝え、即防衛準備に取り掛からないと今度こそ殺し尽くされる。

 

 大きく、角笛が吹き渡る。いよいよ総攻撃かと舌打ちをした瞬間、軍の動きが奇妙なことに気づいた。観察をしていると、奴等前進してくるどころか最低限の備えを残し、退却していっている。防衛線を叩き潰したところで、目標達成とした?だとしても、備え以外を引っこませる理由はない筈だ。

 

 理由は分からないが命拾いはいした、釈然としないものではあるが。

 

 「なにを考えているんだ?」

 

 雪山の中腹にて、ランザの呟く疑問が響く。それに答える声はなく、ただ深々と積もる雪の中に問いかけは溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 将軍、ガルコスは部下の報告を聞いて小さく息を吐く。

 

 「想定通りといえば想定通りだが、思ったよりも浸透打撃小隊の損害が大きいか。上手くいけば敵の大将首をそのまま狙えるとも考えていたが、それは高望みしすぎか?」

 

 軽装備なれど、領地の兵士の中から戦闘力が高く行動力がある者達で編成した小隊だ。蛮族相手と言えど、奇襲さえすればそのまま本陣を斬り潰してしまうこともできるのではとの考えもあったがどうやらそこまで上手くはいかないらしい。

 

 まあ、研究中の戦略ではあるしこの戦史も後に解析され、後に続く者達の分析や参考の一助となるであろう。計画通り前線基地は潰せはした、ここから先は力攻めで充分にすぎる。

 

 敵は穴倉の中にこもるであろうが、無駄に多い洞窟の入口だ。多数の方面から休ませないように攻め続ければいずれは陥落するであろうし、ここからは火器や魔具の使用も許可できる為陥落までさして時間はかからないだろう。

 

 「私も前線に赴き指揮をとろう。後方はガルシアに任せることにする。ガルシアはどこにいった?」

 

 「天幕の方向に、探してまいります」

 

 側近の一人が、ガルシアを呼びに向かう。やれやれ、作戦が上手くいき気に食わないのかもしれないが、部隊の長が戦場を見ることができない場でなんの判断ができようものか。皇帝は奴を気に入っているが、ここでは役に立たなさどころか足を引くことしかしていない。今回の件をありのまま伝え、いっそ竜狩り隊を一新するべきなのかもしれないな。

 

 「ガルシアを待つこともない。誰か奴に、後方で裏方をしていろと伝えるのだ。護衛官、これより前線に向かう。ついて来るが良い!」

 

 「悪いが、アンタに向こう側行かれちゃ、困るんだよ」

 

 ガラの悪い、反発の声。なにを…と言う暇もなく、ガルコスの背中に数本の矢が突き刺さり、落馬する。

 

 弓矢をつがえる護衛官達が、各々の兜や鎧を脱ぎ捨てた。金髪碧眼、白い肌をしたエルフの顔がその下から現れる。

 

 「なっ……何故……エルフが」

 

 「一枚岩じゃないのは、お互い様らしいな。内部に手引きがいる状況で潜り込むのは、簡単だったよ」

 

 「ガルシア……奴か…何故」

 

 ガルコスの額に、矢が突き刺さる。胸、首筋、心臓。あらゆる急所に至近距離から射貫かれ、老将軍はあっという間に命を落とすこととなった。

 

 「ご苦労だったな」

 

 「アンタか」

 

 現れたガルシアに、エルフが応じる。彼等の目には悲痛な覚悟が現れており、これからおこることに抵抗する様子を見せることはなかった。

 

 空を飛ぶ鉄馬が、周囲から現れる。帝国最強の竜狩り隊、その中枢をなす古参の本隊に囲まれようが、エルフはガルシアから目を反らすことはなかった。

 

 「殺す前に、改めて誓ってくれ。降伏してくる同胞がいれば、受け入れをし人道的に扱うこと。なるべくエルフの連中は殺さずに生け捕りにし、奴隷商人に売買等せずに後に解放してやること。そして」

 

 「ランザ=ランテの確実な討伐。逃がすことなく、この場で確実に決着をつけさせてもらう。ガルコス将軍が戦死された際は、私がこの軍を引き継ぐように皇帝から勅命を受けてはいる。二つの約束、必ず守らせてもらうぞ、勇者たちよ」

 

 「頼むぞ。俺達はやはりランザ=ランテが憎い。二度も俺達の仲間を殺し尽くした相手に頭を下げ、共同戦線等死んでも無理だ。だが、俺達程度では奴を殺せなかった。付き人の、猫にすら妨害された。頼む、奴を必ず殺してくれ。アンタ等の遺恨ついででいい、俺達の怨みも晴らしてくれ」

 

 「承った……エルフだ!エルフ共がいるぞ!将軍が射たれた!」

 

 ガルシアの叫びと共に、エルフ達が竜狩りに襲い掛かる。無抵抗に殺されたのでは疑いがかかる為、最後まで全力で抗うことまでがこの演技の終幕だった。

 

 槍で、銃器で、最後の抵抗をしにくるエルフ達が蹂躙されていく。帝国兵達が駆けつけて来る頃には、暗殺者達の死体が積みあがっている状況ができていた。そして、エルフの矢で死亡したガルコスも。

 

 「将軍……クッ」

 

 ガルコスの生存を確認する様子を見せ、首を横に振る。その顔には、悲痛さも織り交ぜる。

 

 「将軍はお隠れになった!臨時で私が指揮をとる!エルフかコボルトか、まだ周囲に潜んでいる可能性がある!軍を一時下がらせろ!撤退の笛を吹け!」

 

 追い詰めすぎたランザを、二度も逃がす訳にはいかない。奴を確実に殺す為に、将軍の死も利用させてもらう。

 

 将軍の仕事である、反乱分子の討伐も完遂する。貴方の犠牲は、無駄にはしない。 

 

 撤退の角笛が響き渡った。ここからは、仕込みが重要だ。時間が惜しいが、全力で取り組ませてもらう。

 

 私の所業は、許されるものではない。死後煉獄生きは避けられないであろう。だがその時は、ランザ=ランテの首をぶら下げながら胸を張って地獄の門をくぐろう。それだけの覚悟は、擁している。

 

 さあ、ここから反乱分子討伐の戦ではない。竜狩りの戦を、始めるぞ。

 



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 襲撃から二日、帝国兵達は制圧した防衛線から動く様子を見せなかった。挑発をするでもなく、ただ黙々と睨みあいを続けている。

 

 攻められても良いように主だった洞窟入口周辺には急ごしらえながら柵を用意し、三交代制で集中力が途切れさせないように徹底させている。もう後がないことを、皆が理解しているのだろう。

 

 帝国側としては、小賢しく策を弄さなくても力攻めだけで容易く決着はつく。だがしかし、何故帝国軍は動かないのか。それに対して明確な答えを持てる者は誰もいない。不気味な静寂と沈黙が、一帯を支配していた。

 

 そして、異様なのは緊張感を持っていたのは洞窟側だけではなかった。彼等の敵である帝国兵達もまた、その顔に戦場での緊張感以外にある種の緊迫した様子を浮かべている。

 

 小さく雪が舞う。白い装束に岩肌のような汚れを僅かにつけた、フードつきのマントを羽織ったクーラが雪にまみれて陣営を見ていた。成程、防御に関しての備えはしているようだ。だが攻撃の準備は、傍目から見ても整えられているとは思えない。照明用の松明、もしくは使い捨ての安価な炎水晶の準備も少なく見える。

 

 もっと近づければ、なにがあったか分かるんだけど。

 

 有り合わせの迷彩と、限られた装備ではこれ以上の偵察は不可能だ。無理をしても良いことはないが、帝国兵がこんな近くにて警戒の目を光らせているという事実が目障りだ。行動を大幅に制限されていては、逃げるにしても戦うにしても次の手が打ち辛い。

 

 警戒の目が届かないところまで下がり、フードを脱ぐ。仕方ないとはいえ、身体が冷えてしょうがない。取り合えず戻って火にでも当たってから、情報を共有して逃走か戦闘か今後の方針を決めていかねければならない。火竜に頼まれたからといって、最低限の義理は果たしただろうし。

 

 ただ気になるのは、あの火竜の発言だ。大陸が壊滅するとかなんとか?そんな力があるならさっさと発揮すれば良い。環境を利用したとはいえ十万殺しているんだから、簡単に帝国兵くらい殲滅してくれれば良いものを。

 

 「それにしても」

 

 山から振り下ろして来る風が冷たい。こんな北まで、今までの人生で来たことはなかったが、雪の多い環境といい帝国でも開発が後回しになっているのが頷けるというものだ。

 

 ランザに帝国兵の様子を報告する時間までまだ余裕もある。服も少し濡れてしまっているし、早く焚火にでも当たって暖をとりたいものだ。

 

 「ん?」

 

 卵が腐ったような臭い。視線を向けた先には、白い湯気があがっているのが見えた。方向転換して、岩山を昇り、柵を乗り越え、しばらく歩くことで湯気の正体が明らかになる。

 

 広い窪みの中に並々と溜まる乳白色の泉が湯気を放ち、あちこちにお湯から突き出すように岩が伸びている。周囲をよく見ると洞窟の入口が近くにあり、木製の桶等が脇に積み重なっていた。

 

 指を入れてみると、少し熱めではあるが冷えた指先には心地良い温かさ。成程、これが温泉というものか。話には聞いていたけど、見たのは初めてだった。

 

 帝国の北に、湯がでる泉があるという話をモスコーでベレーザがしていた。失恋から遠くに行きたいという意味で話していた面もあったが、まさか自分がこうしてここに辿り着くとは思わなかった。

 

 「遠くに来たんだな」

 

 ベレーザとサグレ。夢の世界でも良いから、もう少し話したかった。二人の恋とその結末を思い出すと、今でもあの時ベレーザに戻ってサグレに改めて本心をぶつけるように焚きつけたことが頭によぎってしまう。あんなことになると分かる訳がない。ただ、純粋に二人の仲を応援したかった。

 

 「……うん」

 

 留め金を外し、装備を降ろす。身にまとう衣服を岩の上に降ろし、武器だけは何時でも抜けるように近くに置いておく。今なら誰もいないし、せっかくだから体験してみることにしよう。ベレーザの代わりにという訳ではないが、話しを聞いた時から少しだけ興味はあった。

 

 暖かいお湯に身体全身をいれる等、貴族や金持ちの行いだ。大抵の者達は川から汲んだ水を浴びるか、少量のお湯を沸かしてそれを染み込ませた布で身体を拭くかくらいだ。

 

 爪先を水面につけるだけで、ちょっとドキドキする。ビクッと身体が痙攣しつけた足を引っ込めてしまったが、意を決して滑るようにお湯の中に身体をいれた。

 

 「ンナァアアアァアアァ」

 

 思わず声が漏れてしまう。雪の中に半ば埋もれながら、偵察行動をしてきた後には格別だ。ここに保護されていた時、木桶の中に汲まれたお湯で身体を拭いたりしていたのだが、全身をお湯の中に沈めるのがこんなに気持ち良いとは思わなかった。なんというか、このまま溶けてしまいそうである。

 

 ベレーザ、温泉は最高だよ。本当に。

 

 空を見上げながらお湯に浸かり、無意識に指先が眼帯をとった潰れた瞳を瞼の上から撫でていた。この傷がついたのは、あの夢の世界でのこと。傷跡等は身体に残っているが、残念ながら年月が通過した分身体が成長したようには感じない。

 

 あの世界での十数年は、こちらの世界では数時間程度しかたっていなかったらしい。そうなると、精神性だけ十数年間を夢で漂った自分とランザは、いったい幾つと言えるのだろうか。多少は成長したかもしれないが、変わらず貧相な身体つきを怨む。少しは成長していてくれれば良いものを。

 

 気が抜けたのか、そんなことを考えていたせいか、誰かが入って来るまで気づかなかった。足音を耳が掴み、ピンと垂れていたそれが跳ね上がる。

 

 洞窟の方から入ってきたのは成人男性。そしてこの馴染みのある気配はランザのものだとすぐに分かった。

 

 そうだと分かれば、声をかけてすぐにでも近づこうと思ったが、すぐに思い直しとりやめる。ああ見えてランザの、貞操観念は堅い。同衾すら追い出されてしまう立場であるというのに、温泉にて裸の付き合い等できよう筈がない。

 

 幸い温泉地帯特有の妙な臭気のおかげで、最近鼻がよく効くらしいランザにもこちらが分からないようである。丁度この場所は死角ではあるし、下手をこいて身体を出さなければ見つかることもない。精々、隠密で磨いた覗き見能力でその身体を目に焼き付けておくくらいか。色々気になることは多い、どことは明言しないけど、まあサイズとかね。夢のと同じか確認しておかないと。

 

 洞窟に入ってからあの温泉の場所に出る通路が分からない為、柵を乗り越え直線で来たのだがこんな役得があるとは思わなかった。状況的にはそれどころではないかもしれないが、多少は良い思いしても良いだろう。

 

 しかし改めてこうして見ると全身傷だらけだ。旅をして、戦って、傷ついて、そしてこれからも、増えていくのだろう。自分とお揃いみたいで、少しだけ嬉しくなる。

 

 「こんなところで話し合いか」

 

 「サシで腹割って話しをするなら、裸の付き合いだろうがよ。まあ気にすんなや」

 

 足音と声が一つ増える。声と気配から、続いて入ってきたのはジークリンデだ。あんなに堂々と出てくるなんて悪竜には羞恥心がないのか。いやそれよりも、それも普通に受け入れているランザもランザだ。

 

 まあ普段から裸族みたいなところがあるようで、見慣れているのかもしれないがなんだかズルいと思う。ああやって堂々と混浴できるところも、それを拒否しないランザも。

 

 「入ってみたところで、オレにゃ水もお湯も大して変わらねぇなぁ。お前的にはどうなんだよ」

 

 「良いものだとは思う。横で喧しい竜がいなけりゃ、風情も堪能できるしな」

 

 「言いやがるぜこの野郎。まあ良い、聞いといてなんだが、んなこたぁどうでも良い話だ」

 

 お湯の中で胡坐をかくさまは、もういろいろ丸見えだ。しかし、そのスタイルの良さだけは同性から見てもよだれが垂れそうな程だ。健康的かつ理想的な筋肉の付き方の腹筋と形の良い胸元。ノックにて、あの身体で温められたおかげで助かったこともあり、抱き心地の良さは知っている。重ね重ね、羨ましい限りだ。

 

 「そうだな。まあ、なにから話したものかと思ったけど、まあ言うべき言葉は一つだけか」

 

 険しく眉間に眉を寄せていたランザの顔が穏やかになる。

 

 「助けてくれて、ありがとう。ジークリンデ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 力に、溺れた。そういって差し支えない状態だった。

 

 人妖としての行動原理。探して狩る側として、奴等と相対している時はそれを人妖と化したことによる精神性の変異だと考えていた。

 

 それじたい、大まかには間違っていなかった。現に今の俺は、帝国兵、言わば軍属が相手とはいえその身体を噛み千切り殺すことに何等躊躇も抱かなかった。そのうえ、あの時の言葉は相手を脅す為の文句ではない。

 

 本当に人が美味いと、思えてしまったのだ。そしてそれに嫌悪感を抱くことがなくなってしまった。

 

 ウェンディ=アルザスを弄んだうえに取り込んだことだって、そうだ。彼女を贄として自分に捧げなければ、あの地下施設から出ることは困難だったとはいえ、その為に行った行為は普通の感覚を持つ者ならばおぞましいと思うだろう。そして帝都では、ジークリンデが止めに来なければ際限なく暴れていたに違いない。

 

 悪意も、悲しみも、怒りも、快楽も、愉悦も、様々な魂が混ざり合い限度なく昂ぶっていく。夢の世界でウェンディと何度も対話をすることで内面の理性を人に近く戻すことはできたが、ジークリンデが落ち着かせてくれなければそれすらままならなかっただろう。

 

 内面の変貌こそあったものの、今こうして理性的に話をできているのは、彼女が俺の内部にあった混沌としたものを叩き潰したうえで吸い上げてくれたからだ。帝都からここまで運んでもらった恩もある。

 

 「……は?」

 

 鳩が豆鉄砲を食ったようとは、どこかで聞いたことがある言い回しではあるが、これ以上ない程あっけにとられたような顔をしていた。当然だ、考えてみたら俺はジークリンデに礼を言ったことは今まで一度もなかった。

 

 どうせなにをしようと、封印されたこいつが行うことはただの暇つぶし程度の意味でしかない。仲間を殺された過去もあり、うがった目でしか悪竜という存在を見ることしかできなかった。

 

 だがしかし、憎まれ口を叩きつつ力を貸してくれた事実に変わりはない。ジークリンデがいなければ、この旅で何度死んでいたかは分からない。それに、悪竜の力の一端に触れることにより分かってしまうことがあった。それを言うべきか、言わないべきかは少し悩んでいる。

 

 「テメェから礼なんて、気持ちわりぃ」

 

 「そう言うな、俺だって人並みに感謝を伝えることもある。例え相手がお前でもだ」

 

 「おいやめろクソ馬鹿。寒気がしてきた」

 

 座りが悪そうに、ジークリンデが顔を背けた。表情が少し赤くなっているのを指摘すれば、暴れだしかねないのでこれ以上は触れないでおくことにする。

 

 冒険者時代に共にいた仲間のこと。モスコーにてサグレの吸血鬼化の後押しをしたこと。許せないような行いも数多くしてきた悪竜であるが、それでも今の俺にはもうこいつを憎み切れない。ある意味、傍にいた時間を考えればアリアやグローよりも長いのだ。

 

 「気色悪い礼なんざ良い。それよりも、どうするつもりだお前。ハイエナ野郎から随分と言い寄られてるじゃねえか」

 

 「ガランか」

 

 半獣をまとめているガランから、昨日打診があった。どうにも彼が言うには、自分の代わりに俺が半獣の集団をまとめてほしいというのだ。例の襲撃で、彼等の助けになるように戦ったことで惚れ込んだというのが言い分のようだ。

 

 エルフともコボルトとも、ガランでは折り合いが良くない。しかし俺が、コボルト共が信仰している火竜と懇意であることも含めて作戦会議や交渉を優位に進められるのではないかという打算もあるようだ。

 

 仲間達からの反発もあるのではないかということも伝えたが、共に戦い帝国兵を撃退した事実となにより同じ半獣であるクーラがよく懐いていることを材料に説得をしてきたと話していた。そして、いずれ半獣や少数民族、種族の為に独立した自治州を作りたいという夢も。

 

 「正直、そこまで付き合うことはとてもじゃないができない。だがこの急場を凌ぐ間くらいは、助けになっても良いとは思っている。どのみち、どこにも逃げられないんだからな」

 

 「その気になれば、また飛んで逃げてやろうか?別に火竜に義理立てすることも、半獣共やその他を助けてやる理由もねえだろう。面倒くせェが、もう一度くらい飛んで逃がしてやることもできなくはねぇぜ?」

 

 「本当に、そうなのか?」

 

 「なに?」

 

 こちらの疑問に、ジークリンデは軽く眉をひそめた。ここはあえて、外して尋ねてみることにする。

 

 「以前のお前なら、考えられない程気を使うなと思ってな」

 

 しばらく沈黙が流れた後、ジークリンデは立ち上がる。こちらの正面まで来た後、対面に座りガンをつけ始めた。

 

 「気に入らねえってか?」

 

 「至れり尽くせりだと、後に払う勘定が怖くなると思ってな。お前から、疲労を伴う提案をされるとは思わなかったからある意味それが怖いな」

 

 「そうかよ、ならこういうのはどうだ?」

 

 肩を押さえつけられ、吐息が口にかかったと思った瞬間唇を奪われた。口腔内に押し入るように舌が入り込み、蹂躙するように絡めて来る。柔らかな乳房が胸板に押し付けられ、引きはがそうとあげた腕に尻尾が巻き付き、もう片方の腕をあげる前に押さえつけられてしまう。

 

 身体全体で跳ねのけようとしても、突然の行動すぎて完全にマウントをとられてしまっている。男性器にも太腿を押し付けてきている。獲物を貪るような接吻が、随分と長く感じた。どこかで大きな水音が跳ねるような音が響いたが、そこまで気にしている余裕がない。

 

 絡めた舌が離れる頃には、唾液が絡みあった結果混ざりあった体液の糸が引いていた。酸欠気味になるほどの長さに、抗議よりも前に呼吸を、酸素を身体が求めていた。

 

 「オレがお前のことを、好きで好きでたまらない。お前をオレだけの物にしたいから、お前自身を勘定にするって言ったらどうだ?テメェも雄だし、これまでだってやることはやってんだろ?エレミヤ相手に、散々獣欲をぶつけたこともあったしなぁ。それに、テメェの雄はやる気だぜ?」

 

 自暴自棄になっていた時のことを引き合いにだされる。あの時は、復讐をしたいと考えても方針も見えず戦う術ももたず、誘われるまま性欲をぶつけてしまった。

 

 ただそれ以降は、そういう類のことはしていない。クーラを連れて歩くようになってからはなおさらだ。死の危険を何度も感じるにあたり、本能は子孫を残せと身体に命令をするがそれでもまだ理性で叩き潰しながらここまで来た。年端のいかない少女に、大人の汚いところは見せたくなかったこともある。

 

 そういうこともあり、悲しいかな。すっかりと下腹部は臨戦態勢になってしまっていた。ただ、性欲に流される前に言っておかなければならないことがある。

 

 「誤魔化すな」

 

 「あ?」

 

 「誤魔化すなと、言ったんだ。お前にもプライドがある、遠回しにでも問いただそうと思ったが、こんな無茶をするくらいなら強引にでも聞きださせてもらう」

 

 解放された両手でジークリンデの肩を掴んで、引きはがす。

 

 「お前の身体はもう、ボロボロの筈だ。元の姿を何時までも維持しきれないくらいにはな。なんでそんなに、無茶をしてまで俺を助けようとするんだ」

 

 贄、というジークリンデの力の一端を体験した今だからこそ分かる。他者の命を貪ることで力と為す悪竜が、今まで凄まじい無茶をしてきたということを。

 

 悪竜が、悪竜たる由縁は贄による力。だが俺は、封印されていると考えていた彼女に力を与えて自由を許さないように極力人殺し、ジークリンデに命を吸わせる行為を避け続けていた。どんな悪党であっても、人間を殺すのは目覚めが悪いものだというのもあるが極力人殺しを、連結刃を使った殺人を避けて来たのはそれが主な理由だ。

 

 だがそれは、生物に例えるならば食事をとらせないことに等しい。その上俺は、人妖と戦い続け再起不能になるような重症を負いながらも再生の力を借りて傷を癒し死闘を繰り返してきた。

 

 対価として、ジークリンデは身体の一部を貪っていた。だが、身体の一部を食べたところで命を捧げている訳ではないからそれは対価としては釣り合わない。こうなるまで気づかなかったが、再生による治療は命を削るかのような苦痛と飢餓を加速させるようなものであったのだろう。

 

 今にして思えば彼女は、憎まれ口を叩きつつ結局は俺の方針に従っていた。ノックの山では急場を凌ぐ為にエルフ数体を撫で斬りにしたことはあったが、人間を相手にした時は連結刃をなるべく使わないにもかかわらず、夜な夜な誰かを殺しにいき自給自足をする様子もなかった。だからこそ、俺は悪竜が今も封印されていると勘違いしていた訳だが。

 

 すっかりと、涼しい顔をするジークリンデに騙されていたという訳だ。あの遺跡での戦いも、今思い返しても勝てる道理がない。当時は必死すぎて気づかなかったが、たかだか若造の浅知恵と即興の仕掛けで封印までこぎつけたのもありえない。

 

 「んだぁ?そりゃいっちょまえにオレを心配しているとかいう、舌が腐りそうな戯言を言うつもりか?」

 

 「疑問の解決の方が重要だが、それも当然ある」

 

 今でも、訳が分からない。何故自らにそんな苦行に身を浸してまで、俺の方針に従ってくれたのか。こうして今も、適当なことを言いながら性欲に意識を向けさせたり、話を無理矢理反らそうとしている。

 

 「いったいどうしてお前は、俺の味方でいてくれるんだ。教えてくれ、ジークリンデ」

 

 「ざけんな。全部手前の勘違いだ、バーカ」

 

 白けた顔をして、悪竜が立ち上がる。洞窟の入口に向けて歩き、その途中で一度振り返った。その顔には、腹の立つ程のにやけ面を浮かべている。

 

 「思いあがんな人間風情がよ。お前は単に、封印されているオレの暇つぶし程度なんだよ。あと、もう抱いてやんねーから精々悶々してることだな。逃がした竜は、でかかったぜ?」

 

 これだけ尋ねても、本心を明かすつもりはないようだ。何故歴史に名を残すような悪竜が、という疑問はこの先も解けることはないかもしれない。それ以上はなにも言わず、悪竜は洞窟の内部に戻って行った。

 

 そういえば、キスの前後あたりに聞いた水音を今更ながら思い出す。ちょうど死角になっていたところから響いた音だったが、確認してみてもそこには誰もいなかった。いきなりの状況に、聞き間違えたのかもしれない。

 

 少し、頭を冷やしてから戻ろう。ジークリンデのことは抜きにしても、この先考えることは山積みなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……っ」

 

 ああクソ、クソが、クソったれが。顔から火が出そうな勢いだ。いったいなにをやっているんだオレは。

 

 色々勘づいていやがった。まあそれは置いておいてだが、からかうつもりで抱いてやろうかとキスしたところ、慌てふためく様が見たかったというのに。

 

 だが奴は、性欲に流されることなく真っ直ぐな目をして問い詰めてきやがった。今も昔も濁った目をしているのは違いないが、復讐にぶん回されていた筈の瞳は鈍い輝きを放っているように見えた。

 

 前から別に、機会があったら抱いてやろうかくらい考えていたことはあるが別に好意からのものじゃない。忌むべき存在と性行為をしたという嫌悪感を植え付けてからかってやろうくらいの考えだった。だがまあ、からかうどころじゃなくなってしまいやがった。

 

 ああもう、手前を手前で誤魔化しても仕方がねえ。まっすぐな目で問い詰められた瞬間、ランザを雄として意識してしまった。

 

 これまでオレは奴に、オレだけの英雄の人生を見届けるとか、オレが好みに弄繰り回した新たな悪竜として覚醒させるとかいろいろ考えてはいた。必死に抗う様を見て、小動物が痛めつけられるような哀れさと玩具としての可愛さをみいだしたこともあった。だが、伴侶や番として見たことは実は一度もなかった。

 

 「マジかよクソ、笑い話にもなりゃしねぇ」

 

 オレが、奴の子を孕み、奴の番として寄り添う?ふざけんな、悪竜様がそんな日々で満足できる筈がねえだろうが。オレと奴の、一番の理想的関係はそんなクソあめぇもんじゃなかったはずだろうがよ。

 

 「あのクソガキが、いっちょまえにオレの心配なんて、生意気になりやがって。調子こきはじめたか?まったく」

 

 悪い気がしないというのは、きっと気の迷いだ。さっさと忘れるにかぎるだろう。薄ら寒い関係なんぞ、望んじゃいないんのだからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 個室にとあてがわれた、狭い洞窟の中。布団を被りただ、震えていた。震えの理由は寒さからではない。

 

 あの悪竜が、ランザとどんな話をしてなにをするつもりなのか興味があった。わざわざ腹を割って話そうだなんて、前置きをしてまでいったいなんのつもりだ。

 

 どんな殺伐とした話をするかと思ったが、雰囲気は穏やかなものだった。悪竜ジークリンデの伝説は、行動を共にするようになってから空いた時間を見つけては独自に調べてみた。主には、ノックでの騒動の後エレミヤの娼館で数日間休息する時にであるが。

 

 伝承のジークリンデは、一言で言うと愉快犯。労力と対価が釣り合わないことに全力を注ぐような存在だ。だからこそ、彼女がランザに力を貸すのはそれの延長戦上なのだと感じていた。歴史上の彼女と同じように、何時ランザに対して手のひらを反すか分からない。

 

 だからこそ、逆に自分は安心していた。ジークリンデがランザに対する思い等所詮はその程度だろうと。

 

 だが、自分には分かる。ランザに礼を言われた瞬間、ジークリンデの中でなにかが変わったような気がした。そして、あんな激しく、ねぶるようなキスだ。

 

 あれ以上、見ていられなかった。服を着るのももどかしく、ひっ掴みながらその場から離れて別の入口から洞窟に飛び込んだ。見張りに声をかけられたが、気にしていられない。毛布の中に転がりこみ息をひそめながら隠れることしかできない。

 

 自分では、足りないのか。ああして二人で温泉に入ることも、あんな風に迫ることもできない。したところで、拒否されてしまうのがオチだ。

 

 年の違いなのだろうか。それとも、まだ自分は保護される対象としか見られていないのか。あの悪夢の世界を経て、絆は深まったと思ったのに、言ってしまえばそこ止まりでしかないのか。

 

 悔しい、悲しい、虚しい。今まで何度思ったか分からないが、後十年、いやもう五年早く産まれていたならば、こんなことにはならないのに。

 

 「ああ、そうだ」

 

 ならばもう五年、あと十年待てば良いだけだ。その為には、まずやるべきことがある。そうだ、軍議の時間が近い。取り合えず情報を渡してしまわないと。

 

 「やるのは、久しぶりだなぁ」

 

 伸ばした腕が、ルーガルーのナイフを掴む。手に馴染む感触と、これから行うこと。それこそが、自分の役割だったのだから。



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 比較的軽傷、重症ながら助かる者達。そういった者達には適切な治療と食料が与えられ、既に怪我人を集めた広間から各々の部屋やここよりは小さいものの複数人が寝れる大部屋に通されていた。

 

 うめき声と咳。助かる見込みもなく苦痛を訴える声が響き渡る中、コボルトであるミルフは与えられた役目をこなそうとしていた。

 

 石を削りだしたナイフを腰から引き抜き、雪を溶かした水にて刀身を清める。弱気な自分を叱咤するように犬歯で軽く唇を噛んだ。痛みで弱気が引くまで待ち、可能な限り穏やかな顔を浮かべるように努める。

 

 衣装は、形からでも心身共に役目に入り込む為に必要なものだと考えている。ゆったりとした黒い、飾り気のないローブは相手に敬意を持ち送り出す為のもの。コボルトのシャーマンとして、その決意の表れであると信じている。

 

 ここにいるのは主だってはコボルト達だ。他の種族には、異様な光景に見えるのであり最後は各々のやり方に任せているが、それでもちらほらと他種族の希望者もいた。誠意をもって、送らせてもらう。

 

 「皆さん、大変お疲れさまでした。後のことは任せてゆっくりと休んでください」

 

 祈りはいらない。ただ感謝の言葉を捧げ、命を見送らせてもらう。

 

 照明代わりの蝋燭が揺らめく。その瞬間、横になっていた者達の影が引き伸ばされるように大きくなっていった。近くの一人に近寄り、感謝と労いの言葉をかけた後、石のナイフを影の中心部に突き刺す。

 

 足をボルトで貫かれ、胸部に大きく歪んだ切傷をつけられ、喋るのが辛い程荒い呼吸で苦しんでいたコボルト。ナイフを影に刺された直後、息が徐々に穏やかになり目を閉じ眠りにつくように静かに息をひきとった。

 

 代々、私の一族で継承を重ねて来た見送りの儀。コボルトに過度な装飾や演出、祝詞は不要。ただ感謝を伝え、安心を与え苦痛から解放し送り出す。普段ならば、もう年となり霊山の守護という役目を果たせなくなったコボルトがこの儀を受けて送り出される。

 

 小さい頃から面倒を見てくれた者達を送り出すのは、役目を終えたと満足気に逝くとしても辛いものだ。それでも、限られた資源では役目を終えた者まで養うことはできない。辛くても、尊厳をもって送り出すのは役目なのだ。

 

 そして今、こうして安楽の死を与え続けている。毎日毎日吐き気がする程のストレスであるが、この役目を放棄する訳にはいかない。

 

 全ての者が、穏やかな死を迎えた後遺体は運び出されていく。コボルト族に墓はない。昔各地で生息していた頃はその土地に添った埋葬がされていたらしいがここ霊山では、最奥の神殿から溶岩の中に送るのが主流だ。

 

 役目を終えた命は輪廻し、勤めを終えた身体は山に返す。無論エルフや半獣に同じ埋葬を強要することはないが、奇異にみられようがこれが私達の文化なのだから文句は言わせない。

 

 「少し、興味はあるかな」

 

 「ひゃひ!?」

 

 誰もいなくなったと思っていたので、すぐ近くから響いた声に腰を抜かしそうになってしまった。影を司るシャーマンではあるが、まるでその影から這い出たように現れた存在に本気で驚いてしまう。

 

 「影を斬って、対象を静かに殺める。良いな、欲しい技術だよ。今度教えてほしいな」

 

 「こ、これはその、一族で受け継がれるもので、いろいろ鍛錬とか特別な技術とかその…」

 

 「まあその話はおいおいしようよ。今は、伝言を頼まれてほしいんだ。良いかな?」

 

 顔はにこやかであったが、目がぎらついている。目の前の少女、クーラ=ネレイスは先程まで敵陣地に偵察にいった時の様子を話し出した。自分で報告してほしいと思いつつ、間違えないようについつい覚える努力をしてしまう。ギラギラした目が怖すぎてお願いを拒否できなかった。

 

 この子は、見た目は子供だ。でもある種信仰心に近い感覚を抱きランザ=ランテに尽くしている。

 

 最初は小さな女の子の憧れかなと思っていたが、目を覚ましたランザを初めて見た瞬間色々と平穏な思考が吹き飛んだ。

 

 私は影のシャーマン。多少なりとも、その人の人柄や性質等は影を見れば理解することができる。先代の母さんと違い、本当に多少なりともだが。

 

 そんな私でも、ランザの影を見た瞬間全身が総毛立つ程おぞましい物を見た。人の姿をしているのに、その後ろの壁には大柄な狼とも歪な竜とも、醜悪な触手とも見えるなにかが蠢いていた。そしてその怪物からは、心が重くなるような悲しみと決意が渦巻いていた。

 

 あれは、化物だ。直視できず、思わず逃げ出してしまう程に恐ろしかった。

 

 正直今でも怖い。そんな存在に懐ききっているクーラも心配になってしまう。それでも、私からなにかをすることは余計なお世話なのだろう。まして、ランザから離れろなんて狂信に近い愛慕の念を感じるクーラに言える訳がない。冷静に見てみれば、彼女も彼女でちょっと怖い影の形をしているのだから。

 

 怖いからこそ、一も二もなく私は二つ返事でクーラの願いを聞き入れた。これかランザもいる会議場に向かうのは気が重すぎるが、変にクーラの機嫌を損ねたくはない。

 

 「じゃ、よろしくね。ああ後、今度その影の術について教えてよ。約束ね」

 

 「はい……いやいいえ。あのそのこの術は…あの……えぇ」

 

 素早く、行っちゃった。一子相伝の技なのだけど、今度教えてくれと言われたらちゃんと拒否できるだろうか。押しが強いし目が怖いから正直少し、自信がない。

 

 大きくため息を一つ。もう今は、後のことを考えずにあの子に頼まれたことを済ませてしまおう。

 

 「ミルフ!いるか!?」

 

 会議場に向かおうとしたところで声をかけられる。呼びかけてきたコボルトの表情は切羽詰まっており、そんな顔で私に話しかけてきたということは要件はおのずと予想がつく。

 

 「急変?」

 

 「ああ、最悪また手を借りることになるかもしれん!すぐに来てくれないか!?」

 

 クーラには悪いが、こちらの用事が私には大事だ。まあ会議が始まるまでもう少し時間があるのだから良いだろう。多少の遅れは目を瞑ってもらうことにする。

 

 私の手が必要になるような、最悪がおこらなければ良いのだけど。そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 古い仲を温める、なんて言うつもりはない。

 

 ランドルフの野郎と腹の立つ会話でもしていれば、取り合えずは先程感じた気色のわりぃ感覚は薄れるんじゃねえかと思っただけだった。

 

 半獣やエルフ共は距離をおくし、別段こちらから近づこうとは思わない。コボルトの連中は接触はしてくるものの妙に格式張っているというか気持ち悪い崇拝の延長線にいるような感じでオレが疲れる。ランザ本人だなんてもってのほかだ。

 

 「しかしまあ、引きこもりにはたいした住処じゃねえか」

 

 改めて地下、奥底にある神殿を見上げると荘厳なものだ。オレにもそんな遺跡はあったがほったらかしだったし、なによりここはコボルト共が改築や修繕を重ねているのだろう。

 

 海竜や天竜にもそんな遺跡があるのだろうが、まあどうしているんだろな。海竜はほったらかしだっただろうし天竜はなんも考えてねーような奴だからやっぱほったらかしだろうな。というか、だいたい竜種は勝手に作られた遺跡や神殿なんてほったらかしだが。

 

 神殿に行くまでの橋の中間、足を止める。背中に心地良さを感じるような、少し嬉しくなる気配。

 

 「へぇ」

 

 意外、と言えなくはない。だが、今の状況で仕掛けて来るとは後先を考えてないのがよく分かる。つまりそれだけ、一直線ということか。

 

 尻尾を軽く薙ぐように振るう。刃と鱗が火花をあげる音が響き、軽い身体が弾き飛ばされる。溶岩までまっ逆さまかと思ったが、迎撃は織り込み済みだったのかいつの間に仕掛けていたのか橋の下に張り巡らされていたロープの上に着地をしていた。

 

 「よう、クソ猫。この悪竜ジークリンデ様に喧嘩売る意味、分かってるんだろうなぁ?」

 

 襲撃相手は予想外、いや予想内か?何時かはこんなことになるんじゃねーかなとは思っていたが、今来やがるとはな。きっかけは、まああれだろうな。

 

 猫が、動く。溶岩上のロープ渡りをまるで地面に敷いた白線の如く素早く駆け、橋の下に潜む。

 

 「隠れたつもりか?食うぞオラァ!」

 

 背中に翼を開放し追撃、いくら溶岩の上に足場を張り巡らせようと、縦横無尽に飛び回る翼の機動力に勝てると考えているなら頭が足りない。その程度の浅知恵で喧嘩を売ってきたなら、溶岩の中に叩き落してやろうか。

 

 羽ばたき、橋の下に突入しようとしたところ、半笑いのクソ猫と目が合った。橋の下には、縦横九列ずつ、八十一器もの大量のクロスボウガンがくくられて固定されており、引き金全てに紐が括られている。猫が手元にあった紐をナイフで切断した瞬間、歪な音と共に全てのクロスボウガンからボルトが射出される。

 

 「野郎!」

 

 尻尾、腕、背中から急遽出現させた連結刃で身体を巻き付けるように防御を固める。それでもガードの隙間から飛び込んできたボルトの矢じりが、皮膚を貫くのを感じた。

 

 なんのつもりだったか知らねえが、クソ猫は帝国の連中が持っていたクロスボウガンを片端からせっせと集めていたらしい。それとも、半獣共が使う為に保管していたものを持ちだしやがったか。いずれにせよ、えげつねえ罠を仕掛けやがるものだ。

 

 連結刃で動かしクソ猫に向かい攻撃を仕掛けようとするが、猫はボウガンの影に隠れる。薙ぎ払い、木々が砕け固定が壊れる音を聞くが猫の悲鳴も肉が裂ける音も聞こえない。

 

 落ちて行くクソ猫は、途中あったロープを掴んで一回転。そのまま飛んで違う足場へと逃走していく。成程大したもんだ、身体能力は元より、溶岩に落ちるリスクを微塵も考えていねえ。ならばここからは自由な行動を許可しねえ。苦労して張った足場を連結刃で切断しつつクソ猫を追いかける。

 

 連結刃の攻撃範囲は、奴の握る直刀やナイフなんかとは桁違い。そのうえ今隻眼である身の上、投げナイフなど投擲物の類は狙いに信頼性がないと話していた。すばしっこく動くが、刃の列がクソ猫の身体を削っていく。一撃で胴体を、或いは首を両断することも充分狙えたが今はそれをしない。

 

 奴を壁際に追い詰めるように、足場を崩す。そうなればもう戦える場所は壁際にある狭すぎる自然の足場か橋の上くらいだ。そうなれば、こちらの機動力が物を言う為後は問題なく始末ができる。

 

 残るロープは数本で、壁際のクソ猫。なに、落としはしねえよ、殺す前に軽挙な行いをいろいろ後悔させてやる必要がある。溶岩に落ちて死亡なんて、そんな面白くもねえ最後を迎えさせる訳にはいかない。

 

 「もう逃げ場はねえぜ。こいつで楽しかねえ鬼ごっこもしめぇだ」

 

 残り僅かな足場を崩す。斬られたロープが視界から消え、後はもう目の前の猫と対峙するのみとなった。最後の一本を足場に、今更ながら怯えと後悔の表情を浮かべている。

 

 「袋の鼠だぜ。どうするつもりだ?」

 

 「一応、聞いておくけど許してくれるつもりはある?今、凄く後悔している……本当に」

 

 「どてっ腹に数本良いのもらったからな。これで許してやる奴がいたら、オレ直々にトドメ刺しにいってやるよ。それくらい、今ムカついている。楽に死ねると思うなよ」

 

 身体が震えている……が、違和感。らしくねえ、今までランザにべったりだった関係上多少なりともこいつも観察していたが、命乞いをしたところを見たことがなかった。そして、気づく。怯えを含んでいたこいつの瞳の底にあるのは、悪意だ。

 

 「……そう。なら、お前の負けだよ。悪竜ジークリンデェエエエ!」

 

 視界の外から、なにかが飛んで来る音が聞こえる。最後に切った紐の先には、スリングショットに似た投擲機が固定されていた。どうやら、そこから飛んできたのか。

 

 「あ?」

 

 連結刃で、胸元に飛び込もうとしてきたそのなにかを斬ろうした瞬間、それより先に刃に赤く灯る火種がついた投げナイフが突き刺さる。そして次の瞬間、爆発音が轟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪竜ジークリンデ。正面から殺せるとはとてもじゃないが思えない。奴を倒すには、こちらを舐めている現状と相手の慢心をつくことが重要になる。

 

 かつてランザが、悪竜を策にはめる為に死力を尽くしたという。ランザには申し訳ないが、それに関しては今の自分の方が上手くやれる自信がある。

 

 必要な物は、侵入してきた帝国兵達の装備や蓄えていた洞窟の武器や道具をいただいて有り合わせで罠を作った。

 

 特に最後の大袋は、中に大量の火薬と刃の欠片、エルフの矢から切り取った鏃、ボルトの鏃、鋭利な鉱石の欠片。殺傷能力を高める為にありとあらゆる物を詰め込んだ即席特大袋爆弾だ。ランザが煙玉と共に愛用していた物の、強化版。

 

 これを確実に当てる為に、多重クロスボウガンによる一斉射撃でジークリンデを苛つかせ、簡単に崩れるロープの足場を用意して獲物を追い詰めるストレス解消の手段を与えてやった。アイツは合理性の塊ではない、愉快犯だ。そして悪意を発揮できる環境であれば簡単にこちらを殺さずに弄ぶように追い詰めるだろう。

 

 だって、悪竜なのだ。のってこない訳がない。そうしてキルゾーンまで誘いこむ。

 

 最後の袋爆弾の起爆だが、それは火種を仕込んだ投げナイフにした。投擲系に心配があると言っても、動く方向が分かるし的はデカいなら外さない。意図しないタイミングで袋が爆発しても困るし、ないより導線がない白い袋なのだから瞬時に爆弾だとは思わないだろう。

 

 全ては、計画通り上手くいった。

 

 壁に生えた避難予定の岩陰から様子を除く。悪竜ジークリンデは墜落し、溶岩溜まりの中にある点々と残る岩場の上でその身体を横たえていた。全身が赤く染まっており、その皮膚はズタズタ。だが、運の良いことにそのまま溶岩までは落ちなかったらしい。

 

 ならば、確実に仕留めるだけだ。弱り切っても竜は竜、首を確実に落とさなければ意味がない。

 

 ランドルフはあの遺跡から出てこない。邪魔することもできないだろう。ここから、自分の領分。暗殺、それが自分に最初に与えられた役目だからだ。

 

 ランザを、誰かにとられるのだけは嫌だ。五年後、十年後まで待たなければいけないというのならば、五年後十年後まで彼を誘惑する全ての存在を排除する。例えそれが、伝説の竜だとしてもだ。

 

 橋の上まで一度戻り、予備のロープを欄干に縛る。綱を降りる要領で下まで降りていき、足場の上に着地した。熱い、ここまで近づくとすぐにでも身体が危険信号を発してしまう。だがしかし、ここまで来たらトドメを刺した後遺体を溶岩の中に蹴り飛ばしてしまえば良いだけだ。

 

 「ランザの傍にいるのは、自分だけで良いの。ジークリンデ、貴女はいらない」

 

 よく研いできたルーガルーのナイフを、振るう。褐色の首筋に、ナイフが吸い込まれようとした瞬間、後数ミリというところで刃が停止。殺害を躊躇した訳ではない、押すにも引くにも一ミリたりとも動かない。

 

 手首に強力な痛み。ジークリンデの伸ばされた腕に掴まれ、ギリギリと音をあげていた。

 

 「悪いがそれを決めるのは、オレでもお前でもねえんじゃねえか?まあ、いらねえって言われても付きまとう気ではいるがな」

 

 むくりと、ジークリンデが起き上がる。身体の前面から夥しい出血をしているのにも関わらず何事もなかったかのように平然な顔をしている。分かっていたつもりだけど、本当に化物なの!?

 

 「いや、実際見事なもんだった。テメェを舐め腐っていたのは認める、最後の投げナイフを含めてな。ランザ相手にも、命中に不安があるなんてブラフかましていたとはな」

 

 こちらを高く持ち上げ、顔を合わせる。自由な腕で直刀を引き抜き斬りつけようとしても、尻尾で阻まれた。蹴りを何度繰り返しても、体重が乗らず大した威力がでないうえに体幹が強いのかビクともしない。

 

 「離……っせ!この!」

 

 「だが、ちっと甘く見積もりすぎだ。この悪竜ジークリンデ様を、この程度の仕込みで勝てると思うなよ!」

 

 腹部に、尻尾が鞭のように食い込む。内臓に絡みつく神経が軒並み危険信号を発し、胃液と血液が口内からあふれ出した。顔にかかるそれら体液を、ジークリンデは空いている手で大雑把にぬぐい取る。血塗れの顔に猛禽の笑みを浮かべた様は、悔しいけど、そんな場合じゃないのだけれども、一瞬でも美しく思えてしまった。

 

 「せーっの」

 

 身体が棒きれのように大きく振られ、岩に叩きつけられる。全身が痛みに苛まれ、逆にどこが痛くないのかが分からない。血反吐をせき込むこちらの顔を見て、「まだ余裕じゃねえの」と良い笑顔で呟かれた。これのどこが余裕だと言うのか。

 

 後頭部を掴まれ、ジークリンデが翼を羽ばたかせる。浮遊感、首一つで全体重を支える感覚が辛い。なんて思うのも間もなく、顔面から橋の側面に叩きつかれた。そのまますりおろすように、押し付けられたまま引きずられる。失明している方だから視力は良いとして、皮と肉がこそげ落とされていく感覚が辛い。

 

 「見れた顔になったじゃねえかクソ猫。ア?」

 

 羽ばたき、高度が高くなったところからジークリンデが自分の顔を見てサディスティックにほほ笑んだ。舌をだして、こそげ落ちた顔面を舐めてやがった。痛いし気持ち悪い。

 

 「まずい、やっぱり半獣なんぞ食えたもんじゃねえな。エルフとどっこいどっこいじゃねえか」

 

 そのままゴミでも放り捨てるように、いや叩きつけるように橋の上に自分を投げる。背中から橋の石床に落ちて、勢いを殺せずしばらく慣性に従い滑る。摩擦で背中が鑢ですりおろされたかのようだ。

 

 「がッ…ああぅ」

 

 瞬時に起き上がれない。顔面の傷とか、背中の傷とか、今は色々痛むが気にしている場合じゃないだろう!起きろ!起きろ!動け身体!早く動け!

 

 「そういえばお前、首絞めが好きだったよなぁ」

 

 なんとか上半身を起こそうとしたところで、ジークリンデの足裏が首筋に食い込みそのまま石床にまた貼り付けにされてしまう。首の骨を折らないよう、呼吸器を圧迫。酸素を遮断され脳が危険信号を発し始めた。

 

 「ランザ相手に何度、こいつで妄想した?それとも、苦しみを与えてくれる相手なら誰でも良いんじゃねえか?満更でもねぇ顔しやがってよお。ああすまんすまん、適当いった。さっきは良い面とかいったけどやっぱよぉ血塗れで皮も抉れて見れたもんじゃねえな、お前の面はよぉ!」

 

 高笑いをするジークリンデ。

 

 良いよ。殺そうとした、殺されるのも仕方ない。身体を削られるのも、顔を半分抉られるのも、仕方ないことだと受け入れてあげる。誰かが言っていたけど、戦場では、殺し合いでは、男も女も関係ないのだから。

 

 だけど、その発言だけは許容できない。全身に力がみなぎる。

 

 「へぇ」

 

 ジークリンデの足に、握ったままだった直刀が突き刺さる。

 

 「退けろよ……そこを……絞めて良いのは……ランザだけだ」

 

 ジークリンデが直刀を引き抜き、刀が落ちる乾いた音が響いた。報復はない、まるでこちらが起き上がるのを待っているかのようだ。

 

 「正直、何時ショック死しても良いんじゃねえの?てくらいは痛めつけたつもりだぜ。まだそんな元気があるのかよ。なあクソ猫、全身いてぇだろ。楽になっても良いころ合いじゃねえの?殺してくださいって言えよ、後はもう痛めつけねえ、楽に送ってやるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コボルトの戦士長ロウザ。エルフのまとめ役エルバンネ。半獣のリーダーガラン。

 

 会議室には三人の主だった面子が面子と、少数種族の代表達がとっくの昔に集まっていた。だがしかし、会議を始められずにいる。俺がストップをかけていたからだ。

 

 クーラが、遅れて来るなんておかしい。彼女は自分で、情報を掴んで来ると偵察をかってでていた。かと言って敵に掴まった訳ではないようだ。現に、洞窟内でのクーラの目撃情報は出ている。

 

 「遅い」

 

 エルバンネが、沈黙を破り口を開いた。

 

 「あまり時間に余裕がある訳でもない。今にも帝国兵が押し寄せて来るかもしれないのに、値千金の時間を無駄にはできない。話を始めるべきだ」

 

 「待て待て、待てってエルバンネ。俺達じゃ掴めねえ情報をクーラ嬢ちゃんが掴んで来るからこそ、ちゃんとした方針決めができるって話だろうがよ」

 

 「充分待ったつもりだ。これ以上時間を浪費しろと?」

 

 ガランがフォローをいれたが、正論を返されてバツが悪そうに沈黙してしまう。ガランとしても、待ってほしいという俺の意見を汲んでくれているようだが本心ではエルバンネに同意なのだろう。困ったようにこちらを見てくる。

 

 ロウザの沈黙も空気を棘のようにしていた。確かに、もうこれ以上は待てない。仕方ないが、始めなければいけないか。

 

 「あ……あの~」

 

 これから、という時にひょっこりと顔を出してきた。確か彼女は、ミルフとかいったか。最初は何故か叫ばれて逃げられたものだが、今では多少は慣れてくれたのか顔を見た瞬間逃亡することはなくなった。

 

 「出ていけ、これから軍議だ」

 

 「ひぃすいません!でも、クーラちゃんからの言伝が」

 

 ロウザが追い出そうとしていたが、クーラからの言伝と言われれば疑問符が浮かぶ。何故わざわざ、人に頼んだ。

 

 「言伝の内容は?」

 

 「ああ、あのう。クーラちゃんが偵察してきた前衛基地の様子を…」

 

 「すまんが会議を抜けさせてもらう。ガラン、後で教えてくれ!」

 

 おかしいと同時に、とてつもなく嫌な予感がした。他のことならともかく、自分で見聞きした情報を人伝に頼むなんてらしくない。甘えたがりなところがあるクーラが、こんな間接的な手段をとるなんて考え辛い。

 

 なにかがあったのかもしれない。それを確かめなければならないだろう。

 

 嫌な汗が、額を落ちるのを感じた。この予感が、気のせいであってくれ。



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 大きく息を吸って、吐く。腹の中にある空気と共に、弱気を全て吐き出す。

 

 「楽に死のうなんて、思ったことないよ」

 

 磨り潰された顔の側面に触る。ヌトリと血液が付着しており、激痛がはしる。ジークリンデの言う通り、見れた顔ではないだろう。これでも、被害が軽い方だと思うと何故か笑えて来る。悪竜が本気なら、顔が削げるどころか頭が半分以上磨り潰されているだろう。

 

 もう二度と、鏡で顔を見れないかもしれない。そう思えるくらいには、酷いものだろう。

 

 「あ?」

 

 想像していたものと違う返答が来たせいか、ジークリンデの眉間に皺が寄る。なにを言っているのか、分からないといったところだろうか。

 

 「分かるように話しやがれ」

 

 「聞く気あるの?意外だね」

 

 立ち上がれはしたものの、用意しておいた策は尽きた。時間を稼いだところで特に意味はないだろう。偶々通りかかったコボルトやその他程度に止めることなんでできないだろうし、ランザは軍議に出ている為にここに来ることはない。

 

 先に進もうにも、後に引こうにも、助かる見込みがない。後ろを向いて走って神殿に向かい逃げたところで、この身体で走れる速さなら大して距離も稼げず追いつかれるだろう。

 

 「大した話じゃないよ。詰まらないし、そして長い」

 

 レント=キリュウイン。別れは最悪なものであったが、それでも奴隷市場から救ってもらった時の事は忘れることはできない。恩返しをしたいと言う自分に、彼はテイムの加護を授けた。与えられた役目は、最初は諜報だった。

 

 小動物や昆虫、中型までの生物手足のように扱え、その視界や聴覚で手に入れた情報をレントに提供する。最初は勝手が分からなかったが、どうやらこの方面には向いていたらしい。地下遺跡探索の手伝いから帝都の政治的動向の観察、時には街の噂程度のことまで役に立つ情報はなんでも提供していった。

 

 あれは、助けてもらってから数か月くらいが過ぎようとしていたところだったか。レントの閨に誘われたことがあった。意味するところは、まあそういうことだろう。

 

 当時は彼の挙動にイチイチ反応し、頭を撫でてもらうだけで幸せでたまらないといった今思い返せば不自然な程に好意を抱いていたものだ。だがその誘いに自分は首を縦に振るうことができなかった。

 

 自分がいた奴隷市場は、まあ非合法的組織が運営するものだった。年端もいかぬ半獣の同性達、時には顔立ちの良い男性までもが何人嬲り殺されていったか。それがフラッシュバックしたせいで、頭が割れるように痛みを感じることもあり、とてもじゃないが誘いを受け入れることはできなかった。

 

 それから、彼の自分に対する興味が薄れて行くのが分かった。後悔したものだ、何故あの時誘いを受け入れなかったのだろうと。今思い返せば、結果としては受けなくてやはり正解だった訳なのだが。

 

 彼の周りには、魅了された一芸に秀でる美女が大勢いた。そんな者達に埋もれないように、自分は徐々に過激なことにも手を染め始めることになる。恐喝、闇討ち、果ては殺しまでだ。

 

 その全てが無駄だったとは、言えない。死ぬ気で身に着けた技能があってこその今があり、非力なままではランザについていくことなどとてもできなかったからだ。罪悪感に苛まれたのは、最初の一回だけだった。手を汚すのは、もう慣れた。

 

 「自分はね、ジークリンデ。アンタ程じゃないにしてもそれなりに誰かを私利私欲の為に殺したよ。御大層な理念もなく、信念もなく、ただそれでしか自分を魅せることができなかった。その道しか、見えていなかった。半獣という独立した生物ですらない。ただの替えが効く、レントの道具だった」

 

 最終的には、名前すら憶えてもらっていなかったからね。それでも多少は近くにいてある程度存在を認識されているだけ、まだマシだったと言うべきか。レントに心酔し、そしてあぶれていった二軍三軍のハーレムなんぞいくらでもいた。

 

 「そんな自分を、ランザは半獣という存在に戻してくれたんだよ。裏社会ですらそうそう見ないような、人間性が死んだような死んだ目をしている癖に、殺しに来た相手を庇うなんて意味が分からなかった。真意を確かめようとしたら、今度は本当に殺されかけた。ランザは、うなされていた。夢を見たんじゃないのかな、恐らくテンのね。そうしてそのまま、夢の延長線のように殺されかけた。あの時の衝撃は……人生二度目のぶっ飛びだったかな」

 

 思い返すだけでも首が甘く、淫らに疼く感覚が蘇る。

 

 あの時のランザは、まだ殺人を忌避していた。それでも、殺さずにはいられない。テンという娘を、義理とはいえ家族を殺したいほど憎しみぬいていた。あの首を絞められていた瞬間、自分はランザにとってのテンだったんだ。ああ、憎悪と愛情は表裏一体だなんてどこの詩人の言葉だったんだろうな。

 

 殺したくない、でも殺したい。こんなに丈夫な身体なのに、今にも壊れてしまいそうな矛盾を抱えた人。道具だった自分よりも、危うい雰囲気がある人。

 

 「あの夜、あの会話で、自分はランザに道具から半獣に戻してくれた。ついて来た厄介の種を気にかけ、モスコーでは自分の為に色々動いてくれた。誰かに思われるって、暖かいことなんだなって思ったものだよ。奴隷市場でも、レントの元でも、感じなかったことだからさ。テンの介入のお陰でランザと旅をすることになったけど、本当に楽しかった。ジークリンデ、アンタのことは嫌いだったけどね」

 

 「お互い様だぜ、クソ猫が」

 

 ジークリンデが、軽く笑う。悪意の笑みではなく、共感の笑いだった。自分も笑っていた、今の顔で笑顔がつくれていたかは知らないが。

 

 「ジークリンデ、自分はアンタの知らないランザを知っている。結婚し、子供を産み、決して実現しなかったその後のランザを知っている。夢魔の作り出した微睡の世界。虚構の世界だけど、それが一から十まで嘘の世界な訳がないんだよ」

 

 アリアさんのドジをフォローしつつ家事に勤しみ、慣れない子育てに悪戦苦闘し、時に機転の利くテンに手玉をとられながらも仲睦まじい幸せな家庭を築いていた。

 

 家庭菜園。家族でピクニック。手作りの玩具。家の修繕と改築。家具造り。豊漁祭の手伝い。

 

 家族で作った野菜と、みんなで釣りをして手に入れた魚の入った暖かいスープを囲み。家族三人で談話をしながらその日その日を過ごしていく。本当にランザが欲しくてたまらなかった日常が、確実にあそこにはあったのだ。

 

 残酷な現実よりも、幸せな夢があった。

 

 仕事に責任と誇りを持ち、友人関係にも恵まれ、充実した日々を過ごしていた。見たこともない、自分が知りようもなかったランザの顔を、猫の姿で遠くから見ていた。悶えて、苦しくて、身体以上に心が引き裂けそうだった。

 

 それでもランザのことを思うなら、幻でも良いからあの中で終わらせてあげた方が良かったのだろうと今でも自分は思っている。ランザ=ランテという人間は、復讐に全てを捧げるには優しすぎるんだ。少なくとも、自分は彼をそういう人間だと思っている。

 

 だから、あの幸せそうな顔は、本当なんだ。嘘でも、幻でもない、本物の……悔しいけど、自分が見たことがない本物で、本当に幸せな顔なんだ。

 

 ジークリンデは、黙って聞いている。まるで懺悔でも聞き取っているようだ。その顔には飽きも、嘲笑する様子もない。ただ、罪を聞き入れる悪竜としてそこに立っていた。だからこそ、自分は神ではなく悪たる竜に己の悪意を打ち明ける。どうせ最後だ、その決心はついた。

 

 「自分が、壊したんだよ」

 

 ランザ=ランテという人間の幸せを、踏みにじった。ただ、自分が彼の傍にいたいが為だけに。

 

 あの笑顔は、自分にだけ向けてほしい。あの大きな手が撫でるのは、自分の頭だけにしてほしい。それだけの為に、あの世界を崩壊させた。

 

 恩を感じる大好きな相手に、これ以上ない仇で返した。自分の行いは、間違っている。例えランザ自身が肯定してくれたとしても、それは変わらない。

 

 「クッ…はは。アリアさんも、ミーナちゃんも、悪夢の中にいた偽物であるテンでさえも憎たらしかったよ。どうしようもなく、壊れているのをあの時以上に感じたことはないね。自分はさ、もう彼に依存しきっているんだ。ランザの幸せや人生を壊し尽くしても、寄り添っていたいんだ。ぶっ壊れているよね、狂っているよねぇ。あはははははははははははは!でも自覚はあるんだよ、ジークリンデ!自分の夢はさ、何時かこのことを深い仲になったランザに全部ぜーんぶ打ち明けるんだ。アリアさん達に向けた愛も、テンに向けた憎も、全部自分にほしい。本当に自分はどうしようもなくっ!惨めでっ!厄介者でっ!自分のことしか考えられなくてっ!それでいて好きな人の人生までも台無しにすることに躊躇ももてなくてっ!ランザのいろんな全部を見たくて見たくて……たまらなくてっ!」

 

 笑える。心の底から笑えて来る。ああ、なんで自分はこうなんだろうな。なんで、好きな人の幸せを、純粋に願えないんだろうな。

 

 「アンタの言う通りどうしようもない、クソ猫なんだよ。ジークリンデ、自分には、楽に死ぬ資格なんてないんだよ。ランザの幸せを奪いとった、自分にはね。楽に終わるのは、申し訳ない」

 

 手に握る、ルーガルーのナイフが零れ落ちる。乾いた音が響き、その刃の上に透明な液体が落ちていた。

 

 吐き出したからこそ、分かった。本当は、自分が自分のことを一番嫌いだったのかもしれない。レントよりも、ジークリンデよりも。

 

 「泣くな。クーラ=ネレイス」

 

 「え?」

 

 嘲笑も欠片もない、重厚な声が響く。ジークリンデの口から、自分の名前が語られた。それは、多分初めてのことだった。まだ残る、隻眼から涙が溢れていたことに言われてから気づく。決して、痛みによるものではない

 

 「良いんだよ。そうしたいなら、無い胸張ってそうしろや。テメェでテメェ騙してもどうしようもねぇ。悪竜ジークリンデが認めてやる。テメェは、なにも間違っちゃいねぇよ。その在り方、誰が否定しようがオレが認めてやる。お前の物語をオレだけは肯定する。許しが欲しいなら、オレが許してやるよ。だから、その自分自身のクソ具合を卑下するんじゃねえ」

 

 厳格な、まるで信託のような力強い言葉。想像もしていなかった返答が、彼女の口から届いた。それと同時に、どこか心が軽くなったのを感じる。本当は、誰かに伝えたかったのかな。認めてほしかったのかな。この罪悪感と、それに対しての許しを。

 

 足元に転がっていた直刀を蹴り上げ、こちらに投げ渡してくる。空中で回転するそれを受け止めたのを見て、彼女は大きく両手を広げた。まるで、翼を広げた威風堂々とした竜のように。

 

 「来やがれ。まだこの喧嘩、終わっちゃいねえだろう」

 

 全身の力を足に集め、走り出す。人生最高とも言える速さと、太刀筋を繰り出すことができた。そして、そう思うと同時に頭部に衝撃が走り。すんなりと、意識が闇に落ちていった。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 尻尾による一撃を頭部に受け、昏倒したクーラが地面に潰れるように落ちる。

 

 見誤っていた。

 

 どうしようもない、依存体質で一人で歩けもしないクソ猫。恩だのなんだの言いながら、テメェのことしか頭に無いような奴。浅い評価で考えれば、そこまでは間違ってはいない。

 

 だがその深度は、想像を超えていた。こいつは罪悪感を抱きつつも、徹頭徹尾で手前自身のことしか考えていねぇ。その為ならば、どんな修羅場だろうが汚泥の道だろうが素足で突き進んでいく。曲がりきった性根でも、曲がったなりに折れないものをもっていた。

 

 こいつは、悪だ。それもオレ好みのな。他人の不幸もランザの不幸も、自信の欲求の前じゃなんの障害にもなりゃしない。それが、善からぬことと理解していてもだ。その為ならば、苦しみながらもなにもかもを犠牲にできる。

 

 「最悪のクソ猫だ。だが、それが良い」

 

 背と足の下に腕を入れ、クーラを抱き上げる。今日からは、こいつもオレの玩具に格上げだ、こんなところで再起不能になられても困る。

 

 「クーラ!」

 

 「おっと。遅い到着だな」

 

 ランザが駆け寄ってきて、理解不能な光景に目を細めていた。そりゃそうだ、全身血塗れのオレとボロ雑巾のようなクーラ。なにをしているかと言えば、抱き上げて抱えているんだから。まあ溶岩の中に放り込もうとしていると思われても不思議でもなんでもない。

 

 「なにがあった」

 

 問い詰める訳でもなく、淡々と聞いてきやがる。前ならもっと慌てふためいても良い筈だが、可愛げのない方向に変わっちまったもんだ。

 

 「クソ猫がじゃれついてきたもんだから、軽く撫でてやったまでよ」

 

 「じゃれつき方も、撫でかたも、どうやら普通じゃないようだが」

 

 「飼い猫の腹に顔をうずめて、思いきり匂いを吸うアレがあるだろ。アレのレベル百みてーなもんだ。まあその分、ひっかかれもしたがな」

 

 困惑しているのがよく分かる。ズタボロ程度ですませちゃいたが、殺すつもりだった。気が変わった結果がこれなのだが、ランザからしたら訳が分からないだろう。オレの言葉を信じるならば襲いかかったのはクーラの方だと理解する筈だ。こちらの性格を考えれば、有無を言わさず殺害するのが普通だと考えるだろう。

 

 クーラを抱えながらランザに近づく。疑問は色々あるだろうが重傷なのは変わらない、早く手当しなければ後遺症もいろいろ残るだろう。

 

 「面倒くせぇから任せた。精々よくしてやれや」

 

 「あ……ああ。とにかくすぐに手当てを」

 

 「そうだな、それと……歯ァ喰いしばれや!」

 

 腑抜けた面に一発拳を叩きこむ。クーラを受け取ろうとしたランザの反応は遅れ、後ろに数歩よろけ、なにをしやがると言わんばかりにこちらを睨みつけてきた。だが関係ねえ。

 

 「帝都でなにがあったのか、離れていた間にどうしたのか、かいつまんで聞いたぜ。夢だのなんだの訳が分からねえことにはなってたようだが、んなもんはどうでも良いんだよ。ランザァ!人妖になった時、テメェとクーラの魂が少量ずつ癒着し、離れても相手に混ざり合ってるのはオレにも分かっている!なら大なり小なりクーラの気持ちも分かっちゃいるんだろうが!問題を理解しているなら、後回しにすんじゃねえ!テメェがテンにいろんな意味で熱をあげてるのは充分に理解しているがな、テメェを慕ってついていくる奴の、目の前の問題を後回しにして良いことなんざ一つもねぇんだよ!尻ぬぐいするオレの身にもなれってんだド阿呆が!」

 

 クーラを押し付けるように渡してやる。反射的にランザが手をだして支える為、空いたこちらの手で奴の襟元を掴んで引き寄せる。まったく、これだから惚れた腫れたは面倒くせぇ。オレ自身にも言えたことだから、仕方ねえのかもしれねえが。

 

 「テンとケリつける前に、白黒はっきりさせてやるんだな。甘い言葉を囁いて傀儡にして利用し尽くすのでも、きっぱり断りを入れて切り捨ててやるでもな。その上でなにかを決断するのは、クーラ=ネレイスだ。その選択を、精々尊重してやれ」

 

 襟首を離してやると、奴は咳き込んだ。軽い酸欠のようになっていたのかもしれないが、どうでも良い。

 

 このまま火竜の元に向かうことにする。今のランザと共に、仲良く戻ることなんて御免こうむるからだ。

 

 「ジークリンデ」

 

 背中に、声が投げかけられた。

 

 「確かに、目の前の大事でクーラの問題から目を背けたのは俺だった。喝を入れてくれて、ありがとう。ようやく俺も、俺自身のしりぬぐいをすることができそうだ。そして、クーラを殺さないでくれて、ありがとう」

 

 「さっさと行け、馬鹿野郎」

 

 走り去る音が聞こえる。火竜の神殿内に入ると、そのまま大の字に寝転がる。寝れば、これくらいの傷は治るだろう。

 

 「変わりましたね、悪竜ジークリンデともあろうものが」

 

 「ああ?うるせーよとっつぁん坊や。寝るから邪魔すんな」

 

 神殿内に入ったので、火竜が声をかけてきた。変わったのなんて、オレ自身が一番理解しているよ。誰かと長年、共にいた経験なんぞなかったからその悪影響だな。悪竜なんて異名も、返上どきかねぇ。このオレが、殺しに来た奴と人間……今は人妖だが、まあそんな連中のケツ拭き役になるなんざな。

 

 「良い方向に、という意味ですから誉め言葉ですよ。嬉しいでしょう?」

 

 「うるせーっつってんだよぶっ殺すぞ。てか寝かせろ」

 

 「でも、弱くなった、竜としては身体だけではなく心も。本当に、大丈夫なのですか?お互い嫌いどうしかもしれせんが、貴女が意図せずに死んでしまうことなど望んでいませんよ」

 

 嫌なところ、ついてきやがるもんだ。

 

 「ああ、分かっているぜ。散々無茶したツケ、そろそろ清算時だろうよ。まあアホ程長生きしたところで、エンパスとやらとかみたいに馬鹿な事考えるのがオチだ。俺も天竜みたいに、なんも考えねーでボケッと生きてりゃ楽なんだろうけどな」

 

 だが、楽しく生きるのと楽に生きるのは違う。少なくともオレは、オレの計算違いを歓迎した。あのアホな色ボケ猫も、いっぱしの悪を心の中で育てていたのだからな。それを見れて、満足している。

 

 ああ、たく。火竜がなんかごちゃごちゃ言ってるけどクソ程眠くなってきやがった。気を抜くとすぐ、これとはな。ランザもクーラも、後は適当にやってくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミルフが、荒くなった息を整える。打ち身や大小ある裂傷、顔面の半分を抉られたような傷痕。そして、骨のあちこちにヒビや所によっては折れているところもあった。疲労もしたようであり、クーラは深い眠りについている。

 

 クーラの個室には、香が焚かれていた。エルフに生き残りの薬師がいたようで、安眠と自然治癒の力を高めるものが焚かれていた。他の怪我人達の治療にも使われているそうだ。

 

 本格的な治療については、ミルフの方が長けていた為俺自身はその補助にまわっていた。安堵したような顔をした為、一応は一安心をといったところか。

 

 「助かった、ミルフ」

 

 「ああいえ……その、はいどうも。後は、深い眠りにつかせて、おこさないであげてください。怪我もそうですが、相当疲労も溜まっていたように……思えます。ランザさん、貴方が最初ここに来た時、彼女はほとんど寝ずの番をしていました。貴方に悪意あるエルフが、何時来てもおかしくないと。それを、悟られないように……ふるっ…振舞っていたようです、そのはい。ようです。あと」

 

 ミルフは少し悲し気な顔をしながら。クーラの額をそっと撫でた、視線はズタズタに引き潰された、包帯で撒かれたクーラの顔に注がれている。

 

 「申し訳ないですが、私ではこの顔だけはどうにもできません。女の子なのに、可愛そうなことですが」

 

 「そうか……すまない。少し二人きりにさせてくれ」

 

 ミルフは軽く頭を下げて、洞窟から出て行った。

 

 壁に、拳を打ち付ける。頑強になった骨格はビクともしないが、多少なりとも皮膚が破れ少しだけ血が滲んだ。

 

 「クソ」

 

 帝国、エンパス、テン。様々な問題を前に、クーラのことを棚上げしていたのは指摘されればそうとしか言えない。彼女の気持ちを分かってしまったのに、それに対してなんのアクションも起こさいでいた。状況が状況だなんて、言い訳はできないだろう。

 

 白黒はっきりつけなければ、クーラもジークリンデを狙うだなんて無茶をしなかったのかもしれない。人間を辞めて人妖になったとしても、後悔だらけとは情けない話だ。

 

 「ランザの旦那!ここに……うおクーラ、どうしたんだこれ!」

 

 後悔を嘆く間もなく、ガランがノックもなしに入ってきた。ボロボロのクーラに目を丸くしたが、驚いていたが、疑問に思いつつもこちらに向き直る。

 

 「旦那、軍議がまとまったぜ。報告しても良いか?」

 

 「……頼む」

 

 「奪われた前線基地に、攻勢をかける。俺達半獣やエルフ衆はともかく、山の中に入ったということでロウザとコボルト軍団もようやく重い腰あげたぜ。元々コボルトに腹案があったようで数日間その準備にあてていたらしい。攻め込むなら早い方が良いという話になった。明朝、仕掛ける。悪いけど、旦那にも参加してもらいてえ」

 

 拙速を重んじるのは、この閉塞した状況では良いことだとは思うが今は間が悪かった。だが目と鼻の先に帝国がいてここが安全ではない以上、クーラの傍にいてやりたいのに、状況は許してはくれないようだ。

 

 「なにがあったか知らねえが、クーラは参加できそうにないみたいだな」

 

 「すまん、ガラン。半獣の腕利きを、二人程この子につけてやってくれないか。万が一を考えると、心配でな。人手が足りないなか、苦しいかもしれないがその分俺が働かせてもらう」

 

 攻勢で手薄になった洞窟を帝国軍に裏をかかれ攻撃されたり、居残りのエルフがクーラを狙わないとは限らない。ここを離れなければならない以上、保険は残しておきたかった

 

 「おお、それは構わねえが旦那。本当に、クーラになにがあったんだ。偵察で捕まってって訳じゃあねえんだろ。ここにまた敵が忍び込んだなんて話も聞いてねえし」

 

 「こちらの事情なんだ。詮索は、やめておいてくれ。この子の名誉にも関わることなんだ」

 

 「おお、まあ良いけどよ。作戦の詳細も煮詰めてあるから、一度会議室に来てくれや。それと、今からでも誰か扉の前に立たせておくよ」

 

 「世話になる」

 

 後ろ髪をひかれる思いであるが、危機は取り除かなければならない。ジークリンデに後回しにするなと言われたばかりではあるのにな。帝国を排斥したら、クーラとの関係に答えを出す必要があるだろう。覚悟を、決めておかなければならない。この娘の為にも。



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反撃


 明朝、霊山の天候は荒れていた。山頂から吹き降りる風は、雪と共に容赦なく体温を奪う。

 

 雪山の危険というのは、雪崩やクレバスのような分かりやすいものとは限らない。連合王国所属の山岳師団の者は、風こそが一番の障害だと語るという。

 

 容赦なく吹きすさぶ風は雪を浚い容易に視界を白一色に染め上げる。そしてその風は、その地の気温よりも一段と身体を冷やす。体温が冷えると、筋肉や身体を震わせ身体を温める機能が人間には備わっているが、それでもなお身体が冷えれば必要な内臓器官に熱を集めるように動き血流が抑えられる末端から冷え凍結していく。所謂、凍傷の症状だ。

 

 帝国側は、雪山に対する知識が不足していた。支給された装備には、雪に覆われた山岳で過ごすには心許なく岩と雪ばかりの山岳では現地の燃料補給すらままならない。必然、補給物資の兵站は険しい山を昇りながらとなるが、牛馬では進行に難航する山道では必然人力のみでの輸送となった。

 

 事故も多発し続け、荒れた天候ではそもそも輜重隊が出ることすらできない。痩せた平野でもそうであったが、成程、これならば長年放置されるたけの理由もあると言うものだ。土地も山も、苦労して開発したところで得る物が少なく費用も人的資源も無駄になるだけだ。

 

 「なにも見えねえよ」

 

 なにか喋らないと、口まで凍ってしまいそうだ。現に急激な天候変化のせいで、眉からツララが垂れさがっている。

 

 見張りに立つ兵士達には、特例として防寒具が重点的に支給されていた。数に限りがあるので見張りの交代ごとに防寒具を受け渡しているのだが、動き辛いことこのうえない。平野部で投石機を置いた拠点を護っていた時の方がまだ良かった。あの時はあの時で、降り続ける雪に悪態をついたものだがここと向こうじゃ環境が雲泥の差にすぎる。

 

 恐らく気のせいではあるが、物見やぐらの上は下に比べてさらに一回り寒いような気がする。ここまで山の上まで来れば、櫓の上と下くらいの差はあって無いようなものだとは思うが。

 

 「クソッ。ガルコス将軍の話じゃ例の作戦完了後は数と武力をもって早晩に叩き潰すって話だったのによ。こんなところにもう数日もいたら、手の指全部無くなっちまう。むしろそうなったら、傷病で負傷療養ということで更迭されるかな?」

 

 「たかが亜人の反乱で負傷更迭されても、見舞金なんて雀の涙どころかなにもないぞ。傷害を負って、故郷に返され厄介者扱いされるのがオチだ」

 

 「畜生。新隊長のガルシアとやらはなにを考えてやがるんだ。ただ、敵を見張っていろなんて時間の無駄だぜ。ガルコス将軍さえ暗殺されなければ、今頃故郷に戻っていたものを…ご自慢の竜狩り隊とやらはなにをしているんだ」

 

 「竜狩り隊はどもかく、故郷に戻ってのんびりできるとは思えないけどな」

 

 白色で覆われた景色から視線をそらし、今日の見張りを共にする相方を見る。そういえばこいつは、帝国で二番目に大きい都市の出であるらしい。港町で貿易が盛んなところだったらしいので、田舎者である俺とは見て来たものが違う。

 

 「嫌なこと言うなよ。でも、どういうことだ?」

 

 「帝国と連合王国の間にある、リスム自治州は知っているか?ほら、捕鯨と鯨油を起動力にして成り上がってきたあの」

 

 「いや、あんまり」

 

 帝国でも北東、すぐ近くに連合王国どの国境はあるもののこことは別ベクトルで危険な、毒ガスや毒虫蔓延る人の手が入っていない山岳が横たわるっているので交流等皆無。まして、離れに離れたリスム自治州等名前もうろ覚えだ。

 

 鯨油等も噂で聞いたくらいで、領地の主であったガルコス将軍が個人的に輸入していたくらいである。次世代資源の研究として、新たな兵器の構想を練る為であるらしいが遠い分輸送費が嵩む為庶民には手がだせない代物だ。

 

 「連合王国が自治州の正当な宗主国であると宣言をしたらしい。当然、帝国側もそれに非難声明をだしている。自治州内部でも、親帝国と親王国がいて政治屋共が民衆を巻き込んで内部分裂をしているそうだ。悲しいことに、中立やリスム独自路線を貫く政治屋は少ない。リスムを襲った巨人事件もあいまり、強力な国の軍事支援や独立保証を考える者が増えたのだろうが、ここである事件がおきた。帝都事変、竜と狼による帝都の六分の一が壊滅したあれだ」

 

 政治の話はよく分からないが、巨人事件はともかく帝都事変については流石に情報が届いていた。大陸最強を謡っていた帝国、皇帝のお膝元である帝都で巨大生物が暴れ鎮圧に出た竜狩り隊が返り討ちにあったという。

 

 まあ隊でも補欠みたいな連中らしいが、それでも他国にまで名を轟かす竜狩り隊が成す術もなく敗北したこと、そしてその巨大生物に逃走されたことが既に他国にまで広まっている。これはまあ、現地にいた密偵が広めたんだなと思うがネガティブキャンペーンとしてはこれ以上ないだろう。

 

 「帝都での事変に無力であったことが、既に周辺国に蔓延している。特に、似たような巨人事件があったリスムでは一気に親王国派に支持が傾いたようだ。過激な連中は自治州を辞めて王国の一部になろうと発言しているらしい。どちらを宗主国として選ぶか住民投票までするなんて噂もあるくらいだ。そうなると、帝国は黙っていられない。有用な資源以外にも、リスムという緩衝地帯が消えること。なにより、世界有数の貿易港を持つリスムを奪われることは宗主国を狙う帝国にとって国家的な損失だ。王国の挑発に、武力行使も辞さない構えだと聞いている」

 

 「マジかよ。でも殴りにいったら」

 

 「ああ、王国も全力で殴り返しに来るだろう。以前から帝国は中小国で包囲網のようなものがしかれているし、帝都事変で混乱し竜狩り隊の名声が落ちた帝国に襲いかかるのは今だと考えているだろうさ。そうなると、帝国対世界だ。僕が歴史家なら、世界大戦とでも名付けるね」

 

 世界大戦。スケールがでかすぎて学の無い俺には頭がついていけない。ただその名前のフレーズは、不吉すぎて理屈を追い越し頭を直に殴られたような感覚になる。

 

 「最悪、対帝国戦線の包囲網の一角にこの反乱組織の亜人軍がなるだろう。帝国としては、不安の芽は一つでも早く潰したいところだろうね」

 

 「敵を作り過ぎだろう。お上ももっと上手くやれってんだ。ガルコス将軍も死んだのに、なんでこんなところで鼻水凍らせながら見張りをせにゃならんのか」

 

 愚痴をこぼした次に、ため息を吐こうとした時その吐息は急な鬨の声にかき消される。敵が攻めてきたのかと、意識が覚醒したが妙なことに気づいた。

 

 「おい今の!」

 

 見るべきは、外ではなく内。連中が投石機から放たれる飛来物から身を隠したであろう退避壕から、コボルト共が湧き出してきていた。完全に内部から急襲され、迎撃準備が間に合わず混乱がおきている。

 

 「連中、退避壕と地下を繋げてきやがったか!」

 

 「早く応戦を!」

 

 『オオおおおおォオオオオオオォオオゥン!』

 

 山々に響く人外の咆哮。それに合わせるように、白い視界の向こうから武装した集団が現れた。先頭には、半獣から解放者と呼ばれる過去に奴隷市場襲撃等の実積があるガラン。

 

 侵入を阻む柵が、赤黒い奇妙に連結した刃の群れで破壊される。開いた穴からなだれ込む半獣達と、退避壕から湧き出たコボルト達に陣営は混乱しきっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体躯を誇る騎士の頭が吹き飛んだ。視界が悪い中、銃火器やボウガンの類の効果が半減されても元より近接兵器の延長線である散弾銃は効果抜群だ。元々は人妖を相手にする為に用意したものの、人間に使うにはいささかオーバーキルにすぎるが。

 

 長年山に住まうコボルト達には、天候を見ることなどお手の物。坑道を作る技術もあいまり、前衛基地に造られた退避壕とこちらの地下を繋げてしまうという奇策が成立する。視界を絶たれた状態で、前から半獣達。そして中からコボルト達による挟み撃ちをかければいくら帝国軍とはいえ一溜りもない。

 

 退却の合図と思われる角笛が響くと同時に、這う這うの体で帝国兵が逃げて行く。

 

 「戦果と被害は!?」

 

 「雑魚を蹴散らしただけだぜ!敵大将首を落としたという話は聞いていねえ!被害はほぼなし、全員意気揚々!どうする旦那!?」

 

 半獣達を率いていたロウザが応じる。先の戦いと比べ、策のおかげで楽なもので戦意がみなぎる獰猛な表情をしていた。

 

 奪われた山の領地を取り返すということで、コボルト達の協力を得られるのはここまで。勢いに乗れる時は乗れ、というのは攻める側としては大切なことだがここからは全力で当たることはできない。幸い、空読みが得意な者によれば麓の天候は悪くはないそうなので今度はエルフ達を動員できるのでここで追うことは悪いことではないのだが。

 

 「ロウザと…ランザ」

 

 「エルバンネ!お前は来ていたのか!?」

 

 「戦況を見定める為にな」

 

 エルフの得意な弓矢では、この視界では役に立たない。体温が高い半獣や柔毛に覆われたコボルト達程寒さに強い訳でもないため拠点の護りを任せていたのであるが、彼だけはついてきたようだ。

 

 「ここは、押そう。攻撃側はイニシアチブをとれる。こちらに勢いがあるうちに、敵がなにを企んでいようが圧し潰してしまえばいい。逆に守勢に回ったところで、また投石機による雨が降るなか耐えるだけだ。今までは決め手に欠ける為手がだせなかったが」

 

 エルバンネがこちらを見た。

 

 「竜と人妖。忌々しいが手札としては上等だ。ここで追い打つ為の、札として酷使させてもらう」

 

 「嫌な言い方しやがるぜ。だが旦那、俺が昔聞きかじった話にも似たような言葉があった。巧遅は拙速に如かずだったか、とにかくみんな狭い洞窟でずっと耐えたばかりで鬱憤を晴らす好機に沸いていやがる。敵が準備を整えきる前に押し切ろうぜ」

 

 エルフと半獣のリーダーが同じ見解を示した。集団を率いたこともなく、まして軍略等勉学をする機会はなかったがこれは押し時かもしれない。

 

 コボルトという戦力は除くことになるが、半獣とエルフ達が同じ方向を向いている。一時的にも、一枚岩となり敵に攻め寄せることができる機会を得た。伸るか反るか、で言えば伸るのは悪くない。

 

 「分かった、逆落としをかけよう。まだ点在する幾つかの投石拠点の護りは薄いだろう、勢いで挫く」

 

 「ほいきたぁ!西側の陣営は俺が受け持つぜ!エルフ共は東側を攻めやがれ!」

 

 「指図をするな。だが良いだろう、今すぐ集結をかける。中央は……」

 

 「俺が行こう。先に出向き、ひっかき回す」

 

 ジークリンデの連結刃が唸る。これからひと戦行うのに、昂ぶりを見せているのだろう。せっかくの機会、エルフの集結を待つまでもなく攻め寄せてしまい敵戦力を中央に集めれば、両翼の負担を減らせるはずだ。

 

 「追撃をかける為に先に行く。戦力が整い次第来てくれ」

 

 「先に行くって…おいおい旦那!」

 

 雪が深い、だが走るのに苦にはならない。動けないクーラの安全を確保するには、まずは帝国連中をこの地から叩きださせてもらう。護る為の戦いに、自然と闘志が湧いてくる。駆けているうちに、熱が沸き上がるのを感じた。目の前には、逃走していく帝国兵達の背中。

 

 夢魔の触手が袖から現れる。こんなものを皮膚から生やす等、とは思わない。使い方は、ウェンディの火蜥蜴と同じく頭の中で理解している。もっとも、見た目が気味が悪すぎるので味方の前では極力使わないようにしたいが。

 

 触手で拘束した、敗走する帝国兵をなぎ倒す。数人を連結刃で散弾銃で屠り、背後から背中に飛びつき、首筋に食らいつき頭をねじ切った。血しぶきが、噴水のように吹き上がる。

 

 『全滅させるなよ、相棒。程々に殺し、程々に逃がせ。良いか、恐怖は伝染するもんだ。連中にたっぷりと恐怖を植え付けてから、敵陣営に逃がしてやるんだ』

 

 悪竜からのアドバイス。確かに、敵の戦意は無い方がやりやすい。それが毒になり帝国軍内部で広がってくれればこれ以上楽なことはないだろう。

 

 「ほら、忘れ物だ。お前の仲間だったやつだろう」

 

 反撃に出ようとした帝国兵の胸元に、千切れた頭が投げられる。それを取り落とし、声にならない悲鳴をあげて逃走した。

 

 『クカカッ。悪役が様になってきたなぁ相棒。それでこそだぜ』

 

 「こんなざまだし、なに一つ建設的なことができていない俺だがまだ護る者がある。外道にも人外にも堕ちてやるさ」

 

 『護る為には手段を選ばないか。人類の敵としちゃ、上等だな』

 

 楽し気なジークリンデの声を聞きながら駆ける。道がなだらかになり、下山したにも関わらず息一つ切れていない。ジークリンデの言によれば、この身体はテンが俺と殺し合う為に計画を進めていた結果ということだ。大事なものを幾つも無くした代わりに得た力。

 

 テン、お前はそんなにも求めていたというのか。殺し合いという、歪んだ交流を。

 

 いや、今はテンのことを考えるのは後回しだ。平野部の天気は、コボルトの空読みが見た予報と一致していた。逃げていった兵士達が、投石拠点の入口近くまで逃走するまで待つ。恐怖を、伝染させる為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平原の中央に位置する投石拠点。

 

 馬鹿みたいに巨大化した投石機を運び込まれた時は、これからは大砲と火薬の時代なのにどうしたものかと頭を抱えたものだが使い方を誤らなければ存外悪いものでもないようだ。

 

 ガルコス将軍が暗殺されたものの、まだここは弛緩した空気があった。敵の迎撃拠点は奪い本拠地とそこは目と鼻の先。将軍最後の策となってしまったが、計画が上手くいきあとは最前線にいる連中が亜人の巣穴を攻撃するだけだ。

 

 ガルコス将軍が暗殺された後、後任となった竜狩り隊のガルシア隊長は亜人の巣穴がどれほどの規模でどれだけ出入り口があるのか調査しきるまで攻撃はしないと指示をだしていた。敵を包囲して一網打尽にする為の指示とは聞いているが、些か慎重にすぎると思う。

 

 投石拠点を任された百人長、ドルエルは大きくため息をついた。

 

 もうこの戦いで、自分の出番はないだろう。亜人相手の反乱鎮圧等大した功績ではないが、小さな戦果でも積み重ねていける。何時か故郷に錦を飾り、武勇伝の手記でも書いて暮らしたい身としてはこんなところで震えているよりは前線に赴きたいという気持ちがあった。

 

 帝国の寡兵は、まずは志願制である。その年によりノルマとなる人数がいるのだが、基本的には志願で集めた兵隊でノルマを超過することはない。地方によってはくじ引きだったり、行政指示で強制徴兵される者のいるが自分は志願者だった。軍に入り偉くなれば、食うに困ることはないだろうと。冒険者共のように、夢を語り現実の仕事に挫折する愚か者共のようになりたくはない。

 

 やる気と訓練の成績が評価され、中隊を任される程には出世できた。だが平民での自分ではここが限界、ここから上は士官学校を出た者や貴族のエリート達が蔓延る世界だ。

 

 平時ではここまで、だが戦時が近づいて来る。戦場で活躍できれば、さらに上級になることも夢ではない。成り上がりの物語として、後の世に一世を風靡させる伝記を出すのが夢だ。

 

 ああ、クソ。戦争なのに、こんなところでなにをやっているのだか。

 

 「ドルエル隊長!」

 

 部下の慌てた声が、思考を中断させる。慌ててテントに飛び込んで来たその顔は、寒さとは別の要素で青くなっていた。

 

 「どうした?」

 

 「我が軍の兵士が逃走してきました!恐らく前線にいた者達かと」

 

 「前線に?反撃を受けて、軍が壊滅したか?すぐに私も門に向かう!」

 

 丸太を積み上げて並べた壁の向こう側を見る為に、木製の階段を昇る。敵が来た際、ここから銃火器で迎撃する為の足場であるが今や用を為さないものになる筈だった。

 

 「助けて!入れて!早く入れてくれ!」

 

 「貴官の所属を確認したい!どこの部隊か!?」

 

 万が一、変装した半獣やエルフであるという可能性もある。エルフによる暗殺騒動もあったので、必ず所属先を確認する通達がだされていたのだが顔面蒼白の逃走兵達は口から泡を吐きながら叫び返した。

 

 「バカヤローそれどころじゃないんだよ!」「山にいた前線のもんだよ!壊滅したんだ。頼むから早く開けてくれ!」「化物が、化物が来るんだ!皆殺しにされる!」「お願い助けてください、助けて!あんな死に方いやだ、食べられたくないのおお!」

 

 兵士というより、まるで恐怖に侵され暴走した暴徒のようだ。木門をガンガンと叩き、必死な形相で中に入ろうとしてくる。

 

 「開けてやれ!」

 

 「隊長?良いのですか?」

 

 「尋常の様子ではない、良いから開けてやれ!開門だ!」

 

 五人がかりで門を押し開ける。ゆっくりと開いていく木門に我先にと身体を滑り込ませようとしてきた。統制が、まるでとれていない。

 

 「隊長!」

 

 部下の一人が叫ぶ。

 

 「なんだ!?」

 

 「あれを!」

 

 山側の地平、遅れて逃げ延びて来る兵士の胴体になにかが貫通する。異形の刃が空を舞い、胴体を貫かれた兵士達が空を舞う。一、二、三……五人程の大人がまるで玩具のように飛んだ。

 

 赤黒い刃が、空を飛ぶ兵士を執拗に切り裂く。空中で細切れとなった者達が、赤い血しぶきと肉片になり雪原に降り注ぎ、白と赤のコントラストを奏でていた。それを見て、退却して来た者達が悲鳴をあげる。

 

 「開けろ!早く開けろ!」「殺される!」「喰われるのだけは、嫌だ!死にたくないいぃ!」

 

 「じゅ…銃士隊集合!本部にも伝令をだせ!恐らく、奴が現れた!」

 

 ランザ=ランテ。帝都で暴れ、竜狩り隊の分隊を壊滅せしめた男。まるで化物のような体躯の話を聞いており、まさかとは思った。だが、距離を開けていても分かる。体躯こそ噂で聞いたものではないがその雰囲気は人外のそれだ。

 

 「収容急げ!銃士隊、射程距離に入ったと同時に一斉射撃だ!奴の首には多大な恩賞がぶら下がっている!必ず仕留めろ!」

 

 逃走して来た者達を収容し、木門がしまる。一安心と言えるかは分からないが、なんとか迎撃準備はできた。相手は怪物という話だが、伝記を書くにあたりこれ以上の獲物はいない。出世物語の大きな一歩、自分をそう鼓舞しなければ逃げ出してしまいそうな圧力だ。

 

 「放て!」

 

 ライフル銃が火を噴く。ランザの周りを件の刃がかこみ、火花をあげていた。効果は、薄い。

 

 「次弾弾込め!…はな」

 

 ランザの背後に、奇妙な揺らめき。揺らめきは徐々に明るくなり、巨大な陽炎となっていく。

 

 「神よ」

 

 誰かが、呟いた。巨大な炎でできた蜥蜴が、踊るように空を舞う。上空から飛び込んで来た火蜥蜴が木門に直撃、爆風と共に肌が焼ける音と何人かの悲鳴が聞こえた。風圧で吹き飛ばされ、地面に転がる。顔に火傷の痛みを感じながらなんとか顔をあげたところ、鉄門程ではないにせよ簡易拠点には上等な木門が綺麗に穴が開き焼け落ちていた。

 

 「来るも、逃げるも。好きにしろ」

 

 宣託のような言葉に、なんとか生き残った者達の間に恐怖が伝染する。

 

 「構わず、殺す。平等に殺す。死にたくないなら、他人よりも早く駆けることだな」

 

 こいつは、危険だ。話に聞いていた以上に。

 

 号令をかけようとしたが、炎で喉が焼かれたのか声が上手くでない。呼吸も苦しく、支持を出そうとしたところで咳き込むのが精一杯。そんな自分の頭上に、奴の足裏が見えた。最後に見た光景はそれで、かろうじて拾えた音は果実が踏みつぶされるような音。

 

 走馬灯を見る暇もない。まるでゴミのように、殺される。この化物めと、思う暇もないままに。



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 浮足立っている。印象としては、そんな感じだ。

 

 中央にて鬼札が暴れてまわり、そこから逃れた者が四方に散り陥落の情報と恐怖、混乱が伝播する。幾つか平原に点在していた投石拠点を陥落したことを伝える狼煙があがり、半獣とエルフの部隊は想定よりも苦も無く進行を続けていた。

 

 人妖。一度戦場に投入すればここまでの効果があるのか。制御できることが前提ではあるものの、悪竜との組み合わせでは単独で戦場を支配する効果がある。もっとも、敵もそれを理解したうえで準備と対応をすれば効果は薄れるだろうが少なくともこの戦いでは問題はない。

 

 「こんなものなのか」

 

 虚しさを感じる程のあっけなさ。今まで負け続けてきた反動故か、鬼札と考えたものとはいえたかだが一個人を加えた為に圧倒的優位に立てていることにどこか違和感を覚える。

 

 「いや、違う」

 

 エルバンネは、湧き上がるエルフ達と半比例するように沈黙する。この違和感を虚しさということで片づけても良いものか。出来すぎということはないだろうか。敵拠点の兵数を完全に把握していた訳ではなかったが、前線基地を破られるとは想定していなかった故にここまで護りが薄い、そういうものなのか。

 

 「見える、ここから見えるぞ!」

 

 部下の一人が声をあげる。帝国最北の街であるハボック。砦として改装されているそこは、帝国軍軍旗が翻っている敵の本拠地。

 

 「敵はまだ浮足立っている!」「イケる!イケるぞ!」「人間共め、ざまあみやがれってんだ!」「この勢いにのるぞ!敗残兵収容で門も空いているし、今が好機だ!」

 

 今まで頭を押さえつけられていた分、仲間達は人類への復讐に湧いていた。全員目が血走っているし、なによりも連戦連勝でこれ以上ない程殺意と士気が滾っている。

 

 これは、いかん。当初は敵投石拠点まで制圧出来れば良しとしていたが、上手く行き過ぎている。今までの鬱憤を晴らす機会ではあるが、少なくともここは一度足並みを揃えるべきだ。

 

 「エルバンネ!今すぐ攻撃を「待機だ!」

 

 遮るように声をあげる。勢いにノルのは大事だが、想定していた攻勢限界値には到達したのだ。やはり、なにもかもが出来過ぎている。少なくとも一度ランザやガロンと協議をする必要があるだろう。冷静に、譜面として戦場を見る必要がある。

 

 「なにを…」

 

 「半獣共やランザと合流を優先する!情報を集め一度体制を立て直し、足並みを揃えるぞ」

 

 「なにを馬鹿なことを!」

 

 非難の声が飛ぶ。若いエルフがこちらに近づき、胸倉を掴んで来た。森での生活よりも流浪が長い世代であり、人類憎しの感情は人一倍大きい。

 

 「馬鹿なことだと思うか?冷静になれ、当初の計画から考えればここまで進めただけでもう出来過ぎなんだ。興奮で気づいていないかもしれないが、我等も疲労が溜まっている筈だ。ここは、抑えろ」

 

 「ここが、あのハボックまで一番近い拠点なんだ!今ならまだ逃げた連中を収容するのに、城門は空いていたままなんだ!電撃的にここまで来た!勢いにのれずこの機会を逃してどうするんだ!」

 

 「だからといって、我等が矢面にわざわざ立つ必要はない。半獣共と強調し、ランザ=ランテを利用することで我等の…」

 

 目の前のエルフが、手の中の短弓を構えこちらに向ける。矢をつがえ、こちらの眉間を標的にしっかりととらえていた。異変に気付いた周囲の者がざわつく。

 

 「落ち着け。なにをやっているか分かっているのか?」

 

 「エルバンネ。俺達がなんでこんなクソ寒い雪原地帯で、毎日洞窟で慢性的な飢えと寒さで震えていると思っているんだ?いったい誰のせいでこんなことになっているんだ?」

 

 制圧すべきか。いかに眉間に矢を向けられたところで、僅かにでも隙をみいだすことができれば制圧は容易い。だがしかし、現状不満が溜まっているのは理解している。あの襲撃前から、一部の者達が脱走か投降しにいったのか姿を消していた。

 

 故郷を追われても、落ち延びた地やノックの山ではまだ自然があり、潜伏生活でもそれほど苦にはならなかった。だが今は、岩と雪しかないような環境で閉塞した空間で先が見えない日々を送っていたことで限界が近かったのだろう。大なり小なり共通しているストレスだ。力づくで制圧しても、今後に爆発寸前の不満が残るのみであろう。

 

 そして、その禍根は重要なタイミングで確実に首を絞めて来る。なんとか、暴発させずになだめる必要がある。それが可能かどうかは、別として。

 

 「ナロクの大言壮語に振り回されて何人も仲間が死んだ!そのうえアンタに付き従っていても、寒さと明日の食事に心配するような毎日だ!うんざりだ、うんざりなんだよエルバンネ!そもそもアンタ等が里でうちだした政策が今の状況を生み出したんじゃないのか!?エレミヤ、アレの裏切りが無ければ俺達はまだ戦えたんじゃないのか!?みんながみんな彼女を悪し様に言うがな、ここで惨めに寒さに震える俺達と今頃暖炉で暖まりながらワインでも飲んでいる奴のどちらが惨めなのか考えたことはあるのか!?なんで俺達は、こんなことになっちまっているんだ!応えろよエルバンネ!」

 

 「その大言壮語も、過去の風習も、積み上げてきた我等に責任はあるだろう。だがしかし、現状と過去を混同するな。お前達には未来がある。感情に振り回されて、万が一でもそれを失うようなことは」

 

 筋肉が動く。引き絞られた矢が放たれ、ギリギリで回避行動に移るが肩を貫通した。身体が半回転する衝撃に遅れて激痛が走る。

 

 「未来だ?言うこと欠いて、俺達に未来を解くのか?俺達に必要なのは今なんだよ!燃料に食料に寝床、必要なのは今、今すぐだ!今なら奪える!人間共が奪ったものを、奪い返すことができるんだ!なあそうだろうみんな!」

 

 困惑した顔で経緯を見ていた者達に振り向く。ショートソードを天に掲げ、弓矢を握りしめ叫んだ。

 

 「半獣共に手柄をとられてデカい顔をされ取り分を奪われるのか!?獣臭い洞窟でコボルト共と寒くて狭い洞窟でまた過ごすのか!?俺達エルフが、誇りと在り方を取り戻すのは今しかない!時代遅れでこんな現状に俺達を導いた老害の言などもう聞く必要はない!戦うぞ、戦士達!痛打を与えてやる、今こそ復讐の時だ!」

 

 生き延びた古参の者達。戦士として己を律する者達。そんな者達は二回の敗走で皆の盾になり死んでいった。抑える者達のいない、若者達の不平不満とその暴走。集団として破綻しないように、とりまとめに尽力してきたつもりであるがもう限界であったか。

 

 拠点内部にいた三分の二以上の者達が歓声をあげる。こうなるともう留めることは難しい。だが、それでも、止めなければならない。

 

 「行くな。今単独で動いても」

 

 「遮るな!殺すぞ老害が!」

 

 「ああ殺せ。どうしても行くなら殺してからいけ。お前の責任で皆を導けるならな。だが、お前にその器があるのか?人間共の拠点を奪い、半獣やコボルト共と協調路線をとることもできず人間共に勝てるのか?それができるというなら、障害物くらい取り除き破滅に向かうと良い」

 

 殺意が、目にみなぎるのが分かる。ショートソードをこちらに向けながら、歩み寄る姿はもはや誇りあるエルフの表情ではなくまるで飢えて追い詰められた暴徒のそれだ。まともな思考回路ではなく、この者の判断が今正しいとしても感情に振り回されているならば早晩皆を道ずれに全滅するだろう。

 

 「何時も何時も上から目線で……喧しいんだよお前は!」

 

 「エルバンネ様!」

 

 僅かに残っていた同調をしなかった者達がこちらに近づき間に割って入る。完全にエルフという種族が、二分化された瞬間だった。演説に同調した者とそうでない者、殺気が互いから漏れ始める。

 

 「顔は、覚えたぞ」

 

 だが今同族で同士討ちをしても仕方ないと思ったのか、ショートソードを降ろす。その代わり、まるで仇敵に向けるような憎悪の視線を向けて来た。

 

 「戦争が終わったら、お前達にはそれなりの責が待っていると思えよ。行くぞみんな!砦を落とす!我等の手でだ!」

 

 歓声があがり、ハボックに進撃を開始する。これではもう、軍勢とはいえない。暴徒の群れが、軍事拠点に突撃していっているようなものだ。

 

 矢が引き抜かれ、携帯用の医療品で治療が行われる。

 

 「エルバンネ様、ひとまず後退を。奴らがどうなるかは分からないですが、貴方を失う訳には」

 

 「強く固定してくれ。痛み止めもあるだけ用意しろ」

 

 「エルバンネ様!?」

 

 「奴の言うことも、まんざら間違いではない。エレミヤという破綻を加速する要因を作り、人間憎し雌狐の言に操られノックで復讐を企み、それが破綻した咎はあるだろう。求心力を無くした私に、なにができるかは分からないが……」

 

 ただ、このまま黙っている訳にはいかない。死んでいった者達の為にも。

 

 「暴走状態を留める。必要なら、私自身を犠牲にしてでも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「旦那!」

 

 自身の進行目標である拠点を制圧し、ランザの旦那と合流を図る。右翼と左翼はエルフの集団と俺達半獣の戦士達で攻め寄せたが、単独で言いと言い放った旦那が心配だ。

 

 まあ確かに人外じみた存在ではあるけれど、戦争は策もなにもなければ集めた数が物を言うもんだ。死にはしないとは思うが、苦戦しているだろうと駆けつけてみる。

 

 だがしかし、ハボックに近い中央の投石拠点に駆け付けた時、状況は良い意味で想定外なものであった。死体、死体、死体に死体。あちこちに残るなにかが爆散したような様子や鋭利な刃物で分割された元人間達。大型のバリスタ砲で反撃した様子や銃火器を使用した様子があるにも関わらず戦闘は一方的なものであったようだ。

 

 「話には聞いちゃいたが、化物だ」

 

 「上等じゃねえか、そんな人が味方なんだぜ?ちょっとは希望もてるだろうが」

 

 陥落した投石拠点の中、ランザの旦那は建物内部で敵が残していった鹵獲品を引っくり返していた。保存食の備蓄とある程度の燃料には目もくれず、木箱の中を探っては引っくり返している。娯楽として用意されていたのか、サイコロとカードが床の上に散らばった。

 

 「旦那!」

 

 「ロウザか。その様子だと上手くいったようだな」

 

 「ああ、なんか拍子抜けするくらいだが。それよりも、なにを探しているんだ?」

 

 「医療品だ。綺麗な包帯や消毒液、とにかくちゃんとしたものが欲しい。後はできれば従軍医も一人拉致しておきたい。残念ながらここにはいなかったが」

 

 こんなに必死になっている様子を見ると、やはりクーラのことが心配なのだろう。どうやら悪竜とかちあったらしいが、なにがどうなればそんな選択になるのか分からない。まあそれはともかく、本格的に治療したいなら十分な道具と専門家が必要になるのは必然だ。

 

 俺達はみんなある程度荒事慣れしており、治療も骨接ぎや縫合くらいならできる者も多いが顔を半分削られ身体中ボロボロになったということであれば助けになることは少ない。

 

 少なくとも、変えの包帯くらいは十全に用意してやりたいというのは親心か。いや、親子ではないようだが保護者オーラを感じるんだよな、この人がクーラを見る目は。

 

 「足りない。ここまで攻め込まれることは想定していなかったのか?」

 

 「ないなら、そういうことかもな。前線拠点にあったものじゃ足りないのか?」

 

 「負傷者全員で分け合うことを考えれば、いくらあっても困るもんじゃないだろう。それに医者ともあれば」

 

 「……ハボックか」

 

 正直、ここまで拍子抜けするほど順調だ。この勢いのままハボックを陥落させ目当ての物を手に入れるという選択肢はありだろう。味方の士気はうなぎ登りだし、敵は突然の反撃に動揺している様子だ。

 

 だが、本当にこれは俺達の快進撃による成果だというのか?仮にも相手は、大陸最大の版図を持つ帝国軍だ。旦那という強力な味方がいることを差し引いても、先の洞窟まで攻め込まれた戦いの時に感じた強かさを感じない。

 

 これじゃあまるで、軍備の近代化もロクにされていないそこらの小国を相手にしているかのようだ。いや、本格的に戦争と呼べるような行動をとったのがこれが初めてだからその感覚が分からないだけなのだろうか。

 

 言いようのない不安感が内心を蝕む。この気持ち悪さは、なんなんだ?

 

 「ロウザ!朗報だ!」

 

 「なんだ!?」

 

 「エルフ共も順調どころか、一足先にハボックに攻め寄せていやがる!俺達も今すぐ加勢しにいこう!あの街から帝国軍を追い出せば、この先随分楽にっ……ロウザ?」

 

 旦那が、こちらの顔を見た。俺もその顔を見て頷き合う。

 

 拠点内の建物から飛び出し、物見やぐらに昇る。防壁が打ち立てられた街に、エルフ共が攻め寄せていた。弓矢が飛び交い、近接戦の装備を引き抜き果敢に攻め寄せている。情勢は、どうやら優勢。

 

 「ここで、攻め寄せようと言わないということは、どうやら俺と同じことを考えているんじゃないか?」

 

 「ああ、旦那。なんというか、脆すぎるんだ。先の戦闘で感じた強さとか、策略とか、そんなもんを不気味なくらい感じない。まるで向こうの方が戦闘の素人に率いられた反乱軍だぜ。なんでこんなに弱体化しているんだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジークリンデは、帝都から飛び出た。方角や状況から判断して、俺と悪竜がこの北の山脈地帯に落ち延びたのは少し考えなくても誰にでも分かるだろう。目撃情報も多いだろうから、それを辿って行けば良い。

 

 帝都で暴れに暴れた俺と、竜狩り隊にとっては宿敵と言える悪竜がここにいるのだ。来るとしたら、竜狩り隊だと考えていたがこれではまるで弱小国の軍隊だ。

 

 露骨な程に香り立つ、危険な香り。罠の臭い。悪意の臭さ。

 

 「旦那。考えていることは、まあ予想がつく。だがエルフ共が攻め寄せているのに、俺達がまごついていたらアイツらが危険になるんじゃないのか?敵がなにを企んでいようと、勢いで圧し潰せないだろうか?どう思う?」

 

 「そもそも、エルフが攻め込んでいることがおかしいと思うわないか?あの冷静なエルバンネに

しては、血気盛んというか。元々は、投石拠点群を制圧した時点で出来過ぎだというくらいなんだ」

 

 エルフ共を餌にして様子を見るか、それとも危険と分かりつつ共同戦線をして企みごと叩き潰すか。どちらにしても、被害の多さは予想ができる。

 

 悩んだ時、頭に思い浮かぶのクーラの顔だった。苦し気な寝息に、悲惨な顔面の傷。清潔な包帯に痛み止め、そしてなによりできうる限り傷を癒してくれる専門の医療者。それらを早くにでも確保してやりたい。

 

 今の俺なら、多少の不利を跳ね返すことができる。それくらいの力はあると、自負をしても自惚れにはならないだろう。

 

 『悪意に、踏み込むつもりか?』

 

 ジークリンデの問いかけに頷く。半獣達にはここで万が一に行動できる後詰めとして残ってもらい、俺がハボックに飛び込みエルフ共の加勢に加わる。あそこさえ制圧できれば、物資も捕虜の中から医療者を探すこともできる筈だ。エルフ共に任せてしまえば、皆殺しにしかねない危険もあるだろう。

 

 「あれがエルバンネの指示だとしたら、まあそれはそれでいいだろう。だが不測の事態で制御不能になっている心配もあるなら、暴走状態にお前達も巻き込む訳にはいかない。お前達はここで事態を見ながら情報を集めてくれ」

 

 「旦那は?」

 

 「前線に斬り込む。これで北部から帝国兵を追い出せるならば、部の悪い賭けになる可能性はあるがリターンは悪くない。バックアップを頼む、エルフ共は俺に任せろ」

 

 『あーあ、知らねーぞ。なにがあるか分かる訳でもねーのによ、エルフを殺しながら様子を見るのが楽だっていうのによ』

 

 ロウザの返答の前に、ジークリンデの言葉が脳内に割り込んで来た。身の安全を第一に考えるなら、その行動でも良いだろう。だがしかし、敵に策があろうが無かろうがどちらにせよだ。

 

 「旦那。その願いには頷いておきたいところだが、少し待ってくれ」

 

 意外なことに、ストップがかかった。同じような感覚をもってくれているロウザならば、頷いてくれると考えていたのだが少し難しい顔をしている。

 

 「このままエルフ共が旦那の助力を借りてハボックを陥落させれば、今回の手柄でこの後もデカい顔をされる。そうなれば、人類憎しを起動力にするアイツらがこの寄せ集め連中で派閥のトップだ。だがそれは、帝国どころか人類全体に反旗を翻すような破滅に繋がりかねねえ。なにが言いたいか、分かるか?」

 

 「前から来ていた話、俺を半獣グループのトップに据えるって話か」

 

 ハボックを陥落させたのが、エルフと俺の功績ならば、俺の下に自分達を置くことで必要以上にエルフ共を助長させないようにするということか。連中に嫌われている俺を頭に置くことで、功績二分と共に牽制にする。味方ではなく、あくまで敵が同じということがよく分かる考え方だ。

 

 「そうじゃなければ、俺達もエルフ共に乗じて進むしかねえ。今連中に任せて勝てても、今後の泥沼化する戦いには勝てない。憎しみで動いている連中だ、必ずどこかで無謀に破綻する。俺は、仲間を守りたいだけなんだ」

 

 「俺は、この戦いが終わったら何時蒸発するか分からないぞ」

 

 「そうなりゃ、そうなっただ。長い付き合いじゃねえし、いなくなるならいなくなるで驚かないけどよ。それでも、最初から反帝国なんぞ九割九分不利な話なんだ。アンタの強さは、俺達の希望なんだよ。だから頼む、改めて半獣をまとめてくれ。クーラと同じ存在である、俺達を」

 

 クーラが同族をどう思っているかは分からない。これ以上、なにかを背負い込むなんてことはできないというのに。

 

 「無責任に消える可能性がある。それを頭に置いておけ、それくらいお前はありえない提案を俺にぶつけたんだからな」

 

 「学も、カリスマも、先見性もないんだ。そんな俺にはピッタリの提案だろ?」

 

 「自分で言うな。……なにかあったら、援護をよろしく頼む」

 

 ガロンの提案を受け入れ、ハボックに向け走り出す。クーラのこと、テンのこと、ガロン達のこと。無責任に抱え込むことの怖さを、今の俺は知っている。

 

 心情的に追い詰められたが故に、勝ち目の薄いジークリンデに勝負を挑んだクーラ。冷静な子だと思っていたが、その内情はどれだけ混沌とした物を抱え込んでしまったのか。

 

 あの悪夢での十数年。俺にとっては、最後の一日のみが修羅場であったがクーラにとっては毎日が文字通りの悪夢であったのだろう。耐えきれたのは、テンに埋め込まれた何らかの細工のおかげか、或いはその精神故か。

 

 クーラに、まだ俺はなに一つ返せていない。教えてもいない。導いてすらいない。なによりも前に、テンの前に、あの娘との関係を明確にしておく必要がある。

 

 『へェ』

 

 ジークリンデが、どこか感心したように声をあげる。ハボックに辿り着いた頃には、エルフ達は街の入口に並べられた防壁と門を破り内部に侵入していた。

 

 防壁には幾つもの鈎縄が下がっている。制圧射撃でもしかけた後にこれを昇り、内側から門を開けたのだろう。手際が良いというよりは、やはり敵の防御が薄い。

 

 「貴様」

 

 声をかけられ振り向くと、数人引き連れたエルバンネが駆けつけていた。肩口に包帯を巻きつけており、顔色が悪く息が乱れている。だがしかし、その表情は巖のように堅いものであった。とても、この快進撃を喜んではいない。

 

 「お前がここにいるということは、連中はやはり」

 

 「ああ、暴発させてしまった。勢いに乗れたこと、今まで溜まった不満。抑えるように言ったが、止まれなかった。なんとか止めなくてはならない、勝てるならそれで良いという訳ではない。略奪はともかく、降伏した者も皆殺しにあったなんてことになれば必要以上に憎悪が漲るだろう。止めなければならない、なんとしても」

 

 エルバンネの負傷、それから続く暴走か。或いは、部下に反発をおこされて傷を負ったのか。どちらにせよ、制御を外れてしまったのは確かのようだ。

 

 「行くぞ。なにがおこっているのか、確かめる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「見ろ!寒さ対策の防寒具に、固形燃料が山ほどある!」

 

 「ソーセージ、チーズ、麦袋。こんなにあるのか!」

 

 「うおなんだこの樽。油みたいなのが大量に」

 

 「武具の類もあるぞ!遠距離類は銃器が主だが……これだけ木材や鉄があるなら、新しい弓矢も作れるな。新しい材料が手に入らなかったからな、助かる」

 

 ハボック内部、退却していく帝国兵達が残した鹵獲物資をエルフ達は漁っていた。食料品に防寒道具、豊富な資源や武装の類。なにもかもが制限されていた者達にとって、例えそれが食べなれない肉類であっても、使い慣れない帝国の武具であっても宝の山だ。

 

 なによりも、奪われ続けたエルフ達が初めて人間から奪った品々だ。ただの略奪や鹵獲とは、高揚感が違う。

 

 「逃げそびれた奴がいたぞ!」

 

 「殺せ、殺してしまえ!」

 

 「ざまあみやがれ帝国軍共!醜悪な人間にはお似合いの末路だ!」

 

 「命乞いだと?お前達がそれを受け入れたことがあったのか!?死ね、皆殺しだ!かつて俺達がやられたように、お前達を殺し尽くしてやる!」

 

 落ち延び損ねた者達に、怨みがぶつけられる。降伏しようと武装を放棄した者には矢が浴びせられ、転がる死体にも執拗な攻撃をし続け、まるで質の悪い傭兵団のような有様であった。だがしかし、勝利は勝利。誰もこの歓喜に水を差す者はいない。

 

 里を燃やされた時の光景が、誰の頭にも浮かんでいた。正当な光景、これぞ正当な復讐だ。誰にも邪魔はさせない、俺達の怒りを思い知れ。

 

 「これ以上はやめろ!集合するんだ!無暗に敗残兵や投降する者を殺すんじゃない!」

 

 街の中央付近から、エルバンネが叫んでいた。傍らにはランザもおり、周囲を警戒している。

 

 ランザ=ランテ、二度も我等を追い詰めた本当の仇。元より、奴と行動を共にすることすら苦痛であったのだ。皆、思っていることは同じの筈だ。老害め、ランザを引き連れよくもまあ俺達をなだめられると考えたものだ。それとも、反乱分子を皆殺しにでもしにきたか。

 

 「今ならなにも問題はない!帝国軍は退けた!これ以上、もう一人の仇を生かしておく理由もないだろう!」

 

 数的有利は、圧倒的だ。帝都で暴れたかなんて知らないが、今ならば四方から矢で針鼠にしてやることができるだろう。ついでに、あの老害も始末してやる。古い考えを廃し、エルフは生まれ変わる。その為には、過去の遺物は邪魔だ。

 

 「エルバンネェ!ランザを使い俺達を排除しようとしても、無駄だ。こいつらもここで殺してしまえ!今なら帝国の連中にいくらでも擦り付けることができる!」

 

 集まった仲間達に、声をかける。ランザ=ランテはまっ先に殺しておかなければならない仇なのだ。それに関しては、皆の中で意見は一致している。

 

 「全員矢をつがえ、狙いを定めろ!エルバンネとランザ、それに今だ古い考えに続く馬鹿な時代遅れ共を皆殺しにするんだ!」

 

 「俺はともかく、エルフ同士で殺し合うつもりか!?なにを考えているんだお前達は!」

  

 「貴様が俺達に物を言うなランザ=ランテ!諸悪の根源が!ノコノコここに来たことを後悔しろ!これは正当な仇討だ、ころっ!」

 

 合図をだし、矢を放とうした瞬間。地面全てに亀裂が走る。そして、世界の全てが破裂した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんで、生きているんだろう。

 

 悪竜を殺しにかかり、首が繋がり、心臓が動いているとは思わなかった。呆然と天井を見つめるが、顔の痛さで意識が完全に覚醒する。

 

 そうだ、生きているならばこんなところで寝ている場合じゃない。ランザの元にいかないと、自分が助けにならないと。

 

 なにやら周囲が騒々しい。部屋から顔を出すと、慌てた様子で半獣が駆けていった。いったい、なにがおこったのか?

 

 「……ランザ」

 

 だとしたら、なおさら行かなくては。這ってでも、たどり着く。そこが、自分の居場所なのだから。



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 奴を殺す為にはなにが必要か、考えるべきはまずそこからだ。その思考の道筋は、軍略を練る軍師というよりは獲物を駆り立てる狩猟者としての考えが必要となる。狩る為にはなにが必要で、なにを対価として支払うか。ただその支払いが、通常よりもかなり大きいということだけだ。

 

 まず第一にランザという男の能力はなんなのか。大柄な狼の体躯に背中から生える連結した刃。現在の魔具技術では再現不可能と専門家が判断した自立したように動く蜥蜴の火炎。大量の石材さえあれば自身の分身を精製できる能力も帝都では目撃されていた。

 

 そして奴の傍らにいるのは悪竜ジークリンデ。余興や娯楽で国家単位を振り回し、その信念は皆無。他者を贄として吸い上げ、その力を行使する化物だ。

 

 相対するなれば、なにが必要か?十重二十重と陣を築き、無数の将兵と資源を磨り潰す覚悟で当たらなければまともに相対等できないだろう。竜狩り隊単体の戦力を考えても、分が悪いと見ている。

 

 「ああ~最高だよ~。もうエンパスも帝国もどうでも良い気分~」

 

 思考中、聴覚を通じて言葉が意味として伝わった。言葉を思い浮かべるだけで思考共有できるというのに、わざわざ言語化するということは要するに独り言だ。よほど『私』は温泉が気に入っていたようである。

 

 『暇さえあれば温泉入りやがって。確かにしばらく暇だったちゃあ暇だったが、気を抜きすぎだ』

 

 「相変わらず『俺』は真面目だよね~。まあまあ良いじゃん、ここからならロケーション抜群だし、のんびりしながらハボックを見れるんだからさ。観戦だと思ってのんびりしようよ」

 

 『私』がレントから授かった加護は、おおよそ戦闘向けとは言い難いがなによりも有用だ。闘争に関しては僕や『俺』が矢面に立つこともできるし、なんなら加護によらずとも異能というものはあるものだ。人妖も、広義の目で見れば異能と言えるものであろう。もっとも上の人間は人妖化に関してはあまり興味はないようではあるが。

 

 『私』が遠くを見た。その惨状の凄まじさたるや、一個人にここまでの手段を叩きこむかと言わんばかりの質量攻撃と波状作戦が行われていた。

 

 『あの大量すぎる爆薬はこの為か。思いきりの良いことだ、ランザ=ランテとジークリンデを葬ることができれば犠牲は必要経費と割り切り、後のことは気にしないと見える』

 

 帝国軍将の暗殺。護りを考えれば杜撰な陣形。その全ては、人妖と悪竜をおびき寄せる為。ついでに反乱勢力の主力部隊も一網打尽に出来れば儲けものといったところか。

 

 鬱屈した状況のなかで、起死回生の奇襲攻撃。それが大成功となれば、現状打破の為にイニシアチブを握る手段として攻勢に出るだろう。籠っているだけでは負けることは、目と鼻の先まで攻め込まれることで充分に理解できている。勢いを止めるな、というのは戦争においては基本でもある。叩き潰せるうちに叩き潰してしまおうと欲もでる。

 

 投石拠点や前衛基地に物資が少ないのは恐らくわざとであろう。反乱勢力の懐事情と台所事情はジリ貧だ。喉から手が出る程鹵獲品がほしいというのに、攻勢に見合う戦果が無ければ次はハボックを狙うだろう。そのハボックすら、まともな防衛を放棄しているのだから。

 

 しかし、竜狩り隊の理念というものを見誤っていた。確かに民衆の命を保護することに関しては問題はない、ハボックには軍事関係者以外の残留はいない。

 

 ただ、あの街に残留を希望する者も強制的に避難させたのは序の口。命の保証まではするが、住居及び財産の保護や保証のいっさいはする気はないようだ。そして、街があのざまではしばらくの間人が過ごせる環境に戻すことはできないだろう。最北の街ということで、気象等も考えれば、もしかしたら数年単位でも復興は難しいかもしれない。

 

 「お?」

 

 『私』が声をあげた。共有する視線の先には、重症の半獣がフラフラとハボックに向かっていた。顔の半分を包帯で覆われており、骨折箇所を庇いながらなんとか歩けているといった様子である。ただその顔は、喰いしばるように顔を歪めていた。

 

 「クーラちゃんだ」

 

 『クーラ…ああ、元加護持ちの。今はランザについて回っているっていう』

 

 「なかなか可愛らしい子だったから、レントから離れた時は寂しかったものだよ。うーん……よいっしょ」

 

 『私』が温泉から上がる。用意してた手ぬぐいで身体の水気を絞り、男女どちらでも使える下着を身に着け厚い外套を身にまとう。温泉は、もう良いのだろうか。

 

 「うん。もう良いかな、どちらにせよそろそろケリがつくころだしね。ランザがくたばるか、それとも返り討ちにしてしまうのか。それによって亜人の反乱勢力がどれくらいの戦力になるか、見捨てるのか利用するのか見極めることができるでしょ。じゃあ、後は『僕』に任すからよろしくね。エンパス教にいた私が目の前に出たら、混乱するだろうしさ」

 

 腰に差していた鞘からナイフが抜かれる。切っ先が皮膚を突き破り、頭を支える首の筋肉に穴を開けて突き進んでいく。首の骨に先端が当たる感覚、震える手に力を込めて、重要な血管を何本も斬り裂きながら首の四分の一を切断。呼吸器を破壊しながら、ナイフは引き抜かれていった。

 

 岩場の上に倒れ、痙攣する身体。『私』から支配権を譲渡され、急速に治癒される傷口に軽く手を当てながら起き上がる。やれやれ、温泉に入っていたというのに部分的ではあるが血塗れだ。人格変更の為に仕方ないプロセスだとしても、いちいち死ななきゃいけないのは考え物だ。

 

 「まあ、僕もノックでランザとは出会っているんだけどね」

 

 山や森と一体化したようなミハエルにトドメを刺す。リスムの巨人騒動の際、レントに依頼はされたが『私』では少々荷がかちすぎる為道中で交代し、先に交戦していたランザとほんの僅かな間とはいえ共闘したこともあった。

 

 顔見知り、とは言えるだろうか。それとも、余計混乱させてしまうかな。まあ、『俺』と交代しても良いかもしれないがもう一度死に直すのも面倒くさい。そもそも、たどり着くころにはランザもくたばっている可能性が高い。そうなったら、分析した情報だけ持って本国に帰還しよう。

 

 『生き延びていると思うか?俺は死んだと思うが』

 

 「正直僕もそう思うけどさ、まあ答え合わせと行こうよ。死体の一部でも回収できたら、良い手土産になるだろうしさ。そろそろ半獣達にも、恩を売っておいて、取り込むならば後に介入しやすくする必要もある」

 

 国土、経済、人口、軍備。大陸一番の国家である帝国とそれに続くといえる我が連合王国であるが、その差は凄まじく開いている。国力の差を埋め合わせようと、倫理観を無視してでも追いつこうとする頭がおかしい連中が連合王国には存在するのだ。

 

 その証明こそ、この特異な肉体だ。だがこの身体、どうやら量産は不可能な奇跡の産物であるらしくもっと応用の効く汎用性のある効果を求めている。その足掛かりとなるかもしれない、人妖のサンプルは喜ばれるだろう。

 

 まあ、出来れば生き延びていてほしいものだが。例え低い可能性であったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地面に亀裂が走ったと認識したその直後、ハボックの大地が轟音をあげ地底から吹き飛んだ。オレがギリギリまで確認した限りでは、爆ぜ割れたのは大地だけじゃねえ。住居、倉庫、巻き藁の束、樽の中身。おおよそありとあらゆる場所から過剰ともとれる量の爆発が確認できた。

 

 「ざ、ざまあねえぜ!なんてありさまだ、こいつはよ」

 

 たかが爆発。オレを殺しきるには流石に威力が足りないが、それ以外はそうもいかない。

 

 深く抉れた地面や崩壊した家屋のあちこちに、悲惨に弾けた肉の塊や欠片が散らばっていた。死体というには部位が散り散りすぎて、まるで肉屋の廃棄場だ。

 

 ハボックの街ほぼ全域が、凄まじい大爆発に包まれた。住民の住処かどうとか財産がとうとか、考えは皆無らしい。その思いきりの良さは評価に値するが、やることが気持ちの良い程躊躇がねえな。

 

 敵は、それだけの覚悟を用意してきた。同じ帝国兵を捨て駒にし、街を廃虚と化し、悪意と敵意を持ち敵をここに招いたのだ。ランザの野郎を。

 

 破壊し尽くされた街の中央で、ランザはまだ息をしていた。本能による反射か、瞬時に人妖となることで即死をしないように動いたのだろう。それまでは良いが、巨大な狼の体躯に庇われるようにエルバンネとその護衛が凄まじい衝撃破で気を失っていた。

 

 クソ馬鹿野郎が、護ることを決意した果ての人妖化。そのサガがこんなところで出ちまった。

 

 護った連中は確かに生きちゃいる。だが奴の身体は、後ろ足が千切れほぼ全身に巨大な裂傷と火傷、聴覚にもダメージを負ったのか耳孔から血を垂れ流し、裂けた口からは血が溢れ出て流れている。目に意思の力はなく、死んじゃいねえがどこを見ている訳でもなく意識が飛んでいやがる。自己の再生も間に合わねえ。

 

 助けられるか、こんな状況のランザを。オレだって身体がバラバラになりかねないと感じた程の大爆発だ。今から治癒をほどこしても、どこまで癒すことができる?

 

 「クソったれが、とにかくここから離れる方が先か?待っていろ、今」

 

 もう一度、こいつを掴んで飛ぶしかない。今一度力を振り絞り元の姿に戻し、帝都での退避を再現するしかないが今度はどこまで飛べるのやら。

 

 「ってぇえええええええええええええ!」

 

 どこからか響く掛け声と共に、砲撃音。南の空から飛来する砲弾が、ランザを中心に炸裂音をあげた。数発をとっさに連結刃で迎撃したが、着弾と同時に破裂して無数の鉛玉が周囲に飛散しやがった。迎撃したとしても、全身を穿つ鉛の雨が容赦なく肉を抉る。例え人妖であっても、その効果は絶大。

 

 「オオオォォォオオラァアアアアアアアアアァ!』

 

 砲撃音と共に、砲弾が続けて飛んで来る。いつの間にか、上空には鉄馬にまたがった帝国兵がこちらを観察していた。位置情報が大砲射ちに届いたのか、先程よりも精度があがった第二派が飛んで来る。飛散した破片だけでも危険なのに、直接砲弾を喰らえば今度こそランザはくたばっちまう。

 

 竜の巨躯で、野郎を庇うように立ちふさがるしかないとるべき手段がない。飛んで来る砲弾は連結刃で迎撃をするものの、完全に無力化できず炸裂する榴弾でこの身体でさえ削られていく。砲撃後の弾込めの間、さっさと離脱しなければ鱗に覆われた身体はともかくこの羽が穴だらけになっちまう。

 

 『チッ…苛立たしいな。長居はできねえ、さっさと』

 

 翼膜が、斬り裂かれる。

 

 長く生きて来た。国の軍団とも戦った。救国の英雄と呼称される傑物とも戦闘した。オレを撃退にまでおいやった、指揮官でありながら前線で戦う人外じみた人間とそいつが率いる精鋭部隊とも三日三晩激突した。

 

 だが今までただ一人、接近すら気づくこともできず、オレの翼膜を傷つけ反撃する暇もなく離脱する敵とは出会ったことがなかった。速い、そして鋭い。少なくとも、帝都でランザに襲いかかった鉄馬集団とは比べ物にならない。

 

 故に、リアクションが遅れる。反撃に繰り出した連結刃は、凄まじい速さで動く鉄馬により回避され攻撃射程圏外まで逃れられた。巨大な馬上槍の下部に無理矢理刃を継ぎ足したかのような、血に濡れた特異な得物を持つその人物は、殺意を込められた視線でこちらを見下ろしてくる。

 

 『何者だ、テメェ』

 

 問いに応えることもなく、鉄馬が上空に退避した。それと同時に砲撃音が響き、榴弾が襲い来る。迎撃に手をとられると、痛みを感じる間もなく今度は先程の奴を先頭にした鉄馬の集団が殺到し的確に護りが薄い個所を削り取っていく。

 

 せめて動ければとも思うが、そうすれば未だにくたばってやがるランザは砲撃にさらされるか突撃してきた連中に串刺しにされるだろう。そうなってしまえば、ここまで面倒な思いをしている意味がねえ。

 

 この悪辣さ、成程。こいつらがあの、リヴァイアサン討伐の中核をなしたという。

 

 『竜狩り隊か』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハボック。最北端の街として、寒さと闘いながら五千人にも満たない住民達が助け合いながら暮らす土地。

 

 帝国政府が打ち出した土地の開発と開墾事業の一環として、少しでも税収と食料生産律をあげたいが為に開かれた街に集まった者達は、それでも自らが暮らしやすいように痩せた土地を耕し、家畜を育て、山を切り開き、長い年月をかけて最北の街として少しでも暮らしやすい環境にしてきた。

 

 開拓民の者は皆、食い詰めた者や農家の次男坊や三男坊。疫病や災害で故郷を捨てざるをえなかった者。不退転の覚悟で集まった者達の努力こそがこの街であり、自分達の手で切り開いた故郷といえるものであったのだろう。その努力は、賞賛に値する。

 

 だが、関係ない。ガルシアはそう呟いた。

 

 人命は保証しよう、その後の生活もしばらくは工面できるように行政に申請はしてある。だがしかし、開拓民である以前に帝国臣民であるならば苦渋を呑み込んでもらうこともある。傲慢か?強権か?開拓の苦労を知らない者の非情な強制?それで災厄を摘み取れるなら安いものだ。

 

 「けして焦るな。今回は海竜討伐時のように速さを求められるものではない。少しづつ、削り殺せ。動かない標的の刃に捕まる薄ノロはいないだろうな」

 

 帝国軍地開発局が発明したシュネラップネル砲弾。従来の砲弾は石弾や鉄弾の球体を飛ばす貫通力が強いものが主流であったが新開発されたこの砲弾は中身が空洞であり内部には鉛玉が大量に詰められている。

 

 リスムの巨人事件において、警備隊が放つ大砲の砲弾は巨体を貫通する威力をもったが、すぐに対応され致命傷を与えるどころかすぐに無力化されたという。ならば、点での貫通力よりも面での破壊力。発想としては散弾銃等の既存兵器と同じだ。

 

 これはまだ試作品であり、時限信管なるものを開発できれば着弾時に限らず、標的の前で破裂することも可能になり戦略性が増すものであるらしい。

 

 「だが今は、これで充分。効果は大なり」

 

 信じ難い話ではあるが、悪竜とランザの間には友好関係があるようだ。馬鹿な話を鼻で笑いそうになるものではあるが、帝都事変においてジークリンデがかの人妖を殺すでもなく大事そうに連れて行く様子は私のみではなく誰もが目撃したところだ。今回はそれも利用する。

 

 快勝を味合わせ反乱勢力を調子づかせ、このハボックに招き寄せる。勘の鋭い者は罠の可能性も疑うだろうが、反乱勢力が一枚岩ではないことはこれまでの情報収集で把握済みだ。エルフでさえも、反乱勢力の戦力強化よりもランザ憎しという理由で命を犠牲にしてこちらに近づく者がいたくらいだ。

 

 街に入りさえすれば、中にあるのはたっぷりの餌。燃料、食料、衣服。どれも喉から手が出る程欲しいものであっただろう。この北の大地、厳しさを考えればなおさらだ。

 

 だがその中にも、毒は紛れていた。鯨油の樽、小麦の袋、民家の床下や屋根裏、露店の覆い、厚い毛布の下。そしてこの街の地下には、それこそ地形が変わってしまうような量の爆薬を隠し、仕掛けさせてもらった。

 

 古来より城攻めをする際、地中を掘り進め地下から攻撃する戦術が存在した。ましてこの街の家は、外が雪に覆われ外出すらままならなくなる気候もある為に燃料や食料の貯蔵用にどこの過程にも地下室が存在する。穴掘りはコボルトの専売特許ではない、数日で蟻の巣のように地下通路を張り巡らせ爆薬を仕掛けることなど軍隊には容易な話だ。

 

 これで致命傷を与えることができれば、逃走も難しくなる。悪竜ジークリンデ、人妖ランザ=ランテ。街一つを犠牲にこの二体が葬れるものならば安いものだ。

 

 だから、私は断行する。住民に怨まれようと、帝国兵の犠牲をだそうと。確実に災厄をしとめる。後に続く、数百、数千を超えるかもしれない犠牲を抑える為に。我が息子の行動、その後始末をする為に。

 

 大砲部隊からの榴弾攻撃は、少しでもその場から動いたら面での破壊力で半死半生のランザを八つ裂きにするぞ。さあ悪竜ジークリンデ、お前が動けばランザは死ぬ。動かなければ、お前もランザも死ぬ。打つべき有効な策は、早急に我等竜狩り隊を殲滅し砲撃の隙間で大砲部隊を蹴散らすことだろう。

 

 だが、容易くはないぞ。古い英雄達のような超絶技能や能力は持たないが、我等には最新の技術と魔具を使用した戦術兵器と兵装が存在する。

 

 ハンドシグナルで部隊に指示、四散した鉄馬隊が砲撃された後の悪竜を休ませないように一撃離脱の戦法をとる。確かに、背中に蠢く連結刃の群れは恐ろしい。だがしかし、あくまで攪乱と消耗が目的の攻勢。無理攻めせずとも、攻撃姿勢を見せ相手に警戒をさせ注意を反らすことができればそれだけでも成果的だ。

 

 数機が攻撃と見せかけて刃の群れを引きつけ誘導し、がら空きとなった胴体を斬りつけて離脱する。やり辛かろう。そうなるように計算した、突撃形態だ。

 

 悪竜と、目が合う。斬りつけて離脱した竜狩りの隊員ではなく、司令塔を叩くべきだと判断したか。口腔を大きく開き、放たれるのは骨欠による散弾砲。

 

 「ガルシア隊長!」

 

 機動変更で散弾の効果範囲から逃れるが、待ち伏せしていたかのように襲い来る三対の刃が渦巻いていた。誘導し、なます切りするつもりか。

 

 「舐められたものだ」

 

 帝国が誇る最新式の魔具兵装、鉄馬。使い手の能力により、その加速性と精密性は見違える程に変化する。空中を上昇しながら逃走し、刃の追撃を受けながら急転回。ジークリンデの頭部に突撃するように、垂直落下をし重力の味方を得ながら加速する。

 

 ジークリンデ、悪竜の連結刃は確かに強力だ。刃の精密性、頑丈さ、そして竜の膂力から放たれる斬撃は下手に魔具である赤盾を構えようと貫通するだろう。ならば、軌道を読んで受けながす。剛を筋力で受け止めようとすれば、人体も武器も破損する。だから、力には逆らわず鉄馬の軌道を微調整しながら直接ぶつからないように刃を反らす。

 

 次の散弾を放とうと悪竜が大口を開けるが、こちらの方が早い。突撃槍の先端が悪竜の眼球を貫き、そのまま脳髄まで抉ろうと力を込めたくなるが、その前に顔面と瞼を斬り裂きながら離脱する。先程までいたところに刃の列が通り過ぎていった。トドメを刺すことに固執していれば、身体が二つに割れていただろう。

 

 真に恐ろしきは悪竜か。普通の生物ならば、眼球を貫いて平然としている者はいない。慎重に慎重を重ね、削らなければ人間等あっという間に血と臓物を散らしてしまう。

 

 ……だが。

 

 「視界を半分奪った!攻めるも退くも、死角からだ!健全な視界の方角は私が受け持つ!」

 

 「「ハッ!」」

 

 「我等人類の反撃だ!時代遅れの竜と治安を乱す人外に、人間の底力を見せてやれ!」

 

 砲撃のタイミングと共に離脱。追撃をしたくとも、追えない悪竜が咆哮を放つ。

 

 だがしかし、何故貴様はそこまでランザに固執する。悪竜には、かの竜には我等には想像もつかない事情があるのか。

 

 人と、共に動いた竜。その考えを、知ることはこの先無いのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「急げお前等!ランザの旦那とジークリンデを救出する!エルフ共もだ!」

 

 待機を命じられていたガラン達半獣の一団が、雪原を走る。突如ハボックから天まで爆風が昇る程の爆発がおこったかと思えば、断続的に響く大砲の音と竜の咆哮を聞きただ事ではないと独自に行動を開始した。

 

 エルフ共につられ、俺等もハボックに踏み込んでいたらあの爆発に巻き込まれていたかと思うとゾッとする。旦那の生存も絶望的かもしれないが、悪竜がついているうえに戦闘音が聞こえるということはまだ希望はある。

 

 「だが、間に合うか?」

 

 舌打ちをしそうになったが、それよりも先に視界が奇妙なものをとらえた。足のない馬の上半身を象った、奇妙な物体が空を飛んでいる。それに跨るのは、竜の頭部に斜めから直剣を突き刺したような紋章を左胸につけた軽装の人間達。

 

 「ライフル銃だ!」

 

 「テメェ等、気をつけろ!」

 

 数十騎の空飛ぶ騎兵から、弾丸が放たれる。幾人かの頭部が吹き飛び、胸に風穴が飛んだ。投石、ブーメラン、弓矢。各々が反撃に出ようとするが、射程距離が違いすぎるうえに機動力が高くとらえることができない。

 

 「なんなんだこいつら、なんだあの珍妙な乗り物は!」

 

 「ガランやべぇ!反撃手段がねえ!逃げた方がよくねえか!?」

 

 「分かってんだよそんなことは!クソッ……だが、どうする?ここで引いたら」

 

 奴らの装備は射程が長い長距離銃のみ、こちらに近づく理由はないし、鴨射ちだ。弓矢に秀でたエルフ共ならば対抗できたかもしれないが、無い物ねだりをしても仕方ない。このままではハボックに辿り着くまでに多大な犠牲がでるだろう。旦那達を見捨ててでも、引くしか、ないのか?

 

 「受け持とう」

 

 肩を、叩かれる。聞き覚えがある声にそちらを振り向くと、そこにいたのは顔に深い切り傷を負い、瞼まで傷が到達した人物。銀髪を短いポニーテールでまとめた、華奢な男とも精悍な女性とでもとてる中性的な顔立ち。

 

 以前から接触持ちかけてきた、ミツラギを名乗る連合王国の使者がそこにいた。

 

 「街に入ったら、可能な限り隠密に徹し、瓦礫に身を隠しながら中心部を迂回してその先にある砲兵隊を叩いてくれ。君達の機動力なら、上手くいく。今なら手薄、ランザとジークリンデを助けるのはそれしかない」

 

 「隠密にって、アイツらにはもう捕捉されているし」

 

 「受け持つと言った。君達に僕の……いや、連合王国が長年追及してきた技術の一端を見せてあげよう」

 

 ハボックの向こう側、砲兵隊の砲撃恩によりそれに続く独り言はガロンの耳には届かなかった。もしも、読唇術を会得している者がいたとしたら、こう読み取れたであろう。

 

 『百年も前、王国が異界から来た外来者を騙し討ち、解体し、研究を重ねた血生臭い御業さ』

 

 腰に吊るされていた革袋から、角ばった見慣れない言語のような模様が描かれた細い符が取り出される。それを空中に放った瞬間、符は分裂し空中に足場のような白い光の板を出現させた。

 

 長くて細い長剣が魔法のように鞘から瞬時に引き抜かれ、ミツラギは天へと飛び上がる。光の板を足場に距離を詰め、真下から長剣を一閃。鉄馬の胴体を分断させ、一騎撃墜してみせた。

 

 「君達の上空は僕が護る!こいつらには追わせない!さあ、突撃してくれ未来の同胞達よ!」

 

 分裂する符が、上空に膜を張るように展開された。見た目によらず強固なようであり、ライフル銃の弾丸は光の板を弾けず火花をあげる。天井に張られた奇妙な傘が、進軍の安全を確保してくれていた。

 

 「訳が分からんがなんにせよ、助かる!行くぞみんな!」

 

 ここさえ超えてしまえば、事態は好転する筈だ。旦那を救い出し、生き残りがいたら全員救う。それだけを考え、両足を前に進めた。



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悪たる竜


 あれは、どれくらい前のことだったか。百年以上、いや下手すりゃ何百年前の出来事だ。

 

 当時のオレは、歴史の表舞台から引っこんでグダグダと怠惰に過ごしていた記憶がある。人間の海洋進出が増すことに海竜は警鐘を鳴らし、火竜の奴は火山噴火で虐殺をおこした後引きこもりになり、オレはといえば平々凡々とした泰平の世に面白みを感じることもなく、さりとて踏みつぶしたり増長させたりしたところで面白みがある国もない。

 

 長く生きてりゃ時折こんな凪の時期もあるもんだ。焦ってもしょうがない。

 

 という訳で、寝て、飯食って、寝て、気が向いたら人間に化けて人里に繰り出して適当に酒でも飲みながら肉でも食っての繰り返し。そんな中で、最近は少し変わったことがあった。

 

 「何時も思うがな、その面とガタイで年代記作家なんて無理があるだろうが」

 

 「お前もその姿で、オールウ王朝を滅ぼし歴史上数々の悪行を引き起こしたとは思えんな」

 

 なんという国だったか、都心部から離れた郊外の森林地帯。木造の家屋内では、手作りの暖炉から火が溢れキノコと山菜、鹿肉が入ったスープが煮えていた。鍋をかき混ぜる男は、髪に白髪が混ざり始めた壮年の男性。ただその面構えは、額に傷が入った修羅場を潜り抜けた雰囲気がある良い男だ。

 

 丸太のように太い腕と、頑丈な幹のような足腰は歴戦の戦士を思わせるものであり、壁にかけられた古い大剣は使い込まれ主人と共に様々な戦場にて振るわれていたのだろうことが容易に想像できた。

 

 「竜に羞恥心は皆無とみえる。中身はともかく見た目は年頃だ、なにか着ろ」

 

 「オレはオレ、街中ででもないかぎりなに一つ隠すものなんかねえ、羞恥心?あってたまるかよそんなもん。ていうか、オレ様の肉体美にほだされねえお前が枯れてんだよ」

 

 「中身はこれでは、食指も動かんというものだ」

 

 「言ってろクソオヤジが」

 

 とある愚王から貢がれた金銀財宝もあり、それを換金して消費しながら街で飯を食っている際に声をかけられた。飲まず食わずでも数十年単位で過ごすことができるのが、オレ達竜という存在だが目新しいものを感じない時代、それなりに美味いもんでも食わないと張り合いがなかった。

 

 酔えもしない酒を飲みながら、表皮をパリッと焼き上げ香草で引き立てた鶏肉を食っていたところこの男に声をかけられた。二十年近く、竜としての活動はなく巣穴でゴロゴロしていたり人に紛れていた為声をかけられた時は飲んでいる酒を噴き出しそうになったものだ。

 

 いや、声をかけられることは多かった。こう見えて容姿は良いとの自負はあり、その時その時の流行りものや好みに合わせて刃を服に変えて纏うことも多い。雄からはさぞ魅力的に見えたのだろう、生憎興味のある野郎はおらず、何人かは死体に変えてしまっていたが。 

 

 ただこいつは、オレを悪竜ジークリンデと知ったうえで声をかけてきやがった。それが、こいつに興味をもったきっかけだ。何故気づかれたかは知らん。

 

 「おい、キノコはいれんな。肉もっといれろ」

 

 「喧しい。施されるなら黙って食え」

 

 「チッ。テメェの趣味だか娯楽だかに付き合ってるのに大した言いようだぜ」

 

 遊びがいのある為政者も、壊しがいのある都市や国家も存在しない退屈な世の中。なにに対しても興味が薄い時代に、オレを悪竜と理解したうえでぞんざいな口を利くこの男には存外好ましいものがあった。なに、クソ度胸に免じて多少の無礼は許容してやるというだけだ。一線を越えたら殺す。

 

 「で、飯食いながら話の続きだったか。どこまで話したっけか?」

 

 「暗愚王の病を、大量の生贄と引き換えに治療したがその結果、国民に国家転覆の兆しがおこりはじめたところだ」

 

 「ああ、そうそうそれ。こっからが今回の話で面白いところでな」

 

 年代記作家、もしくは編年史作家。歴史上の出来事や事件をまとめ、その詳細を記録に残す為の仕事。本来ならば国が自分の治世を歴史として残す為に雇われて書く連中だが、野良のこいつが記す書物はただの趣味だ。それで金が発生する訳でもない。だからこそ、その酔狂に強力しようとも思った訳だが。

 

 こいつが記す年代記のテーマは【悪竜】。ま、オレのことだ。だからこそ、声をかけてきたという。ずっと探していたとも。

 

 当時のオレは、自分の所業や悪行を記録に残るなんてことは考えたこともなかった。ただ思うがままに、遊べそうな玩具にちょっかいをだしていただけだ。たかが紙切れに歴史を綴ることにどれほどの価値があるのかは分からないが、やりたいならやらせてやる。気紛れってやつだ。

 

 男は最初、区切りが良いところまで黙って話を聞く。その後は細部を埋める為に質問を重ね、後に書き起こしたメモから年代記を書き残すのだという。

 

 食事が終わっても話を続ける。件の王は最後に反乱軍と市民あがりの長、解放の少女に打倒されたが、反乱軍の長による治世も長く続かずお粗末と言える外交と交易を繰り返す。反乱により国政が弱り切っているのに弱者救済にばかり目をあて、国は愚王が治めていた時よりも加速度的に疲弊していき、最後は群雄割拠となり国家じたいが消滅した。美しい理想により、国はさらなる地獄に落ちた。

 

 愚かな王と呼ばれてはいたが、外交と交易により潜在国力の弱い王国をよく保たせていた程には有能であったとオレは見ている。ただ悲しいかな、学がない市民連中にはそれが分からない。

 

 現にあの王が病で死去していれば、跡継ぎの教育もまだ中途半端なこともあり他国から侵略されてどのみち滅びていただろう。歴史にもしもはないが、頭解放者な少女が救国の聖女になんてならなければ今も国は分断され消滅されずに残ってはいた筈だ。

 

 見世物としては上出来だ。悪逆非道な愚王の奮闘こそが国を持たせ、市民に持ち上げられた聖女が国を滅ぼした。やはり人間とは、一部の視点のみでみるべきものではない。ただ坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというか、一度そういう視点で見てしまえば全てが悪くなるのもまたサガか。

 

 それを愚かと思うか、それとも仕方ないことかと思うか。少なくとも、得したのはオレだけだ。少しの労苦で、人の世の奇劇を存分に楽しめた。

 

 「幾つか話を聞いてきたが、何故お前はそんなに人間に関わろうとするんだ?」

 

 「何故だと?逆に聞くけどよ、そんなことが何故気になりやがる」

 

 「火竜は虐殺をし慟哭と共に歴史の表舞台から去り、海竜は敵意を剥き出しにして人類に宣戦布告をし、天竜は……お前に聞いた情報しか持ち合わせていないが、人の間では存在すら疑問視される程には伝説の存在で、人間と関りはいっさいない。だがお前だけは、他の存在よりも積極的人間に絡んでくるのが、不思議でな」

 

 そんなもの、理由は簡単だ。

 

 神の支配からの脱却、悪魔の知恵からの離脱、絶滅か殲滅かをかけた吸血鬼達との戦争。ただ導かれるだけの盲目な猿共は、様々な歴史上の出来事に揉まれ、抗い、生き様を示すことに命をかけてきた。

 

 傲慢に驕ることもある。怒りを買うこともある。火竜と海竜はそれ故に人類を攻撃したが、オレにはそれが楽しくて仕方ない。

 

 なんというか、一言では言えないのだ。暗愚王のように、世間で悪と言われている人間こそが国家を存続させ一部を切り捨てでも残りを保たせた。そして、解放者という善と謡われた者が全てを護ろうとして全てをぶち壊した。

 

 人間は神から離れ、悪魔から離れ、迷走をしている。そのどこに向かうかもしれない迷走かげんを、オレは面白おかしくなるように脚色してやるだけだ。だからこその、悪竜。人類という種に、娯楽でちょっかいだすのが悪たるオレの楽しみで役目だ。

 

 「ただの趣味だ、お前がオレの記録を書き残そうとするのと同じでな。お前等の歴史はただの玩具、それを楽しく弄ぶことにこれ以上の理由はねえだろう」

 

 「そうか、趣味か」

 

 男は、筆を置く。腕組みをしながら視線を壁へと向け、古い大剣に目を向けた。

 

 「趣味なら、仕方ないな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半獣のガキども、動いたか。

 

 戦闘のなか、コソコソと瓦礫に潜むように進軍するガランやその一味から感じる気配。単純にこちらに加勢しようとはせず、隠密行動で先に砲撃部隊を叩きにいく。ロウザは直情的な奴だと思ったが、その選択しがとれるくらいには冷静に物事をみているならばありがたい。

 

 半獣共が気づかれないように、咆哮をあげる。ならもっと目立たないといけねえな、この隊長格の男なら、例え多少の犠牲がでようともこの優位性を保つ為に半獣排除を優先する筈だ。気づかせる訳にはいかない。

 

 『よう、クソ野郎ども。目ん玉一個潰した程度で粋がるつもりはねえんだろ?』

 

 オレはジークリンデ。お前達人類にとって、天敵である悪の竜。

 

 『せこせこしてねえでかかってこいや。ここでオレを殺し尽くさないと、帝国民がどうなるか分かったもんじゃないぜ?せこい戦果で満足せずに、さっさと次来いやぁ!英雄になりたい欲があるなら、死兵となってかかってこい!汝、竜を狩りえる力を持つ者か?ってなぁ!』

 

 「我等は英雄にあらず、栄光等いらん。だが、言われずとも貴様等を狩りとることに遠慮はない!」

 

 戦列を最適解に組んで、竜狩り隊が突撃を開始する。純粋な戦闘能力が一番高い隊長格が視界の通じる側を攻撃し、その他の連中が死角から波状攻撃をかける。

 

 最適解……最適解か。オレとランザの戦闘や、文献に存在した悪竜が暴れた記録から予測と訓練を繰り返したか?

 

 『オオラァ!』

 

 連中は連結刃の間合いのギリギリからつかず離れずで動き、機会を得たら一撃離脱で浅い傷でも良いから攻撃を喰らわせていく。だがしかし、上手く連結刃から逃れて離脱しようとしていた鉄馬に頭を振り下ろす。

 

 竜の額が、人間の頭に直撃する。巨大な質量をもったハンマーに叩かれたようなものだ、騎乗していた騎士はほぼ垂直に地面に叩きつけられ、衝撃により鉄馬と共にひしゃげ、臓物をまき散らした。

 

 「頭突きだと?」

 

 「まさか、竜が?」

 

 そんな馬鹿な、と言いたいのか竜狩り達の呟きが聞こえた。頭突きなんて頭部にも影響がある滑稽な自爆技なんて、猪か人間くらいしか使わないだろう。ましてやプライドが高く、傲慢な竜がそんな泥臭い戦いなんてしないと思ったか?

 

 『おいおいおい、そんなに引くんじゃねえよ。人間どもの酒場で喧嘩がおきた時、よくやる手段の一つじゃねえか。これはこれで楽しい喧嘩なんだからよ、持てる手段だしていこうぜ?なっ、なぁ?なあ!竜狩り隊隊長、ガルシア殿よぉ!』

 

 「喧嘩だと?ふざけたことをぬかすなぁ!」

 

 連結刃と刃付きの突撃槍が撃ち合い、火花をあげる。こいつは超人的な体幹能力と空中での位置取り、並みの戦士や騎士共より鍛え抜かれた膂力でこちらの攻撃を上手く迎撃している。これはこれで、英雄だ。本人が例えそう思っていなくてもな。

 

 だからこそ、挑発のしがいがある。

 

 『ふざけたことのように聞こえるか隊長殿よぉ!知恵とか勇気とか努力とか人間賛歌とかとかとか、いろんなもん混ぜ合わせてふっかけてきたんだろうがぁ!目ん玉潰されるなんて初めてだが、だからこそ面白い、楽しい!さあもてる悪意と善意でこの悪竜様を葬れるか、ちっとは楽しめや人間!オレは楽しいぜ、だからこそテメェ等人間を娯楽にするのはやめられねえんだ!兵士の犠牲も街の代償も、悪竜様が滅びりゃ必要経費で大団円、ハッピーエンドだろ?ならもうちっと覇気とやる気と楽しさ魅せてかかってこいやぁ!ちっぽけな英雄願望満たすチャンスだろうがよ!欲だしてこいよオラァ!』

 

 「同胞を手にかけ!住民の努力を踏みにじり!貴様等帝都で暴れた災厄たる害獣を打つべく為に犠牲としたのだ!英雄願望?娯楽?そんなもんの為に戦う訳では断じてない!我等を愚弄するな悪竜ごとき害獣が!」

 

 『害獣退治如きにここまでそこまで本気になってくれるとは嬉しいねぇ!さあて雑魚ども、もっと泥臭くいこうぜ!こっからは、オレももっと楽しませてもらうからよ!』

 

 けなしてやる。大砲の援護と護衛対象であるお荷物、もはや勝ちが確定している戦いで、下から挑発されれば多少は揺さぶれるだろう。注意をこちらに向け続ければ、半獣共は通り抜けることができる。

 

 だがまさか、半獣共に期待をかける時がこようとは。

 

 ……また、まさか、か。まさか、まさか。ランザと出会ってから、何度この言葉を内心呟いたか。

 

 吸血鬼サグレと戦った時の、相棒という言葉。ノックの谷底の激流に落ちたクソ猫を助ける為に手を尽くしたこと。クソ猫改めクーラ=ネレイスが魅せた予想外の意地と覚悟。そして、ランザ=ランテを雄として意識してしまったこと。

 

 ランザと出会ってから、今まで考えたこともなかった行動や結果を見続けてきた。それが楽しくて楽しくて、なによりも楽しくてどうにかなっちまいそうだった。ここまで、ただの人間だった存在や半獣が楽しませてくれたんだ、オレがここで悪竜としての矜持を魅せないでどうするよ。

 

 挑発が多少効いたのか、竜狩り隊の攻撃頻度が増す。身体が削られていくなか、気分は悪くない。オレはオレの最愛の人を護る為にここにいるんだ。

 

 正直ランザ=ランテはもう人類にとっては害でしかない人妖、害獣だ。それを護ることは、悪竜としてオレの矜持にも会っている。リヴァイアサンよ、人間嫌いなお前は、人間に嬲られ殺されたことは屈辱だっただろうがオレはそうでもないぜ。

 

 竜狩り隊はオレとこいつを殺す為にあらゆる手段で手を汚し、策を打ってきた。まったく、素晴らしいじゃねえか。なによりあの時と違い、昔と違い、相応しい舞台で待つなんて戯言吐いて退く理由もねえ。そしてこいつらは、オレを殺すことだけを考えて、例え逃げたとしても地の果てまで追ってくるだろう。

 

 素晴らしいじゃねえか、楽しいじゃねえか。こんな殺し合いを、オレはずっとしたかったんだ。そしてそのうえで、オレは為すべきことをなさせてもらうぜ。

 

 思い返すのはかつての記憶。

 

 なあ、名も知らねえ古い友よ。悪竜ジークリンデの、本領はここからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「病か?」

 

 寝台の上で、咳き込む男の口から血が溢れていた。オレの年代記は、あと少しで完成というところなのに。

 

 暇つぶしに半生を語るだけ語り、それを元に書き起こすという年代記。出来上がる頃合で完成具合を見る為に半年ぶりに訪れた際、男は随分と弱り切っていた。

 

 実りの秋を越えて、冬ごもり。そして生命が謳歌する春だというのにその真逆こそが、男の状態だ。

 

 「若い頃、無茶ばかりしたツケだな。もう少しで完成だというのに、身体が持つかどうか。だが、ここでお前が来てくれたことは天啓だ」

 

 「オレの気紛れを天の仕業扱いしやがるんじゃねえよクソボケが」

 

 「最後に、付き合ってほしい」

 

 男は身体をおこし、ふらつきながら移動をする。歩いている間に死ぬんじゃねえの、なんて思っていたが壁にかけられていた大剣の柄を手にとった瞬間身体から生気が漲るのを感じた。

 

 呆けて耄碌した達人が、それでも剣を手にとった瞬間若者以上の気迫をだすように、男は半分死にかけた身体から戦士のそれへと戻っていた。

 

 外に出る男に続く。庭先にて、大剣をこちらに向けてきた。

 

 「悪竜ジークリンデ、戦士として立ち会いを所望したい。貴様の首を跳ね、それを年代記の最後の記録として記そう」

 

 「なら元気なうちにきやがれ…ってのは野暮な物言いだな。だが何故、残り少ない余命とはいえそれをぶん投げてでもオレに挑む?」

 

 「後悔からだ」

 

 男は悲し気に目を伏せた。

 

 ぶち殺したいですと喧嘩を売ってきた野郎だ。四の五の言わずにぶっ殺せば良いだけの話だが、オレは興味が湧いた。後悔か、話を聞いてそれを記録として残しているうちに、やはりぶち殺さなければならないと考えたか?飯に毒とかいれるとかしてよ。

 

 だが、男の口から語られたのはそんなせこい後悔ではなかった。

 

 「三十年以上前の話か、戦士としてはまだ二流半くらいのオレは、とある都市で暴れるお前と対峙したことがある」

 

 「ほお、都市なんざ幾つも襲ったけど、覚えちゃいねえなお前のことなんざ」

 

 「それもそうだ。すまん、対峙したなんて語ったが、本当は違う。臆病風にふかれちまったんだ、本当は相対してすらいない、瓦礫の影で震えていた。恐ろしくて、立ち向かうことすらできなかったんだ」

 

 無様な記憶を呼び起こす。確かに、そんな木っ端みたいな存在までいちいち踏みつけていた訳じゃないからな。生き残りがいたとしても不思議じゃないし、もしかしたら復讐心とか身に着けて襲い掛かってくるならそれはそれで楽しみがいがある。

 

 鍛えた技や、強い復讐の誓い。それが果たせずに心折れながら死んでいく奴を見るのは、楽しみがいはともかく暇つぶしとしちゃ丁度いい。

 

 「だが、鮮明に悪竜ジークリンデは記憶として焼き付いた。凄まじい竜の破壊力とどこか神秘性までももつ存在感に恋焦がれたと表現しても、変わりない。文字通り寝ても覚めてもお前のことを考えながら、一から修業をやり直した。今度こそ、対峙して悪竜の記憶に残してもらう為にな。だが、全盛期となった頃にはお前は歴史の表舞台から姿を消していた。強い後悔をもったよ、あの時お前と対峙して死んでいれば、こんな後悔をもたずにすんだだろうとな」

 

 「だから、今その夢叶えたいときたか」

 

 「ああ、街で見つけた時は驚いたよ。姿形は人のそれだが、この圧力は間違いない。だから声をかけた。この年になって、断片的に残る悪竜の記録を調べるうちに興味も湧いた。お前のことを、後世まで語り継がれるように歴史に残してやりたいとも思った」

 

 大剣を握る手が、強く強張る。殺意が増し、目に覚悟の火が灯る。

 

 「私がお前に勝ったら、悪竜の最後を年代記に記して筆をおこう。お前が勝ったら、その生を、悪竜の軌跡を歴史に刻んでいけ。誇り高き悪たる竜よ、人類にとっては敵なれど、私のようにお前の輝きに魅せられたものは必ずでてくる。気高く生き、誇り高く死んでほしい。どうせ死ぬならそんな相手に殺されたい、それが願いだ」

 

 「あっそ。それじゃ、喧嘩しようか」

 

 勝負は、あっという間についた。刃が一度接触をした瞬間、男は弾け飛び大剣は二つに折れる。戦士として戦えるように身体は動いたものの、男の全盛期は既に過ぎ去ってから久しく、大剣も戦場をかけてきた役目を既に終えていたのだろう。

 

 転がる男に近づき、見下ろす。

 

 「まあ、こんなもんだよな。言い残すことはないか?」

 

 「いや、ない。満足だ、多少なりともお前の記憶に残りながら、死んでいくことに後悔等あるものか」

 

 頭を踏みつぶし、殺そうとする。直前までせまる死の圧力を眺めながら、それでも男は笑顔だった。

 

 「……いや」

 

 潰す直前で、止まる。殺すのは、簡単だが。

 

 「リクエストには、応じてやらねえとなぁ」

 

 「なに?何故止める?」

 

 「オレは悪竜ジークリンデ、お前等玩具の物言いになんで応じる必要がある。ここでテメェを殺すのは慈悲だがよ、それじゃらしくねえだろうが」

 

 こいつは、オレに魅せられたと言った。今までそんなことを考えたことはなかったが、魅せる為の生き方と死にざまか。なら、無様にはできねえじゃねえか。

 

 「殺してほしいと懇願する馬鹿殺しても楽しくねえだろうが。それが、壊れかけの玩具で馬鹿なダチならなおさらだ。精々お前は、悪逆非道、人類の災害たるジークリンデ様の年代記を世間にだしやがれ。死にかけてた友人の最後を嘲笑しながら立ち去ったゲスとでも最後に書き記しておけば良い。その後に死ね、あの世からオレの活躍を見ておきな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、何十年か経った後にそいつの著作を一度だけ見た。その末尾には、こう記されていた。

 

 『悪竜ほど、人類を愛している竜はいないだろう。それは玩具に対する執着のようなものではあるが』

 

 その頃から、オレは歴史に刻まれるような悪逆非道な生き方と、英雄相手に華々しく散るような魅せるような死に方を追い求めることとなった。結果一度は心をへし折られ、ランザと出会うまで腐りきっていたがまさか今になってそれが実現しそうになるとはな。

 

 だがしかし、時間切れだ竜狩り隊。

 

 砲撃のタイミングで離れる鉄馬に追撃。ランザから急激に離れての斬撃に、安全圏に逃れ次のチャンスを図ろうとしていた騎士二名が鉄馬ごと両断される。

 

 「離れたか!?」

 

 「馬鹿め、砲撃を忘れたか!?人妖ランザはいただきだ!」

 

 だがしかし、援護射撃は来ない。ハボックよりもさらに北、砲兵陣地からは煙があがっていた。

 

 「砲撃はどうしたぁあああああああ!」

 

 『クッ…クカカ……ざまあねえな竜狩り隊。時間をかけすぎだ馬鹿野郎共が』

 

 オレは、奴らの攻撃目標であると同時に目を釘付けにする為の餌。熱くなっていなければ、多少は周囲に目を向ければ、コソコソ瓦礫の影を移動する半獣共に気づけたかもなぁ。だがしかし、悪竜たるオレがそれに気づかせると思うか?

 

 『獣どもがやってくれたみたいだぜ。お前等が半獣にもうちーっと優しければ、オレを殺せただろうによ。うぜぇ砲撃は無しだ!さて殺し合おうぜ竜狩り隊よぉ!』

 

 翼を広げ戦意を高揚させたこちらに、ガルシアの反応は早い。

 

 「優位性が崩れ戦場で長居は無用!撤退に移る!」

 

 「はいそうですかと、逃がすかよクソボケが!」

 

 援護射撃がなくなったというだけで、こちらがボロボロなのは欲張らないということか。犠牲を出さずに、引きたいと。それを許すと思ったか。

 

 逃げて行く竜狩り達を追い、散らす。刃に絡まれて命を散らす騎士に、他の連中は見向きもせずに退却を……。

 

 悪寒、なにかがおかしい。いや、クソボケはオレの方か!

 

 撤退という言葉は詐術!視界がある方の、竜狩り隊は確かに引いているがオレの判断が間違いじゃなければ、オレがガルシアであったとしたら間違いなくこうする!なにより視界が通る方向から攻めていた竜狩りの長が、いつの間にか死角方面にまわっていやがった!

 

 すぐに戻り、ランザに覆いかぶさる。それと同時に、背中に深々と槍が突き刺さった。

 

 視界に見える隊員達を脱兎のごとく退かせ、それに注意を向け死角にいた者がランザに襲い掛かりトドメを刺す。片方だけでも、確実に抹殺せんとする執念。それで、逃げ切れる可能性が皆無となったとしても帝国の災厄を仕留めようとする気概。

 

 『グハァ!』

 

 これ、やべぇ。

 

 口から大量の血が溢れだす。確実に、背中から内臓の傷をつけられたらいけないところまで突撃槍が深々と沈み込むのを感じた。

 

 「確実に討ち取れぇえええええええい!」「帝国臣民の、息子殿の仇をとるのだ!」

 

 反転してきた竜狩り隊の槍が、二本三本と背中や首筋に突き刺さるのを感じた。だがそれと同時に、大量の落ちる血に濡れるランザの視界に、色が戻る。

 

 『ようやく……起きたかよ。世話が焼ける、男だぜ』

 

 身体に力が入らず、崩れ落ちた。ランザの濁った目は、それをどこか不思議そうに見ていた。



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 凶暴で、厄介で、危険で、容赦がない。それが、悪竜ジークリンデだ。

 

 だが時にはその容赦ない苛烈な言動で、思考の矯正や精神が安定することがある。

 

 あれは、エレミヤの運営する娼館から出て、本格的にテンを追うようになり初めて彼女が介入した人妖の存在を知りえることになった事件だった。

 

 客観的に見てもテンの容姿は目立つ。元々異国風の顔立ちなうえに、艶やかな銀髪と、好んで着ている高級そうな貴族でさえも持ちえない蒼白柄の民族衣装は嫌でも目を引くものがある。テンの目撃情報を頼りに訪れたとある寒村、そこは既に地獄に変えられていた。

 

 が、今にして思えば容易にテンの足跡を追えたのはただの誘導だ。姿を暗ます時には、足跡を追えるどころか噂一つ聞けない程度に情報を自由に操ることなど朝飯前だったのであろう。専門の諜報機関ならともかく、一個人には限界があった。

 

 ともかく……だ。

 

 村落にいた人妖。どんな背景が、きっかけが、なにがあったか等後から来た俺には分からない。だが、蝶の人妖となった女児を殺害し、その影響下にある村民三百人近くを殺害せざるをえなかった。

 

 三百人のうちほとんどは、教会に集められまるで苗床のように寄生蟲の住処となる生体反応のある動かない肉塊となっており、数十人程の人間は狂気に汚染され攻撃を仕掛けて来る。

 

 人妖との戦いでは散弾銃で羽をボロボロにはしたが決定打が打てず、最終的には教会の十字の形をしたモニュメントを切断して、心臓を串刺しにした。あの時初めて悪竜の連結刃を使用した戦いだった。

 

 絶命して人に戻る人妖と、鱗粉による幻覚作用かなにかで正常な精神を蝕まれ暴走する村民達。人妖モドキとでも呼称すれば良いのか、背中から昆虫類の翼を生やそうと変異するものや、額に触角のようなものが浮き出るものもいた。

 

 幼虫のような存在が既に倒した死体から飛び出て、ドリルのような先端を回転させながら肉に飛びつき寄生をする様子まで見てしまう。そして、寄生された動物は既に死んでいたにも関わらず起き上がり攻撃をしかけてきた。

 

 あの時、最適解が他になにかあったならば、誰か教えてほしかった。結局俺は、暴走する村人達を感情が悲鳴をあげるなか殺害し続け、周囲に悪影響がでないように死体を一ヶ所に集めてありったけの火と燃料で荼毘にした。

 

 テンを追いかけ、彼女以外、最初の人妖との遭遇。凄惨な光景に心が折れそうになり、悪夢のような光景は長く夢にまで影響したのをよく覚えている。

 

 『じゃあ、放置しておけば良かったじゃねえか』

 

 記憶の中のジークリンデが、語る。当時はまだ、あの封印剣から出てはこず脳内だけのやり取りだった。

 

 『あの雌狐の後始末。なんの責任を感じているのかは知らねえが、なにもここまでする必要はねえ。この先何度もこんなことになるのは、目に見えていやがる。全部真摯に付き合ってりゃ、そのうち潰れるんじゃねえのか?止められなかった娘の凶行に対する、罪悪感でな』

 

 『あのまま放置すれば、この一帯がどうなっていたかなんて容易に想像がつくだろう。死体から湧き出た蛆が新たな死体に寄生してしまう。必要だと思うからこそやったんだ、この程度で潰れるくらいなら、最初から復讐の旅なんて出ていない』

 

 『ほう、ご立派ご立派。だがその台詞、声を震えながらじゃ台無しだろうよ』

 

 返す言葉に窮してしまう。これは、テンの仕業だということは戦闘が開始する前にほんの僅かな間邂逅した娘との会話で分かってはいた。この犠牲が、俺の糧になるとの戯言つきでだ。その為に村一つ、無残に潰させたというのか。

 

 内心、荒れていた。表面上はまだ取り繕っていたが、それは薄皮一枚で覆われた仮面にすぎない。ただ迅速に後処理をしてここからすぐに立ち去るべきだ。近くにテンがまだいるかもしれないが、完全に姿をくらませてしまっただろうと予想がつく。

 

 やるべきことがあるから、それに没頭することで感情を無理矢理殺しているだけだ。そうでなければ、今すぐ消えてしまいたいくらいの衝動だった。申し訳なさと、不甲斐なさで衝動的にでも死にたくなってくる。

 

 当時は、あの時子供なんて拾わなければ良かった、なんて考えていたか。もしくは、他の探検隊と共にあの場で死んでいたらとも。

 

 『馬鹿なこと考えているんじゃねーよ』

 

 『なに?』

 

 『いくら雌狐が規格外とはいえ、なんの下地もない状況で人妖が産み出されることはない。つまりこの村、あの餓鬼を取り巻く環境にはその下地となるなにかがあったって訳だ。雌狐はそこにつけこんで、誘惑し、そして堕とした……それだけだ。そもそもこんな悲劇、世界に目を向けりゃザラなんだよ』

 

 『お前になにがっ…!』

 

 『分かる訳ねーだろ、アホくさ』

 

 激昂するこちらの言葉を挫くように、気のない返事が返ってくる。葛藤も、後悔も、罪悪感も、絶望も、この竜にとってはどうでも良いことなのだろう。だからこその、興味もないといったふぜいの口調。だがそれに続いて放たれる言葉は、想像とは違うものだった。

 

 『こうしている間にも次の悲劇、そんでまた次の悲劇が繰り返されていくんだろう。イチイチテメェの感情と女々しい自己嫌悪の罵りあいをするくらいならさっさと歩みを進めやがれ。止めたいなら、時間をかけてイチイチ立ち止まっている場合かよ。くだらねえんだよ、後始末はともかく毎度毎度感情に足止めされるなんてな。そんな生半可な覚悟で、仇討ちなんて志したのか?どーせ、非生産的でロクなもんじゃねえのは理解しているんだろう?それとも、こんなことになるなんてと足を止めちまうか?くだらねえ、時間の無駄だったな』

 

 腹が立つが、その通りだ。認めたくはないが、悪竜の言葉は無視できるものではない。足を止める、暇なんてないんだ。第二、第三の犠牲がでないように。犠牲が出たとしても、早急に被害を抑える為に。

 

 この後も、心が折れそうになることが幾度あったか。その度に、悪竜による容赦のない苛烈な言葉は時に反発心を呼び起こし、時には乱れた精神の整理に役に立った。何度も何度も挫折しそうになりながら、それでも歩みを止めることがなかったのは彼女の存在が大きかった。

 

 悲観に陥ることなく歩み続けたお陰で、結果として助けられた命もあった。それで、家族の罪が消えることはないが最悪を避けることができたことも一度や二度くらいはある。

 

 乱暴で、物言いに容赦なく、慈悲というものがない。だがだからこそ、口には出さずとも心の支えとして悪竜ジークリンデの存在は戦力以上に大きかった。隙を見せれば、何時封印を解くように甘言し噛みついてくるかも分からないという不安から、あまり弱ったところを見せてはいけないという虚勢を張ることもできた。

 

 強力で、強大で、自尊心が強く、油断ならない旅の共。長く付き合っていたからこそ、こんな光景が目の前でおこるとは考えられなかった。

 

 口から大量に吐血し、竜狩り隊の突撃槍から俺を護るジークリンデ。だが凶悪な悪竜の瞳は、まるで穏やかなものであった。護れたことへの安心感?何故、そんな顔をしているんだ。

 

 いや、分かっている。この期に及んで、何故等言っている場合か。

 

 悪竜の巨体が、横倒しに倒れる。隙をさらす竜に、殺到する鉄馬の群れ。そいつに触るな、近づくな、そいつは俺の…。

 

 身体が動かない。動かそうとする度に、全身に激痛が走りそれどころじゃなくなる。だがしかし、立つんだ。

 

 アイツが、相棒と呼んでくれた俺が、何時までも無様を晒していいわけがないだろう。

 

 ここまでの旅路、人妖との戦いの中何度力を貸してくれたか分からない。そして、それを感謝させないように振る舞い、あくまでも気紛れや暇つぶし程度に思わせていた。結局なにが目的でここまで助けてくれたのか分からないし、或いは本当に長い竜の生における余暇であったのかもしれない。

 

 だがしかし、例え暇つぶしでも余暇でも、ここまで俺の旅路に付き合ってくれたのは確かなのだ。

 

 『そいつに……』

 

 今なら言える。サグレとの戦いで、偽りの気持ちで語る言葉ではなく本心から。

 

 『俺の相棒に、触るんじゃねえええええぇぇええええ!』

 

 叫んだ瞬間、気力が体力に置きかわる。身体がガタがきているようだが、精神力で痛みを誤魔化し無理矢理行動をおこした。長く動けることはできないかもしれないが、これ以上無様を晒すことなんてできない。

 

 こんなざまの俺を認めてくれるかは分からない、何時までも足を引いてばかりだった俺を今も相棒と呼ばせてくれるのかは分からない。だが、心の底から今は悪竜ジークリンデを死なせてはいけない、殺させてはいけないと強く思った。

 

 アリア達、生活、全てを無くし、或いは切り捨てて来た俺の唯一近くにいてくれた悪たる竜。その付き合いだけで言えば、誰よりも長いのだから。

 

 悪竜に迫る突撃槍を背中から伸ばした連結刃で軒並み弾く。離脱する竜狩り隊に追撃の斬撃を浴びせようとしたが、一際重武装の一騎が部下に迫る危機を迎撃し受け流した。

 

 『ガルシアァァア!』

 

 「堕ちたものだな!ランザ=ランテよ!その身体のみでなく、精神までも既に染められたか!」

 

 火蜥蜴の炎が飛ぶが、帝都でランウェイやその部下達が腕から精製していた赤いカイトシールドのような形状の盾で無効化される。盾の大きさが帝都で対峙した竜狩り隊連中よりも二回り程大きく、直撃した火蜥蜴は火花を散らして消滅した。

 

 魔法とは、相性が良い代物だね。それとも使い手の力量かな?

 

 頭の中で思考が紡がれる。脳内に、コーヒーの杯を片手に足を組み合わせて座るウェンディがイメージされたが、今はそんなものを気にしている余裕はない。

 

 「悪竜を相棒とは片腹痛い!その存在がただの娯楽や気紛れ以上の理由で貴様に力を貸す訳がないであろう!甘言を受け入れ力を行使した結果が今の貴様の姿で、凄まじい被害がでた帝都事変だ!貴様の暴走と悪竜の誘惑を拒めぬ精神性の脆さに、いったいどれだけの犠牲がでたと思っている!」

 

 帝都事変。暴走した俺を留める為にジークリンデが、元の姿に戻ってでも止める為に対峙したあの戦闘。戦っている間は気づかなかったが、あの戦場には避難しきれなかった市民が大量にいたであろう。元々、テンはあの場で俺と殺し合いをする為に全てを仕組んでいたが、住民の避難まで考えていたとは思えない。

 

 怒りはごもっとも。ランウェイの主張も我ながら分からないでもない。俺が帝都の住民だとしたら、怨みつらみも計り知れないだろう。かつての、エルフ達のように。

 

 『ああ、そりゃごもっともだ』

 

 喋るだけで、内臓が悲鳴をあげて口内から血が溢れだしてきた。全身を痛めつけられた身体が悲鳴をあげ続け、壊れた身体を癒す為に必要だと、底知れぬ食欲が身体の内側から溢れ出ている。激痛と飢餓感が、身体を支配していた。

 

 もしかしたら、ジークリンデはずっとこの飢餓感と戦っていたのかもしれない。それをおくびにも出さず、傍にいてくれたのだから凄まじい精神力だ。

 

 だが俺には、相棒ほどの自制心はない。

 

 『開き直るようで悪いがな、今の俺には犠牲になったものへの罪悪感なんてわかねえな。憎いなら殺しに来い!仇を討ちたいなら復讐しに来い!言い訳も、懺悔もしない!そんなもので消える怒りではないだろう!』

 

 気持ちは、よく分かる。俺にはきっかけがあったが、大抵志半ばに復讐心にピリオドが付くのは、それが果たせなかった無念の終わりくらいだろう。

 

 悪夢の中のジークリンデを思い出す。あの悪竜が、悪夢の中のテンと同じくオリジナルの思考を再現したものだとしたらどうだろう。

 

 悪夢にいた悪竜は、こう言った。

 

 『それがお前の道なら、オレは力添えてやるだけだ。達者でな、オレの英雄様よ』

 

 空耳だと思っていた。皮肉とも考えた。だがしかし、もしこの言葉に悪意や嫌みの類に準ずる感情がないとしたら、何故悪竜は俺なんかを英雄と呼んだのか。その話を、聞けてはいない。

 

 だが、悪たる竜の英雄ならばそれらしい振る舞いが必要だろう。よく見ておけ、竜狩り隊、見守ってくれ、ジークリンデ。俺は俺の意思をもって、この道を進むぞ。誰を犠牲にしても、もう二度と、近しい存在を、仲間を失わない為に。

 

 『俺は、ジークリンデの相棒。それが人々の災禍となるならば、俺はその災いでおおいにけっこうだ!災禍に立ち向かう竜狩り隊よ!俺に怨みのある全ての者達よ!気に食わねえなら、殺しに来い!我が名はランザ=ランテ!貴様等人類の敵対種、悪たる竜の同胞だ!これ以上、友に指一本触らせるものか!』

 

 半ば虚勢だ。大見得きってみせたものの、実態は竜狩り隊の罠にはまったただの間抜けな人妖にすぎない。だがしかし、宣言すると同時に精神性が肉体を越えていくのを感じた。口に出すだけで、ここまで気分や身体が軽くなるなんて思わなかった。

 

 「我が息子を殺め!帝都を蹂躙し!そのような厚顔無恥な振る舞いをなお行うか!ランザ=ランテ!貴様の過去は調べた!大事な者を奪われる苦しみを知りえてなお、そのような言動を行うとは恥を知るが良い!」

 

 ガルシアが合図をだした瞬間、竜狩り隊が鋒矢の陣をとる。完全な突撃形態、時間稼ぎはせずに、確実にこちらを仕留めに来る構え。

 

 「攻撃かいっ!」

 

 ガルシアが合図を出そうとした瞬間、側面から鋭い矢の雨が襲い来た。視界をそちらに向けると、ハボックの攻勢に参加をしていなかったであろうエルフ達が弓矢を竜狩り隊を向けている。

 

 「エルバンネ様!」

 

 何人かが、足元に転がるエルバンネに声をかけていた。護衛を連れていたが、暴走をしていなかったエルフ連中も想像よりはいたようである。エルバンネは気を失っているが、まだ生きている。無意識に庇ってしまっていたが、無駄ではなかった。その代償の支払いは高いものであったが。

 

 「旦那あああああああ!」

 

 ハボックの南側、砲兵隊がいる出口の方向から半獣の一団が駆けてくる。各々雑多な武装で固めていたが、砲兵陣地から奪ってきたであろうライフル銃を装備する者も何人かいた。先頭にいるガランが、ライフル銃を掲げて声を張り上げる。

 

 「後方の砲兵陣地、物資の集積所、全部おしゃかにしてやったぜ!捕虜も確保した!これ以上帝国軍の好き放題されてたまるかってんだ!半獣隊、助太刀するぜ旦那!」

 

 半獣の一団とエルフの射撃を受け、竜狩り隊に僅かな動揺がはしったように見えた。

 

 「ガルシア隊長、奴等がここにいるということはハボックの入口を固めていた者達は…」

 

 「僕が始末させてもらった。流石に無傷とはいかなかったけどね。ついでにエルフ達も呼ばせてもらった。空を飛ぶ鉄の馬、興味深く強力な機動力のようだが彼等ならば狙えないこともないしね」

 

 エルフの一団から抜けて来たのは、男だか女だか分からない容姿をした一人の人間。この特徴的な容姿、忘れることは難しい。

 

 ノックの山で、ミハエル討伐の最後に僅かな協力をしたエンパス教の手駒。それが何故、こんなところにいてこちらの協力をしているのか。

 

 肩や脇腹から出血をした痕があるが、奇妙な符を張り付け傷口を抑えていた。医療用の符というものがあることは、一度使った経験から分かるのだが奇妙な図柄と異国風の文字はそれとはまた違う、何故だがどこか不気味なものを感じさせるものであった。

 

 「形勢逆転だよ、竜狩り隊諸君。そして今この瞬間、連合王国は君達の輩となることを約束しよう。さて、これがどういう意味かは分からない訳ではないであろう?竜狩り隊隊長、ガルシア殿」

 

 「貴様、連合王国の間者ということか」

 

 「さあどうする?君達が今から死ぬまで暴れるならば、こちらは半壊するであろう。だが引くようならば邪魔はしないと約束しよう」

 

 エルフの中から、勝手なことをと抗議の声がでたが状況分析は正しい。少しの間、戦闘をしただけだがこいつらの練度は帝国にいた竜狩り隊とは格が違う。なにより、ハンデを背負っていたとはいえ悪竜ジークリンデをここまで追い詰めることができた連中だ。

 

 死兵となり、最後の一兵士まで暴れればここにいる半数以上は犠牲になるのは想像に難くない。なにより今は、早くジークリンデを治療してやりたかった。ここで引いてくれるなら、これ以上なにもしない。

 

 「撤退だ」

 

 「隊長!?何故!今ここで奴を殺せば連合王国に事態は伝わらず、死にかけのランザと悪竜にトドメを刺せるのですぞ!」

 

 「いいから撤退だ!奴が本当に連合王国の密偵だとしたら、ノコノコ顔を出す前に本国に何らかの方法で情報を伝えているとみて間違いないだろう!口惜しいが、今は戦力を温存し引くしかない…っ引くしか、ないのだ!」

 

 「そうそう、ガルシア殿。冷静な判断で助かるよ。もっとも内心、穏やかじゃあなさそうだけどね」

 

 竜狩り隊が反転し、南の空へと飛んで行く。ほんのかすかな、風に消えるような呟きごとを残して去っていった。次は殺す、必ず殺す。俺には、そう呟いているように聞こえた。

 

 それと同時に、身体に限界が訪れる。膝が崩れ落ちたと思ったら、人妖の形を維持できずどんどん視点が下がり気づいたら元の姿に戻っていた。横に倒れそうになったが、今は寝ている場合じゃない。

 

 「さあて、危機は去った。今僕がここにいる理由は何故か気になるだろうけど」

 

 「後にしてくれ!……しっかりしろ、おい!ジークリンデ!」

 

 ジークリンデの近くまでいき、声をかける。薄目を開けた悪竜は、口を微笑みの形に歪めた後、その身体が発光し人の姿になった。

 

 改めて傷跡を見ると、酷い。背後から急所を三か所貫かれているし、出血も多かったのか肌が土気色をしていた。

 

 「よう……元気そうでなによりだ、オレと違ってな」

 

 「喋るな!今すぐ止血をして治療をする!」

 

 「いいって、元からガタがきていた身体だ。贄を喰らおうにも、ここにいる連中全員でも足りやしねっ!」

 

 声にならない苦痛の叫びと共に、ジークリンデが血を吐き出す。噴き出た血は顔にべっとりとかかるが、それに嫌悪は抱かない。ただ、恐怖だけが内心を支配した。俺の中のどこか冷静な部分が、もう助からないかもしれないと告げていた。この死にかけた顔は、今まで何度となく見てきたものだからだ。

 

 「じゃあなになら足りる!どうすれば、お前を助けられるんだ!」

 

 「ああー……今から助かるとなれば、贄としちゃランドルフくらいか」

 

 「火竜か!?しっかりしろ、火竜の首の一つや二つくらい、今すぐ俺が獲ってやる!立てるか!?いくぞジークリンデ!辛かったら、剣にでも戻れ!俺が今すぐ、お前を助けてやる!」

 

 ジークリンデの肩に手をかけ、立ち上がる。人妖になろうとしても、身体が言うことを聞かない。だが這ってでもたどり着かなければならない。今まで幾度も助けてくれたというのに、一度も俺は悪竜を助けてやれないなんてことがあってはならない。

 

 「旦那、それは……ランドルフ、火竜を今からやるなんて無茶だ、コボルトも黙って通す訳」

 

 「退け!手伝う気が無いなら、お前から殺すぞ!」

 

 ガロンを退けて、歩きだす。奴の言うことは正論かもしれないが、どんな無茶でもやり遂げるしかない。

 

 半獣とエルフに見られたまま、歩く。火竜を殺すとなれば、コボルトとの敵対は避けられない。だからこそ、誰も手を貸すことができないでいた。かといって、手を出せば本当に殺されかねない。そんな雰囲気が、ハボックの生き残り達を支配していた。

 

 「なるかよ、剣なんてな。オレ様が背負われているんだぜ、世紀の……世紀の瞬間じゃねえか、おがまませておけよ」

 

 「頼むから喋るな。少しでも、体力を温存させてくれ」

 

 「バーカ、命令すんなクソガキが。何時まで経っても、しょぼくれた面しやがって」

 

 ハボックの外門を出ると、破損した鉄馬と幾人もの騎士が雪原の上に落ちていた。動く者がいない死の光景、その先から歩み寄るものが一人。

 

 灰色の髪の毛をしたクーラは、雪原の中でよく目だっていた。半獣二人を護衛に頼んでいたが、振り切ったのか一人だった。

 

 「クーラか」

 

 無言でクーラは、歩み寄る。どこか達観した顔のジークリンデが、驚愕の表情を浮かべた。近くまで来たクーラが、反対側からジークリンデの肩を持つ。

 

 「死にかけているの?どこまで、運ぶの?」

 

 「火山、オルランドのところまでだ。奴を殺し、贄として捧げる」

 

 「分かった」

 

 「いや分かったじゃねえよ、なんでお前まで」

 

 クーラは質問を無視して、歩きだす。ただ一人ジークリンデのみが、困惑の表情を浮かべていた。



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 火竜を狩る。それがどれだけ困難な話か分からない訳ではないだろう。

 

 コボルト共を退け、神殿まで向かい、その上で天使や悪魔共が現役で活躍している修羅場みたいな世界で君臨し続けてきている本物の化物だ。混ざりものの化物であるランザと、火を司る竜ならばまず確実に生物としての格が違う。

 

 そのうえ爆発の影響で全身傷だらけで火傷まみれ、ついでに言えば耳孔からは今も血が垂れ流れているし、歩く度にボタボタと少なくない血を垂れ流している。今すぐ、適切な治療を施さなければならないっていうのにこいつは目の前しか見ていない。

 

 必死で、歯を食いしばって、諦めない。今まで何度も見て来た横顔だ。

 

 「なあ」

 

 しかしまあ、一つ変わったことがある。いや、元に戻ったことがあるか。

 

 相も変わらねえ濁った眼をしているが、その目元はいつの間にやら昔に戻っていた。番を見つけてガキを作って、短いながら雌狐と共に生活していた頃のものだ。まあ、その時は狐じゃなかったか。ガキのクセに年の割には重いもん背負っているようだったが。

 

 ともかく目が血走っていたり、眉間に皺をよせまくったり、目の下にクマを作っていたり。なによりも憎い相手を常に殺意を込めて考えていた。まあ動機はなんにせよ、生きていく目的があるなら行動力や活力にはなる。良かれ悪かれ、人でも竜でも神でも、それは必要だ。

 

 それがいつの間にか、真っ直ぐ前向くようになりやがって。まるで、テンを初めて受け入れ生きる目的が改めて生まれた時みたいだ。

 

 「喋るな」

 

 「うるせー喋るぞ。てか……オレだって、仇じゃねえか。必死になるなよ、お前も死ぬぞ」

 

 こいつの仲間であった冒険者達を殺したのはオレだ。こいつがオレをずっと信用していなかったのは、悪竜に対する嫌悪と同時にその憎悪も根底にあったからだろう。ここでオレが死んだら、ランザは戦力という意味では困るだろうがそれ以上のことはない。

 

 以前のこいつなら、むしろ喜んでいたのかもしれない。あの憎悪は、もういいのだろうか。オレを助けるのに、打算抜きでこんなにまっすぐな目をしていて良いのだろうか。

 

 「そうだな。お前は俺の恩人を殺した仇だよ。でも、あの人達も俺も、仕掛けたのはこちらだしそもそも何時死んでもおかしくない、割の合わない博打に身を投じていたんだ。それに……俺はもうテンを怨むことはできない。お前ともずっといた。そのうえで、お前に対する怨みや警戒に身を投じ続ける程俺は強くはないみたいだ」

 

 「クーラから、ちょいとばかし聞いたぜ。悪夢とやら…だったか。なあ、夢の中でオレはどうしていたんだ?」

 

 「ずっと、見守っていてくれた。そして最後は、助けてくれた」

 

 「詰まんねえ奴だな、オレも」

 

 詰まらないやつか。

 

 ただ退屈を潰すだけであちこちちょっかいだし、生きる目的もなかったから年代記作家と対話をしやるべきことを定め、それが叶わずに心が折れてからはなにもやる気がおこらず怠惰に生きて来た。長い間、詰まらない退屈な生を謳歌していた。無駄に長生きしていても、長く生きすぎれば惰性で時間を浪費するばかりだ。

 

 だがしかし、こいつと会ってからは違う。なあ、悪夢のオレよ。番を見つけ、ガキを作り、人並みの人生を過ごすランザはどうだったよ。きっと、見ているだけで楽しかったんだろうよ。オレにはない、しっかりした生き様と信念を持っていたんだろうからな。

 

 だからこそ、こいつと相棒になって世界を回ったらどれだけ楽しかったか。いや、今はもうあの言葉だけで充分か。

 

 しかし、クーラもずっとそれを見続けていたということか。オレはともかく、ガチで番を狙っているこいつにはただその光景だけで拷問にも等しかったんだろうな。まったく、大した奴だよほんと。

 

 あーあ、やっぱオレは、こいつらが好きなんだなぁ。よう、年代記作家のおっさん。あの時考えていたよりも、もっとマシな死に場所見つけたぜ。

 

 力を振り絞り、ランザとクーラを目の前に放るように突き飛ばす。半死半生で、こんな力が残っているなんて思っていないだろう、軽いクーラと突然の行動に虚をつかれたランザは目の前に転がった。

 

 パシュシュ、と銃声とは違う軽い射撃音が響く。何度か聞いたそれは、帝都にて竜狩り隊が使っていた対竜用の射撃針。リヴァイアサンの血が先端に塗り込まれた、あの針が背中と首に複数突き刺さる。

 

 ランザの顔が驚愕に歪む。なにがおきたのか、分からないクーラは困惑しながらもまるで信じられないような表情でこちらを見ていた。

 

 「逃がす訳がなかろう、最悪の竜と人妖があああ!」

 

 上空、気配をギリギリまで消す為にあえて単騎にて出現したガルシアがニードルガンを構えていた。

 

 こいつは、戦士であると同時に策士だ。撤退だと口に出して敵を含めた周囲に情報共有をした時点で、この可能性は考えていた。人目につかないところまで兵と共に退き、大きく迂回をして確実に弱り、戦いが終わったと油断した標的を消す為にだ。

 

 可能性としては五分五分、だが本当に来るとは悪い意味で期待を裏切らない野郎だぜ。

 

 「帝国の、人類の為にここで死ねぇええええええええ!」

 

 「させると思うか!?このオレがよおおおおおおおお!」

 

 ニードルガンの射撃と連結刃が交差する。弾ききれない巨大な針が心臓に直撃、こちらが放った反撃の連結刃は奴の左腕を斬り落とした。着弾の衝撃で、狙いがそれたか…畜生が。

 

 「グッ…流石にもう無理か。貴様等全員必ず殺す!必ずだ!」

 

 自身の魔力を恒常的に消費する鉄馬。常時展開しているだけで消耗するうえ、先程までハボックで消耗戦を仕掛けてきたのだ。流石に疲労してきたのか、引き際を弁え、それ以上の攻撃は行わず退避をしていく。

 

 「「ジークリンデ!」」

 

 二人の声が、重なる。視界がゆっくりと動き、身体が地面に倒れ込む。ランザが受け止めたからか、衝撃はないが、どのみちもう痛みもほとんど感じなくなってきていた。

 

 「馬鹿野郎!なんで俺達を庇った、なんで…すぐに針を引き抜く!クーラ、応急処置の用意を!」

 

 「ランザ、でもこれ以上」

 

 「喧しい!早く準備を!」

 

 クーラの言うことは正しいぜ、ランザ。情けねえ顔で喚くんじゃねえ。話をする時間すらロクに残っていないのに、仲裁させるつもりかよ。

 

 「あー……うるせぇ。……もう…手遅れだ。どのみち……助かりゃしねえんだから」

 

 長年のツケでガタがきていた身体で、傷をもらい血を流し過ぎたし、急所射ちの針もある。小賢しいうえに大した度胸と技量だ、ガルシアは間違いなく今の時代における英雄だろう。

 

 あー…華々しく英雄に討たれ、物語を飾る。昔の目標はこれで果たせたが、なんだか達成感がないもんだな。華々しさが足りないのが、原因かねぇ。

 

 「お前がそんなこと言うな!何時も何時も、腹が立つほど大胆不敵なお前はどうしたジークリンデ!諦めないでくれ、俺はまだお前になんの恩返しもできちゃいないんだ!」

 

 「恩返し…か」

 

 殊勝なことを考えていやがったもんだ。良いんだよ、オレはあの日からずっと、お前に助けられてきたからな。楽しかったから、問題ない。それだけで、半分死んでいたオレには充分だったんだよ。

 

 ああ、でもな。今から返してくれるんだったら、あれが良いかな。

 

 「じゃあ…もう一度言ってくれ。お前は、なんだ?……ランザ……ランテ」

 

 鬼気迫る顔が、悲し気に歪む。頭の中ではもう分かっているのだろう、手遅れであると。ランザは顔を反らし、歯ぎしりをしながらうつむく。だがしかし、すぐにこちらを見て、不敵に笑いながら口を開いた。

 

 「俺は、悪竜の同胞、お前の相棒だ。これから先も、ずっと…ずっとな」

 

 「ああ、相棒……ありがとうよ」

 

 敵意をもたれ続けてきた。それで良いと考えていたし、それくらいの関係の方が復讐という旅の目的でオレという存在がノイズにならなくて良いであろうと思っていた。

 

 だがしかし、復讐が終わった後はこいつと相棒としてずっと共に過ごしていく。そんな新しい夢を、何度考えていたか分からない。最近では、番という言葉にも引かれたがやはり大原則はそっちだ。その夢は、今叶った。

 

 オレも、仲間が欲しかったんだな。そんな単純なことに、今までずっと気づかなかった。ランザと旅をするまでは、クーラが全てをさらけ出すまでは。

 

 「クーラ」

 

 「なに?」

 

 「ツラ……悪かったな」

 

 冷静さを保とうとしていた、クーラが表情を隠すようにそっぽを向く。肩が、わなわなと震えていた。

 

 「なんで謝るの。殺しに来たのは自分だよ、なんで」

 

 「クソ猫のじゃれつき……なんざ…屁でもねえ。ただ……躾は匙加減が…大事だからな。ツラ潰すのは…まあやりすぎたか」

 

 「なに…それ。らしくないじゃん、顧みるなんてさ」

 

 「……ちょい…頭貸せや」

 

 クーラが、言われた通り頭部を近づけてきた。震える手でその後頭部を掴み、胸元にうずめてやる。ランザに今まで使っていたこの技術、残った生命力で最後の最後に施してやるのがこの猫になるとはな。

 

 なんだかんだ言って、前からクーラのことも嫌いではなかった。ランザのこととなれば、悪竜に対しても物言いをするし対等であろうと背伸びをしていた。そしてお気に入りになったのは、やはりあの時だ。

 

 こんな小さな身体で、全身全霊でランザに尽くしている。その根底が腐りきったものであるとはいえ、それだけに汚泥にまみれても意にもしない。そして、なによりも歪みきった自分に肯定と共に罪悪感を持っていた。

 

 正直、クーラの将来には破滅する未来しかみえない。だけど、あの神殿前でこいつが放った言葉はオレ好みの悪だった。だから、最初で最後のオレからお前に送る、悪竜としてプレゼントだ。

 

 「これって!」

 

 処置が終わり、手が後頭部から滑り落ちる。クーラは驚いたように顔を触り、すぐに顔の包帯をまさぐりほどき始めた。皮膚が完全に剥がれ落ち、脂肪と表情筋がグズグズになっていた顔の半分が完全に元の綺麗なものに戻っている。

 

 身体中の骨にはいっていたヒビも痛みはもうないだろう。最後に残された力で、完治させてやった。

 

 「瞼…開けてみろ」

 

 「え?でもこの瞳は」

 

 「良いから…さっさとしろボケ」

 

 潰された瞳が入った瞼。瞼の上から斬り傷が深く刻み込まれており、完全に癒着していたがその痕も無くなり、開くようになっていたことを確認し驚いた顔をしていた。そして、恐る恐る目を開く。

 

 「え?」

 

 「クーラ、お前その目」

 

 クーラの瞳は、自信のものとは違う金色の細長い瞳となっていた。まだ見える感覚になれないのか、何度も瞬きをして自分の変化を信じられないような反応をしている。

 

 「竜の…瞳?」

 

 「そんな…嘘?なんで?」

 

 「タダじゃねえぞ…クーラ」

 

 代償としての贄は、オレ自身の瞳だ。自分自身を贄として治療してやったせいで、身体全身の骨が軋み顔半分がズタズタになっていく。まあ、もう使い物にならない身体と、無用の長物となる瞳だ。条件付きだが、くれてやる。

 

 「オレに…変わって……こいつを見ていてくれ。ずっと…ずっとな……もう頼めるのは…お前しかいないからな…悪い猫なんだろ。……頼まれてくれや」

 

 「性悪竜に…頼まれなくてもそうするよ。お礼は…言わないからね。ジーク…リンデ」

 

 「いらねえよ…ド阿呆が」

 

 そう、いらねえ。悪夢の世界とやらからこいつを引っぱりだしてきた。それは、オレにはできなかったことだ。こいつの代わりにオレがその世界とやらに入り込んだとしても、出来るかどうと言われたら可能性は低いだろう。

 

 「それより……テメェは…テメェを貫け。気持ち悪くて、罪悪感まみれで…色ボケで……腐ってて……その生き方…背負いながら進んでみせろや……遠慮をするな……気持ちには…嘘をつくな。そんで、絶対誤魔化すな………今まで以上にマジに…なって、狂ってみろや。どんな手も使え、どんな障害も……蹴散らせ。理性、常識、くだらねえもんに縛られるな……その資格が…あるんだからよ」

 

 「言われるまでもないよ、悪竜。ライバルが減って………せいせいするよ」

 

 クーラは、瞳から涙を流していた。だがその顔は、悪い笑みを浮かべていた。それでいい、その顔が良い。オレにとって、こいつも大事な玩具で…恩人なのだから。そういうツラ浮かべている間は、安心して後を任せることができるってもんだ。

 

 さて、やるべきことはあと一つか。

 

 「ランザ……お前にも…頼みがある」

 

 「……なんだ?」

 

 「オレが…くたばったら……喰ってくれ。埋葬なんか…されたくねえ……火山にも…放り込んでくれるなよ……お前が…次代の悪竜だ。頼む……オレの全てを……継いでくれ。思い出なんかに…なってたまるかよ。オレは…お前と……ずっと一緒だ。それだけが…最後の希望で…オレからの……願いだ」

 

 地中で蟲についばまれるくらいなら、焼かれてただの滓になるくらいなら、オレはそうしたい。オレの中にある悪竜としての全てを、こいつに託す。

 

 だがその選択は、もう二度とこいつを人の元に戻さない道だ。人妖、それだけでも大きく人間としては踏み外しちゃいるがそれでもまだ人の派生形。進化か、それとも変化か。人間をベースにしたなにかと言えた。

 

 だが竜を継ぐというのであれば、それはもう人とはかけ離れた別のなにかになるということだ。変化は、人妖の時とは比べ物にならない。生まれ変わることと同義だ。肉体を含むこれまでの全てが、今までと同じとは言えないだろう。

 

 食事も、生態も、寿命も、生き方さえも。人間としてのランザ=ランテは大きな変貌をとげる。今度はテンによる強制ではなく、自分の意志でだ。

 

 「お前も、オレの中に宿ってくれるのか?」

 

 「ああ…まあ、アドバイスは…期待するんじゃねえぞ。もう、くたばるからな」

 

 肩に手をそえられ、上半身をおこされる。強く抱きしめられる。最初で最後の、こいつからの抱擁。

 

 ここはキスの一つでもかわすべきか、なんて思ったがそいつはオレの柄じゃあねえ。オレは、悪竜ジークリンデ。この場にて、更なる悪になる人間に全てを継がせてやるだけだ。これで、後悔も悔いもなに一つない。

 

 「なあ…楽しかったか?」

 

 無言でランザは、強く抱きしめる。その両目からは、涙が頬をつたっていた。こんな竜の為に、泣くんじゃねえよ。無駄な涙、流しやがって。

 

 だがまあ、悪い気分じゃない。オレの、長い竜としての生命は、無駄ではなかった。なにより…

 

 「オレは……楽しかったぜ。ありがとうよ…ランザ」

 

 こいつの腕で、死ねるなら。どんな物語に名を残すよりも、それで……良い………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ランザの身体が、大きく変異する。

 

 人妖、狼をベースとした混血獣。最後の力で人並外れた巨体となったランザは、ジークリンデの頬に鼻を寄せその死を悼んでいた。

 

 胸元が大きく開き、触手が這い出る。夢魔のものであったそれは、肉体の持ち主に忠実に従い優しく悪竜を巻き取り、身体の内側に運んでいった。

 

 自分には、ジークリンデの存在が邪魔だった。ランザの手に握られる連結した刃として、長い間彼に寄り添い力を重ねてきた存在が眩しかった。

 

 それでも同時に、羨ましくて、妬ましくて、力強さに憧れていた。そして、自分の中に矜持というものをもっていることに羨望した。

 

 「分かったよ」

 

 貴女からもらった、この瞳と、受け継いだ生き様。そしてなによりも、背を押してくれたこの自分自身に根付く浅ましい感情。全身全霊で受け止め、遂行させてもらう。

 

 仲間とも、親とも、兄弟とも、友とも、恋敵とも違うような微妙な関係。それでも、なお貴女から受け取ったものは多いのだから。

 

 「だから…任せて。おやすみなさい、誇り高き悪竜よ」

 

 無駄には、しない。ランザが貴女の能力と竜としての力を受け継ぐなら、自分は貴女の瞳と生きざまを受け継いだ。もう何物も、レントさえも怖くはない。

 

 自分はクーラ=ネレイス。あの悪竜が認めてくれた、悪い猫なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハボックに、コボルトの巣穴に残っていたエルフや半獣達が集まってきた。瓦礫を片付け即席の防壁として並べなおし、原型を残していた家屋を占拠したり、まだ使えそうな装備や食料を掘り起こしている。

 

 ハボックよりもさらに南側、砲兵陣地の近くにあった物資集積所から得た食料が炊き出しのように配られ、空いた土地には天幕が張られていた。

 

 ここに来て初めて得られた勝利に半獣達は湧き、半数以上が散ったエルフ達もエルバンネという指導者が目を覚ましたことに僅かな安堵を得ていた。

 

 寒さはあるが、久しぶりに空が見える環境で眠れることを喜んでいる者達もいる。洞窟内での生活は、想像以上に辛いものがあるのだろう。

 

 だが、その代償は大きなものだった。

 

 爆発の中心部から外れ、原型を残していた家屋で休息をとる。疲労していた筈だが、眠くはない。身体中の痛みも気にならず、むしろ体内から力が漲っているようだった。皮膚の内側が変異を続けている感覚、鱗でも精製しているのか黒ずんで堅い肌触りになっている。

 

 身体が、内側からも外側からも変異していく感覚。悪竜という存在を身の内に取り込んだのだ、人として、人妖としての器では溢れてしまうからこその変貌なのかもしれない。

 

 「ランザ」

 

 扉が開き、パンをもったクーラが入ってきた。金色の竜眼は、今は眼帯で隠している。クーラ曰くだが、ジークリンデの瞳は見えすぎているらしい。ともすれば、脳の負担となる程に。慣れるまで辛く、これから少しづつ様子見しながら慣らしていくようだ。

 

 「夕ご飯だけど、食べれる?」

 

 「いや…今はいい…と言いたいが、食べておかなければならないだろうな」

 

 食欲は沸かないが、血を流し過ぎたし現在進行形でおこっている変貌に身体は体力を使っているだろう。無理にでも詰め込んで、少しでも負担を軽くしておかなければならない。

 

 クーラからパンを受け取り、彼女は寝台に腰を降ろした。小さな口でパンを食べながら、それでも食べにくそうにゆっくりと咀嚼していく。

 

 会話はない。あの、傲岸不遜ですぐに暴言混じりで口を挟む悪竜の声ももう聞こえない。ウェンディ=アルザスのような存在になってくれることを少しは期待したが、アドバイスはできないという本人の言葉と違わず悪竜としての人格が宿ってくれるようなことはなかった。

 

 魔女曰く、ウェンディは自らの意思でこちらにとりこまれた。散々脳内弄って薬漬けにしてからの意思ではあるが、まだ生きているうちに取り込んだからというのが大きいらしい。そして、なによりも悪竜としての格の大きさは本来ならば取り込めるものではない。

 

 力を受け継いでいくだけでも奇跡のようなものだというのに、人格まではどうあっても宿らないのではないかと推測をしていた。

 

 「自分はさ」

 

 パンを食べてからも、しばらく沈黙が続いていた。だが、クーラがおもむろに口を開く。

 

 「ジークリンデを、殺そうとした」

 

 「そうみたいだな…だが、どうしてだ?」

 

 「温泉でさ、ランザとジークリンデが裸で抱き合うのを見たんだよ。まあ、悪竜からの一方的な抱擁だったみたいだけど…自分にはそれが耐えられなかった。実力差を顧みずに、殺してやりたいと思った。でも、そんなジークリンデから言われたんだ」

 

 クーラが、正面に回り込む。眼帯をとって竜眼を晒し、二つの瞳でこちらを見ていた。

 

 「泣くな…てね。ジークリンデは、殺しにきた自分の言葉を全て肯定してくれた。そのうえでさ、死ぬ間際に背中を押してくれた。ランザ、もう自分は我慢できない。どう思われても、言うしかない」

 

 身体を寄せ、胸元に抱き着く。小さな鼓動を感じながら、熱い吐息が衣服越しでも分かる程だった。身体を臭いをつけるように、こすりつけ。甘い鳴き声をあげる。こんな言い方は下品ではあるし失礼すぎるが、その姿はまるで発情した猫のようであった。

 

 そして、その口から印象に違わぬ言葉が紡がれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「自分は、ランザの愛がほしい、ランザの憎もほしい。身体がほしい、精がほしい、血がほしい、愛情がほしい、家族愛がほしい、殺意がほしい、加害がほしい、貴方のなにもかもがほしい。ねえ、首筋に手を添えて見てよ、だらしなく蕩ける顔が見れると思うよ?押し倒してみてよ、ジークリンデを亡くしたばかりのこんな夜なのに、ただの雌に堕ちる様がみられるよ。あの日、首を絞めてもらった時からもうどうしようもないくらい自分には貴方が刻まれた。もう隠せないよ、ランザ。彼女は、ジークリンデは自分にとってもそれだけ大きい存在だったんだ。もう止められない、お願いします。こんな、浅ましい猫を受け入れてください」

 

 長い、沈黙。ランザは、両肩に手を添えて優しく引き離す。それに、抵抗はしなかった。そして、決意をもって言葉を紡ぐ。

 

 「すまない。俺の妻は、アリアなんだ。もう亡くなっているが、それだけは曲げられない。お前の気持ちは嬉しいが、アリアを裏切ることはできない。お前はもっと別の…」

 

 「知ってた」

 

 あっけらかんとした返事に、ランザは間が抜けた表情を浮かべた。そう言うことは、予想はついていたからだ。

 

 僅かにあいた隙を奪い、唇を奪う。犬歯で唇に穴を開け、流れた血をすすり、舐めとった。もう、自分を隠さない、誤魔化さない。それがジークリンデとの約束で、自分がしたいことなのだから。

 

 再度離され、血が唇をつたった。それをチロリと舐めとり、熱に浮かぶ表情を浮かべてみせる。

 

 「なにを…」

 

 「フフ…ラァンザ。自分はさ、諦めないよ。明日も告白する、明後日も、三日後も五日後も、半年後も一年後も五年後も十年後も二十年後も五十年後も。何時までも何時までも愛を囁き続ける、ランザの中にあるアリアさんという最愛の人を越えるまで。性欲でも、庇護欲でも、愛情でも、なにもかもね。一生離れない、一生尽くす。逃げられると、思わないでね。悪夢の世界で自分を選んだランザには、その資格はないのだから。受け入れて選んでくれたのは、簡単な気持ちで判断した訳じゃないんでしょう?あの生活を見るのがどんなに辛かったか、でもそれを捨てて選んでくれたことがどんなに嬉しく、同時にどんなに苦しかったか想像できる?一人だけ幸せなランザを見るのも、それを捨てさせるのも、身が引き裂かれるくらい辛かったんだよ」

 

 座るランザの膝的に、跪いて頬をのせる。ゴロゴロと喉を鳴らしながらすり寄り、気づいたら指筋が自身の下腹部に向かっていた。はしたないと分かっていても、この熱は今発散しなければ収まらない。

 

 「自分はクーラ=ネレイス。貴方と同じ、悪竜ジークリンデに影響を受けたはしたない雌猫だ。貴方に全てを捧げつつ、貴方の拒絶は全てを無視する身勝手な悪い猫。さあ、何時までアリアさんへの気持ちよりも自分の存在が小さいままでいられるかな?楽しみだね、ランザ」

 

 困惑した顔。その瞳には、反射して自分の姿が映っていた。蠱惑的な笑みを浮かべる、発情した、雌猫。ただその瞳は、目の前の人物と同じく酷く暗く、濁りきっていた。嬉しいよ、ランザ。自分も、貴方と同じ瞳になれた。

 

 ジークリンデの為、そしてなによりも自分自身の為、この人の隣は誰にも渡さない。テンにも、誰にもだ。

 

 本当に、これから楽しみだね。ランザ。




 この作品が始まってから一年近く。ジークリンデ、お疲れさまでした。


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戦争前夜


 遥か東方から来た騎馬民族の襲来。後に帝国の国父と呼ばれるギルバードが、群雄を纏め遠征軍を退けた後、民族の指導者が急死したことにより跡目争いがおき東方の脅威は自然消滅していった。

 

 混沌ととした大陸において、騎馬民族に臣従を強いられた五つの小国が独立宣言をし、外敵に対して団結して戦えるよう互助的な同盟を結ぶ。時代が進むにつれ、帝国にとっての国父ギルバードが現在の帝国領をほとんど制圧し、帝王を名乗り始めたことに危機感を覚えた連盟の盟主、剣王ドルエルは同盟関係を越えた一蓮托生の国家体制が必要と判断した。

 

 幾度かの内戦を経て、剣王ドルエルは反対派を駆逐し、弱小国家の同盟からより強力な一枚岩の体制となる連合王国を樹立。以来周辺諸国を併合し、大陸において二番目に巨大な勢力として帝国を相手に張り合っていた。

 

 連合王国の元首は伝統から代々盟主を名乗っており、初代盟主となったドルエルの主義は多民族の受け入れと技術、文化交流。これについては後世の歴史家から功罪両方の評価を下されるがやらざるをえない方針であった。

 

 強力な騎馬民族による蹂躙、巨大に成長する帝国。大きな力に抗うには、小さな力でも可能な限り集めて団結をするしかない。民族間にある差別廃止や、貧富の差に縛られず才能を試すことができるチャンスの平等を謡う。問題や衝突も多々あり血生臭い事件が起きつつも、そうでもしなければとても帝国に抗う力を養うことはできなかったと言われている。

 

 連合王国首都ガルウィナス。その中央には白亜の優美な城塞がたたずんでおり、様々な民族の文化が取り入れられた王国の象徴とも言えた。

 

 「以上が、帝国に送り込んだ草の者からの報告になります」

 

 東方系に多い黒髪黒眼の男が報告を終える。連合王国における最高指導者会議【円卓】において、普段はそれぞれの都市に赴任している指導者達が集まっていた。

 

 「竜狩り隊相手を退け、未だ独立を保つ反抗勢力。物資の援助もないなかで予想以上の活躍であるな」

 

 大柄で禿頭の男が蓄えた顎髭を撫でながら報告をまとめられた資料を読み終え机に戻す。連合王国軍事局代表であるエクスラム=マーゼは興味深そうに眉をよせた。

 

 竜狩り隊は他国にも名が知られた存在。連合王国にも表向きには第二十六山岳兵団や第七陸兵師団。裏側にも特殊戦術暗殺隊を始めとした秘匿された部隊が存在するがいずれもかの部隊と交戦しても苦戦を強いられるという分析が情報局と軍事局の共通認識であった。

 

 「それほどまでに、報告にあるこの人妖という存在は強力なのか。コントロール可能な代物であるならば、是非とも軍に組み込みたいところであるが」

 

 「エクスラム殿。残念ながら人妖という存在は、軍事的観点から見ればそこまでの脅威ではありません。それぞれが特異な性質をもち、画一化が尊ばれる軍隊では扱い辛く、実用化に向けた費用対効果を考えればあまり推奨できるものではありません」

 

 「ライエル殿はそう考えられるか。では、このランザ=ランテなる人物が特異だと?」

 

 黒髪の、ライエルと呼ばれた男はその言葉に頷く。諜報局局長兼円卓議会のメンバーとして参加をするこの痩せた男は、直属の部下より送られてきた情報を元にランザという人妖に関して独自に分析を進めていた。

 

 「ランザ=ランテ。元は我が連合王国の人間であるが両親が早くに他界した後はストリートチルドレンとして生活していたようです。後に新天地を求めて帝国に密入国、冒険者組合に参加をすることになり帝国の領土を広げる開拓調査に参加をしたという記録が残っております。冒険者組合を辞めた後の公的な記録には、後の行動は残ってはおりません。ですが、調べたところによるとある時期組合に再度参加をしずっと人妖と呼ばれる異形を狩る為に動いていたらしいです」

 

 「人妖なぁ」

 

 円卓の上に無遠慮に足をのせて、椅子の足を半分浮かせながらおおよそこの場には相応しくない態度をみせる男が一人。紙巻の紫煙を吹かせ、横暴な態度をとった無礼な若者といった様子であるがこの円卓で彼に注意をするものや苦言を呈すものはいない。

 

 その理由は、男の年は百を超えておりこの円卓において最年長であるという信じられないような理由があった。そしてその功績の大きさから、帝国に対抗するための力を求める連合王国において誰よりも重宝をされていた。

 

 「興味深いが不愉快なことに、人妖事件は帝国に集中しているようだからな。サンプルはともかく、生きた検体を捕獲したいところではあるのだがね。このランザという男、捕獲することは?」

 

 「クラルス殿。現地勢力にそこまで期待をしないでいただきたい。それに、今やランザは反抗勢力の目玉といえる戦力となっています。下手に刺激しない方が賢明かと」

 

 「悪竜が絡む人妖。興味深いは興味深いんだがねぇ。まあいいや、エンパス教とレント=キリュウインの調査はどうだ?久々の新たな外来人、是非とも動向が気になるところだが」

 

 「今回の円卓会議の議題から外れる為、詳細は後に」

 

 モノクルをの向こうに見える目から、興味が消えて行くのが分かった。研究対象の情報がほしいだけの人物だ。円卓の一員ではあるが、細々とした政治や情勢には興味が湧かないのだろう。

 

 クラルスの興味は、エンパス教とレント=キリュウイン。リスムにおける巨人事件の詳細において、奇跡と呼べるような現象も確認されており新たな研究対象を見つけそれ以外はどうでもよいといった雰囲気だ。

 

 人妖については多少の興味はあるのだろうが、彼にとっては二の次なのだろう。諜報部としては、彼の要望は可能な限り応じなければならない。草の者達の一部は、クラルスの研究成果であり安定して情報を送ってくれる優れた駒であるのだから。

 

 「メーテル殿。財界からだいぶ支援を回しましたが、そちらから見て、リスムの様子はどうですか?」

 

 王国の経済省から来たのは、この中では最年少の女性。本来の代表が病により行動が困難になっており、代理として訪れていた人物であった。

 

 メーテルと呼ばれる女性はおっとりとした笑顔を浮かべているが、油断できる類の人物ではない。帝国侵攻の為、必要な大義名分の確保においてその一翼を担っている存在だ。

 

 「リスムには、たっぷりと餌付けをさせていただきましたので。ええ、あくまでも人道的措置ということで。エルフ等という蛮族の暴挙で、苦しめられる人々のことを思うと今なお胸が辛く締め付けられますわ。少しでも速く人々の心に安寧と豊かさが戻ればよいのですが」

 

 心にも無いことを、と内心では思うが口には出さない。連合王国の意思決定会議円卓、その先代達の幾人かはこの女が裏から回した手により破滅をしている。連合王国の財政を支えつつ、他国の外貨や不動産を多く持ち合わせる実力を持つ裏には、底知れぬ暗部が隠れているものだ。

 

 これで、敬虔な宗教家であり寄付の総額は文字通り桁外れ。どこまでが国民に向けたアピールでとこからが真意なのであるか。まあ、それを探ったところでなにか価値がある訳ではないが。

 

 「わたくしにはリスムに多数の友人がおります。その友人達によると、今は連合王国派が政治家や資産家のみならず民衆にまで広まっているとか。嬉しい限りですこと」

 

 「帝都事変の反動、であろうな。あろうことか帝国は、首都でおきた事件の対処に失敗したのみならずその下手人さえ未だ仕留めてきれてはいない。悪竜は倒れたようであるが、ランザの生存はそのまま帝国においては汚点だ。早急に首級をあげねば、国の内外問わず求心力の低下は避けられまい」

 

 エクスラムの視線の先には、壁に貼られた大陸図が広げられていた。赤々とした広大な領土を誇る帝国ではあるが、その威光は数々の事件により陰りつつある。

 

 「気が進まぬがやるならば、このタイミングでしかない訳か」

 

 「ほう?エクスラム。軍務の長としての発言にしては、やや好戦性欠けるような口調であるな。やる気がおきんかね?」

 

 「盟主の命令ならば、従うのみ。だが戦争とは何時の時代においても下策とも、進言しよう。外交をミスした際のしりぬぐい、それが軍事による力の使い道だ。そしてその暴力性は、多くの悲劇と嘆きを産むことになるのだ。クラルス殿、研究畑の貴方には分からない話であるかもしれないがな」

 

 「ああ、エクスラム。感情等という些細で稚拙な論にもならない反論をださないでもらおうか。戦争というものはな、人類の進化において必要悪だ。いつの世でも、技術革新は戦争による発展が関連しているのは見過ごせるものではないのだよ。闘争こそ人類の根幹、私はその本能に相乗りさせてもらうだけであるよ」

 

 大柄な軍務局代表と、斜に構える若者の対立にしか見えないが、場の空気は冷え込んでいく。メーテルは可愛らしい子供の喧嘩を見るように微笑みながらそれを見守っていた。

 

 エクスラムの懸念は、王国がどのような形であれ帝国と戦争を始めた時のことである。大陸最大の二国が交戦を始めれば、連合王国と同盟を結ぶ国々と帝国の植民地軍がつられてあちこちで交戦を開始する。そのようなありよう、世界大戦とでも呼ぶべきであろうか。

 

 「双方、落ち着くがよい」

 

 重厚な木製の扉が開かれ、訪れたのは現連合王国の盟主、総帥たるダグラス=オウルベアが現れた。

 

 齢にして三十を過ぎたばかりである若き指導者ではあるが、経済省を支えるメーテルと我等諜報部を抱き込み、年功序列の成り上がりや保身を第一に考える今よりも不要な人員が多数を占めていた円卓を改革した傑物だ。

 

 先代が総帥は、まさにそんな円卓の傀儡といっても良い人材であり、事故に見せかけた工作により排除をし、一時は十二人にも及ぶ数が円卓にいたが今まで甘い蜜を吸うだけの者達を表から裏から粛清した。現在の円卓は彼が必要だと判断した人材のみを集めた王国の為の意思決定機関。産まれ変わった王国の心臓部であった。

 

 「エクスラム。増長した帝国を叩くタイミングは、今この瞬間しかない。残念な話であるが、我等と彼等の地力が違う。このままなんの対策を打てずにおれば、いずれこの王国は歴史の闇に消えるであろう。貴殿が戦争という手段を忌避するからこそ、そこらの夢想家にはできない地に足がついた軍略を練ってくれると期待をしているのだ。国の為、尽くしてはくれぬか」

 

 「盟主たるダグラス総帥のご命令とあれば」

 

 そう、帝国は力をつけすぎた。増長する勢力の波は、いずれ周辺国全てを呑み込み覇者として大陸に君臨するであろう。それだけの力が、かの国にはあるのだから。それを分かっているからこそ、エクスラムもそれ以上の言葉を並べ反論することはしなかった。

 

 「来るべき日は、リスムの住民投票開票日だ。表からも裏からも手を回した。無論、我等が手をだしやすくなるストーリーもな。そうであろう?ライエル長官」

 

 「既に劇団として役者を派遣しております」

 

 弱体化している帝国が、立て直す前に攻撃を加える。そのためには、大義名分が必要だ。少なくとも、正義はこちらにあると他国や民草に示すことができる動機がだ。その為の手は、回している。

 

 「ご期待に添える結果となるでしょう。ご安心ください」

 

 諜報部長官、私のような諜報や工作が似合いの人間がこの円卓にいることじたい、ダグラス総帥の鶴の一声であった。ここで期待に添えなければ、なんのための諜報部長官か分からないであろう。

 

 戦争に向けた第一段階は、問題なく進行していた。帝国一強の時代を終わらせる為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リスム自治州、掲げる大盾本部。普段ならば、自治州各地でおこる揉め事の解決や警備の依頼に散る団員達であったが、この日はほぼ全団員達が港湾都市リスムやモスコー、または経済特別区に詰めていた。

 

 前日に行われた住民投票。リスム自治州はこの先どうしていくのかの民意を問うための投票が行われ、明朝より結果待ち望む住民達によって一団と早い朝を迎えていた。

 

 前日とこの日ばかりは捕鯨船も漁を控え、経済特別区も普段程の活気を感じられない。それだけに、この投票結果に自治州民達と諸外国は注目しているととれた。

 

 勢いを増す連合王国と、近頃斜陽といえる帝国。吸血鬼の登場で半壊したモスコー事件に、エルフの暴走による巨人事件。二大国と挟まれ、それぞれの国から甘い蜜を吸いつつ、緩衝地帯として二国の暗闘の舞台として、不自然ともいえる不幸な事故がおこり続けていたリスム自治州。

 

 それでも、長い間保たれていた仮初の平穏な日々が終わりを告げたことは全住民が分かっていた。

 

 掲げる大盾は帝国に母体を持つ組織であり、リスムはその支部であったが団員の達には帝国人以外にも自治州出身者の他に連合王国が故郷のものも多い。これは多民族の集まるリスムにおいて馴染みやすくなるための先代支部長が提示した方針であり、跡を継いだグローもその路線は護っていた。

 

 故に、団員達の中でも意見が割れていた。帝国を宗主国として従うか、連合王国を宗主国として慕うか、あくまで自治州として誇りをもって独立路線を貫くか。この三択であるが、もはやリスムに独立自治を叫ぶ勢力は少数派だ。

 

 なので主だっては、帝国と連合王国のどちらの庇護下に入るかが、議論の的になっている。

 

 その背景には、リスムとモスコーを襲った悲劇。そして、強大だった帝国の陰りが見えるようであった。

 

 「グロー支部長」

 

 執務室の扉が叩かれ、マリアベルが入室する。街全体が浮足立つなか、リスム自治州の中でも小さな宿場通り出身の彼女はいつも通り、落ち着きはらっていた。

 

 「現在まで、リスム及び経済特別区に目立った異常はありません。些細なトラブルの話さえおきず、まるで嵐の前の静けさですね」

 

 「どのような結果であれ、問題が起き始めるのは投票結果の発表後であろう。迅速に対応する為に、情報収集を引き続き怠らないようにしてくれ」

 

 「はい。そして、最大の懸念である行政庁舎周辺ですが、人が早くも大勢集まりすぎております。ドラエフ警備保障が応援として出向き、警備隊と混乱を防ぐように動いていますが……」

 

 「ああ」

 

 言わんとすることは、分かる。ドラエフ警備保障は民間武装組織としてはまだ産まれたばかりであり、警備のノウハウで言えばこれまで培った経験が違う。配置や装備が些か頼りなく思えるが、掲げる大盾は直接介入できない。

 

 帝国系である我等が組織が行政の警備を担当すれば、結果によっては非難の的となる為だ。票数の操作、投票妨害、無論そのようなことをする輩は掲げる大盾にはいないと自負をするが、不必要な争いの種をまきかねない。

 

 そうである為、投票場や会場の警備は可能な限り中立なリスムで発足した組織に任せるしかなかった。無論、その組織であっても公平とは言えない面もあるだろうが我等がやるよりは、住民の評価はマシというものだ。

 

 とはいえ、仮に暴動がおこったらすぐさま出動する必要があるだろう。問題はドラエフ警備保障が、問題がおこった時に適切に対処できるかどうかである。不必要に住民を傷つけながら制圧してしまえば、後々問題になりかねない。

 

 いや、後々どころではなくすぐさま暴動が過激に暴発する危険性すらあった。そのようなことはないと願いたいが、最悪を常に考え続けるのは冒険者組合時代からの習慣だ。

 

 だが、最悪と言うのであれば一つの看過できないミスを犯してしまったことが悔やまれる。

 

 ランザ。我が友を、どうしてあの時力づくでも止められなかったのか。彼の復讐が巡りに巡り、様々な思惑を動かし世界情勢すら崩れるきっかけとなろうとしている。

 

 「支部長」

 

 マリアベルの声に、思考が中断された。

 

 「支部長は、帝国出身者であり、帝国国民ということでこの度の投票は、公平性が欠ける判断となるということで投票辞退を余儀なくされました。ですが、支部長は今回の住民投票をどうお考えでしょうか?」

 

 自治州民であるマリアベルと違い、未だ国籍は帝国にある俺は投票権利を与えられることはなかった。そのことに関して文句はないが、上司の考えを聞いておきたかったのだろうか。

 

 「あくまで、リスム自治州は公平な独立自治を保つべきだと考えている」

 

 「意外でした、やはり帝国側に肩入れするものかと」

 

 「この自治州の魅力は、あくまで独立自治に力を入れているということ。鯨油産業を始めとし、あまり認めたくはないが経済特別区の発展等住民達の向上精神と活力は他の自治州にはない魅力があるからだ。二大国に挟まれることで、逆にそれに呑まれまいとする意志が魅力としてこの自治州を輝かせていたからな…だが」

 

 そう、少し前までのリスム自治州は二大国に翻弄されながらも、独立自治を貫くという気概があった。しかし今のリスムはその屋台骨となる気質が骨抜きにされている状態にあった。

 

 大まかな理由は二つ。リスムを半壊させた巨人事件の他に、ネズミ算式に広がったエンパス教による布教。

 

 事件時は、モスコーの救援に訪れていたのでイマイチピンときていないのだが、奇跡と呼ばれる現象を目の当たりにした者達とは考えが違うのかもしれない。だがしかし、人知を超えた力を目の当たりにした人達からは新たな教えが広がると同時に強い意志というものが抜けているように感じた。

 

 あくまで感覚ではあるのだが、まるでなにか強大な力に頼るのが正常であると言わんばかりというか。現実に、当時リスムに居残っていた掲げる大盾の者達にもそういう思考を持つ者が現れていた。中には、エンパス教の熱心な信者になる者も。

 

 宗教の選択において強制力はないものの、名状し難い忌避感と違和感のようなものを感じていた。寄らば大樹の影とも言うが、大きな力には逆らわず従うことこそが常識であると考える者が確実に増えている。雑に言えば、長い物には巻かれろの精神性か?

 

 その思考が浸透していないのは、港湾都市であるリスムにおいて経済特別区くらいであろう。皮肉なことに、今やあのならず者の島がこの自治州の中で一番リスムらしいと言えるほどであった。

 

 しかし、こんな状況であくまで独立自治路線に票を入れる住民が、はたして何人存在するか。あまり考えたくないものである。

 

 「だが?」

 

 「いや、あくまで本籍を帝国においている出稼ぎ労働者のような立場での発言だ。自治州のことは、自治州内の人間が決めるのが妥当である。これ以上、あまり無責任に口出しすることもあるまい」

 

 「この場では私と貴方しかおりません。団員達の主義主張もあるでしょうが、私には遠慮をしないでいただきたのですが」

 

 まっすぐとこちらを見つめて来る。掲げる大盾支部長としての意見や、帝国民としての意見ではなくあくまで個人としての考えが聞きたいということか。

 

 「この度の住民投票、親帝国、親連合王国。どちらに転んでも自治州は荒れる。それを回避するにはあくまで独立自治の宣言を貫き通すしかない。そもそも、誰が言い始めた?この住民投票自体、リスム自治州においてなんの得がある?」

 

 「自治州代表の声明では?混迷する時代の中で、方針を固め困難に対処する為自治州民一丸となり物事に当たる為の取り組み、その一つであると」

 

 「住民の真意な意見を問う。だが、帝国が荒れて連合王国が野心をみせ、深く傷ついたモスコーとリスムという現状だ。平常ではないうえに、仮初の平和が暴かれ始め各々の不安が表面化してきている。団結が必要なこのタイミングで、対立を煽るような投票等本来ならばするべきではない。仮にいずれ必要になるとしても、現状では悪戯に二国を刺激するだけだ。今のリスムは、帝国と王国どちらにも良い顔をして支援を引き出すだけで良いのだから」

 

 親帝国派に票が流れるようになるのならば、連合王国にとっては痛手だ。帝国が混乱に揺れ求心力が低下している今切り取れるところは切り取ってしまいたいのに関わらず、世論が帝国に流れるとしたらどんな無茶をしてもリスムを切り崩しにいく可能性がでてくるだろう。

 

 逆に王国に票数が集まるとなれば、大陸最大を自負している帝国にとって、王国の方が安全保障をしてくれるという自治州民の声に面目がさらに潰れてしまう。これ以上の求心力の低下は、帝国にとっては痛手であり二国間の緊張はさらに高まるだろう。

 

 どちらにせよ、緩衝地帯であるリスム自治州にとっては良いことがない。

 

 「いや…まさかそれが狙いか?」

 

 言葉が自然と、口から洩れた。戦争にとって一番必要なものは、自国民の納得による継戦能力の確保だ。この不自然な住民投票自体、仕組まれたものだとしたら?

 

 「しまった!すぐに団員達に武装をさせろ!リスムの行政施設まで向かう!」

 

 マリアベルが驚いたように目を見開くが、理由を聞く前に頷いた。最悪の想定ではあるが、すぐに行動をとらないと取り返しがつかないことになる。

 

 この住民投票、仕掛け人にとっては結果なんてどうでも良いのだ。ただ、その後におこることの方が大事なのだから。人手が必要だ、市内に散らばる者達はともかく、ここに詰めている者達だけでも向かわねば。

 

 「支部長、報告があります!」

 

 「どうした!?」

 

 肩で息をする団員が、ノックもなしに執務室に入り込んだ。顔色が悪い、最悪が当たってしまったか。

 

 「リスム行政庁舎前で、大規模な暴動がおきています!ドラエフ警備保障の人間では対処できず、負傷やも多数出ている模様です!」

 

 頭の回転が鈍い自分が怨めしい。黒幕の計画は、既に始まってしまっていた。



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 リスム行政庁舎。広大な敷地に手入れされた大きな芝生が敷き詰められた庭があり、噴水を中心にベンチや季節の花が咲き誇る手入れされた花壇まであり普段ならばリスム市民にも開放していたそこは武装した警備が巡回していた。

 

 即席の柵が並べられた先には、リスムの市民達が押し寄せてきており住民投票の結果を待ちわびている。

 

 一自治州には似つかわしくない、巨大な行政庁舎。茶色のモダンなデザインが施された建物は、影響力を持ちたい帝国と連合王国から援助された利益により、外装のみならず内装も必要以上に豪奢なものであった。それは、大国が建てた迎賓館と言っても通用してしまいそうな程、必要以上に大金がかけられていることの証明でもあった。

 

 「おい!まだなのかよ!」

 

 群衆の誰かが叫ぶ。早朝とは言わずとも、前日に行われた自治州民達の投票結果はもう発表されるタイミングも過ぎていた。投票日の夜に公表されなかったのは、単純な話モスコーやその他自治州にある小さな村に宿場街から届く結果と合わせて集計される為であった。

 

 多少の遅れは致し方ない、だが既に日も高くなり当初の予定からずれ外れている。待つ者達の苛立ちは時間が経つにつれ高まっていた。

 

 無論、最終的な決定権があるのは行政に詰める政治家達だ。だが度重なる事件、特に巨人事件のせいで現政党の支持は急落している。警備隊の予算削減による弊害と、住民の避難計画がリスムが膨れ上がる前の古い計画であり更新されていなかったこと。また政党代表が親帝国派の政治家であり帝国の陰りと共に影響力を落としていた。

 

 故に、此度の住民投票の結果は政治家達にも無視できない代物だ。皆がそれを理解しているからこそ、注目度が高まっている。一部の者達は賭け事の対象にもしているようだが、自分達の命運が決まる発表であるのだからほとんどの者が真剣な表情であった。

 

 「出て来たぞ!」

 

 警備隊やドラエフ警備保障の人間が護る行政庁舎の入口付近。白く塗られ造花により彩られた足場の上に現れたのは、現リスム代表であるノストラ=トルメシアだ。

 

 仕立ての良い帝国貴族を思わせるドレスを身にまとい、その体躯は就任当時と異なり脂肪が溜まっていた。親帝国派の筆頭と言われており、ノックの山に外貨獲得の為植林地帯と加工場を作る等帝国に肩入れするような仕事を多く指導していた。

 

 また、警備隊の予算削減にも積極的であり、現在それを野党のやり玉にあげられてもいた。彼女の登場と共に、小さく舌打ちをした警備隊も隊員もいた程だ。仕事故に護らなければならないが、長い間予算不足に嘆いていた身の上でありどこか納得できない様子でもあった。

 

 「親愛なるリスム自治州民の皆様。この度、残念なお知らせをしなければなりません」

 

 設置された台の上にあがり、声を拡声する魔具を通し民衆に声が届けられる。残念なお知らせという言葉に、予想された言葉と違い誰もが頭に疑問符を浮かべた。

 

 帝国派か連合王国派か。少数となる独立自治路線を提唱する人間は少ないが、おおよそこの二択のどちらかが多いかを発表するだけだというのになにが残念なお知らせなのか。

 

 連合王国に票数が集まったことが、親帝国派として残念なのか?

 

 賭け事に興じる連中の予想、所謂オッズを見ても人気なのは連合王国を宗主国として受け入れるというものだ。帝国派閥が多い現政党が人気を落とし、連合王国を後ろ盾にした野党が調子を上げているという事情もある。

 

 まあ少なくとも、投票結果いかんで今度の選挙で政党を維持できなくなるだろうなと予想はたつ。そういう意味での残念、なのかもしれない。つい本音がでてしまっただけなのか、なんて誰かが考えた次の瞬間予想の斜め上をいく発表がされた。

 

 「この度の住民投票、無効となることになりました。原因は、投票枚数が明らかに投票可能な自治州民の数を超過しており重複投票、または不正投票があったという事実があり……」

 

 一瞬の静寂が周囲を包む。誰もが、あらゆる疑問を脳内に浮かべていた。管理委員会はなにをやっていたのか、仮に不正投票が事実だとしたら誰がそんなことをしたのか。そもそも、不正投票の事実があったのか。

 

 誰もがそんな思いを抱いていたが、最初にそれを口に出す者はこの場にはいない。それもそうだ、万が一に備えて会場にはリスムの警備部隊や治安隊のみならずドラエフ警備保障が武装して待機している。リスム市民に馴染みがあり人気もある掲げる大盾ならともかく、武器を持ち佇むドラエフ警備保障は威圧感があった。

 

 過剰とも言える警備体制。だがそれは、政治屋達の不正を糾弾されるのを防ぐ為の措置にも見えてしまう。現に与党内からも反対意見もあった程だ。

 

 だが不満、不安を産み出そうが、この場では一定の効果があったのは確かであった。少なくとも、外部からの介入がなにもない場合に限ってではあったが。

 

 「王国側に票が傾いたから、隠蔽したのではないのか!?」

 

 先導者、或いは扇動者にとって必要な要素とはなにか。周囲を巻き込むカリスマ、虚実含め理想や現状を語り賛同者を増やす話術、象徴としての存在感。必要な要素、資質はかなりの数存在する。

 

 連合王国諜報部の長、ライデルはこう考えていた。短期の間の先導であれば、どんなざわつき、喧噪の間でもよく通る声が良いと。扇動に必要な情報を、素早く誰もに通達をする為に。

 

 民衆の扇動。誰もが考えていたことを最初に口にだしたものがでたことで、その疑問は周囲の者達に広がっていった。

 

 「そんなに連合王国に票数が集まるのが怖いか!?」「管理はなにをやっていたんだ!不正がでたなら証拠はあるのか!?」「誰が責任をとるんだ!?お前達自身が不利になる結果を隠蔽していないという証拠はどこにある!?」

 

 それに呼応するように、あちこちから声があがる。連合王国諜報部の中で、民衆の中に混じり世論の操作等を主に行う為訓練をされた劇団と呼ばれる組織の一部が、混ざり込んでいた。

 

 「静粛に、静粛に願います。今はまだ詳しいことは調査中であり、後日再投票を行いたく」

 

 「帝国に尻尾を振る連中がなにを言うか!そちらが都合の良い結果が出るまで投票を繰り返すつもりだろう!」

 

 宣言を遮るように、親帝国議員をなじるヤジが飛ぶ。それを皮切りに、今まで黙っていた者達からも声があがった。

 

 「ふざけるな!連合王国如きに帝国とまともに張り合って勝てると思っているのか!?」「どうせ票数を操作したのも貴様等だろう!汚い真似をしやがって!」「黙って聞いていれば言いたい放題言いやがる!」

 

 帝国から甘い蜜を吸う者、帝国出身者、帝国系の企業で働く者達。リスム市民の中でも、親帝国派閥の人間達が声を荒げる。こちらにも仕込みはいたのだが、その声に導かれて声を荒げる者の大多数はただの市民達だ。

 

 静粛に、という声も通らずにあちらこちらで言い争いが始まる。これまでのことで不満、不安が溜まっているなかで、対立という構図ができてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 住民投票。その思想は、最初この異世界では根付いてはいなかった。

 

 異世界転生をする前の、俺がいた世界ではイギリスで行われた投票に世界が注目していた。確か2016年くらいの出来事だったかな、EUを離脱するとかしないとかで住民投票が行われていた。

 

 いろんな理由はあっただろうが、確か移民問題が端にある出来事だった筈だ。貿易交渉の決まり事等独自に決めたい、等の理由もあった筈だが今回の出来事においてそれらの知識は今必要ないため思い返すのはここまでにしておこう。

 

 「おお、盛り上がってる盛り上がってる。連合王国もそれなりの手を打ってきたもんだな」

 

 行政庁舎付近に向かわせた、ライブ配信に近い能力を持たせた加護持ちの信者から送られる映像が、壁一面に浮かんでいた。親帝国と親王国が言い争いをしており、警察的ポジションの治安維持連中が止めには入っているがまだ落ち着く様子はない。

 

 高みの見物ではあるが、その映像を見ている場所は高みどころか遥か地の底。リスム地下迷宮において、まだ公式には未発見であるとある空間であった。

 

 エンパス教を運営するにあたり、表の目的と裏の目的を同時に進める必要がある。リスムが計画の中心地となった理由は、大国二国に挟まれた自治州という不安定な土地であり、この地下迷宮を裏の拠点として利用できるからであった。

 

 その為に、一時は掲げる大盾に入団し顔パスで迷宮に入ることができる身分が必要であった。暴走しがちな世間知らず。まあ、今にして思えばあの頃は全能感に酔っていたのも確かだし、漫画や映画ででてくるような臭いセリフも恥ずかし気なく言えたものであったが。

 

 そんな生活にも飽きがきており、必要な計画に拠点を確保した後掲げる大盾からは離れることになった。そして今は、地下迷宮の調査や探索等、巨人事件後は後回しにされている為敵性生物さえ排除してしまえば静かなものだ。

 

 「レント、事実工作はあったのか?」

 

 「やったやった。行政庁舎内の信者や隠ぺい系の加護持ち使ってちょいちょいとね。連合王国のスパイも色々やってたから手伝ったりとかね。だからまあ、悪し様に帝国派閥議員が色々言われていて可哀想なことにはなってやがるけどな」

 

 エンパスからの疑問に適当に返答する。こいつは最終目標に備えて色々と準備を進めている為、些細なことは全部こちらに丸投げしてきやがるクソ上司だが、興味はあるのか聞きたいことは聞いて来た。

 

 「しかし、こんなところで大衆に判断を任せるような票集めに勤しむとは愚かなものだ」

 

 「ああ、それも仕込み。カ…カー……あーもう死んでるし、名前が出てこねえ」

 

 「カリナ=イコライか?栗毛のライフル使い」

 

 「ああ、それそれ。そいつの親父を通して帝国から自治州に圧力をかけさせたからな」

 

 思い出した、モスコー事件で死んだカリナ=イコライだ。そいつの親父であるバザード=イコライには、盲信的な娘を利用して集めた、政治屋として致命的な不正の証拠をチラつかせて脅しをかけている。今までその権利は眠らせておいたのだが、ここで札を切らせてもらった。

 

 娘を溺愛しており、身内には防御の甘さもあったがそれでも帝国においてバザードは上院議員だ。リスム自治州に圧力をかけることじたい、問題なくできるし根回しも協力してやった。

 

 帝国事変の影響もあり、この機会に戦争がしたい連合王国はノッてくる。

 

 ウェンディ=アルザスと配下の魔法使い共が帝国で騒動をおこそうとしていた。それを掴んでも泳がせたのは、なにかしらの事件を帝都でおこすことにより混乱を引き起こす為。テンやランザも絡んできている為、なにかしらの影響は必ずあると踏んでいた。

 

 想像以上にエグイ事態になっており、結果としてはテンを確保することもできた為、出来過ぎともいえる成果だった。ただ、不満点が一つあるのだが。それは今、わざわざ考えることもないだろう。今は目の前の事態を見ておきたい。

 

 「楽しくはなさそうだな」

 

 「は?」

 

 エンパスからの妙な言葉に、思考が一時停止しかけた。一応は好き放題できる能力をもらって楽しませてもらった対価としての労働のようなものだ。楽しい、なんてあまり考えたこともなかった。いや、最初は楽しかった筈なんだが、人心掌握にも扇動の真似事にも飽きてきたのかもしれない。

 

 「仕事みたいなもんだろ、それに、他にやることもないからな」

 

 ハーレム遊びにも飽きてきた。結局のところ洗脳で縛っても、俺にとって都合の良い返答をしてくるだけの肉体をもった出来の良いbotにすぎない。最初はそれで良かったが、流石に長々続ければ返事の予想が先に理解できてしまい心から楽しむこともできなくなってしまった。精々、性欲解消くらいか。

 

 「テンを捕らえたではないか、アレをいくらでも玩具にして遊べば良かろうが。今なら、まだ使いたい放題ではないか?」

 

 「冗談、あんな状態になっているのに遊べるかよ。俺にだって好みもあれば性的思考もある。洗脳や思考強制の類も効果がないし、容姿はドストライクだが単純に今は好みに合わない」

 

 要するに、思っていたのと違ったという訳だ。こちとらハイエースが出てくるR18のように強姦上等で身柄を確保したのだが、あれじゃあカウンセリングの真似事をする免許もない素人医師の気分だ。

 

 だがしかし、やはり今でも時間ができた時に考えるのはテンのことである。こういうアプローチはどんな効果があるのか、ああいう接し方でなにか変化はあるのだろうか。とにもかくにも、激情でも軽蔑でも怒りでも良いから、取り合えずこちらの方を見てほしいものなのだが。

 

 『パンッ』という音が映像から響いた。行政庁舎で事態が、動いたようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その一発の銃弾は、後の歴史家に第一次大陸大戦において最初の鮮血と呼ばれていた。

 

 誰がその弾丸を放ったのかは諸説あり、暴動を恐れたリスムの政治家達の指示を受けた警備隊の発砲。帝国派であるリスム市民が行った暴走。連合王国の工作員が行った自作自演。或いは当時存在していたという新興宗教による陰謀。

 

 決定的な証拠が出ずあくまで憶測、推測、仮説でしかない犯人像達。確実なのは、親連合王国派閥である若者が証拠の提示を求めて用意されていた停止線を乗り越えようとした時、どこからか飛んできたライフルの弾丸により頭部を貫かれて絶命したこと。

 

 近年になり、当時その場に居合わせた女性が書いた手記が発見され貴重な資料として公開されているが、それによれば殺された青年は最初に帝国派閥の現政党議員に向けて不正の疑いを叫んだものだったと記録されていた。

 

 吹き飛んだ脳漿が(手記にはぼかされて書かれていた)顔にかかる程近くにいたということであり、その記録は信憑性が高いと言われていた。そして、その弾丸を受けた者は仰向けに倒れたという。方向的には、警備部隊やドラエフ警備保障がいたという方角から弾丸が飛んできたということになる。

 

 後年の歴史家達が真実を求めて頭を悩ませる、血の開票日事件。最初の銃声と死亡者が出た瞬間、集まった群衆達は突然の出来事にパニックとなっていた。

 

 「いやあああああああああああああああああ!」

 

 倒れた青年に、女性が近寄る。無駄だと分かっていても、飛び散った脳漿を集めて頭の中に戻そうとしていた。その悲痛な悲鳴が更なる起爆剤になり混乱が加速していく。

 

 悲鳴と怒号が飛び交い、行政庁舎前から逃れようとする者達。それとは対照的に、市民を抑えていた警備隊やドラエフ警備保障の人間は、頭に疑問符を浮かべていた。

 

 「誰だ!許可があるまで発砲は禁止するといった筈だ!」

 

 「我々警備部隊ではありません!市民に向けて銃を放つ等……ドラエフ警備保障の仕業では!?」

 

 「ふざけんな!あくまで穏便にことを進めたいからってこちらだって気を使ったんだ!だいたいお前等行政がしっかりしていないからこんな事態になっているんだろうが!」

 

 出来立ての民間武装組織と警備隊の間に信頼関係なんてない。互いが互いを疑い始め疑心暗鬼に陥り始める。もはやリスム代表にもこの事態を抑える力はなく、護衛と共に壇上を降りて避難しようとしていた。

 

 「逃げるぞ!」「市民への銃撃を許可したのか!?」「帝国の飼われた豚め!」「なにも言わずに逃げるつもりか!?」「仲間を返せ!」

 

 その様子を誰が見てとったのか、親連合王国派閥の市民が叫ぶ。逃げる者と迫る者、怒号が飛び交い誰も彼もが混乱状態に陥っていた。

 

 「防陣を組め!誰も敷地内にいれるな!」

 

 それでも、リスム警備隊隊長は怯まず指揮を飛ばし続けていた。巨人事件を生き残り、絶望的な状況でもエンパスの武装信徒隊が救援に来るまでギリギリまで粘った経験が、彼をこの混乱の中冷静さを失うことなく感情を冷やし優先事項を遵守していた。

 

 不正があろうがなかろうが、ここで暴走した市民の好きにさせたら、最悪私刑がおきかねない。リスムは法治の元統治されている。例え、二大国に挟まれ影響を受けすぎた穴だらけの法律であっても法は法だ。このままでは、不正やこの銃殺事件を正式に追及することすらできなくなるだろう。それはリスムにとって、とてもよくないこととなる。

 

 「落ち着いてください皆さん!落ち着いてください!我々は決して皆さんに危害を加えておりません!然るべく手段をもって解決にあたらせていただきます!だから、どうか落ち着いて!」

 

 「信用……信用できるものか……信用できるものか!帝国の豚に飼われた番犬め!」

 

 最初の犠牲者の近くで脳漿を集めていた女性が、フラリと立ち上がっていた。手には護身用のダガーが握られており、それを構えて走りながら距離を詰めてくる。

 

 「止まりなさい!止まらないと射撃します!」

 

 「止まれ!それ以上来るな!隊長、威嚇射撃の許可を!」

 

 「……ック…許可する!当てるなよ!後ろの市民にも流れ弾が当たらないように気をつけろ!」

 

 複数の銃声が響くが、女は止まらない。その顔は鬼気迫るものであり、見る者に恐怖を抱かせるものであった。

 

 「威嚇では止まりません!」

 

 「皆これ以上撃つな!私が抑える…それで」

 

 タンッタンッとどこかから銃声が響いた。一発めが胸部に着弾、踊るように身体を半回転して回った後、側頭部に風穴が開く。糸が切れた球体人形のように、女は地面に崩れ赤い血が石床を濡らした。

 

 下手人が誰がやったのか等、もはや調査もできない。この瞬間、平穏無事に事態が収まる可能性が霧散した。

 

 「撃った!」「殺しやがった!」「今度は言い逃れできないぞ!」「俺達をなんだと思っているんだ!」「市民に銃を向けて、なにが警備隊だ!」「帝国の横暴を許すな!」

 

 連合王国派閥の二人の若いカップルが、不正投票という疑わしき発表に抗議して凶弾に倒れる。それを見た者達、連合王国派閥の市民達が憤怒の表情を浮かべていた。

 

 誰が銃を撃ったのか分からないが、暴徒と化した市民達が何時こちらに来るか分からない。今は全力で迎撃しないと、更なる死者が出かねない。緊張感が敵意と殺意へと置換されていくなか、よく通る大声が広場に響く。

 

 「双方落ち着かれよ!」

 

 現れたのはグロー=カザルタフ。帝国系組織でありながら、リスム自治州に長く貢献をし治安を護ってきた、帝国派や連合王国派問わずほとんどの市民から信頼の厚い掲げる大盾のリーダーであった。

 

 市長の意向により、なるべく公平さをだす為に帝国系組織ということでこの度警備の依頼は来ずに状況を静観するしかなかったが、もう外部からの介入がなければ収集がつかないと判断したのだろう。

 

 「現時点を持ち我々がこの場を預かる!市民諸君はまずは落ち着きを取り戻したまえ!ここで暴走してしまえば、不正の追及どころではなくなるぞ!警備隊が本気になれば、いともたやすく鎮圧されてしまうであろう!そうなれば、責任追及は有耶無耶だ!警備隊諸君、市民が危害を加えないとなればこれ以上その民を護る武器を向ける必要はあるまい!双方引かぬと言うのであれば、敵意を収めぬ側に我等掲げる大盾は対峙させてもらうぞ!これ以上の犠牲を互いに出そうとするな!」

 

 「だが奴等が不正の証拠を…」

 

 「ならん!」

 

 手に握られたハルバードの柄が、石畳みに突き刺さる。凄まじい音と共に石が爆ぜ割れ、その破壊力に頭に血が昇る市民、そして暴徒対応に当たるしかないと冷静さを欠いた警備隊が息を呑む。

 

 「この場ではこれ以上、血の一滴すら流すことは許さない!私の部下、リスム自治州出身の者が今頃裏から投票の本当の結果を収められた証拠を確保している頃だ!我等は確かに帝国に母体を持つ組織であるが、このリスム自治州を愛していると自負している!どうかここは我等に任せてはくれないであろうか!?」

 

 グロー=カザルタフ。正式なリスム自治州民ではないのに関わらず、不正式ながら街の名士にも数えられている人格者の一声に、市民も警備隊も冷静さを取り戻そうとしていた。この人なら任せられると、誰もが考えていたその時だった。

 

 「おい!あれを見ろ!」

 

 市民の一人が声をあげる。それにつられ、誰もが行政庁舎の方を見て目を見開いた。

 

 「燃えてる…燃えているぞ!火事だ!」

 

 投票結果が保管されている西南の居室より、火の手があがっていた。凄まじく燃え盛る炎が、ガラスを融解して突き破り、破片を散らした。



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 マリアベル=クロノスにはリスム自治州の命運等どうでも良かった。

 

 リスム自治州、元々は帝国と連合王国の緩衝地帯としてただ小さな港町とモスコーがあるだけの、なんの力も産業もないようなところだった。

 

 他所とは違い二大大国に挟まれたその土地柄故、時には帝国、時には連合王国に支持が集まり暗闘や諜報戦として不自然な事故や歪な投資が多く行われてきていた。ランドルフ支部長は独立自治こそリスムの姿と語っていたが、そんなものはここ数年鯨油産業が成功してようやく芽生えた仮初の自信に過ぎない。

 

 外でおこる醜い言い争い。親帝国だとか、親王国だとか、やはりなにかに縋りつくのがクセになっているような、国民性が根底にあるのだろう。自治州が、聞いて呆れる。状況で風見鶏のように変わるのでなく心の底から本気で自治を志す者達が、幾人この街にいるのか。精々大海原に出る捕鯨職人か経済特別区の荒くれくらいだろう。

 

 「我々は掲げる大盾リスム支部の者です!緊急事態、治安維持組織から交付された、略式委託権を行使し、強制調査に入ります!」

 

 比較的騒ぎが薄い裏側方面から数名の隊員と共に突入をする。警備スタッフや職員に止められもしたが、上役が浮足立っている今大した抑止力にはならない。また、掲げる大盾は普段から治安組織とは友好関係を築くことに努め、苦心している。

 

 例え、偽物の書状とはいえこの場を誤魔化すには説得力があり、日頃の行いが物を言うとはこのことだろう。しかし、いざという時この手の搦手を用意しているなんて抜け目のないことだ。

 

 「目的地は?」

 

 掲げる大盾は民間武装組織。時には武力に物を言わせる、市民が行使できる力だ。内部にさえ侵入してしまえば、外が混乱状態なこともあるが、いかつい武装をした戦士達を止められる者はいなかった。歩きながら、今回の民間投票という物証を手にする段取りを組んでくれた団員に話しかける。

 

 彼は甥が行政庁舎の役員として勤めており、ランドルフ支部長の指示でいざという時、行政調査に踏み込む段取りを幾つか組むように指示を受けていたそうだ。それが、不発になることを祈っていたがそれがこうして有効手段となってしまっている。

 

 物証を確保して、公の元再調査と間違いのない事実を公表する。それがこの混乱を早期に収まめる為の最善手となる。不正があったのなら、何時、誰が、どのようにを追求していく必要がある。時間をかければかける程、皆も多少は冷静に物事を判断できるようになるだろう。

 

 「三階東側、奥から三部屋め。鍵がついているが俺の甥っ子が確保してくれている。三階で、合流するよう話は通しておいた」

 

 「甥っ子君に感謝ね。後で礼を言わないと」

 

 「あいつは、掲げる大盾……というよりはマリアベル、アンタのファンでな。モスコー騒動に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになっていた時に、救助に来たアンタが瓦礫の隙間から手を差し伸べてずっと握っていてくれたことに感謝しているんだとよ。礼なら、後でサインでもくれてやれ」

 

 あの時の男性か。よく、覚えている。助けた人達からの純粋な感謝は、素直に喜ばしく一つ一つが大切な思い出だ。そして、一番最初に掲げる大盾というものを始めて見た時は忘れることはできない。

 

 掲げる大盾の支部がリスム自治州に来たのは、十年以上も前に遡る。経済特別区の法案が成立され、土着組織のレガリア、新興組織のハーウェン、地下迷宮の入口を一つ非合法に占拠するデラウェアが利権を争い暗闘に収まらない抗争を繰り広げていた。

 

 本人達は、抗争を越えた戦争をおこしていないだけ行儀が良いとでも言いたげではあるがそれでも民衆にとっては恐怖の対象だ。そんな者達への牽制として、先代支部長の元掲げる大盾がリスムに設立された。

 

 どうせ帝国系の組織だと、最初は誰もが思っていた。生命や財産の保護、依頼を受けるのは親帝国派だけで中立や王国には見向きもしないだろうと。だがしかし、掲げる大盾は違った。私は、それを目の前で目撃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リスムとモスコーの間は、徒歩で一日半はかかる。主要な街道は往来も多いが、時にそこは危険地帯になりえていた。

 

 街道から東方には湿地帯が広がっており、そこにはエルフと同じく人類の敵対種と言われる二足歩行の爬虫類を思わせるリザードマンが生息している。時に連中は、気候条件等複数の条件が重なれば街道に侵入し宿場町を荒らしたり旅人や商人に攻撃を仕掛けてくることがあった。

 

 幾度か大規模な討伐、殲滅も計画されていたが、足場が悪く湿地帯は自然と野生の宝庫である。環境の悪さと費用対効果の悪さから上手くいった試しがなかった。

 

 私の産まれは、そんな街道に存在する宿場町の片隅だ。人通りが多く人気な街道沿いから外れた、安宿が集まる区域。安い夜鷹が往来に立っているような、そんなところだ。当然、犯罪の発生率も高くなにより、リザードマンが攻撃を仕掛けて来る時は常に防備が皆無なこの区域からだった。

 

 父の顔は分からない。性病に侵され仕事ができなくなった母親の介護をしながら小さな畑作と物乞いや盗みをしながら生活する日々。なんの為に生きているのか分からないような毎日。世界がある日、ふと終わってくれたら楽なのだろうなと毎日のように思っていた。

 

 古い伝承には、終焉の時とか審判の日とか最終戦争とか色々な世界終焉の物語があるらしい。本当に来るなら、急いできてほしいくらいだった。その時は、まっ先に訪れた時代に殺されるのだろうが。

 

 だから、終焉の日より前にリザードマンが襲撃してきた時はようやく来たか、という気分だった。子供の耕せる限界の畑、その向こう側からのし歩いて来る武装した爬虫類共。宿場町の防衛組織は、もっと中央部に近いしここまではフリーでのし歩いてきた訳だ。いざという時に、まっさきに犠牲になるからこそ外周の宿は安い。

 

 耕されたばかりの貧相な畑が踏み荒らされてもなにも感じなかった。どうせ、終わりなのだから。

 

 『おい』

 

 傍らから延びた腕が、緑色の鱗に覆われた腕を掴む。辺境警備隊に多い豚鬼程ではないにせよ、膂力に優れている筈のリザードマンが動くことができないところを見るにかなりの力で掴まれているようだった。

 

 男が大きく腕を振るい、リザードマンを畑から叩きだすように振り投げる。その頭に、使い古された大きな山刀が叩きこまれた。

 

 『人様が耕した畑を、踏み荒らす馬鹿がいるか…なんてお前等に言っても無駄だろうけどな』

 

 『あの?』

 

 『もう大丈夫だ、怖い思いをさせたな。すぐにこんな連中ここから叩きだして』

 

 『貴方も、踏んでる』

 

 男は決め顔のまま固まり、ゆっくりと左に動いて小さな畑から出た。前方から仲間を殺されたリザードマンが迫るなか、山刀を構えなおして男は声をあげる。

 

 『弁償は、掲げる大盾のグロー=カザルタフにこっそりと請求してくれ。できたら、大将にはバレないように』

 

 後に支部長に昇進する、まだ配属されたばかりの新人であるグロー。

 

 この時点では、ただ単に助けてくれただけの人だった。こんな外周に駆け付けてくれる掲げる大盾じたいが変わっていたが、終わっても良いと思っていた私には感謝もあるかもしれないが余計なことをしなくて良いのに、という感じだった。すねた子供だと、今でも思う。

 

 全てが終わりリザードマンの死体が集められて燃やされていた。歓喜も嘆きも、興味がない。ただ今日の食事と明日からの食事を確保する為、荒れてしまった畑を直すことからだ。盗みは最後の手段、常習犯となれば捕まる確率は高くなり抜け出せなくなる。

 

 『請求書が来ないと思ったら』

 

 グローは、しばらく宿場町に居残った。襲撃された箇所の復興と、しばらく街道の巡回警護をするということで掲げる大盾から派遣されてきたようだ。その評判は、こんな端っこにいても聞こえてくる。

 

 『ここにはなにをうめて、育てているんだ?手伝えることはあるのか?』

 

 忙しい筈なのに、彼は毎日のようにここに顔をだしてきた。

 

 『おーい、水汲んできたぞ水。俺もさぼりに来たから、休憩しようか』

 

 ありがたかったのは、顔を出したからといってなにか畑を手伝おうと無視するこちらに気にせずウロウロするだけだった。街道近くで物乞いをする時ならともかく、こんなところで施しを受けたら妬みの対象になる可能性がある。人の悪意は、どこから飛んで来るか分からない。

 

 ただでさえこんなところに足繁く通い子供の相手をするだけの戦士なんて珍しいのだ。目だって良いこと等一つもない。

 

 だが、それがあまりにもしつこい為尋ねてみた。本格的に口を聞くのは、初めてだった。何故こんなところに通うのか、何故助けてくれたのか。こんな終わって良い者達を助けて、なにか見返りを期待しているとでもいうのか。

 

 植える為のレンズ豆の種子を見ながら、これはなんの種だと尋ねていた男は質問とは違う言葉が来たことに考え、少し困ったように考えてから口を開く。

 

 『なにも考えてなかった』

 

 訝し気な顔を浮かべると、グローは後頭部を軽くかく。

 

 『誰かのなにかの助けになりたいなんて、ありふれたようで特別なことを考えるようになったのはつい最近でな。前職で、ちょいと色々あって足を洗ったものの技能なんざ暴力事だけ。掲げる大盾の理念には賛同しなんとか入れたものの、それを実践できているか怪しいもんよ』

 

 麻袋に入っていた、安価なレンズ豆の種子を手の中にすくい転がす。

 

 『俺にはこれが、なんの種かさえ分からない。これを植えれば芽がでるだろうけど、どう育てるのか、何時収穫できるのかさえな。そんな知識すらない、それでも誰かのなにか、力になりたいのは確かなんだ。心がぶっ壊れかけている友人を助けてやれなかった俺でも、誰かの助けになりたいんだけどな』

 

 後に知ったが、掲げる大盾の理念は文字通り人々の盾とならんとする理念であり、思想であった。

 

 暴力事しか能がないと言わんばかりであったが、その入隊は狭き門だ。だがそんな組織に入ってもまだ、このグローという男は悩んでいるようだった。

 

 『手始めに、君の助けになりたいと考えたんだ。畑を踏んで、手助けどころか迷惑かけちゃったしな』

 

 『レンズ豆』

 

 『え?』

 

 これは安価で、麦の四杯の収穫量を誇り、どの家庭でも出てくるらしいレンズ豆の種子。どこにでもある、どこでも育つ農作物。

 

 『これ、レンズ豆の種子だったのか…マジか。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 掲げる大盾、リスム支部の敷地内には訓練用の中庭がある。その端っこには、グロー支部長の個人用畑としてあの時と同じほどの小さな畑が存在する。育てられているのは、勿論あの時と同じレンズ豆だ。

 

 忠誠を誓った、感銘を受けた、まではいっていない。でも、人生早く終わることしか考えていなかった私に一つの目標を授けてくれた。人助けがしたくても、やり方が分からず畑の周りをウロウロするしかできなかったあの人を逆に助けてやること。

 

 助け合い、そんな単純なことをできる環境とは言い難かった。そして、簡単なようで難しいそれを私はあの人にしてやりたかった。その最大の機会こそ、今である。

 

 リスムが割れる騒動、戦争のきっかけ、どう転ぼうが多くの人間が悲惨なことになる。別にこの自治州がどうなってもそこまでなにかを思うところはないが、それを支部長が望むことはないだろう。

 

 三階まで足を進める。例の甥っ子はどこにいるのか少し探す必要もあるかと考えたが、その必要はなかった。

 

 三階廊下に充満する血臭、投票を管理していた職員達であろうか、綺麗に首筋を裂かれて血溜まりができていた。

 

 「これは」

 

 転がる死体に団員の一人が近づき、仰向けに倒れている男性の顔を確認する。見覚えのある後頭部、顔を見た後悲痛な顔をして顔を左右に振る。見覚えのある顔と、このような形で再開したくはなかったがやることはある。

 

 「鍵は?」

 

 「……持っていない。服の中にも無さそうだ」

 

 身内が殺されている。それなのに、状況を整理して今は感情的になる場面ではないと静かに怒りを内心に隠す。冷静沈着なのはありがたい、民衆の盾たる者が浮足立つ訳にはいかないと常に訓練で叩きこまれていた成果が悲しい形ででていた。

 

 「そう……瞼を閉じさせて」

 

 手向けになるかは、分からない。ファンだと言われたが、この行為にどれだけの意味と価値があるかは分からない。ただ、私の荒れそうになった感情を宥める為だ。この静かな怒りを、可能な限り宥める為の。

 

 行政庁舎の前で騒動がおこり、そこに注意が向いている間に何者かが侵入したのか、元々内部に下手人がいたのでこのタイミングに動いたか。

 

 「素早く、静かに行くぞ」

 

 レイピアを抜く。軽く、しなやかで、狭い通路でこそ真価を発揮するこの細剣は、体格的には普通の武器も銃器も扱うのに苦労するこの身体には合っていた。意図した訳ではないが、ハルバードに山刀といういささか屋内や狭い通路では扱いにくいグロー支部長の戦闘スタイルを補完することもできた。

 

 三階、奥から三部屋め。目的地に向け進んでいる時、目当ての部屋からやたら腕が細長い人影が現れた。

 

 見た瞬間、背筋に怖気と寒気。行動を見るより前に身体を停止させずスライディングをするように滑り込む。

 

 その瞬間、人影の身体が軟体のように蠢きダランと伸びた両腕がその可動範囲を無視して枝分かれをしながら鞭のようにしなった。対応が遅れた後方の団員達の首から上が宙を舞う。しなる両腕には幾本ものナイフが突き刺してあり、腕が振るわれたことでその刃が肉と骨を両断した。

 

 「なんだこいつは!……こいつが!」

 

 銃剣突きのライフルで腕のナイフを弾き、射撃をすることで反撃を試みる。まるで骨等無いとでも言いたげに胴体をぐにょりと曲げて弾丸を回避する。飛び上がり、天井に足から生やした刃を突き刺して張り付く。

 

 「何者かは知らんが、庁舎の職員を殺害した重要参考人として、掲げる大盾団員の殺害の現行犯として拘束させてもらう!投降しろ!」

 

 本気で投降を狙っている訳ではない。だがしかし、少なくとも声掛けに対する反応で多少の人物観察はできる。

 

 声を荒げるか、鼻で笑うか、無表情を貫くにしても表情の変化は感じ取れる。言語が通じなくても、異国の言葉を理解できているかいないかくらいの情報は、完全ではなににせよ顔から読み取ることができる。

 

 その声に反応したのか、首の可動域を無視してグルリと能面のような無表情な顔をこちらに向ける。顔立ちは帝国系にも、王国系にも見えない。王国よりもさらに東方にある顔立ちに思えるが、リスムという土地は交易や鯨油の買い付けで異国からも人が訪れる。正確な出身地は分かりそうにない。

 

 だがしかし、開け放たれた口からは『あ゛ー』といった獣よりも知性を感じない意味のない音声が漏れるのみであった。開け放たれた口から、ダラダラと唾液が垂れている。

 

 『あ゛ア゛!』

 

 天井をガサガサと蟲のように移動してきたと思ったら、四肢から生やした刃を振り回しながら錐揉み回転をしながら突っ込んできた。これだけの移動能力があるのならば、玄関等通らなくても壁を張り付いて昇り窓から侵入できるか。

 

 後方に飛び回転を回避し、短く、素早く走る歩方で距離を詰める。東方武術にある刻み突きと呼ばれる技法を、レイピアの技術と組み合わせた。本来ならばちゃんとした技術があるのではと思うが、実戦では正確な技術を習得するよりも身近で見た動きを組み合わせた方が素早い。

 

 競技用の技術ならば目にする機会もある。競技は競技で馬鹿にするつもりはないが、戦闘では身体のどこかにかすれば得点となる競技技量よりも踏み込みから深く突き刺す技術の方が重宝する。

 

 ガチン、という音が響いた。レイピアの切っ先が前歯で止められた。こんなことをすれば歯茎と歯の方が砕け、顎が外れるとは思うが現実は押しても引いてもビクともしない。どれだけ頑丈な顎と歯をしているのか。

 

 「なんて化物だ」

 

 「そのまま動くな!」

 

 左右の腕があげられるが、その前に後方から銃撃音が響く。ライフルの弾丸が能面のような表情に着弾、眼球を貫き脳髄と頭蓋の破片が血液と共に後方に飛び散った。

 

 「っ!?」

 

 絶命したかと思った瞬間、それでも切っ先を噛みしめる顎の力に緩みがない。それどころか、あげられていた左右の腕が急所を狙いそのまま振るわれてきた。

 

 「マリアベル!」

 

 ライフルにつけられた銃剣で、片方の腕を迎撃し腕についた手甲で刃のついた鞭を弾く。両の腕が軟体により防ぎきれないナイフに裂かれたがそれを気にせずに前進した。

 

 「甥の仇だこの野郎!」

 

 そのまま顎を蹴り上げられ、無防備な胴体を晒す。口内から抜けたレイピアを心臓に突き刺し、連続で首筋と股間も突き刺した。

 

 異形のような男はビクビクと激しく痙攣し、ようやく動かなくなる。亜人とも人妖とも違う、既存の生命体とも違うようななにか。断末魔も漏らさず絶命するまで陸にあげられた鮮魚のように痙攣するなにかを、理解することはできなかった。

 

 「クソ、薄気味悪い。なんなんだこいつは」

 

 「分からない。人間なのかどうかも。医療協会や医療組合、もしかしたら私達よりも辺境や珍しい生物に詳しい辺境警備隊の豚鬼に見せればなにか分かるかもしれないけど」

 

 だが今の最優先事項は、投票結果を確保し真実を明らかにして公表すること。目的の部屋の前に辿り着いた瞬間、嗅いだことのある臭気を感じた。

 

 鯨油は日にちが経ち悪くなると、臭気を発するようになる。この臭いは、まだそんなに酷くはないがほんの微かにその香りが室内から放たれていた。

 

 扉を蹴り開けると、男が一人立っていた。観念したのか、それとも勝ち誇りか、皮肉な笑みをニヤリと浮かべる。その手には、火がついた小さな松明が握られていた。

 

 「やめろ!」

 

 制止の声と同時に火が落ちる。モスコーや周辺の村から届いた投票結果が入った、こじ開けられた木箱が火により一気に燃え広がった。中央にいた男は、うめき声一つあげずに室内で倒れ、炎に巻かれ絶命する。どこの誰だかを分からせないように、声一つあげることなくその全身を火にうずめて下手人が誰なのか証拠一つ残さず共に消えるつもりのようだった。

 

 「そんな!投票結果が!」

 

 「こうなっちまえば回収もできねえ!ここにいたら火にまかれるより先に煙にやられる!行くぞ!」

 

 「待てクスルド!せめてなにか一つだけでも証拠を持ち出せれば!」

 

 「なにかもクソもあるか!グロー支部長だってお前の亡骸と引き換えの証拠が欲しいと本気で思っているのか!いますぐ、下にいる職員達を避難させて俺達も逃げるぞ!」

 

 赤々と燃える炎の中、リスム自治州の全住民による投票は舌のようにうねる火炎で灰となっていった。リスムの住民はどのような道を選んだか、そして何者がこの投票結果を灰にしたのか。それは、誰にも分からなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リスム住民投票。帝国派である現政党の代表ノストラ=トルメシアは改めて不正投票により票数が操作されたいたことを公式発表により改めて公表する。

 

 野党議員はそれに反発。現政党の住民投票という自治州民の民意を問う為の手段を軽く見た故に、不正がおこったのではないかと意見をだした。さらには、帝国にとって都合の悪い結果がでた為もみ消したのではないかと追及がおこる。

 

 掲げる大盾の代表、グロー=カザルタフはあの日リスム行政庁舎でなにがおこったのかを発表する。しかし、帝国に母体を置く組織から提供された、目撃情報のみという曖昧すぎる情報にリスム自治州の住民間でも議論が巻き起こった。

 

 ありのままを全て公表したとしても、人種もあいまいな下手人に化物の存在はとても額面通りに受け入れられるものではなかった。あの化物も、火が燃え広がった行政庁舎三階の火事にて燃えあがってしまった。

 

 連日のように現政党の帝国派閥に対して抗議を行うデモが起き始め、リスム行政庁舎前を埋め尽くす。鯨油産業を支える人員が連日のデモにまわったこともあり、ストライキまで起き始める加工場まで出始めリスムの経済と信用は破綻していった。

 

 これに業を煮やしたノストラは、遂にデモを違法のものだという見解を示し解散を促す。しかし怒りに燃える市民に、法という観点からみれば正論ではあるそれが通じるはずもなかった。

 

 事件から数日後、遂に警備隊や治安維持組織とデモ隊が激突。死者二名、逮捕者二十八名、重軽傷者は数えきれずにでる。掲げる大盾の指導のもと、ドラエフ警備保障やその他の民間武装組織が争いの仲裁に奔走し更なる犠牲者が出る前になんとかその日の事態を収めることに成功する。

 

 その翌日、デモ隊が過激化すると同時に警備隊の半数以上の人員がストライキをおこす。足りない人員を埋める為民間武装組織を頼るもどこもこの依頼を受けることはなかった。

 

 当然だ。民間武装組織は、例えそれが建前であったとしても市民を護ることを第一にあげている。どんなに大金を積まれても、護るべき市民とぶつかることはとても受け入れられるものではない。

 

 追い詰められたノストラがとった手段は、更なる悪手であった。冒険者組合の人員を、足りない警備の穴埋めとしたのである。

 

 冒険者組合の人員と、民間武装組織の人員を同一視してはいけない。統制がとりきれない有象無象により、デモの鎮圧に四十名を越える死傷者がでてしまう。これには、ストライキをおこしていた警備隊が反応、護るべき市民に武器を向ける冒険者組合から来た穴埋めの者達と市街戦がおこってしまう。

 

 連合王国総帥、ダグラス=オウルベアはこの事態に一つの声明をだす。

 

 連合王国を宗主国にしたい王国派閥、それが中心であるデモ隊に被害がでたということで、同胞を護るべきという声明をだしリスム自治州に王国兵を派遣し事態を収めることを公式発表する。

 

 それに対して、帝国は非難声明をだす。国交断絶やあらゆる経済制裁案をだし王国を留めようとするが、それに王国が反応することはなかった。唯一届いた声明は、【自国民】を護る為ならばどうのような制裁も無駄であると。

 

 王国派閥とはいえ、リスム自治州民。彼等を自国民と呼ぶことは実質リスム併合を叫んでいるに等しい。国交断絶と同時に、リスムの治安維持を名目に王国軍を派遣。帝国も遺憾を示し、実質的な強制的な支配をリスム自治州民は望まないと現政党から救援を要請され帝国軍を派遣。

 

 こうして、リスムをきっかけに、戦火が各地で広がることとなった。




 今日でこの作品も一年が経ちました。

 一年前から作品を応援してくれた方、途中から読み続けてくれた方、本当にありがとうございました。

 最初は閲覧数、お気に入り、評価、それらを気にせずに完結させようと考えていましたが、上を見ればキリがない状況何度も心が折れかけましたが、感想や評価に想像以上の支えになりました。

 健康を害する等、よほどのことがない限り時間をかけて完結させるつもりでいます。今後とも、よろしくお願いします。


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 拝啓、天国のお母様。

 

 現在私は、ハボックという元々人間が住んでいた街に住んでいます。お母様がまだ存命だった頃は、ほんの小さな開拓村だったのですが何時の間にか人間達は大きく立派な街並みを築いておりました。現在は瓦礫が多く暮らしやすくなるように片づけをしている最中です。

 

 噂に聞く帝都、リスムはもっと広く大きく高い建物があるということで私には想像もつきません。

 

 人間との闘争が始まってから、初めての大戦果でありますがこちらの傷も決して軽くはありません。先の戦いでは、詳しい事情は存じていないですが沢山のエルフが犠牲になったとか。私は必要最低限しかエルフとは関りはありませんでしたが痛ましいものです。

 

 さて、何故コボルトの私が洞窟を出てハボックに来ているのか。それは、沢山の死傷者がでたということで治療と葬儀や埋葬のお手伝いをしにきたからです。族長はいかなくても良いと言っていましたが、共に過ごした中の人達を見捨てたり無関心になるのは、私達血族の矜持に反すると考えました。ですが、実は最近一つ困ったことがあります。

 

 「ねえミルフ、そろそろ約束守ってくれると嬉しいな。今は、帝国の襲撃も無いし時間もあるからさ」

 

 この子です。

 

 一見すると、フワフワな灰色の髪の毛と小柄な身体の可愛らしい女の子ですが、身体中大小様々な傷痕や火傷痕があり、なによりも暗く濁った怖い瞳をしています。この前ジークリンデ様とひと悶着をおこし顔半分が潰れて可哀想なことになっていましたが今は傷跡一つなくなっています。

 

 傷をつけたのがジークリンデ様なら、治したのも同一人物。やはりあの方は、私の理解が及ぶ方ではないです。竜が、人を庇い命を落としたということも含めて。

 

 閑話休題です。

 

 「ナ…ナンノコトカナ~」

 

 「影を使う技術のことダヨ~」

 

 目を反らしたら、回り込まれました。逃げようにも、この子は猫の特徴を持つ半獣。単純な脚力では適わないうえ、隠れてもあっという間に見つけてきてしまいます。ああもう、顔は笑っているのに目が笑ってなくて怖い。

 

 ですが、私にもコボルトのシャーマンとしての誇りと使命があります。一子相伝のこの技術、教えてほしいとせがまれても子孫以外にはホイホイと教えてはいけないのです。例え怖くても、それだけは譲らないようにキッパリと断る必要があるでしょう。

 

 「あ…あのね、クーラちゃん。あの技は、門外不出ってことでさ、おいそれと人には教えちゃ駄目なんだよ。だから、教えてあげられないの」

 

 「へぇ」

 

 「そ、そろそろ夕ご飯の支度に行かなくちゃ。沢山の人達がいるから、大作業だしね!うん!じゃあクーラちゃん、またね!」

 

 可能な限り、全力で逃げました。勇気を出して精一杯お断りしたつもりです。通じてくれると、ありがたいのですが。

 

 ハボックの街は、大規模な爆発で大きく吹き飛びました。それでもあの戦争から十日以上は経っており、再建できそうなところは少しずつ再建を進めています。

 

 街を護防壁、臨時の武器庫や食糧庫、戦う者達の駐屯施設。彼等はまだ帝国軍に戦いを挑むようです。ここから先は、この地方から出ていく為私が関与すべきことではありませんがこれ以上望むべきものがあるのだろうか、なんて考えてしまいます。

 

 皆、虐げられてここまで逃れて来たといっていました。私の祖先も、同じように追いやられ数を減らしたと聞いています。この闘争は生存競争としては正しい側面があるのかもしれません、右の頬を殴られたら左を差しだせなんて言葉があるようですが、持たざる者はその左の頬こそが最後の護るものでもあるのです。

 

 私は殺し合いは怖いです。ですが、それを行う理由は多少理解できてしまいます。お母様は、どうお考えでしょうか。今こそ、一番お話を聞きたいです。

 

 「はぁ」

 

 「約束、破るんだぁ」

 

 「ひゃひィ!?」

 

 後ろ手で武器庫の扉を閉め、ホッとしたタイミングで急に真上から声がかけられました。食糧庫に行くと見せかけてブラフをかまし、武器庫に逃げ込んだのですがどうやら拙い嘘はお見通しだったようです。天井の梁に足をかけ、ぶら下がっておりそのままクルクルと空中を回転しながら降りてきました。

 

 「意外と酷い人だよねミルフは、こんな小さい子との約束を反故にするなんて。小さい頃のトラウマとか理不尽って、人格歪めちゃうんだよ」

 

 もう既に手遅れじゃないの?という言葉を口にしたらこの武器庫から生きて出られないような気がします。

 

 「ああうう、でも約束って、私そんなことしたつもりも覚えも…」

 

 「本当に?」

 

 「ひぃえええ」

 

 「ホントウ?」

 

 あ、これダメな奴だ。断ったら、ここで不慮の事故に見せかけられるやつ。なにせ凶器は、ここにはいっぱいあるのですから。

 

 「しました~ごめんなさい~!」

 

 「ん」

 

 拝啓、お母様。どうやら私には一族の掟を守り通すことは難しいようです。差し出された手を悪手した瞬間、力強く握られました。小兵、女の子とは思えない荒れた手と力強さに、格の違いというのを教えこまれている気分です。

 

 「ありがとう、大好きだよミルフ。明日の早朝からでも良いかな?」

 

 「え?」

 

 ここは、意外でした。クーラちゃんの性格から、今からでもシャーマンの影使いを教わりたがると思っていたのですが、時間をおくとは思いませんでした。時間をおかれるなら、今からでも逃げられるかな。

 

 「今からじゃなくて良いの?」

 

 「夜の間は、なるべくランザの傍にいてあげたいの。例え拒否されようと、なにがあろうとね。あの人の傍は誰にも譲れない、入らせない。自分だけのものだから…ね。ミルフ、当然貴女も近づいたらダメだからね」

 

 「はぁ」

 

 近づきたくても、近づけるような存在ではない。ランザという人は、今はもう私には理解できない程影が人間離れしてしまっている。人が竜になるなんてまるでおとぎ話の世界であるが、一日ずつ変化が進んでいました。

 

 元からあまり近づきたい存在ではなかったが、ますます近づきたい存在ではなくなった。この件に関しては、クーラちゃんの杞憂であると百パーセント言えるかな。

 

 「じゃあまた、明日の朝によろしくね」

 

 武器庫の扉を開けて、クーラちゃんは出て行った。なんであんなに力強く生きれるのか、分からない。それでも、危うさを感じるのは確か。そして、なにより死んでほしくないとも思っている。苦手でも、多少なりとも関りをもってしまったのだから。

 

 お母様。多分、私が死ぬとき向こう側に行ったら先祖のみんなで説教が待っているのでしょうか。ですが成り行きとはいえ、ひとまず教えるからには全力で教えてみようと思います。……適当にやったら本当に殺されそうですしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハボック周辺は落ち着いたものだった。時折敵の偵察らしきものが遠目で見えたりしているが、それ以上の干渉をしてくるでもなく態勢を立て直すには充分な時間を確保できた。

 

 日が傾いていき、空が濃い群青色になっていく。北の地域故か日が落ちるのも早く、夜間はそれなりの寒さとなるがこの身体になってから寒暖差の影響はあまり受けなくなっていた。全裸が標準装備だったジークリンデを思い出し、これだけ寒暖差等の環境に強いのならば衣服はファッション以上の意味はなかっただろう。

 

 無論、俺は全裸に等ならないが。

 

 「身体は、いいのか?」

 

 身体の変異はまだ少しずつ続いており、袖で隠された腕の中は爬虫類のような鱗が並び始めていた。鉄甲のような硬さであるが身体の一部であるためかあまり重さを感じない。首元にも皮膚の変異が進んでいる様子であり、このままでは顔まで侵食されてしまうのではと考えている。

 

 ジークリンデやランドルフは人の姿に化けていたが、どうやればあれを真似できるかは分からない。問題にならないうちに、一度教えを乞いに行くべきだろうか。

 

 「こちらの台詞だ。エルバンネ、お前はもう大丈夫なのか」

 

 ハボックの南側、帝国領を見張ることができる木製の防壁。見張る為に増設させた足場の上で空を眺めていたら、横から声をかけられた。声の主はエルフ達のまとめ役であるエルバンネであった。

 

 どこかの家屋に残っているのを拝借したのか、その手にはマッチが握られており、もう片方の手には乾燥した短い茶色い木の棒が握られている。いや、よく見たら細い棒状のものに着色した布が巻かれているようだった。

 

 それ以上の会話もなく、エルバンネは棒状のなにかを口に加える。マッチで先端に火をつけ、白煙を吸い込みしばらくしてから口から煙をだした。どこか、遠い目をしながらその行為を繰り返す。

 

 「それは?」

 

 ハボック攻略戦、とでも名付ければ良いだろうが。あの戦争後傷が深かったものの命を繋ぐことができたエルバンネは療養を余儀なくされていた。こちらもこちらで、身体の変異に対応する為に引きこもったような生活をしており接点はなかった。

 

 向こうは療養にある程度目途がつき、こちらも落ち着いてきた。そのうえで外出し、偶々出会っただけだ。なので、こうして、恐らく嗜好品の類であろうなにかを嗜むエルバンネを見るのは初めてであった。ただでさえ、俺達の関係は最悪かそれに近いものであるのだから。

 

 だから、なんとなくこうして声をかけるのも、もしかしたら向こう側としたら、舌打ちしてしまうような問題だったのかもしれない。だが向こうは、特に気にした様子もなく口を開いた。

 

 「巻き木だ。エルフの間で製造していた嗜好品でもある」

 

 「巻き木?」

 

 「ああ。エルフの里で特殊な育て方をした樹木を薬液に浸した後乾燥させ、粉末状に調合した薬をまぶした後カエデと煮込んだ布地で巻いたもの。製法を担当していた者が亡くなり、里が消滅した今は数に限りがある、途絶える文化だ」

 

 「隙あらば、痛いところついてくるな」

 

 この言い方では、恐らく冒険者時代のエルフ達との衝突を言っているのだろう。発遭遇では向こう側に殺されかけ、その後はこちらから襲撃におもむいた関係だ。エレミヤの裏切りがなければ、発遭遇時に殺されていただろうことを考えると謝罪をするのも間違いなような気がする。

 

 エルバンネが懐からもう一本の巻き木を取り出す。マッチ箱と共にこちらに投げ、二つを受け止める。

 

 「くれてやる」

 

 「良いのか?貴重な品なのだろう?」

 

 「ああ、最後の一本だ。味わって吸え」

 

 何故ここで、これを俺に渡したのかを聞くのは無粋だろう。敵対していたとはいえ、こちらは一つの集落、文化を潰したのだ。それを敢えて渡してきたということで、罪の意識を感じてほしいのかもしれない。

 

 見よう見まねであるが、巻き木を口に加えてみる。芳醇と言っても良いのか、心地良い木の香りが鼻孔に届く。マッチを擦り火を灯し、巻き木の先端につけてみる。立ち昇る煙を肺に吸い込んだ瞬間、身体が急激に拒否を示す。

 

 煙を吐き出すようにむせ込んでしまい、慌てて巻き木を口から離ししばらく荒い息をしながらエルバンネの方を睨みつけると、やはりなと言いたげな顔をしながら肩をすくめていた。

 

 「慣れないうちはそうなる」

 

 「先に言えやこの野郎が」

 

 これは、吸えたものではない。だが貴重な品ということで捨てるのも忍びない為、取り合えず口に加えて香りだけを楽しむことにしておく。なんだかんだ言って、やはりこの香りは嫌いではない。

 

 しばらく、沈黙が続きただ紫煙のみが空を漂った。会話をするでもなく、ただ並んで煙を味わうか香りを楽しむのみ。こうしてエルフと並び紫煙をくもらす等、想像したこともなかった。エルフ嫌いのエレミヤも確かこの手のものは持っていなかった筈だ。

 

 「私の種族はもう、戦力としての体をなしていない」

 

 エルバンネが口を開く。先の戦いにおいて、エルフの集団離反とそのほとんどが爆発で吹き飛んだことにより反乱勢力のパワーバランスは崩壊した。今までは半獣、エルフ、コボルトの大きな三つのまとまりにより良く言えば堅実、悪く言えば動きが鈍い側面があった。

 

 だが今、コボルトは霊山から出ることはなく、エルフは半数を軽く越える数が死亡した。勢力の主導権は完全に半獣が握っており、このハボックの再建も彼等が中心になって進めている。同盟から来たという使者も手厚く扱っており、そのことを快く思わない声もあるが封殺されてしまっていた。

 

 確かに、この先戦い抜いて行くつもりなら同盟と連携することは必要不可欠だろう。帝国軍の残留物や廃材に埋まっていた資材や食料等で今は問題なく食いつないでいるが補給をもらえなければジリ貧なのは変わらない。

 

 連合王国と同盟を結んでいる国では、一番近いのはここから西方にグルト王国という地域がある。そことの補給路さえ確保することができれば、物資はもとより他国とも連携して帝国にぶつかることができるという。

 

 ガランは好転した状況に喜んでいるが、これ以上首を突っ込むのはいかがなものか。確かに帝国の圧力に抵抗するにはこの流れに乗ることができたならば上々だろう。だがしかし、大きな流れに巻き込まれることで更なる苦難を背負い込むはめにはならないだろうか。

 

 「対帝国の同盟との関係強化を企んでいるガランは好都合だろうし、大きな派閥になった半獣相手では多数決になったとしても今後分が悪い。私個人の勘としては、あまり連合王国に深入りするべきではないと考えているが言葉を尽くしたところで封殺されてしまうだろう」

 

 「だろうな。向こうも向こうでいろいろ言葉を尽くしちゃいるが、結局情勢次第でどう切り捨てられてもおかしくはないだろう。それを理解したうえで、腹の探り合いをするくらいの度量があるなら話は別だがな。まあ、後は頑張ってくれと言ったところか」

 

 だが、ここから先は彼等の問題でもある。俺自身、この戦争にはこれ以上関わる気はない。目先に迫る危機を退け、これからは時期を見て身をやつしながら情報を集めてまたテンを追いかけるつもりでいる。

 

 殺す為ではなく、義務を果たす為。だいぶ遅れてしまったが、そろそろ俺の過去に清算をつける時がきた。元々この勢力とは外様の関係、長居しすぎると、抜け出す機会を失ってしまうだろう。ランドルフへの義理も、果たせたとは思う。

 

 「後は頑張ってくれか。他人事のように言ってくれる」

 

 「もう半ば他人事だ。悪いが、帝国相手に斬った張ったする程怨みも暇もない。ガランやお前等には悪いが、これ以上深入りはできない」

 

 「そうか、他人事か…そうだな。話があったんだが、やめておこう」

 

 吸いきった巻き木を布に包んで懐にしまう。製法は失われたと言っていたが、物さえあれば何時かは再現できると考えているのだろうか。

 

 「なんだ?気になるところで話を区切りやがって」

 

 「聞いたところでどうしようもないだろう。正式に、お前にこの反乱勢力の頭になってほしいと考えていただけだ」

 

 「なに?エルフがそんなことを考えて、皆が納得しているのか?」

 

 「帝国は勿論、連合王国とその同盟勢力に対して我等の立場は非常に弱い。帝都で暴れた実績があり悪竜を継いだお前なら看板として申し分ないと考えていた。こと、この状況において個人の怨恨等忘れるべきであろうと考えていただけだ。今なら生き残りの同胞もお前を怨む者は少なくなり、ガランも貴様が率いるなら納得するだろう」

 

 だがしかし、それはもう途中でこの組織を降りることはできないということだ。そこまで背負い込んでしまったならば、後には引くことができない。俺を目の敵にしている帝国も問答無用で勢いを緩めずくるだろう。

 

 「俺には人を率いた経験なんてない。分不相応だと思うがな」

 

 「自身がどう思っていようが、異形の力を手に入れたからには安寧に身を置く等不可能だ。ましてや、帝国に狙われている以上敵を同じくする我等の元にいた方がなにかと都合が良いのではないか?」

 

 「都合が良い、悪いで考えてなんかいないんだよ。ただ、俺にはお前等の命を預かるような責任を持てないってことだ。例えお飾りだとしても首領は首領。あまり、向いているようには思えない」

 

 クーラ一人でさえ、手に余るというのにだ。

 

 ジークリンデとの交流は、彼女の内面を大きく変えた。いや、開花させてしまったのかもしれない。あれからクーラは、離れている時間もあるのだがあれから日に数時間以上はべッタリとまとわりついて甘えてきていた。

 

 宣言通り、一日一度以上は愛を告げてくるし隙を見せれば性的な接触も辞さない勢いである。たった一人の女の子を上手く導いてやれない不器用な人間が、今更多数の命を預かる立場になんて立てるものだろうか。

 

 「悩みか?」

 

 表情からなにかを読み取ったか、それともこちらの状況を分析していたのか。

 

 「まあな」

 

 「お前が悩むとなれば、今はあの半獣の子くらいだろう。どうやら色恋沙汰に傾倒しているようだが、受け入れるべきではない、と心には決めているんだろう?」

 

 「ああ。普通に暮らして、普通に恋愛して、普通に生きていく。そんな自分ができなかった人生をあの娘には送ってほしかった。だが、どうやら距離感を間違えていたみたいだ。こればかりは、ジークリンデの背中を押した言葉だけのせいにはできんよ」

 

 あの悪夢でクーラを助けたことは、クーラ自身の中には様々な意味を含んでいたようだ。そしてジークリンデの今際に残した言葉によりそれを隠している為の歯止めさえ消えてしまった。

 

 ただまともに生きてほしいだけ、その手助けをしたかっただけだった。帝国に狙われ悪竜を継ぎ、復讐の為ではないといえこのような情勢下でテンを探しに行こうと考えている俺についてくるということは、まともじゃない俺に付き従わせること。まともな生活とは程遠いものだ。

 

 元々モスコーからクーラがついてきた理由としては、テンになにかをされた彼女が人妖に変貌しないように、解決法を探す為でもあった。あの悪夢の世界でテンからの影響はなくなったようであり、楔がなくなったのだからまともに生きてほしいと思っている。

 

 だが、今度はジークリンデに俺を見ているように頼まれてしまった。離れることのできない、大義名分をクーラはまた一つ得ているような状況だ。

 

 「上手くいかねえもんだよ。できたらガラン辺りに面倒見てもらいたいものだけどな」

 

 「まだそんなこと言ってるんだ」

 

 エルバンネとほぼ同時に、後ろに振り向く。ニタリと笑ったクーラがいつの間にか立っており、当たり前のように腕に絡みついて来た。とっさに振り上げようとするが、それよりも早くクーラが動いた為避けることができなかった。ここまで来たら、無理矢理動かせば今の膂力を考えると彼女が怪我をしてしまう。

 

 恐らくそこまで計算ずくで絡みついてきたのだろう。頬をすりよせる彼女の頭に軽く手をおき、あまり意味がない牽制をしておくしかない。

 

 「なにをしにきたんだ?」

 

 「自分がランザの近くにいることに、理由が必要なのかな?と言いたいところだけど、今回は用事も一つある。ガランが今後のことを話したいからって、天幕に呼んでいたよ。それと、無視できない客も一人きているからさ」

 

 「無視できない客?」

 

 「うん」

 

 蕩け顔をしていたクーラの顔が引き締まる。真剣な表情から放たれた名前は、少々予想外のものだった。

 

 「ガスパルが、ここに来ているよ。ランザに、話したいことがあるんだってさ」

 

 人妖探しにおいて、あてにしていた人物。モスコーの騒動からは顔を合わせることがなかったが、こんなところにきていたとはどれだけ行動が読めない奴なんだ。

 

 「すぐに行く」

 

 ガスパルは、恐らくテンと繋がりがある。元から人妖の情報に詳しい奴ではあったが、ノックでおこった騒動を経て予感は確信に近いものをもっていた。そんな奴がこの機会に接触してきたことは、意味がある筈だ。

 

 ガスパルとガランが待つ天幕に向かう。いったいどのような話をしにきたのか、期待が胸をよぎった。

 



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 「おう、久しぶりだな。随分とナリが変わったもんだ。似合っているんじゃねえの?」

 

 相も変わらず、と言いたいところであったがその姿を見た時一瞬目の前の男が誰だか分からなかった。無精に生やしていた髭を綺麗に整え、古くてボロのコートは噂程度しか知らないが社交界でも通用しそうな、燕尾服となっていた。呑んだくれのとっつぁんが、どこかのちょい悪貴族風に変貌している。

 

 「ナリが変わったのは、お前の方だろうガスパル。色々聞きたいことがあるが、まずはその恰好を聞かなければ話が進みそうにない」

 

 「こう見えてちょいとばかりあちこちに伝手がある身分でな。出会うのにもイチイチ正装が必要なお偉方もいる訳よ。面倒なもんだがな」

 

 今こうして、人外の身になってから改めて対面にくると分かる。所作や行動における隙の無さは、昔から感じていたが、今肌に来る感覚はまるで人外を相手にしているようなプレッシャー。人妖でもなく、吸血鬼でもない。目の前の存在は、人間という器になにか途轍もないものを押し込めているような雰囲気だ。

 

 近い存在を考えるならば、テンではなくランドルフ。あの幼い容姿を侮れば強大な竜としての力が襲いかかるだろう。それと同類の圧を、ガスパルから感じていた。

 

 クーラがさり気なく動き、天幕の端に移動する。腕を組みながら興味がないふりをして、密かにガスパルの死角に陣取った。敵か味方か分からない相手は、暫定で敵判定したのだろう。

 

 「おいおい、持ちつ持たれつで仲良くやった間柄だろうが。特にクーラちゃんよ、そのナイフぶら下げてるってことは使い勝手は良いんだろ?製作者兼プレゼントしてやった間柄なんだから、そんなに警戒しないでくれや」

 

 クーラが舌打ちをした。ナイフというのは、直刀と共に武器としているルーガルーの牙を削りだしたナイフのことなのだろう。以前、リスムから帝都へと移動する道中一度使わせてもらったことがあるのだが元は牙とは思えないような鋼鉄にも劣らない切れ味を持つ刃物だった。

 

 手入れにも手間がかからないようで、素晴らしい一品であるのだがそれでガスパルに懐柔されることもないらしい。得体のしれない相手故に、クーラの判断と態度を責めることはできない。

 

 「旦那。やはり知り合いなのか?」

 

 天幕で待っていたガランも、ただならない様子の俺達を見て口を開く。ガスパルがどういう立場で、ハボックに入ってきたのか気になるところだ。

 

 「元々俺は、ある目的の為に旅をしていた。その頃、時折世話になっていた情報屋で多分今大陸で一番胡散臭い男だ」

 

 「情報屋なぁ。見てくれは、どこかのチャラい貴族風だが」

 

 「まあ再開の挨拶はこれくらいですましちまおうか、本題に入りたくて仕方ないってツラしていやがるぜ?」

 

 掲げる大盾やその他の情報網ですら、人妖が暴れた後。所謂、事後の情報しか持ちあわせていないことが多かった。ある意味それは当たり前のことで、腕が悪い訳ではない。しかしこいつは、それよりも早く、ことがおこる前からなにかを掴んでいることが多かった。

 

 情報屋というのは、基本的に居を周辺を根城にした専門家が多い。例えば、港湾都市のリスムにはリスムを専門にした情報屋が、商業組合には商取引の専門家、両替商には金の含有率や国によっての銀貨の価値の変動を探る情報屋がいるものだ。

 

 基本的にはモスコーに居を構えていたこいつが、広い大陸のあちこちにある人妖の情報を掴んで来るのはやはり違和感のようなものがある。かと言って、部下を使っている様子も見たことがない。

 

 人妖を専門にしているとはいえ、国家間をまたいで情報を集めることができる手段は異様だ。それこそ、大国における諜報部のような情報網を持っているとしか思えない。

 

 もしくは、ネタ元から直接の供給があるかだ。

 

 その背景を、もっと早くに暴くべきであったのか。例えば、モスコーの吸血鬼事件より前に捕縛して尋問をかけテンの居場所を吐かせる。

 

 だが逃げられてしまえば、間接的にとはいえテンに繋がる貴重な情報源を永遠に失うことになる。そのうえ、鎖を扱う自立魔具を器用に駆使するこの男は一筋縄ではいかないだろうという予想がついていた。

 

 結果論ではあるが、下手に拘束ないし尋問を行わなくて正解であっただろう。この男は、強い以前に得体が知れない気配がする。こうして、竜モドキのような存在になり始めてそれを感じ取れた。

 

 「まずは、挨拶代わりの土産をくれてやる。見覚えがあるもんだと思うぜ」

 

 懐から取り出されたなにかが、木製のテーブルを滑る。黒くて細い、少し厚みがある棒状のもの。手に取ってみるとそれは広げることができ、慎重に動かし広げていくと蒼い月が描かれた見事な絵柄の厚い紙がでてきた。

 

 「これは」

 

 「そいつは、扇という。極東の地で、あおいで涼をとる為の道具だ」

 

 見覚えがあるどころではない。異国の民族衣装をまとう狐の人妖、テンが何時も手に持っていた武器とも言えないよく分からない道具だ。しかしこうして触ってみると、木製の部分に見事な絵図が描かれているとはいえ紙が貼りつけられているだけだ。

 

 しかし、この木の手触りは分からない。この地でとれる木材では、こんな滑らかで軽いとは思えない。異国にしか生えていない樹木なのだろうか。

 

 「極東?」

 

 クーラが言葉を放つ。東の地から流れてきたものは、様々な国との交易品が揃うリスムでなら見たことがあるがそれでも馴染みのない国だ。

 

 「扶桑国、日出の国、芦の地。まあ呼び名はいろいろだ、その反りの無い短刀も向こう側から来たものだよ。何百年も内戦している、おっかね国さ。あまりにおっかなすぎて、島国と海というアドバンテージがあったとはいえ昔あった騎馬民族の襲来を二度に渡り単独で跳ね返し攻略不可能と判断させた程だ」

 

 「……もしかして、テンは」

 

 見慣れぬ民族衣装、この地で採れない素材で作られた涼をとる為の道具。今でこそ違うが、出会った当初は見慣れぬ黒髪と黒眼をしていたという事実。

 

 「テンは、その極東の国産まれなのか」

 

 「ご名答。ついでに言えば、人妖は元となる原種の生物が必ずいるというのは分かるな。ウォーリアバニー、ルーガルー、お前さんの変異元である原種は月を追いかけた狼であるハティ。ノックの森妖でさえ、ありゃ時代と共に虚ろになり姿を暗ました土着の山神の類だ。そしてテン、妖狐は向こうでは三国を股にかけ悪事を働いた大妖の化け狐が元の存在となっている」

 

 「俺はともかく、テンの素性にそこまで詳しいとは、もう隠す気も無い訳か」

 

 事情が分からず経緯を見守っていたガラン、何時でもガスパルを拘束する構えを見せていたクーラ。二人の半獣が、身構える。

 

 やはりこいつは、テンとの繋がりがあったのだ。それを知っていて、恐らくは彼女の要望で俺に接触していた。情報網が途絶える可能性、勝てるかどうかも分からない危険性を考慮して手をだなかった俺も悪いのだが、それでもなおもっと早くこいつを尋問していればという憤り。事情を知っていて何食わぬ顔をしていたガスパルへの怒りが溢れだす。

 

 先程結果的には手を出さずに正解と考えていたが、感情論ではそうも言い切れないらしい。それだけ、テンによる犠牲は大きすぎる。

 

 「よせよせ、俺達が相争ったところで得はしねえ。俺も、お前も、テンも、ここにいる反乱軍の皆様でさえな」

 

 「解放軍と言い直せ」

 

 「おっと失礼ガラン殿。では改めて、解放軍の皆様でさえ得はしねえ。喜ぶのは、エンパス教とレント=キリュウインくらいだ」

 

 想像の外から来た言葉に、眉をひそめる。レントの名前を聞き、クーラの顔が険しくなりガランが頭に疑問符を浮かべた。

 

 「エンパス教?なんぞそりゃ」

 

 「事情を知りたいなら後で教えるからさ、ごめんだけどちょっと黙ってて」

 

 「んだこらクーラ。と……言いたいところだが、マジで旦那やお前の事情みたいだしな。へいへい、黙ってるよ。だがここにはいさせてもらう。関係ないかもしれない情報でも、ここから南の出来事を少しでも掴んでおきたいからな。それに、暴れだしたらストッパーがいるだろ。止められるかどうかは別として」

 

 話についていけないガランだが、そう宣言してから木箱の椅子にどっかりと座り込む。話の内容はともかく、先程あふれ出してしまった敵意に反応したのだろう。ガスパルが只者でないということもなんとなくは分かっているのかもしれない。単純に、こんなところで暴れられても困るということだ。

 

 しかしこの状況で、エンパス教の名前が出てくるとは皆思わなかった。ただ一人、もはや一人と考えても良いのか分からない存在以外は。

 

 『ふふ、成程成程。使い道はあるだろうしねぇ』

 

 俺の中に巣くうもう一つの別人格となっていたウェンディが、予想通りだと言いたげに薄笑いを浮かべる情景が頭に浮かんだ。そういえば、今は混乱するからと伏せていた情報がまだウェンディが握っている。

 

 彼女曰く、自分の存在はもう俺の中に溶け込んでしまっているので、時が来たら思い出すということだがそのタイミングは未だ訪れていなかった。

 

 「それで、何故エンパス教やレントの名前が出てくるんだ」

 

 「ランザ=ランテ。テンは、お前の中にある殺意を育て上げることだけに、全てを捧げていた。妻子を殺めた復讐、憎悪。全ては最高の殺し合いを、いや…何時までも強くテンという存在を見て、意識してもらえるようにだ。あの娘は、どんな形であれお前に認識し、強い感情を向けてもらえることだけを生き甲斐にし、それのみを求めて行動をしていた」

 

 テンが、今まで幾度か目の前に現れて発した言葉。愛情、いや愛憎に飢えているという言葉。

 

 それは、挑発というくらいにしかとらえていなかった。しかし、ガスパルの言動が正しいとしたら真意は誰よりも一番に、自分を意識してほしいということ。

 

 悪夢にいたテンが語っていた。妻子を殺したという現実でおこしたテンの行動に理解を示し、私ならやりかねないと言ったという裏付け。テンは、本当にそれだけの為にアリアやミーナを殺したのみではなく複数の事件をおこしていた。

 

 嘘だと叫びたくなる感情を理性が封じる。悪夢のテン、他ならぬ彼女自身がそれを認めているというのだから。そして、悪い夢にいた儚い存在なれど、彼女を偽物だということだけは俺は認めない。本物の、裏付けだ。

 

 「続けろ」

 

 「おっと、もっと感情的になるもんだと思っていたが、やはり竜を継いだ存在は違うねぇ」

 

 ガスパルが薄笑いを浮かべる。俺が、ジークリンデを継いだということも先刻承知済みか。

 

 「お前は、ウェンディ=アルザスが用意した夢魔による悪夢の世界を打ち破り人妖になった。テンとしちゃあ、その段階で計画の大詰め。親子によるめくるめく殺し愛の世界に浸りたかったんだろうよ。だが夢魔の世界での家族との邂逅が、お前の中で変化をおこしてしまった。そこは俺も気になるところでな、あの悪夢の世界、多分だが最愛のアリアと幸せに成長したミーナをお前自身の手で殺さなければ出ることは叶わなかったと想像がつく。それで絶望と憎悪が爆発的に広がると思っていたんだがよぉ。なにがあった?」

 

 「興味本位で聞くな、話しとは関係ない」

 

 「だな、まあいい」

 

 張り詰めた空気となるが、クーラのみが悲し気に顔を少し背けた。あの世界の事情を知っているのは、俺とクーラただ二人だけ。この先、誰にも話すことはないだろう。テン以外には。

 

 「お前さんが人妖になるところはまでは、テンの計画通り。だがしかし、予想外のことにお前さんの中にあったテンへの殺意は霧散していた。そして、誰よりも優先して殺し合いをしてもらえると考えていた彼女を無視して、別の標的に攻撃を始めた。お前の義理の娘は、相当それに堪えたようで放心状態よ。そこに現れたのが、エンパスとレント=キリュウイン。奴等は目的の為にテンを拉致していった。呆けていた彼女は、なにも抵抗はなかったよ」

 

 クーラがどこか、納得したような表情を浮かべる。理由はともかく、エンパス教がテンの拉致を狙って動いていたとしたら、ランザの動きを観察するのは腑に落ちる。目をつけ始めたのは、恐らくはリスム近郊のクイーンビー討伐以降だろう。

 

 拉致をしたということは、テンにはなにか利用できる用途がある筈だ。それに気づいたのが、あの時だったか。モスコーでもカリナ=イコライを監視につけていた理由か。

 

 「エンパス教は、何故テンを拉致したんだ?いや…待て、これは」

 

 頭がグラッと傾く。思わず椅子に座り込み、肘をテーブルにつけ額を支えた。クーラが心配して、飛びつきなにか声をかけてきているがそれよりも大きく、ウェンディの言葉が脳内に流れた。

 

 『条件が、揃ったねぇ。君となった、ボクの持つべき情報、開示するのは今この時だろうねぇ』

 

 ウェンディ=アルザスが持っていた、知りえていなかった情報が思い出されてくる。彼女は、エンパス教、ハーウェン、魔法使い達という三つの組織を渡り歩いていたその理由。

 

 『エンパス教の最終目的は、許されざる行為である。ボクが、帝都を支配しようとした理由、それは魔法使い達の復権という一族の悲願もあるがもう一つ、その先の目的を個人的に抱いていたからさ。エンパス教の主神……いや、古い時代を生きた化石である化物が目指す先は……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リスム自治州、地下迷宮。

 

 まだ公式には未発見の領域を改造した空間には、様々な用途の部屋が存在していた。

 

 エンパス教において、限られた一部の人間。いや、厳密にはエンパスとボクしか……いや、俺しか知らない秘密の場所である。

 

 こうして、普段から一人称を変える努力を意識してすることになるとは思わなかった。今のテンの前で変なボロを出せばどういう変化がおこるのか分からない。

 

 女騎士も、褐色の美人も、貴族令嬢も、半獣も、奴隷も、年下も年上も様々なシチュエーションであまねく美人を抱いてきた。だが、この状況だけでだけはどんな美人でも食指が動くことはなかった。好みの問題だ。

 

 『お帰りなさい!お父さん!』

 

 目から光を失い、理想の女性像のような艶めかしい身体をし、最高級じゃないかと思うような上品な着物を身にまとう美女。その現実離れした、他の美しい女と比べても群を抜いて二次元めいた美女であるテンは、パアッとした幼子のような笑顔を浮かべ俺にとっては聞きなれた言葉を口から放つ。

 

 その、彼女が語るのは日本語だった。この世界では葦の国だったか、扶桑国だったか。とにかく日本語だ。俺には転生特典として多言語翻訳チートが搭載されていたが、それを必要としないのがなによりの証拠だ。

 

 『ああ、ただいま』

 

 こちらも、日本語で対応する。一度この大陸の、帝国や連合王国で広く使われる言語で語りかけたら発狂したように自傷を始めて謝罪を口から繰り返すようになってしまった。催眠も通用せず、結局暴れ疲れて気を失うまで取り押さえていることしかできなかった。エンパス?この手の些事には興味零だよ。

 

 ついでに言えば、ボクという一人称を口にした時も『父さんではないの?誰?誰なの?』みたいな感じで発狂しはじめ、落ち着かせるまで数時間以上かかった。エンパス?なんか祭壇みたいなところでボソボソ独り言呟いてたよ。

 

 『畑仕事、お疲れ様お父さん。母さんや妹達や弟達はまだ戻ってないの、どこまで山菜を取りにいったのかしら?』

 

 『まったく、どこまでいったのだろうな。少ししたら、父さんが探して来るな』

 

 『お夕飯の支度、出来るところまで進めておこうかな?本当は母さんが詰んで来る山菜を待ちたいのだけど』

 

 そういってテンは、フラフラと歩いて隔離された部屋の隅に移動する。手になにかを握り、なにかを抑え、まるで包丁で大根でも切るような動作をなにもない空間で繰り返していた。彼女にしか見えない世界では、そこには台所があるのだろう。

 

 テンを捕らえた時、ボ…俺は有頂天だった。この麗しい容姿と肢体を好き放題できるなんてと、興奮しきっていた。だがしかし、父さん父さんと無邪気に慕ってくる、壊れかけの女の子を強姦することはできなかった。

 

 そういう女の子を凌辱するようなシチュもあるって?同人誌やAVだけの世界にしておけ。いざ目の前にして、その立場になってみろ。可哀想なのはヌけない状態にマジでなるぞ。

 

 素人判断ではあるが、極大のショックによる記憶喪失と幼児退行か。ベルサイユの薔薇みたいにショックのせいで白髪になることはないようだが、自己防衛の為か記憶を全部封じてしまうとは。

 

 エンパスにとっては、使い道があるのは最高級の人妖であるテンの身体のみ。精神の方等はどうなろうが、壊れていようが問題はないのだろう。むしろ無用な反抗をおこさないように壊れていた方が都合が良い筈だ。

 

 だが、定期的にこうして訪れ家族の演技をしてやらないと、食事もとらずに眠りに落ちず、酷い時には自傷行為さえ始めようとするザマはとてもじゃないが見ていられない。

 

 ルッキズムという言葉が頭をよぎる。例えばテンが美女でなかったら俺も放置していた可能性は高いかもしれないが、それでもどんどん壊れていく様を横目で見ることは、鬼畜野郎と化した俺にもできなかった。そして、父さんと慕う相手を強姦等できようものか。

 

 『父さん』

 

 テンが、笑顔でこちらに振り返る。無邪気な微笑みは、かつてリスム近郊で俺の男性器を一度ふっ飛ばした女には見えなかった。家族に懐く、可愛らしい笑みだ。

 

 『今日は、山菜採りに疲れる母さんの代わりにあたしがご飯作るからね。お腹すかせて待っていてね』

 

 『ああ、楽しみにしているよ』

 

 ここにいると、まるで良い人にでもなったかのような錯覚に陥る。冗談じゃない、元の世界基準で考えても、この世界基準で考えてもチートで遊びまくった外道であるのに。

 

 いっそ、俺がこんな状態の女でも気にせず勃起できる猿だったら、もっと気分は楽なんだがなぁ。

 

 だがまあ、こいつの父親、いや義理の父親だったか?まあそんな感じであるランザ=ランテ、事情は知らねえが父親でありながらその役目をないがしろにしすぎだ。こんな病んだ精神の子を犯すことができない、それまでの状態にしたクソ親父は…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「そんなことの為に、テンを使わせてたまるか。確かにアイツがは許されざる行いを複数犯したが、それとこれとは話が別だ。古臭い時代のエンパスに、遊び半分のレント、外道共が」

 

 立ち上がったこちらを見て、ガスパルは伝えるまでもなかったかと肩をすくめる。

 

 「連中の居場所は?」

 

 「すまんがそこまでは掴めていない。まずは、いぶりだす必要があるだろうよ。まずは奴等の手足となるエンパス教を戦闘の場に引きずりだして塵殺する必要がある。手足を全て潰せば、頭がなにかしらの行動をおこすだろう。それを必ず見逃さない」

 

 「それって、レントの私設部隊を壊滅させる必要があるよね。正直難しいよ、みんなかつての自分やカリナ=イコライみたいな特殊な加護をもっている。規模が膨らみ続けているとしたら、冗談抜きで大陸で最強の部隊。正面からぶつかるのは今のランザでも無謀だし、削り続けるのにも限度がある」

 

 「ならばせっかくの大陸大戦だ。その私設部隊とやらも、なんとか戦争に引きずり出せないか?そうすれば、決着をつける方法はいくらでもでるだろう」

 

 ガスパルは、悪い笑みを浮かべた。天幕の壁に貼られてた大陸地図に、幾つか羽ペンでしるしをつけていく。

 

 「帝都で広がった、エンパス教の神殿だ。帝都事変の後、不安がる住民達の心の隙をつくように広がっている。こんな感じで各地に広がっているが、今のランザ、お前なら問題ないだろう。片端から無残に潰して、挑発でもしてやればいい」

 

 「成程、今のランザの旦那は対外的に見れば解放軍所属。各地でエンパス教とやらの拠点を潰して、その私設部隊とやらを挑発し戦場に引きずりだし…っておい。来るじゃねえかここに、そのどえれー部隊やらが!」

 

 「ナイス突っ込み。確かにロウザ達にはバットニュースだねえ」

 

 「おいおいおいおい勘弁してくれよ。こちとら帝国相手にするだけで精一杯なんだぜ」

 

 あまりのことに口を開く。ロウザや半獣、エルバンネ達、山にいるコボルト達には確かに関係ない話である。だが、ウェンディからもたらされた記憶が正しいならば関係ないですまされる話ではなくなってしまう。

 

 「詳しい話は後でしてやる。一から話すには、長い話だからな」

 

 「旦那の力にはなってやりてえけどよ。これ以上重荷は勘弁だぜぇ。それがよほどの、最悪な話題でないかぎりな」

 

 最悪な話題なんだよ、ロウザ。意地でも納得させ、協力をとりつける。

 

 「それに、この地にさえ引きずり込めば、いかに加護持ちの軍団だろうが勝機がある。ランザ、目的の為に災厄を振りまく覚悟、腹を決める決意はあるか?」

 

 「覚悟なら、とっくの昔にな。エンパス教の企みを潰すのは、考えにはなかったがそれが俺の目的に、テンに繋がるのであればやらせてもらう。それに悪名は、今の俺にとっては褒美ですらあるからな。なんせ、悪竜ジークリンデの後継だ。多少は箔もつくだろうよ」

 

 「当然自分は最後までランザに強力するよ。ジークリンデとの約束もあるし、どこまでもついていく。それに、旦那に協力するのは、妻の役目だからね。」

 

 近づいてきたクーラにはデコピンを食らわせえておく。額を抑えながら抗議を口にするがその顔は二ヘラッと笑っていた。

 

 「テンの奪還は必ず果たす。アイツを利用するエンパス、玩具にしようとするレントは…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『「必ず、殺してやる」』

 



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 帝国の西南にある地方都市クス。特筆すべき産業はないが、古くから続く歴史のある都市であり街のあちこちには古い意匠が施された様々な遺跡や遺物が出土していた。

 

 この地方都市、考古学者達や歴史にロマンを感じる者にとっては夢のような都市と言えたが、領地を治める帝国貴族には悩みの種でもあった。

 

 クスという土地は、なにを隠そう初代帝王である国父ギルバードが忙しい日々を最中、遊興の為に訪れていた都市であり、当時から古代の出土品が多いということでそれを保護する法律を直々に成立させた経緯があった。何百年も前に成立されたカビの生えた法律であるが、それでも今なお効力を発揮する現行法でもあった。

 

 少し地面を掘り返したら遺物、都市を開発しようとしたら遺跡、どこをなにしていじろうと太古の存在がわんさかと出て来る始末である。あっちで保護、こっちで開発中止、遺跡が見つかる度に計画していた都市開発もパーになり雇用も増やせず人口も流出していく始末。

 

 地方都市とは言うが、帝国では下から三本の指に入るような力の無さであり、いっそ観光業を中心に展開しようとしていたが帝都事変と連合王国との開戦を経て政情不安によりその計画も暗礁に乗り上げていた。

 

 だが、連合王国との戦い等遠い東の出来事でありまだ戦争の不安感等はクスの住民とは無縁なものである…筈だった。困ったことは輸入品や保存がきく食料が品薄状態、物価高となっていったが逆を言えばその程度だ。他は強いて言うならば、志願兵募集の張り紙や活動が多くなっているくらいか。

 

 「おい聞いたか、グルト王国とキシミ連邦国が連合王国に呼応して帝国に宣戦布告しやがった」

 

 「大陸西側の中小国とはいえ、連合王国相手をする為に人員がある程度東にいったばかりだし、国境は大丈夫なのか?傭兵を雇うなんて話もあるが…」

 

 「徴兵制度を再導入するなんて噂もあるし、これ以上物が高くなると」

 

 「北の反乱勢力が地方都市を一つ落としたらしい。遠い場所の話とはいえ、大丈夫なのか」

 

 大通りを少し歩くと、漏れ聞こえるのはこんな話ばかりである。帝国の影響力の陰りは、こんなところまで広がっているようだ。クスに入ったのは早朝であるのだが、別の都市や街でもこのような状態だった。まだあまり開戦の影響を受けていないのは、小さな山奥の村落くらいである。

 

 帝国と連合王国がリスム自治州の平野で開戦、帝国が快進撃で王国に痛打を与えたらしいが、戦場からの情報が正しく民衆に伝わることなど、優勢時以外まずはない。戦争という巨大事業は、足元が定まらなければ勝てるものではないのだから。

 

 まあ、今の俺にはさして関係のない話である。やるべきことが、まだ残っているからだ。

 

 「ご婦人、よろしいか」

 

 声をかけられた中年の女性はギョッとした顔をした。自分で言うのもなんだが、異国の偉丈夫というあからさまな不審者相手に声をかけられたのだから驚かない方が無理はないであろう。

 

 「このクスに、エンパス教の神殿はあるだろうか。巡礼の最中であって、出来れば場所を教えてほしいのだが」

 

 「ああ、巡礼の方でございましたか。このご時世、ご苦労様です。私も今からお祈りに行くところで、よろしければ道中案内いたしましょう」

 

 当たりを引いた。目的地の神殿に辿り着き、更なる幸運に恵まれれば良いのであるが。

 

 「私はゲルダ=ヒルと申します。巡礼者様のお名前は?」

 

 「クダ=カンゼンと申す。異国の産まれなれど、この地でエンパス教の救いに触れ感銘を受けた者でな。この出会いも、良い導きであろう」

 

 帝都事変から、三か月の時が過ぎていた。あの日、かつて仕えていた主君、その忘れ形見である蛇女レジーナ、いや漣の姫と異国で再開し負い目と義理により協力。エレミヤの元、同僚であったエイラと共に鍛えてやった弟子であるランザを急襲し裏切った。

 

 その後漣姫は、エンパス教の地下に向かう隠し通路にランザへと降りていきそこから先は部外者である俺は通してはもらえなかった。だがしかし、なにがどうなったのか急にエンパス教の神殿が崩壊、地下からドーム状の異物が湧き出たと思ったらそこから異形の狼が出現しどこからか現れた悪竜と交戦を開始する始末である。

 

 怪獣クラスの巨体が争う余波は、帝都の一角に深刻な打撃を与えた。帝都におけるシンボルマークの一つであった時計塔は崩壊し、かなりの民衆が争いに巻き込まれ家を失い命を落としてしまったのだ。人命救助に可能な限り手を尽くしたがこの手で救えた命はたかが知れている。数人の帝都市民と、猫二匹といったところだ。

 

 竜は狼を連れて、北へと去った。エンパス教の神殿があったところは崩壊し、帝国軍が封鎖を行いなにがあったか調査を続けているようであった。

 

 謎めいた地下空間が見つかったようだが、掘りだしを進め全容を解明するのには年単位の時が必要となる。そのうえ、戦が始まったことでそちらの調査に人手を避けず今は区域の立ち入りを禁止することが精々であるようだ。

 

 あの後、地下でなにがったのか。恐らくは生きてはいないであろう漣の姫は、どのような最後を遂げたのか。竜を追おうと北に歩を向けようとしたが、厳重に帝国軍が封鎖をしており近づくことすらできない。ならば、関係性があったエンパス教から情報を得ようとこうして帝国をあちこち行脚している。

 

 「ゴホッ!グッ!」

 

 「大丈夫ですか?巡礼者様」

 

 「ただの持病故、心配無用」

 

 手の内に吐き出された血は隠すように拭う。死病とは言うものの、人間やることがあれば早々死にはしないらしい。身体が苦痛のサインをだすが、これくらいならば顔に出さずに行動することは可能だ。

 

 他愛のない話をしながら訪れた神殿は、商館かなにかか、建物を改築した建物のようであった。この街にも教会はあり、信者の数はトントンといったところであるらしい。しかし、エンパス教の教えは他宗教の排他、一神教を主眼においている為どこにいっても仲はすこぶる悪いようだ。

 

 なんとなくではあるが、布教において元から根付く宗教に喧嘩腰であるところなど効率を重視しきれていないあたり、どこか個人的な悪意を感じる気がするものだ。もしかしたら、エンパスなる神が教会の教えを個人的に嫌っているのかもしれないとどうでも良いことまで頭に浮かぶくらいである。この辺は、他宗教にも寛容な教団とは正反対だ。

 

 産まれの国にある宗教も多神教。異国からも様々な宗教が流れ混沌とした様相になっていたが、神様なのであればそれくらい寛容でいた方がらしいのではないかというのが個人的な考えである。まあ、今は情報を集める為敬遠な信者のふりをしておこう。

 

 可能であるならば、神殿の司祭殿。もしくはそのうえにいると言われている者達まで取次、話しを聞きたいものである。漣の姫はエンパス教と無関係ではあるまい、少しでもなにかを知りたいのだ。そして、可能であるならばあの夜なにがおきたのか。あの地下に、なにがあったのか。

 

 信者達には、芋をこねて作った菓子のようなものを渡される。少々ではあるが塩気も効いており、これくらい素朴な味わいな方がかえって好みである。

 

 さて、まずは形だけでも祈りを唱え説教を聞かなければ。椅子に座っていれば良いだけなので、休憩にもなる。その後司祭を捕まえてエンパス教の上層に繋がるような情報聞き出そう。藁にも縋る思い出あるが、武一辺倒の半生、搦手の類は不得手であり調査は足を使うしかない。できれば身体のガタが誤魔化せなくなる前になにかしらを掴みたいところだ。

 

 レジーナと名乗っていた漣の姫が根城にしていた、リスムの経済特別区。ハーウェンに向かえば更なる情報を得ることができるかもしれないとは幾度も考えた。だが、雇用主であるエレミヤのお嬢。それと懇意にしてたランザを裏切る不義理を犯したことで万が一でも顔を合わせてしまうことがあればどの面を下げれば良いことやら。

 

 それに、あの可愛らしい殿の娘子が異国にてどれだけの苦労を身に浸し、悪事に身を染めたのか考えたくもなかった。あの経済特別区で、ハーウェンという三組織の一角を為す程だ。並みの労苦ではなく、その手は血にまみれたであろう。

 

 なにがあったのかを知りたい反面、そんな過去を知ることは可能な限り避けたかった。これ以上、罪悪感のようなものを背負い込みたくはない。主家滅亡の折、主と最後まで戦い城を枕にできなかった不義理者は、どうやら逃げるのがクセになってしまったようだ。死後ご先祖に、合わせる顔もない。

 

 「どうしたのですか?今は大事な話をしているので、着席なさい」

 

 説教をしていた、三十代と思われる司祭の話が中断された。目を開き見てみると、そこにはフードを深く被った小柄な体格の者が中央の祭壇に通じる通路に立っていた。

 

 「いえ、司祭様。生憎ですがそれはできません」

 

 「何者だ!よせっ!」

 

 危うい気配を感じ立ち上がり叫ぶが、フードの人物はまさに疾風迅雷という速さで祭壇まで走りよる。大きく跳躍すると、腰から直刀が抜かれすれ違いざまに一閃。ゴトン、という重い者が落ちた音と共に祭壇の上に生首が転がった。

 

 首の断面、太い血管から噴水のように流血が溢れだす。フードと祭壇周辺、最前列まで血が届き身体があおむけ倒れて見えなくなった。

 

 「さて」

 

 フードの人物が生首を掴み、無造作に蹴りつける。通路の中央、信者達の中央に司祭の首がまるで玩具のように転がった。

 

 「死にたくないなら、逃げた方が良いよ」

 

 その一声で、非現実な惨状を呆気にとられて見ていた者達が叫び声と共に逃げ出していく。説教台に座り足を組み合わせながら笑う者は、聞き覚えのある声をしていた。いや、聞き覚えがある声なんて漠然としたものではない。エンパス教上層部よりも、話しを聞きたかった者の声だ。

 

 信者達がいなくなった神殿の中、席から離れ中央の通路に歩みを進める。

 

 「帝都事変の夜を、覚えているか」

 

 「……あー、そりゃあね。凄い偶然、こんなところで、顔を知る人に会うなんてさ」

 

 フードをとる。灰色の髪の毛に同色の獣耳、眼帯をしており短くなった尻尾を振りながら女は対峙した。

 

 「話は、ランザから聞いているよ。帝都事変の夜、彼を拉致してウェンディ=アルザス……いや、あの時点では蛇女レジーナかな?まあ、彼女に彼を渡した師匠さんとやら。クダ=カンゼンさんだったよね」

 

 「話は早いようだ。あの日の夜、気紛れでランザと関りがありそうなお主を地下へと送った。生存者は絶望的かと思っていたが、こうして再開できたのならば僥倖であろう。あの日、地下でなにがおきたのか。お前の言う蛇女レジーナがどうなったのか教えてほしい」

 

 「無理、と言ったら?残念だけど時間がないんだよね」

 

 「ならばその時間、こちらの都合の合うように作るまでだ」

 

 刻むような運足。距離感を誤認させるように速度を調整し、相手の目には即座に間合いを詰めてきたかのように誤認される縮地の技術を応用し詰める。正拳の一打が説教台に当たり、木片がバラバラに砕けて飛んだ。

 

 「最低でも、お主の名前くらいは吐いてもらうぞ」

 

 背後の祭壇に飛び移る灰色の半獣の目付きが変わる。

 

 「速いね。流石は、ランザの師匠だよ」

 

 「流石に最高速度はもう一人の師匠には劣るがな。瞬発力では、まだ大抵の相手には負けん自信があるさ」

 

 「ううん。羨ましいなぁ」

 

 頭に疑問符が浮かぶ。羨ましいという言葉、何故今このタイミングで彼女の口から放たれたのであろうか。

 

 「クダ=カンゼンさん。貴方は自分が知らないランザを知っている。あの経済特別区、エレミヤの娼館で過ごしたランザをね。話には聞いていたけど、断片的な思い出じゃ自分は物足りないからさ。そういう話を教えてくれるなら、ゆっくりとお話ししても良いけれど…」

 

 祭壇の、エンパスを象る木造を蹴り半獣が急接近。両手には直刀の他歪な形状のナイフが握られており、回転するように斬りつけてきた。半歩後退して初撃を回避、直刀が振られ急所を狙った斬撃を容赦なく連続で繰り出して来る。

 

 「ランザを裏切り、引き渡したのはないかな。死んで償え」

 

 まだ子供と言える年頃に見える少女から放たれる言葉は、暗い憎悪とそれを乗せた殺意。繰り出される斬撃の数々も、運足と身体の使い方から鑑みて相当に鍛錬を積んでいるのがうかがえた。

 

 「奇妙な縁があったらしいな。だが、殺さなくてもいずれ死ぬ中年男性だ、そこまで殺意を向けることもあるまい?」

 

 「かもね。でも関係ないよ!」

 

 横ぶりの裏拳を飛び上がり回避し、半獣が足を振るう。仕込まれていたのか、フードの下から棒ナイフが放たれガードをした腕に突き刺さった。それを好機とばかりに、直刀を頭に突き立てようと空中で水平に構えていた。

 

 「温い」

 

 ガチ、という音が響き直刀が止まる。

 

 「え!?……嘘でしょ?貴方人間だよね」

 

 半獣が驚愕に目を見開く。直刀のきっ先を、前歯で挟んで止め緊急停止。この武技は、島野の国で狂犬と呼ばれた、この半獣と同じ眼帯の男が敵の刀を歯で挟んで受け止めカウンターを決めた逸話から着想を得たものだ。

 

 離れようとした半獣の足を掴んで地面に叩きつける。逃げられないように首元を腕で抑え、過度に締めすぎなように固定。身体能力はともかく、この体格差と力の差だ。逃げられるものではない。

 

 「あの日、地下でなにがおきたのか知っていることを話せ。そうすれば、これ以上危害は加えない」

 

 「流石は…ランザの師匠だよね。でも、知ってどうするの?レジーナの知り合いみたいだけどさ」

 

 「あのレジーナと名乗っていた者、彼女は俺の昔仕えていた主家にいた一人娘だ。どうなったのか、まだ生きているのか、知りたいのだ。本当の名を、漣という」

 

 「ハッ…ハハ……アハハハハハハハ!」

 

 嘲笑するような笑い声が、半獣の口から溢れる。なにも知らない目の前の人物に対し、怨みある者に対し、嘲り罵るような笑みを浮かべた。

 

 「レジーナ?漣?なーんにも知らないのに、ホイホイランザを裏切ったんだ。麒麟も老いれば駄馬に劣るなんて言葉もあるけど、その年で耄碌しちゃった訳?それとも、元々頭は緩いの?憐れだよねぇ……ウェンディに、都合よく踊らされちゃってさ」

 

 「やはりなにか知っているのか!?言え、あの地下で、姫になにがあったんだ!」

 

 「残念だけど、それを話す時間はないかな」

 

 頭部を横からなにかに殴られた衝撃がはしる。拘束が緩んだ隙に半獣は抜け出し、ステンドグラスの方に逃れていた。周囲をよく見ると、半獣から延びた影が砕けた説教台の木片を掴んでユラユラと揺れていた。

 

 油断した、異端の術、予想の外からの攻撃、ダメージは軽微であるが意表を突かれたのは否定できない。情報源を逃してしまうとは。

 

 「一つ教えてあげるよ。レジーナだか漣だかなんて、もうこの世にはとっくにいないんだよ。貴方に再開するずっと前からね」

 

 「どういうことだ!?なにを知っている!?」

 

 「時間がないって言ったよね。ランザの裏切者に、これ以上話すことがある訳ないじゃん。今の情報は、あの日地下に通してくれたぶんのお返しだよ。じゃ、二度と姿を現さないで。どんな汚い手段を使ってでも、次は必ず殺すよ」

 

 ガラスを割って、半獣がその場から逃れる。追いかけようとした瞬間、神殿が大きく揺れた。祖国では地揺れの災害はあったが、この大陸に来てそのようなことは一度も経験をしていない。

 

 急いで出口に向かおうとした瞬間、天井が崩れ木材や石材がバラバラと落ちて来る。大きく建物が崩れ出入り口の前に瓦礫の山が積みあがるが、ここで焦っても仕方がない。

 

 気を練り込む、という考えがある。特殊な超能力の延長線なんじゃないかと訝しむ素人もいあるがなんのことはない、集中とそれに呼応する身体能力のコントロールだ。

 

 どっしりと構え爪先から両足、上半身に向け身体の筋力を連動し、ひねりを加えて正拳が六発放たれる。頭から下半身までの急所を全て穿つ勢いで放たれる一連の技は、本気でやらなくても下手をすれば人一人殺しかねない武技だ。

 

 退路を塞ぐ障害を弾き飛ばし外に出る。そして、その時に感じた強大な気配に視線を向けた。

 

 神殿を踏みつぶすように君臨するのは、黒き竜。かつて帝都事変の元凶となった災厄の片割れがこちらを見下ろしていた。だが、姿かたちは近かろうが、よく知った気配が竜から放たれている。

 

 「とんでもない姿になったものだ、ランザよ」

 

 暗く濁った眼だけは、どのような姿になっても変わらないものだ。

 

 『グルオオオオオオオオオオォオオオオオオ!』

 

 騒然とするクス中に、凄まじい竜声が響く。帝都事変の再来かと混乱する声があちこちから響いたが、それに構わず黒き竜は羽ばたいて北の空へと去っていった。そして、その背中にはあの半獣の少女が乗っている。

 

 全壊したエンパス教の神殿。クス自体には手をださず、司祭を狩りとるものの信者は避難をさせてから狙い撃つように建物だけを倒壊させた。そして自らの存在を誇示するように鳴き声をあげて北に向け去っていく。

 

 まるで、エンパス教を狙い撃ちにした挑発のようであった。なにを考えているのかは知らないが、知性を失った獣と化しているならば無意味に暴れるのみであったであろう。

 

 「北か」

 

 街の治安組織が駆けつけてくる前に、その場を離れる。あの半獣の娘は、地下での出来事を知っている。そして、ランザは恐らくそれ以上のことを。

 

 そして、漣の姫は、再開する前からこの世には既にいなかったということ。その意味は、いったいどういうことなのか。少なくとも、俺には姫が偽物とは思えなかった。ウェンディ=アルザスとやらが何者なのかも探らねばならない。

 

 事態が、動いた。想像よりも斜め上の展開ではあるが、ようやく手掛かりを得ることができた。

 

 現状、北の地へと向かうのは想像以上に困難である。戦争が始まり各地で警戒状態となり、各所で検問もしかれ草の者、スパイを見つけようと表と裏で諜報戦、暗闘が行われている筈だ。異国の者が一人旅をしている等、怪しいことこのうえないうえに反乱勢力がいるという北の地へと向かうのは困難を極めるであろう。

 

 だが行かなければならない。そして、例え筋が通らないとしても聞かねばならないのだ。それを知らなければ、勝手な話ではあるが一人の男として死んでも死にきれない。急がなければ、ならない。

 

 歩き出す。最早、寄り道をしている訳にはいかない。この身体には、時間がないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    年  月  日

 リスム自治州、デアド平原にて連合王国軍と帝国軍が激突。小競り合いではなく、大軍同士の戦闘が行われ連合王国軍が優先となる。既存の生物とは一線を画した異形の生物が連合王国軍から放たれ、帝国先鋒が混乱したことにより撃滅されることとなる。

 帝国軍、貴族であるレゾン=バレエッタ将軍が混戦のなか討ち死に。指揮権が下士官に譲渡される。

 

    年  月  日

 連合王国軍陣営より緑色に着色された煙が放たれる。風にのった煙は、帝国軍陣営に襲い掛かり複数の人間が嘔吐、鼻水、涙が止まらないといった状態に陥る。陣営が壊滅状態になったところを連合王国軍が急襲。帝国軍が退却したことにより、デアド平原の戦いは連合王国軍による快勝に終わる。

 その戦果呼応するようにグルト王国、キシミ連邦国、アレト共和国、後アブソリエル公国、オルレント自治州が連合王国を宗主として連合軍樹立を宣言。集団安全保障をかけ、帝国に宣戦布告を行う。

 余談ではあるが、デアド平原で巻かれたガスは連合王国の最新兵器である兵器であり、生き残りの帝国軍、そして突入した連合王国軍兵士達は失明等の後遺症で長く苦しむこととなった。

 

    年  月  日

 帝国各地でエンパス教の神殿が竜により襲われる。北の反乱勢力とのつながりが、まことしやかにささやかれるようになる。

 

    年  月  日

 帝国に、エンパス教幹部であるレント=キリュウインが接触。とある条件と引き換えに、エンパス教から派遣された義勇軍が支配されたリスム自治州にて抵抗を続ける帝国軍に援軍として派遣される。

 

 著者、製作年月不明。走り書きのメモより一部抜粋。



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連合とエンパス教


 連合王国軍の基本的な戦術ドクトリンは、過去には騎馬弓兵と軽装騎兵、装甲歩兵、クロスボウ隊を主軸とした防衛戦を主軸においたものであった。帝国で猛威を振るっていた重装騎兵と装甲歩兵による強力な前進制圧ドクトリンに対応する為のものであった。

 

 突撃してきた敵の攻撃部隊をクロスボウで迎撃しつつ、装甲兵で攻撃を押し留め、軽装の騎馬弓兵が側面から矢を射かけ軽装騎兵が迂回をしつつ包囲すること。過去の脅威から学び、過去の戦争で実績のある戦術から採用をしていた。

 

 迎撃を主軸とした、平原での基本的な防衛陣であり侵攻戦を意識したものではなかった。攻城兵器や大量の歩兵師団等、人的資源における観点や予算の問題から先送りにされていた。

 

 しかし時代が過ぎていき、銃器や火砲が発達していき歩兵による密集陣形は時代遅れとなり、重装の騎兵がただの的となった。騎馬に乗った銃兵という、ドラグナーという気取った名前の兵種も考案された。だが、馬上のライフル銃を取り扱う難易度や嵩張る装備が問題となり、将来性はありつつも現段階では戦争では使用に耐えるものではないというのが軍部の見解である。

 

 では新しい時代、こちらから帝国軍に対して侵攻を仕掛けるうえでなにが、どのような兵種、基本攻撃方針が有用なのか。

 

 破壊力の高い大砲や豊富な予算により支給される大量のライフル銃兵とそれを護衛する長槍部隊。北方からの情報では、竜狩り隊を除くとそこまで強力な部隊を派遣してはいなかったようだが、軍隊と軍隊の戦い。戦争ならば惜しみなく戦力投入してくるだろう。事実、それなりの軍勢をだしてきた。

 

 リスム自治州、デアド平原における初戦は連合王国にとっては落とすことのできない重要な一戦だった。リスム内での支持を得ることは勿論だが、帝国に対して地形的に包囲をしいている中小の同盟国相手に対するアピールも兼ねることになる。

 

 連合王国が活躍せねば約定を破り帝国につきかねない。日和見とは、言うまい。同盟を組んでいるにしても、帝国相手に戦争を仕掛けることはリスクなのだ。負けたところで賠償金や領土割譲で住めば良いが、下手を踏めば国家そのものが歴史の闇に埋もれてしまう。

 

 武威を示すことにより、王道での戦に勝ち周辺国に決意と抵抗の意思を促す。それが出来れば理想ではあるが、あくまで理想は理想。まずは勝たねばならないことは理解していた…が。自分の考えが、もはや古臭いものであったと思い知らされたのはつい一月前の話だった。

 

 「エクスラム、帝国軍はどうだね?妙な動きはあるかい?」

 

 連合王国本陣は、帝国を撃退した後も平原に本陣を敷いていた。リスムの市内を制圧することも今なら可能であるが、なるべくなら今リスム市民には圧をかけたくはない。ただしかし、行政庁舎には兵と連合王国の執務官を入れさせてもらっている。

 

 帝国側が市街に潜入してゲリラ戦を展開しようとしない限り、そちらにこれ以上の兵士を入れるつもりはない。市民感情をいたずらに刺激せず、可能ながら終戦までは可能な限り住民を巻き込みたくはない。

 

 そんな連合王国の本陣に訪れたのは、連合王国の円卓に席があるクラルスであった。

 

 気取ったモノクルにどこか斜に構えるような皮肉めいた笑顔。一月前の帝国軍との開戦時、研究の成果だと言う冒涜的な生物を連れて来た。そして、例の毒性を含む空気管の扱い方を指示した後すぐに首都にとんぼ返りをしていった以来である。

 

 「そう露骨に嫌そうな顔をするなエクスラム。例の作戦二つ、ダグラス総帥からの許可を得ていた勅令であっただろう。私とて、あのような非道な行いをするつもりはなかったのだ」

 

 モノクルをかけていない方の瞳にハンカチを当て、クラルスは悲し気な嗚咽をあげた。

 

 「生物界の禁忌をおかし、人を一方的に苦しめる毒を噴射し、なんと恐ろしいことであろう。騎士道精神的な観点から、苦渋を噛みしめながらも総帥の命令をまっとうしたエクスラム殿はまさに忠臣の鏡であろう。我にはとてもとても、できるものではない!人の心が無いような働きぶり、あっぱれと言わざるえないであろう!」

 

 「茶番もそこまで力が入れば怒る気も湧かぬものだ。準備から丁寧にお膳立てしたのは貴様であろうに」

 

 こうして帝国と戦争している今、手段を選んではいられない。騎士道という概念は、既に騎馬民族に蹂躙されてとうの昔に滅んでいる。だがそれでも、最低限軍人としての理念というものはあった。この胡散臭い男に手を借りずとも、学んだ軍略と規律ある軍隊で帝国に抗する自負があった。

 

 悲しいことではあるが総帥は、使える手はなんでも使うべきという指示をだした。軍事的観点から見れば、こちらには被害がほとんどなく敵を蹂躙できるならばそれは正しいと考える。だがしかし、個人的にはどこか納得できぬものがあった。今は勝利の為に呑み込むべきと自分自身に言い聞かせる。

 

 「我が研究成果であるからな。それよりも、連合王国の様子はどうだ?エンパス教は動かんか?ん?」

 

 「リスムと帝国の国境に兵を増やし、ノック山道や海岸道に防衛線を築いているのみだ。以前から気になってはいたが、貴公はエンパス教をやたらと気にするな。諜報部を纏めるライエル長官の子飼まで派遣しているようだが」

 

 「おお、そうかエクスラム。貴様は知らかったか?気になる理由と言えば、実はエンパス教というものの雛形は二百五十年近く前だったか、連合王国にて設立されたものなのだよ」

 

 手にもつハンカチをヒラヒラとさせながらあっけからんと言い放つ。

 

 「初耳だな。だが連合王国では宗教に関しては厳しく取り締まわれた歴史がある」

 

 「その通り、我が王国恐らくこの大陸では一番早く政教分離を成し遂げた。今ではかつてほどの締め付けはないが、宗教の禁止令と弾圧指令が軍隊にだされたこともある。教団の信仰は今でこそ許可はでているが助成金等もなく他所の国と比べれば貧乏経営であろう。そんな下地があったから水面下から広げやすいとでも、エンパスは画策したのかもしれんな」

 

 まるで出来の悪い友人が、悪巧みに失敗を話すような口調である。どこか馴れ馴れしいというか、知り合いだとでも言いたげな様子だ。

 

 「まるで、見て来たように話すものだ」

 

 「ククッまあ色々とあってな。そして宗教禁止、弾圧は建前だ。我が王国が誇る軍事研究局の前身がその時に産まれた。当時のエンパス教が囲っていた、外来者を捕らえる為にな」

 

 「またそれか。貴様が言う外来者とは、いったい何者なのだ。お目当てであるレント=キリュウインもその外来者とやらなのであろう」

 

 「悪いがそれは、我が研究局の最高機密情報だ。同じ円卓の一員、軍事局のトップであろうと明かせるものではないのだよ。我と胸襟を開く程の仲であれば、ポロリと情報が洩れる可能性はあるがね」

 

 「ほざけ」

 

 この者と胸襟を開く仲になるということは、いくらでも非人道的行為に手を貸すことになるということだ。個人的な相性はさておいて、この男からは常々不吉なものを感じている。それに研究局が秘密にしているということは、かなりの重大事項であるのだろう。相手の足を引っぱろうと企まないかぎり、そのようなことまで踏み込むつもりはない。

 

 「それで、今日はなにをしでかそうと訪れたのだ。あの奇妙な生物の世話や状況はお前の残した部下から報告を受けているだろう。ついでに、ガスに侵された帝国兵の経過観察もな」

 

 「常々殺しても良い凶悪犯を都合できるとは限らないものでな。検体の確保には苦労しているのだよ。この機会、なかなか興味深い報告が多くあがっている。まあそれは良いとして、そろそろ行動をおこす頃合であろうと思ってな。それで、エクスラム、軍事的観点から敵はどんな次の一手を打つと予想する?」

 

 次の一手と言われると、まず考えるべきなのは帝国の外交的事情だ。

 

 四方を敵に囲まれた帝国は、それに対応する為に四方に軍を送り込むだろう。軍部だって馬鹿ではなければ、国家が行う包囲網をしかれようが、帝国という国を巨大な城塞にみたて防御方法を考案するだろうし実践をする。

 

 中小国相手には専守防衛の方針で最低限の兵力でも賄うように防御体制を構築。あちこちで各国の軍隊を潰してまわるより、主戦場であるこちらに軍勢を送り込み決着を早めようとする。同盟軍での主軸はやはり我が連合軍だ。そろそろ国境線の防衛網から兵士を引き抜き、国から予備兵を回してもらい体制を立て直して再度攻勢にでる頃合だろう。

 

 「再度我が連合王国軍に挑んでくるであろう。仮にそれで敗北するならば、なりふり構わずならば市街戦も利用しゲリラ戦も辞さない構えを見せると考える。少なくとも、市民の完全な避難が確認されるまではこちらもガスは利用できないであろうしな。どんな状況になろうと帝国国内を戦場にはしたくない筈だ。手段を選ばずリスム自治州に顰蹙を買おうと、連合王国が引いたならばいくらでも武力制圧もできるだろうしな。名目など、弁が立つ外交官がいればいくらでも占領の良い訳になる筈だ」

 

 気のない拍手が、天幕の中で響く。自分で聞いておいて、興味のない話題を聞いた後である欠伸の一つでも浮かべそうな退屈極まりない顔だ。

 

 「では、敵が未知の力を二つも行使してきた。確実に勝つためとる手段は」

 

 「情報を集めることだ。可能ならば傭兵のような連中を威力偵察代わりにぶつけ敵の動きを見る」

 

 「ならば、そろそろ小規模な攻勢がおこるのではないかな?」

 

 「だが動くにしても遅すぎるくらいだ。私の予想に反して動く気が無いのであれば、防衛に力を回しこちらの攻勢を弾き疲弊を狙うつもりではないだろうか」

 

 防壁を破るには、攻撃側は三倍の戦力がいるという。これが城塞であるならば包囲をし、補給や援兵をいれないように無理攻めはせずじっくりと攻略すればいい。時間的猶予があるならばそれが一番被害を抑えられる。

 

 今回は地形的な問題で、国境の砦を包囲をすることはほぼ不可能に近い。防御側が憂慮すべき面は少なく、その選択肢も悪くはない。主戦場が自治州の市街地から大きく外れる為、そうするならば望むところではあるが。

 

 「申し上げます!」

 

 飛び込んで来た伝令の兵士が敬礼をする。急いで飛び込んで来たのか、額に汗が浮かんでいた。

 

 「第一防衛陣に敵の小規模攻勢です!数は四十にも満たない程なもよう!」

 

 「威力偵察にしても数が少ないな。すぐに離脱する嫌がらせ程度の攻撃か?」

 

 いずれにせよ、その程度の攻撃ならば異形や新兵器に頼らずとも自力で跳ね返すことができるだろう。たかだが少数では、威力偵察にしても観察できるものは少ない筈だ。人死にが増えるのみであり、陽動にも思えない。

 

 傭兵を雇って突撃させたにしても、そんな使い捨てのような真似を堂々と行えば噂が広がり帝国に雇われようとする者達は激減するだろう。そもそもそんな、名誉もなにもない無意味な突撃にどんなに命知らずな者達でも受ける者がいるとは思えない。

 

 敵がなにを考えているのか、やはり嫌がらせ程度の攻勢が。もしくは、本国に攻める姿勢を忘れていないとアピールする為のただの見せかけか。

 

 「も、申し上げます!」

 

 「敵の撃退はなったか?」

 

 「第一陣、突破されました!被害増大しています!」

 

 どういうことだ。馬防柵、掘り、二段構えの射撃部隊配置と基本的なことは当然おこなっている。先程あった、攻撃側が三倍の戦力が必要という定石を踏まえれば誤報ではないかと疑いたくなる。

 

 「敵の新兵器か?こちらのガスや異形と同じような」

 

 「それが、何と言いますか」

 

 「どうした、報告には正確性が必要だ。どのような方法で敵は攻撃を行っている」

 

 「申し訳ありませんが、どのように言っても良いか……」

 

 天幕の外に出る。不確かな情報を聞き出すくらいなら、自分の目で確かめた方が良い。この本陣は小高い丘の上に立てており、第三陣まで防御陣を構築しているが本陣から全ての陣営を見下ろすことができる。

 

 帝国軍の赤を基調とした装備ではない。第一陣の内部では、白を基調にした装備で身を固めており王国軍兵士を攻撃していた。たかだが百にも満たぬ兵に、専門の軍事訓練を、戦う為に鍛えられた者達が圧倒されている。さながら神話に出て来る伝説のような光景だ。

 

 「ときにエクスラム、特定指定外来種という言葉を知っているかね?」

 

 一人一人を詳しく分析する前に声がかかる。呑気にフラリと、食事処から出て来たかのように天幕から現れる。人の悪い笑みを浮かべながら、連合王国軍が蹂躙される様を見下ろした。

 

 「なんの話だ。そのような言葉は聞いたことがない。関係ない話を、言っている場合か」

 

 「ある孤島に、入植者が今まで存在しなかった鼠を持ち込んでしまった。年月を経て、天敵がいない島にて鼠は爆発的に増殖し、島の資源を食いつくしてしまった。人類も、後三百年も経てば直面する問題かもしれんなぁ。我々には目の前に横たわる問題ではあるが」

 

 「クラルス、貴様……なにを言っている?」

 

 クラルスが指を鳴らす。それと同時に、第二陣にて檻の中で大人しくしていた異形共が暴れだし、鉄檻を破り現れる。周囲で混乱する第二陣の兵士や異形の面倒を見ていた研究局の連中が逃げるなか、手足が以上に長い人型のなにかが犬のように四つん這いで第一陣に向け駆けていく。

 

 「エンパス、奴はこの世界に幾度となく鼠を送り込んできているのだよ。ふざけた話ではあるのだが、目的の為ならば幾度となくそれを繰り返す。息の根を止めてしまわぬ限り、我々の世界が些細なことで悩む三百年後を迎える保証はあるまいて。将軍、見ておけ。あれが、外来種によって歪められたこの世界の癌だよ」

 

 クラルスの話は、奇怪な言動が多い。なにを話しているか分からないが、それでも重宝されるのはこの者の能力故であろう。私には見えぬ世界が見えているというのであれば、それでよし。総帥がそれを認めておられるのであれば、物事を多角化して見ることも有用だ。

 

 「下がれ、クラルス」

 

 太陽を遮る、空からの急降下。総大将を狙っての襲撃、北の地で使われていたという空を飛ぶ鉄の馬かとも考えたが、目に映ったのは小柄な人型であった。

 

 鍛えられた鋼と鋼が撃ち合う音が響き、悲鳴のような金属音をあげるが膂力の差で押し切る。

 

 「マジ?硬いじゃん」

 

 「貴様もな。どうなっているんだその身体」

 

 こちらが構えるのは、鉄甲から突き出された三角形仕込み刃。元は暗器として製作されたものを、隠密性を廃して頑丈さと刃の強固さを求めた品物で、さらにクラルスにより強固なバネ仕掛けも仕込み上手く利用すれば杭打ちのごとく鉄板を穿つこともできる。まだこれが暗器であった古い時代、カタールと呼ばれていたものだ。魔改造により原型とは別物ではあるのだが、呼び名を変える意味もあるまい。

 

 対する相手は、空を飛ぶ世にも珍しい有翼の半獣。鮮やかなヒスイ色の翼をしていたが、その羽は途中からまるで磨かれた鋼鉄のように、鈍い光を太陽光の反射で放っていた。

 

 「何者だ。下の連中と言い、その出で立ちは帝国軍の者ではあるまい」

 

 「予想はつくんじゃね?アタシ等が何者だなんて、隣のわるーい顔してる男にでも聞けば良くね?」

 

 「捕虜にして吐かせれば、もっと正確性の高い情報を得ることができるだろう」

 

 空を舞う相手とは、相対したことはない。だが帝国軍、竜狩り隊が操る鉄馬と渡り合う前の良き練習になるだろう。だが、相手が小娘だからと油断はできぬだろう。分かりやすい強さとは違う、得体の知れなさが目の前の少女から感じる。

 

 「エルバンネ様を助けろ!ライフル隊構え!」

 

 「雑魚散らしが先か」

 

 駆けつけたライフル銃兵が弾丸を放つと同時に、空を舞う少女の前身が硬化する。表面の皮膚が火花を散らして弾丸を防ぎ、まるで重力を無視するようにそのまま空を舞い銃兵に突撃する。

 

 「人間は、脆いんだよ」

 

 低空飛行の少女が兵士達とすれ違った瞬間、硬化した翼が人体を切り裂く。ライフル銃を弾く硬さの身体が、まるで質量の無い飛翔物の如く高速で空を踊り、すれ違う翼は名剣の切れ味。

 

 剣というのは、人体を華麗に切断するものではない、人間を叩き斬る為の代物だ。もっとも極東では切れ味のみを追求した変態じみた工房技で剣を錬成しているというのだが、大陸において剣とは頑丈さを求められるものである。

 

 どんなに優れた刃物であっても、連続で人間を数体切り伏せれば油と刃毀れで切れ味は落ちるもの。だが空を飛ぶ刃は、都合十数人を撫で斬りにした後もその切れ味を落としてはいない。

 

 「癌、とやらがなにかは分からぬ。だがしかし、アレが常識外れの異常な存在だということは理解した」

 

 「そうかね。ではエルバンネ、あえて言おう人類の為だと。あの蠅を落としたまえよ」

 

 「言われずともだ。これ以上配下の犠牲を増やせるか」

 

 次の犠牲者を求めて低空飛行をした飛翔体と、無駄だと分かりながらもライフル銃に着けられた銃剣を向ける兵士達の間に割り込む。カタールで上手く防御をし、弾き返すと少女は空に逃れこちらを見下ろした。

 

 「下がれ、貴様等が相手になる存在ではないようだ」

 

 「隊長!申し訳ありません…」

 

 「大砲でも爆薬でも持ちだして良い。異形共が下の連中を止められないようであれば、そいつらごと侵入者を吹き飛ばせ。陣営にこうむった被害の責任は私がとる」

 

 「爆弾とか大砲程度で、殺せるような姉さま方なら可愛げがあるんだけどねぇ」

 

 上空から詰まらなそうな声が響いた、後頭部を軽くかきながら緊張感のない呆れ顔で少女は舌をだす。

 

 「殺してくれるならそれで良いよ。どいつもこいつも、レント様に色目を使う様は気に食わないしねー」

 

 「レント…レント=キリュウインか。エンパス教の差し金だな、貴様等」

 

 「そうそう。それでもってこれは、デモンストレーション。帝国に高ーく売り込む為の一手だよ。それで、なんで聞いてもいないのにベラベラ喋ると思う?アタシがお喋りだって以外の理由でさ」

 

 情報は良いが、無駄にさえずる鳥だ。

 

 「アンタを殺して、レント様への手土産にする為だよ。死人に口なしだよ、連合王国司令官、エルバンネさん」

 

 直進で向かってくるとは、舐められたものだ。カタールをタイミングに合わせて突き出した瞬間、飛翔体はまるで蝶のようにヒラリと舞い射程から逃れた。左手の鉄甲で防御をした瞬間、首筋で火花散り離れる。あれだけのスピードを維持し、その上で柔軟な飛行術。鳥と言うにも異常だ。

 

 ヒット&アウェイ。こちらの土俵にはことごとく付き合わない柔軟さを可能にするのは、その動作の正確さ。急発進、急停止、旋回、空中での滞空。ライフル銃を弾ける重装甲の騎士思わせる硬さ、華麗な鳥のように空を舞う性質、名剣の切れ味を誇る翼。なにかを得るにはなにかを失わなければいけないジレンマを克服した、兵器として考えれば一級品の性能だ。

 

 兵器として、考えればだ。

 

 「一つ聞きたい」

 

 「なに?命乞いの成功率を上げる方法?」

 

 「魅力的な質問だが、それよりも聞きたいことがある。いったい、君は幾つだ。何故この戦場でその翼を広げる」

 

 呆けたような顔をした後、少女は腹を抱えて嘲笑する。目に涙を溜めながら、身体をくの字に折り曲げてだ。

 

 「バッカだねーオジサン。戦う相手の年齢を確かめるの?子供相手じゃ全力をだせませんでちたーなんて後で言うつもり?今時戦うのに、年齢もクソもないじゃん?強きは生きて弱きは滅びる。自然の摂理じゃん。かつてアンタ等人間が、アタシ等にしたようにね。まー知りたいなら教えてあげる、十四じゃん?多分ねー」

 

 「分かった」

 

 レント=キリュウインはこの場にはいないようであるが、この時点で私の敵が一人増えた。

 

 「いかに能力があろうと、いかに動機があろうと、年端もいかぬ者を戦場に送り込む貴様等エンパス教の指導者に、私は敬意というものを抱くことができないようだ。私個人としても、エンパス教とやらは潰させてもらおう」

 

 戦争とは、外交や内政の失敗に対する最後の手段。我々大人の都合で、市民を、なによりも子供を巻き込むことなど言語道断である。増長する帝国はいずれ、連合王国や周辺諸国に牙を剥くであろう。それを押し留める為、自国民の未来を護る為の戦いがこの戦争だ。

 

 敵方とはいえ、その護る為の子供を戦争に送り出す輩が尋常な聖職者な筈がない。どのような理由があろうと、殺しの味を覚えさせる訳にはいかない。戦争とは、地獄なのだ。それを味わうのは、誰かを殺させない為に、誰かを殺す矛盾で苦しむのは大人達だけで充分だ。

 

 「王国の衝撃、エルバンネ=トルメシア。悪いが貴公とエンパス教は、我が名に賭けてこれ以上の好きにはさせん」

 

 「かっこ良く言うけどさー、お姉さま方を止められるの?アタシ一人で苦労していると、この先しんどいよ」

 

 「心配はいらん」

 

 天幕の前から、あの性悪男は消えていた。逃げた訳ではない、この機会に試したいことはいくらでもあるのだろうから。

 

 「我が国で一番、質の悪い男が向かったのだ。そちらは心配せずに、じっくりとこちらの相手ができるだろう」



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 少しグロかもしれません。ちょっとした蟲描写に注意です。


 クラルスは考える。基地に襲撃してきたのは現地人だけで構成されたもののようであり、改めて見ても外来人の姿はない。

 

 成程、確かに使い潰せる現地人ならば苦労(しているかどうかは定かではないが)して呼び寄せた外来人を不意の事故で失ったり使い潰さずに利用できるだろう。それとも、使い捨てのみを投入するのは新たな外来人の入れ知恵か。

 

 見下ろす先、戦場で戦う者達の中で一番目立つのはあの長槍使い。流れるような黒髪を後ろで縛り、ゆったりとした民族衣装。あの異装は、東方二十七か国の少数民族で似たようなものを見た記憶がある。頭をバンダナで巻き、誰よりも勇敢に敵に突貫していく。

 

 「猛き長牙、全てを貫き通せ!神槍グングニール!」

 

 少女が槍を一閃すると、菱形に白く、薄く可視化された衝撃破が伸びる。先端に行く程貫通力が高くなっているようで、それを横に人薙ぎするだけで数多の兵士がなぎ倒される。ついでに防壁や柵も軒並み破壊され、ただの一振りで二十数人近くが胴体が泣き別れとなった。

 

 触れずに物を浮かせ人体を触らずにねじ切るサイコキネシスを操る者。分身を次々と産み出し、完璧なコンビネーションで敵を蹴散らす者、舞うように鉄扇を振るうと同時に人体を切り裂く花弁が舞い踊り優雅に敵を刻む者、手をかざすだけで怪我を癒す者。長槍の少女は目立つが、集団の一人一人が異能と言えるような能力を持っていた。

 

 「続け!我々にはエンパス様の加護とレント様の信頼に応えねばならない!この戦争を始めた、連合王国に神罰を!」

 

 「触らないでほしいかな~。汗くさいてたまらないよ~早く帰りたい~」

 

 「わちの舞、あの方以外、お触り禁止なもので。悪しからず」

 

 「怪我人は私が治します。皆さま、真なる主に勝利を捧げましょう」

 

 一騎当千とでも呼べば良いであろうか。それぞれが異能を振るい、ほんの僅かな接触で我が軍の兵士は塵のように命を潰していく。下の連中の共通事項を敢えて言うならば、罪悪感の無さか。

 

 与えられた力で、与えられた使命を遵守し、さも当然のように、自分達が選ばれた者であるとでも言いたげに、同じ人間を無残に蹴散らしていく。理解に苦しむものだ、何故そうも、なに一つ自分で得たものではない力と信念にそこまで傾倒できるのか。

 

 「ああいうのを、チート能力と言うのであったか?」

 

 ああ、くだらない。エンパスよ、貴様はどれだけこの世界に住まう者達の邪魔をするというのだ。

 

 「悪いがね、対策は打たせてもらっているよ」

 

 右手を上げたのを合図に、背後に控えていた異形の集団が麗し騎士団に襲い掛かる。軍務局や総帥にプレゼンテーションをする為に、便宜的に兵士型、飛翔型、甲殻型と分類分けをしている化物達だ。オレンジ色の皮膚から蒸気を放ち、混濁した濁った黄色の瞳を敵に向ける。

 

 リスム自治州にも派遣をした兵士型。両腕がしなる鞭のように蠢き、壁の側面だろうが天井だろうが張り付きどこからでも侵入することができる軟体性を備えている。

 

 飛行することが可能な頭に翼を生やした飛翔型。昆虫類のような羽は飛行には持続時間が限られれているが、空を飛んで目的地まで向かい羽が使用不能になった瞬間人型として現地で暴れる奇襲型。

 

 甲殻型は文字通り頑丈さが売りの化物。見た目は三メートルもあろうという時代錯誤のフルアーマーで覆われた騎士甲冑であるが、その中には大量の肉に包まれており見た目通りの馬力と耐久力で敵に突撃する。

 

 帝国との初戦では、甲殻型が突撃し前線を崩しその隙間は兵士型が蹂躙、後方に飛翔型が襲いかかり戦線を分断し混乱しきったところを連合軍が襲いかかり敵先鋒を壊滅せしめた。

 

 「あれが噂に聞いた新兵器、異形の兵士という訳か。生命を弄ぶ所業、許すまじ!蹴散らすぞ!」

 

 長槍から衝撃破が放たれ、装甲型を貫く。そのまま縦に槍を振るい、騎士甲冑ごと腹部から頭部にかけて鎧と肉の塊を切断。成程、さしもの重装甲と筋肉達磨でもあの閃光のような槍方の光は防ぐことができないらしい。

 

 サイコキネシスが、分身により産み出された複数の刃が、舞う花弁が、その他様々な異能が異形へと襲い掛かる。それはまるで、神の使途が地獄から這い上がる亡者の軍勢と戦う神話の一幕のようであった。

 

 連合軍の兵士すら、敵が可憐な乙女達であることもあいまり、その神秘性に魅入ったように見つめている。本人達もその自負があるのかもしれない。神聖な力で、悪しき存在を打ちのめす。美しく、勇ましくなければならない。何故なら我々は神の軍勢であり、主の力を与えられているのだから。個々に考えの違いはあろうど、私の予想大きく間違ってはいないだろう。どいつこもいつもそんな目をしているのだから。

 

 だが、エンパスの捨て駒ども。ここは戦場、そして私が場を支配していることを忘れてはいないかね?

 

 「身の程知らずの天使共め。その羽、喰いて散らし、落とさせてもらう。貴様等は、エンパスを堕とす前の前菜である。さあ、貪り食え」

 

 舌を、鳴らす。状況は始まった。さて、駒どもよ、精々あがいてみるがよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「異形共はだいたい片付いたか」

 

 襲いかかってきた異形はだいたい五十数体といったとこか。帝国軍との初遭遇時、混乱と恐慌を巻き起こした人外の軍勢であったが、私達にかかればなんということもない。

 

 所見のインパクトを除けば、種が割れれば物理攻撃主体の怪物でしかない。地下迷宮の地の利を利用した生態系を持つ化物共や、噂に聞く様々な変異を遂げたという人妖とやらに比べれば大きく分けても三つしかないバリエーションの異形等ただ少しタフなだけの兵隊だ。

 

 「ザッコ雑魚♪帝国軍も情けないじゃん、こんな見た目だけのカスに苦戦を強いられるなんてね」

 

 戦場に似つかわしくないフリルが大量についたドレスを身を包む少女が、異形を蔑むように見下ろし踏みつける。戦う場には似つかわしくない出で立ちであるが、激しく運動する必要がない彼女には関係ない。念動力、触らずに物をねじり、衝撃を与え、命を散らすレント様の加護はただの少女を強力な猛者に変えていた。

 

 「帝国軍も馬鹿ではない、次はそれなりの対策を仕込んでくるだろう。兵器というのが一番効力を発揮するのは初撃のみだ」

 

 「えーこんなの初見で楽勝だしぃ。ルルミアちゃんが天才すぎるから?世の凡人達は大変だねぇ」

 

 「よーもまあ粋がれますなぁ。レントさんの加護が無ければ無力な小娘の分際で」

 

 「はぁ?」

 

 これもまた、戦場には似つかわしくない踊り子の出で立ちをしたものが嘲笑を含んだ口調で茶々を入れる。口元を扇で隠し、細めた目をニタニタと笑いながらフリルの少女を見つめていた。

 

 「孫にも衣装と言いますかねぇ。与えられた力に頼り切り、粋がるのは見苦しいとは思われないのでしょうかぁ?なかなか、痛い発言を見ていると身体が痒くなってきますわぁ」

 

 「そんな男ウケしか考えていない下品な衣装でよく言うよねぇ。そちらこそレント君の加護が無ければ場末でオジサン相手に踊る三流じゃん。おばさんが、嫉妬しないでよ」

 

 「世間知らずが言われますなぁ。その可愛いお口縫い合わせてあげましょかな?」

 

 二人が対峙する。まだ目標を葬った訳でもないと言うのにこれなのだから。大商人の令嬢といい、踊り子と言い、一般人あがりはすぐにこれである。万能感から慢心を引き起こし、レント殿に対する愛が共通しているものだからすぐに内部で衝突をおこす。

 

 カリナ=イコライとクーラ=ネレイスの仲の悪さが一番目立っていたが、片方はモスコーで死んでもう片方はレント殿の元から去った。それで平和になると思ったら大間違いであるようだ。

 

 「後はあの半獣が、敵総大将を狩れば文句はないのだが…」

 

 不和をおこす者をわざわざ止める程の労力はない。所詮あの二人等替えが効く兵隊にすぎないしそれを自覚していないならば重傷だから駒として使うしかないだろう。戦地で活躍でき、なおかつ戦場での嗅覚が一番効くのは私なのだ。それが理解してくださっているからこそこの急襲隊をレント殿は私に任せてくれたのだろう。

 

 「あの、隊長」

 

 傍らに、口元をマスクで隠し身体のラインが出たスーツに身を包むアサシンが現れる。不和をおこさない分、この部隊ではまだまともな方だ。

 

 「アレ」

 

 「放っておけ、気づいてはいるだろう。敵地で仲間通し喧嘩をするリスクというやつだ。むしろ気づいていないでそのまま死んでくれた方が、レント殿や私がおこす胃痛の原因が減って良いのだがな」

 

 フリルのドレスを身にまとう少女の後ろ、首をねじ切られた筈の巨漢の異形がゆっくりと起き上がる。その巨大な拳を握りしめ、その身体の数倍はあろう体躯を活かした鉄槌のような一撃が頭上に振り下ろされようとしていた。

 

 だがしかし、その巨体がピタリと止まる。全身を万力で絞められているような、見る者にはそんな印象を与えられた。首から上のない異形がどんな表情を浮かべたか等分からないが、少しでも理性や知性があるのならば驚愕でもしていただろうか。

 

 「馬鹿だねー。普通に考えてブサイクな筋肉の塊が美少女に勝てる訳ないじゃん」

 

 ギリギリと、背後を見ないままその四肢がねじ曲がり、ねじ切れる。胴体から両腕と両足が切断され、巨大な肉の塊が地面に叩きつけられる音が響いた。例え死なない不死の異常性があろうが、こうなってしまえばなにもできまい。

 

 「じゃあおばさん。一度上下関係でもハッキリとさせ」

 

 首の無い死体が起き上がり、四肢を切断され地面に落ちる。それだけのこと、私を含め誰もが油断をしていた。倒れた異形の数体は似たような行動をおこしており、レント殿から加護を受けた我々ならばその程度問題なく対処ができる。

 

 私も視線を反らした。傍らのアサシンも、次の標的に向かおうとしていた。フリルの少女ルルミアも背後等目を向けず、それと対峙する踊り子も注意を払ってはいなかった。

 

 ドンッ、というなにかに刺されたかのような大きな音。派手で、視覚的恐怖をまき散らし、本能のまま暴れるような造形と行動。戦場で注目を引き恐怖を振りまくようなデザインで造形された異形達。ただそれだけの存在だと、誰もが思っていた。

 

 事前に受けていた報告ではそうであったし、対峙した印象もそれと変わらないものだった。

 

 連合国軍の動きはどうか、エクスラムの首は獲れたのか。そんなことを考えており、その音で初めてそれに注意を向けた。胴体、切断された首の断面から這い出るように延びた、生々しい薄いピンク色の細い紐のようなものがフリルの少女の首筋に刺さっている。

 

 傍目からは、なにか線のようなものが首に刺さっているようにしか見えない。だがしかし、その身体内部では細い紐が意思を持ちある部位を目指して突き進んでいた。首から侵入した線虫のような存在は、頭蓋骨の下部に存在する大後頭孔に侵入する。

 

 「イ゛…え?なに?なっ!が…あっあぎィ!?」

 

 「なんなん、急に下品な顔晒しおってかんに」

 

 対面にいた踊り子にはそれが見えなかった。対峙した相手が突然変顔を晒した程度にしか思なかったのだろう。それはそうだ、傍目から見てもなにがおきているのかがよく分からないのだから。

 

 そして、それを理解しているのはこの連合王国陣営においてただ一人だけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭蓋骨の大後頭孔から侵入した存在は、まずは脳幹に到達する。脳幹とは人体の操作において、自律神経や呼吸等を司る重要部分を遠慮なく蹂躙する。ほんの一瞬、寄生された者は呼吸が途切れるような感覚に陥るが、侵入者は人体の一部を切り離し代替品を用意するように付着する。不思議なことで、このことにより人体は即死をすることはない。

 

 小脳を通り抜けることで、寄生された者は体幹がグラつくように揺れる。指先がビクビクと痙攣を始める。

 

 大脳の後ろにある後頭葉を汚染することにより、視界がチカチカとした異常事態がおきはじめ、まるで暗闇で光が瞬時についたり消えたりするように点滅するようになる。

 

 「見えない!みえ゛…え゛なにあがぎゃ…がええ!」

 

 侵入者は側頭葉はスルーして大脳の天辺からやや後方部の頭頂葉に。ここに問題がおこると身体の一部や全身が痺れたり、物の感覚が分からなくなる。身体全体が弛緩するような感覚に陥り、地面に倒れ伏し失禁をする者も見られる。

 

 そして前頭葉。感情や思考、理性を司る器官に先端が侵入し一連の動作が止まる。こうなれば、もう寄生された者は助からない。槍を持つ女戦士が慌てたようにまだ外部にでている侵入者の一部を切断するがその行動には意味がない。

 

 『ロイコクロディウムという寄生虫を知っているかな?もしくは、エメラルドゴキブリバチやハリガネムシなんかは知っているかい?』

 

 白衣に身を包む後ろ姿を思い出す。その口から語られた言葉は、我には知らないことであった。だがしかし、それを元に我が研究はここに成就することができたのだ。

 

 「貴様等が神の使途を名乗るならば、我々はそれを踏み潰す。貴様等に人権等は存在しない、戦時国際法も戦争虐待防止の国際倫理協定も適用されない。何故なら貴様等は人間が人間の為に戦う兵隊ではなく、神の傀儡に従うさらに愚かな駒であるからだ。そのようなものに、我は慈悲をかけない。憐憫の念も抱かなない」

 

 どのような手を使ってでも、この世界からエンパスの影響を切り離す。戦争はその為の手段とさせてもらう。我に課された、いや託された使命はそれが第一であるからだ。

 

 「レント=キリュウインが与えられた力は加護とかいったか?ならそれを利用させてもらおう、神の御業は、万人に与えられるものであるのだからな」

 

 ただの皮肉であるが、我ながら上手いことが言えたのではないかとほくそ笑む。貴様等が人間を傀儡とするならば、我等はそれを手駒にさせてもらうだけだ。

 

 見ていろエンパスよ。破滅は、貴様が振りまいた力によりおこりうる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 ルルミア=トルディは帝都の傀儡国であるとある辺境国に仕える没落した貴族の四女であった。

 

 国力も低ければ家柄も低い、貴族といえどさして重要視されない家柄であったが商売に成功して成り上がる。だが、四女であっては跡継ぎにもなれず周囲からも家人からもなにか期待をされるようなものではなかった。年頃になったら、適当な家と経済面を支援する為の政略結婚をして終わりな人生になにか意味があるのだろうか。

 

 そんな自分の人生に意味を見出したのは、帝都に留学をしていた際、当時まだ帝都の掲げる大盾本部にいたレントgひえあおrんfぢえhgざおkるん

 

 走馬灯が食いちぎられるように霧散する。思考を司る大脳が食い散らかされ、侵入者がその細い身体に幾つもの穴が開き微細な触手が脳神経に接続された。生態学的には生きているが、その意志と思考は軒並みなぎ倒され蹂躙される。

 

 電気信号が駆け巡り、身体を強制的に行使する。出来うることを把握した侵略者は、脳から発せられた命令が神経系の電気信号を通じて足を動かす。両腕を地面について立ち上がり、暗滅していた視界は回復し、表情筋がぎこちなく動く。傍から見れば、倒れ伏した存在が立ち上がり奇怪な笑顔を浮かべているのみだ。

 

 擬態により表情筋の操作。それをクラルスが観測すれば次の改善点にでもしたかもしれない。眼球がギョロギョロと動き、頬を痙攣させ、笑顔とみられるようななにかは不気味の一言であった。こうなれば、いかに天性の容姿をもって産まれようとそれに見ほれた男も後ずさるだろう。

 

 この時点で、侵略者はルルミアとなった。いや、侵略した存在にルルミアが取り込まれたのか。

 

 だがそんなものは侵略者にとって意味はない。周囲にいる他の使い勝手が良い肉体に、仲間達を迎え入れてやるだけである。

 

 「なんか知らんけど、キモイわぁ。この状態でレントさんの元に戻られても、うちの隊の評判に傷がつく。首でも落として、殉教ということにしちゃいましょか?」

 

 「いや…嫌な予感が……離れろ!」

 

 両手を広げ、脳内に刻まれた奇怪な能力に指示を強制させる。行使された不可思議な力が、周囲に散った。

 

 勘の良い者が一人、全力で効果範囲外から離れる。どうやら、危機の察知という意味では周囲の者達とは違うということなのだろう。シンプルに、場数が違うとでも言うべきなのだろうか。

 

 サイコキネシス。与えられた加護が周囲に飛び散り、不意を打つように戦場なのに弛緩した空気に囚われていた者達に作用した。貴重な外殻を破損させたりはしない、身体の行動における自由を奪うだけだろう。

 

 「なに!?」「どうなっているの!?」「止めなさいルルミア!」

 

 舌を動かし音を鳴らし、特殊な音波を乗せて周囲に伝える。死体から這い出て来た同胞達が縛られた者達の首筋に殺到する。

 

 「げ、迎撃!」

 

 瞬時に判断ができたのは一部のみであった。死体から突然、大量に肉を食い破り這い出て来たミミズのような生物に、生理的嫌悪が勝る者達が多かったようだ。

 

 異形の死体から這い出た気色の悪い生物が、皮膚を突き破り胎内に潜り込んで来る。まともな感性を持つ者であれば、それがどんなおぞましいことか容易に想像がつくだろう。背中を見せて逃げたところで、誰が責められるだろうか。

 

 最愛の存在から渡された力で、圧倒的な優位に立てる異能で敵を蹂躙するだけの戦場。もしもの話であるが、リスムの巨人事件に投入された者達がもう少しいれば、この異常事態でもまだ被害は少なかったのかもしれない。

 

 「この蟲を近づけるな!」

 

 鎌鼬をおこす大鎌を持った女性が蟲を迎撃するが、その肩と右足に矢が突き刺さる。目の前の脅威に気をとられ、甘いことに未だ自分達が敵地にいるというものを忘れているらしい。

 

 倒れ伏した身体に大量の蟲が殺到する。薄いピンクの生物に埋もれ、その中から救いを求めるように手が伸びていた。連合王国の兵士達の表情は引きつっていたが、それでも高台から矢を放ち続ける。円卓の一員であるクラルスが問題ないと言っていたうえ、総隊長のエクスラムから指揮権を預かったと言ったのだ。指示に従うしかない。

 

 それでも、尋常ならざる光景に兵士達のなかでも嘔吐をする者も現れる。それだけ、異質な光景なのだ。

 

 「ハハハッ!どいつもこいつも、自分等が狩られる側となるとは思っていなかったのか!?異能で一方的に相手を蹂躙できるとでも!?片腹痛い!驕りを後悔する間もなく死んでゆくがよい!」

 

 この狂気を笑いながら見ていられるこのクラルスも訳が分からない。とにかく、今は早くこの状況を終わらせたかった。殺されているのは敵であるが、地獄ともまた違う気持ちの悪い光景から早く、兵士達は目を反らしたかった。

 

 そして、一人の兵士が目を思わず反らしてしまう。先程まで異常な能力を駆使する恐るべき存在であったが、寄生する生物に嬲られるように殺され、何人かに異常性が見え起き上がり仲間を求めるように周囲に襲い掛かるのを見ていられなかったのだ。

 

 容姿はともなく、国に帰ればあれくらいの年頃の娘がいる。それがもしあんなめにあったとしたら、そんなことを考え反らした視線の先でそこでもまた異様なものを目撃する。

 

 「背後狙いか。この状況でも、冷静なものだな」

 

 クラルスの袖口からなにかが伸びて背後に伸びたと同時に、それに捕らえられた影が地面に叩きつけられる。黒装束に身を包まれた暗殺者が、苦痛の声に呻きながら這うように転がった。

 

 「如何に分身ができようと、あの場にはいたくないというのが人情というものだろう。下で対応しているのは分身の偽物、直接こちらに来た貴様が本物だな?」

 

 叩きつけられた暗殺者にクラルスが近づき、首を掴んで持ち上げる。目を幾度となくこすろうが、一瞬だけ伸びたなにかは跡形もなく消えていた。

 

 「失せろ、貴様に興味等ない」

 

 ゴキリと、首がへし折れる音が響く。ゴミのようにそれを異形の遺体の上に放り捨て、まるで餌を投げ入れられた鯉のようにそれに蟲共が群がっていった。悪夢のような、光景だ。エクスラム様は、この惨状となることを知っていたのだろうか。

 

 王国の勝利の為、目の前の惨状には目をつむる。後で、なんらかの罪に咎められようがこの光景を見てはいられなかったのだ。

 

 「目を閉じるな雑兵よ。あれが神の尖兵だ、我等の敵が現れるぞ」

 

 いつの間にか、クラルスがこちらに来ていた。兜の上に手を乗せられ、瞼に指を乗せられ無理矢理目の前を見せられる。

 

 視界の先には、陣営の外に逃れようとしている踊り子。そしてその先に、騎士槍を持つ重甲冑を着込んだ一人の騎士が、悠然と馬に跨り走り寄ってきていた。



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 「主や、何故こんなところに!だが丁度良い、想定外の出来事がおこっているでな、手を貸してたもれ!」

 

 陣営に近づいた時、乗ってきた馬がこれ以上は近づきたくはないと拒否反応を示した。私の故郷が経済崩壊から続く一連の出来事により国家としての枠組みが消滅する以前からの付き合いであり性格はよく理解している。そんな愛馬が拒否をするというのであれば、やはり尋常ではないことがおきているのだろう。

 

 下馬をして、歩を進めようとした時にこちらに踊り子が走り寄る。およそ戦場とはかけ離れた、相応しくない出で立ち。ことその特殊な才能から、隊長に選ばれ部隊に組み込まれることになっていた。

 

 「おお副長よ!連合王国の連中、奇怪な生物を駆使してきよってな。残念ながら我々には手に負えん!だが団長補佐である副長であればこれくらいは……」

 

 後ろを見て、追跡者がいないことを確認しながら喋る。安心しながらこちらを見た表情が、安堵のまま固まる。腹部の衝撃、貫通した騎士槍が信じられないといった様子で目を白黒とさせていた。

 

 「何故貴様はここにいる」

 

 「……は?…なにを……わちを殺したら…レント殿が……」

 

 「敵前逃亡。私達に果たされた神命は、前進制圧の筈だ。貴様はエンパス様の、レント隊長の命をなんと心得ている」

 

 騎士槍が引き抜かれ、踊り子が膝をつく。目の前に投げ渡されるのは、慈悲ではなく両刃のナイフであった。

 

 「せめて生き恥を晒さず自害せよ。汚点を自ら拭いさってこそ、贖罪だ」

 

 傍らを通り過ぎ立ち去ろうとする。自ら首を掻き斬る強さが無ければ、そもそもエンパス教えを支える武力となることじたい間違いであるのだ。あの傷では馬にも乗れなければ、そのまま血を流し死ぬしかない。生き恥を晒しその生が冒涜となるのならば、自害による殉教の選択肢を与えたのだからまだ情けを与えた方だ。

 

 一歩進み、その次の行動で騎士槍を背後に突き刺す。舞う鋼鉄となる花弁を寄せ付けず、槍の尖端が吸い込まれるように額に突き刺さり頭部を破壊した。

 

 「逆怨みか、愚かなものだな」

 

 怨みをこめてせめて、道ずれにでもしようとしたのか。だが、殺気が漏れている半死人の攻撃等いかに異能があろうと恐ろしくはない。

 

 「だからレント殿には言ったのだが、大道芸人や趣味人を戦線に出すべきではないと。いや、失っても痛くないもので威力偵察ができたと思えば御の字か」

 

 先発隊で使い物になりそうなのは、東方二十八ヵ国の槍使いクルーとアサシンのはみ出し者メリオーネくらいなものだ。それらを除けば、誰も彼も戦場を体験したこともない市民あがりにすぎない。せめて、信仰心を胸に果敢に立ち向かえば認めなくはないがこのざまである。

 

 訓練もロクにしたことがない市民が初めて銃を持つ時、その万能感に近い遠距離からの一撃必殺の性能に酔いしれる。だがしかし、何時どこで、なにがおきるか分からない戦場では練度を高めなければそんなものはせいぜい自害用に使えるかどうかにしかならない。

 

 本質を突き詰めれば、レント殿から与えらえる加護とてそれと同じものだ。モスコーで亡者に殺されたカリナ=イコライや巨人事件で命を散らした者達もいるというのに、自分だけはそうはならないという精神に侵された者達の多さには辟易していた。

 

 「生き残れそうな者は、精々数人だと思ってはいたが」

 

 動揺し、冷静さを欠き、対応が可能である能力を有しているというのに、陣営に辿り着いた際目に入ったのは蟲にたかられるかつての仲間達だ。生理的嫌悪に呑まれず、冷静に対応していればある程度は助かる目もあったものを。

 

 浸食された幾人かが、目を、いや眼球をギョロリと動かしてこちらを見る。曲剣を持つ者が、躍り出る。光を透過する程の透明な刃は、あらゆる防御能力を無視して敵に斬撃を与える異能だ。そして、手にもつものの重量を軽減もしくは消失する能力を持っていた。

 

 生前よりも動きが素早く鋭い。筋肉の肥大具合から、恐らくは脳を犯す侵入者になにかしらの制限を介助されたのだろうと推測はされる。

 

 「防御を無視する加護、だがやはりそれは使い手が成熟してこそだな」

 

 だがしかし、これよりも速い存在等いくらでもいる。噂によるところ、辺境警備隊を一人残らず首を刈り取り殺した人妖がいたようであるが、かのウォーリアバニーよりも強力な存在ともなれば是非一度遭遇してみたかったものだ。

 

 曲剣の一振りよりも早く、騎士槍の三連撃が心臓、首筋、脳を貫く。身体能力を解放してもやはり遅い、この程度か。

 

 仲間が一人やられたことに、蟲に侵入された者達がまるで意識を共有するかのようにこちらに注目する。それと同時に、身体全体に負荷がかかるような感覚。縄で無理矢理拘束し、両肩に凄まじい重量がかかり、腕が捩じられるような圧が感じられた。

 

 動きが止まったところで、飛びかかる蟲と乗っ取られた傀儡達。遠距離からも鎌鼬や魔法のような蒼い閃光、大量に増殖したナイフ等が飛ぶ。新たな宿主にたかろうと、足元からは無数の蟲が這ってきていた。

 

 「ほう、やられていたか。少しだけ以外だったな。いや、たかだが暗殺者、戦場ではこのようなものか。それとも、相手が悪かったか?」

 

 襲い来る者達中で、黒装束のアサシンであるメリオーネがいた。二十を越える分身と共に迫りくる。この者を狩れるものがいたことを警戒するべきか。

 

 身体を拘束する不可視の荷重を跳ねのけ、槍の一振りで分身や遠距離攻撃が軒並み薙ぎ払われる。正面から来たのが偽物ばかりであるならば、背後か側面狙いか。

 

 分身一体一体に体積は存在しない、なんて甘い加護ではない。一人一人が質量を持ち、本物の刃と運動能力があり、分身を何体潰しても本体には効果が薄いというものだ。だが、今回は質量があるのが良い。

 

 「全ては不可能だとしても、なるべくならばこの鎧を蟲ケラ如きで汚したくはないのでな」

 

 武器を持たない側面から襲いかかってくる分身の一体を掴み、蟲共の上に叩きつける。何体かが潰れ、隙間から這い出た蟲が悶えていた。

 

 分身の背中を踏みつけて、前進する。ルルミアがこの光景を見ていたら…否、まともな感性と考える脳が残っていたならばこの光景を見て驚愕をしていただろう。

 

 彼女がレントから受け継いだ加護。本人の慢心や生死の危機を感じる程の苦戦を経験したことがないということを除き、その能力の脅威だけを考えれば、高位のものであった。

 

 超能力、サイコキネシス。あらゆる防御を無視して、不可視の圧力で荷重をかけ、力で捻じ曲げ、その気になればその四肢や首を簡単に捩じ切ることができる。そんな能力こそが、慢心に繋がったのだろうが戦うものにとってその異常性は脅威そのものであった。

 

 「信念と信仰心。その御心に従う者に障害はありえない」

 

 ルルミアをのっとった存在が、どれだけの力を行使しようとその前身は止まらない。巨大な騎士槍を縦横に振り回し、飛びかかる蟲を薙ぎ払う。その攻撃一つ一つにまるで不可視の能力が付加されているように、鎌鼬も閃光も掻き消える。

 

 「あれが、我等がナンバー2なのか」

 

 槍を携える、東方二十八ヵ国の少女クルーは同じ槍術使いとして格の違いを感じていた。古い時代において、馬上で馬の突撃と共にでなければ重量のせいでロクに扱うこともできない馬上槍を更に巨大化させたような騎士槍。

 

 四方から襲い掛かる蟲共とそれに操られた者達を蹂躙させていく様はまるで、ただの一人だけなのに歩く重騎士隊だ。蒼い魔術や鎌鼬を弾き返す様は加護の力を少しだけ応用しているだけなのだが、ただの一槍でまるで彼女の周囲だけ不可侵の領域が出来ているようだ。

 

 レント殿の信頼が一番熱い、エンパス教の聖騎士団において副長を務める身。それは、彼の寵愛を一番に受けているという証である。それも、実力でだ。状況が状況であるにも関わらず、ここでこの槍を打ち込み隙をついて殺してしまわなければ永遠にその座は手に入らない。そんな邪な考えまで浮かんでしまう程である。

 

 「クルー」

 

 ただ悠然と、戦場を歩いていた重騎士がいつの間にか目の前まで来ていた。兜の奥に光る金色の瞳がこちらを見下ろしている。

 

 「まだ無事な者達もいるようだ。貴様なら、彼女等を纏めてこの戦場から離れることもできるだろう。この首を狙う気概、この状況でもある貴様ならな」

 

 槍を握りしめる手のひらが、ジットリと湿っていた。それだけ告げて重騎士は前進をする。気づいたら、私自身蟲や操られていた者達に包囲をされていたのだがその者達は全滅していた。ほぼ、加護の力を使っていないというのに。

 

 「我等は天上の者に仕える従者。奉仕をし、この世界を導く偉業を手伝うか細い力。出来うることをするが良い、我等が神の為に」

 

 腰が抜けそうになるが、ここでへたり込んではあの槍が頭をめがけて飛んできかねない。クルーには、もう頭を空にしてその言葉に従うしかなかった。

 

 クルーから離れて重騎士が前進していく先には、ルルミアがいた。まずはこの荷重をなんとかするべきと考えたのだろう。

 

 ルルミアが両手を広げる。浮遊する陣営を構築していた木材や異形の者の死体、テントに武器の類が浮遊をしルルミアの前方に壁として積み上げられていく。そして、残骸の一部が宙に浮遊したまままるで投石機で飛ばされたかのような勢いで叩きつけるように落ちてきた。

 

 「ふむ」

 

 重騎士は両足をしっかりと地面に縫い付ける。重心を低くしたと思ったら、その荷重に縛られた途轍もなく負荷がかかっている筈の身体で駆け出した。それはまるで、古い時代の重騎士突撃。銃、というものが産み出された現在では埃を被った古くシンプルな戦術。

 

 木材や武器が鎧に叩きつけられるが、騎士の突撃は止まらない。多少の衝撃をものともせずに突き進んでいき、その槍の一撃が残骸の壁に突き刺さる。

 

 それはまるで海を割ったとされる聖人の神話のごとく、残骸が吹き飛ばされその向こう側にいたルルミアに届いていた。巨大な槍により、その頭に突き刺さったというより、首の上にあった頭が吹き飛ばされ破片しか残っていなかったと表現する方が正しかった。

 

 重騎士が腕を軽く動かし、荷重が消えたことを確認する。

 

 「何時もの負荷訓練より、流石に荷が重かったな。だがまあ、こんなところか」

 

 手に持つ騎士槍を、片腕で地面に深く突き刺す。手応えがあったのか、引き抜かれた槍には暗殺者であるメリオーネの死体が突き刺さっていた。乗っとられたものの中に、土に関しての加護を扱う者がいた筈だ。その者の能力を使い土の下に潜んでいたか。

 

 「下からという狙いは悪くはない。必殺のタイミングを計っていたか。確かに、我が加護の特性を考えれば最適解と言える」

 

 槍を雑に振るい、頭上から股間まで貫かれた者の残骸がテンとの布地に叩きつけられる。

 

 「だが、無様に敗北をし敵の手先にのっとられる等唾棄すべき信仰心の欠如だ。少々買いかぶっていたようだな、メリオーネ」

 

 重騎士が本陣の方角を見上げる。空を飛ぶ半獣の少女が、連合王国軍の総大将と戦闘をしている光景を確認した。

 

 「未だ首級をあげられていないととるべきか、それとも敵ながら加護を持つ者相手によく粘ると褒め称えるべきか」

 

 「そこは素直に我が軍の総大将殿を褒めてはくれんかね騎士殿よ。あれは我とは違い生粋の武人あがり、叩き上げというものでな」

 

 第二陣へ昇る為の坂道。木門の上、薄汚れた毛皮のコートを身にまとう男が見下ろしていた。

 

 「生憎我が褒めても、皮肉としか受け取ってくれんのだ。野蛮な脳筋なら脳筋同士の方が話が合うだろうよ」

 

 「成程、その出で立ち、貴様がクラルスか。エンパス様から名指しで連合王国の危険人物だと聞いている。私としては、貴様さえ葬ればこの戦場での役目は終わるが、貴様がわざわざ出て来るというのことは罠なのだろう?」

 

 重騎士が前進を開始する。

 

 「蹂躙する」

 

 「ならば良し。死ね」

 

 クラルスが指を鳴らした瞬間、連合王国兵士達が二段目の陣営を取り囲む土壁の上を囲むように現れる。全員がライフル銃や弓矢を装備しており、ただ一人に向けて照準を合わせていた。

 

 だがしかし、奇妙なことにその顔は引きつっていた。敵に関する恐怖だけではない、それはまるで、逃げるに逃げられないような、敵に銃口を向けながら背後から銃口をつきつけられているようであった。

 

 弾丸や矢が射出させる。殺到する飛び道具は、分厚い鎧の装甲に火花と散らした。

 

 「無駄に硬いではないか。このご時世、わざわざ重装甲を着込むのはそれなりの理由があるということか?それが噂に聞く、オルレアン鋼か。サンプルは手に入れているよ、我が国の鍛冶技術では加工不可能と言われているがなぁ。普通の鎧と比べても重量は凄まじい、本当に人間か貴様は」

 

 「呪われた金属だ。これのせいで我が国は滅んだ」

 

 「ああ、旧グロルダール公国か。さしずめ、資源の呪いという奴だな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 旧グロルダール公国は、かつて帝国の南西に位置していた小さな王国であった。国と名乗っていても、国民の総生産量は帝国の大都市一つと同じ程度であり人工の面ではリスム自治州以下の所謂小国である。主な輸出産業は豊かな大地で育てられる葡萄とそれから製造されたワイン、良質な豚肉くらいなのどかな国である。

 

 なんのことはない小国であったが、その国でとある産出物の大鉱床が発見される。

 

 この世界でも価値があり、また生活とは直接結びつくことはないが貴重な鉱石。それは、ダイヤモンドであった。

 

 「なんのことはない小国が、世界中から注目を集めることとなった」

 

 旧グロルダール公国では、ボ…じゃなくて俺がいた世界のオランダやナイジェリアと似たような悲劇を辿ることとなる。いや、ナイジェリアよりもさらに酷い惨状になった。

 

 オランダ病。

 

 天然資源の輸出により製造業が衰退し、結果的に失業者を多く生み出し国力が傾く現象が経済用語としてそういわれている。

 

 オランダは北海に膨大な天然ガスの資源を持っていた。1973年の第一次石油危機がおこった際にエネルギー価格高騰に伴いそれを輸出することで莫大な利益を得ることができた。世界中が必要資源に苦しんでいる時に『うちの敷地から資源出てるんで売りますよ、足元は見ますけど』を文字通り行った訳である。詳細は違うかもしれないが、ざっくり言えばそんな感じだ。

 

 政府はこの高額収入を高度すぎる社会福祉にあて、国民の暮らしを向上させた。しかし、天然ガス輸出拡大で通貨の為替レートが上昇。労働者賃金上昇と共に上がる輸出製品の生産コスト上昇。工業製品の国際競争力が急速に落ち経済が悪化してしまう。そこに経済成長で上昇した社会負担が国の財政を締め付け財政赤字が急増してしまった。

 

 ナイジェリアでは、1970年代の石油輸出で大きな利益をあげたが、通貨高で以前の輸出品であるココアとピーナッツの収益が暴落。農家の衰退と、国家収入の多くが石油の輸出により課税が減る。税の使途の説明責任が薄れれば、そこから始まるのは悪徳政治家達の利益誘導政治だ。少数の利益を産む人間を抱え込む賄賂が横行し、適切な投資や公共事業が衰退する。

 

 1986年、世界的な原油価格暴落がおこると国民からの税収が軒並み下落していたナイジェリアはあっとう間に衰退していった。一つの資源に頼り切り、それ以外を蔑ろにしてしまった末路である。

 

 要するにオランダ病とは、豊富な天然資源により大きな貿易黒字を叩きだすことで自国の通貨高を招き、資源以外の輸出品は国際競争力を失う。製造力が衰退し働いていた人間が失業者になるが、高すぎる社会保障や蔑ろにされた国民達により国家が苦しめられるということに繋がってしまう。

 

 専門分野ではないが、ざっくりと思い出すとこんなところだったか。

 

 資源輸出で得た利益の投資とそれのみに頼らない産業の多角化がその罠をかいくぐる手段だ。資源弱国の日本には贅沢な悩みに思えるが、持つ者は持つ者で選択肢を誤れば苦労が待っているのだろう。

 

 ではこの世界の、グロルダール公国はどうなったか。

 

 希少で巨大なダイヤモンドは公国の巨大な収入源となった。国民はダイヤに夢中になり、その採掘の人員が回され他の産業は蔑ろにされる。それはそうだ、呑気に葡萄を作ったり豚を育てるよりも何倍や何十倍にも膨れた収入が手に入る。民衆や土いじりや家畜の世話をやめ鉱山に殺到することとなった。

 

 巨大すぎる収入により外国からも出稼ぎの労働者まで訪れ、末期にはかの有名なアホウドリの糞で出来た国と言われるナウル共和国のように働くことを忘れてしまったという国民までいたと言われている。

 

 しかし、事件がおきる。海竜リヴァイアサンの討伐だ。

 

 元々南方大陸には、調査により様々な資源の鉱床が存在することが確認されていた。ダイヤモンドも、その資源の一つである。

 

 開発が進まなかった理由は、かの海竜が君臨する限り大量の開発人員や道具を送り込むことも、採掘できた資源を帝国に輸入することも難しかったからである。かの海竜であろうと、海原を通過する船を全て沈めることはできない。しかし、多い時には年間で海に出た船のおよそ六割を沈めるという圧倒的な被害があればだれもが開発に及び腰になろうというものだ。

 

 しかし、海竜は討伐され海の支配者は人間、とりわけ強力な海軍力を持つ帝国の物となる。目論見通り南方の弱小国家を踏みつぶし、現地人を使い採掘された資源が帝国に流れ込むこととなった。傀儡国でプランテーション農業を行い砂糖に困らなくなったように、帝国はその強大な体躯を支える鉱物資源にも困らなくなったという訳である。

 

 帝国で安価にダイヤモンドが出回り始めると、当然グロルダール公国のダイヤモンドの価値は下落した。価値が下がったものに何時までも人は群がらない、ある程度の利益はでるが、一時の輝かしいダイヤの輸出利益に頼った経済は破綻する。

 

 そんなグロルダール公国の最後の切り札は、国民にも明かされていないとある鉱床の存在であった。加工すら覚束ない、しかし恐らくこの地上でかなりの上位に位置するであろう硬度を持つ、まるで花弁のような奇妙な形状で洞窟内部で咲き誇る巨大な鋼鉄の花。オルレアン鋼である。

 

 加工技術が開発され、この鉱石から出来る武具を販売できるようになればかつての栄華を取り戻せる。少なくとも、公国の指導者達はそう判断していた。そしてそれは、半分だけ実現をしていた。

 

 「あの鉱石は、俺にも訳が分からない程硬いからな。だが悪魔の力でも借りたのか、それとも技術的な特異点でもおこったのか。とにかく、あの鎧と槍があるということは加工には成功したんだろうなぁ」

 

 だが、時は既に遅し。国家の経済悪化は大量の失業者を支えきれるものではなかった。暴動と反政府デモ、過激化したテロリストが産み出されグロルダール公国軍と幾度か激突までしている。民衆には、経済が分からない。ダイヤモンドで得た莫大な富を、国家が独占し始めたようにしか見えなかったのだろう。

 

 最終的には、グロルダール公国の貴族による裏切りによりオルレアン鋼の秘密が漏れてしまう。すぐさま帝国が介入し、平和維持の名目で表から内政干渉、裏からはテロリストに援助をして親帝国派閥を増やしていく。

 

 工作によりグロルダール公国軍にも不満が広がり始める。軍とはいえ、彼等も人だ。民衆による暴動の鎮圧。しかしあの中には、自分の家族や恋人や友人達がいる。配慮はしても死傷者をだしてしまう暴動鎮圧や手段を選ばないテロリズムに、軍も疲れきっていたのだ。

 

 『レント殿。ダイヤモンドも、オルレアン鋼も、我がグロルダール公国には必要なかったのだ』

 

 部下の裏切りにより降伏せざるえなくなった、旧グロルダール公国軍騎士団長カナリヤ=エルは、絞首台から助けだされた時憔悴しきった顔でそう言っていた。

 

 資源の呪い。産み出された大量の高級資源により、小国には度が過ぎる強力な新資源により、グロルダール公国はこの大陸から消滅し帝国の一部となってしまったのだ。

 

 余談ではあるが帝国の誤算は、テロリストに率いられた暴動の集団が公国から大金をもらい、準貴族のような生活環境を与えられたお抱え鍛冶職人。つまり、オルレアン鋼の加工に成功した唯一の技術者達をも感情のまま殺してしまったことだ。必死に書類等が残っていないか等の調査を開始するも、唯一無二の加工方法は闇に葬られてしまった。

 

 暴走した民衆程、コントロールが効かない者はない。その根底に怒りがあるならなおさらだ。それが例え、自業自得であったとしても人々は誤りを認めない。国全体が、間違っていたというのに。

 

 ダイヤモンドの利益により腐敗した政治。伝統や矜持を捨て金儲けに走り、最終的には働くことすら放棄して不良債権同然となった国民達。それでも護るべき国民達相手に武器を向けざるえない状況となり、矛盾した行為に苦労する日々に彼女は疲れきった顔をしていた。

 

 『誰も彼もが、自分のことしか考えていなかった。あの、牧歌的で私が護りたい民たちも民衆を考えた政治を行う為政者もどこかに消えた。助けだしてもらったところ申し訳ないが、私にはもう生きる希望はないのだよ』

 

 俺が彼女を助けた理由、それは容姿であった。というか、輝かしい美貌を持つ幸薄い女騎士を堕とすなんてそれなんてエロゲ状態だ。これが醍醐味で異世界転生を楽しみ、エンパスに協力しているといっても良い。

 

 だが話と状況を聞き、この女であればエンパスの秘密を明かしても良いと考えた。実力もそうではあるが、この女ならばあれが目指す世界に共感を得て、捨て駒ではない便利な手駒として利用しつくせるかもしれない。

 

 そして、天性の身体能力と努力に裏打ちされた戦闘能力。俺が思う最強の加護を与えたとしても、肉体に負担なく使いこなせることができるだろう。その予想は、大当たりであった。

 

 「連合王国には、昔何度もエンパスに煮え湯を飲ませた奴がいるらしいが今回はそうはいかねえよ」

 

 かの陣営に、心技体に異能を揃えた最強が向かったのだ。連中を蹴散らして我々の力を示す、デモンストレーションとして連合王国軍は最適だ。

 

 この戦い、連中に勝ち目はない。




 不慣れながら、資源問題の話をこのページではだしました。
 自分なりにかみ砕いてみたつもりですが、詳しい人がいたら、もし間違っていても寛大な心でスルーしてほしいです。


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 視線を通す為の兜についた穴にさえ注意すれば、たかだがライフルの銃弾や弓矢程度等オルレアン鋼の鎧には通用しない。忌々しい、オルレアンの花弁と言われた呪われた金属であったが、それでも我が故国が残してくれた最後の遺物だ。この頑強さには自然と誇りを持つこともできた。

 

 「ふむ」

 

 クラルスは顎に手を添えながらこちらの様子を見ていた。その顔には焦りの表情はない、これくらいは想定内というところであろう。しかし、騎馬突撃が出来たら楽ではあるが馬はやはり残して来て良かった。この銃嵐矢雨の中では私は耐えられても騎馬はそうとは言えない。

 

 馬用のオルレアン鋼で出来た鎧があれば良いのだが、あれは王国が必要以上に秘匿事項にしていた為加工方法を見つけた者達はその利用価値にも関わらず皆殺しにされた。現状、あの鋼で試作された武具としてはこの鎧と槍だけだ。

 

 第二陣に続く坂道は、門構えに近づくにつれて狭くなっていった。木門は閉じられていたが、先程のサイコキネシスで積み上げられた残骸で出来た壁に比べればどうということはない。この槍で門を貫通させ、向こう側にある閂をへし折ってやればいくらでも侵入できる。

 

 「聞いても良いか?」

 

 銃声が響き渡る戦場の中で、クラルスの声はよく通った。声を張り上げている訳でもないのに、直接隣で話しかけられているような不思議な声量をしている。

 

 「貴様等捨て駒は、エンパスに仕えその野望を叶えた先にある世界を理解しているのか?外来人、外の世界の遺物を呼び寄せこの世界の構造と倫理を歪める行いをしてまでかなえたい世界をだ」

 

 外来人、レント殿のことか。生憎私はその外来人という言葉にどれだけの意味が込められているかは把握していない。把握する必要もない。エンパス様の理想をレント殿が実現に動き、私はそれの一助になれば良いだけなのだから。

 

 「私は私の納得と理解をもってその目的に殉じている。捨て駒となるならば、それも良し」

 

 「成程、貴様はそうなのか。では、先程まで戦っているその他についてはどうだ?」

 

 「教えられるのは私のことだけだ。他者の思考、行動原理、感情等、把握に努めることはあっても理解をすることなどごめんなのだよ。少なくとも私はうんざりだ、目先の欲望と利益に流され怠惰に走る民衆の思考と不信心者の考え等な」

 

 グロルダール公国。小国ではあったが、信念を持つ指導者の政治と牧歌的ながら自分とその生活に誇りを持ち汗水流していた誇り高い民達の国。名産であったグロルダールの高級ワイン、ルイグランゼ。深みのある味わいと陶酔感をもたらす渋み、祖先から引き継いできた製法を守る私が好きであった故郷の味はもう二度と飲むことはできない。

 

 帝国の指導の元、ルイグランゼは再度生産されているがあんなものは紛い物の味であった。国土や文化、風習に愛情は廃れた。なにもかもを、ダイヤモンドが産み出す利益に捧げてしまった者達の醜い末路だ。

 

 「クラルス、貴様は人間は愚かであると考えたことはないのか?信頼をし本気で護ろうした者に欲につられて裏切られたことはあるか?いや、ないだろうな。貴様はどちらかと言えば、裏切る方の人間に見える」

 

 「信用と信頼は違う。例えば我はエルバンネの武技や指揮は取り柄として信用をしているが、誰かを信頼したこと等ないものでな。だが他者の思考や行動の流動、それを愚かとは思わん。誰もが立場があり、その立場というものは歴史の流れで翻弄されるもの……いや、他者にとってはどうでも良いような些細なことで変化をするものだ。女々しいものである、変化による流れと立場の変換。それを裏切りというのであれば、人々の進歩はないであろう。停滞は毒である、流れのない水は沼となる。それを責める貴様は何様であるのだ?個人の感情で物事を測るものではない。ましてグロルダール公国とそれを取り囲む歴史の変換についてはな」

 

 憐れみを込めた言葉が向けられる。歴史上の国家滅亡において酷く滑稽な最後を遂げたグロルダール公国民に向ける視線と言葉としては妥当なものであるだろう。だがしかし、私はその言葉と視線に怯むことはない。

 

 「それで不幸な目にあうものがいる。無残に殺されるものがいる。それを肯定してしまうことに矛盾は感じないのか?貴様の言う歴史の変換というものに磨り潰される者達の存在を考えたことはないのか?」

 

 「ない。それは変化に対応できないものの自然淘汰だ。元来生物というものは多様な進化により発展と衰退をしてきた。そして停滞したもの、誤った進化をしたものの末路は悲惨なものである。ビックファイブという言葉は……いや、知らなくても良い話だ。さて無駄話をしている間に随分と門まで近づいたものだ。このままでは、貴様の槍で餌食となる可能性が高くなるな」

 

 門の左右にあった、なにかが動く。それは茶色く塗装されていた布地のようなものであった。ひょっとしたらこの一連の会話は、この左右の物体に注意を向けない為の偽装であったのかもしれない。

 

 覆われた布地の下にあったのは、巨大な大砲が二基水平に向けられていた。互いに射線を合わせないといった配慮すらされていない。道の真ん中にいる存在に、左右から砲弾を当てる為の配置だ。

 

 これでは砲手も助かるまい、と思っていたが砲手の顔にはおおよそ知性というものを感じなかった。

 

 ああ、成程と瞬間的に思ってしまったものだ。砲手の耳からはあの蟲の一部が、なにかの触手のようにヌルヌルと蠢きながら露出していた。こちらに銃を向けながら、恐怖におびえていた兵士達。彼等は、この惨状を見せられていたのだろうが。

 

 逆らえば、逃げれば、捕まえて自我を奪い使い捨てにでもしてやると。

 

 「流石の悪辣さだな」

 

 「そうであろう。ではさよならだ」

 

 パチンと指を鳴らす、等キザな合図もない。口を開き、少し舌を鳴らすような動作をした瞬間大砲に火種が入り二門の火砲が衝撃と共に放たれた。

 

 さしものオルレアン鋼も、至近距離からの大砲には耐えられない可能性がある。いや、例え鎧が耐えることができても中身の肉体は衝撃に耐えられず、内部で肉塊にでもなるであろう。捨て身の、必殺の構えだ。

 

 イメージするものは、鉄の塊。何者にも流されぬ、クラルスのいう言葉を拝借するならば歴史の流れというものか。貧富にも、政情にも、ましてその歴史にも流されぬその意思の力。加護という、手段達成の為に与えられた力を行使する。

 

 左腕に巨大な大盾をイメージする。純白の磨かれた表面は、如何なる政治、イデオロギーにも寄らずただエンパス教の大義のみによる為に、神の意志のみを遂行する精神を現したものだ。大盾を中心に、透明な膜が張られる。

 

 大砲の砲撃音も、振動も、まして着弾の衝撃さえも無効化される。大量の土埃があがり、爆発により視界が覆われる程の衝撃が周囲で響いていた。

 

 「詰めが甘かったか」

 

 クラルスの呟きと同時に、木門が吹き飛ばされる。少々強くやりすぎたか、衝撃により木門の上部までが崩れ上に乗っていたクラルスは後方に飛んで門の向こう側に着地をしていた。

 

 射撃もやみ、シンとした空気に場が覆われる。巻き起こった粉塵の中から現れた重騎士に、誰かが生唾をゴクリと呑み込んだ。大砲二門を至近距離で打ち込まれて立っている人間を、自分達と同じ人類と考えられないといった雰囲気だ。

 

 気のない拍手が、場違いに響く。着地に失敗したのか膝が少し土で汚れていた。

 

 「リスムの巨人事件にて、レント=キリュウインの側近である重騎士が活躍したと聞いていた。全方位形の絶対防御か。北の田舎都市では竜を葬る為に街ごと破壊する火薬量が使われたようだが、近距離からの火砲二門。加護を持つとはいえ人類が防ぎきるとは、正直言って驚愕に値すると言えよう」

 

 「随分と余裕だな。そこは、既に槍の間合いだ。私が重装備だから逃げ切れる、とは思わないことだ」

 

 「くだらないことを聞くな。不可視の重圧を喰らい、なおかつ総重量がどんな鎧よりも重いと予測されるオルレアン鋼で作られた装備で走って見せた貴様だ。生憎我は研究畑の人間でな、人には役割分担というものがある。筋肉は、我が分野ではないのでな。ついでに言えば、庇ってもらえる程の人望もないであろう」

 

 片や不敵な笑みを浮かべる、人道や倫理という意味では逸脱した研究者。片やどんな軍隊をぶつけようが止めることが不可能ではないかと思わせる強力な人の形をしたなにか。ただ二人の人物が放つ奇怪な圧力に、連合王国の者達は助けに入ることもできずただ見守ることしかできなかった。

 

 可能ならば、共倒れになってくれた方が良いのではないか。誰も彼もが、そんなことを考えてしまった。

 

 「そうだな、例えば我が今すぐ改宗するとでも言えば助かるということはあるものかね?」

 

 「戯言を。貴様のような存在はエンパス教の教えに関わらず神というものを信じるとは思わない。いや、神の存在は肯定するだろうが信仰というものを持つとは思えない。そんな目をしている…いや、理解しきれない目の色をしている」

 

 「興味深いな。目の色と来たか」

 

 学術的な興味以外、クラルスという存在がおおよそ興味を惹かれないと思われた男がおおよそ論理的ではないことに興味を持つことが以外だった。その表情から、時間稼ぎ等といった小賢しいことを考えているとは思えない。

 

 「参考程度に教えてはくれないか。我が目は、どうのような色をしているというのかね」

 

 「これから首になる者に対して、教えたところで意味はない」

 

 「そうか」

 

 大きな踏み込みから、槍の一撃がクラルスの首筋を抉る。突きから大きく横に振るい、その首を跳ね飛ばす。空を飛ぶ首を空中で掴み、土につけるようなことをしない。可能であるならば、その程度の尊厳くらいは護ることもやぶさかではない。

 

 奇怪な男であったが、死者は死者だ。最低限の礼を持ち接するべきであろう。

 

 「地獄などという存在は信じない。だが、貴様をエンパス様が導く世界に導けなかったことを詫びよう。どうか、安らかに」

 

 祈りを捧げた瞬間、近くに衝撃音。ハイピュリアのイリーナル=フロストが土煙に巻かれながら背中から地面に激突していた。

 

 「うぇーいった!もうなんなのさーあのオヤジー!」

 

 顔をあげると第三陣。本陣がある本丸からこちらを見下ろす、禿頭の偉丈夫がいた。身体や顔には斬撃の流血がついているもののいずれも致命傷とは言い難い。イリーナルの鋼鉄の翼と機動力に唯人が食らいつくどころか、優位に立っているようであった。

 

 「ゲッ…カナリアッ!…副団長さん。なんでここに」

 

 「苦戦しているようだなイリーナル。本物の武人との戦いは、堪えるか?」

 

 「いやーまあははは、面目ないッス…。あのーでもまあ本陣単騎突撃だし、時間稼ぎはできたかなとねー。てありゃまあ、静かだと思ったらお姉さま方みんな死んでらっしゃるんで?マジ?ざまぁ」

 

 イリーナル=フロスト。レント殿が組織した部隊において、元々戦闘職ではないもののその種族特性にて各地の戦いを生き延びてきた。だがしかし、半獣という立場は組織内においても肩身が狭く、同じ半獣であるクーラ=ネレイスの出奔により組織内での立場は危ういものとなっている。

 

 「いやーこれも信仰心の欠如って奴ですかね副団長さん。神の奇跡は、どうやら不信人者にはおきないようで」

 

 「私の目的は果たした、撤収するぞ」

 

 「え?マジ?連合王国の総大将はまだ存命ですよ?」

 

 「端からレント殿は貴様等だけで連合王国の総大将を倒せるとは思っていない。あくまで威力偵察の意味合いもあり、これから帝国の内務で我を通しやすくなるためのお膳立てのようなものだ。陣営の外を見ろ、問題に巻き込まれるぞ」

 

 イリーナルはすぐさま羽ばたき、空から平原を見渡す。帝国側から押し寄せるのは、敵の防御に風穴を開ける死に番である軽装騎兵隊。その後ろにはライフル銃兵と槍兵の組み合わせの野戦部隊。即攻の為大砲隊は流石に来ていないようだが、空には飛空する鉄馬が少数ながら飛来してきていた。

 

 「第一陣は荒らしに荒らしたから、迎撃能力も半減。でも聞いてねー、帝国軍が来るなんて聞いてねー面倒くせー!」

 

 「我々は帝国軍の味方をしているが、帝国が完全勝利されても困る。精々エルバンネ将軍には、上手く軍をまとめ壊滅状態にはならないように指揮をとってもらわねばな」

 

 影。高台から飛び降り、飛来したエルバンネの踵落としが、防壁に阻まれ火花を散らした。

 

 「流石の衝撃だ。いくらオルレアン鋼でも、この衝撃を頭部に喰らえば中身は平然とはしていられまい。武人であるという言葉、本当のようだな」

 

 「お褒めにあずかり光栄だが、これだけ暴れて五体満足で帰れると思うな」

 

 エルバンネの視線が、クラルスの首に向かう。

 

 「どうしようもない程に不愉快で、不吉な存在ではあったがそれでも我等の仲間だ。仇討ちをする権利、亡骸を取り戻す義務はあろう」

 

 「仲間か。エルバンネ将軍、貴公の心意気は買うが今はそんなことをしている場合でもあるまい。今すぐ軍を建て直し、帝国軍の迎撃をしなければならないのではないか?そして気づいている筈だ、彼我の実力差という奴を」

 

 エルバンネの動きに、ようやく現実に戻ってきた連合軍兵士達が動く。下士官の指揮で包囲網がしかれ始めるが、そんなものに意味などはないことはここにいる誰もが分かっていた。ただ、総大将が前に出たのに動かない訳にはいかない使命感が彼等を突き動かしていた。

 

 そしてそれは、悪手だ。今すぐ帝国を迎え撃たなくてはならないのに、戦力をすり減らすのはとてもではないが良策とは言えない。

 

 「当然私は、オルレアンの武具とこの身体能力の他にレント殿より授かった加護を使わせていただく。貴公のような武人には敬意を払うが、それゆえに使える手段はなんでも使わせてもらう。だが手を出さないのであれば、これ以上はなにもしないと約束しよう」

 

 口笛を吹くと、陣営の外で待たせていた愛馬が駆けつけてきた。忌々しそうな顔をしてエルバンネが片腕を開けると、完全包囲が解かれ馬が近くまで走り寄る。

 

 「一つ聞きたい」

 

 エルバンネの口が、苦々しく開かれた。

 

 「恐らく貴様の戦闘能力ならば、この私を討つことは容易い。そしてそれは、連合王国軍の瓦解に大きく近づき帝国に大いなる利をもたらす筈だ。何故、クラルスの首のみで帰還をするのだ」

 

 「その問いに応じるとしたら、私は帝国の味方等ではないからだ。そして将軍、出来れば貴公のような存在にこそエンパス様の素晴らしさを知ってほしいと考えている。誰もが苦悩から解放された世界、人類は可能な限りその一員となるべきか。それは敵とて、同じこと。貴公を積極的に討つ必要が私にはない」

 

 「悪いが子供を戦場に送り出す、エンパス様とやらにもレントにも私は共感することも信仰を捧げることもないであろう。私は連合王国に忠誠を誓うただの武人である以前に、一個人として貴様等に好意を抱くようなことはない。疾く立ち去るが良い、我等はどのような手段を駆使して貴様等を打倒してみせる。我が信条に誓ってだ」

 

 これ以上は、言葉は無用である。馬で駆ける間、エルバンネの視線は背中に強く注がれていた。上空では先程まで戦っていたイリーナルが飛んでいたが、そちらに注意を向けることもしない。

 

 「貴様は間違っているよ、エルバンネ将軍」

 

 神の威光の前では、立場も能力も性別も年齢も関係ない。ただ、信仰があるかないかの違いだけだ。この世界に不信心者の居場所は、いずれ強制的にでもなくなる。そしてそれこそが、人のあるべき姿に戻す為の第一歩なのだ。

 

 「人はみなすべからく平等だ。いずれ、貴公も知るべき時が来るであろう。そして一日も早くその日を迎えねばならん。この身が朽ち果てようがな」

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連合王国軍と帝国軍が、平原にて再度激突した。レントの手先により壊滅した第一陣は放棄。第二陣にて、破られた木門には急ごしらえのバリケードをこしらえ忍耐を伴う籠城戦を余儀なくされてしまう。

 

 怒号や銃声、槍が撃ち合う音に矢が風を切る音が響くなか、奇妙な一団が戦闘に参加することもなく蠢いていた。革製の厚いエプロンと、鳥の嘴のような奇怪な形状をしたマスクを被る一団が首を飛ばされたクラルスの胴体を担架に乗せて運んでいく。

 

 運ばれた先はクラルスが受け持つ研究局の仮説テント。異形の生物兵器や新兵器である毒ガスを操る為に派遣された、技術顧問といえる存在達が寝泊まりをしながら兵器の調整や現地でしか分からないことをまとめ、研究をするところであった。

 

 胴体が運ばれた先には、猿轡をかまされた一人の少女が拘束されていた。少女の名前はクルー=イリジット=レイデン。東方二十八ヵ国と呼ばれた、主に高山地帯に住まう民族の出身の槍兵。退屈な故郷を飛び出した先で、とある騒動をきっかけにレント=キリュウインに見いだされその部隊に加わった経緯をもっていた。

 

 レントと出会うまでは傭兵のような仕事をしていたこともあり、素の戦闘能力では部隊の中では高い方である。先の戦いでも混乱の中生き延び、一足先に生存者を連れて離脱をしている筈であった。

 

 それが何故こうして捕らえられているのか。迂闊であったのは、寄生虫により脳を汚染された者は正気を失い暴走すると信じ込んでいたということ。理性を保てないと、誤解しきっていたこと。カナリアでさえもそれには気づいておらず、初見で見抜くことは困難であった。

 

 あのような惨状を見て、誤解するなと言う方がもしかしたら不可能かもしれない。だがしかし、理性を保ち『洗脳されていないふり』をするという狡猾な手段も、寄生虫は行うことができた。

 

 問題ないと思っていた、仲間二人。クルーを拘束しながら笑顔を浮かべていたが、その耳からは線虫のような触手がにょろりと這い出ていた。もう取り繕う必要もないということか。

 

 運ばれて来た死体が、まるで内部から爆発したかのようにビクンと動く。首筋の断面から白い糸のような、線虫のような存在が這い出てきた。

 

 「ん゛ー!んん゛ー!」

 

 猿轡をされていたが、恐怖のあまり声にもならない悲鳴をあげる。大量に這い出て来た白い蟲達が、足足首から這い上がり、高山種族の中で時折現れる病的に白い肌を絡まりながら昇ってくる。助けを求めるように辺りを見て、可能な限り暴れながら拘束している左右の元仲間達を見上げる。

 

 しかし、彼女等は陶酔するような虚ろな表情と視線をこちらに向けるだけだった。周囲のマスク姿の研究者達もその様子を見て声一つあげない。

 

 「んあ゛!ん゛んんー!」

 

 民族衣装である短いズボンの裾から寄生虫質が大量に侵入する。それは服の袖から、胸元から、破けた布地の隙間から、くすぐったい感触と共に無遠慮に入ってきた。

 

 恐怖であった。自らの肌を触ったのは、軽いボディタッチや動物との触れ合いを除き、両親以外にはレントくらいしかいなかったのに、こうして得体のしれない蟲達に柔肌の上をはい回られている。恐怖でしかない、尊厳を踏みにじられるような吐き気をもよおす行いに涙までが絶え間なくあふれ出した。

 

 だがしかし、下る涙とは対照的に複数の蟲が首筋から頬を昇ってくる。一匹の蟲が、耳の中に侵入した。ゴソゴソという音がしたと思ったら、なにかが破れた音と共に聴覚が破壊される。両の耳孔、ほぼ同時にそれは起こった。

 

 聴覚は壊れたというのに、奇妙なことに頭の中でまさぐるような音が響いているようであった。まず感じたのは、前進の弛緩。意識していた訳ではないのに口があんぐりと開き、股間から湯気と共に水たまりが広がっていく。

 

 指先一本すら動かない脱力感。そんな無防備な身体の穴という穴、その種類問わず身体中に寄生虫は殺到していく。身体は大きく痙攣していたが、頭の中は奇妙な多幸感がチカチカと輝いていた。自分という存在が貪り喰われていく。人生が、経験が、尊厳が、歯抜けとなっていった。

 

 陶酔した顔で前進が痙攣しながら、クルーは両腕を解放されへたり込む。頬が地面に激突するがそれに気にせず、笑みとも痙攣といえない無意味な声を喉から漏らしながら前進から涙や鼻水等全身から様々な液体を垂れ流していた。

 

 「……っ」

 

 三十分もの間そんな調子であっただろうか。すっかり身体も痙攣しなくなったころ、クルーは静かに呼吸を整え立ち上がった。

 

 「まったく、毎度のことながら内核を移動するのは難儀なものだ。身体中汚物まみれになるのも、考えものだな」

 

 液体まみれとなった、異臭を放つ民族衣装を破り捨てる。全裸になったところで研究者の一人が恭しく差し出す毛布を手に取り身体にまとう、クルーは……元クルーであった存在はテントから外にでた。

 

 「こうも帝国軍が来てしまえば、頭部の奪還は難しいか。我の一部が頭に取り残されたままだ、正体が割れてしまったかもしれんな……むぅ、視線が低い。よく戦場の様子が見えんではないか」

 

 差し出された木箱に足をかける。少し高くなった視線から周囲を見ると、第二陣において迎撃の指揮をとるエルバンネの姿が見えた。

 

 「生き延びたか、上々。これからも大多数の兵士達をまとめてもらわねば困るからな、少々手助けをしてやらねばなるまいか」

 

 舌を鳴らすと、操られた二人の加護持ちが前に出る。武装をしていると同時に、その腹部には大量の爆薬が巻きつけてあった。もう一度舌を鳴らすと、爆薬に火をつけたまま敵軍勢に突撃していく。先の大戦で捕縛した、研究局に引き渡される予定の帝国軍捕虜達の牢獄も解放され、その身体には同じように爆弾がまかれ導火線に火がつけられていた。誰も彼もが疑問すら持たず、特攻をしていく。

 

 「絶対防御か。火砲二門では揺るぎすらしないとは、その耐久性能は驚嘆に値する。だが出力はあくまで人、そして地形の問題、弱点は二つ程といったとこか。しかし甘くみられたものだ、首をもがれた程度でこのクラルスを討ち取った気でいるとは。エンパスめ、どういう教育をしているのやら」

 

 戦線に人間爆弾が投入され、帝国軍の一部が崩れた。あれならばエルバンネならば返り討ちにできるであろう、あとは任せても問題はない。

 

 「ここまで傷がついたら、今勝とうがこの陣営は引き払うことになるだろう。必要なものは今のうちにまとめておけ、撤収準備だ……ん…ん……」

 

 背伸びをしてなんとか、棚に置かれていたこのテントでは珍しい嗜好品の瓶に手を伸ばす。こればかりは我の手で取りたいのに、この身長がもどかしい。背が高かった前の身体が早くも懐かしくなってきた。

 

 ようやく手が届いた瓶の蓋を開けると、安酒特有のなんの遠慮もない強い酒精が鼻をくすぐる。何時ものように呑もうとしたら、思わずむせてしまった。瓶が落ちて内容物が床に広がる。

 

 「グッ…クソ。味覚が変わることは分かってはいたが、この舌ではこんなに合わんのか!加護とやらが我にも使えるかどうか、確かめる為に身体をもらい受けたが早くも後悔したい気分だ!おのれエンパスにカナリアめ!我の楽しみを奪った代償は高くつくぞ!」

 

 変わり果てた代表を見ても、研究者達に動揺はない。なにせその仮面の下、内部には外部に露出した寄生虫が蠢いているのだから。

 

 マスクの下は、半獣に南大陸の奴隷、東方国家に帝国人と様々な人種がいた。どれが最適な宿主になるかの研究として、過去に犠牲になった者達であった。人の心等残ってはいない者達は、ただ核となる存在の怒りという感情を無表情に受けとっていた。

 

 「そうだ…エンパスだ。全ては奴のせいだ」

 

 空になってしまった、安酒の瓶を拾う。故郷の味に何故か似ていると、好んで飲んでいたアレの姿を思い出す。

 

 「世界を荒らし、他者の宿命を捻じ曲げる所業。同じ業を持つ者しか抗うことなどできぬだろう。我がが背負う、毒には毒をもち貴様の業を踏み越える」

 

 瓶を撫でるクルー、いやクラルスの顔はひどく穏やかなものであった。それは、寄生虫に侵されていない者には、誰にも見せることはないものであった。そしてその顔は、すぐに激しい怒りに侵される。

 

 「首を洗って待っていろ。貴様が役に立たぬと排除した者が、貴様を必ずくびり殺す」



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外伝 星の駆ける先


 この章はタイトル通り外伝作品になっています。暗い話や気持ちの悪い話ばかりなので、個人的な息抜きもかねてです。
 ノリの良いジークリンデや、湿度の高いクーラ、そして明るめの話を書いてみたかったというのもあります。
 時系列で言えば、『帝都へ』の4と5の間に起きた物語となります。本編進めろと言われそうですが、良ければ楽しんでください。


 帝国の第三都市イルドガル。

 

 第三都市と呼ばれているが都市の人口は帝国で二番目に多く、何時もと変わらぬ日常であるのに関わらずまるでその日常はモスコーにおける祭り期間のような賑やかさがあった。

 

 それもそう、この都市では一般住民にも開放された共興である、競馬と大闘技場で年中盛り上がりを見せているからだ。単純な話人口も大きく違うし、他都市や国外から来る観光客も多い。

 

 「闘技場はともかく、競馬?」

 

 「そう、競馬。帝国では軍事用馬の品種改良を奨励しているから、民間の馬牧場でも速い馬や力強い馬を産んで育てることに国からも助成金がでているみたいだね。ついでに、賭けの場でもあるから勝った馬の牧場は配当金もうはうはってね。闘技場で暴力や血を見るのが苦手な人達は、こっちで盛り上がるみたい」

 

 帝都を目指し北上していく最中、長旅のほとんどは野宿か冒険者ギルド経営の素泊まり宿となる。酷い宿や寝床には慣れており、今回も適当な安宿を選んだと思ったら、寝台二つに隙間風もない、扉に鍵をかけられ綺麗なシーツのひかれた部屋に案内されたことには驚いたものだ。

 

 この都市の風景。大通りには様々な店が立ち並び商売人が声をあげ、馬車が多く行きかう風景に遠くからでも歓声が聞こえる闘技場。時折すれ違うスラッとした走ることのみに特化されたような馬達と、暗さをあまり感じられない人々の顔からして景気の良さ、そしてリスムとは同じようでまた違う享楽的な空気を感じる。

 

 いや、リスムはリスムでもこの雰囲気は、経済特別区に近いか。あちらの方が自由奔放な分様々な勝者と敗者がくっきりと別れている。ここでは民間やギャングではなく国が運営している賭博施設ということで、ある程度の掛金に対する上限や決まり事がされているのだろう。あまり街から負の気配を感じない。

 

 まあもっとも、臭い者には蓋の要領で見えないところに押し込まれているだけなのかもしれないが。

 

 「ん?」

 

 クーラの視線が、正面ではなくどこかに向けられているのが分かった。視線の先には競馬場、そして人々の憩いになるような小さな森のような公園が煉瓦で敷き詰められた道の向こうに広がっている。

 

 そこには、引退馬やあまりレースに勝てない馬なのだろうか、沢山の馬達がおり。係員の誘導で馬上に乗りながら公園の敷地を歩く観光客の姿が見えた。カップルだろうか、女性が男性の腰に手を回しイチャイチャとしている。

 

 クーラはどこかそれを羨ましそうに見つめていた。少しモスコーを回っていた時のことを思い出す。あの時は差し迫った危機があった為あまり遊ぶ余裕はなかったが、今ならエンパス教も竜狩り隊も、レットアイだって今すぐ解決しなければならない課題ではない。

 

 そもそも帝都に辿り着いてから着手する問題だ。この都市にはエンパス教の教えも浸透していないようではあるし、なにか厄介がある訳でもない。少し咳払いをして、注意をこちらに向ける。

 

 「あーしかし、ここのところ毎日毎日旅ばかりで疲れたなー。エレミヤからの報酬金もまだたっぷりあるし偶には遊びたいし、あまり見ないものも多いしせっかくの帝国だから観光もしたいなー」

 

 クーラの耳がフードの下で少し動いたのが見えた、マジマジとこちらを見つめて来る。

 

 「羽を伸ばすか。なんたって、観光都市だからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イルドガル。政治家の不正を掴む為に何度か潜り込んだことはあったが、ただそれだけの都市だった。

 

 光が濃いところは影が暗いというが、まあ様々な汚職にスキャンダルがあったものでここに住む鼠達には随分と助けてもらったものである。もっとも、今の自分は加護の力なんてとうに手放している為もう彼等の気配はともかく息遣いを感じることはないが。

 

 そういえば、馬を使役したことはなかったな。なんて競馬場の方面を見た時森林公園の道を馬上に乗って歩く若い男女を見てしまった。以前なら気にも留めなかったが、羨ましいなーなんて見つめていたら急にランザが咳ばらいをするもんだ。

 

 棒読みに三文芝居。羽ならば帝国に来る前に、エレミヤの娼館に泊まった際にたっぷりと伸ばしたのだが、ランザは俺が遊びたいから遊ぼうか、なんて雰囲気をだしていた。乗馬を眺めていたせいで、体験してみたいとでも勘違いされただろうか。

 

 また気を使わせてしまっている。だが以前の、そう、モスコーでの時ならいざ知らず今の自分はその茶番を茶番のまま受け入れ、好意に甘えるだけの成長を遂げているのだ。

 

 「もー、そんなこと言っていたら田舎者だって言われちゃうよ」

 

 「田舎者なんだよ俺は。じゃあさしあたって、あの馬でも乗らせてもらうか?」

 

 過去の任務に打ち込んでいた、レントの駒だった自分が今の自分を見たらどう思うか。「しょうがないなー」、なんて言いながら『イヤァ!フォー!』なんて内心で奇声を叫んでいる。フードで上からは見えづらいだろうか、だらしなく表情筋が緩んでいることだろう。

 

 つまりは二人で馬に乗って、揺れる馬から落ちないことを言い訳にして背中に思いきり抱き着けるということだ。しかも今は街中だから戦闘用外套は荷物の中、シャツ姿でありより身体の熱を感じることができるというか臭いを堪能できるというか。

 

 いやいやいや、視野を狭めてはいけない。ランザの前に乗って後ろから手綱を握ってもらうなんてどうだろうか。背中を中心に身体を包まれ、手綱をとる為に回された両手に包囲される。この包囲網は突破不可能、後ろに振り向き見上げながら会話なんてすればなんとういうか普段とは違うものが見れそうな気がして良い。

 

 競馬場と隣接した自然公園が近づくのにどちらかなんて決められない。速くたどり着きたいのに、距離が伸びてほしいなんて矛盾が頭の中をグルグルと回転とする。

 

 「ええ、はい。そういうことで、代金はこれでお願いします」

 

 帝都に入った時、両替商と交換した帝都の通貨を渡しているのが見えた。係りの者が連れて来たのは葦毛の馬だ。葦毛、葦毛だ。騎士物語みたいだ!読んだことはないけど!

 

 ああもう、自分はどうすれば良いのだろうか!彼の後ろに座るか前に座るかどちらかに…

 

 「はいじゃあお嬢さん、ここに足をかけてー」

 

 「ヒ、ひゃい!……て、え?」

 

 近くのベンチに座っているランザが見えた。手には、茶色い安紙に刷られたイルドガルの情報紙が握られていた。

 

 「あの?ランザ?」

 

 「ああ、まず楽しんで来てくれ。俺はここで待っている」

 

 「……馬は?」

 

 「冒険者ギルドの仕事で、農地開拓や農業なんてものは一番多い仕事だからな。耕耘馬は沢山見て来たし、何度か乗ったこともある。二人で座るには狭いから楽しんで来い」

 

 ……休日に遊びに来たお父さんと娘だろうか。おかしいな、親子のフリはもう終わっている筈なのに。

 

 無情にも歩き出す馬、扇動する係員、森に向かう自分。笑顔でランザは、それを見送っていた。良いことをした気分を感じているのだろうか?

 

 「……行ってきます」

 

 「落ちるなよー」

 

 落ちないように、貴方に掴まりたかったです。前を向いた自分の顔は、明るいランザとは半比例してドンよりしていただろう。

 

 公園の森林道は、猥雑な都市の中でもひどく空気が澄んでいた。まあこうなってしまったならこうなってしまったで息抜きをしておくべきだろうか。竜狩り、エンパス、レント、人妖、そしてテン。頭が痛くなるような課題が山積みなのだ、こうしてなにも考えずにボンヤリする時間も今後ないかもしれない。

 

 小さな木の橋と人工池、そこから流れる岩で形造られた小さな川。人の手が加えられた自然物の紛い物ではあるが、川には小さな小魚が泳いでいた。ちょっと美味しそうに思えてしまう。

 

 「ご飯、どうしようかな」

 

 「お父さんと観光ですか?イルドガルには美味しい食べ物屋が沢山ありますよ」

 

 馬を先導する係員のお姉さんが気さくに話しかけてきた。二十代前半から半ばといったところだろうか。

 

 「……」

 

 「あれ?すいません、なんかまずいことでも?」

 

 「ああ、うんいや…そんなとこ。親子じゃないの」

 

 周囲から見てもやはりそんな感じなのだろう。まあ世間体的に考えれば、大の大人が自分に恋愛感情や性的思考を向けることがいろんな意味で危ないことなのだろう。勝手にそう勘違いしてくれているならば、助かる面が多いのでさして困らないがそれでも複雑なのは乙女心ゆえか。

 

 思わずため息をついてしまった。こんなことを考えている場合ではないのは重々承知であるが、それでもこうなんだかな。いや、いっそのことゴチャゴチャと考えないで純粋に休暇を楽しむべきだろうか。あまり急がずゆっくりと。

 

 現に、ノックから戻ってきた時初日のみ公認で同じべッドに同衾できたんだしパーソナルスペースの内側に入ることじたいはだいぶ詰めてこれたのではないかと思う。だが、ならばいっそ甘えた声で一緒に乗りたいとでも言えば良かっただろうか。

 

 「はぁ」

 

 馬に乗ったのは初めてなのにイマイチ楽しめない。いっそこの背中に寝そべって戻るまでグッタリしていようか。

 

 「差し出がましいようですが、お連れ様が気になるのですか?」

 

 「そんなとこ。向こうは常識ある、大人の対応しているだけなんだろうけどさ。もうちょっとこうさぁ」

 

 お姉さんが、なにかを察したような顔をした。

 

 「んー分かります。私も小さい頃は同い年よりも、大人の男に憧れたものですし。さりげなく気を使ってくれたりとか、職人街の方でしたが腕まくりをして額の汗を拭うところに逞しさと魅力を感じてしまったり」

 

 職人街。そういえば、山越えの際自分が体調を崩した時は、ランザは自分が元々家具職人であったことを話してくれた。結局体調の回復を待ってから山越えを行うことにしたのだが、けっこう献身的に面倒を見てくれた。もしかしたら、今回の休憩も具合が悪くなり足を止めた自分を気にさせない為に提案してくれたのかもしれない。

 

 まあ、そういう訳で病気で寝ている間語ってくれた過去話から、自分をその風景にいれて妄想できる時間はいくらでもあった。その思い出を改めて記憶から引っぱりだし、係員のお姉さんが語る言葉で色をつける。

 

 工房で働くランザ。情景は真夏の暑い日、湿度も高く工房の扉や木窓は開け放たれている。製材にノコギリを入れて前後に動かし、音をたてて切れた木材が落ちる。

 

 少し腕まくりをした、人妖と戦ううちについた古傷だらけの腕。それを悩まし気に額につけて乱暴に汗を拭う。無論上半身は薄着、大人の男性がかもしだすフェロモンみたいな臭いまで漂ってきそうだ。

 

 「お姉さん。それ、押せる」

 

 「でしょう?用もないのに何度もお邪魔して、親方につまみ出されていたっけかなぁ。冷たい水でも差し入れしてあげたかったんですけどね。まあ、子供には危ない道具ばかりだから当然の対応でしたけど」

 

 井戸水から汲んだばかりの水を持っていく。汲んだばかりの水なので冷たいが早くしないと温くなってしまうだろう。差し入れの水を飲んで、お礼を言ってくれるランザ。

 

 ただこれだけだと日常風景過ぎるので更にお姉さんの話からアレンジを妄想に付け足す。工房は金槌にノコギリと危険な道具ばかり、不慮の事故(事故の原因や内容はどうでも良い)により自分の顔に大きな傷がついてしまったことにしよう。そうだ、ノコギリで瞼から頬までの裂傷が良いかな?

 

 汗臭い身体でお姫様抱っこをされ、駆け付けた病院にてこの傷は一生残ると宣告とかされて、それで責任感で項垂れるランザ。そこに自分は言うのだ、そんなに責任を感じるならば、ランザが責任をとれば良いと。

 

 そして表面上は穏やかに過ごしてみせて、時折傷を抉り罪悪感をよみがえらせる。近所の子供に怖がられたり酷い暴言を吐かれて『あはは、こんな顔じゃ仕方ないかもね。でも気にしないでランザ、自分は全然気にならないからさ』なんて言ったりして。妄想の中のランザは、悲し気に顔を歪ませた。

 

 だがそれも、追い詰めすぎると罪悪感がストレスに変化するだろう。そしてそういう時に、普段は優しくしてくれるのにまるで暴力のような夫婦の営みをしてくれれば。ああ、こんな時に首筋が疼く。壁に叩きつけて、片腕で首を絞めながら抵抗できないところを日頃溜め込ませたストレスを晴らすような激しさで…

 

 「お姉さんありがとう。この乗馬体験をしに来て…いやお姉さんの話を聞けて良かったよ」

 

 ズブズブ共依存幸せ夫婦生活まで妄想が広げすぎた。これ以上は自重しないと戻ってこれなくなる。でもありがとうお姉さん。職人フェチ、もしくは腕まくりフェチに乾杯。

 

 「?…どうしたしまして。そうだ、イルドガルは初めてですか?」

 

 「実は何度か来たことはあるけど、長く滞在はしていなかったんだよね。だからこういうところに来たのも初めてだし」

 

 「滞在予定とかは?」

 

 「取り合えず一泊…かな。長居はしないと思う」

 

 何時までここにいるかの方針はランザと練り合わせて決めている。当初は二泊は予定していたが、この街ではエンパス教の影響はほぼないに等しいし薬物の気配もあまり感じない。まあ、薬物絡みの事件はどこでもあるものだが、少なくともここではレッドアイに関しては外れもいいところだ。

 

 これならば、二日間いるまでもないだろう。本命の帝都を目指すのみだ。でも、観光として楽しむことはもう決まっている。

 

 「では、あまり観光をしている余裕も?」

 

 「いや、それはないかな。少なくとも今日は色々遊ばせてくれるみたい」

 

 「では、これを機にイルドガルを周りながらゆっくりと仲を深めてみてはいかがですか?イルドガル産まれ、住歴二十四年の私が、隠れた観光名所から雰囲気の良い穴場まで良いところ教えてあげますよ。さらには最適なデートコース選びまで…もっとも、もう乗馬コースも終わってしまう為話す時間がありません。そこで、その分かれ道であるロングコースに進む為の追加料金はいただくことになりますが」

 

 地元の人間がおススメする観光案内が聞けるのか。それもデートコースときたものだ。お姉さんの手のひらに銅貨を数枚握らせる。

 

 「商売上手だねお姉さん。器用で羨ましいよ」

 

 「フフ、どういたしまして」

 

 という訳で、契約成立により馬はロングコースに向けて歩き出す。ランザには悪いが、もう少し待っていてもらおう。

 

 「この街は闘技場や競馬等ありますが、そんな表面上の観光名所は混んでいますし賭け事が絡む分熱くなる人達が多いからあまりお勧めはできません。友達同士の慣れあいなら良いのですが、雰囲気が損なわれますからね。まずは、大河通りのシュランツというお店をおススメします」

 

 「シュランツ?どういうお店?」

 

 「紅茶やコーヒーと共に小麦を使った甘いお菓子が食べられるところで、今イルドガル女子の間では一番注目されているお店なんですよ。似たようなお店は沢山ありますが、あそこは宮城に仕えていたお菓子職人が独立して建てたお店なんです。おススメは、ふんわりとしたパンケーキのハチミツがけです。ハチミツだけではなく、ふわりとした生地からも甘味を感じるんですよ。あとは、クッキーなんかも良いですね」

 

 ランザやエレミヤが言っていた。南方大陸で生産された大量の砂糖と、エルフの集落やその周辺を開拓して作られた広大な小麦畑の話。大規模な農場のお陰で、こうして庶民も甘味を楽しめ食事の文化が広がっていく。帝国民には良いことなのだろうが、誰かの犠牲にそれは成り立っている。

 

 エレミヤを少し思い出した。娼館で寝泊まりしていた時に、朝食で出された甘くてバターがたっぷりと使われた小麦パン。昔の伝手で、わざわざ現在帝国領である元エルフの集落があった大規模農園から小麦を購入しているといっていた。輸送費がかかるが、それを食べることで優越感を得て復讐心が満たされると清々しい笑顔を見せてくれたっけ。

 

 「シュランツね、ありがとう」

 

 「甘味が気になる男の人も多いけど、女性客ばかりだから男性だけでは入り辛いって。でもカップル割引や親子割引もあるし、お連れさんもなんだかんだ楽しんでくれると思いますよ」

 

 彼女はそんな背景等知らないだろう。わざわざ敢えて言うこともない。思うところは多少なりともあっても、それは他国民が口をだすことはない。

 

 他には夕焼けが映える大河の風景や、美味しい帝国料理が食べられる大衆食堂。各地の動物を集めて見世物にしている動物園とやらに、そこと併設しているこことはまた違う引退馬との触れ合い私設。そこに行った後は少し行きづらいが味の良い、他国や帝国でも珍しい馬肉を専門に食べられる料理店等。

 

 頭の中で施設の場所と街の地図を広げてマークをつけながら、どこに行きどこに行かないかを選ぶ。ランザはどこならば楽しめるかなと、考えてみる。向こうはイルドガルに来たのが初めてだ。地元民が勧める名所を把握している訳ではないだろう。

 

 「あとは、お姉さんの一押し、パルークーレースって知ってます?」

 

 「パルークーレース?なにそれ、知らない」

 

 「今度イルドガルの新しい観光名所になると思っているんですよ。簡単に言えば、市内を舞台にした障害物レース。個人から三人組までのグループで連携あり、妨害あり、仲間と協力してゴールを目指すまったく新しい形式の競技で、若者を中心に爆発的に広がっているんです。その大会が明日、一年に何度かあるうちの一番大きい規模で行われます。闘技場や競馬とはまた違う、速さとチームワークにタフさも試される大規模競技。良ければ見て行きませんか?私も一押しの選手がいましてね」

 

 えへへと笑うお姉さんの顔は緩んでいた。成程、これは本当に好きなのだろう。しかし街中で行われるレースか。競技場のようにまっすぐ走る訳にはいかないのは容易に想像つくし、妨害有りということは、まあその妨害がどの程度のものかによるが一筋縄ではいかなそうだ。

 

 迫力と荒々しさがある、まさに今イルドガルを代表する若者文化ということか。デートになるかはともかく確かに観光にはなりそうである。個人的にも興味はある為、余裕があるならランザに見学をお願いしようか。

 

 「それで、お姉さんの一押し選手って誰なの?」

 

 さて、これは後から思ったことであったが、競技というものに熱を上げるファンにこの手の話題は厳禁であったと思い知ることになる。引き返す道はあった、「長くなりますよ」という言葉に「じゃあ辞めておきます」と返しておけば。後悔とは、何時いかなる時も先に立たないものである。

 

 「ええ、どうぞ」この言葉が、引き金となってしまった。

 

 「まず私の一押しと言えばなんといっても『銀星』という異名を持つ選手でしてねなんというかどこか幼さを感じてしまうのにまるで孤高の狩人のように鋭く凛々しい眼光をしていましてその運動能力も高くほんのちょっとの障害や妨害など問題なく通り抜けることができるというか本来はチーム戦の戦いが基本のパルークーなのに個人参加をしているのですよチームによってはルール違反スレスレの危険な妨害を仕掛けるところもあるというのに彼はただ勝利のみを目指しているというか妨害等まったくしなくてもただ前に進むその凛々しさがまた眩しいというか気高いというかでも護ってあげたくなるような可愛さも何故か感じてしまってどこか影のあるクールな雰囲気さえも庇護欲がキュンキュンきてしまうというかファンも沢山いるのに媚びるような真似もせずそっけないのにでも大事にしているところもあってある日群衆にまみれて倒れたファンの子をレース中なのに声をかけ応急処置をしてからレースに戻ったなんていうこともありしかもそれで一位までとっちゃってもうそんな彼にメロメロで私なんて何度も何度も応援にいって顔を覚えてくれたのかある日手を振り返してくれちゃってまあなんというかちゃんと意識してくれてるんだななんて頭が沸騰してその日は眠れなかったり……………(早口

 

 戻ってきた自分は、えらくグッタリとした顔をしていた思う。コースの残りはお姉さんの話を聞くことで精一杯だった。相槌と適当な返事だけでもさらに雪崩のようにその銀星とやらのことを語ってくるもんだ。

 

 うわぁ。銀星とやらが、好きなのは分かったけど、内心うわぁだ。自分を客観視できていないのだろうか。困ったものである。こうはなりたくないものだ。

 

 第一影があることがクールなんて言ったらランザは背負うものが沢山あってそれでも前に進む強さと意思の力があるししかもその過去というのがテンの凶行と家族との別離という悲しい過去があるのにその絶望に抗う為に前に進んでいるしだからといって人間性を手放した訳でもなく自分には本当に優しくしてくれて大事にしてくれることを感じるし彼の少し豪快だけど男らしい料理だって自分は何度も食べていて同じ鍋の飯を二人で食べたということはそれはもう実質家族みたいなものででも自分とランザには血の繋がりなんてないから親子ではなくその形態は夫婦というべきであり自分の方は何時でもその関係を受け入れられる準備はあるしなによりただの夫婦にない絆として自分は出会ったその日に馬乗りなり首を絞められるという情熱的な交流をしておりそれはこの身体と精神に負荷逆なものを植え付けるには充分すぎてしかも何度も死線を越えた間柄なんてこれもう精神的には強固に結ばれてすぎてもう精神交配しているみたいなものだしこれからもそんな彼を支えていくのは自分だということに誇りをもててでもそんな彼にも弱点はあるしふと見せる弱さを伴う顔は郷愁を感じる顔なんて普段から考えればギャップも凄くてさらに献身的になっちゃうしでもそれと同時に内に獣性を秘めているような気配もありそれに分からせられて支配されたいし子供が出来ちゃったなんて言ったら彼はどんな顔をするかなんて想像するだけで黒パン幾つもいけるくらいのものがありああもう首が疼いて仕方ない今すぐ絞めてもらいたいしそれ以上も当然…………

 



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 第一印象は、なんぞこれと口に出して言いたくなる程だった。そのあまりの豪華さにだ。

 

 柔らかく膨れた小麦のパンケーキに、たっぷりとかけられたハチミツ。それにブルーベリーを煮込んで甘く味付けしたジャムもたっぷりと塗られている。そして見たことがないような白くて柔らかい、よく分からないけど甘いなにか。

 

 お値段としては、甘味として考えれば高級路線にのるがそれでも、頑張れば庶民でも食べることができる程だ。一口ごとに口の中で唾液腺が弾けるようである。こんなものを食べていたら、舌が肥えてしまいまともな旅や食事ができなくなりそうだ。

 

 イルガルド女子の一押し恐るべしである。これはもう、自然と顔も緩んでしまうというものだ。

 

 「小麦や砂糖だけじゃなく、ベリーにハチミツ、しかもこの乳製品から考えて酪農も強いのか。流石は帝国の第三都市だな」

 

 濃いめのコーヒーを飲みながら、ランザも関心した声をだしている。自分は冷ましてもらった紅茶をいただいていたが、暴力的な甘さが辛いのか濃い目に追加注文したコーヒーを飲んでいた。

 

 「流石過ぎて、苦いものと共にしないとなかなか進まないものだ。グローなら喜んで食べるだろうが」

 

 「甘いの苦手?」

 

 「嫌いではない。まあ、食べ慣れていなさすぎるだけだがな」

 

 ランザの前には自分と同じものが置かれていた。少し自分が食べるペースが速かったか、それとも向こうのフォークがゆっくりなだけか、まだ半分以上減っていない。

 

 「……アリアやミーナにも、食べさせてやりたかったな」

 

 コーヒーを飲んだ後、思わず呟いた言葉はこちらに語り掛けた訳ではなく、独り言のようだった。テンの名前もそうだが、妻と娘の名前を聞くと心がざわつく。既に死んでいる人達であるが、自分にとってはどこか落ち着かない気分になる。

 

 「すまん、湿っぽくするつもりはなかった。どうも気を抜いてしまうとな」

 

 「ううん、それだけ大事な人達だったんだからしょうがないよ。自分には、まだ大事な人と死に別れになる経験はないしね」

 

 どこかにいるのか、それともとっくに死んでいるのか。顔も知らない父母のことを考えようとしたが思うようにいかなかった。まあ、半獣に厳しいご時世、亡くなっている可能性が高いんだろうなとは思う。

 

 おっとと、こんなことを考えているとこっちまで湿っぽくなってきそうだ。話題を変えることにしよう。

 

 「そうだランザ。パルークーレースって知ってる?」

 

 「ああ、乗馬体験している最中読んでいた情報誌に書いてあったな。街中を走り抜ける障害物レースってところみたいだが」

 

 ズボンのポケットに折りたたまれていた紙をテーブルに広げる。今日と明日闘技場で行われる剣闘士達の情報。競馬場では、年齢による制限を廃した無差別級のレース。紙面の表はほとんどが二つの共興についての情報がデカデカと乗っていた。

 

 「そういえばあちこちの売店で無料配布してたっけ。紙質はよくないといっても、凄いねこれ。いったい何枚書いているんだか」

 

 「いや、どうやら帝都やイルガルド等の主要都市では印刷機械というのが導入されているようだ。活版印刷の技術は前からあったが、どうやらオーデン技術連合が飛躍的に効率が良くなる仕組みを発明をしたらしくてな。本のみならず、こういうちょっとした情報紙も大量に刷ることができるようになったらしい」

 

 「技術の進歩も凄まじいねえ」

 

 「だが流石に最新機器だけあってお高いようだ。この情報誌を発行している、メルキオル商会くらいの財力がないようだとな」

 

 紙を裏返してみる。例のパルークーレースについては、裏側を半面使う形で紹介されていた。ちょっとした内容の概要とレースの日時や場所、通行規制の協力も呼びかけられている。残りの部分は主だった選手の紹介のようだった。

 

 「スター?」

 

 「どうやら注目株の選手がそう呼ばれているようだ。駆けの倍率も記載されているが…1.2倍か、この銀星という選手がどうやら花形だな」

 

 「ああ、みたいだね。熱狂的なファンの人がいたよ、ちょっと熱すぎて引いちゃったけどさ。まあそれは置いておくとして、開催は明日だけどちょっと見ても良いかな?妨害有りの障害物レースってのがちょっと興味あるんだよね」

 

 流石に故意に血生臭さがある訳ではないだろうし、見学したところでなにかの役に立つとは思えない。だけど、目新しさという意味では他ではないものがある。それに、あれだけ熱意を持って語られたら辟易すると同時に多少の興味も湧くというものだ。

 

 「別に構わないが、少し意外だな。どんな選手が出ても、だいたいの奴はお前よりは動けないと思うが。まあ…そうだな」

 

 ランザが意味ありげにフッと笑った。すすんでいなかったパンケーキにフォークを突き刺して口に運び、コーヒーをじっくりと味わう。それだけの動作なのに、先程には感じていなかった違和感を覚えた。なんだか、変な誤解されているような。

 

 「変なこと、考えてる?」

 

 「いやなに、気にし過ぎた。ただし入れ込みすぎるなよ?」

 

 改めて情報誌に目を落とす。それとランザに見比べて、なにを考えているか分かってしまった。

 

 パルークーレースのスタープレイヤーというだけではなく、あれほどのファンがいたことを考えると恐らくそのルックスも相当なものなのだろう。ランザも、乗馬体験中待っている間にそんな話を小耳に挟んだのかもしれない。

 

 年相応な町娘のように、有名人なイケメン好青年に興味を抱いたことをランザは好意的に考えているようだ。意中の人間、例えば妻であるアリアさんが銀星に興味を抱いたとなれば気が気でないだろうが、これはもう年相応の娘に『まあ程々にな』くらいの忠告を向けるに留めるお父さんみたいなものではないか。

 

 ムッとしたので、ランザの皿にフォークで奇襲をかける。半分程のパンケーキを強奪し、大口でそれを噛み千切る。ナイフとフォークでなんとかお澄ましで食事をとっていたが、そんな態度を向けられてしまっては気分も悪くなるというものだ。

 

 「おい、俺の」

 

 「やっぱりやめようかな、レースの見学」

 

 「さっきまであんなに乗り気だっただろうが」

 

 こっちの好意にまったく気が付かないにぶちん、という訳ではないだろう。もう立場が保護者と被保護者、よくて共に旅をする仲間程度留まりで意識をしていないだけなのだ。もしくは、意図して気づいていないふりをしているだけか。

 

 先程まで美味しいと思っていたパンケーキまで、ただの糖分の塊に感じてしまう。コーヒーも強奪しようとしたが、流石にそれは死守された。

 

 「行儀が悪いぞ」

 

 「知らないよそんなの。女の子の食べる速度に合わせないランザが悪い」

 

 苦笑しながらコーヒーをすすっているが、あれは多分『仕方ない奴め』くらいしか考えていない顔だ。こんな調子で、デート中アリアさんをどうやって楽しませていたのやら。……クソぅ、でも、やはり羨ましい。

 

 会計を終えてシュランツを出る。大河通りというだけあり、中型船二隻がすれ違ってもまだ余裕がある程の幅がある川が目の前を流れていた。川沿いに面して露店も沢山あり、色とりどりの果物やどこかの名産品なのか陶器等があちこちで売られている。

 

 人通りも中々に多く。中央の大通りとはまた違う、街の活気に溢れている。でも、せっかくの観光なのに楽しくない。自分はこんなに一途なのに、気づいてくれないのか、気づいていて無視しているのか。どちからによって、表面上はともかく内心において自分の立場が大きく異なる。そればかりが頭をグルグルしていた。

 

 アリアさん達の存在も思考を引きずる。亡くなった人に嫉妬をしてもしょうがないが、それでも未だ心の大部分を占めているのはその二人と…テンなのだから。

 

 「……ッ…ランザ」

 

 「ああ。しかしこの手のことで、俺より後にお前が気づくとはな」

 

 つけられている。人混みというアドバンテージを活かして目立たないようにしているようだが、気配を消す技量じたいは素人だ。まあ、ただの一般人には気づかれないだろうが。

 

 竜狩り隊には目を付けれられてはいるが、連中がよこしてきた刺客ならばこんなにお粗末な相手ではないだろう。となれば、相手の相場はだいたい決まっている。

 

 「数は二人、どうする?」

 

 「大方浮かれた観光客狙いってところだろう。わざと隙を見せて釣りだし、制圧しよう」

 

 「了解」

 

 果実を絞りジュースを作る露店を見つけ、店先まで出向く。店主と軽く雑談をしてから、荷物から財布をだした瞬間尾行していたうちの一人が動く。かすめるように取り出した財布を掴み、そのままか盗って走り去ろうとするがその次の瞬間、尾行者は首筋を掴まれた。

 

 「現行犯だな」

 

 ランザが取り出したのは、財布に見せかけた小袋。物取り対策として、中身が詰まっているように縁の欠けた価値の低い銅貨や、帝国では使用できずしばらく使う機会がない異国の銅貨が沢山入っているダミーだ。

 

 「おまっ…気づいて。あいでででででででででで!」

 

 瞬発力に驚愕していたようであるが、ずっと前から人妖と斬った張ったをしていたランザだ、気配駄々洩れの物盗りに気づかないなんてことはないだろう。

 

 首筋に力を込められ物取りは苦痛の声をあげるが、注意を反らして逃れようとしたのかダミーの袋が宙に投げられた。

 

 投げられた財布を人混みから跳躍したもう一人の尾行者がつかみ取る。ジャンプ力は人並み以上にはあるようで、着地からの行動開始も早く人混みを縫うようにその場から逃れようとする。

 

 ただの観光客ならば、この混雑具合から見失うかもしれない。だがしかし、こういう場こそが自分の独壇場である。あらかじめ誰が動くかは把握していた、一応共犯が確定してから行動に移したがそれからでも余裕で捕らえることができる。

 

 「それ!」

 

 背中に追いつき、跳躍からの蹴りが側頭部に当たる。逃走者がふら付いて大河沿いの手すりに背中が当たる。

 

 「ぐえぇ…テメ……ぇ」

 

 「はい回収。それじゃ、頭冷やしてきな」

 

 袋を回収してから、上半身に蹴りを食らわせる。柵を起点にし身体がグルリと周り、大河に逃走者が落下して水飛沫をあげた。治安組織に受け渡すといろいろ手続きとかあるし、面倒なので制裁だけして終わりにする。

 

 「離せやコラァ!」

 

 ランザが首筋を掴んでいた相手が、ナイフを引き抜き首を掴む腕を斬り裂こうとしていた。一度首筋から手を離し、ナイフが空を斬った。

 

 追撃で突きを繰り出してきたが、その腕を絡みとり、服を掴んでぶん投げる。男は屋台の上を飛び、大河に頭から落下した。水飛沫が高くあがり、周囲が少しどよめく。

 

 「重さも体幹も足りていない。走るのは速そうだが」

 

 「どうやらただのスリだったみたいだし、そんなもんでしょ。やれやれ、獲物を狙うならもっと観察眼を鍛えないとダメなのにね」

 

 身体能力が高くても、獲物を嗅ぎ分ける能力は三流だったようだ。ま、障害としては大したことなかったし少し気分が沈んでいたので、空気を変えるにはもってこいだ。目だったせいで、連中がスリだということは周辺住民に認知されただろうし放っておいても治安組織が駆けつけるだろう。後はもう、スルーだ。

 

 「ねえランザ、次は動物園っていうところに」

 

 「あの!すいません!」

 

 フードを被った何者かが慌てた様子で近寄ってきた。翡翠色の瞳に熱を浮かばせ、ランザと自分の手を掴む。

 

 驚いたのは、その素早さ。敵意や殺意がない為反応が遅れたというのはあるが、正面から声をかけて近づいてきた相手に避ける間もなく腕を掴まれるとは。ランザも似たようなことを考えたのか、目を鋭くさせながら声をかけてきた相手を見つめる。

 

 「瞬発力、身のこなし、膂力、体幹。まさか連中を見張っていた矢先こんな逸材にお目にかかれるとは!これは幸運以外なにものでもない!二人とも、折り入ってお願いが!」

 

 ランザの顔を見たら、向こう側をこちらを見ていた。敵意はなさそうだが、どうしたものかといったところだろうか。

 

 「まずは、場所を移そうか。話はそれからだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 興奮気味の若者を振りほどかなった理由は二つある。まず一つは、流石にあの場では目立ち過ぎたということだ。スリの撃退に急なスカウト、振りほどいていこうにも凄まじい熱意でありどこまでもついてきそうな感じがあったからである。あれ以上視線を引いても良いことはないだろう。

 

 そしてもう一つは、このフードの被り方だ。そして気配の質や腕を握られた時感じた膂力、わざわざこの手の相手が声をかけてくるとは珍しいこともあるものだ。クーラの手前、邪険に扱うのも躊躇われる。

 

 話を聞くことを確約し、ひとまず俺達がとっている宿屋に彼を迎え入れることにした。ここならば人目を気にすることもない。

 

 「では改めましてですが、僕はイド=クラモスと言います。お二人に是非ともお願いしたいことが」

 

 「まあ待って、本題に入る前だけどまずこちらから質問。あのスリ二人組を見張っていたとか口走っていたいたけどどういうこと?あれがスリの常習犯かなにかで、警戒していたとか?」

 

 寝台に腰をかけるクーラが話を遮り質問を切り出した。興奮していて、余計なことまで口走ったが流石にそれを聞き逃す程無警戒ではない。

 

 だが、流石に共犯とは思えない。仲間二人が大河で浮くことになったなら、わざわざ声をかけに来る間抜けはいないだろう。底の抜けたような間抜けであれば、あるかもしれないが。

 

 「ああ、流石に気になりますよね。話すと長くなりますが、どこから話すべきか」

 

 「どうせ時間はあるから、最初からで構わない」 

 

 「……分かりました。では、まず僕ですがパルークーレースの選手をしています。スポンサーにはメルキオル商会がついていますので、身分としては商会の外部契約社員ということになります」

 

 メルキオル商会。帝国全土に支部を持ち、このイルドガルでも押しも押されぬ大商会だ。しかし、若者文化のパルークーとそんな商会がどんな関係で外部とはいえ契約を結んでいるというのやら。

 

 「ああ、宣伝か」

 

 クーラが合点がいったように手のひらを叩く。

 

 「宣伝?」

 

 「うん、宣伝。ほら、例えばだけど闘技場の覇者みたいな人が、強さの秘訣とか聞かれた時にある食品を勧めれば、その人の人気にもよるだろうけど店からその商品が消えたりするでしょ?そんな感じで、この人もレースに勝って、インタビューとかでメルキオル商会のことを勧めたりすれば注目集まるってこと……そうだなぁ。若者が沢山あつまるところで、優勝したこの人がランザが作った家具を紹介したり愛用しているなんて言えば工房にすごい注文が集まったりするの。まあそんな感じ」

 

 確かに商売において情報の伝達、市民への認知の大きさというのは大切だと聞いたことがある。だが仮にずっと職人をしていたとしても、そんな方法で顧客を増やそうなんて考えつきもしなかっだろう。誰が思いついたか知らないが、流石商売人。儲けになりそうなことには精通し何でも手をだしているということか。

 

 「それで、その今をときめくパルークーレースの銀星さんがどうしたのさ」

 

 イドが、クーラの指摘に目を見開く。

 

 ……成程、少し考えて分かった。大規模商会が抱えるパルークーレースの選手となれば、注目が集まるレースの優勝を狙える有名どころだろう。それにフードで隠しているものの、顔つきも良いし女性ウケも良さそうである。熱狂的ファンを抱える有望選手となれば、二つ名まで持っている有名人だろうと想像もつくというものだ。

 

 「知っていたのですか?」

 

 「生憎自分等は観光人。パルークーレースは見るのも初めてだよ」

 

 「……恐れ入りました」

 

 「まあ隠している訳でもなさそうだけどね、わざわざ話すこともないと考えているっていうかさ。それに、本当に隠していることは別にありそうだしね」

 

 クーラがフードを脱いで、灰色の髪の毛とそれに生える三角形の耳を露出する。これを出して歩いているだけで、街中では石も飛んで来る半獣の証だ。

 

 「話し合いたいなら、これも含めてだしてしまってよ。もう自分にもランザにもバレてるけどさ、自分から明かす方が誠意ってのは見せれると思うよ」

 

 「腕を握られた時の膂力が、興奮からか少々人間離れしていた。咄嗟に振り払うことができないくらいにはな。それに、フードは確かに頭のそれを隠しやすいが四六時中傍らでこいつを見ているんだ、すぐに分かった」

 

 イドが少し、悩まし気な顔をする。そして大きくため息をつき、フードをとって見せた。

 

 成長期の青年の白い髪の毛には、やや大き目な柔毛に覆われた耳が二本生えている。翡翠色の瞳はやや細く、クーラと同じネコのような雰囲気をだしている。

 

 「我々だけの秘密でお願いします。同じ半獣である貴女と、その子と行動を共にする貴方だから信頼して正体を明かしました」

 

 「ランザ=ランテだ、彼女はクーラ=ネレイス。改めてこの後は、腹を割って話そうか。続き、聞かせてくれるか」

 

 「はい。知っているかどうか分かりませんが、僕が参加するパールクーレースというものは個人から三人組まで参加可能です。ですが、大会の最大スポンサーであるメルキオル商会がルール改正を宣言したのです。運営は、メルキオル商会と太い繋がりがあります、その改正には二つ返事で許可してしまいました」

 

 街中を舞台にしたレース。競技場や闘技場でもないかぎりそこは当然生活の場であり、様々な住民の生活や商売の場でもある。それを占拠し、通行制限までかけるということは相当な組織力と資金力がなければ不可能だ。

 

 比較的新しいであろう競技とその運営にそんな力があるのかと考えるが、メルキオル商会が協力しているとなれば話は別だろう。あそこの資金力ならば、多少の無理難題は難なく越える。

 

 「それで、どういうルール改正をしたんだ?」

 

 「次の大会から、個人や二人組での参加は不可能。必ず三人組での参加が強制されるようになりました、僕の逃げスタイルならば仲間は必要なかったのですが、やはりダイナミックさと駆け引きによる熱狂に欠けるというのが理由としてあげています。だけど僕は半獣、まともに仲間を集めることなんてできない。それを理解している筈なのです」

 

 メルキオル商会はイドが半獣ということを理解しているようだ。ならばわざわざ何故、契約選手が不利になるルール改正を強制させたのか。多少盛り上がりに欠けるとしても若者には充分人気のようだし、場合によっては仲間を集めることができずイドの参加資格が剥奪されかねない。

 

 商会としては、広告塔には何時までも輝いていてほしいと考えるとは思うが。まだ情報が足りない、話しの続きを聞くことにする。

 

 「そこでメルキオル商会は、二人の選手を連れてきました。それが、ランザさんやクーラさんが撃退したあのスリ二人組です。あまり良い雰囲気でもなく怪しさもあり、なにかあるのではと尾行をしていたんです」

 

 「チームメイトが問題をおこせば、参加資格が剥奪されかねないってところかな。それを止めたかったってところ?」

 

 「はい。ただ、僕はこう考えています」

 

 イドの顔が、怒りで歪む。

 

 「連中は、メルキオル商会が僕の参加資格を失う為に用意した子悪党。商会は、僕を次の大会で勝たせる気もなければ参加させる気もないのです」

 

 疑問が疑問を呼んだ。頭の上に疑問符が浮かぶなかイドと、何故かクーラが額に手を当てて『そういうことか』とでも言いたげに大きくため息をついた。

 



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 ランザはまだ分かっていないようであるが、よくある話である。

 

 表立っては外部契約社員、パルークーレース選手イド=クラモスであるがそれは外向けの肩書だろう。そりゃそうだ、本当の肩書なんてだしたら商会のイメージアップには繋がらない。つまり、どうあがいても人気者にはならない筈だ。

 

 「帝国では正規の奴隷購入について、強制的な主従関係契約は当然あるけれど同時に、奴隷側も解放を要求できる制度があるの。本来ならば、滅多にないことなんだけどさ」

 

 その言葉で、ランザは合点がいったようである。

 

 「リスム自治州でもある話だな。船底の押し込められるオール漕ぎも、規定回数の航路を終えれば解放される救済制度だ。まあもっとも、回数をこなす前に使い潰されて放棄されるだけで、その制度で助かった奴はほぼいない。それと似たようなものか」

 

 「大方、レースの賞金とか大多数メルキオル商会に吸い上げられているんじゃない?でも、恐らくは次の大会で目標金額に届きはれて自由の身になれるってとこかな」

 

 ランザが腕を組んで考え込む。

 

 奴隷制度。改めて、その言葉の重みが両肩にのしかかる。農奴だったり性奴だったり、船のオール漕ぎだったり。帝国のみならずこの世界の最下層にいる彼等彼女等の存在は、無視できない。

 

 先程食べたパンケーキも、小麦はエルフの里を潰した農場で、捕らえられた者達も売り飛ばされている。南大陸ではプランテーション農業を強制し現地住民を低賃金で酷使、いやもしかしたら賃金すら支給しないような環境で砂糖やコーヒーといった嗜好品を生産している。

 

 半獣に限らず差別される層というのは、どこの国にも必ず存在する。その在り方に【商売】と【労働力】という価値がみいだされるかぎり奴隷という制度は続いていくだろう。

 

 それでも、そんな奴隷制度の裏側にいた自分からすれば、まだイドは恵まれていると思う。いや、自分もまだ幸運に恵まれている方か。

 

 「成程、商会の宣伝をする看板となることが契約の要だとしたら、レースに参加できなくなることじたいが契約違反。あと一歩で解放されるのに、違約金が重なれば自由への道が凄まじく遠ざかる。次のレースで敗北をさせても、長期的に縛り付ける為に罠を張ったという訳だな」

 

 「その通りです。僕とメルキオル商会の契約は、パルークーレースに勝ち続けること。出場じたいできないとすれば、その理由はどうあれメルキオル商会は容赦はしないでしょう。それが例え、向こうが用意した選手の不祥事のせいだとしてもね」

 

 仮に司法に訴えようにも、そもそも奴隷の言い分等通らない。体裁を保ちつつ首に縄をかける悪辣な策だ。流石商売人の巣穴、良くも悪くもやり方が汚い。

 

 「だが大丈夫なのか?大事にならなかったとはいえ、事件は事件だ。参加資格剥奪なんかは」

 

 「いえ、まあ…申し訳ないですが、被害者である貴方方が口をつむげばそこまで大事にはならないでしょう。これでも人気者なので、ちょっとやそっとくらいならレースを降ろすことはできない筈です。少なくとも皆を納得させるくらいでなければね。幸い僕を応援してくれる人達やパルークーレースファンには、まだ僕があの二人と組む予定だということは周知されていないので、どうにでもできます。ですが、次々と手を打たれてはどうしようもなくなる可能性も…」

 

 再度商会が怪しい人物をチームメイトに選考してくる前に、人員を確保して脇を固めてしまいたいという訳か。ランザも自分も戦闘を繰り返してきたが、レースに関してはズブの素人だ。だが、メンバーさえいれば例え自分等は置いて行かれてもイドが優勝さえすればいい。

 

 「だからどうかお願いします、どうか僕と共にレースに」

 

 「メリット」

 

 イドが必死なのは良いが、まだ語られていることは全てではない。別方向からも切り崩し、尋ねる。腹を割って話すなら、文字通り腹の中身を全て吐き出させる必要がある。

 

 「聞く限りだと賞金の大多数は商会に吸われそうじゃん。わざわざメルキオル商会に喧嘩を売ってまで得られるメリットが、自分にもランザにも無いように感じるんだけど?」

 

 同じ半獣なのに、とはランザも言わない。観光はともかく慈善事業までして旅をしている訳ではないし、変に目立つのも考えものだ。そしてイドの誠意というものを知りたい。半端な誠意だけでこの先、世の中渡っていけると考えているならば、それはただのお花畑だ。ここで助けてもこの先また似たような破綻を迎えるだけだ。助け出す価値もない。

 

 イドが黙り込む。外部契約社員といっても内訳はただの奴隷だ。金銭の蓄え等ある訳でないし、この返答しだいによってはお引き取りを願った方が良いだろう。言ってはなんだが、自分達はあまり関わり合いになってはならない方の人種でもある訳だしね。

 

 「……すいません。生憎価値があるものもなければ、持ち合わせも」

 

 「ならばその条件で引き受けてくれるお人好しを探せば?観光しているけど、暇な訳でもないんだよね」

 

 「第一何故お前は、その身分に甘んじているんだ。首枷や足枷をされている訳ではないし、逃げてしまえば良いんじゃないか?半獣の足なら逃げることも不可能ではないだろう。この先生き辛くなるだろうが、連合王国辺りに亡命するなり姿を暗ます手段はいくらでもある筈だ」

 

 内心引っかかっていたところはそこだ。自分がイドの立場だったら、早々にトンズラする。後のことなど知ったことではない。多少監視があったとしても、それこそ半獣の逃げ足ならば姿を暗ますこと等容易い筈だ。

 

 「僕は逃げることはできません。少なくとも、僕一人では」

 

 僕一人、か。やれやれ、やっぱり面倒ごとだった。そういう相手がいることは、羨ましいんだか悩ましいんだか。

 

 「妹が、囚われています。僕は、二人分の金額を稼いで、イルガルドを去らねばならないのです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「さて、どうしようかランザ」

 

 イドを宿の下にある共用スペースに待つように伝えた後、彼が退出してからクーラが声をかけてきた。

 

 「同じ半獣だ、助けたいなら二つ返事で力を貸すと言っても良いんだぞ」

 

 「悪いけど、そこまでお人好しにはなれないよ。自分と同じ半獣でも、あくまで自分は自分で相手は相手だしね。余裕ってのは持てる者の専売特許だしさ」

 

 クーラの言動は、現実主義者だ。義理人情で動く程俺達には余裕もなければ、例え同胞の願いでも躊躇なく切り捨てるだろう。

 

 「ランザは?メリットデメリットを考えずに、手を貸したりしたい?ランザが助けたいなら、協力はするけど」

 

 それでもこう聞いてくると言うことは、例えば俺が採算度外視で助けたいと言えば力を貸してくれるだろう。それだけに、慎重に考えなければならない。何故なら、イドを助けるということは帝国全土に支部を持つメルキオル商会に喧嘩を売るようなものだからだ。

 

 イドは、レースに優勝し目標金額を全て払い終えれば、妹共々助かると考えているようだが話はそう簡単ではないだろう。例え優勝をしたところで、連中がなにか難癖をつけさえすればそれが反故にされる可能性もいくらでもある。

 

 商売人同士や市民同士が後に問題がおきないように公の場で、取り決めを国に認めてもらう公正文書を用意できればその可能性は消えるのだがそれですら金とある程度の信用がいる。奴隷の半獣等がかわすことはできない。

 

 奴隷の解放が法律で定められていても、仮に商会が持つ書類を一つでも改ざんすればいくらでも縛り付けることができる。奴隷に限らず騙し騙されの商人世界は、改ざんの一つや二つ日常茶飯事。大切な決まり事を反故されない為、それを防ぐ為の公正文書なのだ。

 

 リスムの奴隷貿易で一番多い船底でのオール漕ぎにしたって、救済措置なんかは無事でいられる人間がほとんどいないことをみこした欺瞞だ。奴隷は死ぬまで奴隷のまま、それは悪い意味で常識であるとも言えた。

 

 つまり、本当に助け出したいなら、優勝し金を納める以外にもなにかもう一手…いや、妹とやらの存在を考えると二手程必要だ。だが策を講じるにしても、それだけの価値があるかどうかは分からない。

 

 「……クーラ。イルドガルに昔来たことがあるんだよな」

 

 「まあ、レントの指示でちょっとした汚職漁りとかね」

 

 「メルキオル商会のイルドガル支部、その評判とかは調べる機会はあったか?例えば、なにか黒い噂とか」

 

 クーラが少しだけ考え込む。

 

 奴隷貿易はどの国でも認められたもの。それ以外、例えば帝国法に完全に引っかかり治安組織の連中も多少の賄賂では見て見ぬふりができなくなるような爆弾でもあれば話は別なのだが。

 

 「無いことは、ない。噂程度だけどさ。だけど当時の調査から考えれば本筋は外れていたし、裏どりができていない」

 

 「どんなものだ?それは」

 

 「……ごめん、不確実要素が強いうえに古い情報だからあまり話したくはない。間違ったことを言って、それが判断材料になったら困るからね」

 

 「そうか」

 

 少しだけ空気が重くなる。クーラはため息をついて、フードを被りなおしてから半分程開けていた木窓を全開にした。

 

 「無理はしなくて良いよ。ランザが半獣を見捨てても、それで自分から貴女をどうのこうのと思ったりなんかしないよ。今から分が悪すぎるうえにリターンのない賭け事、そんなのにのるくらいなら今すぐ動物園を見学しにいきたいかな」

 

 外の景色を見ながらクーラは言い放つ。意識してか無意識か、自然と左手が首筋を触っていた。

 

 出来ることなら、イドとその妹を助けてやりたいとは思う。それはあの二人だけではなく、ややおこがましい言い方ではあるがクーラの為にもだ。

 

 望んだ生き方一つできない生活。奴隷とは劣る者がなるべくしてなると語る者もおり、今の社会構造が良くも悪くも最底辺の人員達により、曲りなりも平和と生活が保たれていることも否定はできない。

 

 だが本当に、産まれた環境と身体的特徴だけでそんな地位にいることを当然といって良いのだろうかとも思う。もっとも御大層なことを言っていても、この現状を壊す為に活動する訳でもない為綺麗ごとで絵空事だ。

 

 だがしかし、せめてクーラには少しでも手を差し伸べる者がいるということを見せてやりたい。救える半獣も、中にはいるという微かな希望も。

 

 「あれ?」

 

 外を見ていたクーラが、なにかに気づく。どうやら窓の下側、街路見ているようだった。

 

 「どうした?」

 

 「噂をすればなんとやらというか、メルキオル商会の馬車だよあれ。宿前に停まった」

 

 横からのぞき込んでみると、剣と盾の意匠が塗られている商会の馬車が確かに宿の前に停留していた。メルキオル商会が卸す主力製品の一つは武具であり、その始まりは街の鍛冶工房であったそうで商売を大きく変えてもずっと初代のシンボルマークが使われているらしい。

 

 馬車から男が数人降りて、宿に入っていく。どうやら宿が注文した商品を卸にきたという訳でもないようだ。少しばかり、ヒリついた雰囲気を感じた。

 

 「行ってみるか」

 

 「興味あるの?」

 

 「ま、多少はな。判断材料の一つにでもするさ」

 

 部屋を出て一階を目指す。階段を降りて行く最中、イドが叫ぶ声が聞こえた。

 

 「何度も勝手なことを言わないでください!」

 

 階段を降り切ると、男数人とイドが対面で話していた。営業妨害となり嫌そうな顔をしている宿の主人等おかまいなしだ。

 

 「貴方達が用意したチームメンバー等には頼りません!第一あの二人も、問題をおこして騒ぎになったじゃないですか!これが正式にメンバー登録された後だったら、僕の立場だって危ういものになるじゃないですか!そちらの伝手は頼りません!僕は自力で仲間を見つけます!」

 

 イドが手をふりながら叫ぶが、数人の男達。少し身なりが良い男が心外だとでも言いたげに肩をすくめる。

 

 「館長殿は今回の不始末に大変お怒りになり、あの二人組を帝国治安局にちゃんと差し出した。それじゃ不満かな?」

 

 「当たり前です!第一貴方達の目的は僕を潰すことでしょう!?」

 

 「やれやれ、疑心暗鬼になるのも無理はないがそんな君やパルークーレースをずっと支えてきたのは、我等とここイルドガル支部のドーズ館長なのですよ?あまり人聞きの悪いことを言うものではありませんなぁ。それに、本当に君にメンバーが集められるのですかな?」

 

 イドの言葉が詰まる。

 

 優勝賞金の分け前無しで、半獣という身分を隠しながらチームメイトを求める等至難の業だ。だからこそイドは、チーム戦が基本というパルークーレースでずっと単独で戦ってきたのだから。

 

 「参加すらできなければ、どのみち君に未来はないのでは?よく考えて言動を慎んだ方が良い、もっとも君にそんな理性があればの話だがね」

 

 半獣ということを明かすことは、メルキオル商会もしない。だがしかし、言葉にだしていないだけで明確に見下しているようだ。お前等獣混じりに、思考と理性があるのかと。

 

 「メンバーなら、用意できました」

 

 「なに?」

 

 男の顔が、少し不愉快そうに歪む。イドは鋭い、覚悟を決めたような顔つきになりこちらの方をまっすぐに見て来た。先程話していた時のような、懇願するような顔と目付きではない。腹を括った男のツラだ。

 

 「ランザ=ランテさんとクーラ=ネレイスさん!この二人が僕と共にレースに出場するチームメイトです!」

 

 「はぁ!?ちょっとなにを!」

 

 突然の物言いにクーラが驚愕した顔で異議を挟もうとしたが、手をあげてそれを制止する。代わりに俺が、口を開いた。

 

 「初めまして、メルキオル商会の方々ですね。ランザ=ランテと言います、この度はイド君に誘いを受けてこの大会に参加をすることになりました」

 

 「……見ない顔ですな。観光客かなにかですかな?」

 

 「ええ。奇妙な縁でイド君とは仲良くなりまして、力になれればと思い参加をするしだいです。パルークーレースですが、参加者として舞台に立てるとは思っていなかったので、足を引っぱらないように頑張りたいですね」

 

 「ラ…ンザさんとクーラさんは、貴方方が紹介してくれたスリ二人を撃退する脚力と身体能力があります。優勝を狙うのに、相応しいメンバーです。メルキオル商会の外部契約社員として、勝利は保証しますよ」

 

 イドにとってはダメで元々以上、半ばヤケクソでの宣言であっただろう。こちらがそれにのったのにやや面食らった様子であったが、すぐに不敵な笑みを浮かべ言い放つ。

 

 「……酔狂なことですな。引き上げるぞ」

 

 「良いので?」

 

 「何事にも相応しい場というものがある。状況が変わったなら、それに合わせた判断が必要だ」

 

 大きくため息を吐きたいような顔をしたが、すぐに商売人特有の張り付けた笑みに戻りこちらに軽く一礼する。

 

 「ランザさんにクーラさん、是非パルークーレースを楽しんでください。熱い勝負で観客を沸かせることを、期待しています。生憎、正式契約ではない為、優勝しても我々からの報酬はだせまんが」

 

 「ええ、楽しませていただきます。それと心配されずとも、報酬はいりません。御社所属のイド君を必ず勝たせる為に微力を尽くしますよ」

 

 互いに笑顔で会話を交わし、メルキオル商会の一団が去っていく。緊張の糸が途切れたのか、イドが座り込みそうになったが襟首を掴んでそれを制止。こいつにはシャンとしていなければ困る。

 

 「その、ランザさん。……あの、すいません」

 

 「謝るのはともかく、そんな腑抜けた面をするな。無断で巻き込んだから、それらしくしっかりしろ。取り合えず、裏の井戸で顔でも洗ってこい。部屋で待っているからよ」

 

 裏口からイドを放り出し、宿の店主に笑顔で軽く頭を下げてから階段を昇る。

 

 「あーあ、良かったのランザ。まだ勝つ算段もないのに、最悪敵を増やして終わりだよ」

 

 両手を後頭部に重ねながらクーラは呆れた顔で先を歩く。

 

 「すまんが、これは俺の我儘だ」

 

 イドは八方塞がり一歩手前だった。賞金の分け前に報酬無しや半獣、そんなハンデが無くてもどうせイルドガルにいる有力な選手達には大会運営やメルキオル商会の息がかかっているだろう。自力でチームメイトを集めるなんてことは、ほぼ不可能に近かった。

 

 だがそれでも諦めずに、大博打に出たイドのあの顔は半獣やクーラという事情を抜きにしても、俺自身が助けてやりたいと思えるものだった。あれは、かつて俺が浮かべた顔でもあったからだ。

 

 初期冒険者組合。ただのガキである俺が、隊長についていきたいと何度も頭を下げにいった。持たざる者が這い上がる為、同じ夢を持つ諦めない連中とどんな危険が待っていようと栄光を掴むと腹をくくったからだ。

 

 結果だけ言えば、ジークリンデのせいで俺以外みんな仲間達は死んでしまい、昔馴染みは当時別動隊にいたグルーだけになってしまった。だがしかし、俺が今の俺となる為のきっかけとなったあの旅と仲間達が無意味であったとは思えない。拾ってもらえなければ、どうせ十四歳を迎える前に路地裏で野垂れ死にしていただろうから。

 

 腹を括って博打にでたイドを、俺は俺自身の意思で応援してやりたい。メルキオル商会に目を付けられるだろうが、どうせ竜狩り隊に目をつけられているのだからある意味今更とも言えるだろう。

 

 「悪いな、相談無しに」

 

 「ほーんとだよねー…と言いたけれどさ、助けたいなら協力するって言った手前だし、どうせ帝国に生活基盤はないんだからいざという時は逃げちゃえば良いだけだしさ。ただやるからには、勝ちに行こうよ。勝った方が百倍楽しいからね」

 

 「違いない」

 

 「ただ時間がない。勝負は明日だし、すぐにでも足りない二手を補う為に情報集めが必要になるよ。そうなると、悪いけど自分は早く動かなくちゃいけないし場合によっては大会にも参加できない」

 

 勝利条件は三つ。イドが大会に優勝すること、妹の無事といざという時に備えての安全確保、そしてメルキオル商会に奴隷二人の扱いがどうでもよくなるくらいの爆弾を落とすこと。これら三つの要素が集まり始めて、イド兄達が安全にイルドガルから出られる条件となる。

 

 クーラがいなくなるとなれば、足りない手は三手。新しいチームメンバーの確保だ。メルキオル商会にはクーラも参加すると言ったが、大会運営にメンバーとしてまだ登録していないので変更も可能だろう。

 

 「大会当日、いや開始まで情報収集とその他段取りは間に合うと思うか?」

 

 「ほぼ断言するけど、全力で動いても無理だと思う。第一、まずは昔掴んだ噂の裏どりからしなくちゃいけないしね。残念だけど、どんなに可能性が低くても大会参加者はもう一人メンバーを探すことが現実的…」

 

 言いながら扉を開けたクーラが、固まった。

 

 「どうした?」

 

 半開きになった扉を開けた瞬間、俺も眉をひそめることとなる。

 

 「オレ抜きで随分と楽しそうな話してやがるよなぁ」

 

 寝台で胡坐をかきながら、悪竜ジークリンデが名前負けしないような悪い笑顔を浮かべていた。もう顔を洗い終わったのか、イドが階段をあがってくる音が後ろから聞こえた為後ろ手で扉を閉めて施錠をする。

 

 「あれ?ランザさん?僕です!開きません!」

 

 「すまんが、ちょいと待ってろ」

 

 部屋に戻った瞬間、全裸の痴女が胡坐をかいているなんて光景見せられるものではない。いやそもそも、ジークリンデがなにをそんなに面白いそうな顔をしているのかが不可解だ。

 

 クーラも同様の考えであり、最大限に警戒をしながら声をかける。

 

 「楽しそうな話って、まさかパルークーレースのこと?」

 

 「おうよ。人間同士の小競り合いが主とはいえ、妨害アリのレースなんて楽しそうじゃねえか。こう見えてもオレ、祭りは好きなんだぜ?それも見るより参加する方がな」

 

 「ふざけるな。お前を参加させてたらどさくさに紛れて何人斬り殺されるか分かったもんじゃないだろうが」

 

 額に手を当てる。はからずも、大きなため息が口から漏れ出してしまった。

 

 「なにを企んでいる」

 

 「おいおいおいおい、お前だってオレの全てを知ってる訳じゃないだろうが。本当に、祭りは好きな方なんだぜ?」

 

 戯言を、と言いたいところでもあるが少しだけ思い当たるふしもないことは、なかった。モスコーでの二日目、サグレとベレーザのデートを見守っている時ジークリンデが現れた時だ。

 

 背中から生やした連結刃を身体にまとわせて服装に擬態し、慣れた様子で出店の店主と交渉し金銭を払い何事もなく串焼きを買ってきたのだ。それも、談笑をしながら楽し気にだ。

 

 つまりこいつは、多少なりとも人間社会で馴染むふりをすることはできる。祭りを人に化けたまま楽しんだ経験もあるのかもしれない。

 

 「人手が足りないんだろ?この悪竜様が手を貸してやると言っているんだ、断る理由があるか?」

 

 「ある、その借りにどれだけ利子をつけて返せば良いのか、分からくなる不安がな。興にのりすぎた悪竜様とやらが暴れだす危険性もな」

 

 「そん時はどさくさに紛れて、あの雄猫と妹やらを拉致れば良い。簡単な話じゃねえか」

 

 ジークリンデがこちらに近づき、肩に手をおいた。すごい満面の笑みを浮かべている。

 

 「こんな楽しそうな話、オレを仲間外れにしてみろ。明日のイルドガル闘技場、悪竜乱入で血の雨が降るなんて号外が街中に流れるだろうぜ」

 

 竜狩り隊の怒りを買うだけの、嫌な脅しだ。そしてこいつなら本当にやりかねない、古剣の封印なんてもはや信用ならなし今では本当に機能しているかどうか怪しく感じる。

 

 「……せめて、イドが入る前に服を着てくれ。あと、死者をださないのが条件だ」

 

 悲しいことに、この条件は呑むしかないのだろう。不安要素が、増えていくだけなのだが背に腹は代えられないか。

 

 ジークリンデの身体に連結刃が巻き付く。袖の短い上着に、胸元に巻き付く黒い上着。腹部はなにもつけず鍛えられた腹筋と臍がでていた。程よく肉付きの良い足には、ラインがでるズボンに刃が擬態する。

 

 髪の毛も軽く縛り、荒っぽい女傑といった風貌だ。個人の趣味なのだろうか。

 

 軽く頷いてやり、扉の施錠を外しイドを迎え入れる。

 

 「先程はどうもうすいま…え?どなたですか?」

 

 「もう一人の協力者だ。すまないが、今はこれ以上なにも聞かないでくれ」

 

 「そういうことだ、よろしくな雄猫野郎」

 

 手を無理矢理掴まれ無理矢理な握手が二人の間でかわされた。助けると決めたは良いが、どうなるか予想がつかないものとなってしまった。



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 イルドガルの都市としての強みは、観光業以外では物流だ。北は帝都やその先、南は帝国有数の港街まで伸びるランデル大河は、古代では灌漑、現在では船舶を利用した大規模輸送に適していた。

 

 郊外の緩やかな標高にある山林からは、帝都から南下してきた船や南方から北上してくる船を多く見かける。しっかりと見ている訳ではないが、その半数近くがメルキオル商会の印章が描かれた旗をたなびかせているようにみえた。

 

 イルドガルの物流、商品流通の六か七割近くは牛耳っている商会だ。この地域ではあれが日常の光景なのだろう。

 

 「つきました、ここが僕の練習場所です」

 

 山林の道を先導していたイドが案内した場所は、小川が流れる森の中で様々な障害物が置かれた自作のレース会場だった。

 

 樽のような絵が描かれた短く切り落とした丸太や、小川にかけらた敢えて細くした丸太一本橋。木の板で作られた乗り越える木の板で作られた壁や等間隔に並べられた古い木の箱等が並んでいる。

 

 自然の中に転がる岩場や走り辛そうな悪路を再現した道など、手作りながら工夫をこらした様々な障害物が再現されている。さしずめ、秘密の練習場所という訳か。

 

 「すごいな、全部お前が作ったのか?」

 

 「ええ、あまり大きな声では言えませんが、商会の道具を無断で少しだけ持ちだしてあとは自力で。向こうがこの手のことで助けてくれるわけがありませんし、なにより自分に合わせた施設なら自作した方が確実ですからね」

 

 周囲に自分達以外の気配がない為、イドがフードを脱いで動きやすいように上着を脱ぐ。一見細く見えるが、足取りや山道を昇る際の安定感から見て体幹等はし確りと鍛えられているようだ。競技に関しては素人だがその身体造りは、不必要な筋肉は削げ落とし、インナーマッスル等もよく鍛えているのだろう。

 

 「ではパークルーレースについてルールの概要を説明します」

 

 イドがほったて小屋のような物置から用意したのは、木を削って作ったボールと木製の棍棒のようなもの。それと腕に巻く手甲のようなこれまた木製の防御装具。イドがその道具を見せながら、ルールを伝え始めた。

 

 パルークーレースとは三人一組の妨害レース。チームにはそれぞれ役割が決まっており、こなすべき役目が定められている。

 

 アタッカー。レースにおいては塗料をつけた木製の棒と三つの玉を受け渡され、他チームを攻撃して妨害する役割を担っている。

 

 パルークーレースにおいては、レース中の脱落もルールに含まれている。身体のいずれかに、アタッカーの持つ塗料付きの攻撃道具が当たればその時点で参加資格は剥奪される。妨害の花形、レースにおいてもう一つの主役といえる役割だ。

 

 ガード。敵のアタッカーから、後述されるランナーを護る役割。塗料つきの道具を食らえば参加不可能になるルールだが、ガードは支給される手甲でアタッカーの攻撃を防ぐことができる。脱落の定義も他役割とは異なり、下半身に塗料がついた場合は無効となる。

 

 胴体か顔面に塗料がつけられないかぎり、チームの要であり生命線のランナーを守護する役割だ。派手さはないが、最後までランナーについていく脚力とスタミナ、敵の攻撃を捌く瞬発力と判断力が要求される縁の下の力持ちである。

 

 ランナー。パルークーレースの華であり、ただひたすらゴールを目指して走り抜ける役割。レースにおいては最重要ポジションであり、例えアタッカーやガードが先にゴールをしたとしても、ランナーが辿り着かくなくてはチームの勝利にはならない。

 

 重要なのはそこ、ゴールをする権利はランナーだけに与えられている為、このポジションにつく選手に塗料がつけられてしまえばその時点でチーム全体の敗北が確定する。なので基本的にアタッカーは敵ランナーを狙い、ガードはチームメイトのランナーを守護することに全力を尽くさなくてはならない。

 

 ルール改正前は、ランナーさえいれば良いということであるが、三人出場が強制された今は俺とジークリンデがそれぞれアタッカーとガードにならなくてはいけないだろう。

 

 「走攻守か。ルールはシンプルながらなかなか奥が深そうなものだな」

 

 「ええ、脱落については棒や玉を当てられて塗料がつけばになりますが、ほかにも棒で強く叩きつけて相手に重傷を負わせてしまったり、故意に足をかけて転倒させる危険行為は失格となります。いくら商会の影響力が強くても、ファンとなる若者が大勢いるなかでの不正な行いは決して見逃らされることはないでしょう。なので、アタッカーの攻撃に注意をすれば完走は可能な筈です」

 

 このレース中におこる攻防が、障害物が多く配置される街中で繰り広げられることになるという。確かにこれは、もし他人事であるならば一度は観戦してみたいと思うものだ。参加することになるとは思わなかったが。

 

 「コースについては?下見とかできるのか?」

 

 「公平性を重視する為に、コースは本番まで控えられますが基本的に東部旧市街エリアですね。あそこは入り組んでいますし。ですが、レースのゴールは毎回東部の門から出た都市の外と決まっています。そして厄介なのは、所々に用意されたチェックポイントの存在です。例えばですが…」

 

 イドが木の棒を持ち地面に簡単なコースを描き始めた、少しグネグネした円のようなレース場だが、二か所にグルグルと少し深めに土を掘りポイントを書き足していく。

 

 「へッ、成程な」

 

 「気づきましたか、ジークリンデさん」

 

 チェックポイントは、素直にコースの途上に置かれている訳ではなかった。脇道にそれるように置かれた二か所のポイント。ポイントを通過した後選手は、コースに戻る為に折り返さなければならない。

 

 「先導していても、チェックポイントを経由するには脇道にそれなければならない。つまり後を追う後続と、下手をすれば正面から対峙しなければならないということか」

 

 多少差が開いていても、ポイントを経由し折り返してくるランナーに、後続がそのまま進路で妨害をすることができる。先行逃げ切りを抑え、逆転のチャンスを後続に与える瞬間だ。これは確かに、駆け引きも重要で盛り上がりも激しくなるだろう。

 

 「ガキの遊びにみせかけて、なかなか悪意あるルールだな。これならば多少速力に違いがあっても、誰が優勝するか分からねえ」

 

 「純粋な競技と違い、身体能力の差を駆け引きで埋め合わせができる。むしろ、その駆け引きこそがメインを張れるか。だがよくこんなルールで、お前は一人で優勝し続けることができたな」

 

 イドは、少し複雑そうな、だが照れくさそうに微笑んだ。足首を軽く捻り走り出した。

 

 手作りの木壁を蹴り飛び上がり、高台の上にあがって高所を走り一回転しながら着地する。着地と同時に走り出し、木箱を踏みつけ身体をねじりながら半回転しながら飛び、樹木から生える木の枝を掴み小川の一本橋に着地。そのまま走り出し、おそらくチェックポイントにみたてた、蔦が巻かれ赤く塗装された丸太を蹴り反動を活かしてトップスピードを殺さず駆ける。

 

 動作の一つ一つが、アクロバティックであり速さのみを求めると考えると一見無駄なようにもみえるが、その動きは栄えるものであった。なによりコースを走る本人の顔は楽しそうでもある。

 

 視界の端で、蔦に結ばれた仕掛けが動いているのが見えた。チェックポイントの蔦が切断され、それに連動し棍棒を持った二体の人形が棒を振るうような動きを見せる。二本の棒をスライディングで回避、バク転をしながら複帰をしこちらに戻ってきた。

 

 「凄いな」

 

 「テメェが多少動けるのは分かっているが、その無駄のない無駄な動きはなんなんだ。意味ねぇだろうが」

 

 「ええ、レースにはあまり。ですが、共興としては大きく意味があるんですよ」

 

 イドが、清々しげに笑う。ジークリンデの物言い等どこ吹く風といったようだ。

 

 「相手がどんな妨害を繰り出しても、例え単独での参加であっても、僕の走る姿を見て誰もが喜んでくれるんです。油断している訳でも、舐めている訳でもありません。パルークーレースという存在を広く認知してもらい注目を集める為に始めたという理由もあります。ですが、こうして走っている間はなにも考えないですむんです。……そしてその果てに辿り着いたゴールにて歓声を浴びる度に思えるのです。僕は、自由だと」

 

 制限があり、まわりが全て敵であるレースにて、自由奔放に振る舞う走りざまは人を魅せ付けるのだろう。妨害も、障害も、周囲を沸かせるためのスパイス。誰もが追い付けないなかで、好きに走る己は過酷な身の上にとってはなによりも楽しいのだろう。

 

 「僕は、なんだかんだ言ってもパルークーレースが好きなんですよ。例えその背景になにがあろうと、みんなが喜び僕は日常を忘れることができる。その快感を味わうのは、優勝してこそです」

 

 イドが拳を握りしめ、額の前で強く祈るように語る。拳を大きく振るい、決意を持つ目で俺とジークリンデを見て来た。

 

 「だからこそ、勝ちたい。勿論自由の為、妹の為です。ですが、大好きになったこのレースで、僕は悪意なんかに叩き潰されたくなんかない。王者として客を沸かせ、大団円のなかで終わらせてみせる。例え僕がいなくなっても、沢山の人達が参加したいと思わせるような走りざまを見せたいんです!」

 

 メルキオル商会が考案したものだとしても、一選手としてその競技に、イド自身が魅入られてしまったのだろう。そして自分が大好きなレースが人気になるように、商会の思惑を超えて派手なプレイで沢山の若者を惹き付けている。

 

 仮にイドが自由になりイルドガルを去るとしたら、花形選手が欠けたパルークーレースは盛り上がりに欠けてしまう筈だ。それでも、好きになった競技には何時までも人を惹き付けてほしいという一選手としての情熱が宿っていた。

 

 「……オレ等を巻き込んだなら、遊び半分じゃすまねえぜ」

 

 「え?」

 

 ジークリンデが険しい表情を浮かべる。イドがその低い声色に顔色を変えた瞬間、服に擬態していた連結刃が蠢きイドを地面に叩きつけた。

 

 「ジークリンデ!」

 

 「なに、大事な大事なランナー様だ。走れなくなるような怪我を負わせる訳じゃねえよ……今はな」

 

 「これは!?いったい…なにが?」

 

 状況が理解できていないイドに、ジークリンデが歩み寄る。胸倉を掴んで無理矢理立たせ、鋭い眼光で睨みつける。

 

 「聞くにお前は敵なしのスタープレイヤー。常勝無敗で、多少お遊びを混ぜても苦にならんくらい優秀みてえだが…危機感がねぇんだよ。まるで、レースにさえ出ることができれば優勝は確実だと確信しているみてえじゃねえか。良いか、絶対勝てる戦いなんて…いや、戦いに限らず絶対なんてものは絶対にねえんだよボケが」

 

 「イド、お前が参加するということは、メルキオル商会としてはレースにてお前を打ち負かさなければいけなくなる。そうなると、優秀な対抗馬も見つけてくるだろうし、もしかしたらどんな汚い手を使ってくるかも分からない。緊張感をもて、ということだ」

 

 「奴隷落ちなんざ、テメェの面倒もみきれていねえようは奴がレースの今後を考えるなんて反吐がでやがる。ここで負けても、メルキオル商会に飼い殺しにされながらレースに出続ければ多少なマシな生活ができやがるだろう。だが良いか、クソ猫二号。オレ達に参加をさせるなら、レースで敗北した瞬間手前に次はねえ。そのご自慢の足、敗者として恥をかかせた代償にオレが喰う」

 

 物言いは過激だが、イドにはどこかプレイヤーとしての油断と驕りがあるように見える。ジークリンデとしては、それが気に食わないのだろう。やるからには、例えなにが待っていよう全力で叩き潰すという覚悟が、無自覚ながらイドには足りていない。

 

 「そ、そんなことが」

 

 「残念ながら、ジークリンデはやると言ったらやる。現にその刃、人間どころか装甲さえ切断する威力はあるしな」

 

 「もし腰が引けたなら、今すぐそう言えや。今ならなにも聞かなかったことにしてやる。精々、微温湯にでも浸かってやがれ」

 

 「………いえ、このまま話を進めさせてください」

 

 胸倉を掴むジークリンデの腕を掴みながら、イドは言い放つ。悪竜と明かしている訳ではないが、大した胆力だ。

 

 「ケツは決まったのか?」

 

 「負ければ次はない。確かに自覚が足りなかったかもしれませんが、活を入れられたということでもある。メルキオル商会とは、これを機会に縁を切る必要があるのです、家族の為に」

 

 これで意見を変えて覚悟を翻すようであれば、俺の目が節穴だったということだがイドは言い切った。ジークリンデではないが、他人を厄介に巻き込むならば、これくらい腹は決めておいてほしいものだ。

 

 「もう良いだろうジークリンデ。時間がないんだ、さっさと次の話し合いに進もう」

 

 「はっ…精々楽しませろや。そいつが虚勢じゃないことを祈るぜ」

 

 胸倉から手を離す。少しだけむせるが、なにもなかったかのようイドはすぐに口を開いた。

 

 「まずは役割決めをしましょう。ランナーは経験者である僕がでるとして、アタッカーとガードは…」

 

 ジークリンデは舌打ちをし、手製の棍棒を拾い上げ上空に放り投げる。落下してきたそれを蹴り飛ばすと、回転する棍棒は先程イドが通り過ぎたコースの途上にあった棒を持った人形に直撃した。衝撃で弾かれた棍棒は、傍らのもう一体にもぶつかり二体の人形は根元からへし折れて倒れる。

 

 「クソ猫二号の護衛役なんざ気が乗らねえ。オレが他の選手全員ぶちのめせばどんな阿呆でも勝てるだろう」

 

 「物理的にぶちのめすんじゃないぞ。ソフトにな、ソフトに」

 

 適正で判断したかったイドであるが、ジークリンデがそんな聞き分けが良いタイプではないだろう。目くばせをされたが、軽く肩をすくめて諦めるように暗に伝える。

 

 「瞬発力は流石に半獣には劣るが、加速力と持久力ならそこそこあると自負している。俺がお前の護衛役につく、それで良いか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イルドガル東部門から出た先、ランデル大河にて一隻の船が停泊していた。メルキオル商会の紋章が描かれた旗だ。

 

 南方の港町から出た船は、途上にある幾つかの街や都市を経由しながらイルドガルに商品を運んでいる。大河の形状から街の外側を曲がるように船を進め、東部からイルドガルに入りそのまま帝都まで進んでいく。

 

 「船長!ここで捨てる箱や樽はこれで全部ですか!?」

 

 「捨てるんじゃねえ、降ろすって言え!古くてぶっ壊れそうなもんでも使い道はあるんだよ!」

 

 変色しすぎたり、古くなり何時破損してもおかしくないような樽が道端に降ろされている。わざわざこんなところに捨てるなんて声をあげた船員の一人は投棄しているようにしか見えない為首を傾げた。

 

 「使い道ですか?誰かが回収していくんですかあれ」

 

 「なんちゃらレースとやらの障害物に利用するんだとよ。基本的に使うのはぶっ壊れかけや壊れたもんだからな。特に、ゴールになるこの付近はいろいろ入用みたいだしな」

 

 「はあー。ゴミ投げているようにしか思えないですけどねぇ」

 

 「これでも金になるんだ。ほれ、下で人足の連中が回収しているだろ」

 

 理由を聞かされても、納得した気分になりつつ若い船員は少し違和感を覚えた。やはり、ゴミを投げているようにしか思えない。もう使えない樽や木箱に不用品を詰め込んたまま降ろしているのだから。

 

 まあでも、自分達が始末するんじゃないんだから良いかと思い直す。なによりこれからイルドガルに入ったら荷の降ろしと積み込みだ。出発は明日になるが、まだ体力勝負となる作業が残っている為ひたすら億劫だった。

 

 下で作業していたのは、メルキオル商会が雇った冒険者組合から派遣されている日雇い労働者達だ。ひとまずこのガラクタの山を道外れの商会保有の小屋に運び込み保管をする。会場の設営は明日の朝からだ、ギリギリまで道に障害物を並べて占拠する訳にはいかない。

 

 「うわクセェ!磯クセェってか生臭ぇな、なんだこの樽!?」

 

 「塩漬けでも入っていたんだろう。文句を言う暇があるなら運べ」

 

 「ていうか、なによこれ。木片やらガラクタやらゴミまで入っているのもあるじゃない。まるでゴミ箱ね」

 

 「明日のレースで大きな篝火作ってそこに放り込むんだとよ。一応、大事な燃料だ、中身は出すんじゃないぞ。商会の連中が後で仕分けるんだと……おい!お前は無理するなちっこいの!小さな箱から運べ!」

 

 おせっかいな男に声をかけられ、軽く頭を下げておく。ランザと共に冒険者ギルドが運営する安宿に泊まる為に所属していたのだが、今回はそれを利用させてメルキオル商会の仕事に潜り込んだ。

 

 商会所属の物置小屋。イルドガル外にある小屋であるが、中身をのぞき込むと木箱や木箱の他明日会場設営で使う道具類が並べられていた。一応初老っぽいおじいさんが管理をしているようであるが、商会関連施設なのに手薄なのは盗まれて困るような物がない証拠だろう。

 

 クーラは考える。数年前、イルドガルに調査をしにきた時はパルークーレース等なかった。だが突然、メルキオル商会の働きかけでレースの企画と、息のかかった運営組織を作り出し共興として強く後押しをしている。

 

 数年前に掴んだある噂が、段取りを組みそれを実行できるような仕掛けを作ったとして、それをパルークーレースを利用して実行に移しているとなれば…。

 

 なんにせよ、確かめなければならない。

 

 本日の作業終了と共にそっと日雇い冒険者達から離れて、物置小屋の屋根裏に忍び込む。老いた老人が申し訳程度に見回りをしてからそこから出て行き、小屋に簡単な錠前がかけられた音が響いた。

 

 「流石に、一つ一つ中身を引っくり返してみるのは日が暮れる。いや、もう日は暮れているから日が昇っちゃうか」

 

 ならば、探すとしたらもう一つの方。四つん這いになり、床に耳を当て音に集中する。昔利用していたものと、掴んだ噂。そして手を貸してくれた小さな生き物達。過去の経験が、クーラに一つの憶測を抱かせていた。

 

 時間があればもっと調査と情報を精査しておくところだが、今回は強行軍だ。考えが外れていたら外れていたで、ランザには素直に謝るしかない。

 

 だがしかし、レントの元で開花していた密偵として才能は、加護を剥奪されたところで腐るものではなかった。床の一部に違和感があり、それを調べたところで予想通りのことににんまりと笑みを浮かべる。

 

 考えが間違っていなくて良かった。そしてこれは、そのままランザ達との別動隊としての行動に大いに利用できる。しかし、流石は大河の傍に作られた大都市イルドガルだ。先人の努力には頭が下がる。

 

 「見張りがいないのも、変に注目されるのを避ける為か。大胆だねぇメルキオル商会。さて、それじゃあ一度戻って、一応ギルドから日当を受け取らないと後々面倒に…」

 

 何者かの気配を感じ、クーラが跳ね上がる。先程までいた場所に何者かの腕が振るわれ、頬に風を感じた。

 

 速い、そして気配を消すのに手馴れている。行動じたいに不思議と殺意を感じなかったが、それでもメルキオル商会関連施設に不法侵入していたことをバレる訳にはいかない。少なくとも、掴まることは避けなければならない。

 

 木箱、丸太を蹴りあがり屋根裏に逃れ、一部が破損していた壁から滑り込むように外に逃れる。何者かはそれを見て口笛を鳴らし、こちらを追跡してくる音が響いた。

 

 障害のある林の中に入り、木々の幹を飛ぶように移動をする。追跡者は、その後を一定距離を保つ為にまるで影のように迫ってきた。

 

 速さを誇るつもりもないが、大抵の相手よりは俊敏さはあると自負している。だがしかし、追跡者と距離を離せている気がしない。日が落ち周囲が暗闇に包まれ、夜眼が効くこちらにアドバンテージがある筈なのにだ。

 

 いや、これはダメだ。このままじゃ追いつかれる。ならば少しだけ眠っていてもらう。殺すかどうかは、身分を確認してからにしよう。警戒が強くなりそうだから、あまり殺人はしたくないのだが。なにより、ランザが嫌がるし。

 

 逃走途中から急に反転、手の内で直刀を引き抜き、右手から左手に受け渡す。刃がついていない反りの方向で、陰の首筋に狙いをつけてみね打ちを繰り出す。

 

 影が勢いを殺さずにスライディングをしながら一撃を回避。暗闇の中数度の風切り音が響くが、揺らめくように動くその身体に直刀が当たらない。

 

 顔はマスクで隠しているが、性別は男性。肌の色からして帝国の人間ではない、東方二十八国か華国、またはその向こうにあるという葦の国の人間か?

 

 男が再度、その腕でこちらを掴みにかかる。それを防ぐ為に、ルーガルーの刃を引き抜き迎撃。互いに距離が離れたところで、こちらから仕掛けようと直進。カウンターを警戒していたが、男は何故か両手を広げ始めた。

 

 パン、という音が暗闇に響く。

 

 顔の目の前で思いきり手が叩かれ、その音と視覚的な衝撃で身体が前進を僅かに躊躇した。男がニヤリと笑い、すれ違いざまに肩に軽く手を置かれる。

 

 すぐさま刃を振るうが、男はすぐに離れた。その目は、勝ち誇ったように輝いている。

 

 「ははは!鬼ごっこは終わりだな!おっとそんな怖い顔をするな、別にとって食おうだなんて思っちゃいないのでな!」

 

 男はマスクを外す。ランザと同じくらいの年代であろう、豪快そうな顔が現れた。

 

 「だがメルキオル商会にちょっかい出すのはやめておけ。損するだけだぞ?色々とな。それより少し良い儲け話しがあってだな、お前さん良ければ俺と…」

 

 その場からすぐに離れる。今度は、追いかけてくる気配は感じなかった。こちらも殺す気がなかったとはいえ大した柔軟性と脚力。只者の雰囲気ではない。

 

 追いかけてこないならそれでいい、もう一つの調べ事を今は片づける方が先だ。今の謎の人物を、ランザに報告をする必要がある。

 

 ただ、後ろを振り向かずに駆ける。男が追いかけてこないことは、正直ありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ふうむ。行ってしまったか」

 

 クーラが立ち去った後、男は顎を撫でながら残念そうにつぶやいた。

 

 「やれやれ、メルキオル商会が用意した連れ合いはどうにも小粒。どうせなら、吾輩がこれぞと認めた仲間がほしかったのだが。まあ、振られたものは致し方ないか。フフッ、しかしあの小娘が調べていた内容は多少なりとも興味があるな」

 

 腕を組み合わせながら男が笑う。その興味は、男の本業に関係していた。

 

 「だがまずは、レースか。本国の警邏や侍衆に御庭番共。連合王国やこの国の隠密に治安組織、掲げる大盾とやらでも我を捕らえられる者はいなかった。だが銀星とやら、お前はどうだろうな?」

 

 男は大周りをしながら、イルドガルまで駆けていく。そのルートは、クーラが通った道よりも難所の多い遠回りであったが、都市に到着したのはクーラよりも先であった。そのことを、彼女は知らない。



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 猛獣との戦いや剣闘士同士の試合を魅せる闘技場。各牧場が速さを鍛え、代表の馬を競わせる競馬場。

 

 イルドガルの名物といったらこの目玉二つであるが、今日にいたってはその二つの施設には客足は少ない。理由としては、闘技場では近々大きな大闘技トーナメントというイベントがある為目玉の選手はいずれも出場せず、競馬場の方はメンテナンスの為休業しており近場にある馬との触れ合いコーナーしか営業をしていない。

 

 それを狙い撃ちにした、パルークーレースのイベントはイルガルドの内外問わず多くの観客が集まっていた。メルキオル商会が宣伝に多くの力を割いているようであり、他二つの共興と同じような盛り上がりをみせている。

 

 「ほおー、有象無象共が集まりまくってんじゃねえか。盛り上がり方としちゃ悪くねえな」

 

 「意外だな、人混みはそんなに好きじゃないと思っていた」

 

 「あ?むしろ好きな方だぜ。人間多く集まれば馬鹿やトラブルの一つや二つおこる。喧嘩の一つでも始まれば盛り上げても良いんだがよ」

 

 開会式の場となるのは、大河通りの東。ここから少し歩けば旧市街となり、参加チームのスタート位置が近い。

 

 パルークーレースでは、序盤の潰しあいを避ける為にスタート地点が旧市街中のあちらこちらからに用意されている。場所によっては、ゴールまで多少近かったり離れていたり、道幅が狭かったり広かったりだ。場所の選択はくじ引きで行われるが、ランダム的な要素を加えることでこれは純粋な競技ではなく見世物だということを強調しているようだった。

 

 一から十まで娯楽で固めた、可能な限り血を見ない仕組みの見世物。これの裏で行われている企みが無ければ、そしてイドと出会わなければ純粋にクーラと観光客として楽しんでいたかもしれない。

 

 昨晩、クーラが話してくれたことを思い出す。会話の中ででてきた厄介な対戦相手の情報も頭によぎった。そして、あの夜話したこの先の話についても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「密輸?」

 

 「そ、密輸。イルガルド商会、金の生る木の育て方、その正体の一つだね」

 

 宿に戻ってきたクーラの話。彼女が目途をつけていたメルキオル商会の弱点とは密輸だった。強力な商館だ、どこも大なり小なり悪事には加担しているからこその力だとは思うが。

 

 時間は遅く、イドは明日に備えて自身の住処に戻りジークリンデはイルガルドの街中に出て行った。財布の中から銀貨を手掴みで大量に抜いていったので、まあ面倒なことにはならないだろう。竜狩り隊と出くわしていたらその時はその時ではあるが。どのみち、彼女は止められない。

 

 まあ、流石に竜狩りも街中で騒ぎをおこすとは思わないが。そう思えば少しは気が楽だろうか。

 

 しかし、どこかクーラが苛々しているように見える。堪えているようであるが、尻尾がビタンビタンと寝台に叩きつけ、眉間に皺を寄せている。そういえば、戻ってきた時まっ先に井戸水で肩をこすっていた。汚いものにでも触れてしまったか、なにかあったのだろうか。

 

 「イルガルドには南方大陸から様々な資源が運ばれてくるでしょ?砂糖等の嗜好品や鉱山資源が主でさ、帝国の巨大な体躯を支える強力な栄養源になっているんだよね。まあ、それで割を食った国や人もいただろうけどさ」

 

 「グロルダール公国のダイヤモンド問題か。冒険者ギルドで噂を聞いたことがあるな」

 

 国民が働らかなくても生存でき、贅沢ができるという恐ろしく狂った国。雑用や諸々の些事における対応の人手として公国の冒険者ギルドは常に人員を呼び寄せていたが、それがパッタリと途絶えた。リヴァイアサンの討伐と開かれた南方航路。そして安価の鉱山資源により、公国の外貨獲得手段は崩壊した。

 

 反乱や革命騒ぎがおこり、国家が崩壊したというのも当時は大きな噂になっていたものだ。地上の楽園と呼ばれてさえいたのに、かくもさらりと消えてしまうものなのかと。

 

 「まあ、ダイヤモンドも高級品だけどさ。今はそれよりも注目されている高級資源があるの。ダイヤモンドは元々グロルダール公国が輸出していたけど、まだこの大陸では大規模な鉱脈があまり多く見つかっていない特大高級資源」

 

 「……金鉱脈と銀鉱脈か」

 

 「正解、流石だね」

 

 金と銀の価値というものは国の根幹に関わるものである。例えばの話であるが、帝国の金貨一枚の価値はそこらの中小国の金貨二か三枚と言われている強力な貨幣だ。

 

 商売において、帝国の貨幣は強く信用が高い為どこの国でもその国の金銭の代用品として使用できるほどである。逆に、帝国においてはその辺の国で鋳造された貨幣は使えない。金貨に銀を混入させた混ざりものや、そもそも国力の関係でマイナーな貨幣すぎて汎用性が低いということもある。

 

 それだけの価値を産む金貨や銀貨、当然帝国じたいはその運用と鋳造には細心の注意を払っており、流通において金や銀の管理はその他の品物に比べ厳重に行われている。そして、それだけの価値を産む金銀は重い課税の対象となる。

 

 取引の税、通行の税、所持の税。税金に税金に税金だ。それでも金銀は高い価値があるが、例えばその税を払わず裏側で仕入れて捌けたらどれだけの利益を産み出すか。

 

 「自分にはレントから、使役の加護を与えられていたことはランザも知っているよね。そしてイルガルドでなにをしていたかと言えば、エンパス教を広く伝える下準備として政治屋や有力者達の買収や懐柔、脅しの下準備として情報収集をしていたんだ。その時に小動物を使い、仕入れた情報の一つが金や銀の密輸の噂なんだよ。当時は、まだ計画段階レベルだったけどさ」

 

 まだエンパス教がイルガルドには広がっていないとはいえ、布教の下準備はできているという訳か。自治州のように、なにかに乗じて一気に広げる気かもしれない。まあ、それは今はおいておく。気になるのは密輸の話だ。

 

 「その情報を明かしたということは、目途がついたんだな」

 

 「完璧な裏どりとまでは流石にいかなかったけど、それに繋がる道筋は見えた。あとは自分が、明日それを抑えて不正の証拠を揃えておく。仮に金や銀でなくても、なにかをしている証拠はみつけたしね」

 

 「成程、了解した。金や銀が治安組織や政府に隠しながら密輸しているとなると、帝国経済にも影響が大きいし税収も目減りする。帝国としては、多少の賄賂があってもそれを無視してなんとしても取り締まらなければならない対象ということか。しかし…」

 

 「ん?どしたの?」

 

 レント=キリュウインが施すという加護の力。クーラはさらっと流しているが、小動物を使った情報収集と言っていた。それはつまり、動物と会話ができるかあるいは、動物が見た光景や聞いた音声を頭に入れることができるということだ。

 

 モスコーで見た曲がる弾丸もそうだが、やはり技術というには常識から逸脱している。改めてレントとは、そしてエンパス教とはなんなのか。

 

 「いや、改めてレントが扱う加護とはなんなのだろうと思ってな。超常現象にも度が過ぎる」

 

 「……分からないな。自分がもっとエンパス教に傾倒していれば、なにか分かったのかもしれないけどさ」

 

 「まあ、今は深く考えても仕方ないだろう。それよりもまずは明日のことか」

 

 明日のこと、と言った瞬間クーラが少し顔を反らした。もじもじして、肩を指先で爪をたてて掻いている。

 

 「それだけどさ、ランザ。あの…実はしくじったかもしれない」

 

 「どういうことだ?」

 

 クーラから聞いた話は、証拠を掴む一環としてメルキオル商会の物置を調査してた際、不信な人物と遭遇したこと。気配こそ人間のそれであったが、半獣以上に素早く、殺意や敵意こそなかったが不覚をとってしまったこと。そして、儲け話を持ち掛けれたこと。

 

 「顔はフードを目深に被っていたから多分割れていないけど、もしメルキオル商会の人間だったら警戒が強くなるかもしれない。不覚だった、まさかあんなに気配を消せてなおかつ素早い人間がいたなんて」

 

 「気配を消せて素早くか…メルキオル商会の倉庫にいたということは関係者の可能性もある。当日、何らかの警戒がしかれていてもおかしくはないな」

 

 「ごめんなさい。楽な仕事だと、油断しちゃったのも事実だし」

 

 クーラの脚力と身のこなしは共に旅をしている俺がよく知っている。上には上がいるのは当然かもしれないが、そうそうそんな人間が多いとは思えない。

 

 「どんな奴だった?」

 

 「大柄な男だった。年齢は多分三十代後半から四十代前半で、喋り方が訛っていたから帝国や連合王国の人間じゃないのは確か。東方系みたいだし、東方二十八ヵ国か華国辺りから来たのかも」

 

 「このタイミングで、身のこなしと脚力に優れた外国人か。大方、イドの代わりにメルキオル商会が用意したレースにおける傭兵なのかもな。単純に、パルークーレースに参加か見学に来た観光客の可能性もあるが儲け話というのが気になるな。レースに優勝したら、賞金のほか商会から成功報酬が手に入るかももしれない。それを指しての儲け話という可能性もある」

 

 ジークリンデが油断するなと釘を刺し、メルキオル商会が協力な対抗馬を用意してくることは予想がついていたが、これは想像以上の強敵かもしれない。例え商会とは関係のない一般参加だとしても、イドは優勝できなければ自由への道が合法的に閉ざされてしまう。

 

 そうなれば、不正を見つけたとしても効果は半減。商会が混乱している隙に逃げ出せるかもしれないが、逃亡奴隷としてお尋ね者になればこの先ますます生き辛いだろう。或いは、不正の証拠を取引としてもちかけイド達を解放させることができるかもしれない。だがしかし、交渉と取引には百戦錬磨の商人連中、出来ることならばそんな不利な戦いにはおもむきたくはない。

 

 「ごめん、ランザ。足引っぱったかもしれない」

 

 「いや、お前の役目は俺もジークリンデも肩代わりできるものじゃない。そんなしょんぼりとした顔をするな……まあ、こういうのもなんだが勝負に負けても俺達に被害がある訳でもないしな。やるなら勝ちたいしイドは助けたいが、無理をするのも違うからな。なにより、お前はよく頑張っているよ」

 

 クーラの尻尾がピンと伸びる。照れくさそうに笑った後、寝台から降りて隣の寝台に座るこちらに近づいてきた。

 

 「なら、褒めてくれる?」

 

 こちらの膝に両手をおいて支えにし、こちらの顔をジッと見つめて来る。上目遣いをしながら耳を伏せて、頭を撫でてもらいそうにグイグイと寄せて来る。

 

 少し考えた後、頭を撫でまわしてやることにした。申し訳ないが意識して、なるべくクシャクシャと少し嫌がられるような感じに雑に撫でる。男の子にやるような対応をしながら、よくやったなと声をかけたがそれに嫌がることもなくむしろこちらにダイブをし腹部に辺りに頬を押し付けてきた。

 

 クーラを引きはがしながら考える。さて、どうしたものか。

 

 クーラのこちらに対する距離感は、どうにもおかしなことになっている。前々からボディタッチや同衾を求めることも多かったが、この前の山越えで病に侵された時看病をしてからさらに遠慮なく身体を寄せ付けてくるようになってきていた。

 

 前提としてではあるが、贔屓目なしに見てもこの娘はどうやら俺にその気がある。こういうのを自分で考えると痛いというか、無図痒いものがあるが恐らくは大きくは間違ってはいない。だがやはり倫理的にも年齢的にも、申し訳ない話ではあるがその気持ちに応じる訳にはいかない。

 

 あくまでこの娘と旅をする理由は、テンがなにかしら仕組んだこの娘に対する枷か呪いか、或いは他のなにかか、それをなんとかする為に共に行動をしているだけだ。その立場は対等を心がけているし、心の底から人妖のような化物にされたり利用されることがないようにしてやりたい。

 

 なによりクーラはまだ子供だし、血生臭い世界に身をおいている都合上仕方なくはあるが同年代の他の異性と交遊関係を持つことがない。この時期の惚れた腫れたは一過性な病のようなもの、妻子がいた年配者にそんな淡い思いを寄せても、それを受け入れてやるなんて言語道断だ。

 

 自意識過剰かもしれないが、求められるのは大人の対応だろう。しかしまあ恋愛は追われるよりも追いかける立場だったがまさかこのようなことになるなんてな。

 

 「なんで引きはがすのさ。ご褒美の延長なのに」

 

 膨れ面を見せるのが年相応の表情を見せる。もしかしたら、ここまでスキンシップを多くとろうとしてくるのは、幼少期からの過酷な半生が影響しているのかもしれない。他の子供が友達と遊んだり親に甘えたりしている時代に、その手の経験を得ることができなかった。

 

 さらにはレントの元にいた時代、社会の汚い裏側や手を汚すようなことをやってきたようである。周囲に気を許せる仲間も、いなかったかもしれない。

 

 テンとの関係が破綻し、子育ての経験も皆無となった。そんな俺に、この子にどのように接するのが正解なのか。親が子に対するように?それとも、あくまで旅の仲間としてつかず離れず?

 

 「延長線を許した覚えはないぞ」

 

 「ケチくさ!まったくもう、ランザは女心が分からないんだねぇ」

 

 腰に手をあてながら、胸を張りどこか姉を気取るような態度で呆れたように苦言を申す。それでも隣に座り、あの廃村でそうしたように肩に頭を預けてきた。

 

 「ねえ、ランザ。聞いたことなかったけどさ、もしテンとの関係に何らかの形でケジメをつけた後、ランザはその先どうするの?考えたことはある?」

 

 「先…か」

 

 考えたことは、なかった。テンと実力は離れ、まともに戦っても弄ばれているくらいの実力差だ。差し違える覚悟をもったとしてもまだ足りない、ジークリンデの力を借りてなおその地力の差だ。

 

 目の前のことに精一杯すぎて、クーラの質問を考えたことがなかった。だがここで、なにも考えていないなど言うべきではないだろう。例え嘘だとしても、即興だとしても言う必要がある。

 

 「前提として俺は、ジークリンデを連れ歩いているからな。どうあっても竜狩りには目をつけられるだろうし、帝国にはいられないだろう。連合王国の端っこに、俺が暮らしていた小さな村があるんだ。当時の家はもう人に渡っているかもしれないが、その近くにでも住んで妻と娘の墓でも守り生きていくさ」

 

 今更、家具職人として復帰できるとは思わない。恩師である親方の制止を振り切り修羅の道に足を踏み入れた不義理を働いた時点で、技量が衰えた等の理由以前にこの道に戻ることはできない。

 

 「小屋でも作って、畑でも耕して、自給自足しながら偶に村の人達と野菜と交換で魚でももらって。はは、退屈なもんだろ。ジークリンデは文句を言うかもしれないけどな」

 

 もう、恋愛をする気はおきない。そして、家族をもてる気もしない。クーラと接していて分かったが、俺には自分でも分からないなにかが足りていないのかもしれない。家族と、子供と向き合ううえでなにかが欠落しているような気がする。

 

 それは、幼少時代のせいか。親の温もりは、首を締めにきた母親の手の暖かさだけだ。そして、その血は俺にも流れている。テンと、アリアとミーナと、そしてクーラ。特にクーラ、この子の首を無意識にとはいえ両手を重ね首を絞めてしまったことは忘れられない。

 

 人でなしに、家族を築く資格はないだろう。それに気づくのが遅かった。もしかしたら、テンだって俺の犠牲者と言えるのかもしれないのだ。

 

 「なら自分は、狩りでもしようかな。畑作と魚だけの生活だと、毎日の食事の彩が足りないんじゃない?」

 

 「クーラ」

 

 「ん?」

 

 「ついてくる前提なのか?」

 

 彼女は小さく首を傾げていた。なにを言っているんだこいつ、とでも言いたげな表情を向けている。この子にはもっと広い世界を知ってほしいのだが。そしてその中で、居場所をみいだしてほしい。こんな隠者のような生活に付き合わせて良い訳がない、ましてや俺の傍になどおいていいものか。

 

 「当たり前だよね。仲間なんだし、今更離れるなんて水臭くない?沢山教えてほしいことがあるし、沢山教えてあげたいこともある。連合王国のランザが暮らしていた場所にも興味があるし…一度はアリアさんとミーナちゃんの墓にも祈りを捧げておきたいしさ」

 

 「それは…」

 

 「離れるなんて言わないでよね」

 

 猫が額を押し付けてくるように、クーラもその額を腕にあて力を込めて顔をうずめてくる。その肩は少し震えており、思わず腕を回して安心させてやりたいと考えてしまった。そんな軽率な行動等、許されないのに。

 

 だがしかし、ここで突き放すこともできない。クーラがなにを考えて立ち位置を決めたのかは定かではないが、肉親にすがるように懐いてくる今のクーラを突き放すことはこの子の心が壊れてしまうような気がする。

 

 「自分には、ここしかない。それはテンの呪いなんて関係ないし、ランザの……仲間として寄り添いたいんだ」

 

 「ここしかないなんて言うな。まだ見ない土地も、まだ知りあえていない人も、お前には可能性が沢山あるんだ。なら、それを見つけるまで俺も付き合ってやる。だから、人生の選択肢をそのまま狭めるな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、当たりをつけておいた待機場所で気配を探りながら、同時に昨夜のことを思い出す。人生の選択肢を狭めるな。ランザは、そう言った。

 

 確信に近いものを感じるが、ランザはやはりこちらからの好意を分かっていて、それを可能な限り配慮しながら最終的には遠ざけようとしているようだ。

 

 ランザの語りぶりから、その自給自足の生活を送る風景に自分がいないのは明らかだった。それは、狩りをするというこちらの申し出に困ったような一言を漏らしたことでよく分かる。

 

 疎まれつつも、その生活風景にナチュラルに組み込まれているジークリンデが妬ましい。自分はこんなに尽くして、慕っているのになんでランザはこちらを選んでくれないのか。

 

 テンという大きな障害が消えた後、その心の隙間に入り込んで、可能ならば共依存に近い関係に持ち込みたい。そんな風に企んでいたが、今のランザを見ているとそれも難しいと思える。その根底には、気づいているのかいないのか建前以上に他者を寄せ付けたくないと考えているのか。

 

 それでも、目的を果たした後すぐにさよならをしないという言葉を譲歩として引き出したことに喜ぶべきだろうか。いや、それは別れを先延ばしにしているだけにすぎない。

 

 ランザにとって家族とは、それだけ重たい枷なのか。自分には家族がいたことがないから、分からない。血の繋がりとは、仲間意識よりも尊く強いものなのか。

 

 考えることは、堂々と巡りその度に黒いモヤのようなものが心の奥底から湧き上がってくる。いけないな、今日は大切な役目があるのにイマイチ集中しきれていない。

 

 でも、自分はイドのことなんてどうでも良い。ランザが助けたいと言ったから、助けてやるだけだ。それだけで、この無駄と思える一連の作戦と作業にも価値がある。

 

 ……もしかしたら、この考えがいけないのかもしれない。ランザに尽くしたいと考え、対等に見せかけて彼の考えばかりを尊重することが。もっと、それこそ猫らしく我儘になるべきであろうか。

 

 我儘に、傲慢に、手を焼かせ、そして分からせられる。想像するだけで、口の端から唾液が垂れる程興奮を感じた。いっそランザがケダモノであったら、こんな風に悩まなくてすむのにな。この復讐の旅、その最中でストレス解消にでも使い潰してくれたならば…いや、そんなことをしないからこそ慕っている面もあるのだが。

 

 自分のことながら、複雑なものだ。この感情は。

 

 前方から人の気配と足音、松明の灯りが見えた。読みが当たっていたことを確信し、行動に移す。

 

 ランザの為に、今回はメルキオル商会に特大のババを引いてもらおうか。

 



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 『さあ今年パルークーレース、年一番の大会が今年もやってきました!解説はパルークーレース大会運営会会長のグラガン殿に来ていただきました!よろしくお願いします!』

 

 『よろしくお願いします』

 

 『毎年盛り上がりを見せるこの旧市街での長距離レース、今年は例年とは違いがあるそうですがどのように変化したのですか?』

 

 『ええ、今年はルール改正にて今まで単独参加、ペア参加が認められていた出場が三人一組のみの大会となりました』

 

 『なるほど、その意図は?』

 

 『ええ、パルークーレースの本質は競馬のような素早さ勝負の他に、闘技場の剣闘士達のような技量と駆け引きが魅力といえます。単独逃げ切りも見ていて気持ちの良いものかもしれませんが、戦略と戦術に奥行きを増す為に制定されました。速さと駆け引きの競馬と技量と闘争の闘技場。その良いところが合わさったレースを皆様に見せることができると考えています』

 

 『なるほどー、今まで以上にチームワークが重要視されそうですね。では、今大会の注目選手ですが、やはり人気なのはメルキオル商会所属の銀星でしょうか。駆け倍率1.2倍、やはり数々の大会覇者だけあって人気は相当のようです!』

 

 『彼の人気と実力は疑いようもないでしょう。そして、その走りは多くのファンに愛されていますね。ですがルール改正により新たなチームメンバーを加えたことがその走りに必ずとも良い影響であるかは分かりません。それに、今大会は注目株の選手がまだまだいますからね。レースは波乱になりそうです』

 

 魔具の類で声量が増されているのだろうか、くじ引きで引いた旧市街のスタート地点にいても旧市街広場に建てられた物見やぐらから聞こえる解説と実況の話がよく響いていた。

 

 だがそれ以上に姦しいのは銀星のファン達の歓声であり、フードを被り耳隠しをしているもののチラリと覗く顔に見惚れているのか、なにか行動する度に歓声のようなものがあがっていた。

 

 「ケッ、節穴野郎が。オレたちゃエースプレイヤーのハンデ要員かよ」

 

 「まあ、現実的に考えればある意味否定できないな。こちとら大会出場歴のない素人だ」

 

 「それならそれで、せめてヒールで出たかったもんだぜ。そんな大人気者のツラに泥塗りたくってこその悪竜だろうが」

 

 配られたゼッケン付きのシャツを着る着ないでだいぶごねたせいか、どこかジークリンデは不機嫌のようだ。アタッカーで参加する為塗料付きの棒と玉が三つ入った籠を肩にかけており、邪魔そうに舌打ちをしている。

 

 腕に嵌めた木製の手甲の装着具合を確かめる。運営が用意しているレンタル品もあるのだが、念には念を入れてイドが製作したものをそのまま着用している。本人はランナー専門であったが、ガードやアタッカーの装備は趣味がこうじて手作りをしていたのが役に立った。

 

 「正午の鐘がそのままスタートの合図になります。お二人とも、準備はよろしいですか?」

 

 歓声には耳も貸さずに念入りに柔軟運動をしていたイドが、話しかけてきた。今日の目的はこいつを守り切ること。そしてトップでゴールにねじ込むことだ。過去の戦績から、優勝については問題ないと考えがちにはなるが今回はそうもいかないだろう。

 

 メルキオル商会が外部から雇った走者以外にも、他チームに買収が及んでいる可能性がある。金銭が絡まないにしても、自身の成績よりも常勝無敗を蹴り落とし、金看板に泥を塗りたいと考えている者もいくらでもいる。

 

 徒党を組んで襲ってくるなら、イドの速さ頼みで丸投げするのはよくはない。後半に備え足を溜めておくのも込みで、前半は俺達に合わせて走ってくれる。それを護衛しきることこそが役目だ。

 

 幸い、全速力でなければ俺もジークリンデもついていけないことはない。普段とは違う環境で勝負させることにはなるが、万全の状態で挑む為の作戦だ。

 

 「ああ、問題ない」

 

 「クソ猫二号が、誰に向かって口きいてやがるんだ?」

 

 棍棒を手の内で回し、弄びながらジークリンデが口を尖らせた。不機嫌ではあるが、その原因はこの場での注目がイドに集まっているからなので無視して大丈夫だ。黙らせてやろうかと、二人か三人程間引きにいかないかぎりはだが。

 

 「そういえば、昨日は打ち合わせと練習で妹さんについてあまり聞いていなかったな。幾つくらいの子なんだ?」

 

 「選手、準備お願いします!」

 

 質問をしたと同時に、係に声をかけられた。返答をくれる前に、イドを含めた俺達は指定のスタートラインに並ぶ。今回引いたくじでのスタートは、旧市街のメインストリートから少し離れた通りだ。第一目標は最初のチェックポイントがあるメインストリートに出ることだが、こちらを狙い脇道から敵チームが奇襲してくる可能性が充分ある。

 

 スタートにして、最大限に気を張らなければならない。身体能力はそれなりではあるが、こちらはあくまで素人なのだから。

 

 「クーラさんくらい、でしょうか」

 

 「でしょうか?それはどういう」

 

 言葉を並べる前に、鐘の音が鳴り響く。ついに始まったパルークーレースに、観客からの歓声があがり俺の声はかき消された。

 

 『まずは注目したいのはやはり大注目の銀星チーム!初参加の仲間を従えての大会出場ですが…今回はアクロバットな走行をせずに堅実な走りを見せております!少しらしくないような気がしますが…いかがですか?』

 

 『初参加のチームメイトがいる手前、まずは彼等に合わせているのではないでしょうか。普段は魅せるプレイを重視するタイプですが、環境の違いから慎重にことを進めているように見えますね』

 

 『おっと!ちょっとしたブーイングも飛んでいるようです!彼の持ち味といえば高い身体能力からの大胆な動きですからね!それを見に来た者達から野次が飛んでいます……とぉ!?』

 

 ジークリンデに釘を刺され、絶対に負けられないイドは無理なプレイは行わず堅実な走りを見せていた。周囲からのヤジも気にせず、実況の言葉も耳に入らないらしい。だがそれを気にしてしまう問題児が一人…いや一匹いた。

 

 障害物である丸太を飛び上がりながら空中で一回転しながら回避し、細い道を壁を蹴りながら屋根に昇って走り、パブの看板がぶら下がる鉄棒を片手で掴みグルンと身体を大きく一回転してから着地をする。

 

 ああだこうだ言われるのが気に食わなかったのだろう。自分でイドに釘を刺しておいて、目立つ個人プレイにはしっていた。あの目立ちたがり屋め。

 

 『おおっと!銀星チーム初参加、ワイルドは風貌の女性選手が見事な走りを見せてくれています!大した身体能力で観客を沸かせています!』

 

 『初参加という話ですが、練習を積み重ねてきたのでしょうか。やはりこういう動きもレースの醍醐味ではありますね』

 

 「うるせーのを黙らせてやったぜ」

 

 並走しながらドヤ顔で親指を立てる。やはり、目立ちたかっただけだろう。

 

 「ああ、だが派手に目立ち過ぎたせいで気取られたな」

 

 側面から奇襲。スタート地点がやや先だったチームだろうか、脇道から襲い掛かる敵アタッカーの棍棒を手甲で防ぐ。腕を強引に押し返し体制を崩したところで距離を離す。反射的に何時もの癖で蹴り飛ばそうになってしまったがそれをしてしまえばルール違反だ。

 

 言い訳のようではあるが、近接戦闘のクセというのは気を抜くとすぐにでてしまうらしい。走り以外鍛えていないただの市民を全力で蹴り飛ばせば、骨と内臓がいきかねない。

 

 「二組きたぜ!」

 

 「ランザさん!ジークリンデさん!お願いします!」

 

 襲いかかってきたのは、二組だ。互いに互いを狙う様子はないことから、やはり優勝候補であるイドに狙いを定めているのだろう。敵チームのアタッカー二名が鞄を漁り、投擲用の球を取り出す。投球練習を重ねたのだろう、走りながらでも綺麗なフォームを保ちながらイドの背中と足元に投げられた。

 

 だが綺麗な投擲というのは、それだけに狙いが分からいやすく対処がしやすい。手甲で背中狙いの球を弾き、踵で足元狙いの球を蹴り上げる。足での防御は、上半身と顔面に命中したのみ退場になるガードの特権だ。

 

 「へッ…良い球だぜ相棒!」

 

 ジークリンデが立ち止まり棍棒を構える。狙いを定め、大剣を横一文字に切り裂くように俺が打ち上げた敵の球二つにぶち当てて飛ばした。

 

 腕で投げるよりも遥かに早くなる打球が、敵のガードに反応すらさせずランナーの額と胸元を打ち抜く。チームの要であるランナーがやられた時点で、こちらを狙う二組のチームは自動的に失格となった。

 

 『なんというプレイだ!未だかつてこんな反撃をする選手は見たことがないぞ!』

 

 そりゃそうだ。下手したら、敵が何組徒党を組んでこちらを狙っているか分からない状況下である。たった三つしかない球を来る敵全てに投げていたら手持ちが足りないどころの話ではない。

 

 敵の効率的な対処。最重要課題として定めたその対応策は敵が投げた球をそのまま利用することだった。ルール的には、塗料がついた時点で失格となるということだけであり、敵の持ち球を利用してはいけないなんていう記載はない。

 

 狭い通路を抜けて旧市街のメインであるストリートに躍り出る。何組かのチームが既に大通りには出ており、やはりというか狙いはこちらのようであった。

 

 「左側面!」

 

 棍棒の一撃を受け止めず、いなす。格闘術の師である、クダが行う回し受けの応用だ。全力の一撃を勢いを殺さず受け流し、エネルギーに引っぱられ体勢を崩す身体にちょっとだけ力を加えてやる。

 

 軽く足の爪先をかけたり、こっそり衣服を引いてやる。それだけで相手は転倒し、転んだ本人ですらも受け流されて自分で転んだということしか自覚できない。体幹が強い相手にはあまり通用しないが、戦いの素人くらいならこれで充分だ。

 

 別方向からの一撃には、今度は力任せで弾き返した。腕が痺れたのか、手にもつ棍棒が指から離れ跳ね返し自分の衣服を塗料で汚す。全体的に塗料がついている棍棒は両刃の剣と同じだ。しっかりと握っていないと、持ち主自身に跳ね返る。

 

 「ハハッ!クソあめぇ!」

 

 投げられた球を走りながら棍棒で弾く。上空に弾かれた球を打ち抜き、跳ね返された打球が敵ランナーやアタッカーに命中した。大したコントロールだ。

 

 「イド!邪魔は片づけた!」

 

 「ええ!それならこのストリートの先にあるチェックポイントまでひとっ走りしてきます!」

 

 敵対者が消えて障害物が無くなったストリートを、ギアを上げたイドが凄まじいスピードで走る。その速さ、知ってはいたが少なくとも俺には追い付けるものではなかった。クーラでも、もしかしたら危ういかもしれない。

 

 「ん?」

 

 イドが走る先、ランナーが一人躍り出た。地元民や帝国の顔立ちではない、東方系の中年男性だ。

 

 「よう、イドさんとやら。ちょっと走り比べでもしてみないか?」

 

 ランナーがただ一人でなにを、と考えたのもつかの間。イドがその男の隣に並んだ瞬間二人のレースが始まった。

 

 『おおっとあの東洋人は何者だ!?銀星が追い付くのを待ってから走り始めたと思ったら、同速力で走りやがる!』

 

 後ろからではどちらが早いか少し分かり辛い。だが、実況の言葉を信じるのであれば速い。見た目はどう見てもただの人間なのだが、あの半獣であるイドと同等の速力を有しているようだ。

 

 「銀星!多分そいつが!」

 

 クーラの言っていた、要注意人物。メルキオル商会が送り込んできた本命の走り屋。

 

 「ジークリンデ!あいつを落とす!」

 

 「横やり入れるのは趣味じゃねえ…なんて言うと思ったか!?入れることができるなら、バンバン刺しこんでやらァ!」

 

 ジークリンデが腰のカバンから球を一つ取り出し、こちらに放る。手甲で上手く弾きベストのポジションに球を浮かせ、棍棒でそれを打ちぬく。

 

 「ははー!背後から来たかい!だが甘いねぇ」

 

 男が通り過ぎた道の途中、木材を縛りつけて立てかけておいた縄が斬られた。バラバラと崩れる木材が打たれた球を防ぎ、巻き込まれて地面に落ちる。

 

 あのイドとの速さ比べの最中、懐に忍ばせていたナイフのようなもので瞬間的に縄を止めていた紐だけを切り裂いた。その動きは素早く正確であり、背後にいた俺やジークリンデ以外には自然と縄が解けて木材が散らばった事故にしか見えないだろう。

 

 チェックポイントとして固定された、細めの丸太が近づいてくる。イドが全力で手を伸ばすが、それよりも二歩か三歩の距離を離して男が先にそのポイントにタッチをした。

 

 「兄ちゃん走りは悪くねえ。だが、まだケツが青いな。追いつかれたら殺される勢いで走らねえと、この俺には勝てねえぜ。まあ、レースはまだまだ先がある。雑魚を散らして追いついて来るんだな」

 

 男は指を弾いた瞬間、彼のチームメイトかガードとアタッカーが建物の屋根から飛び降りてくる。二人がイドをマークし始めるが、男はそれに意に介していないのかさっさと走りだしてしまった。それも、先程のような速さ勝負ではなくランニングのような気軽さでだ。

 

 「テメェはここで終わりだぜ!」

 

 追いついた俺達が男と対峙する。パルークーレースのチェックポイントは、折り返してコースに戻る必要がある。前を走るチームと後続から追いかけるチームが激突するのが見どころの一つであるからだ。

 

 ここからはまた旧市街の細い道を通るルートに入るが、そこに逃げ込まれる前に仕留める。イドが攻撃をされている為時間はかけられない。

 

 ガードから行う能動的な攻撃手段はない為、身体で壁を作り男の逃走経路を制限。棍棒を握りしめたジークリンデが、横に払うように男を狙い撃つ。

 

 「はははー力み過ぎた!当たったら骨が折れちまうぜ!?こわっ!」

 

 「へし折ってやる勢いでやってるからな!死ねぇええええ!」

 

 「いや待てジークリンデ!あまりヤバい一撃は失格に!」

 

 男は軽い跳躍を見せる。だが、その軽さとは裏腹にあっという間に俺とジークリンデの頭上を通り抜け、反対側に着地をした。心配が杞憂に終わったのは良かったが、あんな身体能力の優れたただの人間は見たことがない。下手したら、跳躍力だけなら大半の人妖を越えた可能性もある。

 

 球を投げる前に、進行方向である脇道に男が消えた。追跡しようにも、男の仲間であるガードとアタッカーが足止めを仕掛けてきている。戻ってきたイドと合流し、その後ろを追いかけてきた二人組を組み手の応用とジークリンデが打ち返した敵の球で迎撃する。

 

 「チームメイトは片づけたが…なんてやろうだ。本当に人間の身体能力か?」

 

 「だー!クッソ!こんな棒きれじゃなくて何時もの喧嘩なら片づけることができたのによ!」

 

 「イド!いけるか!?後続のチームが追い付いてきた!さっさといくぞ!」

 

 イドが肩で息をしていた。自分の足をもってさえ追いつけなかった新参者に、気負わされているようである。プレッシャーは必要以上に判断能力を鈍らせ、スタミナを消耗させる。イドからの返事はなく、こちらを無視して通り過ぎようとしてた。

 

 「イド!」

 

 「ッ!?なにをするんですか!?早くいかないと…」

 

 イドを止めた瞬間、抗議に振り替えられるがその足元で球が跳ねる。後続が追い付いてきたのに気づいていないとは、周囲がみえていないのがまるわかりだ。焦りが感じ取れる。今まで、負けたことがなかった走り比べで黒星がついたことの動揺もあるのだろう。

 

 「抜くチャンスはまだある!まずはここを切り抜けることから始めるぞ!」

 

 ようやくイドも状況が見えてきたようである。後続のチームからの攻撃を見るに、やはりというかほぼ全てのチームが徒党を組んでこちらと敵対をしているようであった。

 

 このままじゃあ、一人で今頑張っているクーラに良い報告ができない。なんとしても、レース中にこの男を立ち直らせる必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「銀星、イドが無駄にあがいているようですな」

 

 メルキオル商会本部、館長室。建物の三階に位置するこの部屋は、窓の外から日々外部がら行き来する荷馬車や船旅を経て到着した積み荷を受け入れ送り出すのがよく見えた。

 

 こうやって運ばれてくる正規のルートを通ってきた品物だけでも、かなりの金額を産み出している。帝国における交通の要所、イルドガルの商館は立地だけでみても優れたものであった。

 

 「はい、ドーズ館長。もはや捨て置いても問題ない人材とはいえ、広告塔としてはまだ使える存在です。表向きの商売にプラスになる以上、逃がす理由もない。こちらで対処に当たらせてもらいました」

 

 葉巻を加えた好々爺のような穏やかな顔の老人はドーズ=レナイク。メルキオル商会、イルガルド支部の長であり商会において五本の指に入るレベルで金銭と権力を持つ男である。それに話す男は、宿屋でイドに脅しと説得をかけた商会関係者であった。

 

 「よろしい、よろしい。本来パルークーレース等子供の遊びとはいえ、目的の雲隠れには丁度いい。可能な限り長く人気が続いてほしいものなのだからのう。だがしかし、やれやれ。閉会の挨拶には本当にでないといかんかな?」

 

 「他のスポンサーや後援者に価値を示し、レースの仕組みを長続きさせるためには必要かと。レースには反対意見を叫ぶ者もおりますし、なにより貴方のような権力のある存在は若者と対立しがちです。そんな存在が、彼等に寄り添っているというのは良いアピールとなります。次回の市長選、票を得やすくなるかと」

 

 「確かにばら撒くものはばら撒いておるが、万全の体制を構築するには表の指示も必要だの。よろしい、よろしい。私が前に出て精々顔と名前を売ろうではないか。そうそう、今回の収穫物も何時ものようにノルン伯爵とルグラン男爵の元へな」

 

 「承知しております。部下が上手く手配するでしょう。では、そろそろ移動をしましょう。馬車の用意ができております」

 

 ゆったりとした服を着たドーズと、その側近が部屋を出ていく。それから数分、天井に小さな穴がギザ刃がついた小さなノコギリによって開けられ、フードをした小柄な人物が降りたった。

 

 どういうことだ。クーラは、内心呟いた。

 

 自分で調査をしても、待ち伏せ地点で出迎えた連中に尋問をしても、ある情報が聞きだせていない。ただ一人の人物のみが話す情報。商会関係者ならば知っている筈であるが、誰もがそんな話は知らないと首を左右に振るのみであった。

 

 もしもその情報が嘘であるならば、自分は憤らずにいられない。頭の中が煮える手前ではあったが、まずは冷静に室内を見て回ることにする。必要なのは、密輸についての裏の帳簿とあいつの嘘を裏どりするためのものだ。

 

 「だいたいの悪人は、こういうところに隠してあるんだけど…ね」

 

 隠しどころにマニュアルでもあるのだろうか。獣の剥製、それを外すとその裏側に重要なものが隠れていた。これはまだ簡単な方で、昔潜入したところは苦労したものだ。

 

 扉を開く為に剥製の目玉にいれる二つの宝石が必要で、そのうちの一つはメダルを五枚揃えないと開かない宝箱に入っており、もう片方は女神の像の前にある特定の重量のものをおかないといけなかったりと、普段使いするのに面倒なくらいの絡繰り屋敷だったものだ。元美術館を、治安維持組織が買い取った物件だったっけな。

 

 だがもう一つの証拠は、どこにあるだろうか。そうして幾つかの部屋を探している時に、ある物を見つけた。それは没収した奴隷身分の者達から回収した荷物を保管している場所であった。そんなものは商会の人間にとってガラクタ同然のものであるが、ある荷物だけが厳重に二つの南京錠で縛られて箱に封印されている。

 

 重い者ではない、髪の毛に隠していた針を取り出し開錠にとりかかる。まともに開けようとすると鍵探しが面倒な為、まともに開けなければいい。

 

 「え?」

 

 二つの鍵を開けた瞬間、思わずクーラの口から疑問の声がでた。予想していなかった者が、箱の中から出て来たからだ。

 

 「これって」

 

 目を丸くしながら、一人呟く。どういったリアクションをすれば良いのか、彼女には分からなかった。



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 「はぁ…」

 

 月のような白銀の髪の毛。東方系の顔立ちに異国の衣装。そしてあまりにも…そう、人外じみた魅了を帯びた表情は憂いを帯びたため息をついた。人気の甘味専門店シュランツ、テーブル席に腰をかけた美女に通りすがりの男達は思わず声をかけそうになり、カップル客の男性の気を引きそれがきっかけとなり本日二組の恋仲が破局しかけていた。

 

 だが声をかけられるような雰囲気ではなかった。視線が注がれる先には、パンケーキ五枚重ねで季節の果物と生クリームとバターがマシマシの盛り盛り、好みでかけるシロップは用意された器を全てひっくり返し、もはやぶちまけているような見ているだけで胸やけがしそうなものが置かれている。

 

 他にもリンゴとシナモンのタルト。溶けたチョコレートに果物をつけて食べるフォンデ。まるで紐で結ばれたような砂糖をたっぷり練り込まれた柔らかめのプレッツェル。用意された紅茶にも融解限度まで砂糖が投入されている。

 

 帝都は他国よりも甘味が手に入りやすいとはいえ、これだけもの数が並べば大層な金額になる。しかも平気な顔してそれに食らい付いた男はお世辞にも綺麗な風貌とは言えないものであった。

 

 「そんな湿気たツラしやがるな。しょうがねえじゃねえか、野郎一人じゃ入り辛い店なんだから」

 

 「ですが師よ、何事にも限度というものがあるのでは?」

 

 「大丈夫大丈夫。こう見えて代金の支払いは俺もちだ」

 

 大口を開けて、大きく切りとったパンケーキを口の中に放り込む。そういうことではない、と言おうとしたのだがそんなことは分かりきった上で空とぼけた反応を飛ばしているのは分かる。なんだか馬鹿らしくなってきたというものだ。

 

 「なんか頼んでも良いぞ」

 

 「遠慮しておきます。見ているだけで胃が膨れる思いですので」

 

 「へえ、そうかい。こちとら、お前さんがそう考えているとは思えないがねぇ」

 

 ニヤニヤと、まったく我が師ながら嫌な男だ。このイルドガルにて私の仕込みは特に無ければ、目的達成に向けた帝都での仕込みも既に完了している。あとは、ウェンディ=アルザスとその部下達、そして竜狩り隊の二軍集団が現地で仕事をするだけだ。

 

 要するに、今は余暇と言える時間であった。さっさと帝都に向かってくれれば良いのだが、観光に時間を費やすどころか余計なことにまでお父様は首を突っ込んでいる。軌道修正を入れようにも、直接介入してしまえばお父様の帝都に向かう方針を変えかねない。間接的になにかをしてもその可能性が高い。

 

 まあ解決は待つだけで良い時間の問題であるし、大した問題ではない。待つのも楽しみの一つだと、自分自身に言い聞かせてはいるのだが漏れ出るのはため息ばかりであった。

 

 「頼んだのはこちらとはいえ、そんなに付き合いが嫌なら一も二もなくパルークーレースの応援に行けば良いじゃねえか。お前さんのキャラでないのは確かだが、偶にはそういうのも良いんじゃねえか?」

 

 「……あの雌蜥蜴と楽し気に連携しているのが不愉快なので」

 

 「何時ものことじゃねえか、なにを今更。たく、面倒くせぇなこいつ」

 

 何時ものこととは言っても、それは死闘に次ぐ死闘故に致し方なく力を借りている消極的協力関係である。だが今回は違う、お遊びの延長だ。悪竜ジークリンデがこの手の児戯に力を貸している事実は以外にすぎた。

 

 そして、自分にはその姿を自分自身に重ねてトレースすることができない。例えば、あの雌猫。共に旅をするのも、こんな洒落た店で甘味を楽しむのも、旅の他愛のない会話も、なんなら絞殺手前までいく危険な営みですらあの猫のポジションを自分に変えて妄想にふけることはできる。

 

 だがしかし、見知らぬ半獣と組んで棒を振り回し球を投げながら、街中を走り回る光景等どうあってもトレースができなかった。自分なら百パーセントしないであろう行いであり、自己という人格像の崩壊も著しい。

 

 「まさか、後悔している訳じゃあるめえよ」

 

 店内が刹那、蒼白い光に包まれる。客も従業員も、一瞬の出来事に何事かと不思議そうに周囲を見回すが特に異常がみられない店内に首を傾げていた。

 

 反射的に放った蒼白い狐火と、小汚いコートの裾から現れた鉄鎖がパンケーキの上で衝突し、相殺された余波ではあるが誰一人それを目撃するものはいなかった。ただ肩をすくめる師と、不愉快な顔をした私の顔が並んでいるだけであろう。

 

 「それこそまさかですよ」

 

 この程度のアクシデント、今更なにを思い煩うこともあるまい。待ちに待った大願成就、一度味わった絶望を更に味合わせ、完膚なきまでに破壊され生まれ変わったお父様と私自身の殺し愛。他者の介入することもない、互いが互いに求め合う完璧な関係性。

 

 勝とうが負けようが、それ自体に問題はない。戦いの決着がついた時、私とお父様は一つの存在として永遠に完結することができる。滾る、といえば良いだろうが。このことを考えるだけで私は何時もはしたなく興奮してしまう。

 

 「私の人生も、他者の人生も、全て次の一手の為の布石です。ふふ……師よ、失礼を働きました。確かに私も後日、お父様に勝とうが負けようが全てを放棄するか生まれ変わるかの存在です。今のうちに、恩師には恩返しをした方が良いでしょうか」

 

 「ふっは、やれやれおっかねえ教え子をもったもんだぜ。しかしまあ、父子の愛情とでもいえば良いのか?今更ながらお前さんのランザに対する入れ込みようは半端ないねぇ。俺は家庭をもった覚えはねえからな。そういえば聞いたことがなかったな。お前にとってランザはどれだけ慕う相手なんだ?育ての親ということは聞いたがそれにしちゃ度が過ぎていやがるがそこのとこどうなんだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガスパルにとって。大なり小なり大抵のことは楽しむことができると自負していた。砂糖の塊のような甘味にも、苦みがはしる珍味も、なんなら昆虫を使ったゲテモノ料理も好きである。凡庸な物語から英雄譚、悲劇に喜劇と創作史実問わず物語も好きで、人と話し合うのも嫌いではない。長いこと人の世で暮らしている間に様々な趣味を得たものだ。

 

 だがそんな彼にも、片手で数える程ではあるが後悔というものが存在した。そして今日の後悔は、今まで片手で数え切れていた後悔が一つ増えてもう片方の手に生えた指を使わざる得なくなってしまったことであった。

 

 「師よまず一つ言っておくべきことがありますが家族愛というものは血の濃さよりも絆の力が強いという点があります私の両親はクソ野郎であったのですがこの大陸に来て異国の生き倒れであった私を拾ってくれたのはお父様であり育ててくれた恩義も感じておりますですがそれ以上に人間関係というのは相性というものが存在するのはご存知だとはおもいますがそれは性格面や主義主張以外にも人体を構成するこの身体にも関係しているのです生物というのは近親相姦を避ける為に年頃の女性は一番近い肉親である男親の体臭を忌避する特性が現れますが血の繋がりがないお父様と私はそれがありませんですがそれを踏まえて一つこんなことが言えるのでないでしょうかこれは持論ではあるのですが忌避する存在の体臭が避ける要素となるのであればそれに惹かれるということは身体の相性が抜群ということにもなります現に私はお父様の仕事で汗だくとなった衣服を何度も洗濯をしたことがありましたがその香りには毎回頭を殴られるような衝撃をうけていたものですあの頃は理性を働かせるのが必死でしたがそれは紛れもない真実であり逆に向こうもそう思っていてくれたとしてもおかしくはないとはおもいませんか?さて師には釈迦に説法となってしまったかもしれませんが重要なことなのでお話をした次第ですそんな相性最高な雄と雌なのにお父様は手をださず娘として精一杯育ててくれたましたそれはもう獣欲を退けた本当の愛情といえるのではないでしょうかあの性格上育つのを待ってからこちらに手をだそうや売ろうなんて下心もなかった筈ですし得難い愛情ですですが惜しむらくはそれがいきすぎてお父様は忌々しい他者と婚姻を結びもったないことにその子種で一子つくられてしまったのですこれは相性最高の私との関係において重大な裏切り行為でありますが災い転じて福となすというか結果的お父様は殺意というとびきりの愛憎を向けてくれることになった訳で仇とその関係という唯一無二の特別な存在となれたことでその絆はより深く海底よりも深い間柄となれたことで」

 

 「お、おいおいおいおい。分かった落ち着け、どうどうどう。待て…待て待て待てって」

 

 高速言語。周囲の人間は彼女がなにを言っているのか分からないだろうがその畳みかけるような物言いに人目が滅茶苦茶に集まってきやがった。だがそれを気にする様子もなければ止めることもない。

 

 「なにを待つ必要があるのでしょうか私はもう待ちきれないところまで我慢しているというのにまったくお父様は本当に焦らすのが得意なのですからでもそれはしょうがないことであり真なる愛憎の交流には必要不可欠であるので待つというのにこれ以上に待てを重ねては壊れてしまいかねません実はまだまだあるのですよお父様の良いところは彼は元々お酒を多く嗜んでいたようですが私がきてからはそれをやめたようでありそのことを一度聞いてみたら私の為にやめたとか話し出しそれだけ考え思ってくださっていたことに感涙の域にいたっておりですが本当は呑みたいのか最後の酒瓶はなかなか廃棄できなかったりしてそれがなかなか優柔不断ながらどこか可愛げがあったのですよそんなところもまた愛おしいというかですが失態だったのか事件の後酒を解禁しやけになってしまった結果あのリスムの娼館でエレミヤと獣のような交わりをかわしたりあれならば本当は私が共に生活している時に酒をしこたま飲ませて前後不覚にさせてしまえば後悔したものです今はあれが一番の後悔ですが今後はもうあんなことはおこらないでしょうああもうお父様こんな些事は早く片付けてくださいなお父様お待ちしておりますお父様お父様ああそうだいいとこといえばまだまだあるのですよこれはある日の釣りにいった時の話なのですが……」

 

 「会計お願いします」

 

 やれやれ、まだ三割程残っていたがこんな落ち着かない環境じゃ食う気もおきない。本当に、つくづく常識外れの教え子だこと。まあ、俺が仕込んだのは人妖の人工的な精製と細々した仕込みの詳細なやり方くらいだが。

 

 余談ではあるが、このあまりの光景に気圧されたのか、破局しそうなカップルの関係がまた持ち直したのは別の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『二つ目のチェックポイントまでの道は複雑に絡み合う旧市街迷路の走破だァ!遠回りしてライバルを避けるか最短距離を突き抜け壮絶な争いを制するかはプレイヤー次第だぞ!』

 

 『ですがここからでは入り組み過ぎたせいで選手の様子はまだ見えませんね。さて、誰が最初に抜き出てくることになるか』

 

 『銀星が一番人気でありましたが、初参加の異邦人がまさかの第一チェックポイントで銀星抜き。チームメイトは脱落したものの順位は首位を保っているようです。彼の詳細な情報は……あーとお待たせいたしました!今届きました……名前は…チョウゼツ?ギゾク?イシカワ?サマ?あーと…よく分かりません謎の参加者Aとでもしておきましょうか?』

 

 『銀星が首位を護るか、Aが歴史を変えるか。私も楽しみになってきました。さて、誰が旧市街から最初に抜け出して来るのか見ものですね』

 

 実況からの声から、高所ではこの入り組んだ、二つめのチェックポイントを目指す複数の道はよく見えていないようだ。レースの観光客も、どのルートで応援チームが通るのか分からない為ここまでは来ていないようだ。時折、使用許可を得ることができなかった立ち入り禁止区域に入るのを防ぐ為に係員が通路を塞ぐように立っている。

 

 「こちらが最短ルートです!急ぎましょう!」

 

 イドの案内で旧市街を走る。後ろから追い上げて来た連中の猛攻を回避し、二位を走る俺達であるがあの男の後ろ姿がみえない。Aと名付けられたあの東邦人がどこまで先行しているのか、幸い旧市街から東門、そしてその先のゴールまではまだ抜けていないようであるが。

 

 「気づいているか?ランザ」

 

 ジークリンデの言葉に頷く。観光客が入らず、実況からは確認できず、さらには狭く入り組んだ地形。不正を仕掛けてくるにはこれ以上ない程の好条件だ。少し空気が先程までと違うような、そんな雰囲気さえ感じる。

 

 数分程走ったところで、曲がり角を通った瞬間頭上から複数の大量の植木鉢がイド目掛けて落とされてきた。イドの背中を蹴り飛ばし、手甲で鉢植えを砕いて防ぐ。陶器の類とはいえこんなものが頭に直撃したら無事ではすまない。

 

 イドは転ばなかった。流石の体幹ではあるが抗議の声すらあげることもできない。たった今自分に迫った危機を目の当たりにすれば荒事慣れしていない人物等そんなものだ。

 

 「ま…こちらが確実に勝を狙うならそれを読んで最短距離くらいには張るわな。オレでもそうする」

 

 路地に並ぶ建物の扉が開かれて、ガラの悪そうな男達が現れる。釘を打ち込んだ棍棒にナイフの類を手に持ち、進行方向と今まで来た道を塞ぎ始める。建物の二階からスリングショットを手に持つ腕に墨を入れた女が顔をだしてきた。凶器に慣れた今可愛い玩具であるが、それでも頭部に当てられれば充分な脅威でもある。

 

 「困るねー兄さん達。俺達の縄張りで勝手にレース会場にされちゃあさ。パルークーレース?ガキの遊びにみんな迷惑しているんだ!なあみんな!」

 

 釘棍棒を持った男が周囲に同意を求めるように叫んだ。周囲から下品な野次が飛び交い、嘲笑含みの抗議が飛ぶ。

 

 「ここの街区を使うことは、運営から許可が打診されている筈です」

 

 「はぁ?だから知らねえって言ってんだが?ノータリンが。あーなんか正論言ってますって顔がむかつくから取り合えずボコるか?現実ってやつ知ってみる?呑気に駆けっこしているだけの僕ちゃんに分からせちゃいますかー?」

 

 この配置、どう考えてもイドを狙い撃ちにした布陣で当たってきているのによくもまあ言うものだ。

 

 「ていうかそっちの姉さんマジ良いねぇ。野性味っていうの?好みなんだが。よし決めた、お前だけは助けてやろうか。その代わり今晩はお楽しみにさせてもらうけどよぉ」

 

 「おう、三下のクセに目利きは上等じゃねえか。だが……」

 

 ジークリンデがツカツカと釘棍棒の男に歩み寄る。間合いに入った瞬間、瞬時にジークリンデの手が動き男の股間部に手が触れた。

 

 「この大きさでオレが満足するか、産まれなおしてから出直せ短小野郎」

 

 思わず目を反らす。イドも、建物の方向を向いた。裏路地に悲鳴が響き渡り、股間部を握り潰された男の悲鳴があがる。あれはもう、去勢手術みたいなもんだろう。再起不能だな。

 

 「テメェ!」

 

 周囲が殺気立つ。ばっちいものを触った時のように壁に手をこすりつけていたジークリンデに周囲の意識が向いた。

 

 「現実か」

 

 イドが呟くように言う。静かに、しかしその声は取り囲む者達全員に聞こえたようであった。

 

 「本当の現実っていうのは、どうしようもないものですよ。産まれで、環境で、政治で、土地で、その人の人生なんて強風に飛ばされる木の葉のように翻弄する。ねえ、皆さん。ボクはこう見えて昔は豚を育てていたんですよ。生い立ちも気にしないで雇ってくれる人がいて、妹共々よく面倒をみてくれました」

 

 「はぁ?」

 

 「グロルダール公国。その名産品は、ワインと豚肉でした。それがダイヤモンドなんていうただ光を反射する石ころなんかに踊らされて、変わって、みんな破綻して。食肉生産なんてダイヤに比べると採算がとれないなんて、まさか日々の糧が得られる仕事よりも石ころ掘りが優先されるなんて考えたこともありませんでした。そして今は、こんなところで何故か駆けっこの真似事なんてさせられている。まあ、競技じたいは嫌いではないのですがね」

 

 イドが構える。走る為の、彼なりの戦いの構えだ。その狙いは、相も変わらない。障害等も気にしない最短距離の走破を狙っている。勝ためにだ。

 

 「貴方達が今のボクに立ちはだかることが現実というのであれば、その障害なんて今までと比べると大したものではない。悪いけど、ここは抜けさせてもらいます」

 

 ジークリンデが、ニヤリと笑った。睾丸を潰されて悶える男の足首を掴み武器のように振り回し集団に放り投げる。包囲が崩れかけたところで俺が走り込み、飛び膝蹴りで一人を吹き飛ばした。顎に当たったからしばらくはスープしか飲めない生活になるだろうが知ったことか。

 

 近くにいた二人組がこちらを挟むように攻撃してきたが、姿勢を低くして一人を足払いで転倒させる。横振りのナイフを回避して、腕を掴んで足払いで倒れた男の上に叩きつけた。潰れたカエルのような声をだして二人がうめき声をあげる。

 

 「ガードは道を切り開くのが役目だ!今のうちに行け!」

 

 「駆けっこから喧嘩、ガキのお遊びからクソガキのままごとだが走り合いにも飽きてきたところだ。おい、お遊びはお前に任すぜクソ雄二号。だがオレが戻った時に優勝してなければ今度はぶち殺す」

 

 走り出すイドが通り過ぎざま、手をだしてやる。パチンと音が二つ響き、タッチをしたイドが駆けていった。……二つ?

 

 ジークリンデも手をだしていた。そしてその手をひらひらと軽く振る。

 

 「股間の感覚、気持ち悪いから拭ってやったぜ」

 

 「子供かお前は。まあ良い……念を込めて言っておくが、殺すなよ」

 

 「へいへい。まあ、ちょうどこんなのも良いと思ってたんだよなぁ」

 

 一応他の通路にも罠を張っていたのか、別方向や側路からもぞろぞろとチンピラが集まり包囲される。手には凶器を握りしめていた。まあ、大方イドを捕獲して棄権させるか最悪でも遅延させればメルキオル商会から謝礼が出るとでも伝えられたのだろう。

 

 「イドのチームメイトだけでも、捕まえれば金が手に入るんだ!たかが二人、やっちまえ!」

 

 狭い路地ではおのずと背中合わせになる。流石にジークリンデが負けるとは思えない、興にのりすぎてやりすぎない限りは心配はないがこいつと背中合わせになるのも奇妙な気分だった。

 

 「たかが二人なぁ。よう相棒、オレ達が組んでるのにその計算は頭が沸いているってのを教えてやらないとな」

 

 「頼むからやりすぎだけは勘弁してくれよ。一応、竜狩りの見張りが近くにいる前提で動いてくれ。なにかあったら、大会どころじゃないからな」

 

 「ごちゃごちゃとうるせえな!舐めやがって!やっちまえ!」

 

 木剣を振りかざし襲い掛かる先頭にいた男の手首を掴み、へし折る。奪った木剣で後続の連中の攻撃を防ぎながら蹴りと肘で沈めていく。背後のジークリンデも、力づくでねじ伏せているのか打撃音と悲鳴が聞こえていた。誰かが死んでいる気配はない、よし。

 

 だが、こいつらを片付けている間にイドに追いつくことはもう不可能だろう。あとは、あいつの実力次第だ。ここからは、陰ながら応援しておくとしよう。アイツが無事に勝の残ることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二つめのチェックポイントに到着する。ここは見通しの悪い路地裏を抜けたポイントの為見物客も多く、不正のしようがない。係りの者がボクを見て目を丸くしていた為、運営の全体か一部かともかく審判もある程度買収されているのだろう。

 

 裏路地の住民達に妨害されて時間がかかった分。後続のチームにも追いつかれていた。棍棒を避け、球を避け、障害物を無視して最短距離を駆ける。前半をランザさんとジークリンデさんの力に頼り足をなるべく温存していた為レース後半なのにいつも以上に動くことができる。

 

 ここからは観客も多く、正攻法で戦うことができる。だがしかし、懸念があるのはやはりあの男。実況の言葉を借りるとAについてだ。あの僅かな短距離での戦いでは敗北した。もしかしたら素の実力では劣っているかもしれない。

 

 だが関係ない。ここまで来たら、勝つだけなのだ。それ以上の気負いはいらない。

 

 『ああっと!見えた!捕らえた!先頭を走るAを銀星が視界にとらえる位置まで追いついたぞ!ここから先は東門の先、ゴールまでのラストヒートだぁ!だが一人、味方は脱落してしまったか!?ここで一騎討ちとなった!』

 

 「来たか。雑魚を蹴散らして」

 

 Aは軽く流しながら走っているのだろう。こちらに追いつかせようとしている。スタート地点は、東門か。相当に走りに自信があるらしい。だが……

 

 「勝ァああああああああああああああつ!」

 

 黄色い声援がやむ。銀星のファン達が、驚愕するような顔を浮かべていた。常に勝ち続け、クールな振る舞いを強制されていた。メルキオル商会が作る、銀星というキャラ作りの為だ。

 

 だが今のボクはただのイドだ。ボクの為に、この戦いを制させてもらう。

 

 最後の直進で、勝負だ。



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 東門にて、二人の選手が並ぶ。勝負を誘われた形であるが、傲りか自信からくるものか。どうでも良い、侮られたことこそが今はありがたい。

 

 東門から出てからゴールまでは直進にておよそ二百メートル弱。ここが一番盛り上がるポイントなので、観光客や応援に来た人達が見学しやすいように長めにとられており熱心なファンはここに陣取っていることが多い。

 

 無論道すがら様々な障害物も多く用意されており、勝利を賭けた複数チームで行う最後の攻防では凄まじい盛り上がりをみせることになる。

 

 だが今回は、互いにガードもアタッカーもいない一騎討ち。純粋な勝負では僅差とはいえ向こうが格上である以上、勝機はやはりいかに障害物を意にも返さないような走りしかない。

 

 「よう、色々邪魔はなかったか?どうにも商売人っていうのは、勝負師の熱を理解していないようで困るわなぁ」

 

 並走しながら平然と会話を挟んでくる。その表情は余裕、というよりかはこの状況を楽しんでいるように見えた。勝負をできることが嬉しく、そのうえで勝利を疑っていない表情とでも言うべきか。ボク自身もこんな表情をしていたとなれば周囲も腹も立つものだ。参加者のほぼ全員から狙われていたが、流石にメルキオル商会も全員買収している訳ではないだろう。

 

 道の先には大小様々な木箱が置かれている。子供が拾った大量の石ころを適当に放り投げたかのような乱雑さであり、まともに走ろうとすれば時間をロスする。そして箱の大きさも、画一的ではなくバラバラだ。跨いだり飛び越えようとするにも面倒なものがある。

 

 南方大陸から海路を経由し荷の乗せ換えを行い、水路を北上する輸送船に積まれていたものの古くなった木箱等がレースの障害物として流用されている。金があるのに、設備など余計なところは切り詰めるのが商売人としての性なのか。

 

 足をかけやすい木箱に飛び乗り、一瞬で全体を俯瞰。最適なルートを自分流に選定し川の中にある飛び石のようにジャンプして渡っていく。

 

 これまた簡単な子供の遊びのように見えて、速さを突き詰めると以外とシビアな進み方である。なにせスピードを気にするならば足場にいちいち視線を移したり躊躇や跳躍のタメを作るだけでタイムロスがおこりうる。地面に描かれた丸い円に飛ぶくらいの気軽さでいかなければならない。

 

 瞬間的な判断能力を養う為に、練習場を作った山の中にある小川にて環境を再現し幾度も練習を繰り返した。落ちてしまうことでずぶ濡れになって不快な思いをするのも自分の為、自然と練習も手がぬけなくなる。

 

 最後の跳躍にて、地面に着地する音が同時に鳴る。平地の走りあいならともかく、この乱雑な足場での移動でほぼ同じことをAはやってのけていた。

 

 「懐かしいな。こういうのはガキの時によくやったもんだぜ」

 

 木製で造られた細い橋渡りに、階段状に組まれた障害物の駆けあがりからの跳躍による段差越えが続くがそれでもなお距離を離せない。いや、向こうの方がほんの僅かではあるがリードしているように見える。

 

 ただの走り自慢ではない。ボクと同じかそれ以上に、この手の特殊な環境での走行に慣れているものの走り込みだ。メルキオル商会は、いったいどこからこんな人物を探しあてることができたのか。

 

 「よう」

 

 並走するAが話しかけて来る。まだそれだけ余裕があるということだ、こちらは全力で走っているというのに。

 

 「アンタからは負けん気を感じるし背負っているものがあるのが分かる。だがそれだけでは、勝てない時もあるわな。それが自力、まあ実力ってやつだ。こちとらギアを上げていくから、もう無理するのはやめるんだな」

 

 少しずつ、距離が離れていく。残り百メートル近く、ここに来て奴の言うところの地力を披露してきたという訳か。このままでは、まずい。ここから先はもう大して障害物もないフラットな地形。本当ならば障害物が多い二百メートルの前半で差をつけるつもりだった。

 

 パルークーレースどころではない。この男、恐らくは本当に普段からこういう荒れ地や障害のあるところを走り慣れている。それも、計算されたコースのような形状ではない自然な地形でだ。

 

 走力でも、障害物のかわしかたでも負けている。ここからどうすれば勝てるのか、見当がつかない。

 

 このままじゃ負ける、負……

 

 「ッ!?」

 

 刹那、凄まじい怖気が走った。背中になにか、氷柱のようなものを突っ込まれた時のような感覚。心臓がバクッと強烈に跳ね上がり血流の循環が何時もの二倍速で流れているような気がする。

 

 イドは、半獣である。獣のような暮らしをおくったことはないし、仮にもそれに近い生活をおくったとしても半ば人であるが為に本物の野生生物に近しくなることはできない。どうあっても、例え人間が認めていなくても。半獣とは獣であると同時に人に近しい存在なのだから。

 

 まして危険な生物に追いかけられたことも、鮫が泳ぎ回る海原で溺れたことも、殺し合いに加わったこともない。その半生は豚を育て、鉱山で労働につき、ルールに基づかれた競技の元で他者と競い合っていたのみである。

 

 ことここにいたって、命の危険というものを感じたことはなかった。グロルダール公国が壊滅しかつての雇い主が首をくくり、路頭に迷った際は飢えで危機感を覚えたことはあったが、それともまた違う根源的な恐怖。被捕食者としての恐怖を産まれて初めて感じ取っていた。

 

 本能が心臓を揺さぶり、心臓が緊張で鼓動が増し、異様に流された血流が脳に恐怖を訴え、過度な恐れにさらされた脳が危険信号を放つ。そしてその信号は、イドの筋力を更なる段階へと引き上げた。

 

 野生の肉食獣は、狩りの獲物に飛びかかる最後の詰めまでその気配を慎重に、巧妙に消す。少し気取られた瞬間、狩りの獲物は命がけで逃亡を開始するからだ。故に、王と呼ばれる動物ですら獲物にありつけるのは狩りが上手くいかず飢餓を感じたタイミングなことすらある。

 

 『ぶち殺すって言ったよな?』

 

 幻聴であった。だがそれを幻聴とは思えない程、イドの耳にははっきりと届いた。まるで背後に山のような巨大ななにかがおり、それがすぐ耳元で囁いたかのような緊張感。

 

 「うえ…う…ああああああああああああ!」

 

 「おお!?なんだ?お?おお!?」

 

 勝たなければ、殺される。

 

 産まれて初めて味わう根源的な恐怖に突き動かされ、イドは直進する。隣のライバルすら目に入らず、その足はその場から一歩でも早く前に進もうとだけ考え必死であった。

 

 恐慌状態で走るイドに観客も、実況も、対戦相手でさえあっけにとられる。だがその背後、東門に辿り着いた二人組を除いてであったが。

 

 「おう、やりゃできんじゃねえか」

 

 「急に殺意飛ばしやがって。何人か泡ふいて倒れてやがるぞ」

 

 この行いに一番肝を冷やしたのはランザであろう。負けそうな様子のイドを見て、正体を晒して大会自体をぶち壊そうとでもしたいと考えたようであった。今は、すぐ近くにいて殺気に当てられ泡をふいて倒れた選手を介抱していた。可哀想なことではあるが、至近距離で悪竜の殺意にあてられれば、荒事慣れしていなければ余波だけでこうなってもおかしくない。

 

 「コナクソ!」

 

 イドが並走し、Aを抜き去る。負けじとAも抜きにかかるが、急激に覚醒した半獣の足に追いつくには少しばかり距離が足らない。これが後、五十メートルゴールまで距離があれば再度抜くことはできたかもしれないがゴール手前で勝負は決した。

 

 『ゴール!ゴールゴールゴーーーール!今までになかった最後のデットヒート!土壇場で底力を見せて逆転したのはパルークーレースの王者、銀星だぁああああああああああああ!』

 

 僅か半身の差であった。だがしかし、その半身の勝をもぎとったイドはゴールと共に地面に転がり、空を眺めていた。背後から襲い来る得体のしれない殺気は既になく、ただなにも考えられずに放心するように青空を眺めているのみであった。

 

 「よう」

 

 「………A」

 

 「誰だよAって。俺様という男には、三代目石川左衛門っていう立派な名前がありやがらぁ。まあ立派すぎて国にやぁい辛くなっちまったがなぁ。だがそんなこたぁどうでも良い」

 

 A、いやイシカワとやらがこちらに手を伸ばす。

 

 「琉流忍術を収めたこの俺様との走りあいによく競り勝った。悔しいが、まだまだ俺様にも伸びしろがあるってことを確認させてもらったぜ。悔しいって気持ちは、なにより成長の起爆材料だからなぁ」

 

 「成長の…起爆材料なら……まだあるみたいだ」

 

 「ほう?」

 

 イシカワの手を掴み、立ち上がる。その姿に観客はなにを思ったのか、盛大な拍手を送っていた。選手同士の清い一面に感動でもしているのだろうか。だが流石に、今の状況でファンサービスにあてる余裕はない。

 

 「命の危機と、脅し」

 

 「ふむ」

 

 ランザさんゴールまで駆け付ける。よくやったとランザさんが褒めてくれていた。それは嬉しいのだが、そのまだ向こうにいるジークリンデさんの顔をまともに見ることができない。あれは確かに、と言っていいのか分からないがジークリンデさんの声であったからだ。

 

 「及第点だ」

 

 声を張り上げた訳でもないのに何故かここまで届いた彼女の声に、ビクッと肩が跳ね上がる。取り合えず、死は回避できたのではないかと脳内は考えていたが心臓はドクドクと鳴りっぱなしであった。

 

 『危うい場面もあったものの今年も見事な走りを見せてくれました!いやーしかし、ここまで白熱した試合を魅せてくれるとなるとパルークーレースもまた違った楽しみ方を……え?……おいおい、それ本当に?』

 

 締めの言葉を語っていた実況の言葉が濁る。十数秒の間が開き、興奮していた観客もなにやら異変にざわつき始めていた。

 

 「まあ、本番はここからだな」

 

 ランザさんが、分かりきっていたと言いたげに言葉を紡ぐ。そして、実況から困惑した様子で言葉が放たれた。

 

 『えー…銀星選手。指定コース外を走ったということで失格となります。優勝は繰り上げとなり二位のA選手がこの度のパルークーレースの覇者となりました!ではさっそく表彰の準備を…』

 

 「待…待ってください!」

 

 イドが声を張り上げる。突然首位から落とされたことに、納得がいかないのだろう。それはそうだ、誰だってこんな唐突な結末の変更は呑み込めない。

 

 「ボクがどこで違反したというのですか!?違反理由の明確化を希望します!」

 

 「イド選手、貴方は第一チェックポイントと第二チェックポイントの間にある入り組んだ旧市街、質利禁止の方面に身勝手に侵入しました」

 

 審判団と思われる一団が乗り出し、口を開く。その中に一人頬を赤く腫らした人物がおり、卑屈そうな笑みを浮かべていた。

 

 「進入禁止の区域は係りの者が立ち会っており、彼が証言をしました。強引に禁止を伝える彼を殴り飛ばして侵入したようですね。パルークーレースは街中という公共の場を借りる以上、住民の許可は必要不可欠。それを得られないところまで迷惑をかけてしまえばレースの根幹が揺るぎます。よって、貴方は失格にせざるえません」

 

 「馬鹿な…そんな男ボクが走ってきた順路にはいませんでした」

 

 「そんな証言、信用にたるとでも?大方勝ち続けて調子にのっているところ、強力なライバルが出てきて自身の天下を奪われないようにしようとついやってしまったのでしょう?選手の風上にもおけませんね」

 

 主審と思われる女がニタリとした笑みを浮かべる。それにカッとしたイドが、眉間に皺をよせて叫んだ。

 

 「だったら、貴方達が仕組んだあのぼうが…むぐっ!」

 

 「まあ待て。そいつは言うな」

 

 ランザさんが、ボクの口を塞いだ。審判団の方を睨みつけるように見ていたが、その瞳は死んでいない。まるで、ここからは俺達の仕事だと言わんばかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お前さん達の言わんとするところは、よく分かった。立ち入り禁止区域を、ショートカットする為にイドは侵入しその際に止めたスタッフを暴行したということだな?ならば聞きたい、俺は正直外様の人間で地理には明るくない。その侵入した場所と言うのは、どこなんだ?」

 

 「旧市街二十一番地区。通称、空瓶横丁ですね」

 

 主審の言葉が聞こえた観客達がざわめきたつ。

 

 「空瓶横丁?」「あんなところを…」「治安が悪い、確かにレースのコースには…」「半グレの溜まり場じゃないか…」「半グレって、旧市街のエタニア達の縄張りなんて」

 

 ざわめきを聞いていると、どうやらなかなか治安の悪い場所のようだ。まあ確かに、それならばおいそれと走行許可はおりないだろう。だが、イドはその道を選択した。普段は封鎖されてはいる道が、今回は使える。その程度の認識であったのだろう。

 

 パルークーレースは、ゴール地点は東門から直進したここだと毎回決まっているがそのコースは大会ごとにバラバラだ。他所から流れて来たイドは細かな治安までは知らない可能性もある。

 

 「その空瓶横丁は今回は走行許可がおりていた筈だ!だから係員がいなかった!そこを走ってきただけだ!例え禁止区域だとしても、係員がいなかったなら選手も間違える筈だ!それは運営側の落ち度といえるのではないのか!?」

 

 「イドのチームメイトである貴方の言葉等信じるに値しません。否定したいなら、もっと客観的にその事実を言える者を呼んでくださいな」

 

 「客観的に言えるものなら良いんだな?……おい!」

 

 声掛けに合わせ、ジークリンデが一人の男を連れて来た。どうやら俺の相手をした男があの周辺を牛耳る半グレ達の大将であるエタニアであったらしく。あの後もしつこく食い下がってきた為顔に幾つか大きな青あざがついていた。

 

 「パルークーレース、俺と周辺住民は話し合いで許可をだした。代表は俺だ」

 

 「え?」

 

 「お前等の係員なんぞ街区の入口には立ってはいなかった!この俺が言うんだから間違いねえ!なあみんな!」

 

 ゾロゾロと襲撃者達が東門から歩いて来る。イドは目を丸くしていたが、あの乱闘には続きがあった。

 

 連中がいかに暴力のセミプロとは言っても、こちらは人外じみた師匠にしごかれリスムの経済特別区で修羅場を過ごし、人妖相手に数年間渡り合ってきた。ジークリンデは言わずもがなであり、ただの凶器をもった人間が悪竜に敵う筈もない。

 

 ただの二人に完膚なきまでに返り討ちにされたチームは、それはもう面目丸つぶれである。脅しと暴力で生きてきたプライドの高い連中にとって、それ以上の屈辱はないはずだ。

 

 だから、こちらから取引を持ちかけた。今回のことが吹聴されるようなことをおこさないと約束するならば、ゴール地点でおこるいざこざについてこちら側に立ち証言をすると。無論断っても良いが、そうなるとしばらく寝たきり生活になると脅しもかけてはみた。

 

 だがしかし、彼等には彼等なりの考えもあるらしい。チーム同士の抗争や多数で少数を蹂躙したならともかく、少数で多数相手を返り討ちにするさまはどこか、男の子心みたいなものに響くものがあったせいかもしれない。

 

 意外な程に交渉はすんなりと通り、こちらに口添えをすることを約束してくれた。土壇場で裏切る可能性もあるが、ジークリンデが睨みをきかせたうえであまり悪意を感じていないのか詰まらなそうにため息をはいたためある程度は信用していいと判断することにした。

 

 「そんな、許可はおりていない筈で」

 

 「じゃあそっちの手違いじゃねえか!テメェ等の不手際選手に着せるつもりかよ!筋が通らねえじゃねえかこのやろうが!」

 

 「か、確認!確認しますのでしばらくお待ちください!」

 

 審判団がざわついている。何人かが、本部のテントにまで走っていったようだ。だがこれで、向こう側は限りなく詰みに近いだろう。

 

 恐らく許可等だしてはいない。だが、許可をだしたと住民が言い張り、係員がいなかったという証言が出ていればそれは運営側の落ち度であることはあきらかだ。それでも運営権限でイドを首位から落とすことはできるが、誰もが納得できる理由もなく人気プレイヤーを蹴落としたとなればレースじたいの人気が落ちる。

 

 なにせ倍率は低いとはいえ銀星は押しも押されぬトッププレイヤーだ。一番人気に賭けている者も多い分、不満の声もデカい。純粋なファンも多いためそれも不平不満の後押しになる。その影響は、レースのみならずその後ろ盾であるメルキオル商会にも悪評として暗い陰を落とすだろう。

 

 運営の評価が落ちることを必要最低限にするには、判断ミスを認め二十一番地区に許可を得たことを認めなければならない。評判に傷は負うが落としどころとしては、手違いでしたと認めることになる。

 

 確認に向かっていた審判団の一人が戻り、審議をしているようであった。主審の女性が諦めたように首を振り、声をあげようとしていたところ一人の男が現れる。

 

 見覚えがある顔立ち。あの男は、宿に馬車で現れイドと会話をしていたメルキオル商会の人間だ。

 

 「その男は嘘をついております!」

 

 「なんだと!?テメェなに適当を!」

 

 「半グレなどという社会不適合者の言い分をいちいち審議する必要はないでしょう!それに皆さん、皆さんには今回のレースだけではない、ある重大な嘘を銀星……いや!イド=クラモスはついているのです!」

 

 「は?」

 

 「え?」

 

 なにを言い出すのか。今回のレースだけではない、ある嘘?なにを言い出すのか、レースについての口論であるならば考えをつけ準備をしてきたが、この男がなにを言い出すのか瞬時に予想がつかなかった。

 

 イド本人も、なにを言われたのかよく分からないといった顔をしている。イドが、いったいなんの嘘を観客達についてきたというのか。

 

 男がツカツカと無遠慮に歩み寄ってきた。イドの前に立った時、その意図が分かり動く腕を止めようとしたが、判断が遅れてしまった。男の手がイドのフードを無理矢理めくり、その半獣の耳を露わにさせた。

 

 「この男は半獣の身でレースに参加をしていたのです!自身の穢れた生い立ちや産まれを隠し、その呪われた能力でレースを総なめし栄誉と賞金をかっさらっていきました!こんなことが許されるでしょうか!?このような人間のふりをして、嘘をつき続けた出来損ないの言葉を信じられるでしょうか!?ましてそれを知りながら告発しなかった部外者の言い分等信用できますか!?皆様に私は問いたい!」

 

 意図を、理解できてしまった。イドが使い物にならなくなるなら、盛大に壊してしまえということか。考えが甘かった。メルキオル商会はイドを手元に置いておきたいから半獣の立場を明かさない。だが手元から離れるならば替えがきく奴隷等必要ないということか。

 

 その替えは、恐らくこのAである。これだけの走りあいを見せた才能を手元におけるなら、イドという存在にこだわる必要はない。むしろ、半獣という立場を隠していたことを世間に明かしたことを功労とする腹積もりだ。

 

 なんなら商会は騙されたという体をとればいい。むしろ、間違いを認め告発したとして評価を受ける可能性すらある。世間における半獣に対しての差別意識を、ここで利用するか。イドという奴隷は表に仕えなくなるが、船底の漕ぎ手でも劣悪な労働を課すでも本来の奴隷の使い方として酷使すれば良い。

 

 あまりにも、あまりにも下衆な考えだ。商売人としての矜持、思考としてこれまでの妨害行為やその他の行いは立場上理解を示すこともできた。だがしかし、半獣にいっぱい喰わされたことが気に入らないからとここまでのことをしでかすか。

 

 「生い立ちを隠し続けたウソつきが本当のことなど語るでしょうか!?今回のことも嘘に決まっています!ましてや証言者はチームメイトと素行の悪いはみ出し者等…どうでしょうか!?このような悪しき前例を残してはいけません!我々は責任をもってイドとチームメイトに然るべき処罰を下し…いぃ!?」

 

 頭の中で、クーラの存在が頭をよぎる。これ以上、この男に喋らせてはダメだ。こいつが言葉を放ちイドを貶めるだけ、それは同族であるクーラにも暴言として飛んでいた。

 

 「言いたいことはそれだけか?」

 

 目の前に立っただけで、叫んでいた男の顔が引きつり後ずさる。拳がゆっくりと持ち上がろうとした時、その手を止める褐色の手が伸びた。

 

 「まあ、待てや。冷静に見てみろや」

 

 ジークリンデが、親指をさす。その指は、観客席の方に向いていた。



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 「それがどうしたの!」

 

 ざわつく観客席から、よく通る大声が響いた。俺を含め会場の視点がただ一人に向いていく。

 

 席を立ちあがり拳を振りぬくのは、イドが着ていたフードに似せて作られた既製品ではなくハンドメイドであり、どこかで見たことがある顔立ちの女性が叫んでいた。

 

 「銀星が…イドが今まで魅せてくれた走りを否定できる人がいるの!?ファンサービスもダイナミックな走法も、孤独に戦い続けてきたレースも半獣だからって無かったことにする!?できる奴がいるなら出てこい、張り倒すよ!」

 

 会場がシン…と静まったタイミングで、思い出すことができた。あれは、競馬場近くの施設で観光客向けに乗馬体験のサービスを提供していた係りの者だ。クーラが想像以上に戻るのが遅く、何故か帰ってから遅れた理由がガールズトークとやつれ気味の顔で言っていたため印象に残っている。

 

 「酒場で毎度一杯ひっかける程度にゃ、稼がせてもらったんだよなぁ。勝過ぎて倍率低いけどよ」

 

 賭け札を持つ男がヒラヒラと見せびらかすようにそれを見せながら、口を開いた。ニヤリと笑う目元からなにを企んでいるか理解ができた。

 

 「オラァこちとら生活費賭けてんだぞ!都合が悪いからって運営側の都合で落とさせてたまるかぁ!」「ざけんなコラァ!返金騒動にさせてもらうぞ!」「半獣だからって大会に出場してはいけないなんて規約はねー筈だぁ!」「メルキオル商会に損害金取り立てるぞ!」

 

 手堅く賭けていた連中の野次や罵声が飛ぶ。その中に、イドを責めるようなものは一つもない。それはそうだ、理不尽にイドが負けて損害金をだすくらいならいくらでも叫び続けるだろう。だがそれ以上に、ある種欲とは違う熱のようなものを罵声から感じとれた。

 

 今まで稼がせてくれた恩返しとでも言うのか。イドが意図せず築いてきたものが観客から噴き出てきていた。不平や不満は勿論。だが、それ以上に理不尽に切り捨てられようとする者を護るような、レースのファンとして怒りが感じ取れていた。

 

 「半獣は…アレかもだけど、銀星はずっと正々堂々とやってきた!」

 

 女性の観客からも、声が飛び始める。

 

 「銀星ー!」「半獣がダメなら所属企業のメルキオル商会は責任をとれー!」「よく見たら耳可愛いじゃない!」「銀星、イド様の走りでパルークーレースにはまったの!今更妙なこと言って楽しみを邪魔をするな!」「愛してるー!だから負けるなー!」「へッポコ運営に守銭奴ども!選手の走りを台無しにするなー!」

 

 観客席から飛ぶ罵詈雑言や叫び声。だがその内容は、半獣だからと蔑まれてしかるものだと思われていたイドに向けたものではなかった。むしろその逆、イドが知らず知らずのうちに築き上げてきたものは、差別意識を覆すものだった。

 

 若者を中心に人気のパルークーレース。ダイナミックな走法で観客を魅了してきたイドの人気は、例え半獣だと身分が割れた後でも陰るものではなかったようだ。

 

 「よう、審判さんにメルキオル商会の犬っころ」

 

 イドと最後までしのぎを削っていた男が、商会の人間に近づく。その胸倉を掴んだ瞬間、体格差はあまりない筈なのにがっしりした上半身から出る腕力が商会の人間を引き寄せる。

 

 「アンタ等にはアンタ等の事情がある。雇われておいて敗北した責任もこちらにある。だが!男二匹、競い争い決した最後に余計な茶々入れるもんじゃあねえだろうが!仁も義もなけりゃせめて無様で無粋な真似はやめたらどうだい!ああ!?」

 

 「グァッ…異民族の分際で!調子に乗るな、貴様等なぞ我等がその気になればいくらでも…」

 

 「許しておやりなさい。いや、こちらが非礼を詫びるべきかな?」

 

 胸倉を掴まれていた男の顔が青ざめた。すぐに掴まれていた手を払い、服を慌てて整え恭しく頭を下げる。付き添いをつけて現れたのは、杖をついたいかにも好々爺といった老人であった。だがその服装は、きっちりと仕立てられたオーダーメイドで固められ落ち着いた茶の色合いながらどこか気品あるものだ。

 

 「この度は運営のみならず、我等の落ち度が大きい。場を沈めるにはこちらが折れるしかないであろう。すぐに運営は、イド選手の優勝を伝え混乱を沈めなさい」

 

 「しかしドーズ館長!たかが奴隷の半獣に譲歩したなど我等の格に…」

 

 「黙りなさい。君はこれ以上、失態の上塗りは避けた方が今後を考えると良いと思うがね。いいかい?我等メルキオル商会は、イルガルド支部は今後もお客様に愛される商館でなければならないのだよ。それに、私の顔にまで泥を塗って、今度の選挙に影響がでたら君に責任がとれるのかな?さあて、君がどれだけ損害を補填してくれるか見物じゃなあいか?」

 

 その責任という言葉の重さ、外様の俺達には分からない。だがしかし、商館の館長であり話を聞く限りでは政界進出の野望を持っているこの老人。商人として、それの不興を買うことは自身の進退に大きく左右するのだろう。主に、悪い方向にだ。

 

 言われた男も青ざめた顔を通り越して、文字通り血の気が引いている。胸倉から手を離された瞬間、ドサリとその場に座り込んだ。

 

 「さて、イド君。優勝をひとまず喜ばせてもらおうか。商館所属選手の活躍は、私にとっても喜びだ」

 

 男には興味を失ったように目をそらし、イドの方に向き直る。口調こそ穏やかであるがイドの額に脂汗が浮くのが見えた。それはそうだ、表向きはともかくその実態は奴隷とその雇用主。決して穏やかな関係ではないのだから。

 

 「さて、では君には大会規定通り優勝賞金と栄誉を受け取ることになるだろうが…本当に受けとってしまっても良いのかな?」

 

 「はい。そしてその賞金を貴方に返す。それで、契約完了。帝国法において、奴隷が解放される手段にのっとり自由になりたいと考えています」

 

 「おお、そうかそうか、もうそこまで溜まったか。では、契約内容を明記している公文書、或いはその写しを提示してもらえないかね?奴隷契約も雇用契約の一種、正規の手段を踏んでもらわないと手続きに支障がでるのでねぇ。では、近々正式な書類を用意してきてくれたまえよ」

 

 よくもまあ言うものだ。クーラから聞いていたが、偽装書類を用意して食い違いが問題になれば騒ぎにもなるが、その立場の違いや力関係のうえでその偽装書類の方が信頼されてしまう。そして、もうパルークーレースに使えないイドの行く先は二度と戻れない過酷な環境だ。

 

 だがこの為に、色々裏で動いてきた。ここからは、彼女の出番である。

 

 「なんだ?ありゃ」

 

 観客の誰かが、東門から押し寄せてくる一団に気がついた。門から反対側、メルキオル商会が管理しているあの資材置き場からも紺色の服装をした集団が押し寄せてくる。

 

 「おや、いかがしましたかな?この程度の騒ぎ、治安維持局が出張るまでもないと思いますがな」

 

 「この場での騒ぎも聞く必要がありそうですが、残念ながら別件です。ドーズ=イグ館長、貴方には金の密輸及び不正選挙疑惑で拘束させていただきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 流石、金の密輸に絡む事件となれば治安維持局の対応は早い。多少の鼻薬を利かせても遥かに名誉と栄生、それにともなう報酬が手に入るのだから情報をリークさせた後の行動は速かった。

 

 イルガルドは大河に面した古代から続く都市である。大河というものは、人の生活に恩恵を与えるものであるがそれと同時に荒れ狂う時は人命も土地も全てを刈り取って荒らす厄介ものだ。

 

 それに対抗してイルガルドには、川が溢れて反乱するのを防ぐ、或いは防ぎきれなかった時の備えとして都市の地下には大規模な人口の地下水道が広がっている。一部では街中で井戸や用水路として使われているようであるが、その広大さは時の権力者すら把握しきれていないとも言われている程だ。

 

 なにせ街の外まで地下水道は伸びている上に、なにより増改築でも増やしているのかその内部構造は複雑怪奇。自分が以前イルガルドに潜り込んでいた時はテイムの力でこの地下をねぐらとする鼠や蝙蝠に助けてもらったがそれでも全体の四割程くらいしか把握していないだろう。

 

 そしてかつて聞いた話というのは、この地下水道を利用した金銀の密輸ということだ。

 

 南方大陸から運ばれて来る鉱山資源、その中でも希少価値が高い貴金属の一部を街に入る前に降ろす。一度別の保管場所に運んでから、街の外まで伸びた地下水道を利用してメルキオル商会まで運ぶ。街の外から出す時もその同じ手口で別の場所に運ぶのだろう。

 

 自然災害から人命を護る施設が腐敗の温床となっていた。まあもっとも、かつては自分もそれを利用させてもらっていた立場ではあるのだが。

 

 治安当局も馬鹿ではない。単純な手であればバレるのも時間の問題であっただろうが、パルークーレースという存在が事件の隠れ蓑となっていた。

 

 レースに再利用したり篝火に利用する、廃棄手前の樽や木箱。ついでに燃やしてしまおうと考えているゴミや木屑が詰まった木箱の奥底に潜む金や銀。それらは一度街の外にある倉庫に運ばれてしまわれる。

 

 一応何度か治安当局も確認にきていただろうが、うずたかく積まれた不用品だらけの樽や木箱にまさか貴重なものが隠されているとは思うまい。

 

 そしてレース当日。パルークーレースにはメルキオル商会からの要請で治安当局の人間も一部交通誘導や観客の安全確保に駆り出されているようである。人の目がレースに集まったタイミングで、ひっそりとメルキオル商会の人間が金や銀を回収して小屋の隠し部屋から入れる地下水道を通り商会に物を運ぶという訳だ。

 

 自分がリークしたものは、地下水道の密輸に使われるマップにメルキオル商会がその金銀を利用して選挙を有利に働かせようとした証拠である帳簿。それだけだと根拠が弱いため運ばれていた金銀に地下水道入口には拘束しておいた密輸の運び人までおいておいた。

 

 メルキオル商会に鼻薬をきかされていた上役も、怪しいところがありながらも目を見て見ぬふりをしていたようだがその密輸の内容が金や銀であるというのなら流石に動かざるえない。それだけ、貨幣鋳造に繋がる資源というのは厳しく取りしまわれるものなのだ。

 

 「もう、以外とランザも喧嘩っ早い性分なのかな」

 

 観客席からひっそりと事の成り行きを見守っていたが、商会の人間に手をあげそうになったのを見てひやひやした。だがしかし、銀星大好きお姉さんが一声あげてくれたおかげでなんとか話がこじれず進んでくれた。

 

 「ん、ありがとね」

 

 「毎度どうも。なんだかスパイか扇動者みたいで面白かったぜ」

 

 掛け金云々で最初に声をあげた男に銀貨を一枚握らせる。この男だって賭けていたのは本当のようだし、一人が声をあげれば周りがそれに続く大衆心理を利用して最初の一声をあげるサクラになってもらった。もっともお姉さんのお陰でそれはいらなかったかもしれないが、ダメ押しにはなっただろう。

 

 目の前で行われる逮捕劇に、レースを取材しに来たマスコミと思われる者達も食い入るように顛末をみている。そしてこれだけの関係者や観客にそれが広がればもう火消しに追われるどころの話ではない。イドに構う余裕なぞ、商会全体で消滅する。

 

 盗みだしておいた改竄される前の奴隷雇用契約書。観客席から混乱に紛れて近づきランザにこっそりと手渡した。

 

 そっとその場を離れると、ランザがイドに話しかけそれと同時に彼が走る。用意されていた賞金を掴ん戻り、ドーズ館長とやらに全て投げ渡した。それと同時に、ランザから手渡された契約書の規約に戻づく満了宣言をしそれを破り捨てる。

 

 向こうは向こうでドラマがあるが、裏方は別にそれを最後まで見ないでいい。あとは、大人達がかってに処理していくだけだろう。心残りはランザと共にレースに出れなかったことであるが、適材適所としてこれ以上ない成果をあげた筈だ。

 

 だがしかし、まだイドには問い詰めないといけないことがあった。荷物の中には、商会から奪い返してきた彼の数少ない所持品が詰められている。このことについて、謝罪があるか申し開きがあるか、それでこの事件の後味が激変しそうだ。

 

 「でも、まあ」

 

 人助けか。

 

 誰か、赤の他人を助ける余裕なんて自分にはなかったし、こんな機会が巡ってくるなんて考えたこともなかった。助けられたといえば、ランザと……レントにだ。

 

 レントは、最初から企みがあって違法な奴隷市場を襲撃したのか。それとも当初はまだ義憤のようなものがあったのか。袂の分かち方は最悪であったが、それでも差し伸べられた手の暖かさは忘れることなどできはしない。

 

 ランザは、命を狙った敵を命を張って護った。その理由は過去のトラウマに基づく行動ではあるのだが、だからといって早々できるものではない。キラービーから庇われた時に感じた彼の身体の厚さと熱さも刻まれたように思い出に残っている。

 

 では自分が今こうして、ランザの付き合いとはいえ人助けをした結果どうだろうか。なにか思うところでもあるだろうか。一仕事終えた感覚はあるが、それだけだ。多少の達成感とランザの役に立てた満足感だけである。イドに対して、問い詰めることがあるのは別にしてやはり特に思うところはない。

 

 自分は、冷たい半獣なのかもしれない。ある意味では、レントのことを笑えない。

 

 待ち合わせ場所である、競馬場近くの公園にて腰を降ろす。情報が伝達してきたのか、メルキオル商会館長逮捕の知らせは会場に行っていない周囲の人間にも噂として響いていた。まあ、イルガルド一の商会だし闘技場も競馬場も利権や関係として大きく絡んでいるだろう。もしかしたら、追加調査で何らかの不正や粗が出て来るかもしれないしね。

 

 まあそこまでいくと自分にはどうでも良い話だ。ランザ達はまだ混乱状態の現場から抜けられないだろうし、ここでゆったりと待つことにしよう。お腹がすいたら、近くに軽食を売っているところもあるだろう。

 

 「あっ……あの」

 

 「ん?ああ、こんにちは」

 

 空を眺めて考えことをしていたら、声をかけられた。お手製のフードつき銀星コスチュームに身を包んだこの前のお姉さんだ。しょんぼりした顔をしており、別に許可してもいないのに隣に座り込んだ。

 

 気まずい沈黙がしばらく続く。少し席を外そうかなと考えたが、それと同時に彼女が声をあげた。

 

 「銀星が、引退宣言をしました。それに半獣はともかく実は奴隷階級だったみたいで、晴れ晴れとした顔で引退宣言していて…それを喜ぶべきなのに、祝福してあげられなくて逃げてきちゃいました。それにメルキオル商会館長の逮捕劇、今後レースが行われなくなるんじゃないかっていう話もあって」

 

 全部知っている。事前知識があったため、その顛末に向けた絵図を描いたのは自分だからだ。ここまで好条件がそろうことはまずないとは思うが。

 

 「今日銀星と共に走っていたのは、貴女のご友人でした。ルール改正はともかく、なにか貴女も知っているんじゃないんですか?教えてください、お願いします」

 

 「ごめん、知っていることはないし、話すことはなにもないかな」

 

 興味はないとは言うが人様の事情だ。ベラベラ自分から話すのは筋違いだし、更に言えばこの人はあくまで銀星のファンというだけで、覚悟があるかはともかく踏み入っても良い理由にはならない。少なくとも、平和に育ち差別とは無縁でシュランツで偶には甘味を食べられるような幸せな生活を送るこの人には。

 

 「そもそも、他人様の事情に足を踏み込むのはよくないよ。それも、彼は半獣だしね。下手に首を突っ込めば大火傷だし、銀星もそれを望まないと思う」

 

 「何故そんなことを、言うんですか。知ろうとすることが、悪いことなんですか?」

 

 悪いこと、なんだよお姉さん。周囲に人の気配はない、自分のフードをめくりチラリと耳を見せてやる。他人にこれを見せることはまずないが、あの時いの一番に、なんなら自分が用意したサクラよりも前に声を張り上げたことに思うところがあるから見せた。

 

 酷く驚いた顔をしていたが、その目には嫌悪のようなものは浮いていなかった。大丈夫だとは思いつつもそのことに、どこか安堵を覚える自分もいる。

 

 「悪いことなんだよ。誰にだって踏み込まれたくない過去はあるもんだけど、面倒くさいことにそういうのがド級に重いんだよね自分達ってさ。好きだからだけで、半端な覚悟で踏み込まない方が身の為だよ。このイルガルドで平和に暮らしていきたいなら特にね」

 

 もしくは、半獣の方から人間に踏み込んでいける覚悟があるのならば話もまた違うだろうね。自分がそういうタイプだしさ。

 

 「悪いことは言わないから、忘れた方が良いと思う。でもどうしても忘れられないなら、全部捨てる覚悟で腹を決めるしかないんじゃないかな。少なくとも、銀星は……イドはイルガルドからは離れるだろうし。あとはお姉さんしだい、なにがあったかどうしても聞きたいなら本人から聞いてきなよ」

 

 立ち上がり、軽く伸びる。ランザ達がしばらく戻らないならば軽くこの辺りを散歩でもしてこよう。ここでうだうだとジメつかられるよりマシだ。

 

 「じゃあ、もう会うことも」

 

 「ありがとうございます」

 

 別れの言葉をかけようとしたら、それに被せられた。急にお礼を言われてキョトンとするが、なにに対しての礼を言われたのか分からないまま彼女は大きく頭を下げて走っていく。

 

 「なんでお礼?」

 

 はてさて、彼女の視点から見たところで自分がお礼を言われるようなことをしたつもりはまったくもってないのであるが。まあでも、この先どう選択して行動していくかはお姉さん次第だ。自分には自分の道があるし、わざわざ追いかけて理由を聞くのも野暮というものだろう。

 

 「熱心なファンの心理ってのは、やっぱりよく分からないなぁ」

 

 なんの関りのない人物にそこまで情熱を注ぐことができるのか。自分はランザが好きなのだが、やはり根本の問題で関係性は似て非なるものだろう。でも、自分の心の中で一つの言葉がストンと落ちて底に広がっていく感覚があった。

 

 「ありがとうか。どういたしまして、なんて言うほどおこがましくはないけどさ。お姉さんにはなんもしてない訳だし」

 

 だが、ランザ以外で純粋なお礼の言葉を向けられたのは久しぶりだった。モスコーで、ベレーザの恋愛感情に口を挟んだ時に会えて良かったと言われたことも思い出す。もし彼女が本気であり、イドに対して本気で寄り添うつもりがあるのだとしたら……。

 

 「上手くいくと良いね。お姉さん次第だけどさ」

 

 その後、なんとか混乱の渦中から抜けてきたランザとイドに合流することができた。ジークリンデは後は興味がねえとでも言わんばかりに人混みの中に消えてしまったらしいが、恐らくあの古い剣に戻っているのだろう。祭りの幕はもう引いたため、これ以上の介入はもうないか。

 

 イドと最後まで走りを競った、あの東邦系の男もいつの間にか姿を消したらしい。イドが賞金を運営から奪い連行されそうになる館長に叩きつけたこともあいまり、流石に表彰式は中止となったまま波乱の大会は中止になったそうだ。いつの間にか消えた男は、結局何者であったのか。

 

 人目を避けるように宿に戻る。自由の身となり半ば興奮状態のイドではあるが、こちらとしてはこれから裁判でも始める気分である。こいつには、自分とランザを騙した事実があるのだから。

 

 いや、真実を言わなかったと言った方が正しいか?どちらにせよ、提供された情報に故意の誤りがあったことは問い詰めなければならない。

 

 「これが、イド。貴方の言う妹さんで間違いないね?」

 

 商会で回収した、堅く閉じられた木箱をテーブルに置く。二重の鍵がかけてあったが、その封印が解かれているのは丸わかりだ。

 

 「弁明があるなら、聞こうかな」

 

 小箱を前にイドは、腹をくくったような顔で言葉を紡いだ。



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10

 「中を見ても良いか?」

 

 クーラが出してきた小箱。一応イドに対して許可を求め、頷くのを確認してから錠のかけられていないそれを開く。中に入っていたのは、植物の綿が可能な限り詰められており細く白い紐に縛られた茶色の毛が束ねられていた。

 

 後生大事にこんなものを持ち歩いている事実、その理由は一つしかないだろう。

 

 「遺髪か」

 

 「はい、申し訳ありません。ボクは貴方達に一つ隠し事をしていました」

 

 イドのこれまでの言動を思い出す。

 

 「妹が、囚われているか。二人分の金額というのも、恐らくは自分の荷を返却してもらうのにさえ値がつけられていたか?」

 

 初めてイドと出会い、この部屋で彼の要望を聞いた際に聞いた言葉だ。成程、曲解してとらえるならば妹の遺髪はメルキオル商会に没収されており捕らわれているという見方もできるかもない。だがそれは、相手を上手く誤解させることで真実を話さなかったとも言える。

 

 恐らくではあるが、イド本人が抜け出すだけの金額は既に溜まっていたのではないだろうか。だがしかし、荷物に執着するのを見てあのドーズ館長とやらはそれを餌にして更に金額を釣り上げた…といったところか?

 

 「真実を話せば、俺達が協力要請に首を横に振ると考えたか」

 

 クーラが憤っているのはそこだろう。レースに全力で集中できる俺やジークリンデはともかく、今回の騒動について裏側で情報を精査し証拠を揃え、裏で絵図を書いていたのはクーラだ。事前情報というアドバンテージはあったものの、裏方ながら一番危険な役割。正確な情報が無ければ危険極まりないものである。

 

 「ふざけた話だよ。妹は既に死んでいる、それが事前に分かっていたらそれ相応の安全策もとれたのにさ。アンタは最初から手前のことしか考えていない、それがどれだけの苦労を他人に背負わせるのかもしらずにね。正直言えば、自分はアンタを助けたことを後悔しているよ。やっぱり、人助けなんて割に合わないことに手をだすべきじゃなかったってね」

 

 「それに関しては頭を下げるしかありません。ですが、家族を取り戻す為には…」

 

 「家族?死体の一部なんてゴミみたいなものに、無駄な手間暇かけさせられたこちらの身にもなってよね」

 

 イドの顔が一気に赤くなり勢いで立ち上がりそうになったが、その前に肩を抑える。自然体に構えているように見えるクーラだが、ここで彼が怒りのまま立ち上がれば問答無用で制圧に入るだろう。恐らくは、最低でも無力化の為に制裁もかねて本当に腕の一本はへし折りかねない。それだけ彼女は怒っている。

 

 クーラには肉親がいない。イドの気持ちは理解できない故にだしてしまった言葉だろう。だが、その言葉は俺ですら容認できない。それが本心ではなく、怒りから傷をつけるように放たれた言葉であってもだ。

 

 「言いすぎだクーラ。仮に俺が、家族の遺髪を持ち歩いているとしてそんな言い方をされれば冷静ではいられない」

 

 「え?あ、そんなランザの家族に対してそんなことを言うなんて、自分がする訳が…」

 

 「お前の怒りは分かるが、言っても良いことと悪いことの分別くらいはつけておけ。だがお前の怒りも分かる。ここは俺が預かろう」

 

 クーラの耳がしょぼくれ尻尾がペタンと垂れさがる。彼女に任せてしまえばやりすぎてしまうが、しめるところはこちらで締めた方がい良いだろう。

 

 「イド」

 

 改めてイドに向き直る。両親の存在は分からないが、イドにとって唯一の家族であった妹の遺髪。取り戻したい気持ちも分かるし手段を選んでいる余裕もないほど時間がなかったのは確かだ。こちらを取り込む為に、同情を得る為に嘘も並べるだろう。

 

 正直な話、クーラ程ドライになりきれないだろう俺ですらイドの立場だったら似たようなことをするかもしれない。本当のところ、俺自身にもイドを責める権利があるかどうかは怪しいところではあるがクーラに任せてしまえば制裁にしても被害が大きすぎる。

 

 「これから、一発お前を殴る」

 

 「それだけの覚悟はできています」

 

 「まあ、覚悟はそうだろうな。だが、何故殴るのか、殴られるのかを聞いておけ」

 

 器用な方ではない。言葉だけで反省を促すことができるかは分からない。だが、それでも言葉を尽くすしかない。

 

 「同情を誘い、被害者を助けたい。僅かでもその心理に漬け込む意図があっただろう。こういってはなんだが……いや、敢えて言わせてもらう。遺髪とは言ってもそれは、人命には関係しない物だ。それを取り戻すということに様々なリスクがある選択肢を他者に強いるのは難しい」

 

 言いながら、遺髪を物扱いするのは胸が痛んだ。イドもその発言には思うところがあったようであり顔が強張む。イドが飛びかかってきたら、制圧するのは苦ではないだろうがその時はクーラも動きかねない。

 

 「だがお前は今回助けを乞うたんじゃない、他人を利用したんだ。誠意をもって状況を明かしたのではなく、真実を語らず他者を丸め込んだ。残念なのはそこだ、俺はお前さんが真実を話してくれたならそれでも協力を惜しまないつもりだったんだがな」

 

 「そんなつもりは」

 

 「無くても、そうなるんだよ。現に正規の手段では難しい奴隷であるお前を解放する為に少なからず危ない橋をクーラは渡っている。正しい情報に基づいて動かなきゃいけないのに、お前は肝心なところをひた隠しにした。そんなことでと思うかもしれない、だがそれがどれだけ危険なことか想像もつかないようであればお前を助けたことを後悔したと俺自身言わざるえない。お前は俺達に助けを求めていない、善意に漬け込み利用をしたんだ」

 

 イドにそこまでのつもりはないだろうことは分かる。だが、そうとらえられても仕方がないことを強調する。半獣にとって自由になっても、この先苦労の連続であるだろう。だが、他者を利用し甘い汁をすすることに慣れてしまえばその先の末路など、どうしようもない。

 

 多少なりとも関わった身の上、それを見逃して良いものか。善良に生きろとは言わないが、他者を利用して生きることが当たり前になってほしくはない。

 

 テンのように、他人の人生を踏みにじりながら生きるような存在に、なってほしくはない。

 

 「ということで、今のうちに痛い目をみておけ。俺からはそれだけだ。歯を、喰いしばっておけ」

 

 「……はい」

 

 一発の殴打が頬を衝撃を与える。半回転しながらイドは床に崩れ、口内を切ったのは口の端から血を流していた。

 

 暴力を伴う説教は苦手だが、無傷ではクーラが納得しないだろう。嫌悪感を口元で抑えるように堅く口を閉ざし、目を瞑ったまま壁によりかかった。まだ足りないとでも言いたげではあるが、骨を折る程の怒りくらいは消えてくれたようだ。

 

 俺達は聖人君子でもなんでもない。物語ならば、それでも妹の遺髪を取り戻せたことに手放しで喜び、生死に関して言わなかったことも簡単に水に流さなければいけないかもしれない。しかし、現実にはイドにも俺達にも明日はやってくる。

 

 利用した方、された方。双方で納得がいく、少なくとも矛を収めることができるような落としどころというのが必要だ。殴られる側も、何故殴られたのか可能な限り言葉を尽くしてみた。余計な怨恨をかうこともないと信じたい。

 

 「祝いに打ち上げでも開いてやりたいところだったが、もうお前に用事はない。利用されたものとしてお前から礼を言われる筋合いもない。失せるんだな」

 

 イドは少ししてから立ち上がる。頬が痣になりそうな程の傷であったが、手で覆うこともせずに深く頭を下げて去っていった。後にアイツがどうなるかは、本当の意味でのイド次第だろう。

 

 「温いと思うか?」

 

 「……まあ、少しは。でも相手は一般人。わざわざ、自分のやり方で制裁するのもやりすぎだったかもね。まあ、ランザが止めなければやったけどさ」

 

 それだけ言って、クーラが木窓から飛び降りる。手元には彼女用の財布が握られていた為フラリと夕食でも食べに出たのだろう。

 

 「お優しいこって」

 

 クーラが出ていってからしばらく経った時、声をかけられた。寝台の上で胡坐を組むジークリンデは、もう他者の目を気にする必要もないとばかりに色々丸出しだ。だがもうこればかりは今更すぎるので特に口出しすることもない。

 

 「お前が一番怒り狂いそうな気がしたがな」

 

 「クソガキが精一杯考えた出来の悪い小細工程度に興味はねえ。祭りが好きなのも嘘じゃねえし、そこそこ楽しめたのも確かだった。まあ、真実が明かされた時にお前がどういうリアクションをとるかまでの娯楽だったがな」

 

 口ぶりや、穏やかな顔つきからこの悪竜はイドの言い回しから既に気づいていたらしい。知っていて黙っていたとは、やはりこいつもタチが悪い。

 

 「話に乗ったこと、後悔してやがるか?」

 

 「いや」

 

 アイツは家族を取り戻すことができた。過程を無視して結果だけを見れば十分ではある。

 

 「あれで良かったと思っているよ。本心でな」

 

 扉が静かに開かれる音がした。外から気配を感じたのか、クーラが仏頂面で部屋の中に入ってきていた。手には腸詰めにパン、ハムにワインが入った籠をぶら下げている。ジークリンデに目付きで軽く威嚇をしながらテーブルの上に持ってきてくれたものを並べ始めた。

 

 「形はどうあれ勝利は勝利。打ち上げくらいはしようと思ってたけど…アンタの分はないよ」

 

 「やれやれ、器のちいせえクソ猫だなおい」

 

 素早い手つきで腸詰めをかすみとり口の中に放り込むジークリンデに、クーラは喉を唸らせた。そういえば、三人で卓を囲むのはこれが初めてかもしれない。

 

 「まだ市場は開いているだろう。俺が追加で買い足してやるよ」

 

 油断できない相手であることには変わりないが、今日くらいはそんなことをしても良いかもしれない。例え仮初であっても、こいつの気紛れであっても、死体やテンに関わらない協力体制は初めてだったのだ。

 

 腕を組み合わせながら咀嚼するジークリンデと尻尾を逆立てるクーラ。仲間というのには歪な関係かもしれないが、偶には平和ボケした勘違いをそのまま呑み込むのも良いだろう。この日行われたささやかな勝利の宴は、想像以上に遅くまで続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メルキオル商会の館長、ドーズが逮捕されても商会は何事もなかったかのように営業を続けていた。

 

 裏側では様々な暗闘や駆け引き、逮捕に伴う悲劇に喜劇が繰り広げられていようがやはりこの都市は大河の流通により物流の血脈を担う都市。毎日のようにかなりの商人が出入りを繰り返し金と品が流れていく。

 

 携行用の保存食に散弾銃の弾丸。古くなり擦り切れそうな雨具の補修に火薬やその他戦闘や旅に必要なものを買い足していく。滞在期間を一日伸ばしたが、イルガルドには元々物資の補給と一泊の為に立ち寄った都市であり、これ以上長々といる理由はない。

 

 「ここから帝都までは徒歩で二日から三日ってところかな。途中で宿場街とかはあるし、なんなら冒険者ギルドがあるから野宿の支度はそこまでしなくて良いとは思うけどね」

 

 「そうみたいだな。ノックの調査でエレミヤからもらった報酬はまだ余裕はあるが、格安で泊まれるところがあるならそれにこしたことはないか。もっとも治安には気をつける必要があるが」

 

 「ランザが一緒なら大丈夫でしょ。じゃあ、早速行く?運が良ければ、交渉次第で途中で馬車に相乗りさせてもらえるかもしれないしね。お尻は痛いけど」

 

 馬車の旅は快適かもしれないが、長時間座りっぱなしな上に尻も痛くなる。途中で少しだけ利用するならともかく、長時間の移動は流石に堪えるものがある。

 

 ひとまず、北に向けて進む途中で巡礼者用の聖堂がある為まずはそこに歩みを進めることにした。休息と、エンパス教についてなにか教会の連中から情報を聞けるかもしれないからだ。

 

 大きめの聖堂にはほぼ確実にいる教会所属の医療団にも、それとなくレッドアイのことを聞くことができるかもしれない。

 

 「待ってください!」

 

 北門付近で旅立とうしたところで、声をかけられる。声をかけてきた相手は、簡単な旅支度を整えたイドだった。クーラは面白くなさそうな視線を彼に向けぶっきらぼうに応対する。

 

 「同行ならお断りだけど?」

 

 「いえ、そこまで図々しくはなれませんし、半獣であることが知れ渡ったボクは帝都方面には近づかない方が良いでしょうから違います。昨日ショックで言えなかったお礼と…謝罪をしたい為にここで待っていました。礼を言われる筋合いはないと言われましたが、それでもボクが感謝しているのは本当なんです」

 

 頬に大きな青あざがあったが、今のイドはそれを隠すようなことをしない。もう銀星として、ファン受けを狙わなくて良いのだろう。半獣の証である耳もフードをとり露出している。昨日、あれだけ盛大に暴露されたのだ。隠しても今更なのだろう。

 

 「本当にありがとうございました。そして、貴方達に大きな迷惑をかけて申し訳ありませんでした。ボクは、貴方達にしてもらったことを生涯忘れません。何時の日か、今度はボクが貴方達の助けになってみせます」

 

 「無理だよ。イドにはできない」

 

 「かもしれません。ですが、これからはもっと大きくなります。それまでどうか、貸しということにしておいてください。何時か必ず、お返しにきます」

 

 クーラの棘がある言葉もそのまま受け取り、そして返してくる。余裕という訳ではなさそうだが、喰いしばるような男の顔だ。クーラの頭頂部を軽くグリグリして余計な茶々をいれたことのお仕置きをしてからイドに近づく。

 

 「分かった、待っているよ。精々利子つけて返してくれるんだろうな」

 

 「はい、ランザさんにクーラさん。ジークリンデさんにもよろしく伝えてください。もう一度会いましょう、必ず」

 

 「約束だ」

 

 イドと握手をかわす。クーラもへそを曲げたような顔をしていたが、小さなため息をついた後軽く微笑んだ。

 

 「ランザはともかく自分への利子は、高いからね」

 

 イドの尻を激しく叩きながらクーラが言う。彼女なりの、許しの儀式なのだろう。

 

 恐らくは、再開することは二度とないだろう。俺とクーラもまともな旅路を歩んでいる訳ではないし、イド自身だってこの先どうなるか等定かではない。果たされる保証はない約束ではあるが、それで良い。旅は一期一会ではあるが、奇跡的に再開を果たしたならば今度は笑顔で会えるだろう。

 

 何時までも手を振るイドを背中に、イルガルドを旅立つ。帝都では、必ずなにかが大きく動く、そんな予感がする。もしかしたら、今まで通りではいれないかもしれない。エンパス教、竜狩り、テン。様々な要素があるが、その全てが一筋縄ではいかない。

 

 何時か来るかもしれない、再開という奇跡をおこす為に上手く立ち回らなければならない。そう腹を決めて道を歩む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「さて」

 

 殴られた頬はまだ痛むが、本気の説教で本当の拳だった。今のボクにそういうことをしてくれる人は、貴重だろう。助けてくれたことも含め、感謝こそすれ怨む筋合いはない。

 

 ランザさん達は帝都の方面に向かって行ったが、こちらは可能な限り南部に行ってみよう。半獣差別はどこでも根深いが、やはり都会に近い程強いイメージはある。それに大陸西方、旧グロルダール公国がある方向にはあまり近づきたくはなかった。

 

 いっそ、来るもの拒まずの連合王国に向かって行こうか。その途上で少しずつでも、出来ることを増やしておこう。その出来ることが戦う方法であるのか、職人仕事や手作業のようなものなのかはまだ分からない。足の速さ以外に取り柄があるかと言われれば、豚の飼育方法と屠畜や食肉加工の知識があるくらいだ。

 

 周囲の視線が冷たい。もうこの街の住民にはバレてはいるが、フードを被りなおす。嫌な思い出が多いところだが、楽しかったこともある。多少名残惜しいかもしれないが、ほとぼりを冷ます為にも姿は暗ませた方が良い。

 

 「銀星ーーーーーー!」

 

 急に、大通りの方が騒がしくなった。若者達が集団でドタドタと大きな音をたてながらこちらに走ってくるのがみえたからだ。急にパルークーレースでの呼び名を呼ばれ、なにがなにやら分からなかったが見覚えのある女の人がいた。

 

 あの日、会場で最初にボクの味方をしてくれた、声を張り上げてくれた人だからすぐに分かった。

 

 「今はここにはいれないかもしれない!でも、必ず帰ってきて!」

 

 「え?」

 

 なにを言われたのか、瞬時に分からなかった。正体がバレたら追い出されるのが普通の半獣に、そんな声をかけてくれる人がいるとは思わなかったからだ。

 

 よく見れば若者の集団は、レースの熱心なファン達に賭け事に熱くなっていた者達。幾度もレースで戦った敵チーム達だった。

 

 「パルークーレースは俺達が護る!だから戻ってこい、チャンピオン!」

 

 主催者の逮捕と運営の不正が発覚してから、次回からのレースは既に暗雲が立ち込めている。昨日のあれが、最後のパルークーレースだとしても不思議ではないからだ。曰くがついてしまい、新しくスポンサーがつくかも分からないし開催できても規模は大幅に縮小されるだろう。

 

 だがしかし、選手もファン達も目は死んでいない。この地で芽生えたら若者向けの新たな文化を、護ろうという熱意に燃えているように見えた。

 

 「勝ち逃げは許さねえからな半獣野郎!」「アンタには稼がせてもらったんだ!アンタの輝ける場は必ず守るからな!」「銀星様の走る姿が生き甲斐だったんだから、戻ってきてください!」「お前がいなくなったら酒代稼げないからなぁ!」「またカッコいい走り見せてくれ!イドのせいで選手になるのを夢見てるんだからよ!」「半獣がどうとかなんざくっだらねえ話が関係あるか!」「待ってます!」「次回の開催時には、必ず我等が優勝する!だがお前がいないレースのチャンピオンになっても意味がねえだろうが!」「元気でな!練習さぼるんじゃねーぞ!」「次回開催までに腕を磨いてこい!」

 

 皆が、好き勝手に叫ぶものだ。いつの間にか、強制されていたレースが楽しくなり、ボクの居場所の一つになっていたのか。

 

 ……だけど。

 

 イドがこのまま旅立つと思っていたが、こちらに近づいてきたのを見て声をあげていた者達がキョトンとした顔をした。そして、集団の目の前まで来て一言。

 

 「ごめん、ボクの旅立ちは反対方向の南門なんだ。なんかごめん」

 

 静寂。文句と共に囲まれバシバシと悪態つきで身体を叩かれる。だが嫌悪や悪意を伴ったようなものではなく、友達を送り出す手荒い別れの儀式であった。

 

 南門にて、今度こそ見送られながら旅に出る。保存食や旅道具をそれなりに融通され、旅の荷物が三倍近く膨れあがってきてしまった。ありがたい重みが肩に食い込む。

 

 今はイルガルドにはいれない。だけど、ここにはいずれ必ず戻ってこよう。そう決意して歩き出す。

 

 「ようイド」

 

 「あ、あーとイシカワ。君も旅立つのかい?偶然だな」

 

 異国の装束を身に包む偉丈夫が、道の端にあった木製のベンチに腰をかけていた。軽装ながら布地を袋のようにして肩から腰に身体をまわすようにかけていた。荷物が入っているのか、少し膨れている。

 

 「元々イルガルドには金の匂いがする不正があると思い潜入していた身でな。本当なら不正に蓄えられた金はちょろまかすつもりであったが、あんな物語を見されれた手前手を引かざるえんよ」

 

 「あんた、泥棒だったのか?」

 

 「副業のようなものだ。汚職や不正で蓄えられ捕らえられた金品を、民に還元し市場を活性させるのが我等の流儀だからな。そしてイドよ」

 

 立ち上がり、目の前に立たれる。こうしてみるとガタイも良いし身長も高いこの男、かなりの圧迫感だ。

 

 「お前には才能がある。その天性の能力とレースで培われた判断能力に走法、活かす道があると知ったらどうだ?つまりだ、イド。お前は忍になるのだ」

 

 「なにそれ。あんま興味ないんだけど」

 

 忍ってなんだよ。本当に訳が分からないからお断りの方向でいこう。

 

 「ふはは、断られるのは目に見えていたが道中は長い。ゆっくりと説得しようじゃないか。我が琉流忍術は奥が深いでな、話しを聞けば是非弟子にしてくださいとお前から来ること間違いなし」

 

 「凄い自信だな。でもイシカワの旅先と同じじゃないかもしれないよ」

 

 「元々行先など定めていないのでな。旅路に付き合うことになんら問題はないということだ。良いかイド、お前は陰に生きるが恐らくはそのうち世界から注目される忍者という存在の初となる外国人忍者となるのだ。それが使命であると確信している」

 

 「なにそれ怖い、確信しないで」

 

 そんなそのうちがあるなんて知らないけど、ついてくる気満々のようである。でもま、忍者なんてのは分からないけど、あの時ライバルだったのに審判に抗議をしてくれたイシカワに悪い気はしない。少なくとも、賑やかにはなりそうだ。忍者にはならないけど。

 

 そして、長い月日が経った後ある年に行われた、イルガルドで開催されたパルークーレース。チームニンジャが大会優勝を飾るのはまた別の話である。半獣チーム、南方大陸からの来たチーム、東方や北欧から来た参加者達で大会が大きく盛り上がったのは、言うまでもなかった。




 丁度100ページめ、全十話にて外伝は終了です。

 次回からは、本編に戻りますのでどうかよろしくお願いします。


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北部戦線同盟


 帝国軍事中央参謀局では、日々各地から来る戦線の情報が集約されている。

 

 巻きたばこが山と重なる灰皿と、まるで小規模な火事騒ぎでもおきたかのように煙が立ち込めていた。長方形のテーブルに上に大量の書類が並べられ、それに目を通しながら参謀局所属の役員達が各々の考えや意見を述べていた。

 

 扉の入口を警備する帝国近衛隊は、可能な限り漏れ聞こえる状況には耳を塞ぐように努めていた。仕事に専念するという意味もあるが、上役の話し合い等兵隊が聞いても厄介の種にしかならないからだ。だがそれでも、聴覚は参謀局員達の話を処理し脳内に留めてしまっていた。

 

 「大陸西方、グルト王国とキシミ連邦国の攻勢は完全に防ぐことができた。塹壕も三重に掘ったからしばらく突破はされないと考えて良いだろう」

 

 「前線指揮官からは攻勢許可と増援を打診されていますが」

 

 「馬鹿を言え。指揮官達の戦果稼ぎで大事な将兵を磨り潰してたまるか。問題は北部と主戦場である東部だ」

 

 書類をめくる音が室内に響く。前線の参謀局からはいかに敵が脆弱でありそのうえ帝国の将兵達の士気が高いのかを威勢の良い言葉で綴られている。だが中央参謀局の子飼である内偵からの報告では、グルト王国もキシミ連邦国も決して士気が低い訳ではなく、連合王国から派遣された軍事顧問や観戦武官から王国内で練られた対帝国用の布陣が敷かれているとのことであった。

 

 さらには、独断で行使できる権限を表から裏から駆使して攻勢をかけ返り討ちにあっているという話もある。前線の兵士達は護りにはまだ使えるが重なる失敗に攻勢に対しては士気が落ちているということだ。

 

 「西部戦線は防衛線を維持してくれれば充分だ。これ以上の要請が来るようであれば西部参謀局長とそのイエスマン達の面子を入れ替えることも検討しなければならないな」

 

 「然り。だが問題は北部と東部だ」

 

 東部、未だリスムに居座る連合王国側は平原での戦闘にて一時退却をしたものの、その退却は秩序だったものであり追撃戦にて大した戦果はあげられなかった。

 

 リスムを実効支配する作戦案が出ていたが、とある勢力によりその計画は頓挫してしまう。そして連合王国はただ退却した訳ではなかった。リスム北東部に広がる湿地地帯に兵士を伏せており、宿場街を拠点にして目の上のたん瘤のように居座っていた。

 

 北東部の湿地地帯は野生のリザードマンが多く生息しており、環境の問題で拠点を作ることもままならない有様だと考えられていたが、どうやら連合王国側はそこに例の生物兵器を中心に詰めていたようだ。

 

 更に北ではモスコーに存在する帝国とリスムを繋ぐトンネルが崩落事故をおこし、進軍経路を潰した後復興最中にあるモスコーの街を実効支配していた。トンネルの崩落事故というのは、連合王国の公式発表だ。火薬でトンネルを潰し通行を禁止したのは明白である。

 

 「現状の港湾都市リスムは?」

 

 「エンパス教の教団兵がリスムを固めています。連合王国も街には手を出す様子はないようです」

 

 「宗教勢力とはいえ、外部勢力をリスム市民が受け入れたのは以外だな。連合王国でさえ、自治州の感情を考慮して実効支配まではしなかったのだが」

 

 「下地があるということだ。ノックから突如出現した巨人事件、それを解決したのはエンパス教の僧兵軍団とレント=キリュウイン。一部の住民を除き、もろ手を挙げての歓迎を受けているらしい」

 

 エンパス教の僧兵衆は、帝国に義勇軍として参加していた。外部勢力がリスムを支配に近い状態で抑えているのは面白くはない事態ではあるが、なりふり構わず連合王国があの南部最大の港湾都市を抑えるよりはマシだ。

 

 そして一部の住民というのは、主には外洋に存在する島にいる裏の三竦みである組織と、掲げる大盾を始めとした一部の住民達である。そして噂では、掲げる大盾の帝都支部を務めていたグロー=カザルタフは辞表を出し姿を暗ましたという噂があった。

 

 掲げる大盾のグローは、元々帝都本部にいた際に助けを求めた下院議員も存在しており、一定の噂となっているようだ。だが一個人の動向等、現状大した問題ではない。

 

 「一進一退といったところか」

 

 「状況はリスムを友軍が押させている我等が有利だ。だが機動力を生かした、制圧ではなく嫌がらせに近い攻勢を受けており思うように事態は進んでいません。そして、近く大規模な攻勢を企んでいるという情報もある」

 

 「ここのところ欺瞞情報も多い。それに、あの怪物共やガスのせいで過去に培われた戦訓が大部分役に立たなくなるとはな。戦況が読み辛い」

 

 「左様。連合王国との戦がそれ単体が相手でも容易ではない。後は大陸北東の後アブソリエル公国とアレト共和国であるが…」

 

 一団の話を中断するように扉が開かれる。白を基調とした軍服のような聖職着を身に着けた男。時代錯誤な大剣を背負いながら奇跡をおこす巨人事件の英雄が扉を開け放っていた。

 

 「その二か国、私達が赴きましょうか」

 

 「いかに英雄とはいえ、義勇兵の長如きが来るべき場所ではないぞ。レント=キリュウイン殿」

 

 場違いな若者が現れた、というのが参謀達の共通認識であった。

 

 竜狩りの長であるガルシア=ニコライでさえ政治力を駆使することはあっても、参謀局に訪れる際はあくまでオブザーバーレベルでの参加に限られ、現場に近い意見を時折求められるに留まっていた。

 

 皇帝にも信頼が厚く、現場との摩擦がおきやすい参謀局という立場からみてもガルシアと竜狩り隊は信頼における間柄にあり、可能なことならば中央参謀局の直属部隊として自由に動かせる大駒になってもらいたかった。

 

 だが今のガルシアは重傷を負っている。悪竜ジークリンデの討伐を果たしたが、その代償に片腕を失っていた。消耗も激しくしばらく戦線に出るのも困難であり、竜狩り隊は現状すぐに各地へ派遣できる遊撃隊として中央に置いているがそれは名目上のものだ。現状竜狩り隊の戦地派遣を皇帝が許さない。

 

 帝都事変の元凶、悪竜ジークリンデは討伐できたがその心身を引き継いだ新たなる悪竜が帝国各地に襲来してきていたからだ。まるで挑発行為を繰り返すようにエンパス教の神殿を崩しては引き上げていき、宗教施設以外の被害は軽微ではあるが決してそれは無視できるものではない。

 

 敵は、戦線を飛び越えて銃後の市民達への攻撃手段を確保しているということ。やろうと思えば、第二の帝都事変を引き起こせるということだ。首都の防衛に皇帝直属の親衛隊以外に、竜狩り隊をおかなければならないというのは致し方ないかもしれない。

 

 だがしかし、その代わりにリスムにおける巨人事件の英雄がここぞとばかりに下院議員や我々軍務局にも顔をだすようになっていた。先の戦いで、連合王国の守備を僅かな手勢で荒らし厄介な拠点からの退却を促したことを功績としているうえに、与党大物議員であるバザード=イコライの強い支援を受けている。

 

 取り入ったものだ。モスコーで事件に巻き込まれたカリナ=イコライが強いエンパス教信者だったようだがそこから漬け込まれたのかもしれない。

 

 『元々、黒い噂もある人だったからな』

 

 三十代半ば、この中ではまだ若手である参謀が内心呟いた。そこを漬け込まれたか、それとも溺愛する娘を亡くした悲しみかららしくもなく隙をつかれたか。あるいは、その両方か。

 

 「ええ、差し出がましいことと場違いなことは理解しています。ですが、戦いが長引けば市民にとって不安な日々は続くでしょう。まず帝国で最優先にすべき問題は、敵との戦線を減らしていくことと愚考するしだいです」

 

 「そんなことは馬鹿でも分かっている。貴公がいけば、その前線を減らせると」

 

 「はい。帝国を包囲するような各戦線は大きく分けて三つ。東部連合王国方面。西部グルト王国とキシミ連邦軍が共同戦線を張る西部戦線。後アブソリエル公国とアレト共和国、オルレント自治州に半獣達を中心にした反乱部隊の北部地帯です」

 

 レントが指を鳴らすと、それに呼応したように室内の照明が暗くなった。ざわめきがおこるがすぐに壁一面に張り出されるように大陸地図が映し出され映像として流れるように敵味方問わず各勢力を模した駒が配置されていく。

 

 魔具を使い似たようなことができないかと研究が進められていたが、それをいとも簡単にこなしてしまう未知の能力に誰もが驚愕の表情を浮かべていた。レントはひっそりと『プロジェクションもどきをやることになるとはね』と呟いたが、誰の耳にもそれは届かなかった。

 

 「東部連合王国の切り崩しにくさは語るまでもないでしょう。彼らは精強である以上に強かだ、国力=戦力ではないことを皆様もよくご存じの筈だ。そして西部のグルト王国とキシミ連邦国。彼等は帝国への怨みが根強い。今まで様々な貿易摩擦や政治的の不和を国力で封殺してきたツケといったところでしょうか。連合王国の呼びかけにいち早く反応したのがこの二国であるがゆえ、戦争の準備前からもずっと整えていたと考えて良いでしょう。容易に勝利は掴めない筈。叩き潰すのは、まずは北です」

 

 「ここは若造が口をだして良い場ではない!静粛に…」

 

 「まあ、待て」

 

 声を荒げた者をいさめたのは、帝国参謀局中央参謀部局長であるイルドア=ウエル准将であった。口調こそ穏やかかつその顔は、細身の壮年とあって威圧感はなかった。だがしかし、蛇のように目を細めレントを値踏みしているのが誰もが気づいていた。そしてそれを、取り繕うことはしても隠そうともしていない。

 

 それを厄介かと思ったか、それとも望むところだと考えたかは分からない。だがしかし、レントはその視線を正面から受け止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この圧力、多分一流企業の圧迫面接でもここまで胃が痛くはならないだろうな。

 

 比べるのもおこがましい話だが、学生時代のアルバイトの面接とは比較にもならない空気感だ。戦闘能力がない中年男性の視線が、チート能力でブイブイ言わせていた俺にとってここまでの気持ちの悪さと緊張をもたらすのか。

 

 なんでも思い通りにいくと考えていたが、唯一稼げていなくチート能力でもどうしようもないものが一つあった。こんな状況にも対応できる社会経験とそのストレス耐性という奴だ。こればかりは、若造の身ではブラック企業でボコボコにされた限界サラリーマンが、異世界転生しなければ標準搭載されていないだろう上位スキルである。

 

 洗脳という手段も考えてはみたが、洗脳は生憎そこまで万能なものではない。ウェンディ=アルザスはあらかじめなにかしらの対策をしいていたのか効果がなかった。クーラは、強い衝撃でも受けたのか着せた恩義に重ねての効果であるのに打ち破られた。カナリア=エルにいたっては鋼の精神力を前に効果すら見受けられない。

 

 洗脳は便利ではあるが、信頼できる代物ではないと今は確信している。ここの者達がカナリアほどの精神力を有しているとは思えないが、それでも魑魅魍魎がはい回る政界とはまた違う、海千山千の者達が集う軍務局の中枢部なのだ。リスクも考えてそれに頼るのは最後の手段だ。

 

 本当に、この世界でここまで胃が痛くなるのは初めてだ。

 

 「北部の二国を先に叩きたい理由は、寒冷地故に一度叩き潰せさえすればその建て直しは容易ではない筈です。西方は豊かな土壌があり、東方は地続きの輸送路と独自の海路を持つが故国力の回復も図れますが、元々地力が弱い上に冬になれば港が凍結して使えないリスクがある北の二か国は継戦能力が弱い。建て直しが厳しければこちらが有利な条件で和平が成り立つでしょう」

 

 そう、調べた限りでは後アブソリエル公国とアレト共和国は寒冷地にあるだけあって年中使える港が存在しない。不凍港がないというのは、経済においても軍事においても大きく足枷となるものだ。加えて今は北方では長く厳しい冬季のまっただなかである。

 

 年中使える港がいかに魅力的であるか。それが分かりやすい例はロシアだ。

 

 ソ連以前の帝政ロシア時代から、あの国は不凍港という存在を求め続けてきた。あの広大な大陸を持つがそのほとんどは海面が北側に面しており使える港が少ない。軍事的な意味と安定した貿易路を求め、地中海の港を抑える為周辺諸国と戦いを続けてきた。

 

 だが帝政ロシアに過剰な力を与えない為、イギリスを始め欧州からの妨害を受けてきた程だ。だが、それ故に魅力的であった。例として、こんな話がある。

 

 第一次世界大戦中、帝政ロシアが革命で倒れ、まだボルシェビキ(過激派の赤って連中、レーニンとかスターリンとかとかとか)にとって代わられる前の臨時政府は国民からの戦争停止と同盟国からの戦争継続要請に板挟みの立場であった。

 

 現状は厳しい。国際社会の信頼を失おうがドイツとの単独講和をしようとした矢先、臨時政府の代表ケレンスキーにイギリスからある取引がもちかけられた。

 

 戦争を継続してくれるならばロシアに面する黒海の出口、トルコとブルガリアの間に存在するダーダネルス海峡を保有できる権利を認めるというのだ。それは、ロシアにとって喉から手が出る程ほしかった欧州側への出口であり悲願そのものだった。

 

 因みに、トルコとブルガリアは第一次世界大戦ではイギリスとロシアの敵側である。他人の土地を交渉材料にするのは、流石は二枚舌のイギリスというか世界大戦名物ではある。ドイツもブルガリア相手に似たようなことやってたし。

 

 そして、取引は臨時政府の判断を狂わせた。続く戦いの大敗、そして血で血を洗う内乱によりロシアは二つの意味で赤に染まっていく…のはまた別の話というやつだ。

 

 この世界、その二国はそこそこの国力はあるようであるが、畑から兵士がとれると言われた当時のロシアと比べれば人的資源も国土の広大さも劣っている。打ち負かせば、立ち直ることはない。

 

 「我々聖剣騎士団にお任せくだされば、かの国を討ち払うだけではありません。帝国が有利になるように和平交渉の役にも立つと考えております」

 

 「レント君。君の意見は至極当然、真っ当なものではあるが腑に落ちないことがある。確かに君達は義勇軍ながら精兵であることは認めよう。だが、何故かの地にこだわるのかね。打倒できれば戦果は大きいが、先陣となれば被害もでかいだろう。義勇兵がそこまで前にでる必要性があるのかね?」

 

 知るか。エンパスが北の二国をパクパクしたいって言っているんだからそうするだけだ。俺が独自裁量で軍を率いて良いのなら、あの反乱組織にいるランザを倒しに行くところから始める。

 

 最近ようやく、テンが多少は落ち着き始めてきた。地下で工夫を凝らして、日本風の畑や田んぼの再現をしたらそれに精を出し始め、身体を動かすことで心もまた落ち着いてきているようだ。もっとも、ありがたいことにその目と精神はまだ幼心のものであるようだが。

 

 幼児の世話と称して、泥人形に粥を呑ませる様はホラーそのものであるがそれで暴走しないならそれで良い。離れていても良い時間が増えたとあらば、すぐさまにでもランザを狩り立てにいくところだがエンパスが待ったをかけた。

 

 俺の力は大多数借り物だ。チート能力は便利だが、目には見えない外付けのハードディスクみたいなものだ。エンパスにしてみりゃ、USBを引っこぬくくらいの気軽さで取り上げるものかもしれない為まだ迂闊には逆らえない。

 

 「神の啓示により、です。我々は死を恐れません。主命が下されたならば、我等は喜んで殉死をいたしましょう。それが世の安寧と平和に繋がるならば」

 

 「オカルトかよ」

 

 誰かが言った。正直俺もそう思う。どう考えてもオカルトです、本当にありがとうございます、だ。だがしかし、カルトはカルトでも、目の前に存在するオカルトなのだからしょうがない。

 

 「よろしい。義勇軍、エンパス教の僧兵達にかの二国を任せるとしようか」

 

 「よろしいので?」

 

 止めるような一声がかかったが、手を軽く振りいなす。大言を吐いたからにはやらせ、ミスをしても帝国軍に被害はない。たかが外部勢力、状況によってはリスム支配の為に後々叩き潰す可能性すら出て来る。敵国との戦いで、その戦力が削れれば上等。情報も集めることもできる。そんな、腹積もりだろう。

 

 「そこさえ片付いてしまえば、残るは反乱軍と北部の小さな自治州。ランザ=ランテを追い詰める為の良い一手にもなるであろう。レント君、君が言う平和と安寧の為の覚悟がどこまで本物であるか見極めるとしようか」

 

 「恐縮です。その代わり、我等は傭兵でもない外部勢力。食料や物資の融通はお頼み申し上げます。後は占領後や基地防衛の手は流石に足りません。矢面に立つのは我等ではありますが、帝国の援兵がいないと流石に厳しさもあります」

 

 「兵站管理こそ軍部の基本にして得意分野だ。兵の配分も、考慮しよう。君達が十全に働けるよう支援をしようじゃないか」

 

 「それを聞けて安心しました。主より仰せつかった言葉を、伝えることができなによりです。この世から、早く悲惨な戦争行為が無くなるように粉骨砕身、身を捧げます」

 

 一礼をしてから、その場を後にする。細かい打ち合わせは信者で得意なものが当たる為、こちらで考えるべきは人選か。

 

 最初から犠牲にするつもりの者達はリスムの巨人事件で、失っても構わないバリエーションは対連合王国相手に威力偵察としての捨て駒として使用した。ここからは、ちょっとは惜しみたい。なんせ人手はあるにこしたことはないからな。

 

 せっかく集めたハーレムでもあるし……

 

 「そういえば」

 

 ふと、気づいて足を止める。そういえば、ここ最近は誰かを抱いた覚えがなかった。そりゃ前と比べて多少は忙しいが、ただの性欲発散で女を使用していない。

 

 「だよな、やっぱり」

 

 冷静に思い返してみると、テンを抱こうとしたらあのざまですっかり萎えてしまったあとだ。あれ以降、ムラムラきても誰かを抱こうなんて気分もおきずに自己処理ですませていた。

 

 テン以外を抱きたいと最近は考えたことがない。だがそのテンに、勘違いから父子の情を向けられてしまえば萎えてしまい行為に及ぶことができない。完全にデッドロックの状態だ。

 

 「まさか、今更な」

 

 情でも沸いたとでも、それとも惚れたなんて言い出すつもりか?どうせ人間は獣だ、愛情だの恋愛だのに振り回されるお遊戯は、楽しいものであるかもしれないが俺は二度とごめんである。

 

 むせ返るような気分の悪さに襲われたが、こういう時に思い出すのはあの時の顔だ。ほしかったものに包まれているのにも関わらず、絶望して豚のように喚き散らすあの女。思い出すだけで胸がすくような思いである。どうせ人間は獣、そう確信できるからそれだけでもやって良かったと心が落ち着く。

 

 「異世界でもできる精神安定法。復讐とその結末を思い浮かべることは、なによりも心が落ち着きますよってか」

 

 だからこそ、テンとランザの繋がりがいけ好かない。男女の関係はそんなものだが、父子の関係は?違うと俺は思いたい。戦国乱世じゃあるまいし、いくら養子とはいえ父と子であんなにグダグダになる関係性があってたまるか。

 

 とは言っても、親ガチャなんて言葉もあるくらいだ。かつてとある映画のキャッチコピーのせいでSNSが炎上騒ぎになったことだってある。現実には虐待を代表しすれ違いはおこりえることだと分かるが、それでも男女の関係より、少なくともマシであると言えると俺は信じたい。それを踏みにじる奴は取り合えず死んでも良い。テンのこともあるからランザ、お前はなおさらな。

 

 「これも、お前を追い詰める確実な一手だと信じておくか」

 

 エンパス教の神殿なんていくらでもぶっ壊しておけ。いずれ相手してやるから、せいぜい竜の力とやらで粋がっていれば良い。待っていろ、必ず追い詰めて殺しておくから。




 waifulabsという画像精製AIを試してみました。
 予想はしていましたがやはりというか、なかなかイメージに近いものは難しいですね。
 取り合えず、獣耳も無ければオッドアイでもないですが、イメージに一番近かったクーラを貼ってみます。
 あくまで挿絵代わりということで、お一つどうぞ。


【挿絵表示】



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 大陸北西部に位置するオルレント自治州。

 

 同じ自治州であるリスムとの大きな違いは、海洋資源や貿易路を主を活用するリスムと違ってオルレント自治州の主な産業は地下資源、鉄鉱山や銅鉱山、そして硫黄や炭鉱の類である採掘産業に支えられているところだった。

 

 リスム自治州程ではないが、輸出に際してそこそこの外貨を獲得できていたが、自治州民達は危機感を抱いていた。リヴァイアサン討伐から続く連鎖反応。グロルダール公国という、分かりやすい滅亡国家をリアルタイムで見て来たが故である。

 

 ダイヤモンドという、希少でありながらも実生活にはなんの役にも立たない資源と違い、幸いにもオルレント自治州の輸出品は生活に深く関わる鉱山資源だ。特に、硫黄は使い道も多く炭鉱は特に北の大地には必需品である。仮に帝国との貿易が完全に切れたとしても、即座に金融危機はおこらないだろう。

 

 自然からの成果物を売る第一次産業だけでは行き詰る。目指すべきは二次産業の確立だ。

 

 農業、漁業、林業と違い高度な道具と採掘知識が必要な鉱業は二次産業に分類されるが、肝心の採掘した資源を加工する術は先進国には劣っていた。

 

 帝国、連合王国、同じ北国であり鍛冶の国と言われていた後アブソリエル公国に技術留学生を派遣する為の計画が進行中であった。少々遅きに失した面はあるが、平和な世の中が続けば紆余曲折はあるものの帝国に呑まれないまま上手く産業革命を並みをおこせた可能性もあっただろう。

 

 だがしかし、帝国と連合王国で戦争がおこってしまった。連合王国から参戦打診は以前から来ていたが、オルレント自治州の代表は参戦に対しては消極的であった。あくまで、連合王国側に対しての好意的中立。国力の大半が型落ち品の輸入品で固めた自治州軍では、とても帝国相手に勝ち目はない。

 

 戦争は避けなければならないが、日和見の中立に徹するのは難しい。しばらく前から、帝国には採掘した輸出物が買いたたかれているし南大陸から来る良質な資源のせいで自国の資源価値が落ちた。通貨の信用度も下落している。日に日にひもじくなる台所事情を助けてくれたのは同じ北国である後アブソリエル公国であったからだ。

 

 公国は適正価格で鉱山資源を買い取り、更には技術顧問の派遣も融通してくれた。それでも親帝国派も国内にいる以上性急な参戦はおこらない。もう少し、状況を見極めてからと時間稼ぎを自治州与党は人脈を駆使していた。

 

 だが大問題がおこる。半獣と中心とした亜人の軍団。三流装備のこちらよりも寄せ集め以下の人員と装備で構成された組織があろうことか帝国軍であのビックネームである竜狩り隊を撃退してしまったのだ。

 

 雪焼けと、鉱山採掘で常に薄汚れたような身なりに見える自治州民は、帝国市民には格下扱いされていた。意識した差別ではなく、自然体の区別としてだ。だが同じような扱いの半獣が、お得意様でもなくなった憎たらしいだけの帝国に吠え面をかかせたとあったら、民衆には痛快極まりない。

 

 世論にも押されて、自治州代表は参戦を決意することになる。連合王国からはあくまで護りに徹することで、上手く帝国軍の一部を引き付け他勢力の支援を優先するように指示がだされていた。

 

 「ッてええええええ!」

 

 砲撃音が響き渡り、地面に着弾すると同時に人体の一部が宙を舞う。敵重砲の威力と射程距離は凄まじく、自治州勢力に抗う術は乏しい。

 

 参戦したというのに、連合王国からは消極的支持がおりる。それだけでも士気が下がりそうなものであるが、オルレント自治州の攻撃能力もたかが知れている。大戦初期に、奇襲攻撃である宣戦同時攻撃を行ったがあっさり返り討ちにあうくらいの体たらくであった。

 

 砲撃が終われば、銃剣をつけたライフル銃を持つ帝国の歩兵師団が突撃してくる。開戦初期の熱狂はどこへやら、反撃もできない程の長距離砲撃を連日続けられ、ノイローゼをおこしたり睡眠時間もロクにとれなくなる等兵士達の間では早くも厭戦気分が広がっていた。

 

 「砲撃がやんだぞ!塹壕で迎撃準備だ!」

 

 さりとて、逃げても背中から撃たれるだけだ。この防衛線を抜かれたら、銃後にいる人々の生活区が脅かされてしまうだけにさらに逃げられない。塹壕に並んだ兵士達の表情は、すっかり疲弊していた。

 

 帝国兵の姿が視認できる距離まで肉薄されるが、銃器の精度は向こうの方が高い。こちらから下手に反撃しても有効射程距離外な為弾の無駄だと無駄射ちは禁止されていた。

 

 後アブソリエル公国から技術顧問が派遣されたといっても、自治州産の新型ライフル開発まで間に合わなかった。工作機械の品質向上や職人達の技術向上は、早々に成果が出る程容易い話ではない。

 

 ようやく帝国兵が、こちらの有効射程距離まで詰めてきた。反撃の狼煙があがろうとした瞬間、巨大な火炎の塊が塹壕の背後から飛ぶ。

 

 球体の火炎は空中でその姿を巨大な蜥蜴の群れに変え散兵と化していた帝国兵に着弾。周囲を舐め尽くすような炎が、地面に広がり敵兵を薙いだ。

 

 一人の人影が塹壕を飛び越える。生物的な鱗が張り付いている中折れ式の散弾銃に弾丸を込めながら、戦闘用のコートを着た男がまるで散歩でもいくような気軽さで歩いた。

 

 「なあ!アンタ!そんなところで棒立ちはまずいって!」

 

 なにがあったか分からない。突然目の前でぶち負けた油に火をつけたような火炎がおころうが、この風変りな男がおこしたことだとは考えられなかった。誰かはともかく、そんな風に戦場で無防備に立っていれば危ない。至極常識的な判断として、男の背中に声をかけた。

 

 「問題ない。それより、エンパス教の尖兵は敵に混じっているか?」

 

 「はぁ!?知るか!とにかく早くこっちに来い!」

 

 「あれだけ挑発してやったんだがな。北部は重要視されていないのか?まあ良い」

 

 腰から古臭い剣が引き抜かれる。そこらに叩き付ければへし折れてしまいそうな、骨董品が砲弾と銃弾が飛び交う戦場では時代遅れを通り抜けて酷く滑稽なものにも見えた。

 

 「いないならいないで良い。だが、いるなら引きずり出してやる」

 

 男が走り出す。広範囲に広がり地面を焼く炎に少々混乱気味であった兵士達も、流石に単騎突撃してくる奇怪な男に気が付かない訳がない。

 

 「アイツだ!」

 

 対応が早い者から、銃弾が放たれる。無残にもハチの巣になるかと思われた男が、その骨董品を振るった瞬間大量の火花が散った。

 

 蛇のようにうねる太い血菅、それに繋がれた金属には見えない骨のような大量の刃。凄まじい射程を持つ刃が無造作に振るわれる度に、帝国兵の胴体や下半身が泣き別れる。そしておぞましいことに、噴き出る大量の血液をまるで血管のような部位から伸びた何かが吸い上げていた。

 

 血液を吸うたびに禍々しい刃がたけるように震える。そして、刃の一部、管が男袖の仲、内部にも伸びているようにも見えた。ドクンドクンと、脈打つ度に吸い上げられている。

 

 敵を殺す度に、刃が伸長し男の動きも増しているように見えた。まるで、惨殺された帝国兵が贄となっているようだ。

 

 「なんだ、あの化物は」

 

 「化物とは酷い言い草だねぇ」

 

 前方に集中していたら、急に背後から、いや耳孔のすぐ近くから息がふきかかる距離で声をかけられた。まったく気が付けなかったが、首筋に冷たい刃が押し付けられるまで身の危険というものを感じられなかった。

 

 「せっかくアンタ達を助けに来たのにさ。もののついででは、あるけどね」

 

 「は?」

 

 「せめて援護射撃くらいはしてあげないと。たった一人に負担を背負わせるのはどうなの?なにもしないなら、必要ない人員は資源の無駄だよね。殺しておこっか?」

 

 「あー!馬鹿やめろ馬鹿!なにしてくさってやがんだお前!一応友好関係勢力の兵士だ馬鹿!やめてマジやめて色々こじれるから!」

 

 塹壕の連絡通路をバタバタと見慣れない集団が駆けつけてきた。統一感がない服装ではあるが、その腕には鹵獲品と思わしき帝国式のライフル銃が握られ、揃いも揃って頭の上から特徴的な半獣の獣耳がひょこりと突き出している。

 

 先頭にいた男の声掛けに、背後の気配は鼻で笑ってから距離を開けた。慌てて後ろを振り返ると、片手で歪んだ形状のナイフを手元で弄んでいるのはまだ子供であった。ひとまず危機から抜け出したことに、駆け付けてきた

 

 「俺達は帝国に対して反旗を翻した解放戦線のものだ。連合軍と組むアンタ等を助けに来た」

 

 「じゃあお前等が帝国北部で、街一つぶっ壊すまで暴れたっていう…」

 

 「微妙に情報が誤っているみたいだがまあ今は気にしねえ。今うちの大将が、敵の指揮官をぶっ殺しにいってるから指揮系統が乱れた反転攻勢をかける。その時はアンタ等も一緒に…っておい!」

 

 「まどろっこしいから先に行くよ。誤射で背中を撃つ奴がいたら必ず殺す」

 

 小柄な子供が、制止を気にも留めず戦場に飛び出していく。声をあげていた半獣がクシャリと前髪を抑えながら唸り声をあげるが、この際仕方ないとばかりにため息をついた。

 

 「何時ものこととはいえ協調性もクソもねえなぁ!ガキ一人だけで向かせられるか!ウェル助は残ってみんなの指揮!後は死ぬ覚悟がある奴だけ遊びに行くぞ!ええいくっつかねえなコレ!」

 

 腰から銃剣を引き抜いてガチャガチャと組み合わせようとしたが、上手くいかないのか断念。結局指揮棒のように振り回しながら何十名かで突撃していく。帝国の歩兵師団相手に塹壕から飛び出して銃剣突撃しに行くといのに、誰もが死や敗北を恐れてはいない、あの人外じみた男の背中目掛けて駆け出していく。

 

 「馬鹿みたいでしょう」

 

 「あ…おう?」

 

 「敵が来たら飛び出して、矢面に立って暴れまわる。うちの大将は軍の指揮なんてやったことがないからーってさ。んでみーんな飛び出す、みーんな暴れまわる。そんで、何時も最低限お留守番する係が必要だからって俺が残される。泣けるよなー」

 

 世間話でもするようにガチャガチャとライフル銃を弄る。慣れた手つきで着剣をし、何時でも突撃できるように準備を進めながら話しかけられた。その目は、滾る闘志を必死に抑えているように見えた。

 

 「ま、後で文句垂れられないように援護射撃くらいはしてやろうや」

 

 ライフル銃を構え、男の目が鋭く引き締まる。そいつは、羽が生えている訳でもないのにまるで猛禽類のような鋭い眼光を敵に向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ええ、今回の戦いを凌ぎきることが出来れば反転攻勢の機会が巡って来ます。今私の仲間達がその為の工作を進めている。北部街道まで抑えることができれば、我々の連携効率及び物資の受け渡しも想定以上にスムーズになるでしょう。後アブソリエル公国との分断も解消される」

 

 オルレント自治州指令本部にて、今となっては珍しいエルフが大陸地図の北部を丸で囲む。

 

 「地形的に孤立したからと言って、悲観することもないでしょう。帝国の北部分隊、殲滅してまずは現状を打破しましょう」

 

 「とは言うものの、我等オルレント自治州にはもうそこまでの力がない。貴公等が幾度か帝国の侵略を跳ね返したのは確かであろう。援軍も助かる。だが最早厭戦気分が自治州民にも蔓延してしまっては…自治州政府からも停戦や降伏を打診している」

 

 「エルバンネ殿。帝国軍は最早我等の自治州とは目と鼻の先だ。開戦には乗せられてしまったが、今ならば不必要な混乱と暴力が巻き起こるのを防ぐことができる。申し訳ないが、ここで援軍が来たとしても街道を確保する余力はない」

 

 「北部分隊の殲滅とは言うがね、それこそ大言壮語ではないかね?援軍に来てくれた貴公等を侮ることは言わんが、たかが一解放勢力が加わっただけで、そこまでのことが可能と言えるのかね?エルバンネ殿」

 

 後アブソリエル公国の後ろ盾があったからこその参戦ということもあろう。主要な街道を制圧され、難所に値するような道しか使えなくなったとなればこの意気消沈具合も分からなくはない。

 

 だがオリエント自治州に早々戦線離脱されれば、こちらとしても困ることが大きい。資源に限りがあり資源に乏しい北の大地では、同じ対帝国の戦線を結ぶ国からの援助がないと何時までも戦いを続けることは不可能だ。

 

 鉱山資源以外は貧乏なオルレント自治州にそこまで期待はしていないが、戦線を安定させ後アブソリエル公国やアレト共和国。そして連合王国への安定した供給路を確保しなければ戦い抜くこともできないだろう。

 

 「たかが一解放勢力、と言いましたでしょうか?」

 

 「そうであろう?なにか問題が?」

 

 「その一解放勢力が、帝国の竜狩り隊を始め幾度も帝国軍を跳ねのけたのをご存知でないとは言わせません」

 

 周囲に沈黙が広がる。半獣達の解放戦線は、ハボックの街を拠点とし少しずつ要塞化を進めながら幾度か帝国軍の退き続けていた。大砲の扱いには四苦八苦しているものの、そこら辺の下手な自治州勢力や傭兵よりは戦力としてまとまっていた。その中心は、やはりあの男だろう。

 

 ランザ=ランテ。奴は解放軍を拠点に定めエンパス教を待っていた。時折遠征しているようだがその成果はあまりあがってはいないようだ。

 

 ガランに乞われて戦っているのも、足場を定めるのに丁度いいのだろう。こちらとしても残留を希望した身だ。半獣達が数が多い為、意見や方針の一極化を避ける為に悪竜の後継者を頭におけるならば悪くはない。幸いとは言えないが、奴を深く憎しみ怨みを溜めていたエルフ達は、ハボックで敵の謀略に利用され死んだ。

 

 「心配は無用です。我等には、竜がついておりますゆえ」

 

 奴とは色々あったが、それでも今は心強いのは確かである。指導者が最前線というのは些か思うところがあるものだが。

 

 「まずは、押し寄せて来る帝国軍を撃退しましょう。我等には、いえ彼にはその力があります」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手に馴染む。

 

 右手に握られた骨董品は、ずっとあのジークリンデの依代のような役目を担っていた。いくら元の物がガラクタ同然であったとはいえ、その悪竜の力との親和性が非常に高い。

 

 そのうえ、この戦場という環境。殺せば殺す程に贄という存在を感じることもできた。少なくとも、体力が尽きる気がしない。試したことはないが三日三晩戦い続けても問題なく身体を動かせそうだ。

 

 遠くで大砲が放たれた音が聞こえた。飛来してくる砲弾に、散弾銃を向ける。

 

 帝都事変にてジークリンデが、悪竜の本性を現した時にその体内に取り込んだ散弾銃は以前のものとは別物だ。似て非なるようなものではあるが、その散弾銃は魔具と呼べる代物にまで昇華している。

 

 俺自身、そちらの方面での才能は皆無であったが今の俺にはそれを補う存在を支配していた。

 

 ウェンディ=アルザス。魔法使いの末裔。魂こそ貪り吸収したそれは、まるで臓器の一部から生成される栄養素のように魔に連なる力を充填してくれる。力を行使する度に、脳内で面倒そうなボヤキ声が聞こえるがそれに目をつむればその力は便利なものだ。

 

 散弾銃の銃弾が。飛び散る鉛の一発一発に火蜥蜴が巻き付き自立しながら飛来する砲弾に直撃する。衝撃で火炎で砲弾は空中で爆散し、無意味な衝撃を宙で巻き上げるのみであった。

 

 ライフルの射撃音が側面から響く。対応しようとした瞬間、泣き別れをした帝国兵の死体が持ち上がり弾丸の盾となった。よく見れば、浮かび上がった身体の一部に細い影が巻き付いており、盾の役目を果たした死体はゴミのように放り投げられる。

 

 「ランザ」

 

 「まったく、飛び出して来るなと何時も言ってるだろうが。お前は俺と違って、便利な身体じゃあないんだから」

 

 影がシュルリとクーラの足元に戻っていく。コボルトのシャーマンが使う秘術であるらしく、一子相伝であるらしいのだが根気よくお願いしたら快く教えてくれたらしい。まあ、殺生能力という点では本人曰くまだまだであるようだが応用力が効くようで重宝しているようだ。

 

 ハボックの街から掘り返したブーツに寒冷地には似つかわしくない身体に張り付くようなホットパンツ。上半身には革のジャケットを羽織っているが、丈の短い腹部を露出するようなシャツを好んで着用するようになっていた。なんでも秘術を扱うには、可能な限り露出をした方が良いらしいがどこか言い訳のようにも感じていた。

 

 どちらにしても、あまり寒冷地には似つかわしくない薄着に少し心配になるが本人曰く体温が高く問題ないらしい。クーラの潰れた瞳も、ジークリンデのものが宿っている。俺と同様、身体に変化がおこっていると考えても不思議ではない。

 

 「ふぅん…そんなこと言うんだぁ」

 

 片目を眼帯で隠しているが、その裏側にある眼光がにまりとほほ笑んでいるような気配を感じた。ジャケットの裏側に仕込んだ仕掛けを作動させ、バネ仕掛けにより小型の投げナイフが四本指の間に挟まる。

 

 側面すら見ずに投げたナイフが、第二射を放とうと弾込めをしようと伏せようとした帝国兵の額に突き刺さる。無造作に放り投げたように見えるが、気配を判別して投げつけたようだ。器用なことをするものだが、その分裏では血のにじむような努力を続けていたのを知っている。指先のタコと酷使されたボロボロの爪がそれを物語っていた。

 

 「戦争を言い訳にして離れようとなんて許さないよ。ランザが行くところまでなら何処までも行く。自分から逃げようなんて、離れられるなんて思わないことだよ」

 

 逃げようなんて考えたこともないのだが、クーラには戦争を理由に離れることすらそういうように見えるようだ。ジークリンデの死に際で放った言葉。そしてあの夜に言い放った宣言以降からずっとこの調子だ。

 

 「ガラン達がすぐ駆けつけてくるよ、どうする?」

 

 少し不服そうな顔をクーラが浮かべる。恐らく何時ものように飛び出したクーラに続いたのだろうが、もう少し援護射撃に集中してほしいところだったのだが。

 

 「まだそこまで敵を蹴散らしてはないんだがな」

 

 「じゃあランザ、こういうのはどう?ちょっとデートしに行こうよ、デート。二人でさ」

 

 こちらの腕を掴み頬をすりつけてくる。袖についた返り血が頬につくが気にしているような様子はない。

 

 「戻れって言っても、聞かないだろうな」

 

 「まあね。自分はあくまで自分がやりたいようにやるからさ」

 

 「残して無茶されても困るし、しょうがないか」

 

 一歩地面を踏みしめて歩く。歩兵を潰し続けてもキリがない、味方前線の負担を減らす為にもう少し暴れてからいこうと思ったが、こうなればこちらはロウザ達に任せて早めに頭を潰しに行くか。

 

 ジークリンデから悪竜としての力を継承していたが、元々人間だった俺には過ぎた力だ。瞬発的には殲滅力と戦闘能力は飛躍的に上昇するが身体が慣れていないのか多用しすぎると後々に堪える。おかげで、エンパス教の襲撃と挑発もここ最近は自重せざるえなかった。

 

 次弾の砲撃が飛んで来る。砲弾の直撃を避けて、土煙から抜けた頃には人妖としての変異は完了していた。

 

 四肢は柔毛に覆われ、体躯は悪竜とタメを張れるくらいには巨大化する。ガスパル曰く、この人妖としてのルーツは、遥か昔にハティと呼ばれた災害から逃れる為に月を目指して旅をした狼であるという。

 

 月を目指すという話から、テンが現れた時に浮かび上がっていた蒼白い満月を思い出す。この繋がりは、ある意味では皮肉なものだ。テンへの復讐に一度心の中で区切りをつけた今ですら、こうしてエンパス教に囚われた彼女を追いかけているのだから。

 

 背中にはクーラがしがみついている。これから敵の陣営に殴り込みにいくというのに、それをデートと称する辺り恐怖のブレーキが壊れてしまっているのか、それともそう自分を鼓舞しているのか。

 

 だが、自分の人妖としての特性か共に戦うものが、護る者がいる戦いの方が力がでる。手前の都合だけで考えるならば、どこまでもついてくるこの子を背負い戦うことは悪くない。

 

 なんだかんだ、甘えているのは俺も同じかもしれないな。

 

 敵の陣営が見えてきた。攻勢だけで終わると考えていたのか塹壕はない。柵で囲まれている、貧弱なものだ。

 

 ライフル銃兵が横並びに構えており、こちらに狙いをつけていた。背中から、以前ジークリンデに埋め込まれた連結刃を露出させる。ここからは、食い散らかせてもらう。



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 「まるで呪いです。見てていたたましい」

 

 深雪の山脈、コボルト達が護る霊峰の奥底にある火竜の神殿にて、小さな子供が複雑そうな顔をしていた。赤々とした灯りに照らされた子供の影はその体躯に比べてかなり巨大であり人外のシルエットを映している。

 

 「でもそれを僕がどうこう言う資格はない。そう、言いたいのですか?ガスパル」

 

 「元々きっかけなんぞゴロゴロと転がっていたんだ。ランザ=ランテがどうなろうが、ジークリンデがどうなろうがアンタが気に病むような話じゃない。引きこもりのアンタにはな」

 

 コボルト達が常に見張っている霊山の奥底。火竜の神殿にてガスパルは、まるで近所の友人に出会うくらいの気軽さで訪れていた。

 

 神、悪魔、竜が三竦みをしていた時代。互いに互いを敵視をし、時に天変地異に近い殺し合いを繰り広げていた者達の再開の意味を理解する者はこの時代では少ない。それは、侵入に今更のように気づき、駆け付けたもののランドルフに留められた古い時代を多少は伝承として知るコボルト達も含めてであった。

 

 「それよりも寿がせてもらおうか。新たな世代の悪竜誕生を、悪魔の立場からな」

 

 「人の器に注ぎすぎです。貴方も、ジークリンデも何故そこまで彼に負担を強いるのですか。時代遅れとなった過去の神話が、今世に出たところで混乱の元になるだけではないのですか?」

 

 「お前が言うかね。奴にその負担を負わせたのは同じだろうに…まあそれは別にいい。さて、こちらとしたらそんなバランス感覚なんぞ考えたことすらない。というか、そんな面倒なことを考えているのはお前くらいじゃないのか?それにだ、エンパス。アイツを除かなければ隠居老人にすらなれねえだろうが」

 

 「ガスパル」

 

 ゆったりとしたローブを着た少年が腕を上げる。細く生白い、少しの力で折れてしまいそうな腕が泡立ち変化をする。赤黒い鱗に五本の刃物と化した爪、変異はローブの中で肩まで続き頬まで侵食する。顔面の左が耳まで大きく裂け牙を除きその隙間から炎が溢れだした。

 

 「後アブソリエル公国でなにをしているのですか。この北国を戦地に変える為に暗躍をしているのは知っています。北の地に戦乱を持ち込むのは、可能な限り避けてほしいのですが」

 

 「ははは、おっかねえ。火竜様は未だ健在か」

 

 「質問に答えなさい。要望に応じないなら用事はない。ならば、今日は久しぶりに悪魔焼きを楽しむのも良いかもしれませんね」

 

 火竜の腕が一振りした瞬間、床を蹂躙するような火炎がガスパルに向かっていく。炎が突如、津波のように高く広がり面となり迫った。逃れることはできない炎の壁が、ガスパルに災害となって襲い掛かる。

 

 「単純な話じゃねえか。昔から何時もそうだろう?神は時代を留めようとし、悪魔は時代を進めようとし、竜は俺達の存在が邪魔であり、どちらにも殺し合いを仕掛けてきた。今もそれは何ら変わらない。エンパスは時代の停滞を、ランザは私的な理由で殺し合いを仕掛けている。俺は俺で悪魔として啓蒙をしてやるだけさ、新時代に向けてな」

 

 焼野原になった神殿の一角。だがそこには丸焦げとなっている筈の悪魔はいなく、神殿の柱に腰をかけていた。礼服についた炎を軽く手で払いながら、ダメになった裾を見てやれやれと肩をすくめる。

 

 「その新時代には、いったい何人が犠牲になるのですか?人間だけじゃない。動物も、植物も、昆虫も、もしかしたら海の生物まで。面白半分で命を踏みにじる権利は貴方にはない筈です」

 

 「アンタがそれを言うかね!ランドルフ、ボンペイ一つを壊滅させる為にそれより遥かな犠牲を強いたアンタが!エンパスに責められるのはまあ腹が立つが百歩譲って良しとしよう!だがアンタにだけは言われたくねぇなぁ火竜…いや、もっともおぞましい存在よ」

 

 ガスパルの目に浮かぶのは嘲り。それは、純粋な悪意と言うよりは、発言とはもっとも矛盾した内容の抗議をする存在に対する滑稽さと皮肉が混ざっていた。

 

 「なあなあにしてきたケリだが、今こそつけるのも良いだろう。エンパスと、ランザと俺の三竦みとしてな。引っこんでいるのが好きなんだろう?ならあんまり噛みつくなよ」

 

 「僕はここから動けない以上引っこんでいるしかないんですがね。ただ、貴方もここから生きて出られるとは思わないことです」

 

 「正気か?ひっきーのアンタじゃエンパスは止められないぞ?それとも、ランザの野郎に全部押し付けるか?俺がここで死んだらそうなるが」

 

 「役目を押し付けたのは貴方です、貴方だけには言われたくはない!ガスパル、貴方は乞われれば知恵を与える性がある悪魔だと言うことは知っています!ですが、何故それ以上にテンという存在に固執したのですか!暇つぶしくらいの動機であるのならば、その干渉は程度を越えています!」

 

 「程度か」

 

 柱の上で立ち上がり、ガスパルは尻を軽く払う。パラパラと小石が地面に、そして背後の遥か下である溶岩溜まりに落ちて行った。

 

 腕を軽く振ると、その手には手品のように何時もの薄汚れた上着が出現した。高級な外交官が着るような衣服の上にそえを躊躇なく羽織り袖を通す。その顔は、やはりこれじゃないとやる気がでないとでも言いたげな満足そうな表情であった。

 

 「俺は人類の進歩が好きだ。最初期の連中が火を扱い始めたのを見て、昔の先代達は興奮したらしいが気持ちは分かる。人妖ってのもそうだ、本質は火と同じ。先駆者が危険を顧みずに使用したと思えば、いつの間にか普遍的なものになっていく。例えば、人類全員人妖化がおきればどうなると思う?既存の技術、文明、歴史、国の荒廃を招くかもしれない。だがそれ以上に人という種の進化とも言えるんじゃないか?テンとランザに俺はその可能性を見出した。連中は、歪みつつも人の器を超越したとも言えるんじゃないか?」

 

 「大言壮語を。人類全ての人妖化等…」

 

 「すぐには無理だろう。それこそ何百年かに近い準備が必要不可欠だ。だが、それだけにやる価値はある。俺は進歩が好きだ。だが技術や創作等あらゆる分野が例え荒廃したとしても、国や歴史に文明が幾つか消失したとしても…人間が次のランクにあがるとしたらやりがいがあるだろうが」

 

 「そんな混沌とした世界に意味があるとでも言うのですか」

 

 「ある」

 

 小汚い上着の中から鎖が数本飛び出す。鞭のように振るったそれは、石柱を数本なぎ倒しながらランドルフに向かった。竜の腕でその一撃を防ぐが、本調子を出すことができない軽い身体にその衝撃は酷だったようであり、表情が苦痛に歪む。

 

 「お堅い神さん連中や世情に対して興味が薄いアンタ等には分からんだろうがね、良くも悪くも事態を大きく動かすのは環境の変化とそれに伴う変革だ。カッチリと固形化したもんを変えるのは難しい。大規模なパラダイムシフトが必要だ。それをおこすことで、二度と神の残党如きに好き放題させねえ」

 

 「そういう貴方は悪魔の残党だ。無理矢理な変化についていけない者達のことを微塵に考えていない」

 

 「それはこの世界の常だ。ビックファイブ、大規模絶滅は遥か昔から幾度もおこっていただろう?その度に既存の生物は種を変え形を変えて生存してきた。人類にもそういう転換点が必要となっただけの話だ。ついていけないもんは死滅するだけ。だが人類はそうならない、テンを見て来た俺はそう確信しているからな」

 

 「傲慢だ、神の行いもそうではあるが、貴方の行いも人は誰も望んでいないでしょうに。そして、その変革の為の一手めが、僕の命ということですか」

 

 神殿の遥か下、火山孔の溶岩が大きく荒れ狂う。北部にて局地的な地揺れがおこり、パラパラとあちこちから石の破片や岩石が落下した。溶岩から赤い気流が上昇し、ランドルフを帯のように包み込んでいく。

 

 「舐めるなよ若造」

 

 まるで間欠泉が噴出すように溶岩の一部が柱のように飛び散る。小汚いコートを幕のようにしてガードしながらガスパルは移動するが、勢いの範囲から逃れるのが難しいと考えたのか鎖を天井に向けて放ち上空へと逃げていく。

 

 下の神殿では、子供の身体がはち切れるのではないかと思うほどのエネルギーが集中していた。余波だけで燃え尽きてしまうほどの暑さには、熱だけではなく別の汗もかいてしまっている。

 

 「どうどう、抑えろ抑えろ。ランドルフよ、アンタはクールでいなくちゃならない。それに今は時期じゃない、近くまで来たから挨拶がてらちょっと様子見に来ただけだからよ」

 

 「なに?」

 

 「この北分戦乱地帯。俺はエンパスに招待状を送った。向こうも向こうで目論見があるらしくのってくれている。引きこもりの火竜さん、アンタが動けないって言うんだからわざわざこの北地にしたんだぜ?まあ、後アブソリエル公国が足場に丁度良っていうのもあるが」

 

 「貴様等の目論見で、この霊地を荒らすか。御しがたい狂神共め。やはり、世界にとっては神だろうが悪魔だろうが不必要な存在だ」

 

 「クソ真面目だねぇ昔から。ま、アンタはアンタでそこで待っていろ。前座の代役、そいつはランザが勤めてくれるだろうからな。んじゃ、さいなら。暑いところは苦手なんだよな」

 

 袖の鎖が伸びていき、ガスパルを包み込んでいく。火孔から噴出した溶岩がそれにぶつけるが、刹那のタイミングで間に合なかったのか影も形もなく消え失せた後だった。

 

 『ちっとは楽しもうぜ引きこもり。そんじゃお疲れさん』

 

 その言葉を最後に、ガスパルの気配は消える。ランドルフは大きく二回深呼吸をすると、腕にまとわりついた鱗が剥がれ落ちて地面に落ち、消滅する。荒れ狂いかけていた溶岩も、今更重力を思い出したかのようにドロドロと火孔に落ちていった。

 

 しばらく時間が立ち、神殿全体がなんとか元の落ち着きを取り戻したタイミングで様子を恐る恐る遠巻きにうかがっていたコボルト達に声をかける。

 

 「申し訳ありません、取り乱しました。どなたか、こちらに来ていただいてもよろしいですか?」

 

 睥睨するように頭を下げた一団から前に出たのは、コボルト達のまとめやくでロウザであった。ここから出る洞窟の穴から神殿まで続く、かつてジークリンデとクーラが激突した橋の中央まで歩き膝をつく。

 

 まだ余波の熱が残っているのか、ロウザの表情は重苦しいものだった。いや、熱だけではなく主と崇めている相手から放たれた初めて感じる殺気に身体も強張っている。

 

 「ありがとうございます。外の様子を教えていただいてもよろしいですか?特に、戦線の様子やランザさんにクーラさん、半獣の皆さんの様子も」

 

 「戦線を押され孤立していたオルレント自治州の増援に赴き、帝国軍と衝突しました。今朝前線基地であるハボックに届いた急報によれば帝国軍を撃退し、自治州の孤立を解消。ハボック、自治州、後アブソリエル公国へ効率よく移動する為の街道を抑えたようです。解放軍や半獣やエルフにその他少数種族達がランザ=ランテを旗頭にして結束しています」

 

 かつて帝国軍に霊山を踏み荒らされることを防ぐよう、昔この地に逃れて来たコボルト達と今ここに逃れていた半獣を護るように、ランザ=ランテには協力を頼んだ。

 

 だがしかし、その結果はランドルフ自身にも思いもよらぬ最後を迎えていた。あの我儘で気紛れ屋、自己中心的なジークリンデが思いもよらぬ行動をおこす程ランザに入れ込んでいたこと。そして、彼に悪竜としての存在を託しこの世を去ったこと。

 

 リヴァイアサン、あれが殺されたという話を聞いた時にも感じたことだが、それに続いてジークリンデまで亡くなったことで古い時代は終焉したのだということをつくづく実感したものだ。

 

 もうこの世界は人の世界。神だろうが悪魔だろうが、竜だろうがおいそれと邪魔をしていいものではなく、できないだろう。だがエンパスもガスパルも、数多の命を踏み弄ってもそのうえで自身の理想世界をかなえようと動いている。なにもできない、自分が歯痒い。

 

 「ランザさんとの面会は可能ですか?」

 

 「オルレント自治州から帰還する手筈にはなっています。使いをだしましょうか?」

 

 「よろしくお願いします。もしすぐにこちらにこれないとしても、最低限伝えたいことを伝える為一言そえてくれるとありがたいです」

 

 「……はい」

 

 ロウザの顔が更に強張った。竜を崇めるコボルトの一族にとって、ランドルフの言葉は絶対である。だがしかし、悪竜を継いだランザも彼等の教義に絡めるとしたら崇めるべき一柱と言えるのだ。だが内心は複雑だ、元が人間である存在が火竜の呼び出しを後回しにするような言動をとるならば感情的には腹立たしくて仕方ない。

 

 だが、主命は主命だ。その伝言をしかと伝える為、ロウザは静かに気持ちを押し殺した。

 

 「して、どのような内容でありますか?」

 

 「ガスパルに気をつけろ。そして、可能ならばエンパスを止めてほしいと」

 

 ガスパルの目論見がどうのようなものかはまだ分からない。だが、わざわざ招待状を送ったということは、少なくともエンパス配下である特異な者達を呼びよせる必要があるのだろう。

 

 淡い期待ではあるが、北上してくるエンパスの尖兵を早いうちに止めることができればガスパルの企みに頸木を打ち込むことができるかもしれない。あくまでも僅かな可能性であり、他人任せであるということに申し訳なさと歯がゆさを感じるが。

 

 「霊山周辺の護りも固めてください。必要ならばハボックの彼等と協力して。この山だけは、いかなる勢力相手にも踏み荒らされる訳にはいかない」

 

 「承知しております。我等の土地を護る以上に、この大陸の為に」

 

 「苦労をおかけして申し訳ありません。では、よろしくお願いします」

 

 頭を下げてから下がるロウザに続き、コボルト達が去っていく。

 

 いざという時は、僕自身も出なければならないだろう。そうなれば、限界を見極めつつ行動をしなければならない。昔の自分が怨めしい、こうなると分かっていればあんな無茶苦茶をしなかっただろうに。

 

 「いえ、過去を自罰をしている場合ではない。今は考えなければ」

 

 ランドルフは小さくため息をつく。そして、火孔上空。この霊山の頂上を見上げた。

 

 「僕もガスパルを責めらられない、結局貴方に押し付けようとしている。ランザさん、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」

 

 あのジークリンデが認めた人間に、少ならからず期待をしてしまうのは都合が良い話だろうか。すっかりクセになってしまっていた軽い自嘲を心中で噛み殺しながら、考えにふけることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「え?ランザさんにクーラちゃんですか?」

 

 ミルフは豆が沢山入った鍋をかき混ぜながら応じる。ハボックに残るエルフや半獣達への昼食だ。それにしても、豆は凄い。痩せた土地でもよく育つし、栄養もある。エルフ以外の皆さんには不評も良いところであるが。

 

 「なんだか、ハボックには寄らずに後アブソリエル公国に向かうみたいですよ。なんでも今度はあっちの方で帝国軍の攻勢気配があるとかで」

 

 「そうか、タイミングが悪いな。主より承たまわった急ぎの話であるのだが」

 

 「え?ランドルフ様から?それはまた、珍しいというか本当にタイミングが悪いというか」

 

 スープの味をみる。岩塩が効いていて喉越しの良い味が身体に沁みる。うん、美味しいと思う。

 

 「味見しながら言うな、大事な言伝で大切な呼び出しなのだ。お前という奴は昔からのんびりしすぎだ。取り急ぎの主命なのだぞ」

 

 「はぁ、すいません」

 

 だってランドルフ様の影って物凄く怖い。怖すぎて純粋に敬えないのだ。感謝も信仰もしているのは確かだけど、ちょっと私には恐れおおすぎるというかあまり近づいたことがないから雲の上の存在すぎて一周回って存在の実感がわかない。

 

 「致し方ない。すぐに後アブソリエル公国とやらに向かうとしよう。方角はどちらだ?」

 

 「ああ、それじゃあ半刻後に公国から融通してくれた物資が積まれた馬車が戻るみたいですからそれに乗り合わせてはいかがですか?」

 

 「人間に頼れというのか?」

 

 「どうせ先輩、公国の場所なんて分からないでしょう?それに歩くよりずっと早いんですよ、どうせカツカツなこっちから公国に送り返す物資なんてないですしね」

 

 ぐぬぬ、という表情を先輩が浮かべた。まあコボルトは人類との敵対種族扱いだしこちらも敵視をしている面はある。これが普通な反応だ。だが私はクーラちゃんに影術を教えている間ここに滞在しているうち、私は半獣のみならず同盟関係の勢力から来た人間とも多く接していた。

 

 向こう側からちょっと悪意や嫌悪感ににたものはあるかもしれないが、それでもランドルフ様やランザさんの背後に映る陰と比べれば遥かにマシなものだ。個人的には、すっかり慣れてしまった。

 

 「それじゃあ先輩、私もいくからちょっと待っていてくださいね」

 

 「なに?必要ない。というか、お前は部族のシャーマン。ここにいることじたいあまり歓迎できるものではない、山に戻り主のお力になるのが筋だ。余計なことをするな」

 

 「いやランドルフ様私の力なんてあてにしていないでしょう。それに、気づいたんです。山に閉じこもっていても力になれることなんてたかが知れている。それに先輩、後アブソリエル公国になんか言って本当にランザさん探せるんですか?山から出たことなくて、人間嫌いで、ついでに言えば公国の場所すら知らない先輩が!」

 

 「う…うむぅ。しかし……だが何故お前がそんなに気にするのだ」

 

 「クーラちゃんに着替えを持っていってあげようと思って。あの子色々無頓着だし、戦場に出たならば服もボロボロになる筈なので。あとお弁当!あの子偏食なんですよ!野菜食べないしランザさんも年長者なのにそういうのは無頓着だから注意もしない!冬場なんてむしろ、野菜類食べないと身体は悲鳴をあげるのに」

 

 クーラちゃんも最初は…いや今も怖いっちゃ怖いけどシャーマンの秘術を教えている間に気が付いたことがある。ああ見えてあの子も、年相応なところがまだあるみたいだし、時折それが零れ落ちて表情に出ることもある。

 

 それに、私には化物にしかみえないランザさんに凄い恋心で迫っている。年齢差とかそういう壁が色々あるみたいだけど、純粋に成就してくれれば良いなーなんて。

 

 コボルトは結婚相手を、親をすっ飛ばしてガランが決めてしまう。だから恋心なんてよく分からなかったしランザさんとクーラちゃんの関係は異質で気持ちの悪いものにもみえた。

 

 だけど色々慣れた今になってみていれば、なんというか…キュンキュンきちゃうのだ。年齢差も種族差も越えた恋愛という感情。私には到底無理な芸当だけど、なんだか応援してあげたくなっちゃうというか。

 

 最初は嫌々だった術の指導も、クーラちゃんの呑み込みが良さと熱心さもありまり最近は楽しくなってきた。私があの二人の仲を取り持つ一助になれるならばこんなに嬉しいことはない。

 

 ハボックに残っていた、半分焼けた本にこんな言葉があった。流石に半分焼けただけあってストーリーの全貌は分からないが、断片的な情報を抜き出して今の私の境遇と重ねると、どうやら『尊み』『押し』という感情らしいこれは。

 

 「お弁当は皆さんのお昼ごはんからちょいちょいと引き抜いていけばすぐにできますので時間には間に合わせます。それじゃ先輩、半刻後に南門で合流しましょう」

 

 「う…うむ」

 

 「ではいろいろ準備があるので後で。ああ、そこにいるとご飯を食べにくる半獣やエルフの皆さんに邪魔扱いされるからすぐに退いてくださいね!やー忙しくなるぞー!」

 

 調理場から先輩を追い出して、お弁当の準備をする。公国から物資が届いたばかりだし、ちょっとくらいちょろまかしてもバレないかな?

 

 「頑張るぞいーおー」

 

 この戦乱がどう転ぶかなんて分からない。世界の裏側でなにが暗躍しているかなんてもっと分からない。でも、自分がやるべくことは分かっている。

 

 押しの恋を応援すること!二人を戦いが終わった後でも前でもくっつけること!二人が死なないようにすること!

 

 こんな状況で言うべき言葉ではないが、楽しいのだ。今が生きてきた中で、一番楽しい。コボルトの境遇は分かるが、もっと外に出てこんな楽しみを見つけることができたらいいなと思う。

 

 だからこそ、頑張ろう。戦うことは苦手だけど、出来ることが絶対にある筈なのだから。



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 馬車に揺られながら風景を眺める。そういえば、霊山を出てこうしてよそ様の土地に行くのは初めてだなと、今更ながら思った。

 

 コボルトが北の地に逃れてからどれくらいの時が経ったのか。少なくとも、人間の世界ではコボルトは伝説とか伝承レベルの話らしいしかなりの時間が経ったんだろうなとは思う。

 

 「そんなにソワソワしなくても大丈夫ですよ。もういっそ伝令は私が伝えておきましょうか?」

 

 針葉樹の緑とちらつき始めてきた雪景色を見ながらそんなことをノンビリと考えてられる理由は、目の前に私よりも落ち着きのない存在がいるからだ。ハボックに来たことも無いというのに、そのまま他国まで行くはめになっている先輩を見ていると冷静になれる。

 

 「直接口頭で伝えるように、ロウガ殿の厳命だ。お役目を受けたのであれば、おいそれと他者に丸投げはできん」

 

 「そうですかぁ。あ、干し肉食べます?なにか食べた方が落ち着きますよ」

 

 「いらん」

 

 「まあまあ、遠慮なさらずに」

 

 コボルトの主食は各種鉱石であるが、食べられるというだけで好物という訳ではない。というか、食べられるならばまともなご飯を食べたいに決まっている。

 

 だが寒冷地な上に霊山周辺の土壌は火成岩に覆われたり環境のせいで痩せている。まともに農作物を作れなければ、狩りをしようにも獲物もほとんどいない。岩塩で味付けされた豆だけスープと大不評なメニューだが私にはあれでもご馳走である。

 

 それでもって、クーラちゃんのお弁当を作るついでにちょろまかして来たこの貴重な干し肉を先輩の顔の前で左右に振ってみる。目を閉じて腕を組み合わせ、むっつりとした表情を浮かべているがそんなのは見せかけだ。なんせ、鼻がひくひく動いている。

 

 「本当にいらないんですかー?」

 

 「いらん。二言はない」

 

 「ああ、そーですか。それは残念、せっかくの貴重なお肉なのに」

 

 目の前で魅惑のダンスを踊っていた干し肉は、強情っぱりな先輩の目の前を離れて私の口の中に放り込まれる。塩辛いとエルフ連中は文句を言うがこの行きすぎな塩気が良い。堅くて味気のないパンに挟んで食べたいくらいだ。

 

 「あれあれ?先輩なんですかその手は~」

 

 干し肉を食べる瞬間、我慢できなかったのか指が口先まで伸びてきていた。だがしかし、肝心の干し肉はもう呑み込んだ後になる。まったく、そんなしょんぼりとした顔をするならば素直になれば良いのに。

 

 なにを掴むでもなく、伸ばされた指がおずおずと引き下がる。怨めしそうな顔を浮かべているがこちらが責められるいわれもない。向こうもそれが分かっているのか、厳しい顔をしながら黙り込んでしまった。

 

 「お前、性格悪くなってないか?」

 

 「ちょっと色々ありましたもので」

 

 クーラちゃんに指導をする為に、半強制的に居をハボックに移すことになった。狭い洞窟内でコボルトのみならずエルフや半獣達が狭苦しく鬱憤が溜まる。明日をもしれない、何時帝国軍が踏み込んでくるかもしれない環境に心が休まることもなかっただろう。

 

 だが今は、廃虚と化したハボックの廃材をかき集め住処を作り、天幕を張り、寒いながらも毎日太陽と星を見れる環境で皆生活している。食料問題も街道の確保により解消しつつあり、なによりも今は分裂をしていた各種族が一つの旗頭にまとまっている。

 

 まだ先行きが不透明なのは変わらないものの、一時の重圧からは解放され皆に余裕がでてきた。そうなるとまあ、基本的には戦闘できる人間の七割弱は男性である。まあそうなると、悪意ない意地悪にセクハラにその他にその他にその他だ。

 

 半獣ともエルフとも、その他の種族とも違う犬面でもどうやらそういう対象にはなるらしい。まあ色々な経験をしたものだ。あんの助兵衛共ときたらまったく。そのうえクーラちゃんも、分かっちゃいたけど一筋縄ではいかない。

 

 『ミールーフー』

 

 記憶の中、ニコニコ顔のクーラが寄ってきたのを思い出す。ああいう顔をする時はなにかろくでもないことを考えている時の顔だ。

 

 『はいぃ…なんでしょうか?』

 

 『味見ではない摘まみ喰い三回。嗜好品の銀蠅二回。こっそり自分の分を増量すること数え切れず。いやあなかなか悪者だよねぇミルフも、でも最近ちょっとだけお肉がついてきたんじゃない?』

 

 『ははは、いやまさかそんなァ』

 

 お腹のことは自覚はあまりなかったし、クーラちゃんは適当に言ったのかもしれない。だが恐ろしいことに食事を多く摘まんでいたことはバレまくっている。ランザさんの近くにいたり影術以外にも基礎訓練を繰り返しているのにどうしてそんなところまで見に来るのかが謎だが。

 

 『食料を摘まむのは罰がある。当然、食堂で勤務はできないよねぇ』

 

 『ううぅ。証拠なんてない筈ですよ』

 

 『そうだね。今は証拠なんてないよ、今はね。でも、次ミルフが我慢しきれなくなった時現行犯にすることなんて簡単なんだよねぇ。最悪ハボックからあっちに送り返されるかも。嫌でしょ?それでさ、ここからが話の本番なんだけどミルフ、ちょっとお願いがあるんだけど……』

 

 お願い関係は八割近くはランザさんに関することであった。自分がいない間のあの人を観察してほしいとか、やれ付き纏いすぎると嫌がるかもしれないので偶然遭遇したようにセッティングをしてほしいやら。

 

 そんなことを続けてきたから、自然と応援する体になってきたというのもある。しかし、誘惑に負けた私が悪いとはいえクーラちゃんには既に大量の秘密を握られてしまっていた。あの子、元は諜報畑だなんてランザさんが言っていたけど秘密の握り方と脅しをかけるタイミングがタチが悪い。

 

 「私なんて、まだまだですよ」

 

 コボルトはその手の駆け引き等はしない。いや、他の種族や外との交流を絶っていたのでする必要がなかったという訳だ。私が先輩にした悪戯くらい、自分で言うのもなんだが可愛らしいものくらいである。

 

 「………ふふ」

 

 最近思うことがある。コボルトの遥かな祖先は自然開発が原因で人間に追い出されて引きこもりの生活を余儀なくされた。それは仕方ないことだとしても、何時までも引きこもっている生活等良くはないのではないか。

 

 現に世界情勢にはとんとついていけないし、帝国という巨大な敵がいるのに関わらず大半のコボルトは最初の危機以降は人間はおろか共同戦線を張ったエルフにも半獣にも干渉は必要最低限だ。エルフはどんなところで暮らしてきたか、半獣は私達とどう違うのか、人間にも交渉や譲歩により共存はできないのかすら一族単位で興味がないみたい。

 

 それに、コボルトの子供は、甘いという味すら知らない。

 

 小麦だけで作られたパンを食べてみたいし、クーラちゃんが話していたパンケーキなんてものも興味がある。海というものが南にあるらしいし、その先にある南大陸からは珍しいものが沢山運ばれてくるらしい。見てみたいものが、この世界には沢山ある。

 

 コボルト達がもっと協力的になってくれれば、種族間の距離を縮めることができれば、何時かはそんな日が来るかもしれない。そんな日を迎える為にも、出来ることを探していくんだ。

 

 「おい、どうした?」

 

 先輩の声が疑問の声をあげた。気づけば馬車は止まっており、御者が馬車から降りているようだった。気になって覗いてみると、道端で誰かが倒れているようだ。白髪交じりの黒髪に、元は白い布地であるようだが土と泥で薄汚れた姿をしている。

 

 「死体か?いや、生きてはいるみたいだな」

 

 「顔立ちからして異国のものだな。東方二十八ヵ国かその先か…東国の人間は顔が全部同じに見えるからよく分からないな」

 

 話が聞こえてくるが、どうやら死体ではないようだ。帝国が街道狙いで少数の部隊を割いて輜重隊を襲ってくるのではないかという話もあるらしいが、主要な戦地から離れたこの場ではまだその手の襲撃はないらしいが。

 

 「先輩、ちょっと行ってきます」

 

 馬車のふちに足をかけて飛び降りる。大柄でよく鍛えられた肉体を見るに只者ではない雰囲気ではあるが、顔面は蒼白であり指先が白く変色している。呼吸が苦しそうであり、多分吸い込む身体に吸い込む空気が足りていないんだ。

 

 気道、空気を吸い込む道が何らかの理由で狭くなっているのかもしれない。どちらにしろ、ここではろくなことはできないし放っておけば、この人はこのまま死んでしまうだろう。

 

 「すいません。この人、公国まで運んでも良いですか?ここではろくな治療もできません」

 

 やれるとしたら気道確保くらいだろう。それに、多少知識を齧っただけの私よりちゃんとした医者に見せた方が良い。

 

 「いやそれは断る。そろそろ良いか?馬車を通すのに邪魔だから道の端に寄せるんだ。邪魔しないでくれ」

 

 「端に寄せる?じゃあこの人は見捨てるんですか?」

 

 「こんなところでぶっ倒れている通行人なんて怪しすぎるし、スパイかもしれないぞ。それに、生き倒れを助けたところでメリットがない」

 

 「大陸北部はほとんど戦争状態です。そんなところで一人旅をしてきた人間が、ただの生き倒れと考えるのは難しい。ですがスパイならスパイで、拘束して情報を吐き出させればなにか帝国のことが少しでも分かるかもしれませんよ。少なくとも、このガタイの良さから考えるに只者ではない筈です。道中は私と先輩が見張っているので、なにとぞお願いできないでしょうか」

 

 馬車から先輩が「俺も?」とぼやいている声がしたが聞こえないことにする。

 

 「それに、東方風の顔立ちとなればもしかしたら連合王国側となにか関りがある人間の可能性だってある。だとしたら、同盟国の国民に対して同胞を救助したというアピールになるかもしれません」

 

 「だがそれでもリスクはある。悪いけどコボルトの、ここで短剣を取り出して胸に突き刺さないだけマシって考えもあるんだぜ。疑わしきは殺しておけ、なんせ今は戦争中だ」

 

 「戦争中だからこそ、むやみに殺さなくても良いのではないですか?どうせ毎日のように人が死んでいるんです」

 

 シャーマンとして役目一つは、戦士の魂に休息を与えてやること。先代から教えられていたことではあるが、それがどういうことなのかは先の戦いを通じて良く分かった。

 

 手遅れのものに介錯を与えてやること。苦しみから解放させてやること。つまりは、そういうことだ。それがシャーマンの仕事であり、人死にはもう可能な限り見たくはない。

 

 でも、最近思うことがあるのだ。もし戦争がずっと続いてしまえば、沢山の仲間を送らざるえなくなったら…慣れてしまうこともあるのではないだろうか。そんなことがないとは信じたいが、絶対にそうならないとも言えないのが怖いところだ。

 

 なにせ、沢山の死者がでた帝国や竜狩り隊との戦い。後半の方はもう残念だなと思う気持ちが思うのと同時に、どんどんと他者の死を落ち着いてみているのに気づいた。たった一日か二日そこらでそれなのだ、これが一年二年と続くようになったらその先は考えたくはない。

 

 そして、だからこそまだ助けられるかもしれない人を放っておくようなことはしたくないのだ。せめて助けられる命は助けてあげたい。例え、もしそれが敵だったとしても。

 

 他者を慈しめる綺麗な心じゃない。他者を慈しめるようになるための綺麗な心に可能な限り戻る為だ。この人を助けるのは、その為の我儘で偽善である。だが、そんな邪な気持ちでも助けたいと思うのは確かなのだ。

 

 「責任は私がとるなんて言葉は、無責任な発言かもしれません。ですが、ここは一つ手間をかけてもらえないでしょうか?お願いします」

 

 御者二人が顔を見合わせ、肩をすくめる。彼等だって、もっと心にゆとりがあれば生き倒れを端に寄せて終わりだなんていう真似はしないのだろう。そうじゃなければ、こんな説得で納得してくれるとは思えない。

 

 「おい、そっち持て。この爺さん筋肉あるからかなり重いぞ」

 

 「まったく、荷物積んでなくて良かったなおい。しっかりと面倒みろよ、途中で死んだらそいつ放り出すからな。流石に埋葬まで付き合ってられん」

 

 「ありがとうございます」

 

 生き倒れの老人を荷台まで運ぶ。今出来ることは呼吸を楽にしてやることだ。頭の位置を調整し、顎をあげるような形にしてやり少しでも気道を広げ息を吸いやすいようにしてやる。せめて、意識を取り戻してくれれば良いのだが。

 

 「なんというかお前、あんなふうに交渉できるようになったんだな」

 

 確かに、昔の私ならば一度反対された時点で諦めていたかもしれない。

 

 「揉まれましたから、外の世界にね。でも同時に自分自身を見失いたくないですから、それを含めてできることをやるんですよ」

 

 「……あまり、外の世界に触れるのは良くないかと考えていたが前言撤回しておこう。なにか手伝えることがあったら言ってくれ」

 

 先輩も手探りながら手伝ってくれるようだ。だから、頑張ってお爺さん。公国につくまでの辛抱だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手のひらに落ちた大きな雪の塊が解けた。山深い土地にある後アブソリエル公国は、冬本番に突入しているようだ。

 

 「噂には聞いていたけど…」

 

 深々と雪が降り積もり冷えた空気の中で、街のあちこちに張り巡らされた用水路から流れる水が湯気をあげている。霊山周辺にある温泉とはまた違い、これは単に熱に溶けた雪が温められてこの寒さの中湯気がでるくらいの熱をもっているだけだ。

 

 そして、決定的な違いといえば濁り色で黒っぽい浮遊物がポツポツと浮いているという訳だ。街の住民もそれを気にすることはなく、歩くのに邪魔な雪をその用水路に落として邪魔な雪を溶かしていた。

 

 そして、その水がどこから流れているかと言うと、アレだ。

 

 「連合王国の白亜の城、帝国の宮殿。二つの巨大建造物を見た後だと流石に驚かないだろうと思ったら、これは凄いな」

 

 後アブソリエル公国の首都トラウゼルは、山の斜面をくり抜いているように作られている。城というより、砦のような城郭は立ち並ぶ柱の奥が吹き抜けで見えており赤々とした炎がここからでも見えている。

 

 山の中腹に位置するこの区画でさえ、あちこちから金属を叩く音とふいごで風を送る音が響いていた。鍛冶の国とは名前通りのようであり、職人街なのだろうが他の国より規模が比べられない程でかい。これが中規模な国とは恐れ入る。

 

 「驚かれましたか。ですが、これが私達の国での日常風景です」

 

 先頭を歩く案内人がどこか誇らしげに言った。

 

 「今話題の解放軍の英雄殿に我等の国に来ていただいて光栄です。ガスパル様経由で、貴方方の活躍は聞き及んでおりますの。竜狩り隊を返り討ちにした戦士の噂は、もはや伝説級ですよ」

 

 「あまりガスパルの言うことを鵜呑みにするなよ。アイツの言動は半分近く怪しいもんだ」

 

 あいつの言葉はプロパガンダや虚偽も含まれているだろう。事実、竜狩り隊を退けたのはジークリンデの力であり俺はなにもやっていない。さて、奴はこの国に深く根を張っているようだがどこまで、どういう風に物事を進めているのやら。

 

 「うお、熱風!?」

 

 建物から噴出してきた熱い空気が、排風孔と思われる管の近くを歩いたガランに吹きかかった。不快そうに顔を左右に振る。

 

 「すいません、忠告をしていませんでしたね。大砲に砲弾に武器にライフル銃に長槍。今は工房の力をフル稼働して戦争活動を支えているのです。街道が安定した為にオルレント自治州や隣のアレト共和国に武器供給もしているのでいくら製造しても足りません」

 

 案内人が話しながら建物の中に入る。それに続くのは、俺と付き添ってきたクーラ、そして半獣とエルフの共同代表としてガランがついてきていた。エルバンネは熱と煙で覆われ、開発により緑がほぼ死滅した山を見て行く気はないと突っぱね、仲間のエルフや半獣と共に帝国に備えた山岳の砦で待機している。

 

 「さ、これで上層部まで向かいましょう」

 

 建物の中は、まるで巨大なトロッコに座席をつけたような乗り物の乗り場になっていた。巨大な鎖が先端に繋がれており、魔具かなにかの動力により鎖が引かれトロッコが上昇していった。

 

 「階段を使うと時間がかかりますからね。客人に特別な許可がおりた為今回はこれで進みましょう」

 

 降りて来たトロッコに、小さな五段の階段を使い乗り込む。余裕で九人は乗り込める座席に、後ろには様々な荷が積めるようになっていた。

 

 「あれ?」

 

 クーラがなにかに気づき、三つ隣のトロッコに目をやった。座席すら取り除かれているのか、山積みの鉄鉱石が積まれている。その隣には臭気を放つ硫黄がこれまた山積みである。鎖が引かれてこちらより先に資源が上層部に運ばれていく。

 

 城下にこんな立派な鍛冶区画があるのに、あんな大量の資源を何故上層部に運び込んでいるのだろうか。よくよく周囲を見て見ると、まだまだ上に運ばれていくようであり鉱物資源の箱があちこちにある。

 

 「……ふうん」

 

 クーラはなにかを感じたようであるが、それ以上はなにも言わない。後アブソリエル公国も戦争に勝てると踏んで参戦した筈だ。だがしかし、目論見が外れてどうしようもない時はこの街が戦場になり山岳の頂上であるあの城が最後の防衛拠点になるだろう。単純にそれに備えているのか。

 

 それとも、なにか別の目的があるのか。

 

 「くっせぇ…風にのってこっちまで屁みたいな臭いが届きやがる」

 

 「ガラン、臭い」

 

 「てめクーラ!俺じゃねえっての!」

 

 俺達が乗ったトロッコが動き始める。鎖の動力に引かれ巨大な車輪が軋み、ゆっくりとだが確実に上昇していった。

 

 乗ってから数分は経っただろうか。振り向くとトラウゼルの街並みが広がっているのが見えた。中腹の職人街、下腹の住人街。遠くの方では点々と小さな集落が見え、その先には巨大な砦が鎮座している。峡谷の間に建造された、帝国軍を跳ね返す壁のような軍事拠点だ。

 

 トロッコを降りると、馬鹿みたいにデカい洞窟の入口に何本も柱が立ち並んでいる様はまるで城というより神殿だ。もしかしてルーツか同じかもしれないが、どことなく火竜の神殿を正面から見た時に似ていた。

 

 山の中腹からでも見えたが、奥に赤々とした炎が見える。

 

 案内人が門番と一言二言話し、二人の門番がこちらに胸を叩く敬礼をして通行の許可が可能になる。軽く声をかけるべきかと少し考えたが、この国の礼儀が分からないので軽く目礼を返しておくだけにする。

 

 宮殿の中はまるで、物語に出て来る魔王の城のようであった。重厚な石で組み立てられた壁に赤いランプがかかっており装飾は必要最低限だ。赤々としていた炎の正体は巨大な炉だ。運ばれて来た鉄鉱石が加工され、まるで溶岩のようなものが巨大な窯から流れている。

 

 「どうかな?我が国自慢の巨大溶鉱炉は」

 

 「代表、お客人をお連れしました」

 

 「代表?」

 

 「ああ、不躾な恰好ですまない。今は戦中、我が流儀は常在戦場。鎧姿等武骨で無粋の極みだがそこは我慢していただこうか」

 

 黒に塗装された装飾の一つない地味な鎧。腰に刺された剣もシンプルながら鞘の上からでも分かる程肉厚で重厚。燃える火炎のような赤髪に額から頬にかけて三本線のような傷跡が残っていた。

 

 時代錯誤の重装騎士を思わせる護衛を二名を引き連れて来たのは後アブソリエル公国代表ノルン=ミルクエル。帝国派筆頭であった先代代表である母親を手勢を率いて奇襲、公開処刑をし下剋上を果たした武闘派だ。その後も苛烈な内部粛清を繰り返し、時には差し向けられた暗殺者を跳ねのけながら地位を確立させた。顔の傷跡も暗闘によりついたものだそうだ。

 

 あのガスパルと繋がりがある女だ、肩書以上に油断ならない。

 

 「あの竜狩り隊と殺し合って返り討ちにしたという男のツラだ。一度見てみたいと思っていた」

 

 ツカツカと歩きよってきたと思ったら、不躾に顎を指で持ち上げられる。

 

 「悪くない。というかその目が良い。ククッ、修羅場はくぐっているようだな」

 

 「竜狩り隊を返り討ちにしたのは俺の功績じゃない。それにだ、後アブソリエル公国の代表ならばそれらしく振る舞ったらどうだ。そして忠告をしておく、この機会に覚えておけ竜の逆鱗は一つとは限らないぞ」

 

 ノルンが伸ばしていた手を引く。ルーガルーの刃が伸ばされた指を斬り落とそうと振るわれていた。

 

 「貴様!」「なにをする!」

 

 護衛が二名剣を引き抜く。クーラはそれを見て、剣が鞘から抜ける前に鋭い蹴りが顎に突き刺さり脳を揺らす。威圧感をだす為かもしれないが、その時代錯誤な姿は今のクーラからしてみれば間抜けなものであろう。脳が揺さぶられ体幹が崩れたところを、飛び上がってからの踵落としで潰す。

 

 もう片方が剣を抜き終えるがその腕を掴む。腕を交差して力の流れを崩せば、制圧は容易い。重装兵は一度倒れれば、起き上がることはできない威圧感はあるが間抜けなものだ。もっとも、倒すまでが難しいのだが今の膂力と技さえあればたやすいだ。

 

 「……は?おまっ!はっ?うぇ!?はぁあああああああああ!?」

 

 ガランの叫び声が響く。衛兵達が集まってくる音があちこらこちらから聞こえてきた。



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 「クーラァあああああ!お前沸点低すぎだろぉおおおお!」

 

 「そう言いながら、ククリナイフに手をかけてんじゃんガラン隊長。よっ部下思い!リーダーの鏡!」

 

 「おいやめろ!こういう時だけ責任者みたいに建てるんじゃねえ!」

 

 前々から制御不能だと思ってたけどこれはヤバい。もーなんでこんなど真ん中で喧嘩売るんだ!制御不能も良いところじゃねえか!この状況じゃ武器に手の一つもかけるって!こえーし!

 

 「正気とは思えないな。小兵の管理が行き届いていないのか?」

 

 「思うところはあるがな。言っただろう、竜の逆鱗は一つじゃない。俺が別に流せるような内容でも、こいつには流せないことがある」

 

 「いや旦那、謝って。お願いだから謝って」

 

 この人もこの人で喧嘩腰。旗頭にしたのは間違いだったかな。やむにやまない事情があったとはいえ、もうどうしようもねーんだが。

 

 「その小兵が、竜だというのか?」

 

 クーラがニヤリと笑い、舌を軽くだし小馬鹿にした笑みを浮かべる。火に油を注ぎ始めていた。頭のネジぶっ飛んでんな。ああ、頭ぶっ飛ばせ的なことジークリンデに言われたんだっけ。

 

 「授業料は高くつくぞ。勿論、こいつを攻撃するならばもう一枚の逆鱗に触れることになるがな」

 

 旦那が剣を抜いた瞬間、例の連結刃が出現する。ああもうだめだ、後アブソリエル公国は血の海に沈む。

 

 「ふっ…はははははははは!成程成程、大した大馬鹿者達だな!だが、度胸があるのは認めるが一軍長としては些か軽率すぎないか?仮にお前等が三人でここにいる全員を始末できると過程しよう。だがその労力の対価は些か、些細なものではないか?」

 

 「そういう無意味なことを楽しめるような奴の後を継いでいるからな。それにだ、言ってしまえば帝国の覇権を得ようがどこの国が壊滅しようが興味がない。労力と対価が釣り合わないのは認めるがな」

 

 あ、良かった。興味はないとか問題発言しているけど、なんだかんだこの人は比較的冷静だ。アウトゾーンを土足で踏み荒らしている状況だが、デンジャーゾーンでタップダンスをしているクーラと比べたらあくまで多少はマシである。

 

 解放軍の代表はランザの旦那だが、交渉事はエルバンネが主に担当しているし大雑把な部隊のまとめ役は俺だ。ここは一つ、いかに絶望的な状況とは言ってもなんとか上手いこと誤魔化してやり過ごすしかない。もう手遅れに近いかもしれんが。

 

 「そうそう、旦那もクーラも落ち着けって。今ならごめんなさいしても許しては…もらえらないかもしれないけど回れ右したら帰れる可能性もあるぜ。労力と対価が釣り合わない、まったくその通り」

 

 まず留めるのはどっちだろうか。きっかけになったクーラかそれとも旦那の方か。取り合えず旦那が止まればクーラも止まるだろう。力関係と言ってい良いかは分からないが、片方を止めてもう片方が自動で止まるなら取り合えず旦那を先になんとかしよう。

 

 「後アブソリエル公国からは、連合王国からの要請で援助をかなり受けている。武器に弾薬、食料品もだ。特に食料品、これの供給が途絶えてしまえば最悪だ。なによりも、北部最大勢力が消えれば色々大変なんだよ。北方は総崩れになる可能性だって高いんだ。アンタ等だってエンパス教がつるんでいる帝国が増長したら面倒だろうがよ」

 

 旦那が俺達の旗頭に収まっているのも、話しを推測するに帝国の裏側にいるエンパスとやらを引きずりだすのに都合が良かったというのはなんとなく分かった。悪竜の力を引き継いだ旦那がそのまま殴り込みにいかないのはそれだけ面倒な相手であるのだろう。

 

 後アブソリエル公国は、ざっと見た限りだとエンパス教の神殿とやらは存在しない。俺だけなら見落としもあるかもしれないが、クーラや旦那だってリアクション一つなかったんだ。そもそもこの国にはあまり宗教的な概念に基づく施設が存在しないように見える。

 

 つまり後アブソリエル公国はエンパス教に対しては中立。いや、公国自体が帝国と敵対しているという状況を考えればエンパス教の敵と言えるだろう。敵の敵は味方だという言葉だってあるから、そこら辺鑑みてくれないもんか。

 

 「エンパス教…ああ、レント=キリュウインとかいうのが所属している」

 

 「知っているのか?」

 

 「つい昨日降伏勧告の使者として来ていた。敵情視察も兼ねていたのだろうがな。こちらにガスパルがいたのを見て渋い顔をしていたよ。フン、帝国に従うしか能がない傀儡を廃したばかりというのに降伏などしたら今までの労苦が水の泡ではないか」

 

 いける。レントという名前になんか旦那が喰いついた。

 

 「あの男の渋ツラか、見てみたかったね」

 

 クーラもなんか喰いついた。ツラも知らないレント君、君は嫌われているようでなによりだ。

 

 よく考えろ。時間はあまりないけど、取り合えずよく考えろ。『ざまあない』とでも言いたげなノルン代表と、現状のエンパス教の行動に興味がある旦那。そして意地の悪い顔をしているクーラ。俺と取り囲む衛兵以外には奇妙な連帯感のようなものが産まれている…気がする。

 

 いや、例え違うとしても『その気がする』を『真実』にするしかない。ああ、面倒くさい!こういうのとか交渉事はエルバンネ、お前の役目だっただろうが!

 

 「エンパス教が水面下で動いているんだろう。というか、レントとやらがここまでわざわざ出張ってきているんならエンパス教の本隊が近いって可能性じゃないか?」

 

 取り合えずエンパス教には宗教部門の連中と実戦隊である実働部門があるという。旦那は取り合えずどこにいるか分からない実働部隊をおびき寄せる為に、分かりやすく神殿を構え信者を集める宗教部門の連中を攻撃していた。

 

 少々目論見が外れたようであるが、実働部隊の長である考えられるレントがこの北方に出張っているというならば単独ではない筈。後アブソリエル公国周辺に集まっておりそこで相手できるならば、予定とは違うが一度は壊滅したハボックを改修したなんちゃって要塞よりは都合が良いのではないか。

 

 「旦那、ここで暴れてもまあアンタは死なないだろう。クーラ、ノルン代表殿に攻撃したらお前がスッキリするだけだ。代表殿、こちらが悪いのは百も承知でありますが、どうか兵をお引きしていただけないでしょうか」

 

 わあ、三人からの視線がなんか痛い。気のせいかもしれないけど、物理的な光線になって痛い。

 

 「こちらの無礼は百も承知、ですが我々が潰しあったところで喜ぶのは帝国とエンパス教のみではないでしょうか?」

 

 「理屈の上ではその通り。で、あるが一国の長に対する不敬の責をとってもらわねばならない。こちらの面子というものがあるのでな」

 

 「ジークリンデの存在を継いだ手前簡単には引き下がれない。悪竜の名誉を汚すことは、先代の名誉を汚すことと同じだからな」

 

 「まあ、安心しなってガラン。アンタは隅で隠れているだけで良いからさ。ここは二人で終わらせておくし、それに帝国軍もエンパス教の連中も自分達だけでやる。我慢することはやめたんだ、ランザにあんな無礼を働いておいて落とし前つけずに終わる訳がないじゃない」

 

 ダメだ、周囲の殺気がまたあがっていく。事情だの理屈だのを俺なりに発言してみたがこの状況の鎮静化には程遠い。合図一つ、引き金一つ引くだけでここは殺し合いになる。

 

 ……ああ、クソが!面倒くせぇ!グダグダ頭を回して都合の良い落としどころを見つける余裕も、それが出て来るだけの頭も俺にはねえってのに!

 

 ククリナイフを引き抜き手の内で回す。争いの口火を切ったのかと周囲の注目が集まるが、その刃は別に誰に向けてというものではない。戦場を乗り越え、手入れをして、よく研いでおいたナイフの刃をまさか自分の首に向けることになるとは思わなかった。

 

 「解放軍の旗頭はランザ=ランテ。そしてそれを強く推したのは他ならぬ俺自身。無礼の責は、任命責任者みたいな立場である俺にあるでしょう。どうかこの首一つで満足してはもらえないでしょうか」

 

 「ほう」

 

 「はぁ!?」

 

 ノルンがどこか感心した声を、クーラがすっとんきょうな声をあげていた。さて、腹を切るのはどこの国の文化だったか。痛そうで嫌だから俺はスパッと終われるこっちで行くか。

 

 そういえば任命責任者って、上の人間が下の役職持ちがやらかした責任をとるみたいなもんだったっけ。まあこの際細かい都合はなんでもいい。

 

 「ガラン、妙な真似はよ…」

 

 旦那が止めようとしてきた。スゲー冷静に。なんだか、冷静すぎて俺のなにかがプッツリキレる。

 

 「うるせぇええええええええええええええええ!誰の暴発のケツ拭こうとしているのか分かってんのかこの野郎共がァあああああああああああ!」

 

 エンパス教に喧嘩を売りにいく。戦場では単独行動。クーラの暴発をよく分からん逆鱗とやらに例えての便乗。いやあ、俺はもう切れても良いと思う。この人を旗頭にしなければならない事情があったとはいえ、制御不能も良いところだ。

 

 「アンタがここで暴れたら俺達半獣とエルバンネ達エルフに少数民族は、帝国と公国に的かけられるんだぞ!武器共由もありがたいがなによりも食料資源!お前は俺達を飢えさせるつもりか!北方での連帯がなければエンパス教の前に帝国にも潰される…というかそれ以前の問題だ!悪竜の逆鱗だかなんだか知らんが背負うもんがあるのを忘れたなら思い出させてやるよ!クーラ、お前もお前だ!一線超えたら我慢ができないなら懐くらいもうちっと広く持ちやがれ!底が抜けた器なんぞ間抜けも良いところじゃねえか!」

 

 旦那はエンパス教を潰す為の足掛けとして今の立場にいる、それは良い。だがそれを選んだならばちっとはその重責を感じてもらわないと困る。なにより俺達だけの話じゃない、前線の砦で待機しているエルバンネ達だってここの知らせが届けば拘束か攻撃されるだろう。味方の拠点にいたつもりが、敵対した正規軍に取り囲まれているなんて悪夢も良いところだ。

 

 「俺は悪竜ジークリンデなんざ知らん!いや知っているけど、性格とか知性とかそういう意味では知らん!話の一つしたことなかったからな!だがどんだけ生きているか知らねーが長生きしまくった竜がそんなに短気で短絡的なのかよ!継いだなら自覚もてよ!ここで味方同士で殺し合いをするようなら俺があの世から嘲笑ってやる!少なくともジークリンデに人を見る目はなかったってな!瞼見開いてよーみろや!男一匹の死にざまだ!一度は半獣の仲間達を背負った身、これが長が背負う覚悟ってもんだろうがよおおおおお!」

 

 妬けっぱちな面もあるが、これで止まらないならばマジで俺の目が節穴だったって訳だ。どうせ何時かは戦場で死ぬかもしれないならば、こっちの方が……いや、暴発の責任取りで死ぬのに名誉もクソもないか。

 

 皮膚が斬れる感触。そこから更に傷を広げようとした瞬間、腕が万力のような力でイデデデデデデ!折れるマジで折れるなにこれ痛い!

 

 「すまなかった、ガラン」

 

 「いやすまなかったと思うなら必要以上に握らないで!死ぬ、違う意味で痛すぎて死ぬから!」

 

 こんの馬鹿力め!というかもう折れてない!?折れた?折れたような気がするくらい痛いんだが!

 

 「後アブソリエル公国代表、非礼をお詫び申し上げる……クーラ」

 

 「あっちが悪いのに……うっ。分かった、分かったよ。ナイフを向けてすいませんでした」

 

 口を尖らせるクーラだが、バツが悪そうに頭を下げる。旦那が謝ったからそれに続いただけだろうが、それでも謝罪の言葉を引き出せた。

 

 「竜の逆鱗は一枚ではないか。まあ、貴公等が本物であるならば不用意に手を出した人間側にも責があるというものと言えよう。良き仲間を持っているじゃないか、少々思いきりが良すぎる面もあるようだが」

 

 ノルンが手を軽くあげると、駆け付けて来た衛兵達の構えが解かれた。旦那の禍々しい剣も元のボロに戻り、クーラも変な形をしたナイフを鞘に戻す。俺もククリナイフ戻したいんですが、そろそろ死ぬ気はないから離してほしいんですがねぇ……あ、解放された。腕あけぇしまだ痛い。

 

 「そこのお前、名前は?」

 

 「あ、血が出てる……ってえ?俺?ああ、はいガランです」

 

 「治療をしてやれ。それに、粗野だが中々可愛い顔立ちをしているじゃないか。後で、個人的に面談をとる時間でもとろうじゃないか」

 

 クーラがえ?って顔でこっち見てる。いや、可愛いなんて言われたことないんだが。というか、俺のこと可愛い呼びって微妙に美的感覚狂ってないこの人。怖いんですけど。

 

 「ご案内します。ガラン殿はこちらへ」

 

 呆気にとられていたようだが、案内人が命令に正気を取り戻したようにこちらに声をかけていた。どうやら、治療の為に別室に案内されるようだ。

 

 「旦那」

 

 「心配するな。お前のあんな覚悟を見て、そのうえで暴れることはしないさ。責任か、確かにお前の言葉は耳が痛い話だったな」

 

 冷静にはなってくれたようだ。ちっとは身体張った意味もあったかな。

 

 「悪竜を引き継いだからって、アンタはアンタなんだからな。後クーラ、後先ちっとは考えてくれよ、頼むからさ」

 

 少しばかり安心してきたせいか、首の切傷が今更ながら痛みと熱を持ち始めてきた。止められたとはいえ、ちょっと深めに傷がついたんだな。というか、血が溢れだしてきて衣服が汚れている。ああこれ、認識したら意識して痛みが辛くなるやつだ。

 

 我ながら随分思い切ったことをやったもんだ。だけど、旦那達が仲間に加わらなかったらそのうち空中分解で解放軍も詰んでいたと思うと、致し方ないことなのかね。

 

 「ほんと、頼むぜおい」

 

 後は、旦那を信じておくとしよう。多分だけど、あの人デカすぎるもん背負って自分を見失いかけているんじゃないだろうか。それがどれくらい重いもんなのかは知らないが、自分らしさも大切にしてほしいもんだ。

 

 例えば俺も、ある日突然に帝国軍を壊滅させる力がポーンと手に入ったら自分らしくいられないだろうな。同時に、今までの俺というものを保てるだろうか。いや、無理だろうなぁ多分。

 

 旦那の無茶な行動は、短期間で色々変化しすぎたせいで感情と身体、状況に立場が歪んでギクシャクしているからじゃないだろうか。この予想が正しいとしたら、それをなんとかできるのは俺じゃあないんだろうな。クーラだって無理だし、エルバンネにも無理だ。

 

 戦況は良くなっている筈なのに、心を占めるのはこの言葉だ。

 

 どうなることやら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「後アブソリエル公国の切り札か」

 

 『僕』、そして『私』と『俺』が連合王国から要請された任務は北方の情報収集や必要に応じて戦力の提供、情報共有等々が主な任務だ。ついでにエンパス教の内部調査まで依頼されているのだが多忙に過ぎる。

 

 うす暗い通路には油の匂いが立ち込めている。公国の城は地上から見た外観等は全体の半分ほどであり、その地下には広大な空間が広がっている。そして内部構造はコボルトが掘った坑道よりも広く、下手なところに足を踏み入れれば即死系の罠まで仕掛けられている始末だ。

 

 対帝国包囲網の一角として、北部の最大勢力として存在感を放っている。だがそれだけに、連合王国にも不透明な兵器が存在しているという事態は戦力把握の上でこちらとしてはよろしくない。あくまで戦争の間における共闘関係、そして切り札の存在を隠しておきたいのは分かるが、それを良しとしないのがお偉方の考えだ。

 

 そして現地エージェントは無茶な頼み事に振り回されるということだ。何時の時代でも、現場は上司の無茶ぶりに付き合わされる。

 

 それにしても、後アブソリエル公国は臭いっちゃ臭い。ノルン=ミルクエルが先代を廃した下剋上とその上で流された血液はまだ拭いきれずない香りを放ち、その血の臭いに隠れなにかをこっそりと造り続けている。

 

 帝国が買いたたき始めた鉱山資源を自治州から適正価格で買い付ける。それだけなら、まだ話は分かるがその買い付けた資源が国の規模と一致しない量であり、自前の鉱山も保有しているのに何故そこまでブツが必要なのか。

 

 そして隠しもしていないことであるが、あのトロッコに乗せられた大量の鉄鉱石に硫黄やその他資源は、当然この城に運ばれている。巨大な溶鉱炉が目玉のような城だが、ならばその加工した品物はどこに消えた?それを利用して地下でなにを造っている?

 

 「軍事的観点から、大量の資源を使うに値するような新兵器というものはなにかあるだろうか」

 

 『大量の資源か。あまりパッとは、思いつかねえな。地形とか関係無しに考えるならば、例えば軍艦なんてもんを想像してしまうがここは山の中だぞ。一番デカい火器という意味でも考えてみたが、大砲なんかもこの都市における中腹で製造されているしなによりあんな大量に物がいるとは思えん』

 

 軍関係の知識に詳しい『俺』ですら予想がつかないらしい。

 

 『秘密基地でも作ってるんじゃないかなぁ』

 

 「秘密基地といえば秘密基地だな。問題は大人が全力で秘密基地を作ったということは、そのなかでなにか隠したいことを行われているということだ」

 

 この方面の知識に疎い『私』は少し抜けた意見を述べていた。まあ、こんな地下空間で罠だらけの道を進んでいるんだから、それはもう本格的な秘密基地があるのだろうが。

 

 『うす暗い通路に危険な罠、ここで古代の壁画とか白骨化した死体とかあればまさに冒険といった感じなのになぁ』

 

 『冒険という言葉にロマンを感じられたのは、もう昔の話だ。少し前まで冒険者とえいば捨て石の別名義で、今では冒険者は替えが効く低賃金労働者という意味で大きな違いはない』

 

 『そんな今だからこそ、古き良きロマンが必要だと思うのですよ私は。持ち帰ることは無理でも、この先にあるのが黄金の部屋とか地下世界の入口だったとしたら、良いのになぁ』

 

 「そういう冒険が良いなら、リスムの地下迷宮くらいしか今はないんじゃないか?まあ、レント=キリュウインのお陰でかなりの探索範囲が広がったようだがな……ん」

 

 空気の通りが少し違う空間を見つけた。近寄り壁を調べてみると、どうやら古い時代に作られたもののようであり空気が通っているくらいには詰まれた煉瓦はガタガタになっている。

 

 『壁向こうの気配は?』

 

 「ないな。やるか?」

 

 『罠だらけの狭い道にもうんざりしていたところだ。ショートカットができるなら、さっさと開通してとっとと公国の黄金とやらでも拝んで帰るとしようか』

 

 用意した爆薬を使用し、壁を破壊する。壁向こうがうす暗いが広い空間が広が……いや、いくらなんでも広すぎないか。侵入口からだいぶ下降りて来たと思ったが、三回建ての建物どころかそれより高い建造物まですっぽりと入りそうな天井の高さと設計限界ギリギリまで広げたんじゃないかと思えるような奥行き。

 

 そして、暗くてなにがあるか分からないが圧迫感のある巨大ななにかが複数並べられている。シルエットだけでは、それがなにかは正確には分からない。

 

 『明かり、つける?』

 

 『私』からの提案であるが、ここで火をつけるのは少しばかりリスクがある。もう少し辺りを調べてみてからでも良いかもしれない。少なくとも、隠れた人物や危険ななにかがないことを把握してからの方が安全だ。

 

 「わざわざ、狭苦しい通路からご苦労さんだな。流石に、技術者も入れる空間からだと侵入は厳しいと判断したか」

 

 暗闇から何者かの声が響く。気配はないと思ったが、まるで突然現れたかのように湧き出た奇妙な相手に僕達の警戒心が否応にもなく高まった。

 

 「ようこそ、後アブソリエル公国地下空間へ。まぬかれざる客は…先の政変でそれなりにいたようだが外部からの侵入者は初めてじゃないか?」

 

 声の主は、後アブソリエル公国の関係者であるだろうがこの場で下手に殺すのはまずい。暗闇でこちらの顔は見えていないだろうから、このまま無力化して立ち去るしかないだろうか。

 

 「まあそう警戒するな。ここまで来たお前等『三人』には特別に見せてやる。なに、大本に許可はとっていないが協力者権限という奴だな」

 

 何かが引かれる音、鎖?ガコン、という音が響き空間に用意された油溜まりに油が流され、自動で火が灯されていった。広大過ぎる空間に並んだそれが暴かれた暗闇から姿を現していく。

 

 「これは」

 

 「今の人間に可能な、ある種の限界点ってところだな。もっと時間と技術があればもっと凄いのが作れるんだが、玩具としちゃあ面白いだろう?」

 

 上等な衣服の上に小汚い上着を羽織った男が、巨大な質量の上に座り得意気に笑っていた。

 

 「このデカブツで時代を動かす。どうだ?面白いだろう」



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 懐古主義を思わせるような護衛から、ノルンの趣味を察することができそうなものだ。だがしかし、その規模は度が過ぎているとも言えるように思えた。

 

 「まるで博物館だね」

 

 なんの気なしにクーラが放った言葉。今度は散弾銃という護衛が持つには些か強力な武器で武装した衛兵を引き連れたノルンに案内されて城内を歩いている。周囲を取り囲むように四人と、ノルンの左右に直接つき守護する二人だ。しかし、ここでその散弾銃を放てばせっかくのコレクションが破損してしまうだろう。

 

 石造りの城内通路、左右には武器防具の類が、恐らくは時代ごとに整理した状態で延々と続いていた。それこそ通路の一番最初には青銅で出来た棍棒と見紛うような剣まであるくらいだ。剣のみならず弓に槍は当然といった顔で並んでおり、格闘用の鋲が打ち込まれたグローブや茨のような棘が埋め込まれた鞭。鎧にいたっては各時代の代表的なものから馬用のものまで並んでいた。

 

 肉厚の大鉈を通路の途中で見つける。ウォーリアバニーが好んで扱う得物であり、切れ味は鈍いが力任せに首を捩じ切る戦法をとってくる。過去のトラウマが嫌でも思い出されるというものだ、同時にあの夢で見たウェルのことも。

 

 「その鉈に思い出でもあるのか?それとも苦い記憶でも?」

 

 「どちらもだ」

 

 「どちらも、か。その鉈の使い手達と敵対して生き延びた経験があるなら、傭兵の間ではそれだけで自慢話になる。ほら吹き扱いされることも多いようだがな。貴様はどうなんだ?」

 

 この戦争でも、恐らくはどこかの国に雇われ戦線に勇んで躍り出ているのだろう。悪竜を継いだ今の状態だとしても、あまり敵として遭遇したくない。

 

 「戦場では出会いたくはないものだ。遭遇したことだって、ほら吹きならどれだけ良かったか」

 

 あくまで俺が出会った存在は、人妖としてのウォーリアバニーであるが広義の上では似たようなものであろう。

 

 「敵にとっては、今や悪竜こそがそのような扱いだ。帝国と連合王国が戦争する前から解放軍の戦線に加わっていた。そして、帝都事変の夜は帝国にとっては相当のトラウマのようだ。貴様が散発的に帝国各所のエンパス教を襲撃したおかげで、敵の精鋭である竜狩り隊は現在首都防衛に回されている」

 

 ノルンが赤髪を掻き分けながら振り向いた。三本線の傷が走る顔と、値踏みするような瞳と視線が交差する。

 

 「近頃は貴様を英雄扱いする者まで出ているそうじゃないか。どうだ?戦場で戦果をあげる誉れ、敵に恐れられる優越、人知を超えた力を手にした感想は」

 

 「俺はただの家具職人だ。いや、そうでありたかった」

 

 想定とは異なる返答に、ミルフは訝し気な顔をした。凡庸なリアクションなど求めるものではないのだろうが、知ったことではない。

 

 「ただの家具職人でいたかった人間に、そんなことを言われても帰ってくる言葉はお前が望むものではないだろう。ただ現実はそうでいられなかったし、今求められているのはそのようなものではないのは分かっている」

 

 ジークリンデの命を使い潰してしまってまで生き永らえたどころか、彼女の存在意義まで受け継いだ。それに家具造りから離れて長くなるし、夢での経験等カウントには入らないだろう。そもそも、師匠である工房長を振り切ってテンを殺す旅に出た時点で職人と名乗るのもおこがましいという話だ。何時かはまたと考えたことは幾度もあるが、恐らくもうそのような日々は訪れない。

 

 今はジークリンデに恥じない、悪竜としての生き方をまっとうする。それが今俺ができる戦いの手段であり、彼女に対する手向けなのだから。

 

 「英雄なんて呼ばれたくはない。そんな大層なものではない。ただ、目的の為に手段を行使するだけだ。そのような探りを入れなくても、お前は俺を利用すれば良いし俺はお前を利用する、その関係で満足はできないのか?」

 

 「元人間という噂を聞いていたが、力に溺れ増長した阿呆ではないと分かっただけ探りに収穫はあったというものだよ。さて、それでは本格的に今後のことを話そうか」

 

 護衛二人が観音開きの扉を開けると、無骨な城内と変わらない前線基地のような必要なものしかないこざっぱりした指令室のような部屋に通される。室内の中央には大量に書き込みがされた北部周辺地図が広げられており、議論の痕跡がうかがえる。

 

 壁には後アブソリエル公国の国旗である、兜を被った女騎士の横顔が描かれた布がかけられていた。反乱騒ぎの折、かつての鍬と金槌が描かれた赤色の国旗は全て燃やされ、古い伝説である英雄を導く戦乙女をあやかったものに変えられたという。

 

 「蒸留酒の一つでもあると思ったか?」

 

 お堅い指揮所でも、嗜好品として酒の瓶くらい多少は置いてあることが多いと聞く。だが、暗殺騒ぎがつい最近まであったこの女王の近くにその手の、殺す為の工作がし易いものは今でもおけないのであろう。

 

 「簒奪者は大変だね、怨みが多そうで」

 

 「無能が玉座に座り続けることこそ罪だ。北方の国々は常に飢えと寒さ、不便さに不毛な土地と戦い続けることが義務付けられている。凍らぬ港、肥沃な土、そして従属ではなく対等な関係。私は国民が生きていくうえで幸福を得る為に武器をとった。帝国に媚を売り私欲で国営をする父とその側近を皆殺しにしてな。それを簒奪者と言われるならば、私はそれを肯定しよう。例え後世にて罪人としての汚名で語られようがな」

 

 彼女が武器を手に取る理由か。確かに北方諸国は全体的に土地が痩せている。豊かな地盤を持つ帝国領土はやはり魅惑的なのだろう。冒険者時代に領土開拓の為エルフ領を潰したことを思い出す。エレミヤは、今もまだあの土地の小麦を取り寄せパンを焼かせているのだろうか。

 

 「本題に入ろう」

 

 「待て。軍事にそこまで詳しい訳ではないのだが、参謀とかそういう立場の人間はいないのか?」

 

 「こちらにはこちらの事情があるということだ。まずは黙って聞くのだな」

 

 地図をざっと確認する。後アブソリエル公国は現在地、首都トラウゼルをグルリと回るように土地が開拓されている。北方には港があるようだが、現在は氷に閉ざされており輸送や貿易はできないが逆に言えば帝国軍の海軍力も介入ができない。

 

 トラウゼルより南方には、痩せた土地でも強い農作物を育て、短い草を食ませる為羊を放牧させる農村が点在している。当然ながらそんな農村部に防衛能力は存在しない、敷いて言うなれば井戸に毒でも投げ込めばある程度の効果は出るだろうが流石に自国でそんなことはできないだろう。

 

 そしてその南方、トラウゼル程巨大ではないがちょっとした山脈を利用した砦となっている。砦と帝国領の間には巨大な大河が流れており、便宜上ここが国境となっているらしい。

 

 現在砦には、公国に入国拒否したエルバンネと護衛のエルフ達やついてきた半獣達が詰めている。ここが唯一の前線基地だ。しかし、知ってはいたが改めて地図を見ると帝国領と比べれば猫の額だ。これならば、肥沃な土地を求めて南下したがるのも無理はないあろう。

 

 「東の山脈、この地帯はなんなの?」

 

 クーラが公国の東方に指を差す。幾つかの黒点が存在しており、そこに疑問を覚えたようだ。

 

 「そこは我が国の鉱山採掘施設だ。我が国も地下資源は比較的豊富でな、現在も急ピッチで掘り進めている」

 

 自治州から採掘資源を買い集めているが、自国にも達派な鉱山地帯があるようだ。鉱山の先にはアレト共和国が存在しているようであり、それを見て少しだけクーラが眉をひそめたような気がした。だがそれ以上はなにも言わずに、短く礼を伝えた。

 

 砦が陥落しない限り、大軍がトラウゼルに到着することはない。

 

 「帝国軍の様子は?砦から見る限りでは陣営を敷いている様子もなかったが」

 

 「二度、帝国軍を撃退した。現在は反抗作戦計画を進行中だ」

 

 「帝国軍が近づいていると聞いたのだが。第三派が来るんじゃないのか?」

 

 「砦周囲の山々には物見やぐらも存在しているし、帝国領内にも商人に紛れた草の者がいるが新たな情報もない。どうやら、誤報であった可能性が高い」

 

 二度撃退したくらいで帝国軍が引き下がることがあるのか?それとも北部戦線は重要視されていない?ハボックにいた時は他戦線の情報が入り辛かったから詳細が分からないが、他でもこんな感じなのだろうか。

 

 「戦術を変えた?」

 

 クーラが独り言のように呟いた。オルレント自治州にも、与し易い勢力と考え攻勢を強めていたようだが最近は少なくなっている。だからこそ、戦線を離れてこうして公国の増援に来た訳であるが。

 

 「帝国がいかに大国であろうと動かせる兵力にも限りがある。なにせ三方向を敵に囲まれ、海戦の警戒までしているとなれば人手はいくらあっても足りないということであろう」

 

 「内部防衛ドクトリンに切り替えたと?」

 

 「聡い子だな。ドクトリンなんて言葉を知っているのか」

 

 「どうも。これでも一応勉強しているんで」

 

 違和感がある。だが一度は目撃されていたという敵の軍勢がいなくなったのは奇妙だ。誤報と言われればそれまで、戦場の霧なんて言葉があるくらい、戦争は謝った情報が多いのは分かるが。

 

 「アレト共和国の方は?」

 

 「あの国は連合王国の犬だ。だがそれと同時に、北東部に王国と繋がる道もあり何時でも援軍が送り込まれる状態にある。下手に刺激し北部の戦力を厚めにしないように帝国も攻めあぐねている可能性もあるが…私なら攻めるがな」

 

 アレト共和国が陥落すれば、北方の同盟諸侯は最大勢力の連合王国との連絡線が、少なくとも冬季の間は完全に途絶えることになる。仮に攻めあぐねたとしても、圧力をかけていれば同盟側最大勢力の連合王国から兵士を引き抜けると考えれば悪い選択肢ではないように思えるが。

 

 どこかきな臭さを感じる。だがもう一度地図を見ても、帝国とアレト共和国が接する国境は非常に小さい。そちら側に兵を差し向けるとすれば否が応でも気づくという訳だ。

 

 「不気味だな」

 

 「ほう、悪竜殿はこの戦況にそのような感想を言うか」

 

 やや皮肉が入った口調に顔をあげるが、ノルンの表情が楽観している様子はない。キナ臭さを彼女も感じてはいるが、現状北部戦線が安定している以上攻勢に出るという選択肢は悪くないと考えているようだ。敵の企みがあろうと、先手をとって潰せることができれば大戦果とも言える。

 

 攻撃は最大の防御とは言うし、砦を落とされれば首都に攻撃が直撃する可能性がある現状前線基地はある程度はほしい。仮に砦が陥落しても首都の防衛は下手な要塞よりも頑強に思えるが、同時に国土が蹂躙されているということを忘れてはならない。

 

 政治的なことを言えば、西部の二国や連合王国から攻勢をせっつかれている可能性もある。後アブソリエル公国だって国土は貧しいほうだ。大なり小なり共和国経由で支援がはいっているようであり、それを故に強く要請を跳ねのけることができないだろう。

 

 「同感だ。だが、今動かず何時動くかとも言える。目標は帝都北部の街ルーウェス。広い街道の接合点でもあり、ここを制することができれば我が国とアレト共和国に対して大きく攻勢に出ることができないだろう。当然戦力もそれなりに入っているだろうが、得る物が多い」

 

 「それで、その作戦でどうランザを利用するつもりなの?」

 

 「歯に衣を着せない言い方、嫌いではない。だが口の利き方には気を付けた方が良いだろう」

 

 護衛の一人が散弾銃をわざと音を立てて掴んだ。ガランに身体を張った文句を言われた手前、流石にここで暴れるようなことはしない。

 

 「使う覚悟があるならうまく使え。だが、俺ならともかく仲間達を使い潰すような扱いは許さんし、彼等には彼等独自の行動権利がある。そちらの指揮下には入らない」

 

 「その言い方では、貴様なら使い潰しても構わないと聞こえるが?」

 

 「こんな身体だ。多少は、人より矢面に立つと言うだけだ。それで勝てるならば、そうする」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーラと呼ばれた不躾な少女が、そっとランザの服の裾を掴んだ。この人は、捕まえていないと本当に何処かに行ってしまいたいとでも言いたげな、不安そうな色が一瞬瞳に浮かんでいた。

 

 さて、こうしてかの悪竜ジークリンデを継いだ男というものを見てみたが、評価と扱いに困る男というものが第一印象だ。

 

 先程のように後先考えずに何時でも暴発し、唯我独尊を貫くような態度を見せたかと思うが今は逆に仲間のことを気にしたり、利用しても構わないと言わんばかりのある種矛盾した言動をとっている。

 

 先程仲間の一人が自害しようとした際も、表情には現れないものの目には後悔の色が浮かんでいた。こうして付き人の半獣に不安そうな表情を向けられている様は、とても歴史上悪事を愉快犯で繰り返したという悪竜の後継とはとても思えない。

 

 この男は仮面を被っている。だがそれを演じきれる程の器用さは持ち合わせていない。あの悪竜の後継、凡夫がなれるとは思えないがどこか、どこにでもいそうな男の顔がこの短い間で見え隠れをしていた。

 

 野望に溢れる男ならば扱いようがある。力に溺れる愚者ならば使い潰しにできる。だがしかし、分不相応な立場を演じている、戦闘能力が高い男となればさて、コントロールには一苦労いりそうだ。演じている自分と、素の自分。どこでどちらが顔を覗くかは、もうしばらく観察をし把握に時間をかけなければならない。

このような男、使い潰せるものならどれだけ楽であろうか。行動の根底にはエンパス教が絡んでいるとガスパルが話していた。

 

 「攻勢作戦は二日後明朝に行う。貴様と解放軍の面々は遊撃隊として攻勢部隊に参加をしてもらおうか」

 

 オルレント自治州での戦闘記録から、黙っていてもこの男は前線に進んでいく。ならば下手に手綱を握らずに野放しておけばある程度の成果はあがるだろう。利用方法は、死ななければ情報を集め今後に備えていけば良い。

 

 「解放軍の指揮権はそちらに任せる。統一指令部を造りたいと言い出す輩もいるが、貴様は人が手綱を握れるようなものではないであろう?悪竜殿」

 

 「異論はない。だが攻勢に参加する前に一つ確認しておくことがある」

 

 「聞こうか」

 

 「ガスパルとこの国の関係だ。他国の使者がいる場に居合わせるとなれば、それなりの立場で扱っているのだろう?」

 

 ガスパル、奴との付き合いか。こちらとしては、この男とガスパルの関係が気になるところである。あの神出鬼没な男と悪竜の後継がどのような関係をしているのか。

 

 「国家の機密にあたる。だが敢えて言うなれば、現状打破に必要だということで重宝しているということだ」

 

 「現状打破か」

 

 ランザは何事か考えているようであった。敵対しているとまでは言わないが、油断できないと認識している間柄か。

 

 ガスパルについては胡散臭いのも百も承知。だがしかし、リスクを背負わない捨て札を切るだけで危機を乗り越えることができるならば戦争等はなからおこらないだろう。そういう意味では、この男も奴と似たようなものなのだが。

 

 奴が地下で製造している兵器。そしてその使い道を聞いた時は頭がおかしいのかとも感じたものだが、元より北方三国の力を合わせても帝国の北面軍に比べれば劣勢も良いところだ。帝国一強の時代を終えるには、連合王国を含め周辺諸国の戦力を揃えても勝機は五分に満たないだろう。

 

 鬼札が必要なのだ。それもただの切り札ではない、とっておきが。

 

 「奴と貴様は敵対してはいない。だが、油断ならぬ関係ではあるようだな」

 

 「そちらの国に明かせない事情があると同時に、こちらにも明かせない事情というものがある。互いに踏み込まない方が良い。だがしかし、敢えて忠告をさせてもらう奴をあまり重宝しすぎない方が無難だな」

 

 「忠告はありがたく受け取っておこう。そして、こちらからも一つ質問をさせてもらう。エンパス教、あれはただの武装宗教組織ではないとは聞いている。だが、たかが宗教組織に何故悪竜がそこまで牙を剥く?」

 

 連合王国の怪しげな機関もエンパス教を嗅ぎまわっているという。帝国の裏側で暗躍する怪しげな組織とでも形容できるかもしれないが、生憎この国は宗教と名の付く者の流入は厳しく制限していた。

 

 神に祈りを捧げること。それにかかる時間とコストを、娯楽や産業、生産に技術にあてた方が合理的だ。奴等の謳い文句に地獄や煉獄というものがあるが、北方の民は今この瞬間こそが、北国の厳しい暮らしこそが大きな問題だ。

 

 死後の問題よりも、目の前に横たわる衣食住の保証こそ重要。余計なことに気を回す必要は、余裕や余力がもててからの問題である。あまつさえ、行動原理を神とやらの指針に委ねてしまうなど、それは人間性の放棄に他ならないのではないだろうか。

 

 無論宗教という存在のメリットも認めるところはある。国がカバーしきれない人民に対する福祉や、思想の統一についてその効果は無視できない。過去の歴史で宗教弾圧が行われた連合王国も、現在はある補助制度がなく政治にも関わることができないという前提で細々とした活動くらいなら許可をしているくらいだ。

 

 政治的にはメリットとデメリットが存在する宗教というものであるが、一個人がここまでエンパス教に牙を剥く理由が気になるというものだ。それも、聞いた話では悪竜となる前からかの組織を敵としてとらえていたようである。

 

 「個人的な事情だ」

 

 「釣れない物言いではないか。情報がそれだけなら、いかようにも想像ができてしまうが?見たところ貴様は、教会の宗教を信仰しているようでもない。エンパス教を睨み、神殿を潰す貴様の行動、その原動力はどこから出ているのだろうな」

 

 「そうだな、敢えて言うならばアンタと同じ問題だ」

 

 「ほう?それはますます気になるところだ。共通の問題点があると?」

 

 ランザが踵を返す。扉に手をかけて、でていく直前にこちらを振り向いた。複雑そうな半笑いを顔に浮かべたが、ここに来て初めて人間味のようなものが見えるような表情だ。

 

 「家族の問題」

 

 それだけ伝えて、奴は出ていった。こちらを一瞥した後、クーラも後に続いていく。

 

 しかし、家族の問題か。

 

 前王と跡継ぎであるその息子、私にとっては父と長男を処刑台に送りにした。平穏とは言い難い、血生臭い解決であった。父とその信奉者に、兄派に属していた者も思想犯、或いは反逆罪として投獄、処断していっている。帝国の属国を抜け出す為に、北方の民が安楽に暮らせる土地を確保する為に意味のある死を与えた。

 

 それ故に、私と家族の問題はまだ終わってはいない。父の政策が誤りであり、それを継ごうとした兄が間違っていることを証明する為に、この国を強く豊かにしなければならない。それができて初めて、この問題は終結するだろう。

 

 「家族の問題か」

 

 思うところがある故か、私の口角は自然と上がっていた。

 

 「それならば、致し方ないな」



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 「こんな戦中の環境で、行き倒れなんて拾ってくるんじゃない。近頃は落ち着いてきたが、病床が何時も開いているとは思うなよ」

 

 後アブソリエル公国、国境沿いの砦。倉庫の道具を端に寄せ木箱と薄いシーツで無理矢理造られた寝台に年をとった大男が横になっていた。街道沿いで生き倒れとなっていたあの男の人だが、今はなんとか規則正しい呼吸をとっていた。

 

 病床とは名ばかりの酷い部屋ではあったが、意外にも軍医の用意してくれた煎じ薬は効果があったようだ。顔色は、道端で倒れていた時よりもだいぶマシになっている。

 

 「でも良かったです、一時に比べれば顔色もだいぶ良くなりましたね」

 

 「ただの対処療法、症状を見てから患者の口に直接ぶち込んだだけだ。この爺さん、先行き長くはないのは変わらないよ。まあ、それでも生きる気力はありそうだが」

 

 今はまた静かな寝息を立てているが、先程僅かに意識を取り戻したタイミングがあった。顎を動かして簡単な質問に対する返答くらいならできていたが、薬を飲んでからすぐに気を失うように寝息をたてていた。

 

 「身元は?」

 

 「いえ、分かりません」

 

 「こんな状況なら、聞き出せる訳もないか。まあ、恐らくまともな人種の類ではなさそうではあるが」

 

 恐らくは臓器に関係する病気の類と思われるが、その肉体は頑健であり筋肉を束ねたかのような太い四肢と、古傷だらけの拳や肉体は殴打に突化しているように思えた。そして同時に、肩を貸した時に気が付いたのだが関節に柔軟性があるように感じる。

 

 殴るとか蹴るとかは素人だけど、なんとなくこの筋肉の付き方に近い人をどこかで見たような気がする。つい最近の話だし、誰だったっけな。

 

 「どちらにしろ、この状況なら悪さもできないだろう。一応アンタ等解放軍の面々は客として扱うように命令されているが、犬猫じゃないんだし今度は人間なんてホイホイ拾ってきてくれるなよ。攻勢にでるなんて話もあるんだ、余所者にあまり関わる余裕はないんだからな」

 

 軍医が扉を開けて出ていく。急ごしらえであるが一応扉には外から鍵がかけられるようであり、私は彼の監視役兼介護要員として一緒に中にいるように言われた。だがこのような状況なら悪さもないであろうということで鍵はかけられていなかった。

 

 「そろそろ、俺はいなくても大丈夫そうだな。ランザは首都の方に行っているようだし、そちらに向かわせてもらう。時間くっちまったしな」

 

 木箱に座っていた先輩が、尻を叩きながら立ち上がる。なんだかんだお人好しだ、急ぎなのにここまで付き合ってくれたのだから。

 

 「あまり良い症状ではないらしいが、あのままあそこで野垂れ死にしていた。なんにせよ、助からないにせよ地べたで死ぬよりゃ良いだろう」

 

 「ありがとうございます」

 

 一方でこちらはただの自己満足だ。少しばかり自己嫌悪があるが、それでも行動したことに意味があると信じ込むことにしよう。

 

 少し木窓を開けて、外の空気を取り込んでおく。元々倉庫であった関係か、少し埃っぽいような気もする。

 

 心地の良い冷機が頬を撫でる。ここから見えるのは幾つかの農村と、ひときわ目立つこの国の首都。私達の山も厳しい自然環境で雪景色、動植物には厳しい環境であるがそんな中でも逞しく育つ種類はある。だがあの首都は遠目でも分かるが、開発と様々な噴煙にまみれ岩と汚れた雪しかないような場所になっているようであった。

 

 周囲の木々も、元からないようなものであるうえにか細い資源も根こそぎ切り取られているのであろう。ちょっとした小話に程度に聞いていたけど、この国の輸入物で多いのは木材だというのもどこか納得だ。入ってくる風は冷たいが、どこか悪臭が混じっていた。

 

 「なんとなく…」

 

 なんとなく、嫌な感じだ。異臭やその他の不快感だけでは説明がつけられないが、なんだろうな。しばらく考えをしていたが、ランザさんとクーラちゃんがあそこにいるんだよなと思った瞬間脳内にある記憶が浮上した。

 

 「……あ、そうだ」

 

 忘れていたことがあった。荷物の中から取り出したバスケットには、クーラちゃんに向けたお弁当が入っている。どうせランザさんの近くにいるんだろうから、二人前…いや三人前だ。ランザさん二人分くらいは食べるだろう、多分。

 

 「あー先輩に頼もうと思ってたのに。私ここから離れられないしなぁ」

 

 「困りごとか?」

 

 「む…エルバンネさん!ノックしてくださいノック!具合が悪い人がいるんですよ!」

 

 扉を無造作に開けたエルバンネさんに注意をしておく。エルフにはノックという習慣がないようであり、ようやくみんながひと纏まりになってきているのにエルフ全体は文化的交わりや交流を拒否するような言動が多い。一番交流が多い筈の代表であるエルバンネさんでさえ、ノック一つしないのだから。

 

 「もう…大したことがない話ですよ。クーラちゃん達に渡すはずのお弁当、どうやって届けようかと思って」

 

 「噂で聞いたぞ、病人の介護で動けなくなったってな。致し方ない、寄越せ」

 

 「……あげませんよ」

 

 「……お前は俺をなんだと思っているんだ」

 

 ため息をつきながらエルバンネさんが近づいてきた。お弁当が入ったバスケット手に持ち、顔をしかめる。

 

 「首都の方に向かおうかと思っている。ついでになら、届けてやっても良い」

 

 これはまたなんというか、意外な申し出。それでもありがたい申し出ではあるし、断る理由もないかな。

 

 「それじゃあお願いします。でもエルバンネさんが首都に向かおうなんて。……あまり大きな声では言えないけど、エルフにはちょっとアレな感じの場所じゃないですか」

 

 「妙な胸騒ぎがしてな。少し、あちら側の情報が気になったというところだ。近くに帝国軍もいないから杞憂だとは思うが、首都側でどういう話が行われたのか少し早めに情報共有がしたい」

 

 「ふぅん。まあ、とにかく助かります。ついでにお二人に、よろしくお伝えください。先輩が先にランザさん達のところに向かっていますから、コボルトは目立つしすぐに見つかるかも。……ああ、でも先輩迷ってないかな、ただでさえ馴染みのない土地なのに悪臭とか噴煙とかありそうだし…」

 

 「それは先輩とやらの面倒もみてやれということか?意外と図太いな君は」

 

 察しの良い人だ、流石エルフ達の纏め役ということかな。小さくため息をついていたが、それでも拒否の言葉は出ない。なんだかんだ人が良いとも言えるだろうか。でも『人』が良いなんて言ったらこの人怒りそうなんだよね。

 

 「重ねて、よろしくお願いしますね。先輩今頃…えっ!?えええエエ!?」

 

 扉にエルバンネさんが手をかけた瞬間、突然大きな揺れがおこった。立っていられないとは言わないが、棚に置かれた工具類がカタカタと動き梁の上から埃が落ちて来た。

 

 地面が揺れるなんて現象、産まれて初めて体験した。揺れ自体にそこまでの影響や危険はないが、大地が揺れるという現象には一つだけ心当たりがある。

 

 開け放たれた窓から外を見る。古い時代、ランドルフ様がある一つの古代都市を滅ぼした伝承。その一連の流れはある種の歌として、コボルトのシャーマンに延々と語り継がれている。その中にあるのだ、不動の大地が揺れ動くというものが。

 

 揺れはすぐに収まった。すぐにあちこちを眺めてみるも、山が火を噴く様子はどこにもない。揺れる前と揺れた後、大して風景に違いはない。

 

 「良かったぁ。よく分からないけど、ランドルフ様があまりにもランザさんが遅いから、万が一でも癇癪でもおこしたのかと……でも…んぅ?」

 

 でもなんだろう。今の揺れ、なんだか他人事と言う気がしない。自然現象なのだとしたら、そう思うことじたいがなんというか、お門違いではあるのだが妙な違和感を拭えなかった。砦の周囲がざわつくような声が聞こえるが、今それは関係ない。

 

 なんだろう、なにが違うんだろう。馴染みがあるような、でもないような?私の周囲でおきた今までの経験と関係があるのかな。……ううん、分からない。

 

 「え?なんで?」

 

 なんだろう、少し強い風が吹いてきて鼻孔をくすぐる。最近は嗅いでいなかったけど、でもこれは馴染みのある臭い。冷えた岩と砂、それが冷気で冷やされた香り。

 

 「なんなんだ今のは。なにか、見えたのか?」

 

 「洞窟の香り。これ、例えば採掘とかして居住区を増やす時によく嗅ぐような…」

 

 でもまさか、ここは洞窟なんかじゃないし普段からちょっと噴煙臭いような空気であるが、こんな異常なことがあるのかな。

 

 あ、先輩だ。遠くの方に雪原を歩くコボルトが見えた。今の地揺れでやはり異常を感じたのあろう、どこか急ぎ足だ。私って、視力は良い方なのかな。あんまり遠くの方を見ることは少ないのだけど。

 

 ただ今度は、ドンッという音が聞こえた。今度は最近よく効いた音だ、東の方向、人工的に造られた木組みで補強された洞窟の入口から噴煙が噴出している。風にのって流れて来たのは火薬の臭いだ。連鎖的に幾つもある入口が破壊され、何事かとこの国の人間と思わしき者達が様子を見ている。

 

 「ウソ」

 

 大口が幾つも開かれた洞窟から、赤い国旗を掲げた旗手を先頭とした一団が現れた。それと同時に別の入口からは白い軍服の軍勢が出現する。旗手の存在は見当たらないが、今まで攻めて来た者達とは気色が違う。

 

 「何故あんなところから帝国軍が。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。首都と、主力軍が集結しているこの砦が分断された。これは非常にまずい」

 

 上から見ていてエルバンネさんが気づいたようだ。帝国兵は南部に進軍、白い連中は首都側に向かっているようである。恐らくは足止めの軍勢と首都直撃の精鋭隊。でも、精鋭といっても竜狩りとかいう人達とは違く感じるけど。

 

 「先輩、あんなところにいたら危ないんじゃ!」

 

 「おい!お前が行ったところで!」

 

 窓から飛び降りて走る。二階くらいの高さなら段差がないのとあまり変わらない、私にもコボルトとしてそれくらいの身体能力はある。

 

 先輩のことも気がかりであるが、先程の妙な気配が気になる。なんだか分からないけど、エルバンネさんが言うように慌てて軍隊を動かしたらいけないような気がする。いや軍事的なことは分からないけど、そんな気がするのだ。コボルトなら、みんなそう思うかもしれない。

 

 だからこそ、先輩は逃げないかもしれない。でもあんなところにいたら、ただの一人がどうなるかなんて目に見えて明らかだ。

 

 ざわつく砦の城壁から飛び出して外に出た瞬間、あることに気が付いた。ごく自然、当たり前の話ではあるが今更だ。

 

 「確かに私一人で行ってもどうしようもないじゃん!あー…ああ~!もう!」

 

 でも急いで向かわなきゃいけない。この不思議な気配が、私の背中を押し出しているようだ。悩んだが、今は進むことにした。その気配は、今は帝国兵達の傍から感じていることに気が付いたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ひぃ!…ひぃいい!?なんでここにいるんだ化物!」

 

 時間は遡る。アレト共和国政治中枢である北幹院と呼ばれる建物に、侵入者が訪れていた。

 

 「一つの国旗、二つの文字、三つの国境、四つの部族でしたっけ?いやこれで国という体裁を保っているんだから凄いものですよね。連合王国が後ろ盾についているせいかな?犬とか巷では言われているようですが大したものですよ。まあ、上には上がいますけどね」

 

 七つの国境 六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。この手の混雑ぶりでユーゴスラビアに並ぶ国はそうそうないのではないだろうか。でも日本だって負けてない、流石に国家と比べるのもどうかとは思うが、兵庫県が規模こそ小さいものの似たようなものである。

 

 確か、七つの県境、六つの方言……後は申し訳ないが覚えていない。もしも、日本に帰ることがあったらググってみようか。

 

 そんなどうでも良いことを考えつつ、アレト共和国代表であるルッカネン=イシルに近づく。潜入には向かない背中の大剣を戻す。

 

 「初めましてルッカネン代表。夜分不躾な訪問申し訳ありません」

 

 「キ…君は何者だ!?何故こんなところにいる!」

 

 ルッカネン氏が怯えるのも無理はない。国の規模と比べ酷く豪勢な寝室には護衛の両断死体があちこちに転がっている。大声を叫んでも、通路の巡回や警護の兵達も全員もれなく死んでいる為意味はない。

 

 大方狭い国境で大軍が攻め寄せ辛いのをいいことに、護りを固めきって安心していたのだろう。帝国軍でさえ、国力とは半比例したその攻め辛さに後回しにしていたようであるしなによりも隙を見せれば後アブソリエル公国の兵達に柔らかい脇腹や無防備な背中を突かれかねないからだ。

 

 「俺…だけでもないですよ」

 

 寝室の、バルコニーに続く大きな窓を開ける。それが合図となり、ほぼ都市国家といえる首都アレトのあちこちからなにかが打ちあがった。それは夜空に満開の花を広げ、キラキラと輝く色付きの火薬は共和国を散らしながら消えていく。

 

 「あれ、花火って言います。遠方にある葦の国で催し物に使われる見世物です。いやあ、取り寄せるのに苦労しました」

 

 「はぁ!?」

 

 「おや、お分かりになりません?自国の軍事力にさほど興味はありませんか?」

 

 花火の打ち上げ地点はアレト共和国の軍事的中枢だ。共和国軍駐屯地に、軍の司令本部である共和軍事本部、戦闘物資の生産場やついでに新兵の訓練所からも花火はあがっていた。

 

 諸々既に制圧詰みという訳だ。既に各施設の幹部や代表は抵抗の末亡くなったか、抵抗する暇もなく拘束されている。

 

 まずは弱気を攻めよ、みたいな言葉があった。後アブソリエル公国よりも、その後ろ盾である連合王国との繋がりを強化するアレト共和国は命綱であると同時に北部連合にとっての弱点だ。

 

 「何故、何故あれ程の数、敵の手の者がこのアレトに?国境の防備はなにをしていたというのだ」

 

 「方法が無い訳でもないですよ」

 

 「なんだと?」

 

 腰が抜けたような状況になっていたルッカネンであったが、状況があまりにも異常にすぎるせいか一周回ってどこか目に冷静さが戻りつつあるように見えた。流石に、伊達に複雑な立場であるアレトを曲がりなりにもまとめてきた男ということか。これならば少しは理性的に交渉に入ることができそうだ。

 

 「ルッカネン代表。帝国の代理として貴方に交渉を持ちかけにきました」

 

 本当はそこまでの権限は与えらえていないのだが、目の前の男は俺がエンパス教の代表、所謂義勇兵達の長とは気が付いていない。後で揉めそうな話ではあるが、後のことなどわりとどうでも良い。口からの出任せをホイホイと吐き出す。

 

 「アレト共和国の継戦能力は破壊しました。残る手駒は国境に張り付く兵隊だけです。ですが、その兵達を呼び戻すこともできないし、例え戻したところで貴方の命はこのままでは助からない」

 

 「恫喝を含めた…交渉ではないか。言わんとすること、分かるぞ。降れというのだな」

 

 「今ならこの首都はほぼ無傷だし、人民の被害もないままです。ここでその選択肢をとることができれば、民の為を思い恥辱を呑んだ者として皇帝陛下の覚えも良く帝国国民も貴方達を良い立場で迎えることでしょう。だがしかし、断るようであればすぐさま国境に攻撃が始まります。軍事的中枢を破壊された今、どれだけ耐えられるものか見物ではないでしょうか。そしてなにより、貴方の命はここで終わる。頭脳を失った国の末路等、気持ちの良いものではないと思いますよ」

 

 「………」

 

 ルッカネンがヨロヨロと立ち上がり、豪勢な腰かけに座り込む。その目には生き残りの為の計算と帝国に降るメリットの皮算用。それと同時に、連合王国を敵に回すことの危険性を考えているのだろうか。それとも、降伏という札を選んだ時後世における自分の名誉がどうなるかを想像しているのか。

 

 関ケ原の合戦、豊臣側の小早川秀秋のように、裏切りのせいで後の世に延々と小馬鹿にされるのはなにもこの世界でも珍しいことはない。なんせ小早川は徳川の世となった後々、現代においても裏切者と罵倒されたりゲームで小物キャラみたいに描かれるくらいだ。

 

 「悩めるようでありましたら、こちらの札を一枚お見せしましょうか。彼女さえいれば、後アブソリエル公国、鉄の国も、簡単に落とせるでしょう」

 

 指を鳴らす。通路に控えていた人物が室内に足を踏み入れた。

 

 「な、なあ!?半獣ではない、化物!?」

 

 「そう、かつて貴方方の祖先が化物と罵り追い出した存在達です。逃れた大多数の者達は逃れ、北の火竜を頼り集まりましたが中には逃げ遅れた者もいた。そんな者達が残した最後の子孫が、彼女です」

 

 出会いは偶然であった。

 

 掲げる大盾、リスム支部に潜り込んだ目的は、フリーパスでリスムの地下迷宮に潜り込む為である。エンパスの企みを効率よく遂行する為には、どうやらあそこがドンピシャであったからという理由だ。拠点確保に資材搬入に、エンパスと俺以外は本当に一部の者しか伝えなかった場所だから苦労に苦労を重ねたものだ。

 

 そんな中で出会ったのは、彼女。

 

 墨のような濃い黒に覆われた毛並みと、それと呼応するように同色の肌。純粋なコボルトと違い比較的人間に近い顔立は、爛々とした黄色い瞳に、口をへの字に曲げたようなどこか苛立ったようにも見える表情にも見えた。

 

 「マスター。ルノをお呼びでしょうか」

 

 日々減り続ける同種。なにがなんでも子孫を残そうとした先祖達が、時折人間でも浚い孕み孕ませたのだろうか。人に近いが半獣よりも歪だ。哺乳類に近い肉球のついた足には柔毛が太腿の付け根まで生えており、腰布を巻いてはいるがその下もまるで長毛種のように覆われている。

 

 胸部を中心にそちらも毛が生えており、まるでマーメイドが貝殻で乳房を隠すように毛で覆い隠しているようであった。だがなにより目立つのは、その右手は人の手に近いものが伸びているのに対して左手はまるで獣のそれだ。そちらは見たことがないが、ランザが対峙したというルーガルーに近いかもしれない。

 

 「見せてやれ。小規模でも良い」

 

 ルノはそれに頷くと、壁に獣の手を添える。石で木材そして塗装された壁が瞬時にサラサラと砂になり崩れ、通路がその向こうに見えた。

 

 頭に手を置いてやると、凛とした表情を浮かべるが尻尾は揺れていた。モンスター娘、性癖外であったつもりだがいただいてみると悪くはないどころか好物であったものだ。

 

 「今のは出力を調節してのデモンストレーションですが、本気の彼女は強力な力をもっています。首都の機能を即麻痺させるだけの軍隊を気づかれずに首都にいれるくらいに便利で特別な力です。この力をもってすれば、後アブソリエル公国は瞬く間に陥落し連合王国からの横入りですら恐ろしくはありません。そして協力さえいただければ、後アブソリエル公国陥落後その支配権を貴方が握ることだって夢ではない。皇帝はそれだけ、この北部に注目しているのです」

 

 「……何故、皇帝がこの北部に注目しているのだ。主戦場はあくまで東部、連合王国側の筈だ。たかが一小国、裏切ったところでそのような大きな見返りがあるとは思えん。口先で出任せを並べるな」

 

 「そんなことはありませんよ。なにせ今、後アブソリエル公国にはあの帝都事変を引き起こし、帝国最強の竜狩り隊を退けたランザ=ランテが向かっています」

 

 「あの、悪竜を継いだという」

 

 「ランザの首を獲れれば、皇帝も枕を高くして眠れるというもの。国家の恥辱を拭うと同時に、首都直撃の危険性まで無くなる。この大きな戦果、貴方の英断によるものと強く宣言させていただきます」

 

 「貴様は、それほどの立場なのか?」

 

 いえ、全然。だがしかし、ここは演技のはりどころだ。もう一度青春ができたならば、演劇部に入っておこうかなと意味のないことも考えておく。

 

 「北部軍勢の指揮権を預かっております。その意味をお考えになられては?」

 

 正確には、『一部』の北部軍勢とエンパス教の加護持ちや組織した僧兵のみであるが、嘘はついていない。ハッタリは大きく自信満々に…だ。

 

 「返答はこの場でお願いします。さあ」

 

 「乗った。だが、具体的な話に入るその前に、貴様の名前を教えてくれ」

 

 「レント=キリュウインと申します。名乗り遅れてしましましたね。ですが、長居付き合いになるであろうことで、是非お見知りおきを」

 

 さて、これで連合王国との繋がりは絶った。ランザ=ランテ、次の一手で、貴様を追い詰める。



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 方法は定かではないが、脇腹を突かれた。単純に考えれば隣の国からトンネルを掘り進めてきたというだけなのだが、採掘は専門外だとしても軍隊が通れるトンネルを開通させるとなると容易な作業ではない。流石にそれに気が付かない程、後アブソリエル公国は間抜けではない筈だ。

 

 未知の方法による強硬手段。砦からの援軍の足止め部隊と、首都直撃の強襲隊。いや、好機と見るならばそこまで単純な話ではない筈だ。

 

 自分が兵士を指揮するならば、この千載一遇の機会で更なる手を打つ。

 

 「狼煙が上がっているぞ!帝国軍が、南方からも来る!」

 

 混乱する砦内部で、帝国が南側から攻め寄せて来るという一報が届いた。帝国側と公国内部からの挟撃、こうなると砦の全兵力で首都として向かうことは難しい。砦を捨てて首都防衛の為動いたとしても、軍隊の一部を残して殿にしないと野戦で挟まれるという更に最悪な結果を招くだけだ。

 

 「エルバンネ殿」

 

 公国の兵隊が声をかけてきた。状況の混乱っぷりからその表情に余裕の色はないが、声色はまだなんとか落ち着いているようだ。

 

 「グスタフ司令官より伝令です」

 

 「伺おう」

 

 グスタフ=ベルはこの前線砦を指揮する、実質的な後アブソリエル公国の軍事指導者だ。じたいは動き続けているが、この混沌としてきた情勢にて理性を失わず指揮を続けているようである。

 

 「解放軍面々は少数精鋭にて敵陣突破、首都方面に向かい敵部隊の迎撃をしてほしいとのこと」

 

 「首都防衛は貴方達にとって大事の筈。外様に任せて良いのか?」

 

 「無論この砦からある程度の増援は出せますが状況が状況、十全の対応は期待できないでしょう。ならば突破力がある貴公等半獣を中心とした部隊ならば…というところです。正直な話行くのも残るのも厳しい環境が待ち受けております。これは指示ではなく、あくまで要請。貴方方がどうするかは、任せるとのことです」

 

 首都防衛。ランザがいるからには容易くは陥落しないだろうし、それなりの備えもある筈だ。だがしかし、敵が未知の手段を擁して攻勢をかけてきた今楽観的にはなれない。

 

 「引き受ける、と伝えてくれ。どの道、アレト共和国が敵に寝返ったとなれば、公国が墜ちてしまえば我等も早晩駆逐されるだろう。進むも引くも困難となれば、ありがたく我等の旗頭の元に向かわせてもらおう。ただ、一部人員は残させてもらう。弓に長けた者達だ、砦の防衛に役に立つ」

 

 「よろしいので?」

 

 「必要なのは機動力。一部の者以外半獣の行軍速度にはついていけないからな」

 

 「感謝します。武運があらんことを」

 

 伝令が立ち去っていく。ミルフが飛び出して行った今、こちらとしてもゆっくりしてはいられない。砦内の広場で既に半獣とエルフの一団が集まっていた。近づいてきたこちらに向けて、一人の半獣が軽く手をあげた。

 

 茶色のフワッとした髪の毛に、何時も眠そうな垂れ目の半獣。ウェル助とガランに呼ばれている彼はウェルロンドという大仰な名前をもった半獣であった。ガランが率いていた半獣達の中で、ここ最近頭角を現してきた彼の幼馴染だ。

 

 今まではガランは、他種族との牽制に近いやり取りをしながら苦心しており、細かいところまで目が回っていなかった。その反省から、旗頭を定めた今自身も自由に動けるようになり、冷静に改めて適材適所を考えた結果、こうして不在時や分隊を分ける際に半獣達の副リーダーとして行動を任命していた。自分を抑えるな性格のようで、重石としては重宝している。

 

 「準備はできていますよ、エルバンネさん」

 

 既に武装を整え行動を開始できる状況だった。危機的状況であるのに、焦っている者は一人もいない。

 

 「一応聞いておきますけど、状況はどうやら悪い。だけどどうですか?損得勘定を抜きにして、人間と共に共闘できますか?先の自治州戦の時みたいに、後方支援だけとはいかないでしょうからね。奴等と、背中を合わせて戦えますか?」

 

 ウェルロンドの目が細く、まるで狐のような顔になる。意地の悪い顔をしているが、今まで人間と共闘は可能な限り半獣が請け負っており、エルフ達は数の少なさもあるが後方支援に徹していた。だがここにきて、怨恨ある人間達と本当に共闘ができるのかと念を押してきた。

 

 それが厳しいならば、ここから立ち去れという言葉を暗に含めている。竜と半獣、コボルトとエルフの集団ではない。人間達とは違う分隊で行動をする訳でもない。ここで、最悪心中する覚悟で踏みとどまれるのか。

 

 「意味のない問いをするな」

 

 仮にここでエルフ達が逃げても、あの砦に帰らずに戦争の混乱に紛れ姿を消したとしてもここにいる者達は誰も責めないだろう。半獣でさえ、人間との確執は深い。だが彼らはエルフ達を指してそれ以上という考えを持っている。そんなお前等は、本当にここで戦えるのか…と。

 

 その覚悟を問いたいならば、応じてやろう。

 

 「エルフの弓兵を専門とする者をここで迎撃の協力をさせる。半獣に追従できる者は、公国軍と共に鉱山から出現した帝国兵を突破だ。首都防衛軍と共に敵を迎撃し、ランザやガランと合流する」

 

 人間に対して、腹に一物持たない者等いない。だがここにいたって、暴挙に出る者等いようものか。

 

 「ウェルロンド、お前はトランプで勝てる勝負を降りるか?」

 

 「そりゃあまあ、降りないでしょうね」

 

 「我等は過去、間違いは多々あった。だが、大都市一つ容易に落とせると確信した策を少人数に打ち破られるとは思わなかった。業腹な話ではあるがな」

 

 勝ちをほぼ確信していた。リスムの巨人はどうやらエンパス教に滅せられたようだが、制御から外れたとはいえ本体たるミハエルが負けるとは思わなかった。ランザ=ランテ、奴ならこの状況でも逆転の芽を掴み取る筈だ。あの時、拷問され身体中がボロボロになり、殺意に燃えるエルフに囲まれた上で逆転した奴がいる限りだ。

 

 「腹が立つ話だが、お前等半獣よりもランザを敵に回せば面倒な存在だというのは我等方が分かっている。同時に味方であればその戦力はありがたい。悪竜が助けたとはいえ、竜狩り隊の罠に嵌められても、しぶとく生き抜いた奴だぞ」

 

 あの時、内通していた者達やランザを狩りに行った者達は軒並み死んだ。始まりであるエルフの里での戦いから合わせて、奴と敵対することはある意味エルフにとってタブーとなりつつある。ここで逃げれば、恐らく更に面倒な事態が待ち受けている。

 

 「やるさ。ランザの奴に敵対したとか、逃げたと思われた方が面倒だ。帝国軍と戦うよりな」

 

 「素直じゃない人ですねぇ。分かりました、よろしければ俺も残りますよ。どうやら、こいつの扱いは半獣の中では一番上手い。それに足にはあまり自信がないもので、貴方達に向こうをお任せしても?」

 

 ウェルロンドが背中に背負ったライフル銃を降ろす。帝国軍から鹵獲した物であるが、彼の射撃制度はエルフの弓兵と並ぶ程である。

 

 「こちらの方が貧乏くじ…と言いたいが、どちらの方が厳しいかな?」

 

 「さあ?多分こっちの方が楽じゃないですか?野戦じゃないし」

 

 軽くにやけながらウェルロンドは言った。まったく、残ると言った方が楽な方じゃないかと言うあたり良い性格をしているようだ。

 

 「皆は知らないだろうが、実はコボルトが二人この砦に来ていた。そのうちの片方は皆も知っているミルフだ。なにを思ってか、砦から飛び出して行き首都方面に向かっている」

 

 皆がざわつく。ほぼ全てのコボルトがあの洞窟に引きこもっているが、ミルフだけはハボックに残り怪我人の治療や炊き出しに協力をしていた。クーラになにかを頼まれたようであり、洞窟に戻るに戻れなかったようでもあったが同時に積極的に種族問わず全体の手助けしていたのも事実である。

 

 そんな彼女は、密やかにではあるが半ばハボックのアイドルかマスコットのような存在になっていた。この場にいたこともそうだが、何故か非戦闘員が敵軍に突撃しているのか困惑の色がみてとれる。

 

 「走れる奴は走るぞ。アイツに世話になった覚えがある者は、特に気張って走れ。そうじゃなくても、飯の質が今後下がるのは全軍の損失だぞ」

 

 「ああ」「走るぞ!」「エルフでついてくる奴等、気張って走るから脱落するなよ!」「行くぞ!ガランだって助けなくちゃな!」「行くぞおらぁ!」

 

 士気は高い。これならば、上手くいくだろう。いや、上手く導いてみせる。

 

 「では走るぞ!誰よりも早く、仲間を助ける為に走れ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「チッ…たかが宗教勢力のトップ如きが偉そうに」

 

 赤い軍服を着たライフル銃兵が不満をこぼした。上からの指示があったとはいえ、たかだが義勇兵の頭如きに一部とはいえ軍の指揮権を任せるとは何事であろうか。しかも、首都直撃という花形のような役目を自分達だけで独占し栄えある帝国陸軍をただの足止めに利用するとは。

 

 点在する農村部を占拠し一部ではそれを利用した簡易な防衛拠点を築いているようであるが、ほとんどの人員はこの雪が降る冷たい地面で身を引くして敵に備えている。動かないで待つ分、身体が冷えて凍えそうだ。身体を動かせる分、やはり攻勢部隊に手を貸したい。

 

 「政治屋め、弱味でも握られているんじゃないだろうな。参謀司令部もなにを考えているんだ」

 

 強力な部隊だろうが、やはりたかが義勇軍が主役を張る等おかしい。半民半兵は、後方支援でもしていればいいんだ。

 

 「めったなことを言うな。司令部批判等、誰が聞いているか分からんぞ」

 

 「みんな気持ちは同じだろう?なんでまた」

 

 「……分からん」

 

 そう、分からない。大規模な工事を必要とせずにこの規模の人員がスムーズに通れるトンネルを用意する等、いったいどんなマジックを使ったのか。しかも俺達にはそれを伝えられることもない。

 

 帝国の技術開発局がなにかしらの技術共由をしたのだろうが、それをやるのが義勇兵というのが気に入らない。それを良しとする風潮にもだ。

 

 深々と雪が降るなか、深雪を踏みしめる足音が聞こえた。視界の端で素足が雪を踏みしめているのが見えた。だが奇妙なのが、その足には靴がはかれていなかった。それどころか、片側の足は柔毛に覆われており人間のものですらない。人が裸足で歩いた後と獣の足跡が二対一つとなって雪に足跡を残していた。

 

 「不十分」

 

 あまりにも人間離れした姿に声をかけられずにいたが、異形の少女がボソリと呟いた。人の手と獣の手、それぞれ地面に叩きつけるように手をおいた瞬間、地面が隆起した。平地に砂と岩が盛り上がり、簡易的な壁が目の前に造られた。ご丁寧に階段のようなものまで創造されていた。

 

 「登れ」

 

 「は?」

 

 伏せの姿勢から立ち上がり聞き返した瞬間、異形が不愉快そうな顔をする。指を二本少し折り曲げた瞬間、隆起した岩が喉元まで伸び鋭利な尖端が薄皮一枚のところまで伸びて来る。思わず尻餅をついてしまい、他人をどうとも思っていなさそうな冷えた目で見降ろされた。

 

 「二度めは言わない。黙って動かなければ殺す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後アブソリエル公国代表、ノルン=ミルクエルの呼び出しを受けていた。あの場限りの話だと思いたかったが、どうやらマジでの要請だったようだ。

 

 怪我の治療を受けた後、侍女連中に連れられ丁重に身体を清められる。どうやら、招かれる先は謁見の場みたいなもんじゃなくてガチもんの自室に案内されるようだ。一応ここに来る前に身綺麗にしていたつもりだったがそれでも足りないということで、それこそ念入りに洗われてしまった。

 

 お湯で洗われ、髪の毛と尻尾に香油まで塗られながらさらに手をかけて洗い、かつてない程身綺麗にさせられた。部屋に案内されるタイミングで、話し合いが終わった旦那とクーラと通路ですれ違う。因みに着ていた服も、洗濯をするからという理由で剥ぎ取られ着たことがないような上等な布地の服に身を包んでおり、それを見たクーラに何故か生暖かい視線を向けられた。

 

 『これも外交、ガンバレ。上手くいけば逆玉だね』

 

 肩を軽く叩かれよく分からない応援をされた。旦那からも…

 

 『まあ、お前次第だ。だが本当に嫌ならば拒否しても良いからな。俺が、なんとかする』

 

 と変なフォローまでいれられる始末だ。本当になんだろうな。

 

 「ガラン、で良かったか。ファミリーネームはないのか?」

 

 公国の代表なんていう肩書きから、勝手な想像ながらもっと広くて豪勢なものだと考えていた。馬鹿みたいに広い寝台に赤色に塗装された隙間風なんて入りそうにない壁。天井につるされた蝋燭いっぱいついている、よく分からんがデカいシャンなんちゃらとかいう照明。ワインとかいっぱい入っている棚があったりとか不必要にデカい暖炉とかあったり。

 

 だがしかし、現実は質素なものだ。石造りが剥き出しの壁に一人用の寝台。部屋は一応はそこそこ広いが暖炉は豪勢とはほど遠い一般的なものだ。ワイン棚はあったが、その中は隙間が多く目立つものだ。この気候ではワイン用のブドウは育たないうえに嗜好品も制限しているのだろう。シャンなんちゃらだけは不釣り合いに豪華なものが何故か連れ去れており、いやにアンバランスだ。

 

 それでも、コルクを抜き取りワインをグラスにいれ片方を差し出してきた。まだ日は傾いているがまだ外は明るい。アルコールはどうだろうとは思うが、礼儀として一応は受け取る。まあ混ざりものが多く悪酔いし易い安酒でもあまり酔わないタチなので一杯くらいは良いだろう。

 

 「この北の地、元は半獣などあまりいない土地柄だ。少し話を聞かせてもらえればと思ってな」

 

 「はぁ…まあまずは、ファミリーネームなんて大層なもんは俺にはないですよ。てか、大抵の半獣はそんなもんないですね」

 

 「クーラにはあるようだったが?」

 

 「推測混じりで本人に聞いた訳じゃないですが、ネレイスってのは帝国には溢れかえったネームでしてね。奴隷商人が、違法に引き連れてきた訳じゃないって対策をとる為に便宜上の名前を与えることもあるんです。クーラという名前はどうかは分からないけど、半獣が帝国で覆いネームをもっているのはそうとしか思えませんね」

 

 ランザの旦那はクーラを買い取ったのか、それとも助け出したのか。ファミリーネームどころか名前すら持たない奴も半獣には存在するし、俺だってこの名前は本当に両親がつけてくれたものなのかさえ定かではない。

 

 ワインを少し飲んでみる。なんだか高級そうなラベルが張ってあるが、高級過ぎるのか舌先で転がしてみても味がよく分からなかった。

 

 「近くに寄れ」

 

 「良いのですか?下賤ってやつですよこちとら。ここにいることでさえ場違い感があるっていうのに」

 

 「人払いはした。そして、私が許した。寄れ」

 

 「あんな騒ぎがあった後で、なんとまあ」

 

 半ば呆れたし意味が分からんが、クーラのいうところの外交という言葉が頭をよぎる。あの二人が変にこの人怒らせたせいで、事態は一応は水に流されたもののこれ以上心情を悪くするのは避けたいところだ。外交、外交か、エルバンネを無理矢理にでも連れてくれば良かったかな。この手の機微や礼儀には疎いぜ俺は。

 

 近づいた際に、グローブを外された手が伸ばされる。念入りに洗われ、布地や地熱を利用してよく乾かされ無駄にフワフワになった頭と耳を撫でまわされた。時折耳たぶを指先で摘ままれたり、中に指を入れられた……これって外交なの?無知な俺にはとんと分からねえ。

 

 「良き手触りだな」

 

 「念入りに洗われましたもんで、普段はもっとゴワゴワですよ」

 

 「それでもだ。しかしこう、この三角は無意味に心情をくすぐるものがあるな。初めてみたとは言わないが、こうしてじっくりと触ったことはない。喜べ、君は私の初めである」

 

 念入りに、しかも両手の指で耳を揉まれる。そんなに、良いもんなんかね。というか触り心地なら俺よりウェル助の方が絶対良いと思う。

 

 でもなんだかこのままだと触られ損な気がする。せっかく一国の代表と、なんの奇跡が同じ部屋でいるんだ。この機会を無駄にするのもな。

 

 「アンタ…いや、貴女?ノルン様?」

 

 「許す、呼びやすいように呼べ」

 

 「あー…ノルンさんはなんでまた帝国に喧嘩を売ろうなんて考えたんですか?連合王国が代表していようが、敵はやっぱり大陸最大級。最悪でも好意的中立で事態を見守った方が得するんじゃねーかと考えたんですが」

 

 帝国の一強に警鐘を鳴らす連合王国や、他に行き場がなく追い詰められた俺達に、国民感情に突き動かされて戦争に踏み出してしまったといえるオルレント自治州とは違う。大国二国に比べれば流石に分が悪いものの公国もそれなりに力を持つ国家だ。アレト共和国のように、連合王国の犬と呼ばれるような立場でもない。

 

 「それは簡単だ。前王、つまり私の父上殿は親帝国派であり、クーデターでその父親を処刑台に送った。私に対する帝国の評価等想像がつくものであろう?」

 

 「せっかく血の繋がった父親がいるのに殺し合いをするなんて、政治の世界はよく分かりませんね」

 

 確かにそれならば評価は最悪ではあろうが、でも実の家族で殺し合いをするなんてというのは、家族がいない俺のただの感想なのだろうが。実の親ですら、憎いと思うことがあるのだろうか。

 

 「前王は帝国に臣従、属国であるのを良しとした。見返りは莫大であったようだがそれはあくまで私腹を肥やすのに丁度良いという程度で国民の幸福に還元できる類のものではない。国家と国家で上下関係を築く、それは歴史上どこでも行われてきたことだ。だが私が産まれたこの国で、我が輩が下の立場で従属を強いられるのを黙ってみていることが出来ようものか。半獣差別と戦ってきた君ならば分かるのではないか?」

 

 そういうことならば、理解はできる。俺の夢である、半獣達が安心して暮らせる新しい自治州。そこには差別も区別もせず、他国とも対等な立場で交渉できることを理想にしている。肉体的、精神的のみならず経済、政治的に理不尽に仲間が虐げられているならばそれに憤るしなんとかしようというものだ。

 

 負けるかもしれませんよ、なんていう言葉は無粋である。そんな言葉を口から漏らす程度の覚悟ならば、全滅覚悟で半獣達を率いて北の最果てまで落ち延びたりはしない。せめて一矢報い、半獣という存在に手をだしたことを後悔させたい。ランザの旦那が来るまでは最悪でもそんなことを考えていたのだから。

 

 「なかなかに親近感が湧きましたよ。クーラはノルンさんが嫌いみたいだけど、俺には好きなタイプだ。ちょっと似たところもあるかもしない。こんな感想は、マジで不遜ですかね?」

 

 「それは良きことだ。君は仲間の為に命を張ることができる存在だというのも見させてもらった。気に入っているよ、なにより…顔立ちが好みだ」

 

 ノルンの表情が、捕食者めいたものに変異した。耳を触っていた指先が離れ、人差し指と中指で顎を持ち上げられる。反射的に手で払いのけようとしたが、その腕さえ押さえられた壁に背中から叩きつけられた。

 

 「いって!てか、なんだおい!」

 

 え?状況が呑み込めないんですけど。なんで俺、偉い人にこんな壁際に追い詰められている訳?

 

 「忙しいと人間負荷がかかる、それを溜め込んでは最大のパフォーマンスは意地できないものだ。最近は発散もままならんが丁度良い。半獣という存在、一度食べてみたかった。君に拒否権はない、なにすぐに済ませるさ」

 

 耳元で囁かれ、吐息を吹きかけられる。太腿が足の間に刺しこまれ、股間部を持ち上げるように押し付けてきた。ここまで来たら、もう流石に分かった。いくらなんでもこれはダメすぎんだろ!逆玉ってそういうことかクーラ!

 

 「いやすぐに済ませるってかダメだろこれ!俺一応部外者!アンタ俺暗殺者だったらどうすんの!」

 

 「こうして無様に抑えられておいて、それを言うか?」

 

 「いやでもこんなことしてその、間違いで色々できたら問題に!」

 

 「心配いらん。大丈夫な日だ」

 

 「最悪ですが!?いやその、つくりたいって訳じゃないけど!」

 

 喧しい口だなと言わんばかりに目が細められる。唇を奪われると思った次の瞬間、大地が大きく揺れ動いた。揺れはしばらく続き、天井の照明がユラユラと揺れて落ちないか心配になる。

 

 この異常事態、流石に続きをするつもりはないようだ。ノルンの顔が険しいものとなる。

 

 「誰か!状況を伝えに来い!」

 

 人払いした者達が戻るまで少しかかる。異常事態だ、流石に護衛も戻ってくるだろう。

 

 少しでも情報を集めようとしたのか、ノルンが窓に近づき開け放つ。外を覗き込もうとした瞬間、冷たい冷気と共に溢れて来たのは殺気。

 

 「手荒で悪い!」

 

 すぐに動かないといけないと判断。肩を掴み顔を出そうとするノルンを無理矢理後ろに倒れるように引っぱる。文句が零れる前に、鋭利な刃が首を落とす断頭台のように窓の外を上から下へと高速で落ちていった。

 

 「アレ~?外れ?うっざ、めんど、死んでおいてよね、今ので」

 

 羽ばたきの音が聞こえた。窓の外で、鋼鉄の剣を生やしたような翼を持つ、半獣の中でも更に珍しい有翼の少女が面倒そうにこちらを見ていた。



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 「お邪魔しまーすと。うわ、無駄に豪華…てな訳じゃないのか。アンタ本当にこの国の代表なん?間違っていたなら手間だから見逃すけどどうなの?アンタ本当にノルン=ミルクエル?」

 

 「如何にも」

 

 「いや如何にもじゃーねですよ、嘘でも否定してくださいよ」

 

 状況はクソみたいなもんだ。なにが最悪かと言えば、愛用しているククリナイフは今頃城の武器庫にでも放り込まれているのだろう。同時に相手は得体の知れない存在だ。なにを食って生活していれば羽毛の一枚一枚がまるで刃のようにギラついた刃のようになるんだか。寝たらシーツがズタズタにならないか?

 

 この部屋になにか武器になりそうなものをざっと見で確認。壁に飾られた剣があるが手を伸ばすのには少し遠い。護衛が戻ってくるまでの数十秒かそれとも数分か、俺の役目はこのけったいな女王さんを護り抜くことだ。なんの因果で似たような存在から、人間を護るなんて事態になっているのか知らないがなるようになったのだから仕方ない。

 

 ではここで思考タイム、生身の俺があのいかにもヤバそーな相手から無駄にデカい胸を張りながら堂々と対峙しているこのミルクエルさんをどうやって護るか。クソ、本当に堂々としおってからに。牛乳エルさんとでも今度呼んでやろうか。

 

 選択肢1、徒手空拳。こう見えて身体能力には多少の自信はあったが、ここ最近その自信は現在下落し続けている。世の中にはなんとまあ化物が多いこと多いこと、馬鹿みたいなデカい突撃槍を駆使して鉄馬に跨りジークリンデと対峙をしていた竜狩り隊を思い出す。多分アイツ等の握力に腕力は俺なんか軽く超えている。

 

 そうでなくても、その手の技術は特に会得している訳でもなく良いところ喧嘩の延長線にある暴力行為止まりだ。ランザの旦那に組手をしてもらったことがあるが、気が付けば地面に転がっていることが多々あるし素手でもクーラに勝てるかどうか怪しいものだ。アイツも最近、打撃術にも磨きをかけている節があるしな。

 

 だが目の前の小娘程度ならなんとかなるか?答えはノーと言わざるを得ない。いや、単純に考えてあんな刃がびっしりな凶器をぶら下げた奴に素手で突っ込みたくはないってだけの話だが。

 

 では選択肢その2だが…

 

 「寒くてうざくて退屈なんだよね。さっさと帰りたいから、とっとと死になよ」

 

 考えがまとまる前に有翼の少女が飛翔、少し距離をあけた後猛スピードで室内に突っ込むように直進してきた。クソが!まだ考えがまとまってねえのに!

 

 「おんどりゃあああああああ!」

 

 適当な椅子を掴んで放り投げる。これに嫌がらせ以上の効果があるかどうかは分からないが、やらないよりはマシだろう。

 

 有翼の少女が、きりもみしながら回転。まるで刃物が対象をミンチにする為に動いているようだ。そして、翼からなにかが抜け落ちたように見え、それが飛来した。確認できたのは、まるで散弾銃でもぶち込まれたようにぶん投げた椅子が穴だらけになる光景。

 

 ノルンが壁にかけられていた剣に手を伸ばそうとしていたが、そんなことをしていたら死ぬ。再度強引に頭を下げさせ、胸元から頭蓋にかけて穴を開けようとする飛来する刃の群れを避けさせる。掴めたが、手放してしまい手から零れ落ちた鋼の剣が床に音を立てて落ち、回転した。

 

 堅い壁に深々と刃の羽が突き刺ささっていた。殺意マシマシの威力だが、幸いなのは俺のことは眼中にないようであり、ノルンを庇うことに全力で動くことができるということか。

 

 「あんな弾幕に刃の回転!剣なんて役に立たねぇ!」

 

 選択肢に2も3もない!とるべき行為は一目散逃げることだった!今の一連の動きだけで理解した、こいつはよくは分からんが化物の類と考えて間違いはないだろう。無理無理無理無理!これは死ぬ!

 

 「剣は役にたたんだと?」

 

 ノルンが伏せた状態からスッと頭を上げた。後ろ足を踏ん張り、前足を踏み出す。腕を大きく引いた後その表情には不敵なものが浮かんでいた。ただの一瞬であったが、その笑顔はいやに印象に残るものであった。

 

 きりもみ回転しながら飛んでくる対象、俺にはまるで断頭台が三つ回転しながら迫っているように見えたがノルンには違うようであった。凄まじい勢いで繰り出されたカウンターが、少女の顔面に直撃する。

 

 「はへ?顔、あれ?アタシの顔が?え?」

 

 間抜けな声が聞こえたと思ったら、有翼の少女の顔面部に拳がのめり込み、弾き飛ばした。窓際まで吹き飛ばされ、痛みというよりなにがおこったかも分からないといった顔をしながら頬を赤くしキョトンとしている。数瞬遅れて鼻血が噴出し、それで初めて自分になにがおきたか理解できたというような様子だった。

 

 「剣でダメでも、拳ならば役に立つだろう」

 

 回転しながら飛び込んで来る刃の渦。通り過ぎざまに斬り刻む刃の螺旋、だがその中央には隙があった。刃の渦の中に突っ込んだ腕と拳が数か所斬り刻まれて流血しているがそれを意識する様子もない。

 

 なんだ、この人。頭おかしーんじゃねえの。

 

 「殴られたのは初めてか?」

 

 困惑した顔をしながら横たわる有翼の少女に悠然と話しかける。先程までの肉食獣のツラではなく、毅然とし、凛とした上に立つ者の表情をしていた。

 

 「命を奪う立場の者が、反撃されないと本気で考えていたのか?命を奪う立場であることを甘んじているような顔をしている。対峙した者に、命を奪い奪われるということに覚悟を伴わなければ如何に異様な能力とて恐れるに足りずだ。そんな半端で私の首を狙うとは、三流めが」

 

 「さん…りゅう……はぁ?」

 

 ノルンの挑発がモロに刺さったのか、表情に怒りのようなものが混ざり始めた。

 

 「ありえねーん……ですけど。レントに認められたアタシが、三流な訳ないじゃん。ノルン、ガスパルを抱え込んだアンタを殺すのは確定事項だけどぉ…発言撤回させるからぁ!楽に死ねると思わないでねぇ!」

 

 「ノルン代表!」

 

 有翼の少女が怒りと共に立ち上がった瞬間、扉を蹴り開けて散弾銃を装備した護衛達が数人なだれ込んで来た。ノルンが軽く手を振ると、それに頷いた護衛達が散弾銃を敵に向ける。捕虜にして情報を引き出すのもありかもしれないが今は緊急事態でもある。最低限誰の差し金かこいつの口から聞けたし、生かしておくより殺しておくことにメリットを見出したか。

 

 「撃て!」

 

 散弾銃の射撃音が響く。手に持つ得物は、旦那が使っている散弾銃とは違いストックがついた、銃口が一つのスマートなものだった。生憎、帝国軍からの鹵獲品には散弾銃の類はなかったため、他とは比較はできないがあれが一般的な形状なのだろう。

 

 放たれた散弾が有翼の少女に殺到する。だが着弾前、確かに見た。二つの翼に生えた羽が急速成長。いや、翼じたいが巨大化しているのか?とにかくバカでかくなった鋼の翼が前進を覆うような盾となる。弾丸が表面で弾け、火花をあげた。

 

 「うざい!邪魔すんな雑魚共!」

 

 射撃が途切れたタイミングで、鋼と化した羽をむしり投擲。護衛二名の頭部に突き刺さり、リロードをした残りの者が二射めを放つ前に跳躍。天井は確かにある程度あるが、それでも室内等外と比べれば狭すぎる筈だ。だがしかし、小柄な身体と巨大な翼でどういう訳か室内を飛びながらグルリと回る。

 

 飛行線状にいた者達が両断される。綺麗な断面、というのがなんとなく分かった。あれは力任せで切断されていない、名刀の切れ味だ。

 

 「ここじゃまずい!」

 

 「逃げるの!?馬鹿じゃん!逃がすと思ってるの!?」

 

 普通に考えれば、背中を見せた瞬間追いつかれて切断されるだろう。だがどの道この部屋にいてもしょうがない。ノルンの手を掴み、部屋の外に出ようと駆け出すがその前に床に落ちた剣の柄を蹴り上げる。

 

 グルグルと回るそれを掴み取り、背後に思いきり投擲。狙いはあの少女ではなくそれよりも上にそれていた。下手と不釣り合いのシャンデリアの吊り下げ器具に剣が突き刺さり、ある程度の質量のものが重力に従い落下する。

 

 いかにあれが名刀の切れ味を持つ刃物の翼であろうと、空を飛び交う以上そこまで重くはない筈だ。小柄な身体もあいまり、上からの質量攻撃を喰らえば生身の身体はひとたまりもないだろう。

 

 「チッ!」

 

 苛立たし気な舌打ちと共に追撃を中止。その代わり、翼の羽ばたきを利用した羽の刃が放たれた。ギリギリで部屋から出て角を曲がり飛び道具を回避する。ここからはどうする!すぐに追いかけてくる!

 

 分かっていることは、丸腰でも愛用のククリナイフがあっても、帝国の最新式ライフル銃を持っていてもあの娘には勝てないってことだ。散弾銃の斉射を正面から耐えた化物とどうやって戦えと!?

 

 そこでかつて、とある人物が言っていた至言を実行するしかない。俺ができないなら、出来るやつに肩代わりしてもらうしかないのだ。曰く『化物には化物をぶつけるんだよ!』だ。選択肢は二でも三でもない、『逃げるんだよ~!』が大正解!

 

 ランザの旦那をこの少女とぶつけるしかない。俺の役目は、ノルン=ミルクエルを旦那と合流するまで無事に護りながら逃げ切ることだ。

 

 「文句ならばあとで幾らでも!今は我慢してれよ!」

 

 人間の足の速さと付き合っていたらなます斬りにされる。不敬は覚悟の上でノルンの背中と足の下に手を差しこみ持ち上げ、走る。

 

 「あれは何者だ?散弾銃を装備した者達が手も足も出ないとは、尋常ではない」

 

 意外なことに抵抗一つなかったが、その表情は思案と部下をあっという間に殺された怒りを覚えているようだった。

 

 そういえば……そういえばだが、ノルンが最初に言っていた言葉を思い出す。レント=キリュウインが降伏勧告の使者に来ていたという話だ。そして詳しくはないが、レントとかいうのはエンパス教の実行部隊を率いるお偉いさんだというではないか。

 

 「まさか」

 

 「なにか気が付いたのか?話してみよ」

 

 だがその前に殺気が背中に氷柱を突っ込んだ。左の壁を蹴って右側の窓から飛び降りる。背後で再度あの刃の弾幕が通り過ぎる気配を感じた。ガラスで頬を斬ったようだが、とっさに庇ったのでノルンには怪我はない、よし!

 

 三回から飛び降りたが、すぐ下には料理を作る馬鹿でかい調理場が入った建物があった為大した高さではない。屋根の上を駆けて再度飛び降り地面に着地する。

 

 上空を見ると、案の定追跡をかけてきた。翼を羽ばたかせ、直進で向かってくる!うおおお怖えェえええ!

 

 身体を横にそらすのが精一杯、だが両断はされずに済んだ。代わりに右腕にぶっつりと切断された感覚があるが鋭すぎる刃物のせいか興奮のせいか痛みはあまり感じない。腕が落ちてないなら、無傷と同じだ。

 

 「エンパス教だ!」

 

 「なに?」

 

 「レント=キリュウインの私兵部隊が所属している新興宗教だ!話には聞いていたがこんなクソ化物がいるなんて聞いてねぇぞ!」

 

 旋回して再度突進してくる有翼の少女。あのまま通路で直進していれば背中から大量に串刺しにされていたとはいえ、空が見える場所は奴の天下だ。このまま調理場の裏口から建物の中に飛び込むか!?

 

 足を踏み出そうとした瞬間、調理場に入る為の木製の扉が開く。給仕服を着た使用人が、恐らくは先程の地揺れで落ちて、割れてしまった皿などを廃棄する為に外に出たのだろう。タイミングが最悪なことに、これでは押しのけて入るしかなくなる。

 

 聞いたことがある。戦場で活躍する調理人達は例え城が陥落間近でも料理をする手を止めないという。軍艦同士の砲撃戦でもそうだ。料理人の戦場は調理場、緊急事態だからこそ兵士達が万全に戦えるように料理の支度を続けていたのだろう。現在は戦中であり、砦が陥落前とはいえ常在戦場を宣言していたノルンの部下達ならばこうするように教育されていても不思議ではない。

 

 すぐにでも調理が再開できるようにする為に、この事態でもすぐさま現場を効率的に動かせるように掃除と作業をしていたのだろう。だけど、今ここで鉢合わせになるのは不運というしかない。

 

 押しのけて中に入る。ただそれだけのことに躊躇をしてしまった。ここでそれをしてしまえば、この非戦闘員は両断されてしまう。だがその躊躇いが足枷となってしまった。飛んできた刃が左足に突き刺さり、体勢が崩れる。転倒してしまえば仲良く両断されてしまう。クソが!躊躇った代償がこれか!

 

 「おい!頼む!」

 

 もう手荒とか不敬とか事前謝罪する余裕もない。体制が崩れつつあるなか、手に抱えたノルンを給仕に投げ渡した。女性には抱えきれず、給仕は手に持つ割れた皿が入った木箱を落としながらノルンを受け取りつつ建物内に倒れる。

 

 開いた扉を乱暴にしめるなか、ノルンと目が合ったような気がした。ああ、一国の代表放り投げた訳だからなぁ、万が一ここで生き延びても処刑台かねぇ。でもなんだか、あの人は死んじゃいけないような気がしたから別に良いか。

 

 あの人が生き延びて、ランザの旦那がアレを倒してくれるならまだ半獣達や多分、エルフにも希望はある。彼女は俺達半獣を毛嫌いしている訳ではないということが分かった。一国の指導者が半獣を嫌っていないのであるのが分かれば、それだけでも収穫だ。

 

 なにより、同胞の為に帝国と戦うのは楽じゃねえよなぁ。俺は、そんな連中の頭を張るだけの器じゃなかったがノルンはしっかりと苦難の道と分かりつつ代表という道を選んでやがる。それもオヤジを殺してのし上がる覚悟付きでだ。

 

 旦那、後は上手くやってくれ。生憎と俺は、もう仲介できないぜ。だがそれと、面倒ごとを背負わせた罪滅ぼしだ、相打ち覚悟で手傷くらい負わせてやるよ。

 

 「あああ!クッソいてぇ!」

 

 足に突き刺さった羽の刃を引き抜く。持ち手がなく扱い辛そうだが丸腰よりはマシだろう。さあ着て見ろ化物、ただで死ぬと思うなよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ほい姉ちゃん!この規格ならば帝国製ライフルにも対応できるぜ!」

 

 弾薬袋から取り出したライフル弾を確認する。確かに、帝国で製造されたものとほぼ同じに見えるので、問題なく使えるだろう。

 

 「エルフの連中には悪いが、矢の類はないんだ。狩りが趣味の懐古主義なお貴族様でもいたら話は違うんろうが、もう扱う者がいなくて武器庫をひっくり返しても出てこなかった」

 

 「ありがとう、問題ないよ。彼等は彼等で弓と矢を製造している。まあ、少なくともランザさんやガランが敵主力を蹴散らしてくれるまでの間はなんとかなるよ。元々戦争の援軍に来た身、大量のストックは持ってきたからね」

 

 「信用しているんだな、お仲間を」

 

 「どの道あっちで負けたらこっちもどうしようもない。出し惜しみしてもしょうがいないし、全力を尽くすだけかな。ああ、後俺は男だから。名前はウェルロンド、男っぽい名前だろう?」

 

 弾薬を持ってきてくれた公国の兵卒は信じられないといった顔を浮かべていた。まあ、こういうリアクションは慣れたものだ。

 

 「これで男とかもったいねえ…なんて言ったら失礼か?」

 

 「さあ?別にあんまり気にしないけどね」

 

 そう、俺自信は別にあんまり気にしない。生まれ落ちた時、性別が雄なのに偶々顔立ちが雌に近かっただけの話だ。だがしかし、世間というものはそう単純には事と話が進まないものだ。過去の出来事を、思い出してしまう。

 

 ある程度の金と権力があり、女をいくらでも侍らせることができるような輩は、時折なにを倒錯してしまうのか美少年や美青年に食指を伸ばすことがある。俺はそういう需要の元で生きてきた。

 

 他の半獣達と比べれば身体は貧弱だし筋肉量も少なく、傷も少ない。だがそれは、半獣でも容姿が良ければ構わないという男に玩具として飼われていたからだ。独り立ちする気力もなく、世間での半獣という存在の扱われ方を幾度も幾度も夜伽の旅に囁かれ、この境遇がまだ幸せだと信じ込まされた。

 

 この窓から見える景色の外にいる仲間達は、飢えに苦しみ寒さに震え、過酷な労働に駆り出され酷使されている。それに比べれば、三食の食事と暖かい寝床を与えられ夜ごとのストレスに耐えれば良いだけの自分はなんと幸福なのだろうか。

 

 そんな日々を粉砕してくれたのが、あのガランだった。同族の扱いと自信の境遇に怒りが頂点になった彼は賛同者と共に反旗を翻し、襲撃を繰り返していたのだ。

 

 『お前は一度でも、嫌だとかやめろとか、言ったことがあったのか?』

 

 ククリナイフを手に持ち、ぎらつく瞳をした男が立っていた。傍らには半殺しにした俺の元飼い主が、痛みに喚いてたるんだ腹をよじりながら這いつくばって逃げようとしている。

 

 『お前は俺に「やめて」とか「殺さないで」とか言ったが、この男に拒否の言葉を投げかけた記憶はあるのか?』

 

 『え…いや…わたし、わたしはこの人の所有物だから、き…拒否なんて』

 

 『くだらねぇ。言葉の取捨選択さえ狭められて、テメェの自由を縛る存在を庇い立てするなんてな。確かに趣味はわりぃがここは良い部屋だ、隙間風がなく暖炉がでかくて暖かい。飯もきっと良い方だろ、お前の身なりみりゃ多少は分かってもんだぜ。だが環境は下の下だ、手前の意思を縛りあげられてまでいたいもんかね』

 

 無様に逃げようとする飼い主の腹を、彼は蹴り飛ばした。唾液を飛ばしながら、肉団子が無様に転がり悲鳴をあげる。

 

 『お前がそれを願うならば、この豚は生かしておいてやる。これまで通り鎖に繋がれているんだな。だが自由が欲しいなら、それを得る為に戦うならば俺達と来い!半獣が虐げられない自由を俺が必ず作ってやる!その鎖、自分で断ち切って来るかここにいるか選べ!』

 

 この人は、暖かい寝床も過酷な環境も自分で得ようとしている。ただ与えられる者を貪っていただけの自分が、それだけの為にこびへつらう自分が酷く矮小でくだらないものに思えてしまった。

 

 そうだ、わたし…だなんて男の俺がそもそも使っていた言葉じゃない。その方が興奮するからと、躾られた結果なんだ。いつの間にか、それを意識しなかったくらいには飼いならされていたんだな。

 

 ランザさんという旗頭を添えた今でも、半獣達はガランを信じている。彼が何時か、俺達半獣達が安心して自由に生活できる自治州を作ってくれると、本気で信じているのだ。

 

 彼が自分の器に悩み、それでもあがき続けていることを知っている。本当は勢いでここまで来ただけで、自分には集団を率いて夢に連れて行く力はないのではないかと苦心していた。だが半獣達はこういうだろう、アンタだからついてきたと。

 

 ガランが死んでしまったら、ガランが信じたランザさんを信じるという前提に亀裂が走る。なにより、夢破れた半獣達は依然のままではいられないだろう。自然とこの解放軍は、瓦解してしまう。

 

 「俺の容姿云々はともかく。俺達は俺達の仕事をしよう。ランザさんやガランがなんとかしてくれる。首都は絶対に落ちないから、ここを防衛しきれば俺達の勝なんだから!」

 

 「ああ頑張ろうぜねえちゃ……兄ちゃん!」

 

 だからガラン、首都がやばくても絶対に死ぬんじゃない。俺達半獣にとっての旗頭は、実のところ今もお前なんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガランを覆うように、陰ができる。空中で複数に火花が舞い、有翼の少女の進む道は逸れ直撃を免れた。

 

 「久しぶりだねイリーナル=フレスト。悪いけどこの人は殺させない、ランザの足場が崩壊しちゃうからね」

 

 刃に巻き込まれズタボロになったフード付きのマントを破りながら脱ぐ。直刀と歪なナイフを両手で回しながら、乱入者は舌を舐めた。

 

 「クーラ=ネレイス。裏切者の野良猫め」

 

 イリーナルと呼ばれた有翼の少女は憎悪を込めた視線を向けていた。その殺意は、まるでもうこちら等眼中にないと言わんばかりであった。



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10

 イリーナルは有翼種、半獣とはまた別の存在であり厳密には『獣』ではないものの広義の意味では同一存在扱いされていた。

 

 自分にとっての不俱戴天の敵はカリナ=イコライであったが、比較されていた対象として常にイリーナルの存在があった。なにせ彼女は、レントのお気に入り扱いされていた。別にそんな指標とか、階級がある訳でもないけれどアイツは気に入った奴を傍において厚遇するふしがある。

 

 親衛隊とでもいえば良いのかな?当時の自分はアイツが羨ましかったが、向こうはこちらになにやら敵対心のようなものを抱いていたようだ。各地で集めた情報を精査し、陰からレントを支えていた自分の功績は決して低いものではなかっただろう。ただ、気に入られただけで傍に置かれた奴よりは役に立てているという自負があった。

 

 今考えれば戦闘職と諜報員じゃ単純に比べられるものでもなければ役割も違う。ただ、そんなことまでは考えられず互いが互いを目障りに思っていたことに変わりはなかった。ある意味では、カリナは本人を前にしても陰口でも散々喚き散らしていたからある意味分かりやすかった。だがこの女とは、大した接点がないにも関わらず意識しあっていた。

 

 「クーラ」

 

 「イリーナル」

 

 カリナには落とし前をつけておいたが、こいつとはまだだった。いい機会だ、ここでこいつとの過去も清算してしまうのも良いだろう。

 

 「少し痩せたんじゃね?」

 

 「え?」

 

 ……なんのつもりだ?確かに痩せたっちゃ痩せたが、何をいきなり。

 

 「あーあー苦労しちゃってるみたいじゃん。まあ、ずっとこんな北の僻地にいたんじゃ無理もないよねぇ。ちゃんとご飯食べれてんの?眠れてる?肌に悪いよ~ちゃんとした睡眠とれないと」

 

 「……なにが言いたいの?」

 

 「ほらぁ、実はあたしってばアンタのことだいぶ気にしていたんだよね。アタシは有翼種だしアンタは半獣。ある意味似た者同士だし、勝手な噂はされていたけど親近感みたいなのはあったんだよね~。年代も近いじゃん?でも接点無かったし、仲良くしたかったんだよね~」

 

 「ええ?おい?助かったけど、なんだ知り合いか?お前等」

 

 握り辛そうなイリーナルの羽から出来たナイフを放り投げながらガランが口をだしてきた。包帯を放り投げてやると、顔に当たったのか後ろか「ワプッ!」という間の抜けた叫び声が聞こえた。余計なことを気にする必要があるならさっさと止血してほしいものだ。

 

 「なにが言いたいっていうとアレだよアレ。なにトチ狂って沈む船にいるか知らないけどさ、レントのところに戻るよう口添えしてあげよっか。なに、あの女王とやらを潰すのを邪魔しなければ良いだけだからさ。悪い取引じゃないんじゃない?どう?」

 

 「それで、降った自分の居場所はアンタの補佐役ってところ?正妻狙いのアンタのこと、自分はお妾さんってところかな?」

 

 「あーうんまあそんなところ。でもしょーがないよねぇある程度のペナルティーはさ。それにお妾って卑屈にならなくても良いじゃない。友達になって、一緒に彼に恩を返していく、それで良いじゃない。遊びは終わり、さっ戻ろっか」

 

 「……そうだね。まあ、いい加減この寒さとかにウンザリしてきたしさ。今なら北側の内部情報てんこ盛りで渡すことができるし良い頃合かな?」

 

 後ろで「はぁ!?お前なに言ってやがる!」という抗議の声が聞こえてきた。良いリアクションだからありがたいね。でもさ、止血ちゃんとできてる?

 

 「よしじゃあ決まり!これからよろしくねぇクーラ。ひとまず、この城の詳しい間取りからでも教えてもらおうかな。どうせ、もう調査しているかその最中じゃ」

 

 言い終わる前に相手が動く。それとこちらの動きもほぼ同時だった。翼の斬撃と二刀の刃が交差して火花を散らし、互いに間合いをとる。やれやれ、考えることは同じだったかな。

 

 互いに互いに急所撃ちの攻撃を同時に繰り出したせいで、上手いこと決まらなかった。自分が言うのもなんだけど、性格悪いなこいつ。

 

 「やっぱ気が合うかもねぇアタシ等さぁ!考えていること同じじゃん!」

 

 「いや、どうだろうね?少なくとも自分はアンタのことあんまり良く思ってないしさ!大体、アンタ自分がレントのところにいた頃からこっちのこと嫌いじゃなかった!?」

 

 「アハハハ!それはご名答!でもだからこそクーラ、アンタのことはそれなりに意識していたんだよ!でもなんで…」

 

 前蹴りを大きく翼を羽ばたかせて避ける。間合いを離されてしまったか。

 

 「なぁんでレントを裏切りったのかなぁ。どうせ、アンタもアタシも最底辺からあの人に救い上げてもらった口でしょう?恩知らずで恥知らずなんて、後ろ指刺される覚悟で裏切ったんだろうけどさぁ」

 

 羽ばたきと同時に羽の刃が放たれる。側面に飛びながら走り、壁を蹴って建物の屋根の上に飛び上がる。抜け落ちた端から新たに翼から羽が精製される為その気になったイリーナルの飛び道具は切れ目がない。だがアイツはまだ、本気ではない。

 

 「殺しとく前に聞いておきたかったんだよねぇ!地面を這いつくばる薄汚れた獣の分際で、あの待遇と彼になんの不満があったのさぁ!」

 

 「さぁてね。まあしいて言うならばさ、レントはどうせ自分がいなくてもさして困らないからかな。所詮自分はアンタと比べるとその他の面子、でも居場所を見つけることができたからそっちで頑張ってだけの話だよ」

 

 腰袋から煙球複数を取り出し、屋根の上に叩きつける。大きな羽ばたき音が聞こえ、風と共に煙幕が晴れていく。広く張った煙幕が晴れる前に、影術が屋根に突き刺さり引きはがした建材を巻き上げておいた。確かこの下は食堂だったっけか、雨漏り確定で申し訳ないね。

 

 廃材の弾幕をイリーナルに向けて飛ばす。羽の刃が弾幕になり飛ぶが、質量で勝る建材が遠心力に任せて飛び羽による弾幕を弾きながら上空に飛ぶ。

 

 レントが施した加護持ちを全員知りえている訳ではなく、カリナ=イコライの時は役割が政治方面であり加護を発揮するタイミングが無かった。だがイリーナルの加護は身体的特徴と直結している為その把握は容易く、そして仮想ライバルとして意識をしていた為よく理解している。

 

 イリーナルが得た加護は単純明快かつ彼女にとって最大限に適したものだった。見た目は分かりやすく翼の硬質化。羽の一つ一つがまるで名刀が如き斬れ味を誇っており、恐らくは体力が続く限りは無制限に精製されていく。

 

 羽による散弾の如き刃の雨で敵の動きを固め、自在に空を飛ぶ機動力で間合いを詰めすれ違いざまで斬殺していく殺傷能力。だが、翼として羽ばたき空を飛ぶという必要性がある為、あの刃でできた重そうな有翼は見た目とは裏腹にとてつもなく軽い。

 

 分離して飛ばした刃は、斬れ味があっても重さは無い。薄い木板くらいなら貫通するかもしれないが、ガランの足に突き刺さった刃が肉と骨を貫いて貫通しなかったことから大した質量がないのが見てとれる。斬れ味故に突き刺さる能力は高くても、深々と刺さることはない。

 

 もっとも、飛んで来る刃は一つではなくとんでもない数が襲いかかる為充分脅威であるのだが。例えば、適当な家具を一つぶん投げるくらいなら迎撃されすぐに穴だらけにされたうえに、それ以上の刃が攻めてくるだろう。

 

 それならば、質量を伴った散弾で迎撃すれば良い。石材に木材が飛来し、刃の刃を巻き込みながらイリーナルに向かっていく。放り投げた建材の合間を縫うように飛ぶが、引きはがした建材に紛れるように投げナイフが飛んだ。

 

 投擲されたそれは、目論見通りに行けば心臓に突き刺さる筈だった。だが流石の視力と反射神経とでも言えば良いか、寸前で大きく羽ばたき狙いが外れ太腿に投げナイフが突き刺さった。

 

 「ねえイリーナル。自分は見つけることができたんだよ、自分に相応しい立ち位置って奴をね。自分はあの人に、ランザについていくことに決めたんだ」

 

 そう、あの日の夜に自分は、精神的にも肉体的にも一度殺させかけた。あの夜、酸欠で苦しみの中で見たあの濁った瞳が忘れられないのだ。恐らくは、テンに向けられる筈だったドス黒い殺意と悲しみが入り混じった汚泥のような視線。

 

 戦闘の興奮とは別の熱い吐息が喉から溢れる。手にナイフや直刀を握っていなければ、何時ものように首筋に指を伸ばしていただろう。それだけに、あの夜の出来事は熱く深い思い出だった。

 

 ナイフが刺さった太腿から血が流れている。太い動脈に傷がついただろうし、あれを引き抜いてしまえば止血ができる環境でなければ失血死は免れない。痛みに耐えている表情で、険しい目付きを向け……いや、これは違うな。疑問の視線かな?

 

 「ランザ=ランテが、アンタになにをしたって言うのよ。いったいなにがアンタをそこまで変えたの?レントの道具として、散々手を汚してきたうえでそんな心変わりが何故できるの?」

 

 ねえイリーナル、自分は今どんな顔をしているのかな?少なくとも今彼女が浮かべる顔は、理解できないものを見ている表情だ。

 

 「ついていくって決めただけで、そんな顔はできないってば。なんなの?アタシが知っている、大嫌いだけど努力家で油断ならない、あの半獣クーラ=ネレイスはどこに行ったの?」

 

 踏み込みから跳躍。影術で再度建材を引っぺがし足場を作り、その上を飛びイリーナルに肉薄する。

 

 「その娘なら死んだよ!呼吸を狭められ衰弱し、そして時間をかけて、ゆっくりとね!ああ、イリーナル、アンタにも教えてあげたいよ!今までなにがあったのかをね!」

 

 レントを見限りランザについていったのはキラービーやクイーンビーの一件や結局彼に名前を忘れられていたという失望感、そして命を狙ったのに命を救われ、あの濁った瞳に興味をもった自分がいたということが大きかった。

 

 サグレとベレーザ、エルフ達にミハエル。死闘があった中で仲が深まっていくのを感じていた。だがしかし、湧き出た信頼し親愛が壊れるように重く深い、あの暗い悪夢の世界で自分がどういう存在であるのかを自覚してしまい、その瞬間今までのクーラ=ネレイスは死んでしまったのだろう。

 

 自分は、過去はレントの役に立ちたい、それ以降はランザの役に立ちたいと思い行動を共にし、努力をしていたと思っていた。本当はどうしても嫌だけど、例え自分が選ばれなくても、相手の幸せを願い祝福できると信じていた。

 

 だがしかし、現実はどうだ。身勝手で横暴で差し出した分の見返りを求めてやまない自分がいた。ランザが、自分以外の誰かと幸せになるのが我慢ができない。あの幸せな悪夢は、自分にとっては地獄のような日々だった。あの赤ん坊が、ミーナが産まれて間もない頃から成人し祝言をあげる話が出て来るまでよくも精神を壊さず耐えられたものだ。元々、壊れていただけかもしれないが。

 

 そんな自分に絶望していた。嫌悪感もあった。それでも止められなかった。元々嫌いだった自分が、大嫌いになった。浅ましく、おぞましいとすら思えてしまう。

 

 でもそんな自分を肯定してくれたのは、まさかのジークリンデだった。胸を張れと、泣くなと、肯定してやると。そして最後には、自分を貫けと。

 

 過去の自分は悪夢の世界で死に、ジークリンデの言葉で葬られた。今の自分は、誰かの道具になりたいなんて謙虚な自分ではない。傲慢で浅ましく、彼を求める一匹の獣だ。

 

 「イリーナル、アンタは首を絞められながら犯されたことがある?」

 

 飛び上がり正面から見たイリーナルの顔には、怯えのようなものが混じっていた。

 

 「自分はね、何時かランザにそれをやってもらいたいんだぁ。機会があったら、レントにやってもらえば?自分とアンタ、気が合うんでしょう?もしかしたらハマるかもね」

 

 「ッ!気持ち悪い!」

 

 直刀の突きが空を貫く。嫌悪感を表情に浮かべながら全力で身を引いたイリーナルは、大きく翼を羽ばたかせた。軽い身体と軽い翼の利点、小柄な身体が空を旋回する度にグングンと加速していく。着地をし、すぐに左に飛びのくと同時に突風が通り過ぎた。

 

 鋭い風が刃に当たっていないにも関わらず刃物となり、衣服の一部を斬り裂きその下の皮膚を切断する。今度は前方に飛び退いた瞬間、背中が切断され血があふれ出る感覚がした。あーあ、これはまた消えない傷が増えちゃったかな。

 

 「レントの元から離れるってだけでも理解しがたい恩知らずだというのに、そこまで堕落しきったか!気持ち悪い、気持ち悪いんだよ!陰で研鑽して日陰で動いて少しでもレントの利になるように努力を惜しまない姿勢は、嫌いながらも認めていたのにさぁ!死ね!もう死んでしまえ発情猫め!」

 

 まるで殺気が自然界の風にのって周囲を飛び交っているようだ。直接斬撃を受けなくても通り過ぎる風だけで服が破れ皮膚が斬れる殺意の突風。本気になった彼女のこの高速移動こそが、レントが自身のお気に入りとして重宝していた理由なのだろう。

 

 彼女の加護はあくまで翼と羽が硬質化し、名刀となるだけである。この運動能力の高さは天性の物だけではなく本人の努力で培った賜物だ。なんだ、陰で研鑽を積んでいたのはアンタも同じじゃない。

 

 四方から翼を離れた羽が刃物となり降ってくる。その様はまるで、吹き荒れる嵐にのって舞い落ちる豪雨のようだった。影術で建材や瓦礫と化した建物の一部を盾にしても隙間から身体に突き刺さっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーラ=ネレイス。アタシは勝手に彼女をライバル視することにしていた。同じような存在、同じような境遇、同じような救われ方。違う点は、アタシは少なくとも彼女よりはレントに認められていたということだ。

 

 他に彼に近しい、或いは重宝されていると言える存在は、彼の右腕とも言えるカナリヤ=エル。消息を絶ったが元からいるよりいない方が多かったウェンディ=アルザス。リスム地下迷宮で見つけ、その異様な風貌と特異な生い立ちにより同じエンパス教の間ですら秘匿されていた名無しのコボルト。

 

 加護を駆使しなくても圧倒的なカナリヤの戦闘スキルに、加護に頼らなくても様々な能力を駆使するウェンディに肩を並べていたアタシはどこか分不相応さを感じていた。それだけアタシの飛行能力を買ってくれているのだと思っているが、心無い者からは膣の具合が良いだけの女と陰口を叩かれているのも知っている。

 

 有象無象には知らされていないコボルトはともかく、そんな自分と明確に比べられていたのはクーラ=ネレイスだった。正直、彼女の忠誠心と職務遂行能力はアタシから見ても目を見張るものだった。集められた情報はカナリヤの元に一度集められるのだが、あの彼女が時折クーラを認める発言をしていたのを聞いている。

 

 彼女が中枢に加わらなかったのは、噂によればレントとの閨を拒んだからだと言う。嘘か本当かは分からないが、そのどこから出て来たかも分からないような情報のせいでアタシの肩身は更に狭いものになっていた。

 

 クーラは、レントの正妻を巡る争いに関与できない立場にいる。それでも、自分を道具として少しでも役に立つように滅私奉公する様は、半獣を毛嫌いする者達の間でもどこか認めざるえないような空気があった。仮にこれが、レントのお気に入りであり寝所を共にするような仲であるのならば嫉妬ややっかみが混じったであろうが偶然のバランスがクーラの評価を支えていた。

 

 余談だけど、カリナ=イコライはレントの親衛隊であるアタシと、クーラに対して嫌悪と好感が入り混じるような評判が気に食わずアタシ等どっちにも攻撃してきてたっけか。そんな彼女も、表向きにはモスコーの吸血鬼事件に巻き込まれ命を落としたことになっていたがとある情報によればクーラが直接手を下したともいう。どっちにしろざまーみろな結末であるが。

 

 道具に徹するクーラとは違い、アタシはなにも気にしないという風にヘラヘラとしているしかなかった。今の地位を手放すつもりは毛頭ないものの、クーラの在り方に憧れとは言わずともどこか……敬意とライバル心のようなものを内心で燃やしていたのは確かなのだ。

 

 そして、いざ争いごとがおこればアタシの翼は誰にも負けない。エンパス教の僧兵達で最速を誇るこの身体と戦い方が周囲に認められれば今の評価は一変し、それはクーラに対して勝ったことになると強く信じていた。そしていざとなれば、最強と言われるあのカナリヤにも勝つことができると自負している。

 

 だがしかし、彼女は、クーラは裏切った。

 

 「イリーナル、アンタは自分にとっては雲の上の存在だったよ。自分がレントとの閨を拒なければ、アンタの立場にいたのかなぁなんて何度も思った程。でも壊れた道具は捨てられるから、それをおくびにも出さないように慎重に生きてきた」 

 

 クーラは避けるだけで精一杯。傷も身体に増えていき、スタミナが尽きるか気力が尽きるかが先か。すばしっこいものの、少しでも隙を見せたらその身体を両断できる命の危機に直面している。

 

 「でも、自分は道具になりきれなかった。あの夜、ランザに壊されたしレントにも壊された。笑えることにね、レントは自分の名前を憶えていなかったんだよ。道具なら道具らしく消耗品×1みたいな評価で良い筈なのに、それを知った時、自分の感情は失望だった。自分は壊れた道具ですらない、最初から物にすらなりきれなかったなにかだった」

 

 話しながら、笑っていた。笑う要素がどこにあるのかも分からない言葉が口から溢れ出ているというのに。

 

 もうあの不気味な顔は見たくない。トドメの一撃は、背面から決めてやる。

 

 「ねえイリーナル」

 

 アタシの速さをとらえきれていない筈のクーラが、こちらに振り向く。決してそんなことはないのだが、何故か酷くゆっくりと首を折り曲げこちらを見たように感じた。

 

 眼帯、何時からしていたか分からないそれの下から、爛々としかつ禍々しい、黄金の輝きを持つ瞳がこちらをとらえた。爬虫類を思わせるようなその細い瞳に、ドロリとしたなにかが流れ、溢れだす。

 

 「好きな人を独占し、全てを与え、全てを奪い取る。ランザが誰かと幸せになるのを自分は許さないし、自分がランザ以外と結ばれることはない。親衛隊?正妻競争?馬鹿馬鹿しい、レントが欲しいなら周りにいる女を全員殺せば良いだけじゃん。何故それをしなかったの?」

 

 クーラの手から、直刀と歪んだナイフが空に投げられた。五指がゆっくりと、握られる。

 

 「それが出来ないお前に、自分が負ける道理はない」

 

 気圧された。身体が逃げの姿勢に入り、直前で上空に逃れようとしたがクーラの黄金の瞳がそれを逃さなかった。

 

 ノルン=ミルクエルにカウンターを喰らった時とは違う。彼女の言葉を借りるならば、今度は殺し殺されることを覚悟して全力を出した一撃だった。僧兵達、レントの取り巻き、いやこの大陸においてアタシ以上の速さを出せる者は存在せず、本気になったら影すら置き去りにしてみせる。

 

 だがクーラの握り拳は、確実にこちらの顔面に叩きこまれた。

 

 「少し、格闘術もかじり始めていてさ。練習台になってよ」

 

 クーラの楽し気な言葉が聴覚を通し脳内に響く。こいつは、レントの元から離れて、いったいなにになったと言うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クーラが苦戦している。なにか少しでも、奴の気を反らすかなにかをしなければなます斬りにされて殺されちまう。

 

 影術により破壊された建物の一部、角材の切れ端と手ごろな大きさの石ころを掴み取りなんとか手助けをしてやろうと考え屋根によじ登った。

 

 だが、少し目を離していた隙に情勢は大きく変化をしていた。顔面に拳が叩きこまれ、ふらつく有翼の少女は羽ばたいて逃れようとする。だがそれをさせず、クーラの爪先が腹部に叩きこまれた。胃液をまき散らしながら悶え、少女が屋根の上に膝立ちになる。

 

 顔面を掴んで顎に膝が叩きこまれ、軽い身体が少し浮いた。その時、クーラの言葉が少しだけ耳に届く、聞きたくなかった。

 

 「叩きこめるならば、出来る限り叩きこめだっけ」

 

 クーラは、努力家だった。影術、投擲術、短刀術。それだけじゃ飽き足らず、ランザの旦那にしつこくおねだりをして教わっていた打撃術。

 

 打撃の基礎を教える訓練の様子を見て、ボディタッチや身体を密着させデレデレしたツラを見せていたクーラに俺は、『ああ、半ばそれが目的なのね』と思ったものだ。

 

 だがしかし、教わったことは可能な限り噛み砕き、誰にも見えないところで努力を重ねていたらしい。生身の肉体というサンドバッグが手に入ったことを、彼女は嬉しそうにしていた。

 

 掌底が叩きこまれるが、服を掴まれており離脱ができない相手を引き寄せ頭突きをかます。怯んだ隙にワンツーの連打を叩きこみ、脳が揺れふらついたのを確認したら飛び上がり側頭部に蹴りを叩きつける。屋根の上を滑り、有翼の少女は地面に落ちていく。今の結果に、クーラは不満顔だった。

 

 「しまった、フィ二ッシュが早い。ランザに聞いたエイラさんだったら、もっと叩きこんでいた筈なのに……これじゃあ、ランザの一番になれないじゃん」

 

 屋根から落ちた少女はピクリとも動かない。旦那に比べて一発一発は軽いが手数が多い。死んだにしても死んでいないにしても、オーバーキルも良いところだ。……あ、よく見たら痙攣している、一応は生きていたか。

 

 有翼の少女を気にせず、クーラの独白が続いた。急所以外に突き刺さっている、羽の刃を気にする様子もない。

 

 「エイラさんのことなんて忘れるように、自分が打撃術でも連撃でも一番にならないとね。ああ、早く娼館時代の思い出も塗りつぶしてあげなきゃなぁ。もっともっと技を磨かないと、何時かランザの頭の中を全部自分で埋める為にね…ああ、ジークリンデの分はちゃんと残してあげるからさ……フ…フフ」

 

 空を見上げながらブツブツと呟いている。そして、こちらから見えた黄金の瞳がまるでそれを喜ぶように怪しく歪んで見えた。

 

 旦那にあの少女をぶつけるつもりだったが、どうやらその必要はなかったらしい。クーラ=ネレイス、彼女も既に十二分に化物だった。

 

 「クーラ!」

 

 先程投げ渡された包帯のあまりを投げ返す。痛みを興奮で消しているのかもしれないが、彼女の身体も傷まみれだ。

 

 「さっさと止血しろ!まだ終わっちゃいねーぞ!」

 

 怖い、怖いがいつも通りに声をかけてやる。自分達と違う者を迫害し遠ざけたら、それこそ半獣を遠ざけ差別した人間と同じだからだ。クーラはクーラ、倒錯気味で心的に病んでいるが、こちらをおちょくる様子はただの生意気なクソガキ。それで大好きな人の為に頑張る努力家。それで良いじゃないか。俺が恐れて、どうするんだ。

 

 「え?いたの?隠れて震えてるものかと思ってたよ」

 

 「ざけんな!角材と石ころ持ってぶん投げに来たんだよ!まあ必要なかったみたいだがな!あと、助かった!借りはそのうち返す!」

 

 「返せるの~?ガランに返せるの~?」

 

 「舐めんな返したるわ!でも利子つけるなよ!絶対つけるなよ!」

 

 良い笑顔をしてやがるぜこのクソガキめ。やはり俺のアイツに対しての評価は、これが一番いいようだ。きっと、多分、恐らく…少なくとも俺にとってはだが。ランザの旦那にとってクーラどういう存在になるのか、そこまでは関与しない。俺は、その程度には賢明だった。



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11

 「ウソォ」

 

 突然また地揺れがおこったと思ったら、急激に地面が盛り上がってきた。高さという意味では、小高いといったくらいであるがその規模は、横にとんでもなく長い。目視でざっと見てもどこまでも続いているのか分からない。

 

 なんて驚いていたら、ゾロゾロと帝国兵がその丘に登ってきた。バチッとライフル銃を構えてくる。

 

 「おい、あれ」

 

 「ただの一人だが、異形だ。ならば射殺して構わないだろう」

 

 的な会話でも交わしているようであり、こちらに向けて銃弾を放つ射撃音が幾つか響いた。丸腰なのに、交渉に来た使者にすら扱われないとは、徹底して蟻の子一匹通さないつもりなのかな?なんて冷静に考えている場合じゃないよ!

 

 「おい!こっちだ!」

 

 後方から声が響いた。地面を突き破り、開いた穴から先輩が顔をだしていた。手には農家から拝借でもしたのか、木製の一部に金属パーツを取り付けたスコップを背負い簡単なツルハシが握りしめられていた。

 

 「せや!」

 

 モグラのように引っこんだ先輩の後に続き、穴の中に飛び込む。思ったよりも縦に深く、着地点で水飛沫をあげる。どうやら、地下水路にまっすぐ落下したらしい。寒さには強いつもりだけど、この気温で冷えた水の中はしんどい。

 

 「こっちにあがれ、焚火の用意をしてある」

 

 暗闇で先輩の声が響く。嗅覚と暗闇の中で映る僅かな輪郭である程度の空間を把握し、岩の縁に上がりながらなんとか先輩の後についていく。しばらく進んだところで、先輩の陰がかがんでゴソゴソと作業をし始めた。あらかじめ用意してあった焚火に火がつき、周囲に明るさと暖かさが広がる。

 

 「先輩、よくご無事で。ここは、地下水道ですか?」

 

 「地揺れがおこった後、帝国兵が押し寄せて来たのが見えたからな。近場の農村に避難して、井戸の中に飛び込ませてもらった。この土地柄、砦と首都の間の平原に川がないのに農村部が点在しているのは違和感があったが地下水源が豊富なようだ。それこそ、ちょっと調べるだけでも大した広さと複雑さだし井戸も多い」

 

 先輩も洞窟内でずっと行動をしていたコボルトだ。そして、洞窟や地下空間等の把握は他の種族どころかコボルト達と比べても非常に長けている。

 

 「しかしとんでもないことになったな。こうして潜伏はできるものの、上がああなっちまえば出るに出られない。このまま地下水脈を上手く通れば首都の下まで行けるかもしれないけどよ、あくまで地下道や洞窟じゃなくて自然な水脈だがら、まともなルートが通じている可能性は考えたくもねぇわな」

 

 「それにしても、よくあんなドンピシャで私がいるところまで掘り進んで来ましたね。お陰で助かりましたけど」

 

 「妙な地揺れがおこったからな。流石にすぐ崩落とかはしないと思うが、すぐにでも外の様子を見た方が良いと思って掘り進んだ。妙に、土が柔らかくなっていたから簡単だった……まあ原因は、あの現象のせいなのだろうけどな」

 

 あの丘のような盛り上がり、周囲の地面から砂や土、石を集めて小高い丘を形成したのだろうか。そうだとしたら、そのせいで周辺の地面は脆く柔らかくなるのかもしれない。簡易とはいえ、即席の陣地が形成されたことは味方にとっても脅威だと戦争素人でも分かる。雪合戦でも上をとった方が強いんだから銃での射ち合いもなおさらだ。

 

 「先輩は、どうするつもりですか?」

 

 「ダメ元だが、首都の地下まで行けるルートがあるかどうか探ってみるつもりだ。ランザ=ランテを見つけて大事な言伝を伝える。俺の方針に変更はない」

 

 確かにランザさんやクーラちゃんと合流できたらそれは大きい。でも、ちゃんと調べてみないとなんとも言えないが、流石に首都の地下まで進めるとは思えない。

 

 ランドルフ様からの言伝も大事ではあるが、私にとって気になるのはあの妙な気配だ。近いようでまた遠いような、懐かしいようで初めてのような、そんな矛盾を感じる奇妙さ。ほぼ確信して言えるが、二回の地揺れとあの目の前で盛り上がった地面の原因はそれにあると思う。

 

 「それよりお前だよお前、なんでまたここにいるんだ。砦であのご老体の面倒を見るんじゃなかったのか?」

 

 「……少し説明が難しいのですが、奇妙な気配を感じたんです。私達に近いけど遠いような、同種だけど別種のような…とにかくそういう気配、感覚のようなものを感じたんです。先輩には、なにも感じなかったですか?」

 

 「いや、別段そんな気配は感じない。ただ、お前の家計は代々シャーマンの一族、俺には分からない感覚をもっていたとしても不思議ではないと思うがな。だが、それだけで飛び出してくるのは後先考え無さすぎだ。お前は特別なんだから、もう少し自重してくれ」

 

 先輩の目が呆れたようなものになる。まあ確かに、いてもたってもいられなくなってしまい飛び出してしまったのは少し急ぎ足すぎたか。エルバンネさんにも、迷惑かけちゃっているだろうな。

 

 「まあそれは、はい…反省します。でも先輩、先程言っていましたよね、首都の地下までまともなルートが通じている可能性は考えたくないって」

 

 水脈はあくまで水脈、自然形成されたものであり人の手が入ったものではない。水に沈んだ道がほとんどであり、こうして自然形成された足場があり歩けるところの方が少ないだろう。コボルトの得意技と言えば洞窟の拡張や鉱石掘りではあるが、まともな道具を用意できる環境ではない為それも難しい。

 

 「正直時間の無駄になる可能性が高いと思います」

 

 本人も自覚しているだけに、こちらの指摘にやや苦い顔になる。井戸に飛び込んだ際に、混乱する村落から幾つか道具を拝借してきたようだが流石にいくらコボルトでも無理があるというものだ。

 

 「だったら、どうするんだ」

 

 「私の考えですが、二回の地揺れで奇妙な大地の隆起。それをおこした存在を突き止めてなんとかするべきだと考えています。首都地下まで行けずとも、こうして農村各所に点在する井戸を利用したりすれば敵の裏側をかけると思うんです」

 

 「それをするメリットは」

 

 ほぼ確実に首都を救援する為に砦から兵隊達が出撃するだろう。もしかしたら、ランザさん達と合流する為にエルバンネさんが砦の居残り組を集めて首都を目指す可能性もある。だとしたら、簡易的な陣形を造られてしまった現状は危険だ。何時かは突破できるかもしれないが、手痛いダメージを負う。

 

 無論危険すぎる行動だ。謎の存在もまともな相手ではないだろうし、たった二人で打てる手はいったいどれくらいあるだろうか。だが、現状ある程度のアドバンテージがあるのも確か。先輩を、なんとか説得しなければならない。

 

 「現象を引き起こした存在を拘束し大地の異変を止め元に戻せば、首都救援に出撃する部隊との交戦はこちら側に有利になります。なにせ、寒さになれていない部隊と地の利がある後アブソリエルの軍隊ですから条件を五分にしたらこちらが勝てる可能性が飛躍的に上がると考えています。そうなれば、少し時間はかかるかもしれませんがランザさんやクーラちゃん達のところに出向くことができる」

 

 ハイリスク、ハイリターン。どの道この上の大地で陣取っている帝国軍を除かなければ先輩の役目も達成できない。

 

 「反対だ」

 

 「理由は?」

 

 「公国軍とやらが勝てるならそれで良いが、負けてもこちらには支障はない。やや役目をこなすのは困難になるだろうがな。なにせランザ様は今や悪竜ジークリンデ様を継いだ存在となっている。人間が率いる軍隊如きに、あのランドルフ様と同じような存在が早々敗北すると思うのか?」

 

 先輩の言わんとすることは分からなくもない。なにせ、ハボックに襲撃してきた帝国軍やオルレント自治州での防戦で、悪竜の力を駆使するランザさんは多大な戦果をあげていた。だからこそ、解放軍はかつてないまとまりを見せハボックでは戦中とは思えない程穏やかで友好的な雰囲気であった。

 

 今回もそうなるだろうと先輩は考えているようだ。ハボックに来ていたコボルトは私だけであるが、時折資源の交換等でコボルト達の集落と人員が行き来している。その時に、戦果を喜々として語る半獣か、事態が好転している今こそ改めてコボルト達の協力が欲しいと要請するエルフがいたのだろう。

 

 私もほんのちょっと前なら、そう考えていただろう。クーラちゃんの戦闘能力は頭一つ周囲より伸びているし、なによりランザさんが振るうジークリンデ様の力はまるで個人がおこす災害だ。

 

 ……だが。

 

 「今回は容易にはいかないのではないでしょうか」

 

 後アブソリエル公国を側面から奇襲する奇策。それをとらざるえない理由は、正面からぶつかれば帝国軍とて砦を落とす為の労力が多大なものになると考えているからだろう。だからこそ、搦手を用意してぶつかってきた。

 

 それを可能にしたのは特異な能力を持つ何者かがいる。そして、それがたった一人ではないと誰が言えようものか。

 

 「勝てれば問題ないです。あくまで、勝てればですが、もしも奇怪な能力を持つ敵が一人だけではないとしたら?今回の一戦、敵は恐らくランザさんがいると理解したうえで仕掛けてきたと私は考えています。あくまで、証拠もないただの勘ではあるのですが」

 

 「その勘を支える思想の根拠は?」

 

 勘、というのは今までの経験や思考の蓄積から現れるものだなんてエルバンネさんが言っていた。あの人は顔からもう苦労人だし、こと悪い予感に関してはよく当たると周囲のエルフ達から聞いたことがある。

 

 「帝国軍には連戦連勝を重ねていますが、少なくとも諜報能力では劣勢どころか大人の赤子の差だと考えています。防諜に関しては、クーラちゃんが多少周囲に警戒のコツを教えているようですがそれでもある程度の移動を行えば敵に所在を掴まれているのではないでしょうか。そして、ランザさん達がここにいると分かったうえで、彼を始末する為にこの公国に攻撃を仕掛けてきていたとしたら?」

 

 そう、だとしたら敵は確実にランザさんを打倒する為の戦力を整えてきたと推察できる。それがどのようなものかは定かではないが、策を用意するならば事前準備が必要ではないかと思う。

 

 竜狩り隊が、ランザさんと悪竜ジークリンデ様を討伐しようとした際は大量の爆薬を街の地下や家の中に隠していくという大規模な事前準備をしていた。ランザさんから聞いたことがあるが、人間と明確に敵対していた海竜リヴァイアサン様も大艦隊を用意して部隊が半壊しつつ討伐したようである。

 

 艦隊、というものが私にはよく分からないが、ランドルフ様と同格の存在を倒す為だ。よほど大規模で凄まじいものであったのだろう。

 

 帝国には、難敵や強敵と対峙するならば相応以上の準備を重ねることができる資金と国力に人員がある。そして、あの帝都事変と言われている首都で大暴れしたランザさんを倒す為、それができると踏んできているのだろう。

 

 今回帝国軍は攻める側で、戦場に事前準備はできない。そりゃあスパイを送り込んで多少の工作はできるかもしれないが大艦隊を送り込むことも首都の地下に大規模に爆薬を仕込むこともできない。

 

 だとしたら、特殊な戦力を用意してきたと考えられるのではないだろうか。

 

 「私が感じた奇妙な気配は一つですけど、ランザさんを倒すことができる可能性がある戦士が一人とは思えない。いえ、こちら側にその気配が足止めとして参加しているならば首都には文字通りの主戦力がいる筈です。加勢にいかないと、ランザさんでも危ないかもしれません。先輩!ここは私達でなんとかできないでしょうか?」

 

 「言いたいことは分かったが、どうするんだ。こっちは、たった二人だぞ」

 

 手数不足、それが私達の足を引っぱっている。だがしかし、私には手数をある程度補う能力ができる。

 

 「先輩、私は解放軍の食堂で頑張っているんですよ、あんなに沢山の人数のご飯を作るのは大分大変なのです」

 

 私は、母様はともかく先祖が怒りだしそうな影術の使い方をしていた。火おこしに、鍋に、フライパンに、パン生地をこねたり窯で焼いたりだ。流石に一人だけで全部は賄えないのである他にも調理人はいるけど、もし仮に私がいなくなった解放軍の食事事情は一気に貧弱になるだろう。

 

 洞窟にこもっていた頃は、日々の料理なんて考えたこともなかった。最初、ハボックに来た時台所に立った理由はクーラちゃんが思ったよりも偏食かつあまり味に頓着しなかったことだ。育ち盛りなのに、固くて乾燥している味の悪いビスケットに似た保存食や干し肉ばかり食べていた。野菜も食べないし。

 

 「人手不足なら私がなんとかします。まあ、慣れていますので」

 

 私の影術は、洞窟ではほとんど使用していなかった。する機会もなかった。だがしかし、クーラちゃんに教える傍ら私自身影術の使い方が引きこもっていた頃よりも洗礼されていた。

 

 「まずは、気配の真下まで移動しようと思います。協力をお願いできますか?先輩」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エルバンネはここに来て歯噛みをした。

 

 展開できる帝国軍の規模は、正確には不明ではあるが公国の土地を埋め尽くす程ではない。展開が遅いポイントや、戦力が薄い個所を狙い突破をする目論見であった。だがしかし、二度目の地揺れと同時に隆起した丘のせいで簡易な陣形が築かれておりそれが難しくなってしまった。

 

 その上、突然の帝国軍襲来により点在していた農村民が逃げ出し砦方面が混雑している。万が一の際、事前の避難計画や対処方法を検討していたかもしれないがこんな横腹から攻撃された際の対処方法等考えてさえいなかっただろう。

 

 そもそも、あの山脈の向こう側には共和国があった筈だ。交戦ないし陥落すれば公国や我等解放軍にも情報は来ていただろう。だが、それすらもないということは戦わずして降伏、寝返ったということか。

 

 今は農民が避難して無人となった農村に身を寄せている。そしてどこか大地が隆起していないところ、または帝国兵が薄いところを斥候をだして探らせている。ミルフの所在も探らせており、上手いこと合流できれば良いのだがあまり過度な期待はしないようにしている。

 

 良いとも悪いとも言えないが、帝国兵は持ち場から動くこともないようだ。野戦に引きずり込むことはできそうではないが、こうして農村部に身を寄せていても敵が攻撃をしてくる気配はない。突破に必要なのは勢いではあるが、現状その勢いのまま攻め寄せれば帝国製のライフル銃の斉射を受ける。

 

 ならば一人一人狙撃で始末ができないかとも考えるが、ライフルの射程外から丘の上で狙い辛くなっている相手を始末するのは容易いことではない。公国の正規部隊が来るのを待つべきだろうか。いや、時間をかければかける程困難な突破はさらに不可能なものになる。

 

 やはり今動くべきだろうか。少なくとも斥候が戻って情報を把握したら、すぐにでも行動しなければならないか。

 

 「戻りました!」

 

 見張りをしていた者が大声で伝える。斥候に出ていた目が良い者や足が速い者が帰還していく、時間をおくとともに一人また一人と戻り幸いなことに犠牲者はいなかったものだ。だが、持ち帰ってきた情報には朗報と言えるべきものはない。

 

 この丘状の地形はずっと向こう側まで続いているということ。帝国兵がその上に陣取っており、ライフル銃を構え大きな置き盾や長槍も準備して敵対者を待ち構えているということ。ミルフの存在は誰一人確認できなかったということ。

 

 死体が転がっていないのであれば、ミルフはまだ生きている可能性もある。もしかしたら帝国軍の捕虜になっているか、隆起がおこった時点であの丘の向こう側に既に移動していたかだ。

 

 「どうするんだエルバンネ」

 

 「今すぐ動こう!あの丘を越えるべきだ!」

 

 「公国の正規部隊を待って共に突破をするべきじゃないか?」

 

 「帝国兵が増えないとは限らないだろうが!時間をかければかける程不利になるぞ!」

 

 それぞれが意見を言い合う。確かに、今ならもしかしたら痛手と引き換えに突破できるかもしれない。だがしかし、突破して終わりではないのだ。ミルフの保護に首都の応援だって必要だろうし、なによりもここにいる解放軍の主力部隊を失うようなことになれば今後戦っていけはしない。

 

 「エルバンネ!ちょっと来てくれ!」

 

 間借りした家の外から声が聞こえた。哨戒をしていた味方のエルフが、なにかを見つけたようだった。声からして、そこまでせっぱ詰まった様子ではない。

 

 家から出てしばらく歩く。雪がチラついてきたが吹雪いてはいない、もしかしたら天候が悪化したら攻撃を仕掛けられるかもしれないとも考えたがこれではあまり期待はできない。

 

 「エルバンネ、これを見てくれ。地面の上、他の足跡に混ざりそうだったがこいつはコボルトの足跡だ」

 

 雪の上、四足の哺乳類特有の足跡が残っていた。農村の住民が避難に逃げたなか、それは少し分かり辛いものだったがこの特徴的な足跡は間違いようがない。

 

 「足跡は…あの物置に繋がっているのか?」

 

 進行方向を確かめると、農作業の道具をしまっているのであろう納屋に続いていた。中を見て見ると、想像よりは整理されていたがたてかけていた鍬が倒れていたり木桶を蹴飛ばしてしまったような跡があった。

 

 「なにか道具と…薪を少し持って行ったのか?」

 

 「いや、足跡はあったけどコボルトとは限らないんじゃないか?帝国兵が来たし、なにか武器代わりのもので武装して最低限の護身をしようとしたのかも」

 

 「………」

 

 違和感のない意見ではあるが、本当にそうなのだろうか。納屋の奥には木窓があり、それが壊されていた。そこに近づいて向こう側を見ると、足跡が一つだけ伸びていた。その先には井戸が一つ、足跡はそこで途切れている。重要なのは、その足音がコボルトのものだということだ。

 

 「エルバンネ!」

 

 「ああ、もしかしたらミルフの足跡かもしれない。この非常事態、取り合えず帝国兵から逃れる為に最低限の準備だけ整えて井戸の中に飛び込んだのかもしれないな」

 

 「ええ、いや足跡はあるけど井戸だぜ?そんな逃げ場なんて」

 

 「いや、地下で水脈が繋がる洞窟のようなものがあるのならばそこに身を潜めることができる。洞窟や地下空間でコボルトよりも環境把握に長けた奴はいないだろうからな」

 

 調べる価値はあるだろう。

 

 「俺達はコボルト程寒さに強い訳じゃない。農村部を調べろ!防寒具や松明等を集めるだけ集めて井戸を降りる準備をするぞ!もしミルフが地下にいるならば保護をして一度砦に戻る!どんな状況にも対応できるように準備を整えておくんだ!」

 

 また地の底かと思わなくもない。しかし、今度は望んで地下に潜ることになる。まずは、一手先に進めよう。あくまで、前向きにだ。



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12

 私が小さかった頃、母親はわりと愚痴の多い人だったという印象がある。

 

 コボルトのシャーマンは一子相伝。役割は、産まれた子供の為の祝福や、火竜を祀る祭祀の進行と執り行い(もっともランドルフ様は出来ればしないでほしいと言っている)に、死者を送る為の葬儀を役割としている。

 

 母さんは、表向きでは厳格なシャーマンで通っていたが、裏では立派な人が亡くなったのだからもっと規模の大きい葬儀をしろだの、やれランドルフ様を祀る祭祀なのだからもっと大仰にしろなど色々言われていたらしい。だけど、母さんはまだ自分は楽な方だと言っていた。

 

 『シャーマンなんて基本、平和な間は食わせてもらっている立場。いてもいなくても、大して違いなんてないわよ』

 

 そんな考えをもっているからこそ、母さんは表向きでは謙虚に振る舞っていた。裏側では愚痴の一つや二つではすまない程、零したくなるものを抱えながら。

 

 だが、そんなシャーマンが一番求められる時は、一族をかけた戦い。まさに、戦争状態であった。怪我人の治療を行っても、或いは行うまでもなくもう手遅れだと判断した者に、祈り言葉と共に慈悲を与えること。そしていざという時は、コボルト達の最後の砦として敵対者と戦うこと。

 

 後者はともかく前者、慈悲というものは相当に堪えるものだった。コボルトの狭い社会では、なにかとみんな顔見知りばかりだ。昨日まで談笑していた知り合いが、どんなに延命処置をしようと苦痛を長引かせるだけの状態になったりする。迷ってはいけないし、躊躇もできない。ただ笑顔で見送ることが理想とされていた。

 

 母さんから後を継いで、あの人のように愚痴をこぼすんだろうなと考えていた私にはなかなか厳しい現実が待っていた。だからこそ、戦争なんて早く終わらせなければならない。これ以上続けば、何時心が擦り切れるか分からない。

 

 『怖くないのかって?』

 

 ある日、ふとしたことでクーラちゃんに聞いたことがある。近寄るのでさえ怖いランザさんの近くに張り付き、弾丸飛び交う最前線に常に赴く彼女。ジークリンデ様から眼球を移植した彼女は、まともな半獣とは言えないかもしれないが、その身体はあくまで生身のものだ。

 

 ランドルフ様やジークリンデ様のような頑強さも、ランザさんのような人外じみた身体も持っていない。それなのに、あんな小さい女の子が毎回毎回怖くはないのだろうか。

 

 『おいて行かれる方が怖いよ』

 

 クーラちゃんは、なにかを諦めるようにふっと笑った。話してもしょうがない、とでも言いたげでありこれ以上深入りしすぎるなと、追及するなと言わんばかりな態度をどこか感じ取れるものだった。

 

 でも少なくとも思ったことは、あんな顔は小さな女の子が浮かべて良いものではないということだ。天真爛漫さや無邪気さを年相応に求めるのは傲慢ではあるが、少なくとも笑う時はもっと穏やかや楽しげであるべきである。

 

 戦争を終わらせることの先にランザさんの目的があるようだ。ランザさんは止まらない、クーラちゃんもそれについていくことをやめはしないだろう。一度、ランザさんにクーラちゃんを連れまわさないように話そうとしようとしたことがあった。

 

 例えクーラちゃんがついてきたいと駄々をこねるようなことがあっても、あんな少女を戦場まで連れて行くのは良くないことだ…と。因みにそれを伝えるまでもなく、ランザさんもその意見には同意であったことをひょんな事情から後に知ることとなったがそれは別の話だ。

 

 だけど、やはり少し怖かった為決意を固める為に一度エルバンネさんに相談に行ったことがある。それを聞いたエルバンネさんは、なんとも複雑そうな顔をしたものだ。

 

 ランザさんと昔から因縁があるエルバンネさんなら、なにか他の人とは違う意見がもらえるかもしれない。そうも伝えると、エルバンネさんは小さくため息をついた。

 

 『クーラ、あれは君が思っている以上に強かだよ』

 

 苦いものを呑み込んでから吐き出したかのような言葉。ただその一言に、様々な感情が込められているように思えた。

 

 『他者が干渉するものではないだろう。特に、あの二人とそれを取り巻く因縁はな』

 

 それだけ言われて、自分でもよく考え直してみたが口を紡ぐことに決めた。クーラちゃんはこれまで歩いてきた人生が分からないのに、出会ってまだ日が浅い私が独善で口を挟んで上手くいくことがあるのだろうか?でも、何時かはちゃんとした一人の女の子として幸せを掴んでもらいたい。

 

 「この上も井戸か」

 

 先輩の声が、意識を引き戻す。上を見上げると曇天と共に、小さな滑車が見えた。垂直な壁ではあるが手をかけるところも複数あるし、先輩が村の納屋から適当に拝借してきた道具を応用すれば先輩なら登れなくもないだろう。私はちょっと無理そうだけど。

 

 「気配は?」

 

 「近く…とは言い難いですが、井戸の間隔から考えてここが一番近いと思います。人の気配というか、臭いも薄めだと思うので狙うならここかと」

 

 「それ、妙と言えば妙だな。特異な能力がある者ならば当然護衛がつくと考えてはいたが」

 

 もしかたら…という言葉は口から出す前に呑み込んだ。特異な能力だからこそ、もてはやされるとは限らないのではないか?少なくとも、私はらランザさんのことを怖いと感じている。

 

 皆はランザさんのことをジークリンデ様の後継ということで見ている。でも、私は彼がそうなる前から異質なものだと感じていた。自分とは違いすぎる相手が怖い。そう思うのは、なにも特有なものじゃないんじゃないのかな。

 

 「なにはともあれ、様子を見なきゃ始まらないだろう。先に行かせてもらう。上についたら、安全確認するから待っていろ」

 

 「あ、はい分かりました」

 

 先輩が岩の隙間に手を差しこんで昇り始めた。井戸に飛び込むくらいだから昇る方法くらいは確保していると思っていたけど、まさか素手でロッククライミングを始めるとは、流石というべきかなんというべきか。

 

 嗅覚に集中しているのか、あと少しで井戸を昇りきるところで鼻をひくつかせた。安全を確認したのか、軽く頭を井戸の縁からだして周囲を見渡している。怪訝な顔をして身体全体を出してこちらを覗き込んだ。

 

 「周囲には兵隊もなにもいねえ。本当にこの近くにいるのか?その妙な気配って奴は!」

 

 「え、ええ?その匂いとか、色々分かりません?」

 

 「いないからいないって言ってんだろ!だがまあ帝国兵も近くにはいないし、上手いことあの壁の裏側に周り込めたな。待っていろ!今昇れるもんを用意してやる!」

 

 滑車に繋がれている桶を上げ下げするロープはか細く、千切れるのではないかとみたか。体重的に別にそんなことはないと憤慨したいところであるが、どうやら先輩的はこれでは少し心元ないと考えているようだ。

 

 まあでも、改めて上を見上げても私の腕力と握力では登り切れる気はしない。指を引っかける力、ピンチ力って言うんだっけ?凄い人は指先でなんでも斬り裂けるとかなんとか。どっちにしろ私には縁のない話だけどさ。

 

 「気をつけてくださいね先輩!依然気配は近い……」

 

 そう、気配は依然として近いのだ。それにも関わらず、上に行った先輩は敵を見つけられずおりなおかつなにか頑丈そうなロープを探しに行くくらいの余裕まである。私の感じる気配が間違いだったのかな、そもそもろくに戦場に出たことがない私がいきなり感覚とか気配とか感じる訳が。

 

 水が滴る音が響いた。そりゃここは井戸だ、穴の真下は水が流れているし水流はあちこちに流れている。そりゃ多少水が流れる音くらいは。

 

 「奇妙な気配。なんだ、お前は」

 

 ピッという水を切る音と共に、石でできたナイフが首筋に添えられた。鋼鉄を鋳造し研ぎあげたナイフでないにも関わらず、鋭く磨かれた奇妙な程綺麗なものだった。

 

 「え?…え?」

 

 水が衣服から滴る音。臭いがなく、上にはいなく、だが気配は近い。声からして女の子だが、この子はずっと水の中で身じろぎもせずに待ち構えていたのだろう。薄暗い洞窟内でさらにこの冷たい水に全身を浸して隠れているなんて想像もつかなかった。

 

 背後の女の子は、こちらの腹部をまさぐり始めた。湿気で少ししっとりしてきた柔毛をまさぐられ、まるで自分にはないものを確かめるようにゴソゴソと手を動かしている。ナイフを握る手は人のものなのに、こちらをまさぐる腕は私達と同じそれだ。

 

 「貴女も、コボルトなのです…か?」

 

 「聞いているのはこちらだ。下でコソコソと鼠、いやモグラのように蠢く。そうか、お前コボルト…混じり気のない純正のコボルトという奴か」

 

 背後で、憎悪のような感情が沸き上がるのを感じた。脅しのナイフが殺しの凶器に見えて来るような、殺意が膨れ上がってきた。

 

 「ルノはコボルトなんかじゃない」

 

 「え?」

 

 「ルノ達は、ただお前達に捨てられた紛い物だ!」

 

 殺意を感じたと同時に、暗闇の中で蠢いた影術を一気に伸ばしルノと名乗った少女の腕に巻き付く。

 

 「えい!」

 

 驚きで動きが硬直したと同時に隙が産まれたので、突き飛ばして離れる。敵に気取られない状況と手段はいくらあっても良い、ただそれを行使するならば相手が大きく動いたりトドメを刺しにきた時にしろなんてクーラちゃんは言っていたけど、成程こういうことか。

 

 正直なところ、影術に関しての技術はまだまだ私の方が上であるが、一対一で影術オンリーで戦ったらもう彼女には勝てないだろうと思う。色々と、見てきたものと経験が違うだろうから。

 

 距離を離すことができたことで、井戸から差し込む光のおかげでその身体を見ることができた。下着のように生えた柔毛であるが肌全身を覆う程生えそろっていない体毛。右手は人間の腕が伸びているが対症的に左手は獣のそれであり、コボルトよりもむしろ野性味を感じるようなアンバランスで力強い筋肉をまとっていた。

 

 顔立ちは可愛らしい、時間が経てば美人になると感じるようなものであったがどこか獣の面立ちも残っている。半ば人の顔なのに、見慣れたコボルトのみんな達と比べるとまるで野獣のような厳しさと威圧感が漏れ出ている。

 

 自分用の小さな荷物袋の中にはクーラちゃんからもらったナイフがある。だけど、それに手を伸ばした瞬間殺されそうな気負いがあった。それでも、手は無意識に袋に伸びてしまう。

 

 それと同時に、ルノが周囲の地面に踵を突き立てるように叩きつけた。クーラちゃんがランザさんに格闘術を教わっていた時、震脚と言えば良いのだろうか。地面に足を強く叩きつけ体幹を安定させる技術に似ているような気がした。

 

 でもその身体能力は違う。岩を割り舞い上がった石が宙に大量に浮かび上がる。重力で自然落下せずに何故か空中に浮かび上がっていた。そしてカリカリという音をたてて浮かんだ石が削られて槍の穂先のように尖っていく。

 

 「え?え?」

 

 「お前達なんていらない。ルノ達を捨てて行った者達なんて、ルノ達もいらない。小奇麗なコボルト共を皆殺しにして、ルノは唯一の存在になる」

 

 「ひぃ!」

 

 まるで弾丸が放たれるように宙に浮かび上がった岩が放たれる。とっさに身を屈めるが、岩の一部が肩と岩に突き刺さるのを感じた。痛い!想像以上に、痛い!

 

 ランザさんやクーラちゃん、コボルト達に半獣の皆さんやエルフの皆さん。戦場では当然だけど、普段の訓練でも傷だらけになることも多い。なんでみんな、こんな苦痛を自分で好んで受けに行くのか理解ができない。

 

 そんな現実逃避を思考がしようとしたが、そのままじゃ死ぬと本能が理性をねじ伏せ…られない。痛い!痛い!痛い!誰か、助けて!

 

 「う…うぅ……痛いよ」

 

 うずくまりながら痛みに悶えていると、足音が聞こえてきた。頭頂部の毛を掴まれ持ちあがられる。冷たい目で見下されている。心底の嫌悪と憎悪が込められていた、こんな目で今まで見られたことは一度もない。

 

 「まだ少し、針が刺さっただけだろう?なんでそんなに泣くんだ」

 

 こんなに痛いことは、今まで一度も体験したことがなかった。純粋に、これくらいのことを乗り越えられる覚悟が足りていない。もう、もう帰りたくてしょうがない。なんで私は、あの砦から飛び出しちゃったのかな。

 

 「よく見たら、綺麗な身体だ。体術もなっていない、傷の痕もない。なにをしにきたんだお前は」

 

 なにをしに来たんだっけ。そうだ、クーラちゃんにお弁当を届けに来たんだった。その為に野菜を斬って数が少なめのお肉もこっそり入れて。馬車に乗って行き倒れのおじいちゃんを助けて、それまでで良かったのに。

 

 そうだ、クーラちゃんにお弁当届けに行かないと。ああ、お弁当はエルバンネさんに預けちゃったんだっけ。じゃあ、エルバンネさんから返してもらわないとな。行こうか、帰ろう。今日の夕食はなににしよう、乾物はあとどれくらいあったっけか。

 

 手が、なにか堅いものに当たった。感覚に思考が中断され、指先に意識が集まり、小袋に中に入れていたものに意識が集まる。

 

 『クーラちゃんは凄いですね。そんな傷だらけなのに、なんで戦えるんですか?ほらここ、今日の訓練で青あざ作っちゃって』

 

 走馬灯なのか、指先に触れたナイフの鞘から流れ込むように記憶がよみがえる。

 

 『いや、ランザさんが好きってのは分かるけど。それでも、女の子なのに、戦う以外にもランザさんの役に立つ方法っていっぱいあるのになーって』

 

 クーラちゃんがあまりにも戦場についていくるのに、ダメ元といった様子ではあるがランザさんが遠回しにお願いしてきたことだった。あの人は、諜報や防諜等専門技術はともかくあまり危険な最前線にはついてきてほしくないといった様子だった。

 

 私?当然ながらあんな怖い人に頼まれたんだ。すぐに無理と理性が告げたが本能は『はいよろこんで~!』と精神的に腹を見せながら寝転がる降参ポーズで二つ返事で受け入れたのだが。

 

 高山地帯に生えた薬草を染み込ませた布地を、青あざとは違う裂傷に当てながら器用に包帯を巻いているクーラちゃんは、それを聞いて二カリと笑った。

 

 『自分の勝手だからだよ』

 

 『え?』

 

 『ランザに頼まれた?説得してくれ~って。いやいやいや、それだけじゃないよねミルフ』

 

 包帯を巻きおえたクーラは、愛おし気に青あざを撫でる。

 

 ランザさんの格闘訓練は、私からしてみたら容赦がない。こういう教え方をされてきたと語るその内容は、最低限の型を見せる前にいきなり組手から入る。その組手の中で打ち出される技術こそ、課題となり教わる型だった。

 

 まず敵が目の前で繰り出したきた技を身をもって喰らうこと。ランザさんの二人の師匠のうち一人、投げ鬼と言われたお爺さんには常にそういう教わり方をしていたというのだ。エイラさんというもう一人の師匠も、見て覚えろの精神だったらしく打ち合いの中で技術を磨かれたらしい。

 

 そして、身をもってその技の脅威を知った後、初めて型稽古に入っている。クーラちゃんはそうやって格闘技術を吸収しており、半獣やエルフのみんなはそれを見てドン引きしていた。

 

 そりゃ当然ランザさんも、加減はしているだろう。だけど年齢差もあれば、体格差も体重の違いもある。打たれ吹き飛んだクーラちゃんの腹部は青くはれ上がり、吐瀉物を吐き出す程の衝撃があった。それを何時も、複雑そうな顔でランザさんは見ている。もう少し加減すれば良かったと後悔しているような、本当に不器用な人だ、本当に…。

 

 出来れば、私もそれをやめさせたかった。そんな気持ちが根底にあったのも否定はできない。

 

 『技が直撃した時浮かべるランザの、後悔が入り混じるような顔。あの表情とここを貫く激痛。あれは、ご褒美だよ。訓練につけてもらえるうえに、自分の身体にこんな福音を与えてくれるんだから最高なんだよねぇ』

 

 『は…はぁ』

 

 ええ、意味が分からないよぉ。

 

 『フフッ…まあ、それはともかくだけどさ。ランザについていくには強さが必要だし、そのためにはもっと強くならんらきゃいけない。だからこそ、これまで磨いてこなかった格闘術も必要だし、投げ技はまだ厳しいけど近距離戦で覚えておいて損はないのは確か……だからやめないよ。血反吐を吐こうが、キツイ訓練も、最前線についていくのもね』

 

 それでも、やっぱり心配である。何時も何時も危険な最前線についていき、訓練でも地面を何度も転がりボロボロになった上で、更に投げナイフや短刀術の自主練や私に影術を教わるのは明らかにオーバーワークだと思う。やっぱい、女の子には正しくないんじゃないかと。

 

 『正しくないんじゃないかと思うかな?』

 

 いつの間にかクーラちゃんが近くまで来て、こちらの耳を軽く摘まんで持ち上げ息が吹きかかる距離で囁いてきた。生暖かい吐息に、背筋がブルリと震える。

 

 『でもそれって、ミルフの勝手だよね。ミルフが正しいと思うことを、なんとか自分に押し付けようとうとしている勝手。でもそうじゃないと正しくないなんて誰が決めたの?決めたのはミルフ自身でしょ?自分だってそう、多分自分の行いは人から見れば正しくない、だけど自分の勝手でランザについていっているのは自分自身がそれを正しいと信じているから』

 

 『え、あ…』

 

 『勝手を貫くのってそれなりに覚悟がいるものなんだよ。自分はランザの人生を壊したから、一生ついて回り添い遂げ、必要ならば、仮に彼が望むならば性の捌け口でも暴力の受け皿にでもなる…それはそれで凄い興奮するしね。だからミルフも、自分をなんとかしないといけないという勝手があるならば覚悟をもたないと、こんな風にすぐヘニョヘニョになるくらいなら無理だと思うけどな』

 

 ゾリ、と耳孔内で滑らかななにかが蠢いた。驚いて腰を抜かして座り込んでしまうと、舌先で唇を舐めるクーラちゃんが淫靡な笑みを浮かべている。

 

 『さ、今度は影術の続きを教わる時間だよ。腰抜かしてないで立ってよ、シショー。ほらほら、これあげるから立って。護身用には役に立つからさ。報酬の先払い、なーんていって』

 

 すぐにその顔は、おどけたような笑顔になった。鹵獲したと思われる帝国製の短刀を一本差し出しながら年相応の柔らかな表情。それを見て同時に、思い知った。私にはこの子を矯正することなど、普通の生活を送らせることなんて無理だと。

 

 ……無理?

 

 じゃあなんて私は、クーラちゃんに影術を教える傍ら頼まれていないのにお弁当作ったり、体調や衣服を色々気にしたり、恋の応援なんかしているんだろう。

 

 えっと、それは体調を崩さないようにだとか、身体的不調や装備の不備で戦場に万が一がおこったりしないようにだとか、そんな色々な捌け口なんかじゃなくてちゃんと幸せになる恋愛をしてもらいただとか。

 

 あ、そっか。それって私の勝手なのか。幸せの形なんて色々あるし、クーラちゃんが仮で語った私から見れば悲惨としか思えない内容だって彼女からしてみれば、求められているという幸せなんだ。だけど、私が思う幸せはそれとは違いちゃんと恋愛して、付き合って、ご飯を作って、家族として生活してもらうことである。そうでなければ正しくないと、勝手に思っていた。

 

 そうだ、勝手でいいんだ。そして、勝手を貫き通すならば覚悟がいるんだ。

 

 「もう良い、死ね弱虫」

 

 頭頂部の毛から手を離され、蹴られて壁に叩きつけられる。首筋を狙い振るわれる石のナイフを、小袋から取り出したクーラちゃんに渡された護身用ナイフで防ぎ火花が散った。この子の、人間の腕はそこまで腕力がないようだ、私でも防げる程に。

 

 「なにを驚いた顔をしているの」

 

 殺すつもりの一撃を、取るに足らない相手に防がれた。それを驚く相手に、私は産まれて初めて殺意というものを全力でぶつけるように叫んだ。

 

 「私は勝手にここに来て、勝手に戦っているんだ!貴女なんかに、構っている場合じゃないんだ!」

 

 地面を強く踏みこみ、影術を発動させる。先端を槍の穂先のように尖らせ、複数の実体を伴った影がルノに向けて群がる。死角をついたつもりであるが、気配で悟ったのかルノは大きく後ろに飛び退き、影術は空を貫いて停止した。

 

 「貴様」

 

 「貴女のその姿、置いて行かれたという言葉、多分貴女の正体は私には予想がつくかもしれない」

 

 人間達の鉱山開発とその為に邪魔となるコボルトの乱獲。大多数の先祖達は北の僻地に逃げ延びたが、何らかの理由でそれが出来ずに更に地下深くに隠れ息を殺すしかない同族達もいたのであろう。

 

 ルノは、その末裔だ。私達コボルトは同種で子孫を産み出してきたが、過酷な環境で数を減らした逃げ損ねた者達は、それこそ手段も選べなかったと推測できる。それが、目の前の女の子。私が感じた奇妙な気配、その正体。

 

 先祖が救いきれなかった、私には直接は関係ない者とはいえ罪悪感もある。同情の念も感じよう。でも、私は弱いからみんなを助けることはできない。私の勝手は一人にしか向けられない。

 

 「私は、貴女を倒す。倒してあの子にお弁当を届けにいくんだ!」

 

 ルノの目が、本格的にこちらを敵として見定めた。それでも怯む訳にはいかない、私にも、それくらいの覚悟はあるつもりだからだ。



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13

 ナイフを両手で握りしめて突き出すが、ルノが手に握る石ナイフで軽く弾かれる。両手で握りしめて全力で突き出した攻撃のつもりだったのにそれこそ流れ作業をするようだった。

 

 「え!?」

 

 身体が弾かれた方向、左側に流される。咄嗟に無防備な背中や首をナイフで突き刺されないように影で覆うが、それを冷静に見極められてから腹部になにかが叩きこまれた。いや、多分膝だと思う。そんなことを頭のどこかで考えていたがすぐに激痛で思考の隅に追いやられれる。

 

 地面をゴロゴロと転がる。なんとかナイフは離さないようにしていたけど、どっちが上でどっちが地面が分からない。なんとか目を開け、手をついて起き上がろうとするが手の甲に激痛。見ると、地面から急激に伸びた石が手のひらから甲を貫いていた。

 

 「うぁ…」

 

 傷は見ないようにしよう。見ないように、見ないように見ないように。考えると怖くて身体が動かなくなるから、見ると痛みが視覚からも通じるから。

 

 追撃はない。再度ルノと名乗った少女は、こちらを観察するように見つめていた。真意は測りかねるが、こちらが抵抗の意思を示したことで警戒をしているのだろうか?

 

 私の推測が正しいなら、彼女は置き去りにされたコボルトの末裔で間違いないとすれば、おおよそ人前には出れる環境にいる訳がない。恐らくは、人の手があまり入らない危険地帯。私達が環境が厳しい北にいたのと同時に、ルノも隠れ潜んで暮らしていたのだろう。それもただ一人で、警戒心も増すというものだ…と思う。

 

 これが私にとって良いことなのか悪いことなのかは、ちょっと分からない。でも、すぐに死なないですむと考えれば儲けものなのかな。

 

 「痛くない…痛くない…痛くない……よし!」

 

 影に意識を向ける。井戸という暗闇の中で、私自身の影は潜むことができる。井戸から差し込む僅かな光源でも影は出来るし、環境は私にとっても有利でもある。

 

 「……フンッ」

 

 鼻で笑いながらルノが石壁に手を添える。自然石にヒビが入りそれなりに大きな破片となり足元に転がった。そのうちの一つを、獣の足で蹴り飛ばした瞬間散弾となり石の破片が飛ぶ。まるで、柔らかい砂山でも蹴り飛ばしたかのようであるが今までの傾向から見るとルノはそれこそがルノの特異な能力なのだろう。

 

 大地の隆起や、変化する石や岩。地面、砂、岩に石、その類に関連する能力。私達が代々継いできた影術と違い、どうやらエンパス教に所属している者達の中には特別な力を与えられている者がいるらしい。

 

 目の前の少女が、そのエンパス教からの刺客とは限らないけど、ランザさんにクーラちゃんがいずれ衝突すると言っていた。

 

 一発一発が小さい弾丸。喰らっても即死はしないだろうけど、あんなものを正面から受け取めれば今度こそ動けなくなると思う。

 

 『練り込め』

 

 目を閉じて心の奥底で念じる。私にとっての影術は、無用の長物だった。精々高い場所の物とか遠い場所の物とかとってくるくらいのもの。でも母さんから仕込まれた時、よく言われていたのは、この技術の主としての用途は所詮殺し合いに使うためのものだと。

 

 クーラちゃんに教えているのはまだ基礎の類である。自分から伸びる影を動かすこと。物を掴み、移動させ、投げるくらいの動作を繰り返して教えている。影術の才能は生活環境と、これまでの経験に依存し扱ううえで大事なイメージに繋がる。そういう意味では、クーラちゃんの呑み込みの速さは天才だと言えるかもしれない。

 

 私の心中で膨らませるイメージは、折り重ねること。影や暗闇を折り重ねる、なんて妙な話ではあるがとにかくイメージとしてはそんな感じ。更にここで一工夫。

 

 私の中で膨らむイメージで、暗闇はまっ黒なパン生地になった。ハボックでの調理場で粉になったライ麦に水を混ぜてこね回す。毛が入らないように少し離れたところから影を使ってひたすらこねる。パン作りのプロという訳ではないが、こねればこねる程美味しいパンになる筈だからだ。

 

 こねた影を引き延ばして、折り重ねてまたこねる。そうしてできた影は粘り気が強い、強力なパン…もとい影となる。私の中に膨らんだイメージが影術に反映され、それを前面に影の壁として構成、普通では貫通するだろう岩の散弾を受け止め、食い止める。

 

 「台所に立っていた経験も、無駄じゃないってところです」

 

 ルノが人差し指と中指を立て手を頭の方へ持ち上げる。それと同時に、足元の岩が隆起するがなにかが来ると影が隆起前に感知。自分自身を影術で持ち上げ、岩の隆起から逃れ貫通を免れる。これは、危ない。ゾッとするが上手く逃れなければ下半身から頭まで貫かれていたかもしれない。

 

 「チッ」

 

 四方の壁が隆起するように尖るが、伸びるより先にこの暗闇が私に教えてくれる。影術の真髄、シャーマンの肝は洞窟内での強さだって先々代、おばあ様が言っていた。洞窟内は基本的には暗闇、これを仲間につけ、手足のように把握することこそ私達最大の武器になると。

 

 暗闇の中に私の影を分散し拡散させている。知識としては教えられていたし、技術としても教わっている。だがしかし、その術の本質を私自身理解していなかった。成程、この暗闇の広がりが私の肌であり感覚器官となるのか。ルノが足を踏んでいる地面、足裏の間隔、水飛沫が跳ねて落ちる感覚。

 

 同時に、恐ろしい事実が分かる。技術としての知識と同じだ。本当に母さんやおばあ様の話通り、本質的にはこの術は戦う時の術、殺し合いの技術なんだ。

 

 コボルトの巣穴に入り込んできた侵入者を撃退する。狭い洞窟、地を覆う暗闇、持ち込んだ松明からでも影が出来伸びていく。その全てを把握し、呑み込み、利用する。母さんは信じていなく、おばあ様も半信半疑といっていた伝承がある。

 

 この技術は古における夜闇の支配者達が扱った者だと言われている。技術交流でもあったのか、それとも取引か好意によるものだったのか、なにかおぞましい事情があったのか。

 

 質量を持った影に身体を任せ、感覚から読み取った隆起する岩肌を避けていく。岩石の散弾を押し留め、砕く。苛立ちながら一歩踏み出そうとしたルノの足が、止まる。尖った岩肌とは違う、影の棘が足先まで伸びていた。

 

 「足元、注意してください。貴女がこちらの攻撃と観察に神経を尖らせていましたが、足元はおろそかだったようですね。当然その影も伸びますし、瞬時に貴女の急所を複数個所貫けます」

 

 「………」

 

 「貴女の攻撃は、多分、もう私には通用しません。それと同時に、私はここでの戦い方を学ぶことができました。今すぐ降参してください。怪我なんて、したくない筈です」

 

 この子の力が能力、というものに類するならば解除できると思う。頭上から振動音、井戸の外から銃声が聞こえた。砦から出撃した公国と高所に陣取る帝国兵との撃ち合いが始まっているのだろう。今ならばまだ、被害を抑えられたまま白兵戦に持ち込めるかもしれない。

 

 「何故だ」

 

 「何故?」

 

 「何故止めた、何故殺さない。殺せたはずだ、ルノがお前の観察と殺害に集中している間に殺せた筈だ。殺せば、マスターから与えられた力も止まる。情報を抜き取りたいのか?拷問にかけるか?それとももしかして」

 

 え?え?分からない、なんでまた、なんでこんなよく分からないことを言っているのだろう?生殺与奪を握りこんだと思っている。攻撃だって上手く回避しているし、ここから逆転の芽があるとしたらなにがあるのだろう。

 

 困惑したこちらの表情を読み取ったのか、ルノの口角が上がった。なにがそんなに楽し気なのか。いや、多分楽し気というだけでもない。これは、嘲笑の意味も含んでいる笑いだ。

 

 「お前は馬鹿なのか?なにも考えていないんだな。それとも情けでもかけているのか?いや、もしかしたらただ単に…」

 

 「え?」

 

 ルノは大きく足を持ち上げ、踵を踏み鳴らし地面を大きく踏みしめる。棘となった影術を踏みつけた為、足の甲を貫通する。ドクドクと血が流れ、地面に大きく血の池を作っている。相当な激痛がある筈なのに、その顔はにやけたままだった。

 

 それと同時にグラグラと大きく地面が揺れ動く。この振動は砦で感じたあの大きな揺れと同じ、いやもっと大きい!

 

 「お前が暗闇という環境に適合して進化しているのならば、ルノだって洞窟という環境に適応している。そして、戦い……いや殺し合いという環境にはルノの方が適応している。お前達のように、仲間と同じ環境で安全に囲まれて生きていた訳じゃない」

 

 頭上の岩肌が軋み、大きな亀裂が走る。巨岩が頭上に降り注いできた、流石にこの大きさの岩までは受け止められない!

 

 「ひぃ!?」

 

 「目を反らし、怯んだな」

 

 影術の包囲が緩んだ隙に大きく駆け出し、間合いを詰めて来る。大きな岩石が水の中に落ち、高い水飛沫が舞い上がる。水壁を破り、ルノが高く飛び上がった。獣の腕が突き出され、影で身を護る隙すらなく弾き飛ばされるように吹き飛ばされる。

 

 背中を壁に叩きつけられ、地面に落ちる。受け止めるつもりではなかっけど、偶然あげた左腕が盾となりギリギリ直撃は免れた。でも、見たらいけないと思いつつも見てしまった。白黒する視界の向こう、腕が変な方向に折れて、曲がっている。

 

 「随分と恵まれていたんだな、お前。腕が一本折れたくらいで、泣いているのか?」

 

 腹を踏まれながら蔑まれる。踏みにじる足元に容赦のない力が込められ、腕の激痛と共に身体の奥底に苦痛が食い込んで来る。

 

 「リスム地下迷宮を知っているか?」

 

 知りはしない。返答をする余裕もないが、蹴り飛ばされて苦痛が増えた。岩肌の上を転がった。

 

 「ルノの先祖は、置いて行かれた。安全な住処も奪われた先祖達は危険極まりない迷宮にしか逃げ込む先がなかった。リスムの地下迷宮という環境は、常に生存競争を強いられる。悪鬼羅刹、魑魅魍魎、口にするのも憚られるような残酷な行い、地下迷宮に探索に来る人間達。常に殺して、殺されてだ」

 

 地揺れが更に大きくなる。私の上からも、小さな小石がパラパラと降り注いできていた。

 

 「腹が立つな、お前。置いて行かれた者達の境遇等考えたこともないだろう。どうしていたのか等、思いをはせたこともないだろう。平和な環境で、仲間達と共に、安全に暮らしていたのだろう。特異な術を持っているが、それの使い道等考えたこともなかったとみえる」

 

 影術を行使しようとしても、二つの痛みで集中力が続かない。少しでもなにか生き延びる方法を探さないといけないのに、思考が上手くまとまらない。

 

 「でも分かった、お前達はルノの劣化した存在だ。いや、お前達と違いルノの先祖は過酷な環境で生き延び、適応して進化したんだ」

 

 「か…かっ……ゲホッ!」

 

 口から血が溢れだした。これは、内臓を傷つけている時の症状、さっきのキックで骨でも折れて内臓を傷つけてしまったのかもしれない。それでもなんとか喋りたい。喋られなければならない。

 

 「劣化品のお前等は、もういらない」

 

 「なら…なんであ゛……貴女こそ、一撃で殺さないのでずがっ」

 

 ルノの眉が、ピクリと跳ね上がる。

 

 「拘っているのでずが…ぞれども……証明じだがっだの……でずか?復讐ですか?怨恨…グァッ!ですか?こうしていたぶるのに…意味があるのですか?」

 

 「苦痛から逃れたくて、早く死にたいのか?」

 

 「いえ…しにだくなんて……ないですよ。ただ気になったもので。劣化品だの…なんだのって」

 

 これを言っても、火に油を注ぐだけかもしれない。でもなにも言わなくてもこのままじゃ死ぬだろうし、思ったことは言っておこうかな。

 

 「貴女は…強いのに……なんで、そんなに怯えているんですか」

 

 瞳の奥に険しい色が宿る。

 

 少しだけ思ったことがあった。ナイフで刺そうとして弾かれた時、体感を崩して倒れてしまった。手をついて立ち上がろうとした時に彼女が攻撃したのは何故か手の甲だった。

 

 あの体制だったら、考えるだけでもゾッとするけど頭や心臓に、内臓部でも狙えばすぐにでも殺せた筈である。捕虜にしようとしているとも考えたけど、今の言動を考えるとそんなにこだわっているようにも見えない。

 

 「貴女は…貴女なんじゃないですか?」

 

 これは仮定、ではあるけれど彼女はある種のコンプレックスを抱いている。私なんてすぐ殺せたのに殺さなかった理由、無駄に傷をつけている理由はそれに起因するのではないか?

 

 「最初に…ずぐに首筋を斬りつけて殺そうとした貴女は……どこにいったのですか?」

 

 「黙れ」

 

 「弱虫とすぐ殺そうとしたじゃないですか?戦えるコボルトを…待っていたのですか?」

 

 「うるさい、黙れ」

 

 「そんなに、自分とコボルトを比べたかったのですか?」

 

 少しだけ怯んだように表情を歪めた後、瞳の奥に熱のようなものが宿ったのが見えた。ああ、これは怒らせてしまったのかな。

 

 「お前になにが分かる!」

 

 「なにも分かりませんよ!」

 

 岩肌を掴む。激昂すると同時に地揺れが強くなっていったが、怯む訳にはいかない。支えがなければ立ち上がれないが、逆に言えば支えされあればまだ立ち上がることができる。

 

 「私には…なにも分からなかったんです!半獣の皆さんの苦境も!エルフの皆さんの文化も!人の便利な道具も、世界の情勢も、少数民族の危機もなにもかも!貴女のような、置いてけぼりにされた存在がいるということすら…知らなかった!……貴女も知ろうとしたんじゃないですか?」

 

 「ルノにそんな私情はない!」

 

 「そうですか?残念ですね、私は貴女もことも知りたいと思ったのですが」

 

 岩盤が割れたのか、巨大な落石が降り注ぎ始めた。今頃地上では大パニックかもしれないが今は気にしてられない。少しだけ、呼吸も落ち着いてきた。

 

 「何故貴女は、コボルトのことを知ろうとしたのですか?」

 

 「それは…」

 

 ルノと私の間に大きな岩が落ちた。身体を引きずるように間合いを離し、激痛で怯む身体を騙して少しでも影を練り上げようとする。頭上から降り注ぐ岩を防ぐ為に頭上に影を張り巡らせながら周囲に注視する。

 

 「ルノは強いんだ!化物なんだ!お前達なんかと違う!」

 

 「ルノ、敢えて名前で呼ばせてもらいます。ではルノ、何故自分のことを自分で化物と呼ぶんですか?」

 

 ルノ、本当の化物は他にいる。私程度の揺さぶりで動揺を見せる貴女は決してそんな存在にはなりきれない。ずっと一人だったからか、自己というものがまだ確立していない。ルノという一人の女の子は、本当の意味で化物にはなりきれていない。

 

 「ルノはそう呼ばれたからだ!マスター以外にはそう呼ばれ続けてきた!だからルノは化物だ!」

 

 「違いますよ、ルノ。貴女は化物なんかじゃない」

 

 洞窟の天井が崩れ、光が差し込んで来る。差し込まれた光に照らされて、ルノの影がチラリとうつった。そのシルエットはあくまで本人だけのもの、何時か見たランザさんのような、奇怪な生物が混ざり合ったかのような混沌具合はない。

 

 鋭く尖った岩が複数飛ぶが、影の障壁で防ぐ。練り上げた影は僅かで、攻撃には回せない。ならば今は落ちてきている落石を防ぐのを踏まえて防御に全力を注ぐ。幸い、冷静さを欠いていているようで今では姿をとらえきれなくても耳と嗅覚、後は気配でどこにいるかはだいたい分かった。

 

 「違う!化物だ!みんなルノのことを化物といった!化物でもお前が必要だと言う人がいた!コボルトは化物でもなんでもなかった!だからルノは化物として大切にしてくれた人に尽くすんだ!」

 

 「本当に大切だと思ってくれている人は、大切な存在を化物なんかとは言いません!」

 

 私にとってランザさんは恐ろしい存在だ。本人の気質はともかく、あの影を見たあの日からあの人のことは化物としか思えないし人となりを色々と知った後でもどうしてもその印象を拭えない。申し訳ないとは、思ってはいるんだけど。

 

 そんなランザさんを慕うクーラちゃんを見ていれば分かる。化物という呼称は恐ろしい相手に使う言葉だ。相手がいかに特殊で強力で恐ろしくても、それが大事な存在であるのならば化物と呼ぶなんてことは絶対にないだろう。

 

 「違う!レントは、レントはルノを…ルノを!」

 

 「違くは、ないんじゃないか」

 

 先輩達と歩いて来た方向から矢が走る。飛びかかろうするルノの側面に矢が数本突き刺さり、弾かれたようにルノが離れた。

 

 「エルバンネさん!?」

 

 「地下や洞窟で戦うのは、もう勘弁だったのだがな」

 

 エルフが数人駆けつけてきて、私に肩を貸してくれる。腕が折れているのを確認したのか、手持ちの道具で治療をしたいところではあるが落石が激しさを増してくる現状応急処置の時間すら惜しいのか我慢するように言われて身体を動かされる。

 

 「悪いが話はある程度聞かせてもらった。いや、聞こえてしまったといった方が正しいか」

 

 新たな矢をつがえながら、エルバンネさんは過去の苦渋を噛みしめているように見えた。

 

 「私達は過去、邪悪な口車に乗せられてしまい同胞を人妖と堕とした。変異していく存在を最後まで仲間とみれれば良かったが、途中から目的を果たす為の兵器や手段となってしまったことは否定はできない。少なくとも私は、薄情なことではあるがあの子を、ミハエルを仲間とは思えなくなってしまった。化物か手段としかみることができなくなってしまった。その結果、訪れたのは破滅だ」

 

 クーラちゃんに教えてもらったことがあった。人妖ミハエル、贄を捧げられ続け強力な力を蓄え、もはや森が人妖と化したのではないかと思うほど強力な存在であり、エルフ達はそれで人間の都市に攻撃を仕掛けようとしていたらしい。

 

 エルバンネさんの横顔は、それを後悔しているようにみえた。過去の苦痛を噛みしめるように、言葉を紡いでいる。

 

 「本当に仲間と思っている相手に、化物なんて言葉は断じて使わない。お前のマスターとやらは、本当にお前のことを大切にしてくれているのか?」

 

 「うるさい!ルノは、ルノはこの力を認めてくれたマスターに、マスターに尽くすんだ!ルノは化物だから必要とされているんだ!化物じゃなかったら…なかったら!」

 

 ルノが突貫しながら尖る岩をエルバンネさんに放つ。私が飛ぶ岩石の弾丸を影で受け止め、その隙間から冷静な一射がルノの右の太腿に突き刺さった。血が溢れ、前のめりになる。

 

 「ルノは…化物じゃなかったら……誰に必要にされるんだ?」

 

 衝撃で立ち止まってしまったルノの腹部に、防御から攻撃に回した影術による急所を打ち抜く渾身の打撃が直撃する。胃液を吐き出しながら、衝撃に少し身体が浮き、倒れ伏した。

 

 ずっと一人だったから、初めて必要としてくれる人にそんなことを言われたから、それ以外の自己評価がこの子は希薄なのだろう。もしも戦えるコボルトが化物のような強さだったら、半端な自分は無価値なのではないかと考えたからこその戦いだったのだろう。

 

 私なんかよりも、この子はずっと強い。それなのに、この子には助け合える相手が今までいなかったのか。

 

 「ミルフ!早く昇ってこい!」

 

 井戸の方から声が響いた。先輩がどこからか持ってきた縄はしごを降ろし、井戸の上に昇れるように準備をしてくれた。

 

 気づけば、もうこの地下空間は崩壊寸前だ。岩盤ごと落ちてきてもおかしくはない程崩れてきている。

 

 「急げ!」

 

 エルバンネの声が響く。私をかかえるエルフ達が、急いで縄はしごのように向かおうとした。

 

 二人の男性に持たれている為、私はその力に身を任すしかない。でも、視線はルノから離せないでいた。

 

 「エルバンネさん!あの子を!」

 

 「あれは敵だろう!リスクがあるのに助ける余裕はない!」

 

 「あの娘はなにも知らなかっただけなんです!置いて行かれただけなんです!それなのに、またこんなところに!」

 

 身体をよじると同時に、大きな揺れがおこった。エルフの片方が体制を崩した瞬間隙ができ、離れてルノに近づく。この子は、置いて行かれた者達の末裔だ。そんな存在を崩壊する地下に置いていくのが最後等、できなかった。

 

 「化物じゃない貴女を必要とする人がいるかどうかなんて、私には分かりません。本当に必要にしてくれる人と、出会うことなんてできないかもしれません」

 

 ルノは僅かにこちらを見上げていた。憎々し気に、そして悲し気に。

 

 「貴女はもっと外の世界を知るべきです。私も、外の世界を知って初めて知ったことが多くありました。そして、出会いも。化物じゃない貴女を必要としてくれる人もいるかもしれません。それでも、一緒に探すのは」

 

 足に痛み、石で精製されたナイフが足に突き刺さっていた。ルノが、最後に繰り出した一撃が言葉の続きを奪う。

 

 「大事にされて…いなかったとしても……ルノは…マスターに助けてもらった。裏切ることなど……できるものか。お前は……大事にしたい…弁当届けたい相手がいるんだろう………ルノなんて荷を背負い…そいつを大事にできるのか?」

 

 ルノの目が、冷たくなる。彼女の影が、敵意を強めるようにざわめく感覚がした。

 

 「ルノを………見くびるな…情けなんているか。お前は…大事にしたい人に……弁当でもなんでも…届けに行け。失せろ、コボルト」

 

 「ミルフ」

 

 エルバンネさんに肩を叩かれる。振り向くと、首を左右に振られた。この子は、助け等必要としていない。自己肯定を否定されたとしても、助けてくれた人の為に裏切れないと静かに、しかし力強く言い放った。

 

 エルバンネさんに抱えられ、補助を受けながら掴まり先に上がったエルフ達や先輩に梯子事引き上げてもらう。最後に見たルノは、大きな岩盤が落ちてそれに巻き込まれすぐに分からなくなった。

 

 「あれが、彼女が選んだ生き方だ。お前がなにを言っても、変わらないし変われないかもな」

 

 地上に上がった後、エルバンネさんがなにかを呟いた。遠い目をしており、過去の事件で犠牲になったエルフ達を思い出してしまったのかもしれない。

 

 遠くで、ルノが作った土塁が崩れるのが見えた。帝国兵と公国兵が白兵戦に入り、戦いの音が激しくなっているのが聞こえた。



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14

 首都にも、それなり以上の防備があった筈だが戦況は既に市街戦となっていた。後アブソリエル公国は風前の灯火、ハボックと比べれば十分以上の防壁と迎撃兵器があっただけにこの突破力は誰にとっても予想外だろう。

 

 幸いなことに、戦時中だけあり万が一に備えて住民の避難計画及び訓練は行われていたのだろう。多少の怪我人、混乱はありつつも既に中層の職人街まで市民は避難しており、逃げ遅れがいるかは分からないが、ともかく大多数の者達は下層の市街地から退いている。

 

 市街地を進むのは、白を基調とした鎧と装飾で身を固めた武装僧兵という奴であろうか。山に添い造られた後アブソリエル公国首都はメインとなる通路以外は細く険しく、階段が多い。メインの大通りは正規軍が固めているが、こうして裏周りを狙ったり側面を撃つ為に移動する者達の迎撃までは手が回らない。

 

 「二十、いや後続を含めれば五十くらいはいるか」

 

 ハルベルトに銃身をつけたような武装僧兵が駆け足で市場を進んでいた。ハルベルトは、グローが一番得意とする斧槍であったが、その使用難易度と製造コスト、更には銃火器の進歩により戦場ではまずみない、現代では儀礼や式典用の武器といったものである。

 

 だがしかし、扱えるかどうかはまた別としてそんな斧槍を揃えた白の武装集団が戦場に現れたらその威圧性から視覚のインパクトは抜群に思える。また、どういう職人技か銃身を備え付けたことにより弱点の遠距離攻撃にも対応しているのだろう。

 

 重量も相当であろうに、よくもまああんなに動いて走れるものだ。グローが見たらなんというだろうか。

 

 「そういえば」

 

 一人で戦うのは、本当に久しぶりだな。最近はクーラが常に傍におり、ジークリンデは旅たち前からずっと傍にいた。冒険者時代、悪竜に仲間を皆殺しにされた時以来の単独戦闘だ。そんなことを考えながら建物の屋根から飛び降りる。

 

 重力を味方につけた飛び蹴りで、狙った中央の僧兵の頭を千切る。石床が砕け噴煙が舞い、視界が制限される。

 

 死体のハルベルトを掴み、無造作に振り回す。重工な金属の刃が鎧と装飾を砕き、複数人の内臓をぶちまけた。

 

 「エンパス様の為に!私ごと殺せ!」

 

 背後から掴まれ羽交い絞めにされる。噴煙による視界の妨害が晴れたところで、三方向から味方ごと斬る為にハルベルトが振られた。

 

 奪いとったハルベルトを手放し、蹴り上げる。長い柄が正面と左側にいる僧兵に当たり吹き飛ばし、迫る刃が二本減った。

 

 頭を後方に振るい、後頭部で羽交い絞めにする僧兵に頭突きを喰らわせる。ゴキャ、というなにかが折れる音。耐える耐えられないの問題ではなく、首がへし折れたのだろう。拘束が緩んだところで、身体をひねりながら飛び上がり迫る刃を回避しながらの蹴りによる一撃で刃を振るう僧兵の首をへし折る。

 

 投げ技やドッシリとした体重と体幹から放たれる打撃の重さはクダの得意分野であった。だが、飛んだり跳ねたり、手数の多さや急所撃ち。天性のバネと運動神経からもたらされる運動量から飛ぶアクロバティックな打撃はエイラの得意技だ。本当に、良い師に恵まれた。クダとは、帝都の夜で決別してしまった。あの老人は、病魔に蝕まれていると聞いていたが、帝都事変に巻き込まれまだ生きているのだろうか。

 

 生き残りの僧兵と肉薄する。こうまで狭いと長物もそれに付随する銃口も意味をもたないことを理解しているのだろう。武器を取り落とし、ナイフを抜いたりそのまま掴みかかろうと襲ってくる。

 

 そうだ、今ならあれもできるだろうか。

 

 ナイフの突きを、刃の側面を叩いて反らす。喉元に打撃を打ち込み無力化、周囲を取り囲むように動く僧兵に、囲まれる前に間合いを詰めて頭を掴み持ち上げ、地面に叩きつける。技術もなにもないただの力技だが、なにかがひしゃげるような音と共に誰かからほんの小さな悲鳴が聞こえた。

 

 数人が、怯んでいるのが分かった。その隙にまだ闘志がある相手に襲い掛かる。掴もうとする相手の腕を払い、懐まで潜り込み腕を突き出す。

 

 四本の指が槍の穂先となり喉を貫通、抜くと同時に血が噴きだし雪が降り白くなった石床を朱で汚した。

 

 貫手。リスムの経済特別区、エレミヤに雇われたクダの後任である新しい警備主任の得意技だ。彼の指先は、歪ながら太く厚い皮に覆われ、そして頑強であった。互いに致命傷にならないように加減した手合わせをしたが、腕に当たった彼の貫手は皮と肉を貫通し血を噴き出している。本気ならば、もっと深々突き刺さっていただろう。

 

 本来折れやすい指先を鍛えるのは、聞いた話によると簡単に出来ることはできない。それこそ気が遠くなる程の修練と、何度も骨を折りその度に力強く作り直すことを繰り返す必要があるという。

 

 格闘術を習っていても、部位鍛錬はしていなかった。散弾銃と切り札である悪竜の連結刃があり、興味は沸いても習得まではいたらなかった。

 

 だがしかし、人妖と成り果て、悪竜を継いだ今の俺にならばこの程度はできるらしい。鍛錬を重ねたであろう経済特別区の彼にはやや申し訳ないが、実戦における持ち技の一つとして充分に活用できる。

 

 「一度退け!」

 

 女性の声と同時に殺意。上空から抜かれた一刃が風圧で雪を散らしながら振り抜かれる。

 

 「寒くないのか、お前」

 

 胸元を布地で巻き、見慣れぬゆったりとした赤い民族衣装のようなものを下半身につけた、上半身を露出した黒髪の女が緩く反る刃を構えて立っていた。髪は紐で巻かれており長いポニーテールとなっており腰まで伸びている。

 

 「ああ、外してるー」

 

 「だっさいなぁもう。ノーコンサムライー」

 

 右目と左目が前髪で隠れ、黒と白の、実体のない翼のようなものを生やした天使もどきが飛んでいた。フリルが沢山ついた、なんというか、こう…少女趣味のドレスと言えばいいのか、そんな戦場に似つかわしくない服を着ており、手にはこれまた眩い光の弓矢と黒い闇の短銃が二丁握られている。

 

 「私達なら外さない~♪」

 

 「僕達の弾は、相手が死ぬまで止まらない~♪」

 

 弓矢と短銃が向けられ、光の矢と闇の弾丸が放たれた。その場から飛び下がると、それを追尾するように飛んで来る。建造物の木窓を破り建物内部に飛び込んでも、実体が無い故か障害物がまるで存在しないかのように追尾してきた。

 

 モスコーでクーラが対峙した、加護持ちの話を思い出す。遠距離から狙撃をし、弾丸を自在に操る者がいたということを聞いていたし、ギルド内で狙撃もされた。射程の違いはあるかもしれないが、あちらは物理弾であった為に障害物で止まったがこの遠距離攻撃ではそれでは止まらない。

 

 『魔力による狙撃矢と弾丸だね。ちょっとやそっとじゃ止まらないよ』

 

 ウェンディの声が頭の中に響いた。脳内で彼女は、魔法使いの戦闘装束らしく紺色のローブを羽織り杖を持ち、トンガリ帽子を被っている。椅子に座り足を組んでふんぞり返る彼女にその珍妙な姿をなんのつもりか問いかけてみたら、気分と雰囲気作りだそうだ。

 

 『クーラが倒したカリナ=イコライとの違いは物理弾かどうか以外にも、君の考え通り射程の違いと連射力がなによりも違うね。遠距離から攻撃するならカリナの加護は強いが、中近距離の双子が放つ攻撃は制圧力が段違いだよ』

 

 双子なのか、確か似たような顔立ちに似たような趣味だったな。

 

 建物の石壁が無数の斬撃で斬り開かれ、崩れ落ちる。黒髪の剣士が私も忘れるなとばかりに側面奇襲を仕掛けて来た。

 

 『その娘の刀、受けない方がいい。というか、受けられないよ。なんでも切断しちゃうから、竜の身体になっても多分アウト。回避するしかないね』

 

 近距離の刃と逃げても迎撃しても無駄な飛び道具。やり辛い組み合わせだ。

 

 これならば、多少の防衛設備を敷いても無意味な訳だ。遠近バランスの良い組み合わせに防備を切り裂く刃があるとすれば、僧兵の援護もあいまりどんなに強靭な備えも時間の問題と成り果てるだろう。

 

 『双子ちゃんは、ボクにやらせてよ』

 

 扉破り建物内部から離脱。ウェンディの言葉の意味を問いかけると、彼女は不敵な笑みを浮かべた。

 

 『何度か言ったけど、もうボクは君の別人格、要するに君自身なんだ。便宜的に君はボクをウェンディと呼んでくれているけど、ボクはランザ=ランテで相違ない。さてランザ、君は悪竜ジークリンデを引き継ぎ、竜の力を我が物としたね。つまり、その影響はボクにもあるということだよ。まあ、任せてみてよ。腰に、丁度いい触媒もあるしね』

 

 悪竜の鱗が張り付いた、散弾銃がホルスターからほぼ無意識に抜かれる。成程、使えということか。

 

 射撃音。放たれた弾丸が延焼し火炎となり、炎がウェンディの姿を象った。ローブを着て、トンガリ帽子を被り、そこら辺で売ってそうな杖を手に持つ姿が炎で揺らめいている。

 

 『魔力でボクに敵うとでも?お嬢さん方』

 

 杖から火蜥蜴が出現し大口を開ける。実体を持たない矢と弾丸が蜥蜴の大口に吸いこまれ、吸収されていく。炎がドンドン大きくなり、火蜥蜴が膨張。火炎がドンドン巨大になり、その姿は見覚えのある姿に変わっていった。

 

 「ジークリンデ」

 

 忘れる筈がない、見間違う筈もない。その姿はあのふてぶてしく、力強い悪竜のものだった。

 

 「なになに?死んでないの?」

 

 「なにがおきたの?なんで死んでないの?」

 

 白黒の翼を生やした双子がこちらが見える位置まで飛んできた。そして炎の竜と……いや、炎で象られたウェンディを見てワナワナと身体を震わせた。

 

 「「なんでお前がいるの!?死んだはずじゃないの!?」」

 

 『誰と勘違いしているかは知らないけど、ボクはランザ=ランテ。人違いだよ』

 

 極大に膨れあがった火炎のジークリンデから、炎の散弾が放たれる。以前帝国首都で見せた骨の散弾が、火炎で再現されて放たれていた。

 

 『ここでひと手間』

 

 トン、と杖が地面に置かれた瞬間、散弾の一粒一粒が火蜥蜴となり広範囲で覆う。普段放たれる火蜥蜴で比べると一体一体がやや小さいが、その制圧力は比べ物にならない程だ。

 

 「嘘でしょう!?」

 

 「あ、馬鹿!」

 

 慌てたのか、迎撃に放たれた弓矢が一本の火蜥蜴に命中、魔力を吸った火蜥蜴はどこか竜のような面立ちとなり速さが上がる。足元から呑み込むように火蜥蜴が命中。身体全体が炎に包まれ、悲鳴をあげるがそれと同時に熱が呼吸器をやく。翼等意味をなさず落下し、地面に転がりながらもがきそのうちに動かなくなった。

 

 「ターニャ!」

 

 片割れが叫ぶと同時に、剣士が飛び出す。巨大な炎の竜を見て飛び出す機会を見計らっていたのだろう。竜のターゲットが上の存在に注目している間に間合いを詰めに来た。

 

 『任せていいかい?羽虫は落とすからね、主人格君』

 

 「主人格……そうは言うが、未だにお前が俺の別人格等と信じられないな。」

 

 突きの一撃を顎を退け回避、そのまま首を跳ねようと横に振るうが体勢を低くして避ける。素早い突きと、軽い刃を利用したシンプルな急所うち。一通りの剣術は、おさめているとみえる。

 

 『悲しいことを言うじゃないか、あんなにボクを食らい尽くしておきながら…ねぇ』

 

 「分かった、分かった悪かったからお前はあっちに集中してくれ」

 

 剣士が少し苛立たし気に眉をひそめた。

 

 踏み込みからの斬撃、袈裟、返し、回転してからの奇襲打ちの裏拳。流れるような連撃であるが、最後の打撃打ち以外の攻撃は回避する。

 

 すまないが、絶対に当たってはならない一撃必殺の刃とは対峙したことがあった。ウォーリアバニー、その人妖となったフェル。あの悪夢では味方をしてくれたが、殺し合いになった時の大ぶりで肉厚の鉈と当たればガードごと吹き飛ばされ腕のごと砕ける斬撃は脅威の一言だ。

 

 技術面ではこの剣士の方が上かもしれないが、彼女にはフェルのような体躯と膂力はない。得意である格闘術は効果が薄く投げ技を仕掛けようとにも規格外な体格と体幹には難しい。

 

 だがしかし、目の前の相手は違う。成程、必殺の刃に注意を向けて奇襲ぎみの格闘術で相手を崩し、斬り裂く。打撃が防がれても、剣以外にも格闘があるとなれば必要以上に警戒をせざるえない。

 

 だがしかし、素早い格闘術は身をもって何度も喰らっている。エイラと比べれば、これくらいの打撃術は遅すぎる。そして、クダの投げ技はそのエイラの格闘術をもっていても絡めとってしまう。

 

 腕を掴もうとしたが、それを読んでいたと言わんばかりに拳を引いた。だがそれは、ブラフ。反りかえる剣が振るわれるが、掴みを避ける為に身を半歩程引いたおかげ次の斬撃における軌道が制限された。

 

 突きならば刃を一度引く為動作にワンテンポ遅れる。横薙ぎならば例え半歩身を引いてもそのまま放てる。

 

 手段を制限された剣士は不利を判断し後ろに飛び下がるが、刻み足から間合いを詰め掌底を腹部に叩きこむ。怯みながらも刃が振られようとするが、その軌道は先程のような精彩なものではなく遅く読みやすい。腕を掴み、一撃を止める。細腕が枯れ木が折れるような音をあげた。

 

 「グッ」

 

 怯んだ隙に胸元の巻き布を掴み、背負いながら地面に叩きつける。起き上がる前に首筋を踏みつけ呼吸器を破壊。踏み込みの力が強すぎたのか頭部を支える首の骨が砕け、そのまま痙攣して大人しくなった。

 

 「悪いな。これ以上、後アブソリエルの国力に傷をつける訳にもいかないからな」

 

 空を見上げると、丁度火蜥蜴二体が宙に飛ぶための翼を焼き切ったところであった。悲鳴をあげながら落ちていく天使モドキを、火炎でできたジークリンデが丸呑みとする。内部で二丁の銃を乱射するような音が聞こえ、同時に絶叫がおきたがすぐに静かになった。

 

 『これにて終局』

 

 わざとらしく大仰に、こちらを向いてペコリとお辞儀をする。まるで見世物の終わり際に見せる、道化師のような動きだった。

 

 『ルーニャとターニャの加護はボクにとっては相性は最高。あの双子、ボクが死んだと思って活き活きしていたみたいだけど残念だったね。まあ、死んだのは本当なんだけどさぁ。あっはははは』

 

 ウェンディ=アルザス。まともに対峙すれば恐ろしい存在だったことが、今の俺にはよく分かる。だが同時に、これ程頼りになる戦力もまたないであろう。

 

 『このジークリンデちゃんも魔力いっぱいお腹いっぱい。彼女を駆使すれば…まあ多少以上の大火事にはなるけれど僧兵どころかそこらの加護持ちだろうと容易く蹴散らせるとボクが保証するよ。それにほら、君が望んだジークリンデとの共と』

 

 銃声が響く。純粋な散弾銃の弾丸が放たれ、火炎でできたウェンディの身体を一部散らした。

 

 「二度と、悪竜を象るな」

 

 『そうくると思ったよ。でも内心は、嬉しいんじゃないの?分かるよ、ボクは君だもの』

 

 巨大な炎の竜は、表情一つ動かない。ジークリンデの姿を、仮にでも再度見れたのは確かに嬉しいかもしれないが、悪態一つ、悪巧み一つ飛んでこない様はいやがおうでも紛い物だと分かる。ただジークリンデの姿を模しただけの人形遊びに、どこか喜ぶ俺。まったく、反吐がでる。

 

 「お前が俺の内心くみ取ろうが、二度とやるな。別人格でも、お前がランザならばな」

 

 『フフ、はーい。でもまあ、今回だけは勘弁してよ。せっかくお腹いっぱいの火炎竜、暴れさせれば戦闘力として』

 

 光が降り注ぐ。曇天の隙間から太陽光が漏れたかのように、雲を切り裂き複数のなにかが降り注いだ。それはまるで、仮に存在するとしたら巨人が握る巨大な剣のような、とにかく剣を模した複数のなにかだった。

 

 俺とウェンディは飛び下がり巨大な剣を回避することができたが、炎の竜はそうもいかない。炎で模した連結刃を振るおうとするが、それごと光の剣が貫通し胴体を縫い付ける。

 

 『物理の攻撃じゃないね。それに、こんな大仰な技を使うのは』

 

 一つの人影が、点となって空から落ちて来る。背丈程の大剣に光が集まり、先程降り注いだのと同じ大きさの剣になる。振り抜かれた光の大剣が炎の竜を一刃の元、頭から胸元まで光の剣で切断された。

 

 『流石に、あれを吸収するのは無理だね』

 

 ウェンディが半笑いで呟く。知識を共有している俺には分かった、あの光の大剣は魔力に類するものの巨大な塊だ。翼を生やした双子の矢や銃弾程度ならば逆に吸収して力となったが、大げさな例えをするとしたらただのコップに樽いっぱい程の水を注いだようなものだ。

 

 溢れかえった魔力が爆散し、炎の竜がか細い火炎となり消滅していく。着地した人影は、一つ大きなため息をつき大剣を地面に突き刺した。成程、これは絵になるものだ。宗教騎士団の団長らしく、どこか神々しさすら感じてしまう。だがしかし、目の前で模したものとはいえジークリンデの似姿を散らされた怒りを感じ感化されてしまうようなことはなかった。

 

 「意外と大雑把なんですね、ランザさん。あんな竜を暴れさせたら、いくら侵略者を駆逐しても首都が無事ではすみませんよ。それこそ、帝都事変の再現でもおこすつもりでした?」

 

 レントが爽やかといえるような顔をしてこちらを見て来た。一度目はリスムの掲げる大盾で見た怒りの顔。二度目は経済特別区で見せた愛想の良い顔。そして三度目は今、貼り付けたかのような爽やかを装った表情。この仮面の裏側には、敵意が見え隠れしている。

 

 「レント=キリュウイン」

 

 「残念ですよ、経済特別区のことを覚えていますか?あの時貴方と手を組めていたら、この対立は避けられた筈なのに」

 

 「巡り合わせという奴だ。それに、仮に俺がお前の騎士団にいたとしてもこの対立は避けられなかっただろうよ」

 

 ガスパルの話を思い出す。この男に出会いたかったからこそ、各地のエンパス教を潰し挑発を続けてきた。巻いた種が、ようやく芽を伸ばしてきたのだ。

 

 「テンを、俺の娘をどこに連れて去った」

 

 レントの顔から、貼り付けた笑みが消えた。それ自体相当な重さであろう大剣を引き抜いてこちらに向けて来た。

 

 「あれだけ、その娘とやらをほったらかしておいて、今更父親面ですか?娘から殺し合いを計画される家族愛とやらは、理解の範疇を越えていますね。本当は憎悪にまみれた関係、なのではないですか?」

 

 テンが俺と殺し合いを渇望していた理由は、同一存在である悪夢のテンから聞いていた。

 

 幼い頃のテンは、自分が構ってもらえない寂しさを語っていた。そして悪夢が崩壊したあの夜に、義理の娘ではない、親子としての愛情ではなく恋慕を元にした執着心を涙ながらに話していた。

 

 例え殺意でも良いから、執着し執着され、注目し注目されたい。常に自分を考え相手にも自分を考えてほしい。その全ての始まりは、俺の失敗から始まったことだ。テンの不安に気づいてやれなかった、それに尽きる。

 

 『もし』を考えるのは不毛で意味のないことではあるが、ミーナが産まれてからもあの悪夢の世界のように本音を語り合いどちらも愛せていたならば、今頃俺はまだあの海岸の村で家族と暮らしていたのだろう。

 

 テンを憎むことで目を反らし続けていたが、あの惨劇の原因は俺にも原因がある。家族の仇は、俺自身と言えるとも思っている。

 

 「お前の言葉に反論する余地はない。父親として俺は、失格だった。上手い愛情の注ぎ方というのを、理解してはいなかったかもしれない」

 

 首に絡みつく母親の指が思い出される。あの時の母は、そして母に殺された父はどのような気持ちであったのか。二人の気持ちや境遇を理解していれば、それを反面教師にでもしてテンとミーナにちゃんとした愛情を注ぐことができたかもしれない。

 

 後悔は尽きないが、それでも目を反らしてはならない。俺は悪夢のテンに、最後の願いを託された。それを果たす為には、ちゃんとこの現実のテンとも向き合わなければならない。

 

 「過去の失敗は拭えない。テンがおこした災害も全ては俺の責任だ。だからこそ、今一度娘と向き合う必要がある。それを妨害するのがエンパス教ならば、斬り砕き、惜し通るまでだ。もう一度聞く、テンはどこだ」

 

 「ランザさん。貴方の目と感情は劇毒の類だ。だからこそ、貴方をテンに合わせられないし、なにより個人的に貴方のことを許せない。そして、今にいたっては明確に仲間の仇ですらある」

 

 大剣が地面から引き抜かれる。リスムの時に会った、正義感を振りかざした小僧といった顔が演技であったとしても、今の奴の表情はあの時と比べ引き締まったものになっていた。なにかを決意している、男の顔だ。

 

 両者に敵意が満ちる。戦いは、避けられない。



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15

 「戦況は!?」

 

 ガランが命を繋げ、クーラによる活躍のお陰で城に侵入した暗殺者は撃退することができた。突然の首都防衛戦、半ば浮足立っていてもおかしくはなかったが比較的冷静に重役の面々は対応をしていた。

 

 「前線の防衛壁は早くも破られた様子です。現在は中央通りで防衛陣をしき遅滞戦闘中!」

 

 「なに、既に…早いな」

 

 「目撃者の話では、頑健な門であったがバターのように斬り裂かれたようだ。迎撃部隊も、実体を持たない矢と銃弾を放たれたと」

 

 「解放軍がもたらされた情報、エンパス教の加護持ち、という奴か。にわかに信じられなかったが…」

 

 普段は綺麗に整理と掃除された円卓の上には、首都の地図や各地から寄せられた情報が広げられ混沌としていた。宅についているのは、クーデターをおこした際の近しい者達や前国王の方針に反発し冷や飯を食わされていたもの。私が、可能な限り私情や立場、産まれを考えから廃しかき集めた者達である。

 

 「ノルン代表、旗色は非常に悪い。それに追い打ちで、砦方面から鳩が飛んできた」

 

 「内容は?」

 

 「帝国兵が砦側に進行。こちらに向かう筈の増援も足止めされている。手持ちの戦力でどうにかやり繰りをするしかないということだ」

 

 首都防衛壁がこの短時間で破られるとは思わなかったが、戦場というのは非常事態が連発しておこる。分かってはいたが、私がおこした反乱騒ぎの時とは流石に状況の動きが早い。それとも、父もこのような気分であったのか。

 

 「近衛のロック将軍は?」

 

 「地帯戦闘の指揮を」

 

 「将軍ならば、帝国兵の足止め任務はこなしてくれるだろう。しかし問題はその加護持ちという奴だな。連中を相手にするには、手数と組織力がいるがそのどれもが手が足りない」

 

 先程私を暗殺しにきた、有翼の半獣を思い出す。クーラ=ネレイスにより無力化はされたが、それでも散弾銃を持った警備数名程度では相手すらできず斬り刻まれた。あのような、舐めた態度の小娘にだ。

 

 本格的に仕留めるつもりなら、相応以上の火力と罠に嵌める環境、そして手数がいる。だがやはり戦中、主な軍事力は前線に回されておりそれが首都を護る兵員不足という形で裏目に出ている。

 

 「城内は広く内部が複雑だ。いざとなれば、突出させてここにおびき寄せて叩くことができれば…」

 

 「危険です!御身になにかあれば、我々は死んでいった同志たちに顔向けができません!貴女様は、すぐに脱出の準備を!ロック将軍も、その時間稼ぎの為向かったのです!」

 

 「ここを逃げて、どこにいくというのだ?ここは大陸の北端、港は凍り付いて使えないのだぞ?私がおこした国の末路が悲惨なものであっても、それを最後まで見届けることが責任であろう」

 

 仮に父が生きていたら、この対戦でアブソリエル公国は帝国についていたであろう。その父を処刑したことが、この結末の原因であるというのならば最大の元凶である私は最後までここに立つ必要がある。

 

 「それよりも、逃げられる者は今すぐ退避すると良い。戦えぬ者、命が惜しい者、逃げ出したい者、離れたところで私は責めない。帝国に降ることも視野に入れるだろう。私以外の者は、好きに行動する権利がある」

 

 シン、と円卓が静まりかえる。状況はそれほどに悪い、降伏論が出てこないが、命を繋ぐ為にそれを考えている者も多いだろう。

 

 「申し上げます!」

 

 そのタイミング、誰かが口を開こうとした瞬間伝令がノックもそこそこに飛び込んできた。先程の言葉、誰かが最初の一言を放つ前に、その一言が円卓全体の方針を決まってしまう前、これ以上ないタイミングだ。

 

 「また悪い情報か?」

 

 誰もが、返答を先延ばしにしたが、その内容に誰も期待を抱いていなかった。それどころか、逃げ出したい、降伏したいという負の感情を口から吐き出すのを後押ししてくれるという期待を抱く者すらいた。

 

 「解放軍のリーダーであるランザ=ランテ殿が異能力者三名を撃破、そのまま敵の大将であるエンパス教の将軍であるレント=キリュウインと交戦に入ったとのことです!」

 

 「確かなのか!?」

 

 「物見からの報告です!私も、遠目ではあるが確認いたしました!」

 

 円卓がざわつく。敵大将はまだ討ち取れていないにしても、防衛陣を無力化した規格外の化物を葬ったのことは希望が湧いてきた。

 

 「も、申し上げます!」

 

 別の伝令が駆けつけてくる。手に握られていたのは、伝書鳩が足につけて運ぶ符丁が書かれた紙切れだった。

 

 「砦からの増援が帝国軍の足止め部隊と交戦に入りました!地の利は我等にあり、突破は時間の問題とのこと!」

 

 「本当か!?」「耐えきれば、挟撃の形をとることもできるぞ」「加護持ちが何名いるかは分からないが、これ以上いないならば上手く時間を稼げるかもしれない」「レント=キリュウインは大将だろう?何故前に出て来た。影武者かなにかでは?」「若さゆえ、貢に焦ったのかもしれん、武勇を誇る将軍にありがちな話だ」

 

 各々がそれぞれの議論を語り始めた。逆転できるかもしれない、ここにふって湧いた朗報が希望となり、円卓の者達を前向きな思考に転じてきている。

 

 「皆、落ち着け。まだ我等の不利が覆った訳ではない、僅かに可能性が見え始めただけだが……」

 

 皆の注目が集まる。この空気、まるでクーデターをおこしたあの時のようだった。

 

 「先程と同じだ、降りたい者、逃げたい者は立ち去って構わない!だが力を貸してほしい!私の父を含め、あの日亡くなった者全ての犠牲を無駄にしない為にも!」

 

 全員が、強く頷いた。地の利はこちらにある。兵士のやり繰りで戦略の議論を続ける者と指示を出しに出ていく者で散っていく。

 

 だが我々には、帝国兵や教団の兵力に抗うのが関の山であろう。ランザ=ランテの勝利を祈る。そここそが、逆転の大きなポイントだ。

 

 「任せるしかないのは、歯痒いところだな」

 

 幸いなことに、漏れ出てしまった独り言を聞いた者はいなかった。逆転の時に向け、準備を進めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光る剣が雨となり地面を穿つ。翼もないのに当たり前のように空を飛ぶレント=キリュウインからの攻撃は砦の上から降り注ぐ弾丸の雨のようであった。

 

 市街を走りながら背中に降り注ぐ飛び道具を回避し、家屋に飛び込む。滑り込むように身を屈めると、石でできた家が横薙ぎの光剣で両断された。支柱を無くした建物が崩れ、瓦礫が降り注ぐ。

 

 家屋が脱出すると、先回りしていたレントが待ち構えていた。

 

 頭上や肩の上に五本の巨大な光の剣が浮いており、それがまるで倒れ込むようにこちらに対して振るわれてきた。効果範囲が広い、これは避けられないかもしれない。

 

 腰の剣を引き抜く。もはや身体の一部の延長となった、赤黒い連結刃が出現し横薙ぎに振るわれる。魔力の塊である光の剣と激突、物理的な接触を透過する力があるようだが、まるで火花のような光を上げながら僅かの間拮抗、五本の巨剣を叩き折る。

 

 「へぇ」

 

 レントがどこか感心したような、だが上からの目線を感じるように息を吐いた。その表情はまだ余裕と自信に満ちていた。恐らく、ここまで負けたことがないのだろう。

 

 グローの言葉を思い出す。恐らく掲げる大盾時代、能力はある程度抑えていたのだろうがそれでも『才能はある』との太鼓判を押されていた。

 

 クーラの話では、特殊な力を分け与える加護と同時に他にも様々な能力を持ち合わせているらしく、彼女もその全貌を把握しきれていないようだ。

 

 遠距離からの光剣では埒が開かないと考えたのか、手に持つ大剣を担いだまま飛び込んで来た。連結刃を戻し、迎撃に大きく振るう。

 

 「その細腕で、大した筋力だな」

 

 「少々、チートを使っていますので。そちらこそ、見た目に違わぬ筋力では?」

 

 「それなりに、授かりものがあってな。お前の言うところの、ちーとと言っても良いかもしれん。その言葉の意味はよくは分からないがな」

 

 二撃、三撃と打ち合いをし互いに間合いをとる。互いに互いを様子見といった程度の剣撃であったが、その手応えはそれなりにあった。

 

 相手がまだ様子見程度ということも含めて考えなければならないが、純粋な剣術という面では取り立ててなにか卓越しているという訳でもなさそうだ。だが、反応速度が速い。筋力と反射神経で剣を扱っているといったもので、先程の剣士のように正当な剣術を収めている訳ではないようだ。

 

 向こうも今の打ち合いでなにかを感じ取ったのか、大剣を片手で構えた。

 

 「鉛筆を高速で振ったことはありますか?」

 

 「えんぴつ?」

 

 「失礼。まあ、見てのお楽しみで」

 

 大剣が振るわれる。単純な袈裟懸け、防御の為に連結刃を掲げた瞬間、大剣の切っ先が蛇のように蠢いた。ガードをすり抜けたように動き、生物のようなそれは肩を切り裂き刃が後方に反れた。

 

 突きの追撃を繰り出してきており、防ごうとしても剣がぶつかることを嫌がるように避け脇腹に突き刺さる。腹部からジワリと、血が溢れてきた。連結刃を振るうと、上空に飛んで避けた。追撃をかけようと叩き割るように振るうが唸る大剣がそれを弾いた。

 

 片手で大剣を握り、それを振るう握力と筋力だけでも大したものだが目の前の男は奇妙な技を使ってきていた。

 

 「これ、自分なりに考えたんですよ。無論、ブーストしてある身体能力が前提なのですが」

 

 改めて観察して、理解ができた。蛇のように蠢く大剣は目の錯覚、手首に高速のスナップを利かせていた。棒状のようなものを高速で短く振るうと、あのような蠢く剣となるのか。あれは、真似しようとして簡単できるものではなさそうだ。

 

 「馬鹿力のせいで防ぐと身体と防具がおしゃかになる剣と対峙した事がある。先程の剣士は、絶対に防げない刃を持っていた上に技術力もある…が、成程。大した発想だな」

 

 「無論、それだけじゃないですよ」

 

 開いている手に光が集まり、先程の剣士が扱っていたような短銃になる。牽制気味の射撃が放たれ、逃げ先を誘導されているのが分かる。次の攻撃は、急所を狙いにきている。この軌道、恐らくは首か頭を分厚い刃で両断するつもりか。

 

 「マジ?」

 

 レントの口から、どこか引くような声が漏れた。どうせ防御ができないならば、せめて攻撃位置を誘導することはできないだろうかと考えた。いくら剣が激しいスナップにより蛇のように蠢ていようと、首筋を護るように密着するように連結刃を構えた為呼吸器を切断することはできなくなる。

 

 それならば、首から上の顔面か頭部に刃が蠢き逸れてくるはずだ。読みを外し、首から下を狙われたら避けることは難しいが、予想通りに刃が顔面方向に反れてくれた。

 

 前歯と犬歯が、刃をガッチリと噛みしめる。口元でバチバチと火花が散り、少し熱いが問題はない。必殺の一撃を防がれたこともそうだが、レントの目は驚きと同時にドン引きしているように見えた。我ながら、歯で噛みしめて剣を防ぐ等酔狂の極みだとは思う。

 

 「つふぁまふぇた」

 

 大剣が引き抜かれる前、股間をめがけて蹴りを繰り出すそぶりを見せるとレントも片足をあげて防御をする。男として防がなければならないところだ、自然と護りは固くなるだろう。

 

 前蹴りはブラフ。一瞬の行動で防御姿勢をとれる判断と反射神経は悪くないものだがそれが裏目にでる。片足が浮き体幹が崩れた隙を見計らい、至近距離では扱い辛い連結刃を手放し胸倉と腕を掴む。相手もほぼ密着状態では大剣は使えないが、今までここまで距離をとられた経験が少ないのか、武器を捨てるという選択が思い浮かばないようであった。

 

 大剣から口を離す頃には、既に投げ技の体制はきまっていた。足払いをかけながら背中から地面に叩きつけるように、投げを繰り出す。口から血が吐き出たが、先程の剣士と同じように追撃をかける為腹部にスタンピングをしようとした。テンの居場所を聞くために、殺す訳にはいかない。

 

 堅いなにかを踏みつけた感覚。黄緑色の半透明な壁が、靴底と腹部の間に存在していた。

 

 起き上がりに、足払いを仕掛けて来た為後ろに飛ぶ。そのまま起き上がり、こちらを見てニヤリと笑った。

 

 「まったく、びっくりしましたよ。大剣ですよ大剣、歯で止めるとかあります?ゲームのキャラだって、精々木刀やポン刀くらいなのに」

 

 「悪いが、こういうナリだからな」

 

 悪竜のを継いだこともあるが、人妖としての力もあった。少し気が緩むと、口元が狼のそれに代わってしまう。

 

 「成程、ハティ…でしたっけ?でも面白いですね、俺がこの世界で土をつけられたのは初めてです」

 

 「俺?素の一人称ではそっちか?」

 

 「ああ、ちょっと今、矯正していましてね。それよりも、素という意味では…」

 

 レントが大剣を放り投げた。身体を低く屈め、直撃を避ける。壁に深々と突き刺さり貫通するのは脅威ではあるが。破壊力のある武器を手放すのはどういうつもりなのか。

 

 そんな思考が終わるか終わらないかといったタイミングで、視界に凶器となった膝が突き出された。大剣を投げたと同時に走りだしたのだろうが、初速と加速が早すぎてあっという間に間合いを詰められた。

 

 腕を交差させて顔面への直撃を防ぐ。頑健になった両の腕が、衝撃による痺れがおこる。想像していたが、ただの打撃でさえ素人のそれとは段違いだ。

 

 「殴り合いは喧嘩を多少齧った程度ですが」

 

 追撃の膝打ちを頭を反らして回避、間合いを離すが軽い足取りで距離を詰めて来る。

 

 拳の一撃が壁を穿ち、蹴りの風圧が風を斬る。巻き上げられた足がおこす旋風が、鎌鼬のように渦巻き肌を斬る衝撃を与えてくる。技術という意味では、そこら辺の喧嘩自慢といったところであるがその破壊力は油断ならない。

 

 「解せないな」

 

 「なにがですか?」

 

 「何故そちらが有利な大剣と遠距離能力を投げ捨てて、ただの殴り合いに挑む?これが素だと?」

 

 右のストレートを回避して腕を掴む、こちらも拳打を腹部に叩きこもうとするが手のひらで掴まれて握り込まれた。互いに互いを強力な握力で握りしめ、我慢比べが始まる。

 

 「そうですね。一応、この殴り合いに関しては」

 

 互いに互いの額がぶつかり合う。額の皮膚が裂けて、流血がおこり互いの流血が地面に転落した。

 

 「俺の考えだけ知ってもらおうと思いまして」

 

 「なに?」

 

 レントの顔が、こちらを睨みつけるような、だがどこか真剣な表情となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お父さん!」『父さん』

 

 テンが自己防衛で俺のことを父と呼び始めてから、思い返すことがあった。異世界に流れてから、なにもかも退廃的に、まあ思うがままに生きてきた俺には、今となっては些か眩しすぎると同時に苦すぎる思い出だ。

 

 親父はだいたい家にいなかった。小さな自動車整備場で、朝から晩まで油にまみれた作業着で仕事をしており、俺は夜勤の仕事に出ていく母が作り置きしていた夕食の弁当を届けに行っていた。

 

 父の声はほとんど覚えていないが、人に誤解されそうなキツイ視線と頬についた大きな切傷だけは覚えている。もしかしたら、元ヤのつく職業の人だったのかもしれないと思うこともあるが、今となっては確かめる術もない。だけど後の人生で、この推論はほぼ確定だったんじゃないのかと思うようなことがあったが。

 

 そして今でも一つだけ大きな後悔をしていることがある。弁当を渡しに行った時、父が頭を撫でようと伸ばしてきた油にまみれた手をつい、一歩下がって避けてしまったことだ。傷だらけの拳が怖かったし、油まみれの手が汚く思えてしまったからだ。父の、すまんと謝りながらも寂しそうな顔だけは覚えている。

 

 『お前は、俺みたいになるなよ』

 

 父のその言葉だけは、よく覚えている。おかしなものだ、声も覚えていないというのに。

 

 父に対して罪悪感を抱き、小さな整備場から逃げ出すように家に帰ったことを覚えている。その帰り途中であった、あの日が訪れたのは。

 

 西日本大震災。日本の西半分が壊滅的被害を受けた、大災害がおきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「大学に進学することを諦める?」

 

 高校卒業まで後数か月というところだった。

 

 震災で家も整備工場、そして父を亡くしてしまった俺達は文字通り路頭に迷う羽目になる。母の職場も復興どころかそのまま廃業となり、仮設住宅を経由して都市部に引越さざるえなくなる。

 

 震災による補助金等もあったが、女手一つで子供を育てることはとても辛いものがあったのだろう。心労が祟り母が倒れ、施設も入院も空きがなければ金もない。大学受験を控える時期ではあったが、進学コースから就職先選びにかじを切らざるえなかった。

 

 「うん。今後は、母の介護をしながら就職できる先を今から探すことにするよ。倒れた後遺症で自分だけじゃ生活できないし、介護施設も特養ホームは空きがまだまだ先。要介護認定をもらったから補助金は出るけど、ショートステイやデイサービス、訪問介護サービスも考えるようになったら、お金もないし時間も足りなくなるからさ」

 

 日本が超高齢社会になっているという現状を、こういう形で痛感するとは思わなかった。新聞奨学金も考えたけど、必要なのは母を介護する時間と様々なサービスを受けたり必要なものを揃える為の必要な現金。

 

 「そう」

 

 当時付き合っていた彼女は、それだけ呟くように言った。お互い進学する大学は別になりそうだけど、高校二年間、大切にしていた相手だった。

 

 「もしかしたら、これからはデートの回数を減らさなきゃいけないかも。色々とお金がかかるようになるから、申し訳ないけど…」

 

 「うん、うんそうだよね。ごめん、その話の続き、今度で良いかな。大学入試まで今は追い込み時期だし、もう少しゆっくり時間がとれるようになってから今後のことを話そうよ」

 

 「え…ああ、うん。そうだよね」

 

 「時間もあまりとれなくなるし、今度から夜ラインで通話かけて来なくて大丈夫だから。レントの分も、あたし頑張って志望大学に合格してみせるから、応援してほしいな」

 

 じゃあね、と声をかけてから彼女は二人しかいなかった教室から足早に駆けていった。元々クラスも違う二人、どちらかが意識して時間を作らなければ会えないような関係だった。そして、就職組と進学組、当時の僕は意識していなかったがその狭間は想像以上のものだった。

 

 それを確信したのは、大学受験も終わり、滑り込みで工場勤務として就職先が決まった頃だった。卒業して初任給ももらえた。今は金が必要な為、入れるところに入ったが、そのうち自動車整備士の資格をとって父のように働こうかとも考えていた。

 

 その日は、母を訪問の介護士さんに任せて書店に訪れていた。家にいれば、母は何時もこちらに気を使ってくる為、出かけられる日は常に出るようになっていた。高校の頃は読書等で自宅でも楽しめたが今はそれもやや難しい。ほんの少しの贅沢、本屋に併設された喫茶店で買い込んだ専門書を開く。

 

 僕の得意分野は、言語や地理に歴史とか古典、所謂文系の方が強かった。だが、父が働いて仕事ということもあったがこうして自動車整備に関する知識を吸収するのも嫌いではない。県が運営している職業訓練校というのもあるが、特養ホームに入れるまではボクには金も時間が足りない。

 

 「あ、レント君久しぶりー」

 

 「は?誰それ」

 

 後ろから聞きなれた声に振り向くと、そこには僕の彼女だった筈の人と、見知らぬ男が並んでいた。



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レント


 西日本大震災。兵庫県の沖合が震源地となり、西日本に壊滅的打撃を与えた歴史に残る大地震だった。兵庫県に近い某県にいた僕だったが、父の小さな自動車整備工場のみならず街中の建物が崩壊していたことを覚えている。

 

 沿岸地域に近い街にいた僕は、父を探すことすらできず、近所に住んでいた顔見知りの大人に抱えられ、高台まで浚われるように避難させられた。

 

 ありふれた言葉ではあるが、自然の驚異は人間にはどうしようもできない。津波により文字通り街が流されるような現実離れした光景は、あまりにも想像を超えている為呆然とそれを見ていることしかできなかった。

 

 母はどうしているのか、父はもう助からないだろう、これからはどうなるのか。色々なことが頭の中で浮かんでいたが、涙は出なかった。隣で震えている女の子がいたから、変なところで男の子のプライドが邪魔をした。『大丈夫だよ』なんて薄っぺらいセリフが、あの時の精一杯だったのを覚えている。なにが大丈夫なのかも、分からないのに。

 

 でも身体の見えるところに生傷と、頬に青あざがある子の隣で情けない姿は見せたくない。ただ、それだけが理由だった。

 

 そのまま非難した高台の公園で一夜を明かすことになった。波は引いていったのだが、恐らくはどこかから燃料が漏れたのかそれが引火して街が火の海に包まれていたからだ。そこまで行くと、もう街を見ることもなくただ寝ころびながら空を眺めていたのを覚えている。

 

 初夏の出来事、気温はやや暑い程度。隣の子とただ誰かがどこかから用意したブルーシートの上に寝転んでいた。ずっと女の子手を握っていた。

 

 『これからどうなるんだろう』

 

 分からないよ、とは言わないようにした。とにかく別の話をして気を紛らわせてやりたかったが小学生の知識量と語彙力ではすぐに話に詰まる。不安にさせないようにしたかったが努力も虚しく、ついには泣きじゃくってしまった。無理もない、逆になんで僕はこんなに呆然としているのだろうか。多分、まだ目の前ことが現実として処理しきれていなかったのだろうとは思うけど。

 

 『そうだ、名前は?』

 

 そういえば、聞いていなかった。初対面の人と話すときは名前からだというのに、まあこの状況じゃそこまで頭が回らないのは仕方ないかもしれないけど。

 

 『僕は霧生院漣人、君の名前は?』

 

 『……三好梓』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後は自衛隊の人に助けてもらい、全国から救援物資やその他資源が集まり災害を免れた高校に避難することができた。

 

 プライバシーのない辛い生活だったが、なによりも悲惨だったのは掲示板に張られた行方不明者についての安否情報だ。ずっとは見ていられなかったが、時折掲示板の前で泣き崩れる人を見るのが子供心には辛かった。

 

 母もその一人だったのが、余計に辛かった。やはり父は助からなかったようであり、見つかっただけでも幸運だと自分を騙すしかなかった。自然と泣かなかった。僕まで泣いたら、色々なものが終わってしまいそうな気がしたから。

 

 『梓ちゃん』

 

 校庭の隅で座り込んでいた少女に、カレーを差し出す。こんな辛く心細い生活、なにが心の支えになったかと言えば個人的には暖かい料理だった。豚汁やカレーを自衛隊の人や、駆け付け始めた全国から来たボランティアの人が炊き出しを行ってくれた。

 

 『今日はカレーだったよ。食べよう』

 

 『うん』

 

 返事に声の張りのようなものがある。違和感があった、顔をあげた時の表情と声がどこか朗らかに感じたからだ。もらってきたカレーの紙皿を渡してあげる。何故高校にあるのか分からないが、駄菓子屋でよく見た覚えがある雪印のマークが描かれた長椅子に腰を降ろした。

 

 梓ちゃんは、湯気をたてるカレーの紙皿を手にとったままじっとそれを見つめていた。食欲がないものかと思っていたが、その横顔には口角があがっていた。

 

 久しぶりに見た笑顔だったが、その笑顔にはどこか薄ら寒いものを感じざるえなかった。何故そんな表情をしているのか理解ができなかった。

 

 『なにか、嬉しいことでもあったの?』

 

 聞きたくないと思ったが、聞かなければならないとも思った。良く分からないけど、この表情は多分あまり良いものではない。話し合うことで、なにかが変わらないかと少しでも期待したという意味もある。それでも、聞かなきゃ良かったと少しだけ思ってしまった。

 

 記憶が鮮明になる。それだけ強烈な記憶だったのだろう。一言一句、当時の風の強さやカレーの香りまでよく覚えていた。

 

 「どうして私があの日助かったと思う?」

 

 「え?」

 

 「お母さんが知らない男の人連れ込んでいて、そんな日は何時も外に出されていた。あの日はお父さんが、早く帰ったせいで家の中で殴り合いになったの。私はそれを窓の外から見ていたから助かったんだ」

 

 彼女の目にはカレー等映っていなかった。透き通った眼球には、恐らくはあの日の光景が映し出されているのだろう。

 

 「蓮人君には教えてあげる。私ね、お母さんもお父さんも助けなかったの。お母さんが瓦礫の隙間から、助けてって手を伸ばしたけど、私はそれを踏みつけたの。だっておかしいよね。私が助けてって言ったりお家にいれてって言ったら叩いたり踏みつけたりしたんだから、私も同じことをやっても良い筈だよね」

 

 「じゃあ、君のお母さんとお父さんは」

 

 「うん、死んだよ。今日死体が瓦礫の中から出て来たってさ。私、お母さんの手を踏んづけてから逃げたんだ、怖くなってさ。生きていたらぜったいにお仕置きされちゃうと思って。でもそれはもうおこらないみたい。嫌いな人がいなくなるのって良いものだね」

 

 梓はそういってから、カレーを一口食べる。美味しい美味しいと、まるでこんな美味い料理食べたことがないと言わんばかりの喜びようだった。僕もカレーを食べてみたけど、逆に味を感じなかった。なんとか喉を通らせるのが精一杯のありさまだ。

 

 「レント君のお父さんは?」

 

 「……ダメだったよ」

 

 家族の為に歯を食いしばって生きてきたが故、建物の崩落に父は巻き込まれた。素直に悲しかったし、こうして幾日か経ってもあの日父が伸ばした手を避けてしまう夢を見てしまう。どれだけ意識しても、これが夢だと分かっていても身体は自動でそれを行ってしまっていた。

 

 「悲しいんだね」

 

 梓の手が僕の頭を撫でる。水滴がカレーに落ちたことで、ようやく僕は泣いていることに気づいた。あの日以降、色々ありすぎて涙も流れなかったのに、なんで今更こんなところで流れるのだろうか。

 

 「蓮人君が、羨ましいよ」

 

 顔は笑っていたが、梓の目は笑っていなかったことを覚えている。そういえばこの子は、助からず亡くなった人の遺族がすがりついて泣く様子をどこか冷めた目で見ていた。震災のストレスで感情が乏しくなった人が何人かいたからそれと同じだと思っていたけど、今にして思えばそれとは違っていたのが分かる。

 

 「本当に、羨ましい」

 

 薄ら笑い、とでもいえば良いのだろうか。それでも、僕は逃げることはできなかった。このままでは、梓をひとりぼっちにしてしまうから。そうなったら、それは悲しいことだと分かっていたからだ。

 

 でもだからといって、それ以上なにができるものなのか。僕は彼女の気持ちをどうあがいても汲んでやれないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 季節は過ぎ、僕と母は仮設住宅を経由して国が指定した団地に移り住むことになった。梓は親戚の叔母が面倒みることになり、偶然にもそれは僕が引越した団地のすぐそばだった。このころには小学校を卒業し中学生にあがっていた。

 

 中学に入ってから二年間、自分のことを特別視するつもりもなかったが、どこかクラスに馴染めないような微妙な疎外感があった。辛うじてクラスで孤立しなかったのは、母が多少以上に無理して携帯ゲーム機と大剣とか大槍とかでモンスターを狩りまくるゲームを買ってくれたこと。それと、勉強に関しては特に苦ではなくクラスで三位以内には入っているということだ。

 

 部活動は金がかかりにくい文芸部に所属していた。お世辞にも、これは本当にくだらない話ではあるが文芸部に入部した男子のクラスカーストは低い。だが、取り繕う能力と成績のお陰で特に舐められることなく無難に過ごすことができた。

 

 僕は別にいい、問題は三好梓の方だった。どうやらクラスに馴染めない様子であり、そしてそれを取り繕うこともできていなかった。別クラスであったが、外から分かるくらいには孤立気味であり、虐めの標的にもされている様子もあった。

 

 具体的には掴めてはいない時期もあったが、一度だけトイレからずぶ濡れになって出て来た三好を見たことがある。僕と三好はあの地震の生き残り同士、近くにいれば話題は自然とあの時のことが多くなり、悲しい過去を振り返らない為に意図して距離をおくようになっていた。

 

 だがしかし、そんな光景を見ておいてそんなことを言っていられる状態ではないと理解した。

 

 『三好』

 

 『蓮人君、声をかけてくるのは久しぶりじゃない?』

 

 この頃三好の髪の毛は伸びきっていた。腰まで伸びた髪の毛に常に片目は隠れており、少し髪を乱せば両目が隠れてしまうくらい髪を切っていない。後から知った話ではあるが、当時の彼女は貞子とあだ名されていた。思わず、頷いてしまいたくなりそうだと内心思ってしまいそうな程だ。

 

 どうやら叔母ともあまり上手くいっていないようであり、美容院に行く金も渡されていない。ギリギリ育児放棄と言われないくらいの関係性であり、だがそれを本人は気にしているような様子すらなかった。母である姉と叔母である妹、そもそもこの二人の仲もよろしくはなかったようだ。

 

 『これ?』

 

 『その、大丈夫なのか?』

 

 『ああ、別に』

 

 三好は、両親が死んでしまったことが確定してからほとんど笑顔を見せなかった。いやほとんどなんてレベルじゃない、僕が最後に見た三好の笑顔はあの日両親の死を笑いながら話していた時くらいだった。

 

 『子供のすることじゃん』

 

 なにも知らない人が聞けば、中二病をこじらせているとか、必要以上に背伸びしたがる年頃とか言い始めるのだろう。だけど、僕は知っている。彼女の言葉は強がりだとか、自分を特別視しているとかそういうものではない。

 

 他人よりも、早く大人にならざるえなかった人間の浮かべる目をしている。そんな人達を多少なりとも見て来たが故に、すぐに気づくことができた。そして同時に擦れて、疲れているようにも見えた。彼女は今後虐めがおきようと鼻で笑って気にもしないだろう。

 

 『貴方は上手くやっているみたいね』

 

 友達は多い方だと思っている。それでも、申し訳ない話ではあるがどこか上っ面での付き合いになってしまっているのは否定はできない。幸いなことにみんなにはまだバレていないが、何時かは気づかれるものなのだろうか。

 

 まだバレてはいない、それを上手くやっていると言っているようである。それもいずれ限界があると、その目は語っているように見えた。

 

 『なあ』

 

 『……なに?』

 

 『三好は気にしていなくても、面倒だろう?色々気にしながら生きるのは。大変じゃないのか?』

 

 『……どうだろうね。私には分からないけどさ、家にいる時より大変じゃないなって思うと、自然とね』

 

 『やっぱり、まだ叔母さんとは上手くいってないのか?』

 

 引き取ったことじたい、世間体というものが影響しているのがでかいのだろう。中途半端に関わるくらいなら、施設にいれた方が良いんじゃないかと思うものだがそう簡単な話でもないのだろう。僕達はまだ子供だった。世の中の仕組みを理解しきっている訳でもない。

 

 でもただの子供とも言えなかった。ただの子供でいたかったのに、中途半端に境遇と苦労で歪に大人の世界に、我慢とか忍耐とかを得る為に足を踏み込んでいた。僕は周囲に溶け込むことができるように、彼女はストレスに耐えることができるようになるように。

 

 『東公園に何時もいるよね』

 

 『家に、あまり帰りたくないからね。その方が、叔母さんも喜ぶ』

 

 『だよね、もし良かったら』

 

 『レーント!』

 

 背中から肩を叩かれた。同じクラスの生徒で桐野鳴だった。クラスカーストでは上位層に位置しており、中学一年生の時に同じ考えを持つ者同士を集めてダンス部を部活として認めさせたくらいに行動力がある。発育も良く容姿も優れており大人びたタイプの美人系。男女ともに人気も高い。

 

 『今日金曜日だし、部活終わりにみんなでカラオケ行くんだけど、レントもいこーよ。黒崎と峰も来るっていうしさーアタシも誘われたんだよね。でもレントがこねーといかねーって気分でさ。クラスの懇親会だと思ってどーよ』

 

 会話中に躊躇なく割り込んできたが、彼女の目には三好は映っていない。まるで最初から存在しないかのような振る舞いだった。

 

 『ああ、ごめん今は今日は少し』

 

 断ろうとした瞬間、三好は踵を返して歩いていった。腕を伸ばしかけるが、もうここに用はないと言わんばかりの態度が声となり聞こえてくるようであった。

 

 『あれ、二組の貞子じゃん。どしたの?用事?』

 

 『お前、貞子って…』

 

 『暗いしクラスに溶け込む努力もしないし、名前一つ教えてくれないんだよ?陰キャでも必要最低限のコミュニケーションくらいとれってのー。あんなんだから虐められるんだよ』

 

 『その虐め、お前は混ざってないよな』

 

 『アタシはダンス部で忙しいし、陰キャに構ってらんないって。それよりレントー部活終わりに来るよね。みんなにはレントも来るってアタシから』

 

 『悪いけどキャンセル。今度埋め合わせするから許してくれよ。ああ、ついでに部活もサボるって言っておいてくれ』

 

 優しく、だが意思をもってからんで来る彼女を振りほどき三好を追う。少なくとも、このまま三好をそのままにしておくのが良いこととは思えない。背後から呼び止める声も聞こえたが、このまま走る。

 

 東公園。駅から少し歩いたところにあり、近年少子化による統廃合もあり一部の学生は電車も使い通学してくる者もいる。

 

 小さな東公園、木製のベンチで三好は座っていた。そのまま暗くなるまで、いや暗くなってもそこで座って過ごしており時間を潰してから家に帰っている。

 

 『三好』

 

 『蓮人君、ここにいて良いの?カラオケ、誘われたじゃん』

 

 『放っておけないって言ったら、迷惑か?』

 

 隣に座るが拒否の声はなかった。そのまま夕焼けを見ながら、沈黙して時間を潰す。会話はないが、心地良いものだった。無理に会話を探さなくても良い、沈黙が続くのは本来ならば居心地の悪いものであるが今はそれが一番丁度良く感じた。

 

 そのまましばらくそうしていたが、公園の街灯に明かりがともる頃、三好が口を開いた。

 

 『蓮人君の足は引っぱりたくない。貴方は上手くやっているし、それで良いと思う。私は弱かっただけ』

 

 『弱い?』

 

 『弱いよ。私が虐められているのは、勘づいているでしょう?でもそれは、私が悪いんだから』

 

 『どういうことだ?』

 

 三好が空を見上げた。避難所の夜、夜空の星くらいしか楽しみもなくよく夜空を見上げていた時のように。

 

 『クラスのみんな、幸せなんだなと思う。親に愛されて甘やかされて育ってさ。いろんな悩みや考えがあっても、結局この人達には打ち明けられないし、分かり合えないんだなー…なんて思うとね。やる気もなくなって、関わる気もおきなくて。そんな社会不適合者なのは私の方、でもやっぱり羨ましいものは羨ましいしそれが憎たらしくも思える。レント君も苦労しているけど、上手く溶け込んでやってる。貴方は強いよ』

 

 『……そんなことないよ。それに虐めって、悪いのはクラスの連中の方じゃ』

 

 『知っている?虐めってのは人間の本能に基づく行為なんだよね。集団の和を乱す異物を排除することで結束を高めるの。所詮人間は、のけ者がいた方が上手くいく生物なんだよね。だから、虐めは無くならない』

 

 三好はこちらをようやく見た。暗く落ち着いた瞳は、吸い込まれそうな程綺麗だったが悲しい輝きだったなんて言ったら、気持ちが悪いだろうか。

 

 『私は溶け込める程強くなかった。だからのけ者になった。さっき迷惑かどうか聞いたけど、迷惑かな。私のせいで蓮人君まで虐められたら、そっちの方が申し訳ない。私は私を許せなくなる。それは悲しいことだしね』

 

 三好は僕と距離を取りたがっていたようだった。自分は弱いから群れに馴染めない。だから、わざわざそれに巻き込みたくないという。ならばこちらから言う言葉は、一つだ。

 

 『舐めるなよ三好』

 

 『え?』

 

 怒気も少し含んだ声に、三好は驚いたように目を丸くした。滅多に怒ることもなかった僕のその言葉に、少し顔が引きつったようにも見える。いや、僕は怒っていた。自分自身にもそんなことで距離をおこうとする三好にも。

 

 『僕が強いっていうなら、三好と仲が良くてもなんとでもなる。三好を護ってやれるくらいには強いつもりだ。だから、一つだけ僕の言うことを聞いてほしい。それでその結果、どうなるかを見てからでも遅くはないんじゃないか?』

 

 『でも、ダメだよ。蓮人君が孤立したら学校生活が』

 

 『どうせ卒業したら大半の連中とは連絡もとらなくなるんだからさ、問題ないよ。だから三好、今度からは俺と一緒に帰ろう。確か三好、今所属している部活では幽霊部員だよな。文芸部に移れないか?迷惑じゃなければ休みも会おう。母さんも、ずっと三好を心配している。今でも様子を聞いて来ることもあってさ。顔を見せてやってほしい』

 

 『虐められたら?』

 

 『連中の虐めなんて大したことじゃない。避難生活の方がずっと辛かったし、どうせい今だけの付き合いな連中との縁が少し早めに切れたところで問題ない。逆に三好を虐める奴に睨みをきかせてやる。それを迷惑なんて今の俺は絶対に思わない。頼む三好、僕とこれから仲良くしてほしい』

 

 それを聞いて三好は、見えている瞳から一筋の涙を流し始めた。手の甲に落ちたそれを不思議そうに見た後、こちらの方に顔を向けて来る。涙はどんどん溢れて来て、顔がクシャリと歪み声をあげて泣き始めた。

 

 ずっとずっと、辛いことを溜め込んでいたのだろう。それが、溢れてしまったかのようだった。

 

 『ごめんね…ごめんね……私にはそんなこと言われる…資格なんてないのに。自分の面倒さえ…みれないのに……蓮人君の足を引っぱりたくなんてなかったのに……そうしてほしい。その優しさに甘えた私がいる』

 

 『もっと早く言っておけば良かった。僕も、弱いよ。自分が安全になる環境を整えるのに精一杯だった。でもよく言うでしょ?護るものがあると強くなるってさ。だから、僕は三好と…梓ちゃんと一緒にいたいんだ。これは同情なんかじゃないよ。僕がそうしたいからそうするんだ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三好とはその後、同じ部活に入り。同じ活動をし、帰る時間まで公園で過ごした。些細なことで笑いあい、色々なことを話した。同時にクラスメイトとの時間は減っていった。元々カラオケや他の金がかかる遊びは、家庭事情であまりお小遣いを多くもらえない僕の負担は大きかった。

 

 特に桐野からの誘いが激しかったが、三好との付き合いを優先する為にほぼ全て断った。彼女が自分を弱いと思うなら、護ってやらなければいけない。彼女の味方は、僕くらいしかいないのだから。

 

 『レント!いい加減にしなよ!』

 

 何時だったか、桐野に怒鳴られた。何度目かの遊びの誘いを断り、金銭的な理由も含めこれ以上誘いをしないでほしいと言った後だ。

 

 『うちら友達じゃん!アタシだけじゃない、そんな断り続けて貞…三好さんばかり構ったら、今度はレントが孤立するよ!本当に良いのそれで!』

 

 『桐野には、友達がいっぱいいるだろ。僕にそんなにこだわらなくても良いじゃないか。そういえば、告白されたってこの前言っていたらしいじゃん。彼氏の方に時間を使ってあげたら良いんじゃないかな?』

 

 『っ……人が心配して言ってあげてるのに!』

 

 『僕は大丈夫だよ、ありがとう。でも、今は大事な人がいるから、申し訳ないけど構わないでほしい。ごめんね』

 

 こんなことがあったから、クラスの孤立具合も加速してしまった。でもその分、三好との仲が深まっていった気がする。

 

 中学卒業まであと少しというところ。僕は、卒業と同時に彼女に告白しようと思っていた。細かい境遇は似て非なるでもあるが、あの地震と避難生活を共に送った仲であり、傷の舐めあいかもしれないが、それでも居心地も良かった。三好も笑顔が増えてきており朗らかに笑うようになっていた。高校も同じところに進むことが決まっていた。

 

 結果から先に思い返せば、僕が彼女に愛の告白をすることはなかった。卒業まで後指折り何日かというところ、彼女が駅のホームから飛び降りて自殺をした。叔母さんが遺品のカバンから遺書を見つけた。その遺書には、虐めを苦にした自殺という内容が書かれていた。 



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 『お願いです!せめて、せめて見せてください!彼女の最後になにを残したのか…どうか見せてください!』

 

 古い木造家屋の玄関先にて、年のいった女性は迷惑そうにため息をついた。心底迷惑そうに、白けたような視線をこちらに向けているのがよく分かる。

 

 『何日めだい。アンタもしつこいね、こっちも暇じゃないんだよ』

 

 『ご迷惑をおかけしていることは分かっています!それでも、最後に彼女がなにを思っていたのか、どうしても知りたいんです!お願いします!一度で良い、彼女の遺書を見せてください!』

 

 僕にはどうしても、梓の死が自殺だとは信じられなかった。前日まであんなに朗らかな笑みを見せてくれたし、あと少しで約束通り同じ高校に通うことになっていたのに、今更自死を選ぶなんて考えられない。警察も学校も自殺だと判断したがそんなことはありえない。

 

 だけど、もしかしたら、僕が知らない彼女の顔があったのかもしれない。それを知りたくて、せめてカバンから出て来た遺書を見せてほしいと頼み込んでいる。

 

 『虐めだのなんだのって話が出て、教育委員会が来たり警察が来たりでこっも大変なんだ。その上で、アンタみたいな子供が来て、近所の目もあるっていうのに…』

 

 『見せてくれたのなら、もう二度と訪れません。それがダメなら、せめて彼女の仏壇に線香の一本でも供えさせてくれませんか。それでも良いので、どうかお願いします!』

 

 『なんで見ず知らずの子供を家にあげなきゃいけないんだい!さっさとあっちに行きな!これ以上しつこいと学校と警察に通報するよ!』

 

 勢いよく扉を閉まられた。梓は一度も自宅に招待してくれなかった。叔母とは仲が良くなかったと聞いていたが、ここまで取り付く島もないとは予想外だ。

 

 拳を握りしめる。せめて、本当に梓は自殺だったのか。遺書はどういうものだったのか。僕が気づけなかった悩みをずっとずっと抱えていたのか。

 

 高校入試が近づくにつれ、内申点や受験勉強に勤しむ学生が増え校内では目に見えて虐めはなくなっていた。誰も彼もが必死になっていた時期であり、僕が目を光らせていた…いや、目の届く範囲では虐めというものはなかったと思っていた。

 

 梓の葬式は、小さな家族葬で形式的に行われたようであり、僕はおろか担任教師ですらその葬式には出ることはできなかった。虐めを止めることができなかった無能教師がと、毛嫌いして追い払った訳ではない。心底どうでも良さそうな態度で追い返されたとその教師はこっそり教えてくれた。

 

 担任教師は、有能ではないが無能でもない。虐め問題にも劇薬じみた効果の対策を敷くわけでもないが、それなりに気を使い梓の様子を見守っていた。同じく梓を気にしていた僕にも何回か様子を尋ねたこともあり、自殺したことが堪えたのか疲れたようなため息を吐きながら僕だけに教えてくれた。

 

 『ここ最近を見る限り、この時期でも虐めはないように思えた。でも、こんな急に…あと少しで高校生になるって時にどうして』

 

 その解答は、僕にも誰にも答えることができなかった。

 

 梓が暮らしていた叔母の家から少し歩くと、二人でよく話し合った公園の前を通る。公園で遊ぶ子供はいない。何時だったか、公園で遊ぶ子供の声がうるさいと市に苦情がありすったもんだの末に、まさか市が折れてしまった。

 

 公園の遊具は徐々に撤去されていき、寂しいものになっていた。辛うじてまだ残っていたブランコに腰をかけ呆然と落ちていく日を眺める。学校帰りに何時もここで二人座って駄弁っていた。お互いに自由に使える金銭がない立場、出来ることは限られていた。

 

 それでも、クリスマスには小さなケーキ。バレンタインやホワイトデーにも安価なチョコレートやお菓子を交換していった。他愛のない関係が、これから特別な関係になると確信していたのに。

 

 僕には彼女を支えきれなかったのか。高校受験前、流石に勉強に割く時間もこれまで以上に多くなり常に一緒という訳にもいかなくなった。今でもそれを後悔している。受験を通過したこと自体は嬉しかったが、彼女にもその分気を使えばこの悲劇も防げたかもしれない。

 

 ブンッという音が近くから響いた。いつの間にか日暮れになり、街灯の明かりがついたようだ。どれだけの時間座っていただろうか。とにもかくにも、もう帰らなければならない。母は仕事で何時も遅い、夕食の準備と家事を進めておかなければならない。

 

 どんなに悲劇があろうと日常生活はこなしていかなければならない。今はまだ高校入学前、僅かな時間自由はあるがすぐに新しい日常に順応していかなければならない。そして大人になれば、不用意に立ち止まる訳にもいかなくなる。父を亡くした母がそうだったように。

 

 団地に帰り、鍵を差し込んで気づく。家の鍵がかかっていなかった。かけ忘れたかとゆっくりと開き中を確認すると、母が台所に立っていた。手には大きなボウルを抱えており、色とりどりの野菜に酢をベースにゴマも混ぜて作った自家製ドレッシングがかかっていた。

 

 『お帰りなさい、レント』

 

 『なんで母さんが、もう帰っているの?』

 

 母である、霧生院ゆかり。震災前は夜勤もある介護職で働いていたが現在は工場勤務を行っていた。常に残業があるような忙しいところであるが、そんな母が何故この時間帯に台所に立っているか疑問があった。

 

 『今日は半休をとらせてもらったの。ほら、今国の方針で有給休暇は必ず五日はとらせなさいっていっているしね』

 

 『母さんが勤めている工場、そんなこと気にする会社だったっけ?』

 

 玄関から入ってすぐにある狭い台所。その先にはカーテンで仕切られた居間がある。格安の住居だけあって、トイレこそ存在するが風呂はなく個人の部屋なんて夢のまた夢だ。

 

 居間に入ると、丸いちゃぶ台の上にはご馳走が並んでいた。鳥の唐揚げがと添えられたレモン。卵と玉ねぎのスープ。先程母が持っていたボウルが置かれ彩りが追加された。そして一番目立つのがちらし寿司。錦糸卵と海苔が振りかけられた酢飯からは美味しそうな匂いが立ち昇っていた。

 

 手作り以外では、値引きシールが貼られたパックの刺身が置かれている。そして、ケーキの箱がその隣に置かれて開かれていた。中に入っていたのは、ショートケーキとモンブランだった。どちらも好物だ。

 

 『なにこれ』

 

 『お祝いだよ。少し遅くなったけど志望していた高校に入学することができたし、それに』

 

 『お祝いってなんだよ!』

 

 テーブルを思わず、拳で叩いてしまった。祝いという言葉を聞いた瞬間、反射的に、そして急速に頭に血が昇った。お椀に盛られたちらし寿司が落下し、スープが跳ねて落ちる。唐揚げの山が崩れて、勢い良く転がった頂上のものが床を転がった。内心、あっ…と思ってしまったが、理性のブレーキはギリギリきかなかった。

 

 『梓があんなことになって、事情も分からなければ葬式にもでれなくて、そんな時にお祝いなんてなに考えているんだよ!僕がもっとしっかりしていればこんなことにならなかったのに、どうして母さんは呑気にこんなことができるんだよ!なんでだよ!なんであんな悲劇があって、これから幸せになる筈だったのになんで!僕のことなんて…僕の方が死んでいれば!』

 

 乾いた音が、響いた。平手が張られた音であり、思いつくあたり初めての母親から受けた痛みを伴う行為だった。痛みはそれなりだが、衝撃がようやく理性だけでは止められなかった口の動きを止める。

 

 『梓ちゃんは、残念だった。お母さんも悲しいし、私達大人ももしかしたらなにか行動をおこすことでなんとかなったかもしれない。一番近くにいた、それこそあの地震を生き延びた、これから幸せになる筈の子があんな死に方をしたのは心が痛い…でも』

 

 両肩を掴まれる。爪が食い込む程強い力で握られた。普段は穏やか、というより仕事の疲れが溜まりあまり感情表現が出来ずにいた母が、睨むような、とにかくここまで強い形相になったのを始めて見た。

 

 『あの地震で大勢の人が死んだ。お父さんだって、死んでしまった。もっと生きたかった人が大勢いたのに、本心でもそうでなくても自分が死んでいればなんていう言葉を言わないで!』

 

 母の膝が、折れる。膝立ちになりながら手が震えていた。言葉が、出せない。避難場所となった高校の掲示板の前で、泣き崩れている人を見てしまったことを思い出してしまった。そして、父の死を聞いて泣き崩れてしまった母も。

 

 『今日が何の日か、覚えていないの?』

 

 言われて、一つ思い出したことがあった。そういえば、今日は僕の誕生日だった。ふと横を見ると、ケーキの箱から覗くモンブランにはチョコ板が刺され、年齢と誕生日を祝う言葉が描かれていた。

 

 梓が死んで、そればかり考えるようになって。自分のことを考える余裕が無くなっているのを今更ながら思い出すことができた。

 

 『……誕生日。ちゃんと貴方が生きて、人生を歩んでいるのがちゃんと分かる日。そんな日を、忘れないでよ……自分のことを大切にしてよ』

 

 小さな声で呟いた瞬間、玄関のインターホンが鳴った。泣き崩れている母に応対はできない。申し訳なかったが、一言謝ってから仕切りのカーテンの向こうにいき玄関の除き窓から外を見る。

 

 見知った顔が見えた。扉の鍵を開けて、応対する。

 

 『桐野』

 

 『ん…おっす』

 

 桐野鳴が玄関先にいた。コートを着ているが、足は短めのスカート履き露出している。まだ寒さが残る時期なのに、おしゃれには我慢がいるなと何故か関係ないことを考えてしまっていた。自分のしでかしてしまったことからの現実逃避だと思いいたった瞬間、自己嫌悪に陥りそうになる。

 

 『レント君、一人?』

 

 以前は呼び捨てで慣れ慣れしく関わってきたが、距離を置いてからは君付けでの呼びに戻っていた。中学卒業のクラス会にも参加していなかったし、別の高校に通う彼女とは今後接点無くなると考えていた為意外過ぎる訪問だった。

 

 『いや、今日は母さんが早引けで家にいる。俺になにか用事なら、外で話す……いや、今は都合が悪いんだ。もし用事があるなら、悪いけど手短に頼めるか?』

 

 スマホを持っているクラスメイトも多くいたが、僕にはまだ縁が遠いものだ。当然のように桐野も持っていたが、パソコンもなければ固定電話なこちらはメールのやりとりも長電話もできない。今の我が家の状況で、長々話している余裕もない。

 

 『そっか、残念。ああでも、心配しないで、すぐに用事は終わるから』

 

 桐野との最後の会話は喧嘩腰な面もあり、少々気まずい。向こうもそう思っているのか少しだけ目が泳いでいた。彼女は少しだけ慌てたようにハンドバッグから四角い箱を取り出す。

 

 『これだけ、あげにきた』

 

 『ん?これは』

 

 『ほら、レント君誕生日だし』

 

 目を丸くした。確かに誕生日くらいはなにかのきっかけで教えたことはあるかもしれないが、そんな何時教えたかも分からないことを今になって覚えているとは思えなかった。なによりも、疎遠になったと思っていた相手からのプレゼントに嬉しい以上に困惑があった。

 

 『三好さんがあんなことになってから、レント君ずっと元気なかったし悩んでいたからさ。だから、ちょっとでも元気になれば良いかなと思って。もし迷惑だったら申し訳ないけど、あたしなりに考えてさー』

 

 固まって受け取れずにいたら、桐野の顔がどんどん心細そうになっていく。いきなりのことで驚いたが、純粋な好意に悪い気はしないし受け取らない理由はない。

 

 確かに貞子呼びはしていたが、一度注意したら以後桐野はそんな呼び方をしなかった。あの日以降、梓の周囲で目を光らせていたので、この子が虐めに参加してなかったことは分かっているので嫌悪感はない。そんな子がオロオロと不安そうな表情をしていたら、荒れている内心を呑み込んででも笑顔でお礼を言い受け取るべきだろう。

 

 『ありがとう。正直、自分の誕生日も忘れかけていたところだから嬉しいよ』

 

 受け取ってお礼をすると、桐野は安堵したように顔をほころばせた。同時に少しだけ、ボクもホッとしてしまう。上手く笑顔を作れていることが分かったからだ。顔が固まっていたら、このリアクションは返ってこないだろうと思う。

 

 『あー…うん。まあ、悪いもんは入ってないと思う。もし気に入らなくても返さないでよ?嘘でも良い物もらったって言ってよねー、傷つくからさ。うん、ごめんね。こんな時に時間もらっちゃって』

 

 『いや言わないだろう普通。ああ、うんありがとう』

 

 『じゃあ、待ってるから。また会おうね』

 

 桐野が踵を返し、階段まで向かい降りていく。待っているとは、なんのことだろうか。

 

 もらった箱を開くと、アクセサリショップに売っているシンプルな指輪が入っていた。あまりゴタゴタしたものや髑髏みたいなものがついたデザインではなく、良い意味大人しく普段使いにも問題がなさそうなものである。

 

 箱の中には小さな紙が入っていた。メモ帳が破り折りたたんだような紙には、スマホの連絡先が書かれていた。そういえば、僕はスマホを持っていないからという理由もあるが、クラスのほとんどの連絡先を知らなかった。

 

 待っているからというのは、そういうことか。孤立しがちになった僕を気にかけてくれている面もあり、もしかしたらなんてことも考えてしまう。同時に、梓が亡くなったばかりだというのにそんなことを考えてしまう僕に自己嫌悪が積もる。

 

 だがしかし、何時までもこうしてはいられないことに気づけた。三好梓のことはこれからも忘れられない。この先ずっと思い悩むし、今そうしているように悪夢で目が覚めることもあるだろう。だけど、母の言葉と桐野の気遣いを受けてようやく前を向くことができそうである。

 

 家に戻りカーテンを開けると、母さんは床に落ちた食事を片付けているところだった。来客が来たと分かり、応対を任せてしまったが言えの奥から泣き声が聞こえているとあれば不審すぎるだろう。

 

 『同級生が来て、プレゼントを渡してくれたんだ』

 

 『そう…良かったわね』

 

 『……さっきはごめん。ここ最近ずっと自分のことと梓のことしか考えていなかった。家族の間でも話しかけられても上の空だったし、せっかくの料理も台無しにしちゃうし。そうだよね、何時までも僕が落ち込んでたら梓も心配するだろうしね』

 

 『蓮人』

 

 『今度、梓の墓参りに行ってこようと思う。それで、僕の方は心配ないって報告と……ちゃんとお別れをしようとおもうんだ。葬式にもでれなくて、ずっとモヤモヤしていたけどそれを晴らしてこようと思うよ。ごめんなさい、母さん。もう二度と僕が死ねばなんて言わない。そんなこと言ったら、あの日死んだ人達にも梓にも顔向けできなくなるからね』

 

 薄情、なんて思われるかもしれない。でも現実は目の前にあるし、これからも人生を続けていかなければならない。三好梓のことは綺麗で大事で、しかし悲しい思い出として過去の記憶にしていかなければならない。そう簡単な話ではないだろうが、時間は良くも悪くも過ぎ去っていく。

 

 『その…腹減ったかな』

 

 『ちらし寿司、お代わりもあるからそれをよそうわね。手を洗ってきなさい、まだだったでしょう』

 

 声は、平静を保とうとしている様子だ。でも、その顔つきは幾分戻っているように思えた。

 

 手を洗おうと台所に向かおうとした背中に、声をかけられる。

 

 『どんなことがあっても、なにがおこっても。自分を大切にしなさいね。貴方の為にも、なによりも梓ちゃんの為にも』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明日は、高校の入学式だったが、僕は一日早く届いた制服に袖を通していた。

 

 手には桶と柄杓に、布地。そして、小さな野花を簡単にまとめた花束を握っていた。本当は花屋でちゃんとしたものを購入したかったが、資金の問題でそれはできなかった。

 

 集合墓地には涼し気は風がふいていた。桜がピンクの花弁を揺らし、花びらが舞い落ちる。街中ではあちこちで花見に興じる者もいるが、流石に墓場でそんなことをする不届き者はおらず静かなものだった。

 

 目当てである梓が眠っている墓の前で、少しだけ手を合わせる。柄杓で汲んで来た水をかけて布で丁寧に磨き上げていく。供え物が少し寂しい代わりにという訳ではないが、出来うる限り心を込めて磨くことにした。

 

 墓を綺麗にした後は、野花の花束を置きポケットの中から包み紙を取り出す。テスト期間が終わった時に、二人でささやかな打ち上げをする為に食べた大判焼きが墓前に添えられる。

 

 大判焼きは地方によっては、今川焼きとか回転焼きとか色々呼び名があるって教えてくれたのは梓だったことを思い出す。

 

 烏がたかる為に、墓に供えた食べ物は回収しなければならないが、あの世でもこのクリーム入りと餡子がどっちも入った大判焼きを食べてくれていると思い込んでおく。

 

 『明日から、僕も高校生だ』

 

 自然と墓石に語り掛ける。周囲に誰もいないので、独り言もし放題だ。

 

 『バイトもできるようになり、生活に慣れたらすぐに探し始めようと思う。勉強は、どっちかと言えば文系方面も習っていこうかな。理数も嫌いじゃないけど、まあ趣味にあっているしね』

 

 歴史や地理がわりと好きだった。梓には理解できないなんて顔をされたけど、好きなものは好きなのだからしょうがない。

 

 『本当は君と高校に通いたかった。だけど……まあ、僕は頑張っていくよ。ここにももっと早く来れば良かったよ。でも、ここに来たら中途半端に踏ん切りをつけてしまわなくてはならない気がして…なによりも君が本当に死んだことを直視しなくてはならなくなるのが怖かった。でも、前を向いて行こうと思う。今日は、本当にお別れを言いに来た』

 

 手が震えていたが、言わなくてはならなかった。母の言葉や桐野の気遣いもありようやく言う勇気がもてた。

 

 『まずバイトして、家に生活費も入れていくけどもう少し溜まったら僕もスマホを買おうと思う。実は桐野に連絡先をもらったんだけど、固定電話だとなかなかね。今は、目標もできたし……振り返らずに歩いていけると思うんだ』

 

 涙が頬をつたっていた。地面に染みを作っていく。

 

 『君のお陰で、楽しい中学時代をおくれた。ありがとう、梓。君のことが好きだったよ。本当に好きだった』

 

 声が震えていた。涙が落ち着くまで手を合わせてから、目を開く。道具をまとめて帰ろうと思ったが、ふと移転した父の墓も参っていこうと思った。父は合同葬儀をした後、遺骨をもらい墓を移転してこちらに埋葬していた。ここまで来たついでだし、もし父が天国なんてものから見ていたとしたらだいぶ心配をかけたかもしれない。

 

 気持ちを報告だけして、帰ろうと思ったが驚くことがあった。

 

 父の墓の前に、スーツ姿の男が一人立っていた。伸長は190近くはありそうで、ガタイが良く格闘家のような体躯をしており、胸ポケットにはサングラスが差し込まれている。

 

 線香を立てる土がいれられた箱には、火がついたばかりで煙をあげる線香が差し込まれていた。そこで僕は、梓にたてる線香を忘れていたことを今更思い出す。自分のことばかりで、僕もまだまだだ。

 

 こちらに気づいたようで、男は軽く頭を下げた。僕も慌てて頭を下げる。

 

 『アニ……霧生院さんの息子さんの、蓮人君だったかな』

 

 『僕を知っているんですか?すいません、父のお知り合いでしょうか』

 

 『鬼龍院さんには世話になったことがあってな。命日の日や盆にここに来れれば良いんだが、時間がある時しかこうしてこれなくてな。今更で申し訳ないが、惜しい人を亡くした。お悔みを言わせてくれ』

 

 そういえば、思い出した。合同葬儀でこんなガタイの人を見かけたような気がする。震災被害者を弔うための行事で、被災者の知り合いかと思ったし、あの葬儀には家族を亡くしていない人も亡くなった人を弔う為に手を合わせていた。そんな人の一人だと考えていたが、父の知り合いだったとは思わなかった。

 

 『お母さんと二人で、苦労していないか?』

 

 『いえ、今のところは…大丈夫です』

 

 『その制服、高校に進学するのか。あの震災から何年だ?早いものだな』

 

 男はこちらに近づいてきた。懐から、名刺を一枚取り出して差し出して来る。

 

 『北村興行の…西田さん?』

 

 『西田成之だ。もしも、自分じゃどうにもできないようなトラブルに巻き込まれるようなことがあって、手を貸してほしければ連絡をくれ。まあ、お母さんには止められるかもしれねえがな。俺はあの人に恩義があるが、それを返せなかった。だからそいつを渡しておく。まあ、俺が言うのもなんだがその連絡先にかけることがないのが一番だがな』

 

 その瞬間、勘づいた。この人は多分裏の稼業につく人かもしれない。ヤクザか詐欺グループが分からないが、多分そっち系の。そう考えた瞬間、名刺を突き返そうと思ったができなかった。父の強面を思い出す。あの父を今でも慕い、こうして墓参りに来る人の好意を無下にできなかった。

 

 『じゃあな。良い青春をおくってくれ』

 

 西田さんはそう言い、出口の方に向かっていった。父の墓前には、立派な花束が飾られている。時折覚えがない墓参りの痕跡があったが、彼がずっとしていてくれたのだろうか。

 

 父に手を合わせ。今までのこととこれからのことを報告する。何故か、俺のようになるなという父の言葉が頭の中を反芻していた。



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 『お疲れ。霧生院、今日は何時からだ?腹減ってるか?』

 

 カラオケでのアルバイトを始めてから、半年程たった。未成年は深夜のバイトには入れないが、休日や学校終わりには可能な限りシフトを入れてもらった。高校生活になり、部活動に精を出したり友人と活動することを青春としている者達もいるが、僕は金を稼がなければならない。

 

 高校に進学してしばらくしてから、どうにも母の顔色が優れない日が多い気がする。それでも身体に鞭を打って仕事に向かう母を少しでも支えてやりたいが為、生活費の足しになるように働いている。

 

 明日も仕事や学校がある平日夜間は、客の入りもそれなりだ。それに輪をかけて、今日は更に客が少ない。

 

 『厚盛ポテトセットたぞ。ちょっと摘ままね?』

 

 『摘ままね?って客の注文じゃないんですか?』

 

 『注文受けて、揚げた後にキャンセルされたってことにしておくから大丈夫だ。面倒な処理は俺がしておくから、食って共犯者になろうじゃねえか』

 

 この富田さんという人は、僕の教育担当であるバイト歴の長いフリーターであるが、こうしてちょくちょくと規約を悪用して私腹を肥やすタイプの人だ。もっとも、忙しい時の回転率の効率とトラブルをおこす客を捌く手際はバイトを通り越してプロ並みであり、シフトも多く入れている為店長も多少目零してしているようである。

 

 『腹減ったって面してんぞ。食え食え』

 

 今日のシフトは高校を終わってから夜の十一時までの予定だ。確かに腹は減ったし、揚げたてのポテトがいやに食欲を誘う。ここで拒否して富田さんを告発するのは簡単だが、そんなことをしても誰も幸せにはならない。そんなことを考えながら、誘惑に負けポテトを口に放り込んだ。

 

 『背徳の味ってやつだ。美味かろう?これが俺流の食費節約術だ』

 

 『そりゃ、美味いですよ。胃袋が空っぽだから、尚更。でもこれで僕がバイト首になったら富田さんのせいですからね』

 

 良く悪くも一筋縄ではいかない人であるが、個人的には僕はこの富田さんを嫌いにはなれなかった。バイトのイロハを教えてくれた恩もあるが、時折掛け持ちしているコンビニの廃棄弁当やらをこっそりと差し入れしてくれたりもして非常に助かっている。

 

 富田さんは日焼けサロンでよく焼いた表情に笑顔を浮かべながら、盛り盛りとポテトを口に放り込み、いつの間にドリンクバーから調達してきたメロンソーダに口をつけていた。

 

 『俺とお前が消えたらここの店人手不足で回らねーっての。別のバイト先で今日は何故かコンビニで弁当の売れ行きが良くて廃棄がでなかったからな。代わり代わり』

 

 『店長にバレた時、どこまで庇ってもらえるか見物ですね』

 

 『お前はともかく、多分俺の行いはバレてるだろ。悪い先輩の見本だから、真似しちゃダメだぜ』

 

 爽やかに親指をたてる。そういえば、この人は社員にならないか上から誘われているようであるが断り続けているらしい。社員になれば、今までのようなフリーダムな環境でいられなくなるのが嫌なのだろう。断り続ける理由が、つまみ食いできなくなるからということになるとなんとも微妙な話であるが。

 

 『そういえば、お前さん休日の空き時間に日銭を稼げる方法探していたよな。知り合いに農家やっているおっさんがいて、一日二日の手伝いを募集しているが今週末どうだ?』

 

 『今週末…すいません。彼女との約束があって』

 

 『なんだよ彼女とデートってか?いつの間にかリア充になりやがって。どうせ写真あるんだろ?オラ見せて見ろや』

 

 先月、ようやく手に入れたスマホを取り出しアルバムを表示する。高校に入学して三か月、高校生活にも見つけたバイトにも慣れてきたタイミングで、桐野からの告白を僕は受け入れることにした。

 

 高校入学してから五月の中頃に告白を受けていたのだが、まだ梓のことを完全に処理できない僕はそれを受けることに二の足を踏んでいた。

 

 『なにこの超大人っぽい子。この子マジでJKで一年なん?もろ美人じゃねえの』

 

 『JKなんて言うと、おっさん臭いって言われますよ』

 

 『じゃかしいわボケなす。あーマジか、俺がもっと遅く産まれてたらなぁ』

 

 気持ちは嬉しいけどそ今はそんな気になれないしと、一度は桐野の告白を断った。だが彼女は、今はというところに着目し「それじゃあ、待っているから。その気になるまでさ」と笑いながら返してきた。

 

 同じクラスになれた為、接する時間は多かった。モテる彼女は短い時間でも多くの男子生徒に告白されていたが、好きな人がいると断り続けているようだった。傷心がなかなか癒えきらない僕も、彼女の笑顔と他愛のない会話は心の支えになり続けていた。

 

 夏休みの終わりごろ、花火大会に誘われた。ここでしかないと心に決めた俺は、バイトをなんとか富田さんに代わってもらい、会場にて彼女の告白の返事をかなり遅くなってから返した。これだけ間を空けてしまい、断られても仕方ないという気持ちだったがとびきりの笑顔と目尻に涙を浮かべながら桐野は僕の言葉を受けいれてくれた。

 

 梓のことをふっきれきれたとは思わないが、それでも最近は良い思い出も悪い思い出も過去のこととして胸の中にしまうことができた。時折、なにかの拍子に溢れだした記憶は心の中を苛むが古傷として受け入れてしまうしかないだろう。

 

 『でもお前さん、バイトのシフト時間滅茶苦茶多いじゃねえか。学業も疎かねしてねえみたいだし、ちゃんと彼女をかまってやれていんのか?』

 

 痛いところをつかれてしまう。だが、僕が大学にまともに通う為に目指すのは、高等教育就学支援だ。

 

 授業料等の免除制度と給付型奨学金というのがあり、前者は学費を支援してくれ、後者は必要な生活費を日本学生支援機構が返済無しで援助してくれるというものである。

 

 資産基準、家計基準、学力基準等のチェックをクリアして初めて受けられる制度であるが、そのうち二つの資産基準と家計基準は確認したがクリア済みであった。最後の労力基準は自分が頑張る必要がある為、生活費を入れる為のバイトと学業の成績を両立させなければならない。

 

 そのために、彼氏と彼女の関係になったのに関わらず桐野とはあまり時間を重ねられずにいた。それ前提で申し訳ないと謝罪をしており、向こうもそれを受け入れてくれている為それに甘える形になっている。

 

 カラオケ、ゲーセン、ラウンドワン、プチ旅行。それら全てには金が必要であり、生活費の援助と自分のスマホ代金、将来万が一の時に使える貯蓄を考えれば重い負担となっていた。

 

 例え大学に入学したとしても、この生活構造はあまり変わらないんだろうなと思う。桐野には申し訳ないけど、青春という機関は学業とバイトばかりが思い出となりそうだった。まあどんな思いででも、中学時代に味わったショックに比べればマシなのだが。

 

 『迷惑かけてますよ。だけど、その分独り立ちできるようになったら存分に楽させてやるつもりです』

 

 『はいはい、イケメン乙。じゃあ取り合えず、俺が楽する為に働いてもらおうかな』

 

 カウンターの呼び鈴が鳴ったということは、客が来たということだ。カウンターに向かう傍ら、先輩は塩のついた手を拭いていた。こちらに仕事を押し付けたように見えて、自分はこれから面倒な事務周りの作業を始めるのだろう。そういうところがあるから、時折言動に呆れつつも嫌いになれないんだよな。

 

 『いらっしゃいませ、三名様ですか?』

 

 この仕事にもだいぶ慣れて来た。酔客の嘔吐や暴走の後始末には未だ慣れず、時折警察を呼ぶほどのトラブルの対処には苦労するが。

 

 売上的には寂しいものかもしれないが、楽だった本日のバイトを終了する。まだシフトに入る富田さんに挨拶をしてからカラオケ店を出る。自転車のロックを解除して跨り漕ぎ始める。

 

 電車を乗り継ぐのも金がかかる為、カラオケ店の店長から中古の自転車をタダ同然で譲ってもらった。なかなか重宝しているが偶にマウンテンバイク等に憧れることもあった。だがしかし、今はこれで充分だ。

 

 信号待ちの為に自転車を止める。思い出したようにスマホを覗き込むと、高校で出来た友人からのメッセージが二件、桐野からのメッセージも二件入っていた。

 

 高校にあがってから、感情のコントロールが上手くなったような気がした。いや、震災の傷も少しずつ癒えてきたということか。演技のようなものをするまでもなく自然と友人関係というものを築くことができていた。

 

 桐野の交友関係は男女問わずかなり広く、自然と人間関係はそれに比例して広くなった。桐野に恥をかかせない為にしばらくは必死だったが、そのうちそれも慣れたものだ。

 

 まずは友人からのメッセージ。桐野とも共通の友人であり、高校では最初から存在していたダンス部に共に入部していた。

 

 ダンススクールであるような、大きいガラス張り等なく体育館でバスケ部と場所を分け合い練習をしているダンス部。自分等の姿を見る為に動画を撮りあって、ミスを指摘しあったり技術の向上を目指している。

 

 そのうち一つを、友人は僕にこっそりと送信したようだ。大人びた普段の姿とは違い、汗を流しながら必死にダンスの練習をする桐野。これまでで一番上手く踊れているから見てやってと、文字が添えてあった。

 

 最近はユーチューブとかティックトックとかに動画をあげる、なんて話もあるようだ。大会以外にも活動の場を増やしたいということであり、練習にもかなり熱が入っている。ダンス部の功績を増やして、部費の予算アップを狙っているとかいないとか。

 

 桐野からのメッセージは、恥ずかしいから消してということだった。友人の悪戯に慌てる姿が思い浮かび、少しだけおかしく思いながら返信しておく。

 

 【なんで?上手く踊れているじゃん】

 

 返信はすぐに返ってきた。部活動の終了と閉校の時間はとっくにすぎているのでもう家に帰っているのだろう。

 

 【それでもまだ下手くそなの!全国レベルの人や動画サイトなんかみればもっと凄い人達だっているんだから!】

 

 【素人目で悪いけど、充分上手く見えるんだけどな】

 

 【ダメだって!とにかく消してってば!】

 

 信号が青になったため、自転車で走り出す。しばらくしてからスマホの着信音が鳴り、通話に出て見ると桐野だった?

 

 『消した!?』

 

 挨拶もなしに開幕からの一言。自転車を一度止め、押しながら歩いて帰ることにする。漕ぎながらでも通話できるがこの暗い夜道、万が一にも誰かにぶつかり医療費や迷惑料金を請求されるなんて考えたくもない。学校にバレたら内申点にも傷がつく。

 

 『いや?どーしても消さなくちゃ駄目か?』

 

 『ダメに決まってんじゃん!もーなんで言うこと聞いてくれないかなー!?』

 

 家にいえると思ったが、繁華街にでもいるのか会話の背後から聞こえる背景音がなかなか騒がしいものだった。こんな時間に出歩いているのはお互い様であるが、部活疲れもあるだろうしこんな時間まで出歩いて大丈夫なのだろうか。

 

 『まだ、家に戻っていないのか?』

 

 『話反らそうとしてる?』

 

 『いや別に。ただ、こんな遅い時間なのに出歩いて、疲れてないのかと思ってな』

 

 本当だったら心配である。桐野は富田さんが言うように、贔屓目なしで見ても大人びた美人という容姿だ。男の僕と違って目もつけられやすいだろうし、なにかトラブルに巻き込まれないかと余計なことも考えてしまう。

 

 『神谷のダンスシューズ見に行くのに、付き合った帰り道。ついでにファミレスで駄弁ってただけだよ』

 

 『やたら後ろがうるさいな』

 

 『繁華街通れば近道だからね。それよりも、動画「-------」をさっさと消すこと!』

 

 誰かの声が通話中聞こえたが、ただでさえ繁華街にいるんだからすれ違った人間の話声を拾ったか同行していた友人の声だろう。なにを言っているかはよく聞こえなかったし、気にすることでもないか。

 

 『分かった分かった。これ終わったらすぐに消すから、早めに休めよな』

 

 『分かればよろしい。ちゃんとしたのは大会の時に見せてあげるから!じゃあ、また明日学校でね』

 

 通話を切り、スマホを操作し動画の保存を見る。改めてもう一度ダンス動画を見てから、少し名残惜しくなりながらゴミ箱の中に動画を映した。桐野は見ると言えば、必ず動画をチェックするだろう。

 

 午前零時閉店の、夜間でも営業しているスーパー。賞味期限ギリギリの野菜や肉には、上手くいけば半額シールが貼ってある為狙いどころだ。

 

 卵を手に取ろうとして、ため息が漏れる。鳥インフルエンザの影響で卵の値上げが騒がれており、小さくため息をついた。もやしと卵のあんかけ、安く作れてご飯のおかずに丁度いいのだがしばらくは食べる頻度が減るかもしれないな。

 

 値引き商品や広告の品を手早く籠に詰めていく。 閉店間際の為あまりダラダラと時間を潰す訳にはいかない。そして必ず確認するのは、スーパーのお勤め品コーナーだ。最近はフードロス運動も強く推進されており、売れ残るよりはと値引きも大きくなっている気がする。

 

 ハムとソーセージが安い。この二つは弁当を作るうえで強い味方になる。塩コショウをふったゆで卵の半身を弁当にいれにくくなる為これはスペース埋めに助かる。

 

 高校に進学して、給食が無くなり弁当を作るようになってからその難しさを嫌でも感じていた。仕事に疲れ気味の母に負担をかけたくない為、可能な限り節約をかねて自作をしているがこのスペース埋めというのが凄まじく厄介だ。開いた隙間にねじ込むのが便利なミニトマト、最近は嫌いになりそうな程ほぼ毎日食べている。

 

 『卵かけご飯もちょっとやり辛くなるかな。ふりかけとか、買っていくか?』

 

 卵の値上げに合わせて脳内で献立を組み立てなおしていく。

 

 高校に進学してしばらくしてから、母はどこか体調を崩し気味になっていた。そりゃそうだ、人よりも長く働き続け食い盛りを育ててくれたんだから、身体に無理がでて当然である。

 

 自分でできることは、自分でしていくのが一番負担にならないと考えている。早く高校も大学も卒業してちゃんとした企業に就職して金を稼ぎたい。

 

 【金は幸せをもたらさないかもしれないが、少なくとも惨めさより快適にしてくれる】ヘレン・ガーリー・ブラウンという人物がいった言葉であるが、元はユダヤ教聖典にあった【金で幸せを買うことはできないが、不幸を押し留めることはできる】と言われている。

 

 沢山金を稼げることが幸せに続くとはあまり思えないが、少なくとも金さえあれば母に楽をさせてやれるし桐野との時間ももっと作れる。結局人の社会でまともに生きていくのは必要な要素であり、それを少しでも稼ぎ切り詰めていかないとまともに生きれはいない。

 

 会計を終わらせてスーパーを出て、自転車の籠に入れて家路に走る。今日は卵を買わなかったため、割れる心配もない為何時もより少し早く家に帰ることができた。

 

 家の帰ったら、少し苦戦しそうな数学の勉強を進めておこう。やはり僕は文系脳、理数系は苦手だ。でも全ての教科を少しでも理解していかなくては。

 

 家に戻り扉を開ける。オレンジ色の小さな明かりが灯るスイッチを押し、明かりをつけた。

 

 『ただいま』

 

 返事はない。寝ているのだろうか?

 

 ハム、ソーセージ類を冷蔵庫の肉の棚に。安売りしていた食パンを台所に置き野菜もしまっていく。ジャガイモが今日は安かった。芋は良い、腹によく溜まるし使い道も多い。ベーコンはないがジャーマンポテトでも作ろうかと思いながら居間に続くカーテンを開ける。

 

 『母さん?』

 

 『あ、ああ…お帰り』

 

 母は、机に突っ伏したように寝ていた。帰ってきたままの姿なのか、上着を羽織ったままでありやはりというか疲れた顔をしていた。やはり疲労が溜まっているように思える。

 

 『ご飯は食べた?』

 

 『ごめんなさい。なにも準備をしていなくて』

 

 『良いって、なにか簡単に作るよ』

 

 『勉強、あるんでしょう?母さんがなにか…』

 

 良いから、と母を座らせて台所に立つ。ここ最近ずっとあんな調子だ、それでも無理はしてないと空元気だと分かる笑顔を浮かべて仕事に出かけていく。

 

 以前スマホを解約して、浮いた携帯料金を家計に当てようと思ったがそれは母に反対された。確かにバイト同士の連絡を取り合うのも、友人との交友関係を維持するのに現代人には必須だ。だが、逆に言えば生きていくのに必要不可欠ではない。

 

 だがそれは母に酷く反対された。お願いだからそんなことをしないでと、本当だったら稼いだバイト代金もできるだけ自分に使ってほしいと。

 

 冷蔵庫の中にはまだ残っていた卵と冷ご飯にネギがあった。買ってきたばかりのウインナーをできるだけ細かくかさましできるように切る。冷蔵庫の脇にある棚には玉ねぎも残っていたのでそれも切ってしまう。少ない卵もここは使用する、今夜はチャーハンだ。なんというか、元気がない為できるだけお米を食べてほしかった。

 

 『ごめんなさいね。貴方に苦労かけて。せめて誰か』

 

 チャーハンを炒めている最中、カーテンの向こうから声が聞こえた。

 

 『いいって』

 

 言葉を途中で区切らせる。

 

 この年齢になると、好むとも好まざるとも色々な話を知る機会が出て来るものだ。母親と僕には親戚付き合いはあまりない、というよりほとんど関係や交流はもっていない。どうやら母は、父と結ばれる際勘当レベルの大喧嘩をしたらしい。

 

 一度だけ母は生家を訪れ援助してもらえるように頼み込んだことがあったが、取り付く暇もなく追い返された。地震がおこり、避難所から仮説住宅に移ってしばらくしたくらいだったか。

 

 実家には弟夫婦が両親と子供と暮らしており、迷惑そうに追い払われたのを覚えている。両親には、孫の顔を見れば少しは許してもらえると考えていたのだろう。だから、僕は連れて行かれたのだろう。

 

 結果は酷いものだった。土下座する母さんに祖母は疫病神扱いされ、祖父にはなにがおこっても敷居を跨がせるつもりはないと怒鳴り声をあげれた。弟はなにも言わなかったが、『だからあれ程言ったのに』とでも言わん顔で玄関先でこちらを見下していた。

 

 チラリと見えた弟の妻は、迷惑そうな顔をして廊下を進む。入ったことはないが、多分トイレかなにかに居間から移動するのに玄関前を通らなければならないのだろう。

 

 最後には警察を呼ぶと言われてしまい、退散するしかなかった。断片的な情報から察するに、母が一族から勘当されたのは父との結婚が関係しているようだった。

 

 勘当されたとはいえ、唯一の肉親があの態度だ。僕と母には頼るべき相手がいないということは、よく分かっている。父が亡くなった今、家族と呼べるのは重荷となっている僕だけだ。

 

 『できたよ、チャーハン』

 

 お礼を言い母は食べ始めるも、あまり食欲はなさそうでスプーンを進める手が遅かった。無理しなくて良いと言ってみたが、同時に食べないと体力も戻らないと思っている。

 

 『バイト、増やそうか?』

 

 『え?』

 

 『高校生は深夜バイトは禁止されているけど、まあどうにでもなるでしょ。稼ぎの良いのも探せばあるだろうし、もう少し金さえ稼げれば母さんも楽に』

 

 『やめなさい』

 

 静かに、だが有無を言わせないような言葉で会話を遮った。

 

 『今でも充分に助かったているんだから、これ以上自分の時間を使わないで。そんなことをするくらいなら、今からでも入れる部活動でも探しなさい。友達と遊んだりとか、なにか学生らしいことでも探してみたらどう?』

 

 『そんなの時間の無駄だよ。少しでも勉強やバイトに時間をあてないといけないのに』

 

 カチャンと、スプーンが強く皿の上に置かれた。

 

 いや、置かれたんじゃない、スプーンの上には口に運ばれる前の米粒が小さな山になっており、母の手が口の前で止まっていた。肩がワナワナと震えて、なにかを言おうとして、だがなにも言えず開いた口を閉じていた。

 

 『ごめんなさい。今日はもうこの話はやめて。私、ちょっとだけ疲れちゃったかな』

 

 泣きそうな表情が見えたが、気づかないふりをした。そうしなければ、ならないような気がした。

 

 『じゃあ、残りはラップに包んでおくから。朝ごはんにでもしなよ。銭湯言ってくる、今日はコインシャワーじゃなくてちゃんと湯船に浸かってくるよ』

 

 明るくそう返す。僕は、なにも気づいていない。なにも気づいていないことにしておく。誰もいなくなった部屋で母は、息子には見せたくない涙を流すのだろう。

 

 手早く準備をして外に出る。腹が立つ程きらびやかな夜空を見上げた。早く大人にならなければならない。僕が、支えるしかないんだから。

 

 外にでてから気づいた。この時間、もう銭湯はしまっている。近所の公園にあるベンチに座り込み、そんな夜空を何時までも見上げていた。

 

 そういえば、富田さんから休日の農業手伝いバイトを募集していた話を思い出した。桐野とのデート予定だったが、謝罪文を送りまだバイト中であろう富田さんのスマホにバイトをしたいとメッセージを送る。

 

 富田さんからの返信は、何故か早かった。だが、心配そうに本当に良いのかと心配の言葉が並んでいた。彼女とのデートがあったのにと。富田さんに気を使わせたら悪いから、デートはキャンセルされたと送っておいた。

 

 今は、時間を少しでも有効に使わなければならない。桐野には、なんて謝ろうか。



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 『またバイトなの?』

 

 自然公園。東京ドーム何個分だとか細かいことはあまり覚えていないが、安価で楽しめるレジャーなスポットも多くただ歩いているだけでも目に優しく涼やかな風が吹くお気に入りのところだった。

 

 基本金欠気味なので、楽しめるような場所は自然と少なくなる。ということで、彼女には悪いが何時もこの公園での散歩がデートのコースになっていた。

 

 桐野には何時ものコースすぎて退屈かもしれない。それでも、今日も軽く文句を言われるだけで最初以外は会話も弾み良い雰囲気になっていた。売店で売られていたジンジャーエール呑みながら会話で乾いた口を潤す。

 

 穏やかな気候と丁度いい気温。バイトと勉強に熱を入れてきているが、息抜きには本当にぴったりであるがそうは問屋がおろさないとでも言うべきか。無粋な着信音、バイト先からの連絡がすぐ分かるように設定した音楽が流れ始めた。

 

 内容を確認すると、急病で今日の十三時から入る筈のバイトが来られなくなったらしい。連絡はきたものの、いったい何回目の急病だろう。サボり癖のあるタイプであり、店長ももうバイトを切る算段をつけていた。だがしかし、それは慢性的な人手不足が加速するということでもある。

 

 新人が入ってきてもしばらく研修もあるし頼りにはできない。スーパーアルバイターな富田さんでも一人で支え続けるには限界がある。あの人は他のアルバイトも頑張ってはいるが、店長からさりげなくシフトを増やせないかと打診が増えている今日この頃だ。

 

 この前なんて酔っぱらった客が個室にあるテレビを破壊し、デンモクを叩き割ったことがあった。さらに暴れたことにより僕と富田さんで対応し、女の子のアルバイトに警察への連絡を頼んだことがあった。その子は、それが怖くてその日限りでやめてしまう。酔客の相手は、想像以上に難しい。

 

 僕は成人する前は勿論、成人してからも酒は付き合い程度でしかやらないようにしようと思っている。そんなもの、買う金もない。

 

 そういうことで、受験に向けた勉強もあるしバイトもそれに畳みかけるように重なってくる。小言の一つや二つ飛んで来るというものだ。

 

 『一人休むから穴埋めが必要だ。でれないかって』

 

 『それ、何時から?』

 

 『十三時』

 

 ここから移動するとなると、現在時刻から考えれば急がなけばならない。取り合えず断る為の文面を打ち込んで送る。

 

 【他のバイトはダメですか?どうしても今日は都合でいけないかもしれません】

 

 返信は早かった。富田さんは夜勤明けでさらに延長で入ってもらい帰ったばかり。店長だってもう何連勤しているか分からないレベル。他のバイトには連絡がつかず。迂闊なことだ、みんな分かっいて既読スルーなり気づかないふりなどしているのだろう。僕は何時もの癖で反応してしまっている。

 

 金のことを考える身の上、反射的にバイトの事柄に既読マークをつけてしまった僕は迂闊だった。

 

 【バイト代、色つけるから頼むよ。すぐに現金が必要なら、それにも対応できる】

 

 タイムカードを押させた後もサビ残させるところもあるが、店長はその分自分の財布から出してくれていた。本当はいけないことかもしれないが、迫る各種支払いのことを考えると今後の余裕も考慮すればすぐにでも手元に入る現金はなかなか魅力的だ。

 

 それに、目元のクマが濃くなる店長がやや憐れでもあった。アルバイトでも仕事であり金をもらう以上、最低限の節度と覚悟で働いてほしいものだ。バックレるだけならともかく(よくはない)最近はバイトテロなんて話題もよく聞くし、なにかあったら店長、首でも吊りかねない危うさがある。

 

 『ごめん、桐野』

 

 『嘘、謝らないでよ。久々のテートでしょ?』

 

 桐野が前に数歩歩いて振り向く。今日の服装は上から下まで初めて見るコーデで着飾っており、髪型もメイクも時間をかけてきめてきたというのが、疎い僕にも分かる。

 

 学校行事や受験勉強にバイト関係、最近通院を始めた母の代わりの家事手伝い。こうして二人だけの時間を過ごせたのは久しぶりであり、それだけに気合を入れてきたのだろうなと分かってしまう。

 

 『他のアルバイトはいないの?ほら、あの富田って人とか』

 

 一度だけ、まだ人員に余裕があった頃、店長が割引券をサービスでくれて二人でカラオケを歌った。音楽には多少疎い僕でもカラオケ店にいれば流行曲にも詳しくなる。どちらかと言うとマイナーなバンドが好きではあったが流行りに詳しい桐野の前では、それを歌っても盛り下がる可能性があるので歌えない為助かった。

 

 その時に富田さんと桐野は出会っていた。富田さんは桐野と二言か三言話していた。少し奇妙だったのは、日焼けサロンでよく焼いた見た目チャラ男で女好きである富田さんは、桐野をよく会わせてくれと言っていた割にあまり話さずに終わったことだ。

 

 まあ接客に集中していると考えていても良い訳だが、なんだか違和感があった。だけどあれ以来、特に富田さんからなにかを言われることもなければ桐野も気にした様子もない。ただ、恋人のバイト先に勤める先輩と後輩の彼女というほぼほぼ他人な関係だしこんなものだろうか。コミュ力のある富田さんと同じような桐野なら、仲良くなれると考えていたが。

 

 まあ、それはともかくだ。彼女の顔が、どんどん不機嫌になっていく。これは非常にまずい。

 

 『富田さんは夜勤明けで、さらに数時間バイトに入っていてついさっき帰ったばかりみたい。他のバイトとも連絡はまだつかないし、店長も連勤記録がえらいことになってきている。少しいかないと厳しいみたい』

 

 『彼女より、バイトの方が大事なの?』

 

 『そんな訳ないだろう。ただ、いかないと僕の家は生活が成り立たない』

 

 桐野の両親は、父が大手自動車販売企業のやり手営業で母が銀行員。娘は過保護に育て、帰りが遅くなると危険だからとアルバイトも禁止している。どの道部活で遅くなるのであまり意味はないと思えるが、それでも服を次から次へと買う小遣いくらいはもらっているようであった。

 

 何度か彼女から僕に奢るからもっと良いところいこうと誘われたこともあったが、それをしてしまうと本当に立つ瀬が無くなる為断り続けていた。それくらい、こと金銭に関しては桐野は不自由した様子はない。

 

 だからなのか、その言葉を聞いて桐野の顔には隠しきれない不快感が滲み出ているようだった。不快感を隠そうとしてくれているだけまだ良いかもしれないが、それでも表情や仕草から気分を害していることが読み取れる。

 

 『レント君さぁ』

 

 君付け。最近二人でいる時は、呼び捨てで呼び合うことが多かった。今なら分かるが彼女が二人きりの時君呼びすることは、明確に気分を害していることの証明でもある。

 

 『アタシが今日、代わり映えのしないこのデートをどれだけ楽しみにしてたか分かる?こんな公園に来る為に、化粧に時間をかけて飽きないように服も新しいのを買いそろえてから来たんだよ?それなのに、レント君はなにも代わらない、それどころかアタシへの態度が酷くなるばかりじゃん。軽く扱ってるの?アタシのこと』

 

 買い揃えたって、親からもらった金でだろう。ついそんな言葉をだしそうになってしまうが、それを言ってしまえばおしまいだろう。悪いのは全面的にこちらなのだから。

 

 『軽く扱ってる訳じゃない。でも、僕がなんとかしないと今の関係すら続けられないかもしれないんだ。桐野には、申し訳なく思っているよ』

 

 『いっつもそうだよね。申し訳ない申し訳ないって。デートの序盤で急にドタキャンされる立場がどれだけ惨めなのか分かってないでしょう?アタシ、これでもけっこう頭にきてるんだよ』

 

 桐野はスマホを取り出し、謝罪するこちらにこれがよみしに通話をかけた。

 

 『もしもし神谷ー?今日これから出てこれない?バ彼氏にドタキャンされたー。バイトが入ったって。ムカつかね?愚痴付き合ってよー………ほんと?ありがとありがと。スタバに集合しよ?奢ってあげるからさー。その後新崎達も呼んでラウワンいかない?そうだね、合流したら話そっか。じゃあまた後で』

 

 通話を切り、冷たい視線を向けて来る。僕は頭を下げ続けるしかない。

 

 『いけば?大事な大事なバイトがあるんでしょう?今日は萎えたから、これ以上アンタの顔見たくないしね』

 

 『本当にごめん。この埋め合わせは、必ずするから』

 

 踵を返し、桐野は歩いていく。ついさっきまで、飲み物を呑んでいたのに急にソフトクリームが食べたくなった。変に糖分とって脂肪がついたらどうしようなんてなんてことない会話を楽しんでいた筈なのに。

 

 『本当に、退屈よね。貴方』

 

 ボソリと呟くような、しかしこちらにも聞こえるように呟いた言葉に胸が抉られるような思いだった。確かに、そういう自覚はある。僕自身魅力はなにかあるかと言われれば自分でも答えられる気がしないからだ。

 

 バイト先にすぐに向かった方が良いのだが、傍のベンチについ腰をかけてしまった。少しだけ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 

 退屈。自分の人間味が足りないか、交友関係が薄いせいか。友人と呼べる人達は少なくないが、テスト前ノートの無心の為に友達でいる関係といえるかもしれない。遊びにも誘われることもあるが、基本的にこちらから断っている為仲がそれ以上深まらないのが原因なのだが。

 

 スニーカーが濡れて、つま先に冷たさを感じる。ずっと使っていたスニーカーは破けるまで使うつもりだし、定期的に洗っているのだがもう所々にボロが出ているようだった。放心している間に手に持っていた杯からジンジャーエールが零れたようで、表面が染みていた。

 

 服だってずっと買い替えていない。整髪剤も試してみたいと考えているが、向かう先はスーパーの特売セールの方に足が進む。自分で金を稼げるようになって、初めて感じたのは母はどれだけ切り詰めて頑張って女手一つで育ててくれたかだ。ゲーム機とゲームを購入してくれた余裕なんて、どこから出て来たのだろうか。

 

 せめて父親が死んでいなければと、何度考えたことであろう。誰が悪い訳ではないが、あの人が存命ならば僕達親子はここまで苦労はしなかった筈だ。

 

 着信音が現実に引き戻す。画面を見ると、富田さんからの連絡だった。

 

 『おつかれい。狩野のクソがまたサボりやがったみたいだな。店長かなり慌てていて、帰ったばかりの俺にまで連絡寄越してきやがった』

 

 『お疲れ様です。富田さんにまで連絡いったんですか?』

 

 そういえば、店長にあれから返信していなかった。最後の頼みとして富田さんにまで救援要請を送っていたのか。

 

 『おうよ。頼られる男は辛いねまったく。お前さん今日用事があったんだろ?まぁ店長どうしても来てください富田様ってもんだからこの俺が向かってやるよ。こっちは気にするな、デートかなんかでもしているんだろう?青春にも少しは励め若者よ』

 

 『いえ、大丈夫です。僕が出ますよ』

 

 『おいおいおい』

 

 おちゃらけた様子で言っているが、富田さんの声は通話越しでも疲れているように感じる。そりゃそうだ、これから寝るところだったのだろうし、疲れが溜まっているに決まっている。

 

 『こっちは気にすんな。お前、最近また更に金が必要だっつって前にもましてシフト増やすように言ってるじゃねえか。そりゃ今、ガチめに人手不足がヤベーがなにもそこまでして学生が出張る必要ねーだろうよ』

 

 『学生は学生でも、同じアルバイトですよ富田さん。今日は夕方からのシフトですから丁度いいですし、都合が良いですよ。用事も、今無くなっちゃいましたし』

 

 『あー……』

 

 察した様子で、富田さんがため息をついた。因みにこの人、今まで四人と付き合ったようだが長続きしたことは一度もないらしい。因みに今は、五人めと付き合っているようである。その為、その手の経験値は僕よりは高い。一言で全部分かってしまったようだ。

 

 『気にしないでください。即金がほしいのは確かなので』

 

 『……まあ、そうなっちまったらなぁ。バイト行かなくちゃ、なんの為にデートのドタキャンしたのか分からんな。まあしょうがねえ、今日は任せることにする。だが霧生院よ、あんま自分の身を削るのは、感心しねーな。学生時代、今だからこそ楽しめることも沢山あるんだからバイトとベンキョーばっかやるのはアレだぜ?ダメだぜ?マジでさ、俺なんてずっと高校生活続けば良いなんて思ってたしよ。今しかできない馬鹿なことやくだらねぇことも沢山あるし、それを楽しめるのも若造のうちなんだからよ』

 

 『すいません』

 

 『いやすいませんってお前…しゃーねえ。今度飯行こう飯。焼き鳥食おうぜ焼き鳥。お兄さんが奢ってやる。慰め会だ、あんな美人にふられちゃ空元気も虚しいだろうよ』

 

 ちょっと違う。まだフラれてはいない。時間の問題かもしれないが。

 

 『ぐでんぐでんになった、貴方の介抱は勘弁ですよ』

 

 後で説明することにしよう。今は、焦る店長に返信をして出れることを伝えないと。

 

 『でも、ありがとうございます富田さん。取り合えず、これからバイトに向かいますのでこれで』

 

 『おう、またな。マジで無理すんなよ。偶には自分に甘くなれ若者よ』

 

 通話を切り、店長にメッセージをうちバイトに入ることを伝える。何時までもこうしてはいられない。紙の杯を握り潰し、購入した売店に立ち寄ってゴミ箱に放り投げてから公園の出口に向けて歩みを進める。

 

 富田さんはずっと学生時代を続けていたかったようだが、僕はそうは思えない。高校を出て、大学を出て、良いところに就職して金銭的な余裕が出て初めて人生でひと段落できる。社会人になったら、それはそれで苦労が待ち受けているだろうが少なくとも金銭的な苦労から抜け出せると信じていた。

 

 心に少しでも余裕が持てれば、退屈なんて言われなくてもすむだろうか。良い服と新しい靴を買って。少し高い店も予約して入って。誕生日や記念日には良い品物も送ってあげれるようになればもう退屈な人間なんて言われないだろう。

 

 母にだって楽させてやれる。家電だって新しいものに入れ替えたり、今まで苦労をかけたことに感謝をする為にも温泉旅行にでも連れていってあげたい。親孝行には温泉旅行という安直な考えかもしれないが、きっと大きくはズレていない筈だ。

 

 店長からの返信。感謝と謝罪の言葉、だが今すぐにでも来てほしいとも添えてある。気分は重かったが、頭を仕事モードに切り替える。とにかく今は、今できることに全力で取り組むしかないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桐野との付き合いは、奇跡的に続いていた。ギクシャクした関係になりかけ。一時期、彼女と別れたと勘違いした後輩が告白してきたこともあり、断りを入れたのだがそれを察知した桐野は何事もなかったかのように僕と付き合いを続けていた。

 

 ただあの日のことが、どこか心の中で棘になっていた一面もある。時折そのことを思い出しながらも、向こうからの言及も無ければこちらからも古傷を掘り起こす必要もない為付き合いを続けていた。

 

 冬休みに囁かなクリスマスと年越しを終え、三年に進学する。夏の大会を終えた三年生は、受験に向けて本格的に動き出し始めた。桐野も例外には漏れず、ダンス部の活動に名残惜しそうになりながらも、共に勉強をして分からない所を教え合っていた。まあ、教えているのはほぼほぼ僕だが。

 

 喫茶店の隅の席を陣取り、ノートと参考書に向かう。苦手な理数系を、少しでも補強しておきたい。国語と古典、歴史に地理に関しては問題はないのだがこちらは気合をいれなければならない。

 

 『はー、もうウンザリだなー』

 

 シャーペンが転がる。本当にウンザリした顔で桐野は大きく伸びをし、店員の呼び出しボタンを押した。

 

 本当は金がかかる喫茶店よりも、高校か国立図書館の方が個人的には勉強が捗って良いのだが喫茶店は彼女の希望だ。まあ、確かにここでは勉強を教える為に声をだすことに遠慮はないのだが。

 

 だがしかし、ここで金が…なんて言うのはいくらなんでも恰好がつかない。流石に頼むはコーヒー一杯だけという店側からしたら嫌な客であるが、桐野はその分注文を重ねていた。

 

 『こんなに今から勉強勉強で頭がパンクしちゃうって。部活引退してから親もうるさいしさー、いっそどっかに金積んでコネ入学でもさせてくれないかなー』

 

 『それが出来たらどんだけ楽なんだよ。財閥のお嬢様かなんかか?』

 

 『あ、すいませーん。このピスタチオのエクレアと蜂蜜アイスコーヒーお願いしまーす。レントは?』

 

 『水のお代わりで』

 

 桐野はなにか言いそうにしたが、なにも言わなかった。オーダーを受けた店員が厨房の方に向かっていく。

 

 『ピスタチオってなんだ?』

 

 『緑色の豆みたいなものだよ。今流行ってるんだよ?』

 

 『タピオカじゃないの?今流行ってるのは?』

 

 『オジサンかよ。タピオカなんてとっくに旬はすぎてますー』

 

 ノートと参考書を押しのけて、運ばれてきたデザートを食べ始める…のではなく写真を撮り動画の撮影まで始める。

 

 『あ、匂わせみたいな感じに写ると炎上すると面倒だから画面に入らないようにのけて。勉強道具もさ、邪魔だから少し寄せてよ』

 

 『ここにはなにをしにきたのかな』

 

 『うっさいっての。ほら退いた退いた』

 

 インスタグラムだかティックトックだか、そこら辺に乗せるのだろう。一応SNSにはアカウントを作った自分のページもあるのだが、進められて登録しただけでその後はほとんど放置となっている。

 

 動画撮影の音声が鳴ったので、しばらく無言でそれを眺める。同時に運ばれてきた水に口をつけ、少し休憩する。コーヒーはとっくに呑み干した。

 

 『終わった?』

 

 『アップの作業がまだすんでない』

 

 『取り合えず、参考書は戻しても良い訳だ』

 

 端に寄せられた勉強道具を広げなおす。店員の視線は冷たいが取り合えずもう少しだけでも粘っておかないとコーヒー代の割に合わない。

 

 最近ようやくバイト先にも使える新人が入り、余裕ができた。免除制度をとる為に、普段から成績には気をつけてきたが詰めの受験をミスする訳にはいかない。ここは、正念場なんだ。

 

 『飽きない?アタシは飽きたなー勉強。ねえ、これからどっか遊びにいかない?偶には息抜きも必要でしょ』

 

 『息なら今抜いているんじゃないか?』

 

 『はぁー相変わらず。これだけ糖分とったんだから動かないとすぐ太るって。でも頭使ったから甘いもの欲しいしー。あ、そういえば久しぶりに服見に行きたい、服。取り合えず荷物持ちとかしてほしいなーって』

 

 そんなことをしている余裕はないのだが、何時かの言葉が頭の中をよぎる。まあ、買い物の付き合いくらいなら良いだろう。シャーペンを置くことを決意する。

 

 『分かった。買い物には付き合うよ、どこにいく?』

 

 『さっすが話が分かるじゃん。ほら、褒美に一口食べさせてあげようか。偶には馬鹿なカップルみたいいなことやってあげようか?』

 

 ほれほれ、柔らかいエクレアのスプーンに乗せて二人の左右を行き来させる。流石に気恥ずかしいが、こういう笑顔を見るのは楽しいものだ。

 

 そう考えた瞬間、着信音が鳴る。スマホを手に取ると、見知らぬ番号からだった。バイト先かと桐野が聞いてみたが、首を左右に振る。なんだか胸騒ぎがしたので、席を立ち通話のボタンを押した。

 

 『もしもし』

 

 『もしもし、霧生院蓮人さんの電話番号で間違いないでしょうか。私北見中央病院の飯野と申します』

 

 病院、という言葉を聞いた瞬間心拍数が跳ね上がった。

 

 『お母様が倒れられ、近所の方が救急通報をしてくれました。詳しい説明をしたいので、すぐにこちらに来ていただいてもよろしいでしょうか』

 

 血の気が引く。手からスマホが滑り落ち、型落ちした通話機の角が、床に当たり砕けた破片が飛んだ。




 カラオケ店で、テレビの液晶とデンモクを叩き割った酔っ払いの話は、店に勤めていた友人から聞いた実話です。お店の人に迷惑をかけるような酔い方は、したくないもんですね…。


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 通された部屋は、随分と小さなところだった。窓はなく出入り口は自分が入ってきたところと奥の二つ。中央には折り畳みの机を二つ並べたものが置かれており、日めくりカレンダーだけが隅にポツンと置いてある。壁にかけられた時計の秒針が進む音が酷く耳障りに響いていた。

 

 テーブルの端には、医者がレントゲンとかの写真を張り付ける時に使う電気がつく板がつけられており、たかがだ板なのに妙に圧迫感があった。因みにあれは、シャウカステンという名前があるらしいと、後に知った。

 

 『どうも、今回お母様の担当となった井出と申します。息子さんの蓮人君ですね』

 

 医者になりたてくらいの印象の若い先生が奥の扉から資料を片手に入室してきた。藪とか腕が悪そうとは言わないが、少々頼りなく思えてしまう。

 

 『母は大丈夫なんですか?』

 

 『応急処置により、今は一命はとりとめていますが、非常に危険な状態です』

 

 病院のべッドに寝かされた母の頭には、包帯が巻かれていた。心労が祟り倒れ、運悪く夜勤仕事に行く際でありアパートの階段で転げて落ちたということらしい。同じ階に住む住民が帰宅時に、倒れている母を見つけ救急車に通報した。

 

 貴重品や財布の類はそのままということで、強盗などの事件性はなさそうであった。だがしかし、事故現場を直接見た者はおらず倒れてからどれくらいの時間が経ったのか定かではない。頭から出血をしていたこともあり、脳に衝撃を受けたのは確実だ。いかに早く治療できるかが生死の分かれ目であるというのに、未発見でいた時間がどれくらい長かったのかは分からない。

 

 『衝撃による裂傷が頭部にあり、お母さんの頭部をCTスキャンで撮ったところ脳の内部で出血していることが分かりました』

 

 シャウカステンに、白黒の脳を断面を撮影したような写真が張られた。レントゲン写真くらいなら見たことはあるが、脳みその断面図なんて見てもなにがどう問題なのか分からない。だが、これがおかしいということなのは医者の様子から察することができる。

 

 『両側前頭葉に暗い陰があるのが分かりますか?これが脳挫傷の影響で引き起こされたものです。更に中央部よりやや上のここ、両側大脳谷槽と呼ばれる部分を中心にくも膜下出血がおきています。脳内部で血管が破れ、出血している状態です』

 

 脳内で出血しているとなると、どんな素人でもそれがまずいことだということが分かる。そして、生半可な治療ではそれが完治できないことも。

 

 『開頭手術でこの血腫を取り除き、圧を下げる必要があります。脳血管攣縮により、脳梗塞を引き起こす可能性もあるので、これには早期の治療が必要でありご家族の方の同意を頂きたいのです。これから手術内容の説明をいたしますので、同意できるのならばこちらにサインをお願いします』

 

 先生から簡易的にどういった内容の手術をするのかを聞いていたが、そこから先の記憶はあまりない。ただ慌てるように手術による同意のサインを書類に書いた記憶がある。

 

 受験を控えて、人手不足も解消され、バイトの時間を削り勉強に回すようにした。しかしそれは、母の負担になったのではないか。前々から限界が近かったのに、自分の為にそれを見て見ぬふりをしてしまっていたのか。

 

 待合室のベンチに座りながら考える思考は堂々巡りを繰り返す。五分が長い、十分が二時間に感じる。三十分すぎた頃には正確な時間を測る体内時計はとうに壊れてしまっていた。

 

 『この先どうなる』

 

 そして嫌になることに、行き詰った思考は個人的な進退についてまで嫌な妄想を膨らませる。母の心配もあるが、これからは収入面が壊滅的になる。生活保護は受けられるだろうか?家賃補助とかはあるのだろうか?高校生活は続けられなくなるだろうか?受験は?大学は?

 

 吐き気がする。母が生死の間を彷徨っているのに何時の間にか自分のことばかりに考えがいってしまった。このままでは、待っている間に潰れてしまう。

 

 なにか暖かいものを胃に入れた方が良いと考え、立ち上がる。売店に行けば自販機でもなんでもある筈だ。

 

 一階ホールの明かりは、必要最低限を除き既に落ちていた。自販機の明かりが暗闇の中に浮かび上がっている。なにかを購入しようと思い、自販機の前で立ち尽くす。もうなんでもいいかと、ボタンを押すが品物も出てこなければ何一つ反応もなかった。

 

 当然だ、硬貨だって入れていないのにボタンを押しただけで品物が出て来る訳がない。財布を取りだそうとしたが、その時点でなにか買う気は失せていた。喉も乾いていないのに、無駄使いしてどうする。間抜けな行動を挟み、温かいものを呑みたいという欲求は消えていた。

 

 待合室のベンチに座り込みスマホを開く。時刻は既に21時を回っていた。連絡が数件、そのうちの一件は桐野からのものであり、母の様子を気にして容態を尋ねるような内容だったが今は上手く返信できそうにない。既読スルーとなるがスマホの電源を落とす。

 

 頬を軽く叩く。母が今戦っているのならば、僕もまた戦うべきだ。鞄から暗器の為の英単語カードを取り出す。一枚一枚めくりながら、暗記をする為に声に出し頭に叩き込む。気を紛らわすには、時間を無駄にしない為には今はこれしかない。

 

 どれだけ時間が過ぎただろうか、手術が終わったのか、看護師がこちらを探しに来てくれた。手術は無事に成功したという言葉を聞き、安堵し胸をなでおろす。だがしかし、母が支払った代償は重いものだった。

 

 手術は成功したものの、倒れてから発見する時間が長かったせいか。血腫の影響で下半身に影響があり、麻痺が残ってしまった。腕の可動域も厳しく顔面も硬直があり、食事も上手くとることが難しくなっている。少なくとも、今後誰かの介助が必要になることは想像に難くない。

 

 車椅子生活が今後必要になるが、現在居住している場所は賃貸。介助用の手すりを取り付けることはできず、トイレだって狭い為介助しながらは困難極まる。なによりエレベーターなんてものは存在しない。現在居住しているところでは、受け入れが難しい。

 

 要介護認定を申請しており、通れば国から補助金がもらえる。だがしかし、どうしても今よりバリアフリーが安定しているところに引越しをしなければいけなくなる。

 

 大学費用なんて考えている場合じゃない。即、まとまった金が必要だ。進学して勉強しながら、アルバイトをしてなんて悠長なことを言っている場合じゃなくなった。高校卒業、いや下手をすれば中退も視野に入れて今後を見据える必要が出て来る。

 

 術後、成功を聞いてあんなに喜んでいたのに、日が過ぎるごとに現実が重荷となって肩にのしかかっていった。今日も病院に行き、母の面会をして医者の話も聞く。特養ホーム、家から離れて施設で暮らすことを進められてしまうが長寿国の日本だ。

 

 長寿というのは素晴らしいことであるが、それは健康寿命が伴えばという条件がつく。アルツハイマー型認知症、歩行困難、虐待による引きはがし行政処置、老齢介護。家で面倒を見ることができなくなった老人がこんなにも多いということを、僕は初めて思い知った。どこの施設も空き待ちの行列だ。

 

 『……クソ!』

 

 勉強机に乗せられていた、受験の為の参考書。バイト代金を節約しながら、少しずつ購入した勉強道具が腕のひとふるいで机から崩れ、床に散乱する。拳を何度も何度も叩きつけ、やり場のない怒りと将来の不安を痛さで誤魔化すしかなかった。

 

 大学生活に、少しは憧れもあった。行きたい大学も決まっていた。さらには就職を目指すべき仕事や会社も今の時点で目星をつけており、勉強はその会社に有利になるようにと色々考えていた。

 

 『クソがぁ!ちくしょう!ちくしょう!なんで僕ばかり、僕達の家族ばかりこうなるんだ!ふざけやがって!のうのうと生きている奴等なんてそこら辺にいくらでもいるだろうに!』

 

 大学に行くことを考えずに、最初から高校卒業後就職をする前提でもっとアルバイトをして金を稼いでいれば良かったのか?それとも、中学卒業後すぐに働き始めればこんなことにはならなかった?震災がおきていなければ?母が、なにか脛に傷がある父と親戚からの反対を押し通して結婚しなければ?

 

 参考書にカッターナイフを叩きつける。暗記の為のカードが宙を舞った。踏みつけた赤ペンが折れて、プラスチックの破片が足の裏に突き刺さる。痛みは今はありがたい。

 

 隣から壁を殴られた。あまりの煩さに、抗議のものだろう。それはそうだ、十代後半が後先考えずに暴れれば、例え壁が薄くなくてもそれなりに響くだろう。

 

 壁を殴り返した後、部屋を飛び出した。フラフラと街中を歩き回り、繁華街に差し掛かる。意識が怒りで半ばフワフワしたように溶けた状態だったが。ふと気付くと雨粒が頬を濡らしていた。

 

 すぐ横を見ると、並んだ自転車が横倒しになっている。空は曇天ではあったが明るく、日が昇っているようだった。泥と雨で薄汚れた高校指定のシャツ。ここはどこだと起き上がろうとした瞬間、痛みで再度腰が落ちた。

 

 額が痛い。触ってみると血がついている。頬も、痛かった。

 

 対面にゴミ捨て場があり、捨てられた割れた鏡が袋を破り突き出している。危険物の廃棄なのに、ガサツなのか無責任なのか、新聞紙にも包まずに雑にビニール袋に入れて放棄したのだろう。鏡の破片に目を落とすと、瞼の周辺に青あざがあり額に裂傷があった。

 

 そこで思い出す。ありがちな肩がぶつかっただの、ぶつかっていないだのといった口論。路地裏に連れて行かれて、口論になった男とその取り巻き数人と喧嘩をした。まあ、喧嘩なんて言えない一方的なリンチであったがこちらからも可能な限り反撃したので喧嘩と言えるだろう。

 

 鉄パイプで殴ってくるのは反則だろう。そういえば、後頭部も痛い。母のことが頭をよぎったが、どうやら頭の固さは存外強いようだ。

 

 身体を探られ、財布すらもっていないこちらに舌打ちをして、グループはここに僕を投げ捨てていった。そのなかの一人、女子がスマホで何枚か写真を撮りながら笑っていたのを覚えている。大した醜聞を晒したものだが、望んだ痛みのお陰で頭の中は幾分クリアになった。

 

 『ここまで恥を晒したんだから、これ以上晒しても同じか』

 

 母が退院するまでまだ時間はある。役所の援助申請、高校の教師に相談、介護専門員…ケアマネージャーさんだったかに今後の相談。施設の申請や場所選び。日々の生活費。やることは、想像以上に多い、多すぎる。

 

 もう一度僕だけで母の実家に顔をだして状況説明をして頭を下げよう。事情を知る大家さんにも相談して、介護の為の準備をどこまで可能でどこまで不可能か聞く必要がある。もしかしたら、家賃の支払いを待ってもらえるかもしれないと考えるのは甘えすぎだろうか。

 

 『切り替えろ。まだ生きているんだ』

 

 あの震災で、父を始め沢山の人が亡くなった。それと比べてしまうのは失礼であるが、まだ最悪ではない筈だ。生きているからには、生きる努力をしなければならない。

 

 雨が強くなる。良いぞ、もっと触れ。身体も頭も冷えてくれた方が、冷静に対処できるというものだ。まずはシャワーでも浴びてから、荒らしてしまった家の片づけ。お隣さんの詫びを入れる必要もある。もしかしたら、これからも迷惑をかけるかもしれないのだから。

 

 降れ、もっと降れ。血も泥もこの気分も流してしまえ。立ち止まる暇はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『あ、レント君久しぶりー』

 

 『は?誰それ』

 

 あれから、高校卒業までの間の出来事は目まぐるしいものがあった。

 

 担任教師との相談を経て、説得を強く受けたが惜しまれながらも進学コースから就職コースに切り替えた。ケアマネージャーさんや大家さんを交え三者面談で相談をして一階に部屋を移してもらい、取り付け工事がいらない置くタイプの手すりを用意することができた。

 

 選り好みはしていられないと探した就職先は、鋳物加工を行う工場勤務。三週間のうち一週間は夜勤があり、残業は日常で、土曜日出勤。だがそれだけにもらえる金銭はそこら辺の会社で高卒で入るよりはよほど良い。

 

 役所に行き可能な限りの福祉を受け、親戚宅からは疎まれながらも兄嫁がこちらを憐れに感じたのか、僕にとっての叔父を説得してくれ、これで縁を切るという手切れ金代わりに高校卒業まで生活費の援助をしてくれることを約束してくれた。これでなんとか高校中退で働きに出ることはなく、介護とアルバイトを両立しながら高校卒業まで通うことができた。

 

 ありがたかったのは、富田さんだった。こんなもので悪いがと言いながら、廃棄弁当を持ち込んでくれたり、クリスマスには売れ残りのケーキを届けてくれた。久しぶりの甘味を食べたら、涙が流れてしまったのを覚えている。『こんな人生ハードモードな奴、俺は知らんからな』と気にかけてくれている。

 

 なんとか高校を通いながら家事と介助にアルバイトを両立することを犠牲にして、桐野とは疎遠になっていった。桐野は大学受験が控えている。僕が邪魔する訳にはいかないというものあったが、それ以上にこの忙しい毎日で桐野と遊んでいる暇はなかった。

 

 だからこそ、この結末には想像がついていた。むしろ、なあなあにしていた分の現実が、表面化したとさえ感じていた。

 

 『ああ、アタシの元カレー』

 

 桐野の言葉に、反論が口元から出かけたがそれが言葉になることはなかった。これだけ長い間、それこそ久しぶりだと言われる程出会っていなかったのに彼氏面もないだろう。関係は、とっくに自然消滅を迎えていたのだから。

 

 『へぇ』

 

 傍らの男はにやついた。茶髪に少し日焼けした肌は、同じように焼いている富田さんを思い出すが、悪意と優越感に浸る表情は彼とは似ても似つかない。

 

 『彼ねー今カレ。城戸大学に通ってるの。凄いでしょ』

 

 桐野の言葉に、アンタと違ってという幻聴が続いたような気がした。気のせいだと感じきれないのは、今桐野が僕を見る目は隣の男と似たようなものであったからだ。

 

 城戸大学といえば、この県で一か二を常に争っている名門大学だ。そして、僕が目指していた大学でもあった。桐野は私立の大学に進学しており、大学は違うもののどういう縁があったのか交際にこぎつけたらしい。

 

 『凄いね』

 

 それ以上なにを言えば良いのだろうか。なにか言わなければいけないだろうが、頭にはなにも浮かばなかった。

 

 『それで、なにか用事かな?』

 

 問いかけると、椅子の足を蹴られた。身体が揺れ、机にぶつかり飲み物の杯が倒れそうになる。声を荒げなかったのは、一目があったからだ。

 

 『アタシを捨てたアンタが、どれだけ落ちぶれたのか見ようかと思って』

 

 『この学歴社会で高卒とか、将来お先が知れ過ぎだろ。な?分かれて良かっただろ?町工場の給料なんざ、この先付き合ってても苦労するってさ』

 

 捨てられた感じだったが、向こうからしたら僕が捨てたことになっているのか。どちからが悪いかといえば僕の方かもしれないが、それでもなんだか腹がたってくる。

 

 『別のところ行こうぜ。油臭くて、こんなところでパフェ食ってもしょうがねーって』

 

 『そうだね。先に店から出ててよ。別のお店の確保しておいて』

 

 明確な職業差別。ヘラヘラしながら男は店から出て行き、桐野のみと向かい合う。

 

 『正直、今のレント君からは微塵も魅力を感じないんだよね。こうなるならば、高校時代にさっさと捨てておけば良かったよ。頭は良いのに、こうなると憐れだよね。ほんっと時間を無駄にしたって感じ。あんなに苦労したのに。残業ばかりの安月給で苦しむざまになるなんてね』

 

 『桐野』

 

 『貧乏でどうしようもない生活なんて、アタシはまっぴら。精々ショーガイシャと貧乏な暮らしをしていけば?じゃあね』

 

 立ち去る後頭部に、コーヒーカップを投げつけなかった自制心を僕自身が褒めてやりたかった。ここでなにかして相手に怪我を負わせたら、目撃者は多数。刑務所行きになったら、いったい誰が母の面倒をみてくれる。

 

 大きく三回深呼吸をして、怒りに高鳴る心臓を落ち着かせる。桐野が出ていくまでなにか一言でも言葉を放てば、それは止まらず暴力にまで繋がることが目に見えていたからだ。

 

 これがドラマだったら、謝罪を要求する言葉を放てただろうか。漫画だったら馬乗りになり顔面が変形するまで拳を叩きつけていただろうか。それをしてはいけない。現実は創作とは違い、物語のピークを過ぎても生活が続いていく。

 

 一時間程時間を潰してから、店を出る。万が一でも再度出くわしたくなかったからだ。言われるだけ言われて、一言も反論できず、惨めだった。ブレーキが無ければ、どうなっていたか分からない。

 

 それでも、やはりなにか反論してやれば良かったか。いや、それをやればもう歯止めがきかないのは分かっている筈だ。 

 

 家に帰り、訪問介護の職員に礼を言う。食事まですませてくれており、トイレ介助も終わらせてくれていると報告を受けた。今日は休日で天気も良い、午後からは公園で散歩をすることに決めていた。

 

 硬直した口をなんとか開きながらもごもごと母はなにか言う。なにを言いたいのか分からないが、笑顔で頷いておく。表情筋は、もう笑顔を作れるくらいには怒りを抑えている筈だ。

 

 自然公園まで足を延ばす。ここに来ると、桐野とのデートを思い出してしまい気分は最悪よりさらに下になってしまったが、自然豊かでバリアフリーもあり、公衆トイレは車椅子用まである。環境としてはこれ以上のものはない。

 

 『少し、出かけようか。外の空気を吸いに行こう』

 

 外出用の車椅子に乗り換える。正面から背中に手を回すように抱き上げ、位置をずらしてゆっくりと乗せ返せた。母は、随分と軽くなってしまった印象がある。

 

 外に出て車通りの少ない道を歩き、公園までたどり着く。バリアフリーのある坂道を昇り、丘のようになっている場所にはいくつかのベンチと、アイスクリームの屋台が来ていた。珍しいが、天気も良いし気温もそれなり、売れると判断してここまで来たのだろう。

 

 『母さん、俺さ…』

 

 言おうとすることを、言葉にする前に変える。彼女との別れ話等こんな状況でしてもどうしようもない。これは僕自身、僕の中で消化するべきことなのだから。

 

 『自動車整備工、目指そうと思う。父さんみたいな専門技師になれたらなってさ。今の仕事も悪くはないけど、どうせ勤めるなら目指す先があればなってさ。そのうち、貯金ができたら職業訓練校にでも行こうかなってね』

 

 県が運営する訓練校ならば格安で勉強することができる。だがしかし、初任給をもらったばかりなのだから、先はまだまだ長い。でも今は、未来に向けて少しでも良いビジョンを見ておかないと心が潰されてしまいそうである。想像以上に、先程の別れ話は胸を苦しめた。もっとも、彼女を放ったらかしにした僕になにか文句を言う資格はないのかもしれないが。

 

 母さんが、口を開いた。口元に耳を近づけると、小さな声で途切れながらもアイスが食べたいという言葉が聞けた。こういうことを言うのは珍しいが、要望が聞けたことが逆に今は嬉しい。

 

 『ちょっと待っていて』

 

 財布を握りながら屋台に近づく。何人か並んでおり、目の前のカップルは味に悩んでいるようで少し時間がかかっていた。

 

 シンプルにバニラ味で良いだろうか。そう考えていた平和な思考は、突然の音と悲鳴に中断された。振り向くと、ある筈の車椅子がなく母がいない。そして、階段の下から人が倒れているという悲鳴。まさか、と思ったがそのまさかであった。

 

 階段の下には、パーツの一部が衝撃で破損した車椅子と、倒れた母がいた。



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 蓮人へ

 

 この手紙を読んでいるということは、私は既に旅だったのだと思います。この手紙を隠した棚の引き戸は、鍵を無くしたとずっと言っていたから。

 

 最近身体の無理が利かなく、疲労も抜けず体調が崩れることが多くなりました。医者にかからずとも、自分のことはなんとなくでも分かるというもの。近いうちに、病気かなにかで良くないことが起こるとほぼ確信しています。その為に、この手紙を残しておきます。

 

 病死、或いは自死という突然の別離に驚いているかもしれませんが、これはずっと前から決めていたことなのです。私は、貴方の重荷となることは絶対に避けなければならないと考えています。例え脳死状態になったとしたら、生命維持等してほしくはないし介護が必要な状態になることは避けたいと考えています。

 

 何故、命を粗末にするような行いをしたか。これは必要な行いで、私の懺悔なのです。

 

 お父さんが亡くなってしまった時、私は蓮人を連れて親戚を、両親と兄を頼りに行ったことを覚えているでしょうか。そして、実の娘と孫を相手にしているとは思えない罵声を浴びせられたことを。食い下がれば下がる程、冷酷で厳しい視線に晒されたことを。

 

 小さな子供であった蓮人が、声もあげずに泣いていたのを覚えています。貴方は聡い子です。泣き声をだせば、お母さんが不利になると判断してのことでしょう。怖かったと思います。庇って、どの道交渉が無理ならば少しでも怒りを見せればとも考えました。でも私は、何一つ言い返すことができませんでした。それには理由があるからです。

 

 お父さんが亡くなった時、貴方はまだほんの幼い、小さな子供。勘づくこともなかったと思います。私は、お父さんと不貞を行い貴方を産んだ過去があるのです。

 

 当時結婚をしていた方はなんの非もありませんでした。誠実な方でした。でも私は、後から出会ったお父さんの刺激に惹かれてしまっていました。本当に好きな人と結ばれるのが、女にとっての最高の幸せだと信じてやまず、その結果どうなるかを考慮することもない浅慮さがあったのです。

 

 当時の旦那と旦那の両親は激怒しましたが、私は親に借金の肩代わりをさせて逃げ出しました。今は反省し、恥ずべき行為をしたと考えています。貴方のお父さんは、稼いだ金を何度か私の両親に届け謝罪をしようとしましたがそれすら拒否されました。それだけ、本当に勘当という形で縁を切りたかったのでしょう。

 

 それでも、蓮人が産まれてくれて幸せでした。お金はあまりない生活でしたが、当時の私は本当に幸せの絶頂でした。ですが、悪いこというものは巡りに巡り、自分に返ってくるものでした。

 

 蓮人、貴方にだけは苦労せずに伸び伸びと生活してほしかった。しかし、私自身の力ではそれを叶えることができなかった。青春を犠牲にさせてしまいました。その上で、この先私が貴方の足を引く訳にはいきません。これが貴方に対する、最大限の懺悔だと浅慮ながら確信しています。

 

 不甲斐ない親で、本当にごめんなさい。蓮人の幸せだけを、心より願っています。

 

 20■■年■■月■■日 霧生院ゆかり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほんの小さな葬式をあげ、母の遺品整理をしていた際ボロボロの財布から出て来た小さな鍵。

 

 それは、あの震災の日に崩壊した家から持ちだした唯一の家具。小さな鍵付きの小物入れを開けることができる鍵だと思い至った。開けられない小物入れなんて、処分すれば良いと考えていたが父との思い出がある物だから捨てられないと母は言っていた。

 

 少しの抵抗を受けながらも鍵は回り、中のものが出て来る。そこにはあったのは、印鑑と通帳、そして封筒に僕の名前が書かれた手紙があった。

 

 手紙の内容、自殺を考えているという内容。そして、過去におこした過ちの告白。

 

 母が実家と折り合いが悪い理由が、懺悔のように書かれていた。ずっと女手一つで子供を育ててくれた、その面しか知らなかった僕には、母の実家での対応がまるで血も涙もない鬼の所業のように感じていたが理由があったことに愕然とした。

 

 手紙を封筒に戻し、小物入れの上に置く。通帳の方を見て見ると、そこには毎月給料日に少しずつ少しずつ溜めた入金が確認できた。時折引き下ろされてこともあったが、この金額と時期を考えると修学旅行の積み立て金が必要な分と高校に入った時に入学シーズンで必要になる金額分だったことが分かる。

 

 毎月の家計簿は僕も把握していた。母は自分で使う為のお金から引き抜き、この口座に入れていたのだろう。何時かに備え、少しでも僕に残せる蓄えを残す為に。

 

 ため息すら、でなかった。

 

 あの日公園で、目撃者が証言した内容では、僕がアイスクリームを購入する為に並んでいる間母は自ら車椅子を動かし、階段に身を投げたという話だった。もう少し早くアイスを買えていたらとも考えたが、列ができており時間がかかるのを見越して母は行かせたのだろう。

 

 警察や病院で話をして、葬式の用意を整えて、会社に欠勤を連絡した。

 

 警察には目撃者が出て来る前に、介護を嫌気がさした殺人なんじゃないかと疑われたし、予算の関係から格安の葬式を探すのには苦労した。骨壺には母がいるが、それを埋葬する為の墓石もない。会社には入社して間もないのに急に長期の欠勤は今後に響くとネチネチと言われた。

 

 広くなった部屋、古い畳の上を寝転がり天井を見つめる。

 

 母にとっての重荷は、僕だったのではないか。僕が産まれていなければ、もしくはあの震災で死んでいたらここまで苦労と苦難を重ねて自死を選ばせることもなかったのではないか。

 

 そもそもの原因は母の不貞が根底にあるとはいえ、それが無ければ霧生院蓮人という人間は産まれていない。考えれば考える程、ドツボにはまる。

 

 三好梓も、桐野鳴も、母も僕の元から去っていった。梓を幸せにしてやりたかったし、桐野とは関係を続けたかった。母には、これから親孝行をしていくつもりだったのに。

 

 生きる気力が湧かない。父を追いかけ自動車整備工になろうと思っていた考えも、思考の中に沈んでいく。いっそ、僕自身首でもくくれば楽になるだろうかと何度も何度も考えてしまう。

 

 『おい!生きてんのか!?おいレント!』

 

 聞きなれた声が扉の外から響いた。身体の起き上がりは億劫ではあるが、なんとか萎えた両足を引きずりながら鍵を開ける。

 

 『……どうも』

 

 『どうもじゃねえよお前。連絡つかないのはともかく、数日も既読が無いからまさかとは思ったが。飯食ってんのか?風呂は?鏡は見たかよ』

 

 『鏡?』

 

 『ひでェ面してやがる』

 

 頬を触ると、髭の感触がした。慌てて振り向いて、スマホを手に取ると充電切れをおこしている。充電器に差し込み、改めて振り向いた。人の顔を認識していなかったが、日サロで焼いた肌と染めた髪、軽薄そうな風貌の男は富田さんだった。

 

 スマホを再起動すると、富田さんからの心配を告げる連絡と共に仕事先からの不在着信が十件近く、メッセージには至急連絡するように書かれていた。

 

 断りもなしにズカズカと富田さんが踏み込んでくる。脇から携帯を一瞥し、大きくため息をついた。

 

 『無視しろ』

 

 『え?』

 

 『良いから!今は無視だ!あー…ちょっと待ってろ!』

 

 ビニール袋に適当にかけられた衣服を放り込む。タンスの中を漁られパンツまで放り込まれた。それをこちらに投げつけられた後、二千円を財布から取り出し僕の額に叩きつけられた。よくよく見ると二千円は、今時珍しくなってしまった紫式部が描かれる二千円札だった。今も流通してたんだ、これ。

 

 『銭湯行け、飯を食え、それまで戻るな』

 

 『戻るなって』

 

 『さっさと行け!今なら人もいねえから、そのいかにも不衛生ですって面なんとかしてこい!』

 

 腕を掴まれ外に放られ、文字通りケツを蹴られ追い出された。僕の家なのに、なんか追い出された。

 

 『二時間は戻るな!俺がここで見張ってるから、死にかけた面で戻ったらぶち殺す!』

 

 『えぇ』

 

 『とっとと行け!』

 

 額に張りついていた二千円札がハラリと落ちる。スマホも無ければ、財布もない。どうせ充電切れかけのスマホと中身の薄い財布だから良いのだが、警察にでも職質されたら身分証明も無しだ。まあ、別にどうでも良いが。

 

 一歩足を踏み出すと、筋肉が萎えていたのがよく分かる。気力だけで葬儀をやり終えた後、どうやら長い間動かないでいたようだ。体幹時間、それほど経っていたとは思えないが、どうやら日常と時間は容赦なく過ぎていたらしい。

 

 銭湯に来た際、番頭は嫌な顔を浮かべたが特になにも言われずに中に入ることができた。更衣室に備えられている鏡を見ると、成程確かにこれは酷い風貌だ。

 

 目の下にクマをつくり、頬は少しこけている。顎の髭は剃っていなかったため無秩序に伸びており、髪の毛はボサボサだ。我ながらどうしようもない。

 

 脱いだ衣服からも、あまり良い臭いはしなかったため、脱いだものを着替えと共に持たされたビニール袋に詰め込んでいく。これは、後でコインランドリーに寄らなければならないか。

 

 コインランドリー、日常と生活の考えるとようやく頭が働いてきたような気がする。シャワーを浴びてシャンプーを泡立てると、自然とスリープ状態だった身体の機能が働いてきたような気がした。胃袋が空であることに抗議の音をあげている。

 

 身体を洗った後湯船に浸かる。そういえば、最近はずっとコインシャワーばかりに頼りこうして湯船に浸かることは少なかった。時間も足りず金も溜めたい。そんな考えが、こんな些細な贅沢も躊躇させていたのだろう。

 

 だが今は、時間等気にしないで良い。会社に連絡をとろうにもスマホは家だし、早く戻っても富田さんに追い出されるだけだ。そんなことを、現実逃避気味に考えていた。無駄なことで思考を埋めないと、またあの考えが脳内を巡り始める。

 

 浴槽から上がり、鏡の前に立つ。安物の使い捨てカミソリを使い、伸びていた髭を剃っておいた。こんなに髭を伸ばしていたのは、初めてだ。

 

 コインランドリーに寄って脱いだ服を放り込んでおく。最寄りの牛丼屋に入り、空腹に米と肉を詰め込んでおいた。もらった金はまだ充分にあったが、あまり豪勢な食事をとるのは気分でないし申し訳ない。

 

 戻ってくるなと言われた時間まで後一時間ある。どうしようかとあてもなく歩くと、昔梓と放課後に話した公園を見つけた。

 

 近頃は、子供には危険ということで遊具が取り除かれているようで、気づかないうちに随分と寂しいところになってしまっている。あの思い出のブランコにも、使用禁止と描かれた黄色いテープがグルリと取り囲むように張られていた。

 

 それを乗り越えて、ブランコに座り込む。なんでこうなってしまったのだろうかと、今更ながら考えてしまう。

 

 しかしまあ、死のうなんて考えをチラリと考えていたくらいなのに、身綺麗にして食うもの食って、身体は正直なものだ。

 

 しばらくそのまま過ごしていたら、デカいビニール袋をもった富田さんが現れた。中には、俺の家にあった洗濯物の塊だ。それを無言で放り投げられる。汚れた様子もなく、コインランドリーに行った帰りのようだった。

 

 『死にかけた面も、ちょっとはマシになったか?この阿呆が』

 

 『ああ、すいません。今お釣りを』

 

 『余らせたのかよ。景気よく使え景気よく。なにに使えば良いか分からないってのなら、そこの駅前にある宝くじ売り場で全部使ってこい』

 

 そんな、なんて無駄なことを。買いに行ったって、三枚くらいしか買えないのに。

 

 『ダッシュ!』

 

 『はい!?』

 

 というか、こんな怖い顔の富田さんは初めてみた。風貌もあいまり、まるでヤカラのようだ。バラで三枚宝くじを購入し、駆け足で戻る。

 

 『買ってきました!』

 

 購入してきた宝くじを見せると、そのうちの二枚を手に取り自分のポケットにねじ込むと一枚だけこちらに押し付けた。

 

 『お前にはなにか、楽しみがあった方が良い。そいつは持ってろ。金欠の楽しみには、丁度いいだろ。じゃあ、飯ちゃんと食えよ』

 

 こんな当たるかどうかで考えれば、限りなく当たらない籤を持っていても楽しみにはならないと思うが。それでも、何故かこの一枚の紙きれが、質量以上に重たく感じる。

 

 『富田さん。なんで、こんな気にかけてくれるんですか。もう、バイトを辞めた僕の為に』

 

 バイト中、かなり助けてもらっていた。だがそれは、バイトという枠の中での助け合いと言える。だがしかし、彼はどうしてバイトを辞めて就職した僕にこんなに気にかけてくれるのだろうか。

 

 『あの店、店長がぶっ倒れた』

 

 『え?』

 

 あの店というと、僕がかつてバイトしていたカラオケ店だろう。確かにいろんな困難に振り回されている人だったけど、そこまで体調を崩していたなんて思わなかった。

 

 『バイトってのは気楽なもんだよな。入るのが楽なぶん、バックレに不貞腐れに、ちょっとの注意で保護者同伴で抗議。無駄にプライドが高いどっかでリストラにあった中年に、最近はテロ行為まで行うアホまで増えて来たもんだ。ユーチューバーなんてやって、バイト中に撮影始める奴もいた。客も客でクソだらけなのは、お前もよく知ってのことだろう?』

 

 接客業の性、迷惑な客は山のように見てきたが、その働く敷居の低さから問題があり辞めていったバイトも多く見て来た。まともな人材は大切に育てたい。僕と富田さん、店長がずっと考えていたことだろう。

 

 『俺は、僕は、私は、こんなところで本当は働いているのは仮の姿。本当はもっと凄い筈。それはそれでいいが、まともに働けない奴がなにをほざいているんだが。こんな愚痴も零したくなる理由は、俺も就職が決まっちまってよ。あの店に、雇われ店長として入ることになっちまった。まあ、こっちにも色々あって、断り切れなくてなぁ。とりま、なにが言いたいかって言うと』

 

 ポケットから煙草を取り出して、火をつける。そういえば、昔禁煙に成功したことを自慢げに話していたがストレスかなにかで再発したのだろうか。

 

 『まともな奴は、まともに幸せにならなきゃ不公平だろって話だよ。まあ、迷惑だって言うならこれきりにするがな』

 

 『いえ…ありがとうございます。あのままじゃ、大袈裟かもしれませんが、本当にあそこで死んでいたかもしれません』

 

 食べるものを食べたら、多少元気が湧いてきたような気がする。母に対しての整理はついていないが、時間をかけてゆっくりと消化していくしかないのだろう。未だ傷が癒えきれない梓との思いで同じく、時間をかけて治していくしかないのだろうが。

 

 『またバイトに来るか?ん?こき使ってやるぞ』

 

 『今の仕事、正式に首になったら考えておきますよ』

 

 お互いに笑いがおきたが、あることを思い出す。空気を壊すように、思い出してしまう。先輩は、僕の家でどこに部屋の鍵を置いているか知らない。

 

 『先輩、鍵どうしました?』

 

 『あー…あーあ。わりぃ…忘れてた』

 

 取り合えず、ダッシュで僕は帰ることにする。先程宝くじ売り場に駆けた時にも思えたが、すっかりと、とは言わずとも調子を少し取り戻した身体は、脳の命令を上手く受けて動いてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後のことを考える。

 

 一波乱あったのは、会社に連絡を入れた時だった。僕自身気がついていなかったが、無断欠勤の日が出てしまったようで、またネチネチと言われ始めたのでもうそこで会社を辞めることを決意。

 

 富田さんが言うまともとは、だいぶかけ離れた対応をしてしまったが、今すぐに金が必要という事態ではない。なにせ母の為に溜めていた訪問介護やデイサービスにショートステイ、特養ホームの分金が浮いてしまっていたので多少の余裕がでてきてしまった。ついでに、母が残した分の貯蓄もあった。

 

 目覚ましをかけずに寝て、起きて、歯を磨く。すっかりと無職になってしまった軽い足取りで街を散歩して回った。

 

 あの公園に駅、自然公園、通っていた高校。本当は今すぐ新しい就職先を見つける為にハローワークに行くのがベストなのだが、もうそんな最善を選び続けなくても良いだろうと考えれば気が楽であった。

 

 『ここに来るのも久しぶりかもな』

 

 散歩を続けていたら、自然と足はある場所に辿り着いていた。三好梓が最後に暮らしていた住居。仲の悪い叔母と二人暮らしをしていた、あまり気持ち良い場所ではないが何時も彼女を最後に送って行った場所だ。公園から自然と、足を延ばしてしまっていたか。

 

 『おや?家になにか用事ですか?』

 

 見知らぬ男が声をかけてきた。スーパーの買い物袋をぶら下げた、年のいった中年男性が声をかけてきた。眼鏡をかけており温和そうな顔をしていたが、どこかその顔はあの叔母にパーツが似通っている。

 

 『いえ、すいません。……霧生院蓮人と申します。ここで暮らしていた三好梓さんとは、同級生で…友達でした』

 

 『ああ、梓ちゃんの。彼女にも友達が』

 

 あの叔母の親族っぽくはあるが、穏やかそうな顔をしている。そうか、そうかと呟くように頷いてから家の方を見上げた。

 

 『良かったら、あがっていかないかい?友達が線香をあげにきたと知れば、梓ちゃんも喜んでくれるだろう』

 

 『その、良いんでしょうか?ご家族は』

 

 『今は私が一人暮らししているんだ。前は、知っているかもしれないが、姉が住んでいたんだけどね』

 

 あの叔母には、特になにかされたという訳ではないが何回か送り届けていた際出会ったことがあった。会話どころか、挨拶も返してもらった覚えもない。ただキツイ目でよく睨みつけられており、少し苦手だったことも覚えている。葬式の時に挨拶に行ったのだが、そっけなく返答された。

 

 『お邪魔します。えっと…』

 

 『三好牧だよ。さあ、どうぞ』

 

 男性の言葉を受け入れることにし、引き戸を開けて初めて家の中に入った。正面には奥に向けて廊下が続いており、むかって左側には座敷部屋が二つあった。そのうちの一つ、奥側には仏壇が扉についたガラスごしに見えている。

 

 小さな仏壇には、梓の写真が飾られていた。その前に置かれていた紫色の座布団に正座で座り、脇に置いてあった線香に火をつけて仏前に備える。

 

 大した写真がなかったのか、仏壇に置かれた写真は中学生の時に撮った証明写真だった。だがしかし、それでもこうして彼女を顔を見たのは久しぶりだった。中学時代の卒業アルバムすら、辛い思いでとしてロクに見返してはいないのだから。

 

 『ありがとうございました』

 

 『良ければ、お茶を呑んでいかないかい?少し、見せたいものがあるんだ』

 

 隣の部屋に案内される。こちらは客間なのか、立派な茶色いテーブルが置かれていた。壁には掛け軸がかけており、神棚も上の方に置かれていた。

 

 『こんなものしかないけれど』

 

 『いえ、ありがとうございます』

 

 湯呑に入った緑茶と、木の器に茶請けとして揚げせんべいと小さな包み袋に入ったチョコレートが置かれていた。まずは礼儀として、お茶を一口呑む。マナーとしてはどのタイミングで呑むかは分からないが。

 

 『ええと、なにから話せば良いかな。私は梓ちゃんの保護者として引き取った叔母、三好ケイの兄でね。東京に住んでいたんだけど、姉のケイが入院したということでこちらに戻ってきたんだ。仕事もちょうど定年で退職していたし、丁度いいかなと思ってね。梓ちゃんとは、偶にしか出会えなかった。だけどあんな亡くなり方をしたのは、胸が痛むよ』

 

 『そうですか。そうだ、思い出しました。葬式の時に、出会いましたか?』

 

 『彼女の同級生で来たのは、君ともう一人だけだった。あの時の男の子が君かな?大きくなったもんだな』

 

 もう一人。気づかなかったけど、誰か同級生が葬式に訪れていたのか。誰だろう、少し思い浮かばない。

 

 『それで、見せたいものとは?』

 

 『その前に君が昔、ケイに遺書を見せてほしいと頼み込んでいたようだね。なんでだい?興味本位とは、思いたくないけれど』

 

 興味本位な訳がない。あの時は、同じ高校に通うため受験をして合格した。寮もあるところなので、近場ではあるが親元から離れることができる。中学の同級生もだいたい違うところだ。何故あのタイミングで自殺したのか。虐めが原因と言われていたがどうしても腑に落ちないからだ。

 

 『西日本大震災。僕と彼女はその被災者でした。その後も、こちらに越してきてから共に支えあってきたんです。僕にはどうしても、彼女があのタイミングで自殺をしたとは信じられませんでした。もしかしたら、僕にもなにが落ち度があったかもしれない。そう考えると、それを確かめずにはいられなかったんです。ですが、家族間のプライベートに土足で踏み込むような行為であったことは、否定できません。あの時は申し訳ありませんでした』

 

 『顔をあげてほしい。君の言葉は本心だと思うよ。実は、あの時の男の子、もし君が訪ねて来たら見せようと思っていたんだ』

 

 白い封筒がテーブルに置かれた。例の遺書が目の前に出されたことで、心拍数が跳ね上がった気分だ。

 

 『妹のケイは、あれでも悩んでいたんだよ。血縁ということで引き取ったのは良いけれど、梓ちゃんも心を開きにくい子だったしね。妹を擁護する訳じゃないが震災で両親を亡くした子だ、気遣いも多く必要だったんだと思う。それで、接し方が分からなかったのかもしれない。この遺書も、当時のままで残していた彼女の部屋に保管してあったよ。定期的に、掃除もされていた。君達にとってあまり良い人ではなかったかもしれないが、まずは昔君無碍にあしらったことを許してあげてくれないか』

 

 『そんな、昔のことです。遺書、見ても良いでしょうか』

 

 『その為に持ってきたんだ。どうぞ』

 

 封筒を開き、遺書に目を通す。奇妙なことに、何故か最初に覚えたのは既視感。母の遺書を読んだばかりだろうかと考えていたが、違和感がぬぐえない。だが、それに気が付いてしまったとき、指が思わず震えていた。

 

 『どうして』

 

 確たる証拠とは言えないかもしれないが、確信をした。遺書がハラリと、テーブルに落ちた。



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 『まさか、お前から飯の呼び出しを受けるなんてな。しかも、こんなしっかりした個室で…金あんのか?ここの奢りは無理だぜ』

 

 静かな音楽が小さな音でゆったりと流れている。小窓からは小さな中庭のようなものが見え、ししおどしが溜まった水で傾いて音をあげている。丁寧に裁定された松がライトで照らされていた。

 

 『あまり人には知られたり、聞かれたりできない話があるもので。家で話すのも良いかもしれませんが、壁が薄いもので。来てくれてありがとうございます』

 

 『正直店を見た瞬間、回り道して帰りたかった。でも、なんか話があるんだろ。取り合えず一番安いのでも頼むか』

 

 場違いな雰囲気に財布の心配を富田さんはしているが、その前に差し出すものがあった。前にポケットの中に突っ込まれ、グシャグシャになってしまった紙切れをテーブルの上に広げる。

 

 『あん?』

 

 『当たりました』

 

 『……一万くらい?』

 

 『一等くらいです』

 

 富田さんが睥睨する勢いで、同時に理解不能なものを見る目で宝くじを眺めた。そりゃそうだ、今このテーブルには宝くじではなく億の札束が積まれている。

 

 『マ?』

 

 『マジです』

 

 『お前、なんだ。今日は自慢しにきたいのか?一番高いの頼むぞ』

 

 ドサリと座り込み、天井を仰ぎながら大きくため息をつく。現実感が湧かないのだろう、でてきた言葉は案外軽いものだった。

 

 『好きなものをどうぞ。それにこれは、返そうと思っています』

 

 理解不能なものを見る瞳が、今度はこちらに向いた。目に見えて困惑している様子であり首を可能な限りひねっている。

 

 『これは、お前にあげたもんだぞ』

 

 『それでも、元手は富田さんのものです。こうするのが筋だと考えています。ですが、もしも許されるならばこの資金、しばらく僕に借してほしいと思い、今日はここに来てもらい、お願いをしに来ています』

 

 『そりゃ喉から手が出る程ほしいがー…なんだ?事業でもおこしたいって……か?いや、違うな。レント、なにを考えてやがる』

 

 富田さんの表情が引き締まる。その視線はもうクシャクシャになった宝くじには目も向けず、こちらをじっと凝視するようだった。

 

 『急にこの紙切れを返すといったり、可能ならば貸してほしいと言ったり。本当ならばこんな大金手に入れたら狂喜乱舞するだろうし、経緯が経緯だから俺から金の無心をされない為にとんずらこくのが普通だ。てか、それが人間ってもんだろうがよ。だがお前はちょっと馬鹿正直すぎるし、こんな大金手に入れても目がちっとも浮ついていねぇ。なにがあった、こいつでなにをしようとしているんだ』

 

 『今の僕には、これは目的を助ける為の手段にすぎません。そして、この紙切れじたいに僕は執着はあまりない。所有権は富田さんにあると思いこうして返しにきただけです。僕は、貴方にだけは不義理を働けない。そのうえで、もし可能ならばこれを貸してほしいとお願いしているだけです』

 

 『なあ…お前今ちょっとズレてんじゃねーか?まともな感じがしねーよ』

 

 『利子とかそういうのは、時間がかかるかもしれませんが可能な限り…』

 

 『だからちげーって言ってんだろうが!』

 

 テーブルに拳が叩きつけられた。最初に運ばれた湯呑が転がり、緑茶がテーブルの上に広がった。何故かお茶は二股に分かれるように広がり、宝くじを濡らさない。

 

 『お前の面は、なにかやらかそうしている奴の面だ!ムショにぶち込まれた昔のツレと似たような顔してやがんだよ!なにがあった!?なにをやらかそうとしていやがるんだ!』

 

 『言えば、貴方に迷惑がかかります』

 

 『なのに金だけだせってか?虫のいい話だと思わないか?それとも、俺はそんなに信用ねぇかよ』

 

 個室とはいえ、大声をだされると漏れる。だが、なにも言い返せなかった。お人好しなこの人のことだ、理由と用途を話せば全力で止めに来るだろうと思う。

 

 それでも想像外だったのは、借りれないなら借りれないでこの宝くじを返すだけだと考えていた。だが、富田さんの視線はまっすぐこちらを見ている。テーブルに置かれたクジには目も落とさない。これは、馬鹿正直に話し過ぎた僕の落ち度か。適当に海外旅行をしたいからとでも言えば良かったか?

 

 でも、正直に答えることこそが、この人に対しての義理だと考えている僕もいる。

 

 『僕は西日本大震災で、片親となりこっちに引越してきました。ここまでは以前、話したことがあると思います』

 

 『そうだな。だが震災関連でこの金を使いたい訳でもあるめぇよ』

 

 『はい。ここには、僕以外もう一人震災で両親を亡くした女の子が越してきました。名前は三好梓と言い、中学までは同じところに通っていました。今は、鬼籍に入っています。動機は、虐めを苦にした自殺。死因は電車に飛び込んだと、目撃者の証言がとれています』

 

 『そいつは、また気の毒な話だな』

 

 『僕は今、そうは思っていません。気の毒な話、そんなことで片づけられるものではないと』

 

 三好牧氏が見せてくれた遺書は、梓の筆跡で自殺の動機について書かれていた。行われた虐めの内容と何人かのクラスメイトの名前があげられており、当時は何人かの生徒が槍玉にあげられ、一部の者は進学できなくなったとも聞いている。

 

 そんな虐めっ子の末路なんて、僕は当時まったく気にしていなかった。どれだけ考えてもやはりあの時期に、虐めで自殺といのは動機としては弱すぎる、そもそも梓は虐めなんて最初から気にしておらず、どちらかと言えば家庭内不和でストレスを溜め込んでいるような様子だった。

 

 環境を変える為に受験勉強を誰よりも努力していたし、共に勉強をしてきたからその必死さはよく分かっていた。第一志望に落ちての衝動的な飛び込みならば、まだ話は分からないでもないが、高校受験に成功したうえでこのタイミングでの命を絶つなんてやはり考えられない。

 

 それでも、僕が知らない苦悩や考えが彼女にはあったのではと、納得できないまでも呑み込むしかなかった。それしか、足を引きずりながらも前に進む方法がなかった。

 

 だが、実際に遺書に目を通してその考えは吹き飛ぶことになる。遺書にあった小さな癖字。いかに注意して書いたとしても、ほんの僅かに顔を除く綻び。それはここ最近よく見て来た癖であったからだ。

 

 あの後、家に急いで帰り埃を被った卒業アルバムを引っぱりだして三好家に戻った。突然飛び出していったかと思えば、アルバムを片手に戻ってきた三好牧氏の顔は怪訝なものとなっていたがそれを気にしてはいられない。

 

 各クラスメイトの顔写真がのったページ。目当ての人物の写真を指差して、こう聞いた。

 

 『葬式に訪れたのは、この子ですか』と。

 

 肯定の返事を聞き。まだ根拠は薄すぎるものの、確信に近いものを得ることができた。

 

 これを警察に持っていくことを考えたが、今更過去の処理された事故を事件として調べなおしてもらえるだろうか。目撃者すら曖昧になった何年も前もの事件だ、仮に奇跡的に全てが上手くいったとしても、子供の時に犯した事件が大人になって逮捕された場合、少年院送りはないものの減刑という扱いが多くなるようだ。

 

 僕の考えたことが全て真実であったとする。人を一人殺したというのに、法は充分には裁いてくれないとなると腹の底で黒いものが残る。いっそ全てを忘れてしまうということも考えてはみたが、それをしてしまうと今後二度と梓の墓を参ることはできない。

 

 まずは真実を見極める。個人で確信を得たとしても、客観視できる確定要素も必要だ。そしてそれを行う方法等、素人の僕には考えが及ぶものではない。やろうと思えば個人でやることもできるだろうが、時間がかかりすぎるし失敗する可能性も高くなる。

 

 餅は、餅やだ。そのためには金がいる。

 

 『……お前はその、三好梓とやらが実は殺されたと確信している訳だ。犯人の目途がついているようにも見える。だが確証はなく、それが唯一のブレーキになっている。違うか?』

 

 『いえ、その通りです』

 

 『そしてそのブレーキを、壊したくてたまらねぇってか。黙って金持ち去って勝手にやれよ、そんな話されたら、俺としちゃ止めるしかねえだろう……が』

 

 富田さんは言葉を選んでいるように見える。そして、ため息を吐いて額を抱えた。

 

 『浮かぶかよそんな言葉。陳腐な言葉しか出て来やがらねえ。お前の人生はこれからだ、手に入れた金で好きに遊べ。なんなら忘れちまえくらいだ。たく…嫌になる。肉親がいなくなって、もう止める相手もいないんだよな。俺がなんと言おうと、どうしようと止まらない。金が無ければ金がないなりに危険な橋を渡るだけ。……元カノがいた時、ぶち殺されたりでもしたら俺だったらどうするんだかねぇ』

 

 富田さんは店員の呼び出しボタンを押す。お茶が零れてしまったことの謝罪と、ついでに酒を頼んだ。料理の方を聞かれたが、も少し考えてからと断りをいれる。

 

 無言の時間が続く。零れた湯呑は回収され机の上は拭き取られる。その代わりに並んだのは、日本酒のとおちょこが二つだった。店員の気配が消えてから、富田さんは口を開く。

 

 『俺には、服役した友達がいる。いや、向こうは友達と思ってくれてるかな?とにかく、懲役は十年だったか十二年だったか、まだムショから出てこない。理由は単純に、彼女をレイプした連中を一人殺して残りを半殺しにしたからだ。本当は全員殺すつもりだったみたいだけど、騒ぎが聞かれたのか警察が来て逮捕された。そいつがおこした事件、良いとか悪いとかそういうのは別にして今でも思うことがあるんだよ』

 

 酒を杯に注ぐ。酒精が立ち昇り、それが目の前におかれた。

 

 『俺は止めたんだ。協力を求められた時、警察に任せろ、お前の人生を棒に振るなってな。そいつは怒りと憎悪と悲しみで、全員殺してから自殺しそうな勢いだったのを覚えている。当然だよな、廻された彼女、ドアノブにロープかけて逝っちまったんだ。でも、俺はそいつの悲しみを理解しきれなかったんだよ。どんなに親しくても家族でも他人のことなんざ理解できない。今でも忘れられねえし夢に見るよ、そいつは仇の連中と同じ目で俺を見やがった。それくらい、奴は本気でキレていた』

 

 『もしかして』

 

 『ああ、どこからかなんて言ったけど、警察にタレコミしたの俺だよ。レイプ犯共はどうでも良いとしても、アイツ等が全員死ねば、そのまま本当に自殺しそうな勢いだったからな。俺には、正面きって止める度胸はなかった。でもよ、俺がしたことは本当に正しかったのか?アイツが自殺したとしても、願望を叶えてやるほうが本当は正しかったのか?殺し損ねたことを気にして、自殺もできず、まるで抜け殻のようになった奴と面会してそう思った。正しいのか間違いなのか。そんなことを考えてたら、なにもする気がおきなくてね。それで、長いことフリーターやってたよ』

 

 『僕のことも、警察に話しますか?』

 

 『……いや』

 

 酒を飲み干す。テーブルに力強くおちょこを置き。どこか悲し気な視線をこちらに向けた。

 

 『お前は前からアイツそっくりの目をしてやがった。最近は何時にも増してそれに近い。だから、放っておけなかったが他人のお節介はここまでだな。金に関しちゃ俺はなにも言わねえ。お前を警察にもチクらねえ。だけど、一つだけ約束してくれ。逮捕されたとしても。どんな形であれ、生きて金を返しに来い。その券は借したものとして考えておいてやる』

 

 『分かりました。感謝します、富田さん』

 

 『誓えるんなら、その酒呑み干せ。今日はお前の奢りだ。今度は、返ってきた金で俺からお前に奢ってやる。必ずな』 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『久しぶりー』

 

 『ちょー懐じゃん久しぶりー。中学卒業以来?』

 

 ホテルのパーティー会場。披露宴を行う為に貸し出されたり、発生会や多目的スペースとしてサービスが提供されているエリアは今回は同窓会の会場となっていた。

 

 鳥次中学高、第●●期卒業生同窓会。長期休暇のタイミングも重なり、県外に進学や就職していた面子も集まり七割近く出席していた。

 

 スーツやドレス姿の元クラスメイト達がシャンパンを片手にオードブルを楽しみながら、あちこちのテーブルで会話を楽しんでいる。

 

 『きーりの!』

 

 『舞じゃん元気だった!?ちょー美人になったじゃん!』

 

 『えー桐野には敵わないって!さらに磨きがかかったんじゃない!?そうだ、蓮人君元気?今日は来てないの?彼氏になったって聞いたよー。でも別に、婚約とかしてないんだよね』

 

 『もーなにそれ、古い情報。あんなにとっくに別れたって!それよりも今はね、新しい彼氏がいてー見てこの人、城戸大学に通っている今カレ!イケメンっしょー!頭もちょう良くてー来年にはもう、四菱に就職が…ん?』

 

 桐野鳴は、久しぶりに会った旧友に自慢気に話しかける。しかし、その友達は、どうやら反応が悪い。せっかく新しい彼氏を紹介したかったというのに、せっかくスマホで画像を見せているのにそちらには興味もしめした様子もない。そりゃ他人の彼氏自慢なんて…と思うかもしれないが、目は爛々と輝いていた。

 

 『じゃあ蓮人君とは別れたの!?もー桐野!それなら早く言ってよ!蓮人君、まだフリーだよね。今日本当に来てないのかな?遅れているだけかな?』

 

 『ちょ…ちょっとちょっと舞。あんなのやめときなって。親の介護とか就職とかで、大学にもいけず工場なんかで働いているんだよ。あんな油臭い男と付き合うなんて、舞がもったいないよ。確かに顔は良いし勉強もできたけど、詰まんない男だよーあれ』

 

 『えー。そっか、知らないんだ桐野。実は今日、女子何人か蓮人君狙いだよ。願わくば寝取りを狙う勢いで』

 

 『なにそれ。ちょっと舞、どういうこと?』

 

 舞と呼ばれた元同級生が、はにかんだ。周囲の様子を気にしてから、静かに近づき耳打ちする。

 

 『如月市の別荘街。新しい豪邸建設されているって知ってる?』

 

 『え?それと蓮人がなんの関係か』

 

 『あれ、蓮人君のものなんだよ』

 

 『嘘!?なにそれ!?』

 

 あまりにも突拍子もない話で、つい大声になってしまう。あの霧生院蓮人が、将来を詰まらないことで棒に振り底辺に落ちた男がそんなものを建てられるなんて聞いていない。母親の介護で金が必要になるから、今すぐ就職しなければならないと焦る程だったはずなのに。

 

 『マジマジ。それ、マジでだ。建設している伊藤建築って、俺の叔父さんやっているところなんだよな』

 

 スーツを着た男が話に割り込んできた。桐野は思い出す、確かこの男はあの蓮人と同じクラスメイトだった筈だ。少し地味すぎて今この瞬間まで忘れていたが、衝撃で脳が何時もより覚醒したのかスルリと思い出すことができた。

 

 『てか知らねーの?今蓮人マジでやべーことになってるんだぜ?』

 

 『なによ、それ』

 

 『確か二年前か三年前くらいだったかな。アイツ、宝くじで滅茶苦茶な金額当てたらしいんだよ。それで、そいつを元手に投資だったか株だったかFXだったか始めたんだ。嗅覚が鋭いっていうの?とにかく滅茶苦茶稼いでるらしくてよー。いやー、てっきり今頃お前セレブ妻にでもなっているもんかと…ておい』

 

 伊藤が声をかけるが、桐野は離れていく。他の同級生に聞いて回っても、返ってくる内容は伊藤が話していた内容に尾ひれがついたかついてないかくらいの話だった。何故自分が知らないのか意味不明であるが、それでも嘘やただの噂と流すことはできない程話が広がっている。

 

 曰く。母親が死んだ後、宝くじで一等が当たった。

 

 曰く。今世界中で使用し始めている某AI産業に投資をしてリターンが莫大なことになっている。

 

 曰く。最近は東京で暮らし始めており、港区に本宅を構えている。

 

 どこを聞いても、霧生院蓮人が成功した話で溢れかえっていた。どこからが本当でどこからが噂か分からないが、それでも落ちぶれたなんて話はいっさい聞かない。

 

 逆に桐野に関しては、呆れや同情の言葉が投げかけられる。これでは、今カレを自慢して人生の幸運を皆に自慢する筈がこれではあべこべだ。

 

 『ああ、アタシ今東京の大学通っててさ。偶然会ったよ、蓮人君。ほらこれ、キャバクラで現役女子大生っての売りでバイトしてたけど、四菱のお偉いさんに接待される側で来ててさー。これ、記念の写真。ラインも交換してくれたし、アンタと別れたならアタシってもしかして脈あり?』

 

 そこには、テーブルでくたびれた服を着ながら、自動車整備工の本を広げていた蓮人の姿はなかった。スーツを着てネクタイを締め、高級そうな腕時計を身にまとっている。

 

 『……嘘』

 

 絶望と怒りが沸き上がってきた。だが、足はツカツカとある男に向かう。サッカー部の男達と話し合っていた伊藤の肩を掴み無理矢理振り向かせた。

 

 『馬鹿お前!酒が零れる!』

 

 『伊藤建設が別荘作ってるなら、蓮人君は今こっちに戻ってきてないの!?建設中の現場を視察とか色々な打ち合わせとか!』

 

 近くにいた何人かの視線が冷たくなるのを感じたが、桐野は気にしなかった。怒りが身体を突き動かし、外野の話など耳にも入らない様子である。

 

 『あ…ああ、そうだよ。確か今月末まではこっちにいるとかなんとか。自宅作業だからホテルでも仕事出来るって、そこのロビーで打ち合わせを』

 

 『どこのホテル!?』

 

 『伊佐ロイヤルプリンスホテルだよ!やべっこれって個人情報かな?』

 

 ツカツカと、桐野鳴は会場を立ち去っていった。馬鹿な女だ、半分本当で半分は嘘の噂話。もう少し、冷静に頭を働かせてから動けばこんなに悪目立ちしないものを。

 

 『ああ、もしもし蓮人君?伊藤だけど、こんな感じで良かった?』

 

 『ありがとう伊藤君。舞さんも名演技だったよ』

 

 監視カメラの映像で、伊藤君がこちらに電話をかけていた。舞さんも、手を軽く振っている。

 

 『いやマジ女ってこえーな。彼氏自慢したかと思ったら、それよりも良いご身分の相手を捨てたなんて話聞いて半ばヒステリーだよ。でも、わざわざ手間賃払ってこんなことさせる意図が分かんねーなぁ』

 

 『ちょっと、桐野鳴の本性というか確認したくてね。ちゃんと彼氏さんを愛しているならば、残念がりはせよ、こんな短絡的には動かないだろうよ』

 

 『違いねぇ。でもさ、蓮人君。噂ってどこまでマジなの?君に雇われた人達で、適当に噂話まででっちあげたけど。少なくとも、あの別荘が蓮人君依頼で建設ってのはマジだから、宝くじ当てたまで本当?』

 

 『半分本当くらいかな。じゃあ、皆には手間賃振り込みしておくから、後は同窓会楽しんで。ここは僕の奢りだから』

 

 通話を切る。今から伊佐ロイヤルプリンスホテルに移動しなければならない。伊藤君のすっとぼけ加減には感謝しなくちゃな。お陰で誘導が容易にできた。

 

 これからのことを考えれば、こんなやり方をすれば簡単に後で、警察でも介入すればすぐに疑いの目を向けられるだろう。だが僕は、そこまでは気にしない。

 

 桐野鳴は大学卒業と共に、結婚をする予定だということが書かれた報告書を鞄にしまう。人生の絶頂期に不幸のどん底に叩き落してやるつもりだ。仮に彼女が無実だとしても…梓を殺した犯人じゃなかったとしても、こんなに簡単に別の男になびくようならば残党な末路だろう。あの日、喫茶店で言われた言葉も忘れていない。

 

 さて、始めるか。



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 太平洋戦争。大東亜共栄圏を目指した日本は、アメリカとの戦いに敗北した。

 

 誰もが教科書で戦争についての授業を受けたし、その後の混乱期と長野オリンピックを開催するまで復興したことは歴史の教科書でチラリとでも見たことがあるだろう。

 

 戦後、配給では支えきれない市民の食生活を支えたのは、闇市と言われる非合法な市場だった。そしてそこは、日本の表舞台には語られない裏の戦場であったという。

 

 戦後GHQの指導により、日本は軍隊どころか警察まで銃器で武装をするのは禁止された。治安が揺らぐ中そこに流れて来たのは。愚連隊に博徒、中国系や朝鮮系の外国人組織等々だ。

 

 日本の警察が武装力を落とした傍ら、下手をすればあちら側から拳銃やライフルが出て来るようなとんでもない状態のなか、ヤクザな連中と警察は協力関係を結んでいた。表と裏から、協力して治安を維持しなければならない程追い詰められていたという。

 

 七条警察署襲撃事件等、少し調べてみればこの手の話がすぐに出て来るくらいだ。長野オリンピックが開催される辺りまで、この協力関係は続いたと言われている。

 

 そして、その混乱期である裏社会の戦国時代を利用しのし上がったのは西日本最大のヤクザ組織である清雅会。最近は暴対法による締め付けで事情が厳しいようだが、それでも裏社会の最大組織ということには変わらない。

 

 『ここか』

 

 時間は遡る。同窓会を行う二月程前、僕はとあるビルに訪れていた。

 

 楓花ビル。表向きはなんら問題ないビジネス街のオフィスビルに見えなくもないが、その内部はとある組織によって運営されている。清雅会直系組織、北村組。表向きは北村興行という看板を掲げているが、ここの自動ドアは間違いなく裏社会の入口だ。

 

 ビルの外に備え付けられているインターホンを鳴らす。まるで待ち構えていたように、ほとんどすぐと言えるタイミングでスピーカーから男の声が聞こえた。

 

 『どちらさまでしょうか』

 

 『霧生院蓮人と言います。西田さんとこの時間にアポをとっています』

 

 『お待ちしておりました。ロックを解除しますので、エレベーターで四階までお越しください。そこからは案内の者がおります』

 

 自動ドアが開かれた。ビルの一階はホールとなっており、清潔な受付に花を活けた花瓶が置かれている。壁には絵画が飾られ、別の来客もあったのか綺麗な女性受付がスーツを着た男性と話をしていた。

 

 すれ違う人物に頭を下げられる。サラリーマンのようにバチッとスーツを着こんでおり、テレビで見たヤクザのように代紋を掲げている様子もない。なんの変哲もない、会社に間違えて入ってしまっのかと錯覚してしまいそうになった程だ。

 

 エレベーターに入り四階まで昇る。四階廊下は幾つかの部屋の入口があり、やはり清潔感があると感じるくらいには丁寧に掃除がされている。エレベーターのすぐ脇には、それこそベンチャー企業でも立ち上げてないですか?と言いたくなるようなツーブロックの爽やかな男が笑顔で立っていた。

 

 『お待ちしていました。社長の元へ案内します』

 

 『社長…ですか?』

 

 『ええ。このビルの内部にいる時は、社長は自分のことを親父と呼んだり、目上の者を兄貴と呼ぶことを禁止していますので。今はおおっぴらにヤクザの看板を掲げて商売できる時代じゃありませんからね』

 

 暴対法は年々厳しくなっている。時流に合わせて、形が変わっていっていいるということなのだろうか。いっそ、ヤクザを辞めてまっとうな企業になれるのではと考えてしまうが、まあしがらみとかもあるのだろう。

 

 『社長。お客様をお連れしました』

 

 『入れ』

 

 ツーブロックの男が扉を開けて、どうぞと笑顔で語り掛ける。

 

 扉が開いた瞬間、木刀が飾ってあったり【仁義】とか書かれた掛け軸が飾ってあったりしているだろうと考えていたが、そんなイメージも吹き飛ばされた。

 

 大きくて立派なテーブルを挟むように置かれた数人がけの革張りのソファー。活き活きと葉を生い茂る観葉植物。棚にはファイルや経済学のものと思われる資料が綺麗に並んでいた。デスクの上には内線だろうか、固定電話とデスクトップにノートパソコンが置かれていた。

 

 『何年ぶりかな。正直君から連絡をしてくるとは意外だったよ。名刺を渡したことはあったけどね』

 

 『父の墓前以来でしたね。西田さん』

 

 西田成之。出会ったのは、中学を卒業してから間もない頃だった。梓の墓参りをしたついでに、父の墓を参ろうとした際墓石の前に立っていた人だ。なにかあったら連絡をしてほしいと名刺を渡されたが、北村興行になにかを相談するつもりはなかった。

 

 北村興行。不動産の扱いを中心に取り扱うヤクザのフロント企業だ。表向きは上場も果たした優良企業のようにもみえるが、裏側ではそれなりにあくどいことをしているらしい。

 

 何故そんなことを知っているかと言えば、震災関連の復興事業。跡地の区画整理で相当に幅を利かせていたという話を被災者の立場としてよく耳に届いていたからだ。元からそこに住んでいた人間を追い出し、その跡地を高く転売したり産業廃棄物の投棄場にしたりしている。

 

 震災で放棄された人目の付かない廃虚の管理者になりそこを立ち入り禁止とし、そこで非合法な薬物を売買しているなんて話もまことしやかにささやかれていた。それが真実であり虚実であれ、今まではこちらから積極的に関わろとは考えたことがなかった。

 

 『驚いた顔をしているね』

 

 『ええ、まあ。噂とはだいぶ印象が違うなと』

 

 『その噂も、虚実織り交ぜ敢えて流しているものだ。時には多少は情報を流し、警察さんに手柄をあげさせることで良い関係を築くこともできる。それに今のご時世、単純にヤクザ屋さんの看板を掲げるよりも動きやすい』

 

 『社長、それは』

 

 『良い、彼は全て分かってきている。電話でもう話してくれていたよ。ようこそ、北村興行改め北村組に。座ってくれ、あの日の約束通り話を聞こうじゃないか。蓮人君』

 

 金を手に入れてからまず行ったことは、北村興行について調べてみることからだった。なにせ、色々と都合の良い土地を探すにあたり、これから行おうとしていることに理想的な土地というのはだいたいはこの組織が所有していたからだ。

 

 どれだけ看板をすげ替えようが、所詮はヤクザ組織。縄張り意識に関してはそこらの野生動物よりも敏感であろう彼等を無視することは、万が一がおこった時の対応が厳しい。それでも普通なら、そのリスクを呑み込んで計画を実行するところだが、なんの偶然か繋がりが一つだけあった。

 

 父に世話になったという西田成之。どういう繋がりで助けになったか、その詳細までは流石に分からなかった。だが、墓前でこの西田という男が父をアニキと言いかけたことから推測はできる。どういう風に足を洗ったのかは分からないが、要は父もその手の組織にいた人間だったのだろう。

 

 そして今は、それをわざわざ嗅ぎまわるつもりはない。重要なのはここからだ。

 

 『場所と人手を貸してほしいという話だったね。何故そんなことを?』

 

 『何故、ですか。貴方も持っている土地の活用方法を考えれば自然と分かる話だと思いますが』

 

 『あまり腹の中を明かしたくないのは分からないでもないが、そういう態度は感心しないね。少なくとも君は、頼み事をしにきた立場だ。いくら君のお父さんに借りがあるとしても、今時は仁義という言葉の価値と価格は大暴落している。それが分からない程、世間を知らない訳ではないだろう?』

 

 『……緊張しているんですよ。この手のことは初めてなもので』

 

 鞄の中から、写真を一枚取り出す。桐野鳴と、付き合っている男が肩を組んで街中を歩く姿だった。

 

 『写りが悪くてすいません。今時は興信所も、金を積めばなんでもしてくれるという時代でもないようで』

 

 写真を一瞥した後、西田はこちらを見た。顔にはまだ笑みが張り付いているが、その目は笑っていない。

 

 『真実を知りたくて。その結果によっては、あまり人には言えないようなことも』

 

 『詳しく話を聞こうか』

 

 梓の遺書を目にした瞬間、僕には確信と衝撃があった。あの遺書は、よく似せて書かれた偽物だ。

 

 高校受験の為に梓と長い間共に勉強を教えあっていたからこそ分かる。そして、その遺書は誰が書いたのかも。大学試験勉強で、そちらにも長い間勉強を教えていたから。

 

 あの遺書には、隠そうとしても隠しきれない桐野鳴が書く文字の癖がほんの僅かに、しかし確かに出ていた。梓の死が飛び込み自殺だと判断されたのは、荷物に残されていた遺書とそれに書かれた中学時代の虐めが原因であったと判断された。だがもし遺書が偽物だとしたらその前提が壊れる。

 

 梓は、殺されたのではないか。だがなんの為に、殺された。

 

 動機が分からない。証拠もか細いものだ。だがだからこそ、納得を求めたい。彼女はもう、後は幸せになるだけだった。人生、ようやく不幸の取立から解放されて僕が幸せにしてやるだけだった。その為に、中学時代は歯を食いしばり努力を続けてきたというのに。

 

 西田には、僕が桐野鳴が三好梓を殺害したことを確信に近い形で目星をつけていることを話した。震災を生き延びた、これから幸せになる筈だった最愛の人がどうして殺されなければならなかったのか。

 

 警察も司法も、探偵と呼ばれるような人種だってもう何年も前におきた自殺事件の調査に手を貸してはくれないだろう。真実を手に入れる為なら、非合法の手段に手を借りる必要がある。その為には、必要最低限のラインとして彼等が持つ土地が必要だ。人員を借りることができれば、なお良い。

 

 『まずは、お茶でも飲んで少し落ち着きなさい』

 

 話している間に視界が狭まっていたのか、目の前に置かれた紅茶に気づかなかった。品の良いカップの持ち手を掴み、一口だけ呑み込む。

 

 『話しを聞いて分かった。君が何故最愛の人が殺されたことに確証をもてたのかは聞かないうえで、なおかつそれが本当だったとしよう。その上で、私が言うことは一つだ』

 

 西田が両手を組みながら前に乗り出す。顔には笑顔は浮かべず、これはおかしな話ではあるのだが裏の社会で生きる人間にしては良識が前面に出た表情をだしていた。真剣に、心配して伝えているような。勿論、そういう仮面が役に立つ時が多いので、演技が上手いだけという可能性もあるのだが。

 

 『短絡的に行動に移さず、私の管理地でこれから行うことの協力を、もしくは見て見ぬふりをしてもらおうと交渉に来るのは、その慎重さから少なくとも考えを絶対に成功させようという気概も見て取れる。でもね、私がこういうのもなんだが、非合法というのは手を出せばリターンは大きいがリスクがあるからこそ非合法なんだ。得にならないことで地に足のついた生活をしている君が、わざわざ汚れる必要はない』

 

 『それは一般論ですか?』

 

 『一般論、もしくは世間では常識というがね。それで納得できないのであれば言い方を変えよう、我々のリスクとメリットが噛み合わない。我々は暴対法の中でも警察組織とも、多少持ちつ持たれつの関係を築いているのは知っているだろう?土地を貸すだけでも、万が一なにかあったら鼻薬の代金も安くないんだよ。日本は世界中でも、賄賂が効きにくい警察組織と言われているくらいだしね』

 

 山で死体遺棄をしようとした犯人が通報されて逮捕されるまでが、僕が住んでいるこの地域では非常に多い。それに適した場所は北村組が管理ないし監視をしているのだから、警察に情報提供をしているのではないだろうかという話すらある。

 

 そして、その噂は事実なのだろう。先程話にあった、警察にあえて漏らす情報というものにはその手の事件情報もあるのだろうから。だからこそ、少しでも警察に嗅ぎ付けられるのを遅れるように、もしくは完全に見つからない前提をだすならば北村組に話を通すしかない。レンタカーを借りて県外まで捨てに行くという手段もあるかもしれないが、可能ならば人手がほしいのも確かだ。

 

 『私が君にあの時名刺を渡したのは、早くにお父さんを亡くしてしまった君達のなにか助けになればと思ってのことだ。生活費とか学費、もしくは母子家庭故におきてしまう問題などを解決する為にね。いいかい?人を…』

 

 『その鼻薬代、用意できると言えばどうですか?』

 

 鞄からA4用紙をしまうことができる茶封筒を取り出し、テーブルの上に置く。茶封筒は長方形の形に複数膨らんでおり、封を解いて少し揺すれば百万単位でまとめられた札束が姿を現す。

 

 『これは?』

 

 『場所のレンタル代金と、考えてもらえれば。迷惑料金と、少し手を借りるうえでの手間賃として納めてもらえれば』

 

 全てを言い切る前に、身体が横に薙ぎ倒される。衝撃が頬から伝わり、少し遅れて殴り飛ばされたことが分かる。血がソファーのうえに垂れた。殴られたことで鼻血が出て来たのだろう。

 

 『お前、俺達を殺し屋とか掃除屋かなにかと勘違いしているんじゃねえか?金を積めば、言うことを聞くとでも考えているのか?』

 

 殴ってきた相手は、傍らで待機していたツーブロックの男だった。胸ぐらを掴まれて脅しをかけられる。秘書かなにかかと考えていたが、護衛でもかねているのか?先程の爽やかな笑顔がまるで嘘のようだった。

 

 『やめろ』

 

 『しかし社長、こいつの言い方は』

 

 『やめろ、と言っているんだ。二度言わせるのか?それに、そいつの目は怯えてもいないが死んでいない。腹を括っている相手に恫喝が通用しないのは、お前が一番よく知っているだろう』

 

 渋々と言いたげな様子であるが、胸ぐらから手を離される。改めて、僕が向かい合うのはこの西田という男だ。

 

 『ティッシュはいるかい?』

 

 『いえ…ハンカチがありますので』

 

 『ならば良かった。血が服を汚す前に使いなさい。だけど、部下が行った蛮行を謝罪するつもりはないよ。私達はこれでも社会の端くれだという自覚はあるんだ。殺しの片棒担ぎ等、はした金でやるとでも?まして君には、いくら動機があろうと泥の中に浸かるような道を歩むのはどうしてもお勧めできない』

 

 西田が紅茶を一口飲む。大金を見せれば、協力関係はともかく、少なくとも好意的中立くらいは築けると計算していたのだが対応を変える様子は見せない。どちらかと言えば、部下のことも考えれば大金を見せたことで心証を悪くしたような感じすらある。

 

 『人を呪わば穴二つ、なんて言葉もあるけどあれは決してオカルトではない。後ろ暗い過去がある者はこの先の人生、それをずっと引きずって歩くことになる。殺しともあればなおさらだ、殺人の時効が無くなりもう何年経つと思っているんだい?今時、十五年や二十年で逃げ切ればなんて話もないんだよ。この先君は、公権力の陰にずっと怯えて暮らすことになる。それを手助けすることは、君のお父さんには勿論お母さんにも申し訳がない。まだ帰る場所があるのだから馬鹿な考えは…』

 

 『母は亡くなりました』

 

 『それは、知らないかったな。申し訳ない』

 

 『西田さん。僕には引き返す道はありません。生きる意味が無くなったからこそ、僕自身が生きる理由を問いたいのです。その為ならば、貴方がたの助けを得られなければ僕は一人でもやるつもりでいます。どうしても僕は知りたいのです。なにが、どうして、何故、梓が死ぬことになったのか。その為ならば、金も惜しまないし先の心配も必要ない。警察や司法、探偵はすでに過去の、自殺として片づけられた過去を調査等してくれない』

 

 テーブルに拳を叩きつける。紅茶の杯が倒れ、握りこぶしから滲んだ血が液体と混ざり広がった。

 

 『その生きる意味を問う手段、君には本当にもうこんなことしかないのかい?』

 

 『残念ながら。今は真実を知ること、そしてその真実によってはいかに落とし前をつけるか。それ以外、なにをしていいのか、なにをしたいのか僕にはもう分からないのです。』

 

 『そうか……おい。若くて暇しているの、何人か動かせるか?それと、最近使っていない処理場の準備をしておけ』

 

 西田の言葉に、ツーブロックは驚いたように眉を動かすがすぐに表情が仕事のものに戻る。

 

 『問題ないです。しかし、多少金はかかりますよ』

 

 『かまわないさ。必要経費を払えるくらいの金銭は、彼が用意しているようだからね。さて、蓮人君』

 

 柔和な笑みを浮かべながらも、西田の表情は驚く程変化していた。優しい顔をしているのに、静かな威圧感がある。ここから先は、恩人の息子ではなく交渉相手としてこちらを見ているということか。

 

 『ここから先はビジネスの話に入ろうか。取り合えず、必要な物と人員、場所を言ってごらん。人を動かすには経費がかかる。分かりやすく、見積でも用意しようかな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六日後、僕は宿泊したホテル近くにある古い喫茶店に入る。

 

 待ち合わせを伝えると、奥のテーブル席に案内されそこにはスーツを着た男性が二人がおり立ち上がりこちらに会釈をした。代紋のバッチがないせいか本当にヤクザには見えない。

 

 『霧生院さん。頼まれていた男の調査が終わりました』

 

 『ありがとうございます。興信所も動いてくれない今、貴方達の情報が頼りです』

 

 茶封筒が受け渡され、中身を軽く確認すると数枚の紙と写真が数枚入っていた。

 

 『河野楽斗。城戸大学在学中で、来年には大手自動車メーカーに就職が確定しています。在学中はクラブに通ったりビリヤードのサークルに入り楽しんでいたどこにでもいるような気楽な大学生というところです。だけど、金遣いが荒く女癖が悪いという話もよく聞きますね』

 

 紙には、河野楽斗というあの日僕と完全に分かれを注げた桐野鳴が連れた男の詳細が書かれていた。交友関係によく出入りする店。周囲の評判に、おこしたトラブルの詳細やよく行くデートスポットまで。そして、笑えることにこの男はどうやら三股までかけているようである。数枚の写真はその証拠でもあった。

 

 『この短期間で、よくもまあここまで調べられるものですね』

 

 『ビジネスは情報が大事です。それに、多少非合法な手段を行使できるのが我々ですから』

 

 真面目な若いサラリーマンにしか見えないこの男も、ヤクザ組織の一員だと考えれば油断できない相手だ。インテリヤクザなんて言葉もあるが、北村興行では上から下までその手の人員がいると考えれば恐れ入る。

 

 『桐野鳴は、どうやら本命ではなく金を引いたり遊びの関係であるようです。就職しての行く引越し先の物件選びは、本命と探しています。これを暴露するだけで、相当なダメージになりそうですね』

 

 『いえ、それはしません。ですが、これで方針はだいぶ塊ました。考えていた作戦が使えそうです』

 

 桐野は、僕が大学の進学を諦めたことで捨てる決断をした。そして、貧乏だったり低学歴相手はしたくないという魂胆がある。チャラいが顔が良く、城戸大学卒業見込みで大手の就職が決まっている河野楽斗は是が非でも捕まえておきたい相手なのだろう。下手をすれば、別の相手がいると分かっていながら略奪愛を狙っている可能性すらある。

 

 『作戦ですか。我々としては、もう少し直接的な手段をとっても良いと思うのですが。その方が経緯もかからず、なによりてっとり早い』

 

 チラリと外に止まっているハイエースに視線を向けた。まあ、つまりそういう手段をとるならば余計な手間も時間もいらないと言いたいのだろう。

 

 『僕だけの行動ならば、リスクを計算して、充分に考慮したうえで短期の決着狙いに実行するかもしれません。ですが、今は人手がある。ならばじっくりと見極めたいのです。改めて、桐野鳴という人間を。もしかしたら、これから手にかけるかもしれない人物を』

 

 『そうですか。まあ、我々は社長の指示に従い、危険がない程度に手を貸すだけです』

 

 『ではさっそくお願いがあります。如月市で別荘を建築している伊藤建築。建築業と不動産や土地に強いそちらとは蜜月の関係と聞きます』

 

 『そうですね』

 

 『その建築物件、依頼主を一時的にでも良いので僕名義になるように工作をお願いします。かかる費用はまたこちらで、できそうですか?』

 

 『一時的にだけならば、いくらでも誤魔化すことができますよ。その後のっとるのでもなければ』

 

 『僕に別荘なんていりませんよ。あともう一つ、噂をばら撒いてほしいのです。僕が、成功したという噂をね。特にこの、河野楽斗の周辺で』

 

 黙っていたもう一人の男は、どこか呆れ顔のようなものを浮かべていた。自分がもし相手の立場ならばそれも分かるというものだ。だがしかし、これも桐野がどう動くの、どのような人間なのか本当に見極める為である。

 

 作戦は固まった。後は、準備をするだけだ。



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 『それで、行動に移したということは必要な情報はもう集まったということかい』

 

 裸電球が、隙間風で揺れていた。安普請ではあるが、普段は使わないということであまり修繕をするつもりもないのだろう。

 

 通話越しで、西田の声が響く。分かっている筈なのに、わざわざ聞いてくるとはなんとも性格の悪いことだ。

 

 『知りたいことは、おおよそは。あとは、本人に聞くことがあるだけです』

 

 『そうかそうか、それはなによりだ。因みにだけど、君に紹介した場所の詳細は知りたいかい?』

 

 窓の外を見ると暗闇が広がっているが、ポツンポツンと崩壊しかけの集落が点在しているのが分かる。

 

 『いえ、知っていますよ。旧澱集落ですよね』

 

 旧澱集落。犬鳴村のモデルになった、津山四十四人殺しの惨劇があったとある集落。その話題に隠れてしまうが、ここでも似たような事件が同時期におきていた。時代は戦時中、奇しくもかの殺人鬼と同じ身体的な原因で徴兵を受けられなかった村民が村人から差別され二十八人を殺した後村の猟師に射殺されたという。

 

 その後も村民は住み続けたが、交通の不便さもあり戦後の高度経済成長期を境に人口は激減。大規模な地震からの地滑りまでおき村落の七割を呑み込んでしまった後、行政の指示により生き残りの村民は麓の街に移り住んだ。

 

 一時期、心霊スポットとして注目を浴びたこともあるが、六年程前肝試しに来た大学生が熊にバラバラにされて殺される事件もあり、厳重な封鎖がされたことにより近づく者はいない廃村となっている。

 

 他にも、古い山岳信仰から神隠し伝説もあり、カルト宗教が本拠地を構えて怪しげな儀式をしていた。二十八人を殺した殺人鬼の亡霊が現れる。ヤクザがクスリの取引に利用している。この先日本国憲法が通用しませんとどこかで見たような看板がある…等と様々な噂が流れている。

 

 『ここの噂は、そういう話に疎い僕でも知っています。本当にここで大丈夫なんですか?』

 

 『ここに来る大抵の連中は、山道から近い第一澱集落で大抵満足して引き返す。今お前さんがいる第二澱集落は、今は絶滅危惧種な地元を知る人間じゃなければ大抵は分からないよ。ああそれと、熊が出るのは本当だから気をつけるようにね。因みにカルト宗教がいたっていう噂もね。幽霊は出ないけどさ』

 

 それは、ここには何人か既に埋まっているということか?どれだけ悲惨に殺しても、亡霊の一つ出てこないならば心霊現象等やはり存在しないかもしれないな。

 

 『それで、始めるのかい?なにかやり直しややり残しはないかな?それと、今ならまだ引き返せるということも老婆心ながら伝えておこうと思うよ。ギリギリまで、選択権は君にある』

 

 『これの為に数か月、我慢を続けていたので。留まるかどうかは、真実次第でしょうか』

 

 『そうかい。では、努力が報われないことを祈っているよ。こういうのもなんだが、何時だって最終手段というものはとらないにこしたことはないんだからね』

 

 通話が切れる。ここは普通の携帯電話じゃ通話すらできない秘境中の秘境であるのだが、なにやらデカい棒が伸びている古くてデカい電話でようやく可能なくらい通信も悪い。

 

 裸電球の灯りを決して、ライトをつける。床下にひかれた古いマットを引きはがすと、床下に続く木製のハッチが現れた。聞いた話では、元々は地下室の食料貯蔵庫があったらしい。個々から先は、件の携帯でも通話ができなくなる。

 

 階段を数段降りて行き、建付けの悪い扉を強めに押し開く。この洗礼されていない微妙な不便さと古臭さが、偏見ではなるだが過疎集落や廃村の建物なんだなと勝手に感じた。

 

 廃村に電気が通っている訳がない。先程の裸電球は持ち込まれた小型のバッテリーでついていたが、地下にはなにもない。空気はヒンヤリとしており、ライトの灯りを消したら真の暗闇であり、水滴が落ちる音と鼠が走る音くらいしか聞こえない。こんなところに、視界を制限されて放置されたら心も折れるだろうという。

 

 マッチを擦り、ランプに明かりを灯す。暗闇が明るく照らされ、無機質な岩肌と食料を保管していたと思われる古い棚。そして鎖付きの手錠と、鎖に打ち込まれた古くて大きい釘。両手を上にするように拘束されズタ袋を被る女が一人。

 

 『スタンガンで一発、身体は傷つけていないか。妙なところでプロ意識が高い仕事ぶりだな』

 

 ズタ袋をとってやると、桐野鳴がそこにいた。デートの帰り際拉致されたということで、その姿は二日前に見たままだ。水くらいは飲ませてもらっているようだが、だいぶ衰弱している。つまり、心身ともに余裕がなくなっている。今ならなんでも聞き出せるだろう。

 

 『……うっ』

 

 『おはよう桐野。具合はどうだ?』

 

 『レント君?私…なにがあったの?助けに来て…くれたの?早く、早く助けて』

 

 『思っていたより元気そうで安心した』

 

 床に倒れた椅子を立てて、その上に座り込む。さて、それじゃあどこから始めようかな。

 

 『なにしているの?』

 

 『質問コーナーの設営準備。もう終わったけど』

 

 『なにそれ…頭おかしくなったの?それとも、これはアンタの仕業なの?アタシ達、よりを戻して付き合っていたんじゃないの?』

 

 そうだな。偶然ホテル前で再開して、彼氏に遊ばれて捨てられたとかいう戯言を信じてあげたふりをして。再開する約束と出会いを繰り返してよりを戻したんだったな。まずは、そこから正そうか。ここから更に追い詰めてやった方が、余計にボロがでるだろう。

 

 『ほい』

 

 レコーダーのスイッチを入れる。どこかの盛り場なのだろうか、ガヤの音を背景に聞きながら男女二人の声が流れた。

 

 【あの冴えなさそーな男がマジでそんな金持ちにか?確かに、そんな噂は俺の周辺でもよく聞くけどよ】

 

 【それが本当みたい。同窓会で恥かいちゃったけど、凄い話聞けたのよ】

 

 【まさか、よりを戻すつもりじゃねーだろうな。金で過去に捨てた男になびくのか?君は俺のお姫様だろう?】

 

 音声を聞き鳴の血の気が引いた表情がさらに青ざめていく。これだけでも、わりと楽しいものだな。胸糞悪い話だが。

 

 『それって』

 

 『黙って聞いてろ』

 

 【そんな訳ないじゃん。あんな退屈な低学歴に今更乗り換えるなんて。でも、お金を持ってるは確かだし、アンタの希望を叶えてあげられると思って】

 

 【あん?】

 

 【ほら、アンタ前から結婚したくないって。今の関係をこれからも続けたいってさ】

 

 この件を始めて聞いた時、最初笑ってしまった。結婚したくないんじゃなくて、他に本命がいるっていう意味なんだよな。本当に、知らぬが仏というべきか。

 

 【金もってるのは確かだし、アタシが引っぱってくるよ。よりを戻して、既成事実作ってアイツと結婚して離婚する】

 

 【アイツとガキでも作るのか?】

 

 【な訳ないじゃん。先にアンタと子供作ってアイツのガキだと言い張るよ】

 

 【それって、ガキ連れて来るのか?俺そういうの嫌なんだけど】

 

 【まさか。クソ真面目な奴だから托卵なんてことも気づかないでしょ。養育権放棄すれば養育費はもらえないけど、余計な瘤もつかない。金はもってるから、慰謝料だけでもたんまりもらえばさ。アンタとアタシの結婚資金にでも…】

 

 『もうやめて…』

 

 個人的にも、これ以上聞いていても仕方がない。ボイスレコーダーの録音を切って、床の上に放り投げる。

 

 『お願い、聞いて。これには訳があるの』

 

 『ちなみにこの密会現場の写真もある。この状況でどんな弁解が出て来るのか気になるところではあるけど、生憎とそちらに関しては目的としては主題じゃない』

 

 え?とでも言いたげな不思議そうな表情をする。場合によってはこれだけでも殺意を抱く対象にもなりそうだが、こちらとしては心をへし折ってから聞きたい情報を吐かせるための布石にすぎない。こちらも、今この瞬間スムーズに話を進める為の偽りを重ねている為ある意味ではお互い様であるのだし。

 

 『本題って?』

 

 『メインの前に、まだ話すべきこともある』

 

 椅子から立ち上がり、手の中でビニール紐で括られた鍵を弄ぶ。食料保存に使われていたと思われる棚。鍵穴を差し込んで、少しの抵抗を受けながら回してやると施錠さえていた扉が中に入っていたものが重力に従い横倒しに落ちて来る。

 

 使わない布団を保護する為のカバーのような大きさ。いや、もっと近いものでいえば死体安置所とかで遺体を入れておくあの寝袋のような大きさ。中には、まるでパイナップルでも詰まっているかのようにゴツゴツと表面が浮き出ていた。

 

 ジッパーを開ける。桐野が息を呑んだ悲鳴をあげたのを聞いた。事前に聞いていたが、これは確かに僕自身でも驚いてしまう。

 

 『……だれ?』

 

 『おいおい、まさか分からない訳……あーこりゃ分からんな。面、誰だか分からんなんて言いたくなる惨状だ』

 

 瞼が青くはれ上がり、頬には焼き印でも押されたのか円形状に酷い火傷が浮き出ている。瞼の裏側で眼球でも破裂しているのか白い液体のようなものが垂れたままとなっており、鼻も折れて曲がっている。歯も全部抜かれている。これは聞いたことがある話だが、歯を全部抜くのは歯型から死体を特定されないようにする為だとかなんとか。

 

 『河野楽斗。県内一、全国でも有名な城戸大学卒業間近。有名大手に内定済みで、これからの人生バラ色が期待された超有望株。お前が好きそうな男だよな本当に』

 

 『なんで!?なんで楽斗君が!?』

 

 理由を答えるならば、この河野楽斗という男は調べれば調べる程粗というか錆というか、心底真っ黒な男だったからだ。

 

 女を何股もかけているなんてまだ序の口。僕も不思議に思っていた、何故西田の組織にいた人間がほんの少し調べただけでこの男の詳細が出て来たのか。実はなんのこともない、初めから河野楽斗はマークされていた。

 

 『手ぇだしちゃいけない女に手をだしたからだよ。あと、それで破滅した女も多い』

 

 写真を数枚床の上に放る。今となっては見る影もないが、容姿の端麗とも言える河野楽斗。普通に女を漁る他にもママ活やパパ活の斡旋にも手をだしていたらしい。自称、成績有望ではあるが授業料に困る苦学生。恋人やママ達やどちらかと言えばランクが低いキープに金を巻き上げていたようだ。

 

 まだそれだけでは、なにも目をつけられる程でもなかったが、問題なのはキープの女達に闇金で借りさせその金を溜め込んでいたことが発覚した。所詮闇金だから踏み倒しても問題ない。免許書や住所を提示されても適当に用意した偽物や関係ない住所等を言い渡し金を巻き上げていたようだ。

 

 それだけならば臓器売買やカニ漁船にでも乗せるところかもしれないが、もっとやばかったのがママ活でひっかけた相手が北村興行より一つ上である西日本で一番デカい本家に勤めるお偉いさんの妻であったこと。

 

 貢がされたことを知り怒り狂ったその人物は北村興行に素行調査を依頼。行動が明るみに出れば、まず闇金から債権を半ば強引に買い取り北村興行に落とし前をつけるように下知を下した。なんせ、表向きは土地の運営を得意とする北村興行はそういうものの処理も上手い。一足先に連れてこられ、散々痛めつけられた結果がこれということだ。

 

 僕の調査依頼はあくまでついで。でもそれなら、処理する前に心を折る為の脅しに使えということだろう。

 

 『桐野。お前はキープの中でもギリギリパパ活っていうか、売春斡旋には回さない程度に気に入られていたみたいだな』

 

 『嘘…だって。楽斗君、何時も私だけって…姫だって』

 

 『キープが多すぎて、全員姫呼びして名前が覚えきれなかっただけだったりしてな。まあ、そんなことはどうでも良いんだよね。これを見せた理由は、僕の本気度を分かってもらう為であるし』

 

 椅子に座りなおす。河野楽斗もそいつと共謀した慰謝料計画もどうでも良い。桐野は今のところ僕一人の単独犯だと思い込んでいるだろう。ならば河野楽斗も僕が殺したと思い込ませておいた方が良い。

 

 『本気って?』

 

 『これから話すことに正直に答えること。嘘だと分かったら、真偽を確かめる前にこうなる。ダラダラ時間をかけたくないから、手早くいこうよ。因みに、嘘をついたらすぐ分かる証拠は全て集めている。矛盾があったら、ペナルティーを受けてもらおうかな』

 

 ようやく本題に入れる。ここまで必要だったとはいえ、随分と遠回りをしたものだ。

 

 『三好梓を覚えているか?』

 

 一回頷く。目尻に涙が浮かんでいるが、別にそれを見てもなにも思わない。だがその顔が驚愕で固まっているのは、過去の悪事がバレていると気づかれたからか、それとも思いもしない名前が出たことに驚いているのかどちらなのかは見極める必要がある。

 

 全て証拠を集めているというのはブラフだ。そんな証拠があったら、こんな尋問だか拷問だかの真似事なんてしていない。だが、効果的ではあるだろう。

 

 『まずはおさらいといこうか。三好梓、彼女は僕と君が通っている高校が内定していた。家庭環境に問題こそあり虐め問題もあったものの、あと少しで中学卒業し今までの面々とも別になる新生活が始まるタイミングで自殺をするのは違和感があると思わないか?』

 

 『なにが……言いたいの』

 

 『僕には違和感しかなかった。だけど、直筆の遺書と家庭環境に虐め問題、新生活に対する鬱。そしてなにより震災で生き残ったことで発症してしまうというサバイバーズ・ギルトもあったのではないかという結論が出てしまった』

 

 サバイバーズ・ギルト。精神医学の分野ではPTSDに分類される症状の一つである。ナチスが行ったホロコーストや、日本ではJRの某電車が脱線した大事故で生き延びた人間が発症したことから認知度が広まった。

 

 戦争、災害、事故、虐待。そんな衝撃的な体験をして他者の間近で見ながら生き延びた人間が発症してしまう心理的な症状であり、生き延びたことへの罪悪感に心身共に蝕まれてしまう。

 

 例えばの話だが、カルネアデスの板という逸話がある。

 

 紀元前二世紀頃のギリシャ、船が難破をし命からがらしがみついた板。その板は一人しか掴まることができない。だがしかし、もう一人の船員が今にも溺れそうな状態で板を掴もうとしている。その溺れそうな男を押しのけることは罪か否か。

 

 押しのけた男は罪に問われることはなく、日本でも刑法第三十七条の緊急避難というものがありこれに該当すれば罪に問われない。だがしかし、いかに罪に問われなくても助かりたいと手を伸ばす人間を押しのけた罪悪感は消えるものではないだろう。

 

 あの震災では沢山の人間が亡くなった。誰もが自分のことで精一杯であり、他人を助ける余裕なんてもてた人間は極少数だ。それは善意も悪意も関係なく、誰もが多かれ少なかれ経験したことだった。

 

 梓は、実の母親が伸ばした手を踏みつけて逃げ去った。心の中では罪悪感が芽生えていても不思議ではない。今にして思えば、サバイバーズ・ギルトの症状と言われているモチベーションの低下は自身の虐めについて解決に動こうとも逃げようともしないこと。組織に対する忠誠心の減少や引き取った家族やクラスメイトに馴染むことを半ば放棄していた行動にでていた。

 

 素人の付け焼刃な知識での診断であるが、そうまで間違っていたとは思わない。そんな背景があったからこそ、警察も突発的な自殺と判断したのかもしれない。フラッシュバック等よくおこることで、僕だって揺れる電灯の紐を見て地震を思い出すことがあった。

 

 だが、そんな背景を踏まえてもなお彼女が自殺したのではないと断言できる。

 

 『三好家に、彼女が書いたとされる直筆の遺書が残っていたよ。意外だった、仲が悪かったし処分されているものだと思っていたよ』

 

 桐野鳴の顔は更に血の気が引いて土気色なっていた。だが、言葉を続ける。

 

 『僕は、梓と同じ西日本大震災の被災者だった。自殺したと聞いて、納得できないと同時にもしかしたらと心の中で考えていたのも実は否定できない。だけどさ、僕は梓や君と付き合ったからこそ分かることがあった』

 

 三枚の紙を取り出す。一枚は、梓の高校受験の為に一緒に勉強した時のノート。これは三好家に残されていたものだった。そしてもう一枚は例の遺書。最後の一枚は、桐野鳴と大学受験をした時に僕のノートを間違って使った際に残ったこの女の文字。

 

 『僕は三好梓の筆跡と癖も、君の書き方の癖字と特徴もよく分かる。二人に勉強を教え続けてきたからね。だからこそ、気づいた。この遺書、確かに似せるように書かれていた。君の勉強を何度も見ていなければ気づかなかったかもしれない。この遺書、書いたのは君だよね』

 

 三好は、首を左右に振る。猿轡もしていないのに、声も出さずに泣きだしそうだ。

 

 『本当に?』

 

 今度は首を激しく縦に振った。

 

 ため息をついて、ポケットからペンチを取り出す。河野楽斗の遺体袋から腕を取り出し、その爪にペンチを引っかけた。少し力を入れて引っ張ると、粘着質な音を立てて人差し指から爪が剥がれ落ちる。

 

 『指先と足の指ってさ、神経が集まってるから痛いんだよね。もっともポピュラーな拷問法だって教えて協力者の人に教えてもらったよ。君がどんなに嘘をついても、こういうこともできると知れば嘘をつけなくなるよね。痛いのを見るのも好きじゃないし、なるべくならやらせないでほしいな』

 

 相手は戦場あがりの兵士でも屈強な男でもない、普通とは言い難いが平和な日本で産まれて生きてきたただの女性だ。それだけで、なにやら床に水音が広がり湯気がたってきた。それを笑うことも指摘もしない、逆の立場だったら僕だって怖いに決まっている。だから、確信をもってやる。

 

 手枷がはめられた腕に近づき、よく手入れされた長い爪をペンチで挟み込んだ。

 

 『じゃあもう一度聞くけど、この遺書は君が』

 

 『書いた!アタシが書きました!だからやめて!お願いしますやめてください!』

 

 『そうか分かった。じゃあ、なんで駅のホームから梓を落としたの?』

 

 こんな遺書を書いたからには、それが冗談ですまなかったということは行きつく先はそこだ。

 

 梓が飛び込んだあの時間帯は、学生には春休みであるが社会人には平日の日常。混雑する駅中で、人混みに紛れて遺書を鞄に仕込み背中を押した、なんて光景が頭に浮かび上がる。あの駅には監視カメラはあったが、不運にも人混みの死角になりそれが映ることも、目撃されたこともなかったのだろう。

 

 遺書だけなら悪質で陰湿な虐めではある。だが、殺しとなってしまえばそれは計画性のある犯罪だ。それを示す証拠等、時間経過と共に何一つ無くなってしまったが。無理だと分かっているが、何故もっと早くその可能性に気づかなかったのか。

 

 同じ高校に通うんだから仲直りしよう。一緒に入学後必要になりそうなものを買いに行こう。もしかしたらこんなことを言っていたのかもしれない。僕が見る限り桐野鳴は梓の虐めに関与はしていなかったし、前向きになっていた梓は自分を変えるきっかけにと了承したのだろう。

 

 もしそうであったら、カバンにこっそり遺書を仕込むことくらいできるかもしれない。そして、あの殺人事件はおきてしまった。

 

 『何故、梓が死ななければならなかったんだ?』

 

 一番知りたいことはそこだった。何故、この女は梓を殺したのか。

 

 『あの子が…憎くて、嫉妬したなんて言ったら…信じてくれますか?』



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10

 『嫉妬?』

 

 意味が分からない。

 

 桐野にはなんでもあった。ダンス部でエースを張れる身体能力も、多数の友達を持つコミュ力も、温かい家庭や金持ちの両親だってなんでも持っていた。そこからなんで、嫉妬なんていう言葉が出てきたのが理解ができない。

 

 『まさか』

 

 信じられないという感情が表情に出たのか、こちらの様子を見て少し桐野の雰囲気が変わった。

 

 『三好梓は、協調性もないし喋りかけてもボソボソと話してこっちを避けるだけ。それなのに冷めた目でこっちを見下しているような雰囲気があった。自分はここの連中の誰とも違う、特別な存在なんだと言いたげのね。そんな陰キャなのに、なんでアンタはアイツを構ったのか』

 

 『梓は、僕と同じ震災被害者だ。だから…』

 

 『当時のアタシは本当に貴方が好きだったの。周囲と上手く馴染みながらどこか遠くを見ているのが魅力的だった。それに正直言って、あの子に負けているところは一つもないのになんでアンタが三好梓に惹かれているのか理解ができなかった。あんな子がアタシのほしいものを奪っていくなんて許せないでしょう?』

 

 こちらの動揺をとったのか、急に堰を切ったように話し始めた。桐野が梓を虐めなかった理由は、単純に関わるまでもないと考える程見下していたからか。そして、手に入れられないものがそんな見下していた相手にとられそうになっていたことがそんなに悔しかったのか。

 

 『このままだとダメだと理解したから、強硬手段をとらせてもらったのよ。でもさ、アンタって外面は良くても中身はなんにも詰まっていない。それでも、将来性に投資していたつもりが気づけば要介護の親を持つ高卒なんてそんなオチがある?お金にも苦労して、介護に時間をとられて、そんな将来、労力と対価が伴わなくて全部後悔した。自慢できるアクセサリーにもならない。今している、しみったれた面を見ていたらなおさらそう思う』

 

 『……はは』

 

 中身はなにもないか。確かに今まではバイト尽くしで青春を蔑ろにしたかもしれない。これから幸せにしたい人達はみんな亡くなった。そうなってやっていることと言えば、こんな薄暗い地下室でもう出会うこともないと考えていた女に大金使って過去をほじくり返していることくらいだ。

 

 桐野の無念を晴らそうとか、そういうことすら考えていなかった。何故とどうしてが氷解した今、僕がこの先やりたいこととはなんなのだろう。

 

 『お前の言う通りかもな』

 

 部屋の隅にあった鉄パイプを拾う。

 

 『殺すの?考えなおしてよ。殺したら後悔する。今のアタシのように、過去がいきなり襲ってくるよ。きっと逃げられない。殺さない方が良いと、殺さなくて良かったと絶対思うよ』

 

 『梓の手向け、なんて考えてもしょうがない。これで過去との決別がつくのかと考えてみたけど、多分失ったものは一割も戻らないだろう。ならば自分の為にこれ以上罪を重ねてしまうのは良くないからやめようか?今なら刑期も十年以内ですむかもね』

 

 梓のことはこの先も引きずるだろうし、こいつを殺したところでその瞬間だけ気持ち良いだけだろう。自首なりなんなりしたところで、どうせこの先のことを考えたら刑務所にいるのも外にいるのも代わらないか?なら大金でも使って無意味に豪遊する?いや、あの金は富田さんのものだ。これ以上無駄に使えない。

 

 『そうだよ、だから』

 

 『でもさ、例え刑期が十年だろうと無期懲役になったとしても僕はこの先なにも代わらないよ』

 

 せめて劇的な動機があったのならば、殺さなくてはいけない理由があったのならば、誰もが同情するような背景があったのならば。何故梓が死んだのか、その死に意味はあったのか?何度も自問自答していた解答を求めていたが、考える限りのくだらない理由だった。

 

 梓は、無駄死にした。その解答が僕が生きて来た理由、最後の疑問の答え合わせだ。

 

 『無意味に殺したならば、無意味に殺されるべきだ。僕も、そうなるかもね』

 

 握った鉄パイプを振り下ろす。悲鳴のような、制止の言葉が途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『やったのか?』

 

 やることをやり終えて外に出ると、ツーブロックの男がいつの間にか来ていた。取り巻きの者達も、会社で見たのとは違いどこかチンピラ風だ。こういう汚れ仕事なら、それに相応しい人材がいるということか。

 

 鉄パイプを放り投げる。ライトに照らされたそれには、赤いものと髪の毛が巻き付いていた。殴打している最中、殴る感触が耐えず手に伝わっていたのだけを覚えている。顔面の原型が無くなったから、一度手を止めたら深呼吸のような変な息を二回して動かなくなった。

 

 何回か命乞いをしたような気もするが、もう意図して聞かないようにした。どうせこの先、ここまで顔面が変形したらこの女は生きてはいけないだろう。これでも、昔は好きだったなと考えるくらいには気持ちは摩耗していなかった。逆に言えば、それで手を止めない程度には摩耗していたか。

 

 無意味に殺した者は、無意味に殺されろ。

 

 頭に衝撃。正面から倒れ込み、地面に生えた草が口の中に入った。液体が後頭部から垂れる感覚がある。

 

 『社長が何度も言った筈だ。最終手段は可能な限り避けた方が良いとな』

 

 ツーブロックに髪の毛を掴まれ、持ち上げられる。ヤンキー座りをしながら口に煙草を加えている様は、ヤクザっぽくて様になるものだ。どうでも良いが。

 

 『うちの管理で運営している処理場での殺人だ。足がつかないように、外部のもんはこうすると決めている。自分で手をだした、下手人ならば尚更な。どこからか足がついて捕まっても、自首されても、困るしな。おい、トドメさせ』

 

 再度衝撃が頭を襲う。後頭部がえらいことになっているせいか、視界に赤色が広がり光がチカチカし始めた。

 

 『おい、こいつの家の鍵と財布にカード類はちゃんと確保しているか?まだたんまり金を持っているだろうから、それも有効活用するぞ』

 

 ポケットから財布を抜かれる。強盗殺人、でも僕の遺体は見つからないから失踪扱いか。

 

 どこまでも金か。口封じも目的だけど、それならば死人を増やして負担を増やす代わりにひと稼ぎしようとも思ったか?どいつもこいつも、似たようなことで他人を蹴落とせるものだ。それとも、それはそんなに良いものなのか?偶然僕が手に入れたこれは、そこまで良いものなのか?

 

 誰もかもが自分勝手に生きた。そのツケを払わされた梓は、なんの為に産まれたのだろう。そして僕は、なんの為に生きて来たのだろう。

 

 急に視界が明るくなった。山の向こうから、太陽でも現れたかのように周囲が照らされる。足と手に力が戻った。僕は、その明かりに向かい歩きはじめる。理由は特にはない、どこにいっても同じならば前に歩いてみようと思っただけだ。

 

 想像以上に足裏に力が入った。身体が軽く、ついさっきまで頭を殴られ這いつくばっていたとは思えない程だ。いつの間にか、頭の痛みも引いている。これは、僕は死んで幽霊のような状態にでもなったのだろうか?

 

 『おい、なんで動けるんだ!殺すつもりで殴ったんだろうな!?』

 

 『クソ、なんだこいつ!明かりもなしにどこにいくつもりだ!?』

 

 『逃がしたら殺される!捕まえてトドメを刺せ!』

 

 後ろから声が聞こえるが、ドンドン離れていくのを感じる。光はいつの間にか夜の闇を晴らし昼間よりもなお明るく周囲が輝いていた。

 

 【決めました】

 

 頭の中で反響するような声が聞こえた。やまびこのように、山々をこだましているようにも聞こえるが、それは大声のようなものではなく耳元で囁かれているようにも感じる。とにかく、不思議な声だった。

 

 『なにが』

 

 【レント=キリュウイン。人の業に触れ続けた青年。人の欲に絶望した人間よ。貴方を招きましょう、全ての人間にあまねく福音を届ける為に。人が真の姿、清く正しい存在に昇華させる為に】

 

 『……はっ』

 

 気の利かない幻聴だ。そんなどうでも良いことを頭の中で囁くくらいならば、出来るならば父や母との思いでや梓と過ごした時間を走馬灯で再生してほしかった。それに、こんな状況だというのに反論だって湧いてくる。気持ちが妙に軽いせいもあるだろうか。

 

 【なにか?】

 

 『別に、欲に絶望なんかしていないよ。むしろ、今は興味をもったくらいだ』

 

 他人を蹴落とし、金を稼いで好き勝手使い、身勝手な理由で場合によっては命すら奪う。その快感というものをまだ僕は知らないのに、勝手に欲望に絶望してはいけないだろう。

 

 『清く正しいってどういう意味だ?』

 

 人間がそんなものであるとは到底思えない。逆に、清く正しくないから人類はここまで発展してきたのではないだろうか。例え人間が土くれから生まれようが、猿からの進化だろうが、その他の要因からだろうがそれは変わらないのでは?

 

 『福音だとかいうのなら、神様かなにかなのかな?清く正しい人間ってアンタから見れば、どういう人間なんだ』

 

 地面が斜面となる。獣道のようなところを昇り続け、光に照らされる方向に向かった。足を止めれば、追いつかれて今度こそ殺される。殺される前に、この幻聴がなにをほざくのか聞いてみたくなった。

 

 その解答を聞きたいが為に、足を進める。信仰心にでも急激に目覚めているのかもしれないが、聞いた言葉に……神言に僕は笑った。

 

 心の底から笑った。流石は神様、傲慢で力づく。いやはや、こんな戯言を聞くことになるとは思わなった。こんなに愉快な妄言を聞けるならば興味範囲の外だった宗教学でも勉強しておくべきだっただろうか。

 

 『そんなことが可能だとは思えない。まるで原始共産主義よりもタチの悪い荒療治、いやユートピアか。確かにそれは、神様が真に臨んだ人間なのかもな。リンゴを食わなかった世界線でもあるのか?笑える』

 

 【人は間違った方向に進んでいます。それを正すには貴方の言うところの荒療治が必要なのですよ。そして、貴方はその使途となれる。私が世界を除き続け、選んだ貴方ならば】

 

 『悪いけど、慈善事業はできる身体に見えるか?』

 

 【貴方にはあらゆる力を収める為の器がある。怪我等問題にすらなりません。貴方は力を好きに振るえば良い。その代わりに、私の行いに協力をすれば良いのです】

 

 『僕がやりたいことは、神様のやりたいこととは真逆のことだけど?』

 

 誰もがかれもが惹かれる欲望。金や、裏切り、使い捨て、甘い言葉で誰かを囁きそれを利用し裏切る。やられたことを、やり返す。それを果たさないと、神様とやらが語る大層な妄言には付き合えないだろう。

 

 いつの間にか、光の発する終点に辿り着いていた。終点があったことに驚きながらも、古めかしい鳥居が見えた瞬間どこか納得してしまった。八百万も神がいればとんでもないことを言いだす者がいても不思議ではないだろう。もっとも、この幻聴と幻覚が頭に受けた衝撃ではないとしたらだが。

 

 光は古い、管理を何年もしていない神社の中から漏れていた。扉を開くと、内部も光のことを考えなくてもだいぶ奇妙だ。

 

 神社の祀られていたのは、井戸だった。床の一部がくり抜かれており、一段低くなっていた場所に、まるでホラー映画に出てきそうな古めかしい井戸だ。

 

 【経過は好きに過ごせばいいのです。最終的に、貴方も納得する。いや、せざるを得ないでしょう。さあ、こちらにおいでなさい。人類史に偉大なる一歩を刻む為に】

 

 『前向きに自殺させてくれるとはね。至れり尽くせりだ』

 

 不思議となにも感じない身体が最後に見せた奇妙な現象。僕はそれを受け入れることにした。どうせ、このままでは死ぬのみだ。僕を終わらせる要因は、僕自身が良い。こんなことでまで、誰かに振り回されるのはごめんだ。

 

 ただし、本当にこれが神様の示した道というのであれば。

 

 『僕は僕の好きにやらせてもらう。体験もしていないことに否定はできない。ひとまず、誰かを利用して、蹴落として、甘言を囁いて、快楽にふけるような生活でも送ろうかな。その上で、その目的とやらに付き合わせてもらうよ。最終的にどうなろうが、どうでも良いしな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『いたか!?』

 

 ツーブロックの男が叫ぶ。後頭部に致命傷を二発もらった半死人が、まるで明かりの中を歩くように足取りを確かに暗闇を駆けて行く。西田より裏側の仕事を任されていた男にとってそれは初めてのことだった。ここで取り逃してしまうのは、過去最悪の汚点だ。

 

 血痕が廃神社にまで続いているのが見えた。鳥居はなにがあったのか半分焼けて崩れており、その神社の名前を確認すらできない。

 

 部下がライトを照らしていくと、苔むした石床に血が続いている。神社の本殿に逃げ込んだか。

 

 追いかけながら、本殿の扉を開ける。誰かがその不気味さに呻くような声をだす。

 

 かつてカルトがここにいたと聞いたことはあるが、連中がやっていったのか本殿の中は古めかしいお札が大量に張られており、そのうちの半分以上が火であぶられたかのように焼け落ちている。

 

 祭殿がある筈の場所には黒塗の井戸が存在していた。注連縄もライターで焙られたかのように焼けて落ちている。所詮それだけの狭い空間だ。だがそれなのに、奴の姿はどこにもなかった。

 

 『いない』

 

 『血はここにしか残っていないのに』

 

 軋む床を歩む。血痕は、井戸まで続いておりそこで途切れている。もしや井戸の中かと考えたが、井戸じたいが頑丈な石の蓋で封をされており更にその上を古いが頑丈そうな木材を釘で打ち込んで誰にも開けられないように封印されていた。よくみたら、コンクリートも使い執拗にあかないように補強もされている。

 

 『まさかな』

 

 聞いたことがある。ここで活動していたカルトは、山岳信仰の類を盲信していたと言われている。そして、ガキの頃祖母によく聞いていたが山岳信仰には神隠し伝説がセットになっていることも多い。悪いことをしている子は、山の神様に連れて行かれるとよく脅されたものだ。

 

 『知恵の回るガキだ。よく探せ、必ず近くにいる筈だ』

 

 男はそう言いつつ、背中に一筋の汗をかいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「今日もお仕事頑張ったぞいっと」

 

 独り言を言いながら、鍵を開ける。ただのバイトから雇われとはいえ店長になった手前これまでのように好きにはできなくなった。だがしかし、思いのほか今の生活も悪くない。

 

 悪いところは少しづつ改善、良いところは更によく。そんなものは誰もが考えることではあるが、それを鼻で笑うか少しでも考えて実行するかは別問題だ。少なくとも、バイトの離職率を少しでも下げられるようになってくれないかなと思っている。

 

 「あ、どうも。富田光宇さんですか」

 

 マンションの部屋に入ろうとした瞬間、声をかけられる。丁度配達をしてきた配達人の兄ちゃんがデカい段ボールの大荷物を抱えながら額に汗を浮かべていた。いやはや重そうだ。

 

 「実はそれ、コウじゃなくてピカチュウって読むんですよ」

 

 「へ?え?ピカチュウさん?」

 

 「配達お疲れさんでーす。でも、誰からだそんな大荷物」

 

 今の俺にそんなデカい荷物を送る人がいるだろうか。アマゾンで買い物をした覚えもないし、詐欺みたいなもんだろうか。

 

 「えっと、霧生院蓮人さんって人から。支払いは既にされているので、受取の印だけお願いします」

 

 「は?レント?分かりました。とにかくサインで良いですかね」

 

 兄ちゃんからボールペンを借りて受取受領に名前をかく。部屋の中に荷物を運びこむと、ようやく重さから解放された兄ちゃんが怨めしそうに荷物をみた。確かに受け取ったが、かなり重い。なんだんだこれ。

 

 段ボールには、キャリーバックと書かれていた。カッターで中をのぞくと、赤色の馬鹿デカいキャリーバックがスペースのほとんどを占拠していた。いや本当にでけーなこれ。特注?こんなの普通の店では見ないぞ。

 

 だがそれにしても、この重さは不自然にすぎる。バックの中にはなにかが詰まっているように感じた。

 

 鍵を使いバックを開けると、中には万札が束となり限界近くまで詰まっている。驚きで短い悲鳴をあげてしまいそうになったが、よく見るとバックの内ポケットに茶封筒が入っていた。嫌な予感がして、金は一度置いておいてその茶封筒を開く。

 

 【万が一、僕が戻らない時に備えて手つかずだったお金をお返しいたします。もしも、最悪なことがおこれば、全額返金はできないでしょう。最後まで迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。どうか、姿を暗ましたなら探さないでください。警察にも相談しないでください。今後、霧生院蓮人は死んだものと考えていただければ幸いです。僕の人生で、家族や三好梓以外でここまで僕のことを考えてくれた貴方だけでした。貴方の今後を、心の底から祈っています。本当に、本当にありがとうございました】

 

 手紙が、水滴で濡れる。力を込め過ぎたようで、クシャリと紙が歪んだ。

 

 「生きて、金返しに来いって言ったじゃねえか」

 

 確定はしていない。だがしかし、蓮人はもうこの世界にはいないだろうということは直感で分かった。それも、あまり良くない形で。

 

 ただ積まれた紙束が、無意味なものに思えてしまう。友達を無くす方が、これが全部燃えてしまうよりも辛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で殴り合いに応じるのは、ランザ=ランテ。

 

 こういうのも気持ちの悪い話かもしれないが、人の親なのに何故かその顔は父さんを思い出すものだった。顔立ちなんて、全然似つかないのに。

 

 それでも、自分のしたことと歩んできた人生が間違いだらけで、それでもなんとか前に進もうとあがく様は今にしても思えばあの時の父さんだったかもしれない。親父と息子は喧嘩をするものというが、流石にこの感傷は我ながら気持ちの悪いことだ。

 

 「お前の考えだと?」

 

 この世界に来たことは、結果として間違いではなかった。

 

 大して深くもない正義感を振りかざした。名声を得たし、それに付随してきた金銭も莫大なものだった。

 

 ハーレム遊びもした。その為に、手っ取り早い手段として洗脳のようなことも行った。だけど気づけば、僕はなにをやっている?

 

 いつの間にか、ハーレム遊びもしなくなっていた。金も派手に使ったことはあったか?正義感も特に発揮できる機会もなくなった。甘い言葉も、奴隷解放も、派手な遊びも、僕にとっては欲望を知る為のうわっ面だったということだ。どうせなら、そんなことも考えられないような悪辣な人間だったら良かったものを。桐野、お前は正しいな。僕はなにをやっても、中途半端なものだ。

 

 ランザになんとなく父さんの面影を思い出したように、テンになんとなく僕は梓の面影を見ていた。

 

 どんな表情をしていても、あの眼は見たことがある瞳だったからだ。自分を壊すようなことがあって、一刻も早く大人にならなければいけなかった少女の目だ。

 

 最初は分からなかった、何故あれ程テンに惹かれていたのか。最初はまるでアニメの世界から出て来たような美女に心が動かされたのだと思った。だがしかし、幼児退行した彼女を見ていたらそれは勘違いであると気づいた。

 

 俺は、僕は、三好梓に顔向けできるような人生を送っているのだろうか。最近は、そればかりを考えてしまうようになっていた。

 

 「貴方とテンの間になにがあったのかは、この際問いません。しかし、これだけは言わせてください」

 

 「言ってみろ」

 

 言わせてくれるんだな。優しいこって。所詮僕は貴方の敵だぞ。

 

 「テンは幸せにしてみせます。貴方はそのテンを殺そうとしている。全力で、止めさせてもらいます。どんなに歪んでいても、どんなに間違っていても、なにがあったのか僕には分からなかったとしても…あんな子供であることを諦めた目をしている子が不幸せになることは許さない」

 

 ランザさんは、戦いの最中であるというのに目を閉じた。そして、腕を軽く振るい赤黒い、悪竜の蛇腹剣を出現させる。

 

 「どんな理由があるにせよ、テンは様々なものを踏みにじってしまった。俺とて、似たようなものだ。アイツは幸せになることはできない。俺はテンを幸せにはできない。出来ることは、親として今のアイツにしてやれることをしてやることだ。それは、お前とは相いれないことなのだろう」

 

 重い言葉を吐いた。殺意はあるが、敵意はない。そんな感情が、言葉にのっている。

 

 「だがアイツの育て親として、今のテンにそんな言葉をかけてやれる相手がいることは感謝するべきかもしれない。それを言うのが、クーラやそのほかに酷いことをしていた人間が吐く言葉だと思わなければな。それが本心だと証明したいならば、今一度来い。こういう場でしか、見極められないこともあるだろう」

 

 「分かりました。行かせてもらいます」

 

 大剣を握り、光が放たれる。正面から走りあうが、互いが衝突することはなかった。首都全体が、まるで地震のように大きく揺れている。あまりの異変に、互いに動きが止まり顔を見合わせる。

 

 「ランザ!」「レント隊長!」

 

 互いの味方が駆けつけてきた。ほぼ、同時にだ。

 

 「鳥が急報持ってきやがった!ヤベーぞ!ハボックが襲撃を受けている!」「カナリア副隊長が一部隊を率いて独断で攻撃したもよう!目標は、ハボックです!」

 



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盤面の崩壊


 居残り組。

 

 今回の遠征で、レントが連れていった者達以外は単純にそう呼ばれていた。対連合王国を相手にする為の要として信用する戦力を置いていくと彼は言っていたが残された者達は肩を落としている。

 

 全体的に士気が落ちているような状況であるが、カナリアにとってはどうでも良かった。これから行うことを考えれば、その手の気配り等意味はない。

 

 カナリア=エルは考える。加護持ちとは、個人でならともかく戦争に持ち込む手駒としては些か以上に心許ない。これはリスムの巨人事件、連合王国との一戦等を通してみても浮き彫りになっている欠点だ。

 

 噂によればどこかの娼館をまとめる主は、レントの直属を宣伝部隊と言っていたそうだ。そう皮肉られても仕方ない面もあるしそういう効果が出たのは確かだ。

 

 だが純粋に軍属ではなく、荒事慣れしている者も少なくない為能力を過信した結果既に複数人の使者が出ている。意図的に間引いたリスム巨人事件は抜きにしても、連合王国との一戦では想定以上の死者が出た。

 

 それなのに、能力が一芸特化の者が多く軍隊として重要な互換性がない。プライドが高い者が多く協調性もない。レントの号令が無ければ地味な仕事や汚い仕事もしたがらない。私から見たら、過去最低最悪の集団だ。嫌悪すら覚える程に。

 

 無論使える者もいた。玉石混交とはよく言ったもの。例えばクーラ=ネレイス。自分の立ち位置を理解し暗く地味で、汚い仕事も平然とやってのける優秀な人材だった。レントの管理不足でアレを手放してしまったのはその後の裏における仕事に響いたものだ。

 

 だがもはやそれもどうでも良い。集められた顔の良い間抜け面を見ながらも、何時ものウンザリとした感情も浮かばない。

 

 「それで、全員集めた上でのレント様からの伝言ってなんなんですかぁ?」

 

 戦時中だというのに、ぬるま湯のような気の抜けた問いかけ。最近は連合王国との最前線も膠着状態になって早い。厭戦気分という訳でもないが、敵も攻めてこないうえにやる気の源が不在という事実は確実に響いているようだった。

 

 「これで全員ですか?」

 

 エンパス教の祭殿施設は、神殿と呼称されている。ここリスムには、巨人事件の傷跡である跡地に神殿が建てられ、かの事件の被害者と英霊を祀る為にその規模は他よりも大きいものであった。広い説教台の幕裏から白い装束を着こんだエンパス様が姿を現す。

 

 「レントが連れだした者以外は」

 

 「よろしいでしょう。さあ、始めましょうか」

 

 並んだ顔が怪訝そうな表情を浮かべている。一応は自分達が所属する組織の現人神のようなものとして認知はしているのだが、特に信仰も薄い連中にはそれ以上の関心もないだろう。加護の力はレントの能力、彼女もその類で与えられた役職だと思う者もいたようだ。

 

 エンパス様が鈴のついた錫杖の石突きが床に叩きつけられる。その瞬間、神殿の天井に神々しい光が出現した。巨大な光は天上に彫刻された想像上の天上世界を塗りつぶし、不安になるような白色に覆われている。

 

 動揺の声が聞こえるが、ほう。それでも勘の良い者はいるようで得体のしれない事態から逃げ出す為に出口に向かう者もいた。異変に際して硬直せずにすぐに動けるのは有能の証だ。それがどういうものであれ、リスクを計算できるのだから。

 

 「私が」

 

 突撃槍を投げる。普段からこのオルレアン鋼の重装と槍を装着しているので、武装していても違和感をもたれなかった。巨大な大槍は、扉の手前に突き刺さり内開きの扉が開かないように固定した。奴等の膂力では、オルレアン鋼の突撃槍は引き抜けない。

 

 「なんのつもり!?レントはこのことを知っているの!?」

 

 「必要ない」

 

 「はぁ!?」

 

 「レント=キリュウインはただの一使途にすぎない。神託ならば、直接このお方から聞けば良い。エンパス様がお言葉を放たれるのならば、わざわざレントの許可を得る必要があるか?」

 

 扉から出ようとした者が、嘲笑するような顔を浮かべた。未だ困惑する者が多いというのに、切り替えの速さから玉石混交の中では玉に近い人間だろうか。

 

 「悪いけど、アタシは別に神様に従っている訳じゃないんだよね。レント君の指示なら従うけど、訳の分からないことに従う義理なんて」

 

 「愚かな」

 

 ここから抜ける為に加護を発動しようとした瞬間、天井からの祝福が光柱となりその者に満ちた。悲鳴のような声が聞こえるが、恐らくは神の意志に触れて矮小な人間の思考容量が追い付かずに軋んでいるのだろう。

 

 「主は汝らを試すであろう」

 

 エンパス様が語り始める。ようやくこの異様な光景に危機感を覚えたのか、動き始める者が現れる。

 

 混乱する者、立ち尽くす者、状況を分析しようとする者、問いかける者、逃げ出す者、そして武器を握りこちらに走る者。

 

 今の惨状を見ても気が付かない愚か者は加護を発動した瞬間、光柱に呑まれて祝福を受けた。まだ賢明な者は剣、槍、棒をこちらに向けて振り下ろす。加護は使えないが、こちらの武器が無ければ、無力化できると思ったか。

 

 槍を払い、剣を手甲で受け止める。オルレアン鋼で鍛えられたこの装備はただの剣等火花を散らしながら弾く。棒を掴んで引き寄せ、顎に一撃を与え脳を揺さぶる。奪いとった得物を振るい襲い掛かってきた者達を壇上から叩き落す。

 

 「こう見えて、亡国の騎士団長を張っていた身分でな」

 

 加護を放とうとした者、襲い掛かってきたが無力化された者が光柱に呑まれる。その光景を皆が恐怖に染まった顔で見ていた。最早気が付いた筈だ、加護という選ばれし者に与えられたという力は所詮借り物であると。そして、それが無ければ自分等等ただの容姿の良い小娘共にすぎないと。

 

 先に光を浴びていた者達が、光柱から出てくる。

 

 「ああ、主よ」「我が神よ」「ご慈悲を」「不敬をお許しください」「愚かな人間をお導きください」

 

 真理に気が付いた者達が、恍惚とした表情を浮かべていた。心から漂白された、神の意志に全てをゆだねる為のヒツジ達がここに並んでいる。だがまだそれを理解できていたない者達が大勢いる。理解不能な嫌悪感と恐怖を、哀れさをその顔に浮かばせて。

 

 「カナリア!どういうことなの!?なにが目的でこんなことを!」

 

 「目的か」

 

 私の目的は、最初から決まっている。だが、ここで話しても意味はない。皆が信仰に目覚めれば、そのようなことに興味を無くすだろう。

 

 天井が更に強く輝く。落ちる光柱が増え、教会内は真の祝福と加護に包まれた。

 

 「カナリア」

 

 「はっ」

 

 「世界のありようは悪魔や竜達によりかのように醜く歪んでしまいました。その間違いを正す時が来た、そう考えて良いでしょう。歪みの被害者である貴公であれば、真の平和と楽園がどのようなものか理解できると考えております。世界は、真なる神の到来と導きを望んでいます」

 

 「承知しております」

 

 跪くこちらの頬をさすりながら、エンパス様は自愛に満ちた表情を浮かべた。

 

 「人を正しき方向に導くのです。貴公であれば、その新たな役目を無事果たすことができるでしょう。全ての人間にパンを。全ての人間に祈りを。全ての人間に祝福を。この混沌とした世界を正す為、いかなる犠牲を払ってでも神の尖兵として働いてくれますね?」

 

 「この身、滅びても」

 

 「よろしい。未だ私の力は不完全であり、貴公には働いてもらうことになるでしょう。やるべきことは、分かっていますね?」

 

 神殿を覆う祝福が晴れる。加護とは、元を辿ればエンパス様がレントにお与えになった力。それを内包する者達が、世界の倫理に触れ正しき姿になるのは早かった。皆が世界の正しき姿に気が付き、平伏し、己が矮小さに恥じて神に首を垂れていた。

 

 「誰か、旅立つ支度のある者はいませんか?」

 

 「私がお役に立てるならば」

 

 「いえ、貴女には新たな使途としての役目があります。彼女達に神託としてお願いしましょう」

 

 エンパス様が壇上から下を見ると。正しき信仰に目覚めた者達が一斉に立ち上がる。

 

 「私が」「あたしこそが」「主の為ならば」「あるべき姿の為に」「罪深きこの身を捧げます」「選んでいただければ幸いです」「見てください」「ボクを見て」「世界を正す助けになります」

 

 「では、最初に声をあげたお二人にお願いしましょう。その魂、英霊として神の一部となり永遠の安息を得られるでしょう」

 

 声をかけられた野戦服と修道女が、これ以上のない喜びの返事をあげた。それぞれが、背中に背負うライフル銃と太腿もに隠していた短剣を取り出す。

 

 「兄弟たちよ。姉妹たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」

 

 笑みを浮かべながら短剣が首筋に添えられ、銃口が口内に添えられた。

 

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」

 

 ナイフが皮膚と血管を捌き、銃弾が口腔を通り抜け首筋を抜ける。その瞬間、可視化された魂のようななにかが浮き上がり、エンパス様に献上された。

 

 「瑞々しい信仰。ああ、早く無知蒙昧な竜や邪悪な好奇心を持つ悪魔達に追いやられた皆様にも味わっていただきたいものです。その為には、まず火竜を亡き者とします。呉越同舟となりますが、かの災厄の化身を浄化させることこそ理想郷への道を開けるでしょう」

 

 ごえつどうしゅう…がどういう意味かは分からない。異界か神の知識であろうか。だが、それを望まれるのであればそれを為す。私の使命であり生きる目的だ。

 

 「子羊達を導きなさい。災厄の竜を巣穴から炙り出しなさい。正しき世界到来の為に」

 

 「「「「「正しき世界到来の為に!」」」」」

 

 再び、淡い光が神殿を包み込む。視界が輝く世界に覆われ、再度色彩を取り戻した瞬間世界は白銀と岩肌が目に映った。

 

 目の前には、開拓者の街を改築した即席の砦が建造されている。見張り台の上にいた者が、驚くように声をあげ警戒の為に吊るされた金盥のようなものを叩き始めた。そしてすぐに、エルフや半獣達がライフル銃や弓矢を手に持ち砦の上に展開を始める。

 

 「成程、あそこはハボックか。火竜の巣に身を潜めることを良しとする、異端達の巣窟。まずはそこの掃除から始めよと」

 

 手元には投擲をした突撃槍が戻っていた。背後に続くのは、真なる信仰に目覚めた加護を持つ者達。

 

 「竜に触れた不浄の魂は、もはや癒せまい。死者の国で、苦難と苦痛の中、罪が許され何時の日か神の救いを受ける日が訪れるのを願おう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大な光柱と、そこから現れた白を基調とした統一性の無い装備で固めた者達。

 

 ハボックの居残り組は、敵の襲撃に関しては警戒を強めていた。遠距離まで見渡せるエルフの弓手が見張り台に立ち、砦付近は感覚と警戒力がある半獣のチームで哨戒をしすぐに敵が来ても分かるように動いていた。

 

 だがしかし、超常的ともいえる現象から急に出現した一団に対する対応までは想定外だった。

 

 出来合いの素材で作られた壁と門はすぐに破られ、少数ながら異常な強さの一団が侵入を開始する。弓矢は弾かれ、弾丸は回避される。近接攻撃を仕掛けた半獣が両断されて転がり、非戦闘員をなんとか逃がそうとしていた者と避難しようとした戦えない者達は顔中に青い水泡のようなものを浮かべ苦難の表情のまま息絶えていた。

 

 冬をこす為に後アブソリエル公国が寄越してくれた物資と糧食が入った食糧庫が燃えている。訓練場には死体が積みあがっていた。集められた遺体に火がつけられる。

 

 その顔には忌避感も残虐性もない。ただ自分がなすべきことを為しただけとでも言いたげな、使命感と恍惚とした表情がまるでハンコのように並んでいる。それぞれが美形であるが故、それ故に不気味な風景だった。

 

 ギリギリ後アブソリエル公国に向けて鳥は飛ばせたものの、ものの半刻でハボックは壊滅した。あれだけ苦労してとった拠点が、今まで戦ってきた者達がさらりと散ってしまった。

 

 「ああ、やめろ」

 

 冬を越す為の食料品を少しでも確保しなければならないと、みんなで作った畑が踏み荒らされている。寒冷地に強い植物だからと渡された種子が、耕された土に埋まっていた。

 

 ガランさんが提案し、エルバンネさんが種を選別し、ミルフさんが土を耕すのを手伝ってくれた。ランザさんが時折様子を見に来たこともある。庭に小さな畑を作った昔を思い出すと鍬を手に取ろうとしたことがあったが、大将ならばもっとやるべきことがあるとみんなに止められた。その代わりクーラさんがこっそり夜中に雪をかき土の上に積もり過ぎないように文句を言いながら手入れをしていた。

 

 あの畑は、なんというか、これまでまとまりのなかった皆で協力して初めてできたものだった。それが容赦なく踏み荒らされていくことに、我慢ができない。

 

 「やめろ!畑を踏むな!」

 

 戦えないのだから隠れていろと言われた。でも、このまま黙っていることはできない。ここで黙っていたら、自分の中でなにかが終わってしまうと感じたからだ。

 

 「半獣の子供か」

 

 大仰な鎧姿の騎士が集団から出て来た。その声は、穏やかなものであったが厳粛さも合わせもっているように聞こえる。そして、憐れみも。

 

 「なん……なんだんだよお前等!み、みんな…みんな殺して!女も子供も!なんなんだよお前等!そんな薄笑いで、なにが面白いんだよ!」

 

 「これは祝福だからだ」

 

 手に持つ突撃槍がこちらに向けられる。向けられる圧で、足ががくがく震えはじめた。勝てるとは思わないが、知性だけでもなく本能でもそれだけで分からされた。殺される、僕は殺されてしまう。

 

 「災厄をまき散らす竜の庇護を受けた時点で、貴公等は穢れてしまっている。だが救いは万人にも訪れるべきだと私は考える。汚染された魂はこの世界では浄化はできない。しかし、死後苦難を背負うことで魂は浄化されより高次の世界へ導かれるだろう。貴公等に手向けることができる、私からの祈りであり救済だ。食料の心配も、冬越えも、差別も偏見も最早気にしなくてもよい。救われるのだ、この欲と苦悩に満ちた世界から」

 

 「誰が、そんなこと望んだんだよ!僕らは望んでいない!」

 

 「神が救済を望まれている。真の救済があらんことを」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ランドルフ様!大変です!」

 

 火竜の祭壇に、コボルトが大慌てで駆けこんできた。その慌てようから、遂に恐れていたことがおきてしまったかと眉をひそめてしまう。

 

 「ハボックに突然現れた一団が急襲をかけました!凄まじい戦闘力で砦を壊滅させてしまい、こちらに向けて進軍してきます!」

 

 「そうですか、遂に来てしまいましたか。ランザさんも、間に合わないでしょうね」

 

 ロウザにハボックの援護をお願いしたが、準備を整えている間に落とされた。いえ、仮に間に合っていたとしてもエンパスの力で人間をブーストしているならば無駄であったかもしれない。

 

 「ロウザはどうしていますか?」

 

 「我等が使命はこの霊山の死守。防衛をする為に前線で準備をしています。例え奴等の足を掴んででも、ここには通しません」

 

 それが無理だと言うことは、ハボックの早急な壊滅と異様な雰囲気から察して無理であろうということは理解しているだろう。だがしかし、伝令に来たコボルトは胸を張りそう宣言した。彼らはそうしてしまうだろう。例え、私から逃げろと命じたとしても。

 

 「申し訳ありません。貴方方には、苦労をおかけしてばかりです」

 

 「我等の祖先、追立られた者達を匿ってくれたのは貴方様です。今こそ、御恩返しをする時だと存じます」

 

 「奴等の狙いは、私の首でしょう。ですが、私はここから離れることはできません。そしてすぐに戦うこともできない。だからこそ、皆様に命令をします」

 

 過去の過ちは、何時まで経っても消えない。そのせいで、私はコボルト達にこういうしかない。

 

 「時間稼ぎを頼みます。私は、この世界を終わらせる訳にはいかない」

 

 「承知しています。ご期待ください」

 

 伝令のコボルトは走り去っていった。彼等は使命を真っ当するだろう、命をかけてでも。

 

 「私の半生は過ちに満ちたものだった。だからこそ言える、この世界は誰かの私利私欲の為に利用して良いものではないと」

 

 祭壇の奥に向かい、赤い脈のような痣が入った石碑に人の手を置く。それだけで、真下を蠢く溶岩が荒れ狂い祭壇全体に大きな地震がおこった。溶岩流から溢れたエネルギーが、元は自分の力だった者が流出する。神殿の柱を伝い、力が石碑に集まり身体に戻ってくる。

 

 眠っていた地脈が活発化する。押さえつけられていた力が、反動で跳ね上がるように地の底で大地がうねりながら荒れ始めた。どこまでなら耐えられる。どこまでなら、エンパスを倒せる。

 

 私はまだ、今を生きる全ての生物の為に世界を終わらせる訳にはいかない。エンパスの傲慢にも、ガスパルの好奇心にも、世界を終わらせる訳にはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「坑道を全て爆破しろ!埋め立てろ!後のことなど考えなくて良い!少しでも時間を稼ぐことだけを考えろ!」

 

 先祖達から受け継がれてきた新たな故郷。だがしかし、ランドルフ様が時間稼ぎを望まれるならばそれも放棄せざるえないのだろう。あのお方が倒れてしまえば、もはや住処等気にしている場合ではない。

 

 「初めて、あの人が我等に期待をしてくれましたね」

 

 指示を伝えに来てくれた伝令が言った。ランドルフ様は我々を受け入れ庇護をしてくれたが、明確に命令を下したことはなかった。

 

 ランザ=ランテの保護や奴に向けた伝令は、願いという形をとられていた。だが初めて命令という言葉が使われた。今までの恩を返す為に、出し惜しみはない。

 

 「奴等、洞窟に踏み込んできました!」

 

 「迎撃するぞ!我等の住処に踏み込んだことを後悔させてやれ!」



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 攻撃が通用しない。坑道を爆破し、足止めすることは多少の効果はあったが、逆に言えばそれだけで充分に時間を稼ぐことは不可能だった。

 

 狭い洞窟で、振りやすい短い石斧。地の利もある以上多少の分はあると踏んでいたが素の戦闘力が違いすぎる。

 

 「止めろ!ここで止めろォ!」

 

 「点火しろ!」

 

 火薬が爆発し天井が崩れる。粉塵が巻き起こり落盤がおこり、通路が一つ潰された。これで多少は時間稼ぎができる、そう考えた瞬間導火線に火をつけたコボルトの首と火がついた導火線がズルリと落ちる。

 

 クーラよりも一回り小さい小柄な影が走る。後先考えない遮二無二の特攻、本来ならば周りを見えていない勇み足の愚か者と嘲笑する程度の敵であるが今回は違った。油断ならぬ、自死をもいとわぬ捨て身だ。

 

 「ここは通さん」

 

 壁を殴りつけ、拳程の大きさに砕けた岩石を握り込む。手の中で岩石が砕け、細かい破片となる。両腕を背後に回し、遠心力をつけてそれを投擲。狭い一直線の通路で上下左右に逃げ場はない。細かい破片が人体を削り取り、子供と思える背丈のような存在が穴だらけの肉となり地面に転がった。

 

 ランザ=ランテが持つ散弾銃から着想を得て試してみたことがあったが、威力が過剰でありこれを生身に当てた時の光景が容易に想像できた為いざという時にしか使わないと決めていた。そのいざという時が来てしまったが故の解禁であるが、痙攣する子供の死体には眉を顰めてしまう。

 

 「総力戦で当たる我等が言えた義理ではないかもしれないが」

 

 このような子供を特攻にあてる等、狂気の沙汰も良いところだ。だがしかし、襲ってくるからには容赦をする訳にはいかない。

 

 「状況はどうだ?」

 

 「居住区、及び訓練施設側は既に連絡がとれません。振動から恐らくは…」

 

 大抵の通路は帝国が残していた火薬を使い落盤を引き起こした。敵に内部を分かっている者はいない筈だ。だからこそ、袋小路に追い込ませそのまま共倒れを狙った者もいるだろう。ハボックがたかだか半刻で壊滅したのだ。戦うまでもなく、彼我の実力差は目に見えている。

 

 「恥じぬ戦い方をせねばならんな」

 

 火竜ランドルフ様の命もあるが、それと同じくらいにはハボックで死んでしまった者達の為にも。そう考えていることに自嘲をする。霊山の守護者が、いつの間にか外部の者に毒されてしまったものだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガロンは戦士だった。産まれた時からそれは決まっており、死んでしまうまでそれは変わらない。

 

 先祖が受けた恩を返す為、それを先祖代々続けてきた。我々には選択の自由は望まない。戦士は戦士として、シャーマンはシャーマンとして、穴掘りは穴掘りとして産まれた時から与えられた役目を遵守する。

 

 それを疑問に思う者はいなかったし、次世代にもそれが受け継がれていくものだと考えていた。だがしかし、秋の終わりかけ。北の大地にはよくある早めの小雪がチラつき始めた時に状況が変化する。

 

 エルバンネ率いるエルフ達が、南方から追われ落ち延びて来た。連合王国側に逃れることもできず、泥の中で眠り人目を偲んでなんとか逃げ延びたのだという。我々としては受け入れるか否か、議論は紛糾した。

 

 逃げ延びて来た者を受け入れないことは、ランドルフ様に受け入れてもらえた先祖がいたからこそ今があるのに、我々が見捨てるようなことをしても良いのか。これから厳しくなる冬季が訪れるのに、余計な人員を増やしてしまい苦境が訪れてしまうのは愚かではないのか。

 

 どちらの言い分にも一理はある。主たるランドルフ様は、受け入れるのも拒むのも自由にしてほしいと話していた。

 

 『まずは、対話からであろう』

 

 議論は平行線。折衷案として、まずは対話をしエルフという種族がどういった存在なのかを理解する必要があるのでは、という結論に落ち着いた。我々は洞穴を好み、彼奴等は森林に住む。平時であれ交流する機会もなくこんな機会でなければ交わることもない。

 

 だがしかし、その結果理解できたことは他種族とはこうも扱い辛いものなにか。その一点に尽きた。

 

 やれ寝床が硬い。食事が受け付けない。文化の違いが想像以上である。これはこの先、受け入れるとしたら相当に苦労をするだろうことは想像に難くない。個体差は多少はあるが種族的にやや傲慢な面がある。

 

 なにより、湯の沸く泉に対しての拒否感が強い。我々コボルトの生活と密接に関りあっているのだが、それを拒まれるとすればどうしようもない。

 

 頭を悩ませる日が続く、ある日のことだった。

 

 『苦労をかけるな』

 

 石斧を素振りしていた時に声をかけられる。エルフ達を率いてここまで落ち延びて来た集団のリーダー、エルバンネが声をかけてきた。

 

 『そう思うなら、少しは大人しくするように言っておけ』

 

 『返す言葉もない』

 

 落ち延びて来たストレスも溜まっているのだろうが、隊の統制はお世辞にもとれているとは思えない。先も見えずただただ逃げて来ただけの者達にとって、希望的観測すら持てないのだから致し方ないのだろう。そうでなくても、最近は跳ね返りが多く手を焼いている様子もある。

 

 『何故追い出さない』

 

 『我等の意見が未だまとまらないからだ』

 

 エルフ達と過ごすことになり、悪い面ばかりが浮き彫りになるようであるが良い面というのも出て来ていた。

 

 我等の基本的な食生活は、寒冷地や高山に生息する山羊や猪に穴蚯蚓といった食肉の類。後は洞窟内に自生しているキノコといったものである。調理方法は基本的には焼くか茹でるかかの何れかだ。

 

 臭くて喰えない、獣肉等と文句を言っていたエルフ共であるが、そのうちどこからともなく雪中植物や高山植物を持ち込むようになってきた。

 

 この草と煮込むことで臭いを消せないか。血生臭いのだから血を抜いてから調理をしろ。少しは緑色のものも食べれる環境にしろ。自分達の環境向上の為ではあるが、奴等が来てから調理方法の改善等が行われ食肉の過食部位が増えたり多少の保存がきくようになっていた。そしてなにより味の向上だ。

 

 狩猟等野蛮だと言いつつも、自分達の存在が食料事情を圧迫しているのを理解しているのだろう。今までは狩れなかった大鳥のような存在も射止めてくることもあった。手先が器用であるが為、冬を越す為の毛皮の加工も多少教えたら我等以上に効率も質も向上していた。

 

 そういった利点から、未だに議論は平行線である。私としても決めかねていた。多少なりとも食料事情が解決しようと、ギリギリなことには変わらないのだから。

 

 『追い出してくれなかったおかげで、すっかり肉食にも慣れたものだ。これでも感謝はしているがな』

 

 『これからどうするつもりだ?何時までもここにいる訳にもいかないだろう』

 

 『冬を越したら、出ていく。我等の住むべき場所を、探す為にな』

 

 住むべき場所を探しに行く。かつての我等が先祖が住処を追われ、放浪していたようにこのエルフ達も今その只中なのだ。だがしかし、遥か昔に比べれば人間はその数を増やし、未開地と呼ばれる場所も徐々に開拓されていっている。

 

 我等が世情に詳しい訳ではないが、帝国内を通過してきたエルフ達の話から聞くに最早行き場等無いに等しいと容易に想像がつく。

 

 『戦うべきだと主張する者もいるようであるが?せめて、人間に一矢報いるべきだと』

 

 『戦いは必要であれば行う。だがしかし、一部の過激な者達が言うような、報復戦等最早意味をもたない』

 

 詳しくは聞いていないが、南方にて人間相手に大規模な戦いを挑んで自滅に近い形で壊滅に追い込まれたらしい。その場で若き指導者と、大半の同志を失い種族としての力を大きく削がれてしまった。

 

 『我等が皆が復讐を叫んだが、復讐なんてものは一族が生きていく上にはなんの意味ももたない。私とて、それを理解しても止められずに感情に従った同じ穴の狢だ。幼い子供を悪戯に苦しめてまで掴んだ結果がこのざまだ。いや、そもそも閉じられた環境で過ごしていたが為に新しい時代に対応できなかったことこそが問題かもしれないな』

 

 エルバンネは遠い目をしていた。過去の光景と、それよりも遥か過去の光景。後になって知ったことではあるが、それは人妖という化物に変えてしまったエルフの少女と、一族の団結を促す伝統で迫害した一人の女性を思いだしていたことを知った。

 

 『人間達の生活様式を見たことで文化の違いを思い知った。貴様等との生活することで新たな発見を得ることもある。閉じこもっていた我等は、ずっと停滞していた。文化とは過去の前例を何時までも繰り返すことではない。交流とは、どちらか片方が高圧的に接し排除を前提にしたものではない。長く生きてきて、そんなことも気づかなかった。時代に遅れるのも無理はないのかもしれない』

 

 彼はあくまで非戦派。人間に関わることをやめ、種族全体を生かす方向に意見を発していたようであるが人間憎しの流れに逆らうことは難しいかった。ならばせめて、最悪を想定して動き生き延びる者を増やそうと奮闘していたということを生き延びたエルフから聞いている。

 

 とはいえ、その彼自身消し去ることも忘れることもできなかったのだろう。焼け落ちる森、同胞の亡骸、全てが灰になる光景を。だからこそ、最後まで反対しきることができなかったのだろう。その影が、エルフには似つかわしくない煤けた背中に被さっていた。

 

 『新しい時代か』

 

 山岳から見える景色。ここからでは小さいが人間達の開拓村が出来上がっていた。最初はほんの小さな小屋が幾つかしかなかった景色が、いつの間にか数百人単位は暮らせるような集落となっている。それは、いよいよ帝国が北側に資源と住処を求めて進出してきた証拠であろう。

 

 『伝説では神は信仰を失い、悪魔は知恵を乞われることが無くなり廃れたという。それから訪れたのは人の世、さて次は何者世界になるかと思ったが、新しき時代を迎えても人間の隆盛は衰え知らずということか』

 

 『コボルトも、他人事ではあるまい』

 

 『かもしれぬな。だが我等はこの山から離れることは出来ぬ。例え一族皆が尽きたとしても、この霊山を護ることを使命と定めているのだ』

 

 『そうか……使命か。羨ましいものだ。ガラン、お前ならば、我等の立場となってもその指針は変わらないのだろうな。いや、それは悲劇なのかもしれない。いずれにしても、余所者が口をだすことではないか』

 

 火をつけても良いかと、聞かれた。口に加えた香木は最早数の少ない希少品の為時折香りを楽しむ為に加えているというが、煙を吸う為に火をつけるということはそれを使い切ってしまうための行いだ。

 

 火をつけて、煙を肺に吸い込む。口内から紫煙を吐き、険しい表情が少し和らいだ。思い出を削り、現状の苦しさを紛らわせていた。

 

 『雪解けと共に立ち去るという条件ならば、通らなくもないであろう。私の発言にはそれなり以上の決定権がある』

 

 『良いのか?反対派から突き上げられることは?』

 

 『かまわん。だがそれまでは貴様等にもこの洞窟の為尽くしてもらうぞ。それが条件だ』

 

 長い冬が訪れる。エルフ達は自らが選び取る道を考える時間は山ほどある。エルバンネは悲劇なのかもしれないといったが、それならば選択の自由がある彼等はどのような道を辿るのか。

 

 妥協か、全滅か、逃走か。最早共存という選択肢が絶たれた今エルフ達がどんな選択肢を選ぶのか、見届けたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「未知の能力に恐れおののくな!奴等とて同じ生物だ!不死身の化物でもなんでもない!」

 

 洞窟のあちこちから音が反響する。崩落した場所も、何らかの方法で道をこじ開けられたのだろう。我等とは違う足音が多く、同時に同胞の血臭が濃くなっていく。

 

 岩を砕いた散弾をばら撒こうと、腕を振りかぶった瞬間火薬の破裂音が響いた。二の腕に命中した弾丸は、皮と肉の内部で更に火薬が爆ぜたかのように爆発する。血霧と共に、腕が落ちた音が響いた。

 

 「オオオオオオオオオオオオおおゥン!」

 

 残る左腕に石斧を握りしめる。暗闇に向けて、斧を投擲。暗闇の向こうから放たれた弾丸が、洞窟の天井に突き刺さり爆発する。手応え、アリ。

 

 目をこらすと、闇に潜んでいたのは半獣の娘であった。だが何れも変わらぬ恍惚とした表情で、息絶えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『すまん。匿ってくれ、他に行き場が無くてな』

 

 ハボックの集落が騒然としていたのは、物見の報告で来ていた。集落から抜けるように落ち延びて来たのは、ボロボロのハイエナを先頭にした老若男女の半獣達であった。

 

 『俺はガランってもんだ。一応、こいつらの代表を務めている。アンタ等で、代表をしているモンは誰だ?』

 

 『ガランか。噂で聞いた、西方で虐げられた半獣達が蜂起をして奴隷解放を行いから連合王国方面への亡命をしようとしていると』

 

 エルバンネが言葉を放つ。獣の部位と人の形を持つ異形。ここにいる者達の中で、誰よりも崩れた者達。

 

 よく見れば、半獣のみならず彼が率いていた者達には様々な姿を持つ者達がいた。

 

 褐色肌の異国の者。下半身がまるで蜘蛛のような女性。どう見ても人間なのに、まるで獣のように四足歩行で唸り声をあげる者までいた。

 

 『代表とは言えないが、話しは私が聞かせてもらおう。ガラン、何故貴様はここに来た?』

 

 『俺等は帝国で煮え湯を飲まされ続けてきた者達だ。奴隷解放の運動してくれていたお偉いさんが暗殺されて、どうにもならなくなった連中を纏めて連合王国に亡命しようとしているが、この冬の環境と巨人事件だかなんだかで帝国内の締め付けや情勢悪化でどうにもならなくなってきた。ガキや女だけでも、なんとか飯を食わせて寝床を与えてやりてえ』

 

 流石に受け入れるかどうかの議論は、受け入れない方に傾いた。エルフ達が来て、様々な工夫をこらして冬越えがギリギリであるというのに、女や子供の分の食料を配給するだけでもそのラインを超過してしまう。

 

 更に今度は、帝国内の奴隷を解放して回ったお尋ね者だ。早晩帝国軍がこちらに軍勢を向けて来ても不思議ではない。こればかりは、どうにもならない。

 

 だがしかし、ここで思わぬ転機が訪れた。人間達の間で帝都事変と呼ばれている帝国史上最大の事件がおきたからだ。帝国内部で悪竜ジークリンデと、巨大な狼の人妖が戦いあい、そして北の地に逃れてきた。

 

 ランドルフ様は、今後おこることを予期していた。ランザ=ランテとクーラ=ネレイス。そしてジークリンデ様の保護と治療。更には、半獣達を受け入れることを頼み込んできた。命令とはいえない、お願いだ。だがあの方から頼まれたからには、我等は喜んで応じる。

 

 エルフ達からの反発は当然出た。だが、それも致し方ないことだと分かりながらもこの決定は変えなかった。

 

 その後、襲撃を乗り越え、ハボックは陥落した。残された鹵獲品の糧食や衣服、住処を建てられるハボックという前線拠点が手に入り半獣達とエルフはそちらに移動した。我等も誘われたが、その提案は受け入れることはなかった。

 

 エルフの反乱分子は消えたようであるが、それは逆に言えば頭数が減ったということ。ランザ=ランテがいるとはいえ、頼りになる仲間は多い程ありがたいと彼は話した。

 

 『何故あんなに大勢連れて、連合王国に亡命しようとした?』

 

 『あん?』

 

 『戦え、動ける者達だけならば帝国国内を抜けることも可能だっただろう。何故足手まといとなる者達も連れて、勝算の低い戦いに赴けてたのだ?』

 

 エルフ以上に半獣達は個性の塊だった。性質が近いようで遠い存在、彼等からは学ぶことは多くはなかったが、それでもなお不可思議な存在として興味を持つ者もいた。特に、彼等が語る体験や物語を知りたがる者は多かった。

 

 特にコボルトのシャーマン、その末裔であるミルフは傾向が強く今ではハボックの方に入り浸っている始末だ。私も、このようなことを尋ねるからには彼等に興味を持った者の一人と言えるかもしれない。

 

 『あー、まともに生きてぇって思ったからかな?』

 

 『どういう意味だ?』

 

 ガランは後頭部を軽くかく。

 

 『まともに生きるってどういう意味かって考えたら、学がねえ俺には分からねえ。アンタ等みたいに使命を持っているのがまともかもしんねーし、エルフ共みたいに小難しいことを言ってるのがうざく見えて実はまともなのかもしれねー。ランザの旦那とクーラはまともなんて言えねーだろう。てか俺なんて、ある日プッツンして殴り続けたらいつの間にかこんな状況になってただけだ』

 

 ガランという人柄を見ていて分かったことは、人の上に立つ者に必要な自己肯定感が低いという面があるといえる。普段は気を張ってはいるが、疑問に応じようと頭を捻る様はただの青年のようにも見えた。

 

 『人間共みてーに奴隷を囲むのはまともか?なにかの為に生きるのはまともか?犯罪に走る者はまともじゃない?じゃあ今の俺は人間視点から見たらまともじゃねー異常者っつーことかもなぁ。なんて思ってたら分かっちゃったのよ!俺なりの解決法!まともってのはそれぞれで違うんだよ多分。半獣同士でも違うし、文化がちがけりゃまともも違う!クーラの気持ち悪い発作だって、ランザの旦那だって本人実はまともだって思い込んでる可能性だってある訳だ。つまりまともには、不正解はあるかもしれねーが正解はないっ!俺にとっちゃこのハイエナの耳と尻尾は誰からから見たら異常だが俺からみたらまともの証明なんだとな!』

 

 ガランが嬉しそうに手を広げた。成程、私は初めて彼を見た時人間と獣が入り混じった異形の存在のように見えたが、ガランにとってはそれがまともだ。排他するべきではないが、異様であると考えていた。奴から言わせれば、向こうから見たこちらが異常でありそう考えることが本人のまともかもしれない。

 

 『俺はな、自分のまともを大切にする連中を大事にするぜ。まああくまで他人に迷惑かけねえ程度ってのはあるけどな。だけどそれを実現するのは容易じゃねー。ならばよ、それを可能にするには沢山のまともを受け入れる枠組みが必要じゃねえか。自分のまともを大切に、他人のまともを尊重する場所だ!ならば拾えるもん拾っていくしかねーだろうが。自分達さえ良ければ、それで良いなんて考えてちゃこれは実現しない。俺の最終目標は自治州を、そんで国をつくることだ!今は足手まといでも、デケーことするには人手はいるからな。精々、後でこき使わせてもらうぜ。それが、俺が皆を連れてる理由だよ』

 

 どうだ?とばかりにドヤと言われる表情を浮かべてこちらを見て来る。彼が語る理想に、沢山の者が続いているのかもしれない。

 

 『私にとって、こんな状況からそんな大仰な夢を語る貴様はまともではないな』

 

 『それでいい訳よ。だが無理とかいうなよ?これでも頑張ってるんだからよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死にゆく者も、襲い来るものも。同じ表情を浮かべている。人間も異国の者も半獣も、みなが同じだ。

 

 ガランが言う、それぞれ違うまともというものを、こいつらからは感じない。ひたすら、ただ一つの目的を目掛けて進んでい来るのはまるで意思の無い亡者のようだ。

 

 ランドルフ様は、こ奴等を最大限に警戒している。以前の私ならば、ただ主の言葉に従いここを守護するだけだっただろう。

 

 エルバンネは、他の種族と関りを持つことでエルフ達の過ちを考えた。ガランは、様々な思考を持つ者も弾圧されずに暮らせる自治州、引いては国が欲しいと考えた。それぞれが、自らと違う考えに触れ生み出した解答を心に秘めて戦っている。

 

 だがこいつらはなんだ。違いも、個性も感じない。まるで意思のない人形のような者達だ。誰も彼もが、それに疑問すら抱いていない。

 

 「グルアアアアアアアアァアア!」

 

 腕を振るい、敵を退ける。ランドルフ様に言われたからではなく、私は自身の意思でこの者達の好きにさせる訳にはいかない。

 

 エルバンネ、ガラン。私には無い者を持つ者達。先に進むべき者達。そいつらの為に少しでもここで…

 

 「……っ」

 

 背中と正面から刃で貫かれる。口の端から、内部からあふれ出した血が漏れた。

 

 気づけば、戦っているのは私だけだった。皆がそれぞれ、使命を果たして床に倒れ伏している。どうやら、これまでか。

 

 「先……人達よ!共に戦えた戦友達よ!火竜ランドルフよ!照覧あれ!」

 

 胴、首筋、足にも刃が突き刺さる。前身に痛みが走るが、もはやそれは問題ではない。身にまとう、毛皮の防具を残る手の爪で破く。内部に仕込んでいたのは、大量の爆薬。薄笑いを浮かべる連中は、それに見向きもしない。

 

 松明に腕を入れ、燃える炎で毛皮に火を灯す。導火線に炎を移し、逃れられないように数人を抱き込む。

 

 「達者でな……ミルフ、後は頼む」

 

 閃光が、暗い洞窟内部で炸裂した。



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 人類にとって、長らく災厄の存在として知れていたのは海竜リヴァイアサンであった。気ままに存在し、幾つかの国家を破滅と栄光に導いた悪竜ジークリンデもかつての国々では恐れられていたものだ。天空竜、オシリスは人々の前に姿を現さないものの時折古い神話や伝承の歌に残ることもある。

 

 だが、火竜ランドルフの存在を記す物はなく、そして語る人間はいない。

 

 それは彼が人類史の中で姿を現したのはただの一度であり、その一度の顕現はあまりにも苛烈かつ残酷なものであったからであった。

 

 何故火竜がそのような行いをし、振る舞いをしたのか。災厄を目の当たりにして奇跡的に生き延びた人間は恐れおののいた。

 

 「語ってはならない。記憶してはならない。記録してはならない。呼び出してはならない。描いていはならない。語り掛けてはいけない。まあざっとこんなもんか。本当にヤバい奴ってのは、思い出したくもない存在って奴だ」

 

 「「そんなことより仕事しろ」」

 

 「そんなことより仕事してください」

 

 「なんだよ、手順教えたんだからちょっと楽させてくれよ」

 

 暗闇の中で作業をする三人の人影から抗議の声が来る。仕立ての良い服の上から何時もの小汚い上着を羽織ったガスパルは、いかにも悪役が浮かべるようなしたり顔から一転して不満な表情を浮かべた。

 

 「お前等なぁ。俺こう見えて悪魔で、お前さんらの希望を叶えてやった恩人でもあるんだぞ。働かせようとすんな」

 

 「時間がないって言ったのはどこのどいつですか」

 

 線の細い男の人影が正論で返す。ガスパルには、暗闇というものは闇夜で猫のように見渡されるものだ。呆れ顔の線の細い男、黙々と働きつつもこちらの話を聞いているそぶりもない厳つい戦士のような男、そして休憩が欲しそうな視線を向けて来る女。

 

 「話よりも鎖をください。足りません」

 

 「巧遅は拙速に如かず。鎖製造機に徹しろ。もう始まっているか始まりそうなんだろ?」

 

 「重いー!疲れたー!温泉入りたい~!休憩したい~!」

 

 ガスパルはちょっと悲しい気分になった。テン、俺を師と呼んでくれた唯一の弟子はどんな話であれ、興味あるなしを問わず多少は付き合ってくれたものだ。お父様談義には辟易するところではあるが、彼女は大層聞き上手でもあったのだ。いなくなってそれが分かり、リアクションの低い面々からの反応は大層心が傷つくものだ。

 

 袖から太い鎖を手品のように召喚する。種も仕掛けも無いので、厳密には手品とは言えないが大掛かりな仕込みだけあって一人でやるよりは効率よく仕掛けが進んでいた。

 

 「本当にこれで、エンパスを倒すことに繋がるんだろうな」

 

 大柄な人影から疑問の声が出た。

 

 「お前のお陰で、こうして初めて一つの人格に一つの身体というものを持つことが出来たのは感謝している。それに、『私』をロクでもない加護から解き放った恩義もある。だが、これが本当に最終目標に繋がるとはあまり思えない」

 

 『私』と呼称された個体の顔が曇る。連合王国から派遣された密偵。そのうち、エンパス教と外来人と呼称されているレント=キリュウインの調査を担当していた『私』は一番危険な状態であった。

 

 エンパスはレントに神の御業たる奇跡を与えた。レントがそれを振るい、加護の力を植え付けた兵隊を揃えるのを好き放題に任せた。この時代、祈りと信仰で飯を食う神様連中には生き辛く、少しでも力を温存しておきたかったのだろう。

 

 だからこそ、人の欲望に漬け込んだ。レントが加護と洗脳の力を振りまき、それを自らの力や意思と自任し思考や魂にまで浸透してしまえば、後はエンパスがちょっと奇跡をおこすだけで自死をも厭わない忠実な特殊な力を持つ神の傀儡の出来上がりだ。

 

 欲望を廃し神への祈りと秩序を第一とするエンパスが、欲望まみれのレントを利用することに皮肉な笑いが浮き上がるが、それだけにあちらさんも後がないのであろう。

 

 やることが強引で悪辣だ。じつに天使らしい。信じる者は救われるのだ、主には足元が。

 

 因みに加護を受けながらも、それに振り回されない存在もいた。

 

 カナリア=エル。レントから加護を受けた存在の中でもひときわ存在感を放つ化物。自らの意思で神に心酔しているようだが、それ故に下手な洗脳等受け付けずその魂が変質することがなかった。恐らく、エンパスが運用する手駒の中では使い捨てにはできない切り札的な存在となるだろう。

 

 ウェンディ=アルザス。現代に生き延びた魔女や魔法使いの残党を率いる長。連中は、自身が死ぬことよりも洗脳や汚染といった魂の浸食に対して恐怖を抱き対策をしていた。その末裔であるウェンディは加護を敢えて受けながらも適切に浄化をし利用していたある種の変異体だ。もっとも皮肉なことに、結末はランザに侵入されて魂を貪られたことで取り込まれて染まってしまったようであるが。

 

 クーラ=ネレイス。あれはなんというか、そういうヤバい奴だ。ある意味では信仰が個人から個人に移っただけであろう。ウェンディが変異体ならば、アレは単なる変態だ。レントが加護から解き放ったのも大きいが、魂の浸食等そう易々と引き剥がせるものではない。

 

 こいつらも、助けられる見込みがあった。一つの器に三人分の意思が宿るのみならず、自死する度に肉体が作り替えられ復活する異常な存在。人間の中での突然変異と言えるかもしれないが、そのルーツは遥か昔に遡る。神と悪魔と竜、三つ巴の時代が過ぎた後人類と生存競争をしていた吸血鬼達の産物だ。

 

 モスコーで事件を引き起こしたサグレ。彼女は、遠い先祖を辿っていけば人間と紛争を繰り返していた吸血鬼の一族の末裔であった。滅びかけた吸血鬼を、遥か未来で再誕する為の凄まじき執念の結果が、祖先のことも忘却した現代において顕現をした。

 

 凄まじい力を持つが、その個体数は圧倒的に劣る吸血鬼。その劣勢を覆そうと行われた血の実験における成果物である。一つの器に多数の人格と力を埋め込み、圧倒的な生命力を維持する。その再生能力は単純に考えても不死身に近い吸血鬼の三倍。もっとも、サグレ同様代を重ねるごとに既に吸血鬼としての自覚も再生以外の能力もとうに消え果てていたようであるが。

 

 まあ、そんな背景があったからこそ、『僕』と『俺』と『私』という三つの人格のうち『私』だけが加護に汚染されていた状態であった。三分の一しか侵食されていないなら、どうにでもできる。レントから受けた洗脳も三分の一以下にしか効いていないのも大きい。

 

 「まあそこは安心しなさいな。上手くいけば帝国だって衰退するだろうし、次の天下は連合王国。お前さんらの上司もホクホク顔。ついでに俺の計画も進んで嬉しい。損をするのはエンパスだけ、おーけーぃ?」

 

 「僕としては、神の計画も悪魔の計画もどちらもそう大差ない程胡散臭く聞こえますがね。協力しているのは、あくまで『私』を助けてくれた恩義があるからです」

 

 「まあ、胡散臭いのは否定しねぇが、多分悪いようにはしない。特にお前等にとってはね。人類が進化を迎える為には必要なことだ。お前達の段階に、みんなを引き上げる為のな」

 

 「私はガランさんに賛成です!あんなことしでかすところか、私を使い捨ての駒にしようとするエンパスなんてぶっ飛ばしてやりゃ良いんですよ!そのためならガスパルさんに手を貸しますしその後のことなんて知りません!」

 

 エンパス憤慨する『私』に対して、『僕』と『俺』は消極的同意のようだがまあ魂まで縛って賛同させようなんざ考えちゃいねぇ。結局のところ人間は自由が一番だからな。自由な発想と逞しい精神を維持して発展と進化をしてほしいもんよ。でも、そこが神様連中とは見解の相違なんだよなぁ。アイツ等は人間を資源にしか見ていないから。

 

 「にしても」

 

 「え?」

 

 「いや、なんでもない」

 

 レントに興味を向くように洗脳された連中はそのままエンパスの術中に堕ちた。だがしかし、例えば洗脳とは無関係に本気でレントが好きな奴がいたらどうだ?加護という枷はつくが、傀儡にはならなりですむかもしれない。ランザに心酔し加護を捨てたクーラには、エンパスの奇跡は通用しないだろうしな。あの小僧にどれだけそんな存在がいるかは分からないが、いたらいたで面白いことになりそうだ。

 

 「終わった」

 

 「終わったぞ」

 

 「終わりました」

 

 「ほいお疲れさん。じゃあ後はタイミングをみて…」

 

 地下で地響きがおこる。これは、大地そのものが振動しているとみても良い。エンパス、手駒を霊山のランドルフにおくったか。悪いが、ランザを欠いた解放軍やコボルト連中では私兵と化したチート共は止められない。

 

 「後アブソリエル公国の職人達には感謝だな。こいつのお陰で、人類史を次の段階に引きずり上げることができる。恐らく、ビッグ5に続く六度目の大絶滅に繋がる可能性もほんの数パーセント程度はあるが……是非もなし。さて、エンパスさんよ。短い間柄ですはありますが、仲良くしていきますか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 語ってはならない。記憶してはならない。記録してはならない。呼び出してはならない。描いていはならない。語り掛けてはいけない。

 

 火竜ランドルフの存在は、人間という生物だけではなく全ての知恵、理性、本能を持つ生命体にとっては禁忌の存在だった。

 

 それは災厄の余波で焼け死んだ人間。住処を滅ぼされ流浪のまま仲間達が餓死していくのを看取り続けた古い伝承のハティを始めとした知恵や本能を持つ動物達。身動きすらできず眼前に迫る死の濁流で崩れていった動植物達。

 

 一つの都市を皆殺しの為に瞬時に壊滅させる方法を選んだが、その余波人間界のみならず自然界のあらゆる生物達を長きに渡り苦しめ、追い詰めた。そしてなお、活性化した地脈は更なる変化を大陸に及ぼそうと激しい鼓動を繰り返していた。

 

 ランドルフは、自身の行いを酷く後悔した。力を持つ者が、一度でも考えを持たずにそれを振るった結果がこのざまだ。当時のジークリンデが残した嘲笑が、何時までも記憶の中に残りその景色と同時につい昨日のことのように思い出すことができた。

 

 「今一度、この決別した力を振るう時が来たのか」

 

 地脈が激しく唸る。自らが引き起こした大災害、それに続く天災を抑える為に使い続けた力を半分以上戻した為荒れた大地が隆起しようと目を覚ましかけていた。短期決戦で、ことをすます必要がある。

 

 「ガラン、コボルトの皆さん。貴方方の死は無駄にはしません」

 

 神殿の入口に、神の傀儡達が現れた。各々の得物を手に、加護の能力を顕現させながらこちらに走り寄ってくる。だが、大きくうねる大地の脈動がその進軍を阻んだ。

 

 遥か下の溶岩だまりが巨大な大蛇のように吹き上がる。どのような太古の柱よりも太い円柱のような溶岩は、押し寄せる者達をあっという間に呑み込んだ。骨まで瞬時に溶かす火力の大蛇は、終点地点であるランドルフに着弾する。

 

 幼い子供のような身体に巻きつけられた布が、焼け落ちる。細い足が丸太のように太くなり、幼く薄い胸板が筋肉で膨張し鱗と甲殻の鎧に包まれていく。細長い黒の瞳と眼球が紅玉のように光り輝き、口は避け名刀の牙が赤色の火に包まれた歯茎の中生えそろえていた。

 

 リヴァイアサンはランドルフの甘い精神性故に否定するだろう。ジークリンデは認めるのが嫌で顔を背けるだろう。だが、三割を残して力を取り戻した時点で、それを見た者は本能で察することができる。

 

 火竜ランドルフは、最強であると。

 

 溶岩が溢れる。神殿を包み込む程容量を増し、かつてコボルト達が通った入口に流れ込んでいった。

 

 霊山が火を噴き上げる。不動の大地が揺れ動き、それは帝国の首都どころか遥か遠くに離れたリスム自治州、経済特別区や連合王国首都まで揺れるものであった。帝都からでも見えた火山の噴火。そして、溢れ出る炎と共に一体の竜が顕現する。

 

 【この霊山に踏み込み、数多の血でよくも大地を汚してくれた。生かしては返さぬ】

 

 紅玉の瞳が睨みつけるのは、ハボックと霊山の入口にいつの間にか展開していたエンパス教の教団兵達。圧倒的な絶望の前に兵士達は無謀とも言える突撃をくり出す。彼等の手には、聖剣と聖槍が握られている。神の僕は人類の進歩した武器である、大砲や銃器に魔具を扱うことはできない。

 

 さながら神話の再現とも言えたが、それが文字通りの再現であるならば結果は火を見るよりも明らかである。

 

 火竜、ランドルフの喉元が膨れ、口腔内に灼熱が灯る。溶岩のような液体と油で広げたかのような火炎が雪原に凄まじい広範囲に広がった。人が焦げる臭いどころではない、人体が消滅する臭いが戦場に広がっていく。

 

 一歩進むだけで。足元から火と熱風が巻き起こる。風は肌と眼球を焼き尽くし。即死とはいかぬまでも死よりも辛い苦しみを相手に与えた。喉が焼け、悲鳴にならない悲鳴が巻き起こる。

 

 尻尾は火炎を纏う鞭となる。過剰な火力は、あらゆる火器と比較するのもおこがましい。とても、人が手に負えるような相手ではない。

 

 それだけではない。大地がひび割れてそこから炎柱が噴きあがる。枷から外れた自然が、その自由を喜ぶように雪を溶かし、瞬時にハボックと霊山の地を灼熱地獄へと変えていった。火孔から噴き出た噴煙。巨大な岩が降り注ぎハボックの砦に直撃して瞬時に瓦礫の山と化し炎の渦が巻きあがる。

 

 本来吹雪を運ぶ冷たい北風が、炎を巻き上げた竜巻となりその余波が広がり北部の地域はまるで灼熱地獄の様相を呈した。

 

 火竜の息吹と大地の歓喜により、展開されていた教団兵達は瞬時に壊滅する。だが誰一人、それに表情を変えるものはいない。この者どもも、既に汚染されている。信仰が魂を侵食し、それがエンパスによる傀儡化を後押ししていた。

 

 「流石は火竜、ランドルフ殿」

 

 超災厄の中でもよく響く声。真鍮色の大鎧に大盾、突撃槍を持つ武人が半透明な膜に覆われた状態で火炎地獄の中、立っていた。

 

 「私はカナリア=エル。エンパス様の大望を叶える為にこの槍を振るう者だ。敵とはいえ、偉大なる先人に敬意を抱きこうして挨拶をさせていただく。伝説を見ることができ、光栄だ」

 

 【多少なりとも耐えうるならば、何故逃げない。貴様は他と違い理性がまだ働いているようであるが】

 

 「なに、私はこう見えて信徒の端くれ。信仰の敵に対して向ける背中は持ち合わせてはないないというだけだ。例え、この防御壁をもってしても貴殿の一撃ならば容易く葬られるだろう。このオルレアン鋼が無事とて、火と衝撃は中身である人体を焼き尽くし破壊する。そうであってもな」

 

 【憐れなことだ。ならばせめて、一撃の元葬ろう。貴様の神たるエンパスも同様だ、この姿になったからには、奴もすぐにでも噛み砕き冥界送りにしてくれる】

 

 「では一戦交えようか。だがその前に提案があってだな」

 

 カナリアと名乗った騎士は、羽織るマントを広げる。そこには、ハボックにいた皆殺しにされた筈の小さな半獣が熱さと酸欠で悶え苦しんでいた。同様の状態がカナリアにも襲いかかっている筈だが、恐るべき身体能力と執念か神の加護か、同じように苦しむ様子はない。

 

 「ハボックで非戦闘員の子供を保護したのだ。この修羅場から逃がしてやりたいのだが、こうも炎と溶岩に巻かれては動けぬだろう?このまま戦えば、この子供も巻き添えとなるが」

 

 【貴様……】

 

 神の僕であるエンパスの傀儡達は、自身の命が尽きようともその敵対者を区別なく殲滅する。遥か昔、神の影響下にある人間が悪魔と関係を持った人間達に代理戦争を仕掛けた際も同様のことがおこっていた。

 

 だがこの女、理性が残っている。人質をとり、交渉を仕掛けてくる知性がある。そしてそれは、二度と悪戯に力を振るい関係の無いものを…ましてやコボルトと共闘し霊山を守護してくれた半獣を殺してしまうことなどできない私には効果が高いとみて。

 

 エンパスの、入れ知恵か。

 

 力を抑えざるえない。これが悪辣な罠だと分かっていても、それでも最後の一線だけは踏み越えることができない。海竜リヴァイアサンが、その精神性を脆いと評したが反論ができなかった。このまま、子供の命等気にせずにこの爪で奴を斬り裂くことが全ての生命体の為になると分かっていてもだ。

 

 傀儡共に容赦をする程甘くはない。だが、巻き込まれた者達の怨嗟と嘆きの声をよく知っていた。そして、二度と聞きたくない命の悲鳴だった。

 

 【私が言うのはお門違いであることは承知だ。だがしかし、貴様に誇りはないのか。それとも、従属し隷属し、なにも考えないのはそのように気持ちよのよいものか。騎士、いや人としての誇りはないのか】

 

 「お言葉であるがランドルフ殿。人間に誇り等という高尚な考えがないのは貴殿が一番良く知っているのではないのか?退廃し、血と苦痛を快楽としたボンペイを、その為に滅ぼしたのだろう?安心するが良い、人とは、そのように高尚なものではない。だから導きが必要なのだ、愚かな大衆が二度と繁栄による滅亡という道を歩まぬ為にな。さあ、問答は終わりだ。いかがされるか?ランドルフ殿」

 

 【……】

 

 憎たらしい。ここまで他者にその感情を抱いたのはあの退廃都市を殲滅した時以来だ。その後、この宿命を背負ってしまったことで抑えるべき感情であると理解していたが、この女に対して久しぶりにその感情が沸き上がる。

 

 火竜ランドルフの体躯が縮まり始める。赤いエネルギーが大地の亀裂に流れ始め、荒れ狂う溶岩と炎が収まりをみせていく。あの半獣の少年が逃げる為には、この力で再度大地を鎮めなければならない。

 

 「リヴァイアサンの言葉の通りですね。それ以上、貴方は汚れたくないのですか?」

 

 【エンパスゥウウ!】

 

 太陽光が柱となり、そこから翼を生やした少女が出現した。両手を広げており、手のひらには溶岩の波間から、霊山の方面から、光が吸収されていく。

 

 「ああ、貴方方の信仰、神にその身を捧げた献身はその魂の欠片も残さず受け取ります。さあ共に参りましょう。真なる世界への道のりを歩むのです。愛しき信徒達よ。今こそが、貴方達の収穫の時なのです」

 

 溶岩と炎に巻かれ戦死した教団の騎士達。コボルト達が命がけで食い止めた傀儡となった者達の力が、魂が贄として捧げられていく。エンパスの表情が恍惚としたものに染まった。頬に赤みが増し、表情が快楽に歪む。

 

 【貴様ァアアアアアァァアア!】

 

 力はこうしている間にも流れていくが、完全に終了するまでまだ多少の時間はある。羽ばたきと共に、牙をエンパスに向け炎と灼熱の体液の噴流を向ける。

 

 【よくもここまで他者を踏みにじることができるものだな!もはやこの大地は、我等が好きにして良いものではないと何故分からぬ!新しき者達に託し、この世界の生命はずっと循環してきた!我等が歪めて良いものではない!】

 

 「今の生命体が飛び切り愚かなのです。だけどそれは罪ではありません。全てのヒツジは導きを受ける資格がある。私では導き手には不満かもしれませんが、偉大なる主神の皆様ならばこの世界を良き方向に導くでしょう」

 

 火竜の牙と炎が、エンパスが張る光の球体に阻まれる。それを気にせず、火竜は球体を口に加えたまま霊山に突撃、衝撃と共に山が崩れ、火山岩でできた地面が砕け火孔まで貫通。炎の圧力で溶岩だまりに球体を叩きつけた。

 

 「紛争、疫病、人妖、差別。なんと愚かで滑稽で、自ら破滅という崖下に歩く盲目のヒツジ達。悪魔が介入せずともこの体たらくですが、だからこそそれ故に愛おしい。全ての人間達には理不尽に死ぬのではない、正しい教えと導きの中で生きる権利があるのではないですか?」

 

 光の幕は溶岩を弾く。周囲に魔法陣でさえない光の円形が現れ、光閃が放たれる。羽ばたきによりそれを回避するが、光の筒は恐るべき貫通力で全ての者を貫き空へと伸びていった。

 

 【例え破滅に進むとしても、それは奴等選び取った選択であり権利だ!いかに見下してしまおうが、他者を踏みつけにした選択が正解である筈がない!傲慢な選択肢を誰が受け入れ、納得しようものか!】

 

 「それは経験則に基づいた意見ですか?忠告ありがたく受け取っておきます。これでよろしいですか?我々は上手くやります。この世界に平和と安寧をもたらす為に」

 

 【どこまで救えぬ奴め!】

 

 瞬間的に、流していた力を止めて逆流させ吸収する。大地の変化はもう食い止めている筈だ。あの女騎士が口にだした言葉を反故にする下郎でなければ、あの半獣の少年も解放されている筈である。そう信じるしかない。

 

 火山が火を噴く。その圧力に、エンパスが、そして火竜ランドルフが火孔から飛び出した。再度力の吸収を始め、火竜の萎む体躯にエネルギーが流れ始める。

 

 【全ての生命体の為に、ここで貴様を食い止める!】

 

 「それが、貴方に出来れば良いのですが。あまりに強大な力故、背後を疎かにしすぎた貴方に」

 

 後方から、爆発音。後アブソリエル公国がある方向から、なにかが飛来してきた。



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 「それは、なにかの間違いじゃないの?」

 

 「俺が知るかよ!クソッたれ!どうなってやがるんだ!?」

 

 緊急を伝える報告が括られた鳥が到着したのは、イリーナルを撃退した後、内部から公国軍を崩そうと狙う鼠を片付けている最中であった。前線はランザが抑えてくれている。脇をすり抜けて来た連中を排し、ノルンと中枢を護ることに専念をしていた。

 

 例え気になる気配を職人街の方で感じたとしても、イリーナルのように強行手段をとれる存在に心当たりがある以上後方を磐石にする必要がある。そしてその読みは、大まかには間違えていなかった。予想をしていたような大駒はなかったものの、ガラン達が頑張ればなんとかなるレベルくらいの存在しか来なかった。

 

 ひと段落をつけたところで、ランザの元に援護に向かおうと考えた時に飛び込んだ急報。殴り書き、血が一部に染みたその紙はすんでのところで情報を飛ばしたことが分かるものだった。

 

 「何故?」

 

 軍勢とは大飯ぐらいだ。群れが動けば、それを飼育する為の兵站線が必ず必要になる。中世よろしく先々の略奪で賄うという方法もないことはないが、この北の地でそれを期待する将校が存在するものか。

 

 大規模な兵站線は隠しきれるものではない。だが、その兆候はみられなかった。だからこそ、こうしてアブソリエルの方に援軍に迎えた。

 

 では少数精鋭、レントの持ち駒はどうだ?でも、元々在籍している身として言えるとしたら可能性としては高くはないと思う。本命のレントがこちらに来ているらしいという情報もある。レントを囮として、ハボックを襲撃する旨味がエンパス教にはあるのだろうか?

 

 「いや、ありえるか」

 

 そういえば、一番危険な人物がいた。単独でも要塞のような鋼の騎士が、独自に動いたとしたらありえるかもしれない。あれが踏み込んで来たら、例え一人で来たとしてもハボックの居残り戦力では突破されることもありえる。

 

 「すぐに旦那に知らせに行く!ここは任せた!」

 

 ガランが城下に向かって走っていく。本当ならランザの元に飛んでいきたいところだが今の自分だが、元レントの駒でエンパス教に所属していた自分にしか見えないことがきっとある筈だ。現状を俯瞰して見ろ。何故、エンパス教はハボックを襲った?カナリア=エルの狙いはなんだ? 

 

 あの地に戦略的な価値は正直あまりない。こうして、後アブソリエル公国に王手をかけている状況、帝国と連携していることを前提に動くならばこの地に戦力を集中させれば良いだけだ。ここが落ちれば、分断された北の勢力は容易く各個撃破されるだろう。

 

 ならば戦力的ではない意図を考えてみるか。ランザや自分の帰る場所を潰す為?いや、所詮今の自分達は元々ただの根無し草だ。それに、エンパス教がランザにこだわるのは、レントの個人的な意思が強い。

 

 自分に対して、裏切者として制裁を与えるといった意図もないだろう。なにより手段が遠回しだし、やはり今更ハボックに奇襲をかける理由にはならない。揺さぶりをかけるにしても、下策だ。

 

 ならば、策に寄らずハボックを襲撃しなければならない理由があったとしたら?

 

 【まず一つ目の質問ですが。今私は、この場を動くことができません。この土地は、いえ……この大陸は壊滅します】

 

 「あっ」

 

 その時に脳裏に浮かんだ。火竜ランドルフと初めて出会った時、ランザの質問に対しての返答。あの時は、すぐに帝国の部隊が奇襲をかけてきた為忘れていた。その後もジークリンデとの戦いとか、帝国軍の竜狩り隊とランザ達が衝突あの悪竜が死んだりとか色々ありすぎた。

 

 そういえば、ジークリンデはあの時言っていた。

 

 【かつての世界最大の都であるボンペイを、噴火からの災害で都市の全部を灰と岩の下に沈めやがったじゃねえか。ああ、あの時は地揺れのせいで高波までおきたっけなぁ。十万人、少なくともそれだけの人間やその他種族を虐殺した。そんな奴の言葉とは、思えねぇなぁ】

 

 火竜ランドルフは、ジークリンデの話によればかつて大規模な噴火で人間を都市ごと皆殺しにした過去がある。ハボック襲撃に旨味はないとなれば、連中の狙いは更にその先ではないか?

 

 「エンパス教は、ランドルフに用事があるとしたら?」

 

 そうだとしたら、ハボックで最大戦力であるランザと主力級がいないタイミングを狙い急襲してきたことにも説明がつく。こちらとしては、最大に警戒していた敵の主力が後アブソリエル公国に来ているという情報を元に動いているのだから騙されもしよう。

 

 とてつもなく嫌な予感がする。今すぐにでも、ハボックに戻った方が良いのではないか。例え既に手遅れだとしても。

 

 考えを伝えに行こうとした瞬間、胸元に妙な感覚が叩きこまれる。無理矢理心地良さを流し込まれているような、それでいてなにやら気持ちの悪い感覚。まるで全てを、何者かも分からない他者に委ねたくなるような脈絡のない感情。

 

 「フー…シュー」

 

 だがそれは瞬時に消え去った。少し足元がよろけ、呼吸がやや乱れたが何事もなかったかのように感情から奇妙な感覚が霧散する。吐き気に似た感覚が胃の中からこみあげてきたが、なんとか気分の悪さで抑え込むことができた。

 

 「なに、今の」

 

 心臓が妙に高鳴る。瞬間的に何者かに頭の中をジャックされかけたかのような感情だ。首筋に指を寄せることで、奇妙な感情の残滓を追い払う。あの夜、ランザが絞めた部位に親指を押し込む。幾分か気分が落ち着いてきたが、こんなことは初めてだ。

 

 反転。ランザの元に向かうのをやめ、走り出す。頭の中に気分が悪くなるような気持ちを抱えながら。ある予感を確かめる為に進む。それはきっと重要なことだと、揺れた脳内では確信をしていた。

 

 「ああああああああああああああああああああああ!!来るな来るなやめろォ!入り込むな、あたしに入り込むなぁあああああああ!いぎゃあああああああああ!」

 

 外壁沿い、簡易的な処置としてイリーナルを拘束した場所へと向かった。空を飛び、翼を凶器へと変身させることができる彼女にはただの拘束ではなく、壁に貼り付けの状態で動けないようにしていた。

 

 両足には罪人がつける枷と重りを。両手には鎖を。翼にも、大小問わず雑ではあるが鎖を巻きつけとにかく飛ばないようにしておいた。彼女の翼は名刀の切れ味ではあるが、それはあくまで推力がある状態での話。果実ならともかく、密着している状態で鍛冶技術に優れる後アブソリエル公国の鎖を寸断することはできない。

 

 もっとも気絶させた今逃げられることはない。少なくとも、この騒動が終わるまでは熟睡してくれるくらいには痛めつけたつもりだ。エンパス教でレントのお気に入り、中枢に近い為情報を引き出す為に生かしておいた。楽しい尋問会、或いは拷問劇場までおねんねしてもらうつもりだった。

 

 だが、そのイリーナルが頭を振りかざし叫んでいる。凄まじい形相で、目を見開きながらあらん限りの大口を開けていた。

 

 「なにがあったの!?」

 

 「いやそれが、いきなり叫びだして…」

 

 一応見張りを頼んでおいた、後アブソリエル公国の兵士が困惑しながら答えた。原因は不明。いや、もしかしたら、自分と同じタイミングで発狂したのか?よく見たら、翼が通常のものと鋼鉄のものに忙しなく入れ替わっている。

 

 「加護か!?」

 

 レントから与えられた加護。その大本は、元はエンパスの力であるという。自分でさえ一度くらいしか会ったことのない引きこもりだが、なんらかの手段でそれを利用している?

 

 恐らくその力には、なんらかの細工があったのだろう。自分は加護の力を剥奪された。それなのに、瞬間的にとはいえ心臓がざわつく感覚があったというのに、現役で力を行使し続けているイリーナルに対しての負担はデカいということか。

 

 翼がバタバタと羽ばたかれようとするが、頑丈な鎖に阻まれ火花をあげていた。驚くべきことに、刃と擦れるごとに鎖の方が千切れてしまいそうな程耳が痛くなる悲鳴をあげている。このまま暴れられれば、逃がしてしまう可能性すらあるだろう。

 

 「イリーナル!」

 

 何故か自分は、イリーナルの名前を呼んでいた。なにか異常事態がおこっている。それには、加護が関与している可能性が高い。それだけ分かれば良いのに、これ以上イリーナルのことなど放っておけば良いのに。

 

 「イリーナル!無視しろ!心を強く保て!流されるな!」

 

 「嫌ああああああああああ!あだじはあんだなんかじらないィイイイイ!?やめてぇえええええええ!かき回さないでぇええええええ!あ゛だじの好きな人を塗りづぶずなああああああああ!」

 

 いや、分かった。この叫びを聞いて、なんで今自分は、あの憎たらしいイリーナルをなんとかしたいと考えているのか。

 

 自分はランザのことが大好きだ。心の底から好きだ。ランザを手に入れる為ならば、あの人の人生を台無しに、無茶苦茶にしたいと考える程に、大好きだ。この気持ちは、誰にも否定されたくない。

 

 あの気持ち悪さの正体は、恐らくは自己の感情を無理矢理書き換えるもの。敬愛の対象を、尊敬の対象を、無理矢理何者かにすり替えるもの。いや、おそらくはエンパスに変えてしまうもの。

 

 自分にとって、ランザを慕う気持ちがあるようにイリーナルにとってはレントがその対象なのだ。例えレントが、洗脳のような怪しげな方法を使っていたとしてもだ。ただの洗脳のようなまやかしから生じる感情ならば、イリーナルがここまで抗うことはできない。根拠はないが、自信をもって言える。

 

 それは、始まりは歪んだものであったとしても。絞殺しようとするランザに倒錯してしまったような、自分のようなきっかけであったとしても。レントが私欲でイリーナルを助け、その後は玩具のようにしか見ていなかったのを理解してなお好きだという褒められたものではない感情も。

 

 それでも、誰かが誰かを好きという感情は、否定されて良いものではない。

 

 「イリーナル。取り合えず、レントは最低のクソ野郎ってことは分かっているよね。でも、そのクソ野郎をアンタは大好きなんだね。それだけ、耐えているんだから」

 

 直刀とルーガルーの短剣を引き抜く。すっかり使い慣れた二刀は、もはや腕の延長線だ。

 

 「鎖を解いて」

 

 「は?」 

 

 「良いから解け!」

 

 なにを言っていると言わんばかりの兵士の顔がたじろく。兵士が身に着けた胴鎧に反射した、黄金の瞳が、ジークリンデの眼球が愉快そうに瞳を細めていた。この眼は、まるで自分の一部であって一部でないようだ。この中には、まるでまだあの悪竜が息づいているのではないかと思うような錯覚を覚えてしまう。

 

 瞳に威圧されたのか、すぐに兵士が鎖を外す為のレバーを引く。自由になったイリーナルは、痛みで自分を取り戻そうと凄まじい速さで飛び出し城の外壁に激突した。足枷等まるでないかのような速さだ。

 

 幾度かそれを繰り返し、血塗れになってなおその感情の慟哭は収まらない。彼女の動きは素早い、発狂しようとそれは変わらない。巻き込まれてはかなわないと言わんばかりに、兵士が逃げていく。

 

 加護の力に抗うイリーナルの翼は、また変化と退化を繰り返していた。

 

 ジークリンデの瞳がギョロリと動く。分かっているよ、次がその時だ。

 

 次の突撃先の斜線上には、自分がいる。前身を血塗れにしながら突撃してくるイリーナルに相対するように、二刀を構えた。狙い目は、退化。鋼鉄の刃となるのが加護ならば、元の翼は彼女自身のもの。こうなってしまえば、加護の力を物理的に切除するしかない。今の自分にはそれくらいしか思いつかない。

 

 安心しろなんて言えない。もしそれでも駄目ならば。レントへの感情が塗りつぶされてしまう前に終わらせてやる。それが、一時は同じ相手を好きになった憎たらしいライバルに向けての手向けだ。

 

 交差する刹那、竜眼に神経を集中する。彼女を捕まえた時もそうであったが、このジークリンデの眼球は見えすぎる。まるで、時間の流れがゆっくりになったかのような錯覚を覚えるように。それだけに、本来竜ではないこの身体には負担が大きい。自分には過ぎた力だ。

 

 こちらに飛び込みながらも、鋼鉄の翼から通常の翼に戻る瞬間。二刀の刃がそれを根元から切断した。少しでもタイミングを間違えていたら、両断されていたのは自分であっただろう。この瞳が無ければ、できない芸当だ。

 

 イリーナルの身体が、地面の上を転がる。前身血塗れであり、まるでボロ雑巾のようである。自慢であった翼が、落下した。

 

 身体をもがくように動かしていた。二本のナイフをしまい、改めて彼女を見る。あれは、多分ランザに出会えなかった自分だ。それだけに、その姿を目に焼き付けておく。

 

 イリーナルに近づき、髪の毛を掴み持ち上げる。意識を失いかけているが、その目に既に狂気を宿してはいない。多分、上手くいった。

 

 「後は好きにしろ。もう、加護の呪縛もエンパス教に仕える義務もないだろう。多分、レントも利用された。あの好色家が、こんな副作用まで許容していたと思えないからね。アンタの象徴を、自慢を奪った、自分を怨みたいなら好きにしろ。だけど、もしランザに手を出すようなことがあったら今度こそ殺してやる。自分の視界の片隅に現れても殺す」

 

 イリーナルの自慢たる、翼を、空を奪った。もしかしたら、自我を汚されることよりも堪える行いだったかもしれないが知ったことか。感謝される為に、やったことでもない。

 

 「二度と、姿を見せるな」

 

 その場から立ち去る。この奇妙な異変、すぐにランザに報告しないといけない。エンパスが、動き出したことを。恐らくは、レントは既に蚊帳の外であるということを。

 

 城下に向かう途中、山と大地が大きく震えた。地響きのようなものがおこり、まるで大地が脈動しているかのような鼓動が響く。軽い身体では、立っていることすら覚束ない。一度足を止め、近くの壁に手をおく。今度は、なにがおこっている。

 

 「ようクーラ=ネレイス。ランザは別行動か?あの鳥のお嬢ちゃん相手に苦労したな」

 

 「ガスパル!?」

 

 急に声をかけてきたのは、テンと共謀しながらずっとランザを欺き続けていた悪魔であった。遥か遠くの尖塔に座っていたが、その声はいやによく響いた。

 

 「なにがおこっているの!?アンタの仕業!?」

 

 「いやいやいや、か弱い俺にこんな芸当が出来る訳がないだろう。こんなおっさんに仕業とか企みとかあっても、大地が揺れて脈動するなんて超常現象はおきねーってば」

 

 尖塔には、凄まじい数の鎖が繋がれていた。大小問わず様々な鎖が、下目掛けてピンとはった状態で伸びている。

 

 「火竜ランドルフさ」

 

 ガスパルは、楽し気に言葉を放った。尻を叩きながら立ち上がり、西方へ目を向ける。

 

 「アイツが大地を封じ込めた力を解放し、自身に戻している。この揺れは、抑えていた地殻が自由を取り戻し暴れだそうとしている前兆だな。この地面、大陸の暴走じたいを抑え込んでいるのだから本当に、竜ってのは化物だよな。そんでもって、断言できるがアイツはその中でも、別格だ」

 

 「やっぱり、エンパスの狙いは火竜。でもなんで?ランドルフは、霊山に引き込もりだしエンパスの邪魔になるようなことが……いやでも、まさか」

 

 この大地の揺れ、ランドルフの言葉、抑えていたという地殻。もしかしたら、エンパスの目的は…。

 

 「物事を大きく変革するには、まずは当たり前にあることをぶっ壊すのが肝心だ。そして政情不安である程、他力本願や神頼みって奴は効いてくる。エンパスは狙ってやがるのさ、既存の宗教の役に立たなさと新たな宗教の革新。所謂、奇跡って奴をおこそうとしている。その為に、今までずっと準備してきたってことだ。失敗も込々にな」

 

 「馬鹿げている」

 

 「そいつには同感だ。だが、馬鹿げたことをするには馬鹿げた手段が必要だってことだ。ついでに俺も後付けな動機だが、尻馬に乗ろうって企みがあってな」

 

 ガスパルが指を弾く。繋がれていた大小問わずの鎖が分断され、先程の地揺れと同等の振動が城内に響いた。城の所々が爆薬で吹き飛んだような音を上げて岩が飛び、鎖が何十にも巻きつけられた巨大な大砲が複数あちこちから出現する。ここから見えるだけで、ざっと数えて十を超えている。

 

 「なあ…あ」

 

 「大きいのは、男の子のロマンでな」

 

 ガスパルは軽く言うが、大きいなんてレベルじゃない。目算だが全長四十メートル以上はあるんじゃないか?前高も十二メートル以上ある感じがする。大きすぎて、距離感が良く分からなくなりそうだ。調べる時間がなかったとはいえ、こんなものが公国の地下にあるなんて。

 

 「弾だけでも確か四トンくらいはある。俺があれこれ口出ししたとはいえ、人間の技術者はスゲーよな。本当は帝国首都まで射程に捉えて砲弾ぶち込んで威嚇する為の、文字通り切り札運用の兵器だけどよ」

 

 城に向かう為のトロッコ乗り場、自分達が乗った乗り物の近くにあった巨大なトロッコには大量の硫黄と鉄鉱石が積まれていた。立派な鍛冶場街がある中層エリアがあるにも限らず、城の方向に向かって運ばれていた。城内にも巨大な溶鉱炉が存在していたが、そこで鋳造された鉄資源はこの砲に使われていたのだろう。

 

 「俺には竜の戦闘力も無ければ、天使の馬鹿げた能力はない。やっぱり皆に知恵を渡して、一致団結して頑張るのが性に合っているんだよなぁ。うん、これが人間の可能性って奴だ」

 

 袖から伸びた鎖を引く。まるでガスパルに調教された獣達のように、巨大な方針を一斉に西方に、ハボック…いや、霊山の方向に向ける。

 

 「なんだこれは!ガスパル、貴様なにをしている!このようなことは許可していないぞ!」

 

 この異変を確認する為に、ノルンが城内から走り様子を見に来たようだ。報告は行っていたとは思うが、あまりのことに信じきれなかったのだろう。

 

 「まあちょっと個人的事情で拝借拝借。レンタルに料金いるなら、支払うから領収書きってもらって良い?」

 

 「拝借だと?馬鹿なことを言うな!この砲の運用にどれだけの人員が必要だと思っている!第一それはまだ未完成品だ!」

 

 「未完成品?いやいや、アンタは自国の技術者を信用しなさいって。設計図は俺が描き、製作は職人達がやった。これはもう完成品だよ。例え多少の誤差で弾道計算に狂いがあろうと、俺ならば計算しきれる」 

 

 通常サイズの大砲の知識はないが、あれだけ馬鹿みたいなサイズを単独で運用できるとは常識的には思えない。いや、多少の協力者はいたかもしれないが少なくともあちこちで人手が足りない修羅場な現状、それだけの人員を動かせばいやがおうにも目立つものだ。

 

 だがしかし、奴ならばそれを可能にするだろうという嫌な信頼感がある。あのテンの協力者で、人ならざる者であるならば。

 

 「さあて、せっかくだ。お集りの方々に宣言させてもらいますか。えー時代には変革期というものがあります。例えば神様連中を駆逐するきっかけとなった、新しい宗教ができた時。吸血鬼との生存競争の勝利。騎馬民族との戦争と虐殺。この大陸の人間達は、そういう大きな出来事を乗り越えて成長してきたのですが…まあ残念なことに、嘆かわしいことに、最近はそれが停滞気味でした。なので俺は、無理矢理にでも時代を動かそうと思います。上手くいけば人類史にも多大な貢献ができるから、まあ勘弁してね」

 

 ガスパルが腕を大きく背後に振った瞬間。まるでそれが指揮棒だったかのように砲身部が赤熱色に輝き始める。多量の爆薬と、恐らくは内蔵された魔具が互いに反応しあっており、初めての砲撃に期待をし興奮しえているようにも見えた。

 

 「さてエンパスよ。互いに協力できるのはここまでだ。歴史を動かすか留めるか、精々楽しい勝負にしようや」

 

 十を越える砲門が、耳をつんざくような轟音を上げた。弾丸は、遠く霊山に向け射ちだされてしまった



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 大砲、という兵器の存在は聞き及んでいた。帝国が開発した空を飛ぶ鉄馬が開発した今となれば、旧世代兵器と言えるが単純な破壊力だけを考えればその威力はやはり一線級だ。

 

 だが空を飛ぶ竜程大砲と相性が悪いものはない。機動力がある相手に、射線が限られた砲弾等当たる道理はない。

 

 海竜リヴァイアサン討伐の際は、竜狩り隊と高度に丁寧に海竜討伐をシュミレーションして訓練された帝国軍の主力艦隊集団を動かし、大きな被害をだしながら動きを制限させようやく数発命中させるのが精一杯であった。

 

 そもそも、砲というものは要塞や敵拠点、軍勢等動かないもの或いは的が大きいものに対して効果を発揮するものである。そしてなによりも、火砲の音は相手の戦意を削ぐ。こと人間と、彼等が造り上げた建造物に対しての特攻兵器と言っても良かった。

 

 ランドルフは、砲撃というものを始めてみた。だが、いくら巨大な砲弾であろうとこちらに向かって飛ぶ飛来物は直線的であり、それこそエンパスの相手にしながらでも片手間に回避なり迎撃ができる代物だ。後アブソリエル公国で、ガスパルがコソコソ製造していたもの。だがこんな玩具では援護にもなりはしない。

 

 短期決戦。既に地脈が暴れだそうとしている兆候を見せている今、一刻でも早くエンパスを叩き潰し大地の安定化を図らなければならない。

 

 「時が気になるでしょう?ランドルフ。安心してください、勝負は瞬でつけましょう」

 

 エンパスの手の内で、蒼白に輝く光剣が紡がれた。その神々しさは、まさに神具と言える宝剣かもしれないがその素材が吸われた魂の慣れ果てだ。充分、嫌悪に値する。

 

 大きく呼吸をし、口内にて大量に取り込まれた酸素が内臓から競りあがる火炎となり口腔内で爆発。大量の息を吐きだすように炎が溢れだす。極度の高温により青く染まる炎がエンパスに襲い掛かる。

 

 空中を浮遊しながらエンパスは炎から逃れる。火炎の勢いは止まらず、逃げ切れない対象が炎に呑まれ焼かれ始めた。炎の中で肉が焼け骨が焙られていく。動きが止まったところで、尻尾を大きく振るい空中で回転しながら叩きつける。直撃したものが、火孔付近に叩き落された。手応え、あり。

 

 トドメを刺しに行く前に、軽く飛翔する。アブソリエルの方面から飛来してきたものを避ける為に、何時反撃してくるか分からないエンパスから目を反らさぬように空を飛ぶ。

 

 「ガスパルは、貴方が考える程甘い相手ではありませんよ」

 

 【なに?】

 

 顔が半分焼けこげ、司祭服が全焼したエンパスが火孔の一部を吹き飛ばし姿を現す。ほぼ全身の皮膚、そして肉が炭化する程の火炎を浴びながら、それは目に見える速さで回復していっていた。この速さ、恐らくはこれにも吸収した魂を糧としている。こうなると最早治癒とはいえない、再生といっても差し支えない。

 

 エンパスに注意が向かった刹那、背後で鎖が擦れる音が響いた。振り向くと、発射された砲弾が二つに割れ、内部からそれぞれを繋ぐ悪魔の気配を感じる鎖が出現していた。胴体や翼に鎖が絡みつき、砲弾が重しとなって遠心力に従い身体中にまとわりつく。

 

 【これは】

 

 「知っていますか?彼は初めて、星を由来とする鉱石、隕鉄の加工を教えた悪魔でもあるのですよ。その彼が造り出した鎖は、生半可なものではない」

 

 人間が大きな発展をしたのは、馬を飼いならし鉄の発見によるものが大きい言われている。鉄鉱石の採掘やそれの精錬は人間が培っていた技術であるが、その芽吹きとなる最初の加工物を人に授けたのはかの悪魔であった。鉄というものの可能性を、人間に吹き込んだ。

 

 「それ故にかの悪魔は私達でも最優先で排除するべき存在となる可能性もありました。彼が本気で動く働き者であったならば、我等の福音における最大の障害であったのはガスパルであったでしょう。ヒントのみを与え過程を見守るのを楽しむ性分でなければ今頃世界は悪魔の楽園であった可能性すらあります」

 

 鉄の鎖は瞬時に砕ける強度ではなかった。熱と対外的な力にも頑強に提供し、僅かな間でも竜の機動力を奪う。そして、戦いにおいてその僅かという時間はエンパスにとって充分なものであった。

 

 【貴様等ァアアアアアアアァアアァ!】

 

 「強き竜よ。混沌を押し留める貴方の役目は、終わりました。新たな世界を始める為にも、今こそ時代を動かすべきなのです。盤上は崩壊し、再生し、祝福が訪れる。全ての生命体が、安らぎを得られる為に今あるものには終わっていただきましょう。国も、信条も、生命も。全てを平定した先に訪れる、次代の幸福の為に」

 

 エンパスが火孔から飛び出す。蒼白の剣はまるで神話のように、竜の喉元に吸い込まれた。刃が皮膚を斬りつけ肉を裂き、呼吸器を破壊する。切断された器官から炎が噴き出し、溢れだした。神々しい凶刃は神秘の力となって、骨を砕き斬り首筋を抜ける。

 

 落ちていく火竜、ランドルフの瞳がギョロリと動く。首筋が切断されてなお、その身体はまるで意思が残るように最後の力で鎖を引きちぎり肉薄したエンパスを羽交い絞めにした。そのまま重力に従い、火孔まで叩きこみ溶岩の中に落ちる為切断される刹那まで強靭な生命力にて無理矢理身体を動かした。

 

 巨体による重量は、流石に人外と言えど個人で支え切れるものではない。だがエンパスは鼻で笑い、周囲に出現された円のみの魔法陣より射出される光の奇跡を使い腕を焼き落す。

 

 「その往生際の悪さ、理解できません。この行為が、無駄だと分からぬ程愚かでもないでしょうに」

 

 手に握られた光刃により、腕を焼き落された火竜の死骸を両断。無数の斬撃が竜の体躯と内臓をバラバラに切断する。再度昇ってきたエンパスの身体は、あらゆる不浄を弾くかのように返り血も受け付けぬ優雅な姿であった。宗教画家がこの場にいたら、如何なる犠牲を払ってでも描こうと思う程だった。

 

 【神と悪魔が手を組むとはな】

 

 「呼吸器を無くして会話ができるのですか」

 

 見下すようなエンパスと、口惜しそうに瞼を細める火竜。嘲笑の混じる口調のエンパスとは逆に、ランドルフは酷く冷静な言葉紡いでいた。

 

 「火竜ランドルフ。全盛期の貴方であれば、私等相手にならなかったでしょう。例えガスパルと組んでも、この戦果はあり得ない。過去、愚かな人間に鉄槌を与えたのは分かります。しかし、解せないのは何故この世を灼熱地獄にしなかったのですか?そうすれば、この世界の王者になることすら夢ではなかったと考えますが」

 

 【聞いてどうする】

 

 「ただの興味本位です。竜という、早晩絶滅するであろう生命体の考えを知っておくことは今後できなくなるでしょうので」

 

 【ただ、愚かだっただけだ】

 

 退廃の都市ボンペイ。その悲惨さは当時のエンパスの耳にも届いていた。

 

 遥か昔、ボンペイの都市に住まう堕落した人間が、当時の悪魔に様々な夢とその叶え方を問うたという。

 

 それは、家畜を効率のみ重視した生命の禁忌に触れるおぞましい繁殖方法。人間の精神を犯し体内を蝕む代わりに多幸感を得る禁断の薬物。石の塊から金を産み出すおぞましい錬金の法。戦争に必ず勝利する方法。口に出すのも憚られる残酷な娯楽の数々。

 

 全ての道はボンペイに通じるとも言われ、世界中から略奪された品々や奴隷達が集まり。道端で性交がおこり、酷い時には産まれたばかりの赤子までが、処女と行為をすると性病が治るという愚かな伝承により性の対象ともなり、終わり次第道端に捨てられた。

 

 肥え太る者達の間では、酒池肉林とも言える豪勢な料理が並んでいる。いや、食べられるならばまだ良い方であり、時にはショーとして人間もそれ以外も無駄に命が散らされた。品の無い生活と下品な笑い声の元、あらゆる生命が凌辱され散らされる。

 

 だがそんな増長した人間達は、遂に竜をも娯楽の対象と見定めるようになった。地の豊穣を司る、当時の最年少であり、老いた先代から代替わりにより誕生したばかりの地竜アルギル。言葉巧みにアルギルを騙し、悪魔の力により人の殻へと封じ込められた地竜は長きに渡りその尊厳を奪われることになる。

 

 竜という存在は、戦いではない死。つまり途方もない長い年月を過ごし、寿命を迎えるとその躯から新たな自分を産み出す。途方もない年齢を生きる竜であるが、アルギルは人類史の始まりよりも遥か昔から生きて来た当時の最古参であった。

 

 生まれ変わりの法。太古不死鳥を思い出すが竜のそれは、不死鳥よりも劣るものであった。アルギルは生まれ変わりの際に先代の記憶を引き継げない。無垢な子供のまま別の竜と出会う前に人間達に拉致されてしまい、人間が作り出した殻に閉じ込められた。

 

 火竜ランドルフは、アルギルの生まれ変わりを寿ぐ為に地上に姿を現した。だが彼が目撃したのは、悪魔の知恵により悪辣な知識を身に着けた人間達による欲望の限りを尽くす行いであった。その身を汚し、その魂をいたぶり、その力を利用した。

 

 いかに人を凌駕する竜であろうと、力を抑制されまだ産まれたばかりであればどうすることもできない。そして最悪であったのは、アルギルは美しい竜であったことだ。人間達が作った木偶は、その魂と呼応して輝くような美貌を持つ姿へと姿を変えていた。それがどういう結果を呼ぶかな等、想像がつくものであろう。

 

 怒り狂える火竜は、大地不覚に眠る大地の力を無理矢理呼び起こした。訳も分からぬまま嬲り殺しにされたアルギルの、残った力を喰らうことによって引き継いだ。それは、ランザ=ランテが悪竜ジークリンデの力を喰らうことにより引き継いだことと同じだった。

 

 「地の力と炎の力。それは大地を揺れ動かし複数の火山を怒り狂わせる程でした。貴方は怒りのまま、ボンペイにいた全ての生命体を瞬時に滅ぼした。だけど解せないのです。そのまま大地を混沌とさせたままでいれば良いものの、貴方はその力を、自身の身を削り封じこめた。それは、何故ですか?」

 

 火竜ランドルフは、瞼を閉じる。暗闇の中で浮かび上がるのは、かつての大地とそこに生きる者達の苦しみだ。

 

 火孔から噴き出た炎は広範囲の森や平原を焼き尽くし、空を覆う火山灰は太陽を覆い大地から光を長い間奪った。ランザ=ランテが人妖化した際元になった存在、ハティのように人間の凶行とは無関係な数多の生命達が飢えと苦しみにより息絶えていった。

 

 ランドルフの脳内には、かつて噂を聞きつけ物見遊山程度の気持ちで現れた悪竜ジークリンデが放った言葉が蘇る。

 

 【ランドルフよ。今やお前は俺達の中でも頭一つ抜けた存在になっちまったな。ほれ見ろよ、焼けただれた森で痩せこけた動物が横たわってやがる。いやあ、お前が力の為こんなに後先考えない奴だとは思わなかったよ。流石流石】

 

 見て見ぬふりをしたい現実を、悪竜は笑いながら突き付けて来る。広範囲の噴火と土石流は無関係な土地を焼き尽くした。そして未だ続く噴火に、降り続ける火山灰のせいで新たな生命達が栄える様子すら見せない。大地は割れ、炎は噴出し、そこは文字通り死の大地となっていた。

 

 【もっと炎は広がる。もっと大地の荒廃は広がる。こいつはもう、アルギルが完全に死んじまった今多少の小細工じゃ止まらねえ。悪魔も天使ももうどうにもできねえかもなぁ。おめでたいねぇ。この死の大地の覇者は、これで我等竜のものとなった訳だ。全ての生命体を踏みにじり、最強の存在になった気分はどうだ?】

 

 ジークリンデの嘲笑は、頭の中をこだました。こんなことは、望んではいなかった。怒りに任せて行動したことにより、後先考えなかった為に罰するべき者達のみならずそれ以外の生命体全てが苦難と怨嗟の声をあげていた。

 

 これを抑えるには、いったいどれくらいの年月が必要となるであろうか。それに、こうしている間にも地は揺れヒビが割れ、炎が噴き出し広がっていく。

 

 私は、未だ噴火をしていない。だが、地脈に一番近い北の山脈に身を鎮めることとした。これ以上酷くならないように、大地に力を流し鎮める為に。これからは、地竜アルギルの代わりも勤めなければならない。

 

 こうしてそれから千年近くの時が経ったであろうか。大地に息吹が戻り、自然が返り、そこに新たな人間達や動物達が住むようになったという。それから幾百年か過ぎ、かつてボンペイがあった場所は帝国と呼ばれるようになった。

 

 かつての退廃都市の出現を危惧したものだが、それは杞憂となっていた。悪魔も一枚岩ではない、ボンペイを堕落に導いた者は、方向性の違いとやらでガスパルに誅されたと、気紛れに霊山まで回遊してきた空竜オリシスより伝え聞いた。

 

 悪魔も迷惑をした話だったのだろう。この悲惨な現象を巻き起こった原因は、人間が悪魔の知恵を借りた為だという言い伝えがすっかりと広まっていた。そしてそれは、遠因ではあるが間違った話でもない。既に廃れていた神の連中と同様、悪魔も衰退し追い込まれていくことになる。

 

 目を見開くと、勝ち誇ったエンパスの顔が見えた。

 

 【私は愚か者であった。こうして無様を晒しているのは、因果応報と言えるだろう。よくもここまで、命運尽きず生きてきたものだとな。だがエンパスよ、ガスパルにも伝えておけ、勝ち誇るのはまだ早い】

 

 「なにが言いたいのですか?」

 

 悪竜ジークリンデ。人を弄び、人で楽しみ、そしてどの竜よりも人間と長くいた存在。我等竜達の中で、誰よりも人間を愛し理解した邪竜。

 

 そんな彼女が見出し、そして全てを託した人間。あの悪竜に好かれた人物が、ただ神の盲目たるヒツジとなることを良しとする存在な訳がない。人であり、竜である者が、神の誘惑如きに屈することはないであろう。

 

 【お前の企みは頓挫するであろう。もはや人間は、我等に操作されたり畏怖をする存在ではない。無論、ガスパルの思惑にもな。そして竜はまだ存在する。我等が同胞が、貴様の頭蓋を噛み砕く。悪たる力をもってしてな】

 

 「天竜一頭でなにができると」

 

 【悪竜がまだ、この地にいるぞ】

 

 勝ち誇りの笑みを浮かべるエンパスの表情が不快そうに歪む。むこうからしたら、三竦みの一角が滅び長年追いやられていた自分達の時代が来るというのに、目の前の死に体が放つ言葉と余裕が気に入らないのだろう。

 

 【エンパス。取り残された憐れで愚かな者よ。死後があるというのなら、そこから見させてもらおうか。貴様の計画が、崩壊していく様を……な】

 

 ランドルフのかすれ行く最後の視覚がとらえたものは、エンパスから放たれる光の束。極太のレーザーとなったそれは、最後に残った火竜の身体を焼き尽くし消滅させる。

 

 「負け惜しみにしては、滑稽な捨て台詞ですね」

 

 エンパスは考える。今や脅威となるのは、ガスパルくらいのものだ。そしてそれも、時間の問題で片が付くものである。弱体化し、一時は人間の軍勢に追い込まれる程弱った悪竜が見初めたたかが人間等、なんの障害になろうものか。

 

 思考を終えた次の刹那。大陸中が大きく揺れ動く。抑え込まれていたものが、解き放たれようとしていた。

 

 「さあ審判の時が訪れます。古き時代の大洪水のように、世界が一度終わりを迎えるでしょう。そして寿ぎましょう、新たな時代の到来を」

 

 エンパスが両手を広げる。それと同時に、北の霊山から溶岩流が溢れ、空高くへ飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「これで、一つの時代が終わったかねぇ」

 

 ガスパルは、瞼に手を当てながらため息を吐いた。

 

 この世界に根を降ろした時、既に火竜ランドルフは存在していた。言わば大先輩だが、背中を見ていた連中が次々といなくなっていく。目的の為仕方ないこととはいえ、勝手な感傷のようなものを抱かずにはいられなかった。

 

 「ま、あの時は俺は俺で忙しかった。節操無い阿呆の掃除は大変だったしな。でもまあ、やはりあれはやり過ぎだ。そのツケ、支払う時がきちまったってところか」

 

 俺達は人間の個人主義を大事にするが、それは自分達にも言えたことだ。知識を極端に出し惜しみする奴もいれば、ボンペイを堕落に導いた阿呆のように節操がない奴もいた。各々好き勝手していたがそのせいで、俺達の存在まで没落するきっかけになっちまったが。

 

 「おっとこうしちゃいられ」

 

 影。袖を振るいそこから召喚した鎖が、ナイフとぶつかり火花をあげる。

 

 二刀を構えたクーラが、文字通り猫のような素早さでここまで駆けのぼってきた。金色の瞳と目が合う。

 

 「クーラちゃ~ん。俺は敵じゃないよ~。あ、てかそのナイフまだ使ってくれてるんだ。どう?使い心地良いだろう」

 

 「敵じゃないかもしれないけど、味方って訳じゃあ断じてないでしょう。それに、元から胡散臭かったアンタだけど、今となってはそんな言葉で抑えられない程不吉に感じるよ。ガスパル、ここでアンタを逃がしちゃきっと良くないことがおこるでしょう。その首一つ置いていけ」

 

 「おー。元々レントの飼い猫だった存在が、随分立派な戦士になったもんだ。良いねぇ、ジークリンデにも好かれたのはその瞳を見れば分かる。いやあ、やっぱお前等はやっぱ成長してこそだよな。俺も遊んでやりたいが…残念。時間がないんだ」

 

 地面が突然大きく揺れ始めた。狭い足場だが、クーラも四つん這いになって耐えるしかない程の揺れだ。当然だ、大地と火山、地脈がようやくあの日の続きを始めることができると打ち震えていたるのだから。後アブソリエル公国の首都が建設されたここは休火山ではあるがあちらと連動して大きく脈動をしている。

 

 「巻き込まれる前に、お仕事しておかないとな」

 

 巨大砲に繋がれた鎖が巻きあがる。空中から出現させた新たな太い鎖と連結させ、固定を無理矢理破壊し宙へと浮かび上がらせた。こいつはキツイ。重労働は俺の仕事じゃねーややっぱり。オジサン今の時点でちょっと泣いちゃいそうである。

 

 「おんもぉぉお…」

 

 「ガスパル!」

 

 「あーノルン様よ。これ、持ってかないともったいないからもらっていくな。大丈夫、アンタの国で開発されたこいつは、人類史の発展に繋がるよ。つまり、アンタとこの国は人間達の功労者だ。あと一つ伝えておく、ここはもう危険地帯だからな」

 

 浮かび上がらせた大砲の上に飛び乗る。それと同時に、山頂が火を噴き出した。噴火と共に飛び散る巨大な岩石が、街に向かい無数に降り注ぐ。

 

 「速く逃げときな。死にたくないならな」

 

 忠告はしてやった。十を越える砲台の上には、打ち合わせ通り三人組も乗っており、噴火する山を眺めていた。この北で始まった大地の大変動は、かつてボンペイが存在した帝国中心部まで連鎖的に広がっていくだろう。それを想像しているかのように、各々それぞれの表情を浮かべている。

 

 「ランザにも言っておけ。生きていたら、また会おうってな。そんで、エンパス討伐の際には是非とも力を貸してくれや。連合王国で、待っているからよ」

 

 ここから先、生き延びれるかどうかは奴次第だ。そして、その可能性は低いだろう。だがその顛末は未届けられない。鎖と砲と共に、俺達は移動の方陣によりこの場を後にする。

 

 生き延びていてほしいのは本心だ。その方が、最終局面では盛り上がるだろう。

 



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 「嘘だろ」

 

 山の中腹からでも確認できた巨大すぎる大砲。離れている為に、正確な大きさは分からないがそれでも昔古本屋で立ち読みした漫画かテレビかでみた化物砲を思い起こした。

 

 1940年にナチスドイツがフランスのマジノ線攻略の為に開発した、全長四十二メートルを越える化物砲。分類としてはカノン砲であるが、四本の専用となる鉄道レールが敷かれた上に設置されるそれは列車砲と呼ばれていた。

 

 詳しいことはあまり覚えていないが、運用には千人だか千五百人だかの人員が必要で更には技術者や防衛の為の人員を全部合わせれば四千人もの人間が更に必要だと言われている。一発撃つのに三十分以上かかるうえに、一日最大十四発しか射撃することができないが凄まじい破壊力と超射程が約束される浪漫兵器だ。

 

 思い出した。参考書を探すついでに、富田さんが面白いって言った漫画を古本屋で読んだ時に出て来ていたんだ。デブで眼鏡の戦争狂な少佐が、そいつは素敵だ、大好きだとか叫んでいたっけか。アハトアハト、確かそんな名前の巨大兵器である。

 

 それと同じとは言わないが、それに近しい大きさと異様な雰囲気を放っていた。それがいっせいに砲撃をしたことで、耳をつんざくような音と衝撃で鼓膜と臓腑が直接殴られるような感覚が響いた。砲撃方向は、確かハボックや霊山がある方面である。

 

 「おい!エンパス教はなにを企んでいる!ハボックでなにをやらかしているんだ!」

 

 「……何故」

 

 ランザが表情をしかめながら聞いてきたが、持ち駒を勝手に動かされた為にこちらとしても寝耳に水だ。カナリアも、別段動いたという報告もない。連合王国がリスムを制圧しようとした際に抑止力として残しておいた大駒であるからだ。ランザがここにいる以上、ハボックを急襲をする意味が分からない。それに移動距離の問題もある筈だ。南方と北方、距離も離れすぎている。なんの情報もなく短時間でここまで来れるものか。瞬間移動や転移のチートの類だって距離の限界はあるはずなのに。

 

 知るか!と叫びだそうとした瞬間、地面が再度大きく揺れた。脳裏によぎるのは西日本大震災の時の記憶であるが、これはあの時を上回る地震だ。

 

 『まさかと思ったけど、本当にただの操り人形だったんだにぇ』

 

 ねっとりとした口調。炎の姿で象られた人物は、ウェンディ=アルザス。洗脳の類が効果が薄く元より姿をあまり現さない存在であった。だけど呼び出しには応じたし、戦闘力と魔法使いという特色はこの世界においては替えが効かないものであった。帝都で死亡したと聞いていたが、その姿を見てある疑問が湧く。

 

 「何故、そんな姿に」

 

 炎で象られた異様な容姿ではない。目の前の相手は、彼女であって彼女ではない。明らかに女性像であるのに、中身が違う。容姿と性格と記憶を引き継いでいるのに、宇宙人の侵略みたいに内部に別のなにかがいるかのようだ。

 

 相変わらずふやけたような笑みを浮かべているが、帝都事変の前に会った時と比べると明らかに違う。狂気に近いなにか、そんな世界を垣間見て静かに狂ってしまったかのようだ。

 

 『この姿もそうだけど、まあごめんねぇレント君。僕、この人のテクが忘れられなくなっちゃったの。レント君とは比べ物にならない程に身体と魂を弄ばれて、しまいには…』

 

 炎が歪に揺らめく。ランザが手に持つ散弾銃が放たれ、炎が大きく崩れてぶれた。瞬時に元の姿に象られたが、飛び散った頭が戻っても、年頃の男の子をからかうような相も変わらずのニヤケ面であった。散弾銃を構えたランザが、複雑かつ苦々しい顔でウェンディを見ている。

 

 異常事態の連続で割とあっけにとられていた。だが冷静になって彼女の様子を見れば、その目は照れる相手をからかいながらも興味深い対象として見ているような、それでいてもう離れたくないと考えているような、そんな雰囲気がある。心の中でざわつくものを感じる。

 

 なにがあったか分からないものの、ランザの方も口を閉ざしたままであり否定はしなかった。言い方に誤解や語弊はあるかもしれないがそう遠くないことをウェンディに行った可能性がある。帝都事変の際遠目から観戦はしていたが、巨大な化物と化した人妖の胸元から肉壁に取り込まれたようなウェンディが確認できていた。

 

 『真面目な話に戻すと、僕は悪魔とは別方面でエンパスの動向に興味があったんだよねぇ。魔術の古い文献でも、神とか悪魔とかの記述は良く出て来るし、君に近づいたのもエンパスとやらが何者なのかを見極めるのと加護というのがどういうものかを分析したかったからにゃんだよにぇ』

 

 ウェンディ=アルザスに与えられた加護は確か、他人になりすます能力。直接戦闘向きでない隠密向けの加護ではあるが、元々戦闘技能はあるし副業に丁度いいとえらく喜んでいた記憶がある。その副業の伝手を使ったこともあり、裏稼業との太いパイプを思わせる一面も彼女にはあった。

 

 『結論から言えば、エンパスの加護は遅行性の麻薬だね。それも、精神を犯す類のものさぁ。指示もないのにハーレム軍団がハボックを襲撃したのは不思議かい?それは簡単だよ、例えるならば加護というものは人体、脳内に侵入する寄生虫の子蟲。そしてエンパスはその寄生虫を意のままに操れる親蟲だからさ。君の役割は、効率良く寄生虫を媒介する為の便利な餌ってところかにぇ。もっとも僕くらいになれば、自前で蟲下しを飲んで対応くらいはできるけどさ』

 

 「それは、クーラは大丈夫なのか?」

 

 『おっと冷静になりなよ主人格君。僕と記憶共有しているんだから…あーこれはまだ共有していなかった話か。あまりに多くの情報共有一気にしたら、情報量の多さで頭がパンクするといけないからねぇ。とにかく、クーラちゃんは問題ないよ。あの子は加護が無くなったことと、君への狂信で自力でどうにかした。言ってしまえば寄生虫が適さない環境になったってところかなぁ』

 

 「その話、本当なのか?」

 

 ランザは安堵した表情を浮かべていたが、こちらとしては大問題だ。本拠地はリスムの地下迷宮にあるし、対連合王国やなりふり構わず帝国が占拠しにきた時に備えての部隊であったというのにエンパスの一存で無理に動かされるのは都合が悪い。

 

 なにより、エンパスには現場のことはこちらに一任していると考えていた。その為の戦力をなんの断りもなく横からかっ浚う等、無茶苦茶も良いところだ。

 

 『本当だよ。僕としては、エンパスの企みを叩き潰す為に前々から進めていた帝国の支配を企んでいたんだけどさぁ。いやあ誤算も誤算。今じゃすっかり、主人格であるランザ君の一部にされちゃった。思考も人格も好みも蹂躙されるどころか、今までの人生と積み上げたものが否定されてただの臓器、魔力を産み出す器官の一部にされちゃってるの。実は、今でもランザ君の臓器は僕のものと混ざり合っているんだよ』

 

 炎で象られた顔で、こういう例えも妙な話であるが、エンパスはまるで熱に浮かされたような顔で自身の末路を語っていた。ランザのことを主人格と呼んでいるからには、取り込まれた自分のことは別人格として扱っている。つまり、ウェンディ=アルザスという存在価値を全てこの男に捧げている。

 

 会話の内容は一部初耳とでも言いたげなランザであるが、記憶共有という言葉もあることから否定もできずにいた。ただ、その表情には後悔のようなものが滲んでいるようにも見えるが、ウェンディを受け入れているようだ。

 

 「俺も散々いろんなことをやらかしましたけど。ランザさん、貴方も大概みたいですね。クーラもそういう風に堕としたんですか?」

 

 「それどころじゃないだろうが」

 

 そう言いながらもランザの顔は曇っていた。視線がちょっと自分の腹部に向けられていることから、それ内臓云々の話自体も初耳だった可能性がある。出て来た言葉も、だいぶ苦し紛れだった。だがその言葉には、同意するものがある

 

 「そうだ、それどころじゃない」

 

 イリーナルと、ルノの顔が浮かんだ。もしかしたら、今頃あの二人も厄介なことになっているのではないか。そう考えた刹那、大地が再度大きく揺れ動く。先程よりも揺れが強く、思わず山頂の方へ目を向けると奇妙な光景が広がっていた。

 

 大量の鎖に巻かれた巨大な大砲が、宙に浮かび上がっている。しばらくしてから、砲が魔法陣のようななにかに飲み込まれるようにして消えてしまった。そしてその瞬間、揺れ更に激しくなった。

 

 「気になることが幾つもありますが、今は互いに揉めている場合じゃないかもしれませんね」

 

 「それには同意だが、一つだけ答えていけ。テンは、どうしており、どこにいるんだ。お前等に拉致されたと聞いてる。それを言わない限り、ここから行かす訳にはいかない」

 

 空気が冷え込むのを感じた。本当にこの男は、こちらがなにか情報を吐かないとなにがおこってもここから逃さないという圧力を雰囲気で物語っている。だがしかし、これだけは言わなければならない。

 

 「それを聞くのは、義務ですか?使命ですか?今更父親面をするつもりなのでしょうか?それを教えることに、意味がありますか?」

 

 「なに?」

 

 「元気で、とは言えませんが五体満足でいます。ですがとてもじゃないが、今のあの娘には貴方を合わせる訳には」

 

 全てを言い切る前に、山頂が火を噴いた。黒煙をあげながら溶岩が山頂から噴出し、巨大な黒岩が中層や下層に降り注いでいる。拳程の大きさがある岩も雨のように降り注いでおり、雪で覆われた山肌に赤黒い粘性の溶岩が滲むように流れていた。

 

 互いに互いを睨みあう。この男は殺してやるつもりだったし、向こうも多分似たようなことを考えていたのだろう。目を見れば、なんとなく分かるし先程までは文字通り殺し合いをしていた間柄だ。共感するところも多少はあったが、それだけは変わらない。

 

 だが、ランザは足を半歩下げて山頂に向け走り出す。降り注ぐ岩石を連結した刃で切断しながら、恐らくはクーラや仲間達を助けに行く為に。その背には、当然のようにウェンディが続き炎の身体が崩れ奴の背中に吸収されるように消えていった。

 

 こちらとしても、向こうがそのつもりならば今急いで討ちに行く必要がない。ウェンディが語る加護というものの仕組みが本当だというのならば、気になるのはここに連れて来た二人が今どうなっているかだ。イリーナルとルノ、どちらもこの戦場に連れて来るくらいには実力がある。

 

 近い方のイリーナルを迎えに行ことに決める。加護を与えた相手がどこにいるかは手に取るように分かる筈が、今はまるで消えかけの照明のように気配が希薄に感じた。

 

 だが、消えかけならば、逆に言えば消えてはいないということ。空中を浮遊しながら気配に集中すれば現在何処にいるかくらいは分かる。

 

 普段ならば、ここで反転して後アブソリエル公国を後にしてエンパスの真意を確かめに行くところだろう。だがしかし、このこの震度が7強はありそうな地震がかつての経験を思い起こさせた。自動車修理工場の瓦礫に潰された、父親の姿がフラッシュバックしてしまう。その光景を直接見た訳でもないのに。

 

 そんな姿が、イリーナルやルノと重なってしまう。人死に等見慣れたと思った、自分の手を汚した。なにを今更と思ってしまうが、それでも瓦礫から伸ばす手を想像してしまうと向かわずにはいられなかった。ほんの少し前まで、多少消耗しても代わりはいくらでもいると思っていたくらいなのに。

 

 今まで考えたこともなかった筈なのに、少しギャルっぽい笑顔を向けるイリーナルと、慣れていない地上で平然とした顔をしながら裾を掴んで付いて来るルノを思い出してしまう。眼下で、瓦礫に巻き込まれて倒れているアブソリエルの兵士を見て、二人のそんな様を想像してしまうと何故か涙まで出て来る。

 

 好き放題するつもりだった。もう、他人のこと等考えないで生きていくつもりだった。だが、現実逃避で精神年齢が退化したテンのせいで過去を思い出す機会が増えてからどうにも上手くいかない。切り捨てて良い駒、持ち駒、手駒、性の捌け口。そんな風に考えていた筈だったのに。

 

 【じゃあね、クソ野郎】

 

 あの日、リスムで袂を分かったクーラの顔と言葉が脳裏をよぎる。便利な密偵兼暗殺者くらいにしか思ってもいなかったし、グロー団長と会話していた時にいた腹が立つ男を殺害するのに利用し不利となれば使い潰す。あの時はクーラの名前すら、憶えていないくらいだった。

 

 奴隷市場解放だって、外面を良くする為の行為とそれに合わせて加護を与えるような容姿と能力を持つ存在を新しく見つける為の行いだ。断じて正義感に目覚めた訳でも、現代的な倫理観の元に義憤にかられた訳でもない。

 

 利用するだけ利用して、それが奪われたり寝取られたりすることで憤りを覚える等身勝手も良いところだ。クソ野郎、端的かつ的確な評価をあの日クーラは下していった。

 

 誰もがその人の人生があるというのに、異世界という命が現代よりも軽く扱われる世界観に来てしまったせいだろうか。そんな当たり前のことを忘れて、いや見て見ぬふりをしていた。

 

 「うおっ!」

 

 妙なことを考えていたせいで、降り注ぐ岩の中小さな破片が右眉から上の額に当たる。意識の外から飛んできた衝撃のせいで防御の力を使う間もなく、額から血が溢れてきていた。少し意識していれば、どんな奇襲でも対応できるように全方向の気配を探る等今の俺には…僕には造作もないことなのに。

 

 でも何故か、痛みはあるものの不思議と嫌な感覚はなかった。額の血は浅くても多くの出血がでる。血が眉を通り過ぎ、瞼に垂れて眼球にかかる。ただの自然現象、災害にて軽度の怪我をしただけ。それなのに、本当に不思議なのだが僕には寡黙な父親からの鉄拳制裁に思えてしまった。

 

 「なんで、父さんの顔が」

 

 父のことを思い出す。後ろ暗い過去があり、母と結婚した経緯も不穏そのもの。だがしかし、それでも過去を清算する為に足を洗い、小さな自動車整備工場で汗水垂らして昼夜問わず働いていた。母方の実家にも何度も詫びを入れにいっていたし、この分ならば元々母と結婚していた男の方にも詫びをしにいっていただろう。

 

 ちゃんと自分の尻を自分で拭くことができる人間だった。だがしかし、今の僕にはそれができていない。そういうことなのだろう?父さん。

 

 「イリーナル!」

 

 城郭で、うつ伏せに倒れているイリーナルを見つける。翼がなにか鋭利なもので切断されているようで、血を流していたが多少の止血でまだなんとかなる範囲だ。奇跡的に、降り注ぐ岩石の類には命中していない。

 

 「イリーナル!しっかりしろ!」

 

 「レント…レント……なんで」

 

 「助けに来たんだ。取り合えず、ここから離れるからな!」

 

 この状態では、彼女は空を飛ぶことはできない。お姫様抱っこのような形で抱えて飛び立つ。イリーナルの顔は腫れあがっており、身体のあちこちには殴られたかのような打撲痕が残っていた。鋼鉄の翼を持つ斬り込み役、機動力も考えれば早々破れる訳もないと考えていた。

 

 「誰にやられた。そして、なにがあったんだ」

 

 「……」

 

 悔しそうに、そして申し訳なさそうに顔を歪ませる。ここまでの表情を浮かべるとは、もしかしたらイリーナルを倒したのはクーラかもしれない。密かにライバル視していたのは、知っていた。

 

 「ごめん、レント…あたし」

 

 声がかすれていた。大声でもだしていたかのように、潰れた喉元からしわがれたかのような声が発せられている。

 

 「いや、良い。もう良いんだ。後アブソリエル公国にこだわる必要もないし、ランザにこだわる必要も薄くなった。ルノも見つけて、この国から脱出する」

 

 「ルノ…そうだ。レント、聞いて。加護、加護だ、あの力…ヤバいよ。アタシも、クーラに対処してもらわなければ……エンパスの命令が頭に直接来たんだ。あの力、なんか変。ルノも、きっと」

 

 「ああ、ついさっき聞いたよ。ランザに取り込まれていたウェンディからな。だが無効化できる方法があるならどうにでもなる。クーラにしたように、僕の方からルノの加護を捨てさせることもできれば」

 

 腫れた瞼から薄く開けた目が、初めて気づいたかのように驚きに揺れた。

 

 「レント、血が」

 

 「こんな傷どうでも良い。いや、むしろ良い目覚めになったよ。君達には本当に最悪なことしかしていない。今からでも、できることは全部やる。イリーナル、こんなことに巻き込んでしまい、本当に申し訳ない」

 

 イリーナルの顔が驚いたかのように硬直し、口をパクパクとしていた。今までの言動から、こんなセリフが出てくるなんて想像していなかったのだろうか。

 

 「ルノ…助けてあげて。あれは、キツい。自由意志なんて、ないかのように。すごく怖いことなの、あれは」

 

 「分かっている」

 

 脳内で集中力をあげる。エンパスがなにかしらの方法で加護ごしに操るのだとしたら、それを妨害することができるかもしれない。今まで奴に対してやったことはなかったが、精神力を増幅し通話のように相手にメッセージを送ることができる。これは僕が使える能力の中でもひたすら疲れる為あまり使わず、そういうのが得意な加護持ちにやらせていたものだ。

 

 抗議の意思を込めてエンパスに感情を送る。今すぐ、加護持ちに強制介入するのをやめろ。そして、なんのつもりでこんなことをしでかしたのかを問いただす。

 

 「え?」

 

 なんの返答すらないまま、視界がまるでずり落ちるように傾いた。いや、視界が傾いた訳ではない、空を飛ぶための推力が消滅、そもそも人間にそんな能力はないと言わんばかり消え失せた。

 

 「嘘だろぉぉおおおおおおおおおおおお!?」

 

 地上が迫るに連れ、思いだすことがあった。クーラから加護を奪った時のように、僕のチート能力も所詮はエンパスから与えられたもの。それは技術等とは違い、身についていない貸与されたものだった。アブソリエル公国の下層上空まで飛んで来いていたもののこれ以上の航続距離は伸びない。

 

 当然パラシュートなんてものは用意していないし、ダメ元で他のチート能力を使おうとしてもうんともすんとも反応がない。

 

 「---!-------!」

 

 イリーナルがなにかを叫んでいるが、言語を翻訳してくれていたチートも消滅しているようでありなにを叫んでいるか分からない。少なくとも英語とかそこら辺の言葉ではない、耳慣れない言葉だった。

 

 とにかく、今はそんなことよりもなんとかイリーナルを助ける方が優先だ。地面の方を見ると、市場の天幕が見えた。とにかく、庇うようにイリーナルを保護して天幕に突っ込む。クッションのような感覚で助かったと考えた瞬間地面を転がり身体中がバラバラになるような激しい痛みが襲う。

 

 「クッソ。生きては…いるのか。はは…はぁ」

 

 よくもまあ、あれで死ななかったし気を飛ばさなかったものだ。敵も味方も、近くに人影はない左腕が折れているような気もするが、アドレナリンのせいか先程の痛みの波が引いた後あまり感じなくなった。

 

 イリーナルを様子を見ると、こちらもなんとか庇えたようだ。だが、呼吸はあるものの意識が飛んでいる。頭部に外傷はなさそうな為、頭を打った訳ではないだろうと思いたい。

 

 「とにかく…逃げるか」

 

 肩を貸しながら歩き始める。身体能力向上のチートも剥奪されているようであるが、それでも多少の成長はあるのか元の世界にいた時よりも身体は動くようだった。だがしかし、急な変化についていけていないのか、疲労感が頭と足元に急激に蓄積していくようだった。

 

 外門が見える。ここは攻撃していない門であったが、巨大な岩が激突したのか崩壊しておりなんとか隙間から通れそうである。身体をねじ込みながら、まずは、なんとかイリーナルを門の外に出すことができた。

 

 「ぐあっ!」

 

 続けて出ようとして、足元がよろけて転がる。立ち上がろとしたが、地面に手を置いた瞬間地面がすぐそこでひび割れたのが見えた。こういうのを見たことがある。あれは、テレビでやっていた海外のスペシャルドラマで、氷山を舞台にしたものだ。雪山で急に地面がひび割れてクレパスができ、遭難者を探しにきた捜索隊が巻き込まれそうになるシーンだった。

 

 「あっ」

 

 急におこった地割れ。動けないイリーナルも僕も奈落に落ちそうになる。せめてもう一度、イリーナルを助けられるか。伸ばした腕で、なんとか彼女を掴んだがその瞬間重力に従い身体がずり落ちる。今度こそ、死ぬだろうなと考えるには充分な深さに見えた。

 

 「エンパス教の重要人物を探してここまで来たが、妙なことになっているようだな」

 

 言葉が分かる。日本語が耳に届いた瞬間、襟首を太い腕で掴まれた。顔をあげると、見覚えのない、そして顔色の悪い胴着姿をした筋肉隆々である初老に近い男が腕を伸ばしていた。

 

 「その身なり、レント=キリュウイン殿と見受ける。我が名は管勧善と申すもの。色々と聞きたいことはあるものだが、今はこの場から離れた方が良さそうだな」



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 「旦那!」

 

 ハボック急襲。気になることは多いが、今はこの状況を無事に切り抜けることが肝心だろう。レントとのどーのこーのの言い争いや、見知らぬ炎で象られた女がいていつの間にか消えていたがそれも些事だ。そんなこと気にしていて死んだら元の子もない。

 

 本能的にはここから、山から一メートルでも遠くに今すぐ離れろと警告を繰り返している。尻尾の毛も逆立っているのを感じるし、上に向かって走っているなんて考えたら眩暈がしてきた。それでも歯を食いしばる。

 

 「ガラン、先に逃げても良いんだぞ。ここはもう崩壊する」

 

 「お言葉に甘えたいところではあるけどな!ちょいとばかし気になることがあるんでな!まあ、死なないように気をつけるよ!先に行くぜ!」

 

 ランザの旦那が頷いたのを確認して、両の足に力を込めてスピードを速める。岩石が雨となり振ってくるが、まだ散発的だ。足の速さ的には今のところ俺の方が旦那よりも上だし、待っていることもない。

 

 しばらく道を走ると、兵隊共が張っていた拠点にたどり着く。神殿騎士と戦闘していた主戦場であり、この門を超えた向こう側が中層の職人街にであり、奥に山頂に続くリフトが存在するエリアにたどり着く。

 

 「はぁ?」

 

 なにをやっているのか、最初は分からなかった。双方勢力にて死者が転がるなか、両膝を手を上空に捧げるようなものが複数人存在していた。噴石が落ちるなか、逃げ出しもせずにただその場で空を仰いで笑っている。

 

 山が再度大きく火を噴いた。頂上から崩れた岩石が降り注ぎ、急いで建物の軒下に身体を滑り込ませたが固まった連中は動く様子がない。噴石の一つが跪く騎士の頭部を破壊して流星のように石畳みに落ちる。それなのに、周囲の連中はピクリとも動かない。

 

 「なんなんだよ、おい」

 

 奇妙な光景に吐き気すら覚えた。こいつらは、なにかおかしい。人間としての正気を、保っちゃいねえ。

だが死にたがりを気にしている様子はない。取り合えず噴石の雨が一度落ち着いたら上層部の方に行くしかねえ。上手いこと、アブソリエルの連中が非戦闘員やみんなを保護する為に動いていれば良いが。

 

 バリッという音が聞こえた。噴石があちこちに落ちて建物や物が壊れる音はこれ以上ないほど響いているのに、その音はやけに異質で、変質で、生々しさを持っていた。それ故に音が、耳にこびりついた。

 

 「あ…あんた」

 

 逃げ込んだ建物の奥に、転がる兵隊が一人。アブソリエル公国軍に身を包んでいることから、味方側の歩兵であることが分かる。腹部を負傷しているのかあおむけの身体から血が流れており、近くには銃剣がついたライフルが折れた状態で転がっていた。

 

 「おい!しっかりしろ!なにが…」

 

 なにがあった、と勢いのままに言いかけた。だがその瞬間、思考の中である疑問が急浮上してしまう。

 

 「なにが…あった?」

 

 この道は、両軍の主力部隊がぶつかる主戦場だった筈だ。それなのに、何故アブソリエル公国軍の姿が見えない?噴石から身を隠していることを考えてもまったく無音、気配の一つ、呻き声一つ聞こえない。

 

 「逃げろ…化…物……が」

 

 バリ、バリ、バリ。背中に冷や汗が溢れ出て来るのを感じた。もしかして、もしかしてなのだが、俺か感じていた一番の悪い予感、ここから逃げ出せと本能が警告していたのはこれなのではないか?

 

 「ぐうお!?」

 

 振り向きと同時にククリナイフを抜いて臨戦態勢をとった。これでなにもなければ大間抜けも良いところだが、どうやらまだ俺は阿呆でも間抜けでもなかったらしい。そっちの方が、何倍もマシだったが。

 

 骨が球体関節で幾つも接合されたような物が伸びていた。先端が刃物となっており、ナイフを構えて急所を庇った瞬間火花が散り身体ごと大きく弾かれる。弾かれたなら、無理に体制を立て直さずに勢いを殺さずに大きく後退し壁を蹴り着地する。噴石も今は落ち着いているようであり横に逃れる。

 

 「……おいおいおい」

 

 半獣の大多数に信仰心等ない。神に祈る暇さえあったら行動をした方がなにかしらの成果がある。仮に神様がいるとしても、一部の者達が不遇を囲うことを良しとする者が神であるならば噛み殺した方がマシだとすら思う。所詮宗教等、政治的駆け引きを孕んだ一つのアイコンだなんて、昔の知り合いが言っていた。

 

 祈りを捧げる神殿騎士の首は、噴石がモロに直撃したせいか飛んでいた。その背中から現れたのは、まるで蛹から抜け出た蝶のようだった。男とも女とも分からぬ中世的な容姿。サラサラとしたセミロング程の白い髪の毛。広げた純白の翼は白鳥のように美しい。左手が異形化して伸びてはいるが、右手は深窓の令嬢のように白く艶のあるものだった。

 

 膨らみかけた乳房、女性かとも思ったが玉はなくても棒があり奇妙なことに穴もある。天使、なんて言葉が脳裏をよぎる。ニコニコとこちらを見ながら微笑みかけていた。右手から白く薄い布が出現し、それが自動的に身体に巻き付く。天使、なんて言葉が無宗教な俺でも頭によぎった。

 

 前進。なにがなんだか分からないが、背後からの一撃は敵意あると判断してい良いだろう。球体関節が稼働して刃付きの骨が蠢く。鞭のような一撃であるが、ランザの旦那が振るうあのとんでも武器よりは圧力も攻撃範囲も少ない。

 

 ククリナイフを左手から右手に投げる。空手の右腕が輝き、盾のような膜を生成し始めた為攻撃手段を変更。近づきながら再度持ち手を入れ替え、敵の視線がナイフの方に集まるのが見えた。

 

 「おらぁ!」

 

 飛び上がり、両足で蹴りつける。誰が呼んだか、ドロップキックというやつであり戦場ではあまり見ないが格闘技の野試合で偶に見かけることがあった。練習はしていたが、まさか実戦第一号が得体のしれない化物相手になるとは思いもしなかった。

 

 「にやけ面しやがって。可愛いお顔に靴痕がついた気分…は……」

 

 やけに軽い身体が吹き飛んだが、飛ばされた向こうで奴、仮で呼称しておくが天使ということにしておこうか。とにかく、天使が笑っていた。ニコニコという慈愛と博愛に満ちた笑顔ではなく、今度は粘質気味なニヤァという擬音が付きそうなほどネチっこい笑顔となる。なんだ、ドМがこいつ。

 

 近づくのは嫌だったので、棒ナイフを投擲する。こういう小技はあれば便利だと聞いていたが、俺にはどうやら旦那やクーラ程の器用さはない。だが、動かない標的ならば当てられるだけ、とりあえず真っ直ぐ投げるやり方だけは教えてもらっていた。

 

 腕と足にナイフが突き刺さり、額にも深々刺さる。なんだか凄く痙攣しているが生死確認をする程時間がある訳でもないし、これ以上構っている暇は無さそうだ。仮に死んでなかったにしてもこいつは後から来るランザの旦那に押し付けることになりそうだがここはさっさと山頂を目指そう。

 

 「あー…クソったれ」

 

 こいつは祈りを捧げていた神殿騎士の躯から現れた。あの噴石の雨で避難しなかったんだ、他の連中がどうなったかなんて遅かれ早かれ分かりそうなものだ。例えば、祈りを捧げている最中に死ぬことがこいつらが現れる条件だとしたら?

 

 死体から次々と、白カビの発芽みたいに沸いて出てきやがる。さて、祈りを捧げていたのは何人いただろうか。数える暇もないので、一息に走り抜けることにする。

 

 「は?」

 

 全員がギロリとこちらを向いた。ほぼ同時に、それも同じ顔でだ。産まれたばかりの時に浮かべた慈愛の顔はどこにいった?全員が全員、折り曲げた骨を伸ばし刃をこちらに向けて来る。どいつもこいつも、似たようなツラしやがって。個性が髪の毛の長さくらいか手前等は。

 

 「冗談キツイってえええええ!」

 

 受けきれる訳がない。避けて、避けて、どこまで持ちこたえられる?とにかく足だ、急所と足だけはやられないようにしないといけない。俺から機動力をとったらなにが残る。旦那とクーラがおこす厄介の問題解決能力くらいか?今は役に立たんだろうに。

 

 棒ナイフを投げるも少しでも標的が動いたら俺の技量じゃほとんど当たらない。でもとにかく、防御なり回避反応なりで少しでも姿勢を崩してくれれば僅かでも隙が産まれる。身体が刃で削られる感覚がするが、致命傷でなければどうでも良い。多少の出血くらいくれてやれ。

 

 「そこ!」

 

 瓦礫の上に飛び、門の上にあるバリケートの奥に逃げ込もうとした瞬間背後から衝撃。まるでなにかが、それなりの大きな塊がぶつかったような。でも痛みはそんなに感じなかった。

 

 うつ伏せに地面に崩れる。仰向けになり起き上がろうとするが、ククリナイフを握る手を抑えられた。今日は随分と手を抑えられる。というかいてぇ!華奢な身体でなんつう力してんだこいつ!

 

 何度か顔面を殴りつけてみるも、怯む様子がない。どうにかしてここを逃げなければならないと、相手を観察しようとしたところ気づきたくないことに気付いてしまった。

 

 「はあ?」

 

 陰茎部が、盛り上がっている。髪型から判断するしかないが、こいつさっきぶっ飛ばした奴だよな。顔に靴痕ついてるし。え?どういうこと?え?はぁ?布地の先端がじんわりと濡れている事に気づいてしまった瞬間、考られる最低の事柄が頭の中で浮かんだ。それを裏付けるように、こいつの視線が下半身に向かっているのも怖気が走る。

 

 「ちょ!いや!無理矢理はやめてぇえええええええ!」

 

 覆いかぶさられる。こんだけ軽いのだから突飛ばせそうなものだが、万力の阻まれるような妙な力に力づくではどうにもならない。というかそもそも俺は、熊の半獣やコボルト共みたいに力自慢が売りではない。もっと筋トレしておけば良かったか?

 

 唇が触れ合う。柔らかな口腔から蛭のような舌が侵入してくる。牙で噛み千切ろうとしても、歯が立たない。というかさっきから全身の力が抜けているような気がする。頭がチカチカするし、表現が難しいが白いなにかが思考を侵食していくようにも感じる。

 

 これは、ヤバい。俺が俺で無くなるような、そんな違和感。それでもなんとか抵抗しようとする。時間がたてば立つだけヤバくなる。棒ナイフを引き抜き、首筋に突き立てるがまるで意に返していない。そこ、一応は急所だと思うのだが、どうなっているんだおい。

 

 「手を地面にピタリとつけていろ」

 

 声と同時に、赤黒い刃がうつ伏せにこちらにのしかかる天使の足元から胴体を切断した。血液ではない白い液体が全身にかかるが、力が戻ってきたのでなんとか這い出す。

 

 「お楽しみ中だったら悪かったな」

 

 「だ、だんなぁ」

 

 連結刃を握るランザの旦那が追い付いてきたようだ。散弾銃を牽制気味に構えながらこちらに声をかけてくる。ちょっと泣きそうだった、というか少し泣いている。ああいう事態も今日で二回めだぞ、厄日か今日は。

 

 乱された服を整える。頭から股間まで水平に切断されたのに、いまだにビクビク痙攣している様はいかにもまた復活してきそうな気味の悪さがあった。というか、頭がまだボーッとする。首を振るい、奇妙な感覚を追い払うように努めるが、あれ以上されていたらなにも考えられない廃人にさせられそうだった。

 

 「で、なんだんだこいつら」

 

 「知らねえ。祈りを捧げていた自殺志願者の中からズルズルと出て来やがった。首ぶっ刺しても死ななかったんだ」

 

 天使共の視線が、俺よりも旦那に向けられた。クスクスと、淫靡な笑みを浮かべながら球体関節をコリコリと鳴らし骨の刃を向けてくる。

 

 「他に情報は?」

 

 「性器がどっちもあった」

 

 「そいつは貴重な情報だな。身体を張った甲斐があったか?」

 

 皮肉を飛ばされても、知らんものは知らん。この訳の分からん生物を解説できる有識者がいたら是非とも名乗りでてほしいもんだ。

 

 「そうだ!あいつ!」

 

 建物の方で倒れていた兵士を思い出す。駆け寄ると、息も絶え絶えであったがまだ意識があった。こいつならば、なにか知っているかもしれない。

 

 「おいアンタ!あれはなんなんだ!なにを知っているんだ!?」

 

 「突然……だ、戦の最中…どつぜん…奴ら祈りだした。眼前の我等を無視しで…だから、押し返す為に殺めたら…中から化物が溢れて…でだ。皆殺され…一部の者は犯された…男女問わずだ」

 

 「犯された?マジかよ、あれマジでヤルつもりだったのかよ。なにが目的でそんなことしやがるんだ!おい!」

 

 「……じょ……王…みる……様を……たの」

 

 事切れた。元々長くなりそうだったが、情報を伝える為に体力を使い果たしたのだろう。目を閉じてやることしかできないが、やるべきことをしきった兵士にしてやれるのはこれだけだ。

 

 「ていうか、なんでこんなところで強姦紛いのことなんざ」

 

 そりゃあ戦場につきものの一面ではある。生物が命の危機に瀕すれば生存本能から性欲が高まるとはよくいうし、ある種この手の話はつきものだ。だがしかし、弾丸飛び交い剣戟の音が鳴る戦場のど真ん中で下半身丸出しにしてことに及ぶ馬鹿がいるのか?

 

 「生殖の目的は、当然繁殖だろう」

 

 旦那の冷静な声が響く。そういった旦那が後ろにとんだ瞬間例の刃とがそれこそ先程の噴石のように旦那がいる場所に降り注いでいた。先程とは数が違う、外に出て見てみると天使共の数が増えていやがった。さっき俺を取り囲んでいた規模じゃない。五十近くは飛び交っている。

 

 「引き受ける!クーラ達と合流して逃げろ!」

 

 「旦那!?数が違うだろうが!」

 

 「どのみちこいつらをなんとかしないと逃れられるか分からん!邪魔だから早くいけ!」

 

 天使共の意識は、旦那に向かっているようだった。どいつもこいつも股間をギンギンにさせているのが気色悪い。旦那が後方に跳ねながら袋から煙玉を複数取り出す。導火線を着火版に充て、火花を散らしてから投擲。着弾点に散弾銃を向けたが、射出されたのは弾丸ではなく火蜥蜴であった。煙と炎が周囲を包むように充満する。

 

 「行け!時間がない!ここは退路として確保しておくから全員連れてこい!」

 

 「た…頼むぜ旦那!」

 

 炎と煙幕に紛れて場を逃れる。瓦礫を昇り門を超えて先に行くと、想像してしまった風景が存在した。転がるのは神殿騎士の死体ばかりではない。ただ殺された者と、半裸に剥かれ背中を裂かれたかのように死んでいる者がいた。

 

 「ヴ…オオぇぇ…」

 

 喉元から吐き気がこみあげてくる。黄色い吐しゃ物があふれ出し、服と地面を汚したがそれでもこのゲロはありがたかった。なにせ、あんな得体のしれない天使の唾液が咥内で混ざり合い幾分か摂取してしまったことに今更ながら気づいてしまったからだ。

 

 それが今の嘔吐で口内の残留物ごと出ていってくれたのならば、これ以上にありがたいことはない。

 

 「あぁ?」

 

 背中が裂けた存在は、ざっと見では五十を超えた数はいる。腹が裂けている者もいる。雑に数えても八十は超えている気がする。嫌な予感しかしない。門の上から走り出した。

 

 「マジかマジかマジかよ!」

 

 遠目で天使共がたかっているが見えた。交戦しているのか、重火器から出る煙と銃声も聞こえるが旗色がここからでは分からない。というかあそこは、確か住民たちが避難しにいく地下に通じる入口だった筈だ。奴等、後アブソリエルの連中を皆殺しにしようってのか?

 

 「陣形を立て直せ!闇雲に動けば狙われるぞ!」

 

 ノルンの声が聞こえた。両手剣を構えながら周囲の護衛達に指示をだしている。終結し長槍とライフルでハリネズミのように陣形を設けているが、苦戦しているのは明らかだ。

 

 なにせ敵はライフル弾程度では致命傷になってはいないようであり、散弾銃でも使わなければ効果が無いように思え程の耐久力を見せている。それぞれが長槍以上の長距離から球体関節の骨を動かし刃で一人一人狩りとっていた。天使の数は少ないが、それでも普通に戦っては勝てない。

 

 「ノルン!直上!」

 

 真上から狙う天使に気づく。建物の上に飛び上がり煙突を足場に跳躍。こちらに目もくれない天使の脳天にククリナイフを突き刺し、翼を両手で掴んで根本から片翼を噛み千切る。空中で背中を蹴り飛ばしてやる。それに気づいたノルンが大剣を腰だめに構え、背後に飛んでから落ちて来る天使の胴体に両手剣の刃を振るった。

 

 胴体に横一文字、脳天から股間まで縦一文字。十文字に切り裂いた死体は地面に落下しビクビクと痙攣している。

 

 「ガラン。また助けられたか」

 

 「いやあ、助かったってのはまだ早いぜ。ノルンさん、ここには民を?他の城仕えは?」

 

 「城の非戦闘員は護衛をつけ、各々信じる道で逃げるよう伝えた。先程からの山の脈動で城の避難通路は全てやられてしまったのでな。我々だけで大人数は見られない為、各々の行きたいように逃げることを勧めた。後はここにいる民衆達を逃がすだけだ。今、クーラが内部に潜って様子を見てくれている。我々は足止めだ」

 

 「アンタだけ逃げるって選択肢は?国の代表なんだろう?アンタが死んだら国が終わるぞ」

 

 「城主が、国の主が民よりも先に生き延びろと?我が同胞は、可能な限り助け出す。このような無様な状態をさらそうと私は国の主だ。庇護すべき民がいるならば助け出すべきだ。それが最後の役目となろうとな」

 

 意思が硬い。親衛隊連中も決死の思いだ。

 

 「チィ!なんなのほんと」

 

 開け離れた鉄扉、その向こうは非戦闘員の避難所であった。クーラがそこから、後ろ向きに跳ねながら逃れてくる。血の唾を吐きながら、身体は裂傷にまみれまるで血の霧を引きながら飛ぶようだった。

 

 「クーラ!中の者は!?」

 

 「聞きたい?自分がすごすご引っ込んで来た理由を考えなよ。まあ頭が悪くても聞きたくなくても、見れば分かるよ。すぐにね」

 

 暗闇の中からニヤ付いた天使の顔が湧き出てるように現れる。一体、二体、三体。後は数えるのがやめた、判子みたいなツラ並べやがってこいつら。

 

 「悪魔に手を貸した国とその一族は皆殺しってやつ?容赦ないねこいつら、基本的に悪趣味だし」

 

 「そんな……まさか……殺してやるぞ貴様等ァあああああああ!」

 

 「いけませんノルン代表!怒りを抑えてください!」

 

 ノルンの怒りが頂点に達した瞬間山が大きく火を噴いた。今度は噴石どころではない。山頂から、山と一体化したかのような城から赤黒い液体がズルッと噴出している。目視でも分かる程の速さ、ここまで流れて来るのに時間はたいしてかからないだろう。

 

 「この先で旦那が退路を確保してくれている!走れ!」

 

 「続け!親衛隊は続け!この化物達を皆殺しにする!」

 

 「ノルン様!?」

 

 「おいこら!死ぬぞここにいたら!あの赤黒い水…溶岩か?とにかくそれが見えねえのか!?」

 

 「同胞を、民を皆殺しにされ引き下がれる国主がいるものか!ここで果てようとも必ず仇を!」

 

 最後までは言わせない。顎を殴り、脳を揺らして身体の自由を奪う。クーラ興味なさげでとんずらこくだろうし親衛隊の連中がそれをできるか分からない。だから、俺が殴りつけてやった。

 

 「抱えろ!行くぞ!」

 

 「ガラン……貴様」

 

 「熱くなって周りが見えないのは分かるけどよ。ここにいるのだって、アンタの大事な同胞だろうよ。仲間の命を背負った大将が、そう簡単に死ねると思うな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガランは、拳を強く握りしめている。そりゃそうだろう、ハボックが異常事態となったということは居残り組も恐らくは全滅。仲間達は半数近く死んでしまい、残りは前衛砦にいるエルバンネ達くらいだろう。

 

 今のガランは大将ではない。でも、長いこと仲間を引き連れて流浪してきた半獣だ。ハボックにいた者達がどうなったか想像できない訳がないだろうしなにより仲間想いな彼が堪えていない訳がない。

 

 「しょうがない」

 

 翼を生やした異形共。イリーナルと殺しあったばかりなのに、今日はこういうのが絶えないね。ガランはノルンを守るだろう。生き残り達をまとめるのにはこの男が必要だ。面倒な話だ、ガランだけだったら放っておいても大丈夫だから走って逃げられるものを。

 

 「走れええええええええええ!」

 

 ガランの声とともにノルンを担いだ親衛隊が走る。それを追いかける天使達は、やはり殺意を向けて追撃をする。

 

 洞窟内で見た。こいつら、性器が男女どちらもついている。住民が避難した場所で、大抵者は殺されていたが中には奇妙な死にかたをしている奴がいた。民を護っていた隊長だったのだろう。下半身を丸出しにされ、挿入された跡を見つけた。他にも何人かにも強姦された痕跡がみられる。

 

 女は腹、男は背中から割れたかのように死んでいた。見た目の割に増え方がえぐいものだ。もっとも、殺害対象を一人減らして仲間を一人増やすということを考えれば効率がいいのかもしれないが。

 

 「自分も候補なの?」

 

 股間が膨らんでいるのを見ると、まあそういうことか。やれやれ、ランザ以外にそういう対象に見られるのは怖気が走るね。

 

 刃と刃がぶつかりあい火花を散らす。ノルンを守る肉壁は何人か犠牲になるだろうが、自分がここにいるだけで劣り役をこなせガランが逃げ延びる可能性があがるならば仕方ないか。

 

 でもこのまま走り続ければ、あの山頂から噴き出す溶岩よりは早く下山できるだろう。

 

 だがその考えは甘かった。自分達のすぐ背後、通った道の石畳みを貫いて溶岩がまるで間欠泉のように噴き出した。



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数体斬り伏せて感じた印象としては、見た目が仰々しいわりにどこか良い意味でも悪い意味でも雑な生物だということだ。

 

 真っ白い骨のような刃が伸ばされて来るが、質量と破壊力に勝る連結刃が相手では華奢で脆い人形遊びの延長だ。人形の腕に使われるような球体関節が、脆さに拍車を掛けており刃が打ち合えば火花を散らす間もなく破壊される。

 

 耐久力だけを考えると、成程大したものだと感心するところもある。少なくとも急所を一つ切断するくらいではこいつらは止まらない。心臓、脳、首、どこか一か所破壊するだけでは即座に再生を開始する。この生物を既存の生物に当てはめて良いのかは分からないが生半可な耐久力ではない。

 

 「頭蓋と脊柱、同時破壊でようやく大人しくなるレベルか。面倒な奴等だな」

 

 背筋を破壊され地に伏せ、痙攣しつつも再生をしようとする敵を、スタンピングで頭蓋を踏み潰す。これで五体めを大人しくさせた。

 

 側面から来る刃を頭を反らして避ける。刃と繋がる骨部を掴み無理矢理引き寄せながら連結刃を振るう。膂力の問題ではなく、こいつらは空を飛ぶ為なのか子供のように軽い。鳥のように胸筋が発達している訳でもなく、そもそも背中から翼を生やしている時点で進化の過程から外れた別のなにかだ。生物としては欠陥があり、成熟していない印象がある。

 

 鞭のようにしなった連結刃により胴体が切断され、骨部から手を離して落ちて来た敵の頭を掴む。膝蹴りで頭部に衝撃を与えて脆い頭蓋を砕き脳漿を壊す。最後に指を尖らせ心臓部を貫いて破壊。ここまでやってようやく一体。

 

 「まあ、これで死んでくれるならまだ可愛いほうか」

 

 不死身の再生能力で思い出すのは、やはり吸血鬼と化したサグレだ。銀を叩き込むまで何度か両断したり頭蓋を散弾で吹き飛ばしたりしたがまるで意味がなかった。彼女が本気でこちらを殺しに来たとしたら、今の俺ですら勝てるかどうかを考えると悩むところだ。

 

 連結刃を振るい身体の周囲に渦巻くように刃が連なる。包囲するように伸びて来た刃がまとめて弾かれる音が響いた。

 

 『成程、面白いねぇ』

 

 「頭の中で喋るな。最近お前、やりたい放題すぎないか?」

 

 『できることが広がったのさ。竜の力が与えた影響は内面にも現れるからね。それにこんな生物が出て来たからには、ただ見物しているだけでは勿体ないじゃないか。それよりもこの生物は本当に興味深い、結果論ではあるけれど君の一部になれて良かったよ。知的好奇心が満たされるね』

 

 連結刃から炎が噴き出る。火炎の奔流が巻き起こり、炎の鞭が敵を切断面から燃やし始めた。炎等意に返していないような態度をとっているが、皮と表面の肉が炭化し顔面まで炎に覆われていった個体から倒れた。

 

 『炎は有効っと。主人格君、よろしく頼んで良いかな?』

 

 ウェンディのやりたいことが頭の中で反芻される。夢の中で対話できる程度だったこいつだが、ダイレクトに要求までしてくるとはつくづくこいつ自身が言うように、彼女が既に俺の人格における一側面というのが信用できない。だが、やらんとしていることは有用だ。

 

 散弾銃を地面に向け射撃。魔力が込められた弾丸が石畳みにめり込んだ瞬間、石材が形作られ成人男性程の体躯を誇る狼となり再形成された。帝都事変のさいのことはあまりよく覚えていないが、人妖として暴走していた俺を止めようとしたジークリンデ相手に、これと似たようなことをして戦っていたらしい。

 

 魔具を扱う才能が皆無の俺がこれだけの力を行使できる理由。臓器の一部がウェンディのものと混ざり合っているというのは嘘でもなんでもないのだろう。複雑な気分だ。

 

 『あ、その考えは傷つくねぇ』

 

 「お前くらい楽天的なら俺も楽なんだが」

 

 射撃は二発。形作られた二体の狼は前進していく、新たな敵対者が現れたというのに敵はまだ俺に攻撃を繰り返してきていた。無機物の石像は意識する様子もなく、正面から攻めていくというのに不意打ちのような形で倒されていく。

 

 『生物ではない相手には興味なしと』

 

 刃が砕かれた敵から、空手の腕で近接戦闘に入ってくる。膂力も素早さもあるが、狙うのは手打ちの打撃、いやこれは掴みだ。

 

 『あえて掴まれてみてくれないかい?』

 

 無茶を言うようである。だが時間はないだろうが、未知の敵を分析したいのは気持ちも同じだ。

 

 「成程、分かった」

 

 こいつらの狙いは、相手の姿勢を崩すこと。端的に言えば押し倒そうとしていることだ。だが近接戦闘、体術の類で見るならばこいつらの動きは素人のそれである。悪竜の力を借りなくても、投げ鬼の元で戦闘訓練を受けた俺には大したことはない。

 

 膂力、特に握力はあるようであるが体幹が足りないし軽すぎる。こちらを崩せないうちに、軸足の脛を踵で破壊。散弾銃で頭部を殴りつけ、首が折れたのを確認する。首からゴキゴキと音がして再生しているのが分かった。蹴り飛ばして距離をおき弾丸を散弾銃に詰める。心臓部と頭部を連続射撃で消し飛ばす。

 

 「殺す為じゃない、倒す為の攻撃だった」

 

 『成程、狙いは分かった。さて主人格であるランザ君。君自身意識の外においていたみたいだが意識してみようか。陰茎部が膨らんでいるのが分かるかな?』

 

 「あえて考えないようにしていた」

 

 言われてしまえば意識せざるえない。余計なことはあまり考えないようにしておきたかったが。連想しててガランが言った、二つの性器のことも思い出してしまう。本気でどうでも良い。

 

 『あれあれ?それを言う?生殖目的は繁殖だろなんて、ガランに言っておいて』

 

 ガランが性的に襲われていたからには、まあそういうことなのだろうと口にだした。ここにいてもろくなことがおこらない為、あいつをさっさと行かせる為に言った面もある。

 

 『こいつらは安価な量産できる兵隊なのだろうさぁ。ここにいる死体を見ていて気が付いたけど、一つ疑問に思わないかい?本来ならば妊娠をする存在は女性である。男女の性器がどちらにもついている。なのに何故、こいつらの親である存在は男も混ざっているのだろうねぇ。妙な話だと思わないかい?』

 

 アブソリエルの兵士達の死体。男は背中が、女は下腹部が破裂している。嫌な気分になるものを見た為目を反らす。石造りの狼が飛びついた。地面に落ちた存在に群がり、頭部や腕、臓器を食いちぎるがそれを助ける様子もない。仲間意識は蟲以下に思える。

 

 『そう、蟲なんだよ。こいつらの精神性も、仲間を増やす方法もねぇ。きっとどこからか知見を得てきたのかな?エンパスは。分解して死体を調べてみたいところではあるけれど。まあそれはそれとして、人間さえいればお手軽繁殖できる効率の良い兵隊は、便利な捨て駒にできる。要するにこいつらがなにがやりたいかと言うと』

 

 「足止め」

 

 この場で足を止め戦っている理由はガランを先に行かせ皆を迎えに行かせること。こいつらの足止めをし、退却路を確保すること。

 

 嫌な予感が強くなる。こちらの意思を感じ取ったのか、ウェンディが気を利かせているのか石造りの狼の一体が走り出した。走りながらその背に追いつき、飛び乗る。敵がこちらを行かせまいと来るが連結刃を振るい、もう一体が飛び掛かることで追撃を防いだ。足止めをかってでてくれるようだ。

 

 坂道を昇っていく最中、山頂から炎が吹き上がる赤黒い液体が流れるのが見えた。山の上から津波がおきるものなのか?それにあれは、ランドルフのいた神殿の最下層に溜まっていたものと同じに見える。

 

 「あれと同じものならば超高温の液体が山頂から漏れ出ているってことか?地面の揺れといい、この世の終わりかなにかか」

 

 『エンパスが本格的に活動を開始した時点でそれと似たようなものだろうさ』

 

 後アブソリエル公国はこれで終わりだ。ハボックも主戦力となる部隊がいない間に襲撃された。帝国に抗う北部地帯の戦線は崩壊してしまったがもはやそれどころではないかもしれない。

 

 「見えた!」

 

 アブソリエルの親衛隊達が、敵に襲われながらもなんとかノルンを抱えながら逃走しているのが見えた。周囲を敵が飛んでいたが、クーラが遊撃要因となりガランが声を張り上げているのが見える。無事だったのを安心したその直後だった。

 

 集団のすぐ後ろ、石畳みが盛り上がったのが見えた。まるで下から巨人が拳を叩きつけたかのような盛り上がり方だ。石の隙間からなにかが滲みだしたかと思った瞬間、液体混じりの火柱が吹き上がる。

 

 間欠泉という現象を聞いたことがある。見たことはないが、それと同じようなことがあの煮えたぎる液体でおこっているとなれば、半獣も人間もひとたまりもない。

 

 骨が筋肉の束で覆われ、皮膚が柔毛に覆われる。必要なのは体躯と速さ、最後にこの姿になれることができたのはハボックでおきた大爆発からエルバンネ達を護る為だった。

 

 あれから、身体の一部を変化させることはできるものの、あの時のように完全に人妖となれることはできなかった。俺自身が半端な存在だからかもしれないが、同時になにかトリガーのようなものがあるのではないかと感じていた。

 

 一度目は、クーラを助け出す為に無我夢中で。二度目は、大爆発から仲間を護る為。そして、今三度目にしてはっきりと理解できた。俺がこの姿になる時は、そうしなければ誰かが殺されてしまう時。一度でも仲間だと認識した相手が、この姿でなければ救えないと感じた時。

 

 「ランザ!?」

 

 驚いたようなクーラの声。液体が降り注ぐ前に、ガラン達を護るように身体をねじ込み振ってくる高温から護る。いくら人妖の肉体といっても、皮膚と筋肉、毛が焼ける臭いが立ち込め熱いというよりは激痛が背中を中心に走った。

 

 この姿では上手く話せない。話せたところで獣のうなり声が出るだけだ。もっとも喋れたところで、この激痛の中ではそれこそ呻き声しかでないだろうが。

 

 「旦那!アンタだいじょ……」

 

 ガランの顔が青ざめた。恐らくは、肉が焦げて炭化しているところか、もしくは見えてないけないところまで見えてしまっていたか。この姿では、上手く意思疎通ができない。そんなことは気にするなと言いたいのに。

 

 間欠泉が収まったが、地面のあちこちが同じようにボコボコと隆起するのが見えた。勢いは今噴き出たものよりも弱そうであるが、それでも危険なことには変わりない。早くここから離れる必要がある。

 

 連続して間欠泉が噴出。前足で石畳みを叩き、即席の壁をウェンディがこちらの意を汲んで精製するが焼け石に水だ。

 

 「バ…化物?」

 

 「ランザ=ランテだと…これが?」

 

 親衛隊連中は硬直している。話には聞いていたかもしれないが、実際に人を丸呑みにするのが容易な人妖の姿を見せられては驚きと恐怖の方が勝るのだろう。それとも、異常事態の連続で思考が麻痺してしまっているのか。

 

 間欠泉の隙間から飛び回っていた敵が襲い掛かる。純白の布が焼け、肌と肉を焼きながらであるが考慮の外であるようだ。焼けて裂けた背中から、以前ノックでジークリンデに仕込まれた連結刃を露出させる。三本の刃で迎撃していくが我ながら動きが鈍い。激痛が、精神を上回り始めたか。

 

 「乗れ!早く!」

 

 クーラが叫びながら背中にしがみつく。それに続いて、以前こちらの姿をハボックで見たことがあるガランが続いた。

 

 「徒歩じゃ無理だと判断してランザの旦那が迎えに来てくれたんだ!さっさとしないと全員死ぬぞ!」

 

 その言葉に、唖然としてた親衛隊達もハッとした顔をした。いかに目の前の化物が恐ろしく、信じられなくても現状間違いなくこの地獄のような光景に留まることの方が危険だからだ。

 

 「ノルン様を!」

 

 身体を上手く動かせないのか、ぐったりしたようなノルンを親衛隊が協力しながら担ぎガランに渡した。背中の上で片腕で支えながらもう片腕で毛皮に捕まり固定する。後アブソリエル公国が壊滅する今ノルンの価値がどれだけあるかは分からないがガランにとっては諦めたくない相手であるのは確かのようだ。

 

 「お前等もはや…」

 

 石畳みが割れた。大きな地揺れと共に大地が裂けていく。あちこちで開いていく穴の大きさは、人妖となったこの身であっても呑み込んでしまいそうなものだった。

 

 「うわあああああああああ!」

 

 何人かの親衛隊が穴に落ちていく。覗き込まなくても、噴き出す熱気からしてこの下にはあの液体が流れているのが分かる。

 

 「クーラ!ノルンをちょっと頼む!」

 

 「はぁ!?」

 

 「こっちに腕を伸ばせ!頑張れ!」

 

 ガランが身を乗り出し、今や崖際となった地面に腕をかける親衛隊の一人に手を差し伸べた。だがしかし、悠長に引き上げる時間はあまり残されていない。今俺の四肢を置いている地面も何時割れるか分からない程状況は危なくなっている。

 

 「余所者に頼むのは心苦しいが」

 

 崖際に捕まった親衛隊の一人、生き残りが口惜しそうな表情を浮かべたが、すぐに顔を上げる。

 

 「行け!陛下を頼む!」

 

 「おい諦めるな!さっさと手を!」

 

 「ここは今にも崩れる!陛下さえ助かれば我等の本懐は果たされるのだ!……行けぇえええええ!」

 

 ガランが一瞬躊躇したが、それでも手を伸ばした瞬間最後の親衛隊は自ら腕を離して落ちていった。ガランには悪いが、これ以上ここで待ってはいられない。それと同時に間欠泉があちこちで上がり始めた。

 

 ガランの口惜し気な叫び声を聞きながら走る。あいつに報いてやる方法はこの場を生きて切り抜けること。国家に対して忠誠心等もったことはなかったが、その気持ちを汲んでやらなければいけない。

 

 「こいつら!こんなになってもしつこいの!?」

 

 逃走をするなか、クーラの叫び声が響く。不安定な足場では、命も顧みず攻撃してくる敵の刃を防ぎきれないのだろう。焦げて炭化しているだろう肉に突き刺さるのを感じた。

 

 再度山頂が轟音と共に火を噴く。散弾のような岩石が降り注ぎ敵共の身体を貫通させると同時にこちらに襲い来る。石で作る即席の防御壁では防げない、背中から伸ばした連結刃で皆を庇うが身体全てをガードできる程の範囲は防げない。身体のあちこちで穴が開いている。クーラ達を護るだけで精一杯か。

 

 胴体に、足が削られていくのを感じる。この身体は強靭ではあるが鎧や鱗のように固くはない。竜となったジークリンデを思い出す。頑健な鱗に覆われている身体は、今この時こそもっとも必要であるのに。

 

 ズンッという振動。逃走経路の先、石畳みにこまでとは比較にならない程巨大な膨らみができ、燃える液体の間欠泉が吹き上がる。急ブレーキをかけたが間に合わない。噴出した勢いで重力に逆らいあがってきた液体に前足を焼かれる。

 

 後方は噴石の雨。前方は燃える液体の泉。地面はひび割れ裂けていき留まるのも危険。

 

 「これ…詰んだか?」

 

 ガランが呟く。進んで焼け死ぬか、留まり裂けめに巻き込まれるか、遠回りしながら噴石の雨に身体中を穴だらけにされるか。末路を悟ってか、クーラが全力でしがみついてきた。まるで、最後まで一緒だとでも言いたげに。

 

 『ウオオオオォォォオオオン!』

 

 最後に等、させてたまるか。石畳み変化させ即席の足場に変化させ燃える液体の上を走る。走る先から、次々変化させていかなければいかない。作るものは単純だが時間がないなか連続の魔力使用は臓器が負担の悲鳴をあげていた。

 

 『最後までは無理だね』

 

 ウェンディの言葉が頭で響く。分かっている。臓器系を酷使しているせいか、口内から血液が競りあがってきた。いかにウェンディの力を借りようと、この傷ついた身体と体力では連続使用は無理があるのだろう。だがいけるところまでで良い、その先はこの四肢がある。

 

 最後の足場から大きく跳ねる。燃える液体の上に着地、人間でいうところの足首まで浸かり瞬時に毛皮を溶かし肉を焼き始めるが構うものか。走れ、走れ、走れ。この姿になりたいと感じたのは、願ったのか、これ以上身近な存在を殺させない為、死なせない為だ。ここでそれが果たせないなら、俺の存在に意味などない。

 

 悲鳴のようなクーラの声が聞こえる。ガランが何度も名前を呼んでいる。そう心配するな、お前等はこの地獄からなんとしてでも連れて帰る。

 

 「天使共!」

 

 ガランの声。目の前を塞ぐように、敵が二体躍り出た。球体関節を動かし、刃が前足に食い込む。身体が沈みそうになるが、それでも前に出て牙で二体まとめて食い破る。流血がおこり、バランスを崩しそうになる。このまま走れるか、持ちこたえられるか?いや。持ちこたえてみせる。俺にはそれができる筈だ。こんなところで終わる器だとしたら、なんの為の人妖だ。なんの為の悪竜だ。

 

 進め。ここで止まるな。走れ、進め、逃げるんだ。俺はどうなっても良い。行け。行くんだ。どれだけ焼けようと、どれだけ傷つこうと。

 

 【それじゃ駄目だね】

 

 急に突風が巻き起こる。嵐のような、竜巻のようなそれは瞬間的にとはいえ、燃える液体を吹き飛ばし、この姿の俺でさえその場に踏ん張らなければ倒れ込んでしまうような勢いだった。

 

 【この地上に残された同類も、ボクと君だけになってしまったというのに、君はもうここで死んでしまうつもりかい?ジークリンデの後継人君】

 

 声の方向に見上げると、蒼白の竜が飛んでいた。身体の周囲に竜巻のような風が渦巻いており、落ちて来る噴石をものともせずに飛んでいる。

 

 「な、なんだ?竜?」

 

 「なにあれ…見たことも聞いたこともない」

 

 二人とも疑問の声をあげている。その風貌、同類という言葉から恐らくは竜だということは分かるが、あんな竜がいるなんて聞いたことがなかった。

 

 【まあ、ボクのこととかどうでも良いことだけどさ。それでも一応、産まれたばかりの竜は誰かが面倒みてあげなきゃいけないんだよね。それで、何時まで獣のように地面に這いつくばっているんだい?君はもう、悪竜なのに。何時まで、獣でいるつもりなのかな?】

 

 その言葉には、思うところがあった。悪竜を継いでくれ。そう言われた時、俺はそれに頷いた。だがしかし、同時にジークリンデの存在は大きく強いものだった。それを引き継ぐ器が、俺にあるのだろうか?人の身体に竜としての特徴が一部出始めていても、そんなことを考えてしまっていた。

 

 走り出そうとするも、足がガクリと落ちる。前足から崩れ、地面に倒れそうになった。しまった、この身体はもう想像以上に限界を迎えている。いや、限界をすぎているのか?突風で吹き飛んだ燃える液体もまた迫ってきている。このままでは、死ぬ。

 

 【顛末はだいだい知っているよ。あのジークリンデが、そこまで入れ込む個人がいるなんて思わなかったけどさ。でも、もう彼女はいないんだ。元人間、君は何時まで彼女の庇護下に入っているつもりなんだい?もう、人間としての君も、人妖としての君もいないようなものなのに】

 

 人間としての俺も、人妖としての俺もいない?そんなことは、分かっている。だが悪竜にもなり切れていない。ジークリンデのように自信に溢れ、唯我独尊を貫くような心の強さは持ち合わせていない。形から入ろうとして、ガランに迷惑をかけたこともあった。

 

 【君の名前は、ランザ。悪竜ランザ=ランテだ。まずはそこを自覚しなよ。ジークリンデの背中を追っても仕方ない、君は彼女になれないのだから。分かったら、早く立ちな。君はなんの為に、今日まで生きてきたのかな?】

 

 突然現れて好き勝手言いやがる。だがしかし、その言葉はすんなりと心の底に落ちた。

 

 俺が、ここまで生き延びた理由。ベレーザに殺されず、幸福な悪夢に堕ちず、ジークリンデに庇われ犠牲にしてまで生きている理由。

 

 復讐ではない。ただ、勝手に心の中で誓ったクーラを護るという誓約。そして、悪夢の世界にいたテンとと交わした最後の約束。それだけを果たす為に生きて来た。そして生きていく。その為にどんな身勝手を行おうとも。それが例え、悪と呼ばれる行為に手を染めようとも。

 

 すまないな、ジークリンデ。俺はまだ心のとこかでお前を求めていたのかもしれない。お前は託してくれたのに、お前になれないと勘違いしていた。

 

 お前になる必要などなかった。ただ、ありのままに生きる。悪竜としての生き方は、それが大事だったのだ。誰かに影響された生き方等、もっての他だった。

 

 「ランザ」

 

 「旦那?」

 

 吸血鬼の再生でも追いつかない上から、身体の変化を感じる。まずはここから生きて出る。あの日、帝都事変の終わりでジークリンデが俺を運んでくれたように。

 

 黒々とした翼が、背中から伸びる。身体の表面、柔毛の間から鱗が現れ、噴石から身を護る鎧となる。獣の身では得られない、頑健な肉体が身に宿る。内側から、ジークリンデが力を貸してくれているようだった。あの時のように、人妖狩りの旅を二人でしてきた時のように。

 

 【歪で醜い。混ざり合いの半端も良いところ。長い歴史で、君のような中途半端な竜はいなかったよ。だけど、それが君だ。飛び立つが良いさ、今の君にはその資格がある】

 

 翼を羽ばたかせる。変化により発達した胸筋が力を与えてくれた。空へと、飛び立つ。この窮地から抜け出す為に。




 ここまで読んでいただいて、まずはありがとうございます。

 明日六月二十六日で、早いものでこの小説も二周年を迎えることになりました。それと同時に、ジークリンデに連れられて北にたどり着いたところから始まった第二部も終了となります。

 次の第三部で、この小説も完結となる予定でいます。黒幕のエンパスも動き、ようやく終わりが見えてきました。それでもまだ、半年以上はかかるような気がしますが…。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございます。今後も作品をよろしくお願いします。


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外伝 ガランの大変な一日


 ガランが率いていた半獣達には、設定だけでは色んな人達がいました。ですが、キャラが多すぎたのとテンポの問題で死に設定となってしまい上手く活かせることができませんでした。

 そんなキャラ達をだしたくて、本編とはほんのちょっとだけ離れたパラレルワールドでの出来事を考えました。メインストーリーには関係しませんが、壊滅してしまったハボックがどんな様子だったかを息抜きに書いていきます。

 二ページくらいになると思うので、お付き合いいただけると幸いです。なお、若干のBⅬ要素を含みますので微注意となります。苦手な人は申し訳ありません。

 


 「おーし、土嚢はこんなところで良いだろう。ここの最低限の備えはできた筈だ」

 

 最後の土嚢を積み上げて汗を拭う。帝国から奪ったハボックであるが、大爆発をおこした後始末には難儀している。なにせ住む場所ねえ、防壁崩壊、ついでに言うなら瓦礫の山ときたものだ。

 

 幸いなことに瓦礫の下から資材を掘り出したり、その瓦礫じたいも使えるものを吟味して再利用することはできるのだがいかんせん手間と時間がかかりすぎる。だがそれでも、なにもないよりは遥かにマシだ。

 

 まあ、なんだかんだ言ってはいるがなんだが、こうして住めるところを再建したり柵や土嚢詰みをしているのは開拓村を作っているような気分になる。楽しいとはまた違うが、遣り甲斐のようなものがあるのは確かだ。

 

 吹き飛ばなかった建物の方から鍋を叩く音と、昼食ができたことを伝えるミルフの声がした。寒い野外で炊き出しのように配膳される食事だがこれも再建が進めばなんとかなるだろう。調理スペースや食事スペースの関係で現在は肉体作業や戦闘訓練をしている者達が先に食事をとることになっているが、そのうち全員で食べれることもあるだろう。

 

 土木作業をしていた皆が先に食事を食べに行く。俺も続きたいところだが、まだやるべきことがある為保留。帝国軍が残したテントに向かう。

 

 「ウェル助、入るぞ」

 

 テントの中には作業机が並べられており、ウェル助もといウェルロンドが筆記用具片手に数字と戦っていた。少し眠たげな眼をしている為計算疲れをしているようにも見えるが、この顔はこいつにとってのデフォルトである。何時もの表情だ。

 

 「ガランリーダー」

 

 「おいおい、もう俺はリーダーじゃねえっての。というか、二人の時はそんなよそよそしくすんな」

 

 ウェル助は、俺が元々いたクソみたいな環境から蜂起した後、押し込み強盗先で出会った奴隷の半獣だ。まあ俺は炭鉱奴隷であったがこいつは、華奢で女みたいな見てくれとツルツルの肌から想像がつく。つまり、そういう奴隷だった。反吐が出る話ではあるが、こうしてついてきてくれてから冷静さと計算の速さで何時も困った時の最適解を助言してくれていた。

 

 先端が白色で薄茶色尻尾と三角耳。狐というのは頭が良いと聞いたことがあるが、頼りになる奴だ。

 

 「そういえば、君はリーダーと呼ばれるのが昔から好きじゃなかったね。まあ、癖というのは短時間ではどうにも抜けきれないものだ。許してくれよ」

 

 言いながらウェル助は計算が終わった紙を一枚渡してきた。内容は現在掘り出した物資と糧食の記録と、それを配分する為の計算表だ。

 

 「厳しいな」

 

 「うん、厳しいね」

 

 物資がほとんど吹き飛んだハボック。焼け残りを掘り起こし皆で共有しているが非戦闘員を含めて衣食住の面倒を見るとなると想像以上に頭が痛い。一週間はやりくりできるだろうが、切り詰めても十日は厳しい。

 

 「連合王国側が、後アブソリエル公国やオルレント自治州に渡りをつけてくれる予定ではあるが。それが締結するまで、そして物資が届くまでどれだけかかるかは分からない。可能な限り節約するしかないだろう。もしくは……」

 

 「帝国領から奪ってくるかだね。斥候をだして目ぼしい帝国の村落を探っておくよ」

 

 ウェル助の言葉に、歯切れよく答えることができない。俺達は可能な限り、奴隷や半獣を食い物にしているような連中から略奪を繰り返していた過去がある。だが、それでもまだ差別意識だけしか持たない平民や村落から奪ったことはない。

 

 義賊なんて言うつもりはないが、見境を無くし暴走したら俺達を支えるなにかが無くなるような気がしたからだ。だが今は、同盟が帝国に今日か明日にでも宣戦布告をしようという状態である。戦中、行く先々の村落から徴収や略奪は軍隊には付き物だ。

 

 いざという時は、襲撃と強奪も考えなければならないだろう。大義や手段よりも、今日の食事と寝床の方を優先させなければならない時もある。できうることならば、そのような最後の手段はとらないようにしたいものだが。

 

 「凄い紙の量だな」

 

 嫌な考えを棚上げし、テントの中を見る。情報を精査する為、ここにはハボックや拠点に残っていた資料をメモ書きレベルまで全て集めて運び込んでいた。中身に目を通さずなんでもかんでも集めたせいで、中には娯楽絵や小説のようなものまで紛れ込んでおりそれらは共用スペースに放り込んでいる。

 

 文字は読めないものが多いが、旦那やクーラ、一部の者は読み書きができるし人数は少ないもののここまでついてきた半獣の子供にそれらを教えている者もいた。娯楽が少ない現状、なにか楽しみがあるにこしたことはない。

 

 「目を通すだけでも、一苦労さ」

 

 「文字を読める奴が少ねえ。負担をかけるなっと」

 

 適当に紙を一枚とり眺め、半分くらいしか内容が分からず精査済みの紙束に戻そうとした。だが、戻し方が悪かった。積まれた紙はバサバサと地面に広がっていく。

 

 「すまん、散らかした」

 

 「良いよ、それより今はご飯の時間だろう?ボクが片づけておくよ。どうせそこら辺は、廃棄する資料だ」

 

 「これくらいはやるっての」

 

 安そうな黄ばんだ紙を集めていく。内容は帝国兵士の休暇と予備隊との交代期間や支払われる給料についての内容。やはり詳しい内容は半分くらいは分からないが、数字からしてあまり良い待遇ではないようだ。走り書きで、人手不足で頭を悩ませる様子が端にあった。

 

 帝国も大変だなと他人事のように考える。そしてそれとは逆に、真っ白な紙。戦場に娯楽として輸送を頼んだのか、お偉いさんにあてたワインとチーズの請求書だ。やはり数字だけは分かる為、高級品であることがうかがいしれた。先程の兵卒にあてる給料と比べるといろんな意味で泣けてくる。

 

 「たかが請求書なのに、紙まで高級品なんだからよ」

 

 裏面を捲り、固まる。今まで見たことがない、というか意味が分からないものを見て脳内が情報の理解を拒んだ故の硬直だった。

 

 「どうしたんだい?」

 

 異変に気が付いたのか、ウェルロンドが脇から覗き込んできた。そして、なんとも言えないような表情になり後ずさる。

 

 「なあ、ウェル助。質問があるんだが」

 

 「残念だけどガラン。君が言わんとする質問にボクは答えられないと思う。それでも、一応聞いてはおこうか。なにが聞きたいんだい?」

 

 「ウェルロンド×ガランって、どういう意味だ?教養のあるお前なら分かるだろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガランが手に取り眺めていたのは、ボクとガランが絡み合う絵であった。ガランは酷くショックを受けているようだったけど、こういう趣味趣向が成金くらいの中流から上流階級にあることは知っている。

 

 ボクもそういう趣味で買われた過去があるからどうとかは思わないけど、まさかこちらが攻めとはねえ。

 

 「ガラン君?いらっしゃい、どうしたの?」

 

 という訳で、昼食そっちのけで訪れたのはテントを継ぎ接ぎして無理矢理広げた大テント。その中には布地や毛布、毛皮等衣類品や医療品の素材となる品が積まれていた。チクチクと手を動かしながら声の主はこちらに二つの視線を向けて来る。

 

 視線をこちらに向けても手にもつ針は止まらない。大きな二つの瞳の上、ショートの髪の毛に隠れるような赤い二つの眼球は編み物を、そしてその下にある六つの眼球は室内のあちこちを見ていた。目当てのものを見つけたのか下半身の長い脚でそれを持ち上げて優しく引き寄せる。

 

 黄色と黒のツルツルとした八つの足。蜘蛛の身体から白い人間の胴体が生え、そこから伸びた腕で寄せた布地をとり再度新しい冬服造りを進めていた。

 

 彼女はアリアドネ。人間とも半獣とも、コボルトとも違う存在であるが本人はアラクネーの末裔と話していた。もっともそれがどういう種族なのかはよく分かっていないのだけど。ただ、同族がおらず、その見た目からどこにも馴染めずに追い立てられ、捕らわれていたのは確かだ。

 

 両親は父が人間で母がアラクネー。母が扱えた糸を吐き出す能力は既に退化しており、もうずっと前にどちらも病死したという。戦う力はないが、母が得意だったお針子としての能力を活かして一団に貢献してもらっていた。

 

 人よりも多い眼球の視界を狭めないようにショートに切りそろえており、そこから優し気な表情が見える。初見でこそ恐ろし気だと敬遠する者もいたが、人当たりの良さと穏やかさから今では孤児もいる一団の良き母親役のような存在だ。相談を受けることも多い分、他者との繋がりが多い。本人曰く、それこそが私の巣である、ということらしい。

 

 「アリアドネ、アンタなら知ってるか?これを誰が書いたのか」

 

 「あー、これ」

 

 ガランが差し出した紙を見る。あらあらと言いたげな表情ではあるが、驚いた様子もなくニコニコと笑っている。

 

 「今流行っているわよね~。絵が上手だから数枚もらっちゃった」

 

 「え?」「は?」

 

 「はい、これ」

 

 数枚の紙を小物入れから取り出してこちらに見せて来る。いずれも重要度が低い廃棄予定だった資料の裏側であるが、そこには耽美に美化されているガランが登場する掛け算の絵が沢山描かれていた。因みに掛け算の絵と呼称したのは、全て絵の左腕で人物名と×が乗っていたからである。

 

 「成程ね」

 

 「なにが成程だよ。俺もう泣きそうだよ」

 

 「いや、傾向から考えてみてさ、名前と×印がどういう意味なのかなーって。これ見るとネコとタチで、前にある名前がタチ、後にある名前がネコってことだよね。因みにこれ、ランザ×ガランだと…」

 

 ガランが表情が蒼白になる。すぐさま紙を奪い取りぐしゃぐしゃに丸めて放り投げた。

 

 「洒落にならんわ!こんなもん旦那に見られてみろ!これが流行ってるなんて知られたらこの拠点終わるぞ!てか俺が終わらせる!旦那に終わらせられるくらいなら俺が幕を引いてやるー!」

 

 ガランが壊れた。まあ、絶望している彼は放っておいて改めて良く絵を見てみよう。なにが見落としていることはないだろうか?

 

 「大丈夫よ。ランザさんはそこまで器の小さい人じゃないでしょう?貴方と違って。それに女の子はみんな楽しんでいるんだもの。多分、ランザさんの耳にも届いているんじゃないの?」

 

 「み…ん……な?俺は…みんなに…?男に襲われるのを…良しとする変態…扱い……されて?」

 

 「アリアドネさん。今心理的ダメージを重ね掛けで与えるのはよしてもらって良いですか?それにしても妙だな。何故いきなりこんなものが出回るようになった?」

 

 名前の字は汚いものの、絵自体はかなりの描写力である。生々しい迫力に長けていた。しかし、こんな画力を持つ仲間がいただろうか?まあ全員の特技を把握している訳でもないから確実なことは言えないのだけど。

 

 「対価等の支払いは?」

 

 「欲しい人にはって配っていたようだけど。特になにかの支払いはないわね」

 

 「営利目的ではない?趣味の類?それならば分からないでもないけど」

 

 「分かるかー!俺はノーマルっだぁ!将来は年上で芯のある戦友のような姉御肌の異性と平和な家でのんびりと暮らすんだよ!子供は三人は欲しいっての!それなのに俺が、俺がホモなんて噂が出回って将来の素敵な出会いが消滅したらどうすんだぁこらぁー!あぁーーー!?」

 

 うん、ガランの趣味が取り合えずこの大声で広まりそうだね。まあそれはどうでも良いとして、確かに廃棄予定とはいえこんなものが出回るのはあまりよろしくない。無許可で資材を無駄に使われた、今は大した損害ではないがこれが常習化すれば無断使用されるものはどんどんと広がっていくことだろう。

 

 「無い無い尽くしで、これは困るなぁ。一応聞いておくけど、アリアドネさん。これを書いた画家は誰ですか?」

 

 「お話はしないわよ。みんな、こんな毎日を過ごしているんだもの、なに楽しみが必要でしょうから。良くないことかもしれないけれど、心のゆとりも時には必要じゃないかしら?」

 

 「です…か。まあでも取り合えず、当たれるところからは当たらないとな。アリアドネさん、悪いですけどこれは、預からせてもらいます。廃棄する物とはいえ、無許可で資材を横領されたとなったら、一応注意くらいはしないといけないですからね」

 

 「ウェル君は真面目ね。まあ、貴方の考えも分かるし、ガラン君の様子を見ると、被写体に許可をとってないようですからそれくらいは飲みましょう。でも、あんまり厳しくしないでちょうだいね」

 

 四つん這いになって絶望しているガランの肩を掴んで立ち上がらせる。

 

 「ほら、しっかりして。取り合えずこの件を調査する手段を思いついたから。なっ?」

 

 「ほんと?」

 

 「ほんとほんと、じゃあ行こうか」

 

 テントから出て向かう先は訓練場である。何人かの非戦闘員や女性達とすれ違うが、こうしてみるとガランにとっては誰にそんな目を向けられているか気が気でないだろう。解決手段があるという言葉に少しだけ持ち直すが、挨拶されても返す笑顔は引きつっていた。

 

 「ガラーン!」

 

 木の上から、小さな人影が飛び掛かってきた。上から襲い来る引っかきの一撃を避けながら、襲撃者を抱きいて勢いを殺す。

 

 「ガラン!きょうもよけた!スゴイな!」

 

 「ノラ!お前はまた懲りねぇなぁ」

 

 ガランは、ようやく一安心したような笑顔を浮かべることができた。亜麻色の髪の毛に茶色い瞳。野性味笑顔を浮かべた小さな子供は、エルフでも半獣でもないただの人間だ。

 

 獣に育てられた子供。そういう名目で見世物扱いされていた。全裸で首に鎖を付けられ四つん這い。髪の毛はゴワゴワでノミが飛び、全身に暴行や躾の痕が散見された。見物する者やショーの演者に飛び掛かり噛みつこうと暴れていたが、すぐに棒で痛めつけられ獣のように鳴き、呻く姿は悪趣味なショーとして人気だった。

 

 そのころにはボク達は十数人程度の仲間ができており、初めて作戦を言い合い襲撃して、趣味の悪い金持ち共から金品を強奪し捕らえられていた者達を解放した。その中でも、行先が無い者や解放された世界に馴染めない者達が仲間に加わった。その流れで、このままではどうなるか分からないノラを一団で面倒みることになる。

 

 ノラは、手負いの獣そのものだった。何度も噛みつかれたり引っかかれ、食事は四つん這いで口からでないと食べない。言葉も理解を示さず、皆手を焼かされたものだ。

 

 ただそれでも、気持ちはいずれ通じるものだ。用意した食事を誰もいなくなってから手をつけていたノラが、そのうち一番最初に飛びついて顔を引っかいた男、ガランが用意してきた時だけ近くに寄って食べるようになった。

 

 いずれ、他のメンバーにも慣れていき、何時しか食事を共に囲うようになる。食事マナーと言葉を覚えるのにはまだまだ時間が必要だったが、少しずつ信頼関係を築いていた。だが、言葉を覚えるまで成長しても、何故だかガランに飛び掛かり先制攻撃をしようとする癖のようなものは抜けなかった。

 

 信頼故のコミュニケーションなのかもしれない。あの時よりも成長し、少女から大人に向けて成長する最中であってもそれは変わらなかった。

 

 「ガラン、どこかイくのか?」

 

 「ん?おお…そういえばウェル助、どこに向かっているんだ?」

 

 「そういえば、行先は教えてなかったかな。訓練場だよ、あの二人は何時も一番最後に食事をとりに行くからね。まだ、いる筈さ」

 

 ノラの顔が曇り顔になる。エルフ達に対してもそうだが、あの二人に関しては慣れていない上に変な気配がすると怖がって近づかない。ハボックを占拠してから輪にかけて近づかないようにしており、喉元から小さな呻き声をあげていた。

 

 「ガラン、ウェル。ごハンイかないの?おナカスいたよ」

 

 「悪い、ちょっと野暮用がな。先に食べに行って良いんだぞ?」

 

 むぅ、と呻きながら困り顔をする。しばらく唸ってから、腹の音を鳴らして空腹を胃袋が訴えた。

 

 共に来てほしそうであるが、こちらにその気がないことはもう分かっているのだろう。仕方なく小動物のような鳴き声をあげて食事場の方に向かおうとする。

 

 「あ、そうだガラン」

 

 立ち去ろうとしたノラが、こちらに振り向いた。くったくのない笑顔を浮かべており、それを見るガランの顔も優しい。

 

 「ガランはエルバンネがスきなのか?」

 

 「ん?」

 

 空気が、凍った。雑に服の中にねじ込んでいたのか、クシャクシャになった紙を取り出し取り出して広げて見せる。それはガランとエルバンネの掛け算の絵だった。ノラは意味も分からず拾ったか持ち去ったのだろう。ニコニコしながら疑問をぶつけてくる。

 

 「ケヅクロいしあってる!ノラもしたい!」

 

 「「いけません!!」」

 

 絵の内容は、茨のようなものに両腕をあげられながら頬を赤らめているような拘束されるガランの胸元に襲い掛かるように顔と舌を寄せるエルバンネがいた。これは教育上に悪すぎる。ガランのみならず、変なところに悪影響が出始めていた。

 

 「ダメ?」

 

 「とにかく、今はご飯を食べてきなさい。邪魔になるから、それはボクが預かっておくよ」

 

 意味も分からずに首を傾げるが、クシャクシャと紙をまた丸めて放り投げていった。それを拾い、アリアドネさんから預かったものとまとめておくことにする。

 

 「なあ、ウェル助。俺さ、なにか悪いことしたかなぁ」

 

 「悪いことしたかは置いておいて。無作為にバラまかれて管理がなっていないようだと困るなぁ。見ちゃいけない子まで見てしまうとなると、問題しかないよ」

 

 がっくり肩を落とすガランの為にも、この問題の解決を急ぐしかないだろう。当初の目的地に急ぐことにする。

 

 ハボックの西端、元々建物もない土地には整備が行き届いてない為大きな岩が転がり地面に起伏がある為デコボコし、あまり建築には向いていない地形をしていた。現在はその一角を整地して畑にしないかという話も出ているが他にやることがある為検討レベルで保留されており、この場はむしろ訓練場として利用されている。

 

 訓練場の真ん中、ランザさんが佇んでいた。彼が訓練場を扱う時は、他の者達は極力入らない。恐れと敬いが入り混じったような感情を向けられるなか、こうして彼なりに気を使い食事は遅めに、訓練は他者と時間が被らないようにしているのだろう。

 

 ガランは出来れば仲間の輪に入ってほしいと考えているようだが、個人的には孤高の存在でいるのは、それで良いと考えている。

 

 ガランを中心に据えた際のリーダー像は、皆と楽しみも危険も共有して仲間意識の元に引っぱって行くタイプだった。自然とみんなの中心になり、頭として担がれいく。無意識ながらそれを行い、それがガランを半獣達が慕っている理由となっていた。

 

 一方ランザさんは、そういうタイプではない。平和な世の中でまともな職業についている際は話は別であるが、あの人にはあまり人を惹きつけるカリスマ性はないように感じる。もっとも一部の者にはクリティカルヒットをしているようだが、まあ例外であろう。

 

 ただあの人間離れした能力と、引きついだ悪竜ジークリンデの力。火竜ランドルフにも一目置かれているようであり、その神秘性と強力な武力はある種の切り札的存在。言い方は悪いが兵器としての価値がすこぶる高い。

 

 圧倒的な力はそれはそれで人を惹きつける。ガランは無意識に、エルバンネさんは意識してそれぞれの種族代表として旗頭に彼を据えたのはそういう理由であろう。ガランの統率力は、半獣だけを率いるならば問題はないがエルフまでまとめ上げるのには向いていない。

 

 岩陰からクーラが飛び出す。立ちながら目を閉じるランザさんの後頭部に襲い掛かる。

 

 「うお!マジか!」

 

 ガランが驚きの声をあげた。身体を捻りながら後ろ回し蹴り。格闘技の素人でも威力が乗りやすいうえに、飛び上がりながら捻りがついた一撃はクーラの体躯でも急所を打ち抜けばひとたまりもないだろう。大好きな対象であるというのに、容赦がない。

 

 ランザさんが腕で後頭部を抑えて蹴りをガードする。ギリギリで気配を捕らえて反射神経で技を防ぐが、カウンターで繰り出した振り返りながらの裏拳は避けられた。地面に線を引きながら手をつき着地するクーラが、反射神経と瞬発力で次の一撃を繰り出そうとした。

 

 「え?」

 

 「なに!?」

 

 動き出す前に、動いたとしか言いようがない。攻撃をしようとしたクーラの拳が、攻撃の前から読まれているかのようにランザさの手刀で手首を叩かれることで防がれた。そのまま二人の位置が一回転するように入れ替わったと思ったら、横倒しにクーラが地面に倒される。

 

 起き上がろうとする前に、拳が額の前に迫り寸止めをされた。拳がそのまま、差し出された手になりクーラの身体を引き起こす。

 

 「小手返し、と俺を鍛えてくれた人が教えてくれた技だ。相手の手首を叩き勢いを殺さずに誘導し、倒す技。掴むこともなく、膂力もそこまで必要ない。現に俺も今、ほとんど力を込めなかった」

 

 「掴まずに投げられたような気分だったよ。体幹崩しの体術なのかな。興味深いけど、今はもう少し分かりやすい攻撃が良いな。訓練時間も限られているんだし、打撃系で良いのはない?」

 

 「打撃系か。俺は、教わる時はまずその技をそのまま身体に受けた。そういう教え方しか分からないが、大丈夫か?」

 

 「望むところだよ。よろしくね、ランザ」

 

 クーラの瞳の奥に、怪しい喜びの光が一瞬横切る。ガランが隣でうへぇ、という顔をしていた為多分気づいているんだろう。彼女にとっては、ランザさんに痛めつけられることも幸福らしい。正面で対峙しているのに、ランザさんは気づかないのだろうか。

 

 「すいません。お二人とも、少し時間をいただいていいですか?」

 

 訓練が再開される前に口を声をかける。クーラの至福の時間を邪魔することになるが、今はこちらの用事を優先させてもらおう。



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 「何の用事?」

 

 クーラの視線が氷点下になっている。お楽しみのところ邪魔をしたのだから不機嫌極まりない状況だが、ランザさんの手前か感情は平穏を努めているようだ。詰まらない用事だったらはっ倒されそうである。

 

 「緊急か?」

 

 「緊急を要する事態ではありませんが、少々面倒なことになっていまして。こちらをご覧になったことは?」

 

 見せる紙は数枚。二人とも表情は平然としているようだが、さて内心はなにを考えているのか。

 

 「意見を聞かせてくれ、ウェルロンド。これを問題視しているからには、理由があるのだろう?」

 

 自分が被写体にされた絵もあるというのに、まず聞くのはそこからか。理性的なのか興味がないだけか、それともそういう趣味があるのか。元妻帯者であることから後者のは可能性が低いとしても、これで怒りだすようなら偶像としての価値は下がる。そういう意味では合格だ。

 

 問題となる点は隊の風紀と、無断で資源の無駄使いをされたこと。これら二つは今は可愛らしい範囲で留まっているものも、増長を続けていけば大きな問題になる。特に、半獣やエルフ達と混ざり合った部隊ではなおさらだ。

 

 あちらが立てばこちらが立たない。単一種族で組んだチームや軍隊でもそうだというのに、違う種族同士でまとまっている自分達は不満や格差が出てきやすい。もっとも、それが表面化する程に組織がもてばの話ではあるのだけれど。

 

 「制裁を与えるかどうかは別としても、釘を刺しておく必要はあるか」

 

 「理解が早くて助かります。それに、被写体にされた存在に精神的なダメージも大きいようで」

 

 ボクとランザさん、二人の視線がガランに注がれる。絶対に犯人をフン縛ると鼻息荒くしている様から、恐らく今回の事件でもっとも被害を受けた者は彼だろうとは思う。可愛そうな話だね。

 

 今回の件、こちらで勝手に解決に動くのもありだが、トップとして据えるなら許可をとり一応は彼の顔を立てておかないといかない。そういう細かいことを気にするタイプかは知らないが、内外に態度で示す為にも必要なことだ。ついでに、どういう人間性なのかを見るいい機会にもなると考えていた。

 

 「へぇ」

 

 一枚の紙を見ながらクーラが口角をあげていた。あれは絵の内容を喜んでいる顔ではなく、ある種攻撃的な笑みをしている。

 

 「ま、頑張れば?」

 

 紙から顔をあげた瞬間には、興味なさげな顔に戻っていた。ランザさんには見えなうちに、ガランが顔を上げる前に表情は見事に変わっている。ボクだけは見ていたのを気づいているだろう。意味ありげな視線を向けてきたが、別に貴女の企みは興味はありませんよ。

 

 それとも、今回はノッてやるが次は無いという意思表示だろうか。ハイハイ、そうそう利用する手段や状況が出て来るとは思えないけど。

 

 「よし、それじゃ行こうかガラン」

 

 「え?もうか?」

 

 「お昼ご飯食べに行こうよ。そろそろ無くなるかもしれないしね」

 

 ガランが納得をしていなさそうな顔をしているけど、取り合えずこれで八割は事件が片付いたと考えても良い。彼女が諜報や防諜に長けているのは知っての通りだ。この程度の揉め事ならば嗅ぎ当てるのも容易いだろう。

 

 「あーもう遅いですよー!ガランさんは肉体労働者なんだから早めに食べに来ないと!もうすぐ第二グループのご飯の時間ですよ!あれ?ウェルさんは食べに来るの久しぶりですね。第二グループの時間には少し早いけど、一緒に食べちゃいます?」

 

 食事場まで向かうと、焚火の上に大きな鍋が見えた。その手前で、中身を厳しい顔をしながら見ていたミルフがこちらを見て声をあげ、ガランを見て口を尖らせる。遅れて来ると、配膳が面倒になるからだろう。

 

 「悪い悪い、ちょっと野暮用でな。今日のメニューは?」

 

 「黒パン一個、座り仕事とかの皆さんは半個。それと、豆スープですよ。もう少し品数が欲しいところなんですけど、なんとかなりません?皆さんちょっと不満が溜まっているように見えるんですけど」

 

 「無い袖は振れん。今は取り合えず持たせることだけ考えてくれ」

 

 「それは…まあ……理由は分かりますけど、本当に不満が溜まってきていますよ。こんななんにもないところ、娯楽なんて食べることくらいなんですから」

 

 ミルフが盛るスープの具はほんの少しだけ緑色の豆が入っているだけだった。せめて味くらいはと思いたいところであるが、塩味等現在は贅沢も良いところだ。スープというよりは、お湯で煮えた少しの豆と言い直すこともできる。

 

 これでは料理人も腕を振るいようもない。ミルフ自身も遣り甲斐が無いだろうが、全体の士気が下がる問題も本当だろう。狭い洞窟住まいから解放された時は、犠牲も出たが全員の顔に先が見えたような安堵もあった。だがそれも慣れて来た今、新たな環境では新たな不満も噴出するものだ。

 

 「衣食住に娯楽が揃って始めて、活動は充実する。意思とか使命感で戦い続けられる人の方が少ないもんだ。交渉が上手くいけばいいが、待つばかりなのはモヤモヤするな」

 

 基本的に連合王国主導で対帝国包囲網に参加する国の協調性が保たれている。僕たちからの代表としてはエルバンネが参加しているし、流石にこの状況下滅多なことはないだろうけど待つばかりの身としては辛いものだ。願わくば、最後の手段をとらざるえなくなる前に光明が欲しいところである。

 

 「昔の物語にこんなセリフがあったよ。『俺達に必要なのは思想じゃない。食い物や寝るところなんだ。それも今すぐにな』ってね。この状況になってそれが良く分かるよ。生物というものはより良い環境を求める。信念や思想、信条で戦えるのはほんの極一部の存在なんだってね」

 

 「ウェル助。安心しろ」

 

 ガランが黒パンをテーブルに置く。顔を前にズッとだしながら、親指を立てて自分の方向に向けた。

 

 「手前の飯や寝床を手に入れる為の戦いも確かに大事だし、否定するつもりはない。目先のことに捕らわれて、本位ではないにせよ、手段と目的が入れ替わっちまうような本末転倒な事態になることだって多々あることだとは思う。だが俺は絶対にブレねえ。皆変わっちまっても、変わらねえ。例え俺一人になったとしても、夢は必ず叶えるからよ」

 

 ガランは胸を張る。炭鉱労働で顔を黒くしていた時から考え続けていたことと話していた、半獣達のような世間から爪弾きにされるような者達が、差別なく暮らしていける自治州の建立。

 

 政治は?外交は?土地は?差別を払拭する手段は?国民を食べさせていける産業は?口にするのは簡単であるが、その夢は途方に暮れるような問題と解決が見込めない難題が山積みである。それを分かっているのかいないのかと言えば、彼は半分くらいしか理解していないだろうとは思う。

 

 だけど、どんな状況でも誰かが希望に満ちたことを言わなければ、空気は暗くなり状況は悪くなるばかりだ。例えそれが気休めだとしても、偽善だとしても、その場しのぎだとしても。希望的観測は、水や食料、娯楽に並ぶ必需品だ。本気にしていない者でも、少しでも前を向くきっかけになる。

 

 そしてガランは、本気でそれを実現できると思っている。連合王国との繋がりと帝国に対する大きな戦争、ランザというこれまでにない旗頭。洞窟に引きこもっている前から言い続けてきた夢物語が、もしかしたら叶うかもしれないという希望になっている。未だ、道のり困難なことには変わらないけれど。

 

 「だから安心してついてこい。なんて、トップじゃねえ俺にはもう言えない台詞か」

 

 「今更だよガラン。半獣の皆は、君に賭けたんだ。ボクも最後まで、付き合うつもりさ」

 

 臭い台詞であるが、それ以上に臭いことを相手が言っているのだから仕方ない。酒でもあれば乾杯でもして飲み干したいところだけど、固くて美味しくないパンと味の薄い豆スープじゃ物足りないかな。

 

 「あっ!ああっーー!」

 

 ミルフのすっとんきょうな悲鳴が厨房の方から響いた。声の方向を見てみると、木枠の開け放した窓からノラが飛び出し包み紙を口に加え、紙の中から零れて垂れる繋がった腸詰めを揺らしながら逃げていった。

 

 「それ!大事な大事な保存食なんですってー!ノラちゃーん!」

 

 ミルフがお玉を振りながら追いかけようとしたが、岩に躓いて転倒。対してノラはもう遥か遠くまで逃げ延びていた。洞窟で過ごしていたコボルトでは、野生児のように育てられた人間には追い付けないようだ。

 

 「目の前で銀蠅の光景を見るなんてね。今度注意しておくかい?」

 

 「注意も必要だろうがよ。ノラはああ見えて気質はガキ大将だ。なにをしているかと思えば、ああして盗んだ飯を同じ子供に配ってるんだとよ。昔の俺みたいだ」

 

 「だからお咎めなし?」

 

 「飯がみんなに充分行き渡るようになってまたやったら、俺から注意するさ。今はミルフと追いかけっこさせておけ。それに俺は、銀蠅しているのは一人とは限らないとみているしな」

 

 ガランの視線はミルフに注がれていた。手癖が悪いとは言わないものの、レパートリーは多くないとはいえ帝国軍が残していった鹵獲品には山では見ないものも多い。興味本位でちょっとずつ盗み食いしているのをガランは分かっているようだ。

 

 無論バレたら問題だが、食料を盗みたくなるような気持ちは分かるのだろう。炭鉱労働をしていた時代を思い出しているのか、どこか遠い目をしていた。

 

 まあガランはああいうものの、二人に関してはボクの方から動いておくか。食料、資源を持っていかれるのはやはり良いことではないし、嫌われものも一人で充分だ。

 

 「じゃあ、食べ終わったし、午後の作業頑張ろうかな」

 

 「ええ?おい、犯人探しには付き合ってくれないのかよ」

 

 「銀蠅は黙認しても、そっちは納得しないんだね。まあ、クーラに押し付けたんだ。この手の犯人捜しはボク達よりも上手くやるよ。ボクも君も、暇じゃないんだしね」

 

 「え?クーラが?あんなに興味無さそうだったじゃんかよ」

 

 不思議そうな顔をしているが、そんなに難しいことはしていない。クーラを動かすのは、紙一枚見せれば事足りる。まあ、特殊な事例ではあるけれど人を動かすならば、手持ち道具の使い方次第といったところか。

 

 「もっとも、今回の犯人、ボクはおおよそ目安はついたよ。でも現行犯押さえるなり証拠を押さえるなりするとなると、なかなか大変だからね」

 

 「おいおいおいおい。でもよ、クーラが制裁するとなると容赦ないんじゃねえか?」

 

 「まあでも、そう思うならここまでの情報で犯人捜しをしてみなよ。勿論、通常業務もこなしながらだけどね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「分からん!」

 

 レンガを積みながら考える。考えたところで答えは出てこねえが。

 

 だいたい、今回ウェル助とやったことなんてアリアドネに会いにいき、旦那とクーラに会いに行き、ついでに飯食っただけじゃねえか。なんでまたこんなんで犯人の推測が立つのだろうか。

 

 「どうしたんですか?」

 

 追加のレンガを運んで来た部下の手が止まる。半壊した建物からバラシて再利用している建材の為、新しい者は作れないが損害な軽微な建物や施設を直すのには丁度いい為使っていた。接合には、コボルトが選んだ岩石を砕き水や土を加えたドロドロした灰色のものを使用している。乾くと隙間なく固まってくれるらしい。

 

 顔についた泥を拭いながら、なんでもないと返すが頭の中はもやついていた。いったいぜんたい、なにから推測が立ったのやら。

 

 「うぅ…こんなもんで、なにが分かるのやら」

 

 クシャクシャにしてポケットに突っ込まれた自分の絵を広げて見つめる。こんなものでも一応は証拠品、燃やしてしまいたいところではあるが下手に処分できないでいた。

 

 「ん?」

 

 少し暗くなってきた為、絵を顔の近くで見ていた時に気づいた。鼻を近づけて嗅いだ臭いは、もっとこう馴染みのあるような香りがした。廃材を引っくり返している時によく鼻をくすぐる、焦げたのような香り。

そして灰の香りもする。

 

 「炭?灰?」

 

 そういえば絵を描く時の材料として、黒色を出す時に炭を溶かすんだったか削るんだったかで絵具を作るという方法があるなんて聞いたことがある。羽ペンやインクの類はウェル助が管理している為簡単には持ち出せない。だから犯人は、調達しやすい炭と灰を選んだのか。

 

 だけど炭と灰なんてどこからでも調達できる。これだけでまだ犯人像までは絞り込めない。だけど、なんだかとっかかりになったような気がする。

 

 そうだ、視点を一度変えてみるか。何故犯人が描いた絵を俺やウェル助は知らなかったのか。そして、女性陣を中心に絵が出回っているのか。そういう面から推測してみるか?

 

 「なあ」

 

 「はい?」

 

 「俺達みたいな肉体労働や戦闘訓練をしている連中の男女比って、分かるか?」

 

 「えー?だいたい八割二割くらいじゃないですか?やっぱ仕事柄か、野郎のばかりですねー」

 

 「……そういうことか!わりぃ!ちょいと外す!」

 

 作業現場を後に走り出す。野郎どもには悟らせず、女性陣に渡す機会が多いということは場が女性ばかりになったタイミングということだ。アリアドネの話では欲しい人には配っていたということ。だが大々的に配れば男性陣の目にも触れることもあるだろう。

 

 つまり、配るタイミングは女性ばかりの時。まだこの拠点では男女を分けて泊まらすことができる程の家屋は存在しない。適当な仕切りを用意しているだけで、寝所は男女共用だ。絶対とは言えないが、やはりなにかを配っているとなれば、男性陣にも多少なりとも噂にもあがるし俺も聞くと思う。

 

 主には後方支援を担当してくれている女性達が食事をとるタイミングである第二グループ。そこでこの絵は配られていた可能性は高い。そして、人目のつかなさと絵の素材となる炭と灰の入手のし易さ。絵を描く際に、人目にさらされ難い数少ない確りと形を保っている調理場のある建築物を作業場としていたらなば犯人は決まってくる。

 

 犯人は、ミルフだ。

 

 ミルフは食事が出来ると、子供達を最初に食べさせてそれが終わればまず男性中心の第一グループを呼び込む。それが終われば後方支援の第二グループ、そして食堂に来ないで作業をする人物達に食事を届けに行く。

 

 ノラがあの絵を持っていたのは単純な話、食料を盗みに来た際に見慣れない絵を見つけ子供ならではの好奇心で持ち去ったのだろう。目を光らせ、あちこちを探し回るノラがついでとばかりに変なものを持ち去り玩具にしようとする様子が目に浮かぶ。

 

 紙の調達先は、やはりウェル助のところだろうか。今日ウェル助はミルフに『食べに来るのは久しぶり』と言っていた。ということは、普段はあのテントまでミルフが食事を届けているのだろう。毎日それをやっているとなれば、廃棄予定の紙を抜き取っていくくらいは簡単だろう。

 

 明確な証拠はまだないが、状況証拠は揃ってきたと思う。後の動機とかそこら辺はミルフに尋問をすれば良いだろう。俺がホモで総受じゃなくて、あと人様に無断でこんな人物画を描くなと伝えるだけでいい。これはこれで皆の娯楽になっているならば、全面禁止までしなくて良い。ちゃんと許可を得てそのうえで健全なものを描いてくれればいいのだ。

 

 俺に見つかればその程度で済むが、クーラに先を越された場合はどうなるか。

 

 調理場の建物まで駆け付け、開けようと手を伸ばした時、俺の推論は正解であり、そして手遅れであったことを悟った。

 

 「ミールーフー…」

 

 「ひぃえぇぇ。なんでそんな怒ってるんですかぁ」

 

 クーラが物凄い顔で、そして目が笑っていない笑顔でミルフを壁際に追い詰めていた。手には、ウェル助から渡されていた絵が一枚。そしてその絵の内容は、あろうことか俺とランザの旦那が描写された掛け算の絵だった。どういう体勢での絵であったのかは、考えたくもない。

 

 子供達、第一グループ、第二グループ。そして、一番最後に食事をとるのは恐らくはミルフと、旦那とクーラだろう。当然この絵は旦那やクーラには見せない為、平然な顔をしながら食事をしていた筈だ。そして、それがバレた。

 

 「分かってる癖にぃ」

 

 クーラの靴底が、ミルフのすぐ隣の壁を穿つ。ああ、崩れていない建物は貴重だってのに。ああ見えて、彼女の脚力は強い。本気で蹴れば壁くらいには穴が開く。あ、穴が開いた。どうやら打撃術の訓練は順調なようで。

 

 「不思議なんだよね。なんでさぁ、なんでさぁ…ランザと描かれているのが自分じゃないのかなぁ?絡んでるのは別の人なのかなぁ?おかしいよね?おかしくない?ねぇ…ねえ?」

 

 紙のてっぺんを指で摘みゆっくりと縦に裂いて破いていく。二つになった紙は、指から離れて窓から吹き込む風に煽られ夕食を作る為につけていた竈の火種に吸い込まれて燃えた。クーラの怒りはそれが理由か、どうやら自分以外がランザと絡むのは嫌なんだろう。

 

 「えーでも、そういうコンセプトの絵なので…その」

 

 「ガラン、この事件に怒ってたんだよねぇ。ウェルロンドも問題だって言ってたしさ。二人の耳に入ったら流石にまずいんじゃないかな?味見と称してつまみ食いも、少し看過できないかもねぇ。無いところから余罪を作ることも、自分にとっては楽な仕事だよ。もし、黙っていてほしんだったら…」

 

 クーラの指先がミルフの喉元から口先まで流れ、指二本で軽く持ち上げた。頬の近くで吐息がかかる距離まで口を寄せ、なにやら言い含んでいる。

 

 もう、良いか。その場から離れて俺の仕事に戻る事にする。ミルフだって、毎日忙しい炊事場で働いていたんだし、ストレス解消したかったのだろう。こちらから注意しようと思っていたけど、クーラから詰められて怖い思いをしているようだしな。

 

 クーラが揺すりをかけている内容は、聞こえないがだいたいは理解できた。我ながら甘いかもしれないが、これでミルフもしばらくはそれの作業で手がとられるだろうし、食糧問題が解決したらもっと忙しくなるだろうから新たな掛け算の絵の着手はできないだろう。

 

 「能天気がらしくなく、浮かない顔をしているな。獣の大将」

 

 外壁の補修作業をしに戻ろうとした矢先、何時も冷静でなんとなく嫌味ったらしい声音を聞いた。だがしかし、その声は俺にとっては今一番聞きたい声でもあった。

 

 「お前と違って、表情豊かなんだよ長耳野郎」

 

 顔を合わせてからの嫌味の応酬に嫌悪感や敵対心はないし、相手からも感じない。だが洞窟で長いこといがみあっていたお互いの呼び方は、すっかりこんな感じが定着していた。エルバンネとは何時もこんな感じだ。

 

 「交渉はどうだった?エルバンネ」

 

 「連合王国が後ろについているんだ、状況的にミスはありえない。権力が背後にいる上での交渉は、楽なものだな。数日中、遅くとも七日以内には我々に武器はレンドリース、食料や生活必需品は戦時国際法に照らし合わせた緊急支援として後アブソリエル公国経由で届く筈だ」

 

 「その話を聞いて安心したよ。どうやら俺達は飯と寝床の為に暴徒の群れにならずにすみそうだ」

 

 「詳細だ、目を通しておけ」

 

 数枚の紙を受け取る。どうやら卒なくこなしてくれたようであり、予想よりは実入りが大きそうだ。ウェル助を交渉役にあててもこなしてくれるだろうが、話し合いの場では多分こいつの方が向いていると思う。若い見た目のエルフ達の中で、中年に近い容姿になるほど生きている。伊達に長い人生経験を積んではいない。

 

 「だが、我々はこれで正式に対帝国の包囲網に食い込まれることになった。愚問かもしれんが、本当にこれで良かったのか?もういざという時の逃げ場はないぞ?無様に逃走をすれば、今後は連合王国にすら相手もされないだろう」

 

 「腹をくくるタイミングだ。旦那達にエルフ共、環境も揃い手札も初めて屑じゃない。どうせ帝国とは喧嘩中だし、ここで勝負に出なけりゃ俺の夢は成就しねえよ」

 

 「お前の夢か。その夢の為に、他者を巻き込む覚悟はあるか?」

 

 「巻き込むさ。この先の子供達、孫たち、ひ孫達の為にな。今俺等が奮起をすれば、連中には人並みの生活が待っているかもしれない。ならやるしかねえだろうが。それは、今生きる俺達の大仕事だ。寿命の長いエルフにはしっくりこないかい?」

 

 エルバンネが腕を組み合わせ、薄く微笑んだように見えたと同時に門の方から緊急を伝える鐘が鳴り響いた。短く連続で叩く合図は、帝国軍の襲撃だ。

 

 「行くぞ長耳野郎!長旅で疲れたとか言わないつもりならな!」

 

 「押し付けたいところではあるが、致し方ないか。我々エルフの未来の為にも、手を貸さざるえないだろう」

 

 ライフル銃を持つウェルロンドが、調理場から飛び出してきたクーラが、訓練場から走る旦那が見えた。小さな畑が、建築途中の家が、子供達をまとめて避難の誘導をしているノラが、怪我人が出た時にすぐ対応できるように沢山の包帯を用意するアリアドネも見えた。

 

 「初めてできた皆の居場所、潰されてたまるかよ」

 

 俺についてきた皆、エルフの連中、引きこもりのコボルト共。旦那やクーラばかりに頼れない。俺は俺のできることを全力でこなしてみせる。食うところにも困らない、寝るときに震えない為に。俺達が、少数民族や産まれを理由に差別されない環境を作る為にも。

 

 ……?そういえば、なんでウェル助のテントからあの紙が、廃棄予定の書類から出て来たんだ?紙を抜き取りにきているだろうに、完成品が入っていたのはどうにもおかしい話ではないか?

 

 まあ、良いか。戦っていれば、頭から吹き飛ぶような些細な疑問だ。今は全力で、目の前の物事に取り組むしかないだろう。俺にはそれが、一番性にあっているのだから。



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災害


 大陸最大の都市と呼ばれる帝都。人口はおよそ六十万人。交易と娯楽を重視したイルドガルや歴史と遺物の都市である地方都市クスのように、帝都はなにかが尖っているような都市ではない。

 

 しかし広大な都市と人間の流入、そして巨大な城に初代帝王ギルバードが成した歴史のバックホーン。帝王御用達で酒造で精製された蒸留酒の酒蔵に、イルドガルの競馬とはまた違う国営カジノの存在。複数の大商会が鎬を削りあい、帝国戦争博物館にはかつての敵国の品が並べられて観光客を集めていた。

 

 なにかが尖っている訳ではなく、全てが満遍なく充実した帝都。帝国市民にとって、帝都で暮らすことはある種のステータスとして語られることもあったが、それも今や昔と言われていた。

 

 帝都の五分の一が、悪竜と四足獣の獣による戦闘の余波で壊滅された帝都事変。それは表面上の人的資源や建物の崩壊以上の損失を産み出した。

 

 激しい戦場となった場所は、主に富裕層よりの中間層が住まうエリアであり、帝国で二番目に巨大な大商会の本拠地を構えていた。老舗と呼ばれる店や都市開発により産み出された時計塔を中心に活気がついていたエリアであり、皇帝肝いりの政策として善政が推し進められていた。

 

 別エリアから労働に訪れる労働者達や都市開発を推し進める為の職人達が集う癒しの場である酒場通り。外から訪れた商人達が泊まる宿泊施設。シンボルマークとなった十五年かけて建造された時計塔周辺の広場では催し物もよく開催されていた。近頃はやや過激な新興宗教が進出してきていたが、治安も良好でありここに住居を借りることは成り上がりを狙う者達にとってまず目指すものであった。

 

 娯楽、環境、雇用、住居。なにもかもが揃い、瓦礫の山と化した区域は既に封鎖されていた。

 

 経済の停滞と住民の不安もさることながら、最悪な話題は居残り組の予備部隊とはいえ竜狩り隊を名乗る者達が呆気なく一蹴されてしまったことであった。戦力の低下以上に、この事態は政治的な不安要素を産み出してしまった。

 

 情勢不安とあいまり、不都合な情報は七都市同盟は仮想敵国のスパイによって拡散されてしまう。竜狩り隊とは、帝国軍の象徴であり傷一つつくことが許されない金看板。無敵であることが義務付けられた、負けを許されない集団であった。

 

 「失礼しました」

 

 既に夜分遅くだというのに、謁見の間から一人の男が退室する。近衛兵達が重厚な扉を閉める音を背に歩く男の左腕は存在せず、なにも通されていない袖がぶら下がっていた。

 

 白髪交じりの頭髪と日に焼けた厳つい表情。一度は前線を引退した身であるというのに、再度槍を持った帝国最強の男。悪竜ジークリンデを葬ったガルシア=ニコライは眉間に深い皺を寄せていた。

 

 海竜リヴァイアサン、悪竜ジークリンデで渡り合いトドメを刺した大陸で、人類で唯一の男である。世が世なら歴史上に英雄として名を残すであろう偉業をなした者とは思えない程に苦悩と労苦が身体と精神を蝕んでいるようであった。

 

 「やはり、受け入れてはもらえないか」

 

 帝国参謀局、臨時戦争大臣、果ては皇帝まで直訴陳情をしたがその全ては思うようにいかないものであった。やり残したことの後始末。北の地で、猛威を振るう悪竜の後継と噂されるランザ=ランテの討伐。それこそがこの老体の最後の奉公であると考えていた。

 

 人々は、特に苦しい現状が続く帝国は士気高揚の為プロパガンダの意味も含め悪竜ジークリンデの討伐を褒め称えた公表するもあの仕事は目的の半分も達成できていないのが現実だ。あの悪竜に後継者ができるとは考えていなかった、ランザ=ランテを討ち取れないまま引かざるをえなかったのは痛恨の極みであった。

 

 北部の対帝国戦線で脅威となる、単独で兵器なりえる存在。奴を倒せるのは我々だけと掛け合うものの許可がおりることはない。

 

 周囲からは、片腕を失い息子の復讐を未だ果たせぬ老人の面倒な執念と煙たがられている節さえある。大きく間違ってはいない為否定はできないがなにもそれだけではない。

 

 竜が帝国と敵対している。敵勢力の旗印となり、一部勢力のみとは北部の精神的主柱になりつつある。敵の心を支える希望は、早くにへし折らなければならないというのに。

 

 帝国で英雄ともてはやされようが、立場だけで言えば一部隊の隊長であり政治的権力は脆いものである。そしてなにより、奴等は帝都死守を建前に竜狩り隊を飼い殺しにする方針を固めているようであった。確かに、次敗北するようなことがあれば帝国軍の士気は大きく落ちるだろう。だが勝てば良い、新たな竜を討ち取ったとなれば士気は向上し北部の戦乱地域は瓦解するだろう。してみせる。

 

 城内から見える景色。戦争の影響で復興が停滞している区画を見て拳を握りしめる。帝都事変、原因の一端は息子の軽挙さと愚かさが原因であり、それ故の光景とも言える。それを見る度に、後継ぎを無くす悔しさと犠牲者に対する申し訳なさ。そして無念さが胸中を支配した。

 

 いったい我々は、なにをしているのだろうか。

 

 「お戻りになりましたか、隊長」

 

 兵舎につくと、臨戦態勢で常に待機している部下達に出迎えられる。政治局や財務を無視した皇帝の懐金にて、鉄馬も装備も充実してきた。戦時中故人的資源の補充はままならないものの、装備に関してはかつて海竜と戦った時のように充実している。

 

 だがしかし、やることと言えば敵の来ない帝都の空を護るのみだ。すっかりと癖になってしまった歯痒さを感じながら執務室に入り、かつての私、そして息子が座っていた椅子に背を降ろした。

 

 「失礼します」

 

 部下の一人が、気を利かせ湯気の立つコーヒーを運んで来た。ミルクも砂糖もない黒鉛を溶かしたような黒色が、テーブルに置かれる振動で小さく波打つ。一口呑んで、戻す。味に僅かに違和感。

 

 「何時もの豆じゃないね?」

 

 「申し訳ありません。本日からしばらく、代用豆を使用しています」

 

 「制海権の問題か?」

 

 大陸西方。リスム自治州の周辺の帝国軍と連合王国軍は膠着状態になっているが海洋上では激しい海戦が行われていた。西と東から来る同盟軍の海軍の対応に追われ、海上巡視や海上警備がおなざりとなり民間の商船等の海上被害が増えていると聞く。

 

 お気に入りの豆は南方大陸から仕入れているものであり、つい最近商船団が無法者に襲われ品物が鹵獲されたと聞く。また、大型の海洋生物が血や遺体の臭いに引き寄せられ近海に出没し始めたとの情報がある。

 

 海竜程の脅威ではないであろう。しかし、リスム自治州のベテラン捕鯨員が執筆し帝国で大ヒットとなった、化物鯨との闘いを描いた『白鯨』のようにまだまだ海には謎と危険が残されている。未だ海上封鎖のような危機的な危険ではないものの、真綿で首を絞めるように、海上の不穏は帝国の経済を締め付けつつあった。

 

 「しかしよく気づきましたね。舌が肥えた者でも、味の違いが分からないと言われる品種ですが。恥ずかしながら自分には、違いが分かりませんでした」

 

 「何年も同じものを飲んでいたからね」

 

 杯をテーブルに戻す。再度黒色の液体が波打った。

 

 「よく似ているが、やはり違う。あまりコーヒーの豆に煩い方ではないが、何年も飲みなれたものと別種ではやはり味の違いがあることには気が付くよ」

 

 机の上には報告書が並んでいた。戦地から届く最新情報。特に北の地からの情報を重視して集めた情報収集の結果が積み上げられている。

 

 報告書を一瞥して、頭を抱えたくなる気分に襲われる。自分に左腕が残っていれば、間違いなく抱えていたところだった。

 

 「宗教家の力を借りる等、情けない話だ」

 

 事態は公になってはいないが、件の帝都事変では奴等が関与されていた可能性が浮上している。人手不足から調査は遅々として進んではいないが、息子は奴等を見張る為の人員を張っていたという話もある。なにかと黒い噂のある組織だが、某大物議員を後ろ盾につけ上手いこと追及を退けている。

 

 そして奴らの義勇兵である宗教的な民兵部隊は強力かつ、リスム自治州の治安維持に一役買っている。猫の手も借りたい現状、使い潰しも可能な組織を下手に失う訳にはいかないという事情もある。

 

 「嫌な予感がするな」

 

 「それは、北部戦線の話ですか?」

 

 「それもあるが、この手の組織は増長すると厄介だ。我々信仰を広める為のトラブルや他宗教との衝突の事件もあるという。教義の広め方も金に糸目を付けぬような強引なものも多い。本来宗教観というのは生活の一側面にすぎず、個人の心持ちにおける癒しと手助けになれば良い。社会的弱者に対するセーフティーネットとなる社会的意義となる一面もある。だがしかし、聖職となる者を除けば個人の価値観や生活を潰してまでのめるこむようなものではない。それは、狂信だ」

 

 かつて連合王国が宗教的価値観、或いはアニミズムという自然崇拝的な原始宗教まで一切を禁止してそれは数百年単位で長い間続いたと言われている。今では宗教弾圧等は行わないようだが政治的配慮も無ければ援助もなかいそうだ。

 

 いったい過去になにがあったのかは誰にも知られていない。連合王国は、黒歴史として過去の宗教関連の記録を封印、或いは燃やしてしまっている。真実を知るのは歴代の総帥とその周辺の人間のみと言われているが真偽の程はどうなのだろうか。

 

 コーヒーの杯に手を伸ばす。指先が持ちてを掴み喉に熱い液体を流し込み、戻す。濃い香りと鼻腔を、酸味が喉元を潤した。

 

 しかし、味の違いは分かるもののこれはこれで良いものだ。指摘しておいてなんだが、本当に代用豆なのだろうかと疑いたくなってくる程の味わいだ。杯が置かれ、再度黒い水面が波打つ。

 

 「これはどこの豆かな?」

 

 「はい。お恥ずかしながら、私の実家で栽培した豆です。ディノ商会に卸しております」

 

 「君の実家というと、確か南方大陸に居を移したバーノン家だったね。南方大陸での気候を活かした商品開発を命じられているという」

 

 「覚えていてくださいましたか」

 

 隊員一人一人の経歴と戦歴は頭に入っている。息子が集めた二線級達のこともプロフィールは頭の中に叩きこんでいた。竜狩り隊の強みは、貴族だろうが平民だろうが平等かつ厳しい適性検査で選び抜き、正気ではないと陰口を叩かれる訓練によって選び抜かれた精鋭達だ。一人一人、把握することなど造作もない。

 

 彼はまだ若いが、まだ青年期と少年期の境目のような年齢において血反吐を吐くと言われる古い竜狩り隊の採用試験に合格した当時の最年少隊員だった。その槍捌きは、もう一つの精鋭部隊である皇帝直属の近衛兵団との模擬試合においても遺憾なく発揮していた。

 

 「これだけ美味しいのに、代用豆扱いなのは不思議なものだね。なにかあったのかい?」

 

 「はい。隊長の愛飲する豆は高級品として市場に出ておりますが、別の品として出す筈のこの豆を名前を偽り偽物として市場にだしてしまった不届き者がおりました。悪事がバレてしまってからは偽商品のレッテルを貼られなかなか在庫を捌くことができず困り果てていましたが、似た味わいがこの戦中において日の目を浴びたのです。今では人気商品として、飛ぶように売れております。不謹慎ですが、独立した品種として改良したこの豆が日の目にあたり少し嬉しい気持ちでもあるのです。家族と現地の方々の苦労が報われたと」

 

 南方大陸では、現地の住民を抑えつけるような者達が多いと聞くが彼の実家は雇用主と雇用人という間柄を厳守している。儲けも少なくなるだろうに、見る者が見ればお人よしと言われてしまうだろう。だが、その家の教えが根底となり、彼を誠実な騎士へと成長させてくれた。

 

 「人気商品となるのだな。それは大変だ、今すぐディノ商会に大量に発注をかけたいものだね」

 

 他愛のない会話をしながらコーヒーの杯に目を落とす。違和感。

 

 「はい、ガルシア将軍からの注文であれば私達の家族も喜ぶで」

 

 「退避するぞ!建物の外へ出ろ!」

 

 こちらの声に反応し、彼が年相応の若者から竜狩り隊の顔へと変わる。窓から飛び出し、着地。ガラスが割れる音に周囲の者が反応しすぐさま臨戦態勢に移行する。

 

 「鉄馬用意!第一種警戒態勢に移れ!」

 

 敵襲による警報もない。周囲に変わった様子もない。だがしかし、待機していた竜狩り隊の動きは速かった。元々北部に張り付いき、悪竜ジークリンデ討伐後戻された部隊。そして、息子が先発した者達の生き残り達。前線に出られない代わりに訓練の時間は大量にあった為誰もが素早く危機行動の対応を始める。

 

 だがしかし、危機はそれを上回る勢いで訪れた。

 

 違和感を感じたのはコーヒーの杯。視線を向けた瞬間に気が付いた。置いてからしばらく時間が経っていたというのに、極僅かではあるが何時までも水面が海岸における波のように揺れていた。

 

 指示を出してからほんの数秒後、大地が脈動した。まるで巨大な生物が、地の底から地面を無造作に叩きつけたかのような衝撃が揺れとなり帝都を揺らした。体幹を鍛えていないものならな、立ってられない程の衝撃。夜の暗闇のなか、物が落ちる音や瓦が落ちて割れる音が響いた。

 

 最初の揺れから数秒後、連続した揺れが帝都を襲った。訓練を積んだ者ですらなにかに捕まらなければ立っていられないような大きな揺れ。帝都のあちこちで建物が崩れる大きな音や悲鳴が聞こえ始めるが、それよりもうなり声のような大地の咆哮が耳をつんざくように響いていた。

 

 「隊長!鉄馬の用意ができました!」

 

 「合図を待つな!装備も良い!各自即浮遊せよ!」

 

 それでも竜狩り隊はなおも動く。地面が揺れ動く中支えられた鉄馬に乗り込み内部の魔具を起動。揺れる地面から何名かが浮かび上がった瞬間、天変地異がおきた。まるで地面が荒れ狂う海原のように隆起と沈殿を繰り返し始める。建物の類は軒並み崩壊し、先程までいた竜狩り隊の本部や丈夫に造られた兵器庫もひしゃげて崩壊する。何名かが巻き込まれ、悲鳴が響いた。

 

 崩落に巻き込まれなかった者達もいたが、とてもではないが鉄馬に乗れず起動もできない。鍛えられた精鋭といえど、立つどころが地面に這いつくばるのが精一杯の有様となった。

 

 何時までも収まらない揺れ。不動であった地面の脈動という天変地異が続くなか、空が夕焼け色に染まった。光源の方向を探ると、帝都から離れた山脈が火を噴いていた。

 

 「あれは、火山ではないぞ」

 

 空に飛ぶことができた誰かが言った。休火山どころではない。標高は高いだけのなんの変哲のない山だというのに、山頂が割れ炎が舞い上がっていた。山頂から溢れた炎と溶岩が流れて来る。高温により炙られ焼けた木々が火をあげ、鳥達が飛び立つのが見えた。

 

 あそこの山と周辺の木々は皇帝や貴族達の古い遊びである狩猟の場であった。伝統である鷹狩り、狐狩りは廃れていったものの王侯や貴族の土地であることには変わらない。なので管理をする山番と森番が今も常駐しており、季節となれば山菜取りや狩りの場として一般市民に提供をしていた。

 

 生い茂る木々が燃え始め炭化していく。獣たちが逃げまどい、小さな小川が土砂で埋め尽くされていた。地獄が現世に再現された、と考えるのは少し気が早かった。山頂が巨大な音と共に砕けて爆散、天高くまで溶岩と噴石が舞い上がり、巨大な岩石が空に舞い上がる。

 

 遥か昔、空から振ってきたという巨大な岩石が推力を失い、重力に従う。流星となった噴石が未だ揺れる帝都に降り注ぐ。

 

 「退避!」

 

 叫ぶ声が聞こえる。鉄馬を急稼働、落ちて来る巨大な岩石を避け、轟音と共に地面が抉れていく。まだ揺れが収まらないというのに、広大な帝都が的あての的のように降り注ぐ。

 

 「陛下をお救いする!ついてこれる者はついて来い!」

 

 これは、まずい。精鋭でも立っていられないような揺れだ、天変地異がおきたとしても、皇帝陛下を助けられる者はいない。

 

 地面からバキバキ、という音が響いた。大通りに巨大な裂けめが出現している。避けた皮膚から血液が溢れるように、ドプリと赤黒い液体が溢れ出す。帝国市民が知る訳もないが、かつてボンペイを襲った火竜のランドルフの怒りが再度顕現したかのようだった。

 

 だがそれを見たガスパルは、背中に大量に汗をかいた。一瞬、ほんの刹那程の間であったが噴出する液体が大口を開けた竜の顎に見えた。海竜リヴァイアサンの、悪竜ジークリンデの、そして出会ったことはない、火竜ランドルフの顎を想像してしまった。

 

 溶岩は形が崩れ噴き出し、帝都に降り注ぐ。雨となる溶岩流に家屋が燃やされ、人々の苦痛な悲鳴が帝都中に轟いた。かつてのボンペイの惨劇が、帝都で同じように繰り返されていた。

 

 「地獄か、ここは」

 

 阿鼻叫喚と化した都市を真下に城に向けて全速力で飛ぶ。限界を超える推力が機関を痛めつけるが気にしていられない。可能な限り全力で進む。帝都はもう壊滅と同じだ、だが皇帝陛下が生きてさえいれば帝国はまだやり直せる。

 

 「隊長!アレを!」

 

 巨大な複数の噴石が降り注ぐ。直撃するのは、陛下のおられる皇都。生存者は、絶望的な状況だ。

 

 「何故、なにがおこれば、このようなことになる」

 

 複数の噴石が皇都を砕く。巨大な大穴が直撃し、主塔が崩壊する。バラバラになった瓦礫が降り注ぎ、自重で崩壊するように崩れていく。絶望的な光景が、目の前に広がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、大陸は巨大な災害に見舞われた。

 

 北部地帯、霊山より始まった天変地異は北部の国であるオルレント自治州、連合王国から帝国に寝返ったアレト共和国、そして北部最大の勢力である後アブソリエル公国が壊滅に追い込まれる。

 

 帝国北部にも甚大な被害が出たが、まるで更なる犠牲を求めるように災禍は南下していく。帝都を中心にするように地面は荒れ狂い、火山でも休火山でもない山々が一斉に噴火をした。大地が荒れたことが原因となり水脈が崩壊、各地で水害がおこり汚染された水が飲料に適さなくなる。

 

 帝国第三都市イルドガルでは、この水害に対して先人が残した地下通路のおかげで大きな被害を免れるが自揺れの余波もあり建造物に大きな被害が残る。

 

 地揺れ、水害、噴火の災害にて帝国は甚大なダメージを受けたが、生き残った者達が待っていたのは飢餓による地獄であった。

 

 大量の山脈が噴火したことにより、尋常ではない量の火山灰が太陽を覆いつくす。

 

 降り積もる灰色の雪。それは冬を越え春が訪れても終わらない。頻度は減っていったとはいえ、火山と呼ばれる本来噴火をする山々が断続的に火を噴いたことにより火山灰は収まらず、田畑は全滅し家畜は食い尽くされ、動物は痩せほとり植物は枯れていった。

 

 食うに困る者達により野党の集団が形成され治安は荒れる。しかし、皇帝以下貴族達や国政に携わっていた役人達が帝都にて死亡、もしくは行方不明となっていき対応できず、各地で地方貴族や有力者による軍閥がおこり国が割れていった。

 

 そうなった帝国に継戦能力はなく、政治的中枢もさだまらない為独自に連合王国や近隣の敵対国に降伏する勢力がおこり、そうでない者達も水と食料を求め争いが過激化していった。

 

 現在の帝国を占拠しても無意味。なによりも国境に押し寄せる難民の対処に各勢力が苦労をする為、連合王国を始めとした同盟勢力は会議の末停戦を表明する。未曽有の危機と被害は帝国のみに収まらず、北部以外の各国も影響があったことも大きい。

 

 そして帝国が崩壊したことにより、南方大陸の植民地勢力が独立を表明。南からの食糧や資源も経たれ、生き残りの帝国民達の飢餓は増していく。

 

 停戦協定が行われてから、更に一年が経過する。人々の怨嗟が蔓延る分裂した帝国領で、おかしな噂がまことしやかに囁かれた。

 

 それは、奇怪な人外な化物の噂。それは、神の奇跡の噂。縋る者なき絶望の土地に、二つの変化が起こり始めていた。



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 両肩にかける鞄から溢れる紙に包まれた焼き立てのパンと香ばしいベーコンの匂い。もう夜も遅い時間だということで、ボチボチ家にでも帰ろうと考える通行人も傍らを通り過ぎた美味しそうな香りについつい首を傾けそちらの方に振り向いた。

 

 しかし匂いの発生源は既に遥か後方に流れていた。深夜の暗闇のなか、雑踏の気配と大量の松明に照らされた明かりが増えてくる。

 

 リスム自治州経済特別区東南。元々ハーウェンの縄張りであったが、主な収入源であった薬物の流通ルートが途絶え弱体化。そして、時折顔を見せていたハーウェンの魔女、又は蛇使いと呼ばれていたカナリア=ウェリアが失踪。跡目争いが勃発し混乱した組織は壊滅する。

 

 元々この島は裏稼業の間で三つ巴状態になっていたが、ハーウェンが占めていた土地の大部分とカジノ等の収益と権利をレガリアが、流出した武闘派の人材や違法品の輸入ルート、闘技場の利権をデラウェアが牛耳ることにより事実上ハーウェンは消滅する。

 

 デラウェアの組織にいた主要メンバーは元々逃亡した奴隷剣闘士達。リスム地下迷宮の入口を一つ違法に抑えている強みと闘技場の利権を手にし、虐げられた者達の復讐は部分的にではあるが遂げられた。

 

 少数精鋭を軸にした組織の為、市場やリゾート地区、カジノに海運等多角的に経営をするレガリアの土地と利権を奪取することには興味を見せなかった。彼等は元は虐げられた者達、下の立場を作り搾取されることを嫌った。冬の到来時期に二つの組織の長が会合、相互利益と不利益を確認し天秤の針を動かす駆け引きの結果、和解が成立した。

 

 そしてハーウェンが元々収めていた土地、特に港はとある理由により大規模かつ性急な改修工事が行われた。

 

 坂道を駆け降りる。港に見える光景は夕暮れ前に寄港した大きな捕鯨船と鯨の解体に勤しむ職人達。冒険者ギルドから派遣された日雇い労働者達が拡張されたばかりの港で忙しく働いている。

 

 積み上げられた丸太や木箱、樽や人混みの間を縫うように走る。レースで長年経験してきた障害物への対応がまさかこんなところで活かされるとは思わなかった。下手に荒い腹ペコの人間に捕まれば、商品を強奪されることだってあるのだからこの役目はこれ以上ない適任だと自負していた。

 

 解体されていくクジラ肉に抽出された鯨油の放つ独特の臭いの中を進み、寄港している木造船まで近づいた。解体された鯨は降ろしているが、船の整備員や捕鯨道具のメンテナンスを副職にしている職人達が乗り込み、元からいた船員達は船の清掃に追われていた。

 

 「どうも、フードデリバリーサービスです!」

 

 「来たか。野郎ども、小休止だ!胃の中に詰め込めんでおけ!」

 

 船を掃除していたり、船内で荷の整理をしていた水夫達が集まってくる。鞄を開けた瞬間、群がるように手を突っ込みパンを強奪しようとするがそこは回避。皆腹が減っているのは分かるが、乱暴にされて商売道具のカバンを破かれたり中身が汚れるのは困る。

 

 「一人ずつお願いしまーす」

 

 捕鯨船の船長が注文していた、鶏肉の炙り焼きとレタスにトマトが挟まれた背割りパンが配られていく。声掛け空しく争うように取られていいった為、二つの大きなカバンはあっという間に中身が空になったことで、船長が現れ手間賃とお気持ち代金を頂戴した。

 

 「イド、お前が飯を届けてくれて助かる。早くきてくれて、商品を盗まれるような間抜けでもない。裏稼業同士が協定を結んでも基本的にこの島の治安は悪いから、手癖の悪い連中はいくらでもいるからな」

 

 「捕まったら終わりの仕事をしていたもんで、これくらいは楽勝ですよ。むしろ、大変なのは皆さんの方ですから」

 

 「ああ、違いねぇ。戦争を抜きにしてもリスムは、すっかりと変わり果てちまった」

 

 イルドガルでメルキオル商会の言いなりとなってレースをしていた僕は、奇妙な道連れと共に旅に出た。

だけどそれと同時期に、各地で世界は大きく変動していた。帝都を襲った悪竜と巨大四足獣の争った帝都事変。北方で反乱軍の討伐と帝国軍の撤退。リスムで行われた住民投票で多数の死傷者がでた血の投票事件。

 

 僕と連れがリスムに来たのはその住民投票が終わった後くらいの頃合いだった。元々仲が悪かった帝国と連合王国が急速に冷え込み、遂に戦争まで始まった。元々僕と連れは連合王国を目指していたのだけど、こうなってしまえば行先も無くなりこうして経済特別区に身を置いている。

 

 リスムは混沌としていた。帝国派と連合王国派で住民達は殺気立っており、政権の権威が揺らいだことで次の選挙を待つ処か帝国派の前市長が帝国に亡命し、エンパス教とかいう新興宗教が政治的空白と不安の隙を縫うように信者を増やしていった。

 

 船長の言う通り、こうして戦争まで起きて、世界は変わり果てたのだろう。旧グロルダール公国壊滅やダイヤモンド問題等、僕にとっては天変地異レベルの大事だったけど世界から見ればほんの些事であったのかもしれない。何度も耳に届いて来る、世界大戦という言葉が事の重大さを嫌でも理解させられる。

 

 世界がこの先どうなるかなんて想像もつかないけど、考えるのは助けてくれた人達のこと。帝都に向かったランザさんやクーラさん、いつの間にか何処かに消えていたジークリンデさんは大丈夫だろうか。戦火がイルドガルまで届くのはあまり考えられないけど、レース仲間はこの先大丈夫か。

 

 「そうだ、どうぞ」

 

 そういえば、預かり物があった。彼が馴染みにしている自治州本土にある酒場の店主からの預かり物。瓶の内部に琥珀色の液体が揺れる高級そうな酒瓶には、船長の名前の札が紐で巻き付けてあった。瓶に蓋がされていてもアルコール臭が漂ってきそうな、強い酒精だ。

 

 「お前、これは」

 

 「パン屋のウルガンさんのところにいったら、酒屋のバモスさんが待っていまして、配達序に届けてもらうように頼まれました。今捕鯨船はリスム漁港に寄港できない、こちらに寄る暇もないだろうと。それに、エンパス教が酒類の全て廃棄するように動いている節があるようです。目をつけられないうちにと、頼まれました」

 

 リスムはすっかり変わり果てちまった。船長の言葉通り、それは戦争を抜きにしてもそうであるようだ。

 

 かつてのリスム自治州は、巨大な漁港に連日大海から戻った大型の捕鯨船が戻り脳油や鯨油、肉に骨、皮等が解体され一大産業となっていた。だが今は、まるで政治的空白期間の隙を乗っ取るようにエンパス教が幅を利かせ漁港が封鎖されてしまっていた。

 

 表向きの理由は、戦争中の現状あくまで中立を保つ為に両軍の軍艦を寄港させない為にと言われてはいるが、実際問題は捕鯨活動にアンチなエンパス教の締め付け、追い出し政策によるところが大きい。捕鯨船や解体工場には必ず魔具が置かれているのも目を付けられる原因のようだ。

 

 清廉潔白かつ品行方正であれ。多くを欲しがることなかれ。便利は怠惰である。欲を捨て我を捨て奉仕せよ。基本方針がそれである為、大量の富みと食料に雇用を産み出す捕鯨活動はあれこれ槍玉をあげられ潰しにかかられた。

 

 現状リスム自治州をまとめるのは、帝国派でも連合王国派でもないがエンパス教の信者である市長代理である。リスムでおこったという巨人事件以降規模を増やすエンパス教の信者達は、多くの富みは災いを呼ぶと信じ切ってしまっている。巨人事件は、多すぎた富に引き寄せられた悪魔だと本土で喚く人間も見たことがある。世界の終わりが近いからエンパス教にすがろうとも。

 

 僕は鼻で笑いたくなった。多すぎる富は悪魔なんて呼ばない、呼ぶのは怠惰と破滅くらいだと。悪魔のせいにしたら、本物の悪魔には迷惑だろう。だが男の周りには熱心に話を聞く聴衆が集まっていた。どうやら、巨人事件の折彼等は奇跡を見たのだとか。

 

 まあ奇跡とか悪魔はともかく多くの富みが災いを産むという考えは、僕としては間違っているとは思わない。だって旧グロルダール公国はその過剰な富と価値の暴落で崩壊してしまったのだから。だけど、鯨油産業は地元住民が一丸となり雇用を大量に産み出していた。そんなものを締め出してしまう等、考えられない。養豚を廃したグロルダール公国を思い出してしまう。

 

 贅沢は敵だ。嗜好品は贅沢だ。故に敵だの考えが浸透してきたのだろうか。酒屋を経営していると言っていたバモスさんの顔色は悪かった。噂では、改宗と嫌がらせが続いていると言われていた。近いうち、店を畳み経済特別区に居を移そうかとも。

 

 ここ経済特別区は、エンパス教の強引な教えに反発する人間が流入していた。あまり詳しくないけど、どうやらこの島の成り立ちは特殊であるらしい。そして、巨人事件の被害を受けていなければ、裏組織が牛耳る為にあれもするなこれもするなのエンパス教とは致命的に相性が悪い。

 

 レガリアとデラウェアの協定内容には、エンパス教をこの島には入れないことを基本方針として合意したというのも住民達には有名な話だ。布教にやってきた物が、この島の入口である市場で石を投げられるのも珍しい話ではない。

 

 「想像していたが、バモスの親父も苦労していやがるんだな。クソ、儲けるのもダメ、酒もダメ、連中はなにを人生の軸にして生きていけってんだ。レガリアの首領、ガルデの旦那には感謝だな。俺達から捕鯨を奪ったら、行き場所の無いろくでなししか残らねえ」

 

 瓶の蓋を開けて、船長は酒を煽った。同じにしてはいけないだろうが、気持ちは分かる。僕としても仮にパルークーレースが理不尽に潰されるようなことがあれば面白くはない。商会の思惑で使われていたとはいえ、あの競技を僕は本当に愛しているのだから。そして当時の僕にはそれしかなかった。それが奪われたら、僕自身の価値はなにが残るのだろうか。

 

 こうして経済特別区で捕鯨船を受け入れているのは、島で増えた人口の食糧問題を解決する為でもあるが、船乗り達の苦境を見捨てることができなかったのだろうとある人物は予想をしていた。多分、間違ってはいないのだろうと思う。

 

 「俺からだ、受け取れ」

 

 金貨と銀貨を一枚ずつ親指で弾かれる。お気持ち代金としては、あまりにも高価だ。

 

 「多すぎますよ。それに、バモスさんから代金はいただいています」

 

 「久しぶりにこの味を飲みたかった。だから良いんだ、バモスの親父には会いにいけないしな」

 

 捕鯨船の船員は、穢れが染みついていると自治州に入ることはできない。厳密に禁止されてはいないのだが、目が血走った熱心すぎる信者共に迫害されている。エンパス教に入信することこそ穢れを拭う方法だそうだが、そんなことをしたら船から降りることになる。

 

 本土には家族や恋人がいる。美味い酒や馴染みの料理屋がある。そんな日常には、捕鯨船の者達は戻れない。経済特別区で彼等を受け入れても、元の日常とは既に違う。

 

 「銀貨はもらっておいてくれ。そしてもしバモスの親父にあったら、その金貨を一枚を渡せ。これだけの高級酒を律儀に届けてくれたお前だ、信用できる」

 

 「僕が盗んでもしょうがないだけです。酒の良し悪しなんて分からないだけですよ。ですが、お得意様の為ですし偶にはフード以外のデリバリーを承っても良いとは思ってます。銀貨一枚でその依頼を引き受ける。業務外故に代金はお高くなりましたがよろしいですか?」

 

 こちらの返しに、船長は軽く笑いながら頷いた。パンを食べ終わった船員が作業に戻り始めた為、邪魔にならないように船を飛び降りて退散する。樽や木箱の上を飛び移り、大きく跳ねて物置小屋の屋根に着地。大量のパンがなくなったため、揺れや重さを気にせず人混みを避けられる最短ルートを行く。

 

 美味しそうなパンの匂いを嗅ぎながら働いていたらこちらも腹が空いた。経済特別区は眠らない島だ。炭鉱の街のように二十四時間なにかしらの店が開いており、食べるのも困らない。本当は今の下宿先に帰れば頼まなくても夕食を恵んでくれるのだけどあまり借りは作りたくない。

 

 寒くなってきたのに汗をかいた。温かくて、塩気が効いたものが良いな。モスコーという町から酪農製品が届いていた頃は牛乳を使ったシチューというものが美味しいと聞いたことがあるけれど、戦時中にそれは見込めない。取り合えず、塩漬けの鰊が浮いたスープと黒パンか平パンでも食べれれば良いかな。

 

 経済特別区では珍しくなんの変哲もない住宅地に辿り着く。夜も遅くだが、最近は鯨油や鯨肉に関する仕事も多く起きている人間が多い。顔見知りになった人達と軽く挨拶を交わしながら食事処に向かおうとしていた時、その声が聞こえた。

 

 「さぁ張った張った!まだの奴はスパッと決めちまえい!」

 

 町の角から聞き馴染みのある声が聞こえた。思わず渋い顔になるのが分かる。胃が少し痛くなり、食欲も消えた。

 

 声の方向を見ると、地面の上にゴザと呼ばれる極東のイ草と呼ばれる植物を編み込んで作られた敷物が敷かれていた。五、六人の男が集まり円陣を組むように座っており上座に胡坐をかく東邦人を眺めている。

 

 黒髪の中年男は、三本指でサイコロを掴み陶器の器に放り込む。周囲から丁だの半だのという声が溢れ、出揃ったところで杯をあげた。

 

 「シソウの半!」

 

 サイコロは三と四の数字が出ていた。丁が多かった博徒達から掛け金を巻き上げていく。ホクホク顔の中年男、イシカワは巻き上げた金を数えて次の勝負と言わんばかりのタイミングで目が合った。

 

 「ア~ン~タ~は~!」

 

 「うおおイドォ!いやこれには深い訳が」

 

 「良いからさっさと戻るぞ!サボりやがって!また借金増えるだろうがこの穀潰しがぁ!エレミヤにまた付け込まれるぞ!」

 

 「いやあ、あんなべっぴんなら多少付け込まれた方がそそるものが」

 

 「いいから立つ!色ボケ忍者!」

 

 耳を摘ままれ中年男、イシカワが渋い顔で立ち上がった。突然の中断となったが、博徒達も渋い顔をしながらもエレミヤの名前が出てしまえば引かざるえない。

 

 義賊と言うのは巨悪がいなければこうも役に立たないものか。経済特別区で足止めを喰らい、僕はフードデリバリーで日銭を稼ぎ始めた。イルドガルで出会ったというか、付いて来た旅の連れ合いことイシカワは俺も稼ぎぶちを探すと言い単独で行動をしたが、なにをどう間違えたのかエレミヤの高級娼館にて稼ぎ処か借金まで拵えてしまった。

 

 エレミヤからは、借金で型にはめイシカワを従業員に引き入れたいようであり今は住み込みで働くことになっている。なんでも、男性従業員は素手で経済特別区でおこるトラブルに対応する素質が必要らしく、性格はともかくその特異な技量は娼館主のエレミヤにいたく気に入られたようであった。

 

 取り合えず、借金を返済されるまで住み込みで働くことになり、僕も下宿先として住まわせてくれるようになった。僕が半獣だということがバレた時、灰色髪の猫の半獣を思い出すと彼女は笑った。それがクーラさんだと僕が気が付き、ランザさん達という共通の知人を持つ奇妙な縁があった為である。

 

 部屋を無償で提供してくれるという好意は願っても無い為ありがたく受けているが、隙あらば僕ですら彼女は勧誘しようとした。殴り合いやトラブル解決等専門外も良いところなので断り続けているが、いざ戦争が終結し連合王国に行こうとしてもイシカワが借金まみれで縛られていてはどうしようもない。

 

 「まったくイド。大きく博打で稼いで返済しようという心持ちが何故分からん。頭が固いぞお前」

 

 「そう言って、この前大負けして泣きついてきたのはどこのどいつだよ。極東人は真面目だって聞いたことがあるけど、アンタの様子を見ると怪しいもんだね。そういえばだけど、忍者なら忍術とかいうのでも使えばサイコロの出目くらい弄れるだろ。なんで素寒貧になることがあるんだよ」

 

 「博打とは、己の才覚と運に頼る真剣勝負。小細工を挟むなど愚行よ。まあ、相手が仕掛けて来るようであればそれを利用して打ち負かすくらいのことはするがね」

 

 「どーでも良いよ、アンタの博打論なんて。とにかく、今は雇い主に借金返すことだけを考えてよ。謙虚に生きろ、謙虚に」

 

 娼館の多く集まる歓楽街に辿り着く。最初のうちは誘惑されたり営業に声をかけられたものであるが、生活が長くなれば顔見知りもでき軽い挨拶程度かわされる程度に終わる。営業はともかく、誘われなくなったのはちょっと寂しいような気がするがスムーズに帰れるのは良いことか。

 

 「なんだイド、お姉さま方に声をかけられなくなって寂しいか?ん?」

 

 「いや、お前なに言ってんだよ」

 

 「いやいや、男の子だもんなぁ。こう、周りが華やかで煌びやかではさぞ誘惑も多いだろうよ。そろそろ資金も溜まっただろう?手軽なところで一発やってきても良いんじゃないかぁ?ん?」

 

 背中をバンッと叩かれた。確かにここで足止めをくらっているうちに、旅の資金以上に金銭も溜まりつつあった。経済特別区の人気観光地であるこの娼館通りであるが、エンパス教のせいで禁欲が本土で広がり客足が遠のきつつあるという。今なら相手を選び放題とも何度も声をかけられた。

 

 「いや、でもお前それ。僕はそういう相手は」

 

 「ちゃんと好きになった同士でやりたいと?甘い!まこと甘いぞイド!いざ寝屋で行為を及ぶ際に男の貴様がちゃんと相手をリードできなくてどうする!作法もなにも分からぬままオロオロしては、男児として情けないと幻滅されること間違いなし!いっそプロの手解きを受け一皮剥けてこそではないか!?どうだんだ!」

 

 「ええい喧しい!一皮むける処か女で借金作って全部剥かれたアンタになんで言われなくちゃならないんだよ!」

 

 「フハハ!上手いことを言うなイド!だがそれも人生経験よ!走ることしか知らない初心な少年では何時までもいられないぞ?男になれ男に!」

 

 イシカワの尻を蹴っておくこの男は、飲む打つ買うの三コンボを決めた上にこういうところまでどうしようもないのだから。

 

 本当はいざとなればイシカワを放り出しても良い。下宿を借りているとはいえ、無償でいいとは言うが家賃を僕は支払っているし、離れられるのも簡単だ。だけどまあ、一人でいる時間がやや長すぎた。こんな騒がしいおっさんでも、いなければいないで余計なことばかり考えてしまいそうだ。

 

 僕は連合王国を目指している。あの国では半獣に対する差別意識が薄く、実力至上主義だと言われている。だけど、まったく知らない土地で生計を立てることができるのか。本当に働き口はあるのか。働き口があったとしても、グロルダール公国にいた頃のように理不尽な理由で仕事がなくならないか。再度奴隷に落ちてしまえば、今度は独力で這い上がれるか。

 

 不安ばかりが頭に浮かんでしまう。だが、何時も陽気なこのおっさんに合わせていれば、そんな不安な毎日が少しでも軽減されることもまた確かだ。恋愛面まで口出しされるのは面倒なことこの上ないが。

 

 「お帰り。お仕事お疲れ様、イド君。イシカワは、どこをほっつき歩いていたのかな?」

 

 娼館通りの最奥。迎賓館のような館の前庭のベンチにエレミヤは座っていた。傍らには小さな丸テーブルを置き、紅茶が湯気を立てている。エルフ特有のドキリとするような美貌。夜会用のドレスから除く白い陶器のような脚の脚線美がなまめかしい。

 

 傍らには護衛として、警備主任さんが執事服で控えていた。やや表情が堅い好青年に見えるが、その指先は太く歪に変異している。イシカワ曰く、あれは部位鍛錬の賜物だという話であり彼が本気であれば木材どころか鉄板まで貫けるだろうとも。

 

 警備主任がギロリとイシカワを睨みつけた。対象は僕でないけれど、身が竦む思いだ。傍らのイシカワは軽く手をあげながらなにも気にせず挨拶しているが肝が座りすぎている。

 

 「いやあ。今日は外回りの営業であったと記憶しておってな。なあ警備主任殿!」

 

 「いくら予定帳改ざんしても、新人はまず雑務がやることであると決まっています。あまり舐めないでほしいものですねイシカワ」

 

 冷たい視線とにやついた視線が交差する。もうすっかり目を付けられちゃって、見ているだけで胃が痛くなる思いだ。圧から逃れる為に、視線をエレミヤの方に向ける。

 

 「今日は冷えますよ?何故外に」

 

 「ああ、そうだね。少し空を見ようと思ってさ。なんとなくだけど、こんな奇麗な空も見納めのような気がしてね」

 

 「見納め?」

 

 「なんとなく、昔を思い出すような感覚がしてさ。世界がなにか、決定的に変わってしまうような、そんな予感がね。意外と当たるんだよ?私のこういう勘はね」

 

 世界等もう変わり果てていると皆がいうのに、このうえなにが変わるのか。僕はそう思った。いや、そう思っていた。



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 リスム自治州。睨みあいの絶えない帝国と、連合王国の国境における緩衝地帯として成立した土地であった。列強二国の間で様々な思惑と暗闘が繰り広げられた場所であるが、自治州成立以前の歴史を知る者は今や限られた程である。

 

 現在リスム自治州がある土地は、帝国が群雄割拠をしていた時代モスコーを収めていたウラヌスが統治をしていたと僅かな記録が残っているが、詳細な記録は残されていない。騎馬民族襲来とその後のウラヌス暗殺、政変の影響にて散逸した。

 

 リスムという海沿いの土地には、いったいなにがあったのか。その問いかけに解を示す物があるとしたら、それは古くから存在する地下空間であるとまことしやかにささやかれていた。所謂、リスム地下迷宮と呼ばれている場所だ。

 

 ウラヌス統治下においてそこは、ただの辺境の地であり時折異形や怪物が迷宮から這い出て来る為に危険地帯として荒らされるままにしていた土地であった。ただ、海辺ということもあり塩や海産物が手に入る。特に塩は生活必需品として、比較的安全な土地に兵士と共に市民を住まわせていた村があった。

 

 その村は、大陸を震撼させた騎馬民族の襲来にも無傷であり、逆にモスコー周辺は長い包囲戦の末多大な被害を受けることとなった。当時の攻防戦が後に祭りとなるくらい凄まじいものであったそうだ。結果としては、後に帝国の国父となる初代帝王ギルバードが騎馬民族の西方制圧部隊の主力を壊滅させたことで終戦となった。

 

 戦後の混乱期を経て、海辺の村はモスコーの支配を脱却しリスムの村は塩と海産物の自由売買を始め少しずつ成長していった。時代が進み、大陸が帝国と連合王国の二大巨頭体制となった時、直接衝突により国土の損耗を避ける為緩衝地帯としてリスム自治州が成立した。

 

 両国の思惑があっての自治州。だが、それは二大国と地続きであり未開発の浜辺は大きな港を建てられる。リスム自治州には人が集まり、広がっていった。土地が足りなくなり、急成長に伴う無計画な開拓により昔は禁忌とされた地下迷宮の入口の上にまで住宅地と商業地を広げていた。

 

 人の往来により、それに惹かれた地下に住まう異形達が這い出て来る。最初それらの対処は自治州による警備部隊が対応していたが、近年では警備部隊の経費削減による人員と装備の不足で民間武装組織に委託されていた。

 

 調査の為に人が入ることもあったが基本的には進入禁止とされている。だがしかし、迷宮の広大さから時折地面を掘り不正に侵入口を増やしたり、暇を持て余した怖いもの見たさの若者や武勇伝を作りたい成金が護衛と共に侵入する等事件が多発する為、何時しか帝国に本社を持ちながらも、もっとも信頼を寄せられた民間武装組織である掲げる大盾が管理委任まで受けるようになっていた。

 

 地下迷宮内でおこる異常事態や定期的におこる敵対種の大量発生、不正利用しようとする輩、時折発見される太古の遺物目当てで不法侵入する者達。様々な事態に掲げる大盾は地下迷宮に入るのに自治州政府の認可を必要としなくなっていた。

 

 それを利用したのはレント=キリュウイン。エンパスからの密命を受けた彼は、都合の良い潜伏先を見つけることを命じられていた。大層頭を悩ませた当時掲げる大盾に後ろ盾を使い所属したレントが目をつけたのはそこだった。

 

 掲げる大盾とはいえ、危険すぎる地下迷宮を深部まで探索することはできない。調査をする時でさえ、調査員の安全を第一に尊重する為危険な箇所まで向かうのは極力避けていた。そもそも、平時でさえ多数の事件解決に追われ人手不足気味であった。リスムの地下迷宮の深部開拓等後回しにされていた。

 

 レント=キリュウインは掲げる大盾の権限で地下迷宮に潜っては、スキルを駆使して力づくで階層を踏破していった。物見遊山気分で護衛を引き連れて侵入してきた金持ちに時には手を焼きながらも、難解なエンパスの注文である潜伏先をなんとか見つけることに成功した。

 

 重装甲の女騎士が、蝋燭を片手に歩く。レント=キリュウインが見つけた掲げる大盾や自治州の調査員も知らない新たな階層は、既に敵性種は掃討されており他の区域から這い出るように現れる異形も都度駆逐されていった。

 

 発見当時は人二人程しか通れなかった通路は拡張され、まるで研磨されたように滑らかな地下道となっていた。レントの思惑によりそれなりの数の部屋も用意されていたが、それを利用することはこの先恐らくは訪れない。がらんどうな部屋達を抜けて広い空間に訪れる。

 

 「こちらにおいででしたか」

 

 オルレアン鋼で製造された兜を取る。歴戦の重騎士の顔には僅かながら火傷による火膨れの跡が残っていたが本人は気にする様子はなかった。加護として与えられた絶対防御でも、火竜ランドルフの怒りによる超高温の前では完全に影響を遮断することはできなかったようだ。

 

 カナリア=エルが膝をつき、騎士として最高礼の仕草をとる。広々とした空間の奥には石造りの祭壇が築かれており、半裸に薄布のようなものを纏う男女の石像が飾られていた。レントはそれを見て、まるでギリシャ神話に出て来る神々のようだと漏らしていたのをカナリアは思い出す。

 

 ギリシャという国はよく分からない。だがしかし、地形的にこの大陸は彼が元いたという世界の西欧という場所に酷似しているとレントは語っていた。無論まったく同じ訳でもないようだが、東邦二十六国はともかく極東の島々が彼の故郷によく似ているとも。

 

 もっとも認知もできない異世界の存在等興味もないうえ、奴はもう終わった存在だ。エンパス教の為、その異界の知識を充分に駆使させてもらったが、エンパス教の救いの道に疑いを持つ時点で用済みという訳だ。

 

 エンパス様が何故異界から人間を呼び寄せ続けてきたのか。別に、レントが初めての異世界人という訳ではない。この世界の住民と異界の住民とは思考の差異というものがあり、時には未来の世界にあるような知識や行動を求められることはある。それは良い面にも作用すれば悪い面にも作用する。

 

 連合王国との闘争で、モノクロの眼鏡をかけた皮肉な笑みを浮かべていた男を思い出す。異界の者を指定外来種だと、彼は公言したそうであるが恐らくその言葉も現代ではまだ存在していない言葉なのだろう。

 

 なんにせよ、使い終わった道具は無用の長物という訳か。エンパス様に忠誠をと信仰を持つならともかく、性にただれ何処か自暴自棄な面まで持つような男は必要ない。エンパス様に、疑いを持つなら尚更だ。

 

 「火竜ランドルフ。流石は伝説に残る竜です。予想はついていたものの、彼がおこした災害は凄まじいの一言ですね。竜は自然の化身と太古の存在は思ったそうですが、納得できるものがあります」

 

 ランドルフが抑えていた災厄は、北部地帯を壊滅させた。災害は連鎖的に広がり帝都を蹂躙し、南へと速度を上げて広がっていく。

 

 「レントが用意した手駒。信仰心に目覚めた神殿騎士達。我等の戦力は尽く散逸しました。始まりの竜たる火竜の一手一動、それは悪竜や水竜に地竜、今や唯一の生き残りである天竜と比べても強大なものであったでしょう」

 

 祭壇に祈りを捧げていたエンパスは、祈りの構えを解く。振り向いた顔には、喜悦。

 

 「実に都合が良い。その破壊力、殲滅力のお陰で信者達は信仰に陰りなく、苦しむ暇すらなく葬られました。私とて、多数の者を長時間操る等至難。お陰で信仰の御霊は無事我等の目的を助ける聖光となるでしょう」

 

 エンパスが左腕を軽く古い、手のひらを上に向けた。手のひらから白い光のようなものが溢れ、傾けることでそれを口内へと流す。喉が嚥下するように蠢き、光が取り込まれていった。吸収された魂の輝きに満足するように、エンパスは微笑む。

 

 「では、ついに始めるのですか?」

 

 「ええ。魂というものは鮮度があります。ですが、過度な栄養が毒であるように、個人の器に大容量を保管し続けることもできない。大量の信仰が必要であるにも限らずに、大量消費や信仰心に彩られた魂の保管は困難です。保管場所すら吟味する必要がある。長年この問題を解決できずにいましたが」

 

 エンパスが指を弾く。祭壇が左右に割れるように動き、その向こう側にある物が姿を現す。

 

 それは、まるで城塞都市の城門のようであった。彫刻すら施されていない味気ないシンプルな巨大門。しかし、この世ならざる一点の穢れなき純白の真珠のような白さであり、神々しすぎて美しいというよりも何処か不気味な雰囲気を醸し出している。

 

 レントが見たら、見覚えのない門に困惑するであろう。エンパスが呼び出したこれは、元々ここにはなかったものである。ただ無機質な岩肌が作られているだけだった場所であった筈だと、彼は言うだろう。

 

 純白の門の表面には異質な不純物が巻き付けられていた。鈍色の輝き、錆色の貪色、黄金の輝き、いぶした銀の光沢、そして夜闇のような黒色。左右を鋲で打ち付けられた様々な鎖が門を封じており、外部からの侵入者を抑えているようであった。

 

 二本の白色の紐が天井から伸びる。無骨な鎖とは違いそれは絹のように滑らかな見た目をしていたが、それはピンと重力に従うように張りつめていた。紐の終点には、まるで村娘の格好をしたような女性が気を失っていた。首を力なく傾け、柔らかく巻かれた手首は血が滲み青白く変色してしまっている。

 

 「レントは、良い見つけものをしてくれました。いざという時はこの身を使う予定ではありましたが、この器さえあれば、壊すことなく信仰を消費しつつ、更なる必要量を溜め込むことも容易です。この発見はまさに、天の意思、啓示という他ないでしょう」

 

 女性は腰からは銀色の尻尾が伸びていた。頭から伸びる狐に見られる耳もダラリと下がっている。レントが見つけて来て、飼っていた人妖。ランザ=ランテと深く関わりがある人妖であるそうだが、詳しい背景等知りえたところで意味はない。

 

 「北で拡散した災厄は、力を弱めつつも南部まで到達しようとしています。更なる信仰心を民草から受ける為に、奇跡をおこしましょう。私如きでは主神の皆様のような神秘をおこせませんが、条件さえ揃えば二十七柱の皆様のお力には近づけます」

 

 エンパスが人妖に向けて手のひらを向ける。白色の信仰心と捧げられた魂が放たれ、レントのペットに吸収されていった。

 

 身体がガクガクと痙攣し、気を失っていたにも関わらず口からは声にならない悲鳴が溢れる。苦痛で意識が滅茶苦茶に飛んでいるのか、スカートの間から黄金色の液体が溢れ足元を伝い石床を濡らしていった。

 

 人妖に与えられた信仰心が、彼女の身体を経由して紐を通りぬけていくのが分かる。紐は主神を象った石像に繋がれており、神々しい力が吸収されていった。信仰心を人妖の器に蓄積しつつ、必要分を使用に回しているのだろう。

 

 「彼女が、羨ましいのですか?」

 

 エンパスが手のひらを人妖に向けつつ、こちらを向いた。信仰心が試される、審判をする者の表情だ。

 

 「正直に言えば」

 

 私はただの武辺者だ。政治に関わることもできず、祖国が危機になったところで大した力を発揮できなかった。ここに来たところで同じだ。レントのように異界の歴史と応用の知識もない。やれることと言えば、ただ前進し敵を薙ぎ倒すくらいである。

 

 だがそれも限界があった。神敵相手に引く気はなかったが、火竜ランドルフ。アレを見た瞬間、勝てる訳がないと本能で悟ってしまった。事実、立ち向かったところで大したことはできなかっただろう。

 

 「信徒にはそれに合わせた使い道があるものです。貴女には貴方の使い道があるのです。灰は灰に、塵は塵に、あるべき者はあるべき場所に収まるでしょう」

 

 「成…程……私の収まる場所は…ここだと?節穴ですか?貴女は」

 

 吊るされた人妖が喋る。精神を崩壊させレントとおままごと遊びをしていたのは知っていたが、ショックで正気に戻ったのだろうか。眼球付近の血管でも切れたのか、片方の目尻から血の涙を流しながらなお見下すような視線を向けて来る。

 

 「ええ、全ての生物には産まれて来る意味があります。光栄に思うことです、テン。貴女がこの世に生を受けた理由はまさにこのためだと言っても過言ではないでしょ」

 

 唾が飛んだ。エンパスの頬に付着する。

 

 「およしなさい」

 

 背中に背負う突撃槍がテンを貫こうとしたが、その前に手をかざされ止められた。頬に付着した唾を拭うことなく、エンパスは微笑む。

 

 「無知は罪なりと言います。しかし、悪ではないのです。今はこの役目に理解が出来なくとも、地上に現れたる楽園を目撃すればその考えは変わるでしょう。全ての民草達を導くのは我々の役目。それは、人妖とて例外ではないのですから。人も人妖もあるべき姿、立場になるのです。そして永遠に飢えも争いも怒らない、恒久平和を実現いたしましょう」

 

 「成程。師の言う通り、独善にすぎる。それを誰が望むのですか?貴女に洗脳されるような低能はともかく、誰も彼もが賛同するとは思わないことです。支配による平和等、誰も救われない」

 

 「そうでしょうか?少なくとも、貴女は救われるのではないでしょうか?寒村産まれの貴女には」

 

 人妖、いやテンの目が大きく開かれる。目つきを鋭く尖らせ、不愉快そうに表情を歪めた。だが、それはすぐに表情から消えた。その変わりに、口が半月のように歪み嘲りの目を向けた。楽し気な、嘲笑混じりの笑い声が聖堂に響く。

 

 「なにがおかしい」

 

 「いえ、いえいえいえ。確かに思わないことはない。そこの置き去りが言うように、誰もが飢えも苦しみもない世界ならば私が売られることはなかった。まあ、私が寒村産まれを何故知っているのかは聞きませんが。ですが、私はお父様に出会うことができた。飢えや苦しみが無い世界では出会えなかった奇跡です。まあ、なにが言いたいかと言えば」

 

 嘲笑混じりで語るテンは、一度言葉を区切る。無知な若者を見る賢者のように、鋭くも怒りの混じる無表情な顔で見る。

 

 「他者が、神ごときが、他者…私の人生に介入するな。反吐がでる」

 

 「無知とはかくも恐ろしいものですね。まあ良いでしょう、目的の第一段階を遂行しましょう。さて、貴女の言うただの偶然による奇跡ではない、本物の神の御業たる奇跡をおこしましょう」

 

 テンの身体に光が満ちる。苦痛の悲鳴と共に、捧げられた魂が消耗されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イドは首を傾げる。世界が決定的に変わってしまう?世界なんて今や変動期というか、毎日のように変化しているように感じる。それとも、高級娼婦を束ねる実力者だからこそ見える世界があるというのか。どの道、配達で金稼ぎしている僕には理解しきれないことかもしれない。

 

 取り合えず、明日も得意先に注文を聞いて本土や経済特別区にある食事処により注文をしなければならない。リスム本土に行けば、船長から頼まれたこともすますこともできるだろう。

 

 「すいません、僕は明日早いので先に休ませていただきます」

 

 頭を下げた時、身体が揺れた。少し疲れすぎたかなと思った瞬間、地面を大きな揺れが襲った。後ろにすっ転びそうになった瞬間、傍らから手を伸ばされ支えられる。イシカワがこちらを掴み転倒を防いだのだと遅れて気が付いた。

 

 「ゆ、ゆ、揺れ!?地面!?揺れ!?」

 

 「地震か。大陸でもおこるものなのだな」

 

 馴染みの体験だとでも言いたげに、イシカワはよろけもせずに立っていた。エレミヤは座ったままであるが、警備隊長がエレミヤを支えながら護るように周囲を警戒している。二人とも、僕とは比べ物にならない程体幹が優れている。

 

 「私の勘が当たるとは言ったけど、ここまでの変化は想像していなかったなぁ」

 

 エレミヤが零れないように紅茶を持つが、視線は更にその先、本土の方に向けられていた。揺れは収まらないが、視線だけはその言葉に釣られるように本土の方に顔を向けた。

 

 リスム自治州を包み込むように、光の幕がドーム状に張られていくのが見えた。ドーム状に覆われた球体の中で、まるで水晶のような巨大な柱が浮かび上がっているように見えた。

 

 「この地では、地震であのような現象がおこるのか?」

 

 「そんな訳あるか!なにがおきているんだ!?」

 

 揺れが更に激しくなる。娼館通りの方から悲鳴があがり、建物が崩れる音が聞こえる。

 

 「この地では、地揺れに対応するように対応できるように建物が作られている訳ではないからな。だが奇妙なことだ」

 

 エレミヤを除けば、地震という現象に一番馴染みのあるイシカワが一番落ち着いていた。観察するように、本土の方を見つめていた。

 

 「あの光の覆いの内部で、建物の崩壊はおきていない。建築様式はこちらとはさして変わらない筈だが。まるで、揺れがおこっていないかのようだな」

 

 「よくもまあ冷静に観察してられるな!?ちょいおい!揺れが!」

 

 「まあ揺れは何時までも続くものではない。冷静になれイド。忍者は常に冷静にあるべきだろう?」

 

 「僕は忍者じゃないっつの!」

 

 ようやく地揺れが収まってきた。あちこちで非常事態を知らせる警告の鐘が鳴り響き、助けを求める声が聞こえ始める。

 

 「警備隊長。女の子と警備達の被害をすぐに確認しなさい。館の片づけ等後回しで良い、怪我人の治療等をしたらすぐに街に出向いて被害者を助けてきなさい。イシカワもです。イド君も、良かったら力を貸してくれないかしら?この揺れで、火の元も心配だし貴方の脚力で確認や消化をしてくれると助かるのだけど」

 

 エレミヤもいたって冷静に告げた。リスムには過去に巨人事件というものがおきている為、異変に対応するのは二度目なのだろう。警備隊長が頷き、行動を開始する。イシカワもすぐに動いた。僕も、走り出す。なにがおこっているのか分からないが、今できることを行うしかないだろう。内心の不安を押しつぶすように、可能な限り力を込めて走る。

 

 「人の世界は飽きないけれど、超常現象にはそろそろ飽きが来ているわね。さて、どうしたものかしら。また彼等の力を、借りれたら良いのだけど」

 

 後ろでエレミヤの独り言が響いた。彼等とは、誰のことなのだろうか。僕も、恩人である三人の顔が浮かぶ。無事でいてくれることを、祈るばかりだ。



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 地面は新雪のような白さに染まっていた。灰色の空から今なお降り積もるそれは、雪のような冷たさはなく熱に当たっても溶解する様子もない。太陽の光を直接拝んだのは、もうどれくらい前だろうか。

 

 村にしては大規模だが、町とは言い切れないような規模の集落。入口には簡易なバリケートが敷かれてあり、何時かのハボックを思い出す。胸中がズキリと痛むが、感傷等今はなんの意味もないので無視。だが、どれだけ時間が経とうがなにかある度に心中がざわついてしまう。

 

 「ガラン、大丈夫か?」

 

 「ああ」

 

 表情に出ていたのか、同行していた仲間から声をかけられた。何でもないと軽く手を振り、前に向き直る。寄る辺を無くして流浪している身であり、仲間達の表情は厳しい。なんとか食料や物資を見つけないといけないが、あまり期待できそうにない崩壊具合が皆の表情を曇らせている。

 

 盗賊化した食い詰めた者達。軍閥化して制御を外れた旧帝国軍。そして化物共。壊滅した集落等今は珍しくもない。痩せこけた犬が、骨と皮ばかりのミイラのような腕を加えて俺達の前を横切る。

 

 「皆、止まれ」

 

 エルフに半獣達そして人間、付いて来た者達の表情に緊張感が漲る。既存の宗教施設である木製が主の教会と違い、どことなく華美で彫刻等の装飾もある石造りの宗教施設は神殿と呼ばれていた。そしてその神殿は、あのクソエンパス教を祭りあげる為の施設だ。今回の騒動の原因となった連中の、拠点。

 

 「クレスとレミナルはついてきてくれ。残りは待機しながら警戒」

 

 俺を含めて、エルフと半獣、人間で組み合わせた六人の混成グループ。あの惨劇の日以降、後アブソリエル公国の生き残りも仲間に加わっていたが皆の食い扶持を集めるだけでも精一杯だ。そして、死人も出続けている。

 

 アブソリエルの元親衛隊と、半獣が一人続く。神殿の正面門は施錠されている様子はない。少しだけ扉を開いて、内部を覗き込んで確認する。なにかが動いているような気配や音は、無し。

 

 扉を開いて中に入る。神殿内は天井が崩壊しており、火山灰が建物内に降り積もっていた。信徒席の一部は崩壊した天井の瓦礫で潰されており、木材の破片が転がっている。

 

 まだ無事な信徒席には干からびた死体が椅子にもたれたままミイラのようになっていた。手にはナイフや家庭用の包丁、草刈り鎌等が握られており茶色く錆びついている。周辺は、変色した茶色い血の飛び散った後があった。

 

 「自害の跡か」

 

 アブソリエル公国からの合流組である人間、クレスが呟いた。顔には、理解不能という言葉が張り付いている。半獣のレミナルが床に散らばった、変色した紙を拾い上げる。

 

 「これまでと同じね。やれ、死ねば救われるだの。信仰心を捧げることで新たなる世界を開く礎になるだの、似たようなことばかりで嫌になる。エンパス教の信者は皆、死ぬことを目標にしているみたいね」

 

 「世界が一変してしまい、生きることすら苦痛になっちまったんだろうよ。今まで心の支えにしていた宗教が、死ねと命じれば従う奴もでるんだろうな。それが出来ない奴が、野盗になったり連合王国に亡命しようとしたりしたんだろう、もしくは…」

 

 クレスとレミナルが、理解不能な光景を、理解しようと話し込んでいた。

 

 この世界に元々あった既存の宗教は、突然帝国をおこった災害に対してあまりにも無力であった。人々が荒廃した世界に絶望するなか、突然天上から遣わされたかのような天使を目撃すればそれは、人心を惑わすには充分すぎるインパクトだ。

 

 「なにがあったか分かった」

 

 瓦礫の裏側を見てみたら、自害とは違う死体…いや、抜け殻を見つける。まだ若い男女が腕を組みながら跪いており、その背中が裂けるように割れていた。乾燥した肉には火山灰が降り積もり、弾けて空洞となった胴体を白く染めている。

 

 「これまでと同じだ。連中にとってこの場は、信仰心の回収場だったのだろうよ」

 

 一年と半年以上、いや二年近く放浪してきたなかで幾度も目にした光景だ。なにがあったかは、容易に想像がついてしまう。

 

 連中はどういう理屈か、信者を殺してその命を燃料にする術を持ち合わせている。一度その光景を目撃したことがあるのだが、天使に似たあの化物が自害した人間の命を吸い取るような光景を目の当たりにした。その天使共は決まって南東の方角へ飛び去っていく。

 

 「クソ化物共め」

 

 南東の方角には、なにかがある。それを突き止める為に時間を費やしてしまったが、目的地を定め移動を開始することができた。

 

 「俺達の仲間を殺し、居場所を奪ったエンパスはぶち殺す。奴の手駒の天使共も同様だ」

 

 故郷を滅ぼされたクレスが力強く頷いた。レミナルも、視線を鋭く尖らせ殺意を顕わにする。

 

 ガスパルとやらの手助けのせいで、エンパスが強行により火竜ランドルフが倒れた。北部を壊滅させた変化のせいで、後アブソリエル公国は首都から前線の砦まで国土が壊滅し再起不能な程の被害がでた。ハボックも突然襲撃してきたエンパス教の軍団に襲われ、偶々食料調達で離れていた者以外は女子供関係なく殺され、全滅した。霊山を護ることを誇りとしていたコボルト達も生きてはいないだろう。

 

 現在北部一帯は、雪景色の似合う北国の姿から一変、絶えず裂けた地面から炎が噴き出し谷間のような亀裂の底に溶岩流が流れる生物を寄せつけぬ地へと変化していた。

 

 クレスもレミナルも、慢性的な栄養不足とストレスのせいで頬がこけ、幽鬼に近い凶相をしていた。俺とて同じような顔であろう。まるで亡者の一団のようであるが、ある目的だけがこの絶望的な世界で全てを投げ出さない為の、最後のよすがとなっていた。

 

 「行こう。ここは既に終わった土地だ。なんとか物資を見つけて、本隊に合流し…」

 

 外から怒号が響く。弾かれたように飛び出し、外の様子を見る。

 

 すっかり灰で汚れてしまった、後アブソリエル公国親衛部隊の正装。鍛冶で打ちあがる火花を模した布地の胸部が破れ、新鮮な血が溢れ出し染め上げていく。よく尖れた鋭い暗器のような刃が胸元から飛び出しており、球体関節で繋がるそれは本体まで伸びていた。

 

 「斉射!」

 

 石弩が、ライフルが、投石が発射される。慈悲深い笑顔を浮かべる天使様の美しい笑顔が弾け、胸元にボルトが突き刺さり、投石が球体関節に直撃した。それでもなお死なない化物なのはこれまで幾度となく経験してきたことで理解している。

 

 死体から刃が抜かれる。半分吹き飛んだ慈愛の笑みを浮かべながら新たな対象に刃を向けようとするが、飛び込んでククリナイフで弾く。

 

 放り投げられた死体から、光輝くものが天使に向け吸収されていった。エンパス教に信仰心を持たなくても、直接殺した相手は贄として命を資源のように回収していく。おぞましい化物め。

 

 「仲間の仇だ!命を吸いやがって!こいつを絶対に逃がすな!この場で殺すぞ!」

 

 「「おう!」」

 

 天使の左手が裂けていく。以前は右腕の代わりに球体関節付きの延長して攻撃できる刃がついていたのだが、奴等も進化してきたのか命を効率良く吸収できるシステムの他にも攻撃パターンが増えてきていた。

 

 左手から始まり左腕まで裂けていく。無造作に振るったそれは五つの鞭のようにしなりながら伸び、風切り音が響いた。指の一本、恐らくは中指がかすめたのか頬から血が出る。

 

 奴の指は一本一本がまるで刃物のように鋭く砥がれていた。鞭のようにしなる斬撃は防御が困難であり、新たな攻撃手段として以前は隙だらけであった近距離戦をカバーしている。援護のライフルや矢、投石を細分化した腕を振るうことで弾いて防ぐ。柔軟で柔らかそうに見えるが、耐刃、耐弾性能が高く鞭のような部分は既存の武器では破壊も覚束ない。

 

 周囲の仲間に注意が向かないように立ち回る。球体関節から伸びる刃を弾き、鞭の暴風をかいくぐる。下手をしなくても気を抜けば首が飛ぶような緊張感があるが、それでも身体は怯まず前に出て間合いを詰める。間合いを詰める程、完全に避けきることが難しくなり身体に鮮血がの小さな花が咲いた。

 

 だが充分すぎる間合いを詰めることができた。仲間の援護射撃を奴が弾いたと同時に、前に出る。飛び上がりながら膝で顎を打ち抜き、体重をかけて踏み潰すように地面に縫い付ける。痛みを感じないのか呻き声一つあげることもないが、破壊された首の器官のせいで身体を上手いこと動かせないのか動きが鈍る。

 

 ククリナイフを交差し、首を切断する。なおも動く胴体には、仲間達が駆け寄り長剣を、ナイフを、斧槍を突き刺した。球体関節を岩で潰して破壊をし、細分化する腕の根元、胴体と右腕の付け根部分を斧で切断して動きを止める。

 

 天使の胴体は諤々と痙攣して動かなくなる。死んだ仲間から吸収されていた光は停止し、霧散するように宙に消えていった。死んだ仲間の魂を護れた。だがそれに安堵する間もなく、バサバサと複数の羽音が周囲から響いた。

 

 食い詰めて、訪れた放浪者を殺害し贄として魂とやらを回収していたのだろう。信者達の自害だけでは飽き足らず、なおもなにかの目的の為に涼やかな顔をしながら人や生物を殺して回っている。

 

 「上等だよ……かかって来いよクソ共が!」 

 

 背中から生える翼の独特の羽音を聞くことで、再度俺の中で怒りが沸き上がる。お前等が世界を地獄に変えるならば、俺自身がお前等の地獄になってやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 射る。射る、射る、射る。

 

 手持ちの矢を連続で放つが、奴は止まる様子がない。全長だけで大人数名程の巨大さを誇るイノシシが、集落に向け突撃を開始していた。長く伸びた牙と厚い皮と体毛、脂肪がただの弓矢では致命傷を与えることができない堅牢な鎧として機能しているようだった。

 

 「エルバンネ、この大きさ」

 

 「今野生個体でここまで栄養をとれ、体躯を維持している生物がいる訳がない。恐らくは人妖、それも餌にありつけ続いた強力な個体だ」

 

 ガラン達が廃集落に侵入ししばらくして、突如として殺気立った個体が枯れた木々の生える昔は森であった、今では残骸のような土地から出現した。遠目で見て分かるが、ガラン達が天使と交戦を開始していることから争いに乗じて漁夫の利を得ようとしていたのだろう。

 

 猪突猛進な見た目に反して狡猾だ。だがしかし、向こうも久しぶりの獲物を目にしているのか、それとも猪のような姿をした化物故の習性か、昂っている。

 

 「合わせろ」

 

 「エルフに合わせろ?無茶苦茶言うなぁ」

 

 矢を射続けてイラつかせたところで、よく狙いをつける。一呼吸を置いてから放つ。傍らにいた半獣、ウェルロンドも伏せの状態から銃身の長いライフル銃で狙撃をした。一本の矢と弾丸が眼球を狙った。風切り音を鳴らす矢が先に放たれ、銃声が上がる。

 

 「直撃?」

 

 両の目から流血しているように見えるが、違う。直撃の瞬間、僅かな時間ながらこちらの狙いに気がついたのか不自然に頭を振ったのが見えた。弾丸が上瞼を貫通、鏃も似たようなところに当たったようだがやや弾よりも広がるような着弾範囲で眼球を傷つけた。

 

 「しくじった!」

 

 「皆をまとめて退避しろウェルロンド。私が引き付ける」

 

 後ろに下がりながら矢を引き絞り、放つ。もはや警戒された為視界潰しの眼球狙いは難しいが、それでもなお幾度も同じ個所を攻撃してくるのは面白くないだろう。ライフル銃を抱えたままウェルロンドは地面を転がり道を開ける。執拗に攻撃をしてくるこちらを狙う為に、素直に街中まで入ってきた。

 

 窓枠に足をかけ飛び上がる。屋根の上に着地した瞬間建物に猪の巨体が直撃し、崩壊を始める。完全に崩れきる前に次の足場に跳躍。民家が薄紙細工のように崩れていき、通り道が瓦礫の山になっていく。

 

 口に指をあて、長い口笛を吹く。短い口笛が、二回。このまま誘導。

 

 徐々に集落の中心に近づいていく。天使共とガラン達が戦闘をしている立ち止まって矢を二本の矢を引き絞り、射撃。戦果を確認する暇もなく、建物から飛び降りて横に転がる。戦果は、舞い落ちた純白の羽として現れていた。翼を二翼射抜かれた天使が落下する。

 

 それと同時に、壁をぶち破り猪が現れる。破城槌のような巨大な牙が落ちて来た天使の胴体を貫いた。異物が引っかかったことに、猪は立ち止まる。首を思いきり振るい引っかかった死体を壁に叩きつけるように引き抜いた。

 

 胴体がくず肉となり、凄まじい勢いで叩きつけられた天使はズルリと壁から落ちる。だが首を斬らないと復活する為、ガランがすかさずククリナイフで斬り落とした。

 

 長い放浪の末、分かったことが幾つかある。

 

 一つ、天使共は時には甘い顔をしながら信者を増やし、収穫する。信仰心を持たずに抵抗する者は殺害し贄として命を持ち去る。

 

 一つ、天使は人妖を激しく敵視している。贄としての狩りの獲物と考えれば上等なのか、それとも目の仇にする理由があるのか。信者になると意思疎通ができるらしいが、なる気はないので確認する方法がない。

 

 一つ、人妖にとっても天使は獲物としても上等のようだ。特に、人間としての理性をもう溶かしきっているようなタイプは殊更にそういう奴が多い。一度だけ、天使共を狩ることを専門に活動して捕食する人妖を見たことがある。

 

 「ガラン!一度引け!三つ巴になると面倒だ!」

 

 ククリナイフを両手で持ち、天使の首筋にかみついた。喉笛を食い千切り、骨を砕き、千切れかけた首を頭を振るうことで引き千切っていた。ガランの戦い方は、なりふり構わないような形になっていた。血走った目でこちらを見つめている。

 

 私にとって、故郷と仲間を大量に失ったのは三度目である。悪い意味で、仲間の喪失には慣れていた。世界は元からままならないものであり、混沌の坩堝と化した今の大陸ではなおさらだ。だがしかし、ガランには初めての経験であった。賑やかで快活だった彼は、もういない。

 

 「俺は残る」

 

 「ガラン」

 

 「人妖なんぞに渡してたまるかよ。羽の生えた害虫は、俺が一匹残らず似合いの肥溜めにぶち込んでやる。お前等は引け」

 

 ガランは、かつて聞いていないのに、なにかある度に聞き飽きる程語っていた暑苦しい夢を何時しか語らなくなっていた。護るべき存在、平和で安心した生活をさせてやりたい同胞を大量に失い自暴自棄に近い状態となっている。

 

 かつて、ミハエルを贄にしてまで人間を殺して回ろうと考えていた我々エルフと同じ思考に囚われていた。我々は更なる犠牲を払いながら復讐から離れることができた。

 

 「引け。ここで意地を張る必要はない。殺したいなら、残った奴等を料理すれば良い」

 

 「冷静だな、エルバンネ。エルフにだって死傷者は出たのに、お前は冷静だ。何故だ」

 

 理不尽な死に、慣れすぎたせいだ。いや、理不尽等とは言えない。エレミヤという差別階級を作ったエルフ達の悪習。なにを犠牲にしてでも復讐を遂げようとした仲間達の大量死。その二つは、我等に理由がある。恥ずべき過去と行いが、我等の首を絞めつけただけだ。

 

 だがガランには、恥じる過去がない。彼にとって、虐げられた仲間達と自分自身を助けようと行動をおこしただけだ。ただ普通に暮らしたい、その場を信じてついてきてくれた皆と分かち合いたいと戦ってきた。その結末が、これだ。私の言葉では、届かない。

 

 「奴等俺達の仲間を!コボルト共を!ゴミみてェに殺しやがった!帝国との戦争中だ!殺し殺されをしていたから、奴らに攻め込まれて殺されるのはまだ理解できる!だけど奴等、訳の分からん計画の為にただそこにいたからって理由で殺しやがった!許さねえ!許されちゃいけねえんだ!それにまた、仲間を殺しやがった!邪魔するなエルバンネ!元より俺とお前に命令し、される立場も義理もねェ筈だろうが!」

 

 ガランが、人妖と天使の争いの中に喰い込んでいった。止めようにも奴の言う通り、私ではガランを止める権限がない。先遣隊にも負傷者がいる為、彼等を護り後退するしかない。

 

 「ランドルフを殺すのを手助けしたという、悪魔の野郎も許さねえ!人妖とかいう悪魔のふざけた産物もぶっ潰してやる!どいつもこいつも、皆殺しだ!」

 

 以前のガランならば、重症の仲間がいたら気を使えた。だが、怒りと憎悪がガランを変えていた。そして、彼を止める上位の権限を持つ者の不在が響いていた。

 

 「重傷者を保護しろ!下がるぞ!」

 

 「エルバンネさん!?良いんですか!?計画と違うのに!」

 

 「致し方なかろう。私には、奴を止める力も権限もない」

 

 ガランは、この放浪の中で見違える程強くなっていた。憎悪を糧にあらゆるものを取り込み、あれ程嫌悪していた天使達の肉を喰らい、毎日のように牙と爪を研いでいた。元々近接戦闘において、ガランは私より数段上の立場であったが、仮に今本気で殺しあいがおこるとしたらこちらに有意な筈の中距離戦闘からのスタートでも確実に殺める自信がない。

 

 今はこれ以上、ガランの怒りと憎悪が増さないように仲間達を護りながら退却するだけだ。

 

 充分に離れたことを確認し、建物の中に入る。元は食事処であったのだろう。割れた皿や食器の類が散乱しており、窓から吹き込んだ火山灰が床を白く染め上げていた。

 

 大人数で食事をする為のテーブル席に重傷者を寝かせる。左腕を持っていかれたようだが、命に別状はない。だが出血は止めなければいけないし、それだけでは切断面から腐り始めてしまう。激痛に身をよじり、歯ぎしりをしながら痛みに悶えてた。

 

 「火をおこせ!それと厚い布地を取り出せ!」

 

火打石で暖炉に火を灯し、打ち捨てられた家具をバラバラにして火種として放り込む。布を絞るように巻いた後、歯や舌を噛みすぎないように代わりに口に加えさせる。

 

 ロングソードを火で炙る。充分に熱して刀身が赤熱した為、暖炉から取り出したそれを受け取った。

 

 「死ぬほど辛いだろうが、死ぬよりはマシだ。耐えてくれ」

 

 腕を斬り落とされた半獣が、口に布を加えさせられ喋れない代わりに頷く。この処置はもう幾度か見ており、自分がこれからなにをさせられるか分かっているのだろう。

 

 貴重な水だが、惜しみなく使い傷口を洗い流す。熱した刀身が切断面に当てられる。蒸気が立ち上り、肉と骨が焼ける音が室内に響いた。

 

 「もっと全力で押さえろ!暴れたら処置が遅くなる!苦しみが長引くだけだぞ!」

 

 痛みと熱に暴れる半獣の青年。力も強い為、エルフや人間、半獣を問わず全力で身体を抑える。

 

 「包帯を持って来い!」

 

 焼けただれた切断面に当て布をして包帯を巻く。痛み止めもない為しばらくは眠れない日々が続くだろうが、これで急速に死ぬということはない。植物も枯れ、新鮮な水ですら貴重な現在の帝国では、私や他のエルフが持つ調薬の知識も役に立たない。

 

 半獣の青年は、包帯を巻き終わる頃には意識を飛ばしていた。ようやくひと段落つき、疲れと緊張からか何人かがその場に座り込んでしまう。

 

 「エルバンネさん。俺達、何時までこんなことをしなければならないのでしょうか」

 

 エルフの一人が、呟くような小声で問いかけてきた。食料を求め徘徊し、生物を見つければ襲って狩る。火山灰による汚染で新鮮な水にはありつけず、大型の人妖から溢れた血液を飲料にすることも珍しくはない。食料も言わずもがな、天使や人妖の肉を目をつむり自分を騙しながら貪る始末だ。

 

 南に向かえば先の天変地異の被害は少ないと聞く。だが、食料も水も満足にない一団の動きは遅々として進まなかった。

 

 「まずは南、海まで向かう。そこまで辿り着けば、火山灰の影響も少なく飲める水や生き延びた動植物もいる筈だ」

 

 南へ向かうという方針は、ガランも説得しなんとか受け入れてもらった案だ。天使達が東南方面に飛ぶ為に、東寄りでありながら南に進むことに合意をしてくれた。天使が飛び立つ方向に、規則性があることを証明できなければ受け入れてはもらえなかっただろう。

 

 今でもガランを慕う半獣の生き残り達。同じく復讐に燃える後アブソリエル公国の人間達。

 

 アブソリエル公国を纏めていたノルン=ミルクエルは戦えない、或いは戦いを拒む生き残りの自国民を纏めて行動を別にした。ミルフは迷いつつも、もう一人のコボルトと共にそれについていった。戦えない、戦う術を持たない人々を助ける為についていくと言い残し。

 

 数刻後、巨大ななにかが倒れる音が響いた。

 

 様子を見る為に、遠巻きに見張っていたエルフが報告に来る。ガランが、どうやら天使共を皆殺しに更に人妖を片付けたらしい。様子を見に行くと、ガランは死骸に食らいついていた。皮を剥ぎ、肉を貪り、血と埃にまみれた顔をこちらに向ける。

 

 「しばらくの飯と飲料、確保した」

 

 ランザ=ランテがいたら、彼は復讐鬼となったガランになにを言ったあろうか。世界が崩壊した日に、ガラン達を庇いながら逃走し重傷を負いながらも竜として羽ばたき危機を逃れることになった。

 

 だがしかし、そのランザと私は出会っていない。空竜と呼ばれる存在が、連れていってしまったそうだ。それに、クーラもしがみついていったという。

 

 「肉の解体にかかろう。人妖は死後しばらくしたら人間に戻る。大きいうちにはぎ取って、過食部位を保護するんだ」

 

 死体に近づき、刃物を突き立てる。こうまでして生き延びる必要があるのだろうかと、ふと考えてしまっていた。



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 「お前は竜の側と人の側、或いは獣の側、どちらにいるのだ?」

 

 カラン、という音が響いた。錆びついてはいるが鉄で出来たいささか巨大すぎる受け皿に器具が投げ込まれる。それは、外傷の縫合する為に使われる医療組合や傭兵達が使っている縫合具に似ていたが、その大きさは比較にもならない。

 

 先程まで器具を持っていた巨大なシルエットが収縮する。首を傾け巨体を見上げ、額から滲む汗をダボついた袖で拭いながら呆れ半分で問いかけた。返答のように咆哮が響き、腰まで届く髪の毛が浮き上がる。

 

 「冷静じゃないか。冷静なのは良いことだよ、うん」

 

 金色と水色が混じりあったような眼球が人影を眺める。蓄積した疲労と傷による激痛、そしてその処置による消耗が目に見えるようであったが、それでもなお疑念と警戒の視線を向けていた。

 

 「悪竜ジークリンデは人に近しい存在だった。元々僕たちは自然界と近しい存在でね、彼女も人間というある種の自然産物から産まれた存在なんだよ。あんなに生意気なのに、僕達竜の中じゃ最年少なのさ。それでも人間が竜の存在を受け継ぐなんて、前代未聞だし不自然にすぎる」

 

 人影が破損した古い木製の椅子を引き寄せる。ユラユラと揺れる安楽椅子に腰をかけ、足を組み竜の巨体を見上げた。四足獣の体毛から除く悪竜の鱗。背中から生える黒々とした翼。人妖としての獣の顔に竜の顎が混ざり合っている混成獣。今まで見たこともない歪な生命体を手すりに頬杖をつきながら見上げる。

 

 混成獣の身体は鱗が破損し赤い肉が見えていた。足首が焼け爛れ肉までが炭のような色に焼かれ硬化しており、仲間を庇いながら飛んだ翼の翼膜は落石により破けていた。巨大な裂傷は荒々しく縫い付けられており、傷口を無理矢理にでも塞がれており辛うじて命が助かっていると言えるような状態だ。

 

 「当然不自然なものは綻びがある。君の身体は君が思う以上にバランスが悪い。小さい子供が泥団子をくっつけて遊ぶように、人間の身体に後付けであれやこれやを付けて良い訳がないのさ。そのうえ急激に変化しすぎたせいで今の君は指一本動かせない程消耗している。無茶をすれば、なんて話じゃない。無茶すらできない。精神力でどうにかなる段階なんて、仲間を護りながら死地を超えた時点で越えているんだよ」

 

 なにかを言いたげに口が開かれるが、言葉が放たれることはなく深い吐息が口から放たれた。白い蒸気のように吐かれた息が、空中に霧散していく。低すぎる外気温が影響していた。

 

 「寒さに文句はつけるなよ。生憎、僕の所有する物件なんて一つしかないんだ」

 

 所々朽ちた石造りの神殿。荒らされたかのように所々崩壊しているが、それは自然に朽ちて崩れているだけであり何者かが破壊したかのようなものではなかった。穴の開いた屋根から曇天が覗き、白い雪がちらついている。汚れの無い、しかし冷え切った空気が吹き込んだ。

 

 「君達が人間が連合王国を飛び越えて更に東、東方二十八ヵ国と呼んでいる地域。その北西部にある霊山地帯だよ。宗教的観点から誰も寄り付かない…というよりか、生物すら生存しない厳しい環境と崖のような山々のせいで誰も来る気がないというのが正解だけどね。資源も無いし…」

 

 巨大な体躯が動こうとする。それだけで、節々から飛び散るように血が溢れ、黒々とした液体がドロリと石床を汚した。四肢に力を入れようとしても、滑るように地に伏せてしまう。男の見立て通り、その体躯を操る余力は存在しなかった。

 

 「だから言ったのに。忠告は素直に聞いておくものだよ。今の行動だけで、どれだけ完治まで伸びたと思ってるの。汚してしまうのは別にかまわないけどさ、どうせ僕は掃除しないし」

 

 呆れたような声。視線をそちらに向けることもなく、椅子に揺られながら空を見上げた。

 

 「あの娘のこと?途中、振り落としたけど」

 

 鋭い視線を男は感じた。深いため息をつく。

 

 「無茶を言わないでよ。こんなところで生存できる生命体なんてほとんどいないよ。半獣なら尚更だ、ちゃんと死なないところを考慮して置いて来たんだからそこは分かってくれないかな。正直環境だけなら、ランドルフが死ぬ前の帝国北部より余程厳しい環境なんだから。とにかく傷を癒して身体に馴染むことに専念しなよ。はぁ、なんて僕がここまで気を使わなくちゃいけないんだか」

 

 言いながら、分かっていた。なにがあっても死ぬ筈がないと思っていた火竜ランドルフが亡くなった。単一個体が寿命死と再誕を繰り返す竜達は数が増えることはない。もしかしたら、異種の交配により竜に似たなにか別の生物が作れる可能性もあるが誰も試すことはしなかった。

 

 地竜、海竜、悪竜、そして火竜。昔馴染みがいなくなっていくなかで、この男が死んでしまえば本当の意味で孤高の存在、言い換えれば孤立した存在になってしまう。それだけは、なんとしても避けておきたかった。

 

 世界の命運等どうでも良い。自分はただ気紛れに天候を司るだけ。近寄ってきた目障りな連中だけを叩き潰していけば良いくらいにしか考えていなかったが、どうやらそうも言ってられないようだ。面倒ごとを押し付ける相手はとうにいなくなり、同胞はイマイチ頼りにならない後輩だけときた。

 

 「世界なんて変えなくても、勝手に変化していくのにな。それほどまで、思い通りにしたいかい。面倒なものだよ、どいつもこいつも」

 

 理解しがたいことが、理解したくもないことが世の中には多い。それでも、やらなきゃいけないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焚火の音。薄目を開けると、小さく素朴な暖炉に火がついているのが見えた。

 

 起き上がると、身体全身に痛み。寝かされていた場所に身体を沈めるように倒れる。腕を見ると、包帯が巻かれているのが見えた。布地の隙間から緑色の葉が少しだけはみ出ており、青臭い匂いが漂ってくる。

 

 周囲に人の気配はない。視線だけ動かすと、中央の支柱に打たれた釘にかけてあるように、自分の武装を始めとした持ち物が引っかかっているように見えた。小物は革製の袋にまとめていれてあるようで、袋の縁から直刀の柄が見える。取り合えず武装が近くにあるということは人浚いや物取りに拾われた訳でもないようだ。

 

 木製の板張りとその向こう側にある土間。暖炉は土間の隅にあり、調理ができるよう鍋を吊るすことができるかぎ爪が小さな鎖に吊るされている。壁には狩猟に使うには大仰な大きな弓がかけてあり、その隣鹿に似た巨大な角を持つ剥製の頭が飾られていた。

 

 砥石が木製のテーブルの上に置かれており、小物入れには解体用のナイフが丁寧にしまわれている。傍らには羊皮紙が置かれており、ここから見る限り動物の皮を注文されておりその覚え書きがされていた。文字は見慣れないが、小さな動物の絵と×2等の表記だけは理解ができた。

 

 そこまで見てから、天井を向く。何故自分はこんなところで寝かされているのだろうか。

 

 記憶を思い返す。あの地獄のようになった後アブソリエル公国から竜になったランザの背に乗って脱出することができた。だがしかし、変化の前後問わず自然災害と執拗に追撃してくるあの天使もどき共の追撃を受けてかなりの攻撃を受けてしまった。

 

 追撃を振り切り、安全地帯に降り立った後ランザの身体はボロボロであり、気を失ってしまった。それをあの遠巻きに見ていただけの空竜とかいう奴が連れ去った。早めに治療が必要だということは分かるが、それ以外は連れて行く気はないとでも言いたげな態度だった。

 

 とっさに飛び乗ったは良いが、空の気温は想像以上に低い。振り落とされないように踏ん張ったが寒さと長時間の飛行で疲労したタイミングで、急降下と急上昇に振り回され落とされてしまった。針葉樹と思われる木々の枝をクッションにして地面を転がったところまでは覚えている。

 

 土と草を踏みしめる音。血の臭いが鼻腔をくすぐり、警戒心が高まる。

 

 木製の扉をきしませながら入ってきたのは、人間ではなかった。

 

 ガッチリとした体躯に獣の皮を加工した防寒着を着用しているが、胸元や首筋は短くまっ白い毛で覆われていた。紅玉の瞳の中に浮く黒目。二本の長い耳がまっすぐに立っており白の中に薄ピンク色の皮膚が見える。丸太のような太い腕には猪に似た四足獣が抱えられており、血抜きをすませてきたのか血の香りは喉元の血抜き痕より漂っているようであった。

 

 半獣のような混ざりものではない、ウサギの顔。あの悪夢の世界には人妖がいたが、本物を見たのは初めてであった。

 

 かつて世界各地の紛争地帯にて傭兵として参加し、その風貌から差別されようが討伐隊を差し向けられようが圧倒的な戦闘力で叩き潰し続けたという一族。ウォーリアバニーと呼ばれる種族が持つ特徴を持ち合わせていた。

 

 「-----、-----」

 

 聞きなれない言語。帝国やリスム、連合王国で使われている言語じゃない。敵意のようなものは感じないが、こちらが困惑している様子を見ていたら少し難しい顔をしながら幾つかの違った言語で話しかけてくるが何れも聞き馴染みのない言葉だ。

 

 返事をすることができない。逃走しようにも身体が動かない。どうするべきかと思案していたが、なにかを理解したのか納得顔となり軽く咳払いをしながら口を開く。

 

 「傷は痛まないのか?まだ無理に起きるな」

 

 少々連合王国訛りではあるが、聞き馴染みのある言葉が響いた。それを聞いて取り合えず頷くことができたが、そうか、とだけ呟いてからこちらに背中を向けながら土間で獲物の皮剥ぎを開始した。

 

 「ここは?」

 

 「この言葉が聞き取れるということは、連合王国側から来たのだろう?お前等が東方二十八ヵ国とひとまとめにして呼んでいる場所だ」

 

 東方二十八ヵ国。連合王国より東は大小様々である広大な山脈が広がっており、言語の違う少数民族がそれぞれの国境をしいて成立しているという。山脈だらけで平地が少なく、道といえばもれなく登山道であるこの国に経済的な旨味はない。連合王国と多少の交易はしているようであるが帝国ではほとんど存在感の無い土地であった。

 

 歴史にはあまり詳しくはないが、聞きかじった話では昔あった騎馬民族の襲来も兵種の相性の悪さと陥落せしめたところでまったく旨味のない国土のせいで避けて通ったと言われている。国は貧しいかもしれないが平和でのんびりとした国々と国民が独自の文化で生活をしていた。

 

 東方二十八ヵ国、ということは連合王国の上を通り抜けてきたということか。しがみついているのに必死で、まったく意識をしていなかった。

 

 「ここは東北の地スウェ。高山地帯にある僅かな平野で山羊を育てて生計を立てている小さな国だ」

 

 男が木窓を開ける。冷気が家の中に入るが、それよりも目の前に広がる景色に目をむいた。

 

 窓の外から見える、ほんの僅かな背の低い緑の草が生える土地の向こうはコボルト達が住んでいた霊山のような山とは違い、崖のような切り立つ壁が白い雪で染め上げられた状態で圧倒的な景色として君臨していた。あまりの巨大さに距離感がおかしくなりそうだが、息を呑んでしまう。

 

 そしてそれと同時に、振り落とされた時の記憶が蘇る。自分を落とした竜は、あの切り立つ壁の頂上にランザを連れ去って行った。思い返すと怒りが湧いて来る。

 

 気が付いたら、板張りの床が視界一杯に近づいていた。床に転落する音が響き、鈍痛だった傷が激痛を訴える。

 

 「なにをやっているんだ。無茶はするな」

 

 「行かなきゃ。あそこ、あの山の上に。ランザのところに」

 

 「落ち着け。どんな事情があるかは知らんが、あそこの頂上はまともな道も通じていない。切り立つ壁のような崖を昇っていくしかないような場所だ。寝台から降りることもできないような奴が登頂できると本当に思っている訳ではあるまい」

 

 いう通りだ。這いつくばるのが精々だし、這ってでも進むだなんて不可能なことをつぶやく程子供ではない。腕を貸してもらい、介助を受けながら寝台に座らせてもらう。

 

 「軽度の凍傷に左腕やあばら骨が数本に右足も骨が折れている。筋断裂をしている場所もあるうえ、擦過傷に切傷も多い。体力の消耗も言わずもがなだ。今は動けるようになるまで身体を休めろ。なにをするにしても、それからだ」

 

 「そうだね。迷惑かけた。えっと…」

 

 「フルークだ。ウォーリアバニーのフルーク、狩猟と牧畜で生計を立てているただの山岳民だ」

 

 「ありがとうフルーク。自分はクーラ=ネレイス。帝国から飛んで来た、なんて言ったら信じてくれるかな?」

 

 「信じるさ。天竜オリシスから、落ちて来たのを見たからな。竜にしがみついて入国する等、なんとまあ無茶なことをすると思ったものだ」

 

 木製の巨大な、鍵付きの木箱のうえにフルークは腰を降ろした。入国云々は冗談かもしれないが、冗談めいた顔や声でもないので案外本気かもしれない。

 

 「事情ってものがあってさ」

 

 「天竜にしがみつく程の事情だ。相当面倒な話なのだろう?今は聞かん、その代わり養生しろ。身体が動くようになってもらわないと、寝台が開かないからな」

 

 焦りはあるが、言われたことは素直に呑み込む。焦ろうが焦るまいが、どうあがいても今の自分がランザの元に向かうのも不可能だし、例え五体満足だとしてもあの凄まじく切り立った崖昇り等できる自信がない。逸る感情を落ち着かせるように深呼吸をする。深く息を吸うだけであばらが痛むが、その痛みがむしろ頭を冷やしてくれた。

 

 思い返してみても、我ながら無茶をしたものだ。必死だったとはいえ、帝国からスウェという辺境国までしがみついて来るとは。あの時は、離れないように、振り落とされないようにしか考えていなかった。

 

 ガランやノルンは無事に後アブソリエル公国の地獄を抜き出した。公国の前線を守護していた砦にいた、エルバンネやウェル達はどうかは分からないけど、ランザに乗りながら逃れる最中チラリと見えた限りだと砦は半壊しつつも崩壊まではしていなかったため生き延びている可能性もあるだろう。

 

 その代わり、残念なことにハボック及び霊山壊滅は疑いようもない。あの地獄のような光景は火竜ランドルフがいた霊山から始まっており、ガスパルの口ぶりではこの事態を引き起こす為に天使と悪魔が手を組んで行ったことだと言えた。

 

 改めて外を見る。青々とした空に、こんな状況じゃなければ感動する程に広大な景色。帝国でおこったことが嘘か夢のようなことにも思えてしまう。本当に、遠くまで来てしまったんだと改めて感じた。

 

 ランザと比べれば心配は二の次だが、彼等は今まともじゃない環境に放り込まれている。ミルフの顔が、思いう浮かんで消えてしまった。下手をしなくても生き延びることができる混沌とした状況、彼女から教わった影術が、そのまま形見となってしまった可能性だって高い。

 

 彼女のことは好いていたかもしれない。特異な術を教わるという目的があり一番接していたが、嫌ではなかったし楽しかった面もある。なによりランザに対して恐怖を感じていたようであり不必要に近づかなかったから異性的な面でもライバルになりえず安心していた。

 

 向こうはどう思っていたかは知らないけど、初めてできた友達だと言っても良いかもしれない。恐らくはもう二度と会えない友達の顔を思い浮かべ、消した。感傷に囚われるのは、全てが終わってからにする。ただ、心の中で礼だけを述べておく。

 

 「多言語を話せるようだけど、流暢なものだね」

 

 フルークは僅かに微笑むだけだった。ウォーリアバニーは絶滅寸前と言われているが、それでもなお各地の戦場を転々としていたと言われている。一つ処に住み着かない為、そしてあらゆる国家や勢力と傭兵契約による交渉をする為多言語の習得は必須事項なのだろう。

 

 今は身体を動かすことができない。出来ることは、彼を理解するべきことだろう。絶滅寸前まで戦争好きな種族であると言うのに、言ったら失礼だがこんな僻地で、本人の言を信じるならば狩猟と牧畜で生活しているなんて違和感がある。

 

 「多言語が必要な理由は分かっているのだろう?その身体と得物、血の臭いがこびりついている。我等の種族の噂を知らない程、平穏な生活を送っている訳でもなかろう」

 

 空気が凍り付く。無言の時間が続いたが、こちらから軽く手をあげて降参をする。助けてくれた相手を探りを入れるのは不躾であっただろう。敵意も悪意も無い相手なのだから、腹の探り合いは失礼であったかもしれない。

 

 「確かに、こちらが不躾だったよ。噂程度と言っても、ウォーリアバニー話は伝説級だからね。まあ噂には、余計な付属物がついてしまうのはよくあることだけどね」

 

 とは言うものの、微かに覚えているのはあの悪夢の世界で多数の人妖相手に大立ち回りをしていた。いくら人妖が元の種族よりも強力だとはいえ、あの戦闘力からして噂のほとんどは本当なのではないかと思えてしまう。目の前の人物にしたって、筋力だけでもあの豚鬼を上回っているように見える。

 

 「伝説か、皆が聞いたら喜びそうな話だな」

 

 「貴方は、そうでもないの?」

 

 「戦場で血を流し、武勲を立てることこそが喜びの時期もあった。だが、喜びを分かち合える仲間がいなくなった時、フルークの中での一番の楽しみは、戦場に立つことでも闘争をすることではなくなった。それほど、血の気の多い方でもなかったということだな」

 

 フルークが外を眺める。

 

 「ここには闘争はないが、この雄大な自然の景色がある。時折天竜が空を飛ぶのを見ることもある。ここの民は皆生きることが第一で、この姿を色眼鏡で見ることはない。交渉相手となってくれる良き隣人達だ。半生を血塗れで過ごしたのだ、もう半生は穏やかに過ごすことも良いだろう。多少後ろ暗いところがありそうな半獣を助けるくらいには気持ちも生活も余裕があり、満たされている」

 

 少し以外だった。血の気の多い蛮族みたいなものを想像していたが、考えてみれば余生を穏やかに過ごす

個体がいてもおかしくはない。

 

 自分も大多数の人間は、半獣を色眼鏡で見ていた。だがこうして見ると自分もウォーリアバニーを噂だけ聞いて勝手にイメージを膨らませていたのを痛感してしまう。

 

 「フルーク。なにか返せるものがあると良いけれど、生憎なにも持っていない。それでも、怪我が治るまでお世話になっても良いかな?迷惑、かけるけどさ」

 

 「迷惑だと思うなら拾っていない。なにせ、天竜にしがみつくくらいガッツがある娘だ。怪我が治ったら、何故あんなことになったのかを教えてほしい。それが対価だと思ってくれ」

 

 その言葉を聞いて布団の中に潜り込む。ランザのことは心配だけど、恐らく天竜に害する意図はないと思う。今は回復に専念しよう。そして、あの崖を登頂する方法を考えないといけない。やるべきことは、多い。

 




 間が開いてしまい申し訳ありません。私生活が忙しかったのと、アーマードコア6に夢中になってしまっていました。

 本編と関係ない話ではありますが、アーマードコアを購入した621の皆さんは最初はどのエンディングを選んだんでしょうか?かなり悩む選択肢でした。

 更新ペースを今後戻していこうと思うので、これからも作品をよろしくお願いします。


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絶壁


 フルークが作る薬草と野菜を煮込んだドロドロの、お世辞にも美味いとは言えない煮汁スープに慣れてきたころ、ようやく身体にある程度の自由が戻るようになった。

 

 まだ無理はできない程だが、木の棒を削った杖をつきながら短い距離くらいなら散策できる。少し歩くだけで筋肉が萎えてしまっていたのが分かるが、それでも、少なくとも下の介助を受ける必要がもう無さそうなのはありがたい。必要な介助であるのは分かるので文句は言わないが、羞恥心で死にたくなる。

 

 しかし、まだしばらくは寝たきりになると思っていた。あのドロドロ粥の滋養要素は、我慢してでも食べる価値はあったということか。それに、フルークは治療技術や骨接ぎが上手い。流石は元々一族単位で世界中の鉄火場に乱入してきた種族だ。薬草粥といい、外傷の手当てや治療には手慣れているのだろう。

 

 「はぁ」

 

 思わずため息をついてしまった。雄大、という言葉をこれほどまでも意識したことはない。青々とした短い草が絨毯のように敷き詰められるように生えており、山羊が草を食んでいた。石造りの小さな水路から湧き水が溢れている。水場の受けに石をくり抜いたものが置かれており、黒と白の犬が水を飲んでいる。

 

 水飲み場の隣には食肉の解体と保存を兼ねている小屋が併設されていた。軒先には雨除けの屋根が付けられており、大量の薪と手作りオーブンに、野外調理ができる竈がある。玉ねぎやニンニクが吊るされており、呑気なものでその下には猫が腹を見せて寝ていた。近くには一人暮らしには似つかわない程広い丸太のテーブルと椅子が置かれている。

 

 解体場の隣には倉庫兼作業場が作られており、そこでは獲物から剥いだ毛皮をなめし加工をしているようだった。布団や服の素材となる毛皮や食べきれない肉は、近所の村人や行商人と交換をしているようだ。近所といっても丘向こう側がお隣さんである程の人口密度ではあるようだが。

 

 その向こう側を見れば石を積み上げただけである低めの壁が作られており、壁の向こう側は急斜面となっている。遥か下には川が流れているのが見え、木々と共にポツリポツリと家があるのが見えた。水面は低めに見え、穏やかに流れている。

 

 そして、息を呑んだのが遥か先の景色。木々生い茂る森の向こう側、まるで山を両断して斬り分けたかのような絶壁が岩の灰色と雪の白さで塗られていた。標高がどれくらいなのかも分からないというか、雲よりも高い。

 

 見るだけなら雄大な景気。観光に来ただけならば、この光景だけならば見ただけで満足してしまうだろう。ここに来た甲斐があったと、感動すら覚えたかもしれない。だがしかし問題なのは、あの天竜が最後に向かった先はあの山頂であるということだ。

 

 眼帯を外す。普通の肉眼では分からないが、常人より遥かに優れる悪竜の視力でほんの僅かに石造りの建物があるように見えた。なんとなくだけど、火竜の神殿に似ているような気がする。あくまでも、気がするというだけであるが。ここから詳細が分かる訳がない。

 

 そもそもあんなところに建造物があること自体が、竜と関係がある証拠だろう。考えてみれば火竜の神殿も火山地帯のよく分からない場所に建造されていた。もしかしたら、海竜の神殿は海底深くにあるかもしれない。いずれにせよ、人知を超えた話である。

 

 まずは谷を降りる方法を探し、森まで向かう方法を探さなければならない。まあ下には民家もあることだし、階段のようなものが何処かにあるだろう。森までは問題なくいけるが、山脈のように連なる絶壁を昇るのは骨が折れるなんて問題ではない。

 

 多少の崖昇りはできなくもないが、あの高さを昇ることまで想定した技術ではない。そのうえ寒さも厳しいだろうし、一日で昇りきれるものでもないだろう。身体の快調を待つのは当たり前であるが、特殊な道具や専用の技術も必要になるだろう。

 

 もしくは、あの山の裏側を確認しなんとか別ルートを見つけることが出来ればもしかしたら案外楽に昇ることができるかもしれない。

 

 「無駄だな」

 

 フルークが声をかけてきた。山羊の乳を搾っていたが、こちらの考えを読んだのか口を挟んできた。

 

 「山の裏側もあんな感じってこと?」

 

 「隣国に入国し、三日かけて歩けば回り込むこともできるが待っているのはこちら側よりも苛酷な環境だ。悪いことは言わんから、余計な望みは持たない方が良い」

 

 ため息をついて、山から目を離す。フルークの表情はこの生活でほとんど変化は見られないが、それは無表情というよりかは種族特有のものではないかと推測できた。人となりの全てがこの短い生活で理解した訳ではないけれど、不必要な嘘はつかないタイプではあると思う。

 

 寡黙だが無口ではない。なんとなく、コボルトのロウザを思い出す。同じくあまり長い付き合いではなかったけど、雰囲気的には近いものを感じた。

 

 「どうしても、登りたいのか?命を投げ捨てるようなものだ、お勧めはしない」

 

 「竜を称える神殿があるんだったら、建築技術を持つ人間や多かれ少なかれ石材や道具を搬入する必要があるんじゃない?だったらさ、過去竜以外にも登頂した人間かそれ以外かがいたと思うんだよ。竜が自分であの手のものを作るキャラじゃないのはよく分かっているからさ」

 

 「竜の生活を語る等異常者と言われかねない物言いだな。だがしかし、天竜にしがみついていた以上戯言と斬り捨てられないのも確かだ」

 

 乳しぼりを終えたフルークが、バケツを持ちながら歩いていく。あの山羊の乳からチーズを作り出し、それをカチカチに乾燥させて吊るし保存食とするらしい。嘘か本当か、カチカチのチーズを投石機から放ちそれに命中して死んだ偉人がいたとかいないとか。

 

 山羊が近づいて来た。なにかされると思ったが、スルーしていき目的も無さそうに歩いていく。ほんの少し前まで鍛冶鋳造の国に、そして戦争をしていたとは思えない程ののどかさだ。腰を降ろして、骨に負担がかからないように横になる。

 

 深呼吸をすると、空気が奇麗であるということが分かる。刺激は少ないだろうが、雄大な自然と新鮮な空気を吸いながら日々の糧を得る為だけに生活していく。ここには陰謀も怪しげな宗教問題も、戦火もない。こういうところで、ランザと共に生活をしていくのも魅力的に思える。

 

 「会いたいよ」 

 

 拳を握りしめる。

 

 最後に見た彼の姿は、ボロボロであった。自分やガラン達を護りながら最後まで飛んだ為、その身体には噴火の災害を最後まで浴び続けていた。墜落するように着地した彼の身体は、今の自分等よりも重症であった。あまり考えたくないが、生きているか死んでいるかも分からない。

 

 いや、ランザは死んでいない。だがそうだとしても、彼は身体の傷が癒えた後エンパスやテンの問題と決着をつける為に飛んでいくだろう。その時は、修羅場に向かう際自分は置いて行かれるだろう。ここは、それだけ平和で安全である。

 

 だとしたら、こんなところで泣きべそをかいている場合ではない。あの重症がどれくらいで完治するかは分からないが、こちらは傷を癒した後あの断崖を昇る手段と体力を蓄えなければならない。

 

 立ち上がり、杖をついて歩く。寝たきりの期間があった分、筋肉も体力も萎えている。少しでもそれを取り戻さなければならない。無論、それで傷が悪くなってしまったら本末転倒なので気を使いながらではあるが。

 

 しばらくグルグル回るように歩いていたら、それだけでかなりの疲労が溜まってきた。身体が思うように動かないことが、ここまで苦労するとは思わなかった。建材の余りなのか、転がっていた岩の上に腰を降ろす。涼やかな風が汗で濡れた肌の上を撫でていった。

 

 カツン、という音が聞こえた。フルークが太い獣の骨を鉈で両断しているところだった。割れた太い骨の内部、骨髄に岩塩と香辛料のような赤い粉末をかけている。野外調理場、何時の間にか火入れをしていた手作りのオーブンの中に骨髄を鉄板を使い入れていた。

 

 大振りの肉が台所に乗っており、板のような肉斬りナイフで切り取っていく。竈に火が入っており、鍋やフライパンではなく鉄板が乗せられていた。牛脂に似た油の塊を鉄板に乗せて伸ばし、その上に二枚の肉をしいた。焼けるまでの間、寄ってきた犬や猫に肉の切れ端を投げる。

 

 両面を焼いた肉の良い香りが漂ってきた。味の酷い草粥ばかり食べさせられていた身体はその匂いだけで反応し、胃袋が鳴り始める。味を想像しただけで唾液が口内から溢れ出してきた。

 

 フルークが調理場から少し離れる。水汲み場には何時の間にかトマトとレタスが洗われ、冷やされていた。まな板に並べられたトマトに、野菜を切るようのナイフが挿入される。良く砥がれているのか、ストンと柔らかいものを切るようにトマトが両断された。瑞々しい断面から水分が零れる。

 

 レタスにもナイフが入れられ、食べやすいサイズに切断された。玉ねぎも鉄板に焼かれ、先に焼かれていた肉が皿の上に焦げないように避難させられた。

 

 脇に置かれたバケットから大きな丸いパンが二個取り出され、真ん中から断面を切断する。レタスを敷いてその上に肉が広げられた。オーブンから焼けた骨が引き出され、スプーンを使い岩塩と香辛料で味付けたした骨髄がソース代わりに肉の上に広げられた。

 

 その上に焼かれた玉ねぎとトマトが重ねられ、パンで挟まれる。パンの大きさもあるが、巨大な肉と様々な具材のせいでかなりのボリュームがある。普段なら食べきれないだろうが、今ならあれ一個くらいならペロンと食べきれそうだ。

 

 しかしさすがはウォーリアバニー。ガタイや筋肉を維持するためには大食感にもなるだろうが、あれを二個食べきることができるとは。

 

 最後に水飲み場で、木彫りのコップを二つ用意して水を汲む。巨大なパンとコップがテーブルに置かれ、手招きをされた。棒を使いながら立ち上がり、椅子に腰をかけると一つパンが差し出された。

 

 「良いの?」

 

 「歩き回れる程良くなったんだろうが。偶には良いだろう。そもそも、食べるのを見せつける為に呼ぶほど意地悪くはない」

 

 噛みつき、咀嚼する。顎の力も弱っているかと思ったが。若い食欲がそれを上回る。しばらくぶりに食べた肉の味が口内に広がり、骨髄に塩と香辛料を混ぜたソースが想像以上に美味しい。少なくとも、帝国では太い骨というのは捨てるものであり内部のものを調味料に使うのは考えたこともなかった。

 

 帝国から飛び立ってから、初めて料理と呼べるほどの手の込んだものを食べたこともあり涙が出てきそうになる。調理場にいたミルフには悪いが、どれだけ工夫してみても豊富な調味料と潤沢な食材には勝てない。

 

 味も聞いてこずに、黙々とフルークは食を進めている。食べ慣れているせいもあるだろうが、やはり表情に出てこない。こちらが食べきった後で、口を開く。

 

 「動けるようになるようになれば、そろそろ食いがいのあるものが必要になるだろう。エネルギーも欲しくなるだろうしな」

 

 身体つくりには栄養が必要だ。自分も小さい頃、もう少し栄養のあるものを食べていけば今頃はもっと良い体つきになっていたのだろうか。今からでも間に合うだろうかと、少しだけ考えてしまった。

 

 「ありがとう。久しぶりに料理って感じの食事を楽しめたよ」

 

 「普段食べているものも、薬膳料理の類なんだがな」

 

 「自分の中では、薬膳料理は料理の類と認識できなかったみたい」

 

 「見てくれも悪いが、味も酷いからな」

 

 動けない期間食べていたものがそればかりなのも、味に感動している理由かもしれない。パンは少し堅めの保存がきくものであったがそんなものも全然気にならない。あっという間に食べ終えてしまった。

 

 さて、ここまで世話になっておきながら、今更な話ではあるが彼がなんの企みがあってここまで世話を焼いているのかが未だまったく分からない。以前の自分であったら裏があることを前提になにを考えているかを探る。だがしかし、世の中には無償で厄介に首を突っ込んだり世話をするお人好しもいる。

 

 冒険者ギルドで囲まれた時、ベレーザが助けてくれたことを思い出す。ランザは海に漂流したテンを助けて養子にした。世の中には、無償で誰かを助ける善人だって存在する。だけどそんな人達の存在が、目の前の人物がどういう存在なのかが分からなくする。

 

 悪意のようなものは感じない。例えばなにかに利用しようとしたりとか、性的な目で見て来るということもない。そもそも、淡々と動けない間の世話をしてもらった以上その企みはないと思うが。長々と本心を騙して油断したタイミングに、とも思うがそれなら動けない時に襲った方が早いだろう。

 

 正直、行動から真意を読み取るのはお手上げだ。本人の言にあるように、他人をただ助けるだけの生活と心の余裕があるということか。そういえば、少し忘れかけていたがこちらの事情に興味があると言っていた

。単なる好奇心もあるだろうか。

 

 「どうした?」

 

 「いや、正直お手上げだなと思ってさ。そろそろ、本当に慈善事業で助けてくれているんじゃないかと信じてしまいそうになるくらいにね。こうして、内心素直に喋るくらいにはなんで助けてくれたのか分からない」

 

 「その気持ちは分からなくはない。善意をちらつかせてだまし討ちをしてくる者等珍しくもないからな。だがしかし、お前は悪意を伴わない善意を施せる人物になれれば良いな」

 

 悪意を伴わない善意。イルドガルでイドを助けたことを思い出す。あの時ランザは、イドの覚悟を受け取って助けることを選択した。二度と会うことのない人物、自分には無意味なことにしか思えなかったけど、ランザには違うからこそ助けたのだろう。

 

 「自分には難易度の高い話だよ。それで、なんで助けてくれたの?確かに助けてくれとは話したけどさ。そろそろ、なにか交換条件や恩返しにあれをやれこれをやれなんて言うと思ったけどさ」

 

 「お前の特技で、フルークの役に立つことがあるのならばな。ここでは、血に塗れる技術が必要になることは少ない。荒事がまったく無いとは言わないが、人の血が流れるようなことはまずはない」

 

 フルークの鼻がピクンと動いた。そして、ウサギ特有の赤い目でこちらを眺める。

 

 「武器にこびりついた血の香りもそうだが、多少なりとも体術の心得もあるのだろう。全身にある傷のつき方から考えれば、修羅場をくぐってきたことは分かる。平穏に暮らすならば、ここではその技術は必要がない」

 

 「だろうね。本当に、ここで自分が約に立つことを考えてみたけど子供の使いくらいだよ」

 

 「強いて言うならば、そろそろ教えてもらおうか。竜に捕まって、わざわざここに飛んで来た理由という訳をな」

 

 「そりゃあ、気になるよねぇ」

 

 「この国には、神秘主義というか自然信仰というか、古い竜神信仰を持っている者もいる。ここでずっと暮らしていれば、三年の一度くらい天竜オリシスを見る機会があってな。今や古すぎる価値観であるがここでは伝統の一部として脈々と受け継がれている。フルークも、一度あの雄大に空を飛ぶ姿を見てから分からなくはないと思っている。だからこそ、あれに捕まって飛ぶ等と考えるとな」

 

 話して良いものだろうか。今まで自分が経験してきた経緯を思い返してみると、それこそ頭のおかしい奴扱いされてもおかしくないと思う。さて、どこから話してどこを隠しておくべきか。

 

 「取り合えず、話を聞くなら二つ程約束してくれないかな。話の途中で腰を折らないこと、取り合えず全部真実だと思ってほしいこと。良いかな?」

 

 何処を切り取り、何処から話せば良いか難しい。だけど、取り合えず話せるところは、正直に話してみようかとも思う。なにせ、恐らくあの山頂に辿り着く為には現地民の協力は必要不可欠だろう。

 

 竜神信仰を持つ相手だ。話す内容が吉と出るか凶と出るかは分からない。だけど、信じてもらうには誠意を見せるしかないだろう。覚悟を決めて、口を開いた。

 

 かいつまんだ内容を聞いたフルークの顔は、分かりにくいが苦虫をかみしめたようにも見えた。まあ、分からなくもない。虚言を吐いているとしか思えない内容なのだから。

 

 「申し訳ないが、流石に信じきることは難しい。あの流石に帝国が連合王国と戦争していることくらいは噂程度には聞いていたが」

 

 「まあそうだろうね。ランザ、悪竜になった人間。当事者でなければ信じられない話だと思うよ。もしくは病気を疑うよね…でもまあ」

 

 つけなおしていた眼帯をずらす。ジークリンデから譲り受けた黄金の瞳が、フルークを視界に入れた。

 

 「笑えることに、真実ってのは突拍子もない話なんだよね」

 

 難しい顔をしたフルークは黙り込む。しばらく考え込み、そして、深い深いため息をついた。

 

 「特殊な身の上。だからこそ、お前の旦那であるランザを迎えに行きたいのだな。心配でたまらないのだから」

 

 大きく頷く。因みにこの関係は嘘ではない。遅いか早いかの差でしかないのだからね。



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 フルークは狩人でなめし職人だ。仕事ぶりは見たことはないが、仕留めた獲物の数と、獣の外皮をほとんど傷つけずに一撃で仕留める技量は加工する毛皮の様子を見て素人目にもうかがえた。

 

 作業場兼倉庫に置かれる仕事道具の充実ぶり。罠から解体ナイフまで一揃いされており、品質にも妥協はない。そして使い込まれている。良いものは長持ちしやすいが、入念に手入れをしているのだろう。

 

 フルークの仕事道具から砥石を借りて直刀を研いでいく。リスムの経済特別区で購入した、特注した訳でもないのに長い間支えてもらっていた武器。磨いた刀身が自分自身を映す。最近は肉も野菜も豊富なスープや料理を食べているせいかだいぶ血色が戻ってきた。

 

 怪我も歩くくらいには支障も無くなり、身体はまだ本調子ではないとはいえ寝返りすらできない状態と比べればだいぶマシになっただろう。心配なのは戦闘における勘である。これは、訓練もそうだが実戦で確かめてみないとどれくらい鈍っているのか分からない。せめて模擬戦闘でも出来たら良いのだが、フルークはその手の願いを聞き入れてくれることはなかった。

 

 直刀、そしてルーガルーのナイフを磨き自分の装備点検をすます。投げナイフを消費しすぎた為、どこかで補給をしたいが望み薄であろう。投げつける為の消耗品なので粗悪品で充分ではあるのだが。狩猟の獲物から出た骨を削り代用品にでもしておこうか考える。

 

 フルークが扱う解体用に使う大振りのナイフを手に取る。状態を確認した後、砥石を刃先に当てて滑らせた。もうそれなりの月日、タダ飯食べている。恩返しには足りないが、出来ることは手伝わないと流石に座りが悪い。

 

 しかし、狩人の道具類ということは分かるのだが、自分の感性がどちらかと言うと密偵向けというかすっかり戦闘向けになったせいかまるでゲリラ戦を行う為の武器庫にも見えて来る。トラ挟みに各種罠に使えるロープの類。森林地帯でも振りやすいククリナイフは、ガランが扱うものよりも大振りでどちらかと言えば鉈に近い。

 

 住居の方にも飾ってあったが、ここにも弓矢の類や石弩もありこちらも使い込まれた跡が見える。骨を断ち切る為の鋸は、フルークの体躯と膂力に合わせる為か分厚く重そうだ。獣や鼻を欺く為に、森林に合わせた色に染め上げられた外套や体臭を消す薬品をしみこませていた。

 

 狩人がどういうことをする人間かは分かるが、その技能の細かいところまでは知らない。本格的に狩りで生計を立てるならばこれくらいの装備は必要なのだろうか。それとも、山岳地帯故の多彩な装備なのか。

 

 ギィ、という音を立てて扉が開いた。入ってきたフルークは外套を着こんでいる。なめし作業まで終えた怪我を丸めて長い紐で複数まとめる。背嚢と共に毛皮を背中に背負い込み、注文票をチラリと見て再度確認した後それをポケットに畳んでしまう。えらく几帳面に畳むものだ。

 

 「今日は市に行くが、来るか?」

 

 初めての誘いだったが、間を開けずに頷く。市場があるということは、人と道具に情報も集まる筈。出来れば帝国方面の噂話程度は欲しいが、多分それはあまり期待できない。ただ、流通情報から連合王国の様子やあの天竜がいる霊山の絶壁を昇る為に役に立つ道具があるかもしれない。

 

 手持ちの高価は帝国で流通していた銀貨に、リスム自治州に流れていた連合王国の通貨。使えるかどうかは分からないが、それを確認する必要もある。

 

 「それは置いていけ。必要になるようなことはない」

 

 何時もの癖で、準備となったら自然と武装を身に着けていたが、それを指摘された。

 

 「だとは思うよ。でも、今までずっとこれ等と一緒に過ごしてきた。手足を置いていけと言われて、置いていける人はいない。それこそ、切断でもされない限りね」

 

 ルーガルーのナイフはモスコー、この直刀はリスム経済特別区からの付き合いであるがそれ以前から自分のすぐそばには武装があった。もうほとんど覚えていない奴隷市場時代を計算に入れなければ、今までの生涯を武装と共に過ごしたと言っても良い。それこそ、日常品であり必需品に近い。

 

 そして、それをウォーリアバニーが分からないとは言わせない。自分を一目で、そういう人種だと判断するくらいには争い慣れしている人種がだ。

 

 「何時かは、それをただの刃物として認識できる日がくれば良いな」

 

 「フルーク、貴方はそれができたの?」

 

 家に飾られていた強弓は、獣を狩る為には異常に強力なものだ。多分鎧を貫通するどころではすまない威力であるだろう。下手をすれば大人数人は貫通するかもしれない。それを、寝所に飾ってあるのはある種の警戒ではないかと思う。戦場の思い出は、壁にかけて見返すには不吉にすぎる。ウォーモンガーでもない限りは。

 

 上着の中に直刀を仕込む。こう見えても隠密の端くれ、素人目では武器を持っているようには見えないくらいの技量はある。そして何時ものようにフードを深く被り、耳を隠す。半獣という存在は、それだけで争いの火種となる。

 

 「みんなが怖がるという理由ならば、これならどう?」

 

 フルークが頷いた。出ていく彼に続き、歩く。相も変わらず山羊が草を食み、猫や犬が思い思いに過ごしているが、聞くところによると乳を搾る為にいる山羊以外は野犬や野良がただ寄ってきているだけという。放し飼いかと思ったけど、そういう訳でもなさそうだ。

 

 砂利が敷かれた道を歩く。今日も快晴であり、標高が高いわりに天気が崩れることは少ない。前に帝都を目指して北上していた頃は急激な天気の移り変わりに難儀をしたものだが、ここではそんなことも少ない。

 

 人が少ないせいか、空気が澄んでいる。水は井戸を掘らずとも湧き出る地下水が透き通っており冷たい。冬場の厳しさは流石に帝都やリスムを超えることに想像がついてしまうが自然豊かな良い環境だ。自分はどちらかと言えば都会派であるが、もし本当に刃物を置いて一線を退くようなことがあればこんな環境で暮らすのも良いかもしれない。無論、その傍らには彼がいることが前提であり不可欠であるが。

 

 歩いている最中にも民家がまばらにあったが、本当にまばらだ。石造りの土台と木星の壁に屋根。一軒一軒敷地が広く、それぞれが野菜を育てたりガーデニングに力を入れたり自由に使っている。少し、悪夢の世界にいたサグレとベレーザを思い出してしまった。彼女達が仮にここで暮らしていたら、彫刻用のアトリエとハーブ園を作るのだろうか。

 

 「フルークさん」

 

 分かれ道の合流地点で馬車を引く青年が声をかけてきた。馬車には麻袋が大量に積まれており、なにが入っているかは分からないが恐らくは物騒なものではないだろう。

 

 「ドリナス、行商か?」

 

 「羊毛の仕入れですよ。今年は質が良い、天候に恵まれたおかげですかね?」

 

 「森の果実の実りが良いおかげで、獣達の毛皮も質が良い。興味があるなら、エルモの店に卸すから覗きに来い」

 

 「直接取引してくれても良いんですよ?仲介料を払わなくて良い分、そちらに渡す金銭もお得となりますが?」

 

 「遠慮しておこう。バレた時、ナミカに怒られるのが怖い」

 

 この国にいるのも長くなり、フルークに言語を教えてもらった。多少違和感はあったが原型となったのは帝国系言語が少し訛った連合王国系、そしてそれがさらに訛ったような感覚であった為、コツさえ掴めれば日常会話程度は話せ、聞き取れるようになった。異国の言語をすぐに習得するスキルは、自分のような人種には必要不可欠だしね。

 

 行商人の視線が、こちらに気が付いたように向けられた。商人、商人だ。商人相手にした時の嫌な思い出は多すぎる。イルドガルで、パルークーレースの為に利用されていたイドは相対的に考えればまだ幸せな扱われ方だ。彼等が持つ、値踏みをするような視線に嫌悪感が隠せない。

 

 無意識に、手が直刀の方に行くのをフルークが商人から見えないように手で止めた。

 

 「狩人の、お弟子さんをとられたのですか?」

 

 「弟子ではないが、縁があってな。居候という訳だ」

 

 「そうですか。初めまして、隣国のエルタやイルミを跨いで行商をしているドリナスと言います。お見知りおきを」

 

 こちらの出自等気にする様子もなく頭を下げて自己紹介をする。こちらも渾身の作り笑いを浮かべ愛想よく笑ってみせる。レントが加護を与えた連中は美人や美少女揃いだった。少なくとも、その一員にいたのだからそれなりの笑顔を浮かべて応対すればそれなりの評価と感情が帰ってくるものだ。少なくとも、耳と尻尾を見せないかぎりは。

 

 「初めまして。クーラ=ネレイスです。こちらこそよろしくお願いします」

 

 「ネレイス。ファミリーネームを名乗るということは、外国からの旅行者ですか?」

 

 しくじった。そういえば、フルークは自分の名前を名乗る際にファミリーネームを言わなかった。もしかしたら、この国にはそういう文化が無いかもしれない。少し考えれば、馬鹿でも分かる。ただの行商人相手に気を使いすぎかもしれないが、隙を見せたのは自分が腑抜けている証拠だ。

 

 内心の自分に対しての苛立ちを抑えながら、思考は軌道修正をする。

 

 「はい。旅の最中で難儀していたところ、フルークに助けてもらいました。今は、彼にこの国のことを教えてもらっている最中です」

 

 嘘ではないが真実ではない。まさかこれだけの情報で竜から振り落とされた等と気が付くような奴がいたら、それは超能力者かなにかだろう。

 

 「ドリナス。商売は時間との戦いが、師匠からの教えじゃなかったか?徒歩に合わせなくても、良いんだぞ?遅れたら、また鉄拳を受けるんじゃないか?」

 

 「あーあー、フルークさんそういうこと言う。せっかく可愛らしい外国人のお嬢さんとお近づきになろうと思ったのに。まあでも、もっともかなぁ」

 

 ドリナスが馬車の足を速める。少しづず遠くなる馬車の上から、こちらに手を振った。

 

 「取引の話は考えておいてください!師匠を出し抜くことが、最高の師孝行ですからねー!」

 

 馬車一台、護衛は無し。積まれているのは満載の羊毛であるようだが、それでも強盗の類には襲われないのだろう。速足で行ってしまった。

 

 「しくじったなぁ」

 

 大きくため息をつく。平和な生活で腑抜けてしまっただろうか。ただ一時、身体が治るまでいる場所でしかないというのに。

 

 「しくじりと思うな、この国では杞憂だ」

 

 「ウォーリアバニーに喧嘩を売る命知らずはいないでしょう?半獣はそういう訳にはいかないの」

 

 「ならば、この先の光景を見て考えを改めろ」

 

 なだらかな斜面の道を通っていくと、木製の門が見えた。しかしながら門は壊れており、扉は無警戒にも開きっぱなしであった。そもそも、それ以前に左右に壁も無ければ柵もない、ただの意味のない枠にしかなっていなかった。ド田舎、という言葉が失礼ながら頭をよぎる。

 

 門の内側は、正面に木製の大きな建造物が見えた。二台の馬車が止まっており、農機具のようなものを降ろしている。隣にある馬車は果実が満載されており、自分達が入ってきたのとは反対側の方向に出ていった。郵便局のようなものを兼ねているのか、郵便袋を背負った飛脚が建物に入っていく。

 

 左右には露店が並んでいた。主となるのは果実類の他に穀物や野菜等の料理の材料が並ぶ。その隣には干した川魚と肉が煙で炙られていた。燻製となったものを、村人と思われる人達や商人が購入していく。

 

 小さな酒場と思われる建物。今は営業時間外なのか店員と思わしき人間が箒で地面を掃いていた。驚愕したのは、彼女の臀部からクリンとした茶色の中に黒の三本線が入る大きな尻尾がついていること。そして小さな耳が頭に生えていた。間違いない、リス系の半獣だ。

 

 「飲食店の店員に、半獣?」

 

 冗談のような光景に顔が引きつる。帝都であんなことをすれば、店に向けて投擲物を投げ込まれても珍しい話ではない。それどころか、浄化とか消化とか消毒とかの名目で夜中に火をつけられてもおかしくはない。連合王国でも表立っての排斥はされないにしても、眉をひそめられるだろう。

 

 だがその半獣は、通りかかった人と挨拶をかわし立ち話に興じ始めた。奴隷ということでもなさそうだ。もっとも、半獣を飲食関係の奴隷に使おう等持ち主の衛生観念を疑われる悪手ではあるのだが。

 

 フルークに肩を叩かれ、そちらの方を向く。露店で店主の男性と半獣の男性が値引き交渉をしていた。互いに値段を言い合い、しょうがないなと店主が笑いながら「何時も贔屓してくれるから」とかなり負けた値段で取引をしていた。

 

 よく見たら、木窓から見える中央の建物の内部でも筆を走らせる半獣がいた。声は聞こえないが、動作から部下に指示をしている様子も見える。驚くことに、ここでは公務員や役人のような立場にまで半獣が存在しているようだ。そして、フルークに対して物怖じするような者が存在しない。

 

 ガランが語っていた夢物語の光景が、目の前に広がっていた。自分には想像もつかないような世界。そりゃあ、ランザやベレーザのように差別を快く思わない人間はいる。だがしかし、普通の大衆にとっては差別というのは日常生活の一部となっている。

 

 誰もが自分より下の存在を見て安心する。そして、ああはなりたくないと奮起をすることで、憐みを向けることで、嘲笑することで心の平穏と生活の安定を手に入れている。良い悪いの問題ではない。虐めは本能に基づく行動だと聞いたことがある。鶏でさえ、集団になれば仲間であっても弱い個体を死ぬまで集団でつついて殺す。

 

 そのようなものだと思っていた。だがしかし、ここでの光景はそんな自分の価値観を根底から否定をするものだった。

 

 「この国では、助け合わなければ生きていけない。時に苛酷となる環境は、命を容易く奪うからだ。助け合える者同士、憎しみあいいがみ合う価値はない」

 

 自分は、まだこの国の気候について穏やかな面しか見ていない。だがしかし、時にはこの雄大な大自然が

猛威を振るうことがあるのだろう。だからこそ、皆が皆を尊重しあい助けあっているのか。

 

 見かたによれは、それは競争を阻害する行為だ。踏みつけあうことにより争いが産まれ、それは発展に繋がる。人口比もあるから簡単な比較はできないが、悪く言えばこの小さな市場は過去の時代に取り残されているようにも見える。

 

 だが、ガランが率いていた皆がこの光景を見たら涙を流すかもしれない。ここが、時代遅れで無価値であるとは言えない。

 

 中央の建物を周りこみ、西側に向かうと織物が並ぶ露店が目に入った。民族衣装のようなものだろうか、ゆったりとした布を巻いたような衣装を男女問わず着ていたのを何人か見ている。因みに、フルークは着ていない。どう考えても似合わない。

 

 「ナミカ」

 

 「聞こえてるよ!入っておいで!」

 

 近くにある建物に入ると、そこには麻の布地や毛皮が積まれていた。恰幅の良い中年女性が針と糸をまるで使い慣れた暗器のように凄まじい速さで動かしている。作っているのは、冬服だろうか。裏地にも毛皮を当て、保温を重視するように頑丈に縫われていた。

 

 「ナミカ、これが注文に受けていた…」

 

 「デカい図体の癖に、相変わらずボソボソ喋るね!今忙しいんだから金はそこの棚から持っていきな!グズグズしてると邪魔になるよ!」

 

 流石に渋顔になるフルークであるが、なにも言い返さずに棚に置かれたフルークの名前が書かれた袋を手に取った。音からして貨幣が入っているようだが、中身を確認する様子はない。

 

 「フルーク、中の確認を」

 

 「あぁん!?誰だい失礼なことを言うアンタは!」

 

 商品と金銭のやり取りをするのだ。後で金額が合わなければ水掛け論となり、意味がない。後でこじれないように、今この場で見て確かめることが重要である。

 

 こちらは常識を言ったつもりであったが、ナミカは声を荒げながらこちらを睨んだ。腹の肉を揺らしながら立ち上がり、こちらに迫ってくる。

 

 「失礼?揉め事をおこさないように、重要なことだと思うけど?」

 

 金銭に関わることは大切だ。それを確かめることは当たり前であり、それを失礼呼ばわりされる謂れはない。こちらも黙ってはいられない。

 

 「そちらに悪意が無くても、手違いで必要料金が入っていない可能性がある。それを後から指摘することで摩擦が産まれればお互いに面倒なことになるだけだと思うけど?そもそも、貴女はフルークが持ってきた毛皮の価値を鑑定しないまま値段をつけている。それは、狩人だけじゃなくなめし職人であるフルークに対する侮辱にも見えるけど?」

 

 「生意気なことを言う小娘じゃないかい。アンタの連れかい?」

 

 「色々あって、居候させている。市場に連れて来たのも、今日が初めてでな」

 

 「ふーん、そうかい」

 

 ナミカがフルークが持ってきた毛皮の紐をほどく。片手で広げ、商品を一瞥した後こちらに向き直った。

 

 「フルークの腕前は確かだよ。アタシの注文通りのものを毎回届けてくれるし、文で予め卸す毛皮の状態を伝えてくれる。アタシの工房は忙しくてねぇ、本当ならこの口論の時間も惜しいくらいさね。フルークは注文通りのものを完璧ななめし作業をし持ってきてくれる。そして、状態について事細かく書かれた手紙は嘘も誤魔化しもない。状態が分かれば、鑑定をして金額をつける手間が省けるってもんさ。お互いの信頼のうえで、この取引が成り立っている。衣服造りも金銭も誤差なくきっちりが、こちらもモットーだからね」

 

 「その通りだ。ナミカとの取引で、誤差がでたことはない」

 

 「今アンタは黙ってな!今この嬢ちゃんと話しているんだ!」

 

 怒鳴られたフルークは、渋顔のまま口を噤んでしまった。ウォーリアバニーを黙らせる怒声等、大した胆力だ。

 

 「でも、そんな方法は他じゃ通じない。腕が良いだけの職人なんて、カモにされて終わりだね」

 

 「余裕のない嬢ちゃんだね。よほど、ケツの穴が小さい世界から来たようだ」

 

 「なに?」

 

 「信頼には信頼で応じる。それのなにがいけないっていうのさ。それとも、そんな相手が一人もいない程寂しい奴なのかい?アンタは」

 

 「そっ!」

 

 そんな訳がない、と言おうとした時点で自分の負けが確定したことが分かった。思い出したのは、帝都に向かう際にノック山の調査による報酬金を山分けした際のことだ。ランザは、どうしても自分にも山分けした分を持たせたがり、そしてそれは確かめるまでもなくちゃんと五分のものだった。

 

 自分はランザならそうするだろうなと思っていた。全額持っていてもらっても良かったのに、彼は対等な仲間として認めてそうしたのだ。

 

 ナミカはフルークを、対等な商売相手として認めているのだろう。こんな大雑把な取引で、互いに納得がいく交渉ができるくらいには。

 

 「言い負かされたからって、辛気臭い顔するねぇ!建物の中でくらいはそれをとりな!」

 

 耳を隠す為のフード。伸ばされてきた腕から逃れる為に、後方に下がるが後ろにいたフルークがフードをとった。灰色の耳が露出してしまい、思わず両手で隠してしまうがそれは意味のない行為だった。

 

 「なにをする!」

 

 本気で牙を剥くが、悪意の視線は飛んでこない。それどころか、豪快な笑い声が響いた。ナミカが、こちらが威嚇する様子を小動物の威嚇を見るように大声で笑ったのだ。

 

 「なにをトゲトゲしているのか思ったら、半獣かい?まったく、よそで相当酷いめにあったのかい?」

 

 「お前には、関係ないだろう」

 

 「ああ、ないね。まったくくだらない。アンタのことじゃない、アンタを取り巻く世界がくだらないのさ。この国で、その程度の特徴で後ろ指を指す相手がいるものかね。だから、そんなに怯えるのはやめるんだね」

 

 興味も無さそうにナミカは作業に戻る。こちらが殺気を剥けても、相手にもされていない。行き場のない感情が、心の中に広がった。



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この国は良い国だ。自然は苛酷な面もあるがその為に人々は助け合い、他者に対する思いやりが産まれている。

 

 フルークが伝えたいことは、そういうことなのだろう。自分の過去は何一つ話した訳ではないが、彼のように武器を置ける道があるということを暗に示したかったかもしれない。まあ、思うところがない訳ではない。ガランが目指すもののモデルケースを見たという意味もあるし、ランザとこういうところで過ごすのも良い。

 

 市場の食堂にて昼食を囲むテーブルには、葉野菜の盛り合わせとライ麦のパンが並んでいる。汁物は岩塩と豆のスープと質素なものだが旅の最中に食べた料理は輪にかけて貧相だから文句の出ようもない。そもそも食べさせてもらっている以上、それを言うのはお門違いなのではあるけれど。

 

 「我等天風の恵みともたらしに感謝をし、今日の糧をいつの日か大地へ、そして空へお返しすることを誓います」

 

 フルークが手を正面に組み、食事前の文言を呟いていた。もはやすっかり慣れてしまった儀式的行為であるが、こちらとしてはやる気もおきなければ向こうから強要されることもなかった。神様とやらは見たことはないが、その奇跡による結果と惨劇を思えば食欲も失せてくる。

 

 ただフルークの文言が終わるまでは待った。先に食べ始めるなんてもっての他だろう。

 

 「待たせたな」

 

 「いや、毎度のことだし、別に。というか、何時も何時もまあよくやるよね。宗教観ってのはよく分からないけどさ」

 

 「天竜は枯れた大地には雨雲を呼び、荒れる地には風と陽を当てるという。我々はその恵みを享受して生きているという考えのものだ」

 

 「連中がそんなことまで考えているとは思えないけどね」

 

 少なくとも、ジークリンデはただの愉快犯だった。ランドルフはまっとうに祀られていたけれど、信仰の対象になることじたいは消極的には見えた。天竜はどうだかは分からないけれど、どちらにしても下々の信仰なんていちいち聞き入れていないんじゃないかと思う。

 

 「宗教とは心構えの問題だ。そして、土着の信仰というものは生活に密接している知恵が蓄えられている。例えば、戒律により不必要な狩猟や殺生は禁止されているが、それは獲物の数が不足しない為と治安の維持に貢献している。求めすぎないことも大切だ、必要な糧で満ち足りる幸福は大切でもある」

 

 「確かに、国によっては信仰心が無いということは常識が無いと一緒なんて言うけどさ。それでも、自分は勘弁だよ。宗教組織の皮を被ったヤバイ連中がいるからね」

 

 葉野菜を食む。野菜には岩塩が振りかけてあるようだが少量。これがこの国での食べ方なのだろうか?そういえば、塩が振りかけた野菜はフルークの家でも何度か出てきていた。だが思いのほか、ライ麦パンは美味しかった。噛んでから分かったが、中に腸詰めが入っている。貧相に見せかけた贅沢品だ。

 

 「そのような存在はこの国にはいない」

 

 「未来永劫いないとは言い切れないでしょ。そのうち来るよ、西からね。それも、遠くない未来に」

 

 ガスパルは、連合王国で待つと言っていた。いくら悪魔といえど、膨れ上がったエンパス勢力に対して後ろ盾無く対抗できるとは思えない。悪魔の所業だ、あれこと知識を吹き込んで抱き込むくらいのことはできるだろう。

 

 想像を空想まで広げるならば、連合王国を抱き込んだのは戦争以前から。つまり、帝国と連合王国の戦争を演出する為に暗躍していたなんて考えてしまうこともできる。証拠がない限りは、誇大妄想にすぎないけどね。

 

 取り合えず、今ガスパルが連合王国を後ろ盾にしている以上、いくらエンパスといえどもあの国を容易く攻略できるとは思えない。むしろ、国家という組織力を十二分に使いガスパルの采配のみでエンパスの問題を片付けることもできるかもしれない。

 

 だが、エンパスだってガスパルの存在を計算に入れたうえで計画を動かした筈だ。ガスパルが勝つ可能性があるならば、それ以上にエンパスはガスパルを越えて来るだろう。勝算があるからこそ、行動をおこしたのだから。

 

 「フルーク、今日までお世話になりました」

 

 貨幣袋をテーブルの上に置く。中身は帝国で鋳造された銀貨と銅貨の類だ。国は違えど、帝国の貨幣というのは信用が強い為異国でも問題なく使える場合が多い。今の帝国の信用がどれくらいかは知らないけれど、まったく使えない筈でもないと思う。どの道、今自分の手持ちはこれが精一杯である。

 

 「なんだ、これは」

 

 「足りないだろうけど、礼金として受け取ってほしい。身体はもうほとんど癒えたし、そろそろ世話になるのも申し訳ないしね。これで足りるとは思えないけど、埋め合わせは後日で良いかな」

 

 「それは別に良いが。これからどうするつもりだ?拾った命を捨てに行くつもりならば、許すことはできんぞ」

 

 フルークにはここ数か月、神域故に立ち入り禁止であるということと、そもそも登頂不可能と言える凄まじく高い壁を登攀するなど命を捨てるようなものだとも。宗教上の理由と共に、現実的にも危険であることを何度も口すっぱく語っていた。

 

 もしかしたら、お前の目当ての人物ももうあそこにはいないだろうと冷静に考えればあり得る話も時に織り交ぜながら、平和な暮らしを享受することを幾度も勧めてきている。

 

 だけど、ジークリンデの瞳を継承した自分には分かる。ランザは未だあそこにいる。何故降りてこないかと言えば、それは降りられない理由があるからに他ならない。或いは、天竜オリシスが原因に一枚噛んでいるのではないかと邪推をしてしまう。

 

 フルークには悪いが、天竜オリシスは状況いかんによっては敵だ。最悪ランザが監禁されているのではないかと考えるだけで、これ以上時間を浪費することはできないという焦燥感にもかられてしまう。なにせ竜の外見で性別を判断する方法は分からないのだから。同性同士で始まる恋もあるらしいしね。

 

 「自分のやるべきことを」

 

 動けない理由があるならば、迎えに行く。自分自身がそうしたいし、こんな自分を恐らくは一番理解してくれたジークリンデから託された最後の願いなのだから。それに比べれば、あの程度の壁等障害にもならない。

 

 古代遺跡があるということは、資材や石材を運ぶ必要がある。建築をするための人員や人足を動かすルートが必ずある。竜がセコセコ建築をするとは思えない為、古く危険だろうがその道は必ずあるのだ。そして、それを見つけることこそが潜入ルートを探り密偵の役目を与えられた自分の役目だ。

 

 「そのやるべきことは、人生を捧げるにたる行いなのか?今一度、自分の人生をというものを振り返ってみろ」

 

 「ロクでもないもんだよ。だからこそ、その中で見出したものに命を懸けることができるというものじゃないかな。フルーク、貴方が示してくれた生活と道は確かに良いものだと思うし、この国は良いところだよ。知り合いの半獣が夢見た楽園と言えるかもしれない。だけど自分にとってあの人、ランザが隣にいないのは耐え難い。場所は楽園でもそこは地獄さ。そして逆に言えば、ランザが隣にいるのならばそこが地獄でも自分にとっては代えがたい居場所なんだよ」

 

 フルークの顔が、理解し難いと言うように眉間に皺が寄った。

 

 「初めて、お前の思い人の名前を聞いたな」

 

 別の切り口を探ろうと、ランザの名前を口にだしたことに反応を寄せる。そういえば、そうだったか。

 

 「その思い人、ランザという人物だってお前が無為に危険に踏み込むことを望むものだろうか。出会ったことのない人物であるが、常識的に考えるならば近しい人物が行かなくても良い危険に進むのを気持ちよく送れる訳があるまい。まして、それが自殺と同じ無謀ならばなおさらだ」

 

 「痛いところをつくね、フルーク。確かにランザは、全力で反対するだろうと思う。優しいからね。……だけどさ」

 

 眼帯を外す。そういえば、フルークにはじっくりと見せたことはなかった。彼と顔を合わせる時は眼帯をしているか、無くても目を閉じていたからだ。

 

 「自分は二人分の思いを背負っている。引けと言われて、引けるものではないんだよね」

 

 爬虫類に近い金色の瞳が兎特有の紅玉の目と交差する。毛並みがざわめくように動いた瞬間、小さな悲鳴と共に食器が落ちて砕ける音が響いた。

 

 「す、すいません。すぐに片づけます」

 

 栗色のリス系半獣のが落としたものを片付け始める。軽く笑みを見せてから、瞼を閉じて眼帯を戻す。無意味な牽制合戦はここまでだ。

 

 「本当に世話になったと思っているよ。この程度の金で礼金になるとは思えないくらいにはね。フルーク、貴方も厳しい世界で生きて来た、そして今の生活を尊いものだと感じているのは分かる。貴方が過ごす世界は存外に良いものだったし、お前にこちらのなにが分かるとは言わないよ。でも、敢えて一つだけ言わせてもらうとしたら」

 

 フルークには抱けない心情。似たよなものは感じることはできても、自分だけが持っているもの。

 

 「恋する乙女は無敵なんだよ」

 

 「それがお前の譲れないものなんだな」

 

 大きく頷いてみせる。自分が追いかけたい背は一つしかなく、共に肩を並べたい人物は一人しかいないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お世話になりました」

 

 昼食での受け答えの後、フルークはなにも言ってこなかった。否定も肯定もせずにあの話は終わり、その後は市場の手伝いや雑務をして手間賃をもらい家に戻った。日が落ちてしまい、最後に一晩軒を借りて行けと言われ、準備が必要になる為その好意には最後に甘えさせてもらった。

 

 貨幣袋は押し返された。金が欲しくて助けた訳ではないと、突き返されたといった方が正しい。それを再度渡すことは失礼にあたる為、袋は受け取った。

 

 修繕した衣服に装備を身に着け、愛用の二刀を腰に差す。必要なものは全て身に着けた後、朝日が昇る前に家を出て頭を深々と下げた。

 

 まずは野宿先の確保。そしてあの絶壁を攻略する糸口を見つける為にまずは麓の偵察もとい調査をしなければならないだろう。フルークの家近くから見た風景を思い出すと、崖下の小川と数件の住宅、そしてその向こう側は鬱蒼とした森が広がっていた。

 

 野営を考えるならば水場の近くが良い。森であるならば資材や食料に困ることもないだろう。地理を把握し拠点を整備して地盤固めができたらあの壁に挑戦する。流石に一度で昇りきれるとは思えない。道具も入用だろう。流石は山岳の国だ、昨日市場でチラリと見た限り登山に関連する道具は充実していた。

 

 正直フルークが出した貨幣袋を受け取らなかったことは助かった。これで準備を整えることができる。

 

 防寒具も考えないといけない。手持ちの金は全て使い果たすことになるかもしれない。登攀前に準備に時間をかなりとられそうだが、フルークの手を振り切ってこの道に来たのだからこれ以上頼るのは筋違いだろう。

 

 がけ下まで降りて小川の近くを歩く。川近くの家はなんら変わったところはなく、玄関に竜を象った簡単な木像が飾られているくらいか。サグレがこれを見たら、私の方が上手く彫れるとか言いそうだなと考えてしまう。

 

 森は小さな木の柵に囲まれていたが、自分の腰程しかない小さな木柵の扉があり特に錠がかけている訳でもいなかった。侵入禁止とも私有地とも書いておらず、針葉樹の木々の間には道が続いていた。別段変わった様子はない。だがしかし、何処かゾクリとした感覚が背筋に走る。

 

 「こういう感覚は、ロクなことがない時におこるものなんだよね」

 

 扉を開けて中に入る。まずは野営に適した土地を探すつもりだったが、そうは言ってはいられないようだ。静けさの中に、圧力を感じる。だがそれは大きな気配という訳でもなく、ただ静かに、重く、そして強力なものだった。

 

 湿り気のある土を踏みながら森の中を歩く。木々の間には小さな小川が流れていたり、針葉樹だけではなくよく見たら果実の実タイプの樹木を見つけることもできた。ドングリに近いけど少しだけ形状が丸みを帯びたものを見つける。動物の餌には事欠かない環境であるようだが、その割には野生動物の気配を感じない。

 

 いや、感じないは言い過ぎか、潜んでいる。巣穴に、木のうろに、大樹の陰に潜んでいた。これからおこることを、まるで予期しているように。正直自分の中にある野生も、まずは潜み隠れるべきだと語りかけていた。

 

 「でもまあ、地の利は向こうにあるよねぇ」

 

 木々の間から、重武装の人物が歩いて来る。大弓を背中に担ぎ、周囲の地面には巨大な矢が突き刺さっている。ウォーリアバニーが戦場で猛威を振るう大ナタが木の幹に突き刺さっている。

 

 「こちらが先に出たと思ったけど?」

 

 「崖路を降りる道は一つではない。ほぼ垂直下降だがな」

 

 「それ、道っていう?」

 

 頭を抱える。恐らく、竜の信奉者には遺跡の守護が役割の中にあるのだろう。コボルト達が霊山を守護する動機の一つに、自分達の生存戦略の他火竜ランドルフの信仰があったことを思い出す。その手の前例を見ていなければ、フルークの行動には困惑しかうまれなかっただろう。

 

 「天竜オリシスの信奉者。頼まれてもいないのに、守護の役割を受け持った厄介な門番であり信者が貴方なのは、まあ予想していたうちの一つだよ。護る為に命まで投げ出して土地を護る奴等を見たことがあるからね」

 

 「あのような山に入りたがる物好きはいない。形骸化したお役目ではあるがな。怪我をしたくなければ、立ち去れ。お前の思い人も、竜に連なる存在なれば時がくれば降りてくるだろう」

 

 「その時、迎えに来てくれる保障が無いのが悲しいところで、片思いの辛いところなんだよね。退いてよ、フルーク。将来的なことを考えても、ここは自分を先に行かせた方が良いと思うけど?」

 

 「そうしたいところではあるがな。危険地帯に面白半分で入る者が増えぬように見張るのは立派な役目だ。なにがオリシスの怒りを買う行いになるか分からんからな」

 

 巨大な弓矢が持ち上げられる。あれを、喰らったら身体の一部でも弾け飛ぶ。

 

 「その殺意バリバリな武器は、見せしめは酷ければ酷い程良いってこと?」

 

 「竜の瞳を持つものが、この程度で倒せるとは思えんがな」

 

 「買いかぶらないで、油断してほしいんだけどな」

 

 計画は全て変更。目の前の問題に、全力に対処することになった。



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 突風が真横を過ぎ去った。腕のように太い矢が頬の真横を通り過ぎ、背後の樹木に深々と突き刺さる。いや、刺さり具合から判断してあれは貫通している。

 

 地面に踵の後を残しながら爪先をつける前に膝を曲げて跳躍。先程いたところに必殺の矢が通り過ぎる。

 

 銃が戦場の主役となりつつこのご時世、骨董品を扱う物好きに他ならないだろう。だが、時代遅れの武器は技術と膂力で充分すぎる程カバーされている。そしてこの馬鹿げた威力は膂力だけのものではない。

 

 「ヨーマン…ヨーマンのコルテス、リベリオン方式?」

 

 「古い国の部隊の話だが、知っているのか?」

 

 帝国が大陸の覇権を握るよりさらに昔の話。ヨーマンという中規模国家が存在していた。規模だけで考えれば当時の国家としては二番目に広大であったが、その領土のほとんどは鬱蒼とした原生林に覆われており国家に所属しない地方豪族達が好きに暮らしていた。

 

 国の力というのは、時代や環境によって大きく違うが、昔から今まで未だに変わらないものは徴兵人口と税収の多さであろう。だが、国民意識というものが薄い時代は、国民は国に仕えるのではなく土地に根付く有力者、即ち豪族達に従う者が多かった。

 

 参考までに当時大陸で一番の覇権国家は、広大な領地を持ちながらもそこに暮らす者達から得られた税収は国民のおよそ二十%からしか得られなかったという。

 

 当時国家元首というものは、どちらかと言えば豪族連合の代表者という立場であったり、群雄割拠しその土地で旗揚げしたばかりの者が多く求心力が無い場合が多かった。下手に土地の有力者に税収を求めたら、そっぽを向かれ舐められた態度をとられるのはまだ良い方で下手をすれば豪族同士が連合し大反乱祭りになったりしていたそうだ。当時の為政者達の苦労が偲ばれるというものだ。

 

 中でもヨーマンという国にあったコルテス地方は、少しでも国政や王が気に喰わないことを始めたり要求したら恒例行事とでも言いたげに反乱をおこしていたそうだ。

 

 森の英雄と呼ばれた山師の男と猟師仲間達を中心にした半農の民兵達。普段は狩猟と穀物を栽培して暮らしていた者達はコルテス地方を長年抑えた豪族の一声で屈強なロングボウ兵となった。

 

 通常の弓兵は単一材料で作られたロングボウを使用していたが、コルテス地方のロングボウ兵が愛用したのは複合弓と呼ばれる複数の素材で作られたものであった。

 

 複合弓は木材の他に動物の動物の腱や牛の角等の材料を使い、専門の職人が三か月から半年余り、特注品にいたっては一年がかりで製造されたものであり、その威力は木製の盾を破壊し騎士の鎧を貫通する程の殺傷能力を持っていた。射程も通常弓の二倍から三倍を誇った。

 

 無論、強力な弓は専門の訓練を積んだ者しか扱えない。当時のコルテス地方の男達は生きる糧を得る為の労働以外は全て山歩きと弓の技術向上の為に捧げられていたとも言われている。弓を引き続けていた為に、苛酷な訓練によって左右の腕の長さが違っていたそうだ。

 

 国家を名乗らずとも税収は納めず。国家内の治外法権ともいえるような存在に頭を悩ませたヨーマンの君主は幾度となく討伐隊を差し向けたものの、その尽くを返り討ちにされたという。敵は例え専門の兵士じゃないただの農家でも、男女問わず両親からその子供達へ弓のノウハウを叩き込む戦闘民族だ。地の利もあり役者が違う。

 

 時代が現代に近づくにつれ、兵士が持つ武器はロングボウからクロスボウ、そしてライフル銃へと時代が変わっていくが時折傭兵の中には好んで自作の複合弓を持ち込む者もいると現代でも語られていた。

 

 そのうちの一人が、目の前の相手ということだ。伊達に自宅の、それも起きてすぐ手を伸ばせる場所に弓を置いている訳ではないようだ。寝所から手を伸ばせる場所に武器を置いておくのは、長年戦場に身を置いてきたものの習慣だ。飾りという訳ではない。

 

 一度じっくり見せてもらったことがあるが獣の腱と加工と乾燥により強靭にした木材の他、鋼鉄による補強部分も確認できた。あれだけ頑健に造られていたら、例え鈍器代わりに振り回しても効果は絶大だろう。そしてなにより厄介なところはやはり射手の性能か。

 

 矢の次ぎが早い。

 

 恐らくは当時のコルテスにいた戦闘民族よりも頑強かつ強靭な代物。あんな化物弓、まともな人間や半獣に引くことはできない。だが、巨大な人斬り包丁にも似た大鉈を軽々振るうウォーリアバニーならそれも容易いということか。

 

 「やれやれ、イリーナルが見たら泣くね、こりゃ」

 

 有翼種のイリーナルは、三次元移動ができた上に加護で得た軽くて鋼鉄の翼と羽で空中から制圧をしてきた。無論の速さは、本人の強みであった。だが加護の力を得たとしても、例えあの羽と翼が矢を防げたとしてもその衝撃力までは殺しきれない。良い的だ。

 

 眼帯は既に外していた。竜の瞳は、見えすぎる。詳しい原理は分からないが、通常の視覚よりも得られる情報量が桁違いに多いのだろう。現に、素早さを誇るイリーナルの突撃を、反射神経では説明できない程の大量の視覚情報を脳内に送りこみそれを元に格闘術での迎撃態勢がとれた。

 

 だがその大量の情報を処理できる程、自分の頭脳や神経は高度な訳ではない。既に眼球周辺に熱を持っているのが分かり、明らかに酷使しすぎている。連続使用は、ほぼ確実に人体に良い影響を及ぼさないだろう。

 

 だけど、今はこれに頼る他ない。そして何処かで、間合いを詰めるしかない。ほんと、直線的な射線の癖にこの圧力は弾丸を自在に操るカリナ=イコライよりもよっぽど難しい。

 

 ランザならこういう時どうするだろうか。過去彼は、ウォーリアバニーの人妖と戦ったことがあると言っていた。その話を思い出してみても、バリバリの近接戦闘を最初から相手が仕掛けてきたということで、ジークリンデの連結刃が生きる間合いを確保するのに苦労したという話だけだ。戦場のように使い捨ての肉盾がいるならば近寄ることもできるかもしれないが、それも望み薄である。

 

 「別に、自分は闘士じゃない」

 

 大樹の背後で腰を落ち着ける。恐らくはこの太さであればいくら化物弓でも貫通はできないだろうし、少しだけでも眼球の負担を減らしたい。

 

 自分は隠密、密偵、草の者。正面から殴りかかりにいく戦士じゃない。ここで気配をできるだけ殺し、この場から離れてフルークが油断した隙を狙い奇襲するなりすり抜けるなりすれば良いんだ。あまりやりたくはないがそれこそ、一度この場を離れて持久戦の構えをとっても良い。

 

 心を落ち着かせる為に大きく呼吸をした瞬間、ゴッというなにか鈍器のようなもので物体を叩くような音が聞こえた。矢が突き刺さるような音ではない、聞いたことはないが強いて言うなら、城の門扉を波状槌のようなものでこじ開けようとした時のような音。

 

 嫌な感覚に考えるより前に身体を横に飛びのく。地面を転がり先程まで自分がいた場所を見たら、太い大樹の根本に先端が鏃ではなく、鈍器のような楕円形の遺物が装着された矢が大樹にめり込んでいた。ミシミシという音をたてて、樹齢何年かも分からないような巨大な樹木が倒れていく。

 

 「我等の戦いは、敵の戦意を徹底的に摘み取ることを主眼においている。古くはこの矢の一本で、防壁を打ち崩し兵器を破壊した」

 

 「攻城兵器並みの威力を、一人の弓兵がだすとか。加護が無くても世界のパワーバランスって実は滅茶苦茶だったのね」

 

 「ここで諦めるなら、命まではとらない。この弓矢では加減が効かないから、上手く命だけを残してやることはできんぞ」

 

 「不思議なことに、魅力的な提案に思えてきたよ。まあ、少しパンツについた土を払うくらいの猶予はくれない?」

 

 大樹が倒れ、隠れていた動物が逃げ、衝撃で鳥たちが飛び立った。葉っぱと土煙が舞い上がる。不必要な自然の破壊にフルークがやや眉をしかめた。狩人は、必要以上に獲物をとったり自然を破壊するようなことはしない。それは将来的には自分の首を絞めることに繋がり、獲物に対しての敬意を持っているからだ。

 

 圧倒的な破壊力を見せつけ、こちらも諦めたかのような言葉を発した。それで、フルークは油断をしたのだろう。逃げていく動物達と不必要な自然破壊をした行いに、後悔の感情をほんの僅かな間でも抱く程度には。

 

 『いくら強大な相手でも、虚をつけさえすれば活路を見いだせるものだ』

 

 ランザの言葉を思い出した。吸血鬼化したサグレや、ノックの山で暴れたミハエルにそうしたように自分も、この人妖並みの相手にその前例を習う。

 

 付着した泥を払おうとしたように見せかけて、小袋に手を伸ばした。煙玉を複数個つかみ取り、ベルトにつけた着火板に擦り付けてから地面に叩きつける。ランザに製造法を教えてもらい、幾度も活躍した小細工であるが凡人の自分にはその小技や小細工こそが活路になりえる。

 

 こちらの姿が煙に覆われたことに、フルークは瞬時に引き絞る次の矢を放つが地べたに予めて伏せて回避。こちらの荷物を不必要に覗かない紳士な彼には、自分の小細工を予想ができなかっただろう。

 

 地平にいたら、不利。樹木に張り付き爪を立てて昇る。木登りが得意なのはなにも猿だけではない。猫だって負けたものではない。

 

 木々を移動する際枝葉を揺らし音を鳴らしてしまうが、視覚的にはこの姿を隠してくれる。そして時に大げさに枝葉を揺らし緩急をつけることで、この小柄な身体を的の範囲外になるように誘導する。

 

 「こっわ」

 

 それでも、こちらをかすめるような矢の威力は冷や汗どころのものじゃない。あの時、向こうは遊び半分であったとはいえ、火竜ランドルフの神殿前でジークリンデと対峙した時もこれ程の恐怖を覚えたことはなかった。

 

 だが徐々にこちらの距離に近づけてきた。投げナイフのホルダーから、骨を削り作ったナイフを投擲する。腕の振り払いで刃を退けるが、矢をこれ以上放たせないためには充分だ。周囲を回りながら二回、三回と同じ行為を繰り返した。

 

 苛立ちもあるだろうが、フルークは冷静だ。投げナイフと言えど携行量は限りがあるため、このまま防御に徹していればいずれ飛び道具も尽きるだろう。だが、最後の一本を投擲したのと同時に一つの爆弾を投下する。

 

 投げナイフを腕で振り払った後、それを確認したフルークは顔面を防御する。筒状にくり抜いた骨と、そこから伸びた導火線。爆弾の類のものにしか見えないそれは、まさにその通りだった。

 

 「こうなることも、予想はできた。フルーク、自分はそう言ったよ」

 

 一人呟いて、耳を塞ぐ。

 

 筒状のものの中身は火薬と天然のガスが詰まった動物の膀胱。古くは水筒の代わりに用いられた膀胱は、気密性が高い。燃焼した火薬が破裂し、内部のガスが反応したそれは膨れ上がり大きな音を立てて破裂音が炸裂した。

 

 ウォーリアバニーという種族との交戦経験はなくても、ウサギという動物の存在くらいは知っている。頭についた巨大な耳はなにも飾りという訳ではなく、酔狂なとある動物学者が言うにはその聴力は人間の三倍か四倍はあるという。そして、我々は聞き取れない音にはならない音までまで聞き取っているとも。

 

 半獣の自分にも、その耳鳴りのような音にはならない音というものは多少くらいは分かる。そして、それよりも鋭いであろうあのウォーリアバニーの聴覚は、意識していない不意の高音に瞬間的にでもぐらついた。万が一を想定して制作した、対フルーク専用爆弾だ。

 

 ここしかない。木から飛び降りて、二刀で奇襲を狙う。利き腕に深々とルーガルーのナイフが突き刺さり、直刀が弓の弦を断ち切った。本当はもっと急所、最悪殺してしまいかねない首筋。次善の策として利き腕の腱を狙ったのだがそれでもきっちり対応をしてきた。対応の速さは、予想と経験の差か。

 

 追撃はかけられなかった。耳孔から血を流しながらも、大鉈を掴み無造作に振るってくる。姿勢を低くして横薙ぎの一撃を回避。カウンターの二刃は鉈の横腹に火花をあげるのみに留まった。

 

 「どうやら、実力をまだ見誤っていたようだ」

 

 聴力が回復したのか。大鉈を地面に降ろしながらこちらを見つめる。腕を突き刺されておいても静かな目をしており、焦りや怒りというものを感じられない。多少なりとも動揺してくれても良さそうなものだがそう上手くもいかないようだ。

 

 「見誤っていてほしかったけどね。今からでも、過大評価だったってことにできないかな?」

 

 軽口を叩いてみたが、本音を言えばあの一撃で決めてしまいたかった。恩人に行う所業ではないが、最悪殺すつもりで、もしくはその後の生活に多大な悪影響を及ぼす部位を狙ったというのにだ。あれ程近寄りたかったのに、今は距離をおきたくて仕方ない。だがしかし、手の内を開かした以上ここで引いたら手詰まりだ。兎の脚力に、正直勝てる自信はない。足の速さには自信はあるが、少なくともイルガルドで東邦人にも負けているのだから。

 

 刃の暴風雨が襲いかかる。正直、このジークリンデの瞳が無ければどのタイミングで二つに裂かれてもおかしくはない。下手に受けることもできないのだから、ひたすら見切って避けるしかないのだが、眼球付近の熱が頭まで昇ってくるようだった。

 

 矢の時と同じ、どこに当たっても身体が弾け飛ぶ。だが持久戦はできない、何処かで勝負をかけるしかない。

 

 身体を捻るように飛びながら斬撃を避けた後。額に向けて直刀を投擲する。乾いた金属音と共に鉈に直刀が弾かれて宙を舞うが、狙いはここから。巨大すぎる鉈により視界の範囲が狭まれたのを狙い、更なる懐。超至近距離戦闘に移行する。

 

 狙いは睾丸。人体で唯一肉体に護られていない内臓部位。掌底を叩きもうとした瞬間、ドサリという音が響いた。視界の端で、手から離れて地面に深々と突き刺さる大鉈。

 

 顔面の目の雨で、両手が叩かれる。パンッという大きな音は、先程の音響爆弾程ではないにせよ目の前でおこった現象に身体が反応、硬直してしまった。そして、続いてくる衝撃。地面がドンドンと離れている景色の先、まるでボールでも蹴ったかのように振り上げられたフルークの足が見えた。

 

 「は?」

 

 「まあ、先程のお返しという訳だ」

 

 吹き飛ばされ、背中に衝撃が走る。吐血をする程の激痛を感じながら、重力に従い枝をへし折られ地面に落ちていく。地面に肩から打ち付けながら、なにをされたかようやく理解ができた。

 

 「猫騙しという技だそうだ。状況に合ってしまうのは皮肉なものだな」

 

 たった一撃で状況を引っ繰り返したフルークは、面白くもなさそうに、だが皮肉そうに笑みを浮かべてみせた。

 



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 雑に蹴り上げられた。まず、感じたことはそれだった。殺意や技術を込めた蹴り上げというよりは、その辺に転がっていた敵の生首でも蹴り上げたような感じ。なんだか、それを利用した新しい競技が生み出される気配があるなんて聞いたことはあるけど…時間切れだ、意識に激痛が追い付いた。

 

 「げぇ!」

 

 再度口内から大量の血液が吐き出され、青々とした雑草を塗りつぶす。どうでも良いことを考えて、意識を激痛からそらそうとはしたが、それすらも意味をもたなかった。本能から行われた現実逃避のようなものにすぎないのだが。

 

 殺意をこめた一撃でも捌かれた。手持ちの道具もほぼ使い切ってしまった。策も尽きた。逆転の芽はあるのか考えるだけの頭も回らない。格付けが完了してしまったような気さえする。いや、元々タイマンで歴戦の戦士を相手取ることじたい自分の得意分野ではない。

 

 「少々、手間取ったな。こいつを破壊されるのも想定外だ。お気に入りだったから、直せる範囲の損傷で良かったが」

 

 弦が斬れた巨大な弓を検分している。相手はまだ武器を気にする余裕があるってことか。先程の蹴り上げだって、本気だったら爪先が胴体を貫通しているか、或いは上半身と下半身が泣き別れしているか、どの道生きてはいないだろう。

 

 「経験上の話だが、内臓損傷に何ヶ所か骨も折れているだろう。殺さずに無力化する、捕虜を得る為の蹴りだ。悪いが頭が冷えるまでもう数か月程は大人しくしてもらう。霊山に二度と近づこうと思わない程度にはな。安心しろ、あの家にはい辛いだろうから、今度は麓の病院を紹介してやる」

 

 至れり尽くせりだね、笑える。笑えないけど。視界の端が赤く染まる。血が入ってきたか?赤ぼけた視線

の端、風景とは別になにかが見える気がした。それは、顔のように見えた。背景が見え辛くなって、視線がぼやけそういう風に見えるように錯覚でもしたか?

 

 ……にやけている。

 

 顔はにやけていた。ニヤニヤ、ニヤニヤ、なにが面白いのか分からないがただ面白そうにこちらを見下していた。シュルリと、なにかが首に巻き付くような感覚?或いは錯覚?フルークはまだ随分遠いことが、これは幻覚であることを自覚させた。半端に生きるなら、くたばれ。そんな声まで聞こえてくるようだ。

 

 冷たく、熱い。尻尾が首に巻き付くような生々しい冷たさに勝手に込み上げる皮膚裏に感じる熱さ。ああ、うん。幻聴通りさっさとくたばれってところかな。せっかく生かしてくれたのに、お前は何時まで関係ない風景を見せているんだと、文句を言いに化けてきたか。

 

 虫唾が走るよ、その顔が。嫌気がするよ、この身体が。文句を言いに来たのは分かるけど、腹いせに殺そうとするのも分かるけど、首を絞めながら嘲笑混じりに非難をされる覚えはない。化けて出て来てまで、こちらの腹が立つ方法をとるなんて本当にアイツらしい。

 

 「ジークリンデ、らしい」

 

 怒りは思考を通して腹に溜まる。激痛と合わさり増幅する。そして、不甲斐ない自分自身への怒りとなる。この痛みを、与えて良い相手は、この苦しみを、与えて良い人は…一人しかいないのに。いったなにをやっているんだ?自分は。

 

 「少々痛めつけすぎたか?すぐに医者に」

 

 助ける為だろう。負傷した利き腕の代わりに伸ばしてきた左腕が、万策尽きた自分にとって、唯一の勝機。激痛と苦しさを自分自身への怒りに変えバネとして身体を跳ね上げる。腕を胴体で抱きしめるように掴み、蛇のように絡める。親愛によるものではなく、自分の足を開いての首に回す為の行為だ。

 

 三角締め。ランザとの格闘訓練で教わった締め技の一つ。足の筋力は腕よりも強く、その力を利用して太ももで頸動脈を締め上げて相手の失神を狙う。どんな化物じみた相手でも、呼吸をしているならそれを遮断すれば良い。この奇襲が、全ての身体能力が格上の相手を落とす為の隠し玉として教わった。元々は彼の師匠の故郷で産まれた技であるらしい。

 

 完全に油断しきっていたところからの奇襲。そちらは決着をつけたのだろうが、此方からしたら勝負はまだ続いている。歴戦の戦士も戦場から離れて長く、平和な世界につかりすぎたか?戦歴と経験はそちらの方が長くても、こっちは少し前まで人妖や帝国軍、レントの取り巻き共と殺し合いをしていたんだ。死ぬまで、決着はついていない。

 

 身体が地面から浮き上がる。腕力のみで持ち上げるには軽すぎる身体だ。フルークの目は驚愕に見開かれているのが見えた。戦場では、基本的には武器術の世界だ、鎧兜を着ながら組手で戦う技術もあるとは聞くが、あくまでそれはオマケ程度のものだろう。なにより、向こうはこちらをもう無力化したと思い込んでいた。

 

 フルーク、お前の方が遥かに強い。でも、勝たせてもらう。

 

 だが、単純に締め落とさせてくれる相手ではない。フルークは自分ごと、右手を地面に振り落とす。衝撃と、内臓から更に血が口内に逆流する感触。胃液と混ざって口の中が滅茶苦茶だが、歯を食いしばる。この根競べで負けたら、自分にもう先はない。

 

 振り回した腕が樹木に当て、身体を押しつぶす。服と川が摩擦でボロボロになるのを感じた。更に遠心力で振り回して離そうとする。離さない。利き腕で足を握り潰すように掴むが離さない。

 

 頭の中で思い浮かべるのは、竜の身体で飛び立つランザ。その背には自分はいない。病室の窓からそれを見送っている光景が頭を浮かぶ。

 

 「ア”アアア”ア”ア”ア”ア!」

 

 そんなものはごめんだ。そんな未来はごめんだ。足手まといになりたくない。でも置いて行かれたくない。一生逃がさない。永遠に執着する。あの夜に決めたことを貫くのに、この激痛のなにが苦になろうものか。置いて行かれることに比べれば、なんの問題になるというのだ。

 

 だが振り回されて削られるように壊れる身体は、意思に反して離れようとする防衛本能すら見えた。そんな本能、理性で抑え込んでやる。

 

 『影術は、イメージが大事なんですよ』

 

 ミルフの言葉が頭の中に浮かぶ。ああ、影術を習っておいて良かったよ。

 

 逃がさない。逃がさない。逃がさない。何処にも飛び立てさせはしない。自分が傍にいない限りは。それが叶わぬなら追い続ける。影のように付きまとい、紐のように巻き付いて。

 

 地面に広がる影が広がる。まるで身体ごと溶けて広がるかのように。自分はもう我儘でいることに決めた。この身全てを相手に鎖の如く巻き付け、錠のない枷とする。でもそんなイメージを持ち使う相手がランザ以外は、まるで浮気だね。貴方は許してくれるだろうか。

 

 広がる影が荒れる海原の如く荒れ、竜巻のように巻き上がり、大量の紐となりフルークの首を、利き腕である右腕を、左腕を自分事巻き付ける。半獣でもジークリンデのような剛力を再現する為の工夫。いくら、ウォーリアバニーでも逃れられると思うな。

 

 フルークの食いしばるような目がこちらを見る。信じ難いものを見ているような目だ。だが、酸欠が脳を蝕んだ。戦場では無双となるその身体が、膝から崩れ落ちる。横倒しになり地面に倒れ、同時にこちらも力尽きてしまい影術も力も消え失せ地面に転がった。

 

 首を傾け視線だけフルークに向けるが、完全に落ちているのか動く様子はない。

 

 再度空を見上げる。木々に遮られ、ほとんど見えない青空ではあるが、ランザがまだ何処にも飛び立っていないと確認できた気がして安堵した。そして、あのニヤケ面はもう映っていなかった。

 

 「あーあ…また、待たせちゃうな」

 

 瞼が重みで閉じた。満身創痍すぎて、動かせる身体の部位を感じない。這ってでも山に向かいたいが、あの絶壁を這って登れる訳がない。

 

 だけど、絶望感はない。次に捕まえたら今度は、二度と離れない。その確証を得ることができただけで前進した気分でいれた。やはり自分は、平和な生活よりも血反吐に満ちた貴方の隣が良い。そう、確信できたのだから。縛り付けてでも傍にいるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焚火の音。何時の間に意識を手放していたのか、目を覚ますと木々の間から星空が見えた。

 

 起き上がろうとしても起き上がれない。竜から振り落とされ、初めて目を覚ましたあの日のようだった。

 

 「タフだな。もうしばらくは寝ていると思ったが」

 

 声の方に首を向けると、フルークが何処からか持ってきた大きな石に腰をかけている。利き腕には包帯を巻きつけているが、意識は落としたもののこちらと比べれば怪我の程度は遥かに低い。

 

 「目を覚ましたら、ベッドに拘束されているとかじゃなくて安心した」

 

 「だと思ったから、わざわざ医者にここまで来てもらった。入院させて安静にさせるべきだと聞かなかったが、目を覚ましたら振り出しでしたじゃ、暴れかねないだろう?」

 

 「正解。暴れる程身体が動けばだけど…ね」

 

 沈黙。ただ焚火の中ではぜるのようなパチパチという小さな音だけが響く。ちょっとだけ、気まずい沈黙だ。袂を分かち、戦いをした間柄である以上に恩と好意を踏みにじるような行いをしたのだから。後悔はないが、罪悪感がない訳でもない。

 

 「一度、村に戻す。だが安心しろ、もうクーラを止めるようなことはない。一度でも戦場に身を置いたことがある者として、不意を打たれ意識を奪われるということは殺されたも同然だ。お前を止める資格は、もう私にはない。そして、謝る必要もない。互いに譲れないものを賭けて、勝利したのがそちらだというだけの話だ」

 

 「……謝らないよ。言われなくても、謝罪だけはしない」

 

 恩知らずで、恥知らずの罵りを受けても。それがどれだけ愚かな選択でも血と泥を選んだ。そして謝罪は、相手に泥をかけるのと同じだ。

 

 「だが、その代わり教えてほしい。クーラ、お前と崖上に運ばれた竜はどういう関係だ。そんな風になってでも、安寧の生活を捨てでも共に進みたいものなのか?」

 

 「同じことを言うのは、恥ずかしいね。それはもう話した筈だけど?」

 

 「……恋する乙女は無敵というやつか?」

 

 笑ってやると、フルークは頭を抱えて俯いた。でもなんだか、それが少し面白い。フルークとは数ヵ月共に暮らしていたが、呆れと困惑が混ざりあったような表情は初めてだった。村で話した時は、どうやら本気にしていなかったな?

 

 フルーク言葉を選んでいるというより、言葉が出てこないといった様子であった。口を開いては閉じ、また口を開いては閉じてを繰り返す。そして諦めたようにため息をつきそっぽを向いてしまった。

 

 「恋、か。考えてみれば、したことがなかった」

 

 「嘘?本当に?フル…あっ…イテテ…え?初恋も?」

 

 「初恋もだ」

 

 「……童貞?」

 

 「……昔先輩に、そういう店で。勘弁してくれ」

 

 「あっ…あははははははは!」

 

 思わず笑ってしまった。先程までバリバリに戦っていた、歴戦の戦士然とした男が色恋関係に関しては素人も同然だった。思わぬカミングアウトに身体が痛んでも笑いが出てしまう。

 

 「ずっと訓練に全てをつぎ込んできたんだ。それに、相棒と呼ばれるような仲間や信頼たる雇い主のようなものはいた。恋を語られたこともある。だが、恋仲となる自分を想像できなかっただけだ。口説き言葉なんて思いついたこともない」

 

 「もしかしたら、同性好き?時折いるって話は聞くけど」

 

 「いや、普通に女体は好き…いや、言わせないでくれ。というよりも、言った私が悪いか」

 

 顔色は変わらない、毛皮に覆われていたが恐らく人間や半獣だったらその顔を真っ赤にしているだろう。失礼な話かもしれないが、なんだか可愛らしく感じてしまう。

 

 「恋愛というものは、そんなに良いものなのか?どういうものなんだ?」

 

 「自分はちょっと特殊なケースであることは自覚しているから、少なくとも参考にはならないよ」

 

 子持ち、結婚済み、年の差、その他にその他。なによりも、甘く甘く疼く首筋。これだけは誰にも話さない。これを知っているのは自分とランザ、不可抗力であるがジークリンデだけで良い。だけど、言えることもある。

 

 「自分はね、あの人。ランザと会って始めて生きてるって気がするんだ。それより以前にもそう感じていたこともあるけど、それは偽物だった。本当に出会えて良かった、生きてて良かったと思えるような体験と実感をくれたの。それは穏やかな暮らしや莫大な財産なんかじゃ替えが効かないものなんだ。それを投げ捨てるような真似は、絶対にできない。例え死んだとしてもね」

 

 「生きている実感か」

 

 恋愛に限定しなくても、その言葉自体はフルークにも思い当たることがあるだろう。彼が戦場にいた頃に、そして今の平穏な生活に、そういう実感を得ることがある筈だ。少なくとも、そうじゃないならば他者に落ち着いた生活を勧めないだろうとは思う。彼の言動は、ただの善意の押し付けではないのだから。

 

 「フルーク」

 

 考え込んでいるフルークに声をかける。

 

 「ありがとう」

 

 フルークには、ちゃんとしたお礼を言ったことがなかった。やったことは、おざなり感謝を伝え礼金を渡しただけだった。例えやろうとしていることを否定された瞬間とはいえ、これは本当に失礼なことだったと反省しなければならない。でも今は、本心からお礼を言える。

 

 フルークとの戦いは、自分の中でなにかまた一皮むけたような気がする。それに、なにより、選ぶことができないとはいえ、自分に新たな道を善意で示してくれたことはランザ以外には初めてのことだった。そのこと自体は、余計なお世話とため息をつきつつも嫌悪を感じない。損得の絡まない、ただの善意であるのだから。

 

 「それで、もののついでではあるんだけど…」

 

 「またしばらく面倒をみてほしい、か?」

 

 「流石にこの状況であの断崖を昇れるとは思ってないよ。それに、焦ることはないんだ。ランザが、例え飛び立つにしても何処までも追いかければいい。それに、向かう先はどうせ決まっているしね」

 

 ランザが向かう先は帝国と連合王国の戦場であろう。ガスパルが何かを企み、エンパスがその矛先にいる。そしてそこには、テンがいるのだから。

 

 「それに、身体が鈍っているみたいだから、リハビリもね」

 

 「二度目だぞ。またボランティアか?」

 

 「フルーク。じゃあ、こういうのはどう?女心とか恋愛方法とか教えてあげるから…ね?恋愛関係とか、女心から見た頼れる男とか教えるから」

 

 「お前の恋愛経験は、参考にならないんじゃなかったか?」

 

 「うっ」

 

 言葉に、詰まる。提案してみたものの、寝込みに侵入して首を絞められましょうとは言えない。そんな様子を見て、軽く微笑む。

 

 「まあ、乗り掛かった舟だ。お前がそこまで言う相手、興味が湧いたからな。それにだ、入山禁止とはいえ一信徒が神殿の様子も見に行けないのは問題だろう」

 

 「宗教的には良いの?」

 

 「何事にも例外は付き物だ。それに、お前の言う通りだ、竜というものは信仰があろうが無かろうが、それに言動や行動を左右されるものではないだろう。一度、信仰対象を直接拝みに行くのも悪くない」

 

 「契約成立、だね」

 

 腕を伸ばす。向こうも、近寄り悪手をした。その手は分厚く、とても頼もしいものだった。



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 日差しが強い。喉が渇きを訴え、視界が片眼の視界が霞むような感覚すら覚えた。背中の背嚢には大量の重り。

 

 「リハビリの難易度、高くない?」

 

 森での一戦から、数ヵ月の治療を経てこうして訛ってしまった身体をほぐし、あの絶壁対策をしているのだがやり方が戦闘民族並みだ。まあ、フルークはその戦闘民族だったんだけど。

 

 ただの崖昇りならば、こう見えて元々諜報畑だ。国境線を越える為に谷越えや崖越えを何度もこなしてきた。だがあの高さの霊峰となると、頂上付近は酸素が薄いし装備の重量を考えて昇らなければならないということだ。気温があがってきた現在の気候だが、高い場所では寒さも体力を削るという。

 

 「しかも……道具禁止ときたもんだ」

 

 ピックやロープの類は禁止。岩肌にある僅かな窪みや出っ張りを見つけて指をかける。目の前だけではなく先々まで目を向け、ルートを脳内で構築していく。道順を誤れば、この危険地帯を戻るはめになる。色んな意味でキツすぎる。

 

 焦らず、少しずつ少しずつ進んでいく。このまま順調に進めれば、もう数分後には登攀が成功

 

 「イ゛ッ!?」

 

 左手をかけた岩が崩れて落ちた。ついでに足もずり落ち、右手のみで全体重と荷重を支えるはめになった。パラパラと落ちていく砕けた小石の後を追うのだけは避けたいところだが、このままでは時間の問題だ。

 

 「こん…にゃろ!」

 

 影が伸び、岩肌に突き刺さる。人体と重りを支えられれる程力強い訳ではないが、速攻で岩を削り落とし新たな溝を作る。左手と左足を溝に突き刺して体重を支えることができた。暑さとは別の冷や汗が、額から流れ落ちる。

 

 これ以上時間をかけてはいられない。これ以上時間をかければ集中力が途切れ、今のような対応ができないかもしれない。影術を使い登攀しやすいルートを構築し、ペースを速めて昇っていく。

 

 「ズルをしたな」

 

 もう少しで登攀完了、というところでフルークが腕組をしながら立っていた。実はこの男、自分と同じタイミングで別の場所から登攀を開始していたのだが昇りきるのが早すぎる。実は、即引き返して普通に道を歩いたのではないかと疑いたくなる程だ。

 

 元々趣味で傭兵活動をしていたような戦闘狂共の一員だ。時にはセオリーを外して道なき道を進み、意表をつくように攻め込むこともあったのだろう。フルークの登攀能力は、それなりに訓練を積んだ自分と比べてもとてつもない差であった。

 

 「道具は使っていないけど?」

 

 「素の持久力と進行方向を見極める状況把握力を鍛えるのがこの訓練の目的だ。影術の応用という判断能力は良いが、便利な能力や使い勝手の良い道具で楽をすれば前提が崩れるので無しだ。なんの為に道具を禁止したと思っているんだ」

 

 フルークが鉄製の水筒を開ける。真上で逆さにされ、ジョボジョボと零れた水が顔面にかかった。貴重な水分を文字通り浴びるように飲まされる。わざわざ登攀する前から水分補給を促されるということは、そういうことなのだろう。この戦闘民族め。

 

 「スパルタすぎない?」

 

 「これがウォーリアバニー流だ。それで良いと言ったのは、お前だろ?」

 

 「決めた。これあがったら近接戦闘訓練しようよ。ぶっ飛ばす」

 

 「昇ってこれたらな」

 

 足裏が迫る。スタンピングを腕を交差させることで防ぐ為、崖の岩から指を離さずえなかった。重力に従い落ち、崖上が遠のいていく。怒りは後でぶつけるとして、まずは何処かに捕まることが先だ。鞘をつけたまま固定した直刀を岩肌に突き刺す。腕力で重力に抵抗し、壁を削りながらようやく停止した。

 

 空が更に遠のいたが、腕が伸びる範囲で進まなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「早朝からマラソン、各種筋トレ、武器在りの模擬戦闘、崖昇り、格闘術。ウォーリアバニーの毎日って地獄だね。流石全滅寸前まで戦闘狂の絶滅危惧種だよ」

 

 「近接格闘術に関しては、お前が言い出したことだろうが。だが、どうやら武器無しでの戦いに関しての技術はそちらに一日の長があるようだ。武器術なら負けるつもりはないが、格闘戦で戦い辛いのは良い刺激となる。これでも、戦闘行為から遠のいていたからな」

 

 「涼しい顔してよく言うよ」

 

 草に覆われた地面に寝ころび、肩で息をしているこちらに比べフルークは井戸から水を汲んで来る程の余裕を見せている。再度ベッドでしばらくを過ごしたというのもあるが、体力と身体の基礎構造の違いを感じた。ついでに言えば、この訓練を毎日した後平然と狩り用の仕掛けた罠の確認に出かけ仕事もこなしていた。

 

 億劫な身体をおこし、汲んできてもらった水をもらう。よく冷えた水が喉元を通る度に、生き返るような気がした。

 

 「しばらく休憩していろ。罠の様子を見て来る」

 

 格闘術に関しては此方の方が上と言いながら、恵まれた体躯と長い手足に天然と努力による膂力。格闘術に関してもまったくの素人という訳ではない。むしろ、本人の言だが首折りや心臓抜きに目潰し、重装備相手の関節技等、大味だが一撃必殺になりえる技ばかり習得しており組手では使い辛いという話だ。

 

 「向こうはこちらを立てるけど、四六時中殺し合いばかり考えている戦闘民族が格闘術未修得な訳がないんだよねぇ」

 

 再度空を見上げる。青空が広がり、気温も高くなってきた。身体も前より動けるようになってきた。体重は増加したようだけど、筋肉が増えただけだし余計な筋肉は付けないように考えて身体を鍛えてきた。そろそろあの絶壁に挑戦する頃合いだろう。

 

 しばらく休憩した後、起き上がる。フルークが戻ってきた時の昼食の準備をしておく為だ。

 

 野外の調理場に立つ。火をおこしながらなにを作ろうかと考えを巡らせるが、肉を焼くくらいしか出てこない。といっても、ここに来てから塩味以外の味付けも多くなってきた。そもそも、この山間部では海が遠いせいか塩が高い。その代わりに重宝されているのは辛みのある香辛料やトウガラシなのだ。

 

 リスムや帝国では香辛料は高価で貴重品であったが、この国では種類は限定されてしまうがさして貴重なものではない。標高が高い故に、それに適応した種類が育つ。輸送する為の加工や人足代を考え無くても良い故に低価格なのだろうか。

 

 「肉をパンで挟むだけで良いかな?洗い物の少なくなるし。でも、野菜いれないと怒るんだよなぁ」

 

 少し考えた後、まな板を引っぱりだす。火がおこり始め、厚切りの肉を焼いている間によく砥がれた包丁でトマトを輪切りにした。葉野菜も適当に千切っておく。兎は草食性である為かフルークは量がどうだの煩いからわりと多めに用意をした。

 

 ついでにフライパンでニンジンでも焼いておこうと思ったが、やめる。崖上から靴裏で踏みつけにされたことが脳裏をよぎったからだ。洗い物の増えて面倒くさいし。とはいえ、せっかく火をおこしたのだからなにかついでに焼こうかなとも思う。

 

 しばらく考えて、だったらフライパンじゃなくても良いかと思い直す。ニンジンを串に刺して皮ごと焼いてやろうかとも思ったが、あの根菜は火の通りが思いのほか悪いから面倒くさい。代わりに玉ねぎを焚火のすぐ傍に放り込んでおいた。

 

 因みに本物の猫に玉ねぎを食べさせてはいけない。半獣ならば大丈夫であるが。まあ、自分から好き好んで玉ねぎ食べる猫なんている訳はないか。

 

 肉が焼きあがる頃合いで、フルークが戻ってきた。兎の耳を持ちながら三羽の獲物を持ち帰る。共食い、と一瞬考えてしまえば自分だって食べるものがなければ猫くらい普通に食べるだろう。味はあまりよくはなさそうではあるけれど。

 

 「お前が作る物は、何時もそれだな。後肉の筋を切らないで焼いただろう?何時もきっていないからな」

 

 「細かくない?」

 

 「好きな人にも同じものをだすつもりか?」

 

 言葉に詰まる。それこそ、なにか口論しようとしても「うっ」としか出てこなかった。

 

 これでも幼少期の頃やレントの手駒時代、食事なんて喉を通り栄養になれば味なんてどうでも良いから随分と進歩はしたとは思うけど、時間がある時でも効率と手際を優先してしまう。フルークのように、わざわざ巨大な骨を窯焼きして内部の骨髄に味付けをしソースにするなんて試したこともなかった。

 

 そういえば、前にフルークがその骨髄を調味料にする際に岩塩を使っていたのを思い出した。岩塩の鉱床はまだこの国では見つかっていないので、他国から取り寄せて保管していたのだろう。言わば貴重品とは言わずともちょっとした贅沢品の類だ、わざわざ回復祝いに使ってくれたのか今更ながら気がついた。恩着せがましくないところが憎いね。

 

 多少の苦言を呈されつつもなにはともあれ、昼食だ。味は不味くないと思う。

 

 この後は何時もならばフルークが本職の皮なめしを行い自分がそれを手伝う。日が暮れたら夕食の時間まで自主訓練で身体を酷使して、彼が作る夕食を食べる。早い段階で眠りにつき、陽が昇り始める前から起きて訓練を開始する。回復してから、それが毎日の習慣となっていた。

 

 朝から晩まで訓練という訳にはいかない。フルークにだって生活費を稼ぐ必要もあるし、最近はいつも以上に多くの革なめしを行い加工品をストックしている。自分だってごく潰しでいる訳にはいかない為助手のようなことをしている。生産スピードはあげているが、在庫をこれまで以上に溜め込んでいるように思えた。

 

 備えているのだ。自分になにかがあった時、商品を滞りなく卸す為に。それだけ、進む時は近いということが語らずとも分かってくる。ともすれば、ある意味では急がないことが一つある。こちらから、フルークに提供する約束のものだ。

 

 「そういえば、女の子の口説き方だけど」

 

 「お前の言うことは当てにならんことが分かった」

 

 「申し訳ありませんでした」

 

 あの時は冗談半分ではあったし、フルークもそれを分かり大して期待していなかっただろう。それでも口にした以上、なにかないかと考えてはみた。

 

 まずは自分の体験談を考えてみたが、ダメだった。繰り返しになるようだが、やはり殺しに行ったり首を絞められたりするのは普通に考えても常識から外れすぎている。特殊ケースにすぎる。

 

 後は自分から見た他の人の恋愛。レントにお熱な加護持ち連中。イドが好きな騎乗体験のお姉さん。うわぁ、まったく参考にならない。一般的には清潔感とか頼りがいに男気なんてワードが出て来るが、そんな毒にも薬にもならないものを語るところでアドバイスといえるだろうか。

 

 第一清潔感とか。正直自分の価値観での清潔感は大分ハードルが低い。髭を剃れ?髭に誇りをもっている男性もいるし、そもそも顔と身体中毛で覆われたフルークにそれを言う?汗臭さとかも気にならない。むしろ兎は汗をかかずにデカい耳を通る血液が外気に触れて冷やしているらしい。となれば、自分の方が汗臭い方になる。

 

 「えーと…あのあれ、村にいたリスの半獣さんとか。デートにさ、誘うとか」

 

 「無理するな。ある意味お前はそちらの分類では私より不器用であるのが分かっただけだ」

 

 「はい、すいませんでした」

 

 世話になったが、フルークにはなにも返せそうにない。それだけは心残りすぎる。

 

 「それよりも、待ちに待ったタイミングだ。天候も良い、緊急時の即応もできるようになった。身体付きもだいぶ仕上がってきたしな」

 

 「即応って足蹴にしたあれ?瞬間的には殺す気かって思ったよ」

 

 「だが死んでいない。瞬間的に危機対応が早くなったというよりは、状況対応の幅が広がったことによるものだろう。緊急時に即応できるのは、どんな状況でも頼もしいのは分かるだろう……特に生死が関わる状況ではな」

 

 食事を終えて口元を拭う。特に汚れているようには見えなかったが。

 

 「私は誰かに指導するには向いていない。自分が受けた訓練を、そのまま伝えることしかできなかったからだ。相手に合わせてアレンジするのも不得手だと、今回のことで痛感している。だがしかし、折れずに難題をこなしてくれた。よくやったな」

 

 フルークは、こと訓練に関しては相手を褒めない。罵倒や怒声をあげることもないが、口数少なく、もう『限界なのか?』『出来ないか?』と聞くだけだ。こちらが頼んだ手前、もう無理です、勘弁してくださいとは言えない。時折死に物狂いになるしかないお題があったが、それをこなしてもさも当然だろうと言う態度しかなかった。

 

 今思うとランザは、褒めて伸ばす方針だったんだなと思う。課題が上手くいかなくても、繰り返していこうと声をかけてくる。甘い悪夢の中でランザが後輩を育てる時も、それが指導者としての基本方針なのだろう。

 

 自分の方が上だという格闘術以外で、今まで一度たりとも聞いたことのないフルークの褒め言葉に、少し目頭が熱くなるのを感じる。泣いている場合ではないが。

 

 「今日の作業で、しばらく卸す分の革を蓄えることができる。明日は休息をし、準備期間にあてろ。崖昇りの為に必要な道具類の整備もな。私は村に赴き製品の納入と少し挨拶回りをしてくる。万が一には備えないといけないからな」

 

 「フルーク。前にも少し言ったけど、わざわざ自分に付いて来ることはないんだよ?危険なのは分かりきっているんだから」

 

 「だからこそだ。ウォーリアバニーの間でも、崖昇りや崖下りをする時はバディを組む。それだけ危険な上に、年中吹雪が吹き荒れているような標高での登攀なら尚更だ。それにアクシデントは、どれだけ準備をし備えてもおこることは良く分かるだろう」

 

 「そりゃあ、そうだけど…」

 

 「ここまで付き合った相手が、そんなことで命を落とされたら目覚めが悪いだろう」

 

 お人好し、という言葉が頭をよぎる。本当に、自分は人との縁には恵まれたものだよ。なんだかんだ、レントだって下心アリとはいえあの境遇から一度は助けてもらったのだから。自分以下の境遇の存在等、幾らでもいることも知っている。

 

 「ありがとう、フルーク」

 

 「礼は上手くいった後だ。それよりも仕事にかかるぞ。明日は休息当てる分、今日は何時もより時間をかけるからな。洗い物が終わったら、作業場に来い」

 

 フルークが作業場に向かって行く。食事に使った皿や調理器具を洗いながら考える。自分からフルークに、なにか返せるものはないだろうか。やはり恋愛相手?でも、言っても彼が誰かを好きな様子は見えない。

 

 そういえば、フルークって何歳なんだろう。落ち着きようから恐らくは中年くらいではないかと思うけど、見た目だけならなんとなく若く見えてしまうこともある。

 

 趣味の面もよく分からない。狩り道具や昔の武具を、時折引っぱりだして整備していることもあるけど趣味とはいえないだろう。実は無趣味なんじゃないかとも、思えて来る。これだけ共に暮らしているのに、フルークの人となりが見えてこない。厳しいもう一人の師であるという認識しかない。

 

 「これは、隠密時代の自分が必要かもしれない」

 

 万が一上手くいかなかったとしても、なにかしら、フルークに恩返しはしたい。幸い明日は休息をもらえることとなり、彼の行動も改めて把握している。そういえば、レントの下にいた時を除けばランザ以外にこのスキルを使うのは初めてだ。イルガルドでイドの為に動いたのだって、ランザが助けることを決めたからだし。

 

 なんだか、純粋に、少しだけ楽しみだった。



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 さて、恋愛に対する自分の体験談がロクなものではない自覚もあり、その周囲も参考にならないことばかりなのは自覚している。だがしかし、フルークにだって問題はあることは確かだ。

 

 まず第一に、これだけ暮らしておいてフルークには人間臭いところがあまり見受けられないのである。

 

 日が昇ると同時に寝台から降りて水を汲み、畑仕事に精をだす。ひと段落したら狩猟道具と共に山に入っていき、罠の確認や獲物を探して山中を巡る。午後からは獲った獲物を解体したり革なめし作業を行う。そして日が暮れたら食事を済ませ早々に床につくのだ。

 

 これは訓練をまだしていない時の生活行動であり、なめし革を村に卸に行き生活必需品を買い物する時以外はほぼ毎日同じような生活を送っている。因みに食べきれない肉に関してはお隣さん(えらく離れた位置に住処があるお隣さんではあるが)に配ったり物々交換を行っていた。それも売れば良いのにとも思うが、本人はそれで良いらしい。

 

 飲酒の習慣はなし。時折、なにかの記念日に付き合い程度に呑む程度。趣味もうかがえない。時折昔使用していた武具を磨く程度。冗談一つ言わずに喋る必要が無くなれば静かになる。別にフルークの方から話しかけない訳ではないのだが、業務連絡程度だ。

 

 革なめしを手伝っていたが、狭い作業場に二人しかいないのに本当に仕事の指示やこちらの質問の返答くらいにしか反応がなかった。

 

 一度趣味について聞いたら、しばらく考え込んでしまう程であった。

 

 明日にはあの絶壁に手をかける予定であり、向こうも恋愛に関しての言及は冗談半分というニュアンスとなってしまっているが、もし本当に伴侶を探しているのならなにかきっかけくらいは作ってあげたいのだ。例えそれが、本当の意味で余計なお世話であったとしてもだ。まあ、動き出すには遅すぎた感はあるけれど、負傷の回復や訓練の疲労なんかあったし。

 

 という訳で、今こうして革を積んだ荷車を引くフルークを尾行している訳である。素のフルークを見れば多少なりともなにか分かるかもしれない。ついでに言えば、隠密技術が鈍っていないかの確認も兼ねている。

 

 特になにもおこらず、村まで問題なく到着することとなった。バレている様子も無いし、何時もの取引先に商品を卸し、予定通りに保存食のようなものを買い足している。卸先である服飾の工房である、ナミカという馴染みには流石に事情説明だけはしてきたようだが淡白なものであった。

 

 もっとも、フルークの方はしばらく家を空ける予定がある。もしかしたらしばらく商品を卸せない為、その分を先んじて持ってきたくらいしか説明していないようだが。

 

 工房の働き手にも若い娘はいそうであるが、別段なにか話す訳でもなし。まあ仕事の最中に私語を挟む等、あの女傑の工房長にどやされそうでもあるが。

 

 本当になにもおきず、必要最低限の事情説明のみして工房から出て来た。そして村の小さな市場に赴き、大蒜や唐辛子のようなものを購入していく。大蒜を炒って唐辛子を和えたものが、滋養に効きなによりも活力が湧いて来ると話していたのを思い出す。

 

 その後、馴染みと思える人間に何人か挨拶回りをしていたが、大体は商売関係かただの馴染みである男性だった。会話を盗み聞く限り、どうやら村の催しのようなものにはよく準備の手伝いと参加をしているようである。気温も暖かくなり、もうすぐ春の到来に感謝をする祭りを開始するようだが、出れない可能性があると告げると残念そうにしていた。

 

 ……そういうのを趣味とは言わないのかな?本人が違うというなら、違うのかもしれないけど。

 

 いや、そう短絡的な話ではないか、フルークはただ住民達に馴染もうとして努力しているだけだ。そして受け入れられているのは、その成果なのだろう。そういうところを見ると、強い人だなと思う。

 

 フルークは最後に、この前自分と行った飲食店に顔をだした。この小さな村では、ここ以外の飲食店では酒場しかない。

 

 「え?春祭に出れないんですか?」

 

 「ああ、少しばかり遠くに行く用事がな。ひょっとしたら、春祭に間に合わないかもしれないんだ」

 

 大きくてふっくらしたリスの尻尾がユラリと揺れた。盆から下したのはどうやらお茶のようだ。この地方特有のものらしいが、毒々しい緑色で正直あまり好きではない。味も苦い。

 

 「そうですか。今年の春祭には巨大なミートパイを提供しようと思っていたのに。フルークさんからお肉を融通してもらおうと考えていたんですが」

 

 「私はただの革なめしだ。本職の狩猟人に話を回しておこうか?」

 

 「本職の人は高くなります。安く仕入れられると思ったんだけどなぁ」

 

 今は客の疎らな時間帯のせいか、少し会話が弾んでいるようであった。話している限りは笑顔であり、表情から商売用の愛想笑いのようなものは感じないこれは脈ありかもしれないが、まだ判断に困るところである。

 

 「こんにちは」

 

 「あれ?お客さん?いらっしゃい、みない顔ですね」

 

 「ええ、少々……ほんの少し、こちらで用事がありましたので」

 

 「お客さんか?ほら、私にばかりかまけていないでいきなさい」

 

 「あ、はーい。取り合えず、お水汲んできますね?」

 

 人良さそうな笑みを浮かべた男性が話しかけているようだ。徒歩でこちらに来たせいか足腰がガッシリしている。マントを付けているが大荷物を抱えている様子はない。小物を扱う類の商人かもしれないが、何処かで見たことあるような顔つきをしている。何処でだったか、だとしても自分でもあまり関わりがないような気がするけど。

 

 「いえ、食事をとりに来たのではないのです。少々聞きたいことがありまして…フルークさん、貴方に」

 

 「私に?」

 

 唐突だが、小兵である自分が何故ここまで生き延びてきたかだが、それは敵意と殺意に敏感になるようセンサーを張り巡らせていたからだ。特にランザと出会う前は、いかに加護の力があったとはいえ、それだけでは生き延びれない危機が幾度もあった。

 

 そしてフルークは、自分より余程長い時を戦場で過ごした筋金入りの戦人であった。自分は気配で、フルークは動作で瞬時に判断できたのだろう。満面の笑みを浮かべた男が、「おや?」と他人事のように呟いた。

 

 「長旅お疲れ様です。まずはこれを…」

 

 地面に転がるのは二本の腕。片方は鋭利な刃で裂か奇麗な断面を覗かせ、もう片方は力づくで引き千切ったようにささくれた竹の断面の如く粗雑な断面を覗かせた。握られていたのは、マントの下に隠しやすい短銃と小刀であった。

 

 水を持ちすぐ近くまで来たリスの半獣。狙いは彼女だった。片方の短銃を彼女に向け、もう片方の小刀をフルークに向けようとしたようであるが、非常な手段に出る為に行われる切り替えの早さはこちらの方が腕あったようだ。

 

 「え?なに、これ?作り物?」

 

 「シー…」

 

 机の端に転がる両腕が、まるで作り物かなにかに見えたかのように目をパチクリしている。そしてその上に、ネットリとした白銀の液体が垂れ下がっていた。口をすぼめながら静かにするように声をだしたのは、あろうことか両腕を切断された男の方だった。

 

 遅れて生々しいそれが、切断された腕だと気が付いたのかリスの半獣は「はえぇ…」と言いながら倒れ込んだ。フルークが片腕でそれを受け止めて、そっと地面に横たえる。口の端からは、ぷくぷくと泡が覗いていた。

 

 「クーラ、つけていたのか?」

 

 「休息と言われていたから、散歩をしていただけ。それよりも、ちょっと面倒なのが追いかけてきたかもしれない。多分こいつ、自分の客だよ」

 

 「落ち着いてださい、クーラ=ネレイス。僕は別に君を狙いに来た訳ではありません。どちらかと言えばフルークさん、そして竜に用事があっただけですから」

 

 自分の名前を知っている。この男、やはり何処かで出会ったことがあるのか?

 

 マントの裏側からなにか紐のようなものが伸びて来る。落下した両腕に紐が巻き付き、マントの中にスルリと回収されていった。なにか粘着質な音を建てた後、マントがずり落ちる。白い紐は何処にも見当たらない。そして、その腰には見覚えのあるエムブレムが見えた。

 

 「掲げる大盾」

 

 「帝国に母体をおく民間武装組織だったか?何故それがこんなところに?」

 

 「序に言うなれば、あの大盾に描かれた漣はリスム支部特有の紋章だよ。成程、掲げる大盾の面子だったら、何処かで見たことある訳だよ。街中、モスコーの復興支援、経済特別区の巡回。一人一人の名前を把握していなくても、顔を見る機会くらいはあるってことか」

 

 「リンドブルム=レノア。まあ殺気立たないでくださいよ。ウォーリアバニーやせっかく地獄から逃げ延びられた野良猫を敵に回すつもりはないんです。少しだけお話しませんか?西の状況は知りたい筈ですが。せっかくです、座りませんか?名物のお茶もいただきたいが…と、店子は気を失っていたんでしたね」

 

 「いきなり武器をチラつかせようとした相手と話し合いだと?」

 

 「背後をとられたままの話し合いは、些か心地が悪いですからね。出て来てほしかっただけですよ。それとも、ここで一戦やりあいますか?まあ、ウォーリアバニーやここまで修羅場を潜った半獣二人相手に勝てるとは思えないですが、少なくともこの村を半壊にするまでは暴れ回りますが?」

 

 フルークが静かに腰を降ろす。彼はこの村に混乱をもたらすことを良しとしない。自分もそれに従う。相手はレントの取り巻き共でも、あの薄気味悪い人体から這い出て来た天使モドキでもない。言葉が通じるだけ、薄気味悪さを感じる。

 

 改めて相手を見てみる。薄い茶色い髪の毛と整った髭。人の好さそうな笑みを浮かべており、なにも知らなければ好漢に見えるだろう。それは、天使共が浮かべていたような彫刻のように感情を感じない穏やかな笑顔ではない。人間臭い、笑顔だった。

 

 「この度はエンパス教からの使者として訪れました」

 

 「掲げる大盾の団員がエンパス教?なんの冗談?」

 

 「元々帝国では信仰の自由が保障されています。リスム自治州ではそれに輪をかけて自由です。掲げる大盾にも元々いましたよ。かの宗教を信仰する者は」

 

 舌打ちが思わず口から出て来た。恐らくは巨人事件の影響か。見ていないからピンときていないが、噂に聞いた巨人を一撃で滅した奇跡とやらに感化された者達が多いのは、あの事件直後から影響が出ていたのは目に見えていた。

 

 「グローはどうなった?掲げる大盾のリスム支部長は」

 

 「支部長は消息不明ですよ。ご存知の通り、リスムとその周辺は帝国と連合王国の主戦場でしたからね。多少なりとも混乱がありましたからね」

 

 これも噂程度くらいにしか聞いていないが、戦火が広がる前に血の投票日事件と呼ばれる事態がおこっていたそうだ。戦争前にのゴタゴタ、戦争期の混乱、そして災禍。過度の混乱を経て死亡してしまったとしてもおかしくはない。帝国出身ということで、もしかしたら帝国側でハルバードを振るっていたかもしれない。

 

 「聞きたいことはまだあるだろうが、本題といこう。私に用事というのはなんだ」

 

 「僕はエンパス教からの使者として参った次第です。ただ天竜オリシスに、我が主からの託けを伝えに来た次第です。まずは、筋としてその信徒である貴方に一言挨拶を告げるべきかと考えまして。序に、かの竜の神殿を教えていただける幸いですが」

 

 「託けだと?」

 

 「ただ中立でいてほしい。それのみです」

 

 フルークの目が鋭くなる。中立でいてほしい。味方についてほしいとは言わないが、第三勢力として動いてほしくなければ、敵に回ってほしくもないということだ。

 

 それはつまり、エンパス教はこれからもう一つデカい争いをおこすということだ。無論相手は帝国ではない。連合王国、その裏側にいるガスパルとの対決だろう。

 

 ただ、虫のいい話ではある。エンパスは火竜ランドルフを、ガスパルと組んで殺害した。竜にとって同胞意識がどれだけあるのかは知らないけど、普通に考えればその提案は舐めているとしか思えない。そう、少なくとも伝説によれば火竜ランドルフは同胞に対する侮辱に対し過剰な怒りでも周囲を燃やし尽くした。

 

 ただ、ランドルフとジークリンデはそこまで仲が良い訳ではなかったし同じ竜ならば誰に対してもそうだとは言い切れない。オリシスがどう考えているかは知らない。だが、オリシスの元にはランザがいる。もしそれを知っていたうえで、そんなことをほざいたとすれば。こいつらは、話し合いに来た訳ではない。

 

 「ならば、時間を無駄にしたな。確かに天竜オリシスを信奉しているし、数少ない信者達の代表、一応は祭祀のようなものもやらせてはもらっているが形ばかりのものだ。オリシスは、私のような下の存在等気にしない。行くならば、勝手に行け」

 

 「そうですか。それを聞いて安心しました。では」

 

 「行けるものならばな」

 

 リンドブルムの表情が笑顔のまま止まる。こちらに敵意アリと判断するのならば身構えもするだろうが、フルークは未だ動く様子はない。敵意ならば自分の方から向けてはいるが、動き出さない。

 

 「あの霊峰は例え鳥であっても登頂はできない。辿り着くことは不可能だ。例え託け以上の目論見があったとしてもな。回り道してさっさと戻ることだ。時間を無駄にせずにすむ。行くぞ、クーラ」

 

 「待って。一応聞きたいんだけど、リスムは今どうなっているの?それに、北にいた解放軍達は?」

 

 「それを聞きたいのならば、そちらもランザ=ランテ殿の所在を明かしてはくれないでしょうか?」

 

 「そういう条件なら、おあいにく様。今回はフルークの顔を立てるけど、エンパス教の連中とならば自分は何時でも斬りあうよ。あんな胡散臭い宗教を信じるような間抜けは、生きているだけで資源の無駄だからね」

 

 「それはけっこう。今後うっかり出くわさないように気をつけますよ」

 

 リンドブルムは立ち上がり、去っていく。出くわさないように気をつけますか。残念だけど、目的地は同じなんだよなぁ。

 

 「クーラ。アイツはなんだ。帝国方面とは長い間連絡がとれていないらしいが、戦争以外でいったいなにがおこったんだ」

 

 「話しておこうか、フルーク。今世界で、どれだけ面倒くさいことがおこっているのか」



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 暖炉で薪が燃え、炎が躍っている。壁にかけられたロウソク立ての周囲には何処からか入り込んだ蛾が飛びまわっていた。光源が限られている室内は暗い。

 

 全ての話を聞き終えたフルークは、静かにため息をついた。彼は自分がここに来た経緯について尋ねて来たこともなければ、出自について探るりを入れたこともない。こちらとしても敢えて話すべきではないと思っていたが、彼の生活圏内にも忌まわしいエンパスの使い走りが来るとなると事情が変わってくる。

 

 話しは長くなった。今まで接触してこなかった得体のしれない相手に対し、可能な限り詳細が聞きたいと思うのは荒事に身を置くプロにとっての性だ。両腕を切断し引き千切ったのに、粘土細工のようにくっつけただけで回復する様子に尋常ではないと感じたのだろう。

 

 話の始まりは、何処からだろうと考えたがやはり重要になってくるのは連中が表舞台に出始めてからだろう。リスムにおける巨人事件とその顛末は、あの娼館主であるエレミヤに聞いていた。その後におきた帝都事変、北部の乱、規格外の大砲により火竜ランドルフが倒れたこと。そして、ここに辿り着いたところまで話した。

 

 勿論必要なことのみ話すことになったが。特に、悪夢の世界における話やテンについては、エンパス教から反れる為に伏せている。人妖については、巨人事件に関係ある為かいつまんで伝えている。ランザがそれを探して旅をしていたことは話してはいないが。

 

 「聞きたいことは幾つかある」

 

 「だろうね。こんな空想に薬物ぶち込んだような妄想にしか思えない話に、よく質問も無しに黙って聞いていたものだよ」

 

 「色々気になるところではあるが、にわかに信じ難いのは火竜ランドルフが倒れたということだ。こう見えて竜神信仰をする信者の端くれではある。数少ないとはいえ、伝承に伝えられていた竜達の名は知っていた。あの天竜に連なる存在が倒れる等、俄かには信じ難い」

 

 ランドルフの認識は、当然のものだろう。特に、時折訪れるという天竜を空に仰ぎ見ながらそれを信仰することを生活の一部としている存在には。だがしかし、そんな話はとっくの昔に、特に帝都ではカビの生えた認識であると言えた。

 

 「驚く程じゃないよ。既に海竜リヴァイアサンが、帝国を中心にした連合艦隊と竜狩り隊により討伐されているんだ。そのおかげで、今まで開拓が進まなかった南方大陸が開かれたし、モスコーでは南部から届いた果実が屋台に出回るくらいには船が行きかっている。ついでに言えば、ダイヤモンドや鉱石が安価になって、それが原因で国が一つ消滅したよ。悪竜ジークリンデだって、自分達を庇って倒れた。ホラ話ではないのは、この眼帯の下を見て分かっている筈」

 

 リヴァイアサンもジークリンデも倒れた。悪魔が入れ知恵した兵器が関与すれば、ランドルフだって倒れるだろうというものだ。

 

 「海竜も倒されたし…悪竜だって殺された。火竜も、倒れてしまうのは時代の流れってやつかもしれないね」

 

 「だが火竜は、倒されるべきではなかった」

 

 フルークは立ち上がり、棚の中からなにやら取り出してきた。薪割りの時に使う薪割りの斧や野生動物を追い払う時に使う槍が壁にかけられており、棚の周辺には狩りに使う道具や毒薬が小瓶に入り並んでいる。彼が明けた棚にはすりこぎ等調合に使う道具がしまわれている。

 

 上から二番目の棚は開けたことがなかったが、その中にも多様な瓶が詰められており、その中の一本を持ち出してくる。茶色い瓶は中身がなにかは分からないが、中からうっすらと嗅いだ覚えのある臭いがした。

 

 「それ、鯨油?」

 

 「ああ。リスムの特産品ではあるが、時折この国の市にも流れることがある。これは鯨油を利用した軟膏だ。元々珍しいものではあったが、最近は目に見えて市に流れることが無くなっていた。他の帝国製品もそうだし、連合王国は一部資源や商品に輸出禁止や関税上昇がおきている。商売人からは、戦争が向こうで始まったからだと言っていたが」

 

 「リスムに駐屯していた掲げる大盾が尖兵にされたなら、エンパス教はリスムを乗っ取ったと考えれるし、話にだしたガスパルだってなにか動機や目的があって災害をおこした。自分は、天変地異をあの地でみたよ。それが帝国方面まで広がっていたとしたら、貿易が死んでしまった理由の裏どりにはなるよね」

 

 遠い異国の出来事であるが、フルークは元々傭兵生活を営んでいたものだ。帝国の広大さを知らない訳ではないのだろう。少なくとも、貿易の上でも地政学的にも重要地点であるリスムが占拠されれば黙ってはいないし、現に先の大戦だってリスム絡みで開戦したと言える。

 

 「推測するに、エンパス教とやらはリスムに狡猾に根を張って地盤を築き、そして大戦と災害の隙を狙い占拠したと考えられる訳か。帝国は災害で動けず、連合王国は様子見をしている隙に体制を整えたと。解せないのは、連合王国が見に回っていたということだが超常的な現象が影響しているとしたら合点がいかなくもない」

 

 目を閉じて考え込んでいる。隙間風にロウソクの炎が揺れる、しばしの時間が流れた。

 

 「ランザ=ランテとは何者なんだ。お前の体験と経験は、彼についていったことで得たものなのだろう。敢えて詳しくは聞いていなかったが、悪竜ジークリンデの後継といい…疑う訳ではないが、かなり数奇な人物すぎないか」

 

 フルークがそう思うのも無理ないだろう。誰だって空想上の人物だと考えてしまう。だが、だからこそ、自分はこう言う。彼については、こう伝える。

 

 「普通の人だよ」

 

 今までの旅路を思い出す。始まりこそは最悪であり、まあこれは自分の行いのせいな為今でも顔から変な汗が出るくらいには嫌な思い出である。しかし、あの夜に彼を知りたいが故についていった自分がいた。その時は、魅せられたと言っても良い。それだけ衝撃的かつ取返しのつかえない体験が魂の奥まで刻まれてしまったからだ。

 

 そして、モスコーで悲しい別れがあり、彼の過去を聞いた。養子とはいえ実の家族を殺す為に、家族の仇を討つ為に修羅場を渡り歩いていること。それを聞いた時、自分はランザの全てを分かったつもりになっていた。

 

 この汚泥めいた瞳、そして奥に見える暗い輝きはそうして出来たものなのだと。そして、それを独占することこそが目的と化していた。自分は酔っていたんだと、思う。あの時は、先行きの不安さはあれど楽しかった。テンにモスコーでなにかをされたことを盾にして、ただ無邪気についていけていた。

 

 そしてあの悪夢の世界で、自分の価値観は壊れた。テンを拾い育て、結婚し、叱られながらも仕事に打ち込み職人となり、実の子供にも恵まれる。あの穏やかな顔に、自分が彼に見出した汚泥の輝きは何処にもない。誰にでも居場所というものものがあるならば、あそここそが彼の居場所であった。

 

 なら、自分は何処が居場所なんだ?レントに背を向け、自分がいない世界で幸せそうに暮らすランザの傍にもいられない。ただの一人ぼっちの半獣。例え自分だけあの悪夢から追い出されたとしても、行くところも無ければ戻るあてもない。

 

 結局自分は、彼を微睡と幻覚、悪夢から起こすしかなかった。全ては自分の我儘であり願望であり、歪んだ精神性故だ。彼が幻の世界に耽溺しているのが正しくないと思ったからではない。このままでは死んでしまうと考えたからでもない。ただ、居場所が無くなるのが怖くて、怖くて、仕方なかったから彼の幸せを壊しただけだ。

 

 怨まれていないだけで、自分はただの、テンの同類だ。

 

 「あの人は、普通の人。働いて、子育てして、家族と話して、畑も耕して、時には釣りをして。村の祭りにも参加して酒を呑みながら友人と話したり、家族水入らずで仲良く過ごしたり。そんな生活が似合う、ただの男の人。そしてそんな生活を、壊してしまったのは自分」

 

 一度めはテンのせいで、普通の世界から追い出されたランザ。だけど二度目は、自分が我慢できなかったせいで辛い現実を思い出させてしまった。ジークリンデに肯定されて、後ろ向きに前を向いたと言えどその咎が消えるとは到底思えない。

 

 「だから自分は、彼に会いに行く。そして彼と共に、リスムの自治州に向かう。フルーク、ランザは英雄でもないし化物でもない、まあ竜にはなっちゃったけどね。自分には彼に対する責任があるし、責任が無くてもついていく。エンパスの手先がオリシスの元に行くとなると、そこにランザがいるとなれば何事もなく終わる訳がないよ……っと」

 

 「何処に行く、クーラ」

 

 椅子から立ち上がり、壁にかけられた壁昇りの為にしつらえた衣服て手をかける。

 

 「フルーク。エンパス教が絡んで来たとなれば、ただの崖昇りでは終わらない可能性が高くなる。自分はエンパス教とは敵対しているし、無論遭遇したら殺し合いになる。貴方のお陰で、この身体も怪我を負う前より動けるようになった。これ以上は巻き込めない」

 

 「だからといって今から向かうつもりか。夜目は慣れているだろうが、危険すぎるぞ」

 

 「だろうね。散々言われてきたから分かるし、少しでも登りやすくするように暖かい季節を待ったのも分かる。でもこうなったら、時間がない。こうして説明に時間を割いたのだって、黙って出ていくのは不義理だったからというだけだよ」

 

 衣服を整え、装備を身に着ける。当然登攀に必要な者のみではなく二振りの短刀に投げナイフ身に着けた。ふと指先が目に入る。以前から使い込んでいた指ではあるが、一回りは太くなり厚みを増した。指の皮も厚くなりささくれ、逞しくなっている。今の自分には、それが誇りに思える。

 

 「待て」

 

 「いや、だからフルーク、これ以上」

 

 フルークも、厚い登攀用の外套に手をかけていた。大きく広げながら豪快に羽織り、壁にかけられていた大鉈に手をかけた。動物の腱を加工した丈夫な紐であるハーケンと呼ばれる道具や、ボルトにハンマー等を付けることができるベルトを巻いていた。

 

 「お前に授けた登攀技術はあくまでも二人一組前提のものだ。お前だけがいっても、途中で滑落するか昇りきれずに力尽きるのが落ちだ。これは侮りではなく、事実であるのが分からない訳ではないだろう」

 

 「……ほんと、お人好しだね」

 

 「ただし、進むのは本格的に登攀するポジションの手前までだ。あの絶壁に手をかけるのは、夜明けと同時に行う。それだけは、絶対守れ……いや、守らせるからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灯りをつけず、麓の森を歩く。エンパス教の連中を最大限警戒しながらの行進。自分は元々夜目は良いし、フルークも昔とった杵柄で夜間行軍の心得があった。この森は彼の狩場であり、土地勘も優れている為案内役もしてくれている。

 

 この森で戦ってから随分とたった。不思議なものだ、以前は止めようとしていた者が案内役をかってでてくれているのだから。

 

 「今のところ、奴らの気配はないな。森の気配も穏やかなものだ」

 

 何時もと同じ気配の森。だが本番はこの先だ、警戒は僅かも緩めることができない。

 

 「もう先に進んでいるのかも。まだ来ていないと考えるのは、流石に楽観視し過ぎだからね」

 

 「そうだな。こっちだ」

 

 フルークが指し示す方角は、当初一人で登ろうとしていたところとは別方向だった。当初昇るルートとして教えられていた場所とも違う。森と山を熟知した彼だ、自分が想定しているよりも良いルートを知っているのだろうか。

 

 「これは?」

 

 森の中に現れた人工物。それは古いが手入れはされている木造建築の建物であった。フルークが余裕で通れそうな木の扉を押し開くと、中には供え物を置く為の祭壇と木で彫られた、恐らくは竜を象った木像であった。

 

 「言っただろう。私は一応、竜神信仰の祭祀だ。信者は五十人もいないが、それでもこの社を任され管理している。そして、先代から継いだ話がある」

 

 フルークは竜の木像に一礼してから、台座をずらして手をかける。

 

 「横にずらす、手伝ってくれ」

 

 二人がかりで木像をずらすと、平な底面の下に暗い地下へ通じる通路が現れる。土と石を固めて作ったような黄土色の怪談が暗闇に続いていた。外はまだ月明かりがあったが、イルドガルの地下通路のような暗闇が広がっている。

 

 「なにこれ、隠し通路?」

 

 「どうやらこの地下通路から、かつて神殿を築く際に使われていた道へ進んでいるそうだ」

 

 「こんな便利な隠し通路があるなら何故黙っていたの。怒るよ」

 

 「話してしまえばお前は行くだろうが。それにここは、古い通路すぎて所々崩れていたり危険極まりない。それに結局のところ最後は、自力で昇りきるしかないんだ。一度ここを進んだからこそ言える。なによりここは、代々祭祀にしか伝えられない隠し道だ。おいそれと、伝えられないだろう。だが、時間がないんだろう?」

 

 中に入り込み、ランプに火を灯す。フルークと共に入った後、底面に手のひらをあて元に戻す。

 

 「山頂への道は崩れているって話だったっけ?なんだ、禁忌だなんだ言っておいて興味はあったんだねぇ」

 

 階段を降りながら声をかける。フルークは、バツが悪そうに顔をしかめ後頭部をかいた。

 

 階段を降りきった時、急に広い空間に繋がった。地下にいるとは思えない程に天井が高く、そして広大だ。ランプの火を木の枝に移し、壁に近づける。壁にかけられていたのは松明であり、松脂を布につけて巻いたそれは古い遺跡には似つかわしくない新しいものだった。

 

 「もしかしたら、ここを使うかもしれないと思い用意をしておいた」

 

 新たな光源が、地下空間を照らし出す。自分の想像以上に、この空間は奇怪なものだった。



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 思い出したのは、帝都でエンパス教の神殿を乗っ取ったウェンディ=アルザスの夢魔を隠す為の地下空間だった。ただし、奥行きが段違いだ。松明で照らされた灯りだけでは、どこまで続いているのか分からない。

 

 入口近くにあった怪談を降りると、そこはまるで古い町並みのように見えた。レンガを積み上げた家屋は屋根の部分は崩れているが、それでも壁部分は残っており当時の暮らしを想像させるのに充分な程に現存している。

 

 道の中央の窪みがあり、恐らくは水路であったのだろう。当時はここに水を引き入れて流し、生活用水は飲料水にしていたのだろうか。だが何故、こんな場所に大規模な一団が住む程の住居が必要であったのか。

 

 「細々と続いた竜神信仰だが、それでも歴史は長い。代々の祭祀達の中には、この遺跡に興味を持ち調査を行う者もいた。恐らくここは、当時の信者達の住居だったんだろう」

 

 「物好きだねぇ。とは考えそうだけど、これだけ広くていろんなものが残っていれば興味も引くか。でも、なんでこんな穴倉に籠ってたんだろうね」

 

 「当時の祭祀の推測によれば、当時の地上は今よりも荒れていておおよそ人が住める場所とは言えなかったのではないかということだ、あの壁画とか、なにを書いているかはさっぱりだが少なくとも、ここを調べた三代前の祭祀である彼女はそう解釈している」

 

 フルークが松明を掲げると、壁が照らされる。カクカクした分かり易い絵は竜。翼が生えた人間。天災に見える天から降り注がれるなにか。悪魔にみえる者はいないが、一部の集団から崇拝されているように見える人間に近いなにかがそれだろうか。

 

 竜と神が人間をそっちのけで戦い天災をおこし、逃げ惑う人々。一部の者達が悪魔を崇拝して庇護を求めようとしているってところだろうか。文字のようなものも彫られているが生憎そちらは訳が分からない。別に今必要な情報ではないから、分かる必要もない。

 

 「どうでも良いけどさ、こんな気が滅入る壁画を何時でも見れる場所に彫るのはどういう必要があるの?嫌がらせ?あとどうでも良いけど、これ見ると竜も天災扱いなのにここの連中はなんで崇拝する必要があるのか、よく分からないね」

 

 「それについては、余所の国での宗教観に似たようなものがあるらしい。恐ろしい者は崇拝し、敬して遠ざけるのが一番だと。その地では、それが善きものであり悪しきものであれ、崇拝し恩恵を得たり怒りを沈めたりしていたのだとか。まあ、これも三代前の手記にあった受け売りだが。壁画の場所については警句の意味合いなのだろう。警句は、見える場所に無ければ意味がない」

 

 「読み込んでるねぇ。暇だったの?」

 

 「浪漫は感じると思うが…」

 

 「分からないよ」

 

 フルークの表情が少し歪む。小さな声で『分からないのか…』と呟いているところを見るに、少しダメージがあるように見えるが興味はない。問題は、古い遺跡故にこの先何処まで平坦な道を歩いて行けるかだ。

 

 「肝心なのは、このルートで何処まで道が続いているかだよ。一応、外のルートよりは早いってことなんでしょ?」

 

 エンパス教から派遣されてきた連中よりも早く登頂してしまいたい。恐らくはランザが山頂にいることを知っている可能性があるか、或いは推測できているのだが奴等に情報は持ち帰らせない。争いごとになることもあるだろう。その時は、いの一番に奴の首を掻き斬りに行ってやる。

 

 「言っておくけど連中、空を飛ぶこともできるかもしれないよ。少なくとも、自分が対峙した化物共はデフォルトで翼が生えてたからね」

 

 「恐らくは大丈夫だ。外のルートは推奨できないのはそれなりの事情がある。今頃、それなりには苦労している筈だ。こちらも苦労するが、外よりはマシな筈だ」

 

 「どういうこと?」

 

 フルークは、地下空間の天井である岩石を睨みつける。

 

 「断崖を昇るルートはよく吟味する必要がある。まぬかれざる客には、相応の苦労があるということさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 民間武装組織。その始まりは、三十年前まで遡ると言われている。

 

 当時の帝国では近代化における地盤固めの時期が完了にさしかかっており、同時に開拓による冒険、そして新たな土地を市場に乗せた好景気に浮かれている時期であった。

 

 冒険者組合と呼ばれる、ならず者達や食い詰め物、就職先の無い元犯罪者達を集めた捨て駒集団が開拓地の探索に向かう。そして見つけた有用な土地を、土地を継げない農家の次男や三男坊達を、妾に孕ませた扱いに困る貴族の子供に押し付け開拓団として派遣する。

 

 当初は犯罪者や犯罪者予備集団、一攫千金に惹かれたスラム街やホームレス達を体よく利用し、同時に蒸留階級内で争いごとや厄介の芽となる存在を、土地を与える名目で無理矢理政治中央や貴族社会から押し出すことが可能となる。

 

 当初は収益等さして期待していなかったが、目論見は良い意味で予想を外れる。冒険者ギルドの損耗は毎度大きかったが、同時に本当に莫大な財産を掴める程の成果を掴む者も現れ全盛期には希望者が絶えず訪れた。

 

 そして開拓団が開いた土地は、長年誰も使用していなかったが故に土壌が豊であったのか大きな実りや名産を生み出し、帝国経済を豊にする起爆剤となった。不良債権となる国民を消費しつつ使える土地を増やし、上流階級の問題ごとを解決しながらそれが経済を回す。この時代を帝国の黄金期と語る経済学者もいる程だ。

 

 だがそれと同時に、元々いるだけで害悪になるような人種を集めた冒険者ギルドの人員は、争いごとの火種となることも多かった。未開の地に向かう前に辿り着いた村々で好き放題するような連中や、略奪行為に走りそのまま冒険者達がならず者の盗賊になることなど珍しくはない。

 

 好景気であったことと同時に、市民にとってはもっとも治安が悪い時代でもあった。冒険者を見たら、娘や嫁を家に隠せというのは、なにもやりすぎな対策ではない。

 

 そんな者達に対抗する為に始めた自警団が、民間武装組織の始まり。当時の有志達が掲げた、民間守護を第一とするという約定は、常に継承されていた。掲げる大盾は、自警団から政府に認められた当時からおこった老舗中の老舗であった。

 

 リスム支部における掲げる大盾の団員の五割は帝国出身者である。四割はリスム自治州、一割程が連合王国出身者であった。支部設立に辺り、先代支部長や現在の長であるグロー支部長を始め初期メンバーの五割は帝国の人材でしめている。

 

 リンドブルムは、リスム自治州出身であった。リスム初となる民間武装組織設立に辺り、新団員の募集を看板で見かけ応募したのが始まりだ。

 

 冒険者組合に登録をし日銭を稼いでいた毎日であったが、人生なにか変えたいと思い一念発起をして掲げる大盾に入隊志願を出した。民間武装組織に就職するのはハードルが高いと言われたが、簡単な面接を経て明日から指定の場所に来てほしい、歓迎をするというグロー支部長の言葉に、正直浮かれた。

 

 そして、歓迎という名のシゴキを受けた。

 

 歓迎という言葉は、一員として認められるということではなく、歓迎という名前の適正試験及び日常訓練の体験をさせるという意味だったのだ。掲げる大盾の訓練場には腕っぷしが強そうな奴含めて四十人くらいの男女が集まっていたが、半数以上がその日のうちに消えた。

 

 日の出から昼食まで基礎体力向上、武器術、捕縛術、帝国式軍用格闘術、行軍訓練、火災等を想定した要救助者救助訓練。食事は肉、穀物、色とりどりの大量野菜。喉を通らずに何度も吐き出し、最終的には包丁で何度もたたいた物を水の中にぶち込んで無理矢理先輩に呑まされる。

 

 僅かな休息時間の後は、ランダムに班分けをされ実戦を想定した連携訓練。単純な戦闘訓練の他指定位置にいち早く辿り着くことを想定したサバイバル等様々だ。沼地の中央までリザードマンの巣穴を目指し、繁殖具合を確認し戻れなんて言われた時には、始める前から死んだと思ったものだ。

 

 夜間は照明代金を無視しまで座学が待っていた。主には法律の勉強や実際におきた犯罪等の検証等。勿論、民間武装組織の定義や考え方等もみっちりと叩き込まれる。

 

 一月のあまりそれを過ごしているうちに、辞退する者のいれば夜中にこっそりと抜け出す者もいた。時には訓練中に走り出していなくなる者も。そうしているうちに、四十人いた面子が三人程になってようやく掲げる大盾の一員として認められた。

 

 そんな地獄を潜り抜けた自分には自信があった。現に野盗や盗賊のような連中や、冒険者崩れの粗暴で素行の悪いアホ共相手には楽勝であり、年々減らされる予算で苦しむリスムの警備隊と比べれば治安の維持に貢献しているという自負があった。

 

 だがしかし、ただの人間にはどうしようもないこともある。

 

 モスコーが壊滅したと聞き、リスム自治州とモスコーから連名の依頼があった。復興支援の為、大規模な人員を動かす必要がある。要救助者がまだ瓦礫の下にいるかもしれない。既に反応がないという、人間を襲うというグールと呼ばれる死者の中には、まだ動いて救助活動に支障が出るかもしれない。火事場泥棒や、犯罪行為に走る連中を取り締まる必要もある。

 

 グロー支部長と右腕であるマリアベル副長、そして半数近くの団員がモスコーに出向く。居残り組である者達は、何時もより少ない面子で業務を回す必要に駆られた。緊急性の少ない依頼案件は受け付けないようにしていたが、それでも目が回る忙しさだ。それでも、留守中その時が訪れるまで平穏であった。

 

 巨人事件。あれを事件と言って良いかは分からないが、とにかくそれがおこる。後の情報でエルフ共の陰謀と暴発という事実を掴んだが、その時はとにかく唐突に巨人が現れたとしか言いようがない。なにせ、山の一部がいきなり人の形に盛り上がり自治州に向かって歩いて来たのだから。

 

 帝国側は異常事態に国境線を固めた。連合王国でも情報が錯綜していたのか援護が来ない。対処にあたったのは、帝国から甘い蜜を啜るのが上手い市長のせいで、予算不足を日ごろから嘆くリスム自治州警備隊。

 

 防衛線は破れ、街中は大混乱に陥る。市民を誘導しながら護衛をし、あの巨人が繰り出す蔦だが触手だかかを撃退するのは骨が折れるなんて場合ではない。市民や警備隊のみならず、居残り組である掲げる大盾の職員にも殉職者が多数でてしまっていた。

 

 人の実力ではどうにもならない巨人。無残に命を散らしていく人々。自分の中で積み上げられた自信が、ポキリと折れるのを感じた。

 

 だがしかし、奇跡はおきた。

 

 僕はこれでも教会信者であったが、彼等の言う女神が助けてくれたことはない。もっとも、敬虔な者はともかく、僕は宗教とは倫理観を育み人並みの自制心と思いやりを持つ為の道徳を学ぶ物と割り切っている為にそこに驚きはない。

 

 本当に驚いたのは、奇跡をこの目で目撃したからだ。あのツタの塊のような巨体を滅ぼした光の柱。まさに神の御業と言って差支えない。そしてそれ以降、改宗した僕は本当の神に祈りを捧げた。

 

 そして、世界では戦争がおきた。火種は以前から存在していたが。だが、決定的な出来事はリスムの投票事件だろう。あの惨劇の裏には、連合王国が暗躍しているとグロー支部長は語っていた。そして、帝国の票数操作やなにかしらの工作の可能性も否定はできない。

 

 リスム自治州は、裕福で発展している。傍から見れば恵まれた都市に見えたであろう。だがその繁栄の光から産まれた陰では、暗闘や工作が幾度も繰り返され、巻き込まれた市民も少なくはない。民間武装組織だって、万能ではない。歯痒い事態に無力感が沸き上がったことも幾度もある。

 

 だがエンパス教ならば、人ならぬ存在ならば本当に彼等の言う争いのない安寧の世界が訪れるかもしれない。そして今、リスム自治州は神の庇護下にある。

 

 「遠目からでも分かりましたが、流石に霊峰となれば昇るのには苦労しそうですね」

 

 まともに歩ける山道を進むだけでも、一般人でも苦労するだろう。行軍訓練を掲げる大盾時代に繰り返した自分ですら見ているだけで辟易してきそうになる。

 

 「まあ、まともに昇ればですが」

 

 マントを地面に降ろす。一応は支給品なので無くさない為にちょっと大き目な岩を乗せておいた。授かり物を無くしてしまうことがあれば、不敬も良いところだろう。

 

 エンパス教で表向きの主役であったレント=キリュウインは直属の者達に加護という異能を与えたという。だがしかし、エンパス様から与えられた者は信者の間では、安易な話ではあるが奇跡と呼ばれていた。個人的には、奇跡の安売りのようであまり好きではない名称だが他に候補もないのでそう呼称をする。

 

 背筋、肩甲骨が増殖して浮き上がり、変化をする。服の背中部分を破りながら、羽毛の無い翼膜の翼が形成される。神話に出て来る天使のイメージに近い翼は、ありきたりすぎて実はこれもあまり好きではない。それに本来信仰とは日々の安寧における感謝を伝えるものであり、見返り等望むべきではないのだから。

 

 本来ならば歩いて踏破を目指したかったが、昨日クーラ=ネレイスを見たことで計画の変更を余儀なくされた。我等と敵対している彼女が、なにかを仕掛けて来る可能性は高いと踏んでいるからだ。悪竜を継承したランザと共に、旅をしてきた者を侮る訳にはいかないだろう。

 

 翼を羽ばたかせ、垂直に昇る。自分の体重と体力、装備重量を考えると数度の休憩は必要になりそうだがそれでも自力で進むよりは余程早く到着するだろう。

 

 しばらく飛んでいると、急に耳障りな羽音が響く。視界の端で黒いなにかが飛んだ。首を傾けると、頬に赤い筋が走る。皮一枚斬られ、血が流れた。

 

 一メートル近い、爬虫類を思わせるシルエット。頭部は鶏のような鶏冠がついているが、それは青黒く先端が刃物のような鈍い輝きを放っている。嘴をカチカチと合わせながら牙を覗かせ、空を飛ぶ捕食者が……いや、捕食者たちが耳障りな鳴き声をあげた。

 

 「この地域固有の生物?」

 

 注意してよく見ると、崖のあちこちに巣穴と枯れ木や草木を集めて作る巣が点在していた。まぬかれざる客に、縄張りに侵入してきた者に威嚇の声をあげ飛来する。

 

 「これは、意外と時間がかかりそうですね」

 

 任務に失敗はないが、もしかしたら減点はありそうだ。高速飛来する集団を見て、リンドブルムは小さくため息をついた。



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