私だけのトレーナー (青い隕石)
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メジロドーベル短編
あなただけに見せる姿


トレーナー×メジロドーベルを受信してしまったので


 

 晴天透き通る、春の終わりを感じさせる空。暖かな風が吹く練習場を私は駆ける。

 

 先日のレースから休養日を十分に摂った翌週。軽いジョギングやウォームアップで済ませていた日々から通常の練習に切り替わった。

 

 額から流れる汗を振り払い、前へ、前へと突き進む。本番さながらの闘志を抱き、コーナーを曲がる。最内を意識したが、若干スピードの減速と噛み合わずに膨らんだ走行となった。

 

 「ドーベル!最短距離を意識してもう5m前から減速を心がけるようにしよう」

 

 「分かってるわよ!!」

 

 すかさず飛んできたトレーナーの指示に対し、大声で返す。今回だけではなく、本日の練習中、幾度となく指摘を受けそのたびにやや乱暴とも取れる返答をしている。

 

 日没が近いとはいえまだまだ明るさの残る時間帯。当然ながら多くのウマ娘が滞在しており、当然生徒達にも私達の会話が届く。

 

 「メジロドーベル先輩、かっこいいなあ・・・。先週のマイラーズCでもダントツだったし。中央に入学できて良かったわ」

 

 「本当ね。でも、さっきまでの会話、担当のトレーナーさんと仲が悪いのかな・・・?」

 

 「かもしれないわね。ずっと険しい顔してるし」

 

 ヒソヒソ声の会話だったが、ウマ娘としての聴力がその小さな音を一言一句逃さずに拾い取る。それを無視し、ひたすらに練習に打ち込む。練習場を使用できる時間は有限なのだ。無駄な行為は出来る限り削っていく。

 

 もとの定位置に戻って、再びスタートを切る。徐々にスピードを上げていき、指示通りの箇所から減速をしてコーナーを曲がる。今度は目標通り、内ラチギリギリにに沿った曲線を描いて曲がることが出来た。

 

 「よし!その調子だ。ドーベル、あと5本行くぞ」

 

 「ええ」

 

 喜ぶトレーナーを視界に収めつつ、険しい表情を変えずに小走りで再び所定の位置につく。

 その後も坂路、ダートと一通りの練習をこなし汗を流す。本来なら最後、次のレースを想定した距離走を行うのだがレース明けであること、次の予定はまだまだ先であることからランニングでの締めとなった。

 

 走り終わった後、メモを取っていたトレーナーに近づき報告を行う。

 

 「トレーナー、終わったんだけど?」

 

 「おう、お疲れさん。クールダウンしてからいつも通りミーティングだ。体冷やさないようにしろよ」

 

 「分かってるっての」

 

 朗らかに返すトレーナーにそっけなく返事をし、タオルを受け取って練習場を後にする。先程小声で会話をしていた2人が自分とトレーナーをチラチラと見ていたが、気づかないふりをして寮に向かった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メジロドーベル。

 

 中央トレセン学園に席を置く者で彼女の名を知らない者はまずいないと言っていい。一般層への知名度に関しては皇帝や帝王、異次元の逃亡者に遠く及ばないが、レースファンに彼女のことを聞けば様々な答えを得られるだろう。

 

 『女帝の後継者』

 『クールビューティー』

 

 1年前、ノーマークの状態から重賞を次々と獲得していきエリザベス女王杯ではあのエアグルーヴに競り勝っての勝利を収める快挙を成し遂げた。1着間違いなしと言われていた女帝に土を着けたその衝撃はファンの間を駆け巡り、一気に彼女の名を上げることとなる。

 

 その後も、11月のマイルチャンピオンシップ、4月の大阪杯で1着を獲得とG1での快進撃が止まらず、昨年末から重賞レース全てで負けなしであり、早くも今年度URA優勝候補に挙げる声も出始めている。

 

 また、レースの際は険しい顔を崩さずその瞳にギラギラとした炎を灯すが、叫ばず、声を出さずに走り抜いて静かにターフを去る。ウイニングライブでは笑顔を見せるが、他の生徒に比べれば少ない頻度と言わざるを得ない。

 

 その立ち振る舞いが逆に人気を呼び、男女問わず彼女のファンとなる者が多い。先の2人もエリザベス女王杯での走りに魅せられ、中央トレセン学園の門を叩いたウマ娘である。

 

 授業の予習復習もそこそこに運動場に乗り出し、一挙手一投足を目に焼き付けようと遠巻きに観察をしていた。この2人と似た考えを持つウマ娘は多く、練習に打ち込みながらもメジロドーベルの練習光景を見ては熱い視線を送る新入生徒がチラホラと見受けられた。

 

 そんな状況で、数日、1週間、数週間と時が経っていくと、ずっと彼女を見ていた者は多かれ少なかれ、ある同一の懸念を抱くようになった。

 

 

 

 「おや?どうしたんだ二人共。もうすぐ練習時間は終わるぞ」

 

 「え?・・・エアグルーヴ先輩!?」

 

 ターフに残って話し合いをしていた2人にかかる声。顔を上げた両者は目の前に立っている人物を見て驚きの声を上げる。

 

 「す、す、すみません!?今すぐに」

 

 「ああいや、多少なら遅れたって構わないさ。それより、先程まで何やら話し込んでいたみたいだが悩み事か?私で良ければ聞くよ」

 

 「あ、ありがとうございます!いやでもそこまでしてもらう訳には・・・」

 

 「なに、生徒のメンタルケアも生徒会の仕事さ」

 

 鋭い目つきながら穏やかな表情で2人に話しかける人物はエアグルーヴ。生徒会副会長として、レースを走るウマ娘として幅広い人気を集める女帝は、手を振って話しやすいようにジェスチャーを取る。

 

 威風堂々たる中に優しさを織り交ぜたその態度に2人は熱っぽい視線を送り、慌てて自分たちの感じている疑問を伝えた。

 

 「・・・・・・ああ。あの2人についてか」

 

 「は、はい。ずっと言い合っていましたしお二方とも険しそうな表情でしたので・・・外野がとやかく言うことではないのですが、気になってしまいまして・・・エアグルーヴ先輩もご存知なんですか?」

 

 意見を聞いたエアグルーヴは、制服についたマークから2人が新入生だと判断した。たしかにそれなら疑問に思うよな、と彼女は思った。

 

 2人の疑問を解決すべく、エアグルーヴは再び口を開いた。

 

 「なるほどな。あの2人については心配いらないぞ。何故なら・・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャワーを浴び、制服に着替えて寮の廊下を歩く。

 

 次の目標レースはGⅡのローズS。夏を跨ぐ期間があるため、長期的な調整をしていくこととなる。

 

 そのため毎日細かなミーティングをする必要は無いのだが、私の足は気持ち早めにトレーナー室へと向かう。 

 

 何度も何度も通ったルート。足だけでなく逸る気持ちを必死に抑え、トレーナー室の扉を叩く。

 

 「入るわよ」

 

 ノックをし、入室をする。データ入力を行っていたトレーナーが、おう、と返事をしそのままミーティングが始まる。

 

 本日の指摘点もそこそこに今後の大まかな練習日程、夏合宿の暫定内容などこの先の取り決め事項が多かった。

 

 疑問に思った箇所はその都度トレーナーに確認を取り、納得の行く状態で全ての伝達事項を受け取った。

 

 昨年からの好成績のおかげで、夏合宿は前年までと違う最新施設を使用できると聞いている。より実力を伸ばせる環境に身を置けると思うと、今からでも気持ちが高ぶる。

 

 ・・・・・・それはそうと。

 

 「トレーナー。そろそろいい?」

 

 「ああ、構わないよ」

 

 ミーティングが終わってからの第一声。トレーナーの肯定返事を聞き、彼をソファに誘導する。

 

 腰を下ろすのを確認し、彼に向かって飛び込んだ。

 

 「・・・っと」

 

 抱きついてきた私を、バランスを取って受け止めるトレーナー。それを気にせずに私はぎゅうううううううううと力を込めて彼を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中央トレセン学園に入学して半年頃、私の評判は最悪だったと言っていい。 

 

 男性恐怖症を克服できないまま来たことで、最初に男性トレーナーNGを打ち出さざるを得なくなった。その後、担当となった女性トレーナー達とはことごとく反りが合わずに短い期間で3人と契約→解除となった。

 

 レースに出場しても下から数えたほうが早い順位。たくさんの人がいる前でアガってしまい、実力を出すことが出来ずに敗退を繰り返した。実力を十全に出しても勝てていたかどうかは非常に怪しいが。

 

 こうなるとメジロ家という看板に期待してスカウトしてくるトレーナーもいなくなる。元々人数比的にウマ娘は買い手市場だ。選抜、模擬レースで結果を残せれば引く手数多だが裏を返すとめぼしい所がないウマ娘は誰からもスカウトされない。早い話、自分もそのグループに入った訳だ。

 

 トレーナーを持たない(持てない)ウマ娘は、教官と呼ばれる人の元で指導を受けることになる。その担当教官も男性だったことで練習中、幾度となく萎縮、反発をしてしまった。

 

 教官は10人ほどのウマ娘を抱えているので反抗的な者に時間を割く義理もなければ余裕もない。結果、私は1人でぽつんと練習をする日々となった。

 

 全ては自分の蒔いた種であり自業自得。黙々と練習を続けるもトレーナー無しの独学で勝てるほどレースは甘くない。最初の半年間、私は参加した全てのレースで入賞0という不名誉な記録を打ち立ててしまうことになる。

 

 メジロ家の落ちこぼれというトレーナー間で飛び交っている噂を何度聞いたことか。全くの事実であるのだがそれが私を更にトレーナー不信にさせていった。

 

 マックイーンやライアンには余り思い詰めないほうがいいと声をかけてくれたが、その気遣いが嬉しく、同時に自分が情けなくなった。同期の2人は早々にトレーナーを見つけ、この前のG3レースでも好成績を収めたという埋められない差。私一人で勝手にメジロ家の評判を落としているのがただただ悔しかった。

 

 ウマ娘であれば誰しもが持つ、走る喜び。その感情も薄れてきた私は地方学園への編入も考える時間が増えてきた。

 

 そんな折、急遽私と契約を結ぶトレーナーが現れた。それが今のトレーナーである。マックイーンが私の現状を生徒会に報告、その陳情を受け取ったエアグルーヴ先輩が直々にトレーナーを見つけ、私につけたと後から聞いた。

 

 私が男性恐怖症ということを知ってなお男性トレーナーをあてがってきたのは、今にして思えばエアグルーヴ先輩の慧眼だった。ただ当時の自分はそんなことまで考える余裕がなく、素直に受け入れることが出来なかった。

 

 マックイーンと尊敬する先輩に手を煩わせてしまった以上、自分から契約解除を申し出るだなんて恩知らずな真似は出来ない。ただその意識が余計にストレスになり、練習初日から彼に強く当たってしまった。 

 

 練習の指示一つを聞こうとしても、萎縮をしてしまいそれを隠すように反抗的な態度を取ってしまう。

 

 根気強く私との距離を縮めようとする彼に対し、拒否反応からひどい言葉を投げかけてしまう。

 

 「あなたが嫌いなの!トレーナー風なんか吹かさないで!もう放っておいてよ!!」

 

 と面と向かって発言してしまったこともある。 その言動一つをとっても、あちらからその場で契約解除を伝達されても不思議ではなかった。

 

 指導者がいたところでこれではまともに上達なんて出来るはずもなく、2ヶ月後のレースでは初めての最下位をとった。極度の緊張からトレーナーから託された作戦を無視して走り、最後はスタミナ切れでの大失速。

 ひどいなんてレベルじゃない展開に観客からは嘲笑の声も聞こえてきた。

 

 レース終了後、トレーナー室に呼び出された時は

 

 (ああ、これでまた契約解除されるのかな・・・)

 

 と諦めの感情となり、それならそれでもいいと思った。どうしようもない自分に、これ以上関わってほしくなかった。 

 

 「・・・入るわよ」

 

 声を掛け、部屋に入る。最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋の奥に、パソコンと睨み合っていた彼の姿を確認する。 

 

 「おう、今日はお疲れ様」

 

 「思ってもいないことなんて言わなくていいわよ」

 

 ねぎらいの言葉にすら、突き放すような返答をする。今後一切、私なんかを気にしないでほしい。そんな気持ちなのに口に出すとこのような言葉になってしまう。

 

 2ヶ月かけてもらって、何の成果も出せなかった。それなのに、諦めようとしないトレーナーが嫌だった。その努力に応えることが出来なかった自分が嫌だった。冬が近い季節、私とトレーナーの間には強い隙間風が吹いていた。

 

 そんな私を見て、口に手を当てて考え込む仕草を見せるトレーナー。しばしの沈黙が流れ、解除を申し出るなら早く切り出してほしいと険しい表情になる。

 

 「ドーベル、一つ提案がある」

 

 「何よ」

 

 「・・・・・・デメリットもあるが、お前を勝たせることが出来るかもしれない方法、試してみる気はないか?」

 

 彼の口から出た言葉、それは予想外のものだった。入賞すらしたことがない自分が1位を取れる方法?虚言も大きすぎると笑えてくる。

 

 だけど、トレーナーの目は本気だった。そのアンバランスさが飲み込めず、私は嫌悪感を抱く。

 

 「ふざけないで!・・・・・・私の今までの成績は知ってるでしょ。本気で言ってるの?」

 

 「ああ、もちろんだ。俺は可能性のないことは言わない・・・・・勝ちたいだろ?」

 

 声を荒げた私に、冷静さを纏ったトレーナーの声が届く。何故、ここまで辛抱強く付き合ってくれるのか、わからなかった。

 

 でも、最後の言葉を聞いて私の心が揺さぶられる。勝ちたいのか?当然だ。ウマ娘として生を受けた以上、走り続けたい。そして走るからには誰よりも早く駆け抜けたい。

 

 もう一度、トレーナーをみる。散々、数え切れないほどに強く当たってきた。それなのにまだ私を見てくれている。

 

・・・・・・どうせこのままなら、1人になっても状況は変わらない。それなら一度、大言壮語をするトレーナーの意見を聞いてみようと思った。 

 

 一歩、前に踏み出す。トレーナーの瞳が微かに揺れた。

 

 「・・・・・・いいわ。聞かせて」

 

 私は初めて、彼を正面から見つめた。

 

 

 

 結論から言えば、トレーナーの意見は賭けに近いものだった。

 

 私の抱える問題点は3つ。『男性恐怖症であること』『人目が怖く、レース本番でアガってしまうこと』『自分への自信が持てないこと』である。

 

 いずれも精神面から来るものであり、だからこそ一筋縄では行かない。簡単に克服できるのであればここまで苦労しない。

 

 彼の案は私の考えの外にあるものだった。簡単に説明すると、2つ目の問題点(レース本番での緊張)を克服するために1つ目の問題点(男性恐怖症)を利用するというものだった。

 

 「ドーベル。君の男性恐怖症はまず萎縮、そしてそれを隠すための反発から来るものだと思っている。それは間違いないか?」

 

 「・・・・・・ええ、そうよ」

 

 「その反発の精神、本番にまで持っていけたら緊張はしないよな?」

 

 「は?」

 

 

 トレーナーの言っていることが理解できず、間抜けな返事をしてしまった私に、さらに説明をしてくれた。

 

 レース本番にて、緊張という感情以上の『何か』が頭を占めていればいい。生半可な気持ちでは効果がないが、それを上回る感情を私は持っている。

 

 欠点と欠点の乗算で利点に変えてしまおうという博打である。

 

 「本番で反発する精神を抱えたまま走るためには常日頃から持っていないといけない。だからこそ練習時から意識する必要がある。だからドーベル、練習時は俺に遠慮なく怒りを抱け」

 

 「怒り?」

 

 「そうだ。これからの練習、あえてドーベルの今のレベルよりも上のランクにする。練習時間も伸ばし、毎日がヘロヘロになるくらいにな。おかしなところがあればすぐに檄を飛ばす。それに対し、怒れ。『トレーナー風を吹かせて』でも『男が指図するな』でも何でもいい。抱えた感情のまま、俺にぶつかってこい。萎縮は絶対にするな。」

 

 本気で語るトレーナー。そこからは自らが憎まれ役を買って出るという不退転の決意が見て取れた。

 

 「・・・・・・ただ、デメリットもある。恐らく毎日のように言い合い、いや怒鳴り合いになるだろう。それを見た他のウマ娘が君に対してどんな感情を抱くか・・・。もしかすればメジロ家の風格に傷をつけることになるかもしれない。それ以前にドーベルも感じているだろうがこの案は博打に近い」

 

 声を落とし、目を伏せるトレーナー。しかし、そのときには私の答えは決まっていた。

 

 「私の評判だなんて、とっくに地の底よ。それに、メジロ家の風格に関しては問題ないわ。今の状態、負け続けている現状が最低最悪の泥塗り行為なのよ。そこから脱却できるのであれば、何だってやってやるわ!」

 

 そう宣言した日から、私達はようやくスタートラインを切った。

 

 

 

 翌日から、それはもう毎日のように喧嘩が起きた。何故この練習をするのか、こっちの方法が効率がいいのではないかなど思ったことは全てトレーナーにぶつけた。もちろん、私とトレーナーではレースにおける知識量に多大な差があるためいつも私が打ち負かされていたが。

 

 トレーナーは宣言通り、私の全てを受け止め、そしてぶつかってきた。最初から最後まで私のことを第一で考えてくれた。

 

 練習内容での激論も私を最も良い状態に仕上げるため。練習中転んで足を軽くひねってしまった時は、有無を言わさず私を抱えあげ、「ちょ、何するのよ!?」という間もなく保健室まで運んでくれた。

 

 トレーナー室への忘れ物に気づき、夜にこっそりと取りに行ったら明かりが漏れていて、中でパソコンとにらみ合いながら私の練習内容について必死に考えている彼が見えた。

 

 その姿を見て、私も全力で答えた。勝つために、彼にぶつかっていった。彼の博打とも取れる案を失敗させたくないため、怒りの感情を忘れないようにした。

 

 私達の姿を見たウマ娘から敬遠される機会も増えた。トレーナーとの仲がうまくいってないように見えた友達から心配されることも多々あった。それでも私は下がらなかった。

 

 そして迎えた、オープン戦。休日開催に加えこの後にGⅡレースもあるということで観客の入りは上々の日。今までのわたしであれば最悪のコンディションといっていいレースに挑戦することとなった。

 

 控室で私は目を閉じる。何度倒れかけたか分からない猛練習の日々。そんな中幾度となく飛んでくるトレーナーの激を思い出し、怒りのボルテージを上げていく。

 

 同時に、託された作戦を心で復唱する。ギラギラとした闘志を抱え、それでいて片隅には冷静さを持つ状態。

 

 「・・・・・・ドーベル、勝って来い!」

 

 「ええ!!」

 

 トレーナーの激に対しキッと表情を細め、気合を入れる。振り向かずに控室を出て、ターフへと足を踏み入れた。 

 

 たくさんの歓声、人。それを視界に収めて、私は『特になんとも思わなかった』。

 

 ゲートにいち早く入り、瞑想をする。沸き立つ怒りと共に頭の中で思い浮かぶのは昨日の作戦会議。

 

 『ドーベル、今回の1600mは他のウマ娘を一切意識するな。今まで何度も繰り返し練習し、体に刻み込んだタイムを意識して走れ。今回のレース、能力においてはお前の1強だ。いいか、もう一度いう。ドーベル、自分のペースさえ崩さなければ絶対に勝てる。自信を持て!』

 

 私の問題点である3つ目、『自分に自信が持てないこと』。これはもう実力をつけ、勝利を積み重ねることでしか改善できない。だからこそ、今日のレースは重要だ。

 

 出走間近。目を開いて、前方の景色を見る。ゲートの網目越しに見えるそれは、いつもより広がって見えた。

 

 ゲートが開く。その瞬間、私は風になった。歓声が聞こえるが、それを無視して駆け抜ける。

 

 (ここまであいつに従って努力をしてきたのよ!絶対に走り切るわ!)

 

 走り始めてすぐに、私は先頭に躍り出た。逃げの作戦をとったわけではない。自分のペースに従った結果、どんどんと後続との差が広がっていったのだ。ゴールまでの距離が縮まるに連れ、遠くなっていく足音。その情報を極力排除し、自分の身体に耳を傾ける。

 

 自信を持てなかった自分。緊張で満足に走れなかった自分。その影を振り払うかのように、過去と決別するようにターフを蹴る。

 

 最終コーナーを抜けて最後の直線。誰も視界に映らないターフの景色。トレセン学園に入ってから、初めて見た景色を私はトップスピードで駆け抜けた。

 

 終わってみれば10バ身以上の大差。最初から最後まで影をも踏ませない圧勝劇が、私にとって念願の初勝利となった。

 

 

 

 (勝った・・・初めて勝った!!)

 

 走り終わり、そのまま控室に歩を進める私。ウイニングライブまではまだ時間があるため、まずはトレーナーに報告をすることに決めた。レース後にミーティングをすることは決めていたため、歓喜の気持ちを押さえつつ控室の扉を開ける。

 

 「トレーナー、入るわよ。勝っ・・・・・・」

 

 部屋に入った瞬間、身体に衝撃を感じた。えっ、と思ったが、すぐに状況が頭の中に入ってくる。

 

 トレーナーが、私に抱きついていた。

 

 「は!?ちょ、ちょっと何する・・・・・・!!」

 

 抗議の声をあげようとして、トレーナーの顔を見て声が止まる。

 

 トレーナーが泣いていた。私よりも遥かに大人の彼が、大粒の涙を流し、それを隠すように顔を背けて泣いていたのだ。 

 

 「おめでとうっ・・・ドーベル・・・」

 

 絞り出すような声だった。普段の激とは比べ物にならないほどの小さな声。それを聞いて、今までの猛練習の日々が、そしてそれを文字通り支えてくれた彼の姿が蘇ってくる。

 

 その途端、私も視界がぼやけて来た。

 

 「・・・何よ。私以上にあなたが泣いてどうするのよっ・・・・・・」

 

 彼の頭に手を載せ、引き寄せる。私の涙が見えないように、視界を塞いだ。

 

 あれだけ嫌悪していた男性からの抱擁。しかし、今の自分に、負の感情は全く浮かんでこなかった。

 

 ・・・・・・思えば、この時点でとっくに私は、一途な彼に惹かれていたのだと思う。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「んむぅ~・・・・・・」

 

 トレーナー室のソファで私はトレーナーに抱きついていた。彼の胸板に顔を埋め、グリグリとマーキングのような仕草を取る。

 

 トレーナーはそれに苦笑しながら私を抱きしめ、耳を優しく撫でてくれている。弱い部分を重点的に撫でられ、時折変な声が漏れてしまう。

 

 初勝利を収めてからは私のレベルに合わせた練習に戻ったが、練習方法自体はそのまま継続した。

 

 レース本番のアガり症、自信のなさについては勝利を重ねることで完全に克服し、男性恐怖症についても前よりは緩和されていると自覚している。

 

 それでもお互いの気持ちを率直にぶつけ合うやり方は、私から告白して恋仲になってからも変わらなかった。

 

 新しく打ち立てた目標、GⅠ勝利にURA制覇。それを達成するには今後も並々ならぬ努力が必要となってくる。トレーナーも私もその目標に向け、練習では常に最善を目指した。お互い公私をはっきりと分けて取り組もうと決めたことで、議論は今まで以上に活発となった。今でもほぼ毎日練習場でぶつかり合っている。

  

 その反動というべきか、練習以外ではベッタリとトレーナーに甘えるようになった。というより甘えないと生きていけない。練習が終わった後や休日にいたるまで、時間を見つけてはトレーナーに抱きしめてもらっている。

 

 「んんっ・・・・・・トレーナー、もうちょっと優しく・・・」

 

 「えい」

 

 「あっ・・・んっ・・・はふぅ・・・・・・」

 

 耳の付け根をいじられ抗議の声を上げるが、どこ吹く風で裏側までなぞられ、力が抜けてしまう。

 

 想いが結ばれて約1年。甘えているうちに私の弱い部分を全部見つけられてしまった。この前なんかは耳を咥えられた上に何度も甘噛みされて、しばらく立つことが出来なかった。

 

 練習の時は私を第一に考えてくれるのに、プライベートな時はやめてといっても聞いてもらえない事が多い。私も本気では言ってないが。

 

 人当たりがいいと言われているトレーナーの素顔は、ちょっぴりエッチで、いたずら好きだ。他の人は知らない、私だけが知っている顔。

 

 目を閉じてこの幸せを享受する。これまでの、そしてこれからの日々に思いを馳せて、私はトレーナーに身を委ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・・・・余談ではあるが、二人の関係性において不安を持った生徒がいるとエアグルーヴやメジロマックイーンが逐一説明をするため、新入生以外にはほぼバレている。

 

 恋仲であることを隠し通せていると思っている2人が真実を知るのは、まだ先の話となる。

 

 



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おやすみコマンド~充電日~ 

『あなただけに見せる姿』(トレーナー×メジロドーベル)のおまけになります。




 突然だが、中央トレセン学園の一日は長い。

 

 日本で最もレベルの高いトレセン学園ということもあって、平日は朝から晩まで休まる暇がない。

 

 早朝、始業前から開放される運動場・練習場で汗を流すウマ娘の姿が一定数見受けられる。個人で走る者、チーム単位で練習に打ち込む者、様々だ。毎日打ち込むほど熱心なウマ娘は稀だが、週に1回以上取り組む者まで含めればかなりの割合を占める。1大レース前ともなれば、その数は更に増える。

 

 その後身体を冷まし、朝食を取ったら授業が始まる。レース関連の座学は勿論、一般科目のカリキュラムも余すことなく時間割を埋めている。ウマ娘とはいえ学生の本分は勉学であるため、定期試験で芳しくない成績を取った生徒には補修という名の監禁が待っている。

 

 ・・・・・・定期試験後、毎回のように補修室に引きずり込まれる同室のウマ娘については、深くは触れないでおく。あえて1つアドバイスするなら、授業中は寝ないほうがいい。

 

 授業が終わると、ようやくレースへ向けての練習時間となる。トレーナーの指示に従い基礎練習や模擬レースを時間の許す限り続ける。敷地内で打ち込むもの、敷地外で安全に気を配りつつ走り込むもの、様々だ。

 

 練習が終わればトレーナーとのミーティングの後、夕食をとって自由時間となる。ただし、ほんとうの意味で自由になれる時間は少ない。

 

 先程も触れた通り、一般科目に加えてレース座学も学ばなければいけないのだが、当然ながら期間は中等部3年間、高等部3年間と一般学校と変わらない。それでいて座学も追加されるので、必然的に授業スピードは早くなる。余程の天才、秀才でなければ授業時間外で予習復習しないとすぐに弊害が出る。

 

 寮の自室や学園の自習室で勉学に時間を費やした後は、道具の手入れもしなければいけない。蹄鉄シューズは勿論だが、寮生活なのでトレーニングで着るジャージの洗濯など細かい作業も必要となる。

 

 すべて終われば、とっくに日は沈み月の光が地を照らす時間帯。翌日に支障をきたしてはいけないため、早めに就寝することとなる。

 

 

 

 ・・・・・・ここまで一気に説明したが、まどろっこしいので一言に要約する。

 

 つまり、平日は『トレーナーに甘える時間が非常に取りづらい』のだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレセン学園の近場にあるマンションの一室。その扉の前に私は来ていた。

 

 人の足だと学園までだいたい徒歩10分。トレーナーとなった人は敷地内のトレーナー寮に入る場合が多いのだが、近場のアパートやマンションに住居を構える者もいる。その場合は学園から家賃補助が出るとはいえ、寮に住まえば補助どころかタダなためあくまで少数ではある。

 

 『折角都会で就職したからさ、気分だけでも一人暮らしを楽しみたかったんだ』

 

 というのが私のトレーナーの弁だ。寮とマンションでそんなに変わるものかと思っていたけど、彼が満足しているのならば深く聞かなくてもいいだろう。

 

 ・・・・・・それに、私にとっても非常に都合がいいし。

 

 チャイムを1回鳴らす。そんなに時間が経たないうちに、鍵が開く音と共に扉が開いた。

 

 「おはようトレーナー」

 

 「おはよ、ドーベル」

 

 短い挨拶を交わし、するりと室内に入る。鍵を掛け、小さく一息。

 

 「ドーベル、暑かっただろ。何か飲む・・・・・・」

 

 「いらない」

 

 トレーナーの言葉を遮って、ギュッと彼の服を掴む。まだ朝半ば、これから時間はたっぷりあるのだけれど、それでも我慢できない。

 

 上目遣いでトレーナーを見上げると、苦笑した彼に連れられて居間に足を進めた。

 

 トレーナー室に負けず劣らずの殺風景な部屋。多く用意してもどうせ使わないからいつよう最小限のものでいい、と言っていたがせめてテレビくらいは買ったほうがいいのではと思う。

 

 前に来たときに聞いてみたのだが、

 

 「いやあ・・・・・・見たいものっつっても野球や相撲、後はレースくらいだし。今だと全部ネットで見れるし、俺は必要性を感じないんだよなあ」

 

 と頭をかきながらやんわりと断られた。野球が好きだということでマックイーンのことを話そうと思ったけど、何か胸がムカムカして結局取りやめた。

 

 トレーナーが先にソファに仰向けに寝る。

 

 「ほらドーべ、・・・・・・っと」

 

 名前を言われる前に身体が動く。もう、待ちきれなかった。ぽす、っと音を立ててトレーナーに飛び込んだ。

 

 ・・・・・・2日ぶりの感触が、匂いが、私の五感を支配する。

 

 「えへへ・・・・・・」

 

 彼の胸板に顔を乗せ、体を預けた。トレーナーが私の頭と背中を優しく撫でながら、抱きしめてくれる。大きな手が動く度、撫でられた場所がぽかぽかと暖かくなるのを感じた。

 

 

 

 休日にトレーナーの家にお邪魔するようになった理由は、私の失態によるものだ。

 

 先程述べた通り、平日はやることが多すぎてなかなか2人だけの時間を確保することが出来ない。一日最長でも30分取れればいい方で、レース前となれば1週間我慢しなければいけない時もあった。

 

 少しだけでもと思ったけど、一度抱きついてしまうと歯止めが効かなくなる。結果、泣く泣くミーティングが終わってすぐにトレーナー室を退出する日も多かった。

 

 そんな日常の中で、どうしても自分の感情を抑えられなくなった時があった。トレーナーに抱きしめてもらいたい。撫でてもらいたい。欲望が留めることが出来ず、数日間食事や勉学、道具の手入れの時間を削って甘えてしまった。

 

 トレーナーも、私が連日長時間甘えていたことである程度予測はしていたのだろう。練習前、突然蹄鉄シューズを確認したいと言われた。毎日使用しているため、数日間とはいえロクに手入れをしていなければすぐにバレる。

 

 結果、トレーナーにこっぴどく叱られた。その日の練習は中止となり、トレーナー室でみっちりと説教をもらう事となった。手入れを怠った道具で万が一怪我をしてしまったらどうするんだ・・・・・・トレーナーの言葉に私は何も返せなかった。

 

 嫌われたのかもしれない。失望されたのかもしれない。泣きそうになった私は、次の瞬間トレーナーに抱き寄せられていた。

 

 「・・・・・・すまん。思えば俺も、恋人らしいことをあまり出来てなかった。一緒にいれる時間を、もっと増やすべきだった」

 

 私の我儘でこんな事になったのに、トレーナーはいつもより優しい手付きで頭を撫でてくれた。謝らなければいけないのに、私はされるがままに身を任せてしまう。

 

 私が落ち着いてから、改めて話し合いをした。叱られた手前気が引けたが、トレーナーにありのままの気持ちを言ってほしいと言われたため、思い切ってもっと一緒の時間を増やしてほしいと申し出た。

 

 私の言葉を受け、彼は一旦考える素振りを見せる。その後、一つの案を出してくれた。

 

 「それならドーベル。1ヶ月に1~2回ほどでいいならの話だが・・・・・・」

 

 

 

 と、言う流れで今につながる。平日は今まで通り、勉学やトレーニングに費やし、どうしても我慢できなくなった時は休日思う存分甘える。

 

 そう、文字通り一日を掛けて、足りなくなっていた充電をする。今みたいにソファの上で横になった体勢のまま抱き合ったり、キスしたり・・・・・・とにかく自分の欲求に任せて行動を取っている。

 

 大体は自分がトレーナの上に乗っている。一度だけ私が下になって、今トレーナーにされているみたいに、私の胸に抱いたことがある。きっと、トレーナーの耳に私の心臓の高鳴りが届いていたはずだ。

 

 抱きしめたトレーナーの身体が暖かかったのを覚えている。もう一度味わいたいのだけれど、恥ずかしかったのかあれ以来トレーナーからNGを言い渡された。・・・・・・またしたい。そこそこ胸はある方だと思うんだけどなあ。

 

 「んっ・・・・・・」

 

 抱きしめられる力が強まった。クーラーの効いた部屋の中、私の身体は暖かくなったまま治らない。お互い薄着だからか、より感触がダイレクトに伝わってくる。

 

 でも、足りない。もっとトレーナーに甘えたい。愛されたい。

グリグリとマーキングをしながら、そんなことを考える。

 

 ・・・・・・そんな思考を読んでいたのか、不意に背中を撫でてくれている手が離れた。

 

 疑問に思ったときには、もう遅い。

 

 「ひゃっ・・・・・・」

  

 思わず、声が出てしまった。ぽふっ、という軽い衝撃の後、さわさわとくすぐったくなるような感触。

 

 弱点の一つである耳。そこに、トレーナーの手が何度も這う。

 

 時には撫でられるように、時には押されるように、時には揉まれるように・・・・・・

 

 (ダメ・・・・・・幸せ、すぎる・・・・・・・)

 

 目を閉じ、一層彼に身を引き寄せる。

 

 彼に身を預けて、頭を撫でられて、抱きしめられて、彼の匂いや感触に包まれながら耳に意地悪をされる。一度この幸せを知ってしまったら、もう戻れない。戻りたくない。

 

 こんなに幸福でいいのかな?と思うときもある。でも、遠慮する気なんて欠片もない。

 

 とくん、とくんと彼の鼓動が伝わってくる。最初抱き合ったときよりも、その間隔が狭くなっていた。この行為に、彼もドキドキしてくれている。その事実が、嬉しかった。

 

 「とれーなぁ・・・・・・」

 

 甘えるように彼を呼ぶ。私の声に反応したのか、ぎゅっと耳を摘まれてまた声が漏れる。痛くないように調整してくれるため、耳がずっと幸せなままだ。・・・・・・もう少し、強くしてほしいという思いもあるけど、まだちょっと言う勇気がない。

 

 (でも、いつかはしてほしいな・・・・・・)

 

 時刻はまだ、朝とも昼とも呼べぬ時間帯。

 

 今日一日、どれだけ愛してもらえるのかを想像し、頬を赤らめながら彼を抱きしめる力を強めた。

 

 





マンハッタンカフェ短編執筆中。年内に投稿できるよう頑張ります


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消えない想い

諦めない心を教えてくれたのは、他ならぬトレーナーなのだから。



注意事項(必読)

・「あなただけに見せる姿」との繋がりは一切ありません。独立した短編です。

・1話完結です。

・メジロドーベル→トレーナー(男)です。シリアスです。今まで投稿した短編とは毛色が違います。(あらすじ詐欺)






 

 ふと、感じることがある。

 

 トレーナーの事ばかり考えるようになったのは、いつ頃だろうか?と。

 

 契約を結んですぐでは無かった事は覚えている。

 

 男嫌いであり、男性恐怖症。私の抱えている気性が原因で、最初の半年間は会話すら碌にできなかった。それどころか、根気強く距離を近づけようとしてくる彼に対して、反発からひどい言葉を投げかけてしまったのは一度や二度ではない。

 

 彼の真摯な思いに触れ、少しずつではあるが心を通わすようになったのが2学年の初めあたりからだった。

 

 本格的にレースに出るまで、長い時間がかかってしまった。それでも、3年目にはG1レースを制することが出来たし、URA決勝では憧れのエアグルーヴ先輩と戦うことが出来た。結果は一歩及ばなかったが、自分の全てをぶつけることが出来たと自負している。

 

 大激戦となったそのレースが繰り返しメディアに取り上げられるのは少々、いや結構恥ずかしかったが。

 

 現在はドリームリーグに籍を移し、しのぎを削っている。ここに在籍するは伝説の存在。シンボリルドルフ会長。マルゼンスキー先輩。オグリキャップ先輩。ミスターシービー先輩。・・・・・・。1人1人が歴史に名を刻んだウマ娘だ。

 

 中には、選手としての全盛期を過ぎた方もいる。身体的にはこちらが有利なはずなのに、レースが始まるとついていくだけで精一杯。新たな舞台に挑んでからは、入賞するのが精一杯・・・・・・そんなレースが続いている。

 

 トゥインクルシリーズとは文字通りレベルが違う、一騎当千の強者が集まる夢のリーグ。3年間培ってきた自信も、技術も、見事に跳ね返された。しかし、だからこそ全身全霊で挑む価値がある。偉大な先輩を超えるため、私は今日も練習場でターフを駆ける。

 

 ・・・・・・負け続けていた3年前は、自分がこの場所に立てるだなんて思いもしなかった。

 

 気性難で、どうしようもなかった私。それを変えてくれたのは、間違いなくトレーナーだ。

 

 「・・・・・・ふっ!」

 

 気合いを込め、ラストスパートを突っ切る。目の前の景色が、急に縮んだような感覚。ゴールラインまでの直線を、私は最高速度で駆け抜けた。

 

 次の勝負は再来月。先々週のレースでは入賞することが出来たが、末席という当落線上、それもハナ差で何とか掴んだものだ。まだ1着を手に入れるには程遠い。時間があるとはいえ休む余裕はないのだ。

 

 夕日は既に沈み、徐々に暗闇が広がってきている。トレーニングの最終項目、2000mの模擬走を立った今走り切った私は、息を整えながら後ろを振り返る。

 

 「どうだった?トレーナー」

 

 「素晴らしいタイムです。前回レースの時より更に縮んでいます」

 

 目線の先には、タイムウォッチを見ながら私の質問に返答をしてくれた・・・・・・私のトレーナーがいた。

 

 「今日は調子がいいみたい。何ならもう一回」

 

 「駄目ですよ、メジロドーベルさん。ただでさえ、明日が休日ということでいつもより長めのトレーニングを組んでいるのです。これ以上の負荷をかけることは許可しません」

 

 「・・・・・・分かってるわよ」

 

 丁寧で、それでいて意思を秘めた確固たる口調に私は渋々賛同する。

 

 「時間も遅いので、本日はミーティングも省略しましょう。ここでトレーニングを終了とします。来週に向けて、ゆっくりと体を休めてくださいね」

 

 こちらを見て優しく微笑む彼。その表情を直視してしまい、慌てて顔を逸らした。

 

 メジロドーベルさん?と不思議そうに聞いてきたが、こちらはそれどころではない。

 

 ・・・・・・ごらんの通り、いつからかは覚えていないがはっきりとわかることが一つある。

 

 今の私が、トレーナーに恋心を抱いているということだ。

 

 以前の男嫌いな自分に、今の私の姿を見せたら卒倒してしまうのではないかと思ってしまう。でもしょうがない。本当に好きになってしまったのだ。

 

 3年前も目を合わせることが出来なかった。契約を結んだことで一番身近な異性となったトレーナーに恐怖を抱き、なるべく顔を見ないようにしながらトレーニングをこなしていた。早く時間が過ぎ去ってくれとさえ思った。

 

 それが今では、違う理由で顔を直視できない。・・・・・・走った後だからという理由で、私の顔が赤くなってしまった訳を誤魔化すことは出来るだろうか?

 

 そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに答える。

 

 「何でもないわ、じゃあね。トレーナーも早く休みなさいよ」

 

 トレーナーの返事も聞かず、速足で立ち去った。

 

 

 

 

 

 シャワーを浴び、夕食を食べた後の自由時間。

 

 自分のベッドに顔を埋めながら、毎日のように反省を繰り返す。

 

 また、彼につんけんした態度を取ってしまった。もっと接したいと思っているのに、口に出てくるのは棘のある言葉ばかり。性別が違うだけで何故こんなにも変わってしまうのか、自分でも分からない。

 

 快く思われてはいないだろうな、と考えてしまう。漫画ではツンデレというジャンルがあるが、あくまでそれは創作の世界。実際にこんな当たりの強い女がいたらはた迷惑なだけだろう。それ以前に私の態度、ツンデレのデレの要素が皆無なわけで・・・・・・。

 

 はぁ、とため息を吐く。

 

 手に取ったスマホを開く。あんな会話をした後でも、トレーナーとつながりたいと思ってしまう。

 

 口に出すと緊張してしまう。でも、文字でならば恥ずかしい思いをするだけで伝えることは出来る。

 

 アプリを起動して、彼にメッセージを送る。

 

 『トレーナ-、突然だけど明日空いてる?トレーニング用の蹄鉄シューズを購入したいから付いてきてほしいのだけど・・・・・・』

 

 ポン、と音を立てて短い文章が送信される。

 

 異性に慣れたいから、という結構無理がある理由で休日にトレーナーとのお出かけを行っている。去年から始まって約1年。何かと用事を見つけてはトレーナーに付いてきてもらっている。

 

 中にはトレーナーがいなくてもできる用事もある。というより、そちらの方が多い。なのに彼は嫌な顔一つせず承諾してくれる。

 

 優しい。本当に優しすぎる。

 

 ただ・・・・・・

 

 

 

 『申し訳ありません。明日は外せない用事がありまして・・・・・・至急必要となるものでしょうか?』

 

 

 

 帰ってきた返事。そこには丁寧な文章で断りの文字が表示されていた。

 

 指を動かし、すぐに返信をする。

 

 『分かったわ。別にすぐには大丈夫だから。また今度頼むわね』

 

 メッセージを送って、ベットから起き上がる。スマホを机の上において、ふぅ、と息を吐く。

 

 だいたい2か月に1度。ある一定のペースで彼は、私の誘いに断りを入れている。それは仕方ない。無理なお願いしているのはこちらの方だ。

 

 ただ、ふと気になったのだ。どんな用事があるのだろうかと。

 

 最初は重要な会議なのかと思った。しかし、断りを入れた日は、彼は学園にいないことが分かった。トレーナー室にも、トレーナー寮にもいない。

 

 一定のペースで訪れる、外せない外出の用事。それでいて、具体的に何の用事なのかは書いていない。

 

 2ヶ月ほど前、そこまで考えてふと閃いた。閃いたというよりはただの勘なのだが、その想定はすぐに私の心を埋め尽くすこととなる。

 

 

 

 トレーナーの外せない用事。それはデートなのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生憎の曇り空となった翌日、私はトレセン学園を離れた街にいた。

 

 電車を乗り継いで30分。都心というよりは郊外都市に近い場所。出発当初、私はこの街を目指していたわけではない。そもそも、名前は知っているだけで初めて来た土地だ。

 

 ぐっ、と帽子を深くかぶり直す。ウマ娘の耳をコンパクトに仕舞い込める仕様であり、これを付ければ人間かウマ娘か、見分けることは難しい。どのみち尻尾で一目なのだが、正面からの目は誤魔化すことが出来る。

 

 加えて度の入っていない眼鏡も掛けている。私を知っている人でも、『ウマ娘』だという先入観があるためそう簡単にはバレないはずだと自負している。

 

 ・・・・・・そもそも、変装だなんて初めて挑戦したため自信も何もないのだが。

 

 初めて訪れる場所に、変装スタイルで来るウマ娘。客観的な事実だけを書けば怪しいことこの上ない。おまけに、元来の性格からか挙動不審な動作も無意識の内に見せているだろう。

 

 本当はマスクもつけたかったが、そうした場合今度こそ不審人物として呼び止められる可能性があったため自重した。今回の目的は、数分の無駄すら許されない。

 

 人通りがそれなりにある歩道を、静かに歩く。闇雲に歩いているわけではない。『彼』が通った道を重ねる様に進んでいる。

 

 前方の視界、自分より数十m先に自分の見知った人物がいた。まさか自分の担当ウマ娘に尾行されているなど夢にも思っていないだろう彼・・・・・・私のトレーナーだ。

 

 彼との距離をつかず離れずの状態で、学園からここまで隠れてついてきた。理由はただ一つ、彼の大切な用事をこの目で確かめるため。

 

 いくら予想を立てても所詮は勘から得た発想。私の考えが正しいのかどうか、実際に目で見なければ真相は分からない。

 

 そのために、あらかじめ変装装備をこっそりと購入した。準備が整った後の、彼の初めての用事となるタイミング、今日に追跡を決行したわけだ。

 

 直接聞けば一番手っ取り早いのは重々承知だ。でも私はその方法を取らなかった。

 

 いくらさりげなく聞いたところで、彼に彼女がいると知った瞬間、ポーカーフェイスでいられる自信がなかった。

 

 そもそも、プライベートでの会話を振る経験があまりない。出かけている時だって、いつも話題の提供をしてくれるのはトレーナーからだ。普段自分から会話をしてこない私がいきなり彼女がいるかどうか聞いてきて、その返答に動揺する・・・・・・どんなに察しの悪い人でも、私の気持ちがバレてしまうだろう。

 

 そうしたら、もう二度と以前の関係には戻れなくなってしまう。表面上は元に戻ったとしても、ギクシャクした空気は払拭することは出来ない。

 

 それなら、こっそり確認すればいい。彼がデートしている姿を見るだけでいいのだ。そうすれば私の恋が終わったことを知るのは私だけ。寮に帰ってどんなに泣いても、彼にバレることはない。

 

 未だにトレーナーは、練習中私との会話がぎこちないのは男嫌い、男性恐怖症が原因だと考えている。その二つを未だに抱えているのは事実なのだが、トレーナーとまっすぐ会話できないのは違う意味で緊張してしまうから。・・・・・・ともかく週明け、私の様子がおかしくても気を遣って深くは追及してこないだろう。追及されなければ、隠し通せる自信はある。

 

 彼女がいてほしくない。心から私は願っている。

 

 

 

 ・・・・・・しかし、実を言うと半分ほどその願いを諦めている自分がいる。

 

 

 

 足を止め、通行の邪魔にならないよう歩道の端による。その場で静止したまま、スマホをいじるふりをしながら目線を先に向ける。

 

 前を進んでいたトレーナーが立ち止まったためだ。いや、立ち止まったというよりは声をかけられ呼び止められたと言う方が正しい。

 

 トレーナーを呼び止めたのは、二人組の女性だった。どちらも20代前半に見える。まだ残暑の厳しい季節ということもあってか、女性らしさを強調した薄手の服を着ている。そんな彼女たちが、トレーナーにぐいぐいと迫っているのが見えた。

 

 ウマ娘の耳は、こんな遠くからでも会話を拾ってしまう。

 

 『よろしければ、今から私たちと・・・・・・』

 

 そんな言葉がしっかりと耳に入ってきた。

 

 口調が丁寧で、優しいトレーナー。そんな彼の特徴はまだまだある。そのうちの一つが、彼が、その・・・・・・びっくりするほどのイケメンだということだ。

 

 入学当初、男嫌い真っ只中だった状態の私ですら彼の顔立ちに関しては非常に整っていると思ったほどだ。カッコいい系というよりは、その性格を体現するような王子様系と言うべきか。

 

 以前、大手の女性向け雑誌にトレーナー特集が組まれたことがあるのだが、彼の特集ページ数及び発売後の評判が一番大きかったことが、その裏付けとなっている。

 

 学園でのトレーニング中、隙あらば私のトレーナーに話しかけてくるウマ娘が毎日のようにいる。その度に彼は『申し訳ありません。担当バがトレーニング中ですので・・・・・・』と断っているのだが、一向に数が減らない。最近では、私がトレーニング合間の休憩時間の時に、訪ねてきたウマ娘と会話をする彼を見かけた。

 

 以前の私であれば、これ幸いと半ば無視してトレーニングに打ち込んでいただろう。でも、今となっては無理だ。

 

 彼が他のウマ娘と、いや、女性と話している姿を見るたびに心が痛む。

 

 頭では理解しているのだ。彼は、どんな人でも誠実に対応する。現に今だって、彼女たちの誘いに対して謝罪しながら丁寧に断っている。恐らくは初対面、いきなりナンパ(逆ナンパ?)してきた女性に対しても真摯に応える。

 

あんなに跳ねっ返りだった私にすら根気強くここまで付き合ってくれているのだ。好意を持って話しかけてきた者に優しく返答するのは、彼にとっては当たり前のことなのだろう。

 

・・・・・・それでも、嫌だった。他の女と話さないでほしい。その優しさを、微笑みを、私以外に見せないでほしい。心に黒い感情が湧き出てきそうになって、パチンと両手で頬を叩いてよこしまな想いを振り払った。

 

 トレーナーを見ると、二人組が渋々と引き下がっていくのが目に入ってきた。それでも名残惜しそうに、頭を下げた後に再び歩き出すトレーナーを目線で追っている。

 

 二人だけでなく、彼と道をすれ違う女性の大半が惹かれるように彼を見る。一時的なことではなく、ここまでの道筋でずっと起きていた光景だ。

 

 容姿端麗で、誠実で、優しい男性。漫画の世界から出てきたような、そんな人なのだ。はっきり言って、彼女がいない方がおかしい。誠実なトレーナーだからあり得ないことなのだが、仮に複数人いたとしても納得できてしまう。

 

 でも・・・・・・

 

 「・・・・・・やだな」

 

 ぽつり、と無意識に言葉が漏れる。

 

 初めて意識した異性。その彼に手が届かないと分かった場合、私はどうすればいいのだろうか?

 

 そうやって考え事をしていたせいだろうか。一瞬、トレーナーの姿が視界から消えそうになった。

 

 慌てて集中すると、トレーナーは歩道に隣接した店に入っていくところだった。完全に入店したのを確認し、遠巻きにどんな店か確かめる。

 

 もし飲食店だった場合、このお店で待ち合わせしているのかなと思ったが、そうではなかった。

 

 ガラス越しの店内。そこはフラワーショップだった。

 

 (・・・・・・え?花?トレーナー、デートに花束を持っていくつもりなの!?いやそんな昭和な・・・・・・でもマルゼンスキーさんあたりだったら喜ぶのかな・・・)

 

 トレーナーはデートに行く、という想定が頭にあったためか、とんでもない方向に思考が飛んで行ってしまった。おまけに偉大な先輩を心の中で勝手に貶してしまった。

 

 申し訳なさを覚えること数分。買うものが決まっていたのかすぐにトレーナーが出てきた。右手には、購入した花束がある。

 

 距離を保ちつつ、何気なしに購入した花を遠目で確認し・・・・・・

 

 

 

 「・・・・・・え」

 

 と、小さい声が漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街並みを外れた道を歩き始め、20分。

 

 建物は少なくなり、辺りには草木が増えてきた。

 

 一本道を振り返らずに歩くトレーナーと、それを追う私。その構図が崩れたのは、彼が目的地に着いた時だった。

 

 短い坂を上り始めるトレーナー。彼が登り切ったのを見て、私も音をたてないように後に続く。

 

 声は出さなかった。尾行しているのだから当然なのだが、彼の目的地を推測出来た瞬間から、出すことが出来なくなったという方が正しい。 

 

 坂を上がり、少し離れた木々の裏に身を隠した。足元には、関東では珍しい紫苑の花が咲いている。

 

 

 

 一度息を整え、トレーナーを見る。

 

 

 

 この場所は、墓地。トレーナーは、一つの墓石と向かい合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「久しぶり」

 

 ここに来て最初に言うのは、決まってこの言葉。

 

 前回訪れてから、ちょうど二か月。本来ならお盆に来たかったのだが、夏合宿と被ってしまい物理的に不可能だった。その後も休日出勤が重なり、ここまでずれ込んでしまった。

 

 穏やかな風が、草木の匂いを運んでくる。微かに感じる甘い香りは、花だろうか?

 

 手に持っていた菊の花束を、墓前に添える。比較的長持ちする花であり、邪気を打ち払うと古来より重宝されている花。アジアやヨーロッパの一部でも葬儀、供養の花として取り扱われているという。

 

 ・・・・・・全て、フラワーショップの店員さんの受け売りではあるが。菊の花についてだけ、やたらと知識がついてしまったなと内心苦笑する。

 

 「・・・って、花の話をしても分かんないよな。君も花より団子みたいな性格・・・・・・これ言ったら怒ってきたけど、実際そうだったからしょうがないじゃないか。ね、イノ」

 

イノ、と彼女を呼ぶ。名前を呼んだ瞬間、心に少しだけ波が起きた。

 

 小さな灰色の墓石に、彼女の面影はどこにもない。それでも、君はこの下で眠っている。

 

 目を閉じるだけで、鮮明に浮かんでくる君の姿。しばしの間、空想の光景に意識を預ける。

 

 小学校での開かれた運動会でのかけっこ。クラスに数人いたウマ娘での勝負となったけど、君は決まって、ぶっちぎりの最下位。もー!と悔しがりながらも走り切って笑顔を浮かべていた姿を見て、自分も自然と笑顔になった。

 

 中央トレセン学園の入学試験に自信満々で受けに行き、余裕で不合格となって不機嫌になったイノ。中学校生活、最初の2か月間は落ち込んでいた君の対応に付きっきりだったことで、回復したころには学校のみんなに二人組として認知されていた訳だが。

 

 まあ、あながち間違っていない。小さい時から、ずっと一緒にいたのだから。

 

 引っ込み思案だった自分を、イノはぐいぐいと引っ張ってくれた。一緒にいるのが楽しい、ではなく一緒にいるのが当たり前だった。

 

 『見ててよね!絶対高等部の編入試験に合格してやるんだから!それでゆくゆくは日本一のウマ娘になってみせるからね!』

 

 中学校の3年間、それが口癖だった。ウマ娘の中で一番足が遅かったのに、本気で頂点を狙っている君がいた。絶対の自信を持つその姿が、自分にはとても眩しかった。

 

 恋仲になった時期は、実は覚えていない。傍にいることが当たり前すぎて、告白といったイベントもなかった。一緒に帰り路を歩いて、休日はどちらかの家の部屋で一日中過ごして・・・・・・一人でいる時間よりも、二人でいる時間のほうが長かったかもしれない。

 

 トレーナーの勉強を始めたのも、中学生頃からだった。深い意味はない。ただ、これからもずっとイノと一緒にいるのだから、それなら彼女を支えられるような職に就きたいと思っただけだ。

 

 『もうっ。勉強をして試験に受かっても、それって何年後の話でしょ。その頃私にはとっくにトレーナーがいて、あらゆるレースを総なめよ』

 

 『ん~・・・イノのことだし、トレーナーからスカウトされる光景が浮かばないというか・・・だからまあ、自分が合格したら拾ってあげるよ』

 

 『何おぅ!見てなさい!入学1か月後にはトレーナーに取り囲まれてスカウトを懇願されている私の姿があるんだからね!!』

 

 部屋でトレーナー試験のテキストと向き合っている自分。その背中に抱き着いて僕の肩に顎を乗せてくるイノ。彼女がそばにいると、不思議と安心感を覚える。

 

 肌寒い3学年の冬。イノは中央トレセン学園の高等部編入試験を受験することが決まっており、もし結果がダメであれば既に合格している地方トレセン学園に進むと明言していた。

 

 自分は近場の高校への進学。どちらにせよ、寮生活となるイノとは離れ離れになってしまう。寂しさはあったが、お互いがお互いの夢に向かって進むのだ。それに、連絡なら毎日取ることが出来る。

 

 編入試験の朝。イノはいつも通り自信満々で家を出発し、その姿に苦笑しながらも自分は彼女を見送った。

 

 

 

 ・・・・・・まさかその光景が、イノの最期の姿になるだなんて思いもしなかった。 

 

 

 

 「交通事故で亡くなる人は、年間数千人・・・・・・。知ってはいたけど、まさかイノがその該当者になるだなんて思わなかった」

 

 ぽつり、と墓に向かってつぶやく。信号無視をして突っ込んできた車に、運悪く歩行者が跳ねられる。交通事故の内容としては、よくある事象なのかもしれない。そのよくある事象で、自分はイノを永遠に失った。

 

 一報を聞いた時は、理解できなかった。頭が、その悲劇を理解することを拒否していたのかもしれない。火葬を経て、遺骨となった彼女が墓に眠って、葬式が終わって・・・・・・ずっと、今が現実ではないかのような気がしていた。随分長い夢をみているのだなと思った時もあった。

 

 イノがいない生活。一緒にいることが当たり前だった君が、もう存在しない。トレセン学園は中央地方問わず寮生活だから、今は寮にいるのではないかと思った。毎日毎日電話を待ったけど、君の携帯からは掛かってこなかった。

 

 色彩の無くなった世界。幸いというべきか、自分にはトレーナーとしての才能があったようで高校在籍中に中央トレセン学園のトレーナー試験に合格することが出来た。高校生での合格は前代未聞のことだと一時期話題に取り上げられたりもした。

 

 卒業と同時にトレーナー業の第一歩を踏み出し、そのまま現在に至る。長いようで、短かった日々。

 

 「そういえば、言ってなかったかな・・・・・・自分の担当バ、メジロドーベルさんが今はドリームリーグでしのぎを削っているんだ。うん、絶対に諦めない心の強さを持ったウマ娘でさ、・・・・・・」

 

 そういう所は君と似ているかな、という言葉を飲み込んだ。

 

 「・・・・・・ダメだな。やっぱり、どうしても君の面影を探してしまう。トレーナー業をしていれば、ひょっこり出てきたイノと会えるんじゃないかと、ね・・・・・・」

 

 君はここに眠っているのに、まだそんなことを考えてしまう。

 

 以前、同僚が持ってきた雑誌に自分のことが大々的に紹介されていた。どうやら自分は『王子様』と世間から言われているらしい。

 

 笑ってしまう。こんな、未だに一人の女性の影を追い続ける女々しい自分のどこが王子様なのか。未練を断ち切れない自分は、亡霊という呼び名の方が相応しい。

 

 「・・・・・・未だに、探してしまうんだ。仕事中でも、休日でも。10年近くたっているというのに、未練がましいよなほんと」

 

 暗い感情を、自虐めいたセリフと共に吐き出す。

 

 ずっとこのままではいられないと、色んな事をやった。平日は仕事に集中し、休日は様々な趣味を試してみた。

 

 でも、ほとんど効果はなかった。20歳になってから手にしたお酒やタバコは、1週間も続かなかった。好きなスポーツ観戦をしていても、熱中することは出来なかった。

 

 旅行だけは2年ほど続けられた。まだ見ぬ土地への高揚感を感じ、この気持ちを持ち続けられればと期待した。

 

 ・・・・・・見知らぬ土地にイノがいるのではないかと無意識に探していた事に気づいてからは、高揚感がさっぱり無くなってしまった。 

 

 振り払って、前を見て歩こうとした。こんな情けない姿を見せていては、イノも安心して眠ることが出来ないだろうと。

 

 頑張った。自分なりに頑張った。でも、無理だったみたいだ。

 

 「イノ」

 

 一つ、深呼吸をして語り掛ける。先程から続くのは、自分の独り言。墓から返ってくる返事はない。だから、一方的に宣言をする。

 

 「僕も、そっちへ行くよ」

 

 風が吹く。自分と墓石の間を通り過ぎるように、強い勢いで駆け抜けていく。

 

 「君のいない世界で生きるのは、もう無理みたいだ。勿論、やることは全部終わらせるよ。担当バのメジロドーベルさんとの契約満了までは頑張ってみる。一介のトレーナーとして、自分の全力をかけて、彼女を今以上に輝かせて見せる」

 

 恐らくは、あと5、6年ほど。メジロドーベルさんも、よくこんな自分に付いてきてくれた。男嫌いであるにもかかわらず、今でも自分に従ってくれている。途中で投げ出すなんてことは出来ない。

 

 だから、それが終わったら・・・・・・

 

 「・・・・・・だからさ、待っていてほしい。イノ」

 

 彼女に語り掛ける。暖かい風が、添えた菊の花束を揺らす。頭を下げ、踵を返した。そちらに行ったら、多分ぶん殴られるだろう。何故自分から命を絶ったのかと。

 

 それでも、行こうと思う。どの道、イノに会えるのなら未練はない。家族も、自分が就職してすぐに亡くなってしまった。身寄りもいない。君と一緒になれるのなら、この世で思い残すことは、何もない。

 

 最後に振り返り、一言だけ呟いた。

 

 

 

 ・・・・・・多分、そんなには待たせないと思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白一色だった雲が、灰色を纏い始めている。

 

 強くなった風が、私の髪を撫でる。目的地のないままに、どこまでも、どこまでも吹き進んでいく。

 

 今、墓地にいるのは私一人だけ。トレーナーは、お墓参りを済ませて既に立ち去っている。最後まで、私の存在には気づく気配すらなかった。

 

 ゆらゆらと歩みを進め、墓前の前で足を止める。そこは、先程までトレーナーが立っていた場所。

 

 トレーナーが持ってきた花束が添えられている墓石。そこには『ライフイノセンス』という名が刻まれていた。

 

 ライフイノセンス。彼が、イノと呼んでいたウマ娘。

 

 彼の会話は15分くらいだっただろうか。街にいたときは人込みもあって、断片的な言葉しか拾えなかった。でも、今回は街外れにある小さな墓地。風と虫の音のみが支配する場所では、私のウマ娘としての聴力が、彼の言葉を全て捉えていた。

 

 捉えていたからこそ、分かってしまった。彼の想いが。

 

 「・・・・・・トレーナー」

 

 ぼそっとつぶやく。その言葉に応えてくれる彼は、ここにはいない。

 

 彼の声は、静かだった。それでいて、叫びを伴うような感情が籠っていた。

 

 普段のような、相手を気遣う丁寧な口調ではない。遠慮のない会話。自分の全てを吐き出したような、そんな言葉だった。きっと、あれが彼の本当の姿なのだ。

 

 私や、他の人には決して見せなかった、きっと『彼女』にだけ見せていた姿。

 

 「・・・・・・失恋、しちゃった」

 

 ぽた、ぽた、と涙が溢れてきた。痛みからでも、悔しいからでもない。

 

 ただただ、美しくて悲しかった。二人のあり方が。今でも彼女のことを思うトレーナーが。色彩を失った世界でここまで頑張ってきたトレーナーが。

 

 女々しいだなんて感じなかった。あれだけ一途に想い続けるトレーナーが、そしてその愛を受ける彼女の関係が、泣きたくなるほどに眩しかった。

 

 「トレーナー・・・・・・本当に、後を追うの?」

 

 最後の言葉を思い浮かべる。トレーナーとは、私がレースを引退するまでの契約を結んでいる。彼の言った通り、私の残りのレース生命は、長くても10年まではいかない。今が全盛期であり、あと数年で身体的な衰えが始まってくる。

 

 現実的な目安としては、20代中盤くらいに引退する可能性が高い。勿論、怪我や故障を抱えた場合はもっと短くなる。

 

 まだ先の話とは言え、必ず『その時』はやってくる。私の引退、それはすなわちトレーナーとの契約が解除される時であり・・・・・・。

 

 「・・・・・・嫌だ」

 

 心からの本心が漏れる。あなたを知ってしまった。あなたの優しさに触れてしまった。あなたがいない日常なんて、もう考えられない。

 

 でも、いくら私が思ったところで、トレーナーはいなくなってしまう。彼も言った通り、契約中は私に対して全力を注ぐ。それでも、心に持った想いはこれからも、そしてこれからも彼女に向き続けている。

 

 契約解除と同時に、メジロ家で強引に抱え込めれば・・・・・・一瞬考えたが、すぐに首を振る。強引に彼から命を絶つ手段を奪いメジロ家に連れ込んだとして、その先はどうなる?トレーナーはお金にも、地位にも欲がない。

 

 何より、彼女の元へ行こうとする手段を奪った私に、メジロ家に対してどんな感情を抱く?・・・・・・考えなくとも容易に想像できる。

 

 「私は、トレーナーが好きなの」

 

 彼の前では、絶対に言えない言葉を口にする。トレーナーが好きだ。心の底から好きになってしまったのだ。

 

 ・・・・・・それなら、好きになった人の気持ちを尊重するべきなのでは?

 

 ぎゅっ、と右手を握り締める。強く握りすぎたせいで爪が手のひらに食い込み血が流れてきたが、今の私は気づけなかった。

 

 彼のことを想うのなら・・・・・・

 

 

 

 

 

 トレーナーを諦める?

 

 

 

 

 

 「嫌だっ!!」

 

 絶叫が墓地に木霊した。遠くの木に止まっていた鳥が、声に反応して一斉に飛び立っていく。

 

 ふー・・・・ふー・・・と肩で息をする。心の荒波が、とめどなく私を揺さぶっていく。

 

 諦める?冗談じゃない。一度ダメならもう一度。またダメでもやり方を変えて再び挑んでいく・・・・・・諦めない心を教えてくれたのは、他ならぬトレーナーなのだから。

 

 トレーナーの気持ちは先程痛いほど伝わってきた。彼がもう、この世界に希望を持っていないことを。色のない世界で生き続ける意味を、失くしてしまったことを。

 

 そんな彼を思い留まらせるにはどうすればいいのか?簡単だ。

 

 「・・・・・・私が、彼の生きる理由になる」

 

 静かに、小さな声で宣言をする。

 

 残りの期間、トレーナーと一番接することとなる異性は、私だ。トレーナーとウマ娘の関係であれば、一日の大半を一緒にいても何らおかしくはない。

 

 その残された時間で、絶対にトレーナーを振り向かせる。今、トレーナーから彼女に向いている気持ちを、必ず私へと向けさせて見せる。

 

 言葉にするのは簡単だ。でも、実際にするとなると、こんなに困難なことはない。

 

 きっと今まで何度も告白を受けたはずだ。私なんかより容姿も、性格も良い人ともたくさん会ってきたはずだ。でも、そんな中でも彼は想いを貫き通している。

 

それでも諦めたくない。トレーナーに生きていてほしいから。トレーナーとずっと一緒にいたいから。

 

 

 

 だから私は、最後に『彼女』に対して宣言をする。

 

 

 

 一つ息を整え、一旦閉じた目を開く。私の目の前には、変わらずに墓石がある。

 

 その墓に向かって、静かに頭を下げる。

 

 「・・・・・・初めまして、ライフイノセンスさん。私は、メジロドーベルと申します。目の前で叫んでしまった事、謝罪します」

 

 この場所で眠っている、彼女への言葉。届いているのかどうかは分からない。だからこれは、私の一方的な意思表明だ。

 

 「トレーナーとあなたの強い絆が、あのわずかな時間からでも伝わってきました。トレーナーの気持ちは、あなたに向いている。あなたの気持ちも、きっとトレーナーに向いているのだと思います・・・・・・」

 

 一泊、言葉を止める。目をしっかりと開き、再び紡ぐ。

 

 「あなたから、トレーナーを奪います」

 

 抑揚のない声が出る。静けさが増す土地で、その声は溶けるように響き渡り、消えていく。

 

 「残りの期間で私は、トレーナーを振り向かせて見せます。たとえ実っても実らなくても、私は死後、地獄に堕ちるでしょう」

 

 これだけ想い合う二人の仲に、割って入ろうとする行為。結果がどうなろうと、天国には行けない。『人の恋路を邪魔するものはウマ娘に蹴られて死んじまえ』・・・・・・全くもって、その通りだ。死後どころか、碌な死に方もしないだろう。

 

 「きっと、許せないでしょう。私自身、許してくれだなんて思っていません。ただ、私にはトレーナーが必要なんです。彼がいないと生きていけないんです。だから私は、私のために行動します」

 

 ふぅ、と息を吐く。

 

 顔を上げる。最初の時と変わらない、菊が添えられたお墓。私は最後の言葉を届けた。

 

 

 

 「私が、トレーナーの生きる意味に、なってみせます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽつぽつと、雨が降り始める。

 

 二人の人物が訪れた墓地には、もう誰もいない。

 

 墓地の端に咲いていた、ゆらゆらと風に揺れ、雨粒に打たれる紫苑の花。その花だけが、最初から最後まで、二人を見守っていた。

 

 

 




紫苑・・・キク科シオン属の多年草。

花言葉は「追憶」「君を忘れない」「遠方にある人を想う」




~以下、あとがき~

難産でした。
情緒をぐちゃぐちゃにしなければ筆が進まなかったため、

you -癒月ver-  (ひぐらしのなく頃に)
竹ノ花      (東方vocal、凋叶棕)
ヒメゴトクラブ  (〃)
すぐ傍にある未来 (〃)
嘘と慟哭     (〃)
消えない想い   (FGO)

をエンドレスリピートさせながら書き進めました。後半のほとんどは、youと竹ノ花で乗り切りました。音楽の力凄い・・・。

次こちらの短編で書くとするなら、(ようやく)カフェになりそうです。想定では1話完結になります。
ただ、沖スズ短編を更新していなかったので、しばらくはそちらに力を入れます。

・・・・・・正直な所、未だカフェの性格を掴みきれていない部分があるので、実装してほしいなあと。明日はカワカミさんだったので、次に期待します。

改めて振り返るとトレーナーの心情、『聲』(天野月子)の歌詞が1番近いのかなあと。





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ハグ、してほしいの

ドベトレ(男トレーナー×メジロドーベル)短編になります。



『次こちらの短編で書くとするなら、(ようやく)カフェになりそうです。想定では1話完結になります。』←前回あとがき



・・・・・・ごめんなさい、ドーベル実装で我慢できませんでした。

3時間の突貫工事のため、今までの作品と比べてクオリティが死んでいます(今までの作品クオリティがマトモだとは言っていない)。おそらく後からちょくちょく加筆していくと思います。



 「あ、あのさ・・・・・・トレーナー・・・・・・」

 

 それは恒例となっているトレーナー室でのミーティングが終わったときのことだった。

 

 次のレース・・・・・・まだ再来月と日はあるが、簡潔に内容をまとめて伝え終わっても目の前にいる自身の担当バ、メジロドーベルが部屋から出ていかずに佇んでいる。

 

 「時間あるなら、い、いつもの事を・・・・・・」

 

 そっぽを向き、ほそぼそとした声ながらも距離がわりかし近いためしっかりと自分の耳にも入ってきた。彼女の言葉を聞いて、ああ、と俺も返事を返す。

 

 「別に無理はしなくていいんだぞ」

 

 「む、無理なんかしてないわよ!」

 

 気遣って声をかけたつもりだったが、先程より数段大きな声で、膨らませた頬付きで否定された。彼女が勇気を持って発言してくれているのに、それを止めようとするのは悪い癖だなと心のなかで苦笑し、謝罪をした。

 

 なんで貴方が謝るのよ・・・・・・という声を聞きつつ、席を立つ。

 

 「俺でいいなら力になるよ。今日はどうする?」

 

 彼女との距離を保ちつつ、声をかける。

 

 それは練習後のトレーナー室で、彼女の提案によって時々起こる出来事。始まりは半年前だったか?細かい時期までは覚えていないが、雪が降っていた日だった気がする。

 

 目標として定めていたトリプルティアラを達成し、初となるシニア級レースに向けての調整を行う日々。今と同じようにミーティングを終わらせてもドーベルが帰らず、何故かモジモジしながらこちらをチラチラと見てくる。

 

 こういう時は無理に聞き出さずに、彼女から口を開くのを黙って待つ。人見知りで、特に男性の前では極度に緊張してしまうという彼女。曲がりなりにも2年間、彼女のトレーナーを務めてきたためか、自分とはぎこちないながらも会話をできるようになった。

 

 それでも、このように一言目が出てこない場合もある。でも、仕方ない。最初の頃は、会話すらままならなかった事を考えれば格段の進歩である。どうした?と微笑みながらじっと待つ。

 

 ドーベルがつっかえながらも口を開いたのは、それから数分後の事だった。

 

 

 

 『お、男の人に慣れたいからさ、その・・・・・・て、手伝って』

 

 

 

 壁の方向を向きながらも発せられた言葉。若干頬を赤くしながらも紡がれていく文をつなぎ合わせると、彼女の真意が見えてきた。

 

 トレーナーである俺にはある程度(あくまである程度)接することが出来るが、それでも友人と接するように、までとはいかない。この先インタビューなどで、同姓異性問わず見知らぬ人物と向かい合って会話する機会も増えてくる。だからこそ一番身近で、かつ男性である俺に頼ってきたと言う訳だった。

 

 担当バに頼られて嫌になるトレーナーはいない。ドーベルのためになるならと二つ返事で了承し、協力することとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな感じで、週1、2回ペースでドーベルの『特訓』に付き合ってきた俺。忙しい時はいいから、と遠慮がちに言われた時もあるが、(繰り返しにはなるが)担当バに頼られることこそトレーナーの本望なのだ。仕事だって、チームを持っているわけではないので、1時間に満たないお願いならばいつでも都合がつく。

 

 今日はどうする?と聞いたのは、特訓内容についてだ。1回目は、距離を離して数秒間顔を見合わせることから始まった。

 

 何気ない会話の中で、それ以上の時間を正面から見合わせたことはあったかもしれないが、はっきりと意識した状態となると、少々気恥ずかしさを覚える。俺でそうなのだから、ドーベルも最初は1秒も持たずにで目を逸らすという結果が続いた。

 

 実に数か月かかったが、最初の関門を突破してからは、徐々に距離を縮めながら見つめ合う、というはたから見ればシュールな、当人たちにとってはいたって真面目な状況が展開されていた。

 

 ・・・・・・ここで、真面目に取り組んでいるとはいえ、ある意味呑気に捉えていた俺は悪くない、と思いたい。

 

前の特訓では、ようやく1mの距離で5秒間見つめ合うことが出来た。だから今回は『1m以内での見つめ合いかな?』と軽い気持ちでドーベルの返答を待っていたのだ。

 

 この時点で、いつも以上に言いよどんでいる彼女に対し、言葉を待たずに何か一言声をかけるべきだった。

 

 大丈夫・・・・・・今日こそ・・・・・・といつも以上に小さな声で発していたせいか、彼女の呟きを聞き取ることが出来なかった。

 

 「そ、その・・・・・・今日はね・・・・・・えっと」

 

 「ああ」

 

 「・・・・・・ハグ、してほしいの」

 

 「分かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・・・・・・・・・・は?」

 

 今年一番の素っ頓狂な声が出たと思う。目の前には、顔を真っ赤にしたドーベルの姿。と思ったら、いきなり距離を詰めてきた。

 

 「じゃ、じゃあ」

 

 「いやちょっと待ってストップ!」

 

 両手を上げ、近づいて来る彼女を制し、慌てて距離を取る。しかし、狭い室内だったからか、すぐに背中が壁に触れてしまい十分な間隔をあけられたとは言い難かった。

 

 え、ハグ?聞き間違いかと思ったが、目の前の彼女は確かに今まで保っていた距離を一足飛びで超えて歩み寄ってきた。その・・・・・・手の動作も、それっぽかった気もする。

 

 いやでも、ドーベルに限ってそんな事は・・・・・・一先ず、話を聞こう。そう思って心を落ち着け彼女を見やると、ドーベルは手を上げかけたまま、固まっていた。

 

 「そ、そうだよね・・・・・・ごめん、変なこと言って」

 

 自分に言い聞かせるような声。発した彼女の目は、いつもより潤んでいるように見えた。

 

 忘れて、とドーベルが踵を返す。

 

 気づいたら、彼女の先回りをするように道をふさいでいた。 

 

 「・・・・・・何よ、嫌だったんでしょ」

 

 「いや、単に驚いただけだよ・・・・・・えっと」

 

 改めて、正面から向かい合う。勢いで行動してしまったせいか、いつもより距離が近い。今までの記録を大幅に更新しているのだが、俺も、もしかしたら彼女もそれに気を回す余裕はなかったと思う。

 

 見慣れた軽いつり目の中に浮かぶ、不安の色。窓から差し込む夕日と、それ以上に茜色に染まった彼女の顔。勇気を込めて、発言したのだろう。だからこそ、このまま帰すわけにはいかない。

 

 そうだ、きっと・・・・・・

 

 (人見知りの彼女のことだ、『慣れる』という段階を間違えて捉えているのだろう。だったら、大人として俺が訂正しておくべきだ)

 

 うん、と心の中で頷く。距離を近づけていけば、確かに最後には触れ合うことにはなるが、何も三段跳びでハグまで飛躍することはない。距離を詰めた後はその状態で何気ない会話をするなど、段階はいくらでも踏める。

 

 それに、第一ハグなんて想いを通わせる二人がする行為だ。いくら異性に慣れるためとはいえ、そこまでする必要はない。そういうことは、好きな人が出来た時まで取っておくべきものである。

 

 (まあ偉そうなこと言っといて、恋人出来たことないんだけどなハハハハハハいかん涙出そう)

 

 自分の悲しき心情はそっと押し殺して、上記の旨をそのまま彼女に伝えた。

 

 「だからさ、ドーベル。慣れるためなら、次はトレーニング以外での会話でもしよう。そうしていけばきっと・・・・・・」

 

 「・・・・・・トレーナーはさ、」

 

 一通り自分の考えを話した後、さりげなく短い会話を提案しようとしたら、ドーベルに言葉をかぶせられた。

 

 最近は俺の話を最後まで聞いてから意見を述べる多くなってきたため、その行いは珍しく感じた。

 

 「嫌なわけじゃ、無かったんだよね?」

 

 「え」

 

 「アタシの事、信じてくれているんだよね」

 

 「?ああ、当然だ」

 

 いきなり当たり前のことを聞かれ、疑問に思いながらも即答をする。あの日、初めて彼女の走りを見た日から、この想いは変わっていない。

 

 「・・・・・・うん。アタシもね、トレーナーの事を信じているの。最初は不安な気持ちもあったけど、今は自信を持って言える。初めて、家族以外で心から信用出来た異性なんだよ。だからさ、お互いがお互いを信じている・・・・・・これってもう想い合っていると言っていいよね、トレーナー」

 

 「え、何を」

 

 言ってるんだ?という言葉は紡がれることがなかった。

 

 初めの時、彼女がいきなり近づいてきたときは、距離があった。だからこそ、対応することが出来た。

 

 対する今は、焦っていたせいか距離が先程より近いままでの会話となっていた。だからこそ、その動きには体が反応できなかった。

 

 後ろに倒れない程度の、軽い衝撃。漂ってくる、アロマの香り。遅れて訪れた、柔らかい感触。

 

 え、と思う間もなかった。

 

 なびくような黒髪が視界を一瞬覆い、そしてふわっと収まった。

 

 ドーベルが俺に、正面から抱き着ていた。 

 

 状況は説明できる。でも、理解が追い付かない。男の人に慣れるため、という名目の元特訓を手伝っていたと思ったらいきなりハグをされた。

 

 恋人同士だったら、俺もすぐに抱きしめ返すだろう。俺らみたいな単なるウマ娘とトレーナーの関係なら、多感な少女にやんわりと言い聞かせ、離してやるべきなのだろう。

 

 今すぐ後者の選択を取るべきだ。頭では分かっている。なのに、俺の手は動かなかった。混乱しているせいもあるだろう。だが、それ以上に・・・・・・

 

 「・・・・・・トレーナー、嫌?」

 

 「いや全然・・・・・・じゃなくてっ!!」

 

 固まっていた俺に、ドーベルが上目遣いで訪ねてきた。若干潤んだ瞳でのその行為の破壊力といったらとんでもない。

 

そう、ただでさえ、その、ウマ娘の中でも美少女のドーベルに抱き着かれて、更には上目遣いをされて嫌になる男がいるのだろうか?少なくとも、ここにはいない。

 

「トレーナー・・・・・・嫌じゃないならさ、その・・・・・・」

 

だからこそ・・・・・・

 

「トレーナーからも、だ、抱き締めてよ・・・・・・」

 

そのお願いに耐えるだけの理性は、持っていなかった。

 

 




ドーベルストーリーイベント及び育成、性別両方でクリアしました。

男トレ→王道ツンデレラブコメ
女トレ→ソフト百合

という感じでどちらも最高でした・・・・・。育成ストーリー自体も5本の指に入る出来でした。

男トレは温泉イベント、女トレは感謝祭イベントで尊死しました。

特に好きな推し4人の内、スズカさん、カフェ、ドーベルは無事にお迎えできたので、あとは最後の一人、アドマイヤベガ実装を待ちます。


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想い、重ねて

トレーナー(男)とメジロドーベルの短編です。


『今からの執筆になりますが、筆が乗れば近日中に投稿します』←前回あとがき

筆が乗ってしまったので、本日中の投稿となりました。人間頑張れば数時間で短編書けるんやなあと。なお文字数。

・アプリ育成ストーリー要素若干強め
・ドーベル→トレーナー(男)

となります。


 

 深々と。津々と。

 

 降り積もる雪が、『しんしん』と。

 

 白一色に染まった世界。自身が歩んだ場所を振り返ると、くっきりと足跡が付いていた。しかし、延々と降る雪が、そのへこみに降り積もっていく。

 

 本日いっぱいは雪模様。十数年ぶりの大雪となった影響はこの学園にも波及しており、いつもなら休日練習に活気づく運動場には人影が見られない。

 

 幸い、明日から数日間は快晴の予報なので、週明けの練習までには雪も溶けるだろう。

 

 『降り積もる雪は人の想いのようだ』

 

 以前読んだ少女漫画の中に、そのようなフレーズを目にしたことがある。

 

 とめどなく積もる雪と、積み重なっていく恋心。たしかにそこだけを見れば、納得してしまうかもしれない。でも、アタシはその言葉を否定する。

 

 雪は溶ける。気温の上昇で、太陽の日差しで、跡形もなく流れていく。

 

 でも、想いは積もる一方。時には心を満たすように、時には心を焦がすように・・・。

 

 深々と積もっていき、津々と溢れ出る、止めどない感情。

 

 どれほど熱くなっても、溶けることなく積もり続けるこの想い。

 

 もう、これ以上は抱えきれないと身悶えても、容赦なくアタシの心を余すことなく埋めていく。

 

 想いの大きさって、どこまで大きくなるのだろう?目には見えない感情を正確に相手に伝えるには、どうすればよいのだろう?

 

 詩人なら比喩を用いて上手く表すはずだ。でもアタシには気の利いた言葉なんて思い浮かばない。

 

 大きさも測ることが出来ない。正確な数字でなんて、表せない。だって、この気持ちは一日たりとも、一秒たりとも留まらず、大きくなり続けているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 控えめなノックをして、返答を聞かずにそのまま部屋に入る。

 

 冷たかった廊下とは違い、暖房の効いた部屋。

 

 暖かな風を受けつつ、この部屋・・・トレーナー室における主の返事を待つ。

 

 「今日はどうした?ドーベル。何か用か?」

 

 「何よ、用がなきゃ来ちゃいけないの?いつも通り、ここで勉強よ」

 

 頬を膨らます仕草を取るアタシに、そんなことないよと苦笑しながらソファを勧めてくる・・・・・・自分のトレーナー。

 

 休日だというのに朝からパソコン、書類の山と向かい合っている彼。大一番のレースが終わり、取材攻勢が終わっても休まる暇などないとばかりに仕事漬けの毎日を送っている。

 

 休息自体は十分に取っていることは確かだけど、やっぱり不安になる。そんな思いもあってさりげなくプレゼントしたアロマがあるのだけれど、その香りが微かに部屋を漂っているのが分かった。

 

 プレゼントしたものを、しっかり使ってくれている。その事実が嬉しく、緩みそうになる顔を隠してソファに腰掛ける。

 

 定位置となっている、ソファの左端。鞄から勉強道具を取り出して机に置いている最中、コトっ、と静かにカップが置かれた。

 

 容器を満たすのは、湯気が立っている黒一色の液体。私が居座るときは必ず彼が淹れてくれるコーヒーだ。

 

 「まあ言ってもインスタントだし、口に合わなければ無理に飲まないでね」

 

 最初の頃は、そうやって頭をかきながら出してくれた。一口飲んでみると、分量が気持ち濃い目だったのか苦みが強い出来になっていた。

 

 彼がアタシのために淹れてくれた、不器用で、温かな味。普段コーヒーを飲むときは砂糖を一つまみ入れるのだけど、どこか勿体なく感じてしまいブラックで堪能した。

 

 それからというもの、毎回提供されるコーヒー。あまりおいしいとは感じない、苦みの強い味がアタシの、アタシだけのお気に入りとなった。

 

 ありがと、と簡潔にお礼を言うと、ん、と短く返事をして彼も仕事の定位置に戻った。

 

 勉強道具を広げ、ペンを握る。

 

 無言が訪れる部屋。二人の微かな息遣いのほかは、ペンとキーボードの音だけがその空間を支配していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれほどの時間が経ったのだろうか。

 

 カタカタ、とキーボードを打つ音が、部屋に鳴り響く。その音だけが、鳴り響く。

 

 暖かな部屋。半分ほどまで飲んだコーヒー。降り続ける雪は止む気配を見せず、勢いを増してきた風と相まって窓から見える景色を荒らす。まるで、アタシをここから出さないかのように。

 

 カタッ、とほとんど音を立てずにノートの上に置いたペン。勉強具合は、あまり進んでいない。開始してからの経過時間を考えると、もっと進んでいてもいいはずだ。

 

 でも、この結果は当然だ。半分も経たないうちに、私の目線はノートから外れていたのだから。

 

 部屋の中央に置かれたソファ。その真ん中ではなく今みたいに左端に座ると、ちょうどパソコンが重ならずに見ることが出来るのだ。

 

 目線を上げているアタシの視界に映るのは、トレーナーの顔。照明に照らされて映るアンタの表情は、真剣そのものだった。

 

 絶え間なく鳴るキーボード音。時折、チラッと資料確認のために目線を落とし、すぐさま画面に向き直る。

 

 何度も、何度も行われてきた動作。その全てを私は見つめていた。

 

 (・・・・・・トレーナー)

 

 心の中で、小声で呼ぶ。その行為だけで、胸が熱くなる。声には出さない行いだったため、彼は反応しなかった。

 

 そのまま、じっと見つめる。人は視線を感じるというが、これだけ見つめてアンタは意識していないようだった。

 

 (アンタは、気づいているのかな?)

 

 アタシの視線に。アンタを呼んだことに。

 

 (気づいて欲しいな、この想いに。・・・・・・でも、まだ気づかないで欲しいな。アタシの全てを伝える言葉が、まだ見つからないから)

 

 想い、溢れてとめどなく。どれだけ、アンタに助けてもらったのだろうか。どれほど、アンタに支えてもらったのだろうか。

 

 目を開いたままでも、容易に浮かぶは今までの日々。

 

 暗闇の中、どうしようもなく塞ぎ込んでいた自分を、その場所から持ち上げてくれた。

 

 有マ記念の後、アタシやブライトの事を蔑ろにした放送に、本気で怒ってくれた。自分も悔しくて涙を流してしちゃった。アンタまで泣くとは思わなかったけど・・・・・・でも、それだけアタシの心情を想ってくれたんだよね。それが、たまらなく嬉しかった。

 

 トレーナー。言ってなかったけどアタシ、家族以外の男の人の前で泣くの、初めてだったんだよ?どんなに悔しくても、へこたれても、弱さだけは見せたくないって我慢していた。でも、アンタの前では感情を誤魔化せなかった。・・・・・・誤魔化さなくてもいいって感じたのかな?

 

 諦めないアタシに、ずっと『強い』ウマ娘だと言い続けてくれた。トリプルティアラを達成できたのは、自分でも出来過ぎだったと思うし、今でも、あの時より強くなれたのかは、実はよく分からない。

 

 でもね、はっきり分かる事があるの。それはね、アンタがいなければ絶対にここまで来れなかったってこと。

 

 アンタの励ましが、時には根拠の見当たらない無鉄砲な応援が、どれだけ支えになったのか分かる?

 

 ・・・・・・アンタならきっと、「当たり前のことをしただけだよ?」って言うのかな。でもね、何気ない応援の言葉が、自分にとっては絶対に折れない、何よりの支えになったんだよ。

 

 (・・・・・・ズルいな、トレーナーは)

 

 真面目で、真剣で、かと思えば変なテンションになって、時には言葉にするのも恥ずかしい励ましを平気で言ってくる。

 

 じっと彼を見つめる。吸い込まれるように、彼の姿しか見えなくなる。

 

 (ねぇ、トレーナー)

 

 アンタは、私の事をどう思っているのかな?

 

 ただの担当バ?一心同体の相棒?それとも・・・・・・

 

 (・・・・・・それ以上の、もっと別の何かを、抱いているのかな?・・・・・・抱いていて、ほしいな)

 

 私の今の顔、どんな風になっているのかな?恋する乙女の表情、なのかな?だったら、もし今アンタが視線を上げて見られたら、バレちゃうかな・・・・・・。

 

 

 

 (・・・・・・ねぇ、トレーナー。見て、欲しいな。聞かせて、欲しいな)

 

 心が苦しくなって、切なくなって、それでいて愛おしい。この気持ちを、一片たりとも捨てたくない。溶かしたくない。

 

 だって、この気持ちは全部、アンタからもらったものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深々と。津々と。

 

 降り積もる雪が、『しんしん』と。

 

 強く吹いていた風は収まれど、未だ雪は降り続けている。

 

 今日いっぱいは、止むことはない。どこまでも積もっていく雪が、景色を白一色に染めていた。

 

 




一旦ここで投稿ラッシュは終わると思います(多分)。



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甘えてよ・・・・・・トレーナー

メジロドーベル→トレーナー♂短編です。
純愛+シリアス風味

また予告したものとは関係ない構成が浮かんでしまい勢いのまま執筆しました。




 

 

 『現役ウマ娘G1勝利数第一位』

 

  今年後半に入り、その称号を呼ばれることが多くなった気がする。

 昨年末、尊敬するエアグルーヴ先輩とオグリキャップ先輩がターフから去る事を表明。それにより、現役で最も多くのG1勝利を収めているウマ娘がアタシに変わった。

 

 最強の定義はそれこそ十人十色だろう。別に、勝利の数がウマ娘の優劣を決めるわけではないと思っている。現にアタシは、友人であるスズカにまだ1度しか勝てていない。

 

 それでも、十人十色と言った通り勝ち数を第一に考える者もいる。そしてそう思う人、ウマ娘が世間では大多数に区分されているようで・・・・・・。

 

 今年に入り、アタシを見る目がハッキリと変わったのを自覚している。

 

 後輩からの尊敬の目。学年問わず寄せられる、ライバルを見る目。

 

 それはレースのときだけでなく、日常のトレーニング中にも感じることがある。だからこそ一層アタシは努力を続けている。

 

 期待を裏切りたくないから。尊敬してくれる後輩を。アタシをライバル視してくれるウマ娘を。そして・・・・・・

 

 (アタシを、『強い』ウマ娘にしてくれたトレーナーを)

 

 休日の朝。いつもと違って静かな敷地内をゆっくりと歩きながら深呼吸をする。右手に握った小さな袋を意識し、空を仰ぐ。

 

 断言できることがある。もし、アンタと出会わなかったら。アンタ以外の人がトレーナーになっていたら。アタシは絶対、このような身に余る称号を得られなかった。

 

 反発ばかりのアタシに、素直になれないアタシに、ずっと『強い』ウマ娘と言い続けてくれた。

 

 誰にも、それこそトレーナーにも言っていないけど、アタシ以上の現役ウマ娘は結構いるはずだ。

 

 嫌味ではない。これは言い切れる事実だ。証拠として、レース本番以外の模擬レース戦績はびっくりするほど悪い。

 

 この戦績だけ見れば、『有望株ではあるが、未だG1勝利を掴み取れないウマ娘』と評価されてもおかしくないくらいのものだ。

 

 そんなアタシが、これだけの戦績を残せている理由はもう、一つしかない。アタシのトレーナーが優秀すぎるのだ。

 

 まだ二十代前半の彼。楽しみたいことだってあるはずなのに、やりたいことだってあるはずなのに、毎日アタシの事を考えてくれている。

 

 全ては、レースで勝つために。一つのレースに対して、コースから対戦相手、バ場状態などあらゆる可能性を取り込んでトレーニングメニューを作成してくれる。

 

 レース当日、文字通り100%、最高のパフォーマンスを発揮できるのを実感している。本番に合わせて、一日のズレもなく最高の状態に仕上げてくれるのだ。

 

 ここまでしてもらって負けるなんて担当バとして最大の恥だ。彼が言ってくれる、『強い』ウマ娘であることを証明するためにアタシもレースに全てをぶつけ、出し切る。

 

 その結果として、大層な称号を貰えるまで積み重ねてこれた。

 

 ・・・・・・でも、と思う。

 

 一つ、不安に思っていることがある。

 

 ここまで綿密な計画を立てて、それを元に毎日のトレーニングを考えてくれる。それが一体、どれほどの仕事量として跳ね返ってくるのだろうか。

 

 ただでさえ、トレーナー業は激務だ。それなのに、素人目にでも分かるほどの、計算され尽くしたトレーニングメニュー。それを、1レースごとに執り行う。時には、距離や対戦相手の関係などで根本から練り直す必要がある中で、だ。

 

 果たして、だ。果たして・・・・・・・

 

 

 

 そんな中で、満足な休息を取る時間があるのか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は小さな疑念。それが不安と言う形となって心を埋め尽くした原因となった出来事が2つある。

 

 

 

 1つ目は、普段のトレーナーの様子だ。

 

 1年目は彼を特に意識していなかった。単なる自分のトレーナー、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

 去年辺りから、見事に変わってしまった訳ではあるが。

 

 気づけば彼を目で追って。気づけば彼ばかりを見ていて。何とも感じなかった彼との会話が、掛け替えのない大切な時間となって。

 

 (アタシって、こんなに惚れっぽかったっけ?)

 

 後から自問するも、真相なんて分かるはずもない。何せ、男性が苦手で避けてきたアタシが経験した、初めての恋なのだから。その想いが、現在も絶賛継続中なのだから。

 

 ・・・・・・ともかく、彼の挙動や会話に意識を傾けるようになって長い月日が流れた。だからこそ、気づいたことがある。

 

 ここ半年の練習中やミーティングで、トレーナーの反応が一瞬遅れるようになった事に。

 

 アタシから会話を振った時、以前なら間髪入れずにリアクションをしてくれたトレーナーが、ワンテンポのタイムラグが発生するようになった。

 

 酷いのになると、目の前で話していたのにアタシの話を聞き逃していたという時もあった。

 

 1回目は「ちょっと、ちゃんと集中してよアンタ」と言い、彼がごめんごめんと笑って返してきて終わった。しかし、その後も聞き逃しが何回か続いた。

 

 こうなると、怒りよりも不安が心をよぎる。

 

 仕事では絶対に手を抜かないトレーナー。そんな彼が集中力を切らすはずがない。

 

 つまり、トレーナーは集中していないのではない。『集中できる状態でない』のではないかと。

 

 

 2つ目は、聞いてしまった情報だ。

 

 先週末の昼下がり、人気の少ない場所を歩く私に突然声が掛かった。

「ドーベルさん」

 急な事にも関わらず動揺しなかったのは、その声が見知ったものだったからだろう。

 

 後ろを振り返ると、予想通りの人物がいた。アタシより年上の女性。セミロングの黒髪を靡かせてアタシの前で止まる。小走りできたのか、ほんの少しだけ息が乱れていた。

 

 『トレーナーの、気の合う同期』

 

 それが、彼女。4年前から触れ合う機会も多く、彼と元チーフトレーナーを除けば一番信頼できるトレーナーである。

 

 彼女の担当バとも同学年ということで友人かつライバルとして切磋琢磨しながら良い関係を築けているとは思う。

 

 「こんにちは、どうされました?」

 

 挨拶をしつつ、疑問を投げかける。

 

 本日のトレーニングを合同練習にしたいという誘いだろうか?しかしそれなら、アタシではなくトレーナーに聞くはずだし。

 

 (いやそもそも、それだったら電話すればいいだけだし)

 

 尋ねてきた理由を測りかねるアタシを助けるように、彼女が口を開いた。

 

 「その・・・・・・彼のことでちょっとね」

 

 「彼・・・・・・トレーナーがどうされたのですか?」

 

 彼、という単語から自身のトレーナーに関しての話題だという事が分かった。何かプライベートなことだろうか?そんな軽い気持ちで聞いていたアタシ。

 

 しかし、彼女の口から出てきた言葉は、予想の外側にあるものだった。

 

 「・・・・・・彼ね、ここ3ヶ月ほど、全く飲み会に来なくなったの」

 

 「・・・・・・えっ?」

 

 目を伏せて静かに、はっきりと言う彼女の言葉の意味を、アタシは捉えかねた。

 

 「ドーベルさんもご存知だと思うけど、私も彼もお酒は大好きだし、気の合う同期ってことで月に1回は一緒に飲みに出かけていたの」

 

 それは知っている。トレーナーも彼女も、お酒はかなりイケる口ということで毎月色んなお店を訪れている。

 

 二人きりでの外出。それにモヤモヤとした気持ちはあるものの、咎めるようなことはしないできた。

 

 そもそも、咎める理由がない。アタシのために頑張ってくれていているのに、個人的な感情で息抜きの機会まで奪うなんてメジロ家の一員として、いやそれ以前に1人のウマ娘として出来るはずがない。

 

 ・・・・・・そんな、彼の息抜きの機会が途絶えている。

 

 「アタシのトレーナー側から断っているのですか?」

 

 「ええ」

 

 「それは・・・・・・」

 

 心当たりがない、訳ではない。むしろ、明確な事例が存在する。

 

 ここ数ヶ月の出走スケジュールが、例年より詰まっている。

 

 世間からの評判では現役最強馬としての期待を受けており、出走しなければいけないレースが昨年よりも増えたためだ、。

 

 1戦ごとの間隔自体はしっかり空いており、アタシには大きな負担はない。しかし、トレーナーは別だ。

 

 アタシはトレーナーの考える練習メニューに全力で打ち込むだけでいい。でも、そのトレーニングを考える彼にとって、この短期間で1戦ごとに全く違うトレーニングを、あらゆる想定を考慮して作る必要がある・・・・・・考えただけで、逃げ出したくなる仕事量だ。ここに、様々な雑務が加わる。

 

 そんな気の遠くなる仕事量を、彼が真面目にこなしていなのであれば・・・・・・月に一度の、それこそ数時間の楽しみすらも、犠牲にしているのだろうか?

 

 知らない内に右手が握りこぶしを作っており、慌てて解く。

 

 「それに・・・・・・」

 

 繋げるように彼女が口を開き、そこで不意に口が閉じた。

 

 「・・・・・・ううん、何でも無いわ」

 

 「?」

 

 「ドーベルさん。彼の様子はどう?彼、周りに弱さを見せようとしないから・・・・・・もしかしたら、があると不安なの。」

 

 目を伏せ、心から彼の健康を憂う声を出す。それを聞き、アタシも目を伏せる。

 

 (そうだ、アンタはいつも・・・・・・)

 

 アタシには散々「頼ってこい」とか「誰かに寄りかかってもいい」とか言うくせに、本人は一切しようとしない。

 

 (トレーナー、気づいてよ。アンタのことを心配する人、多いのよ)

 

 ここにいない彼に向けて、想いをぶつける。少なくとも、アンタを心から心配する人が、この場に『2人』いる。

 

 チーフトレーナーが倒れた時の、足元が崩れ落ちていくような感覚は今も脳裏に焼き付いている。

 

 もし今、彼が倒れたら・・・・・・

 

 「・・・・・・っ」

 

 心臓が締め付けられる。実際に起こったわけではないのに、想像しただけで吐き気がこみ上げてきた。

 

 口を固く結び、無理やり飲み込む。それでも、恐怖が身体を這い上がってくる。

 

 (ダメ、そんなの絶対耐えられない)

 

 座り込みそうになる脚を踏み留める。

 

 「ごめんなさい。学生にこんな事を頼むなんて、一介のトレーナーとして失格なのは承知よ。・・・・・・それでも、もし彼が無理しているようだったらすぐに教えてほしいの」

 

 切実な彼女の願い。それに対して、アタシはうなずくことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・・だからこれは、いつも借りっぱなしの借りを返すだけ。そう言えば、トレーナーも受け取ってくれるはず」

 

 誰に聞かれるでもない、延々と繰り返される言い訳を口から吐き出しつつアタシは歩を進めていた。

 やがて我に返れば、目の前には見知った扉。第一声が決まらずに堂々巡りの脳内とは裏腹に、自分の足は最短距離でトレーナー室を目指していたようだ。

 

 マズイ、と心で呟いても状況は好転するはずもなく。休日ということもあっていつもより数段閑静な雰囲気の中、急ピッチで脳内を無理やり回す。

 

 『おつかれ、トレーナー』

 『入るわよ』

 

 いつも意識せずに発していた単語が、口から出ない。

 

 何層にも積み重ねた言い訳を纏って、本心を隠そうとする。

 

 手に持つ小袋の中に入っているのは、昨晩届いたアロマ。疲労に効果のあるもので、普段は買わないような高級品だ。値段は5桁に達したけど、彼からもらってきたものを考えれば足元にも及ばないだろう。

 

 それ以前に、少しでも効果の高いものを使って欲しいという想いが先行し、気づけば購入していた。

 

 (一つ、まずは休みを取ってほしいこと。これを伝えるのが何よりも大事。)

 

 ウロウロと扉の前を行ったり来たりする姿は、端から見れば不審者そのものだ。誰かに見られたら即たづなさんに通報されてしまうだろう。

 

 でも、今のアタシは思考に意識を全部振っていたせいで、周りの状況に全く気を払っていなかった。

 

 だからと言うべきか。

 

 

 

 「・・・・・・ドーベル?」

 

 「ひゃあああああああ!?」

 

 

 

 近づいてきていた気配に、全く気づかなかった。

 

 突然意識に入ってきた声に対し、反射的に悲鳴を上げてしまった。知っている声でなければ、更に飛び下がる行動まで取っていたかもしれない。てっきり部屋にいると思っていたのに、何らかの用事で外出していたみたいだ。

 

 振り向くと同時に、無意識の内に手に持った小袋を後手に隠す。

 

 「どうしたのドーベル、今日は休日だよ。もしかして、何か忘れ物?」

 

 若干、茶化したようなトレーナーの声。いつもアンタはそうだ。こちらの気持ちなどお構い無しで軽く接してくる。・・・・・・アタシが、アンタの前でどれだけ苦労して平常心を装っているか、高鳴る鼓動を押し留めているかを知らないで。

 

 少しだけムッとしたので、抗議をしようと顔を上げる。

 

 「違うわよ、今日は・・・・・・」

 

 目線が、視界が、彼の顔を捉えて。

 

 「・・・・・・」

 

 言葉が止まった。

 

 音が、聞こえなくなる。視線が彼の顔に固定されて離れない。

 

 「どうしたのドーベル?」

 

 そう聞いてくるトレーナー。

 

 

 

 その目元に、酷いクマが出来ていた。

 

 

 

 昨日だってトレーニングで顔を合わせた。その後、ミーティングでより至近距離から彼を見続けた。

 

 でも、断言できる。クマなんて見当たらなかった。ワンテンポ遅れる事を除けば、いつもどおりの彼だった。

 

 でも、このクマは一日やそこらで出来る範囲を超えている。

 

 やがてクマから目を離し、全体の表情が映る。

 

 そこでまた、言葉を失う。

 

 頬が少しやつれ、ボサボサの髪。さっぱりとした彼の面影が、見当たらない。

 

 息を吸い込むと、濃く感じる汗の匂い。

 

 間違えるはずがない。今まで何度も、こっそりと嗅いできてのだから。トレーナーの匂いだ。その匂いが、いつもよりハッキリと濃い。

 

 「ん、どうしたの鼻を効かして・・・・・・あ、そういえば昨日風呂入ってなかったな。ごめん、以前ドーベルに毎日入るよう叱られたのにね」

 

 「・・・・・・トレーナー」

 

 「ん?」

 

 「そのクマ、どうしたのよ」

 

 クマ?と疑問を浮かべた彼の表情が、一瞬で歪んだ。しかし、それも刹那のことですぐに笑顔に戻る。

 

 「あはは、ちょっと昨日から徹夜でね。もうすぐ終わるし、その後休むつもりだから大丈夫だよ」

 

 彼が笑いながら、扉を塞ぐように移動したのを見逃さなかった。

 

 以前似たようなことがあった。トレーナー室の扉前でバッタリ出会い、咄嗟に扉を守るように身体を寄せたトレーナーの行動を見咎め、有無を言わさずに突入したことがある。

 

 その時はカップ麺と栄養ドリンクの山が形成されており、本気で彼を怒った。その後、理由を無理やりこじつけてお弁当を渡すのが日課になったのだけれど。

 

 ともかく、改善されたと思っていた事象が再発しているのなら・・・・・・。

 

 ゆっくりと移動する彼の身体を縫うように、素早く躍り出る。

 

 男と女とはいえ、人とウマ娘。瞬発力はアタシのほうが高く、彼が目を見開いたときには既にアタシの手がドアノブにかかっていた。

 

 ドーベル!?と驚愕の声を出した彼を無視し、扉を一気に開け、中に滑り込む。

 

 真っ先に机横まで歩を進めるが、予想外と言うべきか前みたいな惨状はなかった。匂いを嗅いでもインスタント麺の名残や栄養ドリンクの刺激臭はしない。

 

 何よ、今は食べていないじゃないの。と一旦安堵し、流れで机に目を向けた。

 

 向けてしまった。

 

 「ドーベル!」

 

 慌てて机とアタシの間に身体を入れたトレーナー。

 

 でも、遅かった。はっきりと見てしまった。

 

 それと同時に、今までの出来事が、一つの線となって繋がった。

 

 こちらを見やる彼の目。アタシの表情を見て、隠しきれなかったことを悟ったのだろう。バツが悪そうに、目をそらした。

 

 静寂が押し寄せる部屋の中。沈黙の中、空気まで重くなる。

 

 その中で、フツフツとこみ上げてくる感情を感じた。それは、怒り。トレーナーに対して、ではない。他の誰でもない、自分自身への怒り。何故今まで、最も彼の近い場所にいたのに気づけなかったんだという憤怒。

 

 既に隠蔽を諦めた彼は動こうとしない。なので、今一度見ようとするアタシの動きを止めることもしなかった。 

 

 改めて、机の上に置かれているものを見る。

 

 

 

 『化粧品』。一般的には、そう呼ばれているもの。

 

 

 

 

 「はは・・・男が化粧だなんて気持ち悪いでしょ。嫌なもの見せてごめんね、ドーベル」

 

 無理がある明るい声。作られた笑顔。この期に及んで、こちらに心配をかけまいとするその態度が、嫌だった。

 

 「・・・・・・これで、クマとかを隠していたのね。全然、気づかなかった・・・・・・気づけなかった」

 

 「・・・・・・・」

 

 「これ、借りたんでしょ。『あの人』から」

 

 「・・・・・・うん」

 

 もうお見通しだと分かったのか、力なくうなずく彼。

 

 思い浮かぶは先日、会話の途中で言い淀んだ女性トレーナーの姿。きっとクマの隠し方や、やつれた頬のごまかし方も教えてもらったのだろう。

 

 全ては、疲労を悟られないために。

 

 (どうして、どうしてアタシは気づけなかったの!?)

 

 疲れているのは知っていた。でも、彼に騙されて『致命的な疲労ではない』と思い込んでいた。

 

 今日は休日でアタシとは会わないと思い油断して広げたままだったのだろう。その油断がなければ、アタシは知らないままだった。

 

 アタシだけは、騙されてはいけなかったのに。見抜かなければいけなかったのに。

 

 甘えていた。完全に甘えていた。

 

 「トレーナー」

 

 

 

 

 気づいたら、私は彼に言葉を続けていた。

 

 「話し合いましょう。全部・・・・・・話したいの」

 

 2つのソファに挟まれた中央の机を差すアタシに、トレーナーは静かに頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「トレーナー・・・・・・初めに、これだけは言わせて」

 

 以前トレーナー室に持ってきていた紅茶を入れ、彼に差し出す。お互い向かい合うようにソファに座った状態。このまま話し合いを始める前に、アタシはやらなければいけない事をやる。

 

 紅茶を一口飲み、ふぅ・・・と息をついた彼が不思議そうにこちらを見やる。思わずそむけたくなるような、酷い表情。

 

 今すぐにでも、休んで欲しい。休ませたい。

 

 だからこれは完全なるエゴ。この期に及んで許しを請おうとする、醜いアタシを象徴するような行動だ。

 

 アタシは、机に打ち付ける勢いで頭を下げた。

 

 「ごめんなさい」

 

 意味をなさない謝罪の言葉。「ちょ、ドーベル!?」という彼の言葉を遮るように口が動く。

 

 「気づけなくて、ごめんなさい。無理をさせてしまって、ごめんなさい・・・・・・アタシがもっと強ければ、アタシがもっと気が効けばっ!!」

 

 一度出てしまえば、止まらない感情が溢れ出す。

 

 何も、シンボリルドルフ会長やミスターシービー先輩みたいな、次元の超えた強さでなくてもいい。 

 

 あと少しだけアタシのポテンシャルが高ければ、彼はもっと楽にトレーニングメニューを作成できていたのではないか。

 

 エアグルーヴ先輩やヒシアマゾン寮長みたいな、気配り上手でなくてもいい。

 

 もう少し彼を注意深く見ていれば、違和感に気づけたのではないか。

 

 全力で、彼のトレーニングメニューを遂行する『だけ』だったアタシ。休日練習とかはレース前にある程度で、自主練に関しても重いものはやんわりと止められていた。

 

 今だから分かる。彼は、アタシのプライベートの時間を最大限確保しようとしてくれていたことが。決められた練習時間内のトレーニングだけで、アタシを勝利に導けるよう身を粉にしていてくれたことが。

 

 頼りっぱなしだった。甘えっぱなしだった。そんな簡単なものに気づけないくらい、アタシは『子供』だった。

 

 『大人』の彼に、ひたすら頭を下げる。

 

 「ま、待ってドーベル。謝られるようなことなんて一つもないって!」

 

 気配が近づき、そこで止まる。アタシの状態を起こそうとして、そこで男性が苦手なアタシの体質を気遣って止まったのだと分かった。

 

 思えば、彼の方から触れられたことは一度たりとも無かった気がする。考えれば考えるほど溢れてくる、気づかずにいた彼の気配り。

 

 本当であれば、ずっと頭を下げ続けるべきだろう。でも、その前に言うべきことがある。

 

 一旦頭を上げ、彼を正面から見る。数歳しか違わないはずなのに、はっきりと感じる壁。それを今だけは、超えなければならない。

 

 「トレーナー、寝てないんでしょ。休んで。お願いだから」

 

 途切れ途切れながらもしっかりと伝え、一度スカートのポケットに仕舞っていた小袋を取り出し、中身を出して彼の前に置く。

 

 「これ、疲労に効くアロマ。使ってほしいの」

 

 コト、と小さな音を立てて置かれた小瓶。トレーナーはありがとう、と呟きかけて不自然に言葉を止めた。

 

 どうしたのかと思うと、彼は小瓶を静かに持ち上げ、ラベルをじっと見た。そして、焦ったような表情で再度口を開く。

 

 「ま、まってこのブランド、かなり有名な銘柄だよね。この大きさだと、最低でも1万円超えてくるものばっかりじゃ・・・・・・」

 

 こ、こんなに高価なもの受け取れないよ!と固辞する彼を見て、アタシは驚きを感じた。

 

 断られたことにではない。彼が、ラベルと外見だけを見て正確な値段を導いた知識の深さに、だ。

 

 担当バとなって初めて贈った時は、彼は文字通りアロマに関しては門外漢だった。

 

 「アロマって、あれでしょ。ラベンダーの香りがするやつ。・・・・・・え、他の香りもあるの?」

 

 と、その程度のもの。呆れてしまい、笑みがこぼれてしまったのを覚えている。

 

 なのに最近では、アロマの話題で会話が弾む程になった。時折アロマ講座を開いていたので、その成果かと勝手に思っていた。

 

 全く違った。今日プレゼントしたものは、一度も紹介したことがない。それなりに有名ブランドとはいえ、海外メーカーの一品だ。日常生活は勿論、専門店でも取り扱っている店は多くない。

 

 何故知っているのか。答え合わせは簡単だ。彼が独学で勉強したのだ。アタシの会話に合わせるために。そうでなければ、説明がつかない。

 

 「どうして・・・・・・」

 

 「え?」

 

 「どうして、そこまでしてくれるの?」

 

 口から出てくる言葉を、止められない。

 

 「もらってばかりで、甘えてばかりで、何一つ返せていないのに・・・・・・」

 

 「そんなの決まってるよ」

 

 呆然と語りかけるアタシに、彼はまた精一杯の笑顔をみせてきた。

 

 「ドーベルが悲しむ姿を見るのが嫌だから。ドーベルが喜ぶ姿を見るのが好きだからだよ」

 

 歯の浮くようなセリフ。いつも緊張しがちな自分を励ましてくれる、彼の大げさなエール。

 

 それが真っ直ぐにアタシに届く。

 

 トレーナーは本気なのだ。先程のセリフを心から望み、実行するために『全力』を賭けているのだ。

 

 「だからさ、好きでやっていることだから多少は無理しても・・・・・・」

 

 そうやって、無理な状態で無理な笑顔を見せる彼が見てられなくて。

 

 

 

 我慢の限界だった。

 

 

 

 「・・・・・・えっ」

 

 戸惑ったような、状況を把握しきれていないような彼の声。

 

 それだけ、アタシの動きが早かった。

 

 彼の言葉を聞いた瞬間立ち上がり、机を回り込んで彼の隣まで行き、そのまま引き寄せた。

 

 突然のことで、かつ疲労が溜まっていて反応できなかったトレーナー。座った状態の彼を引き寄せたことで顔が寄り、アタシの胸に収まった。

 

 本気で慌てた彼の声。それを無視して、抱きしめる。彼を、逃さないように。

 

 「お願いトレーナー、無理しないで!疲れたなら休んで!しんどいなら周りを頼って!トレーナ、頼ってよ!甘えてよ!」

 

 「・・・・・・ドーベル」

 

 「ねえ、アタシってそんなに頼れないの?トレーナーが寄り掛かれないほど弱いの?」 

 

 卑怯な聞き方、それでももう、我慢できなかった。

 

 ぎゅっと抱きしめ、彼の頭を撫で続ける。彼は大人でアタシは子供。それは分かっている。理解している。

 

 それでも、大人が子供に甘えてはダメだなんてことはない。

 

 大人だって、頼っていい。甘えていい。1人で抱え込まないで欲しい。

 

 アンタを・・・・・・ううん、貴方1人支えられないほど、アタシはヤワじゃない。

 

 その想いが通じたのだろうか。

 

 「・・・・・・ごめん」

 

 「あっ」

 

 動かずにいた彼が、こちらに体重を預けてきた。彼の吐息が、胸元をくすぐるのを感じる。

 

  「はは・・・・・・自分で考えていたより、疲れていたみたい。情けないな・・・・・・。ドーベル、ごめん」

 

 

 『今だけは、休んで、いいかな・・・・・・?』

  

 

 そのまま、カクっと頭から力が抜けた。どうしたの!?と心配するのもつかの間、彼の呼吸が規則正しいものに変化した。

 

 初めてみたトレーナーの寝顔は、幼子のように穏やかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー室の仮眠用ベット。そこには、2つの影があった。

 

 1人目は、穏やかな表情で眠る青年。よほど疲れが溜まっていたのだろう、規則正しい呼吸の他に、普段は出さない小さないびきもかきながら静かに目を閉じていた。

 

 2人目は、そんな彼を胸に抱きしめるウマ娘の少女。後悔、悲しみ、愛しさ、慈しみ・・・・・・様々な色が混じった目で眠る彼を見続けていた。

 

 静かな時間が流れる中、青年を起こさないよう小さな声で少女が言葉を紡ぐ。

 

 「アタシ、もっと強くなるから」

 

 「トレーナーの負担を減らせるよう、強くなる。トレーナーが無理しなくてもいいよう、強くなる」

 

 その言葉を聞くものはいない。少女の、誰にでもない、自分への宣言。

 

 「トレーナーに頼ってもらえる存在になる。トレーナーに甘えられるような存在になるから。だから・・・・・・」

 

 望むのは、対等な関係。一方的な恋ではない。1人の女として、彼を支えられるようなウマ娘になるために。

 

 

 

 「だから、その時は・・・・・・貴方の隣に立ってもいいですか?」

 

 

 




次のガチャでアドマイヤベガ実装に花京院の魂とオグリの晩飯を賭けます。


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おまじない


ピクシブにだけ投稿したまま忘れていた短編です。すっかり頭から抜けていました。申し訳ございません。

・ベルトレ♂
・(トレーナーの心境が割と)重バ場




 

 

 

 決戦前の控室。

 

 一つ、また一つとレースが終わり、刻一刻と本日のメインイベントが近づいてきているのが分かる。

 

 良い観戦場所を確保しようと朝から並んでいた観客も、目の前のレースを楽しみつつも意識は大トリの一戦に向いているだろう。

 

 本日の最終レースはGⅠの冠を成すもの。今日が終わればしばらくGⅠレースがないことから、熱戦を見ようと会場はほぼ満員となっている。

 

 いくら観客席から離れているとはいえ、これだけ盛り上がっていれば控室までその熱気が伝わってくる。

 

 遠くからでも肌で感じる熱気。本番前の緊張感。そんな中にあって、この部屋は静寂に包まれていた。

 

 出走するウマ娘と、そのトレーナーに充てがわれた個室。必然的に部屋にはトレーナーの俺と、その担当バの2人っきりになる。

 

 改めて顔を上げる。中央にあるテーブルに隣接された椅子。そこに、目を閉じた一人のウマ娘が静かに座っていた。

 

 メジロ家の『色』を彷彿とさせる勝負服を纏い、静かに佇む彼女・・・・・・メジロドーベルだ。

 

 トゥインクルシリーズ3年間を、圧倒的な成績で駆け抜けた才色兼備のウマ娘。現在はドリームリーグに籍を移し、一騎当千の怪物らと鎬を削っている。

 

 凛とした佇まいからは想像もつかない、レース終盤の闘志あふれる末脚に惚れたファンは数知れず。

 

 そんな彼女に・・・・・・

 

 「・・・・・・トレーナー」

 

 ドーベルが閉じていた瞳を開き、見つめてくる。僅かに、彼女の両手が上がる。

 

 その動作は、今まで何度も見てきたもの。レース前、この控室という場所で繰り返し行われてきた行為。

 

 口を真一文字に結んだ彼女。その表情からは、はっきりと今何を期待しているのかが読み取れる。

 

 小さく、音を立てないようにして唾を飲み込む。

 

 『今日こそは、今日こそははっきりと言わなければいけない』

 

 そう思っていたはずなのに、ドーベルと面と向かい合ったら、その覚悟が薄れてしまう。

 

 クールビューティー。凛々しくも気品に満ちた彼女以上に、この言葉がふさわしい人物はいないだろう。

 

 加えて今はレース直前。内なる闘志を燃やしている彼女は、いつにも増して・・・・・・美しく見える。

 

 そんな彼女に・・・・・・だ。

 

 「・・・・・・お願い」

 

 お願い事をされて、断れるだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 手を広げたまま近付いてきたドーベルと同じように、俺も両腕を広げる。そのまま、軽い衝撃とともに彼女が俺の腕の中に飛び込んできた。

 

 『男性が苦手』と暗に語っていた人物とは思えないほど、躊躇いがない強さで。

 

 始めは無言のまま、ただ抱き合う。

 

 互いが互いを抱きしめ、密着した状態。ドーベルの感触が、香りが、何にも遮断されずに伝わってくる感覚。努めて余計なことを考えないようにしても、どうしても意識してしまう。

 

 女性特有の、柔らかな感触に。アロマの混じった、心地の良い香りに。

 

 顔に熱が籠もるのが分かる。鏡がないので直接は確認できないが、俺の顔は今、真っ赤になっていることだろう。

 

 時間にして1分ほど。多少の前後はあるが、一定時間が経った後にに必ず彼女はこちらをちらりと見る。

 

 俺の身体に身を埋めていた彼女。一瞬だけ見えた顔は、普段と比べ物にならないほどに紅潮していた。それでも、抱きしめられている腕の力を抜こうとはしない。

 

 その『合図』を見て、静かに彼女の耳に口を寄せる。身長差から、少し頭をかがめるだけで丁度彼女の大きな耳に口が届く。

 

 吐息がかかったのか、彼女の身体に力が入った。距離も何もない状態での口寄せ。自分の唇が彼女の耳に触れる。それを認識しながら、背中まで回していた右手を上げる。

 

 やがて、その手はドーベルの後頭部に添える。そのまま梳くように、優しく髪を撫でる。

 

 そのまま、『合図』によって彼女が求めた行為を遂行した。

 

 「大丈夫。ドーベルは、俺が信じた強いウマ娘だよ。だから、必ず勝てる」

 

 口と耳がほぼ触れ合うような、超至近距離からのささやき。試合直前、必ず口にする、ドーベルのための『おまじない』。彼女は一瞬だけ身体を硬直させ、そのまま俺にもたれかかってきた。

 

 「んっ・・・・・・」

 

 完全に力が抜けた彼女の身体を支えつつ、両手で頭と背中を撫で続ける。・・・・・・極力無心を貫く。余計なことを意識しないように、ひたすら彼女の願いを果たすため、全力を注ぐ。

 

 そうしないと、自分の鼓動が今以上に速くなりそうだったから。

 

 時計の針音がやけに遅く感じる部屋の中で、数分間俺たちは抱き合ったままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パタン、と扉の閉まる音が響いた。

 

 ドーベルの、早めの足音が遠ざかっていく。その音がどんどん小さくなっていき、やがて完全に聞こえなくなる。

 

 そこから、念の為十数秒。完全に彼女の気配が消えたことを確認した俺は・・・・・・ハァ~・・・・・・・・と大きく息を吐いた。

 

 胸に手を当てずとも、分かる。心臓が、これ以上ないくらいに暴れまわっていることに。

 

 当然だ。先程まで、力強くドーベルを抱きしめていたのだから。

 

 ・・・・・・始めは、こんな感じではなかったのだ。

 

 発端はクラシック級、二度目となるGⅠ直前。観客の入りが一段と多かったこともあり、彼女は控室で必死に心を落ち着かせようとしていた。心を落ち着かせるためにアロマを焚き、何度も何度も深呼吸を繰り返す。

 

 傍目からでも、小刻みに震えているドーベルの姿。過去の恐怖と必死に戦うその姿を見て、俺に何か出来ることはないか、その一心で俺も思案した。

 

 時間がないこともあって焦っていたのかもしれない。気づけば、体が先に動いていた。

 

 「ドーベル」

 

 刺激しない声音で語りかける。椅子に座り込んでいた彼女は顔を上げた。走る前だと言うのに額には汗が滲み、唇の色が若干変わっている。

 

 「・・・・・・何よ」

 

 吊り目での、ツンとした表情。しかし、その瞳には、声には、いつものような力が籠もっていなかった。

 

 (このまま、何もせずにレースに向かわせるなんてトレーナー失格だ)

 

 そんな思いもあったのだろう。彼女の正面に立ち、距離をしっかりと保ちつつ、ゆっくりと屈む。目線があった所で、静かに口を開いた。

 

 「大丈夫だ。ドーベルは、俺にとって一番強いウマ娘だ。俺が信じたウマ娘だ。だから、大丈夫。必ず勝てる」

 

 それはかつて、本契約前にドーベルにぶつけた、偽りのない本心。あの日から、何一つ変わっていない心情。心からの言葉を、激すること無く伝える。

 

 彼女の恐怖心を少しでも取ろうとして行った行為。いつもであれば、

 

 『はぁ・・・・・・その根拠のない自信はどこから来るのよ』

 

 と呆れ顔での返答を頂戴していただろう。

 

 しかし、その時は違った。

 

 俺が発した言葉に、ドーベルの耳がピクッと動く。次の瞬間、彼女の手が素早く伸びてきた。

 

 口を出す暇もなかった。気づけば、ドーベルの両手が俺の右手を包み込み、自分を真正面に捉えていた。

 

 「お願い、もう一回言って・・・!」

 

 そして、懇願するような声音。彼女の表情は未だ優れない。それでも、声掛けの効果は僅かながらあったのか、唇の色が若干良くなっているように見えた。

 

 あまり時間はない。俺は何度も、何度も同じような言葉を繰り返した。先程も述べたとおり変に着飾った言葉ではなく、心からの本音をぶつける。

 

 彼女見て、大丈夫だと、君は強いと目を逸らさずに想いを届け続けた。

 

 ・・・・・・その甲斐があったのか、数分後には彼女の震えが止まり、其の瞳の奥にはいつもレース直前に見せる闘志の炎が宿っていた。

 

 「・・・・・・ありがと、トレーナー」

 

 行ってくる。と言葉少なめにお礼を言われ、そのまま控室から出てレース場に向かっていった。

 

 その時は、上手くいったなと安堵した。実際、そのレース・・・・・・オークスでは見事に一着を取り、二冠目の栄誉を勝ち取ったのだ。控室に戻ってきた、輝くドーベルの表情を見て俺もほっとした。

 

 ・・・・・・そこから、レース前の控室で彼女を励ます事がルーティーンとなった。一度きりのつもりだったけど、ドーベルが直々に続けてほしいと言ってきたら断る理由がない。

 

 ゲン担ぎの意味もあるのかもしれないけど、それがドーベルのためになるならと喜んで続けていった。

 

 快進撃は止まらない。秋華賞こそ三着となり念願のトリプルティアラは逃してしまったが、続きのエリザベス女王杯では見事一着を勝ち取り、クラシック級最優秀ウマ娘に選出された。

 

 ・・・・・・学年が上がりシニア級でのレースが、引き返せる最後のポイントだったのかもしれない。

 

 気づくべきだった。いや、本当は気づいているのを見てみぬフリをしていただけだった。

 

 恒例となっていた『おまじない』。彼女の手を握って声をかける時間が徐々に長くなっていることに。

 

 11月、二度目となるエリザベス女王杯。いつものように声をかけようとして、ドーベルに一旦止められた。

 

 今日はもう平気なのかな?と思っていた俺を襲ったのは、突然の彼女からの抱擁だった。

 

 軽く身体が触れ合う程度の、ではない。しっかりと背中に手を回され、力と感情が込められたものだった。

 

 訳が分からず頭が真っ白になった俺に届いたのは、顔を、身体を押し付けてくるドーベルの声。

 

 「・・・・・・トレーナー。いつもみたいに、励まして。お願い・・・・・・」

 

 顔を真っ赤にさせ、消え入りそうな声音ながらも、はっきりと聞こえてきたその言葉。

 

 すぐに、無理矢理にでも離すべきだったのだ。いくら励ましの声掛けといえどトレーナーとウマ娘の距離感ではない。

 

 ・・・・・・それなのに、俺は彼女を引き剥がすこと無く、受け入れた。その距離感を、許容してしまったのだ。

 

 後はもう、止まらない。言われるままに俺からも抱きしめるようになり、頭を撫でるようになった。

 

 彼女の緊張を取るため。万全の状態で走ってもらうため、という大義名分を掲げた状態で。

 

 

 

 (・・・・・・最低すぎるだろ、俺)

 

 

 

 心のなかに渦巻く、負の感情が湧き出そうになる。

 

 あの時、何故無理やり離れなかったのか。

 

 緊張を取るため?

 万全の状態?

 

 (そんな都合の良い言葉を並べ立てて・・・・・・ドーベルに抱きつかれたのが、嬉しかったからじゃないのか?)

 

 バン!と自分の膝を強く叩く。

 

 レース直前、彼女の願いを叶えるためといい、実際は自分の感情を優先してしまったのではないのか?

 

 ・・・・・・そんなの、トレーナー失格だ。

 

 身体には、未だにドーベルを抱きしめていた熱が残っている。

 

 男性への苦手意識を抱える彼女。そんな人物が、レース前では件のおまじないを俺に頼んでくる。その度に見る、彼女の表情。隠そうともしていない、その感情。

 

 いくら恋愛事情に疎いままだった俺でも分かってしまった。

 

 (・・・・・・そういうこと、なんだよな)

 

 はぁ、とため息をつく。もっといい男がいるだろ、と思ってしまう。

 

 俺は男としても、トレーナーとしても彼女に対して何も出来ていない。

 

 そもそも、担当前の時点で彼女には実力があった。ドーベル自身の才能、チーフトレーナーの卓越した指導によって、十分すぎるほどの力を持っていたのだ。俺は文字通り、精神面でポン、と軽く背中を押しただけに過ぎない。

 

 チーフトレーナーがいなければ、一介の新人がドーベルほどのウマ娘と契約を結ぶことが出来なかっただろう。

 

 勿論、トレーナーとして全力を持って彼女を支えてきたと胸を張って言えるだけの努力はしてきた。

 

 それでも、ふと思うのだ。

 

 「・・・・・・他の人が担当になっていれば、トリプルティアラも取れたんじゃないかって」

 

 それは、ドーベルにも言ったことのない、俺自身への叱責と後悔。

 

 同年代の中では、間違いなく最強バの一角であるドーベル。それでも、もっと違う景色があったのではないかと毎日、毎日考えてしまう。

 

 繰り返し、繰り返しの自問自答。いつものように、答えの出ない問いかけが自分を襲う。

 

 頭を抱えつつも、控室の出口へと向かう。まずは、彼女の今日の走りを見届けなければいけない。

 

 「・・・・・・本当に、最低だよ、俺」

 

 先程、心で呟いた台詞を今度こそ口に出す。

 

 だって、そうだろう。トレーナー失格だなんだと言いながら、それでも彼女の支えになりたいと、彼女の担当トレーナーであり続けたいと思っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 (バレてる・・・・・・もう絶対にバレてる)

 

 決戦場となるターフへと向かう足取りは、妙に軽い。それを自覚しつつもアタシは沸き立つ想いを抑えきれなかった。

 

 身体に残るのは、先程まで彼に抱きしめてもらった感触。彼の体温。そして、耳元で囁いてくれた言葉。

 

 その中の一つを意識するだけでも、身体中から火が出そうなほどに熱が籠もる。ましてや、3つ同時なんてなったら羞恥心で逃げ出したくなってしまう。

 

 でも、それ以上に幸福だった。

 

 はぁ・・・・・・と息を吐き、体内の熱を少しでも吐き出そうとする。

 

 恒例となった、彼からのおまじない。最初は縋る思いで聞いたその言葉が、今ではアタシを支える芯となっている。

 

 実際、オークスのレース前に励ましを受けていなかったら観客に呑まれ、悲惨な結果になっていただろう。

 

 そこからお願いしてレースの度に手を握って声掛けをされる。3ヶ月、半年、1年・・・・・・。いつの間にか私の心にはある感情が生まれた。 

  

 それは手を握られ、励ましを受けたときに鮮明になった想い。

 

 

 

 (足りない・・・・・・)

 

  

 

 シニア級後半。トレーナーはいつしか、かけがえのない異性、存在となっていた。

 

 少女漫画でしか知らなかった感情を、現実に自分が抱いている。初めての想いを抑えることなど出来ず、エリザベス女王杯レース前にとんでもない行動を取ってしまった。

 

 自ら、許可を得ずにトレーナーに抱きつく行為。トレーナーに突き飛ばされていてもおかしくなかった。それでも彼は、私のわがままを聞いてくれた。

 

 そうなったらもう止まらない。彼の優しさに甘え、要求はレースを重ねるごとにエスカレートしていく。

 以前よりも長くなった時間、頭をなでてもらう行為、そして耳元でのささやき・・・・・・全てアタシが望んだことだ。

 

 強く抱きしめられながら、耳元で優しく囁いてもらえる・・・・・・レース前という状況でなければ、そのままアタシの全てを委ねてしまいそうになる。

 

 前よりは随分マシになったとはいえ、未だに男性への苦手意識は消えていない。勿論、トレーナーだってその事は承知だ。

 

 そんな中、アタシはお願いを繰り返し行っている。・・・・・・もう、この想いがバレてくださいと言っているようなものだ。

 

 胸に手を当てる。多少時間が経ったというのに、心臓は暴れたままだ。普段よりも遥かに早い脈拍が、一向に収まらない。まだ出走していないというのに、走り終えた後のように高鳴りが続いている。

 

 その鼓動に意識を傾ける。トクン、トクン・・・と刻むその速さを感じ取る。

 

 この間隔、このスピード・・・・・・。聞き覚えがある。

 

 「・・・・・・トレーナーも、同じくらい速かったな・・・・・・」

 

 口にして、再び顔が熱くなる。先程、トレーナーに身体を預けていた時、彼の胸元から直接伝わってくる鼓動の間隔が、今のアタシと同じくらいだったのだ。

 

 つまり、それは。

 

 「トレーナーも、興奮してくれているって、ことかな」

 

 一人きりの通路。誰にも聞き取れないほど小さな声で漏れたその言葉は、そのまま空気に溶け込み消えていく。

 

 男性は、特別意識していない女性に抱きつかれた場合でも嬉しいと感じる人が比較的多い、と漫画で読んだことがある。

 

 なら、トレーナーの鼓動が早い理由は?

 

 (・・・・・・どうなのかな?アタシが女だから、鼓動が速くなったのかな?それとも、その・・・・・・『アタシだったから』速くだったのかな?もし、もしも理由が、)

 

 

 

 ・・・・・・後者だったら、嬉しいな。

 

 

 

 もう一度、深呼吸と共に恋心をを一旦吐き出す。目を閉じ、淡い想いを押し止める。

 

 彼からかけてもらったおまじない。その効果を十全に発揮する場所に向けて、再び脚を進める。

 

 (トレーナー、もう少しだけ、待っていて)

 

 どうしようもなかったアタシを変えてくれたトレーナー。私に、初恋の切なさ、苦しさ、そして愛しさを教えてくれたトレーナー。

 

 もう少し、もう少し勇気を持てたその時に、全てを貴方にぶつけたい。 

 

 この抱えきれないほどの、返しきれないほどの感謝と想いを。

 

 (見ててね、トレーナー。今日のアタシの走りを)

 

 まずは彼のウマ娘として、指導に報いるために最高の順位を届けてみせる。

 

 アタシは目を開き、一歩ずつゆっくりと、歓声が聞こえる場所へと向かって歩んでいった。

 

 

 

 





次はマンハッタンカフェ後編を投稿予定です。

アヤベさんをお迎えできませんでした。無念・・・・・・

スズカさん、カフェ、ドーベル、アヤベさんの4人で踊る姿を見たかった・・・。


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魔法の時間

・・・・・・・すみません、またあとがき詐欺です。

カフェを書くといいながら、またドーベルという重力に魂を惹かれました。次こそは書きます。

ドーベル×トレーナー短編です。過去一短いです。

それと、申し訳ありませんがあとがきにアンケートを設置しました。目を通していただければ幸いです。

Q.何か似たような展開や描写多くない?
A.作者の力量


 

 どうか、一つだけ願いが叶うのであれば。

 せめてその鐘が鳴るまでは、アンタの傍にいたい・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・・トレーナー?」

 

 トレーナー室の前で、アタシは疑問を含んだ言葉を紡ぐ。

 

 扉をノックして、十数秒が経過。いつもであればすぐに返答が来る部屋から、今は何の音沙汰もない。

 

 会議があるのかな思い、念の為にドアノブに手をかけたら、予想していた抵抗が起こらずにすんなりとドアが開いた。

 

 (ちょっと、部屋を留守にするなら鍵くらいはちゃんと・・・・・・)

 

 と心の中での愚痴は不意に止まる。

 

 穏やかな日差しが照らす、無人だと思っていた部屋。しかし、人の気配がある。耳を澄ませると、小さな、それでいて確かな息遣いが聞こえてきた。

 

 定位置である窓近くの机に姿はない。呼吸音の発生源は、もう少し手前側。ゆっくりと近づくと、想像していた場所にアンタはいた。

 

 ソファに寝そべるアンタの姿。仰向けで寝ているその顔には、普段の余裕を感じる笑みが無く、ただただ穏やかで無防備だった。

 

 そんな彼に歩み寄るアタシの足音は、呼吸音よりも静かで、慎重で。起こしてはいけないという意識を最上かつ中心の想いとして抱えたまま彼の傍まで歩を進めた。

 

 彼は、ずっと目を閉じたまま。今日は何の予定もない休日。アタシのトレーニングも無いため、休日出勤ながらもどこか気が緩んでいたのだろう。何の警戒心も抱いていない表情で、静かに瞳を閉じていた。

 

 まあ、彼は一旦眠り始めたらちょっとやそっとのことでは起きないのではあるが。今までに何度も状況はあった。声掛けしても、身体を揺すっても起きない。

 

 寝相もあまり良い方では無いみたいで、アタシが居る時に一度ソファから落下したこともあった。

 

 地面に当たる鈍い音。慌てて彼の所に駆け寄ったのだが、当の本人はどこ吹く風で夢の世界の住人のままだった。あれにはさすがにアタシも呆れた記憶がある。

 

 ともかく、彼の眠りは深い。なので、別に忍び足をせずとも起きる心配はないのだが、念には念を入れて、だ。

 

 深呼吸を一つ。ゆっくりと息を吐きだして、彼と向き合う。

 

 彼の寝顔を何度も見てきたのは、偶然ではない。それだけ、休日にアンタの元を訪れ続けているのだから。

 

 トレーナー業は完全週休二日制とは言われているけど、彼が土曜日にトレーナー室を不在にしている所を見たことがない。レース間近となれば、日曜日も居座っているのを目撃したことがある。驚異の週休0日である。

 

 「ドーベルに勝ってほしいからね。それを思えば、疲労なんて感じないよ。それに大丈夫。僕って悪い意味で要領が良いからさ。君の見ていない所でしっかりサボって休んでいるよ」

 

 一度、心配になってさり気なく聞いてみた時に返ってきた言葉がこれだ。担当バに対する無償の奉公。打って変わって後半のおちゃらけた態度。アタシの心を何処までもかき乱すその言葉に恥ずかしくなり、そっけない態度で部屋を退散してしまった。

 

 本当に、アンタは・・・・・・

 

 そう思いつつも、彼はどんな時でも嘘を言わない。サボっているというのならどんな時だろうと気になったのが半年前。彼が休日、アタシのトレーニング予定が入っていない時にトレーナー室で休むのを知ったのが3ヶ月前。

 

 ・・・・・・それからは機会があれば必ず、アタシは彼の部屋を訪れるようになった。

 

 「・・・・・・トレーナー」

 

 静かな声で、彼を呼ぶ。アタシみたいなウマ娘を信じてくれる、真っ直ぐな瞳。その瞳が閉じられている時のみ、アンタの顔を正面から見ることが出来る。

 

 普段は無理だ。変に意地張って、突っかかって。一度も見つめ合えたことがない。

 

 だから今だけは、素直になれる特別な時間。

 

 そっと彼の頬に触れる。くすぐったかったのか僅かに身じろぎしたけど、それ以上の反応は示さなかった。息遣いとともに、暖かな体温が伝わってくる。

 

 

 

 『彼は、よほどのことがないと起きない』

 

 

 

 その事実が、アタシに邪な想いを抱かせる。

 

 ごくりと唾を飲み込んで、更に一歩踏み込んで。

 

 仰向けの彼の胸に、そっと耳をあてがう。ピトッとくっつけると、彼の鼓動が直接伝わってくる。

 

 トクン、トクン・・・・・・。

 

 彼が生きている証。その音が、何よりも嬉しくて。

 

 この距離で聴いているという事実が、それ以上に恥ずかしくて。

 

 でも、離れたいだなんては微塵も思わなくて。

 

 「トレーナー・・・・・・」

 

 再び、彼を呼ぶ。先程よりも、熱がこもっている声音になっているのは、気のせいだろうか。

 

 ドクン、ドクンと鳴るのは、アタシの鼓動。その速さは、彼のものより遥かに速くて。止めようとしても、止められるものではない。

 

 (トレーナー。その・・・・・・寝相が悪いんでしょ?)

 

 だって、今のアタシは、期待しているから。

 

 (漫画で見たシーンがあるの。ヒロインの子が、寝ぼけた彼に抱きしめられる所・・・・・・)

 

 寝相が悪いアンタだったら、あるいは。

 

 彼に身を寄せて、そのまま動かずにいればいつかは・・・・・・。

 

 寝ている彼を目の前にして、それでも自分からは踏み込めないヘタレっぷり。こんな時でも、不可抗力という形でいいので彼から抱きしめられたいという想いが心を埋め尽くす。

 

 そして、こういう時に限って妙に寝相のいいアンタのせいで、アタシはずっと悶々とした時間を過ごすこととなる。

 

 (トレーナー、寝相悪いんだったら、動いてよ・・・・・・抱きしめてよ)

 

 いくら寝ているとはいえ、彼の目の前では流石に口に出せないセリフを心の中で呟く。

 

 (トレーナー。アタシ、抵抗しないよ?多分、そのまま・・・・・・受け入れるよ?)

 

 自作自演の、どうしようもない願い。それでも、もしもの可能性に縋ってしまう。

 

 

 

 彼の匂いを吸い込んで。彼の鼓動を聞いて、彼の暖かさを堪能できる。まさに、魔法のような、幸せな時間。

 

 でも、魔法は解けるもの。眠り続ける人はいない。彼は、、時間が経てば起きてしまう。どれだけ静かにしていても、どれだけそっとしていても、告げる12時の鐘が鳴り響く時、彼は夢の世界から現実へと舞い戻る。

 

 だから、せめてその鐘が鳴るまでは。

 

 「トレーナー・・・・・・」

 

 (アタシは・・・・・・アンタの事が・・・・・・)

 

 不器用で、そっけなくて。約束のガラスの靴はないけれど、どうしようもないアタシに訪れる夢の時間を、1秒でも長く・・・・・・。




今までのドーベル短編での中で、どの作品が一番好きかをお尋ねしたいと思い、アンケートを設置しました。今後のベルトレ♂短編の参考にしたいと思っております。

回答していただければ幸いです。よろしくおねがいします。


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一口ドーベル詰め合わせ


ピクシブからの移植第一弾。
ベルトレ超短編2本立てとなります。

グラライが始まりましたが、ライトハローさん良いですよね・・・・・・。
彼女のイベントを見て真っ先に思いついたのが、

『勇気を出してトレーナーをお出かけに誘うために事前調査のため街に赴いた所、彼が見知らぬ成人ウマ娘(ライトハロー)と並んで歩いている+今まで自分に一度も見せたことがない笑顔で会話をしているのを目撃してしまうメジロドーベル』

というシチュエーションでした。

近いうちに私に天罰が下ると思います。


 

 

 【アンタの好きな食べ物】

 

 

 

 平日の食堂は、大勢の人、ウマ娘でごった返している。

 

 いつもはブライトと一緒に食べるのだけど、本日彼女はメジロ家の用事で屋敷に戻っている。

 

 ライアンは見かけなかったし、マックイーンは既に所属しているチームのメンバーと楽しそうに食事を取っていたため、邪魔するのも悪いと思い誘わなかった。

 

 (1人で食べるのは久しぶりかも……)

 

 そんな事を思いながら、パスタとサラダが乗ったトレイを置く。

 

 昔は1人の方が楽だったし、今でも偶にはゆっくりと食べたい時もある。それでも、気の置けない相手と会話をしながら食事をするのも、嫌ではない。

 

 窓近くの席に座り、手を合わせる。

 

 「いただきます……」

 

 フォークを持ち、食べ始めようとした瞬間、ふと顔を上げた。

 

 ウマ娘は嗅覚が発達している。その能力が、とある匂いをとらえた。

 

 これだけ多数の人がいる中でも届いた匂い。間違えるはずがない。

 

 アタシの視線の先には、果たして予想通りの人物が見えた。トレイを持っている事から、少し前までの自分同じように席を探しているのだろう。

 

 周りを見渡していたその顔が、アタシのところで止まった。互いの視線が合わさり、お互いがお互いを認識して……

 

 

 

 一瞬だけあった視線がすぐに逸らされた。

 

 

 

 「……は?」

 

 思わず漏れた声は、この喧騒にかき消されて届かなかったようで。

 

 その人物は建物の隅付近に空席のテーブルを見つけて着席した。

 

 ……フォークを置き、席を立つ。一度座ってすぐに立ち上がったことで隣に座るウマ娘から怪訝な表情をされたが、そんなの知った事ではない。

 

 つかつかと歩き、視線を逸らした彼……トレーナーが座るテーブルにトレイを置いた。力がこもっていたのか、少し大きな音が響く。当然ながら、彼も気づいて顔を上げた。

 

 「ドーベル?」

 

 驚いた様な、困惑した様な声を出す。前の席で、食事をする体勢に入っているのを見ただろうから、その反応は当然だ。

 

 それを無視して、隣に座る。気持ち分、少しだけ椅子を近づけて。

 

 2度目のいただきますを口にして、今度こそ昼食を食べ始める。

 

 トレーナーの事だ、アタシに気を遣ってとかそんな理由ですぐに目を逸らし、離れた場所に座ったのだろう。

 

 ……普段からのアタシの態度を考えれば、当たり前の反応だ。面倒臭い性格であると自覚している。それでも、アタシの隣に座らなかった事に少しだけムカムカした。

 

 彼は最初こそアタシの奇行(?)に対し何か言いたげな表情を見せていたけど、すぐに止めて昼食を取り始めた。

 

 必要以上に干渉してこない彼。アタシの事を思ってくれての事だとは分かっている。少し前まではありがたかったその行為が、今はもどかしい。

 

 会話も無く、黙々と食べ進めるアタシたち。そんな中で、彼の昼食をチラッと見る。

 

 彼が持ってきたものは、生姜焼き定食。日替わりのラインナップには無かったものだ。つまり、何となくで選択したものではないと言う事。

 

 今まで、何度か共に食事をしてきた。記憶の中の、彼の食べるスピード。それと比較すると今日のは心なしか早く感じた。

 

 「……ねぇ、アンタって、生姜焼きが好きなの?」

 

 知りたくて。口に出したそんな言葉。

 

 「え?……ああ、うん。好きな食べ物だよ」

 

 「……そう。えっと、……ありがと。ただ聞いただけだから」

 

 突然の質問に、戸惑いながらも答えてくれたトレーナー。それに対してお礼を言い、また食事に戻る。

 

 再び会話が途切れ、無言が訪れる。パスタを食べながらアタシの頭を占めていたのは、先ほどの返答。

 

 (……生姜焼き、か)

 

 また一つ知った、トレーナーの好み。

 

 今週末にレシピを調べてみようかなと考えながら、トレーナーと一緒の時間が過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ネコの嫉妬は突然に】

 

 

 

 普段から見慣れた相手であれば、たとえ人混みの中でも一瞬で認識できるらしい。

 

 休日トレーニングのない昼下がり。アタシは身をもってその知識を実感した。

 

 午前中で気になっていた映画を見終わり、近くのお店で昼食を終えた。

 

 このほかの予定はないので、そろそろ学園に戻ろうかと考えが固まりかけていた時、その人物が視界に入った。

 

 普段のスーツ姿とは違う、ラフな私服姿。それでも、見間違えるはずがない。

 

 声を掛けようとして……タイミングが良いのか悪いのか、彼は歩道に接しているお店の中に入っていった。

 

 トレーナー、と言い掛けた言葉はそのまま口の中に引き篭もった。

 

 2年以上、苦楽を共にしてきたアタシのトレーナー。そんな彼だけど、趣味とか休日は何をしているだとかはあまり知らなかった。

 

 彼自身があまり話さないし、プライベートな事には干渉してこない。

 

 というより、心なしか避けられている気までする。ブライトから遊園地のペアチケットを貰った時に、努めてさりげない形で相談をするも、

 

 「了解。ここの所トレーニング漬けだったし、友人と楽しんできてね」

 

 と即答された。自分が誘われているとは微塵も考えてない返答だった。誘い方が悪かったというのもあるけれど、取り付く島もない回答に二の矢が継げず、「え、ええ……」と相槌を打って退室することしか出来なかった。

 

 ……過去の苦い記憶は置いといて。これはチャンスだと思った。普段の生活からは分からない、彼の素顔を見れるチャンス。

 

 ブライトが彼女のトレーナーと毎週のように出かけてて羨ましいとか、そんな気持ちは断じてない。断じて。あくまで、トレーナーと担当バとしての関係を深めていきたいだけ。そう言い聞かせて、歩みを進める。

 

 トレーナーが入店した店。その看板を見て、少しだけ顔を顰める。

 

 『猫カフェ』

 

 そう呼ばれている店。こじんまりとした外観からは、清潔な印象を受ける。

 

 顔を顰めたのは、嫌悪感とかではない。彼がこの店に入店する姿がすぐに想像できなかったのだ。そもそも、猫好きという事を今初めて知った。

 

 元々、お金は余裕を持って持ち歩いている。念の為、スマホでお店の検索をした所、仮に閉店時間まで居座っても十二分に手持ちで足りる。

 

 意を決して、店内に入る。

 

 お店の中は落ち着いた雰囲気となっており、受付室の奥に、更に部屋があるのが見えた。恐らくはそこが猫の部屋なのだろう。

 

 入店までに少し躊躇ったせいか、トレーナーの姿は既に無かった。

 

 (こういうシステムなんだ……)

 

 初めての利用ということで、店員の女性から詳細な説明を受ける。ペットボトルのお茶と、猫のおやつを貰って、いよいよ部屋に入る時が来た。

 

 知らない彼の素顔。変に意識しない様に心を落ち着けつつ、扉を開いた。

 

 入ると同時に、耳に届く猫の鳴き声。見渡すと、部屋の中央に猫に囲まれた1人の青年……トレーナーがいた。時間帯のせいなのか、他に利用客はいない。

 

 彼にもドアが開く音が聞こえたようで、ちらっとコチラを見て猫に視線を戻し……綺麗にこちらを二度見した。

 

 「え、ドーベル?」

 

 面を食らった様な声。ここで顔見知りと会うのは予想外、といった表情だ。確かにその通りではある。アタシも、トレーナーを見かけなければ入店しようとは思わなかったし。

 

 まじまじと見られて、少し恥ずかしくなる。

 

 「な、何よ。アタシが来たら悪いとでも…」

 

 「ドーベル、猫が出て行かない様に一旦扉閉めてね」

 

 「あ、はい」

 

 照れ隠しの言葉を言おうとして、トレーナーの指摘に慌てて扉を閉める。猫全員が扉から離れているとはいえ、確かに開けっ放しは拙かった。

 

 「奇遇だね。ドーベルも猫好きなんだ。よく利用するの?」

 

 「えっ、いや、利用は初めてよ。猫は好きだけど……」

 

 嬉々とした彼の質問に、要領を得ない返答をしてしまう。

 

 猫は好き、という言葉を聞いた彼の瞳は、まるで仲間を見つけた時のようにキラキラと輝いた。

 

 (いや、嫌いではないし可愛いとは思っているけど、特別好きかと言われると……)

 

 と、今更訂正するわけにもいかず、そのまま話を合わせる事にした。

 

 その後話を聞くと、小さい頃から猫が好きで将来は絶対に猫を飼うと決めていたと。現在は寮暮らしなので飼えないけど、今後引っ越す先は絶対にペットOKのアパートにするとワクワクした表情で言っていた。

 

 ……その心から嬉しそうな表情は、今までアタシに見せた事がないもので。もやもやした感情が心から湧き出てくる。

 

 そんなアタシの心境を知ってか知らずか、のんびりとした声でトレーナーが声を掛けてくる。

 

 「ほら、ドーベルも折角来たんだし猫の事も見ようよ」

 

 と言われて、辺りを見渡す。

 

 部屋の中にいる猫は10匹近く。その半分はトレーナーに引っ付いていて、残り半分は思い思いの場所にいた。

 

 ……確かに、入店したからには楽しまなければ損である。

 

 (ええと……)

 

 初めから物で釣るのはどうか、とは考えたけど、いつまでも持っていては嵩張るので猫のおやつを開けることにした。

 

 びりっ。

 

 と袋を破いた瞬間、猫が一斉に近づいてきた。

 

 「わっ!?」

 

 予想外の事態に、慌てておやつを入れた袋を持ち上げる。その中身を手に入れようと、数匹の猫が身体を登ってこようとした。少しだけ、こそばゆい。

 

 パニックになり、無意識の内にトレーナーに助けの視線を求めたけど、当の本人はただただ笑っているだけだった。

 

 「ちょっと、こうなるの分かってるんだったら教えなさいよ!」

 

 「ははは、モテモテだね。ドーベル」

 

 抗議の声も、どこ吹く風。と、彼に意識を向けてしまった瞬間、袋を猫に持って行かれた。

 

 「あっ……」

 

 と口にした時には、袋からおやつが散らばり、私の身体を登ろうとしていた猫達は一目散にお菓子を咥えて去っていった。

 

 わずか1分にも満たない出来事である。

 

 「……ねぇ、トレーナー。あたしのモテ期、一瞬で終わったんだけど」

 

 「うーん、追加でおやつを購入すればどうかな?」

 

 「完全におやつ目当てで群がってるじゃないのそれ!」

 

 既に退散した猫を見つつ彼に突っかかるも、のらりくらりと躱される。

 

 更には、彼の視線はずっと膝の上の猫に固定されていた。担当バの抗議よりも、猫の方が重要らしい。

 

 

 

 ……あれ、ちょっとまって。

 

 

 

 「ねぇ、アンタはおやつを持っていないのに何で猫が集まってるのよ?」

 

 今更ながら、当然といえば当然の疑問にたどり着く。

 

 部屋に入ってから10分ほど経っているけど、トレーナーが猫のおやつを与えた場面を見ていない。それなのに、数匹の猫が彼にべったりとくっついたままだった。

 

 肩に乗っている猫。背中や足に寄りかかっている猫。膝の上で丸まっている猫。

 

 猫は気まぐれ、と聞いているのにずっとその場から動いていない。

 

 あたしの疑問を解消する様に、ああ、と彼が応える。

 

 「僕、かれこれ2年以上の常連だからかな。懐いてくれたのかどうかは分からないけど、今では近くに来て寛いで来るんだ。」

 

 膝で丸くなっている猫を撫でながら、優しく微笑む。頭を撫でられたその子は目を細め、ニャアと鳴き声を出した。……本当に気持ちよさそう。

 

 すると、それを見たのか他の猫が一斉に彼に擦り寄った。ニャアニャアと鳴く猫を、トレーナーはぐるっと見渡す。

 

 「ははは、ちょっと待ってね」

 

 と笑顔で1匹1匹優しく撫でていく。撫でられた猫は、例外なく最初の子と同じ様な仕草をした。

 

 2年間、通い続けた事で彼の優しさに触れて懐いたのだろう。2年間共に……

 

 …………

 

 (……待って。2年間?)

 

 そう彼は言った。確かに、それだけの月日があれば懐いても不思議ではない。頭を撫でても不思議ではない。

 

 しかしである。

 

 (……アタシ、トレーナーと契約して2年経つのに、頭撫でて貰った事ないんだけど)

 

 のちに振り返れば、完全に思考が暴走していた。でもその時は、ちょっと冷静では無かった。

 

 これだけ近くにいるのに、アタシに構ってくれないトレーナー。何の遠慮も無しに、彼に甘える猫達。そんな猫達を、アタシも見た記憶がない笑顔で迎え入れる彼。

 

 気づけば、唯一猫が陣取っていなかったトレーナーの右隣に腰を下ろしていた。

 

 「……?ドーベル?」

 

 突然のアタシの行動に、困惑した表情の彼。アタシはそのまま少しだけ、頭を彼に寄せた。

 

 嫉妬とかではない。断じてヤキモチとかではない。

 

 「えっと……」

 

 「……ねえ、アタシもトレーナーと会って2年くらいなんだけど」

 

 「え、うん。そうだね……?」

 

 「……」

 

 疑問系の返答を無視して、更に頭を近付ける。あとちょっとで、彼の肩に触れてしまいそうな距離感。

 

 撫でてほしい、と言えば一発で伝わるのに、言葉にする事が出来なくて。

 

 無言のまま1分近くが経過しても進展が無かった。

 

 (……言葉にしないのに、分かるはずないわよね)

 

 バレない様に、ため息をついた。いきなりの行為に、トレーナーも驚いたはずだ。いつもアンタに突っかかっておいて、今だけ察しろなんて我儘もいい所である。

 

 ごめん、と頭を離そうとして。

 

 『ポンっ』

 

 と、優しい感触が降ってきた。そのまま、じんわりと暖かさが広がる。

 

 (あっ……)

 

 視線を向けると、戸惑いながらも笑みを絶やさないアンタの姿。

 

 「えっと……こういう、ことかな?ごめん、間違ってたら謝るから……」

 

 「……別に、間違ってはないわよ」

 

 初めて撫でられたことによる嬉しさや気恥ずかしさがごちゃ混ぜになって、そのまま目を閉じる。

 

 ぎこちなく頭を撫でてくれるその手が、本当にアンタらしかった。

 

 

 

 

 

 

 その日、トレセン学園のトレーナーが猫カフェに居座ったのは1時間ほどだったが、頭を撫でる事を要求し続けるネコが、いつもより1匹多かったという。

 

 



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忘れられる、はずがない


ベルトレ短編

明日にもう一話投稿予定です。

※注意!!※
・シリアス
・悲恋

となります。苦手な方はブラウザバック推奨です。



 

 

 

 

『 拝啓

 

 

 

 ・・・・・・って畏まるのも今更よね。アンタと知り合ってもう10年近く経つんだし。でも、親しき仲にも礼儀ありというし、今までずっと書き続けてきたから、今回も付けておくことにしたわ。

 

 ・・・・・・今回で、手紙を書くのは最後になりそうだし、尚更、ね。

 

 長くなりそうだし、先に本題を言うね。

 

 

 

 アタシね、結婚することになったの。

 

 

 

 びっくりした?いつもアンタには振り回されてばっかりだったから、この報告で少しくらいは度肝を抜けたかしら。

 

 アタシ自身だって驚いてるのよ?緊張して、男の人と碌に話すこともできなかったアタシが、将来のパートナーと共に歩むことになったんだもの。

 

 分類の上では、一応だけど政略結婚になるのかな。お婆様が1年間ほど前にお見合いの席を設けてくれて、ようやく今日世間に公表するんだ。

 

 あ、政略結婚とは言ったけど、よく漫画やドラマにありそうな家繁栄のために無理矢理、っていうものではないわ。

 

 メジロ家繁栄のため、っていう部分はあながち間違ってはいないけど、1年かけて何度も会って、話して、笑いあって、たまに喧嘩して、それでこの人とならやっていけるって思えたの。形式上ではあるけど、彼から正式に告白を受けたときは嬉しくて泣いちゃった。

 

 ふふ、惚れた贔屓目っていうのも入っているけど、すっごく優しい人よ。カッコいいし、アンタと違って頓珍漢な行動をしないし、歯の浮くような恥ずかしいことも言わない。ほんと、アタシにはもったいないくらいの良い男性。

 

 少女漫画にハマった時から、結婚にはずっと密かに憧れていたの。男嫌いなのに何を変なことを、って言われそうだけど、本当の話。突然現れた王子様に恋に落ちて、その人のことしか考えられなくなって、結婚式では永遠の誓いとともにキスをする・・・・・・ロマンチックな、文字通り漫画でしかありえないような展開。

 

 ずっと思い描いていた憧れの結婚が、ようやく叶うの。お婆様は勿論、姉妹のみんなも祝福してくれた。

 

 ・・・・・・でもね、一つだけ予想外だったことがあるの。

 

 

 

 もし結婚するのなら、アンタとだと思ってた。

 

 

 

 今でも覚えているわ。トレセン学園でアンタとともに駆け抜けた日々を。

 

 チーフトレーナーから紹介を受けた最初の出会い。あの時はまだサブトレーナーだったわね。その2か月後には正式な契約を結んで、デビュー戦に出て、クラシック、シニア、ドリームトロフィーリーグ・・・・・・あっという間の6年間だった。

 

 レースだけじゃない。休日は2人で、色んなところに行ったね。ライバルとなるウマ娘のレースを見に行った後や、練習で使うシューズを購入した後の、そこそこ余った時間。素直になれなかったアタシと違って、アンタは本当に自然に、

 

 『ん~・・・・・・この後の予定はないし、偶には遊びに行くか、ドーベル』

 

 って誘ってくれた。その行先は、狙ったようにあたしが気になっていた映画や遊園地とかで。普段の会話の中で、不意にポロっと漏らしていた願望をアンタはしっかりと覚えてくれていた。

 

 まだ時間もあるのは事実だし、仕方なく、って言い訳しながらアンタに付いていったけど、ごめん。本当は、すごくうれしかったんだ。

 

 異性と二人きりで時間を潰すだなんて、憧れていたデートそのもので。嬉しさ恥ずかしさが混じって、そっけない態度しか取れなかった。

 

 アンタが気づかずに、遊園地でカップル割チケットを使用していたと分かったときは叫んじゃったけど。でも、受付の人が特に気にする様子もなく処理していたって事は、普通に恋人同士に見えていたのかな。そうだったらいいな。

 

 アタシを強いウマ娘にしてくれたトレーナー。アンタの隣にいた時、本当に幸せだった。このまま、永遠にこの時間が続けばいいなって思った。

 

 

 

 ・・・・・・ねえ、アンタが突然いなくなってから、もう3年経ったよ。

 

 

 

 アタシね、卒業式にアンタに告白しようと決めていた。関係性がトレーナーと担当バから、1人の男と女に代わる日。

 

 その日が近づくにつれて、心がどんどん騒ぎ始めたな。返事の内容が怖くて、恋人がいるかどうかも聞いてこなかった。

 

 

 ・・・・・・でも、その日が訪れる事はなかった。

 

 卒業式の1週間前に、アンタは学園を去ったんだもの。

 

 ねえ、トレーナー。その時のアタシの感情、分かる?普段通りにトレーナー室に向かって、珍しく不在だなと思いつつ持参した少女漫画を読んでいたら、突然たづなさんが入ってきてさ。

 

 『ドーベルさん、さっそく今日から部屋の整理を始めますので申し訳ありませんが退出をお願いできますか?』

 

 って言われたの。

 

 何を言われているのか全く分からずに話の内容を質問し返して、そこで初めて知ったの。アンタが、前日付けでトレセン学園を退職していたことを。

 

 昨日まで、全然そんな素振りを見せなかった。

 

 アタシが何も知らなかったことを話したら、たづなさんも驚いていた。トレーナー本人からアタシに全部伝えておくからと言われていたと。全部どころか一言も、相談すらもなかった。

 

 たった1日。それはアンタが行方をくらますのには十分すぎる時間だった。お婆様にも事情を説明して、メジロ家の力で捜索もしてくれた。でも、見つからなかった。

 

 卒業式の日になっても、歳が一つ増えても、二つ増えても・・・・・・。

 

 『立つ鳥跡を濁さず』って言うのかな。アンタが居なくなったタイミングは、トレセン学園側から見れば最適なタイミングだったみたい。担当バは卒業式を迎えるだけだし、この時期に辞めるトレーナーは少なくないそうだ。

 

 でも、詰めが甘いよトレーナー。

 

 アタシの心、ドロドロのぐちゃぐちゃになっちゃった。

 

 涙が枯れるってこと、初めて知った。声が枯れるってこと、初めて経験した。失恋の痛みについて、漫画を読んでいてどんな感じなのか何となく想像はあった。でも、その想像の何十倍も、何百倍も苦しいものだった。

 

 もう、一生分泣いたんじゃないかって思うくらい泣いた。こんなに苦しいのならいっその事、思い出を全部忘れたいと考えた時もあった。

 

 でも、いくら泣いてもあんたとの思い出はちっとも流れなかった。

 

当然だよね。忘れられるはずないよ。一つ一つどれをとっても、掛け替えのないアタシだけの宝物。アンタの顔が、声が、ぬくもりが、心の奥にずっと残っている。

 

 ライアンなんかは腕をまくって

 

 「待ってて、ドーベル。こんなに貴女を泣かしたトレーナー、ぶん殴って引きずり連れてくるから」

 

 と怒っていた。でも、その瞳にははっきりと、居なくなった彼を心配する色が浮かんでいた。結構顔を会わせる機会はあって、その中でライアンも、あんたの人となりを十二分に知ったからだと思う。

 

 時間が経てば、傷は癒えるんじゃないかとも考えた。でも、違った。3年掛けても癒えたのは表面上だけ。ふとした拍子に、傷口は簡単に開くの。

 

 ・・・・・・たとえば今みたいに、アンタを想いながら手紙を書いているときとか、ね。

 

 

 

 ・・・・・・ねぇ。あたしの婚約会見、今日なんだ。メディアの人達もたくさん来るし、全国ニュースで中継される予定なの。

 

 トレーナー。一度だけでいいの。もし、会見を見たのならアタシに連絡をしてほしいの。

 

 5分だけでも、ううん、1分だけでもいい。

 

 あの日結局伝えられなかった、あの日からずっと消えないままでいるこの想いを伝えたい。

 

 ・・・・・・そうすればきっと、アンタを諦めることが出来るから。

 

 将来を誓った相手がいるっていうのに、早速ほかの男性(ひと)に告白しようとする、ロクデナシだって自覚している。

 

 だから、こんなことをするのは最初で最後。

 

 アタシ、メジロドーベルは、生涯においてアンタ以外に告白することはないでしょう。自分でも抑えきれないくらいの、楽しくて、苦しくて、甘酸っぱい、溺れるような初恋だったから。

 

 叶わない恋なのだから、せめてあんたの手で摘み取ってよ。お願い。

 

 ・・・・・・ごめん、最後だってのに愚痴になっちゃったね。

 

 トレーナー。多分届かない手紙だけど、言わせて。

 

 アタシ、アンタに会えて本当に良かった。好き。好き。大好きだよ。アンタの事、絶対に忘れない。忘れられるはずがない。

 

 

 

 

 

 ・・・・・・ごめん。やっぱり会いたいよ。トレーナー・・・・・・。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が覚醒する。

 

 まず、視界に入るのは白い天井。殺風景な色を見て、変化を求めて身体を起こす。少し寝すぎたようで頭に若干の痛みを感じた。

 

 窓を見ると、夕日が落ちかけているのが見て取れる。昨日ぐっすりと寝たのに、昼寝までおまけとなったらそりゃあ頭痛の一つもするよなと思いつつ、体を伸ばす。

 見渡すと、見覚えのある殺風景な部屋。既視感がある、という事実に少しだけ安堵する。

 

 本日の朝、白衣を纏った医師から言われた台詞を思い出す。・・・・・・きっと、毎朝毎朝同じ事を、俺に言い続けているのだろう。

 

 ベットの横に備え付けられている机。その上に上がっているノートを手に取る。中身は、毎日俺が書いているという日記。

 

 パラパラとめくるが、余りに代わり映えしない内容に苦笑する。せめてもう少しマシなの書いとけよ、と『うろ覚えとなった』昨日の俺に愚痴る。

 

 贅沢にも個室をもらっているため、居心地は快適だ。俺、昔そんなに稼いでいたのかとも思ったし、日記を書き始めた日付を見ると、内心費用足りてるのかとも考える。

 

 ただ、俺はここに来てから何度かこの質問を医師にしていたようで、朝の説明で入院費用に関しては一切心配しなくていいと言われている。覚えてなくてもセコさは本能レベルで刻まれているようである。

 

 窓の外を見やると、離れた地表の一角に小さな花園があり、一面にユーカリの花が咲き誇っていた。その美しさに手を伸ばしかけるが、届くはずもないとすぐに降ろす。

 

 自分が何者だったのか。と考えることはある。何せ、一日中やることがないのだ。起きて、メシ食って、寝るだけのスケジュール。きっと、毎日同じ考えに至ってはいるはずだ。

 

 とはいえ、本日は既に日没が近い。難しいこと考えずに、頭空っぽにしてテレビでも見て・・・・・・まあ文字通り空っぽなんだけどな!ハハハ!!と自虐しつつリモコンを取り、電源を入れた。

 

 適当にチャンネル回そうか、と考えて飛び込んできた映像に目が止まった。

 

 速報、と大仰しいテロップとともに笑顔を見せている一組の男女。その片方であるウマ娘を見た瞬間、謎の既視感が脳内を走った。

 

 

 『メジロドーベル、婚約発表』

 

 

 その文字が、彼女の笑顔と共に映し出されていた。

 

 お相手の男性共々、『初めて見た』人物である。それなのに、何故か初めてではないような、そんな不思議な感覚がまとわり付く。

 

 (・・・・・・いや、こんな美人さんだったら、忘れようにも忘れられないはずなんだけどな)

 

 頭をかしげながら、流れる映像から情報を読み取る。両人物とも家がかなりの名家であり、件のメジロドーベルに関しては学生時代、その家の名に恥じないレース成績を残したとのこと。

 

 レース、と聞いて、不意に頭の中にレースの光景が流れる。それは、今見たメジロドーベルが緑と白を貴重とした服を身に纏い、大観衆の中で芝の上を駆ける姿。

 

 空想、という言葉で片付けるには、やけにリアルな映像。

 

 (・・・・・・何だ?俺は、彼女の事を知っているのか?)

 

 と少しだけ考え・・・・・・バカバカしいと切り捨てた。

 

 こんな美人さんと昔関わりがあったかもしれないなど、よくある都合の良い話である。生まれてからずっと、こんなお調子者の性格だったんだろうなと自分を笑い飛ばした。

 

 再びテレビ映像を注視する。

 

 名家出身、イケメンと美人さん。そして、時折見つめ合う二人の間には、画面越しにも確かな愛情を感じた。

 

 「お似合いだな~」

 

 と感心する。二人の背景を何一つ知らない俺ではあるが、きっとこの二人は末永く共に暮らすのだろうという予感があった。

 

 (それならまあ、一つお祝いでもしときますか)

 

 自己満足とは言え、お祝いくらいはしてもいいだろう。

 

 微笑みながら報道陣の質問に対応する二人に、本心からの言葉を告げた。

 

 

 

 「それじゃあお二人さん。末永くお幸せにな」

 

 

 

 絶対に、会見中の二人には届かない祝福の言葉。それを言い終えた俺は、後ろ髪を引かれることなくチャンネルを変えた。

 





トレーナー……以前から記憶障害を自覚。ドーベルの思いに気付きつつも、この有様では幸せにできないと卒業式前に失踪を決意。

感想をいただきましたので補足。

純愛からシリアスまで様々なジャンルを執筆しておりますが、原則としてどの短編でも2人が結ばれるルートを一つは妄想……もとい用意しております。
今話では、この先トレーナーが記憶を取り戻してドーベルに会いに行き……その後なんやかんやあって、という感じです(アバウト)。

唯一、『消えない想い』だけは2人が結ばれるルートを考えずに執筆しました。今なお思い浮かびません。助けて。


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愛してるよ、トレーナー


 ベルトレ短編。今回は純愛系。昼投稿の予定でしたが繰り上げ。

ストックが尽きたので、次の短編は投稿頻度がかなり空くと思います。
今年中にあと2~3話くらい投稿を目標。

次の投稿予定はベルトレ短編or沖スズ短編(別作品)or東方短編(頼ぬえ、別作品)のいずれかとなりそうです。



※あとがきにて、トレーナーの簡単な設定追記


 

 『誕生日』

 

 

 

 それは、自分が生まれた日。1年という時間の中で、一人ひとりが持つ特別な日。

 

 生まれた瞬間の記憶はないけれど、確かにアタシがこの世に生を受けた日。毎年お祖母様から、姉妹から、メジロ家を挙げて祝福をしてもらえる。

 

 お父さんは勿論・・・・・・普段は、あまり話せないお母さんからも。

 

 いつもは緊張が先に来てしまい会話があまり続かないけど、この日は笑顔を見せてくれる。

 

 そんなみんな笑顔を見て、恥ずかしい、とは口にするけど本当はすごく嬉しい。アタシなんかの誕生日を祝ってもらえる。

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎていき、空を見上げれば満天の夜空。

 

 誕生パーティーが終わってメジロ家からトレセン学園に戻ったときには、すっかり辺りが暗くなっていた。

 

 門限まであまり余裕がない時間帯だけど、予め届け出を出しているため、遅くなっても問題ない。とはいえ、一応明日が休みではあるけど夜更かしは身体に悪い。折を見て帰ろうと決めて、敷地内を歩く。

 

 ゴールデンウィークも後半に入った。G1レースが目白押しの月であり、参加するウマ娘は休日返上で最終調整、参加しないウマ娘は帰省したり休暇を満喫していたりと綺麗に二分されている。

 

 普段より人気のない道をゆっくりと歩く。桜は既に散り、新緑が目立ってきた季節。トレセン学園に入学してから、幾度も見てきた光景。

 

 足を進めている先は、寮ではない。

 

 木々に囲まれた細道を抜け、見えてきたのは大きな建物。トレーナー棟と呼ばれる、トレーナーの仕事場である。

 

 人バ一体、といってもトレーナー業だって仕事の一つ。世間一般的な日数分の休日は確保されている。ましてや今はゴールデンウィーク。担当バのレースがない人は、同じように帰省などに充てているだろう。

 

 ・・・・・・それが普通のはずなのに。

 

 正面入口から入って、歩き慣れた道順を行く。目的地まではそう遠くなく、数分としないうちにドアの前にたどり着いた。

 

 コンコンとノックをして、一言声を掛ける。

 

 「トレーナー、入るわよ」

 

 そのまま、返事を待たずにドアを開ける。果たして、部屋の中には予想通りの人物がパソコンと向かい合っていた。

 

 「・・・・・・ドーベル?おかえり~」

 

 音に反応するように、彼・・・・・・アタシのトレーナーが顔を上げ、手を振ってくる。

 

 しばらくレースもなく、休日を謳歌してもいいのにこうやって働いている。

 

 アタシが学園を出発した昼前から、ずっとこんな感じだ。

 

 出かける前、そのトレーナーから貰ったネックレスに触れつつ、お礼の言葉を言う。

 

 「改めてだけど・・・・・・誕生日プレゼント、ありがと。その、嬉しかった」

 

 「あ、付けてくれたんだ。どういたしまして」

 

 アタシの首から下げられたネックレスを認識して、トレーナーが嬉しそうな声を上げる。

 

 簡単なものだけど、と言っていたけど、アタシにとってはどんなに眩しい輝きよりも価値のあるもの。

 

 ものだけでなく、「誕生日おめでとう」という短い、それでいて温かい言葉までかけてもらえた。

 

 ・・・・・・だからこそ、貰いっぱなしは嫌だ。

 

 今、ここに来た理由。それは、プレゼントのお礼を言うためだけではない。

 

 「トレーナー。去年と同じことを聞くね」

 

 「去年・・・・・・?」

 

 首を傾げて、疑問を口にする彼。

 

 誕生日プレゼントを貰った当日に来たのは、話すきっかけを逃したくなかったため。

 

 去年、聞けなかったことをこの場で聞き出す。

 

 「あたしも、プレゼントを贈りたいの。アンタの誕生日、教えて欲しい」

 

 彼の目を見て、はっきりとそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーにもプレゼントをあげたい。

 

 その考えを抱いたのは1年以上前の話である。

 

 アタシとほとんど変わらない身長。

 成人男性にしては華奢すぎる、それこそアタシよりも細い身体の線。

 

 そんな身体で、アタシなんかのために文字通り全力でトレーナー業を続けてくれた。

 

 チーフトレーナーから受け継いだ後は、模擬レースでも結果が出せない時期があり、彼に当たってしまったこともある。そんな理不尽な八つ当たりを、彼は受け止めてくれた。

 

 大舞台を前にして、緊張と恐怖に支配されたアタシを、彼は優しく励まし、導いてくれた。

 

 ずっと、ずっと恩を受けてばかり。これで何も返さないだなんて、メジロ家の名が廃る。

 

 ・・・・・・そう、あくまで恩を少しでも返すだけ。他意なんてない。無いったら無い。

 

 トレーナーの好みは、多少把握している。あとはプレゼントを買って渡すだけで良いと思っていたけど、ここで一つの壁にぶつかった。

 

 プレゼントを渡すきっかけを見つけられない。

 

 今までの人生で、男の人にプレゼントを渡した経験なんて、お父さん1人である。自分からトレーナーに、どう話しかけて渡せば良いのか、想像の上でもそのシーンが浮かんでこない。

 

 『あのさ、トレーナー・・・・・・これ、プレゼント。いらなかったら・・・その、捨ててもいいから』

 

 うん、絶対ダメだ。こんな言動で感謝の気持ちが伝わるはずがない。そもそも、彼と向かい合った場合緊張してこれだけの言葉を言えるかどうかも危うい。

 

 話しかけて、無言のまま時が過ぎて、耐えきれなくなって部屋を退出する・・・・・・。不思議なことに、こちらの光景は鮮明に想像できてしまう。

 

 クリスマスの日に・・・・・・と思ったけど、即座に却下した。その日に渡すなんて、完全にプロポーズである。そんな恋人同士みたいなこと・・・・・・あ、アタシは別にトレーナーとなら『そういう』関係になっても構わないというか、むしろ・・・・・・

 

 閑話休題。と、ともかく、きっかけを掴めないまま無作為に過ぎていった日々。光が差したのは、去年のアタシの誕生日だった。

 

 誕生日パーティーから帰ってきて寮に戻ると、自分の机の上に綺麗な箱が置かれていたのだ。

 

 「ドーベル、おかえりナサーイ♪」

 

 「ただいま、タイキ。この箱、何か知らない?」

 

 ベットで寛いでいたタイキに挨拶をしつつ質問すると、彼女は『オゥ!』と思い出したようにポンと手を打った。

 

 「そちら、ドーベルのトレーナーさんから預かったものデスヨ。誕生日プレゼントだと言ってマシタ♪」

 

 朗らかに告げるタイキ。しかしアタシはその言葉を聞いて驚いた。

 

 トレーナーからプレゼントを貰うウマ娘は、少なくはない。

 

 ・・・・・・でもそれは、仲が良い関係性の場合に限る。トレーナーと担当バの関係、と割り切って接している間柄も一定数いるのだ。

 

 アタシの場合はもっと悪い。トレーナーが優しく接してくれているのに、こちらから突っぱねている。心の中では感謝して、苦しいほどに想っているのに、態度では意地張って、そっぽ向いて、本当にバカな女。

 

 契約時にアタシの誕生日は把握しているだろうけど、彼からの好感度は良くて0だろう。いつも笑顔を見せているけど、心では嫌悪しているのかもしれない。

 

 プレゼントどころか、お祝いの言葉もかけられなくて当然くらいには覚悟していた。

 

 だからこそ、ありえない。本当に失礼だけど、タイキがドッキリを仕掛けているのではないかとまで考えて箱を開けたら、瓶に入ったアロマと一枚の紙が添えられていた。

 

 アロマを手に取る。この柄、間違いない。以前アロマについて教えているときに、会話の流れの中で欲しいなとポロッと零したものだ。詳しくない彼のことだから聞き流していたと思っていた。

 

 添えられていた紙を開く。そこには一目で分かる、彼の文字。

 

 『ドーベル。誕生日おめでとう』

 

 短い一文。そのたった一文が、アタシの心を力強く掴んだ。

 ギュッと、紙を持つ手に力が籠もる。

 

 ああ、ズルい。本当にズルい。

 

 アタシがどれだけ勇気を持って、それでも出来ないことをアンタはこんなにさりげなく行う。

 

 結局その夜は一晩中、トレーナーの顔が頭から離れなかった。タイキ経由で渡してもらったものなのに、妄想するのはトレーナーから手渡しで受け取るシーン。甘い言葉、眩しい笑顔付きで貰うところを想像して、意味もなくベットの中で転がりまわった。

 

 ようやく微睡んできた頃、意識が半分夢の世界に入った時にその考えが浮かんだ。

 

 

 

 『トレーナーの誕生日を聞いて、その日に渡せば良いんだ』と。

 

 

 

 今回プレゼントを貰ったお礼、という形であれば、(比較的)すんなりと話しかけることも出来る。会話に関しても誕生日という話題に終止すれば大丈夫なはず。

 

 善は急げとばかりに休暇明け最初のトレーニング後、早速トレーナーに聞いてみたのだ。

 

 「トレーナー。その・・・・・・聞きたいことあるんだけど?」

 

 「?・・・いいよ、ドーベル」

 

 ミーティングも終わって後は解散、というタイミングでアタシからの相談を持ちかけられた彼。何の話題だろうかと目線をパソコンからこちらに向ける彼に、勤めてさり気なく言葉を紡ぐ。

 

 「その、誕生日プレゼント、ありがとう。・・・・・・えっと、嬉しかった」

 

 「・・・ああ!ほんと?良かったぁ。気に入ってもらえて」

 

 その話題ね、と笑顔を向けてくるトレーナー。どうやら、今の今まで意識になかったみたいである。こっちがどれだけアンタのことを、あんたへのプレゼントの渡し方を考えてるのか知りもしないで。

 

 ともあれ、導入のきっかけは成功した。後は聞くだけである。

 

 大丈夫。自然に話すだけでいい。

 

 間を作りすぎてしまうと、会話を再開できなくなるしトレーナーも疑問を感じてしまう。一度深呼吸をして、一気に尋ねた。

 

 「あの、さ・・・・・・誕生日を祝って貰ったわけだし、アタシもお返ししたいんだ。アンタの誕生日って、その、いつなの?」

 

 言い切って、ああ、ようやく口にできたと表情に出さずに安堵した。

 

 ずっと聞こうとして聞けなかったこと。これであとは、彼が言った誕生日までにプレゼントを用意すれば良い。アタシの頭の中はその至高でいっぱいになった。

 

 

 ・・・・・・しかし、そこで会話が止んだ。

 

 

 5秒、10秒・・・・・・。沈黙の時間が伸びていく。

 

 アタシが黙っているわけじゃない。先程の質問から続く沈黙。つまりは、彼が会話を止めているということになる。

 

 (ちょっと、どうしたのよ。誕生日言うだけでいいのよ)

 

 何も話さないトレーナーに少しムッとし、改めてトレーナーに問いかけようとする。

 

 「ちょっと、トレー・・・」

 

 「・・・・・・・ごめん、ドーベル。この話はここまでにしていいかな」

 

 

 ドンっ、と全身を押された。

 

 

 物理的にではない。トレーナーの一言が、その圧が、アタシを無理やり後退させた。

 

 アタシを遮るように、発せられた言葉。

 

 部屋の温度が、微かに下がった気がした。

 

 「・・・・・・ありがとう。気持ちだけでも、すごく嬉しいよ。ドーベル」

 

 違う、アタシが聞きたいのはそんな言葉じゃなくてアンタの誕生日・・・・・・という言葉を続けることが出来なかった。

 

 感謝の言葉を言うトレーナーの表情は、何かに耐えているようで。これ以上、触れてほしくないというオーラを感じた。

 

 理由をぼかして、拒否する。今まで一度も、こんな事はなかった。

 

 こんなアンタ、見たことない。

 

 だからこそ、この話題は彼にとって、『それほど』のことなんだと理解できた。

 

 突き放すような、拒絶するような態度。そんな彼を見てアタシは、それ以上の言葉を続けることが出来なかった・・・・・・。

 

 

 

 翌日からの彼は、普通にアタシに接してくれた。トレーニングを見てもらって、いつもどおりのミーティング。解散の時まで結局、昨日の件には一言たりとも触れなかった。

 

 アタシもアタシで踏み込む勇気がなくて、言えずじまい。誕生日以外となるとプレゼントを渡しタイミングをつかむことが出来ず、気づけば1年間ズルズルと先延ばしにしてしまった。

 

 今なら去年以上にトレーナーとは普通に話せる。話の流れでポンと渡すことだって出来るのだけど、思い切ってもう一度、去年と同じ質問をした。

 

 『隠し事はなるべくしないこと』

 

 それが、トレーナーと契約を結ぶ時に交わした約束。当初は、不調や悩み事などを突っぱねるアタシが原因で結んだもの。

 

 だけど、蓋を開ければアタシの何倍もの頻度で、トレーナーがその約束を破った。

 

 いつもアタシを気にかけるくせに、自分のことは顧みないで、明らかに無理してるのに大丈夫だと笑顔で嘘をついて。

 

 ・・・・・・その積み重ねもあったのだろう。

 

 

 

 時は戻って、今日本日。

 

 また隠し事をしているトレーナーに、一歩踏み込むことにした。

 

 誕生日を知ることで、何か不都合があるのかもしれない。でも、その不都合で悩んでいることがあるのなら、尚更アタシに打ち明けて欲しい。

 

 解決までは至らずとも、話し相手くらいにならなれるから・・・・・・。

 

 想いを込めて、言葉にする。

 

 去年は踏み込めずに止まった線。その線を、アタシの意思で跨いだ。

 

 黙って、アタシの言葉を聞いているトレーナー。その表情からは、去年のような拒絶の色は見られなかった。代わりに、本当に思い詰めた顔をしていたけど、『打ち明けて欲しい』という言葉で少しだけ笑みを見せた。

 

 「・・・・・・そっか」

 

 「トレーナー?」

 

 何かを納得したように、その華奢な身体に手を添える彼。自身の鼓動を聞くように、胸に手を当ててそのまま目を閉じる。

 

 ・・・・・・・またしても、沈黙。去年と同じような静寂が訪れる。

 

 それでもアタシは待った。

 

 1分は経っただろうか。目を閉じていたトレーナーが、その双眸を開く。

 

 「・・・・・・うん」

 

 再びこちらを見た彼。その表情は、憑き物が落ちたような顔をしていた。

 

 「僕自身、ちょっと驚いているんだ。この事を話したい、って思っている自分に。それは多分、他人に話したいからじゃなくて、『ドーベル』だから話したいんだと思う。」

 

 照れくさそうに笑うトレーナー。話の核心には触れていないけど、アタシにだから話す、という言葉を聞いて心が高鳴った。

 

 想い人に信頼してもらえて、嬉しくないウマ娘はいない。3年間突っかかってばっかりだったけど、トレーニングを、レースを通じて一定の信頼を築けていた喜びを心に押し留める。

 

 

 

 ・・・・・・本来なら、気づくべきだった。

 

 誕生日を言い淀むという、選択肢がそう多くはない『理由』を。

 

 でも、結局アタシは、『答え』が彼の口から紡がれるまで気づけなかった。

 

 

 

 「僕ね、自分の誕生日が分からないんだ」

 

 

 

 「・・・・・・えっ?」

 

 頭を掻きながら、アハハというトレーナー。しかしアタシは、トレーナーの仕草に気を配る余裕がなかった。

 

 『誕生日が分からない』

 

 忘れた、のではなく分からない。

 

 それが意味する理由に思い至った瞬間、アタシは口を抑えた。

 

 去年踏みとどまった線。それは文字通り、超えてはいけない一線だった。

 

 謝らなければいけない。謝って許されることではないけど、それでも頭を下げなければいけない。

でも、動作を実行する前に、彼に止められた。

 

 「ははは・・・。やっぱりドーベル頭がいいから気づいちゃうか。でも、言ったでしょ。僕が、君に話すことに決めたんだ。謝られるようなことなんて一つもないよ」

 

 「で、でもっ!」

 

 食い下がるアタシを手で制して、彼は部屋中央のソファに移動した。深く腰掛けて、こちらに顔を向ける。

 

 「うーん・・・・・・そうだ!だったら、長くなりそうだから紅茶入れてくれないかな?それで貸し借りは0ってことで、ね?」

 

 部屋の一角に置かれたティーポットセットを指さしながら、トレーナーはニッコリと微笑んだ。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・・ふぅ、やっぱりドーベルが淹れてくれる紅茶はおいしいな~」

 

 微かに湯気の立つ紅茶を一口飲み、のほほんと感想をいうトレーナー。

 

 でもアタシはそれどころではない。目の前に置いた紅茶に視線を落としながら、頭がグルグルと駆け巡っていた。

 

 完璧に地雷を踏んだ。

 

 彼が、あそこまで言い淀んでいたのだ。何故アタシは推測できなかったのかと自身を責める。

 

 アタシの気持ちを知ってか知らずか、トレーナーは明るく口を開いた。

 

 「もうドーベルも察しているし、結論から言うよ。僕、物心ついたときには施設にいたんだ」

 

 カラッと言うその声には、悲壮感がなかった。もう割り切ったことなのか、それとも・・・・・・ずっと考えて、考えて。とうに涙が枯れた後なのか。アタシには判別ができなかった。

 

 ギュッと、膝においた手を握る。アタシから聞いたことだ。だからこそ、彼の言葉を聞き逃してはいけない。

 

 「両親のことは、何一つ分からない。僕を捨てる時、手掛かりや繋がりとなるものを何一つ残していかなかったみたいでさ。この名前も、施設の人に付けてもらったんだ」

 

 「僕の本当の名前って、何なのかな?と考えるときもあるよ。本当の両親は、僕にどんな名前とつけたんだろう。僕の本当の名前はどんなものなんだろう、ってね」

 

 一瞬だけ、額に入った賞状を見た彼。

 

 『最優秀新人トレーナー賞』

 『優秀トレーナー賞-クラシック部門-』

 などなど、わずか3年間の間に積み上げられた、数々の栄誉。そこに書かれている名前を見た当の本人の目は、どことなく「他人事」のようだった。

 

 「勿論、施設の人が付けてくれた誕生日はあるし、実際に毎年祝ってくれたんだ。本当に感謝している。」

 

 でも、と言葉を止める彼の顔は、過ごしてきた日々を振り返るように微笑んでいた。

 

 「やっぱり、仕事だからなのかな。僕と似たような理由で十数人の子供が施設にいたし、手が回らなかったって所はあると思う。日常でも、誕生日のお祝いでも、どこか事務的に感じちゃったんだ。・・・・・・・職員さんは、心を込めて接してくれていたのにね。我ながら、わがままな子供だったよ」

 

 まだ半分以上残っている紅茶に一口つけ、ふぅ、と吐息をつく。

 

 「・・・・・・ごめんね、ドーベル」

 

 こちらを向いたと思ったら、トレーナーはいきなり頭を下げてきた。

 

 「ちょ、ちょっと!?」

 

 「ドーベルは優しいからさ。誕生日プレゼントをあげたら、僕にもお返しを贈ってくれる。そこを気づくべきだったのに・・・」

 

 「・・・!!待って!」

 

 トレーナーが謝る理由なんて無い。謝らせてはいけない。咄嗟に、ともすれば彼にとっては痛いくらいの力で上体を起こす。

 

 ぐいっ、と身体を起こされるけど、トレーナーの表情は変わらない。

 

 優しい微笑み。その表情しか、見ることが出来ない。変わらないその表情は、本当の顔を隠す仮面のようで。

 

 「・・・・・・優しいで思い出した。お節介になるけど、余計な一言言わせてね。」

 

 こちらをまっすぐに捉える深い黒色。いつもなら吸い込まれそうになるその瞳に、今は見えない壁を感じた。

 

 「ドーベルは以前、お母さんとあまり話せない、って言ってたけどさ。お母さんのことを好いているなら、1年に1度でも良い、言葉だけでもいい。感謝の気持ちを伝えてあげてほしいんだ。・・・・・・言えずに後悔、してほしくないから」

 

 優しい口調が、最後に変わった。

 

 一瞬だけど、重く、引きずり込まれるような感覚。

 

 まだ、何も失っていないアタシに対する、忠告であり金言。まだ、遅くはないという願い。

 

 辛いはずなのに、八つ当たりたくなるはずなのに、自分よりも他人を優先する。

 

 「・・・・・・どうして、アンタは弱音を吐かないの?」

 

 気づいたら、その言葉が口からこぼれていた。

 

 だって、そうだ。親がいないという、計り知れない心の傷。アタシだったら、塞ぎ込んだまま立ち上がれないかもしれない。仮にその足が地に付いたとしても、立つだけで精一杯。他人を支えるだけの余裕なんて、あるはずがない。

 

 何故アンタは、他人を気遣うことが出来るのか?

 

 そんなアタシの疑問を、トレーナーは何でも無いという風に答える。

 

 「うーん・・・吐ける相手がいなかったんだろうなぁ」

 

 「・・・・・・っ!」

 

 また、地雷を踏んでしまった。

 

 顔を歪ませるアタシを知ってか知らずか、彼は残りの紅茶を一気に流し込み、続きを紡ぐ。

 

 「いつも忙しそうな職員や、自分よりも小さかった他の子供に、迷惑をかけたくなかったのかも・・・・・・あ、心配しないでドーベル。一人の時は思いっきり愚痴とか言ってるから♪」 

 

 昨日も一人、トレーナー寮で秋山理事長の無茶振りについて・・・・・・と慌てておちゃらけるトレーナー。アタシの表情を見て、誤魔化しきれてないと悟ったのか、更に明るい表情を作った。

 

 「・・・・・・うん。ありがとう、ドーベル。初めて、他の人に話すことが出来てっ・・・・・・!!」

 

 突然、明るく振る舞っていた彼の言葉が止まった。

 

 

 

 ポタッ・・・・・・

 

 

 

 と、空のティーカップに一滴の雨が落ちた。

 

 「・・・・・・えっ・・・・・・あれっ」

 

 ポタッポタッ、とその雨は次第に強さを増していく。

 

 トレーナーの双眼から、伝うように、こぼれるように落ちていく。

 

 「待って、えっ・・・どうしてっ・・・・・・」

 

 拭っても拭っても、乾くことはなくて。止め処なく溢れていく雨が、彼を冷やし、声を震わせた。

 

 「どうしてっ・・・・・・止まらないっ・・・・・・!」

 

 

 

 

 その瞬間、アタシは立ち上がった。

 

 今、分かった。ようやく、分かった。

 

 違ったんだ。トレーナーは弱音を吐かないんじゃない。弱音の吐き方が『分からない』んだ。

 

 子供の頃から、ずっと大人としての振る舞いをしてきた彼。普通の子供なら甘えて育てられる年齢でも、彼は甘えることが出来なかった。甘えられる相手がいなかった。

 

 だから、大人にならざるを得なかった。無理に背伸びし、背丈に合わない鎧をまとった。

 

 『とても気が利く』

 『誰よりも周りを見ている』

 

 彼の評価は、浴びるくらいに聞いている。そして、今この瞬間、そのどれもが上辺だけの評価だと気づいた。

 

 そして今日、初めて他人の前で重い鎧を脱いだ。

 

 だからこそ、ずっと心の奥底に閉まっていた本心が、曝け出されたんだ。

 

 トレーナーは、愛を知らないんだ。

 

 親から注いでもらえるはずの、無償の愛。厳しくも優しい、大きな導きの手のひら。その硬さを、暖かさを、知らずに生きてきた。

 

 『愛されたい』

 

 『弱音を吐きたい』

 

 誰もが抱くその想いを押しとどめて、押しとどめて・・・・・・気づかないうちに、厳重に封印してしまった。

 

 今日見つからなければ、それこそ一生封印したまま、忘れ去って知らないままだったかもしれない感情。会話の中でどんどん膨れ上がっていった想いが、最後に洪水となってトレーナーを襲った。

 

 しかし、初めて溢れた感情とはいえ、彼のことだ。時間が経てばすぐに塞ぎ方を見つけてしまうだろう。

 

 どうすればいい?

 

 ・・・・・・その回答は、アタシの中で既に出ていた。

 

 図らずも、厳重に仕舞われていた彼の本心を曝け出した本人として。

 

 彼に想いを寄せる、一人のウマ娘として。

 

 アタシが、ここでやらなければいけないこと。

 

 恋とは、相手を求めるもの。

 愛とは、相手を受け入れるもの。

 

 アタシがアンタに抱いている感情は、恋だ。

 

 それは、一方的な想い。アンタと手をつなぎたい。抱き合いたい。キスしたい。デートしたい・・・・・・・自己中心的な願望だ。

 

 アタシはまだ、愛を十全に理解できるほど大人ではない。

 

 ・・・・・・でも、愛がどういうものなのかは知っている。

 

 困ったことがあれば、すぐに駆けつけて、助けてくれたお父さん。

 

 顔を合わせるのも怖くなったくらい厳しい指導、練習を課せられて、それでいてしっかりとアタシを支えてくれたお母さん。

 

 両親からもらった、数々のかけがえのない宝物。 

 

 完璧でなくていい。真似事でもいい。

 

 

 

 アタシが、トレーナーに愛を与える。

 

 

 

 中央の机を回り込んでアタシが接近しても、涙を押し留めているトレーナーは気づいていない。

 

 「トレーナー」

 

 一言、声を掛ける。

 

 座ったままの彼はそこで初めて、アタシが側にいることに気づいた。目を拭ってこちらを向こうとして・・・・・・

 

 

 

 ・・・・・・ギュっ

 

 

 

 「・・・・・・へ?」

 

 気の抜けた声。自分の身に、何が起こったのか分からないといった状態。それでも、五感から伝わる情報で今の体勢を認識したようで。

 

 「・・・・・・っ!?え、いや、あのっ!!」

 

 「ごめん、トレーナー!!後で殴っていいから!!」

 

 慌てふためくトレーナーを、力強く抱きしめる。

 

 トレーナーがこちらを向いた瞬間の、真正面からの抱擁。姿勢差の影響か、アタシの胸に、トレーナーの頭がすっぽりと収まった。

 

 抜け出そうとする彼を、両手で押し留める。

 

 力は、アタシのほうが上。トレーナーの抵抗は、10秒ほどで終わった。

 

 「ど、ドーベル・・・・・・」

 

 「トレーナー」

 

 静かに、彼を呼ぶ。ちらりとこちらを見上げた彼と、視線が交錯する。少しだけ見えるトレーナーの顔は、林檎のように真っ赤になっていた。

 

 ここで伝える。彼が再び鎧を纏ってしまう前に。アタシの、心からの言葉を。

 

 「・・・・・・っ」

 

 トレーナーの口から、声が漏れる。アタシがトレーナーの頭を、優しく撫で始めたからだ。

 

 その仕草は、親が子供をあやすようなもので。彼の身体から、微かに力が抜けたのが分かった。 

 

 アタシでは、どう頑張ってもトレーナーの母親にはなれない。

 

 でも、不格好でも良い。母親の役割をする事は出来る。

 

 力強く抱きしめて、静かにささやく。

 

 「愛してるよ、トレーナー」

 

 言った瞬間、ビクッとトレーナの身体が震えた。それに構わず、彼に言葉を届ける。

 

 「本当にありがとう。トレーナーがいなれけば、ここまで来れなかった。全部、全部トレーナーのおかげだよ」

 

  だから、と一呼吸おいて、言いたいことを全て吐き出す。

 

 「だから、今度はトレーナーが休む番。弱音を吐いてもいいんだよ。甘えていいんだよ。アタシで良ければ、いつでも胸を貸すからさ・・・・・・」

 

 不器用ながらギュッと抱きしめ、頭を撫でる。

 

 「あっ・・・・・・」

 

 細い、気の抜けたようなトレーナーの声。

 

 少しの間だけ訪れた沈黙。しかし、それはすぐに破られた。

 

 

 ・・・・・・ギュっ

 

 

 トレーナーの腕の力が、強くなった。

 

 顔をアタシの胸に押し付けるように、初めて彼の方から抱きしめてきた。

 

 「・・・・・・少しだけ、甘えさせて」

 

 「うん。いいよ。ここなら、『誰も見てない』から」

 

 「・・・・・・っ」

 

 本日は生憎の天気予報。

 

 ずっと流してこなかった涙。十数年間せき止められていた想いが、抱きしめられたことで再び振り始めた。

 

 次第に雨音は大きくなる。

 

 アタシは黙って目を閉じた。これで、彼の弱い一面を見たものは、誰もいない。

 

 

 

 星空が輝く夜分遅く。トレーナー棟の一室では長時間、雨が止むことはなかった。

 

 

 





 ベルトレ、アヤベトレ、カフェトレ短編にて定期的に一人称が『僕』のトレーナーが登場しますが、設定を簡単にまとめたので記載。
 
 短編ごとに差異があるので、あくまで大まかな目安としていただければ幸いです。
 
 
 
 『僕』トレーナー
 
 年齢:20代前半
 
 性別:男性
 
 身長:153~159cm

 体重:45kg 
 
 特徴:中性寄り、華奢
 
 女性陣、ウマ娘からの人気が非常に高い。
 男らしさに憧れており、特に力仕事に関しては率先して取り組もうとするが、すぐにヘタれてしまう。その度に我先にと周りのウマ娘が助けに入る光景は一種の伝統となっている。
 
 悩み事は、タイキシャトルと顔を合わせる度に強制ハグの被害を受けていること。タイキいわく「抱き心地がベリーグット♪デス!」と言っているが、抱きしめられる本人は天国と地獄を同時に味わうこととなってそれどころではない。



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アドマイヤベガ短編
地上に輝く一等星(1)



トレーナー×アドマイヤベガを受信してしまったので。

・アドマイヤベガ実装前に執筆した短編となります。
・数話構成となります。
・独自解釈が含まれています


 

 夜の静けさを彩る、満天の星空。眩い星々の中、ひときわ輝く一等星。

 

 あの輝く星に私は誓ったの・・・・・・。たとえ一人でも勝ってみせるって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「アドマイヤベガさん、本気ですか?」

 

 「何度も言わせないでください。」

 

 目の前で困惑する多くの人、人、人。その全てを冷めた目で私は見渡す。彼ら、彼女らの胸元に輝くバッチが、ウマ娘を担当するトレーナーであることを示していた。

 

 『選抜レース』

 

トレセン学園に入ったウマ娘にとって、まず通過しなければいけない門がこのレースだ。筆記や面接、厳格とはいえ規定に沿った実技試験・・・・・・それらを突破して入学したウマ娘たちの優劣は、この時点ではいくらベテラントレーナーでも正確には分からない。

 

 そのため、このレースが試金石となる。たくさんのトレーナーがいる前で走る選抜レース。ここで好成績ないし光る物を見せたウマ娘はひとまず安泰といっていい。

 

 理由は簡単、トレーナーから引く手数多となるからだ。

 

 トレセン学園に入学したウマ娘の目標は様々なれど、共通の項目が一つある。それは『レースで1着を取ること』である。

 

 広がるターフの景色。自分よりも前に誰もいない直線を突き進み、ゴールラインを駆け抜ける・・・・・・ウマ娘として生を受けたのであれば、誰しもが望む光景だ。

 

 しかし、学園のウマ娘たちは走ることに夢を求めた少女たちであり、メジロ家といった名家でない限りは専門的な練習方法についてはまず知らないといっていい。

 

 その手助けをしてくれるのがトレーナーだ。ウマ娘の指導という事象に特化した知識、経験を持つ人々。当然のことながら好成績を収めるウマ娘のトレーナーは評価が上がり、名誉、金、を始め様々な優遇を受けられることとなる。

 

 1着を取りたいウマ娘と、担当ウマ娘に1着を取らせてあげたいトレーナー。必然的に選抜レース後、上位の成績を収めたウマ娘の元にトレーナーが殺到することとなる。

 

 件のレース、私自身も1着を手にしたことでレース場から出るや否やあっという間にトレーナー達に囲まれた。ぜひ私と契約を、俺のチームに来てほしい、などなど瞬く暇もないほどに勧誘攻め。

 

 レース自体は特筆すべきことはない。終盤まで溜めに溜めた末脚を爆発させてのごぼう抜き。1人だけ私の速度に着いてきた者がいたが、最後の200mで失速していき結果としては6バ身という大差だった。

 

 さて、そうして私をスカウトするために集まったトレーナー達だが、自身が条件を言ったとたん、水を打ったように場が静まり返った。

 

 動揺したのだろう。冗談ですよね?と不格好な笑みを張り付けながら聞いてきた人に対して、私はもう一度同じ内容をいった。

 

 『練習方法においては、私が納得した内容のものしかやらない。私が納得しなければ、どれだけ言われてもトレーナーの指示は聞かない』

 

 先ほどよりも通る声で、全員に聞こえるように発言をした。

 

 先程まで私に向いていた期待に満ちた多くの目が、今は困惑のそれに変わっている。トレーナーの指示無しでどうやってレースに勝つつもりでいるのか・・・そんな彼ら、彼女らの心情が伝わってきた。強情な、と実際に口に出したトレーナーもいる。

 

 ざわざわと空気が揺れる。どうやら今の会話で私の評価はそれなりに下がってしまったみたいだ。

 

でも、そんな事対して気にならなかった。どれだけ言われようと、この条件を曲げる気は無いのだから。

 

 ざわめく声が徐々に小さくなっていき、それでも誰も私に近寄ってこない膠着状態。 

 

 そんな状況を打破したのは・・・・・・

 

 「アドマイヤベガさん!契約を申し込みます!」

 

 覚悟を決めたように手を挙げた、年若い青年だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーと契約を結んでから1週間が経過した。

 

 宣言した通り、私は一度もトレーナーからの指示を受けずに練習を始めている。

 

 そもそも私は最初からトレーナーに従うつもりはなかった。

 

トレーナーを形だけでも取り付けたのは、教官下に配属されないようにするためである。選抜レースから一定期間経ってもスカウトされなかったウマ娘は、教官と呼ばれる人に教えを乞うことになる。

 

 仮に教官から指導を受けることになっていても従う気は無かったのだが、トレーナーの元でなければ使用できる練習場に制限がついてしまうのだ。

 

 流石にそれは支障が出てきてしまうため、スカウト活動は受けたのだ。内容はかなり一方的なものだったが。

 

 さて、そんな感情を持っていたため私はトレーナーの腕前を全く気にせずに選んだ。そんな自分でもこの結果は少々予想外だった。

 

 「・・・・・・トレーナー。この練習方法、本気で言ってるの?」

 

 「・・・はい」

 

 顔合わせを終えた後の初めての練習。一応は掲げた条件を遂行しようと、トレーナーが組んだ練習内容を見せてもらった。どの道断るつもりだったのだが、目を通し読み進めていくたびに違う感情が押し寄せてきた。

 

 少し委縮しているトレーナーに、やや乱暴に紙束を返した。

 

 「これじゃあ、私が考えるのと大差ないじゃない」

 

 私の抑揚がついていない声を聞いた彼は、私より若干大きなその体を縮こめた。一言でいえば、彼は新人トレーナーだったのだ。

 

 一人で勝つと言った言葉は、虚言でも何でもない。私は中央トレセン学園で活躍するため、身体能力の向上とともにトレーナーに必要な知識にも貪欲に手を出して自分のものとしている。

 

 トレセン学園に入るまでの3年間、毎日のようにウマ娘としてのトレーニングとトレーナーとしての学習を独学で続けた。トレーニングはキツかったし、その後にある勉学も睡魔との戦いだった。

 

 この『頑丈な身体』がなければ、ウマ娘といえど途中でどこか壊していただろう。

 

 勿論、片手間とまではいかないがトレーニングと並行して行っていたため、本職のトレーナーに比べれば見劣りするが、付け焼刃と言われるほど甘くはない。

 

 この知識をもって、トレーナーの指導内容に抵抗して躱そうと思っていたのだが、その必要がなくなった。

 

 先程口に出した通りこのトレーナー、今まで担当ウマ娘を持ったことがないトレーナー歴1年目の新人だったのだ。流石に専門だけあって私よりは知識量が多かったけど、逆を言えばそれだけだ。

 

 3年間、自身を追い込みながら両立をしてきた私のほうがトレーニングの実践には詳しいと断言できる。実際に身体を動かしながら知識も蓄えてきたのは私なのだから。

 

 食い下がってきた彼に向かって何度か返答したのち、「私のことを一番分かっているのは私よ」と答えたところで彼は口を閉ざした。最後に

 

 「分かった・・・・・・ごめん」

 

 とつぶやいたのが聞こえたが、それには何も返さずにトレーニングを開始した。

 

 見方によれば、断る理由付けが難解となるベテラントレーナーでなくて良かったとも言える。私自身、ここまで簡単に事が運ぶとは考えておらず拍子抜けした思いもある。

 

 頭を振って思考を切り替える。練習が始まったからには真剣に取り組む。終わった会話について意識している暇はない。

 

 ・・・・・・最後に一言いうならば、私はこの段階では彼のことを頼れるトレーナーとして見ていなかったことは確かである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入学して初めての夏を迎えた。関東の夏は暑いと聞いていたが、予想以上の暑さに少し辟易している。幸いというか、練習開始時刻には幾分和らいでいるのは救いではあったが。

 

 ウォーミングアップを終えた後、今日は坂道の練習を重点的に取り組んでいる。先日行われたオープン戦レース、無事に1着を取ることができたのだが、最後の坂でスピードを落としてしまった。

 

 スタミナを再度鍛えることも大切なのだが、坂道走行における身体の細かな動かし方についても改良の余地があると感じた。今日はその試行錯誤に費やす予定でいる。

 

 歩幅を狭める方法がメジャーではあるが、あくまで一般的には、だ。100人中99人に合うやり方でも、自分が残りの一人に含まれていた場合は逆効果となる。皆が取り入れている方法だから、ではなく自分に合うかどうかが重要となる。

 

 そのために、改良案は上記のものを含めて複数個用意してきた。この中に合うものがあればよし。なければまた練り直しとなるだろう。

 

 妥協するつもりはなかった。全ては一人で勝つために。

 

 「はーっはっはっは!精が出るねえ、アヤベさん」

 

 ・・・・・・で、そんな思いを胸に特訓に取り組んでいると絡んでくる人物がいる。私が坂道練習を始めるや否や、頼んでもいないのに近づいてきて並ぶように走る彼女。

 

 名前はテイエムオペラオー。聞いていないのに初対面で勝手に名乗ってきた。芝居がかった口上を常としており、近くにいるだけで精神が削がれる。

 

 「・・・・・・誰も呼んでいないんだけど」

 

 彼女が視界に入る度、決まって毎回ため息が漏れる。つい最近気づいたことなのだが、選抜レースにて最後まで私の末脚に粘り、食い下がったウマ娘が彼女だったみたいだ。そういえばあのレース終了後、馬鹿な・・・このボクが、とか言っていた気がする。

 

 「まあ待ってくれ。君は将来の覇王となるこのボクに打ち勝ったんだ!普段取り組んでいる特訓内容を是非とも参考にしたいんだよ。・・・ってこれは前にも言ったか」

 

 謙虚なのか自信家なのか判断に困る答えが返ってくる。口調はともかくその表情は本気であり、教えを請いたいという意思はしっかり伝わってくるので無下に出来ない。

 

 かといって手取り足取り教えるために貴重な時間をつぎ込む勿体ないため、見て覚えろというわけではないが、並走などに関しては強く止めていない。

 

 オペラオーも選抜レースでは私に次ぐ2着であり、たくさんのトレーナーから勧誘を受けたとのこと。最終的には彼女自身の判断で、学園内屈指のチーム築き上げたトレーナーと契約を結んだと聞いている。

 

 ベテラントレーナーでも複数のウマ娘を担当することは至難の業であるため、彼女のトレーナーの優秀さを伺うことができる。

 

 「それで、君はまだトレーナー君の指示を聞いていないのか?」

 

 ああ、これも毎回とは言わずとも結構な頻度で聞かれる。選抜レース後、あんな形で宣言を出したのだからトレーナー経由で私の奇行は知れ渡っていた。

 

 ちらっと後ろを見ると私のトレーナーの姿が見える。その手には本日私から突き返されたトレーニング表と、ストップウォッチが握られていた。

 

 そうよ、と簡潔に答えながら坂道を登る。契約を結んでから数か月、未だに彼の指導を受けたことはない。

 

 未だ彼から、私を納得させるほどの案を出されたことがないためだ。トレーナー業は様々な書類、申請関連も受け持つため、そちらでは非常に助かってはいる。しかし、トレーニングにおいては相変わらず雑用係だった。

 

 タイムの計測を行いながらメモを取っている私のトレーナーを見て、オペラオーが口を開く。

 

 「まあ、ボクがとやかく言えることではないが・・・・・・正直、もう少し彼に寄り添ってもいい気がするのだがね」

 

 「本当に余計なお世話」

 

 「何を言うんだ!トレーナーとウマ娘の関係はまさしく人バ一体、二人三脚なのだよ。練習効率云々の前に、お互いがお互いを信頼しあうことが何よりも大切なのだよ!そう!まさしくこのボクとトレーナーのような・・・・・・」

 

 『こらぁ!オペラオー何サボっていやがる!!』

 

 「あ、はいすみませんすぐに戻ります!」

 

 ・・・・・・オペラオーのトレーナーの怒声が飛んできて、素の口調で彼女が戻っていった。怒られるくらいなら来なければいいのに。というか、信頼はどうした。

 

 若干呆れを抱きつつも、私は再び坂道を上がる足に力を込めた。

 

 

 

 練習が終わり、入浴、夕食などするべきことを終えた後は基本的にフリーとなる。

 

 門限までの間、トレセン学園に在籍するウマ娘たちにとっての貴重な自由時間。中央の生徒とはいえ年頃の少女たちだ。毎日自主練習に取り組むストイックな猛者は本当に極一部で、各自思い思いの行動を取っている。

 

 日が落ち、暗闇が景色を支配する時間帯に私は寮を出て歩みを進めていった。黄昏時は人、ウマ娘の往来が多かった道も、今の時間帯は人気がない。

 

 トレセン学園の土地は広大であり、いくら在校生や職員、トレーナーが多くても喧騒とは無縁な場所というのが存在する。夜ともなれば猶更だ。

 

 その中で、外灯などの人工的な光が極力届かない場所に足を運んだ。敷地外に出ればもっといい場所はあるのだろうが、遠くに行けば行くほど往復の時間が発生する。ウマ娘の足があるとはいえ、この貴重な時間を潰したくない。

 

 日中、植えられた植林から絶えず聞こえてきた蝉の鳴き声は止んでいる。暗闇と静寂が支配する夏の夜。私にとって、何よりも大切な時間だ。

 

 「・・・・・・ここら辺でいいかな」

 

 独り言を吐き、心を落ち着けて顔を上げた。

 

同時に無数の光が目に飛び込んでくる。夜の帳が下りても私たち地上にいる生物たちを照らしてくれる、遠い光。

 

 晴れ渡る夜空。そこには美しい星が散りばめられていた。

 

 はぁ、とため息が漏れる。『あの出来事』以降、夏になるとほぼ毎日星空を見上げるようになった。どんなに練習後疲れた状態でも、どんなに勉学に追われていても1日たりとも欠かさない行動にして・・・・・・贖罪。

 

 意味のないことなのかもしれない。彼女はもう、ここにはいないのだから。

 

 それでもと思う。はるか遠くから私を見降ろしている彼女に、この言葉が届くのではないかと。

 

 「・・・・・・また来たよ」

 

 小さく、仮に隣に誰かいたとしても届かなかったであろう声音でつぶやく。今日も、昨日も、一昨日も、一週間前も、毎日同じ言葉を夜空に投げかけた。

 

 本来であれば春から秋までは会えるのに、この時期しか見に来ないのは、一番輝いているあなたを見たいからなのか。

 

 それとも、あの出来事が夏だったからか。

 

 理由はまだ見つけられない。

 

 数えきれないほど見上げた星々。天文学の専門でもない私は、星一つ一つの名前を詳しく知っているわけではない。これだけ時間を費やしてはいるのだが、知識量だけでいえば趣味で天体観測を行っている人のほうがまだ詳しいだろう。

 

 でも、これ以上調べようとも思わない。私が求めるものは光り輝く一等星・・・彼女だけなのだから。

 

 星に手は届かない。どれだけ手を伸ばしても、その輝きをつかむことは出来ない。だからこそ、惹きつけられる。

 

 言葉はいらない。無言であの一等星を見つめる。星のカーテンが覆いつくす夜空において、最も明るい輝きを目に焼き付ける。

 

 この時間が好きだ。誰もいない場所で一人、静かにあなただけを見ていられる。だからこそ、

 

 「・・・・・・ベガ?」

 

 それを妨げるものには、良い感情を向けることができない。

 

 振り返ると、予想通りというか彼がいた。ウマ娘の聴力は少し前から彼の存在を捉えていたが、目的が私でない可能性もあると思い、あえて触れないで置いた。足音がまっすぐこちらに近づいて来るにつれ、憂鬱な気分が増していったが。

 

 「何か用?トレーナー」

 

 「あ、いやごめん。ベガが一人で歩いているのを見て、自主練でもするのかと思って・・・」

 

 謝罪をする、形式上はトレーナーである彼。その表情から本心で今の言葉を言っているのは読み取れた。

 

 普段の私であればそっけない態度で返していただろう。でも今は誰にも邪魔をされたくない時間。そのせいか、私も少々気が立っている。

 

 「・・・・・・トレーナー、一人にしてくれる?」

 

 いつもより低い声が漏れた。彼に対しては初めて発したトーンだったかもしれない。その声を聞いたトレーナーは、

 

 「ご、ごめん」

 

 と再びの謝罪をしたのち、この場を去っていった。

 

 もし粘られたら感情がどうなるのか、それを抑えられるのかが分からなかったためすぐに居なくなってくれたのは助かった。トレーニング中はともかく、それ以外では必要以上に事を構えるのは好まない。

 

 遠ざかっていく足音。それが聞こえなくなってから、再び星空に目を向けた。

 

 (・・・・・・ここまでは順調だ)

 

 一つ、手ごたえを確信しながら判断する。レース選抜を終えてから今まで計3戦。デビュー戦も含めて全てで1着を獲得している。

 

 オープン戦のみでの成績のため、まだまだ話題にはなっていない。それでも来月から挑戦することになる重賞レース、そこでも勝利を積み重ねていく自信がある。

 

 まずはGⅢレース、年末のGⅠホープフルS、そして来年になれば・・・・・・

 

 「クラシック三冠に挑戦できる」

 

 ぐっと手を握り締める。

 

 数多くのウマ娘が挑んできた歴史において、数えるほどしかいない三冠バ。だからこそその偉業は長く語り継がれる。

 

 (大丈夫、私なら証明できる)

 

 胸に手を置く。心臓の鼓動が、私が今生きていることを伝えてくれる。生きている私でしか証明できない使命を刻み付ける。 

 

 「一人で戦って、一人で勝つの」

 

 静かに宣言し、輝く一等星に背を向けた。

 

 「・・・・・・明日も来るわね」

 

そう、短い言葉を残して。

 

 

 

 

夜が深まり、それに対抗するように星の光はさらに自身の輝きを主張する。その輝きは、一晩中消えることはなかった。

 



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地上に輝く一等星(2)

何とか3話構成で収まりそうです(予定)。

収まらなかった場合はゴルシのドロップキック受けてきます。


 

 そのウマ娘は、一人娘として育った。

 

 幼少の頃から元気いっぱいで駆け回り、その明るい性格からたくさんの友達がいた。

 

 毎日のように擦り傷を作って帰ってくるその少女を、両親は呆れつつも喜ばしく迎え入れていた。

 

 ある日、少女はその行動力を生かして両親不在の時に家の中を探検した。

 

 そこで押入れの奥に閉まってあったアルバムを発見した。 

 

 たくさん貼ってあったアルバムの写真。その最初のページには、今より幾分若い母親が写っていた。

 

 

 

 母親は、『双子の赤ちゃん』を幸せそうに抱きかかえていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬が終わり、春の息吹がターフを駆け巡る。

 

 3月下旬、私は心を落ち着けながら練習場に立っていた。いつものウォームアップ、ランニング、坂道練習を手短に終わらせ、本日は近づいてきたG1レース、皐月賞を意識した特訓を行う。

 

 場所は人気の少ない第四運動場。普段は設備の良い第一、第二運動場を使用することが多いが、レースを想定したトレーニングの場合はなるべく他人が少ないほうがいい。人やウマ娘が多いと走っている最中、どうしても配慮する必要が出てくるためだ。

 

 タンタンッ!と軽くジャンプを繰り返し足をほぐす。

 

 地元はこの時期も雪に埋もれて満足に練習できなかったのに比べ、関東は仮に降っても積もらないことが多いのがありがたい。夏の暑さだけはどうにかしてほしいが。

 

 ・・・・・・ともかく、来る大一番に向けての調整だ。気合を入れ直し、体勢を低くする。

 

 温かな風を背に受けながら、私は力強く右足を踏み出した。

 

 

 

 『アドマイヤベガ、驚異的な末脚!残り200mで先頭のテイエムオペラーを躱した!テイエムオペラオーも粘る!が、これは追いつけない!アドマイヤベガ1着!!ホープフルステークスを制したのは、地上の一等星アドマイヤベガ!これで無傷の5連勝、彼女の輝きは留まるところを知らない!』

 

 

 

 思い出すは年末のG1レース、ホープフルステークス。初めて勝負服を身に纏ってのレース光景を頭に描く。

 

 ゲートを出てすぐに後方に下がって待機。つかず離れず、中盤まで溜めた足を最終コーナーから爆発させる、いつものパターンだ。

 

 (・・・・・・ここっ!)

 

 あの時と同じ場所からギアを上げる。前に見えるは、幻想の相手達。その影を追い越し、最終直線を突っ切る。

 

 「ふっ・・・!!」

 

 最高速でゴール地点を駆け抜ける。走り切った後の手ごたえは・・・あまり感じなかった。

 

 一つ、息を整える。2000mを走った後ではあるが、息は切れていなかった。本番ではないというのもあるが、このくらいの距離ならもう苦にもならない。

 

 その余裕がタイムになって表れたら苦労はしないのだが。

 

 「ベガ、今回のタイムだけど・・・」

 

 「・・・・・・そう」

 

 トレーナーから今の計測タイムを報告され、言葉少なに返答する。予想通り、満足のいく結果ではなかった。

 

 昨年末よりは確実に伸びてはいる。しかし、その伸び幅が当初の予定より短かった。トレーニングは確実にこなしてきている。同時にトレーナー業の知識吸収も怠っていない。

 

 そう、未だに練習内容は私が考えている。

 

 年が明けてからは、大一番に集中を向けていったこともあり、トレーナーから渡された資料をロクに見もせず突き返すようになった。

 

 「いらないわよ。こんな内容じゃ」

 

 ほとんど内容を確認せずにそう言って拒否する日が当たり前となった。

 

毎日もらい受け、毎日確認せず、毎日突き返す。私の頭は皐月賞から始まるクラシック三冠のことでいっぱいになっていた。

 

 それと最近、トレーナーが私の練習内容に口を出してくるようになった。トレーニング方法、走り方、レースでの作戦など多岐にわたって。

 

 私のことは私が一番分かっている。何度目かも分からないその言葉を口にしても食い下がられることが増えた。

 

 内心鬱陶しくなった私は、彼の言葉を無視するようになる。相変わらず、タイム計測や事務作業等の雑用に関しては助かっている。しかし、それ以上の感情はない。

 

 軽いランニングで息を整えながら、体力を再び溜めていく。2000mであれば、少し休んだらまた走り切れる。

 

 大丈夫だと自分に言い聞かせ、再びスタート地点に向かって足を進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大歓声が聞こえる。

 

 ようやくこの日が来た。クラシック三冠への道の第一歩、皐月賞当日。この日に向けて念入りに調整を重ねてきたという自負がある。

 

 再び着ることとなった勝負服に袖を通す。G1レースでのみ身に纏うことを許される、オンリーワンの晴れ姿。卒業するまで、一度も着ることが出来ないウマ娘のほうが遥かに多いという熾烈なレースだ。

 

 私は幸運にも、2回目のお披露目となる。この姿を複数回見せられるというだけで、私は恵まれているのだろう。

 

 そして、2回で終わらせる気などさらさら無い。何度だって着てみせる。何度だって示して見せる。

 

 それが私の・・・・・・

 

 「時間だよ。行ってらっしゃい、ベガ」

 

 「ええ」

 

 トレーナーの声で目を開く。控室での、言葉少な目の会話。何処か他人行儀な所は、1年前から変わっていない。

 

 レース中の作戦も私が立てているのだから当然だ。控室では集中のため、話しかけないでくれと頼んでいる。結果、今みたいな一言の応援だけというのがレース前の日常風景となっていた。

 

 私たちが会話らしい会話をしたのはいつ以来だろうか。・・・・・・いや、そもそもトレーニングやレース以外で会話をしたことはあっただろうか?最近はトレーニング中の会話もなくなった。

 

 彼の趣味も、好きな食べ物も知らない。自分はトレーナーの事を何も知らない事に気づいた。そして、その事実について、特に何も思わなかった。

 

 

 

 「やあやあアヤベさん、お久しぶりだね!今回はこのボクに勝利を譲ってもらうよ!」

 

 曇天が空を覆うレース場、パドックを終えてゲート前での待機中、聞き覚えの声が聞こえた。

 

 振り返ると見知った顔が目に入ってくる。

 

 派手な衣装に身を包んだナルシス・・・彼女、テイエムオペラオーだ。特徴的な口調に前口上も合わせて、最も観客の注目を集めている。昨年末のホープフルSでも同じセリフを聞いた気がするのだが、どこ吹く風で同じ宣言をしてきた。

 

 「何度言われたって譲らないわ。今回は特にね」

 

 「はーはっはっはっは!気合十分みたいだね。それでこそ、このボクのライバルだよ!!」

 

静かに宣言した私に対し、オペラオーはいつもの高笑いで応えた。

 

私たちの姿がスクリーンに映し出されたことで、大勢の観客から歓声が上がった。

 

 ・・・一番人気と二番人気直々の会話。確かに盛り上がる要素だらけだ。オペラオーはこれも狙っていたのだろうか。彼女は演出家だ、どうすれば観客が盛り上がるかを分かっている。

 

 ただ、生憎私は器用な真似は出来ない。

 

 会話もそこそこに切り上げ、ゲートの中に入る。私が出来ることといえば、レースで一着を取ること。それが、あの子への贖罪となるから。

 

 ・・・・・・と、既に集中していたためか、オペラオーの最後の呟きは聞き取れなかった。

 

 

 

 「・・・・・・それに、今回ばかりは君に負ける気はしないさ」

 

 

 

 準備完了。ゲートが開き、力強くターフを蹴った。

 

 『一斉にスタート!少しばらついたスタートになったか?・・・おっと、二番人気テイエムオペラオーが早速ハナを主張していった!一番人気、アドマイヤベガはやはり後方から様子をうかがう展開だ!』

 

 スタートしてすぐ、オペラオーが加速していった。先行、じゃない。逃げだ。ハイペース戦にするつもりだろうか?オペラオーの速度につられたウマ娘が数人彼女に追いすがるように前に出て行った。

 

 (でも、ここは我慢)

 

 スッ、と後方に下がり前の集団を見る。いつもの位置、いつもの作戦だ。

 

 前方はさっそく縦長となっていた。先陣を切ったオペラオーとそれに追随する組。中段からつかず離れずの位置にいる組。そして後ろから機会をうかがう組。序盤からこれだけ差ができるのは珍しいかもしれない。

 

 観客のざわめきが聞こえる。オペラオーの逃げに対するどよめきか。

 

 ・・・・・・まだだ、闇雲について行っては彼女の術中に嵌る。昨年末までは全てのレースで自分が勝ったのだと何度も言い聞かせ、タイミングを伺う。 

 

 『レースは中盤に差し掛かっている。さあ逃げています。先頭は変わらずテイエムオペラオー、これは半端な逃げではない。レース展開を作ったままここまで一度も手放しておりません。3バ身差でホクトレイズとサザンカルナが必死に食らいついているぞ!アドマイヤベガは未だ最後方、一体どのタイミングで仕掛けてくるのか!?』

 

 前方のペースに釣られたのか、私の周りにいたウマ娘が徐々に進出していった。

 

 おかしい、とここに来て初めて違和感を感じた。皆のペースが速すぎる。今までは終盤、最終コーナーの終わりまでは互いに互いをけん制しあいながらのレース展開だった。

 

 それが今回は、皆が前へ前へと足を進めている。オペラオーに影響されたわけではない?

 

 気づけば私だけがぽつんと一人残された状態になった。

 

 (・・・・・・どうする?)

 

 再びの自問自答。先頭から私まで、最低でも8バ身は差が付いている。仕掛けどころを間違えてしまっては、この差が埋まり切らずにゴールラインを迎えてしまう事となる。

 

 直線を終え、最終コーナーに入った私は脚を・・・温存した。

 

 過去のレース全てで勝利をもぎ取ってきた、最終直線での末脚。それに絶対的な自信を持っていた私は、今までのレース展開を信じ、前に出ない選択を取ったのだ。

 

 爆発させてからゴールまで、間違いなく120%全力で走り切れる距離。その確実性を取った。

 

 (ここまでハイペースなら、最後に粘る脚が残っていないはず。最終直線で一気に捲ってみせる!)

 

 コーナーを回り、先頭に目をやる。そこに移っていたのは、私の予想外の光景だった。

 

 『さあテイエムオペラオーが最終直線に入った!アドマイヤベガはまだコーナーを回っている!この距離は果たして捲れるのか?な、何とテイエムオペラオーここにきて更に加速!先頭で走ってきて、どこにこの脚が残されていたのか!?』

 

 (・・・っ、噓でしょ!?)

 

 今まで最後の直線で伸びない、それどころか失速することもあったオペラオーがここでさらに加速をしたのだ。彼女にそんなスタミナがあったなんて、聞いてない。

 

 コーナー終わりに入った私は、スパートをかけた。切り札であるラストスパートでオペラオーとの距離が縮まっていく。しかし、その縮まり方が想定より遅い。

 

 ・・・・・・いや、それだけじゃない。オペラオー以外の、他のウマ娘との距離も中々縮まらない。

 

 昨年まで一気のごぼう抜きを果たしてきた末脚が、届かない。

 

 私の速さに異常はない。他のウマ娘たちが予想以上に落ちてこないのだ。

 

 (速く、速く前へ・・・・・・!)

 

 必死に腕を振る。足を動かす。その動きに焦りがあったと気づいた時には遅かった。

 

 大股になったせいか、バランスを崩しかけた。

 

 あっ、と思う前に反射で体勢を立て直す。幸いにも転ばなかったが、その動作はコンマ1、2秒のロスとなった。

 

 ほんのわずかな時間。それが私とオペラオーの差を絶望的なものから決定的なものにさせた。

 

 再び前を向いた時にはもう、オペラオーはゴール手前だった。

 

 『テイエムオペラオー駆ける!二番手とは大きな差が離れたぞ!アドマイヤベガの流星の如き末脚だがこれはもう追いつかない!テイエムオペラオー先頭!何ということだ、最初から最後まで彼女の一人旅、独壇場だ!皐月賞、一着、テイエムオペラオーおおおおおおお!!!!やりました!見事G1初制覇!今日一番の輝きを放ったのはテイエムオペラオーだ!一番人気アドマイヤベガは6着!』

 

 おおおおおおおおおおおおお!!!!という大歓声の中、私はゴールラインを駆け抜けた。・・・・・・前に複数のウマ娘がいる状態で。

 

 その歓声が、私を向いていなかった。歓声を受ける主は既に減速を終え、観客に向かって手を振っていた。

 

 ・・・・・・ああ。レース後いつも感じる高揚感がない。達成感がわいてこない。

 

 (負けた・・・・・・)

 

 その事実だけが、私にのしかかる。

 

 減速し、足が立ち止まってから周りを見る。G1レース、それも皐月賞ということで今まで見たこともないほど詰めかけた大勢の観客。その視線が、私に向いていない。

 

 目標だった、クラシック3冠制覇。

 

 多くのウマ娘が挑み、果たせなかった夢。1冠を取るのだけでも血反吐を吐くような努力が必要であり、それ以前にレース出場という挑戦権を獲得するだけでも並大抵のことではない。

 

 その努力をしてきたという自負はあった。制覇できるという自信もあった。

 

 それが、一歩目で夢と消えた。 

 

 (何故・・・?)

 

 立ち尽くして自問自答しても、答えが出ない。どこがダメだったのか、分からない。

 

 「・・・・・・宣言通り、今日は勝たせてもらったよ。アヤベさん」

 

 声が聞こえ、顔を上げる。私のすぐ前に、息を切らせながらも充実の笑みを見せたオペラオーが立っていた。

 

 本来ならこの公の場で、彼女が1位を取ったことを讃えるべきなのだろう。しかし、私にその余裕はなかった。

 

 「どうして・・・・・・」

 

 どうしてここまで差が離れたのか。昨年からのこの進化は何なのか。様々な疑問が沸いてくる。それらを一つにまとめることが出来ず、私の口から洩れたのは短いその一言だけだった。

 

 「・・・・・・アヤベさん、それが分からないようじゃ、ボクに勝てなくて当然だよ」

 

 「努力が足りなかったの?でも、私は誰よりも・・・」

 

 「努力の問題じゃない。・・・・・・前にボクが言ったこと、忘れてるみたいだね。一つアドバイスをするなら、君はもう少し周りを見たほうがいい」

 

 いつもの気取った声ではない。オペラオーの静かな、冷たささえ感じられる声が耳に刺さった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけば私は、寮に戻っていた。

 

 いつもレース後に行っていた、トレーナーとの形だけのミーティングも無断欠席してレース場から逃げ出した。

 

 ベットに身体を投げ出す。今頃オペラオーはウイニングライブを踊っているのだろうか。誰よりも輝くセンターポジションで。

 

 ぎゅっとシーツを握った。くやしさよりも心に飛来したのは喪失感。贖罪すら果たせない、不甲斐ない自分を幾度となく責める。

 

 あの時、もう少し早くスパートをかけていれば。

 

 あの時、焦るあまり躓いていなければ。

 

 後悔先に立たず。いくら反省点を列挙してもそれで結果が覆るわけではない。

 

 (どうすればいいの・・・?)

 

 あなたへの贖罪となるレースのはずだった。1人でも勝てることを証明するレースのはずだった。

 

 ・・・・・・負けてしまった場合のことなど、考えてなかった。

 

 (教えてよ。私はどうすれば、あなたに罪を償うことが出来るの?)

 

 分からない。1人で考えていても、答えは出てこない。

 

 夕食を取らずに悩み続け・・・・・・辺りが暗くなった頃、無意識のうちに私の足は外へと向かっていた。

 

 気づいたら、私の足は外へと向かっていた。

 

 あなたに直接会えば、分かるような気がして。

 

 

 

 ふらふらとした足取りで、私は歩を進める。

 

あなたに会えるのは春から秋の間。いつもであれば、最も輝く夏しか来なかった。春のこの時期に無理やり来るほど、今の私は思い詰めていたのだろう。

 

 一目だけでも、見たくて。そうすれば、前に進めるような気がして。

 

 何度も何度も通った道を歩み、目的の場所にたどり着く。学園敷地内の端にある、昨年夏、毎日あなたを見上げていた場所。

 

 約半年の間を経て、再び私はあなたに会いに来た。あの時とは違い、縋りたい一心で。

 

 ずっと地面を見降ろしていた目線を上げ、空を見た。

 

 

 

『何も映ってなかった』

 

 

 

 「・・・・・・あっ」

 

声が出る。同時に、4月だというのに体まで震える。

 

 見えない。見えない。星の輝きが見えない。

 

 冷静になって考えられれば、レース中から空は雲に覆われていたことからまだ天候が回復していないという事実に気づけていただろう。

 

 でも、私にそんな余裕はなかった。初めて負け、目標を失い、そして心の支えとなっているものに会えなかった。それが短期間で一気に襲い掛かってきたことで、私の許容量を超えてしまった。

 

 繰り返し空を見る。食い入るように、目を凝らして見渡す。それでも、輝きの欠片すら私の目には入ってこなかった。

 

 曇天に遮られた夜空は、私に何も見せてくれない。

 

 (私は・・・・・・あなたに会うことも許されないの?)

 

 呆然と立ち尽くす。心に穴が空いたようだった。

 

 5分待った。

 

10分待った。

 

 ・・・・・・30分待った。

 

 ずっと空を見上げ続けても、その景色は変わらなかった。私の心を映したような黒一色。

 

 それでも同じ場所に居座る私の顔に、何かが当たった。

 

 頬に手をやる。その手は微かに濡れていた。

 

 その正体を特定する前に、ぽつ、ぽつと同じものが落ちてくる。時間が経つにつれその量と勢いがどんどんと増していった。

 

 雨が、私の身体を濡らしていく。

 

 恵みの雨などといわれることもあるそれは、今の私には冷たすぎるように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれほどの時間が経ったのだろうか?降りしきる雨の中、私は未だ空を見上げていた。

 

 雨の勢いは弱まらない。すっかり水分を吸ってしまった服と、それ以上に重く沈んだ私の心情。

 

 これからどうすればいいか分からない。だから貴方を一目見たかった。会うために、やまぬ雨が終わるのをただ待っていた。

 

 突然、フッ・・・と視界を何かが覆った。同時に、自分を打っていた雨を感じなくなった。

 

 え、と思う間もなく、後ろから声をかけられた。

 

 「いけないよポニーちゃん。ウマ娘なんだから、身体を大事にしないとね」

 

 優しさを感じる声。振り返ると、傘を此方に差し出した寮長、フジキセキ先輩の姿が見えた。

 

 「寮長、どうしてここに・・・?」

 

 「ふふ。門限を過ぎても帰ってこない子がいたのでね。今まで探していたんだよ」

 

 門限という単語で頭を傾げ、ハッと気づく。慌ててスマホを取り出すと、幸いこの雨の中異常をきたさなかった画面に、門限を大幅に過ぎた時刻が表示されていた。考える間もなくアウトである。

 

 「ああ、別に責めているわけじゃないんだ。謝らなくていい。ただ、君は決まりごとはしっかり守る子だから、珍しいと思ってね。」

 

 謝ろうとした私を手で制し、穏やかに語りかけてくる寮長。ただ最後、何かあったのかな?という単語を飲み込んだように感じた。

 

 ・・・・・・今日のレース結果について気を使ってくれたのだろう。

 

 頭を下げ、謝罪と感謝の気持ちを述べる。こんな場所にいたのだ、探すまで莫大な時間がかかったのだろう。今の時刻がそれを如実に物語っていた。

 

 「何はともあれ、まずは寮に戻ろう。急いでシャワーを浴びないとね」

 

 「大丈夫です。私は・・・・・・いえ、ご厚意に甘えます。ありがとうございます」

 

 寮長の提案に、身体が丈夫だからという理由で断ろうとして、今それを言うのは探してくれた彼女に失礼にあたると思った。

 

 今日中でなくても明日返してくれればいい、という言葉とともに共同シャワー室の鍵を預かった。

 

 貸してもらった傘を差し、二人で歩く。

 

 私も彼女も歩き出してからは話さず、無言での歩行が続いていた。

 

 色々と私に言いたいことはあるはずなのに、何も聞かずに並んで歩いてくれる。突き放さず、それでいて必要以上に近寄ってこない。

 

 普段の私だったら、このまま何も話さずに彼女と別れていた。ただ、この時の私は正常ではなかった。弱っていた。

 

 悩みを一人で抱えきれなかった。誰かに道を示して欲しかった。

 

気づけば私は、口を開いていた。 

 

 「・・・クラシック3冠を取ることが目標でした。私の夢であり、宿命だと思っていました」

 

 「うん」

 

 「努力は誰よりも、とは言いませんが重ねてきた自負はあります。今日のレースでも、1着を取る自信がありました。取らなければなりませんでした」

 

 「うん」

 

 「・・・・・・結果はご存じだと思います。3冠の夢が、一歩目で消えました。贖罪を果たす機会を失いました。目標が、見えなくなってしまいました。出走が決まっている1か月後のダービーへの気力が湧きません。菊花賞への道筋が見えません」

 

 どうすればいいのかが、分かりません。

 

 最後は吐き出すような、漏れ出すような弱い声での言葉となった。

 

レースに負け続け走る楽しさを、意味を見出せなくなりトレセン学園を去るウマ娘も一定数存在する。

 

 目標を失った私もこの先、そうなってしまうのか。あるいはもうそうなっているのか。それすらも判別できなかった。

 

 そんな私の話を黙って聞いていた寮長は全てを聞き終え、こちらを向いた。

 

 「ポニーちゃん。君の言う宿命や贖罪が、どのようなものなのかは分からない。無理には聞かない。ただもし、まだ走りたいという気力が残っているなら2つ助言がある」

 

 「2つ、ですか?」

 

 「ああ。1つ目。私はチームに所属していてね。オペラオーと同じところだよ。希望者のみで朝練を実施しているんだが、明日早朝、第1運動場で行われる練習に来てほしいんだ。」

 

 天候が良くなったらの話だけどね、と笑顔で話す。彼女とオペラオーが同じトレーナーの所属であることは知っていた。トレセン内屈指のチームをまとめている彼の手腕は、競バファンのみならず一般層への知名度も高い。

 

 朝練は自分も日を決めて行っているが、他のトレーナーの所にお邪魔してもいいのだろうか?

 

 「なに、来てくれるだけでもいいさ。・・・2つ目。もっと君のトレーナーの意見を聞いてみたらどうかな?あんなに素晴らしいトレーナーはいないよ」

 

 二本指を立てて話す寮長の言葉に、私は疑問を抱いた。自分の新人トレーナーが素晴らしいトレーナー?何か勘違いしているのではないかと思い、聞き返した。

 

 「寮長、すみません。私のトレーナーは」

 

 「新人君、だろ?承知の上で言っている。断言してもいい。もし私が今フリーだったら、土下座する勢いで彼との契約をお願いしていたよ」

 

 寮長は朗らかに口にするが、その目からは冗談の色は感じられなかった。彼女は本気で、先程のセリフを言っていた。

 

 あのフジキセキ先輩が、私のトレーナーを?

 

 事務的な作業はともかく、専門でありながら私と変わらないレベルのトレーニング内容しか作れない彼に頼み込んで契約を望む絵が想像できない。

 

 私の納得がいかない、というよりは理解しようとしてしきれない表情を見たのか、彼女は微笑んで手を振った。

 

 「長話をして風邪を引いては本末転倒だからね。ここで私は失礼するよ。明日、待ってるよ」

 

 言葉に反応して顔を上げると、とっくに寮の前についていた。お礼を言う間もなく、寮長は自身の部屋の方向へ歩いて行った。

 

 一人残された私は、先程の言葉を反芻する。

 

 ・・・・・・トレーナーに関しての助言はともかく、明日の朝練習に関しては行ってみることにした。今の状態から抜け出す何かを得られるかもしれない。

 

 一つ心に決め、借りた傘を閉じた。

 

 

 

 雨の勢いは、先程よりも少しだけ弱まっているように見えた。

 




今週、アヴァロンでベリルをぶっ飛ばす使命があるのでそれまでには次話を投稿できるように頑張ります。



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地上に輝く一等星(3)

誰だよ3話で収まるとか言ったやつ。

4話構成になりましたが、同時投稿したのでセーフでは?

・・・・・・あ、駄目ですか。はい、ゴルシの所行ってきます。


 翌日朝、私は小さなアラーム音で目を覚ました。

 

 月曜ではあるが学園自体が休校日のこの日、同室の相手を起こさないように素早くアラームを止める。

 

 昨夜、帰ってこない私を心配して寮長に連絡を入れたのもこの子だった。もしその行動がなかったら、私は朝方まであの場に突っ立ってたかもしれない。

 

 部屋に戻った時、就寝しているこの子を起こさないように心の中で礼を言い、私も休んだ。後で改まってお礼をしなければいけない。

 

 静かにジャージ姿に着替え、部屋を出る。今までレース翌日は休養日に充てていたため、少しだけ億劫な気持ちがある。それでも寮長が直々に招待してくれたのだ、行かないという選択肢はない。

 

 うん、と一つ背伸びをする。外に出ると、昨晩まで降っていた雨が止み、太陽の輝きが地を照らしていた。

 

 ターフの状態はお察しだろうが、雨さえ降っていなければ最低限の運動はできる。流石に昨日の今日で重い運動をする気には私もなれなかったが、軽い練習をするだけならほとんど問題はない。

 

 軽くストレッチをした後、目的の場所を目指して歩き出す。この時間帯でも、まばらながらジャージ姿のウマ娘とすれ違うことがあった。今から練習に取り組む準備をする者もいれば、既に汗をかいている者もいた。

 

 皆、目標に向かって必死なのだ。

 

 (私は・・・・・・)

 

 昨日のレースが頭によぎり、慌てて首を振った。

 

 落ち込む前に答えを、そうでなくても手掛かりを見つけなければならない。

 

 栗東寮から歩いて5分、第一練習場にたどり着く。入る前から大きな掛け声が私の所まで聞こえてきた。一番大きく設備も充実している練習場ということもあって、ウマ娘たちからの人気も高い。休日の朝からこれほど賑わっているということが、その裏付けとなっている。

 

 ランニングをしているもの、坂路を駆け上がっているもの、ウォームアップで体をほぐしているもの、様々なウマ娘がいた。

 

 そんな広い運動場の一角に、大人数でまとまっている集団があった。オペラオーもいる。間違いない、寮長が言っていたチームだ。

 

 自分も今のうちに輪に加わるべきか迷ったが、肝心の寮長の姿が見えなかった。もしかすればまだ話が伝わっていない可能性もあると思い、結果二の足を踏む形で遠くから集団を見ているという構図になった。

 

 オペラオーの姿を見て、少しだけ心が沈む。昨日のレース、1着で駆け抜けた彼女が眩しく見えてしまった。

 

 普段は高笑いをやめない彼女だが、今は遠目からでも分かるほど、真剣な表情をしている。昨日の結果に驕ることなく、次の目標に向かって取り組む目だ。

 

 彼女を始め、集まっているウマ娘たちは皆中心に居る人物・・・男性のトレーナーの話に耳を傾けていた。真剣に彼の話を聞いている。

 

 その中に、若干背の高い人物が見えた。男性トレーナーの近くにおり、メモを取りながら聞き入っている。目を凝らして確認すると、その人物にはウマ耳がなかった。いや、それどころか女性でもない。

 

 少し近づくと、輪郭がより鮮明になる。その姿は、自分の見知った人だった。 

 

 

 

「・・・・・・え?・・・・・・トレーナー?」

 

 

 

 練習が始まり、チーム所属のウマ娘たちが一斉に動いている。私はその様子を物影から見守っていた。

 

最初のストレッチ、ランニングが終わった後は個人や少人数で本日の項目に取り組んでいる。

 

 おかしな所があった者には、すかさずチームトレーナーからの檄が飛んだ。

 

 練習内容が厳しいことで有名なチーム。当然ながらお互いの合意によって契約は結ばれるため、今この場にいるのは厳しいことを承知で在籍している者たちばかりになる。

 

 そんなチームトレーナーの隣で練習風景を見ながら、時折質問をしながらメモを取っている私のトレーナー。

 

 その目はいつものトレーニング時、私の動きを見ている時と同じくらい真剣なものに見えた。

 

 トレーナーが普段どんなことをしていたのか、全く知らなかった。自分のことで手一杯で、他にまで気を回す余裕がなかった。

 

 ・・・トレーニング開始して40分ほどたっただろうか、私のトレーナーがお礼を言ったのだろうか、頭を下げてその場を後にしていた。

 

 彼の視線が動いた気がして体を物陰に隠したが杞憂だったようで、小走りに練習場を後にしていった。

 

 「あんな姿を見たのは初めてかな?」

 

 「わっ!?」

 

 突如、すぐ後ろから声がかけられた。びくっとして振り向くと昨日ぶりの寮長、フジキセキ先輩の姿があった。気配をまるで感じなかった。

 

 くすくすと笑みを浮かべているあたり、わざと隠していたのだろう。 

 

 「・・・寮長」

 

 「ははは、ごめんごめん。あまりにも真剣に見ているようだったから、ついね。」

 

 変わらない笑みを浮かべた後、私が先程まで見ていた・・・私のトレーナーがいた場所に視線を向けた。

 

 「・・・・・・半年ほど前かな。いつも通りの休日練習中、突然新人君がやってきたんだ。練習方法を学ばせてくださいってね」

 

 寮長は懐かしむように微笑む。半年ほど前といえば昨年末よりもさらに前だ。その時期から?

 

 「最初は門前払いだったよ。『わざわざ敵に塩を送るやつがあるかっ!!』ってトレーナー怒っちゃってさ。それなのに毎週毎週頭を下げて頼み込んできたんだよ。彼はいつも言ってた。自分が不甲斐ないせいで、彼女の力になってあげることが出来ない。彼女のトレーナーにふさわしい人物になりたいってね」

 

 「・・・・・・それで今は」

 

 「ああ、2か月近く経った頃かな。とうとう私のチームトレーナーが折れて、練習内容を伝授するようになったよ。彼が帰った後、私のトレーナーは頭を抱えながらも笑ってたよ。『あんな毎回頼み込まれちゃうるさくて敵わねえ。まだ若いってのに大したもんだ。』ってね。あんな表情、初めて見たさ」

 

 それにね、と彼女は付け加える。

 

 「栗東寮の寮長という立場上、私が一番遅くまで門前に立っているんだけどね。遠くに見えるトレーナー棟の一室、いつも同じ部屋が夜遅くまで明かりがついているんだ。毎日毎日遅くまで。・・・・・・ふふ、大人げないけど妬いてしまったよ。そんなにトレーナーに思われるウマ娘は幸せ者だなって」

 

 私を見ながらの発言。その笑顔の裏に少し、ほんの少しだけ嫉妬の色が隠れていた。その部屋のトレーナーが誰なのか。担当のウマ娘が誰なのか。公言せずとも読み取れた。

 

 正直、今のようなフジキセキ寮長の表情は初めて見た。笑顔を絶やさず、みんなから頼られる存在。それゆえ、負の感情を簡単に表に出すような方ではない。裏を返せば、それだけの感情を寮長が抱いたということになる。

 

  「一度、頼ってみたらどうかな?人に助けを求められるというのも、立派な能力の一つだよ」

 

 それじゃあね、ポニーちゃん。と言い、寮長がチームメンバーのもとへ近づいていった。練習には誘われなかった。思い返すと確かに昨日、寮長は見に来てほしいとは言ったが参加してほしいとまでは口にしていなかった。この光景を私に見せたかったのだろう。 

 

 「助けを求める、か・・・」

 

 ぽつんと1人残された私。先程言われた言葉を、自分でも口にする。

 

 ・・・・・・悩んだ私は、その場でスマホを取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、授業が終わり第4運動場に来た。

 

 今までと変わらない行動。しかし一つ、違うところがある。本日、私の頭の中に練習プランはない。

 

 『分かった!レースがあったし今日はゆっくり休んでね。明日の練習から取り組んでいこう!』

 

 トレーナーから届いたメッセージだ。私は昨日、ミーティングを無断で休んだことに対する謝罪とともに、明日からはトレーナーの指示に従って練習をするという旨の文章を送った。

 

 そこから1分も経たないうちに送られてきたのが上記の文章である。

 

 敗北をしたことで目標が無くなってしまい、何を目指した練習内容にすればよいか、分からなくなってしまったという気持ちもある。

 

 結局自分で作成する気力が沸かなかったため、1度トレーナーの組んだメニューを見てみようと決めた。

 

 ・・・・・・そういえば、彼の資料にしっかりと目を通したのは何ヶ月前ほどになるのだろうか?

 

 「ベガ~・・・」

 

 そんな事を考えていると、トレーナーの声が聞こえた。まだ遠くにいるからだろうか、その声はいつもより少し弱く感じた。

 

 顔を上げると、小走りで駆け寄ってくる彼を見て・・・・・・反射的に体が動いた。

 

 「ちょっとトレーナー!?大丈夫なの!?」

 

 慌てて駆け寄り、トレーナーの身体に手を添える。こちらに近寄ってくる彼が見るからにフラフラだったのだ。

 

 トレーナーを支えながら表情を伺うと、目元にひどいクマが出来ていた。こちらに向けた視点も定まっていない。

 

 それでも、資料を持つ手には力が籠っていた。

 

 「ははは・・・初めて頼られた事で少し張り切っちゃってね」

 

 「トレーナー、昨日から睡眠取ったの?」

 

 「・・・まあ、一日くらいは大丈夫だよ、うん」

 

 「全然大丈夫じゃないわよ!?」

 

 無理やりにも笑みを見せる彼を抱きかかえる。普段滅多に大声を出さない私が、どうして彼の状態を見て動揺してしまったのか、分からなかった。

 

 「練習中に倒れられたら迷惑よ。トレーナー室と保健室、どっちに連れていけば・・・トレーナー室ね、分かったわ」

 

 小声でトレーナ室と呟いたのを聞き、歩を進める。最初こそ肩を貸したが、大丈夫だという言葉を信じて横に並んで歩く。

 

 1年間で数えるほどしか来ていなかったトレーナー室。本来であれば練習後にミーティング、打ち合わせを行う場所。前に来たのは年を跨ぐより前だったか。

 

 歩き慣れていない道。横目で見ると、ふらつきながらも歩くトレーナーの姿。彼の歩行速度に合わせて私も歩を進める。

 

 「トレーナー、着いたわよ」

 

 「・・・・・・ああ、ありがとう。・・・・・・えっと」

 

 まぶたが重いのか、半目になりながら部屋に入り、机に向かうトレーナー。流石に椅子での休息は、と思っていたら、何やら探しものをしているようだった。

 

 紙束を持っていない手で、机の引き出しを開ける。三段目に入っていたらしく、漁って取り出したその手には小さな物体が握られていた。機械に明るくない私でも知っている物、USBメモリだった。

 

 そのまま紙束と合わせて私に差し出してくる。

 

 「・・・これ、今日の練習内容をまとめた資料。USBには簡単にまとめたデータとか入っているから。・・・・・・後で見てほしいな」

 

 「後でって・・・私、パソコン持ってないのだけど」

 

 「そうなの?あ~・・・・・・じゃあ、僕のパソコン空いてる時使っていいよ。パスワードは・・・・・・はいこれ。ゴメン、ちょっと自分でも何言ってるか怪しくなってきたから・・・・・・」

 

 「分かった、分かったから早く休んで」

 

 メモ用紙にパスワードを書き、渡してくれた所で限界が来たようだ。頭に手をやり、部屋の隅にある仮眠用ベットに腰掛け、そのまま倒れ込む。

 

 1分もしないうちに彼の寝息が聞こえてきた。流石に倒れ込んだ状態のままでは寝苦しいと思い、足を持ち上げて全身をベットの上に載せて布団をかけた。

 

 動かす最中、また起きてしまうのではと思ったが、余程疲れていたのか最後まで瞼は開かなかった。 

 

 (どうしてここまで・・・・・・)

 

 机の上に寄せた資料とUSBに目を移す。徹夜の原因は、十中八九これらだろう。何故ここまで彼が頑張ったのか、理解できなかった。1年間、私は彼と会話らしい会話もしてこなかったのに・・・。

 

 スッキリしない気持ちのまま、パソコンを立ち上げる。余り使い慣れていないキーボードの操作に手間取りながら、パスワードを打ち込んだ。

 

 そのままUSBを差そうとして、デスクトップ画面を見て手が止まった。

 

 視界に飛び込んできたのは、私の名前がつけられたフォルダ。気になりクリックしてみると、その中でまた月ごとに区分けされていた。

 

 マウスを操作し、先月のフォルダを開いてみる。その中には日付が付けられた資料が保管されていた。1日の漏れもなく、3月すべての日、31日分がある。タイトルには日付の後に『トレーニング資料』と明記されていた。

 

 (私に毎日渡していた資料・・・?)

 

 試しに一つを開いてみる。昨年末辺りからは内容を精査せずに突き返していたトレーニング内容表。そのデータが画面上に映し出された。

 

 今までだったら時間の無駄だと判断し、読むこともしなかったもの。それを私は何気なしに目を通した。

 

 読み進めて、

 

 読み進めて、

 

 「・・・・・・え」

 

 と、声が漏れた。

 中身は皐月賞へ向けてのトレーニングが細かく記されている。私の現在の実力やそれに沿った練習項目、現状の課題などが綴られていた。

 

 私も今まで自分で練習内容を考案、作成していた。だからこそ、読み終えた時点ではっきり分かった。分かってしまった。

 

 トレーナーが作成した資料が、私のそれより『遥かに完成度が高いこと』が。

 

 「何、これ・・・・・・」

 

 つぶやきが漏れるが、それに返答する声はない。見間違いかと思い、もう一度読み直しても結果は変わらなかった。

 単に時間を掛けたから、というわけではない。確かにトレーナーは私よりも内容の考案、推敲に使用できる時間は多い。しかし、これはそんな次元ではない。

 

 トレーナーとしての知識量。力量。判然たる差がなければ、これだけの違いは生まれない。

 

 私の課題、現状の欠点が記載された場所を読みすすめると、私自身把握していなかった弱点や癖に至るまで事細かに記されており、その改善方法についても具体的に明記されていた。その数は、1つや2つではない。

 

 思考がおぼつかないまま、別の日に作成された資料も開いていく。そのどれもが最初に見たものと遜色ない出来栄えのものだった。少なくとも、私が1日で作成できるような代物ではない。

 

 読み進めるほどに理解できてしまう。この練習方法が、私にとって最善のものであると。現状の私に最適な方法だと。

 

 「嘘でしょ?・・・・・・だって去年は」

 

 呆然としたまま、昨年上半期の資料データを開く。見覚えのある、お世辞にも良い出来とは言えないトレーニング資料が保存されていた。間違いない、当時のトレーナーは私と大差ない能力しかなかった。

 

 そこから月ごとに区分されたフォルダを開き、照らし合わせる。

 

 ・・・・・・少しずつ、少しずつではあるがその指示内容が詳細に、具体的になっているのが伝わってきた。

 

 年末には初期に比べ、別人が作成したのではないかと思うほどの完成度となっていた。年明け以降は、私が考案したものなんか比較対象にするのも恥ずかしいほどの出来栄えとなっていた。

 

 何故気付かなかったのか?そんなの私が一番良く知っている。

 

 彼が作成した資料を、ろくに読みもせず突き返したのは誰だ。

 

 私の勝利のためにまとめてくれたデータを、見ようともしなかったのは誰だ。

 

 彼の努力の成果に気づけなかったのは誰だ。

 

 「あっ・・・・・・」

 

 再び声が漏れる。体が震え、両手を机に当てて何とか体を支えた。

 

 『お互いがお互いを信頼しあうことが何よりも大切なのだよ!』

 

 『君はもう少し周りを見たほうがいい』

 

 『遠くに見えるトレーナー棟の一室、いつも同じ部屋が夜遅くまで明かりがついているんだ』

 

 『もっと君のトレーナーの意見を聞いてみたらどうかな?あんなに素晴らしいトレーナーはいないよ』

 

 今まで言われてきた言葉が、初めて私に届いた。

 

 周りは彼のことを見ていた。昨年会ってから今まで、一番近い位置にいながら何も見てこなかった私と違って。

 

 『ベガ!今日のトレーニング内容だけど・・・』

 

 『ベガ、来週のレースだけど、相手のウマ娘について気になることが・・・』

 

 今まで彼がずっと私を見てくれていた事に気づいた。

 

 それに対して、私は何をしていた?「私の事は私が一番良く分かっている」だって?

 

 「・・・・・・は、ははは・・・・・・」

 

 自身のトレーナーから指示を十全に受け、信頼と結果で応えたオペラオーが頭に浮かぶ。ああ・・・・・・これでは、負けて当然だった。

 

 仮眠用ベットで寝ている彼に目を移す。眠りは深いようで、目覚める兆候が感じられない。

 

 震える手で、そっと彼の目元に触れる。

 

 たった一日の徹夜だけで、ここまでひどいクマが出来るのだろうか?日々の書類作業に加え、毎日あれだけ精査したトレーニング資料を作成して、まともな睡眠時間を取れるのだろうか?

 

 ・・・・・・一昨日、皐月賞に出走する前の控室、彼はどんな顔をしていた?健康な顔だった?今みたいな酷いクマができていた?

 

 覚えていない。思い出せるはずがない。だって私は今まで、『トレーナーの事を見ていなかった』のだから。

 

 ぽた、と彼の顔に雫が落ちた。止めようとしてもそれは二滴、三滴と続いていった。

  

 

 

 「ごめん、なさい・・・・・・ごめんなさいっ・・・・・・」

 

 

 

 届かない言葉が、私の口から漏れ出た。何度も、何度も。

 

 後悔が止めどなく押し寄せてくる。せき止められなくなった言葉が、涙が溢れ出す。

 

 初めて正面から見たトレーナーの素顔。しかし彼は眠っており、目を合わせることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 どれほど時間が経っただろうか。

 

 未だ、流れ続けている涙を手で拭う。もう一つの手は、今日彼から渡された資料を握っていた。

 

 空を見ると、まだ明るい。遅くなったとは言え、練習時間は十分に残っている。

 

 トレーナーが作成してくれた練習資料。今日の分の内容は全て覚えた。

 

 トレーナーはまだ目覚めていない。きっと夜遅くまで、もしかすれば日付が変わるまで眠り続けるかもしれない。その休息の邪魔をしてはいけない。

 

 「トレーナー・・・・・・明日、また来ます。その時、謝らせて下さい」

 

 もう、全てが遅い。1年間私がしてきた仕打ちは、いくら頭を下げた所で許してもらえないだろう。

 

 それでもけじめはつけたかった。ここで過去と決別しなければ、前に進めない気がするから。

 

 書き置きを残し、静かに部屋を出る。

 

 三冠という目標を見失った。夜空は雲に覆われ、あなたの輝きも見ることが出来なかった。

 

 それでも、1ヶ月後の日本ダービーは待ってくれない。時間は等しく、平等に流れる。

 

 ・・・・・・トレーナーが作成してくれたトレーニング資料。この内容に従えば、見失った道が再び見えてくるような気がした。

 

 そのためには、まず今日という日を無駄にしてはいけない。

 

 「・・・・・・よし」

 

 早足で練習場に向かう。

 

 雲の切れ間から差し込む日の光を浴びながら私は一つ、気合を入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ありがとうございます、フジ先輩。我儘を聞いていただいて」

 

 練習が終わり、寮に戻る途中。目的の人物を見つけたボクは、彼女の傍に行って頭を下げた。

 

 練習中は時間が取れずに出来なかったお礼をようやく言うことが出来た。

 

 先程まで走っていたためだろう、微かに息を弾ませていた先輩は私に視線を向け、笑顔を見せる。

 

 「礼には及ばないよ。でも、良かったのかい?」

 

 「・・・・・・はい、ダービーでは本気のアヤベさ・・・アドマイヤベガと戦いたいので。全力でない相手から取った1着など、嬉しくありませんから。それに、昨年までは私が勝手に教わっていたりしてましたからね。これで貸し借り0です」

 

 「そうか。・・・・・・ふふ、君もそういう真っ直ぐな所、トレーナーに似てきたね」

 

 朗らかに笑うフジキセキ先輩。それを見てボクも笑みがこぼれた。

 

 改めて、思うことがある。先日の皐月賞ははっきり言って手応えを感じなかった。

 世間では、飛ぶ鳥を落とす勢いだったアヤベさんに初めて土をつけたことで、ボクの評価が一気に上がったと聞いている。

 それに関しては素直に嬉しさを覚える。GⅠでの勝利だ、覇王へ至る道の第一歩を踏み出せたことを喜ばないはずがない。

 

 ・・・・・・相手全員が全力を出し切っていたらの話だが。

 

 あのレース、アヤベさんは本気だったことは確かだ。それでも、全力かどうかと言われたら断言できない。

 

 レース後に彼女と会話をした時、息絶え絶えだったボクと違ってほとんど息が乱れていなかった。

 

 ボクの奇襲作戦に対応できず、ラストスパートを掛ける場所を見誤ったのだろう。作戦勝ちと言われればそれまでだ。

 

 それでも、思う。相手の全力を受け止め、それに打ち勝って勝利を手にすることこそが覇王たるゆえんではないのかと。

 

 『地上の一等星』アドマイヤベガ。まだボクは彼女みたいな二つ名で世間からは呼ばれていない。覇王も自分で勝手に名付けているだけの称号だ。

 

 それでも、今回の勝利で多少なりとも知名度は上がった。次のレースで全力を出した彼女を上回れば、その時こそ・・・・・・

 

 「アドマイヤベガには負けませんよ」

 

 しっかりとフジ先輩を見据えて宣言する。

 

 舞台は整っている。次戦はGⅠレース、日本ダービー。三冠へ至る大きな一戦であり、決定的に今回と違うことが一つある。

 

 走行距離2400m。

 

 今回より400m長い距離であり、実質長距離レースのようなものだ。距離が長くなれば長くなるほど、あの末脚はより驚異となる。だからこそ、そこから掴む勝利には意味がある。

 

 勝つ自信も、それを裏付ける実力もある。そう断言できるだけのトレーニングを積んできた自負もある。力強い言葉と共に、言い切った。

 

 「日本ダービーの主役は、このボクです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一日が経ったトレーナー室。

 

 本来であればトレーニングが始まる時間、体調が回復したトレーナーに事前に話したいことがあると伝え、この場所で待ってもらっていた。

 

 「いや、もうほんと大丈夫だって!何にも気にしてないし!」

 

 「いえ、本当に・・・・・・本当にそんな言葉で済ませていいものではないので」

 

 「いやいやいや取り合えず顔を上げてベガ!」

 

 トレーナーからの必死の声が聞こえる。それでも私は今取っている体勢を崩さなかった。

 

 床に膝をつけ、そのまま額を倒して手も床に添える。一般的には『土下座』といわれている体勢である。

 

 トレーナー室に入り彼の姿を確認して1秒、私は扉を閉めてその場で土下座をした。

 

 私の奇行に慌てて席を立って私の近くに来たトレーナーにぽつぽつと、今までの謝罪を行う。

 

 

 

 トレーナーの意見を聞かないで練習をしていたこと。

 

 レース本番でも自分一人で勝手に作戦を立てていたこと。

 

 トレーナーの頑張りを見ようともせず、一人で戦っていたこと。

 

 

 

・・・・・・冷静に考えると、いや冷静に考えなくてもよく契約解除されなかったなと思う。今までしてきた事を考えると、10数回は契約を切られていても不思議ではない。

 

 この行為が意味のないことだというのは分かっている。これだけの仕打ちをしてきた私の謝罪など、受け取りたくもないだろう。謝られても、迷惑なだけだ。

 

 それでも私は、頭を下げた。心に決めた、ケジメのため。そして最後に付け加えた。

 

 「今までの私の行動は目に余るという次元を超えています。トレーナーが望むなら、契約解除をして下さい」

 

 と言った。

 

 トレーナーが私の肩に触れ、状態を起こそうとしているが、力の差は歴然であり私の体勢はびくともしない。何度も起こそうと奮闘していたが無理だと悟ったのか今度は言葉で上げさせようとしてきた。

 

 「いやほら、契約自体はベガが最初に言ってたじゃない。私を納得させられなければ、どんな指示も受け取らないって。今は多少マシになったけど、昨年はそれこそベガのほうが詳しいんじゃないかって思うくらい僕が酷かったからね。」

 

 あはは、と声を出すトレーナー。きっと今は苦笑いの表情を浮かべているのだろう。

 

 「それにさ、あの選抜レースで一目見てベガの走りに惚れたんだ。初めて担当を持つという期待と不安。それがゴチャ混ぜになりながら見たのが君のレースなんだ。今では流星と言われている君の末脚。初めてみた瞬間、『この走りを誰よりも傍で見たい。毎回1着を取らせてあげたい。』ってね」

 

 それにさ、と幾分落ち着いた声が降ってくる。

 

 「本来だったら、1着を取ったベガだもん。逆立ちしても僕の担当にはならなかったと思う。ベガがあの条件を出してくれたからこそ、新人の僕が担当になれた訳で・・・・・・だからまあ、感謝こそすれ恨むことなんてしないよ。ベガ」

 

 だからほら、顔を上げてよ。と優しい声で私に語りかける。

 

 ・・・・・・恐る恐る顔を上げると、声の通り頬を掻きながらも穏やかな表情を浮かべているトレーナーがいた。しゃがむ体勢で、私の目線の高さに合わせて会話をしてくれている。 

 

 「良かった、やっと目が合ったね」

 

 至近距離でニコッと微笑まれて無性に恥ずかしくなり、慌てて立ち上がろうとする。しかし先程までの体勢を急に解いたせいか、バランスを崩してしまい後ろに尻もちをついてしまった。・・・・・・スカートじゃなくてジャージを着ていて良かった。

 

 こんな情けない姿を見せたのも初めてかもしれない。そう思いつつも再び謝ろうとしたが、今度こそトレーナーに止められた。

 

 「ベガ」

 

 彼は笑顔のまま、右手を差し出してきた。

 

 ・・・・・・本当にいいのかと思ってしまう。トレーナーさんの表情から、そこに嘘偽りは感じられない。きっと本心から言葉が紡がれたのだと感じる。

 

 「・・・・・・トレーナーはいいの、ですか?」

 

 「敬語じゃなくてもいいよ」

 

 「・・・・・・いいの?私は目標を失った。これから何をすれば良いのかも分からないの」

 

 「だったら、僕が短期間ながら道を示すよ。そこからまた、新たな目標、目的を見つければいい」

 

 だから、ダメかな?と少し不安そうにつぶやくトレーナー。

 

 ・・・・・・ここまでしてくれた上、今も私のことを見捨てない彼。私は、私がしてきたことが許せない。それでも、トレーナーが許してくれるというのなら、彼の願いのために動きたいと思った。

 

 『この走りを誰よりも傍で見たい。毎回1着を取らせてあげたい』というのが彼の願いなら、私はそれを叶えたい。

 

 これを目標と言えるのかどうかは分からない。それでも今は、すがりたい。

 

 私は気づいたら、彼の手を取っていた。

 

 「よろしくお願い。トレーナー」

 

 あの日以降1人で生きてきた私は今日、トレーナーの手を借りて立ち上がった。




(追記)
誤字報告をいただき、修正をしました。
知らせていただきありがとうございます。


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地上に輝く一等星(4)終

トレーナー✕アドマイヤベガ短編、完結です。

第3話と同時投稿したので、まだ呼んでいない方は3話からどうぞ。


以下、ネタバレ防止余白




















 「それではこれより、日本ダービーに向けての作戦会議を始める!」

 

 大声で宣言した後、一度言ってみたかったんだよねこういうの、と目を輝かせるトレーナー。

 

 件の出来事が起こってから初めて迎えた週末、明日は学園も休日ということで時間を掛けて打ち合わせを行うことが出来る。残された日数的にも丁度よいということで、夕食を終えた私はトレーナー室にお邪魔した。

 

 今までは特段意識していなかったが、改めて見渡すと殺風景な部屋だと思う。仕事用の机と椅子に仮眠用のベット。あとは小型のソファくらいか。相部屋である私の寮室の方が、まだ物が多いのではと感じてしまう。

 

 物を買っても使う機会がないからなぁ、と笑いながら話すトレーナー。機会ではなく時間がないため使えないのではないか、と勘ぐってしまいまた少し胸が痛んだ。

 

 トレーナーが用意した予備の椅子に座り、2人でパソコンを覗き込む。画面には皐月賞のレース場をプログラムで組んだものと出走予定のウマ娘データが写っていた。

 

 「さて、早速結論を言うけど・・・・・・日本ダービーの本命はベガ、君だと確信しているよ」

 

 「・・・・・・何もここでお世辞とか言わなくていいわよ」

 

 堂々と宣言をする彼に対し、内心苦笑しながら返答をする。皐月賞では無残な結果に終わったことで、ダービーの一番人気はオペラオーになるだろうと噂されている。

 

 今までの戦績があるので私も上位人気に収まるだろうとは言われているが、本命に挙げる人がいるかどうかは甚だ疑問だ。

 

 しかし、彼の顔に冗談の色は浮かんでいなかった。さっきまでの柔らかな声と打って変わって、力強い声が返ってくる。

 「本気で言ってるよ。そもそも、皐月賞だって君が勝てる可能性は十分すぎるほどにあったんだよ」

 

 「そうなの?」

 

 「うん。・・・・・・スパート位置を盛大に間違えたり、焦るあまりバランスを崩したりしてなければね」

 

 「うっ・・・・・・」

 

 じとーっ、と冷たい目で見られ彼から視線を外してしまう。おかしい。トレーナー、こんな人だったっけ?というより、バランス崩したことがバレていた。ほんの少しの動作だったため、気付かれていないと確信していたがお見通しだったみたいだ。

 

 「どれくらい君だけを見てきたと思ってるの?すぐに分かったよ。それにベガにはこれから全レースで1着をとってほしいからね。言うべきことはどんどん言っていくから覚悟してね」

 

 彼はパソコンを操作し、皐月賞のときの映像を立ち上げる。苦々しい記憶であると同時に、反省点が詰まっている教材。

 

 序盤から通して展開を見る。終盤、ハイペースで来たオペラオーが見せた最終直線での再加速。彼女にここまでのスタミナがあったということが予想外だった。しかし、映像を見るトレーナーの目には悲観や不安などがない。

 

 オペラオーが先頭でゴールインし、数瞬遅れてバ群がゴールラインを駆け抜けていく。その中に私の姿もあった。

 

 「ぶり返しになるけど、バランスを崩してなければ2着にはなれていたよ。大外からの展開でブロックされる心配も無かったからね。スパートの位置をもっと早くしていれば、更に分からなかった。ベガだけゴールしてからも息があがってないように見えたからね」

 

 映像を止め、レースを模倣したプログラムを起動させる。予め条件は入力していたのだろう。1度クリックするだけで、画面の中で皐月賞の再現が起こった。

 

 しかし、終盤で私のスパート位置だけが実際よりも早めに始まった。オペラオーもその後スパートを掛けるが、私のほうがスピードが速い。

 

 どんどんと差を縮めていき、最終的には私とオペラオー2人が並んでゴールラインに駆け込んだ。

 

 「ね?結果は6着だったけど、実力で負けたわけじゃない。むしろ純粋な能力だけならまだベガのほうが上だと思っている。作戦で負けたのであれば、いくらでも手の打ちようはあるよ。ベガ、今回のレースで違和感を感じなかった?」

 

 違和感、と言われて私は記憶を呼び起こす。そういえばレースを走っている時・・・

 

 「思い当たる節があるでしょ。ベガ、妙にペースが早いと思わなかった?」

 

 「うん、オペラオーに釣られてみんな前に出たのかと」

 

 「違うよ、みんなベガを警戒していたんだ」

 

 「え、私を!?」

 

 「そう、5連勝中のベガを分析して、同じタイミングでスパートしても、あの末脚には勝てないと思ったんだろうね。だから早めに仕掛けて距離を開けてきた。その貯金が最後の直線で生きてきたんだ。ベガ、1番人気のウマ娘を対策しない相手はいないよ」

 

 静かに諭されるように言われ、うつむいてしまった。自分の能力向上だけを考えていて、相手まで気を回す余裕がなかった。考えてみれば当然だ。いくら自身を高めても、レースは相手に勝ってこそ1着を得ることが出来る。相手を分析し、対策を練るのもトレーニングと同様に、いやそれ以上に大事なことだった。

 

 「まあでも、作戦については問題ないよ」

 

 カタカタとキーボードを打つ音が鳴る。短時間で画面が切り替わり、先程までとは違うレース場が表示された。

 

 「これは・・・・・・」

 

 「うん、日本ダービーのコース。皐月賞との違いはコースもそうだけど、何より距離が400mも違う。今回みたいなハイペース戦を仕掛けられても、流石にあちらの体力が持たないよ。スタミナに関しては、ベガが頭一つ抜けているからね」

 

 皐月賞と極力同じ条件でレースプログラムが起動した。今度は私のラストスパートが炸裂し、最終直線でオペラオーを含む全員をごぼう抜きして1着を取った。

 

 「勿論、相手さんも全く同じ作戦は取ってこない。どんな作戦で来るのか、予想はできても確信は持てない。そもそも大半の顔ぶれが変わるだろうしね。作戦の考案や予想は僕の方で頑張るから、ベガは残りの1ヶ月弱、トレーニングを積んでほしい。大丈夫だよベガ、君が一番強い。保証する」

 

 「・・・ありがとう」

 

 面と向かって言われ、ついそっぽを向きながら返事をしてしまう。こんな性格だからか、真っ直ぐに褒められることには慣れていない。

 

 ダービーまでの期間の大まかな練習内容については既にトレーナーから伝達されている。

 

 基本練習は勿論だけど、レースを意識したトレーニングが主だ。何せ、公式戦では初めてとなる2400mだ。ペース配分を始めやらなければいけない事は沢山ある。

 

 目下のライバルはオペラオーだ。残りの期間で必ず彼女も2400mという距離に適応し、仕上げてくる。

 

 どの道、終盤までは彼女より前に出ることはない。あらゆる状況に対応できるよう、ピークをダービーに持っていく必要がある。

 

 「ベガ。又聞きになるけど、目標は見つかった?」

 

 「・・・・・・まだ、かな。」

 

 顔を上げたトレーナーの問いに、私は悩みつつも答えた。

 

 3日前の謝罪で、私は目標を失ってしまったことを伝えていた。3冠の道が途絶えた日の夜、目標とともに一等星の輝きを見失ってしまった。

 

 ・・・・・・見ようと思えば、晴れ予報の今晩にでも天体観測をすれば会える。でも、今は行かないと決めた。あれだけ邪険に扱ってしまったトレーナーが、私の為に全力で日本ダービーに向けてサポートしてくれるのだ。これで自分の都合を優先するなど恩知らずなことは出来ない。夜はしっかりと休息にあてて、怪我を防ぐために体力を回復させる。

 

 勝って、あなたに会いに行く。そう決めた。

 

 「これが目標かどうかは分からないけど・・・・・・トレーナーが私の走りを、1着を見たいと言ってくれた。だから今は、それだけのために走りたい」

 

 私の走りを望んでくれる人がいる。それなら、今はそのために走りたい。私の願いではないかもしれない。それでも、心に抱くだけで前に進むことは出来る。

 

 「そっか。・・・・・・ベガ。君が心から走りたいと思える理由を再び見つけられるまで、僕も精一杯手助けするよ。勿論、その後もだけどね」

 

 再びトレーニングの資料を閲覧しながらも、力強くトレーナーは答えてくれた。

 私も資料を覗き込む。明日の休日練習用のメニューを確認しながら、トレーナーの話に耳を傾けた。 

 

 

 

 

 残された期間、私は本番を想定した模擬レースの練習に明け暮れた。

 

 基礎練習は言わずもがなだが、その後はトレーナーが上げてくれた私の弱点、欠点の修正に取り組むものだと思っていたため、少し意外な気持ちになった。

 

 「残りの時間があまりないからね。弱点といっても、数はともかく重大なものはないんだ。勿論、修正できるに越したことはないけど今はレースを想定した練習をしたほうが勝率は高くなる」

 

 トレーナーはストップウォッチを手にしながら、走り終わった私に語る。手渡されたスポーツドリンクを飲みながら、今のタイムを伝達された。ストップウォッチに表示されていた記録は、2月に1度だけ取った2400m走の数値より大分悪くなっていた。

 

 息を切らせながら水筒を傾け、喉を潤す。悲壮感は無かった。少し経ち、私の息が落ち着いたのを見て彼は再び口を開いた。

 

 「うーん・・・・・・この距離からのロングスパートは流石に難しいか」

 

 「そうね。残り200mくらいでもう足が動かなくなったわ。」

 

 成程と呟き、トレーナーが手元の資料に目を落とす。

 

 2人で取り組んでいる目下の課題、それは『どこからスパートを掛けるか』である。

 

 いくら私が豊潤なスタミナを持っているとはいえ、最初から全力疾走できるかと問われれば即座に首を横に振る。

 

 前回の皐月賞のように温存しすぎると体力を余らせたままレースが終わってしまうし、逆に仕掛けるのが早すぎると今みたいに最後にバテて失速してしまう。

 

 単純な距離だけの問題にとどまらず、バ場の状態やレース展開、勝負する相手など様々な要素を考慮して調整しなければ、必殺の末脚も宝の持ち腐れのまま終わってしまうこととなる。

 

 スパートタイミングをトレーナーが調節し、それを私が実践する。走り終わった後は2人で検討会を始める。

 

 内容は違えど、全部1人で行ってきたこと。それが今はトレーナーが傍にいて、一緒に課題に取り組んでくれている。

 

 不思議な感覚だった。隣に人がいてくれる事実が。2人で一つの目的に取り組んでいることが。今まで避けてきたこと。でも今は、嫌な感じはまったくない。むしろ・・・・・・

 

 「ん?どうしたの、ベガ」

 

 いつの間にかトレーナーを見つめていた。視線を感じたのだろう。彼も私の方を向いて首を傾げた。

 

 「ふふっ・・・・・・何でもない」

 

 笑みで返し、続きを促す。本番で私の実力全てを出し切るには、練習で完璧に仕上げなければいけない。前回よりもオペラオーは更に強くなってくる。1位を取るためには、私もより高みに至らなければいけない。

 

 「休んだらもう一回行ってくるね。今度はどこ位置から仕掛けるの?」

 

 息を整えながら、最高の形に仕上げるために闘志を燃やす。

 

 決戦の刻が近づいてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 晴天、雲ひとつない大空の下で大歓声が鳴り響く。

 

 前のレースが終わり、遂に本日のメインイベントが近づいてきた。

 

 日本ダービー。数少ないGⅠレースの中でも頭一つ格が高いレースであり、見事勝利を手にできれば、長い間語り継がれるほどの名誉となる。

 

 競バに興味がない層でも名前は知っていると言われるレース。当然ながらファンにとって一大決戦であり、開門してすぐに観客席は満員となった。

 

 その数20万人近く。数多の熱気が、期待が、興奮が会場を支配する。

 

 集うは18頭の精鋭。日本ダービーに出走できるというだけでもその優秀さが証明されているが、1着は1人だけ。

 

 出走するだけでは記録にしか残らない。勝ってこそ、人々の記憶に残る。

 

 そして、勝者と敗者が決まるからこそ、人々は栄光を掴むであろうウマ娘を予想する。

 

 1番人気 テイエムオペラオー

 2番人気 アドマイヤベガ

 

 大衆のおおまかな予想は、この2人に絞られていた。

 

 今回の主役になるであろう、本命と本命。選抜レースから抜きん出た実力を発揮していたアドマイヤベガ。前回の皐月賞でこそ破れたものの、その評価は未だに高い。

 

 そんな彼女と過去4戦ぶつかりあったのがテイエムオペラオーだ。その内3戦は敗れるものの全て2着。前回の皐月賞でついに打ち勝ち、1着を手にした。そのレース運びはまさに圧巻の一言であり、余韻冷めやらないまま本日を迎えたことで初めてアドマイヤベガの人気を上回った。

 

 片や演出家の先行型。片や寡黙な追い込み型。

 

 お互いに対極の存在であり、更には事あるごとにオペラオーがベガにライバル宣言をしているため、二人の対決はファンにとっても非常に見栄えが良い。

 

 どちらが勝つのか。2人がどのようなドラマを見せてくれるのか。レースが始まる前から、観客のボルテージは最高潮に達しようとしていた。

 

 その熱気から遠く離れた控室。一組のトレーナーとウマ娘が共に部屋を出ようとしていた。

 

 「・・・・・・トレーナー、行ってくる。」

 

 「うん、いってらっしゃい。僕もトレーナー用の観客席から応援するよ」

 

 気負わず、背負わず、それでい闘志を絶やさず。

 

 その瞳には、ただ前だけを見ていた。1ヶ月前の敗北を乗り越え、自分の全てを入れ替えて望んだ、勝負に挑む少女の覚悟が垣間見えた。

 

 

 

 歓声がひときわ大きくなった。

 

 何事かとあたりを見渡すと、すぐに納得がいった。オペラオーがこちらに近づいてきたのだ。レース直前のこのタイミングで話しかけてくるのはいつもの事とはいえ、日本ダービーという大舞台でも変えずに実行するのは彼女らしいというべきか。

 

 今日、一番の人気を集めているのは間違いなく彼女だろう。その実力も勿論だが、観客がどうすれば喜ぶのかを考えながら行動しているフシがある。今だって声援に対し、大きく手を振りながら応えて笑顔を振りまいている。

 

 「やあやあアヤベさん!今回は1番人気を譲ってもらったよ!大三冠にむけて、今回も先頭は最後まで譲らないさ!」

 

 ・・・・・・そして無意識かもしれないが揺さぶりも上手い。先頭、という単語を聞いた瞬間、皐月賞の大逃げが頭をかすめた。

 

 一見すれば尊大とも取れる態度。しかしその裏には血の滲む努力によって手に入れた確かな実力があった。

 

 『オペラオー!今回も魅せてくれー!』

 

 『ベガー!応援してるぞー!』

 

 地を揺らすほどの応援の声。そこに私達の名前が叫ばれており、オペラオーは応えるように大きく手を降った。途端に起きる大歓声のうねり。

 

 私も同じように、とは行かなかったがなるべく大きな手振りで声援に反応を返した。普段はそんな事をしなかったからだろうか、観客席からどよめきが起き、その後彼女に負けず劣らずの大歓声が届いてきた。

 

 ・・・・・・驚いた。私、ここまで応援をされていたんだ。

 

 今まで自分の事で手一杯だった。1位を取った時の歓声は気持ち良いものがあったが、あくまで勝者への賛美だと思っていた。私に声援を送ってくれる人にまで、気が回っていなかった。

 

 「変わったね。アヤベさん」

 

 応え終わったのだろう、オペラオーが私に再び質問をしてくる。王冠をかぶった白とピンクを基調にした勝負服。彼女の雰囲気も相まって、様になっている。

 

 「変わった?」

 

 「ああ。前まではそこまで余裕が無いように感じたからね」

 

 「・・・・・・そうかな。そうかもね。ありがとうオペラオー」

 

 微笑んで、礼を返す。私の言葉が意外だったのか、彼女は首を傾げた。

 

 「オペラオーとフジキセキ先輩の言葉のおかげで、自分を見つめ直すきっかけが出来た。もし、変われたと言うならあなたのおかげ」

 

 「・・・・・・やれやれ。本当に別人だね」

 

 「でも、変わっていない部分もあるわ」

 

 頭をかきながら苦笑するオペラオーに、はっきりと宣言する。言葉の圧を感じ取ったのか、彼女の表情も引き締まった。

 

 この場に立つウマ娘なら、全員が持っている感情。

 

 「人気は譲ったわ。でも、レースでの1番は譲らない。絶対に」

 

 「・・・・・・望む所さ。そうでなくちゃね、アヤベさん」

 

 お互いに笑みを消し、別れた。歓声が鳴り止まない中、私は静かに、ゲートに入った。

 

 思い浮かぶのは、練習の日々。一ヶ月、この日のために全てを費やした。今、その成果を全てぶつける時。

 

 (・・・・・・行ってくるよ。見守っててね)

 

 晴天の下、未だ見えない遥か彼方の輝きを胸に、静かにその時を待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガコン!とゲートが開く。視界一面に広がる、ターフの景色。右足を踏み出し、その直線に身体を一気に放り投げた。 

 

 大歓声が背中を押す。私を呼ぶ声が聞こえる。オペラオーを呼ぶ声が聞こえる。他のウマ娘を呼ぶ声が聞こえる。たくさんの声援を、感情を、一心に受け止めて私は駆け出した。

 

 『さあ始まりました。皆並んでのスタートとなったが4番イーグルアイズ、7番リメンバーラインがまず先頭を主張していった。続いてテイエムオペラオーとアールガイスト。オペラオー、今回は大逃げをせず前方で仕掛けどころを狙う作戦か?大方の予想通りアドマイヤベガは最後方に下がりました。果たしてこの大舞台、必殺の末脚は炸裂するのか!?』

 

 いつものペースを保ちつつ、すっと後方に下がる。早速離れていった先頭に、オペラオーの姿はなかった。2400mという長丁場、逃げの作戦は取らずに彼女のスタイルで勝負しに来たみたいだ。

 

 馬群に囲まれない位置で序盤を進める。後方には私ともう2人、それ以外のウマ娘は全員前線に参加しポジション争いをしていた。 

 

 (・・・・・・私の脚を警戒しているのか、それとも)

 

 走りながら思考を巡らせる。皐月賞とは違い、先頭との距離は大きくは離されていない。オペラオーの周りに固まっていることを考えると、むしろ警戒されているのは彼女のほうかもしれない。

 

 コーナーを曲がり、向かい正面に突入する。声援が遠く聞こえる中、周りにいた2人が徐々に進出を開始した。結果、私一人だけが取り残されることとなる。

 

 最後方にぽつんと1人。前回と同じ状況に、微かなどよめきが聞こえてきた。

 

 『先頭イーグルアイズ、向こう正面の坂を越えました。1番人気テイエムオペラオーはリメンバーラインを抜かし、現在2番手。ピッタリと先頭をマークしております。アドマイヤベガは1人取り残された状態です。皐月賞と同じ状況ですが、ここからどう動いてくるのか!?』

 

 オペラオーが順位を上げてきた。少しずつ前進し、何時でもトップに立てる位置につけている。

 

 他のウマ娘もオペラオーに離されまいと食らいついている。

 

 (・・・・・・よし)

 

 レース距離半分を通過した。大丈夫、ここまでは予想通りだ。私は、『オペラオーとの距離』だけを見て、静かに仕掛け時を待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「オペラオーは逃げでは来ない?」

 

 レース前日の夜に行われた作戦会議、トレーナーから伝達されたのは結論に近いものだった。

 

 「うん。以前から先行で来るだろうっては言っていたけど、今は確信を持って言うよ。彼女のチーム練習を拝見しても、逃げのトレーニングは積んでいなかった。大事なこの時期、わざわざ有意義な時間をブラフに充てるとは思わない」

 

 あくびを噛み殺し、コーヒーを飲みながらトレーナーは分析結果をまとめる。最後の1週間、トレーナーは睡眠時間を削って最後の追い込みをしてくれた。止めようとしたけれど、「今回だけだから。お願い」と頭を下げられてしまい、レース後はしっかりと休息を取ることを約束条件として許可をした。・・・・・・本当は、頭を下げなければならないのは私の方だというのに。

 

 膨大な資料とトレーニングのデータ。そこから彼は一つの作戦を取り決めた。

 

 「ベガ。明日のレースだけどさ、この作戦で行こうと思うんだ」

 

 パソコンを操作して、画面を私に向ける。そこには、一つのレース展開が映っていた。

 

 「今回の難敵はオペラオー1人に絞ってもいい。だからさ、ベガはオペラオーとの距離だけを意識してほしい。どれくらいの距離までだったら差しきれるか。その感覚は今までのトレーニングで培ってきたからね。その距離だけを守って、走ってほしい。そして・・・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先頭争いに加わっていた者。テイエムオペラオーの周辺で仕掛け時を探っていた者。中盤から徐々に追い込みを開始した者。そして何より、テイエムオペラオー本人。レースを走るウマ娘全員が、その音を聞いた。

 

 『ドガッ!!!!!!』 

 

 形容するなら、轟音。地を抉るような、深い衝撃音。それがはるか後方から鳴り響いた。

 

 レース中にも関わらず、気を取られて全員が一瞬後ろを振り返った。振り返ってしまった。そこで彼女らは等しく、同じ光景を見た。

 

 ターフを流れるように走る、一等星の姿を。

 

 

 

 『来た!アドマイヤベガ、何と第3コーナーからラストスパートを仕掛けてきた!この2400mを物ともしないロングスパートだ!あっという間に最後方からライトトーンを捉えたぞ!この大舞台で、彼女の末脚がいよいよ本領を発揮するのか!?』

 

 大歓声が近づいてくる。流星と称された私の末脚。何度も何度も模擬レースを行い、くたくたになりながらも調整を重ね、余力を一切残さない距離を導き出した日々。

 

 バ場状態は良好、その場合のスパート位置も打ち合わせの末、決めていた。オペラオーが逃げなかったことで私も距離を保つために必要以上のスタミナを消費しなかった。

 

 これ以上ない条件。私の脚はあっという間に1人を捉え、更に加速をしていく。

 

 ずっと1人で積み重ねてきた特訓。繰り返し練習を重ねた末に手に入れた、豊潤なスタミナと自慢の爆発力。

 

 この武器だけは、誰にも負けない!

 

 『第4コーナーを回って最終直線に入った!先頭は既にテイエムオペラオーだ!ラストスパートで後続との差を引き離していく!・・・・・・いや違う、1人だけ突っ込んでくるぞ!アドマイヤベガだ!ここで地上の一等星がバ群を尻目に大外から一気のごぼう抜き!既に5番手まで上がってきている!食い下がれるウマ娘はいない!どんどんと彼女の後塵を拝する形となっていく!』

 

 最終直線、なだらかな上り坂に差し掛かるもこの脚は衰えない。基礎練習で来る日も来る日も鍛えた坂路トレーニングの成果を発揮し、瞬く間に3人を一気にちぎった。

 

 見据えるは、彼女の後ろ姿。後はもう、直線での一騎打ち。

 

 息が少しずつあがってくる。ロングスパートの影響が出てきた。それでもまだ、脚も、身体も、気持ちも止まらない。

 

 徐々にオペラオーとの差が詰まってきた。彼女も腕を振り、必死に脚を動かしている。それでも前方で走り続けていたためだろう、肩で息をするように身体が上下に動いていた。

 

 2000mであればもう終わっていたレース。私達は今、未知の領域に足を踏み入れている。

 

 「はああああああああああああああああ!!!!!」

 

 叫びながら、最終直線を突っ走る。中盤離れていた差は縮まった。

 

 心臓の高鳴りが激しい。肺が辛い。それでも私は脚を止めない。

 

 『熾烈なデットヒートだ!本命の2人による一騎打ちは残り200m!もう差は2バ身も無いぞ!テイエムオペラオー譲らないか!アドマイヤベガが差し切るか!大歓声が東京レース場を包み込みます!』

 

 

 

 (遠い・・・・・・遠いっ・・・・・・!)

 

 ゴールラインはもうはっきりと視認できる。オペラオーとの距離はもう1バ身もない。その距離が、遠い。いくら体を動かしても、彼女より前に立てない。

 

 かすかに見えた、オペラオーの表情。彼女は普段なら絶対にしないであろう、私と同じような雄叫びを上げながら走っていた。

 

 『大三冠にむけて、今回も先頭は最後まで譲らないさ!』

 

 レース前の彼女の宣言。オペラオーは私が望めなかった、大三冠を本気で狙っている。心からの目標にしているのだろう、何度も顔を振りながら一心不乱に駆け抜ける。

 

 私だって必死だ。最後に残ったスタミナを振り絞り、脚を前に出す。それでも、最後の距離が縮まらない。

 

 伸びないのではない。私の末脚に、オペラオーが追いついている。もう、気力だけで走っているはずなのに届かない。

 

 もう、ゴールまでは100mを切った。このままでは・・・・・・

 

 (・・・・・・追いつけない?)

 

 フッ、と心に影がさした。何故、どうして届かないのか。練習で培った力も、必死に組んでくれた作戦も完璧だったはずだ。

 

 なら、私に足りないものは何だ?彼女にしかないものは何だ?

 

 (・・・・・・分からない)

 

 答えは、1人では思い浮かばなかった。もう、考える力も尽きかけていた。

 

 答えを諦めたせいだろうか、最後の最後まで追い込み、後少しまで縮まっていたオペラオーとの距離が再び・・・・・・

 

 

 

 

 

「ベガあああああああああああああああああああ!!」

 

 

 

 

 

 その声は、突然耳に飛び込んできた。聞き覚えのある、どころではなくずっと聞いていた声。

 

 顔を巡らすと、いた。スタンドの最前列席で私の名前を呼ぶ、トレーナーの姿が。

 

 昨日まで働き詰めで顔色は良くない。声にもあまり元気がない。それでも大声で私の名を呼ぶ彼。

 

 その瞬間、いままでの日々が頭を駆け巡った。

 

 あなたと形だけの契約を交わした日。

 指示を聞かず、1人で練習に明け暮れた日。

 負け無しの状態でG1初勝利を飾り、偽りの自信を持った日。

 そのハリボテを、皐月賞で粉々に砕かれた日。

 あなたと和解をした日。

 

 そして1ヶ月という短い期間ながら、トレーナーとウマ娘として、二人三脚で取り組んできた日。

 

 彼はずっと私を見ていてくれた。ずっと私のために動いてくれた。そんなあなたが、私にはとてもまぶしく見えて・・・・・・。

 

 暴れていた心臓の鼓動が更に高鳴った。視界が急にクリアになる。

 

 ああ、ああ!ようやく見つけた!見失っていた私だけの光を!地上に輝く 一等星(あなた)を!!

 

 トレーナーが望むから、じゃない。私は、私の意思であなたに勝利を届けたい!!

 

 

 

 

 

 

 「トレーナあああああああああああああああああああ!!」

 

 

  

 

 

 心からの叫びとともに、最後の末脚を爆発させる。

 

 一瞬離れかけた距離が縮まり、そして・・・・・・

 

 私とオペラオーがほぼ同時にゴールラインを駆け抜けた。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 汗を拭う。先程まで受けた歓声、それが聞こえなくなってからも熱気はこの身体に残っている。

 

 1人静かに歩く。大観衆を収容する競バ場といえど、関係者用通路まではその声は届かない。

 

 その道の先に、見知ったウマ娘がいた。

 

 「ウイニングライブおつかれ様、オペラオー」

 

 声を掛けてきたフジ先輩。レース場でも、ライブ会場でも最前列で見守ってくれており、今も私のためにここまで来てくれた。

 

 「どうでした、素晴らしいライブだったでしょう。何せ、ボクが踊ったんですからね」

 

 髪を手でサラッと上げ、格好をつける。レースは勿論、ライブにおいても練習を怠ることなく取り組んでいたため、振り付け、パフォーマンス、歌全てで完璧なステージを提供できたと自負している。 

 

 強豪チームの一員として、恥ずかしくないライブを届けることが出来た。

 

 そう、出来たのだ。

 

 「・・・・・・オペラオー」

 

 「なんでしょうか」

 

 「もう、無理しなくてもいいさ」

 

 じっと私を見つめていたフジ先輩から、短い言葉が漏れる。

 

 その何気ない、そして本心からの一言が、ボクに突き刺さった。

 

 「ここからだったら、観客にも声は届かないからさ・・・・・・」

 

 「・・・・・・っ」

 

 先輩の言葉にうなずく。

 

 ・・・・・・ああ、駄目だ。思ったより限界は近かったんだなと。

 

 フジ先輩の顔が徐々に、徐々にぼやけて見えてきた。ずっと押さえていた激情が溢れ出る。

 

 レース場でも、会場でも付けていた笑顔の仮面が剥がれ落ちる。晴天の日に、私の目からは雨が流れ落ちていく。

 

 ずっと心に留めていた想いが、爆発した。

 

 「・・・・・・センターで、踊りたかっだ!1着を、どりだかっだ!」

 

 決壊した堤防は、直らない。一度あふれると、もう止まらない。

 

 勝てると信じていた。アヤベさんの全力を受け止め、それでも上回れると思っていた。

 

 最終直線の最後の最後でボクは、アヤベさんの背中を見ることとなった。

 

 トレーナーから受け取った作戦は完璧だった。2400mという未知の距離に適応でき、間違いなく全力を出し切ることが出来た。

 

 もう一日多く休日練習していれば勝てたのではないか。もう一時間多く朝練習をしていれば勝てたのではないか。

 

 声を上げ、泣き叫ぶ。後悔が尽きることなく、押し寄せる。

 

 「かでなくで・・・トレーナーに、もうじわげなくでっ・・・・・・私が、もうずごし、頑張っでれば・・・」

 

 「お前のせいじゃねーよ」

 

 突然聞こえてきた、男性の声。トレセン学園に入ってから一番聞いた異性の声。

 

 顔を上げる。グシャグシャになった視界に、壮年の彼が映っていた。

 

 頭をかきながら、練習中のときとは違う、静かな声で私に語りかけてくる。

 

 「勝てればお前の実力、負けたら俺の責任だ。お前は俺の指示によくついてきてくれた。全力で応えてくれた。それで負けたのは、単に俺の指導が至らなかっただけだ」

 

 「でもっ、私はアヤベざんにっ・・・・・・」

 

 「こっそり助太刀をしたってか?それなら俺だって毎週あの新人に塩を送ってたよ。お互い様だ」

 

 トレーナーの発言に驚き、涙が溜まった目を張る。この事はトレーナーに言ってなかったはずだ。

 

 反射的にフジ先輩に目を向けたが、驚いた顔をして首を振っていた。彼女からトレーナーに報告があったわけでもない。

 

 再びトレーナーを見ると、ぼやけた視界の先で彼が苦笑いを浮かべているのが分かった。

 

 「伊達に1年間指導をしていた訳じゃない。お見通しさ。・・・・・・全力で戦いたかったんだろ。なら、自分が選んだ選択肢に胸を張れ」

 

 トレーナーはまっすぐ、ボクを射抜いた。アヤベさんのトレーナーに助太刀をしたこと。それに対し一切の後悔も感じられない、堂々とした態度だった。

 

 ・・・・・・一瞬、一瞬だけ思ってしまったのだ。

 

 『アヤベさんに助太刀をしていなければ、勝てたのではないか』と。

 

 次の瞬間、その感情を打ち消した。それはアヤベさんへの、何よりその選択肢をとった自分への最大限の侮辱行為だ。まだまだボクは未熟者だなと笑みが浮かんだ。

 

 手で涙を拭き、まっすぐに背筋を伸ばす。この敗北を受け入れて前に進むために。自分が選んだ選択肢を、誇るために。

 

 トレーナーは、ボクの態度を見てフッ、と表情を緩めた。

 

 「オペラオー。菊花賞では必ず勝たせてやる。俺に付いてきてくれるか?」

 

 「・・・・・・はいっ!!」

 

 彼の問いに、力強く返した。

 

 一度、誰もいない後ろ通路を振り返る。1時間前、確かな自信を持ってこの場所を進んでいった。結果は見事に打ち砕かれたが、心は折れていない。

 

 胸に手を当て、静かに誓う。次こそは、笑ってみせると。

 

 (この敗北を、糧にする。次は負けないよ、アヤベさん)

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一つ、昔話をします。

 

 どこにでもいるような1人のウマ娘の、生い立ちについての話です。

 

 そのウマ娘は一人娘として育ちました。幼少の頃から元気いっぱい走り回る子で、明るい性格から男女問わず友達が多い子でした。

 

 毎日すり傷だらけになって帰ってくるその子を見て、両親は呆れつつも笑顔で娘の成長を喜びました。

 

 その子供はとても身体が丈夫でした。たくさん動き回っても怪我らしい怪我をしたことがなく、病気とも無縁のまま幼少期を過ごしました。特に男子生徒に羨まれているその頑丈な身体は、彼女の自慢できる長所でした。

 

 そんな彼女にとって生涯を変えてしまう日がやってきます。

 

 きっかけは、10歳を迎えたその子がインフルエンザに罹ってしまったことです。それまで熱を出すことも無かったため、両親は大慌て。しかしやはり体力があったのでしょう、わずか数日で快方に向かいました。

 

 熱が下がったことで両親も安心し、外出厳禁を伝えてそれぞれ仕事、パートに向かいました。

 

 家に残された子供は、手持ち無沙汰となりました。元気を取り戻したのに外に出ることが出来ないからです。

 

 頭より早く体が動く性格だったので、勉強という選択肢も頭に思い浮かびません。

 

 結果、家の中の探検が始まりました。いつもは家族の目があったため散らかすと怒られていたのですが、その心配もありません。普段は止められるであろう押入れの中にも潜り込み、好き勝手に漁りました。

 

 そこで少女は運命の物を発見します。押入れ深くに眠っていた、1冊のアルバムです。

 

 今まで見たことがなかった本に興味津々の少女は、すぐに表紙をめくりました。めくってしまいました。

 

 アルバムの初めのページには、赤ん坊を抱いた女性の写真が貼ってありました。その女性が自分の母親であるとすぐに気づきました。

 

 

 

 

 母親は『2人』の、ウマ娘の赤ちゃんを抱いていました。

 

 

 

 少女が感じたのは、困惑でした。写真は間違いなく年若い母親であり、双子を生んだということが読み取れます。

 

 しかし、その少女には姉、または妹がいたという記憶がありません。物心ついたときから一人娘として育ってきたからです。何度も記憶の引き出しを開けますが、自身の片割れまではたどり着くことが出来ませんでした。

 

 同時に、自分が見てはいけないものを見ているという感情が湧いてきました。この秘密を暴こうとしたら、後戻りできない気がしました。それでも活発な少女は、自分の気持ちを抑えることが出来ませんでした。

 

 夕方、パートから母親が帰ってきました。

 

 「ただいまベガ。いい子にしてた?今日は快気祝いに大好きなハンバーグを作るから・・・・・」

 

 笑顔で言う母親。その顔が、私が隠すように持っていた物・・・・・・アルバムを見て固まりました。

 

 母の反応を見て、何かを隠していると確信した少女は真っ直ぐに質問します。写真の双子は、もう1人は一体だれなのかと。

 

 口をつぐんだ母親。元々、少女が大きくなってから打ち明ける事を夫と決めておりました。しかし、こうなっては誤魔化すことも出来ないと考え、その場で全てを話しました。

 

 元々母親は双子を生んだこと。そして、1人は身体が弱く、生まれてすぐに亡くなってしまったことを。

 

 悟らせないようにするため、仏壇にも遺影を飾らないという徹底ぶりでした。それでも、母として思い出の一枚だけは残しておきたかったのでしょう。双子の写真を1枚だけ、取っておいたのです。

 

 少女は黙って聞いていました。話が終わり、聞いた話を彼女なりに精査します。・・・・・・そこで、一つの思いが頭をよぎってしまいました。

 

 留めることなど出来ません。気づいたら、母親に向かって口を開いておりました。 

 

 

 

 「お母さん、もしかして、その子の身体が弱かったのって・・・・・・私が奪っちゃったせい?」

 

 

 

 その言葉に母親は動揺しました。

 

 ・・・・・・母親は、娘のためを想って隠していた事柄を暴かれ、冷静ではありませんでした。いや、冷静であろうとしておりました。

 

 違うわ、あなたのせいじゃないのよ。と必死に言いました。しかし、その言葉を口にする前に目を見開いてしまった行為、それを少女は視認してしまいました。

 

 母親の発言は、本心からの言葉だったのでしょう。それでも少女は、一瞬だけ動揺した母親を見て、図星だったと思ってしまったのです。

 

 次の瞬間、少女は駆け出しました。

 

 『自分の身体が人一倍丈夫なのは、もう一人から奪ってしまったからではないのか』

 

 という、悲しき結論を自分で出してしまい、その重さに耐えられなくなったからです。

 

 母親の静止の声も届きません。片や活発なウマ娘の少女。片や大人とはいえ、レースなどとは無縁の生活を送ってきたウマ娘の女性。追いかける母親のほうが先に体力が尽きてしまい、我が子を見失ってしまいました。

 

 少女は走り続けました。太陽が沈み、辺りはすっかり暗くなり、人もまばらです。幸い、北の大地といえど夏だったため、寒さは感じませんでした。

 

 しかし、いくら駆けても感情は整理できません。走ればそのうち収まるのではないかと思った心情は、深く沈んだままです。

 

 我慢できなくなり、喚きました。私があなたから奪わなければ、今頃で2人で仲良く遊んでいたのではないか。家族みんなで笑い合えていたのではないか。

 

 気づいたら、小さな丘の上にいました。無我夢中に走ったため、具体的な場所はわかりません。家への帰り方も分かりません。でも、そんなのどうでもいいと思いました。私の心は、後悔と自責の念で埋め尽くされていました。

 

 叫ぶような大声で謝りました。あなたの命を奪ってしまってごめんなさい、丈夫な身体なんていらないので戻ってきて下さい、あなたに会わせて下さいと。必死に、必死に神様に祈りました。

 

 当然、いくら祈っても帰ってきません。それでも少女は神様に想いを届けようと空を見上げました。

 

 少女の目に飛び込んできたのは無数の光、夜空を照らす星の輝きでした。

 

 涙でぼやけた視界、ぐちゃぐちゃになった思考に一つの記憶が蘇りました。亡くなった人、ウマ娘は夜空に昇り星となって、ずっと私達を見守ってくれるという言い伝えを。

 

 少女はすぐに見つけました。数え切れないほどの星の中で、最も輝く一等星を。直感しました。あの星が、亡くなってしまったあなたなのだと。

 

 

 

 

 

 「・・・・・・その時私は、あの輝く星に誓ったの。ウマ娘として生を受けながら、走ることの出来なかったあなたの分まで走るって。たとえ1人でも、勝ってみせるって」

 

 ふぅ、と一息を入れる。どれくらいの時間を掛けて話したのか、覚えていない。10分でまとめたのかもしれないし、30分以上詳細に話したのかもしれない。思うままに、夢中で話したことだけは覚えている。

 

 「あなたの想いを、そのまま抱けるのは私だけ。贖罪を果たすことが出来るのも私一人でやらなければ意味がない。あの子が報われない。・・・・・・1人で戦うことの難しさがどんなに無謀なものか、分からないまま取り組んで実践してきたわ。あなたに出会わなければ、今なお誰の手も借りずに歩んでいたかもしれない。いいえ、もしかしたら、挫折して歩みを止めていたかもしれないわ」

 

 一度話を止め、隣に視線を移す。

 

 夜が深まり、外灯の光も見えない場所。それでも、顔ははっきりと見えた。

 

 彼・・・・・・トレーナーも私の話が区切られたことで、こちらを向いた。

 

 学園の敷地内、草木の植えられた場所。私とトレーナーはお互い仰向けに身を放り投げたまま、見つめ合った。

 

 「トレーナー、改めて礼を言わせて。あなたがいなければ、私は今頃どうなっていたのか分からない。あなたがいたから、今日勝つことが出来た。新しい目標も、見つけることが出来たの。・・・・・・ありがとう」

 

 「お礼を言うのは僕の方なんだけどなあ。ベガの最高の走りを、今日見せてもらった。これからもずっと君の走りを、一番近い所で見せてもらえる。こんなにうれしいことはないよ」

 

 照れくさそうに頬をかきながら返事をしてくるトレーナー。一大レースが終わり、先週よりも穏やかな表情になっていた。削り気味だった睡眠時間も長くなり、目のクマもすっかりと消えた。

 

 どちらからともなく、視線を元に戻す。

 

 地面に身を投げた体勢。その目に雲ひとつ無い夜空が再び目に入る。

 

 月の光も、星々の煌めきも・・・・・・星空で一番輝いている一等星の『あなた』も全てが見通せる。

 

 (ごめんね、報告が遅れちゃった)

 

 心の中で、謝罪をする。早く来たかったのだけれど、ダービーを制したことで取材攻勢が続いて大幅に時間が取られてしまった。日々の練習やミーティング、道具の手入れを怠ることは出来ないため、結局落ち着くまで待つことになった。

 

 トレーナーも私と同じくらい質問攻めにあったようで、ようやく週末の今日に二人共余裕ができた。

 

 眩しいほどのあなたの輝きは、半年以上前に見たときと何も変わっていない。

 

 

 

 「・・・・・・その、良かったのかな?」

 

 「え、何が?」

 

 小声を発してきたトレーナーに、再び視線を向ける。その声は、昨年までの和解していない時のものに似ていた。

 

 「その・・・・・・ベガが星を見る時、以前邪魔しちゃってて。今回は、良かったのかなって」

 

 言葉を選びながら、つなぎ合わせる彼の姿を見て、少し笑ってしまった。

 

 「ちょ、ちょっとどうしたの」

 

 「もう、邪魔だなんて思ってたら誘わないわよ。・・・・・・去年はごめんね」

 

 一度謝罪して、くるっと身体の向きを変える。横向きになって、身体ごと彼に向ける。

 

 成人男性と呼ぶには少し華奢な、自分より少し大きいくらいの体格。頑丈な自分と違い、私の為に頑張りすぎて倒れる寸前まで行ってしまったこともある。

 

 ・・・・・・私のために、ここまでしてもらった。無愛想で、指示も聞かず、冷たく当たった私なんかのために、『私の走りが見たいから』という理由だけでここまで支えてくれた。

 

 多大な恩はこれからの走りで返していきたい。私の目標、あなたに言われたからではない、私自身が心から望んだ『あなたの為に1着を取りたい』という願いのために。

 

 それと同時に、私の秘密を知ってほしかった。今後、どれくらいの期間になるかは分からないが、二人三脚で歩んでいくことになる。そんな間柄になるのだから、隠し事はしたくなかった。私の全部を打ち明けたかった。

 

 「全部、知ってほしかったの。私のこと」

 

 長い付き合いになりそうだからね、と付け加えると、彼は少しだけ顔を赤くし、まあそうだろうねと小さくつぶやいた。

 

 

 

 ・・・・・・まだクラシック級前半、道半ばどころか始まったばかりだ。9月の菊花賞、11月のジャパンカップを初め今回並の、いや今回以上のレースに立ち向かうこととなるだろう。

 

 それでも、不安はない。私の隣には、導き手となる私だけの一等星がいるのだから。

 




キャラクター紹介と設定、台詞を見ただけで何か創作意欲に火がついてしまい、気づいたら4話構成になっていました。

次の短編に関してですが、早速ネタが切れましたので発掘作業に移行します。筆が乗ればドーベルのおまけ話を近いうちに上げます。それが終わったら本格的に何もない・・・・・・気長にお待ちいただければ幸いです。



P.S
キャンサー杯ではエルがすごく強かったです(小並感


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ツインターボ短編
この気持ちからは、逃げたくない(1)


新作シリーズです。2~3話で終われば・・・いいなあ。

予定ではマンハッタンカフェを書くつもりでしたが、先に今回のウマ娘の構想が浮かんできたため急遽変更。
 
今回のウマ娘ですが、忠実では
・非常に小柄であった
・性格は臆病であった

というのを見て、性格にびっくりした記憶があります。アニメやアプリでは非常に明るいキャラだったので。


注意事項として
・ツインターボ実装前に執筆
・キャラの性格改変

があります。ご了承下さい。


 

 トレセン学園の敷地内にある一棟、トレーナー室。そこの一室で俺はパソコンや資料に書かれているデータと格闘しながら来年度に向けてのプランを考えていた。

 

 冷めたコーヒーを流し込み、安物のコーヒーサーバーを手に取る。空になったカップに再び満タン近くまで注いだ後、一口飲み込む。

 

 「・・・・・・ふぅ」

 

 肌寒い2月。その暖かさが身にしみる。今までは二人分用意していたが、その必要はなくなった。

 

 ちらっと机に立て掛けた写真に目を見やる。そこには俺と、一人のウマ娘が肩を組んで笑顔で映っていた。その混じりっ気のない光景に、自然と笑みが出る。

 

 なんてことはない。3年間担当し、来月卒業を迎えることになったウマ娘だ。

 

 新人として彼女と向き合った3年間は、まあ色々あったが二人三脚で駆け抜けてこれたと自負している。

 

 重賞で4勝。G1での勝利にこそ手は届かなかったが、入学当初の彼女の目標であった晴れ舞台での勝負服という夢を叶えさせることはできた。最後のレース、G1マイルチャンピオンシップで3着を取り最初で最後の勝負服によるウイニングライブを披露した彼女は輝いていた。

 

 感極まったのか、控室に戻ってきた彼女に抱きつかれて感謝されたのは少し予想外では合ったが。

 

 彼女は卒業後、地方トレセン学園への就職が決まっている。まずはサブトレーナーとして、いずれは地方トレーナー、ゆくゆくは俺みたいに中央で指揮を振るうことが目標だと目を輝かせて熱く語っていた。

 

 「トレーナーさんに勝つことが目標ですから!待っててくださいね!」

 

 と宣戦布告までされたら、こちらも下手な姿は見せられない。面倒見がいいのに加え、勉学の成績で常に最上位にいた彼女のことだ。そう遠くない未来、俺の前に立ちはだかることになると予感している。

 

 卒業、就職間近となって忙しさも増しており、1週間ほど会えていない。この先、もしかすれば数年単位で会えなくなるのだろう。それが少しさみしくもあった。子が社会に旅立っていくのを見守る親の気持ちはこんな感じなのかなと感慨深くなった。

 

 とはいえ俺としても、一介のトレーナーとして教え子に先を越されるわけには行かない。立ちはだかる壁として、一層精進していく必要がある。

 

 

 ・・・・・・そのためには大前提として、担当のウマ娘を勝たせる必要があるのだが。

 

 

 「うーん・・・・・・」

 

 頭を抱えながら、資料とにらめっこして2時間。眉間のシワがより深くなるのを実感した。

 

 先程も言ったとおり、今までの3年間は彼女と二人三脚で頑張ってきた。そんな彼女が来月卒業となる。

 

 ・・・・・・つまるところ、今の自分に担当ウマ娘はいない。

 正確には書類上、3月末まで彼女との契約は続いているのだが、だからといってその時まで動かず、4月頭から初めて動くだなんて周回遅れのことはできない。

 

 だからこそ、再来月に入学することになるウマ娘の資料を読み漁っている。

 

 入学したウマ娘は、選抜レースが終わった直後からスカウト解禁となる。好成績を収めた子に人気が集中するのは当たり前だが、たまたま当日全力を出せずに終わってしまう子もいる。

 

 『レース本番で実力を発揮できないのならそれまでのウマ娘』・・・・・・それは一理あるが、だからといって候補から外してしまうのはあまりにももったいない。

 

そのため、予めデータを取り寄せて精査しているのだが・・・・・・。

 

 「・・・・・・分っかんねぇ」

 

 十数分にらめっこした後、頭を抱えて机に突っ伏してしまう。

 

 当然のことだが、レースに挑むこととなるウマ娘といえど、思春期の子たちだ。個人情報の管理には人一倍(ウマ一倍?)厳しく管理されており、入学するまではトレーナーの手元に伝わる情報は一部のみとなっている。

 

 ベテラントレーナーならその僅かな情報から判断することもできるのだろうが、生憎自分は3年目の若手である。いくら分析をした所でそう簡単に分かるものではない。

 

 はぁ・・・とため息を付き、再びコーヒーを流し込む。肌寒さを感じながら窓に目をやる。

 

 遠くに見える桜の木々、その花が咲く兆候はまだ見られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あ、たづなさん」

 

 中央トレセン学園第一運動場。ジャケットを着込んで赴いた俺は、観客席に見知った先客がいるのを確認し、声を掛けた。

 

 緑を基調とした服装を纏った彼女・・・・・・たづなさんが俺の声に反応し振り返る。

 

 「あら、トレーナーさん。先週ぶりですね」

 

 にこっ、と笑顔で微笑む彼女の姿にこちらも癒やされる。いつ見ても輝いている人だ。多忙な身であるためいつもせわしなく動いている姿ばかり見ており、このように落ち着いて話せる機会は滅多に無い。正食な所、これだけで足を運んだ価値があるというものだ。

 

 ・・・・・・まあ、今は勤務時間真っ只中のため、たづなさんも『目の前』の出来事のために来ているのだろうが。

 

 ターフに目を向けると、いつもならたくさんの生徒、トレーナーで賑わっているターフが閑散としている。そればかりかゲート、名称で言えば発バ機が運び込まれており、今からレースをするのかという状態となっている。

 

 いや、実際レースはするのだが。

 

 「珍しいですね、この時期に来られるなんて」

 

 「ははは・・・・・・まあ、息抜きといいますか」

 

 たづなさんの問いに鼻を掻きながら、お茶を濁した返答をする。

 

 一層冷たい風が吹き、ブルっと身体が震える。いくら関東とはいえ、やはり冬は寒い。ターフではゼッケンを付けた十数人のウマ娘が入念にストレッチを行っている。幾人かはレースに支障が出ない範囲でダッシュを行い身体をほぐしていた。この寒さだ、準備を怠れば即故障につながるため、当然の行為だろう。

 

 首にかけた双眼鏡をいじりながら、彼女らの様子を観察する。

 

 『珍しいですね、この時期に』

 

 たづなさんのセリフは的を射ている。模擬レースとは言え、ウマ娘の真剣勝負を見られる機会だ。トレーナーが集まっていてもおかしくないのだが、観客席にはほぼ人がいない。万を超える人を収容できる場所には俺とたづなさんを含め、両手で足りるほどの観戦者しか見受けられない。

 

 ・・・・・・まあ、それもそのはずだ。今から走るウマ娘たちは、現時点でトレーナーと契約していない子ばかりなのだ。

 

 入学当初ならまだしも、進級しようかという時に担当トレーナーがいない。悲しい事実だが、それだけで彼女たちの実力が説明できてしまう。

 

 1年近くずっと契約できていない者。契約はできたが解消され、新しい担当に巡り会えなかった者。

 

 事情は様々だが、いずれも現在教官の所属となっている彼女たちには焦りの色が濃く浮かんでいる。何せ、再来月には新入生が入学してくる。今でも担当が見つからないのだ、1年間燻っていた自分らと新しい風とともにやってくる期待の新人。トレーナーがどちらに惹かれるかなど、火を見るより明らかである。

 

 距離は1600m。ゲートに入る彼女たちは一縷の望みに賭けている。この模擬レースでアピールし、トレーナーとの契約を勝ち取ること。

 

 彼女たちからも観客席の様子は見えている。閑古鳥すらいない状態。未勝利戦ですらそこそこの観客が集まるレースと違い、勝っても負けても声援の一つも貰えない勝負。勝った所で、自身の望むものが手に入る可能性は低い。

 

 それでも挑むのは、夢があるから。中央トレセン学園で結果を出せない彼女たちも、地方に編入すれば常勝不敗のエースとして君臨することが出来るだろう。それだけの差が、両者の間には存在する。それでもその選択肢を取らない。理由なんてわざわざ説明する必要もない。

 

 (・・・・・・担当を決めきれなかった息抜きに、なんて理由で来た自分が恥ずかしくなるな)

 

 資料との格闘から逃げる気持ちでこの場所にたどり着いた自分を恥じる。10分前の自分を殴りたくなった。タブレットを持ちながらデータを入力しているたづなさんも、真剣な表情をしてターフに目をやっていた。そこには仕事だから、という理由以上の感情があるように見えた。

 

 『ガコンッ!!』

 

 ゲートが開く音がする。一斉に飛び出すウマ娘達。ややばらついたスタートになりながらも、必死に前を、先頭を目指す彼女らを見て、俺も真剣にそのレースを見ることに決めた。

 

 書類上の記録にしか残らないレースが進んでいく。トレーナーがいないとはいえ中央トレセン学園の試験に合格した子たちだ、オープン戦と言われても違和感を覚えないくらいのレベルがある。

 

 向こう正面から第3コーナーに入り、双眼鏡越しにその様子を見る。バラバラだった隊列が、徐々に狭まってくる。第4コーナーを迎えた後は最終直線のみ。そこのラストスパートですべてが決まる。

 

 ・・・・・・一人のウマ娘に対して違和感を覚えたのは、その時だった。

 

 (・・・・・・ん?)

 

 彼女は出走しているウマ娘の中でも、一際身体が小さかった。ウマ娘として珍しい、特徴的な髪の色をしていたため、レース序盤から後方に位置取っていたことは覚えている。

 

 最終コーナーでどんどん加速してきて、前の集団を捉えるか・・・・・・そう思った時、彼女に急ブレーキが掛かったように見えた。そのまま、バ群から離れるように外へ外へと流れていく。

 

 脚の動きなどから、故障をしたというわけではない。スタミナが切れたという動きでもない。あれはまるで・・・・・・

 

 (前に出るのを、躊躇うような・・・・・・)

 

 思考している内に、ウマ娘たちが次々とゴールラインを超えていった。自身が違和感を覚えた彼女は9着。急ブレーキがかからなければ、上位入賞は固かった。1着も射程圏内だった。それだけに、彼女のことが気になってしまった。

 

 「・・・・・・・レースが終わりましたね」

 

 タブレットの操作を止めたたづなさんがつぶやく。その視線は俺にではなく、ウマ娘たちに注がれていた。

 

 声援はない。1着を取った子も、淡々とターフから離れていく。あたりを見渡すと、こちらも淡々と観客席を後にする数少ないトレーナー達。この先彼ら、彼女らがウマ娘に話しかけるのかどうかはまだ分からない。

 

 「いかがでしたか、トレーナーさん」

 

 俺の方を向く。その目には勝負を終えたウマ娘たちに対する思いやりが見て取れた。

 

 たづなさんは俺以上に認識しているはずだ。彼女たちが非常に厳しい立場であることを。それでも、いや、だからこそ何とか輝いてほしいと思っているのだろう。

 

 トレーナーが求めるのは、突き詰めれば勝てるウマ娘だ。G1レース常連、常勝のウマ娘となれば、レースだけで年間で億は稼ぐ。勿論、その担当トレーナーにも億とは行かないまでもかなりの金額が入り込む。それがチームを持っているとなれば、トップアスリート並みの年俸と名誉を手に入れられる。

 

 トレーナーであれば全員が、純粋な気持ちでウマ娘を勝たせたいという気持ちを持っている。それは当然だ。それと同時に、仕事をするならなるべく高い給料がほしいという気持ちもまた、人であるなら当然のものである。

 

 だからこそ、『そうでない』『そうなる見込みの少ない』ウマ娘たちに手が伸びることはない。勝負の世界だ、厳しいのは百も承知である。

 

 たづなさんが俺に訪ねてきた理由も、ウマ娘に担当がついてほしいと思ってのことだろう。友人という程度には話してきた仲である。俺が4月に入学する新入生の調査を進めていることなど、とっくに知っている。それでも万が一の可能性にかけて、聞いてきたのだろう。

 

 ・・・・・・正直、ただ見に来ただけのつもりだった。しかし、今は出走した一人のウマ娘に関心を抱いてしまっている。

 

 1着を狙える実力はあったはずなのに、不自然に失速していった、小柄なウマ娘のことを。

 

 トレーナーとしては、期待の新入生に全神経を注ぐべきなのだろう。勝てるウマ娘をもとめるなら、それが当然だ。批判されることではないし、むしろその選択肢を選ばなければトレーナーとしてどうなのか?と言われる可能性まである。 

 

 それでも、彼女の最後の追い込みに魅せられた気持ちがある。もしかすれば、あの末脚は化けるのではないか。

 

 「・・・・・・一人。気になった子がいます。データを見せていただけませんか?」

 

 「・・・!!本当ですかっ!ええっと、一着のローレンクロイツでしょうか?それとも二着の・・・・・・」

 

 俺が発言をした瞬間、たづなさんの顔に笑顔が咲いた。ほとんど諦めていたのだろう。その喜びようは想像以上のものだった。上位のウマ娘を挙げていく彼女に再び言葉をかける。

 

 「ああいえ、ゼッケン6番だった子です。かなり小柄な子です」

 

 「ゼッケン6番ですね、少々お待ちを。・・・・・・はい、この子ですね」

 

 データを見つけ、俺にタブレットの画面を見せる。

 

 そこには、俺が関心をいだいたウマ娘の詳細なデータが載っていた。様々な資料とともに、彼女の名前が画面に大きく表示されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ツインターボ』と。

 

 

 




FGO2部6章終わりました。・・・・・・終わったんです。

ほんと奈須きのこさん人の心が無い、という気持ちと天才かよ、という二つの気持ちでいっぱいです。情緒を木っ端微塵にされました。最高だった2部5章のアトランティスを軽く超えてきました。奈須さんのような文章を書けるようになりたい・・・。

トリ子は絶対に、絶対に幸せにします。


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この気持ちからは、逃げたくない(2)

ターボの口調が迷子。

性格改変もの難しい・・・。


 レース後半、前を進むウマ娘との距離がどんどんと縮まっていく。

 

 ここだ、このタイミングだ。思うより先に身体が反応する。トレーナーさんからも褒められた加速力とスピード。後方にいた自分と、前方のバ群との差はもうわずかだ。

 

 最終コーナーから直線に入る。このままバ群のすぐ脇を抜けられれば、勝てる。

 

 勝てるんだ。今まで一度も獲れなかった勝利を掴むことが出来る。あれだけ望んだ1勝をあげることが出来る。

 

 近づいて、近づいて・・・・・・ 

 

 その脚力を、スピードを間近で実感して・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、ターボは・・・・・・また逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ターボちゃん、諦めるのは早いわ。一度落ち着いて、それから考えても・・・」

 

 「・・・・・・ごめん、トレーナーさん。もう、ターボが決めたことだから」

 

 広いトレーナー室。おしゃれな雰囲気を感じさせるその部屋今、重い空気が漂っている。いるのはターボとトレーナーさん。自分が持ってきた一枚の書類、『契約解除願』を強引にトレーナーさんに渡した所だ。

 

 中央トレセン学園でも名の通ったベテランの女性トレーナーさん。部屋の隅にあるショーケースの中には、たくさんのG1トロフィーが飾られている。重賞すべてを含めるとなると、とてもこの部屋には収まりきらないだろう。そしてそこに、自分の名前が刻まれたものはない。

 

 10人以上いるチームの中で、勝てていないのはターボだけ。先輩はGⅠの常連だし、一緒に入った同期の子もつい先日GⅢレースで1位を勝ち取った。スタートラインが同じだっただけで、今ではとても手の届かないところまで行ってしまった。

 

 そもそも、未勝利の自分はまだスタートラインにすら立てていないのかもしれない。

 

 トレーナーさんと契約を結んで9ヶ月。年明けまで付き添ってくれたのだ。優しいトレーナーさんのことだ、自分から言い出さなければきっとこの先も私のために頑張ってくれる。

 

 それだけは避けたかった。自分にかかりきりのせいで他のチームメンバーへの対応が疎かになり、レースでの勝利を逃してしまったとなるのが怖かった。

 

 何度も引き止めてくれたトレーナーさん。でも、ターボの意思が固いのを察したのか、最終的には受け取ってくれた。

 

 「・・・・・・ごめんなさい。ターボちゃん・・・・・・」

 

 頭を下げるトレーナーさん。悪いのはターボなのに、最後の最後まで気にかけてくれた。それが嬉しく、同時に申し訳なくなった。

 

 最後のあいさつをして、部屋を出る。もう、この場所に戻ることはない。1月だからだろうか、胸のあたりが冷たくなったように感じた。

 

 沈んだ気持ちで食堂に入る。今日の夕食はターボの大好物であるハンバーグ。それなのに、心は全然晴れなかった。いつもならお皿いっぱいに盛り付けているのに、食欲が湧かない。通常の量を頼むと、食堂のおばさんに心配されてしまった。笑ってごまかし、空いている席に座る。

 

 手を合わせた後、一口食べる。おいしい。おいしいけれど、いつもみたいにがっつくような食べ方をすることができない。

 

 手を止めると浮かんでくるのは先日のレース。勝てたはずなのに、掴み取れなかった。最後の最後で、また『自分』から逃げてしまった。

 

 自分に勝てないウマ娘が、他人に勝てるはずがない。そういう意味では、敗北という結果は当たり前だったのかもしれない。

 

 考えから逃げるように、再びハンバーグを口に運ぶ。もそもそと噛みながら、ため息をつく。

 

 これからどうなるかは前に調べたから分かっている。教官の下について、特訓を行う。その後、模擬レースや本番のレースに出走してトレーナーからのスカウトを待つ。明日には今のトレーナーさんとの契約が切れるから、早速練習が始まるだろう。

 

 今のターボをスカウトしてくれる人がいるのか、そこが一番の問題だ。もうすぐ進級という時期に選抜レースも含めて未勝利のウマ娘を求めてくれるトレーナーはいない。だからこそ、どんなレースでもいいから結果を残さないといけない。

 

 量が少なかったからか、時間を掛けずに食べ終わったので食器を戻す。

 

 「やらなくちゃ・・・・・・うん、やらなきゃ!」

 

 食堂を出て、一度自分を鼓舞する。

 

 トレセン学園に入って分かったこと。多分ターボは、レースを走るウマ娘として一番ダメな欠点を抱えている。トレーナーさんも尽力してくれたけど、結局治すことはできなかった。

 

 それでも、それでも諦めたくはない。だって、自分の気持ちにだけは、嘘を付けないから。

 

 

 

 「君がツインターボかな?」

 

 彼と出会ったのは、初めての模擬レースが終わったあとだった。

 

 最初は、声を掛ける相手を間違えているのではないかと思った。だって彼は、私をスカウトしたいと言ってきたのだ。それ自体はターボも望んでいることだけど。

 

 1ヶ月教官の指示を受けながら練習に取り組み、挑戦した今回のレース。ターボの順位は9着だった。下から数えた方が早い順位であり、見せ場もなかった。

 

 他の子と間違えているのかもしれないと思い、正直に話す。勘違いから契約を結んで後からそれに気づいたら、ターボにも彼にも良くない。

 

 「違うよ。他のウマ娘じゃない、君との契約を考えているんだ。ツインターボ」

 

 ・・・・・・だからこそ、彼の言葉にはびっくりした。

 

  彼はしっかりとした口調で、スカウトの理由を語ってくれた。

 

 『レース終盤の加速力と追い込みに魅せられた』

 

 その言葉は、前のトレーナーさんも褒めてくれた取り柄。競合チームの中にいた落ちこぼれのターボが、唯一自信を持って自慢できる武器。

 

 それを、また見つけてくれた。あの一回の模擬レースで、目立たなかった自分に目を向けてくれた。

 

 嬉しくなり、すぐに契約を結ぶ意思を伝えた。自分で決めた道とはいえ、トレーナーさんがいない状態は心細く感じる気持ちがあったのだ。

 

 それと同時に、やらなければいけないことがある。前のトレーナーさんと契約を解除した理由は、トレーナーさんに、チームに迷惑をかけないため。

 

 だからこそ、今から契約を結ぶトレーナーさんにも迷惑をかけるわけには行かない。自分を評価してくれたのだから、ターボは自分の実力を全て打ち明ける必要がある。

 ・・・・・・早めに、伝えないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ツインターボと契約を締結した2日後。俺は・・・訂正、俺達は第三運動場に足を運んでいた。

 

 お互いに簡単な自己紹介を終えた後、まずは彼女の実力を見たいと思い早速トレーニングに移ることになったのだ。

 

 ランニングからの基礎トレーニングを経て、最後にレースを想定したタイム測定。幸いあまり人、ウマ娘がいなかったため純粋な測定を行うことができた。

 

 出来たのだが・・・・・・

 

 

 「・・・・・・マジか」

 

 

 タイムウォッチを握る俺の手は微かに震えていた。

 トレーナーとして失格なのだが、心のどこかで『年度末の時点で担当トレーナーがいなかったことで、ツインターボは学年平均よりも能力が低い』と考えてしまっていたのだ。

 

 今俺は、その認識が間違っていたことを実感している。

 

 2000mを駆け抜け、現在はターフに座って休憩を取っているツインターボをちらっと見る。本番さながらの走行だったためラストスパートもしたのだが、あまり息が上がっているようには見えない。

 

 その状態での、この結果だ。

 

 「・・・・・・これ、オープン戦どころの話じゃねーぞ」

 

 もう一度タイムを確認するが、表示されている数値に変わりはない。

 

 はっきり言おう。このタイムを本番で出すことが出来るのなら、彼女は重賞レースの常連になれる。

 

 それくらい、ツインターボは『速かった』。俺が三年間担当してきたウマ娘とツインターボが今走ったら、正直どちらが勝つか分からない。G1レースに出場した程の実力があるにも関わらずだ。

 

 学年平均とかそんな次元の話じゃない。若手の俺なんかが担当してもいいのかと迷うほどの逸材だ。

 

 そっと脇に抱えていた紙の資料を開く。昨日、たづなさんからもらったものだ。そこにはツインターボの詳細なデータがびっしりと書かれていた。

 

 彼女は最近までとあるチームに所属していたこと。そのチームトレーナーは、学園内でも屈指の名トレーナーであること。

  

 そして、デビューから今まで一度も勝てなかったこと。

 

 彼女の実力を見たら、あの強豪チームに所属していてもなんら不思議ではない。と同時に、未だ未勝利ということが謎である。

 

 ツインターボが出走していたレースは、未勝利バ戦、プレオープン戦、オープン戦で固められている。これだけのタイムを出せるのであれば、全戦全勝していてもなんらおかしくはない。

 

 健康診断の結果を確認しても異常なし。どこかに故障を抱えているわけでも、痛みをかばっているわけでもない。

 

 だとすれば・・・・・・

 

 「そういえばトレーナーさん。タイムはどうだった?」

 

 思考に浸っていると、休憩を終えたのかツインターボが近くまで来ていた。体力を残して走っていたとはいえ、既に息が整っている。

 

 あれだけのトップスピード、加速力を持っており、スタミナも平均以上はありそうだ。何より、模擬レースでも見た終盤の追い込みは驚異の一言である。

 

 ストップウォッチに表示されたタイムを見せると、彼女は満足そうな表情になった。

 

 「ん。良かった」

 

 「普段からこれだけ走れているのか?」

 

 「トレーニングの時はそうかな。流石にこれだけの記録となると、調子がいい時限定だけど」

 

 小さな背をぐぐっと伸ばし、身体をほぐしながら答えるツインターボ。淡々と話しているが、いくら絶好調のときでもこのタイムはそうそう出せるものではない。

 

 「トレーナーさん。考えが顔に出てる」

 

 はっと彼女を見る。発言した彼女は、少しバツの悪そうな表情をしていた。

 

 「・・・・・・結構、他の人やウマ娘に言われてきたから。『それだけ早く走れるのに、なんで勝てないの?』って。そういう表情、分かるようになっちゃった」

 

 あはは、と誤魔化すように笑う彼女は無理をしているようには見えなかった。何も感じていないはずがない。あるいは・・・・・・もう慣れてしまったのか。

 

 「・・・・・・すまない、ツインターボ。嫌な思いをさせてしまって・・・・・・」

 

 「も~、謝ることなんてないよ。勝てないのは事実なんだから・・・・・・。でさ、一つお願いがあるんだ」

 

 「何だ?言ってみてくれ。」

 

 「・・・・・・どんなレースでもいいから、一番近い時期のレースにターボを出してほしいんだ」

 

 「・・・・・・は?」

 

 あまりにも急な展開に変な声が漏れる。俺が内心思っていたことを悟られたと思ったら、今度はレース出走のお願いだ。話の道筋がつながっていない。

 

 しかし、彼女の表情は冗談を言っているようには見えなかった。ぎゅっと手を握り、真っ直ぐに自分を見つめている。

 

 一つの覚悟を決めたように、ツインターボは再び口を開いた。

 

 「多分、言葉で説明するより、見てもらったほうが伝わると思うから。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ツインターボから頼まれたレース出走登録。これ自体はすぐに手続きを済ませることが出来た。

 

 中央トレセン学園の場合、重賞レースは別だが、オープン戦までなら直前の申込みにも対応してくれることが多い。

 

 たづなさんに掛け合った所、翌週末のプレオープン戦であれば枠が空いているため出走が可能だとの連絡を受けたのだ。ツインターボにもう一度確認をとった後、申請を行った。

 

 レースまでの10日間はトレーニングに費やした。様々な練習を行う中で坂道や下り坂は若干苦手だと判明したが、それでも弱点になるというほどではない。

 

 レース当日。俺は観客席の最前列からターフを眺めていた。観客の入りもそれなり。天候も良好。レース条件は良好である。

 

 (普通なら、問題なく勝利できるはずなんだ)

 

 トレーニング中の彼女の走りを見る度、その思いが心を支配する。レースの調整をするのであれば1ヶ月は時間が欲しかったが、彼女自身がやる気だったため負担がかからない程度に急ピッチで進めた。短期間でのやりくりになったとはいえ、仕上がりも上々だ。

 

 早めにゲートの中に入った彼女は、深呼吸をして心を落ち付けているように見える。目を閉じ、何度も息を吸っては吐いていた。

 

 ・・・・・・7戦0勝。入賞は1度のみ。それがツインターボの成績だ。あれだけのポテンシャルを持っていながら未勝利であること。そして、模擬レースの時に見た、あの失速。

 

 一つ。一つではあるが、ツインターボというウマ娘が何故勝てないのかの仮説が思い浮かんだ。 

 

 もし、その仮説が当たっているのであれば・・・・・・

 

 その想像を遮るように、聞き慣れた大きい音が鳴った。

 

 ゲートが開いた音。2000mのレースが始まったのだ。

 

 ツインターボはやや出遅れ、その流れで集団から少し下がった所に展開している。

 

 観客の歓声を背に受けながら走る、11人のウマ娘達。ゼッケン姿の彼女たちを名前で呼ぶ観客はまばらだ。まだそこまで知名度がないため、知人や数少ないファンくらいにしか知られていないためだ。

 

 それでもレースで勝利を積み重ねていけばその数は増えていく。いつか、満員の会場で万雷の拍手と歓声を受けて走る自分の姿を夢見て、彼女たちは目の前の勝利を掴み取るために駆け抜ける。

 

 ウマ娘の集団が向こう正面に入る。ツインターボは未だ後方だ。持ってきたストップウォッチでタイムを確認すると、そこには、トレーニングの時よりもはっきりと悪いタイムが表示されていた。

 

 握る手に力がこもる。

 

 (やっぱりか・・・・・・)

 

 ストップウォッチをポケットに仕舞い、双眼鏡を手に取る。注視するのは、ツインターボの『表情』だ。

 

 模擬レースの再現のような展開が続く。第三コーナーを抜け、最終コーナー。ここでツインターボが上がってきた。何度も見た加速力とトップスピード。瞬く間に前との距離を詰めていく。 

 

 最終直線に入って観客の歓声も最高潮に達する。

 

 残り400m弱。ツインターボと先頭集団の距離はあと1バ身。迫っていき、彼女はバ群を捉えかけ・・・・・・

 

 

 

 あの時と同じように、急ブレーキが掛かった。

 

 

 

 加速が落ち、スピードが止まり、外へと流れていく。ツインターボの追い上げは観客も周知するところだった。だからこそ、失速した彼女に対しどよめきが起こった。

 

 そのままツインターボは伸びてこなかった。一度失速した状態から再加速することが出来ず、ゴールラインを駆け抜けた。幾人ものウマ娘が通ったあとで。

 

 結果は8着。これまた以前と同じように、下から数えたほうが早い順位だった。

 

 (これは・・・・・・)

 

 見たら伝わると思うから、とツインターボは言っていた。その言葉通り、このレースを通じて彼女のことが、彼女が抱える弱点が十全に理解できた。

 

 最終タイムも、トレーニング時のベストタイムより遥かに悪い数値だった。それでも断言できる。彼女は今日、全力で走った。間違いなく、本気だった。

 

 だからこそ・・・・・・

 

 (これは・・・・・・難敵だ)

 

 レース最終盤、最終直線において双眼鏡越しに覗いたツインターボの表情がはっきりと脳内に浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の表情の色。それは、『恐怖』だった。

 




現在短編の構想、執筆段階に入っているキャラを記載します。

ツインターボ(このシリーズ)・・・・・・構想完了。残り未執筆。
メジロドーベル(3作品目)・・・・・・構想完了。2割執筆。
マンハッタンカフェ・・・・・・構想完了。未執筆。
メジロアルダン、ミスターシービー・・・未構想。

ツインターボ短編(恐らく3~4話で完結)が終わったらメジロドーベル短編、マンハッタンカフェ短編のどちらかを投稿予定です。

ミスターシービーに関してはキャラ紹介画面のセリフを見て執筆欲が出ましたが、肝心の構想が降りてきません(汗)。アドマイヤベガの時はセリフを見てから完成まで割と一直線だったので、同じようにアイデアが降りてくれることを期待します。
 


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この気持ちからは、逃げたくない(3)

お久しぶりです。

アオハル杯にのめり込んでしまい遅くなりました。申し訳ございません。

現在も絶賛育成中のため、いつも以上に短い&動きがない文章になっています。これ、多分5話は行きそう・・・・・・。


桜が咲き誇るトレセン学園。風に揺られ、舞う花びらとともに新しい風が校舎を駆け巡る。

 

 少女たちの瞳には期待、不安、戸惑い、野望・・・・・・様々な色彩が浮かんでいる。それでも共通する感情が一つあった。

 

 『この学園で1番になること』

 

 数百人に及ぶ新入生の顔には、等しくその想いが見え隠れしている。

 

 先週、入学式を終えて学園の一員となった彼女達。初日こそ新天地での生活に戸惑うウマ娘がほとんどであったが、1週間も経てば慣れる者は出てくる。

 

 そもそもが、全員中央の試験を突破して来た精鋭中の精鋭だ。スタートラインは同じでも、ここから自身の頑張り次第で立ち位置がどんどんと変わっていく。既に自主練の計画を立てて上級生に混じって取り組んでいる子もおり、今年の1年生もかなりの有望株揃いであることが伺える。 

 

 勿論、それはトレーナーにも言えることだ。総数はウマ娘ほどではないが、難関試験を突破して中央で指揮を振るうことを許された猛者が新たに着任してきた。

 

 新進気鋭の若い青年もいれば、長らく地方で活躍したベテランもいる。特にベテラントレーナーに関しては、自分みたいな若造よりも多くの経験、技術、知識を持っている。中央在籍歴が数年長いくらいでは埋められない差があり、いい刺激になるとともに、新たな壁がやってきたという思いも出てくる。

 

 今年やってきたウマ娘、トレーナー。彼ら、彼女らの関心は来週の選抜レースに向けられていると言っていい。両者にとっての、目標への第一歩。レース日以降は常時スカウトが許可されているが、皆の注目が集まる場面で好印象を残せればひとまず安泰だ。黙っていても引く手あまたとなるためである。

 

 新トレーナーとしても、その日を逃すとスカウト活動に支障が出てしまう。長らく中央トレセン学園に在籍している強豪トレーナーが、優秀なウマ娘を逃すはずがないからだ。もたもたしているとあっという間に有望株がいなくなってしまうため、選抜レース当日で契約を結ぼうと躍起になっている。

 

 

 

 ・・・・・・と、トレセン学園中の関心が来週に向けられている中、俺はトレーナー棟の廊下を歩いていた。

 

 自分の職場であり、3年間根を下ろして仕事に打ち込んだ場所なので勝手知ったる・・・・・・と言いたくなるところだが、生憎自分に割り当てられたトレーナー室との往復の3年間だったため、全体像はあまり詳しくない。

 

 もっと言えば、今みたいに3階まで上がってきた事は殆どない。

 歩き慣れていない道。しかし、その足取りに迷いはない。目的の部屋の場所は事前にしっかりと把握しているためである。

 

 初めて訪ねる事となる部屋。こんな機会がなければ、この先ずっと来ることもなかっただろうと思う。

 自分の目の前に佇むドア。そこには『高川』というプレートが取り付けられていた。

 

 一度息を吐いて心を落ち着ける。腕時計を見て、約束を取り付けた時間であることを再確認して、ノックをする。

 

 どうぞ、という返答を聞いて、ドアノブに手を掛ける。

 

 「失礼します」

 

 静かにドアを開ける。同時に、微かに花の香りが漂ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紅茶が注がれたカップを差し出され、礼を言って受け取る。仄かに漂ってくる匂いをかぐだけで穏やかな気持ちになれる。紅茶に関しては素人もいい所だが、きっと名の知れた銘柄なのだろう。

 

 改めて、目の前に座る女性を見る。

 

 一見しただけでは優しく、穏やかな雰囲気を纏った女性に見える方。いや、優しいのはそのとおりなのだが、トレセン学園に在籍するトレーナーで彼女を知らない者はいない。

 

 高川トレーナー。そのトレーナー歴は30年以上になる。数多くのウマ娘を育て上げ、数多くのGⅠを取らせた歴代屈指の女性トレーナー。

 

 経歴もさることながら、自分のチームで取り入れている理論やトレーニング方法を惜しげもなく公開しており、悩みがあるのなら時間の許す限り他チームのウマ娘、トレーナーの相談も受け付けている。

 

 彼女が幅広い人、ウマ娘から慕われているのは、技量だけでなくその人柄にもあるのだろう。かく言う自分も、トレーニングを組み立てる際は公開されている理論を大いに参考にしている。

 

 「まずはお礼を言わせて」

 

 向かい合って開口一番、いきなり頭を下げてきた。

 

 「ありがとう、ターボちゃんと契約してくれて。チームを離れてからどうしているか、気が気じゃなかったの」

 

 「いえ、お礼を言われるほどでは・・・。私自身、ターボの技量に惚れ込んで契約をしたので」

 

 彼女の言葉を受け止めつつ、自身の言葉を紡ぐ。高川トレーナーから見れば気になっていた教え子の行く末が不安でたまらなかったのだろう。

 

 一口、紅茶を飲む。今まで飲んだことがないような、スッと入ってくる味に内心驚きつつ、単刀直入に切り出す。

 

 「早速ですが、本題に入ってもよろしいでしょうか?」

 

 「ええ。尋ねてきた理由は・・・・・・ターボちゃんの弱点についてよね」

 

 「はい」

 

 掛けられた問に、黙ってうなずく。ターボの実力は、間違いなく学年の中でも上位だ。トップスピードと、そこに到達するまでの加速力は随一。スタミナは優秀までとは言えずとも並以上はある。坂路は若干苦手としているが、欠点というほどではない。今頃重賞レースのトロフィーを獲得していてもおかしくはないだけの技量がある。

 

 この時期に燻っているような子ではないと自信を持って言えた。・・・・・・先日の、プレオープン戦を見るまでは。

 

 「ターボが本番のレースで走る姿を見せたいと言った時は、疑問がありました。言葉でも伝えられるのではないのかと。しかし、実際プレオープン戦を見て納得しました。あのレースには、言葉では伝えきれない課題が詰まっていました」

 

 「・・・・・・ええ。私も後から見たわ。あれが、ターボちゃんの抱える唯一の、そして致命的な弱点なの」

 

 紅茶を口にし、ふぅ・・・と息を入れた彼女が視線を落とす。その表情には無念さが漂っていた。

 

 最終コーナーの追い上げからの、突然の失速。その時、顔に浮かべた『恐怖』の表情。

 

 レースは一人で走るものではない。10人以上のウマ娘と一緒に走り、その中で1着を目指す。当然ながら、彼女達は競り合う。より良いタイムを目指すため。そして、より良いポジションを取るため。 

 

 必然的に、彼女達はレース中密集する。時には、人一人分の間隔もないほどに。

 

 ・・・・・・どんなにレースを愛し、走ることが好きなウマ娘であろうと大なり小なり抱える感情がある。追い越そうとする時、コーナーを曲がる時に、ふっと押し寄せる感情。

 

 

 

 『もし相手も、自分と同じ方向に動いたら?』

 

 

 

 「時速60km/hを超えるスピードで走るウマ娘達。それだけの速度を出す者同士が強く接触してしまったらどうなるか。レースに興味がない人でも容易に答えられます」

 

 半分ほどに減った紅茶を飲む。思い浮かぶのは3年前、トレーナー新人研修の時に見せられた映像。

 

 それは、一つのレースを撮影したものだった。GⅡレースということで観客の入りも上々。先頭集団が最終コーナーを周り、熱気が最高潮に達した。

 

 ・・・・・・その次の瞬間、歓声が悲鳴に変わった。

 

 少しでも良い位置に入ろうと数人のウマ娘が競り合い、その勢いで2人が接触してしまった。

 

 トップスピードに近かった2人は堪えることが出来ず、バランスを崩して芝に叩きつけられた。一度だけでは勢いを殺せずに、何度も何度も痛々しく身体を跳ね上げる。

 

 当時、ニュースにもなったレース中の接触転倒事故。すぐさま病院に運ばれた2人だったが、その結果は悲惨なものだった。

 

 1人は複数箇所の骨折により、レース復帰は絶望的だと判明。入院中に中退を申し出た。もう1人はリハビリの末にレースに出られるまで回復したが、後遺症に悩まされて復帰後半年もしない内にトレセン学園を去った。

 

 両者とも、年内にGⅠ出走が決まっていた将来有望な逸材。それが、たった一度の接触で未来を閉ざされたのだ。

 

 上記の件は重賞レースだったことで世間からも注目を浴びたが、オープン戦や未勝利バ戦まで敷居を広げると、接触事故というのは結構な数がある。当然、起こってしまったら無事で済まない可能性が高い。

 

 「今は何でも見れる時代なのね・・・。事故が起こったレースがまとめられている動画みたいなものもあるそうよ。恐らく、ターボちゃんも入学するまでにいろんなレース映像を見てきたのだと思うの」

 

 多分、事故のレースもね。と高川トレーナーが呟く。自分でもその動画は何度も見ている。トレーナーとして、無茶な作戦を指示しないようにするために。

 

 そうやって何度も見る内に、気になったことがあった。

 

 接触しても2人共転倒する事例だけではない。事故件数の半分以上は、接触後に片方だけが転倒したレースだった。

 

 倒れたウマ娘。倒れなかったウマ娘。そこにははっきりとした共通点があったのだ。

 

 そう・・・・・・

 

 「1人だけ転倒したレース。そのウマ娘は、全員が相手よりも『小柄』でした」

 

 映像が頭に浮かぶ。その全てにおいて、接触時は体格の小さなウマ娘の方が、衝撃に耐えきれずに転倒していた。

 

 考えてみれば誰でも納得できる。走るスピードがそう変わらなくとも、身体の大きさに差があった場合、どちらが弾き飛ばされやすいか。

 

 何も激しい衝突だけではない。かする程度の接触でさえ、速度を持った状態ではバランスを崩し、転倒する可能性がある。勿論、小柄なウマ娘の方が、だ。

 

 担当バであるターボを思い浮かべる。技術面はいくらでも磨くことが出来る。しかし、体格は変えようがない。トレーニングによって体幹を鍛えることは出来るが、逆に言えば出来ることはそれくらいだ。

 

 「ターボちゃんは恐れているの。小柄であるがゆえの、レース中の接触事故を。それによって、レースに出れなくなってしまうことを」

 

 「・・・・・・難しい問題です。実力で勝てないのであればいくらでも可能性があります。レースに『絶対』はない。欠点、弱点があっても少しずつ改善していくことが出来ます。・・・・・・しかし、精神面の改善は難しい」

 

 高川トレーナーの沈痛な声に、自分も賛同する。

 

 レースに関心がない人の中には、次のように言うものが一定数いる。

 

 『気が小さい、臆病、短気とかって言っても気持ちの問題でしょ?気を強く持てば何とかなるんじゃないの』と。

 

 身体的なものより精神的な欠点の方が軽く見られがちなのだ。実際は逆だ。身体的な欠点のほうが、まだ改善しやすい。

 

 イップスと呼ばれる精神的な症状がある。主にスポーツの動作に支障をきたし、突如自分の思い通りのプレー(動き)ができなくなるというものだ。

 

 それまで何億、何十億とその道で稼いできたトップアスリートが、キャッチボールも満足にできなくなり、1mやそこらのパターを入れられなくなる。そうして引退に追い込まれた選手がいることを知っている。

 

 精神病の厄介な点。それは、治療法、改善法がわからないことだ。気持ちとは千差万別。どの方法が良いか、文字通り一人一人違ってくる。他人には有効な手段だったとしても、当の本人には逆効果でした、なんて事もザラだ。

 

 「・・・・・・言い訳にもならないけど、これでも入学当初よりは大分良くはなってるの」

 

 カチャ、と音を立ててティーカップを置いてしまった。

 

 「入学時は、今よりも酷かったのですか?」

 

 「ええ。当時は、バ群に近づくことも出来なかったの。私の全力を掛けてターボちゃんに向き合ってみたけれど・・・・・・ダメだったわ。私では、彼女の力になることが出来なかった。何も出来なかった私が言えるセリフではないことは分かっているわ。それでも、あなたに頼むしかないの。お願い・・・・・・」

 

 ターボちゃんを、輝かせてあげて。

 

 絞り出すような声とともに、高川トレーナーは若手の自分に再び頭を下げた。





理事長代理、シナリオを始める前はクールビューティーというイメージでした。まさかポンコツヒザ神だったなんて思わないやん・・・・・・。結婚したい(真顔)

先日、ウマ娘キャラソートを試してみた所、

1位 サイレンススズカ
2位 メジロドーベル
3位 アドマイヤベガ
4位 ナイスネイチャ
5位 マンハッタンカフェ
6位 マチカネフクキタル
7位 ゴールドシップ
8位 メジロアルダン
9位 ツインターボ
10位 ライスシャワー

となりました。好きなキャラと書きたいキャラ、結構一致していたんだなあと。


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この気持ちからは、逃げたくない(4)

第4話投稿。恐らく次で完結です。

改めて見直すと、トレーナー×ターボ要素が皆無になりそう・・・・・・。あらすじ詐欺である。


 

 コポコポ、と湯気を立てながらカップに収まるコーヒー。

 

 何度目のおかわりとなるのか忘れてしまったそれを、やや気だるげに手に持つ。少し気が抜けたせいか、あくびが喉元まで迫って来たため慌てて左手で口を押える。

 

 仕事机に戻る際、部屋の窓から外の景色が見えた。少し前までは真っ暗だった景色が、今は徐々に明るさを帯びてきている。

 

 夢中になるあまり、寝るタイミングを逃してしまったようだ。日付が変わる辺りは眠気がピークだったのに、2~3時頃から逆に目が冴えてしまうこの現象は、一体何なのだろうか?俗にいう深夜テンションというものかもしれない。

 

 明日・・・・・・じゃなかった、今日が休日で本当に良かったとため息をつく。あくびをしながら担当バのトレーニングを見るなんて愚行、出来るはずがない。

 

 椅子に座り、角砂糖を一つカップに沈める。初めはブラックで飲んでいたが、だんだんと胃に伸し掛かってきたためだ。まだ熱いため少しだけ口にし、ふぅ、と息を吐く。

 

 軽く一息を入れ、再びパソコンに向かい合う。画面には、自分がこの時間帯まで起きることとなった原因・・・・・・とあるレースの映像が流れていた。

 

 レース終盤、最終直線でラストスパートをかけるウマ娘たち。その後方で委縮してしまい、最高速度を維持できずに後退していった自身の担当バ・・・・・・ツインターボ。

 

 一つのレースが終わると、そのまま違うレースが初めから流れる。日付も、コースも違う映像。共通しているのは、ターボが出走していることだけ。

 

 ゲートオープンから序盤、中盤、そして終盤。ウマ娘全員がカメラ内に収まっており、展開が一目でわかるものとなっている。じー、っと凝視し、その全てを目に焼き付ける。

 

 全部で7戦のレース映像。今までのターボの公式戦全てを撮影した貴重な資料だ。先日、高川トレーナーの元を訪れた際、帰り際に彼女から頂いたものである。

 

 通しで見ても30分とかからない映像。それを繰り返し、繰り返し見続けているうちに朝を迎えてしまった訳だ。

 

 (高川トレーナーには感謝しても、し足りないな・・・・・・)

 

 心の中でお礼を言いつつ、うんと背伸びをする。

 

 公式戦の映像は、100のトレーニングと同等の価値を持つ。練習でどんなに完ぺきにこなせることでも、本番でも同じように発揮できるかは別問題だ。特に、敗北したレースには今後の成長につながる改善点が詰まっていることが多い。

 

 注目度の低い未勝利バ戦、プレオープン戦はデータでしか残っていないことがあるため、撮影してくれていた彼女には感謝しかない。

 

 

 

 『ターボちゃんを、輝かせてあげて』

 

 

 

 若手の自分に、深々と頭を下げて頼み込んできた高川トレーナーの姿が思い浮かぶ。大先輩にここまでしてもらったのだ。これでターボを勝たせなければトレーナー失格だ。

 

 「・・・・・・うーん」

 

 ノンストップで流していたレース映像。そのうちの一つに目が留まる。

 

 秋の未勝利バ戦。公式戦において、ターボが唯一入賞したレースだ。3位という順位であり、スタートがもう少し良ければ1位を取れていたかもしれない。

 

 全ての映像を何度も繰り返し見た。それゆえ、はっきりと分かる。このレースだけ、ターボは明らかに異なる挙動を取っていた。

 

 (成程な・・・・・・)

 

 再生を止めないまま、物思いに耽る。下位に沈んでいたターボにとって、この作戦ならば勝率はグンと上がるだろう。しかし、その後ターボは二度と同じ挙動をしなかった。

 

 理由は・・・・・・確定ではないが想像がつく。

 

 この方法を再び取るか否か。彼女が今も同じ気持ちなのか。

 

 「・・・・・・まずは、確かめるか」

 

 明日のトレーニングに思考を巡らせつつも、パソコンをシャットダウンする。多少ぬるくなったコーヒーを一気に流し込み、トレーナー寮への帰宅準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、第四運動場でトレーニングを開始・・・・・・する前に、ターフの外で俺はターボと向き合っていた。

 

 トレーニング内容は既に伝えていたため、何の話かと怪訝そうな顔をするターボ。しかし、次の俺の言葉を聞いた瞬間、彼女は硬直した。

 

 「・・・・・・高川トレーナーから、ターボの過去のレース映像をもらったんだ」

 

 高川トレーナー、という単語を出した瞬間、微かに彼女の表情が曇った。申し訳なさそうな、そんな表情。契約が解除されたとはいえ、元トレーナーを想う気持ちは強いことが読み取れる。

 

 しかし、その後の『レース映像』という単語でその表情が固まった。

 

 「そっか、見たんだ。・・・・・・ひどいものばかりだったでしょ?」

 

 自虐的に笑うターボ。しかし、その顔はどこかぎこちない。話題に対し、あまり深く触れてほしくないような顔。

 

 普段だったらそんな表情をされたら俺もやんわりと話題を変えるが、生憎この話は今後の方針を左右する重要な話である。心の中で謝罪をしつつ、更に一歩踏み込む。

 

 「ああ。だが、1つだけ入賞を果たしたレースがあった」

 

 昨日、トレーナー室で嫌になるほど見たレース。お陰で映像再生機器がないこの場所でも、頭の中で鮮明に思い浮かべることが出来る。

 

 7戦のうち、唯一違う挙動を取ったもの。そのお陰で入賞を手中に収めたレース。彼女の抱える恐怖を克服するために高川トレーナーが編み出した作戦なのだろう。

 

 最終コーナーに差し掛かる際、彼女が『大きく』動いた。

 

 「恐怖を感じない大外も大外。観客席間近まで接近するように大きく膨らんで最終直線を駆け抜ける方法。この方法でターボは入賞を勝ち取った」

 

 バ群と十分すぎるほど距離を空けてのスパート。あらかじめ距離を取ることで委縮することなく、最後までトップスピードで彼女はゴールラインを駆け抜けた。

 

 ターボを見る。俺の話を聞いているターボは、手をぎゅっと握り締め、顔を俯かせていた。

 

 「・・・・・・その後のレースで同じことを続けていれば、1着を取ることも可能のように見えた。だが、この作戦を取ったのは一度きり。・・・・・・ターボがこの方法を続けなかった理由、ある程度は予想がついている。それでも、直接聞きたい」

 

 

 

どうして、同じ方法をその後のレースで続けなかったのか?

 

 

 

 人気の少ない運動場に、俺の声が響いた。

 

 大外も大外を目指す作戦は、彼女の弱点を補う一つの回答と言える。実際、それで過去最高順位を記録した。

 

 本来なら、そのまま続けようと思うだろう。しかし、今のターボからはその意思が見受けられない。

 

 俺が予測を言うのは簡単だ。それでも、ターボの気持ちを確認したかった。だからこそ、一旦言葉を切って彼女を見やる。

 

 うつむいたまま、俺の言葉を聞き終わったターボ。1分が経ち、2分が経ち・・・・・・無言が場を支配する。

 

 時折顔を上げ、口を開こうとしてそのまま固まる。何度も何度も、その動作を繰り返す。言葉を発しようとして、躊躇って留めるような・・・そんな仕草だった。

 

 本当なら助け舟を出すべきなのだろう。だが、今何度も言うように、今後の方針に関わる決め事となる。曖昧なまま事を進めて、後で後悔はしたくない。自分のために。そして、ターボのために。

 

 だから俺は待った。彼女が本心を打ち明けてくれることを。

 

 「・・・・・・トレーナーはさ」

 

 長い沈黙を破り、ぽつりと彼女が口を開く。

 

 「あのレースを見て、ターボがこの後続ければ勝てると思った?」

 

 「ああ」

 

 じっと目を見て質問をしてきたターボ。その瞳は、俺の言葉を全て見通そうとする動きだった。

 

 俺も嘘をつくつもりなんてないため、思ったままの心情を述べる。勝てる、という俺の言葉を聞いてターボは喜ぶ・・・・・・ことはなく、更に質問を重ねてきた。

 

 「うん。じゃあさ・・・・・・

  

 

 

 『どこまで』勝てるって、トレーナーは思った?」

 

 力のこもった声が、俺に届いた。

 

 一字一句も聞き逃さない。俺の心情を一欠片も取りこぼさない。そのような声音だった。

 

 『やっぱりな』と感じた。ターボは、俺の想像通りの想いを抱いていたのだ。

 

 ターボは悩みつつも本心を打ち明けてくれている。だからこそ、俺も正直な想いを答えた。

 

 「ターボの実力は学年でも上位だ。大外も大外を回る多大なタイムロスを差し引いても、あの末脚を出せるなら・・・・・・オープン戦までだったら十分に勝算はある」

 

 「うん。高川トレーナーからも、同じことを言われた。だから、同じことを聞くね。・・・・・・重賞レースは、勝てると思う?」

 

 「厳しいだろうな」

 

 彼女の問いに、恐らくは彼女自身も予想している言葉を即答で返す。

 

 「実力の離れている相手ならいざ知らず、重賞レースともなればコンマ数秒が勝敗を分ける。委縮しない距離まで離れて・・・・・・なんてやってたらいくら強力な末脚があったとしても、追いつけないだろうな」

 

 簡潔な事実のみを伝える。

 

 上記の作戦を続けた場合、ターボはジュニア期のうちに勝利を収めていただろう。きっと、そのままあのチームに居続けることだって出来ていたはずだ。

 

 オープン戦までならタイムロスを補える。そのまま努力を続ければ、引退までにGⅢレースまでなら狙えるかもしれない。

 

 ・・・・・・しかし、ターボは目先の勝利を望まなかった。

 

 「分かってはいるんだ・・・・・・分かってはいる」

 

 小声で、それでいて意思が籠った声。ターボは今度こそ、握り締めた手を開いて止まることなく言葉を紡いだ。

 

 「この方法だったら、今頃勝てていたと思う。高川トレーナーにも、迷惑をかけずに済んだ。勝手な思いだって、感じている。1勝も出来ていないターボが身の程知らずなのは、分かっている!・・・・・・それでも、ターボは勝ちたいんだ!レースの頂点、GⅠレースで!!一番上のレースを目指したい!頂点を取りたい!!負け続けても、この気持ちからは、逃げたくない!!」

 

 初めて聞いたターボの叫びだった。彼女の目には、少しだけ涙が溜まっていた。

 

 これが、初めて向き合うことが出来た彼女の本心。少し物静かな雰囲気を纏っていたターボの、秘めたる想い。

 

 目の前の、喉から手が出るほど欲しい1勝に背を向けてまで、掴み取りたいものが彼女にはあるのだ。

 

 ・・・・・・なら、彼女のトレーナーとしてやることは一つだ。

 

 「ターボ。話してくれてありがとう」

 

 ウマ娘が、目標に目指して走り続けるのなら、それを支えるのが俺の役目だ。その方法を見つけるのがトレーナーの役目だ。

 

 「GⅠを目指せる方法は、俺が探す。ま、今は今日分のトレーニングを消化することから始めていこう」

 俺の明るい声を聞いたことで、ターボが纏っていた雰囲気も軽いものになった。

 

 分かった、と早速ストレッチを始める彼女を見ながら、ターボの想いをかなえる方法を考え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 練習後、購買で購入した夕食をつつきながら、トレーニング中に考えた思考を押し進める。

 

 ターボは心からGⅠという大舞台での一位を、更にその先を目標としている。つまり、俺はターボをGⅠで勝たせる方法を考えなければならない。

 

 ターボの武器は加速力のある末脚だ。トップスピードに達すれば、最後方にいたとしても一気にちぎることが可能だ。

 

 しかし、今の状態ではその武器を活かすことが出来ない。高川トレーナーとも話し合ったが、現状有効な手段を見つけ出せない。

 

 バ群に近付くことさえ出来れば、近々のGⅢレースにでも自信をもって送り出せる。同時に、それが出来ないからこそ、ターボは苦しんでいる。

 

 『どうやって、委縮しないようにするか?』

 

 今の俺の頭は、その解決方法、克服方法を見つけられないでいた。

 

 精神面の改善を本格的にするのであれば、長期的な期間が必要となるだろう。ほぼ一年間、高川トレーナーの元で指導を受け、多少なりともよくなったのが今の状態だ。ここからレースで支障が出ない状態まで持っていくのに、いったいどれほどの時間がかかってしまうのか。

 

 いやそもそも、改善をすることが可能なのかどうかすら不明瞭である。

 

 仮に克服できるまでよくなったとして、それは何年後の話になるのか?ウマ娘のレース生命は決して長くはない。恐怖に打ち勝った時には、もう全盛期を過ぎていましたではダメなのだ。

 

 GⅠで輝かせたいが、そのためには何年かかるか分からない精神面の克服が必要となる・・・・・・パッと見、手詰まりの状況だ。

 

 「うーん・・・・・・」

 

 頭を抱え、元々ほとんど無い知恵を雑巾のように絞り出す。1人で悩んだときは、周りに助けを求めるのも一つの方法だ。

 

 先日は、トレーナーとしての意見を聞くために、高川トレーナーの元へと。

 

 なら、今度はどうするべきか?

 

 今、悩み苦しんでいるターボは、当然ながらウマ娘だ。それならば・・・・・・

 

 一つの解答が頭に浮かんだ俺は、顔を上げてポケットからスマホを取り出した。

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・・で、久しぶりにもらった電話の内容が他のウマ娘の相談、ってどういう事なんですか?トレーナーさん」

 

 「いや、その・・・・・・ほんと申し訳ありません・・・・・・」

 

 若干棘のある口調が電話越しに聞こえてくる。反論しようにも、10:0でこちらが悪いので二の矢を継げない。

 

 「電話できなかったことはすまなかった。色々と・・・・・・いや、何を言っても言い訳になってしまうな。返す言葉もないよ。レナ」

 

 「もぅ・・・・・・いいですよ。トレーナーさんが忙しいことは重々承知していますから」

 

 ため息と共にやや呆れ声を届けてきた彼女。その声は、まだ離れて一か月程しか経っていないというのに、少しだけ大人びたように聞こえてきた。

 

 ラインセレナーデ。新人トレーナーだった俺が3年間、二人三脚で共に駆け抜けたウマ娘であり、現在は地方トレセン学園のサブトレーナーとして第一歩を歩み出している。

 

 卒業式から今まで、連絡をするタイミングはいくらでもあったのに、仕事を言い訳にしてずるずると後ろ倒しにしてしまった。こちらが忙しいと推測して気を遣ってくれたのか、レナからの電話はなかった。元トレーナーとして、もっと気にかけなければならなかったと反省している。

 

 散々引っ張っておいて、ようやく連絡が来たかと思えば会話もそこそこに違うウマ娘に関する相談を口にする・・・・・・レナでなくても、蔑ろにされているようだと思われるだろう。

 

 こういう所、前々からダメだよなと自省する。

 

 「それで、ツインターボちゃんでしたっけ?問題を抱えているというウマ娘は」

 

 「ああ・・・・・・」

 

 ひとしきり謝罪した後、今回連絡した目的・・・・・・ターボに関する相談について、改めてレナの方から質問を受けた。

 

 「最初に聞きましたが・・・・・・小柄ゆえ、バ群に近づけないと。成程・・・・・・・」

 

 「ああ。3年間、レースを駆け抜けた君に問いたいんだ。レナはどうやって、恐怖心に打ち勝って走っていたのかを」

 

 思案の口調になった彼女に、俺も言葉を重ねる。

 

 今回、元担当バに連絡を取った理由。それは、彼女がどうやってレース本番、接触・転倒の恐怖を克服していたのかを聞くためだ。

 

 新人トレーナーとして試行錯誤の連続だった3年間。トレーニングやレースでの作戦を考えることで手一杯で、メンタル的なサポートは余り出来なかった。幸いなことに、レナは下手すれば俺よりも精神面が成熟していたことで、大きな問題は起きなかった。

 

 情けない話だけど、つくづく彼女が最初の担当バで良かったと感じている。

 

 ・・・・・・閑話休題。ともかく、メンタル面ではほとんどノータッチだったため、レース時の精神、感情の持ちようなどは彼女に任せきりだった。

 

 レナは平均的な体格である。ターボみたいに小柄ではないが、大なり小なり事故への恐怖心は抱えていていたはずだ。当事者として、どんな克服方法を試したのか。そこにヒントが隠されているかもしれないと思い、質問をしてみたわけだ。

 

 願わくば、ターボが飛躍する要因となることを祈って。

 

 期待を込めた彼女からの回答。しかし、レナの口から最初に発せられたのは、ばつの悪そうな声だった。

 

 「あ~・・・・・・」

 

 「・・・?どうしたんだ、レナ」

 

 「あのですね、トレーナーさん」

 

 「ああ」

 

 「・・・・・・特に克服することなく、走ってました」

 

 ・・・・・・

 

 「・・・え?」

 

 一泊の間をおいて、自分の口から気の抜けた素っ頓狂な声が出た。

 

 「いえ、確かに恐怖心はありましたよ。ただ、克服しようとまでは思いませんでした。レースに支障が出るほどではなかったからという理由もありますが、どう頑張っても完全に無くすことなんて出来なかったので・・・・・・」

 

 慌てたように取り繕うレナ。その言葉を聞いていくたびに、一定の理解を持ってこちらの頭に入ってきた。

 

 克服するのではなく、完全に恐怖心を無くすのは不可能なため抱えたまま走る。確かに、レースに支障が出ないのであれば、無理に何とかする必要はない。

 

 「ただ、ターボちゃんは抱えたままだと走れないんですよね・・・・・・」

 

 「いや、まあ走ることは出来るぞ。バ群に近付くと委縮してしまうだけだ」

 

 「それじゃあどの道末脚が活かせませんからね・・・・・・難しいです。うーん・・・・・・お役に立てなくてすみません・・・・・・」

 

 謝ってくるレナに対して、慌ててそんな事はないと訂正する。ターボの弱点を改善できるかは分からないが、ウマ娘当人からの話は必ず役に立つ。

 

 「いや、助かったよ。ありがとうな、レナ。今度、時間があるときにまたゆっくりと話そう」

 

 「本当ですよ~。話したいことはたくさんあるんですからね。また休日にでも『え、セレナーデさん電話相手誰?もしかして彼氏さん!?』ばっっっっ!!違うわよ!トレーナーよ元トレーナー!!違うから!!そんな関係じゃっ・・・・・・」

 

 ・・・・・・最後らへん、非常に騒がしくなったまま電話が切れた。内容がだだ聞こえだったが、深くは触れないでおこう。

 

 スマホを机に置き、ふぅと息を吐いた。

 

 ともあれ、レナも元気そうで何よりだ。今日は時間も遅いので切り上げたが、最後に話した通り、また休日にも連絡をしよう。トレーナー業の道を歩み始めた彼女に、アドバイスできる部分があるなら力になりたい。

 

 さて、と呟いて彼女との会話を頭で反芻する。

 

 レナは恐怖を無理に克服せずに、抱え込んだままレースに挑んでいた。向き合いながらというべきか。委縮しないのであれば、それも一つの回答だろう。

 

 しかし、ターボは現状向き合うことが難しい。どうしても、委縮の感情が勝ってしまうだろう。

 

 (また手詰まりか・・・・・・いや、まだ早い。会話を何度も反芻しろ。何気ない会話にヒントが隠されている時だってある)

 

 落ち込みかけた感情を、再び奮起させる。諦めるのは簡単だ。誰でも、いつでもできるし楽になれる。

 

 しかし、ターボの想いを面と向かって聞いた以上は、俺が先に折れるわけにはいかない。

 

 レナとの会話を、初めから想起させる。近況報告もそこそこに始まった、ターボの分析。ターボの抱える弱点を打ち明け、その後レナに克服方法を聞いた。有効な手段を見つけるまではいかず、最後は騒がしくなりながら電話が終わる。

 

 (ターボを委縮させない方法・・・・・・そうすれば・・・・・・ん?)

 

 会話内容を頭に浮かべたまま繰り返す。そのうちに、俺の頭には一つの疑問が静かに浮かんできた。

 

 いや、正確には一つの言葉だ。レナではない、俺が何気なしに言った言葉だった。

 

 

 

 

 

 『いや、まあ走ることは出来るぞ。バ群に近付くと委縮してしまうだけだ』

 

 

 

 それは、ターボの現状をそのまま表現した平凡で当たり前の内容。それが再び俺の頭を駆け巡った時、一筋の光が差した。

 

 (そうだ・・・・・・何もターボは走れないわけではない。近づけば本来の実力を発揮できなくなるだけだ)

 

 克服できないからと言って走れないわけではない。克服できないからと言って勝てないわけでもない。ターボは、克服できないから末脚を活かせないだけだ。

 

 最終的な目的は、勝つことだ。精神面の改善は、そのための手段の一つに過ぎない。

 

 (ならば・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー棟の一室、とある若手の男性トレーナーに充てられた部屋。翌日は平日だというのに、その日、夜遅くまで部屋の明かりが消えることはなかった。

 




ヴァルゴ杯、なんとかAグループ決勝に行けました。
スズカ、ウォッカ、デジたんに全てを掛けます。

予選では地固めウンスに嫌というほど泣かされました。水マルとウンス相手に逃げを入れないと文字通り勝負にならないので、スズカが終盤まで1位をキープできるかでどうかですべてが決まりそう・・・・・・。



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この気持ちからは、逃げたくない(5)終

おまたせしました。

ツインターボ短編、完結です。


 『ガコンッ!』

 

 と大きな音が鳴り、一瞬だけ時を置いて青色の風が駆け抜ける。

 

 飛び出したその影は、加速することなく速度を落としていき、やがて足を止める。その顔には疲労の色が浮かんでいた。

 

 肉体的なものではない。彼女の体力も、脚も、まだまだ余力が残っている。今すぐに長距離走に挑戦できるほどには元気が有り余っている。

 

 疲労がたまっている箇所は心、つまり精神的な部分だ。

 

 駆け足で再び元の位置・・・・・・発バ機が固定されている所まで戻ってきたツインターボに声をかける。

 

 「ターボ、反応が少しずつ鈍って来ている。一旦休憩しよう」

 

 「・・・・・・ううん、まだやる。こういう時だからこそ、集中しないと。レースで、最高のスタートをするために」

 

 スポーツドリンクを片手に提案したのだが、当の本人が疲労を振り払うように首を振り、そのまま発バ機の中に入る。

 

 中にウマ娘が入った状態になると、一定時間後にゲートが開く仕様となっている設備。開くまでの時間は毎回ランダムに決定されるため、集中していなければ見事な出遅れを披露することになる。

 

 十数秒後、再びゲートが開き、ほぼ同時にターボが飛び出す。同じ行為をかれこれ1時間近く続けているのだ。集中力に支障が出ても不思議ではない。

 

 トレセン学園の片隅にある、発バ機施設。ゲート難を抱えたウマ娘が、その克服のために使用しに来る場所であるのだが、ゲートの先は数十メートルの直線があるだけの、スタート練習しか出来ない狭い野外施設。レーストレーニングなどは出来ないため、利用者に関してはそんなに多くない。

 

 ましてや、ここ毎日のように時間をかけて練習に明け暮れているのは自分たちくらいだろう。施設の担当員も連日来る自分らを不思議そうな目で見ていたが、深くは追及せずに管理の仕事に戻っている。

 

 出遅れを防ぐ意味ではスタート練習は確かに大事である。しかし、優先度という観点から考えればそこまで時間をかけてやる必要があるかどうかは疑問が残るだろう。初めのコンマ数秒を完璧にするより、スタミナやスピードを鍛えたほうがいい。

 

 勿論、そんな事は俺もターボも承知の上だ。その上で、コンマ数秒を制するために集中的にこのトレーニングを行っている。 

 

 スタートを終え、戻ってくるターボ。その目には、以前までは見られなかった尋常ならざる炎が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「トレーナー、まだトレーニング始めないの?」

 

 2週間前、練習前にミーティングを行いたいので、運動場ではなくトレーナー室に来てほしいと伝達してターボを待っていた俺。放課後、時間通りにやってきた彼女は不思議そうな表情で疑問を呈した。

 

 そんな彼女に、一枚の資料を渡す。はてなマークを浮かべていたターボは、その紙に書かれた内容を読み、表情を引き締めた。

 

 「トレーナー、これ・・・・・・」

 

 「ああ。次のレースだ。1か月後、まだ枠が空いていたオープン戦に登録をしておいた」

 

 硬い表情で俺を見つめてきたターボに、力強く頷き返す。

 

 未勝利の彼女が出走できるものの中で、一番位が高いレース。未勝利バ戦やプレオープン戦は、あえて選ばなかった。

 

 「ターボ。先に言っておく。俺は、『ツインターボが勝てるレース』に登録をした。トレーナーとして、君を勝たせる手段を持ってきたつもりだ」

 

 静かな宣言を口にする俺を見て、彼女が目を見開いた。

 

 「勝てる方法、あるの!?」

 

 俺が言葉をつづける前に目を輝かせ、興奮した表情で迫ってきたターボ。いつもおとなしい姿ばかりだったため、この反応には少々面を食らった。

 

 しかし、すぐに思い直す。一年間、彼女はひたすらに貪欲に勝利を求めていた。喉から手が出るほど欲しい1勝。目先の欲を捨て、GⅠへの道が続いている勝利を渇望していたのだ。その方法が見つかったとなれば、冷静ではいられないだろう。

 

 ・・・・・・一つ息を入れる。喜びを全身で表現するターボをじっと見る。勝つ方法を見つけたということで俺も一緒になって喜ぶと思っていたのだろう。感情を顔に出さない俺を見て、ターボはその笑顔を引っ込めた。

 

 「トレーナー・・・・・・?」

 

 怪訝そうな表情を浮かべてくる彼女。

 

 ・・・・・・この方法が、本当に正しいのか?この後に及んでまだ不安になる。1年間、あの高川トレーナーを以てしても最後まで輝けなかったターボ。俺みたいな若手が数日で編み出した方法で良くなるのか?思いあがっているのではないかと自問する。

 

 「・・・・・・ターボ」

 

 俺の口から出たのは、心なしか細い声だった。

 

 「正直な所、この方法は賭けに近い。博打も博打、成功するかどうかは分からない。だから、試してみるかどうかは、俺の話を聞いてターボが決めて・・・・・・」

 

 「するよ!!」

 

 後ろ向きの言葉。悩みが含まれた言葉。その迷いを切り裂くように、ターボの声が俺に届いた。

 

 ハッと彼女を見ると、真剣な顔をこちらに向けていた。その目からは、躊躇いというものが少しも見られなかった。

 

 ぐっ、と机越しに身体と顔を乗り出し、ターボが更に続ける。

 

 「トレーナー。ターボのために考えてくれたんだよね。だから、やる。やってみなきゃ分からないから。もしダメだったら、それはその時に考えればいいから!」

 

 力強く言い切るターボを見て、俺は苦笑した。そうだ、まだ試してもいないのに何を弱気になっているんだと。やってみてダメならそれでいい。やる前に諦めるのが一番愚かな選択だ。

 

 「・・・・・・そうだな。すまなかった、ターボ。改めて説明するよ」

 

 

 

 

 

 発バ機でのトレーニングを終えたターボは、坂路のトレーニングに映る。少々苦手としている坂の克服と同時に、スタミナを鍛える練習だ。

 

 汗を拭いながら、何度も何度も駆け上がる。発バ機と同じく、やや単調な作業の繰り返し。嫌になるだろうに、文句の一つも言わずにトレーニングについてきてくれる。

 

 ふぅ・・・・・・と一息を入れる彼女にスポーツドリンクを手渡しながら、次のトレーニングを確認する。

 

 全ては、初勝利のために。

 

 言葉少なくとも1つの目標に向かって、俺たちは並んでまっすぐ進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とうとう、この日が来た。

 

 春から夏へ変わろうとしている季節。太陽は、まだ穏やかな表情で地を照らしている。幸いにも雲一つない、絶好のレース日より。暖かな天候に惹かれるように、本日は重賞レースがないにも関わらず、まばらとはいえそこそこの観客がレース場に集まっていた。

 

 トリを飾るのはオープン戦。ターボが出走するそのレースが、いよいよ間近に迫っていた。

 

 観客席の最前列で深呼吸をする俺は、ターフに佇むターボの姿を見ていた。数十分前、最後のミーティングを終えた彼女は緊張しているように見えた。

 

 「いよいよね・・・・・・」

 

 「ええ・・・・・・」

 

 隣から聞こえてきた言葉に返答する。

 

 俺やターボと同じくらい、いや、それ以上に緊張しているのかも知れない高川トレーナーの姿がそこにあった。

 

 オープン戦出走の連絡を彼女に伝えた所、必ず観戦するという強い返事をいただき、その言葉の通り本日この場所まで来ていた。比較的、トレセン学園の近くにあるレース会場とはいえ電車を使用しなければ厳しい距離である。チームから離れたとはいえ、教え子への想いが強いことが感じ取れた。

 

 「・・・・・・未勝利バ戦でも、プレオープン戦でもない。今のターボちゃんが出ることが出来る中で、一番手強いレース。・・・・・・勝てる方法を、見出だせたの?」

 

 ゲートに入り佇むターボに視線を向けながら質問をしてきた彼女に、逆に質問を返した。

 

 「・・・・・・高川トレーナーは、彼女のどこに惚れてスカウトをされましたか?」

 

 「勿論、あの末脚に惚れて、よ。あの加速力とトップスピードが合わさったラストスパートが決まれば、間違いなく頂点を狙える。彼女の弱点を知った後でも、信じて疑わなかったわ」

 

 「私もです。弱点については後から知りましたが、考えたことは一緒でした。『克服できれば勝てる』『どうやって、あの末脚を生かすか』・・・・・・最初のレース後から、ずっと考え続けていました」

 

 ぎゅっ、と右手で握りこぶしを作る。見れば、ターボも胸元で手を握りしめ、深呼吸をしていた。こういう仕草は似ていたんだなと、どうでも良いことが頭をよぎる。

 

 そう、どんなトレーナーでもターボをひと目見た瞬間そこに惹かれるだろう。彼女の長所を、末脚に活かしたいと思うだろう。

 

 俺みたいな若手でも、当然そう考えた。何とかして、レース本番で発揮できるよう彼女の精神的な感情を克服しようとした。

 

 ・・・・・・だが、ふと思ったのだ。

 

 「最終的な目標は、レースで勝つことです。ターボの場合は、そこに将来はGⅠレースで、という夢が追加されますが」

 

 「・・・?」

 

 話の脈絡が見えなかったのだろう。高川トレーナーが怪訝な表情を浮かべた。そんな彼女に顔を向け、言葉を続ける。

 

 「一旦、まっさらな状態に戻してターボと向き合ったんです。ターボの武器は、先程も言ったとおり加速力と最高速度。それと同時に、スタミナも平均以上はあります。加えて、技術的な部分では大きな弱点はない。・・・・・・そこで一つ、作戦が思い浮かびました」

 

 彼女が、1着を狙える方法が。

 

 言い終えると同時に、ゲートが開く音がした。音につられて、高川トレーナーがターフの方に目を向け・・・・・・

 

 その顔が驚きに染まった。

 

 レースは始まったばかり。おまけに人気バが出走していないオープン戦。にも関わらず、まばらな観客からはどよめきの声が上がった。

 

 その発生源となったのは、小柄な青色のウマ娘・・・ツインターボだ。

 

 握った右手に、更に力が籠もるのを感じた。

 

 彼女はその脚を跳ばしてターフを駆けていた。文字通り、誰よりも速く、遠くまで。そう・・・・・・

 

 

 

 バ群を置き去りにして1人、遙か先を走っていた。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「逃げ・・・・・・?」

 

 困惑したようなターボの顔。突如発バ機の練習が取り入れられ、その理由を聞いてきた彼女に俺の作戦を話した。

 

 今までのターボは、その脚を活かすための差し、追い込み型だった。しかし、いくら体力を温存してもラストスパートでバ郡に近づけないことで宝の持ち腐れとなっている。

 

 どうやって末脚を発揮させるか?どうやって精神を克服するか?

 

 その考えを一切捨て、彼女が勝てる方法を1から考え直したとき、浮かんできたのだ。

 

 「バ群に近づかなければ、ターボは本来の実力を発揮できる。ならば、最初から最後まで近づかなければいい。いや・・・・・・『近づけさせなければいい』」

 

 一種の前提を覆す方法。勿論、これは博打の面がある。前半飛ばすのだから、必然的に彼女の最大の武器、ラストスパートでのスピードを殺すことになるからだ。

 

 加えて、精神面の改善にも重きをおいてはいない。逃げ切れずバ郡に飲まれたら最後、萎縮してしまい逆転は絶対にできなくなる。

 

 レナの顔が頭に浮かぶ。彼女は恐怖心を抱えたまま、レースに挑んでいた。その話を聞いて、一歩下がった見方を出来るようになったのだ。何が何でも精神面を改善するやり方から、レースに勝つためにどんな作戦を立てるかというやり方へと。

 

 何より・・・・・・

 

 「実際に走ってみなければ分からないが、この方法ならば十分に『上』を狙えると思っている」

 

 「・・・・・・!」

 

 力強く言い切った俺の言葉を聞き、ターボは目を見開いた。

 

 GⅠを狙える末脚。これを捨てるやり方だ。正気の沙汰ではないと自分でも思う。それでも、発揮できるまで何年かかるか分からない武器に縋るよりも、今この状況で活かせる方法を取る。

 

 その決断をするのも、トレーナーの役割だ。

 

 「・・・・・・トレーナー、お願い。発バ機の使い方を教えて」

 

 数十秒の沈黙。一旦目を閉じ、開いた彼女の瞳には、強い決意が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レースは進み、ちょうど1000mを過ぎた辺り。

 

 先頭を駆けていたツインターボ。彼女と後続のウマ娘の差が徐々に縮まってきた。最大10バ身以上はついていた差が、今は8バ身ほどだろうか。懸命にターフを蹴っているが、目視で認識できるほどに、間隔が狭まっていく。

 

 逃げウマの宿命ではある。序盤、リードを広めるためにスタミナを他のウマ娘より消費するのだから、どうしても差は詰まる。しかし、その詰まる速度が想定より早い。

 

 (・・・・・・速すぎたか)

 

 じっとターボを見ながら、内心で後悔する。

 

 スタートは完璧だった。それでも、練習の時とは違う、ウマ娘の気迫、足音を聞きながらの逃亡劇。一刻も早くバ群から離れたいと思ったのだろう。幾度ものトレーニングで打ち立てたペース配分を超える速度で序盤を駆け抜けてしまった。

 

 そのツケが今、現実のものとなって少しずつ押し寄せてきている。

 

 (・・・・・・ターボ)

 

 両手の指を組み、祈るような仕草を取る。

 

 もう、これくらいしか出来ない。歓声の中、俺はひたすら彼女の勝利を願っていた。

 

 いくらトレーニングメニューを経てても、いくら指導をしても、レース本番は彼女を見守ることしか出来ないもどかしさ。

 

 内ラチに沿って軌跡を残すターボ。その後ろに迫るバ郡。勝負は、最終コーナーに入ろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (怖い・・・・・・怖いっ・・・・・・)

 

 近くに聞こえる足音。それが、自身とバ郡の距離が大きく詰まっていることを表していた。

 

 逃げウマにとって必須と言えるスタート技能。元々そこまで苦手でも無かったけど、集中的に発バ機での特訓を組み込んでくれたことで、今までで一番いいスタートを着ることが出来た。

 

 出遅れでもして囲まれたら、絶対に抜け出すことが出来ない。その緊張に打ち勝ち、先頭に躍り出たのまでは良かったけど、その後にミスを犯した。

 

 すぐ後ろに感じる気配。スタート直後だから当然なのだけど、ターボの後ろにはウマ娘の集団が出来ていた。

 

 恐怖を感じる前に足が動いた。一刻でも早く離れようと全力で走ってしまったのだ。結果として大きくリードを取ることにに成功したけど、ペース配分もそれ以上に乱れてしまった。

 

 そのツケが今、形となって間近まで迫っている。

 

 最終コーナーを曲がり切り、後は直線のみ。

 

 観客の声援。熱気。それを感じる余裕はなかった。 

 

 再び感じる気配。振り返るまでもない。突き放したバ群がもう後ろまで近づいてきた。

 

 いつもなら、ここまで溜めてきた脚を爆発させる状況。でも、その貯金は前半で粗方使用していた。 

 

 懸命に脚を動かす。恐怖から逃げるように。一歩でも早く前に進むために。

 

 しかし、それでも差は広がらない。

 

 (これでも、ダメなの?トレーナーが必死に考えてくれたのにっ!ターボのために、頑張ってくれたのにっ!それにターボは応えられないの!?)

 

 思い浮かぶのは、トレーナーの顔。隠していたようだけど、ターボは分かっていた。逃げの作戦を考えてくれた日、トレーナーの目にはクマが残っていたことを。自分のために、睡眠時間を削って新しい方法を編み出してくれたことを。

 

 恐らく女性トレーナーから貸してもらったのだろう。誤魔化すために化粧品が目元に塗ってあった。でも、普段から化粧をしていなかったことで雑な仕上がりになっており、クマを隠しきれていなかった。

 

 指摘はしなかった。不器用に隠してまで、自分に気付かれないように努力をしたものをわざわざ口にするなんて真似、出来るはずがない。

 

 ターボのために頑張ってくれたのだから、ターボも走って返すしかない。

 

 ・・・・・・それすら、出来ないの?

 

 あと400mを切った。ゴールはもう目視できる。それなのに、心にあるのは恐怖心。

 

 どんどんと、足音が大きくなってくる。そこから逃げるように前を向く。

 

 

 

 『彼』が見えたのは、その時だった。

 

 

 

 「あ・・・・・・」

 

 ゴール付近の観客席に、トレーナーがいた。

 

 力強くターボの背を押してくれた人。その彼が、祈るように目を伏せ、うつむきながらも願っていた。

 

 (トレーナー・・・・・・っ)

 

 ・・・・・・何を、不安にさせているのだ『私』は。

 

 (トレーナーは言った。この方法なら、上を狙えるって。それなら、こんな所で躓くわけには行かない!)

 

 後方1バ身も無いほどに迫ってきた足音。もう、距離はない。このまま差し切られたら、負ける。

 

 ・・・・・・そんなの、嫌だ。

 

 キッと顔を上げる。

 

 そうだ、ターボはバ群が怖い。接触が怖い。二度と走れなくなってしまうのが、どうしようもなく怖い。

 

 何度レースに出ても克服できなかった。今まで二人のトレーナーがターボのために手を尽くしてくれて、それでも改善できなかった。

 

 ・・・・・・それでも、走り続けた。

 

 怖いのなら辞めることが出来た。簡単なことだ。学園を去れば、二度とあの恐怖を感じなくて済む。中央トレセン学園は中退後のケアもしっかりと取ってくれると聞いていた。いつでも、レースと無縁の新しい生活を歩むことが出来た。その選択肢をいつでも行使できる状況にあった。

 

 何故、取らなかったのか。理由なんて、簡単だ。

 

 (勝ちたい。ターボは勝ちたいんだ!誰よりも早く駆け抜けたい!頂点のレースで、一番早くゴールしたい!だからターボは走るんだ!どれだけ怖くても、どれだけ足がすくんでも・・・・・・)

 

 

 

 『この気持ちからは、逃げたくない!!』

 

 

 

 脚に再び力が灯る。体力が残っていない身体に、気力が満ちる。

 

 限界だと思っていた状態から、更に身体が前に進む。フォームはどうなっているか分からない。きっと酷い形だろう。歩幅もバラバラだろう。

 

 それでも、この脚は止まらない。

 

 200mを切っても、他のウマ娘が並んでこない。違う。並ぶことが出来ない。

 

 (逃げろ・・・・・・逃げろっ・・・・・・)

 

 トレーナーが考えてくれた、勝利への作戦。走っていて、誰よりも実感できた。

 

 この走り方であれば・・・・・・

 

 観客の歓声をその身で受けながら、ターボは叫んだ。咆哮のような雄叫びがレース会場に鳴り響く。

 

 その残響が消えないまま、ターボは、私は、ゴールラインを突き抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まばらながらも、今日一番の歓声がレース会場を支配した。

 

 人々が口々に、あの4番凄いなと口にする。

 

 名前ではなく、ゼッケン番号呼び。まだ彼女の名を覚えている人は少ない。それでも、今日の記念すべき初勝利は確かな記録と記憶となって残った。

 

 「ターボ・・・・・・っ」

 

 大声で彼女の名を呼ぼうとして、声が詰まる。歓喜と共に溢れ出てきた涙を拭き、ターフを見る。息を切らせ、地面に仰向けに寝転びながらも両手を空に突き出しているターボ。その顔には、今まで見てきた中で一番の笑顔があった。

 

 「ターボちゃんっ・・・・・・」

 

 震える声を聞き、隣に視線を移すと、溢れ出る涙を隠そうともしない高川トレーナーの姿があった。

 

 彼女のもとで1年。俺の元で数ヶ月。ようやく届いた教え子の初勝利に涙をこらえきれなかったのだろう。

 

 かくいう俺もそうなのだ。長い間ターボを向き合った高川トレーナーには、俺以上の想いを抱えていたはずだ。

 

 涙を拭いた彼女が、こちらに向き直る。

 

 「・・・・・・ありがとう。あなたのおかげです。私では、あの時無理やり引き止めていても、ターボチャンを輝かせることは出来なかったでしょう・・・・・・」

  

 「違います、高川トレーナー。貴女が1年間、ターボの実力を伸ばしてくれたから今回の作戦を取ることが出来たんです。俺は、最後のひと押しをしただけです」

 

 頭を下げようとする彼女に、本心からの言葉を返す。

 

 仮にターボが最初から俺の所に来ていたとしても、ここまで実力を伸ばすことは出来なかった。高川トレーナーのもとで1年間、スピードやスタミナを始めしっかりと基礎を築き上げたからこそ、選択肢が広がったのだ。

 

 俺は文字通り、最後の1ピースをはめただけに過ぎない。

 

 「それに、まだまだ課題は多いです。ペース配分は勿論ですが、ラストスパートでもフォームに乱れがありました。直していかなければ行けない箇所はたくさんあります」

 

 「・・・・・・そうね」

 

 俺の言葉に、高川トレーナーは一瞬言葉をつまらせた後、言葉の裏の意図を見抜き、同意してきた。

 

 そう、今回のレースは完璧ではなかった。初めて逃げに挑戦したのだから当然ではあるが、課題は山積みだ。逃げは身体への負担が大きい。怪我をしないためにもしっかりとトレーニング段階から修正していく必要がある。

 

 そして、課題が多いということは・・・・・・

 

 「まだまだ、改善できる箇所がある。一つ一つ直していくことで、もっと『上』を狙えます」

 

 力強く宣言する。修正箇所の多さは、成長の余地につながる。不完全な状態でも今回、オープン戦を制すことが出来たのだ。ターボが文字通り逃げを完璧に仕上げられたら、その時立っているレースは・・・・・・

 

 ぐっと拳を握りしめる。

 

 確かな手応えと共に、そう遠くない未来、勝負服を着たターボが先頭でターフを駆け抜ける姿を想像して、今日初めての笑みが溢れた。

 




『この気持ちからは、逃げたくない』
効果:最終コーナー以降、先頭に立っている状態で追い抜かれそうになると、不屈の精神によって速度がすごく上がる。



本日中(恐らく夕方~夜)にもう一話、メジロドーベル短編を投稿予定です。間違いなく問題作です(断言


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マンハッタンカフェ短編
静寂の時間


トレーナー×マンハッタンカフェ短編です。

過去1短いです。3000文字ありませんでした。短編の形をした何かです。

実装前から考えていたネタあるのですが、カフェの育成をした際急にこのシチュが浮かんでしまい、気づけば書いていました。多分『お友達』のせいです(違

実装前のネタは、また今度執筆する予定です(多分)。


 練習後に訪れたトレーナー室。いつもならパソコンとにらめっこしながら私を迎え入れるトレーナーさんが、今は仮眠用ベッドの隣に立っている。

 

 定期的に訪れる『この日』は、時間をかけて行いたいという彼の希望で、重要な伝達事項がない限りはミーティングは行われない。

 

 彼に促されるまま、ぽふっ、とベッドに腰掛ける。その衝撃か、わずかにトレーナーの匂いが舞い、鼻腔をくすぐったきがした。

 

 コーヒーと同じくらい、いや、それよりも安心する匂い。堪能したい気持ちをぐっと抑えて、靴とニーハイソックスを脱いだ。

 

 ・・・・・・いくらトレーナーさん相手とはいえ、男性の目の前で素足を晒す行為に対して、初めから抵抗がなかったかと言えば噓になる。1度目の時は、無理はしなくていいと説得するトレーナーと、ニーハイソックスに手をかけたまま固まる私という奇妙な構図が数十分続いた。正直に言って、忘れたい記憶である。

 

 「お願い・・・します。トレーナー、さん・・・・・・」

 

 「ああ」

 

 それが今では、言葉を一言交わすだけ。私のお願いにトレーナーさんは返事をし、私の足に手を触れた。

 

 ウマ娘にとって、命と同等の重みを持つ箇所。心の底から信頼する相手でなければ、絶対に触れさせない場所。

 

 そのままトレーナーさんは、じっと私の足の一部・・・・・・爪を見つめ、形状を念入りに確認していた。

 

 爪切りとヤスリを取り出して、以前より伸びた爪を少しずつ切り、削っていく。その表情は真剣そのものだった。私は身体から力を抜いた状態で、そんな彼の表情をじっと見つめていた。

 

 生まれつき、私は爪が薄かった。日常生活を送る分には問題ないが、レースを走るウマ娘としては、重すぎるハンデ。以前までは無理をして走り、割れてしまった事も一度や二度ではない。

 

 加減が分からず、普段の練習にも小さくない影響を与える始末。それが、彼がトレーナーとなってからは一気に改善した。

 

 今みたいな、定期的な爪のケアに加えて、適正なトレーニングと挑戦するレースの選別。莫大な負担を瞬間的に掛ける短距離、マイルを完全に切り、中距離及び長距離に標準を定めての特訓。

 

 ・・・・・・偶然の産物ではあるが、私にはステイヤーとしての素質・適性があったようで、長距離レースに限っては全戦全勝という結果を収めることが出来ている。

 

 私は、ずっと彼を見つめている。トレーナーさんは、右足の爪のケアから始めている。どこまでもまっすぐな瞳。私の金色とは違って、永遠に吸い込まれそうになる黒色。その瞳が、私の身体の一部を捉え続けている。

 

 その事実が不思議と、私に高揚感をもたらす。彼の視界が、思考が、ずっと私に向き続けている。

 

 勿論、今でも気恥ずかしさはある。手入れをしてくれる日は、練習後のシャワーを浴びる時間が倍になる。・・・・・・増加時間分のほとんどは、彼に触ってもらえる足を丹念に、特に念入りに洗っている時間だということは、私だけの秘密にしている。

 

 真剣にケアをするトレーナー。私が話しかけても視線を動かさないまま返事をすることが多くなった。

 

 ・・・・・・多くなったというのは、ある時期からである。

 

 数か月前、お互いに無言の空間は苦ではない性格ではあるが、二人きりということで彼の声を聞きたいと思って何気ない話題を振ったのだ。

 

 それに対して、彼は笑顔で顔を上げて応えようとして・・・・・・バッと顔を逸らした。

 

 突然の奇行に、『お友達』が何かをしたのかと思ったが、よく見たら彼の頬が非常に赤みがかっていたことに気づく。

 

 そこまで認識した瞬間、私も首を折る勢いで下を見た。爪のケアの最中は、彼が手入れをしやすいように若干足を開いている。そして、トレセン学園の制服はスカートだ。そんな状況で目線を上げた彼の視界に入るものといえば・・・・・・

 

 「・・・・・・と、トレーナー、さん・・・・・・」

 

 「・・・・・・その・・・・・・ごめんなさい」

 

 ぎゅっ、とスカートの裾を握った私の問いかけに対して、ものすごく申し訳なさそうにトレーナーさんが謝罪をした。

 

 ・・・・・・これは、一種の事故ということにした。それだけで済ませていい問題ではない、しかるべき処罰をと尚も謝ろうとする彼を半ば強引に丸め込んでの決着となった。

 

 流石に今回の件は、不可抗力である。元はと言えば、原因となったのも私が話しかけたからであって・・・・・・

 

 あの日以来、トレーナーさんは絶対に顔を上げなくなった。あれからは私もケアの際、インナーを付けるようになったため大丈夫と言っても頑として視線を固定し続けている。

 

 普段は優しいのに、こういった所は頑として受け付けなくなる。

 

 「・・・・・・ふふっ」

 

 笑みをこぼす私。その声が聞こえたのかトレーナーさんの耳が動いたが、それ以上の反応を示すことはなかった。

 

 私のトレーニングだけではなく面倒な書類仕事もあるはずなのに、嫌な顔一つせず、定期的に手入れをしてくれるトレーナー。

 

 だからこそ、こんな日くらいは彼にお礼がしたいと申し入れ、結果として定例となった行事がある。

 

 ソファの近くにあるテーブルに視線を移す。そこには、私が持ってきた鞄が一つ。中身は、大きめの魔法瓶で占められている。

 

 ケアをしてくれた後に開かれる、ささやかなお茶会。お菓子などはなく、ただ二人でゆっくりとコーヒーを飲むだけ。言葉はなく、静かに過ごす静寂の時間。それが、たまらないほどに愛おしい。

 

 彼がコーヒーに口を付け、一瞬見せる表情が好きだ。今まで淹れてきた全部のコーヒーにおいしいと言ってくれるのだけど、そのおいしさの『度合い』を顔から推し量ることが出来る。

 

 前に淹れたものより、おいしいと思ってくれたのかどうか。今までの中で、一番あなたに合う味だったのかどうか。

 

 豆を変え、ブレンドの割合を変えつつ、彼が最も好きな味を探す行為。豆の種類だけで100種類以上あり、そこにブレンド配合、割合もとなれば、文字通り一生かけても辿り着けない可能性が高い。

 

 ・・・・・・でも、探したい。彼の『一番』おいしいと感じる味を。ずっとずっと、傍にいて見つけていきたい。・・・・・・私だけの、秘密にしている夢だ。

 

 右足のケアを終え、左足に移っているトレーナーさん。そんな彼を見て、お茶会に想いを馳せつつ再び静かに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『お友達』を追いかけ、追いかけ・・・・・・気づけばこの場所まで来ることが出来た。私の理想、超えたい壁・・・・・・私が成長するごとに理想は高くなり、今では遥か遠くまで離れてしまった、静かなる影。

 

 でも、悲壮感はない。たどり着くべき目標は、確かに遠くなっていく。それでも、私は、私たちは前に進んでいる。立ち止まることもある。少しだけ、引き返してしまった事もある。

 

 しかし、その『目標』は、しっかりと見えている。見えているのなら、追いかければいい。一歩ずつでいい。

 

 

 

だって、あなたと一緒なら、どこまでも進んでいけるのだから。

 

 

 




次は、またドーベル短編になりそうです。

メジロドーベル推しの人物にドーベル実装という劇薬を与えた○イゲが悪い(暴論

今からの執筆になりますが、筆が乗れば近日中に投稿します。

別投稿の沖スズはもう少しお待ち下さい・・・・・・。すまぬ。


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執着心


誰だよ年末には投稿する予定とか言った奴。

遅れてしまい申し訳ございませんでした。しかも、当初告知していた内容ではなく筆が乗って完成してしまった短編(カフェトレ♂ではある)になります。

大さじ一杯の甘さと、小さじ半杯ほどの初期設定を混ぜ合わせた短編になります。


 

 「はい、終わったよ。カフェ」

 

 ずっと私の前で跪いていたトレーナーさん。真剣な雰囲気をまとっていた彼は、一つ深呼吸をして体勢を起こす。両肩を軽く回しながら立ち上がり、優しい声で語りかけてきた。

 

 蛍光灯の光に照らされたトレーナー室。シトシトと小雨が降る空模様のためか、分厚い雲に覆われた夕日は室内にまで差し込んでこない。

 

 ありがとうございます、とお礼を言ってソックスを履く。つま先には、先程まで処置をされていた名残である白いガーゼが巻かれていた。

 

 

 

 

 約30分前、グラウンド状態を鑑みて室内トレーニングに切り替えてもらったのだけれど、屋外屋内関係なしに私の体質が顔を覗かせたのだ。

 

 大型体育館での練習が丁度折り返し地点に入った頃、幾度も経験した痛みがつま先に走った。

 

 「カフェ!」

 

 減速し、足を止めてすぐにトレーナーさんが駆け寄ってくる。何度経験しても、この鋭い痛みはどうも慣れない。

 

 右足を少しだけ床に着けた状態で静止する。傍に来たトレーナーさんは、そのまま屈んで私の右足に触れた。靴紐を慎重に緩め、刺激を加えないようゆっくりとシューズを脱がしてもらった。

 

 ちらっと視線を落とす。予想通り、練習用の白ソックスに赤色が付着していた。

 

 「カフェ、失礼するよ」

 

 「・・・・・・すみません」

 

 シューズを持ち、屈んだままトレーナーがこちらに背を向ける。そこに、自分の身体を預けた。

 

 ・・・・・・暖かな背中。私の好きな温度。トレーナーの身体に手を回すと、彼は私の両足を支え、立ち上がった。

 

 俗に言うなら、おんぶの体勢。

 

 「足に響くようならすぐに言ってね」

 

 校内を進みながら、彼が声をかけてくれる。その声に応えるように、回している腕に軽く力を込めた。

 

 より密着する身体。昔、父親に背負ってもらった時はその大きな背中に安心感を感じたのを覚えている。

 

 でも、今はそれだけじゃない。

 

 顔を押し付けて、気付かれないように深呼吸。鼻孔から身体の中に入ってくるのは、彼の匂い。おんぶしてもらっている今だけ許される特権を堪能する。

 

 私よりも大きな身体。安心する匂い。そして、高鳴る胸の音。

 

 爪が割れれば、背負ってもらえる。そこに邪な考えを入れてしまった私は、悪いウマ娘だ。

 

 彼は本気で私を心配して、かつなるべく負担にならないようにトレーナー室までの短くない距離を背負ってくれる。

 

 トレーナーさんの善意を踏みにじる、最低な思考。それでも、この幸せを享受してしまう。

 

 雨に長く当たらないように、なるべく屋根がついている通路を選択して通るトレーナー。しかし、できれば雨に濡れたくないと思う気持ちは他の人、ウマ娘も同じ。必然的に皆が似通ったルートを通って移動することになる。

 

 つまり、今の私達の状況を見かける者は多くなるわけで。

 

 「カフェ、少し我慢しててね」

 

 「・・・・・・はい」

 

 人目が増えてきたことを気にしてか、トレーナーが声をかけてくる。その優しさを噛み締め、私は返事を返す。

 

 怪我の度合いにもよるが、ウマ娘の身体はそれなりに丈夫にできている(というより、丈夫でなければあの速度では到底走れない)ため負傷をしてもよほど重いものでなければ1人で歩行、一歩踏み込んでもトレーナーが肩を貸す程度で保健室へ向かう光景を多く見かける。

 

 それ以上に重い怪我となれば、保健室の設備では対応できないため病院直行となる。

 

 何がいいたいかというと、爪が割れる程度の怪我ではおぶって貰う必要なんて無い。先程も触れたが、トレーナーの純粋な善意に甘える形でしてもらっているのであって、普通なら肩を借りるまでもなく1人で歩く程度の度合。

 

 すれ違うみんなが、私達の体勢を見る。驚いたような表情をして、その後私の右足を見てある程度納得した表情を浮かべる。

 

 しかし、他のトレーナーさんたちはそこで視線を外して終わりなのだが、ウマ娘はそこから更に派生する。

 

 じっとこちらを見て、大半の少女たちが同じ色を持つ目線を向けてくる。大なり小なり伝わってくる感情。

 

 『羨ましい』

 

 その思いが、様々な方向から私を捉える。

 

 理由は分かる。それも痛いほどに。

 

 学園在籍のウマ娘はレースに青春を捧げる者たちとはいえ、年頃の少女。私も含めて、気を張ってばかりというわけではない。偶には、誰かに甘えたい。

 

 そんな中、一番身近にいるのはトレーナーという存在。しかも、レースに向けて一心同体、二人三脚で自分を高めてくれる大人となれば、寄り掛かりたいという感情が芽生えるのも時間の問題だ。

 

 しかし、トレーナー側にも都合がある。同性ならまだしも異性、つまり男性トレーナーの場合、担当バとはいえ未成年の少女と距離が近すぎるというのは問題となる。既に家庭を持っている人だって、当然多い。

 

 結果、男性トレーナーは基本的に担当バに対しても事務的な対応になりやすい。なにかの間違いが合った場合、クビが飛ぶのだからその対応は納得だ。

 

 しかし、担当トレーナーが男性だからこそ、少女達の想いはより強くなる。

 

 考えても見てほしい。親元を離れて1人、慣れない寮生活。中央トレセン学園という最高峰の舞台で先輩たちのレースを間近で見て、入学数日でその壁の高さに圧倒される。

 

 更には、同学年との熾烈な競争。今まで地元では常にトップ、神童と言われてきた者たちの集まりだ。ずっと1位を取ってきたウマ娘が、初めて全国での自分の『位置』を知る。知ってしまう。

 

 そんな中で手を取ってくれ、自分のために昼夜関係なくトレーニングメニューを組んでくれる。誰よりも速く駆け抜けたいという想いを汲み、時には厳しい態度で頂きに導いてくれる。誰よりも、自分のことを考えてくれる。

 

 ・・・・・・そんな大人の異性が現れて、意識するなという方が無理な話である。

 

 甘えたいのに、距離をとってしまう自身の男性トレーナー。そんな中、こんな光景を見せられたらどう思うか。

 

 ・・・・・・ぎゅっ、と更に腕に力を込める。ああ、私は性格が悪い。それも、どうしようもないくらいに。

 

 心に渦巻くのは、大多数の人に見られているという羞恥心。甘えていることでの、他のウマ娘たちへ対する罪悪感。・・・・・・そして、僅かばかりの優越感。

 

 自分は、こんなにもトレーナーさんに大切にされているんだということを、周知の事実として広められる。

 

 醜い独占力。どうしようもないエゴイズム。

 

 (・・・・・・トレーナーさん)

 

 心の中で、大好きな彼を呼ぶ。

 

 私の『普通』を、ありのままを受け入れてくれた人。でも、まだ彼に見せていない『顔』がある。

 

 それは・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 「カフェ?」

 

 ハッと意識を戻す。先程の光景を思い浮かべすぎて、集中力が疎かになっていた。

 

 まだ痛む?と心配そうに聞いてくるトレーナーさん。また不安にさせてしまったことを恥じつつ、大丈夫ですと笑顔を作って返す。

 

 「良かった、少しでも違和感を感じたらすぐに言ってね」

 

 治療に使った器具を片付けつつ、トレーナーさんが優しく語りかけてくる。

 

 今日のトレーニングは中止。本来なら数日間安静のためトレーニングを休まなければいけないのだけど、幸いなことに今日は金曜日。週末しっかり休めば、週明けからのトレーニングも可能となるだろう。

 

 下手に悪化させないよう、休日はあまり遠出できなくなるがそれは仕方ない。元々大した用事はないし、トレーナーさんに治療してもらった恩を仇で返すようなことはしたくない。

 

 私の体質の問題なのに、『ごめん、僕のミスだ。もっとトレーニング内容を考えるべきだった』と本気で言うような人なのだ。これ以上、彼に要らぬ負担を感じさせたくない。

 

 (ああ・・・・・・)

 

 器具を仕舞い、いつもの業務に戻るため準備をしているトレーナーさん。その後ろ姿をじっと見る。

 

 先程まで私の全てを預けていた背中は、そんなに大きくはない。成人男性の平均から見れば、華奢に見えるその出で立ち。でも、その背中に私は無限の安心感を、そして淡い気持ちを抱いていた。

 

 (・・・・・・トレーナーさん)

 

 今日だけで、何度目かも分からない心での呼びかけ。背を向けたままの彼に届くことはない。それを認識して、ようやく私のもう一つの『顔』をさらけ出すことが出来る。

 

 まだ、見せたくない。だって、あまりにも自分勝手な願いだから。優しい彼に、失望されたくないから。・・・・・・優しい彼なら、無理に受け入れてしまうかもしれないから。

 

 それは、執着心。人より何倍も強い想いを抱くと言われているウマ娘の、最も強い感情。

 

 貴方だけを見ていたい。貴方の全てになりたい。

 

 「・・・・・・貴方しか、見えません」

 

 小さく、小さく呟いた声。私の内なる願いを汲んだのか、その声は彼に届かないまま空気に溶けるように消えていった。

 

 





コロナが収まったらまた東方Project聖地巡りに休日を費やすことになると思うので、それまでに書けるだけ書いていきたいと思います。


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最高の1杯を、貴方に


遅くなりまして申し訳ございません。

以前投稿しました同名タイトルの後編執筆に手間取り、カフェ短編から半年ほど手が離れてしまいました。

以前投稿した前編を削除し、前後編を1話にまとめて再投稿します。後半かなり駆け足です。




 

 ~始まりの一杯は、爽やかに~ 

 

 

 夏という季節は、幾分に厄介なものである。

 

 晴天の日は、何物にも遮られない日光が容赦なく私達に降り注ぎ、十分に蓄えていたはずの体力を容赦なく奪っていく。

 

 かといって、雨の日なら涼しくなるかといえばそんなことはなく、不愉快と感じるほどにまで上がった湿度が鬱陶しく体に纏わり付く。

 

 どちらかと言えば、トレーニングが始まる夕方前には幾分勢いが収まっている晴れの日の方がマシか。とはいえ、実際に体感をすれば『暑苦しいので雨が降ってほしい』と考えてしまうので両者の差は殆どないと言っていい。

 

 ・・・・・・そもそも、どんな天候であってもこの季節自体があまり好ましくないのだから五十歩百歩となるのは仕方ない。

 

 身体を動かせばものの数分で汗が吹き出る。無理をすれば、たちまち熱中症に掛かり保健室へ送還される。

 

 今年の夏は例年より涼しいとはいえ、あくまで夏同士を比較した場合。快適からは程遠い環境に、億劫な気分になってしまう。

 

 それでも、課されたトレーニングメニューはしっかりと行う。

 

 「・・・・・・ふぅ」

 

 長距離を走りきり、口から漏れるのは熱い吐息。

 

 べったりと付く汗が、走ってきた距離を物語る。ベンチに置いていたスポーツドリンクを一口飲み、脈打っていた心臓がようやく少し落ち着いた。

 

 運動場には、まだまだ大勢のウマ娘とトレーナーがいる。その風景を横目に見つつ、呼吸が落ち着いた所で歩き出す。

 

 トレーナーからの助言やアドバイスはない。そもそも、今自分のトレーナーは不在なのだから。

 

 トレーナーに急な会議参加の連絡が来たのが、トレーニング直前のこと。あまりに突然のことだったので、彼は鳩が豆鉄砲を受けた時のような表情をしていた。

 

 普段、並大抵の霊障では動じなくなったトレーナーの珍しい表情に、思わず笑みを浮かべてしまった。

 

 「ごめんカフェ、取り敢えず今日の計画表は置いていくから。この暑さだし、少しでも不調を感じたらそこで切り上げてね」

 

 早口で内容を伝えてくれた彼が慌ただしく校舎方向に駆けていったのが2時間近く前。計画表に書かれていたメニューを全て終えた私は、帰寮の準備に移る。

 

 追加で練習をしたいところではあるが、元々丈夫とは言えない身体。トレーナーの指示無しで取り組み、加減を間違えて倒れてしまおうものなら周りへ多大な迷惑をかけてしまう。

 

 そもそも、時期的にそこまで追い込みを掛ける必要はない。目標レースが先週終わったばかりで、しばらくは調整期間に入るからである。

 

 運動場から学生寮まではそう遠くない。物思いに耽る内に、顔を上げれば見知った建物。まだトレーニング中のウマ娘が多いためか、喧騒の少ない廊下を静かに歩く。

 

 人付き合いは、良い方ではないと自覚している。レースに出場する目的が他のウマ娘から見れば奇怪なものであり、それを隠そうともしていないのだから当然だとは思う。

 

 それでも、入学当初に比べれば友人は増えた。少々、いやかなり、友人と呼ぶことに抵抗のあるウマ娘が約1名いるが、それはまあいいだろう。

 

 シャワーで汗を落とし、制服に着替えてから食堂で夕食を取る。

 

 ・・・・・・一連の行動が、無意識の内に早足となっている事には気づいている。それでも、止めようとはしない。楽しみを我慢できる性格ではないのだから。

 

 食堂から出た時には、夕日が落ちきって辺りが薄い藍色に染まっていた。この時間帯になっても、顔に当たる風は暖かい。この浮ついている気持ちごと、身体がふわふわと飛んでいきそうになる。

 

 見えない糸に引かれるようにしてたどり着いたのは、トレーナー棟の一室。手慣れた形でノックをすると、すぐに入室の許可が返ってきた。

 

 「・・・・・・失礼します」

 

 扉を開けると、部屋の主が椅子から立ち上がり、笑顔で迎え入れてくれた。

 

 「カフェ、練習お疲れ様。ごめん、今日は見ることが出来なくて・・・・・・」

 

 「・・・・・・トレーナーさんのせいでは、ありません」

 

 謝罪をする彼の言葉を遮るように、口にする。前々から入っていた予定を今になって思い出しました、ならまだしも、あんな急に予定が入ってしまっては対応できる人はいないだろう。

 

 何にも悪くない彼に頭を下げさせるわけにはいかないし、こんな事で時間を使いたくはない。

 

 本日、このトレーナー室に来たのは、ミーティングのためではない。そもそもトレーニングの打ち合わせがあるのなら、シャワーはともかくその後に夕食を取るような悠長なことはしない。

 

 ちょうど一段落がついていたのか、うーんと背伸びをする彼を見ながら、私は部屋に備え付けられていた小型の冷蔵庫を開ける。殺風景な中身の中、一つだけ鎮座する大型の魔法瓶を取り出した。掴んだ手の平から、ひんやりとした冷たさが広がっていく。

 

 本日のトレーニングを始める前に、お邪魔して入れておいたもの。中央のテーブルに置いて蓋を開けると、真っ黒な液体が目に映った。同時に、落ち着く香りが漂ってくる。

 

 気づけば、既にトレーナーさんが氷入りのグラスを用意してくれていた。今では、言葉を交わさなくとも自然にお互いが準備を進める。置かれた2つのグラスに、真っ黒な液体・・・・・・コーヒーを静かに流し込む。

 

 早朝、フレンチプレスまで焙煎を行い、淹れた水出しコーヒー。時間こそかかるものの、必要な工程が少なく安定した味になりやすいため、日程の詰まっている平日には重宝する方法である。

 

 「ほらカフェ、座って」

 

 用意が終わった所で、トレーナーさんから声がかかる。彼は一見落ち着いているようで、口端にかすかに浮かぶ笑みを隠しきれていない。

 

 その光景に思わず笑みを浮かべそうになりつつも、言葉に従ってソファに腰を下ろす。

 

 二人きりの部屋に流れる、静かな時間。時間は誰にでも、平等に刻まれていく。その限りある時の中で、私は彼と一緒にいる時間を選ぶ。

 

 ゆったりと流れる空気。今日はお茶菓子も用意しない、純粋にコーヒーのみを味わうつもりでいる。 

 

 落ち着いた所で、どちらからともなくグラスを手に取る。彼は片手で、私は両手で。音を立てずにお互いに一口。口に入った瞬間、風が吹き抜けるのを感じた。

 

 コロンビア産とモカ産を中心にブレンドした一杯。爽やかで飲みやすく、いくらでも口にしたくなる味。

 

 「おっ」

 

 と微かに聞こえてきた声。顔を上げれば、トレーナーさんが驚いたような表情でコーヒーを見つめている。 

 

 いつも美味しそうに飲んでくれるトレーナーさん。彼がかなりのコーヒー好きだと知った時は、心の中で歓喜の声を上げてしまった。

 

 口下手な事もあって、トレーニングの内容以外では会話が途切れてしまうことが多々あった。もっと話したい。それでも、続かない。静寂の時間は好きだけれど、貴方と話す時間も好き。

 

 でも、コーヒーの話題であればいくらでも話せる。会話が止むこと無く続いていき、今ではトレーニング後、私の淹れたコーヒーを一緒に飲むようになった。

 

 月に何回かの楽しみ。それを心待ちにしているのは、私だけでなく彼もそうみたいで。コーヒーを飲む前に浮かべる笑みを見るだけで、自分までも嬉しくなってしまう。

 

 「カフェ」

 

 「・・・・・・はい」 

 

 「ようやく・・・・・・いや、ここからだね。改めてになるけど、デビュー戦勝利、おめでとう」

 

 トレーナーさんの笑顔を見て、私も笑う。

 

 ふと窓を見ると、星が顔を出す時間帯。いくつもの輝きが、道標となるように、私達を照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~憂慮の一杯は、ビターな味~

 

 

 女心と秋の空、とは言うが、涼しさと寒さを掛け持つ秋という季節において、急な天候の移り変わりは少々辟易する。

 

 練習開始前は地表を照らしていた太陽であったが、今日は少し恥ずかしがり屋みたいで30分もしない内に雲の影に隠れてしまった。辺りが暗くなってから雨が大地を濡らすまで、それほど時間はかからなかった。

 

 運動場でトレーニングに勤しんでいた大勢のウマ娘も、今は全員引き上げているだろう。

だろう、というのは実際に自分が確認したわけではないためである。

 

 本日、私はトレーナーさんと共に、一足早く運動場を去っていた。おかげで雨には濡れることはなかったけれど、足取りは重かった。私も、そして恐らくトレーナーさんも。まるで、ぬかるみにハマったかのように、底なし沼に沈んでいくように。

 

 コポコポ、と液体が沸騰する音が聞こえる。同時に機械的な通知音。

 

 「カフェは座ってて。あまり脚を動かさないようにしてね」

 

 「・・・・・・ありがとうございます」

 

 立とうとした所を、やんわりとトレーナーさんに止められた。・・・・・・どんな時でも、トレーナーさんは優しい。トレーニング中でも、それ以外でも、私を気遣ってくれるのが伝わってくる。

 

 家族以外に、ここまで親身になってもらえた人は初めてだ。

 

 分かっている。トレーナーさんが優しくしてくれる理由の大部分は、仕事だから。日々の生活がかかっているのだから、担当バに真摯に接するのは当たり前のことなのだろう。

 

 (・・・・・・それでも)

 

 沸騰したお湯を、ケトルに移し替える彼を見ながら、私は机の上を見る。先程まで置かれていた治療道具一式は既に片付けられていた。代わりに置かれているのは、私がここ、トーレナー室に新たに置いている道具一式。

 

 ペーパーフィルターを折りたたみ、ドリッパーに敷き詰める。その中に、今朝挽いた粉状のコーヒー豆を入れる。

 

 「カフェ」

 

 コト、と横に置かれるケトル。移し替えたことで若干温度が下がったお湯が、静かに湯気を立てていた。

 

 コーヒーを淹れるのは、私の役目。

 

 毎回私が淹れていると、偶にトレーナーさんも好奇心が掻き立てられるようになったのか、「自分もやってみていい?」と聞いてきたことがあったのだけれど、きっぱりと断った。

 

 いつもお世話になっているのだから、これくらいは恩返ししたいという気持ちで言ったのだけれど、少々誤解をされたのか断られた彼はしょんぼりとした表情になった。

 

 慌てて釈明をして事なきを得たのだが・・・・・・あの時のトレーナーさんの表情、正直に言うと、とても可愛かった。

 

 ずっと前に似たようなことを言った時、「ちょっとカフェ、僕は男だよ!」と拗ねてしまったので一度きりの表情となったわけだけど・・・・・・また、見たいと思ってしまう私がいる。

 

 勿論、そんな事はできない。あの時は、最初ということもあってトレーナーさんも拗ねるだけで許してくれたけど、再び口にしたら嫌がられるかもしれない。

 

 私の『普通』を、ありのままを受け入れてくれた人。だからこそ、嫌な思いはなるべくさせたくない。

 

 ケトルを持ち、ドリッパーの上で傾ける。円を描くようにお湯を静かに注いでいく。元々強かった香りが、一段と鼻孔を刺激する。

 

 ドリッパー内の嵩が減ってきたら、再びお湯を淹れる作業。私も、彼も無言。ドリッパーから垂れたコーヒーが、サーバーに溜まっていく。

 

 ポタポタ、と聞こえる音はコーヒーが垂れる音か。或いは、未だ振り続ける空からの恵みか。

 

 二人分の量が溜まった所で、ドリッパーを外してサーバーを手に持つ。

 

 軽く揺らすと、漂ってくる濃い香り。トレーナーさんと私のマグカップに、同じ量を分け合う。

 

 いつもはワクワクとした顔をするトレーナーさん。でも、今日は喜びの表情を表に出していない。

 

 部屋を漂う重く、どんよりとした空気。理由は分かる。だって、原因が私にあるのだから。

 

 どちらからともなく、コーヒーを口に運ぶ。

 

 (んっ・・・・・・)

 

 濃い香りを裏切らない、はっきりと感じる苦味。キリマンジャロ産のコーヒー豆を中心としたブレンドは、時間が経っても色褪せない印象を舌に残す。

 

 飲むペースは、トレーナーさんのほうが早い。自分は急ぐとお腹を壊してしまうためちびちびと飲み勧めているのに対して、彼は既に半分ほど飲んでいる。

 

 (おいしかったのでしょうか・・・・・・?)

 

 と、いつもなら彼の反応を楽しみに観察している時間。しかし、今はそんな気分になれない。

 

 お互い、コーヒを口にして一息ついたタイミング。先に口を開いたのは、トレーナーさんだった。

 

 「いつもと変わった感じはない?」

 

 なるべくさり気なく、こちらに不安な思いをさせないような声。心地の良い音が耳をくすぐる。

 

 「・・・・・・はい、大丈夫です」

 

 視線を落とし、ぎゅっと短パンの裾を握る。視界に移るのは、右足先がやや膨らんだ黒色のソックス。少しだけ透けている足先を見ると、親指にガーゼが巻かれているのが確認できる。

 

 先程まで、トレーナーさんに治療を受けていた証。

 

 私達がひと足早く引き上げてきた理由がこれである。模擬レース終了後に痛みを感じ、確認した所爪が割れていたのだ。

 

 生まれつき、爪が薄い私。『あの影に追いつきたい』と大層な目標を掲げる割にはレースは勿論トレーニングすらままならない状態だった。トレーナーさんのサポートがなければ、そもそもトレーナーさんに出会ってなければ今頃どうなっていたか・・・・・・考えるだけでも恐ろしい。

 

 ただ、それでも0にはならなかった。直近だと先月に一度、そして今回。空気が乾燥する今後は更に増える可能性も十分にある。

 

 「・・・・・・カフェ」

 

 「謝らないで」

 

 彼なら、頭を下げようとする。予想通り、その兆しが見えた瞬間言葉を遮った。

 

 「・・・・・・トレーナーさん。私は、トゥインクルシリーズに挑戦できる事自体が、奇跡的なことなんです。トレーナーさんと出会えたから、この程度のアクシデントで済んでいるんです」

 

 「カフェ・・・・・・」

 

 「・・・・・・トレーナーさんが悪いだなんて、誰にも・・・・・・トレーナーさん自身にも、言わせません」

 

 慰めではない。お世辞でもない。純然たる事実をトレーナーさんに伝える。

 

 デビュー戦後はOP戦1度、GⅢ戦に1度出走し、いずれも入賞を果たしている。特にジュニア級ながら重賞レースであと一歩の所まで健闘できた事で、期待のウマ娘という評判まで貰っている。

 

 ただ1人で、届くかも分からない影を追いかけていた1年前とは、何もかもが違う状況。

これで、彼に問題があるだなんて、誰にも言わせない。

 

 「・・・・・・ありがとう」

 

 「・・・・・・いえ」

 

 短い、けれどお互い見つめ合ったままの感謝の言葉。少しだけ笑顔を見せた彼を見て、私も静かに息を吐いた。

 

 コーヒーを少しだけ口にする。今は、この無視できない強い苦味が、心地いい。

 

 気づけば、トレーナーさんは既に一杯飲み干していた。私も彼も、相手のペースに合わせて飲まない事を話し合いで決めている。

 

 一番大事なのは、飲む人がコーヒーを味わって楽しむこと。下手に相手を気遣わないことが、逆に気遣いとなる。

 

 「ごちそうさま。今日も美味しかったよ、カフェ」

 

 「・・・・・・お粗末様です」

 

 返事をし、マグカップを傾ける。ちびちびと飲むふりをして、顔を隠す。

 

 毎回、飲み終わった後に笑顔で言ってくれる一言。その一言が、未だに慣れない。何でもない言葉のはずなのに、妙にむず痒くなる。

 

 トレーナーさんは飲み終わったコップを片付けて、資料をトレーナー机から持ってきた。今日の模擬レースのデータ、それを元に構築する今後のトレーニング内容・・・・・・決めなければ行けない事が、たくさんある。

 

 それでも、やらなければいけない。

 

 年末にはホープフルSへの出走が決まっている。同年代が相手とはいえ、初めてのG1。遠い影に追いつくために、ここで止まるわけにはいかない。

 

 クラシック級になれば、クラシック三冠は勿論、既に大活躍をしている先輩方と対戦する機会だってある。

 

 クラシック級での出走権はまだ未定。それでも、掴み取ってみせる。

 

 飲みかけのマグカップを一旦置き、広げられた資料を見る。

 

 ・・・・・・1人で決めるのではなく、2人で。

 

 同じ目標を持って、同じ方向を向いて。本日の結果を見ながら、私はこれから立て続けに訪れる大一番に向けての想いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~王者の一杯は、孤高の味~

 

 春の陽気が、うつらうつらと。

 

 寒さが和らぎ、穏やかな風が桜の花びらを運ぶ季節。

 

 その空気に似合わぬような、大歓声が耳に届く。

 

 男性の、女性の、子供の、若者の、老人の声。それに隠れるように、かすかに聞こえる力強い十数名の足音。

 

 声援が最高潮に達し、やがて足の音もまばらに、小さくなっていった。

 

 幾度も聞いた、レースが終了した時の音。1人の勝者と、それ以外の敗者。結果にかからわず、応援していたウマ娘を称える声。

 

 いよいよ、私が出走するレースの番となった。あと20分もしないうちに、パドックへ招集のアナウンスがかかるだろう。

 

 挑むは春の大一番。天皇の名を冠するG1レース。

 

 菊花賞よりも更に長い、3200mという距離の暴力。いかに中距離まで無双を誇ったウマ娘でも、並大抵の体力では最終直線を待たずに沈んでいく。

 

 ・・・・・・足に不安がある自分だけなら、出場の選択肢にすら入れなかったであろうレース。そのレースを前に、私は漆黒の勝負服を身に纏っている。

 

 この服を着て、レースに挑むのは今回で3度目となる。1回目は、先程挙げた菊花賞。2回目は、昨年末の有馬記念。

 

 1つ、小さく深呼吸。ぎゅっ、とネクタイを握って心を落ち着ける。 

 

 「集大成だね、カフェ」

 

 聞こえてきたのは、私より少し高い音程の落ち着いた声。

 

 顔を上げると、そこには私をまっすぐに見つめる彼の姿。

 

 「・・・・・・トレーナーさん」

 

 「大丈夫。この日のために完璧な調整をしてきたからね。カフェなら、絶対に勝てる。僕が保証するよ」

 

 私に余すことなく届けるように、一言一言はっきりと発言するトレーナーさん。

 

 ・・・・・・でも、その姿を見て、申し訳ないけど笑ってしまった。

 

 「・・・・・・ふふっ」

 

 「・・・?どうしたの、カフェ?」

 

 「・・・・・・トレーナーさん、体が震えてますよ」

 

 私の言葉を聞き、『えっ!?』と慌てて自身の身体を確認する彼。その両手足が目に見える大きさで震えているのに、今気づいたみたいだ。

 

 レースに臨む私よりも緊張している彼を見て、変に力が入っていた部分が楽になった。

 

 これを狙ってやっていたのなら中々の役者である。でも、3年間彼と共に過ごして来た私には、これが彼の素の姿である事が分かっている。

 

 私のことを、私以上に考えている人。

 

 「ははは・・・・・・ごめん、僕が緊張していちゃいけないのにね」

 

 「・・・・・・そんなこと、ありません」

 

 情けなくてごめん、と言いかけるトレーナーさんの手を握る。

 

 向かい合って立ち、再び視線が交わる。私よりわずかに高い、彼の背丈。同じ目線で、同じ歩幅で歩いてきた道のりに思いを馳せる。

 

 『調整以外のレースは長距離一本で行く』

 

 去年始め、はっきりと私に宣言した彼。

 

 「瞬発力、爆発力が必要となるスプリンターでは、トレーニングの段階でもカフェの爪が耐えられない可能性が極めて高い。幸い、カフェにはステイヤーとしての素質を感じる。体質的にも、能力的にも長距離で勝負したい」

 

 その時の貴方は、いつもの穏やかな雰囲気とは打って変わって、真剣な表情を私に向けていた。

 

 文字通り、今後のレース人生を左右する決断。

 

 長距離一筋、というウマ娘はほとんどいない。それでも、私が抱える体質を鑑みて悩み抜いた末での結論だったことが伝わってくる。

 

 ・・・・・・それなら、この人に託したい。そう思うほどに、私は彼を信頼していた。

 

 その結果が、今である。

 

 彼の黒い瞳を覗き込むように、顔を近づける。

 

 「トレーナーさん」

 

 鼻先が触れ合うほどの距離。顔を赤らめ、逸らそうとする彼を捕らえる。

 

 「・・・・・・大丈夫です。長距離において、私が負けると思いますか?」

 

 「・・・・・・いや。想像もつかない、かな」

 

 以前の自分なら、そもそも現在の自分でも性格的に言わないような、自身に満ち溢れた言葉。

 

 でも、トレーナーさんと2人で築いた戦績が、後ろ向きな心を後押しする。

 

 『菊花賞1着』

 『有馬記念1着』

 

 という大きな、大きなG1連勝。凛として挑むくらいが、ちょうどいい。

 

 「・・・・・・トレーナーさん、待っていてくださいね」

 

 近づけていた顔を離し、テーブルに置いていた筒状の物体・・・・・・魔法瓶を手に取った。

 

 ほのかに暖かさを感じる中身は、朝淹れてきたコーヒー。

 

 レース後、一緒に飲む事が日課(?)となって1年。調整のために出走した中距離1戦以外は、勝利をトレーナーさんに届けることが出来ている。

 

 今回も、最高の順位で戻ってくる。

 

 その決意を胸に秘め、トレーナーさんに瓶を渡した。

 

 いつもはブレンド調合に力を入れているけど、今回は1種類の豆しか使用していない。

 

 『ブルーマウンテン』

 

 コーヒーの王と言われる、孤高の最高級品。ようやく手に入った1杯を、勝利の味にしてみせる。

 

 「・・・・・・行ってきます」

 

 「・・・・・・うん。行ってらっしゃい、カフェ」

 

 震えが止まったトレーナーさんに静かに宣言をして、控室を出る。

 

 最高の1杯を貴方に届けるために。私は力強く足を踏みだした。

 

 





週末は、ピクシブで先に投稿しておりましたベルトレ小説数話をこちらでも手直し次第、順次投稿予定です。


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最新投稿話
トレーナーに甘える時は、語彙力が著しく下がるネオユニヴァース



お久しぶりです。軽く(?)モチベが死んでおりました。

今回は2周年放送時に一目惚れしたネオユニヴァースの短編です。

シンボリクリスエスの育成ストーリーで僅かですが情報が追加された事で、何とか形に出来ました。

〜4/19追記〜
ネオユニヴァース実装おめでとうございます!!



 

 

 

 『ネオユニヴァースについてどんな印象を持っている?』

 

 という質問を投げかけた場合、どのような答えが返ってくるのだろうか?

 

 

 

 学園に在籍する、あるウマ娘はこう言った。

 

 曰く、「非常に頭が良く、定期試験ではいつも順位表先頭付近で名を見かける」と。

 

 疑いようのない事実である。彼女は非常に頭脳明晰であり、1学年1000人を超える中央トレセン学園においてほぼ毎回1桁順位を取っている。全教科見渡しても穴がなく、欠点らしい欠点が見当たらない。

 

 レースで結果を出しているが、学力面では未勝利クラス・・・・・・というウマ娘も少なからずいる中、彼女に関しては、赤点や補習といった単語とは無縁の存在である。

 

 

 

 あるレースファンの人は、こう言った。

 

 曰く、「現役では最強クラスのウマ娘だよなあ」と。

 

 こちらもまた、事実である。シニア級夏の時点で、GⅠクラス2勝を挙げており、出走したレースほぼ全てで3着以内に入り込んでいる。

 

 前走の天皇賞春では掲示板外に沈んでしまったものの、評価は揺るがない。このレース中に軽い怪我を負ったが、幸いにも経過は良好であり、現在は通常の練習メニューをこなせるほどまで回復している。

 

 昨年よりも一回り成長した姿。秋の天皇賞に向けて調整は順調であり、出走する全てのレースで本命になるだろうと言われている。

 

 

 

 このように文武両道を地で行くウマ娘、ネオユニヴァース。しかし、質問に答えてくれた2人は、その後言葉を選ぶように付け加えた。

 

 曰く、「普段から何言っているのか分からない」と。

 

 先に言っておくが、彼女が留学生で日本語を話せないというわけではない。生粋の日本生まれ、日本育ちである。

 

 ただ、彼女の話し方に問題が・・・・・・というよりは、非常に癖があるのだ。

 

 これはもう、実際に聞いてもらったほうが早いだろう。

 

 昨年の宝塚記念、彼女はレース場に足を踏み入れるやいなや、辺りを見渡して徐に口を開いた。

 

 「・・・・・・この場は、エントロピー。ネオユニヴァースには、アンコントローラブル、かな。」

 「その原因はSIPTと摂理の相剋。・・・・・・観測が必要だね。」

 

 ・・・・・・こいつ何言ってるんだ?と思った人は多いだろう。安心してほしい。俺もそう思いかけた。

 

 極度の緊張で言動がおかしくなったわけでもないし、某中二病を患ってしまったわけでもない。彼女は至って真面目に発言をした。

 

 簡潔に言えば、彼女の頭が良すぎることが原因である。

 

 常人よりも遥かに早く状況を分析し、対応できる頭脳。普通の人々より遥かに多い引き出しのある言語力。

 

 その2つが合わさってしまった結果、先程のような難解で独特といえる表現を発してしまうのだ。

 

 独り言の時だけでなく、会見やインタビューでもずっと同じ口調のため、必然的に自分がフォローすることとなる。

 

 彼女の専任トレーナーを3年間やってきた俺という翻訳機がいなければ放送事故待ったなしのため、レース後でも割りと気が抜けない。

 

 彼女が有名に成る程、『宇宙人のようだ』と評される機会が増えてきたが、的を得ているので何とも言えない。誹謗中傷絡みなら別だが、そんなキャラクター(?)込みで人気が高く、世間から愛されているため、それならば俺から言うことは特に無い。

 

 

 

 ここまでが、世間から見たネオユニヴァースというウマ娘の印象だろう。

 

 全て偽りのない事実であり、全てが彼女の一面である。

 

 

 

 ・・・・・・・その上でもう一つ、付け加える一面があるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽がカンカン照りの快晴日。エアコンが効いたトレーナー室で、俺は淡々とキーボードを打ち込んでいた。

 

 休日出勤となった本日ではあるが、残っていた仕事はそんなに多くなかったため、パソコンと向かい合って2時間もしない内に片付けることが出来た。

 

 正午までの出勤報告をしていたためそこから手持ち無沙汰となったが、どうせなら担当バのために使おう。

 

 そう考えついたのが1時間前のこと。

 

 現在、時計の短針がようやく11の数字に差し掛かろうかという所。パソコンの画面に表示されているのは、中期的なトレーニングメニュー表。

 

 右手に持ったマウスで、表示範囲を変えつつ見通す作業。

 

 そして、左手はというと。

 

 

 

 正面から抱きついてきているネオユニヴァースの頭に添えられていた。

 

 

 

 「ん~・・・・・・♪」

 

 「いや、ユニ。ん~、じゃなくて」

 

 椅子に座る俺に対し、ぎゅうううううう、と両手両足でハグを継続中の担当バ、ネオユニヴァース。

 

 30分程前、突然トレーナー室まで来たかと思えばいきなり抱きついてきて、その後ずっとこの体勢である。

 

 俺の肩に顎を乗せ、時折身体全身をグリグリと押し付けてくる。その度に、幸せそうな声を届けてくれる。 

 

 「・・・・・いつからこんな甘えん坊になったんだろ」

 

 「~♪」

 

 呆れの混じった俺の小声。それを綺麗に無視して、彼女は更に密着してくる。

 

 始まりは1年前くらいだっただろうか?ようやく担当バとの信頼関係も築けてきたかなあと思っていた時期、今回と同じシチュエーションでいきなり抱きついてきたのだ。

 

 そりゃあもうビックリした。あの時、大声を上げなかった自分を褒めてほしい。

 

 ウマ娘の力に敵うはずもなく、彼女が満足するまでハグされた後、暴れる心臓を抑えつつ理由を聞くと

 

 「・・・・・・こうしたくなったから?」

 

 と首を傾げ、表情を変えずに答えてきた。トレーナー室で本当に良かった、仮に往来の場だったら間違いなく大惨事となっていた。

 

 その後、二人きりの状況になった場合は定期的に彼女のハグを受けることとなった。

 

 普段、俺の指示にほぼほぼ従ってくれる彼女なのに、この時ばかりはどこ吹く風で忠告を無視し続けている。

 

 結局、今では苦言を示す程度に留めて彼女のハグを受け入れてしまっている。

 

 当然、嫌というわけではない。むしろ逆だ。今現在も、トレーニングメニューに目を通しつつ彼女を思い切り抱きしめたい欲と戦っている。

 

 冷静に考えて、ネオユニヴァースほどの美少女に、多少痛みを感じるほどの強さでハグされて何も感じない男がいるだろうか?

 

 1年間幾度となく体験して、流石に当初よりは慣れた。それでも、彼女の匂いや感触を感じる度に、理性がガリガリと削られるのは仕方ない。

 

 (・・・・・・きっと、ユニも甘えたいんだ。燦然たる成績を残しても、レースから一歩離れれば普通の少女。親元から離れた寮生活に身を置き、誰かに寄り掛かりたくなる気持ちも芽生えるだろう)

 

 心の中で構築される。どうしようもない言い訳。

 

 だから、彼女のこの行為を受け止める必要がある、と自分勝手な大義名分を振りかざして、この状況を享受してしまう。

 

 

 

 「・・・・・・トレーナー」

 

 「ん?」

 

 「耳も、撫でて」

 

 考え込むのを遮るように発せられた、担当バの声。

 

 要望通りに、柔らかな耳を優しく撫でる。

 

 「あ~・・・・・・♪」

 

 余程気持ちいいのか、トロンとした無防備な表情になる彼女。

 

 いつもの独特な表現はなく、ただただ己の率直な感情をそのまま言葉に出し、寄りかかってくる。

 

 (はじめは、ユニの走りに惚れたはずだったんだけどなあ・・・・・・)

 

 作業を進めながらも、考えてしまうのは目の前の担当バのこと。

 

 選抜レースで発揮された、抜群の末脚に魅せられてスカウトし、山あり谷ありの二人三脚。

 

 気づけば、『担当バ』という枠組み以上の感情を抱えてしまっている自分がいた。

 

 幸せそうに甘えてくる彼女を撫でつつ、休日の時間はゆっくりと過ぎていった。

 

 

 



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その目に、射貫かれて


ベルトレ短編


 

 

 

 それは、本当に偶然だった。

 

 

 

 昨日のミーティング後、トレーナー室に忘れ物をしてしまった事実に気づいたのが深夜帯。

 

 目立たない場所に置いていたため、トレーナーも気づかなかったのか彼からの連絡は来ていない。

 

 別段、すぐに必要となる物でも、見られて困る物でもない。どの道週明けには確実にトレーナー室を訪れる事になるので、わざわざ取りに行かなくても問題ない。

 

 ・・・・・・そこまでの結論が脳内で出ていたにも関わらず、翌朝、アタシの脚はトレーナー室へと向かっていた。

 

 先に言わせてもらう。

 

 決して、決して休日の朝から彼に会いたかったとか、彼の顔が見たかったからとかそういう理由ではない。断じて。

 

 そう、これは『見張り』のためだ。

 

 トレーナーは、翌日が休みの日は深夜遅くまで仕事を続ける傾向にある。もはや有名となった明かりの消えないトレーナー棟。その説に、彼も一役買っている。

 

 中央トレセン学園のトレーナーは、優秀な人ぞろい。そんな人たちでも就業時間を大幅にオーバーしなければならないほどの激務なのだ。

 

 いくら若い彼でも、無理が祟れば必ずどこかで爆発する。

 

 ・・・・・・だから、今日は無理をしていないかどうかを確かめに行くだけ。そのついでで忘れ物を取りに行くだけ。

 

 もう一度言う。彼と会うための大義名分を得るためでは決してない。

 

 「・・・・・・トレーナー、入るわよ」

 

 ノックをし、トレーナー室のドアに手をかける。何の抵抗も無しに開いたドアが、彼が室内にいる事を示していた。

 

 その事実を認識した心に飛来したのは、喜び半分と心配半分。

 

 喜びに関しては、彼と会え・・・・・・う、ううん、もう言わない。

 

 心配に関しては、悪い予想が当たったということ。

 

 「・・・・・・トレーナー」

 

 部屋に入り、もう一度彼を呼ぶ。しかし、その返答はない。

 

 部屋の奥、日当たりの良い場所に設置された執務用の机と椅子。朝の陽気に照らされながら彼・・・・・・トレーナーが机に突っ伏していた。

 

 静かに、静かに彼に近づく。昨日と全く同じ服装であることが、彼がトレーナー寮に帰らずに徹夜していた事を暗示していた。

 

 すぐ横まで来た所で、ゆっくりと屈む。

 

 「すぅ・・・・・・すぅ・・・・・・」

 

 規則正しい呼吸。腕を枕にして夢の世界にいる彼の横顔を、じっと見つめる。

 

 彼が起きているときは絶対に出来ない、至近距離での観察。

 

 小動物みたいだと、他のウマ娘からの人気が非常に高い彼。ましてや、無防備な寝顔となるともう・・・・・・

 

 (・・・・・・可愛いな)

 

 口に出さず、心の中で感想を呟く。

 

 担当ウマ娘だけにだけ許された特権を嚙み締めつつ、彼への視線は外さない。

 

 既に来た(名目上の)目的である忘れ物の回収すら頭の中から放り出して、じっと見つめ続ける。

 

 それはつまり、彼の周りに鎮座するたくさんの書類も同時に視認する訳で。

 

 (・・・・・・こんなに、たくさん)

 

 形成される複数の資料の束。その山の頂点にある数枚を見ただけでも、どのようなものなのか、把握できる。

 

 2カ月後に出走予定の重賞レース。トレーナーはその日のために、今の時期からありとあらゆるデータをかき集めている。

 

 出走予定である、対戦相手のウマ娘のデータ。過去の同レースのデータ。

 

 いくら時間があろうと、アタシでは到底正確に、精密に分析できない情報の暴力。彼はそのデータの海に潜り、アタシを勝利に導いてくれる。

 

 別に気を抜いても、サボってもいいのに。

  

 (少しくらい、休んでよ。バカ・・・・・・)

 

 机に体を預ける彼に向って、口に出さない言葉を届ける。

 

 休みの日くらい、アタシのことなんか考えなくてもいいのに。アンタの好きなことをしてくれればいいのに。

 

 こんなにも尽くされている所を見せつけられると・・・・・・

 

 (・・・・・・本気に、しちゃうじゃない。勘違い、しちゃうじゃない)

 

 無意識に、自身の胸に手を添える。

 

 少し早くなった心拍数に気づかないふりをして、ブンブンと顔を振る。

 

 彼の仕事が終わったのかどうかは、この状況からは分からない。でも、休むならせめてちゃんとした場所で休んでほしい。

 

 ウマ娘の力があれば彼一人抱えるのは簡単だけど、寝た時と起きた時で場所が変わっていたら彼も困惑するだろう。

 

 申し訳ないと思いつつ、一旦彼を起こす選択肢をアタシは取った。

 

 「トレーナー。起きて」

 

 彼の華奢な肩に触れ、優しく揺する。

 

 「・・・・・・(ムクッ)」

 

 ゆっくりと、彼が顔を上げる。やや長い髪が顔にかかり、その横顔を遮った。

 

 しかし、すぐに声の発生源であるアタシの方に顔を向けてきた。

 

 それを認識しつつ、トレーナーに声を・・・・・・

 

 「おはようトレーナー。悪いけど、せめて仮眠室まで・・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・・何?(ギロッ)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・・ぇ?」

 

 アタシの声が、不自然に途切れた。

 

 目の前には、寝起きのトレーナー。一目でわかる、非常に機嫌のわるそうな顔。

 

 その鋭い目が、まっすぐにアタシを射貫いていた。

 

 (えっ・・・・・・あっ・・・・・・!)

 

 声が、出せない。

 

 普段の優しい表情ではない。中性的な顔からでもはっきりと分かる、男の人の、強い目つき。

 

 今更になって、トレーナーが寝起きが悪いことを自虐的に話していた記憶が蘇る。

 

 心拍数が急激に上がる。トクン、トクンと、一大レースのラストスパート時にも勝る勢いで暴れ回る。

 

 横を向くだけで逃れられるのに、金縛りにあったかのように顔を動かせない。その視線に、その顔に、されるがままになってしまいそうで。

 

 刹那すら永遠に感じられた時間。しかし、その終わりは唐突に訪れた。

 

 「・・・・・・?・・・・・・あっ!?ど、ドーベルさん!?」

 

 意識が完全に覚醒した彼が、慌てて声を出した。同時に、アタシを襲っていた金縛りも解ける。

 

 「・・・・・・っ!!」

 

 弾かれる様に踵を返し、トレーナー室から飛び出した。

 

 背後から聞こえた「ごめんなさい!」という彼の言葉を聞きつつも、脚は止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一直線に寮に戻ったアタシは、そのままベットにダイブした。

 

 タイキはレースを間近に控えている事もあって、朝練に出ている。一人きりの部屋の中で、ようやく長い息を吐き出す。

 

 数度深呼吸を繰り返し、ようやく思考が僅かに落ち着いた。しかし、身体に生じた熱は全く収まる様子を見せない。

 

 (びっくりした・・・!びっくりした・・・!!)

 

 両手で、自身の身体を抱きしめるように抱え込む。毛布にくるまり目を閉じるが、その程度であの『目』を忘れることは出来ない。

 

 あの、こちらを真っすぐに射貫かんとする鋭い・・・・・・

 

 「っっ~~~~~~!!」

 

 意識した鮮明に思い出してしまい。訳もなくベットをのたうち回る。

 

 いつも優しいトレーナー。アタシの事を配慮して接してくれるトレーナー。

 

 そんな彼の、初めて知った顔。本来であれば、怖いと感じるはずの男性の表情。

 

 

 

 ・・・・・・でも、今のアタシが感じているのは、恐怖ではなかった。

 

 キュウゥゥゥゥゥ、と心臓が締め付けられる。

 

 苦しくて、辛くて、そしてそれ以上に・・・・・・。

 

 「あぁ・・・・・・」

 

 熱のこもった息を吐き出す。そうでもしないと、身体が変になってしまいそうで。

 

 

 

 

 

 

 その日は一日中、彼の目が頭から離れなかった。

 

 

 





 あとがき設定
 

 
 【トレーナー】
 
 今回はドーベルよりもやや身長低め(重要)。
 後日ドーベルに謝罪をし、怖い思いをさせてしまったと距離を置こうとするも、何故か以前よりも距離を詰めてくるドーベルに困惑している。
 
 
 
 
 【メジロドーベル】
 もう一度あの目で睨まれたいと、休日早朝に頻繁にトレーナー室を訪れるようになる。
 


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