やはり俺が闇鴉なのは間違っている (HYUGA)
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第一章 陰陽塾編
第一話 黒子(ぼっち)の話 前篇



 はじめまして。もしくはお久しぶりです。
 キャラ崩壊注意です。
 お目汚しかもしれませんが、よろしくお願いします。






 ――2018年12月24日、東京・六本木――

 

 真冬の東京は、凍えるほどに寒かった。

 近年稀に見る寒い冬が訪れたその年、青年(・・)はクリスマス・キャロルが流れるイルミネーションで着飾った店の前を過ぎる。

 温かそうで賑やかな店内はカップルで溢れており、青年の心をひどく苛立たせた。

 色鮮やかなその世界は青年の腐った目にはひどく歪に映る。

 青年にとってその世界は紛れもない、嘘の塊であった。

 けれど、青年はその鮮やかな世界に憧れてもいた。嘘で塗り固められていても欲しかったもの。けれど青年はそれを手に入れることを諦めた。

 青年は鮮やかな店内に白い眼を向け、小さく舌打ちした。

 

 

「ち…こんなリア充共が、溢れかえっている日に仕事とか、あのジジイ…マジふざけんなよ…」

 

 

 そして青年は、身に纏う漆黒の衣を翻し冷たい街へとその足を進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第一話 黒子(ぼっち)の話/前篇 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霊的災害―――霊災が、東京を中心に日本で多発するようになったのは、日本の敗戦が濃厚になった太平洋戦争末期の事だった。

 軍の要請で再建されていた陰陽寮は、戦後その名称を陰陽庁と改め、新しい呪術体系である『汎式陰陽術』をもって、多発する霊災の対処に当たる。同時に、陰陽法を制定し、呪術に関する法的整備を急ぐとともに、その用途を厳しく制限した。呪術の使用を資格制として、新たな人材の育成を促したのである。

 現代社会における、職業的呪術者達。

 東京の夜を行く、闇鴉たち(レイヴンズ)の誕生であった。

 

 

「はぁ…さみー…」

 

 

 街がクリスマスで一色のその日、青年は一人、ライトアップされた雪の降る繁華街を歩きながら、通り過ぎるカップルという名のリア充達を見て、静かに溜息を吐く。

 本来なら、今頃は愛すべき千葉の自分の家で炬燵でごろごろと横になり、テレビから流れるクリスマスの番組にイライラしながらも、だらんと過ごせていたはずなのだから文句も言いたかった。

 けれどその平和は儚くも崩れ去る。

 ちょうどお昼時だっただろうか。彼は職場の上司から緊急招集を受けた。昨夜は遅くまで調べものをしていた男にとって、その電話は地獄の入り口のように感じた。

 かっかっかと、電話向こうでこじゃれに扇子なんて持って笑ってるであろうジジイに、男は本気で呪詛を掛けようかと思ったほどだ。

 だが、陰陽師としての実力は向こうの方が圧倒的に高い。呪詛返しをされても困るので、青年はしぶしぶ諦めた。

 そして青年は、このクリスマス当日という日に、ぼっちにとって本来ならば絶対に近付きたく無い場所、ベスト10に入るであろうこの場所に来たのだ。

 

 

「…」

 

 

 きゅっ、きゅっ、と、泥で汚れた雪の上を歩く。

 ふて腐れがちな青年は、雪がちらつく街を彷徨う。

 長い付き合いの知り合いに、“雪”の名前を持つ女性がいるが、今のこの街は、青年にとって、その女性と同じくらい優しくない世界だった。

 

 

「いや…でもやっぱ、あいつの方が冷たいか…」

 

 

 青年はそう自嘲気味に言って苦笑した。

 

 そういえば、あいつらは今日、二人でクリスマスパーティでもしてるんだろうな―――。

 

 二人とも、自分にはそれなりの好意を抱いてくれているとは思う。けれど、残念なことに青年にはパーティのお誘いはこなかった。いわゆるハブである。

 

 ま、慣れてるからいいんですけど―――。

 

 都会特有のビル風が吹き、青年の頬を撫でる。寒さに身動ぎし、青年はラフに着ていた漆黒の衣の前ボタンを閉めた。目的地までまだだいぶ距離がある。青年の歩みは、自然に速くなった。

 ふと、青年は思う。そういえば、もうあの二人とは相当長い付き合いになるんだな―――と。

 あの当時はこうも長い付き合いになるとは、思いもしなかった。

 正直、青年と二人の相性は最悪と言っても過言ではない。

 偽物の関係に甘えたこともあった。修復不可能になる直前まで、関係が壊れそうになったことも。

 けれど、それも今では苦い思い出でしかない。

 青年は、二人の姿を思い浮かべる。

 黒髪ロングと茶髪のお団子ヘアーの二人。

 友達とも、ましてや恋人とも言えない。強いて言うなら腐れ縁というあいまいな関係。

 けれど決して「嘘」ではない「本物」の関係を築けた二人。

 

 『雪ノ下雪乃』と『由比ヶ浜結衣』のことを―――。

 

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 ――2012年4月某日、東京・陰陽塾塾舎――

 

 

 青春の神髄を何かご存じだろうか?

 青春を謳歌せし者達は、常に自己と周囲を欺き、自らを取り巻く環境のすべてを肯定的にとらえる。

 彼らは青春の二文字の前ならば、どんな一般的な解釈も、社会通念も捻じ曲げて見せる。

 彼らにかかれば、嘘も秘密も、罪咎も失敗さえも、青春のスパイスでしかないのだ。

 仮に失敗することが青春の証であるのなら、友達作りに失敗した人間もまた、青春のど真ん中でなければおかしいではないか。

 しかし、彼らはそれを認めないだろう。

 すべては彼らのご都合主義でしかない。

 ここで最初の話に戻る。

 青春の神髄を何かご存じだろうか?

 

 答えは―――。『嘘』である。

 リア充爆発しろ。

                                           』

 

 

 

「まったく…どうしてこんな文章を平然と書けるんだお前は…」

 

 

 そう言って、陰陽塾きっての美人教師、平塚先生は眉間に指を当てた。

 ここは陰陽塾。陰陽庁の未来の陰陽師。闇鳥(レイヴン)を育てる雛鳥たちの学校。その職員室で、平塚先生は目の前の問題児と対峙する。つまり俺。

 

 いや、問題児と言うには些か語弊があるかもしれない。

 確かに、俺は人格的には欠陥だらけの人間だろう。そこは認める。だが、成績という点において、俺は未来の陰陽師が集うエリート校であるこの陰陽塾の中でも優秀の部類に入っているはずだ。

 昨今の世の中、日本は寧ろ清いまでの学力社会である。それはつまり、勉強さえできればその他はさしたる問題にはならないと言う事だ。違うか?違うか…。

 もちろん、そうでないものも多いだろう。だが、現実として日本の企業は偏差値の高い学校に多くの求人をだし。そして、学生諸君も何の疑問もなくそれを受けいている。

 無論努力をする者が報われるのは当然のことだ。俺はそれを否定したりはしない。

 かく言う俺自身、今の段階まで努力で這い上がってきた人間だからだ。

 と、ここまで言って俺は何を言いたいのかというと―――。

 

 俺―――比企谷八幡は、とても優秀な男だということだ。

 

 

「なぁ、比企谷。私が授業で出した課題はなんだったかな?」

「……はぁ、『陰陽塾での生活で学んだこと』というテーマのレポートでしたが」

「そうだな。それでなぜ君は犯行声明を書き上げてるんだ?テロリストなのか?呪捜部に突きだされたいのか?あぁ?」

 

 

 平塚先生はため息をつくと悩ましげに髪を掻き上げた。

 この平塚先生。実は『元祓魔官』という経歴を持つ陰陽塾きっての教師だったりする。どう言った経緯で陰陽塾で教師をしているのかは知らないが、彼女に逆らえる塾生はまず、いない。

 祓魔官時代はどうやら部隊長を務めたこともあるらしい女傑で、その道の人には有名だったらしい。まぁ、そのせいで婚期を逃したのでは?と、もっぱら噂であるが―――。

 そんなことをニヤニヤと笑いながら考えていると、紙束で頭をはたかれた。

 

 

「真面目に聞け」

「はぁ」

「それにしても君の目はあれだな、腐った魚の目のようだな」

「そんなDH豊富そうに見えますか。賢そうっすね」

 

 

 ひくっと平塚先生の口角が吊り上った。

 

 

「比企谷。このなめた作文はなんだ? 一応言い訳くらいは聞いてやる」

 

 

 先生がギロリと音がするほどにこっちを睨みつけてきた。なまじ美人なだけにこういう視線は目力が込められていて圧倒されてしまう。っつーかまじ怖ぇ。

 

 

「ひ、ひや、俺はちゃんと陰陽塾で学んだことを書いてますよ? そ、それに、近頃の高校生はらいたいこんな感じじゃないでしゅか! 大体あってます!」

 

 

 噛みまくりだった。人と話すだけでも緊張するのに、それが年上の女性ともくればなおさらだ。

 

 

「普通こういうときは自分の生活を省みる物だろう。陰陽塾の生徒である君が、他の高校の事を書くとはどういうことだ?」

「い、いえ…高校生の生活全体のことだと思いまして…」

「タイトルに思いっきり陰陽塾で、と書いてるだろう」

「だ、だとしてもですよ。もう少し生徒の方にも分かりやすいタイトルで書いていただきたく…。こ、こんな曖昧なテーマだったからこそ、こんなミスが起こってしまったわけでして―――」

「小僧、屁理屈を言うな」

「小僧って…。いや確かに先生の年齢から見たら俺は小僧ですけ―――」

 

 

 風が吹いた。

 グーだ。ノーモーションで繰り出されるグー。これでもかというくらいに見事な握りこぶしが俺の頬をかすめて行った。その出来事に、俺は戦慄した。

 

 

「お前は死にたいようだな…?」

「すんません。マジ勘弁してください」

 

 

 机に頭をぶつけんばかりに平謝った。怖いよこの人。あと怖い。

 元祓魔官の女隊長の片鱗を俺は垣間見た。

 

 

「はぁ、まあいい…」

 

 

 呆れたのか諦めたのか、たぶん両方ともで、平塚先生ははちきれそうな胸ポケットからセブンスターを取り出すと、フィルターをとんとんと机に叩きつける。おっさん臭い仕草だ。葉を詰め終わると、腰のケースから大きめの紙を取り出す。呪符だった。どうやら先生オリジナルの呪符らしく、形状も初めて見る呪符だ。その呪符を葉の前に置き、

 

 

「急急如律令(オーダー)」

 

 

 その一声で、ぼしゅっと葉に火を着けた。

 俺は何とも微妙な気持ちになった。これは、なんという才能の無駄使い。火力の調整。呪符の調整。その他諸々、相当手の込んだつくりの呪符なのに、その使用方法がまさか葉の火着けとは…。

 こうはなりたくないと、俺は心から思った。

 そして、平塚先生は、ふぅっと煙を吐き出すと、至極真面目な顔でこちらを見据えた。

 

 

「君は部活はやってなかったよな?」

「……え。この学校に部活なんてあったんですか?」

 

 

 それは心からの疑問だった。その俺の問いに、平塚先生はため息を吐いた。

 

 

「お前は…。まぁ、確かに。この陰陽塾は競争率の高い学校であるのは確かだ。皆、放課後は自主練したり勉強したりする人間が多い。だが、部活動がないわけではない」

 

 

 そうだったのか。陰陽塾入学から一年。俺はこの学校に部活という概念があることを初めて知った。

 けれど、俺は甚だ疑問に思う。

 いったい、その質問にどんな意味があるのか―――。

 

 

「……友達とかはいるか?」

 

 

 …ずいぶんと痛いところを突かれた。先生は俺に友達がいないことを前提で聞いたようだ。

 

 

「そ、そもそも、この陰陽塾という場所は陰陽術を学ぶ場所であってですね。俺はその本分を全うしようと思い、毎日を日々つらい訓練にあてて―――」

「つまり、いないということだな?」

「た、端的に言えば…」

 

 

 俺がそう答えると、平塚先生はやる気に満ち溢れた顔になる。

 

 

「そうか! やはりいないか! 私の見立て通りだな。君の腐った目を見ればそれくらいすぐわかったぞ!」

 

 

 目を見て分かっちゃったのかよ。なら、聞くなよ。

 平塚先生は納得顔でうんうん言いながら、俺の顔を遠慮がちに見る。

 

 

「………彼女とか、いるのか?」

 

 

 余計なお世話だ。俺は心の中で毒づいた。

 というより、とかってなんだよとかって。俺が彼氏いるって言ったらどうすんだよ。

 

 

「いないです」

 

 

 俺ははっきりとそう応える。もとより彼女やら恋人やらをつくる気などさらさらなかった。まぁ、つくろうと思っても、できるなんておもわないが…。

 そんな俺の応えに安心したのか、平塚先生は、ぱあっと笑みを浮かべた。

 おい、その笑みはどういう意味があるんだ?

 それにしても、なんだよこの流れ。平塚先生は熱血教師なの? そのうち腐ったミカンがどうとか言い出すの?ヤンキー母校に帰るの? ……マジで帰ってくんないかな。

 平塚先生は何事かを思案したのち、はふぅとため息交じりに煙を吐き出した。

 

 

「よし、こうしよう。レポートは書き直せ」

「はい」

 

 

 ですよね。

 よし、こんどはごくごく適当に当たり障りのないことを書こう。それこそグラビアアイドルや声優のブログくらい。「今日のご飯はなんと……、カレーでしたっ!」みたいな。なんとってなんだよ何一つ以外でもねーよ。それ言い出したら俺の中の人は週五でカレー食うカレーの妖精だぞ? やだ、なんかギャグ漫画日和に出てきそう。

 ここまでは想定の範囲内。俺の想定を超えていたのはこの後だ。

 

 

「だが、キミの心無い言葉や態度が私の心を傷つけたことは確かだ。女性に年齢の話をするなと教わらなかったのか? なので、キミには奉仕活動を命ずる。罪には罰を与えないとな」

 

 

 なんかこの人が結婚できないのって、タフすぎるからじゃないの?って思えるほど嬉々とした表情で平塚先生はそうおっしゃった。

 

 

「奉仕活動って…何すればいいんですか?」

「ついてきたまえ」

 

 

 俺の言葉に、平塚先生は言葉ではなく行動で示す。もうその行動が男らしかった。

 もしかして、平塚先生が結婚できないのは、男が自信を無くしてしまうほど平塚先生が男らしすぎるのが原因なのかもな…。

 そんな身も蓋もないことを考えていると、平塚先生はいつまでたってもついてこない俺にしびれを切らしたのか、もう一度俺を急かした。

 

 

「おい、早くしろ」

 

 

 きりりとした眉根に睨みつけられて俺は慌てて後を追った。

 その先に、俺のこれからの人生を左右するほどの大きな出会いがあるとも知らずに―――。

 

 

 

          *

 

 

 ――2018年12月24日、東京・とある路地――

 

 辺りはすっかり暗くなっていた。

 さっきまで痛いほどあったイルミネーションは、ほとんどなくなり、辺りには東京の裏道特有の静かな寂しさだけが残っていた。

 その道を、青年は進む。漆黒の衣を翻しながら。

 

 

「ち…めんどくせー」

 

 

 青年は小さく舌打ちする。それはこの東京の土地特有の入り組んだ路地裏の構造に、苛立ちを感じたからだ。

 基本的に陰陽師は見鬼の才で状況把握を行う。それは、玄人の陰陽師ほどその傾向は強くなる。

 けれど、それもこんな裏路地の入り組んだ道では仇となる。

 まるで迷路のような裏路地では、目標を“見る”ことは出来ても、それを追うためのルートを探すのに苦労するのだ。そして、今回青年が追っている方はこれを承知の上でこの裏路地に根城を築いている。厄介な相手であった。

 

 

「けど…詰めは甘いな…」

 

 

 だが、青年はこういう場合の対処法をきちんと理解していた。

 それは青年の経験則によるものだ。まだまだ若く、若輩者とはいえ、青年は呪捜部に配属されてからそれなりの修羅場を潜ってきているのだ。

 それこそ、こんな任務。あの姉妹(・・・)が喧嘩した時に比べれば、楽なものだった。

 

 

「―――オン・マリシエイ・ソワカ―――」

 

 

 両手の指を組み合わせる。意識を無にし、霊気を練って呪力を生み出す。

 それは、青年が得意とする甲種呪術の一つ。

 

 

「―――オン・アビテヤマリシ・ソワカ―――オン・アビテヤマリシ・ソワカ――-」

 

 

 唱える。無意識に、静かに、青年は呪文を唱え意識を殺す。そして――-。

 

 

「―――オン・アビテヤマリシ・ソワカ―――」

 

 

 五度の詠唱の後、青年は自身の姿を完全に消す。青年は、自分の意思で術を解かない限り、誰の目にも触れられることはなかった。

 

 

 

          *

 

 

 

 ――2012年4月某日、東京・陰陽塾塾舎――

 

 平塚先生に連れられ、俺は陰陽塾の塾舎を歩く。

 半世紀近くの歴史を持つ塾舎は、その歴史を直接刻んだかのように、いたる所が古びて朽ちかけている。陰陽塾に入った当時、この古びた建物が嫌いであったが、数年後に新塾舎建設の為、ここの取り壊しが決まったときは、なぜか不思議と寂しさを感じたものである。

 ともあれ、俺はその塾舎の僻地とも言える場所を歩いていた。

 陰陽塾の特別棟の渡り廊下をカツカツと言わせながら歩く。窓から見える日は傾き、一日の終わりを暗示する。使われていないからか、はたまた掃除が行き届いていないのか、特別棟は普段、俺が勉学に勤しんでいる本棟よりもしなびて見えた。

 

 ふと、前を歩いていた平塚先生が振り返る。その瞳は、生徒を心配する一教師のものだった。

 

 

「比企谷。お前はもう大丈夫なのか?」

 

 

 脈絡も何もない突然の言葉。けれど俺は、その言葉の意味を確かに理解した。

 二年前のあの日から、散々目を向けられてきたその目。同情と、哀れみの目。何度も向けられて飽き飽きしたその目に、俺はため息を吐いた。

 

 

「はい、全然平気ですよ。そんなに心配しなくても、もう二年前の出来事なんですから身体の方はぜんぜん問題ありません」

「身体の方は…だろ?」

 

 

 先生のその言葉に俺は一抹の不安を覚える。

 この人は、もしかしたら見抜いているのかもしれない。なぜ、一般家庭出身である俺が、陰陽塾に入ったのか。その理由を―――。

 真っ直ぐと俺を見据える先生の視線が、妙に痛かった。

 

 

「すまない。無用な言葉だったな」

 

 

 俺の表情から何かをくみ取ったのか、先生はそう言ってまた踵を返す。

 その後ろ姿を見ながら。俺は、今の先生の言葉を頭の中で何度もリピートさせていた。「身体の方は…」それはつまり、精神の方は大丈夫じゃないと、あんに言われたようだった。

 自分の性格が破たんしているのは知っている。昔、妹にも何度も「捻くれている」と、言われていた。けれど、妹のその言葉に、俺はいつも笑って妹の頭を小突いていた。

 けれど、今の先生の言葉。俺はそれを、どうしても笑えない。

 ゆらゆらと揺れる平塚先生の黒い長髪。その奥にある頭で、先生は何を考えているのか。それを知る術はなく、俺は考えるのをやめ、黙って平塚先生の後ろを歩いた。

 

 

「着いたぞ」

 

 

 いよいよ、目的地に到着したらしい。

 先生が立ち止ったのは何の変哲もない教室。プレートには何も書かれていない。

 俺が不思議に思って眺めていると、先生はからりと戸を開けた。

 

 

「邪魔するぞ、雪ノ下」

 

 

 教室にいるらしい何者かに声をかけながら、平塚先生は戸を潜った。

 俺もその後に続き、おそるおそる戸を潜る。

 

 刹那、俺は不覚にも不動金縛りにかかったかのように、身体を硬直させてしまった。

 

 

「平塚先生。入るときはノックを、とお願いしたはずですが」

 

 

 端正な顔立ち。流れる黒髪。その黒髪とコントラストを奏でるように身に纏う陰陽塾特有の白い女子用の制服が異常に似合っている。

 そんな彼女が何の特徴もない教室の窓際で、1人椅子に座って本を読んでいるその姿は、まるで一枚の絵画の様に見えた。

 その浮世離れした少女の姿に、俺は不覚にも見惚れてしまったのだ。

 

 

「いやいや、すまん。けど、ノックをしても君は返事をした試しがないじゃないか」

「返事をする間もなく、先生が入ってくるんですよ」

 

 

 むっと、端正な顔を歪め、彼女は不満げな視線を先生に送った。

 

 

「それで、そのぬぼーっとした人は?」

 

 

 ちろっと彼女の冷めた瞳が俺を捉えた。

 俺はこの少女を知っている。

 

 陰陽塾二年、雪ノ下雪乃。

 

 無論、顔と名前を知っているだけで会話をしたことはない。仕方ないだろ、学校で人と会話するだけでも稀なんだから。

 陰陽師は生まれ持った才能が大きく反映される。そもそも、世の中に見鬼の才を持つ者自体が稀なのだ。いわんや、その中でプロの陰陽師になれる人間はさらに少なくなる。今時、これだけ最初から『決まっている』業界など、呪術界くらいなものである。そして、その才能は実は遺伝的な資質が多い。故に、陰陽塾に通う塾生のほとんどが、実は旧家の家柄の人間だったりする。雪ノ下雪乃もその一人だ。

 彼女は現代の呪術界において、倉橋家と並び称される雪ノ下家のご令嬢なのだ。それだけでも注目に値することであるのだが、彼女は陰陽塾での成績でも常に学年一位に鎮座する成績優秀者。

 そして、もう1つ加えるならばその類い稀なる容姿で常に注目を浴びている。

 まぁ、要するに学年一と言ってもいいくらいの美少女で、誰もが知る有名人である。

 

 

「彼は比企谷。入部希望者だ」

 

 

 平塚先生に促されて、俺は会釈する。一応、礼儀として自己紹介を行う。

 

 

「二年の比企谷です。えーっと、おい。入部ってなんだよ」

 

 

 入部希望ってどこへですか。SOS団すか。GJ部ですか。つか、ホントここなに部だよ。

 俺の言葉の続きを察してくれたのか、平塚先生が口を開いた。

 

 

「君にはペナルティーとしてここでの部活動を命じる。異論反論講義口答えは認めない。しばらく頭を冷やせ。反省しろ。大丈夫だ、その点はこの雪ノ下の言葉はよく効くぞ。いい薬だ」

 

 

 俺に抗弁の余地を許さず、平塚先生は怒涛の勢いで判決を下す。

 つかなに、雪ノ下の言葉って腹下した時に効果あるの。ラッパのマークでもついてんの?

 

 

「というわけで、見ればわかると思うが彼はなかなか根性が腐っている。そのせいでいつも孤独な哀れむべき存在だ」

 

 

 どういう意味ですか。あとやっぱり見ればわかるのかよ。

 

 

「人との付き合い方を学ばせてやれば少しはまともになるだろう。こいつを置いてやってくれるか。彼の孤独体質の更生が私の依頼だ」

「お断りします」

 

 

 即断だった。それはわずか二秒での言葉だった。

 

 

「……少しは考えてくれてもいいのではないか」

「いえ、考える必要性もありません。そこの男の下心にまみれた下卑た目を見ていると危険を感じます。それに彼の纏う陽の気。いったいどうすればそうなるのか分からないくらい腐った色をしてます。だから、正直近づきたくもありません。お断りします」

 

 

 何か鋭利な刃物で刺されたような気分だった。

 俺はその瞬間、理解した。なぜ、先生が雪ノ下の言葉が薬と言ったのかを…。

 確かに薬だった。そしてよく効く。主に、精神的に。

 薬は薬でも、彼女の言葉は毒だった。人間が体内から分泌できる唯一の毒。凄まじいまでの毒舌だった。

 雪ノ下は別に乱れてもいない襟元を掻き合わせるようにしてこちらを睨みつける。そもそもお前のつつましすぎる胸元なんて見てねぇよ。……いや、ホントだよ? ハチマン、ウソツカナイ。

 

 

「安心したまえ、雪ノ下。その男は目と根性が腐っているだけあってリスクリターンの計算と自己保身に関してだけはなかなかのものだ。呪捜部に突きだされるようなことだけは決してしない。彼の小悪党ぶりは信用してくれていいぞ。それに万が一の時があったとしても、お前なら何の問題もあるまい」

「何一つ褒められてねぇ…」

「小悪党…。なるほど…」

「雪ノ下も雪ノ下で、なんか納得しちゃってるし…」

 

 

 ホントなんでなの? そんなに俺の小悪党ぶりが信用されてんの? まぁ、実際はいくら俺が不埒な真似をしようと思っても、雪ノ下には呪術で勝てないって事実があるからなんだろうけど。

 そして雪ノ下は、俺が一切望まない形結論を出す。

 

 

「まぁ、先生からの依頼であれば無碍にはできませんし…。承りました」

 

 

 雪ノ下は心の底から嫌そうな顔でそう言うと、先生は満足そうに微笑んだ。

 そして、雪ノ下の視線がこちらを向く。その瞳は、見るものを凍りつかせるのではないかと思えるほどに冷ややかなものだった。

 

 

「ようこそ奉仕部へ、比企谷君。あなたを歓迎しないわ」

 

 

 歓迎しないのかよ…。

 その瞬間、俺は、こいつとは絶対に仲良くなれないと確信した。それと同時に、こんな部活。すぐに辞めてやる、と決心もした。

 けれど、世の中はどうなるか分からないもので、俺はこのときの誓いが、すべて無駄になることを痛感させられる。翌日、俺は塾に行って即刻に退部届を提出するも、平塚先生には受理されず。そして、件の少女、雪ノ下雪乃とは―――。

 

 こうして、俺。比企谷八幡は、運命の場所。奉仕部へと入部したのだった―――。

 

 

 

          *

 

 

 

 ――2018年12月24日、東京・とある路地――

 

 

「はぁ…はぁ…ちくしょう…!」

 

 

 暗い東京の路地裏を、男は走る。状況も全く掴めず、男はただ逃げる事しかできなかった。

 男はいわゆるはぐれの陰陽師であった。

 様々な理由で、プロの陰陽師にはなれず、裏社会で生きる陰陽師。それがはぐれの陰陽師である。

 男はそんな裏社会に飽き飽きしていた。誰も好きでこの世界にいるのではない。男もまた、日を見る表の陰陽師へ憧れを抱いていた。

 けれども、一度、裏社会に足を入れてしまった男に、表の光があたるはずもなく、男は日に日に鬱屈した日々に悩まされるようになる。

 そして、憧れだった気持ちはいつしか怒りに変わり、怒りはいつしか憎悪へと変わった。

 だから男は考えた。この気持ちを発散する先を。そして閃いた。今となっては憎悪しかない。かつての憧れだった場所。その世界をぶっ壊してやろうと。

 都合のいい事に、人員はすぐに集まった。男と同じ気持ちの人間は、裏の世界には五万といるのだ。計画も練り、すべては順調に進んでいたのだ。

 

 そう、さっきまでは―――。

 

 数分前。男は呪捜部に逮捕状を突き付けられた。

 どこで漏れたのか。男の計画は陰陽庁に筒抜けだったのだ。

 男はその場で、水行符をまき散らし、一目散に逃走した。男はそのまま、いつも自身が縄張りにしている裏路地に逃げ込む。男にとって庭みたいなそこは、追っ手を撒くには最適の場所だった。

 案の定。まぬけな呪捜官たちは、裏路地に右往左往して、追いかけるどころではなくなっていた。

 あとは、何本かある抜け道から、安全な場所へ逃げるだけ。それで、すべてが終わる。そのはずだった。が、しかし―――。

 

 

「はぁ…はぁ…なんだ。なんなんだよ、これは…!」

 

 

 男は今、窮地に陥っていた。

 それは突然の出来事。男は背後から攻撃を受けたのだ。

 いつ放たれかのか、誰が放ったのか、それすら分からない呪符が男を襲う。幸い初弾は様子見だったらしく、威力は弱く、男は大きなけがを負うことはなかった。

 けれど、そこからすぐに来た次弾は違う。初弾からわずか数秒。男は、初弾よりはるかに強い呪符を目の当たりにする。男は恐怖でその場から走り出した。

 そこからはただひたすら走った。知っている道。通いなれた道。けれど、今はその道すら敵地のように感じた。

 限界だ。男は立ち止まる。

 膝に手を着け、男は息を整えた。

 

 

「っ!…急急如律令(オーダー)!!」

 

 

 突如として襲来する火行符に、男は水行符で対抗する。

 呪符同士の力は拮抗していたのか、呪符は相殺され、そこには何も残らない。

 いや、力が拮抗しているというのは違う。男が使ったのは水行符。対して、相手が使ったのは火行符。呪符の相性ではこちらが有利なはずなのに、それでも相殺された(・・・・・)のだ。

 

 

「…」

 

 

 男は思わず息を呑む。嫌な汗が背中に流れた。

 姿は見えない。けれども、そこに確かにいる。気配を全く感じない、完璧な穏形術。それに加え、どこからともなく放たれる呪符。穏形と他の呪術の平行は、実は相当な技術がいる高難易度なことだ。それだけでも、相手の陰陽師が相当な実力者だということが分かる。

 男は高鳴る心臓を無理やり押さえつけ、手に残りの水行符全部を握りしめた。

 

 

「急急如律令(オーダー)!!」

 

 

 刹那、呪符は大波に変わり、路地からすべてを押し出す勢いで、激しく波打つ。

 作戦も何もない。完全な力技。けれども、どうやらこれが功をなしたらしく、男は自分の敵をやっと視認することに成功した。

 

 

「……ったく、あのジジイ…わざと黙ってやがったな…。なにが楽な仕事だよ…。こんな腕利きの術者がるなんて聞いてねーぞ…。あ゛ぁー、めんどくせー…」 

 

 

 水行符の水が切れ、路地にいつもの静けさが戻る。その奥から、心の底からめんどくさいと思っているらしい声がする。その声が予想以上に若く、男は虚を突かれた。

 気づいたとき、その男は目の前にいた。

 いつ、背中を刺されるかもわからない裏の世界。そこで、長年生きてきた自分が気づかないほどの穏形術の使い手。声の持ち主である男は、その声の通り若かい容姿だった。

 見方によっては、整っているように見えなくもない顔立ち。呪捜官なのに、なぜか祓魔官が着る漆黒の衣をまとい。何か得体のしれない雰囲気を醸し出すその男。けれど、何より―――。

 

 男の目は、どうやったらそうなるのか分からないくらいに―――腐っていた。

 

 

「…っ。ま、まさか…お前…」

 

 

 その目を見た瞬間、男は戦慄する。

 話には聞いていた。けれど、それはてっきり噂だと思っていた。だが、いざ目の前にしたら、その噂が本当であったことを、男は痛感させられた。

 

 それは、本当に都市伝説のような噂だった。

 呪術捜査部―――呪捜部には、優秀だが、目の腐った男がいる、と。その男は、呪捜部部長であり十二神将の一人でもある『神扇』天海大善の懐刀であり、職務上名を伏せて活動している影の男。呪捜部に所属する呪捜官である、もう一人の十二神将。そんな男についた二つ名は―――。

 

 

「【黒子(シャドウ)】…」

 

 

 

          *

 

 

 

 ――2010年8月某日、千葉――

 

「おにいちゃん、おにいちゃん。小町はとっても、とーっても暇なのでーす」

「あー、はいはい」

 

 

 また始まった。ごろんとリビングのソファで横になってゲームをしていた俺は、プレイしていたゲームから顔を上げ、ため息を吐く。

 人間、何が怖いというと、それは慣れである。夏休みに入った途端、こう何度も何度も同じことが繰り返されると、それが例え愛する妹の言葉であっても、ウザく感じるものなのだ。

 顔を上げると、すぐ目の前に小町の顔があった。ってか、近っ!?

 

 

「おい、小町…。いったいどーいうつもりだ…?」

「てへっ」

「笑って誤魔化すな」

 

 

 小町の顔は、それこそ、少し寄せればキスしてしまえるほどに近かった。

 おい、これでは下手をすれば、某高坂さん家にも負けないくらいヤバい状況じゃないの? いや、まぁだからと言ってどうこうするつもりはないけどさ…。

 俺が死んだ魚のような目で、非難的に小町を見る。小町は笑って誤魔化した。あ、やべ、可愛い…。

 俺の記憶フォルダーに新たな小町をインプットしながら、俺は最初の小町の言葉に応える。

 

 

「はぁ…で、暇だって?」

「うん。だからさ、おにーちゃん。小町と一緒に買物行こ?」

 

 

 

 俺の言葉に小町は満面の笑みで頷く。やっべ、天使だ。

 けれど、俺の天使はどうやら残酷だったらしく…。八月のあっついこの日に、とんでもないことを言い出した。それに対する俺の言葉は決まっていた。

 

 

「だが断る」

 

 

 俺の応えに小町は「えーっ!」と、可愛らしく抗議した。

 そんなもの欲しそうな顔したって駄目なものはダメなんだからね! お母さん許さないんだから!

 

 

「えー、行こうよー、おにいちゃーん。だめ?」

 

 

 はにかみながらこてんと首を傾げてそういう小町マジラブリー。

 だけど、俺は心を鬼にして、断固たる意志を持ち、小町を見据えた。

 

 

「嫌なものは嫌だ。俺はノーと言える大人になるんだ」

「もー、ごみいちゃん、またそんなこと言ってるー。小町的にポイント低ーい。だいたい、おにーちゃん中二になってからなんか変だよ? 部屋で黒いコート着てカッコつけたり、なんかノートに訳の分からない設定書いたり。なんだっけ? 確か『神海―――」

「待て小町。ホント待って」

 

 

 え、まさかバレてたの、俺の黒歴史。いや、でもしょうがないじゃん。八幡なんて名前はわりかし珍しいし。だから自分が何か特別な存在じゃないかと思ってしまった時期もあったよ? それに、東京があんなふうだからもしかしたら俺にだって、と思うことだって…。

 でもさ、小町。そんな二カ月も前に止めた話をわざわざ持ち出さんでもいいでしょ?

 あれはもうただの黒歴史なのだぜ?

 それに、本当に残念なことに、俺はどうやら漆黒の衣は着れないみたいだ。

 

 だって、俺には―――。

 

 俺の慌てように、小町がにんまりと口角を上げた。その小悪魔みたいな笑みに、俺は背中にヒヤリと汗が流れる。こんなときでも小町可愛いと思ってしまう俺はもう、病気なのかもしれない。

 

 

「そっかー。そっかそっか…。ごみいちゃんはもう、無駄な努力を諦めたんだね。えらいえらい」

「……やめろ! 頭撫でんな!」

 

 

 そしてなに、そんな慈しむような笑顔!

 やめて! お兄ちゃんのライフはもうゼロよ!

 

 

「あはは! さて、じゃあそんなおにーちゃんに、さぷらーいず! これなーんだ?」

 

 

 そう言って、小町は俺の顔の目の前に何かを出した。

 え!? ま、まさか…それは…。

 

 

「し、神海日記…」

 

 

 お兄ちゃんのライフはなくなった。

 それは俺の最新黒歴史。主に、陰陽師になるための計画をつらつらと書きなぐった、ある意味、今の俺にとって最悪の書物だった。な、なぜ…それが小町の手に―――。

 

 

「おにいちゃんさ、もっとこういう物の隠し場所は考えた方がいいよ? ベッドの下とか。隠したつもりかもしれないけど、バレバレだよ?」

 

 

 ジーザス。神は死んだ。

 

 

「さて、そんなおにーちゃんに小町からのー、ラッキーチャーンス!」

「うぜぇー」

 

 

 何この妹。マジうぜぇ。

 ラッキーチャンスってなんだよ。なに?お前。厄病神からジョブチェンジしたばかりの福の神なの? 日本一不幸な少年を救いに来たの? え、もしかしてそれって俺の事? だめだ、否定できないわ。

 

 

「はい。ではおにーちゃんには今二つの選択肢がありまーす。一つは、小町と一緒にお外に買い物に行って一日を過ごす。そのときはもちろん、この神海日記はおにーちゃんに返却しまーす」

「おい、無視して進めんな」

「第二に、今日一日、おにーちゃんは何もしない。日がな一日、誰とも過ごさず。寂しくぼっちになること。その場合はもちろん、この神海日記は―――」

「くっ…だが、親に見せる程度ならまだ…」

「ネットのSNSに晒されることになりまーす!」

「ふざけんな!」

 

 

 何その死刑宣告。そんなことされたらおにーちゃん死んじゃうから!

 マジで自殺して、誰からも悲しまれず、葬式にも友達すら来ないで、寂しいまま死んじゃうから!

 くっ…実の兄をここまで平気で自殺に追い込もうとする。さらにできるようになったな、妹よ。

 俺は、溢れだしそうな涙をこらえ、すがるような目で小町を見つめた。

 

 

「うわっ…おにーちゃん、どーしたの? いつも以上に目が腐ってるよ? なんか映画のゾンビが実際に出てきたみたいで、ちょっと怖い」

 

 

 俺の目って、そんなヤバいのか。

 妹の心無い言葉が俺のハートにとどめを刺した。俺はついにソファの上で力尽きた。

 

 

「……小町。お兄ちゃんをイジメて楽しいか?」

「うーん。わりかし?」

 

 

 血も涙もない一言だった。慈悲をください、お願いします。

 俺のハートをガチで折りに来る小町。けれど、そのすぐ後に、どこか照れをはらんだように頬を赤くし、恥ずかしさを紛らわすように、自分の頭を撫でた。

 

 

「でもさ、最近、お兄ちゃん、おかしかったからね、小町はすごく心配だったんだよ? それに、小町とも遊んでくれなかったし…。だから、ね。小町は今、アフターケアを必要としているのです。おにーちゃんにはその義務があるんだよ? あ、今の小町的にポイントたかーい!」

 

 

 神はいた。照れ笑いをしながらそう言った小町は、マジで天からの贈り物だった。

 小町のその言葉に、俺は「そういえば…」と、思う。ここ数カ月、俺は小町と出かけたことはあったか? 記憶違いでなければ、なかったはず。

 こいつももう中一なのだ。いい加減、兄離れするべきなのかもしれないが。

 でも、そんなことになったら、俺が泣いちゃうけど。

 まぁ、それはさておき。どうやら小町には寂しい思いをさせてしまったみたいだ。

 膨れている小町の頬に手を当て、俺は少し笑みを浮かべる。

 

 

「しょうがねーな。ららぽでいいんだろ?」

「それ! 小町的にすっごいポイントたかーい!」

 

 

 俺の言葉に、小町はおそらく今日一番であろう笑みを浮かべた。

 

 

「そうと決まれば、さあ、レッツゴー。ほらおにーちゃん、早く早く!」

「へいへい、ちょっと待て着替えてくるから」

「早くしてねー」

 

 

 さすがにららぽーとに行くのに部屋着はまずい。俺は着替えるために部屋へ向かう。小町を待たせるのも忍びなかったから、さっさと着替えて、すぐにリビングに下りた。

 小町は、待ち時間の暇つぶしにか、さっきまで俺が寝転んでいたソファに座り、テレビを見ていた。

 とは言っても、現在の時刻はお昼過ぎ。バラエティなどはなく、テレビに映るのは、報道番組。リビングのドアを開けた俺の耳に、番組のリポーターの声が届いた。

 

 

『昨日、都内渋谷区で発生した霊災は、フェーズ3へと移行し、現場は騒然としましたが、陰陽庁の祓魔官によって修祓されました。』

 

 

 画面が切り替わり、実際の映像が映る。

 そこには漆黒の衣を纏った者達が、一般人には到底理解できない言葉で何かをしている。

 画面の下には『老樹からなる霊災を修祓。これによる交通機関の影響はなし』とテロップ出ている。どうやら、昨日の夜に、大きな霊災が発生したらしい。

 それは一般人である俺には、あまりにも遠すぎる世界だった。

 あの漆黒の衣に憧れても、俺には到底、あれを着ることはできない。俺は無駄な思考を斬り捨てて、小町に声をかけた。

 

 

「おい、小町。早くしねーと置いてくぞー」

「うぇっ!? あれ、おにーちゃんいつのまに! あー、ちょっと待ってよー。その言葉、小町的にポイント低いよー!」

 

 

 結局、小町は玄関で追いつかれた。

 外に出ると、ギンギラギンと、明らかにさりげなくない直射日光が俺を襲う。

 家を出て三歩で、俺は若干の後悔を始めた。

 小町を後ろの荷台に乗せて、俺は自転車をこぐ。飛ばされないように帽子を押さえながら俺の腰に捕まる小町は、いつもより、おめかししてすこぶる機嫌がよさそうだった。

 

 

「そういえばさ、おにーちゃん。おにーちゃんは陰陽師になりたかったの?」

 

 

 不意に、小町がその言葉を紡ぐ。

 さっきのテレビに触発を受けたのだろう。

 けれど、その言葉に対する俺の応えは最初から決まっていた。

 

 

「……ばーか。んなわけねーだろ」

 

 

 陰陽師になりたかった。それは違う。俺は、陰陽師に憧れていたのだ。

 けれども、それは叶わない願いだ。

 そもそも、陰陽師になるためには様々な才能がいる。そして、それは生まれ持った才能が大きく反映される。そんな才能が、一般家庭生まれの俺にあるわけがない。

 

 

 

 俺には、『見鬼の才』がないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




参考文庫
 ■やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。一巻
 ■やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。二巻
 ■東京レイヴンズ 一巻
 ■東京レイヴンズ 七巻
 ■東京レイヴンズEX 一巻


 ヒッキ―の役割は大友先生ポジしかないと思ってました。
 原作での大友先生は、なんか無駄にカッコいい人ですけど、ヒッキ―にもきっと、それと同じくらいのポテンシャルが―――。あったらいいなーと思います。



今回のパロディネタ集

☆001
「青春の神髄を何かご存じだろうか?」「答えは―――。『嘘』である」
/東京レイヴンズの代名詞とも言える言葉。これを見て思いました。これ言ったの絶対ヒッキーだろ?と

☆002
「カレーの妖精」
/ご存じヒッキーの中の人のが所持する固有結界。別に封印指定はされてない
「その身体はきっと―――無数のカレーでできていた」

☆003
「大丈夫だ、その点はこの雪ノ下の言葉はよく効くぞ。いい薬だ」
/某薬品会社のCMの台詞。かの正露丸はシベリア遠征の際に、生まれたのである。これマメな

☆004
首を傾げてそういう小町マジラブリー
/通称「ラブリー先輩」。アマガミの、森島はるかのこと。わおっ!

☆005
やめて!おにいちゃんのライフはもうゼロよ!
/遊戯王DM162話にて、既にライフポイントが0になり敗北が決定しているインセクター羽蛾に対し、「狂戦士の魂(バーサーカーソウル)」の追加攻撃の手を微塵も緩めようとしなかった闇遊戯を止める際に真崎杏子が叫んだ台詞である
「ずっと俺のターン!」

☆006
ジーザス。神は死んだ
/ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉
気になった人は「キリスト教史」を学ぼう。きっと世界が変わるはずだ(@_@;)

☆007
「さて、そんなおにーちゃんに小町からのー、ラッキーチャーンス!」
/「ラッキーチャンス」とは、電撃文庫発売のライトノベルである。「日本一不幸な少年」と、彼を幸せにすることに使命感を燃やす「福の神の少女」との奇妙な共同生活の話である
なに? キャンディーズ? お前はいったいいつの時代の人間なんだ(;一_一)

☆008
くっ…実の兄をここまで平気で自殺に追い込もうとする。さらにできるようになったな、妹よ
/元ネタは機動戦士ガンダムの赤き彗星ことシャアの台詞。
ウソです<(_ _)>
本当は涼宮ハルヒちゃんの憂鬱から。にょろ~ん☆

☆009
外に出ると、ギンギラギンと、明らかにさりげなくない直射日光が俺を襲う
/レジェンドことマッチさんの曲から。そういえば、マッチさん「超速変形」ご苦労様です






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第二話 言霊とふたりのぼっち

 

 ――2010年10月某日、東京・とある施設――

 

 その病室は、外から厳重に鍵がかけられていた。

 呪的処理のなされた扉に、真横に渡された注連縄(しめなわ)。左右に飾られた榊(さかき)の枝。見るからに不気味な部屋であった。

 そこを管理する陰陽医の男は、それを一つずつ丁寧に外し、最後にドアノブに鍵を差し入れ、カチリと回した。

 

 祓魔官である『平塚静』が、ここを訪れたのは仕事の為だった。

 

 今より二か月前。千葉県の大型ショッピングモールで起こった事件。

 それは、呪的解決がなされた『霊災』であった。

 その霊災の呪的解決に、祓魔官の部隊長である平塚も駆り出されていた。

 そして、そこで見た映像は、霊災の修祓から二カ月たった今でも、忘れることはできない。

 

 

 「どうぞ、お入りください…」

 

 

 陰陽医の言葉に、平塚は頭を下げ、厳重に封をされたその部屋の扉を潜る。

 そこは、病室の外とはまるで違う異系の場所だった。

 部屋のあちらこちらに張られた結界用の呪符。窓は完全に鋼鉄の板で閉ざされ、光などはいる余地もなく固められている。そんな気の悪い部屋に、ぽつんと置かれた白いベッド。

 

 

 「……、…………。」

 

 

 その上に、その少年はいた。

 ベッドのタオルケットを肌蹴させ、上半身だけを起こし、少年はこちらを睨みつけていた。

 白い患者用の衣類には、これまた何枚もの呪符が張られ、少年の不気味さを際立たせる。そして、平塚は目を疑った。彼のおびる陽の気が、ひどく澱んでいるいるというその事実に。

 死んだ魚のような目で、こちらを見るその姿は、まるでホラー映画のゾンビのようだと平塚は思った。そんな目で睨まれたが故に、平塚はおののいてしまう。

 だが、平塚はすぐにここに来た目的を思い出し、一歩前へ足を出す。

 彼女はここに、仕事に来たのだ。決して、この哀れな少年の姿を拝みに来たのではない。

 だから彼女は呼んだ。死んだ魚のような、腐った目をしたその少年の名を。

 

 

 「…君が、比企谷八幡君だね」

 

 

 それが、祓魔官『平塚静』と、霊災被災者『比企谷八幡』の最初の出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第二話 言霊とふたりのぼっち ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――2012年4月某日、東京・陰陽塾――

 

 時が流れるのは早いもので、俺が奉仕部という謎の部活に入れられて、一週間がたった。

 

 毎日毎日、何の用事もないのに、俺は特別棟のあの教室に足を向ける。

 最早、習慣づいてしまったその行為に、俺はため息を吐く。

 扉を開くと、いつものように雪ノ下が窓際で本を読んでいた。

 軽く挨拶をし、最早指定席になりつつある、教室中央。雪ノ下のいる位置とは正反対の椅子にへと向かう。

 雪ノ下は刹那こちらを見ると、次の瞬間にはその目を文庫本へと向けた。

 

 

 「この距離、この空間でシカトかよ…」

 

 

 清々しいまでの無視に、俺は一瞬「あれ? 俺、穏形してたって?」という錯覚に陥った。

 教室では結構使っている手だから、あながち有り得ない事ではないのだ。

 

 

 「あら、お久しぶり比企谷くん。一瞬、不審者だと思って警戒したわ」

 「昨日も会ってるだろ…。なに、お前? そこまでして俺との記憶消したいの?」

 「当然よ。むしろ、毎日あなたと会うたびに不審者として接しているわ」

 「おいこら、それは俺をデフォルトで不審者扱いしてるということか?」

 「当然じゃない。むしろフェーズ3と言わないだけ、ありがたく思いなさい」

 「俺は霊災か…」

 

 

 あながち間違ってないから笑えない。

 と、まぁ。こんな風に、俺と雪ノ下の関係は俺が一方的に罵られるという関係で落ち着いたように思える。嫌な落ち着き方だ。

 俺は、一つため息をして、今度こそ自分の椅子に腰かけた。

 

 

 「…お前、友達いないだろ」

 

 

 俺の確信めいたその言葉に、雪ノ下は一瞬目を見開いた。

 

 

 「な、何よ突然…」

 「いやさ、お前って見た目と成績は完璧だから、学校でも人気あるじゃん」

 「当然よ。私、かわいいから」

 「……その自身の半分でもあったら、俺もぼっちじゃなくなってたのかもな。まぁ、それはいい。話を戻すけど、お前、それと反比例するみたいに性格最悪じゃん。そんな性格じゃ友達なんてできないんじゃないか?」

 

 

 雪ノ下の視線が明後日の方を向く。おかげであごから首にかけてのなだらかなラインがきれいだなという死ぬほどどうでもいい知識が増えた。

 少し考えればわかることだ。こんな上から目線ナチュラル見下し女が正常な人間関係など構築できるはずがなく、したがって円満な学校生活など送れるはずがないのだ。

 

 それでも、一応、聞いておくか―――。

 

 

 「なぁ、実際のところだ。お前って、友達いんのか?」

 

 

 俺がそう言うと、雪ノ下はまた、ふいっと視線を逸らした。

 

 

 「……そうね、まずどこからどこまでが友達なのか定義してもらってもいいかしら」

 「あ、もういいわ。それ友達いないヤツのセリフだわ」

 

 

 ソースは俺。

 中学の頃も、陰陽塾には行ってからも、友達の定義が曖昧すぎてどうすればいいのかが分からない。おかげで、陰陽塾に入ってからは、教室で穏形して引きこもるという技術を編み出してしまった。まぁ、おかげで、穏形術の成績はクラストップになったわけだが。成績が貼り出される度に、クラスメートからも「え? 比企谷ってだれ?」って、言われる始末だけど。

 閑話休題。

 

 

 「まぁお前に友達いないのはなんとなく想像つくからいいんだけどさ」

 「だから、別にいないだなんて言ってないでしょ。勝手に自己完結しないでくれないかしら」

 「いやでも、いないんだろ。こんなしなびた場所にいつも一人でいるくらいだし」

 「……ただ単に、静かな場所が好きなだけよ」

 「それに、放課後だって、こうして一目散にここに来るくらいなんだからさ」

 「それは…ただ単に、うるさいのが苦手なだけよ。だいたい、授業が終わってから、帰宅もせず、教室で会話に興じるなんて非効率すぎるわ。時間は限られてるのだから」

 「いや。それを言い出したら、今ここで過ごしてるこの時間の方が無駄だろ。えーっと、確か『持つ者が持たざる者に、慈悲の心をもってこれを与える』だっけ? 俺、ここに入部してからそんな依頼、一度も受けたことないんだけど、これってどういう―――」

 

 「【黙りなさい】」

 

 

 刹那、俺は目を見開いた。

 何が起こったのか、一瞬、何が起こったのか分からなかった。けれど、キッと睨む雪ノ下の頬が、僅かに赤くなっているのだけは分かった。

 いや、だが今、問題にするべきことはそこではない。

 いきなり声が出なくなった。俺は無意識に喉に手を当てる。

 息は問題なくできる。喉にも痛みはなく、何ら異常は感じない。

 ただ、声が出ない。その事実に、俺は、少し怨念を込めて雪ノ下を睨みつけた。

 

 こいつ…、またやりやがったな―――と。

 

 

 「いい様ね、比企谷君くん」

 

 

 そう言って、雪ノ下は俺の座る椅子の目の前に来て、俺を見下ろす。

 声が出ない俺は、それを睨みつけることしかできない。俺のその目に、雪ノ下は大層ご満悦なようで、満弁の笑みを浮かべていた。

 

 

 「ふふっ、さて、どう料理してほしいのかしら?」

 

 

 こいつは、ホント生まれながらのどSだな。

 そんなことを考えながら、俺は深々と息を吐いた。これから始まるのは、一方的な罵倒だ。喋れたら反論するが、口をきけない今、俺はそれを受け入れるしかない。ある意味、一定の層の方々にはご褒美の時間だ。まぁ、そんな趣味、俺にはないから、俺にとってはただ苦痛の時間でしかないのだが。

 

 結局、雪ノ下の暴言は、それから五分くらい続いた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「お前さ、いい加減、都合悪くなったら『甲種言霊』で口塞ぐのやめろよな」

 

 

 縛りから解放された俺が、最初に口にした言葉はそれだった。

 甲種言霊―――。声に、強力且つ精緻(せいち)に練られた呪力を込めて、相手の精神に働きかける、強制力のある言葉を放つ『帝式呪術』だ。

 帝式。つまり、この呪術は『汎式呪術』を扱う、この陰陽塾では教えられない呪術なのだが、雪ノ下はこの呪術を最も得意とし、頻繁に使用している。主に俺相手に。そう言う意味でも、平塚先生が最初に俺をここに連れてきたときに言ったように、彼女の言葉は薬なのかもしれない。

 だが、如何せん。彼女の言葉には、呪力のほかに、多くの毒を含んでいるため、縛られる前に心が折れそうになる。いろんな意味で、彼女の言の葉は鋭利な武器だった。

 

 俺の言葉を聞いてるのか聞いてないのか、彼女は自分の席に戻り本を読み進めている。

 その無駄に画になる光景に、俺は口を曲げた。

 

 

 「っつーかさ、お前って呪術界じゃ一、二を争う名家の生まれだろ。それに加えて、呪術の腕も抜群。呪術の自主練にも散々呼ばれてそうなのに、それでもお前、友達いないってどーいうことだよ」

 

 

 俺の言葉に、雪ノ下は「まだ続けるの?」と、言いたそうな目を向ける。

 

 

 「……あなたには関係のない事よ」

 

 

 心なしか頬を膨らまして、そっぽを向く雪ノ下。

 どうやら、本格的に触れては欲しくない事らしい。そりゃまぁ、俺と雪ノ下はまったく別の人間だし。名家の人間には名家にしか分からない悩みがあるのかもしれない。それを聞かされたところで、俺に理解するということは難しいだろう。人と人は、どこまでいてもきっと一人なのだ。

 だが、こと、ぼっちに関してだけはおそらく俺は雪ノ下を理解できる。

 

 

 「……まぁ、お前の言い分は、正直、分からなくもないんだ。一人だって楽しい時間は過ごせるし、むしろ一人でいちゃいけないなんて価値観が気持ち悪い」

 「……。………」

 

 

 雪ノ下は一瞬だけ俺の方見たが、すぐに顔を正面に戻し目を瞑った。それは、瞑想の様にも、何かを考えている仕草にも見える。

 

 

 「好きで一人でいるのに勝手に憐れまれるものもイラッとくるもんだよな。わかるわかる。俺なんて、そんな目で見られるのが気に入らないから、教室じゃ穏形してるくらいだ」

 「あなた、そんなことしてたのね…」

 

 

 雪ノ下に、可哀想なものを見たような目で見られた。

 

 

 「まぁ、あなたと私では程度が違うけど、好きで一人でいる、という部分には少なからず共感があるわ。ちょっと癪だけど」

 

 

 そう言って、雪ノ下は自嘲気味に微笑んだ。どこか仄暗い、けれども穏やかな笑みだった。

 その瞬間、俺は少しだけ、雪ノ下を理解できたような気がした。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

  ――2010年10月某日、東京・とある施設――

 

 

 「そうか、それで君はあの時、逃げなかったんだな」

 

 

 平塚のその言葉に、少年―――比企谷八幡は、微かに頷いた。

 平塚の仕事は、言っては悪いが、このいかにも社会不適合者の少年の事情聴取だった。

 普段だったら、これは呪捜部の仕事だ。だが、現在呪捜部は、二カ月前に起こった例の事件の捜査で、てんてこ舞いしており、手の空いてるものがいなかった。

 そこで目を着けられたのが、平塚だった。祓魔官の女隊長。その肩書にある信頼と、女性であるから話しやすいだろうという偏見で、平塚はこの施設へと足を運んだのだ。

 

 そして、目の前にした少年の姿に、平塚は愕然とした。

 

 

 「……他に、何か言いたいことはあるか?」

 「……。……」

 

 

 平塚の言葉に、比企谷は無言で首を横に振った。

 その成りに反し、比企谷は思いのほか素直に、こちらがする質問に応えてくれた。それこそ、病室に入った瞬間、まるでゾンビのような目で睨まれたのが、ウソであるかのように。

 だが、平塚は、少年のその素直な態度の裏側にある物。その答えを、それとなく感じていた。

 

 おそらく、少年は早く出て行ってほしいのだろう。平塚だけではない。隣に居る担当の陰陽医にも。もっと言えば、ヒトという枠に収まる、すべての人間に、だ。

 

 比企谷は、完全に自分の殻に籠ってしまっている。当然だ。僅か、数カ月前に、少年は未曽有の霊災に巻き込まれているのだから。

 しかし、どうにも平塚は少年のことが気になった。

 パタリ、と。平塚はメモ帳を閉じる。

 平塚のその仕草に、少年は安堵の息を吐く。聴取が終わったことを悟ったらしい。

 だが、そんな比企谷の思いとは裏腹に、平塚は再度、椅子に深く座り直す。

 平塚は、まが差したのだ。

 

 

 「どうかね、調子は」

 

 

 それは何に対する問いだろうか。平塚のその言葉に、比企谷はぎょっと、顔を歪める。

 だが、平塚の優しい顔を見て、比企谷はすぐに何かを悟り、ふいっと顔を反らし、

 

 

 「…別に」

 

 

 と、そうたった一言口にした。

 それは、見方によっては、怒っているようにも、ふて腐れているようにも見える。

 子供ならではのその仕草。しかし、平塚は少年のその態度に深く息を吐いた。

 

 

 「…そう、邪険にしなくてもいいだろう。少し、世間話でもしようと言っているんだ」

 「…それも、仕事ですか?」

 

 

 比企谷は、疑わしげな眼で平塚を見る。その目を真正面から見つめ返し、平塚は頭を振る。

 

 

 「そんなことはない。私は、ただ純粋に君と話したいと思っただけだ」

 「…仕事じゃないんなら、帰ってくれませんか」

 「はは、手厳しいな、君は」

 

 

 比企谷の無礼な態度にも、平塚は笑って受け流した。

 そんな大人の対応を見せる平塚に、しかし、比企谷は小さく舌打ちした。

 

 

 「…で?」

 「ん?」

 「で、その世間話とやらは、いつ始まるんですか?」

 

 

 この対応には、さしもの平塚も驚いた。平塚どころか、自分に関わる人間すべてを鬱陶しいと思い。ヒトの姿を見た瞬間、それがたとえ初対面の人間だろうと、睨みつけ。あろうことか、好意的な人間の言葉に舌打ちした、このいかにも社会不適合者な少年は、どうやら平塚の話を聞く気であるようだ。

 平塚は、ふうっと、息を吐く。思わず、ポケットから煙草を取り出そうとし、近くにいた陰陽医の冷たい視線に気づく。そういえばここが病院であることを平塚は思いだし、また煙草をポケットにしまった。

 その一連の動作を、比企谷は変わらず無感情な顔で見ていた。

 

 

 「すまない。どうも私は、これがないと落ち着かなくてな」

 「…はぁ、まぁ俺は気にしないからいいんですけど。親父だってやってましたから」

 

 

 比企谷は、さして気にもしない様子で言う。

 静かで覇気もない、ひっそりとした声。それはまるで、触れることを拒む影のようだと、平塚は思う。だから、ひどく冷たく感じた。

 

 

 「…調子は、どうかね」

 

 

 その冷たさを振り切るように、平塚は再度、その質問をぶつけた。

 

 

 「…別に」

 

 

 それに対し、比企谷の言葉も、そのまま、さっきと全く同じ物だった。

 これでは話にならない。平塚は、呆れたように苦笑する。けれど、比企谷の言葉は、そこで終わりではなかった。光のない窓に目を向け、比企谷はぽつりと言葉を続けた。

 

 

 「だけど、ここは、ずっと変わらないまま…です。毎日毎日、何人もの陰陽医が俺を診に来ては、そのドアの封を解いて、また戻る。人に会う回数で言えば、むしろこれまでで一番多いかもしれない。けど、俺は結局、何も変わらない。所詮、ぼっちはどこまで行ってもぼっちのままだってことです。あんなことがあったのに、俺は何も変わってなんかいない」

 

 

 比企谷の言葉に、平塚は脳裏にあの惨劇の映像が浮かぶ。

 祝日の昼間。大型ショッピングモールで起こった事件。あれだけの大惨事にもかかわらず、二カ月たった今ではもう、ニュースにすらならない過去の出来事。

 だが、この少年の中ではまだ終わってないのだ。比企谷の中では、二カ月前の事件は、未だに昨日の事の様に思い起こされているのだろう。

 不意に、窓を向いていた比企谷の視線がこちらを向く。その顔は、どこか穏やかな顔だった。それはもしかしたら、平塚が初めて見た少年本来の表情だったのかもしれない。

 

 

 「祓魔官さん。知ってましたか? この部屋に来る人間は、みんな同じ顔をしているです。こんな姿の俺を哀れんで、同情的な顔をするやつか。あるいは、俺のこの姿を怖がって、怯えた顔をするやつか…」

 

 

 比企谷の瞳が、平塚を捕らえる。その腐った魚のような目で、彼が何を訴えているのか、平塚にはまったく分からなかった。

 

 

 「祓魔官さん。あなたは、前者でした」

 

 

 比企谷は平塚を真っ直ぐに見る。それは、平塚に目をそらすことを許さないような不思議な感覚を覚えさせられる。そんな目だった。

 比企谷の言葉に、平塚は腕を組んで考える。だがやがて、ふむと難しそうな顔で頷くと、比企谷のその目に応えるように視線を合わせた。

 

 

 「……よく見ている。君は人の心理を読み取ることには長けているな」

 

 

 平塚のその言葉があまりに意外だったのか、比企谷はきょとんとした顔で瞬きする。

 だがやがて、何を思ったのか、いや、自分の言った事を思い直したのだろう。比企谷は恥ずかしさから、平塚から顔をそらし、ぽつりと呟いた。

 

 

 「…俺が同じ立場だったら、そう考えるだろうという勝手な想像でしかありません。それに、ここじゃあ、そういうことしかやることありませんから」

 

 

 比企谷のどこか達観したような物言いに、平塚はふっと息を吐く。

 確かに、比企谷はよく物事を見ている。おそらく、長年のぼっちの生活が彼をそうさせたのだろうと、平塚は思う。だが、彼のその物の見方には決定的に足りてないものがあった。

 

 

 「あぁ、君がそう言うのなら、そうなのだろうな。けれど、君のその方法で、確かに人の心理を読めている。だが―――」

 

 

 平塚は、比企谷の頬に手を添える。その瞬間、平塚の顔を見た比企谷のの目は、まるで親を見失た幼子の様に、平塚は感じた。

 

 

 「君は人の感情を理解していないな」

 

 

 比企谷は息を詰まらせる。声も、言葉も、ため息だって出てこない。核心を突かれた、と比企谷はどきりと心臓を高ならさせた。

 

 

 「…俺が、人の感情を理解していない? はっ、何を根拠に言ってるんですか」

 「別に根拠がないわけではない。私は、ここに来る前に君の情報は一通り、頭に入れてきている。その情報をもとに、今日見た君自身と合わせて、私は言っている」

 

 

 平塚は言葉を続ける。

 

 

 「君は極論すぎるんだ。白か黒か、君の中ではそれしかない。けれど、感情という物は決して、白黒で分けられるものではない。人の感情はグレーでしか語れないんだ」

 「けど…」

 

 

 比企谷の言葉を、平塚はすっと指を立てて制する。そして彼の目を見つめ、ゆっくりと言葉を継ぐ。

 

 

 「君がどうしてそうなってしまったのか、私には分かる。原因は至極簡単なことだ。君は、人の感情を理解する以前に、まず、自分の感情を理解していない。きっと、君は決断の早い人間なんだろう。そして、同時に諦めの早い人間でもある。割り切ることに長けているからこそ、君は白と黒の二つの答えしか知らないんだ」

 

 

 「だから…」と、平塚は続ける。

 

 

 「君は今、大いに戸惑っているのだろう?」

 

 

 それは問いかけなどではない。比企谷の心の中にあるその思いを、確信しているからこその、言葉だった。

 その言葉に、比企谷は驚きで、目を見開いた。

 

 

 「どうして…?」

 

 

 心を見透かされたようなその言葉に、比企谷は震える声で、そう言葉にする。

 その姿に、平塚はやはり、と確信した。

 

 今、比企谷八幡は白でも黒でもない。グレーであることを。心の中で、深い迷いの渦に陥っているということを。

 

 

 「比企谷君。君は迷うということを悪いことだと思うか?」

 「……当然です。あのとき、俺が迷ったから…あいつは…」

 

 

 俯き、震えながら、タオルケットを握る比企谷の手に力が入る。彼の終わらない後悔。その一端を、平塚は垣間見る。

 その健気なまでに痛々しい姿に、平塚の手は、自然と彼の握りこぶしに添えられた。タオルケットを握る比企谷の力が弱まる。比企谷の目が、再び平塚に向けられた。その目をしっかりと受け止め、平塚は思いを、言葉にする。

 

 

 「私はそうは思わんな」

 

 

 と。平塚の言葉に、比企谷は「え」と声を漏らす。

 それは、ここ二カ月の彼の後悔すべてを完全に否定する言葉だった。平塚は真っ直ぐ自分を見つめる比企谷の目を見て、コクリと頷く。

 なんてことはない。もっと言えば、何の意味もないその行動。

 だが、比企谷は、その無意味な行為に、どうしようもない安心感を覚えてしまった。

 

 

 「そもそも、若さとは、迷うものなんだ。私だって迷う。なんといっても、私もまだまだ若いからな」

 

 

 平塚は、どこか鬼気迫る勢いで、そう口にする。どことなく、若いの部分が強調されていたように感じた。触れてはいけない事なのだろうと、比企谷は悟った。

 だが、すぐに平塚は比企谷を見つめる。そして真剣な口調で、平塚は言葉を続けた。

 

 

 「……だが、迷いとは、いつか振り切らなければいけないことだ。答えがわからないなら、もっと考える。計算しかできないなら計算しつくす。そして、全部の答えを出して消去法で一つずつ潰していけばいい。結果、残ったものが正しい答えだ」

 

 

 なんという暴論だ、と比企谷は思う。理屈や計算で迷いを断ち切れるのなら、それはもう人ではない。ロボットだ。そんなこと、不可能に決まっている。

 破綻している。比企谷は、その論ですらない結論に驚嘆した。

 だが、平塚もそれは分かっていた。分かっているからこそ、それを口にしたのだ。

 理屈や計算で迷いを、感情をコントロールできる人間などロボットと一緒。

 

 そして、それは今、平塚の目の前にいた。

 

 

 「……私が情報で知る君は、その方法でしか人の心理を計れないはずだ。だがな、比企谷君。計算というものは必ずしも答えが出る物ではないんだ。割り切れない答えだってある。君に不足しているのは、その割り切れない答えを読み解く力だ。計算できずに残った答え。それが、人の感情というものなのだよ」

 

 

 語る口調は荒々しかったが、声は優しかった。

 だから、平塚の言葉を否定する言葉が出てこない。結局、比企谷は、平塚のその優しい否定の言葉を、受け入れることしかできなかった。

 

 

 「君は、確か中学生だったな。高校はどうするんだ?」

 「……さぁ、一応勉強はしてるんですけどね。下手すりゃ、受験までにここを出れないかもしれませんし。最悪、浪人ってことになると思います」

 「そうだな。だが、君は知っているはずだ。ここからすぐに出れる方法を。そして、君と同じ年の者達と、受験できる方法をな」

 

 

 真剣な口ぶりだった。

 その言葉で、比企谷は悟った。この祓魔官は、自分の『迷い』を知っていると。

 

 

 「君は迷っているのだろう。その『後遺症』を背負って、生きるのかどうかを」

 「……」

 

 

 比企谷の目が、どうしようかと宙を泳ぐ。その、人からは腐った目と評される眼(まなこ)には、焦りの感情が浮かぶ。強がって入るが、もともと比企谷は人見知りの激しい人間だ。コミニケーションが下手で、友達も居ない。だから、年上の、しかも美人な平塚の核心を突く、その優しい言葉に、戸惑いを感じてしまっているのだ。

 平塚は、そんな比企谷の頬に添える手で、ゆっくりと、彼の視線を自分の方へと誘導させた。比企谷は、逃げ道を奪われた。

 

 

 「……私はな、比企谷君。祓魔官(こんな)仕事をしているから、君みたいな人間を、これまで何人も見てきた。その誰もが、つらい現実を前に、目を反らしてばかり。いや、それが人間として当然の弱さなんだと思う。だから、それが悪いとは、私は言わない。だがな―――。」

 

 

 そして、平塚は優しい笑みを浮かべる。それはまるで、親が子供を優しく諭すような、あるいは、子供を慰めるような、そんな穏やかな顔だった。

 

 

 「だがな、比企谷君。それでも、前を向けることが、人の強さだと思うんだ」

 

 

 何かが、比企谷の中でバラバラに崩れ落ちた。

 前向きなんて言葉は、自分には似合わない。負けることに関しては自分が最強。それが、比企谷八幡と言う人間だ。だが、この一瞬、その瞬間だけ、比企谷八幡は思ってしまったのだ。

 

 

 「祓魔官。そろそろ…」

 

 

 そのとき、陰陽医から声がかかる。情景反射的に、平塚は腕時計を覗きこんだ。時計の長針は、最初この部屋に入ったときから一周してしまっていた。いつのまにか、長い時間ここにいたようだ。

 

 

 「……以上で、君への聴取は終わりだ。長く時間を取らせてしまい、すまなかったな」

 

 

 最後にそう締め括り、平塚は席を立つ。だが、不意にその手を何者かが引く。

 いや、何者かではない。袖を引いたのは比企谷だ。平塚は、突然のその出来事に、目を丸くする。それは最初、ここに来た時に見た比企谷からは、考えられないその行動であった。その行動に、平塚は不覚にも驚嘆したのだ。

 無理やり振りほどこうとは思わない。けれど、平塚の腕を掴む彼の手には、絶対に離さないという強い意志を感じた。その思いを無下にするなど、優しすぎる平塚にはできなかった。

 

 

 「……祓魔官さん。一つだけ、教えてもらってもいいですか」

 

 

 そして、平塚は振り返った。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 ――2012年4月某日 東京・陰陽塾――

 

 いつものように部室では雪ノ下が窓際で本を読んでいた。

 その向かい側。教室の中央では、俺も本を読む。ここ最近、部室での俺たちの過ごし方はだいたいこんな感じだった。

 俺はちらりと雪ノ下を見る。陰陽塾の白い女子用の塾服を着た雪ノ下は、彼女自身の名前や艶やかな黒髪と見事にマッチして、いつもながら嫌味なほど画になっていた。

 不意に、雪ノ下が顔を上げた。雪ノ下と目が合う。

 雪ノ下は無言で携帯を取り出した。

 

 

 「……って、おい。ちょっと待て」

 「なにかしら?」

 

 

 雪ノ下は、心底不思議そうに小首をかしげる。

 その無駄に可愛らしいしぐさに、だが俺は嫌な汗を背中に感じた。

 

 

 「お前、今、なにしようとした?」

 「もちろん通報しようとしたのよ。不審者が、私を視姦していたのだから当然のことでしょう?」

 

 

 そう言って、雪ノ下は微笑んだ。普通の男子なら、見惚れてしまいそうな笑顔だ。だが、俺には分かる。その目は一切笑ってなかった。

 

 

 「おいこら、そこまで俺に犯罪の汚名を着せたいのか?」

 「むしろ、これまで通報されなかったことが不思議だわ。だって、あなた、これまでもそんな腐った目で女子を見ていたのでしょ? 気持ち悪い」

 「ふざけんな。この目はもともとだ。謝れよ! 俺の両親に」

 「……なんとも悲しい倒置法を使われたような気がするわ。けど、そうね。確かにあなたの御両親に罪はないわ。それにきっと、つらいのはご両親でしょうから」

 「……もういい、俺が悪かった。いや、俺の顔が悪かった。もう、お前のことは一生見ないから」

 「あら、それは心が休まりそうね。とても素敵な提案だわ」

 

 

 そう言って、雪ノ下はくすっと笑った。

 けれど、それはさっきまでの笑みとはどこか違うように思えた。これは俺の勝手な願望だが、少しは雪ノ下も俺に心を開いてくれているのかもしれない。そう思うと、雪ノ下の舌刀も、あながち悪くないように思えてくるから不思議だ。

 俺は、読んでいた本へと視線を戻す。不思議と、さっきまではつまらないと思っていた内容が面白く感じる。俺は、少しずつ変わっていく彼女との関係に笑みを浮かべた。

 

 

 「……気持ち悪い笑みを浮かべないでくれないかしら。夢に出てきそうでおぞましいわ」

 

 

 ……訂正しよう。やはり雪ノ下とは、一生仲良くはなれないだろう。

 俺の心の中の、『絶対に許さないリスト』に彼女の名前が追加された瞬間だった。

 俺は、再びつまらなくなった本を擲つように栞を挟み、カバンにしまう。今話題の一作ではあったが、どうにも虚偽の情報に踊らされたようだ。

 暇つぶしを失った俺は、手持無沙汰に窓の外を見る。

 その過程で俺の視線は、彼女へと向いた。

 

 雪ノ下雪乃は品行公正な美少女だ。彼女のその凛とした佇まいは、まるで一つの完成された宝石のように美しく、ゆえにきっと誰もが憧れる。けれど、性格は致命的に悪く、瑕(きず)なんて可愛いものでは決してない。

 けれど、その瑕(きず)にはそれなりの理由がある。雪ノ下雪乃は持つ者であるがゆえに、苦悩を抱えている。

 きっとそれを隠して、協調して騙し騙し、自分と周りを誤魔化しながらうまくやることは難しくないはずだ。けれど、雪ノ下は決してそれをしない。

 自らに決して嘘をつかない。

 その姿勢だけは評価しないでもない。

 だって、それは俺と同じだから。

 

 ―――なら。

 ―――なら、俺と彼女は…。

 

 

 「……あ、あの、比企谷くん。い、いくら私が美少女でも、それだけ見つめられるのは、ちょっと…は、恥ずかしいのだけど…」

 

 

 不意の雪ノ下のその言葉に、俺ははっとした。

 思考が目の前にあるものを認知する。

 いつの間にか俺は、じっと彼女を見つめてしまっていたようだ。雪ノ下は怒っているのか、顔を真っ赤にしてもじもじと体をよじっている。

 俺は慌てて彼女から視線を外した。

 

 

 「…悪い」

 

 

 いろいろと、言い訳を考えようと思考を巡らすも、結局出てきたのは、不器用なその一言だけだった。なんて、なんてみじめな言葉だ。俺はそんな言葉しか出てこなかった自分にうんざりする。

 雪ノ下は、俺のその言葉に最初、困惑の表情を浮かべ、次に何かを堪える様な表情で顔を反らし、やがて諦めたように息を吐いた。

 

 

 「……そう。次からは気をつけて」

 

 

 雪ノ下にしては優しい許しの言葉に、俺は安堵する。それと同時に、俺はたった今行った、自分の思考に嫌悪感を抱いた。

 

 俺は、なんて勘違いをしているんだ。

 

 俺と彼女は似ている。

 比企谷八幡はぼっちだ。そして、雪ノ下雪乃もぼっちだ。

 けれど、それは決してイコールではない。俺と彼女は似て非なるものだ。

 

 きっと俺達は、世界で一番近く―――。そして世界で一番、遠い存在―――。

 

 

 「……雪ノ下。俺とお前は、絶対に友達にはなれないな」

 

 

 唐突な俺の言葉に、しかし、雪ノ下は文庫本から顔を上げることなく応えた。

 

 

 「えぇ。癪だけど、あなたのその意見には同意せざるを得ないわね」

 

 

 ほら、雪ノ下ならそう応えると思っていた。

 そうだ、俺達の関係はこれでいい。

 結局、俺達はどこまでいってもぼっちだ。同じ部活に所属していても、そこにいるのは二人ではない。一人と一人だ。

 

 そう。だから、ここにいるのは一人と一人の、『二人のぼっち』だけなのだ。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 ――2010年10月某日、東京・とある施設――

 

 

 「……比企谷くん。君は、本当にそれでいいんだな」

 

 

 平塚の言葉に呼応するように、比企谷は頷いた。

 これから、彼が辿ろうとしている道は、彼が想像している以上に困難なはずだ。それでも、彼はこの道を進むと決めたのだ。

 それを止めることは、ただの祓魔官でしかない平塚には到底できなかった。

 

 

 「……祓魔官さん。教えていただきありがとうございます。おかげで決心がつきました」

 

 

 それは比企谷八幡の決意。いや、執念とも言うべき盲目なまでの目的だった。

 

 

 「俺は、陰陽塾に行きます。そして、絶対に見つけてやる。あの霊災テロを起こした……犯人を」

 

 

 そして彼は雛鳥となる。やがて来るそのとき、獲物を刈るための爪を研ぐために。

 

 

 

 

 

 




 参考文庫
  ■やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。一巻
  ■やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。九巻
  ■東京レイヴンズ 二巻
  ■東京レイヴンズ 三巻
  ■東京レイヴンズ 九巻


 ゆきのんの呪術は、これだと決めていました。
 相手を縛る前に、心を折る甲種言霊。ゆきのん恐ろしい子。
 さて、次はガハマさん回です。そして、今回の話で悟ってくれた人もいるかもしれませんが、二年前の霊災。これは例のあれを意味しています。
 あ、もしかしたらこれでわかっちゃったかもしれませんね。それではまた次回。





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第三話 生成りと生焼けのクッキー 前編

 

 

 ――2011年4月某日、東京・陰陽塾入学式当日――

 

 

 すぐに彼だと分かった。一目見た瞬間、鼓動が早くなるのを抑えられなかった。

 見方によっては、整っているように見えなくもない顔立ち。まるで死んだ魚の様に腐った目。何か得体のしれない雰囲気を醸し、どこか澱んだ霊気を纏うその姿は、間違いなく彼だった。

 陰陽塾の合格者ともなれば、呪術的に優れた素質を持った者達ばかりだ。だが、そんな者達の中において、彼は異端な存在だった。

 まるで周囲との接触を断つように耳にはイヤホンを入れ、純文学らしい本を黙々と読む。

 ゆえに、教室の誰もが、そんな彼に目もくれず、各々好きに過ごしている。

 教室で彼の素性を知る者はいない。誰も彼の存在を認識せず、そして彼自身、それを当然のことのように受け入れていた。

 たった独りで。

 たぶん、これからもずっと。

 だから、

 

 

 「……うん」

 

 

 彼女は被っていたぶかぶかのニット帽を深くかぶり直し、彼の席の前に立つ。

 教室では、その行為に気づく者はいない。けれど、そえでも彼女は構わなかった。あの日、あの時から、彼女はもう一度、彼に会いたいと願った。そして今度こそ、彼女は彼の側にいる。そう決めていたのだ。

 彼女に気づいて、彼が顔を上げた。正面から見ると、驚くほど、彼の目が腐っていることが分かった。

 柄にもなく胸が高鳴る。

 それを誤魔化すように、彼女は明るく笑った。

 

 

 「こ、こんにちは、比企谷くん。……私のこと、覚えてる?」

 

 

 自分を見上げる瞳に、不審と警戒が走った。覚えてないのだ。いや、本当は彼女にも分かっていた。彼が、自分なんかを覚えているはずがないことを。

 期待と不安に胸が揺れる。それを必至に押し隠しながら、彼女は必死に言葉を紡いだ。

 

 

 「私ね、由比ヶ浜って言うの…。由比ヶ浜結衣」

 

 

 分かっている。あれからまだ一年も経ってないとはいえ、あんな一瞬の出来事の話だ。自分にとっては忘れがたい想い出であろうと、彼にとってはそうではない。

 それでも、心から願った。どうか覚えていてほしい。あの日、あの時、彼が救ってくれた一人の女の子のことを。

 しかし、

 

 

 「……悪い」

 

 

 それはどこか苛立たしい、怒ったような口ぶりに聞こえた。

 やはり忘れているのだ。

 無理もない。そう、頭では理解しつつ、彼女は少なからずショックを受けた。そのうえ、この突き放すかのような態度だ。彼が自分を見る視線は、まるで仇を見るかのようだった。

 忘れられている覚悟は出来ていても、そんな態度、そんな視線は予期していない。自分でも気持ちが制御できず、彼女は思わず黙り込んだ。

 肌が切れるような痛い沈黙。

 すると彼は、落ち着かない様子で視線を逸らした。

 

 

 「……よ、用がないならもういいか? すまん。独りにしてくれ」

 

 

 そう告げたあと立ち上がり、逃げるように彼女の前から去っていく。

 彼女は彼を追うこともできず、ただその場に立ち尽くした。それでも、彼女達の会話に耳を傾けるクラスメートは誰一人としていなかった。

 

 入塾前から夢にまで見ていた―――。

 これがその、再会。

 

 

 

 

         *

 

 

 

 

 

 

 ――2010年4月某日、東京・陰陽塾――

 

 弱弱しいノックの音が、奉仕部の部室に響く。

 その音に呼応するかのように、俺と雪ノ下の視線は自然と扉へと向けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第三話 生成りと生焼けのクッキー / 前編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「どうぞ」

 

 

 珍しいこともあるものだ、と。俺は少しだけ驚きの感情で、雪ノ下の入出を許可する声を聴く。俺はノックの音が鳴った入口に目を向ける。こんな辺境の地に来る物好きに、若干の興味がわいた。

 

 

 「し、失礼しまーす」

 

 

 戸が少しだけ開かれて、ちょこっとだけ隙間が空いた。そこから身を滑り込ませるようにして彼女は入ってきた。まるで誰かに見られるのを嫌うような動きだった。

 探るようにして動く視線は落ち着かず、俺と目が合うと、ひっと小さく悲鳴を上げ、情景反射なのか、被っているぶかぶかのニット帽を深くかぶり直した。

 その仕草に、俺は改めて彼女を女だと認識する。初対面の女子には、基本的に軽く悲鳴を上げられるのがデフォだからな。みんなだってそうだろ? え、なんだ、俺だけか。

 

 

 「な、なんでヒッキーがここにいんのよ!?」

 

 

 不意に彼女が声を荒げる。思わず、肩をびくりと震わした。

 

 

 「……いや、俺ここの部員だし」

 

 

 情景反射で答えてしまったが、ヒッキーってまさか俺のことなのだろうか。まぁ、雪ノ下は、明らかにヒッキーってイメージではないから、俺なんだろうけど。

 けど、俺にこんな知り合いいたか? いや、いるわけないか。だって雪ノ下と話すまで、最後に同年代の女子と話したのって…。……あれ? いつだっけ?

 と、とにかく。俺にこんな今時の女子高生みたいなギャルギャルしい知り合いはいないはずなんだ。俺にその手の女子高生との交流はない。なんなら、その手じゃなくともない。

 でも、向こうは俺の事を知っているみたいだし。はて、どこかで会ったことがあるのだろうか?

 

 

 「そ、そうだったんだ…」

 「…つうかなんでお前、俺のこと知ってんの? ってか、お前だれ?」

 「はあぁああああああああああ!?」

 

 

 至極当たり前のことを聞いたのに、すごい驚かれた。え? だから、なんで? 

 俺達のその会話を見て、雪ノ下は呆れたようなため息を漏らした。

 

 

 「あなたは確か、由比ヶ浜結衣さん、ね?」

 

 

 言いながら雪ノ下は、適当な椅子を引っ張り出して、由比ヶ浜(?)に座る様に促した。

 

 

 「あ、あたしのこと知ってるんだ」

 

 

 「えへへ」っと、由比ヶ浜は嬉しそうに笑いながら、落ちてきたニット帽をもとの位置に戻した。

 

 

 「えぇ。それと、比企谷くん。いくらあなたが教室で、一人さびしく自分の世界に引きこもっているニートだとしても、最低限、クラスメートの顔くらいは覚えておきなさい」

 「おい雪ノ下。確かに、俺は教室では穏形してて、周りを拒絶してるが、ニートはいいすぎだ。俺はまだ学生だからニートじゃねーよ」

 

 

 衝撃の事実。由比ヶ浜ってクラスメートだったのか。マジか。全然気づかなかった。

 いや、だって、クラスじゃ基本的に穏形してるから、俺の存在知ってる人間がいるなんて思わないじゃん。うん、だから僕は悪くない。

 

 

 「てか、お前。よく知ってたな。まぁでも、ユキペディアさんなら、全校生徒の名前覚えてそうだし、不思議はないか」

 「……その不愉快な呼び方はやめてくれないかしら。それと、私は何でもは知らないわ。知ってることだけよ。だって、あなたの存在なんて知らなかったもの」

 「なにおまえ。それ猫つながり? それから、ナチュラルに俺をディスるのやめてくれませんかね」

 「あら、別に落ち込むことではないわ。むしろこれは私のミスだもの。あなたの矮小さに目もくれなかったことことが原因だし、何よりあなたの存在からつい目を逸らしたくなってしまった私の心が弱いのよ」

 「……ねぇ、お前それで慰めてるつもりなの? 慰め方ヘタすぎでしょ。俺のライフはもうゼロだよ? 終いには泣くぞ、こんにゃろー」

 

 

 ぼっちの心って、かなり繊細なんだからな。

 そう言って、ジト目で雪ノ下を見るも、雪ノ下はまるで興味がないかのようにファサッと肩にかかった髪を払った。

 

 

 「なんか……楽しそうな部活だね!」

 

 

 突然の由比ヶ浜の言葉に、俺は目をひん剥いた。

 えっ、なに言ってんのこいつ?

 俺と雪ノ下が、仲良く見えるだと。頭の中、お花畑が広がってるんじゃないの?

 由比ヶ浜は、またずり落ちてきたニット帽を上げて「えへへ」と笑う。

 雪ノ下は、その言葉がどうにも気に入らなかったのか、「別に愉快ではないけれど……。むしろそのかんちがいがどく不愉快だわ」と、聞こえてきそうな冷たい視線を送っている。その視線に、由比ヶ浜はあわあわ慌てながら両手をぶんぶん振る。

 

 

 「いや、ほら、二人ともなんか遠慮しないで好きなこと言ってるし、ヒッキーってクラスじゃずっと穏形して引きこもってるし、ここでは凄いお喋りなんだなって! 教室だとなんかキョドり方、キモいし!」

 

 

 由比ヶ浜の攻撃。比企谷は精神に1000のダメージを受けた。比企谷の精神は死んでしまった。

 ぐふっ、由比ヶ浜、お前も俺をディスるのか。

 あぁ、なんかこの人をバカにしくさった視線には見覚えがある。そうだ、これは中学の時のクラスの女子がこんな汚物を見るようなときどき俺を見てたわ。陰陽塾じゃずっと、穏形で引きこもってるから、女子から見られることすらないしな。

 あ、ということはこいつは俺の敵じゃねえか。うわ、気使って損した。

 

 

 「……このビッチめ」

 

 

 あれ、口が勝手に。思わず小声で毒づいてしまった。

 

 

 「はあぁああああああああっ!? ヒッキーそれどういう意味だし!?」

 

 

 無論、俺の声は由比ヶ浜に届いていたらしく、お猿さんみたいにきーきーと喚く。

 これだからビッチは。近隣の事も考えろっつーの。ほら、雪ノ下なんていつもより数倍冷たい目してんじゃねーか。もう冬は過ぎてるのに寒いと思ったらこれだよ。

 

 

 「いや、ビッチにビッチと言って何が悪いんだ」

 「ビッて、いきなり何言ってんのよ! それに私はまだ処―――、わー! 今のなし! なし!」

 「安心しろ由比ヶ浜。もういまさらどれだけ見繕っても、お前のビッチ臭さは消えないから」

 「またビッチって言ったあぁあああああああああああああああ!!!!」

 

 

 由比ヶ浜は悔しそうにう~っと、小さく唸りながら、涙目でこっちを見てくる。

 雪ノ下は、そんな俺達のやり取りに疲れたのか、眉間に指を当てた。その表情を見る限り、この状況を、心の底からうっとおしく思っているようだった。

 

 

 「はぁ…二人とも。いい加減【黙りなさい】」

 

 

 そして、気が付いたときにはいつものパターンだった。

 いきなり声が出なくなった由比ヶ浜が、びっくりしたように「え?え?」と、きょろきょろする。対して俺は、もう慣れてしまったのか、この『声が出ない』という異常な状況にも、慌てることなくため息を吐いた。

 そして、雪ノ下に目で訴えける。「もう少し、他のやり方はないのか?」と。

 

 

 「あら、この場合これが一番効果的だと思ったのだけど?」

 

 

 俺の視線から、俺の考えをくみ取ったのか雪ノ下が応える。

 ここになって、由比ヶ浜もこの状況の犯人が分かったのか、雪ノ下を見る。ぶかぶかのニット帽がまたずれ落ちた。もうお前、それ小さいのにしろよ。

 

 

 「それより比企谷くん、紅茶が切れてしまっているのよ。何か飲み物を買ってきてくれないかしら?」

 

 

 なにナチュラルにパシらせようとしてんの。雪ノ下さんマジぱないわぁ。

 俺は雪ノ下を睨みつけた。

 

 

 「だって、あなたがいると話が進まないじゃない」

 

 

 いや、確かにそうだけどさ。そんな殺生な。せめてこの術解いてくんない?

 俺は指でトントンと自分の喉を叩く。

 

 

 「何か困ることでもあるかしら? どうせあなた、塾内を歩いても話しかけてくる人間なんていないのだから、別に問題ないでしょう?」

 

 

 ふざけんな。お前、知らないかもしれないけど、普段出てる声が出ないって、むちゃくちゃ違和感あって気持ち悪いんだぞ。そんな思いを込めて、雪ノ下を睨んだ。

 

 

 「そんなこと知らないわよ。いいから、早く行きなさい。じゃないと、さっきから声が出なくて涙目になってる由比ヶ浜さんが可哀想でしょ?」

 

 

 雪ノ下はこちらに目もくれず、肩にかかった髪をさっと手で払った。

 ……へーへーそうですか。そんな『が』のところを強調しなくても分かってるつーの。俺は、なんかこのやり取りがばかばかしくなって、鞄から財布を出す。由比ヶ浜がなにか申し訳なさそうにこちらを見ていた。

 

 

 「あ、それと比企谷くん」

 

 

 不意に名前を呼ばれて振り返る。なんだ? さすがの雪ノ下さんもこんな哀れな俺に思う所でもあったのか? そして、この場で唯一声が出せる雪ノ下は、普通の男子なら見惚れる綺麗な笑顔でおっしゃった。

 

 

 「私は『野菜生活100いちごヨーグルトミックス』でいいわ」

 

 

 由比ヶ浜のぶかぶかなニット帽がまたずり落ちた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 そこは、甘いバニラエッセンスの匂いで満たされていた。

 俺と雪ノ下。それから由比ヶ浜は陰陽塾から離れ、雪ノ下の家にやって来た。

 理由は簡単だ。俺達は、由比ヶ浜の依頼を叶えるためだった。

 そう、由比ヶ浜は平塚先生に勧められて奉仕部にやって来た今回の依頼主だった訳だ。

 

 由比ヶ浜の依頼内容は、とある人物に、手作りのクッキーを渡したいとのことだ。

 だが、その依頼を叶えるのは、この陰陽塾では些か困難なのだ。

 俺が、陰陽塾に入塾して嬉しかったことの一つに、調理実習がないということがあった。あんな好きな人とグループを作って料理するなんておぞましい拷問をしなくていいと思うと、俺は心が躍ったものだ。

 そして、それは必然的に『家庭科室』の存在の排除に繋がる。

 ゆえに、陰陽塾には『家庭科室』がないのだ。

 さて、ここで問題になるのが、どこで、由比ヶ浜の依頼を叶えるかということだ。一応、陰陽塾にも教員の当直用の簡単な茶室はあるのだが、如何せん小さく、機材も少ないため、複数で調理するには向かない。さらに、都合の悪いことに、地方から出てきてる俺も由比ヶ浜も、寮生であるため、自身で用意できる調理場がないのだ。

 そこで、白羽の矢が立ったのが雪ノ下の家だった。

 

 

 「おい雪ノ下。こんないいマンションに一人で住みやがって、なんだお前、ブルジョワじゃねーか」

 「あら、何か問題でも? お金があるのだから使うのは道理じゃない。それから比企谷くん、今回は特別だけど、私の家で何か問題でも起こしてみなさい。あなたを社会的に抹殺するから」

 

 

 と、まぁこんなやり取りもあったが、俺達はつつがなく依頼に取り掛かった。

 ちなみに、俺は味見役である。クッキーが出来たらメールするらしく、俺は二人が調理中は雪ノ下の家を追い出された。わー、信用ねー。

 てなわけで、二人の調理が終わるまで雪ノ下の家の近くにあった本屋で時間を潰す。

 あ、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」の最新刊だ。買っとかないと。

 そして、それから婚活パーティを追い出された平塚先生に会ったり、平塚先生に誘われて仕方なくラーメン食いに行ったりした。仕方ねーじゃん。だって、あの人渋谷駅の前で泣くんだぜ? ハチ公を待ち合わせにしていた人からすっげー変な目で見られた。

 まぁ、そんなこんなあって、俺はメールを受け取り、雪ノ下の部屋へと戻ったわけだ。

 え? なんでこんな無駄なこと話したのかだって? 人間、誰だって現実逃避したくなるときがあるんだよ。俺は遠い目で雪ノ下のマンションから見れる東京の絶景を眺めた。

 うん。とりあえず、一言言いたい。

 

 ど う し て こ う な っ た。

 

 

 「……木炭?」

 「クッキーだし!」

 

 

 俺の正直な感想に、由比ヶ浜は勢いよく反論した。

 おかげで、彼女の被ってるぶかぶかのニット帽が、また目元まで落ちた。

 

 

 「な、何を言ってるんだお前。こんな真っ黒なクッキーがあってたまるか。どうしたんだよ、これ。まさか火行符で焼いたのか…?」

 「ヒッキー! バカにし過ぎだし! ちゃんとオーブンで焼いたよ!」

 

 

 だったらなんでこうなるんだよ。オーブン使ったんなら、時間さえ守れば焦げねーだろ。

 え、だってこれどう見たってジョイフル本田の木炭じゃん。外で焼き肉とかする時に使うあれじゃん。どう考えても人が食べる物じゃないから!

 このあとどうすんの? まさか、これ食うの? いやいやいや、明らかにこれ発癌物質の塊だろ。

 無理無理! 絶対無理~!

 そんな俺の心境も露知らず、何か疲れた様子の雪ノ下は、残酷にも告げた。

 

 

 「さぁ比企谷くん。食べなさい」

 「殺す気かっ!!」

 「ふえっ! ひどいよっヒッキー!」

 

 

 いやいやいや、そんな捨てられた子犬みたいな目で見られても、これは無理だから!

 くそっ、こうなることが分かってたら自分そっくりの式を造っとくんだった。あーでも、あれって五感共有してるから無理か。

 

 

 「た、確かに見た目はあれだけど…食べてみなきゃわかんないことだってあるよ!…たぶん。……あれ、これホントに食べれるのかなぁ?」

 

 

 なんだか、後半あたりでは、由比ヶ浜自身、自信を失っていた。

 まぁ、なんだ。こんな状態の由比ヶ浜には残酷かもしれないけど、結論を言おうと思う。

 由比ヶ浜には、料理の才能はこれっぽっちもなかった。

 

 

 「おい、これマジで食うのかよ? なんなら火行符で焼いて、そこの窓から捨てるべきですらあるぞ」

 「ちょっ! ヒッキー!」

 「心配しないで。一応、食べられない原材料は使ってないから問題ないわ。たぶん」

 「……お前にしてはえらく曖昧な物言いじゃねーか。あと、そう思うならこっち向けよ、お前。目と目を合わせて、今の台詞もう一回言ってみろよ」

 「……黙秘権を行使させてもらうわ」

 「マジか、お前…」

 

 

 嘘だろ…。あの、もう一度言うが“あの”雪ノ下に「黙秘権」なんて言葉使わせるとか、どんだけなんだよ由比ヶ浜のクッキー。俺は戦々恐々の思いで、例の物体をしげしげと眺めた。

 

 

 「大丈夫よ、比企谷くん。私も食べるから」

 「……いいのかよ」

 「えぇ。私はあなたに試食をお願いしただけで処理をお願いしたわけではないもの。それに、彼女のお願いを受けたのは私よ? 責任くらいとるわ」

 

 

 そう言って、雪ノ下は皿を自分の側に引き寄せた。

 

 

 「それに、何が問題なのかを把握しなければ、正しい対処は出来ないのだし、知るためには危険を冒すことも仕方のない事よ」

 

 

 虎穴はいらずんば、虎児を得ずの精神か。さすが、雪ノ下さん。その律儀な思いに感服した。

 雪ノ下は、それこそ、バカな上官の命令で特攻させられる二等兵のような顔もちで、ごくりと喉を鳴らした。それは、明らかにおいしいものを前にした時の反応とは思えない。

 鉄鉱石と言われても不思議ではない黒々とした物体を摘み上げ、俺を見た。心なしか、目が少し潤んでいた。

 

 

 「……死なないかしら?」

 「俺が聞きてぇよ……」

 

 

 視線が由比ヶ浜へと向く。由比ヶ浜は、例のぶかぶかのニット帽が落ちてこないように押さえながら、仲間になりたそうな目でこっちを見ていた。……ちょうどいい。こいつも食えばいいんだ。人の痛みを知れ。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 由比ヶ浜の創った(誤字ではない)クッキーはギリギリ食べることが出来た。

 けれど、その成果は芳(かんば)しくなく、何も得ることはなかった。ただの食い損だった。

 

 

 「理解できないわ……。どうしてあれだけのミスを重ねられるのかしら……」

 

 

 さしもの雪ノ下も、打つ手なしのようである。小声である辺り、一応、由比ヶ浜への配慮はあるみたいだが、それでも、我慢しきれず、漏れたという感じだった。

 疲れたのか、頭を押さえながら、雪ノ下はキッチンの方へと行った。

 俺は由比ヶ浜が作ったクッキー(仮)を一つとり、パクリと食べた。由比ヶ浜がびっくりしたように俺を見た。

 

 

 「マズッ!」

 「まさかの追い打ちっ!?」

 

 

 食べた感想はその一言で十分だった。正直、食べ物を名乗るのもおこがましい出来だ。

 俺は外で買ってきた『スポルトップ』を一気に煽り、飲み込めない物体Xの残骸を、無理やり異に流し込んだ。これ、明日腹壊したりしないよな?

 

 

 「……こりゃ、解決策は一つしかないな」

 「え! ヒッキーなにかあるのっ!」

 

 

 由比ヶ浜がキラキラした顔で俺を見る。だから、そんな勢いよく顔振れば、ほら。あぁ、またニット帽が目元まで落ちたよ。ってか、料理中くらいそのニット帽取れよ。もっと言えば、人んちに上がってんだから。

 よいしょっと、ニット帽を元の位置に戻し、由比ヶ浜は俺を見る。けれど、悪いが俺は由比ヶ浜のそのキラキラした顔の期待には、応えられそうになかった。

 

 

 「いいか、由比ヶ浜…」

 「う、うん」

 「お前の依頼を解決する方法。それはな……」

 「そ、それは…」

 

 

 俺が真剣な顔で見つめれば、由比ヶ浜が顔を赤くしてたじたじとする。

 そして、俺ハ告ゲル。真ノ世界ヲ。

 

 

 「由比ヶ浜。お前が料理をしないこと、だ」

 「それじゃ意味ないじゃんっ!!」

 

 

 いや、だってもうこれしかないじゃん。そこに、何か飲み物を持って雪ノ下が戻ってきた。

 

 

 「駄目よ。比企谷君、それは最後の手段だから」

 「それで本当に解決しちゃうんだ!?」

 

 

 うぅっと、唸りながら由比ヶ浜はニット帽を深くかぶる。

 その様子は、どこか消沈しているように見える。ま、ここまでズタボロに言われたんだから、そりゃそうなる気持ちも分からなくはないけどな。

 俺からも雪ノ下からも酷評された由比ヶ浜は。がっくりと肩を落として、深いため息をついた。

 

 

 「はぁ、やっぱりあたしって才能ないのかな……」

 

 

 ため息交じりに出た由比ヶ浜の言葉は、しかし、この氷の女王の琴線に触れてしまったようだ。

 

 

 「……解決方法がわかったわ」

 「どうすんだよ?」

 

 

 尋ねてみると、雪ノ下は平然と答えた。

 

 

 「努力あるのみよ」

 「……そいつはまた、陰陽師を目指してる奴の台詞とは思えない解決方法だな」

 

 

 雪ノ下のその答えに、俺は「ははっ」と、苦笑した。

 努力。それは、俺達の目指す業界では、あまり意味のない言葉だ。

 陰陽師の力は、才能によるものが大きい。それは、呪術界全般の認識だ。無論、だからと言って努力をしない人間はいない。けれど、俺は思う。努力する、というのは、最低の解決方法だと。

 しかし、雪ノ下は俺の言葉に首を横に振った。

 

 

 「そんなことはないわ。努力は立派な解決方法よ。正しいやり方をすればね」

 

 

 そして雪ノ下は、ニット帽で顔を隠す由比ヶ浜を見た。その瞳は、ただひたすら真っ直ぐで、見つめられた人間を決して逃がさないという力強さもあった。

 

 

 「由比ヶ浜さん。あなたは才能がないって言ったわね?」

 「え、あ、うん」

 「その認識を改めなさい。最低限の努力をしない人間には、才能がある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は、成功者が積み上げてきた努力を想像できないから成功しないのよ」

 

 

 凛と言うその姿に、俺は不覚にも見惚れてしまった。雪ノ下の言葉は辛辣だった。そして、反論を許さないほど、どこまでも正しい。正しいからこそ、俺にはその言葉がひどく眩しかった。

 

 けれどそれは、どこまで行ってもやはり「才能のあるやつの」台詞でしかなかった。

 

 

 「で、でもさ、こういうのみんな最近はやらないっていうし。……やっぱり、こういうの合わないんだよ」

 

 

 由比ヶ浜自身。ここまで直接的に正論をぶつけられたことはないのだろう。顔には戸惑いと恐怖が生まれ、彼女はそれを隠すように、ニット帽をまた深くかぶった。

 けれど、もう何度目になるか分からないその行為が、雪ノ下の中にある「なにか」に触れた。

 

 

 「……由比ヶ浜さん。いい加減、その帽子を脱ぎなさい。ひどく不愉快だわ。あなた、自分が触れてほしくない事を言われると、いつもその帽子で顔を隠すわよね? そんな現実逃避の行動では、何の解決にもならないわ。ちゃんと現実を直視しなさい」

 「え…でも、私…。みんな、何も言わないから…」

 「だから、その周囲に合わせるのをやめてと言ってるのよ。自分の不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて恥ずかしくないの? それじゃあ悩みは解決しないし、だれも救われないわ」

 

 

 雪ノ下の語調は強かった。

 救われない。それはどういう意味なのだろう。少なくとも、この状況に合う言葉ではない。だいたい「救う」なんて言葉、陰陽塾の塾生とはいえ、一介の女子高生が口にする言葉じゃないだろう。いったい、何が彼女をそこまで駆り立てるのか、俺にはとてもじゃないが分からなかった。

 

 

 「……」

 

 

 由比ヶ浜は気圧されて黙り込む。俯く彼女から表情は読み取れないが、ただニット帽からは決して手を離さない、彼女のその姿に、俺はいい加減疑問に思った。

 思えば、最初からそうだった。由比ヶ浜結衣。彼女は、今日初めて部室に来た時から、決して帽子を脱ごうとはしなかった。料理をするから脱げ。人の家に上がるから脱げ。決して口にはしなかったが、それは常識の範囲内だ。いくら彼女がアホの子とはいえ、それくらいの節度はあるはずだ。

 だが、それでも彼女は帽子を脱がなかった。まるで、何かを守るかのように。

 

 

 「「……」」

 

 

 雪ノ下も、由比ヶ浜も、それから少しの間、何も話さなかった。

 雪ノ下は由比ヶ浜が帽子を脱ぐまで、由比ヶ浜は雪ノ下が許してくれるまで、お互いに、譲る気はないようだ。そして、二人の眼中にすら入れないオレェ…。気まずい沈黙が雪ノ下の部屋に流れる。

 

 だが、やがて、由比ヶ浜はキュッとニット帽を掴む手に力を入れた。そして、何かを決意したかのように、雪ノ下を見る。由比ヶ浜の瞳は潤んでいた。けれど、それと同時に何か強い決意を感じた。

 

 

 「……そうだよね。こんなの、二人に失礼だもんね。分かってる、ホントは分かってた…」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜は俺と雪ノ下を交互に見る。「分かってた」という彼女のその言葉が、何を意味するのか、俺には理解できなかった。けれど、由比ヶ浜がその帽子に、並々ならぬ何かを秘めているのだけは分かった。

 そして、由比ヶ浜は「はぁ~」と、一度大きな深呼吸でワンクッション挟んで、

 

 

 「……大丈夫。きっと、ヒッキーと雪ノ下さんなら。こんな私でも―――」

 

 

 ばさりと、勢いよくニット帽を脱ぎすてた。

 

 

 「お?」

 「…あら」

 

 

 隠れていた茶色い髪がふわりとたなびいた。思わず声が出る。それは雪ノ下も同じらしく、珍しく驚きの表情を浮かべていた。

 帽子に隠れていた由比ヶ浜の素顔。髪を出しただけで、こんなにもイメージが変わるとは思わなかった。脱いだら凄いとか、ネタ古すぎだろ…。けど…、まぁ…、悪くはないな。

 

 

 「ごめん。次はちゃんとやる」

 

 

 由比ヶ浜は、逃げなかった。肩が小刻みに揺れている。声も今にも消えそうなか細いものだった。だが、それでも由比ヶ浜は逃げなかった。その姿に、俺は一種の感動を覚えてすらいた。

 

 

 「ありがとう、雪ノ下さん。私、決めた。もう逃げないって」

 

 

 ぱさり落ちたニット帽には目もくれず、由比ヶ浜は雪ノ下をまっすぐ見つめ返す。

 その姿は、さっきまでの自信なさげな由比ヶ浜ではない。気のせいか、隠れていた髪が露わになったおかげなのか、さっきまでの由比ヶ浜以上に輝いて見えた。

 俺は雪ノ下に目配りする。雪ノ下もどうやら、すると雪ノ下も俺に視線を向けたらしく、すっと目があった。だが、それが気に入らなかったのか、雪ノ下はまるで素直じゃない猫みたいに、すぐにぷいっと目を逸らした。

 苦笑しつつ、俺は雪ノ下に言う。

 

 

 「……正しいやり方ってやつを教えてやれよ。由比ヶ浜もちゃんということ聞け」

 「……あなたに言われるまでもないわ」

 

 

 おっと、それは大変失礼しました。

 はじめこそ戸惑っていたものの、雪ノ下も由比ヶ浜の変化には好意的に見えた。俺の言葉に、ふっと、短いため息をついて、雪ノ下は頷いた。

 

 

 「それでは由比ヶ浜さん。一度お手本を見せるから、その通りにやってみて」

 

 

 そう言って立ち上がると、雪ノ下は手早く準備を始めた。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 

 「なんか違うよ……」

 「どう教えれば、ちゃんと伝わるのかしらね……」

 

 

 完成したクッキーを見て、由比ヶ浜がしょんぼりと肩を落とす。それに呼応するかのように、雪ノ下もうんうん唸りながら首を捻った。

 二人の作ったクッキーはそれこそ、雲泥の差ほどあった。食べ比べてみたら一目瞭然。明らかに、雪ノ下の作ったクッキーがうまかった。

 けど、それでも由比ヶ浜に成長がないわけではなかった。今では、由比ヶ浜が作るクッキーも十分にクッキーと呼んでいいレベルのものが出来ていた。さっきの木炭紛いのものに比べれば、随分とマシになった。普通に食べる分には別に問題はない。

 けれど、由比ヶ浜も雪ノ下も、納得はいかないようだった。

 俺は二人の様子を見つつ。クッキーをもう一つ齧(かじ)った。

 

 

 「あのさぁ、さっきから思ってたんだけど、何でお前ら美味いクッキー作ろうとしてんの?」

 「はあ?」

 

 

 由比ヶ浜は「こいつ何言ってんの? 童貞?」みたいな顔でこっちを見た。あまりにもバカにしくさった顔だったから、イラッとして、思わず呪符ケースに手を伸ばしかけた。

 まぁ、その前に、「私の家でなにかしたら、あなたをパチンとするわ」的な視線で由比ヶ浜の後ろにいる雪ノ下から見られたから、なんとか抑えれた。パチンってなんだよパチンって。

 顔が引くつくのを何とか抑え、俺は下手に出て言葉を出す。

 

 

 「明日。俺がお前らに、本当の手作りクッキーってやつを食わせてやる。だから、今日はもう解散にしよう。そろそろ日も暮れるしな」

 

 

 俺がそう言うと、二人は怪訝そうな顔をするも、コクリと頷いた。

 二人が調理の後片付けをするのを確認すると、俺は由比ヶ浜のクッキーを失敬する。形は悪いし、不揃い。それに加え、一口かじったら中は生焼けだった。だけど、

 

 

 「……このクッキーを貰うであろうリア充やろう。……砕け散れ」

 

 

 俺は彼女の思いがこもったそれを、細心の注意を払って袋に詰めた。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 ―― 2012年4月某日、東京・陰陽塾奉仕部部室 ――

 

 

 「さぁヒッキー! 本物の手作りクッキー見せてもらうからね!」

 

 

 翌日の放課後、いつもなら静かなはずの奉仕部の部室にソプラノボイスの声が響いた。

 

 普段なら静かな部室で、由比ヶ浜がきゃんきゃんと吠える。

 明らかに怒気を含んだ声。だが、どうも由比ヶ浜の怒っている姿には如何せん迫力がない。なんかどこか犬っぽいし、甘噛みされた気分だ。

 対して雪ノ下は、こちらもこちらで素直じゃない猫みたいにそっぽを向いている。

 けれど、雪ノ下の目線はしっかりと俺の持つ袋に向いている辺り、彼女もまた俺の作ったクッキーを気にしているようだった。

 

 

 「まぁ待てって、由比ヶ浜。とりあえず雪ノ下、紅茶でも入れてくれよ。なにか飲み物がないと味気ないだろ?」

 「いやよ。あなたに命令されるなんて屈辱でしかないわ」

 「……雪ノ下さん。紅茶を入れてくれませんか。お願いします」

 「はじめからそう言いなさい」

 

 

 なんとまぁめんどくさい女だ。

 けれど、言った事は忠実にこなす雪ノ下は、彼女が持参したティーカップに紅茶を入れる。その間に、俺は持参したクッキーを机に広げた。

 奉仕部部室内に、剣呑な雰囲気が流れた。

 

 

 「……これが、本物の手作りクッキー?」

 

 

 由比ヶ浜が小首を傾げながら、俺の顔を見る。

 その視線に応えるように、俺はこくりと頷いた。そこに雪ノ下も紅茶を持って戻ってきた。

 

 

 「……あなた、これって―――」

 

 

 どうやら一目見ただけで、雪ノ下は感づいたようだ。彼女の訝るような視線が俺へと向けられる。

 その視線に俺は黙って首を振った。それだけで、彼女は何かを悟ってくれたようで、何も言わず、紅茶の配膳に取り掛かった。

 そして俺は、クッキーを由比ヶ浜に勧めた。

 

 

 「とりあえずひとつ食べてみろよ。なんだかんだ言っても、一番は味だからな。うん、なんか、某料理漫画のタイトルみたいだな」

 「う、うん。そこまで言うなら……」

 

 

 あ、無視っすか。

 彼女が疑わしげなのは、その表情から読み取れた。

 由比ヶ浜は、俺が差し出したクッキーを一つとり、くんくんとまずは匂いを嗅いだ。いや、ちゃんと手洗ったから心配すんなって。そして、ぽりっとクッキーをかじる。

 それはクッキーを食べてない俺達にも分かるほど、ひどく湿気った音だった。

 

 

 「っ! こ、これはっ!」

 

 

 由比ヶ浜の目がくわっと見開かれた。味覚が脳に達し、それにふさわしい言葉を探し出そうとする。

 

 

 「って、これ特別何かあるわけじゃないし、中身生焼けで、正直、湿気っててあんまりおいしくない!」

 

 

 驚きから一転、怒りへと感情が揺れ動く。そのふり幅が大きかったせいか、由比ヶ浜はキッと俺を睨んだ。雪ノ下も呆れたように俺を見る。「なんでこんなことをしたの? もしかしてあなた、バカ?」と、目が語っていた。その二人分の視線を受け止めてから、俺はさっと目を伏せた。

 

 

 「そっか、おいしくないか。……頑張ったんだけどな」

 

 

 俺が俯くと、由比ヶ浜も気まずそうに視線を床に落とす。

 

 

 「わり。今から火行符で焼いてくるわ」

 

 

 そう言って、クッキーを詰めた袋をひったくってくるりと背を向けた。

 

 

 「ま、まってヒッキー!」

 「……なんだよ」

 

 

 由比ヶ浜は俺の手を取って止めていた。そのまま俺の言葉に返事する代わりに、その不揃いで生焼けののクッキーを口に入れ、シャリシャリと噛み砕いた。

 口の中のものを飲み込んだ彼女は、ニット帽を深くかぶりなおすと、にっと満面の笑みを見せた。

 不覚にも俺は、その笑みに見惚れてしまった。

 

 

 「……ヒッキー。確かに、湿気てて、生焼けで、形もばらばらだけど、このクッキー……すごく、おいしいよ」

 

 

 なんてことはないように、由比ヶ浜はそう言った。屈託のない、まるで子供みたいな笑顔だった。

 彼女のその言葉に、俺は今までやったことが、全部無駄になった気分だ。

 そうだ。別に、俺がこんな事をしなくても、いつか彼女はそのことに気付いたと思う。そして、その方が、きっと彼女も、彼女の思い人も喜んだはずだ。

 無言でぷいっと顔を反らす由比ヶ浜。その頬は夕日のせいか、赤くなっているようにも見えた。

 

 

 「そっか、だったらよかった。そいつは昨日、お前が作ったクッキーだからな」

 

 

 だから、俺は、しれっとその真実を告げた。俺が作ったなんて一言も言ってないから、ウソにはならないはずだ。由比ヶ浜がぽかんと口を開けて間抜けな声を上げた。

 そう言うなれば、これは一種の『乙種呪術』なのだ。

 

 

 「え? え?」

 

 

 目をパチクリさせながら、俺と雪ノ下を交互に見詰める。何が起こったのか、さっぱり把握できてないようだった。

 雪ノ下がいかにも不機嫌ですよオーラを出しながら、俺を見る。

 

 

 「比企谷くん、よくわからないのだけど。今の茶番に何の意味があったのかしら?」

 

 

 そんな不機嫌そうな態度を隠そうともせず、そう言う雪ノ下。混乱から回復した由比ヶ浜も一緒になってじっと俺を見つめる。

 二人とも、その視線で俺の行動の意味が分からないと訴える。

 どうやら、この二人の美少女には……いや、だからこそ男心というものが、理解出来ないらしい。そもそも二人とも、陰陽塾生と言う立場上、そういうものに疎いのかもしれないな。

 

 

 『おまたっせーい。ご飯出来たよー、おにいちゃーん』

 『おう、いつもすまないね』

 『もーおにーちゃん。それは言わない約束でしょー』

 

 

 古い記憶が、俺の脳裏によみがえる。

 相手が思いを込めて作ったものは、たとえそれがどんなものでも嬉しいものなのだ。

 それが、誰もが羨む美少女ならなおのことだ。少なくとも、由比ヶ浜も雪ノ下も、俺がこれまで知り合ったどんな女子よりもお顔がよろしいのは間違いない。まぁ、内面はあれなのが偶にキズだが、それでも、やはり彼女たちの青春ラブコメはまちがっていないのだろう。

 俺は気をなおして、雪ノ下の言葉に応えた。

 

 

 「あのな、お前らはハードルを上げ過ぎてんだよ」

 

 

 だからいつまで経っても越えられない。そんなに頑張らなくても、男のハードルなんて風が吹けば倒れるくらい脆いものなんだから。

 

 

 「いいか、お前ら。男ってのはホント残念なくらい単純なんだよ。話しかけられただけで喜ぶし、手作りクッキーなんて渡された日には、翌日には木に登っちまうまである。ようは発情期の猿と同じなんだよ」

 「うわ、ヒッキーすこぶるさいてーだ」

 

 

 なんとでも言え。男は猿。それは何物にも代えがたい心理だからな。

 

 

 「だからさ、そんな気張らなくてもいいんだよ。下手でも、特別何かあるわけじゃないと、ときどきじゃりってする生焼けのクッキーでも、男心なんてものは簡単に揺れるんだよ」

 

 

 「だから」と、言葉をつづけ、俺は由比ヶ浜を見つめた。

 

 

 「お前は、ただ一生懸命やればよかったんだよ。それだけで『愛があれば、ラブ・イズ・オーケー』だったわけだ」

 「~~~~っ! うっさい!」

 

 

 由比ヶ浜が怒りにまかせて呪符を取り出した。ちょっ、おまっ、それはヤバいって!

 呪符を人に向けてはいけません! これ、ぼっちとの約束な。

 だが、直前のところで由比ヶ浜は呪符を握る手の力を緩めた。あ、あっぶね~…。こいつ、もしかして事あるごとに言霊使う雪ノ下と同種なのかもしれない。

 キッとこっちを睨んで、由比ヶ浜は立ち上がった。

 

 

 「ヒッキー、マジ腹立つ! もう帰るっ!」

 

 

 ふんっと顔を背けて、ドアに向かってたったか歩き出す。その肩はわなわなとふるえていた。

 

 

 「ん? どーした?」

 

 

 けれど、由比ヶ浜はドアの直前で振り返る。彼女の表情は、ドアの向こうから差し込む夕日による逆光で、読み取れなかった。

 

 

 「ね、ねぇヒッキー。さっきの話なんだけど、さ。その…ヒッキーも、女の子からクッキー貰ったらさ、その…心、揺れるの?」

 「あ? あーもうちょう揺れるね。むしろ、優しくされただけで好きになるレベル。あと、昨日からずっと思ってたけど、ヒッキーってよぶな」

 「ふ、ふぅん」

 

 

 適当な返事をすると、由比ヶ浜は気のない返事をしてまたすぐ顔を反らした。

 

 

 「あ、それと雪ノ下さん。今日も雪ノ下さんの家に行っていい? もう一度だけ、クッキーを作らせてほしいの」

 

 

 雪ノ下が、俺の顔を見る。俺は黙って頷いた。

 

 

 「えぇ、構わないわ」

 「ありがとー! ゆきのん!」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜が雪ノ下に抱き着いた。ゆきのん? それはもしかして雪ノ下のことか?

 雪ノ下は困り顔で由比ヶ浜を見た。

 

 

 「ゆ、由比ヶ浜さん。その、ゆきのん、というのはもしかして、私のことなのかしら?」

 「うん! 可愛いと思わない?」

 

 

 雪ノ下が困惑している。あの雪ノ下雪乃が、だ。俺は、こらえきれず「ぷっ」と声を出してしまった。

 俺の声に反応して、雪ノ下がこっちを向く。俺は気づかないふりをしてそっぽを向いた。

 

 

 「……比企谷くん。覚えておきなさい」

 

 

 おぉ、怒ってらっしゃる。けど、雪ノ下の表情を見る限りでは、あまり嫌そうには見えなかった。

 ほう、あの雪ノ下をデレさせるとは。由比ヶ浜、お前なかなかにすごいやつだな。

 抱き着く由比ヶ浜を離そうともがく雪ノ下、けれど、その力加減を見る限り、本気で話そうとは思っていないらしい。それに、本気で彼女を離そうと思ったら言霊を使えばいい話だしな。

 

 

 「暑苦しいのだけど、由比ヶ浜さん。離れてくれないかしら」

 「えへへ…。それじゃ、ゆきのん。レッツゴーだよ!」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜は雪ノ下の腕を引っ張って連れて行く。どーでもいいが、今日は俺はハブなのね。ま、慣れてるからいいんですけど。

 扉を出る寸前、雪ノ下は困惑を浮かべた表情で俺を見る。俺は、彼女に見えるように、部屋の鍵を掲げ、「鍵は閉めておく」とアピールした。

 うん。確かに、彼女たちの青春ラブコメはまちがっていなのかもしれない。

 

 けれど、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四話 生成りと生焼けのクッキー 後編


 やっと書けました。長かった~。
 深夜の変なテンションで書いてるので文章的な間違いには目を瞑ってください

 それではどうぞ(^_^)/~





 

 

 ――2012年4月某日、東京陰陽塾――

 

 

 その日、俺は奉仕部には赴かず、陰陽塾敷地内にある陰陽塾の訓練場へと来ていた。

 見た目は田舎の公民館。あるいは体育館のような訓練場の中では、多数の陰陽塾生が陰陽術の訓練に励んでいる。かく云う、俺もそのうちの一人だ。

 陰陽師(この)世界では、生まれながらの才能がものを言うことは、先に話した通りだ。それでも、努力を怠ったものが成功するなんてことはありえない。

 それは、俺とて同じだ。だから、昼休みやときには奉仕部を休んでまで、こうして訓練に身を窶(やつ)しているわけだ。

 

 

 「―――オン・マリシエイ・ソワカ―――」

 

 

 指を組み、霊気を練る。

 日々、教室で行っている穏形術も、ここではただ穏形するだけではダメだ。最初の呪文を詠唱した後は指を解き、呪符ケースから呪符を引き抜く。穏形を一息に完成させつつ、一方では霊気を練り上げ呪力に返還する。そして、訓練所内にある呪術用の的に向け、俺は呪符を放った。

 

 

 「喼急如律令(オーダー)!」

 

 

 刹那、放った呪符は火の玉となり的に命中する。火行符の札だ。

 威力は勿論押さえてある。下手に呪符を放って、人にでも命中したら大惨事だからだ。まぁ、その場合は穏形したまま逃げるけど。

 的に命中したことを確認し、俺は息を吐き、穏形を解いた。

 

 

 「……どうにかうまくいったな」

 

 

 この一連の流れの成功率は、今のところ70%と言ったところだ。

 未だに10回やって3回は失敗してしまうことに、俺は焦りを募らせる。まだだ。まだ、足りない。俺の目的を達するためには、こんな所で躓いているようでは全然だめなのだ。

 気合を入れる意味も込め、俺は「ほぅ」と息を吐く。

 次いで、俺はもう一度、一から今の動作をやりなおすため、意識を集中させた。

 そして、穏形スタート。

 

 

 「―――オン・マリシエイ・ソワカ―――」

 

 

 さっきと同じように、摩利支天(まりしてん)の真言(マントラ)を唱える。

 意識を殺し、心を閉ざし、無意識にその呪文を唱え続ける。

 そして、ある程度の間を持たせたら、指を解き、呪符ケースに手を伸ばす。一番上の呪符を抜き、霊気を呪力に返還し込めた。そして、いざ放とうかというそのときだった。

 

 

 「あー! こんなとこにいた!」

 

 

 俺の一連の流れは、その騒がしい声によって邪魔されてしまった。

 心が乱れ、穏形が不安定になるも、俺は慌てることなく数回呪文を唱え、持ち直した。

 投げそこなった呪符が、行き場もなく俺の手の中でひらひらと舞っている。いかんいかん、昨日までで聞きなれてしまった声だったので、つい反応してしまった。

 なに勘違いをしているんだ。彼女が今、俺なんかに話しかけるわけがない。そもそも、俺は今、穏形をしているんだ。彼女に俺の姿が見えるはずないのだ。

 気を取り直し、俺は呪符を構え、的を狙う。霊気を呪力に変え、呪符に注ぎ込む。

 そして―――。

 

 

 「喼急如(オー)…」

 「むー! なんで無視すんのー!」

 「おわっ……!」

 

 

 ……俺の呪術は、またしても彼女の手によって遮られた。

 あーもう、なんなの。何回やっても、何回やっても、呪符が放てなーい。って歌いそうになったじゃねーか。うん、無限ループって怖いよね。

 呪符を放とうとしたその瞬間、呪符を持つ腕とは反対の腕の袖がギュッと握られた。

 またしても行き場を失った火行符が、俺の手の中で、ひらひらと無邪気そうに舞う。それを呪符ケースへと戻し、俺は一つ息を吐いて振り返った。

 

 予想通り、そこには最近顔見知りになった彼女がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第四話 生成りと生焼けのクッキー / 後編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はぁ……なんだよ、由比ヶ浜。俺になんか用か?」

 

 

 むーっとふくれっ面な由比ヶ浜結衣は、いつものごとく、ぶかぶかのニット帽をかぶり、短めのスカートにボタンを二つ三つ開けて、涼しげにした胸元の、女子用の白い塾制服姿だ。

 服の袖を引くほど近い位置にいたため、上目づかいで俺を睨みつける彼女。あの、由比ヶ浜さん。そんな位置で俺を見上げられると、ちょっと困るんですが。おもに、そのたわわに実ったおっぱ……げふんげふん、が。

 なに、この子。警戒心なさすぎでしょ。だからビッチって言われるんだよ。

 俺は呆れたように息を吐いた。

 

 

 「むぅ……。なんか、ヒッキーちょっとめんどくさそう……。そ、そんなに私に話しかけられるの……いや?」

 「まぁ、どっちかって言うとそうだな」

 「即答された!?」

 

 

 由比ヶ浜がショックを受けたように肩を震わす。「ガガントス」っと、擬音が聞こえそうだ。どーでもいいが、あのノットな魂狩の金髪お姫様、めっちゃ早くデレたよな。まぁ、可愛いからいいんだけどさ。

 そんなことを考えていると、由比ヶ浜の後ろでぴょこっと何かがはねた。黒髪のツインテール。見た目だけはまるでビスクドールの様に綺麗な少女。雪ノ下雪乃だ。

 雪ノ下は、胸の前で腕を組み、不機嫌さを隠そうともせず、こっちを見ていた。

 

 

 「……あなた、部室にも来ないで何をしているの?」

 

 

 それはまるで、絶対零度のような声だった。うわっ、なんかすっげー不機嫌そう。いかにも怒ってますよ的なオーラを出しながら、雪ノ下は俺を睨む。

 で、こっちのお嬢様のデレはいつ見れるのでしょうかね、ホント。主に中の人的に。

 俺はいら立ちを隠すようにボリボリと頭を掻いた。

 

 

 「あーくそっ、しょーがないだろ。俺はお前と違って、生まれながらの才能がないんだよ。だから、こうして日々の努力を怠れないんだよ」

 「……気のせいかしら。今、この男の口から出たとは信じられないような言葉を聞いた気がするわ」

 

 

 随分と、酷い言われようだと、俺は顔を歪めた。だがそのとおりなので否定できない。

 ついこのあいだも言ったが、俺達の業界では「努力」とは最低限度のことだ。だが、俺はその「努力する」ということを最低の解決法と自認している。効率も、成功率の計算も、何もかもを度外視した、その言葉は言うなれば無策と一緒だ。そんな無駄なことをするくらいなら、いっそのことやめて、別のことに専念した方が明らかに懸命だ。

 だがそれでも、最底辺の才能しかない俺は、その最低の解決法たる「努力」に頼るしかないのだ。

 

 

 「いやでも、そう言うお前らはどうなんだよ。ちゃんと、呪術の訓練してんのか?」

 

 

 もう一度言うが、呪術界(この)業界では「努力」は最低限度のことだ。

 いくら部活とは言え、それを怠ってはいけない。

 俺の言葉に、一人は気まずげに視線を逸らし、一人はない胸を張って「当然よ」と頷いた。うん、だいたいわかったわ。やっぱり由比ヶ浜はアホの子だった。

 俺のジトッとした視線に気づいたのか、由比ヶ浜がう~っと、うなって涙目で俺を見た。

 

 

 「むぅ、なんかヒッキー、私のことバカにしてない?」

 「なんだ、今更気づいたのか」

 「ほらやっぱりバカにしてたあぁあああああああ!」

 

 

 うわぁーんっと、由比ヶ浜がぽかぽかと俺の胸を叩く。別に痛くもなんともないその攻撃に、俺は疲れたように息を吐いた。で、結局お前ら何しに来たんだよ。

 俺は無言で雪ノ下に説明を求める。ここ最近、雪ノ下には甲種言霊で声を封じられる機会が多だあったから、彼女とは、無音で意思疎通が行えるようになってしまっているのだ。

 閑話休題。

 

 

 「あなたがいつまでたっても部室に来ないから捜しに来たのよ、由比ヶ浜さんは」

 「その、倒置法を使っての私は違うからアピールいらねぇから、知ってるから」

 

 

 ため息交じりの雪ノ下の言葉に、俺は噛みつく。

 すると、彼女の言葉を受けて、さっきまでぽかぽかと俺の胸を叩いていた由比ヶ浜が、不満げにむんと仁王立ちになった。

 

 

 「わざわざ聞いて歩き回ったんだからね! そしたらみんな『え? 比企谷? だれ?』って言うし。超大変だったんだから!」

 「いや、その追加情報いらねぇから……」

 「あら、日頃の教室での穏形術の訓練の成果が出ててよかったじゃない、比企谷くん?」

 「……ここぞとばかりに傷を抉ってきますね、雪ノ下さん」

 

 

 俺は思わず頭を抱えてしまった。いや、ホント、なんであなたたち俺の心の傷抉るの得意なの? ドラゴンスレイヤーならぬボッチスレイヤーかよ。最終的にボッチフォースとかしちゃうの? なにそれすっげー弱そう。

 俺は再び諦めたようにため息を吐いた。そのとき、ふと思い出した。

 

 

 「そういえば穏形で思い出したんだが、お前ら、よく俺の穏形に気付いたな」

 「あら、まさかあなた程度の穏形を、私が見抜けないとでも? 言っておくけど、私、霊視は得意分野なのよ?」

 「それを言ったら俺だって穏形は学年一位だぞ。それなりに自信はあったんだけどな……」

 「え、ウソっ!? ヒッキーそんなに実技得意だったの!? 裏切られた! ヒッキーは落ちこぼれ仲間だと思ってたのに!」

 

 

 なんかすっげー由比ヶ浜に驚かれた。そんなに意外なのかよ。

 俺は一つ息を吐いた。

 

 

 「失礼な……。俺は、これでも総合成績はいつも上位十位以内に入ってんだぞ? ってかお前、張り出される成績表見ないのかよ……」

 「何を言っているの、比企谷くん。あなたの成績なんて誰も気にするわけないでしょ?」

 「そんな、慈しむような顔で、残酷な真実を言わないでくれ、雪ノ下……」

 

 

 そして、不動の学年一位さんはニッコリ微笑んだ。由比ヶ浜は未だにショックから抜けれないようで「うっそ……、全然知らなかった……」と、ぶつぶつ言っている。

 ん? そういえば、さっき由比ヶ浜の言葉の中に気になるワードがあったよな。

 俺は俯く由比ヶ浜に問いかけた。

 

 

 「ってか、由比ヶ浜。お前、落ちこぼれってどーいうことだよ?」

 「うぐっ! ひ、ヒッキー……し、しょうじきそこにはあまり触れてほしくないというか……なんというか……」

 「あ?」

 

 

 由比ヶ浜は、気まずげに視線を逸らしてもにょもにょと口の中だけでしゃべる。

 雪ノ下も懐疑そうな顔で彼女の顔を覗く。どーでもいいが、顔にかかった髪を耳にかけるその動作、無駄に色っぽいな。

 俺と雪ノ下の追及の視線に、やがて由比ヶ浜は諦めたように顔を伏せる。

 そして、いつものようにニット帽を深くかぶると、由比ヶ浜はぽつりぽつりと話し始めた。

 

 

 「だ、だって……真言(マントラ)って、すっごいいっぱいあるし……。不動明王とか、九字切りとか……ぜんぜん覚えらんないんだもん……」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜は「えへへ」と笑った。

 嘘だろ、まさかここまでとは……。俺は呆れて声も出なかった。それは雪ノ下も同じらしく、額に手を当て、この惨劇に悲観そうな表情を浮かべていた。

 結論を言おう。由比ヶ浜結衣は、アホの子ではなく、バカな子だった。

 こいつ、よく進級出来たな……。ってか、お前、それって呑気にクッキーなんて作ってる場合じゃないだろ。勉強しろ、勉強を。

 俺と雪ノ下の痛い子を見る様な視線を受け、由比ヶ浜は「うぐっ」と言葉を詰まらせた。

 

 

 「で、でもさ! 一年で習った内容は基礎中の基礎だからさ! まだこれから挽回できるはずだよ! うん、私まだ本気出してないだけだからね!」

 「出た! 勉強しないヤツのテンプレな言い訳!」

 

 

 あまりにも、あまりにも予想通りの回答にむしろ驚いて声を出してしまった。俺のその大声に、由比ヶ浜はビクンッと肩を震わせ、涙目で俯いた。

 

 

 「うぅーっ……ヒッキー……」

 「いや、そんな涙目で睨まれても……。第一、由比ヶ浜。事実、そこにいる雪ノ下は万年学年一位だし、俺もそれに比べたらちょいと点数は足りないかもしれないけど、いいか悪いかで言ったらいい方だからな。だから、その……な……」

 

 

 俺は言いにくいことを誤魔化すように由比ヶ浜から目を逸らす。

 俺の態度から悟ったのか、由比ヶ浜はショックを受けたようにしょぼんとした。

 

 

 「そんなぁー、あたしだけバカキャラだなんて……」

 「そんなことないわ、由比ヶ浜さん」

 

 

 冷静な声ながらも、雪ノ下の表情には温かみがあり、その瞳には確信の色があった。それを聞き、由比ヶ浜はぱぁっと顔を明るくした。

 うん、でもな、由比ヶ浜。俺には分かるぞ。雪ノ下のあの表情が。あれは、出来の悪い子供を見る親の表情だと。

 

 

 「ゆ、ゆきのん!」

 

 

 嬉しそうに雪ノ下を呼ぶ。けれど、雪ノ下はその温かみのある表情のまま告げた。残酷な真実を。

 

 

 「由比ヶ浜さん。あなたはバカキャラではなくて真性のバカよ」

 「言ったっ! 俺ですら言うのを憚(はばか)ったことを平然と言いやがったよ、こいつ!」

 「うぅっ! ヒッキーのバカー! それ追い打ちだよー! うわーんっ!」

 

 

 あぁ、だから叩くな。痛くはないけど、地味に周りの視線が痛いんだよ。

 今更ではあるが、ここは陰陽塾内の呪術訓練場である。なぜか、さっきから俺がゴミのような目で見られているような気がして、俺は思わず顔がひくっと、引き攣ってしまった。

 

 

 「……けど、確かにこれは問題よね。この時期にこれでは、後々大変なことになってしまうわ」

 

 

 雪ノ下が、短くため息を吐きながら言う。それには、俺も首を縦に振った。

 そして、いい加減鬱陶しくなった由比ヶ浜の手を止め、俺は真摯なまなざしで由比ヶ浜を見つめた。

 

 

 「由比ヶ浜。お前、勉強しろ」

 「うぅ……、そんなの、言われなくても分かってるよぉ」

 

 

 うるっと、瞳を閏ませながら由比ヶ浜は頷く。

 その顔は「なんで、そんなイジワルいうの?」と言っているようだった。

 けれど、別に俺達はいじわるでこんなことを言っているわけではない。これも全部、由比ヶ浜のことを思って言っているのだ。

 進級してまだ日が浅いから、まだ影響はないが、陰陽塾(ここ)はある意味、二年になってからが本番なのだ。もともと、陰陽塾(ここ)はプロの陰陽師への登竜門と言っても差支えないエリート校だ。陰陽塾(ここ)を無事に卒業出来たら、そのまま資格を取ってプロになるというやつがほとんどで、三年生の講習ともなると、逆にプロが受講しに来るほどだ。特に、実技の内容は凄まじく高く、これについていけなくなってやめる人間は毎年後を絶たない。そして、今年のその最有力は彼女であろう。

 せっかく顔見知りになったのに、むざむざ辞められたら後味が悪くて仕方ない。

 俺は彼女のこれからのことを思い、他人事ながら憂鬱になってしまった。

 

 

 「……でも、あたしだって、入りたくて陰陽塾(ここ)に入ったわけじゃないもん」

 「ん? 由比ヶ浜、何か言ったか?」

 「なんでもない!」

 

 

 そう強く拒絶の言葉を言って、ぷいっと由比ヶ浜は顔を反らした。いやなんでだよ、ちょっと聞いただけじゃねーかよ。俺は溜息を吐いた。

 

 

 「あーなんだ。とりあえず、だいぶ話反れちまったけど、結局、お前ら俺を探してたんだよな?」

 「私はあなたなんてどうでもいいのよ。由比ヶ浜さんは、そうだけど」

 「あーはいはい、訂正しますよ。由比ヶ浜は、俺を探してたんだよな。これでいいか、ゆきのん?」

 「……鳥肌がたったわ。気持ち悪いからその呼び方やめてくれないかしら」

 「言われずとも、一生言わねーよ」

 

 

 ホント、この女ムカつく。

 俺達のそのやり取りに、由比ヶ浜は思い出したようにあっと声をあげた。

 

 

 「そ、そうだった……。すっかり忘れてた……」

 

 

 茫然とした面持ちで、そう言うと、由比ヶ浜はニット帽を深くかぶる。彼女の顔は、まるで熱でもあるかのように真っ赤だった。

 

 

 「あ、あのねヒッキー……。あの、ね……」

 

 

 由比ヶ浜は言いにくそうにもじもじと体を擦る。

 そして、そこまで言いかけて、由比ヶ浜は周囲をちらっと見た。その視線に合わせて、俺も周囲を見渡す。いつの間にか、俺達はかなりの注目を集めてしまっていた。

 その視線が恥ずかしいのか、由比ヶ浜は俯いてしまった。

 俺は、彼女のその様子を見て、ため息を吐いた。

 

 

 「とりあえず場所かえるか。ここじゃ良くも悪くも目立つからな……」

 

 

 俺はさりげなく彼女にそう勧めて、移動を促す。やたら紳士的なのは、もちろん俺の純粋な優しさであることを強調しておきたい。

 もうね、俺ってば超紳士。その証拠によく紳士服着てるし。

 

 

 「う、うん……ありがとう、ヒッキー……」

 

 

 由比ヶ浜は戸惑った様子ながらも、勧められるままに移動する。雪ノ下も、ため息を吐きながらも後ろから着いてくる。あぁ、これで今日はもう訓練できないな。俺はそう思い、もう一度深くため息を吐いた。

 

 

 「……そういえば、由比ヶ浜はどうやって俺の穏形を見破ったんだ?」

 

 

 二人と共に歩きながら、俺は不意にそのことを思い出す。

 霊視能力が高い雪ノ下はともかく、自分でも落ちこぼれと自認している由比ヶ浜。その彼女がどうやって俺の穏形を破ったんだ? 首を傾げ、考えるもさっぱりわからん。

 結局、俺はその答えを出せないまま、訓練場を後にした。

 

 訓練場に再び焦燥としたざわめきが戻る。

 周囲には、奇怪なものを見たように“二人”を見る視線だけが残っていた。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「お、おい、今の見たか?」

 「いや、バカか、お前。見てない方がおかしいだろ……」

 

 

 三人が去った後の訓練場。

 そこでは、さっきまでの静けさがまるで嘘だったかのように、ざわざわとした賑わいが起こっていた。

 とある男子塾生の呟きに、近くにしたもう一人が応える。

 そのどちらもが、茫然とした面持ちであった。

 それは、周囲にいた他の塾生も同じらしく、皆ざわざわと騒いでいる。その誰もが、たった今起こった出来事に驚きを隠せない様子であった。

 今、彼らが見た映像を端的に話すとこうなる。

 

 あ……ありのまま今起こったことを話すぜ。俺は呪術訓練場で訓練をしていたら、塾内でもかわいいと噂の雪ノ下さんと由比ヶ浜さんが、何もない所(・・・・)に向かって話してたんだ。

 な……なにを言ってるか分からないと思うが、俺も何をしていたのか分からなかった……。頭がどうにかなりそうだった……。呪術とか催眠術とかそんなチャチなもんじゃぁ断じてねぇ。

 もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

 

 と、こんなところだろう。

 皆、自分の顔が真っ青になっているのが分かっていた。

 何もない所に話しかける美少女二人。特に、学年一位の才女である雪ノ下の霊視能力が極めて高いのは、陰陽塾では有名な話なのだ。そんな彼女が、何もない所に平然と話しかける姿には、ある種の信憑性が付属されてしまうのだ。そう、それは、つまり―――。

 

 

 「ま、まさか……幽霊?」

 

 

 誰かがそう呟くと、訓練場ではさらに焦燥が高まった。その言葉は、訓練場の古さや不気味さも相まって、微妙に信憑性があるものとなっていた。

 あるものは恐怖で震え、あるものは急いで帰り支度をして訓練場から出ていく。それから一時の間、この呪術訓練場を利用するものは極端に減った。

 

 そして翌日、陰陽塾では「訓練場に幽霊を出た」という噂で持ちきりだった。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「あ、いけね。穏形解くの忘れてた」

 

 

 廊下を歩いている際、行き違い様の塾生が、まるで俺などいないかのぶつかってきたため、緊急回避をしたところで、俺はその事実に気が付いた。

 俺は、急いで穏形を解く。

 あまりにも二人が自然とした態度で接するから、すっかり忘れてた。まぁ、ぼっちが一人見えないくらいじゃ、なんの影響もないから、別に問題ないのだが。

 あぁ、なんか自分で言ってすっごい悲しくなってきたわ。

 そんなことを思いつつ、俺は先を歩く雪ノ下と由比ヶ浜を追った。

 

 結局、俺達が話の場所に選んだのは奉仕部の部室だった。

 陰陽塾特別棟の四階、東側。実はさっきまで俺達がいた呪術訓練場を眼下に覗ける場所にそこはある。

 部室に入った俺達は、いつものように自分の定位置の席へと座る。

 雪ノ下は窓側。俺は部屋の中央の席へ。そのとき、ふと由比ヶ浜の席がないことに、俺は気づいた。仕方なく、俺は後ろで何個も折り重なっている大量の椅子から一つを取り、由比ヶ浜へと座るように促した。

 「あ、ありがと……」と、由比ヶ浜は戸惑った様子ながらもそう言葉にし、その席にちょこんと座る。

 しばしの沈黙が、奉仕部に流れた。

 

 

 「……で、なんの用だよ?」

 

 

 本日通算三回目のその質問で、俺は沈黙を破る。俺の問いかけに反応したのは雪ノ下だった。

 

 

 「由比ヶ浜さん」

 

 

 雪ノ下は、由比ヶ浜の名前を呼ぶと、隣に座る彼女のお腹の辺りをトンと小突く。それに呼応するように、由比ヶ浜はピンと立ち上がった。

 はじめ由比ヶ浜は、お腹の辺りを小突いた雪ノ下をう~っと、涙目で睨んでいた。

 だが、雪ノ下はそんな由比ヶ浜を無視するように、いつの間にか本を取り出し読書を始めていた。由比ヶ浜は雪ノ下が話を聞く気がないと分かったのか、諦めたようにしゅんとした。

 やがて、由比ヶ浜は俺の方を向く。

 由比ヶ浜はちょんちょんと指と指を合わせながら、ちろっと俺を見つつ、口を開いた。

 

 

 「ね、ねぇ、ヒッキー。ほら、あたしって今料理にハマってるじゃん」

 「ハマってるじゃん……って、初耳なんだが」

 

 

 それ以前に、お前のあれは料理じゃない。火と水と食材が化学反応してできた何かだ。

 頼むから、「すっぱい」から「酸味」を連想して、クロロ酢酸とか入れんなよ。あれは「観察処分者」の資格がないと死ぬ代物だからな。いや、こいつバカだからそんなことはしないと思うけどさ。

 閑話休題。

 由比ヶ浜はもじもじしながら、時よりちらちらと俺を見る。

 その仕草が何を意味しているのか分からず、俺は首を傾げた。

 だが、事は俺の思っている以上に深刻なものだった。

 由比ヶ浜は、例のニット帽をかぶり直し、「えへへ」と、はにかんだ。

 

 

 「だからね、ヒッキー。昨日のお礼ってーの? 昨日、ゆきのんの家で焼いたクッキー持ってきたからどうかな―――」

 「すまん、由比ヶ浜。急用を思い出した。今すぐ帰らんくちゃいけないんだ。悪いな。だから帰るわ。それじゃあまたいつかな!」

 「って、ちょっ!? ヒッキー!?」

 

 

 さぁーっと、顔の血の気が引いた。早口でそうまくりたてると、俺は一も二もな立ち上がった。だが、命にかかわることなのだから仕方ないだろう?

 由比ヶ浜の料理と言えば、先に述べたとおりの代物だ。誰だって、好き好んで食べようとは思わない。

 俺は自分の荷物を持ち、今さっき潜ったばかりの扉へと一直線に向かう。

 だが、ここで思わぬ伏兵が潜んでいた。

 

 

 「……比企谷くん【止まりなさい】」

 

 

 まるでオルゴールのように綺麗なソプラノのその声に、俺は絶望した。

 刹那、俺の両足は地面に縫い付けられたかのように、動かなくなった。

 ピタンッと、床から離れない足はいくら足掻いても、ピクリともしない。俺は動かせない下半身と動く上半身の間を無理やり動かし、俺の後ろにいるであろうその人物に目を向けた。

 予想通り、そこには額に手を当て、呆れた様子の件の人物。雪ノ下雪乃がいた。

 

 

 「ゆ、雪ノ下……。お、お前……」

 「……比企谷くん。悪いのだけど、今日の私は全面的に由比ヶ浜さんの味方よ。あなたの味方になるなんてことはないでしょうけど」

 

 

 彼女のその言葉で確信した。

 言霊だ。雪ノ下の甲種言霊が俺の動きを封じ、この教室に俺を縫い付けたのだ。

 雪ノ下の隣で、由比ヶ浜が涙目で俺を睨んでいるのが見えた。そんな顔をされては逃げるにも逃げられない。俺は諦めたように肩を落とした。

 

 

 「うぅ~。ヒッキーのバカ……」

 「いやすまん。もう情景反射みたいなもんだよ。許せ、由比ヶ浜」

 「……次、逃げたら噛むからね」

 「お前は、なにJ部の部長だよ……」

 

 

 俺が逃げない事を悟ってくれたのか、雪ノ下が言霊の縛りを解く。

 雪ノ下が絶対に逃がさないと、目で圧を放つ。そんな目で見んなよ、なまじどころか完璧な美人だからむっちゃ怖いんですけど。ってか、もう逃げねーよ。

 縛りから解放された俺は、諦めて元の席に戻った。席に着いた俺のもとに、由比ヶ浜が嬉れ嬉れと近づいてくる。その手には、ラッピングされたセロハンの包みが握られていた。

 中身は言わずもがな。見た目が普通なのが唯一の救いだった。

 

 

 「はい、ヒッキー! そ、その……こないだは、手伝ってくれてありがと!」

 「お、おう……サンキュ……」

 

 

 差し出されたそれを、俺は諦めて受け取った。

 人間諦めが大切なんですよ。

 中を見れば、一応茶色い色をしたハート型のクッキーが入っていた。ま、まぁ雪ノ下と一緒に作ったなら変なものは入ってない……よな? いや、でも雪ノ下なら俺を暗殺するために、わざと劇薬とか入れたりしかねない。同じ教室にいる奴に命狙われるって、それどこの十年黒組? いったい、なにリドルだよ。

 俺は、「大丈夫なのか?」と、目で雪ノ下に訴えかけた。

 

 

 「心配しなくても、大丈夫よ。誰が一緒に作ったと思ってるの?」

 

 

 だから心配なんです。とは、口が裂けても言えない。

 俺は渡された例のクッキーをじっと眺めた。見た目は美味そうだ。

 

 

 「あ、あのね、その……ヒッキー」

 「ん?」

 

 

 不意に由比ヶ浜が俺の袖を引く。振り向くと、彼女はいつものよう顔を隠すようににニット帽は深くかぶり、もじもじと手を擦っている。

 その仕草は、言いたいことを言えず、恥らっているようにも見えた。

 だがやがて、由比ヶ浜は決心がついたように顔を上げ、そして驚くことに、被っているニット帽を脱いだ。

 俺はその光景に少なからず驚いた。

 それはきっと、彼女の一つの成長の証なのだろう。些細な変化だけれども。

 帽子を脱いだら、由比ヶ浜の素顔がよく見えるようになった。素顔の由比ヶ浜は、笑うと目が垂れて童顔がさらに幼げなものになる。

 

 

 「そ、その……食べた感想……ここで聞かせてくれたら、嬉しい…かな……て」

 

 

 由比ヶ浜は、脱いだニット帽を両手でぎゅっと握りしめ、俺を上目づかいで見上げつつ、思いを言葉にする。そういうことは彼女の思い人にさせればいいものをと、俺は呆れる。

 けれど、彼女のその顔を見て。あと、奥の雪ノ下の形相をチラ見して、俺はリボンを解(ほど)き、セロハンの封を開いた。あぁ、なんてバカなんだ俺は。俺は魔が差したのだ。

 

 

 「……」

 「っ…!」

 

 

 そして、俺は由比ヶ浜が作ったハート型のそれを口に入れた。

 その瞬間、由比ヶ浜がピクリと肩を震わした。

 噛むとしゃりっと音がする。どうやら時間が経ち、湿気っていたみたいで噛んだ感触はそれほどいいものではなかった。口の中に甘い味が広がる。だが、噛む場所によって、ときどき塩のようなしょっぱい味もするあたり、生地もよく混ぜられていない。味付けも中途半端だ。なにより、生地が焼ききれてない。途中からもさもさの感触が口の中に広がり、生焼けの状態だった。

 

 正直言って、あまりおいしくない。

 

 

 「……」

 

 

 期待と不安に溢れた由比ヶ浜の目が俺に向けられる。

 その瞳にどう応えればいいのか、俺には分からなかった。正直に不味いといえばいいのか? それとも、彼女を気遣ってウソでもおいしいと言うべきか?

 友達のいないぼっちの俺には、とうてい分からない難問だった。

 

 

 「あー、まぁ、なんだ……」

 

 

 自分の気持ちを表すように、酷く手が落ち着かない。頭を掻こうか、額に当てようか、はたまた腕を組もうかと、所在なさげに空を切る。

 わからない。いったい何が正解なのか、俺には分からない。

 焦る気持ちが先走り、時間だけが過ぎていく。

 時間を稼ぐため、俺はもう一口クッキーを齧った。相も変わらず、由比ヶ浜の作ったクッキーの味はそれほどいいものではない。

 だがふと、そのとき俺は昔の記憶がよみがえった。

 

 それは、まだ愛すべき千葉にいた頃。まだ小学生だった小町がはじめて作った料理を食べたとき。出てきたのは、簡単な目玉焼きだったが、黄身は潰れ、ところどころ焦げてすらいた。

 それでも、俺は食べた。妹の初めての料理を、俺は食べた。そして、俺は小町を褒めたはずだ。そのときの嬉しそうな小町の姿が思い浮かぶ。そうだ、確か、あのときは―――。

 

 

 「……」

 

 

 気がつけば、手持無沙汰だった手が、自然とそこに引き寄せられていた。

 刹那、由比ヶ浜が「ふぇ?」と、唖然としたふうに目をぱちくりと瞬かせた。チラリと見えた雪ノ下も、俺の突然の行動に目を見開いている。それほどまでに、俺の行動は奇行的だった。

 

 ……俺は由比ヶ浜の頭に手を置いて、ぽんぽんと優しくなでていた。

 

 

 「……由比ヶ浜、その、頑張ったな。……よくできました」

 「っ……!」

 

 

 ぼんっと、爆発したように由比ヶ浜の顔が真っ赤になった。

 由比ヶ浜は、うまく言葉に出来ないのか、え、とか、あや、とか妙な言葉しか出てこずに、やがて慌てて口を閉じた。そして、うつむいた。

 

 ただ、一つだけ確かなのは、俺も同じだということだ。

 

 恥ずかしさで死にそうだった。俺は今、なんて言った? 頑張ったな? よくできました? うわっ、なにこれ恥ずかしい! どんだけ上から目線なんだよ!

 うわああああああああ! 死にたい! 死にたいよおおおお! バカじゃねーの! バカじゃねーの! バーカ! バーカ! うおおおおおおおん!

 自己嫌悪でおかしくなりそうだった。恥ずかしすぎて由比ヶ浜の顔をうまく見れない。

 けれど、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。

 俺はとりあえず、由比ヶ浜の頭に置いたままの手をどける。そのとき「あ……」と、由比ヶ浜のどこかせつなげな声が聞こえた。お願いだから、そんな声出さないで。

 恥ずかしさを紛らわすため、俺は教室中に目を移す。床、椅子、机、雪ノ下が持ってきたティーセット、夕日の差し込む窓。その過程で、俺の目に彼女の姿が映った。

 

 雪ノ下は、俺と由比ヶ浜を見てポカンとしていた。

 

 それが俺の突然の行動故だと、初めは思った。けれど、俺はポカンとする雪ノ下のその視線の先に、俺がいない事にすぐに気が付いた。

 彼女の視線の先は、俺の隣に居る彼女。由比ヶ浜結衣だ。

 しかも、ただ彼女を見ているのではない。雪ノ下の視線は、由比ヶ浜の上の方。顔へと向けられていた。

 その視線を追って、俺も由比ヶ浜の顔へと視線を移動させた。

 

 

 「……は?」

 

 

 そして、俺もぽかんと口を開け、唖然とした。そこにあった映像は、俺のキャパシティを遥かに超える信じられない光景だった。

 

 

 「ふぇ……ヒッキー、ど、どうしたの?」

 

 

 気づいてないのか、由比ヶ浜は俺の視線に恥ずかしそうに身悶えする。

 可愛らしいその仕草は、きっと大抵の男子ならやられてしまうほど可憐に見える。だがそれでも、俺の―――いや、俺達の視線が由比ヶ浜の頭上(・・)から離れることはなかった。

 由比ヶ浜が俺の視線の先に気づく。その手が、頭の上にあるそれ(・・)に触れた。

 途端、彼女の顔が再び爆発したように真っ赤になった。

 

 

 「あ、うそ! や! だめっ! 見ないでっ! 今のあたし見ないでぇっ!!!!」

 

 

 由比ヶ浜は泣きそうな両腕を上げたまま、少しでもそれ(・・)を隠そうとして、座り込んでしまう。

 けれど、由比ヶ浜の頭上にあるそれは、彼女が手で覆っても覆いきれずに溢れたそれは、ピコピコ(・・・・)と動いていた。

 俺も雪ノ下も、その彼女の姿をマジマジと見てしまっていた。

 やがて、由比ヶ浜は諦めたように顔を上げる。その顔には、その事実を知られてしまった恥ずかしさと、そして、少しの恐れが見てとれた。

 

 

 「えへへ……ばれちゃった……」

 

 

 そう言って、由比ヶ浜は誤魔化すようにはにかんだ。

 ピコピコと彼女の頭の上で毛に覆われたそれが揺れる。それはどこからどう見ても、人間にはない部位―――“犬耳”だった。

 

 夕焼けで、真っ赤に色づく奉仕部の部室。そこには、何とも言い難い静寂の時間が流れた。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 生成り―――。それはいわゆる鬼や竜など、その身に何らかの霊的存在を憑依させた者達のことを現す言葉だ。日本では他に憑き物なんて呼ばれたりもする希少な存在だ。だが、その霊的存在をその身に宿すという性質上、生成りは霊災の火種になりやすいともいう。そのため生成りとなった者には封印術が施され、宿した存在を押さえ込むことが求められるのだ。

 

 

 「あたしの家はね、もともと呪術なんて全く関係ない普通の家なの」

 

 

 そう話を切り出して、由比ヶ浜は「えへへ」と、いつも通り無邪気な笑顔を浮かべた。その頭上では、相変わらずピコピコと犬耳が忙しなく動いていた。

 さっきの事件。―――奉仕部卯月の変、とでも名付けるべきか。―――は、俺の脳裏にとてつもないショックを残していた。そりゃ、いきなりクラスメートの頭に犬耳が生えたのだから当然だ。

 それからは、由比ヶ浜も、雪ノ下も、そして俺も、お互い同士で心の整理を付けるため、いったん、ブレイクタイムとなった。雪ノ下が改めて紅茶を入れ直し、三人でゆっくり飲む。だが、そんな中でも、俺の好奇心が由比ヶ浜のそれから離れることはなかった。

 チラリと由比ヶ浜を見ると、彼女も俺を気にしているのか、こっち向いていたため、お互い気まずげに目を逸らす。そんなこともありつつ、紅茶を飲みほした由比ヶ浜が最初に漏らした言葉がそれだった。

 

 

 「でもね、あたしのお父さんのお母さん。つまり、あたしのお祖母ちゃんがね、どこかの神社の巫女でね、家柄的には一応、呪術とは無関係ではない家庭ではあったんだ。だけど、ここ数年は、どんどん衰退していってね、あたしのお父さんに至っては見鬼ですらなかったんだ」

 

 

 「けどね」と、由比ヶ浜は話を続ける。

 

 

 「あたしはね、なぜか生まれながらの見鬼として生まれてきたんだ。いわゆる、隔世遺伝ってやつ? しかも、ただ見鬼として生まれただけじゃなくって、あたしの体の中にある霊力の保有量は平均よりかなり上みたいなんだ。自分ではよく分かんないんだけど……」

 

 

 あぁ、その結果がそのお胸様なわけね。俺は変なところで納得してしまった。

 

 

 「だから、あたしを巫女にしようってお祖母ちゃんの家は躍起になったの。だけどね、あたしは確かに霊的なものは見れたけど、感覚としては普通の家に生まれた一般人だったから、そんな知らない土地で、巫女にさせられるなんて嫌だったの。だから、本当は陰陽塾なんて通わずに、普通の高校に行って、普通の人生を歩もうと思ってたんだ。あの日までは……ね」

 

 

 そこで話を切り、由比ヶ浜はチラリと俺の顔を覗いた。

 それは、どこか俺に気を使っている仕草にも見える。だがやがて、由比ヶ浜は俺から視線を逸らし、雪ノ下へとその視線を向けなおす。そして、少し言いにくそうにそれを口にした。

 俺自身も、深くかかわっているその事件を―――。

 

 

 「ねぇ、ゆきのん。ゆきのんはさ、二年前の千葉で起こった霊災を覚えてる?」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸はドキリと高鳴った。

 なぜ、その言葉が由比ヶ浜の口から出てくるんだと、混乱する。だが、そんな俺の混乱など露知らない雪ノ下は、由比ヶ浜の言葉に何もないように応えた。

 

 

 「……えぇ、よく覚えているわ。東京以外で起こった霊災の中でも最大規模の霊災だったから。それに、私の実家の宗家も千葉にあるから、千葉にはよく行っているわ。確か、あの当時も学校の夏季休業で千葉に帰っていたはずよ。それで、確か事件の名前は―――」

 

 「【意富比の大祓】」

 

 

 そう口にしたのは、ほとんど無意識だった。雪ノ下と由比ヶ浜が驚いたように俺を見る。

 失敗したと思った。けれど、今更誤魔化すことが出来ない。

 俺は黙って、話を続けろと由比ヶ浜に目で訴えた。それを見て、由比ヶ浜は、どこか悲しそうな面持ちで頷いた。

 

 

 「……うん。ヒッキーの言った通り、二年前、千葉のららぽ……ららぽーとで【意富比の大祓】は起こったんだ。あのときは、学校が夏休み期間ってこともあって、ららぽーとには、いっぱい人がいたんだ。そして、その中に―――あたしもいたの」

 

 

 その言葉は俺に少なからず衝撃をもたらした。

 そうか、あそこにいたんだな由比ヶ浜も……。俺は、心を落ち着かせるように「ほう」と息を吐いた。

 由比ヶ浜の話は続く。

 

 

 「あたしはね、あのとき、ららぽにあったペットモールに、当時飼ってたサブレっていうんだけど、犬を連れて行ってたんだ。でも、その日はね運が悪くて、いっぱいいっぱい待ち時間があったんだ。だから、いつもは三十分くらいで終わるんだけど、その日は二時間近く待たされたの。そこで、」

 「霊災に遭ったのね」

 

 

 雪ノ下の確信を持った言葉に、由比ヶ浜は頷いた。

 

 

 「はじめはね、あたし何が起こったのか分からなかったの……。けど、あの当時のあたしって、知識もないし、訓練もしていない、そんな中途半端な見鬼だったから……そのね、気になっちゃって……。あ、でももちろん今は自分がどれだけ命知らずなことをしたのか、分かってるからね! ホントだからね、ゆきのん!」

 「……別に私は、何も言っていないのだけど」

 「うぅ……。でも、ゆきのん、すっごく怖い目であたしのこと見るから……」

 

 

 そりゃそうだ。俺は、雪ノ下がそんな怖い顔になってしまったのも頷けた。

 雪ノ下の実家である雪ノ下家は、普段から多くの霊的なものに関わってている古くからの名家だ。そんな名家の人間から見たら、由比ヶ浜のその行動がどれだけ愚かなことか、すぐに分かったのだろう。

 由比ヶ浜も、その当時の経験、そして、陰陽塾に入ってから得た知識で、自分の行動がどれほどバカなものであったかを理解したからこその言葉なのだろう。

 

 

 「それで、その命知らずな由比ヶ浜はどうなったんだ?」

 

 

 俺は止まってしまった話を進めるように、促す。由比ヶ浜は「あ、うん」と、口にし目を伏せながら話を進めた。だが、やはり、俺にはその表情はどこか悲しみを秘めているように感じた。

 

 

 「……うん。まぁ、あとは二人の思ってるとおりだと思うな。命知らずなあたしは、無謀にも霊災の現場に行っちゃって、自分が思ってた以上の事態に自分の身すら守れなくって、そして、サブレも死なせちゃったの。……結果、あたしはこうなっちゃったんだ」

 

 

 そして、由比ヶ浜はピコピコと犬耳を動かした。

 

 

 「……あたしにはね、あたしには、死んだサブレが憑いてるの。でも、仕方ないよね。だって、あたしの我儘のせいで、サブレを死なせちゃったんだから。恨むのも、当然だよね」

 

 

 最後にそう言って、由比ヶ浜は悲しそうに笑った。

 それはまるで、自分の罪を自戒しているような、そんな笑みだった。

 どうやら話は終わったようだ。部室には再び、どこか気まずげな沈黙が訪れる。

 その壮絶すぎる過去に、俺も雪ノ下も何も言えなかったのだ。

 

 

 「……そう、そうだったのね、由比ヶ浜さん」

 

 

 さすがの雪ノ下も、今の話を聞いて何も思わないわけではないようだ。顔を伏せ、何かを考えるような仕草で俯いている。

 対して由比ヶ浜は、どこかすっきりしたような顔だった。それは隠していたことを全部さらけ出したと、いった感じの顔だ。だがそれでも、その表情の中にはどこか怯えたような様子もあった。それはきっと、俺と雪ノ下が、自分を受け入れてくれるのかどうか、それが気になって、不安なのだろう。

 

 生成りは、その性質上、その身体には封印術が施され、宿した存在を押さえ込むことが求められるとは、先に述べたとおりだ。だが、それ故に、生成りの心身には少なくない負担がかかってしまっており、その得体の知れなさから世間的な風当たりも芳しくないのだ。

 特に、霊災を体験したことのある人間にとっては、霊災の危険性がある、生成りそのものを恐怖する者すらいる。それに、由比ヶ浜自身も人に嫌われるのを極端に嫌う。だからこそ、由比ヶ浜は不安なのだ。俺達に拒絶されることが。俺達に嫌われることが。

 

 

 「由比ヶ浜、もしかしてお前が陰陽塾に入ったのって……」

 

 

 俺の疑問に、由比ヶ浜は「うん」と頷いた。

 

 

 「あたしが陰陽塾に入ったのは、生成りの力を制御するためなの。だから、ほぼ受験なしの特例で、ここに入ったんだ。けど、そのせいで今では授業に全然ついていけなくって……」

 

 

 そこから先は言わなくても分かる。だから、由比ヶ浜は今、落ちこぼれなのだ。いや、もともと呪術の経験もない一女子高生が陰陽塾には行ったのだ。それは、むしろ当然の結果なのかもしれない。

 だが、腑に落ちないことも一つあった。

 どうもおかしいと思う点が一つ。それは、陰陽塾の彼女に対する扱いだ。

 いくら由比ヶ浜が生成りでも、果たして受験免除と言う特例が許されるのだろうか?

 それに、由比ヶ浜がニット帽をかぶっていたのも変だ。それはつまり、由比ヶ浜が生成りの力をまだうまく制御できていないということ、を意味する。

 陰陽塾はこいつに適格な指導をする気があんのか? 俺は思わず舌打ちしたくなるような衝動に襲われた。

 けれど、その疑問の答えはいつまでたっても出てこない。

 結局、その答えは出ないまま、俺は「……そうか」と言って、俯いた。 

 

 

 「…………」

 

 

 部室に、再び沈黙が流れる。由比ヶ浜も、俺の質問の答え以降は俯いてしまっていた。

 ずいぶんと日も暮れてきた。もうすぐ最終下校時刻の時間にもなるだろう。けれど、この問題の解消には、ほど遠く感じた。

 塾舎方面から、多くの塾生の帰宅する声が聞こえてくる。

 やがて、下校する旨の放送も流れ始めた。

 タイムリミットが訪れたのだ。その放送を聞き、雪ノ下が立ち上がる。

 

 

 「……今日は、ここまでにしましょう」

 

 

 そう言って、雪ノ下は鞄の中に、膝元に置いていた文庫本を入れた。その動作の際、雪ノ下が由比ヶ浜を見ることは一切なかった。その仕草に、由比ヶ浜はショックを受けたように鼻をすすった。

 

 

 「……ごめんね、二人とも。変な話……しちゃって」

 

 

 雪ノ下のその言葉に、どこか由比ヶ浜が悲しそうに笑う。

 けれど、それでも雪ノ下が由比ヶ浜を見ることはない。

 たぶん、このまま終わったら、由比ヶ浜はもう一生、奉仕部(ここ)には来ないだろう。それが分かっているからこそ、由比ヶ浜はそんな悲しい顔で笑ったのだ。

 悲しそうに歪む彼女の瞳から、ついに涙がこぼれる。俺はその涙を前に、何も言うことが出来なかった。仕方がない。女の子の涙なんて、二年前のあの日以来、見たことなんてないから。

 由比ヶ浜は、溢れた涙を塾服の袖で拭い、鞄を手にする。

 そして、一目散に部室の出口へと向かった。

 

 

 「……じゃあね、ふたりとも。……ありがと」

 

 

 扉に手をかけ、由比ヶ浜は別れの言葉を口にした。

 俺はそれを、黙って見ていることしかできなかった。脳裏に、さっきの由比ヶ浜の涙が浮かんで消えない。本当に、これでいいのか? 俺の心の中でそんな思いが葛藤する。

 今にも由比ヶ浜に手を伸ばしてしまいそうで、けれど、そうは出来ない何かが、俺の中で抗議した。呼び止めてどうする? そんなことをしても、彼女にとっては過酷で残酷なことでしかないのに。俺は自分がやってしまった過ちに、思わず唇を噛んだ。

 どういう理由があれ、俺は一度由比ヶ浜を拒絶してしまったのだ。その真実には変わりない。そんな俺が、彼女を呼び止める権利を持つのか。……ある、はずがない。それでも、俺は由比ヶ浜を呼び止めるべきなのか? そんなこと、許されるはずがない。

 俺は自身が心の中で下したその結論に絶望した。

 結局、俺はさっき由比ヶ浜を撫でたその手を、もう一度上げることはできなかった。

 ぽたりと、由比ヶ浜の涙が床に落ちる。

 彼女がその扉を潜ってしまえば、もう、彼女がその扉を潜ることは二度とないだろう。

 その光景を、俺はやはり、黙ってみていることしかできなかった。

 

 

 「待ちなさい、由比ヶ浜さん」

 

 

 けれど、それを許さない人物がそこにはいた。俺は思わず振り返る。

 凛とした出で立ち。そこには、いつも通り、自身に満ち溢れた彼女がいた。その姿には、さっきまでの所在なさげな彼女の面影は一切ない。俺は柄にもなく期待してしまった。

 もしかしたら、もかしたら、彼女なら、雪ノ下雪乃なら、由比ヶ浜結衣を救えるのかもしれない、と。俺が出来なかったことを、正確にはしなかったことを、してくれるかもしれない。

 その期待に、俺の心臓は大きく高鳴った。

 

 

 「な、なに、ゆきの……雪ノ下さん……」

 

 

 ゆきのんと呼びかけた由比ヶ浜の声に、雪ノ下の顔に一瞬陰りが出来る。

 だが、気を取り直すためか、雪ノ下は数回首を横に振り、再び由比ヶ浜を見る。その顔には、もう絶対に曲げないという信念のようなものが見えた。

 その姿は、捻くれた心を持つ俺には、ひどく眩しくかった。

 

 

 「由比ヶ浜さん。あなた、なにか部活には入っているのかしら?」

 「え? う、うんうん……特に、入ってないよ……?」

 

 

 雪ノ下の言葉に、由比ヶ浜は本気で意味が分からないようで、首を傾げた。

 その言葉に、雪ノ下はそっと、肩を撫でおろし、肩にかけていた鞄に手を入れる。がさごそと、鞄の中を漁り、そして目的のものを見つけたのか、手を止めた。

 

 

 「そう、だったら―――」

 

 

 そして、雪ノ下は鞄から一枚の紙を取り出した。それは、俺にはひどく見覚えのある物だった。なぜなら、ついこの間無理やり書かされたばかりなのだから。

 

 

 「これを書いて、明日の放課後までに平塚先生に出してきなさい」

 「え? これって……」

 

 

 由比ヶ浜が受け取った髪に視線を落とす。そこには紛れもなく、陰陽塾指定の判子が押され、こう書いてあった。『入部届』―――と。

 その文字を見た瞬間、由比ヶ浜の顔がくしゃりと歪んだ。

 我慢していたものが、一気にあふれ出したのだ。

 

 

 「ゆ、ゆきのん……?」

 

 

 涙がぽろぽろと、由比ヶ浜の顔から溢れる。

 雪ノ下は、由比ヶ浜の肩に手をかけ、優しげに微笑んだ。そして、言う。由比ヶ浜の心の闇を救う、決定的なその言葉を―――。

 

 

 「由比ヶ浜さん。あなたを、奉仕部に歓迎するわ。その……友達とか、そういうことはまったくわからないのだけど……私は、あなたと一緒に料理した時間、嫌いではなかったわ」

 「ゆ、ゆきの~んっ!!!!」

 

 

 嬉しさに勢い余って、由比ヶ浜は雪ノ下に抱き着いていた。

 その予想外の出来事に、雪ノ下は動揺する。由比ヶ浜の背中の上では、雪ノ下の手が、手を回すべきかどうか思案し、おろおろとしている。

 その光景に、俺は思わず口元を緩めてしまった。

 由比ヶ浜の背中越しに、雪ノ下と視線が合う。その目は「助けろ」と俺に訴えかけていた。

 けれど、俺はそれを無視する。

 こんな感動的な光景に俺なんかが混ざったら、無粋以外の何物でもない。

 俺はクールに去るぜ。

 俺は鞄を持つとそっと席を立った。聞こえないくらい小さく「お疲れさん」と別れの挨拶を残して部室を出る。

 廊下にはすでに夜の薄暗さが広がっており、そういえば下校時刻を過ぎていたなと、俺は思い出した。

 肩掛けの鞄を背負い直し、俺は静かな廊下を歩き出す。

 そのときだった。

 

 

 「ヒッキー!」

 

 

 不意のその声に、俺は歩みを止める。

 振り返れば、そこにはいつも通り、笑顔を浮かべた彼女の姿。そこには、さっきまでのもの悲しげな由比ヶ浜はいない。けれど、俺は彼女がそこに居ることに驚嘆した。

 なんで、由比ヶ浜はそこに居るんだ? なんで、由比ヶ浜は俺にそんな笑顔を見せるんだ? なぜん、由比ヶ浜は、そんなにも嬉しそうに俺の名を呼ぶんだ?

 お前を拒絶し、見捨ててしまった、こんな俺の名前を―――。

 

 

 「……どうした、由比ヶ浜」

 

 

 動揺を隠せないまま、俺は彼女の名を呼んだ。自分でも声が震えているのが分かった。けれど、そんな俺の声を気にすることなく、由比ヶ浜は俺に笑顔を向ける。

 その笑顔が眩しくて、あまりにも無邪気に笑うから、さっきの雪ノ下の凛とした姿と同様に、俺にはその笑顔を直視することはできなかった。

 由比ヶ浜は「えへへ」と笑って、言葉を紡いだ。

 

 

 「いやー、そのね。一応、お礼?を言いたいと思って。ヒッキー、ありがとね。あたしのこと受け入れてくれて、あたしのことちゃんと見てくれて。ありがと、ヒッキー」

 「……買いかぶりはやめろ。俺はお前のことを拒絶したんだ。そんなの、お前を見捨てたのと同じだ。だから、お前が俺にお礼を言う筋合いなんてねーよ」

 

 

 俺は思わず、由比ヶ浜から顔を反らしてしまう。

 自分の心のやましい部分を、彼女の前にさらけ出したくなかった。穢れている俺の内面を彼女のような純真な人間に、見られたくなかった。俺のような、ひどく歪んでいる人間がいることを、彼女に知られたくなかった。

 けれど、彼女はそんな俺にも笑顔を見せてくれる。

 その優しさが、俺にはひどく痛い。彼女のその笑顔を見ると、何もできなかった自分に嫌悪感を抱いてしまう。だから、俺は顔を反らした。

 彼女のその瞳に映る、酷く歪んだ自分を見たくないがために―――。

 

 

 「……見捨ててないよ」

 

 

 けれど、俺のその幻想を由比ヶ浜はバッサリと斬り捨てた。俺自身が認めている、俺の罪を、彼女は真正面から否定する。

 その言葉に、俺は「え?」と顔を上げる。

 顔を上げた先で見た、彼女の表情は、まるで慈しむように穏やかだった。

 そして彼女は、すっきりしたような顔で笑った。

 

 

 「ヒッキーは、あたしのこと、見捨ててなんかないよ。ちゃんと、あたしのこと守ってくれたよ。だから、あたしはヒッキーにもちゃんと言いたいの。助けてくれてありがとうって……」

 

 

 その言葉はひどく優しくて、だからこそ受け入れてしまう。飾りのない真っ直ぐな言葉が、俺の心にいい意味で突き刺さる。

 

 

 「じゃ、そういうことだから!」

 

 

 そう言って、彼女は部室に戻っていく。だが、不意に振り向くと、彼女はニッと満弁の笑みを浮かべる。それは、俺が今日見た中で一番の彼女の笑顔だった。

 

 

 「これからよろしくね! ヒッキー!」

 

 

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 

 

 

 比企谷八幡は知らない。彼女の言葉の本当の意味を。

 なぜなら、比企谷八幡は覚えていないからだ。二年前、後に『意富比の大祓』と呼ばれることになる霊災で、彼が一人の女の子を救ったことを。

 その女の子が、彼と再会することにどれほどの思いを寄せたのかを。

 そして、その女の子が、陰陽塾で彼と再会した時、どれほどの喜びを覚えたのかを。

 

 思いとは、呪術に似ている。

 決して触れることはない。だが、たしかにそこにある。

 

 あのとき、比企谷八幡は意図せずして、彼女に呪術を使ってしまったのだ。

 彼女の心を奪うという優しい『乙種呪術』を。

 

 

 

 

 

 

 



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第五話 剣豪将軍の配下獲得大作戦! 前篇


 長らくお待たせしました。
 なかなか材木座の話を思いつかず時間をかけてしまいました。
 今回も前編後編ですみません。
 それではどうぞ。


 

 

 今更ではあるが、俺が所属している奉仕部という部活は、塾生の悩み相談を聞き、その解決をお手伝いする部活である。

 だが、その性質上、基本的には依頼がなければ成り立たない部活でもある。

 ゆえに、俺や雪ノ下は普段は部室で読書をしているのが常である。

 変わったことと言えば、数日前に入部した由比ヶ浜と、我が奉仕部部長である雪ノ下が時折、ゆるゆりなことをするくらいだろう。おーい、マリア様が見てんぞ―。

 と、まぁこんなくだらないことを考えていたのはもう三日も前のことだ。

 だが、今になって思えば、そんなくだらない事を考えていられる内は、少なくとも俺の内心は平和だったのかもしれない。

 いや、もしかしたら、こんなくだらない事を考えていたからこそ、俺は変なフラグでも立ててしまったのかもしれない。まぁ、どのみち、俺はこんな依頼を受けてしまったことを後悔するのに変わりはないのだが―――。

 結論を言おう。

 

 

 『颯爽とうじょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 剣豪将軍! 材木座よしてぇええええええええええええる!』

 

 

 誰か、俺のフラグを折ってくれないかなぁ……。がをがをー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第五話 剣豪将軍の配下獲得大作戦!/前編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―― 2012年4月某日 陰陽塾特別棟・奉仕部部室前 ――

 

 時を遡ること一時間前。その日は、いつも通りの一日だった。

 つまり、いつもと変わらぬぼっちな一日を過ごした俺は、最早習慣づいてしまったように部室に向かっていた。最近の俺、完全に社畜根性が身についてしまってるな。

 だが、部室の前に来て、俺は無意識に足を止めてしまった。珍しい事に、部室の前に雪ノ下と由比ヶ浜が、並んで部室のドアの隙間から、中の様子を覗いているようだ。

 何やってんのこいつら? そんな事を思いつつ、俺は雪ノ下たちの背後に立った。

 

 

 「何してんだ?」

 「ひゃうっ!?」

 

 

 俺が声を掛けると、雪ノ下が普段のクールな雰囲気とはかけ離れた、可愛らしい悲鳴を上げた。ついでに由比ヶ浜の身体が一緒に跳ね上がる。

 

 

 「ひ、比企谷くん……びっくりしたわ」

 「驚いたのは俺のほうだよ……」

 

 

 予想外のリアクションに、声を掛けた俺の方が、よっぽど驚いたわ。

 

 

 「そ、それよりもヒッキー。部室の中に、変なのが居るんだよ」

 「は?」

 

 

 変なの? 俺と雪ノ下の会話に割って入った由比ヶ浜が、いつも通りニット帽を深くかぶって涙目で俺に訴えかけてくる。おい、それはあれか? 婚活パーティ追い出された平塚先生とかじゃないよな?

 直後、特別棟の隣の呪術訓練場から盛大な爆発音が響き渡った。

 あ、なんだ違ったか。平塚先生は、今日も絶好調みたいでなによりだ。いったいどんな呪術を使ったらあんな音になるんだろうな……。

 

 

 「変なのって……不審者ってことか?」

 「そう、なるのかしら?」

 「わ、わかんない……」

 

 

 雪ノ下も由比ヶ浜も顔を見合わせ首を傾げた。どうにも要領を得ない。

 俺はガリガリと頭を掻いた。

 

 

 「……とりあえず、人間ではある……はずだよな?」

 

 

 俺の問いに、雪ノ下が小首を傾げた。

 

 

 「……わからないわ。けど、塾服を着ていないのだから、少なくとも塾生ではないはずよ。もしかしたら、誰かの式神なのではないかしら? けれど、あんな形状の式神、ウィッチクラフト社のパンフレットでも見たことないし……まさか、使役式? ウソ……いったい形代はなに? どんな霊的存在なの?」

 

 

 あぁ、うん。雪ノ下、それはたぶんお前の勝手な想像だ。

 そしていい具合にテンパってんな。式神なら、お前の霊視で見破れるだろ……。

 幾ら自分の常識で測れない奴が居たからって、初対面というか、まだ直接話してすら居ない人を、人類の枠組みというカテゴリーから、外しちゃいけません。

 というか、雪ノ下に見ただけでそこまで言わせる何て、どんな奴だよ……。

 

 

 「……ちょっと下がっとけ」

 

 

 けれど、そんな不審者(?)の対応を女子に任せるわけにはいかない。俺は二人を背にして、ドアの前に立つ。塾服の背中の部分をきゅっと、二つの手がつまむのを感じた。

 そして、一応、念のためにケースから一枚、呪符を取りだし、俺はそっと扉を開けた。

 

 

 「……」

 

 

 刹那、一陣の風が吹き、部屋中のプリントを舞い上がる。それはまるで、レトロなマジックショーでハトを大量に出したかのような不思議な光景だった。

 その白い世界の中に佇む男が一人。

 

 

 「ククク……まさかこんなところで出会うとは驚いたな……」

 

 

 嫌に仰々しい物言いをする男の言葉に、俺はさっそく全力で回れ右したい衝動に駆られた。そして男は、その身に纏うマントをひるがえし、振り返った。

 

 

 「待ちわびたぞ、我が相棒! 比企谷八幡!」

 「喼急如律令(オーダー)!」

 「へぷっ!?」

 

 

 俺は持っていた呪符を素早く投げて扉を閉め、全てを無かった事にする。

 俺は何も見ていない。聞いてない。知らない。アー・ユー・オーケー?

 振り返ると、雪ノ下と由比ヶ浜は状況を呑み込めていないのか、シンクロしたように目をパチクリと瞬かせた。

 

 

 「ねぇ、比企谷くん。教室の中にいた彼、今、あなたの名前を呼ばなかったかしら?」

 「幻聴だ、雪ノ下。言霊の使い過ぎでなんか変な副作用でも出たんだろ」

 「……そんな副作用はないのだけれど」

 

 

 だいたい、あんな、材木座義輝なんて生き物、俺が知る訳がないじゃん。ん? なんか、教室の中からうめく様な声が聞こえるな。俺も疲れてんだな。日頃の呪術の訓練のせいかな?

 よし、だから今日は早く帰って、ゆっくり休むとしよう。雪ノ下だって、由比ヶ浜だって、その方が絶対幸せなはずだ。うん、それがいい。そうしよう。

 そして俺は、二人の手を引いて踵を返す。二人とも顔を赤くして怒っているが、仕方ない。

 あんなのと関わるのよりは何倍もマシだ。

 

 

 「ぉーぃ 吾輩を無視するでないぞぉ……比企谷八幡……いや、相棒ぉ……」

 

 

 部室の中から、幻聴が聞こえて来る。

 あぁ……。やっぱり俺、疲れてるんだな……。

 

 

 「ひ、ヒッキーのこと相棒って言ってるけど……」

 「あー、あー、聞こえなーい、聞こえなーい」

 

 

 由比ヶ浜が何か言ってるが、俺は首を全力で振ってそれを否定する。

 何を言ってるんだ由比ヶ浜? もしかしてお前も体調悪いのか? なら尚のこと今日は帰るべきだろう? 寮に帰って、ゆっくり休もうぜ?

 そんなある種の使命感を持って、俺は二人の手を引いた。

 

 

 「ちょ、ちょっと比企谷くん。は、離しなさぃ……」

 「ひ、ヒッキー、強引だよぉ……」

 

 

 だが、困ったことに雪ノ下と由比ヶ浜が頑としてその場を離れようとしなかった。

 いや、なんでだよ。俺はお前たちのことを思ってだな……。

 そうこうしている内に、ガラッと僅かに部室の扉があき、手が伸びる。

 その映像はまるで、海外のゾンビ映画のような異様な不気味さがあり、「ひっ」と、雪ノ下と由比ヶ浜が軽く悲鳴を上げた。

 

 

 「はちまぁん……! 我を忘れたとは言わせんぞぉ……!」

 「うわっ! 離せ材木座!」

 

 

 ガシッと、扉の隙間から出てきた手が俺の脚を掴んだ。

 視線を扉の中へと移すと、そこには僅かに開いた扉の隙間から覗く、呪符を貼り付けた材木座の顔が……。いや、こえーよ。マジこえ―よ。お前なに? いつもニコニコあなたの隣に這いよる混沌、材木座ホテプか!

 俺は思わず、全力でその手を薙ぎ払った。

 

 

 「ぎゃふんっ! 待って……いや、ホント、マジで待って八幡。我を見捨てないでっ……」

 「黙れ材木座! いいから早くこの手を離せっ!」

 「待って! 離す! 離すから! だから我の話を聞いて! お願い八幡! 後生だから!」

 「ぐぬぬっ……」

 

 

 涙声で訴える材木座。さすがにここまで来ると、俺とて罪悪感が沸かないでもない。

 背中に嫌な汗が流れる。

 果たして俺は、こいつをどうすればいいんだ?

 そんな心の葛藤は、くいっと引かれた袖によって遮断された。

 

 

 「ヒッキー、さすがにちょっと……かわいそうだよ……」

 

 

 刹那、反対の袖も引かれる。

 

 

 「……そうね。ここは生徒の問題を解消するのが目的の奉仕部なのだし、不本意なのだけど、話だけでも聞いてあげるだけなら、やぶさかではないのではないかしら?」

 

 

 両隣からの上目使い攻撃。由比ヶ浜はともかく、雪ノ下に憐れまれるとか、どんだけだよ材木座。いや、その原因である俺が言うのもあれだけどさ。

 どうにも、俺は女子のそういう表情には弱い。だが 一つだけ言わせてもらいたい。男の中に、こんな表情の二人を無下にできる奴がいるのかと。

 俺は諦めを込めた溜息を吐いて、おとなしく部室の戸を開いた。

 

 

 「……仕方ないか」

 

 

 部室の中には、もうすぐ初夏だと言うのに、こってりとした汗をかきながら、コートを身に纏い、指貫グローブを装備した材木座が倒れていた。

 その顔には、俺がさっき投げた呪符が張り付いたままだった。

 

 

 「おお! さすがは十の盟約により結ばれし我が相棒! ようやく我の話を聞く気になったのだな! うむ! それでこそ、共に地獄の日々を駆け抜けた同志だ!」

 「地獄の日々って……ただ実技の訓練でお互いペアが組めなかったから、あまりもの同士で組んだだけだろうが……」

 「ふんっ! あのような悪しき風習で、我の力を封印しようとはまこと愚か成り! だが、事実、あの封印が割れの力を削ぐのは確かである。むぅ…敵ながらあっぱれということか! ムハハハハハハ!」

 「お前は一体、何と戦ってるんだ……」

 

 

 俺が顔に張り付いた呪符をビリッと剥がしてやると、材木座はまるで水を得た魚の様に元気になる。

 今度こそ、本当に幻聴でも聞こえてきそうだ。

 材木座がメガネを光らせ、自分の脳内設定を口走り始めたその時、俺のブレザーの袖を、雪ノ下がくいっと引っ張った。

 

 

 「比企谷くん。これはもしかしてあなたの知り合いなの?」

 「……いや、雪ノ下、“これ”って……うん、まぁ、誠に遺憾ながら、そのとおりなんだが……」

 「……ヒッキー」

 

 

 後々面倒だから、俺はその事実を否定しなかった。その結果、不快感を露わにする由比ヶ浜に睨まれ、雪ノ下には「なるほど、類は友を呼ぶと言うやつね」と、納得されてしまったが、俺は気にしない。

 だって、男の子だもん。

 まあ、ふざけるのもここまでにして、そろそろ本題に入るとしよう。

 

 

 「で、何の用だ。材木座」

 「む! 我が魂に刻まれし名を口にしたか! いかにも! 我こそは剣豪将軍! 材木座義輝である!」

 「いいから、早く本題に入りなさい。それとも言霊でその無駄な語録しか残せない口を塞いであげましょうか?」

 「ふ、ふひっ!? す、すみません……」

 

 

 うわっ、雪ノ下さんマジぱねーっす。材木座を強制的に素に戻したわ。

 だがそれもつかの間、材木座はいつもの調子を取り戻し、「ふむ」と頷き、腕を組みなおす。

 

 

 「ムハハハハハッ! ときに八幡よ。我は、平塚教諭にここが奉仕部だと助言頂いたのだが、ここはその奉仕部で違いないか?」

 

 

 キャラに戻った材木座が奇怪な笑い声を上げながら俺に問う。

 そんな笑い方、初めて聞いたわ。

 ってか、こいつがここに来たのって平塚先生の差し金かよ。ホント、あの人は余計なことを……。

 

 

 「ええ、ここが奉仕部で間違い無いわ」

 

 

 材木座の質問に、返事をしたのは雪ノ下だった。

 すると二人の材木座は、ちらっと雪ノ下を見るが、すぐに俺の方へと視線を戻す。

 何がしたいんだよ、お前は。

 

 

 「ムハハハッ! ならば八幡よ! お主には我が願いを叶える義務があるということだな! 然り然り! 幾百の時を超えてなお主従の関係にあるとは、これも八幡大菩薩の導きであろう!」

 「別に奉仕部は、貴方達の願いを叶える為の部活じゃないわ。ただ手助けをするだけよ」

 

 

 またしても俺に振った話題に、返答したのは雪ノ下だったが、材木座は、何かを訴える様な視線を、俺へと向けてくる。

 いや、だから、本当に何がしたいんだよ、お前。

 

 

 「う、うむ。で、では八幡よ、我と再び手を組み、共に天下を握りに出向かんとしようでは……」

 「私が話しているのだから、ちゃんとこちらに顔を向けなさい」

 

 

 おぉ、怒ってらっしゃる。氷の女王さまは本日も絶好調である。誰かアナ呼んで来い。

 この氷の女王様は、口を開けばドスフロギィ並みに毒を吐くのだが、それ以前に、礼儀作法を重んじている淑女でもある。さすがは呪術界にその名を知らしめる雪ノ下家のご令嬢っと言ったところである。

 おかげで、俺も部室に入るときは、必ず挨拶する様になったものだ。

 だって、挨拶しないと言霊で床に縛り付けられるんだもん。

 

 

 「……モハ! モハハハッ! これはしたり!」

 「その【喋り方もやめなさい】。気持ち悪いから」

 「……」

 

 

 あ、やりやがった。俺は心の中でぽつりと呟いた。

 雪ノ下が放った呪力を込めた言葉が、文字通り材木座を黙らせる。だが、材木座に縛られたことに対する困惑は見てとれない。それもそのはずだ。だって、材木座のやつ心折れてんだもん。

 縛る間に心を折る言霊とは、俺が言い出したことだ。

 俺、思うんだ。

 時に言葉って殴る以上の暴力になるんじゃないかってさ。

 こいつの場合、本当に『言葉』が武器になるからなおのことそう思う。ペンは剣より強しとはよく言ったものだ。雪ノ下の場合、『言葉(物理攻撃)』は剣より強し、ってとこだろうな。

 

 

 「……雪ノ下、ちょっと」

 

 

 何か由比ヶ浜は、ゆきのん逃げてーって言ってるけど、もう哀れ過ぎて、俺はむしろ材木座逃げてーっと言いたいわ。

 あまりにあれだったもんだから、俺はいったん材木座から雪ノ下を離して、材木座が患っている厄介な奇病「厨二病」についてレクチャーしてやる。

 問題があったとすれば、その際に、俺までが同類とみなされて、雪ノ下と由比ヶ浜から、疑わしきは死ね、という視線を向けられて、思わず自殺してしまいそうになったくらいだ。

 俺、完全な流れ弾じゃん。

 けれでも、それでも俺は怯まない。だって、俺は材木座と同類ではない。

 同類「だった(・・・)」だけなのだから。

 

 

 「……まぁ、なんだ。昔は同類だったのかもしれない。けど、今は違う」

 「そう。比企谷くんにもそういう時期があったのね」

 

 

 最後に悪戯っぽくそう言って笑うと、雪ノ下は再び材木座のほうへと向かった。

 

 

 「つまり、貴方の願いはその病気を治したいということで良いのね?」

 「あ、いえ、別に病気というわけでは……」

 

 

 なんとも慈愛に満ち溢れた優しい顔で、雪ノ下は言う。あぁ、これはあれだ、盤上の世界(ディスボード)のジブリールさんが自分より下位の種族を見る目だわ。

 さすがは、奉仕部序列一位の雪ノ下雪乃(フリューゲル)さん。マジこえーっす。

 そして、そこからはもう怒涛の「一歩的な戦い(ワンサイドキル)」だった。

 

 

 「ねぇ、ざ…ざ…財津くんだったかしら?」

 「むぐっ…ど、どうやら貴殿はまだ我の恐ろしさに気づいていないらしいな。だがそれも仕方のない事、なぜなら、我が真の名は口にするだけで災いをもたらすがゆえに、現世では偽りの名を名乗らなければいけないのだからな! では改めて名乗ろう! 我は剣豪将軍! 材木座義輝であ……」

 「言ったわよね? その【喋り方やめなさい】って」

 「………」

 「次、なんでこの時期にコートを着ているの?」

 「……ふわっ!? わ、我、喋れる? ……あ、ご、ゴラムゴラムッ! こ、この外套は我の霊気を極限まで高める聖遺物であり、もともとは我が持つ十二の神器の一つであるのだが、我がこの世界に転生した際に、現代において最も最適な形に形状に変化させたのだ! フハハハハハハッ!」

 「何度言わせる気かしら? その【喋り方をやめなさい】」

 「………」

 「じゃあ、その手抜きグローブはなに? 意味あるの? 指先防御できてないじゃない?」

 「……ふ、ふひっ!? い、息できる……? あ! わ、わわわわ……我にとって、このグローブもまた前世より受け継ぎし、十二の神器の、ひ、ひとちう……ご、ゴラムッ! ひ、一つであり! このグローブを身に着けた状態ならば、五行であって五行でない、六つ目の行である【聖なる力(グロリアス・エレメント)】の力を纏いし呪符を放てるのだ! しかし、なにぶん操作の難しい呪符故に、操作性を高めるため指先の部分は開いている……のだっ! フハッ、フハハハハハハッ!」

 「喋り方……」

 「はひっ!? やめて口を塞がないでっ! も、もう許してくださいお願いしましゅ!」

 

 

 カンカンカンカンカンッ! どこからかゴングの音が聞こえた気がした。

 もう、材木座が哀れすぎて泣きそうだ。

 

 

 「ゆ、ゆきのん……」

 

 

 さすがの由比ヶ浜も、この雪ノ下のオーバーキルには若干引き気味だ。

 俺は、「もう見てらんない!」と、材木座に何とか助け舟を出そうと思い、一歩前に踏み出す。すると、足元でカサリと何か音を立てた。

 それは部室に舞っていた紙ふぶきの正体だった。

 

 

 「これって……」

 

 

 拾い上げると、予想に反し、その紙は案外小さかった。

 原稿用紙ではない。むしろ、B5の紙よりさらに小さい。それは呪力が流された式符だった。

 

 

 「ふ、ふひっ! あ、八幡! そ、それ! それは……!」

 「落ち着け材木座。大丈夫だ、雪ノ下は戦意のない奴には決して言霊は使わないから」

 「は、はひ……」

 

 

 そう材木座にフォローを入れつつ、俺は式符から目を離さない。

 というより、離せなかった。なぜなら、それは、俺もこれまで見たことのない形状の式符だったからだ。俺の様子が変なことに気づいたのか、由比ヶ浜が俺の手元のそれに視線を向けた。

 

 

 「それ何?」

 

 

 頭に「??」と疑問符を浮かべる由比ヶ浜に、俺は式符を渡してやる。式符の形状、模様を見て、それが何か思い出そうとする由比ヶ浜だったが、やがてはぁと深いため息を吐くと俺に戻してきた。

 

 

 「ヒッキー、これ何?」

 「由比ヶ浜……お前、一年の時の授業内容だろ……」

 

 

 思わず、呆れて額に手を当ててしまった。

 そんな俺の態度に由比ヶ浜は「むぅ」と、ふくれっ面だ。

 仕方ない。俺は一つため息を吐き、手に持ったそれをひらひらと振った。

 

 

 「たぶん、式神の式符だと思う。けど、見たことない式符だから、詳しいことは俺にも分からん」

 

 

 俺の言葉が気になったのか、雪ノ下も由比ヶ浜と反対側から俺の手元を覗く。

 その瞬間、彼女の瞳にも驚きの色が宿った。

 

 

 「これは……人造式、かしら?」

 「分かるのか?」

 

 

 俺の問いに、雪ノ下は首を振った。

 

 

 「いえ、正直、見たこともない型の式符だわ。ウィッチクラフト社の製品には、一通り目を通しているはずなのだけど、こんな型の式符はじめてよ」

 「……どうせ猫型の人造式でも探してたんだろ? ほら、モデルWA2『キャットバンテージ』とか、むっちゃお前の好みじゃねーか」

 「……なんのことかしら」

 

 

 あ、顔逸らした。冗談で言ったつもりが、こいつマジだったよ。

 ちなみに、モデルWA2『キャットバンテージ』は室内用の「捕縛式」だ。その見た目は、全身が青い大柄な猫と言った感じだ。

 捕縛式と言えば、祓魔官が使うモデルWA1『スワローウィップ』があまりにも有名だが、あちらはどちらかというと、屋外の広い所で使うことを目的としている。そのため、実は狭い部屋や路地では極端に性能が落ちるという欠点を持っている。

 それを補うために開発されたのが、屋内用の捕縛式『キャットバンテージ』である。

 けれど、『スワローウィップ』然り、『キャットバンテージ』然り、到底俺達のような塾生が手を出せるものではないはずだ。それをどうして―――。

 

 

 「けど、確か人造式ってクソたけーだろ。少なくとも塾生の俺達にどうこう出来るしろもんじゃねーし。そんなもんを、なんでこいつ持ってんだ?」

 

 

 俺の言葉に反応して、材木座は仕切り直すように咳をした。

 

 

 「ごらむごらむっ! うむ、如何にも、それはウィッチクラフト社の人造式だ。しかし、それはいわゆる試作品というやつでな、まだ世には広まっておらん禁断(パンドラ)の代物。故に、そこの女史が見たことないのも当然であろう」

 「マジかっ!?」

 

 

 ウィッチクラフトの新作!?

 俺は驚愕の眼で、再びその式符を見た。

 なるほど、まだ販売されていない製品だから雪ノ下も見たことなかったのか。そりゃ、パンフレットにも載ってないんだから、さすがのユキペディアさんも知るはずがない。

 けど、そんな製品をなんでこいつが?

 俺達の困惑の目を受け、しかし、材木座は気にする様子もなく「うむ」と頷いた。

 

 

 「実は、我の父上はウィッチクラフト社の開発部に所属しておるのだが、その父上から一つ願いを受けてな。その願いと言うのが、このウィッチクラフトの新製品であるモデルMA1『ドールファンタズマ』の試行テストなのだ。それもより多くの意見を聞きたいらしく、我以外の分も用意してあるのだが―――」

 

 

 材木座はそこで言葉を切って、窓の外に目を向け黄昏た。

 窓の向こうでは、夕日が傾き、今しがた訓練を終えたのか、幾人かの塾生が徒労を組んで帰宅の途に就いていた。その誰の顔にも笑顔が浮かんでおり、青春を謳歌しているのが手に取るようにわかる。

 そして、俺は理解した。なぜこいつが、奉仕部(ここ)に来たのかを。

 

 

 「……しかし、いかな我とは言え、この荒唐無稽な願いを叶えることは、我が宿敵であるかの三好長慶との戦以来の困難であり、ゆえに―――」

 「ま、友達いないもんな、お前」

 「うっ……よ、よくわかっているではないか、さすがは我が天命の相棒だ。そう、我に共などおらぬ。……マジで一人、ふひ」

 

 

 そう材木座は悲しげに自重した。おい、素に戻ってんぞ。

 はぁ、けどなるほどな、つまりはこういうことだ。

 材木座は、人造式販売の大手であるウィッチクラフト社に勤める親父さんに試作品のテストをお願いされた。けれど、より多くの意見を聞きたいために親父さんは他の陰陽塾塾生にも、この式神のテストをしてもらおうと考え、材木座に頼む。だが、材木座にはそんなことを頼める友達はいない。そして、困った材木座は仕方なく、我らが奉仕部顧問である平塚先生に相談したと。

 で、現在に至るわけである。

 

 

 「つまりお前はそのテストを俺達に手伝えと、そう言いたいんだな?」

 「ふむ、理解が早くて助かるぞ、八幡よ」

 

 

 俺の確認に、材木座は仰々しく応えた。

 けれど、正直な気持ち、俺はこの依頼を受けたいと思っている。

 ウィッチクラフト社の新商品。そんな喉から手が出るほどのものをただで触れる。これ以上にラッキーなことはそうそうないからだ。

 俺はちらりと雪ノ下を見る。雪ノ下の方も、ウィッチクラフトの新商品にはそうとう興味があるみたいでマジマジと俺の手の中にある式符を見ていた。

 やがて、俺の視線に気づいたのか、雪ノ下は俺と視線を合わせ、コクリと頷いた。

 

 

 「わかったわ。断る理由もないし、それに平塚先生からの依頼なら無碍にはできないわ。財津くん、もちろん、先生からの依頼なのだから学校の許可も、取れているはずよね?」

 

 

 雪ノ下の問いに材木座は「うむ」と頷く。

 

 

 「無論だ。如何な我であっても、天に定められた掟には逆らえぬからな。塾長殿には話を通してある故、このあと呪術訓練場を使用してもいいとのことだ。……あと、材木座です」

 「まぁ、正直どこでもいいわ。場所あんならさっさと行くぞ。日が暮れる前に終わらせなきゃいけんだろーし」

 「う、うむ! そうだな八幡よ! さぁ今こそ我とおぬしの新たな伝説の始まりである!」

 

 

 そう言って材木座は例の奇怪な笑い声をあげた。無論、俺はシカトした。

 

 

 「わー! なんか楽しそー!」

 「由比ヶ浜ー、お前は今日は見学なー」

 「え、なんで!?」

 「だってお前、式神の生成とかできんの?」

 「バカにし過ぎだし!? それくらいできるよ!!」

 「なにをしているの二人とも、早く来なさい、時間がなくなるわよ」

 

 

 そして俺達は、奉仕部部室を離れ、呪術訓練場へと向かう。

 けれど、俺はまだ知らなかった。この材木座からの依頼が、どんな結末を迎えるのかを―――。

 

 呪術訓練場崩壊まで、あと三十分。

 

 

 

 

 

 

 



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第六話 剣豪将軍の配下獲得大作戦! 中編


 すみません。また長くなってしまったので分けてしまいました。後編もすぐに投稿できると思うので気長に待っていてください。

 それではどうぞ(^_^;)


 

 

 

 

 はじめて会った時から、我に対する彼奴らの扱いはそんなものだった。

 だが、不思議と嫌悪の感情は沸かなかった。

 それまでの我は、世の人間からも、社会のルールからも爪弾きにされてきた孤独な人間であった。

 だが、彼奴らは我をぞんざいに扱うことはあっても、決して存在を否定することはなかった。

 嬉しかった。我を認めてくれる人間がいる事が、とてつもなく嬉しかった。

 それはきっと、いつかその時を失ってしまったとき、失った時間を時折そっと振り返り、まるで宝物のように懐かしみ慈しみ、ひとりそっと盃を傾ける様な、そんな幸福な時であった。

 

 ゆえに、我は思う。

 かつて“三六の三羽烏”と謳われた三人の今が―――幸福であらんことを。

 

                        材木座義輝著『闇鴉がなく頃に』冒頭より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第六話 剣豪将軍の配下獲得大作戦! / 中編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―― 2012年同日 陰陽塾・呪術訓練場 ――

 

 場所は変わり呪術訓練場。

 普段の放課後の時間ならば、ここは呪術の自主練をする塾生で賑わっているのだが、でもなぜかここ最近はいつも閑古鳥が鳴いている状態が続いている。

 まぁ、理由は分かっている。それはここ数日、この呪術訓練場で幽霊が出るとの噂が流れているからだ。いや、幽霊って……プッ、誰だよ、そんな噂流したの。

 はいはい分かってます、分かってますよ。どうせどっかのリア充が悪乗りしたんだろ。

 まったく、これだからリア充は……。

 で、俺達の中のリア充代表の由比ヶ浜は、受け取った呪符を「ほぇー」と眺め、

 

 

「それで、厨二。その試作品の……ぽーるふぁんでーしょん? ってどんなのなの?」

 

 

 と、バカっぽいことを口にした。

 思わず額に右手を当ててしまう。こいつは何を言っているんだ?

 

 

「『ドールファンタズマ』な、由比ヶ浜。おまえ、なんで柱に化粧すんだよ。アニメ版のサンタナさんかよ」

 

 

 え、なに? 出会いがしらに「ハッピー・うれピー・よろピくねー♪」とか言っちゃうの?

 おいおい由比ヶ浜、そんなことしてみろ、殺されるぞ。

 けど、そんなネタを知る由がない由比ヶ浜は「そ、そんなことわかってるし!」と顔を真っ赤にしてそっぽを向く。

 俺は、きっと平塚先生なら分かるんだろーなーと、そんなことを思いながら材木座から渡された呪符に目を向けた。

 

 

「見たとこ、捕縛式でも追尾式でもないよな、これ」

「うむ。さすがは我が盟友比企谷八幡だ。一目でそこまで見抜くとは……やはり、おぬしは我が右腕として再び天下を担うために必要な人材のようだな! はーはっははっははは!」

「財津くん。私、何度も言ったわよね? その喋り方やめてって」

「ふひっ!? す、すみませんっ! だ、だからお願いします! 口は塞がないでっ!」

「最早、魂の段階まで恐怖が染み付いてんだな、こいつ……」

 

 

 あと雪ノ下。お前はいい加減、名前覚えてやれよ。

 情景反射なのだろう。そのクマのような大きな図体をこれでもかと縮ませ、土下座する材木座のその姿に、俺は同情すらしてしまう。

 疲れを出すように息を吐き、俺は雪ノ下を制止する。

 

 

「雪ノ下、そのくらいにしてやれ。話が進まん」

「……そう、残念ね」

 

 

 雪ノ下、頼むから、心の底から残念そうな顔するな。

 彼女のドSな一面を俺は再認識する。

 未だに地面に頭を擦り付ける材木座。俺は一度深呼吸をして材木座の肩に手を置き、雪ノ下と由比ヶ浜に聞こえないように、優しく言ってやった。

 

 

「ほら、材木座。うちのキャットバンテージは抑えたから、早く続きを言え」

「ぐすんっ…ホント、八幡?」

「あぁ、だから恐怖のあまり幼児退行を起こすな。…ぶっちゃけキモいぞ?」

「ふひっ…さーせん」

 

 

 俺の一声で、材木座はいつもの材木座に戻る。素に近かったさっきの幼児退行時の方がマシだったのは気のせいだ。気のせいだったのか?

 うん、いや、それにしても雪ノ下に対する物の例え。我ながらなかなかいい例えだと感心してしまう。

 これは、今年の八幡流流行語大賞はいただきだな。

 ま、本人にバレたら言霊で土下座強要されるレベルだがな…。

 

 

「……すごく不愉快なことを言われた気がするわ」

 

 

 え、聞こえちゃってた? 雪ノ下は腕を組み眉根を曲げ、いかにも「私、不機嫌です」オーラを出している。地獄耳かよ、こいつ…。

 対して材木座は、俺の言葉に安心したのか、地面からすばやく立ち上がり、いつもの仰々しい態度に戻る。うん、やっぱ、慰めない方がよかったかもな…。

 

 

「むはははははははっ! よかろうっ! しかと我の言葉を刻むがよい!」

「雪ノ下落ち着け。我慢、我慢だ。まだ、お前のその無駄な美声の出番じゃない!」

「び、美声って……ひ、比企谷くん、あ、あなた、セクハラで訴えられたいのかしら? け、けれど比企谷くんがもし自らの意思で投降するというのなら、私も鬼じゃないのだし恩赦くらいは認めてあげなくもないわよ。そうね、だいたい生命刑から追放刑くらいには減刑するのではないのかしら?」

「江戸時代かよ…ってか基本的には死刑なのな。なぜこれしきのことで俺は訴えられなきゃいかんのだ」

 

 

 こいつ、どうあっても俺を犯罪者に仕立て上げたいらしい。いい加減泣くぞ、こら。

 けれど、さっきまでの不機嫌オーラはどこへ行ったのか、雪ノ下はどこか嬉しそうにそっぽを向いている。え、なに? その反応? ちょっと予想外なんだけど……。

 それに反するように、こっちのワンコの機嫌が悪くなっている。

 おい、どうした由比ヶ浜。そんな頬を膨らまして……。

 

 

「むぅ……ヒッキー! あたしはー!」

「あーはいはい。かわいい、かわいいよー。だから、もう少しの間大人しくしててくれ」

「か、かわっ…! え、えへへ……ヒッキーが、かわいいって……」

「あ、あのー、我の話聞いてるー?」

 

 

 しゃーねーだろ。こっちはお前の発言で、言霊使いそうな雪ノ下を抑えるので手一杯なんだよ。

 おまけに由比ヶ浜は理由もなく拗ねるし、ホント勘弁してくれ。

 

 

「ちゃんと聞いてるって。ほら材木座、続き」

「う、うむ、そ、そうか八幡。……あれ、八幡、なんかすっごいリア充じゃね?」

「おい、材木座。今、なんて言った?」

「い、いや! なんでもないぞ八幡! けぷこむけぷこむっ! うおっほん! ではさっそく、このウィッチクラフトの新作、モデルMA1『ドールファンタズマ』の説明に入ろう!」

 

 

 ここに来てやっと本題に入れた気がする。

 いつものように仰々しい物言いで、材木座はそう切り出した。

 

 

「ふむ。では、まずは実際に見てもらうことにしよう。少し下がっておけ」

 

 

 材木座の言葉に従い、俺達は数歩後ずさる。それを確認した材木座は、「うむ」と頷き、バッと顔の前で腕を交差させた。

 

 一応、言っておくが、式神の生成にそんな動作は必要ない。

 材木座は、次いで右手に持つ式符に何かを込めるように「はぁぁぁぁぁぁっ!」と、声を出しながら力を入れる。

 

 もう一度言っておくが、式神の生成にそんな動作は必要ない。

 そして、呪力を込め終えたのか、材木座はふぅと息を吐き、集中するように目を閉じる。さらに、交差させた両手をまるでカンフーをするようにゆっくりと回す。刹那、材木座は閉じていた目をカッと見開き、バッと勢いよく呪符を頭の上に掲げ、叫んだ。

 

 

「式神生成! 喼急如律令(オーダー)!」

 

 

 しつこい様だが、何度も言おう。式神の生成にそんな動作は必要ない。

 その無駄な動作に、俺も雪ノ下も苦い顔で顔を反らす。恥ずかしすぎて直視できなかった。

 けれど、由比ヶ浜だけは、なぜかうぅ~っと、唸りながらも材木座のそれを見続けていた。これを顔も逸らさず見られるなんて、もしかして由比ヶ浜って、けっこう大物なのかもしれない。

 

 

「……ヒッキー、あたし、あんなことするくらいなら、陰陽塾辞める」

「安心しろ由比ヶ浜。あれは決して陰陽師のデフォじゃない、あいつが特殊なだけだ」

 

 

 訂正、由比ヶ浜はただ単にバカなだけだった。

 こいつ、本当は式神の生成の仕方が分からなかったから、材木座の見て真似しようと思ってやがったな……。俺の視線に気づいた由比ヶ浜は、またうぅ~っと、唸りながら、味方を探してきょろきょろしだした。そして、頼りの雪ノ下の背中に回り込んだ。

 楯にされた形の雪ノ下は、ふぅっと息を吐き、材木座が生成したそれに目を向ける。

 その視線に釣られ、俺もまた材木座が生成した『ドールファンタズマ』に目を向けた。

 その姿に、俺は少し驚嘆の声を上げた。

 

 

「…え? なに、これ?」

「…そうね、私もこれはすこしばかり予想外だったわ」

 

 

 雪ノ下と意見が重なる。由比ヶ浜も、出てきたそれを不思議そうに眺めていた。だが、不思議と二人と材木座との間に隔たりが出来たように俺には、感じた。

 その事実に気づかないのか、材木座は、俺達のその反応に満足して「うむ」と頷いた。

 

 

「どうだっ! これこそ我が第一の配下! 『ドールファンタズマ』タイプZである! どうだ八幡? 驚いたか? 驚いたであろう!」

「あぁ、そ、そうだな。正直そうとう驚いてる。…だってこれ―――」

 

 

 まるで我が子を自慢する親ばかの様に迫る材木座に、弱冠引きながらも、俺は頷く。

 言葉通り、俺は内心かなり驚嘆していた。

 それは、無駄にテンションが高い材木座に対してもだが、なにより、材木座が生成したその式神の姿形に驚愕する。

 その予想外すぎる『ドールファンタズマ』の全貌。それは―――。

 

 

「これ……『材木座(おまえ)』じゃねーかっ!?」

 

 

 俺も、自身のどこから出たのか分からいほどの大声で叫んでいた。

 そして、俺の叫びに呼応するように、雪ノ下と由比ヶ浜はさっと、一歩後ろに下がる。

 雪ノ下も由比ヶ浜もちょっぴり嫌そうな顔をしている。だがそれを責めるのは酷という物だろう。なぜなら、俺の方がもっとずっと嫌な顔をしているからだ。

 

 

「うむっ! まったく、ここまで再現するのにはそうとうな時間が掛かったが、それでも我はしかとやり遂げた! ゆえに、今ここには、確かに我の分身が存在しているのだ! ただでさえ三界を制す力を持つ我であるが、我と同じ力を持つ我の配下がもう一人。これで我に逆らえる敵は居らぬと言うことだ! むははははっ!!」

「そんなこと、どーでもいいわっ!!」

「ふひっ! 八幡ひどいっ!」

 

 

 まるで乙女の様に体をひるがえす材木座。やめろキモい。

 けれど、今問題なのは、その材木座の隣に居るもう一人の材木座のほうだ。

 もう一度だけ、モデルMA1『ドールファンタズマ』のその全貌を説明しよう。

 先ほど材木座が謎のポージングをもって、ふわりと投じた式符。それは、直後に空間にラグを生じらせ―――一体の人型の式神を顕現させた。

 まるでクマを思わせる巨大な体躯。全身に纏う冬用のコートは如何にも暑苦しそうだ。そして、手にはご丁寧に指ぬきグローブまで装備させており、これを作った人間のこだわりを感じさせられる。

 それはマジマジ視ずともすぐに分かった。材木座だ。

 材木座が投じた式符『ドールファンタズマ』はなぜか、もう一人の材木座を顕現させたのだ。

 

 

「おい、材木座。一応聞いておくが、これはなんだ?」

「はひっ! な、なんだって……『ドールファンタズマ』であるが……」

「いや、そう言う問題じゃねーよ。百歩譲って、この式神の形状がお前であることは認めよう。若干キモいが、それでもまぁ仕方ない。だがな―――」

 

 

 そう、別にただ材木座が現れただけなら、別段俺達もそう嫌な顔はしない。

 いや、やっぱするか。

 だが、この式神版材木座を構成する要素で、最も信じられないのはそこではないのだ。

 なぜなら、この式神版材木座は―――。

 

 

「なんでこの式神のお前! 全身『真っ青(・・・)』なんだよ!?」

 

 

 まるで青いペンキをぶっかけたみたいに、青い色をしていたからだ。

 これには女子二人はドン引きである。けど、それも仕方のないことだ。だって、目の前に全身真っ青な材木座が現れたらそりゃ、ねぇ。

 街中でそんなのに遭ったら、俺でも逃げるもん。

 探の装・改はあかんだろ。あれただの不審者じゃん。

 俺の叫びに似た問いかけに、材木座は「あぁ、そのことか」といった顔で頷いた。

 

 

「うむ。さすがの八幡でも知らぬことがあるのだな。ならば、我が説明する他あるまい。

 そもそも、ウィッチクラフト社は陰陽庁以外で唯一、人造式の販売を許されている会社なのは知っておるな? まぁ、知っておるだろう。けれど、ウィッチクラフト社の人造式は陰陽庁の機械染みた人造式とは違い、造形がリアルであるからな。そこで、本物との区別を付けるために、法律でこのカラーリングにすることが義務付けられているのだ」

 

 

 それを聞いて俺はふと思い出す。

 そういえば、WA1『スワローウィップ』もWA2『キャットバンテージ』も、こんな色をしていたなと。

 あまり気にしたことはなかったが、確かに『スワローウィップ』も『キャットバンテージ』も、本物のツバメやネコにそっくりだ。もし、そうと知らなかったなら、確かに問題になるはずだ。

 特に『キャットバンテージ』は、見た目は猫だが、その大きさは大型犬とも差はないほどだ。

 もし、そんなものが普通に街中にいたとしたら、式神を見分けられない人間にとって、確かに恐怖の対象でしかない。それを考えたら、このカラーリングは当然のことなのだろう。

 だが、それでも―――。

 

 

「材木座はお前一人しかいねーから、必要ねーだろ」

 

 

 材木座の式神(こいつ)まで真っ青な理由にはならい。

 俺の問いに、材木座は最初ポカンとしていたが、やがて何かに気づいたように「うむ」と頷く。

 

 

「八幡よ。さてはおぬし、勘違いをしておるな」

「勘違い……?」

 

 

 材木座の言葉に俺は眉を曲げる。そして再度、材木座は頷く。

 

 

「左様。この『ドールファンタズマ』は確かに、我の姿をしている。ゆえに、我と同じように三界を制す力を得ることが出来るようになったのだ。…あ、もちろん設定だよ八幡?」

 

 

 わざわざ「設定」のところだけ小声で言わずとも分かっとるわ。

 俺の冷ややかな視線に、材木座は誤魔化すように大きく咳払いする。

 

 

「うおっほん! だがな八幡よ。これこそがこのモデルMA1『ドールファンタズマ』の性能なのだ」

 

 

 そして材木座は、腰の呪符ケースからまた式符を取り出す。それはさっき材木座が生成した式符とまったく同じ形状の式。モデルMA1『ドールファンタズマ』の式符だった。

 

 

「式神生成。喼急如律令(オーダー)」

 

 

 再び式符を生成する材木座。刹那、材木座の隣にまた新しい式が現れる。

 だがそれは、最初に材木座が生成した「青い材木座」とはまったく違う形状をした式だった。

 一応は人型ではある。だが、顔はない。服は着ていない。体に凸凹もない。男か女かの違いもない。それは『ドールファンタズマ』の名の通り、云わば人形のような形状だった。

 

 ぶっちゃけコナン君の犯人の青いバージョンである。

 

 

「あ!あたしこれ見たことある!」

 

 

 生成された式に由比ヶ浜が反応した。

 その言葉通り、俺も、そしてきっと雪ノ下もその式を見たことがあると思う。

 と、いうよりよく使う。

 それは、俺たちが普段使う人型の簡易式と瓜二つだった。

 それを見た雪ノ下が、顎に手を当て考えるような仕草でぽつりと言う。

 

 

「これは…もしかして疑似的な霊媒かしら?」

「うむ。さすがは学年成績一位の雪ノ下女史だ。それをすぐ見抜くとは……やはりおぬし、天才か!」

「今更ね。私が天才なのは陰陽塾内では周知の事実のはずよ。知らなかったの財津くん?」

「あ、はい、なんかすみません」

 

 

 うおっ、すげーっ、雪ノ下。あの材木座を引かせたぞ。

 いやそりゃ、自分で自分のことを天才って言うやつに引くなって言う方が“あれ”だが。

 けど、それに対しては特に思う所はないのか、雪ノ下は生成された二体の『ドールファンタズマ』を見比べて感心したように、肯首している。

 どうやら天才で在らせられる雪ノ下さんは、この『ドールファンタズマ』の構造をかねがね理解されたようだった。

 

 

「で、こいつなんなの?」

 

 

 俺は新たに生成された無印の『ドールファンタズマ』を指差し、材木座に問う。

 ショックから立ち直った材木座は、また仰々しく頷き、再び言葉を紡いだ。

 

 

「うむ、話がだいぶ反れてしまったようだ。ごらむっごらむっ! 今、我が生成したこの『ドールファンタズマ』は、見ての通り、さきほど我が生成した『ドールファンタズマ』タイプZとは姿形がだいぶ違う異なっておる。だが、この姿こそが『ドールファンタズマ』の本来の姿なのだ!」

 

 

 その先の言葉を雪ノ下が引き取る。

 

 

「つまりね、二人とも。この式神は疑似的な霊媒―――霊的存在と人間とを直接に媒介することを可能にしているのよ。これは本来なら霊媒師、俗に言うシャーマンと呼ばれる存在を介してでないとできない事なのだけど、この『ドールファンタズマ』はそれを介さずに霊的な存在を形代に宿すことができるのよ」

「あーっと、つまり、どういうことだ?」

「つまり、この式符は意図的に形代を超自然的な状態に変化することができるということよ。霊格、とでもいうのかしら? 本来ならば人の意識をトランス状態にすることなのだけど、この場合はその場に既存する霊的存在を強制的に形代に放り込んでいるのね。もちろん、入れるための格には限界があるはずなのだけど…この式はもしかして、霊媒能力の高い人間の血を使っているのかしら? だから、霊的存在の捕縛も可能なのね。けど、そんなことをしても身体を離れた血肉は、時間と一緒に霊媒能力が落ちるはずだし。だったら霊媒の形代そのものを特殊な呪術で縛っているのかしら? どちらにせよ、これは相当高い技術の代物であるのは確かね」

 

 

 そこまで言って、雪ノ下は唇に指を当て、うんうんと考える仕草をする。

 けど、正直なところ、俺は話の半分くらいしか頭には入らなかった。

 俺で半分なのだから、由比ヶ浜のほうは一割も理解していないかもしれない。ちらりと由比ヶ浜を見るとやはり由比ヶ浜は、脳のキャパシティを越えたのか、「ほぇー」っと間抜けな顔で、雪ノ下が考えている様子を眺めているだけだった。

 俺は今にも式符を解剖しようとする雪ノ下を手で制し、彼女の思考に割って入った。

 

 

「ちょっと待て雪ノ下。すまんが俺らは話についていけん。もう少し掻い摘んで話してくれ」

「あら、それはごめんなさい。けれど、比企谷くん。仮にも学年十位以内に入る成績の所持者なのだから、これくらいは理解しなさい」

 

 

 思考を中断させられた雪ノ下が不機嫌そうに俺を睨む。

 だが、そのとき彼女の隣に居る由比ヶ浜が目に入ったのか、雪ノ下は冷静な頭を取り戻し、俺達とのコミュニケーションを再開した。

 

 

「簡単に言ってしまえば、この式はそこにいる霊的な存在を憑依させることができるのよ。いわゆるシャーマンの式神バージョンということね」

「う~っ、ゆきのん、あたしさっきからゆきのんが言ってることほとんど分かんないよ~」

「だいじょうぶよ、由比ヶ浜さん。こんな知識、持っていても無駄なだけだから」

 

 

 俺にかけた言葉とは違って、ずいぶんとお優しい言葉ですね、雪ノ下さん。俺に対する扱いと、由比ヶ浜に対する扱い違いすぎやしませんかねぇ…。

 ま、今に始まったことじゃないから別にいいんですけど…。

 

 

「けど、霊媒という話は、私たちよりむしろ、あなたに関係のある話のはずよ、由比ヶ浜さん?」

「ふぇ?」

 

 

 雪ノ下の言葉に、由比ヶ浜はきょとんとする。

 その仕草に雪ノ下は呆れたように息を吐く。

 そして雪ノ下は、由比ヶ浜の頬に手を添えると、俺には絶対に向けない笑顔を向けた。

 

 

「由比ヶ浜さん。確かあなたのおばあ様のご実家は巫女の家系だったわよね?」

「う、うん。あたしが生まれるまで、ほとんど繋がりはなくなってたんだけどね…」

 

 

 雪ノ下の問いに、由比ヶ浜は少しだけ困り顔で頷いた。

 言葉の後半になるにつれて、彼女の声音がだんだんと小さくなった辺り、由比ヶ浜も自分の祖母の実家には、そうとう複雑な心境を抱いていることが分かった。

 それはまるで一種の乙種呪術のように、彼女を縛っているのだろう。

 由比ヶ浜の祖母の実家は、四国の古い社であるそうだ。だが、彼女の祖母以降は、霊的な素質が徐々に衰退しているらしく、家の存続は風前の灯であったらしい。

 そこに数十年ぶりに生まれた巫女の素質を持つ者こそが、由比ヶ浜なのだ。

 

 

「古来より巫女は神楽を舞ったり、祈祷をしたり、占いをしたりする職業であったわ。そして、その役目の中に、口寄せを行って神託を受け取るというのもあるのよ。つまり、巫女とは日本版シャーマンとも言える存在なのよ」

 

 

 分かっているのか、分かっていないのか、由比ヶ浜は目をぱちくりと瞬かせる。

 そんな由比ヶ浜に優しく微笑み、雪ノ下は言葉を続けた。

 

 

「由比ヶ浜さん。あなたは確かに、あなたの家系で数十年ぶりに生まれた見鬼の才の持ち主だわ。それに、あなたの霊力は、比企谷くんどころか私ですら凌駕出来るほどのものよ。けど、それだけでは巫女にはなれないのよ。あなたのご実家も、もちろんそれを知っているはずよ。あなたが持っているもう一つの才能を」

「もう一つの才能?」

 

 

 こくりと由比ヶ浜は首を傾げる。

 だがやがて、彼女は考えるのをやめたのか、いつも通りニット帽を深くかぶり直して「えへへ」と笑った。

 

 

「ごめんゆきのん。わかんない」

「……バカだろ、こいつ」

「むぅ、ヒッキー! そんな小声で言ってもちゃんと聞こえてんだからね!」

 

 

 思わず本音が口から出てしまった。

 そこまで言ってわかんないって、どういうことだよ…。

 俺の声が聞こえたのか、由比ヶ浜は、ぷくーっと顔を膨らませ俺を睨んでくる。

 けれど、その怒りはお門違いという物だ。事実、俺を由比ヶ浜を見る雪ノ下の瞳は、どこか出来の悪い子供を見るように、どこか優しいし。

 はぁっと、一つため息を吐く。

 ガシガシと頭を掻き、俺は由比ヶ浜の代わりに雪ノ下の言葉に応えた。

 

 

「霊媒としての資質、だろ?」

 

 

 俺の言葉に、雪ノ下は頷いた。

 

 

「そのとおりよ。いくら霊的な資質が高くても、霊媒としての才能がなければ巫女にはなれないもの。あなたのおばあ様のご実家も、それは知っているはずなのだから、あなたは霊媒としての才能があるということよ。まぁ、あなたのおばあ様のご実家が、いったい何を信仰されている神社なのかは知らないのだけどね」

 

 

 凛として、最後に雪ノ下はそう付け加えた。

 それは、彼女が由比ヶ浜と言う友人を心の底から案じているよう言葉のように思えた。

 由比ヶ浜の才能を知った彼女の祖母の実家は、由比ヶ浜を無理やり巫女にしようとしたらしい。ただの人間ではなく、霊的な才能を持つ由比ヶ浜を巫女にしようとしたくらいだ。その目的が、呪的な何かなのは、ほぼ間違いない。

 だが、呪術というものには―――特に、霊的な、もしくは神的な存在を身体に憑依させる口寄せには、それ相応のリスクが伴うものだ。

 それを何も知らない女子高生だった彼女に押し付けるのは、あまりにも残酷だ。

 だから、雪ノ下はそれを看過できないのだろう。彼女もまた呪術界の名家の生まれ。呪術の恐ろしさを誰よりも知っているのだから。

 

 

「それに由比ヶ浜さん、あなたには“それ”もあるのだし…」

 

 

 そう言った雪ノ下の視線は、由比ヶ浜のニット帽に向けられる。

 その視線に由比ヶ浜は「あっ」と声を出し、無意識なのだろう。自然とニット帽の淵をきゅっと握った。

 

 

「そっか…これも憑いてるわけだから、その霊媒ってのと、無関係じゃないんだ…」

 

 

 由比ヶ浜が普段から被っているニット帽の下には、彼女の―――由比ヶ浜の、最大の秘密がある。俺と雪ノ下、そして、一部の教師しか知らない由比ヶ浜の本来の姿が。

 生成り―――。それはいわゆる鬼や竜など、その身に何らかの霊的存在を憑依させた者達のことを現す言葉だ。かつて千葉で起こった【意富比の大祓(おおいのおおはらい)】の被災者である由比ヶ浜は、その後遺症として、かつて飼っていた“サブレ”という犬の霊魂をその身に宿しているのだ。

 

 

「えぇ、けどあなたの“それ”は巫女の神託とはわけが違うわ。一度、数分の間だけ霊的な存在を降ろす巫女とは違って、あなたの“それ”は恒久的に憑くことになる。いつ暴走してもおかしくない危険な状態なのよ」

 

 

 だが生成りは、その性質上“霊災の種”になる場合もあり、一部の人間には差別の対象となっている。雪ノ下が言葉を濁したのはそれが理由だ。

 由比ヶ浜のような女の子が差別の対象にされるのは俺だって我慢ならない。

 それはきっと、彼女の友達である雪ノ下なら尚更なはずだ。

 きっと、雪ノ下もそれほどまでに唯一の友達である彼女のことをとても大事に思ってるのだ。

 

 

「けど、安心して由比ヶ浜さん。陰陽塾(ここ)にいる限り、何かあっても、私があなたのことを守ってあげるわ。だって私たちは…その…友達…なのだから…」

「ゆきのん…」

 

 

 そして二人はお互いに見つめ合った。

 いつものゆるゆり状態突入である。なんかこう書くとパチンコみたいに見えるから不思議だ。

 不器用な雪ノ下の優しさ。これまで友達がいなかった彼女には、さぞ勇気のいる言葉だっただろう。

 だが、だからこそ綺麗に思えた。

 隣の芝生は青いと言うが、俺はそんな二人の関係を、少しだけ―――羨ましく思った。

 

 

「…あのー、さっきから何を話していらっしゃるのでしょうか?」

「うおっ!? 材木座!! お前いたのかっ!?」

「ひどいっ!!」

 

 

 素でビビった。そういやいたな、こいつ。

 突然ぬぼっと隣から現れた材木座に、思わず顔を引きつらせてしまう。

 奉仕部ガールズも、二人きりの世界(俺は入ってない)にいきなり割り込んできた材木座(異物)に、驚いてぷいっと僅かに赤くなった顔を反らした。

 話に入れない苦味を知っている材木座は、ぐすんと鼻を啜った。

 その苦味が分かるからこそ、俺は材木座の肩に手を置き「悪い悪い」と慰める。

 何とも言えない光景がそこにはあった。

 

 

「ぐすん…義輝は泣かないよ。ぼく、強い子だから…」

「だから悪かったって。凹むなよ」

 

 

 ショックのあまりまた幼児退行を起こしている。

 高2の小太りの大男がぐすんぐすん言いながら、弱音を吐く姿は何ともシュールだ。

 正直言って―――ウザい。

 慰めるのもめんどくなった俺は、未だにへこたれる材木座を放置し、俺達の中で唯一『ドールファンタズマ』のことを理解しているらしい雪ノ下に問いかけた。

 

 

「あーもう、面倒くせぇな……おい、雪ノ下。もう、こいつの事はいいからお前が説明してくれよ。時間も圧してんだしさっさと終わらせ―――」

「わー! 待って八幡! 我にもう一度! もう一度チャンスをください!」

 

 

 役目を全部取られると思ったのか、材木座は必死に叫ぶ。

 だったら最初からやれ、とはさすがに言わない。ぼっちのメンタルは鋼の様に強い反面、少しでも傷付けたらすぐに崩れる脆いものだと知ってるからな。

 同じぼっちをそこまで傷つけるほど、俺は鬼ではないのだ。

 俺はぼりぼりと頭を掻いた。

 

 

「悪い、材木座。正直、お前の相手すんのちょっと面倒くせぇなと思って」

「う、うむ。これはしたり。左様。実力が拮抗する主相手ではさしもの我も手加減しづらい故な。我の相手を嫌がるのは百も承知よ」

「そうそう、それ。そういうのが面倒くせぇ。だから、材木座。さっさと話を続けてくれ」

 

 

 ここで否定すると、材木座はきっとグババババッ! と気色悪い高笑いを上げるだけだ。

 ここ数分の経験からそれを知っている俺はあえて、材木座の言葉を肯定した。

 ふっ、これで材木座マスターの称号はいただきだな。ゴミ箱どこだっけ?

 俺の言葉に調子を取り戻した材木座は、クイッとカッコつけて眼鏡を上げると、ドヤ顔でフフンッ! と鼻を鳴らし、次いで高笑いを上げた。

 

 

「ムハハハハハッ! よかろう! そこまで言うのなら、再び我が直々に話してくれようぞ!」

 

 

 あれ? 選択肢ミスったか?

 材木座マスターの称号を捨ててしまったからか、俺の読みは大ハズレしてしまい、結局材木座はまたかったるい方向に、高笑いをした。

 面倒くさいので、もうスルーすることにする。

 すると、材木座は俺のスルーを肯定と受け取ったのか、「うむ」と頷き、言葉を続けた。

 

 

「三人とも耳を傾けよ。この『ドールファンタズマ』は確かに、そこの雪ノ下女史が言うとおり、疑似的な霊媒能力を持つ式である。そして、それを利用してこの式は意識のない下級の霊を閉じ込め使役することが可能なのである!」

 

 

 そして材木座はズバッと最初に生成した材木座の形をした『ドールファンタズマ』を指差す。

 

 

「さらに! この式の凄い所は自分の好きなようにカスタムが可能な点だ!」

「へぇ、それはおもしろいな」

 

 

 自分が作ったわけでもないのに、誇らしげな材木座の言葉に、俺は感心したように息を吐く。

 そんな俺の服の袖を、後ろから由比ヶ浜が引いた。

 

 

「ねぇ、ヒッキーそれってどういうこと?」

 

 

 小首を傾げる由比ヶ浜に、俺は応える。

 

 

「簡単に言うとこの式は、自分の好きな形にできるってことだ。例えば材木座が生成したやつみたいに、自分の姿を模したり、あるいは自分の好きなアニメのキャラクターの姿にできるってわけだな。ま、要は自分の好きな形状の式神を作って使役しようってことだよ」

 

 

 途端、由比ヶ浜の顔が、ぱあーっと笑顔になった。

 

 

「なにそれ、ちょーおもしろそうじゃん!」

 

 

 由比ヶ浜だって女の子なのだから、幼少の頃はきっとお人形で遊んだりしていたはずだ。その頃の気持ちが蘇ったのだろう。

 由比ヶ浜は、俺の傍を離れると、近くにいた雪ノ下に抱き着き「ゆきのん! 一緒にやろう!」と甘える。雪ノ下はそんな由比ヶ浜を、暑苦しそうにしながらもどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。

 友達のいなかった彼女にとって、もしかしたら初めての経験なのかもしれない。

 友達と一緒に何かを作ると言う経験は。

 

 

「ふむ。それでは皆の衆。時間もないことだし、さっそく始めるとしよう」

「ねぇゆきのん! 一緒にイヌ作ろうよ! イヌ!」 

「ゆ、由比ヶ浜さん…私はどちらかといえば…その…ネコの方を…」

「そっか、じゃあ両方作ろう!」

 

 

 えいえいおー! と、鼓舞する由比ヶ浜。

 それに合わせて、雪ノ下も小さく「おー」と顔を赤くしながらも、口にする。

 なんとも珍しいシーンを見てしまった。

 言って、雪ノ下は気づいたのか、ハッと俺を見る。

 まぁ、なんだ。仲がいいのはいいことじゃないのか? だから恥ずかしいシーンを見られたからといって、俺を睨まないでほしい。

 フリーザーなのに「にらみつける」とは、これいかに。

 

 

「…比企谷くん。セクハラよ」

「さーって、俺もはじめるとするか」

 

 

 スルーだ。目を合わせるな。防御力を下げられる。

 俺は、自然に雪ノ下から離れ、材木座から受け取った式符に目を通す。

 カスタムってことは、普通の市販の式符と同じ要領でやればいいってことだよな。だったら一度式符の状態で呪文を付け加えて―――。

 そこまで考えた刹那、訓練場のスピーカーから低い音が鳴りだす。

 やがて、聞こえてきたその声は、我らが奉仕部名物である独神教師の声だった。

 

 

『あーぁ、陰陽塾2年の比企谷八幡。比企谷八幡。至急、職員室の平塚のところまで来い。繰り返す。比企谷八幡。比企谷八幡。来なかったらどうなるか…分かってるな?』

 

 

 そんな不穏な言葉を残して、プツッとスピーカーは切れた。

 

 

「比企谷くん。あなた…」

「ヒッキー…」

「……ちょっと待て。なんだお前ら、その『今度は何やったの?』的な目は」

 

 

 失礼な奴らだ。

 俺の言葉に、雪ノ下は呆れたように手を頭に当てた。

 

 

「だったら比企谷くん。今の放送は一体なにかしら? あなたが正当な理由で呼び出されるなんて到底思えないのだけど」

 

 

 酷い言われようである。俺もう、泣いちゃうよ?

 

 

「でもヒッキー。ホントになにしたの? ちゃんと話してくれないと分からないよ。大丈夫だよ、ヒッキー。怒らないからちゃんと話して、ね?」

 

 

 続けざまの、由比ヶ浜のもはや母性すら感じさせる優しい言葉。

 優しいが故に、その言葉はひどく残酷だった。

 奉仕部ガールズののダブルパンチに、俺はまさしく「おぉ八幡よ。死んでしまうとは情けない」状態におちいってしまう。

 あれ?教会どこだっけ?

 

 

「ったく、お前ら…」

 

 

 俺はまったく信頼のない部活メイトの言葉に、甚だ遺憾の意を態度で表す。

 

 

「その態度は何かしら、比企谷くん。ひどく不愉快だわ」

「ヒッキー! 人が話してるときは、ちゃんとその人を見ないと、めっなんだよ!」

 

 

 俺の態度が気に入らないのか、二人ともなお不満げな顔で俺を睨む。

 なにか恋人や母親というより、気の置けない幼馴染と会話しているみたいでどうにも落ち着かない。いや、幼馴染どころか、友達すら居たことないんだけど…。

 俺は気を紛らわすために、ガリガリと頭を掻いた。

 

 

「あーもう、別にいいじゃねーかよ。俺がどんな理由で呼び出されようが、お前らには関係ねーだろ?」

「関係なくわないわ。あなたが呼び出された理由の、事と次第によっては、あなたを奉仕部から追い出さなければならないのだから、私にはそれを知る権利があるはずよ」

「基本的に、俺が何かしらやらかしたと決めつけているあたりが、お前らしいよ…」

 

 

 この女(あま)、呪いたい。

 と、そんなことを考えても、陰陽師としての腕は雪ノ下の方が格段に上だから、呪詛返しに合うのが関の山。そもそも、そんな度胸も、技術もない俺は、彼女に楯突くことすら敵わない状態なのだ。あれ? もしかして俺、雪ノ下に勝てる要素なくね?

 そんな今更な事実に気づき、俺は無意識に溜息を吐いてしまった。

 ガックシと肩を落とし、俺はとぼとぼと呪術訓練場の出口へと歩き出す。

 今の俺が纏う陽の気はきっと、相当澱んでいるのが、視ずとも分かった。

 もう、このまま逃げようかな? と、頭に浮かんだ。が、

 

 

「比企谷くん。活動時間は終わっていないのだから勝手に帰宅してはだめよ。もちろん墓に帰るというなら止めはしないけれど」

「逃げちゃダメだからねー!」

 

 

 退路はすぐに塞がれてしまった。「逃げたらどうなるか…分かってるわよね?」と、彼女達の目は語っている。後門の狼とはこういうことか。

 そして、今から俺は自らの意思で、前門の虎に会いに行くことになる。

 はぁ、いったい何発ジャストミートされるんだろうな…。ラストブリットで終わってくれないからなぁ、あの人…。

 これからの事を考えると、俺は途端に憂鬱な気分に苛まれた。

 

 

「……誰でもいいから、俺に優しさをくれ」

 

 

 振り返り、俺は奉仕部ガールズを恨めしげな眼で見る。だが、二人とも、すでに式神の生成に夢中みたいで俺の視線になど気づきもしない。俺は内心、少し舌打ちしたい気分になった。

 と、そのとき。雪ノ下と由比ヶ浜の奉仕部ガールズの先で、俺を見ながら肩を震わす男が目に入る。そいつは俺の姿を見ていかにも楽しそうに笑っていやがった。

 

 

「ふひっ。八幡、ざまぁ!」

 

 

 今度こそ俺は自重せずに、舌打ちした。なんだ、あの材木座のドヤ顔は、すげーイラッとした。

 だから俺はささやかな仕返しを決行する。

 なに、問題はない。これはただの“事実確認”なのだから―――。

 

 

「材木座ー。少しの間、席外すから、二人の事(・・・・)よろしくなー」

 

 

 瞬間、材木座は目に見えて顔を引きつらせた。

 その顔が、絶望に彩られているのが分かる。

 次いで、その視線が奉仕部ガールズへと向けられる。無論、俺は材木座に聞こえるように言ったため、その手前にいる二人に俺の言葉が聞こえていないはずがない。

 眉目秀麗な二人の顔が材木座の方を向く。ただでさえ女子慣れしていない材木座にとって、至近距離からの二人の眼差しはきっと耐えられる代物ではないはず。

 そして、ウィッチクラフトの人造式のように、材木座の顔は真っ青になった。

 

 

「ま、待って八幡! 我を置いて行かないでっ!」

 

 

 鬼気迫る材木座に、俺はニッコリと微笑んで、

 

 

「頑張れよ。剣豪将軍」

 

 

 ピシャッと、訓練場のドアをそっと閉じた。

 刹那、訓練所内から響く「ノオォォオオオオオオオオッ!」という、図太い声の断末魔。

 どこぞの「バアアアアニングゥ!ラアアアアブ!!」な艦娘とは違って、可愛さのかけらもない声である。金剛ちゃん可愛いよhshs。

 ん? 由比ヶ浜? お前は何を言っているんだ…。

 重い鉄製の扉に背を預け、俺は訓練所の中で雪ノ下と由比ヶ浜に、冷たい視線を向けられているであろう材木座を想像した。

 

 

「今日と言う日を、俺は絶対に忘れない。もちろん、材木座。お前のこともな…」

 

 

 はたして、俺は今どんな顔をしているのだろうか。

 少なくとも笑顔ではあったはずだ。それも、某死のノートの夜神さんくらいにはいい笑顔だったろう。

 まさしく「計画どおり(ニヤリ)」である。

 まぁ、それはともかくとして、

 

 

「とりあえず…材木座、ざまぁ」

 

 

 訓練場の扉に背を預け、俺は「くくっ」と、笑った。

 こんなに気持ちのいい気分は久しぶりだ。そして、ひんやりと気持ちのいい鉄の扉から背を離し、俺はぐっと背伸びをする。肩や背中のあたりから小気味のいい音が鳴った。

 

 さてと、それじゃ―――。

 

 

「―――オン・マリシエイ・ソワカ―――」

 

 

 ばっくれますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七話 剣豪将軍の配下獲得大作戦! 後編


 長らくお待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
 それでは、剣豪上軍の配下獲得大作戦/後編を投稿します。

 それではどうぞ(^_^)/~






 

 

 

 商品説明『ドールファンタズマ』

 

 式の種類:人造式(使役式)

 保存方法:日陰などの湿度の高い所はなるべく避け、呪的影響の少ない場所に保存してください

 原材料名:コート紙(呪的コーティング済み)、漆性インク(霊媒能力者の血液を使用)、呪的

      刻印、榊の樹脂(和歌山県産)、桃の果汁(栃木県産)、陰陽二種クラス呪力

 

 なお、本商品は一般の陰陽師向けの商品です。霊力を持たない方、特殊な霊力をお持ちの方、あ

 るいは特別『霊媒(・・)』能力の高い方はご使用をお控えお願いいたします

 特に、『生成り(・・・)』の方がご使用いただきますと大変危険です

 既存の霊的存在に呼応し、本商品の霊媒能力を大幅に超える強力な霊体を引き寄せる危険性があ

 ります。その場合の責任は、本社は一切承れませんのでご注意ください

 ご使用の際は用法に十分注意し、使用前には必ず、周囲の安全を確認の上、正しい使用方法にて

 ご使用ください

 

 尚、本商品の構築は、ウィッチクラフト社所属陰陽師『百枝(ももえ)』が担当しております

 ウィッチクラフト社は、陰陽師の皆様のより安全な退魔・修祓をご支援しております

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第七話 剣豪将軍の配下獲得大作戦! / 後編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―― 2012年4月某日 東京・陰陽塾、呪術訓練場 ――

 

 

「よしっ! できたっ! 見て見て、ゆきのんっ! できたよーっ!」

 

 

 呪術訓練場に響く結衣の歓びの声。その彼女の隣には、命の灯を持たない青い人型がニコリと微笑んでいる。見るからに細い身体に、綺麗な長髪。そして、頭にはぴょこんと跳ねる犬型の耳。

 結衣は、自分の“親友”そっくりに造ったその式に、えいっと抱き着いた。

 

 

「えへへ~、ゆきの~ん」

 

 

 結衣が『ドールファンタズマ』を使って生成したのは、犬耳の雪ノ下雪乃だった。

 この場にいないもう一人の奉仕部部員がこれを見たら、きっとこう口にするだろう。「お前、どんだけ雪ノ下の事、好きなんだよ…」と。

 結衣の突然の行動に、雪乃は恥ずかしさで顔を赤くする。

 雪乃自身が抱き着かれていないにもかかわらず、自分そっくりの式であるが故か、雪乃は普段自分に抱き着かれるよりも、恥ずかしく感じた。

 

 

「ゆ、由比ヶ浜さん…そ、その、あまりそういう事はしないでくれないかしら? 自分自身ではないとはいえ、その、少し恥ずかしいのだけど…」

「えー! なんでっ! 『ゆきわん』すっごく可愛いじゃんっ!」

 

 

 聞きなれないその呼び名に、雪乃の顔はさらに赤く染まる。

 

 

「ゆ、ゆきわん…ゆ、由比ヶ浜さん、その『ゆきわん』というのはいったい…」

「犬耳のゆきのん。だから、ゆきわんっ! ね? 可愛いでしょー!」

 

 

 それは罪の意識など全くない、澄んだ笑顔だった。

 

 

「由比ヶ浜さんお願い。やめて」

 

 

 さらに顔を真っ赤にして悲願する雪乃に、結衣は「えーっ」と、抗議の声を上げる。

 そして、ぷーっと顔を膨れさせ、いいもーんっと、『ゆきわん』のその薄い胸板に抱き着き、ぐりぐりとそのたわわに実った二つの果実を押し付ける。

 その天真爛漫な結衣の行動に、そんなところまで再現しなくともいいのに…と、雪乃はがっくりと肩を落とした。このとき、雪乃は純真な結衣の行動原理を心から恐ろしく思った。

 

 

「えへへ~『ゆきわん』可愛いよ! ゆきわん! 全体的に小っちゃいのがすっごい可愛い~!」

「ち、小っちゃい…」

 

 

 その言葉に、雪乃の顔が凍りつく。

 もちろん、その言葉を言った結衣に他意はなく、ただ普段の雪乃より小さな身体をした式を見て、素直に発した言葉であった。

 しかし、雪乃には、なぜか結衣に抱き着かれている『ゆきわん』の笑顔もまた、ピシッと凍りついたような気がした。その気持ちは痛いほどよく分かる。

 同じ雪ノ下雪乃として、雪乃は『ゆきわん』に、激しく同情してしまった。

 

 

「由比ヶ浜さん。あなただけは私の味方だと思ってたのに……」

 

 

 そう悲しげに雪乃は呟く。

 そして雪乃は、自身の隣にちょこんと女の子座るをしている“式”の頭をそっと撫でた。

 まるで親が子を慈しみような、慈愛に満ちた表情の雪乃には、ねこみみ姿の“親友”が、ごろごろと嬉しそうにのどを鳴らしたような気がした。

 豊満で柔らかそうな身体。お団子に結われた髪。そして、頭にぴょこんと生えるネコ耳。

 全身が真っ青であるにも関わらず、雪乃はその“親友”の可愛さに、思わず見惚れてしまう。雪乃はうっとりした表情で式に語りかけた。

 

 

「もう、私の味方はあなただけよ―――『ゆいにゃん』」

 

 

 今更ではあるが、今回の話では基本的に雪ノ下雪乃は壊れているから、注意してほしい。

 ホントに、今更である。

 いまにも「にゃー」と言い出しそうなほど、夢中で撫でる雪乃。

 だが刹那、八幡が出て行ったきり閉ざされていた訓練場の扉が開かれるのを察知し、雪乃はギリギリのところで、「決定的な何か」が壊れるのを、思いとどまる。

 それはまだ、雪乃の中の理性が欲望より勝っていた証拠であった。

 

 すでに、かなり手遅れな気がしないでもあったが―――。

 

 

「邪魔するぞ」

 

 

 そう中にいる生徒に気を配りながら、そっと扉を開け、呪術訓練場に現れたのは平塚であった。

 だが、彼女の近くには平塚のもとに行ったはずの八幡の姿はない。

 部活顧問である平塚の登場に、雪乃と結衣は不思議に思いつつも、二人は微笑んで、平塚を迎える。

 

 

「こんにちわ。平塚先生」

「やっはろーです。平塚先生」

 

 

 自分が顧問を担当する部活の二人に、平塚は気さくに手を上げ寄ってくる。

 その視線は、きょろきょろと辺りを『視て』おり、どうにも落ち着かない様子だ。その顧問の様子に、二人は大体の事情を察してしまい、結衣は苦笑し、雪乃は「やっぱり…」と、呆れたように額に手を当てた。

 そして、二人の心情の応え合せのように、平塚は雪乃と結衣に問いかけた。

 

 

「……すまない、二人とも。ここに比企谷はいるか?」

「いえ。彼は十分ほど前に先生の所に行くと、出ていきましたが―――、先生、もしかして」

「あぁ、雪ノ下。そのもしかして、だ」

「ヒッキー…」

 

 

 平塚の言葉に、結衣は「うわ……」と、いう顔をする。

 まだまだ短い時間ではあったが、八幡と同じ時を過ごしてきた二人には、悲しきかな、八幡の浅はかな考えなど読めてまっていた。

 その二人の様子に、平塚もある程度の事を察する。

 そして顔を見合わせ、奉仕部顧問と女子部員は深いため息を吐いた。

 

 

「…平塚先生。やはり、あの男は来なかったのですね」

 

 

 雪乃の確認に、平塚は沈痛な面持ちで頷く。

 同時に、「そこまでして私から逃げたいか…」と、なんだか悲しい気分にもなった。

 もし―――。いや、もはや確実に、八幡が全力で平塚を避けているのであれば、彼は躊躇なく『穏形術』を使っているだろう。そうなっては、平塚単体で八幡を見つけるのは困難だ。

 なぜなら、この陰陽塾の歴代でも有数の穏形術使いである八幡を確実に見つけられるのは、講師を含め、陰陽塾では二人しかいないからだ。

 

 すなわち、穏形する彼の霊気を『視れる』ほどの高い霊視の才能を持つ雪乃か、あるいは、生成りの力で穏形を見破れる結衣の二人しか。

 

 その点において、二人は確かにに八幡のストッパー足り得ているのである。

 

 

「あぁ。まさか、比企谷がこうまでして私から逃げようとするとは…。ただちょっと明日の講義で使う資料運びを手伝ってもらおうとしただけなのに…」

 

 

 平塚は、それこそ婚活パーティの翌日のような落ち込みようだった。

 その哀愁すら沸いてしまいそうな姿に、雪乃と結衣は思わず同情してしまう。

 

 

「平塚先生。お気になさらないでください、悪いのは全部あの男なのですから…」

「そうだよ先生! 元気出してっ! ヒッキーにはあたし達からもちゃんと叱っておきますから!」

「お、お前ら…」

 

 

 奉仕部ガールズの慰めの言葉に、平塚は涙をぬぐう。

 女子高生に慰められるアラサーという、なんとも情けない光景であったが、なぜか妙にしっくりくる光景であった。普段から、手のかかる子供(八幡)の世話をしている奉仕部ガールズ(母親たち)の賜物である。

 そんな奉仕部ガールズの慰めで立ち直った平塚は、あらためて辺りを『見』渡した。

 すると、平塚の目に見慣れぬものが入ってくる。

 それは、ただ霊視で『視る』だけでは、確かに違和感はあるが、陽の気の塊でしかない。

 だが、普通に自分の肉眼で『見る』と、それが異様な光景であるとすぐに分かる。

 疑問を確かめるべく、平塚は奉仕部ガールズの二人に、問いかけた。

 

 

「ところでお前たち―――、こいつはいったいどうしたんだ?」

 

 

 平塚は、目に入ったそれを顎で指し、雪乃と結衣に説明を求める。

 それに対し、結衣は気まずげに目を逸らし、雪乃は「あぁ…」と、声を漏らした。

 

 

「いえ、特に先生にお話すようなことでもないのですが……。ただ、彼が私たちに対して不貞なことを言ったので、ちょっと調きょ……ではなく、教育的指導を施したまでです。これはその副作用とでも思っていただければ結構です。ですから、先生もあまりお気になさらないでください」

「そ、そうか……雪ノ下。なら、仕方ないな…うん」

 

 

 そうは言うものの、平塚は気になって仕方なく、ちらりとそれを見る。

 いったい、雪乃はどんな調きょ―――もとい、教育的指導をしたのか、あるいはどんな調きょ―――もとい、教育的指導をされればこうなってしまうのか。

 平塚は、床に蹲(うずくま)る彼―――材木座義輝を見て、そう思った。

 だが、不思議と聞こうと言う気にはならない。なぜなら、それを聞いてはいけない気がしたからだ。

 平塚はもう一度、ちらりと材木座を見る。

 その彼は、最早何かに憑りつかれているかのように、うわ言で何かを呟いていた。

 

 

「す、すみません、すみません、ごめんなさい。すみません、すみません、ごめんなさい、許してください。だ、だって、厨二病という特徴を抜いたら、ボクのアイデンティティ無くなっちゃうじゃないですか。厨二病のないボクなんて、ただのデブキャラでしかありませんし。だからやめてください、お願いします。ボクの口を塞がないで、お願いします。あ、あ…あ…あぁああああぁぁぁ―――」

 

 

 見なかったことにしよう。平塚は今見た映像を、脳から振り払おうと首を振った。

 幸いなことに、平塚には話題転換の矛先がすぐそこにあった。

 しげしげと、それを見つめ、平塚は、今度は雪乃と結衣の隣に居る彼女達の式に話題を移す。

 

 

「ふむ。これが例の、ウィッチクラフトの新型の式か…」

 

 

 平塚の視線に応じるように、『ゆきわん』と『ゆいにゃん』がニッコリと微笑む。

 どうやら、変則的な基本動作であるようだ。

 中身のない自立式には決してできない行動に、平塚は感嘆した。

 

 

「ほう、これはすごいな…」

 

 

 平塚は、すぐに視界を切り替えて式の中を『視る』。霊視により、平塚は一瞬で、式の中に存在する「霊的存在」を感知する。その技術に、平塚は感心したように頷いた。

 

 

「なるほどな、これはおもしろい。まさか、霊的存在を式に入れるとは……。なるほど、いわばこれは、疑似的な使役式というわけか。しかし、この式の形状は―――」

 

 

 そこまで聞いて、その様子を見ていた式の主である現実の雪乃と結衣はあわあわと焦る。

 

 

「あ、あの平塚先生。べ、べつにこれは由比ヶ浜さんに、ねこみみがついていたら可愛いんだろうなと、思ったわけじゃなくてですね……」

「せ、先生。あたしも! あたしも、ゆきのんがいぬみみだったら可愛いんだろうなーっておもったわけじゃないんですよ! たまたま。たまたまです!」

「そもそもですね先生。これは、あの男から身を守るための、私たちなりの防衛手段なのです。放課後の時間を私たちのような美少女と同じ部室でずっと過ごすのですから、あの男がいつ不埒なことを考えて、血迷うか分かりません。そうならないためにですね……」

「そ、そうなんです先生! ヒッキーって、ときどきあたしたちの胸とか脚とかチラ見してるから、いつそう言う気持ちになっても、おかしくないっていうか……べ、べつにいやってわけじゃないんですけど……あっ! 今のなしっ! お願い先生っ! 今のは聞かなかったことにしてくださいっ!」

 

 

 様々な言い訳をあわあわしながら言う奉仕部ガールズに、平塚は苦笑し、

 

 

「わかった、わかった。お前らの言い分はわかった」

 

 

 向けられる雪乃と結衣の視線に、「まいった」と、両手を上げた。

 なんとも、微笑ましい光景だと、平塚は思う。

 いくら言い訳したところで、彼女達、奉仕部ガールズの思惑など手に取るようにわかる。と、いうより最初に二人とも口に出していたことに気づかないのだろうか。

 まだ出会って数日しか経っていないはずなのだが、結衣との出会いが、まさか雪乃をここまで変えるとは、予想以上の成果だった。

 

 願わくば、もう一人の方にも影響があれば万々歳なのだが―――。

 

 そこまで考え、平塚は自分の考えがとてつもない希望論であることに思い至った。

 平塚は思い出す。二年前、はじめて八幡に会ったときのことを。

 彼の心に潜む闇は、雪乃以上に根深い。それを変えることは簡単ではないはずだ。

 だが、同時に平塚は思う。

 

 この二人ならば、いつかきっと――-。

 

 

「いやはや、仲が良くて結構なことじゃないか。この調子であの捻くれ者のことも頼むぞ、二人とも」

 

 

 そう口添えし、平塚はパチリとウィンクする。

 本人が無駄に美人なため、普段なら鼻につくその仕草も、妙に様になっていた。

 

 

「……えぇ。まぁ、大変不本意なのですが、先生の直接の依頼なので無碍にもできませんし、あの男の事は任せてください。私たちできっちり更生させますから」

 

 

 雪乃は「ふふっ」と、いつもより少し優しい顔で頷く。次いで、結衣が「ふんすっ」と、気合いを入れたように、拳を握りしめた。

 

 

「任せてください! あたしたちでヒッキーのこと真人間にしてみせますから!」

 

 

 もし、本人が聞いてたのならば「よけいなお世話だ」と、口を曲げそうな物の言いようであった。

 だが、平塚は二人の言葉に満足げに頷く。

 最初は、確かに依頼だったのかもしれない。だが、今の雪乃と結衣からは、確かに八幡のことを思う気持ちが見て取れた。

 二年前。封鎖された病室で初めて出会ったあの危うい彼を、心から心配する者が出来たことに、平塚は心の底から安堵する。あとは、その彼自身さえ、変われば―――。

 

 

(比企谷。ここには、お前の事を心配する者が二人もいるんだ。だから、お前も―――)

 

 

 そこまで思い、平塚ははにかむように自嘲した。

 

 

「ははっ、なんとも心強い言葉じゃないか。……ありがとうな、二人とも」

 

 

 その最後の言葉は、一体どう言う気持ちで言ったのか平塚自身にも分からなかった。

 ただ、一つだけ確かなこともある。

 本人がどう思っているかは皆目見当のつけようがない。が、平塚から見たら、二年前のあの日からずっと、平塚が気にかけていた孤独な彼は、もう―――。

 

 

「さしあたっては、彼の更生プログラムを真剣に考えなければいけないわね。由比ヶ浜さん、手を貸してもらってもいいかしら?」

「もちろんだよゆきのん! 二人で頑張ろう!」

 

 

 独りでは、なくなっていた。

 その事実に、平塚はまた優しげに微笑む。

 

 

「さて、それじゃあそろそろあの愚か者を探すとしようか」

 

 

 ぱんぱんと手を叩き、平塚は二人の意識を自分に向けさせた。

 二人の視線がこちらに向いたのを確認すると、平塚はポケットから葉を取り出し口にくわえた。

 そして、いつものようにライター代りの呪符で葉に火を点けると、少し考えるように腕を組む。その光景に、結衣は「あ、あれならあたしでもできそう!」と、目を輝かせ、雪乃は初めてそれを見たときの八幡と同様に、無駄にきめ細やかな技術で編まれた呪符と、その使用方法に何とも微妙な気持ちになった。

 ふーっと、一回煙を吐き、平塚は話を続ける。

 

 

「とりあえずは、比企谷の居場所だな…あの小心者のことだから、塾内にはいると思うのだが―――」

「あ、それなら大丈夫ですよ先生! さっき、平塚先生の名前を出してヒッキーにメールしたらすぐに戻るって言ってましたから!」

 

 

 と、にこやかに八幡の最期通告を告げるのだった。

 いったい、いつの間に―――。と、雪乃は親友の技術に少しだけ感心した。

 それにしても、雪乃はふと疑問に思う。あの捻くれ者にしては些か素直すぎる気がする。いったいどんなメールを送ったのだろうか?

 そして、結衣のその言葉に平塚は再び満足げに頷いた。

 

 

「でかしたぞ由比ヶ浜! そうか、そうか、すぐ来るか。うん、やはり学生は素直な方が可愛げがあっていい。うん、だんだんと比企谷も変わってきたということだな。だが―――」

 

 

 そこまで言って、平塚はニヤリと唇を吊り上げた。

 その少し邪悪な笑みに、雪乃は疲れたようにため息を吐き、結衣は帽子の中の犬耳がピンと逆立たせる。完全に自業自得ではあるのだが、雪乃と結衣は少しだけ八幡に同情してしまうのだった。

 

 

「あの比企谷(捻くれ者)には、少しばかり教育的指導が必要なようだな…」

 

 

 平塚の視線の先には、『ゆきわん』と『ゆいにゃん』。二体のドールファンタズマの姿。

 それを使って、何かよからぬことを考えているのは、誰の目にも明らかだった。

 

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 思えば、それが悪夢の始まりだった。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

「ほう、そういう事情ならば我が協力しないわけにはいかぬな」

 

 

 数分後、訓練場では無理やり現実に呼び戻された材木座が「ニヤリ」と笑っていた。

 その嬉々とした様は、どうやらさっき八幡にしてやられたことを相当恨んでいるらしいことが、すぐに分かるほどであった。だが、雪乃は同情などしない。

 なぜならこうなった原因は全部、八幡の自業自得であったからだ。

 

 

「ふふふ、では発表しよう! 今回、比企谷を懲らしめる作戦は名付けて! 『ドキッ! 呪術訓練場に入った瞬間お化けが出たよっ! IN陰陽塾!』だあぁああああああ!」

「いえぇーいっ!」

 

 

 平塚の叫びに呼応し、結衣がハイテンションに乗る。

 まるで、子供みたいにはしゃぐ平塚(大人)に、雪乃は呆れてため息を吐く。

 もしこの場に八幡が居たら「先生、いい年してなにしてるんですか…ていうか、そのタイトルってまんま80年代―――」と、口にだし、衝撃のファーストブリットをくらっているところだろう。

 唯一の良心だった結衣がノリノリでこの企画に乗っかったため、この場において本当に唯一の良心となってしまった雪乃は辟易とした。

 

 

「……あの、平塚先生? これはいったい何なのでしょうか?」

 

 

 雪乃の至極真っ当な疑問に、平塚は「ノリの悪い奴だな…」と、呆れたように腕を組んだ。

 その、自分が悪いみたいな空気に、雪乃は少しだけムッとした。

 

 

「いいか、雪ノ下。比企谷の捻くれ具合は、それはもう天然記念物ものだ。そんなあいつが、ちょっとやそっとの事では変わるはずがない。ここまでは分かるな?」

「…まぁ、その通りですね。あの男は、つくづく集団の心理が分からないぼっちの達人ですから」

 

 

 平塚の言い分に、雪乃はとりあえず納得する。

 だが、彼女の瞳には相も変わらず平塚への疑わしげな光が宿っている。

 それに応えるように、平塚はむんっと胸を張った。瞬間、平塚の揺れる胸部に、雪乃はさらに精神的なダメージを受けた。

 

 

「そこで、だ。私は考えたわけだ。だったら、一度、あの捻くれ者にはぎゃふんと言わせなければいけないとな。これは持論だが 躾に一番効くのは痛みだと私は思うのだよ」

 

 

 平塚は言葉を続けた。

 

 

「それに、都合の好い事にここには新型の式『ドールファンタズマ』があるからな。式神の使役の訓練もかねてやるのだから、悪い話ではないだろう?」

 

 

 そう言う平塚の視線は、結衣へと向けられていた。

 元来、陰陽塾に入る予定のなかった結衣は、陰陽師に関する知識に疎く、陰陽塾内では落ちこぼれとして扱われている。平塚は、その改善も込みで、この作戦を思いついたのだ。

 だが、それでも雪乃は渋る。雪乃はどうしてか、ひどい胸騒ぎを覚えていたからだ。

 

 

「で、ですが、比企谷くんを懲らしめるためとはいえ、不安定な試作品の式をそんなことに利用するのはいかがなものでしょうか? それに、私たちは塾生ですから、まだ未熟な身ですし―――」

「なーに、その辺りは心配いらないさ。元祓魔官の私がいるのだぞ? 問題はないさ」

 

 

 そこまで言って、平塚は「話は終わった」と言わんばかりに式符に呪力を込める。

 そして、式が具現化され、実態を持つ。

 それは最初に材木座が実体化させた、材木座自身を模した「青い材木座」のドールファンタズマの式神だった。

 

 

「と、いうわけだ、二人とも。この材木座の式神を幽霊仕様に魔改造するぞ! ほら! どんどんやっていけ!」

 

 

 平塚の言葉に、結衣と材木座は「おー!」と、手を振り上げる。

 最早、あきらめに似た感情で、三人を見ながら、雪乃は疲れたように額を押さえてため息をつくのだった。

 

 

「そういうことであるなら我は角でも生やすかな。ハッタリの効いた我の式にふさわしい奴を!」

「ふむ。だが材木座。それでは幽霊と言うより鬼になってしまうのではないか? 迫力はあるかもしれんが、些か恐怖という概念からは離れるような気がするな」

「ふむん、一理ある。ならば平塚教諭、マントならどうだろうか? それならば、幽霊の羽織る霊布のようで気味が悪いと思うが」

「お、なるほど、それは名案だ。ならば私は火の玉でも浮かばせるか。心霊スポットに火の玉は付き物だからな」

「ほう、さすがは平塚教諭、やりますな。だったら我は右手に鉈でも持たせて、某ひぐらしのごとく―――」

「ひ、平塚先生。それに財津くんも。そんな簡単に言いますが……」

 

 

 お絵かきでもするような気楽さで言う二人に、雪乃は慌てて釘を刺そうとした。

 しかしその雪乃に、結衣が抱き着く。

 

 

「ゆきのーん! あたしたちは何しよっか!」

「ゆ、由比ヶ浜さん!?」

 

 

 突然の出来事のに驚く雪乃に、結衣はあっけんからんと微笑んだ。

 

 

「心配しなくても大丈夫だよゆきのん。要はさっきまであたしたちがやっていたことを、皆でやろうってだけでしょ? あたしにもできたんだからきっと大丈夫だよっ!」

「い、いえ、由比ヶ浜さん。そう言う問題ではないのよ。私が言いたいのは―――」

 

 

 けれど、雪乃がそこまで言ったときには、結衣はすでにそこにはいなかった。

 

 

「あ! だったらあたし効果音付けたいな! ほら! 幽霊って、こう『ドロドロ~』って言いながら出てくるじゃん! あれな感じ!」

「待て、由比ヶ浜。だったらそんなありきたりな音じゃなくて、なんかこう、壮大なファンファーレとかをな…」

「ほぉーそれは良い考えだな、平塚教諭。ならば、ついでに登場シーンに何か口上を喋らせるのもよいかもしれん。こう、壮大な我の配下にふさわしい素晴らしい口上をだな―――」

「おぉ! やるじゃん厨二っ! だったらさ、声も工夫しようよっ! みんなの声をサンプリングして、エコーなんかもかけてっ! その方が絶対ウケるってっ!」

「え? あの? 三人とも、それ本気で言ってるんですか? ほんとにやるんですか?」

 

 

 雪乃が恐る恐る確認したが、他の三人は、もうろくに返事もしない。全員真剣な面持ちで腕組みし、ああでもない、こうでもないと唸っている。

 

 

「……もっとデザインをだいたんにすべきか。……いっそ、足でも増やすか……」

「ほう、確か北欧神話のスレイプニルは八本足であったな……いや、むしろこの場合ケンタウルスというのが妥当かもしれぬな」

「ヒッキーが驚きそうなこと……あ、そうだ! ピカーって光らせようよっ! そんで、光に合わせてみんなの声で『わっ!』って言うのっ!」

「……ふむ。女朗、お主もやるな。……あとは、カッコよさも追及したいものだ。マントの色をシルバーとかゴールド……いっそ、虹色にするのも……」

「いや待て、材木座。それでは驚かす前に比企谷が気づいてしまう。だから、ここは敢えて色ではなくマントの形にこだわってだな……」

「ねぇ! 顔にハートマーク付けようよ! その方が絶対可愛いよっ!」

「「それはないっ!」」

「え~っ!」

 

 

 たたずむ『ドールファンタズマ』を見つめながら、ぶつぶつと呟く結衣と平塚と材木座。式神を見つめる瞳がいつしか怪しげな光を放っている。雪乃はごくりと生唾を飲んだ。

 

 

「あ、あの、三人とも? 時間は限られているのだし、もうその辺で―――」

 

 

 やめませんか? そう続けたかったのだが、雪乃が口にするよりはやく、

 

 

「そうであった! 急いで改造せねばっ!」

 

 

 材木座が叫び、平塚が『ドールファンタズマ』を式符に戻し。

 そして、その式符を「結衣(・・)」に渡す。

 

 

「調整している暇はないから一発勝負でいくぞ! やれ! 由比ヶ浜!」

「は、はいっ!」

 

 

 平塚の号令に、結衣は決心したように応じ。

 材木座は「うむ」と頷き。

 雪乃は思考を停止させた。

 残念ながら、まるで徹夜明けのようなテンションの彼女らに、それが誤った判断だと区別できるだけの思考は持ち合わせていなかった。

 いったい、どうしてこうなったのか、雪乃は目の前の光景を見ながら思う。

 もしこの場に、もう一人の奉仕部部員が居たら、この奇行を止められたのかもしれない。

 それは、彼が数々の「トラウマ」と言う名の不条理を浴びせられてきたから故に身に着いた、鋼のメンタルを評価しているからこその思いだった。

 

 

(あぁ…比企谷くん。今ほど、あなたに傍にいてほしいと思ったことはないわ…)

 

 

 そして、雪乃は覚醒した頭で目の前の光景を『視る』。

 幸か不幸か、他人より霊視能力が優れる雪乃には、その変化がすぐに分かった。

 結衣の唱える呪文によって、魔改造されていく式符。

 

 そこに群がるこれまでより、遥かに(・・・)大きな(・・・)霊的存在。

 

 それは明らかに、人工的な式符ごときが封じれる存在ではなかった。

 刹那、カッと式符が光る。

 雪乃は無駄だろうと、心の底で思いながらも、必死に手を伸ばした。腰の呪符ホルダーから一枚、呪符を取り、そして―――。

 

 

「ダメよ! 由比ヶ浜さん! 今すぐその式符を放してっ!」

「ふぇ?」

 

 

 瞬間、結衣の持つ式符が盛大に暴れ出す。

 それは、呪術訓練場崩壊のわずか三分前の出来事だった。

 

 

 

 

         *

 

 

 

 

 大切なのは、雪ノ下、由比ヶ浜、それに平塚先生の奉仕部ガールズ(?)の虫の居所だ。

 由比ヶ浜から秘密のメールを受け取り、いつも昼飯を食べるマイ・フェーバリット・スポットから、呪術訓練場に向かって全力疾走しながら、俺はそんなことを考える。

 え? 逃げたんじゃないのかって?

 ハハッ(某ネズミのマスコット風)、何を言ってるのかなキミは。

 あれは逃げたんじゃない。そう、あれは訓練だったのだ。

 陰陽塾内を、穏形したまま全力疾走して、体力と霊力の持続力を高めるだけでなく、穏形の訓練にもなる。一石二鳥どころか、三鳥の素晴らしい訓練なのだ。

 俺ってばマジ策士。

 べ、べつに、平塚先生にビビったわけじゃないんだからなっ! ホントなんだからなっ!

 はーはっはっはっはっはっは。はーはっはっはっはっは。はぁ……。

 

 

「あいつら、何土下座で許してくれるかな…」

 

 

 はい、ただへタレただけです。本当にすみませんでした。

 自らの過ちに気づき、俺は億劫になる。

 だって仕方ないじゃん。平塚先生怖いじゃん。あの人、婚活パーティーの翌日とか、普通に新作の呪符の実験台として呼び出したりするんだぜ!? どんだけ俺の事好きなんだよ!?

 あまりに理不尽なアラサー講師の所業の数々を思いだし、俺は溜息を吐く。

 願わくば、平塚先生の機嫌がいいことを祈るばかりであった。

 

 

「……あー、とうとう来ちゃったよ……」

 

 

 そして、ついに俺は呪術訓練場の前まで来る。訓練場の鉄の扉の重さが、今の俺の内心を現しているようで、なんとも憂鬱な気分だ。

 これ、なんて心理の扉? あ、ミスった真理か。いや、ある意味真理か。

 けれど、いつまでもこうしていたら何も始まらない。俺は決意し、訓練場の扉に手をかける。

 その矢先、ポケットの中のスマホがブーブーと、震えた。

 外国人のメーラーダエモンさんからのメールが、あまりにもうるさいから、常にマナーモードにしている俺の目覚まし時計付き高性能暇つぶしが震えた音だ。

 マナーモードの時間が長いから、メールではない。

 俺は、ポケットからスマホを取り出し、発信者の名前を確認する。

 

 

「あ? 由比ヶ浜?」

 

 

 電話の発信者は由比ヶ浜だった。

 俺は不審に思いつつ、画面の着信ボタンをタッチする。

 よくよく考えてみれば、いったい何カ月ぶりの着信だろうか? 過去、目覚まし機能付き暇つぶしでしかなかった俺のスマホに、着信が入ったのだ、少しだけ気分がいい。

 ていうか、うちの親。少しは息子に電話しろよ。

 高ぶる鼓動を落ち着かせ、俺はスマホを耳にあてる。そして、約数カ月ぶりの携帯越しの会話をするため、俺はゴクリと唾を飲んだ。

 

 

「あー、由比ヶ浜か? 悪い悪い。どうやら今日の昼に食べた焼きそばパンが―――」

『比企谷くん! いまどこにいるのっ!?』

 

 

 約数カ月ぶりのスマホ腰の電話の相手は、予想以上に緊迫した声だった。

 何事だよ。ていうか、この声―――。

 

 

「お前、雪ノ下か?」

 

 

 正直まさか、電話の相手が雪ノ下だったことに驚く。

 そして、別の意味でも俺は驚いていた。

 こんなに焦った雪ノ下が初めてだったからだ。だから一瞬、声の主が誰だか分からなかった。

 俺はこの謎の電話の事と次第を聞くため、雪ノ下に問いかけた。

 

 

「おい、雪ノ下。なんで由比ヶ浜の携帯からお前が電話してくるんだ? ていうか、由比ヶ浜は? そもそも、お前いったい俺に何の用事があるんだよ?」

 

 

 なるべく平静な口調を心がけ、それとなく確認する。

 だが、それに対する雪ノ下の返答は、それどころではなかった。

 

 

『余計なことを聞かないでっ―――! 比企谷くんっ―――! はやく答えなさいっ―――! あなた今、どこにいるのっ―――!?』

 

 

 途切れ途切れに、再度電話向こうから問いかけられる。

 というより、こいつ、まさか息切れしてる?

 いよいよ以って不自然だ。

 俺は愕然とした面持ちで雪ノ下の問いに応える。いつの間にか、唇も震えていた。

 

 

「わ、悪い……あー、その、今は、呪術訓練場の前に着いたとこだな。すぐに入るから、もうちょい待って―――」

『だめよっ! 比企谷くんっ! 入って来ちゃダメっ!』

 

 

 それは、あの雪ノ下の口から出たとは思えないほど激しい言葉だった。

 刹那、背後で、ガシャンッ、バタンッ、と何かが暴れ回っているような音が聞こえる。それと、同時に耳にキーンッと、響く誰かの叫び声―――これは、悲鳴か?

 俺はこの瞬間、完全に悟った。

 

 あ、これ、アカンやつだ、と。

 

 

『もう、あなたの霊気は登録済みだわっ―――! まさか暴走っ! とにかく危ないわっ! 比企谷くんっ! 早くにげっ―――!?』

 

 

 そこまで言って、雪ノ下の声は途切れた。

 あまりの出来事に、俺は絶句する。

 だが、すぐに意識を取り戻し、俺は電話口に向けて必死に彼女の名を呼んだ。

 

 

「おいっ! おい、雪ノ下っ! どうしたっ……! 何がっ……!」

 

 

 訳が分からないまま俺は電話口に怒鳴る。が、いくら叫んだところで雪ノ下からの応答はなかった。俺は息を呑み、必死に電波の先へ耳を澄ます。直後、

 

 

『―――喼急如律令(オーダー)!』

 

 

 その雪ノ下の叫びと共に、プツンッと、通話が切れた。

 ツー、ツーと電子音が木霊するスマホを片手に、俺は茫然と立ち尽くす。

 俺はこれまで聞いたことがなかった。雪ノ下が、あの常に優雅に、最早美しいと表現すべき呪術を使う雪ノ下雪乃が、優雅さのかけらもなく「喼急如律令(オーダー)」という言葉を使うのを。いつも、俺を罵倒したり、言霊を唱える、あの精美さすら感じさせる声が、こんなにも荒々しく乱れるのを。

 

 

「は、はははは……なんだよ、これ……」

 

 

 別に「虎牙破斬」と言われたわけではないが、思わず、乾いた笑いが出る。

 と、今度はメールの受信音がスマホから流れる。

 受信画面をタッチして、発信相手を確認する。材木座からだった。

 だが、そのメールの内容に俺は戦慄する。

 タイトルはなし。それも、慌てて打ったのか、文字変換すらされていない内容で、しかも、よく見たら間違った字で、ただ一言―――。

 

 

『にでろ』

 

 

 全身から、嫌な汗が噴き出してきた。

 心臓の鼓動の早まりが、嫌でもわかる。

 もう、やることは―――やるべきことは決まった。たったひとつだけ策はある。とっておきのやつだ。いいか。息が止まるまでとことんやるぜ……フフフフフフ……。

 

 

「……逃げよう」

 

 

 決断即行動だった。それはもう、某ジョースター家のごとく。

 だが、いざ逃げようとしたそのとき、メキメキと、なにかが無理やり劈(つんざ)くような、鈍い音が俺の耳に届いた。

 それは、某「なんということでしょう!」のフレーズでお馴染みのリフォーム番組で、家を解体するときに聞く音に似ていた。と、いうよりそのままその音であった。

 思わず、視線を音の方向へと誘ってしまう。

 音の方角は、呪術訓練場の屋根の方。俺の視線は、自然と上へと引き寄せられた。

 だが、俺は後にそれをひどく後悔することになる。

 そんな意味のないことをせず、俺は足早に逃げるべきだったのだ。

 俺が、上を見上げたその刹那、

 

 

「…は?」

 

 

 呪術訓練場の屋根を突き破り、青い(・・)何かが飛び出した。

 

 瞬間、辺りに雷鳴がとどろき、しかも―――耳を疑ったが―――ファンファーレが鳴り響く。

 次いで、パカラッ、パカラッと勇ましい蹄の音が俺の耳を劈(つんざ)き、次の瞬間、暗闇の中で、突然シャッターを切られたかのような、激しい光が俺の目から視力を奪い去った。そして、さらに刹那、まるで壊れたラジオのような、何重にもエコーのかかった複数の声が、俺の聴力をも奪う。五感の主要器官である二つを奪われた俺は為す術なく、その場に跪き、集中力を失ってしまったため、穏形も強制的に解かれた。

 

 そのすべてが、僅か数秒足らずのことだったため、俺には何が起こったのかさっぱりわからなかった。

 そして、唖然と立ちすくむ俺の頭上に、影が落ちる。

 僅かに回復した視力で、俺はとっさに上を見上げると、そこには―――。

 

 無数の火の玉を纏い、背に禍々しい形のマントを羽織り、右手にはなぜか某ひぐらしのごとく鉈を持ち、そして、どうしてそうなったのか、足が全部で八本ある。

 青い材木座が―――。

 というか、キメラが―――。

 

 

 『颯爽とうじょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 剣豪将軍! 材木座よしてぇええええええええええええる!』

 

 

 刹那、青い材木座の放ったレーザービームが、呪術訓練場を包み込む。

 2012年の春。それは後々、新塾舎が完成し、二人の土御門が入塾するそのときまで語り継がれることになる物語の始まり。

 

 陰陽塾三十六期生の風雲児。【三六の三羽烏】が起こした、最初の事件だった。

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 今回の事件における被害統計。

 陰陽塾、呪術訓練場―――全壊。陰陽塾、特別棟―――多少の被害を確認。事の対処に当たった教員及び実技講師、並びに要請により参上した陰陽師の負傷者、計―――23名。

 

 なお、今回の事件を、陰陽寮はフェーズ2相当の霊災として扱い、事件の関係者には事情聴取のうえ、それ相応の対応が求められた。

 それに加え、事件関係者のほとんどが学生であったうえ、事件の責任はほぼウィッチクラフト社によるものと結論され、同社もそれを承認する。奉仕部にとっては、商品発売前の段階であったのが攻を奏した。もし販売後であったのならば―――。結果、関係者の待遇は以下に減罰される。

 

 平塚教諭は減俸五カ月。直前に申請された有給休暇は取り消され、予定していた婚活パーティをキャンセルせざるを得なくなり、平塚教諭はまた、婚期を延ばすことになった。

 奉仕部トリオは、停学一週間の上、停学明けの授業をすべてを反省文に費やすこととなる。さらに、夏の奉仕活動への強制参加が決められ、比企谷は貴重な夏休みも、働かざるを得なくなった。

 

 

「は? ウソだろ? 俺、休みの日とか働きたくないんですけど…」

「有り得ないわ…この私が、停学処分だなんて…屈辱(くつじょきゅ)よ…」

「えへへ、ヒッキー! ゆきのん! 夏休みも三人一緒だね!」

「あのー、我は?」

「カムバアァアアアアアアアアアック! マイマリイィイイイイイイイッジ!!!!」

「誰か…誰か早く貰ってあげて…」

 

 

 なお、これは追記ではあるが、

 その後『ドールファンタズマ』が市場に出回ることは、金輪際なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八話 エンカウンター・ボッチ


 こんにちわ。おひさしぶりです。
 大学忙しいです。就活に、平常授業に、公務員の試験講座。けれど、頑張ってます!

 今回は久しぶりの投稿になります。本当にすみません。

 それでは、第八話「エンカウンター・ボッチ」どうぞ(#^.^#)






 

 ――― 2012年5月某日、東京・渋谷 ―――

 

 国内有数の陰陽師育成機関、陰陽塾。

 その塾舎は東京の渋谷にある。寄宿舎からは徒歩で行ける距離だが、場所が場所だけに平日でも人の行きかいが非常に激しく、人慣れしてないぼっちマスターこと、俺―――比企谷八幡―――には、なんともつらい時間である。

 マイホームタウンこと千葉から、ここ東京に移って一年以上経つが、この人混みだけはどうにも慣れる気がしなかった。

 つまり、人混みもそれなりで、京葉線を使えば都心にもすぐ行ける千葉こそが最高ということでFAというわけだ。違うか? いや、違わないな。

 

 例の材木座が持ち込んだ式神―――ドール・ファンタズマ―――の事件から二週間が過ぎた。

 季節はすでに、春の陽気というには少々厳しい暖かさを感じるようになってきている。

 少しでも冷を取るべく、制服の袖を肘の上まで巻き上げるも、狩衣を模した制服の作りのせいで、袖がやたらと広く、いくら上げても袖がずり落ちてきてしまう。そもそも、男子の制服は色からして烏羽色だ。これからの季節、日中には陽炎すら見える熱帯地帯と化す東京の夏のことを思うと、俺はひどく憂欝な気分になった。

 

 しかも、憂欝な理由はそれだけではない。ズボンのポケットからスマフォを取り出し、電源をオンにする。

 10時30分。画面に表示された時刻は、無情にも俺に現実をたたきつける。

 陰陽塾二年「比企谷八幡」、絶賛遅刻中であった。

 

 

「なんでアカメは斬らないのに、電池は切れるんだろうな…」

 

 

 誰に言ったわけでもない愚痴が思わず出てしまう。まぁ、もともと愚痴を言えるような知人などいないのだが……。

 そもそも、どうして俺がこんな中途半端な時間に登校しているかというと、

 

 ぶっちゃけ、三十分前までの俺は、登校する気などさらさらなかった。

 

 いやだって、起きたら朝のホームルームの時間だったとか、あり得なくない? 目覚ましちゃん一体どうしちゃったの? ご機嫌がななめだったの? あ、電池切れてたか。

 経験ある人は分かると思うけど、起きた瞬間にデッドラインを越えてると、二度寝したくなるものなのだ。故に、俺は悪くない。人間の本能こそが悪い。

 というわけで、自由気ままなベッドライフを送っていた俺だったが、我が担任講師(平塚先生)がそれを許してくれるはずもなく、俺はこうして遠路はるばる登校しているわけだ。

 

 

 差出人 平塚先生

 比企谷くん、朝のホームルームの時間に君を見かけなかったので連絡します。

 聞けば寮の朝食の時間にも顔を出さなかったそうですね? もしかして体調でも崩してしまいましたか? もしそうなら、ゆっくり休んでください。折り返し、メールをお願いします。

                                           』

 

 

 これが先生から送られてきた最初のメールだ。

 ちなみに着信時間は9時ジャスト。コンマゼロ秒までジャストだった。

 あれ? 確か陰陽塾のホームルームって、9時からじゃなかったっけ? なんでメールしてんの、あの人?

 だが、寝起きだった俺は、そのときは疑問に思わず、後で『ごめーん、携帯の電源切れてたー』とでも言っとけばいいか、としか思っていなかった。

 そして俺は垣間見えることになる。平塚静という名の「アラサー独身」の真骨頂を―――。

 

 次のメールは、きっちり30分後のことだった。

 

 

 差出人 平塚先生

 比企谷くん、再度メール失礼します。

 もしかしてまだ寝てますか(笑) 今日は一日講義の日なので、私の授業が大半を占めますから、体調が良くなったら塾に来てくれると幸いです。厳しかったら、折り返し連絡をお願いします。

                                           』

 

 

 うん、ここまではよかった。そう、ここまでは―――。

 次のメールは、15分後だった。

 

 

 差出人 平塚先生

 あれ? もしかしてまだ寝てるんですか?

 さっきから数回メールさせてもらっています。なんで返信してくれないんですか?

 折り返しのメールを待ッテマス

                                           』

 

 

 次のメールは7分30秒後。

 

 

 差出人 平塚静

 ……比企谷くん、もしかして私が誰かわかっていませんか?

 平塚静デス。あなたの担任講師の平塚静デス。このあいだアドレスを交換した平塚静デス。まったく、君はメールでもコミュニケーションが苦手なのですね(笑)

 折り返しメール待ッテマス。ずっと…、ずっと…。

                                           』

 

 

 そして、3分45秒後。

 

 

 差出人 平塚静

 ……ねぇ、ホントウは見てるんでしょ?

 ねぇ? 見てるんでしょ?

 そうですか。そこまで私を無視するのなら、こちらにも考えがあります。

 ……どうする気かっテ?

 ……そんなの、わかるでレょ?

 折り返し、メール、待ッテマス。

                                           』

 

 

 そのメールが着た瞬間、俺は全力でスマフォを操作した。

 速く。何よりも速く。俺の能力の名は…ラディカル!ボッチ、スピィィィィィード! さあァァ、行くぞ!! 私はどんなところでも一人飯が、できま~す(語尾上げ)

 結果、なんとか1分52秒までに返信することが出来たわけだ。

 そして、ただの寝坊であったことが先生にバレテしまい、メールでぷんぷん(※少し表現を濁しています)と怒られたわけだが、俺は安堵の息を吐くことが出来たのだった。

 もし、1分台のメールが着ていたら―――。

 

 やめよう。だって、歴史にIFはないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第八話 エンカウンター・ボッチ ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺が通っている陰陽塾は、いわゆる名門の学校だ。そこに通うのは全国から集められた優秀な陰陽師の卵たちである。ゆえに、ここでの生活は、その一つ一つが元一般人たる俺には驚嘆する物事ばかりであった。

 いつの間にか、視界の先に、古い塾者の外観が入る。どっしりとした、年代を感じさせる建物だ。外壁沿いに植えられた街路樹や色褪(あ)せた窓枠の朱色が、神社のような雰囲気を漂わせている。その雰囲気をさらに助長しているのが、入り口の両脇に鎮座する二体の狛犬だった。

 

 

「あー、やっぱいるよな、あいつら…」

 

 

 通りたくないなーという感情が、おもむろに俺の足を止める。でも、あれの目の前を通らなければ塾に入れないのも事実であるため、俺は一つため息を吐き、諦めて足を進める。

 目の前まで来ると、二体の狛犬は予想以上の威圧感を放っており、無意識に萎縮してしまう。

 それを見咎めるように、二体の狛犬の視線が俺の方へと向いた。

 

 

『むむ?』

 

『そこの者。待たれよ』

 

 

 近づくと、左右の狛犬が警戒するように唸る。

 普段ならば決してありえない事態。あとは某子供番組のオコリン、ニコリンくらいだ。

 だが、ここはその界隈にその名を轟かす陰陽塾。こんな摩訶不思議な出来事もまた、日常の一部なのである。

 

 

「うっす、朝からご苦労さん、『アルファ』、『オメガ』」

 

 

 警戒心むき出しの二体の狛犬。けれど、俺はそれを無視して片手を上げた。

 この摩訶不思議な狛犬は、名を『アルファ』と『オメガ』という。

 陰陽塾の入り口にドンと構えるこの2体の狛犬は、塾長である倉橋美代(くらはしみよ)の式神であり、陰陽塾で習う『汎式陰陽術』でいうところの高等人造機甲式と呼ばれるものだ。

 

 

『おぉ、これは比企谷八幡ではないか。我らとしたことがうっかりしておった』

 

『いやはや、すまぬ。いやなに、このような時間に塾舎に近づく者など、普段は居(お)らぬからな、ついのぅ』

 

 

 初めこそ警戒した『アルファ』と『オメガ』であったが、侵入したのが塾生(俺)だと分かり、すぐに警戒を解くと、二体の狛犬は交互にそう言って、「ほっほっほっ」と笑った。

 その厳つい見た目に反し、アメリカ映画の「おもしろ黒人」並みにフランクな対応だった。

 

 

『うむ。しかしな比企谷八幡よ、それも仕方のないことなのだ。なぜならば、登校時間をとうに過ぎておるのにも関わらず、塾舎に近づく目の腐った怪しげな“ゾンビ”姿の男』

 

『左様。警戒せぬわけにはいかぬ。タイプオーガ(鬼)でもあったりしたら大変な事態であるからな』

 

『うむ。だから許せ、比企谷八幡』

 

『我らとてワザとではなかったのだからな』

 

「……そーかよ」

 

 

 そう交互に言って、笑う二体の狛犬に、俺は辟易とした気持ちにさせられた。

 いや、雪ノ下と然り、お前ら然り、どうして俺(ひと)のことを霊災扱いすんだよ。ていうかお前ら、それは俺が日常的にゾンビに見えるということだよな? なに、どういうことなの? ゾンビ嫌いなの? それとも俺の事が嫌いなの?

 まぁ、少なくとも雪ノ下に至っては後者だろうな、と考えながら、俺は憮然とした。

 そんな俺の顔を見ながら、二体の狛犬は「ほっほっほっ、冗談じゃよ」と言う。

 塾生に対して、冗談交じりに話すその姿勢は、気さくで好印象的である。だが、どうにも俺はこの二体の式神のことを苦手に感じていた。

 

 

「はぁ…用がないなら塾に入っていいか?」

 

 

 付き合ってられない。そう暗に言葉を濁し、俺は塾の扉を潜る。

 しかし、それを拒むように塾舎の自動ドアが俺をシャットアウトする。どーいうことなの? と、ドアを睨むと、『アルファ』と『オメガ』は咎めるような声で、俺の行く手を阻んだ。

 

 

『これこれ、比企谷八幡。待て、待たぬか』

 

『左様。話はまだ終わっては居らぬぞ』

 

 

 その言葉に、俺は振り返る。すると、二体の式から僅かに伸びる「霊糸」が『視』えた。

 瞬間的に、俺は大体の事を理解した。そして、呆れかえった。

 たかだか、塾生ごとき(・・・)を足止めするために、日本最高峰の式(・・・・・)が、そこまでするか、と。

 

 

『して、比企谷八幡よ。如何にして遅刻した?』

 

『塾則第十二項。塾生は規定された時間までに登校し、教室の席に着き講師の到着を待つように。そう記してあるはずだが』

 

『左様。それを踏まえたうえで、もう一度問おう。比企谷八幡よ。如何にして遅刻した?』

 

「あぁ…えーっと…」

 

 

 うわ、めんどくせー。思わずそう思ってしまった俺を誰が責められようか。

 どうせ、この後には某独身教師の「ファーストブリット」が待っているのだ。無駄な言い訳をするのも面倒くさい。

 もうこれでいっか、と俺は腐った目に必死に力を入れて、

 

 

「あー、そのすんません。あれがこうなって、あーなって遅れちゃいました」

 

 

 そう言って、「てへっ」と、舌を出した。

 心なしか、表情が変化しないはずの『アルファ』と『オメガ』の表情が凍りついた気がした。

 ついでに、さっきまで五月ならざる蒸し暑さだったはずなのに、若干涼しくなったような気もする。おい、誰だよクーラー入れたヤツ。

 

 

『意味不明であるぞ、比企谷八幡』

 

『左様。そして、そのような面妖な表情は絶望的なまでにお主には似合わん』

 

「知ってるよ。あと、面妖とか言うなよ……」

 

 

 それって俺が人間じゃないみたいじゃん。

 いや、まぁ、確かに。どこぞの9○1プロのお姫ちんに会ったら即「面妖な!」って言われそうな面(つら)だけどさぁ……。

 辟易とした気分に、ガリガリと頭を掻き、俺は落ちた袖をもう一度まくり上げる。

 だが、この行為に二体の式は目ざとく反応した。

 

 

『これ、服装を乱すな、比企谷八幡』

 

『然り。袖を元に戻すがよい』

 

 

 その言葉に、俺はうんざりとした。一つ息を吐き「うるせー」と言葉を返す。

 

 

「暑いんだよ。細かいこと言うなよ」

 

 

 気だるげにそう言うと、しかし二体の狛犬は「ならぬ」と穏やかに諭す。

 そして、これこそが、俺がこの二体の式を苦手とする一番の理由だった。

 見た目は、完全に無機物にも関わらず、その言動は馴れ馴れしく、妙にお節介。けれども、そこがウケたのか、この二体の式は一般の塾生には非常に受けがいい。だが、だからこそ、俺はこの二体を苦手に思う。

 好きか嫌いかと言えば、まぁ、一年も通っているんだ、それなりに愛着はある。けれど、その人の心のパーソナルスペースを平気で踏み越えることが、どうにも苦手だった。

 そのあり方は、形は違えど、俺とは真逆に位置する「リア充」、スクールカーストのトップ連中の在り方に似ている。ゆえに、その在り方は人との関わりが薄いぼっちの俺には、どうにも慣れることができなかった。

 

 

『しかし、それではだらしがないであろう。陰陽師たらんとする者なら、常に身を正さんでどうする』

 

『第一、それではせっかくの典雅(てんが)なデザインが台無しではないか』

 

「うぜぇ…」

 

 

 なにが典雅なデザインだ、と俺は渋面になる。

 鬱陶しい。悪い奴らではないが、その言葉に、苦渋の表情を浮かべずにはいられない。

 どうやってこれを乗り切ろうか。碌な考えも浮かばず、俺はまた溜息を吐いた。

 

 

「……あのな、お前ら―――」

 

「あれ? 確か君、同じクラスだよね?」

 

 

 ……おい、どこのどいつだよ。

 不意に、遮られた言葉に、若干苛立ちながら、俺はその声の主に振り返る。

 余裕を感じさせる涼しげな声だ。

 だが、同時に親しみやすさを感じさせるフランクさも併せ持っているようにも感じた。

 恨みがましげな視線を、そいつに向ける。

 するとそいつは、俺の如何にもな不快を表す目に苦笑いし、そして、実に爽やかにほほ笑んだ。その瞬間、俺は図らずも悟った。

 

 こいつと俺は、絶対に相容れない存在だと―――。

 

 

「えーっと、君は確か……ヒキタニくん、だっけ? こうやって話をするのは初めてだよね? 初めまして、俺は葉山隼人。陰陽塾二年、君と同じクラスだよ」

 

 

 そう言って、男―――葉山隼人は、またニッコリと微笑む。

 瞬間、捲り上げていた袖がまた落ちる。いろいろと言いたいことはあるが、とりあえず、

 

 お前のクラスに“ヒキタニくん”なんてやつはいない。

 

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 

 

 そいつは何やらイケメンだった。

 これをイケメンと呼ばずして何と呼ぼうかというほどのイケメンである。

 俺とは真逆の立場にいるそのイケメンは、鴉羽色の鞄と、紫黒色の竹刀袋を右肩に掛けた登校姿で、俺と目が合うとにこりと笑う。知らず知らず俺もニヤリと愛想笑いを返してしまった。

 俺が本能的に負けを認めてしまう程度にはイケメンだった。

 

 

「やぁ、さっきぶり、アルファ、オメガ。塾長から話は聞いてるかい?」

 

 

 そいつは、いとも自然に俺の横に並ぶと、「やぁ」とさわやかに手を上げた。けれど、そんな仕草のひとつひとつがやけに様になっている。汗をかいているはずなのに、そいつからは汗臭さなど微塵も感じない。むしろ、隣に並ばれたこの状況で、清涼感のある柑橘系の香りがするくらいだった。

 

 

『あぁ、葉山隼人か。話は聞いておるぞ』

 

『ご実家の方の地鎮祭の見学だそうだな。気を付けて行ってくるがよい』

 

 

 アルファとオメガが左右から口々にそう言うと、そいつ、葉山は「そっちも暑い中ご苦労様」と笑顔で返していた。まさしく、如何にもな理想の好青年像がそこにはあった。

 そんな、好印象な葉山の態度に、目の前の二体の狛犬も温和な態度で応える。

 なにか、とてつもない敗北感を味わった気分だった。

 葉山は、「ふぅー」と暑そうに、襟元のボタンを開ける。その仕草はまるで、スポーツ飲料水のCMのように清涼感にあふれていた。

 ふと、葉山と目が合う。葉山は、俺と視線が合ったことに気づき、またニコリと微笑み、そっと階段のほうを指差した。

 

 

「ヒキタニくん。今からならまだ簡易式の授業の間に合うと思うよ。急いだ方がいいんじゃないかな?」

 

 

 それは、きっと100%の親切心からくる言葉だったはずだ。

 だが、俺からしてみれば余計なお世話でしかない。俺は、少しでも早くこの場を離れたいがために、

 

 

「あ、あぁ…まぁ……どうも」

 

 

 と、少しキョドりながらも、礼を言い塾舎に入る。

 後ろから、「これ、比企谷八幡。まだ話は終わっておらんぞ」と、アルファとオメガが言うが、知ったことではない。俺はさっさとこの無駄イケメンから離れたかった。

 塾舎の自動ドアを塞ぐアルファとオメガの霊糸を無理やり切り、ドアを開閉する。

 あとはそのまま廊下を進み、教室に行けばミッションコンプリート。そのはずだった。

 

 だが、如何せん、そのタイミングに問題があった。

 

 俺は後ろの葉山隼人に気を取られ過ぎていた。だから気づかなかった。

 ガラスでできた自動ドアの先からくる、彼女の存在に。

 

 

「あら、あなた、こんな時間に何をしているのかしら。腐る前に、早くお墓にお戻りなさい」

 

「げ」

 

 

 意図せずして、俺は顔を引きつらせてしまった。

 だが、それも仕方ない。如何せん、まさかこんな所で、しかもこんな時間に、出会うだなんて思ってもいなかったのだから。

 そいつは、俺の不躾な態度に不機嫌そうに「むっ」と、顔を歪める。

 夏も間近だというのに汗一つかかずに涼しげに佇むその姿は、雑誌のモデルのように様で、目を惹いた。

 だが、その目を惹く見た目とは裏腹に、その中身が無差別の毒舌マシーン(由比ヶ浜は除く)だということを知る俺は、ただただ辟易とした気持ちにしかならなった。

 

 そう、そこにいたのは、氷の女王こと、雪ノ下雪乃。その人であった。

 

 

「あら? 今、虫の声が聞こえたわね。踏みつけないように気をつけないと」

 

 

 死体から虫にランクダウンしてしまった。いや、生きてるから寧ろランクアップ? どのみち、女王様は、俺の態度に大層ご立腹のようだ。

 もうすぐ夏だと言うのに、一気に体感温度を下げてしまった。

 

 

「ゾンビの次は虫かよ。相変わらずな塩対応だな雪ノ下。目の前にいるのに虫扱いとか、どんだけ影薄いんだよ。どこの幻のシックスマンだ。別にミスディレクションとか使えねーぞ、俺」

 

「あら、あなただったの比企谷くん。ごめんなさい気づかなかったわ。でも、この私の霊視能力を掻い潜るなんて、なかなか強力な霊のようね。除霊してもいいかしら?」

 

「元から死んでねーよ。勝手に殺すな」

 

「それとあなたもしかして、知り合い……いえ、顔見知りに会ったときの対応の仕方も知らないのかしら? 不躾谷くん?」

 

「おい、今なんで言い直した。知り合いでいいだろ知り合いで。あと、お前後ろに「谷」を付ければいいと思ってねーか? それと今の言葉、そっくりそのままお前に返すわ……まぁ、おはよう」

 

「えぇ、おはよう比企谷くん。朝からゾンビ出勤お疲れ様」

 

「結局それかお前」

 

 

 はい、ここまでお決まりのパターンである。いつもなら、この後は各々の椅子に腰かけ、由比ヶ浜が来るまでお互い読書に勤しむが、生憎ここは部室ではない。

 雪ノ下は、さっと俺の全身を眺め、目ざとく肩に掛かった鞄を見る。

 そして、ウフフと凍えるような笑顔を浮かべた。あの雪ノ下さん。やめてください凍死します。

 

 

「―――それで、比企谷くん。こんな時間にあなたは何をやっているのかしら?」

 

「あぁ…まぁ…あれだ。お前が言う所のゾンビ出勤ってやつだよ。ゾンビは夜遅くまで活動しているから、朝に弱いんだよ。いや、マジで」

 

「要するにただの寝坊じゃない……」

 

 

 せっかくのノリを意識した俺の受け答えに、呆れたように、雪ノ下はため息を吐いた。

 

 

「―――あなた、日頃から正しい生活をしていないからそんなことになるのよ。いい機会だから、これを機に少し生活習慣をなおしたらどうかしら?」

 

「お前は俺のオカンか。つかなんでお前、俺の生活習慣について知ってんだよ? なに、お前、ストーカー?」

 

「冗談は顔だけにしなさい比企谷くん。だいたい、そんな腐った目をした人が、まともな生活を送っているわけがないじゃない。どうせ昨日の夜も、私の口から言うのを憚(はばか)るような、あなた好みの映像を見ていて遅刻したに決まっているわ。だったら完全な自業自得よ。自首しなさい、比企谷くん」

 

「会って一分で警察に自首を勧められたのは初めてだよ……じゃなくて、そんなお前の口から言うのを憚るような映像なんて見てねーよ。ただ、授業の課題やってたら寝落ちしただけだ。勘違いすんな」

 

「あら、そうなの? ごめんなさい、ゾンビの日常生活がどんなものか知らなかったものだから……」

 

「だから勝手に殺すなよ……」

 

 

 そう言って、俺はがっくりと肩を落とした。

 俺、今日一日で何度ゾンビ扱いされたことか……たぶん新記録だな。あぁ、数えときゃよかったな。きっとギネスに投稿したら即刻登録されるだろうし。

 次からはちゃんと数えとくか。はてさて、一体何人が俺の事をゾンビ扱いしてくれるかなー? 楽しみだなー。

 やっぱり、やめよう。己のぼっちさを思い出す虚しい作業だと、今気づいた。

 

 

「ていうか、そう言うお前もこんな時間にどうした? まさか、学年一位の雪ノ下さんが遅刻―――」

 

「アルファ、オメガ、学長から話は通ってるかしら?」

 

『うむ。通っておる』

 

『葉山隼人はすでに来ておるぞ。急がれよ』

 

「えぇ、ありがとう」

 

「あぁ、そうですか。無視ですか」

 

 

 澄ましたような顔で、俺の言葉を可憐にスルーする雪ノ下。まぁ、その程度のことならばいつものことなので気にはならない。はぁ、俺もだいぶ感覚がマヒしてるなぁ。

 だが、ふと見えてしまった雪ノ下の表情。そこに見えた一瞬の陰りが、頭にこびりついて離れなかった。その表情は、はじめて俺があの部活に連れて行かれた時の表情に似ていたら。

 干渉すべきではない。なぜなら、雪ノ下はそれを望まないから。そう分かってはいたのだが、

 

 

「―――憂鬱そうだな」

 

 

 気づけば、俺はその言葉をポツリとこぼしていた。

 瞬間、まるで雷に撃たれたように振り返る雪ノ下。大きな目をまんまるにし、驚く顔を見せる。だが、その気持ちが分からないわけではない。俺自身、まさか自分から雪ノ下に、しかも雪ノ下のことを心配するような話題を振るとは、思ってもいなかったのだから。

 しかし、それもつかの間。ハッと何かに気づいたらしい雪ノ下は、サッと一歩後ずさりし、何かから身を守るように、自らの肩を抱きしめる。そして、ジトッとした目で俺を見て、

 

 

「あなた……まさか、ブルーな私の気持ちに付け込んで、私の体を―――」

 

「あーすまん。心配した俺がバカだったわ。お前はいつもどおりだ、こんにゃろー」

 

 

 なんだよ、偶に心配してやったのにこの仕打ち。ふて腐れる俺に、肩に掛かった髪をふわりと流し、雪ノ下は悪戯っぽく笑った。

 

 

「冗談よ。だいたい、あなたに私を襲えるような勇気があるわけないでしょう? 安心しなさい。その辺りはきちんと信頼しているから」

 

「嫌な信頼のされかただな、おい」

 

「ふふ、拗ねてはだめよ? 私が信頼する人なんてそうはいないのだから」

 

 

 そう言って、また雪ノ下は笑う。その表情には、さっきまでの陰りは見えなかった。

 その事実に、柄にもなくホッとする自分に、俺は思わず苦笑した。

 

 

「―――今日は、実家の方に入った仕事の見学に行くのよ」

 

 

 一息つき、そう雪ノ下は話を切り出した。

 

 

「自慢ではないのだけど、私の家のような名のある陰陽師の家には、それなりに大きな依頼があることがあるのよ」

 

 

 どこが自慢じゃないだ。思いっきり自慢じゃねーか。

 そこまで出かかった言葉を俺は呑み込んだ。その大きな依頼こそが、こいつの憂鬱の原因だということに薄々気づいたからだ。

 

 

「今回はいわゆる地鎮祭の依頼らしいわ。元は由緒ある古いお寺を壊した土地に、ビルを建てたいから、私の家に依頼が来たの。私たちはその見学に呼ばれたのよ。いずれ私たちも参加することだからって」

 

 

 私たち、か。雪ノ下の言う私たちとはきっと葉山のことなのだろう。

 さっきからずっと俺たちの会話を興味深げに聞いているらしい葉山は、俺の目線が自分に向いたことに気づき、爽やかな素敵スマイルで笑う。若干気まずく思った俺は、すかさず葉山から目を逸らした。

 

 

「で? それのどこが憂鬱になるんだ? 寧ろお前なら嬉々として行きそうだけど」

 

「えぇ、そうね。確かにそれだけなら非常に興味深いのだけど……ただ少し、苦手な人が居て、ね」

 

 

 そう言って、雪ノ下は苦笑した。しかし、本人は誤魔化せているつもりかもしれないが、ぼっち故に人間時観察に特化した俺には分かってしまった。

 その言葉の瞬間、こいつの視線の先に、誰が(・・)いたのかを。

 けれど、それを指摘するつもりは毛頭ない。誰しも触れられたくないことはある。それは俺にだってもちろんある。そこまで踏み込んでしまうほど、俺は無謀ではない。ここが、引き際だった。

 

 

「まぁ、誰しもが仲良くなれるんなら、戦争だって、人権問題だって、おけらだって、生まれねーしな。仕方ないだろ」

 

「―――そうね。不本意ながら同意せざるを得ないわ。あなたも、偶には好い事を言うのね。見直しそうになったわ」

 

「って、見直さねーのかよ」

 

「えぇ。だって今の言葉、ぜんぜんあなたらしくないじゃない」

 

「うわっ、ごもっともすぎて何の反論もできねーじゃねーか」

 

 

 はい、ダンガンロンパと。残念ながら「それはちがうよ!」とは言い返せなかった。

 とは言いつつも、慈悲深い氷の女王様は、俺の反応に満足したのか、ふふんと満足げに微笑んでいる。どうやら「うぷぷぷぷ」されずには済みそうだった。

 ふわりと塾舎の中に生暖かい風が吹く。

 見れば、葉山が塾舎の外に出て、道沿いを確認しているのが見えた。

 その風に吹かれ、雪ノ下の黒髪が一瞬ふわりと舞った。無意識だろうか、舞い上がった髪を彼女の白い手が優しく抑える。外を見る雪ノ下の表情は、とても穏やかに見えた。

 

 

「比企谷くん」

 

 

 不意に名前を呼ばれ、俺は反射的に「なんだよ」と問う。けれど、雪ノ下はただ無言で外を見ているだけで何も言わない。いや、これは……言葉にするのを言いあぐねているのか?

 見れば、雪ノ下の唇は少し開いて、また閉じるのスパンを繰り返していた。だがやがて決心したのか、すっと、その唇を緩めた。

 

 

「確かに、さっきまでの私が少し陰鬱だったのは否定しないわ、けど―――」

 

 

 そこで言葉をいったん切り、雪ノ下は少し上目使い気味に俺を見上げ、

 

 

「今は少しだけ、気が楽になったわ」

 

 

 そう言って、ふっと微笑んで見せた。

 いつもは由比ヶ浜にしか見せない、彼女らしいクールかつ、少しだけ茶目っ気を含む笑みで。

 

 

「迎えが来たよ、雪ノ下さん」

 

 

 瞬間、外から聞こえる葉山の声。狙っていたかのような実にいいタイミングだった。

 数秒置いて、塾舎に葉山が戻ってくる。

 さっきは気づかなかったが、さっきまでこいつの肩に掛かっていた鞄と竹刀袋が『アルファ』の側に置いてあった。それを取りに来たのだろう。

 そして、外から僅かなブレーキ音が聞こえた。見れば、如何にもな黒い車が止まっていた。

 

 

「ごめんなさい、迎えが着てしまったわ。そういうわけだから、今日の部活は休みにするわ。由比ヶ浜さんにもそう伝えてくれるかしら?」

 

「―――分かった、伝えとく。地鎮祭はいつまでなんだ? 一日じゃ終わらんだろ? できれば三、四日休みにしてくれればベストだな、うん」

 

「残念だけど、今日中に帰る予定よ。明日はいつも通り部活はあるからちゃんと来なさい。もし来なかったらあなたが部活をサボったいつかみたいに、学校中で由比ヶ浜さんがあなたの事を聞いて回るから」

 

「おいおい、勘弁してくれ」

 

 

 その様が容易く想像できてしまって、俺の口元は我知らずに緩む。

 それは雪ノ下も同じらしく、唇に人差し指の第二関節を当てながら楽しげに微笑んでいた。

 

 

「ふふ、では、比企谷くん。今日は先に帰らせてもらうわね」

 

「あー…まぁ、なんだ……じゃあな」

 

 

 その一言が意外だったのか、雪ノ下は一瞬きょとんとするが、すぐにいつものクールな顔に戻った。

 

 

「えぇ、さよなら」

 

 

 それだけ言って、雪ノ下は塾舎の前に停めてある車へと向かう。

 その後ろ姿を見送りながら、俺は開いていた制服のボタンをきっちりと閉めた。さすがに外が暑いとはいえ、さすがに塾舎の中はクーラーが効いていて、むしろ肌寒い。ていうか冷房の温度ミスってね? お盆のT〇TAYAくらい寒いんだけど?

 そして、防寒対策を整え、いざ講義室に行こうかと思ったその前に、

 

 

「比企谷くん」

 

 

 俺を呼ぶ雪ノ下の声に、俺は振り返った。

 瞬間、雪ノ下は、一瞬戸惑いは見せるも、自然な動作で手を上げる。だが、恥ずかしいのか、あるいは戸惑っているのか、結局その手が、胸より上に上がることはなかった。そして、今にも消えそうな声で、頬を薄く染めながら、そっと呟いた。

 

 

「また、明日」

 

 

 たった一言。そのたった一言に、俺の口元は自然に緩んでいた。

 氷の女王たるあいつには似つかわしくないその行動。慣れない手つきで手を振る雪ノ下。そして彼女らしからぬ優しい言葉。

 けど、まぁ、偶にはこういうのもいいかもしれない。俺は少しだけ、そう思った。

 

 

「あぁ、また明日、な」

 

 

 俺はいつの間にかずり下がっていた腕の袖をまくる。

 今はとにかく、熱かった。

 

 

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 

 

 

「……驚いたよ。君は、雪ノ下さんとすごく親しいんだね」

 

 

 開口一番、葉山はそうかなり的外れなことを言ってくる。

 その間違った指摘に、俺はやれやれと肩を竦めた。

 

 

「何言ってんだ。俺とあいつが親しい? 冗談はよせよ」

 

 

 思わず、毒づくように葉山の言葉を否定する。

 しかし、今度は葉山が驚愕の目で俺を見た。その目には、声に出さずとも、「信じられない」というこいつの言葉が浮かんでいる。

 その視線が気まずくて、俺はまたしても葉山からすーっと目を逸らしてしまう。

 不躾な俺の仕草。けれど、葉山はそれを咎めることはなく、「はぁ」と息を吐き、視線を前へと向けた。

 

 

「……聞いたかもしれないけど、俺と彼女の家は、分家と本家の関係なんだ。分家の長子である俺は、年が同じこともあって、彼女とは一緒にさせられることが多かったんだ」

 

「……呪術の名家では特別珍しい話でもないだろ」

 

 

 俺の悪態に、葉山は「そうだな」と笑った。

 けれど、特技「人間観察」と言ってしまう俺の目には、こいつのその笑みが、どうしても無理やり笑ったようにしか見えなかった。

 

 

「けど、俺は、あんな顔の雪ノ下さんをこれまで見たことない」

 

 

 そう言う葉山の視線の先には、迎えの車に乗り込む雪ノ下の姿。

 こいつがどんな気持ちで、あいつのことを見ているのか、俺には解らない。だが、少なくとも、こいつが雪ノ下に向ける感情には何か含みがある。それだけは、俺にすら分かった。

 

 

「すまない、時間を取らせてしまったね。じゃあ、俺はもう行くよ。雪ノ下さんも待たせていることだしね」

 

 

 そう言って、葉山は小走りで雪ノ下が乗り込んだ車へと向かう。だが、雪ノ下同様、葉山も途中で立ち止まり、そして例の爽やかスマイルでニッコリ微笑んだ。

 

 

「それじゃ! また明日、教室で会おう、比企谷くん!」

 

 

 最期にそう言って、葉山は片手を挙げさわやかに去っていった。

 その後ろ姿をぼーっと眺めていたら、俺はハッと思い出す。そういえば、遅刻してたんだけ。

 ふと思い出したその事実に、俺は改めてため息を吐いた。

 

 

『ようやく思い出したか、比企谷八幡』

 

『ついでに我らの存在も、嬉しいのぅ』

 

 

 刹那、左右からかかる『ほっほっほっ』という、愉快そうな声。そういや居たなこいつら、と思い、俺はもう一度溜息を吐いてしまった。

 

 

『ほっほっほっ。ところで比企谷八幡よ、お主、えらく雪ノ下雪乃嬢と親しげであったな』

 

『左様。我らの存在を忘れるほどまでに、自分たちの世界に入りきったあの息の合った夫婦(めおと)のような掛け合い。いやはやなんともまぁ』

 

『『青春であるなぁ』』

 

 

 こいつらも、えらく好き勝手言ってくれる。

 まるで、漫画の中の幼馴染を微笑ましく見守る近所のおじさんのような言い含んだ物言い。正直、相手にするのも面倒くさい。がしがしと無造作に頭を掻き、俺はジトッとした目で、このオヤジ式神共を睨みつけた。

 

 

「ちゃんと話聞いとけ。さっき葉山にも言ったろ? 俺と雪ノ下が親しそうだって? 冗談じゃねーよ」

 

『ふむ。などと申しておるが、どう思うオメガ?』

 

『もしや、これは「つんでれ」というやつではないかのぅ? ほれ、いつぞや材木座義輝坊が、我々に実戦こみで教えてくれたあれじゃよ、あれ』

 

 

 おいこら、何やってんだよ材木座ぇ……ちなみに、『アルファ』と『オメガ』がいるここは、陰陽塾舎の正面入り口である。

 

 

『ふーむ、あれかぁ。しかし、どーも我はあの「つんでれ」というものに魅力を感じなかったのだな。やはり、女子(おなご)は古き良き、大和撫子に限る』

 

『じゃがアルファよ。比企谷八幡は男子(おのこ)であるぞ?』

 

『男子(おのこ)とて同様。時代は変われども、誠実さこそが人の要(かなめ)である』

 

 

 なに、この無駄な寸劇?

 基本的に「あ」「うん」の形で固定されている『アルファ』と『オメガ』。けれど、今はその口元が大きく吊り上ってるに見えた。ってか、もう付き合ってられない。

 がしがしと頭を掻き、俺は無駄に疲れた心に鞭打って、歩き出した。

 

 

「……あの、俺いい加減塾舎に入っていいですか?」

 

『おぅ、これはすまなだ比企谷八幡。そうであったな、学生の本分はなにより勉学。我らがそれを邪魔してはならぬの。しっかり励めよ、比企谷八幡』

 

「うっす」

 

『ん~、しかしそれはそれとしてのぅ比企谷八幡。こう見えても我らは50年ここで門番をしておる。これまでたくさんの塾生をここより見送ってきた我らに何か相談したいことはあるかのぅ?』

 

「いや、特には……」

 

『本当か? 我らで良ければいつでも相談に乗るぞ? 勉学から今日の献立まで、なんでもござれじゃ』

 

『無論、恋の悩みもな』

 

「いや、だから何もねーって言ってんだろ……」

 

 

 てんわやんわと右で左であれこれ言うお節介な二体の式に、閉口しながら、俺はようやく塾舎への敷居を跨ぐ。なんか、朝からどっと疲れた気がした。

 背後からは、「いつでも良いぞ」と、式神の声が聞こえたが、それを無視して、俺は左手の腕時計に目を向ける。時刻はすでに二限目の終わり間近。俺は講義に出ることを諦め、カバンを肩に掛けなおし、ゆっくりと廊下を歩き出す。

 

 さすがに講義中であるからか、塾舎の廊下はいやに静かだった。

 さっきまであんなに鬱陶しかったのに、今はこの静けさが妙に寂しく感じた。

 その静けさの中で、俺は葉山との最後の会話を思い出す。浮かぶのは雪ノ下の話をするときの何かを含んだ物言いをする葉山の言葉。あんな見るからのリア充にも、思うことはあるんだなと、俺は思う。

 やがて、はっとその事実に気づいた俺は、静かな廊下に木霊させるように、そっと呟いた。

 

 

「そういやあいつ……最後はちゃんと呼んでたな」

 

 

 俺の名前。

 

 

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、これより続く二人の因縁ははじまった。後に呪術捜査部局長「天海大善」の懐刀となる『黒子(シャドウ)』比企谷八幡と、霊災対策室のエース『神通剣』葉山隼人。

 

 真逆の二人が歩む、【約束された対立】への道が―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間の物語
第壱話 ヒキガエルの日 前編


 こんにちわ。本当にすごく、すごくおひさしぶりです。

 こんなシリーズ忘れてるって人が大半だとは思いますが、改めて投稿させていただきます。今回は季節ものの話を一つ。
 元ネタは、東京レイヴンズ4巻「アマガエルの日」。一応前後編を予定しています。

 それでは、幕間第壱話「ヒキガエルの日」どうぞ(#^.^#)




 

 ―― 2012年6月某日、東京・陰陽塾 ――

 

 

 梅雨。それは毎年日本に訪れる憂鬱な時期だ。主な被害は、洗濯物が乾かない。湿度が高くじめじめする。服がぬれる。髪がうまく纏まらない、本が捲り難いなど多岐にわたり。

 

 そして、カエルがよく鳴く季節だ。

 

 

 「やっはろー、ゆきのん!」

 「……うーっす」

 「こんにちわ、由比ヶ浜さん、比企……谷くん?」

 

 

 放課後の陰陽塾、奉仕部。

 今日も一番乗りは雪ノ下だった。彼女はいつも通り窓際の自身の指定席に座り、外はあいにくの雨であるが、その鬱屈した天気すら気にもせず、優雅な所動で文庫本を読んでいた。

 だが、俺と由比ヶ浜が部屋に入った瞬間、彼女の文庫本のページを捲る手が止まった。

 その目には、三割の驚きと二割呆れ、そして五割の「こいつ何やってんの?」という疑問が見て取れる。そして、次の瞬間には、その目はそっと細められた。

 

 

 「……ごめんなさい。ここは関係者以外は立ち入り禁止なので、可及的すみやかに退出していただけないかしら?」

 「……気持ちはわからんでもないが、頼む。話だけでも聞いてくれ……“動くな”」

 

 

 問答無用の退去勧告だった。

 隣で聞いていた由比ヶ浜が「あはは」と苦笑する。

 その彼女の視線も、そして、目の前にいる氷の女王こと、雪ノ下の目線もまた、俺の頭上にへと向けられていた。

 その視線の意味が分かるからこそ、俺は溜息を吐く。

 なんという為体(ていたらく)だ。俺は、自身の今の姿がすごく情けなかった。

 

 

 「ねぇ、比企谷くん。いえ、ヒキガエルくん。いくら自分のお仲間を見つけたからといって、ここにまで連れてこないでくれないかしら? あなた、通報されたいの?」

 「ちげーよ。あとヒキガエルって言うな……“動くな”」

 

 

 それと通報するのはお前じゃねーのかよ? 中の人的に。

 雪ノ下は読んでいた文庫本にしおりを挟んで閉じる。

 

 

 「…まぁ、冗談はさておき……。比企谷くん、ホントにまったく状況が分からないのだけど。……あなた、いったいどうしたの? 頭の“それ”は、なに?」

 「……これには海よりも深く、山よりも高い理由があってだな」

 「……」

 「分かった、言う、言うから、だから無言で携帯を取り出すな、怖えーよ……“動くな”」

 「はじめから素直にそうしなさい」

 

 

 俺は頭の上にいる“それ”に手を伸ばす。“それ”は俊敏な動きで俺の手を避け、俺の右肩に降り立った。その位置になると、俺も“それ”を視認できるようになる。

 俺の右隣に立っていた由比ヶ浜が、「ひっ」と声を上げ、ビクッと体を震わせた。

 

 

 「ひ、ヒッキー、あ、あんまりこっちに寄らないで……そ、その、き、気持ち悪いから」

 「……おい、由比ヶ浜。それはまさか、俺のことを言ってるのか? ……“動くな”」

 

 

 ないわー、ガハマさんマジないわー。

 そういうのは思ってても心に留めておくのが優しさってもんだろ……。

 

 

 「え? あ! いや! あたしが言ってるのは、別にヒッキーのことを言ったんじゃなくって! ヒッキーの肩にいる“それ”のこと! そ、それに、ヒッキーには、むしろもっと近寄ってほしいなって思ってるし……」

 「……いや、別にいいんだけどさ、中学の時も陰で女子によく言われてたし。ホント、なんですぐ隣いるのに、平気であんなこと言えるんだろうなー、隣の席の茅ヶ崎」

 「誰それっ!?」

 

 

 おっと、無駄にトラウマを掘り返してしまった。あぶない、あぶない。もう少しで、ブルーな気持ちになるところだった。ボッチ歴の長さ嘗めんなよ? はぁ……。

 どうやら由比ヶ浜は俺の肩にいるこいつが苦手なようだ。

 いや、由比ヶ浜だけではない。おそらく、この年頃の女子でこいつを好きな奴というのはかなり少数派なはずだろう。かく云う俺も、あまり得意ではない。

 俺は肩に降りた“それ”をジトッと睨んだ。

 

 

 「クソっ、これも全部あの『いき遅れ教師』のせいだ……“動くな”」

 

 

 “それ”は、まるで俺をあざ笑うかのように「ケロケロ」っと鳴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――― 第壱話 ヒキガエルの日 / 前編 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―― 同日朝、東京・陰陽塾男子寮 ――

 

 その日は朝から土砂降りの雨だった。だが、それは別にいい。なぜなら、三日前には梅雨入りが発表されており、それからはずっとこんな空模様だったからだ。

 だから、俺にはそれよりも、もっと重要な問題があった。

 

 

 「なん…だと…」

 

 

 思わず某死神漫画のような声を出してしまう。

 手に愛用の目覚まし時計を握りしめ、俺は目の前の事態に絶望していた。

 机の上には、ノートと簡易式の呪符が数枚広がっている辺りを見ると、どうやら勉強しながら寝落ちしてしまったらしい。どうりで身体が痛いと思った。

 俺はこの信じたくない出来事に、手に持った時計をもう一度見る。

 九時半。上から見ても下から見ても九時半。たっぷり五秒は時計と見つめ合っていた。

 

 

 「うわ……超遅刻じゃん……」

 

 

 真実は残酷だった。Oh!ジーザス!

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「さて、殴る前に一応、言い訳だけでも聞いてやろう」

 

 

 そう言って、陰陽塾の名物教師『平塚静』はギロッと俺を睨みつけた。 

 瞬間、俺は顔を引きつらせた。あぁ、殴るのは確定なんですね……。

 結局、俺は塾に遅刻した。まぁ、起きた時点で一限目の講義が始まっていたから当たり前ではあるのだが。けれど、俺の運の悪かったところは、一限目の講義の講師が平塚先生だったということだ。いやだってこの人、ばれないように穏形して教室に入っても気配だけで気づくんだぜ!? 最早人外だろ!?

 というわけで、見事に見つかってしまった俺は目下反省中というわけだ。

 ぽきぽきと指を鳴らす平塚先生。あのーなんで拳に呪力込めてんの? そんな、殺傷力の籠った殴られたくないんですが? 俺は、必死に脳みそを回転させた。

 

 

 「いや、違うんですよ、ちょっと待ってください。『重役出勤』って言葉があるじゃないですか。エリート志向の高い人間は、社畜のような平社員が朝早くから出勤しているにもかかわらず、昼過ぎぐらいにも平気で顔を出すんですよ。つまりそのエリート志向の強い人間に比べたら、俺なんかはですね―――」

 「ほう……ちなみに、君が目指しているプロの陰陽師は基本的に夜勤ばかりなのだが、この事実をどう思う?」

 「くっ……! だ、だったら。もう遅刻と言う概念自体が間違いなんですよ! 警察だって、消防だって事件が起こってから初めて動きますし、祓魔官だって霊災が起こってから修祓に向かいますよね! けれど、彼らの遅刻を責める人はいますか!? いないでしょう!? これはもう逆説的に遅刻は正義なんですよ!!」

 

 

 俺の魂の叫びを聞いて、平塚先生の眉根がひくりと引き攣った。

 先生の拳に呪力が込められる。あ、ヤバい、オワタ。

 

 

 「はぁ、いいか比企谷。お前に足りない物、それはな、情熱、思想、理念、頭脳、気品、優雅さ、勤勉さ、そして何よりも……速さが足りない。だから―――」

 「いやそれカズ〇じゃなくて、ク〇ガー兄貴の台詞だから! っていうかこの状況には全く関係ないから! あ、ちょっ! 待って! 殴るのはノー!」

 「甘んじて私の拳を受けろ! 衝撃のっ! ファーストブリットおぉっ!」

 「ぐふっ……!」

 

 

 一つ、俺は心に誓った。遅刻はもう二度としないと―――。

 

 

 「比企谷。昼休みに私のもとに来い。お前とはもう少し話さなきゃいけないようだ」

 「……うす」

 

 

 最後にそう言い残し、平塚先生は「ふんすっ」っと、鼻息荒くして教室を出て行った。くそ、そんなんだから、あなた結婚できないんですよ……。

 平塚先生が放った拳は、俺のレバーを的確にとらえ、確かなダメージとして、俺の身体に響く。教室の一部からまるで嘲笑うかのような失笑が漏れている。お前ら、誰も俺のことなんて知らないくせに笑ってんじゃねーよ。

 痛むお腹を庇うように押さえ、俺は摩利支天(まりしてん)の真言(マントラ)を唱えた。

 

 

 「あぁ、いってぇ……。あの暴力講師、なんでクビにならないんだよ……」

 

 

 穏形で姿を隠し、小言を漏らす。それは教室でのデフォルトな俺のスタイルだ。いきなり消えた俺に、くすくすと笑っていたやつらは、がたっと驚いて席から立ち上がった。

 皆、きょろきょろと見まわしたり、目を擦ったりして、俺を探す。ふふふ、どうだ! 見つけられまい! 

 てめーらには俺の姿すら見えないだろう! あまり穏形術一位をなめるなよ!

 リア充共を見下すのって超最高だ。俺はにやりと笑った。

 笑ってる顔がキモいだって? 知ってるよ。中学の時、隣の席の茅ヶ崎にさんざん影で言われてたからな! ぐすん……。だが、それも見えなかったら何の問題もない。穏形マジ最高! この呪術を作ってくれた人マジありがとう! ひゃっほー!

 

 

 「うわぁ……ヒッキー、キモい。頭だいじょぶ?」

 「……だいじょばないです」

 

 

 バカに頭の心配をされた。すっげーショックだった。

 突然のその緩くて頭の悪そうな声に、俺はドキリと胸を高鳴らせる。けれど、その声に反して、言ってる内容は容赦なく俺の傷を抉るもだったため、俺は思わず顔を引きつらせた。

 あぁ、そうだ、そうだった。そう言えば、こいつに俺の穏形は効かないんだった……。

 そのことを思い出した俺は、「上げたくない」という行動とは反対の感情を押さえつけ、ゆっくりと顔を上げる。

 予想通り。そこにはいつもどおり、ぶかぶかのニット帽をかぶった彼女の姿があった。

 

 

 「……はよ、由比ヶ浜。今日もバカそうな顔で安心したわ」

 「それどういう意味だし!?」

 

 

 まんま、その意味だよ、と。俺は溜息をもらした。

 知っての通り、由比ヶ浜結衣は犬の生成りだ。生成りとは、鬼や竜などの霊的な存在が憑いた人間を現す言葉だ。日本では他に憑きものなんかとも呼ばれており、その人数は日本全土で見ても、数えるほどしかいない。そのうちの一人が彼女なのだ。

 由比ヶ浜には死んだ彼女の愛犬―――サブレというらしい―――が憑いている。呪術界全体を見ても、きっと珍しい種類の生成りだろう。彼女が常にぶかぶかのニット帽をかぶっているのはそれが理由だ。生成りの制御をうまくできない由比ヶ浜は、なにかあるとすぐに犬耳を出してしまうのだ。

 なにそれ萌え……げふんげふん。いかんいかん作者の邪念が入った。

 ん? 作者って誰だ?

 とにもかくにも、こんなに長々と話して俺が何を言いたいのかというと―――。

 

 彼女には俺の穏形が通じないということである。

 

 由比ヶ浜が俺の穏形を見破れる理由。一言でいうと、それは“匂い”だ。

 由比ヶ浜は、犬の生成りだとはさっき言ったが、その犬の嗅覚は人間の一億倍とも言われている。さすがにそこまでの嗅覚はないが、生成り状態の由比ヶ浜の嗅覚も、そうとう発達しているらしく、穏形で気配すら消した状態の俺でも、匂いを頼りに見つけることが可能らしい。

 まぁ、本当は少し違うらしーが。こういう解釈が一番わかりやすいだろう。

 だが、それでも日常的に自分の匂いをかがれていると思うと、照れくさい気持ちがあった。

 

 

 「……にしても、あれだな。やっぱ、こっ恥ずかしいな、それ」

 「あはは……うん、ごめんねヒッキー。だけど、あたしでも、こればかりは無意識でやっちゃうことだから、どうしようもないし……」

 「別に責めてねーよ。それよりお前、帽子から毛出てんぞ」

 「え! うそっ!?」

 

 

 俺の言葉に由比ヶ浜は、慌てたようにぎゅっとニット帽を深くかぶりなおした。

 ぴろっと、何かがニット帽の中で動めく。犬耳だ。事に漏れず、由比ヶ浜はまた制御に失敗してやらかしてしまったようだ。

 うーっと、恥ずかしそうに唸る由比ヶ浜の頭を、俺はこつんと小突いた。

 

 

 「……気を付けろよ、ったく。お前、ただでさえアホなのによく一年もそれ隠し通せたな」

 「うー、ヒッキー、あたしのことバカにし過ぎだよ……」

 「……国語からの問題です。次の慣用句の続きを述べなさい『風吹けば?』」

 「京葉線が止まる?」

 

 

 千葉県横断ウルトラクイズかよ……。俺は呆れて、額に手を当てた。ため息も漏れる。

 だが、俺のその反応にムッとしたのか、由比ヶ浜は拗ねたようにぷいっと目を逸らした。

 

 

 「ヒッキー、またあたしのことバカにしてるでしょ! あ、あたしだって、中学の時は成績よかったんだよ! 総武高校もA判定貰ったくらいだし!」

 

 

 由比ヶ浜の発言に、俺はゴトッと鞄を落とした。

 

 

 「嘘…だろ…?」

 

 

 意図せずして、その言葉が漏れていた。

 総武高校と言えば、千葉でも有名な進学校だ。Maxコーヒーを飲む千葉ッシュなら誰でも知っている有名な高校。何を隠そう中学時代の俺の進路希望先だった高校。そんな進学校に由比ヶ浜が……?

 俺は、さーっと、一気に血の気が引いた。

 

 

 「ま、まさか……由比ヶ浜って……実はバカじゃない?」

 「いままでなんだと思ってたの!?」

 「いや、だって由比ヶ浜って、由比ヶ浜だろ?」

 「それ、あたしの名前を蔑称みたいに使ってない!? 気のせいだよね! 気のせいだよね!?」

 「由比ヶ浜のくせに、生意気だ」

 「なにそのすっごい横暴な罵倒!? ヒッキー、ウザい! てかっ、マジキモいっ!」

 

 

 由比ヶ浜は、悔しそうにう~っと唸りながら、涙目で俺を見てくる。

 だが、次の瞬間、その頭にポンッと軽く教科書が落とされた。

 

 

 「こら由比ヶ浜。もうすぐ、二限の講義が始まるぞ、席につけ」

 「ふぇ、平塚先生!? あ、その、ごめんなさい!」

 

 

 気がつけば、そこには平塚先生がいた。ってか、またあなたの講義ですか。

 出席簿で叩かれた由比ヶ浜は、恥ずかしそうに顔を俯かせ、自分の席に戻る。とは言っても、自由席だからどこでもいいのだが。

 さて、じゃあ俺も、さっさと席に着くか。そして、俺はいつもの席に向かう。だが、その前に、俺はぐいっと後ろ襟を引かれる。あれ? 確か俺穏形してたよね?

 

 

 「比企谷。昼休み、逃げるなよ?」

 

 

 後ろから囁(ささや)かれる恐怖の声。……やっぱ、この人、人間じゃねぇ……。

 え? 俺、まだ穏形してるよ? なんで見えるの?

 背中にたらりと冷や汗が流れた。

 はぁ、ホント今日は朝からツイてない。昼休み、ばっくれよっかな……。

 刹那、教壇の上にいる平塚先生にギロッと睨まれた。いや、だからなんで分かんだよ……。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 職員室の端に設けられた応接スペースのガラス張りの机から、ひらりと一枚の紙が零れ落ちた。

 ひらひらと空気抵抗にその身を任せ、舞い落ちるその紙は、まるで踊るように優雅に舞いひらめく。だがやがて、自然の摂理に逆らえない紙は、その身に降りかかるすべてを受け入れたように儚く、地面に墜落する。

 そこに、ダンッ! と鉄槌のごときピンヒールが突き刺さった。

 んんっ歳とは思えないほど、しなやかで綺麗なその脚を組み直し、我が担任であり、元祓魔官という経歴を持つ陰陽塾きっての実技講師、平塚先生は俺を睨みつけた。

 

 

 「比企谷。私が何を言いたのか、分かるよな?」

 「さ、さぁ……?」

 

 

 その如何にも怒ってますよ、という先生の眼光に、俺は思わずを明後日の方向に顔を反らしてしまう。

 瞬間、平塚先生の顔がひくっと引き攣るのが分かった。

 

 

 「……まさか、わからないとでもいうともりか?」

 「い、いやですね先生、さっきから何を言いたいんですか? 健全で真面目ないち陰陽塾生である俺にはちょっとわからないのですが……」

 

 

 刹那、バンッと机に、先生がさっき踏みつけた紙が叩きつけられる。

 その衝撃音に、俺の心臓がビクッと高鳴った。

 

 

 「そうか、あくまでも白を切ると言うのだな、比企谷? だが、これを見せられたら、貴様とて、何も言えないだろう。なんせ、この呪符からは比企谷、お前の呪力が感知されたのだからなぁ?」

 

 

 平塚先生の大きな瞳がぐわっと俺を睨みつける。背中にばっと嫌な汗が溢れた。

 それは汎式の簡単な式符だった。だが、ただの式符ではない。感知式(かんちしき)―――つまり、特定の場所に設置し、そこを通る人間を感知する。所謂疑似センサーの役割を果たす。そういう風にプログラムした簡易式だ。

 そして平塚先生のおっしゃる通り、それは間違いなく俺の式符だった。

 

 

 「いや、違うんですよ! 待ってください平塚先生! た、確かにその式符は俺のかもしれません! で、ですがそれを俺が使ったという証拠がどこにあるんですか!? 証拠を出してくださいよ! 証拠を!」

 「はぁ、その発言がすでに犯人のものだと気付かんのか、お前は。それで、なぜお前はこんな事をしたんだ? 今ならまだ一発で許してやる、さぁ吐け!」

 「え、一発殴るのは確定なんですか!? じゃあ絶対話しませんよ! 俺ドMじゃないんで!」

 「……撃滅の―――」

 「わー! わかりました! 言います! 言います! だから殴らないでっ!」

 

 

 平塚先生の拳に込められる呪力を「視た」俺に、朝の悪夢がよみがえる。

 俺はすぐに全面降伏した。勝てる気もしない。

 まさしく334だ。なんでや! 阪〇関係ないやろ!

 ようやく求めていた言葉を聞けた平塚先生は、ぎしっと椅子に腰かけなおす。そして、眉間に寄った皺を治すように、額に手を当てた。

 

 

 「……で? どうしてこんなことをした、比企谷?」

 

 

 平塚先生は、心の底からうんざりした口調だった。その原因である俺は思わず恐縮してしまう。

 

 

 「あ、いや、ですね……。こ、ここ最近、簡易式の練習をずっとしてたんですよ。ほ、ほら! あれですあれ! 最近『ウィッチクラフト社』のカタログを読む機会があったじゃないですか! で、あそこの人造式に少しインスピネージョンを受けてしまって! お、俺もいつかあんな人造式を作ってみたいなーって思いまして……」

 「……ほぉ、それで君は、陰陽塾の塾舎に『感知式(これ)』を仕掛けたと? ご丁寧に二重の隠形を施してまで?」

 「相手が相手なので、念には念をと……あ」

 「あぁん?」

 

 

 やっちまったZE☆

 瞬間、ムティカパも怯みそうな勢いの鋭い眼光が、まっすぐに俺を見据える。

 

 

 「……ほう、そうか。語るに落ちるとはまさにこのことだ。なぁ比企谷?」

 「あ、いえ。あのですね―――」

 「吐け」

 

 

 大きな瞳が放つ眼光に耐え切れず、俺は「……はい」と、うなだれ他なかった。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 今回俺がやったことの一部始終を吐くと、平塚先生はため息をつき、悩ましげに髪を掻きあげた。

 

 

 「君はバカか?」

 

 

 問答無用の言葉だった。俺はうぐっと息を詰まらせた。

 

 

 「も、もちろん悪気は全くなかったんです先生! た、ただ純粋に自分の力量を試したかっただけなんですよ! ま、まさかあんなうまくいくとは思ってもいなくて! そ、それに! まさか、あの部屋で先生が着替えるなんて夢にも―――!」

 「なっ! そのことは言うな比企谷! お、お前、まさか私の裸を―――」

 「感知式ですから! 五感の共有なんてしてませんから!」

 

 

 身の潔白を証明するために全力で叫んだ。

 俺の必死さから理解したのか、先生も納得したように頷く。なぜか少し残念な顔をしていたが、微妙に印象的だった。誰か、誰か早く貰ってあげて……。

 一通り、心の整理がついたのか、平塚先生はまじめな顔になった。

 

 

 「比企谷、君は分かっているのか? 今回、君のしたことは下手をすれば呪捜部に放り込まれても文句を言えない事なんだぞ? 私だったからいいものを、これがもし一般人だとしてみろ? 大問題だぞ」

 

 

 そう、平塚先生は、優しく諭すように俺に言う。だからこそ、逆に罪の意識が沸いてしまった。

 

 

 「うっ……、今回のことは自分でも悪いと思ってます。ホント済みませんでした」

 

 

 だから、謝罪の言葉は割と素直に出てきた。いや、今回の件は全面的に俺が悪いのだ。これは当然の義務と言える。

 平塚先生も、俺がすぐに謝罪したのが功を奏したのか、どこかすっきりした面持ちで微笑んでいる。その表情に、俺は思わず見惚れてしまった。普段の言動が痛々しいからつい忘れがちだが、この人もまた、俺がこれまで出会った女性の中でも指折りの美人だった。

 先生は、「うむ」と頷き、俺の式符をスーツの内ポケットへとしまった。

 

 

 「そうか、ならいい。君もちゃんと反省しているようだしな、今回のことは私の胸にしまっておこう」

 「うす。すんません、ありがとうございます」

 

 

 そう言って、先生はポケットから葉を取り出し、いつものように「火行符」で火を点ける。

 ふぅーっと、煙を吐くその仕草が如何にも様になっている。

 だから、俺は気づかなかった。平塚先生が葉に火を点けるために取り出した「火行符」と一緒に、もう一枚式符を取り出していたということを。

 そして、その式符が、今日の俺の一番の不幸を招くであることを。

 

 

 「あぁ、それはそうと比企谷」

 「はい」

 「私の秘密を知ってしまったペナルティ。きっちり払ってもらわないとな」

 「はい?」

 

 

 そう言うと。平塚先生は嫌な感じにニィっと笑った。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 

 「……ヒッキー、なにそれ?」

 「……俺が聞きてーよ」

 

 

 顔が引き攣っている由比ヶ浜の言葉にそう答えて、俺は煩わすげに視線を上にあげた。

 あの後、俺は平塚先生の「特別な特訓」を受けることになった。内容は「霊気に対する感覚の強化」だ。特訓は、それからすぐに始まって今なお続いている。

 むろん、まだ昼休みだから、教室では安定の穏形術だ。

 だが、それでも由比ヶ浜にはすぐ見破られる。

 由比ヶ浜は目ざとく俺の変化に気づき、声をかけてきたのだ。

 俺は由比ヶ浜に、こうなった経緯を話す。

 

 

 「……ふーん、それで先生の簡易式、頭の上に貼り付けてんの?」

 「あぁ。逃げ出さないように見張れとさ」

 

 

 そう言って、俺は少し陰鬱な表情になった。

 平塚先生が、俺の頭に引っ付けたのは、一匹の「ヒキガエル」だった。もちろん、本物のカエルじゃない。先生が即席で造った式神である。

 俺は、さっきまでの平塚先生とのやり取りが、脳裏によみがえる。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 『君は後天的な見鬼だからか、霊気に対する感覚が鈍い所がある。だから、今回は特別な課題を君に課そうと思う。なに、そう心配そうな顔をするな。コツさえ掴めれば簡単な課題さ』

 

 

 そう言いながら、平塚先生は式符に呪力を込める。

 やがて、十分な呪力が込められたのか、式符はぽんっとその姿を動物状の物に変える。体長約十数センチほどの小さな? 「ヒキガエル」だった。

 

 

 『これからこいつを君の頭に乗せる。君は、常にその式神の霊気を感じ、そいつが逃げそうになったら動かないように命令すればいい。むろん、動くなという命令にはちゃんと従うように作ってあるから心配するな。な、簡単だろ?』

 

 

 そう俺の頭に「ヒキガエル」を乗せながら、先生は説明する。

 そして、いかにも楽しそうに、

 

 

 『ただし、君から一メートル以上離れたらペナルティーを課すようになっている。心配せずともそうひどい罰ではない。講義する先生たちにもちゃんと事情は話しておくから、気にするな。部活が終わるくらいに取りに行ってやるから、それまできちんと見張っとけよ?』

 

 

 と付け加えたのだった。

 おかげで、俺は頭に「ヒキガエル」を乗せたまま午後の講義を受ける羽目になったのである。

 以上、回想終わり。

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「ヒッキーそれ重くないの?」

 

 

 由比ヶ浜の心配そうな問いに、俺は頭を振った。

 

 

 「そんな重さを感じるってほどじゃねーよ。まぁ、軽いし、首振っても落ちねーからその点は安心だな。……ただ、やっぱ頭になんか乗ってるから落ち着かねえんだよ」

 

 

 確かに、見た目が十数センチもあるカエルを頭に乗せているのだ。至極当然の疑問だと思う。

 けど、その見た目に反して、基が紙であるからか、頭の上の「ヒキガエル」は見た目よりずっと軽かった。その点は、さすがは元祓魔官の平塚先生と言ったところだな。葉の火着けしかり、ホントに才能の無駄遣いの権化のような存在だよな、あの人……。

 俺の言葉に安心したのか、由比ヶ浜はポケットから長距離トラックみたいな仰々しい携帯電話を取り出して、にんまりと笑った。

 

 

 「ねぇ、ヒッキー。お願い、写メ取らせて!」

 「嫌に決まってんだろ、ふざけんな」

 

 

 心の底から嫌な俺の言葉に、由比ヶ浜は「えー」っと、声を出した。

 

 

 「えー、だってヒッキー超似合ってんじゃん。あ、そうだ、ゆきのんにも送っとく?」

 「やめろ、由比ヶ浜。そんな写真を雪ノ下に送ってもみろ。たぶん、今日の放課後から俺への呼称が「ヒキガエルくん」で統一されちまうだろうが」

 

 

 それに、もう二度と聞くことはないと思っていた中学の頃のあだ名を、わざわざ自分から掘り返したくはねーし。あいつ、ホントなんなの? 俺のトラウマ的確に天元突破するとか、どこの大グレン団だよ。今度からあいつのこと「穴掘りゆきのん」って呼んじゃおーかな。なんかびみょーに語呂いいし。まぁ、殺されるからやらないけど……。

 

 

 「けど、その特訓って部活終わるまでなんだよね? どっちみちヒッキー、その格好、ゆきのんに見られるんじゃないかな?」

 「うっ…、人がわざわざ触れないでいたことを……」

 

 

 あいつにこんな姿見られるとか、屈辱以外の何ものでもない。

 俺は放課後のことを思い、少し憂鬱な気分になった。そんな俺に由比ヶ浜はピロピロリーンっと、なんか聞いてるこっちが気の抜けそうな音をさせながら携帯を向けていた。

 結局、撮りやがったよこいつ……。俺は、机の上に項垂れた。

 

 

 「ところでさ、ヒッキー。結局、ヒッキーが失敗した時のペナルティーってなに?」

 

 

 由比ヶ浜のその問いに、俺は再び頭を振った。

 

 

 「知らねぇ。平塚先生、もったいぶって教えてくれねーし」

 

 

 その後に、「人生を楽しく生きるコツは童心を忘れねーことだよ」とか言ってたけど、どこの白夜叉ですかあなたは。ホントあの人アニメ好きすぎだろ。

 俺の返しに、由比ヶ浜は「あはは」と苦笑する。

 だが刹那、彼女の視線が俺の頭から「ぴょーん」と移った。それはまるで、移動する「なにか」を追うような目の動きだった。

 

 

 「あっ……」

 

 

 由比ヶ浜の口から声が漏れる。そのとき、何が起こったのか俺の頭はやっと理解した。

 

 

 「ひ、ヒッキー! カエルが―――っ!」

 「え? ……あっ!?」

 

 

 とっさに頭を触るが、もう遅い。どこだ―――と、慌てて霊気を探る。刹那、

 

 

 「ケロケロ」

 

 

 三つ隣の席で、ヒキガエルが鳴き声を上げた。俺と由比ヶ浜のいる位置から見て、その距離は優に一メートル以上はあった。顔からさーっと、血の気が引くのがわかる。直後、

 

 

 「―――ぶわっ!?」

 

 

 頭上から、水が降って(・・・・)きた。

 外の豪雨に負けない、バケツ―――と、まではいかないが、いつも部室で読む紅茶一杯くらいの水量は優にある。顔から上はびしょ濡れになり、肩まで冷たい水が染み込んだ。

 由比ヶ浜が唖然とした目で俺を見る。

 そして当の俺はというと、ぐっと握り拳に力を込め、ギリッと歯を食いしばった。

 

 

 「あっのぉ……行き遅れ講師ぃ……!」

 

 

 結婚できないアラサーに殺意が沸きました。いらっ☆

 

 

 

 

 

          *

 

 

 

 

 「―――ケロケロ」

 「ぶはっ!」

 「―――ケロケロ」

 「冷たっ!」

 「―――ケロケロ」

 「ちょっ! は、鼻にっ! おまっ! ふざけんなっ!」 

 

 

 それからのことは、正直思い出したくもない。

 午後の授業中、俺はずっとこんな調子だった。クラスの奴らからは変な目で見られるわ、教師には半眼で睨まれるわ、災難しかなかった。

 五限の講義が終わったころには、俺の制服は水浸しだった。

 心配した由比ヶ浜が、俺の席に寄ってくる。

 

 

 「ヒッキー、だいじょーぶ? 水浸しだよ?」

 「……これが大丈夫に見えるなら、俺はきっと元から水タイプなんだろうな」

 「何言ってんの?」

 「ポケットなモンスターの話だよ」

 

 

 外国ではその言葉は絶対言ってはいけないよ? ぼっちとの約束だ。

 それとたぶん、俺はゴーストタイプだと思う。雪ノ下は氷か毒だ。由比ヶ浜は……なんだろ? けど、例えるならミル〇ンクだな。なぜとは言わない。けど異論は言わせない。

 

 

 「はぁ、それにしてもこのクソガエル、ちょっとよそ見したら、すぐ跳んでいっちまう」

 「よそ見しなけりゃいいんじゃないの?」

 「おいおい、由比ヶ浜、無茶言うなよ。こいつは俺の頭の上にいるんだぜ? 目玉のオヤジのほうがまだ見つけやすいぞ。あーもう、せめて見える位置に居ればな……」

 

 

 このクソガエル、無駄にアクティブすぎんだろ。

 しかも、気のせいか? こいつ、徐々に「ケロケロ」鳴く声に、俺をバカにするような響きが含まれてきてねーか? こいつの表情は読めねーけど、こいつが俺の頭から跳び、水を落とす寸前に振り向く視線も、心なしか見下されてる気がする。

 俺は、苛立ちを隠すことなく舌打ちした。

 

 

 「ヒッキー、それは被害妄想だと思うよ……」

 「……ほっとけ」

 

 

 じゃないと、やってらんねーんだよ。あのいき遅れ講師、今度は感知式じゃなくて、呪詛(じゅそ)送り込んでやる……。そうだな、一生結婚できない呪いでもかけてやろうかなぁ……?

 こう思ったとき、俺はどんな表情押していただろうか。少なくとも、笑顔ではあっただろう。それも、由比ヶ浜が「う、うわぁ……」って引くくらいには、素敵な笑顔だったと思う。

 

 

 「っていうかさ、それって平塚先生の簡易式なんだよね? だったら、術式に沿った命令なら聞くんじゃないの? ほら、ヒッキー、とりあえず“動くな”って命令してみてよ」

 

 

 由比ヶ浜の言葉にハッとした。

 

 

 「……そうか、その手があったか。この方法だったら、俺は無駄に水を被らなくても済む。由比ヶ浜、お前、天才だったんだな」

 

 

 それは盲点だった。まさか、バカに見破られるとは。

 俺はニタリとげすい笑みを浮かべ、由比ヶ浜に感謝する。俺の笑顔に、由比ヶ浜は若干気持ち悪そうな顔をするも、「えへへ」と嬉しそうに笑った。

 よし、今度、マックスコーヒーを奢ってやろう。

 おれは、さっそく由比ヶ浜の作戦を実行する。さぁ、クソガエル。お前の罪を数えろ!

 

 

 「“動くな”……“動くな”……“動くな”……おぉ、すげー、動かない! こりゃいいな!」

 

 

 俺の命令に、このクソガエルは一瞬、ピクッと反応はするも、その動きを完全に止めていた。どうやら、平塚先生が最初に言ったように、「動くな」という命令には、従うようにできているらしい。なんとなく、しまったと、カエルが舌打ちしたような気さえした。

 

 

 「よし、あとは放課後までこうやってればいいんだな」

 「あはは……。まぁ、本来の主旨からは、かなり反してるけどね……。でもヒッキー、このままじゃ風邪ひいちゃうし。」

 「ふふふっ、動くなよ……“動くな”……“動くな”……へへ、バーカ、バーカ……“動くな”!」

 「ヒッキー……」

 

 

 それから、放課後まで、俺はそれまでのストレスを発散するかのように「動くな」と唱え続けた。時たま罵詈雑言を混じえながら呟く俺の姿に、周囲がドン引きしていたが、それより、このヒキガエルに対する憎悪の方が勝っていたから、まぁ、気にはならなかった。

 そして、そんな俺を由比ヶ浜は終始出来の悪い息子を見守る母みたいな目で見ていた。

 

 だが、このとき俺達はまだ知らなかった。

 この行動が、後に大変な事態を巻き起こすことを―――。

 

 その日、陰陽塾特別棟は半壊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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