ドラゴンクエスト5~リュカの生きる道~ (KENT(ケント))
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1話

1話

 

 

 

 

 

 

 目の前に果てしなく広がる静かな海を、桟橋の先端に腰掛けて、リュカはじっと眺めていた。海は朝の陽ざしを反射させ、きらきらと輝いている。湿気を含んだ穏やかな風や、海の香りが心地よい。囁くような波音は、聞く者の心までも穏やかにさせる力があるようだ。頭上に広がる澄み渡った青空には、カモメたちが気持ちよさそうに漂っている。

 肌寒い季節だが、今のリュカにはあまり気にならなかった。大きく息を吸い込んでみると、ひんやりとした清澄な空気が胸一杯に流れ込み、身体の中の何かが浄化されているような気がした。リュカはぶらぶらと足を揺らしながら自然を堪能していた。少々表情は乏しいが、心なしか目を輝かせている。その瞳は黒く、不思議な光を宿していた。

 遠ざかってゆく一隻の船がふと目に入った。かなり遠ざかっているため、とても小さく見える。あの船は、先ほどまで自分が乗っていた船だ。あの船に乗って、この港にやってきたのだ。船は、乗っているときは巨大なものに感じられたのだが、今こうして雄大な海に浮かぶちっぽけな姿を見ていると、海の、ひいては世界の雄大さをあらためて感じた。

 あらためて、というのも、リュカは物心がついた頃には既に旅をしていた――父と二人で世界中を回っているのだ。世界の広大さも身に染みて感じながら生きてきたのである。しかし、あの船と海とを並べて眺めていると、あらためて思い知らされるものがあった。

 

「そろそろ行くぞ、リュカ」

 

 落ち着いた低い声が背後から呼びかけてきた。

 リュカは振り返りつつ立ち上がると、声の主の元へと、紫色のマントの裾をひるがえしながら駆け寄った。後ろでくくった黒い髪が、犬の尾のように揺れた。

 リュカは今、ビスタ港という名の小さな港にいる。一組の夫婦が管理しているらしい。夫婦が暮らす小屋が一軒建っているのみで、桟橋も一つしかない。とても小さな港だ。リュカたちは長い船旅を経て、つい先ほどここに辿り着いたのである。

 港の管理人と父はどうやら知り合いだったらしく、船を降りるやいなや二人で話し込んでしまった。その間、リュカは父に話が終わるまで待っているよう言われていたため、桟橋の先まで行って、一人で海を眺めていたのだ。

 

「今度はどこへ行くの?」

 

 父を見上げてリュカはたずねた。父は引き締まった体躯の偉丈夫であり、風格はもちろんどこか気品をも漂わせている。豊かな口髭を生やしており、顔は厳ついが、温かな眼差しを向けてくれる父を怖いと思ったことはなかった。リュカは密かに父に憧れていた。

 

「言っていなかったか? サンタローズという村だ。ここから近いからな、今日中には着くはずだ」

 

 紫色のターバンが巻かれたリュカの頭に、手をポンと乗せながら答えた。軽く乗せるような動作であったが、リュカの頭にずっしりとした重みがかかる。威圧的な外見に反して、優しい声色だった。

 

「それじゃあ気をつけてな、パパスさん。坊やもな」

 

 管理人がわざわざ見送りにきてくれていた。その言葉に笑顔を返す父――パパスの後について、リュカは港を後にした。

 

 

 

 

 

 港を出て大陸へと足を踏み入れると、豊かな大自然が眼前に広がった。広大な草原を囲うように山々が連なっているのが、遠くにうっすらと見える。ちらほらと森もあるようだ。

 ビスタ港は大陸の南端にあり、パパスが言うには、サンタローズはそこから北へとまっすぐ進んで行ったところにあるらしい。リュカはパパスに連れられ、草原を北へと歩いて進むことになった。

 平坦な道のりではあったが、決して楽なものではなかった。旅をするというのは、魔物の脅威に晒されるということでもあるのだ。道中、リュカたちもまた幾度となく魔物に襲われた。

 楽ではなかったと言っても、それはリュカにとってはである。この辺りの魔物はパパスにとっては何の障害にもならないようだった。全ての魔物を一撃の下に切り伏せる姿は圧巻である。重量感のある鋼鉄の剣を自在に操るその姿は、リュカにとっては見慣れたものだったが、それでも見れば見るほど尊敬の念を強めるほどだった。

 リュカも果敢に杖を振り回し、魔物に立ち向かっていくのだが、なかなか倒すのは難しかった。ダメージを与えはするのだが、それ以上にダメージを受けてしまうのだ。苦戦しているとパパスがやってきて手助けしてくれるというのが、お決まりの光景だった。そして傷ついたリュカの姿を見ると、「大丈夫か?」と言葉少なに言って、回復魔法で治療してくれるというのもまたお決まりの光景だった。そんな時、リュカは父のように強くなりたいという思いをより強めるのであった。

 余程の魔物でない限り、リュカはパパスに戦わないようにと命じられることはない。父にとっては自分には背後に隠れていてくれた方が安心できることだろうと、子供ながらにリュカは理解していた。だが、そうしていろと強制されることはほとんどない。ただリュカが魔物と戦っているのを見守り、危なくなったら助ける。そういう姿勢に徹しているようだった。だからこそ、リュカは臆することなく魔物に立ち向かっていけるのだ。自分が父の庇護の下にあることを、リュカは正しく認識していた。

 

 

 

 

 

 サンタローズに到着したのは、夕方のことだった。森の向こうに、燃えるような夕陽が傾いているのが見える。もともと肌寒かったのだが、陽が落ちてきたためにますます気温が下がってきていた。

 

「お前は覚えているかわからんが、ここには家があるからな、しばらくゆっくりしよう」

 

 村の入り口に差し掛かった時、パパスがふと思い出したように言った。

 

「家!?」

 

 リュカは思わず目を見開き、うわずった声をあげた。自分に家があるなんて、考えたことも聞いたこともなかったのだ。今までは旅ばかりで、大抵は宿屋で寝泊りするか野宿をしていた――リュカにとってはそれが当たり前だった。にわかに興味が湧きあがり、はやる気持ちを抑えられなかった。父に教えられる前に家を見つけようとするかのように、せわしなく辺りをキョロキョロと見回した。

 そんなリュカの様子を、パパスは頬を緩めて見ていた。柔らかな眼差しを向けながら、声を和らげて付け加えた。

 

「二年前にもこの村にしばらく住んでいたんだぞ」

 

 またしてもリュカは驚いた。自分に家などないと思い込んでいたのは、家に住んだことがないわけでも、父に教えられていなかったわけでもなく、自分が忘れていただけのことだったのだ。それなのに、当たり前のように自分が今まで旅をし続けてきたのだと、家などないのだと思い込んでいたことがとても不思議に思えた。この村の景色に見覚えがあるような気がしてきていることも、この村に懐かしさのような感情を覚えつつあることも、とても不思議だった。

 村を落ち着きなく見回しながら、先を行くパパスの後を追う。天然の青々とした芝生を踏みしめながら歩を進める。よく見ると、足下には石畳の道があったが、好き勝手に伸びている下草に覆われていて、注意しなければ見落としてしまいそうだ。

 この村には建物があまり無い。人が少ないのかもしれない。しかし、寂しい村だという印象はなかった。

 サンタローズは豊かな自然に溢れている、のどかな村だった。山と森とに囲まれており、自然と一体化している。村の間を縫うように、そこまで太くもない川が、山にぽっかりと開いた洞窟から流れてきているのが見えた。それほど大きな村ではないのだが、家々がまばらに建てられているからか、見通しがよく広々とした印象を受ける。

 少し大きめの建物の脇を通り過ぎ、川にかけられた小さな橋を渡り、村の奥へと進んでゆく。父は村人たちに慕われているらしく、姿を見かけた人は皆、一言声をかけにくる。なかには父の姿に狂喜乱舞するおかしな人もいた。まあ、父が好かれているならそれでいい、リュカはそう思った。

 リュカのことを覚えている人も結構おり、ついでに声をかけてくる人もいたが、リュカには全く見覚えのない人ばかりだった。大きくなったな、なんて言われても、どう答えていいのかわからなかった。

 

「ほら、あの家だ」

 

 父の指差す先には一軒家があった。壁は白塗りで、屋根は茶色い。温かみのある落ちついた雰囲気の家だ。自然との調和を崩すことのない、むしろより深めるとも言えるような外観である。周辺の芝生はきれいに刈り込まれている。家の前には井戸があった。石造りの丸い井戸だ。井戸の傍にはたき火の跡がある。

 家の入り口まで行くと、パパスはドアを開けて言った。

 

「今帰ったぞ、サンチョ」

 

 サンチョという名前には聞き覚えがあった。パパスについて家へ入っていくと、男が出迎える。この人がサンチョなのだろう。柔和な顔をした男で、全体的に丸い印象を受けた。体形は言うまでもなく、顔も、鼻も、目も丸かった。ただでさえ丸い小さな目は、今はまん丸に見開かれている。リュカはサンチョの姿に懐かしさを感じた。サンチョを見ていると、不思議と心が暖かくなった気がした。

 

「旦那様! それに坊っちゃんも! お帰りなさいませ! 

どれほどこの日を待ちわびたことでしょう……さあ、ともかくお座り下さい!」

 

 悲鳴にも似たような、かん高い声が返ってきた。パパスの帰宅にたいへん驚いているようだ。慌ただしく、だが嬉しそうに、イスに座るよう促してくる――部屋の中央にある長方形のテーブルを囲むようにして置かれたイスだ。そこには一人の見知らぬ――もちろんリュカにとってはだが――女性が座っていた。恰幅のいい女性だ。父を見て笑みを浮かべている。

 

「久しぶりだね、パパス」

 

 その女性がパパスに声をかける。おお、とパパスが驚いたような顔をした。

 

「マグダレーナじゃないか。どうしてこの村に?」

「ご主人の薬を取りに来たっていうんで、寄っていただいたんですよ」

 

 横からサンチョが口を挟む。

 

「薬? ダンカンのやつ、どこか悪いのか?」

 

――大人たちが話し込んでいるのを尻目に、リュカは部屋を見回していた。

 壁は白塗りのレンガで、柱や窓枠、ドア枠は木でできていた。金色の刺繍が施された赤いじゅうたんが石の床の大部分を覆っており、温かみのある家となっている。外はなかなか寒かったものだが、家の中は温もりに包まれていた。暖炉でチロチロと小さく燃える火のおかげなのだろうが、この家の雰囲気のおかげでもあるのだろうとリュカは思った。

 キッチンもこの部屋にある。壁に面しており、その壁にドアが一つついていることから、その向こうにも部屋があるのだと思われる。

 部屋の片隅には木の階段があった。

 その対角線上の床には、不自然に色が違う部分がある。石の床だというのに、その部分だけは木だ。

 パパスもサンチョも既にイスに座って話し込んでいるが、リュカはそうするつもりはなかった。大人たちの輪に加わっても、楽しいことなどないと理解しているからだ。二階も見に行ってみようかなどと思っているところに、一人の少女がトントンと軽い音をたてながら階段を下りてきた。

 

「おじさま、おかえりなさい」

 

 一階まで下りてくると、少し気取ったように少女はパパスに声をかけた。

 

「ん、君は?」

 

 パパスは戸惑った様子だ。

 

「あたしの娘だよ」

「ああ、ビアンカちゃんか。大きくなったな」

「まあ二年も経てばね、大きくもなるさ。リュカ君だって大きくなったじゃないか」

「そうですよね、坊っちゃんも本当に大きくなられて……」

 

 サンチョは感極まっている。

 再び子どもそっちのけで話し始める大人たちを見て、どこか呆れた様子のビアンカがリュカに声をかける。

 

「ねえ、大人の話って長くなるから上に行かない?」

 

 相変わらず気取った口調だ。

 ちょうど二階へ行こうかと思っていたリュカは小さく頷き、ビアンカと共に階段を上がった。

 二階は木の床で、じゅうたんも何も敷かれていなかった。小さな机とタンス、本棚が一つずつ置かれており、ベッドは二つ並んでいた。机にはイスが一脚備え付けられている。簡素な部屋だ。

 相変わらず部屋の観察に精を出していると、ビアンカが声をかけてきた。

 

「ねえ、リュカ。わたしのこと覚えてる?」

 

 そう問われたリュカは、今度はビアンカを注意深く観察する。

 一番目を惹くのは、美しく輝く金色の髪だ。二本の三つ編みにして、左右に垂らしている。三つ編みの先っぽには、オレンジ色のリボンが可愛らしく結ばれていた。瞳は青く、耳元には小さな赤いイアリングが光っている。オレンジのワンピースの上に、鮮やかな緑色のマントを羽織った、色鮮やかな服装だ。

 ビアンカの髪の毛には見覚えがあるような気がした。眩しいほどの金色が、目の奥に焼き付いているような気がした。しかし、結局はっきりとしたことは思い出せなかった。ビアンカの言葉からも、二年前――自分が以前この村に滞在していたという時期――に会っていたのだろうとは想像できたが、それだけだった。

 そんなリュカの様子を見て察したのか、「そうよね、あなたまだ小さかったもんね」と、少し寂しげに呟いた。

 

「わたしは八才だから、あなたより二つもおねえさんなのよ。あっ、そうだ! ご本を読んであげようか? ちょっと待っててね!」

 

 気を取り直した様子で矢継ぎ早に言うと、本棚へ向かった。ビアンカの唐突な行動を少々あっけにとられながら目で追うと、どうやらどの本にしようか悩んでいるようだった。しばらくボーっと眺めていると、やがて一冊本棚から抜き出し、こちらへ戻ってくる。

 

「さあ、座って」

 

 イスにリュカを座らせると、リュカの横に立ち、本を机の上に広げた。

 

「じゃ、読んであげるね! え~と…そら…に…え~と…く…せし…ありきしか…………これはだめだわ。だってむずかしい字が多すぎるんですもの」

 

 口を尖らせながら、ビアンカは本を読むのを諦めた。恥ずかしいのか、頬を少し赤らめ、リュカから目を逸らしている。リュカはどうしていいかわからず、ビアンカをただ見つめていた――リュカには人付き合いの経験などほとんどなかった。

 

「だって見てみなさいよ。ほら、むずかしいでしょ? リュカは読めるの?」

 

 黙したままじっとビアンカを見つめているリュカに、責められているように感じたのか、彼女は反撃してきた。

 確かに難しかった。リュカには全く読めなかった。そもそも文字の読み方を習ったことが無いのだ。言い訳するような口調からビアンカの内心を察したリュカは、文字を読めないと恥ずかしい思いをするはめになるのだと理解した。早く文字を読めるようになろうと思った。

 

「ビアンカ、そろそろ宿に戻りますよ」

 

 階下から聞こえてきた声に、ビアンカは救われたような表情を浮かべ、声を張り上げて返事をしながら、本を本棚へ戻しに向かった。

 

「それじゃあわたしは帰るね。また遊ぼうね!」

 

 また遊ぼうということは、今日も遊んでいたということなのだろうかと、リュカは首をかしげた。本を読むことが遊びだという感覚は、リュカにはなかった。遊びのわりには楽しくはなかった。

 そういえば自分は誰かと遊んだことがなかった――あったのかもしれないが、少なくとも記憶にはなかった。旅の間はどこかに長期間留まることはなかった。そのせいなのか、友達というものができたことがなかった。当然遊び相手などもいなかった。いつだって一人で遊んでいたし、そのことに何の不満もなかった。

 軽やかな音をたてながら階段を下りていくビアンカを目で追いながら、リュカは不思議な感覚にとらわれていた。遊ぶ相手というのは友達であるはずだ。少なくともリュカの頭の中ではそうだった。では、ビアンカは自分の友達なのだろうか。はじめての友達ができたのだろうか。そう思うと、ほんの少しだけ嬉しかった。

 

 

 

 

 

 



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2話

2話

 

 

 

 

 

 翌日からリュカは村の探索に精を出すことにした。時には一人で、時にはビアンカと二人で――時々ビアンカが遊びに誘いに来るのだ。

 探索といっても特に何があるわけでもなく、木に登ってみたり川に飛び込んでみたりと、遊びに移行していくのが常だった。探索自体が遊びだという説もある。

 川の水は凍るように冷たく、川に浸かったまま全身が硬直してしまったこともあった。リュカを助け出そうと、ビアンカが川岸から手を差し伸べてくれたのだが、その手を握って引き上げられるどころか逆に引きずり込んでしまったときのビアンカの怒りは相当のものだった。あれほどこっぴどく怒られたのは生まれてはじめてだとリュカは確信していた。

 

 

 

 

 

 村を隅々まで見回ってわかったことは、本当にこの村は素朴なのだということだった。それはリュカにとっては面白みのない事実だったが、決してこの村が気に入らなかったというわけではない。自分の住処としては上々だ。

 村を知り尽くしてしまったリュカの興味は、もはや洞窟にしか向けられていなかった。山にぽっかりと開いた、川の流れ出している洞窟だ。村の隅っこに位置するその洞窟は、リュカに不思議な魅力を感じさせるものだった。どんなに晴れ渡った日でも、その洞窟は深い闇を抱えていた。奈落の底を覗き込んだような、その闇に吸い込まれてしまいそうな感覚がリュカを襲うほどだった。好物を最後まで残しておくように、最後まで取っておいた洞窟の探索に取り掛かる時がついにきたことをリュカは悟った。

 洞窟から川が流れてきていると言ったが、洞窟の幅一杯に川が流れているわけではない。川は洞窟の中央部を流れており、両脇は小道になっている。つまり、そこから中に入っていけるということだ。杖をかたく握りしめ、リュカは洞窟へと向かった。

 

 

 

 

 

 洞窟へは、川を挟んで二本の道がのびているというのは、前述したとおりだ。右側の道は、途中で一軒の家に遮られ、その家の中を通らないと先へは進めないようになっていた。その家は一人の老人の家であり、その老人はサンタローズの村長だった。パパスと仲が良いらしく、パパスにあの家に立ち入ることを許していることも、パパスがあの家を通ってその先の洞窟へ毎朝のように向かっていることも、それから夕方まで洞窟の中から出てこないことも、リュカは知っていた。

 少し前に、村長にここを通してもらおうと頼みに行ったことがあったのだが、通してはもらえなかった。

 

「坊やは良い子じゃな? ならばお父さんの邪魔をしてはいかんぞ」

 

 そう優しく諭されてはどうしようもなかった。別に父の邪魔をしようとしたわけではなかったのだが、自分が今のところ父の足手まといにしかなれないことも理解していたため、それ以上頼み込むことはしなかった。代わりにとでも言うように、お菓子を食べさせてくれて以来、村長のことが少し好きになった。

 そんな経緯があるため、リュカは迷わず左側の道をゆくことにした。右手に川、左手に森があり、両者に挟まれた小道となっている。

 少し進むと、洞窟の入り口まで辿り着いた。洞窟は近くで見ると、想像以上に大きく口を開けていた。

 川幅は広く、向こう岸に渡ることは不可能のように思えた。泳げば渡れるかもしれないが、川のなかを泳ぐ何者かの影を見つけてからは、そんな気にはなれなかった。

 しばらくの間、リュカは黙って佇んでいた。そういえば、一人でこういうところに入っていったことはなかったな、リュカはふと思った。魔物がいるようなところへ行くときは、いつだって父が一緒だった。今回は一人だ。そう思うと、怖いようなわくわくするような、妙な気分だった。洞窟を制覇することが、独り立ちのためには避けては通れない儀式であるかのような、不思議な錯覚に捕らわれていた。最初は単なる好奇心だったのだが、今は洞窟探索がリュカの中ではとても重大なことになっていた。

 

 

 

 

 

 意を決して洞窟へと足を踏み入れた。

 内部はそれほど暗くはなかった。地面、壁、天井問わずまばらに生えている草が淡い光を放っており、洞窟内を優しく照らしている。しかし、それでも薄暗く、また洞窟内部は外よりも肌寒かった。リュカは少し緊張した。

 洞窟は、ゴツゴツとした岩壁が道をいくつかに分岐させていて、ちょっとした迷路のようになっている。

 川を挟んだ右側の道は、すぐに途切れていた。川幅が増し、道が飲み込まれていたからだ。その黒い水面に草の発する光が反射し、キラキラときらめいている。途切れているのは右側の道だけで、こちらの道には何の支障もない。

 ゆっくりと流れる水の音が、リュカには怪物の蠢くような音に感じられ、不気味だった。ここより不気味なところなんて、今までに数え切れないほど経験しているはずなのだが、その経験はたいして役に立たないようだ。当然と言えば当然かもしれない。今まではただ父について行けばよかったし、何かあっても父が必ず助けてくれていた。父の庇護の下にあっただけなのだ。父の大きさをあらためて感じたリュカであった。

 

 

 

 

 

 まっすぐ進んでいくと、やがて曲がり角に突き当たった。道は左へと曲がり、右側には相変わらず川がある。ふと目をやると、川の真ん中には小島があるのが見えた。その小島には木でできた小舟が乗り上げている。あの小舟に乗って父は小島までいったのだろう。そして、小島の中央にある階段を下りていったのだろう。この洞窟には、ふとしたところに人工的な匂いがする。

 道は小島とは真逆の方向に続いていた。その道の先には下り坂があるのがかすかに見える。父とは全く違う道を行くことが、なぜか自分を一人前にしてくれるような気がした。そう思うと、だんだん気力が湧いてきた。リュカは口元を引き締め、小島に背を向け、まっすぐに歩き出した。

 下り坂を下りると、T字に道が分かれている。どちらかが行き止まりになっているのかどうかは、この時点では判断がつかなかった。

 しかし、それよりも問題なのは、あちこちに魔物の姿が見えることだ。見つからないよう息を潜める。

 左のほうが魔物の数が見た感じ多かった。それだけの理由で、とりあえず右に行ってみることにした。しばらく進むと、また左右に道が分かれている。

 

「ピキー!」

 

 どちらへ進もうか迷っているそのとき、妙な鳴き声とともに横から青い小さな魔物――スライムが飛び出してきた。大きな水滴のような外見で、魔物と呼ぶには少々かわいらしい。そのまま突っ込んできたスライムを機敏な動きで避けると、すばやく辺りを見回した。スライムは離れたところにうまいこと着地している。

 

「ふぅ……」

 

 危なかった、リュカは背筋に冷や汗が一筋流れるのを感じた。スライムの接近に気づいていなかったのだ。気が抜けていたのだろうか。そんなつもりは無かったのだが、見つかってしまったものは仕方が無い。

 それにしてもマズイことになった。折角コソコソと隠れながら移動していたというのに、この騒ぎで台無しになってしまうかもしれない。スライム程度ならどうにでもできる自信はある――スライムは最弱の魔物として有名なのだ――が、他の魔物まで引き寄せられてきたら、たまったものではない。

 再び突進してきたスライムを、杖で迎撃する。思いのほか勢いがあり少しよろけたが、体勢を立て直す必要も無い程度のものだ。弾き飛ばされ、ふらついているスライムに止めを刺そうとリュカは突進するが、そのとき足元から何かが突き出してきた。

 

「ぐっ!」

 

 全力疾走しているところに足を払われたような形になり、リュカは素っ転ぶ。実際は足を払われたどころのレベルではない。すねの辺りがパックリと割れている。反射的にリュカは傷口を押さえた。

 何が起こったのかと目を向けると、地面からせみもぐらが顔を出していた――見た目はセミに近く、モグラのように地面に穴を掘って移動する魔物だ。前足は鎌のようになっており、恐らくあれに足を刈られたのだろう。

 地面に転がっているところにスライムが突っ込んできた。杖で咄嗟に防御するも、衝撃をモロに受け、突き飛ばされた。

 

「うぅ……!」

 

 とにかく早く立ち上がらないと。ゴロゴロ転がりながら、リュカは命の危険を噛みしめていた。しかし、泣き言を言っている場合ではない。転がっていては話にならない。痛みを堪えてすばやく立ち上がると、既に足元に顔を出していたせみもぐらに、体重を乗せて杖を思い切り振り下ろした。重い手ごたえが伝わってくる。

 

「ギィィィッ!!」

 

 断末魔の叫びだったのだろうか、耳障りな奇声を発して、せみもぐらはグニャリと身体を折った。生死を確認している場合ではない。この隙にスライムが目前に迫っていた。

 防御が間に合わず、腹に一撃もらう。再び吹っ飛ばされるが、目線はまっすぐスライムに向けている。

 

「はやい……、でも……」

 

 どうやらスライムは攻撃の際、直線的な動きしかできないらしいことが、今までの戦いでわかった。それならばよく動きを見てさえいれば、杖で叩き落すことができる。

 そのチャンスはすぐにやってきた。スライムが凄いスピードで突っ込んでくる。リュカはしっかりと杖を構えた。そして、自分の攻撃範囲に入ったスライムを渾身の力を込めて叩き落とした。

 湿った音をたてて、スライムの身体が崩れた。

 

「どうにかなった……」

 

 ようやく初戦が終わった。ペタンと地面に座り込んだ。荒い息遣い。心臓が胸から飛び出してきそうだった。こんなに疲れた戦闘は初めてだとリュカは思った。地面の冷たさが尻から伝わってくる。

 しかし、ホッとしている場合ではない。騒ぎを聞きつけたドラキー――蝙蝠のような魔物だ――が、興味深げにこちらを眺めているのが見えたからだ。いつ襲い掛かってきてもおかしくはない。

 

「キキキキキッ」

 

 何がおかしいのか、笑っている。

 リュカは急いで薬草ですねの傷を治療することにした。痛みでもう立てなかったのだ。すねからは血がだらだらと流れていることに今さら気付いた。こんなこともあろうかと、薬草を何枚か持ってきておいたのは英断だった。

 腰にベルト代わりに巻いている縄にぶら下げた小さな袋を開け、薬草を一枚取り出す。掌で荒くグチャグチャにすり潰し、出てきた臭い汁をすねの傷に塗り付ける。すると、さっきまで血がだらだら流れていた傷口がみるみる塞がっていく。痛みもほとんど引いた。

 

(もう薬草をバカにするのはやめよう)

 

 今まではパパスの回復魔法があったため、薬草なんて邪魔でしかなかったのだ。

 ドラキーが襲ってこなかったことに感謝しつつ、リュカは先に進むことにした。相変わらず聞こえるドラキーの笑い声は無視した。戦闘をしながらだいぶ移動してしまったが、現在地はある程度把握しているつもりだ。さっきの分かれ道を右に進んだところである。そのまま進んでいくと、道は左にカーブを描きはじめた。道なりに進むと、大きな穴が地面にぽっかりと開いているのが見える。穴の前には立て札が立てられていた。何か文字が書かれているが、リュカには文字が読めなかった。

 

(勉強するの忘れてた)

 

 リュカは思い出した。以前ビアンカに本を読んでもらったときに、文字の勉強をしようと心に誓ったはずなのに、すっかり忘れていた。何と書いてあるのか気になってしょうがない。

 今度サンチョに教えてもらおう。仕方ないので立て札のことは忘れ、穴に落ちないように気をつけながら先へ進むことにした。慎重に穴の横を通り過ぎようとしたまさにそのとき――

 

「キーッ!」

「うわっ!」

 

――さっきのドラキーだろうか、急降下してきた。咄嗟に身をかわすが、バランスを崩し穴へ落ちそうになった。奈落が口を開けて待っている。あわてて立て札にしがみつくことで、どうにか耐える。心拍数が急上昇した。

 勢いよく顔を上げる。

 ドラキーが空中で旋回し、こちらへ再び降下してくるのが見えた。左手で立て札をつかみつつ、右手の杖で横薙ぎにドラキーを殴りつけた。見事に命中したものの、リュカにも衝撃が伝わりバランスを崩す。穴はただそこにあるだけで不思議と引力を感じさせた。引きずり込まれてしまいそうな錯覚がリュカを襲う。

 ここで戦うのは不味い。攻撃を当てることができても、こちらが穴に落ちてしまっては元も子もない。とにかくここから離れなければ。そう考えたリュカは、慎重さを捨て走って先へ進むが、腹を立てたドラキーはさきほど以上の速さで襲い掛かってきた。

 

「ギーーッ!!」

 

 荒々しい声を上げ、突っ込んでくる。リュカは迎撃しようとするも、予想以上の速さに杖は空を切った。リュカは突き飛ばされ尻餅をついたが、運よく穴に落ちずに済んだ。しかし、まだ安心はできない。リュカはすばやく立ち上がりこの場を離れようとするが、ドラキーはそれを許さない。縦横無尽に飛び回り、執拗にリュカを穴に落とそうとしてくる。そんな知能があるとは驚きだった。必死に踏ん張り、身を固める。

 そうこうしているうちに、ドラキーの叫びを聞きつけたのか、もう一匹ドラキーが現れた。

 

「キキキキキッ」

(最悪だ……)

 

 リュカは思わず舌打ちした。

 二匹のドラキーの怒濤の攻撃にリュカは防戦一方にならざるを得なかった。右から来るほうに気を取られると、左からの攻撃を。顔を狙ってくるほうに気を取られると、腹への攻撃を。同時に、足下にも注意を払わなければならない。

 いくら防御していても、穴へ落ちるまでの時間を引き延ばすことにしかならない。とは言え、ここで戦うなど論外だ。リュカは一か八か、頭を抱えて強行突破することにした。とにかく穴から離れればどうにかなると信じることにした。姿勢を低くして、両手で頭を抱え、全速力で走った。

 

「――え?」

 

 おもわず間抜けな声が零れた。突然足が動かなくなったのだ。慌てて足元に目を向けると、地面から突き出た鎌のようなものが自分の右足の甲を突き刺し、地面に縫いつけているのが見えた。

 

「--っ!!」

 

 激痛を認識し、思わず悲鳴を上げる。鎌が足から抜かれた。血が溢れる。

 血に染まった鎌をどこか得意気に掲げているせみもぐらと、目が合った。ぞくりとリュカを言い知れぬ感覚が襲った。相手は自分を殺す気なのだ。そんなわかりきったことを、今さらながら思い知らされたような気がした。

 

「キキキキキッ」

 

 腹への衝撃。気付けばリュカの身体は宙に放り出されていた。

 ドラキーとせみもぐらの連携プレーだったのか、それともただの偶然が重なったのかはリュカにはわからなかったが、自分にとってこれ以上無いほどの最悪な結果をもたらしたのだということはわかった。

 落ちていく。どこまでも暗い闇の中へ。光の届かぬ穴の底へ。金属音のようなドラキーの笑い声が洞窟内に木霊した。

 

 

 

 

 

 



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3話

3話

 

 

 

 

 

 内臓が浮き上がる感覚、右足の激痛、身体中の打撲の痛み。いろいろな感覚がリュカを襲っているが、最も不味いのは浮遊感――すなわち現在進行形で穴の底へと落ちていっているという状況であるに違いない。穴の深さなど確かめようも無いが、落ちてしまえば死んでもおかしくない。憎たらしく笑うドラキーたちの顔が見える。相変わらずの笑い声は実に耳障りだった。

 

(死にたくない)

 

 リュカは切実にそう思った。

 死ぬこと自体が嫌なのは当然だが、あんな小さな魔物に殺されるのは納得がいかなかった。それに、この洞窟に来てまだ数匹の魔物しか倒していないのだ。別に魔物を殺しまくりたいというわけではないが――リュカは別に魔物が嫌いだというわけではなかった――戦果としては実に情けないではないか。このままでは死んでも死にきれない。

 とは言え、空中に放り出された状態では何もできない。手足は動くが、それが何になるというのだ。

 手の打ちようのない状況に、不本意ながら諦めかけたそのとき、突然リュカは閃いた。リュカが全く知らなかったことを、唐突に理解した。まるで情報が無理やり頭に押し込められたかのように。

 身体の真ん中から、何かが湧き出してくるのを感じた。とても熱い何かだ。それはにわかに身体全体にしみ渡った。今にも身体から溢れ出しそうだ――そう、これは魔力だ。なぜだかリュカは理解していた。

 リュカにはどうすればいいのかわかっていた。杖を持つ右手に魔力を集束させるのだ。右手もろとも、杖までもが淡い緑色の光を発しはじめた。熱が右手に集中する。後は簡単だ。呪文に乗せて、魔力を解き放ってやればいいのだ。リュカは身体を捻り、右腕を穴の底へ向けた。そして呪文を高らかに唱えた。

 

「バギ!」

 

 緑色の光が一際強い輝きを放つと、幾筋もの流れとなって解き放たれた。それぞれの光の蛇がうねりながら風を切り裂く。好き勝手に暴れまわるそれぞれの光は、再び一つになろうとでもするかのように、やがてある一点へと向かいはじめた。そして一点に全ての光が再び集約したとき、まるで爆発が起こったかのように、激しい炸裂音とともに周囲に衝撃波を発した。

 

「--っ!」

 

 その衝撃波に吹き飛ばされ、リュカは穴の上まで――ドラキーたちの頭上にまで達した。轟音が洞窟内に反響したためか、混乱しているドラキーたちに向かって、渾身の力を込めて未だに光を帯びている杖を横薙ぎにした。緑色の光が杖の軌跡を宙に描いた。一振りで二匹のドラキーを地面に叩きつけると、落下の勢いそのままにせみもぐらの頭にも杖を叩きつけた。三匹の魔物は、悲鳴の一つも上げずに死んだ。

 バギは風を操る初級魔法である。これがリュカがはじめて使った魔法だった。右腕と杖の光はもう消えてしまった。

 

「これが魔法……」

 

 何で突然魔法が使えるようになったのだろうか。リュカにとって心底疑問だったが、別に困るわけでもないし、いいだろうという結論に達した。と言うより、むしろ喜ばしいことである。

 今までは魔力の存在を己の中に感じたことなどなかったのだが、今は自分の体内に存在する魔力を感じ取ることができるようになっていた。不思議な感覚だ。試しに魔力を右腕に集中してみると、再び淡い緑光を纏った。しかし、やけに疲れたため止めると光は霧散した。

 

「い、いたい……」

 

 興奮で忘れていたが、足の痛みがまたぶり返してきた。正直立っていられないほどに痛んだが、とりあえず穴から離れようと、片足立ちでしばらく先へ何とか進んだ。そして岩壁にもたれて座り込み、薬草を取り出し治療した。

 薬草の用意は冒険の基本だとよく言うが、リュカは今その言葉の正しさをしみじみと理解していた。

 先ほどのバギの大音響により、ますます魔物を集めてしまっていないかと、少々不安だったが、むしろ魔物たちは逃げていってしまったようだ。辺りに魔物の姿は見えない。地面の下にはあの憎たらしいせみもぐらがいるかもしれないが、心配したところで地中の様子などわかるはずもない。

 左へとカーブを描き続ける道をリュカは進んでいく。すると、また道が二手に分かれていた。左の道は、先ほどスライムに遭遇したところに続いている。つまり、ぐるりと一周回っただけだったのだ。ドラキーやせみもぐらとの死闘が不要なはずの争いだったという事実に、リュカは辟易する思いだった。そのおかげでバギが使えるようになったのだと、なんとか自分に言い聞かせることで心を落ち着かせた。

 右へ進むとまた左右に道が分かれていたが、今度は左への道が行き止まりになっているのが見えたので、迷わず右へと進めた。その先には下り坂があり、下へ降りた。

 

 

 

 

 

 下の階には普通に魔物がうろついていた。バギの爆音も、下の階の魔物を追い払うことはできなかったようだ。もう一度炸裂させてやろうかとも思ったが、止めておいた。何せ疲れるのだ。バギを使ったときはいとも簡単に魔力を集めることが出来たのだが、今はそれが難しい。難しいといっても、魔力を集中させること自体は簡単だ。だが、それが酷く疲れる。魔力が残り少なくなってしまっているようだ。魔法も使い放題というわけにはいかないらしい。

 曲がりくねっていたが、一本道だったので、しばらくは順調に進めた。途中、スライムやドラキーなどにも幾度と無く遭遇したが、一度戦っているからだろうか、穴も近くにないことだし、苦戦することはほとんど無かった。足元にも注意を払っていたが、にっくきせみもぐらは姿を見せなかった。

 やがて分かれ道に出会った。今度は真っ直ぐ行くか、左に曲がるかという分かれ道だ。どちらも途中で折れ曲がっており、先は見通せない。とりあえず真っ直ぐ行くことに決めた。全く悩むことは無かった。いくら悩んだところで、どちらが当たりかなんてわかるとは思えなかったからだ。

 しばらく行くと、右に道が折れていた。さらに進むと、そこは行き止まりになっており、小さな泉があった。泉のほとりには草がぼうぼうと生えている。リュカの腰の高さほどの草だ。薄暗かった洞窟でここだけは明るい。澄み切った泉の水面には草が放つ仄かな光が反射し、きらきらと宝石を散りばめたようだった。一瞬ここが洞窟の中だということを忘れるほどに、幻想的な光景だ。

 

「うわあ……」

 

 綺麗だな、とリュカは引き寄せられるように、泉に近付いた。その水に触れてみたかったからだ。水面にリュカの顔が映った。心なしか逞しくなったように見えるのは気のせいだろうか。でも間違いなく自分は成長しているはずだと思った。

 そのとき、リュカは密集した草の中に水色の物体が見えたような気がした。何かと思い、草を掻き分けてみると、そこには一匹のスライムがいた――今まで戦ってきたスライムたちより若干色が薄く、身体も小さいような気がした。

 咄嗟に杖を構えると、スライムは焦ったように飛び上がった。

 

「ぴきー! いじめないで! ぼく悪いスライムじゃないよ」

 

 そのスライムはなんと言葉を発した。子供のように高い声だ。

 

「ほ、本当だよ! この泉は不思議な力を持ってるんだ。それで悪い魔物は近寄れないんだよ。ほら、周りに魔物はいないでしょ?」

 

 慌てたように、矢継ぎ早にまくし立てる。

 

「君がいるけど」

 

 リュカはスライムが喋ったことにも大した反応を示さず、静かに呟いた。

 

「だからぼくは悪いスライムじゃないって言ってるんだよ!」

 

 スライムはプルプルと身体を波打たせた。

 

「なんで喋れるの?」

「えっとね、ここにはよく人間が来るんだ。それにぼく村の入り口にも行ったりしてたんだ。それでたくさん人間の言葉を聞いてたら覚えてたんだ」

 

 スライムは何故か少し寂しそうに言った。

 

「ここには人間がよく来るの? なんで?」

「う~ん……よくわかんないけど……何か岩を削ったりとか、草を採ったりとかしてるみたい」

「何で村の入り口まで来るの?」

「だって魔物といてもつまんないんだもん……人間のほうがおもしろいよ」

 

 どことなくしゅんとしている様子だ。

 ふーん、と聞いていたのかいないのかわからないような返事をして、立て続けに質問していたわりには、リュカはそっけなく会話を打ち切った。

 

「ねえ……君は何ていう名前なの?」

 

 スライムが恐る恐るといった様子で聞いた。リュカだと答えてやる。

 

「へぇ~、リュカっていうんだ…………ぼくはスラリンっていうんだ!」

 

 スラリンはリュカを真っ直ぐに見つめて言った。黒く、つぶらな瞳が輝いている。

 

「そう」

「……リュカはどうしてここまで来たの?」

「探検」

 

 池を覗き込みながらリュカが答える。

 

「へぇー、そうなんだ。あっ、そうだ! ぼくが案内してあげようか? この洞窟には詳しいんだ!」

 

 これ以上の名案はないとばかりに、スラリンは目をきらきらさせていた。

 それも悪くはないかもしれない。リュカはそう思った。自分一人で探検する醍醐味というものはあるが、誰か詳しい人に案内してもらうというのもまた、思いも寄らぬ発見があったりするものだ。

 

「よろしく」

「うん、いいよ! じゃあ行こうよ!」

 

 大袈裟と思えるほどに喜びを爆発させたスラリンは、今やぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

 

 

 

 

 

 リュカはぴょんぴょん進んでいくスラリンの後を追った――スライムは足が無いため、跳ねて移動するのだ。大変そうだな、とリュカは思ったが、スラリンは苦でもないようにニコニコしている。泉は行き止まりにあったため、道を引き返しているのだが、魔物の姿は無い。泉へと続く道だからかもしれない。

 

「そういえば、何で泉の水は魔物を遠ざけるの?」

 

 リュカがふと思い出したように聞いた。

 

「えっ? う~ん……わかんない。でもずっとそうなんだよ」

 

 申し訳無さげに身体を縮める。スライムの身体は変幻自在だった。

 そうこうしているうちに、分かれ道のところまで戻ってきた。まだ行っていないほうへ進む。右へ折れ曲がった道を進むと、開けた場所に出た。

 だだっ広い空間だ。ドーム状に天井も高くなっている。大小さまざまな岩がゴロゴロ転がっており、またところどころ土の盛られた小山もある。どうも人の手の介入を感じさせる空間だった。向こう側には二本の道が続いているのが見える。

 

「あっ、見てリュカ! 人が倒れてるよ!」

「え?」

 

 突然スラリンが飛び跳ねながら叫んだ。

 スラリンの目線の先に目をやると、確かに男が一人倒れていた。岩に押し潰されるような形で、仰向けに寝ている。身じろぎ一つしない。その男の周りには、数匹の魔物が群がっている。

 関わらないほうがいいだろうな、リュカは即断した。男を囲んでいる魔物が多すぎた。魔物に徒党を組まれると非常に厄介だということもわかっている。正直言って荷が重い。

 そもそも、岩に押し潰されたうえ、魔物にああも寄って来られたら、生きているはずがないとリュカは思った――無傷のように見えるのは気のせいだろう。

 

「静かに。気付かれる」

 

 スラリンにそう耳打ちする。スライムの耳がどこにあるのかリュカにはわからなかったが、身体の側面のどこかにあるだろうと思うことにした。足音を殺して、先へと続く道へ向かう。

 

「えー、助けてあげないの?」

 

 スラリンが魔物らしからぬことを言う。静かに、とスラリンをたしなめるが、もう遅かったようだ。

 

「んー……誰かおるんかぁ?」

 

 その男は生きていた。低くて太い、暢気な声だ。せみもぐらに鎌を叩きつけられていることにも無頓着だ。大きな欠伸をしている。寝ていたのかもしれない。

 嘘のような光景だ。リュカは思わず己の目と耳を疑った。

 

「ちょいと手ぇ貸してくれんか? 岩が重くてな、起き上がれんのだ」

 

 助けを求めている人間とは思えないようなのんびりとした口調だった。リュカたちに目を向けて、身をよじるような素振りを見せる。

 仕方ないか。顔も見られたことだし、このまま無視するのもばつが悪い。スラリンも妙に乗り気だ。

 気が重そうにため息を一つつくと、リュカたちは男のほうへ歩み寄っていく。当然魔物たちはこちらに気付く。いくらいたぶってもビクともしない男に飽きたのか、魔物たちは何の躊躇もなくこちらへ向かってくる。

 

「や、やばいよ。リュカ、どうしよう……」

「倒すしかないよ」

 

 当然ともいえる事態に慌てふためくスラリンに、リュカは言葉少なに告げる。しかし、慌てるスラリンを責めることはできない。スライムは最弱の魔物と有名なのだ。

 向かってくるなかには見知らぬ魔物も結構いた。

 そのうちの一つは、形は丸みを帯びた三角形のようであり、ちょこんと小さな手足が生えている。つぶらな瞳で、口や鼻は見当たらない。身体の上半分は紫色の短い毛に覆われており、下半分と手足は薄茶色の肌が露出している。その手には重量感のある大きな木槌が握られている――おおきづちという名の魔物だ。

 他には、黄色い角を生やしたウサギ――いっかくうさぎという魔物もいる。

 もう一種類、全身緑色で、丸い身体中から角のような棘を生やしているもの。小さな手足がある。とげぼうずという魔物だ。

 その他に、ドラキーやせみもぐらが何匹も顔を覗かせている。

 薄暗いなかで見る魔物の姿は、一際恐ろしく感じられた。今日一番にヤバい気がする、冷や汗が頬を流れるのを感じた。

 

「ありゃりゃ……まあ頑張れよ、坊主!」

 

 男が勝手なことを言う。

 ドラキーが先手を打ってきた。頭上から急降下してくる。ドラキーのスピードは既に把握していたため、叩き落してやろうとしたが、とげぼうすが続いて突進してきているのが見えたため、ドラキーをかわしてとげぼうずを迎え撃つことにした。かわされたドラキーが即座に反転して再びこちらへ向かってきたが、スラリンが勢いをつけて飛び上がり、下から体当たりを命中させた。

 

「どうだ!」

 

 得意気にぷくっと身体を膨らませる。

 間近に迫ったとげぼうずを杖で横殴りにすると吹っ飛んでいったが、攻撃後の隙を狙ったのか、先ほどとは別のドラキーが脇腹にぶつかってきた。

 

「くっ!」

 

 息を詰まらせ倒れこむリュカに、せみもぐらが地面の中を通って――地面の盛り上げながら移動していたので視認できた――ドラキーがUターンして、同時に突進してくる。スラリンがまたドラキーを迎撃しに向かったが、体当たりをかわされ、逆に突き飛ばされた。ぴきー、と悲鳴を上げている。

 リュカは急いで起き上がり、モグラ叩きのようにせみもぐらを叩き潰してやろうと杖を構えるが、先ほど殴り飛ばしたとげぼうずが怒って突進してきていたので、一旦距離を取らなければならなかった。

 このままじゃ戦いようがない、攻撃する隙が見当たらない。

 そういえば、父はどうしていただろう。走り回って敵から逃げつつリュカは考えた。

 父は魔物に囲まれても、難なく切り抜けていた印象しかない。よく思い出すと、確か一振りで何匹もの魔物を同時に倒していたような気がする。敵から距離を取りながらリュカは思考を巡らせる。

 杖の一振りではそんなことは自分にはできないが、魔法なら――。

 魔力を搾り出せば、後一発くらいはバギを打てるはずだ。一発しか打てないなら、その一発でできるだけ多くの敵を倒したい。スラリンが猛スピードで敵から逃げ回っているのが視界の端に映った。そういえば、スライムは確かに最弱と言われているが、すばやさにだけは定評があることを思い出した。

 

「スラリン! 来て!」

 

 よし、と決心し、珍しくリュカが声を張り上げると、スラリンはぷるっと身体を震わせ方向転換し、こちらへ凄いスピードで向かってくる。

 敵が人間の言葉を理解できるのかはわからないが、念のためスラリンを片手で抱え上げ、そっと耳打ちした。

 

「敵を一箇所に集めて」

 

 接近してきたドラキーを杖を振り回して威嚇する。

 

「えっ、そんな……無理だよ……ぼくはスライムだよ?」

 

 天地が引っ繰り返ってもそんなことは不可能だと言わんばかりだ。

 

「大丈夫」

 

 リュカが確信をもっているかのように言った。

 

「この中ではスラリンが一番速いから」

 

 スラリンは一瞬雷に打たれたかのような表情を浮かべると、しばらく俯いて何か考え込んでいるようだった。ドラキーから身をかわし、とげぼうずを殴り飛ばし、せみもぐらに足をすくわれ尻餅をついたところで、ようやくスラリンが顔を上げた。その顔は少しだけ頼もしく見えた。

 

「わかった! ぼくやってみせるよ!」

 

 そう言うやいなやリュカの腕から飛び出し、弾丸のように駆け出した。

 それを見てリュカはすばやく立ち上がり、今にも振り下ろされようとしていたせみもぐらの鎌から飛び退いた。それからリュカは全ての攻撃を防ぐことに全神経を集中した。スラリンの働きに賭けた。チャンスをひたすら待った。

 スラリンは魔物たちの脇を駆け抜けたり、体当たりをしたり、舌を突き出したりして、巧みに挑発した。怒った魔物はスラリンを叩き潰してやろうと荒々しく襲い掛かるが、怒りで攻撃が大雑把になっており、またスラリンのすばやさが並外れていたこともあり、空を切るばかりだった。かわされるとさらに苛立つのか、攻撃が荒くなり、ますます当たらなくなるという悪循環に魔物たちは陥っていた。追いかけ回してくる魔物たちに、付かず離れずの距離を保ち、実に見事にスラリンは魔物たちを誘導する。

 

「こっち!」

 

 リュカが叫ぶと、魔物を率いてこちらへ向かってくる。

 リュカは自分に纏わりついてくる魔物たちを、スラリンが連れてきた魔物たちと一直線上に並ぶように誘導すると、右腕に魔力を集中させた。

 

「スラリン! 避けて!」

 

 魔力を根こそぎ奪われるような感覚を感じ取りながら、杖を握った右腕を魔物たちの方へと突き出した。

 

「バギ!」

 

 呪文によって溢れ出した緑色の奔流が、魔物たちに牙を剥いた。空気を切り裂く鋭い音を上げつつ、地面を削り取りながら粉塵を巻き上げ、敵に迫る。そんな暴風に恐れをなしたのか、魔物たちは慌てて逃げようとするも、風より速く動ける者はいなかった。やがて過ぎ去った暴風のせいで、静寂がより際立った。

 リュカの警告のおかげでなんとかバギをかわしたスラリンは、ズタズタに切り裂かれた魔物たちを、あっけにとられた表情で見ていた。目はまん丸で、口はだらしなく開かれている。

 スラリンは全ての魔物を誘導できたわけではなかったが、スラリンに釣られなかった魔物も既に逃げ去っていた。

 

「リュカ……今の何?」

 

 ひとり言のように、スラリンが呟く。魔法だと、リュカは大きくため息を漏らしながら座り込み、ぐったりとして答えた。

 

「魔法? 凄いよ! ぼく魔法ってはじめて見た!」

 

 息を弾ませながらスラリンはリュカに駆け寄ってきた。

 

「どうしたの? 怪我したの?」

 

 傍まで来ると、リュカのぐったりとした様子に、一転して心配の色を顔ににじませた。くるくる変わるスラリンの表情が面白いとリュカは思った。

 

「疲れた」

 

 結構なダメージも受けていたが、魔力の枯渇に比べれば大したことではなかった。

 

「大丈夫?」

「スラリンのおかげでね」

 

 スラリンは輝くような笑みを浮かべた。

 

「やるじゃねえか、おめえら!」

 

 そういえば、男の存在をすっかり忘れていた。男に目を向けると、嬉しそうな笑顔でこちらを見つめている。

 

「それで、お疲れのところ悪いんだけどよ、早く助けてくれんか?」

「リュカは休んでなよ! ぼくが助けてくるから!」

 

 そう言って駆けていくと、そのまま岩に体当たりした。しかし岩はビクともせず、スラリンはピンポン球のように弾き返された。

 

「いたた……」

「お前さんにゃ無理だ!」

「むぅぅ……」

 

 何故か嬉しそうに豪快に笑う男に、スラリンは頬を膨らませる。

 仕方なくリュカは男の元まで行くことにした。

 

「いいか、儂が下から岩を持ち上げるから、坊主は横から岩を押してくれ。そこのちっこいのは何もせんでええぞ」

「なんだとー!」

 

 怒ったスラリンは身体をぷるぷる震わせて怒鳴る。

 リュカが小さく頷くと、男は口元を引き締めた。

 

「無視するなっ!」

「よし、じゃあいくぞ! ぬおおおっ!」

 

 再び無視されてむくれているスラリンを横目に、リュカは岩を思い切り押した。

 二人のうめき声が響き渡るが、岩はわずかに傾いただけだった。

 

「ぼくも手伝ってあげるよ!」

 

 これは自分の力をこの失礼な男に見せ付けるチャンスだと思ったのか、妙に気合の入った表情で言うと、岩と地面の間に身体を平たくして潜り込んだ。岩を持ち上げようとしているのだろうか。

 うめき声が三人分になり、岩はさっきよりも大きく傾いた。すると、男は一際大きな声を上げ、こめかみに青筋を浮かべながら、半ば投げ飛ばすように一気に岩を横に転がした。

 男は仰向けのまま大の字に、リュカはがくりと座り込んで、スラリンはぺしゃんこになって、三人揃ってため息をついた。

 

「おかげで助かったそ! ありがとうな、おまえら!」

 

 男は身体を起こすと、憎めない笑みを浮かべて二人に礼を言った。

 

「ところで、坊主はどうしてこんなところまで来たんだ?」

 

 今更なような気もしたが、リュカは「探検」と一言答えた。

 

「そうか! そりゃ逞しいことだ!」

 

 わっはっはと、豪快な笑い声を上げる。

 

「おっちゃんこそ何してたの? こんなところで岩に潰されてさ」

 

 スラリンがもっともな疑問をぶつける。リュカも気になったので、男に視線を送る。

 

「好きで岩に潰されとったんじゃないわ! 儂は薬草を採りに来とったんだ。薬草といってもただの薬草じゃないぞ。ここには珍しい薬草が生えとるんだ。そしたら突然上から岩が次々に落ちてきてな、潰されちまったんだ。おかげで何日ここで過ごしたことやらわからん」

 

 愚痴るような口調だ。

 

「ふーん。おっちゃんに薬草なんて似合わないね。怪我なんてしそうにないし」

 

 ちらりと男の無傷な身体に視線を向ける。

 スラリンの言うことはもっともだ。落ちてきた岩に潰されたら、普通の人間なら潰れたトマトのようになるだろう。

 

「別に儂が使うわけじゃないわい。それに怪我じゃなくて病気に効く薬草だ。儂は薬師でな、客に頼まれて採りにきたんだが、随分待たせちまった。さっさと採って帰らんとな」

 

 そう言いながら男は起き上がる。そして立ち上がって大きく伸びをした。

 男は背が低かった。リュカよりは頭ひとつ分くらい大きいが、大人にしてはかなり小さい。しかし、その代わりに横幅は人の倍くらいあった。太っているわけではなく、筋肉が盛り上がっているようだ。そこらに転がる岩よりもゴツイ印象をリュカは受けた。

 

「坊主は探検に来たんだったな? 儂はこの先へ行くが、一緒に行くか?」

 

 毛がモジャモジャの顔をリュカに向けて言った。

 

「この先に薬草が生えてるの?」

「おお、右側の道の先にな。左側の道には特に何もない。まあ、壁でも削りゃあ鉱石が見つかるかもしれんが」

 

 ここに来たときに奥のほうに見えていた二本の道を指して言った。

 

「じゃあ行く」

 

 そう言ってリュカもふらふらと立ち上がる。

 

「ほれ、これ食うといい」

 

 リュカがふらついているのを見て、男が懐から一枚の葉っぱをおもむろに取り出し、リュカに差し出した。リュカが持っている薬草より色が青っぽい。

 

「怪我も治るし、疲れも取れる」

「食べるの?」

「おお、まあ苦いが我慢しろ」

 

 リュカは薬草を小さく丸めて口に押し込んだ。噛みしめるごとに苦い汁が出てくるが、我慢して全て飲み込む。すると、身体がカッと熱くなり、身体中の痛みは消え、疲労も軽くなった。リュカは目を大きく見開いて男を見上げた。

 

「よし! じゃあ行くか!」

 

 リュカの様子に満足気な顔をすると、男はそう言ってさっさと先へ歩いていってしまった。男を追いながら、スラリンはリュカを見上げて言う。

 

「この先は一本道だよ。すぐに行き止まりになるんだ。そこに草がいっぱい生えてるんだけど、あれって薬草だったんだね」

 

 細い曲がりくねった道を進んでいくと、あっという間に到着した。あまり広い場所ではなかった。

 そこには小さな泉があり、周囲にはたくさんの植物が生い茂っていた。壁一面植物で覆われている。色も大きさも形もさまざまだ。植物の匂いが充満している。

 

「この泉は不思議な力があってな、魔物を寄せ付けんのだ。だから草がたくさん繁殖できるのかもしれん。ここまでの道にも魔物はおらんかったろ?」

 

 要するに、スラリンに出会ったところと同じだ。そういえば、あそこにも草がたくさん生えていた。あの中にも薬草はあったのだろうか。そんなことを、薬草を採取している男を見ながら考えていた。

 

「よし! じゃあ帰るか!」

 

 何枚か採取しただけで、男は満足したらしい。

 

「ばいばい」

「ん、坊主は帰らんのか?」

「もう片っぽの道にも行ってみる」

「左側にあった道のことか?」

 

 リュカは頷く。

 

「あっちにゃ何も無いっつっただろ? すぐ行き止まりに突き当たっちまうし、楽しいもんなんて何も無いぞ。それとも鉱石が欲しいんか? 鉱石掘るには力もいるし時間もかかるぞ?」

 

 そう聞くと、行く意味は無さそうだ。もう洞窟は探索し尽しただろうか? まだ行っていない道があったような気もするが、いろいろあったため記憶は曖昧だ。確かめに行くのも面倒だ――何だかもうこの洞窟は探索し尽したような気がしてきたからだ。

 

「やっぱり帰る」

「そうか。じゃあ一緒に帰るか? 儂と一緒に帰るなら、儂の魔法で入り口まで一瞬で行けるぞ」

 

 この男が魔法を使えるとは少々意外だったが、それは便利だとリュカは頷く。

 

「おっちゃん、魔法使えるの? 似合わないなぁ」

 

 スラリンが素っ頓狂な声を出す。

 

「おお、使えるぞ! ちょっとだけだけどな」

 

 目をまん丸にしていたスラリン。だが、次の瞬間表情を一転させて、消え入りそうな声でリュカに呼びかける。

 

「……リュカ、もう帰っちゃうの?」

 

 うん、と一言答える。

 

「そっか……」

 

 そう言って、スラリンは心なしか身体を縮め、しばらくの間俯いた。沈黙が流れる。やがてスラリンは顔を上げ、笑顔をリュカに見せた。

 

「じゃあばいばい! また遊ぼうね!」

 

 探索し尽した洞窟にはもう何の用も無い。だが、もう遊ばないよ、なんて言うのも気が引けたため、リュカは何も言わないことにした。

 

「坊主、儂の腕につかまれ」

 

 男の言うとおりリュカは腕をつかんだ――リュカの腰より太そうな腕だ。男の身体が白い光を纏っているのにふと気付いた。これは魔力だ。魔法の前兆だということがリュカにはわかった。腕をつかんだリュカまでも白い光に包まれる。

 それを確認した男は呪文を唱えた。

 

「リレミト」

 

 呪文と同時に光が一層強く輝いた。視界が白一色に染まり、そして次の瞬間、リュカの目の前には洞窟の入り口が広がっていた。

 

「よし、着いたぞ!」

 

 消える間際に、スラリンの声がもう一度聞こえたような気がした。

 

「もう夜か……家まで送ってやろうか?」

「いい」

「そうか。じゃあ儂は先に帰るぞ。急いで薬を作ってやらにゃいかん。じゃあな!」

 

 そう言って走って去って行く男をぼんやりと見送りながら、リュカは喉に小骨が引っかかったような、何とも言えない気持ちを持て余していた。

 何て言ってたんだろう、最後に聞こえたスラリンの声が無性に気になった。最後に見せたスラリンの顔が頭から離れなかった。何故こんなにも気になるのか、リュカにはわからなかった。この感情の名前をリュカは知らない。

 空を仰ぐと、無数に散りばめられた星が光を放ち、漆黒の夜空を彩っている。洞窟へと目を移すと、一転そこにはただひたすら闇が満ちていた。

 しばらく眺めていたリュカは、やがておもむろに家路を辿りはじめた。

 

 

 

 

 



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4話

4話

 

 

 

 

 

「おはよう」

 

 目をほとんど閉じたままのリュカは、危なっかしい足取りで階段を下りながら呟いた。階段から転げ落ちないのが不思議なくらいだ。普段頭に巻かれているターバンは身につけておらず、肩の辺りまで無造作に伸ばされた黒い髪があちこちに飛び跳ねている。マントも身につけていないため、今は草のような色の服だ。足首まで覆っている。実はその下に白いズボンも履いているのだが、ほとんど見えない。

 

「やっと起きたか。おはよう」

「おはようございます、坊っちゃん。よくおやすみでしたね」

 

 父とサンチョの声が返ってくる。二人ともイスに座ってくつろいでいる。

 

「さあ、坊っちゃん、顔を洗ってきましょうね。その間にご飯の用意をしておきますから」

 

 ようやく階段を下りきったリュカにサンチョが声をかけ、キッチンに向かう。リュカは小さく頷き、ふらふらと家の外へ向かった。

 戸を開け外に出ると、リュカは寒さに身体を強張らせた。家の中へとUターンしたいという欲求に抗い、いつものように家の前の井戸の水で顔を洗った。井戸の水は凍りついていないのが不思議なほどに冷たく、不明瞭だった意識を一瞬で覚醒させた。そして、同時に昨日の出来事も思い出させた。

 昨日の洞窟探索は、今のところリュカにとって人生最大の冒険だった。はじめての魔法を習得することにもなった。あれが夢ではなかったことを確かめようと、魔力を右手にこめてみた。すると、右手は淡い緑色の光を発し、確かに夢ではなかったことをリュカに知らせた。一晩寝たら、魔力は回復するようだ――寝ると回復するのか、時間を置いたら回復するのかはわからないが。リュカは魔力を霧散させ、顔をかすかに綻ばせた。

 

「おや、リュカ君じゃないかい。一体何してるんだい? 顔ビシャビシャにしちゃって」

 

 横から突然声をかけられた。そちらへ顔を向けると、少し離れたところに訝しげな顔のマグダレーナがいた。

 

「顔洗ってた」

「そうかい。とりあえず顔拭かないとねぇ。風邪引いちまうよ。早く家入んな」

 

 そう言ってマグダレーナは近寄って来ると、リュカの背を押し、家へと促す。リュカは逆らわず、素直に家のドアを開けた。

 

「やあ、ちょっと邪魔するよ」

 

 ドアが開くなり、マグダレーナがそう言いながら家に足を踏み入れた。彼女に押される形でリュカは彼女よりも一足先に家に入っていた。それほど大きくもない暖炉は、しっかりと室内を暖めていた。

 

「ん、マグダレーナか。どうした?」

 

 パパスは視線だけこちらへ向けて言った。

 

「ちょっと話したいことがあってね。あと、リュカ君の顔拭いてやんなさい」

 

 リュカの頭に手を乗せながら言った。首にずっしりと重みがかかる。

 

「ああ、坊っちゃん。タオルを持っていかなかったんですか?」

 

 慌てた様子でサンチョがこちらへ寄って来て、テーブルの上にちゃんと用意してあったタオルをリュカに手渡す。サンチョは過保護だということに、リュカはとっくに気付いていた。

 

「とりあえず座るといい」

「悪いねぇ」

 

 マグダレーナがイスに座るのを、顔を拭きながら見ていたリュカは、いい匂いが漂っていることに気付いた。匂いのするほうに顔を向けると、サンチョが微笑みを向けてくる。

 

「朝食の用意ができていますからね、坊っちゃん」

 

 リュカがイスに座ると、湯気を立てる料理が並べてあった。

 

「で、話とは何だ?」

「今朝、薬師が宿に来てね、薬が調合できたって持ってきたんだよ」

「ようやくか。随分かかったな」

「それが洞窟でトラブルがあったらしいんだよ。まあ、それはどうでもいいんだけどね。それで、今日アルカパに帰るから、挨拶に寄らせてもらったのさ」

 

 リュカは、食べながら聞くとも無しに話を聞いていたが、その薬師とは洞窟で会ったあの男だと気付いた。あの毛むくじゃらの男が薬を調合している姿なんて、リュカにはどう足掻いても想像できなかった。加えて不衛生である。あの男の作った薬なんて、自分だったら絶対に飲まない。リュカはまだ見ぬ被験者に同情を禁じ得なかった。

 

「そうか、護衛はつけているのか?」

「いるわけないよ、そんなもん」

 

 豪快に笑いながらマグダレーナは答える。

 

「じゃあ、女二人で帰るのか? それは危険だろう。私が同行しよう。ダンカンの見舞いもしたいしな」

「そうかい? じゃあお言葉に甘えるとするかねぇ」

 

 一連のやり取りを聞き流しながら、リュカはすばやく食事を終えた。サンチョの料理は相変わらずおいしかった。

 

「ごちそうさま」

「リュカ、お前も一緒に行くか?」

 

 キッチンに朝食の皿を運んでいたリュカに、パパスが声をかけた。

 うん、とリュカは即答した。既にサンタローズを知り尽くしてしまったリュカにとって、断る理由など無かった。

 

「そうか、じゃあすぐに出発するからな、早く支度をしてきなさい」

 

 リュカは二階に戻り支度を始めた。支度と言ってもすることは特に無い。髪を後ろで無造作に縛り、ターバンを適当に巻き、腰に縄を巻き、そこに道具袋をぶら下げ、マントを着て、あとは杖を持つだけだ。

 すばやく準備を済ませたリュカは、軽やかな足音を響かせながら階段を下りた。今度はしっかりとした足取りだった。

 一階には既に支度を済ませたパパスの姿があった。とは言え、パパスにとっても大した支度は必要無かったようだ。灰色の毛皮に縁取られた青い皮の腰巻を身に着け、腰に巻かれた銀色のベルトに赤い小さな道具袋をぶら下げ、茶色い鞘に収められた剣を背負っただけだ。パパスの部屋も二階なのだが、旅に必要なものは一階に置いてあったのだろう。

 

「よし、では行くか」

「悪いねぇ、リュカ君」

 

 まだ子供のリュカに護衛の真似事をさせるというのは多少気が引けたのか、マグダレーナが申し訳なさそうな表情を浮かべた。だが、護衛ならパパスだけでも十分だし、マグダレーナも本気でリュカに護衛の真似事をさせようとは思っていないはずだ。

 

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 

 サンチョの言葉に返事をしながら、パパスがドアを開け出て行く。その後にマグダレーナが続き、最後にリュカが家を出た。

 

「行ってきます」

 

 リュカが振り返ってサンチョの顔に目を向け小さくそう言うと、サンチョはにっこりと微笑んだ。

 

 

 

 

 

 この日もいい天気だった。雲一つ無い澄み渡った空を仰ぎ、リュカは大きく息を吸った。胸に流れ込んできた空気は、この時期にしては冷たすぎるように思えた。そろそろ暖かくなっていなければおかしい季節なのだが、最近ますます寒さが増しているような気がする。リュカは身体をしっかりとマントで包み直し、身体が強張っていくのを感じながら、先を行くパパスたちを追った。

 

「宿屋にビアンカは置いてきてるんでね、まずは宿屋に向かってくれるかい?」

 

 そのマグダレーナの言葉に従い、まず宿屋へ向かった。と言っても、宿屋は村の入り口付近にあるため、あえて向かうということでもない。宿屋の前に差し掛かると、マグダレーナが一人で入って行く。

 

「寒いね」

 

 リュカは言った。

 

「そうだな。今年は特に寒い。もう春が近いというのにな」

 

 パパスは答えた。

 そこでしばらく会話は途切れた。リュカたち親子の会話はこんなものだ。お互いあまり饒舌な方ではないからか、会話が弾むということはそうそうない。

 

「サンタローズのことも忘れていたくらいだから覚えてはいないだろうが、アルカパにも行ったことがあるんだぞ。随分昔だがな」

 

 リュカはパッとパパスを見た。

 

「ダンカンの家に泊まったときだったな、お前とビアンカちゃんが知り合ったのは。随分遊んでもらっていた」

「お父さんはダンカンって人と仲良いの?」

 

 ああ、とパパスは頷く。

 父を慕う人物はけっこういるが、父が仲が良いという人は珍しい。それでは今回もダンカンという人の家に泊まるんだろうか。気になったリュカは尋ねると、いや、とパパスは首を横に振る。

 

「病気の人間の家に居座るわけにもいくまい。見舞いを済ませたら帰るつもりだ」

 

 父は護衛という名目でアルカパまで向かうことになったのだが、ダンカンに会いたかったという理由の方がもしかしたら大きいのかもしれない。

 そのとき、宿屋の入り口の戸が開き、マグダレーナがビアンカを連れて出てきた。

 

「おはようございます、おじさま。リュカもね」

 

 気取った様子で言ったビアンカに、マグダレーナが呆れたような目を向けている。パパスは表情を緩めて挨拶を返し、リュカも気の無い言葉を返す。

 

「待たせたね。それじゃあ行こうか」

 

 こうして四人が揃い、一行はサンタローズを後にした。

 

 

 

 

 

 パパスとマグダレーナが何やら話しながら進んでいく後ろに、リュカとビアンカは並んで歩いていた。最初は、他の三人が歩く後ろをリュカが歩くという構図だったのだが、大人たちといるよりリュカといたほうが面白みのある旅路になると思ったのだろうか、リュカの隣にそそくさと寄ってきたのだ。

 

「サンタローズはいい村だったわね。でも、アルカパもとってもいいところなのよ」

 

 にっこり笑ったビアンカの表情が、リュカは苦手だった。嫌なわけではないのだが、胸の奥のほうがザワザワとするのだ。どうしてそうなるのかリュカにはわからなかった。ビアンカの笑顔を見るたびにその理由を解明しようと首を捻ってきたのだが、また首を捻らなければならなくなってしまった。

 

「むこうに着いたら、今度はわたしがアルカパを案内してあげるね!」

 

 リュカはサンタローズを案内したつもりは無かったが、ビアンカの中ではそういうことになっているようだ。それ以前にリュカ自身、サンタローズを知らなかったのだ。サンタローズの全貌を知るために探索を繰り返したリュカにかなりの頻度で付いて回っていたビアンカが、それを案内ととらえたのかもしれない。

 アルカパが探索するに値するかどうか楽しみではあったが、見舞いを済ませたら帰ると父が言っている以上、そうそう時間もないだろう。リュカにとっては不服ではあったが、父に楯突いてまでそうしたいと思うほど、リュカの関心はアルカパに向けられてはいなかった。

 リュカの膝ほどまでの草が擦れ合う音が絶えず聞こえる。

 

「ちょっと、何か言ったらどう?」

 

 どことなく鋭い目をこちらに向けたビアンカに、リュカはかすかに頬を引きつらせた。どうやら何か言わなければならないらしい。

 

「何かって?」

「もう!」

 

 ビアンカはいよいよ腰に手を当てて、怒りの色を明確に浮かべた。

 

「案内してあげるって言ってるのよ? 別に喜べとは言わないけど、リュカったら何も言わないし、表情も変えないんだもの。それって失礼だわ!」

 

 リュカは困り、そしてむっすりと黙り込んだ。そういえば、こんなこと今まで誰にも言われたことがなかったな。リュカは思った。

 そんな彼を見て、ビアンカは呆れたように眉尻を下げ、ため息をついた。

 

「まあいいわ。そういう子なのよね」

 

 彼女は勝手に納得してみせると、それはそうと、と話を変えた。ありがたい、リュカはホッとした。

 

「凄くスムーズに進めるわね。やっぱりおじさまのおかげよね。わたしたちがサンタローズに来るときなんて大変だったのよ」

 

 彼女はそう言うが、リュカにしてみれば随分ゆっくりとした旅路だった。二人のときは、もっと速い。

 だが、彼女の機嫌を損ねては面倒だ。リュカは意図して相槌を打った。

 

「魔物に襲われたらいけないから聖水はたくさん使わなきゃいけなかったし。それでもずっと魔物がいないかどうか確かめながら進まなきゃいけなかったんだから」

 

 魔物を一太刀で仕留めているパパスの姿を見ながら、ビアンカが聞いてもいないことをペラペラと喋る。心なしか目をきらきらさせているビアンカを見て、父はビアンカの尊敬を勝ち得たことを確信した。父の戦い方は、ビアンカが見惚れるのも当然だとリュカは思った。洞窟での経験から、一人で魔物の群れを相手にすることの難しさを身にしみて知っていたリュカは、いとも容易く群れを退けている父の強さをあらためて感じた。

 

「おじさまは世界中を旅してたのよね? だからあんなに強いのね。リュカも一緒に旅してたんでしょ? リュカも強いの?」

 

 リュカは首を横に振った。

 洞窟である程度自信をつけたリュカだったが、自分が強いかと聞かれると、そうだとはとてもじゃないが言えない。そもそもリュカは旅の間ほとんどパパスと二人きりだった。だから、パパス以外の人間が戦うところなどほとんど見たことがない。よって比べる対象がパパスくらいしかいないのだ。そしてそのパパスと比べた場合、比べるのが馬鹿馬鹿しくなるほどの差があるのは自明のことだ。

 

「そうよね、まだリュカは子供だもんね」

 

 その子供と二歳しか違わない自分はどうなんだ、と言ってやりたくなったが、やめておいた。ビアンカがお姉さん振るのはいつものことだし、そもそも自分が子供だということは事実だ。だが、中身はビアンカのほうが子供だとリュカは密かに思っていた――自分はビアンカにお姉さん振らせてあげているのだ。

 

 

 

 

 

 山々が連なっている景色を右手に感じながら、リュカたちはひたすら歩き続けた。時折パパスが、少し休憩するか、とマグダレーナやビアンカに聞くのだが、二人とも強がっているのか、気を使っているのか、そもそも疲れていないのか、決して首を縦には振らなかった。

 頭上に白く輝く太陽から降り注ぐ日差しが、遮られることなく地上を照らし、周りに広がる広大な草原が青々と映えていた。その草原を囲むように、山々が連なっている。雲一つ無い天気のおかげで、山々の稜線がくっきりと見えた。 

 そんな草原をひたすら歩いてきたが、それもそろそろ終わりを迎えるようだ。

 

「リュカ、見て! あそこに森が見えるでしょ? あの森の中にアルカパはあるのよ」

 

 ビアンカが指差す方は、草原の周囲の山並みが幅を狭めてきており、その向こう側は再びひょうたんのように幅を広げている。向こう側の草原には、確かに森が見えた。

 

 

 

 

 

 そのまましばらく歩き続けると、やがて森に辿り着いた。森に足を踏み入れても、木の葉の多くが枯れ落ちてしまっているため木漏れ日が十分に差しこみ、そこまで暗さは感じなかった。

 ビアンカの足取りがどんどん軽くなっていき、その拍子に三つ編みが跳ねる。

 地面は下草や落ち葉などで覆われているが、それらが取り払われ土が露出している細い道ができており、その道に沿って進むと、途中で分かれ道になっていた――そのまま真っ直ぐ伸びる道と、右に直角に曲がっている道だ。パパスは迷う様子も無く右への道を行き、そのまま真っ直ぐ進むと、すぐに町が目に入った。

 

「リュカ、あれがアルカパよ! さあ、早く行きましょ!」

 

 ビアンカは余程嬉しいのか、ぴょんぴょん飛び跳ねている。大人二人は顔を綻ばせてその姿を見ており、リュカも僅かに頬を緩めている。いつも大人振っていたビアンカの子供っぽい仕草が面白く感じられたのだ。

 

「ちょっと! 何笑ってるのよ、リュカ!」

 

 一転して、目を吊り上げてリュカに詰め寄るビアンカと、それをかわそうとするリュカの姿は、じゃれ合っているようにも見える。というか、実際じゃれ合いでしかない。

 

「先行くよ」

「あ、待ってよ、ママ!」

 

 リュカへの追求の手を一向に緩めなかったビアンカだが、マグダレーナの言葉を聞くと、サッと身を翻して大人二人を走って追いかけた。取り残されたリュカは、口煩いビアンカが離れていくことに胸を撫で下ろし、急ぐ様子も無く歩を進めた。

 

 

 

 

 

 アルカパは森に囲まれたのどかな町だったが、サンタローズよりも整備されていた。村の規模が違うからだろう。建物の数がサンタローズよりもかなり多い。村の外周に沿うように建物が連なって建てられ、中央には教会がある。刈り込まれた芝生に敷いてある石畳の細い道がそれぞれの建物に続いており、それに沿うようにマグダレーナは進み、リュカたちを先導した。

 リュカはキョロキョロと辺りを見回しながら、町の入り口から真っ直ぐに進んだ。右側に武器屋や防具屋、道具屋が連なっているのを見ながら歩いていると、おそらく町で一番大きいであろう建物に突き当たった。レンガ造りで頑丈そうな、灰色っぽい建物だ。入り口の扉は大きな木製のもので、扉の横には「INN」と書かれた看板が掛けられている。旅をしていた頃にはしょっちゅう宿屋に泊まっていたので、その看板が宿屋を示すものだということがリュカにはすぐにわかった。

 

「ここがわたしの家なのよ。リュカが小さい頃、遊びに来たこともあるの。どう、覚えてる?」

 

 リュカは首を横に振った。当然である。そもそもリュカはビアンカのことすら覚えていなかったのだ。

 

「そっか。まあ仕方ないわよね。行きましょ」

 

 ビアンカはリュカの手を取り、既に中へと入っていった大人たちの後に続いた。

 中に入ると、そこには広々としたスペースが設けられており、正面にはカウンターがあった。入り口からカウンターまでは、石の床の上に一直線に赤い絨毯が敷かれている。マグダレーナはカウンターの右側にある扉を開けて入っていった。パパスがその後に続き、ビアンカとリュカもパパスの後に続いた。

 中はそれほど大きくはない部屋だった。床は板張りで、壁には小さな窓が二つある。窓から入る光が室内を淡く照らしていた。マグダレーナは部屋の隅のさらに奥へと続くドアを開けて入っていく。

 続いて入ると、そこは寝室だった。ベッドは三つ並んで置かれており、左端のベッドには男が寝ていた。ベッド以外には小さなタンスがある程度で、簡素な部屋だ。

 マグダレーナとビアンカとパパスはその男に近寄った。リュカはその男になど興味はなかったが、かといって外へ遊びに出るわけにもいかず、とりあえずパパスの隣にいることにした。

 

「ただいま。具合はどうだい?」

 

 マグダレーナが優しくその男に問いかける。マグダレーナは豪快な人だというイメージが強かったためか、その声色がリュカには意外に思えた。

 

「お父さん、大丈夫?」

 

 ビアンカも心配そうに顔を曇らせていた。さっきまであんなにはしゃいでいたビアンカのこの変わり様は、リュカには不可思議なことでしかなかった。

 

「……ああ、帰ってきたのか。おかえり。具合は……まあまあだな」

 

 苦しげに咳き込みながら、その男は薄く目を開けて言った。具合がまあまあな人間が出す声ではなかった。顔色もよくない。

 

「薬持って帰ってきたよ。飲めるかい?」

 

 ベッドの脇に置いてあった容器から、同じく置いてあったコップに水を注ぎながら言う。

 

「ああ」

 

 マグダレーナは小さく折りたたまれた紙をポケットから取り出し、男に手渡した。男は寝ていた身体を緩慢に起こすと、その紙に包まれた粉状の薬を水と一緒に飲んだ。リュカは、あの毛むくじゃらが作った薬が本当に効くのかどうか疑わしく思っていたが、みるみる男の顔色が赤みを帯びていくのを見て、驚愕するとともにあの薬師を見直した。

 

「おお! 一気に気分が良くなったぞ」

 

 心底驚いた様子で言った男を、心底驚いた様子のマグダレーナとビアンカが穴の開きそうなほどに見つめていた。

 

「久しぶりだな、ダンカン。具合はもういいのか?」

 

 今まで黙って突っ立っていたパパスが声をかける。

 

「パパスか!? 本当に久しぶりじゃないか! 確か二年振りじゃないのか? なんでここにいるんだ?」

 

 さっきまで病人だったとは思えないほどに、その男――ダンカンは矢継ぎ早にまくし立てる。

 

「ついこの間サンタローズに戻ったんだ。お前の言う通り、だいたい二年振りだ。で、体調はどうなんだ? 聞かずともだいたいわかるが」

「そうかそうか! ああ、体調ならもう大丈夫だ」

 

 喜色満面といった様子だ。余程パパスと仲が良いのだろう。パパスも嬉しそうだ。

 

「凄い薬ねぇ……」

「あの薬師さんって凄かったのね……意外」

 

 マグダレーナとビアンカがようやく口を開いた。呆然とした口調だ。ビアンカのあの薬師に対する印象は、自分が持っていたものと同じだとリュカは確信した。

 

「心配かけてすまんかったな。もうほとんど治ったから、心配はいらんからな」

 

 ダンカンが家族に向き直り、温かみのある声で言った。そしてビアンカの頭に手を伸ばし、ポンポンと軽く叩いた。涙ぐむビアンカ。リュカには何だか大袈裟に見える光景だったが、かなりの重病だったのだろう。

 

「まあ、お父さんの病気が治ったんならそれでいいわ。リュカ、ここにいても退屈でしょ? 遊びに行きましょうよ」

 

 ダンカンの手を頭から払いのけたビアンカは、眉を顰めながら口元をにやけさせるという実に奇妙な表情で言った。照れ隠しにリュカが利用されたのは明白だったが、リュカは渡りに船だとばかりにその案を受け入れようとした。

 

「ん、リュカ? おお、リュカか! 久しぶりだなぁ。おじさんのこと覚えてるか?」

 

 だが、それもはばまれる。ダンカンに気づかれてしまった。リュカは内心ムッとするが、父の友人相手にあまり失礼な態度を取るわけにもいかない。仕方ないのでダンカンと向き合い、首を横に振る。会ったことがあるということはパパスから聞いていたが、覚えていないものは覚えていないのだから、他にどうしようもない。案の定、大きくなったなぁ、と言われたが、リュカには曖昧に頷くことしかできなかった。

 

「さあ、早く行きましょ!」

 

 痺れを切らしたようにビアンカが強引にリュカの手を引き、部屋を出て行く。ビアンカの強引さに感謝する日がくるとは思いも寄らなかった。

 

「アルカパを案内してあげるって言ったよね? 約束通り案内してあげるね!」

 

 宿屋の入り口の扉を勢いよく開け放ち、二人して外へ飛び出しながら、ビアンカは明るく笑って言った。

 

 

 

 

 

「じゃあ、どこから案内しようかな……。ホントは宿屋の中をたくさん見せてあげたいんだけど、それじゃあ町を案内したことにならないんじゃないかしら……」

 

 難しい顔をして一人でぶつぶつ言い出したビアンカを尻目に、リュカは宿屋に向かって左の方へ歩き出した。左へ行くことに特に理由はない。ただ、町をぐるりと回ってみようという考えから、とりあえず左回りに行こうと思っただけだ。リュカにはタイムリミットがあった。パパスが帰ると言い出す前に、アルカパの探索を終えなければならない。そのため、おそらく大雑把に見て回ることしかできないだろう。

 

「あっ、待ってよ! どこ行くの?」

「町を一周するの」

「あっ、それいい考えかもしれないわね! 町を全部見せてあげればいいのよね! そのあと宿屋を見せてあげるね! うん、それがいいわ」

 

 ビアンカは余程宿屋のことが自慢らしい。リュカと並んで歩きながら宿屋の話ばかりしてくる。

 

「三階建てなのよ。三階の部屋が一番いいお部屋なの」

「ママがぶどう棚を作ったのよ。おいしいぶどうができたら、食べさせてあげるね」

 

 リュカが見ているところとは無関係の話だ。何となしにその話を聞きながら、リュカはビアンカに案内役失格の烙印を押した。コツコツと杖が石畳を突く乾いた音が鳴る。

 

「あっ、あいつら!」

 

 たわいない話をしながら――というよりビアンカが一方的に話しながら――ぶらぶら歩いていると、ビアンカが突然金切り声を上げた。リュカはビクリとして、ビアンカの視線を辿る。視線の先には、二人の少年と、黄色っぽい動物がいた。何をしているのかはリュカにはよくわからなかったが、少年たちは結構興奮しているようだ。

 彼らは、周囲が堀のようになっている水で囲まれたところにいた。掘は結構な幅があったが、小さな橋が渡してあり行き来できるようになっている。

 

「行くわよ、リュカ!」

 

 そう言ってビアンカはリュカの杖を持っていない方の手を引いて走り出した。ビアンカはどうやらリュカの手を引くのが癖になっているらしい。リュカを半ば引きずるような形で少年たちの方へ駆けて行き、木で出来た小さな橋を飛び越した。橋を渡るときに見た堀に張られた水は綺麗に透き通っており、リュカは手を突っ込んでみたくなったが、それはかなわない。

 

「あんたたち! 何してるの!」

 

 少年たちの目の前にまで辿り着くと、ビアンカは二人を怒鳴りつけた。彼らは黄色っぽい動物をいじめていたのだ。石をぶつけてみたり、蹴飛ばしてみたりと、やりたい放題だった。

 

「何だよ! 今こいつをいじめて遊んでるんだ! 邪魔すんなよな!」

「そうだそうだ! ビアンカには関係ないだろ」

 

 どうやら二人はビアンカの知り合いのようだ。二人とも目を吊り上げて、ビアンカに相対している。

 それにしても、無抵抗の生き物をいじめることに楽しみを見出すとは、なんとも醜悪なことだ。リュカの好む類ではない。子ども故の残酷さと言えば聞こえはいいのかそうでもないのかはわからない。

 

「かわいそうでしょ! そのネコちゃんを渡しなさい!」

 

 ビアンカも負けじと目を吊り上げ、両手を腰に当て、あくまで強気の姿勢を崩さない。「ネコちゃん」という呼び方が玉にきずだが、それでも相当な迫力だ。三つ編みが逆立ち、鬼の角のようになっている……ような幻覚をリュカたちに与える。

 それに押されたか、少年たちは顔を寄せ合って話し合いをはじめる。

 しばらく待つと、どうやら結論が出たようだ。二人はこちらに向き直る。

 

「レヌール城のお化け退治をしてきたら、このネコをやるよ」

 

 二人はニヤニヤしながら条件を突きつけてきた。

 ビアンカは目を見開いた。なにやら衝撃を受けているようだが、リュカにはよくわからない。

 やがてビアンカは意を決したように口を開いた。

 

「……いいわ。や、やってやろうじゃない。その約束、絶対忘れないでよ」

 

 彼女の表情は少し引きつっていたように見えたが、その条件を飲むことにしたようだ。一連のやり取りをぼーっと眺めながら、リュカはなぜ自分がここに引きずられてきたのか疑問に思った。

 お化けじゃなくて、こいつらを退治すればいいのに。リュカは割りと物騒かつ合理的なことをふと思いついたが、それをビアンカに伝えることはしなかった。自分には関係ないことだと思っていたからだ。

 それに、何故そんなにビアンカはむきになっているのかリュカにはわからなかった。なぜなら、リュカにはどう考えても黄色いやつが苦痛を感じているようには見えなかったからだ。昼寝をするネコのように身体を丸めながら地面に寝転がっている様子は、見方によったら苦痛にうずくまっているように見えなくもないかもしれない。だが、のんきに欠伸をしているところをリュカは見逃さなかった。明らかに少年たちのことを意に介していない。

 ついでに言えば、リュカにはその動物がネコには到底見えなかった。リュカの知識が正しければ、ネコにはオレンジ色のたてがみなど生えていなかったはずだし、口を閉じていてもチョロッと顔を覗かせるほどの長さの牙は生えていないはずだった。それに間違っても地面に寝転んだ状態で、リュカの腰の辺りにまで達するほどの体格ではないはずだ。

 しゃがんでそのネコもどきの顔を見つめてみると、眠たげに落ちていたまぶたが開かれ、リュカに目を合わせてきた。ネコもどきは尻尾をゆらりと一度揺らすと、喉を鳴らして目を閉じた。どうやら本格的に昼寝をはじめるらしい。

 

「リュカ、行きましょ」

 

 ビアンカは最後にひと睨みすると、踵を返した。肩を怒らせてずんずんと進んでいくビアンカをのんびりと追いながら、レヌール城とはどういうところだろうと考えていた。お化け退治というワードには心引かれるものがあったが、自分には関係ないことなのだということを思い出し、あまり考えないようにしようと思った。どうせ行けないのに、好奇心ばかり高まっても虚しいだけだからだ。

 橋を渡ったところでビアンカは立ち止まってリュカを待っていた。まだ怒りが治まらないようだ。口をへの字に曲げて、眉をひそめている。

 

「あいつらいっつも悪いことばっかりしてるのよ。この前なんてわたしの……い、いや、なんでもないわ!」

 

 不満たらたらの顔で愚痴ってきたビアンカだったが、途中で何かを言いかけると、急に顔を赤くして黙り込んだ。

 

「と、とにかく、あのネコちゃんは助けてあげないとね! ねえ……リュカも手伝ってくれない?」

 

 コロコロ表情を変えながら、最終的に不安げな顔でリュカに助けを求めた。

 

「たぶん無理」

 

 淡々と断ったリュカだったが、内心では、もしそうできるならアルカパの探索などできなくてもいいとさえ思っていた。

 

「え、なんで?」

「お父さんはすぐに帰ると思うから」

「そう……じゃあ、おじさまが帰らなかったら手伝ってくれる?」

 

 リュカは即座に頷いた。

 

「ホント!? じゃあ、わたしが何とかしてみせるわ! 約束よ! 絶対手伝ってね!」

 

 ビアンカは目をらんらんと輝かせ、グッと両の拳を胸の前で硬く握った。ビアンカの固い決意が伝わってくるようだ。リュカは、父の意思に反することはできればしたくなかったが、このときばかりは彼女を応援することにした。必要とあらば、援護射撃も辞さない覚悟だ。

 

「とりあえずうちに帰らない? おじさまを早く説得しなきゃ。夜に抜け出すには早く寝とかなきゃダメだもん」

「なんで夜なの?」

 

 キョトンとしてたずねた。

 

「わたしたちだけでそんな遠くまで行くなんて、ママは絶対許してくれないわ。ママにばれないようにするには夜に抜け出すしかないでしょ?」

 

 ムっとした様子でビアンカは言った。いつになってもママはわたしのこと子供扱いするんだから、などと愚痴るように呟いていたが、それは当然だとリュカは思った。

 

「夜じゃなくても、言わなきゃばれないよ、きっと」

「夜じゃないとお化けがいないかもしれないじゃない。お化けがいないと退治だってできないわ」

「……たしかに」

 

 リュカにはお化けの生態に関する知識はなかった。

 

「それに、町の入り口には警備の人がいるのよ。気付かなかった? 私たちだけじゃきっと通してくれないわ」

「夜なら通してくれるの?」

「夜はたぶん寝てるわよ。警備の人だって眠いときは眠いはずだわ」

 

 それもどうかとは思うが、この町の住人であるビアンカがそう言うのならそうなのだろう。

 

「これで決まりね。いい、絶対におじさまにもばれちゃダメよ?」

 

 ビアンカが声を潜めて、リュカの耳に顔を寄せて言った。

 

「なんで?」

「もしかしたらおじさまがママにばらしちゃうかもしれないじゃない。大人って意外とずるいんだから。それにおじさまがママみたいなこと言うかもしれないでしょ? この計画は、失敗は決して許されないのよ」

 

 ビアンカの瞳には、確かな決意を秘めた炎が灯っていた。

 いつしか二人はしゃがみ込み、顔を寄せ合ってコソコソと話し合っていた。

 

 

 

 

 

「おお、リュカ。やっと戻ってきたか。たくさん遊んでもらったか?」

 

 宿屋のビアンカたちの部屋に戻ると、パパスはイスに座ってマグダレーナたちと三人で何やら話していたようだ。ダンカンもすっかり調子は良さそうに見える。

 遊んでもらってはいない、そう返すことを控える程度の分別はリュカにもあった。

 

「見舞いも済んだことだし、そろそろサンタローズに帰るとしようか」

 

 パパスの言葉を聞いて、リュカとビアンカは揃って顔を引きつらせたが、即座に気を取り直し、ビアンカが一歩前に足を踏み出した。

 

「あ、あの……おじさま――」

「何言ってんだい! このまま帰るなんてとんでもないよ!」

 

 ビアンカの言葉を遮って、マグダレーナが声を張り上げた。リュカたちは思わずマグダレーナに目をやる。

 

「そうだぞ。せっかく二年振りくらいに会ったんだ。何日か泊まっていってくれてもバチは当たらないんじゃないか?」

 

 ダンカンもマグダレーナを後押しした。リュカたちにとって想定外の援軍の存在は、やたらと心強く感じた。リュカもパパスの目を訴えかけるように見つめてみた。

 

「そうだな……ではお言葉に甘えるとするか」

 

 パパスは苦笑していた。リュカとビアンカは顔を見合わせて笑った。リュカの笑顔を見たビアンカは一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔に戻った。

 

「ああ、よかった……じゃあとりあえず部屋まで案内するから、ついてきてくれるかい?」

 

 マグダレーナはホッとしたように笑みを浮かべる。やはりパパスは彼らと仲がいいのだろう。ダンカンもマグダレーナも、そしてパパスも嬉しそうだ。パパスのこんな顔を、リュカはあまり見たことが無かった。

 

「リュカ、今のうちに寝ておきなさいよ。夜になったら起こしに行くからね」

 

 ビアンカはリュカに耳打ちした。リュカは一つ小さく頷くと、歩いていくマグダレーナの後に続いた。

 

 

 

 

 

 マグダレーナは階段を二つ上がって、三階に向かった。二階にはいくつも部屋があったのだが、三階には一つしか部屋はなかった。結構な広さのある部屋で、大きなベッドも置かれている。床は赤いじゅうたんに覆われており、部屋の隅には観葉植物が飾られていた。リュカはビアンカが、三階の部屋が一番いいお部屋なの、と言っていたことをふと思い出した。窓は三つあり、そこから見える空は赤みを帯びている。

 

「じゃあ鍵は預けておくから、好きに使ってくれて構わないよ」

「わかった」

 

 二人が言葉を交わしているのを横目に、リュカはターバンとマントを脱いでいた。それらを道具袋と杖と一緒にベッドの脇に放り、髪をほどき、寝る気満々だ。

 

「ん、もう寝るのか?」

 

 ベッドに潜り込みはじめたリュカの方を振り返り、パパスが声をかける。

 

「うん」

「そうか。おやすみ」

「おやおや、まだご飯も食べてないだろうに……まあ今日は疲れただろう。ゆっくりおやすみ」

 

 そう言って、二人は部屋を出ていった。遠ざかっていく足音が聞こえる。

 リュカはまだ見ぬレヌール城に思いを馳せながら眠りについた。

 

 

 

 

 

 



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5話

5話

 

 

 

 

 

 何者かに身体を揺さ振られたことで、リュカは目を覚ました。気持ちよく眠っていたところを邪魔されるのは、なかなかの不快感を伴うものだ。リュカもその例に漏れることはなかったが、耳元で囁いている声がビアンカのものだということに気付くと、その苛立ちは眠気とともに吹っ飛んだ。お化け退治のことを思い出したからだ。

 

「起きたわね。早く行きましょう」

 

 聞こえるか聞こえないか微妙なほどに小さくビアンカは囁いた。

 隣のベッドには父が寝ている。起こさないように細心の注意を払いながらベッドを降りると、放り出されていたマントとターバンと杖と道具袋を拾い上げ、忍び足でリュカは部屋を出た。

 シーンと静まり返っている。そのなかを息を殺しながら抜き足差し足で進む。階段を下りるとき、ギシギシとかすかに軋む音が鳴るたびに肝が冷える。膝の柔軟性を不必要なまでに駆使しながら二人は階段を降りきった。そのまま足音を殺しながら黙って入り口の扉まで辿り着くと、ゆーっくりと扉を開き宿屋を出る。そこで二人はようやく一息ついた。

 外はすっかり闇に包まれ、空は墨を流したように真っ暗だ。その中にポツリポツリと星がきらめいており、一際目立つ満月が淡く地上を照らしている。朝も昼もずっと寒かったのだが、夜はより一層寒く、リュカは早くマントとターバンを身につけようと、脇に抱えたままだった荷物を一旦地面に置いてから、まずマントを着ることにした。

 

「ふぅ……何とか抜け出せたわね。でもこれはまだ計画の第一段階でしかないのよ。レヌール城の場所はわたしが知ってるから、心配しないでね」

 

 辺りがひっそりと静まり返っているからか、ビアンカは相変わらず囁くように声を発した。寒いからか、両手でマントに隠れた二の腕のあたりを擦っている。

 

「おや、レヌール城に行くのかい?」

 

 ビアンカに相づちを返しながらマントを身につけ、次はターバンに取り掛かろうとしているとき、突然どこからともなく声が響いた。二人は跳びあがった。心臓が胸を突き破りそうになったかのような錯覚をリュカは感じた。危うくターバンを引き千切るところだ。

 

「だ、誰!?」

 

 ビアンカがリュカの腕を握りながら、悲鳴を上げた。静まり返った町に響き渡る。

 

「ああ、ごめんね。驚かせちゃったかな」

 

 怪物でも出てきたかのような感覚に陥っていたリュカだったが、思ったよりも遥かに穏やかな声が返ってきたため、肩の力が一気に抜けた。ビアンカも口をポカーンと開けている。

 声のした方向を見てみると、うっすらと暗闇の中に人影が見えた。目を凝らしながらそちらへ近づいていくと、一人の男がイスに座っていた。そこは宿屋の入り口から少し右にずれたところの柵で囲われたスペースであり、そこには木でできたテーブルと長イスが置かれていた。宿屋のドアから出入りできるようなので、おそらく宿屋の中庭みたいなところなのだろう。

 

「こんばんは」

 

 男が挨拶をしてきた。

 

「何だ、詩人さんだったのね……ビックリさせないでよ」

 

 その男はビアンカの知り合いだったようだ。あからさまに脱力している。

 

「ごめんね。そんなに驚くとは思わなかったんだ。ところでレヌール城へ行くというのは本当かい?」

 

 背中の真ん中あたりまで髪を伸ばした優男だ。優雅に長イスに座り、笑顔を微かに浮かべてこちらを見ている。

 

「……そうだけど、ママには内緒だからね」

 

 ビアンカは警戒するような様子を見せた。確かに、この男の出方次第ではお化け退治どころではなくなるのだ。

 

「レヌール城のお話を少ししてあげようか」

 

 詩人はビアンカの言葉には反応を返さず、唐突に話を始めた。

 

『むかしむかし、レヌールの城には逞しい王と美しい王妃が住んでいました。しかし二人には子供ができず、いつしか王家も絶え、お城には誰もいなくなったのでした……ところがそのレヌール城からは夜な夜なすすり泣く声が聞こえてくるという――――』

 

 詩人だからなのか、やけに臨場感のある語り口だ。顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。

 

「お話はここまで。どうだい、怖かっただろう?」

「べ、別に怖くなんかないわ」

 

 リュカは怖いというよりむしろワクワクしていたが、ビアンカは明らかに怖がっているように見えた。リュカの腕を硬く握り、身体も顔も強張っている。つかまれた腕が痛い。

 

「そうかい? じゃあ止めはしないよ。ただ、今のレヌール城は結構危険なところだからね、これを持っていくといいよ」

 

 詩人は手品のように、どこからともなく白い羽のようなものを取り出した。

 

「あっ、これキメラの翼?」

 

 ビアンカがそれを受け取った。暗闇では光を発しているようにも見えるほどに真っ白な羽の根元に、金色の金具がついている。リュカにも見覚えのあるものだった。旅をしていた頃はよくお世話になったものだ。

 

「そのとおり。危なくなったら逃げなきゃダメだよ」

 

 キメラの翼とは、最後に立ち寄った町や村などに一瞬で帰ることができる道具だ。レヌール城で使用すれば、アルカパまで戻ってこられることだろう。

 

「はーい」

 

 ビアンカが返事をし、リュカも素直に頷くことで返事をした。パパスから、引き際の見極めは大切だということを教えられたことがある。引き際を見誤ると碌なことにならないそうだ。

 

「約束だよ。それじゃあ行ってらっしゃい」

 

 詩人はいちいち優雅な仕草で片手をバイバイ、と左右に振った。二人は手を振り返し、歩き出した。

 

「詩人さんはね、結構前からうちに泊まってくれてるのよ。世界中を旅してるんだって。おじさまと同じね。面白い話をたくさんしてくれるの。でも、さっきの話はちょっと不気味だったわね。まあ、別に怖くはなかったけど」

「へー」

 

 リュカはビアンカの話を聞きながら、髪を後ろで適当に結んだ。そしてターバンを巻こうとすると、ビアンカがそれを押し止める。

 

「もうちょっと綺麗に結びなさいよ。私がやってあげるわ。じっとしてなさい」

 

 ビアンカはリュカの後ろに回ると、髪をいじくりだした。

 

「あら、ゴワゴワしてるのかと思ったけど、思ったよりはマシね。でもちゃんとお手入れしなきゃダメよ。でなきゃ野生児みたいになっちゃうわ」

 

 髪のお手入れとはなんだろう。リュカは首をかしげた。まあ、それがわかったところで、そんなことをするつもりもないのだが。

 

「それでね、詩人さんの話だけど、信じられない話ばっかりなのよ。空に浮かぶお城の話とか、山よりも大きい怪物の話とか――」

 

 ビアンカはリュカの髪をあっさりと結ぶと、今度はターバンをリュカの手から奪った。そしてリュカの頭に巻きはじめるが、その間も途切れることなくぺらぺら話し続けている。よくもまあこんなに舌が回るものだと、リュカは感心した。

 

「よし、これでいいわ。行きましょ」

 

 ターバンも実に迅速に巻き終えると、リュカの背をポンと叩いて歩き出す。普段よりも頭が窮屈な気がした。

 

「夜にこっそり外に出るなんてワクワクするわよね。わたし今までこんな時間に外に出たことないの。アルカパも夜はこんなに静かになるのね……」

 

 一段落したとでも言うかのように、そうしみじみと呟いて、ビアンカは口を止めた。ビアンカの言うとおり、昼間はあんなににぎやかだったアルカパは、今はすっかり静まり返っている。辺りは湿気を含んだ冷たい夜気に満たされ、昼間とは別世界のようにも感じられた。

 やがて、町の入り口に差し掛かる。そこには一人の男が眠りこけていた。これが警備の人だろうか。リュカは見なかったことにした。ビアンカもそうしていた。

 ビアンカが先導する形で森の小道を行き、別れ道を右に曲がった。左に曲がればサンタローズのほうへ出るところだ。

 

「わたし今まで遠出なんて、サンタローズに行ったことくらいなの。リュカはずっと旅してたのよね。いいなぁ」

 

 ビアンカがリュカに目を向けて、うらやましそうに、そしてどこか拗ねたように言った。

 ビアンカも探検とか好きなのだろうか。ビアンカの様子を見ていると、きっとそうだと思えた。そうだとしたら、それはリュカにとって喜ばしいことだ。共通の趣味を持つ人がいるというのは、誰にとっても喜ばしいことだろう。旅が好きな人は、探検だって冒険だって好きなものだという持論がリュカにはあった。ビアンカはレヌール城へ行くのを怖がっているようなふしがあったが、それ以上に楽しみにしているに違いないと、リュカは勝手に想像した。

 そのまま真っ直ぐに進むと、案外すぐに森を抜け、草原に出た。日中よりも草と土の匂いが強く感じられる気がした。周囲を木々に囲まれていた森から、どこまでも見渡せるような草原に抜け出すと、解放感がリュカの身を包んだ。自分の気が大きくなったような、身体が大きくなったような、不思議な感覚があった。

 

「レヌール城は北のほうにあるの。結構遠いけど、頑張ろうね!」

 

 ビアンカは元気一杯に言った。ビアンカも自分と同じ気分なのだろうと思った。

 でも油断しないようにしなければ、リュカは緩みかけていた気を引き締めた。なぜならここは町の外だからだ。つまり魔物がいつ出てきてもおかしくないということだ。ピクニックでも楽しんでいるかのようなビアンカの様子は、明らかに旅慣れていない者の姿だった。

 そういえば、ビアンカは戦えるのだろうか。ふと、聞いたことがなかったことを思い出した。ビアンカの力量によって、難易度は大きく変わる。もし、ビアンカに戦闘能力がない場合、自分にはビアンカを庇いながら戦わなければならない。そんな芸当が自分にできるかどうかは、甚だ疑問だった。

 リュカは簡潔にたずねた。

 

「え? あ、そうよね、町の外には魔物が出るのよね。でもお化け退治するんだもの。魔物なんて怖がってられないわ」

 

 ビアンカは緩んでいた口元を引き締め、周囲をキョロキョロと見回しはじめた。

 

「わたし少し魔法を使えるの。鞭も持ってきたわ。だから大丈夫よ」

 

 ビアンカはマントをまくり、腰の茶色いベルトにぶら下げられた、緑色の鞭を見せた。

 

「魔法使えるの?」

「少しだけよ。リュカは?」

 

 ビアンカはどこか得意げに言った。

 

「一個だけ使える」

「わたしは二個よ」

 

 ビアンカはさらに得意げに言った。

 

「魔法って、どうしたら覚えられるの?」

 

 魔法においては一歩先を行っているらしいビアンカにリュカはたずねた。

 これは今のところリュカの中で気になっていることのトップ3に入る事柄だ。ちなみにその3つの中には文字の読み書きも含まれていたりするが、リュカはすっかり忘れていた。

 魔法というどこか神秘的な力は、リュカの心を惹きつけるに充分な魅力を持っていた。父に聞いておけばよかったと後悔したが、悔やんでも仕方のないことだ。自分の経験からすれば、穴に落ちれば習得できるということになるが、それはたまたまであって、別の要因があるに違いない。

 

「わたしもよく知らないんだけど……強い敵と戦ってたりすると、覚えることがあるって聞いたことがあるわ」

 

 ビアンカもよくわかっていないような口調だった。宙を見上げ、片方の三つ編みの先を指先で弄りながら、曖昧な記憶を掘り起こそうとしている。

 

「ビアンカはどうやって魔法覚えたの?」

「メラはいつの間にか使えたって感じだったわね。マヌーサは魔物に襲われたときに、突然使えるようになったの」

 

 彼女はメラとマヌーサという魔法を使えるらしい。どんな魔法なのかリュカは気になったものの、使って見せてくれと頼むわけにもいかない。これからお化け屋敷に行くというのに、むやみに魔力を消費させるのは得策ではないからだ。

 彼女の話と自身の経験を照らし合わせてみるに、危険に陥ったときに覚えられるということだろうか。だがそうだとすると、メラをいつの間にか覚えていたというのがつじつまに合わない。今のところ何とも言えない。とりあえず、魔法の習得方法は人それぞれだという結論にリュカは達した。本当のところは後で父に聞けばいい。

 

 

 

 

 

 レヌール城は北にあるわけだが、北に真っ直ぐ進んでいけばいいというわけでもない。アルカパを覆っている森は、周囲を草原に囲まれているが、その草原もまた山々に囲まれているのだ。東――サンタローズの方向――と西に、少し山々の連なりが途切れているところがあり、そこを通る必要がある。山を越えていくのならその限りではないが、そんなことをする物好きはなかなかいないだろう。リュカたちは西から抜けて、そこから右へ曲がり北へ向かうルートを進んでいた。

 ビアンカと話しながら歩いているうちに西のスペースを抜けた。その先には、左右に森が広がっており、リュカたちは森と森に挟まれた隙間を通ることにした。

 

「森を通ったほうが近道にはなるけど、森を通るのは危険だからね」

 

 そのビアンカの意見にはリュカも賛成だった。森には草原よりも遥かに多くの魔物が潜んでいる。結果的には森を通らないほうが早く進めるだろう。

 だが、かといって森を通らなければ魔物に遭遇しないということでは決してない。森からガサガサと音をたてながら、魔物が二匹顔を覗かせたのだ。緑色の芋虫を巨大化させたような魔物――グリーンワームと、灰色のネズミを巨大化させたような魔物――おおねずみの二匹だ。

 

「あっ! 魔物よ、リュカ!」

 

 ビアンカはリュカに注意を促したつもりなのだろうが、リュカとしてはむしろ静かにしていてほしかった。大きな音は時に魔物を興奮させる要因にもなり得るからだ。それに他の魔物を引き寄せてしまう可能性もある。

 戦闘に慣れていないであろうビアンカを気遣ったのもなくはないが、何より先手を取るために、即座にリュカは魔物に向かって駆け出した。先手を取っておいて損はない。ビアンカが鞭を取り出そうとしている間に、リュカはグリーンワームに両手で硬く握った杖を振り下ろした。感触からして、グリーンワームの身体はやわらかい。芋虫に似ているのは見た目だけではないようだ。

 青い血を垂らしながらのたうち回っているグリーンワームに、再び杖を振り上げるが、おおねずみの体当たりをかわさなければならなくなった。ビアンカは何をしているのかと目をやると、鞭を手持ち無沙汰に構えたまま、オロオロしていた。

 やっぱり慣れてないのかな、そんなことを考えながら、リュカは再びグリーンワームに突進した。すでにグリーンワームはうねうねと体勢を立て直しつつあったが、まだふらついている。今のうちに敵の数を減らしておきたいところだ。おおねずみがそれを阻止しようとしているのか、ただ単に襲い掛かってきているだけかはわからないが、リュカに向かってきている。

 リュカは両手でガードを固め、お構いなしに突っ込んだ。おおねずみの爪に引っ掛かれ腕に痛みが走ったが、そのまま無視してグリーンワームの元に辿り着き、走ってきた勢いのままに杖で殴り飛ばした。重い打撃音が鳴る。吹っ飛んだグリーンワームは倒れこんだまま、ガラスを引っ掻くような奇妙な声を上げながら蠢いていたが、やがて動かなくなった。

 リュカはそれを死んだと判断し、おおねずみに目を向けると、おおねずみは既に背後に迫っていた。小さいが鋭い爪を既に振り下ろしつつあるおおねずみの攻撃をかわす余裕はなく、リュカは痛みに備えて身を強張らせたが、突如、弾けるような音と共に、おおねずみは横に吹っ飛んだ。近寄ってきていたビアンカが、鞭を一振りしたのだ。

 

「大丈夫!?」

 

 ビアンカはリュカの腕に傷があるのを見つけ、悲鳴に近い声をあげた。大袈裟だと思いながら、リュカは返事を返すことなく、おおねずみに止めを刺そうと動いた。情けない声をあげているおおねずみに迫り、杖を脳天に叩きつけた。おおねずみの頭は割れ、血が噴き出した。痛みに悶えることもなく、おおねずみは死んだ。

 ようやく一息ついたリュカに、おおねずみの方にビクビクしながら視線を向けつつ、ビアンカが駆け寄ってきた。

 

「大丈夫? 腕怪我してるじゃない」

「大丈夫」

 

 確かにリュカの腕には、引っ掻かれた傷があったが、運良く傷は浅かった。少し血が出ている程度だった。

 

「ホント? ゴメンね……わたしどうしていいのかわからなくて……」

 

 動き出すのが遅かったことを謝っているのかもしれない。

 

「いいよ」

 

 リュカは本心から言っていた。ビアンカに救われてもいるのだ。慣れていないわりには上出来だった。

 

「あ、わたし薬草持ってきてるの」

 

 そう言って腰にぶら下げた袋を探ったビアンカを、リュカは押し止めた。この程度の傷で薬草を使うのはもったいないからだ。この先何があるかもわからないのに、むやみに薬草を使うのはあまり賢い行動だとは思えなかった。

 

「大丈夫なの?」

「うん、行こ」

 

 ビアンカは意外と心配性のようだった。

 

「ところで、その杖って武器だったのね。なんで杖なんて持ってるのかと思ってたんだけど……武器が杖なんて変わってるわね」

「そう?」

「ええ、普通武器っていったら剣とかじゃない? 私みたいに鞭とかナイフとかでもいいけど」

「でも、ずっとこれだし」

 

 リュカの武器は、「樫の杖」という杖だ。上部はグネグネと曲がりくねり、ねじれ、団子状になっている。これにより生じる複雑な溝や筋が独特な模様を織り成しており、なかなか味があるとリュカは密かに思っていた。そんな節くれだった杖は、先端へ向かうに連れて、徐々に細くまっすぐになっていき、シャープさまでも持ち合わせているのだ。

 見るからに木製だ。名前からして樫の木でできているのだろうが、リュカはその辺のことは知らないし、どうでもいい。

 

「おじさまに剣とか買ってもらったら? きっとそのほうが強いわよ」

 

 リュカは首を横に振る。

 ビアンカの言うこともわからないではないのだが、リュカはその気はなかった。この杖は、単に気に入っているだけではなく、非常に手に馴染むのだ。それに、この杖は父が自分に買ってくれたものだ。そうやすやすと手放すわけにはいかない。

 

「なんで? その杖お気に入りなの?」

「うん」

「そう、なら仕方ないわね。気に入ったものを使いたいっていうのは当然だもの」

 

 ビアンカはにっこり笑った。リュカもつられて少し微笑んだ。

 

「ビアンカはその鞭、お父さんに買ってもらったの?」

 

 リュカは話を振ってみた。

 ビアンカは首を振った。

 

「これはママが使ってるやつなの。それを黙って借りてきたのよ」

 

 使っているとはどういうことだろう。ビアンカの母は武闘派なのだろうか。気になって聞いてみると、ビアンカは頷いた。

 

「と言っても、パパスおじさまみたいに凄く強いわけじゃないわ。たまに魔物に出くわしたときに戦うくらいね」

 

 リュカは相づちを返した。そうしないと彼女の機嫌を損ねるかもしれない。その可能性をリュカは理解していた。

 

「鞭の使い方、お母さんに習ったの?」

 

 リュカは先ほどの戦闘でのことを思い返していた。ビアンカは敵に効果的な一撃を見舞っていた。戦闘の素人っぽさをみせながら、同時にそんな一撃を放てるというのは奇妙なことである。

 

「そうよ。でも、あんまり教えてくれないの。教えてって言っても、ママはあんまりいい気がしないみたい」

「なんでだろうね?」

「さあ?」

 

 二人は首をかしげた。

 

「ママが強い代わりか知らないけど、パパは病弱なの。リュカも見たでしょ? パパが寝込んでるの」

「でも治ったじゃん」

 

 ビアンカは表情に影を落とした。

 

「……パパってね、よく病気になるの。今までも何回も病気になったわ。その度に薬を買ってきて……それで治ったりもするんだけど、また病気になるの。きっと、これからもそうだわ」

 

 悩みの一つもなさそうな彼女だが、その内には抱えているものがあるらしい。そのことをリュカは垣間見た。

 

 

 

 

 

 そうこうしているうちに海岸に出た。目の前に海が広がっている。海に限ったことではないが、自然というのは日中と夜とでは違った顔を見せる。闇夜の元で静かに揺らめいている海は、穏やかなようで、しかしその内には底知れない闇を抱えていた。

 海に沿って右へ――すなわち北へ進むと、すぐに開けた草原に出た。そこを真っ直ぐに北へ進むと、また右手に森が見えてくる。右に森、左に海を感じながら、進んでいくと、前方に急勾配な山々が現れた。それは壁のように立ち塞がっており、必然的に右の森に立ち入らざるをえない。

 

「この森の中にレヌール城はあるの」

 

 鬱蒼とした森に足を踏み入れると、途端に視界が限定された。春に近いとはいえ冬なのに、ここの木は枯れていない。

 

「どこにあるのかはっきりとはわからないんだけど……見つかるわよね?」

「そんなこと聞かれても……」

 

 ビアンカが前に、レヌール城の場所はわたしが知ってるから心配しなくていいわよ、とかなんとか言っていたような気がしたが、たぶん気のせいだったのだろう。

 闇雲に歩いても、見つかるかどうかは運任せになってしまう。それに、森の中を考えなしに歩くのは危険だ。

 どうしようかと悩んでいたその時、リュカは突然何とも形容し難い気配のようなものを感じた。意識を集中しておかないと、すぐに見失ってしまいそうな感覚だ。それが何なのかわからなかったが、何となくそれはレヌール城から漂ってきているものなのではないかと直感的にリュカは思った。

 

「こっちだよ……たぶん」

 

 リュカは、先ほどのビアンカに負けないほどの頼りない声色で言った。歩き出すリュカを追いながら、ビアンカはたずねる。

 

「何でこっちだってわかるの?」

「何となく」

 

 リュカもあまりいい答えを返せたとは思わなかったが、実際そうとしか言えないのだから仕方がない。不思議と確信すら感じはじめているリュカは、この感覚を信じることにした。

 

「何となくって……。まあいっか。どうせどっちに行ったらいいかなんてわかんないんだしね」

 

 途中で何度か魔物に襲われたが、容易く見失ってしまいそうな感覚であるにもかかわらず、不思議とリュカはその気配を見失ったりはしなかった。やがてリュカたちは森の中にぽっかりと開いた空間に辿り着いた。そこにはリュカの思ったとおり、レヌール城が存在していた。

 リュカが感じていたあの気配は、確かにその城の中から漂っていた。

 

 

 

 

 



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6話

6話

 

 

 

 

 

 そこは、小高い丘のようになっていた。丘の上へと続く坂道は、コケの生えた石の壁が通路をかたどるように左右を真っ直ぐ伸びており、その壁は丘の上までくると丘の外周に沿って広がり、丘を縁取るように続いている。そこに建っているのがレヌール城だ。

 レヌール城は石造りの荘重な城だ。四隅に円柱の塔が配された、長方形に近い形をしている。装飾がほどこされたタイプの城ではなく、どちらかというと無骨な感じだ。周囲に広がる深い森を見下ろすように、丘の上に堂々とそびえ立っている。

 

「……なんか、不気味ね」

 

 坂道を登りながら、ビアンカが呟く。

 レヌール城はところどころ風化し、またツタが城の表面の至るところを侵食しており、不気味さが際立っている。足下には草が自然のままに好き放題に荒れている。

 

「お化け屋敷っぽいわ」

 

 坂道を登りきったところから階段が続いており、その先には大きな扉があるのが見える。その扉の上部にはバルコニーが一つあり、そこもまた大きな扉で場内と繋がっているようだ。

 

「ちょっとリュカ、何か言いなさいよ」

「……早く行こ」

 

 坂道を登りきった二人は、しばし城を見上げて立ち尽くしていたが、リュカは気を取り直し、歩き出した。リュカは実は若干緊張していた。

 

「ちょ……待ってよ!」

 

 ビアンカが駆け足で追ってくる。

 石の階段を上がりきると、そこには少しのスペースがあり、石畳が扉まで続いている。コツコツと杖が石畳を打つ音を立てながら、リュカは扉へ向かう。扉に手をかけると、ひんやりとした感触があった。鉄製の扉だ。リュカは扉を押すが、びくともしない。だんだん力を込めていくが、相変わらずだ。最終的には全力で押したのだが、結局扉はピクリともしなかった。まるで扉のふりをしたただの壁なのではないかと思えるほどだ。

 

「押すんじゃなくて引くのかしら?」

 

 今度はビアンカと二人で扉を引いてみるが、それでも開かない。

 リュカはむくれて杖で扉をコンコン叩く。入り口くらいは開けておくのが、探索される側の義務だ。リュカは内心愚痴りながらも、別の入り口を探そうと歩き出す。裏口くらいあるだろう。

 

「メラでもぶつけてみようかしら……」

 

 リュカはその言葉に足を止めた。ビアンカに目を向けると、彼女は扉に相対し、両手を開いて扉へ向けて突き出している。扉が開くことを期待していたのもあるが、リュカはビアンカの魔法に興味があったため、黙って見守ることにした。

 いつになく真剣な顔をしたビアンカの両の掌が淡く赤い光を帯びた。光は強まり、渦を巻きながら両の手のひらの前で一つに集束してゆく。そうして生まれた一つの赤い光の球は、気付けば赤い火の玉となっていた。ビアンカの三つ編みが、マントが、風を受けたように揺らめく。周囲が照らされ、陰影がくっきりと描き出される。そしてビアンカは呪文を唱える。

 

「メラ!」

 

 一際マントが大きく揺れ、火の玉は射出された。うなりを上げながら宙に赤い軌跡を残し、火の玉は扉に直撃する。轟音が空気を振動させる。

 リュカは思わず腕を顔の前にかざし、爆風を遮る。自分のマントがはためいているのを感じた。これは扉が消し飛んでいてもおかしくないと、リュカは思った。舞い上がった土煙が晴れる。

 

「ええっ、これでもダメなの!?」

 

 ビアンカが叫んだ。扉は依然としてそこにあった。若干黒く焦げ付いているところもあるが、それだけだ。

 

「……きっとごっつい閂が掛かってるのね。ここは諦めたほうがよさそうだわ。リュカ、行きましょ」

 

 どこか吹っ切れたようにビアンカは言った。

 

「うん」

 

 二人は引き返し、階段を下りた。そして、どこか裏口みたいなところはないかと、城の外壁に沿って周囲を歩く。

 

「ビアンカ凄いんだね。あんな魔法使えるなんて」

「あら、そう? でもリュカも魔法使えるんでしょ?」

 

 ビアンカは得意げだ。

 

「うん。でも風より火のほうがかっこいい」

「そうなの? 私、風の魔法なんて見たことないからわからないわ」

 

 左手には城、右手には丘を囲う石壁が続いており、その間のたいして広くもないスペースを、二人は進む。ガサガサと足下の草が擦れる音がする。かつては綺麗に刈り込まれていたはずだ。城なのだから。しかし、今は荒れ果てたという言葉がぴったりだ。ぼうぼうと草は気の向くままにその身を伸ばし、地面を覆い隠している。

 何かないかと城壁を見ながら壁際を伝うが、何の変哲もない平たい壁が続くだけだ。しばらくまっすぐ行くと、城の角まできた。円柱の塔の丸みに沿って曲がると、その塔には裏口があった。

 

「あっ、ここから入れるんじゃない?」

 

 裏口に続いている小さな階段を上り、彼女は小さなドアに手をかける。ドアは軋みながら開いた。

 

「開いた……」

 

 ビアンカが恐る恐る中を覗きこむ。

 

「階段があるわよ。どうする? 行く?」

 

 行くに決まっている。リュカは頷いた。

 

「そ、そうよね。これもネコちゃんのためよ……」

 

 なにやら決意を固めた様子のビアンカに続き、リュカも中へ入る。

 内部は窓の一つもなく、薄暗く、密閉感があった。床も壁もむき出しの石で、冷たい印象を与える。杖を突く音が、不気味に反響した。

 その円形の空間の中心から、螺旋階段が上へと伸びている。上の方がどうなっているのかは、暗くて見えない。とにかくこの階段を上る他の道はない。

 

「なんか……気味悪いわね」

 

 当たり前だ。お化け屋敷なんだから。リュカはそう言葉にするのはやめておいた。

 ビアンカは心なしか身体を縮こまらせながら、せわしなく視線をあちらこちらに飛ばしている。お化けとかが苦手なのだろう、リュカはようやく理解した。ちなみにリュカはお化けなど見たことがないので、苦手だとかは全然なかった。

 いつまでも動き出さないビアンカを尻目に、リュカは階段に足をかける。階段も石でできている。硬くしっかりとした感触だ。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

 慌ててビアンカが追ってくる。ここは、大きな声を出すと当たり前のように反響する。自分の声にどやされたように口をハッと閉ざす彼女の姿は滑稽であった。

 コツコツと杖をつきながら階段を上る。ぐるぐるとしばらく上ると、踊り場に出た。そこにはドアが一つあり、また、螺旋階段が続いて上へ伸びている。二手に道が分かれたのだ。

 そんなに上ってはいないはずなのに、もう階下の様子は見えなくなっていた。暗い。奈落に通じているかのような錯覚を覚える。

 

「どうする? どっちに行く?」

 

 そう尋ねてくるビアンカを背に、リュカはしばし考えたが、ここで立ち止まっていてもどちらが正解の道か、答えは出ない。そのことを知っていたリュカはあっさりと階段を上る方を選んだ。

 しばらく行くと、階段が終わった。どうやら塔の頂上まできたようだ。上は天井になっている。壁に小さなドアがあり、そこから出て行けるようだ。

 リュカはドアに手をかける。キィ、と音を立てながら、ドアは開いた。

 その先には一本の細い通路がまっすぐ伸びていた。城の外周に沿うまっすぐな通路であり、また別の隅に位置する塔へと続いている。城の四隅に位置する塔の頂上まできただけあって、そこは壁も天井もない、何も遮るもののない吹きさらしのところだった。月明かりに静かに照らされ、解放感にリュカは大きく深呼吸した。胸に冷涼な夜気が満ちる。

 

「うわー……高いわね。私たちお城のてっぺんまで来ちゃってたのね」

 

 ビアンカが恐る恐る通路の脇から下を覗いて言った。通路の両脇には石で柵が設けられているため、ビアンカが転げ落ちることはないだろう。

 右側を見ると、少し下のほうに城の屋上が見えた。屋上と呼ぶべきものが下方にあるというのは少しおかしな感じだが、それだけ四隅の塔が突出しているということだ。屋上には墓が二つ並んでいる。左側を見ると、鬱蒼と広がる森を見下ろせた。

 リュカたちは通路を進み、別の塔へと近づいていく。その塔への入り口は、先ほどのような小さなドアではなく、塔の側面がアーチ状にくりぬかれたものだった。内部は薄暗くよく見えないが、リュカは迷うことなく入っていく。ビアンカもリュカにくっつくようにして続く。

 その途端、城が揺れるような轟音――二人は飛び上がり音のした背後をパッと振り返る。そして、轟音の原因がわかった。ぽっかりと開いていたはずのアーチに、鉄格子がかかっていたのだ。

 

「えっ、ちょっと、どういうこと!?」

 

 ビアンカは悲鳴を上げ、鉄格子につかみかかる。

 

「そんな……嘘でしょ? 出られなくなっちゃった……」

 

 呆然とした弱々しいビアンカの声。

 バクバク言っていた心臓が落ち着きだし、リュカも鉄格子に触れてみる。リュカの腕より太い鉄棒が縦に横にと何本も伸びており、もはやどうしようもない。破壊することも隙間を通り抜けることもできないだろう。父ならこんな鉄格子ですら一太刀で切り裂けるのだろうな、リュカはそんなことを思いながら、杖で鉄棒を叩いた。

 甲高い音が響く。それにハッと意識を取り戻したらしいビアンカが、リュカの両肩をつかんで、今にも泣き出しそうな表情を見せる。

 

「どうしよう! 私たち閉じ込められちゃった!」

 

 これだけ取り乱している人を見ると、逆にこちらは冷静になれたりするものだ。リュカは肩の痛みを無視しつつ、大丈夫だよ、と一言呟いた。

 

「大丈夫ってなにが!? 私たちきっとここで死んじゃうんだわ。そしてこのお城に巣くうお化けになってしまうのよ! お化け退治に来たはずがお化けになっちゃうなんて! 笑い話にもならないわ」

「きっと他にも出口があるよ」

 

 ビアンカの揺れる瞳が見える。

 

「そ、そうよね。きっとそうよ。諦めるのはまだ早いわよね……」

 

 俯きながらブツブツ言っているビアンカの両手を、自分の肩からどけると、リュカは鉄格子に背を向け、この部屋を見回す。

 ここは、円形の部屋だった。床には赤いじゅうたんが敷かれている。少し目を凝らすと、部屋の外周に沿うように棺おけが六つ置かれているのが見えた。部屋の向こう側には下へと続く階段が見える。がっしりした石の手すりが備えられているようだ。

 差し当たって階段を下りるしかない。リュカは階段の方へ向かうと、ビアンカも後ろをぴったりとついてくる。そして、部屋の中央まできたときだった。突如、方々からガタンっと大きな音が同時に響いた。

 

「今度はなによ!?」

 

 金切り声を上げ、しゃがみこむビアンカ。リュカは何事かと薄暗い室内を見回す。すると、異常はすぐに見つかった。不気味に白い骸骨が、闇の中にぼうっと浮かび上がっていたのである。闇に溶け込みながらも、不思議な存在感を醸し出している。ハッとして周囲に目を凝らすと、六つの棺おけの蓋が全て開け放たれているのがかろうじて見えた。さっきの音はきっと勢いよく蓋が開けられたときの音だったのだろう。

 六体の骸骨たちは、瞳を持たぬ顔をこちらへ向け、獲物を見定めるようにリュカたちを取り囲む。

 

「敵だよ」

 

 頭を抱えてしゃがみこんでいるビアンカに警鐘を鳴らす意味で、声をかける。その言葉をきっかけにしたように、骸骨たちは飛び掛ってきた。振るわれる腕を杖で受け止めると、乾いた音が激しく鳴る。リュカは身体を横にずらして、杖で相手の頭を横殴りにする。骸骨の首が折れ、頭が飛んでいく。柔らかいものの上を転がる音がする。

 ビアンカの悲鳴が上がる。ビアンカの方を振り返る。すると、彼女は骸骨に胴体に腕を回され、タルでも持ち上げるように担ぎ上げられていた。手足をばたつかせているが、たいして効果はないようだ。

 

「離して! 離しなさいよ!」

 

 リュカは駆け出し、ビアンカを担いでいる骸骨を殴り飛ばそうとした。だが、横から別の骸骨にタックルされ、転んでしまう。そのまま腹に抱きついて離れない。杖で何度もこの骸骨を殴りながら、ビアンカの方を見ると、彼女を担いだ骸骨は歩き出し、どこかへと向かおうとしている。まずい――リュカは一際力を込めて殴ると、背骨から折れ、リュカに抱きつく力が抜ける。

 そのとき、赤い光がパッと室内を照らす。

 

「メラ!」

 

 ビアンカの放ったメラが彼女を担いでいた骸骨を破壊した。それでもなお勢いを失わない火球は、リュカの傍の床に着弾し、リュカに冷や汗をかかせた。じゅうたんが焼けて穴が開いてしまっている。

 小さく悲鳴を上げて床へ落下したビアンカ。そこに覆いかぶさろうとするまた別の骸骨。

 リュカはすばやく立ち上がり、駆けつけようとするも、背中に鈍い衝撃を受け、倒れこんだ。横に骸骨の頭が転がっている。これがリュカの背中に投げつけられたらしい。

 

「きゃっ! ちょっと、やめて!」

 

 見ると、ビアンカは今度は二体の骸骨に抱え上げられていた。

 背中の痛みを堪えつつ、リュカは救出に向かおうと身体を起こすが、近づいてきていた骸骨に腹を蹴り飛ばされ、息を詰まらせながらうずくまる。

 

「離しなさいよ!」

 

 相変わらず元気に叫んでいるビアンカを見ると、骸骨に抱えられながら階段を下りていっているところだった。石の階段を骨が打つ、軽い音がする。

 呼吸ができず、苦しみに目を見開きながらも、リュカは立ち上がりビアンカを追おうとする。だが、骸骨が後ろから抱きついてきて、思い通りに動けない。拘束から逃れようともがいているうちにも、ビアンカは遠ざかる。

 

「くそっ」

 

 首を回して周囲を見回すと、この場に残った骸骨は二体だ――最初にいたのが六体、そのうちビアンカに破壊されたのが一体、ビアンカを担いで出て行ったのが二体、リュカが首をへし折ったのが一体だ――いや、首のない骸骨がなぜか立ち上がって、ふらふらと歩いている。リュカが首をへし折ったやつだ。顔を失ったくらいでは死なないのだろうか。

 そいつはしばし、あてどなくあっちへこっちへさまよっていたが、ある一点に来ると、そこから目的を見出したかのように一直線に歩き出す。そして立ち止まったとき、その足下には頭蓋骨が転がっていた。それを拾い上げると、首の上に合わせる。するとどういう原理なのか、接着した。骸骨が一体復活し、この場に残った骸骨は三体となった。

 後ろから捕まえられて思い通りに身動きのとれないリュカの目の前にやってきた骸骨が、ぎくしゃくとした動きでリュカの頬を殴る。

 

 「ぐっ!」

 

 その衝撃は、後ろの骸骨もろともリュカを吹っ飛ばした。リュカは骸骨を下敷きにして倒れこんだ。骨が勢いよく背中に食い込んで痛い。頭はクラクラする。口の中に血がたまり、ツンとした匂いが鼻から抜ける。

 倒れた拍子に拘束が緩み、リュカは転がるように抜け出した。血を吐き捨てつつ、敵の位置関係を確認する。

 ビアンカはもうどこかへ連れて行かれてしまった。悲鳴も聞こえない。一刻も早く後を追わなければならない。

 殴りかかってきた骸骨をかわし、杖の一撃を見舞う。ガクガクとよろめくが、間髪入れずに別の骸骨が襲ってくる。

 一人で複数を相手にしているときは、守勢に回る一方で、何もできないということもよくある。三体の骸骨がよってたかってリュカを襲い、ビアンカを追うどころではない。とりあえずこいつらを倒そう、リュカはそう決めた。最初はこいつらから身をかわしつつビアンカを追おうと思っていたのだが、そんな余裕はないと判断した。

 

(すぐに終わる……)

 

 ビアンカのメラ一発で死ぬような連中だ。自分のバギなら、もっと広範囲にも攻撃できる。

 薄暗い室内を、緑色の光が照らす。リュカの目が、緑の光を反射しながら敵を見据える。相手は一瞬怯んだような素振りで、攻撃の手を止める。それが命取りだ。

 

「バギ!」

 

 敵に向けて突き出されたリュカの杖から、緑色を帯びた烈風が解き放たれる。それは三体の敵を包囲するように渦を巻き、旋風となって敵を捕らえて離さない。じゅうたんがズタズタに引き裂かれ、渦に巻き込まれ、グルグルと宙を舞う。空気が荒れ狂う音が耳にうるさい。

 骸骨たちの骨と骨の連結が徐々に分断され、細かなパーツとなって、風に乗って回る。余波でリュカのマントが激しくはためいた。やがて風はおさまり、カラカラと音を立てて、パーツごとに分かれた骨が落ちてくる。静寂が戻ってきた。

 それを確認すると、リュカは走って階段へ向かった。

 

 

 

 

 

 飛び降りるようにして階段を下りきると、円形の空間から、一本の通路がまっすぐに伸びている。通路の両側の壁に沿って、六体の石像が等間隔に飾られている。その通路の先に扉がどうにか見えた。それ以外に道は見当たらないため、迷わずリュカはそこへ向かう。

 石の床を、音を立てて駆けながら、リュカは何かに見つめられているような、妙な視線を感じた。魔物が潜んでいるのだろうか。先ほどぐるりと辺りを見回したときには、そんな姿は見えなかったのだが。しかし、そんなことに気を取られている暇はない。リュカは通路をまっすぐ走り、行き止まったところの左手にある扉に手をかけようとした。

 

「うわっ!」

 

 だが、扉まであと一歩のところでリュカは飛び退いた。扉の脇に飾られていた石像が、その手に持った剣を、行く手を遮るように振り下ろしてきたからだ。

 石像が動いた。そのありえない現象に、しばし呆然と立ち尽くすリュカであったが、ふいに響いた物音に、ハッと視線を周囲に巡らせた。

 石と石がぶつかり合う音。この通路に飾られていた六体の石像が、こちらに向かって一歩一歩近づいてきていたのだ。その様子を、半ば混乱したリュカはあっけに取られて眺めていたが、ふと気配を感じ、扉を塞いでいる石像へと慌てて顔を向ける。

 そいつは剣を高々と振りかぶっていた。背筋にひやりとしたものを感じ、リュカはとっさに横に転がるように飛び込んだ。振り下ろされた剣が床を打つ。激しい音とともに、床が揺れる。石片が四方へ飛び散る。石の床が砕かれたのだ。そこからうかがえる威力に寒気がした。

 気付くと、背後に別の石像が迫っていた。リュカは再び横っ飛びで、振り下ろされた剣を避けた。床が砕ける。

 石像は、戦士をかたどったもののようだ。鎧と兜と剣を身に着けている。本物の鎧ではない。その全てが石製だ。

 生命感を感じさせない物が、薄闇に紛れ、淡々と自分を殺すという作業を遂行しようとしている。実に身のすくむ光景だ。なるほど、ここがお化け屋敷と呼ばれるのも頷ける。

 だがリュカに有利な点もある。まず、敵の足音がかなり大きいことだ。かなりの重量があるのだろう。敵の位置が手に取るようにわかる。

 そして、敵の動きが遅いことだ。ズシンズシンと迫ってくる姿はかなりの威圧感を与えられるものだが、冷静になれば敵から身をかわし続けることも難しくはなさそうだ。

 敵の一振りを今度は小さくかわし、杖で殴りつける。硬い。ほとんどダメージを与えられていないようだ。鬱陶しいハエを追い払おうとするかのように、石像は剣を横薙ぎにする。重い風切り音を聞きながら、リュカはしゃがんで避ける。

 幾度かの攻防の末わかったことだが、敵は無機物ゆえか――動き回っている時点で無機物とは言いがたいかもしれないが――たいした知能はないらしい。ただリュカに向かって歩いてきて、剣を振り回すだけだ。剣の振り方のバリエーションはいろいろあるようだが、予備動作を見逃さなければどんな攻撃がくるのかだいたい予測できる。

 

(にげよう……)

 

 リュカは石像たちを相手にしないことを決めた。こちらの攻撃が通用しないのだ。戦うのは無謀である。魔法を使えば倒せるかもしれないが、できる限り魔力は温存しておきたいとリュカは考えていた。

 階段の方へ、敵を誘導しながらじりじりと向かう。階段までくると、途中まで上る。大きな足音を各々響かせながら、リュカを追い階段を上ろうと、階段の上り口に集まってくる。

 見下ろすと、そこには敵は五体しかいないことがわかった。残る一体は、依然として扉を背に控えているのが見えた。本当は六体全てをおびき寄せたかったのだが、仕方ない。リュカは手すりに乗って横から飛び降り、五体を後に残して、扉の方へ脱兎のごとく駆ける。蜘蛛の巣がどこかに張られていたようだ。顔にぺたりと張り付いている感触がある。五体は焦る様子もなく、ノコノコ後を追ってくる。

 五体を取り残している隙に、扉を抜けなければならない。だが一体が扉に立ち塞がっている。どうしたらいいのか思いつかないまま、蜘蛛の巣をぬぐいつつ通路を駆け抜けていた。

 結局のところ、打撃はきかない以上魔法を使うしかないのだろうか。魔力を温存したいといっても、リュカは一刻も早くビアンカを追い、助け出さなければならないのだ。かといってこの先何が起こるかわからない。そのときに備えて力を温存しておかなければ、後悔することになるかもしれない。そして、その後悔は取り返しのつかないものにもなりうることを、リュカは理解していた。

 石像の目前まで迫り、いよいよ決断を迫られたそのとき、石像の後ろの扉が何の前触れもなく音を立てて開いた。

 

「は?」

 

 リュカは思わず足を止め、声を漏らしていた。今度は何事だろうか。

 開かれた扉の向こうから、淡い月明かりが斜めに注ぐ。その光の中を通り、ぼんやりと白いもやのようなものが入ってくる。目を凝らして見ると、それはどうやら人型をしているようだ。幽霊だ――リュカは唖然とした頭の片隅で、人事のように思った。何の誇張も偽りもなく、この城は正真正銘お化け屋敷だったのだ。

 今度は幽霊と戦わなければならないのだろうか。そう思っていると、幽霊は手とおぼしき部分を石像にかざした。その掌が白い光を放ち、石像はその光に飲まれる。光はすぐにおさまった。石像は相変わらずそこにいる。

 

「もう大丈夫よ、坊や。こちらへおいでなさい」

 

 幽霊が顔らしき部分をこちらへ向けるような仕草を見せ、なんと言葉を発した。怪しいことこの上ないが、リュカはなぜかその言葉に従っていた――どの道、扉の先へ向かうしかないというのもあるが。

 近づけば近づくほど、幽霊の姿が鮮明になってゆく。石像を警戒しつつ幽霊に近寄っていくリュカに、再び声がかけられる。

 

「この石像はもはや単なる石像。心配しなくていいのですよ」

 

 先ほどはもやにしか見えなかった幽霊は、今や女性の姿をとっていた。ただ、白く半透明なのは相変わらずだ。髪も目も唇も、着ているドレスも白かった。首にかかったネックレスも左手の指輪も、何もかも白く透けている。

 ウェーブのかかった長く豊かな髪や豪華なドレスなど、その姿を見るに、ただ者ではない。恐らく高貴な人間だ――いや、人間ではないが。

 

「あの女の子を探しているのでしょう? 付いておいで」

 

 幽霊は扉から出ていく。幽霊は宙に浮いていた。フワフワと浮かびながら移動している。リュカもその後に続いて扉から出ていく。

 そこは城の屋上だった。静かな風が抜ける。寒い。だが、リュカはホッと息をつく思いだった。

 リュカが屋上へ出てきたことを確認すると、幽霊は扉に手を向ける。すると、どういう原理か、開かれていた扉が勝手に閉まった。

 

「これで他の石像たちも追って来れません。あの石像たちはこの扉を開けることはできないのです」

 

 リュカにやわらかく微笑みかけながら、彼女は屋上の中央にある墓へと近づく。墓の周りを草花が、冷たい石床から守るように覆っている。なぜか骨が散らばっていた。

 

「あの女の子はこの墓の中にいます。助けてあげて」

「中?」

 

 墓を調べてみると、石の蓋がされていることがわかった。蓋のふちに手をかけ、思い切り押す。石の擦れる音とともに、墓の内部が徐々にあらわになる。湿気のこもった空気が漏れ出してくる。

 

「ビアンカ……死んでる?」

 

 中にいたビアンカは目を閉じ横たわっている。リュカは呆然としてただ見つめた。

 

「大丈夫。眠っているだけ。さあ、起こしてあげて」

 

 リュカはしゃがんでビアンカの頬をぺちぺち叩く。よく見れば確かに胸が上下していた。ビアンカは眉をしかめ、やがてうなり声をあげながら目を開いた。

 

「ビアンカ」

「……リュカ? ここは……?」

「お墓」

「……あっそうだ! 私、骸骨にさらわれて……」

 

 ビアンカは身体を起こした。そして状況を確認するように、周りを見回す。

 

「って、幽霊!?」

 

 悲鳴を上げるビアンカ。

 

「ちょ、ちょっとリュカ! な、なんなのよ、この幽霊!」

「なにって……幽霊」

「幽霊って、幽霊なんているわけないでしょ!」

 

 現に目の前にいるというのに、ビアンカは何を言っているのだろうか。顔色が悪いようだ。骸骨たちに何かされて、どこかおかしくなってしまったのかもしれない。

 

「ごめんなさいね。驚かせてしまって」

 

 幽霊が穏やかに言う。

 びくりと震えたビアンカは、おそるおそる幽霊の顔を見上げる。ビアンカの表情から強張りが多少抜けた。そしておずおずと口を開いた。

 

「幽霊……なんですか? 本当に?」

「ええ、そうなのです。でも、安心して。何も悪いことはしませんから」

 

 幽霊はクスリと笑った。そのおかげか、ビアンカも同じように笑った。

 

「それにしても、本当に幽霊なんているのね……お姉さんはどうして幽霊になっちゃったの? 元々は人間だったんでしょ?」

「この世に強い未練がある者が死ぬと、幽霊になると聞いたことがあります。しかし、詳しいことは私にもよくわからないのです。ごめんなさいね」

「ご、ごめんなさい。こんなこと聞いちゃって」

 

 いいのですよ、と幽霊は優しく言った。そして言葉を続けた。

 

「私からも聞きたいことがあるのですが、よろしいかしら?」

「あっ、はい」

「どうしてこんな夜遅くにこんなところに来たのですか? 危ないですよ」

「私たちお化け退治にきたんです!」

 

 ビアンカは心なしか胸を張った。

 

「まあ、それでは私も退治されてしまうのでしょうか?」

「ええっ、それは……そんなことありません!」

 

 幽霊は、冗談ですよ、と頬を緩めた。

 

「それはそうと、あなたたち、もう帰ったほうがいいですよ。ここが危険だとわかったでしょう?」

「でも……そうはいかないんです!」

「どうして?」

「お化けを退治しないと、ネコちゃんを助けられないの……」

 

 ビアンカは深刻な顔をして俯く。

 別にそんなことはない、リュカはそう思っていた。いざとなればネコ――リュカはあの動物をネコだとは認めていなかったが――を強奪することも可能だろうし、そうでなくとも、あの少年たちの親にでも言いつけてやればどうにかなるだろう。

 だが、リュカはそうは言わなかった。帰ることになってはたまらない。

 

「事情があるのですね?」

 

 うーん、と思案をめぐらせている様子の幽霊。不安げに彼女を見上げるビアンカ。何が不安なのだろうか、リュカはそう思った。別にこの幽霊に許可を得る必要などない。ここを探索するもしないもリュカたちの自由だ。

 

「わかりました。その代わり私も一緒に行かせてくれますか? このままでは心配で夜も眠れませんもの。それに何かお手伝いできるかもしれないわ」

「ほんと!?」

 

 リュカは、ここからの景色に視線を漂わせていた。森の向こうに草原が、その向こうには海が。アルカパはあっちの方だったっけ。あの山の向こうらへんだったはずだ。

 

「と、言うことでいいですか、坊や?」

 

 幽霊がニコニコしながらリュカの視界に入り込んでくる。頷きを一つ返す。

 リュカたちは、さっきまでいた方とは逆に位置する塔へ向かった。塔の側面には小さなドアがある。そのドアを開き、三人は中へ入っていった。

 

 

 

 



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7話

7話

 

 

 

 

 

 ドアをくぐると、そこは書庫のような場所だった。たくさんの本棚と机。机に添えられたイス。下への階段もある。小さな階段だ。

 やはり暗いが、壁にある一つの窓のおかげで、完全な闇に包まれてはいない。

 

「お姉さんの名前はなんていうの?」

 

 階段へ向かいながらビアンカが尋ねた。幽霊は答えた。ソフィアというらしい。

 

「ソフィアさんっていうのね。素敵な名前」

 

 ふふっと笑いながらソフィアは礼を返す。

 

「ねえ、ソフィアさん。ここにはソフィアさん以外にお化けっているの?」

「ええ、いっぱいいますよ」

 

 お化けとは一体何を指すのだろう、リュカは今さらながらそんな疑問を抱いていた。骸骨や動く石像なども十分にお化けのように感じられたが、では骸骨を倒したリュカはお化け退治を完了したと言えるのだろうか。リュカはとてもそうは思えなかった。では、城中の骸骨や石像を破壊し尽くせばいいのだろうか。やってられない、リュカはその考えを切り捨てた。

 ソフィアのような幽霊は、間違いなくお化けだと言えるだろう。では、もしソフィアを倒せばお化け退治をしたということになるのだろうか――そうは言えないとリュカは思った。いっぱいいるという幽霊を全て退治すればいいのだろうか。それも違うような気がした。なぜだろうか。リュカは混乱した。

 

「いっぱい!? じゃあ、そいつらの親玉みたいなのはいないの?」

 

 パッとリュカはビアンカを見た。そうだ。親玉を倒せば文句なしだろう。ビアンカもたまにはいいことを言う。リュカの視線に気付いたのか、ビアンカがリュカに向けて首をかしげる。

 

「親玉……ですか。一人、心当たりはありますが……」

「ほんと!? ねえ、そいつがどこにいるか教えてくれない?」

 

 ビアンカが身体ごと飛ぶようにソフィアへと向き直る。

 

「……退治するのですか?」

 

 ソフィアはわずかに躊躇った様子を見せるが、ビアンカは気付いた様子もなく頷く。

 

「そうすればソフィアさんも安心でしょ? それに私たちの目標も達成できるし。このお城も平和になるわ。そうでしょ?」

 

 まるで夢のようなことを言いながら、階段をぴょんぴょん下りるビアンカ。リュカは足を踏み外さないように、慎重に杖を突きつつ足下に目を凝らさなければならなかった。ええ、そうね、と答えるソフィアには、足を踏み外す心配などない。

 

「親玉はたいてい王座に座っています」

 

 階段を下りた先の円形の空間にはドアが一つある。そこを開けると、幅の広い廊下に続いていた。右側の壁には大きなアーチ型の窓が二つある。窓ガラスが割れ、冷たい夜気が流れ込んできていた。左側の壁には、通路の中ほどに大きな両開きの扉が一つ。派手に装飾のほどこされた、豪華な扉だ。

 

「王座なんて、何様のつもりなのかしら」

「本当に親玉を倒すつもりなのですか? そこらの魔物とは違うのですよ?」

 

 プンスカしているビアンカに、ソフィアは心配そうな顔を向ける。

 

「もちろん! ここまで来たのに引けないわ!」

 

 ね、リュカ、とこちらに顔を向けてくるビアンカに、リュカは頷きを返した。

 勇ましいビアンカを横目に、リュカは気を引き締めていた。

 洞窟でも建物でもどこでもそうだが、魔物の巣窟となっているところには、親玉がいる場合もわりとよくある。親玉は総じて普通の魔物よりも遥かに強いものだ。決して油断してはならない相手だ。

 

「わかりました。あ、ちょっと待ってください」

 

 ソフィアが立ち止まる。

 

「たいまつを持っていきましょう。この部屋にあるはず」

 

 左側の扉に手をかざすと扉が勝手に開いた。

 

「えっ、勝手に開いた!?」

 

 驚くビアンカに謎めいた微笑みをソフィアは向ける。

 扉の先は広い一室だった。豪華なベッドとソファーが二つずつ、タンスがいくつもある。テーブルも一つある。アーチ型の窓が三つ。見るからに豪華な部屋であり、この部屋の住人はよほど高貴な人なのだろうと容易に想像がつく。

 ソフィアが上の方へ向けて手をかざすと、シャンデリアに火が灯り、部屋が明るく照らされた。

 

「うわー、広い部屋。やっぱりお城ってすごいのね」

 

 リュカとビアンカは揃って目を丸くする。

 

「どこかにたいまつがあるはずなのですが……どこだったかしら? あなたたちも探していただける?」

 

 あっちへこっちへフワフワしているソフィア。

 

「でもいいのかしら。勝手に他人の部屋を漁っちゃって」

 

 ビアンカは躊躇う様子もなくタンスを開けて中を覗きこんでいる。

 

「いいのですよ、私の部屋ですから」

「えっ、そうなの!? ソフィアさんって何者?」

「私はここの王妃だったの」

 

 驚きの声をキンキンとビアンカは上げた。

 タンスにたいまつはないだろう。そんなことを思いながら、リュカは部屋の中央にあるベッドの下を覗き込んでいた。ふと目に入ったものを注視すると、それはツボだった。ベッドの脇に置かれたそれを覗いてみると、その中にはたいまつがあった。意外と簡単に見つかるものである。

 などと思っていたそのとき、ツボのなかにギョロリと目のようなものが浮かび上がってきた。互いの視線が交わった。目の下の空間が裂けるように、口が現れた。ツボが笑った。

 

「うっ!」

 

 腹に体当たりされ、リュカは息を詰まらせながら後ろに倒れこんだ。

 

「えっ、なに、リュカ!?」

「魔物!?」

 

 リュカがパッと起き上がったところに、二人が駆け寄ってくる。

 ツボはカタカタ左右に揺れながら、奇怪な笑い声をあげている。

 

「これも魔物なの!? ツボじゃない!」

 

 ツボは円を描くように揺れると、こちらへツボの口を向けて、黒い光を纏った。

 

「危ない!」

 

 ソフィアがリュカの前に飛び出してくる。それと同時にツボが口から黒い一条の閃光を射出した。光はソフィアに直撃し、霧散する。

 

「ソフィアさん!」

 

 ビアンカの悲鳴を背に、リュカは飛び出した。マントと髪をはためかせながら、リュカは地を滑るようにツボへ肉薄する。その勢いのままに杖をうならせ、横殴りにした。

 甲高い音を立ててツボは転がる。そのまま立ち止まらずにツボを追い、飛び上がり、落下の勢いを乗せて杖を上から振り下ろし、叩きつけた。身体に何本もひびが入り、ツボは鳴き声を上げた。

 ツボはたいまつを吐き出すと、部屋の隅へとぴょんぴょん逃げていく。完全にツボから戦意が喪失しているのを感じ、リュカは後を追うことはしなかった。踵を返してビアンカたちの下へ向かう。

 

「ソフィアさん、大丈夫なの!?」

「ええ。心配させてごめんなさいね」

 

 ソフィアはビアンカに微笑みかけている。

 

「でも、魔法が直撃してたのに……」

「あれはザキという魔法なのです。相手を殺してしまう恐ろしい魔法ですが、私は幽霊なので大丈夫のようです」

 

 恐ろしい魔法もあったものである。

 もとから死んでいるから、死の魔法を受けても問題ないというわけだ。ようやく安心したらしいビアンカの様子を確認し、リュカは二人にたいまつを手に入れたことを伝える。

 

「まあ、魔物が隠してたのね」

 

 ツボは部屋の隅っこから横目でこちらをうかがっていたようだが、三人に目を向けられると慌てて目をそらした。そのまま何となく見続けていると、口から何かを放ってよこしてくる。ビアンカの足下に転がったそれは、金色のメダルだった。中央に星の刻まれたメダルだ。

 

「綺麗なメダルね。これで許してくれって言いたいのかしら?」

「では行きましょうか。たいまつも手に入ったことですし」

 

 ソフィアに促され、一行は扉へ向かう。ツボがホッと胸を撫で下ろしたのをリュカは見逃さなかった。

 

 

 

 

 

 一行は扉を出て廊下を左へ進む。火がともされたたいまつが、辺りをぼうっと照らしている――たいまつは、ソフィアの不思議な力でふわふわ浮いて、リュカたちについてくる。その先には小さな扉があり、そこを開けるとまた円形の部屋だ。きっとここも四隅の円塔の部分に位置するのだろう。

 天井から吊り下げられたシャンデリアのろうそくに炎がともされており、明るい。ここから左へ通路が伸びており、その先に下への階段があるのが見える。

 

「――って、どうしてシャンデリアに火が!?」

 

 ソフィアが天井をパッと振りあおぐ。

 確かに、人っ子一人住んでいないはずのこの城で、照明がともされているというのもおかしな話だ。そう思いリュカも見上げる。

 

「……あのろうそく、何か変じゃない?」

 

 ビアンカが眉をひそめてシャンデリアを見上げ、リュカに問いかける。

 

「目がある……」

 

 リュカは、ろうそくのろうを固めた円柱状の部分に、顔があることに気付いた。細い目と口がある。

 そのとき、ろうそくと目が合った。するとニヤリと笑う。

 

「フゥーッ!」

 

 ろうそくはよくわからない声を発した。よく気付いたな、とでも言いたいのだろうか。ろうそくがシャンデリアから飛び降りてきた。三つ、四つと、次々降りてくる。

 

「おばけキャンドルね。でも小さいわ……子どもなのかしら?」

 

 ソフィアが危機感の足りない声で言う。確かに普通のろうそくサイズでは、小さすぎて怖さはない。だが、変に油断して傷を負うのもおもしろくない。リュカは気を抜かず、おばけキャンドルたちと対峙した。

 そのとき、一体のおばけキャンドルが赤い光を薄く纏うと、頭の炎が膨れ上がった。

 

「フゥーッ」

 

 そう奇声を上げながら頭を振ると、火の玉がリュカへ向かって飛んできた。

 

「メラを使えるの!?」

 

 ビアンカが驚いて鞭を握りしめる。

 リュカは横へ動いてかわす。ビアンカのメラと比べると、火球は小さく、恐らくそこまで威力はないだろうと思われた。

 

「ここは私にまかせてください!」

 

 ソフィアが赤い光を両腕に宿した。白い瞳が赤く染まる。

 

「ギラ!」

 

 おばけキャンドルたちに向けられた両腕から、赤い光が解き放たれる。それぞれの光は宙で互いに絡み合い、一本の太い光の筋となり、いつしか炎へとその性質を変えていた。

 宙をうねりながら滑空する炎の蛇は、一体のおばけキャンドルを飲み込んだ。しかし、それでは終わらず次のおばけキャンドルへ。逃げ惑う敵を、まるで意志を持つように追い回し、次々と捕らえ、飲み込み、溶かしていく。やがて全てのおばけキャンドルを消し去った蛇は、役目を果たしたとばかりに、一際大きくぼうっと鳴くと、その姿を消した。

 

「すっごーい!」

 

 ビアンカが尊敬のまなざしでソフィアを見ている。

 リュカも同じような気持ちだったが、大きい声を出すことはなかった。魔物に寄って来られても面倒だからだ。

 

「ビアンカちゃんもこれくらいすぐにできるようになりますよ」

「ほんと?」

「ええ、あなたには才能があるもの」

 

 階段の前までくると、ソフィアが表情を引き締めた。

 

「この下の階に王座の間はあります。きっと親玉もそこにいるはず」

 

 その言葉にさすがのビアンカも真面目な顔をして黙ったので、リュカはホッとした。

 下への階段にはごつい石の手すりがついており、リュカは手すりに手をかけながら下りた。

 下りた先から通路が一本伸びており、円形の空間へと繋がっている。そこには下への階段があったが、ソフィアの案内で、階段の右側の壁にあるドアを通ることになった。

 ドアを開けると、まっすぐに通路が伸びていた。金色の刺繍に縁取られた赤いじゅうたんが一面に敷かれており、明らかに他の場所とは違った雰囲気がある。通路の両側の壁にはそれぞれ一つずつ大きな両開きの扉があり、通路をまっすぐ行った先にも小さめのドアがある。

 

「右側が王座の間です。覚悟はできていますか?」

 

 ソフィアが声を潜めて囁く。

 ビアンカと二人して頷くと、ソフィアは通路を進み、右側の扉の前まで先導して立ち止まった。

 

「じゃあ、開けますよ?」

 

 再び頷くと、ソフィアは扉に手をかざした。音をたてて扉は開かれた。

 中から煙のように不気味な気配が漏れ出してくる。それは目に見えるものではない。視覚でも嗅覚でも聴覚でもない、いわば第六感とも言うべき部分が、確かにその不気味な気配を敏感に察知していた。

 

「何者だ」

 

 しわがれた声が、不思議な重圧を伴って響いた。

 この王座の間には、その名の通り王座があった。豪奢なイスが二つ、リュカの視線の先に寄り添うように並んでいる。その奥の壁には大きな絵画が飾られているが、どんな絵なのかはっきりとは見えない。赤いじゅうたんが入り口から王座までまっすぐに敷かれている。

 王座には何者かが腰を下ろしていた。先ほどの声の主だろう。フードのついた紫色のローブで全身を覆い、露出しているのは顔が半分くらいと、手の先っぽだけだ。肌はローブよりも少し薄い紫色。えりもとに金色の首飾りをしており、両手首には金色の腕輪。

 形だけなら人間と変わらないように見えるが、これはどう見ても人間ではなかった。

 じゅうたんの上を三人は進み、親玉とおぼしき存在へ少しずつ近寄っていった。

 

「何者かが入り込んだことには気付いていたが、まさかこんな女子供だったとはな。だが……たいしたものだ」

 

 親玉はゆったりと王座の背もたれに背を預けながら、三人を値踏みする。

 魔物たちとは格が違う威圧感。醸し出す危険な香り。冷や汗がリュカの背を伝った。

 

「それで? 俺様に何の用だ?」

 

 口角をつり上げ、嫌味ったらしい笑みを浮かべる。黄色い歯が覗く。

 

「あ……あんたを、た、退治しにきたのよ」

 

 ビアンカは顔色が優れない。だが、そう啖呵を切れるだけでもたいしたものだ。

 親玉は鼻で笑った。

 

「な、何がおかしいのよ」

「いや、おかしくはないさ……そうだな、お前らの勇気に敬意を表してやらんとな」

 

 ニヤニヤを崩すことなく親玉は言った。

 困惑と警戒をない交ぜにしたような表情で、ビアンカは黙り込む。

 まさか本当に敬意を払ってくれるはずがない。リュカは親玉から目を離さず、杖をぎゅっと握りしめた。

 ソフィアは俯いてただ立ち尽くしている。

 

「いいところに招待してやろう。楽しいぞ」

 

 突然、足下の感触がなくなった――床がじゅうたんごと消えたのだ。浮遊感に声を漏らしそうになるが、耐える。

 洞窟の穴のときのようにバギで飛んでみようか、だがそれではビアンカを巻き添えにしてしまうかもしれない。それに、飛べたとしても自分だけだ。あれこれと考えているうちに、リュカたちは落ちていった。

 

「きゃあぁぁーっ!」

 

 ビアンカの悲鳴を聞きながら、上に目を向ける。そこには笑いながらこちらを白く濁った目で見下ろす親玉と、自分たちの名前を呼びながらこちらへ焦って飛んでくるソフィアがいた。幽霊であるソフィアには、落下するなんてことはないのだろう。

 

「舞踏会だ!」

 

 親玉の笑い声が木霊した。

 

 

 

 

 

 周囲の景色が上へすっ飛んでいく。耳元で風がうなる。

 落ちて行く二人を、ソフィアがどうにか追い越した。彼女に追随するようにたいまつが飛んでいく。ソフィアは下からこちらへ両手を向けて、何やらうなっている。

 よく息が続くなと感心するほど、ビアンカは悲鳴を上げ続けていた。

 何かにつっかえた感触をほんのわずかに感じた。なんだろうか。言ってみれば、空気が雲のような性質を少しずつ持ちはじめたような――リュカは雲はその上をフワフワと歩けるものだと信じていた。

 その感触は、ソフィアがうなり声を上げれば上げるほど強まっていった。明らかに落下速度が落ちていることがわかる。唐突にリュカはドスンと尻をしたたかに打ちつけた。穴の底まで到達したのだ。

 

「いったーい!!」

 

 ビアンカは痛がり方も騒々しい、リュカはそう思った。リュカは着地の瞬間短く声を漏らしたきり、突き抜けるような痛みでむしろ声も出せずに悶える。

 荒い息をつきながら、ソフィアは苦しみのなかにどこか安堵したような表情を浮かべて、二人を見ていた。

 

「どうにか……なった……みたいですね……」

 

 かなり尻が痛いが、ただ単に落下していたらもしかしたら死んでいたかもしれない。それを思えば、ソフィアの言うとおりどうにかなったのだろう。リュカは目尻に涙を浮かべながら、状況を確認しようと周りを見た。

 

「うわ、たくさんいる……」

 

 ここは大広間だった。一面に赤いじゅうたんが敷かれ、部屋の隅には装飾をほどこされた派手なソファーが向かい合わせに何対も置かれている。

 見上げると、吹き抜けになっていることがわかった。一つ上の階からも、そのまた上の階からも、この広間が見下ろせるようになっている。吊り下げられたいくつものシャンデリアが、広間を明るく照らしていた。

 

「え、何が?」

 

 ビアンカが周囲を見回す。そして、うわっ、と驚く。彼女も周囲の様子に気付いたようだ。この広間には、大勢の幽霊がいたのだ。

 

「彼らはずっと踊らされてるのです。親玉に」

 

 ソフィアは怒りと悲しみ、その両方を堪えようとしているように見えた。

 幽霊たちは男女でペアを作り、至るところで踊っていた。遠くの幽霊は白いもやにしか見えないが、近くの幽霊はちゃんと見える。空中でも踊っているあたり、幽霊ならではの舞踏会だ。幽霊はソフィアと同様白く透けている。だが、その表情は苦痛を絵に描いたようなもので、そこはソフィアとは全く違った。

 どこからか楽しげな音楽が流れてきている。この状況には似つかわしくない曲調だ。どこから流れてくるのだろう。辺りを見回してみると、どうやら部屋の隅に置かれたピアノからだというのがわかった。骸骨が弾いている。

 

「なんか……辛そう」

 

 ビアンカが言った。リュカもそう思った。

 

「彼らは元はこの城の住人。親玉に捕らわれ、成仏できずにいるのです」

 

 リュカはちょうど傍まできていた一組の幽霊に近寄ってみた。ふと目が合う。

 

「止めてくれ……。助けて……くれ……」

 

 搾り出すように幽霊は言った。彼らにも意志がないわけではないようだ。感情が磨耗して磨耗して、ついに無くなる直前、それを削り取ったような言葉だった。幽霊は踊り続ける。酷く苦しげな表情や声に反して、軽やかに細かなステップを刻み、くるくると回る。そんなズレが異様で、不気味さを一層煽る。

 奇妙な笑い声が聞こえた。見ると一匹の魔物がいる――ナイトウイプスだ。リュカを見て、紙に切れ込みを入れたような表情の読めない顔をしていた。ヒラヒラとこちらへ飛んできて奇妙な声を漏らす。そして、周りを見回し、明らかに笑いとわかる表情を浮かべた。

 その表情が、その声色が、リュカに不思議な感情を芽生えさせた。リュカが名を知らぬ感情だ。

 リュカは追い払うようにナイトウイプスに手を振った。つまらなそうにナイトウイプスはひらひらと飛び去っていく。

 

「行こ」

 

 リュカは言葉少なに告げた。

 

「ええ、この人たちを助けてあげましょう!」

 

 無感動にビアンカの言葉を聞き流しながら、リュカは内心で首を捻っていた。この気持ちはなんなのだろう。リュカは自問した。

 ソフィアが先導する。

 広間にある扉の一つに向かうリュカたちの前に、魔物たちが立ちはだかった。ここは通さないとでも言いたげだ。おばけキャンドルが三体。どこから現れたのだろう。またシャンデリアのろうそくの振りでもしていたのだろうか。そんなことはどうでもよかった。

 ソフィアのギラに飲まれ、ドロドロと溶けていくおばけキャンドル。こいつらは一体何がしたかったのだろう。死者の魂まで弄んで、それが楽しかったのだろうか。それとも親玉の命令で仕方なくだったのか。あるいは人間を襲うという本能ゆえか。その答えを知るすべはない。

 扉が開く。三人は扉を抜ける。その先には石の床に道筋を示すように、ところどころ引き裂かれた赤いじゅうたんが細長く敷かれている。まっすぐ伸びるじゅうたんは、途中で左へ直角に折れるものと、そのまままっすぐに伸びるものと、二手に分かれていた。

 まっすぐいった先には教会があったのだろう。こじんまりとした祭壇がある。かつては神に祈る神聖な場所であっただろうこの場所にも、今は蜘蛛の巣が張っており、また、黄色いヒトダマのような身体に、紫の三角帽子をかぶった魔物――ゴーストが何匹も宙を漂っている。長く伸びた舌をうごめかせ、脇から生えたチョロッとした小さな三本指の手をヒラヒラさせて、寄ってたかって何かをからかうようにしている。

 からかわれているのは、赤い火の玉だった。口惜しや口惜しや、とうわごとのように繰り返しながら、ふわふわと飛び回っている。その周りをゴーストたちは付いて回る。

 

「あれは兵士長です。親玉に捕らわれているわけではなく、純粋に未練によってこの世にとどまっているのです。もう、正気は失ってしまっていますが……」

「なんか……なんて言ったらいいんだろう……」

 

 ビアンカが言葉に詰まった。彼女も自分の気持ちを持て余しているのかもしれない。

 リュカはなんとなく、己の胸に渦巻く感情がわかった。気に食わないのだ、親玉が。あの大広間を楽しいところだと言う親玉。別に人を苦しめるなんて許さない、なんて高尚な思いがあるわけではないだろう。ただ、人々の絶望を喜びの糧とする親玉の性根が醜悪なもののように思えてならなかった。結局のところ、そのおぞましいものを叩き潰したくなっただけなのかもしれない。

 口惜しや、とそればかりを繰り返している火の玉を置いて、ソフィアは左へ曲がる。その先には上への階段があった。行く先を、たいまつがふわふわと照らしている。

 上った先にある部屋から伸びる通路――大広間が見下ろせる――を行くと、その先にはまた上への階段がある。上った先にはさらに階段があり、そこを上ると、親玉のいた階に辿り着いた。道中何体の魔物を倒したのかわからない。それほどに、この城は滅んでいた。

 たいまつに淡く照らされる通路を進む。通路の両脇を彩るように、装飾のほどこされた柱が闇のなかに浮かび上がっていた。照らせば照らすほど、柱の影もまたくっきりと浮かび上がる。

 柱の間を抜けながら左へ曲がると、ドアがある。そこを抜けると、じゅうたんの敷かれた通路がまっすぐ伸びている。両側の壁に大きな扉。左の扉を行けば、先ほど親玉がいた王座の間だ。

 

「さあ、リュカ! 今度こそ親玉をぶちのめすわよ!」

 

 ビアンカが勢いよく左の扉を開け放つ。

 

「あれ、いない?」

 

 中を覗きこんだビアンカが拍子抜けした声で言う。

 リュカにはわかっていた。親玉は右側の扉の向こうにいる。わかるのだ。扉のわずかな隙間から漏れ伝わってくる気配――魔の気配が。

 

「こっち」

 

 リュカは右側の扉に手をかけた。そして、力を込める。三人は各々緊張したような面持ちだ。

 ゆっくりと開いたその先は、バルコニーだった。城のバルコニーだけあって、なかなか広い。淡い月明かりが照らしている。そこに親玉はいた。扉に背を向けて、ここから広がる景色を眺めるようにたたずんでいる。

 リュカは手が汗ばんでいるのを感じていた。決意をこめて、強く杖を握り締める。そして、一歩踏み出した。

 親玉がゆっくりと振り返った。

 

 

 



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8話

8話

 

 

 

 

 

「ほう、戻ってきたのか。気に入ってくれたか、舞踏会は? もっと楽しんできてもよかったのだぞ?」

 

 振り返る親玉に対し、リュカは杖を構える。

 親玉が笑う。

 

「そういえば、俺様を退治しにきたとか言っていたな」

 

 品定めするように親玉はリュカたちに視線を這わせた。そしてまた笑う。

 ビアンカが鞭を身体の前で構える。ソフィアが俯きがちに立ち尽くす。

 

「よかろう。相手をしてやる」

 

 親玉のローブがゆらゆらと揺れる。戦闘態勢に入り、威圧感が増す。気圧されたのだろうか、重力が増したような感覚。

 こちらへ右腕を突き出してくる。赤い光が掌に集中する。金色の腕輪がきらりと光を反射する。

 

「お手並み拝見だ」

 

 光が渦を巻きながら凝縮し、小さな球を形作る。その球は一瞬にして火球となり膨張する。

 

「メラ」

 

 火の粉を散らしながら、火球が放たれる。風を受けたように、親玉のローブが揺れた。

 ビアンカが魔力を練り上げる。

 

「メラ!」

 

 ビアンカのメラは敵のメラを迎撃すべく、的確なコントロールで飛んでいく。

 直撃。爆発が起こる。爆風がリュカの髪とマントを揺らす。

 

「嘘!?」

 

 爆発を突き破って、火球が飛び出してきた。

 

「俺様のメラを打ち消そうなど、身の程を知れ」

 

 酸素を食らいながら、獰猛に襲い来る火球。

 リュカは慌ててかわす。マントにかすり、少し焦げた。

 相手は手をこちらへかざしたまま、メラを次々に放つ。放たれる度、夜闇がパッと照らされる。あるものは空の彼方へ消え、あるものは城壁に激突し弾けた。

 リュカは避け続けていたが、気付くとバルコニーの角に追い詰められていた。誘導されたのだろうか。狙い澄ましたように、リュカの腹に火球が吸い込まれる。

 

「リュカ!」

 

 腹で火球は破裂した。背中まで突き抜けるような衝撃。内臓まで焼かれたのではないかとすら思える熱。目を見開いて歯を食い縛り、リュカは膝を着く。背中が勝手に丸まっていく。

 駆け寄ってくるビアンカ。敵から目を離すな、そう言いたかったリュカだが声にはならない。

 ビアンカの背に相手は笑みを浮かべながら手を突き出す。今にも魔法が放たれるかと思ったそのとき、呪文とともにソフィアから放たれたギラが相手にまとわりついた。

 

「グッ……!」

 

 うめきながら敵はもがく。

 心配してくるビアンカを尻目に、リュカは杖を支えに立ち上がる。ふらついたが、戦えないほどではない。

 蛇のように相手の身体に絡みついていた炎は、徐々に細くなり消える。

 

「こざかしいわ!」

 

 メラがソフィアに向けて放たれるが、ひらりとかわす。そして、ソフィアもメラを返す。メラで迎撃し、爆音が轟く。

 相手はソフィアに気を取られている。この隙を突くべく、リュカは痛む腹には頓着せず駆けた。

 だが、相手の目も節穴ではない。ギロリとこちらへ目を向けると、掌を向けてくる。

 

「もう一度焼いてやろうか」

 

 放たれた火球をリュカは横に転がり紙一重で避ける。火球は次々と追撃してくる。リュカはそれをかわすことに専念せざるをえなかった。

 相手を見ると、驚くべきことに、片手でリュカ、もう一方の手でソフィアを相手取っている。リュカは魔力が限られているため、そう何発も魔法を使うことはできないのだが、相手はそうではないのだろうか。

 だが、相手の腕は二本しかない。今の状態は両手を塞がれているようなものだ。それをビアンカは見逃さなかったようだ。

 駆けてきたビアンカはひらりと飛び上がる。そして空中で、鞭に助走を取らせるように一回大きく旋回させると、敵の顔面を痛打した。いかにも痛そうな破裂音が響き、相手が仰け反る。ビアンカは相手の目の前に着地し、腹に両手を突きつける。

 

「リュカの仇よ!」

 

――メラ!

 カッと火花が散り、炎が炸裂した。相手が身体をくの字に曲げる。

 炎に照らされた親玉の形相。むき出しの歯。眼球が飛び出るのではないかと思えるほど見開かれた目。やばい――リュカは本能的に思った。

 

「調子に……乗るな!」

 

 ビアンカの喉をつかみ、持ち上げる相手。ローブの袖の部分がずり落ち、紫色の腕が露出する。金色の腕輪がカタカタと揺れている。

 リュカは飛び出した。喉をつかむ手に魔力を込める相手に、杖を振り下ろした。

 

「ガッ!」

 

 重い手ごたえ。相手はビアンカから手を離してしまう。ビアンカは咳き込んでいる。

 

「ギラ!」

 

 ソフィアの魔法が相手を飲み込んだ。断末魔のような悲鳴が上がる。

 炎の中の相手を見る。その身体から湯気のようなものが立ち上っている。リュカは一瞬相手の焼けた身体から立ち上る煙なのではないかと思った。だが、直後向けられた殺気に、それは勘違いだと気付いた――あれは魔力だ。

 

「鬱陶しいわッ!」

 

 殺気とあいまって、恫喝されたようにリュカとビアンカはすくんだ。それは致命的な隙だった。

 大気が蹂躙される音が辺りを包んだ。魔力の波が押し寄せてくる。それは、いつしか赤い炎へと姿を変える。ギラだ――それも、ソフィアのギラを超える規模の。

 ビアンカの悲鳴が聞こえるが、どうなったのかは見えない。

 リュカは咄嗟に、押し寄せる炎の波――リュカには壁のようにすら見えた――にバギを放っていた。魔力の温存など考えている場合ではない。バギは壁に亀裂を生じさせた。そのおかげだろう、リュカは炎に煽られたぐらいで、そこまでのダメージはなかった。

 だが次の瞬間、身体に目には見えない何かがまとわりつくような感触に包まれた。そして何とも言いがたい感覚――身体の中から何かが吸い取られていくような曖昧な感覚が確かにあった。不自然な脱力感がリュカを襲う。

 

「死ね」

 

 直後、いつの間にかリュカに肉薄していた親玉が、片腕を後ろに引いていた。黒い光を帯びたその腕は、勢いよくリュカの腹に振り抜かれた。

 肺から口に空気が一気に抜け、リュカは衝撃で吹っ飛ばされた。着地も取れず、倒れこむ。血を吐きながら身体を丸める。猛烈な吐き気と痛みを堪える。敵の前でこんな無防備な姿を晒すわけにはいかないとわかっていながら、リュカは身動きが取れなかった。

 相手が歩み寄ってくる足音が聞こえる。

 

「しぶといガキだ。とどめを刺してやろう」

 

 顔を上げることすらできないリュカには、相手が何をしようとしているのかわからなかった。だが、死が目前に迫っているということはわかっていた。戦いとはそういうものだ。弱ければ殺される。それは十分にわかっていたはずなのに、死を前にした今、リュカを死への恐怖が襲っていた。なんで死ななければならないのだろう、そんな身勝手なことをリュカは思った。戦いを挑んだのは自分なのに。己の弱さをこれほど悔いることになるとは。杖を握る手に力がこもる。

 

「もうやめて!」

 

 ソフィアが叫んだ。

 あのギラを凌いだのだろうか。よく考えればソフィアは幽霊なのだ。上空に避難すれば、あのギラをかわすこともできるだろう。そのままどこかへ逃げてしまえばいいのに、リュカは思った。だが、彼女はここに留まっている――自分を庇っている。

 

「お前から死ぬか? いいんだぞ、俺様としてはどの順番でも」

 

 声から愉悦が伝わってくる。

 

「もういいでしょう……あなたが何をしても、この城はもう元には戻らない。幽霊をいくら集めたって、いくら踊らせたって、もうあのころには戻らないのよ」

 

 ソフィアが悲しみをそのまま音にしたような声で言う。

 

「……なにを言っている?」

「あなたは変わってしまったわ。あなたは優しい人だった。でも、そんなあなたはもういないのね」

「なに?」

 

 困惑した様子の親玉。

 ソフィアの口調には、なぜか相手への親しみが感じられた。

 

「わかっていたわ。でも、諦められなかった。どうにかしてあなたを元に戻せないかって、その方法を探し続けた……」

 

 俯くソフィア。何かを堪えるような表情だった。

 

「私もあなたと変わらないのかもしれないわね。どうしたって取り戻せないものがあるのに……それを認めることができなかった」

「さっきから何をゴチャゴチャと――!」

「忘れてしまったのね……何もかも……。私のことも」

「お前のことなど知らん!」

 

 親玉が動揺したように怒鳴る。

 

「でも、完全に忘れてしまったわけではないわよね。辛かったのよね。その悲しみが、未練が、膨れ上がってしまったのよね。そこを魔に付け込まれてしまったのよね。それがあなたの心を覆い隠してしまったのよね」

 

 ソフィアは悲しみのなかに、確かな慈愛を込めて言った。そして、そこには願望も込められているようだった。さっきまでの、迷いをにじませた彼女はもういない。

 親玉は黙りこんでいる。

 

「今のあなたは、魔に歪められてしまった思いのままに生きる魔物。元のあなたを取り戻せないのなら……私があなたを倒すわ。それがきっと私に残された最後の役目」

 

 涙の跡を頬に残しながら、ソフィアはまっすぐに親玉を見つめた。幽霊にも、流す涙があることをリュカは知った。

 

「幽霊ごときが……消し去ってくれるわ!」

 

 互いの魔力が膨れ上がった。

 ソフィアは空中にふわりと浮き上がり、魔法を放つ。メラとメラがぶつかり合う。

 

「無駄だ!」

 

 親玉のメラがソフィアのメラを掻き消し、ソフィアへと迫る。だがソフィアは軽々とかわした。

 幾度かのメラの応酬は、どちらにもダメージを与えることはなかった。このままでは埒が明かないと判断したのか、ソフィアは今までよりも濃い魔力をまとった。

 

「ギラ!」

 

 ソフィアが特大のギラを放った。宙を奔る一匹の炎の大蛇が闇を分断する。

 

「甘い!」

 

 親玉もギラで迎撃する。

 ぶつかり合い、大きな爆発が宙に起こった。爆風がリュカにも吹き付ける。熱い。

 空を覆う炎の幕に紛れて、ソフィアが親玉の背後に回りこんでいた。掌を親玉に突きつける。

 

「気付かんと思ったか!?」

 

 振り返りざまに親玉は腕を振るう。だが、その腕はソフィアの身体をすり抜けた。

 

「幽霊に打撃は通用しないのよ!」

 

 ソフィアの掌から放たれたギラが相手に絡みつく。

 うめきながらも耐える相手。

 ソフィアの身体が赤い光をまとった。そして一つ力んだ声を発すると、炎は膨れ上がり、親玉を火達磨にした。親玉が絶叫する。

 炎がおさまったとき、親玉は身体から煙を上げてながらも立っていた。ソフィアは荒い息遣いでそんな親玉を見つめていた。

 

「これでとどめよ」

 

 再びソフィアがダメ押しのギラを放つ。全身を焼く更なる炎に、親玉は悲鳴の一つも上げなかった。

 魔力を使い果たしたのか、ソフィアは座りこんだ。頭をがくりと落として荒い息をついている。そして、しばらくして顔を上げ、炎の中の親玉へ目を向けた。そのとき、ソフィアは驚愕の声を上げる。親玉がギロリとソフィアを睨みつけていたのだ。

 

「俺様がこれしきのことで死ぬと思ったか?」

 

 炎の中からぬっと手を伸ばす。肌はもはや黒く焦げていた。地獄から這い出る悪魔のようにすら思える光景。炎という光のなかにあってさえ、親玉は闇を纏う。その闇の深さは、もはやどんな光ですら掻き消すことはできないようにさえ思えた。

 炭のような掌から放たれたギラが、ソフィアを飲み込む。

 ソフィアは悲鳴を上げた。全ての苦痛を混ぜ合わせたような、悲痛な叫びだった。断末魔とはこのことか。死の気配を乗せた叫びは、リュカの耳にも届いていた。

 ギラに吹き飛ばされたソフィアは、炎に包まれながら悶えていた。そして炎がおさまると、何の偶然か、リュカの隣に倒れこんだ。

 

「ごめんなさい……リュカちゃん。私ではあなたを……守れなかった……」

 

 ソフィアは横たわりながらリュカに顔を向けた。ソフィアは泣いていた。

 

「私ではあの人を……」

 

 ぽつりと絞り出された一言が、慟哭のように聞こえた。人は言葉にこれほどの感情を込めることができるのだということを、リュカははじめて知った。

 もともと透き通っていたソフィアの身体が、少しずつ薄まっていく。ソフィアは死ぬのだ、リュカはそう思った。幽霊なのだから、死ぬという表現は適切ではないのかもしれない。だが、他にどう表現したらいいのかリュカにはわからなかった。

 リュカは杖を突いてふらふらと立ち上がった。

 ソフィアが目を見開いてリュカを見ていた。

 

「僕が倒す」

 

 リュカは言った。

 今、リュカの胸には様々な思いが渦巻いていた。そのせいで、一体何が自分を奮い立たせているのか、リュカ自身にもわからなかった。

 

「まだ立てたのか。いいだろう、すぐに終わらせてやる」

 

 親玉を焼いていた炎はすでに消えていた。あらわになった親玉の全身は酷いものだった。ぼろぼろのローブの向こうに垣間見える焼け焦げた身体。今もブスブスと燻っている。

 親玉へと歩を進めるリュカの背に、消え入るようなソフィアの声が届いた。

 

「おねがい……」

 

 リュカは身体に緑色の光を纏った。もはや魔力は残り少なかったが、出し惜しみするつもりなどさらさらなかった。全てをぶつけて、親玉を倒す。

 親玉も魔力を纏う。そして腕をこちらに突き出してくる。

 

「よくやった。ガキにしては、勇敢に戦った。それを誇りに死んでゆけ」

 

 相手の掌に魔力が集中する。

 なにが誇りだ、リュカは思った。己の無力をどう誇れというのだろうか。強くなりたい。リュカは今、心底そう願っていた。こいつには負けるわけにはいかない。なぜかと問われれば、リュカは返答に困っただろう。ソフィアへの同情か、無力感の払拭か、それとも他の何かか。だが、断固とした思いが胸にあった。

 リュカは一直線に駆け出した。小細工はなしだ。逃げ回って、相手の隙を突いて、なんて悠長なことをしているだけの力は残されていない。

 

「くたばれ!」

 

 親玉が手のひらに渦を巻く光の球を練り上げた。

 恐らく相手の魔法が放たれる方が早いだろう。だがそれでもいいと思った――そのときだった。

 

「なっ!?」

 

 どこからか飛来した火球が、親玉の腕を横から弾いた。その拍子に放たれた親玉のメラは、リュカに命中するには程遠い、あらぬ方向へ飛んでいく。

 親玉が、火球の飛んできた方へ思わず顔を向ける。

 

「あのガキッ!」

 

 リュカは全ての魔力を杖を持つ手に集中した。手と杖が緑色の光を漂わせる。

 リュカは杖を斜めに振り上げた。直後、親玉の目前に瞬く間に迫ると、袈裟懸けに杖を振り下ろした。そして同時にリュカは練り上げた魔力を解き放った――緑色の光が膨れ上がり、親玉を飲み込んだ。リュカの目に緑色が反射する。杖の一閃とともに、風の刃が闇を裂く。

 親玉はガラスを引っ掻いたような、耳障りな悲鳴を上げた。

 炭のようになっていた親玉の身体を砕きながら、杖は斜めに振り切られた。

 斜めに刻まれた傷は、周囲に亀裂を広げ、親玉の身体を崩壊へと導く。叫びながらのたうち回る親玉は、ほどなくして動きを止めた。

 膝立ちでがっくりと親玉は天を見上げた。黒く焦げついた出来の悪い木の人形のような身体に、ぼろ雑巾のようなローブが引っ掛かっている。そんな彼でさえ、月は平等に照らしていた。彼の目には光るものがあった。死を前にして取り戻すものもあるのかもしれなかった。

 彼は、ソフィア、と一言呟くと、それっきり動くことも声を出すこともなかった。暗雲に走る稲妻のように、身体の亀裂が徐々に広がっていく。一瞬が永遠にも感じられる不思議な時を置いて、やがて彼の身体は粉々に崩れ去った。

 

「倒したのね?」

 

 よたよたとビアンカが歩いてきた。リュカは頷きを返す。終わったのだ。親玉は死んだ。リュカはがっくりと座りこんだ。身体中の力が抜けてしまったようだ。

 沈黙が流れた。

 静寂が辺りを支配する。月明かりは、何事もなかったかのように辺りを照らしていた。リュカが命がけで戦おうが、どんな魔物が暴れようが、月にとっては関係のないことらしい。

 城を覆っていた魔の気配が薄れていく。

 

「そうだ、リュカ。はい、これ」

 

 ビアンカが薬草を差し出してきた。

 

「苦いけど食べるのよ」

「ビアンカはいいの?」

「私はさっき食べたから」

 

 薬草はすり潰して傷口に塗ることでも効力を発揮するが、単に食べるだけでも効果があるのだ。

 薬草は苦かったが、そんなことは気にならなかった。全快には程遠いが、身体中の痛みが薄まっていく。リュカは小さくため息を漏らした。だが、なぜか極度の疲労は回復する気配がない。

 

「ソフィアさん!」

 

 ビアンカが突然叫び、ソフィアの元へ走り出した。リュカもふらふらと後を追う。

 

「ソフィアさん、大丈夫!?」

 

 ソフィアはほとんど消えかかっていた。もう顔もはっきりと見えないほどだ。

 

「ありがとう。あの人を止めてくれたのですね?」

 

 穏やかな声色だった。

 リュカもビアンカもソフィアの横に座り込んでいた。

 

「ソフィアさん、しっかりして!」

「私は大丈夫ですよ。幽霊ですもの。消えていくのは自然なことなのです」

「そんな……」

 

 ビアンカは泣いている。

 ソフィアが消えていく。それは、彼女の未練がなくなったことを意味していると考えていいのだろうか。それとも、親玉の攻撃により消滅してゆくというだけのことなのだろうか。彼女は今どんな思いでいるのだろうか。リュカにはわからなかった。

 

「ソフィア……」

 

 背後から、何者かの声が突如聞こえた。リュカは驚いて勢いよく振り返る。

 そこには、一人の男がいた。身体が透けている。幽霊だ。

 

「……あなた?」

 

 呆然としてソフィアが呟く。

 あなたと呼ばれた幽霊は、ソフィアの隣にしゃがみこむ。

 

「あなたなのね?」

「ああ。すまなかった、ソフィア」

「あなた!」

 

 ソフィアが男に両手を伸ばした。彼は彼女の身体を起こし、優しく抱きしめる。

 男の身体が淡い光を発した。その光はソフィアの身体を優しく包み込む。すると、ソフィアの消えかけていた身体が徐々に濃くなっていく。

 

「すごい……」

 

 ビアンカが目の前の光景を唖然として眺めていた。リュカも同様だ。

 

「ていうか、誰なの?」

 

 いつまでも抱き合っている二人を前に、ビアンカが疑問を口にする。もっともな疑問だとリュカは思った。

 

「すまなかったね、君たちも」

 

 男が言った。

 

「何が?」

「私はエリックという。さっきまで君たちが戦っていた魔族なんだ」

「え、親玉!?」

 

 申し訳なさそうにエリックは頷く。

 

「君たちに倒されたおかげで、私の魂に巣食っていた魔が晴れたようだ。本当にありがとう」

「魔が晴れる?」

 

 リュカとビアンカは揃って首をかしげた。

 

「エリックは私の夫、もちろん人間だったのよ。でも、魔族になってしまったの」

「ええ!? 夫!?」

「だが、君たちのおかげで人間の心を取り戻せたよ」

 

 ソフィアもエリックも笑った。

 

「人間が魔族になることがあるの?」

 

 リュカが緩慢に尋ねた。というか、魔族とはなんだろう。語感からして魔物みたいなものなのだろうが。もう言葉を発するのも苦痛に思えるほど疲れていた。

 

「あるみたいですよ。よく聞く話ではありませんが」

「現になったしね」

 

 それは、かなり驚くべきことなのではないだろうか。二人の様子を見ていると、どうもそうは思えなかったが。

 

「それはそうと、リュカ君……だったね? 随分疲れているようだね。ちょっとじっとしててね」

 

 エリックがリュカに近づき、リュカの頭に手をかざす。淡い光が灯ると、リュカの疲労が少しやわらいだ。リュカはきょとんとしてエリックを見上げる。

 

「応急処置みたいなものだが、楽になっただろう? 君は魔力を使いすぎたんだよ」

 

 お前のせいだけどな、リュカは内心で呟いた。

 

「ところで、君たちにはお礼をしないとね。この城には大した宝なんてないんだけど、私たちの宝物をあげよう」

「いい考えね。あれはこの子たちにもらってほしいわ! このまま朽ち果てさせるには惜しいもの」

 

 二人は微笑み合う。

 

「宝物? なになに?」

「それは見てのお楽しみさ。さあ、おいで」

 

 エリックは両手をリュカたちにかざしながら、浮き上がった。すると、リュカたちも一緒に浮かんでいく。

 

「うわ、すっごーい! 私たち飛んでるわよ、リュカ!」

「うん」

 

 念のためリュカは相づちを打った。

 そのままふわふわと飛んでいき、屋上に降り立った。墓が一つと、その回りに咲く草花しかない、あの屋上だ。

 エリックは墓に手をかざす。すると墓の蓋がずれた。

 

「この中にしまっておいたんだ。ソフィアの身体はなくなってしまったから……せめてその代わりにと思って」

「あなた……」

 

 二人は見つめ合う。

 取り残されたリュカとビアンカも、目を合わせてみる。

 

「あの……」

「ああ、ごめんごめん。これなんだ」

 

 墓から銀色の食器らしきものが浮かんで出てきた。

 

「これはティーセットなんだ。私たちはこれでお茶を飲むのが好きでね、よくここで二人で飲んだものだよ。ここからの景色を眺めながらね」

 

 エリックは、遠い目をして景色に目をやった。

 リュカたちもつられて景色を眺める。

 空がかすかに白んできていた。これから時を置かずして、海の向こうから太陽が顔を出すのだろう。いつもと何も変わらずに。

 澄んだ淡い光に照らされた、美しい景色だった。広大な森、青々とした草原、静かに凪ぐ海、なだらかな稜線。日が照っているときなら、もっとすばらしい景色が広がっているのだろう。リュカはそんな景色を想像した。

 素敵ね、とビアンカはリュカに囁いた。

 

「本当はここに机もイスも置いてあったんだけど……捨ててしまった。どうかしていたんだ」

「あなた……」

「そんな大切なものをもらっていいんですか?」

 

 ビアンカが、並んで置かれた銀のポット、トレイ、カップを見ながら尋ねた。

 

「もちろん」

 

 エリックたちはにっこり笑った。ビアンカも笑った。リュカも少し微笑んだ。

 

「いいところですよね、ここ。憧れちゃうな。私もこんなお城に住んでみたいな」

 

 ビアンカが景色を眺めながらうっとりと言った。風が静かに髪を揺らす。

 

「ああ、いい城だったよ……本当に」

「……どうしてこのお城は滅んじゃったんですか?」

 

 ビアンカの問いに、しばし沈黙が続く。

 

「すいません、こんなこと聞いちゃって」

「いや、いいんだよ。ただ、どう答えたらいいものか……」

「魔物に襲われたのよ」

 

 ソフィアがフォローするように口を挟む。

 

「それはそうなんだが、あれはただの魔物の群れではなかった。指揮官らしき者がいてね。そいつの指示で動いていたみたいだ。おそらくあの指揮官は魔族だ。言葉を話していたからね」

 

 彼の口ぶりからすると、魔族と魔物とは別物のように感じられる。そして、言葉を話すのが魔族だと。

 

「魔族ってなに?」

 

 リュカは端的にたずねてみた。

 エリックは、うーん、とうなった。

 

「改めて聞かれると、答えに困るな……。まあ、強い魔物みたいなものだよ」

 

 そういえば、サンタローズの洞窟にも、言葉を話すスライムがいたことを思い出した。あれも魔族だというものなのだろうか。強い魔物――エリックの言葉には信憑性がないとリュカは思った。

 

「魔族なんていたかしら……」

「……君は早々に殺されてしまったからね」

 

 エリックは言い辛そうに言った。

 彼は言葉を続けた。

 

「どうやら、奴らは私たちの子どもを狙っていたらしい。そして私たちに子どもがいないことに気付いたらしい奴らは、無差別に暴れだしたんだ」

「そういえば、邪悪な手の者が世界中から身分のある子どもをさらっているという噂を聞いたことがあるわ。あれは本当だったのね」

「酷いわ……」

 

 ビアンカが呟く。

 

「済んだ話よ。沈んでいても仕方がないわ。城の皆も解放されたみたいだし、もう全てが終わったのよ」

「そうだね。死者は眠るのみだ」

 

 二人は穏やかだった。リュカは、二人にはもう少し何か湧き上がる感情があってもいいのではないかと思ったが、彼らは安らいでいるかのようだった。どこか達観しているように見える。城が滅んだという事実がもたらす悲しみや憎しみ。そんなものを越えたところに今二人はいるのかもしれない。ここへ辿り着くまでの彼らの道のりは、リュカには想像もつかない。

 

「眠るって……」

「あなたたちのおかげで、ゆっくり眠れそうだわ。ありがとう。リュカちゃん、ビアンカちゃん」

「城の者たちも安らかな眠りについたようだ。私たちも行かないとね。彼らにはあの世で詫びなければならない」

 

 ビアンカは複雑そうだったが、それでも笑った。二人も微笑みを返した。

 

「さあ、行こうか、ソフィア」

「はい、あなた」

 

 二人の姿が少しずつ薄れていく。やがて白いもやになった二人は、天へ上っていく。二つの白い筋はいつしか絡み合い、一筋の糸となって、消えた。

 

「二人は幸せに眠り続けるのよね。きっと、そのはずよ」

 

 リュカたちは空を見上げた。二人が消えていった先を。

 朝日が顔を覗かせていた。彼らが夜の名残りを払ったのだろうか。それはないか、とリュカは頬を緩めた。

 

「あら、なにかしら?」

 

 ビアンカを見ると、彼女は目を下ろしていた。しゃがんで、墓の周りの草花の中から金色の球を拾い上げる。

 

「きれいな宝石ね。これもきっとお礼よ。もらっていきましょ」

 

 調子のいいことを言うビアンカ。もしこれがお礼なら、ティーセットと一緒に渡してくれただろう。だが、それを指摘することはしなかった。それはもちろん、もらって帰りたかったからだ。

 何の装飾もほどこされていない、単なる球だった。それでいてこの金色の球は、どんなに高価な装飾品よりも美しいと思えた。それは、内に宿す輝きが、吸い込まれそうなほどに崇高なものに思えたからかもしれない。

 

「この球はリュカのものでいいわ。その代わりこのティーセットは私がもらってもいい?」

「いいよ」

「ありがとう。はい」

 

 手渡された金色の球を、リュカは道具袋にしまう。

 

「さあ、私たちも帰りましょ。キメラの翼、使っちゃおうか?」

「うん」

「じゃあ、行くわよ」

 

 ビアンカはキメラの翼を取り出し、頭上に掲げた。パッと白い光がリュカたちを包むと、次の瞬間二人は空に軌跡を残して消えていた。

 小さな小さな花園は、人知れず風に揺られている。レヌール城はもはやお化け屋敷ではない。不穏な気配を漂わせることもない。今は、森の奥にひっそりとたたずむ、ただの廃城でしかなかった。

 

 

 



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9話

9話

 

 

 

 

 

 アルカパに戻った二人は、宿屋に直行し眠った。

 目覚めたときにはもう昼になっていた。暖かいふとんから出るのは多少抵抗があったが、いつまでもそうしているわけにもいかない。ベッドから下り、伸びをすると、隣のベッドに父が寝ていることに気付いた。

 まあいい、リュカはたいして考えることもせず、部屋を出た。

 階段を下りて一階まで行くと、金色の髪がリュカの寝ぼけ眼に映った。何かと思ったら、ビアンカである。

 

「やっと起きたのね。でもまあいいわ。私も少し前に起きたばっかりだし。それに昨日は大変だったもんね」

 

 少し前に起きたわりには元気だな、リュカはそう思いつつも、立ち止まりビアンカの話を聞いてやる。

 

「それより、知ってる? レヌール城のお化けが退治されたってこと、街中に知れ渡っちゃってるのよ。詩人さんが何か歌いまくってたみたい。ママがそう言ってたわ。まあ、私たちが退治したとは知られてないみたいだけど」

 

 それがどうしたんだろう、リュカはその疑問を口にはしなかった。

 

「それはそうと、さっさと顔洗ってきなさいよ。こっちに井戸があるわ。ついて来て」

 

 リュカの手を引き、ビアンカはさっさと歩く。ビアンカに引き止められなければ、今頃は顔を洗い終わっていたかもしれない。

 宿屋を出ると、横に井戸があった。ビアンカが水をくんでくれている横でリュカはボーっとしていた。

 

「冷たいけど、びっくりしないでよ」

 

 その言葉通り、水は氷のように冷たかった。おかげではっきりと目が覚めた。

 

「あーあ、えりまで濡らしちゃってるじゃない……。まあいっか。中に入りましょ。ママがご飯作ってるから。もうお昼ご飯よ」

 

 顎先から水滴をポタポタ垂らしながら、リュカはビアンカに続いて宿屋に入った。そしてビアンカたちの私室に入る。中は暖かかった。

 

「おや、起きたのかい、リュカ君。随分よく寝てたねぇ。ビアンカも遅くまで寝てたし、まさか二人で夜中に抜け出してたんじゃないだろうね?」

 

 気付いてたのか、リュカはマグダレーナに押し付けられたタオルで顔を拭きながら、ビクリとし、そう思った。

 

「まあ、そんなわけないよねぇ。さあ、ご飯できてるから食べなさい」

 

 気付いていなかったようだ。リュカは少しホッとした。

 リュカはビアンカと二人でイスに座って、テーブルに並べられた料理を食べた。

 マグダレーナは温かい飲み物を入れてきたらしい。湯気の立つコップを二つ持ってきて、テーブルに置く。

 

「そういえば聞いてるかい、リュカ君? パパスが風邪ひいて寝込んじゃったんだよ。だから、治るまでしばらくうちに泊まっていくんだよ」

「えっ、おじさま風邪ひいちゃったの!? 大丈夫?」

「まあ、ただの風邪だからね」

 

 だから父はこんな時間まで寝ていたのか、リュカは納得した。父は普段はこんな時間まで寝ていることはない。

 

 

 

 

 

 食事を終えると、ビアンカに外に連れ出される。ネコを引き取りに行くのだそうだ。

 リュカたちは、周囲を掘に囲まれたあの場所にまで来た。そこにはあの少年たちがいた。いつも彼らはここで遊んでいるのかもしれない。

 

「さあ、約束よ! このネコちゃんをもらっていってもいいわね?」

 

 ビアンカは少年たちの前に仁王立ちしている。

 

「おい、どうする?」

「仕方ないだろ……。約束だもんな。このネコはあげるよ」

「しっかし本当にお化けを退治してくるとは思わなかったよ。ていうか、ホントにお前らが退治したのか?」

 

 疑わしげに少年が視線を向けてくる。

 

「なによ、疑うの?」

「いや、信じるよ」

「お前らけっこう勇気あるよな」

 

 会話を理解しているかのように、ネコと呼ばれている動物は、トコトコとリュカたちの前まで歩いてくる。

 

「よかったわね。もういじめられたりしないわよ」

 

 しゃがんでこちらを見ているネコの頭をビアンカはなでる。

 ビアンカはとても嬉しそうに笑っていた。それもそうだろう。レヌール城ではいろいろと大変だったが、全てはこのためだったのだ。

 なでられて気持ちいいのか、目を細めているネコ。リュカもなでてみようとしゃがむと、顔の高さが並んでしまった。やっぱり立ち上がってなでる。

 背筋に沿うように生えたオレンジのたてがみは意外と硬くごわごわしている。だが、首元の辺りの白い毛は、ふわふわと産毛のようにやわらかかった。今は冬のように寒いのに、こいつの身体は温かい。

 ふと気付くと、ネコはじっとリュカの目を見ていた。青く澄んだ目だ。なんだろう、とリュカも見つめてみると、尻尾を大きく一度揺らした。

 

「さあ、リュカ、行きましょ。ネコちゃんもおいで」

 

 ビアンカは少年たちには目もくれず、去っていく。リュカはついて行く。ネコもついて来た。ビアンカの言葉を理解しているかのようだ。

 

「あ、そうだ! ネコちゃんに名前をつけてあげなきゃ! いつまでもネコちゃんじゃかわいそうだもの」

 

 橋のところに差し掛かったところで、ビアンカがパッとこちらを振り返る。

 

「何かいい案ある?」

 

 ビアンカが聞いてくる。

 確かにネコちゃん呼ばわりはかわいそうだ。そう思いリュカは頭を捻った。うーん、とうなっていると、ビアンカが何かを思いついたように声を上げる。

 

「ゲレゲレっていうのはどうかしら?」

 

 本気で言っているのだろうか、リュカは首をかしげた。ネコも表情に疑問を浮かべているように見える。これならネコちゃん呼ばわりのほうがいくらかマシだ。

 

「えっ、ダメかしら……。ならギコギコは?」

 

 当然リュカは首を横に振る。

 

「……ならビビンバは?」

 

 少しマシになってきた。

 

「…………ならアンドレ」

 

 だいぶマシになってきた。もうそろそろいいのが出てきそうだ。ネコも何かを期待するような目でビアンカを見ている。

 腕を組んでうなっているビアンカを、一人と一匹は見つめる。しばらくしてビアンカは口を開いた。

 

「じゃあ……ソロっていうのはどう?」

「……悪くはない」

 

 ネコはどう思っただろうと思って見てみると、悪くないじゃないか的な顔をしていた。

 

「じゃあ決まりね! あなたは今日からソロよ! よろしくね!」

 

 ビアンカはにっこりしてソロの頭を抱きしめた。ソロはじっとされるがままになっている。獣にしては、なかなかわきまえたやつだ。

 この日から、ソロはリュカたちと共に行動することになった。

 

 

 

 

 

 二人と一匹は何日も一緒に遊んだ。パパスの風邪が思いのほか長引いたのは、父には悪いがリュカにとって幸運だった。

 おかげでリュカはアルカパを知り尽くすことができた。

 教会にはいつもおじいさんがいたし、酒場にはうさぎの耳を生やしたお姉さんがいた。お酒を飲んでいいのは大人だけなのだとお姉さんに教えられたが、そんなことはリュカもビアンカも知っていた。大人になったら一緒にお酒を飲もうね、とリュカはビアンカと約束した。リュカは酒になど興味はなかったが、そんな約束を交わすことにこそ意味があるように感じた。

 宿屋のなかもビアンカは案内してくれたが、ソロが立ち入ることはマグダレーナが決して許さなかった。そのためリュカたちが宿屋のなかを探検しているときは、ソロは外で待っていなければならなかった。

 宿屋にはいくつも部屋があり、どこも綺麗に整えられていた。客も何人もいて、わりと繁盛しているようだ。ビアンカは客に人気があり、看板娘的な役割を果たしているようだった。

 マグダレーナが作ったというぶどう棚も見せてもらったが、ぶどうの姿は影も形もなかったため、いまいち実感は湧かなかった。

 前述したように、マグダレーナは決してソロを宿屋に立ち入らせることはなかったが、ソロにとっては夜の寒さなど何の苦痛でもないようで、リュカもビアンカも安心して外で寝泊りさせた。エサは用意してくれたが、その必要もなかっただろうとリュカたちは思っていた。なぜなら、ソロはたまにふらっといなくなると、森から獲物を持ち帰ってくることがあるからだ。腹が減ったら、自分で勝手にどうにかするだろう。

 そんな日々も、やがて終わりを告げる。

 

「心配かけたな、リュカ。父さんの風邪も治ったし、サンタローズへ帰ろう」

 

 父には悪いが、リュカはそんなに心配していなかった。風邪ごときで父が死ぬはずもあるまい。

 見送りに、宿屋の前までダンカン一家が出てきていた。

 

「リュカ、ソロはあなたが責任持って世話をするのよ」

 

 二人が話し合って出した結論がこれである。

 

「うちには入れてあげられないし、それにソロもリュカと一緒にいろんなところを旅したほうがきっと楽しいわ。ちゃんと毎日ご飯をあげるのよ。あと、たまにはお風呂にも入れてあげなきゃダメよ。ブラッシングもね――」

 

 その結論が出た理由はこういったところだ。

 一通りまくし立てると、ビアンカは俯いてしまう。

 

「返事は!?」

 

 突如、目を吊り上げて怒鳴った彼女に、リュカは慌てて返事をする。だが、なんとなく彼女は本気で怒っているわけではないのだろうと、リュカは思った。

 

「しばらく会えないかもしれないから、これあげるわ」

 

 ビアンカは二つの三つ編みのうちの一つを結んでいたオレンジ色のリボンを取って、差し出してくる。髪が片側だけ解け、不自然な髪型になってしまっているが、別にそれをおかしいとは思わなかった。解かれた髪は、さらさらと風になびいた。

 

「あっ、そうだ! これはソロにつけてあげるね」

 

 しゃがんでソロの首にリボンを結ぶビアンカ。ソロはおとなしくしている。

 

「ねえ、リュカ……。またいつか一緒に冒険しましょうね。約束よ。今度はソロも一緒にね」

 

 そうリュカの耳元で言って顔を上げたビアンカの目は、少し潤んでいた。しかし、ビアンカは笑っていた。日の光を反射しきらめく金色の髪の毛と潤んだ瞳。そして笑顔。またいつかビアンカに会いたい。一緒に冒険したい。リュカもビアンカと同じ事を思っていた。

 リュカはしっかりと頷いた。ビアンカとの約束が確かに結ばれたことを示すために。

 ソロがペロッとビアンカの手をひと舐めすると、ビアンカはもっと笑った。

 

「では、行こうか」

 

 パパスがそう言って、リュカの頭に手を置いた。重く温かな手のひらだ。頷きを返す。

 歩き出した父を追って、リュカも歩を進めた。ソロはビアンカに身体を擦りつけると、リュカの後に続いた。

 アルカパを出るまで、ダンカンとビアンカはずっと手を振っていた。マグダレーナはそんなビアンカの頭に手を乗せていた。

 一行は、サンタローズへ向かってアルカパを後にした。

 

「ところで、リュカ。お化け退治をしたのはお前だな?」

「……なんで知ってるの?」

「気付かんと思ったか?」

「ダメだった?」

 

 父を見上げると、穏やかな表情をしていた。リュカはホッとした。

 

「夜中に勝手に抜け出すのは感心できんな。だが、一つたくましくなったようだ。男の子はそれくらいでいいのかもしれん」

 

 褒められたのかもしれない。リュカは笑った。

 

 

 

 

 



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10話

10話

 

 

 

 

 

 サンタローズに着いたのは夜だった。家に入ると、サンチョが迎えてくれる。

 

「おかえりなさいませ。ダンカンさんの具合はいかがでしたか?」

「問題ない。薬を飲んだらすぐに治った」

 

 パパスは担いだ剣と道具袋を置きながら答える。

 家のなかは暖かかく、リュカはホッと一息ついた。なかなか家というものはいいものだ。

 

「そうでしたか。それはようございましたね。ところで留守中このようなお手紙が……」

 

 サンチョはパパスに手紙を差し出した。返事をしながらイスに座るパパス。そんな様子を見るともなしに眺めていたリュカに、サンチョが目を向けた。

 

「ところで坊ちゃん。そのベビーパンサーはなんですか?」

 

 ベビーパンサーとはなんだろうか、リュカは首をかしげたが、サンチョの目線からソロのことを言っているのだと気づいた。ソロはベビーパンサーという動物なのだろうか。まあ、どうでもいいことだ。

 

「ソロだよ。僕が世話することになったの」

「そ、そうなんですか……。まあいいでしょう。……いいんですよね、旦那様?」

 

 なぜか引きつった顔をしているサンチョに、パパスは当たり前のように頷きを返す。

 

「きちんと躾はしてくださいね」

「うん」

 

 やはりサンチョは優しい。マグダレーナのように家には入れてあげないなんて意地悪は言わなかった。リュカは小さく頬を緩めた。

 

「それより坊ちゃん、長旅でお疲れでしょう。どうぞお休みなさいませ」

 

 その言葉に従い、リュカは二階へ上がった。ソロも器用に階段を上ってついて来る。マントとターバンを脱ぎ捨て、杖と道具袋を置くと、ベッドに入る。ソロはベッドの横に寝転がった。

 

「おやすみ」

 

 そう言うと、ソロは喉を鳴らして返事をし、あくびをして目を閉じる。それを見たリュカも目を閉じた。

 

 

 

 

 

 リュカが目を覚ますと、ソロがリュカの上に寝そべっていた。重い。

 ソロをどかして起き上がる。ベッドから転げ落ちたソロは、上手いこと着地したようだ。

 

「おはよう。よく寝たな」

 

 パパスは机について本を読んでいる。父は武闘派であるが、脳味噌まで筋肉でできているような輩とは違うということを、リュカは知っていた。だから、本を読んでいる父の姿になんら違和感を持つことはない。

 

「ところで、リュカ、本棚をいじったりしたか?」

「ううん」

 

 リュカは首を振る。

 

「ソロはどうだ?」

 

 ソロはうなり声を上げて抗議しているようだ。

 

「そうか」

「どうかしたの?」

「本が何冊かなくなっているみたいでな」

 

 わずかに眉をひそめ、困惑した様子のパパス。

 リュカは、ふーん、と返すと、ベッドから下りて階段へ向かう。困っている父には悪いが、自分が力になれることはないだろう。

 

「父さんは今日は調べものがあるから家にいるが、お前も村の外に出たりしないようにな」

 

 背中にかけられる言葉に返事をすると、階段を下りる。ソロもついて来た。

 サンチョとあいさつを交わし、食事を取る。ソロもエサをもらえたようで、床で食べている。

 そのとき、サンチョが声をかけてきた。

 

「坊ちゃんはまな板を触ったりはしないですよね?」

「うん」

「そうですよねぇ……」

 

 眉をひそめているサンチョ。

 

「どうかしたの?」

「ええ、まな板が見当たらないんですよ」

 

 リュカは、ふーん、と返すと、イスから立ち上がる。

 ソロは……と呟いたサンチョに、ソロはうなる。

 

「おや、坊ちゃん、お出かけですか? 村から出てはいけませんよ」

 

 返事をすると、リュカとソロは家から出ていく。

 戸を抜け外へ出ると、たき火をしている男が目に入った。彼は毎日のように、リュカの家のすぐ前にある井戸の傍でたき火をしている。随分寒がっている様子だ。確かに最近ますます寒くなってきている。そんなに寒いなら家にこもっていればいいのに、そう思いながら通りすぎようとすると、男が声をかけてきた。

 

「やあ、リュカ君。新しい友達かい?」

「うん」

「そうかい、それはいいことだ。それはともかく、村に変な男が来てるみたいなんだ。なんだか挙動不審でさ……悪い人だとは限らないけど、一応気をつけておきなよ」

 

 サンタローズのような小さな村では、見知らぬ人間に対して警戒心を抱く人もけっこういる。挙動不審などと言われてはいるが、実際そこまで言うほどのものなのか怪しいものだ。

 とは言え、見知らぬ人間がこの村に来るなんて珍しいことだ――まあ、リュカはそこまで長いことこの村にいるわけではないが。一度くらい顔を拝んでおくのも悪くない。

 

「その人どこにいるの?」

「いや、だからあまり関わらないほうが……まあ大丈夫か……。村をあちこちうろついてるみたいだけど、さっき教会の辺りで見たよ」

 

 リュカは礼を言い、教会へ向かおうとすると、再び男から声をかけられる。

 

「ところで、僕のセーターをしらないかい? 見当たらないんだよ。おかげで寒くて仕方がない……」

 

 知るか、とリュカは思ったが、首を横に振るにとどめた。

 

「まあ、そうだよね」

 

 リュカ君のペットは……そう続けた男に、ソロはうなった。

 リュカは教会へと歩を進めた。教会へは芝に半分隠れた石畳の道が続いているが、そんなものがなくても迷うことはない。なぜなら、教会は家から見えるからだ。建物が少なく見通しのいいこの村で、一際高い教会は目立つ。

 しばらくいくと、教会の前をシスターが箒で掃いているのが見えた。リュカが近づいていくとこちらに気付いたようで、微笑みながら手を振ってくる。リュカも小さく振り返した。

 軽く挨拶を交わしてから、ふと彼女がソロに訝しげな視線を向けたため、紹介する。すると、彼女は驚いた様子でソロの顔をじっと見つめる。

 

「まあ、魔物じゃないの!」

「魔物?」

 

 リュカは首をひねる。ソロを魔物呼ばわりしているのだろうか。だが、ソロは人を襲わない。今も割とぶしつけな視線に晒されているが、リュカの隣で大人しく座っている。

 

「ええ、この子は魔物よ。でも邪気がないみたい。魔物から邪気を払うなんて、リュカ君には魔物使いの素質があるのかもしれないわね~」

 

 ソロは出会ったときから大人しいものだった。それはつまり、自分が邪気を払ったわけではなく、元から邪気とやらなんてなかったということではないだろうか。それを伝えると、彼女はそれでも笑って言った。

 

「そうだとしても、魔物がなつくだけでも素質があると言えると思うわ。魔物使いなんてすっごく珍しいのよ!」

 

 だとしたら、ビアンカも魔物使いの素質を持っているのだろうか――ソロはビアンカにも随分なついていた。

 シスターは何故か興奮しているようだが、リュカにはさして思うことはなかった。重要なのは、自分とソロが友達だということだ。それが自分の魔物使いの素質のおかげだとすれば、そのことに感謝しないではなかったが。

 そんなことよりも、リュカは彼女に聞きたいことがあるのだ。不審な男のことである。ざっと見回したが、それらしき人物は見当たらない。尋ねてみると、彼女は目をまん丸にしてから、頬を染めた。

 

「リュカ君、あの方と知り合いなの!?」

 

 首を横に振るリュカに、彼女は若干気を落とした様子で言葉を続けた。

 

「さっきまでここにいらっしゃったのよ。どこへ行ってしまったのかしら……」

 

 忙しく表情を変える彼女は、さあ、お掃除を続けなくちゃ、なんて言っている。これ以上どこを掃除するつもりなのだろうか。リュカにはゴミどころか小石の一つすら見えない。

 彼女に見切りをつけ、リュカは立ち去る。村長の家にでも行ってみようか。村長なら村の全てを把握しているはずだ。そんなことを考えながら歩き去るリュカの背を追うように、シスターが声をかけてきた。

 

「ところでリュカ君。私の軍手をしらない? 見当たらないのよ。おかげでお掃除がはかどらなくて……」

 

 知るはずもなかったリュカは、知らない、とだけ返す。

 

「まあ、そうよね」

 

 ソロちゃんは……そう続ける彼女に、ソロはうなった。

 

 

 

 

 村長の家の戸を叩く。中から返事が聞こえ、少しして古臭い音を立てて戸が開く。

 

「おお、どうした? おやつでもせびりにきたか?」

 

 しわがいくつも刻まれた村長の顔が覗いた。暖かい空気が室内から漏れ出してくる。

 村長はふとソロに驚いたように目を向けた。今日何度目になるか、リュカはソロを紹介する。

 

「ほう……魔物を手懐けるとはな。お前さんには魔物使いの才能があるのかもしれんの」

「へー」

 

 ついさっき聞いたばかりの話だったが、リュカは一応はじめて聞いた風を装った。

 

「パパス殿には強大な敵がいると聞く。その才能はパパス殿の助けにもなるかもしれんぞ」

「ほんと?」

 

 リュカは目を見開いた。自分が父の助けになれる。それは現実味のない、しかし素晴らしいことだ。

 村長は穏やかに微笑んだ。しわがより深くなるが、なぜかそのほうが若く元気に見えた。

 

「それはともかく、ほれ」

 

 村長は丸く赤い果物を差し出してくる。

 

「そうじゃなくて」

 

 リュカは果物を受け取りながらも、別におやつをもらいにきたわけではないのだと伝えた。

 

「なら、何しに来たんじゃ?」

「聞きたいことがあって」

「ほう、そうかそうか。何でも聞くがよい」

 

 何故か嬉しそうな顔をする村長。不審な男について聞いてみる。

 

「おお、知っとるぞ。旅人風の男のことじゃろ?」

「それは知らない」

 

 リュカがその男について知っているのは、挙動不審であるらしいという、曖昧なことだけだ。

 

「どこいるか知ってる?」

「知らんが……旅人だったら宿屋におるかもしれんぞ」

 

 リュカはハッとした。そういえばリュカも父との旅の途中、数え切れないほど宿屋に泊まってきた。宿屋とは、旅人にとってなくてはならないものなのだ。

 行ってみようと、リュカは踵を返す。その背に、もう行くんか、と声をかけられ、リュカは頷きを返した。

 

「ところで、わしの杖をしらんかの? どうも見当たらんのじゃ。おかげであまり出歩けん……」

「知らない」

「そうか」

 

 ソロとやら……そうソロに声をかけた村長に、ソロは情けない声を漏らした。

 

 

 

 

 

 宿屋に辿り着いたリュカは、扉を押し開けて中へ入った。かたく閉じていたマントの前が自然と広がる。

 中は広々としていた。テーブルとイスがいくつも置かれているが、それ以外にこれといった物はない。左側にカウンターがあり、右の奥に上への階段が、左の奥に下への階段があるだけのスペースだ。

 リュカはカウンターにいる宿屋の主人に聞いてみようと近づいていく。

 

「おや、リュカ君じゃないか。どうした、こんなところで?」

 

 ソロに不審な目を向ける主人にソロを紹介してから、不審な男が泊まっていないか、リュカは端的に尋ねる。

 

「あの旅人の?」

「たぶん」

 

 村長の言うことを信じるなら、そういうことになる。

 

「ああ、泊まってるよ」

「どの部屋?」

「というか、今は酒場にいると思うよ。さっき下りていくのを見たしね」

 

 それを聞いて下への階段に向かうリュカの背に、主人が声をかけてくる。

 

「ところで、宿帳しらない? なくなっちゃったんだよ。あれがないとマズイんだけどな……本当に」

 

 それは大変だ。そう思いつつも、リュカに返せるのは、知らない、という一言だけだった。

 階段を下りる背に、ソロは、という声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 階段を下りると、そこは石の床に円卓がいくつも置かれた地下の酒場だった。隅にカウンターがあり、その仕切られた中には一人の男と、瓶やグラスのたくさん入った棚、そして酒樽らしきものがいくつも置かれている。窓がないためか、上と比べると少し薄暗いが、ランプが室内を柔らかな光で十分に照らしている。

 

「おっ! どうした坊主! ここは子どもの来るところじゃねえぞ!」

 

 そう言って豪快に笑っている、円卓につくこの男は、旅人風と言われても納得できそうな風貌ではあった。だが、例の男ではないだろう。というのも、リュカは何度も彼をこの村で見たことがあるのだ。どうやら用心棒のような存在のようで、いつも剣を背負っている。彼もソロの姿に気付いたようだが、紹介しなかった。

 他にいる旅人風の男は、一人しかいなかった。奥の方にあるカウンター近くのテーブルに座っている、紫色のターバンとマントで身を包んだ男だ。自分と同じような服装をしているな、とリュカは思った。

 その男に近寄っていくと、向こうもこちらに気付いたようで、目を向けてくる。

 いざ近寄ってみて、リュカは困った。目的は既に果たされたようなものだ。もう帰ってもいいのだが、男と目がばっちり合ってしまっているため、そうはしづらい。かといって別に話すこともない。

 相手はふとソロに目を向けた。相手は驚く様子もなく、むしろ優しげな表情をほのかに浮かべた。変わった人だな、とリュカは思った。

 ソロはリュカと男を見比べるように、目を行ったり来たりさせている。

 そのとき、男が口を開いた。

 

「ねえ、綺麗な宝石持ってるね」

「……は?」

 

 宝石なんて持っていただろうか。少し考え、レヌール城で見つけた金色の球のことだろうと当たりを付けた。

 

「持ってないの?」

「……持ってるけど……なんで知ってるの?」

 

 金色の球は道具袋の中に入っており、外からは見えないはずだ。それに、誰かに見せびらかすような真似もしたことはない。

 

「…………見せて」

 

 長い沈黙の後の言葉だった。なんとなく抗いがたい雰囲気を感じ、リュカは金色の球を腰の道具袋から取り出す。別に見せるくらい大したことはない。

 

「ありがとう」

 

 男は球を手に取ると、じろじろと球を眺め回す。

 リュカは男を凝視していた。なんだか不思議な人だ。自分でもなにが気になっているのかわからないが、その男のことが何故か気になった。初対面であるにもかかわらず、まるで旧知の仲であるかのような、そんな不思議な感覚。この男に対して警戒心を全く抱いていない自分がいる。

 角度を変えて、光に透かして、何がそんなに気になるのだろうというほど、男は執拗に球を観察していた。両手でこねくり回し、マントで表面を拭い、ようやく気が済んだのか、礼を言いながら球をリュカに返した。

 席を立ち、それじゃあ、と言って男は去って行く。急に帰るんだな、と少々戸惑いつつリュカは見送った。ソロも見送っていた。

 男が急に立ち止まった。そしてこちらを振り返ると、なんとも言いがたい表情を浮かべ、口を開いた。

 

「お父さんを大切にしなよ」

「……うん」

 

 その言葉を最後に、男はマントを揺らして階段の上へと消えていった。

 

「知り合いかい?」

 

 カウンターの中の男が話しかけてきた。そちらへ顔を向けて、首を振って答える。

 そのときリュカは気付いた。カウンターに腰掛けているやつがいる。しかも人間ではない。身体が透けており、はっきりとは見えないのだ。この感じ、幽霊だなとリュカは思った。レヌール城で散々見かけた連中と同じだ。

 

「変な人だよね。お酒をそんなに飲むわけでもなく、ただずっと座ってるんだよ。なんだったのかね?」

 

 リュカは幽霊を見つつ、男の言葉に首をかしげてやる。

 幽霊は女だった。紫色の髪をしていて、その隙間から尖った耳が突き出ている。人間離れした容姿だが、幽霊なんだからそんなこともあるだろう。幽霊には色はなかったような気もするが、たぶん気のせいだ。

 彼女はつまらなさそうに俯いて、足をブラブラさせている。

 

「ところで、こんなところに何の用だい? お酒を飲むにはまだ早いんじゃないかな?」

 

 おどけたように笑う男に顔を向け、別に飲みに来たわけではないことを伝える。

 

「そうだよね。じゃあ、ジュースを一杯ご馳走しようか。飲んだら帰るんだよ?」

「うん」

 

 リュカはカウンターの席について、待った。ソロもリュカの傍らで大人しく座っている。だが、恐らくソロにはジュースは与えられないだろう。

 男は瓶を一本取り出すと、何かを探すような素振りを見せた。しばらくして、首をひねりながらこちらへ向き直る。

 

「おかしいな……子供用のグラスがあったはずなんだけど……」

 

 まあいいか、と男は手近にあったグラスを取り、瓶の中身を注ぐ。

 どうぞ、と差し出された飲み物を飲んでいると、突然歌が聞こえてきた。何事だろうかと辺りを見回してみると、どうやら幽霊が歌っているらしいことがわかった。彼女は、リュカが耳障りだと感じるほどには音痴だった。誰も反応しないのを見るに、どうも歌声はリュカにしか聞こえていないようだ。

 うるさい。少し黙ってくれないだろうか。そんな思いを込めて彼女に横目を向けていると、それに気付いたように、彼女はこちらに顔を向けてくる。二人の目が合った。

 彼女は唖然とした顔をして、歌うのをやめた。思いが通じたようだ。リュカは満足して、彼女から視線をはずす。

 残り少なくなってしまったジュースを惜しんでいると、彼女の顔がリュカの鼻先に現れた。びっくりして少し仰け反るリュカの顔をまっすぐに見据え、彼女は花が咲いたような笑顔を浮かべた。大きく切れ長な目だ。瞳は空のように青く透き通っている。

 

「やっぱり私が見えるのね!? よかった~、やっと気付いてもらえた!」

 

 彼女は今、リュカとカウンターの男との間に割り込んできている。それなのに男が何も気付いていない様子なのが、とても不思議な光景に思えた。

 

「ねえ、話があるの。ここじゃなんだし、場所変えよ。さあ、早くそれ飲んで」

 

 随分強引だなと思いつつも、リュカはジュースを飲み干し、ごちそうさま、と言ってグラスを置いて席を立った。ばいばいと手を振る男に手を振り返しながら、先を行く幽霊の後を追う。

 

 

 

 

 

「ここよ、ここ」

 

 幽霊が辿り着いたのは、リュカの家だった。

 

「この家には地下室があるの。あそこがいい感じなのよね」

 

 彼女は勝手に玄関を開けて中へ入っていく。リュカは黙って後に続いた。

 サンチョの姿は見えない。奥の部屋にいるのだろうか。父はきっと上の階にいるのだろう。静かだ。そのなかにパチパチと薪の弾ける音が鳴っている。

 部屋の片隅の、一部分だけ木になっている床。そこが地下室への入り口だ。小さな取っ手がついていてフタのようになっており、それを持ち上げると石の階段が現れた。

 地下への階段を下りていく彼女についていく。石の階段を一段一段下りるごとに薄暗くなっていき、ひんやりとした冷気が足下に満ちていく。

 階段を下りきると、凍えそうなほど寒かった。地下室は床も壁も石でできており、見た目からして寒々しい。窓はないが、蝋燭がいくつか立てられており、必要な時は明かりを確保できる。木箱や樽などがいくつも置かれている。ここは物置として使われているのだ。

 

「やっぱりいいわね、人目につかないし」

 

 幽霊が満足気に言う。

 

「話ってなに?」

「その前に、とりあえず自己紹介しよ。私はベラ。妖精よ。君の名前は?」

「リュカ」

 

 幽霊ではなく妖精らしい。妖精なんてものが存在するなんて、リュカは今まで知らなかった。

 

「リュカっていうのね。じゃあ、その子は?」

 

 嬉しそうに彼女は言って、今度はリュカの隣でちょこんと座っているソロへ目を向けた。ソロを紹介してやると、かわいいね、とソロの頭を撫でた。低めに喉を鳴らしたソロに、彼女は表情を固まらせ、手を離した。

 気を取り直すように一つ咳払いをし、彼女はリュカに向き直った。

 

「実はね、私たちの国が大変なの。それで人間界に助けを求めに来たんだけど、誰も私に気付いてくれなくて……。どうもほとんどの人間には私の姿が見えないみたい」

 

 ベラは沈痛な表情を浮かべる。

 なぜ自分には見えるのだろう。そんな疑問がちらりとリュカの頭をよぎったが、すぐに忘れた。

 

「気付いてほしくていろいろイタズラもしたんだけど、結局ダメで……。いや、悪気はなかったのよ。でも、どうしても気付いてもらいたくて」

「イタズラ?」

「うん……まあ……いろいろ物を隠したりとか……」

 

 彼女は俯く。

 今日はよく物が無くなる日だとは思っていたが、それは全てベラの仕業だったということだろうか。はた迷惑なことである。

 

「それはともかく、私たちの国に来てくれない? 手を貸してほしいの」

 

 お願い、とベラは両手を合わせてリュカの目を見つめてくる。

 私たちの国とは、妖精の国のことだろうか。妖精の存在すら知らなかったリュカにとって、妖精の国などというものは未知の世界だ。これは行かないわけにはいかない。リュカは頷いた。

 

「ほんと? ありがとう!」

 

 パッと顔を輝かせて、ベラが抱きついてくる。薄い黄色のワンピースの裾がふわりと揺れた。彼女はリュカより少しだけ身長が高かったが、不思議と重みは感じなかった。彼女の身体からは花の匂いがする。

 

「じゃあ、さっそく行こ! くわしい話はポワン様から聞いてね!」

 

 リュカから離れた彼女は、そう言って何やら呪文のような言葉を紡ぎはじめた。

 彼女の身体が光を放った。徐々に強まる光は、やがて室内を満たし、リュカは思わず目を閉じる。そして、光がおさまった気配を感じてリュカが目を開けたとき、そこにベラの姿はなかった。代わりに、彼女が立っていたところに光の階段が出現している。

 リュカはしばらく呆然とその階段を見ていた。階段は、それ自体が発光している。ソロも不審に思ったのか、しきりに匂いを嗅いでいる。

 ここは家の地下室のはずなのに、この階段はなぜか長くどこまでも続いているように見えた。天井があるはずのところを突き抜け、その先にあるはずの家のリビングも、さらにその先にあるはずの青空も、何も見えなかった。まるで階段が発する光が遮るもの全てを掻き消してしまったかのように、階段は伸びていた。

 周りを見回してみると、紛れもなくここは地下室だった。石の床と壁が確かに見える。だが、階段の周囲は白い光に塗り潰されたかのように、他の何も見えない。

 こうしていてもはじまらない。リュカは階段に足をかけた。見た目は物質的な感じがしない光の階段だったが、ちゃんと乗れた。安心して上っていく。ソロもついてくる。

 もはや周りには何も見えない。真っ白な世界のなかで目に見えるのは、階段と隣を行くソロの姿だけだった。この先に妖精の世界がある。そう思うと、胸が高鳴る。

 白い光が強まっていく。それでも歩みを止めない。

 やがて、リュカの意識さえ白く塗り潰されてしまったのかと思ったそのとき、リュカは妖精の国にいた。

 

 

 

 



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11話

11話

 

 

 

 

 

 雪が降っていた。

 小島にリュカたちは立っていた。雪が積もっており、ところどころから草が飛び出している。白く染まる息が、宙に漂い消えていった。

 白い息に引き寄せられるように視線を上げると、しんしんと降り続く雪が頬に落ちてきた。その冷たさを感じながら、リュカは雪の生まれる場所を見つけようとした。雪は、遥か上空から降ってくる。リュカの視力では見ることのできないほどの高さから。空はどこまで続いているのだろう。そんなことをふと思った。

 この小島は本来は湖に浮いていたのだろうが、今は湖は凍りついてしまっている。それほどにここは寒かった。リュカはしっかりとマントを身体に巻きつける。ソロは平然として辺りをキョロキョロと見回していた。

 小島からは、大きな蓮の葉らしき葉っぱでできた道が二本、それぞれ正反対に伸びている。本来なら水面に浮く葉っぱの上を渡るものなのだろうが、今は湖が凍っているため、せっかくの葉っぱも道しるべの役割を果たしているにすぎない。

 

「来てくれたのねっ! さあ、ポワン様のところまで案内するわ。ついて来て」

 

 声のするほうを向くと、葉でできた道をたどりさっさと歩いていくベラが見えた。何をそんなに急ぐ必要があるのか、ほとんど小走りだ。遅れないようにリュカは急いだ。氷の上を歩くとつるつる滑ってしまうが、葉の上を歩けば滑ることはなかった。

 ベラが向かう先には、巨大な木が生えていた――巨大も巨大だ。各地を旅してきたリュカも、これほど大きな木は見たことがない。見上げてみても、てっぺんの様子は見えない。全貌を知ろうと思ったら、もっと離れて見なければならないようだ。大きい、ただそれだけのことでも、度を越せば神秘性すら漂わせる。

 裾を広げて、凍った湖に足を突っ込んでいるその木は、それ自体が建物のように加工されているようだった。葉の道に面した一本の太い根っこが削られ、階段のようになっている。そこを上ると、木の幹につけられた扉に突き当たった。

 扉を開けて入っていくベラに続く。

 中には広々とした空間が広がっていた。木の匂いが充満している。この巨大な木はくりぬかれて建物のようになっているようだ。リュカは呆気にとられてキョロキョロ見回した。壁も天井も床も全て木だ。

 一階は多くの本棚がずらっと置かれていて、図書館のようになっていた。机もイスもたくさん置かれている。入り口から見て手前に机とイスは並んでいて、奥に本棚という構図だ。

 ここにはチラホラと妖精がおり、各々が黙々と読書に勤しんでいた。どの妖精も耳が尖っている。きっとそれが妖精という種族の特徴なのだろう。そしてどの妖精も女だった。妖精には女しかいないのか、それともここにいる妖精がたまたま全員女だっただけなのかはわからない。服も皆同じようなものを着ている。

 部屋の外周に沿って、階段がぐるりと上へ伸びていた。どうやら階段も木を浮き彫りにするようにして作られたもののようだ。一体誰が作ったのだろうか。大変な労力が費やされたことだろう。

 ベラは階段を上っていく。

 二階には教会があった。だだっ広い空間だ。大きな赤いじゅうたんが敷かれていて、小さな祭壇とイスがいくつも並んでいる。ただそれだけの部屋だ。神父とシスターしかおらず、ガランとしている。妖精も神を崇めているとは、リュカにはなぜだか少し不思議に思えた。

 ここの神父とシスターは見たところ人間のようだ。耳が尖っていない。妖精の国にも人間がいるとは、少々意外だった。そのことを口にすると、ベラは振り向いて言った。

 

「妖精の国といっても、妖精しかいないってことはないの。人間だって少しはいるのよ。ほんの少しだけどね」

 

 さらに階段を上ると、そこは少し様子が違った。一階には図書館、二階には教会と、ただ広い空間が広がっていただけだったのだが、三階は細かく区切られているようだ。区切っている壁も、もちろん木だ。ここも恐らくくりぬかれて作られたのだろう。広々としたスペースを作るよりも大変そうだ。

 一階と二階は静かなものだったが、三階はそこまででもなかった。妖精が何人もいるのが見えるし、姿は見えないもののそれ以上に多くの人の気配がする。とは言え、決して賑やかなわけではない。図書館や教会ほどではないが、それでも十分に静かだ。多くの気配があるうえでのこの静かさは不自然さを覚えるほどで、むしろ図書館や教会以上に静まりかえっているかのような錯覚をリュカに与えた。

 ベラはもう一つ階段をぐるりと上った。四階も三階と同じような作りだ。さらに上への階段もあるが、ベラは階段へは向かわず、まっすぐに伸びる廊下を進んだ。廊下の両脇の壁にはいくつものドアがずらりと並んでいる。

 

「ここは城に仕える妖精たちが住むところよ」

 

 ベラが振り向いて言ったが、足は止めない。彼女には似合わない、硬い表情だった。

 彼女はこの建物を城と呼んだが、別に華美な装飾が施されているわけではない。それどころか質素である。リュカの思う城とは随分と異なった印象の建物だ。

 しかし、何よりもリュカを驚かせたのは、辺りの荒らされ具合だ――そう、この階は荒らされていた。壁や床のあちこちに傷が刻まれている。刃物で切られたような跡。杭を打ちつけられたような跡。壁が突き破られているところまである。その穴から中をちらりと覗いてみると、小さなベッドに妖精が一人寝ていた。貧相な家具が少し置かれているだけの慎ましい部屋だ。じろじろと覗き込むのもどうかと思ったので、内装をはっきりと把握することはできなかったが、そこいらの宿屋よりも質素な部屋だとリュカは思った。

 そこかしこに木屑や木片などが散乱しているが、傷をつけたであろう刃物の類は見当たらない。ところどころに黒ずんだ汚れが染み付いている。一つだけ見当たった焦げ跡とはまた違った黒い汚れだ。

 ソロが大きめの木片にかじりついた。なにか新しい遊びでも思いついたのかと思いきや、あっさりと木片を捨てる。一体なにがしたいのだろうかと、リュカは首をかしげつつ歩を進めた。

 この階の廊下には、一転してたくさんの妖精がいた。妖精たちは壁に向かって手を伸ばし、目を閉じて、じっとたたずんでいる。何をしているのかは不明だが、手を向けられた部分がかすかに光っているように見えなくもない。変な連中だ、リュカは彼女らの脇を通り過ぎながら、ベラに尋ねてみた。

 

「傷ついた木を修復してるの。まあ、妖精の特殊能力みたいな感じ」

「魔法?」 

「厳密に言えば違うんだけどね。似たようなものよ」

 

 なぜこんなにも荒らされているのかも尋ねてみたのだが、その答えをベラは濁した。詳しいことはポワンという人が話してくれるらしい。

 廊下の至る所に突っ立っている妖精たちの間を縫うように、ずんずん奥へと進んでいくベラ。後に続くリュカたち。すれ違うたびに花の香りがした。妖精は皆そうなのかもしれない。

 妖精たちはリュカたちの存在に気付いているのかいないのか、何の反応も見せず、ただ目を閉じて手を突き出して立っている。

 やがて突き当たった壁には、今まで見てきたドアとは違って大きな扉がついていた。扉の表面には、奇妙な模様が刻まれている。

 

「ここはポワン様の部屋。いい? お行儀良くしなきゃダメだよ? ソロもね?」

「うん」

 

 ソロにはベラの言葉の意味が理解できているのか怪しいものだが、ソロもむやみやたらと暴れる獣ではないのだから、きっと大丈夫だろう。

 ベラが扉をノックして、中へ呼びかけた。すると中から女性の声が入室を許可してくる。と同時に、扉の模様が淡く光った。

 

「失礼します」

 

 ベラは扉を開けて中へ入った。濃厚な甘い匂いが溢れてくる。リュカたちも続いた。

 この部屋は、そこまで広くもなく、そこまで豪奢な作りでもなかった。ベラがポワン様と呼ぶ人はたぶん偉い人なのだろうと思っていたリュカは、少し意外に感じた。赤いじゅうたんが敷かれ、左右にタンスや机がいくつか置かれ、正面に大き目のベッドが置かれているだけの部屋だ。

 もちろんその家具のどれもがリュカの家のものと比べると豪華なものではあったが、偉い人が使用するものにしては地味だ。ベッドの向こう側の壁には、大きな窓が一つある。窓の向こうには、雪に白く染められた山々の景色が広がっていた。

 ベッドには女性が腰掛けていた。他に人はいないため、これがポワンという人なのだろう。今まで見てきた妖精たちは皆少女っぽい見た目だったのだが、ポワンは大人だった。ベラと同じ紫色の髪を、腰の辺りまでふんわりと伸ばしており、その間から尖った耳がちょろっと覗いている。肌は白く透き通るようだった。目はベラと同じで大きく切れ長だ。妖精たちは皆同じような服を着ていたのだが、ポワンだけは違った。まるで、極めて薄い布を何枚も何枚も重ねて羽織っているかのような、ふわふわしている霧のような服だ。どんな材質なのかはリュカには想像もつかない。

 

「ポワン様! 身体を起こしても大丈夫なんですか!?」

 

 慌てた様子でベラはポワンに駆け寄る。あまりお行儀が良いとはいえないベラを見ながら、リュカはなんとなく理解した。ベラがずっと急いでいた様子だったのは、ポワンに早く会いたかったからだ。ベラの言葉から察するに、体調が思わしくないのだろう。

 

「ええ、これくらいなら大丈夫よ。それより、その方たちは?」

「あ、はい。彼はリュカといいまして、ポワン様の命により私が連れてきた人間界の戦士です」

 

 ベラは直立して言った。ベラらしからぬ、と言うには付き合いが短いが、そう思わせるほどにかしこまった様子にさっと切り替わる。

 

「そう、ご苦労様」

「い、いえ、そんな!」

 

 ポワンに微笑みかけられ、ベラは恐縮した様子だ。

 ポワンはそんなベラの様子にもう一度微笑むと、リュカへ顔を向け口を開いた。

 

「よく来てくれました、この妖精の村へ。リュカ、実はあなたに頼みたいことがあるのです。話を聞いてもらえますか?」

 

 ここまで来ておいて、聞かずに帰るはずもない。リュカは頷いた。

 ポワンは礼を言って言葉を続ける。

 

「妖精界に代々伝わる秘宝、春風のフルートが奪われてしまったのです。あなたには春風のフルートを取り戻してもらいたいのです」

「春風のフルートがないと、世界に春が訪れないの……やがて世界が冷え切ってしまうわ。リュカ、お願い。力を貸して」

 

 フルートが奪われたのはわかったが、そんなものは自分たちの手で取り返すのが普通ではないだろうか。そんな疑問もよぎったが、それを口にすることはなかった。続けて彼女が語り始めたからだ。

 

「犯人はドワーフ。逃げ込んだ場所もわかっています。しかし、私たちには取り返すだけの力が足りないのです」

 

 ポワンは一瞬俯いたが、すぐにリュカに目を合わせた。

 

「元々妖精は力が強くないの。魔力は多少あるんだけど戦いに慣れてないから、賊が侵入してきたときもどうにもできなかったの……」

「多くの仲間が傷付き倒れました。情けないことに、私もその一人です。亡くなった者もたくさんいます。だから私はベラに人間界から助けを呼んでくるよう頼んだのです。そして現れたのがリュカ、あなたです。どうか力を貸してもらえませんか?」

 

 ポワンの声は耳に心地いい。加えて、穏やかそうな表情に、女性らしい丸みを感じさせる雰囲気は、包み込まれるような温かさをリュカに与えていた。

 リュカは頼みを受け入れた。もとより断るつもりなどさらさらなかったが。こんな冒険の気配をはね付けるわけがない。

 

「引き受けてくれるのですね? ありがとうございます」

 

 ポワンは優しく微笑んだ。そしてベラに顔を向けた。

 

「ベラ、あなたもお供しなさい」

「はい!」

 

 ベラはそう返事をすると、こちらを向いた。

 

「さあ、リュカ、急ぐよ!」

 

 リュカの手を取ると、ベラはそう言って扉へ向かう。随分と気合が入っているようだ。

 

「それではポワン様、失礼します」

 

 最後にポワンに向き直ると、そう言って頭を下げた。ぶんぶんとベラに振り回されているような心地だ。

 扉を開け、ベラはリュカを引っ張って部屋を出て、廊下を歩いていく。後ろで扉が閉まる音が聞こえた。

 ソロはちゃんとついて来ているだろうかと振り返ってみると、ソロの姿がない。リュカは立ち止まった。

 

「ん、どうしたの?」

「ソロが……」

 

 怪訝な表情で足を止めるベラ。

 そのとき、ポワンの部屋の扉が小さく開いた。その隙間からソロがひょっこり顔を覗かせる。ソロはキョロキョロと辺りを見回し、リュカと目が合うとこちらへ駆け寄ってきた。ポワンが扉の隙間からソロの後ろ姿をにこにこしながら見ている。彼女が扉を開けてくれたのだろう。扉が閉まった。

 あっという間にリュカの隣に来たソロは、リュカを見上げながら、座って尻尾を揺らしている。

 

「コラッ! ポワン様に扉を開けさせるなんて、ダメでしょ!」

 

 ベラはソロの顔を両手で挟み、無理やり目を合わせ叱る。だが、きょとんとした様子のソロに諦めたのか、ベラはため息をついた。

 

「……まあいいか。私が置いてっちゃったのが悪いんだもんね」

 

 彼女はソロの頭をひと撫ですると、歩きだす。

 

「そんなに酷い怪我してるの? ポワン様って人」

 

 ポワンに対するベラの心配っぷりが気になった。リュカが見たところ、ポワンは怪我をしている様子はなかったし、体調もそこまで酷いようには見えなかったのだ。

 

「怪我はもう治っているわ。ポワン様だけに限らず、みんなね。回復魔法で治療してるから。怪我人がいないってことだけが救いよ、今は……ほんとに」

 

 回復魔法とは、父が使うホイミのようなもののことだろう。

 

「じゃあ、何で寝てるの?」

「魔力を使い果たしてしまったの。みんなの治療はほとんどポワン様がしたから……」

 

 魔力を使い果たすと倒れてしまうらしい。確かにリュカも魔法を使って酷く疲れた経験はある。それが限界を超えると倒れてしまうということなのだろうか。だが、それなら皆で分担して治療に当たればいいのに、そう思って尋ねてみた。

 

「みんなが回復魔法を使えるってわけじゃないの。使える人は限られるうえに、多くの妖精が傷ついて倒れてたから……。回復魔法を使えて、なおかつ他人の治療をする余裕のある妖精はほとんどいなかったの」

「へー」

「今も寝込んでる妖精はいるけど、みんな魔力切れで寝込んでるの。ポワン様も本当はまだ起き上がるのも大変なはずなんだけど……」

 

 だが、リュカはふと思い出した。

 

「魔力って一晩寝たら回復するんじゃないの?」

 

 以前、自分が魔力を使い尽くしてへばっていたときは、一晩寝たらすっかり元通りだったはずだ。人間と妖精とでは種族が違う以上、そのあたりが異なっていても決しておかしいわけではないが。

 

「魔力量が少ない人なら一晩で全快することもあるけど、魔力量が多いとそうはいかないの。もちろん回復はするけど、全快には何日もかかったりするのよ」

 

 タルに水を注いでいくように、器が大きいほど満タンになるには時間がかかるということだろうか。

 だが、満タンにならずとも、回復はしているのだ。それなのに寝込んでいなければならないほどだとは、妖精とはかなり貧弱な種族なのだろうか。戦う力がないとも言っていたし、そのとおりなのかもしれない。

 

「魔力の量って増やせるの?」

 

 ベラは曖昧に頷いた。

 

「成長するにつれて自然に増えていくって感じかな。これといって増やす方法があるわけじゃないの」

 

 リュカはがっかりした。もっとたくさん魔法を使えるようになったら、もっと強くなれるのに。

 話しているうちに、階段のところまで辿り着いていた。ソロもちゃんとついて来ている。

 

「ところでさあ、私が連れてきておいてなんだけど、いいの? 簡単に協力してくれたけど」

「うん」

「なんで?」

 

 妖精の国を歩けるというのに、断るほうがどうかしている。リュカはそう思った。だが、そんなことはベラにとってはどうでもいいはずだ。

 

「……別にどうでもいいじゃん」

 

 自分の考えをわざわざ言葉にすることにわずらわしさを覚えたリュカは、端的にそう返した。

 

「ま、まあ、言いたくないならいいんだけど……」

 

 頬を引きつらせた彼女を気にとめることもなく、リュカは斜め前を行く彼女に続いて歩いた。

 木の匂いはリュカの好きな匂いの一つだ。自然の匂いが好きなのだ。妖精の国という未知への期待も相まって、リュカは今かなりいい気分だった。階段を一段一段下りる度に、マントが小さく波打つように揺れている。

 二階の教会へ来たとき、父が旅立つ前には教会でお祈りをしていることをふと思った。神に旅の無事を祈るのだと父は言っていたが、リュカは真面目に祈ったことはなかった。いつもとりあえず父の真似をして、目を閉じ少し俯くということをしているだけだ。

 今日はお祈りをしていこうか少し迷ったが、やめておくことにした。単純に面倒だからだ。

 

「犯人はどこにいるの?」

 

 トントンと杖を突きつつ階段を下りていきながら、リュカは思い出したように尋ねた。

 

「氷の館っていうところにいるみたい。この村から北の方にあるの」

「へー」

「その前にやらなきゃいけないことがあるんだけどね。今すぐ氷の館に直行すればいいってわけじゃないの」

 

 リュカは首をかしげた。

 

「氷の館の入り口は閉ざされてるらしいの。それを開ける方法を見つけないといけないんだけど……まだ見つかってないのよ」

 

 ほら、とベラは階下の図書館を指差す。

 

「みんなその方法を探してるの。私もこれから探すのを手伝ってくるから、しばらく待っててもらっていい? どれくらいかかるかわからないけど」

「……わかった」

 

 渋々リュカは頷いた。

 

「暇だろうから、村を見て回ってきてもいいわよ。興味あるんでしょ?」

 

 階段の最後の段をふわりと飛び降り、ベラはリュカに顔を向けて花のように笑った。リュカの妖精の国への興味は見抜かれていたようだ。

 

 

 

 

 

 最初の小島から、城とは反対方向へのびる葉の道の先にあった小さな村落にリュカ来ていた。

 一面に薄く雪が積もっており、ところどころから植物が飛び出している。木も何本も生えているが、どれも葉の一枚もなく、表皮を薄く雪で染められている。まるで無機質な造形物のようだった。

 建物は全て木造だった。どれも慎ましやかな建物である。今まで見てきたことから察するに、妖精という種族は清貧と言っては大袈裟かもしれないが、それに近いものを感じさせる。無駄に飾り立てるようなことはせず、自然の素材を大いに生かして生活しているようだった。

 建物はけっこうあるが、人気はほとんどない。静かな村だった。どの建物も白く染められている。

 小屋のような建物が並ぶなか、一つだけそれとは異なる目立った建物がある。巨大な切り株の建物だ。外見はただの切り株――と言っても相当大きい――だが、側面にドアと窓がついているのが見える。きっとさっきまでいた城と同じように、中身をくりぬかれているのだろう。

 その切り株の建物の前には、普通の大きさの切り株がいくつも並んでいる。その前に丸太を真っ二つにしたようなテーブルが置かれているのを見るに、恐らくイスの代わりなのだろう。

 切り株の建物に入ってみようと、リュカはいつの間にか木に登って遊んでいたソロを呼び、建物に近寄っていく。呼ばれたソロは、木の上からぴょんと飛び降り、こちらへ駆け寄ってきた。すごい運動神経だと、リュカは感心した。

 入ってみよう、といったものの、何も他人の家に勝手に上がりこもうなんてことを考えているわけではない。切り株の建物のドアの横には「INN」と書かれた札が掛かっていたのだ。これは宿屋の記号だということをリュカは知っている。

 地表に露出した根っこの部分は階段状に削られていたが、それはほんの数段だけのものだった。ドアはそこを上った先にある。

 雪で滑らないように少し慎重に階段を上り、ドアに手をかける。

 リュカに開かれたドアは、小さく軋んだ音を立てた。中から暖かい空気が漏れ出してくる。

 左手にカウンターがあるが、そこには誰もいなかった。右手には暖炉といくつものイス、テーブルが置かれた広間のようなスペースが広がっている。そこはいろんな人で賑わっていた。奥の方にはいくつものドアがある。きっとその奥には客が泊まるための部屋があるに違いない。

 パチパチと暖炉から温かな音がする。周囲を包む壁、床、天井の木の色が暖かく照らされていた。

 

「おや、お客さんかい? 珍しいこともあったもんだ」

 

 右手の広間にいた小さな男がこちらを見て声を上げる。小さいと言っても、それは身長だけだ。身長は低いが岩のようにがっちりした体形の、ひげ面の男だ。岩男はイスから腰を上げると、のしのしとこちらへ歩いてくる。

 

「坊主、人間か? こりゃまた珍しい!」

 

 彼はリュカと同じくらいの身長だった。リュカの顔をまじまじと覗き込み、また驚いたような声を上げる。彼は土のような匂いがした。

 

「ほう、嬉しいのう。同族に会えるとは。坊や、こっちへおいで」

 

 老人が声をかけてくる。その言葉からして、彼は人間なのだろう。暖炉の前のイスの背もたれにゆったりともたれて、こちらへ目を向けている。老人の膝にはスライムが乗っていた。奇妙な光景だ。

 

「かわいらしい客だナ」

 

 骸骨がカタカタと笑った。リュカはギョッとし、思わず目を見開いた。骸骨はイスには座らず、床にあぐらをかいている。

 

「あなたでもかわいらしいなんて言うのね」

 

 イスに座った妖精がからかうように言うと、骸骨は不気味に笑い声を立てた。

 岩男に肩を抱かれ、リュカはその一団のなかへ連れて行かれた。岩男と老人、骸骨、妖精、そしてスライム。妖精の村にでも来ない限り、こんな一団に出くわすことはないだろう。

 岩男に促され、リュカもイスに座った。岩男はリュカの隣のイスに座った。

 一つのテーブルを囲むことになったリュカたちだが、骸骨だけはそっぽを向いて暖炉を眺めている。

 

「うわ! そ、そ、そ、そいつは! ま、まさか!」

 

 スライムが突然奇声を発して飛び上がり、老人の後ろに隠れた。目だけを覗かせ、こちらをうかがっている。目線はソロに向いているようだ。

 

「どうしたんじゃ、突然?」

 

 老人がスライムに顔を向ける。そこでスライムの目線に気付いたのか、ソロに顔を向けた。

 

「ほう! キラーパンサーの子どもを従えておるのか!?」

「やっぱりー!」

 

 泣きそうな声でスライムが悲鳴を上げる。

 ソロはわずらわしそうに一瞬スライムに目を向けたが、何をするでもなく、リュカの足下に座った。

 

「どうしたの?」

 

 リュカは首をかしげる。

 

「キラーパンサーは、地獄の殺し屋という異名もあるほどに怖れられておるんじゃよ。スラぼうが怖がるのも無理はないのう」

 

 ソロはそんなに物騒な生き物なのだろうか。ふと目をやると、ソロは大人しく座って、キョロキョロと辺りを見回している。とてもそうは見えない。

 

「魔物を従える者はまれにおるが、まさか子どもとは言えキラーパンサーが人に懐くとは……信じられんのう」

「へえ、おめえ魔物使いカ。道理でな……。俺は人を見るとぶっ殺してやりたくなるんだけどヨ、おめえにはそんな気にならねエ」

「それはお前さんの邪気が薄れてきておるからじゃよ。もちろんそれもあるかもしれんが」

「馬鹿言ってんじゃねえヨ」

 

 骸骨が笑う。骸骨が笑うたびに、カタカタと乾いた音が鳴る。骨と骨がぶつかり合う音のようだ。

 

「この爺さんも魔物使いなんだぞ」

「端くれじゃがな」

 

 スライムはこの老人が従えているのだろうか。そう尋ねてみる。

 

「そうじゃな。ただ、従えるという言葉は誤解を生むかもしれん。わしにしてみれば、そうじゃな……我が子のような感覚が強いかもしれん。どうじゃ? 坊やにとってそのキラーパンサーはどんな存在じゃ?」

「……友達」

 

 老人は微笑んだ。

 

「うむ、それで良い。魔物使いのなかには、時折勘違いしている輩もおる。まるで魔物が己の手先、あるいは道具であるかのようにな。しかし、それは間違いじゃ。魔物は生き物。そして、魔物使いにとっては共に歩む仲間じゃ。色々な関係性はあっていいと思うが、尊敬を持って接してやらねばならん」

「尊敬?」

 

 老人は、老人らしく難しいことを言う。

 

「そう。魔物使いである坊やには、魔物が己に従順な手下のように思えてしまうときがくるかもしれん。しかし、魔物にも心はある。それを忘れてはならん。まあ、これは言うまでもないほどに当たり前のことじゃ」

 

 老人はスライムの頭をポンポンと優しく叩いた。ぷるぷると身体が波打ち、スライムは楽しげに笑う。老人は、スライムのソロへの恐怖も取り除いてしまったようだった。

 

「ここからが大事なんじゃが、魔物は我々人間とは異なる生き物じゃ。我ら魔物使いにとって、魔物がどんなに大人しい、人畜無害な生き物に思えても、魔物は魔物じゃ。心の内に魔物としての本能を抱えておる」

 

 魔物としての本能とは、どういうことだろうか。凶暴性とかそういうことだろうか。リュカにはよくわからなかった。

 

「その魔物としての本能は、人間から見れば唾棄すべきもののように感じることもあるかもしれん。しかし、そこから目をそらしてはならん。そこをしっかりと見つめ、受け止めてやらねばならん。そうすることで、真に相手のことを理解し、仲間となれるんじゃ。そうすることが、我らと共に歩んでくれる魔物たちへの尊敬の形じゃと、わしは思う。もちろん、魔物に好き勝手暴れさせてやれと言っているわけではないぞ」

 

 老人がなにを言っているのか、リュカにはちんぷんかんぷんだった。だが、なにか大切なことを言われているような気がする。不思議と聞き流す気にはならない。

 

「爺さん、坊主が困ってるぞ。話が難しすぎるんじゃないか?」

「これだから年寄りの説教は……」

 

 岩男と妖精が呆れたような顔をしている。

 

「おお、すまんすまん。要するに、そのキラーパンサーの子どもは、坊やにとって大人しい友達のように思えているのかもしれんが……今も大人しくしとるしな。じゃが、その子がキラーパンサーであることは事実。坊やが驚くほどの残虐性をあらわにするときがきっとくる。そのときに、その子を嫌いになっちゃいかんぞということじゃ」

 

 ちょっと違うか、と老人は笑った。

 ソロを見ると、前足を舐めてはその前足を頭に擦り付けたりしている。その姿からは残虐性など垣間見ることもできない。ビアンカがソロを猫呼ばわりしていたのもわかる気がした。

 

「すまんのう。年を取ると、坊やのような少年を導いてやりたくなってしまうんじゃ。余計なお世話じゃったな」

「年寄りは余計な世話を焼きたがるものよ。聞き流してあげて」

 

 妖精が大きく切れ長な目を細めてリュカに言うと、老人はさらに笑った。

 

「ところで、君はどうしてここにいるの? 人間がそう簡単に来られるところじゃないはずだけど」

 

 リュカは、自分が妖精の国へ来た経緯を簡単に説明した。

 

「へぇ、ベラは人間界へ戦士を探しに行ったって聞いたけど……それじゃあ君が人間界の戦士なの?」

 

 というより、単にベラが自分以外の人間に気付いてもらえなかっただけのことだろう。

 妖精は胡散臭そうにこちらを見ている。リュカ自身、自分が戦士と呼ぶには若干勇ましさが足りないということは自覚している。だが、かといってあまり下に見られるのも面白くはない。

 

「子どもだと思って侮ってはならんぞ。子どもは時に思いもよらないことをやってのけるもんじゃ」

「……まあ、いいけどね。それじゃあ氷の館へ行くの? 春風のフルートを取り戻しに?」

 

 リュカは頷いた。

 

「でも氷の館は閉ざされていると聞いたけど……どうするの?」

 

 今、ベラをはじめとする妖精たちが方法を探していることを、リュカは伝えた。

 それより、この妖精はこんなところで一体なにをしているのだろうか。ふとリュカは疑問に思った。城は今大変なことになっているようだった。みんな城の修繕をしていたり、氷の館を開く方法を探していたり、寝込んでいたりするという話だったが。

 

「図書館には確かにいろんな本があるけどなぁ……扉の開け方なんて書いてある本があるのかね? 鍵穴があるなら、開けてやれる自信はあるんだがなぁ」

「ピッキングってやつ? ドワーフってほんとそんなのが得意よね」

 

 妖精がため息をつく。

 

「ドワーフ?」

 

 リュカが首を傾けた。

 

「ん? ドワーフを知らないのか? まあ、妖精の一種みたいなもんだ」

「おじさん人間じゃないの?」

「人間だと思ってたのか?」

 

 リュカは頷いた。岩男はドワーフという生き物らしい。ドワーフは豪快に笑った。

 

「馬鹿ね。人間はこんなにチビじゃないでしょ」

「チビとはなんだ。お前だってたいして変わらんだろう?」

 

 確かに妖精もそんなに大きくはない。リュカより少し背が高いくらいだ。

 

「アタシはまだ若いのよ。身長だってまだまだ伸びるわ。でもアンタはおっさんじゃない。もうこれ以上伸びはしないわよね」

「なに?」

「よさんか。客人の前じゃぞ」

「ケケケ……いっそ殺し合エ」

 

 若干ピリピリした場を老人がたしなめる。

 ドワーフはばつの悪そうな顔で咳払いをした。

 

「そうだな……うん。それで? 氷の館はどうやって閉ざされてるんだ? 鍵なら開けてやれるかもしれんぞ」

「鍵穴みたいなものはないらしいわ。魔法をぶつけてみても開かなかったらしいし。もうお手上げだってぼやいてたわよ」

「なんだそりゃ。中からじゃないと開閉できないってことか? 実際に見てみんとよくわからんな」

 

 力技でも無理だということは、中から開けてもらうのを待つしかないのだろうか。案外、入り口の前で待ち伏せしていれば、いつか扉が開くのではないかとリュカは思った。篭もりっきりでは餓死してしまう。

 

「だいたいポワン様は甘いのよ。だから付け上がってこんな真似をするやつが出てくるんだわ。上に立つ者はもっと威厳がなきゃダメね」

 

 妖精はイスの肘掛に右肘を立て、頬杖をつき、足を組んだ。眉をひそめて、愚痴るように言う。

 

「それも一つの意見じゃろうな。しかし、その優しさこそがポワン様の魅力なのではないか?」

「そうだよ。ポワン様はほんとに優しいよ。だってボクみたいなスライムでもここに住ませてくれるんだもん」

 

 諭すように穏やかに言う老人に、スライムも続いた。

 

「甘いのか優しいのカ、どっちなんダ?」

 

 骸骨のその言葉を、皆意図的かどうかはわからないが無視したようだった。

 

「それはわかってるわよ。でも、先代の頃はこんなことは起こらなかったわ。みんな先代の怒りに触れることを怖れてた。そのおかげで馬鹿な真似をするやつもほとんどいなかったのよ」

「でも、全くいなかったわけじゃないよな。そしてポワン様の代になってからは、大きな事件といえばこの一件くらいだ。どっちのやり方が正しいかなんて、今の段階ではわからんよ。ポワン様はまだ長になって日が浅いんだし」

「春風のフルートが盗まれるなんて大事件は前代未聞よ。軽く見ていいことではないわ」

 

 頬杖をついた手の人差し指で、彼女は頬をトントンと叩く。

 

「犯人はドワーフだったナ? そういや先代に追放された馬鹿もドワーフだったっけカ。何やって追放されたんだっけなァ」

 

 骸骨がニヤニヤして言う――実際には骸骨に表情などないため、ニヤニヤしているかなんてわからないのだが、リュカは骸骨の口調からそう感じた。

 

「そうだ! 鍵の技法だ! 鍵の技法を編み出したんだ」

 

 ドワーフが跳ねた。

 

「ああ……聞いたことあるような気がするわ。なんだっけ?」

「どんな鍵でも開けてしまう技じゃったかのぅ? よくわからんが」

 

 老人と妖精は首をかしげている。

 

「俺も話でしか聞いたことはないけど、効力は爺さんの言ったとおりだ。どうも魔法のようなものらしい」

「胡散臭いわねぇ。どんな鍵でも開けるって? しかも魔法? 確かにドワーフは器用な連中ではあるけど……魔法を開発したって言うの?」

「はっきりとしたことはわからんよ。だが、先代がその効力を危険視して追放するほどのものであったことは確かだ」

 

 その鍵の技法とやらを使えば、氷の館を開けることもできるかもしれない。そう思ったリュカは尋ねてみた。

 

「その人ってどこにいるの?」

「ん? 追放されたドワーフのことかい?」

 

 リュカは頷く。

 

「ここから西にある洞窟にいるはずだが、行くつもりかい?」

 

 リュカは再び頷いた。

 

「鍵の技法をもらいにいこうっていうの? 眉唾物だと思うけどね。しかも魔法だっていうんだから、ちょうだいって言って、はいどうぞってわけにはいかないかもしれないわよ?」

 

 確かに、鍵の技法が魔法だとしたら、どうしたら習得できるのか、リュカには想像もつかない。だが、ここでじっとしているよりは有益な時間になるだろう。行ってみても損はないはずだ。それにリュカが妖精の国に来たのは、宿屋で雑談に興じるためではない。妖精の国を見て回るためなのだ。

 

「行動力があるのう。少年はそうでなくてはならん」

「行くんだったらベラも連れていきなさい。魔物だって出るんだから。あの子が戦力になるかどうかは微妙だけど、頭数は多いほうがいいでしょ」

 

 リュカは頷きを返しながら、立ち上がる。ソロも立ち上がった。

 

「ていうか、泊まっていかないのかい? お客さんだろう?」

「ちがうよ」

「違ったのかい」

 

 彼らに手を振りながら、リュカはその場を後にする。気をつけてな、という声を背に受けながら、ドアを開けて外へ出た。冷たい空気がリュカの身を襲う。

 

「あっ、リュカー!」

 

 リュカがマントをしっかりと身体に巻きつけながら、階段を一段一段慎重に下りきったとき、自分を呼ぶ声がした。声の方へ目をやると、ベラが駆け寄ってきている。

 

「ここにいたのね。探したわ」

 

 リュカの前まで来た彼女の吐く息が白く染まっている。

 

「どうしたの?」

「見つかったのよ。氷の館を開ける方法」

 

 ベラが語った方法とは、鍵の技法であった。盗み聞きでもしていたのかと疑ったリュカであったが、ベラが言うには、鍵の技法について書かれた本が図書館にあったとのことだった。鍵の技法について書かれたというよりは、鍵の技法を編み出したドワーフに先代が罰を与えたという歴史がささやかに記されていたにすぎなかったようだが。

 

「でもね、当時のことを覚えてらっしゃる方がいたの。その方が言うには、そのドワーフは西の洞窟に追放されたんだって。ねえ、行ってみようよ」

 

 こうしてリュカたちは西の洞窟へ向かうことになった。

 

 

 

 



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12話

12話

 

 

 

 

 

 妖精の村は、森に囲まれたところにあった。今は冬だからか葉も落ち、すっきりとしたものだが、そうでなければ鬱蒼としていたのだろう。すっきりとした、と言っても、森にしてはということだ。森というだけあって木々はたくさん生えており、視界が良好というわけにはいかない。

 足下には雪が積もり、木々にも雪が薄くまとわりつき、白い景色が周囲一面に広がっている。そんな森をリュカたちは西へ進んでいた。

 リュカは短いブーツを履いていたため、雪に足が沈み込んでもそこまで冷たさを感じることはなかった。

 ブーツをはじめ、リュカが身に着けている衣服は当然パパスが買い与えたものだ。パパスは危険の多い旅のなかに身を置いているためか、ただの衣服ではなく、防具としての役割も果たすことのできるものをリュカに身に着けさせていた。リュカのブーツは、一見灰色のくたびれた布で作られている粗末な品のようでいて、実は雪にいくら触れていてもびっしょりと中まで濡れてしまうことはなかった。

 そのことに感謝をしつつ、裸足のソロや、草履っぽいものを履いていたベラは大丈夫なのだろうかと、彼らに目を向ける。

 ソロにはこの雪は少し深すぎるようだった。足が根元近くまで埋まり、腹が積もった雪の表面を擦ってしまっている。寒さを感じているようには見えなかったが、歩き辛そうで、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして前に進んでいた。

 一方ベラは、足が沈むこともなく、雪の表面を軽やかに歩いていた。どういう原理なのだろう、と首をかしげているリュカに彼女は顔を向け、口を開く。

 

「春には桜が満開で、すっごい綺麗なの。城も桜を咲かせるんだから」

 

 あの木をくりぬいて作られた城のことだろうか。あれだけ手を加えられても生きているというのは、恐るべき生命力である。もっとも、常識では考えられないほど大きく育った木なのだから、常識では計れないものがあるのも当然なのかもしれない。

 

「リュカにもあの景色、見せてあげたかったな。絶対気に入ってくれるはずだもん」

 

 夢を見るような顔で、ベラは宙を見上げた。きっと満開の桜の光景を思い浮かべているのだろう。

 あの巨大な木を見れただけでも、リュカは妖精の国を気に入っている。あれが美しく桜を咲かせるとなれば、ベラの言うとおり間違いなく気に入るだろう。そう思うと惜しいような気がした。

 

「だからこそあのドワーフは許せないわ。もちろん、ポワン様に傷を負わせたってだけでも許せないんだけどね。さっさと、とっちめてやらなきゃ!」

 

 一転、むっとした表情を浮かべるベラ。

 

「ポワン様って弱いの?」

「そんなことないわ! ポワン様はすごい魔法を使えるんだから!」

 

 そしてベラは再び表情を変えた。コロコロとよく変わる表情だ。

 

「でもポワン様は優しいから……。犯人とはいえ傷つけることができなかったの」

 

 それで自分がやられてるようではどうしようもない。リュカはそう思った。

 話を聞く限り、どうやらベラはポワンに心酔しているらしい。彼女のポワンに対する言葉は、話半分に聞いておいたほうがよさそうだ。

 

「それにしても、なんであのドワーフはフルートを盗んだんだろ? 春が来なかったら、ドワーフだって困るはずなのに……」

 

 ぶつぶつと一人で呟きながら、足下を見つつ歩くベラ。彼女なりに真剣に考えているのか、真面目そうな表情だ。

 何を悩むことがあるのだろうか。そんなことを思いながら、リュカは歩く。犯人が何を考えていようと、重要なのはフルートを盗まれたという事実だ。それを取り返さなければならないということは変わらない。

 足跡一つない雪面に自分の足跡を刻むのは、意外と気持ちの良いことだ。どうしてこんなことで僅かながらでも快感を得られるのだろう。そんなことを考えながら、そんなことよりも、重要なのは快感を得られているという事実だと思いついた。

 どうでもいいことを考えてしまうのは誰もが同じなのかもしれない、なんてことをリュカは朧気に思ってみたりした。だから、ベラが犯人の動機なんてものを考えてしまうのも仕方のないことなのだ。それをどうでもいいなどと切り捨ててしまう自分にとっては、犯人の動機よりも雪面に足跡を刻むことの方が重要度の大きなことだったのだろう。

 だいたい、フルートを取り返さなければ世界が凍りついてしまうなんて言われたはいいが、そんなことを言われたところで実感が湧くはずもない。リュカには、世界が凍りつくのを阻止しようという思いが全く無いわけではないが、それがフルートを取り戻しに行く動機になっているかと問われれば首をかしげざるを得ない。

 結局のところ、リュカはフルートが盗まれたという事件自体に対しての興味が薄いのだ。その辺りがベラとは根本的に違うのだろう。リュカはただ妖精の世界を旅することに魅力を感じたにすぎない。

 そんな、それこそどうでもいいことを考えながら、リュカは歩を進めていた。代わり映えのない景色が続く。同じような木と、ただひたすら白いだけの雪面。

 物音もほとんどしない。聞こえるのは、リュカの足音と、ソロの雪の上を飛び跳ねる音、そしてベラの話し声だけだ。不思議とベラの足音はほとんど聞こえない――耳を凝らせばかすかに聞こえるものの、意識しなければ聞こえない。

 そんなベラの分も音を立ててやろうとしているのかどうかは定かではないが、ソロの立てる音は割りとやかましかった。派手に雪を散らしながら進んでいる。足のほぼ全てが埋もれてしまうのだから不可抗力なのかもしれないが、それでは疲れるだろうなと、リュカは少し心配した。

 

「意外と魔物出ないね。最近魔物が増えてきたって聞いてたんだけど」

「寒いからかな?」

「どうだろうね? 魔物も寒さに弱かったりするのかな? 冬眠とかしてたりして」

 

 そういたずらっぽく笑うベラは、花のようなという表現が実に似合っていた。

 それに、着ている服も、茶色と黄色の中間のような色のワンピース。装飾品と呼べそうなものも、腰に巻かれた茶色い紐と、そこにぶら下げられた木の実のような赤い球だけだ。武器らしきものも、腰の紐に差してある木でできた杖のみ――細い木の枝のような杖だ。このように、身に着けているものも、どこか植物っぽいものばかりだ。

 彼女は花のような匂いもするし、妖精というからには、花から生まれたのだと言われても納得できるとリュカは思った。

 取り留めのない話をしながらしばらく歩いていると、突然ベラが何かに気付いたように声を上げる。

 

「魔物だ! やっぱり出てきた……」

 

 ベラの視線を先を見ると、木の上になるリンゴが一個あった。割と離れたところに生えている木だ。リンゴにしては大きい。緑色で、あまりおいしそうではない。

 突如ソロが飛び出した。近くの木を瞬く間に駆け上がり、枝まで来ると、跳んだ。隣の木の枝に飛び移ると、間を置かずすぐさま跳び、隣の木へ。木から木へと跳んでいるというのに、危うさを全く感じさせず、まるで地を駆けるようにスムーズに移動しているソロは、リンゴのなっている木に向かっているようだ。

 リュカたちは後を追った。雪のせいで多少走りにくいが、それほど問題はなかった。ベラに至っては、ひらひらと舞うように駆けている。

 ソロは、リンゴのなっている木の隣の木まで来ると、大きくリンゴ目掛けて跳んだ。鋭い爪がきらめく。その両前足はリンゴに振り下ろされた。爪が突き立てられる。

 悲鳴とともに、リンゴはソロもろとも地面に落下した。のた打ち回るリンゴに、目と口が一つずつあるのが見える。リンゴはカッと目を見開き、口を大きく開けて、悲鳴を上げ続けていた。

 前足でリンゴを押さえつけていたソロであったが、おもむろに口を開ける。鋭利な牙が覗く。ソロは、リュカが予想したとおり、リンゴにその牙を突き立てた。一際大きな悲鳴が上がる。ソロはリンゴをかじり取ると、咀嚼していた――食っているのだ。リンゴの身体の一部分が欠けてしまっている。飲み込むと、もう一口食べた。さっきまでのた打ち回っていたリンゴが、動きを止める。悲鳴も止んだ。

 しばし、静寂がこの場を支配した。

 

「ひ、悲惨な光景ね……よっぽどお腹がすいてたのかな? リュカ、ちゃんとご飯あげてる?」

 

 すぐにソロのところまで辿り着いた二人は、傍らでやることもなく突っ立っていた。

 

「あげてる」

 

 ソロのエサはサンチョに用意してもらっているのだが、自分で調達できるのなら、わざわざ用意してやる必要もないのかもしれない。そういえば、アルカパでも自分でエサを取ってきたりもしていたな――そんなことを考えながら、リュカはソロの食事を眺めていた。

 いい食べっぷりだ。だが、見ていても食欲が湧いてくる光景ではないだろう。

 

「なんていうか……自然界の厳しさを垣間見た気分ね……」

 

 眉をひそめて見ていたベラはそう呟いた。

 

「こいつ、なんていう魔物なの?」

「ガップリンっていう魔物よ。けっこうやっかいな魔法とか使ってくるんだけど……そんな暇もなかったみたいね」

 

 顔の部分だけを残して、ソロはガップリンから離れた。顔は食べたくなかったのだろうか。顔だけを残されたガップリンは、気味の悪い仮面のようで、見る者に不快感を与えた。

 

「もういいの? じゃあ、行こっか」

 

 腹がふくれたからか、どことなく機嫌の良さそうなソロにベラは声をかける。だが、その言葉に反してソロはその場で横になった。そして、ゆらりと尻尾を揺らして、満足げな顔で目を閉じる。雪に身体が沈みこんでいるが、気にした様子もない。どうやらソロは寒さに強いようだ。

 

「え? ちょっと、寝るの?」

 

 ベラが驚く。

 リュカとしてはできればこのまま寝かせてやりたいところだが、さすがに今はそうもいかない。どうにかしてくれ的な顔でこちらを見ているベラのためというわけではないが、リュカは口を開いた。

 

「ソロ、起きて。行くよ」

 

 リュカは心を鬼にして言った。ソロはしぶしぶといった様子で目を開け、もたもたと身体を起こした。ベラが安堵したようにため息をつく。

 

「獣らしいと言えばらしいか……」

 

 あくびをしているソロに、ベラは疲れたような目を向ける。そして歩き出すベラに、リュカたちは続いた。哀れなリンゴの亡き骸を残して。

 

 

 

 

 

「あっ! 森、抜けたね!」

 

 急に視界が開けて、リュカはパッと顔を前に向けた。

 森を抜けるというのは、なにげに大変なことなのだ。それは魔物が出やすいということだけが理由なのではない。小規模な森であっても、未熟な人間なら簡単に道に迷い、遭難をすることさえある。最後まで脱出できないことはもちろん、もう少しで森から抜け出せるようなところで力尽き、息絶えてしまう者さえいるのだ。

 しかし一行は、ベラの先導により迷うこともなく進めた。妖精というのは森を歩くことを苦としないのだろうか。妖精とは不思議な生き物だ。リュカはそう思った。

 視界を遮る木々が無くなり、一面の銀世界が広がる。決して日差しが強いわけではないが、雪に反射しているのか、眩しい。リュカは目を細めながら、広がる景色をざっと見渡した。

 目の前に広がる平原を、小山が連なって帯状に斜めに走っている。小山と言ってもなだらかで、草木が茂っているわけでもない。少し傾斜のきつい丘のようなものだ。

 

「どっちに行くの?」

「この山並みに沿って行くの。ちょっと遠回りになるけど、その方が安全だしね」

 

 危険を避けて迂回するというのは、よくあることだ。

 その山並みは緩やかなカーブを描いていた。それに沿って歩く。

 魔物も出てこない。元々、このような開けたところでは魔物は出てきにくいものだが、全く出てこないというのは珍しい。さきほどベラが言ったように、寒さに弱く、活動的ではなくなっているのだろうか。父と旅をしているときは、冬でも普通に魔物と遭遇したような気もするが、そんなものはあやふやな記憶でしかない。

 そもそもここは人間界ではないようだ。向こうと同じ考えが通用するとは限らない。

 

「ここって妖精の国なんでしょ? それって僕がいた世界とは違うってこと?」

「ええ、そうよ。言ってなかったっけ?」

 

 リュカは首をひねった。それっぽいことを聞いてはいたのだが、はっきりと聞いてはいなかったはずだ。

 しばし無言の時のなか、雪を踏みしめる足音だけが響く。

 

「遠いの?」

 

 うーん、とベラは腕を組んだ。

 

「遠いというか……次元が違うのよ。って、難しいよね。要するに、繋がってないっていうのかな。基本的には行き来できないの」

「でも来たよ」

「全く繋がってないってわけじゃないの。人間界、つまりリュカがいた世界との接点も少しだけあるのよ。それに、妖精は人間界と妖精界を繋ぐゲートを作ることもできるの」

「ゲート? 光る階段みたいなやつ?」

 

 家の地下室から伸びたあの階段をリュカは思い浮かべる。

 うん、とベラは頷いた。

 

「でも、むやみやたらにゲートを作ることはできないんだけどね。本当に必要があるとき以外は、行き来しちゃいけないことになってるの。私もポワン様の指示があったから、リュカの村に行けたのよ」

 

 へー、とリュカは感心したような声を漏らす。あんな階段を作り出せるなんて、妖精とは不思議な力を持っている。戦いに関してはたいした力を持たないという話だが、それ以外の分野で言えば、妖精は計り知れない力を持っているとリュカは感じていた。

 雪を踏みしめる音が絶えず聞こえる。リュカはもう雪に足跡を刻む快感を感じることもなくなっていた。単に飽きたのだ。

 向こうから、同じような小山の連なりが迫ってきた。そちらもまたカーブを描いていて、やがて二つの山並みは細い道を縁取るように、横並びになった。

 間の谷のような道をリュカたちは進む。

 

「接点っていうのは? どういう意味?」

「そのまんまよ。つまり、リュカたちの世界と妖精の世界を繋ぐ場所があるってこと。そこからなら、行き来できるの」

「それって、どこ?」

 

 今回きりで妖精の世界と永遠におさらばするのは惜しい。そう思っての質問だったが、ベラは申し訳なさそうな顔を浮かべた。

 

「ごめんね。それはあんまり教えちゃダメだってことになってるの」

「なんで?」

 

 リュカは首をかしげた。

 

「やっぱり別の世界なわけだから、多くの人が行き来するのはあまり健全じゃないらしいわ。それを避けるためにも、接点がどこにあるかを教えるのは控えなきゃいけないの。もちろんゲートを使って行き来するのもね」

 

 健全じゃないとはどういう意味だろうか。妖精の世界に人間がたくさん訪れたら、何か問題があるのだろうか。ややこしいことにはなりそうだ。リュカに考えつくのはその程度だった。

 

「それにね、大昔いろいろあったらしいのよ」

「いろいろ?」

 

 首をかしげるリュカに、彼女は頷き、うっすらと雪面に足跡を残しながら言葉を続けた。

 

「私も詳しく知ってるわけじゃないんだけど、昔、妖精の王女様が人間界に勝手に行っちゃったんだって」

「へー」

「それでね、いろいろあった挙句、魔族とくっついちゃったんだって! ビックリよね」

「くっついちゃったってなに?」

 

 興奮した様子のベラに、リュカはたずねた。

 

「え? くっついたっていうのは……恋人になっちゃった、みたいな」

 

 なぜか照れたように彼女は言った。

 なんだかよくわからなかったが、要するにビックリするようなことが起こってしまったということだろう。だから勝手に行き来するのは禁じられているということのようだ。

 だが、妖精の村には人間が住んでいた。それは構わないのだろうか。気になったリュカは尋ねてみる。

 

「迷い込んで来る人もいれば、自分で接点を見つけ出してこっちに来る人もいるの。そんな人たちをわざわざ追い出さなきゃいけないってほど、厳しくもないみたい。要は、人間が来ちゃいけないっていうよりは、人間を呼び込むような真似は控えろってことらしいわ」

「ふーん」

 

 またビックリするようなことが起こっても知らないぞ、とリュカは思った。随分緩いルールだ。とは言え、これはリュカにしてみれば朗報である。自力で接点を見つけ出す分には構わないということだ。いずれ必ず見つけ出してみせる。リュカはひそかに決意していた。

 谷は緩やかに左へ曲がっていたが、しばらく歩いているとまっすぐになった。この道の先に森が広がっているのが見える。

 

「あの森を越えた先に洞窟があるの。森って言ったって、ちょっと森の端っこを通り抜けるだけだからね」

 

 安心させるようにベラは言うが、旅慣れたリュカにとってこの程度の道のりはどうということはない。ソロも特に疲れた様子はない。

 リュカたちはすぐに森まで辿り着いた。先ほどの森と同じく、枯れ木ばかりだ。一気に視界が遮られ、代わり映えのない景色のなかをリュカたちは進む。

 

「ん?」

 

 足下を覆う雪から、針のように細長いものが何本も飛び出ていた。ちらりと視線をやったリュカだったが、素通りする。あんな植物などそんなに珍しいものではあるまい。

 

「どうしたの、ソロ?」

 

 そんなベラの声に振り向くと、ソロが針の匂いをしきりにかいでいるのが見えた。ひとしきりかぎおえると、おもむろにそこを掘りはじめた。

 何とはなしにその様子を眺めていると、ソロは緑色の何かを掘り当てたようだった。さらに掘り進めると、その全貌が明らかになる。

 

「サボテンだ」

 

 地面から半球のように覗いているサボテン。

 そのとき、サボテンが動き出した。左右に身じろぎしているが、地面に身体が半分埋まっているためか、大きくは動けない。サボテンは大きく目を見開いている。

 その様子を、興味深げにソロが見ている。

 

「生きてるの?」

 

 妖精の世界のサボテンというのは動くものなのだろうか。そう思っていると、ベラが口を開いた。

 

「サボテンボールだ。なんで地面に埋まってるんだろう?」

 

 やはり冬眠でもしていたのだろうか。そんなことを考えていても仕方がない。

 

「行こ」

 

 リュカは皆を促す。相手をしても仕方がない。リュカが歩き出すと、ベラが続いた。ソロも、名残惜しげにチラチラ振り返りつつ、付いてきた。

 ホッとしたように、サボテンは動きを止めた。

 

 

 

 

 

 森を抜けると、そこまで広くもない平原が広がっており、その向こうには険しい山脈が壁のようにそびえていた。

 

「ほら、見えるでしょ? あれが洞窟の入り口だよ」

 

 ベラは山脈を指差していた。よく見ると、山のふもとにぽっかりと穴が開いている。

 リュカたちは心持ち早足になっていた。そして何の障害もなく、洞窟の入り口に辿り着いた。

 山の体内を抉る洞窟。内部がどうなっているかはわからない。外から見ると、中は闇に包まれていて、何もうかがい知ることはできないのだ。そんな洞窟を目を凝らして覗き込んでいるとき、リュカの胸はドキドキと高鳴る。先の知れない道へ踏み出すことへの不安と期待。様々な感情が胸に渦巻いているこの瞬間が、リュカの冒険心をくすぐるのだ。

 

「ふーっ! やっと着いたねー」

 

 晴れ晴れとした顔をしているベラは、ここからがはじまりだと言っても過言ではないということを理解しているのだろうか。ベラは旅慣れていないのだ、リュカは確信した。

 ソロは洞窟に顔を突っ込み、鼻をヒクつかせて何やら探っているようだ。匂いを嗅いでいるのだろうか。そんなことをして洞窟の何がわかるのか、リュカには理解できない。

 

「行こ」

 

 放っておいたら、じゃあ帰ろっか、なんて言い出しかねない雰囲気のベラをリュカは促した。

 

「そ、そうね」

 

 慌てたようなベラを尻目に、リュカはぽっかりと口を開けた洞窟へと足を踏み入れた。

 

 

 

 



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13話

13話

 

 

 

 

 

 洞窟には、当然雪は積もっていなかった。随分と久しぶりに感じる、しっかりとした大地の感触――ゴツゴツとした岩肌のような感触だ。こんな足場でも、雪がないと歩きやすいな、とリュカは新鮮な発見をした気分だった。

 洞窟内部は意外と暖かかった。リュカはマントの前をしっかりと閉じる必要がなくなった。

 

「うわー、薄暗い……。それに、じめじめしてる……。私、洞窟ってはじめて来たけど、こんなところだったんだ。洞窟嫌いかも」

 

 リュカの気分に水を差すようなことを言うベラを横目で軽く睨む。キョロキョロと周りを見回しながらぼやいているベラの横で、ソロが身体をブルブルと震わせ、身体の水気を払った。

 ベラの言うとおり、確かに洞窟内は薄暗い。だが、外から見たように完全に闇に包まれているわけではない。ところどころ、壁にロウソク立てが取り付けられており、そこに立てられたロウソクが辺りをほのかに照らしているのだ。明らかに人の手が加えられている。ここに追放されたというドワーフによるものだろうか。

 洞窟はゴツゴツした岩で構成されており、また、ところどころ角張った岩が突き出ている。足下もでこぼこで足場が悪く、平らなところは無いと言っていい。天井からは、時たま極太の氷柱のような岩が飛び出ていて、落ちてきやしないかと、リュカは少しひやひやした。

 道の横幅は、リュカたち三人が横一列に並んでも十分に余裕があった。縦幅も、横幅ほどではないが広く、頭を打ってしまう心配はないだろう。

 ロウソク立てなど、人の干渉を感じさせるものはあるものの、基本的には自然のままの姿を保った洞窟だ。リュカはこのような自然が好きだった。中途半端に人の手が加えられると、途端に安っぽくなってしまうように思えるのである。自然はときに人の想像も及ばない、神秘的な光景を生み出す。そんな光景にふと出会うとき、胸が満たされるような感動を覚えるのだ。

 杖を突くたび、コツコツと乾いた音が反響する。しばらくまっすぐの道が続いたが、徐々に天井が下りてきており、代わりに右への道が伸びていた。

 曲がり角に、なにか水色ものがあるのが見えた。なんだろう、気になったリュカは、目を凝らした。

 

「なんかいる……」

 

 リュカはポツリと呟いた。水色のものはどうやら何者かの顔のようだった。曲がり角から顔だけをひょっこりと覗かせて、こちらをうかがっている。

 

「え? あれ……コロマージじゃない?」

「コロマージ? 魔物?」

「当たり前でしょ」

 

 何をもって当たり前なんて言うのだろう。めずらしー、なんて言って喜んでいるベラを見ながら、リュカは思った。リュカは最初、水色のやつは妖精の仲間だと思ったのである。なぜなら、水色のやつの耳が尖っていたからだ。

 リュカたちが近づいていくと、コロマージは踵を返して逃げ出した。曲がり角を曲がると、脱兎のごとく走っていくコロマージの後ろ姿が見える。

 コロマージは、葉っぱを丸めたような帽子を被っていた。服のつもりなのだろうか、これまた葉っぱの真ん中に穴を開け、そこに頭を通してマントのように着ていた。葉っぱが前後に垂れ下がり、それなりに身体を隠してはいるものの、身体の大半の部分は露出してしまっている。

 そうして見える身体は、全身水色、まん丸で、スライムを上下に二匹重ねたような風貌だった。リュカよりも小さい。手足は生えてはいるものの、指はなく、スライムの触覚のようなチョロッと生えた突起物でしかないようにも見える。その手には何やら細い棒状のものを持っていた。杖だろうか。先端には金色の星型の飾りらしきものが付いていて、ちょっとかわいらしい。

 

「あれ、一人なのかな? コロマージっていつも四人一緒にいるって聞いたことがあるけど……」

 

 ベラが言うには、コロマージは、コロヒーロー、コロファイター、コロプリーストという魔物たちといつも一緒に行動しているらしい。

 しばらく行くと突き当たり、左右に道が分かれていた。遠ざかっていったコロマージは左へ曲がり、再び曲がり角からこちらを覗いている。

 

「一体何がしたいんだろ? 私たちに興味があるのかな? あっ、人間が珍しいのかもね!」

 

 襲ってくるわけでもなく、かといって逃げるわけでもない。いや、逃げてはいるのだが、本当に逃げたいのなら、あんなところで立ち止まってないで、どこかへ走り去っているだろう。さっさと逃げてしまえばいいのに。リュカはそう思った。

 曲がり角に近づくと、コロマージはまた逃げ出した。曲がると、走り去っていくのが見える。

 

「よく転ばないで走れるねー」

 

 ベラは感心しているようだ。確かに、あんなに短い足でよく走れるものだ。

 ところどころ岩がせり出してきたり、くぼんでいたりするせいで、横幅が広くなったり狭くなったりの道を、リュカたちは進む。

 でこぼこの地面なためわかりにくいが、どうやらなだらかな下り坂になっているようだ。進むにつれて傾斜はきつくなっていき、ついにはちょっとした崖のようになった。かなり踏ん張らなければ滑り落ちてしまいそうだ。リュカは杖を突いて踏ん張った。

 ソロとベラは、あちこちから突き出ている岩から岩へと器用に飛び移っている。そこだけを見れば、天然の階段のようだ。ソロはともかくベラも身軽なものだ。彼女の周りだけ重力が小さいのかと思えるほど、軽やかな動きだ。

 見下ろしてみると、コロマージが倒れている。この坂を転げ落ちたのだろうか。もぞもぞともがき、そして立ち上がり、落としてしまっていた杖を拾い、こちらを見上げ、コロマージは慌ただしく走り去る。

 よく生きてたな、そう思えるほどに、この下り坂は長く急だった。

 

「あんなに慌てなくてもいいのにね」

 

 少し先を行っていたベラは、こちらを見上げて微笑んだ。

 下りきるまでに、結構時間がかかった。一足先に下りきったソロとベラを、リュカは少し待たせてしまった。

 地面は急に下っていったが、天井はそこまで高度を変えていなかったようだ。つまり、坂を下りきったこの場所では、天井が非常に高いところにある。

 縦長の裂け目のようなこの道を、リュカたちはしばらく進んだ。ここからは、地面に傾きは感じられない。相変わらずでこぼこではあるが、坂道ではない。すると、徐々に道幅が広がっていき、ある時点で急に広がった。

 

「うわー、広いねー……」

 

 呆気に取られたように、ベラはポカンと口を開け、周囲を見回している。

 そこには広大な空間が広がっていた。サンタローズの村がすっぽり収まってしまうのではないかと思えるほどの広さだ。

 大気の対流が目に見え、耳に聞こえるような錯覚をリュカは覚えた。

 ところどころ地面が隆起し、空間を区切っている。ちょっと大き目の岩のようなものから、天を突くような、さながら塔とも思えるものまで、さまざまだ。しかし、そのどれもが天井には至っていない。

 

「洞窟って、こんなに広いんだね……。もっと窮屈なのかと思ってた」

「狭い洞窟もあるよ。でも、すごく広いのもある」

「へー、くわしいんだねー」

 

 人が通り抜けるのがやっとの洞窟もあれば、地下に存在しているとは思えないほど大きな洞窟もあるのだ。

 

「でも、こんなのが地面の下にあるなんてね……。よく地面が陥没したりしないよね」

 

 ベラは、いくら感心してもし足りないというかのように、口をだらしなく開けながら、この空間を見回している。

 

「あっ! そういえば、あの子いないね」

「あの子? 水色のやつ?」

 

 うん、とベラは頷いた。

 確かに見当たらない。だが、そんなことはリュカにとってはどうでもいい。

 もうしばらくこの光景を眺めているのも悪くはないが、目的がある以上、そうもいかない。どちらへ向かえばいいのかわからないが、リュカはとりあえず足を踏み出した。

 

「あっ、そっか。早く行かないとね」

 

 とぼけたことを言っているベラを尻目に、先へ進む。

 差し当たりこの広間の真ん中まで来てみた。そこから周りを見渡してみるが、先へ続いていそうな通路などは見当たらない。

 

「どっちに行けばいいんだろうね?」

 

 ドワーフがいないということは、まだ先があるはずだ。隅々まで見て回らなければならないのだろうか。ここからでは、岩に視界を遮られて見えない部分もある。きっとそのどこかに、先への道があるのだろう。

 そのとき、ソロが突然うなり声を上げた。何かと思って目を向ける。

 

「あら、どしたの、ソロ?」

 

 ベラは少しなだめるような口調で言った。

 ソロは近くの地面から突き出している大きな岩の上をにらんでいるようだ。今度はそちらを見てみると、岩のてっぺんにオレンジ色の何かがいるのが見えた。卵のような身体から、ちょこんと小さな手足を生やしており、角のようなものが身体から何本も生えている。

 

「げ! スピニー!」

 

 ベラが叫ぶと同時に、スピニーとやらは岩の上から飛び降りてきた。うまく着地したスピニーは、なにやら奇声を上げながらこちらへ突進してくる。

 

「気をつけて、リュカ! そいつ爆発するから!」

「爆発?」

 

 杖でぶん殴ってやろうと思っていたリュカだったが、爆発と聞いて、身をかわすことにした。下手に刺激を与えると危険だと思ったのだ。そもそも、爆発する生物ってどうなんだろう、とリュカは思った。随分と悲劇的な魔物だ。

 体当たりをリュカにかわされたスピニーは、再びリュカに飛び掛かろうとしたようだが、一瞬動きを止めたその隙をソロは見逃さなかった。

 背後からスピニーに跳び付いたソロは、スピニーの身体に爪を突き立て、振り落とされないようにしがみ付くと、頭に噛み付いた。

 

「スピーーッ!」

 

 悲鳴を上げながらぐるぐる回ってソロを振り落とそうとするスピニー。だが、ソロはがっちりとくっ付いて離れない。

 

「リュカ、あの状態で爆発したら、ソロがやばいよ!」

 

 そうは言っても、じゃあどう倒せばいいのだろうか。離れたところから魔法で倒せばいいのだろうか。だが、それではソロを巻き込んでしまうだろう。そんなことを考えているうちに、スピニーの様子が変わった。身体になにやら赤い光を纏いだしたのだ。

 

「ソロ! 離れて!」

 

 咄嗟にリュカは指示を出した。

 ソロも身の危険を感じたのかもしれない。すぐに離れると、こちらへ走ってくる。

 

「逃げて!」

 

 ベラが叫んで、スピニーと逆の方向に走り出した。リュカとソロも続く。

 直後、轟音が響いた。同時に背中に爆風が吹き付ける。マントが激しくはためいた。ベラがべたっと地面にこけた。

 振り返ると、スピニーの姿はなかった。舞い上がる土煙に隠れているのか、爆発で消し飛んだのかはわからない。

 

「あぶな……」

「スピニーとは戦わないほうがいいね……」

 

 反響がおさまると同時に、土煙も薄れ、そこにスピニーの姿がないことがわかった。

 気を抜いたのも束の間、ソロが再びうなり声を上げる。

 

「ウソでしょ……」

 

 嫌な予感がして、ソロの視線を辿ると、岩陰からスピニーが四体こちらを覗いているのが見えた。ベラが呆然と呟く。

 同族がやられたのを見ていたのだろうか、敵意に満ちた様子で、こちらに近寄ってくる。

 

「逃げるよ!」

 

 ベラが叫ぶと同時に、腰から杖を抜き、スピニーたちに突き出した。その杖に淡い光が宿るのと同時に、ベラは呪文を唱える。

 

「マヌーサ!」

 

 杖の先端から幾筋もの光が解き放たれた。それぞれうねりながら、スピニーたちのほうへ向かう。光は、スピニーに近づくにつれてその性質を煙のように変えた。煙はスピニーたちの周りを縦横無尽に駆け抜け、やがて彼らは完全に煙に包まれた。スピスピスピスピ、とパニックに陥っているかのような声が聞こえる。

 

「今のうち!」

 

 そう叫んで走り出すベラの後に続く。だが、彼女はどこへ向かえばいいかわかっているのだろうか。逃げることしか考えていないのかもしれないが。そんな疑問を持ちつつ走っていると、どこからか変な声が聞こえた。

 

「マジ……マジ……」

 

 誰の声だろうかとキョロキョロしながら走る。

 

「何か言った?」

「言ってない」

「マジ……」

「何か言った?」

「言ってない」

「マージ!」

「スピー!」

 

 不意に響いたスピニーの声に振り返ると、煙の中から一体のスピニーが飛び出してきていた。

 

「げっ! もう!?」

 

 焦りながら逃げ続けるリュカたちの背に、再びスピニーの鳴き声がぶつけられる。すると、なぜかソロが立ち止まり、スピニーをギロリと睨みつけた。

 

「ちょっと、ソロ!」

 

 ソロを放って逃げるわけにもいかず、リュカたちも立ち止まる。

 なぜかはわからないが、ソロは怒っているようだ。激しくうなり、今にも飛び出そうとしている。

 ベラはソロの尻尾をつかんで必死に引っ張っているが、ソロは微動だにしない。ベラが非力なのか、ソロの踏ん張りが強いのか。

 

「ソロ、行くよ!」

 

 ベラが必死に呼びかけるが、ソロはかたくなだ。

 

「ちょっと、リュカも何か言ってよ」

 

 こいつなんなのかな、と思いつつ、リュカはちょっと強めにソロを呼んだ。すると、渋々といった様子でソロはこちらを振り返る。そして、尻尾をつかんでいるベラに小さくうなる。

 

「ご、ごめん!」

 

 ベラが慌てて尻尾を離すと、ソロはフンと鼻を鳴らして、リュカに寄ってくる。

 

「って、早く逃げなきゃ!」

 

 そうベラは叫ぶが、スピニーは既にかなり近づいていた。

 そのとき、突然どこからか氷柱のようなものが飛来した。スピニーの横っ腹に命中したその氷柱は砕け、スピニーは悲鳴を上げて吹っ飛んだ。

 

「なに!?」

 

 氷柱の飛んできたほうを見ると、巨大な岩が地面から天を突こうとするかのようにそそり立っている。よく見ると、その岩陰から水色の顔がひょっこり覗いていた。

 

「あの子、コロマージじゃん!」

 

 何が嬉しいのか、ベラはパッと笑顔になると、コロマージのほうへ駆け出した。コロマージも魔物だ。もう少し警戒したほうがいいんじゃないかと思いつつ、リュカも後を追った。

 コロマージが隠れている岩に近づくと、やはり逃げ出してしまった。

 

「あーあ、逃げちゃった……」

 

 残念そうなベラ。

 そんな彼女を置いて、リュカは岩を回り込んだ。すると、岩の向こう側の壁には小さな穴が開いており、そこから細い通路が伸びていることに気付いた。その通路を駆けていくコロマージの後ろ姿が見える。リュカは後を追った。

 

「ちょっと待ってよー」

 

 ベラも後に続いた。

 一本道を進んでいくと、円形の広間に出た。穴が地面に開いており、他に道はない。行き止まりだ。

 穴を覗き込むと、底には闇が満ちていて、何も見えない。きっとかなり深い穴なのだ。穴には一本の鎖が垂らされている。ここからコロマージは下りたのだろう――何しろ他に道はないのだから。

 

「うわー、すごい穴……。ね、ねえ、もしかしてここ下りるつもり?」

「うん」

 

 そんな当たり前のことをいちいち聞かないでほしいものだ。

 だが、問題が一つある。穴を下りるには、鎖に伝って下りていかなければならないが、ソロはどうするのかということだ。彼が鎖をつかんでぶら下がることができるとは思えない。

 ソロはここに置いていくしかない。リュカはすぐにその結論に達した。

 

「ソロ、ここで待っててね」

 

 そう言い聞かせると、リュカは杖を腰に差し、鎖に手を伸ばす。

 

「ちょっと待って!」

「なに?」

 

 リュカは振り返った。

 

「下りるんだったら、私が先に行くよ」

「なんで?」

「な、なんでも!」

 

 少し怒ったような顔をするベラ。なにをムキになっているのだろうか。まあ、別にどっちが先に行こうが構わない。リュカは先を譲ることにした。

 ベラは鎖をつかみ、意を決したように穴に身を投じた。鎖と共に、ベラは振り子のように小さく揺れる。

 彼女が少しずつ下りていくのを見て、リュカも同じように鎖をつかみ、穴を下りていった。

 穴は、リュカがある程度余裕をもって通れる広さがあった。

 かなり腕に負担がかかる。底までもつだろうか。もし途中で落ちたらベラも巻き添えだな。そんなことを考えていると、鎖が不自然に揺れた。まるで誰かが鎖に跳び付いたかのように。まさかと思って上を見ると、ソロが鎖にぶら下がっていた。

 

「ソロ……」

「えっ、なに? ソロも来たの? どうやって?」

 

 ごもっともだ。どうやってソロは鎖にぶら下がっているのだろう。上を見ても、見えるのはソロの尻だけだ。

 まあ、来てしまったものは仕方がない。好きにさせることにする。

 下りていくにつれて、穴は円錐の裾へ向かうように徐々に広がっていっていた。

 しばらく下り続けていると、ベラが声を上げた。

 

「あっ! あの子!」

 

 見下ろすと、ベラも視線を下ろしているようだ。

 下を見ると、穴の底が見えるようになっていた。そして、そこにいたのはコロマージだった。横たわって、動かない。もしかして落ちたのだろうか。

 その様子を見ながら下りていると、何者かがコロマージに駆け寄ってきた。何者かはコロマージの傍らにしゃがみこむと、その手に持った大きな銀色の十字架を、コロマージに突きつけた。十字架は淡い光を纏う。その光は徐々に広がり、コロマージの身体を飲み込む。しばらくすると、光はおさまった。すると、コロマージはのっそりと身体を起こす。

 

「プリ?」

「……マジ」

「プリー!」

「マージ!」

 

 何者かとコロマージは言葉を交わし合うと、二人して駆け出した。そして見えなくなる。

 

「よかったー。大丈夫だったみたい。あれはお友達だったのかな?」

 

 やがて、リュカたちは穴を下りきった。そこではじめてソロがどうやって鎖を下りていたのかがわかった。ソロは前足で鎖を挟み込むようにして、爪を引っ掛けている。さらに、鎖に食いついていた。器用なものだ。ソロはひょいっと飛び降り、危なげなく着地した。

 

「どうにか下りれたね……」

 

 ベラはため息をつく。

 上を見ると、穴の入り口は見えない。闇の中から伸びている鎖は細く、実に頼りないものに見えた。よくもまあ、あんなものを伝って下りてきたものだ。今にして、かなり無謀な行為だったように思える。

 ここは円形の空間で、壁に開いた小さな穴から一本の道が伸びている。リュカたちは苦もなく通れるが、大人なら少し屈まなければならないだろう。

 この道を進んでいくと、広い空間に出た。高低のある空間だ。向こう側に、一本の道が伸びているのが見える。他に道は見当たらない。

 

「竜の巣みたい……」

 

 ベラが声を潜めた。

 そんな大層なものではないとリュカは思った。

 ベラの言うとおり、ここには竜がたくさんいた。岩の上で横たわっている者、岩の中腹の岩棚のようなところでくつろいでいる者、地面で寝ている者。どれもこれも活動的とはとても言えない。

 竜と言うと、とても巨大な生物のように思えるが、ここにいるのは小さなものばかり――ソロより少し大きいくらいだ。真紅の鱗に全身覆われ、黄色い角が二本、頭から伸び、一対の翼が背中に生えている。

 大層なものではないとは思ったものの、それは「竜の巣」という言葉がもたらすイメージと比べればということで、ここが危険な場所であることは否定しようがない。

 

「静かにしなきゃダメだよ、ソロ?」

 

 ベラが言い聞かせようとしているが、ソロは物珍しそうにキョロキョロするばかりで、ベラの言葉に耳を傾けようとしない。

 やつらに見つからずにここを抜けるには、岩陰に隠れながら移動する必要がある。というか、それ以外の方法をリュカは思いつかない。だが、岩陰に隠れると言ったって、敵は一匹ではないのだ。岩陰が死角となるとは限らない。正直言って、見つからずにここを抜けるのは極めて難しいと思われる。

 

「行くよ。ついてきて」

 

 リュカはそう告げると走り出した。身を低くして、地を滑るように岩陰に向かう。

 岩に背を預けるようにして、リュカは辺りに視線を巡らせる。ゴツゴツした岩が背中に少し食い込んでいるのを感じる。

 こんなチマチマしたことをしたところで、どれほどの意味があるのか、疑問に思わないでもなかった。だが、堂々とこの空間を横切るよりはマシなはずだ。

 ソロたちもリュカの隣へ滑り込んできた。それだけでベラは大きく息をついた。

 

「そういえば、あの子たちは大丈夫かな?」

 

 あの子たちとはコロマージのことなのだろう。あいつらのことなど心配している場合ではないのではないかとリュカは思った。まあ、魔物同士だ。襲われることもあるまい。そんな何の根拠もないことを頭の片隅でそっけなく思った。

 次の岩陰へ移ろうと、そちらへ目を向けると、その岩の上に一匹寝そべっているのが見えた。あの岩陰に移ったところで、もしあいつが見下ろせば丸見えだろう。

 まあいい、半ば投げやりにリュカは思った。あの岩陰に移るのが最もマシな選択肢だ。意を決してリュカは走った。

 次の岩陰にすぐに辿り着き、岩に身を寄せてリュカは息を潜めた。ソロたちも並ぶ。

 

「あ……」

 

 そのとき、岩の向こう側からひょっこりと一匹の竜が顔を覗かせた。向こうも驚いているのか、まん丸の目で間違いなくこちらを見ている。

 どうにかやり過ごせないかと、どう考えても不可能なことを考えていると、突然ソロが竜に飛び掛った。

 竜の顔に爪を振り下ろすと、眉間の赤い鱗の表面に浅い傷が刻まれた。そこで竜は我に返ったのか、一歩飛び退くと、威嚇のためか、大きく咆哮した。

 

「あーあ……」

「ちょっと、マズイんじゃ……」

 

 ソロは触発されたのか、うなり声を上げながら竜を追撃する。竜も逃げるつもりはさらさらないようで、姿勢を低くして迎え撃つ体勢だ。

 こいつはソロに任せるとして、リュカは岩の上を見上げた。思ったとおり、そこで寝そべっていたはずの竜はこちらを見下ろしていた。呆気に取られたような顔をしていたが、気を取り直したのか、身体をのっそりと起こす。そして、ただでさえ赤い身体に、赤い光を淡く纏った。

 

「魔法!?」

 

 竜が開いた口の中には炎が満ちていた。そして次の瞬間、火の玉が吐き出される。リュカたちは慌てて飛び退いた。地面に着弾した火球は、派手に燃え上がると、火の粉を残して消えた。

 

「メラリザードは炎を操るの。気をつけて!」

 

 竜はメラリザードという名の魔物のようだ。

 続けざまに火球を放ってくるメラリザード。リュカたちは飛び退きながらかわし続けた。もう身を隠すどころではなくなってしまっている。これだけ騒げば気付かれないほうがおかしい。一匹、また一匹と、次々にメラリザードがのそのそと集まってくる。

 このまま囲まれてしまったらひとたまりもない。

 

「ソロ! ベラ!」

 

 メラリザードの喉元に食らい付き地面にねじ伏せていたソロは、パッとこちらを向くと、口を離して、走るリュカに続いた。

 

「リュカー、追いかけてくるよ!」

 

 走りながら悲鳴を上げるベラ。振り向くと、何匹ものメラリザードが追ってきている。走っている者もいれば、飛んでいる者もいる。彼らの翼は、早く飛ぶのには適していないようだった。

 

「バギ!」

 

 リュカはメラリザードたちにバギを放った。暴風が瞬く間に赤い竜たちを巻き込む。吹き飛ばされないように竜たちは身を伏せた。飛んで追いかけてきていた者は、為す術もなく風に捕らわれ、宙を舞う。踏ん張っている者も、どうにか飛ばされずにはすんでいるものの、あちこちに傷が刻まれる。

 一匹が火球を放ったが、風に流され見当違いの方向に飛んでいく。

 逃げ切れる。そう思ったリュカだったが、それは間違いだということにすぐ気付いた。この空間にいるメラリザードは、バギに巻き込まれている連中だけではなかったのだ。

 リュカたちの前方にちらほらとメラリザードが立ち塞がっていた。無機質な岩の色のなかに点在する真紅。

 

「うわっ!」

 

 彼らは一斉に火球を放った。リュカたちは各々散り、それをかわす。

 そのとき、突然ベラが叫んだ。

 

「危ない、リュカ!」

 

 ベラに目を向けた瞬間、背後からの火球がリュカの背に直撃した。激しい熱と衝撃にうめき声を漏らしつつ、リュカは地面に転がる。

 

「大丈夫?」

 

 駆け寄ってきたベラが言う。

 

「ヤバいよ、リュカ。バギがもう消えちゃってるよ」

 

 足止めを食らっていたメラリザードたちが、リュカたちを追いながら火球を放ってきていたのだ。バギもいつまでも持続するわけではない。

 倒れていてはいい的だ。リュカは痛みを堪えつつ立ち上がり、もう一発バギを放った。

 だが、彼らも学習したのか、何匹かはバギをかわして、なおもこちらへ向かってくる。

 

「マヌーサ!」

 

 ベラが目くらましを放つが、その前に放たれた敵の火球に散らされ、大した効果は発揮していない。

 このままじゃ挟み撃ちにされる。そう思っていたとき、ソロがメラリザードの群れに向かって飛び出した。

 

「ああっ! ソロ、ちょっと! 危ないよ! 戻ってきなさーい!」

 

 あれはさすがに無謀だ。やかましく叫んでいるベラの隣で、リュカは頭を抱えたくなった。

 ソロを置いて逃げるわけにもいかず、リュカはソロを追う。

 

「ルカナン!」

 

 背後でベラが呪文を唱えたようだ。

 いち早くメラリザードたちのところへ至ったソロが、刃のような爪を振るう。銀色の軌跡を宙に描いたその刃は、竜の額に三条の筋を刻んだ。血飛沫を上げ倒れこんだ竜の生死を確認することもなく、ソロは次なる獲物を求めて疾走する。

 その様子を見ながら駆けていたリュカを迎え撃つように、一匹の竜が立ち塞がる。赤い光を纏い、口を開けた竜を見て、リュカは勢いに乗って杖を最大限伸ばして突きを放った。

 鼻っ柱に痛烈に叩き込まれた杖の先端。その衝撃で仰け反った竜の口から炎が漏れ、宙を焼く。リュカは速度を緩めずに姿勢を低くして炎をかわし、竜の喉元に蹴りを叩き込んだ。

 そのとき、背後から飛んできた火の玉が、リュカの脇を通り過ぎていく。振り向くと、いくつもの火球が飛来している。背後から迫っていたメラリザードたちが一斉に放っているのだ。直撃はないものの、熱を感じる。

 ベラはその群れに追い立てられるように、こちらへ走ってきていた。

 

「バギ!」

 

 連射されているその火球群を阻もうと、リュカは立ち上る旋風を生み出した。リュカの目の前で粉塵をともないながら天に向かって渦巻く風は、盾のように火球の弾道をそらし、命中することを許さない。そのことにひとまず安心していると、背中に突然衝撃を受けた。

 

「ぐっ!」

 

 膝をつくリュカ。振り返ると、そちらからも火球が飛来していた。リュカたちは挟み撃ちにされているのだ。風は一方向からの攻撃しか防いではくれない。

 火球が岩壁や地面にぶつかり、弾け飛ぶ音があちこちからいくつも聞こえる。辺りの闇が追い立てられる。

 

「きゃっ!」

 

 こちらへ駆けてきていたベラの背中にも命中したようだ。悲鳴と共に倒れこんでいる。

 ソロは巧みに避けていたようだが、前後から無数に飛来する火球と、至近距離にいる竜の攻撃とを、全て避けきることは不可能に近い。敵陣の真っ只中に飛び込んでいったのが悪かったのだろう。いつしか火球が直撃し、やがてもう一つ。ダメージがソロの動きから精彩を欠かせ、ソロにも確実に攻撃が当たってきている。

 立ち上がり、ソロの援護に回ろうと走り出す。だが、両側からの攻撃に、かわすことに気を取られてなかなか思うように進めない。バギの盾は既に消えている。

 かといって、このままここにいても攻撃にさらされるばかりだ。リュカは無茶を承知で突っ込んだ。かわしながら走り、みるみるソロへ近づいていったそのとき、脇腹に火球が直撃する。

 

「がッ!」

 

 倒れこんだリュカは、肺から一気に空気を押し出された苦しみと、熱に焼かれる痛みに悶えた。うまく呼吸ができない。

 一匹の喉を食い千切ったソロにも、直後、火球が直撃し、倒れこむ。うなりながらよろよろと起き上がったソロに、火球が再び直撃し、地面に転がる。

 ベラもマヌーサを唱え、なんとか抵抗を試みたようだが、お構いなしに放たれる火球に見舞われ、呆気なく倒れた。

 これはマズイ。リュカはふらふらと立ち上がると、ソロを巻き込まないよう注意して、バギを放った。風の刃が何匹かの竜を切り裂いたものの、この数のなかでは焼け石に水だ。

 魔力が残り少ないのを感じる。

 だが、とても走れる状態ではないリュカにとって、残された攻撃手段は魔法しかない。リュカは魔力を集中させた。そしていざ放とうとしたそのとき、背中に火球が直撃し、またしてもリュカは倒れこむ。その拍子に、杖とそれを持つ腕を覆っていた淡い緑色の光が霧散する。

 

「うぅ……」

 

 うめきつつ身体を起こし、杖を突いて支えにする。膝立ちになり、片腕を敵に向けて突き出し、リュカは最後のバギを放った。岩肌の地面を削りながら敵へ迫る烈風。それが数匹の敵を切り裂くのを見届けると同時に、リュカに火球が叩きつけられた。体内が沸騰しているのではないかと思えるような熱を感じつつ、リュカは倒れこんだ。

 

 

 

 

 



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14話

14話

 

 

 

 

 

 己に再び火球が迫っているのを、リュカは頬に地面の硬さを感じながら見ていた。避けなければ。そう思うも、身体がほとんど動かない。衝撃に備えて身構える。

 

「え……?」

 

 そのとき、何者かが突然リュカの目の前に立ち塞がった。大きくはない。頭頂部に一本角が生えている。何者かは、手に持った斧を大上段に構えると、迫りくる火球に振り下ろした。

 火球は真っ二つに切り裂かれるやいなや、単なる炎となって、弾けて宙に霧散した。

 その途端、竜たちがギャーギャーと騒ぎ出す。すると、唐突に竜たちの頭上に光が急激に集束し、その直後、目が眩むような激しい爆発を起こした。地面の震動を全身でリュカは感じる。洞窟全体が揺るがされたかのような轟音が反響し、パラパラと岩片が降ってくる。

 爆発は竜たちに直撃はしていないようだが、竜たちは大人しくなってしまっている。

 

「ファイ! ファイッファイッ!」

 

 一本角が叫んだ。すると竜たちは互いに顔を見合わせ、しぶしぶといった様子でゆっくりとこちらに背を向ける。そしてモタモタと名残惜しそうに去っていった。

 

「……なに?」

 

 何だかわからないが、助かったのだろうか。まだ安心はできない。この一本角が味方か敵かはわからないのだ。まあ、助けてくれた以上、敵ではなさそうだが、確証はない。

 何者かの足音が聞こえた。どんどん近づいてくる。どうやら複数の足音だ。リュカは身動きを取ることすら億劫だったが、荒い息を吐きながら足音の方へ顔を向けた。

 

「マジ?」

 

 足音の主は、コロマージと、さっきコロマージと一緒にいた十字架を持ったやつだった。

 横たわるリュカの傍らに立った十字架のやつは、十字架を突きつけてきた。十字架が淡い光を放つ。

 

「プリー!」

 

 その光に飲まれたリュカは、自分の身体から痛みが引いていくのを感じた。この感覚をリュカは知っている。回復魔法のホイミだ。

 魔力が切れかけていることによる身体のだるさは抜けないが、リュカはゆっくりと立ち上がった。そして改めて己を囲む連中の姿を見定める。

 十字架を持ったやつは葉っぱのローブを纏っている。頭にはどんぐり帽子のようなものを深くかぶっており、目が隠れてしまっていた。

 一本角は、実際に角が生えているのではなく、頭にかぶった鉄兜に一本角がついているだけのようだ。

 どちらもコロマージと同様、耳は尖り、青い身体だ。同じ生き物が身に着けるものだけを変えているかのようにも思える。

 ソロがもたもたと歩いてきた。どうやら無事だったようだ。傍らに擦り寄ってきたソロの頭をなでる。

 コロマージたちは、リュカに向かって何やら話しかけているようだ。だが、あいにくリュカには彼らの言葉はわからない。それゆえ、彼らの声に耳を傾けることなど、リュカにとっては無駄なことでしかない。彼らを無視してリュカはベラの具合を確かめにいくことにした。

 杖に体重を預けつつ歩いていくリュカの後を追いながら、コロマージたちは慌てたようにまくし立てる。

 ベラはうつ伏せにぐったりとしていたものの、死んではいなかった。声をかけても反応はない。どうしたものかと思っていると、十字架のやつがベラの傍らに進み出て、十字架を突きつける。

 

「なんなの?」

 

 十字架は恐らくベラを治療しようとしているのだろう。だが、なぜ自分たちを助けようとするのだろうか。リュカは首をかしげた。

 突きつけられた十字架は、次第に光を放ちはじめるかと思いきや、その兆候は見られなかった。不思議に思っているのはリュカだけではないようだ。一本角も十字架もコロマージも首をかしげている。

 

「プリ? プリー! プ……プリ……?」

 

 困惑していた十字架は、徐々に焦りだす。ブンブンと上下に十字架を振ってみるものの、うんともすんとも言わない。その焦りが伝染したのか、コロマージと一本角もギャーギャー騒ぎ出した。

 

「う……うーん……」

 

 三匹が騒いでいると、そのおかげか、ベラがうっすらと目を開いた。顔をしかめながら、身体を起こす。

 

「大丈夫?」

「……なんとか」

 

 ベラは力なく座り込んでいる。

 彼女の周りを、コロマージたちが口々に何か言いながら跳ね回る。

 

「あれ、コロマージ? どうしたの? 今まで逃げてばっかりだったのに」

 

 ベラはコロマージたちを見回す。

 

「お友達も一緒なんだね。よかったねー」

「マージ」

 

 コロマージがベラの手を取った。そして、ベラをどこかへ引っ張っていこうとする。

 

「なに? どうしたの?」

 

 ベラが促されるように重たげに立ち上がると、コロマージは手を離し、先導するようにこちらをチラチラと見ながら走り出す。他の二匹もコロマージについていく。

 

「なんだろうね? リュカ、行ってみようか?」

 

 こちらを振り向いてベラが促してくる。リュカが頷いてやると、彼女は嬉しそうにコロマージたちの後をふらふらと追った。リュカとソロも続く。

 進んでいくにつれて徐々に両側の壁が狭まってきており、広々としたこの空間はいつしか細い一本道を形作っていった。壁に縦に刻まれた一筋の裂け目のようなその道は、進んでいくにつれて天井が低くなっていき、やがて坑道のようになった。

 この方が洞窟らしい。そう思いつつも、リュカはさっきまでの光景の方が好きだった。洞窟内でいかにも洞窟らしい光景が広がっていても、それはただの洞窟でしかない。別にそれが悪いとは思わないが、先ほどまでのようなどこか現実離れした景色に、一際リュカは心を奪われるのだ。

 細く、少し狭苦しさを感じる道。先頭を行くのはコロマージたちだ。先を走っていき、少し距離が開くと立ち止まってこちらを振り返る。距離が狭まると再び走り出す。

 その後を、ベラが弾むように小走りで追う。

 そんな彼女らの後ろ姿をぼんやりと視界に入れながら、リュカはソロと並んで歩いていた。緩やかなカーブを描いているようだが、ほとんどまっすぐの道だと言っていい。上から下から、細長い氷柱のような岩が道を縁取るように突き出ている。

 

「あれ……なんだろう?」

 

 足音と、リュカが杖を突く音が響くなか、少し先を行っていたベラが声を上げた。

 この道は、洞窟の壁とは違う色の何かに突き当たるようだ。リュカは目を凝らしてみたが、はっきりと見えない。

 コロマージたちはそこへ向かってこの道を一目散に駆けていくが、ベラは立ち止まっている。

 

「ねえ、なんだろうね、あれ」

 

 隣に並んだリュカに顔を向けるベラ。

 

「さあ」

 

 行ってみればわかることだ。リュカは足を止めない。

 リュカの後にベラは続く。

 

「これ、扉だね……」

 

 やがて突き当たったのは、扉だった。鉄でできているあたり、明らかに人工物だ。両開きのその扉はしっかりと閉ざされていて、道を完全に塞いでいた。表面に不思議な模様が浮き彫りにされている。

 扉の前で、コロマージたちがこちらを見ながら、何かを訴えるように鳴き声を上げつつ

ピョンピョン飛び跳ねている。

 

「どうしたの? 何が言いたいの?」

 

 ベラが困ったようにコロマージたちに尋ねる。

 ソロは鬱陶しげに彼らの様子を見ている。

 

「開けろって言ってるんじゃないの?」

「マジー!」

 

 ビシッとコロマージたちはリュカを指差した。

 

「え、そうなの?」

「さあ」

 

 聞かれても困る。リュカは決して彼らの言葉がわかるわけではないのだ。

 

「でも、開けるって言ってもなあ……」

 

 ベラは扉の取っ手をつかんで押したり引いたりを繰り返す。

 

「開かないよ……。どっかに鍵とか落ちてないかな?」

 

 応援するような様子のコロマージたちを尻目に、ベラは取っ手から手を離し、辺りをキョロキョロ見回した。

 

「鍵が落ちてるかは知らないけど、鍵穴はないよ」

「えっ? ホントだ」

 

 ベラは舐めまわすように扉を見て言った。

 

「……あれ? この模様、どこかで見たことがあるような」

「ポワン様って人の部屋の扉にあったのと一緒だね」

「あっ! 確かに!」

 

 ベラは飛び上がった。

 

「ってことは……」

 

 ぶつぶつ言いながら、ベラは扉に向き合い、両手を突き出した。すると、ベラの掌から少しずつ光が放たれていく。その光が扉に当たると、模様がピンク色に染まっていく。そして、模様自体がピンク色の光を放つようになったとき、扉が重い音を立てながらゆっくりと開きはじめた。

 コロマージたちが騒ぐ。

 扉が開ききると、ベラは大きく息をついた。

 

「これは妖精にしか開けられない扉なの」

 

 嬉しそうに扉の向こうへと駆けていくコロマージたちの後ろ姿を見ながら、ベラは口元を緩めた。

 開かれた扉の向こうへ、リュカたちも向かう。

 そこはドーム状の空間だった。そこまで広い空間ではない。地面は至る所が隆起し、平坦なところはほとんど見当たらない。

 コロマージたちはなにやら探し物をしているようだった。キョロキョロと辺りを見回している。

 

「どうしたんだろうね?」

「さあ」

 

 リュカはこの空間を見渡した。一見したところ、どうやらここから通じる通路は一本しかないようだ。小さな穴がぽっかりと壁に開いている。一本道というわけだ。リュカはその穴に向かう。

 

「ねえ、ちょっと待ってよ。あの子たち、何か探してるみたいだよ。手伝ってあげようよ」

「手伝う?」

 

 ベラは本来の目的を忘れてしまったのだろうか、とリュカは眉をひそめた。

 

「だって、かわいそうじゃん」

 

 右往左往しているコロマージたちを見ながらベラは言った。

 しかし、手伝うと言っても、どうやって手伝えばいいのだろう。彼らが何を探しているかなんてリュカには知りようもないのだ。それはベラも同じはず。

 

「手伝ってれば」

 

 リュカは穴へ向かって歩き出した。

 

「もー! ちょっと、待ってよー」

 

 慌てて追ってくるベラを待つこともなく、リュカは先導するように先を行くソロの後に続く。

 ソロは、平坦な道を行くよりも少し起伏のある道を行くときのほうが生き生きとしている。リュカにはそう見えた。軽快に弾みながらソロは進み、リュカとの距離が開くと、立ち止まってこちらを振り返る。どこかで見たような仕草だ。

 穴まで辿り着いたソロはこちらを見ながらじっと座って待っている。そして、リュカが追いつき穴へ踏み込むと、その後に続いた。さらにその後をベラが続く。

 

「狭いね……」

 

 身を屈めて歩かないと、頭を天井に擦ってしまいそうだ。横幅も狭く、窮屈な道だ。

 その道は長くなかった。カーブした先に、部屋があった――そう、部屋だ。当然、壁も天井も床も岩でできており、先ほどまでと同じ洞窟の空間のでしかないようにも見える。しかし、ここにはベッドをかたどったようなものがあり、また何やら道具のような物体も数えるほどだが置かれている。逆に言えばそれだけだが、ここには何者かの存在を感じさせる形跡が確かにあったし、事実ここには男がいた。

 

「久しぶりじゃ。人の顔を見るのは」

 

 しわがれた声で男は言った。がっしりとした身体だが、背は低い。ドワーフだ。ベッドの傍らに座り込んでいる。

 なぜそれがベッドだとわかるかというと、その上に寝ている者がいるからだ。耳の尖った、水色の身体の生き物だ。コロマージに似ている。

 

「わしに何か用かな?」

「あなたが、鍵の技法を編み出したっていう方ですか?」

 

 ベラが尋ねた。

 ドワーフは頷いた。

 

「あの……私たち、鍵の技法が欲しくて来たんですけど――」

 

 そう要件を切り出そうとしたベラの言葉を遮るように、騒がしくコロマージたちがドタドタと駆け込んできた。

 

「何じゃ? やかましい」

 

 彼らは脇目も振らず部屋を横切り、ベッドを取り囲んだ。押しのけられたドワーフが顔をしかめる。

 寝ている者にしきりに声をかけるコロマージたち。そのせいで目が覚めてしまったようだ。小さな目をうっすらと開くと、コロコロ、と声を漏らした。

 

「まさか……コロヒーロー?」

 

 ベラが呆気にとられたように呟く。

 

「ん? こやつのことか?」

 

 頷くベラに、ドワーフは言葉を続ける。

 

「確かにこやつはコロヒーローじゃ。運の悪いことに、わしがここに幽閉されたとき、逃げ損ねたようでな」

「一緒に閉じ込められてたってことですか?」

 

 ドワーフは頷く。

 

「まあ、逃げ損ねるのも当然じゃ。こやつはあまり動ける身体ではない」

「病気?」

「いや……だが、似たようなものじゃ。魔物にやられて、その傷が癒えん」

 

 彼は静かな視線をコロヒーローに向けていた。

 

「……それより、鍵の技法が欲しいと言ったか?」

「はい」

「なぜ、そんなものが欲しい?」

 

 元々険しい顔つきだが、その険しさが少し増したようだった。

 ベラは理由を話した。春風のフルートが盗まれたこと。犯人が氷の館に逃げ込んだこと。氷の館は閉ざされていること。

 ドワーフは納得したようにため息をついた。

 

「氷の館か……。噂でしか知らんが、不吉じゃ。あんなものがあるというのに、いつ、誰が建てたのかもわからんという」

 

 難しい顔でドワーフは言った。

 

「それはともかく、そのためにここまで来るとは、不思議な縁を感じるのお……」

「縁ですか?」

 

 彼は頷く。

 

「こやつも氷の館へ向かったそうじゃ。そこで出くわした者と戦い、そして敗れた」

「そうですか……」

 

 そう言って、ベラは眉をひそめて首をひねった。そして言葉を続けた。

 

「それにしても、そんなことを知ってるなんて、まさかあなたもそのとき氷の館へ行っていたんじゃ……」

「わしはあそこへ行ったことはない。こやつから聞いただけじゃ」

「聞いた? 魔物の言葉がわかるんですか?」

 

 目を見開くベラに、まさか、と彼は首を横に振る。

 

「こやつはなかなか頭がいいようでな、我々の言葉を多少話す」

「うそ! すごーい!」

 

 ベラは飛び上がって驚いた。

 ドワーフは頬を緩め、そして気を取り直すように表情を引き締めると、口を開いた。

 

「まあ、そういう理由ならわからんでもない。良からぬことを考えているわけでもなさそうじゃ。だが、悪いのお。鍵の技法は葬り去られてしもうた。もうこの世には存在せん」

「ええっ!」

「ここに閉じ込められたときにな……」

 

 すまなそうな顔で言うドワーフ。

 

「そんなぁ……。どうしよう……」

 

 ベラとともにリュカも落胆した。

 そのとき、ベッドに寝ていたコロヒーローがむくりと身体を起こし、立ち上がった。そしてベッドの脇に置かれていた盾を手に取り、重たい足取りでこちらへ向かってくる。彼はベラの前まで来ると、盾を差し出した。

 

「え、どうしたの?」

 

 戸惑うベラ。

 

「カシテヤル」

「え?」

 

 盾を押し付けられてベラは動揺しているようだ。

 

「その盾には不思議な力が込められておるようじゃ。その力を使えということなんじゃないか?」

「使うって……何に?」

 

 とぼけたことを言うベラ。

 

「言うたじゃろう。かつてこやつは氷の館へ向かったと。つまり、こやつには氷の館の閉ざされた扉を開ける術があったということじゃ。それがこの盾に込められた力なのかもしれん」

「これで扉が開けられるってこと?」

 

 彼女はどうも納得のいっていない様子だ。

 

「魔法の力が込められている道具というものがある。この盾にも、こやつの剣にも、額当てにも、何らかの力が込められているようじゃ。どんな力かまではわからんが、この盾の力を使えば、扉を開けることができるんじゃないか?」

 

 先ほどまで盾が置かれていたところの周囲には、剣やサークレットも置かれていた。コロヒーローのものなのだろう。リュカはそれらを観察してみたが、これといって変わったところはない。

 不思議な盾もあったものね。そう呟いたベラは、笑顔を浮かべて盾を受け取った。

 

「ありがとう! ありがたく使わせてもらうね!」

「カエシニコイ」

 

 そう言ってベッドへ戻るコロヒーローの後ろ姿に、ベラは嬉しそうに返事をする。

 

「よーし! じゃあさっそく行くよ、リュカ! 早くフルートを取り返さなきゃ!」

 

 部屋を出ようとベラに続くが、急に立ち止まったベラに足を止めざるをえなくなる。

 

「おじいさん! もうあなたを追放した先代様はいません。きっとここを出ても誰も文句は言いません。だから妖精の村に帰ってきてください」

 

 ベラは振り向いてドワーフに言った。だが、ドワーフは表情を緩めはしなかった。

 

「わしはここに残るつもりじゃ」

「え?」

「こやつはここを動けん。わしもこやつに付き合うつもりじゃ」

 

 ふと彼は優しい眼差しをコロヒーローたちに送った。

 

「こやつには仲間がおるようじゃ。わしが付いとる必要もないのかもしれん。じゃが、かといってこんな状態のこやつと簡単に離れるには……共に過ごした時が長すぎた。それに、ここにいて不自由することもたいしてないしな」

 

 低く深い声で、彼は言った。

 コロマージたちは嬉しそうにコロヒーローに話しかけている。

 ベラに言葉はない。

 

「ここが封印される前からこやつはここにいた。身を守るにはここにこもるしかなかったんじゃろう。妖精界も物騒になってきたからのお」

 

 憂いの表情を浮かべ、言葉を続ける。

 

「ここが封印されようと、ここの封印が解かれようと、こやつにとってはたいして意味はないのかもしれんな……」

「ポワン様は、魔物にも優しい方です! 一緒に村に住んだらいいじゃないですか。あそこなら安全です」

 

 思わずといった様子でベラは叫んだ。

 妖精の村で見たスライムをリュカは思い出した。あの村なら魔物だって暮らせるかもしれない。

 

「ポワン様というのかね、新しい長は。先代様とは随分違うようじゃな。考えておこう」

 

 リュカはベラを促した。別にここで暮らすことが不幸なことだというわけではないのだ。

 リュカたちは部屋を後にした。背後にコロマージたちの賑やかな声が聞こえる。村で暮らすことが唯一の幸せの形ではないようだ。表情を曇らせるベラの隣で、リュカはそう思った。

 

 

 

 



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15話

15話

 

 

 

 

 

 凍り付いてしまった湖を、果たして湖と呼んでしまっていいのだろうか。湖は湖なのだろうが、目の前に広がる景色を湖と呼ぶには、リュカには多少の抵抗があった。だが、そんなことは些細なことだ。この美しい光景は、リュカの心をがっちりと捕らえていた。

 この湖の中央に、氷の館は建っていた。その名のとおり、氷でできているようだ。この景色はここにしかない。妖精の世界へ来たのは、間違っていなかった。リュカはそう確信した。

 

「綺麗……」

 

 うっとりしたように呟くベラ。

 彼女の言うとおり、全てが氷でできているこの館は幻想的だった。透き通る館が、陽光を受けてキラキラときらめいている。そしてその身には白く染まる冷気を纏っていた。冷気はゆっくりと渦を巻くように氷の館の表面を撫でながら、天に立ち上っていく。ここが敵の根城だなんて、悪い夢のようだ。

 ここは、妖精の村から北西の方にある森の奥。木々のベールの向こうに慎ましく潜んでいたであろうこの湖に目を付けるとは、敵もなかなかセンスがある。単なる盗人という犯人のイメージを少し変更しようとリュカは思った。

 

「でも、どうやって建てたんだろうね?」

 

 不思議そうな顔をするベラに、リュカが返せる答えなどない。妖精の世界に伝わる不思議な力か何かの為せる技なのかと思っていたが、ベラの様子を見ると、そうではなさそうだ。

 この光景に、しばし立ち尽くしていたリュカたちであったが、いつまでもそうしているわけにもいかない。リュカは凍りついた湖に足を踏み出した。

 

「大丈夫? 割れない?」

「……大丈夫みたい」

 

 杖で氷面を突いてみても、氷が割れる様子はない。手ごたえからは、かなりの分厚さを感じる。もしかしたら底まで凍っているのかもしれない。

 滑らないよう慎重に歩くリュカの斜め後ろを、ソロが平然と続く。

 降り積もる雪のせいで、外はどこも白く染められていたが、氷の館の周囲はいっそう白かった。木々もなく、草も、土すらない。全てが氷だ。そんななかに降り積もる雪。色のない空間というのは、どこか非現実的な思いを抱かせた。不確かな道を行くように、リュカは歩いた。

 扉が見える。扉の上部がせり出してきており、ちょっとした屋根のようになっている。それを支える扉の両脇の柱。扉の左右に伸びる壁。その全てが氷でできていた。

 氷は透き通るようだったが、向こう側を見通すことはできなかった。不思議に視界が歪められてしまうのだ。

 扉の取っ手に触れてみると、痺れるように冷たい。扉も氷でできているようだ。前後に押し引きしてみても、ビクともしない。中から閂でもかけられているのだろうか。

 

「盾は?」

「ああ、これを使うんだよね?」

 

 ベラは背負っていた盾を手にした。コロマージに手渡されたものだ。丸く、ドーム状に反っている。中央に小さな球が埋め込まれているが、これと言った装飾もない、地味な盾だった。

 

「魔法が封じられてるとか言ってたよね?」

 

 ベラは魔力を込めたのだろう。盾を持つ手が淡い光を帯びている。光は盾へと伝達され、盾自体が光を纏うようになった。

 

「……で?」

「当ててみれば? 扉に」

 

 そうね、とベラは扉へ近づき、盾を扉に押し当てた。すると扉が淡い光を放ち、次の瞬間ゆっくりと開き始めた。

 

「わっ! さむーい!」

 

 薄く開かれた扉の隙間から、白い冷気が漏れ出してくる。扉はお構いなしに隙間を広げ、やがて完全に開かれた。

 リュカはしっかりとマントの前を閉じたが、それでも歯がカチカチ鳴る。首が縮こまった。

 中へ踏み込むと、当然というべきか、床も天井も氷だ。どれもほとんど透明で、しかし、やはり向こう側が透けて見えるわけでもない。

 

「さむ~い! けど、綺麗……」

 

 しきりにむき出しの腕を擦るベラ。寒いはずだ。下半身だって、膝より少し上までのスカート姿なのだ。

 ソロもどこか縮こまったようだった。ソロにとっても寒いのだろうか。

 

「でも、何もないね……」

 

 ベラの言うとおり、柱こそ何本か立っているものの、それ以外には階段が一つあるだけだ。壁にはいくつかアーチ状の窓がいくつかあるが、そこにガラスがはめられているのか、あるいは氷が張られているのかはよくわからない。

 リュカはとりあえず階段に向かおうと歩き出した。

 奇妙なほどに障害はない。単なる大広間なのかもしれない。なんのためのスペースなのだろう。リュカは首をひねった。

 階段を上る。親切にも備え付けられた手すりのおかげで、滑って転げ落ちる心配もない。だが、冷たく、手が張り付いてしまいそうな感覚があった。

 すぐに二階へ辿り着く。

 二階も広間だった。この階自体が一つの部屋のようだった。だが、物は全くと言っていいほどない。向かいに階段が、右側に大きなイスがある。イスも氷でできているのかもしれないが、大きな毛布がすっぽりと被せてあるため、よくわからない。玉座のような造りのイスのように思われるが、それも定かではない。

 

「何だお前ら?」

 

 そのイスに座っていた男が、首を傾けて言った。覆面を被り、顔を完全に隠している。

 

「その覆面……小柄な体形……。あんたがザイルね!」

 

 ベラが杖を抜く。

 ザイルが舌打ちをして、勢いよく立ち上がる。

 

「追っ手かよ! クソッ! どうやってここに入ってきやがった!?」

「フルートを返せ!」

「返せと言われて返せるかよ!」

 

 イスに立てかけてあった斧を、ザイルは手に取った。

 

「返して欲しけりゃ、力ずくで奪ってみやがれ!」

 

 ザイルが襲い掛かってくる。氷の上だというのに、滑る様子もない。意外と速い、リュカは気を引き締めた。

 ザイルが被っている覆面は、襟巻きやマントと一体化している少し変わったものだった。その下に毛皮の服を着ているのが見える。マントをはためかせながら、彼は一気に距離を詰めてきた。

 

「おりゃぁッ!」

「うわっ!」

 

 とはいえ、彼の狙いはベラのようだ。リュカは成り行きを見つつ、隙をうかがう。

 斧をブンブン振り回しているザイルは、傍から見ていても力強かった。その猛攻を、必死な様子ではあるが、どうにかかわし続けているベラもなかなかのものだ。

 ソロは、彼から目を離さないものの、動く様子もない。

 

「ちょっと、リュカ! あんたも手貸してよ!」

「ん?」

 

 ザイルがこちらに顔を向けた。

 ベラに集中していたザイルの隙を突こうと思っていたのだが、それも難しくなってしまった。彼はもうこちらにも注意を払っている。

 仕方がないので、杖に魔力を集中する。本当は駆け寄って殴ってやりたいのだが、下が氷では速く走ることはできない。

 

「バギ!」

「クッ!」

 

 幾筋もの風の刃は、逃げる間も与えずザイルに迫る。斧を盾のように構えるザイル。だが、それでは全身を覆うことはできず、至るところを切り裂かれる。

 ザイルはうめき、それから雄叫びを上げつつ、斧を一気に振り下ろしバギを霧散させた。バギを放った反動で後ろに滑りながら、目を見開くリュカ。

 

「舐めんじゃねえ!」

 

 別に舐めているつもりはないのだが、ザイルは怒りをあらわにこちらへ疾走してくる。その足に横から飛びつき、噛み付くソロ。

 

「いってえ!」

 

 すっ転んで、足を押さえながら転げまわるザイル。血が氷の床に赤くなすり付けられる。

 

「覚悟しなさい!」

 

 そんなザイルの様子を見てチャンスだと思ったのか、ベラが駆け寄り、杖を振り上げる。

 

「調子に乗んな!」

「うっ!」

 

 大きく横薙ぎにされた斧を間一髪で彼女はかわすが、続けざまに放たれた拳が腹に直撃する。ベラは後ろに飛ばされ、そしてうずくまった。苦しげなうめき声を漏らしている。

 ザイルは立ち上がると、リュカを睨みつけてくる。

 

「だいたいお前は何もんだ! 妖精じゃねえだろ! 何で首を突っ込んできやがる! 関係ねえだろ!」

「そうでもない」

 

 むしろ大有りだ。このままでは一生春がこないというのだから。実感はないが。

 

「うるせえよ!」

 

 傷ついた足にもかかわらず、ザイルはこちらへ駆けてくる。何でこんなに敵視されるのだろう。内心首を傾げつつも、リュカは身構える。

 叫びとともに振り下ろされた斧に、杖をフルスイングする。甲高い音が響く。

 

「おらぁッ!」

 

 二度三度、両者の武器がぶつかり合う。一際高い音が鳴り、つばぜり合いの状態となる。

 足下が滑って踏ん張りがきかず、リュカは否応なしに後退する。押され続けて、やがて壁に押し付けられる。冷たい。壁に背を預けているだけでも、なかなかの苦痛だ。

 ザイルの表情は覆面に隠れて見えない。ただ、血走った目が見えるだけだ。口元からは白い息が荒々しく漏れている。

 

「くっ!」

 

 幸か不幸か、壁に身体を預けているおかげで、斧を少し押し返すことができた。

 さらに大きくうなり、ザイルはリュカの頭を叩き割ろうと力を加えてくる。

 リュカは杖を斜めに反らすと同時に、壁を肘で押した反動で身体をザイルの横へ素早くずらした。

 

「うわっ!」

 

 その拍子に斧が壁に叩きつけられ、耳障りな音が響く。

 体勢が崩れたザイルの顎をかち上げ、さらに杖を横に振り抜く。ザイルは右手に持った斧で受け止めた。そして、そのまま左拳でリュカの顔を殴りつけた。

 

「ぐっ!」

 

 よろめくリュカ。衝撃で滑る。氷の上では止まることすら容易ではない。そんな状況に若干イラつきながら、リュカは杖を突いてどうにか体勢を立て直す。

 息つく間もなく、襲いくる斧をどうにか杖で受け止めるが、衝撃で後ろに滑り、再び壁にぶつかる。

 すかさず間を詰めてくるザイルの顔面に、リュカは突きを繰り出した。

 

「うわ!」

 

 慌てて大きく仰け反るザイル。

 追撃するリュカに、対応するザイル。幾度も打ち合う音が響くなか、ついにザイルの頬を、リュカの杖がしたたかに打ち据える。重い手ごたえ。鈍い音。ザイルは膝をついた。

 とどめとばかりに、頭に向けて杖を振り切る。直撃だ。ザイルは後方に吹っ飛び、仰向けに倒れた。

 ザイルは動かない。気を失っているようだ。

 視線を巡らせる。ベラはまだうずくまっている。そんな彼女で遊んでいるソロ。

 

「ベラ、大丈夫?」

 

 答えるように、ベラはうめき声を漏らしながら、ふらふらと立ち上がろうとした。のしかかるソロ。倒れ込むベラ。

 

「へぶっ!」

「ソロ。おいで」

 

 名残惜しそうにソロはこちらへ向かってくる。

 

「こんなに思いっきり殴られたの初めてかも……」

 

 そう言いながら、ようやくベラは立ち上がった。彼女は周りを見回すと、ザイルのところで目を止めた。

 ザイルに歩み寄ると、彼の胸倉をつかみ、激しく揺さ振った。

 

「こら、起きろ! フルートはどこ! 返しなさい!」

 

 ザイルの首がガックンガックン揺れている。あれでは起きるものも起きない。そんなことを思っていると、なんとザイルが目を覚ました。

 

「うぅ……なんだ……?」

「なんだじゃない! フルートはどこ!?」

「フルートか……。っていうか離せ!」

 

 ザイルはベラの手を払いのけた。そして、リュカに目を向けた。

 ベラは怒りの表情でザイルを睨んでいる。

 

「おい、お前。名前なんていうんだ?」

「……リュカ」

「そうか。リュカ、お前なかなか強いじゃねえか。ただのガキかと思ったが、見直したぜ」

 

 身体の大きさではほとんど変わらないくせに、リュカは少しむっとした。だが、どこかさっぱりとした声色に、リュカは思わずわずかに、ほんのわずかにだが頬を緩めていた。きっと覆面で隠れた彼の顔は、それ以上の笑顔を浮かべているに違いない。そう思わせる声色だった。

 

「今回は負けを認めてやる。でも次は負けねえからな!」

「次?」

 

 そう首をかしげると、ザイルはニカッと笑った――と思われた。実際は表情は見えない。

 

「……あんた、だいたいどうしてフルートを盗んだりしたの?」

 

 ベラはため息を一つつくと、どこか呆れたように尋ねた。もう怒りの色はだいぶ薄れている。

 

「ああ、それは――」

 

 それっきりだった。ザイルはそれ以上言葉を続けることはなかった。できなかったと言うべきか。

 

「――え?」

 

 リュカは唖然として立ち尽くすしかなかった。ベラも目の前で起こった現象に、呆然とした声を漏らすことしかできない。

 ソロのうなり声が聞こえる。

 

「使えないな……」

 

 ぼそりと聞こえた冷たい呟き。

 たった今、床から突如として突き出してきた何本もの鋭く尖った氷の槍に、ザイルは全身を貫かれていた。

 その呟きが、そんなザイルに向けて発せられたものだということが、リュカには考えるまでもなくわかった。

 ザイルの口がだらしなく開き、震えている。彼は顔を上への階段の方へ緩慢に向けた。

 

「……ユキ」

 

 それがザイルの最後の言葉となった。うつろな目を、階段の中程からこちらを見下ろす何者かに向けて、そしてガクリと力を抜いた。

 

「ちょっと……なに……? なんなの……?」

 

 地面から生える氷柱のように鋭く尖ったものを、真っ赤な血が伝う。氷がその赤を引き立てているようで、氷を伝い、やがて床に溜まる血には、奇妙な美しさがあった。

 ベラがザイルに背を向けて、うずくまる。彼女の震えは、寒さのせいばかりではあるまい。

 

「やはり、子どもを誑かしてという考えは甘かったか……」

 

 リュカは身構えた。

 階段を下りきった彼女は、この部屋によく映えた。真っ白な肌に、水色の髪。水色のドレス。氷の化身――そんな言葉がふと頭をよぎる。

 

「フルートは諦めなさい。そうすれば見逃してあげましょう」

 

 魔性の美とはこのことか。そう思わせる、氷のように冷たい微笑。自分たちのことなど眼中にないのだろう。言葉より何より、その目がそう物語っていた。

 チラリとリュカは、亡き骸となったザイルに目を向ける。至るところを串刺しにされ、倒れることすら許されないザイル。表情は見えないが、光を失った瞳と、そこににじんだ涙の痕跡。

 リュカは、氷の化身に目を戻した。

 

「やだ」

 

 この部屋に満ちる冷気が、一層その冷たさを増した。

 彼女の赤い瞳が殺意を帯びる。

 現実逃避をしているかのような、震えたままのベラ。臨戦態勢のソロ。リュカは杖を強く握りしめる。

 

「愚かな。いや、哀れというべきか。その愚かさ故に命を落とすことになるのだから」

 

 彼女は片腕をこちらに伸ばす。手首にきらめく銀色のブレスレットが、青く淡い光を帯びる。冷気が渦を巻き、ドレスの裾が揺れる。

 

「ヒャド」

 

 呪文とともに、解き放たれた魔力。それは次の瞬間、氷の結晶となり、弾丸のように一直線に飛来する。

 かわそうとするも、氷の床が滑って、機敏に動けない。そして、飛来する氷の結晶の速度。間に合わない。一か八か、杖での迎撃を狙う。

 横薙ぎの杖が、結晶に命中する。重い手ごたえ。若干軌道が変わったかと思いつつ、リュカは衝撃で後ろにはじかれる。結晶が壁か何かにぶつかったのだろう。轟音が部屋を揺るがす。強く杖で床を突き、どうにか動きを止める。

 猛然と駆けるソロの姿が目に入った。

 彼女は、青白い炎のようにも見える揺らめきを手首より先に纏い、腕を一閃した。その拳が飛び掛ったソロの脇腹に吸い込まれ、小さな身体は簡単に弾き返される。床に転がったソロは、すばやく体勢を立て直した。霜が降りたかのように、ソロの脇腹の毛が白く染まっている。

 

「仮にも魔物が、妖精のために戦おうというのか? 所詮、獣か」

 

 彼女は手のひらをソロへ向ける。

 

「バギ!」

 

 させじと放たれたリュカのバギが、彼女の身体を包む。反動でリュカは後ろに滑る。バギを打つたびにこうなのだろうか。リュカはうんざりした。

 まとわりつく風を払うように彼女が腕を横に一振りすると、バギは掻き消された。

 残されたのは、細い切れ込みがいくつも刻まれた彼女のドレスと身体だ。奇妙なことに、彼女の傷からは血などは出ておらず、代わりに氷が漏れ出してきているようだ。傷口に沿って氷が盛り上がり、糸のような筋を浮かび上がらせている。

 

「やってくれるな……」

 

 氷の視線がリュカを貫く。

 それを隙と見たか、ソロが動いた。彼女に向かって疾走する。

 

「小賢しい」

 

 彼女がソロへ向けて手を向ける。一際彼女の手が強い光を放つ。すると、行く手に氷の槍が切っ先をソロへ向けて、床から何本も突き出してきた。それをかわそうと飛び上がったところに、彼女の一撃が待ち受けていた。

 またもや弾き飛ばされたソロは、さらに毛を白く染め、倒れた。

 この間、リュカも黙って傍観していたわけではない。どうにか一撃見舞おうと、走ろうとしていたのだが、ツルツル滑ってうまくいかない。歩くような速度で彼女へ接近していっていたが、当然のごとく間に合わない。

 彼女はリュカへ向けて手を突き出す。

 すると、リュカの足下で冷気が渦を巻いた。白いもやに膝下を覆われながら、リュカの頭が警鐘を鳴らす。

 咄嗟にリュカは横っ飛びをした。その瞬間、床から何本もの氷の棘が出現する。

 刃のような鋭さが、リュカの足をかすめる。鮮血が舞う。

 

「ヒャド」

 

 転がりながら目を向けると、氷の弾丸が迫りくる。マズイ。そう思って杖でガードする間もなく、それは腹に直撃した。

 

「がはッ!」

 

 勢いよく吹っ飛ばされ、激しく壁にぶち当たる。

 苦しい。そして、身体中の痛み。リュカは歯を食いしばり、うずくまる。

 

「リュカ!」

 

 そのときベラが叫んだ。

 いつの間に立ち直ったのだろうか、そんなことが頭の片隅に浮かぶ。

 

「許さない……」

「お怒りのようだな」

 

 怒りに震えるベラを、彼女は笑う。

 

「一体、何を怒っているんだ?」

「……わからないの?」

 

 考えを巡らす素振りをする氷の化身。

 

「心当たりはいくつかある」

「たぶん全部当たりよ」

 

 ベラは強いて声を抑えているようだった。

 対照的に、氷の化身は笑った。

 

「そんなにフルートが大事か? それとも友達が? どちらにせよダメだな。大事ならもっとしっかり守っておかないと」

「……守ってみせる。フルートも、リュカも、ソロも!」

 

 ベラの声がうわずっていく。

 

「守るもなにも……もうフルートは私の手の中にある。お前のお友達も既に倒れた」

「フルートは取り返す。リュカたちもまだ死んではいないわ!」

「なるほど……」

 

 氷の化身の赤き瞳に、残酷な色が灯った。

 

「望みがあるから、鬱陶しくも立ち向かってくるのだな。お前を殺すことなど造作もないが、それよりも、その望みを壊してやりたくなってしまったぞ」

 

 彼女は視線をリュカのほうへ向ける。

 

「やめろ!」

「やめて欲しければ、止めてみるがいい。もっとも、妖精ごときにできることなど、たかが知れてるがな」

 

 酷薄な笑みを浮かべた氷の化身は、いまだにうずくまるリュカに向けて手をかざした。

 自身を貫く言い知れぬ予感に、リュカは顔を上げた。

 

「やめろ!!」

 

 その叫びとともに、氷の化身に向けられたベラの杖が赤い光を帯びる。冷気が満ちた室内に、一筋の熱が生まれる――

 

「ギラ!」

 

――杖の先端から一条の閃光が走る。瞬く間に迫った光は、炎となって彼女に絡みつく。白い彼女を犯す真紅の炎。その色彩の対比が、暴力性をより浮かび上がらせた。

 周囲の氷の表面が歪み、水の膜が生じる。そして氷の化身の身体にも、同様の現象が起こった。

 

「くっ!」

 

 青白い冷気が、追い立てるように炎を払う。そして鬱陶しいとでも言いたげに腕を振ると、一際強力な冷気がベラに向かって降り注ぎ、同時に炎は完全に霧散した。

 

「きゃあっ!」

 

 ベラは悲鳴を上げつつ両腕で身体を庇うも、耐えかねたか、倒れこんだ。ベラの腕に薄い氷が張っている。ベラの周囲――氷の化身が放った冷気に煽られた辺りに、更なる氷が生まれた。まるで突き出してきたかのように盛り上がっている。

 すでに氷の化身の身体に溶けたような跡はない。周囲の氷もいびつな形に固まっている。

 

「妖精には戦う力はないと聞いていたが……そのわりには、なかなかやるではないか」

「くっ!」

 

 苦々しげな表情を浮かべ、ベラは己の身体を抱くように、両腕を押さえる。

 

「さて……ん? お前、起きていたのか」

 

 リュカと氷の化身との視線が交わった。

 リュカは駆け出した。いい加減この足場にも慣れ、早歩き程度の速度は出せるようになっていた。だが、それでも遅すぎることに変わりはない。余裕の笑みを浮かべ、氷の化身は手のひらを向けてくる。

 

「いい的にしか見えんぞ」

 

 相手の手のひらに光が収束する。

 リュカとしてもできることなら魔法を連発したいのだが、あまり使いすぎるわけにもいかない。何せ魔力は限られているのだ。だが、相手はそんなことには頓着せずに魔法を使っているように見える。うらやましい限りだ。

 

「ヒャド」

 

 迫りくる弾丸を、リュカはしゃがんで避ける。そのまま滑りながら相手へ迫るが、一段と濃い冷気に飲み込まれる。

 

「串刺しになるがいい」

 

 リュカは素早く立ち上がると同時に杖を強く床に突き、飛び上がった。宙へ逃げるリュカを追うように、氷の槍が眼下から伸びる。それをしっかりと視界に捕らえ、リュカは慌ただしく足を動かしてかわす。

 

「敵から目をそらすとは、余裕だな」

 

 相手の声が届く。

 リュカも、それがよろしくないということは重々承知しているが、かといって万が一にも串刺しにされるわけにはいかないのだ。

 空中で敵に視線を戻すと、手に光を纏い、迎撃体制は整っているようだった。

 宙に放物線を描きながら、リュカは敵に迫る。

 

「ソロ!」

 

 その声に答えたのか、姿勢を低くし、影のように雪の化身の背後から迫るソロの姿があった。

 

「なっ!」

 

 咄嗟に振り向き、相手はその勢いで腕を横に振り抜き、氷の弾丸が放たれる。だが、狙いを定めたとは言いがたいその攻撃は、ソロを捕らえることはかなわない。ソロは弾丸の下を駆け抜け、氷の化身の足首に喰らいついた。

 

「ぐっ! このケダモノが!」

 

 ソロを振り払おうと魔力を込める相手だったが、それをリュカは許しはしない。落下の勢いに乗って、杖を振り下ろした。

 

「ガッ!!」

 

 重い手ごたえを残して、杖はしたたかに相手の首筋を撃った。

 相手がうめき、膝をつくとともに、リュカも着地する。そして、杖を横なぎにしようと構えた瞬間、ベラの声が響いた。

 

「ルカナン!」

 

 氷の化身の身体が、不確かな淡い光に一瞬包まれたような気がしたが、リュカはかまわず杖を振り切った。

 リュカの一撃は、想像以上のダメージを与えた。相手は殴り飛ばされ、その拍子にソロが喰らいついていた足首がへし折れた。骨折したとか、そんな生易しいものではない。彼女がまるで氷の彫像であったかのように、文字通り折れてしまったのだ。

 足の先を失った彼女は、甲高い悲鳴を上げて床に投げ出される。だが、いつまでも痛みに悶えるような甘い相手ではない。すぐにこちらをにらみつけ、体勢を整える。とは言え、立ち上がれはしないようだ。

 

「おのれ……調子に乗りおって」

 

 寒気のするような形相で、彼女は淡い光を纏った。すると、パキパキと凍るような音を立て、折れた足首が伸びていく。余波を受けたのか、彼女の周囲の氷が徐々に盛り上がってくる。

 ソロがうなる。

 リュカは目を見張った。

 

「足が生えてきた……」

「許さんぞ。もうお遊びは終わりだ」

 

 彼女の長く美しい髪が、さながら青い炎のように波打つ。

 彼女は立ち上がり、少し胸を張り、息を大きく吸うような仕草を見せた。そして次の瞬間、一気に息を吐き出した。

 

「うわっ!」

 

 吐き出された息は、吹雪となってリュカの視界を覆った。かわすには範囲が広すぎる。リュカはやり過ごそうと、マントで身体をすっぽり隠した。

 吹雪のなかには氷のつぶてが混ざっていたらしい。あるものはマントを裂き、あるものはその下にある皮膚までも裂く。身体に突き刺さるものもあれば、殴打するものもある。

 

「くっ!」

 

 全身から血を流し、リュカは倒れる。だが、ヒャドのように一発一発が強力なわけではない。痛みこそ襲っても、意識が刈り取られることはない。リュカは転がる勢いで素早く体勢を立て直す。

 ソロも血を流しているが、闘争心を失ってはいない。ベラは離れたところにいたため、難を逃れたようだ。杖を敵に向け、魔力を宿す。

 駆け出したソロにリュカも続く。ベラの魔法が放たれる。

 

「ギラ!」

 

 赤い閃熱が空間を裂き、瞬く間に氷の化身に迫る。

 己に迫る炎に対し、敵は青白く光る手のひらを向けた。

 

「惰弱な種族が、楯突くな!」

 

 ギラは相手の手のひらに触れた瞬間、音を立てて即座に掻き消える。それと同時に蒸気が急激に発生した。

 敵はベラの魔法を注視してはいたものの、決してその他に対して無防備になっていたわけではない。だが、わずかな隙を見出したのだろうか。ソロは体勢を低くし気配を消して、ベラとは対極の位置に疾風のように回り込む。リュカはそれには続かず、一直線に駆ける。

 

「もう一発! ルカナン!」

 

 意図してのことかはわからないが、ベラは相手の注意を引きつけるように、魔法を紡いだ。

 

「くっ! 鬱陶しい!」

 

 淡い魔力光が氷の化身を浸す。刃物のような目つきで氷の化身がベラをにらみつけた瞬間、ソロが彼女のふくらはぎに深々と牙を食い込ませた。

 悲鳴を上げ、反射的にソロを振り向く氷の化身。その目は、己のふくらはぎを噛み砕く獣に、一瞬であろうとも釘付けにされただろう。ぐらりと揺らぐ氷の化身の顔に、リュカは杖を振るった。

 硬い音が響き、相手は倒れ込む。ふくらはぎは抉られたかのように欠け、顔にはひびが蜘蛛の巣のように走っている。

 ソロが食いちぎったものを吐き出す。それはやはりと言うべきか、相手の身体の肉などではなく、氷のようなものだった。ソロの口周りが白く染まっている。

 この機を逃すわけにはいかない。もう一撃加えようと、倒れている相手に駆け寄るリュカ。

 そのとき、氷の視線に貫かれたような気がした。

 前方の床に一際濃い冷気が流れた。リュカの背筋をひやりとしたものが伝う。リュカは両腕とその手に持った杖で身体を守りつつ、横に転がってでもかわそうとした。

 細く鋭い氷の槍が目にもとまらぬ速さで、何本も伸びてくる。それはリュカの両腕を、両足を、容赦なく串刺しにした。

 

 

 

 



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16話

16話

 

 

 

 

 

「リュカ!」

 

 苦痛の声が思わず漏れる。

 一本の槍が、リュカの杖に伸びた。杖の強度が勝ったか、槍は杖に突き刺さることはなかったが、衝撃がリュカにも伝わる。殴り飛ばされたように、リュカは後方に吹っ飛んだ。そのおかげでと言うべきか、リュカを貫いていた槍が抜ける。

 背中から落ちたリュカは息を詰まらせながらも、上半身を起こした。それだけで激しい痛みがリュカを襲い、思わずうめく。身体が強張る。血がマントに染み込んでいく。

 リュカの視線の先には、己を貫いた氷の槍が、床からこちらに向かって斜めに何本も突き出ている。それを伝う赤いものは、言うまでもなく自分の血である。

 氷に全身を串刺しにされたザイルの姿が、ふとリュカの頭に浮かぶ。同じように赤い血が氷を美しく伝っていた。ザイルも同じように痛かったのだろうか。リュカは思った。いや、自分は生きている。ザイルは死んでいる。ザイルの方がもっと痛かったに違いない。

 氷の槍の壁の向こうを見通す。そこに氷の化身は立っていた。青い炎を纏っているかのように、彼女の身体から冷気と魔力が入り混じったものが立ち上る。顔のひびが消えている。ふくらはぎも恐らく治っているのだろう。彼女に表情はない。

 リュカは痛みを堪えて、杖を支えに立とうとしたが、膝ががくんと折れた。膝を着くも、身体を倒しはしない。

 

「よくもリュカを!」

 

 ベラの杖から炎がほとばしる。瞬く間に氷の化身に迫った炎は、彼女が何気なく身に纏っている冷気に触れた瞬間、掻き消された。

 

「うそっ!」

 

 ベラが驚きの声を上げる。氷の化身はリュカから目をそらさない。

 氷の化身が、光を纏った手のひらをこちらに向ける。間を置かず、氷塊が発射された。

 射線上の氷の槍の壁を粉砕し、破片のきらめきを抜けてそれは飛来する。リュカは倒れこんでかわすことしかできない。壁に着弾したのだろう、轟音とともに館が揺れる。床に血がなすり付けられる。それだけでリュカは苦痛の声を漏らす。

 己の周囲を渦巻く冷気を、リュカは感じた。咄嗟に杖を床と己の間に割り込ませた瞬間、再び全身を氷が貫いた。思わず悲鳴を上げる。

 杖を挟んだおかげで、心臓や頭は無事だった。おかげでリュカはまだ生きている。だが、それもたいした慰めにはならない。両腕、両足、腹……至るところを貫通する氷の槍に、リュカの身体は宙に持ち上げられているのだ。自重で少しずつ槍が深く刺さっていく。

 

「リュカッ!」

 

 ベラが悲鳴を上げたのが聞こえた。

 激しい痛みがリュカを襲う。だが、痛いとか苦しいとかそんな思いよりも、危機感が頭を支配していた。氷を伝う血とともに、生命力までも流れ出していってしまっているような、危うい感覚。痛みに歯を食いしばり、身体を強張らせているはずなのに、脱力感が同時に襲う。己の身体が己の制御下を離れていく。ヤバイ、リュカは焦っていた。早くこの状況をどうにかしなければならない。どうにかしなければ死ぬ――そう思った途端、背筋から脳天へ、氷よりも冷たいものが走った。

 空中でいい的のようになっているリュカを、のん気に鑑賞する趣味もないのだろう。氷の化身が再び放ったヒャドが、リュカの腹に迫る。

 そのとき、ベラが飛び出してきた。

 

「ううっ!」

 

 氷の弾丸が、ベラが身体の前で交差させた腕を打ち、彼女は弾き飛ばされた。壁に激突し、ようやくその動きを止めたベラは、腹を押さえて背を丸め、うめいている。

 

「無駄なことを」

 

 もう一発放たれたヒャドがリュカに激突した。

 

「ガッ!」

 

 リュカを貫いていた氷はへし折れ、リュカは吹っ飛ばされた。そして壁に叩きつけられ、

床に落下する。

 腹からのどへと込み上げるものを感じながら、リュカはなんとか身体を起こそうとする。もはや闘争心からのものではない。単なる防衛本能だ。だが、身体は動こうとしてくれない。どうにか顔を相手に向けるのが精一杯だった。

 

「許さない……よくも、よくもリュカを」

 

 よろよろと起き上がったベラが荒々しく魔力を杖に纏わせ、炎を放った。不規則にうねりながら氷の化身に迫る炎は、やはり掻き消される。

 

「なんで! なんでよ!」

 

 癇癪を起こしたようにベラは叫んだ。

 ソロが駆けた。冷気のベールを越えて、飛び掛かる。迎撃しようと振るわれた裏拳を見極め、逆にその腕に噛み付くソロ。全身の毛が白く染まっている。

 その腕が半ばから砕け、ソロは腕とともに落下する。その瞬間、氷の化身はソロを踏みつけた。恐るべきことに、すでに腕は修復されている。

 ソロが吼えた。毛を逆立てて、牙をむき出しにする。

 

「マヌーサ!」

 

 ベラの杖から放たれた光が、氷の化身の顔に直撃する。霧が纏わりつくように、氷の化身の視界を塞いだ。

 

「無力とは罪だ」

 

 氷の化身がベラの方へ腕を横に振るう。そうして生じた吹雪が、ベラに吹き付ける。

 身体を両腕で庇うようにしながら、ベラは身体中を切り裂かれる。

 

「ならば、せめて弁えるべきだとは思わないか?」

 

 倒れこむベラを冷たく一瞥し、冷然とした声を響かせる。そして、彼女は足下のソロに視線を移す。

 ソロを踏みつけている足の下の床が光った。その直後、ソロの下の床が瞬時に盛り上がり、何かが砕ける音がした。足と床とに挟まれ、急激に圧されたソロは、その身体を氷の床にめり込ませ、ぐったりと脱力する。彼女が足をどけると、床がひび割れているのがわかった。

 

 

 

 

 

 魂というものが、生き物には宿っているらしい。生命と心をつかさどるものだそうだ。リュカにはいまいちイメージがわかなかったが、要するに生き物にとっての根源的なものなのだろう。魂なくして、生物は生物足り得ない。

 そんなものの存在を、リュカはあまり真剣に信じてはいなかった。だが、それも今日までの話だ――なぜならリュカは今、魂を目にしている。

 もはや痛みも苦しみもない。ふわふわと不思議な空間をリュカは漂っていた。ここはどこだろう。氷の館のはずだ。

 黒く重たい雲の渦のなかを、リュカは進んでいた。己の意思でではない。身体が勝手に宙を流れていく。この雲は、行くべき道を浮かび上がらせてくれているのだろう。だからこそ迷うことはない。

 不思議とリュカは穏やかだった。ここはどこだろう。そんな疑問が頭をよぎるものの、ここにいることへの不安も抵抗もない。辿り着くべき場所があるのだ。リュカはそう確信していた。そのためにこの流れに身を任せることに、何の疑問もあるはずがなかった。

 やがて、暗いこの景色のなか、道の先に一点の光を見た。あそこが目指す場所だ。それをリュカは何故か知っていた。勝手に身体が近づいていく。ゆっくり、ゆっくりと。焦らされているような気分だ。

 だからこそだろうか、やがてその光に相対したとき、リュカには他のものが目に入らなかった。他のものになど価値はない。ただ、この光だけが全てだ。この光のなかに全てがある。全てを前にして、それ以外のものはなすすべもなく無に帰す。

 魅了されたように、リュカは光を見つめた。いくら見つめても飽きることはない。瞬きもなく、見つめ続けた。

 永遠にも思えるほど見つめ続けていたリュカに、わずかな欲が芽生えた。触れてみたい――それは許されない。リュカはどうにか自制した。

 だが、一度その芽生えに気付いてしまったら、欲は膨れ上がる一方だ。リュカは耐えた。耐えに耐えた。少しくらいなら構わないはずだ。恐る恐る手を伸ばした。

 指先が触れた。ビクリと電流が走ったようにリュカは震えた。何かが流れ込んでくる。暖かい何かが。

 リュカは唐突に理解した。この光は魂だ。生命の源流だ。

 体内を常に巡っている血流を体感することがないように、細胞の呼吸を感じることがないように、リュカは今まで感じたことがなかった。魂の脈動を。魂を源泉とする、生命の雫の循環を。

 なぜ今まで気付かなかったのだろう。これは生物にのみ与えられた恵みだというのに。こんなにも明らかに全身を巡っているというのに――例えるなら、それは魔力にも似た流れだった。

 

 

 

 

 

 リュカはパッと目を開いた。どうやら意識を失っていたらしい。どれくらい時間が経ったのだろう。己の身体の下には、血溜まりができている。

 ソロもベラも倒れている。ソロの傍らに氷の化身は立っていた。

 ソロが身じろぎし、うなりながらゆっくりと顔を上げた。

 

「子どもであろうとキラーパンサーか。その闘争本能はなかなかのものだ」

 

 意識を取り戻してからというもの、当然のごとく激しい痛みが蘇ってきていた。だが、それは構わない。それはつまり、感覚が戻ってきているということに他ならないからだ。

 リュカは体内を巡る流れを感じ取ることができていた。随分と弱々しい。

 この流れは、生命力と言ってもいい。簡単に言うと、この流れが充実していれば、身体は活性化するというわけだ。今のリュカの体内の流れが弱々しいのは、重症を負っているからだろう。

 逆に言うならば、この流れをある程度コントロールすることができれば――。

 腰周りに流れを集中させようとする。ゆっくりと、少しずつだが、流れの濃度が変化していく。腰周りの濃度が増し、それ以外の部位の濃度が下がっていく。

 リュカは徐々に上半身を起こしていく。頬を汗が伝う。痛みに顔が歪む。

 氷の化身がソロに青白く光る手をかざす。ソロがギラついた視線を返す。

 至近距離で発動したヒャド。目にも止まらぬ速さで迫るその氷塊を、ソロは恐るべき反射神経を発揮し、横に飛び退いてかわした。そして素早く方向転換し、氷の化身に襲い掛かる。床にソロの爪跡が残された。床に着弾したヒャドが、床を砕く。氷の欠片がキラキラと舞う。

 ソロの爪が氷の化身の胸に三筋の跡を刻んだ。

 

「くっ!」

 

 氷の化身の右腕がソロの首をつかんだ。宙吊りにされたソロはもがく。

 胸の傷が修復する。

 大きく咆哮したソロの身体がぼんやりとした光を放った。彼女が心なしか仰け反る。空気が弾けるような音とともに、ソロの身体の表面を撫でるように白く輝く帯が走る。

 ジュッと何かが蒸発するような音がした。彼女はビクリと反応し、思わずといった様子でソロを取り落とす。彼女の右の手のひらから雫が垂れる。

 

「……少々驚いたぞ」

 

 彼女は口元を歪め、己の手のひらを見つめる。そして胸を張り息を吸い込むと、一気にソロに向けて吐き出した。

 ソロは爪を床に食い込ませ何とか耐えようとするが、激しく毛がなびき、氷のつぶてに身体を打たれ、やむなく後退する。

 ようやくリュカは上体を起こし終えた。今度は下半身に流れを集める。ゆっくりとだ。この速度がリュカの限界だった。

 片膝を立て、立ち上がろうとする。そのとき、上半身がガクリと折れる。肘を突いて倒れこむのはどうにか防いだ。さらに足に力を込め、杖を突き、リュカはフラフラと立ち上がった。壁にもたれて、どうにかこの体勢を維持する。手から溢れた血が杖を伝って床を濡らす。荒く吐かれた息が、白く染まって宙に消える。

 リュカは右腕に流れを集中した。

 

「お前……なぜ立てる?」

 

 氷の化身が眉間にしわを寄せ、リュカに視線を向ける。

 リュカは壁から背を離し、杖の頭を壁に軽く押し当てた。それだけでも限界に近い。倒れこんでしまう前にと、リュカは迅速に事を進める。

 杖を持つ手が緑色に光る。その光は杖を浸食していった。大気が流れだす。心地よい風を感じながら、リュカは呪文を唱える。

 

「バギ」

 

 杖を媒介に解き放たれた魔力は、壁との接地面から壁に沿って放射状に広がった。次の瞬間、魔力は風へと変質し、爆風にも似た力を無差別に周囲に撒き散らす。

 吹き飛ばされたリュカは、人形のようになすすべもなく、だが狙い通りに氷の化身へと一直線に飛んでいく。

 

「なっ!」

 

 滞空時間は短い。すぐに倒れこむものの、氷の床のおかげで速度をほとんど落とさず敵に迫る。

 リュカは流れを集中させた右腕を、床に叩きつける。今までに出したことのない力で床を打った反動で、リュカの身体は跳ね上がる。そして、目前に迫った氷の化身へと右腕を突き出す。

 

「ガハッ!」

 

 腹に吸い込まれた杖は、彼女の身体を真っ二つにへし折った。

 それでもリュカは止まれない。床に身体を叩きつけられ、身体のコントロールが利かないまま、反対側の壁に激突する。激しい衝撃に息が詰まる。意識が飛ばなかったのが不思議なくらいだ。骨が折れたかもしれない。そうリュカは思いつつ、そんなことが些細なことのように思えるような痛みに襲われていた。

 だらりと力の抜けたリュカは、もはや動く気力もない。勝った。これでも死なないのなら、不死身なのだ。だとしたら勝てない。どちらにせよ終わった。リュカはそう思った。

 べったりと身体に張り付く氷の床。冷たい、それはわかる。だが、それを苦痛と感じない。自分は氷の一部なのだ。そう思えるほどに、冷たさに忌避感がない。氷の温度が変わったわけではない。ならば、己の体温が氷に近づいたのかもしれない。

 

「お……のれ……。おのれ……」

 

 搾り出すような声が、リュカの耳に届いた。リュカは動かない。

 腹から下を失った氷の化身は、それでも生きていた。ほふく前進をするかのように両腕で這い、少し離れたところに落ちている下半身のところへ向かう。

 

「死んでなるものか……。やっと……私の世界が手に入ったのに……死ぬわけには……」

 

 怨念のこもった言葉が空気中をさまよう。

 縋りつくように下半身を抱えると、断面同士を合わせる。接合しようとしているのだろう。だが、一向にくっつく様子がない。

 

「ああ……なぜだ……」

 

 絶望に打ちひしがれた彼女に、小さな影が差す。

 恐る恐るといった様子で顔を上げる彼女。そのとき、彼女は何を思っただろうか。死に際に、絶望の底で、地獄の殺し屋の異名をとる存在の殺気を浴びた彼女は。

 もはや声はなかった。目を見開き、口をだらしなく開け、彼女は微動だにしなかった。

 ソロが大きく口を開いた。鋭い牙がずらりと並んでいる。開けたまま彼女に顔を寄せる。そして、何の躊躇もなく、まるでそうするのが当然であると言わんばかりに、彼女の顔面にかじりついた。

 まさに氷を削る音がした。

 残された彼女の頭部は異様だった。顔面の部分だけが抉り取られ、三日月のような形を残していた。

 ソロはさすがに食する気にはなれなかったのか、氷を食べてもおいしくはないと思ったのか、吐き出した。もはやそれが顔だったとは、誰にもわからないだろう。大小様々な、ただの氷の欠片だった。

 彼女の身体に水滴が浮かぶ。水滴はみるみるうちにその量を増した。氷が溶けるにしても異常な速度で、彼女の身体は崩壊の一途を辿る。やがて水音を立て、唐突に全てが水となって床に広がった。

 意識が朦朧とするなか、リュカは頬に暖かいものを感じた。緩慢に視線を向けると、ソロが舐めている。情けない鳴き声を漏らしながら、何度も何度も舐めている。心配してくれているのだろうか。起き上がって撫でてやりたかったが、それはかなわない。

 身体の下が濡れている。その理由は、考えるまでもなく血だまりだとリュカは思った。それは間違いではない。だが、実は床自体が濡れており、また壁も天井も水滴を浮かべていることにリュカは気付いていなかった。

 

「あれ、ここは……」

 

 不意にベラの声が聞こえた。

 

「そうだ! あいつは?」

 

 キョロキョロと辺りを見回し、リュカのところで目を止める。驚愕の声を上げると、ベラは慌てて駆け寄った。

 

「ちょっと、リュカ、大丈夫!? ボロボロじゃないの!」

 

 ベラはリュカに触れようとして、躊躇ったように手を止めた。ど、どうしよう、などと呟いている。

 

「リュカ、頑張って! すぐに村まで連れて帰るから。そうすれば回復魔法をかけてもらえるから」

 

 そう言って、ベラは慎重にリュカの身体を抱いた。ベラにとって、リュカを抱き上げることも重労働なのだろう。力んだ声を漏らしながら、それでもその胸に抱えた。血がベラの身体を汚す。

 ポタリと垂れてきた水滴が、リュカの頬を打った。それをきっかけにしたかのように、次々と雨のように水滴が降ってくる。

 

「え、なに?」

 

 ベラが見上げる。

 壁にも水が幾筋も滴っている。床も、水をまいたように濡れてきた。これは、まるで氷の化身の身体が崩れ去ったときのような現象だ。

 

「まさか……氷の館が……」

 

 崩れていく。ただの湖であったこの地は、氷の化身の手によって凍りつき、館が建った。氷の化身を失った今、再びただの湖に戻るのは必然だったのかもしれなかった。

 崩壊は加速する。川が流れるような豊かな水音が鼓膜を震わせる。

 ちょっとした滝のように、水が降ってくる。崩れた天井の一部が――氷の塊が――落下してくる。リュカたちとは離れた位置に落ちたそれは、床を砕いて下の階へと消えていく。ざぶん、と深い水に落ちた音がした。このままではリュカたちも沈むことになる。

 

「きゃあっ!」

 

 大きな氷の塊が、今度はリュカたちのすぐ傍に落ちてきた。悲鳴を上げて、ベラはリュカに覆い被さるように身体を丸める。こんなときでも彼女は花の匂いがした。

 

「あっ、そうだ! フルート! フルートは!?」

 

 ベラが叫んだ。

 氷の化身は上の階から降りてきた。ならば、上の階にあると考えるのが合理的ではないだろうか。そう思ったリュカは、そう搾り出した。あっ、とベラは見上げた。

 天井は――すなわち上の階の床は、半分くらいがなくなってしまっている。上の階への階段も、もう随分溶けてしまっている。

 

「……仕方ないわ。フルートは後で探しにきましょ。今は一刻も早く村に戻らないと」

 

 どこか吹っ切れたようにベラは言った。リュカを抱く手に力がこもる。

 とは言ったものの、ベラはどうやって村に戻るつもりなのだろう。リュカはそんなことをぼんやりと思った。もう時間の猶予もない。ベラは自分を抱えるだけで精一杯だ。

 彼女はリュカを抱いて立ち上がると、ふらふらと歩き出す。下への階段へ向かっているようだ。大丈夫なのだろうか。下への階段がどうなっているのかは、ここからは見えない。

 

「大丈夫よ、リュカ。あなたは必ず助けるわ。だから安心して」

 

 あなたを死なせるわけにはいかない、そう、うわごとのようにベラは言う。リュカはふと思い出した。彼女も決して無傷ではないのだ。それどころか、さっきまで意識を失って倒れていた身なのだ。己を抱く腕にも、傷がいくつも刻まれている。リュカの胸の内に不思議なものが生まれた。暖かいなにかが。

 そのとき、リュカは見た。前だけを見ているベラは気付かない。頭上から氷塊が落下してくる。

 

「ベラ!」

「えっ?」

 

 ベラが気付いた。彼女は甲高い悲鳴を上げた。逃げる時間などない。

 リュカは咄嗟にバギを放とうとした。死にたくない。そして、ベラも死なせてはならないとリュカは思った。

 だが、一瞬で魔力を練り上げることはリュカにはできない。腕も上がらない。

 そのときだった――

 

「へ?」

 

――激しい炸裂音が響き、氷塊が消え去った。ベラが間抜けな声を零す。

 

「大丈夫かい? ……大丈夫そうじゃないな」

 

 野太い声がする。

 視線をそちらへ向けると、大きな金槌を担いだ男がいる。背が低く、横幅は広い。むさ苦しいひげ面だ。

 

「宿屋のおじさん?」

 

 ベラが素っ頓狂な声を上げる。

 

「オイオイ……敵はもういねぇのかヨ。つまんねぇナ」

 

 カタカタと笑う声。ギラつくナイフを片手に、骸骨が辺りを見回している。

 

「おーい! あったわよ!」

 

 上の階に妖精が立っているのが見えた。その手には、笛のようなものが握られている。

 リュカとベラの頭に、ぽん、と暖かい手が乗せられた。

 

「もう大丈夫じゃ。ようやったのぅ」

 

 暖かな声で、老人が微笑みかけてくる。

 

「さあ、お前もおいで」

 

 老人はソロに声をかけると、ソロはおとなしく寄ってくる。

 右手でリュカの頭に触れ、左手でソロの頭に触れた老人は、淡く白い光を纏った。

 

「リレミト」

 

 その呪文とともに白い光は膨れ上がり、リュカたちを飲み込んだ。視界が白一色に染められる。そして次の瞬間、光が消え去ると、リュカたちを包む景色は一変していた。

 崩れ落ちる氷の館。その外観をリュカたちは眺めていた。高々と水しぶきを上げ、湖の底へと館は沈んでいく。湖面が激しく波打つ。

 老人の魔法――リレミトにより、リュカたちは湖岸に脱出していた。

 傍で唐突に白い光が生じた。その光はすぐに消え去り、代わりにそこには、エルフ、ドワーフ、骸骨の三人の姿があった。宿屋で出会ったあの四人組がここに揃った。

 老人がリュカに手をかざした。

 

「ベホイミ」

 

 白い光がリュカを包み込む。温かい。同時に痛みが薄れていく。

 

「これでは完全には治らんじゃろう。随分と血を流していたようじゃからな。しかし、一先ず安心してよいぞ」

 

 老人の言葉は、リュカを包み込んでいるかのようだった。

 身体のダルさは消えないが、痛みは完全に消えていた。傷も塞がったようだ。

 老人は、ソロとベラにも同様の魔法をかけてくれた。礼を言うベラを見習って、リュカも礼を言う。

 

「ベラ、あんたなかなかやるじゃない。まさか、ホントに犯人を倒しちゃうなんてさ」

 

 エルフが口を開いた。

 

「ルナ? なんであなたがここに?」

「そこの坊やがね、フルートを取り返しに氷の館に向かうって言ってたから、ちょっと気になってね。本来妖精の問題なのに、人間の、しかも子どもに丸投げするってのもね……」

 

 リュカと目が合ったそのエルフは、ウインクを飛ばしてくる。

 

「私はすぐにやられちゃって……。全部リュカとソロのおかげよ」

 

 ベラはエルフにそう答え、リュカを抱く腕に力をこめた。彼女の腕は細く、しかし力強かった。

 

「もうちょっと早く来ればよかったゼ。おっさん、テメェがトロいから出遅れたんダ」

 

 ナイフの腹でドワーフの頬をペシペシ叩く骸骨。

 悪い悪い、と苦笑いを浮かべ、頭をかくドワーフ。

 

「まあ、何はともあれ無事で良かったわい。さあ、早く帰ろうではないか。お主らには休息が必要じゃ」

 

 老人はキメラの翼を取り出した。白い光が溢れ、一行の姿は空に消え去った。

 

 

 

 

 

 氷の館は完全に崩れ去った。湖面にいくらか氷塊が漂っているものの、それも直に溶けて消えるだろう。湖が元の落ち着きを取り戻すには、もうしばらくの時間が必要だ。

 だが、元と全く同じというわけにはいかないだろう。湖は、不本意にも内に抱くことになったのだ。氷の化身の成れの果てと、ザイルの亡き骸を。

 

 

 

 



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番外編 ザイルの話

番外編

 

 

 

 

 鼓膜を引き裂くような爆発音。空間が揺れる。パラパラと天井から降り注ぐ岩の破片。洞窟が崩れ落ちなかったことは、不幸中の幸いと言っていいだろう。

 一体何が起こったのか、痛みに悶えるザイルにはわからなかった。ただただ苦しみだけが頭を支配しており、他の何者も、そこに立ち入る余地がなかったのだ。

 意味をなさない叫び声を上げながらのた打ち回っていたザイルは、いつしか動きを止めた。彼の精神が限界を超えてしまったのだ。

 身体の前面が例外なく焼かれていた。特に酷いのは顔だ。醜く焼け爛れ、どこが目でどこが鼻なのか、よく見ないとわからないほどだった。

 それでも彼は生きていた。

 彼が目を覚ましたとき、痛みは相変わらずあった。だが、それでも気を失う前よりは多少痛みが引いていたのかもしれない、物を考える余裕が生まれていた。もっとも、あまりの痛みに叫び、のた打ち回るのは変わらなかった。

 迂闊だった、ザイルはそう思った。己を襲ったのはスピニーとかいう魔物の起こした爆発だ。オレンジ色のトゲトゲ野郎が爆発物であることは、有名な話だ。ザイルも当然知っていた。なのに、なぜ自分はあんなに無防備にスピニーに顔を近づけてしまったのだろう。

 単なる好奇心だった。スピニーにトゲは何本あるのだろう、なんて下らない疑問を晴らしたかったにすぎないのだ。そして、ちょうどうまい具合に眠っているスピニーを見つけてしまったのがよくなかった。眠っているからといって、なぜか安心して近づいてしまったのだ。

 後悔のあとザイルを襲ったのは、恐怖だった。明らかに深刻な症状、治まる気配のない痛み。静まり返った洞窟内部。ひんやりとした地面。ザイルは気付けば膝を付き、うずくまっていた。

 静かな足音が聞こえた。空耳だと思った。こんなところにいったい誰が来るというのだろう。

 間近に気配を感じ、ザイルはうずくまったまま視線を少し上げた。何者かの茶色い靴のつま先が見えた。

 

「生きとるようじゃな……」

 

 随分と、久しぶりに人の声を聞いたような気がした。

 ザイルは、渾身の力を込めて、相手の顔を見上げた。深いしわが刻まれた、いかめしい顔だ。随分と年をとっていると思われたが、一方で、がっしりとした体つきからは若々しさを感じられる。

 

「同じドワーフのよしみじゃ」

 

 そう言って、彼はザイルを担ぎ上げた。

 目から涙が零れていた。そして、ザイルの意識は再び遠くなっていった。

 

 

 

 

 

 目を覚ましたとき、ザイルはベッドに寝ていた。

 身体中に圧迫感がある。視線を下ろすと、全身に包帯が巻かれていることに気付いた。

 ツンと鼻をつく薬のにおいが周囲に満ちているようだった。顔をしかめると、痛んだ。

 

「具合はどうじゃ?」

 

 パッと身体をそちらへ向けると、あの老人がいた。

 ザイルはうめいた。

 

「急に動くな。まだ傷など全く癒えておらんじゃろう」

 

 若干涙目になって、ザイルは頷いた。

 

「……ここは?」

「わしの家じゃ」

「そりゃあそうだろうけど……」

 

 見回すと、ここは洞穴のような部屋だった。薄暗い。天井も壁も床も、全て土だ。薬のにおいの向こうに、土のにおいが隠れていたことに気付く。

 細々した器具が雑然と置かれているが、最も目を引くのが、どっかり置かれた古臭い釜だ。何やら怪しげな雰囲気を醸し出している。

 

「当分、おとなしくしとれ。重症じゃ」

「……当分って、どれくらい?」

「当分じゃ」

 

 怒ってるのだろうか。そう思わせるほど、老人の顔はいかつい。

 

 

 

 

 

「包帯を変えんとな」

 

 数日後、老人は突然言った。

 タンスの引き出しを開けては閉じ、また別の引き出しを開けては閉じ、それを何度か繰り返して、彼は包帯を引っ張り出してきた。

 

「ねえ、じいさんって薬師とかなの? オレの治療をしたのもじいさんなんだろ?」

「薬師ではない」

「じゃあ、なんなの?」

 

 ここで目を覚ましたあの時以来、ずっと部屋に満ちている薬のにおいは、自分の傷に塗りつけられたものだろう。

 

「なんでもよかろう」

 

 釜から嫌な色の液体を器にすくい、それと包帯を持って老人はこちらへ向かってくる。

 

「起きろ」

「……なんだよ、それ。薬……なんだよな?」

 

 ザイルは身体を起こし、器のなかの液体を覗いた。鼻が曲がるほど強烈なにおいが漂ってくる。

 

「それ以外になかろう」

 

 老人は、器と包帯を置くと、ザイルに巻かれた包帯をするすると解いていく。解かれた包帯の内側には、粘ついた液体が付着している。本当にこれで治るのだろうか。ザイルは不安に駆られた。

 しかし、あらわになった自分の身体を見て、考えが変わった。結構治っている。もちろん完治には程遠い。だが、あのとき洞窟で見た自分の身体と比べれば、歴然の差だ。

 包帯が全て取り去られ、ザイルは圧迫感から解放された。さわやかな風に吹かれているような気分だ。

 

「拭き取ったほうがいいんかのぅ……」

 

 ぼそりと老人は呟いた。拭き取るとは、おそらくザイルの身体にまだ付着したままの薬のことだろう。

 

「……あのさ、勘で治療してないよね?」

「この薬は、いろいろと薬草を煎じたものじゃ。これを塗っておけば、間違いはあるまい」

「ちゃんとした薬師はいないの? それか、回復魔法が使える人とか」

「探せばおるじゃろうな。だが、頼めん」

「なんで?」

「……ここはエルフたちの統括する村じゃ。ドワーフは肩身が狭い」

「まさか、ここって妖精の村?」

 

 ザイルは目を見開いた。

 老人は頷いた。

 

「へー、じいさん変わってるなぁ。ドワーフなのに妖精の村に住むなんてさ」

 

 妖精の村とは呼ばれてはいるが、その実、エルフたちが実権を握っている村だ。同じ妖精であるドワーフは、あまり妖精の村には住んでいない。元々ドワーフは、山や洞窟など、岩や土に囲まれた場所を好む。わざわざ肩身の狭い思いをしてまで、妖精の村に住もうと考えるドワーフはまれだ。

 結局、薬は拭き取っておくことにしたらしい。老人は、解いた包帯の綺麗な側で、ザイルの身体を拭いはじめた。

 

「いててッ! もう少し優しく拭けよ!」

「我慢せい」

 

 身体を拭き終えると、今度は顔を拭きはじめた。チョンチョンと優しく拭く。訴えが通じたようで、何よりだ。

 まだ残っているような感覚はあるが、老人はとりあえず拭き終えたと思ったらしい。包帯を床に放ると、今度は薬の入った器を手に取る。

 ザイルの身体に薬を垂らすと、包帯を巻いていった。

 

 

 

 

 

「痛みはどうじゃ?」

「顔はちょっと……でも、他は大丈夫」

「……顔が一番重症だったからな」

 

 何日も経ったある日のこと。怪我はほぼ治ったようだが、まだ顔はなんだか引きつれる感覚がある。しかし、痛みはほとんどない。

 

「包帯ももういらんじゃろう。たぶんな」

「たぶんって……」

「それより、もう帰ってもよいぞ」

「え?」

 

 ザイルはベッドから老人を見上げた。

 

「もう治ったんじゃろう。なら、ここにいる必要もあるまい」

「いや、まだ顔が……」

 

 老人は表情に少しためらいを浮かべた。

 

「たぶん顔はそれ以上良くはならんじゃろう。とりあえず、わしにできることはもうない」

「……え?」

 

 ザイルは、よくわからぬまま老人を見つめた。

 

「お主にも帰る場所があるじゃろう。いつまでもここにいても仕方あるまい」

「……ないよ、帰る場所なんて」

 

 ドワーフは集落を作って暮らしているわけではない。自分の住処は持っていても、一人で生きているドワーフは珍しくないのだ。ザイルも同様だった。

 ザイルは俯いて、ぼそりと言った。

 そうか、と老人は言った。

 

 

 

 

 

「ひーまー」

「知らん」

 

 ザイルはベッドに寝転んだまま老人に目を向けた。老人は何やら釜にいろいろと放り込んでいるが、何をしているのかはわからないし、興味もない。ただ、薄暗いこの部屋でのその行為は、やけに不気味ではあった。

 

「ひーまー」

「やかましい」

「だって、暇なんだもん」

「だったら、外で遊んでこい。この家には遊び道具はない」

「えっ、いいの!?」

「ダメだと言ったことがあったか?」

 

 ザイルは勢いよく身体を起こし、ベッドから飛び降りた。

 

「いってきまーす!」

 

 木製のドアを勢いよく開け放ち、ザイルは飛び出していった。

 あまりの眩しさに、目が眩んだ。ひさびさに身体を動かしたため、あちこちがぎこちない。きしむ音が聞こえるかのようだ。

 どこへ行こうか、ザイルは辺りを見回した。そしてはじめて気付いたのだが、老人の家は、丘のように地面が盛り上がっているところの側面に掘られた、横穴のようなものだった。

 ここは村の外れなのだろうか。森のなかほどではないが、木々に包まれた場所だった。

 

「ん?」

 

 木と木の隙間から、開けた場所らしき空間と、建物らしきものが見える。あれが村というものなのではないだろうか。ザイルは駆け出した。

 ガサガサと、足が下草をかき分ける音をたてて進むと、すぐに村に出た。

 

「うわー……」

 

 しばしザイルは言葉を失った。

 ザイルは、その存在を知ってはいたものの、村というものを見たのははじめてだった。建物がいくつも集まっており、妖精もたくさんいる。妖精といっても、エルフばかりだ。ドワーフの姿は見当たらない。

 遠目には見たことはあったが、エルフをこんなに近くで見るのははじめてだ。可憐な花の精――もし彼女たちが突然空を飛びはじめたとしても、ザイルは驚かなかっただろう。

 最もザイルの目を引いたのは、村の奥のほうに見える大きな湖にそびえる大木だった。自然のなかで生きてきたザイルでさえ、こんなにも巨大で、湖から生える木を他に知らない。どんなに遠くからでも見えるほどの大きさのこの大樹の存在はもちろん知っていたが、間近で見ると改めて圧倒される。

 それだけではない。扉や窓が幹に取り付けられているようなのだ。にわかには信じがたかったが、どうやらこの大木は建物の一種であるらしい。それでいてビシビシと伝わってくる存在感――生命力とでも呼ぶべきだろうか。建物でありながら、間違いなくこの大木は生きていた。

 ようやくといった感じで、ザイルは村に一歩踏み込んだ。村のなかは、下草もある程度整えられている。引き寄せられるようにザイルは歩き出した。徐々に早足になり、しまいには小走りになっていた。

 思えばそのときから何となく、ちらちらと視線を感じてはいたのだが、ついに何かがおかしいと確信させられることが起こった。一人の妖精が悲鳴を上げて、ザイルの行く手から飛び退いたのだ。

 何事だろう、ザイルは眉をひそめた。どうもあの妖精は、自分を見て恐怖らしき感情をあらわにしたように見える。

 その悲鳴のせいで、村人たちがこちらに注目した。村がざわついた。

 

「え……な、なに……?」

 

 ザイルはそわそわと視線をあちこちに巡らせた。小走りだった足は、いつの間にか止まっていた。

 遠巻きにこちらを見ている妖精たち。

 

「なんなの、あれ? 魔物?」

「あんな魔物、この辺にいた?」

 

 どこからか、そんな言葉が交わされているのが聞こえた。一人の妖精が湖のほうへ駆けていくのが目に入った。

 

「な、なんだよ……」

 

 ザイルは無意識のうちに後ずさりしていた。かといって逃げ出すわけでもなく、当然先へ進めるわけでもなく、ザイルはしばし妖精たちの見世物であり続けた。

 さして時間を置くことなく、巨木のほうから四人の妖精が走ってきた。ザイルの前に立ち並ぶと、彼女たちはその手に握りしめたゴツゴツした杖を突きつけてくる。

 

「なんなんだよ、お前ら!」

 

 怒鳴るザイルに、妖精たちは顔を見合わせる。

 

「しゃべったぞ」

「意志の疎通はできそうだな」

「一体何言ってんだよ!?」

 

 妖精たちは強い意志を込めた視線をザイルに飛ばした。

 

「この村に何の用だ?」

「……別に、ただの暇つぶしだよ……」

 

 ぼそぼそとザイルは答えた。

 

「……この村には、たいしたものはないぞ。立ち去るといい」

「……わかったよ」

 

 明らかにザイルを追い返したいがためのおためごかしだったが、ザイルにはそれに反抗する気力はなかった。

 ザイルは踵を返し、表情を歪めながら、森へ向かってとぼとぼと歩いた。振り向くこともできず、村から出る。ガサリと下草を蹴飛ばしながら悪態をついてみるも、気が晴れることはなかった。

 

 

 

 

 

「ただいま……」

 

 老人の家に帰ってきたザイルは、ふてくされた顔で、ベッドにどっかりと腰を下ろした。

 

「随分不機嫌だな。なんじゃ、外はつまらんかったか?」

 

 相変わらずよくわからない作業をしていた老人が、仏頂面をしているザイルに目を向ける。

 

「つまんないっていうか……クソッ!」

 

 ベッドに拳を振り下ろし、ザイルは吐き捨てる。

 壊してくれるなよ、そう呟きつつ、老人はベッドに目をやる。そしてザイルに目を移し、尋ねた。

 

「どうしたんじゃ?」

「わかんねーよ!」

「そうか……」

 

 何事もなかったかのように作業に戻る老人を見て、ザイルは苛立ちを浮かべた。

 

「エルフたちが……意味わかんねーんだよ」

 

 石臼らしきもので葉っぱをすり潰すのに忙しいらしい老人は、ちゃんと聞いているのかいないのか、そうか、とぼそりと言葉を返した。

 

「オレを見て急に悲鳴を上げたり、逃げ出したり……。杖まで向けてきやがったんだ!」

 

 叫ぶザイル。老人は手を止めた。

 

「なんなんだよ……。オレが何したっていうんだ!」

「村へ行ったのか?」

「ああ」

 

 再びベッドに拳を振り下ろしたザイルに、老人は何を言うこともなく立ち上がり、古ぼけた棚の引き出しを開けて、中を探りはじめた。

 

「それはおそらくお主の顔のせいじゃろうな」

「顔?」

 

 銀色の鍋を取り出してきた老人は、それをザイルに放った。

 慌ててキャッチしたザイルを見て、老人は言葉を続けた。

 

「見てみろ。それなら鏡代わりになるじゃろう。あいにく、うちはに鏡なんてお上品なもんはないんでな」

「鏡代わりって……傷が目立つな」

 

 鍋は決してピカピカに輝いているわけではなく、使い古されたものだったが、それでも多少は映りそうだ。底面を顔に近づけると、うっすらと歪んで顔が映った。

 かなり見づらいため、いつの間にか眉間にしわが寄っていた。目を凝らして見てみると、どうもおかしい。なんだか、自分の顔とは違うような気がする。歪んでいるとかそういう次元の話ではなく、もっと根本的に違う。

 

「……なんだ、これ?」

「顔は治らんかったと言ったじゃろう」

 

 理解できないといった表情のザイルに、老人は静かに声をかけた。

 

「どういうことだよ」

「お主の顔は焼け爛れておった。治療はしたが、跡は残った。そういうことじゃ」

「なんだよ、それ!」

 

 ザイルは勢いよく立ち上がった。そして老人につかみかかった。

 

「なんでだよ! なんで治せないんだよ! 治せよ!」

「……わしに拾われたことを不運に思うんじゃな」

「……くそッ!」

 

 ザイルはドアに向かって走り出し、そのまま家を飛び出した。地面を覆う雑草を蹴散らしながら、しゃにむに走った。村に入っても速度を落とすことなく駆け抜ける。先ほどの騒ぎも既に落ち着いたらしく、野次馬もいなくなっていたが、ザイルの姿を目にした妖精たちは再び騒ぎ出す。しかし、そんな様子もザイルの目には入らなかった。向かう先は、村の奥にある湖だ。

 誰にも止める間を与えず、ザイルは湖に辿り着くと、そのほとりに膝をついた。美しい湖だ。こんな時でなければ、しばしの間、目を奪われていたことだろう。

 心臓が激しく打っている。水際に手をつくと、荒い息をつきながら恐る恐る湖面を覗き込んだ。鍋よりは鮮明に映った己の顔がそこにはあった。

 

 

 

 

 

「じいちゃん。オレ、そろそろこの家を出るよ」

 

 もはや定位置となっていたベッドに座って、ある日ザイルはそう告げた。

 相も変わらず釜をいじりながら、そうか、と老人は返す。釜のなかの液体は、薄暗い室内を、淡く不気味に照らしていた。

 

「やっぱ、いつまでも世話になってるわけにもいかないしな!」

 

 そう笑ってみせたザイル。だが、理由はそれだけだっただろうか。あれ以来、結局一度も足を踏み入れることができなかった妖精の村の存在を、身近に意識しながら生きていくことに、苦痛を感じていたのかもしれなかった。

 

「安心しなよ。たまには顔出してやるからさ」

「いらん世話だ」

 

 そう言った老人は、ほんのかすかに口元を緩めたようだった。ザイルは笑った。

 ザイルは枕元に置いておいた布を顔を覆うように巻いた。二つ小さな穴が開いており、そこと目の位置を合わせる。これは老人に頼んで用意してもらった覆面代わりのものだ。

 そして斧を手に取ると、準備はできた。ザイルはもともと身一つで生きてきた。準備などほとんど必要ない。

 言葉少なに挨拶をし、ザイルはドアを開き、家を出て行った。別れの仕方など、ザイルは知らなかった。

 村とは逆の方向に、ザイルは歩いていく。振り向けば、まだ老人の家は見えた。しばらく行き、再び振り向くと、木々が遮る隙間から老人の家は見えた。しばらく行き、再び振り向くと、もう老人の家は見えなかった。

 

 

 

 

 

 あれからザイルは各地を転々と放浪していた。ときどき老人の家に帰ったりもした。そんなあてのない旅のさなか、ある湖に辿り着く。森の奥に、ひそやかに身をたたえていた、澄んだ湖だ。覆面の下でザイルは頬を緩めた。綺麗だ。

 湖のほとりに腰を下ろし、休息をとることにした。周囲には、短い芝がみずみずしく茂っている。空気までもが水分を多く含んでいるようで、辺りに水の匂いが充満していた。

 

「ん?」

 

 ぼんやりと湖面を眺めていると、ふと白いものが目の端にちらついた。目を凝らして見てみると、対岸に水色の服を着た、白い人が横たわっている。その顔立ちまでは見えない。

 どうしたものか、と少しの間考え込んだザイルであったが、立ち上がって対岸へ向かった。

 湖はさほど大きくはなく、対岸へ向かうのに大した時間は必要なかった。

 白い人を間近に見て、ザイルは思わずため息を漏らした――女だ。肌が白く透き通るようだった。水色がかった長い髪が無造作に乱れている様が、余計に女の美しさを引き立てていた。水色のドレスを着ている。

 女は妖精ではなかった。エルフのように耳が尖っているわけでもなければ、男しかいないドワーフであるはずもなかった。

 

「何なんだろう……」

 

 湖の精だ、ザイルは半ば本気でそう思った。

 

「お、おい、大丈夫か?」

 

 ふと我に返り、女の腹が血に染まっていることに気付いたザイルは、慌てて声をかけた。真っ赤に染まった血の色は、普通なら真っ先に目につきそうなものだ。だか彼女には血の色が酷く似合った。彼女が真紅を纏っていることが、この上なく自然なことのようにザイルには思えたのだ。

 反応はない。少し躊躇いながら、ザイルは女の肩に手を置き、揺さ振りながら再び声をかけてみた。冷たい肩だった。一瞬、ザイルは女が死んでいるのではないかと思った。

 しかし、顔をしかめながらうめき声を漏らした女に、ほっと胸をなで下ろす。

 

「おい! 起きろ!」

 

 やがてうめきながら女は目を開いた。あらわになるルビーのように赤い瞳に、ザイルはこの時すでに魅入られていたのかもしれない。

 

「……何者だ」

 

 か細い声でそう言った女は、ザイルを追い払うように腕を振るが、身体が痛むのか、苦しげに顔をしかめた。

 

「無理すんな! 動かないほうがいいぞ!」

 

 うわずった声を上げ、ザイルは女から手を離した。肩とはいえ彼女に触れていたことが、不埒なことのように感じられたのだ。

 

「何者かと聞いている」

「オ、オレか? オレはザイル。君は?」

 

 それには答えず、身体を起こそうとする女に、ザイルは慌てる。

 

「お、おい、寝てろって! オレが、あっ、そ、そうだ、薬だ! 薬を取ってこないと! あっ、でもキミを置いていくわけにもいかないよな――」

 

 制するように掌を彼女に向けながら、ザイルは右往左往した。まずは彼女を安全なところに移すべきか。あるいは一刻も早く薬草を探してくるべきか。いっそ、彼女を連れて薬草を探しにいくべきか。冷静さを欠いた頭では、なにが正しいのか判断するのは難しそうだった。

 

「騒がしいぞ。黙れ」

「あっ、ああ! ごめん」

 

 声の調子も見た目も弱々しいわりに、女は不思議なほど落ち着いていた。

 女は再び立ち上がろうとした。当然のごとく慌てて制しようとするザイルを冷たく睨みつける。

 立ち上がった女は、ふらふらとおぼつかない足取りで、湖に近寄る。そして、崩れ落ちるように膝をつき、湖面に片手を触れた。

 すると次の瞬間、彼女が触れたところから放射状に、透き通った水が白く濁っていく。

 

「何だ?」

 

 ザイルは凝視した。

 

「凍ってる……?」

 

 呆然と呟くザイルを尻目に、その現象は続く。

 どんどん白さが濃くなっていき、手を触れていた部分が徐々に角張りながら盛り上がってくる。冷気がザイルの足下を洗う。ふとザイルは、彼女の掌が淡い水色の光を纏っていることに気付いた。

 ザイルが見守るなかで、ついに湖に氷の洞穴が誕生した。小さな小さな洞穴だ。湖のほんの一部を凍らせたにすぎないが、それでもザイルは唖然としてただただ立ち尽くすことしかできなかった。

 女は脱力したように息を吐くと、転がるようにその穴に身をおさめた。穴は彼女の身体が入るギリギリの大きさだ。

 

「汚い氷だ……」

 

 ポツリと女は呟き、そしてぐったりと倒れこむ。

 氷のなかに身を横たえ、苦しげに喘ぐ女の姿に、ザイルは息をのんだ。だが、腹を押さえる手の隙間から赤い液体が流れ出し、氷の床を染めていくのを見て、ハッとした。

 

「ちょ、ちょっと待ってろよ! すぐに薬草探してくるから!」

 

 ザイルは返事も待たずに森へ駆け込んだ。薬草なんて森を探せばどこかにあるはずだ。

 そんなザイルの後ろ姿を、赤い瞳が静かに追っていた。

 

 

 

 

 

「や、やあ。どうだ、具合は?」

 

 女は少しずつ元気を取り戻していた。ザイルの手当てが功を奏したのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。

 あの日、ザイルが薬草を探し当て戻ってくると、彼女は自分の傷口を氷で塞いでしまっていたのだ。それは彼女なりの治療であったらしいのだが、ザイルは薬草を服用させた。最初は必要ないの一点張りだったが、ザイルのしつこさに折れたようだった。

 とは言え、まだ完治にはほど遠い。相変わらず傷口には氷が張り付いていたし、彼女はぐったりと横たわっている。

 

「何の用だ?」

 

 ザイルの質問には答えず。女は冷たく言った。それにももはやザイルは慣れていた。彼女はどうやら根本的に自分に興味がないらしい。

 

「用って……」

 

 人生のほとんどを一人で生きてきたザイルは、他者とのコミュニケーションの経験が薄い。どうすればこんな相手と会話を続けられるのか、さっぱりわからなかった。

 

「無いなら失せろ」

「……聞きたいことがあるんだ!」

 

 咄嗟に叫んだザイルだったが、次の瞬間困った。何を聞けばいいだろう。

 

「……キミは何者なんだ? 妖精ではないよな?」

 

 彼女と話すときは、意図して感じの良い話し方を心がけているのだが、それがうまくいっているのかは疑問だった。

 彼女は沈黙を返した。感情の読めない視線をじっと向けてくる。

 

「ま、まあいいよな。そんなことは」

 

 静寂に絶えかね、乾いた笑いを漏らす。

 

「キミの名前……は?」

 

 やはり女は答えなかった。

 

 

 

 

 

「やあ、どうだ、具合は?」

 

 もう何度目になるか、ザイルは彼女を訪ねた。最初にかけるこのセリフも、もはやお決まりとなっていた。

 彼女が答えないであろうことも予測できていたザイルは、何の用だ、と返される前に、後ろ手に持っていたものを差し出した。森で採ってきた花だ。この花の名前は知らないが、ザイルが見つけたなかでは最も綺麗な花だった。女という生き物は花を好むらしいと、昔どこかで聞いたことがあった。

 

「……何だこれは?」

「何って、花だよ」

「花? ああ……花か。これがこの世界の花か……」

「この世界?」

 

 まるで彼女が別世界から来たかのような物言いだ、とザイルは首をかしげた。だが、それもよく考えればありえない話ではない。妖精ではない彼女が、妖精界の住人ではないというのは、もっともなことだ。

 

「もしかして、キミは人間なの?」

 

 ザイルは人間という生き物を見たことはなかったが、人間界という世界が存在し、そこには人間という生き物が存在することは知っていた。人間とはこんなにも美しいのか。行ってみたいな、と思いを馳せた。

 

「……ああ、そうだ」

 

 長い沈黙の後に、彼女は答えた。

 

「へえ、そうなのか! オレ、人間って初めて見たよ! 人間って……綺麗なんだな」

 

 そう言い終えて、すぐさまザイルは後悔し、目をそらした。

 だが、彼女はザイルの想像とは違った反応を返した。彼女はザイルが引っ込めようとした手を取り、その手に握られていた花を受け取ったのである。

 

「……え?」

「綺麗だな……花は」

 

 呆然とするザイルに、彼女は初めて小さく微笑みかけた。

 

 

 

 

 

「お前はどうしていつも顔に布を巻いているんだ?」

 

 あれから何度目かの逢瀬になるか、ある日彼女はザイルに突然尋ねた。

 相変わらず彼女は寝転がっている。

 

「え……そ、それは……」

 

 ドクンと一つ心臓が強く胸を叩いた。

 顔に布を巻いている男がいれば、気にならないほうがおかしいとはザイルも思う。だが、どう答えていいものか。正直に話すのは単純に怖かった。ザイルの脳裏から、あのときの妖精たちの反応が消えることはない。

 じっとこちらに向けられる彼女の視線に耐えかね、ザイルは目をそらした。

 

「ま、まあ、そんなことはいいだろ? あれだよ、あれ、ファッションだよ。それより、体調はどうだ? もうだいぶ良いのか?」

「それはもう聞かれた。いつもお前が最初に聞くことだろう?」

「あ、そうだったっけ?」

 

 ザイルは乾いた笑いを漏らした。確かにいつも最初に聞くことだが、答えをもらったことはない。

 

「まあ、答えたくないならいい」

「あ……いや……」

 

 興味を失ったように視線をはずす彼女に、ザイルは狼狽する。どうしたらいい。どうしたら彼女の興味を取り戻せるのだろう。

 

「あの、違うんだ……オレは……」

 

 そう言ったきり黙りこんだザイルに、彼女はため息をつくと、視線を戻して言った。

 

「だから、いいと言っているだろう。それより他にも聞きたいことがある」

「え! な、なに? 何でも聞いてよ!」

 

 身を乗り出すザイル。

 

「ここはどういう世界なんだ? ずっとここにいるからわからない」

「ああ、なるほどね!」

 

 救われたとザイルは思った。

 

「ここは妖精界って呼ばれてるんだ。人間界には人間が暮らしてるように、妖精界には妖精が暮らしてる」

「妖精? お前も妖精なのか?」

「ああ、そうだよ」

「じゃあ、この世界にはお前みたいなのがたくさんいるのか?」

 

 寝転がったままだが、彼女は首をかしげるような仕草を見せる。

 

「まあね。でも、違うのもいるよ。妖精ってのはエルフとドワーフに分かれるんだ。で、オレはドワーフ。エルフはもっと、なんていうか、細いよ」

「細い? 弱いのか? それとも魔法を使うのか?」

「は? ああ……エルフは戦いを好まないらしいから、強くはないんじゃない? 魔法は……まあ、使うやつもいるんじゃないかな、よくわかんないけど」

 

 不思議な反応だ。彼女の返答を聞いてザイルはそう思った。もしかしたら彼女は、強い人間か魔物かに、あんな怪我を負わされたのかもしれない。だから、妖精が自分にとって危険な存在なのかどうかを確かめたいのかもしれないと、ザイルは想像を巡らせた。

 彼女は考えに耽っているようだった。

 

「ドワーフは? 強いのか?」

 

 少しの沈黙の後、彼女が尋ねた。

 

「いや、大丈夫だよ。多少は腕力はあるけど、そんなに好戦的な種族じゃないから」

 

 安心させようと、ザイルは言った。

 そうか、と呟いて、彼女はまた何やら考えているようだ。

 

「……魔物はいるのか?」

 

 その後も彼女の質問は続いた。

 彼女は思いのほかこの世界に興味を持ってくれたようだった。

 ザイルは半分洞穴のなかに頭を突っ込むようにして、話しはじめた。飽きることもなく、彼女が望むままにこの世界のことを話した。

 

 

 

 

 

「どうだ、具合は?」

 

 もう、ここを訪れることに緊張することもほとんどなくなった。

 

「だいぶ良くなってきた」

 

 小さな氷の洞穴に横座りして、彼女は返事をしてくれた。もう身体を起こせるくらいには回復したようだ。ザイルは笑みを返した。

 

「そりゃあよかった。ところで、最近寒くなってきたなあ。風邪引かないように気をつけろよ」

「風邪など引かん。引くようなら、氷のなかに住んだりしない」

「確かにな。すげえんだな、人間って」

 

 この肌寒いなか、氷の洞穴に身をひそめているというのに、彼女は寒がっている様子は微塵もない。

 氷のなかに溶けていってしまいそうな彼女の儚さに見とれていたそのとき、背後でがさりと草をかき分けるような音がした。

 

「誰だ!」

 

 瞬時に振り向き、ザイルは背負った斧に手をかける。

 

「なんだ、リンゴか」

「魔物だな」

 

 緑色の大きなリンゴだが、目と口があるところが、普通のリンゴとは違う。

 

「ちょっと待ってて。すぐ追い払ってくるから」

「放っておけばいいだろう。戦意もないようだしな」

 

 斧を手に足を踏み出したザイルを、彼女は制した。

 

「え、そうなのか?」

 

 リンゴの魔物はヘラヘラ笑っていて、何を考えているのかわからない。

 

「でもどうしたんだろう。ここに魔物が出るなんてはじめてじゃないか?」

「いや、最近ちょっとずつ寄ってくるようになってきた」

「えっ、そうなのか!? なんでもっと早く言わないんだよ! もっと安全な場所に移動しないと!」

 

 ザイルは思わず声を荒げていた。

 

「落ち着け。氷でこの穴の入り口を塞いでやれば、誰も私に触れることはできん」

 

 彼女の氷のように冷静な視線に、ザイルは冷や水を浴びせられたように黙り込んだ。

 

「それより、そんな大声を上げては、魔物を刺激してしまうぞ」

 

 そんな彼女の言葉どおり、気付けばリンゴの魔物はこちらを睨みつけていた。思いのほか鋭い歯を剥き出しにしている。

 しまった、そう歯噛みして、ザイルは魔物へ向き直り斧を構える。彼女に危険を近づけるわけにはいかない。

 

「ガプッ! ガプッ! ガープッ!」

 

 飛び上がって迫ってくる相手に向かって、ザイルは斧の一撃を見舞う。

 斧がリンゴに食い込み、相手は悲鳴を上げて転がっていく。相手の傷口からは、白く濁った汁が垂れている。血ではないようだ。彼なりの血なのかもしれないが。

 追撃をかけようとザイルは一気に距離を詰める。そして斧を振りかざし、それを振り下ろそうとした途端、相手がパッと起き上がり、体当たりを仕掛けてきた。

 

「うわっ!」

 

 反応しきれず、体当たりをモロに受け、ザイルは後方に飛ばされ、尻餅をつく。

 その隙を逃すまいと飛び掛ってきた。マズイ、避けきれない、そう悟りながらもザイルは身をよじり、同時に半ば破れかぶれに斧をぶん回した。

 

「ぐっ!」

「ギャプー!」

 

 相手の歯が頬を裂くのと同時に、斧が相手の横っ腹に深々と突き刺さった。

 リンゴの魔物は半分に割れ、その動きを止めた。溢れ出す白く濁った体液は、妙にかぐわしい香りを漂わせた。

 ザイルは大きく息をついた。座り込んで、斧を放り出す。

 右の頬が痛む。手で押さえると、血がべっとりとついた。浅い傷ではなさそうだ。

 そのときハッと気付いた。肌の感触だ。顔の風通しもいい。慌てて辺りを見回すと、それはすぐに見つかった。

 

「なるほどな。だから顔を隠していたのか」

 

 その声に、ザイルから血の気がみるみる引いていく。千切れ落ちた覆面の残骸に飛びつき、必死に顔に巻こうとするも、破れてしまっていてとても顔は隠せない。

 呆然とザイルはへたり込んだ。

 

「気にすることはない」

 

 気付けば、彼女が傍らに立っていた。ザイルは彼女を見上げた。立てるようになったんだ、頭の片隅でそんなことをぼんやりと思っていた。

 彼女はザイルの傷ついた頬に手を添えた。ひんやりとした感触だ。何が起こっているのかわからず、ザイルは呆然とした。

 

「お前は私を守ってくれたんだろう?」

 

 やわらかな微笑みを浮かべ、彼女は手を離した。

 傷口が凍るように冷たい。触ってみると、どうやら本当に凍っているようだ。私流の治療だ、と彼女はいたずらっぽく笑った。はじめて見る表情だった。

 

「で、でも……オレは……。みんな気持ち悪がるんだ。キミもきっとそうだ……」

 

 ザイルは俯いて言った。

 でも、受け入れてくれた人は一人だけいた――じいちゃんだ。会いたかった。今、無性にじいちゃんに会いたくてしかたがなかった。

 

「そんなことはない」

 

 そんな彼女の言葉にも顔を上げないザイル。

 すると、彼女はしゃがみ、その両腕でザイルを包んだ。やっぱり彼女はひんやりしていた。彼女は氷の精なんだ、そんなことを思った。それなのに感じるこの温かみは何なのだろう。頬を涙が伝うのをザイルは感じた。

 

「では、こうしよう。私にもお前に隠していたことがある。それを、お前の秘密と交換しよう。その代わり、約束するんだ。私たちはお互いを嫌いにならないと」

 

 ザイルは顔を上げた。触れそうなほど間近に彼女の顔がある。彼女の真紅の瞳に吸い込まれるようにザイルは目を合わせ、そらすことができなかった。

 それでいいか、と囁き尋ねる彼女に、ザイルは操られるように頷いた。

 

「私は魔族だ」

 

 

 

 

 

「うわ、なんだこりゃ!」

 

 ある日、ザイルが彼女に会いに湖を訪れると、景色が様変わりしていた。以前までは湖の片隅の一部が凍り、小さな洞穴があっただけだったのだが、今は湖全体が凍りつき、中央に氷の建物が建っている。

 

「やっと来たか。待っていたぞ」

 

 建物に手を添えて、彼女はこちらに顔を向けた。柔らかな表情をしている。

 ただでさえ最近寒くなってきているのに、こんなものが出来たせいで、ここは相当寒い。ザイルは身体を縮こめながら彼女の下へ向かった。

 

「すげえ……これ何なんだ?」

「家を建てたんだ。体調も良くなったことだし、いつまでもあんな穴蔵に住んでいたくはないからな」

「建てたって……簡単に言うな」

 

 家と呼ぶには少々大きい。ザイルはこの氷の館を見上げた。吐く息が白い。

 全てが、濁りのない透き通る氷で作られている。立ち上る冷気が白い霧のように館を覆い、それが流れ去るとその向こうから館が顔を出す。そしてまた新たに立ち上る冷気が、館とザイルを隔てた。確かにそこにあるのに、瞬きをした次の瞬間には消え去ってしまいそうな、そんな幻のような建物だった。

 

「どうだ? なかなか美しいだろう?」

 

 彼女は頬を緩めて氷の表面を撫でる。

 氷はこんなにも透き通っているのに、不思議と向こう側を見通すことはできない。

 

「ああ、綺麗だ……」

 

 ザイルは見とれていた。神秘的という言葉がこれほどに似合うものを、ザイルはこれまでに見たことがないに等しかった。あるとすれば、妖精の村の大樹だけだ。

 傍らの彼女に目を移す。彼女はザイルがはじめて見る表情をしていた。彼女は氷が好きなんだな、ザイルはそう思った。そして、彼女には氷がよく似合う。

 

「入ってみるか?」

 

 ふとこちらを向いた彼女と目が合った。慌ててザイルは目をそらした。

 

「いいのか?」

「ああ、いいぞ。ついて来い」

 

 行く先には大きな扉があった。扉も当然氷で出来ている。

 

「模様もなんか綺麗だな」

「まあな。装飾にも凝ってみた」

 

 どこか誇らしげに、彼女は笑みを漏らした。そんな彼女を見て、ザイルも笑った。

 扉には細かい模様が刻まれており、取っ手にも細かな線が刻まれている。彼女なりのセンスによる模様なのだろう。扉の両脇には円柱の柱がそびえている。ザイルが見たことのないような、装飾の施された柱だ。

 彼女が取っ手を引くと、ゆっくりと扉が開く。すると、中からさらに濃い冷気が漏れ出してきた。

 

「さっみー。なあ、キミは寒くないのか?」

「当然だ。でなければ、こんなところに住もうとはしない」

 

 平然と中に入っていく彼女に、ザイルは歯をカチカチ鳴らしながら続く。

 

「何もないな……」

 

 一階は広間だった。見回した感じでは、他に部屋はない。柱が何本も立っているが、それ以外には物もない。ただ上への階段が隅に一つある。

 

「まあ、置く物もないからな」

 

 二人は階段へ向かった。

 階段はもちろん、手すりも氷だ。手で手すりをつかんでも溶ける様子はない。

 二階も一階とたいして変わらなかった。だが、壁際の一段高くなっているところに、氷製の大きなイスが一つ置いてある。ザイルにもう少し知識があったなら、玉座のようだと思っただろう。

 

「この階はお前の部屋だ。好きに使っていいぞ」

「えっ! オレも住んでいいの?」

 

 ザイルは勢いよく彼女に向き直った。

 

「もちろんだ。でもお前には寒すぎるか?」

「そんなことないよ! 絶対住む!」

「何をそんなに興奮している……」

 

 呆れ顔の彼女を尻目に、ザイルは狂喜乱舞した。確かにここはザイルにとって寒すぎるが、彼女と一つ屋根の下に暮らすチャンスを逃すつもりはない。ザイルの頭にはすでに二人のバラ色の未来が膨らんでいた。

 

「三階は私の部屋だ。勝手に入るなよ」

 

 そう釘を刺すように言う彼女に返事をし、ザイルは下への階段とは対極の位置にある上への階段に目を向けた。あの先が彼女の部屋。そう考えるとドキドキした。

 

「あ、そういえば」

 

 ポツリと零したザイルに、なんだ、と首をかしげる彼女。

 

「名前、まだ教えてもらってなかったなって……。なあ、一緒に暮らすわけだし、そろそろ教えてくれないか?」

 

 以前尋ねたときは、教えてもらえなかったことを、ザイルは思い出した。彼女の顔をうかがう。

 

「そういえば、まだ教えていなかったか。私の名は、ユキという」

 

 

 

 

 

 ここに住むようになって長い時が流れた。この環境に適応するため、ザイルはまず新しい服を作った。と言っても、ザイルに裁縫の技術はない。魔物の皮を剥いで大雑把に形を整えたものでしかないが、なかなか暖かい。覆面も新調した。

 イスにも大きめの毛皮をかけたため、座っても冷たくない。

 彼女との関係も良好だ。当然、一緒にいる時間が増えたのだから、仲が深まるのも当たり前だとザイルは思っていた。いずれは三階――すなわち彼女のプライベートスペースへと足を踏み入れたいという野望をひそかに胸に秘めている。

 彼女の具合もすっかり良くなり、最近はよく出かけるようになった。その隙に三階へ忍び込むことも可能ではあるのだが、さすがにそれは不誠実だと慎んでいた。ザイルは憧憬のこもった視線を上への階段に向けた。今、彼女はその階段の先にはいない。今も彼女は出かけているのだ。

 ザイルにとって喜ばしいことに、彼女は妖精界に、そして妖精という生き物に強い興味を覚えたようだった。詳しいことは知らないが、話を聞くに、調査に赴いているとのことである。妖精の村にもよく足を運んでいるらしい。あそこはエルフ以外に対して排他的な村であるというのがザイルの認識だ。それなのに、そこに入り込んで彼女曰く調査を行うこと。それ以前に、あんなところに何度も行く気になるというのが、ザイルにとっては理解しがたいことであった。

 かく言うザイルも、あの村には何度も足を運んでいる。とは言え、村はずれの老人の家を訪ねているだけだが。そういえばもう随分行ってないな、そんな思いに浸っていると、ふと足音が聞こえた。足音は階段を上がってくる。誰の足音かは考えるまでもないことだ。水色の髪がのぞいた。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

 こんなやり取りができる関係になったのだ。そんな事実にザイルの頬は緩む。

 彼女は心なしか少し俯いて近寄ってくる。そんな姿を珍しいと思いながらも、そんな姿ですら美しいと感じるあたり、ザイルもなかなか重症である。

 水晶のように床から突き出た六角の氷の柱に背をもたれ、彼女はこちらに目を向けた。この館には、このように床から突き出した氷がたくさんある。彼女はどうやらこういったものに美しさを感じているらしい。

 

「少し気になる話を聞いたんだが……」

「どうしたの?」

 

 言いよどむ彼女を、ザイルは促した。

 

「……以前、お前が話してくれたことがあっただろう? 妖精の村に住む、ドワーフの老人のことだ」

「じいちゃんのこと? じいちゃんがどうかしたのか?」

「……その老人が追放されたらしい」

「えっ! じいちゃんが! なんで!?」

 

 反射的にザイルは身を乗り出した。

 

「エルフというのは相当排他的らしいな。追放された理由は単純だ。老人がドワーフだったからだ。しばらくは住まわせてやっていたが、いい加減目障りになってきたんだと」

「なっ!」

「村から追い出されるだけならまだいいのだが、どこかの牢獄に捕らわれているらしい。場所までは聞き出せなかった。すまない」

 

 激昂しかけたザイルは、彼女の申し訳なさそうな顔を見て、どうにかそれをおさめた。だが、怒りがなくなったわけでは決してない。ザイルの脳裏には、あの日の出来事が色を取り戻し、鮮明に浮かび上がっていた。

 

「なんでじいちゃんがそんな目に合わなきゃいけないんだ……」

 

 噴火口を閉ざされた怒りは、内側で静かに煮えたぎる。いずれ爆発するときを待っているかのように。

 

「あいつら……ぶっ殺してやる……」

 

 無意識にそんな言葉を漏らし、ザイルは腰を上げ、傍らに立てかけられていた斧を手にする。

 

「行くのか? 妖精の村に」

「ああ」

「殺すのか?」

「ああ」

「いいのか? それで」

「庇うのかよ、あいつらを」

 

 ザイルが彼女に多少なりとも棘のある物言いをしたのは、これが初めてだった。

 

「いや、そんなつもりはない。私もあのような連中は好かん」

「じゃあ、なんで――」

「殺すべき相手がわかっているのか? 私には、お前が今冷静さを欠いているように見える。冷静さを欠いては、なすべきことを見失うぞ」

「……は?」

 

 ザイルは首をかしげた。ザイルはただ、奴らの鮮血が、怒りの炎を鎮めてくれることを期待していたにすぎない。

 

「老人を追放すると決めたのは、あの村の長をはじめとする一握りの者たちだ。そいつらを討ってこそ、意味があるのではないか?」

「……うん……まあ」

「だが、エルフたちのなかにも、力を持った者もいる。長はその筆頭だ。直接見てきたが、あれはかなりの力を持っている。お前には荷が重い相手だ」

「知ったことか!」

 

 恐れに刃を引かせるわけにはいかない。強く柄を握り締めた。

 

「冷静になれと言っている。なすべきことは何だ? 殺すことか? そうではないだろう。奴らに絶望の底に叩き落してやることなのではないか? 死は一瞬の恐怖を与えるだけだ。それでお前の気が済むのか?」

 

 赤い瞳が、ザイルを静かに見つめている。その視線が脳にまで侵食してくるような、そんな感覚がザイルを襲った。

 

「奴らは、季節をつかさどる存在だ。その責任を負わされて、妖精の城というところから送り込まれてくると聞いた。その辺りはお前の方が詳しいのではないか?」

「そんなこと、オレも知ってるよ」

 

 妖精の城というところがどこかにあるらしい。その名のとおり、妖精たちが住む場所だ。だが、ザイルもそこまで詳しいことを知っているわけではない。その城の王は、妖精の村の長よりも偉いということくらいだ。偉い妖精たちが住むところというのが、ザイルのイメージだ。

 ちなみに、村の長が住む大樹もエルフたちは城と呼んでいるが、妖精の城とはまた別物だ。

 妖精の城がどこにあるのか、ザイルは知らない。だが、この付近にはないことは確かだ。城で生まれ育ち、そこから派遣されてくる者もいれば、妖精の村に直接生まれ出る者もいるらしい。村の長は前者であろう。

 

「長は責任を負わされている。つまり、その責任を果たせなかった場合、罰を与えられるだろう。しかも、季節をつかさどるという重大な責任だ。与えられる罰もまた重大なものになるだろう。長という地位からの永久の失墜。後悔と屈辱に未来永劫焼かれることになるはずだ」

 

 抑揚をつけて彼女は語った。

 

「……それいいかもな」

 

 ザイルがこのとき本当に冷静さを保てていたなら、彼女の言葉が単なる憶測の積み重ねにすぎないことに気付けたかもしれない。そして、その裏に秘められた彼女の思惑にも。

 

「ならば簡単なことだ。春風のフルートを奪ってやればいい。それがなければ奴らは世界に春をもたらすことができないらしい」

「春風のフルート……」

 

 頭に刻み付けるように、その言葉を呟いた。

 

 

 

 

 



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17話

17話

 

 

 

 

 

「よくやってくれましたね、リュカ。これで、世界に春を告げることができます」

 

 穏やかさのなかに、確かに喜色をにじませて、ポワンは言った。彼女の腰には、春風のフルートがおさめられている。

 はじめて会ったときは自室のベッドの上にいた彼女だったが、今は体調が回復したのか、城の最上階の玉座にふんわりと腰掛けている。

 彼女の自室は四階にあったわけだが、そこからさらに階段を上がったところが、この最上階である。玉座と、その両脇に立つ石像くらいしかない。床には赤いじゅうたんが敷かれている。

 

「この盾は私が責任を持って返しておくから、安心してね」

 

 ベラは、脇に置かれたコロヒーローに渡された盾を指差した。

 彼女はポワンのかたわらに、リュカと向き合うようにして立っている。ソロはリュカの隣におとなしく座っている。

 

「大丈夫?」

「え? 私一人で洞窟を抜けられるかってこと?」

 

 リュカは頷いた。

 

「大丈夫じゃない――って言ったら、ついて来てくれる?」

 

 うーん、とリュカは考え込んだ。一度行った洞窟にはあまり興味がない。だが、ベラともう一旅できるなら……そんな思いもなくはなかった。

 

「冗談よ。私、今回のことで結構たくましくなったんだから」

 

 ベラは笑顔を零し、力こぶを作る仕草を見せた。明らかに非力なその様子に、リュカは思わず笑みを漏らした。ベラが笑みを濃くした。

 ポワンが玉座を立ち、リュカの目の前にしゃがんだ。そして、両手をリュカの頬に添える。しっとりと柔らかな手の感触。彼女もまた、ベラと同じように花の香りがする。

 

「リュカ、あなたの顔をよく見せて下さい」

 

 空のように透き通るポワンの青い目と、リュカの黒い目が重なり合う。

 

「あなたのおかげで世界に春を告げることができます。この恩を、私たちは決して忘れません」

 

 同意するように、ベラも頷いた。

 

「あなたがもしこの先、どうしようもない困難に直面したとき、この村へおいでなさい。そのときは、今度は私たちが必ずあなたの力になりましょう。いいですか。よく覚えておくのですよ」

 

 この上なく真剣な表情でそう語ったポワンは、締めくくるように笑みを漏らした。

 

「来てもいいの?」

 

 リュカはベラに教わったことを思い出した。たしか、妖精の世界に人間がむやみに足を踏み入れるのは好ましくないと言っていたはずだ。

 

「いいのですよ、あなたなら。こんなことを言ったら、また甘いと叱られてしまうかもしれませんが」

 

 フフッとポワンは笑った。ベラが隣で同意するように再び頷いた。

 

「ただし妖精界への道は、あなた自身の手で見つけ出してください。大丈夫、あなたならきっと見つけ出せます」

「ちょっとだけヒントをあげるわ。いいですよね、ポワン様?」

 

 ええ、とポワンは微笑んだ。

 

「いい、リュカ? 人間界にはね、妖精の血をちょっとだけ引いてる人間がいるの。その人たちに会えたら、きっと妖精界にも来られるわ。意外とリュカの近くにいるかもね」

 

 どこか意味深な言葉とともに、ベラはウインクを飛ばした。

 妖精の血を引いている人とは、果たして人間といえるのだろうか。その疑問を口にしてみる。

 

「ほんのちょっとだからね。遥か昔に妖精の祖先がいたってだけだから、人間と呼んで構わないはずよ」

 

 ベラが話し終えたのを見計らい、ポワンは立ち上がった。

 

「さあ、そろそろお別れの時です」

 

 ポワンは腰に挿したフルートを手に取った。そして、手を上に伸ばす。

 すると、部屋の天井、壁、床に、ピンク色の光が紋様のように浮かび上がった。一泊置いて、その光は視界を満たすようにブワッと広がる。風に吹かれる花吹雪のように、その光が薄れていくと、周囲の景色が様変わりしていた。

 冷たい風が静かに吹き抜ける。

 足場である木の床には雪が薄く積もっている。天井も壁も消え、代わりに信じられないほど太い木の枝が何本も、空へ向かって伸びているのが見えた。

 

「ここはお城の天辺よ」

 

 キョロキョロと周囲を見回すリュカとソロに、ベラが声をかけた。

 ポワンとベラ、そしてリュカとソロは、天辺の中央付近に立っている。天辺――つまり木の先っぽを平らに加工してあるらしい。かなりの広さがある。

 遥か下方に大地や森、山並みの景色が広がっている。ここに立ってみて、ようやくこの木の巨大さがわかった。この世の全てを眼下におさめ、世界の中心にどっしりとそびえているのだ、この大樹は。

 下部から何本もの枝が、横へ広がりながら天へ向かって伸びていた。それらは幾重にも枝分かれし、頭上を網目のように覆っている。どの枝の表面も雪に白く染められていた。

 

「リュカ、ソロ、よく見ておいてください。この木が色付くところを。あなたたちにはその権利があります」

 

 律儀にもソロにまで声をかけ、ポワンはフルートを口元に添えた。素朴な木製のフルートの上を、ポワンの白くほっそりとした指が滑る。

 温かく柔らかな音色が生まれた。深みのある音が、大気とともにリュカの胸をも震わせているかのようだった。

 ベラが歩み寄ってくる。

 

「お礼にしては軽すぎるかもしれないけど、私の宝物をあげるね」

 

 彼女は懐から取り出した木の枝と羽ペンを、リュカに手渡した。

 

「いいの?」

「うん。それに、これを持ってたらリュカは私のこと忘れないでしょ?」

 

 ベラはそう言って笑った。きっと忘れない。リュカはそう確信していた。

 フルートの音色に導かれるように、周囲の枝々が芽吹いてゆく。同時に、雪は掻き消えるように、いつの間にか姿を消していた。

 みるみるうちに芽は花開き、桜色に世界を少しずつ染めていった。この大きさの木だ。花の数も無数である。その光景は、フルートの旋律もあいまって、途方もなく幻想的だった。苦しさすら感じるほど、リュカの胸に熱いものが込み上げる。

 

「この枝はね、絶対に枯れないのよ。羽ペンはすごく書きやすいの。私も愛用してたわ。どっちも妖精の国にしかないものだから、記念にはもってこいでしょ。大切にしてね」

「わかった」

 

 リュカはその二つを、グッと握り締め、しっかりと返事をした。

 花の香りが充満している。花がこの空間を覆い尽くす。すでに、外界の景色は見えない。床は茶色く、それ以外は全て桜色に満ちていた。

 

「リュカ、またね。ソロも元気でね」

 

 ベラはソロの頭を撫でた。ソロはそっけなく小さく尻尾を揺らした。

 彼女はリュカに向き直った。そして、ソロにしたようにリュカの頭を撫でた。リュカは頭を振った。彼女は小さく笑った。

 桜色が満ちていく。やがて、足下さえも桜色に染まっていった。ベラの姿も桜色に遮られ、徐々に見えなくなっていく。そして完全にリュカの視界が染まった。

 フルートの音色だけが聞こえる。ほどなく桜色は、花びらが散るように舞い落ち、その狭間から薄暗い景色が覗く。桜色が薄れていくにつれ、フルートの音も小さくなり、そして、そのどちらもがじきに消えた。

――静まりかえっている。リュカたちはあの地下室にいた。最後の一片がひらひらとリュカの目の前を横切り、地に落ち、消えた。夢が覚めたような気分だった。

 ソロが隣で、不思議そうに辺りを見回している。

 リュカは右手に持ったものを見つめた。そこには桜色の花を咲かせた枝と、羽ペンがある。夢ではない。たしかにリュカはあの世界にいたのだ。

 

 

 

 

 

 木箱やタルがいくつも置かれただけの、殺風景な石造りの地下室を横切り、上への階段へ向かう。石の階段を上がる。床板を持ち上げると暖かな光が満ちた。

 ひょっこりと床下から顔を覗かせたリュカと、サンチョの目が合った。サンチョはギョッとしたような目をすると、慌ててこちらに駆け寄ってきた。

 

「坊っちゃん! そんなところにいたんですか!」

 

 サンチョはリュカが持ち上げている床板を受け取り、リュカに手を差し出した。その手を、必要はなかったものの一応受け取り、リュカは階段を上がりきった。ソロも続く。

 

「随分探したんですよ」

 

 ホッとしたような表情をサンチョは浮かべた。

 サンチョを見るのも久しぶりのような気がした。そんなに長いこと妖精の国にいたわけではないのに。

 

「何度、探しに出ようと思ったことか。旦那様が放っておくようにとおっしゃるから我慢したものの……」

「どうしたの?」

「ラインハットからの使いが来て、旦那様はラインハットに行くことになったんです。坊っちゃんも連れて行くつもりで探したんですが、結局見つからず……。まあ、とにかくご無事でなによりです」

 

 サンチョは床板を地下室への入り口にはめながら言った。

 

「ラインハットって?」

「ああ、近くの国ですよ」

「お父さんはもう行ったの?」

 

 若干焦りをにじませるリュカ。

 

「たった今です。きっと今頃教会でお祈りをしてらっしゃるはず。時間の余裕はありますよ」

 

 リュカの焦りを見抜いていたかのように、サンチョは安心させるような表情を浮かべた。

 

「ところで、随分見事な桜の枝を持ってらっしゃいますね。これはなんとも美しい。坊っちゃんの部屋に飾っておきましょうか?」

 

 感心したようにサンチョはリュカの手のなかのものに視線を注ぐ。

 リュカは少し迷った。常に身近に置いておきたい気持ちもあるのだが、持ち歩くには不便かもしれない。丁重に扱ってやらないと、花が千切れたりしてしまうかもしれないからだ。そんなものを旅の最中持ち歩くのは、あまり適切な判断とは言えまい。

 リュカは少し考えた挙句、飾っておいてもらうことにした。その意を、頷くことで表現すると、サンチョは心得たと笑った。

 

「わかりました。それでは、この枝は私が責任を持って預かりましょう」

 

 恭しくサンチョは枝を受け取った。大袈裟だとリュカは思ったが、指摘しはしなかった。サンチョはそういう人間だと、とっくに知っていたからだ。

 彼は再び、何かに気付いたようにリュカの手元に目を向けた。

 

「おや、その羽ペンは、よく見ると大変珍しいものでございますね。その羽ペンは……やはり預かっておきましょうか」

 

 サンチョの言うとおり、羽ペンも預けることにした。羽ペンなどというものははじめて手にしたリュカであったが、見るからに繊細そうだ。こちらも同様に持ち歩くには適さない。そんなリュカの考えを見通していたかのように、サンチョは穏やかに笑った。

 リュカは頷き、羽ペンを手渡した。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 リュカはサンチョに手を振ると、サンチョも手を振り返してきた。

 

「行ってらっしゃいませ」

 

 

 

 

 

 家を飛び出すと、幾分暖かさを取り戻した日差しが注いでいた。早く父に追い付こうと、教会へ駆けるリュカに、声がかけられる。

 

「やあ、リュカ君。そんなに急いでどこへ行くんだい?」

 

 井戸のところでたき火をしている男が、こちらに視線を向けている。彼はいつ見てもここでたき火をしている。他にすることはないのだろうか。この分だと、夏になってもたき火をしているのではなかろうか。

 そんなどうでもいいことをぼんやりと考えながら、リュカは教会へ行くのだと答えた。

 

「なるほど、わかったぞ。お父さんを追いかけてるんだな」

「なんでわかったの?」

「パパスさんが教会に行くのをさっき見かけたのさ」

 

 いたずらっぽく彼は笑った。彼はずっと家の前にいるのだから、パパスが出かけていくところを目撃しているのも当然だった。

 

「またパパスさんは村を離れるのかもしれないな。そんな出で立ちだったからね。また長い旅に出るのかなぁ」

 

 燃える薪に火ばさみを突っ込んで、彼はゴソゴソとやっている。

 

「素手だと危ないよ」

 

 彼は素手で火ばさみを扱っていた。手袋などをしていないと危険だと、リュカはどこかで聞いて知っていた。

 彼は笑みを漏らした。

 

「僕くらいになると、手袋なんて必要ないのさ」

 

 どこか誇らしげに言って、彼は火ばさみを抜き出した。そこには楕円形に丸めた紙の塊が挟まれている。表面が黒く焦げているそれを、彼は地面に置き、そして紙を剥がしはじめた。

 

「よーし、ちゃんとできてるな」

「何、それ?」

「焼き芋だよ」

 

 彼は紙に包まれていたものを半分に割った。すると、断面から黄色い中身が覗く。湯気が立っていて、熱そうだ。

 ソロが顔を寄せて、匂いをかいでいる。

 

「本当はおき火でじゃないと、焼き芋はなかなかうまくできないんだけどね。僕くらいになると、そんなことに捕らわれはしないのさ」

 

 そう得意げに言った彼は、半分いるかい、と差し出してきた。リュカは受け取った。ソロが寄ってくる。

 

「いつも芋焼いてたの?」

「そんなことはないよ。たき火がメインさ」

「なんでいつもたき火してるの? そんなに寒いの?」

 

 物欲しそうにしているソロに芋を少し分けてやりながら、リュカは尋ねた。寒がっているのだとしたら、外に出てこず家にこもっていた方が遥かにマシだろう。それでも彼は外に出る――寒気に身をさらし、火をおこす。そこにリュカは、執念じみたものを感じざるをえないのである。

 

「寒いとか暑いとか、そんなの些細なことだとは思わないかい?」

「――え?」

 

 彼が当たり前のように言ったその言葉を、リュカは理解できずにいた。彼は自分とは全く異なる視点で物事を捉えている。その事実をまざまざと見せ付けられたような気がして、リュカは返答に詰まった。

 彼は気にせず、言葉を続けた。まるで答えなど期待していなかったかのように。

 

「火を友とすること。それは人間だけに許された特権だ。火を生み、火を育て、火の恩恵をこうむる。火を吐く魔物は数あれど、こんなことをするのは人間だけだ」

 

 たしかに、たき火をしたり、そこで芋を焼いたりするのは人間だけかもしれない。リュカにはなんとなくイメージがわいた。料理に利用したり、暖炉に火をくべたりするのも、人間だけかもしれない。だが、それとこれと一体何の関係があるというのだろう。

 

「人間の証明。僕が求めているのは、実はそれなのかもしれないな……」

 

 すまない、彼はそうたき火に向かって呟いた。

 リュカは彼に背を向けた。理解の及ばないものを恐れるように。そこにある得体の知れない恐怖を忌避するように。

 そのとき、低く落ち着いた声がリュカに向けられた。

 

「リュカ、一体どこに行っていたんだ?」

 

 父、パパスの声である。

 

「サンチョから聞いているか? 父さんはこれからラインハットへ向かうが、お前も付いてくるか?」

 

 父は、教会で祈りを済ませ、引き返してきたところのようだ。

 リュカは頷き、駆け寄った。

 

「パパスさん。また長い旅に出るんですか?」

「いや、今回はそう長くはならないだろう」

「そうですか。よかった」

 

 そう嬉しそうに、たき火の男は言った。

 

「ではリュカ、行くとするか。準備はできているか?」

 

 リュカは頷く。

 そうして歩き出したパパスに、リュカとソロは続く。

 無造作に伸びた下草。そこにうっすらと覗く石畳の道をリュカたちは進んだ。

 焼き芋を一口かじった。こちらを熱心に見上げてくるソロに、一欠片やる。

 

「おお、焼き芋か。サンチョに作ってもらったのか?」

「ううん。あのたき火の人」

「たき火の人……ああ、カネマー君か」

 

 パパスはちらりと振り向いた。まだ彼の姿が見える。

 

「彼はなかなかおもしろい青年だ。何事であろうと、一つのことを極めるというのは実に困難なことだ。お前にも、いつか誇れるものができるといいな」

 

 パパスはリュカに微笑みかけた。

 リュカは愕然としていた――たき火の男は父に認められている。

 たき火男は異質の存在なのだとリュカは思っていた。だから自分の理解が及ばなかったのだと。だが違った。たき火男は、父に認められるほどの男だったのだ。理解できなかったのは、彼が、自分では見えないほど遥かな高みに至っていたからだったのだ。

 リュカは振り向いて、彼の姿を視界に入れる。何気なくたき火を楽しんでいるように見えるが、今ならその背後に果てしない道のりが見えるような気がした。彼はあの何気なさの裏に、どれほどの努力を重ねてきたのだろう。

 どうでもよくなってリュカは考えるのをやめた。

 

 

 

 



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18話

18話

 

 

 

 

 

「魔法ってどうやったら覚えられるの?」

 

 サンタローズを出たリュカたちは、草原を南東に進んでいた。右手には遠くの方に山々が見え、左手には森が見える。

 父の話では、サンタローズから東にまっすぐ向かったところに関所があるらしいのだが、かと言って東にまっすぐ進むと、森を突っ切らなければならないそうだ。だからリュカたちはまず南東へ進み、その後北東へ進むことで、森を避けつつ関所に向かっているのである。

 

「なんだ、魔法に興味があるのか?」

「うん」

 

 パパスは意外そうに言ったものの、どこか納得を表情に浮かべていた。

 

「お前には、魔法の才能もあるからな、それもいいだろう」

「ほんと?」

「ああ」

 

 そう言ってパパスは穏やかな表情を浮かべ、どこか視線を遠くに向けた。ときどき父はこんな目をする。以前ソロを連れて行くと言ったときも、同じような目をしていた。そして、優しい目をリュカに向けて、許可を出したのだ。

 彼の胸には銀色のペンダントが揺れていた。まだ冷たさの残る陽光が反射して、きらめいている。

 

「魔法を研究している者もたくさんいるが、どうしたら魔法を覚えられるのか、実はあまりわかっていない。あるとき突然覚えるというのが共通しているようだがな」

「え、わかってないの?」

 

 残念だ。その思いが顔に出たのだろう。パパスは苦笑した。

 

「だが、ただ漫然と日々を過ごしていても魔法を習得することはできん。己を高めていく過程でのことのようだ」

「お父さんはいつ魔法を覚えたの?」

 

 父さんはホイミしか使えんが、そう前置きしてパパスは口を開いた。

 

「大昔の話だ。まだ子どものころだったが、魔物にやられて大怪我をしてな、もう死ぬのだと思った。そのとき突然ホイミが使えるようになったんだ。同時に自分のなかの魔力の存在も認識できるようになった」

「僕と同じだ……」

 

 父でも大怪我をすることなんてあるのか。そう驚きつつも、リュカは少し嬉しくなった。

 ソロが何かを見つけたように、どこかへ駆け出した。その後姿が茂みのなかに消えていくのを何気なく見送る。

 吹き抜ける風に、マントがなびく。

 

「魔法を使えるようになったのか?」

 

 少し驚いた様子のパパスに、リュカはバギを使えるようになったのだと伝えた。パパスは頬を緩めて口を開いた。

 

「窮地に立たされたときに魔法を覚えるというのは、よくある話だ。そこに目をつける研究者もたくさんいる」

 

 そのとき魔物が一匹リュカたちの行く手に現れたが、パパスがそちらへ顔を向けると魔物は慌てて逃げていった。疑問を浮かべるリュカに反して、パパスは何事もなかったかのように言葉を続ける。

 

「突然魔法を使えるようになるということや、魔法の扱い方が誰に教わるまでもなくわかるということから、そういった知識は魂に刻まれているのではないか、という説もある」

「魂?」

 

 氷の館でリュカが見たあれのことだろうか。

 あのときリュカは魂というものの存在を確信したが、今思い返せばなぜあそこまで確信できたのかわからない。今も意識を傾けると、体内の流れを感じる。だから、この力の存在は疑う余地はない。しかし、それが魂を源流とした力だというのは、迷いなく信じるのは難しかった。結局、形のないものを信じ続けるというのは困難なのかもしれない。

 

「ああ。最初から魂は全てを記憶していて、窮地におちいったとき、生存本能からその力が発揮されるという見方だ。あるいは、窮地におちいるかどうかは関係なく、鍛錬によって魂が研磨されていく過程で、その記憶が浮かび上がってくるという見方もある」

「魂ってほんとにあるの?」

「それもわかっていない。その存在を感じる者はわりといるようだが、その証明をすることは誰にもできていないのが現状だ」

 

 この世には父にもわからないことが結構あるのだ。そのことにリュカは気付いた。

 

「だが、父さんはあると思っている。そういったものの存在を感じたことが何度もあるのでな」

 

 そのときリュカはふと思い出した。あのとき、魂からあの流れが流れ出してくるのは感じたものの、それは魔法とは関係のないことのはずだった。だが父の話を聞いていると、魔法の源もそこにあるような印象を受ける。

 

「魔力って魂から出てくるの?」

 

 まさかと思って聞いてみると、そう言われているな、と父は肯定した。

 

「魂から出るのって魔力だけ?」

 

 続けて尋ねた。

 ソロが何かをくわえて戻ってきた。灰色の毛を生やしたネズミのような生き物だ。それをリュカに向かって掲げたソロを、リュカは意図的に無視した。

 

「いや、気と呼ばれる力も魂から流れてくるものだと言われている。どちらも魂を源としていることから、元は同じものなのではないかという説もある。一般的に魔力が多い者は気が少ないことが多く、気が多い者は魔力が少ないことが多い。このことからも、そう考える者が後を絶たない」

 

 リュカは頭がこんがらがってきた。

 下草を払うように、杖を前で左右に揺らした。ガサガサと音がする。驚いて飛び出してきた小さな虫を、目線だけで追った。

 

「だが、気は生命力と直結しているのに対し、魔力はそういうわけでもない。よって全く別物なのではないかという考えもある。しかし、魔力を使い果たしたときに極度の疲労に襲われることから、やはり元は同じなのではないかという考えもある」

 

 ついにリュカは考えることを放棄した。父は説明に熱を入れてきてしまっている。父は一つのことに取り掛かると、それに打ち込んでしまうきらいがあることをリュカは知っていた。だんだん話が専門的っぽくなってきている。たしかに質問したのは自分だが、ここまで詳しい話を聞きたかったわけではない。

 ソロが立ち止まって、先ほどの獲物を食べはじめた。どんどんリュカたちとの距離が開いていく。

 リュカたちは何気なく歩いているように見えて、実はかなりの速度で歩を進めている。旅慣れた者でなければ付いてくることすらできないほどの速度でだ。世界は広い。だらだら歩いていては目的地にはいつまで経ってもたどり着けない。長いこと旅を続けていると、歩く速度は自然と上がっていくものだ。

 それゆえ、あっという間にソロの姿は見えなくなった。

 

「もういい」

 

 リュカは小さく言った。父の言葉を遮ることはできれば避けたかったが、この話を打ち切りたいという思いが上回ってしまった。

 パパスは恥じるように小さく咳払いをし、ひげをさすった。

 

「要するに、気と魔力という力が魂から流れてきているらしいということだ」

 

 まあ、言ってしまえば全て推測を重ねたにすぎんわけだが。パパスはそう締めくくった。

 簡潔な言葉にリュカは満足した。

 右手に見えていた山々が途絶えた。そして少し行くと、左手の森も途絶える。同時に前方に森が現れた。それを避けるように、リュカたちは北東へ進路を変えた。

 

「リュカ、魔物だ」

 

 そのとき、前方に魔物の姿が見えた。赤い体毛を全身に生やした大きなネズミだ。何匹かいる。

 こういった開けた場所に魔物が現れた場合、わりと遠くからでも認識できる。

 魔物は気配に敏感なものが多い。向こうに先に気付かれる場合もある。だが、それは熟練の旅人ならば同じくらいに、あるいはそれ以上に気配に敏感だ。そうならなければ生き残れない。無論、魔物や旅人によって個体差はあるものの、パパスほどの男が遅れをとるはずもない。

 そして、先に魔物の存在に気付いた者には選択肢が与えられる。相手を避けるルートを行くか、戦うか。どちらを選ぶこともできたが、パパスは魔物の存在などなかったかのように進む。

 リュカに警告しておきながらそういった行動を取るのは少し不自然に思えるが、リュカには慣れたものだった。父は無駄な戦闘を好まない節がある。相手が殺気立って襲い掛かってこない限り、こちらから戦いを挑むことはない。かと言って、わざわざ魔物に見つからないように進むわけでもない。その理由をリュカは聞いたことがない。

 案の定、魔物たちはこちらに気付いた。じりじりとこちらへ向かってくる。三匹いた相手はそれぞれ分かれ、リュカたちを包囲するように位置取った。

 リュカは杖を構えた。パパスも剣を抜く。

 包囲網を少しずつ狭めてくる。リュカはいつ飛び掛ってきてもいいように身構える。パパスにとってこの程度の魔物は警戒に値しないだろうが、リュカにとっては違う。

 一匹が飛び掛ってきた。リュカはそいつに向かって駆け出した。小さな目が、ギラついた殺意を飛ばしてくる。見た目はネズミであるとは言え、大きさはリュカとそう変わらない。

 リュカの杖での突きを、相手は機敏に横に動いてかわし、体当たりをしかけてくる。負けじとかわし、すれ違いざまに一撃を加えた。

 相手は腹を丸めてうずくまったように見えた。だが、そうではなかったことが次の瞬間明らかになる。先ほど以上の速度で向かってきたのだ。それをかわしつつ、リュカは杖で足を払った。派手に転げる相手。

 リュカは、あの流れ――気を腕に集めようとした。内に感じる気の流れに意識を集中し、その流れを導こうとする。

 だが、どうもうまくいかない。ゆっくりと腕に向かっているような気はするのだが、これでは日が暮れてしまう。それほどに遅かった。リュカはむきになって力んだ。だが、それでも変化はない。

 そっちに意識を割きすぎていたのか、リュカは無防備に体当たりをくらった。息を詰まらせながら吹っ飛ぶ。転がるように体勢を立て直し、追撃をかけてきた相手の爪の一撃を杖で受け止めた。

 一匹の敵がパパスとの距離をかすかに詰めた。パパスは動かない。リュカの様子をじっと見ている。もう半歩詰めた瞬間、そのネズミの首が飛んだ。

 リュカは気を操るのを諦め、魔力をこめた。淡く光る杖を突きつける。

 

「バギ」

 

 放たれた幾筋もの風の刃が、周囲の下草を掻き分け、鮮血を巻き上げた。

 残る一匹がリュカに向かって駆け出そうとしたそのとき、いつの間にか戻ってきていたソロが背後から頭に食らい付いた。血が溢れ、だらりと力が抜ける。

 

「まだ気を扱うことはできんようだな」

 

 剣をおさめ、歩み寄ってきたパパスが言う。リュカはその言葉に俯く。

 あのときはできたのに、なぜ今はできなかったのだろう。死を間近に感じて、火事場の馬鹿力みたいなものが発揮されたのだろうか。

 

「だが、その年で気を感じ取れるというのはたいしたものだ」

「ほんと?」

 

 ああ、と穏やかにパパスは笑った。

 一行は歩き出した。

 

「どうしたら使えるようになるの?」

「気のことか?」

 

 リュカは頷いた。

 歩を進めるたびに、リュカの膝くらいの高さまで伸びている下草が押しのけられ、ガサガサと音がする。

 

「そうだな……すぐに使えるようになるものでもないぞ」

 

 眉をひそめ、ひげをさするパパス。

 

「とりあえず、よりはっきりと気の存在を感じ取れるようにならなければな。と言うより、意識せずとも感じられるようにならなければ、気を用いて戦うことは難しいだろう。よほどの格下が相手なら別だが」

 

 慣れることが肝要だということだろうか。聞く限り、一朝一夕では難しそうだ。

 

「まあ、気長に鍛錬を積むことだ。日々の地道な鍛錬こそが、いざというときに役に立つ」

 

 父も地道な鍛錬の末にこの力を手に入れたのだろうか。リュカは少し前を行く父に目をやった。鍛え上げられた肉体。漂う風格。自信に満ちた、揺るぎない足取り。自分とは違いすぎる。自分が父のようになるには、どれほどの年月を必要とするのだろう。強く杖を握り締める。

 空を見上げ、山並みに視線を這わせた。広大な草原に立つ自分が、酷くちっぽけに見えた。世界とくらべれば、自分も父もたいして変わらないだろう。それなのに、父は自分とは違って決して矮小な存在には見えない。

 リュカがそこまで思うのは、父と二人きりでいる時間が長すぎたからなのかもしれない。物心ついてから、リュカはずっと父と二人きりだった。そして幸か不幸か、父は戦士としての実力が高すぎた。ならばリュカが父を絶対視し、過剰とも思えるほどの尊敬を抱き、目標とするのは必然とすら言えるのかもしれない。

 腰の辺りに何かがぶつかる。少しよろめきながら、リュカは振り向いた。

 ソロがこちらを見上げていた。自分よりももっと小さいソロ。父ではなく自分に付いてくるソロ。胸に温かなものが灯る。一撫でし、リュカは前を向いた。

 関所が見えてきた。

 

 

 

 

 

 関所は石造りの無骨な建物だった。大きな川に寄り添うようにひっそりと建っている。迷いなく足を踏み入れるパパスにリュカも続いた。陽光がさえぎられ、薄暗く少し肌寒い。

 石壁に挟まれた短い通路を進んだ。左手の壁には一つ扉があるが、そこは通り過ぎまっすぐ進んだ。すると正面に、緑色の防具で身を固め、槍を持った兵士が立っており、こちらに目を向けている。

 

「私はサンタローズのパパスという者だ。ラインハット国王に呼ばれ、城にうかがう途中である。どうか通されたい」

「連絡は受けています。どうぞお通りください」

 

 そんな事務的なやり取りがあり、リュカたちはすんなりと通れた。

 兵士の脇を通り過ぎる際、彼はソロに鋭い目を向けた。それに触発されたのか、ソロも小さくうなったが、なだめるとすぐに落ち着いた。

 その先の石段を長々と下ると、まっすぐの通路が伸びている。壁も天井も床も石で作られた、しんと静まり返った通路だ。ろうそくが辺りを薄暗く照らしている。

 足音と杖を突く音を響かせながら少し行くと、今度は上への階段があった。

 そこを上りきると、地下通路を通る前と同じような石壁に挟まれた短い通路だ。だが、さらに上への階段が一つある。

 

「少し寄り道していくか」

 

 パパスはその階段を上がりはじめた。リュカもきょとんとしながら続いた。父が寄り道するなんて珍しい。

 そこを上ると、関所の屋上に出た。湿気を含んだ風が髪を揺らした。ソロは鼻をヒクつかせる。

 

「ここからの眺めはなかなかのものだと聞いていた。お前にも見せてやりたくてな」

 

 パパスが安いらいだ目を眼前の光景に向けた。

 あの地下通路は川の下を通されていたらしい。リュカたちは向こう岸に着いていた。目の前の大河川の水音が豊かに辺りを包む。

 雄大な流れは、一見すると流れているともわからぬほどに、静かに凪いでいた。いつもそうだ。雄大な自然というものは、ただ静かにそこにある。その姿こそが何よりもその在り方を物語っており、そうあるだけで人の心を圧倒する。きっとこの川は遥か昔からここに変わらずあるのだろう。リュカはそう思った。そして遥か未来にも、きっと変わらずここにある。

 

「この川を越えたということは、ここはすでにラインハット領だということだ。正確に言えば関所を越えたからなのだが、不思議とそう思わせる」

 

 そのとき、少し離れたところで同じく川を眺めていた老人がこちらを向いた。

 

「そうじゃな。そうであるべきじゃ。人は自然の在り方に従って生きるもの。尊大にもそれを越えてのさばろうとすると、おかしなことになってくる」

 

 突然何だろう。そう思ったものの、リュカは黙っていた。

 

「……ラインハットが何か?」

 

 そう返したパパスに、老人は少しの間を置いて口を開いた。

 

「わしは、この川の流れを眺めながら、この国の行く末を案じておるだけじゃよ」

「……風に当たりすぎると身体に毒ですぞ」

 

 ではごめん、とパパスは立ち去る。リュカもそれに続こうとしたが、背に老人の声がかけられ、立ち止まり振り向いた。

 

「すまんかったな、坊や。父上とのひと時を邪魔してしまって」

 

 老人は穏やかな目でリュカを見ていた。それだけで、リュカのなかにあったほんの僅かな不快感が消え去った。

 

「坊や、父上を大事にしなさい。あのような強いまなざしを持つ者が、これからの世に必要なのじゃ」

 

 何を思って老人はそんなことを言うのだろう。その言葉の裏に、憂いにも似た色をリュカは見た。

 リュカは頷いた。言われずとも、父を大切に思うのは当然のことだ。しかし、軽く聞き流すには老人の言葉には重みがあった。リュカは今度こそ老人に背を向け、階段を下りた。

 

 

 

 



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19話

19話

 

 

 

 

 

 日が沈みつつある。夕日に赤く照らされた平原を行きながら、パパスは視線をラインハット城のある方角へ向けた。

 ラインハット城は肉眼ではまだ見えない。距離のせいもあるが、森や小山の連なりに視線を阻まれているからだ。ラインハットへはその森や小山をある程度避けながら向かうことになる。

 今日中に着くのは無理だな、パパスは内心で呟いた。自分一人でならそうとも言えないが、今はリュカを連れている。なんならリュカを抱えて目的地までひとっ飛びということも可能だが、そうするつもりはなかったし、そうしたことは今までもほとんどしたことはなかった。

 それは、そうすることがリュカの糧になると考えているからだ。普通の親なら他にいくらでも子に教え伝えることがあるのかもしれないが、リュカをこのような旅の生活に連れ出してしまった以上、生きていく術を与えることが何よりも重要だろうとパパスは思っている。

 吹き抜ける風が、草木をそよがせる。そのなかに足音が二人と一匹分。パパスには振り向かずともリュカがしっかりついてきていることがわかっていた。背後から聞こえる一定のリズムを刻む足音は、パパスにとって慣れ親しんだものだ。

 

「お父さん、あれなんだっけ?」

「ん?」

 

 リュカを振り向くと、なにやら右の方を指差している。その先にはさほど遠くない位置に森が広がっていたが、何の変哲もないように思える。

 

「森がどうかしたか?」

「森の中。木の隙間から見えるやつ」

 

 目を凝らして木々の隙間を順番に見ていくと、目につくものがあった。夕日の届かぬ木々の奥、ひっそりと禍々しさを漂わせている沼地だ。パパスにとっては見慣れたものだ。

 

「ああ、毒の沼地のことか」

「毒の沼地……どこかで聞いた……」

 

 リュカは首をひねっている。どこかで聞いたことがあるのも当然だ。なぜなら、以前もパパスはリュカに毒の沼地のことを教えてやったことがあるからだ。そのときも同じようにリュカが尋ね、同じようにパパスが答えた。親の欲目なのかどうなのか、リュカは物覚えの悪い子ではない。だが、強く興味のひかれた物事でない限り、一度聞いただけで記憶していられるわけもない。こんなことはよくあることだ。

 風に小さく後ろ髪をなびかせながら、少しの間考え込んでいたリュカは、ふとパパスに目を向けた。

 

「見に行っていい?」

「むやみに近づくべきではない。何せ毒だからな」

 

 このやり取りも以前したな、どこか残念そうな顔をするリュカを見ながらそう思った。リュカは名残惜しげに沼地のほうを見つめながら、パパスに続いて歩く。渋々なのが足音から伝わってきて、少しおかしかった。

 不思議なもので、リュカに何度同じ質問をされようが、面倒に思ったことはない。辛抱強く教えてやるのも親の務めなのだろうと思うと、むしろ温かささえ感じるのである。

 それは、ちゃんと親としての務めを果たせていないのではないかという不安があるがゆえなのかもしれない。本当なら、まだ幼いリュカは危険とは無縁で平穏な生活を送っているべきなのだ。それなのに、その当たり前の生活さえ与えてやれていない。せめてもの救いは、リュカがまるでそう運命付けられていたかのように、あっという間に旅の生活に順応し、また旅を好んでいるらしいことである。

 旅の生活では友達も出来づらい。多くの友達に囲まれて毎日騒がしく遊びまわるのが、おそらく健全な幼少期なのだろう。だがリュカには友達と呼べる存在などほとんどいないようだ。その最も大きな要因は、紛れもなくこの旅の生活だ。そのことにリュカが寂しさを感じている様子がないのが唯一の救いだが、それが友達がいる喜びを知らぬがゆえのことなのではないかと思うと、パパスは胸が締め付けられるような苦しさを感じるのである。

 せめて母がいればよかった。そうであったなら、きっと己にはない柔らかな両腕でリュカを抱いてくれただろう。リュカから何でもない話を聞いてやり、温かな笑顔で頷きを返してくれただろうし、想いのこもった手料理でリュカの胃袋を満たしてくれただろう。どれも自分にはできない。

 サンチョがその代わりになろうと頑張ってくれているが、やはり母とは違う。サンチョは女ではない。女は男よりも胸に溜め込める愛情の容量が遥かに多いのではないかと、パパスはたびたび思うことがあった。

 

「リュカ、今夜は野宿をするぞ。準備に入るとしよう」

 

 日が沈みきる前に準備を済ませておいたほうがいいと考え、パパスは言った。

 

「薪、集めてくる?」

 

 ああ、と返すと、リュカは縛った後ろ髪を跳ねさせながら、近くの森へと駆けていく。ソロが後に続いた。赤く染まる平原に、一人と一匹の小さな影が伸びる。

 リュカのそんな姿を見ていると――いや、どんな姿であろうと、パパスから見れば可愛らしく愛おしいものだ。だが、そんな感情をどう形にしてやればいいのかパパスにはわからなかった。妻が――リュカの母がいたなら、パパスに代わって惜しみない愛情でリュカを包んでくれるはずだ。そうすればリュカは、自分が愛されていることを十分に実感できただろう。リュカは今、自分が愛されていることを理解しているだろうか。そうであってほしいとパパスは願いながら、リュカの後をゆっくりと追った。

 

 

 

 

 

 森から近すぎず遠すぎずというところでパパスたちは野営をすることにした。森は平原よりも魔物が多いため、野営するのに適していない。かと言って、あまり森から離れたところまで薪や食材を運ぶのも面倒だ。

 パチパチと耳障りの良い音を立てて燃える、放射状に組まれた薪。すっかり日が沈み、暗闇に包まれた広大な平原の一所を、針の先のように照らす唯一の光源だ。この薪の組み方だと、大きな炎を生むことはないが長く火持ちする。オレンジ色の小さな炎だが、二人と一匹には十分だ。揺らめく小さな炎は、闇のなかにパパスたちの姿を陽炎のように浮かび上がらせている。

 パパスはもちろんだが、リュカも薪集めや食材集めは慣れたもので、さほど苦労することなく森でそれらを見つけてきた。山菜やキノコ、木の実など、森には数多くの食材が隠れているが、そのなかには毒のあるものもある。見慣れない食材は、少量を口に含んでみたり、汁を肌に塗りつけてみたりして毒がないかどうかを確かめる必要があるのだが、リュカはそんなことはしていなかった。害がないと知っている食材だけを集めてきたのだ。今までの経験から記憶していたのだろう。食べなければ生きていけない以上、きっとリュカも一生懸命覚えようとしたに違いない。

 見慣れない食材には手を出さないというのは賢明な判断だと、パパスは頬を緩めた。なかには毒消し草を用意して、手当たり次第に何でも食べる者もいるそうだが、そんな者たちよりもリュカのほうがよっぽど旅人らしい。また、街で食料を買い溜めしておいて、旅のなかではそれを消費するという者もいるが、それはパパスは好まない。手荷物はできる限り減らしたほうがいいと考えているからだ。

 脇に下ろした暗い緑色の道具袋から、パパスはくすんだ鉄製の鍋を一つ取り出した。小さくてかさ張らないため、旅に出る際、持ち運ぶのに適している。長年愛用してきたものだ。そのなかに、食材を次々放り込んでいく。

 

「はい」

 

 ゴソゴソ道具袋を漁っていたリュカが、水筒を取り出して差し出してきた。ポンと頭を撫でてやり、それを受け取る。水筒は皮革でできたものだ。中身が染み出してきたりもするが、空のときは小さく折りたため、かさ張らないので、これもまた持ち運びに適している。食材の入った鍋に水を入れる。

 

「はい」

 

 再び道具袋を漁っていたリュカが、小さな網のようなものを差し出してきた。これには針金のように細い鉄でできた脚が四本ついており、自立させられるようになっている。脚は折りたためるようになっており、これまたかさ張らない。これを焚き火の片隅をまたぐように立てる。

 網の部分も針金のような鉄でできている。四角い枠を、何本か区切るように細い鉄棒が走っているだけだ。だがこれでも上に鍋を置くことくらいならできる。あとは鍋が煮えるのを待つだけだ。

 この小さな鍋ですら少しはみ出すほどの大きさしかない網だが、だからこそいいのだとパパスは思っている。迅速な行動を妨げる物は可能な限り持ち運ぶべきではない。

 

「お腹すいたね」

 

 ぼそりとリュカが言った。そうだな、と言葉を返す。

 リュカは感情を表に出すのが苦手のようだった。一見するとリュカはただ膝を抱えて座ってボーっと焚き火に炙られる鍋を眺めているようにしか見えない。

 しかしパパスには、鍋を眺めるリュカの目に普段よりも期待の色が強く、リュカの関心の大半が鍋に注がれているのがわかった。時折、思い出したように横で食事をしているソロを撫でるが、ソロに唸られて手を引っ込めている。

 エサを取られるとでも思ったのだろうか。だったらリュカに寄り添っていないで、離れたところで食べていればいいだろうにとパパスは思ったが、動物は動物なりに考えることがあるのだろう。ちなみにソロのエサはソロ自身が狩ってきたものだ。リュカやサンチョからエサをもらっているところを何度も見たことがあるが、施しを受けるばかりではないらしい。結構なことだ。

 静かな時が流れる。自分もリュカも賑やかなタイプではないため、旅の最中、二人きりのときは大体静かだ。だが、そこに気まずさなどない。

 それに、意識すれば自然のなかには様々な音があふれていることがわかる。草木のざわめきや、虫たちの鳴き声、薪の弾ける音。ときにはどこからか獣の遠吠えが聞こえてくることもある。自然の音たちに包まれているのがパパスは好きだった。リュカもどうやらそうらしい。そんな自分たちはきっと旅に向いているのだろう。

 

「もうできた?」

 

 リュカの様子をなんとなく眺めていると、ふとこちらを見上げたリュカと目が合い、そう問われた。

 鍋の様子を見てみると、沸騰しはじめていた。香りも漂ってくる。おいしそうな香りとは言えないが、それは当然と言えば当然だ。ただ食べられる食材をぶちこんで水で煮ただけなのだから、まともな料理ができあがるほうがおかしい。しかしそれでも栄養は摂取できる。肉でも入れればまた違ったのかもしれないが、野生動物はどんな病気にかかっているか知れたものではない。肉を食って力をつけたほうがいいときもあるが、今回のような短い旅ではわざわざ食べる必要もない。

 

「ああ、もういいだろう」

 

 そう答えてやると、リュカはまた道具袋に手を突っ込んで、二つの小さなお椀を取り出した。そのうちの一つをパパスに渡し、もう一方は手に持ったまま鍋に向かって突き出している。よそえということだろう。パパスはふっと頬を緩めた。

 鍋の取っ手を持って、リュカのお椀に注いでやる。すると、とうに食事を終えていたソロが、鼻をひくつかせながらリュカのお椀に顔を近づけていく。だがリュカに押し退けられて諦めたようだ。

 次に自分のお椀にも注ぎ、鍋を置く。

 

「うまいか?」

 

 黙々と食べていたリュカはちらりとこちらを向き、あんまり、と言った。パパスも我ながらそう思った。そして、母がいれば少しは違っただろうなどと考える。

 そのとき、パパスの神経が微弱な気配を敏感に捉えた。そちらに目をやると、森から一頭の魔物がのそのそと這い出してきていた。暗くてはっきりとは見えないので、どんな魔物かはわからないが、どうも元気がなさそうに歩いてくる。危険な相手ではない。ゆっくりとこちらへ向かってくる。

 パパスが何かを見ていることに気づいたのか、リュカも同じ方向に目を向ける。そしてリュカも気づいたようだ。脇に置かれた杖に手を添える。ソロは一度ちらりと見たきり、興味を失ったように横になり、目を閉じた。

 

「戦わないの?」

「ああ。どうも弱っているようだから、向こうも無駄に戦おうとはしないはずだ」

 

 とは言え、襲ってくるなら戦うしかない。

 魔物はさらに近づいてきて、ついに焚き火の明かりがその姿をあらわにした。 

 

「グルルン……」

 

 そう弱々しく唸る魔物――ドラゴンキッズは、牙をむき出しにしてリュカをにらんでいる。黄色い鱗に覆われた、小さな竜だ。大きさはソロとそう変わらない。何者かに襲われたのか、あちこちに傷が刻まれ、血があふれている。

 必要とあらば剣を抜けるようにと、かすかに身構えていると、リュカが突然自分のお椀をドラゴンキッズに差し出した。

 

「どうした、リュカ?」

「お腹空いてるらしいから……」

 

 すると、ドラゴンキッズはお椀に顔を突っ込み、食べ始めた。

 パパスは驚きに目をわずかに見開いた。リュカには魔物の気持ちがわかるのだろうか。今までも魔物といつの間にか仲良くなっていたことは何度かあったし、現に今もベビーパンサーを連れ歩いている。だが、今のリュカのように魔物の気持ちを読み取るかのようなところは見たことがない。ドラゴンキッズが食べ物を強請るような様子を見せていたならともかく、パパスにはリュカを威嚇しているようにしか見えなかったのだ。

 思い出すまでもなく、パパスは妻の姿を脳裏に浮かべた。彼女も魔物と心を通わせることのできる人だった。リュカのように魔物と戯れるだけでなく、魔物の言葉を理解し、己の言葉を魔物に伝えることができた。リュカにはそこまでの力はないと思っていたが、もしかしたらその素養は備わっているのかもしれない。

 魔物とは心を持たぬ残虐な生物だと思っていた――おぞましい本能のみに従い、他者の血潮でしか渇きを満たすことのできない、哀れで醜い悪魔だと。無論、そのような魔物がほとんどだ。だが妻のおかげで、パパスは心を持つ魔物もいるのだと知った。それ以来、むやみやたらと魔物を殺す気にはなれなくなったのだった。  

 食べ終えたドラゴンキッズがおずおずと鼻先をリュカの手に寄せていった。それに応えるようにリュカの指先がドラゴンキッズの顎をくすぐると、ゆらゆらと太い尻尾を揺らす。そんなドラゴンキッズを見つめるリュカの目は、どこか優しい。

 リュカは母を知らない。知らぬまま、その瞳に母と同じ色を宿すことがある。そこに確かな血の繋がりを見て、パパスの胸に温かさと苦しさの混ざり合ったものが生まれる。彼女もまた魔物を含め動物が好きで、とても優しくそれらを眺めた。

 

「リュカ、父さんのを使うといい」

 

 自分の分の食事をドラゴンキッズに与えてしまったリュカに、パパスは自分のお椀を差し出した。リュカのお椀はドラゴンキッズが舐めまわしてしまったため使えない。

 

「うん」

 

 再び食べ始めたリュカからドラゴンキッズに目を移す。もう敵意はないようだ。ペットのようにリュカにじゃれついている。一度エサをもらったくらいで懐柔されるのもどうなんだとは思うが、リュカにはそういう素質があるのだから仕方がないのだろう。

 不思議な力だ。妻やリュカのような者を『魔物使い』と呼ぶらしい。世界にはこういう人間がそれなりにいると聞くが、世界中を旅してきたパパスでさえ今まで妻とリュカ以外にはほとんど見たことがない。

 ドラゴンキッズに手をかざすと、警戒心を向けてくる。だが構わずホイミを唱え、傷を癒してやる。元気になったとたん、ホイミを放った手に噛み付こうとしてくるのを、手を引っ込めてかわす。リュカには懐いてもパパスのことは気に食わないらしい。パパスは苦笑いを浮かべた。

 

「ごちそうさま」

 

 食べ終えたリュカはお椀を無造作に置いて、こちらを向いた。

 

「明日には着く?」

「ああ」

「何しに行くの?」

「ラインハットの王様に呼ばれてな、話を聞きに行くんだ」

 

 ふーん、と興味なさげに相槌を打つリュカ。

 ラインハットはどうなっているのか、詳しいことはパパスもまだ聞いていない。相談したいことがあるとのことだったが、直接でないと話はできないとのことだった。

 川を眺めていた老人の言葉を思い出す。何か良からぬことが起こっているのかもしれない。リュカは置いてくるべきだったかと、少し思う。

 リュカは眠くなったのだろう、ターバンも巻いたまま横になった。ドラゴンキッズも寄り添うように横になる。仲のいいことだと、ラインハットへの懸念も消え、パパスの頬が緩む。

 おやすみという言葉とともに本格的な眠りに入ったらしいリュカをしばらく見つめ、やがてパパスは視線を空へ移した。

 夜空には満月が煌々としている。あのときも――妻が消えた夜も――今日のように満月が不気味なほどくっきりと浮かんでいて、また異様なほどに月が大きく見えたのだった。動揺し、辺りを探し回り、ついには妻の姿を天に求めたとき、そんな己を睥睨する月と目が合ったような気がした。そのときパパスは身体の芯が凍り付いていくような恐怖を感じたのだ。こんな月を見るたびに、どうしてもあの夜を思い出す。

 彼女の居場所どころか、彼女が今生きているのかどうかさえわからない。だが、生きているような気がするのだ。根拠など何もないが。生きていてほしいという願望が、パパスにそう思わせるのかもしれない。

 月の光が反射して、首に掛けた銀のペンダントがきらりと光った。それに応じたわけではないが、パパスは無意識のうちにひんやりとしたそれを握った。

 

 

 

 

 

 翌朝、リュカが目を覚ますと、ドラゴンキッズは消えていた。代わりに変な木の実が置かれている。父が言うには、これは『命の木の実』というものだそうだ。食べると体力がつくらしい。眉唾物だと思ったが、父が言うのだからそうなのだろう。

 この命の木の実はきっとドラゴンキッズが残していったものだろう。お礼のつもりなんじゃないか、と父は言った。リュカは食べておくことにした。うまいものではないし、体力がついた実感もない。だが、ありがたいことではある。目に映るこの広大な森のどこかに、あのドラゴンキッズはいるのだろう。そう思うと、きっともう二度と会うことはないのだろうと、すんなりと思えた。たいした出会いではなかった。だからたいした別れでもない。そう思うことで寂しさから目をそらせるということを、リュカは無意識のうちにだが理解していたのだ。

 

 

 

 



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20話

20話

 

 

 

 

 

 ラインハットの城下町は、サンタローズやアルカパとは比べ物にならないほど大きな町だった。それどころか、リュカが父との旅のなか見てきたどの町よりも大きいだろう。ラインハットは有数の大国だという父の言葉のとおりだ。多くの人で賑わっており、リュカの好みにはあまり合わない。

 そんな城下町から跳ね橋で通じた、水堀に囲まれた城に今リュカたちはいる。堅牢でありながら、随所に装飾を凝らした石造りの城だ。

 無論、国王に呼ばれた父が国王に謁見するためである。そのためリュカたちは玉座の間に通された。大国ラインハットの王となれば、それはもうとんでもなく偉い人なのだろう。それはこの玉座の間を一目しただけでも感じ取れる。

 まず、何といっても玉座だ。背もたれから肘掛けから脚から、全てが黄金で意匠を凝らした造りだ。背もたれと座面には赤いクッションのような柔らかそうな素材が埋め込まれているのか敷いてあるのか、とにかく座り心地もよさそうである。背もたれは、人間がもたれるにはかなり高く、座面は、かなりの巨漢でも苦もなく座れるだろうほどの大きさだ。

 床に敷かれた職人の技術の結晶とも思える赤いじゅうたんは、嫌でもこの場の格式の高さを思い知らせてくる。

 円形のこの部屋の壁には、等間隔にランセット型の窓が並び、そこから差し込む陽光がこの部屋から闇を払っていた。

 玉座の奥には上への階段が見える。おそらくは王の私室がその先にはあると思われるが、さすがに上って確かめるわけにはいかない。

 そんな偉い人からなぜ父が呼び出しを受けるのか少し気になったリュカだが、すぐにその疑問をぶん投げた。考えてもわからないことだし、今この場で父に問いかけるのもおかしいだろう。

 国王にしてみれば、用があるのは言うまでもなく父のみだ。だから国王と父が人目を憚るように二人でなにやら話しはじめてしまったのも、半ば追い出されるように「城を見て回ってきたらどうだ」と言われてしまうのも当然だ。この謁見の間まで同行を許されただけでも寛大だと思って納得するしかあるまい。それどころか、ソロまでも謁見の間に立ち入ることを許されたのは、破格としか言いようがない。

 よく考えてみれば、この場に留まったところでたいして面白くもないだろう。リュカはそう思うことで気を取り直した。それよりは城のなかを見て回るほうが有意義な時間を過ごせるはずだ。

 

「ソロ、行こ」

 

 玉座の奥に上への階段が見えるが、リュカはここまで来た道を戻るように、王座と対極に位置する赤いじゅうたんが敷かれた階段を下りた。

 階段を下りた先のこの部屋もまた円形の部屋で、左右両側の壁に扉があり、また下への階段もある。とりあえず右の扉を開けてみると、そこは屋上だった。リュカが今までいたのは、頭一つ突き出た円形の塔だったらしい。

 

「でかい……」

 

 広い中庭があるのが眼下に見え、それを囲むようにぐるりと四角くこの城は築かれている。そのため屋上は太い通路のように伸びており、四角く回ってこの塔の反対側に繋がっている。さっきの部屋の左側の扉に通じているのだろう。

 中庭は緑が豊かな広場だった。人の手が入った場所ほど、どうにか緑を残そうという意図が感じられる。人が手を入れなければ、放っておいても緑であふれかえるというのに。

 リュカは部屋に戻ることにした。屋上を歩いても、ざっと見渡した限り何もなさそうだったからだ。

 部屋に戻ると、リュカはさらに下への階段を、コツコツと杖をつきながら下りた。すると、また同じように円形の空間が広がっており、やはり左右に扉がある。今度は下への階段はない。

 とりあえず左側の扉を行ってみると、その先には正面に階段が、左側に折れた廊下の先に扉がある。誰かの私室のようだ。

 私室に入るわけにもいかず、リュカは階段を下りることにした。

 階段を下りると、前方にはまっすぐ赤いじゅうたんが敷かれた通路がのびており、一方塔のある左側の壁には大きな扉があった。通路は、来たときに通った道だった。ならば、とリュカは扉を開けた。

 

「いい匂いがする……」

 

 そこは食堂らしきところだった。いい匂いが漂う、円形の広々とした空間だ。長方形のテーブルがいくつも整然と置かれ、壁際には調理場もあった。大きな調理場だったが、今はその一所で女性が一人作業をしているのみだ。隅には井戸もあった。ソロが鼻をひくつかせて辺りを見回している。

 ほとんど人はいなかったが、あるテーブルにだけ数人集まっており、歓談中のようだ。

 入ってきたところとは別に、もう一つ扉があった。こちらは大きな扉ではない。この食堂の大きさには多少驚いたものの、特に見るべきものもなさそうだと思い、そちらへ抜けようとリュカは歩き出した。杖がむき出しの石の床を軽く突く音が鳴る。ソロは足音を全く立てない。

 そのとき高く幼い声が響いた。

 

「ねえ、あなたヘンリー様の遊び相手として呼ばれた子でしょ?」

 

 リュカは最初、それが自分に向けられた声だと気付かなかった。よって足を止めることもなかったのだが、再度かけられた声に立ち止まった。

 

「ちょっと、無視しないでよ、そこの紫の小さいの」

 

 振り向くと、テーブルについていた少女がこちらをまっすぐに見ている。リュカより少し年上と思われたが、さほど変わらない年頃の子だ。

 そのテーブルには、青年と少年もいた。少年はリュカよりも年下のように見える。ふわふわした羽毛のような茶髪で、気弱そうな少年だ。

 

「聞いてるの?」

 

 少し不機嫌そうな声色に変わった。

 リュカとて、別に聞いていなかったわけではない。ヘンリー様がどうとか言っていただろうか。リュカには全く身に覚えのないことである。ゆえにどう返したらいいのか、そもそも言葉を返してやる必要があるのか考えていたのだ。

 ソロもリュカの足元で、リュカと同じ気持ちであるかのように、キョトンとした顔で少女を見上げている。

 

「ヘンリー様って誰?」

 

 興味の欠片もわかぬ相手であろうと無視するのはよくないらしいという、リュカの頭の片隅におぼろげに残っていた知識に従い、一応言葉を返す。本音としては、ヘンリーというのが誰であろうとどうでもいい。

 

「ヘンリー様はこの国の王子様でしょうが。なに言ってんの」

「こらこら、そういう言い方はよくないよ」

 

 なだめるような青年の声。少年もどこか不安そうな顔で少女に目を向けている。その視線に怯んだように、少女は「うっ……」と言葉に詰まった。

 

「喧嘩はよくないよ。デール様もそう思いますよね?」

「……うん」

 

 少年――デールというらしい――に対して敬語を使う青年。おかしな図式ではあったが、ここが城であるがゆえに、納得できる理由も思いつく。この少年は身分が高いのだろう。それは彼の身なりからもうかがえる。衣服の質が明らかに少女や青年のものとは違っており、実に高級そうだ。

 

「うぅ……、わかりました! わかりましたよ! でも喧嘩していたわけじゃなくて……こいつが無視するから……だから、その……。そう、こいつが悪いんです!」

 

 ビシッと聞こえそうなほど、勢いよくリュカを指差す少女。そんな彼女の様子に、デールは顔を曇らせた。

 

「やっぱりぼくはダメだ。ケンカ一つ止められないのに、王様だなんて……無理だよ……」

 

 ブツブツと呟くデールに、青年と少女は焦りを露骨に表情に浮かべる。

 

「そ、そんなことありませんよ! デール様はとても賢くていらっしゃるし」

「そうですよ! ヘンリー様よりもずっと王様にふさわしいですよ!」

 

 しかし、そんなフォローをされるにつれて、デールの表情はますます沈んでいく。

 

「そんなことないよ……。兄さんのほうがずっと王様にふさわしいんだ」

「いやぁ……それはどうでしょう……」

「ヘンリー様が王様になったらと思うと……ゾッとするわ」

 

 どうやらヘンリーという王子は評判がよろしくないらしい。そんな、自分にとっては何の意味もない情報をリュカは得た。

 顔を引きつらせる二人に、デールはどこかムッとしたような視線を向けた。

 

「兄さんの悪口を言わないで」

「す、すみません」

 

 フォローするのも大変だな。リュカは半ば同情を込めた視線を送った。

 そしてリュカは今度こそこの部屋を後にすることを決めた。後ろから何やら少女が騒いでいる声が聞こえるが、小さい扉のほうに向かう。

 扉に手をかけようとしたそのとき、勢いよく扉が開いた。その勢いのままに、何者かが飛び込んでくる。

 

「うわっ!」

 

 当然のように、リュカと何者かは激突した。リュカは反射的に身構えたためよかったが、何者かは驚いた声を上げながら尻もちをついている。

 

「いってー。何だお前!」

 

 何者かが怒鳴った。ぶつかったことを怒っているようだが、非は相手にあるとリュカは思った。

 

「ヘンリー様!」

 

 少女が素っ頓狂な声を上げた。

 どうやらこれがヘンリー様とやららしい。リュカは静かに観察した。

 青年がどこか怯えたような声を漏らした。

 

「お前はなんだと聞いているんだ! 答えろ!」

 

 何だ、と聞かれ困ったが、とりあえず名前を答えておく。あの少女が言うには、自分はこいつの遊び相手なのだそうだが、身に覚えがない。

 

「お前、見ない顔だな。この国の人間じゃないだろ」

 

 立ち上がりながらヘンリーが言った。

 リュカは僅かに目を見開いた。

 ひと目見ただけでそれを看破するとは、なかなかの洞察力を持っているようだ。あるいは、全ての国民の顔を記憶しているのかもしれない。どちらにせよただ者ではない。ただやかましいだけの子どもかと思っていたが、王子というだけあって、どうやらそうではないらしい。

 リュカは頷きを返した。

 

「やっぱりな。あっ、もしかしてお前、親父に呼ばれてきたパパスとかいうやつの子どもか!」

 

 リュカは再び頷く。

 隣で座っているソロが退屈そうにあくびをした。

 

「やっぱり、ヘンリー様の遊び相手なんじゃない」

 

 なぜか得意げな少女の言葉が聞こえた。得意げなのは結構だが、彼女の言うことは間違っている。

 

「なに、遊び相手だと?」

 

 ヘンリーが訝しげな表情を浮かべた。

 

「おい、いいか。よく聞けよ。おれはこの国の王子だ。つまり王様の次に偉いんだ。わかるか? お前のような薄汚いやつが、おれの遊び相手になんてなれるわけないだろ」

 

 言い方は若干不快だが、言っていることはもっともだ。

 ヘンリーは、態度こそ上品さの欠片もないが、見た目はなかなかのものだった。緑色のさらさらの髪を、お坊ちゃまらしくおかっぱにし、上品な服の上に赤いマントを羽織っている。

 彼はふと何か思いついたように、嫌味たらしい表情を浮かべた。

 

「だが、まあ、子分にならしてやってもいいぞ」

「いい」

 

 リュカは首を横に振った。

 ヘンリーの眉がピクリとする。

 

「ん、なんだって? もういっぺん言ってみろ」

「いい」

「お前、生意気だな」

 

 ヘンリーが懐に手を忍ばせた。

 人々が一斉に飛び退いた。何事かとリュカは首をかしげる。

 そのとき、皆が飛び退くなか、一人立ち上がり身を乗り出す少年をリュカは見た。デールである。

 

「ちょっと、兄さん、何する気なの!?」

「ん、デールか? お前こんなところでなにしてる」

 

 懐に手を入れたまま、ヘンリーが怪訝そうな目を少年に向けた。デールは俯いて言いよどんでいる。ヘンリーは鼻で笑った。

 

「どうせまた逃げ出してきたんだろ。勉強しか取り柄がないくせに」

「だって、ぼく、王様になんてなりたくないんだもん」

 

 デールは勉強が得意のようだ。自分よりも年下だろうに、たいしたものだ。リュカは感心していた。そして、まだ読み書きもできない己の不甲斐なさを思い、少し落ち込んだ。

 

「またあの母親がうるさいぞ」

 

 再び俯くデールを見て、ヘンリーは口元を歪めた。

 

「ウジウジしやがって……。そういうところがむかつくんだよ!」

 

 懐から何かを取り出したヘンリーは、それを宙にばらまいた。黒い小石のようなものがいくつも宙を舞っている。リュカはそれを注視した。それはなんの変哲もない小石に見えたが、突然淡い光を纏った。リュカは咄嗟に杖を身体の前に構えた。と同時に小石が一際鋭い光を放ったと思った瞬間、爆発した。

 悲鳴を上げて、皆が頭を抱えてしゃがみこむ。ソロがキョロキョロと視線をさまよわせている。

 その爆発は、たいしたものではなかった。負傷者など一人も出なかったし、リュカも爆風すら感じなかった。だが、音と光はけっこうなものだ。爆竹のように小石の一粒一粒が激しい音を連鎖的に立て、同時に光が周囲の景色を掻き消す。

 

「やめてよ、兄さん! なんでこんなことするの!?」

 

 爆発は瞬間的なものだ。すぐにおさまり、同時にデールが叫んだ。

 

「うるさい! 子分が楯突くな!」

 

 再びヘンリーは膨らんだ小さな袋を懐から取り出し、地面に投げつけた。衝撃でその袋の口が開き、中からほんのりと紫に色付いた気体が漏れ出してくる。

 

「くっさー!」

 

 今度は皆、鼻を摘まんで顔をしかめる。一際不快感をあらわにしたのはソロだった。一声うなる。するとヘンリーはビクリとこちらを向いた。

 まずい、リュカは思った。ソロが苛立っている。いつヘンリーに襲いかかってもおかしくない。

 どうしたものかと思っていると、ヘンリーが懐からまた何かを投げた。団子のようなものがソロの目の前にボトリと落ちる。ソロはそれに飛びついた。

 ヘンリーがホッと息をつく。

 

「魔物のエサが効いたか……。ってことは、そのネコ、魔物か!?」

「うん」

 

 今度はヘンリーも含め、皆が飛び退いた。

 

「なんで城のなかに魔物がいるんだ!」

「王様がいいって」

 

 ソロはまだネコっぽいといえばネコっぽい。だから、サンタローズでもアルカパでも騒ぎにならなかったが、魔物に対する反応としてはこれが普通なのだろう。

 

「親父が? なに考えてんだ?」

「王様がそうおっしゃるってことは、危険じゃないってことかしら」

 

 そのとき、大きいほうの扉が音を立てて開かれた。

 

「デール! ああっ、こんなところにいたのですね。何です、さっきの音は? お怪我はないでしょうね?」

「母上……」

 

 そこから入ってきた女が、カツカツと乾いた足音を立てながらデールに駆け寄り、抱きしめた。見るからに高貴な身なりの女だ。足元まで覆うただでさえ派手なドレスの上に、さらに派手な服を羽織っている。純白の襟元に、ツヤのあるブロンドがよく映えていた。

 酷く安堵した様子でデールを抱きしめている女とは対極に、デールはどこか浮かない顔だ。

 女がふと何かに気づいたように顔を上げ、眉をひそめて辺りを見回す。そして片腕でデールを抱いたまま、もう片腕で鼻と口を覆った。袖口できらびやかな装飾が光る。

 

「まあ、酷い匂いだこと! こんなところにいてはいけません。さあデールや、早くお部屋に戻りましょうね」

 

 彼女はデールを抱き上げた。デールは相変わらず俯いて黙っている。

 そこで彼女は気付いたように、ヘンリーへと視線を向けた。デールに向けたのとは180度違う冷たい視線と、ヘンリーの視線がぶつかり合う。だが、女は何も言わずこの部屋を出て行った。バタンと扉が閉まる音が響く。

 ヘンリーが激しく表情を歪め、舌打ちをした。

 

「あれ誰?」

 

 ヘンリーの弟であるデールの母ということは、ヘンリーの母でもあるはずだが、どうもそんな感じではない。その辺りが気になって尋ねたのだが、それはどうやら禁句だったらしい。

 

「うるせえ!」

 

 ヘンリーはリュカをにらみつけ、叫んだ。そして、小さいほうの扉を飛び出していった。騒ぐだけ騒いで消えていく、嵐のようなやつだった。

 なんだったのだろう、リュカはヘンリーの出て行った扉を見つめた。ソロは魔物のエサを食べ終えたようだ。

 

「やっと静かになったわね」

 

 少女がため息をついた。匂いついちゃってないかしら、そう漏らしつつ自分の服をかいでいる。

 

「相変わらず騒々しい方だなぁ」

 

 男が倒れたイスを立てながら、疲れたように言った。

 

「大変ねえ、あなたも。あのヘンリー様とちゃんと遊べる?」

 

 少女が同情をこめた目をリュカに向けてくる。

 

「遊ばない」

「まあ無理よね。きっと誰にも無理だわ」

「ヘンリー様を悪く言う人は多いけど、私はそうは思わないがねぇ」

 

 調理場で料理をしていた女性が、盛り付けられた皿をテーブルに置きながら言った。恰幅のいい女性だ。体型だけならサンチョに似ている。顔つきはサンチョのほうが優しげだが。

 

「本当のお母上を亡くしてさ、新しい母親ができたからって、ヘンリー様にしてみれば本当の母親じゃないしねぇ。しかも新しい母親がかわいがるのはデール様だけときたら、ひねくれたってしょうがないと思うけどねぇ」

「たしかになあ……」

 

 男が答える。視線は料理に釘付けだ。

 

「それにしたって限度があるわ」

 

 少女は腰に手を当てて憤りを表している。

 

「それに、次期国王の座までも奪われそうだって言うじゃないか。まあ、その辺はよくわからないけどさ、王族ってのも大変なんじゃないかい?」

「王妃様は露骨にデール様贔屓だからなあ。王様はどうお考えなんだろう」

「ヘンリー様のほうがお兄さんなのにねぇ……」

 

 今度こそリュカは部屋を出ようとした。

 そのとき、大きい方の扉が開いた。ふとそちらに目を向けると、そこには父の姿があった。

 

「あ」

「リュカ、ここにいたのか」

 

 なぜ国王と話していたはずの父がここにいるのだろう。リュカはそんな疑問を口にした。

 

「ヘンリー王子を探しているんだ。国王様に頼まれて王子のお相手をすることになったのだが、部屋にはいらっしゃらないようでな」

「さっきまでここにいたよ」

「おお、そうか。どこへ行ったかわかるか?」

 

 その言葉に答えようとしたとき、小さい方の扉の向こうから爆発音が響いた。扉がわずかに振動する。またヘンリーがおもちゃを爆発させたのかもしれない。

 皆がざわつくなか、リュカは扉を見つめ、パパスは何かを察知したのか扉へ向かって駆け出した。

 扉を開け放ち飛び出すパパスに、リュカも興味本位で続く。ソロもだ。その先はさっき屋上から眺めた中庭だった。中庭とは思えないほど広い。サンタローズの村くらいならすっぽり入ってしまうかもしれないとリュカは思った。

 下草が綺麗に刈り込まれ、樹木も何本も生えている。

 何らかの爆発はこの中庭で起こったようだった。火薬の匂いがわずかに漂っている。ヘンリーがまたあの爆発物を使用したのだろうと思っていたのだが、肝心のヘンリーの姿がない。

 

「まさか……」

 

 パパスは辺りに視線をさまよわせていたが、そう呟くとすぐに駆け出した。リュカとソロも続いた――中庭の探索を優先しようか少し迷ったが。

 中庭を囲む城壁に取り付けられている扉――リュカたちが出てきた扉とは別のものだ――を勢いよく開けパパスは駆け込んでいく。速い。その尋常でない様子に、リュカも気を引き締め後に続いた。

 扉は当然城内に通じており、通路が右に伸びていた。石造りの床で、じゅうたんなどは敷かれていない。リュカたちの足音が反響する。

 少し行くとさらに右に折れている。その通路を駆け抜けていると、側壁に扉があるのが見えた。パパスは迷わずそこを出た。

 

「どうしたの、お父さん?」

「王子がさらわれた!」

 

 リュカは目を見開いた。

 扉を出ると、そこは城の外だった。目の前は城を囲む水堀だ。地面が途絶え、眼下に水面が揺れている。堀の幅はわりと広い。普通の人なら飛び越えることはできないだろう。それも当然だ。堀というのは、外敵の侵入を防ぐためにあるのだ。

 パパスは足を止めずに、城と水堀の間を駆ける。リュカも続き、そして見た。前方に水堀を小船で進む者がいる。数人の男だ。

 堀は深く、水面は割りと低い。外からは小船が行っているのは、覗き込まない限り見えないだろう。堀の向こうに広がる城下町の住人たちは、今まさに自分たちの国の王子がさらわれているなんて、気付きもしない。

 

「いかん! 外へ逃げられる!」

 

 パパスは速度を上げた。小船との距離が縮まっていく。逆にリュカとの距離は開いた。

 堀の外側の壁の一部が低くなっており、そこへ男たちは小船をつけた。そして、大きな袋を抱えて走る。あの中にヘンリーは押し込められているのだろう。

 

「リュカ、お前も来るのか!?」

「うん」

 

 リュカは、行きたいという好奇心と、行っては邪魔になるかもしれないという思いとの間で迷ったが、頷いた。どうしてもダメだと父が思ったのなら、来るなと言ったはずだ。言わなかったということは行ってもいいのだろう。

 

「わかった!」

 

 パパスは即座に判断を下した。リュカの方へ駆け戻ると、リュカを抱えて再び小船がつけられた方へ走る。リュカは抱えあげられる直前に、ソロを咄嗟に抱き上げていた。父は急いでいるときはリュカを抱き上げて走るということが過去に何度もあった。それをリュカは覚えていたのだ。

 パパスは走る勢いをそのままに、堀を飛び越えた。

 

「あれは……まずい!」

 

 追われているのはわかっているようで、ちらちらこちらを振り返りながら、焦った様子で城下町のある方角とは別の方角へ走る。人目に触れず、城から離れようというのだろう。そして男たちが何者かと合流するのが見えた。何者かの手には白い羽が握られている――キメラの翼だ。

 彼らは白い光を纏った。そして次の瞬間、飛び去った。空に白い光の軌跡が残されている。

 

「逃がさん!」

 

 駆けるパパスの腕のなかから見る風景は、全てが後ろに吹っ飛んでいっているようだった。

 ラインハットは背を山々に預けた城だった。光の軌跡はその山を越えた先へ伸びている。それを追おうと、パパスはなんと山を駆け上がった。

 木々が現れては消え、消えては現れる。草を分けるというよりは、地面を抉るような音が絶えず聞こえる。リュカは落とさないようソロをぎゅっと抱きしめた。

 山は特別高いわけではなかったが、決して低い小山というわけでもない。普通の人間なら何時間かかるかわからないが、パパスはあっという間に山頂へ辿り着いた。そして、足を止めず跳んだ。

 山頂から一気に大地に向かって放物線を描き、落下する。ほぼ全ての音が消える。あるのは風が激しく暴れる音だけだ。髪とマントが千切れ飛びそうなほどなびく。

 

「うわ……」

 

 空と雲が一面に広がっている――今、リュカたちは空にいる。長い長い浮遊感。内臓が軒並み持ち上がる。ソロがギャーギャー騒いでいるが、リュカはギュッと押さえつけるように抱いた。もし落ちたら間違いなく死ぬ。

 眼下に急激に大地が迫ってきた。普通の人間なら当たり前のように血と肉の塊に成り果てるだろうが、パパスは着地した。衝撃で草に覆われた地面が抉れ、土が飛び出してくる。地面を滑る、というより、パパスの足が地面にみるみる埋まっていく。しばらくして静止すると、パパスの後ろには、巨大な生物が地面を引っ掻いたかのような跡が刻まれていた。

 

「ふぅ……」

 

 リュカがため息をつき終わる間もなく、パパスは広がる草原を風のように駆け出した。

 遠くに見えた森が、次の瞬間、目前に迫っている。森に踏み入ったと思った瞬間、森から抜けている。リュカの理解を超えた現象だった。足が速いとか、そういう言葉で片付けていいのだろうか。リュカは唖然としたまま、頭の片隅でそんなことを何とはなしに思った。

 ソロがリュカの胸にしがみ付くように、軽く爪を立てる。安心させるように、指先で軽く撫でてやる。

  

「あそこか」

 

 白い軌跡はすでに消えている。だが、行く手にそれらしい遺跡がある。

 キメラの翼は、一直線に目的地へ飛ぶ。つまり白い軌跡が伸びていった直線上に、敵の目的地はあるということだ。その直線上に当たるのが、あの遺跡だということなのだろう――リュカにはあの白い光がどの方向へ伸びていたのかなどもはやわからなかったが、父は正確に理解しているに違いない。

 もちろん、この遺跡のさらに向こうに目的地はあるのかもしれない。その可能性はある。だが、もしそうだった場合、そこを突き止めるには時間がかかるだろう。別の大陸まで飛んでいってしまっている可能性すらあるのだ。

 とは言え、その可能性を考慮して、この遺跡を無視するつもりはパパスにはないのだろう。ヘンリーをどうするつもりなのかは知らないが、ここにあの連中がいるとすればまだ間に合う可能性はある。もしここでないとすれば、どの道、間に合わない。

――それに、リュカはここがあの連中の目的地に違いないと思った。なぜならば、漂ってくるからだ。濃密な魔の気配が。

 

 

 

 



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21話

21話

 

 

 

 

 

 そこは、石造りの遺跡だった。入り口からは、まっすぐに一本の通路が伸びている。その突き当たりに仰々しい扉があった。扉の両脇にろうそくが灯されている――明らかに現在進行形で人の手が加えられている。

 パパスはリュカを抱えたまま一気に駆け抜け、大きな鉄の扉を蹴破った。シンと静まり返ったなかに、激しい破壊音が響いた。

 その先には、複雑に入り組んだ遺跡の内部が広がっていた。廃城とも思えるような造りだ。至るところにろうそくが灯されており、薄暗いものの内部の様子は見える。上へ下へ階段がいくつもあり、縦横に通路が何本も伸びている、立体的な構造だ。

 

「おそらく、ここは連中の隠れ家なのだろう」

「あいつら何なの?」

「最近不穏な空気を感じると国王が言っていたが、おそらく連中のことだ。王子をさらおうというのだから、ただの人さらいではなさそうだが……」

 

 パパスが立ち止まり、辺りを見回す。

 通路の手すり越しに、下の階の大きな扉が見下ろせる。本来は、この迷路のような道を行き、どこかの階段を下り、下の階の通路を進んだ先に辿り着く扉なのだろう。だが、パパスはリュカを抱えたままここから飛び降りた。

 その扉の前でリュカを降ろし、扉に手をかける。両開きの大きな扉だ。

 リュカもソロを降ろした。

 扉の向こうには特に障害のない道が続いていた。右へ左へ伸びているが、奥の方へと伸びている通路は一本しかない。薄暗さのせいで、先は見通せない。

 奥への通路を行くパパスにリュカは続いた。杖をつく音が静寂に反響する。

 すると、開けた場所に出た。ここは一際薄暗いが、なにがあるのかはどうにか見える――牢獄だ。

 

「ヘンリー王子!」

 

 パパスは駆け寄り、檻に手をかける。そのまま押し引きするが、ガシャガシャと音がするだけで扉は開かない。当然と言えば当然だ。

 パパスが剣の柄に手をかけると、闇に一筋の線が刻まれた。鍵が破壊され、牢屋の扉が開かれる。

 リュカたちはパパスとともに足を踏み入れた。隅に座り込んでいるヘンリーが暗闇に溶けてしまいそうで、とても小さく見える。

 

「ヘンリー王子、お怪我は?」

 

 ヘンリーがのろのろと顔を上げた。薄暗くて表情はよく見えない。「遅かったな」ぼそりと彼は言った。

 

「だが、まあいい。どうせオレは城に戻るつもりはないからな。王位は弟が継ぐんだ。なら、オレはいないほうがいい」

 

 吐き捨てるようにヘンリーは言った。

 パパスがしゃがみこんで、ヘンリーと視線を合わせた。

 

「王子。あなたはお父上と一度よく話をしてみたほうがいい。あなたの本心を、一度でもお父上に打ち明けてみたことがおありか?」

 

 静かな声だった。

 その言葉でヘンリーの心がどう動いたのかはわからないが、彼は俯いて唇を震わせた。

 

「オレは……オレはいないほうがいいんだ……」

 

 そこに、リュカはヘンリーの本心を垣間見た気がした。嵐のように騒がしかった彼には似つかわしくない、薄闇に掻き消されてしまいそうな声だ。

 そう呟いたヘンリーの両肩にパパスは手を添えた。

 

「お父上の話も聞いてあげなさい。それからゆっくりと考えればいい。そのためにも、帰りましょう」

 

 心を閉ざしたように、ヘンリーは無反応だった。聞いていなかったのではないかとリュカは疑ったが、しばらくしてヘンリーは小さく頷いた。パパスがどこかホッとしたように表情を緩める。ヘンリーはのろのろと立ち上がった。そして彼の視線がリュカに向いた。

 

「……お前も来てたのか」

「うん」

 

 もっとも、来る必要はなかったが。むしろ、パパスにとってリュカは足手纏いにしかならない。それをリュカは理解していたし、パパスにも当然わかっていたはずだった。なのに、このような一刻を争う状況で、なぜ父は自分を連れてきてくれたのだろう。リュカは今さらながらそう思った。

 付いて行きたいと言うリュカを説得する時間が惜しいと思ったのだろうか。それならば、リュカを置いてさっさと行ってしまえばよかったのだ。そうすれば、リュカは追いつけはしない。リュカの足では、ラインハットからここまで来るのに何時間も、あるいは何日もかかっていたかもしれないのだ。

 そもそもリュカは今までパパスに口答えをした記憶がない。説得などしなくとも、「来るな」と一言言うだけで済むだろうことはパパスもわかっていたはずだ。

 牢屋を出て、通路を戻っていく。先頭を行くのはパパスだ。リュカとヘンリーとソロは横並びで歩く。

 

「お前、やっぱりオレの子分になれよ。こんなとこまでオレを助けに来るなんて、気に入ったぞ」

 

 気に入ったのは結構だが、父までも子分に勧誘しているヘンリーの姿を見て、リュカはヘンリーを気に入らないと感じ始めていた。パパスは苦笑しながら、子分の座を辞していた。

 そのとき、唐突にリュカは邪悪な気配を感じ取った。元々楽しい場所ではなかったが、明らかに空気が変わる。

 パッと振り向く。ソロがうなった。

 

「何者だ」

 

 パパスが刃のような声で言った。

 その先には、闇のなかに緑色のローブを纏った人影が三つたたずんでいた。暗くて顔は見えない。姿形こそ人間のようだったが、この人影が人間であるはずがない。リュカは瞬時に悟っていた。

 そのうちの一人がリュカに目を向けたような気がした。それだけでリュカの背筋を冷たいものが走った。愚かと知りつつ、敵前でリュカは硬直する。自分では勝てない。そのことを一瞬にして理解させられていたのだ。

 

「な、なんだ、こいつら」

 

 ヘンリーが震えた声を漏らす。

 ソロが一際大きくうなる。

 三人が手のひらをこちらにかざした。同時にそれぞれの手のひらの前に火球が生じた。一気に辺りに光が満ちる。赤い光に石壁や床が照らされる。人影も照らされたが、フードで隠れて口元しか顔は見えない。ローブは何の装飾もなく、ボロ雑巾のように古ぼけて、ところどころ破れている。

 一瞬光が強まるとともに、三つの火球が飛来した。死の予感に膝が震えているのをリュカは感じた。目を見開くことしかできない。

 

「――え?」

 

 そのとき、火球が消し飛んだ。

 

「リュカ、ここは父さんが引き受ける。王子を連れて外へ」

 

 何が起きたのかわからぬまま、リュカは震える足を叱咤し、ヘンリーの手を取って転がるように駆け出した。危険な相手だ。とにかく父の邪魔をしてはいけない。

 ソロも付いてくる。

 リュカは来た道を必死で戻った。

 あの、一段低くなっているところの扉まで一目散に駆けてきたが、ここからが問題だ。パパスは上から飛び降りてきただけなので、道がわからない。ここから上の階に飛び上がることは、リュカにはできない。

 

「な、なあ……お前の親父さん大丈夫かな?」

「うん」

 

 危険な相手だが、父が負けるところもリュカには想像できなかった。

 とにかく走るしかない。出口の方向は把握している。その方向を意識しながら、リュカは走った。他に何も考えもせず、ひたすら走った。

 荒い息遣いが聞こえる。足音が響く。誰もしゃべる余裕はない。

 途中、扉を見つけた。中から人の騒ぐ声が聞こえる。リュカはそれを無視して駆け抜けた。こんなところにいる人間なんて碌なもんじゃない。

 階段があった。そこを迷わず上った。出口のほうへ走る。幸いというか、あちこち遠回りは強いられるものの、ここはほとんど一本道と言ってよかった。

 パパスが蹴破った扉のところに辿り着いた。あとはまっすぐな通路を抜けるだけだ。そう安堵の息を漏らしたときだった、その声が響いたのは――

 

「ここから逃げ出そうとは、いけない子どもたちですね」

 

――その者は、通路に立ち塞がるようにしてそこにいた。紫色のローブを身に纏い、シルエットは人間のように見える。だが、フードの下に覗く青白い顔、黄色く濁った目、そして何より醸し出す邪悪なオーラ。

 

「私がお仕置きをしてあげましょう」

 

 穏やかな声だ。まるで母親がいたずらをした子どもを諭すような、そんな声。本来ならその中に安心感を見出せなければならないはずの声色。

 だが違う。これは、そんなものではない。魂の底から濁っている、そんな存在。

 リュカは知らず後ずさりしていた。だが、戻っても仕方がない。立ち向かわなければならない。だが、勝ち目はない。父が来るのを待とうか。だが、それまで相手が待ってくれるはずもない。リュカの頭は迷いに支配され、取るべき行動を選べずにいた。

 相手が指を一本こちらへ突きつけた。その指先に針の先のような極小の光がきらめく。

 

「安心してかかってきなさい。殺すつもりはありません」

 

 余波を残して、光が射出された。相手のローブが小さく揺れる。宙に糸のように細い光の線が一直線に刻まれた。

 反応する間もなく、リュカは腹を光に貫かれる。カッと目を開き、リュカは膝を突いた。

 

「ぐっ……」

 

 肉が焼かれる熱さを感じた。歯を食い縛り、片手で腹を押さえ、どうにか痛みを堪えようとする。

 

「おい、リュカッ!!」

 

 ヘンリーが悲鳴のような声を上げ、リュカの身体を支える。

 ソロが相手に向かって駆け出した。やめろ、とリュカは叫ぼうとしたが、痛みで喉が詰まり、声が出ない。

 飛び掛ったソロを、相手は羽虫を追い払うように叩いた。壁に叩きつけられ、床に落下し、ソロはそのまま動かなくなった。あっけない。それほどに大きな力の差があった。

 

「な、なんだよ……お前……」

 

 ヘンリーが腰を抜かしたようにリュカに寄り添うようにして座り込んだ。次の瞬間、相手はヘンリーの目の前にいた。リュカの目では追えぬ動き。そして、ヘンリーの頭に手をかざすと、彼はなぜか意識を失った。

 

「さあ、もうあなただけになってしまいましたよ」

 

 何が起こっているのだろう。リュカは呆然とした。

 黄色い目がリュカを見下ろしているのに次の瞬間気付いた。ガチガチと硬いものがぶつかり合う音が聞こえる。それが、自分の奥歯が鳴る音だということに、リュカは少しの間気付かなかった。

 相手が一歩、距離を詰めた。

 

「うっ」

 

 膝が崩れ、リュカは尻餅をついた。硬く冷たい石の床の感触。

 もう一歩距離を詰め、相手はリュカの腹にかかとをめり込ませた。あの光に貫かれたところだ。傷は手で押さえていたものの、おかまいなしに手の上から踏みつけてくる。

 リュカが搾り出した悲鳴が、通路に反響する。あまりの痛みに意識が薄れていく。そして奥歯が砕けるかと思うほど、歯を食い縛り、うめき声が漏れる。杖を硬く握り締める。身体は勝手にのた打ち回ろうとしているが、相手の足に押さえつけられ、それすら適わない。

 何の気なしに踏まれているような見た目だが、リュカはとんでもない重さを感じた。

 

「子どもが苦痛に悶える姿。嫌いじゃありませんよ」

 

 ほっほっほ、と相手は笑う。

 リュカは杖を振った。相手の足に当たる。スライムにすらダメージを与えられないであろう一撃。

 相手は抉るようにかかとに力を込めた。リュカは声にならない叫びを上げる。目が飛び出るほどに見開く。

 ふとゲマは何かに気付くように、奥へちらりと目をやると、リュカに向かって赤い息を吹きかけた。リュカは吸い込まないように咄嗟に息を止めた。だが、いつまでも息を止めていられるわけもない。

 その赤い息を吸ってしまうと、リュカの身体から感覚が薄れていく。痛みも消えていく代わりに、力も抜けていく。意識はあるのに動けない。強制的にだらりと床に身を預けさせられる。

 

「リュカ! ヘンリー王子!」

 

 そのとき、パパスの声が響いた。

 

「おやおや、私の部下たちはやられてしまったようですね」

 

 部下たちとは、おそらくあの緑色のローブの三人なのだろう。

 

「何者だ」

「私はゲマと申します」

 

 はじめまして、とおどけたようにゲマは名乗った。

 

「そうか、ゲマ、その足をどけろ」

「これは失礼」

 

 いつになくパパスは厳しい顔つきだ。

 それに怯んだわけではないだろうが、ゲマはリュカを踏みつけていた足をどけた。

 

「引け。そうすれば、あえて見過ごす」

「残念ながら、それはできません。わけあってこの王子様を連れていく必要がありまして」

 

 ゲマは恭しくヘンリーを指す。ヘンリーは未だに意識を失っているようだ。リュカの隣でぐったりとして動かない。死んでいないのは、かすかに胸が上下していることからもわかる。

 

「高貴な身分の子どもが、次々とさらわれているという噂は聞いたことがあるが……お前、光の教団の者か?」

 

 パパスが一層目つきを鋭くした。

 

「おや、よくご存知で」

 

 ゲマは、大袈裟に驚く。

 

「何が狙いだ?」

「内緒です」

 

 からかうようにゲマは笑った。

 パパスは剣の柄に手をかけ、「まあいい」と呟いた。静かな声だった。

 

「落ち着いて下さいよ」

 

 ゲマが慌てたように、両手をパパスに向けて制するように突き出した。彼の仕草は、いちいち道化じみている。慌てたようなそぶりでありながら、そのなかに確かな余裕を感じさせていた。

 

「じゃあ、こうしませんか。この紫の子は返しましょう。その代わり王子様は下さい。それで良しとしませんか? あまり物騒なことはお互い好まない性質でしょう?」

「心にもないことを。それに、私は守るべきもののためなら、剣を抜くことを躊躇わない」

「交渉決裂でしょうかね?」

 

 ゲマは両腕を大きく広げた。そして、その身に光を飲み込むような闇を纏った。

 

「ジャミ! ゴンズ!」

 

 そう叫ぶと、ゲマの纏っていた闇が一回り広がった。その闇は、ゲマの傍らで倒れているリュカにまで及ぶ。そのときリュカは、麻痺しているにも関わらず強烈な魔の気配を感じた。神経とは別の部分がそれを感じ取っているのかもしれない。かつて感じたことのないほど濃厚な魔の気配に、気が狂いそうになる。この闇は冥界への扉だ。リュカは本気でそう思った。もしも身動きが取れたなら、一も二もなくここから逃げ出しただろう。

 闇から何者かが這い出てくる――強烈な邪気を宿す、二体の魔物。徐々にその姿があらわになる。

 役目を終えたように、ゲマが纏っていた闇は霧散した。

 

「ゲマ様、御用でしょうか?」

 

 馬のような姿の魔物が言った。白い鱗で全身を覆い、紫のたてがみが豊かに逆立っている。馬の姿でありながら、後ろの二足で立っていた。

 

「ええ、この男の相手をしてやってほしいのですよ」

「人間の相手ですかい? まあ、構いませんがね」

 

 今度は、もう一方の魔物が舐めきったように言った。岩のようにがっしりとした、紫の鬼と猪を混ぜ合わせたような姿だ。一本の角が頭から天に向かって伸びており、鋭い牙が口から覗く。巨大な鉈のような剣と巨大な盾を携え、鎧に身を包んでいる。

 パパスもかなり大柄な男だが、二体ともそれ以上に大きい。筋骨隆々だ。だがそれ以上に、彼らの放つ剥き出しの魔の気配が、リュカに脅威を叩きつけていた。掛け値なしの怪物だ。

 ゲマが笑った。

 

「ジャミとゴンズは、さきほどの部下たちとは一味違いますよ。さあ、お手並み拝見といきましょうか」

 

 何だこの光景は、リュカは身体こそ動かないものの、内心震え上がる思いだった。これは地獄絵だ。魔の気配を敏感に察知できるリュカだからこそ、そうまで思うのかもしれない。この三体の魔物は、闇の世界のさらに深淵に住む悪魔たちだ。そこいらの魔物とは、強さとかそういう次元ではない明らかな違いがあった。言うなれば、その身に宿す邪気。邪気を凝縮し、魔物の形に形成すれば、このような存在が出来上がるのかもしれない。

 周囲の薄闇が、彼らのせいでより濃くなっているようだった。ゲマは動く様子はない。対して、ジャミとゴンズはニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべ、パパスに少しずつ近寄っていく。明らかにパパスを舐めているが、それは確かな実力に裏打ちされた態度のように思われた。

 背負った剣の柄に手をかけ、パパスは静かに待ち受けている。

 巨大な剣をガリガリと引きずりながら歩むゴンズが、突如その速度を上げた。その巨体からは想像できないほどの速度で、パパスとの距離を一気に詰めると、剣を振りかぶった。

 その途端、ゴンズの鎧が砕けた。

 

「――あ?」

 

 一瞬、世界が止まったような気がした。パパス以外の誰もが、今起こったことを理解できずにいただろう。

 ゴンズの目の前には、剣を抜き去り、振り切った体勢のパパスの姿があった。一拍置いて血が噴き出す。間髪入れずに二撃目がゴンズの腹に真一文字の傷を刻んだ。

 ゴンズが苦悶の声を上げ、膝から崩れた。

 

「貴様ッ!!」

 

 馬の魔物――ジャミが激昂し、突進した。殺気が吹き荒れ、リュカの心臓を打ちのめす。ひづめが石を打つ音が鳴る。

 前足を振りかぶったジャミの首筋から血が舞い、続けざまに胴に斜めの切り傷が生じた。それはパパスの仕業に相違ないが、リュカには太刀筋どころか、パパスの動きすら見えない。殺気を撒き散らす相手に対して、パパスはどこまでも静かだ。ただ意思を持たぬ像のようにそこにある。

 身体を血に染め、膝を突いたジャミは、それでも戦意を失わない。バッと飛び退いてパパスから距離を取り、息を大きく吸うと、一気に吐き出した。白い息がパパスに殺到しながら、無数の氷の刃を内に生み出していく。

 通路一杯に逃げ場のないほど広がった凍て付く冷気を前にして、パパスはただ剣を頭上に掲げた。そして、まっすぐに振り下ろす。

 不可視の斬撃が大気を両断した。冷気が真っ二つに割れ、さらに驚くべきことにその向こうのジャミをも裂く。悲鳴が響き渡る。

 直後、パパスの姿が消えた――と同時に鋭い金属音が鳴る。

 

「……なるほど。あなたを少々甘く見ていたようですね」

 

 いつの間にか鎌を手にしたゲマが、リュカから離れたところで言った。代わりにパパスがリュカの傍らにいる。どうやらパパスがゲマを弾き飛ばしたようだった。

 

「私が相手をするしかない。そういうことなのでしょうね」

 

 ゲマが炎を吐き出した。炎が壁のように通路を埋め尽くし迫ってくる。薄暗い通路が暴力的な光に包まれた。大気があまりの高熱に悲鳴を上げる。

 パパスはリュカとヘンリーを抱え、壁際で倒れているソロの下に飛んだ。父に抱えられても、今のリュカは温もりを感じることはない。

 パパスは二人を降ろすと、一振りで炎の壁を切り裂いた。

 その炎の壁の裂け目から死神の鎌の切っ先がパパスに迫る。身を反らしかわす。続く横薙ぎの一撃をパパスは剣で受け止めた。炎が掻き消えた。再び通路が薄暗さに包まれる。

 間合いを取ったゲマをパパスが追う。次の瞬間、二人の姿がリュカの動体視力では捕らえられないほどの速度で動いた。戦う二人の姿もないまま、いくつもの金属音が至るところでほぼ同時に鳴り響く。その余波で遺跡が揺れる。パラパラと細かな粉塵が天井から降ってきた。

 ゲマが姿を現した。片手を突き出し、瞬時にその手のひらの前に巨大な火球を生み出し、放った。滑らかで瞬間的な動作だ。リュカならまず魔力を集め、集中し、狙いを定め、呪文を唱え、ようやく魔法が放たれるのだが、ゲマはそんな過程をすっ飛ばしているのかと思えるほどに早い。

 闇を喰らいながら迫る流星のごときその魔弾をパパスはかわし、ゲマに迫る。標的を失った火球は、遺跡の奥へと消えていく。それがどこかに着弾したのだろう、轟音とともに光と熱が世界を侵す。あの広い遺跡内部にさえおさまり切らなかったらしいそれらが、蹴破られた扉からこの通路にまでも漏れ出してくる。

 

「すばらしい。あなたほどの人間がいたとは――」

 

 その言葉を遮るように、ゲマの頬に一本の傷が刻まれた。

 

「お喋りの余裕があるのか?」

 

 ふふ、とゲマが笑って返した。

 

「なるほど。本気でかからねば私ですら危ないと、そういうことですね」

 

 ゲマが両手を広げると、宙に無数の火球が生まれた。

 

「かわせば子どもたちに当たってしまうかもしれませんよ。どうしますか?」

 

 両手がパパスに向けられると同時に、無数の火球が流星群のごとく宙に軌跡を描き、降り注ぐ。

 パパスが空気を弾くような気合を声に込めて発した。爆発を起こしたかのような圧力を伴って、パパスの身体から目に見えぬ力が放たれた。同時に全ての火球がその場で破裂する。炎の幕が二人を隔てた。

 瞠目するゲマに、炎の幕を突き抜けて瞬く間に肉薄したパパスの至高の一閃――空間さえも両断するような斬撃の極致を前に、咄嗟に身をよじるゲマだが、間に合わない。

 鮮血とともにゲマの片腕が舞う。それだけには飽き足らず、斬撃は通路の天井と床をどこまでも向こうまで両断した。それに伴い、細かい石片が上下から舞い上がる。

 だが、ゲマは動きを止めなかった。ゲマがうめきながら身体を反転させ、パパスの背後に立った。そして跳躍する。

 

「しまった!」

 

 ゲマはリュカの傍らに至った。そして大きく息をつく。

 

「苦労させられましたよ。なかなか隙を見せてくれないんですから。逸りすぎましたか?」

 

 その言葉で、リュカは悟った。ゲマは父と戦いながら、その実、リュカたちを狙っていたのだ。そんなゲマから父はリュカたちを庇いつつ戦っていたのだ。足を引っ張ってしまっていた――いつものことだ。だが、状況がいつもと違った。

 今のリュカには、歯を食い縛ることすらできない。ただ、忸怩たる思いに心を締め付けられた。

 荒い息をつき、ゲマは鎌をリュカの首にあてがった。切り落とされた側の腕からボタボタと血が溢れ出て床を濡らす。

 パパスが顔を歪める。

 

「実はこういうやり方のほうが性に合っていましてね。ジャミ、ゴンズ、そろそろ起きなさい」

 

 今まで意識を失っていた二匹は、その言葉で目を覚ましたようだった。ピクリと反応すると、よろよろと立ち上がる。

 

「さあ、もう一度あの戦士の相手をして差し上げなさい」

「おのれ……」

 

 パパスが歯を食い縛る。

 

「この子どもの命が惜しくなければ、存分に戦いなさい。しかし、この子どもの魂は永遠に地獄をさまようことになるでしょう」

 

 ほっほっほ――ゲマは悪魔の哄笑を響かせた。

 ジャミとゴンズがゆっくりとパパスに近寄っていく。

 

「剣を捨てな」

 

 ゴンズがその双眸に淀んだ光を宿しながら言った。パパスは逆らえない。黙って剣を床に突き立てた。

 

「さっきはよくもやってくれたな」

「覚悟しな!」

 

 二匹が拳を振りかぶった。ゴンズには武器もあるというのに、あえて拳を武器として選んだようだ。そして、パパスに向かって振るわれた。

 ゲマが歪んだ笑みを浮かべている。

 鈍い音が絶えず響き渡る。リュカに身体の自由が少しでも戻っていたなら、喉が潰れるまで叫んだだろう。それほどに凄惨な光景だった。

 パパスは血まみれだった。だが、それでも立っていた。

 ゴンズの拳がパパスの腹を打った。ゴボリと口から血が溢れる。足下の血だまりに、また新たな血液が加わり、その範囲を広げる。

 振るわれたジャミの前足のひづめの角が、パパスの目を抉った。溢れた鮮血で、眼球がどうなっているのか見えない。

 続いて振るわれたゴンズの拳がパパスの顎を打ち据え、ついに彼は血だまりに膝を突いた。

 

「いいものですね。子を想う親の姿というのは」

 

 そして、とゲマはリュカに目をやる。その目には、涙を流すリュカの姿が映っただろう。

 

「親を想う子の姿というのも」

 

 小さくゲマは笑みを漏らした。

 

「いつまでも見ていたい気もしますが、そろそろ終わりにしましょうか」

 

 手のひらを上にかざしたゲマは、その身に淡い闇を纏った。すると手のひらに支えられるように、小さな火球が生じた。仄かなそれは急激にその大きさを増し、辺りに激しい熱を発する。荘厳な炎が遺跡内を照らした。

 

「ジャミ、ゴンズ、離れなさい」

 

 それに従う二匹。

 火球はもはやこの通路にはおさまり切らないほどの大きさだった。天井や壁に触れた火球は、なんとそれらを溶かし、その勢力を拡大していく。まるで地の底の溶岩を召喚したかのような現象。溶けた天井や壁は蒸発し、その周囲の石も高熱により赤く染まっている。

 リュカは絶望的な目でその様子を見ていた。ぼたりと、うっすらと表面に火を纏った赤い液体が垂れてきて、宙で蒸発する。

 破滅的な光がこの地をこの世のものとは思えぬ様へと変質させていた。

 

「リュカ……聞こえているか?」

 

 そのとき、パパスの声が聞こえた。リュカはそちらへ意識を向ける。

 いつの間にか立ち上がっていたボロボロの父が、それでもまっすぐに折れることのない視線をこちらに向けていた。炎に照らされ、その様子が涙に霞む視界でもはっきりと見える。

 

「これだけは言っておかねば……。お前の母さんは生きているはず」

 

 父は、グッと胸にかけた銀のペンダントを握り締めた。

 激しく大気が焼かれていく轟音が鼓膜を打つ。だがそれでもパパスの声は揺らぐことなくリュカに届いた。

 

「父さんに代わって、母さんを――」

 

 それ以上、言葉は続かなかった。ゲマが手をパパスに向けて振ると、火球が――地上に顕現した太陽が、彼に向けて放たれたのだ。

 断末魔の声が木霊した。この声を一生忘れることはないだろう。リュカはそう確信した。

 少しずつ太陽が地に沈んでいく。ゆっくりとゆっくりと沈み、半分ほど沈んだところで一際激しい光を放ち、天を突くような火柱を、地響きを伴い吹き上げた。神が降臨したかのようなその火柱は、重い音を響かせつつ、天井を掻き消しどこまでも伸びていく。リュカの網膜に、その赤い地獄の景色が焼き付いた。やがて天まで達したそれは、少しずつ細くなっていき、糸のようになり、そして消えた。

 

「ジャミ、ゴンズ、行きますよ」

 

 ゲマはふと何かに気付いたようにリュカの道具袋に目をやると、そこからレヌール城で手に入れた金色の球――ゴールドオーブを取り出した。

 オーブをしばし眺めたゲマは、オーブを圧するように持ち、破壊した。

 二匹がゲマに並ぶと、ゲマは黒い光を――あるいは闇をその身に纏った。

 

「ゲマ様。このベビーパンサーは?」

「捨て置きなさい。野に返れば、その魔性を取り戻すでしょう」

 

 ゲマが纏った闇が、その範囲を広げていく。その闇が自分を覆うのを、リュカは感じた。ゲマたちとリュカ、ヘンリーを飲み込んだ闇は、一転して今度は収縮し、点となり、やがて消えた――そこにはもう彼らの姿はなかった。

 

 

 

 

 



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