曇り後晴れ。時々豪雨。(タキオン編開始) (にゃす)
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サイレンススズカ編
サイレンススズカ(プロローグ)


 トレーナーの独白よりもスズカとの日常の方が読者の皆様にとって面白いのではないかと思いプロローグをまるごと書き換えました。


「………………」

 

「………………」

 

 トレーナー室にて。スズカとのミーティングも終わり、私はいつものように仕事に取り掛かっていた。

 

 ……スズカはいつもならそのまま走りに行ってしまうのだが、今日は何故かトレーナー室に残ったままだ。

 カタカタとパソコンのキーボードを打つ私の指を凝視している。

 

 そんなスズカを、私も流し目で眺めてみて。

 

 ……スズカをスカウトしてもう二年目。早い物である。

 

 今、スズカは異次元の逃亡者と呼ばれ畏敬される程の存在となっていた。

 

 女王、覇王、怪物等、その世代でも特に強いウマ娘には畏敬を込めて異名が付いて回る。

 どの世代でも、必ず飛び抜けて脚の速いウマ娘が生まれ、人々はそのウマ娘に異名を付けたがるのだ。しかし、それらは全て人の想像が及ぶ範囲での呼称に過ぎない。

 …人の理解の及ばない、異次元と称されるウマ娘は? 異次元と称されるウマ娘は過去にはいなかったし、未来にも再び現れることがあるだろうか?

 私の答えは否だ。【異次元】の逃亡者……サイレンススズカはもう二度と現れないだろう。

 

 スズカは私の目から見ても異常だ。最終直線で加速する逃げウマ娘なんて、見たことが無い。もちろんスズカが異次元と称される距離にも限界はあるが、その距離内では正しく異次元であった。

 

 自分の担当するウマ娘がどこまで行くか最後まで見たいのは、トレーナーとしての性だろう。

 

 私は、スズカの異次元への旅を見届け…。

 

「トレーナーさん。今度の休日、一緒に遊園地に行きませんか?」

 

「あえぇ?」

 

 パソコンのWordの白紙にdddddddddddddddddddと意味の無い文字の列が入力されて行く。スズカ、今なんて…。

 

「ぁっ…その…お忙しいなら、また今度に…」

 

「い、いやいや。ちょうど空いてるけど。どうしたんだ? 突然」

 

「…トレーナーさん、私をスカウトしてからずっとお仕事ばっかりで。無理をされていないか心配で…」

 

 スズカは俯き、耳を前へ垂らしながら話始めた。

 

「なので、この前いただいたチケットさんはトレーナーさんと一緒に…」

 

「……スペ達と行かなくてもいいのか?」

 

「はい。トレーナーさんとが、いいです」

 

 そういう事か。

 

 しかし…スズカがこんなにはっきりと走り以外で意思表示するの、珍しいな…。

 

 まぁもちろん、担当ウマ娘の気持ちを無碍にする訳にもいかず。

 休日はスズカのフォームからよりよいトレーニングメニューを考える予定だったけど、変更することにしよう。

 

「…わかった。じゃあ…今度の休日は、スズカとお出掛けだな」

 

「!」

 

 ぴょこりとスズカの耳が立った。

 

「遊園地ってあそこだよな。あの…学園からも近くて…ここら辺でもでかい」

 

「はい、あそこです」

 

「よしわかった。何時に何処で集合して行く?」

 

「えぇっと………うぅーん…」

 

 …走り以外の事になると優柔不断になっちゃうんだよなぁ。頭の中の7割位は走る事を考えてそうだな、スズカ。

 ここは…私が具体的に決めておこう。

 

「じゃあ、スズカがいつもいる河川敷に…朝8時に集合でどうだ? そしてスズカのトレーニング感を崩さないためにそのまま歩きで遊園地へ」

 

「…はい。そうしましょう」

 

「よし決まった。…スズカと遊園地か。初めてだね」

 

「そう、ですね。初めてですね、私は…………そもそも遊園地に行くのが初めて…ですね」

 

「そんなレベルか」

 

「…スズカは遊園地で遊ぶよりも走ってる事の方が好きそうだもんな」

 

「はい…」

 

「まぁそうだなぁ…スズカには走り以外にも楽しい事があるってことを知ってもらおう。うん」

 

「はい…よろしくお願いします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約束の休日。この前決めたスズカがよく来る河川敷に私はいた。遊園地なんてかなり久しぶりなため、少し張り切ってここまで来てしまった。約束の時間までまだ30分以上もある。

 

 …遊園地…何に乗ろう。スズカは初めてだしまずはコーヒーカップからかな? 定番所だと他にもお化け屋敷とか観覧車とかあるけど。遊園地初心者のスズカならやっぱりコーヒーカップスタートがいいな、やっぱり。その後はスズカに決めて貰おう。

 

 空を見上げながら右手を顎に押し付け、あれこれ考えていると…。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

「おっと、おはようスズカ」

 

 聞き慣れた声が背後からした。くるりと体を動かして振り返れば…。

 

 振り返った先には私服姿のスズカがいた。…バックは学園の手提げタイプだった。

 

「ごめんなさい、トレーナーさん、お待たせしてしまって…」

 

「全然待ってないよ。…チケット忘れてないか? 大丈夫?」

 

「はい、ちゃんと…」

 

 スズカはバックを開き…中からチケットを取り出した。

 

「入れてきました」

 

「うん、じゃあ…出発しよう」

 

「お、おー」

 

 チケットをしまい、私の隣に並ぶとスズカは小さく右腕を掲げるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歩きで遊園地へと向かい数十分……ついに私達は遊園地の入り口に辿り着いた。

 

「着いたぞ」

 

「わぁ…凄い人…」

 

 初めての遊園地でかつ、こんな人の海なのでスズカは若干引いている様子だった。

 

 実際スズカの言う通り…休日と言う事もあって入り口は人でごった返している。さすがここら辺では一番巨大な遊園地だな…。

 

「学園内も人口密度が高いけどさすがに休日の遊園地はには勝てないよな…」

 

「な、流されちゃわないかしら…」

 

「ゆっくり歩くから。私から離れないようにな」

 

「は、はい」

 

 スズカは俺の横…ではなく、自身の半身が隠れる程度に俺の後ろに隠れた。

 

「…準備OK?」

 

「大丈夫です…!」

 

「よし、なら入るぞ」

 

 私は人の流れに乗り、後ろを付いて来るスズカのことも確認しながら受付へと向かい、受付の人にチケットを渡し…スズカも渡したのを確認して、遊園地内へと脚を踏み入れた。

 

「わぁ…」

 

「おぉ」

 

 大層賑やかで楽しげな雰囲気の音楽と、人々の笑い声と、様々なアトラクションが私達を出迎えてくれた。

 

 私は友人と地元の遊園地に行ったりしたことがあるが、さすがにここは桁が違う。

 

「いやこれは…私も初めて来たが…凄い、キラキラしてるな…」

 

「はい…本当に、皆楽しそう…」

 

 お互い初めての雰囲気だったんだろう。しばらく呆然とその場に突っ立ってしまっていた。

 …私はスズカよりも早く現実に引き戻された。さぁどのアトラクションに乗る? とスズカに聞こうとして横にいるスズカに顔を向けると、スズカは…口をぽかんと開けて空中ブランコを見たり観覧車を見たり綿飴の販売所やポップコーンの販売所を見たりしてかなり目移りしているようだった。

 

「…スズカ?」

 

「はいっ? ……あ、トレーナーさん。……どうしましょう、トレーナーさん…私、目移りしてしまって何に乗ったらいいか……」

 

「あー、じゃあ準備運動にコーヒーカップにでも乗ろうか?」

 

「…はい、そうしましょう」

 

 決まった。私達はコーヒーカップのエリアへと脚を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「コーヒーカップは比較的空いてるな」

 

「これなら早く乗れそうですねぇ」

 

 現在、コーヒーカップの待機場所にてスズカと一緒にいる。

 …コーヒーカップは比較的地味なアトラクションであるためだろうか。ジェットコースターやお化け屋敷と言ったメジャーアトラクションよりも人が少なかった。そのため私とスズカの順番まで後すぐである。

 

 そして…。ついに係員に空いたコーヒーカップに通された。そこで注意点やらを説明され…係員に笑顔で送り出される。

 

 肝心のコーヒーカップの乗り心地はと言うと…。

 

「………あんまり速くないな」

 

「他のカップはグルングルン回っていますね…」

 

「…えぇっと確かこのハンドルを回せば……」

 

 係員の説明だとカップの真ん中にあるこのハンドルを右に回せば右へ、左に回せば左へ速く加速するそうな。なので…。

 

「それそれそれそれそれ」

 

「あっ、速くなって」

 

 とりあえず私は右へとハンドルを回し始めた。するとハンドルは右回転の速度を上昇させ始め…。

 

「おおおお回る回る!」

 

「ま、周りの景色が混ざり始めました…!」

 

「気持ち悪くなったら言ってくれよ!」

 

「いえ、全然大丈夫です! この風、先頭を走ってる時みたいです!」

 

 スズカはさすがウマ娘と言うべきか、三半規管が強いらしい。目が回っている様子が無い。

 目を細め自らの長髪を靡かせて笑顔を浮かべている。どうやらこの風が気持ちいいようだ。

 

「これは…まるであの景色みたい…」

 

「おおお…っ……」

 

 ……しかし私はそうも行かない。さすがに早すぎて気持ち悪くなってきた。なので……何か見え掛けているスズカには悪いがハンドルを左へと回し速度を落として行く。

 

「うっぷ……調子に乗り過ぎた…」

 

 速度が最初の調子に戻った頃には既にちょっとした吐き気でダウンしていた…。

 

「ああ……面白かった…」

 

「か…風が気持ち良かったなぁ?」

 

 私は思い切り頭を横に振り、気持ち悪さを振り払いダウンから復活する。目が回った時は本当にこれが効くのである。

 

「…トレーナーさん」

 

「ん?」

 

「ちょっと、いいですか?」

 

「うん」

 

 すると、スズカがハンドルに手を掛けた。

 

「それ…!」

 

 今度はスズカがハンドルを左へと回し始めた。カップはハンドルの指示に従い右ではなく左回りを開始する。

 

「うおおお、スズカガンガン行くな」

 

「……………」

 

「スズカ?」

 

 スズカのハンドルを左へと回す手が止まらない。カップは左へと際限なく回転数を増やして行っているのがわかった。

 

「スズカ? スズカ!?」

 

 私が回した時の倍位の速度でカップの回転が速くなってないか? 速い、速いって。既に体が遠心力に引っ張られて真っ直ぐに保てない。

 

「うぐぁぁぁぁぁぁぁぁスズカァァァァァァァァァァァァァァァァァ」

 

「これが…私の見たかった景色…!」

 

 あ、これ完全に自分の世界に入ってるな。

 

 凄まじい遠心力で自分の体が折れそうになる。

 

「スズ、スズうぅぅぅぅカァァァァァァァァ」

 

「これが、これが…ああ、綺麗…私の、私だけの……」

 

「スズ………カ……」

 

 何とか遠心力に逆らってハンドルに手を伸ばす。既に三半規管がやられて何も見えないため、手探りでハンドルに掛けてあるであろうスズカの手を探し…そして見つけた。ほっそりとしていてちょっとひんやりしたスズカの手が。

 私はそれをパシッと掴み。

 

「ズズ……ガ……も……むり……」

 

「ああ……ずっと…このま………ま?」

 

 スズカの動きが止まる。

 

「……トレーナーさん!?」

 

 ああ…気付いてくれた…良かった…。

 

「ああああああごめんなさいトレーナーさん! すぐ、すぐ止めます…!」

 

「」

 

 スズカは気付いてくれたようだ。死ぬ…死ぬ……はや…く…。

 

 私の意識が遠心力により刈り取られそうになったその時……スズカがハンドルを戻してくれたんだろう。ようやく回転が遅くなった。

 

「」 

 

「トレーナーさん!? しっかり! ああ、すいませんトレーナーさん、私のせいで…!!」

 

「うっ………」

 

 ハンドルに上半身が突っ伏した状態でスズカが柔しく背中を擦ったり体を揺すったりしてくれた。その甲斐もあり……。

 

「……ひゅぅぅぅぅ……」

 

 息を吐きながら、何とか起き上がる。

 

「トレーナーさん…? 大丈夫ですか…?」

 

「…大丈夫だ、問題無い」

 

「ああ、すいません……すいません……トレーナーさん…本当に……」

 

 スズカは緩く左に回るカップの上で頭を大きく下げる。

 

「…………」

 

 それを私は…クイッ、とスズカの頭を右手で押すことで元の位置まで戻した。

 

「くっ、ふふふ……はぁぁぁぁ、楽しかったな、スズカ」

 

「……トレーナーさん…」

 

 一連の出来事を思い返してみると、何故か笑いがこみ上げて来た。

 あー、いいな、今の…。こういうのだよこういうの。

 

「……はい、凄く…楽しかった、です」

 

 私の笑顔に応えるように…スズカは私を正面に見据えながら、笑ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…でも、やっぱりすいません…」

 

「いいからいいから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、コーヒーカップ楽しかったなぁ」

 

「はい…」

 

 コーヒーカップは制限時間が来たので降りた。

 スズカも楽しかったようで、降りてから笑顔が耐えない。

 

「…トレーナーさん、次は何に乗りましょうか」

 

「次、か。…スズカは何か乗りたいのあるか?」

 

「私は……私はぁ」

 

 スズカは頬に右手を当ててその場で立ち止まり、その場で周りを見渡し…。…目ぼしいアトラクションがあったのか、ピコーン、と耳がアンテナのように立った。

 

「トレーナーさん、あれは…」

 

「あれ?」

 

 スズカは俺の背後を指さす。振り返ると、アトラクションをいくつか挟んで…。

 

「…お…お化け屋敷か」

 

 お化け屋敷があった。

 

「はい」

 

「ちょうどいいな。ちょっとコーヒーカップではしゃぎ過ぎたしお化け屋敷でクールダウンしよう」

 

「じゃあ…」

 

「うん、行こうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 口にするならヒューーードロドロドロドロと言う具合か。いかにもな雰囲気のBGMが響く、お化け屋敷の入り口で私は歩みを止める。

 お化け屋敷の看板にはミイラとか骨とかの意匠が掘られていた。

 

「………」

 

 お化け…お化けか…。

 

「トレーナーさん?」

 

「…雰囲気あるな。は、はは」

 

「…トレーナーさん、嫌なら…」

 

「私はお化けなんて怖くないぞ」

 

「…はい?」

 

「怖くないぞ、お化けなんて」

 

「あの、トレーナーさん、私は別に…」

 

「よしスズカ、さっさと入るぞ」

 

「あ、トレーナーさん、待ってください、トレーナーさん…!?」

 

 …スズカに男を見せるため、私はスズカの静止も聞かずお化け屋敷の中へと入った。スズカもそれに続き…。

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

「ひゃあ」

 

 座敷牢のような所から突然顔面蒼白のお化けが飛び出して来て思いっ切り飛び上がったり。

 

 

 

「ぁぁぁぁぁぁぁぁ痛ぁぁぁっ!?」

 

「トレーナーさん!?」

 

 お化けにビビって体を仰け反らせた瞬間に頭を壁にぶつけたり…。

 

 

 

「す、スズカ!? どこだ!? 私を置いて行かないでくれ!!」

 

「トレーナーさん、後ろです! 後ろです!」

 

「うし、後ろ!?」

 

 後ろに振り返るとここに来るまでに髪が乱れて貞子のような髪型になっているスズカがいて…。

 

「おああぁぁぁぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"っ!?」

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 そのスズカの姿に驚き叫び声を上げた私…に驚いたスズカも悲鳴を上げてしまった。

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 …そして……私の情けない姿を散々スズカに見せてしまった所で…ついてお化け屋敷から抜け出す事ができた。

 

「…あーー…」

 

「…ふ…ふふっ…あははっ…」

 

「スズカぁ」

 

「あぁ…楽しかった…」

 

「それは良かった…」

 

「トレーナーさんは…どうでしたか?」

 

「……怖かったなぁ」

 

「ふふふふっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お化け屋敷から離れてからしばらくしても…スズカはお化け屋敷の光景が頭に張り付いて離れないんだろう。突然小さく笑い出して優しい瞳を私に向けて再び前を向く…をスズカは繰り返していた。

 

 絶対私の事を思い出して笑っている。

 確かに大の大人が慌てふためいている姿は面白いけど。これだとあんまりに自分が情け無いから流れを変えよう。

 

「なぁスズカ」

 

「はいっ?」

 

「あのジェットコースター、凄い速そうだ。乗ってみないか?」

 

「はや……?」

 

 私の隣を歩いていたスズカは突然歩みを止めた。

 

「ん? スズカ? ジェットコースターは苦手か?」

 

「えっ? あぁいえ…」

 

 何だと思い私も歩みを止めてスズカを見てみると、何故か耳を忙しなくパタパタと動かしていた。

 

「……ジェットコースターは…速いですか? トレーナーさん」

 

「ええ? …ジェットコースターは速い…と思うぞ」

 

「…そうですか…」

 

「うん」

 

「…私よりも…ですか…?」

 

「それは…あぁ〜…」

 

「……」

 

 そして一連のやり取りをして行く内にスズカの耳は後ろへ向かい絞られてしまった。

 

 …スズカはジェットコースター嫌いみたいだな。失敗した…。別のアトラクションに行こう。

 

「ごめんスズカ、綿飴でも買いに」

 

「いえ、行きましょうトレーナーさん」

 

「え」

 

「ジェットコースターに」

 

「ええ」

 

 …スズカは絶対に乗ると言う雰囲気だ。なら…。

 

「…じゃあ乗ろう」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジェットコースターの風とスズカの髪が私の顔を叩き…。

 

「おおおおおおおおお!」

 

「………!!!」

 

 ジェットコースターの速度に体を振り回された。…スズカは少し体がブレるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジェットコースターに何分か振り回されて、私達はジェットコースターから降りた。

 

「いやー、あれは120km位出てたんじゃないか? スズカ」

 

「……………」

 

「……スズカ?」

 

 …ジェットコースターから降りてからスズカはずっとこんな調子である。ぼーっと、浮ついた感じだ。普段、走ってない時でもぼーっとしている事はあるがこんなレベルではなかった。

 

「スズカー?」

 

 肩をちょんちょんと突付いてみる。

 

「へ……あっ、すいません、ぼーっと…」

 

 突付いてみるとどこを見ていたかもわからない瞳に意思が戻った。

 

「どうしんたんだ?」

 

「………」

 

 スズカは黙って先程降りてきたジェットコースターを見据えた。

 

「トレーナーさん。速かったですね、ジェットコースター」

 

「ああ」

 

「…私は……あれ位速くなれるでしょうか…?」

 

「…………」

 

 …難しい質問だな。

 

 ウマ娘の、短距離での最高速度は70から80km。これは時代が進むに連れて更新されていくとして。

 ジェットコースターは基本的に100km超えだ。はっきり言ってまだウマ娘の届く領域じゃない。…ではスズカの質問を否定するべきなのか。

 

 いや、スズカには無限の可能性がある。私はそれを間近で見てきた。だから。

 

「スズカなら行ける」

 

「!」

 

 スズカの耳がアンテナのように立ち上がる。

 

「…かもしれない」

 

「……」

 

 そして垂れ下がった。

 

「現状、100kmの領域に届いたウマ娘はいない。だけど、スズカなら…。スズカはまだ底が見えないし、きっと届いてくれると私は信じている」

 

 …垂れ下がった耳は元の位置に戻った。

 

「……トレーナーさん。私、あのジェットコースターより速くなります」

 

「ああ」

 

「…頑張ります」

 

「私も頑張らないとな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジェットコースター攻略してからは綿飴やポップコーンを食べ歩いた。やっぱりウマ娘は走ってる姿と食べてる姿が一番似合うと思うんだ。

 

「トレーナーさん」

 

「うん?」

 

「最後に、観覧車はどうでしょうか」

 

 観覧車か。

 

 私は遠くからでも目立つ観覧車に目を移す。…観覧車には軽い夕日が照らしていた。

 

「おお、締めちょうどいいな。行こう行こう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 ……今、私とスズカは観覧車の中にいた。お互いに対面……ではなく、隣り合って座っている。特に何か話すこともなく、お互いを見ずにただ外の景色を見下ろして。

 私達のいる観覧車の席はそろそろ頂上と言う所にまで差し掛かっていた。

 

「…楽しかったなぁ、スズカ」

 

「はい…。トレーナーさんの、あんな姿も見れてしまって」

 

 …よっぽどお化け屋敷での出来事が気に入ったらしいな…。個人的に一番忘れて欲しい出来事だ…。

 

「スズカ……あれは…皆には言わないでおいてくれ…」

 

「うふふふ…はい。私の心に、そっと留めておきます…」

 

「留めなくていいぞ? 情けなくて敵わない…」

 

「そうですか? 私は、そう言う一面があってもいいと思います」

 

「そうかぁ?」

 

「はい。トレーナーさんも、完璧超人じゃないんだって」

 

「…………」

 

「今までのトレーナーさんは…私とは別の世界にいるような気がして…」

 

「……ちょっと、堅苦し過ぎたか…」

 

「……今日遊園地に来たおかげで、トレーナーさんを凄く身近に感じる事ができるようになりました」

 

 外の景色を見ていたスズカの瞳は、ゆっくりと私に向けられた。

 

「…来て良かったです…」

 

 夕日に照らされたスズカの青い瞳と栗毛の長髪が輝く。

 

 ……目を、奪われるって…こういう事か?

 

「…私もそう思う」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 観覧車に乗った後、私達は遊園地を後にし、河川敷でその日は別れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遊園地に行きスズカとの仲を深めた後…何ヶ月かして。スズカには大きなレースが迫っていた。秋の天皇賞である。

 

 スズカは遊園地に行ったおかげかはわからないが、今までに無い程素晴らしいコンディションを実現していた。今ならあのシンボリルドルフにすら牙が届きそう……いや、届く。

 

 もはや勝ちを疑えない。

 

 私は…スズカを信じて、送り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スズカがレース場の第4コーナーを抜け出した時。私は実況席から放たれる声が死神の声に聞こえてならなかった。

 

 スズカが骨折した。

 

 ……スズカが骨折した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしてスズカなんだ?




 次回、病室での二人。


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サイレンススズカ.1

 


 


 天皇賞秋。サイレンススズカは自らの走りに自らを破壊された。数多のライバル達の中でも、一際素晴らしい脚を持って生まれた彼女は、未来を大いに期待されたウマ娘であった。

 

 連戦連勝、異次元の逃亡者、この世代の主役はサイレンススズカ。そう謳われたスズカの怪我は、衝撃的で、悲劇的だった。

 

 若き新規精鋭と謳われるトレーナー、そのトレーナーの育てるウマ娘は異次元の逃亡者、サイレンススズカ。メディアからするとこれ程取り上げやすい組み合わせもないだろう。故に、スズカの怪我は瞬く間にニュースとなった。

 私が非難されることは無かった。メディアは随分と私に同情的に記事を書いた。

 それが、この上なく痛かった。まだ総叩きされ方が……。

 

 思い返してみると、彼女の脚について考える余地は、あった。秋天以前、彼女はとてもとても調子が良かった。調子が良過ぎた。普通、ウマ娘は理由は様々にせよ不調になることが多い。しかし、スズカにはそれが一切無かった。

 トレーニングでタイムを測る度、更新して行く彼女に笑みを深めた物だ。

 スズカは中距離を、ほぼ一切変わらぬハイペースで走り抜ける事ができた子。最終直線では自分より前には絶対に行かせない、この景色は私の物だ、と言わんばかりに、さらに加速した子。

 その選手生命を縮めるような走りがいけなかったのだろう。よくよく考えてみれば、その走り方は脚に凄まじい負担を強いる物だ。スズカの走りは少しずつ、ゆっくりと、スズカを蝕んでいたのだ。走る度に脚の寿命を縮める。

 破滅的走り。今ではそう考えてしまう。

 

 スズカの脚は神様がくれたものだ。スズカは天才だ。スズカは稀代のウマ娘になれる。そう思い、スズカのために効率的で最適なトレーニングを考え、努力を惜しまなかった、実行した自分を呪いたい。

 

 何故気付けなかった。無理をさせていると察知できなかった。

 盲目、盲信。いや、信仰に近いか? スズカもこの地球に生まれた存在。完全無欠な訳が無かったんだ。スズカの脚を完璧にケアしているつもりになっていた。……私は、調子に乗っていた。

 

 スズカが脚を壊した時の事はあまり覚えていない。覚えているのは、スズカが脚を壊したと脳が理解した瞬間の吐き気、スペシャルウィークとほぼ同時に飛び出した自分、血の気の引いていく顔、スズカの元へ駆け付け、その脚から目を逸らしたこと。そしていつの間にかいた自分の部屋。

 

 記憶はそこからはっきりとしている。それ以降はトレセン学園に連絡をし、スズカが病院に着いたこと、命に別状は無いこと、自分がしばらく休職になることを伝えられたこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー用マンションの自室で呆然としている自分がいる。

 

 自分が今後の事を考えている時、スマホに着信が入る。……たづなさんからだ。……意を決して電話に出る。

 

「…もしもし。私です」

 

「ああっ、トレーナーさん!やっと繋がった…」

 

 聞こえて来たのは焦りを含んだたづなさんの声。

 

「トレーナーさん、何度お電話を掛けても出てくれませんでしたので……」

 

 …どうやらまだ自分はショックから抜け切れていないらしい。たづなさんからの再三の着信に気付かなかったとは…。

 

「…すいません、たづなさん。……スズカは……スズカの脚は…?」

 

「ぁ……はい。スズカさんは、大丈夫です。…ですが…脚は」

 

 スペシャルウィークと共に見たスズカの脚を思い出した。思わずまた吐き気が自分を襲った。

 

 何故彼女が。どうして。もっと夢を見させて欲しかった。ずっと魅了されていたかった。勝利を分かち合いたかった。喜ぶ姿を、側で見ていたかった。

 

「ッッ……そう、ですか。……スズカの……様子は?」

 

「はい。スズカさんの様子は…落ち着いていました。落ち着いていましたが……表面上だけ、かもしれません」

 

「…トレーナーさん」

 

「……はい」

 

「…会いに行ってあげて、ください」

 

「…………はい」

 

 しばしの沈黙。沈黙を終わらせたのは自分だった。プツリ、と着信を切る。

 

 スマホを持つ腕が力無く、重力に逆らう事なく垂れ下がる。

 

 …たづなさんの口から、スズカも、スズカの脚も問題無い、と言う言葉が発せられるのを期待する自分がいた。

 奇跡は起きなかった。神様は、スズカに与えた分だけ、スズカから奪い取ろうと言うのか?

 

 私はもう成人だ。誰かに頼り、守られる時期はもう過ぎた。スズカはまだ若い。私が大人として振る舞う番が、来たのだろう。

 もし自分の自惚れでなければ……スズカがトレセン学園に来て、最も長く時間を共にしたのは自分だ。一緒にいて、あげなければ。

 

 左手に巻かれた腕時計を見る。15時23分。今夜は一晩スズカの病室で過ごそう。ハラは決まった。

 スズカのためのトレーニングノート、取材のメモ、レース用書類の入ったリュックを背負う。

 

 ふと、寝室の鏡を見る。明らかに寡黙そうな顔。特にこだわりの無い、短く切り揃えられた黒髪。飾り気も何もない黒いスーツ姿の自分がいた。酷く痩せこけたような気がした。ぶんぶん、と頭を横に振り、そそくさに寝室を出る。玄関に到着し、スニーカーを履き……ドアノブに手を掛ける。

 

「……スズカ」

 

 消え入りそうな自分の声は、きっと扉の開閉音に掻き消されただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー用マンションを出て、手頃なタクシーを捕まえスズカのいる病院まで、と頼んだ。タクシー内での時間はとても長く感じられた。

 

 病院に着くや否や、タクシードライバーに1万円を渡し、そそくさに扉を開け逃げるように病院へと走り込んだ。ドライバーの静止する声が聞こえたが、無視した。

 

 病院のエントランスは結構広かった。

 

「……すいません」

 

「はい、どうされましたか?」

 

「スズ………サイレンススズカさんの病室は何号室でしょうか」

 

「サイレンススズカさんの病室………あっ、サイレンススズカさんのトレーナー様…でしょうか」

 

「はい」

 

「トレセン学園の関係者様から事情は伺いました。サイレンススズカさんは第2病棟の219号室にいらっしゃいます。第2病棟へは受付から右手へ曲がり、そのまま真っすぐ行くと第2病棟へ到着します」

 

「ありがとうございます」

 

 実に手短な会話。スズカの居場所がわかると早足で受付を後にした。

 

「……お大事に」

 

「……はい」

 

 スズカの病室前に着くまでは早かった。…スズカの事しか考えていないな、さっきから。

 スズカの病室前に着いたは良いが……情けないことに扉を開ける勇気がない。スズカは怒っているだろうか? それとも泣いているだろうか? 自分を恨んではいないか? どうして止めてくれなかった? と。

 ……スズカに会うためにここへ来たのだ。悶々としている暇は無い。スズカに何と言われようが…受け入れるまでだ。

 

 ガララ、と扉を開く。栗色の長髪を靡かせて、ゆっくりと、水色の瞳がこちらを向いた。

 

「スズカ」

 

「トレーナーさん」

 

 声が重なった。

 

「あ……スズカ。あの…」

 

「……椅子が、ありますから。お掛けになってください」

 

「……うん」

 

 スズカの指差したパイプ椅子を持ち、カタン、とベッドの隣に置く。それに腰掛け、リュックを床に降ろした。

 

 スズカは患者服を着ていた。

 スズカの顔を見ることができない。今、スズカに言うべき事を思案する。そして、思いの外その言葉はすぐに見つかった。

 

「………ごめん」

 

「………フフフッ」

 

「ッ、スズカ?」

 

「すぐ、謝ってくれると思っていました」

 

 右手で口元を押さえ、スズカが微笑する。

 

「えっ、あ……うぅん…」

 

「トレーナーさんは、ことあるごとに謝りますから。今みたいに、ね?」

 

 スズカに完全に自分の癖を把握されてしまっていた。なんだかむず痒くなり、右手でガリガリと自分の頭を掻く。

 スズカなりに、私を気遣ってくれたのだろう。…見舞いに来たのに、何をやっているんだ、私は。

 

「……スズカ、脚は…?」

 

 沈黙が答えとなる。しかし、スズカの口から聞くまでは、まだ信じない。

 

「……もう、走れない、そうです」

 

 俯きながらスズカが話す。その姿は、何処か寂しそうで、悔しそうで…。

 

「……私が……私が止めていれば…!」

 

 いたたまれなくなった自分は、両手で膝に爪を立てながら懺悔する。自分の思考が黒く沈んで行く。

 

「よく、考えてみれば、スズカの骨折は防ぐ事ができた……。スズカのあの走りは、ウマ娘の限界を超える物だった………気付ける兆候はあった!! 私が…気付いてあげられたら……スズカは………」

 

「……こんな事にはならなかった」

 

「……………」

 

 スズカは何も喋らない。ただ黙って私の懺悔を聞いてくれている。

 

「スズカがレースに勝って行って……私は……敏腕新人トレーナー等と囃し立てられた。はっきり行って、嫌な気分じゃなかった。私は……スズカが完全無欠だと思い込んでた。盲目になってた。スズカに限界なんて無いって思い込んでた。だから色んなレースに出走させた……。それが…スズカの脚を蝕んでいた」

 

「……止めてください」

 

「私が驕らなければ…私がもっと冷静でいれば…」

 

「…止めてください」

 

「私は……私はスズカを……スズカを壊した____」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「止めてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スズカがベッドから身を乗り出し、強い力で私の左手を両手で掴んだ。そこで、我に返った。

 

「……自己評価が低くて。よく自分で自分を貶すのは、トレーナーさんの悪い癖ですよ。それに」

 

「私のためにここまで頑張ってくれた人を…悪く言われるのは、許せません」

 

 …スズカ。どうして君は、そこまで優しいんだ。

 

「……ごめん」

 

「気を付けて、くださいね」

 

 まったく、と言った様子でスズカは乗り出した身を元へ戻した。

 

「………スズカのために、来たのに。スズカに慰められてしまったよ。情けない」

 

「……いいんですよ。会いに来てくれただけでも、嬉しいですから」

 

 また、しばしの沈黙が流れる。すると、今度はスズカが意を決したように、私を見つめて口を開いた。

 

「…トレーナーさん。私はもう、いらないのでしょうか」

 

「…スズカ?」

 

「私は、レースの中に生きて来ました」

 

「エアグルーヴに、タイキに、フクキタルに、スペちゃんに。皆、大切な人です。でも、私が走れなくなったら。もう、皆の側にいる価値が、私には無いんじゃないかって。……トレーナーさんに、契約を解約されて…そのまま見向きもされなくなってしまうんじゃないかって」

 

「…スズカ。私はまだ数十年程度しか生きてないから説得力が無いかもしれないが……。皆がスズカと話してる時の顔は…サイレンススズカと言う存在が好きで、一緒にいる、と言うような顔だったぞ。スペと、エアグルーヴと話した事があるが……あいつらはスズカの事を自慢気に話していたよ。…本人のいない所で、本人を褒める人が、本当の友人だ。タイキシャトルも、マチカネフクキタルも、きっと同じさ。スズカが走れなくなったって、ずっと友人のままでいてくれるよ」

 

「……それに、そんな覚悟で私はスズカのトレーナーをしていないよ。スズカがトゥインクルシリーズを走り切って、プロの世界に入っても……ずっとトレーナーでいるつもりだった。君の走りを見ていたかったし……どこまで行くか見届けたかった。だから……スズカが立ち直るまでは、全力でお手伝いするさ」

 

「…トレーナー、さん」

 

 スズカは俯いてしまった。……柄にも無くポンポンと口走ってしまったせいでこっちも恥ずかしくなってしまった。スズカに悟られないよう顔を逸しておこう…。

 

「……トレーナーさんは、これからどうするんですか?」

 

「…ん? これからか……」

 

「……まだ、考えてないな」

 

 学園からは一時休職だ、と来ただけだし、今後の目処は立っていない。だけど…。

 

「…でも…スズカと一緒に居ようとは、思ってる」

 

「…そうですか」

 

 スズカの耳がぴょこぴょこと動くのがわかった。…少し嬉しそうだった。

 病室を見渡して、壁掛け時計が目に入った。18時51分。病室に来て、もう随分経ったらしい。

 

「…今日は帰らなくても大丈夫なんですか?」

 

「今日は看病するつもりで来たから。ずっと一緒にいるよ」

 

「…ありがとう、ございます」

 

「…………なぁスズカ」

 

「はい」

 

「何か欲しいもの、あるか? ジュースとか、お菓子とか、なんでもあげるぞ」

 

 ……なんでもと言う言葉を聞いた瞬間スズカの耳がピンッ、と張ったような気がした。…気の所為かな。

 

「……手を。握ってもらえますか?」

 

「…手か? それだけでいいのか?」

 

「はい」

 

「……わかった」

 

 スッ、と差し出されるスズカの細い右手。それを握るためにカタンッ、とパイプ椅子ごと体をベッドに近付ける。

 随分と安いものを…と思ったが、スズカがそう言うんならそうしてあげるのが自分の勤め。割れ物を扱うように差し出された右手を、握った。……ちょっとひんやりとしている。手越にわかるスベスベ、モチモチとした感触。

 ……はっきり言ってウマ娘は絶世の美女ばかりだ。そんな珠の肌を……。…等と考えている自分の邪念を払う。何考えてんだ。

 スズカの手を握って、ちょっとした沈黙が流れる。

 

「……スズカの手、ひんやりとしていて気持ちいいな。………………スズカ?」

 

 とりあえず煩悩を払おうとスズカに話しかけるが、返事がない。……どうやら寝てしまったらしい。すうすうと寝息を立てている。

 …寝ているスズカも美しいものだ。睫毛、長いし…。

 自分は器用に寝ているスズカの右手を握りながらパイプ椅子をどけて…スズカの寝ているベッドの横に、膝立ちになる形で体を付けた。そして胸から上辺りをベッドに乗せる。これなら明日は体が痛くなるだけで済むだろう。一息付いてから、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を閉じる瞬間、ベッドから視線を感じたのは気の所為だろう。




 次回、今後について話し合う二人。


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サイレンススズカ.2

 夢か真か。


____________何だか、夢見心地な気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……小鳥の囀りが聞こえる。その声がはっきりと聞こえるようになった頃に、パチリと目を開ける。スズカの寝顔が視界に入った。

 うん、スズカの寝顔はかわいいな。

 

 スズカの寝顔を拝み、そろそろ床から立ち上がろう、と言った所で、違和感に気付いた。昨日、確か私は床に膝を着きながら寝たハズ。何故、私は横たわっているんだ?そして何故、スズカの顔がこんなに近いんだ?

 

 ……自分の状況に気付いた時、叫んで飛び起きなかった私を褒めてやりたい。

 何故かスズカの眠るベッドの上に自分がいて、そして何故かスズカがこっちを向いて眠っていた。

 

 ……………何で!?

 

 私の下半身は床にあったはずでは!? そしてスズカが近い!!

 長い睫毛、近くで見ると艶のある綺麗な長髪。少し濡れた唇。

 くぅ、くぅと言う可愛らしい寝息と共に薄く吐息が自分の顔に掛かる。

 この状況非常にまずい。何がまずいかってとにかくまずいのである。

 

 というかスズカ綺麗だ……。…じゃなくて。

 

 そっと離れようにもスズカの両腕が私の首に巻き付けられている。離れようにも離れられない。本当にどうして……。

 混乱している間にスズカの口が動く。

 

「トレーナー……さぁん……」

 

 どうした、スズカ。………と返事をしてあげたいが残念ながらスズカは夢の中だ!! こんな幸せそうなスズカを起こすのも野暮と言う物……。

 追い打ちをかけるように、スズカが自分の首に回している両腕に力が籠もる。

 

 ヤメロー!! やめてくれー!! スズカー!! これ以上いけない!

 自分の心の叫びを他所に無慈悲にもスズカへとどんどん顔が引き寄せられて行く。スズカの顔はもう目と鼻の先だ。 

 

 

 

 

 

_______________ん

 

 

 

 

 

 

 む、無理だぁ……流れに逆らえない……。

 

 

 

 

 

 

__________ナーさん

 

 

 

 

 

 

 

 スズカのファースト…が私かはわからないけど、これは何の冗談だ……。

 

 

 

 

 

 

 

______レーナーさん

 

 

 

 

 

 

 

 スズカの唇が眼前に迫る…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナーさん」

 

「ッあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!?」

 

「ひゃっ」

 

 ガバッ、と飛び上がる勢いで顔を上げる。そしてグルグルと周りを見渡す。

 驚いて目をパチクリさせるスズカと、飾り気の無い病室が目に入った。……………どうやらさっきのは夢だったらしい。……良かった……んだよな。うん。あんなの夢だ、夢夢。忘れよう。

 

「………おはようございます?トレーナーさん」

 

「あ、あぁ……おはよう、スズカ」

 

「…大丈夫ですか?大分魘されていたようですが…」

 

「だ、大丈夫だ、問題無い。ちょっと嫌な……」

 

「いや、嫌な夢でも無いけど……ま、まぁ夢を見たんだよ…!!」

 

「と、とにかく大丈夫みたいですね…良かった」

 

 嫌な夢では無かった、嫌な夢では。…………少々残念な気もするが。…って、いやいや。何を考えているんだ私は。トレーナーたる者そこらへんの線引はしっかりとしなければ…。

 引退後、固い絆で結ばれたトレーナーとウマ娘がそのまま一緒に姿を消す、何て事件を思い出し、ブンブンと頭を振りそれを脳から弾き飛ばす。

 

「?」

 

 そんな自分の様子に首を傾げるスズカが目に入った。

 

「…何でもないよ」

 

「そ、そうですか…」

 

 ……何だかスズカの顔色が昨日と違う気がする。

 

「………スズカはよく眠れた?」

 

「はい。おかげさまで」

 

 そう言いながら、嬉しそうに握られた手を見せるスズカ。

 ……まだ、握ったままだったか。スルリ、と手を離す。

 

 離す瞬間、スズカの顔が見えたが、随分と残念そうだった。

 

「………………」

 

「………………」

 

 気まずい沈黙。…すると、ガララララ、と病室の扉が開いた。

 

「おはようございま〜す、スズカさ………」

 

 どうもスズカ担当の看護師の方が来たらしい。

 

「……ええっと、スズカさん?そちらの方は?」

 

「あ、こちらの方は私のトレーナーさんです」

 

「あっ。そうだったんですねぇ〜。わざわざご苦労さまです〜」

 

「あ、あはは…どうも…」

 

「えぇっと、それでは、朝ご飯はこちらに置いておきますね? 食べ終わったらまた後に回収しに参ります。では、失礼いたします〜」

 

 カタン、と朝ご飯の乗ったトレイを机の上に置く看護師。

 二人の空間を邪魔するのは悪いと言わんばかりに、早足に看護師は部屋から退場するのであった。

 

「…………忙しい人だったな」

 

「は、はい。……………でも…良い人だと思います」

 

「……だな」

 

「………さて、スズカ。朝ご飯にしようか………って、その前に…顔洗って歯磨きしなきゃな」

 

「ですね…。……あの、トレーナーさん。…体を……支えていただけますか?」

 

「…あぁ。任せてくれ」

 

 昨夜から少し続いた和やかな雰囲気は、また重苦しいものへと戻ってしまった。

 そうだ。スズカはもう、走れないのだ。前のように。

 

「……あー、じゃあ…」

 

 一瞬悩み、とりあえず自分は立ち上がった。……やっぱり変な体勢で寝たせいで少し体が痛い。まぁいいだろう。

 そして少しベッドの端に寄ってくれ、と手振りし、端に寄ったスズカの手をそっと掴み……腰に手を回し、こちらへと引き寄せるようにスズカを立ち上がらせた。……スズカと密着することになるが気にしてはいけない。

 

「大丈夫か、スズカ」

 

「っ……ふぅ。はい、大丈夫です。………ありがとうございます」

 

 ……ふらつくスズカを見て、改めて実感する。ああ、スズカは本当に……。

 

「……行きましょうか、洗面所」

 

「…ああ」

 

 スズカと自分とでは身長差があるため、些か屈んで自分の首にスズカの左腕を回す。そして自分の右腕をスズカの腰に回し……洗面所へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________数十分後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スズカをベッドに座らせ、自分はパイプ椅子に座る。机に置かれた、ほんのり温かい朝ご飯をベッドに備え付けてあるスライドするタイプのテーブルに置いた。

 

「さぁ、スズカ。食べな。怪我人にはご飯が一番だ」

 

「はい…いいだき、ます」

 

 一度両手を合わせ、そして行儀よく食べ始めるスズカ。……所作の一つ一つが綺麗だった。スズカの美貌も合わせて、随分と様になっていた。

 

「………トレーナーさん?」

 

「……んぁ? あ、あぁぁぁ、すまんすまん、ボーっと」

 

「トレーナーさんも食べたいんですか?」

 

「……んん?」

 

「そうですよね、トレーナーさん……私のために、昨日の夜から何も食べてなくて……」

 

「い、いや、私は大丈」

 

「はい、あーん」

 

 鮭の切り身を箸で切り出し、箸で挟み、左手で溢れないように添えながら、自分に差し出す。

……スズカは優しい子だ。私を気遣って……。……申し訳無い気持ちもあるが受け取らないのはスズカに悪いだろう。邪念等無い。

 

「あーー、…ん」

 

 ぱくり、と鮭を食べる。……美味しい。

 

「フフフ……」

 

「モグモグ…」

 

「はい、じゃあもう一口」

 

「モグ……い、いや、待って、スズカ。スズカの分が」

 

「いいんですよ。半分は、トレーナーさんがお食べになってください」

 

「いやでも」

 

「あーん」

 

「……………あーーー…」

 

 ……押し通された。スズカがこんな感じに押してくるようになったのはいつ頃だったか……。確か自分のウマ娘はスズカしか考えられないなんて抜かした時からだったか…?

 

 そんな、ずっと続けばいいと思える甘ったるいやり取りをしているうちにスズカは朝ご飯を完食した。

 

「……………」

 

「……………」

 

 ……そろそろ、現状から目を背けるのは止めにしよう。スズカも、既に何を言われるか理解している顔だ。

 

「……スズカ。君はもう、走れない」

 

「……はい」

 

「スズカは、どうしたい?」

 

「私は……私は…」

 

「……道は、いくつかある。まず、トレセン学園の特別顧問になることが1つ」

 

 引退したウマ娘は現役時代の知識を生かしてトレセン学園の生徒を教える立場になることができる。

 

「もう1つは、一般企業に就職することだ」

 

 怪我をして引退に追い込まれたウマ娘はこちらを選ぶことが多い。ショックと、喪失感で名誉も全て捨ててしまうのだ。

 ……スズカには、こちらを選んで欲しく無かった。

 

 実は、選択肢はもう1つある。こちらを選ぶ子も…絶えない。だが、これは……言わないでおく。きっと、どんなトレーナーでも、これは口に出さないだろう。

 

 スズカをじっ、と見つめて待っていると……。

 スズカは思考して行く内に、段々と目に光る物が浮かび始めていた。

 

「ごめんなさい……私は……まだ、選べません……ッ……」

 

「…そうか。そうだよな。いきなり、ごめんな…」

 

 …まだ、割り切れていないのだろう。肩を落とし、俯き、震えるスズカの背中を擦った。

 …ウマ娘とは、何て儚い存在なのだろう。こんな若さで、夢を追って、破れて。

 神様は越えられない試練を与えないと言うが、嘘ではないか。…どうしようもないじゃないか。……スズカが、かわいそうじゃないか。

 

「ごめんなさい……やっぱり…まだ、受け入れられないみたい…です」

 

 静かに震えるスズカの背中を擦り続け……ちょっとして、スズカも落ち着いたのか、ありがとうございますと目を逸しながら言ってくれた。

 

 そう言えば、スズカとこんなにべったり一緒にいるのも珍しい。この時間は随分と………いや、だめだ。それではトレーナー失格だ。

 

「スズカ」

 

「…はい」

 

「しばらく、リハビリを頑張ろうか」

 

「……はい」

 

「……じゃあ、スズカ。私は一旦家に戻るから……風呂に入らないといけないし……学園にも連絡しないといけないし。明日の朝、絶対来るから。ごめん、な」

 

「いえ……2日間も…側にいてくれて、ありがとうございます」

 

「うん……じゃあ、もう行くよ。またな」

 

「はい、また明日」

 

 そう、短く挨拶を済ませると、リュックを背負い、2日間世話になったパイプ椅子から立ち上がり、病室の扉に手を掛けた。名残惜しいが、仕方がない事だ。ガララ、と扉を開き、病室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 病室を後にし、扉を閉める時にふと病室を見てみた。目に入ったスズカはこちらをじっと凝視していた。その、美しい水色の目は………酷く淀んでいた。




 次回、リハビリに励み、決心する二人。
 夢は後々スズカサイドの描写をするので、そこで意味が判明します。


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サイレンススズカ.3

 リハビリはダイジェスト気味です。
 スズカは時々不穏な様子を見せていましたが、ついに…?


 スズカのあの目を忘れようと家へは走りながら帰った。タクシーを捕まえると言う思考はすっかり頭から抜け落ちた…。

 途中、適当に弁当を買って…特に何事も無く、家に到着。寝室に行くまでに息を整えて…。

 

 真っ暗な部屋に着信音が響く。理事長へ連絡しよう…。

 

「……もしもし?秋川理事長?私で」

 

「憂慮〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!!トレーナー君!!!大丈夫だったか!??」

 

「ッ!?…わ、私は大丈夫でしたよ、理事長」

 

「本当かっ!?それは……良かった!!」

 

「……私は、大丈夫でしたが…」

 

「……うむ。スズカは、まだ、か」

 

「…はい」

 

「そうか………いや、仕方無い。スズカには…時間が必要だ」

 

「………………トレーナー君。もう既に何度も言われているかもしれないが…君は悪くない。…だから、気を病まないでくれ。スズカも、君を恨んでなどいないさ」

 

「……理事長」

 

「トレーナー君」

 

「……ありがとうございます、理事長」

 

「ふふ……。安眠ッ!早寝早起きを忘れずにな!」

 

 プツリ、と着信が切れた。

 …理事長は嵐みたいな人だな。…そして、優しい。一介の新人トレーナーに過ぎない私からの電話にもすぐ出てくれる。理事長業で、きっと凄く忙しいのに。

 

 薄暗い照明の中、マンションの自室に帰って来るまでに買った弁当を開封し、頬張る。………味がしない?

 そんな馬鹿な、と思い口へ弁当を掻き込む。………味が、しない。

 …………まぁいいだろう。スズカの事が今は一番大切だ。

 

 とっとと弁当を平らげ、シャワーを浴びるためにユニットバスへ入る。

 数十分間、体を洗ってからタオルで拭き、適当に選んだ寝間着を着用して布団に倒れ込んだ。

 

 リハビリ、どれ位長くなるだろうか。トレーナー、クビにならないだろうか。スズカ、早く元気になってほしいな。そんな事を考えながら、自分は眠りに付いた。夢は、見なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_______________翌朝。

 

 コンコンコン。

 

「どうぞー」

 

 扉を開きスズカの病室へと入る。

 

「おはよう、スズカ」

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

 スズカの様子は…うん、普通みたいだ。昨夜のあの目は…きっと気の所為だな。

 病室を見回すと、新たに車椅子が手配してあった。

 

 いつもの、定位置にあるパイプ椅子の元へと歩き、そこに腰掛ける。

 

「スズカはよく眠れた?」

 

「はい。…トレーナーさんが一緒にいてくれた時程じゃありませんが」

 

「ははは…また、しばらくは一緒にいるから」

 

「…フフ……なら、しばらく快眠できそうですねぇ…」

 

「………さて、スズカ」

 

「はい」

 

「リハビリ、頑張ろうか」

 

「…はい。頑張りましょう」

 

 そう言う訳で、スズカとのリハビリ生活が始まった。スズカの担当医師からは、普通に歩けるようになるまで回復すれば御の字と言われた。だからまずは、そこを目指した。

 

 スズカのリハビリ生活は順調とは言えなかった。手すりに捕まり、1歩1歩前へ踏み出すだけでも一苦労。以前の感覚のまま踏み出そうとするとグラリと体が傾き、転げそうになってしまう。もちろん、自分が側にいて支えてあげていたが。

 …運の悪いことに悪い伏兵も潜んでいた。人気のウマ娘を食い物にしようとしている輩達がスズカを神輿にしようとした。まぁ、そいつらはニッコニコのたづなさんがなんとかしてくれたが…。

 …スズカは特にそういうのに興味がなくて、気にする様子も無かったのが幸いか。

 

 前途多難ではあったが……しかし、やはりスズカはアスリートだった。少しずつではあるけど、歩けるようになって行った。どんなに厳しいトレーニングもストイックにこなしてきたスズカは、決してめげることはなかった。そして何よりも…彼女は良い友人達に恵まれた。

 

 初めはスペシャルウィークが見舞いに来た。スズカに会うや否や泣き出してしまい、逆にスズカに慰められていた。スズカは随分と嬉しそうだった。去り際、スペシャルウィークはスズカの分まで頑張ると言った。それを聞いたスズカは、少し寂しそうで…それで嬉しそうな表情を浮かべていた。

 

 次に来たのは…エアグルーヴと、タイキシャトル、マチカネフクキタル。明らかに堅物なエアグルーヴがスズカに激励を投げ掛け、タイキシャトルがそれをいじる。そしてそれに抗議するエアグルーヴを見て、スズカは笑っていた。

 二人を他所に、マチカネフクキタルは何やら怪しいオカルトグッズをスズカにプレゼントしていた。これを持ってると運が良くなる等と言って不気味な人形や、変な文字の書かれた御札や、色の不気味な水晶玉をスズカに押し付けた。

 スズカは苦笑いしていたが…でも、嬉しそうだった。

 一通り再開を楽しみ、近況を報告し合った後、3人はスズカに、歩けるようになるまで頑張れ、と言った。

 日も暮れた頃に3人は帰り…その背中を、スズカは寂しそうに見送るのだった。

 

 友人の励ましの力もあっただろう。と言うか、それが一番大きかった気がする。半年もしない内に、スズカは少し脚を引きずりながらではあるが、歩けるまでは回復していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________そして、退院の日。

 

 

「……トレーナーさん。お世話になりました」

 

「いいんだよ、スズカ」

 

退院祝いに、夕方頃に前に来てくれた三人組とスペシャルウィークが来た。皆でお別れ会をしたいがそれぞれレースの調整で忙しく、できないことを謝罪していた。

 スズカは来てくれただけでも本当に嬉しいと言っていた。

 思い出話やらを話し込んだ所で、皆と別れた。

 

 既に病院関係者の方々と挨拶を済ませたスズカは、病院の正門の前で、私と並んで立っていた。

 担当医師曰く、半年も掛からずここまで回復するのは奇跡だと言う。

 

 とにかく、スズカが回復……歩けるまで回復してくれて良かった。

 

「……スズカは、もうどうするか決めたか?」

 

 目を瞑り、スズカは話す。

 

「……はい。私は……普通の人として、生きて行こうと思います」

 

「……そう…か。うん。わかった」

 

「エアグルーヴに、タイキに、フクキタルに、スペちゃん。皆元気そうで…。皆、前を向いていて、キラキラしていました。…私も、前を向かなきゃ…って。……今まで走る事が私の使命で、1番の楽しみだと思っていましたが……同じ位私を夢中にさせてしまうことも、しばらく前に見つけられたので」

 

「…スズカはもう次の目標が決まったんだなぁ。偉いなぁ……」

 

「…フフフフ……はい」

 

 口元を押さえながら小さく笑うスズカ。夕日の明かりに照らされて、栗色の、きめ細やかな長髪が薄く光る。

 ……思わず、見とれていると…スズカと目が合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________スズカの瞳は瞳孔が開き切り濁っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッッ」

 

「……?トレーナーさん?」

 

「あっ……いや……あは…はは。す、スズカの髪の毛、綺麗だなって」

 

「ふぇっ。あ……ありがとうございます…?」

 

 突然褒められた事で嬉しそうに俯いてお礼を言うスズカ。

 

 気のせいじゃ無かった。今のは気のせいじゃ無かった。確実にそうだった。…淀んでいた。動揺を悟られ無いように、咄嗟に髪の事を褒める。

 今まで気の所為にしていたが、スズカの様子は何処かおかしかった、と感じていたのが本音だ。秋天の少し前から、時々視線を感じる事があった。その視線に怖気を感じ始めたのは秋天以降。

 ……止めよう。……そんな…そんな、何処かの小説じゃあるまいし。

 

「……す、スズカ。学園に…荷物を取りに行こう…か」

 

「…はい、そうしましょう」

 

 スズカのあの目を脳の奥へと押し込み、正門を出てタクシーを探す。そして、良いタイミングで来た、すっかり顔馴染みになってしまったタクシーを捕まえる。今日は、学園まで、と頼んだ。

 タクシー内では、先程の目を忘れようとスズカと他愛もない話をした。タクシードライバーは酷く羨ましそうだった。

 

 数十分後、いつの間にかタクシーは学園に到着していた。スズカがいるとこんなに違うのか…。

 ちゃんとメーターの表示する金額ぴったりをドライバーにあげた。タクシーから降りる際に、またすぐ来るからここで待っていてほしい、と伝えた。

 

 ドライバーとのやり取りも済んだので、学園へと脚を進める。……スズカは何故か私の後ろにぴったりとくっついて来てる。

 

 …学園に来るのも久しぶりだ。この数ヶ月感はずっとスズカに付きっ切りだった。休職扱いだから、当然給料も出ない訳で。……給料なんてどうでも良かったんだがな。

 スズカも何処か懐かしんでる様子だ。

 ……スズカがトレセン学園に来るのも、今日が最後か。あわよくば、スズカが最初の3年間を走り切るのを、見ていたかった…。

 

「………今日で最後なんですね。学園へ来るのも」

 

「…ああ、そうだな。荷物を片付けたら、こことはお別れだ」

 

 物思いに耽りながらスズカと話していると、あっという間にスズカとスペシャルウィークの部屋の前に着いた。

 スズカが扉を開き、自分もそれに続く。部屋の中は…女の子の部屋だった。スペシャルウィークはいなかった。

 スズカは押入れからキャリーバッグを2つ取り出し、ロックを開けて荷造りを開始した。…私も布団のシーツやら、枕やら、毛布やらをバッグに押し込むのを手伝った。

 …途中、制服と勝負服を手にして動きが止まるスズカには、何も言わなかった。

 二人で荷造りしたため、時間は掛からなかった。

 

「……さようなら、エアグルーヴ、タイキ、フクキタル、スペちゃん……トレセン学園」

 

「……………」

 

「………じゃあ、スズカ。ちょっと理事長に色々伝えて来るから。正門で、待っててくれ」

 

「……はい…」

 

 スズカは随分と名残惜しそうにしていた。それはそうだろう。夢の残響を後にするのだから。

 スズカとは部屋の前で別れた。キャリーバッグはスズカに両方とも任せた。

 スズカを待たせる訳にはいかないので、早足に理事長室へと向かった。

 

 退学手続きは意外にも速く進んだ。理事長は…かなり残念がっていた。当然だろう。稀代のウマ娘が、学園を去るのだから。

 退学手続きの書類に判子が押された所で、理事長にお辞儀をし……理事長室を後にした。

 

「……トレーナー君。大丈夫だろうか」

 

 理事長が最後に何か呟いているのがわかった。だが、聞き取れなかった。

 

 自分の仕事も済んだし、そそくさに正門へと走る。

 あー、この後の予定は……スズカを駅に送り届けて、終わり、だな。……スズカ。

 

「………っふぅ、スズカ。おまたせ」

 

「…トレーナーさん。いえ、待ってなんかいませんよ」

 

 スズカを両手を後ろに組んで正門で待ってくれていた。

 

「よし…じゃあ、スズカ。駅まで、行こうか」

 

「………………はい」

 

 待たせていたタクシーの荷台にキャリーバッグを押し込み、乗り込む。自分が口を開き、駅まで、と言おうとした所で……。

 

 ぐい、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 手 で 口 元 を 押 さ え ら れ た 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてそのまま、ボス、と体ごと座席に押さえ付けられる。

 

 ………スズカ?

 

「……ドライバーさん。トレーナー用マンションまで、お願いします」

 

 …………スズカ?

 

「……わかりました」

 

 スズカに気圧されたドライバーは、静かに進路をトレーナー用マンションに取った。

 

 そこで、スズカが自分の口を覆っていた手を離す。

 

「ッッ、す、スズカ、どういう……!?」

 

 抗議をしようとスズカの方を向いた所で、口が止まった。

 …………あの目だ。美しい、水色の瞳が、淀んで、グルグルと、渦巻いている。

 

「……トレーナーさん?どうなさいました?」

 

「い……や……」

 

「………フフフフフ……変なトレーナーさん…」

 

 気圧され、縮こまる自分を見たスズカは……愛玩動物を見るような笑みを浮かべる。それは美しく、魅惑的で……狂気を孕んでいた。

 ドライバーに助けを求めたかった。いや、求める事ができた。……しかし、できなかった。だって、そんなスズカに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________見とれている自分がいたんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……トレーナー用マンション前にタクシーが到着した。今回は……メーターも確認せず、1万円をドライバーに押し付けるようにタクシーを出た。ドライバーは何も言わなかった。

 

「……退院、おめでとうございます」

 

「…ありがとうございます、ドライバーさん」

 

 ドライバーが短くそう告げる。スズカはそれにありがとう、と。

 スズカがタクシーから降りて、荷台からキャリーバッグを取り出した所で、バタン、とドアが閉まり、タクシーは走り去って行った。

 

 マンション前。スズカと二人きり。スズカの方を見ずに、恐る恐る聞いてみる。

 

「スズ…カ。どういう…つもりだ」

 

「どういうつもり…とは…?」

 

「実家に…帰らなくていいのか。ここにいていいのか」

 

「………そんなこと、どうでもいいでしょう?」

 

「なっ、よくな」

 

「トレーナーさんのお部屋は何号室でしょうか」

 

「…スズカ。ふざけるのも」

 

「トレーナーさん」

 

 ゆらり、とスズカの顔が視界の横に入る。綺麗な笑顔を浮かべていて……そして、時折見せていたあの濁った目に、目が会う。

 

「………216」

 

「216号室だよ」

 

「……フフッ……素直に教えてくれれば良かったのに」

 

 スズカがクスクスと笑う。

 

「さぁ、行きましょう」

 

 スズカの右手が、ガシリ、と自分の右手を掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________「トレーナーさん




 次回、トレーナーの自室で過ごす二人。ついにドロドロしだします。


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サイレンススズカ.4

 ドロリ…少しずつ沈んで行く。


 スズカにグイグイと引っ張られながら階段を登る。表情は読めない。ただ、尻尾がふぁさ、ふぁさ、と忙しなく跳ねている事から、随分と気分が高揚している事が読み取れた。

 ……スズカが何を考えているのかがわからない。

 

「な、なぁスズカ、考え直してくれ、スズカは実家に帰って静かに過ごした方がいいと思うんだ、親御さんも心配してるだろうし」

 

「いいんですよ。私がこうしたかったんです。私の意思です」

 

 突っぱねられた。取り付く島も無かった……。

 

「……! す、スズカ! 私の部屋は何も無いし、弁当とかカップラーメンのゴミばっかり汚いぞ!」

 

 咄嗟に思い付いた自分の部屋ディスでスズカが釣れるか試してみた。……ピタリ、とスズカの脚が止まる。

 

 お?

 

「………トレーナーさん。私のリハビリに付き合ってくれている間……ずっとコンビニ等のお弁当を?」

 

「……う…うん」

 

「……………ッッ」

 

 グイッ。

 

「うわっ」

 

 私の肯定を聞くや否やスズカはより速い速度で階段を登り始めた。

 しまった、完全に逆効果だった…! 尻尾の跳ねもさっきよりずっと激しい…!

 転けそうになりながらも階段を登り切り、廊下へ出る。スズカは止まらず…216号室前に到着した。

 

「……トレーナーさん。鍵を」

 

「い、いやぁ、大の大人が若い女性を部屋に連れ込むって絵面がまずいと言うか、下手したら犯罪…」

 

「大丈夫ですよ、合意の上です」

 

「…す……スズカ…」

 

「さぁ。トレーナーさん。さぁ」

 

 どうしてこんなことに…。スズカの催促に観念し、ポケットから鍵を取り出す。カチャ、と鍵穴に刺し、ガチャリと。

 ドアノブに手を掛け……一瞬、スズカの方を見る。

 

「?」

 

 スズカはハテナマークを浮かべながら首を傾げた。完全に入る気満々じゃないか…。

 ……うん、もうどうにでもなれ。

 

 扉を開き、玄関に入る。それに、スズカも続く。

 

 扉の閉まる音がやけに響いた気がした。

 

 …改めて玄関から見る自分の部屋は、随分と無機質は物だった。それにプラスして、洗われて虫は飛んでいないが、コンビニ弁当とカップラーメンのゴミがパンパンに詰まったゴミ袋が3つ。

  

 背後から悲しそうな溜息が聞こえた。

 

 ギギギギギ、と壊れた機械のような動きで後ろに振り返る。……スズカは呆れと、怒りと、嬉しさを含んだ表情を浮かべていた。

 

「……トレーナーさんは本当にウマ娘以外に対しては無頓着で無関心ですね………。でも……」

 

「私のために、ここまでしてくれたんですね」

 

 ピトリ、と背中に暖かく、柔らかな感触。スズカが背中にその肢体を押し付けていることがわかった。スズカの手がすすす、と背中を撫でる。……随分と、心地よい。

 

「トレーナーさんのそう言う所に」

 

 スズカの右手が背を撫でる。

 

「私は、惹かれてしまったのでしょうね」

 

 小さく、囁くように……。ぞわり、とした物が背中を這う。同時に、スズカをこんなに近く感じる事ができて、喜んでいるどうしようもない自分がいた。

 怖気が背筋を通り脳を突き抜け、体がぶるりと震える。

 その声色は心臓を直接撫でて来るようで。トクン、トクン、と鼓動が早る。スズカの息遣いが、近い。

 

「……あ……上がろうか、スズカ!」

 

 思考が蕩けてしまう前に靴を脱ぎ玄関から上がる。キャリーバッグは壁の近くに置いておいた。

 

「フフフ……はい」

 

 スズカも、玄関から上がり、二組の靴を整えてこちらに続く。

 

「……本当に何も無いぞ。いてもつまらないぞ」

 

「トレーナーさんが、いらっしゃいます」

 

「……………」

 

 口を開く度にスズカを帰そうとしているが、全て突っぱねられてしまう。どうしたものかと考え込んでいると、おもむろにスズカが冷蔵庫を開け始めた。

 

「…あるのは……生卵と、牛肉のロースと…バター。後は……」

 

 スズカがキョロキョロと周りを見回す。

 

「…食パンがありますね。調味料は……胡椒が。………トレーナーさん」

 

 スズカが冷蔵庫にあった食材を取り出しながら言う。

 

「お掛けになって休んでいてください。晩ご飯は、私が作ります」

 

「い、いやぁ、悪いって」

 

「ここまで付き合ってくれたお礼の一部ですよ」

 

「…………じゃあ………お願い」

 

 流れでスズカが料理をすることになってしまった…。スズカは誠実な子だしここで断ってしまうとむしろスズカに悪い…。しょうがない、スズカの料理をありがたくいただくとしよう…。

 ガリガリと右手で後頭部を掻きながら、ボスッ、とソファに座り込む。

 

 ………これって実質押し掛け女房………いやいや、何を考えているんだ、自分は。まずはスズカを送り返す事を考えなければ…。

 ……と言うか異常だ。スズカは今までこんな事はしなかった。やはり怪我のせいで精神的に…?いやしかしスズカは悩んでいてもこんな突飛な事は一度もしなかった…。スズカの言動は完全に……。……そんな小説みたいな事が……?

 

 両手で頭を抱えながら考えているの内にバターの香ばしい香りが漂ってきた。そして、ゴトン、とキッチンにまな板が置かれる。

 ……悔しいがこういう状況でも腹は減るんだな。完全に料理へと意識が向いてしまった。

 まずスズカは食パン1枚をバターの敷かれたフライパンに投下する。

 それと同時に、スズカが包丁でロースを薄く切り分けて行く。合計4枚に切り分けた。そのタイミングで食パンが1枚焼き上がり、フライ返しで掬い上げ皿に盛り付け。食パンが後3枚焼けるまで繰り返し、最終的に2枚の皿に2枚1組で盛り付けられた。

 カンッ、とフライパンに生卵が叩き付けられる音が響いた。スズカは器用に片手で生卵を割りフライパンへと投下する。1つ、2つ……ジュウジュウ……と卵焼きが出来上がっていく。それをフライ返しで掬い、皿に盛り付けてある2枚の食パンの間に挟む。

 最後に、切り分けたロースをフライパンに投入し、焼き上がるのを待って……焼き上がった所で、フライ返しで掬い上げて食パンに乗せる。そして、胡椒をさっと振り掛けて、間に挟む。

 

 ………正直ありあわせの食材しかなかったけど、実に美味しそうである。さすがスズカだ…。

 食器置き近くにあったナイフフォーク入れからナイフとフォークを2個ずつ取り出し…。バターロースエッグサンドと言うべきかな?それの盛り付けられた2皿を机にコト、と置き、その皿の横にフォークとナイフをセットして……。

皿の配置はちょうど自分とスズカが対面するような感じである。

 

「トレーナーさん。お待たせしました」

 

「んん……いや、全然待ってないよ。……凄く……美味しそうだ」

 

「フフフ……では、お召し上がりください」

 

「うん…いただきます…!」

 

 急いでソファから立ち上がり椅子に座る。

 

 右手にナイフ、左手にフォークを持ち、サンドイッチを切り分ける。すると、食パンからは染み込んだバターが溢れ、切られたロースからは肉汁が溢れる。……何も考えず口へと運んだ。

 

「!」

 

「……お口に合いましたか…?」

 

「おいひい……! ハグッ……モグモグ…!」

 

「……良かったぁ」

 

 とても美味しい。口の中にバターの味が広がって、それなロースと肉汁に絡み合い、さらに卵焼きがアクセントになって…。

 あんまりに美味しかったため十分もしない時間で平らげてしまった。

 

「っふぅー……ごちそうさまでした」

 

「お粗末様でした〜。…はむっ」

 

 スズカは私の食事シーンをずっとガン見していたためまだ食べ途中だ。……正直ずっと見られていて恥ずかしかった。

 とりあえず、スズカが食べ終わるまでその場で待った。

 

「……ごちそうさまでした」

 

「…………」

 

「……よし、スズカ。ご飯も食べ終わったし、もう帰ろうか」

 

「……今日はもう遅いですし。こんな夜道を歩くのは、ちょっと怖いですね…」

 

「えっ」

 

 窓から外を見る。…もう、すっかり暗くなっていた。……確かに…こんな夜道を歩かせるのはいけないだろう。うん。これは決して邪念を含まない決断だ。スズカのためを思ってだ。

 

「………うん。危ない…な。……スズカ。泊まって……行くか?」

 

「……はい♪」

 

 言質は取ったと言わんばかりの笑顔。ああ、だめだ、自分はとことんスズカに弱い。

 

「……食器は、私が洗うから。スズカはお風呂に入って来な」

 

「……トレーナーさんもごいっ」

 

「あー!あー!聞こえない聞こえなーい!!」

 

 さすがにそこは譲れない。予想してしまった私も私だが、それだけはいけない。まずい。自分も男だし色々まずい。なので、全力で回避する。

 

「……わかりました。お先に、失礼しますね。……………………………………………もう」

 

 スズカの耳がぱたりと垂れ下がった。残念そうにしてもダメ。

 ………最後に何か聞こえたが聞こえないフリをした。

 

「ふ、風呂はリビングを出て右だぞー」

 

「はーい」

 

 スズカはリビングを出て風呂場へ向かった。キャリーバッグが開いた音と、ゴソゴソと何かを取り出す音が聞こえる。…多分寝間着とかドライヤーとか歯ブラシとか歯磨き粉を取り出しているんだろう。

 

 …………これで少しの間安心できる。

 ……和やかな雰囲気で忘れていたが、タクシー内や病院で見せたスズカのあの異様な雰囲気を思い出す。…あれは……自分が原因なのだろうか。今思えば秋天までスズカには…中々キザな台詞をぶつける事が多かった。

 …自分は鈍感な方では無い。多少はその可能性について考えることはできる。……自惚れであればこれ程恥ずかしい事は無いが。

 

 キュッキュッ、と皿やフライ返しをスポンジで磨く音が響く。

 

 スズカと過ごした数年間は本当にスズカに付きっ切りだったし……。スズカ自身は走る事が第1だと思っていたため、私に何か感情を抱くとは全く考えていなかった。

 走る事を奪われたスズカが自分にやりようの無い気持ちをぶつけているだけならそれでいい。むしろそうであって欲しい。

 

 トレセン学園で度々トレーナーとウマ娘が行方不明になる事件をまた思い出した。

 ……今思えば、理事長がやたら私を心配してくれていたのはこんな状況になるのを危惧して…?いや、そんなまさか…。

 

 考えに考えていると、いつの間にか食器やらを洗い終わっていた。適当に乾燥棚に置いておく。

 

 手の水を布巾で拭き取り、そのままドッカ、とソファに座る。

 ……スズカ、どうしてあげたら良いのだろう。頑なに帰りたがらないスズカ……私に変な目を向けるスズカ……。しかも、そのスズカに見とれてしまった自分がいる。

 スズカがそれで幸せなら、いいんじゃないか。ずっと一緒にいると考えてる訳じゃないだろうし、まだしばらくは、一緒にいてあげた方がいいんじゃないか。そんな思考が脳に流れる。

 自分は……自分は。

 

 ドライヤーの音が突然リビングにまで響く。

 ……どうやらいつの間にか30分以上も経過していたらしい。スズカ、気持ちよかったかな。

 ドライヤーの音が静まる。……足音がリビングへと近付く。そして…。

 

「……ふぅ…。気持ちよかった……」

 

「それは良かった」

 

 なるべく混乱を悟られ無いようにを振る舞う。

 

 いつものルームウェア姿のスズカが現れた。栗色の長髪はしっかりと乾いていたが、一度水に濡れたためかいつもよりキラキラしているように見えた。頬も少し赤く……ふぁさりと指先で髪を掻き上げる姿は普段見れないものであった。

 

「…スズカが終わったから、次は私が入ってくるよ」

 

「はい。お待ちしています」

 

 …まず寝室に行き下着と寝間着を取る。そして風呂場へ直行。脱ぐ。脱いだ物を洗濯機に放り込む。そして風呂場へIN。

 数10分後、寝間着に着替えて歯を磨き自分のドライヤーを髪に掛ける私が鏡に写っていた。………よし。

 髪が乾いたことを確認して、リビングに戻る。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいま」

 

 スズカがソファに座り、脚をプラプラさせながら待っていた。……かわいい。

 

 腕時計を見る。…もう11時近くであった。

 

「あ〜。スズカ。もういい時間だし、そろそろ寝ようか?」

 

「はい…そうしましょうか」

 

 …ふふん。そろそろ先手を打たせてもらうよ、スズカ。必殺の先行場所指定だ。こうすることによりスズカは布団、私はソファで寝る事ができる。では…。

 

「よし、じゃあ、スズカには悪いけど私の布団を使って今日は寝ておくれ。私はソフ」

 

 言いながらさっさとソファに向かおうとした所で……。ガシリと手を掴まれた。

 

「トレーナーさん。トレーナーさんだけソファなんて不公平です。一緒のお布団で寝ましょう?」

 

 ゆっくりと振り返る。

 

「ね?」

 

 スズカは口を三日月に歪め、あの、酷く濁った…光の無い目で微笑んだ。

 

「ッ……」

 

 ……どうやら私は絶対にスズカには勝てないらしい。

 

「ど……どうしても?」

 

「……トレーナーさんは、私の事、きら」

 

「そんな訳無いじゃないか」

 

「……フフフフッ♪ なら、大丈夫ですねぇ」

 

 …一緒の布団で寝るしか道は無いらしい。……覚悟を決めろ、トレーナー。

 

 寝室に向かう私。それに続くスズカ。

 寝室には何の変哲もない、無地の布団と…無地の枕。そして、にんじんのアップリケが縫い付けられた毛布があった。…それに、ゴソリと入る。……数拍して、スズカもゴソリと入ってきた。…………近い近い近い近い近い近い……!!!! 風呂に入ったばかりでスズカのいい匂いが香って来る。

 

「…せ、狭いなぁスズカ!やっぱり私はソファに」

 

「いえ?むしろ暖かくて……」

 

 ぐい、と右腕にスズカの両腕が絡み付く。絡み付いた腕は細く、折れてしまいそうで…。でも、その力は自分よりも強くて。

 

「気持ちいいですよ…」

 

「す、スズカ……」

 

 スズカがあの目を向けて来る。あの濁った目を…。

 

「ごめんなさい、トレーナーさん。勝手な事をしてしまって」

 

「いや………いいんだけど…さ」

 

「……走る事を止めて。学園から去って。私には友人もいます。……けど。不安なものは……不安で。……だから」

 

「……スズカ」

 

 スズカの頬に左手を添える。そして、そのまますりすりと擦る。………スズカの頬は柔らかくてもちもちとしていた。

 

「私は、スズカが立ち直るまで一緒にいてあげるつもりだから」

 

「だから、いいんだよ」

 

「…トレーナーさん」

 

 ぐい、とスズカが絡めた腕を軸にこちらに近付く。そして、自分の胸に顔を押し付けた。

 スズカの肢体がこれまでに無い程間近に感じられる。暖かくて、柔っこくて…。

 

「………おやすみ、スズカ」

 

 スズカの頭を撫でながら、自分はそう呟いた。

 そして自分は目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________________________目を閉じた後、やはり視線を感じるのであった。




 次回、歪んで行く二人。
 夜、ふと違和感を感じたトレーナーは…。


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サイレンススズカ.5

 沈め…沈め…。


 寝ているような、起きているような。何とも微妙な感覚だ。…スズカと一緒の布団で寝ているから本当に夢見心地なのだが。

 

 そんな事を考えていて、ふと、何かの違和感を感じる。

 

 ……何だか体が……重い…。夢……? いや……この感覚は…大分…リア…ル…。

 寝返りを打とうにも、体がやたらと重いせいで打てない。

 

「うーん……うーん……………」

 

「う……ん……?」

 

 胸部のあまりの圧迫感に思わず目を覚ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スズカの顔が眼の前にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 目を開けた瞬間、誰かの顔が眼の前にあったらこうもなろう。

 そして、飛び起きそうになってジタバタと体を動かして違和感の正体に気付く。……思い切り飛び起きたのに体が動かない…? どうして、と目を凝らして見てみると…。

 ……スズカが私の胸部に跨っていた。両手を私の肩に置き、上から顔を覗き込んでいる構図になっている。長髪が顔に掛かってくすぐったく、薄っすらとした甘い香りが鼻腔を突く。

 所謂ウマ乗り状態である。

 

 ……どういう状況だ…!?

 

 スズカの腰を掴んでどかそうにも……そもそもそんな勇気が自分にはない。生まれてこの方20数年経つが、親しい間柄になれた女性なんてスズカを含めて数える程しかないし、そんなアクティブに接した事も無かったし…。必要な時や不可抗力でそうなった場合はあるが、そんな能動的に掴める訳が無い…!!

 

「ぁっ……く……す、スズカ…? ……眠れないのか…?」

 

 とにかく、色々マズイ状況なのは理解した。そもそも目を覚ましたら誰かが自分に跨ってるなんて絶対悪い事が起きる前兆だし、変に刺激すると何をされるかわからないので、なるべく言葉を選んで聞いてみる。

 

「…………………」

 

 暗闇でスズカの表情はよくわからない。しかし、水色の瞳は何故か爛々と鈍く、薄く、濁りながらも妖しく光っていて。ついでに耳は後ろ向きにピン、と張っており…。

 

 スズカの口が動く。

 

「………トレーナーさんの事ばっかり…」

 

「最近…ずっとトレーナーさんの事しか考えられなくて…」

 

「ス……ズカ……」

 

 ずい、と瞳が迫る。

 

「……秋の天皇賞以降、ずっと変なんです、私。トレーナーさんを見ると……」

 

 ギュゥゥゥ…とスズカの肩を握ってくる力が強くなる。

 

「…私を信じてたくさん走らせてくれたトレーナーさん。私のために寝る間も惜しんでトレーニングメニューを考えてくれたトレーナーさん。私がレースに勝つ度に本当に嬉しそうにしてくれたトレーナーさん。少しでも疲れたら絶対に休ませてくれたトレーナーさん。走る事以外にも楽しい事があるのを教えてくれたトレーナーさん」

 

「………レースの分析で私以外の子をじっくりと観察するトレーナーさん。お昼に私がいない時に他の子と談笑しているトレーナーさん。たづなさんとよくお出かけしていたトレーナーさん。エアグルーヴのお手伝いをするトレーナーさん。他の子のトレーニングを眺めているトレーナーさん」

 

「トレーナーさんと一緒にいると安心します。トレーナーさんの笑顔を見るとドキドキします。私がレースに勝つととっても喜んでくれるトレーナーさんの笑顔が好きです。……他の子と一緒に楽しそうに笑っているトレーナーさんを見ると……胸がゾワゾワします。他の子と一緒にご飯を食べるトレーナーさんを見ると……何か、ドロドロとした物が湧き上がって来ます。トレーナーさんは、私のものなのに…って。…でも、それが、溢れ出すことは、ありませんでした」

 

 ……意識せずに…寂しい思いをさせてしまっていたのか。スズカから申し訳無さそうに目を逸して…。

 

「…ごめん、スズカ。スズカを一番優先してあげれたら…」

 

「ぁ……と、トレーナーさんは悪くなくて…」

 

 スズカの瞳に「言わせてしまった」という後悔の色が浮かぶ。そして、少しの歓喜も読み取れた。

 

 少しして、何やら熱っぽい視線を自分へとスズカが送って来た。

 

「………トレセン学園に入学したばかりの時は、本当にターフを駆ける気持ち良さと、先頭の景色にしか、興味がありませんでした。それが、いつの間にか………トレーナーさんに変わって」

 

「…秋の天皇賞が終わってからは………トレーナーさんの存在が、大きくなり続けて」

 

 スズカの息遣いが荒い。

 秋天以降、スズカが不穏な雰囲気を見せることはあった。しかし、今のスズカは……今までで一番、危ない香りがした。

 

「……これが…好き、と言う感情なんでしょうね」

 

 瞬間、沈黙。

 頭の中をグルグルとスズカの言葉が反復する。

 スズカが好きと言ってくれた。…嬉しい。だが、それと同時に、崩れ去りそうな理性が自分を思い留まらせる。

 

「……スズカ。た、多分、スズカは骨折の…ストレスと……走れない事に対するストレスが…溜まってるんだよ。だから…一旦、落ち着こう……?」

 

 あくまでも、冷静に返す。

 自分がそう返した瞬間…スズカの瞳孔が開いた。

 

「………あなたは………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________突然スズカが胸ぐらを掴み上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぅぁっ」

 

「あなたは、いつもそうやってのらりくらりと………」

 

「……今の関係を崩さないよう、私が近付いたらその分だけ離れて…………」

 

 上半身の浮遊感。ぐい、と思い切り引き寄せられているため、襟が引っ張られて首が締まる。

 

「……さっき、私の事は嫌じゃないって言ってくれましたよね…?」

 

 スズカの表情が悲痛な物に変わる。

 

「…本当は、嫌なんですね」

 

「い、嫌じゃないのは本当だよ…!」

 

 スズカが嫌な訳無い。スズカはとても良い子だし、友達思いだし、気配りもできて、誠実だし、レースにいつだって本気だ。

 

「なら……なら………もっと、もっとトレーナーさんを近くで感じる事ができる関係になっても……いいじゃ、ないですか…」

 

 本心の吐露に目を逸しながら、かつてトレセン学園を目指した時に付けた知識を思い出す。

 基本的に、ウマ娘はレースに集中してもらうのが良く、多感な時期のウマ娘とはあくまでトレーナーとウマ娘の関係でいるのが望ましい、と。

 

「…私の…私の仕事はスズカを勝たせる事。もっと、輝かせる事。…だから、そう言う感情は、いらないと思ってた……。それに…トレーナーとウマ娘が、そういう関係になるのは…ご法度だったんだよ……!」 

 

 それを聞いたスズカは目をパチパチと瞬かせる。そんな事で…と拍子抜けしたかのように。

 

「……トレーナーさんは本当に、真面目なんですね」

 

 スズカがうぅん、と考え込む。どうすればオトせるか考えているようだった。

 

「…私はもう走れるウマ娘じゃありません。トレセン学園からも退学しました」

 

「だから…」

 

 胸ぐらを掴んでいたスズカの手が離され、上半身が布団に落ちそうになるが…。スズカが手を離した瞬間、再び顔を両手で掴まれたため、落ちる事は無かった。

 

「だから、もうそんなことには気を使わなくていいんですよ?」

 

 顔を掴まれ固定されているためスズカから目を離せない。そして、スズカの甘ったるい声が脳を掻き乱す。理性の糸を1つ、1つ解いて行く。

 スズカの美しい瞳は淀み、グルグルと渦巻いていて……見ていると吸い込まれそうになる。それと同時に心臓の鼓動を刻む間隔がトク、トク、トク、と速まる。まるで何かに心臓をガシリと掴まれているような感覚だ。

 

「トレーナーさん」

 

「あなたにどうしようもなく、恋い焦がれています。私をあなたのものにしてください。あなたを私のものにさせてください」

 

「……スズ…カ……」

 

 確かに、スズカはもうトレセン学園のウマ娘ではない。既に登録も抹消されて、もう力の強い一般人なのだろう。…なら、確かに。もう、いいのではないか?

 …その認識が、喉につっかえていた言葉が最後の防波堤を破って行く……。

 

 唇を震わせながら、口を開く。

 

「私で…良ければ。よ……よろしく…お願いします」

 

 言った。言ってしまった。何か悪魔と契約してしまったような気分だ。

 

 スズカの口が三日月に歪む。

 

「フフ…フフフ……そう言ってくれると、信じていました」

 

「………トレーナーさん……これからずっとよろしくお願いしますね♪」

 

 ずっと…に突っ込みそうになったがグッと堪える。今突っ込むのは野暮だろう…。

 

 パッ、とスズカが顔をやっと離してくれて、ポス、と布団に上半身が戻った。

 私から言質を得るや否や、すぐに行動と、言わんばかりにスズカが動き出す。

 

「よいしょ…よいしょ…っ」

 

 ……スズカがごそごそ、と体の上で動く。……この感触、色々とヤバい。スズカの体があちこちに擦り付けられて…。最終的にスズカは仰向けの私の右側に降り、横向きに両腕を首に巻き付けて抱き着く形に落ち着いた。

 ……右腕でスズカの肩を抱いてみる。……スズカの耳がピコピコと揺れた。

 

「……なぁスズカ。私で本当にいいのか…? もっといい人が」

 

 私の首に巻き付けてある腕が口を塞ぐ。

 

「トレーナーさん。そういうのは、聞きたくありません。それに、トレーナーさん以上の人なんて、考えられませんから…」

 

「……ごめん」

 

「…私は、トレーナーさんがいいんです」

 

「……どうして私なんだ?」

 

「…それは……。トレーナーさんと過ごした時間がそうした、としか…」

 

「そう…か」

 

 …スズカにそこまで慕われていたなんて……かなり嬉しい…けど、全然予想してなかった。

 

 ……トレーナーと共に行方不明になるウマ娘かぁ。彼らはこんな気持ちだったのだろうか。思えば十代の少女達のトレーナーとなり、数年間切磋琢磨する、と言うこの仕事は…中々ロマンスに溢れている。思い入れの強かったトレーナーとウマ娘が、恋仲になるのも頷ける。

 まぁ、私は行方不明にもなっていないが。…これからなるかもしれないけど。

 

「……スズカは家に顔を出さなくてもいいのか? こんな所にいて。…怪我の話もしないといけないし」

 

「…うぅーん……正直、そこまで考えていませんでした…。…頭が真っ白でしたし……トレーナーさんの事を考えるあまり…」

 

「あ…あはは…。相当悩ませてちゃったみたいだな…」

 

「…フフフ…はい。なので、その分トレーナーさんに…」

 

 スズカの体が揺れる。随分と嬉しそうだった。

 ……私も、一連の流れでなんだかどうでも良くなってしまった。スズカと一緒にいれることが、嬉しい。ただそれだけで、良かった。…トレーナー生活を送る内に、どこかネジがはずれてしまったのだろうか。……今は、この夢のような時間を堪能する事にしよう。

 

「…スズカ。……………スズカ?」

 

 ……どうやらまた先に眠ってしまったらしい。……誰も聞いて無いなら言っちゃっていいよな。いいよね。

 

「スズカ。…好きだよ。とても」

 

 よし、言った。直接言え、ヘタレ、とは言うまい。これが自分の精一杯だ…。

 ふぅー、と息を吐いた所で、私も目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言った後からスズカの鼓動がやたら速くなっている事に気付いた。




 次回、幸せな二人。


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サイレンススズカ.6

 幸せならokです。


 朝。カーテンから薄っすらと日の光が差し込む。

 とても良い目覚めだ。自分の右隣を見ると、スズカがくぅ、くぅ、と寝息を立て、ぐっすり眠っている姿があった。

 

 ウマ娘は基本、とんでもない絶世の美人が多い。そのため、何気ない動きですら凄い様になる。スズカも例外ではなく、ただ寝ているだけなのにまるで白雪姫のように見えた。

 

 トレーナーならばそろそろ起きて学園に向かわなければならない時間だが、私は理事長の計らいでしばらく休職する事になっているため、速くからトレセン学園に向かう必要もない。なので、スズカの御尊顔をじっくりと眺めることができるのだ。…うん、見てると顔が熱くなってくるから止めよう。

 

 昨晩、色々ありスズカとより親しい関係になれた。……冷静になった脳で考えると何とも恥ずかしい気分になる。スズカもよく顔色を変えずあんなことを言えたものだ、と思う。

 思えばスズカのスカウトに名乗りを挙げ、スズカに選んで貰ったあの時から、私はこの恋と言う病に罹患する運命だったのかもしれない。

 最初こそは本当にスズカの走りに惚れ込んでいたのだが、四六時中スズカのためにトレーニングやら、取材の調整やら、書類の作成やら、お弁当の中身やら、脚のケアやら、やっていたら本当にスズカの事しか考えられなくなっていた。これが本当の惚れる、か…。

 

 トレーナーか、はたまた大人としてのプライドなのか、決して自分からスズカを求める事は無かったが………いざ、そういう関係になってみると何とも…開放感が凄いし、何より心がポカポカする。

 

 …先日、理事長に書類を通してスズカの担当でなくなったので、そろそろ学園から新しい子を見つけろ、という指示が来るかもしれない。

 ……今更新しい子、か。トレーナーである以上、担当は決めなくちゃいけないし……でも、最初の担当がいきなり異次元の逃亡者だったからなぁ……。かなり目が肥えてしまった…。それに、私がスズカ以外を担当する姿が思い浮かばなかった。担当になったらなったで何だかスズカから鞍替えやら目移りしたような気分になって嫌だな…。…乗り換え上手……?

 

 …そもそも新しい担当をスズカが許してくれるのか…?他の子と一緒にいると嫉妬するって言ってたし…。

 もう全てかなぐり捨てて、スズカのために捧げようか?今までの生活も割とそうだったし…。…トレーナーを辞職……?

 

 …今考えるのは止めよう。理事長に相談することだ。…多分。

 

 再び目を閉じ、二度寝しようとした所で…。

 

「んん…」

 

 右隣がもそりと動く。…スズカ、起きたかな?

 

「ふぁ…………」

 

「……ぁ、トレーナーさん…………おはよう……ございます……」

 

「おはよう、スズカ」

 

 そう言ってそっと頭を撫でる。…これ位いいよな…? スズカの長髪はとてもさらさらしており、きめ細やかだった。

 

「んん…」

 

 スズカは特に嫌がる素振りも見せず、耳をパタ、パタ、と動かしている。

 

「…今日は、どうしようか。スズカ」

 

「今日…は…。…まずは、朝ご飯にしましょう…か」

 

「ん、わかった」

 

 バサリと毛布を横に避け、体を起こしてユニットバスへ向かう。

 顔を洗い、歯を磨き…リビングへ向かう。途中、スズカとすれ違った。

 リビングに着いたので椅子に座った。

 

 洗面所から水の流れる音が響く。そして、止まり……ちょっとして…。

 

「お待たせしました」

 

「全然待ってないよ」

 

「…ふふふっ」

 

「ん?」

 

「いえ…なんでもないです。さて、じゃあ簡単な朝ご飯を…」

 

 スズカと軽い会話をした後、慣れた手付きでまた冷蔵庫を開け始めたスズカ。ごそごそと生卵を2つ取り出している。……うん、これって完全に押し掛け女房だな。

 ……スズカが求めるままに、この関係が続けばまさか……? って…いやいや…。しかし否定もできないのが…。

 …も、もしも…もしもの時のために…貯金をしよう。決してスズカの為じゃない……後々の未来のためだ…うん。元よりファッションやら娯楽にお金は使わない質だし、トレーナーの給料はやたらいいから…数年すればそこそこ貯まるだろう。

 

「できましたよー」

 

 等と考えている内に……スズカは目玉焼きトーストを作り上げていた。…なんの変哲もない目玉焼きトーストだが、スズカが作ったと言うだけで高級料理屋レベルのとても美味しそうな物に見える。

 

 目玉焼きトーストを盛り付けた皿を眼の前に置いてくれるスズカ。そして、また対面する位置に座る。

 

「…いただきます」

 

「どうぞ〜」

 

「モグッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________数十分後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした…」

 

「お粗末さまでした〜」

 

 美味しかった。

 

「あ〜、スズカが作ると何でも美味しいな〜」

 

「フフフフ……ありがとうございます」

 

 食べてる時は…やはりスズカにガン見されていた。ただ食べてるだけなのに何だか恥ずかしい気分になる。

 

「なぁ、スズカ…見てて楽しかったか…?」

 

「はい。モグモグ食べてる所がハムスターみたいで…可愛かったです」

 

「ハムッ……そ、そんな可愛くもないだろうに。それに絶対補正がかかってるよ、スズカ…」

 

「……トレーナーさんは本当に自己評価が……いえ、なんでもないです」

 

「?」

 

 スズカが目を細めてこちらも見てくるものだからクイ、と首を傾げる。別に私なんて容姿にも気を使って無いし可愛く映るはずもない。多分スズカの補正のせいだろう…。

 

 沈黙がしばらくリビングを包む。…ふと、寝起きの時に考えた事をスズカに聞いてみよう、と思った。

 

「……なぁスズカ。私が…学園に新しい子を見つけろ……って言われて……新しい子をスカウトしたら……スズカは怒るか?」

 

「………………………」 

 

 再び沈黙。…これはマズイ。

 

「あっ、あぁぁぁぁ今のは忘れ」

 

「………………してくれるなら」

 

 不用意にデリケートな話題を切り出してすぐ訂正しようとした所で…スズカが遮る。

 

「お仕事以外では……いっぱい…いっぱい愛してくれるなら……いいです。もう、前みたいに走れない普通の女の子ですけど……私、トレーナーさんに相応しくあれるよう、頑張りますから。だから、私を…1番にしてください……それで…私を1番にしてくれるなら…いいんです。…トレーナーさんの…お仕事を奪うのは、嫌、ですから」

 

「…す、スズカぁ」

 

 情けない声を漏らしてしまう。最悪トレーナーを辞めようとも思っていたが……。どうやらまだ私をはトレーナーを続けてもいいらしい。

 …神様はスズカから走りを奪ったのに私からは何も奪わないんだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 安堵していたのも束の間、ザラリとノイズ掛かったような、やけに耳に残る声がリビングに木霊する。

 ……ゆっくりとスズカを見ると……あの目があった。何回見ても見慣れない、どろどろに濁った、生気を吸われるような目が…私を射抜いていた。

 でも、そんなスズカの目が……綺麗にも見えた。

 

「でも、あんまり蔑ろにされ続けたら………私、どうにかなっちゃうかもしれません」

 

 ゾッとする声。心底底冷えする声。心臓を直接掴んでくるような声。

 思わず背筋が伸びた。…本当に…目を離したら、いなくなってしまいそうな……いや、殺される…?そんな感覚に、陥る。

 ……病室にいる時から、危なっかしい場面はあった。…スズカを二の次にしちゃいけないな、これは。

 決めた。スズカが幸せに暮らせるよう頑張ろう…。もちろん、トレーナーとしての仕事を疎かにするつもりもないが…。…しかし、決めたからな。スズカは幸せにする。

 

 そう心に決めた瞬間、心か、脳か。そこにあった、最後の理性の糸が、絶たれた。

 

「……スズカ」

 

 ガタン、と椅子から立ち上がる。それにびくり、とスズカが肩を震わせ、私を見上げた。そのままソファへと向かい、座る。

 

「おいで、スズカ」

 

 自分の隣をポンポンと叩く。

 スズカは濁った目のまま、不思議そうに首を傾げながらこちらへ向かい、素直に隣に座ってくれた。

 

「スズカのことは絶対に蔑ろにしない。……スズカが満足するまで……幸せにし続けるから」

 

「………ずっと、満足しないかもしれませんよ…?」

 

「なら、ずっと頑張り続けるよ」

 

 …言っている途中で耳が熱くなって来た。スズカもハッとしたような顔をして俯いてしまって表情が見えないし……いや、俯いてくれている方がありがたい。今、大分情けない顔をしてるから…。

 尻尾もやたらぱたぱたと跳ねている。

 

 ちょっとして、スズカが私の体に身を寄せて来た。そして服を摘む。

 

「トレーナーさんは……ずるいです。真面目な顔で、そんな事を……ポコポコと……」

 

「ご、ごめん…でも…私ってそういう経験とか無かったし…こういう時どうすればいいかわからないんだ…。真面目な話じゃないのか…? これって…。それに…そういう関係になったんだし……お互いに幸せになれた方が…良いでしょ…?」

 

「〜〜〜〜〜ッッ」

 

 スズカがグリグリ、と頭を二の腕に押し付けて来る。

 

「……重い女になってしまって、ごめんなさい」

 

 俯いたままスズカが突然そう切り出す。

 

「……あ〜…それは……私にも責任があるって言うか……。あんまりウマ娘に入れ込むな、って、私自身が教えられたけど、守れなかったし…」

 

「まさかスズカにそこまで思われてるなんて考えて無かったし…」

 

「でも…」

 

「……そこまで私を求めてくれるスズカを、愛おしく思ってしまう……どうしようもない自分がいるんだ」

 

 自分の胸中の燻りが、どんどん冷えて行く。冷たい物が、体全体へと伝播する。指先に、脳に、目に。

 

「……トレーナー…さん…」

 

 スズカが僅かにたじろく。

 

「お互い……どうしようもないな? ははっ」

 

 心の底から笑ったつもりだが……口から漏れた笑いは、やたらと乾いた物だった。

 

 初めて見るであろう私の姿に、スズカは少し気圧されたのだろう。だが、すぐに……まるで、その目が欲しかったと言わんばかりに、綺麗な三日月に口を歪める。そして、より目の淀み、濁りが深くなり…。

 

 ああ、綺麗な目だよ、スズカ。

 

「…はい♪ だから……どうしようもない位に……深く沈んで行きましょう…?」

 

「…あぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    「大好きですよ」「大好きだよ」

 

 

 

     「トレーナーさん」「スズカ」




 拙い文章ながらトレーナーサイドを最後までありがとうございました。スズカはテイオーと違ってマイルドそうなのでマイルドにしました。

 途中、トレーナーの味覚がおかしい描写がありましたが、あれはショックとストレスによるものです。特に深い意味はありません()

 スズカ編の次はテイオー編となります。テイオー編はかなりしっとりする予定です。

 次回、sideスズカ。


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sideスズカ(回想)

 スズカ目線となります。
 やっぱりダイジェスト気味。
 アプリ版をなぞったりしています。


 スピードのその先へ。誰もいない景色へ。その景色を、ずっと見ていたい。

 

 私、サイレンススズカは、幼い頃からそれだけを考えていました。公園や、学校で駆けて、駆けて、いつまでも、どこまでもあの景色を追い求めていました。

 幼い頃の大まかな記憶は基本、それだけです。もちろん、走る事しか脳になかった訳じゃなくて……友人との記憶もありますが……大部分は、走りに関する事と、先頭に立った時の綺麗な景色だけでした。

 サイレンススズカは、とにかくそんな子だったんです。

 

 走る事に恋焦がれて幾時が経ち……私は両親からトレセン学園なる学園が存在する事を私は聞きました。

 日本各地の優駿が集う、日本最高峰のウマ娘養成機関。最高の設備と、最高のトレーナーもいる、最高の環境。

 

 ここに入れば、私はもっと速くなれるかもしれない。

 

 あの景色を、もっと見る事ができるかもしれない。 

 

 見たことの無い景色に辿り着けるかもしれない。

 

 私の目的は決まりました。トレセン学園に入学して、先頭の景色、誰も見たことの無い景色、自分だけの景色…その先を見ることに。

 

 トレセン学園は日本の最高峰です。もちろん、試験も厳しい。入学するためにお勉強もたくさんしました。…が……全てを決めたのは模擬レースの試験だったと思います。私は模擬レースで大差勝ちをすることができました。その時の試験監督は、手元が忙しなかったように記憶しています。

 

 結果から言うと……私は合格でした。

 

 そこからは速かったです。入学してからは、エアグルーヴ、タイキシャトル、マチカネフクキタルと言った友人達に恵まれて。お互いに切磋琢磨して。ウイニングライブなる物があると知った時は、多少戸惑いましたが…。友人の支えもあって振り付けを覚える事はでき、歌の歌い方も学べました。

 

 そんな中でも、私の中の一番は相変わらず走る事と、速さの先にある景色を見る事でしたが…。

 

 学園で過ごしていたある日。

 どうしようもなく走り回りたくなり、寮を抜け出してターフを駆けていた時。そこで、私はあの人に出合いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________時は選抜レース前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ…はっ…はっ…!!」

 

 夜。もう誰もいないターフにて。私は風を切る勢いで地を蹴る。何処までも加速していけるような気がして、脚が止まらない。そんな感覚が、気持ち良くて仕方ない…。

 思わず、笑みが溢れる。

 

 体力の限界が来た所で、一旦脚を止める。

 夜はいい。誰もいなくて、静かで、自分だけの景色を心置きなく堪能できる。

 今日は一段と星が輝いているように感じるし、こんな景色を独り占めできるなんて……何だか特別なことをしている気分。

 

 空を見回し、息も整ったので、再びターフを走ろうと首を動かした時、視界に人影が映る。

 …私をじっ、と見つめている男性がいた。

 ……何だろう…?

 

「あの……」

 

 男性が突然話し掛けられてビクリと肩を震わす。

 

「私に何か……?」

 

「あぁ、いや……とても楽しそうに走るな、って」

 

「……はい。走る事って……本当に楽しいので」

 

「…………………」

 

「えっと……すいません、失礼します。私、もう少し走ってくるので」

 

「は、はい、行ってらっしゃい」

 

 男性には少し悪いが……この感覚と景色を忘れたくない。話を手短に済ませて…私は再びターフを駆けた。

 

 …………これがあの人との最初の邂逅でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________時は選抜レース当日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレセン学園のトラックにて。数十人の学園関係者と数百人のトレーナー、数百人以上のウマ娘がターフに集まっていた。

 私はその、ターフの外側。スタンドにいた。

 ……空気がピリピリしている。まるで弱い静電気が肌全体を撫でているみたい…。ウマ娘達も、皆目が鋭くなっているし、尻尾も落ち着かない様子でばさ、ばさ、と跳ねている。……私もそれは同じだった。右手で左肘をぎゅっ、と握ってみるけど…。……やっぱり落ち着かない。嫌でも尻尾が跳ねてしまう。

 

 …それと、無意識に左回りも。

 

 何故皆こんなに凄い剣幕なのか……それもそのはず。今日は、選抜レース当日。ウマ娘とトレーナーが3年間を共にするパートナーを選ぶ日。今後に非常に関わってくるとても大事な日。

 

 ……あの人も来てるかな…?キョロキョロと周りを見渡す。……いない。……凄い人混みだから見つけるのは諦めましょう…。

 あの夜限りの出合いだったと割り切る。

 

「すぅーーー………ふぅーーー……」

 

 気を落ち着かせようと深呼吸する。…やっぱり落ち着かない。こういう時こそ落ち着けと言われるけれど……本当に落ち着ける人っているのかな…?

 

 しばらくすると、自分の前の番の子達がぞろぞろと帰って来た。

 

 …そろそろ、自分の番ね…。

 ゲートインする子達の名前が読み上げられる。

 …来た。呼ばれた。自分の番だ。

 スタンドから降り、柵扉からターフへ入り、誰もいないゲートへと脚を進め…入る。続々と他の子達も入ってきて…その面々を確認するけど……タイキやフクキタルはいなかった。

 

 ゲート内で好スタートを切れるよう、姿勢を整える。腰を低く、左脚を後ろへ、右脚を前へ…。

 

 後はゲートが開くのを待つのみ。

 

 ガシャン、と言う音共に私達は走り出した。

 

 それと同時に、私は前へと躍り出て……全ての音が消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________選抜レース直後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …私は後続の子達を引き離してゴールすることができた。実況も、歓声も全く聞こえず……。実は、勝利よりも気持ち良く走れたた事の方が個人的に嬉しかったり……。

 

 選抜レースも無事に終わり、ターフの柵扉を開き、スタンドへ戻ると……私に視線が集まる。…そして、その中から、貫禄のある、目をキラキラと輝かせた女性が駆け寄って来た。

 

 女性はトレーナーさんで、スカウトさせてくれないか、というお話をしてくれました。曰く、私はまだまだ速くなれる。私が望むなら、走り方を享受してくれ、レースで先頭を走らせてくれる、と。

 

 ……まだまだ、私は速くなれる?その言葉を聞いて、迷うことは無かった。……私はすぐにスカウトを受けました。…もっと速くなれるなら…何だって。

 

 より目の輝きが強くなったトレーナーさんに着いてきてと言われ、背中を追う。これから契約のサインとかをするのかな…?

 

 ワクワクした気分で着いていく途中で、こちらを見つめる男性に気付いた。

 ……あの、男性だ。何だか残念そうな顔をしている。

 

 ……何だか、記憶に残る人ね…。

 

 選抜レース後、私は本格的なトレーニングをするようになりました。…主に脚を溜めて、最後に一気に駆け抜ける走法を教えてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________選抜レース後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がトレーナーさんにスカウトされて数日後。学園で模擬レースが行われる事になった。私もそれに出走することになっている。

 

 そして模擬レース当日。私はゲートの中にいた。

 

 レース前、トレーナーさんとミーティングがあり、スピードを制御した、計画的な走りを物にしてと言われた。言われた事を頭の中で復唱、復唱…。

 大丈夫…ちゃんと練習もしたし、頭の中で考えもした。後は、レースでやるだけ。

 

 ゲートの中で姿勢を整え……ゲートの開く音と共に私は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果は……8着。

 

 トレーナーさんに言われた通り、終盤まで脚を溜めていたのに…。

 

 走っている最中に脚が重くなってしまった。ラストの、スパートを掛けるべき場面で……脚に、力が…。

 

 ……どうして…。全然、前が……景色が…見えなかった。

 

 トレーナーさんが心配そうに私の走りを論評する。終盤のキレが無かった事についても聞かれた。

 

 …自分自身にも理由は分からなかった。とにかく、脚が重くなって…。

 

 それを聞いたトレーナーさんはふむむ、と考え込み…。今の走りに慣れるまで、デビュー戦への出走を取り消そう、と提案した。

 

 ガツンとハンマーで頭を殴られたような気がした。走れ……ない……?そんな……。

 思わず、語気を強め、詰め寄るようにトレーナーさんに言葉を投げ掛けてしまう。

 トレーナーさんは冷静に、デビューに向けて万全の状態にしてあげたいだけ。だから、新しい走りに慣れてからデビューしましょう?と返す。

 ………それは、そう。トレーナーさんの言う通り。私の事を思って、そう判断してくれているのだから。…だから、トレーナーさんは悪くない。

 

 ……………でも。……慣れてからって………それって……いつ……?

 

 トレーニングでしか走れない事を知った私は……余りのショックに、その日はすぐにターフを後にしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________模擬レースから数日後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……!!」

 

 また、夜。もう人も少なくなったターフをひたすらに駆ける。前へ前へ、脚を出し、疾走する。……だけど……駄目。伸びない。風を切る感覚が気持ちよくない。上手く走れていない証拠だ。

 …脚が重い。前までは、こんな事無かったのに。自分の走りに納得できないまま、私はゴールを走り切った。

 

「ふーっ……ふーっ………」

 

 ゴールを過ぎた後、段々と減速し…立ち止まった所で、膝に手を付いて息を整える。

 

「…………はぁ」

 

 ……駄目。こんなんじゃ駄目。前より、酷くなってる。全然、気持ちよくなかった。あの景色が…見えなかった。

 

 …最近、明らかにスランプだ。トレーナーさんに言われた通りのトレーニングと走り方はしているけれど…。

 …スランプだからこそ、以前の感覚を取り戻そうと走り込む。アスリートの卵としては、当然の考え。だけど、タイムはよくならない。ずっと、横這いだ。

 …これ以上のトレーニングはオーバーワークになってしまう。…休もう。

 

 ゴール横に置いてあったペットボトルを回収し、柵に掛けてあったタオルを首に巻く。

 そして、ターフから立ち去ろうと、踵を返した時。柵の外側。視界にスーツ姿の男性が映った。

 学園の見物客でしょうか。それか有望株がいないか目を光らせているトレーナーさんでしょうか。

 …いや、違う。……また、あの人だ。私の調子が悪くなって来た頃からかな…いや。選抜レース前から。そこから、ずっと、トレーニングを見てくれている。

 

 本当に、たまたま。気になってしまったので、じっ、と男性を見つめてみる。

 

 背格好は結構高い。特に拘りの無さそうな短く切り揃えられた黒髪。長いまつ毛。鋭めの目。気難しそうなへの字口。まだ、若そう。そして、スーツ。

 

 私の視線に気付いたのか、男性は急いで目を逸してしまった。

 

 ……ちょっと、話しかけてみよう。タタッ、と男性の前へと駆け寄る。

 

「!?」

 

 男性が明らかに驚いた様子を見せる。

 

「……あの」

 

「……へっ、あ、わ、私ですか?」

 

 結構気の強い人かな? と思っていたら…しどろもどろになってしまった。

 

「はい。突然すいません…。あの…結構前から、私のトレーニングを見物されています…よね…?」

 

「は、はい。見てて何だか調子が悪そ……失礼…」

 

 しまったと言う風に口を噤む男性。実際にスランプなのは事実なので何も言えない…。

 

「…はい。スランプなのは…本当なので」

 

「……どうやって私がスランプだと…?」

 

「あ、あー。サイレンススズカさんは……結構な有名人で……模擬レースとか、よく見に行ってて。それで、最近のサイレンススズカさんのトレーニング風景を見てると…あれ?ってなって」

 

 なるほど。と心の中で合点する。

 …それにしても。仲の良い友人以外にはスランプの話はしてないのに、よくこの人は…。…目がいい。やっぱりトレーナーの方なのかな…?

 

「…失礼ですが…あなたは…トレーナーの方…でしょうか…?」

 

「い、いえ。そろそろ許可が降りるんですけども……私、まだ研修中で……。な、なのでさっきのは聞き流してください…」

 

 研修中…と言う事は、トレセン学園に入ってまだ数年。それにまだ若い…。浪人してまで学園に入るトレーナー志望の方もいる上に、研修が長引く人もいるのに、数年でもうそんな目を…?

 

「…あの」

 

「は、はい」

 

「こう…私の今の走りを見ていて、何かこうした方がいい、と言うのは…?」

 

 何だか、今聞かないと駄目な気がして。期待を込めた目で男性を見てしまう。男性はうぇっ、と言った様子で目を逸してしまった。そして…。

 

「えぇっ……と…まず、サイレンススズカさんの得意な走り方って…?」

 

「走り方…ですか? …逃げ…だと思います」

 

「逃げですか。じゃあ、新しい走り方に慣れてないんだと思い…ます」

 

「……………」

 

 男性のアドバイスを黙って聞く。

 

「スズカさんの最近練習している走り方は先行とか、差しですね。あれは終盤からスパートを掛ける走り方で…」

 

 男性は一気に話してしまわないように、要所要所で数泊区切ってアドバンスを開始してくれた。

 

「なので、仕掛けるタイミングとスパートの掛け方を練習してみたらどうでしょう」

 

 …確かに、今まで逃げてばっかりいたから私には仕掛けるタイミングが拙い。

 

「例えば…ショットガンタッチとか、水泳トレーニングとか。後、瞬発力が大切なので、パワートレーニングとかも」

 

 ちょうどトレーナーさんが私に見せてくれたトレーニングメニューにあるトレーニングを耳にできた。

 トレーナーさんのメニューはやっぱり適切だったのね…。

 

「そして何よりも……一回休んでみるのもいいかもですね。どうしようもない時は休むに限ります」

 

 最後の一言が…今の私にとって一番的確なアドバイスに聞こえた。

 

「……トレーナーですらないヤツのアドバイスなんて本当に脳の片隅に置いとく…なんなら忘れてしまっても」

 

 言い切った後、男性は慌てて真に受けるなと言う。いや……凄い…アドバイスになりました。

 

「いえ…とても参考になりました。…ありがとう、ございます」

 

「い、いえいえ…」

 

「………」

 

「………」

 

 初対面で…かつ話すこともないため、気まずい沈黙が私達を包む。

 

「……じゃ、じゃあ。私は色々仕事があるので…。トレーニング、頑張ってください。サイレンススズカさん」

 

 沈黙を破ったのは男性の方でした。

 

「あっ…はい。ありがとうございました…」

 

 言うことは言った。去らば、と言わんばかりにシュタタタタッ、と男性は走り去って行った。

 

 ……名前、聞くの忘れちゃったな。

 

 男性の背中を見送った所で、私もターフを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 

 私は夕方のターフにいた。

 彼からのアドバイスに従ってトレーニングをしてみた所、調子は少しずつではあるけど戻り始めた。やっぱり、あの人のアドバイスは適切だった。

 先行や差しでの走り方はこんな感じだったのね…。

 トレーナーさんも私の最近の走りを見て、大分良くなってる、ととても喜んでくれていた。

 ……でも、やっぱり。以前程……。あの、先頭にいる時みたいに……気持ち良い、と感じることはできなかった。自分だけの景色は…見れなかった。

 

 ……あの人は…私には逃げに大きな適性があると言ってくれた。……あの人の指摘で改めて実感できた。私には、逃げしかできないって。………今日、トレーナーさんに言ってみよう。今の走り方は、私には合わない、と。………正直とても怖い。あんな、真剣に私のためにトレーニングしてくれているトレーナーさん……。とても、いい人。こんな、恩を仇で返すような……。

 …でも、言わないと…。

 

 ふと心細くなって…私が、助けを求めるように辺りを見回すと……。

 

 ………いた。あの人だ。いつもの黒いスーツ姿の、あの人。あの人も私に気付いたのか、軽く会釈を返してくれた。

 

 タタタッ、と話をするため、小走りで駆け寄る。

 

「……おはようございます」

 

「お、おはよう…ございます」

 

 彼は目を逸しながら……。

 

「…大分、良くなりましたね。調子」

 

「はい…。お陰様で…。本当に…本当に、ありがとうございます」

 

「い、いえいえ…ちょっとこうした方がいいかもって言っただけなので…」

 

「………あのっ。あなたは、私に一番適性のある走りはなんだと思いますか…?」

 

「えっ?……ぁー………逃げ…だとおも……いや、逃げです」

 

 彼は断言した。

 

「……今日、それを…トレーナーさんに言おうと思っています」

 

「は、はい」

 

「それで……その……。私は口下手なので………一緒に、来ていただけませんか……?」

 

「…私とですか?」

 

「ぁっ……め、迷惑なら…」

 

「あ、いえ……私でよろしければ付き合います」

 

「ほ、本当ですか…? ありがとうございます…! 今からお話に行くので……少々お待ちください」

 

 彼にその場に待っていて、とお願いし、スタンドのロッカールームへと走る。手早くジャージから制服に着替え、彼の元へと戻る。

 

「お待たせしました…!」

 

「いえ、全然待ってませんよ」

 

「では……こちらです」

 

 私達はトレーナーさんのトレーナールームへと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………なので……すみません、教えていただいた走り方は、私には…」

 

「そう……ごめんね、たくさん悩ませてしまったみたいね……。そちらのトレーナーさんも、この子を気にかけてくれてありがとう」

 

「い、いえいえ…困っているウマ娘がいたら、助けるのがトレーナーの仕事ですから」

 

 …あれ?トレーナーさん?

 

 トレーナーさんが言ってくれてようやく気付いた。あの人の肩に、トレーナーバッジが光り輝いていた。

 

「…サイレンススズカさんの可能性を伸ばしてあげてください」

 

「……そうしたい所だけど…。私はどうしても型にはまった指導をしてしまうから、また窮屈な思いをさせてしまうかもしれません」

 

「だから……どうかしら、スズカ? 移籍という形で、こちらの方に担当していただくのは」

 

「………えっ、移籍、ですか?」

 

 トレーナーバッジに見とれていて移籍という言葉を認識するのに時間がかかった。

 

「ええ。柔軟な思考を持っていて、何よりウマ娘のことを……あなたのことを尊重してくれる、素晴らしい方だと思う」

 

「あ……ありがとうございます……」

 

 ちらり、と彼の方を見る。ガリガリと照れくさそうに頭を掻いていた。

 

「……あの、トレーナーさん…。私のために、トレーニングを考えてくれて…真剣にトレーニングをしてくれて……ありがとうございました」

 

 ぺこり、とトレーナーさんに頭を下げる。

 

「………ふふふ。いいのよ。ウマ娘のために何事も全力。それが私達トレーナーよ。さて…」

 

 そして、トレーナーさんがちらりと彼を見る。

 

 ……よし。

 

「あの……もし、こんな私でよろしければ……私のトレーナーになっていただけませんか…?」

 

 彼を見つめながら……今までで一番期待を込めた目で見つめる。

 

「うぇっ…。あっ……と……サイレンススズカさんがそう望むなら……是非とも…!」

 

 一瞬迷う素振りを見せた彼は……すぐ、頭を縦に振ってくれた。

 

 思わず、笑みが溢れてしまった。

 

「…あの…すいません。何だか…サイレンススズカさんを掠め取る感じになっちゃって…」

 

「……あなた、律儀ね…。いいのよ。私の指導はスズカに合わなかった。それだけのことよ」

 

「……はい。サイレンススズカさんを託されたからには……もう死ぬ気で頑張ります」

 

「その意気」

 

「………さて、良かったわね、スズカ!あなたの活躍、心から期待しているわ」

 

「あぁでも、私の担当の子が相手になった時は別ね。その時は全力で勝ちに行くから、あなたもしっかり成長なさい」

 

「はいっ……!!」

 

 こうして……あの人は、私のトレーナーさんになってくれたのでした。

 

 

 そこから、移籍用の書類等を準備し…トレーナールームから出て……。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…トレーナーさん?」

 

「は、はい?」

 

「……そんなに……気を使って敬語を使わなくても…」

 

「あ……いいのか…?」

 

「はい。それと……サイレンススズカさん、だと長いので…スズカでいいですよ」

 

 トレーナーさんは一瞬躊躇う素振りを見せたけど…。

 

「……あぁ。分かった。これからは…そうするよ、スズカ」

 

「………ふふふ…はい」

 

 他愛もない会話をしながら、その日はトレーナーさんのトレーナールームで移籍の手続きを終わらせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーさんが変わってからは、私の走りもまた変わった。正確には戻ったと言える。

 

 個人的に調べて、逃げはとても難しいのは理解できた。

 トレーナーさんからも、正直逃げはとても難しい走り方だと言われた。けれど、止めろとは言わなかった。

 私の逃げをより伸ばすため…願いを叶えるため、坂路トレーニング、スタミナを付けるために水泳、逃げでは一番重要なスピードトレーニングをしてくれて…。……正直、びっくりする位しっくりと来るトレーニングで……トレーニングでの走りが楽しくてたまらなかったな…。

 

 久々に……心の底から楽しい、気持ち良いと思える走りができて……本当に良かった。

 

 一番気になっていたデビュー戦の事も恐る恐る聞いてみて……。

 

「ああ、出よう。走りたくてウズウズしてるでしょ?」

 

「! はい!ありがとうございます…!」

 

 予定通り、出走させてくれることになった。

 ……絶対に、負けられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デビュー戦当日。

 

 私は阪神のコース。そのゲートの中にいた。

 

 ゲート内の空気は重苦しく、選抜レースの時と同じように空気がピリピリしていた。

 でも、デビューする子達は皆…不安そうな表情は浮かべていない。……勝ちに来た表情だ。

 

 トレーナーさんのおかげでコンディションは最高潮…。この日のためにたくさんトレーニングをした。タイムも縮んだし、怪我をしないように補強もたくさんした。後は、私が全力で走るだけ。

 

 …今日勝負する子達は皆メイクデビューに向けてそれ相応のトレーニングを積んできており、本格化を迎えた子達。絶対に油断するな、とトレーナーさんに注意された。もちろん、油断するつもりはない。

 ……先頭は…先頭の景色は……誰にも譲らない…!

 

 ゲート内の全員が構える。

 

 そして……ゲートは開かれた。

 

 私は今までで一番のスタートダッシュが切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果は……7バ身…いや、8バ身差で、私の1着。

 

 ……見れた。誰もいなくて、静かで。どこまでも続いていて。歓声も、実況も、足音も、自分の鼓動も。全てを置いて行くような速さで。辿り着けた…!!あれが、私の見たかったもの………もっと、見ていたい…!

 

 ゴールしてからしばらく興奮が冷めなかったせいか。それか、放心状態だったせいか……。スタンドからの声が全く聞こえなかった。

 しばらくして、スタンドからの凄まじい声援が鼓膜を突いた。

 ハッ、として、スタンドに向かい手を振る。……歓声がさらに大きくなった。……み、耳が割れそう……。

 ぺこりと最後に観客席にお辞儀をして、私はコースから立ち去った。

 

 ロッカールームに帰る途中の通路にて…。

 

「スズカーー!!」

 

 目をキラッキラに輝かせたトレーナーさんが迎えに来てくれた。

 

「あっ。トレーナーさん」

 

「やったなスズカ!! 完璧な勝利だぞ!!」

 

「はい……自分走りができました。本当に…良かった」

 

「……自分だけの…景色は見れた?」

 

「…はい。誰もいなくて、静かで、どこまでも続いていて……。とっても、綺麗でした…」

 

「…良かったなぁ、スズカ…」

 

「…よし、じゃあ、ロッカールームに戻ろうか」

 

「はぁい」

 

 ロッカールームでは、今後の予定について話し合い……。

 

「あー、スズカ。もう着替えた方がいいな…。外で待ってるよ」

 

「あ、はい…。少々お待ちください」

 

「じゃあ」

 

 ガチャ、バタン、とトレーナーさんはそそくさにロッカールームから退室した。………速く着替えちゃお。

 

 その後は特に何も無く、着替えてトレーナーさんと一緒にタクシーに乗って学園まで帰った。……トレーナーさん、本当に嬉しそうだったな…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばらく経ち。

 

 私はトレーナーさんのサポートもあり、どんどん勝利数を延ばして行きました。レースでは未だ負け無し。

 トレーニングでのタイムもどんどん縮み、ずっと調子がいいままでした。

 次に出走予定の日本ダービーは、初めてのG1。全力で勝ちに行きたい。最高レベルの舞台なら、あの景色の、もっと先へ…。

 

 トレーナーさんと過ごしていて……あることに気付きました。

 トレーナーさんは……本当に私中心の生活をしていました。

 私が休むまで絶対に休まない。休日は私のレベルに合わせたトレーニングメニューを何度も何度も練り直す。毎日脚の調子がどうか聞いてくる。体作りができて、消化に良いお弁当まで作ってくれる。あんまりに私が走る事にしか興味が無いから心配して、わざわざ遊園地のチケットを用意してくれて、友達と遊んでおいで、と勧めて来たり。

 

 …トレーナーさんの休んでいる所を見たことがありませんでした。……だから…いい機会だな、と思って…トレーナーさんの用意した遊園地のチケットを使い、一緒に休みも兼ねて遊びに行きました。……正直、遊園地なんて初めてで…。どう回ったらいいかわからないし、人も多くて流されそうになって……そんな私のために、迷子にならないようトレーナーさんはずっと歩幅を合わせてくれました。

 帰った後は……タイキに囃し立てられてちょっぴり恥ずかしかったです……。

 

 ……この時から、多分。私は、トレーナーさんを心から信頼するようになったんだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本ダービーは、無事1着を取れました。G1でも、私の逃げは通用しました。

 この時からやたらメディアの方々の取材が増えたと思います。

 

 日本ダービー後、様々な賞に挑戦する中で……トレーナーさんとは、段々プライベートな事を話したりする関係になっていました。トレーナーさんはとても真面目なので……私とは一定の距離を取ろうとしていましたが……返って、それが私のトレーナーさんに対する信頼を強めてしまいました。加えて、レースに勝つ度に見せるあのキラキラした瞳が、本当に心から喜んでくれている、と示していて…。

 トレーナーさんの好きな食べ物。好きなテレビ番組。好きな本。トレーナーさんの癖も知れて…。

 ウマッターのDMでもちょっと話す仲になり…。

 段々、私とトレーナーさんの間にある壁と言う物が破壊されて行きました。

 

 そして、中山記念で1着を取ってから。その頃から、いつの間にか、トレーナーさんの存在が……私の中で大きくなっていました。

 走る事は好き。楽しい。あの景色を追い掛けるのも好き。

 ……でも、トレーナーさんと一緒にいる時も……楽しい。トレーナーさんと話していると、自然に笑みが溢れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーさんとの関係が近くなってからしばらくして…。

 とある祝日に、トレーナーさんと一切連絡が取れなくなってしまう事がありました。…さすがに心配になってトレーナーさんのスマホに10回位電話をかけて、ウマッターのDMにも結構な量のメッセージを送って…。

 それでも、一切の返事が返って来なかったので……。凄い不安に襲われました。

 私が生きて来た中で初めての感覚でした。人と連絡が取れなくなって不安になることなんて、一度も無かったのに。

 

 どうして連絡が取れなかったかと言うと……後日の朝、やつれた顔で謝りに来てくれたトレーナーさんの説明で、理由は分かりました。

 どうやらたづなさんと話し込んで朝帰りになってしまったらしいです。……とにかくトレーナーさんが無事で良かった…。

 

 土下座するような勢いでトレーナーさんが謝って来たので、特に怒る気も起きませんでしたけど……。

 

 が……トレーナーさんから、何やらアルコールの匂いがしたので…。たづなさんと話し込んだ後、一緒に飲み明かしていた事が想像できました。

 トレーナーさんは仕事柄、そういう事も必要なんでしょう。でも、一日中、トレーナーさんを独り占めできたたづなさんの事を……酷く羨ましく思う自分がいて…。

 

 この頃から…他の子とお話しているトレーナーさんや、他の子のレースを見ているトレーナーさんを見ると……胸の奥に、黒い何かが燻るようになっていました。

 自分を見て欲しい。私の走りよりもその子の走りの方がいいんですか?そんな感情が溢れてくる。でも、口にはしない。

 

 この時までは……まだ理性で自分を繋ぎ止める事ができていました。

 

 燻る気持ちとは裏腹に……私の脚と、スピードは、デビュー当時と比べて格段に速くなっており…。トレーナーさんの組んでくれるトレーニングが、私をここまでにしてくれていました。

 

 次の秋の天皇賞では……トレーナーさんが目を離せなくなるようなレースをしよう。そう、心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

___________秋の天皇賞当日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スズカ。この調子なら行ける。目一杯走って来てくれ」

 

「はい…。私、頑張ります。…だから……目を離さないでくださいね…?」

 

「あぁ。行ってらっしゃい。頑張れ」

 

 始まりのロッカールームでは、あまり多くは語らない。トレーナーさんはいつも手短に済まして送り出してくれる。

 

 行ってきます、と返して……私はロッカールームを出て、コースに続く通路へと出た。

 

 ……通路を出て、コースへと辿り着くと、大歓声が耳を突いた。ゲートに向かう途中で、軽く観客の方々に手を振りながら……ゲートインする。

 

 ゲートインしてからは、速い。

 

 歴戦の猛者達は、ほぼ同時に構えて……ゲートの開放音と共に、走り出した。

 

 私はいつものように序盤から先頭へと躍り出る。

 

 誰にも私の影は踏ませない。

 

 後続の足音はちょっとして私の耳から消えた。歓声も、実況も、鼓動も、次々と置き去って行く。

 第1コーナーでも加速を止めない。

 

 今日の私は、本当に調子がいい。もっと速く、もっと速く。小さい頃から、ずっとずっと追い求めて来た景色。今日は、さらにその先へ……私でも、見たことの無い景色へ…!!そして、トレーナーさんに…私の走りを、焼き付ける。

 第2コーナーでも、減速することはない。

 

 私はさらに脚を動かす。脚は私に応えてくれた。

 少しずつ。だが、確実に。私はトップスピードからさらに加速する。

 第3コーナーで、トップスピードを超える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……見えた。音も無く、どこまでも広がる綺麗な景色。それは、今まで見えた景色よりも、ずっと色鮮やかで…気持ち良くて……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  左 脚 か ら 鈍 い 音 が 響 い た 




 次回、病室でのスズカ


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sideスズカ.1

 病め〜、病め〜。


 ……………左脚の鈍痛。それで、目を覚ました。

 

 ……まず見えた物は……真っ白な天井。そして、蛍光灯の光。……光に照らされて、私の思考も徐々に開けて行く。

 背中に布の柔らかな感覚。どうやら今、ベッドの上にいるらしい…。

 

 …私は、どうなった?

 自分の覚えている記憶を辿る。

 私は、秋の天皇賞に出走した。………レース中に…まず、眼の前に見たことの無い景色が広がって…それから、メキメキメキ、と。何かの砕け散る音が響いて。すぐに左脚から直接釘を骨に打ち込まれるような鋭い痛みが広がって……。

 

 ああ、私。怪我しちゃったんだ。

 

 バサリ、と丁寧に掛けられていた無地の毛布を退ける。……左脚は包帯で何重にも巻かれ、支え棒で完全に固定されていた。

 

 こういう時、絶対に取り乱す物だと思い込んでいた。…私は驚く位に冷静に状況を飲み込んでいた。

 

 私は秋の天皇賞で怪我をし、病院に運び込まれ……多分、手術を受けて……。ここに運び込まれた。

 

 ………走れるかな。治るのかな。どうなのかな。まず脚を見て思い浮かんだのはこれだった。苦笑いしたい気分だったが、顔にそれは現れなかった…。

 そして、応えてくれる人はここにはいなかった。

 

 起きてから、数十分経過した頃だろうか。

 

「________ズカさん……!」

 

 部屋の外から女性の声と足音がする。そして……ガラリと扉が開かれる。

 

「スズカさん……!!」

 

「………たづなさん」

 

「あぁ、起きて…! スズカさん、良かった……」

 

 扉から現れたのはたづなさんであった。相当に急いでいたのか…額には汗が滲み、息も絶え絶えで。

 

「………たづなさん」

 

「…はい」

 

「私の脚は」

 

 たづなさんの顔が強張る。

 

「治りますか?」

 

「………………」

 

 たづなさんは沈黙する。それが答えだった。

 

「………治る見込みは……薄い…と。回復しても……歩けるのがせいぜい……だそうです」

 

 たづなさんの瞳が光る。

 

「………………っ」

 

 口に出して言われると……こうもショックだなんて。体の芯から冷たい物が広がって行くような感覚が私を襲う。

 

 私は…サイレンススズカは…………もう、走れない。もう、あの景色を見れない。

 呆気ない、終わり。

 

 一生懸命、トレーニングして。ほんの一瞬だけ。辿り着けた。だけど、それだけだった。

 

 ガラガラと、自分の中にあった何か……大切な物が。崩れて行くような気がした。

 

 だけど、それだけで良かった。もし、学園に入る前の私なら……走れないと聞けば…きっと、どうにかなっていたことでしょう。

 

 スペちゃん、エアグルーヴ、タイキ、フクキタル…そしてトレーナーさん。皆との記憶が私を正気に繋ぎ止める。

 

 そうだ、サイレンススズカは走るだけが全てじゃない。私を形作るのはそれだけじゃない。……何度も、何度も、自分に言い聞かせるように…脳内で反復させる。

 今、私はきっと酷い顔をしているでしょう…。

 

「……スズカ…さん」

 

「……………ありがとうございます、たづなさん」

 

「わざわざ……来てくれて…」

 

「……………」

 

「………一人になる…時間をもらえないでしょうか」

 

「……はい」

 

 たづなさんは何も言わず、私に背を向けて扉の取っ手に手を掛ける。

 

 たづなさんは、本当に優しい人ですね。言い難い事も言ってくれて。私を見て泣き出しそうになって。

 部屋から出る途中で…一度たづなさんは振り返り…軽く頭を下げて、後にした。

 

 扉の閉まる音がよく響いた。再び、一人となる病室。

 

 ……私はどうすればいいの?

 走る事だけが全てじゃない。だけど、それが私の大部分を占めていたのは本当のこと。

 

 学園にはもうきっといられない。走れないウマ娘が学園にいる理由はない。

 スペちゃんもエアグルーヴもタイキもフクキタルも、走れない私に興味を無くすかもしれない。価値を見いだせないかもしれない。

 トレーナーさんも契約を解約して新しい子のトレーナーになってしまうかもしれない。

 私は……もう、いらないのかもしれない。

 

 一度、暗い思考に沈むと……ドロドロ、とどこまでも沈んで行ってしまう。

 

 ああ、だめ……。

 

 ブンブンッ、と両手で頭を押さえ付けながら頭を振る。

 

 今は何も考えないようにしよう…。

 

 病室に一人、思い悩んでいても、仕方がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

________数時間後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンコン、と扉がノックされる。

 

 ガララ、と扉が開かれて……現れたのは…随分とやつれたように見えるトレーナーさんだった。

 

「スズカ」

 

「トレーナーさん」

 

 声が重る。

 

「あ……スズカ。あの…」

 

「……椅子が、ありますから。お掛けになってください」

 

「……うん」

 

 ああ、トレーナーさん……。来てくれた……。私はまだ見限られてはいなかった。

 

 胸の内に燻る黒い物が少し払われたような気がする。

 

 トレーナーさんはパイプ椅子に座り、リュックを降ろす。

 

 こういう時、トレーナーさんはいつも……。

 

「………ごめん」

 

 トレーナーさんは私と目が合うや否や……すぐにごめん、と謝ってくれた。

 ……トレーナーさんは、よく謝る。何かあるとすぐに。それを思い出して、ほんのちょっぴり面白くなって……。

 

「………フフフッ」

 

 思わず、笑ってしまった。……まだ笑える余裕はあるみたいね。

 

「ッ、スズカ?」

 

「すぐ、謝ってくれると思っていました」

 

 右手で口元を押さえ、笑う。

 

「えっ、あ……うぅん…」

 

「トレーナーさんは、ことあるごとに謝りますから。今みたいに、ね?」

 

 完全に把握されていて少し恥ずかしかったのか、トレーナーさんは頭をガリガリと爪で掻く。

 ……トレーナーさんとは、もう3年近い。3年間、ずっと近くで過ごして来た。だから、細かな癖までちゃんと把握している。把握できた。

 

 私とのやり取りで緊張やらが解れたのか…。トレーナーさんは重い口を開く。

 

「……スズカ、脚は…?」

 

「………………」

 

 思わず、口を閉ざしてしまう。

 

 トレーナーさんも察したようだ。

 

「……もう、走れない、そうです」

 

 俯きながら、ポツリと呟くように。……自分の口から発して……ようやく、自分認められたような気がした。

 

「……私が……私が止めていれば…!」

 

 トレーナーさんが突然激しく自分自身を責め立てるような口調で話し出す。

 

「よく、考えてみれば、スズカの骨折は防ぐ事ができた……。スズカのあの走りは、ウマ娘の限界を超える物だった………気付ける兆候はあった!!私が…気付いてあげられたら……スズカは………」

 

「……こんな事にはならなかった」

 

「……………」

 

 ……確かに、私は本当に調子が良かった。だけど、それは私が望んで、私が勝手にそうなったこと。トレーナーさんは、悪くない。

 

「スズカがレースに勝って行って……私は……敏腕新人トレーナー等と囃し立てられた。はっきり行って、嫌な気分じゃなかった。私は……スズカが完全無欠だと思い込んでた。盲目になってた。スズカに限界なんて無いって思い込んでた。だから色んなレースに出走させた……。それが…スズカの脚を蝕んでいた」

 

 ピクリと自分の耳が動くのが分かった。

 

「……止めてください」

 

「私が驕らなければ…私がもっと冷静でいれば…」

 

 トレーナーさん?

 

「…止めてください」

 

「私は……私はスズカを……スズカを壊した____」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「止めてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それ以上言わせない。言わせてはならない。私は思わずベッドから身を乗り出し、トレーナーさんの腕を両手で掴んでしまう。

 

「……自己評価が低くて。自分で自分を貶すのは、トレーナーさんの悪い癖ですよ。それに」

 

「私のためにここまで頑張ってくれた人を…悪く言われるのは、許せません」

 

 少し、キツめの口調で投げ掛ける。

 

「……ごめん」

 

「気を付けて、くださいね」

 

 私のためにここまでしてくれた人を……どう悪く言えようか…。

 

「………スズカのために、来たのに。スズカに慰められてしまったよ。情けない」

 

「……いいんですよ。会いに来てくれただけでも、嬉しいですから」

 

 ……沈黙が流れる。……病室で、話すことも無いし……。

 

 ……聞きたくはないけど……気になっていた事を聞いてみる。

 

「…トレーナーさん。私はもう、いらないのでしょうか」

 

「…スズカ?」

 

「私は、レースの中に生きて来ました」

 

「エアグルーヴに、タイキに、フクキタルに、スペちゃんに。皆、大切な人です。でも、私が走れなくなったら。もう、皆の側にいる価値が、私には無いんじゃないかって。……トレーナーさんに、契約を解約されて…そのまま見向きもされなくなってしまうんじゃないかって」

 

 浅ましい。トレーナーさんにただ優しい言葉をかけて欲しいと言う思いもあった。とにかく今は救いが欲しかった。

 

 トレーナーさんは……少し考え込んで…。

 

「…スズカ。私はまだ数十年程度しか生きてないから説得力が無いかもしれないが……。皆がスズカと話す時の顔は…サイレンススズカと言う存在が好きで、一緒にいる、と言う顔だったぞ。スペと、エアグルーヴと話した事があるが……あいつらはスズカの事を自慢気に話していたよ。…本人のいない所で、本人を褒めるやつが、本当の友人だ。タイキシャトルも、マチカネフクキタルも、きっと同じさ。スズカが走れなくなったって、ずっと友人のままでいてくれるよ」

 

「……それに、そんな覚悟で私はスズカのトレーナーをしていないよ。スズカがトゥインクシリーズを走り切って、プロの世界に入っても……ずっとトレーナーでいるつもりだった。君の走りを見ていたかったし……どこまで行くか見届けたかった。だから……スズカが立ち直るまでは、全力でお手伝いするさ」

 

「…トレーナー、さん」

 

 トレーナーさんの言葉は、どこまでも暖かかった。目の奥が熱くなる感覚がする。

 言葉が出ない…。あなたはいつもそうやって、私に優しい言葉をかけてくれる。

 

「……トレーナーさんは、これからどうするんですか?」

 

「…ん?これからか……」

 

「……まだ、考えてないな」

 

「でも…スズカと一緒に居ようとは、思ってる」

 

「…そうですか」

 

 トレーナーさんが一緒にいてくれる。それを聞けただけでも良かった。誰もいてくれないと、また思考が暗く沈んでしまうのがわかっていたから……だから、安心できた。

 

 ……何より、トレーナーさんを独り占めできる時間が増える、と考えると………。

 無意識に耳がピコピコ跳ねてしまった。

 

「…今日は帰らなくても大丈夫なんですか?」

 

「今日は…ずっと一緒にいるよ」

 

「…ありがとう、ございます」

 

「…………なぁスズカ」

 

「はい」

 

「何か欲しいもの、あるか?なんでもあげるぞ」

 

 ……今日は本当に耳が忙しないですね。……欲しい物………欲しい物…………。

 

 …トレーナーさんが欲しい。……なんて、言えないので……。

 

「……手を。握ってもらえますか?」

 

 これで、妥協した。

 

「…手か?それだけでいいのか?」

 

「はい」

 

「……わかった」

 

 私はスッ、とトレーナーさんに右手を差し出す。トレーナーさんはカタン、とパイプ椅子ごと近付き…何やら凄い丁寧に握ってくれた。

 ……トレーナーさんの手、暖かい。そして、ゴツゴツとしていて力強さを感じる。……トレーナーさんも、男性なんですね。…意識するとちょっと恥ずかしくなっちゃう。 

 

 …トレーナーさんはこういう経験が少ないのかな……?明らかに目が泳いでいて可愛い。

 

 ……それにしても……安心できる。トレーナーさんを、真近で実感できる。手を握っている間は、何処にもトレーナーさんはいかない。ずっと、私の隣。

 

 ……離さない。

 

「……スズカの手、ひんやりとしていて気持ちいいな。………………スズカ?」

 

 …疲れのせいか何だか瞼が重い……。目を、閉じよう…。

 

 もぞもぞとトレーナーさんが手を握ったままベッドに体を預けるのが感覚で分かった。

 ……手を、わざわざ握ったままで……嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開ける。

 

 トレーナーさんは目を閉じて寝る準備に入っていた。

 

 ………胸の奥底から灰暗いものが溢れる。

 トレーナーさん、綺麗な顔。髪の毛、整えてないと言ってたいたけど……凄く、サラサラしてる。寝息も、可愛い。

 

 ずっと見ていたい。

 

 この景色は……誰も知りませんよね。きっと知らない。私だけの物。たづなさんも、桐生院トレーナーも知らない。

 

 いつの間にか口角が吊り上がるのが分かった。

 

 今、私がトレーナーさんを独り占めしてるんだ。今だけトレーナーさんは私の物。

 ……このままずっと私の物にできないかな?

 

 …考えるのは、明日にしよう。今はとにかく……トレーナーさんを感じていたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーさんをずっと見つめていた。私が気付いた頃には、既に日が病室に差し込んでいた。




 次回、今後について考えるスズカ。


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sideスズカ.2

 じー。


 目鼻の先にあるトレーナーさんを見つめ続けて……気付いた時には視界に入っていた日の光に目を細める。…朝日が差し込んで来ていた。

 もう、朝みたい。いつの間にかもう随分と時間が経っていたようだ…。

 

 ……夜通しトレーナーさんを堪能していたせいでちょっと頭が痛い。

 

 魔が差して鼻と鼻がぎりぎり触れないレベルに、近付けていた顔を離す。

 

 壁にある時計を見てみると…まだ6時にもなっていなかった。ちょっと、早く起き過ぎちゃったかな…。

 

「うぅ……ぐ…」

 

 くぐもった呻き声が耳に入る。そして、私の隣がもぞりと動いた。トレーナーさん、起きたかな…?

 ……いや、目は瞑ったままだ。それに眉間に皺が…。

 トレーナーさん…少し魘されてる…?

 

「スズカー………スズカー………」

 

 …私の名前?………トレーナーさん、夢の中でも私の事を考えて…。

 

 口元が緩む。

 

「…フフッ……」

 

 冷たい、暗いものを胸に感じながら……未だに繋いでくれているトレーナーさんの右手を引き寄せ、自分の左手も添えて胸元に抱く。……今、多分凄いうっとりした表情をしてるんだろうな、私。

 

 ……しかし…夢の中の私がトレーナーさんと一緒にいて、独り占めしているのを考えると癪だ。…それに、生意気。起きてもいい時間だし、そろそろ起きてもらおう…。

 

「トレーナーさん」

 

「トレーナーさん」

 

「トレーナーさん」

 

 手をにぎにぎしながら何回か呼びかけて…。

 

「ッあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!?」

 

「ひゃっ」

 

 ガバッ、と飛び上がるようにトレーナーさんが起きた。びっくりしたのでちょっとした悲鳴をあげ、目を何度も瞬かせてしまう。

 

 トレーナーさんは錯乱した様子でぐるんぐるんと頭を揺らして辺りを見回している。

 …もしかして私に関する悪夢…?

 

「………おはようございます?トレーナーさん」

 

「あ、あぁ……おはよう、スズカ」

 

「…大丈夫ですか?大分魘されていたようですが…」

 

「だ、大丈夫だ、問題無い。ちょっと嫌な……いや、嫌な夢でも無いけど……ま、まぁ夢を見たんだよ…!!」

 

「と、とにかく大丈夫みたいですね…良かった」

 

 とりあえず嫌な夢じゃないみたいで良かった…。

 

 …トレーナーさんはどんな夢を見てたんだろう。

 

 聞く勇気も無いし、もう諦めよう……。

 

 ……急に黙り込んでしまったトレーナーさんの顔を覗き込んで見ると……何か嫌な事を思い出したような顔をしている。

 

「?」

 

 どうしたんですか?と首を傾げて見せると…。

 

「…何でもないよ」

 

「そ、そうですか…」

 

「………スズカはよく眠れた?」

 

 …実際は一切眠っていないけれど…。変に心配させてしまうのはいけないので…。

 

「はい。おかげさまで」

 

 誤魔化しも兼ねて、トレーナーさんの握った手を見せる。

 

 それを見たトレーナーさんはおっと、と言った表情で手を離してしまった。

 

 ああ……ずっとそのままでも良かったのに……。

 

「………………」

 

「………………」

 

 ……こういう時、よく私とトレーナーさんは黙り込んでしまう。

 

 気まずい沈黙を、ガラララ、と扉の音が破った。

 

「おはようございま〜す、スズカさ………」

 

 あ、担当の看護師さん。

 

「……ええっと、スズカさん?そちらの方は?」

 

 看護師さんが怪しい人を見る目でトレーナーさんを見つめる。

 

「あ、こちらの方は私のトレーナーさんです」

 

「あっ。そうだったんですねぇ〜。わざわざご苦労さまです〜」

 

 それを聞いて看護師さんはすぐに警戒を解いてくれた。

 

「あ、あはは…どうも…」

 

「えぇっと、それでは、朝ご飯はこちらに置いておきますね?食べ終わったらまた後に回収しに参ります。では、失礼いたします〜」

 

 看護師さんは色々察してか、机に病院食を置いて一礼し、そのまま早足に部屋から退出していった。

 

「…………忙しい人だったな」

 

「は、はい。……………でも…良い人だと思います」

 

「……だな」

 

「………さて、スズカ。朝ご飯にしようか………って、その前に…顔洗って歯磨きしなきゃな」

 

「ですね…。……あの、トレーナーさん。…体を……支えていただけますか?」

 

「…あぁ。任せてくれ」

 

 部屋の雰囲気が重くなるのがわかった。私も、トレーナーさんも、この雰囲気、あるいは話が嫌なんだろう。無意識に怪我の事なんて忘れて、昨夜とさっきまで、他愛も無い、掴み所の無い会話を続けていようとした。

 しかし、現実は嫌でも私達を引き戻す。

 

 私はもう、走れない。

 

「……あー、じゃあ…」

 

 トレーナーさんが困ったように頭を掻く。そして、寄ってくれ、と手招きして。すすす、とベッドの端に寄る。

 ……トレーナーさんが私の腰に手を回して、そのまま引き寄せるようにして立たせてくれた。

 

 …トレーナーさんが、近い。少し集中すれば、鼓動の音も聞こえてしまいそう。

 

「大丈夫か、スズカ」

 

「っ……ふぅ。はい、大丈夫です。………ありがとうございます」

 

 トレーナーさんに支えてもらっているけど……やっぱり左脚に大きな違和感があり…嫌でもフラついてしまう。

 でも、ただ立っている訳にもいかないから…。

 

「……行きましょうか、洗面所」

 

「…ああ」

 

 トレーナーさんは背が高いので、わざわざ私に合わせて屈んでくれて、私の左腕を首に回してくれた。…左手を支えるトレーナーさんの手をぎゅっ、と握る。

 

 …骨折してもう走れない。だけど、そのおかげでトレーナーさんと一緒にいれる時間が増える。走れない事に絶望した。けれど、トレーナーさんを求めて止まず、トレーナーさんと一緒にいると全てを忘れられる……どうしようもない自分。

 悲しみ、嬉しさ。矛盾した感情が同居していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________数十分後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 支えられながら病室へ戻り、ぽふん、とベッドに座る。トレーナーさんがパイプ椅子に座って朝ご飯を取ってくれている間に足を伸ばす。

 カタン、と音を立ててベッド備え付けのテーブルが私の前にスライドして来て、その上にご飯が置かれる。

 

「さぁ、スズカ。食べな。怪我人にはご飯が一番だ」

 

「はい…いただき、ます」

 

 手を合わせ、箸を取って早速食べ始める。…うん。美味しい。味は薄いけれど、しばらくぶりのお食事だからか凄く美味しく感じる。

 パクパクとお米や鮭の切り身、煮物を口に運んでいると、トレーナーさんの視線に気付いた。何も言わず私をじーっと見つめている。

 

 ……そう言えば、トレーナーさんっていつからご飯を食べてないんだろう。…きっとお腹、減っている。

 

「………トレーナーさん?」

 

「……んぁ?あ、あぁぁぁ、すまんすまん、ボーっと」

 

「トレーナーさんも食べたいんですか?」

 

「……あ?」

 

 多分昨日のお夜位から何も食べていないはず。ああ、かわいそうなトレーナーさん…。

 

「そうですよね、トレーナーさん……私のために、昨日の夜から何も食べてなくて……」

 

「い、いや、私は大丈」

 

「はい、あーん」

 

 鮭の切り身を一口サイズに切り分け、左手を添えながら箸で掴み、トレーナーに差し出す。

 

「あーー、…ん」

 

 ぱくり、とトレーナーさんが鮭を食べる。

 

「フフフ……」

 

「モグモグ…」

 

 …美味しそうに食べてくれた。なら…。

 

「はい、じゃあもう一口」

 

「モグ……い、いや、待って、スズカ。スズカの分が」

 

「いいんですよ。半分は、トレーナーさんがお食べになってください」

 

「いやでも」

 

「あーん」

 

「……………あーーー…」

 

 耳に入らないフリをして素早くトレーナーさんに差し出す。

 

 まるで新婚夫婦のようなやり取りに妙な高揚感を抱きながら、こんなやり取りを繰り返し………私はご飯を完食した。

 

 …………食欲、落ちてる。折れる前なら、もっとパクパクと行けたのに。

 脚の折れたウマ娘は直ちに脚以外に影響が出始めると聞いたが、こんな顕著に現れるとは…。

 

「……………」

 

「……………」

 

 ……トレーナーさん、何か言いたげな顔をしている。

 多分、私の今後についてだろう。永遠に来なくていいと思えた時が来た。

 

 トレーナーさんを見つめながら、何を言われるのか待つ。

 

「……スズカ。君はもう、走れない」

 

 ジクジク、と体の節が痛む様な気がした。

 

「……はい」

 

「スズカは、どうしたい?」

 

「私は……私は…」

 

「……道は、いくつかある。まず、トレセン学園の特別顧問になることが1つ」

 

 以前、トレセン学園にウマ娘の顧問の方がいたのは知っている。ただ、エアグルーヴや会長の代には、既にいなかったそうな。

 

「もう1つは、一般企業に就職することだ」

 

 基本的に、ウマ娘ならばこちらを選ぶだろう。走れなくなった……商品価値の無いウマ娘は、こうするしかない。

 それに……顧問になって…他の子の輝きに触れたら。多分、耐え切れない子がほとんどなんだろうな…。

 

 トレーナーさんが私の答えを待つ。

 

 ………私は………私はどうしたらいいのかな。

 特別顧問になる? …私は教える事は上手くない。

 一般人として過ごして、一般企業に就職? これが一番現実的なんだろう。だけど……走らない自分の姿を思い浮かべる事ができなかった。

 

 ……トレーナーさんは最後の一択を言わなかった。本当に、どこまでも優しい人。これは基本、誰も口に出さないけど…。

 

 何もかも諦めて死を選ぶ事。それが最後の一択。走る事に、本当に命を懸けていたような子は…燃やし尽くされて、灰になってしまう。灰から火は、起こらない。……私はこれを選ぶ勇気が無かった。

 

 何も決められない。トレーナーさんが隣にいてくれればそれでいい、という腐った思考。

 

 私は、なんて惨めなんだろう。

 

 目が熱くなって、とても物事を考えられる状態になれなかった。

 

「ごめんなさい……私は……まだ、選べません……ッ……」

 

「…そうか。そうだよな。いきなり、ごめんな…」

 

 俯いた私の背中をトレーナーさんのゴツゴツした手がなぞる。

 

「ごめんなさい……やっぱり…まだ、受け入れられないみたい…です」

 

 トレーナーさんに背中を擦られ続けてしばらくして……やっと、落ち着いて来た…。

 

 ……何も考えたくない…。トレーナーさんに溺れていたい。トレーナーさんの事しか考えたくない。

 

 私の様子を見て、そろそろ大丈夫かと判断したトレーナーさんが…。

 

「スズカ」

 

「…はい」

 

「しばらく、リハビリを頑張ろうか」

 

「……はい」

 

「……じゃあ、スズカ。私は一旦家に戻るから……風呂に入らないといけないし……学園にも連絡しないといけないし。明日の朝、絶対来るから。ごめん、な」

 

「いえ……2日間も…側にいてくれて、ありがとうございます」

 

「うん……じゃあ、もう行くよ。またな」

 

「はい、また明日」

 

 トレーナーさんは一旦帰るそう。カタカタ、とリュックを背負い、パイプ椅子を部屋の隅に片付け…。

 

 ……できるならば、あの背中に抱き付きたい。掴んで離したくない。

 

 トレーナーさんがそういう人じゃないのはわかっている。だけど、このまま捨てられて、もう二度と見向きもされなくなってしまうかもしれない、と考えると。

 

 トレーナーさんが扉の取っ手に手を掛ける。

 

 それと同時に、胸元から、ぞわり、ぞわり、と冷たい感覚が広がって行く。脳へ、心臓へ、指先へと。

 そして、クリアになる思考。視界がノイズ掛かり、黒い靄のようなものが映る。

 

 ガララ、と扉が開かれ……最後に、トレーナーさんが振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は酷い顔をしていたんだろう。トレーナーさんは恐怖に顔を歪ませ、そのまま逃げるように病室を後にした。




 次回、決心するスズカ。


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sideスズカ.3

 どうしようもない時に頼れるものがあると頼っちゃいますよね。


 トレーナーさんが病室から去り、病院は静寂に包まれる。

 

 ……もし、明日の朝。トレーナーさんが来なかったら、どうしよう。捨てられちゃったら、どうしよう。義務感で、私に付き合ってくれているだけなら、どうしよう。

 今からでも病室を飛び出して、地を這ってでも追いかけてみようか、という欲求に駆られた。

 

 私の力なら、トレーナーさんを組み伏せられる。そのまま引きずってこの部屋まで持ってこれる。私の物にできる。

 

 …………何を考えているんだ、私は。

 

「スー………フー………」

 

 深呼吸して、嫌な思考と、パンクしそうな頭を落ち着ける。

 …トレーナーさんはそういう人じゃない。考えるのは、止めよう…。

 

 月明かりが病室の窓から差し込んでいた。

 一昨日までなら、綺麗だと感じることができたかもしれない。

 月が酷く、私を嘲笑っているように見えた。

 

 私は目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_______________翌朝。

 

 ボーッと。ぼんやり、無地の壁を見つめ続けている。……前までの私なら、朝起きて、顔を洗って歯を磨いて着替えて…そのまま朝練に行っていた。……やることがないと、こんなに暇だなんて。

 

 ……そろそろ、朝6時。…来てくれ…ますよね…。

 

 コンコンコン。

 

 ぎゅんっ、と首が凄い速さで扉を向いて。

 

「どうぞー」

 

 ゆっくりと扉が開かれ…トレーナーさんが現れた。

 

 ああ、来てくれた。良かった。

 

「おはよう、スズカ」

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

 トレーナーさんの様子は…やっぱりげっそりしている。

 

 トレーナーさんが病室をキョロキョロと見回し…昨日座ったパイプ椅子に腰を下ろす。

 

「スズカはよく眠れた?」

 

「はい。…トレーナーさんが一緒にいてくれた時程じゃありませんが」

 

「ははは…また、しばらくは一緒にいるから」

 

「…フフ……なら、しばらく快眠できそうですねぇ…」

 

 本当に。快眠できそう。

 

「………さて、スズカ」

 

「はい」

 

「リハビリ、頑張ろうか」

 

「…はい。頑張りましょう」

 

 そういう訳で、トレーナーさんとのリハビリ生活が始まった。私の担当の医師からは歩けるようになるまで回復すれば御の字と言われた。……一応、そこまでは回復するかもしれないんですね。…走る所までは、ピンポイントで……。

 

 はっきり言ってリハビリ生活はとても辛かった。私の左脚は文字通り粉砕されていたので、まずは真っ直ぐ立つ事から始めた。

 

 その次は、手すりに掴まって歩行の真似事をした。

 …歩くのって、こんなに難しかったんだ…。

 左脚を前に踏み出すと踏ん張れずに、そのまま倒れそうになる程に、私は歩くことができなかった。と言うか、歩行の感覚を忘れてしまっていたと言うべきか…?

 トレーナーさんが側で支えてくれていなかったら、私は骨折を増やしていたかもしれない。

 

 トレーニングやレースで、諦める事をしなくて本当に良かったと思う。

 リハビリを嫌でも毎日したため、本当に少しずつではあるけれど…歩けるようにはなっていた。5歩から10歩、10から20歩へ。

 

 リハビリ期間中に、スペちゃん、エアグルーヴ、フクキタル、タイキがお見舞いに来てくれた。……とても、嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ス”ス”カ”さ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ん”」

 

「よしよし、スペちゃん…」

 

 スペちゃんが私のベッドの横で大粒の涙を流しながら私の右手を両手で握る。そんなスペちゃんの頭を私は左手で撫でる。

 

「もう、走れなくなっちゃったけど、私はちゃんと生きてるから…」

 

「うぐ…えぐっ…あの…あの時は……本当に……」

 

「大丈夫、大丈夫だから…」

 

 いつもと様子の変わらないスペちゃんを見て正直安心しちゃった…。

 

 それから、スペちゃんに最近どうか、とか、食べ過ぎてないか、とか、勉強頑張ってるか、とか。色々とお話をした。

 リハビリも手伝ってもらったし…久々に、心から笑えたような気がした。

 

 そして、去り際。

 

「スズカさん。私、スズカさんの分まで頑張りますから。スズカさんが退学しても、絶対に忘れませんから!だから……えぇっと…………頑張ってください!」

 

「…ふふふ…スペちゃん。ありがとう。頑張るわね」

 

「はい!……じゃあ、スズカさん。また来ますから。お大事にー!!」

 

「えぇ。またね、スペちゃん」

 

 スペちゃんが遠ざかって行く。

 スペちゃんは、私が見えなくなるまで、手をブンブンと大振りで振っていた。私も、胸元でフリフリと振り続けた。

 

 その日は歩数を大幅に更新できた。トレーナーさんはとても嬉しそうだった。

 

 ……スペちゃんが幾分も大きくなったような気がする。精神的にも大きくなった気がする。

 …それが、ちょっぴり寂しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間も経たずに、新たなお見舞いが来てくれた。今度はエアグルーヴとタイキとフクキタルだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スズカ。見舞い、遅れて申し訳なかった。本当はすぐにでも行きたかったのだが…。…脚の事は…残念だったな」

 

「スミマセンデシター…」

 

「ごめんなさいスズカさん…!!どうか怒って丑の刻参りなんてしないでくださいぃぃぃ……!!どうせなら皆でお見舞いに…っていう事になって…そしたらこんなに遅くななっちゃったんですぅぅぅ……!」

 

「ううん、いいのよ、皆。来てくれるだけでも、本当に嬉しいから…」

 

 今日の病室はとても賑やかだった。まぁ、一度に3人も来ればこうもなろう。……この賑やかさは、とても好き。

 

「その様子だと……あまり変わりないようだな。良かった。リハビリ、頑張ってくれ。欲しい物があるなら、できるだけ…望みを叶えよう」

 

「オゥ! エアグルーヴ! お見舞いは好敵手として当然……って言ってましたケド、やっぱりスズカが心配だったんですネーー!? エアグルーヴは優しいデース!!」

 

「なっ……タイキ!? ここは病室だぞ…! 静かにしろ…!」

 

「ぷっ」

 

 学園でもよく見たやり取りをまたここでも見れるなんて。失礼だが吹き出してしまった。それを見たエアグルーヴは違うんだスズカ、と色々言い訳をしていたが、私がニコニコ話を聞いていると諦めてそっぽを向いてしまった。

 

「それで…スズカさん……お見舞いの品を用意しました……よっと!」

 

 ゴトン、と病室の机にフクキタルが腕に抱えることができる程度のサイズの段ボールを置いた。

 

「フクキタル……それは…?」

 

「おい、貴様、本当にスズカにそれを渡すのか…?」

 

「それは何デスカー?」

 

「これはですね〜…スズカさんの早期退院を助ける…開運グッズです!!」

 

 フクキタルが段ボールの中身を取り出した。

 …不気味な人形に……よくわからない文字の書かれた御札……そして毒々しい色の水晶球…。

 

 ………呪物に見えてしまった。でも、せっかく用意してくれたから…。

 

「あ……あは……ありがとう、フクキタル。だいじ……にさせてもらうわ」

 

「はい!リハビリ頑張ってくださいね!スズカさん!」

 

「はぁ……まぁ、そういうことだ、スズカ」

 

「頑張ってくださいネー!スズカー!」

 

「えぇ……ありがとう、皆」

 

 この後3人とはレースやトレーニングについての話した。あの時はどうすれば勝てたか、とか、私に土を付けたかった、とか、走行フォームを綺麗にしたい、とか。

 

 この話になるともう、私も皆も止まらず……気付けば、もう夕方だった。

 

 3人はまた来ると言い、それぞれ挨拶を済ませて、病室から帰っていった。

 

 ………皆、前へ前へと進んでるんだ。……私も…未来について考えないといけない、か。

 

 その日から、私は病院内を辛うじて誰にも支えられずに行き来できるようになった。ここに至るまで、半年も掛からなかった。

 …トレーナーさんと、皆のおかげだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

__________退院の日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「退院おめでとうございます!スズカさん!」

 

「ありがとう、スペちゃん…皆」

 

「いやはや、開運グッズのご利益があったようですねぇ〜!」

 

「あ、あはは…。多分……助けになってくれた…かな…?」

 

「はぁ………スズカ。もうお前と走れないのは残念だが……お前の走りは決して忘れない。私達のライバルでいてくれて、ありがとう」

 

「たまには連絡くださいネー?スズカー?」

 

「うん。皆のレースには、なるべく行こうと思ってるから」

 

「……………」

 

「…………」

 

 私達の間に沈黙が流れる。…これで、終わりかな。

 

「…じゃあ、スズカさん。お元気で!」

 

「はい。さようなら……皆」

 

 私は軽く皆に手を振る。それが合図となり……皆、ゆっくりとした足取りで、病院の敷地から去っていった。

 スペちゃんは今回も私が見えなくなるまで手を振り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………なぁ、タイキ」

 

「なんデスカー?」

 

「…スズカの目…」

 

「あ、あぁ…。何だか……ちょっと……怖い色をしていましたネー…」

 

「う”ぇ”っ”。あ、あれって私の見間違いじゃなかったんですか…!?」

 

「…どうやら気のせいじゃないらしい」

 

「……大丈夫かな……スズカさん……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半年以内に……リハビリを終わらせる事ができた。担当の医師が言うには、半年以内にあの骨折が治ったのは奇跡なのだそう。

 

 病院の関係者の方々に挨拶を済ませて今、私は病院の正門前で、トレーナーさんと一緒に並んでいた。

 ……本当に、ありがとうございました。

 

「……トレーナーさん。お世話になりました」

 

「いいんだよ、スズカ」

 

 正門に来る少し前、スペちゃんとエアグルーヴとタイキとフクキタルがお祝いに来てくれた。

 レースをたまに見に行く、とちゃんと約束した。これが今生の別れじゃないけれど…寂しい気持ちは抑えられない。

 

「……スズカは、もうどうするか決めたか?」

 

 予てより聞きたかった事なんだろう。

 

 リハビリの期間は長かった。だから、答えを出すことができた。

 もう走れないのなら、潔くそれを受け入れよう。また、1からのスタート。……それには。支えてくれる人が必要だ。

 

「……はい。私は……普通の人として、生きて行こうと思います」

 

「……そう…か。うん。わかった」

 

 トレーナーさんが残念そうに俯く。

 

「エアグルーヴに、タイキに、フクキタルに、スペちゃん。皆元気そうで…。皆、前を向いていて、キラキラしていました。…私も、前を向かなきゃ…って。……今まで走る事が私の使命で、1番の楽しみだと思っていましたが……同じ位私を夢中にさせてしまうことも、しばらく前に見つけられたので」

 

「…スズカはもう次の目標が決まったんだなぁ。偉いなぁ……」

 

 えぇ、見つけましたよ。私のすぐ隣に。

 

「…フフフフ……はい」

 

 口元を押さえて、私はクスクスと笑う。正直、今の私に残っているのは人との繋がりだけ。だから、もう、決めた。自分の気持ちに正直になろう。

 

 私はトレーナーさんが大好き。今の私がいるのは、トレーナーさんのおかげ。トレーナーさんは気負って、きっとこのまま私から遠ざかってしまうだろう。………そんな事は…………させない。…どうにか、ずっと一緒に過ごせる方法を考えなきゃ。

 

 トレーナーさんと、目が合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は満面の笑みを浮かべながらトレーナーさんをみつめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッッ」

 

「……?トレーナーさん?」

 

 トレーナーさんが、僅かにたじろいた。その姿に、きょとんと首を傾げる。

 

「あっ……いや……あは…はは。す、スズカの髪の毛、綺麗だなって」

 

「ふぇっ。あ……ありがとうございます…?」

 

 ほ、褒められた。どうして…?で、でも、嬉しい…。

 

「……す、スズカ。学園に…荷物を取りに行こう…か」

 

「…はい、そうしましょう」

 

 私達は病院の正門を出て、歩道を歩く。そこで、トレーナーさんがタクシーを捕まえる。

 

 タクシーの中では、トレーナーさんと他愛もない話をした。

 ……運転手さんの視線がうるさかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_________数十分後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タクシー内で少しして…いつの間にか、もう学園の前に到着していた。…やっぱりトレーナーさんと一緒にいると時間の流れが速い。

 

 カチリ、とメーターに金額が表示される。トレーナーさんは財布を取り出してぴったりの金額を運転手さんに渡す。

 

 運転手さんとのやり取りも済んだのでタクシーを降り…トレーナーさんの一歩後ろを歩く。

 トレセン学園の地を、踏みしめる。

 

 …久しぶりの学園。いつ見ても、大きい。久しぶりなものだから、いつもよりずっとずっと大きく感じられる。

 トレセン学園にいることは、私にとって当たり前だった。

 三女神像に、規則的に植えられた桜の木、夕日に照らされて、光を反射する窓、そして道行くウマ娘達の笑顔や声。それらが合わさって……この空間は、とても…とても綺麗だった。

 

 …もう私にとってはもう夢の跡地だ。

 

「………今日で最後なんですね。学園へ来るのも」

 

「…ああ、そうだな。荷物を片付けたら、こことはお別れだ」

 

 歩いていると、やがて三女神像の前に着いた。……見守ってくれて、ありがとうございました。

 

 そこから、ボーッとトレーナーさんと話しながら……スペちゃんと私の部屋の前に到着した。ガチャリ、と扉を開く。

 

 部屋には誰もいなかった。…いない方がありがたかった。

 

 さて…荷造りの準備をしよう。

 

 ガチャリと押し入れを開き、予備の制服や私服を掻き分けて2つのキャリーバッグを取り出す。その中に、私物をポンポン放り込んで行く。……案外、私の私物って少なかったんだ。本当に私は走る事にしか興味が無かった事を突き付けられ、苦笑いしてしまう。

 ベッドシートやら毛布やら、枕やらを詰め込んだ後はクローゼットの中身に取り掛かった。……途中で、勝負服と制服を手に取る。

 

 ……もう、着ることも無いんだ。

 おしゃれとか、多少は興味があったけど…結局、この2着が1番しっくり来たな…。

 

 全ての思いをしまい込むように、ボフッとキャリーバッグに詰め込んだ。

 

 トレーナーさんと荷造りしたため、時間は掛からなかった。

 

「……さようなら、エアグルーヴ、タイキ、フクキタル、スペちゃん……トレセン学園」

 

「……………」

 

「………じゃあ、スズカ。ちょっと理事長に色々伝えて来るから。正門で、待っててくれ」

 

「……はい…」

 

 ……私は…名残惜しいんだろうな。心のどこかで、ここに残りたいって考えちゃってる。

 

 いつまでも残る訳にはいかないので……キャリーバッグは私が一旦預かり、そのまま正門へと向かう。学園を隅々まで眺めながら歩いたため、正門まではすぐに到着した。

 …後は…トレーナーさんが来て、終わり。

 

 両手を腰辺りで組む。

 

 さて……どうやったら、トレーナーさんと一緒になれるかな?お願いしても、絶対に首を縦には振ってくれない。……やっぱり多少無理やりに行くしか無さそう…。トレーナーさんには悪いけれど。

 

 邪な思考をしている内に、背後から何かが走って来る音が響いた。

 

「………っふぅ、スズカ。おまたせ」

 

「…トレーナーさん。いえ、待ってなんかいませんよ」

 

 くるり、と振り返る。

 

「よし…じゃあ、スズカ。駅まで、行こうか」

 

「………………はい」

 

 トレーナーさんと一緒に、タクシーの荷台にぎゅうぎゅう、とキャリーバッグを押し込む。押し込んだ後はそのままタクシーに乗り…トレーナーさんが行き先を言おうとする。

 

 …これが最後で最大のチャンスですね。

 

 ごめんなさい、トレーナーさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私はトレーナーさんの口元に手を添え、そのまま座席に押し戻し、押さえ付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ドライバーさん。トレーナー用マンションまで、お願いします」

 

 有無を言わさぬ語気で運転手さんにそう伝える。

 

「……わかりました」

 

 運転手さんは素直に従ってくれた。…これで、よし。

 

 トレーナーさんの口元から手を離す。

 

「ッッ、す、スズカ、どういう……!?」

 

 トレーナーさんが、どういうことだ、と目を見開いて言いかけた所で、口が止まった。

 

 ………どうしたんだろう。

 

「……トレーナーさん?どうなさいました?」

 

「い……や……」

 

「………フフフフフ……変なトレーナーさん…」

 

「………………」

 

 トレーナーさんは私をしばらく見つめた後、黙ってしまった。

 

 …私、言いましたよね。夢中になれるものを見つけたって。

 

 タクシー内は先程と打って変わって静かだった。

 

 無言のまま、タクシーは走り続け……やがて、トレーナー用マンションの前へ到着した。

 

 トレーナーさんが押し付けるようにお札を運転手さんに押し付けて…タクシーから出る。私もそれに続く。

 

「……退院、おめでとうございます」

 

「…ありがとうございます、ドライバーさん」

 

 呆然としているトレーナーさんを横目に、私は荷台からキャリーバッグを取り出す。それを確認した運転手さんは、バタンと扉を閉めてそのまま走り去って言った。

 

 もう薄暗いマンションの前。私はトレーナーさんの隣に並ぶ。

 

「スズ…カ。どういう…つもりだ…?」

 

 恐る恐る、トレーナーさんが聞いてくる。何故こんなことをしたのか、と。

 

「どういうつもり…とは…?」

 

「実家に…帰らなくていいのか。ここにいていいのか」

 

「………そんなこと、どうでもいいでしょう?」

 

 実家の事なんかどうでもいい。今はとにかくトレーナーさんと一緒になりたい。

 

「なっ、よくな」

 

「トレーナーさんのお部屋は何号室でしょうか」

 

「…スズカ。ふざけるのも」

 

「トレーナーさん」

 

 トレーナーさんの顔を下から覗き込む。

 

「………216」

 

「216号室だよ」

 

「……フフッ……素直に教えてくれれば良かったのに」

 

 最初から、こうしておけば良かったんだ。

 

「さぁ、行きましょう」

 

 もう、逃さない。離さない。

 

 トレーナーさんの右手を…ガシリと掴む。

 

 

 

 

 

 

 

トレーナーさん




 次回、落としにかかるスズカ。


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sideスズカ.4

 トレーナーさんをグイグイと引っ張りながら階段を登る。興奮で自分の尻尾がパタパタと跳ねるのがわかった。

 

「な、なぁスズカ、考え直してくれ、スズカは実家に帰って静かに過ごした方がいいと思うんだ、親御さんも心配してるだろうし」

 

「いいんですよ。私がこうしたかったんです。私の意思です」

 

 トレーナーさんはあくまでも私に帰って欲しいらしい。……そういう訳にはいかない。こんなチャンス、もうないんだから。それに、もう嫌な思考に陥りたくない…。

 

「……!す、スズカ!私の部屋は何も無いし、弁当とかカップラーメンのゴミばっかり汚いぞ!」

 

 ピタリ、と脚が止まる。

 

 ……カップラーメンのゴミばっかり?

 

「………トレーナーさん。私のリハビリに付き合ってくれている間……ずっとコンビニ等のお弁当を?」

 

「……う…うん」

 

「……………ッッ」

 

 グイッ、とトレーナーさんを引っ張る。

 

「うわっ」

 

 トレーナーさん……私のために自分の健康まで天秤に掛けていたんだ…。

 ウマ娘の事になると本当に……。嬉しいけど、何も見えなくなるから困ってしまう。もはや狂気とも言えるかもしれない。

 

 やがて階段を登り切って、216号室の扉の前に立つ。

 

「……トレーナーさん。鍵を」

 

「い、いやぁ、大の大人が若い女性を部屋に連れ込むって絵面がまずいと言うか、下手したら犯罪…」

 

「大丈夫ですよ、合意の上です」

 

「…す……スズカ…」

 

「さぁ。トレーナーさん。さぁ」

 

 トレーナー室や控室で二人っきりになっても一切そういう気を見せなかったトレーナーさんが今更そんなことを言ったって説得力がない。私をここまで信頼させたあなたが悪いです。

 

 トレーナーさんが鍵を開けるのを待つ。…一瞬こちらに振り向いた。

 

「?」

 

 ? 私は大丈夫ですよ? と言うか今更もう遅いですよ?

 

 トレーナーさんは諦めたように肩を落とし、扉を開け、部屋へと入った。私もそれに続く。

 

 ……パチ、と玄関の電気が点くと、パンパンになった大きなゴミ袋が3つ見えた。中身は……コンビニ弁当やら、カップラーメンやら…の容器ばっかりだった。

 …そもそも、玄関から覗くお部屋にびっくりする位生活感が無い。本当に必要な物だけを集めたような感じだ。

 

 いよいよトレーナーさんの健康が心配になってきた。

 

 これ程までに私のために良くしてくれたのは嬉しいですけど……それに甘んじた自分自身にも、刹那的なトレーナーさんにも、腹が立った。

 

「はぁ……」

 

 思わず溜息が出てしまう。

 それを聞いたトレーナーさんが恐る恐る振り返る。

 

「……トレーナーさんは本当にウマ娘以外に対しては無頓着で無関心ですね………。でも……」

 

「私のために、ここまでしてくれたんですね」

 

 音を立てず、ぴと、とトレーナーさんの背中に体を押し付ける。そして、ペットを撫でるような手付きで、背筋に人差し指と中指を這わせ…。何度も、何度も、ゆっくりと。私を刻み込むように。

 

「トレーナーさんのそう言う所に」

 

「私は、惹かれてしまったのでしょうね」

 

 背伸びをし、口元を吐息が当たる位耳に近付ける。そして、耳元で囁くように、声でトレーナーさんの耳を撫でて……ふるふるとトレーナーさんが震えた。

 ……フフフフフ……。こういうことは、あんまり経験が無いんですね。

 

「……あ……上がろうか、スズカ!」

 

 あらら、残念。理性が勝ったみたい。私から逃げるようにトレーナーさんは玄関から上がった。

 

「フフフ……はい」

 

 私も玄関から上がり、自分とトレーナーさんの靴を整える。

 

 キャリーバッグは玄関近くの壁に面して置いておいた。

 

「……本当に何も無いぞ。いてもつまらないぞ」

 

「トレーナーさんが、いらっしゃいます」

 

 本当に何も無いとしても、私はトレーナーさんがいるだけでいいんです。それだけで私がここにいる理由になる。

 

「……………」

 

 ついに私を追い返す口実が無くなったのか、トレーナーさんは黙り込んでしまった。

 

 さてと…。

 

 ……うん、冷蔵庫はちゃんとある。よかった。

 特徴的な冷蔵庫を開く時のメリメリ、と言う音を響かせながら、開けて中身を確認してみる。

 

「…あるのは……生卵と、牛肉のロースと…バター。後は……」

 

 食材もある。後は……。

 

 他に何か無いか、台所辺りをキョロキョロと見回してみる。

 

「…食パンがありますね。調味料は……胡椒が。………トレーナーさん」

 

 カチャカチャ、と冷蔵庫の食材を取り出しながら…。

 

「お掛けになって休んでいてください。晩ご飯は、私が作ります」

 

「い、いやぁ、悪いって」

 

「ここまで付き合ってくれたお礼の一部ですよ」

 

「…………じゃあ………お願い」

 

 よし、許可は取れた。

 

 …この具材で……まず食パンにバターを絡ませて……卵焼きとロースを挟んでサンドイッチにしましょうか。

 そうと決まれば早速。

 

 ……もし、トレーナーさんと結婚できたら……毎日こうしてあげられるのかな?

 今の状況を遠目から見れば……ただの若い夫……止めよう。まだ早い。いずれは目指したいけど、まだその時じゃない。

 

 料理に集中しよう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 料理中。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カタン、とトレーナーと私が対面するような感じに、テーブルにちょっとだけ手の込んだサンドイッチを盛り付けたお皿を置く。ナイフとフォークも添えて。

 

「トレーナーさん。お待たせしました」

 

「んん……いや、全然待ってないよ。……凄く……美味しそうだ」

 

「フフフ……では、お召し上がりください」

 

「うん…いただきます…!」

 

 トレーナーさんが早足に椅子に座った。私は対面に座る。

 

 そして、ナイフでパンを切り分け、フォークで口に運んだ。

 

「!」

 

「……お口に合いましたか…?」

 

「おいひい……!ハグッ……モグモグ…!」

 

「……良かったぁ」

 

 よ、良かった。これで口に合わなかったら爪で自分の顔を掻き毟っていたかもしれない。

 

 ……私も食べよう。

 1口、2口と。……うん、自分で食べても不味くはない。

 

 チラリ、とトレーナーさんの方を見て…フォークが止まる。

 ……トレーナーさんの食べてる姿、かわいい。ハムスターみたいにモゴモゴしてる…。

 ご飯よりトレーナーさんの姿を見ている方が美味しい気がしてきた。

 

 結構口に合ったのか、トレーナーさんはモグモグと一気に食べてしまった。

 

「っふぅー……ごちそうさまでした」

 

「お粗末様でした〜。…はむっ」

 

 じーっ、とトレーナーさんを見ていたため食べるのが遅くなってしまった…。さっさと食べてしまおう…。

 

 ぱくぱくと、特に味わう事もなく私は食事を平らげる。……まだウマ娘としての食欲は少しだけ残っている感じですね…。

 

「……ごちそうさまでした」

 

「…………」

 

「……よし、スズカ。ご飯も食べ終わったし、もう帰ろうか」

 

 ……諦めの悪い。本当に真面目なんだから…。

 

 …チラリと部屋の窓から外を見る。…暗い。よし。

 

「……今日はもう遅いですし。こんな夜道を歩くのは、ちょっと怖いですね…」

 

「えっ」

 

 正直、夜遅くまで自主練する事も多かったし暗がりは怖くない。

 それに、ウマ娘は身体能力が高いので、変な人が挑んでくることはないでしょう。私達ウマ娘なら組み伏せることができる。なので、これはただのでまかせである。

 

「………うん。危ない…な。……スズカ。泊まって……行くか?」

 

「……はい♪」

 

 やった。言質を取った。トレーナーさんの優しさを利用しているようで悪いけど、これで今日の所はもう心配無い。耳と尻尾がわかりやすくピコピコと揺れた。

 

「……食器は、私が洗うから。スズカはお風呂に入って来な」

 

 ……お風呂。

 

「……トレーナーさんもごいっ」

 

「あー!あー!聞こえない聞こえなーい!!」

 

「……わかりました。お先に、失礼しますね。……………………………………………もう」

 

 ……別に一緒に入ってもいいんですよ…?私は全然嫌じゃありません。

 

 でも、残念…。

 

「ふ、風呂はリビングを出て右だぞー」

 

「はーい」

 

 私はリビングを出て一旦キャリーバッグまで向かい、中から櫛、ドライヤー、歯ブラシ、タオル、ボディタオル、シャンプー、トリートメント、ボディーソープ、湯桶、そしてルームウェアを取り出す。

 

 さて、入りましょう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ざぁ、ざぁ、というシャワーの音が響く。しっかりと手入れされた仕切りのあるタイプのユニットバスにて、シャワーの水を被る。自分の長い髪の泡を落として行き、一旦後ろ側で結ぶ。そして、ボディタオルを手に取りボディーソープを数滴垂らし、体を磨く。

 

 ……さすがにトレーナーさんをお風呂に連れ込む事はできなかった。あの調子だと隣で寝ていても、いつまでも絶対に手を出してこないんだろうな…。とてつもない信頼感と同時にちょっと自分に自信が無くなる。…体が細いせいかな…?トレーナーさんはふくよかな人が好み…?はぁ…。

 溜息を吐きながらタオル越しに胸元をペタペタと触る。……ちょっと虚しくなったから止めよう。

 

 …私は別に、今日トレーナーさんと一緒にお風呂に入って、何かの間違いで体が汚れても良かったんだけどな。

 そしたら、トレーナーさんはもう私から離れられない。

 

 そんな邪な事を考えながら、顔の水を拭うように両手でゴシゴシと擦っていた所、指の隙間から鏡が見えた。

 それには、当たり前だが自分の顔が映っていて。

 ……酷い顔。何かの焦燥感を感じる。目が何故か幾分と暗い。…何でそんな目をしてるの。

 

 急に自分が物凄く醜くなっているような気がした。

 

 …目障りだ。

 

 鏡の中の自分の左目に、人差し指を押し付けてみる。

 

 コツン、と。鏡を叩く音が響くだけだった。

 

「………………」

 

 ググッ、鏡の左目に押し付けている指に力を込める。込めた分だけ、鏡の中の自分はどんどん酷い顔になって行く。………指と鏡に変な音が鳴り始めて、ようやく鏡から指を離した。

 少し指が痛い。

 

 ガッ、とシャワーヘッドを取り、顔へ水を掛ける。

 

 そこからはなるべく鏡を見ないようにして体を洗った。…お風呂でこんなに疲れたのは初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後はお風呂から出て体を拭き、ルームウェアに着替えて歯を磨いた。

 ガラガラガラ、と水ごとモヤモヤを吐き出せたら良かったけど、そんなことは無かった。

 

 最後に、ドライヤーを髪に掛ける。ドライヤーのうるさい位の音が、私から思考を奪う。その音がとても有り難かった。

 

 最後に、櫛で髪を整え……トレーナーさんの所へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……気持ちよかった……」

 

「それは良かった」

 

 努めて平静を装ってトレーナーさんの前を歩く。

 

 ……トレーナーさんがじっとこちらを見ている。…ちょっと恥ずかしい。

 

「…スズカが終わったから、次は私が入ってくるよ」

 

「はい。お待ちしています」

 

 そして、今度はトレーナーさんの番。

 

 トレーナーさんの背中を見送り、私はソファに座った。

 

 ……暇だったのでスマホを取り出してみる。

 スマホは通知でいっぱいだった。特に大した投稿もしていないのにやたらフォロー数の多かったウマッターなんか凄まじい量のダイレクトメッセージが表示されていた。…私はそっとウマッターを閉じる。

 

 逆に親しい友人との連絡用として使っていたウマスタグラムを確認してみると……数件のメッセージが表示されるのみだった。スペちゃんやエアグルーヴ達のお別れの言葉があったので一人一人丁寧に返す。

 

 そういった作業を終わらせ、スマホをしまった所で…。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいま」

 

 トレーナーさんが帰ってきた。…チラリと時計を見る。

 

「あ〜。スズカ。もういい時間だし、そろそろ寝ようか?」

 

「はい…そうしましょうか」

 

 ……何かトレーナーさんが不敵な笑みを浮かべている。

 

「よし、じゃあ、スズカには悪いけど私の布団を使って今日は寝ておくれ。私はソフ」

 

 言わせませんよ?

 

 私は素早くトレーナーさんの手首を掴む。

 

「トレーナーさん。トレーナーさんだけソファなんて不公平です。一緒のお布団で寝ましょう?」

 

 トレーナーさんが振り返る。

 

「ね?」

 

「ッ……」

 

 トレーナーさんが怯んだ。こうなると、基本的に押し通せる。

 

「ど……どうしても?」

 

 ……凄い渋りますね…。なら、最終手段を使わせてもらいましょう。

 

「……トレーナーさんは、私の事、きら」

 

「そんな訳無いじゃないか」

 

「……フフフフッ♪なら、大丈夫ですねぇ」

 

 即答してくれた。……フフフ…。

 

 トレーナーさんが寝室へ向かったので、私はその後に続く。

 

 ……トレーナーさんの寝室は本当に生活感が無かった。枕、布団、毛布。白、白、白。無地の白。唯一毛布にはにんじんのアップリケが縫われていた。カーテンもあるにはあるけどこちらも無地。……後は…本棚。難しい本ばっかり…。

 …娯楽品も無いし……。

 

 ぼふ、とトレーナーさんが布団に入ったので、私もゴソゴソとトレーナーさんの隣に入り込む。

 

 …トレーナーさん、暖かい。それに、鼓動が早い。

 

「…せ、狭いなぁスズカ! やっぱり私はソファに」

 

 トレーナーさんは慣れていないのか…慌てて私から離れようとして…。

 

「いえ? むしろ暖かくて……」

 

 何故だか、今はとにかく離れるという行動がとても嫌だった。だから、私はトレーナーさんの右腕に絡み付く。

 

「気持ちいいですよ…」

 

「す、スズカ……」

 

 じ、とトレーナーさんを見つめる。……この状況になり、今更考えてみると……。色々と、迷惑を掛けてしまった。

 リハビリに始まり、、タクシーで無理やり押さえ付けたり、お家に押しかけたり、お風呂を借りたり……。

 

「ごめんなさい、トレーナーさん。勝手な事をしてしまって」

 

「いや………いいんだけど…さ」

 

「……走る事を止めて。学園から去って。私には友人もいます。……けど。不安なものは……不安で。……だから」

 

「……スズカ」

 

 ぽふ、と。頬に暖かな感触。するりと動いて、それがトレーナーさんの手であることがわかった。

 ……この手が、ずっと私を包み込んでくれたらな…。

 

「私は、スズカが立ち直るまで一緒にいてあげるつもりだから」

 

「だから、いいんだよ」

 

「…トレーナーさん」

 

 ……離れないで。

 自分の体をトレーナーさんに密着させる。そして、顔を胸元に押し付ける。

 ……トレーナーさんに胸元に抱かれてるみたい。

 

「………おやすみ、スズカ」

 

 トレーナーさんがそう呟き、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は見上げる形でトレーナーさんを見つめ続けた。




 次回、怖いスズカ


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sideスズカ.5

 トレーナーさんが目を瞑ったの感じ取った所で、私は目を開けた。それからしばらく、トレーナーさんを見つめ続ける。

 ……トレーナーさんが、近い。トレーナーさんの、鼓動が聞こえる。トレーナーさんの温もりを感じる。トレーナーさんの匂いもする。

 ……この状況がこの上なく、幸せ。

 

 トレーナーさんが起きてしまわないよう、すり、すり、と胸元に頬擦りしてみる。……頬に硬い感触。…トレーナーさん、結構がっしりしてる…。普段からスーツ姿だったため、全く意識して来なかったが……今、触れてみてわかった。

 

 ……今なら色々できちゃう…?

 

 ふと、頭の中にそんな考えが浮かぶ。…以前の私なら、理性が働いて無理やりストップさせていただろう。だけど、今の私は……今までに無い状況と、トレーナーさんと言う劇薬のせいで…歯止めが効かなかった。

 スルリとトレーナーさんの腕から抜け出し、起こさないように横向きのトレーナーさんを押して…。

 

「んしょ……」

 

 仰向けにする。……仰向けになったトレーナーさんを恐る恐る見てみると………しっかりと目を瞑って眠りについていた。……こういう時、本当に都合よく目覚めないんだ……。

 

 ふぁさふぁさと布団から静かに抜け出し…仰向けのトレーナーさんの上に移動する。そして、胸元辺りに乗っかる。

 

 私がトレーナーさんにウマ乗りになって見下ろす形となった。

 

 …トレーナーさんの寝顔、かわいい。すやすやと眠っていて、子供みたい。

 ゆっくり、吸い寄せられるように両手をトレーナーさんの頬へと持って行き……そっと頬に触れる。……柔らかい。もっちりしてる。

 ……トレーナーさんは、まだ起きない。

 

 私の行為はどんどんエスカレートして行く。

 

 頬に置いてある右手を、下へと滑らせ……人差し指と中指で、まず首筋をなぞる。ゆぅっくりと。

 首筋を這った指はやがて鎖骨へと到達し……そこで、円を作るように、撫で回す。

 

 はふぅ、と熱い息が漏れた。

 

 いけない事をしているみたい。

 一連の行為で脳が蕩けるような感覚に陥る…。トレーナーさんを押さえ付けるように、両手を肩に置く。

 …トレーナーさんの顔が目に入った。…何処か幼さを感じさせるお顔。それに、少しずつ、少しずつ、自分の顔を近付けて行く。

 10センチ。5センチ。…パサ、とトレーナーさんの顔に私の髪が掛かる。…後、2センチ…。

 

「うーん……うーん……………」

 

 トレーナーさんの唸り声。私はピタリと止まった。

 

「う……ん……?」

 

 トレーナーさんの体が揺れ……そして、パチリと目が開かれる。

 

 …残念。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 トレーナーさんが跳ねて私の体揺れた。

 

 トレーナーさんの叫び声が部屋に木霊し、思わず両耳を伏せてしまった。……聴覚の優れたウマ娘にとってこの大音量は頭がガンガンする…。

 

 トレーナーさんが私の下でジタバタと暴れていたため、無駄ですよ、と肩を押さえ付けておく。

 ようやく状況を理解したトレーナーさんが私の腰を掴みかけて……手が止まった。

 

 …やっぱり初心ですね、トレーナーさん。

 

「ぁっ……く……す、スズカ…?……眠れないのか…?」

 

「…………………」

 

 ……確かに眠れない。トレーナーさんの事ばっかり考えてしまって…。いよいよ、私は頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

 

「………トレーナーさんの事ばっかり…」

 

 いつの間にか、口からポツリと言葉が漏れた。

 

「最近…ずっとトレーナーさんの事しか考えられなくて…」

 

「ス……ズカ……」

 

 ずい、と、顔を近付けて…。

 

「……秋の天皇賞以降、ずっと変なんです、私。トレーナーさんを見ると……」

 

 トレーナーさんの肩を掴む手に力が込もる。

 

「…私を信じてたくさん走らせてくれたトレーナーさん。私のために寝る間も惜しんでトレーニングメニューを考えてくれたトレーナーさん。私がレースに勝つ度に本当に嬉しそうにしてくれたトレーナーさん。少しでも疲れたら絶対に休ませてくれたトレーナーさん。走る事以外にも楽しい事があるのを教えてくれたトレーナーさん」

 

「………レースの分析で私以外の子をじっくりと観察するトレーナーさん。お昼に私がいない時に他の子と談笑しているトレーナーさん。たづなさんとよくお出かけしていたトレーナーさん。エアグルーヴのお手伝いをするトレーナーさん。他の子のトレーニングを眺めているトレーナーさん」

 

 一度漏れ始めてしまえば、壊れたダムのように、言葉の奔流は止まらず、吐き気も止まらなかった。

 

 スッキリするような感覚もするが。同時に、また自己嫌悪感に苛まれて行く…。

 

「トレーナーさんと一緒にいると安心します。トレーナーさんの笑顔を見るとドキドキします。私がレースに勝つととっても喜んでくれるトレーナーさんの笑顔が好きです。……他の子と一緒に楽しそうに笑っているトレーナーさんを見ると……胸がゾワゾワします。他の子と一緒にご飯を食べるトレーナーさんを見ると……何か、ドロドロとした物が湧き上がって来ます。トレーナーさんは、私のものなのに…って。…でも、それが、溢れ出すことは、ありませんでした」

 

 だけど、もう抑えられない。

 

 黒い何かが、私を内側から操っているような。…いや、この黒い感情は、紛れもなく私の。

 

「…ごめん、スズカ。スズカを一番優先してあげれたら…」

 

「ぁ……と、トレーナーさんは悪くなくて…」

 

 ああ、言わせてしまった。トレーナーさんは悪くないのに。

 

 ……しかし、感情はトレーナーさんに対する黒いもので塗り潰されて行く。自分の目に熱が籠もったのがわかった。

 

「………トレセン学園に入学したばかりの時は、本当にターフを駆ける気持ち良さと、先頭の景色にしか、興味がありませんでした。それが、いつの間にか………トレーナーさんに変わって」

 

「…秋の天皇賞が終わってからは………トレーナーさんの存在が、大きくなり続けて」

 

 もう、どうしようもない位にあなたを求めて止まないんです。

 

「……これが…好き、と言う感情なんでしょうね」

 

 私とトレーナーさんは黙り込む。

 トレーナーさんは何か言葉を選んでいるようだった。

 

「……スズカ。た、多分、スズカは骨折の…ストレスと……走れない事に対するストレスが…溜まってるんだよ。だから…一旦、落ち着こう……?」

 

 ビキリと頭の中が真っ黒に染まった気がした。ピクピクと指先が痙攣する。

 

「………あなたは………」

 

 私は思い切りトレーナーさんの胸ぐらを掴み上げた。それでトレーナーさんの首が絞まろうがお構いなしに。

 

 トレーナーさんは、いつもそうだ。

 

「ぅぁっ」

 

「あなたは、いつもそうやってのらりくらりと………」

 

「……今の関係を崩さないよう、私が近付いたらその分だけ離れて…………」

 

「……さっき、私の事は嫌じゃないって言ってくれましたよね…?」

 

「…本当は、嫌なんですね」

 

「い、嫌じゃないのは本当だよ…!」

 

 嫌じゃないなら。それなら、と考えるのは、間違っているのだろうか。

 ああ、好いていると言って欲しい。じゃないと壊れてしまいそう。私をあなたのものにして欲しい。あなたを私のものにしたい。

 

「なら……なら………もっと、もっとトレーナーさんを近くで感じる事ができる関係になっても……いいじゃ、ないですか…」

 

 何が、いけないのかな。……そう考えていると……。

 

「…私の…私の仕事はスズカを勝たせる事。もっと、輝かせる事。…だから、そう言う感情は、いらないと思ってた……。それに…トレーナーとウマ娘が、そういう関係になるのは…ご法度だったんだよ……!」 

 

 思わず目を何度も瞬かせてしまった。

 

 トレーナーさんの口から語られた内容は…………はっきり言って拍子抜けする物だった。私を好きになれないのには何か大きな理由があるのかと思っていたけれど………………実際は、随分と可愛らしかった。

 

 ………こういう場合、真面目過ぎるのも考え物ですね。

 

「……トレーナーさんは本当に、真面目なんですね」

 

 …どうしたらトレーナーさんは納得してくれるかな…。変な理由じゃトレーナーさんは絶対に首を縦に振ってくれない。

 

 …………私はもうトレセン学園のウマ娘じゃない。トレーナーさんの担当ウマ娘でもない。

 

 これだ。

 

「…私はもう走れるウマ娘じゃありません。トレセン学園からも退学しました」

 

「だから…」

 

 トレーナーさんの胸ぐらを掴んでいた手を離し…トレーナーさんの体が重力に引かれ倒れる前に、頭を両手で掴む。

 

「だから、もうそんなことには気を使わなくていいんですよ?」

 

 私は緩く笑いながら、囁くように話す。……これが、猫撫で声と言うのかな。自分でもこんな声が出せたことに驚いている。

 ……トレーナーさんの瞳に迷いや葛藤の色が浮かんだ。

 そう、それでいいんです。もうあなたは、私に気を遣わなくていい。

 

「トレーナーさん」

 

「あなたにどうしようもなく、恋い焦がれています。私をあなたのものにしてください。あなたを私のものにさせてください」

 

「……スズ…カ……」

 

 パクパクと、水を失った魚のように口をトレーナーさんが動かす。

 

 そして…。

 

「私で…良ければ。よ……よろしく…お願いします」

 

 言った。言ってくれた。

 

 これまでに無いほど頬が吊り上がるのがわかった。胸の内にある黒いものがどんどん引いて行く。

 

「フフ…フフフ……そう言ってくれると、信じていました」

 

 良かった。…もし、今の言葉が聞けなかったら……私は……。

 

 …私は?私はどうなっていたんだろう。

 ……今はトレーナーさんに甘えさせてもらおう……。それしか考えないようにしないと…。

 

「………トレーナーさん……これからずっとよろしくお願いしますね♪」

 

 トレーナーさんの頭を掴む両手を離す。

 

「よいしょ…よいしょ…っ」

 

 ちょっと身を屈めて這うようにトレーナーさんから降りる。…やっぱりがっしりしてますね…。

 とりあえず、トレーナーさんの右腕側にぴと、とくっつき…首に両手を回す。

 

 こうやってガッチリホールドすれば逃げられないでしょう…。

 

 …トレーナーさんが私の肩を抱いた。

 嬉しくて耳がパタパタしてしまう。

 

「……なぁスズカ。私で本当にいいのか…?もっといい人が」

 

 首に回した手でトレーナーさんの口を塞ぐ。言わせない。

 何を、今更…。

 

「トレーナーさん。そういうのは、聞きたくありません。それに、トレーナーさん以上の人なんて、考えられません…」

 

「……ごめん」

 

「…私は、トレーナーさんがいいんです」

 

「……どうして私なんだ?」

 

 ……どうして、と言われると……一言では言い表わせなくなってしまう。いつの間にか、走る事とトレーナーさんの事が一番になって…。それで…。

 

「…それは……。トレーナーさんと過ごした時間がそうした、としか…」

 

「そっ…か」

 

「……スズカは家に顔を出さなくてもいいのか?こんな所にいて。…怪我の話もしないといけないし」

 

「…うぅーん……正直、そこまで考えていませんでした…。…頭が真っ白でしたし……トレーナーさんの事を考えるあまり…」

 

 本当に、トレーナーさんのために向こう見ずになってしまった。後で、実家にメールしよう……。もうこのまま独り立ちしますって。

 …トレーナーさんとしばらく過ごしたら実家に来てもらって…………こういうのは、外から埋めて行くはずだから。…ちょっと……いや、かなり段階を飛ばしてしまったけれど…。

 

「あ…あはは…。相当悩ませてちゃったみたいだな…」

 

「…フフフ…はい。なので、その分トレーナーさんに…」

 

 その分、いっぱいトレーナーさんに愛してもらおう。私も、もう私無しで生きていけない位、愛しますから。

 

 ……安心感からか、いきなり目がしょぼしょぼし始めた。ちょっと、目を瞑ろう……。

 

「…スズカ。……………スズカ?」

 

 虚ろにトレーナーさんの声がする。その呼び掛けにはいと答えたいけれど、何故か目と口が動かない……。

 

 それからちょっとして。

 

「スズカ。…好きだよ。とても」

 

 ……そこだけ、聞こえてしまった。…都合のいい耳ですね。

 …どうしよう、心臓がうるさい。脳が溶けそうになる。…心臓の音、トレーナーさんに聞こえちゃってないかな……。

 

 ああ、でも……嬉しいから…もう、いいや。




 次回、幸せなスズカ


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sideスズカ.6

 全身を包むような浮遊感の中……何か、もぞもぞと動く感触がした。それにより、目が覚める。目を開けば朝日が眩しく……思考が開けて行き、昨夜に起きた事を思い出す。

 あぁ、そうだ、昨日の夜…。

 

「んん…」

 

 寝起きで倦怠感のある体を動かし…。

 

「ふぁ…………」

 

 トレーナーさんがいるかどうか確認する。

 

「……ぁ、トレーナーさん…………おはよう……ございます……」

 

 …良かった。いた。夜にこっそりといなくなる、なんて事は無かった。

 

「おはよう、スズカ」

 

 頭の上にちょっとだけゴツゴツした感触が乗る。……トレーナーさんがワシャワシャと頭撫でてくれていた。

 

「んん…」

 

 …これ、好き。気持ちいい…。耳がだらしなくパタ、パタ、と動いてしまう。

 

「…今日は、どうしようか。スズカ」

 

「今日…は…。…まずは、朝ご飯にしましょう…か」

 

「ん、わかった」

 

 トレーナーさんはそれを聞くとすぐにバサリと毛布を退け、寝室から出て行った。

 毛布を退けた際の風が顔を叩き、髪を靡かせる。

 ……もうちょっと待ってくれてもいいのに…。

 

 …私も、ボーッとしてないで顔を洗おう…。一度両手で髪を掻き上げ、布団から立ち上がりながら、着崩れたルームウェアを整えつつ寝室を出る。

 途中、トレーナーさんとすれ違った。

 

 ユニットバス内の洗面台に着けば、まずぱしゃぱしゃと水で顔を洗い、拭き、その次に歯を磨き櫛で髪を梳かす。

 

 鏡で自分の顔を確認し……よし、準備完了。トレーナーさんに見られても恥ずかしくない状態だ。

 早足にユニットバスを後にし、リビングへと戻った。

 

 トレーナーさんは既に椅子に座って待ってくれていた。

 

「お待たせしました」

 

「全然待ってないよ」

 

「…ふふふっ」

 

「ん?」

 

「いえ…なんでもないです。さて、じゃあ簡単な朝ご飯を…」

 

 今日は何を作ろうかな。昨日でロースだとかは全部使っちゃったし…。…シンプルに目玉焼きトーストでいいかな。

 そうと決まれば早速……。

 まず冷蔵庫から残りの卵を2つ取り出し、棚に置いてある食パンも2枚取って……料理開始。

 

 ……………卵を割った所で、あることに気付く。

 

 朝にこうやってご飯を作る感じ……本当に夫婦みたい。…ちょっとニヤけてしまいそう。

 年齢的に後数年したら……。…トレーナーさんから言ってくれるかな…?いや、でもトレーナーさんは奥手だから……タイミングを見計らってやっぱり私から…。

 

 …って、いやいや。

 

 ……トレーナーさんの事になるとどうしても早とちりになっちゃうな……まだ考えないようにしよう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_________数十分後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「できましたよー」

 

 カタン、とトレーナーさんの机の前に目玉焼きトーストを盛り付けたお皿を置き、その反対側に自分の分も置く。

 

 トレーナーさんは私が座るのを待ってくれた。………あなたのそういう所に、私は…。

 

「…いただきます」

 

「どうぞ〜」

 

「モグッ」

 

 

 

 

 

 お食事中。

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした…」

 

「お粗末さまでした〜」

 

 トレーナーさんはパクパクと食事を平らげた。

 …昨日今日の様子を見るにパンがお好きみたいですね…。パンを使ったレシピを練習しておこう…。

 

「あ〜、スズカが作ると何でも美味しいな〜」

 

「フフフフ……ありがとうございます」

 

 私は相変わらずトレーナーさんのお食事シーンを見ながら特に味を楽しむこともなく食べた。味はまぁ悪くなかったと思う。

 そんな私を見てか、トレーナーさんは不思議そうな顔をしながら…。

 

「なぁ、スズカ…見てて楽しかったか…?」

 

「はい。モグモグ食べてる所がハムスターみたいで…可愛かったです」

 

「ハムッ……そ、そんな可愛くもないだろうに。それに絶対補正がかかってるよ、スズカ…」

 

 ……この人は本当に自分に自信がありませんね…。確かに、私の補正もあるだろうけど……トレーナーさんは容姿が優れている方だ。

 

「……トレーナーさんは本当に自己評価が……いえ、なんでもないです」

 

「?」

 

 よくわからない、とトレーナーさんが首を傾げて見せる。…もう。過度な謙遜は嫌味に見えるし嫉妬や憎悪を向けられることもあるのに。褒められたらもっと堂々と嬉しがって欲しい。

 

 ………堂々としたトレーナーさんと今のトレーナーさん………か。想像してみたらどっちもいいですね。………じゃなくて。

 

 私が変な事を考えている間にリビングはまた静かになってしまった。…気まずくなったのかトレーナーさんから切り出してくれた。

 

「……なぁスズカ。私が…学園に新しい子を見つけろ……って言われて……新しい子をスカウトしたら……スズカは怒るか?」

 

 ……あぁ、その話ですか。今、自分でもびっくりする位スーッと体から体温が抜け落ちたような気がした。

 

「………………………」 

 

 …ずっとこのサイレンススズカを見て、はさすがにワガママ過ぎる。本当は私以外の事なんて考えられない位、私に夢中になって欲しい気持ちはある。…だけど、それは無理なんだろう。トレーナーさんにはトレーナーさんの生活がある…。

 

「あっ、あぁぁぁぁ今のは忘れ」

 

 黙り込んでしまった私を見て、慌てた様子でトレーナーさんが今の発言を訂正しようとする。

 

「………………してくれるなら」

 

 それを遮るように、言葉を紡ぐ。

 

「お仕事以外では……いっぱい…いっぱい愛してくれるなら……いいです。もう、前みたいに走れない普通の女の子ですけど……私、トレーナーさんに相応しくあれるよう、頑張りますから。だから、私を…1番にしてください……それで…私を1番にしてくれるなら…いいんです。…トレーナーさんの…お仕事を奪うのは、嫌、ですから」

 

「…す、スズカぁ」

 

 トレーナーさんが安心した様子でこちらを見た。

 

 えぇ、そんなずっと束縛するような事はしませんよ。

 

「でも……」

 

「でも、あんまり蔑ろにされ続けたら………私、どうにかなっちゃうかもしれません」

 

 もしそうなったら……本当にトレーナーさんと一緒に誰もいない所へ行こう。逃げられないように、手枷足枷をしよう。身の回りのお世話も全て私がやろう。私無しでは生きられないようにするんです。

 

 私の目か、それとも表情に現れたのか。トレーナーさんは背筋をピン、と張って。

 

 ……そして、何か吹っ切れたような表情をした。

 

「……スズカ」

 

 トレーナーさんが突然ガタン、と椅子から立ち上がった。唐突だったため思わず肩が跳ねる。

 ……怒らせちゃった…?

 トレーナーさんはそのままソファに移動し座り…。

 

「おいで、スズカ」

 

 自分の隣をポンポンと叩いた。

 

 ……どういう事だろう。くい、と首を傾げながらソファに向かい、トレーナーさんの横に……できるだけ詰めて座る。

 

「スズカのことは絶対に蔑ろにしない。……スズカが満足するまで……幸せにし続けるから」

 

 ……満足するまで、ですか。…こんなになってしまったから、もうずっと満足できないかもしれないのに。

 

「………ずっと、満足しないかもしれませんよ…?」

 

「なら、ずっと頑張り続けるよ」

 

 ……トレーナーさんは時たまに大胆な事を真顔で言う。前にも自分の担当はスズカ以外考えられないと言っていたし……今回もそうだ。…正直凄いドキッとする。

 

 …でも……そう言ってくれるのは、嬉しい。

 

 感情の高ぶりのせいで尻尾が落ち着かない…。

 

 トレーナーさんの袖の裾を掴み、ピトリと引っ付いてみる。

 

「トレーナーさんは……ずるいです。真面目な顔で、そんな事を……ポコポコと……」

 

「ご、ごめん…でも…私ってそういう経験とか無かったし…。ま…真面目な話じゃないのか…?これって…。それに…そういう関係なんだし……お互い幸せになれた方が…良いでしょ」

 

「〜〜〜〜〜ッッ」

 

 ………本当に、ずるい人。そんなの聞いたら、私は、もう……。

 色んな思いを込めてトレーナーさんに向け頭をグリグリと押し付ける。

 

「……重い女になってしまって、ごめんなさい」

 

 …こんな形は、トレーナーさんもきっと望んでいなかったことだろう。ほぼ無理矢理に、トレーナーさんの首を縦に振らせてしまった。……だけど、この方法しか思いつかなかったから。

 

「……あ〜…それは……私にも責任があるって言うか……。あんまりウマ娘に入れ込むな、って、私自身が教えられたけど、守れなかったし…」

 

「まさかスズカにそこまで思われてるなんて考えて無かったし…」

 

「でも…」

 

「……そこまで私を求めてくれるスズカを、愛おしく思ってしまう……どうしようもない自分がいるんだ」

 

 ズゥン、と部屋の空気が重くなったような気がした。…トレーナーさんの雰囲気が変わる。

 

「……トレーナー…さん…」

 

 トレーナーさんの目から光が失われて行く。よく澄んだ、印象的な黒目が曇って行く。

 

「お互い……どうしようもないな?ははっ」

 

 トレーナーさんの乾いた笑い声が響く。……こんなトレーナーさんは、初めて見た。

 

 ああ、でも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とても、綺麗な目ですよ、トレーナーさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その目を見ると引き込まれてしまいそう。むしろ、引き込まれてしまいたい。ずっと一緒になれる気がするから。

 

 ………私はここでようやく理解した。……私とトレーナーさんは、お互いに……どうしようもない者同士になってしまったんだ。

 ……だからこそ、深い、ふかぁい所まで……一緒に行こう。

 

「…はい♪ だから……どうしようもない位に……深く沈んで行きましょう…?」

 

「…あぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    「大好きですよ」「大好きだよ」

 

 

 

 

 

 

 

     「トレーナーさん」「スズカ」

 




 サイレンススズカ編を最後までありがとうございました…(土下座)

 テイオー編が終われば次はアンケートで一番票数の多い子を書かせていただきます。


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トウカイテイオー編
トウカイテイオー(プロローグ)


 テイオーテイオーテイオー。


 トウカイテイオーと言うウマ娘は天才だ。いや、天才の中でも特段の天才である。桁違いとはこのことか。

 

 天才を表現する際、スポンジが水を吸収する、と表現する場合がある。テイオーは文字通りその表現にピッタリと当てはまった。レースに必要な知識、走法を教えると、トレーニングですぐ再現してみせる。1度教えればほぼ物にし、2回目、3回目には完璧にする。4回目以降はより高度な物とした。

 そしてその、肝心のスポンジの容量も桁違いだった。最高容量のSDカードか? と思ったレベルである。

 レースやトレーニング以外でもその才能は遺憾なく発揮され、勉学、ゲーム、ダンス、歌と。何もかも完璧に覚え、さらに素晴らしい物にしてみせる。

 例えどの道に行ったとしてもテイオーは大成していただろう。

 その数ある選択肢の中でも特に秀でていたのは……脚の速さ。その名の通り、この道で帝王となるために生まれてきたような脚をテイオーは持っていた。

 

 俺はそんなテイオーと共に無敵のテイオー伝説を紡ぐことになる……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな展開を夢見た時期もあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー室にて。ちょっとした書類の山の中で、俺はボーッとしていた。

 

「トレーナー」

 

 トウカイテイオーは天才だ。天才なのだが、いかんせん………子供っぽい。後犬っぽい。これを本人の前で言ったら怒られるが…。

 なんというか、スカウト前は結構凛々しく見えてたが、いざスカウトして一緒に過ごすとイメージが180度変わった…。

 

「トレーナー?」

 

 普段の姿を見ているとどうも無敵のテイオー様には見えない。

 いや、トレーニングに打ち込む姿はストイックそのものでトップアスリートの片鱗を感じさせるのだが………よく、トレーナー室に忍び込んでは俺に構って構ってとダダを捏ねたり。後は「他の子を見てる暇があったらボクの走りを見てよー!」とか、やたら自分を見て、とアピールしてくる。結構ワガママなのである。

 こっちは何か活かせるものがないか観察してるだけなんだけどなぁ…。

 

「トレーナー!」

 

 俺はテイオーの走りに魅せられてトレーナーにさせてもらった訳だが…。テイオーとの生活は、想像していたよりも妹やら子供やらをあやすような、なんともほのぼのとした物になっていた。

 正直、御守り感がある。

 

「すうううううう……」

 

「トレーーーーナーーーー!!!!?」

 

「うわぁ!?」

 

 物思いに耽っていた所、突然の大音量。空気の振動で書類山の一部からパサパサと書類が落ちる。

 両手で耳を塞ぎながら何だなんだと周りを見渡せば………ぶっすー……と言った様子のテイオーがいた。

 

「な、何だテイオーか…どうしたんだよ、いきなり」

 

「それはこっちのセリフだよ!! トレーナーこそ何考えてたのさー!? 何回もなんっかいも呼んだのにー!!」

 

 両手をブンブンと振ってテイオーが捲し立てる。

 

「え? ほんと? それならごめん…」

 

「ボクにはわかるもんね! また他の子の事考えてたんでしょ!? この無敵のテイオー様のトレーナーでありながらー!!」

 

「い、いや、考えてない考えてない。テイオーの事考えてた」

 

「……うぇ?……ボクのコト…?」

 

「うん」

 

「な、なーんだー。てっきりボクの声すら聞こえない位他の子について考え込んでるのかと…」

 

「……それで? ボクの何について考えてたのかなー?」

 

「え? あー、いや、ハハッ。テイオーは速いなーって」

 

「………ふーん?」

 

 テイオーが右手で顎を撫でながら、じーっ、と俺を見る。

 

「ほんと?」

 

 ……このように、勘まで天才的なのである。

 

「ほ、ほんとほんと」

 

「……じゃあ信じてあげるー」

 

 ほっ。

 

「……なぁ、テイオー」

 

「んん? なーにー?」

 

「テイオーはどうして自分ばっかり見て欲しいんだ?」

 

「え」

 

「……何でだろ」

 

 テイオーは腕を組み左眉を顰め、首を傾げてみせる。

 

「自分でもわかんないのか?」

 

「うん…」

 

「そっかー。そういうもんなのかな?」

 

「うん。……でも、トレーナーに見てて欲しいっていうのは、どの子も同じだと思うよ? ボクから目を離してボクが妬けちゃわないように気を付けなよ〜?」

 

「はいはい、テイオー様の仰せの通りに」

 

 聞き流すようにして、俺は再びテイオーのトレーニングメニューを組み直すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この時、テイオーの言葉を本気にしていれば……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナー。ボク、まだ走れるよね」

 

 トレーナー室にて。俺とテイオーは対面していた。テイオーの表情は…少し青い。

 この雰囲気を読んだのか。何処か、窓から見える空もどんよりとしていた。

 

 テイオーは菊花賞前に脚の不調が判明したりと、前途多難であったが……その後は、特に怪我も無く三冠を達成。メジロマックイーンやシンボリルドルフと激闘を繰り広げた。

 

 栄光への道はここまでだった。

 有マ記念後、テイオーは骨折が判明。しかし、長期療養を経て、2回目の有マ記念で奇跡の復活。……だが、奇跡には限度があった。テイオーは……今度こそ、脚…正確には足首を粉砕した。

 

 医者が言った。奇跡は何度も起きません。今度走れば、テイオーさんは手遅れになります。ここが潮時です。

 ……医者の言葉が脳内で反復する。

 

 テイオーの左脚は支え棒を差され、包帯で何重にも巻かれていた。

 

「テイオー…。今回ばっかりは、奇跡は起こりそうにないよ…」

 

「…やだ。止めてよ、トレーナー。トレーナーはどんな時だって諦めなかったじゃんか。トレーナーとボクなら、今回だってまた!」

 

「……今なら、まだテイオーの脚は歩けるまでは回復する。…テイオー。もう、テイオーは十分頑張ったよ。だから、もう休もう?」

 

「止めて。言わないで。言わないで…」

 

「テイオーの脚が治るまでは、最後まで、トレーナーとして仕事を全うす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      「トレーナーー!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬、頭が真っ白になった。

 

「…そんな事聞きたくない!!二人で……二人で無敵のテイオー伝説を作ろうって、約束したでしょ!?忘れたとは言わせないよ…!」

 

「……ぁ…」

 

「それに、そんな弱気なトレーナーはボクの知ってるトレーナーじゃない!! もう、これでトレーナーとボクとの関係は終わりって訳…!?」

 

「菊花賞の時だって、有マ記念の時だって! トレーナーは絶対に諦めなかった! トレーナーの仕事はウマ娘の背中を押すことなんじゃないの!?」

 

 俺が諦めなかったんじゃない。テイオーが諦めなかったんだ。

 

 溢れる感情をそのままに、テイオーは目に涙を浮かべながら俺に叫ぶ。ああ、でも、すまない、テイオー……。

 トレーナーには、ウマ娘の命まで預かる権利は無いんだよ……。

 

「…そう、確かにウマ娘の背中を押すことが俺達の仕事だよ。でも…俺には……テイオーの脚を、奪えないよ…」

 

「ッッ!!! ………トレーナーの……トレーナーの……!!」

 

 テイオーが口から何かを吐き出しかける。……が、それを飲み込んだ。

 

「…っはぁ……!!」

 

「………………」

 

「………テイオー…ごめんね……」

 

「……トレー……ナー…」

 

 ついに、本当に終わりなんだと理解したテイオーは……大粒の涙を流し、嗚咽を漏らした。俺はそんなテイオーの頭を撫でる。

 

「………トレーナー…。ボク、頑張ったよね…?」

 

「ああ。テイオーは凄く頑張ったよ」

 

「……………本当に……これで終わりなんだ」

 

「うん」

 

「…もう、トレーナーとも一緒にいられない?」

 

「……うん」

 

「……やだよぉ。スカウトした時みたいに…しつこく引き止めてよぉ」

 

「…怪我が治るまでは。絶対一緒にいるから」

 

「…怪我が治った後は…?」

 

「………………」

 

「一緒にいてくれないんだ」

 

 俺の沈黙にピシリとテイオーの声が凍り付いた。

 

「もう、ボクはいらないんだ。…約束したのに」

 

「ちがっ…それは…!」

 

「そういう事だよね?黙っちゃうってことは。ボクが走れなくなったら、他の子に乗り換えるんだ」

 

 テイオーが据わった目で虚空を見ながら話す。

 

「………………でも、しょうがないよね。トレーナーはトレーナーなんだから」

 

 ……無理やり自分を納得させようとしている口調だ。…見ていて目を逸らしたくなる…。

 

「ごめんね、トレーナー」

 

「いや……ごめん………テイオー…」

 

「……部屋まで……支えてくれる…?」

 

「…はい」

 

 すく、と立ち上がり、テイオーに右手を差し出す。テイオーはそれを掴んでぐぐ、と立ち上がり…横に立て掛けてあった二本の松葉杖を脇に挟み…。

 

「……行こっか」

 

「うん」

 

 カチャ、カチャ、と松葉杖の音を響かせながら、俺達はトレーナー室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数ヶ月後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつものトレーナー室にて。テイオーと俺は並んで座っていた。

 

「いやぁ、リハビリは結構大変だったね〜」

 

 テイオーの明るい声がトレーナー室に響く。

 

 テイオーの足首のリハビリは…色々あったが予想よりも早く終わった。途中、何か胡散臭い集団がテイオーを掻っ攫おうとしてそいつらをルドルフやマックイーンと追い出したりとかあったけど、テイオーが元気になって良かった。

 

 ……あの胡散臭い集団が来てからだろうか。テイオーの目に影が見え始めたのは。

 

 ……テイオーが俺を見ている事が多くなったのは。

 

「テイオーが頑張ったから速く終わったな」

 

「…今のボクさ、すっごく調子がいいんだよね〜?これはまた復活でき」

 

「テイオー」

 

 ぴしゃり。相変わらずテイオーはテイオーだな…。

 

「……本当に終わっちゃうの…?」

 

「……これは仕方のない事なんだよ、テイオー」

 

「はーぁ……ずっと一緒にいたかったな〜」

 

「うん…テイオーもずっと走りたか……ん?」

 

「ん?」

 

「そこはずっと走りたかったじゃないのか?」

 

「…ふーん」

 

 テイオーが机に頬杖を付き、両目を細める。

 

「新人のトレーナー達は皆鈍感って言うけど」

 

 テイオーの声色が変わった。

 

「本当だったんだ」

 

「…どういう…?」

 

「……トレーナーはさ、よくトレーナーとウマ娘が一緒に行方不明になる事件について知ってる?」

 

「い、いきなりどうした?知ってるけど…」

 

「どうして一緒に行方不明になるんだと思う?」

 

「え。うーん……」

 

「理由は色々あるんだけどね」

 

 テイオーの質問の意図がわからない。確かに、トレーナーとウマ娘が一緒に行方不明になって、しばらくしてまた戻ってくるって言う事件は、結構聞く。最近も先輩のトレーナーが何故か無断欠勤しだしたし、多分そういうことなんだろう。

 理由は……山籠りとかしてるんじゃないかな。

 理事長も何故かこういう事件についてはあんまり触れたがらないし。まぁ結局行方不明になっても戻って来てるしやましいことじゃないんだろう。

 

 ……結局わからない。俺はおてあげのポーズをする。

 

「……わからんなぁ」 

 

「………よーし、決ーめた」

 

「? 何が?」

 

「ううん、なんでもなーい」

 

「?」

 

 首を傾げてハテナマークを浮かべてみせる。

 

「……まぁ、とりあえず……今日で契約は終わりだね…」

 

「…そうだな」

 

「…ボク以上の子、見つけられると思う?」

 

「…………無理だと思う。多分、ずっとテイオーが俺の中じゃ一番だよ」

 

「………だよね!うん!それを聞けて満足満足」

 

 キャッキャッと嬉しそうに笑うテイオー。……屈託のない笑顔だ。この子もいつかこの笑顔で男性を魅了して結婚して家庭を持つんだろうな。

 きっと引く手数多だろう。

 

「とりあえず今日の所はもう帰るね〜」

 

「ああ。今までありがとうな、テイオー」

 

「うん。じゃあ、またね〜」

 

 カタン、とテイオーは椅子を押し退けて立ち上がり、トレーナー室を後にした。

 

 ……校門まで送りたかったけど先に行ってしまった…。……でも、これでいいのかもしれない。テイオーには一切のしがらみを忘れて新たな人生を送って欲しい。……俺にはテイオーのトレーナー面をする権利も無いし。

 

 …………なんだか、やたら俺とテイオーとの間にテンションの落差があったのは気のせいか…?あのテンションを見るとテイオーはまた後ですぐ会いに来るかのような……。

 いや。まさかな。

 

 テイオーとの契約解消と、中退はショックだし……今日の所は書類を終わらせて、とっとと家に帰ってしまおう。

 

 俺は報告書やら手続き書類やらのサインと項目記入に取り掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰宅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間はいつの間にか夜になっていた。夜風が顔に当たり気持ち良い。…しかし、曇り空だ。

 

 自転車に乗りながら、今後の事を考える。

 

 トレーナーたる者、契約ウマ娘は常にいた方がいいんだけども…。トレーナー自身、才能溢れる子のトレーナーになりたい、というジレンマがある。俺も例に漏れず。

 そして俺は不運な事に、トウカイテイオーと言う特大のフィルターが掛かってしまっている。正直テイオーレベルの子を探してしまうかもしれない。

 俺は運良くテイオーのトレーナーになれただけに過ぎず、実際の所大多数のウマ娘はテイオーのような才能の塊ではない。これは貶しているのではなく、ただただテイオーが異常だっただけ。

 今更そんな俺が上手くトレーニングなんてできるのか…?

 

 考え出すと止まらなくなるな…。……何よりテイオーとの契約解消のショックが大きくて頭が痛い。

 俺はきっとあの底無しの元気に助けられてたんだなぁ。トレーナーの仕事量は多い。だが、ここまでやれたのはテイオーのおかげでもある。テイオーがいつも隣にいるのがあたり前になっていて気付かなかったが、今になってテイオーの存在がありがたくなる。

 

 今嘆いてもしょうがないんだが…。

 

 そうこう考えている内にトレーナー用マンションに到着していた。駐輪場の適当な場所に駐車し、鍵を掛ける。

 

 駐輪場から自分の部屋…1階の163号室までやけに長く感じた。

 

 そして、自分の部屋の前に立ち…鍵穴に鍵を挿そうとした所で……鍵が空を切った。…もう一度、鍵穴に向かい鍵を挿そうとするが…また空振り。……おかしいな。ついに方向感覚までおかしくなったか?と、ドアノブを見てみると………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドアノブは何か物凄い力でも加えられたのであろうか。上方向に向かってひしゃげていた。




 次回、狂気のテイオー。

 トレーナーの過去編は読者の皆様にとって長いと思うのでこれからはすぐに本編へ入り、テンポ良く病みパートに行こうと思います。

 各章トレーナーは別人になる予定です。


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トウカイテイオー.1

 テイオー…。


 ……は? なんで? なんでドアノブが上に向かってひしゃげている? 脳が状況の理解に拒絶反応を示す。

 だが、一応はものが詰まってる脳が無理にでも思考を開始した。

 まず、ドアノブは鉄製である。そして、これは相当な力が加わらない限りこうはならない。何か特殊な工具でも使ったのだろうか。

 そもそも誰がドアノブをひん曲げて何をしたかったのか。

 ………トレーナーはそれなりに高給取りだ。まさか金目の物を狙った空き巣か…?いや、でもトレセン学園のセキュリティを抜けてここまで入って来るってできるのか…?

 

 何か危険な物を触るようなゆっくりとした手付きで、ひん曲がったドアノブに手を掛けて、引っ張ってみる。 

 

 ロックがイカれていた。

 ギギギィ……と言うような、耳障りな音。あらぬ方向に曲がったせいで立て付けが悪くなったのか、鉄同士が擦れ合う不快な音を響かせながら扉が開く。

 

 一歩、玄関へと踏み込んでみる。

 

「………………」

 

 部屋の中は真っ暗だった。

 

 ………いる。

 

 何か、いる。

 

 玄関に入った途端、全身が総毛立つような感覚に陥いった。…生物としての防衛本能が警鈴を鳴らす。

 ……何だよ。まるで自分の部屋じゃないみたいじゃないか。

 

 玄関の傘入れにあった傘を手に取り、部屋の奥深くへと向かう。一歩進む度に、何かの気配はどんどん大きくなって行く。物置にも、ユニットバスにも、何もいなかった。

 そして、リビングに到着し……キョロキョロと周りを見回したが…何もいない。…残るは…。

 …自分の寝室の扉の前に立った所で、いよいよ何かの気配を間近に感じることができた。

 ……寝室に何かいる。

 

 傘を痛いくらいに握り締め、構えながら……ガチャ、と寝室へと踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、お帰り、トレーナー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は?」

 

 テイオーがいた。

 

 ………テイオーがいた……?

 

 暗闇からテイオーの爛々と光る瞳が見える。

 

 完全に意識外だった存在に、思わず傘をバサリと落とした。

 

「遅かったね、トレーナー。お仕事?」

 

「あ、あぁうん、仕事だったけど」

 

 ナチュラルに話し掛けてくるテイオー。その様子は、学園にいるいつものテイオーそのもので。もしここがトレーナー室なら、そのまま雑談に入っていたことだろう。

 

 テイオーは部屋の隅っこで体育座りをしていた。テイオーの隣には大きめのリュックが置いてある。

 

 あんまりにも自然にいたため、この異常な状況が頭から抜け落ちそうになってしまう。……正直脳がパンクしそうだ…。

 

「………なんで……ここに…いるの?」

 

 テイオーがいることの異常性にまだ気付けて良かった…。恐る恐る聞いてみる。

 

「え〜? もう忘れちゃったの〜? さっきまたね〜って言ったじゃーん!」

 

「それにトレーナーと離れる気なんて無いし」

 

 …学園でのテイオーとの別れ際の挨拶を思い出した。……まさか本当にまたねだとは…。……って、そうではない。

 

「家までの道……教えてなかったよな……?」

 

「うん。でも、なんとなく匂いで場所がわかっちゃった〜」

 

「……どうやって……入ったんだ」

 

「んー? それはもちろん、ドアノブを蹴り壊して入ったけど…」

 

 頭が痛くなる。

 テイオーがドアノブを破壊した犯人? どうして? なんで? テイオーが? 嘘じゃないのか? 冗談であって欲しかった。

 

「…テイオー。冗談は止めてくれよ…」

 

「冗談じゃないよ」

 

 ザラリとした耳障りな声。……今のはテイオーが出した声なのか? とてもテイオーの声には聞こえなかった。

 何を込めたら、こんな声が出せるんだろうか。

 

「トレーナーがさ、いると思って何回も何回もインターホンも押してノックもしたんだけど……誰も返事をしないから気になって自分で確認しに入っちゃった。冷静でいないと駄目だね〜」

 

「それで、居留守かなとか思ったけど、本当にいなかったから。だから帰って来るまで待ってたんだ〜」

 

 テイオーから聞きたくもない犯行の動機が告白がされるが、まるでなんてことはしてない、と言った感じに口調は羽のように軽くて。

 だが…その言葉の節々に狂気を感じさせた。

 ……一歩、テイオーから後退ろうとすると…。

 

「どこ行くの」

 

 俺の脚を縫い付ける刺すような声に、脚が止まる。

 

「ッ…」

 

「もうお仕事は終わりでしょ?」

 

 すく、とテイオーが立ち上がり、こちらを見つめる。その目が本当にいつも通りだったため、余計恐怖心を覚える。

 

「どこにも行く意味、無いよね」

 

「今夜はさ、ボクとお話しようよ」

 

 一歩、俺にテイオー近付く。

 

「てっ、テイオー。まず何でこんなことしたのか教えてくれよ」

 

 何か身の危険を感じた俺は、言い訳でもするように話を逸した。テイオーの二言目を遮るようにして。

 

「トレーナーがボクをこんなにしたから」

 

 即答で返ってきたのはストレートレベルのジャブだった。

 ああ、そうか……テイオーは俺がテイオーにしたことを恨んでいるらしい。………返す言葉も無かった。…確かに、俺はテイオーをここまで追い込んだ張本人と言える…。菊花賞前だって、有マ記念前だって、テイオーの背中を押して無理をさせてのは俺じゃないか。

 

「……脚のことは………本当に………もうしわ」

 

「違うよ。そのことじゃない」

 

「……え?」

 

 あれ?

 

 てっきり脚の恨みを晴らそうと俺の部屋で待ち伏せしていると思ってしまった…。

 

「トレーナー」

 

 俺がキョトンとしているとテイオーがさらに一歩踏み出し…。

 

「今までのレースの事はさ。すっごく感謝してるんだ」

 

「…じゃあ…?」

 

 何だろう。

 

「……………………本当に気付かないんだ」

 

 テイオーが心底残念そうな声を漏らして…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然俺の首を掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゲゥッ…!?」

 

 いつの間にそんな近付いて…!?

 

 テイオーの身長に合わせてガクリと膝が折れる。そして、目の前にテイオーの顔。今、跪いているような形だろうか。

 何が、起きてる。

 

「て”い、お”」

 

「トレーナーが、悪いんだよ。ボクがいくら近付いても、アプローチを掛けても気付かないんだから。…こんなに、好きなのに。燃えちゃいそうな位に」

 

 ぐい、ぐい、とテイオーが無表情で、締めるように俺の首を掴みながら思い切り揺らす。あ、ああ………好き……だって……?

 

 気持ち、悪い。視界がぐわんぐわんする。

 

 視界が酸欠と脳の揺れのせいでノイズに塗れてきた…。テイオーはあんまり力を込めて無いんだろうが…。

 

 …そして、白目を向き、意識を手放しそうにそうになった所で。

 

「ッハァ……! …ハァッ……!? ッゥ………!!」

 

 酸素が肺に回る。それと同時に浮遊感。

 

 ドサリ、と尻餅をつく。

 

 ……ペタペタと首周りを触ってみるが、テイオーの細い手は無い。テイオーが開放してくれたようだった。

 

「………アハハ…。……トレーナーは弱いね。こんな簡単に組み伏せれちゃうなんて。トレーナーとボクの力の差は歴然だね。いい事知っちゃった〜♪」

 

 俺の前で両手をぐー、ぱー、ぐー、ぱー、と見せつけるように動かす。

 

「…最初からこうしておけば良かったのかな?」

 

 膝をぴったりと付けてテイオーがしゃがみ込み、薄く笑みを浮かべながら……まるで、獲物を見つけたかのような目を向け…。

 

 テイオーは俺の着崩したスーツのポケットに手を伸ばし、俺のスマホを取り出した。

 

「ちょ、テイオー」

 

 取り返そうと手を伸ばすが、テイオーが何故かパスワードをクリアしたため、ピタリと体が硬直した。

 な、何でそこまで知ってるんだ!?

 

「ふふーん!何でわかった!?って顔してるね〜。……画面丸見えのままボクの前で使ってたよね。ボクを信頼し過ぎ。嬉しいけど」

 

 自慢気にテイオーが語る。

 

 すぃ、すぃ、と画面を流して行くテイオー。すると……眉がピクリと動いた。

 

「……ふうん。桐生院トレーナーとか、他のマネージャーさんとか。すっごい仲良さそうじゃん」 

 

「そ、それはたまたまって言うか…」

 

「頻繁にやり取りしてるのに?」

 

「……………」

 

「ボクとは素っ気ないのに」

 

「…テイオーとはまた学園で話せるから…」

 

「ボクはこっちでも話したかったよ」

 

「………ごめ…ん」

 

「……うん、だからね」

 

 パキリと何かの割れる音が部屋に響いた。

 

 テイオーに目を向けると……両手に、割れたスマホの残骸があった。

 

「なぁっ…!? テイオー!?」

 

「反省してるなら、これ、もういらないよね?」

 

 俺の前で、嘲るようスマホの残骸をぷらぷらと揺らしながら見せつけるテイオー。そのままポイ、とテイオーは放り投げた。スマホの残骸は弧を描きながら部屋の隅へと転がり、ガシャンと言う虚しい音を響かせた。

 

 俺の…スマホ……。……連絡手段が…。

 

「テイ…オー……」

 

「ボク以外の人を、今は見てほしくないんだ。…ごめんね、トレーナー」

 

「……………」

 

「……トレーナーはさ、どうして気付いてくれなかったのかな」

 

 どうして……と言われると………。テイオーは幼かったし……すっごいいい子だったし…で、誰かの子供っぽかったし……そもそも、そういう対象として見ることができなかった。  

 いや、見たくなかった、の方が正しい。

 ……それに、トレーナーとしてそれはご法度だ。トレーナーはただひたすらに、機械のようにウマ娘のケア等をしていればいい。それが、トレーナーたる者の…姿だ。

 何より頑張ってるテイオーにそんな目を向けられなかった。一緒になってバカになった。

 

 つまり、何が言いたいかというと…。

 

「あ、あの……テイオーはそういう対象として見れなかったと言うか……」

 

 こういうことである。

 

 ……しん、と部屋が静まり返った。……この沈黙は……まずい。

 沈黙が長くなれば長くなる程、心臓にのしかかる圧が強くなる。いっそこのまま破裂してくれないだろうか。

 

「………そっか」

 

「……トレーナー」

 

 

 

 

「トレーナー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレェェェェナァァァァ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テイオーは目を見開き、耳を後ろ向きに伏せ、尻尾を張り…。

 テイオーの発した声で窓が震えた。……耳がキーンとする。まるで、時間が止まったかのようだった。

 いったい、テイオーのちいさな体の何処からこんな咆哮が飛び出すのだろうか。

 

「ぁ………ぁ………」

 

「ボクの……ボクの何が気に入らないのさ!!」

 

 ドゴッ、とテイオーが俺を肩越しに突き飛ばした。

 

 ……痛い!?

 

 肩が外れるかと思った。それ位の衝撃だった。

 

「いっづ!?」

 

 俺は尻餅をついていた状態から仰向けにふっ飛ばされるように倒れ込む。

 トレーナーは身体能力も優秀でなければならない。俺は、そこそこ運動に自信があったし、体幹だってある方だと思っていた。

 だが、ここに来てテイオーと俺との圧倒的な差を実感することになってしまう。……俺は逃げれない。

 

「ボクが生意気だから!? ちっちゃいから!? カイチョーみたいに美人じゃないから!?」

 

「……なら、ご飯をいっぱい食べて大きくなるよ。お化粧も覚えてもっと綺麗になる」

 

「…トレーナーが好きなボクになるよ。……だからボクを好きになってよ」

 

「……………」

 

 テイオーが爪を食い込ませながら拳を握る。

 

「……ボクを好きになれ!!! 好きになってよ!! ボクをこんなにしたんだから!!!!」

 

 俺を見下ろし、テイオーは綺麗な顔を歪めて叫ぶ。

 

 ああ、クソ……教科書通りにやろうとして、盲目になって、これか……。先輩達に言われた通り、教えられた事よりも大切な事があるって、ほんとだった。

 もっと近付いてあげれていたら。テイオーをここまで傷付けないで済んだのに。クッソ……。理解してあげてるつもりになってるだけだった……!!

 

 …とりあえず、落ち着いてもらわないと…。

 

「………て、テイオー……一回、落ち着こう…」

 

「………ボクを好きになる気は無いんだ」

 

「ちが!? そうじゃない!!」

 

「…………………」

 

「…………あ」

 

 突然テイオーが何か閃いたような表情をした。

 

「そっか、わかった」

 

 テイオーの歪んでいた顔に満面の笑みが張り付く。……ゾッとするような笑みだった。

 

「なーんだー。そういうことか〜」

 

「トレーナーはボクの耳と尻尾が気に入らないんだ〜」

 

「……は?」

 

「トレーナー! こっち来て!」

 

「ちょ、テイオー!? 待って! 待って!」

 

 急に深い笑みを浮かべたテイオーは、俺のスーツの襟に指を引っ掛けて、そのままリビングに向かった。こっちに来てと言っても強制じゃないか…。

 

 抵抗して見せるが、それは本当に無意味で儚いものだった…。テイオーは軽々俺を引き摺り回す。

 引き摺られる形になったため、ガンッ、ゴンッ、と鈍い音を響かせながら段差やら家具やらに体をぶつけられた…。とても痛い…。

 

 そして、テイオーはリビングの、台所で歩みを止めた。……どうして台所なんかに…?

 

 カチャン、と戸棚が開かれる。

 

 ……テイオーの目的が想像できてしまい、背筋からゾワゾワと怖気が広がり、体が凍った。今、テイオーの開けた戸棚は……刃物を収納している戸棚だった。

 

「……テイオー、そこは危ないから」

 

 何とか、口から言葉を捻り出すが…。

 

「ううん、これでいいの」

 

「考えてみたらさ、トレーナーは桐生院トレーナーみたいなヒトには愛想振り撒いてたし、ボクみたいなウマ娘には一定の線引してたよね」

 

 ガチャガチャとテイオーが戸棚の中身を漁る。

 

「……桐生院トレーナーとは、仕事仲間だし……」

 

「ミークから聞いたよ。温泉旅行に誘われたんだってね」

 

「旅行に誘われるってことはただの仕事仲間じゃないよね」

 

「…………………」

 

「トレーナーもさすがに断ったみたいで良かったけど。…行ってたら、ボク、おかしくなってたかもしれない」

 

「……もう、おかしいのかな? ボク。いや、人を好きになるのは、普通のことだよね? トレーナー? ……ねぇ……」

 

「う……ん……」

 

 ……肯定するしか、なかった。

 

「…それでね、何でトレーナーがボクに興味を持ってくれなかったかを今考えてみたんだ」

 

 スルリと…鋭い光を放つモノをテイオーは取り出し、こちらに向き直る。

 

 

 

 

 

 

「トレーナーはウマ娘なんかよりもヒトが好きなんだよね!」

 

 

 

 

 

 

「……ボクのこの耳と尻尾が気に入らないんだよね!!」

 

 

 

 

 

 

「こんな耳と尻尾……いらないよね」

 

 

 

 

 

 

「だからさ………トレーナーの手で切り落としてよ」

 

 

 

 

 

 

「トレーナーの手で、好きなトウカイテイオーにしてよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 テイオーは、光を映さない目を俺に向けて………包丁の柄を、床に放り出されている俺に向けて差し出した。包丁の刃は月明かりに照らされ、鈍く、不気味に光っている。テイオーの目とは、対照的だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 包丁なんかより、テイオーの目の方が…ずっとずっと、鋭く見えた。




 次回、泣くテイオー。


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トウカイテイオー.4

 テイオーが俺の部屋に住み着いてどれ程経っただろうか。

 俺はもう、テイオーがいつも身近にいることが当たり前となってしまっていた。俺がそう認識してしまう位に、時間は経過していた。

 朝起きればテイオーが俺の顔を覗き込んでいて、夜寝る時は同じベッドで手を繋がれて寝る。テイオーの手は鎖か。それとも天使の誘いか。

 …テイオーが俺に関わらない日は一切無かった。

 トレーナーとして仕事をしている時以外は、家から出ることもできない。テイオーがくっ付いて離れてくれないから。

 テイオーが生活必需品を買ってきてくれるため、本当に仕事以外では外に出れないのである。…日の光を浴びないと…どんどん、元気が無くなっていく気がした。

 

 今日は…テイオーと過ごし始めて何日目の朝なんだろう。

 ……目を瞑って考えてないでさっさと起きよう。さっきから日の光が瞼を叩いてうるさい。瞼は重いが……無理やりこじ開ける。

 

「おはよ、トレーナー」

 

「……おはよう、テイオー」

 

 目の前いっぱいにテイオーの顔。今日もテイオーは俺が起きるまで待ってくれていたようだ。

 

「ん……」

 

 テイオーが俺の体に覆い被さり、胸元に頭を擦り付ける。…俺は甘えたがりな犬を相手するように、左手で頭を撫でてあげた。…テイオーの髪はきめ細やかで触り心地がいい。まるでシルクみたいだった。

 

 …こうしている間は、テイオーは全く危険な兆候を見せない。目にも光があるし、本当にかわいいものだ。

 ただ……目の前で他のウマ娘の話や離れる素振りを見せると途端に目から光が無くなるし、時折暴走して俺を組み伏せたりする。

 これは一緒に暮らし始めた最初の頃の話だ。最近は……もっと酷くなり始めていた。一緒に過ごせば、いつかは良い方向に向かい始めるだろうと、俺は希望的観測をしていた。……人はそこまで単純ではないという事をこうも思い知らされるとは。

 住み始めの頃は時間に対してある程度寛容だったが…今ではトレセン学園から帰ってくるのが遅くなっただけでも光の無い目で俺を玄関で出迎える。そこからは俺の匂いを嗅いで、質問攻めだ。

 

 何で遅れたの。

 

 桐生院? たづなさん?

 

 他のウマ娘と会話してない?

 

 ボク、悪いことした…?

 

 ボクから離れないで。

 

 とまぁ、こんな感じだ。桐生院トレーナーとたづなさんと飲んでた、なんて言ったら俺は手足を折られてしまうだろう。

 匂いを嗅がれて俺以外の匂いが検出されれば、俺は右手をガリガリされる。…もう、あの人達とは一緒に過ごせないな。

 

 

 ……テイオーの様子がおかしくなっていると言ったが、それは俺も同じだった。俺も最近おかしい。最初はテイオーから逃げたいと思うこともあったが…今では全くそう思わない。

 …縛り付けられるのが当たり前になってしまったかのように。さらに、テイオーが不安定になっていくに連れて、俺はテイオーのイエスマンになり始めていた。絶対にノーとは言わない。…言えない。

 テイオーが何をするにしてもいいよ、いいよ、いいよ。……それでテイオーが喜んでくれる。だから俺も絶対にいや、と言わない。今まで理性でいやと言っていたことでさえ……今では…。

 

 いや、と言おうとすると、何故か右手が震えるのだ。テイオーに治らない傷痕を付けられた右手が。

 テイオーの意に沿わない事をしようとすると、右手の震えが止まらなくなる。脳が拒否反応を起こす。テイオーを傷付けるな、テイオーを悲しませるなと。

 …体や頭が、俺にテイオーに隷属されろと指示してくる。

 

「ねぇ、トレーナー」

 

 テイオーが見上げるようにしながら俺を呼んだ。

 

「うん…?」

 

「トレーナーに言い寄ってくる子、いない…?」

 

「大丈夫、いないよ」

 

「…良かったぁ…」

 

 俺は今担当の子がいない。テイオーが持つことを許してくれないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナーは昔、ボクの走りは他の子と比べるまでもないって言ってくれたよね。あれ、噓だったの?」

 

「い、いや……本心からだよ」

 

「……ふーん。これ、何」

 

 テイオーはバサリと書類の束を俺の前の床に投げ捨てた。……選抜レースで活躍した子のチェックリストだった。写真付きの。

 …どうしてテイオーは俺が新しい担当を探しているって分かったんだ。そしていつこのチェックリストを見つけ出したんだ…?

 

「あ……それ……は……」

 

 それを出されると俺は何も言えなかった。…別にやましいことは何もしていないのに。

 

「こんなモノ……いらないよね。だってボクがトレーナーの一番なんだもん」

 

「このっ、このっ……!!」

 

 テイオーは床にあるチェックリストを憎々しげに睨み付けると、何度何度も脚で踏み付けた。チェックリストは見るも無惨な姿になっていき………そして、再び手に持ち…ビリビリと、破り捨てた。…顔写真はより念入りに、ね。

 

「…トレーナーがボク以外を担当するとか……許さないから」

 

 ……テイオーの目には怯えも含まれていたような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このようなことがあった。テイオーは俺が他のウマ娘と関わるのを極端に嫌がった。…テイオーはまだ、俺と共にターフで切瑳琢磨していたあの時から抜け出せていないのかもしれない。一番なら、ずっと見ていてくれ、か。

 ……思えば、あの頃から束縛は結構強かった気がする。…だけど…楽しくもあった。あの夢のような日々を考えたら、それも仕方がないことだと思う。

 ……いや、それとも。単に俺がテイオーの前からいなくなるかもしれないという恐怖からくる口実、言い訳でもあるのかもしれない。

 

 だから、俺には担当がいない。基本、学園の書類仕事をしている。

 あのトウカイテイオーのトレーナーだったと言う事もあり、俺のスカウトを所望し、トレーナー室の扉を叩く子ははっきり言って絶えない。…全て断っているが。落胆した様子でトレーナー室を去る子達の背中を、忘れることが、俺にはできなかった…。

 ……トレーナーとしてそれはいかがな物か。

 理事長やたづなさんは俺の様子を見てか何かを言う様子は無い。…ひたすらに申し訳なかった。

 

 ……テイオーの事を考えると、結局俺は何もできないんだけどな。

 

 以前と比べて、ずっとずっと怠い体を動かして起き上がる。

 

「?」

 

「テイオー。ご飯にしようか」

 

「ん…うん」

 

 テイオーはスルリと俺から離れ、ベッドから飛び降りて寝室から出て行った。

 

 さてと…俺も行こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさま〜」

 

「ごちそうさま」

 

 顔を洗い歯を磨いた後、朝ご飯は目玉焼きを二切れを食べた。味付けは胡椒。テイオーが作ってくれた物だ。

 ……前まで楽々平らげてたのに、最近はやけに飲み込み辛い。

 

「美味しかった…?」

 

「美味しかったよ」

 

「ふへ………今、新しい料理をお勉強中だからさ……楽しみに…しててね」

 

「新しい料理かぁ。楽しみだなぁ」

 

 テイオーの耳がわかりやすくパタパタと跳ねた。

 …実に平和な会話。できれば、こんな会話をずっと続けていたい。テイオーの不安定な姿なんて、見たくない。…不安定になる原因は俺にあるんだが。

 

「…トレーナー。今日のお仕事は…?」

 

「今日は土日だからお休みだよ」

 

「!」

 

 テイオーの耳がピコーンと張った。

 

「なら、一日中一緒にいられるねっ」

 

「…そうだな…」

 

「じゃ、トレーナー」

 

 テイオーは椅子から降りて俺の頬に向かい……右手を掴んだ。

 右手が震える。

 

「お部屋、戻ろ?」

 

「……うん」

 

 ぐい、ぐい、と引っ張られながら…俺はテイオーと一緒に寝室に戻った。

 テイオーはベッドにボフッ、と倒れ込み、俺はベッドの横に腰掛ける。

 

 こういう場合、基本的にはテイオーと駄弁る事になる。ほとんど昔話だが。

 

 …今日のテイオーはスマホをやりたい気分だったらしい。うつ伏せになりながら足をバタつかせ、スマホを指で弾いている。

 人のスマホを覗き込む勇気が俺には無かったため、ボーッと部屋の角を見る。……何も無い。

 

 大の大人が、休日に何もしないとなると情けなくなるな…。

 

 くるりと部屋の窓の方を向き…テイオーの担当になるまで、思い浮かべていたトレーナーとしての日々を部屋の窓に幻視する。

 

 ……テイオーと3年間、しっかり走り切りたかったな。…色んな不運があったけど、とても充実して楽しい時間だった。毎日テイオーのためにレースの分析をして……レースに勝てば互いに喜び合って。…今の俺は……楽しいのか?…いや、楽しいはずだ。だってテイオーと一緒にいるんだから。…楽しいはずだ。きっと。

 

 ……窓に映る自分の顔が見えた。……睨み付けている。

 

「ねぇ、トレーナー」

 

 部屋に来てしばらくして、テイオーが声を掛けてきた。慌ててテイオーの声がした方を向く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テイオーの目には光が灯っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どう、して。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 

「あ……テイオー?」

 

「…何見てるの?」

 

「え……窓…見てたけど」

 

「……外、出たいの?」

 

「…そ、そう言う訳じゃ」

 

 ああ、やめてくれ。その目を俺に向けないでくれ。

 体が萎縮してしまうような……とぐろを巻いた大蛇に体を縛り付けられたような。とにかく、体が言うことを聞かない。見たくない、のに、嫌でもテイオーの目に釘付けになる。

 

「…………」

 

 テイオーはうつ伏せに寝た状態からくるくるとベッドの上を転がって床に降り、窓の前まで歩いて……シャッ、とカーテンを閉めた。そしてカーテンの前で俺に振り返り…。

 …カーテンが閉められたことで部屋が一気に薄暗くなる。……その薄暗い部屋の中で、何故かテイオーの光を映さない目はギラギラと輝いているように見えた。…いや、黒をも飲み込むような色をしているから、暗い中で余計目立つから、輝いて見えるのか。

 

「…だめだよ、トレーナー」

 

「だめ」

 

「トレーナーは、ボクといるの」

 

 一歩、一歩、ゆらりと俺へと歩み寄るテイオー。尻尾は力無く垂れ下がり、耳は後頭部に向かい張ったり、垂れたりし忙しなく。

 そのまま…くっつきそうな距離で、俺の右隣に腰掛ける。

 テイオーはガクガクと震える俺の右手を左手で持ち……くり、くり、と掌を右手の人差し指の爪でなぞる。

 

「っ"ぁ…」

 

 ………爪で引っ掻かれている訳でもないのに、何故か神経を剥き出しにされたかのような痛みが右手から脳へと突き抜けた。

 何だよ、コレ。傷はもうほとんど治りかけなのに。……なのに凄く痛い……!

 幻肢痛? いや、脳の錯覚?? ……わからない。わからない。……わからない…!!!

 

「トレーナー」

 

「ボクを見て……ボクだけを見て」

 

 横からテイオーが俺の顔を覗き込む。

 ガクガクと震える右腕を左手で押さえ込み……俯きながら、俺は何度も何度も頷く。

 

「お願い。ボクを見捨てないで…」

 

 テイオーは俺の肩を掴んでそのまま一緒にベッドに引き倒した。

 テイオーは俺の首元に頭を寄せる。…テイオーの表情は見えない。

 

「………ごめんなさい…ごめんなさい………」

 

 テイオーの両手が俺の背中に巻き付けられる。…ギギギギ、と両手に力が込められ、背骨が軋む。

 …テイオーの声は懇願するような…命令するような…どちらも混ざったような声色だった。

 

「ぐ……ぅ……………」

 

「…あぁ、好き、好き、大好き」

 

 俺は断続的に来る背骨の鈍痛に耐えながら……呻きながら、ただ、テイオーを抱き締め、頭を撫でることしかできなかった。

 

 ……………その日はずっとそのままだった。…ご飯も、食べなかった。

 

 背骨の痛みが消えたのは夜の23時頃。……俺は死ぬように眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………」

 

 テイオーからベアハッグを食らってから数日後。俺は学園からトレーナー用マンションへの帰路についていた。

 今日に至るまでの数日間に、俺は新しいスマホを購入した。……さすがに、この現代でスマホが無いのは死活問題だと気付いた。まず、誰とも連絡が取れない。そして、暇潰しに動画も見れないから暇に殺されそうになっていた。

 テイオーに見つかったらどうするって?

 ウマ娘との連絡先は一切持っていないから、きっと大丈夫だろう。…大丈夫なはずだ。…さすがに…自分で物を買う位は許してもらえるよな…。

 

 ……ブンブンと頭を横に振り、嫌な考えを振り払う。

 

 …速く帰ろう。テイオーに怒られてしまう。

 

 早足に自分の家まで戻ったおかげで十分もしない内に扉前に着いた。…ギィィィィ、と扉を開く。

 

「おかえりなさ〜い、トレーナー」

 

「ただいま、テイオー」

 

 テイオーは玄関前でずっとスタンバっていたようだ。……もう驚かない。

 

「……………スンスン」

 

 そして、匂いチェックだ。……ウマ娘は鼻が効く。心臓に悪い…。

 

「…何だか美味しそうな匂いがするな」

 

「うん!今日はシチューを作ったんだー!」

 

「お、シチューか。これは美味そうだ…」

 

「はやくはやく〜、冷めちゃうよ〜」

 

 テイオーはリビングへと消えた。…俺も続こう。

 

 リビングへ入れば…テーブルにはホクホクのシチューが2つ。……やっぱりテイオーは天才だな。見るからに完璧に作られている。牛乳だとかのバランスが完璧じゃないとこんな美味しそうには作れないだろう。

 

 …椅子に座ろうと一歩踏み出した所で…。

 

「あれ……」

 

「ん?」

 

「トレーナー…胸ポケット」

 

 テイオーが胸ポケットを指差した。

 

「あ、あぁ…これか……。…新しくスマホ、買ったんだよ」

 

「………ふーん」

 

 テイオーはシュバッ、と胸ポケットからスマホを奪い取った。

 

「…あの……テイオー……」

 

「こうして、こう、と……。…トレーナー、パスワードは同じにしちゃだめだよ…」

 

 テイオーはロックをまた容易に突破し……連絡アプリを開いた。…テイオーの眉が寄る。

 ……俺は冷や汗が止まらなかった。

 

「………桐生院トレーナーに、たづなさんに、理事長に……学園の関係者。…やたら、女の知り合いが多いね」

 

「い、いやぁ……学園関係者の男女比率がちょっとおかしくって……」

 

「………トレーナー」

 

「…………」

 

「この人達、ブロックして」

 

「……………それ……は…」

 

 テイオーがスマホを水平に持ち両手で端と端を握る。

 

「や、止めてくれ……。わかった、わかったよ、ブロックするよ」

 

「……はい」

 

 テイオーが俺にスマホを返す。…連絡アプリの友人欄にある桐生院をタップする。……ブロック。…次は、たづなさんをブロック……最後に、理事長を…。

 ……………俺……サイッテーだ。

 

「……ブロック……したよ」

 

「……うん。ありがと、トレーナー」

 

 テイオーは最終チェックをして機嫌が治った様子だった。

 

「……ねぇトレーナー」

 

「?……」

 

「学園、辞めない?」

 

「………え?」

 

「ボク…気付いたんだ。…学園があるから、トレーナーはボク以外に現を抜かすんだって」

 

「ボクから目を逸らすんだって」

 

「…いや、テイオー…さすがに、それは」

 

「……………」

 

 バサッ、とテイオーの尻尾が強く波打つ。

 

「仕事しないと……給料が貰えない。テイオーを養えない」

 

「……ボクさ。お金だけは有り余ってるんだよね」

 

 ……G1で何度も勝利したウマ娘は確かに大金持ちだ。…テイオーの獲得賞金は確か……7億超えだったかな。

 

「……テイオーのお金を使う気にはなれない」

 

 それでも。俺はそこまで腐る気にはなれなかった。……しかし右手は否応なしに震え始めている。

 

「…ボクが貰ったお金はさ。トレーナーのお金でもあるんだよ」

 

「いいや。それはテイオーのお金だ」

 

 テイオーが脚を賭けて手に入れた獲得賞金は絶対に貰えない。絶対にいらない。

 

 …パタリとテイオーの耳が伏せられた。  

 

「……ボクにはね。もう、トレーナーしか残ってないんだよ」

 

「ボクが今まで安定して暮らせたのはね。走れたからなんだ。…走れないボクに、価値なんて無いんだよ。走るトウカイテイオーにこそ価値があるんだぁ」

 

「…いや、旬が過ぎただけで、まだ利用価値はあるかもね」

 

「…………完治不能の怪我をしたウマ娘をすぐに捨てるトレーナーって、結構いるんだよ。もういらなーい…ってね。お金にならないから。……でも、トレーナーはボクを引き止めたでしょ。それってつまり、ボクに価値を見出したからだよね」

 

「………走れなくなったウマ娘のその後とか、知ってる?」

 

「やめろ、やめてくれ、テイオー…」

 

 それ以上聞きたくなかった。……俺自身も、そういう類の話は聞いたことがある。…ウマ娘の輝いている側面にのみ目を向けていた俺は…その事実から目を背けていた。

 

「……お願い、トレーナー。……一生……一生ボクの隣にいて。…ボクの全部、あげるから」

 

 テイオーが俺を見上げる。その瞳には怯えと恐怖が含まれて、震えていた。

 

「……………ぁ……」

 

 言え、止めろ、言え、いえ、ヤメロ、止めろ、イエ、やめろ………言え、いえ、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え…………言え。

 

「……………わかっ…………た……」

 

「………えへっ」

 

 ぼふっ、とテイオーは俺に抱きつき…俺を見上げながら弾けるような笑顔を浮かべた。………何だか、この笑顔を見れただけで……もう全部良かったような気がする。

 

「トレーナー。もうずっと一緒だからね。……学園、辞めるならさ…引っ越さない…?誰にも見つからない…遠い所に…」

 

 テイオーは夢見心地な顔で早速今後の計画を俺に話し始めた。……ああ、それは……とても、良い案だと思うな。

 

「うん……そうしよう……」

 

「……フフッ、フフフフ………ご飯にしよっか、トレーナー」

 

「うん………」

 

 フラフラと……椅子に腰掛ける。テイオーは俺の対面に座った。

 

「いっただーきまーす」

 

「…いただき……ます」

 

 左手でシチューを掬い、スプーンで口へと運び…咀嚼する。……冷めてるけど美味しい。

 

「……美味しいな」

 

「やったっ」

 

 テイオーはそれを聞いて嬉しかったのか、シチューをパクパクと早口で食べ始めた。

 ……その様子を見ていたら、不意にテイオーがスプーンを止めた。

 

「………ねぇ、トレーナー」

 

「ボクのこと……好き?」

 

「……ああ。もちろん………大好きだよ」

 

「………トレーナァ♪」

 

 そうだな。このまま、テイオーと一緒に腐って行くのも、悪くない。…きっと、幸せなんだろうな。

 

 ……俺は、ここで気付いた。もう、どうしようもない位に、自分が狂っていた事に。…いや。最初から、こうだったのかもしれない。

 

 …だけど……テイオーと一緒なら。もう、それだけでいいんじゃないか。おかしくなった自分なんて、どうでもいい。俺はテイオーが好きなんだから。

 

 俺の頭の中は…全てを放棄するかのように、モザイク色に塗り潰されていった。




 次回、幸せ?なトレーナー。


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トウカイテイオー.5

「ねぇトレーナー、このお家とかどう?」

 

「ん? どれどれ…」

 

 薄暗い部屋にテイオーの不釣り合いな明るい声が響く。描いた絵を親に見せる子供のような調子で、テイオーは俺に押し付けるようにスマホを見せ付けた。スマホの画面には…数億はするであろう和風豪邸が表示されていて。えぇっと…金額は……………何だこりゃ。高過ぎだろう。

 

「…って……とんでもない豪邸じゃんか。高いからダメだよ」

 

「えぇー。せっかくお金があるんだからさ〜。夢持とうよ夢!」

 

「ダメダメ。こういうのは普通の一戸建てでいいんだよ。人間細やかな暮らしが一番さ。って言うか俺は絶対テイオーのお金は使わないからな…」

 

「ぶー。トレーナーは夢がないなぁ…」

 

「堅実と言いなさい堅実と」

 

 テイオーは残念そうにまたスマホを自分の前に戻す。

 

「…将来家族が増えるかもしれないじゃーん。だったら、皆で過ごせるようにやっぱり広い方が…」

 

「………おっ、この家とかいいじゃんか。都会に離れ過ぎず近過ぎず、日当たりも…」

 

「話し逸らさないでよー!」

 

 グリグリグリィ、と肩にテイオーの頭が押し付けられる。

 

 ……今…何をしているのかと言うと…スマホのか細い明かりに照らされた薄暗い寝室で、ベッド上にて布団を被りテイオーと二人で物件探しをしていた。

 

 どうしてこんなことになったか。……数時間前、テイオーに学園を辞めてくれとお願いされ、俺は首を縦に…振った。…自分のかつての夢と、テイオーを天秤にかけてみたら、すぐにテイオーの方に傾いたから……。

 

 テイオーに対する謝罪の気持ちもあったんだと思う。

 お前がテイオーをこんなにした。お前がテイオーから走ることを奪った。だからお前も奪われろ。だから責任を持て、と。…テイオーに囚われてから毎日こんな声が聞こえている。

 

 …テイオーが幸せならそれでいいじゃないか。テイオーが求めるなら、俺もそれに従うまで。

 

「…トレーナー?」

 

「……………」

 

 ……と、自分に言い聞かせるが……実は、結構参っている。テイオーに合わせて、努めて憑物が剥がれたかのように振る舞ってるけど………必死こいて目指したトレセン学園や今までの人間関係を投げ捨てる、と俺はテイオーの前で誓ったのだ。…胸が、今になってズキズキし始めた。自分で撒いた種なのに……。

 

 …俺は現状無責任のクズだ。…まず、テイオーをおかしくしてしまった。そして個人的な善意からテイオーと過ごして……テイオーに愛を誓わされて…それを受け入れて……テイオーの言うことを聞いて、もうすぐお世話になったトレセン学園にも迷惑を掛ける。…罪滅ぼしで自分の大切な何かを捧げている気になっている。

 ………俺って社会不適合者だったのかなぁ……?…引っ越したら、もう周りに迷惑を掛けないようにテイオー以外とは関わらないようにしよう…。

 

 多分、多少今の気持ちが顔に出ている。…テイオーは俺の些細な変化にも普段は気付くのだが…俺に気を使ってか、それとも怖がってか…これ以上深く詮索することは無かった。

 

 まぁ……そういう訳で…俺とテイオーが暮らすのにちょうどいい家を早速探し始めたのである。しかし…目ぼしい物件は中々見つからなかった。

 

「…何人まで家族増えるかなぁ?」

 

 …まだ続けるか。

 

「テーイオー」

 

「もしかしたら5人家族になったりして!」

 

「コラ」

 

 テイオーの頭にコツンと拳骨を落とす。

 

「いたっ」

 

 テイオーは両手で頭を押さえて大袈裟に反応してみせる。

 

「ぐすっ、トレーナーがぶったぁ」

 

「そんな強くしてないだろ…」

 

 わざとらしく目元を覆い、よよよと芝居するテイオー。全く…。

 

「…トレーナーは何人子供欲しーい?」

 

 …ウリウリと突っついてきた。懲りないなぁ…。

 

「からかわないでくれよ………まだ結婚すらしてないし」

 

「いつか結婚するかもしれないでしょー?」

 

「いつかはまだいつかだよ」

 

「……むぅ。…ボクってそんなに魅力ない?」

 

「…テイオーはかわいいぞ」

 

 …とりあえずテイオーを褒めてお茶を濁そう。

 

「…………もー!!」

 

 今度はペシペシと叩いてきた。…元気だなぁ…。

 

「…はぁ…………ボク、ちまっこいけど……いっぱい食べたらおっきくなるかなぁ」

 

「そういう問題じゃないんだって…」

 

「…あ、わかった!トレーナーはおっきいのが好みなんだ!」

 

「テイオー!」

 

「わぁぁぁ、トレーナーが怒ったー!」

 

 テイオーはキャッキャッと笑いながら俺を弄り倒す。

 

「っはぁ……」

 

 冗談なんだか本気なんだか…。

 

「クフフフ……」

 

 実に愉快そうだ。こっちも思わず笑ってしまいそうになる。

 この笑顔が、またあの凍り付くような無表情にならないよう気を付けないとなぁ…。

 

 ……もう既に何回もテイオーを怒らせて、何回も体でわからされているため、あんなテイオーを見るとすぐに右手の震えが止まらなくなってしまう。…俺は完全にテイオーに従属していると言えた。

 

「はぁー……ほんとにトレーナーと一緒になれるんだぁ……嬉しいなぁ…」

 

 笑い疲れた様子のテイオーはボフ、と頭を枕に埋めた。…枕からこちらを覗く水色の瞳は、何処か灰暗くて。

 

 …独占、愛、恐怖、焦燥。

 

 テイオーの目はそれら全てが混ざっているように見える。

 

「…トレーナー」

 

 くい、とテイオーが顔を上げた。

 

「うん?」

 

「えーい」

 

「んぐっ…!?」

 

 突然伸びてきたテイオーの人差し指が、俺の口へと突っ込まれた。人差し指は根本のちょっと前まで口に入り込み、そのままくりゅくりゅ、と俺の舌を玩び始める。

 

「………ぅ………」

 

 こうなると俺は呻く事しかできない。…抵抗したら、何をされるかわからないから。

 そして、しばらくはこのままだ。…その間、俺はテイオーに口内を好き勝手される。

 最近はやたらバリエーションが増えて、舌裏を爪で撫であげたり舌と喉の境目辺りでグリグリしたりと…。テイオーはいったい何処でこんなこと覚えたんだ…?

 

「はい、終わり〜」

 

「ぷはっ……」

 

 やっと抜いてくれた……。今日は比較的短かっ…た……何回やっても慣れないわ…。

 

 …テイオーが突然俺に何かやり始める時は、大体不安な時だ。…やっぱり、まだ不安なんだな。

 

「……………」

 

 テイオーはティッシュで人差し指を拭いている。

 

 ……そう言えば、人の口に指を突っ込む行為って支配欲求を満たすためとか聞いたことがあるな。テイオーの場合はマーキング的な意味もあるんだろうけど…。

 

「…どうしてテイオーはこんなことするんだ…?」

 

「…んーー」

 

「……刷り込み?」

 

「そ、そう……」

 

 刷り込みっ…て何だ……。…俺を逆らわないようにするための刷り込みか…?

 

 …このやり取りからまたしばらく黙って物件を探していると…テイオーが唐突に口を開いた。

 

「…今のボクって、価値、あるかな?」 

 

 テイオーがこちらを見ずにボソリと呟いた

 

「………どうしたの? 突然」

 

「答えて、お願い」

 

「…そりゃあ、あるに決まってるだろ。俺にとって今一番価値のあるものがテイオーだよ」

 

「………それは…このボクに価値があるってこと?」

 

「うん……そうだけど」

 

「……………」

 

「今のボク、走れた時みたいにキラキラしてないよ?」

 

「俺にとってはテイオーはいつもキラキラしてるよ」

 

「………………」

 

 テイオーは耳をピーンッと張って硬直してしまった。

 

 ……そして、パタタ、と何か粒が落ちるような音がした。何だと思い枕元を見回すと……テイオーの枕付近に水滴の跡があった。

 

 …………!?!?

 

「ちょ、テイオー!? ご、ごめ…!! 俺、そんなつもりじゃ……」

 

「…ゥッ…ウゥ………」

 

「あ、ぁ、ごめん、テイオー、ごめん」

 

 俯きながら小さく呻き、目をギュッと閉じてテイオーは涙を流していた。……自分の顔からさぁ、と血の引いていく感覚がする。…今度こそテイオーに殺されるかもしれない。

 最後までテイオーを泣かせてばっかだったな、俺……。

 

「ヒグ………大丈夫、…グズッ……トレーナーの、せいじゃ、ない…」

 

「………やっぱり、トレーナーしかいないや」

 

「えぇ…?」

 

 テイオーの泣いている意味がさっぱりわからなかった…。…顔に少しずつ血が戻っていく。

 テイオーがぐしぐしと目元を袖で拭った。

 

「………トレーナー。ボクね、すっごい不安だったんだ」

 

「う、うん」

 

「…リハビリ中にさ。なんたらの宣伝大使になりませんかー、とか、ウマ娘セラピーに参加しませんかー、ウマ娘基金に登録しませんかー、とか。色んな人が来たよね」

 

「……あぁ。あの胡散臭い奴らか」

 

 テイオーのリハビリ中にわざわざ病院にまで押し掛けて理由やお金を提示してテイオーを掻っ攫おうとしていた連中を思い出した。リハビリ中なんだからそっとしておいてやれよ…。

 

「あの人達の目、怖かった」

 

「まぁ…俺もロクな連中じゃないと思うけど」

 

「…あれを見て気付いたんだ。ボクを使ってお金儲けしようとする人はたくさんいるって。大人にとってボクは愛玩動物に過ぎなかったんだって」 

 

 …テイオーはいつの間にかこちらを向いていて…表情を無にしていた。…これまでとはまた違う無表情だった。無表情に種類があるのもおかしいが……今俺に見せている無表情は……まるで現実を突き付けられて意気消沈してしまったかのようなものだった。

 

「……そんな言い方ないだろ」

 

「トレーナーは否定できる?」

 

「……………」

 

 ……否定できない自分が悔しい。……ウマ娘を食い物にしようとしている人種は、確かにいる。…俺も含まれるかもしれない。

 

「………大人はキラキラした、ブランドとしてのトウカイテイオーしか見てなかった」

 

「一途にね、夢に向かって突っ走ってる間は良かったよ。トレーナーがいて、カイチョーがいて、マックイーンがいて、ネイチャがいて……。この道でね、ずっと過ごせるって思ってた。……走れなくなってから、見える世界は新鮮だったなぁ」

 

「もしあの人達と契約か何かしてたら、ボクは今頃どうなってたんだろうね?」

 

「……………」

 

 ……あんまり考えたくはなかった。…広告や団体の顔としてテイオーが使われる姿が思い浮かんだから。もしくは…テイオーからお金が搾り取られるか。

 

「……まだ世間を知らないお金の成る小娘。もうね、信用できるのはトレセン学園とトレーナー位しかいなかったの。でも、学園からは絶対中退することになるから…学園はもうボクを見てくれない。……本当に、トレーナーしかいなかったんだ」

 

「ボクね、トレーナーのこと、特別に思ってた。好きだなって。…多分菊花賞から。…契約を解除するの、本当に嫌だったんだよ…?」

 

「そこにね、あの人達が現れて…カイチョーとマックイーンとトレーナーが一緒になって追い返してくれたでしょ。……それでトレーナーのことがもっと好きになったし……何が何でも、絶っ対に離れちゃいけない、誰にも渡しちゃいけないとも思った」

 

「……トレーナーだけだったんだ。トウカイテイオーじゃなくて、掛け値なしでボクを見てたのは。だからトレーナーと契約を解除しないといけないって思い出した時、心がすっごい…ズキズキ、イガイガして…」

 

「……俺もテイオーをトレーニングして、お金をもらって……食い物にした側かもしれないぞ」 

 

「…ただ食い物にしようとするだけならリハビリなんて面倒くさい事には付き合わないでしょ。それに…三年間もずっと一緒にいれば、トレーナーのことは大体わかるよ。2回も怪我したのに、ボクを見捨てなかった。ボクからすれば…誰よりも信用できるもん」

 

「…………」

 

「だから…どうしても…トレーナーに好きになって欲しくって…。トレーナーの好きなボクにならなきゃって思って…」

 

 …………テイオーがどうしてここまで俺にこだわったのか、今理解できた。

 俺を支配してる側なのに、何故時折怯えた様子を見せていたのか、理解できた。

 別に頼んでもいないのに家事までして、時折猫撫で声で話しかけてくる理由が、わかった。

 トレーナーを続けると…テイオーが安心できないとも、理解した。

 

 つまりは…テイオーは俺に対する感情や周りのテイオーに対する態度のせいで……こうなってしまったのだ。

 

「………幻滅した?」

 

「……………」

 

「自分が可愛くて、トレーナーをこんなにしたんだ、ボク」

 

「……トレーナー。本当は、ボクのこ」

 

 テイオーが言い終わる前に、右手がテイオーの頭に伸びた。

 

「わぷ……!?と、とれっ」

 

 ガシリと頭を掴んでこちらにテイオーを引き寄せ……脇に挟むようにしてグシャグシャとテイオーの頭を右手で撫でる。

 テイオーがわたわたと両手を振り回しているのがわかった。

 

「わっ…わっ……」

 

 無言でグシャグシャと撫でる手を止めない。

 

「か…髪が崩れちゃうよぉー!」

 

 テイオーの声に震えが混じり始めた所でやっと手を止めてあげた。

 

「…テイオーと一緒にいる理由が増えたな?」

 

 あそこまで言われて、突き放す人間がいるだろうか。そもそも……元から、テイオーからは何をされてもいいと考えていた俺にとっては、今更だろう。

 

「…うぇ?」

 

「死ぬ時まで一緒にいてあげれるかはわからないけど…少なくとも、俺はずっとテイオーの側に居続けるつもりだよ」

 

「…ボク、メンドクサイ女だよ。相当」

 

「……俺、もうテイオーから離れられないから…」

 

「……………」

 

「……………」

 

 テイオーは突然タックルする勢いで俺に飛び付いた。

 

「ゴハァッ!?」

 

 ドスンという衝撃で肺から空気が押し出される。

 

「…テ”イ”…オ”ー」

 

「……………………」

 

 …テイオーは俺の服の肩口を両手で掴み……スリ…ズリ……と。頬が首に擦り付けられる。

 

 思わず苦笑いしてしまう。俺は異常な状況に置かれてるんだろうけど……だけど、この甘ったるい感じが好きだった。……何もかも忘れられるような気がするから。

 この感情は諦めか…幸せなのか。……二択で迷う必要はないだろう。俺は今、幸せだ。

 

 ……テイオーと一緒に過ごして、少しずつ…少しずつ、良い方向へと転がってくれるるように願いながら……テイオーの背中を擦る。

 一晩中、テイオーは俺に引っ付いて離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「所で、幻滅したって言ってたら…」

 

 

「………トレーナーには眠ってもらったかも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、俺は理事長に退職届と謝罪文を渡した。…とは言っても、ほとんど逃げ出したも同然なんだが。

 早朝に人目を避けるようにトレセン学園に向かい、そのまま早足に家へと帰る。

 理事長は残念そうにしていたけど、退職届を受け取ってくれた。2週間後に退職できるから、それまで休んでいてくれとのこと。

 ちょっとだけ黒かった所以外、素晴らしい職場だったなぁ…。

 

 ……トレセン学園から出る途中、たづなさんに出会った。

 

「……トレーナーさん」

 

「……たづなさん」

 

「私達はずっとお待ちしていますよ」

 

「………ごめんなさい」

 

 たづなさんから向けられる慈しみに満ちた視線に耐えられず、俺は逃げるようにその場を後にした。

 

 ……この日から、俺はトレーナーであることを辞めた。




 次回、一緒の二人。


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トウカイテイオー.6

 UAが5万超えですと……。皆様ありがとうございます…(恐怖)


 ……引っ越してしばらく経った。

 

 今、俺達は新居にいる。時刻は夕方。

 

 退職届を学園へと渡してニ週間の内にトレーナー用マンションの扉を自費で修理し、同時に俺達は逃げるように引っ越した。

 新しく越した先はトレセン学園から遠く離れた場所。テイオーの希望だった。俺と過ごすのに一番の障害だからさっさと離れたいとのこと。…そう言うテイオーは、随分と心苦しそうだった。つい数ヶ月前までは、あそこにいたんだから…やっぱり未練があるんだろう。怪我さえなければ、テイオーはまだあそこで……。

 

 肝心のマイホームは……これもテイオーの希望で、人気の少ない森付近の一軒家を買って、俺達は今そこにいる。越してきてからどれ位経ったかは数えていない。

 …マイホームの名義はしっかりと俺である。テイオーに渋られたけどちゃんとこれも自費で買った。情けない大人にはなりたくなかったからな…。

 …一軒家買って口座にまだ余裕があるのには驚いた。

 

 最初の方は引越し業者さんの手伝いやらをして、そしたらもう夜でその日は眠った。それからはダンボールを少しずつ開封して、少しずつ開封して……合間合間にテイオーにスキンシップを求められ、その相手をして…を繰り返した。

 大分悠長に時間を使ったため今日までダンボールは残ったままである。

 

 そんな新居に一つ、何か重い物を降ろすような音が響いた。

 

「おわっ……たぁ……」

 

 部屋に置く最後の家具の位置を調整し……ドッカ、と和室の畳に倒れ込むように腰を降ろして胡座をかき…仰向けに倒れそうになった所を両手で支える。

 

「つーかーれーたー……」

 

 そんな俺の組まれた脚の上にテイオーがうつ伏せで倒れ込むように乗っかってきた。

 ……とても疲れています感を出しているが単にくっつきたいがための口実だろう。

 怪我をしたとは言えテイオーはウマ娘。体力は化け物なんだから。

 あんなヒョイッ、とテーブルを持ち上げてケロッとしていて疲れましたは無理がある。

 

「…テイオーは汗一つ掻いてないな」

 

「……えへ、バレた?」

 

「引っ付きたいだけでしょ…」

 

「…だめ?」

 

「……いいけどさ…」

 

「……フフフ…」

 

 テイオーはニヤリと笑みを浮かべるとそのまま猫のように俺の膝の上で丸まってしまった。…どかすっていう選択肢も無いしテイオーの好きにさせてあげよう…。

 その間、俺は手で体を扇ぐ。

 

 ……テイオーは機嫌が良いのか耳と尻尾をくるくると振り回している。

 ウマ娘の耳って不思議なんだよな。やたら可動域が広いのを見るに大分柔かいことがわかる。

 …テイオーの耳の動きと、唐突に現れた好奇心からふと…もにゅもにゅしてみたいという欲求に駆られた。

 

 …別にいいよな? これくらい…。

 

 両手をテイオーの耳に伸ばし……かるーく掴んでみた。

 

「うひゃぁ!?」

 

 するとテイオーは体と尻尾をピーンッ、と張って素っ頓狂な声をあげた。

 

「……と、トレーナー?」

 

 …なんだ今の。とってもかわいい。

 無言でもにゅもにゅと耳を撫で続けてみる。

 

「ん……んん………」

 

 テイオーは嫌いではないのか、手を払い除けたりせず撫でる度にか細い呻きを漏らすのみで…。

 

「…これ……不思議な感じ…ぃ…」

 

 テイオーの耳は…ぷにぷにしてて弾力があった。ちょっと柔らかいスーパーボールみたいな感触だろうか。……この感触は…無限に触っていられる気がする。

 

 …でもさすがに耳を撫で続けるのは悪いので、散々堪能した所で耳から両手を離す。

 

「〜〜〜っ…はぁ……」

 

 がくん、と膝の上のテイオーは力が抜けたのか、ふにゃりと…液体のようになってしまった。

 

 …まだ耳の感触が手に残ってる…。

 

「………今の、好きかも」

 

「…またやってみる?」

 

「……お願い」

 

 テイオーの脚が交互にパタパタと揺れた。

 

 耳を弄ってからテイオーは俺の脚の上で猫みたいにゴロゴロと喉を鳴らしてジッとしていた。

 ……テイオーが頭だけをこちらに向ける。

 

「ねぇトレーナー」

 

「うん?」

 

「このお家、おっきくない?」

 

「うん。ニ階建てで3LDKだからな」

 

「……二人暮しならこんな広い家いらないよね〜?」

 

「………………」

 

「明らかに三人目を意識してるよね〜?」

 

「……いやぁ、引っ越しは大変だったなぁ」

 

 そっぽを向いて無理矢理話を逸らす。…この話題はテイオーには早いしあんまりにデリケート過ぎる。

 そもそも伸び伸び暮らせた方がいいだろうって考えて3LDKにしたんだから、本当にその気は無い。

 

「ごまかさないで」 

 

 しかしテイオーはそれを許してくれなかった。ごそりとテイオーは膝の上で仰向けになり、両手を俺の首に伸ばし引っ掛け、俺を引き寄せた。

 

「どうなの? トレーナー」

 

「……家は広い方がいいでしょ」

 

「…ふーん?」

 

「……ほんとぉ?」

 

 俺の言い訳にテイオーは両目を細め、左手を首から外し、自分の部屋着の襟に掛けて…くい、と少し引っ張って見せる。…テイオーの白い肌がよく見えた。

 

「…ボクは別にいいんだよ〜。トレーナーはどうなのさ」

 

「ダメ」

 

「………………」

 

「うわ!?」

 

 突如体に浮遊感が訪れた。

 どうやらテイオーが首に回した腕を軸に俺を軽く投げ飛ばし、仰向けに倒したようだった。

 

「それ!」

 

 そしてシャッ、と猫のように素早く胸元にテイオーが乗っかった。…軽い。

 

「よいしょっと…」

 

 ガシリと俺の両手首をテイオーが掴み、畳に押し付ける。そして半目で薄笑いの…実に妖しい表情を俺に向けながら、顔を近付けて…。

 

「トレーナー。ボクはトレーナーよりも力が強いんだよ? トレーナーのことなんて簡単に思い通りにできちゃうんだよ? それでも嫌って言えるの?」

 

 鼻と鼻の触れそうな距離。テイオーの生暖かな吐息が顔に降りかかる。

 ………テイオーはあのマンションに転がり込んでから少々向こう見ずな荒っぽさがあった。 

 

 …それでもこれはハイなんて言えないだろ。

 ハイと条件反射的に喉から吐き出しそうになってしまうが、右手のジクジクする痛みをそれごと抑え込んで…。

 これはまだ先の話だ。

 

「……ダメ」

 

「……いくじなし」

 

「いくじなしでいいさ」

 

「……………」

 

 テイオーの眉がぴくりと跳ねる。

 

「……はーーぁ…」

 

 テイオーは心底残念ですと言わんばかりに大きなため息を吐き、俺から降りて右隣に体育座りで座り込んだ。

 

 ……テイオーは本当にあらゆる手段を使って自らを鎖として俺を縛り付けようとする。

 …ただ今回はテイオーも本気じゃなかったんだろう。自分でもデリケートな問題だとわかっていたようだ。大人しく引いてくれた。

 

「…びっくりした…」

 

 このまま天井を眺めているのもあれなのでむくりと上半身を起こす。

 

「……………」

 

 …隣のテイオーは色々不満なのかこつんこつんと肩に頭をぶつけてきた。大分不満なご様子で…。

 なだめるようにして、テイオーの首の後ろに右手を回し、指先でテイオーの髪をサラサラと撫でてあげる。

 ……なんでテイオーってこんなに髪の毛がさらさらしてるんだろうな?

 

「…トレーナーはいつもそうやってごまかそうとする」

 

 …隣を見てみるとテイオーは口をへの字に曲げていた。肩への頭突は止めてくれたみたいだけど。わかりやすいな…。

 とりあえず、指が疲れるまで撫でてあげた所で右手を外すと…。

 

「…………」

 

 今度は背中にぺしぺしと尻尾が叩き付けられる感触がした。…止めるなってことか。…しょうがない。

 

 テイオーの頭に掌を乗せ、先程よりも強めに手をスライドさせていく。

 

「……ふぃぃ…」

 

 か細い気の抜けた声が聞こえた。……テイオーは…これが好きなのである。理由は聞いた事がない。ただ、テイオーがぷんすか怒ってる時は褒めてあげるか撫でてあげると、大体は機嫌をよくしてくれる。

 

 …こうして過ごす分には、おかしいことは全くない。表面から見れば、甘えたがりな妹をあやす兄、みたいな絵面だ。

 実際の所は…テイオーに本当にそのままの意味でずっと一緒にいてとお願いされ…俺はそれを良しとして、受け入れた。そして…テイオーはお人形遊びをするように、俺を好きにしている。

 

 こんな状況にあれば、何かしら思うことがあるだろう。…テイオーのことと、テイオーを最優先に考えるのようになってしまった俺の脳は、テイオーに対して疑問や疑念を投げ掛ける思考をしようとするのを許してくれなかった。

 脳が拒否反応を起こすのだ。そして、それでも思考を止めなければ…まるで自分自身を罰するかのように、右手にピキピキと…神経を焼かれているかのような痛みが広がり始める。

 

 ただ、ここに引っ越して来てからは、それも減った。……テイオーを見ると、これでよかった、この判断は正しかった、生活は和やかだ、これでいいんだと感じる程度には、俺が俺でなくなっていた。

 

 …………俺が今テイオーに抱いている感情は何なんだろうか。

 

 使命感?

 

 恐怖?

 

 愛?

 

 父性?

 

 恋慕?

 

 あるいは全部か?

 

 …逆にテイオーは俺にどんな感情を抱いているんだろうな。…わかるのは…俺へと向けるあの執着心からして、少なくともまともな感情じゃないってことだ。

 

 俺からトウカイテイオーという存在以外をなるべく排除しようとし、俺の内面をトウカイテイオーで埋め尽くして行く。俺をトウカイテイオー無しでは生きていけないようにするために。

 それが如実に現れているのは……家のカーテンが日中なのにも関わらず、全て閉められていることが物語っているだろう。カーテンの付けられない窓から射し込む光が、俺達にとっての唯一の光だ。テイオーからすれば、俺の外界への興味すらも不安に感じるんだろうな。

 …テイオーの内面はもう俺ばっかりなんだろうか。

 

 テイオーは俺を縛り付け、お人形遊びをすると同時に、俺にとって都合の良い存在にもなろうとした。朝起こしに来て、料理を作り、可愛らしく甘えて見せて、夜はしがみついて寝て、最大限俺に気に入られるような態度と言葉を選び、乾いた目で俺を見つめる。料理は美味しいし、甘えてる時のテイオーは犬猫のような可愛さがあった。

 こんな態度を取られたら、大抵の男はオチるんじゃないか?

 

 テイオーは何かの神話か昔話に出てくる男を堕落させる妖怪かのようだった。確か…玉藻の前か…九尾の狐だったかな。テイオーをそんな化け物としては見れないが…。

 

 …頭が割れそうな位痛くなり始めたので、いい加減考えるのを止めた。

 

 これの、繰り返しだ。考え込むとどうしても違和感に気付き、それに自問自答して、頭が痛くなって、止める。……テイオーに求められ…何も考えずに一緒に蕩けている方がよっぽど楽だった。引っ越してからはそれがより顕著になったし……考える時間も減った。…段々と自分の思考力が落ちているのもわかった。俺はテイオーの人形に成り果てて行っている。人形でいる方が楽だから……テイオーが求めるままに、お人形になってみせた。

 

「…テイオー」

 

「んー?」

 

「俺が引き止めてなかったら…テイオーはどうするつもりだったの?」

 

「………わかんない。全部どうでもよくなって…いいように大人に利用されて、ポイ捨てでもされてたんじゃない?」

 

「それか…数日後に水死体でも発見されてたかもね」

 

 …こういう危なっかしい態度を見ると、余計一緒にいなければと思ってしまう。本当に……そうなってしまいそうだから。

 

「…トレーナー」

 

「ん?」

 

「ずっと、一緒にいられるよね?」

 

 この家は出口の無い鳥籠だ。そして俺達は鳥籠に囚われた鳥のようだった。ただし、躾をする飼い主はいない。…だから…一度沈み始めればどこまでも沈んでいくだろう。ずぶずぶと…底なし沼の泥のように…絡み付いて、互いに沈んで行く。

 

 果たしてこの関係が正しいかはわからない。だけど、どこまでも爛れた、どこまでももどうしようもなく、どこまでも甘ったるい……テイオーとの関係は…俺にこの鳥籠で果てるまで共にいる覚悟をさせるのに、十分だった。

 

 

 

 

「…あぁ。ずっと一緒だよ、テイオー」

 

 

 

 

「……えへへっ、そうだよね。ずっと一緒だよね」

 

 

 

 

 右腕にテイオーの両腕が巻き付けられ……ちょっと痛い位の勢いで、ギュゥゥゥゥ、と力が込められる。

 

 

 

 

「本当に……大好き」

 

 

 

 

「絶対に、離さない…」

 

 

 

 

「…離れないよ、テイオー」




 トレーナーサイドを最後までありがとうございました。

 次回からはテイオーサイドです。


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sideテイオー(回想.1)

 テイオー目線スタートゥ。
 やっぱりダイジェスト気味ですし、アニメやアプリ版の設定が混じっております。


 地鳴らしのような大歓声。星のように輝くウマ娘達。そのウマ娘の中で一人…太陽のように、他を寄せ付けない圧倒的なキラキラした、光り輝く走りをしたウマ娘がいた。…小さい頃の最も印象的な記憶と言えば、これだった。

 小さい頃に見た…シンボリルドルフさんの走りは、多くのウマ娘の夢を決定付けただろう。ボクもその内の一人だ。

 あの人みたいなウマ娘になる。それがボクの夢となった。

 きっと、ボクと同じ理由でこの道を志した子はたくさんいる。それ位…シンボリルドルフさんの走りには魅力があったし、本当に人を引き付ける魔力のようなものまで感じ取れた。

 

「ボクは…シンボリルドルフさんみたいな強くてかっこいいウマ娘になります!!」

 

 いつか言ったか。人はボクの夢を笑うだろうか。無理だと言うだろうか。…そんなの、やってみなきゃわからない。

 だって、ボクはトウカイテイオーなんだから。幸い、ボクはこれだけの大口を叩ける程度の脚を持ってた。同世代の子達とかけっこしたら絶対に負けないし、なんならさらに突き離すことだってできる。この脚なら、憧れのあの人、シンボリルドルフさんにだって届き得る。

 だからボクは…トレセン学園を目指した。

 

 カイチョーはトレセン学園でトゥインクルシリーズを駆けた。なら、ボクもそれをなぞらなきゃいけない。…トゥインクルシリーズを走って勝てば皆にもっと褒められるだろうし、褒められるのが好きなボクからすればこれも目指す理由になった。

 

 トレセン学園を目指してお勉強をし始めた頃、ボクは随分と色々持って生まれたんだな、と気付かされた。

 国語数学理科社会英語、一度でも勉強すれば全て脳に叩き込む事ができたんだから。…でも…やっぱりボクの本当に生まれ持った、自分自身でも才能だと胸を張って言えるものは、走りだった。速さでボクに勝てる子は一人もいなかった。ボクは、ここでは無敵なんだ。

 

 このボク、トウカイテイオーの王国はターフにこそあった。

 

 トレセン学園への入学に際してもちろん勉強は頑張ったし、座学試験でも普通に合格ラインに達してたと思う。でも……ボクの入学を確定的なものにしたのは…実技試験だったはずだ。試験監督達、ボクの走りを見てみーんな立ち上がって拍手してたんだもん。

 

 まぁ、言わずもがな…ボクはトレセン学園に入れた。そしてその日から、ボクにとってシンボリルドルフさんはシンボリルドルフさんでなくなり……会長。カイチョーになった。

 

 トレセン学園は日本で最高峰。ようやく張り合いのある子に出会えるかなー……なんて、考えてたけれど。ここに来ても、ボクの脚に比肩できる子はいなかった。ボクは……ずっと無敵のテイオーのままだった。だから、トレーナーなんて別にいてもいなくても変わらないし大丈夫……とか、思ってたけど。

 

 …トレーナーと出会ったのは、そんな時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わわわっ、どいてどいてぇー!!」

 

「ん? って、ちょお!??」

 

 ボクは目の前にいる男の人に気付かなかった。疾走するウマ娘にヒトがぶつかればどうなってしまうか知っていたボクは、思いっきり足首のバネを利用して……。

 

「ほっ!!」

 

 男の人の頭上を飛び越える。

 

「うわ!?」

 

「しゅたっ!! ……はいこれ、帽子だよっ!」

 

 そして華麗に木の枝に引っ掛かっていた帽子を掠め取り、地面に着地。

 帽子をパタパタと叩いて、持ち主の女の子に差し出した。

 

「わぁっ、お姉ちゃんありがとー! すっごいジャンプだったね、かっこいー!!」

 

 帽子を取ってあげた女の子はキラキラした目でボクを見上げていた。…ふふーん。人助けっていーいなー。

 

 …でも、ボクはただのお姉ちゃんじゃないんだよねー。

 

「ちっちっち。お姉ちゃん、じゃなくて、無敵のテイオー様って呼んでね♪」

 

「むてきの……? よくわかんないけど、かっこいいねー!」

 

「わっはっはっは〜!! もっとボクを褒め称えるといぞよ〜!!」

 

 女の子に煽てられて耳がピョコピョコと動いてしまう。…やっぱりいいね、この無敵のテイオー様、って。……あ、そうそう。

 

「……っと。そーだった。キミ! びっくりさせちゃってごめんね」

 

 すっかり目の前のこの人のことを忘れてしまっていた。…何か呆然とした顔をしてる。

 

「ブレーキかけられなくてさー、キミのことまで飛び越しちゃった! あ、ケガしてないよね? 大丈夫?」

 

「い、いや、俺は大丈夫だけど…君の方こそ大丈夫か?」

 

「あはっ、ボクはこのくらいへっちゃらだよ! ほら、ぜーんぜんなんともないっ!」

 

 ちょっとしたステップを見せてあげた。

 

「びっくりした? びっくりしたでしょー! へへーん♪」

 

「……っといけない! ボク、ランニング中なんだった。それじゃーねー!」

 

「え? あ、ちょ、待って!」

 

「っととぉ…?」

 

 引き止める声がして、躓くようなリアクションをしながら踏み止まって振り返る。

 

「なーにー?」

 

「あの、君を…スカウトさせてくれないか!?」

 

「うぇ? ……あー。キミ、トレーナーなんだ」

 

 …よくよく見てみると男の人の肩にはトレーナーバッジが輝いていた。まだお兄さんって感じの若い見た目だし、傷一つないトレーナーバッジからして…新人トレーナーなのかな。

 

「うん。俺の3年間、君に賭けるから。……どう?」

 

「…んーー……ごめんね! ボク、既にたくさんスカウトが来てて……すぐには決められないんだー。だから明日の選抜レースの時に来てよ!」

 

「その時に考えるから!」

 

「ん……そっか。わかった。じゃあ、ランニング頑張ってね」

 

「うん! 今度こそじゃーねー!」

 

 右手をブンブンと振って新人トレーナーに別れを告げる。さぁて、明日の選抜レースに向けてコンディションを整えないと。…何か後ろから視線を感じるけど無視しよーっと。

 

 …この時は、この人がボクのトレーナーになって、必要不可欠になるなんて思ってなかったなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴールを走り切り、徐々に速度を落として行く。

 

「ふーっ! みんなー、ボクのレースはどうだったー!?」

 

 ボクの一言にファンの人達が大きな声を張り上げてボクに称賛の言葉を贈ってくれた。

 

「あはっ、ありがとー! ま、ボクならトーゼンの結果だよねっ!!」

 

 選抜レース当日。緊張もしなかったし、まぁ、ボクはいつものように自分の走りをして…他を切り離して1着だった。

 

 選抜レースということもあって皆ピリピリしてた。そのピリピリがボクに向けられることもあったけど……残念、ボクはそれだけじゃ臆さない。

 

「やっぱり…凄いな、トウカイテイオー」

 

「む? あ、昨日の! 来てくれたんだ! ありがとね! …と、言うことは〜?」

 

「ああ、スカウトさせてくれ!」

 

「やっぱり! うむむ。どーしよっかなぁー。ボク、選抜レース前から結構声が掛かってて」

 

 昨日、公園で出会った新人トレーナーがスタンドの最前列にいた。ちゃーんと来てくれたんだー。そこは嬉しい。

 

 ニコニコと会話していると、人の山をを掻き分けて二人の…トレーナーがボクの目の前に躍り出てきた。

 

「あっ! いたいた、トウカイテイオー!! 君の走り、本当に素晴らしかったよ……! 是非スカウトさせてくれっ!!」

 

「テイオー、私と組みましょう! あなたとならG1制覇はもちろん、三冠ウマ娘の称号だってきっと掴めるわ!」

 

「わわっ!? 増えちゃった……うぅん……」

 

 選抜レースで直接のスカウトは増えるとは思ったけど…こんな一斉に出て来ちゃうなんて。

 …と言うか、よく見てみると周りにいる人達は皆肩口やら襟元にトレーナーバッジが光り輝いていた。…この人だかり、皆トレーナーだ。

 トレーナー達は皆ボクをターゲティングしてるのか、それとも抜け駆けは許さないという暗黙のルールでもあるのか、名乗りを挙げた三人を睨み付けていた。

 

「…こんなにいっぱい来られても誰にしたらいいかわかんないよー…」

 

「…まあでも、実際に走るのはボクなんだし、誰がトレーナーでもあんまり変わらないかな」 

 

 トレーナーの作るトレーニングメニューとか、多分教科書通りだし…なら、適当でもいいや。今までだってボク一人でやってこれたから…帝王にトレーナーは添えるだけ。

 

「じゃ、ボクとじゃんけんして勝ったヒトで!」

 

 ボクの一言にザワザワ、とトレーナー達がざわめいた。

 

 ………?

 

 何か変な事言っちゃったかな? でも、その中で一人だけ…拳を突き上げてる人がいた。

 

「だ、誰もじゃんけんしないんですか!? なら、不戦勝で俺が!」

 

 と。ノリノリだなぁ。…どれどれ……。

 目を凝らすあの新人トレーナーだった。……よっぽどボクの担当になりたいらしい。…うぅーん。もうこの人でいいかも?

 

 なんて、適当にトレーナーを決めようとしていると……ザス、ザス、と地を踏みしめる音が響いた。

 

「こらこら、テイオー。トレーナーとウマ娘は異体同心の……」

 

 聞き慣れた声であると同時に、憧れの声でもあった。…振り返れば、カイチョー。

 

「あぁっ、カイチョー!! カイチョーだ〜〜!!」

 

 ボクは条件反射的にカイチョーいる方へと飛んで行った。

 

「選抜レース、見に来てくれたんだねっ!? ねえねえねえ、ボクの走り、どうだった!? ボク、また一着だったよ!!」

 

「やれやれ……そうだな、見ていたよ。いつもながら素晴らしい走りだったな」

 

「やぁった〜〜!! えへへ、カイチョーに褒めてもらえたっ♪ ねえねえ、今の聞いた!?」

 

「えっ? あ、ああ。でも、そんなことより、スカウトの話を…」

 

 …そんなこと?

 

 ……カチン、と頭の中で音が鳴った気がした。耳が後ろ向きに突っ張る。

 

 これは、カイチョーがどんなに凄いか教えなきゃいけないみたいだね。

 

 そこから、ボクは数十分に及んでカイチョーがどんなに凄いか、カイチョーがどんなに強いか、カイチョーの武勇伝を事細かに説明してあげた。

 …ボクが説明し終わる頃には……新人トレーナーとカイチョー以外いなくなっていた。

 

「…………あれ?」

 

「テイオー…」

 

 カイチョーが苦笑いを浮かべている。

 

「いやぁ、やっぱりシンボリルドルフさんは凄いなぁ」

 

「はは…ありがとう、トレーナー君。…テイオー、残っているのは彼だけだよ」

 

「えぇーっ、皆ヒドイなぁ! せっかく説明してあげたのに!」

 

「……で、テイオー。スカウトの話なんだけど…」

 

「あ」

 

 カイチョー自慢ですっかり忘れちゃってた…。

 

「うーん……もうキミでいいかなー?」

 

 新人トレーナーの顔がぱぁっと明るくなった。わかりやすい人だなぁ。

 

 …昨日からやたら会うし…最後まで残ってくれたし。面倒はちゃんと見てくれそう。

 

「テイオー」

 

 すると、カイチョーが横から…。

 

「そんな適当に決めてはいけない。もっと熟考して信頼できるトレーナーを探すんだ」

 

「えぇー。でも、この人は最後まで残ってくれたしぃ…」

 

「……………」

 

「……でも、カイチョーが言うんならきっとそうした方がいいんだよね」

 

「…ごめんね! キミ! ちょっと、明日色々テストするから…」

 

「あー、うん、わかった」

 

「絶対にキミの所にもテストしに行くから!」

 

 ……と、言う訳で、今日中にトレーナーを決めることは叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、キミキミー」

 

「テイオー」

 

 あれから数日経過し、ボクは声を掛けてくれたトレーナー達にテストを課していた。カイチョーからのアドバイスもあったし、各々のトレーナーのトレーニングを受けてみることにしたのだ。そして、凄い印象に残ってる新人トレーナー君を見つけ出すことができた。

 

「やっと見つけた! 準備、できてるよね?」

 

「あぁ。テスト、開始しようか」

 

 と言う訳で…ボク達は練習場に移動した。

 

_________テストトレーニング後。

 

「ほっ、はっ、ほっ…………おーわり!」

 

 ボクは新人トレーナーのメニューを完璧にこなして見せた。

 ホッピングや10秒間ダッシュ、坂路ダッシュ等、やたら足首を鍛えるようなトレーニングが多かったかなぁ。

 

「す……凄い…な」

 

「ふぅーー。…うん、結構しっくり来るトレーニングだったけど……このボクにはちょっと簡単過ぎるかなー?」

 

 新人トレーナーはノートやらを付けながら顔を引き攣らせていた。…よっぽど上手くできたのかな?

 

「ねーえー。これだけー?」

 

「う、うん。いやはや、一晩中練りに練ったトレーニングメニューだったんだけどなぁ。まさかテイオーがここまでとは…」

 

「へへーん、もっとこの無敵のテイオー様を褒め称えるといいぞよ〜!!」

 

「無敵、かぁ。本当にテイオーなら無敵になれそうだよなぁ」

 

「…むー。真に受けてないなー? 聞いて驚け! この無敵のテイオー様は現在進行系で無敗なのだー!! 生まれてからここに至るまで、無敗!」

 

 今のを聞いて新人トレーナーはわかりやすく目を見開いて見せた。ふふ、さすがに驚いたかな? 生まれてから一切負けが無いって結構珍しいと思うんだよねー。

 

「…ほんとに……凄いな、テイオー」

 

「でしょでしょー!!」

 

「……で。もう終わりー? テストしゅーりょー?」

 

「いや、最後にテイオーの本気が見てみたい。2500mを走ってくれないか? タイム、測りたいんだ」

 

「2500m? ボクが得意な距離じゃーん! じゃ、ストップウォッチ持って!」

 

「はい」

 

「よーし。…行ってきまーす!」

 

 新人トレーナーがストップウォッチを構えたのを確認して、ボクは一気に走り出した。

 

___________2分34秒後。

 

「はっ、はっ……はぁーっ! タイム、どうだった?」

 

「…2分34秒」

 

 やった、自己ベストを更新してる。…まだまだボクは強くなれるみたいだね。

 

「おっ、自己ベスト更新! やったね♪」

 

「…凄いよ。同世代平均を凌駕してる」

 

「えへへっ、当然だよ! ボクはトウカイテイオーだからね!」

 

 ボクは新人トレーナーの前で両手を腰に当て、胸を張って見せる。

 

 そんな感じに、自慢気にしていると…。

 

「……2500mか。G1レースで言えば、有マ記念だな」

 

 凛とした、威厳のある声が練習場に響く。…これは…。

 

「わっ、カイチョー!?」

 

 カイチョーがゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。

 

「なになにどうしたの!? ボクに会いに来てくれたのっ!?」

 

「まあ、そんな所だ」

 

「それよりも……ふむ。トレーナー君、急な頼みで済まないが私のタイムも測ってはもらえないだろうか?」

 

「先程のテイオーと同じ、2500mだ」

 

「えっ、カイチョーも走ってくれるの!? やったやったー!! もちろんいいよね、トレーナー!?」

 

「あぁ、うん、いいよ。測ろう」

 

「感謝する。では、行こうか」

 

 カイチョーがスタートラインに立ち、腰を落とす。……ピリッ、と静電気が肌を叩いたような気がした。…時としてウマ娘の気迫は現象として現れる。…それをトレーナーも感じ取れたみたい。顔が明らかに強張ってる。

 他の子のピリピリとは訳が違う。カイチョーのピリピリは跳ね返せなかった。……やっぱりカイチョー、すっごい。

 

 ピッ、というストップウォッチの音と共に、カイチョーは……風となった。

 

_________2分32秒間後。

 

「ふぅっ……。トレーナー君、タイムは」

 

「…2分…32秒…です」

 

「カイチョー…ボクより2秒も速い……!」

 

「そうだな。……君の敗北だ、テイオー」

 

 ……ボクの負けかぁ。…カイチョー、凄いなぁ……。

 

「うんっ、負けちゃった! やっぱりカイチョーはすごいな〜!! さっすが、最強のウマ娘だねっ!!」

 

 ……カイチョーは耳がピクリと後ろに向かい跳ね、新人トレーナーは眉が寄った。…そして二人の口が同時に曲がる。

 

 ……?

 

「他にはないのか?」

 

「えっ、ほか?」

 

 …どういうこと?

 

「ああ。……もう一度言うが、テイオー。君は今、私に敗北したんだぞ?」

 

 ……カイチョーに、負けた。負けて……だからカイチョーは凄い。ボクに勝ったから…………。…あれ……?

 

「えっ、えっ? えーっと、うん。だから、カイチョーはすごいなーって……え?」

 

「そうか……。いや、急に済まなかったな」

 

「テイオー、トレーニングは以上かな? それならクールダウン代わりに、少し外を走って来てはどうだ」

 

「あ、うん! そうするー! トレーナー、後でね〜!」

 

 ボクはカイチョーに言われた通り、外周をゆっくりと回って最後のクールダウンをした。………走りながらカイチョーの言葉を頭の中で復唱したけど…あんまりしっくり来なかった。…カイチョーがわざわざ聞いてきたんだから、きっと大事なことなんだろうけど……。…うーん……。

 

 結局、カイチョーの言葉の意味は最後までわからなかった。

 クールダウン後は、神妙な顔付きの新人トレーナーに背中をパンパンと叩かれジュースをもらい、それにお礼を言って解散した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …テストからまた数日して。胸にもやもやを感じながら、ボクはカイチョーとのレースを迎えることになった。

 

「うわ、すっごいヒトの数。まるでトゥインクルシリーズじゃん!! あははっ、多盛り上がりだ〜!!」

 

 ……コース、凄いことになってるや。あっちもこっちも皆人、人、人。まぁ、そりゃあこのトウカイテイオーとカイチョーのレースなんだもん。自分がそれなりの有名人だって自覚はあるし、カイチョーに関しては既に時の人。レース後は取材だとかが来てもおかしくないレベルだ。

 だからこの大騒ぎも納得できる。

 

 コース内を準備運動を兼ねて歩き回ってると、スタンドの最前列にまたあの新人トレーナーがいた。

 

「あ、キミ。やっぱり来てくれてたんだ」

 

「ん…うん。…調整はできたかな?」

 

「もっちろん! ちゃぁんと、ばっちり調整してきたよ! この大声援、みーんなボクのものにしちゃ………」

 

 カイチョーの顔が頭の中にチラ付いた。………カイチョーに勝たないといけないんだ。今日。

 …何故か、それ以上の言葉が喉から出てこなかった。

 

「…今日、カイチョーが相手なんだよね。……カイチョーが…相手。カイチョーに、勝たないと……」

 

「………カイチョーが相手、かぁ」

 

「…ルドルフとやり合うのは嫌か?」

 

「へっ? い、いやいや! ボクはトウカイテイオーだよ!? 誰とだって真正面からぶつかって、蹴散らしてやるんだから!」

 

「…うん、頑張れ、テイオー」

 

「う、うん……じゃあ、ボク、出走準備しないとだから。じゃあね!」

 

 何故か肥大していくもやもや。それを胸にしまい込みながら、ボクはゲートへと向かった。

 

「…行ってらっしゃい」

 

 新人トレーナーが何を言ってるかは聞き取れなかった。

 

_________レース後。

 

 ……負けた。一瞬だけ、カイチョーの背中を追い掛ける事はできた。…だけど、一瞬だけだった。カイチョーはボクを背後に感じるとすぐにギアを上げて…ボクを突き放した。…初めての負けだった。

 

 ゴールラインを超え、徐々にスピードを落として行く。

 

「…はぁっ、はぁっ……はぁ〜〜〜!! 負けちゃった〜〜〜!!」

 

「でもやっぱり、カイチョーはすご」

 

 ボクの声は何かを爆発させたかのような大歓声に掻き消された。

 

「うひゃあ!?」

 

 その大歓声に混じって、ポツポツと聞こえるカイチョーへの称賛。

 

「皆、声援感謝する」

 

 そんな称賛に、お上品に応えるカイチョー。…カイチョー…かっこ……いい…なぁ…。………?

 

「す、すごい歓声……。みんなカイチョーのことみてる……」

 

「みんな、カイチョーだけを…」

 

 ……何、この気持ち。

 

 胸の中にある、モヤモヤが形を変え…まるで棘のように内側からボクを刺し始めた。

 …イガイガ、する。……何これ…。

 

「…おーい」

 

 歓声すら耳から遠ざかっていた時、一つだけやたらクリアに聞こえる声がした。

 

「え…? あ……」

 

「何処か痛い? 大丈夫?」

 

 …新人トレーナーだった。

 

「…大丈夫。うん、大丈夫、何でもないよ」

 

「……っ」

 

 胸の内の痛みを抑え込むため、自分自身に言い聞かせるようにする。

 そのまま、ボクはコースを後にした。

 

 コースからスタンドへと続く通路を走り、控室に飛び込む。

 

「はぁっ、はぁっ」

 

 バタンと強めに扉を閉めた。……それで……どうしよう。…どうしようもできないから、その場で立ち尽くことしかできなかった。

 

 ……色んな気持ちが、ぐちゃぐちゃだ。

 カイチョーは、憧れの人。ボクが目指してる人。カイチョーはサイキョー…。

 そんなカイチョーがボクに勝ったんだから……嬉…しい。嬉しい、はず。…なのに、喜べない。喜ぼうとすると、胸のイガイガがどんどん強くなってく。

 カイチョーに向けられる歓声が頭の中で再び反復した。

 

 …わけわかんないよ。

 

 怒りとも、悲しみとも…言えないような微妙な気持ちで、ボクはロッカーを開いてジャージに着替えた。

 

 …痛い。…痛いなぁ……。なんでだろ…。

 

 ……走ろう。トウカイテイオーが悩むなんて、らしくない。だって、ボクは無敵の……………。

 

 ……ボク、もう無敵じゃないや。カイチョーに負けたんだから。

 

 その事実に頭の中が一瞬真っ白になる。

 

「………………ぅ…」

 

 考えれば考える程胸の痛みが強くなると理解したボクはフォームもぐちゃぐちゃに控室を飛び出した。…行く宛も、検討も付けず、ただ走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …何時間、走っただろうか。今、ボクはどこにいるんだろう。

 朧気な視界から読み取れる情報は……ここがよく来る公園だってことだった。

 

 …脚がピキピキと痛い。筋肉が痙攣してる。

 

「はぁっ、はぁっ……! はぁ……っ」

 

 さすがに、脚が痛くてしょうがなくなったから立ち止まり、膝に手を付いて息を整える。

 

 …誰かの気配がした。

 

「…まだ、トレーニング? そろそろ休んだら?」

 

 新人トレーナーだった。

 

「あ……キミ。…どうしてここに…」

 

「…レースの後、元気無かったから。だから様子見てた」

 

「ふーん……。ありがと…」

 

「…じゃ、ボクもう行くよ」

 

 息も整って来たし…そもそも今誰とも話したくないから、半ば新人トレーナーを無視するようにして再び走り出し……。

 

「ぅあっ…!?」

 

 走り出せ、なかった。急に足腰から力が抜けたかと思ったら、そのままうつ伏せに転んでしまった。

 

「大丈夫か!?」

 

 うつ伏せになって唸ってると、新人トレーナーが慌てて駆け寄ってきた。

 

 ……情な…。

 

「ぅ……っ……!」

 

 力の入らない足腰を無理やり動かし、よろよろと立ち上がる。

 

「…別にこんなの大したことないよ。心配かけてごめんね。…ボク、ランニングに戻るから」

 

「待って。明らかにオーバーワークだよ。もう今日は止めにした方がいい」

 

 …新人トレーナーは立ち塞がるようにボクの前に立った。

 

 ……この人は、何でこうも……。

 

「…ねぇ、何でボクに構うの」

 

「しつ…こい…! ボクのトレーナーでもないくせに何なの!?」

 

「どいてよ! 走れないから!!」

 

 理不尽な怒りなのはわかってる。だけど止まらない。止まれない。

 この内側からボクを刺して来るモノの痛みを吐き出すように、ボクは新人トレーナーに叫ぶ。

 

「……………」

 

 …新人トレーナーは退かなかった。…怒りもしなかった。ただ、困った顔でボクを悲しそうな目で見下ろしていた。

 

「……なんで、そんな目するの…?」

 

「やめてよ……そんな目で……見ないでよぉ…」

 

 あの目を見て、胸のイガイガの痛みがさらに強くなってしまった。…そしたら、なんだか目の奥も痛くなって…気付いたら、大粒の涙が溢れていた。

 

 …止まれ、止まれ、止まれ……止まって…。

 

「……………」

 

 新人トレーナーはボクの隣で背中を擦り続けてくれた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スンッ……」

 

「…落ち着いた?」

 

「う…ん…。…ごめんね……」

 

「いいよいいよ」

 

「……あのね…」

 

「うん」

 

「…胸の、内側がね……レースの後からずっとイガイガしてるんだ…」

 

「カイチョーがあの歓声を全部独り占めしてるのを見てからずっと、さ…」

 

「…カイチョーはボクの憧れでね。一番強くて、一番速くて、一番すごい。一番皆に褒め称えられてる」

 

「カイチョーはボクが目指す姿そのものなんだ」

 

「…ボクが見に行ったカイチョーのレースは全部一着でね。大歓声を浴びて微笑んでるカイチョーは、本当にかっこよかった」

 

「…だけど、今日のレースでね。それと全くおんなじものを見たのに……どうして…こんな、胸がイガイガするの…? こんな、走らないと気が済まない位に……」

 

「…………」

 

 …新人トレーナーはボクの独り言を黙って聞いてくれていた。

 

「…テイオー。一度、その気持ちについてしっかりと考えてみて。…何か、気付けるかもしれないよ」

 

「うぇ…」

 

「もう帰ろうか、テイオー」

 

「……うん」

 

 …考えてみて、か。

 

 その日の夜は新人トレーナーに寮まで送ってもらった。…寮長には怒られちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の朝。今度は新人トレーナーがボクを探し出していた。

 

「昨日はよく眠れた?」

 

「……ちょっと、寝付けなかった」

 

「そっか」

 

「…今週末にね、シンボリルドルフのレースがある。見に、行かないか?」

 

「…カイチョーの…レース?」

 

 …今、この状態でカイチョーのレースを見に行くのか。…正直、胸のイガイガがまた強くなるような気がする……けど。

 

「……見に行ったら、このイガイガの原因も、わかるかなぁ…?」

 

「…見に行かないと、何もわからないと思うよ?」

 

 それは…最もな意見だね…。見に行かなきゃ、イガイガの原因もわからないし……何もわからないし……。…何より、このイガイガが治るかもしれない。

 

「ん……うん。…わかった。行くよ、一緒に」

 

___________週末。

 

 ボク達は今レース場にいる。レース場には地響きがしていた。何故なら…案の定、カイチョーが圧勝したから。…この地響は全てカイチョーに向けられている歓声によるものだ。

 

「…………………」

 

「…どうだった?」

 

「…やっぱり、カイチョーはすごいなって…。強くて、速くて、最高にかっこよくて…」

 

「……ねぇ。ボク、カイチョーと話がしたい。…一緒に来てくれる…?」

 

「うん、行こうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わーっ、言っちゃった言っちゃった!! えへへ、まだちょっとドキドキしてるよー」

 

 新人トレーナーの言う通り、レースを見てみたらイガイガの理由がわかった。…ボク、カイチョーに憧れてた。それと同時に…ボクはありとあらゆる声援、称賛をその一身に受けることができる…最強のウマ娘になりたかったんだ。

 

 ……そして、言った。言ってしまった。カイチョーに……宣戦布告してしまった! あのカイチョーに!

 

 皇帝を越える帝王になる、と…!

 

 …これを言えたのは……本当、新人トレーナーのおかげと思う。

 

「……一緒に来てくれて、ありがと。…キミのおかげで……ほんとに………色々、ありがとう」

 

「困ってるウマ娘がいたら誰でも助けるのがトレーナーさ」

 

 ……カイチョーの言った、信頼できるトレーナーって……きっと、この人のことだ。

 

「…トレーナーはさ…」

 

「うん?」

 

「まだ、担当の子、いないんだよね?」

 

「うん」

 

「……じゃあ」

 

 

 

 

 

「トレーナー」

 

 

 

 

 

「これからも、よろしくね!」

 

「……へ」

 

「?」

 

「…今、これからも…って」

 

「うん。そうだよ?」

 

「それって……」

 

「……もーー。何でこういう時はニブイのさー! それじゃあボクのトレーナーは務まらないよ!!」

 

「………………」

 

「……トレーナー?」

 

「よっっっ…し……!!」

 

「わぁ!?」

 

 新人トレ………トレーナーが人目も憚らず突然大振りのガッツポーズをし始めた。

 

「いや、ま、まさかテイオーのトレーナーになれるなんて……もっとベテランの人が指導することになるかと」

 

 ……ボクがせっかく今決めたのに…もう。

 

「……じゃー今からベテランの人を探してこよっかなー」

 

「あっ、待って、ごめん! ごめんって!」

 

「はぁ〜……それで? どうするの?」

 

「……よろしく、テイオー。きっと最強にしてみせる」

 

 …うん、100点の返事。

 

「…よし! ここからだよ、トレーナー。無敵のテイオー伝説が始まるのは!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、ボクはトレーナーの元でたっくさんトレーニングして、たっくさんレースに勝った。

 目指すは三冠ウマ娘。そして一冠目、皐月賞。絶対に勝ってみせる。

 

 このまま、無敵のテイオー伝説を築いて行くんだ。そして…カイチョーにも勝って……最強のウマ娘になる。なってやる。




 次回、テイオーの病み始め。

 ごめんね、伝説は途中で終わっちゃうんだ…()


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sideテイオー(回想.2)

 ダイジェストゥ。


 トレーナーの作るトレーニングメニューは…びっくりする位ボクにぴったりだった。

 

 何でこんなしっくり来るトレーニングをぽんぽん思い付くの? って聞いてみたら、曰く。

 

「テイオーは足首の柔軟性がスパートのバネに直結してるから」

 

 と言うことで。主にそれを重点的に伸ばすようなトレーニングが多かった。もちろん、基礎トレーニングも毎日欠かさずやったけど。

 

 …よく見てくれてるなぁ。

 

 ボクはそんな調子でトレーニングを続けて…メイクデビューして、トゥインクルシリーズでは無敗のまま…三冠の一冠目、皐月賞を無事に手中に収めた。

 

 …皐月賞に勝ってからは、ボクはトレーナーの作るトレーニング、指示を手放しで信用するようになってた。

 信用してなかった訳じゃない。ただ、これはこうの方がいいんじゃないかな〜、って個人的に口を挟んだりする程度はしてたから。

 元々、皐月賞はボクでも苦戦は必至、って考えてたんだけど…トレーナーの指示通り走ったら結構良い運びで勝てたし、トレーニングの成果も実感できたし…もう全部トレーナーに任せちゃっていいやって。

 

 ……トレーナーはボクよりもボクのカラダに詳しいみたいだったし。

 

 …この辺りから、ちょっと左足首に違和感を感じ始めてた。違和感そのものは…ほんっとーに小さかったし、大したことじゃないって思ってたから、トレーナーには黙ってた。

 

 続く日本ダービーも…もちろん手中に収めた。…ちょっとかっこつけたくて、観客に向かってカイチョーみたいに二本指を掲げてみたりしたなぁ。

 …だけど、走り終わった後……足首の違和感がすごい大きくなってることにに気付いた。……ボクはまだ三冠を目指してる最中。トレーナーに休め、回避しろと言われるのが怖くて、黙って練習を続けた。……ボク、悪い子かな…。

 

 案の定、左足首の違和感は日に日に大きくなって行って……ついに。

 

「ぁあっ!?」

 

 練習中に、急に来た左足首の痛み。それに思わず脚を庇うため、体を丸めて地面に倒れ込んでしまう。

 

「テイオー!?」

 

 ああ、どうしよ、トレーナーの焦った声が聞こえる。黙ってたこと、怒られちゃうかな。

 

「だ、だいじょう…」

 

「保健室! 保健室行こう!」

 

「あぁ、待って…大丈夫だから」

 

「ごめん、テイオー…! 気付いてあげれなくて…」

 

「ぁっ…」

 

 トレーナーはギリッ、と歯を噛み締めながらボクを姫抱きして、保健室へと飛んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………折れかけていますね」

 

 …保健室の先生からそう宣告される。

 

「ずっと、足首に負担を掛け続けないと…こうはなりません」

 

 この一言でトレーナーの雰囲気が変わるのがわかった。

 

「……テイオー」

 

「ぅ……」

 

 …責めるような口調じゃない。だけど、お腹の奥がキュッて締まるような感じがした。

 

「…いつから…?」

 

「…ダービーに…勝ってから…本格的に…」

 

「…菊花賞までに回復するのは難しいでしょう。回避するべきです。無理に出たら…選手生命も危ぶまれます」

 

「! そんな! ボク、三冠を目指して…!」

 

「落ち着いて…落ち着いて…」

 

 トレーナーの横槍が入る。

 

「一回、トレーナー室に戻ろうか」

 

「……う…ん…」

 

 …先生に挨拶をして、保健室を出た。そのままトレーナーに支えられて…トレーナー室に。

 

________トレーナー室へ。

 

 今、トレーナーと向かい合う形で椅子に座っている。

 

「…どうして、黙ってたの?」

 

「………菊花賞に……出たかったから…」

 

「……うぅん…」

 

 トレーナーが眉間を右手で押さえて俯いてしまった。

 

 ……次に掛けられる言葉を、何となく予想できた。

 

 回避しよう、止めておこう、って。

 

 だから、そんな言葉を聞きたくなくて、ボクは先手を打った。…本当に、ワガママな先手を。

 

「……ボク、出る。出たい」

 

「菊花賞、諦めきれない…!」

 

「何が何でも、絶対に…出てやる…!! せっかく、ここまでやったんだから…!!」

 

「…スゥゥゥゥ……」

 

 トレーナーは目を瞑りながら大きく息を吸った。

 

「…そう、だよなぁ…」

 

「出たいよなぁ……」

 

「でもな、テイオー…」

 

「…カイチョーが、通った道なんだ。カイチョーを越えるためには…まず三冠から抑えないといけないの!!」

 

「こんな所で…躓いてられない!」

 

 椅子から思い切り立ち上がる。それで弾かれた椅子がガタン、とトレーナー室に大きな音を響かせた。

 

「脚の痛みなんて、休めば治るもん!」

 

「それに、多少痛くたって走れる! トレーニングはそのままで大丈夫だから!!」

 

 これでもかと捲し立てる。それで、足首が治る訳でも、状況が解決する訳でもないのに。

 

「…ダメだ」

 

「っ!」

 

 …やだよ、そんな……。

 

「……そんな状態じゃ全力を出せない」

 

「…へ」

 

「テイオーが全力を出せるようにしなきゃだめだ」

 

「…! そ、それって…」

 

「あぁ、まだ諦めるには早い。今日から全力で足首のケアをしよう」

 

 さっきまで黒ずんでいた視界がパァァァッ、晴れてくような感じがした。

 

「と、トレーナー…! ありが」

 

「ただし。激しいトレーニングは禁止」

 

「…ぁぅぅ…」

 

 それは…しょうがない…よね…。トレーナーからしたら、これ以上譲れない位ボクに……。

 

「そこはわかって…」

 

「……うん…」

 

「…………」

 

「…………」

 

 ここで一旦冷静になって……。トレーナーに、あんまりなこと言っちゃった。

 

 ……トレーナーに謝らないと。

 

「…トレーナー」

 

「?」

 

「黙ってて……ごめんなさい」

 

「……………」

 

 …トレーナーの手が突然ボクの頭に伸びた。

 

「わひゃぁ!?」

 

 ぐわしぐわしと頭を撫で回される。……トレーナーの手、おっきい……じゃなくて!

 

「や、やーめーてー!」

 

「これでおしまい。ほら、さっそくマッサージを試してみるぞ」

 

「あ、う、うん!」

 

 この日からトレーナーとボクのケア生活が始まった。マッサージ、鍼治療、足ツボまで何でもして……菊花賞まで後一ヶ月、という所で左足首は回復した。

 保健室の先生に無理だと言われた菊花賞。…奇跡…って言うか、そういうのって起こせるんだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肝心の菊花賞は…無事に三本指を掲げることができた。…これで一歩…カイチョーに挑むに相応しいウマ娘に、一歩近付けた。

 

「おっ、テイ」

 

「とれーぇなぁーー♪」

 

「うぐぉぉぉ!?」

 

 菊花賞後、ボクは急いで控室に飛び込んだ。無事にボクを三冠ウマ娘に導いてくれたトレーナーにいち早く会いたかったから。

 

 トレーナーがボクに振り向いてくれるなりぴょーんとジャンプしてトレーナーに抱き着いた。

 

「て"…テ"イ"オ"ー…」

 

「トレーナー! ほんとにありがと! ボク、トレーナーがいなかったら……」

 

「…俺の方こそ…三冠を取ってくれて、ありがとう」

 

 背中をトレーナーの手が撫でてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 菊花賞から数週間後の夜。マヤノがまた何か雑誌を読んだのか、唐突に恋バナ? することになった。内容はどんなタイプの人が好きー? とか、そんな感じ。

 ボクも多少興味がある内容だったから、マヤノがペラペラと早口で何か言ってる間に、モワモワとちょっと頭の中に好きなタイプを思い浮かべてみる。……すると、輪郭が少しずつはっきりして行って…トレーナーの姿が頭に現れた。

 

 …ボクの好きなタイプってトレーナーみたいな感じなのかな。どうなんだろ……。でも浮かんだのがトレーナーだったってことはそうなのかな……わかんないや…。

 

 トレーナーがボクの好きなタイプだとしたら。じゃあ、ボクはトレーナーが好きってことなのかな? 

 

 …もう寝よっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。練習場のコースにて、ボクは無表情でトレーナーと対面していた。

 

「ねーえー。他の子のこと見てたの? ボクが走ったばっかじゃーん」

 

「い、いや、ちょっとテイオーの走りの参考にならないかなって」

 

「……むぅ」

 

 昨日の夜、あんな話をしたせいでちょっと意識しちゃう。今まではなんとも思わなかったのに。

 腕を組んで見せてボク不機嫌でーす、ってアピールしとこ。

 

「トレーナーは誰のトレーナー?」

 

「テイオーの…」

 

「そうだよねー、ボクのトレーナーだよねー?」

 

「ならさ、もうボクの走りの凄さはわかってるよね。見るべきはボク? それとも他の子?」

 

「…そりゃあ、テイオー…だよ」

 

「……ふふーんっ! わかってるじゃん!」 

 

「…じゃあ、もう一周走ってくるから。目に焼き付けてね! 他の子よりもボクが凄いって、上書きしてあげる!」

 

「が、がんばれー」

 

 この日は一周多く走ってみせた。…トレーナーの記憶に他の子の走りが残ってるって考えると、なんとなく気持ち悪かったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこからは特に何も起きず、マックイーンとMT対決をしたり、秋天に出走したり、ジャパンカップに出走したりで、トレーナーと一緒にテイオー伝説を紡いで行った。

 

 ボクにもある程度箔が付いてきた頃。ついに…カイチョー自らボクの所に来てくれて…ボクと戦いたいって…宣戦布告、されちゃった。

 これはボクがカイチョーへ挑戦する権利を得たということ。カイチョーがボクを戦うに相応しい存在だと認めたということ。…ついに、ここまで来たんだね。

 

 この話はすぐにMT対決の時みたいに話題となった。帝王vs皇帝だー! ってね。

 

 決戦は有マ記念となる。だから、本当に死ぬ気でトレーニングした。

 

 有マ記念前日のコンディションは絶好調。……だけど、ボクはここで思い知らされた。帝王最大の弱点は、脚の脆さにあったんだって。

 

 カイチョーと雌雄を決する有マ記念で…ボクはとんでもないアクシデントに見舞われた。ゲートから飛び出すと同時に、左脚全体に痛みが広がったんだ。筋肉、そして骨を巻き込んだような痛みだった。本当に突然のことだった。いつ、こんな爆弾を抱え込んでたの…!?

 もちろん、そんな状態でボクが全力を出せる訳もなく…脚を庇いながら走ったせいで…ボクはレース人生で初めて…11着の惨敗。さらに初めて掲示板を外してしまった。

 

 カイチョーはレース後にすぐ駆け付けてくれて…これはしょうがない、勝負はお預けだと言ってくれたけど……負けは、負けだよ。何の慰めにもならない…。

 

 レース後、ボクは筋肉の損傷と骨折の両方を言い渡された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅぅぅぅぅぅ………」

 

 病院のベッドの上でグズグズと唸る。

 

 せっかく、カイチョーと最強決定戦をするチャンスだったのに…。こんな…こんな……。

 

「テイオー…」

 

 隣にいるトレーナーが両手でボクの肩を擦ってくれた。

 

「ボク、何か悪いことした…?」

 

「ボクはただ、最強無敵のウマ娘を…目指しただけなのに…!!」

 

「……神様は…いじわるだよ」

 

 病室に恨み辛みの籠もった怨嗟が木霊する。

 

「…俺がもっとちゃんと…テイオーの脚を管理できてたら…」

 

「トレーナーのせいじゃない!!」

 

 思わず大声を出してしまう。

 

「…トレーナー。…ボク、このままで終われない」

 

「……………」

 

「…菊花賞のこと、覚えてる?」

 

「トレーナーとボクならさ。また、菊花賞の時みたいに、奇跡、起こせるよね?」

 

 半ば押し付けるような、呪い染みた一言。だけど、トレーナーは…。

 

「……ああ。やってみなきゃ、奇跡は起きない」

 

「それに俺にだって……まだテイオーが止まる所を見たくない」

 

 首を縦に振ってくれた。

 

「…えへへっ。やっぱりボクのトレーナーは……トレーナーしかいないや」

 

「ボクと一緒にまた…奇跡、起こそ?」

 

 トレーナーに向かい、にかっと笑って見せる。…トレーナーはどうしてか苦笑いを返してくれた。

 

 不思議と、自分の脚は治ると思い込めた。何故か、奇跡は起こると信じることができた。トレーナーなら、ボクをきっとより良く導いてくれるって…妄信してたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …ボクがリハビリをしてる間に。ボクのライバル、メジロマックイーンはボクの後を追うように、繋靭帯炎と宣告された。まるでボクの次はマックイーンだ、と言わんばかりに…狙い撃ちされたような怪我だった。

 

 …神様って、酷いんだか、優しいんだか。名誉の分だけ、奪うっていうの?

 

 この不条理に納得できなかったのか…それとも悲観的にならなかったのが功を奏したのか。ボクは…決して短くない時間をリハビリに掛けて…ついに、有馬記念までに傷を完治させることに成功した。…トレーナーが付きっきりで面倒を見てくれたのも大きいし、ファンの皆の応援と、マックイーンとか、ダブ…ターボの応援も大きな助けになった。

 

 ……リハビリ期間中、トレーナーはお給料がもらえてない。…そこまでして、ボクに掛けてくれたんだから…感謝しか、ない。

 

 レースで返さなきゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 有マ記念前夜。最後の慣らしトレーニングも終わり、明日に備えてお風呂にも入ってトレーナーとの最終ミーティングも終わった頃。

 

 トレーナーは未だパソコンに向かい合っていた。

 

「トレーナー。まだ仕事終わらないの?」

 

「ん? いや、テイオーの今までのタイムだとか勝ち方を見てシミュレーションしてるんだよ。もっといい作戦を思い付くかもしれないし」

 

「…………」

 

 …トレーナーはよく、ボクのためにパソコンや書類とにらめっこしてくれる。

 三年前から、ずっとボクのために、こんな感じに夜遅くまで働いてくれていた。

 仕事時間外でもボクのために色んな事をしてくれた。ボクとウマッターで適当に会話してくれたりとか。ボクのワガママで遊園地に一緒に来てくれたりとか。

 たまに言い合いにもなって、いつの間にか仲直りして…ボクにとっては気の抜ける相手。

 そんなトレーナーが…はっきり言って好きだった。恋愛的な好きか、家族愛的な好きかは区別が付かない。だけど……とにかく好きだった。

 

 …トレーナーの座ってる椅子の後ろから…ぼふっ、とトレーナーに抱き着き、両腕を首に回して、左肩に顎を乗せる。

 

「おあっ………テイオー?」

 

「…トレーナー。ボクのためにずっと頑張ってくれて、ありがと」

 

 ぺた、とほっぺた同士をくっつけ、すりすりと頬擦りしてみる。…トレーナーのほっぺ、ちょっとかたーい。

 

「……これからも…ずっと、一緒にいてくれる?」

 

「…………テイオーが。走り続けるなら、側で支え続けるよ」

 

「…………………」

 

 …頭の中が幸せいっぱいになって、抱き締める腕に力が籠もる。

 

 トレーナーはボクの手を握ってくれた。

 

「…約束だよっ」

 

「うん」

 

 …その後はお互いに何も言わず、いい時間になるまでずっと一緒にいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当日。有マ記念では…カイチョーと、トレーナーと、マックイーンが控室から送り出してくれた。

 かなり久しぶりのレースで…ボクは受けて立つ立場ではなく…皐月賞や日本ダービー以来の、挑戦者として戦った。

 ボクはこれまでに無い位我武者羅に走って……今日の勝利の女神がボクに口付けをしてくれた。

 

 復活の有マ記念。奇跡を願って、奇跡を起こし…帝王は泥だらけになって帰って来た。

 

 …ボクはこれで一生分の運と奇跡を使い果たしちゃった。




 次回、テイオーの病み始めその2。

 回想を分割しないと1話で2万字になりそうだったので3分割することになりそうです。


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sideテイオー(回想.3)

 UA6万達成ですと…。総合評価も700に…読者様様…。



 復活の有マ記念。ゴールラインを走り抜けた後、ボクはターフに倒れ込んだ。…そして起き上がることが、できなかった。

 …今回の有マ記念に向けて大分休んだけど、ボクの左脚は耐えられなかったみたい…。レース中に分泌されたアドレナリンやらで、一応走り切るまでは誤魔化せてたけど…走り終わった後、ジワリジワリと、左足首が痛みだした。

 

 さすがのボクも顔が青くなったよね。

 

 ボクは有マ記念で復活して、終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクは今病室、そのベッドの上にいる。

 

 …まぁ…多分骨折だろうなぁ。もう三回目だよ…。

 

「テイオー。脚の調子はどうかな?」

 

「うぅーん。まだジンジンするかなぁ…」

 

 有マ記念後、ボクは急いで病院に運び込まれて治療を受けた。今、左脚は包帯でぐるぐる巻きだ。

 

 それから一日過ぎた今日、カイチョーとマックイーンが急いでお見舞いに来てくれた。

 

「……有馬記念、お見事でした」

 

「…へへーん! ありがと、マックイーン」

 

「本当に、奇跡を引き起こすなんて…」

 

「…うん。何かね、嫌じゃん。気に入らないじゃん。ボクとマックイーンが怪我して、そのまま終わりなんて。だからちょっと、噛み付いてみたの」

 

「……………」

 

「その…さ。マックイーンは……」

 

「…………………」

 

 マックイーンは首を横に振った。

 

「……ごめん」

 

「いえ………繋靭帯炎は誰にでも起こり得ること。私も、覚悟はしておりました」

 

「…最後に、あなたの走りを見れて…私は満足です。諦めないことの大切さを…多くの人が学べたはず」

 

「……ありがとね、マックイーン」

 

「ええ。では……私はこれで。ごきげんよう、会長。…トウカイテイオー」

 

 マックイーンは麗しくスカートの端を掴み一礼する。

 

「ばいばーい」

 

「ああ」

 

 ボクはぶんぶんと右手を振り、カイチョーは右手を胸元にまであげ、小さく振った。

 

 マックイーンは最後に僕を見て軽く微笑み…少し脚を引き摺りながら、病室から退出した。…静かな病室に扉の音が響いた。

 

「……カイチョー」

 

「?」

 

「怪我が治ったらさ、本当の決着、着けようよ!!」

 

「…っはは。テイオー。もうその話か。気が早いな」

 

「だーってー。あんな情けない姿をカイチョーに見せちゃったんだからさー。リベンジしたいじゃーん!」

 

「でも、そうだな…テイオーと全力で競えなかったのは、私としても残念至極だ。怪我が治れば…それもまたいいだろう。望むところだ」

 

「おっ。じゃあ? じゃあ?」

 

「…そのリベンジマッチ、受けて立とう」

 

「…聞いちゃったからねー。ばっちり聞いちゃったからねー? 今度は…ボクから宣戦布告させてもらうよっ!!」

 

「ふふふ……だが。まずは怪我を治すことを優先してくれ」

 

「ん…うん」

 

 そこから一旦会話は途切れて……沈黙は扉の開かれる音により破られた。

 

「テイオー……あれ、ルドルフ」

 

「やぁ、トレーナー君。ちょっとテイオーのお見舞いをね」

 

「ああー、それはお疲れ様。わざわざごめんね、ルドルフ」

 

「いや、いいんだ。…さて、ここからは君たち二人の時間だ。私はお暇させてもらうよ」

 

「あっ、じゃーねーカイチョー」

 

「じゃあな」

 

「また」

 

 カイチョーはトレーナーが来てもう大丈夫だって判断したのかな。ボクらに軽く手を振って、そのまま病室を後にした。

 

「………テイオー」

 

「んー?」

 

「これから言うことを落ち着いて聞いてくれ」

 

「え……うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナー。ボク、まだ走れるよね」

 

 病院からはその日限りで帰った。

 

 そして病室から一旦トレセン学園に戻って…今薄暗いトレーナー室にいる。

 

 トレーナーとボクに影が差していた。

 

 …ボクは三度目の骨折だと宣告された。ここまではまぁ、予想してたことだし、驚きは無かった。

 …その後に続いた言葉は、生まれて初めてボクに血の気を引かせた。

 もし、また走って折れば、もう二度と立つことができないそうな。

 

「テイオー…。今回ばっかりは、奇跡は起こりそうにないよ…」

 

 …嘘、言わないでよ。トレーナーは、2回も奇跡を起こしたんだよ。

 

「…やだ。止めてよ、トレーナー。トレーナーはどんな時だって諦めなかったじゃんか。トレーナーとボクなら、今回だってまた!」

 

「……今なら、まだテイオーの脚は歩けるまでは回復する。…テイオー。もう、テイオーは十分頑張ったよ。だから、もう休もう?」

 

 休む? ボクが? トウカイテイオーが? レースから手を引けと? そんなの…そんなのって。

 

「止めて。言わないで。言わないで…」

 

「テイオーの脚が治るまでは、最後まで、トレーナーとして仕事を全うす」

 

 トレーナーは苦しそうな顔をしていた。…苦しいならさ、言わなくてもいいじゃん。

 

 …これ以上言わないで。………言うな!!!!

 

「トレーナーー!!!!!」

 

 お腹の底から吐き出すような叫びでトレーナーの声を掻き消す。

 

「…そんな事聞きたくない!!二人で……二人で無敵のテイオー伝説を作ろうって、約束したでしょ!?忘れたとは言わせないよ…!」

 

「……ぁ…」

 

 トレーナーが雷に打たれたように口をパクパクと動かしている。

 

「それに、そんな弱気なトレーナーはボクの知ってるトレーナーじゃない!! もう、これでトレーナーとボクとの関係は終わりって訳…!?」

 

「菊花賞の時だって、有マ記念の時だって! トレーナーは絶対に諦めなかった! トレーナーの仕事はウマ娘の背中を押すことなんじゃないの!?」

 

 トレーナーと一緒に奇跡を起こしてしまったせいで、ボクは認識障害のようなものに陥ってしまっていた。

 ウマ娘の脚は脆い。ウマ娘によっては心臓の次に大事な部位。それが折れてそのまま引退〜、なんて、ザラだ。だけどボクはそれを乗り越えた。2度も乗り越えることができてしまった。だから、脚の怪我は治るものなんだって、思い込んでしまっていた。本能ではわかっている。これ以上は危険だと。だけど、トレーナーとの記憶が…それを認めようとしない。

 

「…そう、確かにウマ娘の背中を押すことが俺達の仕事だよ。でも…俺には……テイオーの脚を、奪えないよ…」

 

 ……ばか。ばかばか。……トレーナーの………!!

 

「ッッ!!! ………トレーナーの……トレーナーの……!!」

 

 喉に言ってはいけない、ボクとトレーナーの関係を徹底的に破壊してしまうような言葉が支える。

 

 ……口からそれが飛び出しかけた瞬間、頭にトレーナーとの思い出がフラッシュバックした。

 

 トウカイテイオー。キミにそれが言えるの?

 

「…っはぁ……!!」

 

 …既のところで…堰き止めることができた。

 

「………………」

 

「………テイオー…ごめんね……」

 

「……トレー……ナー…」

 

 …目の奥が酷く痛くなって、じわぁ、と視界が滲む。まただ、このやな感じの涙。

 

「………トレーナー…。ボク、頑張ったよね…?」

 

「ああ。テイオーは凄く頑張ったよ」

 

「……………本当に……これで終わりなんだ」

 

「うん」

 

「…もう、トレーナーとも一緒にいられない?」

 

「……うん」

 

「……やだよぉ。スカウトした時みたいに…しつこく引き止めてよぉ」

 

「…怪我が治るまでは。絶対一緒にいるから」

 

 …治るまでしか、一緒にいてくれないんだ。

 

「…怪我が治った後は…?」

 

「………………」

 

 トレーナーは黙り込んでしまった。……ボクの体からスーッ、と体温が抜けて行く。

 

「一緒にいてくれないんだ。…約束したのに」

 

「もう、ボクはいらないんだ」

 

「ちがっ…それは…!」

 

「そういう事だよね? 黙っちゃうってことは。ボクが走れなくなったら、他の子に乗り換えるんだ」

 

 トレーナーをまともに見ることができない。あの、キラキラとした、トレーナーとの時間を、もう一緒に過ごすことができない?

 

 ……それなりに利口なボクの脳は冷静に、トレーナーにもトレーナーの生活があるんだとボクに言い聞かせる。

 

「………………でも、しょうがないよね。トレーナーはトレーナーなんだから」

 

 でも、それとこれは、別だよ。

 

「ごめんね、トレーナー」

 

「いや……ごめん………テイオー…」

 

「……部屋まで……支えてくれる…?」

 

「…はい」

 

 トレーナーは立ち上がって、ボクに向かい手を伸ばした。ボクはそれを掴み、よろよろと立ち上がる。そして、横に立ててあった松葉杖を両脇に挟み込む。

 

「……行こっか」

 

「うん」

 

 カチャ、カチャ、と松葉杖の音を響かせながら、ボク達はトレーナー室を後にした。

 

 …骨折が治るまでは、ボクは学園預かりになった。骨折が治れば、中退。

 

 …あっけな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園でボクがリハビリをしつつ、トレーナーのお手伝いを始めた頃。何故か、その頃から…大人の人と話す機会が増えた。

 

 大体……何かの勧誘だったかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ、こんにちは、トウカイテイオーさん。わざわざこんな時に押しかけてしまって申し訳ありません。私はこういう物です」

 

 今日はおじさんだった。

 おじさんはそう言うと、ボクにペコペコとお辞儀をしながら名刺を渡して来た。……何何……ウマ娘セラピーの何ちゃら…?

 

 …う…胡散臭いなぁ。絶対顔に出てるよ、ボク。

 で…ウマ娘セラピーって……引退したウマ娘がこんなのに参加してるの見たことも聞いたこともないよ。

 

 そこからおじさんは身振り手振りを交えてウマ娘セラピーがどうのこうのと説明…いや、演説を始めた。

 

 …うん、まぁ、元気の無い人を有名なウマ娘がセラピーしてどうのこうのって、いい事ばっかり言ってたけど…。

 

 最後は案の定。

 

「トウカイテイオーさんも参加しませんか?」

 

 勧誘だった。

 

 どうだ? とおじさんはじー、とボクを見つめる。

 

 ……この人を見ていると何か言い知れぬ違和感を感じる。…ボクのことは見てる。だけど……。

 

「…前」

 

「話はそれだけですか?」

 

 ボクが前向きに検討しておきます、と言いかけた所で、突然横から現れたトレーナーがボクの盾になるように、斜め前に陣取った。

 

 …トレーナーの背中は、すっごい頼もしく見えた。

 

「…テイオーはまだリハビリ中ですので…本日はこれ位で」

 

「………………」

 

 …トレーナーとおじさんが数十秒見つめ…いや、睨み合う。

 

「……えぇ、そうですね。全く配慮できていませんでした。申し訳ありません」

 

 見ててヒヤヒヤしたけど……おじさんの方が折れてくれた。

 深々とお辞儀をして、おじさんはこの場から去っていった。

 

 トレーナーがぽんぽんとボクの肩を叩く。

 

「…テイオー。リハビリに戻ろうか」

 

「……うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その数日後。

 

「…テイオーはまだ心の準備ができていません。怪我をしたばかりです。それにどうこう求めるのは、少々残忍酷薄では」

 

 今日はウマ娘基金なる所の人が来た。カイチョーと思い出話をしてる時だった。

 

 カイチョーのピリッとした気迫を感じたウマ娘基金の人達は、カイチョーから逃げるように去っていった。

 

 …隣にいるカイチョーを見上げる。

 

「………カイチョー。最近ね、ずっとああいう人達に会うんだ…」

 

「テイオー……」

 

 カイチョーは何か思う事があるのか…俯いてしまった。

 

「……テイオー。…頼れる人を…探すといい」

 

「うぇ? 頼れる…人?」

 

「ああ。友人…メジロマックイーンや……私でもいい。トレーナー君でもいい。…テイオーが信頼できる人がいい」

 

「…う、うん。わかった」

 

 ……ボクがこの言葉の意味を理解するのに、そんなに時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さらに数日後。

 

「…大人数で押しかけられてしまうとテイオーも困ってしまいますよ。また日を置いてから…ではいかがでしょう」

 

 …今日はどこかの宣伝大使になりませんか…っていう勧誘が来た。今度はマックイーンと一緒にリハビリをしている時に、複数人で、だった。

 

「……………えぇ、えぇ、そうですね。私達の不徳の致すところでした。申し訳ありません。……では…失礼します」

 

 集団の代表者っぽい人が残念そうにしながら、ぞろぞろとまた帰っていった。

 

「……マックイーン、慣れてる?」

 

「…えぇ。私はメジロですので。良くも悪くも、様々なお方と顔を合わせる機会があります」

 

「マックイーン…大変だったんだね…」

 

「えぇ……まぁ。有名なウマ娘の宿命と言いましょうか」

 

「有名になるのも考え物だねー」

 

「………でも、何でボクが引退するって決まってからこんなに…」

 

「…走れないウマ娘の用途……ですかね」

 

「用途ぉ? えー、そんな物みたいに…」

 

「もう走れない有名なウマ娘は宣伝や広報にしか使えないのでしょう? それもあのトウカイテイオーなら。私の所にも既に何件かお話が来ていますよ」

 

「や、やめてやめて! やな感じぃ! ボクたちは物じゃないよー!」

 

「ですね…」

 

「…ま、マックイーンは首を縦に振ってないよね。よね!?」

 

「えぇ、もちろん。全て濁してありますよ」

 

「ほっ……」

 

 マックイーンはしっかりしてるなぁ…。

 

「……マックイーンは…さ」

 

「はい」

 

「リハビリが終わった後、どうするの…?」

 

「…終わった後、ですか。そうですね……」

 

 マックイーンは右手を顎に添えてうぅん、と考え込む。

 

 …マックイーンって綺麗だから何してもお上品になるなー。

 

「…一般人として…お仕事をするか……もしかしたら、メジロ家が家庭教師をお招きして私に知識を学ばせ、何かビジネスの役に就けてくれるかもしれません」

 

「…そっかー。やっぱりお仕事する感じになるのかぁ」

 

「…テイオーは?」

 

「ボクは……まだ、全然決めてないや。まずはアルバイトから、始めよっかな〜」

 

「……困ったことがあったら、私を頼ってください。力に、なります。あなたは、ちょっと危なっかしいですから」

 

「…マックイーン…」

 

 ボクはマックイーンの肩に頭を寄せた。…マックイーンは尻尾がパタパタしてた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんなことが、何回もあった。一人でいる時に来られる事もあったし…。

 だから、ボクはトレーナーとか、マックイーンとくっついて過ごすようにした。

 

 そして、リハビリ期間中にわかったことがある。

 

 レース前に、ウマ娘と睨み合うことも、気迫のぶつけ合いをすることもあった。…それを怖いって思ったことは無かった。

 だけど……あの人達は正直、凄い怖かった。学園の外からボクに会いに来る人は……皆ボクを見てなくて…皆、トウカイテイオーと言う偶像しか見てなかった。こう、威圧的な怖さじゃなくて……得体の知れない…不気味な…何か、黒々とした怖さがあった。

 

 全員、お金目的だったのかな。ボクは…G1を勝ってるから、どう使えばいいかわからない位お金があった。

 …これを目的に近付いて来る人は、当然、いるだろうけど。

 カイチョーの言ってた、頼れる人を探せ…って言葉が、頭から離れない。

 …頼れる……人。

 …カイチョーは……レースとかトレセン学園の仕事があるし……何よりカイチョーには迷惑をかけたくない。…マックイーンは……多分、お家の力を使って助けてくれるけど…そういうの、みっともないよね。…じゃあ、トレーナーは……うぅん……トレーナーにはトレーナーの仕事があるけど…。

 

 …誰にも迷惑をかけないように…実家に帰るべきかな……。いや、でも……ボクの実家、とっくに割れてるよね。実家にまで何かの勧誘が来ないとは限らない。

 

 …そこはかとない、未来への不安が募る。普通に働けるのか? 付きまとわれないか? そもそも、怪我で引退したウマ娘の話を聞かないのは何で? 皆抜け殻みたいになるって本当? 

 

 走っていたからこそ覆い隠せていた問題が、次々と浮き彫りになる。

 

 ボクはその不安を拭うために…トレーナーを求めた。

 

 トレーナーにひっついたり、じーっ、と見つめたり。

 

 トレーナーと一緒にいると…何も考えなくていいから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とれーぇなぁー」

 

 書類の処理に勤しむトレーナーの肩を掴み、左肩越しに顔を置く。

 

「ん…どうしたテイオー?」

 

「んー」

 

 ぐにぐに、とトレーナーの肩を揉んでみる。…えっ、かったい。

 

「…トレーナー。肩凝り酷くない?」

 

「あー。…仕事、結構やってるからなぁ」

 

「結構仕事やってるって……この凝り方は結構じゃ済まないよ…」

 

「あ、あはは…」

 

「もー。ボクには散々無理するなって言ってた癖にー。トレーナーの方こそ無理してるじゃん!」

 

「だってぇ。テイオーと俺じゃ掛かる負荷が」

 

「だってじゃない! ほら、マッサージさせて!」

 

「ん……じゃあ…はい」

 

 トレーナーは一度体を伸ばすと、椅子の背凭れに背中を預けた。ちょうどよくボクに肩が差し出される形になってる。…マッサージの知識とかないけど、とりあえず力込めて揉めばいいんだよね?

 親指を使って捏ねるようにしてみる。

 

「うおっ……ぁぁ……いい…力加減…」

 

「えへ。ボク、マッサージの才能もあるかも!」

 

 …トレーナーはボクが親指で捏ねる度に変な声を漏らした。…ちょっと面白い。

 

 ……そう言えば。トレーナーってボクの事どう思ってるんだろ。タイミング的に…ちょうどいい、よね。

 

 …もしかしたら。

 

 あわよくば。

 

「…トレーナーはさ」

 

「ぅ……ん?」

 

「ボクのこと…どう思ってるの?」

 

「ぁぇ……ぁぁ、テイオーのことか…」

 

「うーん」

 

 トレーナーが頭を揺らす。

 

「…俺の知ってる言葉じゃ表せないなー。教え子みたいで…なんか、妹っぽくて……。まぁ、なんだ……かなり親しい存在だよ」

 

「………そっか」

 

 …トレーナーは、こういう方面で…百点の回答をしてくれることは無かった。

 

 多分…ボクが好きって言っても、はぐらかされるんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分とマヤノの部屋でぼーっと、電源をオフにしたスマホを見て過ごす。

 

 リハビリも終わりに差し掛かってる。

 …ボクは本格的に参り始めてた。ボク目当ての人の脚が絶えなかったのもある。何よりも…トレーナーのボクの心に占める割合が、リハビリ期間中に物凄く大きくなったのが大きかった。

 

 ボクが走れていた頃からトレーナーの存在は決して小さく無かったけど、走ることを奪われたボクは…意識せずに、その埋め合わせをしていた。その結果、トレーナーの存在は際限無く大きくなって行って。

 今ではボクの中はトレーナーで一杯だ。

 

 トレーナーはずっといてくれるものだと思ってたし、この関係はずっと続くんだー、って。根拠の無い確信を持ってた。

 

 いざ、トレーナーとの契約解消が迫ると、最近の不安と混ざり合ってお腹の奥側がギュゥゥゥって何かに握り潰されるような感覚がした。トレーナーはもう助けてくれない。トレーナーから離れないといけない。

 ……トレーナーから、離れたくない。

 

 ……どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう…。

 

 学園は関係者以外の立ち入りが許可制だ。それなのに、わざわざ何回もあの人達はボクの前に現れた。

 ボクの被害妄想じゃなければ…ボクが学園からいなくなっても……。

 

 …学園はもう守ってくれない。カイチョーも、マックイーンも、トレーナーも……皆も、いなくなる。

 

 ボクは、どうしたらいいの?

 

 トレーナー…教えてよ……。

 

 ……………。

 

 いっそ……。いっそ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクをトレーナーのモノにしてしまえば。

 

 

 トレーナーをボクのモノにしてしまえば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクの中にあった不安の塊は…ドロッとした。何かに、置き換わった。

 

 そう……だよね。お互い、好きになれば。両想いになれば。きっと、離れられなくなる。うん…きっとそう。

 

 …トレーナーは優しいから、大丈夫…なはず。

 

 スマホの画面に映るボクの顔は、随分とスッキリしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数ヶ月後。ボクの脚はちょっとした小走り程度ならできるまでには回復していた。そういう訳で、今日、ボクはトレセン学園を離れる。

 

「いやぁ、リハビリは結構大変だったね〜」

 

「テイオーが頑張ったから速く終わったな」

 

 …正直、このまま休養すれば脚も元に戻りそうな気がする。走るんなら、トレーナーと一緒にいれる。

 

「…今のボクさ、すっごく調子がいいんだよね〜? これはまた復活でき」

 

「テイオー」

 

 うぐ………付け入る隙もない……。ううううぅぅーー……。

 

「……本当に終わっちゃうの…?」

 

「……これは仕方のない事なんだよ、テイオー」

 

「はーぁ……ずっと一緒にいたかったな〜」

 

「うん…テイオーもずっと走りたか……ん?」

 

「ん?」

 

「そこはずっと走りたかったじゃないのか?」

 

「…ふーん」

 

 …ほんと、トレーナーはニブイなぁ。ぼす、と机に右肘を付き、その右手に頬を乗っける。

 

「新人のトレーナー達は皆鈍感って言うけど」

 

 これはウマ娘共通の認識だった。どうも、新人トレーナーはこういうのに疎いらしかった。…ボクはあんまり信じて無かったけど…。

 

「本当だったんだ」

 

「…どういう…?」

 

 …トレーナーは本当にわからないと言った様子だった。

 

「……トレーナーはさ、よくトレーナーとウマ娘が一緒に行方不明になる事件について知ってる?」

 

「い、いきなりどうした? 知ってるけど…」

 

「どうして一緒に行方不明になるんだと思う?」

 

「え。うーん……」

 

「理由は色々あるんだけどね」

 

「……わからんなぁ」 

 

「………よーし、決ーめた」

 

 …うん、やっぱり…ちょっと荒い手段を使わせてもらおうかな。

 

「? 何が?」

 

「ううん、なんでもなーい」

 

「?」

 

 トレーナーが首を傾げて見せるけど答えない。…答えたら上手く行かないもん。

 

「……まぁ、とりあえず……今日で契約は終わりだね…」

 

「…そうだな」

 

「…ボク以上の子、見つけられると思う?」

 

「…………無理だと思う。多分、ずっとテイオーが俺の中じゃ一番だよ」

 

「………だよね! うん! それを聞けて満足満足」

 

 …ボクをスカウトした時みたいに、百点の回答だった。トレーナー、時々エスパーみたいにボクの求めてることを言ってくれるんだよねぇ。やっぱりカイチョーの言ってた頼れる人ってトレーナーのことだ。

 

「とりあえず今日の所はもう帰るね〜」

 

「ああ。今までありがとうな、テイオー」

 

「うん。じゃあ、またね〜」

 

 カタン、とボクは椅子から立ち上がり、トレーナーに手を振ってからトレーナー室を後にした。

 

 トレーナー室前の壁に立て掛けてたリュックを背負い、学園の中を行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……今日で最後かぁ。朝の内に学園に引き払ってもらう私物以外は全部整理したし、本当に仲の良いカイチョー、ブライアン、エアグルーヴ、マックイーン、ネイチャ、ダブ………ターボ、スペちゃん、ウオッカ、スカーレット、ゴルシ、マヤノには挨拶しちゃったし……もうやり残した事、無いんだよねぇ。

 

 まぁ、本当に最後にやることと言えば……学園をじっくり見ることかな。行く先々にいる知り合いに最後の挨拶や、写真を取りつつ、学園の正門へ向かおう。

 

 と…別れのやり取りをしながら歩いてたからすぐ正門前まで着いちゃった。

 最後に振り返ってマジマジとトレセン学園の校舎を眺める。…学園って、こんなにおっきかったんだ。

 

 ……感傷に浸るのはこれ位にしよ。さよなら、トレセン学園。

 

 ボクは正門から脚を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   さーてと、確かトレーナーの家は……。

 

 

 

 

 

 

 

   こ っ ち だ っ た か な ー




 次回、葛藤するテイオー。


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sideテイオー.1

 さぁーて、トレーナーが帰り際にこっちの方向に向かうのは知ってる。…そしてこの方向の先にあるのは…トレーナー用マンション。多分、トレーナーはそこに住んでる。トレーナーは夜の8時には学園から帰ってるはずだから、大体その時間に訪ねよう。

 

 …部屋がわからないだろだって? 大丈夫、トレーナーの匂いは完全に覚えてるから。

 

 と言う訳で、お昼は適当に済ませて、時間になるまでブラブラしてよーっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガンッ! ガンッ! ガンッ!

 

 暗いトレーナー用マンションの敷地に何か硬い物に硬い物を打ち付けるような音が響いた。

 

 …ボクがトレーナーの匂いのする扉を叩いてる音だ。

 

「トレーーナーー」

 

「あーけーてーよー」

 

「いるのは知ってるんだよ〜」

 

「あーけーてー」

 

 ドンドンドンッ、とトレーナーマンションの扉を叩く。

 

 …開けてくれないなぁ。居留守かなぁ。おかしいなぁ。

 

「もしもーし?」

 

 インターホンを押して、そのカメラに右目を押し付けみるけど、これまた反応無し。

 

「…………おりゃりゃりゃりゃりゃ」

 

 ………インターホンを連打してみるけど…ピンポンピンポン連打した分だけ虚しく音が鳴るだけだった。

 

 スマホの時計を確認すると、既に8時30分である。帰ってないのはおかしい。

 

「…………トレーナー!!」

 

 バコンッ!!

 

 握り拳を作り、叩き付けるようにして扉をノックしてみる。でも……。

 

「……………トレーナー?」

 

 返事はない。

 

 ……フツフツ、不安と、焦りが混ざり合って、ボクから冷静な思考を奪って行く。

 

「トレーナーーー。居留守ー?」

 

 ガコンッ!!

 

 今度はドアノブに手を掛けて、思いっきり引いてみる。

 

 …トレーナーの部屋からは一切物音がしない。

 

「速く開けないと…扉、ぶっ壊しちゃうよ〜?」

 

 ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャとドアノブを何度も何度も回す。

 

 ……それでも、中からの返事は無い。

 

「……ハーッ、ハーッ……」

 

 もしかしてトレーナーに無視されてる? トレーナーに嫌われちゃった? 

 

 唐突にそんな考えが頭を過る。…それと同時に動悸が激しくなった。

 

「…トレーナー、お願い、開けて……開けてよ」

 

 最後に…トントントン、と手の甲の骨を使って優しく扉を叩いてみる。そして、ぴと、と耳を扉に貼り付けて中で音がしないか確認してみる。

 

 ……何の音も、返事もしない。

 

「………ふぅーー……」

 

「……トレ、トレーナーが…トレーナーがわる、いんだよ……トレーナーが」

 

 一旦扉から離れ、右足の爪先で床をトントンと叩いて。そして、右足をグググッ、と引き……力一杯ドアノブに向かって振り上げる。

 

 ゴギンッ……と言う鉄のひしゃげる鈍い音が響いた。

 

「ふーっ………」

 

 振り上げた右脚を降ろし、ドアノブを確認してみる。

 

 ……ドアノブは…見事にアッパーカットを食らって顎が上向いたボクサーのような状態になってた。

 

 ひしゃげたドアノブに手を掛け、引いてみると…ギギィ、と嫌な音を立てながら動いた。

 

 やった。

 

 そのまま開いてトレーナーの部屋に入る。

 

「…おっじゃまーしまーす!」

 

 真っ暗な部屋に、ホラー映画によくある耳障りな扉の音とボクの声が混ざり合った気持ちの悪い音がよく響いた。

「………トレーナー?」

 

 …………お家に入ってから気付いたけど、人の気配がない。

 

 スンスン、と部屋の匂いを嗅いでみるけど、トレーナーの匂いしかしない。部屋は間違ってないはず。

 

 …まだ帰ってきてないのかな。…玄関から上がろ。

 

 とりあえず、許可する人もいないので無許可で靴を脱いで上がり、トレーナーの部屋を行く。

 

 途中、物置や洗面所があって…やがてリビングに出た。リビングも含めて…トレーナーの家は飾り気が無かった。平凡で……ゲーム機が何台か置いてある位。そのゲーム機もしばらく使ってないのか埃被ってたし。

 

 残るは…寝室だね。

 

 リビングの奥の方にあるまだ開いてない扉に手を掛けて…開く。

 

 …うん、ベッドと収納棚とランプとかしかない平凡な寝室だ。

 

 ここにもトレーナーはいなかった……と、いうことは。まだ帰ってきてないんだ……。残業かな…?

 どうしよう、扉、蹴破っちゃった…。

 

 …弁償しよう。

 

 とりあえず、トレーナーがまだ帰ってきていないことがわかったから、寝室の隅にリュックをドサリと置いておく。

 

 トレーナーが帰ってくるまで何しようかなぁ…って考えてると、トレーナーが使ってるであろうベッドが目に入った。

 

「………………」

 

 キョロキョロと部屋の中を見渡す。もちろん、ボク以外に誰もいない。当然だ。

 …無駄に神経質になっているせいで無いはずの人の目を気にしちゃう、あれである。

 

「…よっ」

 

 軽くジャンプしてベッドに飛び込む。ベッドは柔らかくボクを迎えてくれた。…うん、ふかふかだ。それに…トレーナーの匂いもする。

 顔をベッドに押し付けて見ると、それはより強烈にボクの鼻孔を撫でた。

 

「〜〜〜〜〜〜〜っっ」

 

 体がふるりと震えて尻尾が天を突くように張る。

 

 これ、やっばい。

 

 ピリピリとした痺れのようなものが、体の奥側を伝って節々に伝播して…。

 

 や、やめよう、ちょっと、これは……ボクには劇薬過ぎ…。

 

 ボクは急いでベッドから転がって床に落ちた。

 

「はふぅ……」

 

 変態さんみたいだからこういうことはもうやめよ…。

 ズルズルと、四つん這いでリュックのある部屋の隅に移動しながらそう心に決めた。

 

「っしょ」

 

 部屋の隅っこで体育座りになる。ここでトレーナーが帰ってくるのを待とう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギギギィ、と。ついに扉の開く音がした。

 

 時間にして…一時間位かな?

 

 …やけにトレーナーの足音が遅い。疲れてるのかも。               

 何て声掛けようかなぁ。やっぱりお帰り、かなぁ。

 

 足音は寝室の扉の前で止まった。

 

 ガチャリ、とついに扉が開かれて…ボクはトレーナーと対面した。

 

「あ、お帰り、トレーナー」

 

 トレーナーは何故か両手に傘を持ってた。……チャンバラごっこ?

 

「は?」

 

 トレーナーは口をポカーンと開けて固まり、傘を床に落とした。

 

 …何に驚いてるんだろ。

 

「遅かったね、トレーナー。お仕事?」

 

「あ、あぁうん、仕事だったけど」

 

 ボクは極自然に、トレーナー室で一緒に戯れている時みたいに、トレーナーに話しかける。

 どうも予想通り遅くまで仕事してたみたい。

 

「………なんで……ここに…いるの?」

 

 …なんでいるのかって…。

 

「え〜? もう忘れちゃったの〜? さっきまたね〜って言ったじゃーん!」

 

 ボクの目的はトレーナーなんだから。

 

「それにトレーナーと離れる気なんて無いし」

 

「家までの道……教えてなかったよな……?」

 

「うん。でも、なんとなく匂いで場所がわかっちゃった〜」

 

「……どうやって……入ったんだ」

 

「んー? それはもちろん、ドアノブを蹴り壊して入ったけど…」

 

 トレーナーは目眩がして時みたいに手で頭を抱えてしまった。

 

「…テイオー。冗談は止めてくれよ…」

 

「冗談じゃないよ」

 

 トレーナーの肩がビクリと跳ねた。

 

 …? まぁ、いいや。

 

「トレーナーがさ、いると思って何回も何回もインターホンも押してノックもしたんだけど……誰も返事をしないから気になって自分で確認しに入っちゃった。冷静でいないと駄目だね〜」

 

「それで、居留守かなとか思ったけど、本当にいなかったから。だから帰って来るまで待ってたんだ〜」

 

 ボクが侵入した理由を丁寧に説明してると、トレーナーの顔は見る見るうちに青くなっていった。

 

 …酷いなぁ。せっかく会いに来たのに。トレーナー、ボクをお化けを見るみたいに……。

 

 トレーナーが一歩後退った。

 

 …………何で逃げようとしてるの?

 

「どこ行くの」

 

 少し怒気を込めて声を捻り出せば、トレーナーの脚は止まった。…そう、それでいいんだよ。

 

「ッ…」

 

「もうお仕事は終わりでしょ?」

 

 すぃ、と立ち上がってトレーナーを見上げる。…トレーナーは随分と怯えてる様子だった。

 

 …ほんと、酷いよ。ボクのどこが怖いのさ。

 

「どこにも行く意味、無いよね」

 

「今夜はさ、ボクとお話しようよ」

 

 一歩、トレーナーに近付く。…トレーナーは動かない。

 

「てっ、テイオー。まず何でこんなことしたのか教えてくれよ」

 

 …何でこんなことをしたか、か。…理由は正直何でもいいんだよね。でも、この場面でなら…。

 

「トレーナーがボクをこんなにしたから」

 

 これだ。…ボクの中の全てを、トレーナーで塗り潰されちゃったのは本当だから。

 

「……脚のことは………本当に………もうしわ」

 

 …ニブイなぁ。ニブイよぉ……。…ああ。

 

「違うよ。そのことじゃない」

 

「……え?」

 

 気付かないんだ。女の子がわざわざお家にまで押し掛けてくる理由。

 

「トレーナー」

 

 呆けた様子のトレーナーに、さらに一歩踏み込む。

 

「今までのレースの事はさ。すっごく感謝してるんだ」

 

「…じゃあ…?」

 

 …ピシリと自分の中で、何かが割れる音が響いた。

 

「……………………本当に気付かないんだ」

 

 トレーナーの前まで近付いていたボクは……両手をトレーナーの首めがけ伸ばし、ぎゅう、と掴んだ。

 力は全然込めてない。

 

「ゲゥッ…!?」

 

 トレーナーは呻いて膝を折り、ボクの前で膝立ちになった。…トレーナー、結構身長高いんだよね。膝立ちでも目線が合う位だから。

 

「て”い、お”」

 

 トレーナーが潰れたカエルのような声を出す。

 

「トレーナーが、悪いんだよ。ボクがいくら近付いても、アプローチを掛けても気付かないんだから。…こんなに、好きなのに。燃えちゃいそうな位に」

 

 グイグイとトレーナーの首を掴んででたらめに揺らす。揺らす度にトレーナーの頭は面白いようにぐわんぐわん揺れて。

 

 …ボクが揺らしてちょっとするとトレーナーは目が虚ろになり始めていた。

 

 そして、ぐるんと白目を……向く前に両手を離す。

 

「ッハァ……! …ハァッ……!? ッゥ………!!」

 

 ぼす、とお尻からトレーナーは倒れ込んだ。そのまま両手でぺたぺた首を触り、舌を突き出してヒュゥヒュゥ呼吸してる。

 

 …ぜんっぜん力込めてないのに。大げさだなぁ。

 

 ……それにしても。

 

「………アハハ…。……トレーナーは弱いね。こんな簡単に組み伏せれちゃうなんて。トレーナーとボクの力の差は歴然だね。いい事知っちゃった〜♪」

 

 手を握っては開き、握っては開きを繰り返す。

 

 今まで試してみたこともなかったけど、ボクとトレーナーとの間にこんな力の差があったなんて。……………トレーナーを……好き放題、できちゃうじゃん。

 

「…最初からこうしておけば良かったのかな?」

 

 膝を揃えてトレーナーの前でしゃがみ、呆然としてるトレーナーを眺める。

 

 …この光景にちょっとした高揚感を覚えた。

 

 今、ボクがトレーナーの支配権を持ってるんだ…。

 

 ……じっくり眺めていると、トレーナーの着崩したスーツの胸ポケットにスマホを見つけた。

 

 …そう言えば、前から気になってたんだよね、トレーナーと他の人のやり取り。

 

 シュッ、と素早くスマホを奪い取る。

 

「ちょ、テイオー」

 

 パスワードは…ボクの誕生日の下二桁とトレーナーの誕生日の下二桁。

 こういうのはもっと意味の無い数字の羅列にしなきゃ〜。

 

 トレーナーはスマホを取り返そうとしたけど、ボクがパスワードをクリアして伸ばした手ごと体を石みたいに固まらせてしまった。

 

「ふふーん! 何でわかった!? って顔してるね〜。……画面丸見えのままボクの前で使ってたよね。ボクを信頼し過ぎ。嬉しいけど」

 

 ちょっと自慢気に話しながら画面をスワイプしていく。

 

 まずは連絡用アプリから確認しよ…。

 

 ………………桐生院トレーナーとか、他のマネージャーとの履歴がたくさんある。

 

 何々……。

 

『今度またお店に行きませんか?』

 

『走法の開拓をしませんか?』

 

『抜かすにはやっぱり鋼の意志が必要だと思うんです』

 

 か。

 

 ……大分、仲良さそう。それにプライベートな質問まで…。

 

 ……………心臓辺りが何かに握られてる感じがして痛い。

 

「……ふうん。桐生院トレーナーとか、他のマネージャーさんとか。すっごい仲良さそうじゃん」 

 

「そ、それはたまたまって言うか…」 

 

 は? たまたま?

 

「頻繁にやり取りしてるのに?」

 

「……………」

 

「ボクとは素っ気ないのに」

 

「…テイオーとはまた学園で話せるから…」

 

「ボクはこっちでも話したかったよ」

 

「………ごめ…ん」

 

「……うん、だからね」

 

 ボクはトレーナーのスマホを水平に持って、パキリと真っ二つにした。

 

「なぁっ…!? テイオー!?」

 

「反省してるなら、これ、もういらないよね?」

 

 トレーナーの前で2つに割れたスマホをぷらぷら揺らして見せつける。絶望した面持ちでそれを見るトレーナーはちょっと可愛くて…。

 そしてそのまま後ろに向かって放り投げる。

 

「テイ…オー……」

 

 ……トレーナーが悪いんだよ。ボクが……いるのに。誰よりも近くにいたのに。

 

「ボク以外の人を、今は見てほしくないんだ。…ごめんね、トレーナー」

 

「……………」

 

「……トレーナーはさ、どうして気付いてくれなかったのかな」

 

 トレーナーはちょっと間を置いて……。

 

「あ、あの……テイオーはそういう対象として見れなかったと言うか……」

 

「…………………………………………………………」

 

 えづくような気持ち悪さがした。

 グツグツと体の芯から煮えて行く感じがする。……落ち着け……ないよ、これ。…ぁ、だめ。止まらない。頭まで真っ白になってく。目の前にいるトレーナーがぐにゃりと歪んで………グチャア、と思考も視界も真っ黒に染まった。

 

「………そっか」

 

「……トレーナー」

 

「トレーナー」

 

「トレーナー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレェェェェナァァァァ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクは咆哮した。レース中にも見せたことの無い叫びだ。

 

 トレーナーは顔が真っ青になってる。

 

「ぁ………ぁ………」

 

「ボクの……ボクの何が気に入らないのさ!!」

 

 怒りの赴くままに、トレーナーを突き飛ばす。

 

 …掌にぐにゅりとした柔らかい物を潰すような感覚がした。…人間って、本当に弱いんだね。

 

 トレーナーは痛みに顔を歪ませながら後ろに吹き飛ばされた。

 

「いっづ!?」

 

 そのまま仰向けに倒れ込む。

 

「ボクが生意気だから!? ちっちゃいから!? カイチョーみたいに美人じゃないから!?」

 

「……なら、ご飯をいっぱい食べて大きくなるよ。お化粧も覚えてもっと綺麗になる」

 

「…トレーナーが好きなボクになるよ。……だからボクを好きになってよ」

 

「……………」

 

 怒りをセーブするためにも痛い位に拳を握るけど、それでも収まらない。

 

「……ボクを好きになれ!!! 好きになってよ!! ボクをこんなにしたんだから!!!!」

 

 トレーナーを見下ろして、思い付いたことを手当り次第に叫び、今一番言って欲しい一言をせがむ。

 

「………て、テイオー……一回、落ち着こう…」

 

 ……トレーナーは…ボクを好きになる気は無いみたい。

 

「………ボクを好きになる気は無いんだ」

 

「ちが!? そうじゃない!!」

 

「…………………」

 

 そうじゃない? じゃあ、ボクを好きになれない理由は何? そもそもボクが嫌だって言うの? …いや。そもそもトレーナーはウマ娘とプライベートな仲になるのを嫌がっていたような気がする。

 トレーナーとのスキンシップは、基本ボクから仕掛けてて、トレーナーからは基本的にレースに勝った時に頭を撫でてくれる位がせいぜい。トレーナーからボクに何か仕掛けてくることはあんまりなかった…。でも、他のトレーナー同士の飲み会とかには自分から参加してたし………。

 

「…………あ」

 

 頭が沸騰してくれたおかげか、ピースを面白い位当て嵌めることができた。

 

「そっか、わかった」

 

 ようやく。理由がわかった。

 

「なーんだー。そういうことか〜」

 

 トレーナーはボクの耳と尻尾が嫌なんだ。ウマ娘よりもヒトの方が好きなんだ。だからいつも近くにいるボクよりも桐生院トレーナーの方がいいんだ。

 

 なら…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切り落としたらボクも桐生院トレーナーと同じになれるよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分の口角が上がるのがわかった。

 

「トレーナーはボクの耳と尻尾が気に入らないんだ〜」

 

「……は?」

 

 トレーナーが目を丸める。

 

「トレーナー! こっち来て!」

 

「ちょ、テイオー!? 待って! 待って!」

 

 待たな〜い。

 

 トレーナーの服の襟を引っ掴んで急いで台所に引っ張ってく。

 

 トレーナーは暴れてみせるけど、そんなの気にしない。今からトレーナーの好きなモノになるんだから。

 

 寝室から出てすぐリビングのキッチンなので……そこでトレーナーを離す。

 

 さーてと、包丁はっと…。

 

 戸棚を開いてカチャカチャお皿や調味料を掻き分ける。…調味料、味が濃いのばっかり。トレーナーは味濃いめの料理が好きみたい。…体大丈夫かな。

 

「……テイオー、そこは危ないから」

 

 トレーナーがか細い声でボクを止める。

 ……だめだよ、トレーナー。

 

「ううん、これでいいの」

 

「考えてみたらさ、トレーナーは桐生院トレーナーみたいなヒトには愛想振り撒いてたし、ボクみたいなウマ娘には一定の線引してたよね」

 

 ボクは戸棚を漁り続ける。

 

「……桐生院トレーナーとは、仕事仲間だし……」

 

「ミークから聞いたよ。温泉旅行に誘われたんだってね」

 

「旅行に誘われるってことはただの仕事仲間じゃないよね」

 

「…………………」

 

「トレーナーもさすがに断ったみたいで良かったけど。…行ってたら、ボク、おかしくなってたかもしれない」

 

「……もう、おかしいのかな? ボク。いや、人を好きになるのは、普通のことだよね? トレーナー? ……ねぇ……」

 

「う……ん……」

 

 トレーナーはすぐに頷いてくれた。

 そうだよね。ボクは変じゃないよね。

 

「…それでね、何でトレーナーがボクに興味を持ってくれなかったかを今考えてみたんだ」

 

 ………おっ、あった! うん、いい感じに切れそうでおっきな包丁。これならザクッと行けばちょっと痛いだけで済むよね。

 

「トレーナーはウマ娘なんかよりもヒトが好きなんだよね!」

 

「……ボクのこの耳と尻尾が気に入らないんだよね!!」

 

「こんな耳と尻尾……いらないよね」

 

「だからさ………トレーナーの手で切り落としてよ」

 

「トレーナーの手で、好きなトウカイテイオーにしてよ」

 

 刃物を取り出す時って本当にシャキンって音がするんだね。

 ボクは取り出した包丁の柄をトレーナーに向ける。

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーは…何故か、包丁じゃなくてボクに怯えているようだった。




 次回、泣いちゃうテイオー。


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シンボリルドルフ編
シンボリルドルフ(プロローグ)


 ルドルフ編はびちゃびちゃになりません。


「……………………」

 

 時間は夜。場所はトレーナー室。僕はパソコンに釘付けになっていた。

 パソコンの画面に映し出されるのはルドルフの最近出走したレースだ。それを見ながら明日のためのトレーニングメニューを書き出していく。

 

 …うん、相変わらず凄いよ。圧倒的な走りだ。文句の付けようが無い、完全に計算され尽くれた理想の差し。レースIQって言うのかな…それが既に僕を遥かに凌駕してる。正直もうレース前の僕の指示はいらないんじゃないかって位だ。

 

 いや。実際にもういらないんだろう。僕の頭の中にあるレースの知識は全部ルドルフのために出し尽くしてしまったし、ルドルフはとても頭がいいからそれらを全て吸収してしまった。これじゃ僕がルドルフのリュックだよ。

 …三年かぁ。速かったなぁ…。

 

 ルドルフに教えられることはもう何もないよ。

 

 ……って、何かの漫画のお師匠様ポジかいな。

 

 とにかく明日のためのトレーニングメニューは書き終わったし……と言っても、ルドルフに直すべき所が無いからひたすら能力トレーニングをする感じのメニューなんだけれど。

 

 今日はもう帰ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。生徒達の掛け声がよく響く練習場にてルドルフを待つ。

 ルドルフは生徒会の仕事が朝からパンパンなので練習場に来るまでが他の生徒よりも数十分遅い。速く来てくれた方がありがたいのが本音だけど、これはルドルフの望んだことだから言うことは何も無い。

 

 …ルドルフって書類の山を捌いた後にトレーニングもして授業にも出てるんだよね。トレーニング量も他の生徒と比較して少なくなるはずなのに、一体どうやってあの戦績と走りを維持しているんだか。

 …やっぱり積んでるエンジンが違うんだろうな。トレセン学園には時々ジェットエンジンを積んでるのかと思うような生徒がいるけど、ルドルフはそっち側だ。他がガソリンエンジンで走ってる中、ルドルフはジェットエンジンで撫で切る。それも涼しい顔で。

 つくづく……何でこんな僕が担当しているのかわからなくなる。もっと優れたトレーナーは他にもいるのに。

 

「___________ナー君」

 

 おっと。

 

「_____レーナー君」

 

 耳に完全に記憶された声がしたので、くるりと振り返る。

 

「トレーナー君」

 

「ルドルフ」

 

 ルドルフが小走りで練習場に現れた。ジャージ姿だ。

 

「おはよう、トレーナー君」

 

「おはよう、ルドルフ」

 

「…すまない。今日も遅れてしまった。なるべく間に合うように心掛けているのだが…」 

 

「いいんだよ、ルドルフは自分の目指す所を目指して」

 

「…ふふ…。…それで、トレーナー君。今日のトレーニングは?」

 

「うん、はいこれ。今のルドルフに合うように考えたトレーニングメニュー」

 

「ん…ありがとう」

 

 僕はトレーニングメニューの印刷された紙を挟んだボードごとルドルフに差し出し、ルドルフはそれを受け取った。

 

「トレーニングメニューは印刷されてる通りだけど、ルドルフの今の状態を一番わかってるのはルドルフ自身だから。変更したい部分は好きに変更してもらって構わないよ」

 

 それを聞いたルドルフはボードに一瞬目を落とし…。

 

「……………いいや。理想的なトレーニング組み合わせだ。それに今更トレーナー君のメニューを疑問に思うなんて」

 

「ん…そっか。じゃ、早速始めよう。まずは柔軟体操〜」

 

「ああ」

 

 ルドルフは屈伸、伸脚、前屈、足首や腰、股関節の柔軟をこなして行き…。

 

「……っふぅ」

 

「よし、柔軟終わり。次はアップの練習場一周。頑張れ!」

 

 ルドルフはコクリと頷き、その場で数度ジャンプすると…。

 

「さて……フッ……!!」

 

 ズドンと走り出した。……フォームに…おかしな所は無い。今日も絶好調みたいだ。走ってる最中にフォームも崩れないし、完璧。

 

 ……どうしよう、何も言うことがない。トレーナーとしての職務を全うできない。どうしよう。

 ルドルフが帰ってきたら褒める位しかできないなぁ…。……まぁうん、それだけでいいか、ウマ娘の走行フォームに一切の問題が無いのはいいことだし。

 

 ウマ娘が練習場を一周するのはとても速い。もう僕のいるゴールラインまで後100m位だ。

 

 今、僕の横をルドルフがよこぎ…。

 

 ブォンッ……っとルドルフが僕の横を走り抜けた後に風圧が来た。

 

 ……ヒェェ。

 

「お……お疲れ様」

 

「ふぅぅぅ………。…トレーナー君。私のフォームにおかしな点は無かったかな?」

 

「んああ、無いよ。全然。ビデオとかDVDにして中等部にみせてあげたい位完璧なフォームだった」

 

「…それを聞けて円満具足だ。さぁ、トレーニングに移ろう」

 

「うん、じゃあまずは_______」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルドルフは運動強度レベル5のトレーニングを楽々とこなしていった。

 

 

 

 

 朝のショットガンタッチでは…。

 

「フッ……!!」

 

 投げたボールをダイブすること無くキャッチし…。

 

 

 

 

 昼の将棋では…。

 

「がぁぁぁぁぁぁ負けたぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「ははは、これで私の56連勝目だ、トレーナー君」

 

「くぅぅぅぅっそぉぉぉぉ……」

 

 コテンパンに打ち負かされ。

 

 

 

 

 そして夕方のタイヤ引きでは…。

 

「ふ………ぐ………!!」

 

 もはやちょっとした速歩きで巨大なタイヤを引き、さらに。

 

「トレーナー君、あのタイヤ、増やせるだろうか?」

 

「ええっ!?!?」

 

 なんて衝撃的な発言をかます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……夕陽がルドルフの汗を照らしている。

 

 ……レベル5トレーニングってかなりきついはずなんだけどなぁ。ルドルフ、多少息を切らしてるけど目が全然死んでない。…レベル5トレーニング以上のトレーニングってこの世界には無いぞ。…どうしよう。

 

「…る、ルドルフ。今日のトレーニングはこれで終わりだよ。お疲れ様」

 

「ふぅ……もう終わりか。…トレーナー君こそ、お疲れ様」

 

「うん。じゃあ、僕はトレーナー室に戻ってるから。お仕事頑張ってね、ルドルフ」

 

「ありがとう。では」

 

 ルドルフは手を僕に軽く振り、僕もそれに振り返す。…満足そうにルドルフは練習場を後にした。

 

 ……ルドルフが僕の手に負えなくなっていくのを現在進行系で恐怖…しながら今日のトレーニングは終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トン、トン、トン、と気品を感じるノック音。

 

「どうぞー」

 

 入室許可と同時に扉が開かれ、現れたのは…。

 

「やぁ、トレーナー君」

 

「あれ、ルドルフ」

 

 ルドルフだった。

 

「どしたの」

 

「ちょっと、今後のレースについて情報を共有しておこうと思ってね」

 

「あぁー、そっか。まだその話し合いしてなかったね。…生徒会の仕事はいいの?」

 

「それは大丈夫だよ。この時間のために今日は速く終わらせて来た」

 

「ん…わかった。…立ってるのもあれだから…座ろうか」

 

「失礼するよ」

 

 ぽす、とルドルフは僕の対面の席に座った。

 

「それで……わざわざ脚を運んでもらったのに申し訳無いんだけど、レースの予定はしばらく無いんだよね…」

 

「む……そうか。理由は?」

 

「いやぁーー…敬遠だね」

 

「敬遠?」

 

「ルドルフの出走登録をしようとすると皆取り消して逃げちゃうんだよ」

 

「………皆、怯まずこのシンボリルドルフに牙を立てて欲しいのだが…」

 

「そうも行かないんだよ、勝負の世界は…」

 

「……ルドルフやマルゼンスキーみたいな子は避けては通れない道だよ」

 

 ルドルフは眉を下げて「ふぅ…」と溜め息を吐く。…ルドルフもわかってるんだろうけど、やるせないよな。

 

「…仕方がない。次のG1G2に向けてひたすらトレーニングすることにしよう」

 

「うん」

 

「しかし……困ったな」

 

「んん?」

 

「この時間のために書類仕事を速く終わらせてしまったから、しばらく時間の空きが…」

 

「あら……。…トレーニング…はもう全部終わってるからなぁ。さらにやるったってルーティンが崩れるしルドルフは疲れるし…」

 

「…………」

 

 ……ルドルフがこちらをじっと見ている。……これは何かを僕に訴えてる時の目だ。

 

「……ここで時間潰してく?」

 

 ピョコ、とルドルフの耳が揺れた。どうやら正解だったらしい。

 

「…そうしよう。いや、そうしたい」

 

「ん、わかった……」

 

 そうと決まれば引き出しを開いてお菓子箱を取り出そうとするが……肝心のお菓子を切らしていた。

 

「あー、どうしよ、出せる物が無いや」

 

「いいんだよ、トレーナー君。君との時間だ。君さえいればいい」

 

「ははっ、僕はそんなに楽しい物でもないのに」

 

「私にとっては最高の話し相手さ」

 

「はいはい…それで、何をしようか」

 

 ルドルフが一瞬考え込んだ。

 

「…トレーナー君、実は最近新作ができたんだ」

 

「おっ」

 

 知る人は少ないだろう。ルドルフは実はダジャレのスキルを磨いているのである。

 知っている人からのダジャレの評判は……あんまりよろしくない。

 

「どんなやつ?」

 

「こほんっ…」

 

 ルドルフは得意気に咳払いして見せて…。

 

「…菊花賞にきっかり勝つ」

 

「……………」

 

「………トレーナー君?」

 

「……………」

 

「………失笑するほ」

 

「ふっ………くふふふふっ……」

 

「!」

 

「どうだ…!?」

 

 ズイッとルドルフが目をキラキラさせながら身を乗り出す。

 

「あはっ、はははは……!! なんだそれぇ…! お、面白…!」

 

「そうか…そうか! ふふふっ…」

 

 ルドルフはそれを聞いて満足そうに席に直った。尻尾もご機嫌そうに揺れている。

 

「あふ…っ…ふふふ………ひぃぃぃ……はぁ………はぁ………わ、笑い死ぬ……!」

 

「これは自信作なんだ。お気に召したようだね」

 

「ふーっ………いやぁ、上手い。……菊花賞の賞ときっかり勝つの勝もかけてるね?」

 

「! 気付いてくれたかっ」

 

「今回のは大分頑張ったみたいだねぇ」

 

「そうさ。…君なら気付いてくれると思っていた」

 

「うんまぁわざわざ僕に披露するってことは手が込んでるってことだろうから…」

 

「それで………生徒会の子達には受けた?」

 

「……………………」

 

 ……耳がへなりと萎れてしまった。反応はどうやら芳しくなかったらしい。

 

「おっと失礼……」

 

「……ブライアンは反応してくれなかった。エアグルーヴは……頭を抱えてしまった」

 

「えぇー。酷いなぁ。こんなに面白いのに」

 

「トレーナー君。私達はやはり感性がおかしいのだろうか…?」

 

「そんなこと無いと思うけどな……センスが先鋭過ぎるのかもしれないし」

 

「そうだといいのだが…」

 

 こうしてしばらくの間ダジャレの話題や最近起きた面白い話で盛り上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 他愛もない話も一段落した頃。

 

「ルドルフはさ」

 

「?」

 

「今のトレーニングに満足してる?」

 

「……そうだな。今の所は…いい具合に体に負荷が掛かっていて丁度いいよ。だが…いずれはアレでも満足できなくなってしまうだろう」

 

 あ……あれすらもいつかはヌルくなると……。

 

「そっ……かぁ」

 

「………トレーナー君?」

 

「ああああ……ちょっとルドルフのための新しいトレーニングを考えなきゃって」

 

「…他でもない君だ。きっと私をよりよく導いてくれると、信じているよ」

 

「…う…ん」

 

「…では、トレーナー君。時計もいい時間を指している。私はこれで失礼するよ」

 

「あ…わかった。…おやすみ、ルドルフ」

 

「おやすみ、トレーナー君」

 

 ギィ、とルドルフが椅子から立ち上がり扉に向かう。そして扉を開き…最後にこちらに振り返る。

 

 ルドルフは僕に微笑んでからトレーナー室を後にした。

 

「……………」

 

「……………スゥゥゥゥゥゥゥ」

 

 両手で顔を覆って机に肘を付ける。

 

 ……ルドルフの期待に応えられる気がしない。度々、僕はシンボリルドルフの荷物持ちだと形容される事があるけど…正しくその通りだと思った。僕じゃもうルドルフをこれ以上強くしてあげられない。僕がルドルフの足枷になってしまう。シンボリルドルフと言う才能を……僕が殺してしまう。これは絶対に避けなければ。

 

「……………」

 

 ガチャン、と引き出しを開き……その最奥にある一枚の書類を取り出す。

 書類には契約破棄届とデカデカ印刷してある。

 

 ………契約、破棄するべきなんだろうなぁ。




 次回、不和。


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シンボリルドルフ.1

 UAが7万を越えお気に入りも500に到達しそうです。皆様ありがとうございますm(_ _)m


 ルドルフの僕に対する大き過ぎる期待と信頼、僕自身の、トレーナーとしての能力の限界について思い悩むこと数日。

 

 契約の破棄についてルドルフに話すべきかなぁ…。でもこのタイミングでルドルフに切り出しならコンディションに悪影響が出るかもしれないし…。

 

 ルドルフが僕の手を離れ始め……いや、既に離れてるな。後は僕がルドルフを手放せばいいだけの話なんだよねぇ…。ルドルフをこの手で育てたいって考えてるベテランのトレーナーはきっと多いだろう。その点に問題は無い。

 だけど…ルドルフとの思い出やらが邪魔して、契約の更新について中々言い出せなかった。

 

 情けない…。

 

 ルドルフと僕とのこの先を考えるとどうしても上の空になってしまい…僕はついにそれをルドルフに指摘されてしまうと言う失態を犯してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月が見え始めたトレーナー室にて。ルドルフはこの部屋にある書類を回収するついでに僕と駄弁っていて……。

 

「トレーナー君」

 

「んー?」

 

「最近、張り詰めているようだね」

 

「え”」

 

 唐突な、思いもよらぬ指摘に喉の奥から変な声を漏らしてしまった。

 

「そ…そう見えるかなぁ? はは…今日はちょっと頑張り過ぎちゃったかなぁ?」

 

 こういう時日本人は条件反射的にはぐらかしてしまうものだろう。

 

 取り繕うように振る舞って見せたけども、しかし。

 

「…………」

 

 ルドルフは何も言わずに椅子から立ち上がり、僕の机の前まで来て…。

 

「……ルドルフ?」

 

 口を噤んで何も言わず僕の目の前にあるパソコンをパタリと閉じた。

 

「…え、えぇっと…」

 

 そして閉じたパソコンに両手を置いて、ルドルフは僕を見下ろす。

 紫色の瞳は僕を捉えて離さなかった。

 

「君の表情や仕草、声色は全て把握している。君が取り繕い、他の誰かが気付かなくても…私の目を誤魔化す事はできない」

 

「…無理はいけないよ、トレーナー君」

 

「昔、何でも一人でやり遂げようとした私を見ているようだ。無理はするなと、君が教えてくれたはずだよ」

 

「ぅ……うん…」

 

 まさかちょっと溜め息が増えただけで……。

 ルドルフは記憶力が物凄くいいんだけどまさかこのレベルだとは……。しまったな…。

 

「君が仕草に出してしまうということは相当疲れていたんだろう」

 

「…いい機会だ。お互いにリフレッシュも兼ねて…一緒に出かけるのはどうかな?」

 

「…あー……そう、だね。ルドルフもURA関連の仕事をしてからトレーニングまでしてたし…。…お出かけ…しようか」

 

 それを聞いたルドルフは満足そうにふふ、と笑い…。

 

「楽しみにしているよ、トレーナー君」

 

 約束したからね、と言うような声色で締め括った。

 

 …いや、断る気は無いけども。凄みと言うか、断れない何かを感じた。

 

 ……皇帝…恐るべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後。ルドルフと出かけた時によく来るカフェのテラスにて。僕はラフに着崩したスーツ、ルドルフはいつもの私服と言った出で立ちで、互いにコーヒーを啜っていた。

 

 机の日傘が僕らに影を作っていて何だか風情のある雰囲気だ。

 

「ここに来るのも久しぶりだなぁ」

 

「URAファイナルズ開催に向けてトレセン全体が忙しかったからね」

 

 ルドルフは結構楽しみにしていたらしい。耳がいつもより跳ねている。

 

「ね。生徒会が優秀とは言えまさか広告費用の捻出とかURA用芝の購入の交渉まで生徒会が担当するなんて」

 

「正直ルドルフみたいな子供に大人がやるような仕事をやらせるってどうかと思ったよ…」

 

「は…はは…。ああいう仕事を頼まれるのは理事長の期待や信頼あってこそだろう。なれば、私も全力で務めを果たすまでだよ」

 

「…けれど、このシンボリルドルフとて苦心惨憺してしまったな、今回のURA関係の仕事には」

 

 ルドルフは苦笑いしながら眼鏡の縁を擦った。

 

「本当、お疲れ…」

 

「…所でトレーナー君。君からすると私はまだ子供なのかな?」

 

「……そりゃあ。まだ学園すら卒業してないんだし。僕らトレーナーからしたらウマ娘はみんな子供だよ」

 

「そう、か…子供か。これでも、トレセン学園の生徒会長足り得ようと意識して振る舞っているのだが…」

 

「ルドルフは確かにかなり大人びてる方だけど…一人の女の子にそこまで求めるのは酷じゃないかなぁ」

 

「僕からしたらルドルフは生徒会長でもなく皇帝でもなくルドルフだし…」

 

「………………」

 

 ルドルフは一瞬考え込む仕草をして…。

 

「…テイオーが子供と言う訳ではないのだけれど、トレーナー君はテイオーのように溌剌な女性が好みなのかな?」

 

 こんなことを聞き出した。

 

「いやぁ、そういう訳じゃ無いけど…」

 

「……つまり私は選択肢からは外れないと」

 

「ゴフッ……ちょっとルドルフ」

 

「はははっ、すまないトレーナー君」

 

「びっくりした…」

 

「今のは…少々きつかったかな?」

 

「え…まぁうん」

 

 ………ピタリと一瞬、ルドルフの動きが硬直する。

 

「………………」

 

「……ルドルフ?」

 

「…ん……あぁ、なんでもないよ」

 

 ルドルフは抜け殻に意識が戻るかのようにして再び動き出した。

 …どうしたんだろ。

 

 それ以降はクッキーを頬張ったりルドルフのファンの対応をしたりして…。

 

「…トレーナー君。コーヒーも後数滴だ。ここではこれ位にしようか」

 

「ん、そうだね」

 

 ルドルフの言う通り、色々やってる内にコーヒーカップの底は見え始めていて。

 

 僕達は同時にコーヒーを飲み干すと、トレイにゴミを載せてカフェを後にした。

 

 カフェからトレセン学園へと戻る道中…僕達はついでに神社に寄った。

 

 ルドルフとはそれなりの頻度で神社に行く。僕の場合、基本ルドルフがもっと強くなりますようにとお願いして帰っている。ルドルフは一貫してウマ娘の幸福だ。

 

 …まぁ、僕の願いはもう叶わないんだけどね。僕自身のせいで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チャリンと言う硬貨と硬貨のぶつかり合う音の後に、パンッ、パンッ、と手拍子が二拍。

 

 ルドルフが強くより強くなりますようにルドルフがより強くなりますようにルドルフがより強くなりますように……。

 

 数十秒目を瞑りお願いしたあと、ルドルフの方を首を回してを見るとルドルフもこちらを向いていた。ちょっとしたアイコンタクトをして、賽銭箱から離れた。

 

「……ルドルフは何てお願いした?」

 

「私はもちろん………」

 

 ルドルフが一瞬詰まる。

 

「…全てのウマ娘の幸福さ」

 

「トレーナー君は?」

 

「僕はぁ……ルドルフがもっと強くなれますようにって」

 

「…ありがとう、トレーナー君。その願いはきっと、すぐに成就するよ」

 

「だね……ルドルフの成長は留まるところを知らないから …」

 

「ふふ…」

 

 久しぶりに一緒に出かけて、さらに褒めてもらえて嬉しいのかルドルフは終始ご機嫌だったような気がする。

 

 …最後にちょっとした思い出ができて良かったかな。

 

 神社の穏やかな風景を眺めながらゆっくり、石畳を歩いていると…。

 

「…トレーナー君。まだ、気持ちは晴れていないようだね」

 

「え? いやいや、今日はルドルフといれてすっごい楽しかったし元気も100倍…」

 

「いいや」

 

「何があったか正直に教えて欲しい。君が今更私に隠し事なんて、する必要は無いんだよ」

 

 …神社とルドルフの柔い雰囲気に押されて、この場に似つかわしくない言葉を僕はつい連ねた。

 

「………あのね。ルドルフの最近の成長ってさ、目覚ましいでしょ」

 

「……ルドルフは、成長できてるんだ。それは、とてもいいことなんだけど……僕はそうじゃないんだ」

 

「…ルドルフへ僕から教えられる事は…もう、無いんだよね。最近、トレーニング中に何も言わなくなったでしょ?」

 

「それってつまり僕がトレーナーとしてのルドルフの何の役にも立ててないって事なんだよね…。……僕はもう、ルドルフのトレーナーとしての役目を終えたのかなって」

 

 想像以上に深刻な話だったんだろう。ルドルフは答えかねている様子だった。

 

「…トレーナー君、君はね…私をとても強くしてくれたんだよ」

 

「私は君でいいんだ。君で満足している」

 

「うん。だけど、今以上にルドルフが成長するには僕じゃ」

 

「それに」

 

 僕の声の間にルドルフの声が差し込まれる。

 

「私は…トレーナーが君でなければいけないと感じてしまう位に、弱くもなってしまったんだ」

 

「……え…」

 

 んん? トレーナーが僕でなければいけないって? どういう事だ…?

 

 …それに今…ルドルフは……僕のせいで弱くなってしまったと……言った? 僕が原因で? ルドルフが?

 ………あああ……そうか……既にルドルフにも自覚はあったんたな…。

 

「それって……あの…僕がルドルフを弱くしたって…こと?」

 

「あぁ」

 

「…そのままの意味で?」

 

「? あぁ」

 

 おぉうかなりはっきりと…。…こう言われると結構ショックだなぁ。

 

「……ごめん、ルドルフ」

 

 ……ルドルフは一瞬何で謝られたかわからないような顔をして……一瞬で血相を変えた。

 

「………ッッ!」

 

「違う、違うんだ、トレーナー君。今の発言を許して欲しい。悪い意味で言ったんじゃないんだ」

 

「う、うん…ルドルフが何の考えも無しにそんな事を言わないのは知ってるから……」

 

「…トレーナー君。すまない…忘れて欲しい…。すまない……」

 

「いいからいいから…」

 

「すまない…」

 

「………………」

 

「………………」

 

 ……ルドルフは耳を伏せて黙ってしまった。

 

 …う…ん。もう神社でやることも無いし、帰ろうかな。…ルドルフもこの雰囲気は嫌だろうし…。

 

「…帰ろうか、ルドルフ」

 

「…うん」

 

 なんとも言えない気まずい雰囲気のまま、僕達はトレセン学園へと帰還した。

 道中に会話は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園に帰還してからも僕とルドルフの間に会話は無かった。一応、通路でルドルフと別れる時に挨拶はしたけど…ルドルフの声は随分と弱々しかった。

 

 まさかルドルフが自覚できる位に僕がルドルフに悪影響を与えてたなんて…。

 ごめんなさい、ルドルフ…。

 

 でも、はっきり言われるとこんなにもショックだなんてなぁ…。言われた瞬間はストレートのパンチだっけど今はボディーブローみたいにジワジワと効いてきたや…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………こんな形になってしまったけど、ルドルフにはっきりと言われて決心が付いたぞ。

 明日ルドルフと契約の破棄について相談しよう…。




 次回、鋭い眼光。


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シンボリルドルフ.2

 お気に入りが500を超えましたー。やったね!


「はぁぁぁぁぁぁ……」

 

 どす、とトレーナー室の机に突っ伏する。

 

 こんな形で切り出すことになってしまうなんて……。

 

 神社でルドルフと微妙な雰囲気になってしまってから、その雰囲気はズルズルと引き摺られて今まで続いている。

 お互い、顔を合わせるのも嫌、とかそんな感じじゃないんだけど…。言いたいことがあっても言い出せないと言うか…お互いの関係が数歩後退してしまったような感じだ。

 

 挨拶はする。トレーニングや明日の予定についても話したりする。けれど、それ以上の会話が望めなくなってしまった。

 お互い、何か話し掛けたいけど、声が出ない。今までは僕からフランクに話し掛けたりしてたけど…なんとももどかしい。

 ルドルフとこんな事は初めてなのか、どうするか手をこまねいているみたい。

 

「………………」

 

 もちろん、こんな突っ伏して考えた所で何か好転する訳もなく。むくりと上半身を起こす。

 

 …胃がムカムカしてるなぁ。多分コレをルドルフに見せるのを躊躇ってるからだな…。

 

 机の上にある契約破棄届に目を降ろして、気を紛らわせるために机に擦り付けてみた。…ザラ、ザラ、と摩擦により生じた音がトレーナー室に響くだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ルドルフに連絡してからそろそろ十分経つ位かな。

 

 3…2…1…。

 

 ありきたりな扉の音がして、トレーナー室の扉から…ルドルフが顔を覗かせた。

 

「……やぁ、トレーナー君」

 

「いらっしゃい、ルドルフ」

 

 ルドルフは部屋に一歩脚を踏み入れた所で止まってしまった。

 

「……………」

 

「……あー、ほら、座ってよ」

 

 とりあえず対面の席に座るよう手で促す。

 

「…失礼するよ」

 

 明らかに表情を固まらせたまま、ルドルフは対面の席に座った。

 

「…………!」

 

 ルドルフが座る際、一瞬机に目が向けられて…ルドルフの瞳孔がピクりと揺れた。机の上にある契約更新届にルドルフが気付いたみたいだね…。

 

「……今日は、何の話かな?」

 

「ルドルフ。今日は大事な話があるから呼んだんだ」

 

「…………」

 

「けいや」

 

「まさか契約を破棄しよう、なんて言うんじゃないだろうね」

 

 契約を破棄しないか、と切り出そうとした瞬間……スパッと刀か何かで体を切り裂かれたような感覚がした。

 

 ……これがルドルフに差されるウマ娘の気分か。

 

 …背筋から冷や汗が吹き出る。

 

「えっ……と…」

 

 言葉が詰まる。…言うべきか。言わないべきか。このルドルフの剣幕は明らかにそれ以上言うなと僕に警告している。

 ……言うって決めただろ、僕。お前はもうルドルフにはっきりといらないって言われたんだ。だったら、ルドルフに縋り付くな。

 

「……ルドルフさ、契約破棄しない?」

 

「……………………」

 

「………ルドルフ?」

 

「……私への当て付けかな、トレーナー君」

 

「いや、そうじゃなくて…。僕はただルドルフにもっと強くなって欲しいから…」

 

「私は君の下でも強くなれる。君の下にいたから強くなれた」

 

「…でも…」

 

「……トレーナー君、君が望むなら私は何度でも謝るよ。あれは君を貶すために言ったんじゃないんだ」

 

「…申し訳、ない」

 

 ルドルフは僕に向かって頭を下げてしまった。

 

「いやいやいやいや止めてルドルフ!? お願いだから止めて! ルドルフは悪くないから!! ごめんルドルフ…!」

 

 その姿を見てられなくて僕は机にガンッとデコを押し付けルドルフより頭が下になるようにした。

 ウマ娘に頭を下げさせるってなんだよ…!? よりによって自分のウマ娘に!! 

 

「……………」

 

 ……溜め息と共に制服の擦れる音がしたのでちょっと顔を上げて見ると、ルドルフは渋々と言った様子で頭を上げてくれていた。

 

「こ、これはね、別に神社で言われた事に怒ったからとかじゃなくて…だから……ごめん、ルドルフ…」

 

「どうして…君が謝るんだ」

 

「えぇっと……」

 

「……………」

 

「……………」

 

 ……お互い気まずい雰囲気になると黙ってしまうのは変わらないみたいだね…。

 

「…トレーナー君。気は…変わらないか? 考え直して欲しい。私のトレーナーは、君しか考えられないんだ」

 

「ん……んーー……。ルドルフがどうしてそんなに僕に拘るのかわからないけど…。義理人情だったら、そんなこと全然気にしなくていいよ。ほら、僕以外に優秀なトレーナーはたくさんいるし。前言った通り僕の能力じゃもうルドルフを強くしてあげられない。ルドルフが強くなるには他のベテラントレーナーの所へ………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピリッ、とした静電気が僕の肌を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッッ……!」

 

 あ、これ。死んだ。今何か地雷を踏み抜いた。

 

「トレーナー君」

 

 ルドルフはゆらりと椅子から立ち上がる。その耳は後ろ向きに伏せられて、尻尾は怒髪天を突くようにピンと伸びて…紫色の瞳の瞳孔が開いていくのが見て取れた。

 

「ぁ……ぁ………」

 

 逃げろ、逃げろ、逃げろ、と生存本能が危険信号を脳に発信する。

 

 僕は肉食獣か何かに睨まれた草食動物のような動きで椅子ごとルドルフから後退る。今僕とルドルフを隔てているのは机と言う柵だけだった。

 

「あ……ルド…ルフ。ごめん。ごめんなさい」

 

「ああ……トレーナー君」

 

 静かな室内のせいか。それとも恐怖のせいで剥き出しにされた全神経のせいか。ルドルフの声がエコー掛かって聞こえる。

 

「トレーナー君。君は自らの手で育てた、このシンボリルドルフを信用できないと…?」

 

 ルドルフは椅子から立ち上がり。

 

「トレーナーが君だったからこそ、私はここまで強くなれたんだよ」

 

 一度僕を見下ろし…。

 

「君は誰よりも私と一緒にいてくれ、強くしてくれた。だから私は君を誰よりも頼りにし、信じている」 

 

 両手をルドルフの方の机に置き…。

 

「君は……自らの手腕に胸を張れないのかな」

 

 ルドルフはもぞ、と机に膝から乗り上げた。

 

「い……や……」

 

「そうだ。否定してくれ。君が自分を信用できないと言うことは、私を信用できないのと同義だ」

 

 ルドルフは一言発するごとに机の上を這いながらゆらりゆらりと僕に向かう。

 

「……嫌だよ、トレーナー君。考え直して欲しい」

 

 もうルドルフとの距離は1mもない。

 

「君と過ごしたこの三年間を、否定しないでくれ」

 

 このルドルフは…まるで獲物を見つけゆっくりと対象に近付く虎のようだった。

 

「私の夢をただの夢物語にしなかった君の存在を、否定しないでくれ」

 

 ついに僕の机にルドルフの手が乗る。そして…。

 

「こんなモノ……」

 

 ぐしゃり、と。契約破棄届が握り潰された。それをルドルフは邪魔だと言わんばかりに横へと撥ね退ける。

 …契約破棄届は無惨な姿で壁に叩き付けられ、床に落下した。

 

「トレーナー君」

 

「は……い…」

 

 もう、ルドルフは目の前だ。

 

 ルドルフは一切瞬きせず、僕を見つめ続ける。そして僕に言い聞かせるような口調で…。

 

「私は君のウマ娘だ。君は私のトレーナーだ。そうだよね?」

 

 急いで僕は首を縦に振った。

 

 ……ルドルフの目を見たくないはずなのに、僕はそれに釘付けになるしかなかった。魔法のような、引き寄せられる眼力。

 

「私との三年間は、意味があった。そうだろう?」

 

 コクコクと何度も頷いて見せる。頷くしかなかった。と言うか、選択肢は最初からそれしかない。

 

「良かった…」

 

 それにルドルフは一瞬顔を綻ばせ…。

 

「…私達の認識は共通している。なら、契約の破棄等しなくてもいいだろう?」

 

 これもまた頷くことしかできない。…首を横に振ったら、いよいよ僕の命は無いかもしれないんだから。

 

「フフフ…」

 

 僕が全てに頭を縦に振ったので、ルドルフは少し落ち着いた様子だった。…どうかこのまま我に帰ってくれ…。

 

「…ではトレーナー君。……今日の…いや、この数週間の事を忘れてしまおう。全て、無かった事にするんだ」

 

 しかし…僕の願いは届かなかった。

 

「君と私が、こんな喧嘩別れのような事をする訳が無いのだから……決してありえない」

 

 ルドルフは机の上で膝立ちになりながら僕に向かって両手を伸ばす。

 

「…君と私は一緒に悪夢を見ていたんだ。悪夢は…忘れるに限る。トレーナー君もきっと疲れているはずだ。だからね、トレーナー君」

 

 ルドルフの両手が僕の顔に迫った。…僕は…何をされる? 嫌だ、怖い、やめて、やめて…。

 

「一緒に、眠ろう」

 

 …………獣の牙は今まさに僕の首筋を引き裂こうとしていた。

 

「そして起きれば、全て忘れて元の日常に戻れるさ」

 

 …人は極限状態に追い込まれると本当に警報が鳴るんだ。頭の中にキーーンと言うような音が溢れている。

 

「…おやすみ、トレーナーく」

 

 本当にいい笑顔でルドルフの両手が僕の視界を覆った所で…恐怖と理性の糸がはち切れた。

 

「う……ぁ…ああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 絶叫。

 

「っ!?」

 

 突然の叫び声にルドルフが耳を押さえた。

 

 僕の脳が狙い澄ましていたのか、それともたまたまだったのかはわからない。余りの恐怖に思い切り椅子ごと自分を後方の壁に叩き付け、その行動と反動に驚いたルドルフの隙を突いて僕は扉に向かって走り出す。

 恐怖しながらも逃走経路を見つけ出すなんて、随分と僕の脳も器用な事ができるもんだね…。

 

「! 待って、トレーナー君!」

 

 ルドルフの静止する声がする。それに立ち止まりそうになってしまうが、今回は恐怖の方が勝った。僕は静止を無視して扉へと走りを止めない。

 

 ルドルフが机の上でまごついている間に僕は扉に到着し、ドアノブを捻って一気に扉を叩き開けた。

 

「トレーナー、君! トレーナー君!!」

 

 ルドルフの叫び声がする。それに一瞬振り返ると、ルドルフが机から降りるのと僕が廊下に飛び出すのが同時だったことがわかった。

 

「ヒッ…」

 

 そのまま僕は全速力で廊下を駆ける。

 

「トレーナー君!!!」

 

 背中からルドルフの声がする。だけど止まれない。ごめんね、ルドルフ。

 

「トレーナー君! トレーナー君…… トレーナ________」

 

 段々とルドルフの声が遠退いて行く。

 最後に、トレーナー室の方を振り返ると……こちらに向かい右手を伸ばし、呆然と立ち尽くすルドルフの姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……気付けば、僕はトレーナー用マンションの自室にいた。…ちょっと…今日起きたことがショック過ぎてここまでの道のりの記憶が完全に抜けちゃってるや…。

 …書類とか、その他諸々は全部トレーナー室に置き去りにしちゃってるし…明日、取りに行かなきゃ。

 

「………はぁぁ」

 

 …あんなルドルフ、初めて見た。…僕は…明日からどうやってルドルフと接したらいい…?

 ウマ娘がトレーナーに入れ込み過ぎるのはよくある話だけど…まさかルドルフに限ってそんなことはないだろうと思い込んでいた。だけど実際に起きてしまうとは…。

 言い訳をすると、ルドルフとはかなり仲がいいと、僕自身も思ってた。親友と言うか、それ以上の感情は持ってた。だけどまさかルドルフの僕に対する感情があんなだとは……。僕じゃないといけないって……そういう事か…。

 

 そしてよりによって僕は最悪の事態で最悪の選択をしてしまった。掛かってるウマ娘から逃げるのは自殺行為だよ。

 これは土下座して謝っても許されないぞ…。

 

 …………明日ルドルフを見つけたら、すぐに謝ろう…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼふり、とベッドに倒れ込んで、この日は思考を放棄した。




 次回、独占力。


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シンボリルドルフ.3

 UAがついに8万に到達しましたー。まさかここまで読者様のお目に掛かれるとは…。


 翌朝。日課であるスマホチェックをする。

 

「……………………」

 

 スマホを開いてまず目に付いたのは10件以上の履歴が表示された連絡アプリだった。……多分ルドルフからだ。なるべく内容を見ずに、とりあえず『ごめん』とだけ送っておこう。

 …送信してすぐに既読は付き…それと同時にメッセージの着信音が鬼のような勢いで鳴り始めた。

 ……やっっっばい。

 

 鬼のような勢いのメッセージが昨日の脳内アラートを思い起こさせたため、スマホをベッドに放り投げてボフッ、と枕を押し付けた。…すると、今度は枕からヴーッ、ヴーッ、とバイブレーションの振動が伝わって来た。……ルドルフからの着信だ。すぐに切ってくれるかもしれないという一抹の望みに賭けてみるけど……止まる気配は一切無い。

 

 ……出るべきか…? 出ないべきか…? ……いいや、出よう。これ以上ルドルフに対して突き放すような態度を取ると僕がこの世から突き放されるかもしれないし。

 

 僕は枕をスマホからどけて…。震える手で、受信アイコンをタップした。

 

「……もしもし」

 

「…………………」

 

 ……返事がない。 ………? ルドルフの息遣いだけが電話越しに聞こえる。その息遣いは何処か苦しげな感じがした。大丈夫かな…。

 

「ルドルフ?」

 

「……もしもし、トレーナー君。おはよう」

 

 ルドルフはいつもの調子でようやく返事をしてくれ………いや。声に疲れが見えるぞ。僕が逃げた後にトレーナーニングでもしたのかな…?

 

「…おはよう、ルドルフ。……昨日は……ごめん」

 

「……何のことかな」

 

「え?」

 

「トレーナー君。昨日、何かあったのかな」

 

「え。いや……昨日、僕がルドルフから逃げて…」

 

「……おかしいね。私の記憶だとそんな事はなかったが…」

 

「えぇ? …ルドルフ、からかってる…?」

 

「…いや…」

 

「……トレーナー君。もしかして寝惚けているのかな?」

 

「そ、そんな訳」

 

「…トレーナー君。ここ数日の君は随分と疲れていたように見えた。それで帰宅してから悪夢でも見たんじゃ?」

 

「君が私から逃げるような事がある訳無いじゃないか」

 

「……えぇっと…」

 

「………………………………まぁ、今はそんな事はいいだろう」

 

「トレーナー君。トレーナー室に私物を忘れてしまっていたよ。大切な物は朝に取りに行くといい」

 

「ん…? あっ」

 

 ルドルフに言われてようやく気付いた。部屋を見渡すといつも置いてあるリュックも水筒も何も無かった。全部トレーナー室に置いて来ちゃってる。スマホとか鍵とかポッケに入る物は大丈夫だったけど…。

 

「あんな大事な物を…」

 

「トレーナー室の鍵も開けっ放しだった。疲れているなら休むべきだよ、トレーナー君」

 

「う、うん」

 

「…では、失礼するよ。また学園で」

 

 ブツリ…と電話は切られた。

 

「……………」

 

 ルドルフの声の余韻がまだ耳に木霊してる。

 

 …ルドルフのあれは演技かな…? 僕は昨日の事を鮮明に覚えてるぞ…。ルドルフの気迫が僕に絡み付いて、手が僕に迫って………いや、でも。もしかしたら本当に昨日のは夢で……。ほら、悪夢に限ってやたらリアルにみえるとか言うし。

 

 …………さっさと準備して仕事に行こう。それと件のトレーナー室にも行かないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕はルドルフの策に嵌った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園内の、人のいないルートをなるべく選んでトレーナー室へと向かう。傍から見れば僕は不審者である。

 何でこんな回りくどい事をしているかと言うと……まぁルドルフに会うのが怖いからだ。朝のルドルフの電話もあったけどあのルドルフは何処か芝居がかってた。…それが不気味でしょうがない。

 全ての原因はお前にあるんだから何してるんだと言われそうだけど…全くその通りだ。でも…あんな目と気迫を見せ付けられ…いや。夢かもしれないけど。それでも、ルドルフに会うって…無理だよ。

 

 とにかく、生徒会室を避けるようなルートで遠回りしつつ、トレーナー室に向かい……。

 

 その道中。

 

「おい、貴様」

 

「いいっ!?」

 

 背後からやや棘のある声が飛んで来て、それに思わず肩をビクつかせてしまう。

 ゆっくりと振り返れば……エアグルーヴがいた。

 

「何だ、その化け物に見つかったかのような反応は」

 

「お…おはよう…エアグルーヴ」

 

「…おはよう」

 

「…………」

 

 …エアグルーヴは眉を下げたまま黙ってしまった。

 

「……?」

 

「…まさか本当に会長の言う通りのルートにいるとは…」

 

 ボソリ、と何かエアグルーヴが何か呟いた。んん? なんて?

 

「???」

 

「……そんなにコソコソして。何をしている。トレセン学園の正式トレーナーならばもっと堂々としろ」

 

「はは…は…ごめぇん」

 

「…あのさ」

 

「何だ」

 

「ルドルフの様子、どうだった…?」

 

「会長の様子?」

 

「うん。何か変じゃなかった?」

 

「………いや。特に変わった所は無かった。……会長に何か後ろめたい事でもあるまいな」

 

「えっ。ない、無いよ?」

 

「……会長は慧眼だ。何かを隠し通せると思うな」

 

「う、うん…わかってる…わかってる…」

 

「………。まぁ、いい。会長が仰っていたが、貴様、トレーナー室に私物を忘れたらしいな。弛んでいるぞ。皇帝のトレーナーとあらばそれに相応しくあれるよう心掛けろ」

 

「ひぃぃぃ、わかった、わかったよ。朝から説教は勘弁勘弁」

 

「精進することだ。では、回収しに行け」

 

「失礼します…」

 

 朝からさんざエアグルーヴに怒られてしまった……。はぁ、さっさと回収しに行こ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、言う訳で。

 

「……着いてしまった…」

 

 着いてしまった……。

 …あの後ルドルフはどうしたんだろうか。…エアグルーヴの様子から考えるに普通に過ごしてたっぽいけど……。

 

 …こんな扉の前で考えても仕方ないや…開けるぞ。

 

 ドアノブに手を掛け、回し…引く。

 

「…………」

 

 …引く瞬間に昨日の光景がフラッシュバックし、手が止まった。

 ……いやいや、夢かもしれないんだから。何ビビってる。

 

 僕は結構勢い付けて扉を開いた。

 

「失礼しまーす……?」

 

 トレーナー室に入ると…まぁいつものトレーナー室だった。ルドルフが整理してくれたのか書類の束やクリアケースが綺麗に並んでいる。

 

「……………」

 

 腰を屈めて床を見渡して見ると、昨日ぐしゃぐしゃにされた契約破棄届がどこにも無かった。

 

 ……もしかして昨日のは本当に夢だったのかな…。

 

 えぇっと、まるごと忘れてしまったリュックは…あったあった。

 まず机に掛けられてたリュックの中身を確認する。ジャージ、タオル、財布、メモ帳、トレーニングメニュー、USBメモリ、ボード、合鍵……全部あるね。リュックから財布とルドルフ用のトレーニングメニューとボードと走法メモ帳を取り出してっと。今日使うのはこれ位かな。

 

 よし、練習場に出てルドルフを待とう。

 

 机から踵を返して扉に向かい、扉をガチャリと開けて…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはよう、トレーナー君」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁっ!?!?」

 

 ルドルフがいた。

 思いがけない声に思わず背中から後ろ側へと倒れてしまう。

 

 ゴスッ、と言うような鈍い音がトレーナー室に鳴った。

 

「いたぁっ!?」

 

「トレーナー君!?」

 

 ルドルフは慌てて僕に駆け寄って助け起こしてくれた。

 

「いっっつつ…」

 

「ちょっと…トレーナー君、大丈夫かい?」

 

「だ、だいじょう…ぶ……いてて」

 

 右手で背中を擦る。…ジンジンとして痛い。……って、何でルドルフが狙い澄ましたように扉の前にいたんだ。このタイミングを…?

 

「…おはよう、ルドルフ」

 

 ルドルフの様子は…昨日のようなおどろおどろしい雰囲気は無い。至って普通だ。

 大丈夫…なのか…?

 

「……ルドルフ。怒ってない…?」

 

「? 怒る? 何に?」

 

 ルドルフは目をパチクリさせて首を傾げて見せた。

 

「…本当に夢だったのかなぁ…」

 

「……トレーナー君。君が心配だよ。本当に疲れているようだね…。有給は溜まっているんだろう? 取ったらどうだ」

 

「か、考えとくよ、あはは……」

 

「…じゃあ…ルドルフ。トレーニング、しようか」

 

「…トレーナー君。無理はいけないよ」

 

「大丈夫大丈夫」

 

「…そうか。では、行こうか」

 

 ルドルフのそれを合図にしてぱさぱさ、と自分の服を叩き、トレーナー室から出てルドルフと一緒に練習場へと移動した。

 それからはいつものように、何の事故も無くトレーニングをした。トレーニングしてる間、ルドルフは特に不穏な様子も見せなかった。……もしかして本当に僕が疲れてるだけで昨日のは夢だったのかな……?

 

 ……夢…なのかもしれない。何にせよ僕にとっては夢の方が都合がいい。……あんなルドルフは…もう、頭から消し去りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふうぅぅぅぅ」

 

 トレーニングも終わり、書類仕事も終わらせ、今日のルドルフのトレーニングを振り返った所で、仕事は終わった。

 

「お疲れ様、トレーナー君」

 

「ルドルフこそ。ごめんね、書類仕事まで手伝ってもらっちゃって」

 

「なぁに、これ位、どうと言うことはないさ」

 

「…さて、もういい時間だ。仕事も終わったんだ、帰ろう、トレーナー君」

 

「ん……」

 

 チラリと窓から外を見てみると、月がもう光っていた。

 

「だね、帰ろっか」 

 

「一緒に、ね」

 

 …ルドルフは何故かトレーナー室にまで鞄を持って来ていた。

 

「…そうしようか。よいしょ、っと」

 

 まぁおかしくはないか。僕もリュックを取り上げて、背負う。

 

「よーし、行くよー」

 

「あぁ」

 

 消灯し、僕達は一緒にトレーナー室を出た。

 

 

 

 

「…………もう、逃さないよ。トレーナー君」

 

 

 

 

「? 何か言った? ルドルフ」

 

 

 

 

「いいや?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰り道、ルドルフは何かの埋め合わせをするようにたくさん話しかけてくれた。…マンションまで会話が絶えることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「肉は美味しいのだが…ついつい食べ過ぎてしまっていけない」

 

「えー、別にいいんじゃないかなぁ。トレーニングで食べた分だけ燃やせばいいし」

 

「そう言う訳にもいかない。不摂生はレースに如実に現れてしまうんだ。…それに、スカートがキツくなってしまう」

 

「ルドルフはもう十分細いと思うよ?」

 

「……君にそう言われるとまた食べ過ぎてしまうな。ハハハ、情けない…」

 

「食べないよりも食べた方がいいって……っと。着いた着いた」

 

 ルドルフと会話しながら帰ったおかげかいつの間にかトレーナー用マンションに到着していた。ルドルフと一緒に敷地に入る。

 

「トレーナー君は何号室に住んでいるのかな?」

 

「325号室だよー」

 

「3階かな?」

 

「そうそう」

 

 なんて会話をしながら僕達は階段を上がり、自室前まで来て…カチャン、と扉を開いた。

 

「ただいまー。ほら、ルドルフもおいで」

 

「お邪魔するよ、トレーナー君」

 

 そしてルドルフと一緒に靴を脱いで部屋に入る。

 

「…忙しいのに綺麗に掃除されているね」

 

「自分の家位は綺麗にしときたいからねぇ」

 

「汚れていたら掃除をしてあげるつもりだったのだが…来る口実が減ってしまったよ」

 

「ルドルフ…」

 

 そして、手を洗って自室に移動し…。

 

「ここがトレーナー君の部屋か」

 

「そうそう、ここが僕の部屋だよ。ベッドにでも座ってて」

 

「失礼するよ」

 

 ルドルフはぽふ、とベッドの端っこに座った。僕もリュックを投げ置いて、どすんとベッドに倒れ込むように座り込んだ。

 

「綺麗な部屋だ」

 

「面白い物は何も無いけどねー」

 

 ………ん? 何かおかしいような。

 

「……ルドルフ。何かおかしくない?」

 

「…? おかしい? 何がおかしいんだ?」

 

「えぇっと…」

 

 隣にいるルドルフが首を傾げる。おかしい…おかしいんだよ。

 

 …………隣にいるルドルフ?

 

 ……ルドルフ?

 

 が隣に?

 

 ルドルフが僕の部屋で……。

 

 ……………………!?!?!?!?

 

「ちょ、ルドっ!?」

 

「? トレーナー君?」

 

「何でルドルフが僕の部屋にまで着いてきてるの!?」

 

 ルドルフとの話に夢中になってしまって全く気が付かなかった。と言うかルドルフがあんまりにも自然に付いて来てて気付く余地すら無かった。

 

「…………」

 

「…ルドルフ…?」

 

 ルドルフは黙って突然立ち上がり、扉の方へ向かい……カチャン、と内側のロックを掛けた。そしてこちらに振り返り…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと、二人きりになれたね、トレーナー君」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この時を待っていたよ」

 

 静電気が僕にまとわり付くような感覚がした。

 

「ルド…ルフ…?」

 

「君も私も夢見がちだね、そうは思わないかい」

 

 ルドルフの目から段々と光が失われて行く。

 

 ……僕はここで昨日の出来事が夢じゃなかった事を理解した。…ルドルフが…ずっと演技していたことに、気付いた。

 

「まさか君にあんなに拒絶されてしまうなんてね」

 

「うあ、ぁ…」

 

「あそこまで不安になったのは、昨夜が初めてだよ」

 

 ルドルフは僕の知らないルドルフになっていた。

 

「初めからこれを狙ってた…の」

 

「あぁ。少々危ない船だったが、上手く行った」

 

 少し気まず気に話しながら、ルドルフは再び僕の横に座った。

 そしてずず、とルドルフがベッドの上を移動して僕に身を寄せる。

 ……ルドルフの肌は暖かかった。しかし、それと同時に、怖気のする冷気のような物も発せられていた。

 

「何度、君を誰もいない物影に引き摺り込みそうになったことか……」

 

 もう、逃げられない。ウマ娘の反応速度と瞬発力に勝てる訳が無いから。

 

「昨日の事は…謝るから」

 

「何回でも」

 

「いいや。トレーナー君は悪くないよ。あれは私の落ち度だ」

 

「君をこの手にできなかった私の、ね」

 

 …ああ、これ、相当酷い掛かり方してる。どうする、僕…?

 

「…トレーナー君。契約の破棄をしない、と言ってくれないか」

 

「えぇ?」

 

「お願いだから…」

 

「っ、うん、しない。しないから。だから安心して…」

 

「本当に?」

 

 ぐりん、とルドルフは待っていましたと言わんばかりに首を動かして、横から僕の顔を覗き込んだ。

 

「本当、本当だよ」

 

「……なら」

 

 ルドルフは自分の鞄に手を突っ込み…中からグッチャグチャの契約破棄届を取り出した。ルドルフが回収してたのかぁ……。

 

「これを破り捨てて欲しい」

 

「…うん…」

 

 僕はルドルフから契約破棄届を受け取ると、ビリビリと8枚程度の紙屑に裂いた。

 

「これでいい…?」

 

「もっと」

 

「……はい…」

 

 もっと言われたのでさらにビリビリと小さな紙屑に裂いた。もう契約破棄届の字も読めない位に。

 

「これで…いいかな…?」

 

「……………」

 

 ルドルフはコクリと小さく頷いてくれた。

 

「あんなモノ……私達の前にあるのが間違いだ…」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……さて、誰もいないね、トレーナー君」

 

「…う、うん」

 

 ルドルフは僕の両肩に手を乗せた。

 

「?」

 

 そして突然肩に力が加わったかと思うと、僕は何故か横向きにベッドに倒れ込んでいた。

 そして背中側よりルドルフが脇の下から手を通し、僕に抱き着いているのがわかった。

 

 ルドルフが僕を引き倒していた。…ルドルフの表情は見えないためわからない。

 

「……ルドルフ?」

 

「誰も、私達を見ていない。誰も私がここにいるのを知らない」

 

「今なら君を思い通りにできてしまいそうだ」

 

「…悪い冗談は止めて欲しいかなぁ、あはははは…」

 

「冗談に見えるかな」

 

 耳元でルドルフが囁く。

 

「る、ルドルフはそんなことする子じゃないでしょ?」

 

「ウマ娘は牙や爪を隠すのが得意でね、トレーナー君」

 

 だめだぁぁぁぁ!! ルドルフの良心に訴えかける作戦失敗!!

 

 …これは非常によろしくない。ルドルフは抱き着いてる感覚だろうけど、僕からすれば完璧に組み付かれてる状況だ。どうやったって逃げられない。これはもうルドルフに落ち着いてもらうしか方法はない。何か…何か時間を稼げる話題は……そうだ。

 

「どうして……ここまでして僕に拘るのかな…?」

 

「…どうして、か」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…それはね」




 次回、束縛。


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シンボリルドルフ.4

 お気に入りがわずか数週間で600を超えましたー。読者の皆様ありがとうございますー。


「それはね……君が好きだからだよ」

 

「…そっ……か」

 

 ……理由は随分とシンプルな好き、の二文字だった。何となく、予想はできていたけど。

 

「君に拘る一番の理由はそれさ。君に拘り過ぎてもうどうしようもない」

 

 こういう時、どう答えればいいんだろう。この状況を見れば決してストレートに、真っ直ぐに向けられた好意ではないのはわかる。

 だけど、外でも無いルドルフからそう言われると……嬉しい気持ちの方が僕の内側の多くを占めた。

 …状況が状況だけに僕が逃げ出してもおかしくはないはず。だけどこんな感情を抱くってことは……色々終わってるな、僕…。

 

「君が私から離れる位なら、絡め取ってしまおうと考える程に、好きなんだ」

 

「……契約の破棄なんて、聞いた時には……」

 

「い"……痛いよルドルフ」

 

 僕に巻き付いてる腕がギチリと体に食い込む。まるで今から捕食を開始する大蛇みたいだ…。

 

「君の声が、笑顔が、目が……私をどこまでも狂わせる」

 

 …だけど。ルドルフのその気持ちが嬉しいからこそ。

 

「あの…ルドルフ、それは凄い嬉しいんだけど……」

 

「だけど…?」

 

 トレセン学園ではトレーナーとウマ娘は互いに高め合えるよう切磋琢磨するような関係を求めている。あんまりにふしだらな事をすると…。

 

「君はウマ娘で、僕はトレーナーだ。恋愛と言うか…そういう関係にはお咎めが……」

 

「頷いては、くれないか」

 

「うっ…。そ、それにルドルフは……皆から必要とされる立場でしょ。大きな夢だってある。僕に時間を掛けるなんて相応しくないよ。」

 

 背中側から感じるルドルフの鼓動が突然速くなった。それと同時に、背後から随分と大きな歯軋りする音が聞こえた。

 

「……今ほど自分の立ち位置を恨めしいと思ったことはない」

 

「うわ、ちょっ」

 

 ごそごそ、とベッドが揺れる。…先程まで背中側から僕に抱き着いていたルドルフは僕の二の腕を掴んで対面するような形に動かした。さっきからルドルフに物扱いされてるような気がする…。

 …ルドルフの顔が、近い。そして相変わらず瞳はグルグルと黒い何かが渦巻いていて。

 

「テイオーがしたように今、ここで君を私のモノにしてみようか?」

 

 ルドルフが徐に右手を伸ばし、僕の顎を掴んだ。

 

「ふぐ……る、ルドルフ……。やめて…」

 

 顎を掴まれたまま僕はルドルフに引き寄せられていって……こつ、と僕の額に、ルドルフの額がぶつかった。

 

「………………」

 

「……………あのぉ…」

 

 ルドルフの瞳が僕を射抜いて離さない。

 

「どうやって君を私のモノにしようか。貪ってしまうのも悪くない」

 

「…それは笑えないよ、ルドルフ」

 

「ああ。私は真剣だからね」

 

 何か弁明する暇すら無かった。

 

 一昨日に脳内で流れたアラート以上のアラートが鳴る。

 グッ、グッ、と体を動かすけどルドルフにガッチリホールドされていて身動きが取れない。まずいって、それはだめだって、こんな事のために地位も何もかもかなぐり捨てるってだめだって!

 

「無駄だよ」

 

 平べったいルドルフの声が頭のアラートの中に混じる。この無感動な声質は本気だ。

 

 食われる。

 

「わかりやすく形にしてしまうのが、一番手っ取り早い」

 

「そうすれば、君は私から離れられなくなる。きっと」

 

「っ、落ち着いてルドルフ!?」

 

「それはまずいって! こんな形で!!」

 

「い、一緒にいるから…! 本当にもうあんな事しないって約束するから!! 絶対にしないから!! だからそれは…」

 

「…………………」

 

 ルドルフの動きはピタリと止まった。…しかし、拘束を解いてくれる気配は無い。

 グイ、グイ、と首を動かしてもルドルフの腕はびくともしなかった。

 

 ルドルフは僕が再び逃亡したりして突き放すのを恐れてるんだろう。だから、僕を何が何でも手籠めにしたいと考えている…はず。確かに、重い感情を向ける好きな人が目の前から逃亡しようものならこうもなろう…。もうあんなことはしないぞ…。

 

 やがて……僕の首が疲れて痙攣し始めた頃。

 

「ぐぇ…」

 

 見つめ合ってしばらくして、ルドルフは顎から手を離してくれた。

 

「………まだ、君にはまだ牙を掛けないでおくよ」

 

「る、ルドルフぅ…」

 

 掛かっている中でも決死の説得に耳を傾けてくれる位にはルドルフの聡明さは失われていなかったようだ。よ、良かった…。人生で最大の危機だった…。

 

「……………」

 

「……………」

 

 …よし、契約の破棄はしないと言ったおかげかルドルフがちょっと落ち着いてくれたぞ。ここでで畳み掛けよう。何気ない話題を振って、速く冷静さを取り戻してもらわなければ…。それにあんまりに素っ気ない態度を取るとルドルフに何されるか…。最悪僕も行方不明者リストに名前が載るかもしれないし…。

 

「……僕、ルドルフが好きになるような事したかなぁ」

 

「…トレーナー君。その理由を私に言わせるのかな?」

 

「あ、いや、ごめん…」

 

「…はは、いいさ。君がどれ程私を惹きつけていたか教えてあげよう」

 

 ルドルフはうんうんと少し考え込んでから…。

 

「君はスカウトの時から、私を一人のウマ娘として見てくれたね」

 

「…一部の者以外は、私をさも本物の皇帝かのように扱う。小さな時からそうだった。お前は高みを目指すのだと。私もそれは望む所だったから辛さは無かったが…。だけど君は割れ物としては扱わなかった。…それが私にとっては…とても嬉しかった」

 

「初めての事だったんだ。ただの自分を見てもらえたのは」

 

「それに君はさっき私に夢があると言ったね」

 

「うん」

 

「はっきり言って私の夢は途方もないだろう」

 

「その夢を目指す私を…君は無理だと笑わずに支えてくれた」

 

「夢のために、七つの冠まで被せてくれた」

 

「……私に全てを懸けてくれた」

 

「だから、私も君に全てを委ねてもいいと思った」

 

 ………うん、打算的とは言えルドルフに聞いてみたはいいけど、これは…ちょっと、顔と耳が熱くなるのを止められない。

 

「…フフッ…こういう所も」

 

 ルドルフは悪戯するような口調で、僕の両耳をモニョモニョと触った。……ルドルフの手も暖かいけど僕の耳の方が熱いや。これ……恥ずかし…。

 

「君は酷な男だ。人の心を射止めておいて、首を縦に振ってくれないとは」

 

「そ、それは心の準備がって言うか……」

 

「…私が人に恋するのはそんなに意外だったかな。トレーナー君」

 

「えぇっと…。あんまりそういうイメージは無かったかな…正直」

 

「…さっきから酷いな、トレーナー君は。……私にもちゃんと女心はある。恋の一つや二つ位するさ」

 

「ごめん……」

 

「…そしてその対象が、たまたま君だった訳だよ」

 

「…もしかして君まで、私を不安すら抱かない完全無欠の皇帝だと言うのかな?」

 

「……私が色恋沙汰に興味の無い堅物だと言うのかな」

 

「い、いや……」

 

「…トレーナー君」

 

「ん…」

 

「私を見て」

 

 僕の耳にあるルドルフの両手は…僕の首に回され、ぐいも僕を引き寄せる。互いの服が擦れる音がした。

 身長の問題でルドルフは下から僕を見上げるような構図となる。

 

「トレーナー君。私は誰?」

 

「ルドルフ…シンボリルドルフだよ」

 

「そう。シンボリルドルフだ」

 

「…皆が望むならば、私は何にだってなろう。皇帝にだって、ね。…だが」

 

「トレーナー君。君の前では皇帝と言う大それた異名なんていらない。初めて私を見てくれた君に、皇帝扱いはされたくない」

 

「君の前では皇帝ではなく…シンボリルドルフとして居させて欲しい……」

 

「君には、ありのままの私を。弱さのある私を。等身大の私を、見ていて欲しい」

 

 ルドルフは僕の右手を取り、頬に触れさせた。

 

「君の目の前にいるのは、皇帝かな」

 

「いや…普通の、ウマ娘だよ」

 

「…トレーナー君……」

 

 右手にぎゅぅ、とルドルフの頬が押し付けられる。………このもちぷる感は癖になっちゃいそう……って、そうじゃなくて。こんな時に何考えてるんだ僕は。

 

「……トレーナー君は私をどう思っているのかな」

 

 …この流れでまぁ、聞き返されるの何となくわかってた。…ここは変に気を使うんじゃなくて正直に話そう。

 

「僕…は…。ルドルフを…親友、とか。それ以上の……何だろ……変だけど家族、みたいな。そういう存在だって」

 

「…決してどうでもいいと切って捨てられるような存在と思われていなくて良かった」

 

「そんなこと!」

 

 今の一言に思わずちょっと大きな声を出してしまった。それにルドルフは少し目を瞬かせ…。

 

「…そういう所が、私は好きなんだ」

 

 胸元のルドルフは顔を綻ばせ、僕の首に巻いた両手の力を強めて見せた。

 

 ……僕は黙ってルドルフの腰に両手を回した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人でこの状態のまま何十分……いや、もう何時間も経っているかもしれない。あんまりに心地良いから、時計の存在すらも忘れていた。

 …ルドルフとこんな真近でスキンシップするのは初めてかなぁ。

 

「ねぇ、トレーナー君」

 

「んー?」

 

「いつも手元にあった、大切な物がある日。突然消えてしまうかもしれないと知った時。トレーナー君はどうする?」

 

「……僕はね」

 

「私ならきっと手放すまいと行動するだろう」

 

「…それで、こんな事したんだ」

 

「…それ位、私は君が」

 

「うん、わかってる、わかってる」

 

「……トレーナー君は…」

 

「もし、このシンボリルドルフが突然いなくなってしまったら。君は…どうする?」

 

「……探すよ」

 

「何が何でも、探し出すよ」

 

「僕がルドルフに抱いてる感情が何にせよ、絶対に行動すると思う」

 

「…今日は、それを聞けただけでも良かった」

 

 ルドルフの雰囲気が幾分柔くなった気がする。先程までの纏わり付くような静電気はもう感じない。何より、伏せられた耳が元に戻っている。

 

「……ここまで言い訳をするように長々と話したが。…いいや。実際、私が君を引き止めたいがための言い訳に過ぎないんだろう。…私の言いたい事は一つだけだ」

 

「ただ、君の側にいたい」

 

「それだけだよ」

 

「……さて、君は明日、どうするのかな」

 

「皇帝と呼ばれよう者が、冷静さを欠いて私欲のためにこんなことをした」

 

「…幻滅したかな。それとも失望したかな。トレーナー君」

 

「ううん」

 

「君は明日、学園に私を突き出す事だってできる。私はそれでも構わないよ。君になら何をされてもいい」

 

「ルドルフ……」

 

 冷静さを取り戻して先程の事を振り返ったのか、ルドルフは急にしおらしくなってしまった。……いやいや。こうなったのはルドルフの気持ちを汲めなかった僕のせいなんだから……。

 

「こんな形で…言わせちゃって、ごめんねルドルフ」

 

 とりあえず、昔母さんがしょぼくれた僕にしてくれたようにルドルフの頭を軽く撫でてみる。

 

「ん……ん…」

 

 髪と指が絡み付き交わる度、ルドルフは猫のように喉を鳴らして。

 

「突き出すとかどうとかそんな事は考えてないから…」

 

「……ほら、今日が僕達の新しいスタートって事でどうかな」

 

「お互いの気持ちもはっきりしたし」

 

「僕はもう契約の破棄とか考えないようにするし、ルドルフに相応しいトレーニングを頑張って考える。ルドルフは僕にもっと甘えていい!」

 

「どうかな?」

 

「……トレーナー君。私は結構独占欲があってね」

 

「もう今日の事で歯止めが効かないだろう」

 

「後悔するかもしれないよ」

 

 …もう、ここまで迫られて突き放したり保留にしたりするのは…男が廃るってやつでしょ。そもそもそれ以前に人としてあり得ない。僕はそんな人でなしになるつもりはないし……。

 

 多分、このルドルフを見て気分が浮ついてるのもあると思う。僕がしてるのは浅はかな行動かもしれない。だけど…。

 

「……そういう所を含めてルドルフだと思ってるからさ」

 

「まだルドルフにそういう気持ちとか抱いてないけど…えぇっと…だから、段階を踏んで行って…これからそれっぽい思い出を作ってこ?」

 

「まだ時間はあるしね」

 

「……………」

 

「…………ルドルフ?」

 

「……トレーナー君……トレーナー君、トレーナー君っ」

 

「ぐえぇっ!?」

 

 ルドルフがちょっとプルプル震えたかと思えば…ルドルフと共に横倒しになってた体がグルンと回る。

 ルドルフが僕をベッドの下に組み伏せる形で体位を入れ替えたようだ。上半身だけを僕に乗っけている感じで、ウマ乗りではない。

 

「……好きだよ、トレーナー君。逃さないし、離さないし……誰にも渡さない」

 

「…は、はははは…お手柔らかに…」

 

 それから、僕は寝るまでルドルフに甘ったるい言葉を掛けられ続けた。

 ……脳が溶けそうだよ…。ばかになる……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「所でトレーナー君。あんな形では嫌だと言ったね」

 

「………うん」

 

「どんな形でならいいのかな?」

 

「ゴフォッ」




 次回、どう転んでも絶望だった。


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シンボリルドルフ.5

 朝。サァサァと遠くから流れる水の音で目が覚めた。上半身を起こし、目を擦る。

 

 ……ええっと。昨夜は…そうだ。ルドルフと話し合って…とりあえずルドルフの説得に成功したんだな。

 

 右手で拳を作ってそれを自分の頭に振り下ろす。

 ガツンと頭蓋に手の骨が打ち付けられ、脳がプリンのように揺れる感覚がした。

 

 おぇ……まだ脳はちゃんと形を成してるみたいだ。溶けてなくて良かった…。

 

 ほんと、就寝する瞬間までルドルフに耳元で甘ったるい言葉を掛けられ続けて…………うぁぁぁぁぁ未だに背筋がゾクゾクする。

 

 寝起きで重いの体を動かしてみると、いるはずの存在がいない事に気付いた。

 …ルドルフがいない。どこだどこだ……って。このさっきからしてる水の音はもしかしてユニットバスからか…? と、言う事はルドルフは今お風呂タイムなのかな。

 …まぁそうだね、ルドルフは昨日からお風呂に入ってないし。

 さて、今の時間は……朝の5時14分か。まだちょっと早いや。

 

 背を伸ばしたりして眠気覚ましをする。

 

 まだルドルフがお風呂から出てくる気配無いから…よし、朝ご飯作ろ。

 

 そう言う訳で食パンをトーストしベーコンと卵も焼いてベーコンエッグサンドを作った。

 できた物は皿に盛り付けてリビングの机に置いておく。

 

 やることもやったので、再び部屋に戻りルドルフを待っていると、シャワーの音が止まった。そしてそれからしばらくして…。

 

 シャツに学園のスカート、そしていつものソックスと言った出で立ちでルドルフが僕の部屋に戻ってきた。

 

「……あぁ、おはよう、トレーナー君」

 

「おはよう、ルドルフ」

 

「すまないトレーナー君、お風呂を借りさせてもらったよ」

 

「あーいいよいいよ」

 

 カーテンの隙間から差し込む頼り無い光がドルフの髪を照らす。長髪はまだ乾き切っていないんだろう。テカテカと光がルドルフの髪を彩った。

 ルドルフは湿った姿もよく似合う。

 

「……トレーナー君。髪を、乾かしてくれないか?」

 

「…まぁ任せて」

 

「フフ…では、少し待ってくれ…」

 

 了承を得たルドルフは尻尾を揺らして笑いながらベッドの下に置いてあるバッグの前まで移動し、バッグの中から可愛らしいデザインのドライヤーを取り出した。

 ……やけに準備がいいねぇ?

 

 バッグがやけにこんもりしてたのを見るにルドルフは計画して僕の家まで着いてきたんだな。……この前エアグルーヴとばったり会ったのもまさか……。

 

「ドライヤーだ。頼むよ、トレーナー君」

 

「はいはい」

 

 ルドルフはカチンとコンセントにプラグを挿して、ベッドに座った。そして僕はその後ろに陣取り…手渡されたドライヤーのスイッチを入れた。

 

 直後、ごおぉぉと暖かな風の送風が開始される。

 

「んんっ」

 

「ルドルフって髪長いから乾かすの大変じゃない?」

 

「ん…そう、だな。君の言う通り時間は掛かってしまう」

 

「ルドルフの髪だから丁寧にしてあげないとねー?」

 

 するりと指先をルドルフの髪に挿し入れて。

 

 根本から毛先までを流すように梳かしつつ、その上からドライヤーをかざす。

 風呂上がりなものだから風に煽られてシャンプーやらの混じった匂いが部屋を駆け巡った。

 

 …あ、甘い…。

 

 肝心のルドルフは心地よさそうである。

 

「……トレーナー君は長い方がお好みかな?」

 

「んんーー。僕はねぇ。うん、長い方が好きかな」

 

「そうか、そうか」

 

「何で?」

 

「いや、君の望む髪型にしようと思ってね」

 

「君の趣味が変わらない限りずっとこのままにしておくよ」

 

「そこまでやらなくても…」

 

「女は好きな人の前ではいつでも美しくありたいものだよ」

 

「そ、そっか…」

 

 そこからはルドルフの息遣いを聞きながらルドルフの髪を整えさせていただきました…。

 

 そして、ドライヤーの電源を落とし。

 

「ふぅー。これでいいかな?」

 

「ん…」

 

 ルドルフは髪の具合を確かめるように右手で根本からかき上げた。髪は綺麗に空を舞った。

 

「…トレーナー君は美容院勤めでも食べていけるよ」

 

「どうも」

 

「…これさ、毎日一人でやってるの?」

 

「あぁ」

 

「…腕疲れない?」

 

「慣れればそうでもなくなるさ」

 

「……所でトレーナー君」

 

「うん」

 

「………尻尾も、お願いできるかな」

 

 …そこまでグイグイ来るとは思わなかったなぁ。

 

 ……昨夜の宣言通り歯止めを掛けなくなったね、ルドルフ。これから毎日ずっとこんな調子なのか…?

 

「…そ、それはぁ」

 

「…………」

 

 ルドルフは黙って背後にいる僕に向かい頭を倒した。その顔は穏やかそのもので……普段ずっと見続けていなければ見惚れてしまうものだった。

 

「私はいいんだよ。君はどうかな」

 

「……わかった、わかったよ」

 

 そんな顔でお願いされたら首を横に振れないじゃないか。観念して腹を括りつつ、ルドルフからちょっと離れ、湿り気で一つの束に纏まったルドルフの尻尾を手に取る。………これ、どうやって乾かせばいいんだ…??

 

「好きにするといい」

 

 手を拱いている僕を見てかルドルフは何の解決にもならない一言を残した。善意なんだろうけど…。

 

 好きにしてって。えぇ……。

 

「じゃ……ぁ…」

 

 とりあえず、尻尾の根本を掴んでみると……ルドルフはピクりと体を揺らして体を少し仰け反らせた。

 …心を無にしろ、心を無にしろ…。

 

 まず、根本から指で掻き分けつつドライヤーをかざす。

 僕が何か尻尾に対して動作をする度にルドルフは声を殺すように体を揺らした。

 

 …僕の精神衛生に対してこれは悪すぎる。

 手に湿り気を感じなくなった所で僕は急いで尻尾から手を離した。

 

「ど、どうかな…!?」

 

「っ、っ……ふ、ぅ……」

 

 ルドルフは少し仰け反った体を丸め、尻尾を跳ねさせて見せた。

 

「……うん、大丈夫だ」

 

「良かった…」

 

「…また頼むよ」

 

「え”」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルドルフの髪と尻尾を乾かした後は僕もお風呂に入り、一緒に朝ご飯を食べて一緒に学園に行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー用マンションから出てから学園までは速かった。ルドルフと一緒にいたおかげだなぁ。

 ルドルフと一緒にいるといつもは退屈な移動時間も、代わり映えしない学園までの道のりも、こんなに変わるものなのか…。

 

 そして学園に到着し…ルドルフと一緒に学園の正門を潜った所……凄まじい、正門付近を埋め尽くすような喧騒が僕とルドルフを出迎えた。

 

 …聞き耳を立ててみると…。

 

 あの会長が…とか。ヒューヒュー、とか。おめでとうございます! とか。 朝帰りぃ!? とか。

 

 等々。

 

 ……スゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ。ちょっとこれは…。変な噂が立つと色々僕とルドルフにとってまずいな…。

 

 チラッ、と隣にいるルドルフを見ると、何故か右手で口元を押さえてクスクスと笑っていた。

 

「ルドルフ…?」

 

「フフフ…皆期待通りの反応だ」

 

「えぇ……?」

 

 ルドルフもさすがに困った顔をすると思ってたけど。何その、予想してた、みたいな。……って。もしかして…。

 

「もしかしてルドルフ、こうなるのわかってて…」

 

「そうさ。君が私を拒んだ時のための保険としてね」

 

「私が他の生徒達からどう見られているかは自分自身でも理解している。その私が朝、トレーナー君と一緒に登校すれば……周りの者は勝手に勘違いしてくれる」

 

「君と私がそういう関係になった、もしくはそういう関係だった、とね」

 

「こうやって周りが勝手に既成事実化してくれるのさ」

 

「じゃあ……つまり、僕はどう足掻いてもルドルフの物になるしかなかった……ってこと…?」

 

「そうさ。まぁ、もう私達は離れる事が無いと思うけれどね」

 

「昨夜内堀は埋めた。そして今、外堀が埋められた」

 

「君と私は今…二重の意味で縛り付けられたんだよ」

 

「………何もここまでしなくてもおぉ」

 

「嫌かな、トレーナー君?」

 

「…いや…嫌じゃないけども」

 

「なら、いいじゃないか。さぁ、学園に入ろう」

 

「はぁい…」

 

 ルドルフにそう催促されて、僕はルドルフの後に続いた。

 

 …さっきからスマホの通知がうるさい。多分どこからか僕らを見ている同僚からの冷やかしとかだろう。気楽な奴らめ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはよう、エアグルーヴ」

 

「…おはようございます、会長」

 

「お、おはようエアグルーヴ……」

 

 学園内に入ってからも喧騒が僕らから離れる事は無かったよ…。

 居心地が悪いので僕は身を縮込ませながらルドルフと一緒に生徒会室まで移動した。

 

 …生徒会室の前ではエアグルーヴが仁王立ちしてた。

 

「では、トレーナー君。一旦ここでお別れだ」

 

「あぁうん、お仕事頑張ってね、ルドルフ」

 

「では」

 

 ルドルフは僕に軽く手を振って生徒会室のドアに消えた。

 

「……じゃあ僕も仕事しよ」

 

「おい」

 

 踵を返して、トレーナー室に向かおうとすると右手首を掴まれた。

 

 ………ゆっくりと振り返れば眉を吊り上げたエアグルーヴの顔があった。

 …僕、何度走馬灯見ればいいのかなぁ?

 

「貴様……これはどういうことだ」

 

「……ど……どういうことって…」

 

「とぼけるな」

 

「ちょおっ!?」

 

 エアグルーヴに思いっきり手を引かれ、その勢いのまま壁を背にして押さえ付けられてしまった。

 

「あのあの……エアグルーヴさん…?」

 

「貴様……何故会長と一緒に」

 

「えっと…それは昨日…」

 

「昨日何かしたんだな!?」

 

「えぇ!?」

 

「やはりな! 会長が自ら貴様の家に行く訳が無い!!」

 

「いやいやいやいやいや!? な…流れでって言うか…」

 

「そんなことある訳無いだろう!! 貴様、どんな卑怯な手を使って会長を手籠にした!?」

 

「アウアウ…!?」

 

 エアグルーヴは僕の肩を掴んで思いっきり揺すり視界がぐわんぐわん揺れる。おえ、の、脳が…。

 

 僕がダウンしそうになった所でエアグルーヴはようやく揺らす手を止めてくれた。

 

「……正直に言え。どんな方法を使った」

 

「おえぇぇ…………な、何もやましいことしてないってぇ…」

 

「嘘を付くな…」

 

「変な事してないってぇぇぇぇぇ」

 

 エアグルーヴは否応無しに再び僕を揺すり始めた。

 

 の、脳が…脳がミキサーされて死ぬ…。

 

「ハァ…ハァ………いいか。これで最後だぞ」

 

「ハイ………」

 

「本当に会長には何もしていないな…?」

 

 嘘を付いたら殺すと言う目だ。って…僕は何も悪い事はシてないよぅ。いや、昨夜の結果的にはトレーナーとして決して褒められた判断をした訳じゃないけど…。

 

「な、何もしてない……お互い円満です……」

 

「………………」

 

「………………」

 

「…………よし。貴様を信じるからな」

 

「ヒィィィィィィ……」

 

 よ、良かった…許された…。思わずズルズルと壁伝いに腰を降ろしてしまう。

 

 そんな僕をエアグルーヴは見下ろしながら…。

 

「はぁ……貴様と会長のせいでまた生徒達の意見箱が溢れ返る」

 

「何で…」

 

「トレーナーとの自由恋愛を許可しろと紛糾する」

 

「えぇ……」

 

「全く……よりによっと会長と貴様だとは…」

 

「…何かごめんね」

 

「いや……いい…」

 

 右手で額を押さえて大きな溜息をエアグルーヴは吐いた。

 

「…さぁ。仕事があるんだろう。行くといい」

 

「あ、うん。失礼しまーす…」

 

 立ち上がってお尻を叩き、僕はエアグルーヴにペコペコしながら生徒会室を後にした。

 

 ……エアグルーヴが話を分かってくれるタイプで助かった……もう命の危機に晒されるのは御免だ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 持ち場に付いてからはいつも通り……じゃなくて。ルドルフと一緒にトレーニングをしつつ、早速今のルドルフのコンディションから導き出せる最適なトレーニングを作るために頭を捻った。既存のトレーニング以上のトレーニングを考案するのは相当大変だろうけど、日進月歩で成長し続けるルドルフが相手なんだ。僕の頭が枯れ果てる位働かせなければ……。

 

 思えば僕が自分自身の能力に見切りを付けずルドルフのために必死になってトレーニングを考えようとしてたら今頃こんな事には…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして夕方のトレーニングも終わり、トレーナー室から月が見え始めた時間にて。

 

「……………」

 

「……………」

 

 ……ルドルフは当たり前のように僕の右隣の机の席にいた。何時間か前にナチュラルにトレーナー室に入ってきて、そのまま生徒会の書類を片付け始めてしまったのだ。

 いやまぁいいんだけど……今日はルドルフといない時間の方が少なかったな。

 

「トレーナー君」

 

「んー?」

 

「そろそろ、終わりにしたらどうかな」

 

「…………」

 

 …トレーナー室に籠もってそろそろ3時間か。

 

「…うん、そうだね。これ以上は仕事効率落ちちゃうや」

 

 パソコンに表示されている計算式やらルドルフのフォームやらを閉じて行き、最後にシャットダウンする。

 

「ぁぁぁぁ……働いた働いた」

 

「お疲れ様、トレーナー君」

 

「んー……」

 

 目の前のルドルフは僕から視線を外し、背後の…窓に視線を移した。

 

「……トレーナー君。この部屋はよく月が見えるね」

 

「ん? あぁ…トレーナー室って基本的に太陽と月が窓に見える位置に配置されてるから…」

 

「月、か」

 

「……どうしたの」

 

「……トレーナー君。実は私には一つ秘密があってね」

 

 ルドルフが椅子を回して体をこちらに向けた。それに合わせて僕も…。

 

「秘密…?」

 

 ルドルフに体を向ける。

 

「あぁ。秘密の名前だ」

 

「名前って……ルドルフってシンボリルドルフじゃないの?」

 

「ああ。それで合っている」

 

「じゃあ…」

 

「私は小さい頃……ルナと呼ばれていてね」

 

「私の前髪の色形、少し三日月に似ているだろう」

 

 ルドルフは僕にデコを突き出して見せた。それをよく見てみると……。

 

「言われて見れば…確かに」

 

「にしても……ルナかぁ。結構かわいい…」

 

「…………」

 

 …ルドルフの耳と尻尾がわかりやすく跳ねるように動いた。

 …こんなわかりやすく反応するのなんて珍しいね…。

 

「……ルナ。ここでは君にか明かしたことのない、秘密の名前だよ」

 

「……何か特別感あるね」

 

「うん。君だけが特別に知っている、私の名前だ」

 

「えー、僕だけにかぁ。僕だけが知ってるルドルフの秘密…」

 

「そうだ」

 

「……二人だけの秘密というのは良い。お互いをより強く結び付けてくれる」

 

「…僕もひみ」

 

「いや、君はまだいい。君の秘密はまた今度聞かせてくれ」

 

「秘密は小出しにするものだから」

 

「…わかった。ならまた今度…」

 

 …さて、僕の秘密ねぇ……。まぁ色々あるけど……言っても多分怒られないのはアレかな。

 

「……トレーナー君」

 

 ……今の流れからして…。

 

「うん」

 

「ルナと呼んでくれないか」

 

 やっぱり。

 

「………ルナ?」

 

 少し、質問する感じのイントネーションになってしまった。

 

 ……ルドルフじゃなくて、ルナか。…名前が変わるだけでもこんな新鮮に感じるとは。

 

「…………」

 

 そしてルドルフはピタリと動きを止めてしまった。これは……喜んでるのかな。

 

「………?」

 

「……ルド」

 

 

 

 ルフ…と。口からそれが出る前に、ルドルフの人差し指が僕の唇を押さえた。

 

 

 

 ルドルフはゆっくりと首を横に振った。

 

 

 

 …あなたの望み通りに、皇帝。

 

 

 

「……ルナ」

 

 

 

「…フフフフフッ」

 

 

 

「…これはとてもいいね…トレーナー君」




 次回、もう戻れない。だが幸せ。


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シンボリルドルフ.6

 お気に入りが700近くまで来ていました、697人のお気に入りをしてくれた皆様、ありがとうございます。


 ルドルフに秘密の名前を明かされたりして、僕とルドルフの関係は急速に縮まって行った。前々から普通に親しい関係ではあったんだけど、ルドルフが一切の情け容赦無く僕に行動を起こすようになってしまったから…今では僕の方もルドルフとの距離感がおかしい。

 具体的に言うと今までは一応机を挟んだような間柄だったけど今は隣の席にいると言う感覚だ。そして全ての物を共有してるような…。

 連絡アプリで休日に何十時間も会話したこともあったし。

 

 結局僕が悪いんだけども…。

 

 そして……最近ルドルフ関連で僕には一つ悩みがあった。

 

 それは…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 寝室のクローゼットを開くと…まず目に入るのは自分のスーツとかセーターとかヒートテックとかシャツである。うん、何の飾り気もないね。…そしてその中の端っこ。そこには何故か女物の服がハンガーに掛けてあった。それも何種類か。

 明らかに僕に見つかるのを嫌がって端っこに寄せたような魂胆が見える。

 自分の名誉のために言うと、これは断じて僕の物ではない。僕に女装の趣味は無いから…。

 

 そして作業机には見たことのない眼鏡が置いてあった。

 僕は近眼じゃないし眼鏡を買った覚えも無いんだけどな。

 

「……????」

 

 寝室を出てリビングに向かえば、今度は見たことのないコーヒーカップが机に置かれていた。

 僕はコーヒーなんて飲まないぞ…?

 

 更にリビングを見渡して見ると、キッチンにある備え付けの机の上に…新品のコーヒーメーカーが置いてあった。近付いて見てみると金メッキで加工された模様があるし、何かのブランドであることがわかった。

 

 これは…見た感じ結構な値段するぞ。

 

 コーヒーメーカーをちょっといじった後は、ベランダへと移動し…。

 

「…バスタオル干してたっけな」

 

 ベランダの物干しには何故かバスタオルが掛けてあり、風に揺られていた。

 僕ってバスタオル干したらすぐユニットバスに戻すんだけども。

 

 

 

 場所はユニットバスに変わり…。

 

 

 

「…………僕ってこんなたくさんのシャンプーとかリンス買ってたっけ…?」

 

 ユニットバス内を見渡せば…何故か女物のシャンプー、リンス、ヘアーコンディショナー、ボディーソープ等がズラリと並んでいて。

 

 タオル掛けも何故かタオルで埋まっている。

 

 そして洗面台を見ると…。

 

「何でコップと歯ブラシが二組…?」

 

 僕、コップと歯ブラシは一組しか洗面台に置いてないんだけどなぁ…。

 

 

 

 所はさらに変わって玄関にて。

 

 

 

「………僕の足には合わないサイズのローファーにスニーカー…」

 

 玄関には何故か買った覚えのない、やけにサイズの小さな靴が端っこに寄せられ置かれていた。

 

 僕は出かける時はスニーカー、何か会議とか、大事な用がある時はエナメルのビジネスシューズを履くのだが。こんな可愛らしい模様の入った物は履かないぞ……? 僕。

 

 そして傘立てには傘が一本追加されており。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おかしい」

 

 一通り部屋にある記憶外の物品確認を終え、僕はリビングの椅子に身を落ち着けていた。

 

 …買った覚えの無い物が部屋に多すぎる。クレカの使用明細を確認しても僕の口座からの引き落としはまったく無いし。つまり僕がボケて買ったという線は無い。

 じゃあ誰が……?

 

 ……僕の身の回りで女物の物品やらを僕の部屋に持って来れるのは……まぁルドルフだけだよね。

 

 となるとルドルフ……が部屋に私物を置いてってるのかなぁ…。

 

 別にルドルフが部屋に私物とか置いてくのはいいんだけど。何で置いてくんだろう。

 

 ……考えてみても答えは出なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は休日なため、あの後はリビングでノートを開いてルドルフのための新しいトレーニングを考えていた。

 

 所で。関係無いけど、休日にはルドルフが高確率で家に来てくれる。最初の頃は一週間に一回位だったけど、今では一週間に四回とか、三回とか。

 滞在時間も二時間から三時間、三時間から四時間へと。

 

 僕の生活の一部になりつつあった。

 

 ………。

 

 時計の時間を見るとそろそろ来てくれる頃だと思うけど…。

 

 時計を見た直後、予想通りピンポーン、とチャイムが鳴った。

 

 うん、今日も例に漏れなかったね。

 

 はいはい、今行きますよ。

 

 小走りで玄関に向かい、扉を開ければ…。

 

「また来てしまったよ、トレーナー君」

 

 いつもの眼鏡と私服と言った出で立ちのルドルフがいて、玄関から顔を覗かせた。

 

 持ってるバッグは…相変わらずこんもりしている。

 

「いらっしゃい、ルドルフ」

 

「…まぁ…ほら、上がってよ」

 

「失礼するよ」

 

 ルドルフは尻尾を揺らして嬉しそうな様子で僕の家に上がり込んだ。もう何度も来てるし、別に面白い物があるわけじゃないのに…。

 

 そんな、ルドルフの尻尾を眺めながら。

 

「…ルドルフは大丈夫なの? こんな…毎日じゃないけど、頻繁に僕の家に来て。生徒会の仕事とか溜まっちゃわない?」

 

「あぁ、その心配はいらない。最近、とても仕事の進みが早いんだ。今日来たのも仕事が終わったからさ」

 

「そっかー。じゃあ……寮長に怒られたりとかは」

 

「それについても問題無い。外泊届でいつもしっかりと外泊を申請している。不備はないよ」

 

「な、なら。大丈夫……なのかな?」

 

「ああ、何の問題も無い」

 

 付け入る隙が全く無い…。さすがと言えばさすがだけど。

 

 確かに、僕はこの前ルドルフに甘えていいよ、そういう思い出を作ってみようって言ったけど、まさかここまでベッタリになるとは思わないだろう。

 ベッタリし過ぎて僕もルドルフと一緒にいる方が当たり前だと思い込み始めているし、ちょっとこの傾向は…まずい。学園に首をチョンパされてルドルフと離れ離れになってしまうかもしれない。そうなったらもうルドルフに会えない。

 

 ただ。

 

 担当のウマ娘が独占欲を発揮したら…ほとんど手遅れだし。もう僕にはどうすることもできなかった。

 

 僕らは玄関からリビングに出て、リビングの椅子に座……らず、そのまま僕の自室へと直行した。

 

 まぁ、こんな具合だ。普通はリビングで溜まるとおもんだけど、僕がおかしいのかな…。

 

 僕の自室に直行した後は特に何も無く二人仲良くベッドの上に収まった。なんと言うか、テイオーみたいなちびっ子組が聞いたら喜びそうな家デートっぽい。

 

「ルドルフはさ」

 

「ルナとは呼んでくれないのかな?」

 

「えっ」

 

「…いや。何か、ルナだと慣れないって言うか」

 

 変化球にギョっとしてルドルフの方を向けば悪戯っぽい表情をしたルドルフが既に僕の方を向いていた。

 

「……フフフフフ」

 

「…?」

 

「…少し反応を見たかっただけだよ。焦っている時の君は私の知っている君の中でも特にかわいいものだから」

 

 …してやられた…。

 

「………」

 

「…トレーナー君?」

 

 ちょっとした、大人気ない反骨精神から意地悪してみよう。

 

「…もうルナって呼んであげなーい」

 

「なっ。トレーナー君それは!」 

 

 ルドルフがガバッと体をこちらに向けると同時に渾身の笑みを見せてあげた。

 

「嘘だよ、お返し〜」

 

「……おあいこ、と言うことでどうかな」

 

「…そうしよう」

 

 一時休戦。…僕がルドルフに勝てたことは一度も無いけどね…。

 

「…トレーナー君」

 

「んー?」

 

「また新作ができたんだ」

 

「おっ。どんなの?」

 

 気を取り直して。

 

 こんな感じにルドルフが新作を披露したがったのを皮切りにダジャレ大会が始まった。

 

 大会の内容は……それはもう大笑いした。防音設備が機能してるか心配になる位笑ってしまった。やっぱり感性が似てる者同士は話が弾むや。

 

 お互いに、一通り笑い散らかした後…ちょっと水が飲みたくなり、僕は一旦部屋を後にした。

 キュッと蛇口を捻り水道水をコップに注いで、それを体に流し込み、再び自室に戻ろうと扉を開けば……ルドルフが何故かクローゼットを開いて、今さっきバッグから取り出したであろうカジュアルな服とハンガーをぶち込もうとしていてた。

 

「ちょいちょいちょい」

 

「はぅ」

 

 ルドルフはちょっと変な声を漏らしながら尻尾を立たせてこちら振り返った。

 

「…トレーナー君…」

 

「やっぱりルドルフが色々置いてってたんだ」

 

「…?」

 

「いやいやそんなハテナマーク浮かべてそうな顔しないでよ…今更無理あるよ…」

 

 ルドルフは目を一瞬泳がせて…バッグから取り出した服をクローゼットに入れてからベッドに戻った。そこはバッグに戻さないのね…。

 

 僕も話しやすい位置に移動するため、ベッドの上に正座した。

 

「……すまないトレーナー君。君の家には高頻度で来る予定だったから。だから私物を置かせてもらったよ」

 

「う、うん」

 

「……それに」

 

「えぇ?」

 

「常に君が私の存在を意識してくれるような状況を作りたかったんだ」

 

 …ルドルフの目を一瞬見てみると、曇っている訳でもなかった。…とりあえず、安心できる。

 

 目の色を変えずに言えるようになったと喜ぶべきなのか…それとも目の色を変えずに言えるようになってしまったと悲観するべきなのか…。

 

「いやぁ……だからってここまでしなくても」

 

「私の私物があれば、君は私の事を思い浮かべてくれるだろう?」

 

「い、いやでもこんなことしなくたって。僕はいつもルドルフの事を考えてるって言うか…」

 

「本当に?」

 

 背後からルドルフが突然僕の肩を掴み、ふわり、と。ルドルフの長髪が僕の頬を撫でた。そして頭上からはルドルフの息遣いが。

 これは…ルドルフが僕の肩を背後から掴んで頭を見下ろしている感じかな。

 

「24時間常に、と。胸を張って言えるかな?」

 

 …そこまで言われると自信を持って首を縦に触れないよ…。

 

「そこまでは…自信、ない…かな…」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…私は独占欲が強くてね。かなり」

 

「君の思考すら。私いっぱいに、私だけしか考えられない程に、塗り潰してしまいたいんだ」

 

 …今の話で確信した。ルドルフの独占欲……いや。執着心か? それは僕と過ごす時間が増えるごとにどんどんどんどん、際限なく強くなって行っている。

 一度関係が変わりかけてしまっまから、だから常に、証が欲しい。そういう心理なんだろう。

 

 僕はルドルフの中にある何かを…徹底的に破壊してしまったようだ。

 

「人は、どこまで人にのめり込むことができるのだろうね、トレーナー君」

 

「……ルドルフは…僕にどれ位…」

 

「君が私の手元からいなくなったらどんな手を使ってでも君を取り戻すと考える位にはのめり込んでいるさ」

 

 …ネジ穴って、段々と緩んでくよね。

 

 ……ルドルフがそうだとしたら、僕もそうだ。

 

 遠目から今までの会話を聞いたら、ルドルフは完全にヤバい人だろう。だけど、今の僕はそれを受け入れることができる。ルドルフだから受け入れられる。嬉しいと感じてしまう。これは僕のネジ穴が緩くなって来ていることの証明だろう。

 

「……この前。私は秘密を明かしたね」

 

「…うん」

 

「今日は…トレーナー君の秘密も聞かせてくれないか」

 

「私だけが知ることになる秘密を、ちょうだい」

 

 ルドルフの顎が右肩に置かれた。

 

「……僕はルドルフの才能を見てスカウトしようと思った訳じゃないんだ」

 

「うん」

 

「選抜レースの時にね…初めてルドルフが全力で走ってる姿を見たんだ。走る姿が、すっごい綺麗で…それで…なんかこう、ビビっと来て」

 

「ああ、この子だ。この子がいいってね」

 

「大義も特に無かったし…」

 

「なんだろ……一目惚れってやつかな…」

 

「……それは告白かな、トレーナー君」

 

「……いや、本当に思ったことを…」

 

「あぁでも、あんまり秘密っぽくは…」

 

「いや」

 

「…私の走る姿が綺麗だったというのは……私の容姿も関係あるのかな?」

 

「えっと。うん、多分」

 

「…そうか、そうか」

 

「私自身、自分の見てくれはある程度優れているという自覚はある。しかし…数あるウマ娘の中でも私を選んでくれるとは……私の容姿も捨てた物ではないね」

 

 ルドルフが左手を僕の肩から離して、自分の顔をペタペタと触っているのがわかった。

 

「…高尚な理由じゃなくて…むしろ結構下賤な理由でごめんね…。でも、ルドルフの話を聞いて夢を見届けたいと思ったのも本当だから」

 

「………………」

 

「………ルドルフ…?」

 

「理由はどうであれ、嬉しいものは嬉しいんだよ」

 

「私だけが知っている、君の秘密を……ありがとう」

 

「うわちょ!?」

 

 背中側から物凄い力が加わったかと思えば、僕は何回目かもわからない視界の反転をまた体験した。今度は…俯せにベッドに組敷かれてるね、これ、うん。

 両手は手の甲からルドルフの指が絡み付いていて、ベッドに押し付けられている。

 

 確かにこういうのは感情表現の一つの方法だとは思うけどさぁ…。

 

 ………肝心のルドルフが僕よりも大分軽いから起き上がるのは簡単そうだけど、こういう時は変に抵抗しないに限るね。今までの体験から。

 

「…トレーナー君」

 

 右耳からルドルフの声が鼓膜へ、脳へとダイレクトに送られる。

 

「………」

 

「私の夢には、支えてくれる存在が必要だ」

 

「……いや。今のも大きな理由だけれど、結局建前だね」

 

「トレーナー君。今君は、私の事が好きかな?」

 

「…好き……だと思う」

 

「はっきり言って」

 

「……うん、好き」

 

「好きだよ」

 

「これが…多分、今の僕の気持ちかな」

 

「……私は君が大好きだ」

 

「君はいつ、そう言ってくれるのかな」

 

「……近い内に?」

 

「…今はそれで、よしとしよう」

 

 ルドルフのほっそりとした指が、僕の手を何度か握った。

 

 

 

「……トレーナー君。お互いこの世からいなくなったら…墓は隣同士がいいね」

 

 

 

「どうしたの、突然」

 

 

 

「どうかな」

 

 

 

「…うーん……」

 

 

 

「…死んでもルドルフと一緒かぁ」

 

 

 

「……いいねぇ、それ」

 

 

 

「…フフッ…フフフフフ…」

 

 

 

「トレーナー君っ……」

 

 

 

「アハハ…」




 トレーナーサイドをを最後までありがとうございました〜。ルドルフサイドでしかわからない事を何話か書いたら新章に入りたいと思いまーす。

 新章は読者の皆様に決めてもらいたいと思います。


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sideルドルフ.1

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー君の絶叫が鼓膜を突き刺す。私が生きて来た中で一番聞きたくない音の一つだった。それを、今聞いてしまった。

 その事実に対するショックと、大音量のせいで私は一時的に頭が真っ白になった。

 目が虚ろになっているであろう私の横を縫って、トレーナー君はトレーナー室を飛び出して行く。

 

 我に返った私はそれを形振り構わず追いかけるが…。

 

「トレーナー君!! トレーナー君!!」

 

「トレーナー……君……!!!」

 

 いくら、いくら叫んでもトレーナー君は止まってくれない。トレーナー君の背中がどんどん、小さくなって行く。

 

 呼べば呼ぶほど、トレーナー君が私の手から零れ落ちて行ってしまうかのようで。

 

「ぁ………トレ……ナ…く…」

 

 掴めぬも物を掴もうと両手を伸ばすが、もちろん掴めるのは空だけで。

 

 そしてついにトレーナー君は、私の叫びに応じること無く……私の視界から完全に消えた。

 

「………」

 

 ……トレーナー君に……拒絶、された?

 

 その場でしばらく呆然と立ち尽くしていると……足元がグラつくような、目眩にも似た気持ち悪さが私を襲った。

 膝を床に着けるのを避けるため限界にまで開かれたトレーナー室のドアに体を寄せて支えにし、今の自分を誰にも見られないようにするためトレーナー室に入り…へたりこみそうになりながら扉を閉めた。

 

「ぅ」

 

「っ、ぁ……」

 

 トレーナー君の完全に私を拒絶した悲鳴がまだ頭の中で反響している。

 

 止まれ。

 

 止まれ。

 

 止まって。

 

 扉に背を預けながら蹲り、両耳を握り潰さんとする程に両手で抑え込む。

 

 ギチギチと手の中から嫌な音がしても、悲鳴は決して鳴り止まない。

 

「くぅぅぅ……っ!!」

 

 耳の捩れるような痛みよりも頭の内側から裂かれるような痛みの方が強い。

 

 まるで黒板に爪を立てて引っ掻き回しているかのような不快感。頭が割れそうだ。

 

 その音はまるでトレーナー君と積み上げてきた思い出が崩れ落ちていく音のようで…。

 

 ああだめだ、こんな、こんな…。

 

 立ち上がり、真っ直ぐ……歩こうとしたが、腰から下に力が入らない。

 

 ああ、これは……片や皇帝とも呼ばれよう者が……情けない…。

 

 覚束ない足取りのまま、私は何とか椅子に辿り着き、椅子の背もたれを掴んで………へたり込むように座った。

 

「は……ぁ……」

 

 身を椅子に投げ出す。

 体が重力に従ってどこまでも沈み行くようだ。両脚、両手、首がダラリと椅子から垂れ下がるのがわかった。

 

 常日頃から使っていたコップを割ってしまった。いつも連絡を取り合っていた友人と突然連絡が取れなくなった。

 その時人は言い様の無い不安感や気持ち悪さに襲われることがある。

 

 今まさに、そのような気分だ。

 

 ……トレーナー君に、拒絶された。どんな私でも受け入れてくれると思っていた。もうずっと一緒にいるものだと思っていた。

 そのトレーナー君に、拒絶された。

 

 その事実を確認する度、腹部の奥側に杭が打ち込まれるような痛みがする。

 

 どうする。

 

 どうすればいい。

 

 トレーナー君に恐怖を抱かせてしまった。

 

 一度掛かりをトレーナーに対して見せたウマ娘はトレーナーからすれば恐怖の対象となってしまうだろう。

 

 もう元の関係には戻れないかもしれない。

 

 誰のせいで?

 

 ………私の、せいで。

 

 ………手放したくない。ずっと手の届く所に居て欲しい。ずっと恐怖を抱かせたままにしたくない。

 

 私のを前にして尻込みしなかった数少ない人。

 

 初めて私をシンボリルドルフとして見てくれた人。

 

 初めて夢を夢だと笑わなかった人。

 

 初めて等身大の私を見てくれた人。

 

 初めて趣味を同じくしてくれた人。

 

 ……終わらせたくない。

 

 …………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なら、繋ぎ止めるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 こういう時、私の頭はよく働いてくれる。どうすれば最善の結果をもらたすことができるか、ね。

 

 そうだ。繋ぎ止めるしかない。欲しているなら絶対に逃すな。今までのレースでもそうだった。私なりの智謀を巡らせ勝利を逃すまいと、手にしてきた。

 だから。この頭を君のために使わせてもらうよ…。

 

 まだショックの残っている体を椅子から立たせ、先程トレーナー君の前で叩き落としたぐしゃぐしゃの契約破棄届を手に取る。

 

「…………」

 

 ぐしゃぐしゃになっても目に付く契約破棄届、の文字に左目の筋肉がピクピクと痙攣した。

 

 …落ち着け。衝動的になるな。

 

 この契約破棄届を今すぐにでも破り捨ててしまいたいという激情を抑え込みながら……ぐしゃりと限界まで握り潰し、制服のポケットにしまう。

 

 …随分と虫のいい女になったな、私は。原因を彼に求めるとは。

 人を好く気持ちは、人をここまで変えるか。

 

 …私は今、醜いのかな。

 

 いや、止そう。

 

 …それでは目的を達成できないぞ、シンボリルドルフ。

 

 トレーナー君は完全に私に恐怖しているだろう。トレーナー君から会いに来てくれる事は無いだろうし、私から会いに行くなんて以ての外だ。多分、逃げられてしまう。

 お前の脚は何のためにあると言われたらそれまでだが、私には恐怖したトレーナー君を追い掛けるなんてことはとてもできない。……かなり…心苦しいから。

 

 まず、今の私が打てる手を探すためにトレーナー室を見渡す。

 目に入るのはトレーナー君の忘れて行ったリュックや水筒。

 

 ……一芝居打つべきか。先程起きた事はトレーナー君の夢だと言う体で。

 トレーナー君はとても疲れていて、あまりの疲れで悪夢を見てしまったんだ。

 

 そうしよう。

 

 とりあえずその流れでトレーナー君を学園に来させる事に成功したら…次はトレーナー君の恐怖心を削がなければ。削ぐには私以外の誰かを宛てがう必要があるだろう。そして、逃げ道が一つしかない、何処か個室にトレーナー君を誘導して………何気ない態度で私が現れる。

 

 考えてみればなんともバカバカしい方法だが……こういう方法でも取らないとトレーナー君に近付くことは叶わないだろう。

 

 トレーナー君には段階を踏んでもらわなければ…。

 

 そして、芝居を信じ込ませるためには演者が必要だが……エアグルーヴには悪いが…演者になってもらうよ。少しの間だけ、ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓から見える私の目には、静電気の残光が引いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 せめてあの場でできる罪滅ぼしとしてトレーナー室を綺麗に片付けた後、私は生徒会室に戻った。

 そして生徒会でできる仕事を全て終わらせた後は…。

 

「会長、お疲れ様でした」

 

「ああ、お疲れ様、エアグルーヴ」

 

「…エアグルーヴ」

 

「はい」

 

「君はトレーナーが疲れている時、どうしてあげている?」

 

「………それは……トレーナーの家に赴いて掃除をしたり…料理を作ってあげたり…」

 

「なるほど……大事にしているんだな、トレーナーを」

 

「いえ……いや。はい。私のために、働いてくれていますから」

 

「ふぅ……私のトレーナーも最近とても疲れているようでね。今日はトレーナー室の鍵も掛けずに帰ってしまったよ。自分のリュックも忘れてしまって…」

 

「…疲れが原因だとしてもそれは目に付きますね」

 

「どう休んでもらった方がいいと思う…? エアグルーヴ」

 

「…私なりのやり方ですが…直接言うしか無いと思いますね」

 

「そうか、そうか……ありがとう、エアグルーヴ」

 

「はい」

 

「……もし会長のトレーナーに出会ったら私の方からも言っておきましょう」

 

「その時はすまない、エアグルーヴ」

 

「多分、トレーナー君は校内を外回りで移動するはずだから」

 

「……?」

 

「…わかりました」

 

 …少し怪しまれたが何とか凌げたか。

 

「……会長」

 

「何かな」

 

「何か、ありましたか?」

 

「…いいや?」

 

「どうしてかな、エアグルーヴ」

 

「いえ……少し、覇気が感じられないと思い……私の勘違いだったようです」

 

「そうか。しかし…そうだな。うん、今日は休みを多く取ってみるよ」

 

「はい。お体に気を付けて」

 

「君もな、エアグルーヴ」

 

 エアグルーヴに勘付かれ無いよう普段通りに過ごしながら、寮へと戻った。

 

 ……調子を尋ねられた時は正直冷や汗が出るかと思った。しかし…多分、自然な形でエアグルーヴに状況を伝える事ができた。エアグルーヴはとても真面目だから私が言わずとも私のトレーナー君を探し出して注意してくれるだろう。

 

 ……すまない、エアグルーヴ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い寮の自室にて、スマホの薄明かりが私の顔を照らしている。

 

 私が今見ているのは連絡用アプリだ。

 

『トレーナー君』

 

『今日はお疲れ様』

 

『トレーナー君、トレーナー室の鍵が開きっぱなしだったよ』

 

『後、リュックも忘れて行ってしまっていたよ。盗難の可能性は限りなく低いが、明日の朝にでも取りに行くといい』

 

「………………」

 

 何通かコメントを送信してみるが…トレーナー君からの返信は無い。既読すら付かない。

 

『トレーナー君?』

 

『何かあったのかな』

 

 何かあったのか。今日、あったね。君は私から逃げた。

 何て白々しいんだ、私は。

 

『トレーナー君、返事が欲しいな』

 

『無視されてしまうと私でも不安になってしまうよ』

 

 また何通か送ってもトレーナー君からの返信は無い。

 

 …時間帯的には既に寝ているか。それとも、意図的に無視しているかのどちらかだ。

 個人的には、前者であって欲しい。

 

『君に何事も無い事を願っているよ』

 

『お休み、トレーナー君』

 

 これ以上、私にできる事は何もない。できたとしても祈る事位しかないだろう。今日は、これで打ち止めだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……今、私は生徒会室にいる。

 

 昨夜はトレーナー君からの返信が気になって結局一睡もできなかった。

 一睡もせずトレーナー君からの返信を待った結果トレーナー君の返信が来たかと言うと……そうではない。結局トレーナー君からの返信は何も無かった。途中、返信音が鳴って一喜一憂したりして……精神的にここまで疲れたのは生まれて初めてだった。

 

 正直、今とても気分が沈んでいる。心臓が重いと形容できる程に気持ち悪かった。

 

「……………」

 

 既読、付いてないかなと連絡用アプリをまた確認してみるが、やはり何の変化も無く。ただ虚しく私のメッセージの羅列があるのみだ。

 

 朝、学園に来るまでも、そして学園に来てからもチラチラチラチラとスマホから目が離せない。

 生徒会長の態度としてどうかと思うが、こういう時だけは普通の女の子でいさせて欲しかった。

 

 さすがに、エアグルーヴのいる前でそのような事はやらないが…。

 

 ソワソワと、時折スマホの連絡用アプリを確認しつつ書類仕事をしていると……ついに。

 

 ピロリン、と言うありきたりな音が鳴る。

 

「!」

 

 私は即座にスマホの画面をタップした。

 

 ボタンの早押し大会があったならば私は優勝していただろう。

 

『ごめん』

 

 ああ、トレーナー君からだ。今度は間違い無い。良かった…。

 もう昨日きりで二度と会えない可能性もあったから、本当に良かった…。

 

『おはよう、トレーナー君』

 

『心配したよ』

 

『昨夜は寝てしまったのかな』

 

『謝らなくていいんだよ』

 

『今日は何時頃に学園に来るのかな』

 

 文字を打ち込む度に不安が吐き出せるような気がしたため、私はスマホを動かす指を止めない。

 

 しばらくトレーナー君にメッセージを送り続けたが、トレーナー君はごめんと私に返したきり一切の動きが無くなってしまった。

 

「………………」

 

 掛かりを見せるな、私。そう自分に言い聞かせるが、指の動きは止まらない。やがて指は音声通話ボタンに伸びて……。

 

 呼び出し音が生徒会室によく響いた。

 

 ……トレーナー君は中々呼び出しに出てくれなかった。

 

 根気よく待っていると、ついに。

 

「……もしもし」

 

 声が、聞けた。

 

 大切な物は失って初めて気付くと言うが…なるほどその通りだった。

 

「ルドルフ?」

 

「……もしもし、トレーナー君。おはよう」

 

 トレーナー君の声の調子は悪い。電話越しでも私を警戒しているようだ。

 …とても悲しいが、電話に出てくれただけありがたいと思おう。

 

「…おはよう、ルドルフ。……昨日は……ごめん」

 

「……何のことかな」

 

「え?」

 

「トレーナー君。昨日、何かあったのかな」

 

「え。いや……昨日、僕がルドルフから逃げて…」

 

「……おかしいね。私の記憶だとそんな事はなかったが…」

 

「えぇ? …ルドルフ、からかってる…?」

 

「…いや…」

 

「……トレーナー君。もしかして寝惚けているのかな?」

 

「そ、そんな訳」

 

「…トレーナー君。ここ数日の君は随分と疲れていたように見えた。それで帰宅してから悪夢でも見たんじゃ?」

 

「君が私から逃げるような事がある訳無いじゃないか」

 

「……えぇっと…」

 

 今の所40点だな。演劇について学ぶ機会があればすぐ学ばせてもらいたい……はぁ…。

 

「………………………………まぁ、今はそんな事はいいだろう」

 

「トレーナー君。トレーナー室に私物を忘れてしまっていたよ。大切な物は朝に取りに行くといい」

 

「ん…? あっ」

 

 トレーナー君は今気付いたようだった。それならば都合がいい。誘導しやくなる。

 

「あんな大事な物を…」

 

「トレーナー室の鍵も開けっ放しだった。疲れているなら休むべきだよ、トレーナー君」

 

「う、うん」

 

「…では、失礼するよ。また学園で」

 

 ブツリ、と私は電話を切った。かなり名残惜しかったが、私は贅沢を言っていられる状況にいない。

 

 これで多分、トレーナー君は学園には来てくれるだろう。第一関門は突破できた。

 

 そして緊張状態にあるトレーナー君がどのような行動を取るかはある程度わかる。その行動地点をエアグルーヴは巡回してくれているだろう。後はトレーナー君と二人きりになれる状況を待つのみ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……今度は逃さないよ、トレーナー君。




 とりあえずルドルフ編はこの話で一旦終わりとなります。新編中にsideルドルフ.2を投稿するかもしれません。この話の後はアンケートの結果で決まります。お楽しみに。


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エイシンフラッシュ編
エイシンフラッシュ(プロローグ)


 フラッシュ編ではフラッシュは曇りませんが話が進むに連れてだんだん……?
 トレーナーを理不尽な雨が襲う。


「ふぅ、ふぅ」

 

 12月。キャリーバッグと地面が接触し、ガラガラと言うようなありきたりな音が道に響く。

 

 URAファイナルズのような一大レースも、担当ウマ娘のトゥインクルシリーズも終わった頃、本格的な冬の寒さが日本を出迎えていた。

 そんな冬のある日の朝。俺は駅へと向かい歩みを進めている。

 

 右手にある腕時計に目を落としてみれば…。

 

 えぇっと、9時まで後……40分か。大丈夫だ、全然間に合う。

 

 …何をこんなに急いでいるかと言うと……今日は担当ウマ娘、エイシンフラッシュと温泉旅行に行く約束の日だからだ。

 

 数日前、過去に運良く温泉旅行券を当てていたので、それを使おうとフラッシュから提案された。俺もフラッシュも予定が空いてる、狙い澄ましたようなタイミングだった。

 出発日もやたら速く決められてしまい詳細を聞く暇も無かったよ…。

 

 最初はフラッシュならファルコンとか、ゴールドシップとか、友達と一緒に行くのが定番だと思って渋っていたけど、フラッシュの3年間共に歩んできた自分らへの慰問だ、と言う文言に乗せられて今に至る。

 

 あの時はフラッシュの文言に乗せられた、と自分の中で理由を見つけて納得していた。…実際は、フラッシュに誘われたのが嬉しかったのかもしれない。

 ただまぁ、これっきりだ。いいな、俺よ。

 

 フラッシュの事だから多分1時間前にはもう駅で待っているだろう。これ以上一人で待たせるのはいけないし、俺は歩みを速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーーい、フラッシューー」

 

「!」

 

 駅の改札口前にあるベンチに、少し落ち着かない様子の見慣れた存在がキャリーバッグを携えて座っていた。

 

 予想していた通り、それなりに待っていた様子のフラッシュだ。

 

 ……いや、いつも通りじゃないな。髪はいつもより艶っとしてるし、服装もいつもの感じだけどかなりきっちりと着こなされている感じだった。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

 フラッシュは俺の存在に気付くと急いで立ち上がって会釈をしてくれた。

 

「おう、おはようフラッシュ」

 

 俺も軽く右手をあげて挨拶を返す。

 

「ごめん、待った?」

 

「いえ…予定を思い返していた所だったので、むしろちょうどいいタイミングでしたよ」

 

「なら良かった」

 

「じゃ、ホームに入ろうか」

 

「はい」

 

 フラッシュはキャリーバッグを引いて俺の隣に立つ。そして、ほぼ同じタイミングで改札口へと足を踏み出した。

 

 ここから、キャリーバッグの音が二重に響くようになった。その二重に響く音が、何故か嬉しくて。

 

 ホームに着いてみれば……12月と言うこともあってか人足はいつもより多いようで。家族連れやら、カップルやら、仲良し友人グループに……ウマ娘とトレーナーの組もちらほら見かけた。

 

「意外と……俺達以外にもいるんだな。ウマ娘とトレーナーの組」

 

「えぇ。だから言ったじゃないですか、別に変なことじゃありませんよと。ご心配なく、トレーナーさん」

 

「お、おう…」

 

 隣にいるフラッシュは少し口角を吊り上げながら、横目で俺を見上げる。多分俺が渋った時の事を思い出してるな…。

 その後、フラッシュと適当に駄弁って電車が来るのを待ち……電車に乗り、数時間揺られて温泉のある温泉街に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よっしゃ、着いたぞフラッシュ!」

 

「急ぎ過ぎると人にぶつかってしまいますよ、トレーナーさん」

 

 温泉街に到着し、電車から降りて駅を出ると都会のような喧騒と所狭しに並ぶ観光客や旅行客向けの店が俺達を出迎えた。

 元から楽しみにしていたのもあるけど、風に乗って食べ物のいい匂いがこの場に充満しているため正直テンションが凄い上がってしまう。そのため思わず駅から小走りで駆け出してしまった。

 

「へへ、ごめんごめん。でもテンション上がんない?」

 

「……はい、確かに気分は上がる所です」

 

「さーてと。チェックインの時間までまだ結構空いてるよな?」

 

「はい、チェックインの予定時刻は15時ですから、まだ1時間以上あります」

 

「おっけーおっけー、じゃあ今からの予定は?」

 

「こちらをどうぞ」

 

「あ、どうも」

 

 フラッシュはトレーニングの時みたいに予定表を作ってくれていたようだ。それを一回受け取り…。

 

「えー、どれどれ」

 

 予定表の内容は……。

 

 08:00 駅に到着。(トレーナーさんを待つ)

 

 09:00 出発。

 

 12:00〜13:00 到着。

 

 トレーナーさんとの自由時間。

 

 14:30 温泉旅館へ移動。

 

 15:00 チェックイン。

 

 と書かれていた。

 

 うん、とてもわかりやすい。

 

「フラッシュの予定だとこっから自由時間だし、お昼をここで食べてブラブラするかな」

 

「そうしましょう」

 

「よし…じゃあ、美味そうな店さがすぞー!」

 

「フフ……はい」

 

 そういう訳で。俺とフラッシュの温泉街巡りが始まった。

 

 

 

 お昼ご飯は…。

 

「ラーメンうめ、うめ」

 

「急いで食べるとむせてしまいま」

 

「ごぶっ!?」

 

「…………」

 

 フラッシュに介抱され…。

 

 

 

 お昼ご飯を食べた後はクレープ屋を発見したりして。

 

「あれは…」

 

「お、クレープ屋じゃん」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…買う、買っちゃう?」

 

「…はい」

 

 美味しそうにクレープを食べるフラッシュを眺め…。

 

 

 

 こんな感じでお腹がお互いに膨れた後は大きめのゲームセンターに向かい…。

 

「今日こそ決着を着けてやる…」

 

「トレーナーさん、あまり無理は…」

 

「止めるなフラッシュ、今日なら行ける気がするんだ」

 

「はあ…」

 

「何より今日は温泉パワーが俺に付いてる!」

 

「おら行くぞぉぉ!!」

 

「が、頑張ってください?」

 

 一度も取れたことの無いクレーンゲームに挑戦し。

 

 

 

 苦手なクレーンゲームに挑戦するも…。

 

「俺の二千えぇぇぇぇぇぇん!!」

 

「残念でしたね、トレーナーさん…」

 

 結局、大量の百円玉を吸われてしまった。また駄目だっためガクリと肩を落とす。もうそろそろ10連敗になりそうだ…。

 

「またフラッシュのぬいぐるみ取れなかった……あぁちくしょう…」

 

「……………」

 

 …そんな俺を哀れんでか、フラッシュは俺の右腕を両腕で強めに抱き締めてくれた。

 

「……フラッシュ?」

 

「ぬいぐるみが無くても、あなたには本物がいるじゃないですか」

 

「……だな! うん、やっぱぬいぐるみより本物だわ! あんなの紛い物だ紛い物、そうだそうだ」

 

「……フフフフフフ」

 

「……でさ、フラッシュ」

 

「?」

 

「フラッシュも一回やってみる?」

 

 唐突な提案にフラッシュは目を何度か瞬かせ、耳もそれに釣られてパタパタと動いた。

 

「…私が、ですか」

 

「いつも俺が付き合わせてばっかだし」

 

「……そうですね、なら一回、だけ」

 

「おし、じゃあはい、百円」

 

 財布から一枚百円を取り出し、手のひらに乗っけてフラッシュに差し出す。

 

「…いつかお返しします」

 

「いつも言ってるけど、百円位心配しなくていいよ」

 

「…では……失礼しますね」

 

 フラッシュは百円を受け取り、カチャン、と投入口に百円を投入した。すると、クレーンゲームのピロピロと言うようなゲーム音が鳴り出して。

 

「ま、まずは…右に移動させて…」

 

「そうそう」

 

「次に、奥に…?」

 

「あってるあってる」

 

 フラッシュはレバーを使いアームを移動させ……でかめのスマートファルコンの上に止めた。

 

「…狙いはファルコンか?」

 

「はい、ファルコンさんです」

 

「それで…」

 

「最後にレバーの隣のボタンを押すんだよ」

 

「これですか?」

 

「うん」

 

「じゃあ…それ…!」

 

 パシッ、とアームの降下ボタンが押され、アームがファルコンのぬいぐるみに迫り……ぐわしと掴んだ。

 

「お、いい感じじゃん」

 

「…………」

 

 アームによりファルコンが掴み上げられ、二人並んでファルコンの行方を見守る。

 

 そして…。

 

 ガコン!

 

 ぬいぐるみは受け取り口に吸い込まれた。

 

「と、取れました!」

 

「い、一発でかよ…」

 

 フラッシュは見事ファルコンのぬいぐるみをゲットした。

 急いでフラッシュは受け取り口からぬいぐるみを取り出す。かなり喜んでいるようだ。

 

「わぁ、おっきいファルコンさん…」

 

 そのぬいぐるみをフラッシュは嬉しそうに抱き抱え…。

 

「………」

 

「………」

 

「………トレーナーさん?」

 

「この…」

 

「?」

 

「この違いは何なんだぁ!?」

 

「えぇ…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このような形で楽しく時間を潰して行き…そろそろ旅館に行くのにいい時間になった頃。

 

「所でさ、フラッシュ」

 

「はい?」

 

「フラッシュって温泉旅館では何号室に泊まるんだ?」

 

「私は236号室ですね」

 

「はいはい、じゃあ俺は?」

 

「……………」

 

「急ぎだったからさ、フラッシュに聞くの忘れちゃった」

 

「……………」

 

「……フラッシュ?」

 

 フラッシュは何故か口を噤んで目を忙しなく動かしている。すると…。

 

「!」

 

「それよりもトレーナーさん、見てください。あちらにくじ引き屋がありますよ」

 

「ん?」

 

 フラッシュは俺の背後を指差した。そちらの方向を見ると…一回千円! ハズレ無し! と銘打たれたくじ引き屋があった。

 

「へぇ〜。くじ引き屋か。しかもハズレ無しと。…わざわざここに来て、引かないというのはむしろ無作法と言う物よ」

 

「よし! 引いて来る!」

 

「行ってらっしゃい、トレーナーさん」

 

「待ってて!」

 

「はい」

 

 小走りでくじ引き屋に向かい、店主に千円をベットした。

 

 

 

 結果は……。

 

 

 

「千円払って豚のペッタンボールってさぁ…」

 

「私はかわいいと思いますよ?」

 

「かわいいけどさぁ、これに千円の価値があるかって言うと…」

 

 俺の千円は金色の豚のペッタンボールに変わった。

 

 …何とも微妙だ。その気持ちをぶつけるように、ペッタンボールの脚をひっ掴んで投げて伸ばしてみる。……まぁ、形容してみるとびよよん、と言った具合で。よく伸びることよく伸びること。

 ちょっとだけ楽しい。

 

「よく伸びる豚さんですね」

 

「フラッシュも遊ぶ?」

 

「はい」

 

 フラッシュが両手を差し出し…。

 

「ほら」

 

 その両手にボヨーンと豚のペッタンボールを乗せる。

 

「わぁ、柔らかい。それにひんやりしてて…」

 

「へへへ、フラッシュにとっては千円以上の価値があるかもなー」

 

「ですね…」

 

 豚のペッタンボールについて色々話し、俺のクレーンゲームの弱さについても話したりしながら俺達は旅館へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 温泉街と今日泊まる旅館はそんなに離れておらず、ちょうどいい時間に到着しチェックインできた。

 

「すいませーん、本日予約の者ですがー」

 

「はい、失礼ですがお名前をお伺いしても?」

 

「あー、私は」

 

「エイシンフラッシュです。こちらは私のお連れです」

 

 俺が名乗ろうとした所で突然フラッシュが割り込んで来た。

 

「おぉう」

 

「はい、2名様でご予約のエイシンフラッシュ様ですね、少々お待ちください」

 

 受付の人はカタカタとパソコンのキーボードを操作し始めた。

 

「フラッシュ?」

 

 名前を呼ばれたフラッシュはこちらを向き、黙って微笑むのみだった。

 

「?」

 

 なんだ? 

 

「……はい、お待たせいたしました、旅行券でご予約されていて…236号室の相部屋で間違いありませんか?」

 

 ……相部屋?

 

「間違いありません」

 

「旅行券はお持ちでしょうか?」

 

「こちらです」

 

 フラッシュはカウンターに旅行券を滑らせて受付の人に差し出した。

 

「では、お預かり致します」

 

 旅行券を預かった受付の人は旅行券の番号とパソコンを交互に見比べ…。

 

「……お手数をおかけしました。照会が終わりましたので、こちらの旅行券は回収させていただきますね」

 

「はい」

 

「では、お待たせしました。ごゆっくりどうぞ〜」

 

「ありがとうございました。さぁ、トレーナーさん」

 

「え、あ、あぁ。ありがとうございました…?」

 

 フラッシュと受付の人の流れるようなやり取りをポカーンと眺めていれば一瞬で手続きが終わってしまい。そこでフラッシュに促され我に帰り…受付を後にした。

 

「…………」

 

 俺の前を行くフラッシュの背中を追う。

 

「な、なぁフラッシュ」

 

「はい」

 

「相部屋って…」

 

「はい、相部屋ですよ」

 

「ええぇぇ、聞いてない聞いてない」

 

「どうして」

 

「……トレーナーさんは、絶対に私と一緒のお部屋にはしてくれないでしょう?」

 

「それはぁ…」

 

「………」

 

 この沈黙はまぁ…理由を求めてるんだろう。

 

「だって…フラッシュはまだ未成年だし…」

 

「はい」

 

「俺は成人だし、未成年を同じ部屋に連れ込むのは……」

 

 フラッシュが一つ、大きな溜め息を吐いた。

 

「……トレーナーさんは私に悪い事をするような人ですか?」

 

「いやしないけどさ」

 

「なら、大丈夫じゃないですか」

 

「それに、トレーナーさんの考え方ならむしろ未成年を夜に一人にする方が危ないのでは?」

 

「トレーナーさんと一緒にいた方が、安全ですよね?」

 

「う、うぅん…」

 

 …それもそうだけどさ…。

 

「…トレーナーさんは最後までマンションの何号室に住んでいるか教えてくれなかったので、予想はできていましたが」

 

「………」

 

「なので、先手を打たせていただきました」

 

「ふ、フラッシュゥ」

 

「…………」

 

 完全にしてやられたことに狼狽しつつ、フラッシュの後を追い…ついに、236号室前に到着した。

 

 フラッシュはさぁどうぞ、と言わんばかりに一回振り返ってからが扉を開き、部屋に入る。

 

「……………」

 

 えぇ、マジで? 入るの? 俺。いやいやちょっと待て、今からでも別室を用意できないか旅館の人に…。いやでもフラッシュの言う通り…。

 

 なんて考えていると、いつまで経っても部屋に入って来ない俺に業を煮やしたのか扉からフラッシュが顔を覗かせた。

 

「トレーナーさん。速く入らないと鍵、閉めてしまいますよ?」

 

「……すいませぇん」

 

 そう来られるともう無理だ…。

 

 俺は諦めてフラッシュの後に続いて部屋に入った。

 

 部屋の中は……和風テイストだった。部屋の床は畳、壁は木目で全体的に暖かさがあり、畳の真ん中には大きめサイズの机と座布団が四枚配置されていた。そして玄関側なら見て左側の奥にテレビがあり、右側の奥には布団と枕と毛布のセットが二組敷かれていて。

 

 二組の布団の隣には2つの籠があり、その中には畳まれた浴衣が入っているようだった。

 

「…いい雰囲気ですね、トレーナーさん」

 

「そ、そうだな…」

 

 フラッシュは玄関で靴を脱ぎ、それを整えてキャリーバッグを引っ張り部屋へと入った。俺も同じく靴を脱いでキャリーバッグを持ち上げ部屋に入る。

 

「よいしょ…っと」

 

「……キャリーバッグは…玄関近くの板素材の所に置けばいいのでしょうか?」

 

「そうそう、板の間に横倒しに置けばいいよ」

 

「わかりました」

 

 板の間に2つのキャリーバッグが横倒しに置かれた。

 

「あー、着いた着いたっと」

 

 とりあえず置くものも置いたので、どっかと畳に腰を落ち着かせた。

 

「……………」

 

 …隣を見ると、慣れなてなさそうな正座をしているフラッシュがいた。

 

「慣れない?」

 

「……はい。ちょっと、足首から先が」

 

「ははは、無理しなくていいよ」

 

「はい…」

 

 俺に言われてフラッシュは正座から所謂女の子座りの体位に座り直した。

 

「……………」

 

「……………」

 

 ………落ち着かない。フラッシュも同じ心境なのか、尻尾がさり、さりと畳を撫でるようにして忙しなく動いている。

 

 フラッシュとは基本、遅くとも17時には別れる。それ以降の時間に一緒にいることは無い。だけど今日は……すぐ17時を超えてしまいそうな雰囲気だ。

 

 あーどうしよ。こんなの初めてだ。突然のことには弱いんだよな俺って。あぁぁぁどうすれば…。

 

「……トレーナーさん」

 

「はい!?」

 

「浴衣に、着替えませんか?」

 

「そ、そうしよう!」

 

 そうだな、今夜はフラッシュと普通に過ごそう。堂々とするんだ、俺。相部屋になってしまったからには仕方ない。

 

 浮ついた気持ちのせいで今なら何でもかんでも全肯定してしまいそうだ…。

 

「では、その…トレーナーさん」

 

「?」

 

「えぇっと…」

 

 フラッシュは上着の襟を掴むと、少しだけはだけて見せた。

 

「おっと、失礼。先に温泉の出入り口がどこにあるか調べてくるわー」

 

「はい、行ってらっしゃい、トレーナーさん」

 

 跳ねるように立ち上がると、俺は急いで部屋から退出した。

 

「………」

 

 部屋の扉を背にして…。

 

 危ない危ない。後ちょっとでデリカシーの無いクソ野郎になる所だったわ…。

 

 とりあえず言った通り温泉の出入り口を探そう。そしたらその間にフラッシュも着換え終わってるだろう。

 

 部屋の前から移動しようと一歩踏み出した所、部屋の中から…。

 

「はぁ……」

 

 と。微かだが、確かにフラッシュの溜め息がまた聞こえた。本日二度目だ。それと、布の擦れる音も。

 

 ……フラッシュの溜め息の意味を、確信を持って言い当てる事はできない。だけど、何となく想像する事はできて。

 

 …俺は逃げるように、部屋の前から移動した。




 次回、全てはフラッシュの予定通り。


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エイシンフラッシュ.1

 お気に入り800台ですと…。


「…………」

 

 逃げるようにして236号室前から移動した俺はフラッシュに言った通り旅館内を散策し温泉の入口を探すことにした。

 

 温泉旅館と言うことで温泉は一階にあるんだろうけど…。とりあえず端っこの方から探して行こう。

 

「……あったあった」

 

 端っこからしらみ潰しに探して行った結果、温泉の出入り口は宴会場を挟んだ先にあった。

 さて、ここまでで大体何十分か経過しただろ。フラッシュももう着換え終わってるはず。戻ろう。

 

 

 

 フラッシュがまだ着替えている可能性も考慮して、ゆったりとした足取りで236号室前まで戻り……扉をノックしようとした所で、部屋の中でフラッシュが誰かと会話している声が聞こえた。…電話中かな?

 

 それならば、今入るのは失礼だろう。

 

 …扉の前で何もせずに突っ立っているのもあれなので、品が無いが、ちょっと耳を済ましてみる。すると…。

 

「___________」

 

 ……ドイツ語? 残念ながら大学での第二言語は中国語だったからな俺…。ドイツ語はわからないや。…会話の相手は男っぽいな。

 

「__________」

 

『………………』

 

「_____Ich möchte Sie um einen Gefallen bitten…」

 

『……………………………』

 

「……Ich möchte meinen Trainer meiner Familie vorstellen」

 

『……………………………………』

 

「Dafür würde ich gerne nach Deutschland reisen」

 

『………………』

 

「Kann ich meinen Trainer bei mir zu Hause wohnen lassen?」

 

『……………………………』

 

「Darf ich?」

 

『………………………』

 

「Ich danke dir, Papa」

 

『………………』

 

 ……最後にパパって言ってたような。家族と電話中だったのかな? まぁ確かに3年目の終わりだし娘に電話の一つや二つかけたくなるか。

 

 やがて会話も終わったのか、何かを切るようなか細い電子音がして。

 

 ……終わったかな。

 

 そう判断した俺は、扉に向かい三回手の甲を叩き付け…。

 

「フラッシュ〜」

 

「っ、トレーナーさん?」

 

「おーう」

 

 部屋の中のフラッシュが何かを急いでしまう音がしてすぐに…。

 

「どうぞ」

 

「ただいまー」

 

 フラッシュからお許しが出たので扉を開いて玄関に入り、靴を脱いで部屋に戻れば……浴衣姿のフラッシュが正座で出迎えてくれた。

 

 そう言えば……フラッシュが日本の民族衣装を着るのはこれが初めてか…?

 

 今まで制服、私服、勝負服姿のフラッシュしか見てこなかった俺はそれに思わず歩みを止め、座るのも忘れてしまいその場に立ち竦む。

 

 ……これはフラッシュが黒髪なのもあるけど……似合うなぁ、凄い。

 

「………トレーナーさん?」

 

「…………おっとごめん、似合うもんだからつい」

 

「…似合い、ますか?」

 

「うん。すげぇ似合う」

 

「…ありがとうございます、トレーナーさん」

 

 フラッシュの耳と尻尾が小刻みに揺れた。…ウマ娘は感情を隠そうとしてもわかりやすいなぁ……と、内心苦笑いしつつ、フラッシュの隣にある座布団に腰を落ち着かせる。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

「おう」

 

「電話、聞こえていましたか…?」

 

「あー、うん。ごめん、聞こえちゃった」

 

「……………」

 

「……………?」

 

 …聞かれちゃまずい内容だったか?

 

「…トレーナーさん」

 

「は、はい」

 

「内容、わかりましたか…?」

 

「い、いやぁ全然? 何言ってるかまーったくわからなかったぞ」

 

「………」

 

 …フラッシュは努めて平静を装おうとしているようだけど、明らかに胸を撫で下ろしている様子だった。

 

 よっぽどプライベートな内容だったのか…?

 

「何かごめん」

 

「いえ…」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……って、そうだ。俺も着替えなきゃ」

 

 …何とも言えない雰囲気になってしまったため、場面転換め兼ねて惚けた声でフラッシュにそう告げる。

 

「あっ。はい、では私は外で待っていますね」

 

「すぐ終わるから!」

 

「はい」

 

 フラッシュはぎこちない脚取りで部屋から退出した。……脚痺れてたのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フラッシュ〜。終わったぞ〜」

 

 さっさと着替えて脱いだ服を畳んで扉の前にいるであろうフラッシュへ向けて声を掛ける。

 

「失礼します」

 

 すぐに扉は開かれた。もちろん、入ってくるのはフラッシュ以外におらず。そのフラッシュは…先程の俺と同じように部屋へ戻りかけの所で歩みを止めてしまった。

 

「フラッシュ?」

 

「…トレーナーさん…浴衣、とても似合っていますよ」

 

「そう? 日本男児として嬉しいなぁ、はっはっはっ!」

 

「今まで見てきたあなたの中でも一番凛々しい…」

 

「……そんなに?」

 

「はい」

 

「…そこまで言われると俺も照れるなぁ! は、はは」

 

 今日のフラッシュはなんか…凄い、遠慮が無いな…。さっきから調子崩れっぱなしだわ…。

 

 フラッシュは自分から目を逸らす俺を見てかくすくすと小さく笑い、俺の右隣、空いている座布団にぽす、と座った。

 

「……またと無い機会なので、このまま一緒に写真を取りませんか?」

 

「お、写真か。いいじゃんいいじゃん。なら早速…」

 

「いえ」

 

 自分のスマホを取り出そうとしたら、数秒速くフラッシュがスマホを取り出していた。

 

「私のスマホで撮って、後で撮れた物をトレーナーさんに送ります」

 

「あぁ、それでもいいや」

 

「では…」

 

 フラッシュは俺の横により近付き…二人並んで移れるようスマホを掲げた。

 

「ピース」

 

 俺はスマホに向かい口角を上げ、無難にピースサインをする。

 

「……………」

 

「……………」

 

 …しかし、いつまで経ってもフラッシュの指がシャッターボタンをタップすることは無く。

 

「……フラッシュ?」

 

「トレーナーさん……」

 

 隣にいるフラッシュに目をやると、何やら不満気な様子だった。

 

「?」

 

「それでは味気無さ過ぎます」

 

「えぇ〜。でも俺、これ以外のポーズ知らんよ」

 

 フラッシュは掲げたスマホを一回降ろし、少し考え込んだ後…。

 

「………もっと、こうっ」

 

「ぬんっ!?」

 

 突然フラッシュの右腕が俺の右腕に絡まり、フラッシュに体が引っ張られる。ち、近…。

 

「頭もこうです」

 

「ちょちょちょ」

 

 クイッと絡まった右腕をさらに引き寄せられ、それに合わせてフラッシュの頭が俺の頭に寄り、こつんと頭同士が接触した。

 

「それで何かポーズしてください」

 

「こ、こう? こうでいいのか?!」

 

 フラッシュの指示通り首元に左手を持ってきてピースサインをして…。

 

「はい、そのままで…」

 

「……………」

 

 そして、ようやくシャッター音が聞こえた。

 

「っはぁ」

 

 それと同時にフラッシュが右腕を離してくれて…そのまま俺はフラッシュから弾かれるようにして左側の畳に向かい体を倒した。

 

「ふぅ……ありがとうございました、トレーナーさん」

 

「ど、どうも……」

 

 フラッシュは写真の出来栄えを確認するため、すぐにスマホに目を落とす。しばらくじぃ、とスマホの画面を眺めて…。

 

「…いい感じです」

 

 結構いい出来だったのか、フラッシュは満足そうに頷いた。

 …あーびっくりしたわ。

 

「そりゃ良かった…」

 

「トレーナーさん。誰かと一緒に写真を撮る時は一緒に映る人のことも考えてあげてくださいね」

 

「あい…」

 

 俺は畳に伏せたまま右手を挙げる。今のでどっと疲れてしまった…。

 

 写真を撮った後は、フラッシュに脚の痺れない正座の仕方を教えてあげたり、ドイツの温泉旅館と日本の温泉旅館の違いについて教えてもらったり、晩飯を食べたりして時間が過ぎるのを待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そろそろ温泉に入れる時間ですね」

 

「おっ……と。そうだな、もうそろ19時だし。持つ物持って行くかぁ」

 

 フラッシュの一言で一度室内の時計を確認し、俺の脳内は完全に温泉モードへと切り替わった。

 体を起こしてキャリーバッグの置いてある所に向かい、中からボディタオル、シャンプー、ボディソープ、タオルを取り出し、湯桶に乗っける。

 フラッシュも俺の後に続き自分のキャリーバッグを漁り始めて……俺より大分多い荷物を取り出して湯桶に乗せた。

 …髪の手入れとかあるもんな、うん。

 

「では、行きましょうか、トレーナーさん」

 

「おう! テンション上がってきた」

 

 

 

 と、言う訳で部屋から温泉の入口まで俺達は移動した。

 

 

 

 ただいま俺はフラッシュと並んで湯桶を持って暖簾の前に立っている。

 

「……日本の温泉は男女別々なんですね」

 

「おう、そうだぞ?」

 

「ドイツでの温泉は混浴が一般的で…日本式は今日が初めてです」

 

「へぇ〜。それ、初めて知った。ドイツは混浴なのか。お互いにカルチャーショックだな…」

 

「……………」

 

 初めて知るドイツ文化に面食らっていると、何やら隣から視線を感じたので視線の方に振り向いて見ると…フラッシュが俺を見ていた。

 

「……ん?」

 

「…いつか…」

 

「うん」

 

「いつか…一緒にドイツの温泉に行きたいですね」

 

「!?!?!?」

 

「ではお先に失礼します」

 

「……!?…………!?」

 

 フラッシュのとんでも発言に思考停止していると、フラッシュはそそくさに女湯の暖簾を潜ってしまった。

 

 俺は……しばらくその場で呆然としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぃ〜〜。いい湯だったな〜」

 

「ふ、ぅっ……そう、ですね…」

 

 温泉から出た後…俺が先だったためフラッシュが出てくるのを待って、合流した後はこのように有料のマッサージ機にお世話となっていた。

 

 温泉は実に素晴らしかった。ちょっと湯に長く居過ぎたせいかまだ頬が熱い。

 隣のマッサージ機にいるフラッシュを見てみると、俺と同じらしく目は何処かぼんやりとしていて頬に朱が差していた。…このマッサージが終わった後、一緒に湯冷まししよ。

 

「フラッシュ〜」

 

「は、い?」

 

「マッサージ終わったら一緒に庭園行かない?」

 

「いい…ですね。そうしましょ…ぅ…」

 

 ……マッサージ機のせいでフラッシュが大分だらしない顔になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 温泉の庭園は俺の語彙で言い表すと……風情があった。和風建築に、芝に、石畳に、ベンチに、夜空。隣には浴衣姿のフラッシュと来れば、もう完璧だろう。

 

 …庭園にはカップルらしき組がちらほらいた。俺とフラッシュもそれっぽい雰囲…………違う、そうじゃないだろ。今日はただ慰問に来ただけ、慰問に来ただけ……。あっぶね。

 

「月が綺麗ですね」

 

「えっ?」

 

 物凄い勢いでフラッシュの方を向いてしまった。あの、今のはかなり有名な…。

 

「?」

 

 当のフラッシュは……頭上にハテナマークの浮かんでいそうな顔をしていた。…まぁうん、そうだな、ドイツ育ちのフラッシュが月が綺麗ですねなんて知ってる訳無いか。ただの感想だろう。

 今日は勘違いが甚だし過ぎるぞ、俺。調子に乗るな…。

 

 そういう、自戒の念も込めて…。

 

「…だな! 月綺麗だなー!!」

 

「……ふふふ…」

 

 ……この温泉に来てからのフラッシュの笑みには、何か含みがある気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 庭園を回った後は、大人しく部屋に戻って来た。

 …庭園を回って湯冷ましの効果があったかと言うと……そんなことはなく、むしろ余計頭に熱が籠もった気がする。

 

 現在、俺はフラッシュに背を向けて布団にくるまっている。先程からの、畳み掛けるような言動のせいでフラッシュを見ていると落ち着かないからである。

 

「トレーナーさん」

 

「ん、んん?」

 

「こっち、向いてくれないんですか」

 

「こ、この体位が落ち着くなーなんて」

 

 ごそり、と何かがこちらに近付く音がした。…その音が俺に対する警告に聞こえてならず、俺は急いでフラッシュの方を向く。

 

「…やっぱりこっちの方が落ち着くなー!?」

 

「はい、私もこの方が落ち着きます」

 

 ごそ。

 

「……今日のフラッシュはさ…凄い押してくるな?」

 

「そうですか?」

 

 ごそ。

 

「うん。相部屋にしてたり…ドイツの温泉に誘ったり」

 

「……多分、気分が上ずっているんだと思います」

 

 ごそ。

 

「フラッシュが? 珍しい」

 

「はい……多分、トレーナーさんと一緒だから…」

 

 ごそ。

 

 ……何かフラッシュさん近付いて来てません?

 

「……フラッシュ、何かさっきと距離違くない?」

 

「そうですか?」

 

「さっきからどんどん近付いて……」

 

「…………」

 

 ごそり、とフラッシュはさらに近付いた。…これはもう確信犯だろ。

 

「トレーナーさん」

 

「んん?」

 

「世間一般で見て、一緒に温泉旅行へ行くような男女はとても仲良く映るはずです」

 

「うん」

 

「私もそう思います。トレーナーさんとはとても仲が良いと」

 

「…う、うん」

 

「……トレーナーさんは、どう思いますか?」

 

「…俺?」

 

「はい」

 

「俺、かぁ」

 

「………仲、良いと思う。かなり」

 

「かなり?」

 

「私は、それ以上だと思います」

 

 フラッシュの瞳が俺を捉えた。決して、捉えて離さない。それはまるで素直になれと俺に訴えかけているかのようで。

 

「……正直、フラッシュとはもう……ただの男女と言うには………って」

 

 ここでハッとして我に返る。危なかった。これ以上は……。浮ついた気分のせいで色々口走ってしまう所だった。

 あぁ、今日はだめだ。自分の立場をもどかしく思ってしまうなんて。

 

「……………」

 

「…トレーナーさん」

 

 ごそり、とフラッシュはさらに俺に接近し……もうフラッシュの頭は俺の胸元…と言うか体が密着しそうだった。

 

「この部屋には、誰と誰がいますか」

 

「俺と…フラッシュ…だけ、だな」

 

「はい、あなたと私だけの、二人きりです」

 

 最後に一回、布の擦れる音がして……ついに、フラッシュの体が俺にぴとりとくっついた。

 

「誰も、見ていませんよ」

 

 フラッシュの人差し指が俺の首筋をなぞる。

 

「あなたを咎める人は誰もいない」

 

「フラ…」

 

 やばい、頭がおかしくなる。ギチギチと理性の糸が音を立てている。防波堤に掛かる圧力が強くなっている。

 

「私も……今、あなたになら何をされてもいい…」 

 

「トレーナーさん」

 

 トレーナーさん。トレーナーさん。トレーナーさんトレーナーさんトレーナー……。

 

 頭の中でフラッシュの声がエコーのように繰り返し反復する。

 

 ぷつり、と頭の中で何かが弾けた。

 

「フラッシュ」

 

「あぁ…」

 

 気持ちの赴くままに、俺は両手をフラッシュの腰に回し、思い切り抱き寄せてしまった。

 

「ごめん、フラッシュ。ごめん」

 

「トレーナーさん…」

 

 フラッシュも、拒まずに俺の肩を掴んでくれた。

 

 お互いの体温が混ざり合い、とても暖かい。この暖かさが頭をどうにかしてしまう。

 

 今、この瞬間だけでも……トレーナーであるのを止めた俺は、間違っているのだろうか。

 

 あぁただ。間違っていたとしても、俺は今までに無い幸福感に満たされていた。

 

 ……トレーナー、失格か? はは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …ふと、フラッシュを見てみると……フラッシュは既に俺の事を見上げていた。口を三日月に歪め、瞳を妖しく輝かせながら。

 まるで目的を達成したと言わんばかりに。




 次回、隙を生じぬ二段構え。


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エイシンフラッシュ.2

 UAが12万に到達です。こんなに見てもらえるとは…。


 場所はトレーナー室。パソコンのキーボードを叩く無機質な音が途切れる事なく室内に響き続けている。

 

「……………」

 

 温泉では特に何も無……かった訳じゃないけど。あの後は何も無く、無事に帰って来れた。

 

 温泉から帰ってきてやることと言えば、もちろん仕事だ。それしかない。

 

 …温泉に行った日の夜、温泉と言う特別な環境に置かれたせいで…いや、言い訳をするのはみっともないか。

 とにかくフラッシュを求める気持ちを抑えられず……あの時だけとは言えトレーナーを止めてしまった。あの瞬間は、実に心地良かった。

 

 フラッシュが多少なりともあの状況を狙っていたのは否めない。しかし、そこで踏み止まってこそだ。俺は踏み止まれなかった。その事に対する懺悔の意味も込めて、ひたすらに仕事に打ち込む。

 

 が……フラッシュが頭にチラついて離れてくれない。俺がひたすらキーボードに指を打ち付けているのは頭にチラつくフラッシュを掻き消そうとしているからでもある。

 

「…ぐぁぁぁーーー……」

 

 温泉に行って以降、俺とフラッシュとの関係は完全に破壊された。

 

 絶交したとか、喧嘩別れしたとかそう言う類の破壊ではない。

 

 距離感が破壊されたと言うか、ただのトレーナーと担当からただじゃないトレーナーと担当になってしまったと言うか。 

 

 フラッシュは温泉に行ってから明らかに俺に対するアプローチを変えている。あの夜の出来事のせいで、俺は押せば行けると判断したんだろう。最近はやたら二人で○○、二人で○○と言う時間が増えた。

 俺も…どうしてか断り切れない。

 

「………」

 

 自分に言い訳しつつ、パソコンとにらめっこして何時間経過しただろうか。いい加減、目がしょぼしょぼして来た頃……。

 

 コン、コン、コン、とトレーナー室の扉が鳴る。

 

 この時間に来る人ってーと…フラッシュ位しかいないわ。

 

「どぞー」

 

「失礼します」

 

 扉が開かれ、制服姿のフラッシュがトレーナー室へと入ってきた。脇にはバッグを抱えている。

 

「トレーニング終わった?」

 

「はい。全て予定通りに」

 

「今日は見てあげれなくてごめんなぁ」

 

「いえ。トレーニング後でもこうして会うことができるならば私は大丈夫です」

 

「そ、そう。で、何かなフラッシュ」

 

「はい。トレーナーさん」

 

 俺はこの時点まではフラッシュが大したことない、新しい予定について相談しに来たと踏んでいた。

 

「ドイツへ行きましょう」

 

 ボクサーで例えるなら意識外から左フックが飛んできたと言うべきか。

 

「うん、ドイツへ行………ん?」

 

 あ?

 

 ……聞き間違いか?

 

「?」

 

 フラッシュは目が点になっている俺に対して首を傾げる。

 

「………………」

 

「……トレーナーさん、ドイツへ」

 

 俺に聞こえてないと思ったのか、フラッシュはもう一度言おうとして…。

 

「おいちょっと待ってくれ」

 

 それを静止する。

 

「???」

 

 フラッシュはとても不思議そうな顔をした。

 

「いやそんな顔されても…」

 

「…えぇっと……ドイツへ、行きませんか?」

 

 駄目だ完全に俺が着いてきてくれる前提で話してる!

 

「いやいやいやいや」

 

「何で突然ドイツ?」

 

「……トレーナーさん、パスポートの期限が…」

 

「いやパスポートはちゃんと更新してるぞ? トレーナーには義務付けられてるからな」

 

「!」

 

「それなら、問題無くドイツへ行けますね!」

 

 フラッシュは目を輝かせながら嬉しそうに俺に告げた。

 

「いやだからちょっと待ってぇ!?」

 

「何で俺が行く前提になってんの!?」

 

「?」

 

 フラッシュは相変わらず不思議そうな顔をしたままだ。

 

「トレーナーさんは…来てくれますよね?」

 

「お、おぉう……」

 

 どうやらフラッシュは自分の行く先に俺がいることが当たり前になってるらしい。………確かに考えてみればクリスマスにバレンタインに正月とかは常に一緒に何処かへ行ってたし、何なら学園ではほぼ一緒……。後温泉も…。

 

「……一緒に……来てくれないんですか…?」

 

「あうあう。あのあの」

 

「…両親も、楽しみにしているんです」

 

「親御さんに話通しちゃったのぉ!?」

 

「トレーナーさん……」

 

 フラッシュは萎れた子犬のような態度で俺を見下ろしている。あーーーもうそんな顔をしないでくれよぉ!!

 

 …どうする…どうする? 

 

 ………そう言えば…三年前からだけどこの時期は学園にずっといるようなトレーナーとウマ娘が少ないんだよな。…いやまさか……でもそのまさかだよな。じゃないとウマ娘とそのトレーナーの組が頻繁に学園から姿を消す事の説明がつかない。……なら…お、俺も…別にいいよな…? 理事長もたづなさんも別に何も言ってないし…。

 

 ……よし。

 

「わ、わ……わかったわかった! 一緒に行くからさ!」

 

「…トレーナーさん!」

 

 俺が行くと宣言した瞬間、フラッシュは…見間違いかもしれないが、目的を達成したと言わんばかりに悪意を感じる笑顔を浮かべて。その笑顔もすぐに純粋な笑顔に隠れてしまったが。

 

「良かった…きっと、両親も喜んでくれます。とても」

 

「とほほ…フラッシュの父上母上に何と申せば…」

 

 まさかまた会うことになってしまうとは…。フラッシュにはいつもお世話になっておりますと挨拶するべきだな。とにかく無礼が無いようにしなければ…。

 

「……で、フラッシュ」

 

「はい?」

 

「出発はいつ?」

 

「はい、出発は…」

 

 フラッシュは制服の懐から2枚の紙切れを取り出し、机に近付いてそれを俺に向けてスライドさせた。

 

「これは……」

 

 えぇっと、どれどれ。細長い紙切れだな……ん? ジャパン…エアー…ライン……。…搭乗日…28DEC2021…………!?!?!?!?

 

「ほあ!?」

 

「?」

 

「これJALのチケットじゃん!? しかも搭乗日が12月の28日!?」

 

「はい」

 

「今日12月23日だぞ!? 時間無いぜ!?」

 

「後5日しかない!」

 

「はい、なので荷造り等は私も手伝います」

 

「あ、うんありがとう……じゃなくて!」

 

「チケットはフラッシュが買ったのか?」

 

「はい」

 

「そんなお金ど…こで」

 

「トレーナーさん。私はトレーナーさんよりも多分裕福ですよ」

 

「あ、あぁ………なるほど……」

 

 考えてみればフラッシュはトレーナー以上の高給取りだったわ。納得納得。…そろそろ、子供扱いもきついか?

 

「……温泉に続いて今度はドイツ旅行か…まーた理事長に有給取りますって言わなきゃ」

 

「楽しみですね、トレーナーさん」

 

「……はは…はぁ……じゃあフラッシュ、ちょっと待っててくれ…時間無いし今から理事長に会ってくるわ」

 

「はい、行ってらっしゃい、トレーナーさん」

 

「うーい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小走りで学園内を走り、理事長室まで移動して……。

 

「許可! 休暇を楽しんで来るといい!!」

 

「ありがとうございます、理事長」

 

 急ぎで書き上げた書類に理事長は快く判子を押してくれた。

 

「して、トレーナー君」

 

「はい?」

 

「ドイツ旅行は誰と一緒に行くのかな?」

 

「あーー」

 

「…担当とかな?」

 

「…はい…」

 

「ははは。まぁ、そうだろうな。君の担当はエイシンフラッシュだろう?」

 

「はい」

 

「気にすることはない。3年共に走ったのだから」

 

「えぇ、まぁ」

 

「それ位は許されると私は思う。しかし。くれぐれも…」

 

「はい、心得ています」

 

「よろしい。では、もう下がって良いぞ」

 

「はい、失礼します」

 

「ドイツからの土産話を待っているぞ!」

 

 理事長にもう下がって良いとお許しが出たので、ペコペコしながら理事長室から退出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…たづな」

 

「ここに」

 

「退職届を一枚追加しておいてくれ」

 

「はい」

 

「はぁ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理事長室から退出した後何か会話するような音が聞こえた気がしたけど、自分には関係無いと思いさっさとトレーナー室に戻った。

 

「よーし、有給取れましたーっと」

 

「それは良かったです」

 

「さて、と。仕事は一旦中断だな。帰って荷造りしなきゃだ」

 

「ですね。先程言った通りお手伝いさせていただきます」

 

「………あ、フラッシュ俺ん家来んの?」

 

「はい」

 

「フラッシュ、荷造りは一人でも」

 

「でも急いでいるんでしょう?」

 

「そうだけど」

 

「なら、二人で荷造りした方が効率がいいと思います」

 

「……ほら、フラッシュの荷造りはまだ」

 

「ご心配なく、私の荷造りは既に終わっています」

 

「………………………」 

 

 ここで俺は気付く。

 

 やられた。

 

 多分フラッシュは何週間も前にチケットの予約を済ませていたはずだ。

 唐突に俺にドイツ旅行の話をしてドイツに行く事にし、期日が迫っていると俺を焦らせ正常な判断力を奪い自分の主張を通しやすい状況が出来上がるのを待っていたんだ。フラッシュのレースで発揮する用意周到さと冷静さが俺に向けられるとこうも掌で踊らされてしまうか…!

 

「……今日中に帰るなら」

 

「もちろんです」

 

 クッソ。ここでも一枚二枚上手かよ。俺の条件を飲んで妥協する姿勢を見せたな。これでフラッシュの狙いは通った。

 多分フラッシュのここでの目的は俺がマンションの何処に住んでいるかを把握する事だ。

 最初に厳しい条件を提示し、妥協案に乗ることで話を通すっていう、戦争で使われるようなエグい手法だ。

 

「……届は?」

 

「既に」

 

「……はぁぁぁぁぁぁぁ」

 

「………じゃ、行くぞ。フラッシュ」

 

「はい♪」

 

 フラッシュの完全勝利だった。

 

 ……女神様ぁ。

 

 俺はパソコンやら鍵やら何やらをバッグに詰め込んで、フラッシュとトレーナー室から退出した。

 

 退出した後は学園から帰路に付き、終始ニッコニコのフラッシュと会話を楽しみながら自分家に戻った。俺の部屋の前に着いた時は…部屋番号を凝視してたな。

 戻ってからフラッシュは宣言通り、荷造りの手伝いをして深夜にトレセンへと帰って行った。

 

 …居座る懸念をしていたのは……俺の警戒のし過ぎか。それとも俺の煩悩か。

 

 はぁ………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、色々準備をして28日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成田空港に来るのは久しぶりだなー」

 

「私はもう3年ぶり位ですね」

 

「俺はもう大学のサークル旅行以来だから……五、六年ぶりか…?」

 

「楽しい時間が多いと時が経つのも早いですね、トレーナーさん」

 

「だなぁ」

 

「まぁ、とにかく…」

 

「お互い、久しぶりのフライトを楽しみましょう?」

 

「おう」

 

「……今回はエコノミークラスですが、今度はファーストクラスで」

 

「へへ、またドイツに戻る気満々じゃん」

 

「えぇ」

 

 そんな会話をしながら、ターミナル内をフラッシュと並んで歩く。

 

 今日は最寄り駅から成田線に乗りそのまま成田空港に来た感じだ。

 さすがに、空港にいるウマ娘とトレーナーの組は少なかった。……いやまぁ、いたにはいたのが驚きだけど。その中に自分らが含まれていると考えると、何とも…。

 

「確か受付に並んで…時間になったら荷物をあのベルトコンベアに流しゃ良かったんだっけか」

 

「そうですよ」

 

「あい」

 

 まだ受付時間前だけど互いに意味も無くぶらぶらするような性じゃないから早めにベルトコンベアの横にある受付に並んでおく。

 

 受付が始まればチケットとパスポートを見せて何かのシールを受け付けの人がキャリーバッグに貼り、キャリーバッグはベルトコンベアに運ばれてい行った。

 

 この後は手荷物検査やら身体検査をして旅客機の待機場所へと移動する流れだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 待機場所に入って一時間と数分して、多分ボーイングかな? の旅客機が飛行機に乗るための通路に横付けされた。それと同時にチケット確認の受付が開放され、待機場所にいた旅客が続々と並び始めた。俺らもそれに続き…チケットを切ってもらって通路を通り、旅客機に入った。

 

「フラッシュと俺の席は……ここだな。じゃあまずフラッシュから入って」

 

「はい」

 

 フラッシュの席は俺の隣、窓側の席であったため先に行かせて…。

 

「そして俺、と」

 

 廊下側の俺は後に座る

 

「ふぅぅぅ。フラッシュ、ドイツまで何時間だっけ?」

 

「12時間ですね」

 

「…………な、長…」

 

「そうですか? 私はあなたと12時間いれるなら…」

 

「ふ、フラッシュは調子変わんないなぁ」

 

 すると、機内のテレビが展開されて注意事項の説明がされ始めた。シートベルトをつけろ、とか火災の時は床の蛍光を辿れとかとか。その間に旅客機は滑走路を移動しだして…ついに。

 

「ぉぉぉぉぉぉぉ」

 

「…………」

 

 凄まじいジェットエンジンの音を響かせながら旅客機は加速しだした。体にGがかかる。この腹の奥底に響く感じが苦手だわ…。

 

 隣のフラッシュを見てみると耳を伏せていた。フラッシュはGよりも音の方が嫌っぽいな…。

 

 Gの後数刻して……エンジン音も静かになり、俺達は空にいた。

 

「……こっから長いなー、フラッシュ」

 

「そうですねぇ…」

 

 窓側を覗き込みながら話しかけると、何かが左肩にぽす、と置かれた。

 見てみると、フラッシュの頭だった。

 

 俺は……それに悪意なく手を伸ばし…くしゃりと撫でる。

 

 ……フラッシュの尻尾が俺の背中と背もたれの間を縫って、俺の腰に巻き付いた。

 

「…映画を見る時間も無さそうだな?」

 

「あなたは映画と私、どちらを優先してくれますか?」

 

「……………」

 

 そりゃまぁ。…俺は思わず苦笑いして…フラッシュの頭に自分の頭を重ねた。

 

「…フフフフ……」

 

 …こりゃ12時間ずっと一緒だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「着い……たぁぁぁぁ!!!」

 

「ようこそドイツへ、トレーナーさん。こちらはデュッセルドルフ空港です」

 

「なんだろう、空気中にドイツの匂いがする」

 

「フフフッ、トレーナーさんったら…」

 

 俺は機内で思いっきり背伸びをした。

 

 日本からドイツへのフライトは実に長かった。時間にしてフラッシュの言う通り12時間位だろうか。腰がバッキバキである。

 

 所で、ドイツと日本の時差は8時間あるそうな。日本の方が早い。と、言う事はだ。

 俺らが出便したのが大体昼の15時で…12時間経過して…日本では朝の3時だろ。そこから-8だから今ドイツは日本で言う昨日の19時か。夜だな。

 

 シートベルト着用のランプが消えると旅客達は一斉にシートベルトを外して立ち上がり、荷物整理を始めたので俺らもそれに続いた。

 

 滑走路内を旅客機が移動して行き、通路に横付けされると……ここからはフラッシュの案内だ。

 

 フラッシュの案内でデュッセルドルフ空港内を移動し…入国審査のエリアだろうか。ゴリゴリの警察か軍の人がいる場所に出て、睨まれながらパスポートとチケットを確認され、最後は笑顔で空港内に迎え入れてくれた。

 さらにフラッシュの後に続き、旅客の荷物が飛行機から搬出されるあの円形のベルトコンベアの所にまで案内され、そこで自分達のキャリーバッグを回収して、出入り口へと向かい……テレビでよく映るあの人名の書かれたプラカードを人が掲げてる場所に出た。

 

「わぁ皆背ぇたっか鼻たっか彫りふっか」

 

「ヨーロッパ圏ですからねぇ」

 

「さて…両親が迎えに来てくれているはずなのですが」

 

 すると…。

 

「Flash!」

 

 わかりやすくフラッシュを呼ぶ声が聞こえた。

 

「Vater, Mutter!」

 

「Flash…」

 

 ここに出た時から何やらフラッシュの雰囲気に似ている男女がいるなと思っていたら、その男女に向かいフラッシュが駆け出した。お父様とお母様かな?

 お父様は相変わらずすっげぇダンディな感じだったし、お母様も変わらずお淑やかで……あの二人からならフラッシュが生まれるのも納得……って、何考えてんだ俺は。

 

 フラッシュと両親の固い包容を見てると何ともあったかい気分になるな、うん。

 

 何十秒かして、フラッシュのお父様が俺の存在に気付いた。フラッシュから一旦離れると、わざわざ俺の所まで移動してくれて…。

 

 聞き取りやすい英語で話しかけてくれた。

 

『お久しぶりです、トレーナーさん。娘を3年間もありがとうございました』

 

『お久しぶりです、お父様。いえいえ!!! こちらこそフラッシュにたくさんお世話になりした!』

 

 俺も発音がちょっとあれだけど間違ってない英語で返す。

 

 両手を差し出してくれたのでこちらも両手を差し出して、なるべくお父様より頭が上にならないよう何度もお辞儀をした。

 

『我が妻と共に楽しみにしていました。家までご案内します』

 

『ありがとうございます!』

 

 空港での挨拶を一区切りし、空港の外、駐車場へと出る。フラッシュ夫妻の背中を追いかけていると…日本車の前で夫妻は歩みを止めた。よくよく見てみると駐車場に止まってる車に日本車が多いな。ホンダトヨタスズキ……。

 

 車のロックが解除され、お父様にさぁどうぞと促されたので急いで後部座席に座る。フラッシュも後部座席に座ってくれた。

 

「やーっとゆっくりできるわ…」

 

「もう少しですよ、トレーナーさん」

 

 車はフラッシュ家へと発進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車に揺られて数時間後、フラッシュ家に到着した。フラッシュ家はお洒落な個人経営のケーキ屋だった。外観は…正に赤レンガの洋風建築である。日本の洋風と違いこれが本場の…。日本の洋風建築を貶してる訳じゃないけど、日本と違ってチープさが無かった。

 フラッシュ家に入ればケーキ屋部分が俺を出迎えてくれな。これ…展示されてるケーキは全部お父様が作ったのか…?

 フラッシュ家の店エリアにはめちゃくちゃ美味しそうな大小様々なケーキが展示されていた。

 

 フラッシュ家に着いた後は店エリアから生活エリアに通されて盛大におもてなしされた。

 めちゃくちゃでかいケーキを出されました。美味しかったです…。

 

 終始ビビりっぱなしだったけども。

 

 ケーキをたらふく食べて晩飯を済ませ、夫妻にお風呂へ通されて身を清め……寝間着に着替えて今日は何処で寝ればいいか聞いてみたら…。

 

『はい、今夜以降はフラッシュの部屋で過ごしてください』

 

『え。娘さんの部屋で?』

 

『はい』

 

『いや私は別に物置でも』

 

『さぁどうぞどうぞ』

 

『あーちょっとお母様おやめくださいおやめくださ』

 

 お母様は四の五の言わずさっさと入れと言わんばかりに俺の背中を押してフラッシュの部屋に押し込んだ。

 

「ぐげぇ!?」

 

 押し込まれたせいでビターンとフラッシュの部屋の床に前のめりに倒れ込んでしまった。

 

<ごゆっくりどうぞー。

 

 と背後の扉から声がした。

 

 …とほほ…。

 

「と、トレーナーさん」

 

「やぁ…フラッシュ…」

 

 フラッシュの部屋なので当然中にはフラッシュがいて。

 

 うつ伏せの状態から顔をあげて見ると、フラッシュは右手で口を覆い驚いている様子だった。

 …まぁ凄い入室の仕方したからな…。

 

「お、お母様はここで寝ろだってさ」

 

「はい、どうぞ、トレーナーさん」

 

 そう言うとベッドの上のフラッシュは毛布をバサリと退けて自分の右隣を指先で指し示した。

 

「……へいへい」

 

 俺は立ち上がってフラッシュの隣に入り…毛布にくるまる。

 

 長時間の移動もあってか、それとも温泉で既に慣れてしまったのか自分でも驚く位すんなりと…フラッシュの隣に収まることになった。

 

 ……ベッドが一人用のせいで嫌でも身を寄せ合わないといけないな、これ。フラッシュの体温が近いわ。

 

「何か最近はフラッシュとしかいねーなー」

 

「そうですね。一緒の時間が増えて嬉しいです」

 

 隣のフラッシュはいつもの調子のままだ。…俺とフラッシュだけだし根掘り葉掘り聞いてみてもいいかな?

 

「……フラッシュ」

 

「はい」

 

「いつから計画してた?」

 

「…言わずともわかるでしょう、トレーナーさん」

 

「ま、まぁ」

 

「……温泉旅行券を手に入れた時からですよ」

 

「あの時点からいくつかプランを考えていました」

 

「…俺が温泉を断ってたらどうするつもりだったんだ…?」

 

「学園の仕事を増やしていたかもしれませんね」

 

「……………」

 

「嘘ですよ、トレーナーさん」

 

 嘘には聞こえなかったな…。

 

「……フフッ…」

 

「?」

 

「いえ…温泉の時、あなたが素直になってくれて良かったなと」

 

「あ…あれはさぁ」

 

「あなたは3年間トレーナーとして完璧に振る舞ってくれましたが、それでは女として自信が無くなってしまいます」

 

「…………」

 

「あの時私を一人の女として見てくれたんでしょう? レースに勝った時位に…嬉しかったですよ」

 

「フラッシュ」

 

「また、同じことをしてください」

 

「…そういうのは小出しにしないと」

 

「してくれないと眠れそうにありません」

 

 右手首を掴まれフラッシュの肩に手を添えさせられた。

 

「何だそりゃ」

 

「さぁ」

 

「…………」

 

 ……ベッドの上でフラッシュの方を向き、フラッシュの肩を掴んで引き寄せる。

 横に並んでる時点で風呂上がりの匂いがしてたけど引き寄せるともうフラッシュの匂いしかしないなこれ…。

 

 …しかし今回は何の躊躇いもなく引き寄せることができてしまったな。これ、確実に俺の中で何かがぶっ壊されてってるな。距離感とかとか。

 

「暖かいです、トレーナーさん」

 

 実に満足そうなフラッシュ両腕を俺の首に掛けた。

 

「………」

 

 ちょうど顎の下にフラッシュの頭があるな……。…色々悔しいからくしゃくしゃしてやろ。

 フラッシュの肩にある両手を頭に持ってきて無造作に撫でてみる。…風呂上がりで乾いてるけど瑞々しいや。

 

「と、トレーナーさん?」

 

「…夜に髪をいじると癖になってしまいます」

 

「じゃあ明日もやるわ」

 

「トレーナーさん」

 

「いいだろこれ位」

 

 フラッシュは明らかに不服気味だが決して止めさせようとはしなかった。代わりに耳はわかりやすくへこんだり立ち上がったりしていたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今夜…また一つ、俺とフラッシュの間にある物が破壊された。




 次回、包囲網。


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エイシンフラッシュ.3

 お気に入りが900に到達しそうだぁ…。


「……ぅ…」

 

 12月の肌寒い空気が顔を撫で…その寒さが俺の意識の覚醒を促した。

 

 …あーっと……ここは…そう言えば俺…。

 

 そうだ、俺はフラッシュの誘いで飛行機に乗ってドイツに来て…フラッシュ宅でフラッシュと一緒に寝たんだ。

 脳内で一瞬にして昨日起きた事を整理し、俺は目をゆっくりと開ける。

 

「…………」

 

「クゥ………クゥ……」

 

 フラッシュの顔が目の前にあった。

 

 もし俺が鳥類だったならば今頃は凄まじい鳥肌になっていたはずだ。

 待て、状況を整理しよう。 

 

 俺は今……どうやらフラッシュを腕に抱いているらしい。それもかなりガッチリと。これは…寝てる時、無意識に抱き枕にしちゃったっぽいな。対するフラッシュの両腕も俺の背中に巻き付いたままであった。

 うーんとてもいい抱き心地だ…じゃなくてだな。

 

 ど、どうする? フラッシュはまだ寝てるし…こっそり抜け…れるかこれ。変に動いて起こしたら悪いし。

 

「…………」

 

 とりあえず、フラッシュの脇腹とベッドに挟まれてる右腕を引き抜こうとゆーっくり引っ張ってみる。腕は結構すんなりと動いてくれた。

 ちょっと抜けて行く度にフラッシュの顔を確認してみるが、起きる気配は無くて。

 

 よーし、このまま…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グンッ、と。物凄い力で体がフラッシュに向け引き寄せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「?!?!」

 

 何が起きた?

 

 何故かフラッシュの額と鼻が俺の額と鼻にぴったりとくっついてるぞ。俺の視界は今フラッシュで一杯だ。

 

 そして……フラッシュの目がパッチリと開かれた。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

「……………」

 

「………?」

 

「…おはよう、フラッシュ…」

 

「はい」

 

 …どうやら最初から起きてたらしい。びっくりした…。

 

「お、起きてるなら起きてるって言ってくれよ〜」

 

「目を瞑って、あなたの体温を感じていたので…」

 

「そ、そう…」

 

「…………」

 

「それにしても…近くない? フラッシュ。鼻とデコが…」

 

 顔が近過ぎてもうフラッシュの目しか見えないんだけど…。

 

「はい。ですが今の私達の距離を的確に表していると思います」

 

「…こんな近いってか? ははっ」

 

「私はそう思っています」

 

 ………近過ぎてフラッシュの心臓の音が聞こえるし、フラッシュが何か話す度に吐息が…。

 

「…ほら、そろそろ起きなきゃ」

 

「トレーナーさんは、どう思いますか?」

 

「…………………」

 

「……」

 

 …これ話さないと駄目っすか?

 

 なんて、言い倦ねていると……フラッシュの眉が少し吊り上がった。それと同時に、俺の体はフラッシュにより強く押し付けられる事になってしまい。

 

 まずいまずいまずいまずいこの姿勢とてもまずい。何がまずいかってどう見てもまずい。待て、冷静になれ、冷静に。情けないぞ俺。

 

「す、すす…すんごい近いと思う! もう正直言うと! 温泉にも行ったしフラッシュの家にまで来たし!」

 

 半ば白状するように内心を吐露すると、フラッシュはようやく拘束を緩めてくれた。それに伴いフラッシュの顔が俺から離れ…。

 

「…フフフフッ……75点、合格です」

 

 今の告白を聞いてフラッシュはまた一歩進んだ、懐柔できたと言わんばかりに満足そうに笑った。

 

「っはぁ〜〜……」

 

 朝から疲れるわ…。

 

「……フラッシュ? そろそろ起きようぜ」

 

「まだ私達の起床予定時刻まで26分ありますよ」

 

「起床時刻まで決めてあるんかい」

 

「……………」

 

「……………」

 

 これから何かされるかと思っていたら、フラッシュはただぼーっと俺の事を見ているだけで。

 

「…楽しい?」

 

「いえ…」

 

「なら」

 

「安心するから、では駄目でしょうか」

 

「……」

 

「……時間になるまでだぞ」

 

「はい」

 

 フラッシュの頭が俺の胸元に押し付けられた。それを拒もうとする気は…もう俺には起きなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フラッシュとは本当に時間になるまで見つめ合っていた。……なんかもう、慣れちったな。良いのか悪いのか。

 

 時間になった後はフラッシュと一緒に起きて顔を洗って歯を磨きリビングに向かい……何故かフラッシュ夫妻がとびきりの笑顔で出迎えてくれて、フラッシュも笑顔を返していた。笑顔の意味が何だったのかは俺にはわからなかったけど…。

 

 朝食はお母様が用意してくれていて、クロワッサンで売ってるような、いかにもヨーロッパっぽいパンを朝食に添えてくれた。確か…ブレートヒェンなんて名前だったかな。

 

『お口に合うといいのですが』

 

 って心配してくれたけど大丈夫、めちゃくちゃ美味しかったです。

 

 朝食後、夫妻は気を使ってくれたのか……フラッシュと俺をリビングに残して別室へと行ってしまった。

 

 今、リビングには椅子に隣り合わせに状態で座っている俺とフラッシュの二人だけである。

 

 暇潰しにドイツのテレビ番組を見ようたって俺にはドイツ語がわからないし、自然とフラッシュと話し込む事になった。

 

「…フラッシュってさ。ケーキ作るの上手いじゃん」

 

「はい。トレーナーさんからすればそれなりに上手な方だと思います」

 

「あれっていつから作ってるの?」

 

「それは……ありきたりですが、物心付いた時から……としか」

 

「ふーん。フラッシュのケーキは美味いから引退してもその道で食ってけると思うぜ」

 

「……引退後、ですか」

 

「うん」

 

「…私にも、いつか勝負服を脱ぐ時が来るんですよね」

 

「今じゃないけどね」

 

 …何気なく言っただけだけどどうやらフラッシュからすると難しい話しだったらしい。フラッシュの目にはいくらかの迷いと未来への不安が見て取れた。

 

「…そう言えば」

 

「?」

 

「トレーナーさん、どうして私が勝負服を着ている時は私の顔じゃなくて頭より後ろの方を見るんですか?」

 

「え?」

 

 今その話題ですか?

 

「そりゃ……フラッシュに失礼があっちゃいけないし」

 

「私は別にトレーナーさんに何をされようが失礼だとは…」

 

「ほら、親しき仲にもなんとやらだから!」

 

「…勝負服、もしかして嫌いなデザインでしたか…?」

 

「いやいや、めちゃくちゃフラッシュに似合ってると思うよ」

 

「ならなぜ…」

 

 わかって言ってるのか!? それとも本当にわからないのか!? 今日までの経験で俺は前者だと思うなぁ!!

 

「……目の…」

 

「はい」

 

「目のやり場に…困るって言うか」

 

 なるべくフラッシュの方を見ずに、小さな声で。

 

 …今の声を聞き取ったフラッシュがクスクスと笑ったのが聞こえた。

 

 ………演技巧者がぁぁぁぁ。

 

「トレーナーさん……」

 

 フラッシュから俺の体に絡み付くような声が発せられる。

 

「あれはドイツの民族衣装、ディアンドルを模して作られた勝負服なんです」

 

「全体的に露出度が高いのはそのためです」

 

「そ、そうなんだ…」

 

「ドイツでは頻繁に着られる服ですよ。ドイツにいれば嫌でも目にする事になります」

 

「なので…」

 

 右肩…右腕にフラッシュがしなだれ掛かる。

 

 ……………。

 

「目のやり場に困るなら、今のうちに私で慣れてしまいましょう」

 

「………恥ずかし気も無く」

 

「私の言っていることは本当ですよ。一々気にしているようではドイツで生きて行けません。行事の度にトレーナーさんは上を向いて過ごすことになってしまいます」

 

「…私はあなたの前でならあれを着たまま生活しても構いませんし」

 

 フラッシュの右手が俺の右腕をするすると撫で下ろして行く。

 

「それにあなたの目の保養にもなると思いますよ。あなたにとって悪い話ではありません」

 

「わ、わかったわかった」

 

「あぁ、ですが、眺めるなら私だけに留めておいてくださいね。さすがに他の女性にとっては失礼です…」

 

「まだ言うか!? まるで俺が…」

 

 まるで俺がそういう奴だって言い草に思わずフラッシュの方を向いてしまい。…フラッシュは満面の笑みで出迎えてくれた。

 

「俺を何だと…!!」

 

「私のトレーナーさんです」

 

「……………」

 

 ……だめだ勝てねぇ。

 

 

 

「……目移りされると、少し妬けてしまいますしね」

 

 

 

「なんて?」

 

 

 

「いいえ? 何も」

 

 

 

「??」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドイツに来て一日目は…フラッシュ宅でのんびり? と過ごす事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドイツに来て二日目……そろそろ、日本のことが頭にチラついて来る頃だ。昨日は……色んな意味で息つく暇も無かった…。

 

 この時期、普通俺はトレセンにいるため、俺はもう仕事の事を考え始めていた。仕事人になった覚えは無いんだけどなぁ…。

 今はやるべき仕事も無いため、ドイツでの朝のルーティンを終わらせ、フラッシュの部屋にいる。

 

 隣にいるフラッシュは…いつも持ち歩いている予定表に目を通しており。

 

「仕事、溜まってないかなぁ」

 

「………………」

 

「……そんなことよりも、トレーナーさん」

 

「そんなことって……おう、何?」

 

「ドイツにもトレセン学園があるのはご存知ですよね?」 

 

「ああ、知ってるよ。トレセン学園は国際規格だならな」

 

「はい、国際規格なのでトレーナーバッジさえ所有していればトレーナー試験をパスすることができて、面接を受け選考を通ればどこのトレセン学園でも勤務が可能になります」

 

 何かいつもより早口だったな…。

 

 確かにフラッシュの言う通り、トレセン学園は国際的な規格だ。試験も全て同じ内容、同じ日時に行われる。それにより手に入れたトレーナーバッジは言わば国際免許のような物である。

 

「うん」

 

「トレーナーさん」

 

「ドイツのトレセン学園は日本のトレセン学園と違って洋風建築で、日本のトレセン学園とはまた違った美しさがあるんですよ」

 

「そ、そう」

 

「………………」

 

 何かすっげぇ目で訴えかけてくるんだけど…。何となく言わんとしてる事はわかるけどまだ俺にその気は無いぞ…。まぁでも…見に行くだけなら…。

 

「…洋風建築のトレセンは確かに見てみたいかもなー」

 

「今から、見に行きませんか?」

 

 そう来るよなー。まぁ、時間もたくさんあるし、ずっとフラッシュ宅でで過ごすのもあれだし。

 

「よーし。なら今から行くかぁ」

 

「わかりました」

 

 そうと決まれば…着替えて出発だ。予定が決まってからは俺達は速い。着替えて財布に日本円から換金したユーロを詰め込み、フラッシュに連れられて電車に乗り…ドイツのトレセン学園へと向かった

 

 着替えはどうしたかって? …同じ部屋で着替えたさ。さすがにフラッシュの方は見なかったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 電車に揺られ数十分、ドイツのトレセン学園に着いてからは見学許可証を発行してもらって学園内に入れた。トレーナーバッジを見せたら一発で発行してくれたし本当に便利だなこれ…。

 

 そして現在、俺達は庭園を歩いている。俺が一歩先、フラッシュがその後に続いてる感じだ。

 

「何か……映画に出て来そうな雰囲気だな」

 

「でしょう?」

 

 ドイツのトレセン学園はフラッシュの言う通り日本の物と全く違う雰囲気だった。

 中世と言うレベルにまで遡る訳じゃないけど、全体的に落ち着いた色の石レンガの建造物に、石畳の地面、さらには庭園があり庭園には池が張ってあった。その池の真ん中にはアニメでお嬢様方がお茶を飲んでいるような小さい水上テラスが。もちろん橋付きだ。そして、校舎前にはお馴染みの女神像があり。

 

 日本のトレセンよりも荘厳な感じだな。近代的な教会って所か? それをドイツウマ娘が彩っているため、とても様になっている。目隠しでいきなりここへ連れて来られたら異世界だと勘違いするかもしれない。

 

「フラッシュはここに来る可能性もあった訳か」

 

「はい」

 

「その時は、あなたに出会うことは無かったでしょう」

 

「…フラッシュに出会えなかった俺、ねぇ」

 

 俺はそこで歩みを止める。フラッシュは隣まで歩いて、歩みを止めた。

 

「フラッシュのトレーナーじゃない俺なんて想像できねーなー」

 

「私も、あなたがトレーナーではない私を想像できません…」

 

 ……少し、恥ずかしくなってフラッシュから顔を逸らす。

 

「…フラッシュさ、温泉の話はどうなったの?」

 

「はい?」

 

「ほら、この前温泉旅行行った時にドイツの温泉にも行きたいって言ってたじゃん」

 

「ああっ」

 

 フラッシュは思い出したように目と耳と尻尾を揺らした。

 

「それなのですが、さすがにドイツ旅行中の予定に組み込むには時間的な余裕が無くて…」

 

「考慮はしました。しかし、温泉への移動時間や帰る時間を考えたらトレーナーさんと過ごす時間が減って吊り合わないと判断したので…」

 

「そっか。今日みたいな感じでも楽しいけどな」

 

「……覚えていてくれたんですね」

 

「……まぁ」

 

「期待していましたか?」

 

「…………」

 

「……いつか、一緒に…行きましょう?」

 

「何も言わないぞ…」

 

「フフッ……」

 

 俺達は静かに学園を回った。

 

 学園を回った後はそのまま帰…らず、ドイツのスタバとか、お菓子とか食べ歩きをしてからフラッシュ宅へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドイツに来て三日目。ついに年越しをドイツで過ごすこととなった。初めて国外で過ごす年越しだ。何だか…緊張する。

 

 年越しと言う事もあり、日本で言う年越しそばのような食べ物が出された。おさげがそのままドーナツになったような形のパンである。名前はへーフェうんちゃらかんちゃらと言うらしい。こちらもとても美味しかったです…。

 

 フラッシュ家はケーキ屋なため、年越し記念に注文が増えていた。

 ドイツって年越しにケーキ食べるっけ…? まぁいいや。

 

 そして何故か朝にフラッシュ夫妻にドイツの家の物価について説明された。俺の今の稼ぎを教えたら満足そうにうんうんと頷いてたし……なーんか、家族ぐるみでやろうとしてるな。

 

 ……とりあえずそれは置いておいて。

 

 今日の昼から夕方はフラッシュが以前より案内したかったらしい故郷の絶景スポットやらを巡った。なんと言うかフラッシュの住む街はノスタルジックな気分にさせる場所が多い。昔ながらの建造物に近代建築が雑居したような景色は…日本ではお目にかかれないだろう。日本の街は近代都市感がバンバン出てるからな。

 

 夕方頃には街回りが終了した。

 

 一日の時間も過ぎ、年越しの夜……閉まった店エリアの客席にて、俺はフラッシュと対面していた。

 

「始まりますよ、トレーナーさん」

 

「え?」

 

 フラッシュが何か始まると言った直後、爆撃音のような凄まじい爆音が響いた。

 

 俺は思わず頭を机に伏せ腕で頭を覆う。

 

「うわぁぁぁぁぁ空襲!?」

 

「花火ですよ、トレーナーさん」

 

「あ…?」

 

 指の隙間から窓の外を見てみれば…閃光を放つ色鮮やかな光が明滅していた。

 

「ほ、ほんとだ…花火」

 

 俺は腕を机に置いて元の姿勢に戻った。

 

「これがドイツの年越しです。日本とは真逆のイメージでしょう?」

 

「…おう……日本は除夜の鐘が鳴って神社から越天楽が流れるから…これは」

 

「ドイツの年越しは賑やかな行事ですから。若い人はこれからビールを飲み明かします」

 

「はえ〜。カルチャーショックカルチャーショック」

 

「花火も日本と違ってとにかく派手な感じだな」

 

「……そして、多くの男性が女性に膝を付く日でもあります」

 

「あーん。まぁ、一大イベント? だし。ムードもあるしな。これなら狙い目だと思うわ」

 

「………………」

 

 フラッシュは右手で頬杖を付いて、俺を流し目で見つめた。

 

「………何だよ」

 

「何も?」

 

 フラッシュは、何かを隠すように耳を小刻みに揺らすだけだった。

 

 それ以上、追求することはせず…俺とフラッシュは窓の外を見上げながら花火を楽しみ…やがて花火の明滅も無くなった頃。

 

「…綺麗だったな」

 

「はい」

 

「上がろうか」

 

 フラッシュは小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 花火を見た後は、お互い自然な足取りで同じ部屋向かい……いつものように、一つのベッドに入り込んだ。

 

 …今日、わかった事がある。フラッシュとの距離感が完全バグってる。今更直せとか、もう無理だ。一度付いた癖のみたいなのは、直らない。

 

 ……もう考えるのやーめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …さてね。そろそろ帰らないとだな。




 次回、最終攻勢の始まり。


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エイシンフラッシュ.4

 UA13万人!?


 ドイツに滞在して実に5日過ぎようとしていた。この4日間がどうだったかと言うと……楽しかったさ。思う所はあれど、フラッシュと一緒にいれて良かったし、お父様とお母様にはよくしてもらったし。

 

……ただまぁ、色々思惑が見え隠れしてたのは否めない。

 実はドイツに来てからフラッシュは一切日本の事について語らなかった。ドイツにいるんだから普通じゃないかと言われればそうだけど、フラッシュは嫌でも日本の事を思い出さないといけない立場だ。学業だとか、レースの予定についてだとか。いつもなら俺に相談するような事を一切話さなかった。

 

 そしてフラッシュ夫妻は俺の稼ぎを全てユーロに変換すればドイツのトレセン学園近くにあるような一等地の家を買っても全然余裕があること、家を買うなら家具を喜んで送らせてもらうと話してくれた。

 

 ……………。

 

 フラッシュもフラッシュ夫妻も、まるで俺の意識をドイツにのみ向けようとしているかのようだった。

 

 だけど人間の思考ってのは結構頑固なもんで。

 フラッシュの思惑とは真逆の事を。俺は…まだ仕事について考える頭があった。

 

 この5日目の夜……俺はフラッシュの部屋にある自分のキャリーバッグの前で身を屈めて整理をしていた。そこへ…自室の扉を開いてフラッシュが帰ってきて。

 

「お帰りフラッシュ」

 

「ただいま戻りました、トレ……」

 

 俺が荷物整理をしているのに気付いたフラッシュは立ったまま硬直した。

 

「…フラッシュ?」

 

「……トレーナーさん、何を」

 

「そら荷物整理だけど…」

 

「…………」

 

 フラッシュの耳が横へ向けて絞られる。

 

「…………」

 

「…荷物整理なら、いつでもできるじゃないですか」

 

「今は今後の…ドイツでの予定を考えましょう?」

 

「いやでもフラッシュ」

 

「さぁ」

 

 有無を言わさぬ凄みを発しながらフラッシュは俺の背後に屈み、そのまま抱き着いたかと思えば後ろにグンッ、と引っ張り、俺はキャリーバッグから引き剥がされた。

 

「ちょいちょいちょい。何でそんな無理やり」

 

 フラッシュはその勢いのまま、押し込むように俺をベッドに座らせた。フラッシュは俺の左隣に腰を降ろし。

 

「トレーナーさん、明日はベルリンに行きませんか? 美味しい食べ物がたくさんありますよ」

 

「フラッシュ……」

 

「ああ、フランクフルトの方がいいですか?」

 

「フラッシュ」

 

「景色を見に行くのもいいですね。ドイツには歴史的な建造物がたくさんあります」

 

「フラッシュ?」

 

 何とか話を逸らそうとするフラッシュを俺は逃さない。旅行には終わりがあるんだよ、フラッシュ。

 

「………」

 

「…フラッシュ……そろそろさ、俺も仕事とかフラッシュのトレーニングとかレースについて考えないといけないしさ。フラッシュも自分のキャリアについて考えないといけないだろ」

 

「フラッシュもわかるっしょ?」

 

「それに、俺もフラッシュも、今回の旅行ですっげぇ仲良くなれたと思うし。これでもう十分だろ」

 

「…………」

 

「…………」

 

 フラッシュは俯いて黙り込んでしまった。

 

「……フラッシュ?」

 

「…それだけでは、足りないのです」

 

「えぇ…?」

 

「あなたは……私と……私と……予定には…あなたが…」

 

 右手で額を押さえ、何かをブツブツと呟き続けるフラッシュ。その姿はどこか、うっすらとした狂気のような物を孕んでおり。

 

「…おぉい?」

 

「……ここは優良物件ですよ…? トレーナーさん」

 

「父も母も、あなたに対してとても好印象です。このまま留まり続けても、決して文句は言わないでしょう」

 

「私も、一切の文句はありません」

 

「とても、いい環境下であなたは過ごす事ができるんです」

 

「それにドイツでトレーナーさんは仕事に困りませんよ。ドイツのトレセン学園も慢性的にトレーナー不足なので、トレーナーさんを引く手は数多です。あなたは私を育ててG1を取らせたと言う実績もあります」

 

「だから…だからっ」

 

 

 

「いや」

 

 

 

 フラッシュの耳が後ろ向きに絞られた。

 

「お父様とお母様とフラッシュの気持ちは嬉しいんだけどさ……ほら、俺にとっては住み慣れた環境が一番いい環境だからさ」

 

「…………」

 

「フラッシュ…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スン、とフラッシュの顔から表情が消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あなたは……」

 

 ズズズ、とフラッシュの右手が俺の首に伸びる。

 

「フラ、フラッシュ?」

 

「あなたはトレーナーとして、自分に完璧を求め過ぎです」

 

 フラッシュの右手が俺の首に触れるか触れないか、既の所でフラッシュの右手は止まった。

 

「…いえ」

 

 フラッシュは何かを飲み込むようにして…それを誤魔化すように、苦笑いを浮かべながら右手を下ろした。

 

「……そうですよね、トレーナーさんの故郷は日本ですし……あなたには、まだ日本で仕事が残っていますから」

 

「う、うん」

 

「……帰りのチケットの予約、今からしましょうか」

 

「フラッシュ!」

 

「すみません……あなたの気持ちも、考えずに」

 

「いや、俺もあんなよくしてもらったのに……」

 

「…とりあえず、どっちが悪いかは置いといて…JALでいいんだよな?」

 

「はい」

 

「……私も、日本で最後の仕事ができてしまいましたね」

 

「?」

 

「最後ってどういう…」

 

 フラッシュに聞いてみるが、フラッシュは俺に苦笑いを返すだけだった。 

 

 この話の後、俺とフラッシュですぐにチケット購入に取り掛かった。結果、出発は来た時よりも速い三日後になった。

 …チケットの購入をしている最中のフラッシュは…物凄く静かだった。

 

 この日の夜…フラッシュは夜遅くまで予定表を睨みつけながら、何かを消したり書き加えたりしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、帰国の日。フラッシュ夫妻に車で空港まで送ってもらった。

 

 家の者でも無いのに物凄く別れを惜しんでくれました…。

 

『お世話になりました…』

 

『いえいえ。あなたのおかげで、家に暖かさが増しましたよ』

 

『とんでもない』

 

『では…娘を、これからもどうか』

 

『もちろんです』

 

『…あわよくば、彼女が自立するまで一緒にいてもらえたりは』

 

『それは…フラッシュが望むならば』

 

『…ええ、ええ。娘はそのつもりのようですよ』

 

『え?』

 

『ではトレーナーさん、日本を楽しんできてくださいね』

 

『は、はい?』

 

『また今度』

 

『あ、はい、また今度』

 

 ………何だこの雰囲気!? まるで巣立つフラッシュを…。

 

 俺がまたドイツに来てくれる前提の話だったし、もしかしてドイツの方ってそうやって話を進める文化なのか…?

 

 俺は日本の土に埋まりたいんだけどなぁ。

 

 フラッシュ夫妻とはターミナルで別れて、俺とフラッシュはそのまま飛行機に乗り長いフライトを楽しんだ。

 

 機内では…相変わらずフラッシュとはベタベタだった。

 …フラッシュからのアプローチがいつもより弱いと感じた俺は、末期なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本に帰国し、それからは何も無くすぐに仕事に戻った。

 トレセン学園に行ってまず最初にやることと言えば理事長さんとたづなさんに顔を出すことだが、何故かたづなさんと理事長に酷く驚かれた。

 まるで死人が生き返ったかのような反応だったし…全く失礼なもんだわ。俺は生きてるよ!!

 

「驚愕! よく帰還できたな、トレーナー君!」

 

「えぇまぁ最初から帰国するつもりでしたけど」

 

「いやはや私はてっきり…」

 

「理事長」

 

「おっと、すまないたづな」

 

「…………」

 

「さて、トレーナー君。また仕事に戻ってきてくれた事を嬉しく思う。今日からまた精進してくれ」

 

「はい」

 

「では、下がっていいぞ」

 

「失礼します」

 

 理事長からお許しが出たので、俺は一礼して理事長室から退出した。…その数秒後、たづなさんが続けて理事長室から退出してきた。

 

「…トレーナーさん」

 

「うぇ? たづなさん?」

 

「…………」

 

「何です?」

 

「…誰もいない部屋に一人でいる時は…気を付けてください」

 

「えぇ?」

 

「……失礼します」

 

 そう言って、たづなさんは俺の横をそそくさに通り過ぎて言った。

 

 たづなさんの警告? が頭の中を反復している間に…たづなさんの背中は見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園の同期にも挨拶して回ったり手続にをしていたらいつの間にか夕方になってしまっていた。

 

「しーごとしーごと」

 

 学園に帰ってきてやることもやったので、ようやく持ち場に戻る事ができた。今、俺は自分のトレーナー室前にいる。

 ドアノブに手を掛けて引くと扉はすんなりと開いて。

 

 ……あれ、俺って旅行前にトレーナー室に鍵掛けたっけ。どっちだっけ。…まぁいいや。

 

 特に深刻に考えることも無く、俺はトレーナー室へと踏み入れた。すると、虫の報せか何かか。先程のたづなさんの言葉が頭に浮かんだ。

 

 一人の時は気を付けてって。いやいや、トレセン学園程セキュリティが厳重な場所もないだろ。

 たづなさんの言葉の意味を考える前に、俺は自分のトレーナー室へと入室した。もちろん、中には誰もおらず。いつもと変わらないフラッシュの優勝レイだとか、トロフィーとか、書類の置いてあるトレーナー室だった。

 

「どっこいしょ」

 

 いつもの場所に戻れて懐かしい気持ちになりつつも、感傷に浸っでいる場合ではない。俺にはフラッシュのために働くと言う使命があるのだから。定位置にある仕事椅子に腰掛け…さて、仕事にとり…か…か……。

 

「…………?」

 

 仕事に取り掛かろうと机を見下ろしたら、見知らぬ物体が置いてあった。

 

 それは……。

 

「……フラッシュの予定表?」

 

 そう、フラッシュの予定表が俺の作業机のど真ん中にドンと置いてあった。

 

 …どうしてここに? いつもはフラッシュが持ってるはずなんだけど。

 まさかどこかにフラッシュが潜んでいるのではと頭に過り、部屋中を見渡してみるが、フラッシュの姿は無く。そして再び、予定表に目を落とす。フラッシュが忘れてったのかな。タイミング的には今日の朝頃?

 

 ………そう言えば…フラッシュの予定表ってこんなに分厚かったっけ?

 俺がフラッシュをスカウトした時は市販のまだ埋まり切ってないルーズリーフだったはずだ。今俺の目の前にある物は…大学のちょっとした教科書程度の分厚さがあった。多分、ルーズリーフを継ぎ足し継ぎ足しして…。

 

 にしても…どんな予定を立てたらこんな分厚くなるんだ? これは数年…いや数十年先も書かれてそうな分厚さだぞ。自分の将来設計か? それとも俺との予定か? いやまさかそんな。前者だと思うけど…。

 

 いやでも…。

 

 だめだ、予定表が気になってノートパソコンに目が行かない。

 

「……………」

 

 …別に…いいよな? これは予定表であってメモ帳じゃないし。それにフラッシュはいつもこの予定表を見ながら俺に予定を共有してくれるし、それってつまりまずい事は書かれてないってことだよな。

 

 それにこれじゃ気になって仕事に手が付かない。

 

 うん、これは仕事のため必要な事だ。

 

 ……そもそも綺麗に机に置いてあるってのが作為的だわ。もうフラッシュが読んでくださいって言ってるようなもんだろ。

 

 俺はフラッシュの予定表を手に取り、最初のページを開いた。

 

 

 

 …何処かでフラッシュが笑ったような気がした。

 

 

 

 それで…1ページ目は一日のルーティンみたいな物が書いてあった。何時に起床、とか何時に朝食、とか。

 

 2ページ目は基本的なトレーニングの流れについて。ここは何回か改訂が入ってるな。それが5ページ目位まで続いていた。

 この辺りだけ色褪せているため、フラッシュが日本で立てた最初も最初の予定なんだろう。

 

 5ページ目以降は最初の3年目以前の予定で、模擬レースや試験についての予定が多かった。…1ヶ月も前からテスト勉強始めるタイプか、フラッシュは。

 

 それで……トレセン学園からPDFで配られるような予定が続き…10ページ目。おっ、俺がフラッシュをスカウトした日だ。懐かし。

 この日以降から俺を含めた予定を作るようになってるな。初めてだからか時間的余裕の多い予定が多くを占めてる。

 

 32ページからメイクデビュー後だな。…ず、随分と綿密に俺との予定を組むな。俺がトレセンに来る時間に合わせてるし。

 

 86ページからは2年目か。……ちょっと俺との予定多過ぎないか? 年越し、初詣、正月、ゴールデンウィークにシルバーウィーク、ハロウィン、バレンタインのロイヤルストレートフラッシュじゃん。

 

 …フラッシュだけに。

 

 …………なーに考えてんだ。どこぞの会長じゃあるまいし。

 

 思えば日本でのビッグイベントをコンプリートしたのは2年目からか。

 

 さて、156ページからは3年目だけど……正直ゾッとした。レースに関する予定の綿密さは変わらない、むしろより洗練されてるけど、俺に関する予定がレースよりも事細かいってどうなんだ?

 

 ……直近の予定にようやく辿り着いたぞ。温泉だ。

 …俺の身長いつ知ったんだ…? 俺が見下ろしやすい底の靴の購入て。そこまで考えてたのか……。…ドイツでは悪い事言っちゃったな。ここまで…ここまでとは。

 

 温泉からドイツ旅行の予定だけでフラッシュは何と40ページ以上も書き込んでいた。厳密には予定じゃなくて間に挟まるプランも加味したページ数だけど、いくらなんでも緻密過ぎやしないか。

 

 それでまぁ、日本への帰国でいったん筆は途切れた。ここまでで307ページか。って言うか3年目から明らかにページ数増え過ぎだろ。どうなってるんだ。

 

 もう終わりかと思って人差し指を栞にして予定表の厚みを確認すると……。

 

「………………」

 

 ……何でまだ200ページ近くページが残ってるんだ?

 

 直近の予定からさらに後があるぞ……。

 

 ……俺は好奇心を抑えられずさらにページを回った。4ページ程の白紙ゾーンを抜けた先には…4年目(未定)と書かれたページがあったた。

 

 4年目か………ん?

 

 【ドイツトレセン学園に転入届を提出。トレーナーさんの転職も同時。転入後はオープン戦等でドイツのターフに脚を慣らすこと】

 

 …ちょっと……おかしくないか?

 

 4年目からは何故かドイツでの予定ばかりになっている。……まさかフラッシュは俺をあのままドイツに留まらせるつもりだったのか…?

 

 ……5年目(未定)は……相変わらずドイツでの予定だ。

 

 さらにページを捲って行くと、6年目と7年目もドイツで過ごしてる前提のようだった。

 

 そして8年目で……引退、か。で、何々…【ドイツへ移住して数年の間トレーナーさんがプロポーズするように仕向け】……。

 

 いやいや。

 

「………………」

 

 さらに読み進めてみると…。

 

 【自分から行くことも検討】とも書かれていた。

 

 …ページをまた捲れば、今度は引退後の生活についてだった。

 

 【式はなるべく速い方が望ましい。私の価値が高い内にトレーナーさんと一生を共にする約束を果たしたい】

 

 【挙式後、ケルン大聖堂やベルリンの壁跡地等を観光し、すぐにレースの勝利金で静かな街に引っ越し。もしくはトレセン学園に近い街に引っ越し。そこでケーキ屋を始める。現在住んでいる家と同じような構造で、3、もしくは4LDKとする】

 

 【身の回りの事を片付けた後は最後に第一】

 

 

 

 パンッ、とトレーナー室に乾いた音が響いた。

 

 

 

「……………」

 

 あれ以上見ることができず俺は思わず思い切り予定表を閉じてしまった。

 

 …フラッシュ、随分と先まで考えてるな…。一応、それなりに気に入られてるかもしれないって思ってたけど、ここまでとは。

 

 それよりも、これは…まずいぞ。フラッシュの予定では俺はもうドイツにいなきゃいけない。

 

 フラッシュの性格的に予定を崩されるのは相当なストレスなはずだ。俺はかなりまずい状況にいるのかも。わざわざフラッシュの前で突っぱねちゃったし。フラッシュの様子がちょっと変だったのはそのせいか…。

 

 ……俺はフラッシュの予定表を持ったまま思考停止してしまった。

 あぁー……何か、何か考えないと…。

 

 俺は何気なく予定表の最後のページを開いた。するとそこには……1月(修正)と書かれたページがあった。内容は…。

 

 【帰国後、縄を入手(なるべく頑丈で縛り易い物)。市販の睡眠薬(致死量ラインを調べておく事)を購入。入手後、トレーナーさんを説得。複数回に渡り説得できなかった場合、上記を使用を視野に】

 

「………………」

 

 嘘だろ。

 

 

 

 

 

 【入手した物はトレーナーさんの思いもよらない場所へ隠蔽する(トレーナー室)。説得を試みる日時は】

 

 

 

 

 

 …説得を試みる日時は……今日だと記されていた。




 次回、トドメ。


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エイシンフラッシュ.5

 お気に入り900突破です! ありがとうございます!


 俺はフラッシュの予定表を机へと戻した。

 

「……………」 

 

 ……睡眠薬? 縄?

 

 使用を視野にって…一体何に使うん………いや、想像に難しくないな。

 

 フラッシュが俺を?

 

 ……頭の中で様々な可能性を潰して行くが、このラインナップを使うような相手は俺位しかいないと俺の脳は結論付けた。

 

「は」

 

 腹の奥が押し上げられて…。

 

「はっ……」

 

 むせ返ると表現するべきか。

 

「は…ははっ……はっ……」

 

 ここまで嫌な笑いが出たのは初めてだ。

 

「…………」

 

 どうする。

 

 どうする?

 

 どうすればいい。

 

 急激に体の体温が下がっていく感覚がする。

 

 まさか、フラッシュまでもが例に漏れなかったなんて。

 

 俺はウマ娘と共に円満と言う体で学園から姿を消した同期を何人も知っている。

 

 フラッシュと旅行したりしたが、何とかフラッシュに折り合いをつけようと努力して、こうして日本に戻れた。

 俺だけは数少ない生き残りとして、この学園で生き残る事に成功したと……思っていた。

 

 つい先程、30分前までは。

 

 今日だ。今日決まる。俺はちらりとスマホの時計を見た。

 

 …時刻は17:56分を指している。

 

 フラッシュがトレーナー室に来るのはいつも18:00びったりだ。今から逃げれば……。

 

 ……………。

 

 俺がフラッシュから逃げる? そんなバカな。今更逃げるだと? フラッシュとくっつくのを拒否していたが、だからって俺自身がフラッシュに何の思い入れが無いとは言っていない。

 フラッシュと過ごした日々とそれにより作られた思い出がまるで重しのように俺にのしかかり、俺の逃走を許さなかった。

 

 ……足が動かないんじゃあな。

 

 …だけど予定表を見る限りフラッシュは俺をどうにかしようとしている。いや、まだどうにかされると決まった訳じゃないが、あんなことを予定表に書く位だから……。

 

 

 

 少なくともフラッシュは相当キテるのには間違いない。

 

 

 

「……………」

 

 ……18:00まで、後2分。

 

 その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カツーン、と。ローファーの廊下を蹴る音がトレーナー室にまで響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全身が総毛立つとはこういう事だろうか。

 

 この足音の主がフラッシュは限らない。

 

「………………」

 

 だけど統計的にこの足音はフラッシュの可能性が高い。

 

 …さっきから心臓が痛いなぁ?

 

 それに冷や汗も止まらない。

 

 こういう時生き物は身の安全のために隠れられる所を探す物で。

 見慣れて見る所も無いはずのトレーナー室を見回すが…もちろん、隠れられるような場所は無い。

 今度は俺の背後にある窓に目を向ける。

 …飛び降りて逃げたら良くて致命傷、最悪死亡だな。

 

 ……俺は……座して待つ事に決めた。

 

 あー、凄いクリアに足音が聞こえる。まるでトンネルを歩いてるかのような響き方だ。さっきよりもずっと近い。

 

 スマホを一瞥すると、17:59分だった。

 

 …来る。

 

 そして、足音はついにトレーナー室の前で止まり…。窓越しにフラッシュの顔が見えた。

 

 フラッシュからは椅子に腰掛けてる俺が見えてる感じかな。

 

 フラッシュは特にノックもせず、右掌をペタリ、と窓に貼り付けて、薄っすらとした笑顔を浮かべる。

 

 入れろって事だろう。

 

「…………よぉ、フラッシュ」

 

「失礼します」

 

 俺が喋りだすと同時に、フラッシュはトレーナー室へと入ってきて…俺の前へと移動した。

 

「こんばんは、トレーナーさん」

 

 俺はついに机越しにフラッシュと対面する事となった。

 

「……今日はどったの?」

 

「…………」

 

 フラッシュの瞳が机の上にある予定表を刺した。

 

「しっかりと読んでくれたようですね」

 

「ああ、ごめん、つい」

 

「いいんですよ、あなたに読んでもらうために置きましたから」

 

「…………」

 

「決心は付きましたか?」

 

「あーー、いやぁ、ちょっとぉ…性急過ぎやしな」

 

 フラッシュの両手が作業机に叩き付けられ、俺の声はそれに遮られた。

 

「トレーナーさん」

 

 フラッシュの、レイピアのような声が鼓膜や体に突き刺さる。

 

「トレーナーさんはもうわかっているはずですよ」

 

「…なぁフラッシュ、今ならまだ」

 

 キュッ、とフラッシュの耳が後ろに向かい絞られた。

 

「どっち付かずは身を滅ぼしますよ、トレーナーさん。これも頭のいいあなたならわかることです」

 

「…………」

 

 …俺の沈黙を見たフラッシュはもう我慢できないと言わんばかりに口を開いた。

 

「トレーナーさん、いつまでこのような中途半端な事を続ける気ですか?」

 

「……あなたは既に気付いているでしょう。はっきり言います、私はあなたが好きです。だからあのような事をしました」

 

「……………」

 

「そして…あなたは私を拒みませんでしたよね? もう、あなたは後数歩の所にいると思います」

 

 フラッシュが一歩俺に向かって歩みを進めた。

 

「……ですが、その数歩がとても遠かったようです。あなたの意志は鋼でした。ですから……最後にこうすることにしました」

 

「……………」

 

 ……なんとなく、わかってた。いや。わからないフリをしていたのか?

 

 フラッシュにここまで言わせてしまうなんて。俺は……どこで間違えた? 最初から間違ってたのか?

 

「……こんな生殺しなんて、私には耐えられません。私はあなたに肌を許しました。あなたも…私に身を委ねてくれました。そこまで来て……そこまで来て、決めてくれないのなら…あなたは、酷い人です」

 

「………」

 

「さぁ」

 

 ぽす、とフラッシュが作業机に座り、身をこちらに乗り出す。

 

「私と共にドイツに渡るか。日本に残り続けるか」

 

 ここまで近付いて見えたフラッシュの瞳は…今まで見たことのない鈍色となっていた。

 

「私か、私以外かを…選んでください」

 

 フラッシュは俺に右手を差し出した。

 

「フラッ…シュ」

 

 …選べ、か。

 

 ここまでされて。手を取らない選択肢があるのか。距離感と言う物は既にフラッシュにより粉々に破壊されている。後は俺が…。

 

 ああ、そうだな。俺とフラッシュの間にあった最後の支え棒って……俺の気持ちか。俺が…一歩踏み込めば…この話は終わる。…温泉に行った時点で既に、俺はフラッシュを求めてしまっていたのだから。

 …フラッシュとドイツで過ごしたドイツでの数日間は…また繰り返したいと思える物だった。フラッシュがいたから繰り返したいと、そう思えたんだろう。なら……俺の中ではもう、既に決まってるってことじゃないか。

 

「……ッ」

 

 俺は…フラッシュの右手に自らの右手を重ねた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…トレーナーさん」

 

「………決めた。一緒にドイツへ行こう、フラッシュ」

 

「………………」

 

「……フラッシュ?」

 

 俺が首を縦に振った後、フラッシュは目を伏せてぷるぷふと震え出した。

 

 すると……。

 

 

 

 俺の右手を引っ張りながらフラッシュはこちらに向かって飛び掛かった。

 

 

 

「うぎゃぁぁぁ!?」

 

 

 

 フラッシュの頭を胸に受け止めて、俺はフラッシュと共に椅子ごと床へと向かい倒れ込んでしまう。

 

 いてぇ!? フラッシュの頭突きいってぇぇ!!

 

「フラッ…フラッシュ!?」

 

 今まで一度も見たことのなかったフラッシュの姿に目を白黒させていると、俺に折り重なるような形で床に倒れ込んでいたフラッシュが俺の上に跨がり、両手を俺の胸元に置いて俺を見下ろしていた。

 

「良かった……本当に……」

 

 フラッシュの顔は…人生を掛けた賭けに勝ったような表情をしていた。

 目的を達成する度に鈍く光っていた瞳は、グルグルと…本来の青と黒の混じり合った渦のような物が渦巻いており。

 

「…ごめん」

 

「本当に……本当に…」

 

「もう、決めたからさ。心配しなくて大丈夫」

 

「……はい…」

 

「…ごめんなぁ」

 

 俺は…両手をフラッシュの頬へと伸ばし…ゆっくりと撫でる事しかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後はフラッシュを宥めるのにかなり時間を使ってしまった。

 

 …元はと言えば…俺のせいなんだよな…? …うん、俺のせいだわ。

 

 フラッシュを宥めて、トレーナー室の談話スペースのソファーにて二人で落ち着いた時間を過ごしていた所…フラッシュは突然立ち上がり、自分の優勝レイやトロフィーの飾られた窓付き棚の前へと移動した。

 

「フラッシュ?」

 

「…………」

 

 フラッシュは何も言わず窓を開き…トロフィーを取り出した。そのトロフィーのカップ底へと手を伸ばし…フラッシュはなんと錠剤の入った容器を取り出した。そのトロフィーをしまうとまた別のトロフィーを取り出し、同じ手順で今度は縄を取り出す。

 

 ……そこに隠してたのか!? 確かに一度飾ってしまえばトロフィーの確認なんてしなくなるからな……いい隠し場所だわ……って、何感心してんだよ。

 

 トロフィーを戻して窓を閉めれば、フラッシュはトロフィーと縄を持って対面のソファーへと戻った。

 

「…ガチで隠してたのかよ…」

 

「はい。私は予定に嘘は書きません」

 

「…それ、最悪の場合に使うつもりだったのか?」

 

「はい。トレーナーさんを説得するために」

 

「……これを使うことが無くて良かったです」

 

「いや…うん…本当に…な」

 

「………」

 

「………」

 

「さて…これはもう、必要ありませんね」

 

 フラッシュは縄と睡眠薬をソファーの隣にあるゴミ箱に捨てた。

 

 …これが俺の手を縛ってたかもしれないのか。

 

「…トレーナーさん。気が変わらない内に、退職の意思を理事長に伝えに行きませんか? 私は転入の意思を伝えます」

 

「そう…だな。事は速い方がいいや」

 

「じゃー…今から行くかぁ」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺達は理事長室へと向かった。…何故か理事長とたづなさんが既に待ち構えていた。最初からわかっていたかのように。

 

「疑問! トレーナー君、わざわざ帰って来てくれたのは……しっかり挨拶するためだったのかな?」

 

「ま、まぁ…そう言う形になっちゃいましたね…」

 

「理解! うむ、誠実なのは良いことだ!」

 

「…そしてフラッシュも…意思は変わらないな?」

 

「はい。もう既に決めました」

 

「わかった。では、ドイツトレセン学園にその旨を伝えよう。ドイツトレセン学園は日本と同じように優秀なウマ娘を迎え入れてくれることだろう」

 

「ありがとうございます、理事長」

 

「…君たち二人は共にドイツへ渡るんだろう?」

 

「はい、そうっすね」

「はい、そうなります」

 

「そうか……」

 

「……祝福! 子供ができたら是非この私にも見せておくれ!」

 

「ゴホッ」

 

「理事長!!」

 

 理事長の唐突な爆弾発言に俺は咳き込んでしまい、たづなさんが理事長を諌める。

 そして俺の横にいるフラッシュはニコニコと笑いながら横から俺の顔を覗き込み、俺は天井を見上げることしかできなかった…。

 

 こうして俺の退職とフラッシュの転入に関する旨を伝えた後、理事長が緩く締めて解散となった。

 

 フラッシュの転入に関しては転入が通らないことがまずないから安心してドイツへ向かってくれとのことだった。

 俺の退職は1周間後というスピード退職になっている。こういうのって普通は一ヶ月二ヶ月前に申告してから退職できるものなんだけど、やけにスムーズに決まったんだよな…。やっぱり理事長とたづなさんが始めっから準備してたんじゃないのか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理事長室での書類取得等のあれこれを終わらせてとりあえずこの日はトレーナー寮へ戻った。

 

 …フラッシュもやっぱり荷造りは速い方がいいと言う事でナチュラルに俺の部屋にまで付いて来た。俺もいい加減慣れたし何も言わなかったけど。……担当が当たり前のように寮まで付いて来るのをどうとも思わないトレーナーもどうかと思うが、俺の頭は既にそうできてしまっていた。

 

 当たり前のようにフラッシュが俺の自室に入って来て、持ってくべき物だとかを一緒に選別した。

 今回もまた前来た時みたいにすぐ戻ってくれると思ったが、そういは行かなかった。

 今日は泊まっていくそうな。

 

「えぇ? 今日は泊まってくの?」

 

「はい」

 

「届は…まぁちゃんと出してるからここにいるのか」

 

「はい。届はしっかり出して学園の浴場に入って汗は流しましたし、ルームウェアも持参してきました」

 

「…………」

 

「トレーナーさんに不便は掛けません」

 

「そ、そういう問題かぁ?」

 

「じゃあ…ほら、ベッドはそっちだぞ」

 

「はい」

 

 フラッシュは早足に寝室へと入り込んだ。俺もそれに続く。

 

「………」

 

「よいしょ」

 

 部屋に入った後フラッシュは立ったままだったので、家主である俺がさっさとベッドに座り拳でボスボスとベッドを叩き…。

 

「立ってないで座んな」

 

「失礼します」

 

 フラッシュは意外にも俺の隣じゃなくて反対側に腰掛けた。

 

 そして……フラッシュは唐突に衣類をはだけ始めた。

 

「おーいちょっと待て、出る! 出るから!」

 

「今更ですか?」

 

「あぁん!?」

 

「もう慣れてしまいましょう。お互いの着換え位」

 

「いやいやいやいや」

 

 俺は背筋を伸ばして壁を見る事にした。衣類の擦れる音がやけに耳に残る。

 

 …フラッシュが唐突に何かしだすのは狙ってる時だからこれも……はぁ…。

 

 フラッシュが着替えた後は俺の番だった。…急いで着替えたよ。

 

「はぁ〜〜」

 

「一緒のベッドで寝ることに関しては、もう慣れっこですね」

 

「誰かさんのせいでな」

 

「フフフフッ」

 

 寝間着に着替えた後は流れで毛布にくるまった。

 現在フラッシュの背中側から俺がフラッシュのお腹に両手を回して軽く抱いてる体勢になっている。頭はフラッシュの枕になるようベッドとフラッシュの頭に挟まれている。そしてフラッシュの尻尾が俺の腰に巻き付いてる感じだ。

 

「……トレーナーって、ウマ娘とくっ付かないといけない呪いでも掛けられてるんかね?」

 

「さぁ……ですが、とても素敵な呪いだと思います……いえ、むしろ祝福でしょうか?」

 

「フラッシュ達からするとそうだろうな…」

 

 フラッシュは肯定も否定もせず、口元を手で多い微笑むだけだった。……つまりそういうことなんだろう。

 

「……フラッシュってさ、いつから…俺との予定を?」

 

「そうですね……最初の一年目から既に…トレーナーさんは私が引退した後も関係が続いていく方だと思っていました」

 

「あなたの隣を歩く私を想像し始めたのは……二年目からですね」

 

「…いいのか〜? 一二年でロックしちゃってさぁ」

 

「一年二年もあれば個人の事は大抵理解できますよ…それも、ほぼ毎日会うあなたなら尚更」

 

「そっかぁ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…なぁフラッシュ」

 

「はい」

 

「ドイツ語教えてくれよ…」

 

「…はい♪」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして…退職する一週間の間にJALのチケットを予約し、家族にドイツへ転勤すると言う無理のない嘘を付き…フラッシュとドイツ移住の計画を立てた。

 

 まず金銭関係だが、俺の口座にある日本円をユーロに少しずつ変換し、ドイツにあるフラッシュのドイチェバンクなる銀行の口座へと数百万ユーロ単位で送金することになった。自分の口座を開設したかったけど永住権が無いと突っぱねられたりするらしいからとりあえずフラッシュの口座を使うと言う訳だ。…後々ドイツで籍を入れるだろうし口座は共同の方がいいよな?

 

 次に永住権についてだが、これが面倒だ。

 永住権を取得するためにはドイツに長期滞在し、ビザ申請する必要がある。ビザに関してはワーキングホリデービザを取得しろとのことだ。これを取得した後に色々……具体的には日本での戸籍も何とかしないといけないし、納税やら数年間の滞在も必要だな。さらに俺を信用に足る外国人かを判断してくれる親しい人がいて…俺は晴れて永住権を取得できるらしい。

 

 …そんな上手く行くかねぇ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、三週間後。俺とフラッシュは成田空港にいた。

 

「今日で日本ともおさらばか…」

 

「これからあなたの生活がドイツ主軸になるだけで、二度と日本に帰れなくなるという訳ではありませんよ?」

 

「まぁまぁまぁ……故郷から長く離れる時はそういう心境になるもんさ…」

 

「???」

 

 フラッシュにはあんまり俺の感覚はわからなかったらしい。…そりゃそうか、フラッシュはこの年齢で日本に長期滞在してたんだし。

 

「…フラッシュはさ、ファルコンとか、ゴルシとか、カレンちゃんとか、シャカールとか、友達いるじゃん。未練とかさ」

 

「……えぇ、ありますよ。もちろん」

 

「ですが……」

 

 フラッシュは顔を傾け俺を見つめた。

 

 …さて、空港の入口前で道草を食ってる場合じゃないな。

 

「……じゃあな、日本」

 

「はい。行きましょう、ドイツへ」

 

 俺は再び成田空港、そのターミナルへと脚を踏み入れ…多分、もうしばらくは戻る事ができないであろう祖国に別れを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海外出身のウマ娘が、お気に入りのトレーナーを連れ出してしまうのはよくある事だそうな。




 次回、ドイツ永住。


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エイシンフラッシュ.6

 なんということでしょう、お気に入り1000達成です。やったね!


 ジェットエンジンの轟音が機内にまで響く。そして人生で…多分、5度目だろうか。5度目の大きなGがかかる。

 

 体が幾秒のGに晒された後……窓の外を見てみると、旅客機は既に大空を舞っていた。

 

 現在、俺とフラッシュは旅客機の前方…つまりファーストクラスの席に座っている。…ファーストクラスの代金は実に高かったぞ。

 

 ファーストクラスの席、と言っても種類が色々ある。例えば席同士が完全に分断されたカプセルホテルのようなタイプ、斜め方向に席が向かい合うタイプがあったりする。

 

 その辺はフラッシュが事前に調べていたようで、色々席をいじって対面で座れるタイプの席に決まった。この席が設置してあるのはボーイング777で……まぁ、これのためにボーイング777を選んだって所だろ。

 

 ポーン、と言う電子音と共に天井にあるベルトのアイコンがOFFになった。自由に立ってもいいぞと言う合図だ。

 

 と、言うことは。

 

 シートベルトアイコンが消えてからちょっとして、フラッシュが早足に俺の席へと向かって来た。

 

「トレーナーさん」

 

「おっと。えぇっと、これどうやって対面席にするんだ?」

 

「ちょっと、お待ちくださいね…」

 

 そう言うとフラッシュは俺の目の前にある、埋込み型テレビに備え付けてある机に手を掛け…俺の方へとスライドさせた。すると、スライドして空いた空間に革製の椅子のような物が現れて。

 

「おお、凄いな!」

 

「これで一緒にいられます」

 

 フラッシュはそこに座った。構図的にはスライドさせた机を挟んで俺とフラッシュが対面して座っている感じだ。…まぁいつもの距離感だな。

 

「…ファーストクラスの時位フラッシュも自分の時間を過ごしゃあいいのに。ほら、映画とかゲームとかあるじゃん」

 

「……あなたは…二人旅で片割れを放置して映画やゲームを楽しみますか?」

 

「いや…」

 

「…それに、あなたと一緒に過ごせないファーストクラスなんて、意味がありません。それなら私はエコノミークラスを選びますよ」

 

「へいへい。一緒に快適な空の旅をしような」

 

「はい」

 

「いやーしかし……高い金を払っただけあって凄いな、フラッシュ」

 

「はい……空港であんなに美味しい物が食べられるなんて…」

 

 フラッシュの言う通りファーストクラスの旅客が食べられる料理は凄かった。

 ラウンジって言うんだよな。ファーストクラスだけが通れるラウンジに通されて、そこで俺達は昼食を食べた。食事の内容は寿司だ。

 所謂回らないタイプの寿司屋で、口頭で注文してそのまま握ってくれるような方式であった。

 

 トロがとても美味しかったです…。

 

 ……あれが、日本での最後の晩餐かぁ。まぁ、最後には相応しかったと思う。

 

「…モリモリ食べてたもんな、フラッシュは」

 

「……ウマ娘は食事量が多いんです。あれでも適正体重は維持できています」

 

 フラッシュは食い過ぎて太るぞ、と言われたと思ったのだろう。両手でお腹から脇腹までをなぞる。

 

「いやフラッシュが太ってるとは言ってないじゃん。ほら、フラッシュはよく食べる姿が似合うってことよ」

 

「…何だか食べてばっかりいると言われているような気がします」

 

「言ってない言ってない」

 

「…そう言う事にしておきますね」

 

「いやだからそう言うことだって…」

 

 こんな感じで…フラッシュと他人が聞いたら吹き出すような話をして数刻…。ガラガラガラガラ、と席の前方から台車を押す音が響いて来た。席から顔を出すと…機内食を運ぶ台車がこちらへ向かって来ていた。

 

 ファーストクラス席は数が少ないため、すぐに俺の席の前へ台車は到着する。そしてCAさんが…。

 

「失礼します。お肉と魚の機内食、二種類からお選びいただけます。どちらになさいますか?」

 

「肉でお願いします」

 

「畏まりました…」

 

 CAさんは台車から機内食とスプーンフォークナイフ箸を机に置き…。

 

「フラッシュはどうする?」

 

「私は…じゃあ、お魚で」

 

「畏まりました…」

 

 もう一つ機内食を取り出し、フラッシュの前に置いてスプーンフォークナイフ箸の一式も置いた。

 

「お飲み物はどうなさいますか?」

 

「あー。じゃ、お茶でお願いします」

 

「私もお茶でお願いします」

 

「畏まりました…」

 

 最後にCAさんは2つの透明なプラスチックのカップにお茶を注ぎ、机に置いた。

 

「ごゆっくりどうぞ〜」

 

「……………」

 

「……………」

 

「…食うか」

 

「はい」

 

 機内食は…まぁ、いいレストランで出されるような内容だった。俺のは…ステーキに切り分けられたベイクドポテト、見た感じ固そうなパンに野菜類だ。

 

 対してフラッシュは薄く切られたレモンの乗った…何かの魚類のムニエルとでかいキノコ…人参、じゃが芋、ササゲの漬物、そして味噌汁。

 

 正直どっちも美味そうだ。

 

 …俺が食事を見ている間にフラッシュは既に口を動かし始めていた。…考えてないで食べよう。

 俺はナイフを右手、フォークを左手に持ちステーキを切り分け、口に運び…。

 

「モグモグ」

 

 …うん、美味いな。焼き加減は…ミディアム位か?

 

「モグ……美味いな」

 

「んく……はい」

 

 そしてしばらく夢中で機内食を食べる時間が続いて…フラッシュの分が半分位になった時。

 

「……このコップではなく、ワイングラスならもっといい雰囲気だったのでしょうね」

 

「モグモグモグ………だな。セレブって感じだわ。ま、フラッシュはまだワイングラスを持てる歳じゃないけどな」

 

「……トレーナーさんにとって、私はまだ子供なのでしょうか?」

 

「…さぁーなー」

 

 一旦フォークとナイフを皿に置き、機内食を見ていた目をフラッシュに向ける。

 

 …白い肌に艶のある黒髪。大きな瞳に長い睫毛。整った鼻筋に薄紅色の唇。そして細長い手足。

 

 綺麗だよな。

 

 …出会った時から既に3年以上。雰囲気も、大分大人びた。出会った時はまだあどけなさと言うか、無邪気さを感じる事もあったが…もう、今の時点では……女性、と言うべきか。少なくとも、子供扱いはもうできない所にフラッシュはいる。

 

 …何て事を考えながらフラッシュの顔を凝視していると…フラッシュは耳を伏せたり張ったりを繰り返し始める。

 

「あの……と、トレーナーさん……あんまり顔を見られると…」

 

「おっと。すまんすまん」

 

 フラッシュは両手を太腿に置き、今を伏せてしまった。

 

「まぁー、もう子供扱いはできないな。大人になりかけって言うか」

 

「そう、ですか…」

 

 …フラッシュは頭を伏せがちな姿勢から俺を見る。……これが上目遣いってやつ? ……このフラッシュは破壊力って言うか、そういうのが凄い。思わず今度は俺の方から目を逸してしまった。

 

「…いつかは二人きりで…ワイングラスで乾杯したいですね」

 

「……フラッシュの中ではそれがいつか…既に予定、できてんだろ?」

 

「…ふふっ」

 

「はぁ〜〜…」

 

「…トレーナーさん、お酒の味って…どんな感じなんでしょう?」

 

「変な気は起こすなよ?」

 

「もちろんです」

 

「…日本酒は甘辛いな。ドイツのは知らんけど日本のビールは苦味がある。ワインはめちゃくちゃ甘い種類と苦味がキツい種類がある」

 

「なるほど…」

 

「フラッシュも20歳になったらチビチビ飲んでみるといいさ。ガブ飲みは絶対だめだからな」

 

「ウマ娘は肝臓が強いので大丈夫……とは言えませんね。さすがに思いっきり行ったら私も酔い潰れてしまうかもしれません」

 

「フラッシュの事だからそういう事は無いと思うけどよ」

 

「…トレーナーさんはお酒は強い方ですか?」

 

「いやぁ……普通じゃないか? 2杯3杯飲んだら顔が赤くなる」

 

「なるほど……なるほど」

 

 フラッシュを一瞬右手で口元を多い、目線を下げた。……何か考え付いたな、コレ。

 

 教えるんじゃなかった…。

 

「何考えてんだ?」

 

「いいえ? 何も?」

 

「……………」

 

「……………」

 

「……残り食うか」

 

「はい」

 

 そういう事で。ここで一旦話を終わらせ、机にある食べ物へと再び俺達は手を付けた。

 

 その後、機内でフラッシュとパズルゲームで対戦したり、記念撮影をしたり、くだらない話をしたりで時間を潰しつつ……機内で夜を迎えた。

 

「フラッシュ、そろそろ寝た方がよくないか」

 

「そう…ですね。では」

 

 フラッシュは立ち上がりその場で体を伸ばした後、席から出てそのまま自分の席に戻……らず、俺の席の机を元の位置に戻した。

 

「トレーナーさん、少々立って貰えますか?」

 

「え? あ、うん」

 

 言われるがままに立ち上がり…。フラッシュは俺の座っていたシートを倒して変形させ始めた。シートはすぐに寝台へ変わった。

 

「へぇー。こうやって寝るのか、ファーストクラスって」

 

「はい。さぁ、トレーナーさん、どうぞ」

 

「じゃ、しっつれーい」

 

 俺は寝台に変形した席に座り、そのまま寝転んだ。

 

「おおすげぇ、柔らかい!」

 

「寝心地は良さそうですねぇ」

 

 ごそ、とフラッシュも寝台に入って来た。

 

「…あ、フラッシュも一緒に寝るのね」

 

「はい」

 

「……狭くね?」

 

「飛行機の夜は冷えます。身を寄せ合って就寝した方が暖かいですよ」

 

「あぁそう……ならな」

 

「はい」

 

 ……俺は今席の壁の方を向いているんだけど、これはフラッシュの方…席の入り口を見ないと怒られるやつだな。

 俺はずるずると寝台の上で寝返りを打った。……い、色々個擦れるなぁ。

 

 っていうかフラッシュの方を向いたら顔ちっか。

 

「…じゃあ、おやすみフラッシュ」

 

「おやすみなさい、トレーナーさん」

 

 ……飛行機の揺れのせいか、それともフラッシュの確信犯か。絶えずフラッシュの体が押し付けられて眠るに眠れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後は特に何も起きず…旅客機はデュッセルドルフ空港に到着した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Willkommen zu Hause」

 

「Ich bin zu Hause, Vater, Mutter」

 

「Klingt, als wäre es gut gelaufen」

 

「Ja」

 

「Gut…」

 

 デュッセルドルフ空港にて。本当、何ヶ月もしないうちにまたフラッシュ夫妻に出迎えられる事になってしまうとは…。

 フラッシュと夫妻は何かドイツ語で話している。……聞かれたくない話は外国語で……とか、どっかで聞いた事あるな。考えすぎか?

 

 …まぁ多分フラッシュの事だから予定についてだろ…。

 

 やがて話すことも話したのかお父様がこちらに向き直った。

 

『トレーナーさん、お帰りなさい』

 

『はい。ただいま戻りました……と言うべきでしょうか』

 

『ええ。さぁ、車が準備してあります』

 

『はい、行きましょう』

 

 お父様に促されるまま、俺達は夫妻の車に乗り込み……フラッシュ家へと出発…いや、戻ると言うべきかな。

 

 その道中にて…運転中のお父様がお母様に何か話し掛ける。

 

「Es ist genau wie bei uns, als wir jung waren」

 

「Das ist es wirklich」

 

 それを聞いたフラッシュは後部座席で右手を頬に添えて、目を瞑り笑いながら…。

 

「Schon… Vater, Mutter…」

 

 ……何て言ってるか全くわかんねぇ…。

 

「…なぁフラッシュ」

 

「はい?」

 

「お父様とお母様はなんて?」

 

「若い頃の私達にそっくりだそうですよ」

 

「……そう言えばお母様はウマ娘だったな…で、今どちらもマイスターか」

 

「はい」

 

「そっくりたって。俺、ケーキを作ったことすらないぜ?」

 

「そういう意味ではありませんよ。今の状況がそっくりだと言う意味です。…それに、あなたにその気があるならばドイツでマイスターの資格を取得しても…」

 

「……俺はしばらくトレーナーでいることにするよ」

 

「ええ、わかりました。…ですが形は違えど。結局、私達が目指す所は…」

 

 フラッシュは一度運転席と助手席にいる夫妻に目を向け…次に、あはたもいずれああなるんですよ、と言わんばかりに笑顔でこちらに振り向いた。

 

 ……もう予定調和じゃん、これ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車に揺られて数時間。夫妻と俺とフラッシュは家に到着し……俺はまた頭が上がらなくなるようなおもてなしを受けた。

 

 家に到着しお母様とお父様の用意した料理…まぁ、ケーキだが。椅子に座って机の上の皿に置かれたそれを食べた。…そこでちょっとしたことを俺は思い付いた。別に俺とフラッシュの仲だし大丈夫だよな。フラッシュ夫妻も俺らを何故かリビングに二人っきりにして家のどこかに行っちゃったし。

 

「なぁフラッシュ」

 

 俺はケーキを一口サイズに切り分けながら…。

 

「はい?」

 

「口開けてくれよ」

 

 フラッシュにそう言った。

 

「えぇ?」

 

「フラッシュの言葉を借りるなら…仲の良い男女は食べ物の食べさせ合いをするのが一般的なんだよな」

 

「あ、あぁ……」

 

「だからほら、俺ら仲いいじゃん」

 

 切り分けたケーキをフォークで刺し…フラッシュに差し出す。

 

「…ぁ…ぁー…ん…」

 

 フラッシュは口を少し大きめに開き…フォークをフラッシュの口の中へ入れ、フラッシュはフォークを唇で包んでケーキを食べた。

 

「………」

 

「美味しい? ……っつか、そりゃ美味しいよな、フラッシュのお父様とお母様が作ったんだし」

 

「………」

 

「……フラッシュ?」

 

 フラッシュは何故か右手人差し指を唇に当てている。

 

「フラッーシュ?」

 

「はっ………す、すいません。…これ…は…」

 

「ん?」

 

「いえ……」

 

「そう」

 

「…………」

 

 すると、フラッシュはチラッと俺を見て…自分の分のケーキを切り分け始めた。そして俺と同じようにフォークに切り出したケーキを刺して、俺に差し出した。

 

「…トレーナーさんも、どうぞ」

 

「おう、ありがとう。あーーー」

 

 バクッ、と俺は特に何も考えずケーキを頬張った。

 

 美味しい物はいつ食べても美味しいね…。

 

 これを境に俺とフラッシュはケーキを食べさせ合いっこして…ケーキを平らげた。…フラッシュ夫妻に見られてたら恥ずかしいな…。

 

 

 

 …俺はドイツに永住することになるので、晩飯の後はとりあえずフラッシュに二階に上がって貰い…いつの間にかリビングに戻ってきていた夫妻と今後の予定について話し合った。

 その結果家には必要なだけ滞在しても良い、フラッシュが引退するまでは専属のトレーナーでいる、永住権取得の際には力になる、ドイツ語も教える、という事になった。

 

 ……滞在する場所がフラッシュ家で良かった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドイツ滞在一週間……いや、永住一週間目だな。この一週間の間に色々な事をした。まず荷物整理をして…ドイツトレセン学園に再就職と言う体で仕事に就かせてくれないかと連絡をし、面接日を決めて貰い…ちなみにトレーナーの再就職率は100%なんだそうな。次にドイツの大使館へ行きビザを取得し…最後にドイツから日本にいる友人、家族に手紙を送った。

 

 色々ありましたが俺は元気です。

 

 そして今は…フラッシュの部屋で同じ勉強机に向かいながら、一足先にドイツトレセン学園に転入したフラッシュにドイツ語を学んでいた。

 

「フラッシュ、ウムラウトの発音って…」

 

 一週間で覚えられる言語なんて高が知れている。俺はとにかく基礎の基礎をフラッシュに教えてもらっている。ペンとノートを持って外国語の勉強とか大学以来だわ…。

 

「はい、発音はそのような感じです。それを英語に混ぜて発音すると……」

 

「ふむふむ」

 

「じゃあ女性名詞と男性名詞は……」

 

「はい、その認識で間違いありません。これにドイツ語は中性名詞も追加されます」

 

「なーんだそりゃ」

 

「それを今から……」

 

 こんな具合だ。

 

 そしてドイツ語学習を開始して一時間後…。

 

「ではトレーナーさん。今までの文法を組み合わせて私が適当なドイツ語を発音します。それに続いてください」

 

「おう」

 

「では私を見てください」

 

「うん」

 

 フラッシュに言われた通りフラッシュに顔を向ける。

 

「行きます。Ich liebe dich」

 

「Ich liebe dich」

 

「もう一度。Ich liebe dich」

 

「Ich liebe dich」

 

「はい、お上手ですよ、トレーナーさん」

 

 フラッシュはパチパチ、と軽く手を叩いた。

 

「Ich liebe dich,Ich liebe dich……ねぇ。フラッシュと比べると発音が拙過ぎるわ…」

 

「日本語は巻き舌の発音や有気音がありませんからね…。日本人の方が英語を忌避する理由です」

 

「ふーん。所でさ」

 

「はい」

 

「このIch liebe dichってどういう意味?」

 

「これは愛していると言う意味です」

 

「………………」

 

「………………」

 

 …俺は何度フラッシュの掌で踊らされ続けりゃいいんだ?

 愛している……うん。そうか……うん。

 

「……あなたの口から…一度も聞いた事が無かったので」

 

「……フラッシュ」

 

「ぁっ」

 

 机に置かれていたフラッシュの右手に俺は右手を重ねる。

 

「フラッシュ、好きだ。凄く。かなり。とても」

 

「あっ……ぁ……わ、私、も。あなたが…好きです。大好きです」

 

 フラッシュは目と耳をパチパチさせながらすこーしずつ頬を紅潮させていった。

 

 ……もう、言った方がいいだろ。さんざ…フラッシュを待たせし。温泉旅館の時から、既にわかってただろ、俺。

 

「…変なタイミングですまん」

 

「いえ……言っていなかっただけで、ほとんどのそのような関係でしたから…ふふふっ…」

 

「温泉旅館の時に、ハラを決めてたら」

 

「いいんです、いいんです。これで…」

 

 右隣にいるフラッシュは俺の腿に右手を置き…するりと撫で…尻尾を腰に巻き付けた。俺はそのフラッシュの腰に右腕を回す。

 

 

 

「……また、新しい予定ができてしまいました」

 

 

 

「フラッシュといれば予定は尽きなそうだなぁ」

 

 

 

「…それは…とても、素敵な事だと思います」

 

 

 

「俺もそう思う」




 フラッシュ編、トレーナー視点はこれにて完結です。ここまで読んでいただきありがとうございました。

 フラッシュは巧者なのでトレーナーは無事で済みました。

 次回からはフラッシュ視点開始です。


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sideフラッシュ.1

 遅れて申し訳ありません! 理由は活動報告に…。
 この話はフラッシュ視点でございます。


 子供は親の鏡のように育つ。

 

 幼い頃から、私は尊敬する両親の影響で……自ら筋道を立て、それに則って行動するような。良く言えば予定通りの、悪く言えば予定に縛られた生活を送っていた。

 

 私自身、それが苦にはならなかったし、それが正しいのだと思っていましたから。

 

 …そんな予定に対する信仰を…多少は崩してしまっても良い、と考えられるような人に出会ったのは…今から約三年前のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……詰め込み過ぎ…? しかし…思い出は多ければ多い方が。トレーナーさんに対してのパンチも考えれば…やはり詰め込めるだけ詰め込んだ方が良い…」

 

 あくる日の自室にて。今日、同じ部屋の賑やかな友人、ファルコンさんはゲリラライブのため早朝からここにはいなかった。

 

 そのため、ペンを携えてじっくりと予定表とにらめっこができる。

 

 …この予定表も、随分と分厚くなりましたね。ルーズリーフを継ぎ足し継ぎ足しして、今ではもう厚さが3cm程。持ち運ぶのに少し難儀します。

 

 予定表の内容は…日常生活に関してが2割、トレーニングやレースに関する予定が3割。後は…ほぼ、全て彼との予定です。

 

 知らない人が見れば正直…引かれるような物だと思いますね。

 

「…………」

 

 ペンの先端を下唇に当て、はふぅ、と一息。

 

 …さて、勝負はURAファイナルズ後。

 過去にトレセン学園に在籍していたウマ娘達の外出及び外泊届けのデータから読み取れるのは、この時期に何かしら大きな旅行に行っていると言う事。顕著な所では温泉旅行、遊園地、実家への招待。

 海外出身のウマ娘なんかは自国へ連れ帰っている例も散見されます。

 このデータを見るに、トレーナーさんに振り返ってもらうにはこの時期が一番いい。

 

 私も先人達に習い、ここからなし崩し的にトレーナーさんとの距離を縮める。

 

 なぜ、私がこのような騙し討をしようとしているのかと言うと…。

 

 この3年間で私は様々な形でアプローチをトレーナーさんに掛けて来ましたが、トレーナーさんはそれを物ともせず鋼の意志を貫き通したからです。

 

 トレーナーさん、普段はチャラチャラ、飄々とした態度を取っていますけど……そういう所は、しっかりしているんですよね。うっかり私に手を出しても私は拒まないと言うのに…。

 

 こういう時、トレセン学園の校則というのは……とても、恨めしい。表立った行動を制限されると、こうも窮屈に感じるなんて。

 

 さて。彼には…普段とは違う環境で、普段とは違う私を見て貰い…そして意識を私に向けてもらう手筈だ。

 

 

 

 さぁ…勝負ですよ、トレーナーさん。

 

 

 

 私はパタリと予定表を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 URAファイナルズも終了し、大きなイベントもレースも無く、既に長期休暇の機運がトレセン学園を包み始めていた頃。

 

 いつからか、よく入り浸るようになってしまっていたトレーナー室にて。

 

 パソコンを睨み付け続けて、目が充血し始めているトレーナーさんを見兼ねて、いいタイミングだと思い話を切り出す。

 

「トレーナーさん」

 

「うーん?」

 

「温泉に、行きませんか?」

 

 トレーナーさんの目が私に向けられた。

 

「…あー? 温泉?」

 

 よし、明らかに動揺している。

 

「はい」

 

「そう言えば昔…温泉旅行券当ててたな…」

 

「はい。URAファイナルズも終わりましたし、レースの予定もしばらくありません。暇な時間が多いです。この期間を利用して…」

 

 トレーナーさんはふぅん、と一息ついて目を伏せ、数秒間考え込み…。

 

「そう、かぁ。でもフラッシュならファル子とかエアグルーヴとかゴルシと一緒に行った方がいんじゃね? 修学旅行みたいなもんだろ。こういうのは友達と行った方が楽しいぜ」

 

 …やはり、そう来ますよね。最後まで律儀に貫き通して、今のままの関係を維持しようと。

 

 では切り札を使わせていただきますよ、トレーナーさん。

 

「…トレーナーさんは3年間も私と共に歩んでくれました。私はトレーナーさんにそのお礼がしたいです。あの温泉旅行券を…あなたのために、使わせていただけないでしょうか」

 

「……………」

 

「…すみません、過ぎたおねが」

 

「いや」

 

「!」

 

「わかった、わかった。行こう、温泉旅行に」

 

「トレーナーさん!」

 

 私はトレーナーさんに飛び付いてしまいたくなる衝動を何とか抑え込んだ。

 

 まだだ、まだ速い。いずれは何の躊躇いも無くできるようになる予定なのだから。toi.toi.toi…。

 

 …内心、湧き上がる笑みを抑え切れなかったけれど。

 

 …トレーナーさんは、私からの○○…と言う文言には絶対に否とは答えないのを、私は知っている。他のウマ娘には否と答える事はあれど、私には絶対にそうではない。

 

 私の言う事には頷いてくれるのだ。

 

 それはつまり……私を優先してくれているからでしょう。

 

 ああ、嬉しい。

 

「おう。でさ、いつ行く?」

 

「はい。そこはお任せください。私が全てやっておきます」

 

「いいのか? じゃあ…頼むわ」

 

「諸々の手続きが終わった時、追って連絡しますね」

 

「おっけー」

 

「………フフフフフ」

 

 良い流れです。温泉の手続きを私に一任してくれた。これもきっと信頼関係がなせるもの。…その信頼関係を逆手に取るような真似をするので、少々心苦しいけれど。

 

 全ては、私とあなたの幸せのためなのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「〜〜〜〜〜♪」

 

 成功した。

 

 ついに、温泉でトレーナーさんに私を女の一人だと自覚して貰えた。

 

 自室の椅子の上で、リズムに乗って体を左右へと揺らす。それに合わせて尻尾もリズミカルにゆらゆらと。

 

 …温泉でようやくトレーナーさんに抱き締めてもらえた。トレーナーさん、私よりも結構大きいので、全身が包まれているようで…。あれが、私の求めていたもの…。

 

 …ここまで来るのに、約3年も要するなんて。トレーナーさんは一体トレーナーになるまでに何を叩き込まれたのか。おかげで、予定がここまでずれ込んでしまいました。

 トレーナーさんのために予定を変えるのに、あまり躊躇いはありませんが…。

 

 ……言い換えれば。ここまでウマ娘に誠実だったからこそ、私は彼に全幅の信頼を……いや。好きだと思えるようになったのでしょう。

 

 彼を好きになる理由はたくさんありました。

 

 彼は私を最高のウマ娘だと信じて疑いませんでしたし、自分の人生の3年間をこの私に賭けてくれました。私にそれだけの価値を見出してくれました。

 

 気になるクレープ屋さんがあれば張り込みをしてまで目当てのクレープを買ってくれることもありましたし、私の予定に文句一つ言わずに動いてくれました。

 

 そして彼はとても愉快な人で…ゲームセンターや遊園地に行くと必ず面白い失敗をしていました。UFOキャッチャーでびっくりする位取れなかったり小太鼓の達人でノルマクリアに失敗したり……ジェットコースターでダウンしたり射的で全弾外してしまったり。

 

 より、具体的で…人情を廃した理由付けをするならば。トレーナーさんは優良物件だ。将来子供ができるならば、もう既に責任を持って育て切ることのできるお金は貯金できているでしょう。そして、そういう関係になればきっと彼は生涯私から目を離さない。

 

 私はそれを抜きにしても、好きですが。

 

 後は……もう単純に、一緒にいると安心できるから、ですね。

 

「……………」

 

 しかし……あの距離感で、何で今まであそこまでできなかったのか違和感を覚える位だ。

 お互い、常に一緒にいるのが当たり前。一緒にいないのは、早朝と深夜位。

 

 思えば、トレーナーさんは一定間隔で私とお出かけをしてくれていた。その度に私は満足して、トレーナーさんへのアプローチを弱めて…。あれは、ガス抜きだったのでしょうか?

 私はトレーナーさんにコントロールされていた?

 

 ……コントロールは言い過ぎにせよ、やはりトレーナーさんがある程度調整していたんでしょうね。

 

 …今度は私があなたをコントロールさせていただきますよ。

 

「…そんな努力も、もうしなくていいんですから、トレーナーさん」

 

 …さて、考えるのもこれ位にして。

 

 机の上に置いてある、3年目以降の予定に目を通す。

 

 温泉旅行は先日無事に終えた。私の目的であったトレーナーさんが明確に私との間に敷いていた壁も破壊できたはず。

 次は…ドイツ旅行だ。そこで…トレーナーさんの理性を粉々に破壊する。そしてトレーナーさんを説得し、ドイツに永住する。

 ドイツへの居住は性急過ぎる気もするけれど…事は早ければ早い程、いいでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋にか弱い日の光が射し込む。

 

「くふぅぅ……すぅぅ…」

 

「………………」

 

 成功した。

 

 トレーナーさんを流れでドイツに連れて来る事ができた。

 念入りに作戦を立てた甲斐がありました。

 

 まずJALのチケットの購入、それを知らせずに出発まで後数日と言う所でトレーナーさんにドイツ旅行を切り出し、私の両親について添える事でトレーナーさんを決心させる。

 そしてゴタゴタに合わせてトレーナーさんの住居を確認し、トレーナーさんが日本に帰ってしまった時のために探す宛を付ける事ができた。

 これだけでも収穫は十分。

 

 そして今、トレーナーさんは私の部屋の、私のベッドので眠りについている。

 

 眠ってしまえば、あなたも型無ですね。普通、私がここまで近付こうとすれば、あなたは離れて行ってしまいますから。

 

「…………ん、ん」

 

 こそこそと、トレーナーさんを起こさないように既に近いけどさらに近付いて行く。

 そして、両手を腰へと滑り込ませて…トレーナーさんの胸元に頭を置いた。

 

 …今ならこんなこともできてしまいますね、トレーナーさん。

 

 私は左耳をトレーナーさんの胸元に押し付けた。

 

 …とく、とく、とく、と心臓の鼓動が聞こえる。

 これがトレーナーさんの鼓動の音、ですか。何の変哲も無い、ただの鼓動ですが…想い慕いしている人の物だと、こんなに特別に感じる事ができるなんて。

 

 今、この状況でなら…あなたの寝顔も、鼓動も、体温も、息遣いも、全て私の物。この場私にだけ許された特権…。

 

 ……トレーナーさんは私の鼓動をどう感じてくれるのでしょう?

 今度、胸元に耳を当てて貰って感想を聞いてみるのも悪くありませんね。

 

 …もう一眠り、しましょう。予定の時間まで、まだありますし。今は、この時間を……。

 

 ……起床時間、もう少し遅くしていれば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつもよりトレセン学園の自室が暗いような気がする。

 

「……………」

 

 失敗した。

 

 トレーナーさんを取り逃がした。あの場で引き止める事ができなかった。せっかく、父と母にも協力してもらったのに。最大の、チャンスだったのに。

 

 ……予定、変更です。あなたのためならばいくらでも変更しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたが私と共に過ごすようになる予定に変わりはないのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …まずは口頭による説得を試みるべきでしょうか。あまりに強く迫ると、トレーナーさんに拒絶されてしまうかもしれませんし。何よりそうなった場合、私が私でいられなくなりそうなので、やはりそうするべきか。

 

 今回の失敗は……私の本気度がトレーナーさんに伝わらなかったのもあるでしょう。

 私の本気度を伝える事ができる物…は………。

 

 私はふと、机の上に目を向ける。そこには…分厚いルーズリーフの塊が置いてあった。

 

「………予定表」

 

 …これですね。この予定表には、これまでの私のトレーナーさんに対する……。これの内容を、トレーナーさんに読んで貰えれば。あるいは…。

 

 まず、トレーナー室にこの予定表を仕込むとして。これを読んで貰ってから、私が。

 この流れが1番確実でしょうか。

 

 ………とりあえず、今はこれしか思い付きませんね。これで、行くとしましょう。

 

 では。

 

 ここまでやって、口頭で説得できなかったら?

 

 ………。あまり、トレーナーさんに手荒な真似はしたくありませんね。

 

 えぇ、手荒な真似はしたくありませんが。そういう時のための想定は、必要ですよね。

 ただ、ちょっと想定するだけです。想定は想定で終わればいいのですから。

 

 ……手首足首の拘束の仕方と、睡眠薬の効力について調べなくては。

 

 今の内容も、予定表に書き加えておきましょう。私の彼への思いを伝えるために。

 

 

 

 直近の予定は固まった。

 

 

 

 後は、予定通りに事が動くかどうか。

 

 

 

「……………」

 

 

 

 私は一度、予定表から目を離し、部屋の窓を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の目は自分でも見たことのない鈍色をしていた。




 次回からはタキオン編を書こうと思います。


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アグネスタキオン編
アグネスタキオン(プロローグ)


 待ってくれていた読者の皆様にはまず謝らなければなりません…すいませんでした!

 タキオン編でございます。


 今日は理事長主催の、URAファイナルズ関連の説明会があった。

 それも先程終わり…俺は持ち場へと戻るために歩幅を伸ばす。

 

 ……あの資金力は一体どこから来るのだろうか。私はウマ娘のためならば一向に構わん! って。その心意気は素晴らしいんだけどあんな桁を出されたら……。国家予算のレベルに片脚突っ込んでるぞ。

 ポケットマネーって言っても何のポケットマネーなんだ…?

 

 理事長って何かの財閥の娘なのか? それとも政治家の首でも掴んでるのか?

 

 ……あんまり詮索はしない方がいいだろう。俺は既に仕事やら生活やらが充実してるし、変に首を突っ込んで真夜中にドアをノックされたくない。この世には知るべきことと知らないべきことがあるんだから。

 

 今はただ、ウマ娘のために身を粉にしろ。

 

「……………」

 

 俺は雑念を払い、広い広い学園を歩き続け…数十分して、ようやく自分のトレーナー室前へと到着した。

 

 カチャリ、とドアノブを回し、トレーナー室へ入る。

 

 

 

 ……すると、誰もいないはずの部屋から何故かパソコンのキーボードが叩かれるカチャカチャと言う音が俺を出迎えた。

 

 

 

 またか、と思い自分の作業机と椅子を見てみれば……暗い、赤色の瞳が光線のように俺を射抜いた。

 

「モルモットくーん、随分と複雑なパスワードを仕込んでいるみたいだねぇ」

 

「おい。ここは俺の仕事部屋だぞ。何勝手にパソコンいじってやがんだ。何故かお前はパスワードクリアしてくるし、何なんだ本当に。おかげで長ったらしいのにするハメになったぞ」

 

 捲し立てるように、その目線の正体へと恨み辛みを吐き…。

 

「ふぅン、この部屋が君の仕事部屋、ねぇ」

 

 トレーナー室に…形容するならば、ややねっとりとした声質の声が響く。声の主は……俺の担当ウマ娘。アグネスタキオンの物だ。

 

「おかしいねぇ、モルモットくぅん。この部屋の所有権はいつ君が手に入れたんだい? この部屋の所有権は学園が持つ……つまり君には無いんだよ。だから君が私をここから追い出す理由は無いし、ここが君の仕事部屋であるという事実はない」

 

「うっせぇなお前。言葉遊びがしたいならカフェとでもやってこい。それにこの部屋はしっかり俺に割り振られた部屋だ。俺がどうこう口を出す道理はある」

 

「手厳しいねぇ、トレーナー君。それが担当ウマ娘に対する態度かーい?」

 

「いいからその椅子から退け。仕事ができない」

 

「はぁーー…。…いいさ、退いてあげるとも……」

 

 タキオンは一瞬、机に手を掛けて立ち上がる素振りを見せるが…。

 

「……ただし、君が役目を果たすのが先だ」

 

「はぁ?」

 

「…………」

 

「…………」

 

 タキオンは挑発的な笑みを浮かべたまま、再び椅子に座り込んでしまった。

 …タキオンの目線は俺の手元に注がれている。

 

「………この野郎」

 

「私は女だよ、トレーナーくぅん」

 

 売り言葉に買い言葉。全くこいつは……。

 

「言ってれば俺が言うことを聞くと思いやがって…」

 

「グチグチ言う割に君は随分と素直だねぇ」

 

 俺は渋々、タキオンのために作ってきた弁当を机の上に置いた。

 

「これだよぉ、私が欲していたのはぁ」

 

「ほら、早く退くんだな」

 

「私は約束は守る女さ。よいしょ…」

 

 タキオンは約束通り体を持ち上げ、席を空けてくれた。そして、作業机に置かれた弁当を手に取り、そこから離れ…。

 

 俺はタキオンと入れ替わる形で椅子に座った。

 

 タキオンはそのままトレーナー室から出て……行かず、面談席へと移動しそこに座った。

 

「……おい、出ていくんじゃないのか」

 

「いやぁ。ここで食べさせてもらうよ。ちょうど空いてきた頃だしねぇ。そもそも私は椅子から退くとは言ったけど部屋から出るとは言っていない」

 

「…勝手にしろ」

 

「ふふ…するさ」

 

 タキオンは弁当を包んである布を解き、それを机に敷いて弁当箱を展開し…蓋に備え付けてある箸を取り出して、米やら、野菜炒めやら、豆腐やらを口に運ぶ。

 

 そして口をモゴモゴと動かし…。

 

「……トレーナー君、君は料理が上手だね」

 

「誰のために上手くなったんだか」

 

「はははっ。これからも頼むよぉ、トレーナー君」

 

「…………………」

 

「…………………」

 

「…でも味付けはもうちょっと薄い方が私の好みだね」

 

「おいこら。人がせっかく作ってやってるのに」

 

「ははははっ! 人の欲望と欲求と言うのは尽きない物だよ」

 

「はぁ………」

 

 …仕方ない、塩やら味噌の量を減らすか…。

 

 頭の中で明日の弁当の中身を組み立てて行くと、ふと。今1番大事であろう話題が頭に浮かんだ。

 

「……ちゃんと、皐月賞に向けてトレーニングしてるか?」

 

「もぐ……もちろんさぁ。君、私を何だと思ってるんだい」

 

「変な奴…」

 

「ふ、ははっ! 違いない!」

 

 タキオンはんぐっ、と米やらを飲み込むと、右手で口を覆って笑い始めた。

 

「ふぅ…ふふ。やっぱり君は手厳しい。……心配しなくていいさ。トレーニングはしっかり、滞り無く行っている。君のおかげかコンディションも悪くないからねぇ。いくらアグネスタキオンとは言え、レースには真剣さ」

 

「……頑張れよ」

 

「あぁ」

 

 …この短いやり取りを最後に、会話は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タキオンは危な気無く皐月賞を制した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皐月賞から数日後。その昼頃。

 

 俺はタキオンの研究室……と言っても、タキオンが勝手な要求をして何故か与えられてしまっま

教室の一角だが……に向かっていた。

 弁当を渡すためだ。

 

 …その研究室に近付くに連れて、段々と薬品の匂いが漂い始める。嫌、とも好き、とも言えないような匂いだな。湿布みたいな…。

 

 タキオンが占拠したせいでこんな匂いがするようになったのか、それとも元からこうだったのか。前者なら学園にとっていい迷惑である。

 

 …そもそも部屋を要求するなよ。

 

 廊下を曲がり…その突き当りにて、スライド式ドアの前に陣取る。

 俺はコンコンコン、とドアをノックして…タキオンの返事を聞かずに研究室へと脚を踏み入れた。

 

 恨むなよ。ただの嫌がらせだ。

 

 ……俺は、ローファーを脱いで自分の左脚の踵を椅子に乗せ、眉間に皺を寄せながら脚首を両手で擦っているタキオンと鉢合わせた。

 

「………痛いのか、タキオン」

 

 ノックせず入って良かった。じゃなきゃ気付けなかった。

 

「おっとぉ、品が無いねぇ、トレーナー君」

 

 タキオンは脚首を撫でていた両手をゆっくりと離して、椅子に置いていた左脚を元に戻し……少し、困ったような表情を浮かべながら俺に向き直った。

 

「否応は聞くべきじゃないかな?」

 

「大丈夫か?」

 

「…………」

 

 …タキオンは何やら面食らった様子だ。俺と左脚を交互に見比べている。

 

「…いやぁ、ただちょっと調子を確認していただけだよ。何も問題は無い」

 

 俺は弁当を机の上に置き、タキオンの眼の前へと移動する。

 

「見せてみ」

 

「大丈夫さ」

 

「いいから」

 

「…………」

 

「…………」

 

 俺は…多分しかめっ面。タキオンはいつもの何かを含んだ怪しい笑み。…互いに睨み合いが続く。

 

 ……いや、引かねぇよ? 担当バが脚を擦ってると来たら、無視できないだろ。

 基本、タキオンの願いは聞き入れる俺だが……今回ばかりは一歩も引かないぞ。

 

 

 

 

 

 勝負は俺に軍配が上がった。   

 

 

 

 

 

 タキオンが笑みを引っ込め溜息をついたのだ。

 

「ッハァァァ………直接触って確かめないと気が済まない顔だね。いいさ、好きにするといい」

 

 タキオンは体をほっぽり出して、左脚を俺に差し出した。

 …全く。最初からそうすればいいものを。

 

「どれ…」

 

 俺はその場に跪いて、タキオンの左脚首を左手にそっと取る。そして、右手で関節に異常がないかとなぞったり、噛み合わせを確認してみたりと。

 

 ……確認した感触は…骨が突っ掛かったり、動かしてタキオンが顔を顰めた様子は無い。特に問題は無いか…?

 いや、無いと言い切れないな。実際には爆弾が潜んでましたってパターンがウマ娘にはよくある。ここは……。

 

 ここは大事を取って、と言おうとして俺は顔を上げた。すると……。

 

 何やら呆れたような表情のタキオンが俺を見下ろしていた。

 

「……何だお前」

 

「…こちらの台詞さ、全く…。人がいないからいい物を」

 

「ええ?」

 

 タキオンは再びはぁぁぁ、と大きな溜息を漏らした。

 

 ……???

 

「君、私を心配してくれるのはいいさ。だがね、絵面を考えてくれたまえよ」

 

「絵面ぁ?」

 

「……これは重症だな。君、ちょっと自分の姿を確認するといい」

 

「はあ…?」

 

 と、俺はタキオンに言われるがままにキョロキョロと自分の姿を眺めた。……普通のビジネス用のYシャツにジーンズだが……何か変なのか。

 

 俺はタキオンに向き直り、首を傾げて見せた。

 

「君と言う男は……」

 

 タキオンは最早呆れて物も言えない様子だった。右手で額を覆っている。こんなことを言わせるのかと言った様子だ。

 

「いいかい、私は座っていて左脚を差し出し、君は床に跪いてその左脚を手に取っている。傍から見れば変な趣味をした者同士の馴れ合いじゃあないか」

 

「……………」

 

 …俺はチラリとタキオンを見て、そして左手に持つタキオンの脚を見た。

 

 そっ、とタキオンの脚をローファーに戻し立ち上がる。

 

「ふくくくっ。気付いたようだね」

 

「…他意は無いぞ」

 

「知ってるさ」

 

 タキオンは形容するならば……面白い玩具を見つけた、みたいな悪どい笑顔を浮かべて俺を見上げた。

 

「君は私の事になると随分と盲目になるねぇ。見ていて面白い」

 

「…担当バに対して真剣に向き合っちゃいけないのか」

 

「いやぁ? 私はその心意気を好ましいとは思っているさ」

 

「なら、黙ってトレーナーの好意に預かるんだな」

 

「ああ、遠慮無く……。…しかし、よくあんな躊躇い無く跪けたねぇ。君は本当に頼んだら何でもしてくれそうだ。新薬の試作品ができたんだが、飲んでくれるだろう、モルモット君?」

 

「…飲まねぇからな。あんまふざけた事抜かすともう弁当作ってあげないぞ」

 

「あーあー……わかったわかった。だが人前では勘弁してくれたまえよ。私は既に変な奴だと周りから思われているし、それは事実だから何の問題も無いのだが……これ以上変な噂が流れるのは私の望む所じゃない」

 

 …どうだろうな。レースでタキオンに何かあろう物なら……。

 

「……善処するさ」

 

「そこは頷く所だろう? モルモットくぅん。まぁ、いいさ」

 

 タキオンは話は終わりだと言わんばかりに俺を視線から外し、机に措いてある弁当に目を向けた。

 

「ちゃんと役目を果たしてくれているようで安心したよぉ。さぁ、ここからは私の食事の時間だ。退出願おうか、モルモット君」

 

 ピシッ、とタキオンは人差し指で扉の方を指差した。

 

 ……肝心な事をまだ聞き終わってないぞ、タキオン。

 

「……で。脚は大丈夫なのか?」

 

 俺は最後にこれだけ答えろ、と言うニュアンスでタキオンの方を向かずに問う。

 

「…このまま帰る雰囲気だったろう?」

 

「いいや? 俺は帰るとは言ってないぞ」

 

「なあなあでは済ましてくれないようだねぇ…」

 

 タキオンの眉が下がり少々困っている顔が想像できた。

 

「あれはただ脚の調子を確認していただけさ。深い意味は無い」

 

「本当か?」

 

「ああ。別に変な事じゃないだろう? 自分の脚を確認することは。私の脚のコンディションを言えば、今とても安定している」

 

「…そう見えてるだけかもしれないぞ。なぁタキオン、ここは」

 

「大事を取れと?」

 

「…ああ」

 

「…皐月賞に、ダービーに……三冠を目指せると焚き付けたのは誰だったかな」

 

「………焚き付けたのは俺だ。だけどそれとこれとは」

 

「酷い男だねぇ、君ぃ。今更それは無いだろう。私だってウマ娘だ。走りに掛ける情熱の一つや二つはある。君はそれに火を着けてしまったんだよ」

 

 トン、トン、トン、トン、とタキオンの指が机へと打ち付けられる。

 

「脚に問題は無い。ダービーも走り切れるさ」

 

「………わかった」

 

 …タキオンの意思は硬いみたいだな。確かに…タキオンの言う通りにもある。俺が、わざわざ引き摺り出して…あの舞台に立たせようとしたんだから。タキオンはそれに乗った。

 

 だが。

 

 あんな顔見せられた以上、可能性と言うのは潰して置きたい。

 

「だけど保健室には掛かって貰うからな」

 

「……わかったよ、それで納得するんだろう?」

 

「ああ」

 

「なら、今夜にでも確認しに行くとしよう」

 

「じゃあ、トレーニング終わりに________」

 

 

 

 この時間の会話はこれで終わり…タキオンは約束通りトレーニング後、トレーナー室に訪ねてきて…共に保健室へと向かった。

 保健室での診断結果は異常無し。

 

 …タキオンはそれ見たことか、と俺を見ていた。

 まぁ…保健室での診断も問題無かったのなら、多分大丈夫だろう。

 

 後、俺にできることは……タキオンの勝利を信じる事だけ、だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タキオンは危な気無く日本ダービーを制した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……日本ダービーから、数日後。タキオンは一向にトレーニング場へ現れなかった。

 ダービーの疲れを癒やすために、数日間の休みの後再びトレーニングに戻る手筈にしようと二人で話し合ったのだが。

 

 タキオンが何の連絡も無くトレーニングをすっぽかす事はこれまでもたくさんあったが……さすがに、連絡も無く数日間経過すると心配になってしまう。

 俺は…タキオンが棲み着いているであろう研究室へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 研究室へと近付くに連れて、あの独特な匂いが鼻を……。

 

 いや。

 

 薬品の匂いがいつもより強烈な気が…。

 

 …………。

 

 何やら、嫌な予感がした。脚が、速くなる。急速に、扉が眼の前へと迫り…。

 …俺はノックすらせず、研究室の扉を開いた。

 

 

 

 

 

「ああ、トレーナー君」

 

 

 

 

 

「タキオン」

 

 何かの薬液が溢れる、試験管を右手に。タキオンは机に上半身を預けていた。瞳は…いつもより暗い。

 

「タキオン、大丈夫か」

 

「…………」

 

 タキオンの瞳が俺を捉える。…それ以上、タキオンは何も語らない。

 

「タキオン、タキオン」

 

 俺はタキオンの背後へと回り、その肩を掴んで体を擦る。…タキオンの体は力は無く俺の腕に合わせてグラグラと揺れ…。

 

 まるで死体のようだった。

 

「タキオン、どこか痛いのか。大丈夫か」

 

「……トレーナー君」

 

「うん」

 

「左脚首を、見てくれないか」

 

「左脚首だな」

 

 タキオンの声は掠れていた。居ても立っても居られず、その場に両膝を着いてタキオンの左脚を持ち上げ、脚首に右手を添える。

 

 ………熱い。

 

「…動かないんだ。左脚首が」

 

 ……炎症? いや…ただの炎症で関節が動かなくなる事は無い。

 この熱の籠もり方……屈腱………。

 

 頭を横に振る。タキオンに限ってそんなはずは。そんな確率を引いたと言うのか?

 保健室での診断だって出ていた。だから…。

 

「タキオン……今すぐ、病院に行くぞ」

 

「……………」

 

 タキオンの頭がコクリと小さく動く。

 俺は立ち上がり、タキオンの両脇に手を入れ持ち上げ、背中に背負うと…自分でも驚くような速さで学園を走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …タキオンは屈腱炎と診断された。嫌な予感が当たって…しまった。

 

 ダービー直後の控室では、嬉しそうに俺に軽口を叩いていたのに。……屈腱炎。治らない訳ではない。完治した事例は……数十件はあるだろう。しかしこれは数年、数ヶ月の内。現役時代に治った事例の数字ではない。

 

 診断記録が残され始めた時点での、トータルの数字だ。

 

 タキオンは…そのトータルに入れるか?

 

 無理矢理にでも、ダービー出走を止めれば良かったのか? 俺は。

 

「………………」

 

「………………」

 

 病室に二人。タキオンは……じっ、と。患者ベッドの上で…包帯に包まれた、自身の左脚首を…見ていた。




 雰囲気は重く重く。

 次回、堕ちるタキオン。


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アグネスタキオン.1

 すいません、すいませんでしたぁぁぁぁぁ!


 タキオンの屈腱炎が判明してから、一日が経過した。俺は学園にタキオンに起きた事の旨を伝え、昨日からずっとタキオンに付きっきりである。

 パイプ椅子に座りながらの睡眠は首に来たな…。

 

 肝心のタキオンは……ベッドの上でずっとぐったりだ。時折、患部の調子を確認するように左脚を揺らしたりしている。

 

 …屈腱炎は骨折のように、歩行困難になる程の重大な後遺症をもたらす訳ではない。だが、骨折のように療養すれば治ると言う訳でもない。

 

 ウマ娘にとってはまだ回復する見込みのある骨折の方がありがたいのかもしれないな。

 屈腱炎は…ゆっくりと、靭帯、筋、筋肉を蝕んで行くのだ。それは患部の発熱や痛みと言う形で現れる。…療養をすれば、その発熱や痛みは沈静化していくが、最悪な事にそれは高確率で再発する。

 完治したように見えても、再び走ればまた発熱し痛みが伴う。この治りの悪さが…ウマ娘の全盛期を奪い、ウマ娘のキャリアを殺す。

 脚部限定の癌のような物だ。気付いたら、もう手遅れだった。

 

 最もウマ娘を殺した病が、屈腱炎だろう。

 

 数日、長くて数週間すればタキオンは痛みを伴えど歩けるようにはなる。病院にいる時間はそう長くない。

 問題は治療期間。短くて数ヶ月。長くて数年は要するはずだ。

 

 まず確実に菊花賞は諦めなければならない。タキオンには悪いが。

 ……菊花賞以後は?

 どうなっているかはわからない。俺は屈腱炎から数ヶ月で復帰したというウマ娘の話を知らない。そして復帰後に、元の走りができる保証も無い。

 

 問題は山積みだな。あれを考えればそれ、それを考えればあれ。

 

 俺はタキオンのためにリンゴの皮をを剥きながら、果物ナイフを睨み付けて。

 

 その時、ふと。鏡のように光を反射する果物ナイフに、俺の顔が映った。

 

「………………」

 

 

 

 可愛気のねぇ奴。

 

 

 

 ナイフの俺……いや、お前か? ソレの目は何処か酷薄な印象を持たせる。

 お前は俺を責めているのか?

 

 

 

 ダービーの出走までに、止めるチャンスはあった。お前が止めていたら、お前が考えを貫き通していたら、今頃大事にはなっていなかった。

 

 

 

 タキオンを見殺しにしたのは俺だ。

 タキオンを見殺しにしたのはお前だ。

 

 ああ、そうとも言えるな。

 

 なら…俺はどうすれば良かったんだ? タキオンの夢ではなく、選手生命を優先すべきだったのか?

 

 俺は………。

 

「モルモット君」

 

 ________約数十時間振りの、タキオンの肉声に俺は現世へと意識を引き摺り出された。

 

 タキオンのいるベッドに目を向ければ、ノイズ掛かったテレビのような模様の浮かぶ、独特な模様を浮かばせる瞳が俺を出迎える。

 

 いつもより…そのノイズは激しく見えた。

 

「…調子、どうだ」

 

「悪いねぇ。言わなくてもわかるだろう?」

 

「…………」

 

「…よもや私とは、ね」

 

「…お前を出走させるべきじゃなかった。俺は…」

 

「誰のせいでも無いよ……モルモット君。あの時どうして止めてくれなかった、なんて事を言うつもりは無い。私はそれなりに利口だからね。君が何を考えているか位はわかる」

 

「……………」

 

「だが、強いて悪者を探すなら、屈腱炎と…この脚さ」

 

 タキオンは恨めしそうに左脚を睨みつけ、ボス、と殴り付けるように。毛布越しから左脚を叩いた。

 

「止めとけ…」

 

「…………」

 

 ギリリッ、と。タキオンの歯軋りが病室に響く。

 

「……果てを見ようとした私への罰かもねぇ、コレは。何処かの誰かは太陽を目指した罰として焼かれたらしいしねぇ?」

 

 患部辺りの毛布を、タキオンは力一杯に握り付ける。そのまま千切ってしまいそうだ。

 

 …やはり、タキオンもウマ娘か。普段からキャラではないと飄々と振る舞ってはいたが…悔しくて、死にそうなのだろう。

 

「……トレーナー君」

 

「?」

 

「菊花賞までに間に合うと思うかい」

 

 タキオンの首は…まるで振り子のように力無く動き、顔が俺に向けられた。

 

 …間に合うか、か。

 

 間に合わないだろうな。

 

「………タキオ」

 

「間に合わないだろうね」

 

「………」

 

 俺はタキオンを見ずに、頷いた。

 

「三冠。ウマ娘なら、誰もが一度は夢に見る。その三冠が…見える所にまで来ていたと言うに」

 

「二冠は達成できた」

 

「二冠か。確かに聞こえの良い肩書ではある。だがね、トレーナー君。二冠は三冠じゃないんだよ」

 

 タキオンの言葉の切れ目は…随分と、掠れていた。

 

 タキオンは三冠でなければ意味が無いと言いたいのだろう。確かにその通りである。クラシック期での三冠は大きな意味があるのだから。名誉と言うか、実力の証明と言うか、ファンへの恩返しと言うか。

 

 ……ここまで憔悴したタキオンは、見たことが無い。

 …何とか……してやれないな。今は…。

 

「タキオン。ほら、リンゴだぞ」

 

 今はただ時が過ぎるのを待て。それが俺の頭が出した結論だ。心の中にある物、と言うか。それは時間でしか干渉できないだろう。こういう状態の人間には、基本的にこうしろああしろとか言わない方がいい。何かアクションがあればそれに真面目に反応して、そっとしておいてあげるのが1番だ。

 

 俺は急いでリンゴを一口サイズにまで切り分け、その一欠片にフォークを刺し、それをタキオンの口にに向かい差し出す。

 

「今は何も考えなくていい」

 

 タキオンの眉間に皺が寄る。何も考えるな、だと? と目が俺に訴えかけているようだった。

 俺はそれを受け流すように、流し目で対応して見せて。

 

「……君は…酷いトレーナーだね。わざわざ楽な道を提示するとは」

 

「今俺らに何ができる?」

 

「……………」

 

 いつものタキオンならば、もっともらしい理由を…と言うかその通りの理由を見つけてすぐ切り返してくるのだが……今回は、何度か口をパクつかせて……答えに窮しているようだ。

 

 そして…。

 

「ぁ……」

 

 タキオンは受け入れるように、小さく口を開いた。

 

 俺はそこ目掛けてリンゴの欠片を突っ込み、唇が閉じられたのを確認すると…。

 

「んぐっ」

 

 しゅぽっ、とフォークを引き抜いた。

 

「…………」

 

 不服そうではあるが、もごもごとタキオンの口が動く。

 

「……………」

 

「それでいい。今は休んで、そっからリハビリなり何なりするんだから。そして回復したら、また走れば」

 

「…ふ、は…はははっ」

 

 タキオンはリンゴを飲み込むと、右手で口を押さえておかしそうに笑い始めた。

 

「……タキオン?」

 

「君は本当によく私に尽くしてくれるねぇ。もう回復後の事について考えているのかい?」

 

「…何だよ。そりゃ…俺はお前のトレーナーなんだから」

 

「本当に君は…甘いと言うか、優しいと言うか」

 

「俺は別に…」

 

「…トレーナー君。一昨年及び去年及び今年の屈腱炎完治者の名を言ってご覧」

 

「…………」

 

「いないだろう? 君ならどういう事かわかるはずだよ。もう、アグネスタキオンの価値は決まったようなものさ。ほぼ終わったよ、わた」

 

「言うな」

 

 短く、遮る。

 …タキオンは困ったような表情を浮かべ、俺から視線を外した。

 そして俺の顔が見えない事をいいことに…。

 

「…治る怪我ならば私もここまで言わない。君、次の宛を探しておきたまえよ」

 

「何言ってんだ」

 

「走れないウマ娘の管理なんて、金にはならないのだから。この仕事はボランティアじゃないんだ。……君の腕ならすぐ引き継ぎもできるだろう。私は干上がって行く君を見たくは」

 

「黙れよ」

 

 我慢できなかった。俺はタキオンのベッドに右手を付いて、身を乗り出す。

 タキオンは驚いたように、こちらへ体を向けた。

 

「そんなのはわかってる。そういう問題じゃないんだよ。担当が怪我したら、同意があるなら手続きすりゃすぐに他に乗り換える事ができるのは俺だって知ってる。だがな、人間が人間に対してそんな薄情になってたまるか」

 

 …そして、屈腱炎になればほぼ詰みであることも、知っている。それが理由になるかは別問題だとして。

 

「……………」

 

「お前は黙って俺に世話されてろ」

 

 捲し立てるようにタキオンに吐き切れば…タキオンは、何処か諦めたような。そして何処か嬉しそうな表情を浮かべた。

 

 

 

「君はよくそこまで人に入れ込めるねぇ……はぁ…」

 

 

 

「あ?」

 

 

 

「そこまで言うのなら。私について最後まで…責任を取って貰おうか」

 

 

 

「……ああ」

 

 

 

「…ほら、リンゴを食べさせておくれ」

 

 

 

 俺は…タキオンに言われるがまま、リンゴをその口へと運んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……俺はこの時に間違えてしまったのか。それともタキオンに間違えさせてしまったのか。

 

 少なくともここで…お互いに道を踏み外した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

「トレーナー君」

 

 2週間程経過して、タキオンの不法占拠する教室にて。俺は各新聞社のメールへの返信やウマ娘達の情報の整理、学園の情報の整理を行っていた。

 トレーニングのないトレーナーの仕事はこういう膨大な雑務である。

 

「トレーナーくーん」

 

 タキオンは無事に……いや、無事ではないが、退院することができた。もちろん病院からの指示は絶対安静。

 

「トレーナーくぅーん。私の世話をしてくれるんじゃなかったのかーい」

 

 絡みつくようなドロっとした声が耳に木霊する。しつこいな本当に……。

 今になって後悔……はしないけども。

 

「…俺は確かに責任を全うすると言ったが、お前の食事事情まで管理するとは」

 

「おっとぉ、男に二言は無いだろう? 私は一応重症者なんだ。優しくしてくれたまえよ」

 

 トントン、トントン、とタキオンが机を指で叩く音がする。

 嫌々、振り向いて見れば…机を一つ挟んで、相変わらず何を考えているのかもわからない含み笑いを浮かべたタキオンが俺を見据えていた。そのタキオンのいる机の上には俺の作った弁当が置かれており。

 

「なぁタキオン、いくらなんでも俺を頼り過ぎだ。飯位一人で食えるだろ」

 

「あーー、体に力が入らなくてねぇ。スプーンもフォークも箸も持てそうにないよぉ」

 

「…今だけだからな、タキオン」

 

 ……まぁ、口ではこう言うが…今のタキオンの望みを聞かない訳にも行かず。俺は仕方なく、仕事をしていた机から離れてタキオンの対面の席へと移動し。

 

「ほら、食べろ」

 

 箸を手に取り、鯖の煮付けをそれで切り分け白米に乗せ、白米ごと鯖の煮付けを掬い上げてタキオンの口へ運ぶ。

 

「あー」

 

 自然な流れでタキオンは口を小さく開き…そこへ箸を突っ込んだ。

 

「んむ」

 

 タキオンが口を閉じたタイミングで箸を引き抜く。

 

「はぁ……本当に。俺は何だ? ドえらいもんレベル100か?」

 

「ハム…モグ……いいじゃないか。お似合いだよ、トレーナー君」

 

「……………」

 

 病院での一件以降、タキオンは酷く無気力と化していた。怪我以前からも、好きな分野以外にはずっと無気力無関心だったが…確実に悪化している。

 タキオンの興味関心は基本的には走る事関連だが、今その走る事が奪われている状態のため…精神的に参っていることだろう。

 一応、授業等にはしっかり参加しているけども。

 

 タキオンが最近やっていることと言えば、専ら薬品の調合だ。多分、屈腱炎治癒のための物。効果は…今だ無し。むしろ薬品のせいで余計に体調を崩す事が増えた。その度に、俺が世話をしてあげている訳だが…。

 

 後は、俺や友達と話をするくらいか。

 

「あー…」

 

 餌を求める雛のように、タキオンがだらしない声を漏らしながらまた口を開いた。

 

 本当に……こいつは。いや…結局求める通りにしてしまう俺も俺だけど。

 

 このような調子で、タキオンの口に弁当を運び続け…。

 

「ごちそうさま。美味しかったよ、トレーナー君」

 

「…おう」

 

 ……そう言えば。タキオンには他にももう一つ変化があった。

 

 比較的素直になったことだ。屈腱炎になるまでは俺による介護はされて当然、みたいな態度を取っていたが……今ではお礼を言ってくれるようになった。

 

 どういう心境の変化なんだ?

 

 変に、聞く気も無いが……屈腱炎を境にこうも変わってしまうと、色々勘繰ってしまう。

 

 …とにかく。食べさせる物も食べさせたので、俺はカタカタと弁当箱を一つに重ねて、ランチマットで包み回収した。

 

 俺が弁当を手提げにちょうどしまい終わった時。

 

「……君の作る弁当はいつまで食べられるんだろうね」

 

「突然、何だよ」

 

 手提げへと消えた弁当を見てか、タキオンが何とも言えない質問をしてきた。

 タキオンの方を向いて見れば……ちょっと心配になる無表情であった。

 

「いやぁ。ただ気になっただけだよ」

 

 ……俺がいつまでタキオンの弁当を作るのか、か。

 普通に考えればタキオンが引退するまで、だが。

 

「…そりゃ、タキオンが引退するまでじゃないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       「引退までか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 首筋を舌で舐められたような気がした。

 

 今のは…タキオンの声なのか?

 

「そうだろうね。そうだろうとも」

 

 ガタンッ、とタキオンは上半身を叩き付けるように机へと伏せ、頭のみをこちらへ向けた。

 

「君の存在も、最終的には無くなってしまうんだ」

 

「何、言って」

 

「トレーナー君」

 

 タキオンは……右腕を壊れた機械のように痙攣させながら、俺へ向けて伸ばす。

 

「手を、見せてくれないかい」

 

「はあ…?」

 

 異様だ。何だよ、これ。

 

 タキオンに手を差し出すなんて、別になんてことないだろうが。なのに何故手を差し出せない?

 

 小さい頃、何の躊躇いもなく触れていた昆虫が、大人になって見れば恐ろしい物に見えるような。そんな感覚だ。

 

「…………」

 

 手を差し出すのに時間が掛かれば掛かる程、目の前にいるタキオンが恐ろしい何かのように思えてくる。

 

 数秒か、数十秒か。その位の時間、体を硬直させた後…俺はタキオンに向かって右手を差し出した。

 

「もっと近付いて」

 

「っ」

 

 有無を言わさぬ剣幕。俺は恐怖心からか、それとも使命感からか、言われるがままに一歩、二歩タキオンに向かい接近して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タキオンの右腕が蛇のように波打ち、俺の右手を掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!?」

 

 そのままグイィ、と引っ張られ、俺の体は机へと倒れ込み……タキオンと机の上で向き合う形になってしまった。

 

「タキ、オン?」

 

「………………」

 

 タキオンのノイズ掛かった瞳が目の前にある。

 

「俗な言い方をすれば、大事な物は失ってから初めて気付くらしい」

 

 ギョロ、ギョロ、とタキオンの目が俺の瞳を覗き込んだ。

 

 蛇に睨まれた蛙とはこういうことか。

 

「君がそうなのかい?」

 

「知らない、知らないぞそんなこと」

 

「教えてくれないか、トレーナー君」

 

「俺にもわからねぇよ、離せ、離せ」

 

「ああでも」 

 

 ぎゅうぅぅうぅぅ、とタキオンの指が俺の指に絡み付く。

 

「今、私は君の手を離したくないと思っている。つまりは」

 

「さっきから何言ってんだよ。落ち着いてくれよ」

 

「私は至って冷静さ…トレーナー君」

 

「どこが…! いいから、離せ、って…!」

 

「……………」

 

 タキオンがどう判断したのかはわからない。普段のタキオンならばいいからいいからと事を押し進める場面だが…しかし俺の拒絶のせいか、タキオンは眉を下げた後、名残惜しそうに、そっと右手を開放してくれた。

 

「っはぁ…」

 

 俺は右手を押さえながら、飛び去るように机から離れて。…右手は未だに生温い。

 

「…あんまり、驚かせるなよ」

 

「……………」

 

 残念、と言わんばかりに、タキオンは上半身を軟体動物のように動かして、椅子に座り直す。

 

「……弁当、今日もすまなかったね。もう、今日はいいよ」

 

「…ああ」

 

 一連の出来事の締め括りにしては、あまりにも呆気ない。

 タキオンは今日はこれで終わりだ、と言う雰囲気を醸し出しているため、これ以上何か聞く事は叶わないだろう。

 

「では、ね」

 

 タキオンが顎で扉を指し示す。

 

「…………じゃあな」

 

 俺は立ち上がり、手提げを回収して扉へと向かい…取っ手に左手を添えた所で、一度振り返る。

 

「……………」

 

 風邪引くなよ、と言うべきか。早く寝ろよ、と言うべきか。ちゃんと食べろよ、と言うべきか。

 

 俺は…結局何も言い出せないまま、タキオンの研究室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉を閉め切る瞬間。

 

 

 

「君、許してくれたまえよ。…いや。君ならきっと許してくれるよね。モルモット君」

 

 

 

 タキオンの声がした。それはまるでこれから起こる事への懺悔のようで。

 

 

 

 今のを、風の音にする余裕は…俺には無かった。




 次回、土砂降り。


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