TS娘の美しき理想の遊戯 (Haseyan)
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第一章 遊戯の終焉
第一話 楽しい楽しいMMO日和


TSとファンタジーバトルをマシマシで
一章終わりまで毎日18時に投稿させていただきます。


 ──世界には強度というものがある。

 

 小さく不安定な世界はやがて、大きく安定した世界に呑み込まれる。呑み込んだ世界もまた、更に強大な世界によって征服される。

 例えスケールが宇宙規模になろうとも、この世は弱肉強食の定めから逃れられないのだ。

 

 そんな世界の一つを高次の存在が覗き込んでいた。大した価値もない弱い世界。不安定で今にも内側から崩壊しそうな世界だ。けれど、そこの住民には特別な知恵と足掻く気概があった。

 弱き世界が強き世界に──青い惑星の人類に指を伸ばす。より安定した魂を簒奪するべく。この弱肉強食の理の中で存続するべく。

 

 その悪あがきを、“奴ら”は嘲笑っていた。

 

 ☆ ☆

 

「ごめん、遅れた! すぐにログインする!」

 

 慌ただしく手元を操作しながら、ヘッドセットのマイクに向けて叫ぶ。男子大学生の義元 真雪は通話中の友人たちに向けて謝罪しながら、とあるオンラインゲームを起動していた。

 PCのディスプレイに見慣れたタイトルロゴが表示される。

 

『Drain Universe Online』。海外を中心に展開され、ゲーマたちの間でたびたび話題に上がるMMORPGだ。PvPに主軸を置かれたオンラインゲームであり、ゲーム内の土地を奪い合う集団での対人戦闘を楽しめるタイトルである。

 全世界共通のサーバーが用いられているために人口は他のMMOに追従を許さず、トップクラスの陣営同士の戦争では八千人ものプレイヤーが一堂に会して大攻防を繰り広げたと、ゲーム内外問わずにちょっとしたニュースになったこともあった。

 

 それだけ聞くと殺伐としたゲームに聞こえるかもしれないが、これはあくまでプレイヤーに全てが委ねられている所謂『未開拓地』での話だ。NPCの国なども存在し、その領土内ではPKにペナルティが設けられるなど安全なエリアも存在する。

 事実、真雪が今晩に友人たちと挑むコンテンツは、対人とは無縁のものだった。

 

 ゲームの読み込みが終わり、キャラクターセレクトの画面に移る。高水準に鍛え上げた黒衣の剣士と、ある程度で成長が止まっている白髪の少女。前者は厨二病全開で、後者は些か趣味を詰め込み過ぎたが、真雪自身は気に入っていた。

 今回選ぶのはメインの操作キャラではない白髪の少女の方だ。アバターの名前はルミ。気合を入れるようにディスプレイの中のルミが拳を掲げると画面が暗転して。

 ロードが終わり、広大な森のマップが映し出された。

 

『お、来た来た』

 

『こんばんはでーす』

 

 ヘッドセットから男性と女性の声が鼓膜を揺さぶる。そして、ゲーム内でも大剣を背負った青年と、長い杖を握るとんがり帽子の少女が、真雪のアバターに近づいてきていた。

 青年の方がライアン。少女の方がルーシー。ゲーム内で知り合い、共に活動することも多い友人たちだ。

 

「ごめん、卒研の準備がちょっと遅れちゃって」

 

『遅刻つっても一分だけだぞ。気にするなって。ゲームのためにリアルを崩すのは論外だしな』

 

『そうですよ。私も約束破っちゃったことありますし』

 

 優しい言葉に画面の前で頬を緩めた。実際に会ったこともない真柄だが、些細な問題だ。こうして会話しているだけでも彼らの善性は感じ取れる。

 

『にしても……ブライさん、そういう女の子が好きなんですね?』

 

 ブライとは、真雪のメインのアバター──今回は選ばなかった黒衣の剣士の名前だ。彼らも真雪を呼ぶときはその名前を使っている。

 

 どういう意味かわからず首を傾げ、すぐに自身が操作する“ルミ”のことだと気が付いた。背中に届く長い白髪に、大きな瑠璃色の瞳。整った鼻筋と正に男性の理想を追求したような姿は、当然ながら真雪が作り上げたものだ。

 通話先のルーシーから、くすくすと意地悪な笑みが聞こえてくる気がした。

 

「べ、別にいいじゃんっ。男なんだからこういう子が好きですよーだ」

 

『拗ねないでくださいよー。まあ、私も倉庫キャラは理想詰め込んだイケメンだから、人のこと言えませんけど』

 

『ははっ、たまにネタに走るやつもいるけど……基本、自分の分身に嫌いな要素は入れないだろうからな』

 

「ライアンさんはどうなのさ」

 

『俺か? 見てわかるだろ。このかっちょいい細マッチョを!』

 

 プレイヤーの言葉に合わせて、ゲーム上の“ライアン”が大剣を掲げて見せる。なるほど、確かにこれも一つの男性の理想像だろう。明るくさっぱりとしたライアンらしいと納得させられた。

 

『それより、ぱっぱと始めるか。ブライは準備できてるか?』

 

「もちろん。しっかりと用意してあるよ」

 

 インベントリを覗けば、持ち運び重量の大部分を占めているアイテムが確認できる。これがわざわざ、サブアカウントの“ルミ”でログインした理由だ。このアバターはこの特殊なアイテムを使用するために特化してある。

 そうでもしなければ扱えないような代物なのだ。しかし、わざわざ一からアバターを育成し直すだけの価値はあった。

 

『……緊張してきました』

 

『大丈夫、大丈夫。適正レベルは超えてるし、準備もしっかりしてきた。それに最悪、ブライだけ逃げればやり直しも効くからな』

 

「責任重大だなぁ」

 

 口ではそう言いつつも、真雪はディスプレイの前で笑っていた。ゲーマー足るもの、高難易度コンテンツは緊張しつつも全力で楽しむものだ。

 三人のアバターで森の広場にぽっかりと空いた、『空間の裂け目』を囲む。

 

『よし、行こうぜ』

 

 ライアンの言葉と共にゲーム画面が暗転した。

 

 ☆ ☆

 

 緑の生い茂る平原にて。大量の魔物が三人のアバター目掛けて雪崩れ込んでくる。その多くはゴブリンやオークと言った亜人族のモブ──つまりは雑魚敵だ。しかし、その数の暴力はちょっとしたレベル差など覆すほどの脅威だった。

 その群れを一人で食い止めているライアンに向けて、真雪はルミを操作してひたすらに治療魔法を連打する。

 

『やばいやばい、体力の減りとエフェクトの数がやばい! PCフリーズしないかこれ!?』

 

「画質設定下げてなかったの!?」

 

『完全に忘れてた!』

 

 仮に通話が途切れたら即座に撤退しよう。ライアンが動かなくなれば即座に戦況は崩壊する。真雪は心の中で固く誓った。

 

『こ、これ本当に終わるんですか……?』

 

「際限なく湧くわけじゃないし……とにかくルーシーさんは範囲魔法を連打!」

 

 ルーシーの不安も尤もな光景だった。画面のほとんどが敵で埋め尽くされているのだ。最早、何が起きているのかわからない。前衛のライアンは敵のターゲットを集め。後衛のルーシーはひたすらに攻撃魔法を打ちまくり。そして、やることの少ない“ルミ”はなけなしのMPで治療魔法を投げ続ける。

 凄まじい速度でHPとMPのゲージが増減を繰り返すのは、回復薬も同時に飲み続けている証拠だ。これがゲームでなければ薬漬けどころでは済まないだろう。

 

『やべっ……!? ネームドが抜けた!』

 

「何とかしてみるけど……」

 

 ライアンの傍を通り抜け、赤字で表記された魔物がルーシーと“ルミ”に迫ってくる。稀に出現する強化された魔物だ。確率は低いはずだが、これほどの群れならば数匹紛れ込んでいても不思議ではない。

 

「僕のキャラじゃ一発、耐えられるかどうかだよ!」

 

 いくら強化されているとはいえ、元が低レベルの魔物だ。メインアカウントの“ブライ”ならば容易に倒すことができるだろう。しかし、真雪が現在操作しているのは戦闘にあまり向かない“ルミ”だ。

 可能な限り戦闘技能にもステータスを振っているが、本当に最低限の戦力でしかない。

 

 だからとにかく回避に専念する。そのうえでライアンへの援護も続けないといけない。指を限界まで行使し、分身である“ルミ”を動かし続ける。

 

 一発攻撃が直撃すれば失敗だ。“ルミ”が倒されてしまえば計画は頓挫し、アイテムを用意するために再び数か月の金策が必要になる。

 回避して回避して、全ての攻撃を捌き続けて──

 

『ナイスっ! よく耐えた!!』

 

 気が付けば、画面を埋め尽くしていたはずの魔物がほとんどいなくなっていた。余裕のできたライアンが踵を返し、か弱い“ルミ”に張り付いていたオークを大剣で叩き潰す。

 ほっと息をつく暇もない。やがて第二陣が現れる。その前に終わらせなければならない。

 

『加速かけました!』

 

 ルーシーの魔法によって移動速度を上げた三人は広大な平原の中心部に走る。マップを見れば夥しい量の赤い点が迫ってきていた。あれが第二陣だ。回復薬もMPも消耗したままでは、今度こそ対応しきれないだろう。

 

「早く、早く……!」

 

 平原の中心で、真雪はインベントリから例のアイテム──『空間強度安定化魔法陣』を選択して使用した。アバターの少女が道具を準備し始め、完了までの時間を示すゲージが表示される。

 遅々として終わらない作業。これでも最速になるまでスキルを取得しているはずなのに。

 

 ライアンとルーシーが魔物の大軍勢に向き合う。“ルミ”は少しでも攻撃を喰らえば作業を中止してしまう。そうしたらもう、間に合わない。真雪にできることは画面の前で祈ることだけだ。

 

「……っ!」

 

 オークの一匹が弓を射る。それはライアンの横を通り過ぎ、ルーシーの咄嗟の防御魔法も追いつかず、“ルミ”に真っすぐ肉薄して──

 

【小宇宙の従属が完了しました。所有権をギルドマスターの『ライアン』に付与します】

 

 作業の完了を示すシステムメッセージで塗りつぶされるように、矢は寸前で消滅した。

 

 ☆ ☆

 

「お、終わった……っ」

 

 思わず溢れ出した言葉に肩の力が抜ける。あれほどの大軍勢は綺麗さっぱりいなくなっており、膨大な数のアイテムドロップだけがその名残だ。

 どこか非現実的な気分に陥り、このエリアが三人のギルドの領土となっていることを何度も何度も見直す。

 

『よっしゃああぁ! これで俺たちもギルドハウス持ちだ!!』

 

『やりましたね!』

 

 友人たちの歓喜の声を聴いてようやく、達成感が湧き上がってきて。

 

「や、やった!」

 

 真雪も遅れて声を張り上げた。正真正銘、このエリア──小宇宙と呼ばれるワールドマップとは隔離された空間は真雪たちの所有物となった。自分たちのギルドハウスを設立するのも、やたらと充実したインテリアで飾り付けるのも自由というわけだ。

 

『Drain Universe Online』はプレイヤー同士の領土戦を主軸にしたMMORPGである。しかし、多くのプレイヤーが好き勝手に領地を持ってしまっては、いくら広大なワールドマップがあろうと、溢れるプレイヤーが大勢生まれるだろう。

 それを解決するのが、この小宇宙と呼ばれる空間だった。

 

 ワールドマップには無作為に空間に裂け目が生成され、その内部には様々な環境の小宇宙が生成される。通常であれば一定時間で消滅してしまう、ただのダンジョンだ。

 しかし、真雪たちがそうしたように、『空間強度安定化魔法陣』を使用することで、半永久的に維持することができた。それこそが、多くのプレイヤーが自分たちの拠点を設置する領土の正体だ。

 

 独立し、ランダムに生成されるがゆえに、土地に制限はない。ワールドマップにあるのは人間一人程度しかない『空間の裂け目』だけだ。このシステムのおかげで全てのプレイヤーが自身の領地を持つ余地が生まれている。

 

 もちろん、領地であるが故に他のプレイヤーに強奪される危険性はある。しかし、真雪たちは敢えて移動に不便な辺境の小宇宙を攻略した。わざわざ襲撃してまで奪われる可能性はかなり低いだろう。

 平原ベースの小宇宙では入手できる素材なども少ない。だが少人数のギルドなら、それでも十分すぎる。領地を持つのはこのゲームで最初の目標なのだから。

 

『早速、ギルドハウスの設定をしてみましょうよ! 模様替えとかしてみたいです!』

 

『やるか! このための資金も用意してあるし……プレビューするからどれがいいか見ていこうぜ』

 

 言うや否や、平原の中心に大きな屋敷が出現する。内部には入れない虚構だが、雰囲気を確認することはできるだろう。そうやって盛り上がる二人につられて真雪も笑う。

 明日は土曜日。三人とも休日だ。夜が明けるまで領地の整備に費やされるのは言うまでもない。

 

「先にアカウント切り替えてきていい? ルミだと不便もあってさ」

 

『おっけー。じゃあ俺もトレイ行っておくかな』

 

『そうでぇ……ぇすうう、わ──ザザ』

 

 ルーシーの声にノイズが混じる。通話ソフトのエラーか。通信状況を確認しようと、ウィンドウをゲーム画面から切り替えようとして──気づいた。PCの操作が効かない。どれだけキーボードを叩こうとも、何も画面には反映されなかった。

 

「あーこれブルスクかなぁ……」

 

 PCが強制終了する予感がして、真雪はため息をついた。幸いなのは戦闘中でなかったことだろう。ゆっくりと再起動しても特に問題はない。

 その間に真雪もお手洗いに行こうとかと腰を上げ──

 

「……?」

 

 ──られなかった。足腰に力が入らない。どれだけ立とうとしても、真雪も身体は椅子に張り付いたように動かない。

 体調が悪かった、なんてこともない。時折徹夜することはあっても、真雪は極めて健康体の大学生だ。身体が麻痺して身動きが取れないなど、あまり考えられない。

 しばし待てば戻るだろうか。あまりに長時間、この異変が続くようなら救急車を呼ぶことも視野入れるべきか。

 そう考えながら机の上のスマートフォンに視線を向ける。それ以上のことができなかった。肩がピクリとも動かない。足だけではない。真雪の全身から自由が失われている。

 

 ──どうしよう。

 

 身体は動かない。声も出ない。恐らく、耳も聞こえていないし、鼻も働いていない。残っているのは、視界だけだ。その視界に映るのはディスプレイに映し出されたゲーム画面だけ。

 

 ──絶対におかしい。

 

 真雪は一人暮らしだ。このまま身動きが取れなくても、しばらく誰も気づかない。いよいよ命の危機を感じて、焦燥感に心が満たされた。

 

 ──だ、誰か。助け

 

 何もできないまま、遂には視界さえ暗く暗く染まっていく。それと共に意識も消えていって、

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 無人の部屋に転がるヘッドセットから、そんな声が響き渡った。

 



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第二話 破壊される世界

 何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。

 当然だ。だって今の真雪には瞳がない。耳がない。世界を認識する器官が何一つも存在していない。故に外部を知覚することができず、内部から出力することもできず。死者も同然の真っ暗闇。

 

 しかし。全ての五感が機能していないはずなのに、真雪は真っ黒な世界で自らの肉体を俯瞰して見ることができた。

 

 ──なに、これ。

 

 まるで幽体離脱だ。魂だけが肉体の外に追い出され、死にゆく自分を見ているようで。

 

 ──え。

 

 違う。比喩でもなんでもない。真雪の肉体が無数の粒子になって崩れていく。戻るべき肉体がなくなってしまえば、魂だけの真雪はどうなってしまうのだろうか。少なくとも、良い結末だけは想像できない。

 

 ──待って、止まって頼むから!

 

 しかし物理的な肉体のない真雪には、ただ自分自身が消失していくのを眺めることしかできなかった。分解されて、真雪の肉体だったものは塵の山へとあっという間に姿を変えていく。

 恐怖に震える肉体さえない真雪は、唖然とするほかなくて。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ──誰……っ!?

 

『その魂と肉体を糧に、我が支配下に下れ』

 

 何処からともなく響く声に存在しない肩を跳ね上げた直後。真雪だった塵の山が、微かに揺れた。

 逆再生のように塵が人の形を取っていく。顔が、首が、肩が、腕が、胴体が、足が。徐々に人間の姿が戻ってくる。

 

 その光景にほんの少しとはいえ胸を撫でおろす──なんてことはできなかった。確かに真雪の肉体を素材に、人間の身体が再構築されている。しかし、こんなに真雪は小柄ではない。中肉中背の男子大学生だ。

 対して、眼前の人型の身長はせいぜい百六十センチメートル程度しかない。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ──誰なんだ!? あなたがやってるなら僕の身体を戻してくれよ!

 

 大まかな形が定まり、塵がより完全な人間へと回帰する。真っ白で染み一つのない肌が初めに目につく。男性だった真雪より明らかに細い肩幅。胸のあたりは僅かに曲線を描いていて、腰のあたりで折れてしまいそうなほどに細くなる。

 長い手足はしなやかな筋肉によって引き締まり、そこに繋がる指は繊細で美しい。

 

 首から上には、小柄な肉体に相応しい頭が生成されていた。大きな瑠璃色の瞳とそれを飾る長いまつ毛。整った鼻筋と控えめな口元。そして可憐さを加える絹のような白色の髪。

 

 覚えがあった。ないはずがなかった。所詮はPCによって出力されたグラフィックと現実では違いも多い。しかし、真雪の肉体を素材に生まれた人間は間違いなく──

 

 ──ルミ……?

 

 真雪のゲーム上のアバターの一つである、ルミだった。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ただでさえ混乱している脳みそがいよいよもって処理の限界を迎える。意味がわからない。完全に真雪の思考は停止していた。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ──本当に、何が……?

 

“ルミ”の顔を覗き込む。ご丁寧に服までゲームの装備を再現されている。もっと良く調べようと近づいて。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ──あれ、なんで。

 

 おかしい。近づけるわけがない。真雪にできるのは正体不明の声を聞くことと、自らの肉体の変貌を眺めることだけだった。

 立ち止まろうとしても、当然止まれない。そうだ、真雪が自分の意思で覗き込んでいるのではない。強制的に真雪の魂が、ルミの肉体に吸い寄せられているのだ。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ──待って、ぶつか……っ!?

 

 拒否権なんてない。抵抗など以ての外。真雪という存在が、真雪を素材に作られたルミという少女に重なって。

 

 ──っ!?

 

 それは、自己の消失だった。真雪の意識だけを残して、全てが書き換わる。真雪が消える。真雪という男子大学生が、ルミという少女に置き換わる。

 

 ──ぁ……っ、ぐぁ……!

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ──嫌だ。助けてくれ。消えたくない。

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 悲鳴を上げたくても声すら出ない。全身の感覚が舞い戻る。ただし、それは別人のものだ。目も、耳も、何もかもが真雪ではない少女として再構築され──

 

『我が世界の、糧となれ』

 

 ☆ ☆

 

「……は、ぁッ!?」

 

 肉体の自由が戻ると同時に真雪は飛び起きた。呼吸が上手くできない。極度の精神的な心労だけが原因ではない。息を吸って吐くという単純な動作に、酷く違和感が伴っていた。

 酸素を吸い過ぎてえずいてしまう。吐きすぎて苦しさが増す。肺の容量が小さくなっていると悟るのには、随分と時間がかかった。

 

「はぁ、ぁ……っ、はぁ、はぁ」

 

 少しずつ少しずつ、ゆっくりと呼吸が整ってくる。酸素が供給され始めた脳みそが徐々に稼働を始めて、周囲の状況を確かめる余裕が生まれた。

 

 平原だ。人工物などほとんど見当たらない、大自然のど真ん中。空には満点の星空が広がっており、月明りが視界を確保している。そんな平原の中心で、真雪と他に青年と少女が同じように座り込んでいた。

 困惑した様子で周囲を見渡す少女と、自らの身体を見下ろして硬直している青年。日本人にも、友人の誰かにも見えないのに、その二人にはひどく見覚えがあった。

 

 少女と──友人の操っていたアバターのルーシーと瓜二つな少女と視線が絡む。

 

「……ルーシーさん?」

 

「えっと、もしかしてブライさんですか?」

 

「う、うん」

 

 何気なく口にした問いかけが鈴の鳴るような高音だったことに、真雪は内心で激しく動揺した。思い返すのは目が覚める前に見せつけられた不気味な夢。

 自分自身が素材にされ別の誰かを創り上げられる、あまりに冒涜的な光景だ。

 

 ──あれは本当に、夢だったのだろうか。

 

 半ば答えを確信しつつも、信じたくないという感情が、真雪に真実を確かめるように促していた。身体を見下ろす。これと言って特徴のない男性の肉体がそこには──なかった。

 代わりにワンピースを身にまとった小柄な肉体がある。真雪が右腕を上げれば、その肉体も右腕を上げ。胸元の布を内側から持ち上げている何かに触れれば、柔らかい脂肪の感触と、胸の膨らみを触られるという未知の感覚が同時に訪れる。

 

 太ももと太ももを擦り合わせても、その隙間に何かが挟まる気配はない。何気なしに触れた自らの頬も柔らかく、肌のきめ細かさが窺えて、信じがたい現実の理解を後押ししていた。

 

「あーあー……えっと、ルーシーさん」

 

「は、はい」

 

「僕、誰に見える?」

 

 何度聞いても、真雪の喉から飛び出る声は若い少女のものだ。

 その現実から眼を逸らし、藁にも縋る想いでルーシーに尋ねる。もしかしたら全てが幻覚の可能性だって──

 

「ルミ、さんです。ブライさんのサブキャラのルミちゃんが、生きて動いてます」

 

「……ありがと」

 

 振り絞るようにでも、礼を口にできたことを褒めてもらいたい。否定する材料なんてどこにも存在しない。

 真雪はルミというアバターの少女に変貌してしまっていた。

 

「僕、女の人になってる……? いやそもそもこの状況……ちょっと前に流行った異世界転生ってやつ? 現実でそんなことあり得るわけ……」

 

「実際に起きちまってるんだ。疑うわけにもいかねえだろ」

 

 青年のぶっきらぼうな声に振り返る。ライアンだ。生きた人間になったライアンが真雪の傍に歩いてくる。

 引き締まった肉体にそれを包む革製の鎧。黒い髪の毛は短く刈り上げられて、身の丈ほどの大剣を背負っている。或いはコスプレのように感じられたかもしれない格好も、彼には妙に似合っていた。

 

「ほら、立て」

 

「あ、ありがとう」

 

「ルーシーも。大丈夫か?」

 

「混乱はしてますけど……怪我とかは特にないです」

 

「なら良し」

 

 ライアンは真雪とルーシーに順番に手を貸し、立ち上がらせる。

 そんな彼を見て、真雪は自嘲した。どう考えても異常事態だがライアンは至って冷静だ。対して、真雪はどうだろう。肉体の変貌、もっと言えば男性から女性への性転換に錯乱しかけていただけだ。

 ライアンを見習って、この状況を正しく切り抜ける必要がある。

 

「んで、この状況なんだが……ゲームキャラの姿でゲームの世界に飛ばされた、なんてベタなシチュエーションだよな」

 

「……それ以外に説明できないと思う。信じられないけど」

 

「す、ステータスっ」

 

 ポツリと呟かれた言葉に男性陣──男性と元男性は意識をそちらに向けた。

 声の主はルーシーだ。金髪のお下げに魔法使いらしいローブを身に着けている彼女は、視線が集まっていることに気づくと、大きなとんがり帽子で赤くなる顔を隠した。

 

「ごめんなさい! 好きだった小説ではこう唱えると色々と表示されたんで……私たちの場合は違うみたいでしたが」

 

「いや何でも試してみるのは大事だろ。これでステータスなんてものは出てこないってわかったわけだ。……他に役立つ知識とかはないか? 俺はそっちのジャンルにあまり詳しくなくてよ」

 

「そ、そうですかね? それなら……」

 

 その場でできる“異世界転生あるある”を実践していく二人。ルーシーはそういった内容に詳しいようだし、真雪に手伝えることは少ないだろう。そう結論付け、真雪は足元を調べるためにしゃがみ込んだ。

 膝に当たる胸元の膨らみを務めて無視し、小さくなってしまった手で草をかき分ける。

 

「やっぱり……」

 

 想像通りだ。三人の立つ平原の中心部には、直径五メートルはある巨大な魔法陣が敷かれていた。転移の直前にゲーム内で設置した魔法陣は『空間強度安定化魔法陣』、ただ一つだ。それが現実となり巨大な紋章になったのだと推測する。

 それ以上の調査は憚られた。仮にこれがゲームの時と同様の効力を発揮しているのならば──魔法陣の破壊は致命的なことに繋がりかねない。下手に触れて機能不全に陥らせるわけにはいかないのだ。

 

「二人とも、あしも……」

 

 自分なりの発見を伝えようと真雪は再び立ち上がる。それと同時だった。凄まじい勢いで、三人の中心に何かが落下してきたのは。

 

「なんだ……!?」

 

 衝撃で舞った砂埃により落下物の正体を確かめるのが遅れた。それが、致命的だった。

 徐々に全貌が明らかになる。落下物は独りでに動いていた。否、脈動していた。むき出しになった贓物のように。

 

「……っ」

 

「ひ」

 

「ぅ……!」

 

 ライアンが息を呑み、ルーシーが短く悲鳴を上げ、真雪は吐き気に襲われた。

 シルエットだけならば、全長二メートルほどのサツマイモだ。ただその構成要素があまりに気味が悪い。その生き物は、まるで腐敗した肉塊のようだった。

 巨大な腐肉の集合体に、大小さまざまな目玉が無数に埋め込まれた化け物。それ以上の言及はできない。言語化してしまえば、今度こそ吐き気と怖気を抑えられない。

 

「なんだこいつ……生きてるのか……? こんな化け物、ゲームにもいなかったよな?」

 

 恐る恐る化け物を覗き込んだライアンが唖然と呟く。腐った肉の塊からはあろうことか、生命の気配を感じた。一つ一つの目玉が自由に視点を動かし、まるで三人の様子を窺っているようで。

 

「いるわけない……! こんな気味の悪いやつ、ゲームだったとしても忘れるわけがな──」

 

 真雪の言葉は、最後まで二人に届くことはない。次々と鳴り響く落下音に遮られたからだ。雨あられのように降り注ぐ何か。目を凝らし、気づく。気づいてしまう。

 それらは微妙な個体差があるものの、全てが最初の個体と同じ化け物だった。

 

「やだ……助けて、お母さん……!!」

 

「俺から離れるなッ! ブライお前も、うおっ!?」

 

「ライアンさん!!」

 

 ライアンの元へ駆け寄ろうとした真雪は、眼前に着弾した物体によって足を止めざるを得なかった。激しい砂埃で周囲の状況が把握できない。

 煙幕の向こう側で、人間大の影がのっそりと身を起こした。ライアンかルーシーだろうか。しかし、人間にしては妙に丸っこいような──

 

「うわ……っ!?」

 

 風を切る音。何かが横合いから迫ってきていると理解した途端に、真雪の身体は、ルミという少女の身体は、恐怖から尻餅をついた。頭上を何かが通り過ぎる。

 地面に座り込んだまま、真雪は唖然と影を見上げた。二転三転する異常事態に、真雪の脳みそはとっくに許容量を超えている。何が何だかわからないまま、思考が凍結していた。

 

 ぐちゃり、ぐちゃり、と生理的嫌悪感を引き起こす音が近づいてくる。砂埃の中から姿を現したのは果たして──自立する、先ほどの化け物だった。

 足も手もない。腐肉の塊と埋め込まれた目玉以外には何も備え付けていない。なのに、その化け物は自らの力で飛び跳ねるように歩行していた。

 

 歩行して真雪の眼前に辿り着くと、身体を仰け反らせる。

 

「──ぅぁっ」

 

 回避できたのは、偶然だろう。化け物が自らの肉体を叩きつけてくる直前、真雪は右に向けて身体を転がした。地面の草が盛大にぶちまけられ、すぐ傍に腐った肉が見える。きっと元の男性の身体ならば、体格の違いで肩か何かが巻き込まれていた。

 今だけは小柄な身体になってしまったことを感謝する。

 

「クソッたれ!! ブライ、どこだ!? すぐに逃げ──」

 

「助けて、やだ、やだ……っ」

 

「こっちだよ! ライアンさん! ルーシーさん! どこに!?」

 

 何処からかライアンの叫びと、ルーシーの泣き声が響いている。けれど、探している余裕なんてなかった。立ち込める砂埃の中で、無数の化け物が暴れ回っていた。急いで立ち上がって走るが、安全な場所なんて見当たらない。

 怖い。怖くて怖くて仕方がない。だがそれ以上に、孤独への恐怖が真雪の足を動かしていた。影の隙間を縫って、とにかく平原を駆ける。ライアンたちと合流するか、せめて化け物たちの群れから離れなくてはならない。

 

「わっ!?」

 

 何もないはずの場所で足がもつれ、視界一杯に草地が広がる。下手に受け身を取った右腕が痛んだ。身体は大きく変化してしまったせいで、歩幅や地面からの距離が上手く読めなかった。

 ただ走るだけの動作が上手く行えない。そしてそれは、この地獄では致命的だ。

 

「……ぁ」

 

『縺ゥ縺?☆繧具シ』

 

『蛟偵◎縺』

 

『邨碁ィ灘?、縺」縺ヲ繧?▽縺?』

 

 倒れた真雪を、化け物が囲んでいた。不協和音にしか聞こえない鳴き声を発し、無数の目玉が真雪を見下ろしている。

 

「ひぃ……こ、来ないでよ! 近づかないで!?」

 

 足腰に力が入らない。腕の力だけで身体を引きずっても、移動できる距離はたかが知れている。少女の情けない悲鳴が自らの口から溢れても、それを気にする余裕などあるわけがなかった。

 

『蛟偵◎縺』

 

『縺昴l縺後ご繝シ繝?縺?繧ゅs』

 

『荳也阜繧貞」翫☆遶カ莠峨□縺九i』

 

 あっという間に逃げ場はなくなった。取り囲む化け物たちが一斉に身体を仰け反らせる。身体を叩きつけるという実に原始的な攻撃。しかし、これだけの数に殴られれば、無事で済むはずがない。

 

「誰か、助け──」

 

 真雪にできたのは、涙の浮かぶ瞼を閉ざし、身を固くすることだけ。振りかざされた暴力が目前に迫って。

 

 ──何かが割れる音が鳴り響く。

 

 直後、襲い掛かってきたのは痛みではなく、不気味な浮遊感だった。

 



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第三話 孤独を救う騎士

 不気味な鳴き声も、友人の悲鳴も、何もかもが消え失せる。化け物たちの気配だって、感じられない。

 来るべき衝撃もまた何時まで経っても襲ってこず、困惑しながらゆっくりと真雪は頭を上げた。

 

「ほ、ほんとに……どうなってるのさ……?」

 

 見たことがない景色──月明りに照らされた夜の森だ。

 原因も何も不明だが、一瞬にして別の場所へと飛ばされてしまったことは間違いない。質の悪い夢のようだ。これが一晩限りの悪夢であれば、どれほど良かっただろう。

 

「身体だって、戻ってないしっ」

 

 思い至って身体の様子を確かめるが、やはり少女の、ルミのままだ。二度目の転移で男子大学生の姿を取り戻す、なんてことはない。ただ見知らぬ土地に放り出され、独りぼっちにされただけだった。

 

「ライアンさん! ルーシーさん! 誰か、誰かいない!?」

 

 そう、独りぼっちだ。いくら呼びかけても友人たちが返事をしてくれるわけでもない。

 更に言えば、ゲームの中だと推測できた先ほどまでの小宇宙の平原と異なり、この森には全く見覚えがなかった。現実の世界でも、ゲームの中でも、真雪はこのような場所を訪れたことはない。

 結果的に、あの化け物たちから逃れることができた。しかし、その理由さえわからず、友人とは離れ離れになり、未知の森で遭難状態だ。相変わらず、状況は絶望的だった。

 

「誰か! 誰でもいいから返事して!!」

 

 手元にあるものは、真雪のサブアカウントのアバターであるルミそっくりの少女の肉体。彼女が身に着けていたワンピース。そして量産品の片手剣だけだ。当然ながら食料も水もない。

 不安に襲われ、真雪は声を張り上げながら歩き出した。とにかく人と会いたい。そんな衝動に駆られたのは、これが初めてだった。

 これが正解かはわからない。けれど、立ち止まっていては精神が持たない。少しでも歩いて、気持ちを誤魔化さなければ、何もできなくなる自信が真雪にはあった。

 

「な、なに……!?」

 

 がさりと、近くから音が聞こえた。自分の口から出た、あまりに男らしさに欠けた悲鳴にさえ気づかず、真雪は音の方向を見つめる。何かがいる。人間だろうか。或いはあの化け物だろうか。

 期待と不安を半々にそちらへと近づいていき──

 

「……おい」

 

「う、うわぁぁあぁあ!?」

 

 低い男性の声に、真雪はすっころんだ。ひっくり返るようにして、盛大に背中から大地へと衝突する。

 

「ご、ごめんなさい……! 殺さないでください!!」

 

「お、おい! 静かにしろ! あまり夜の森で騒ぐもんじゃない!」

 

 慌てて駆け寄ってきた人影が、真雪の口を抑える。人間だ。真雪と年の近い黒髪の青年だ。

 見覚えのない姿だったが、敵意は感じない。何よりもまともに会話の通じる人間だった。

 

「いいか? この辺りに悪魔が出るって情報がある。あまり騒ぐと寄ってくるかもしれない。だから、静かにしろ」

 

「……っ。わ、わかった」

 

「ならいい。いきなり抑え込んで悪かったな」

 

 適当に切り揃えられた黒髪に鋭い目つき。使い古された外套の下には、鍛え上げられ引き締まった筋肉がある。身体が大きく見えるのは、それ以上に真雪が小柄になってしまっているからだろうか。

 声の低さと射抜くような視線。それらが合わさって威圧的な印象を受けたが、悪人ではないだろう。それは、この短いやり取りでも何となく察することができた。安堵が湧き上がってくる。全身から不必要な力が抜けていく。

 

「にしても、こんなところで何をしてるんだ? 女子供が歩いてていい場所じゃない。同業者じゃ……なさそうだしな」

 

 真雪が腰に下げている剣を、青年は怪訝そうな顔色で見定めようとする。しかし考えたところで答えは出なかったのだろう。すぐに表情を切り替えると手を差し出してきた。

 

「ほら立て。最寄りの集落まで送ってやる」

 

「ありがとう。ただちょっと……」

 

「どうした?」

 

「腰が抜けちゃったみたいで……」

 

 目を伏せながら小さく呟く。本当に情けない。転移直後の時もだが、この異常事態に真雪はまるで対応できていないらしい。

 人間と出会えた安心感で緊張が解けたのか、下半身にまるで力が入らないのだ。

 

 頭上から仕方なさげに息をつく音が鼓膜を揺らす。呆れられているのだろうか。もう良い年だというのに、人様の迷惑になってばかりだった。恥ずかしくて顔が熱くなる。

 

「まあ、仕方ない。代わりに一晩の野営ぐらい我慢はしろ」

 

「え、えっと……?」

 

「ここで夜明けを待つんだ。火を起こすから、獣が寄ってこないか見ててくれ」

 

 困惑する真雪を横目に、青年は周囲の木の枝と背中の荷物から取り出した草で、器用に火を起こし始めた。警戒しろとは口にしたが、彼自身も油断なく周囲に視線を飛ばしている。

 あっという間に火種が生まれるのを見る限り、かなり手馴れているようだった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 徐々に火種が大きな炎へと変わっていく。邪魔をしていいのかもわからず、気まずい沈黙が流れ出した。特にできることもなく、真雪は周囲の警戒を見様見真似で続けるしかない。

 

「俺はアベル。開拓者をやってる。あんたは?」

 

「へ?」

 

「名前だ。言いたくないなら言わなくてもいい」

 

 愛想の欠片もない会話の振り方だ。しかし、それは不器用な彼なりの気遣いだと真雪は判断した。

 

「僕は、真雪で……す?」

 

「マユキ? 変わった名前だ──」

 

「いや、ブライかも」

 

「……男の名前じゃないか?」

 

「うそっ! ルミ、かな?」

 

 なんと名乗れば良いのかわからず、支離滅裂な言動になってしまった。

 義元 真雪が本名とはいえ、今の身体は元の姿とはかけ離れてしまっている。ならばゲーム内で使っていたブライを名乗ろうにも、それはメインアカウントの男性名だ。小柄な少女の肉体にはそぐわない。

 だからと言って、男だった真雪が女性の可愛らしい名前を自称するのは、些か抵抗があった。

 

「ああ、わかった。名乗りたくないんだな。それは構わないが、なんて呼べばいいかぐらいは教えてくれ。ずっとあんた呼びじゃ面倒だ」

 

「い、いや違うんだって! ちょっと名前がわからなくて……」

 

「記憶が、混濁してるのか?」

 

「そういうわけではないんだけど」

 

「……つまり何なんだ。あんたは」

 

 苛立ちが青年の声に混じる。無理もないが混乱しているのは本当なのだ。真雪だって非常に困っている。

 

「逆になんて呼ぶべきだと思う?」

 

「なんだそれ……? まあそれなら、ルミって呼ばせてもらう。一番しっくりくるからな」

 

 素っ頓狂な会話を終え、真雪の名前はルミということで落ち着いてしまった。こっそりと足の間に手を突っ込んでみるが、やはり男であることは確認できない。気が付いたら元の身体に戻っているなんてことはない。

 身体を少女にされ、名前まで少女のものを名乗ってしまった。段々と本来の自分から遠ざかってしまっている気がする。早く元の身体に、男に戻りたい。

 

「それで、アベルさんだっけ?」

 

「アベルでいい」

 

「じゃあアベル。ここってどこ?」

 

 今の真雪──ルミは自分自身に起きたことも、ここがどこなのかも、何もわからない。行動を起こすにしても、現在地の把握は急務だった。

 尤も、地名を聞いたところで全くわからない土地の可能性もあったが。

 

「ザリアモール王国の西部。王都から五日歩いた場所にある森林地帯だ」

 

「ザリアモール……」

 

 幸いにもルミはその都市名を知っている。『Drain Universe Online』に存在したNPC国家の名前だ。ゲーム内では最も治安が良く、ひとたびPK──プレイヤーが他のプレイヤーを害する行為──を起こせばNPCの治安維持部隊に地の果てまで追いかけられる国だった。

 他の国ではすぐに退散すれば逃げ切れたり、大陸北部のNPCが介入してこない無開拓地域ではそもそも警察部隊が存在しなかったりする。つまりザリアモール王国は、ゲーム上で最もPKへのペナルティが高く、PvPが発生しづらい初心者向けの地域でもあった。

 

 兎にも角にも、ゲームの地名が現実となっている。やはりこの世界は『Drain Universe Online』に酷似した異世界なのだ。とはいえ、未だゲームを遊んでいるとは思わない。化け物に襲われて感じた恐怖も、目の前の優しい青年も、どちらも作り物には到底見えないのだから。

 

「まだ平和な国で良かったよ。帝国とか、無開拓地域だったらやばかった」

 

「若い女性が一人でうろついてたらな。野獣に喰われるか、人売りに捕まるかだ」

 

「そ、それは嫌だなぁ」

 

「怖いって思うなら二度とこんな真似はするなよ。どういう事情かは知らないが、外を出歩くなら護衛を雇え。最近は王領ですらきな臭い噂が多いからな」

 

 鋭く乱雑な言葉で、アベルは忠告を投げかけてくる。そんな彼を見ていると、急に笑いがこみ上げてきた。

 

「あ、はははっ!」

 

「なんだよ?」

 

「いや本当に、最初に出会ったのは君で良かったよ」

 

 アベルほど見た目や言動で損している人間は見たことがない。言葉の一つ一つに気遣いが感じられるというのに、無愛想な態度や声のせいで全て相殺されている。

 不要な苦労をしてきたのは、想像に難くなかった。

 

「ちっ」

 

「ごめんって。それより、きな臭い噂って?」

 

「……ああ。さっきも言っただろ。悪魔が出るんだよ」

 

「悪魔?」

 

 首をかしげる。ゲームの中では、悪魔なんて種族は存在しなかった。そっくりな世界であっても、細かな差異は存在しているのだろうか。別に不思議ではない。生物が意思を持って活動している世界が、ゲームと全く同様のはずがないのだから。

 

「それってどんな奴なの?」

 

「わからない」

 

「え?」

 

「獣でも魔物でも、悪趣味な盗賊の類でもない。だからわからない。“悪魔”ってのは既存の生物にカテゴライズできない存在の総称だ。転移魔法の事故に伴って出現したり……まあ、色々と謎が多い」

 

 正体不明の怪物。とてもこの世に存在して良いとは思えない、冒涜的な化け物。それを便宜上、悪魔と呼んでいるのだと、アベルは語る。

 判断に困る情報だった。だが、一つだけ心当たりはある。気味の悪い化け物。その一点でしかないが、それだけでルミたちを襲撃してきた目玉の化け物と姿が重なる。

 あれこそが、悪魔だったのではないだろうか。

 

「その悪魔って、腐った肉の塊に目をたくさんくっつけた、みたいな?」

 

「無数の目玉を携えた化け物、って話は聞くな。まさか悪魔に会ったのか?」

 

 アベルの目の色が変わる。そんな彼に物怖じせず、ルミは頷いた。

 

「た、たぶん。友達と一緒に話してたら、急に大量の化け物に襲われて……」

 

「それは、どこだ?」

 

「えっと……小宇宙って言って伝わる?」

 

「ああ、伝わる。開拓者ってのは小宇宙の情報を売る仕事だからな。けど……くそっ、そういうことか」

 

 悪態を付きだす青年にルミは眉をひそめた。アベルはそんなルミの内心をくみ取って、丁寧に説明を始める。

 

「別荘とか採掘場に使われてる小宇宙は、空間固定の魔法陣で存在を維持してるのは知ってるか?」

 

「う、うん。それなら」

 

 その辺りはゲームと同じようだ。一定時間で自然消滅してしまうランダム生成のダンジョン──それが小宇宙だ。ギルドハウスなどはその小宇宙の自然消滅を止める魔法陣を用意し、そのうえで建造する。

 正しくルミたちが転移直前に攻略したあの平原──あの小宇宙もそのようにしてギルドの領地にしていた。

 

「なら早い。その魔法陣が停止すれば小宇宙は崩壊するんだ。たぶんルミは、その崩壊に巻き込まれた。悪魔に襲われて気が付いたら森の中だったんだろ?」

 

「……そうだ。うんっ! そうだった!」

 

「やっぱりな。小宇宙が消滅すると、中にいた生物は元の世界に退去させられる。けど、どこに飛ばされるかは完全に運だ。最悪、水中とか地下の空洞に出るって話も聞く」

 

「その場合って……」

 

「そこから這い出た体験談なんて聞いたことがない。つまりは、そういうことなんだろう」

 

 ゾッとする話だ。夜の森で遭難するよりも、もっと悪い状況だってあり得たと。こうして親切な人間に出会えたのはよっぽどの幸運だったのだと、今更になって実感させられた。

 同時に別の不安も積み重なっていく。

 

「ライアンさんとルーシーさん……友達も一緒にいたんだ! もしかして二人もどこかで!?」

 

「……祈るしかない。さっき言ったのは本当に最悪の話だ。退去した直後にそのまま即死なんてことは滅多にない」

 

 慰めの言葉も耳に入らなかった。友人たちの安否が気になって仕方がない。今も見知らぬ土地で彷徨っている可能性は十二分にあるのだ。当然ながら“最悪”だって、否定しきれなかった。

 

「それより、自分の心配をしろ」

 

「僕はまだいいよ! アベルのおかげで状況は把握できた! でも二人は──」

 

「考えても仕方がないんだ。それよりな、ルミ。小宇宙に別荘を持てるのなんて金持ちだけだ。加えて、咄嗟に偽名を出そうとした。──あんた、どこかの令嬢か?」

 

「へ……? い、いやそんなわけ……」

 

「別に悪さをするつもりはないから誤魔化さなくていい。ただ、王国以外の貴族だと面倒ごとになる……知ってるだろ? 王国と帝国は国交断絶中だし、共和国ともあまり関係が良くない」

 

「だから本当に違うって!」

 

「貴族でないにしろ、裕福な家の生まれのはずだ。……盗賊とかは金の匂いに敏感だからな。慎重に立ち回らないと家に帰れなくなる。だから、自分の心配をしろ」

 

「僕はごく普通の庶民の生まれだよ!!」

 

 本人の言葉を無視して、勝手に仮定を広げていくアベル。どれほど否定しても、嘘だと判断されてしまい、聞く耳を持ってはくれない。いくら叫んでも無駄らしい。そう悟ると無性に眠たくなってきた。

 

「見張りはやるから、ちゃんと休んでおけ。集落まで結構な距離を歩くからな」

 

「はいはい、任せますよー……」

 

 彼の中で、ルミは良いところのお嬢様だと決めつけているのだろう。完全に庇護対象として見られている。ろくにサバイバル知識もないとはいえ、ルミは本来なら成人した男性だ。何から何まで世話されてなくても、問題ないのに。

 男としての自尊心。それが僅かに傷つくのを感じながらも、ルミは横になる。一から説明するには、身体と心に溜まった疲労が大きすぎた。今晩ばかりはお言葉に甘えて、休むことにする。

 

 初めての野宿はあまり快適とは言えない。それでも、ルミはやがて夢の世界へと旅立っていった。

 

 ☆ ☆

 

「……本当に寝たな、この子」

 

 白髪の少女ルミを保護したアベルは、すやすやと眠る彼女に呆れていた。いくら親切に接したとはいえ、初対面の男の前で無防備に眠るのは問題だろう。

 よっぽどの世間知らずか。或いは襲われるならとっくに襲われていると判断したのか。尤も、そう冷静に判断できるほど、場慣れしているようには到底見えなかったが。

 

「確かに貴族って感じじゃない。なら、商人の娘ってところか」

 

 貴族でなかったしても、見知らぬ土地で若い女性が孤立しているのは非常に危険だ。盗賊や人売りからしてみれば、絶好のカモだろう。

 身代金目当てに誘拐しても良し。奴隷として売り捌いても良し。もっと下衆な連中ならば、“使い捨て”にされるかもしれない。なんと言っても、ルミは相当な美人だ。年も恐らく十八かそこらと、若さと成熟さが同居している頃合いでもある。

 独りにしたら、ろくでもない未来が待っているのは、間違いなかった。

 

 確実に面倒ごとだろう。けれど、アベルの中にか弱い人間を見捨てるなんて選択肢は存在しなかった。ルミを家まで送り届ける。そうでなくとも、信頼できる人間に託す。

 焚き火に木の枝を投げ入れながら、アベルは静かに決心していた。

 



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第四話 異形の侵略者

 朝日が差し込み、眠気が少しずつ払われていく。ゆっくりと覚醒していく視界の中で、ルミは様々なものを見た。

 大自然を構成する緑色の木々。焚き火を踏みつぶし、何やら装備を点検している青年。そして白く小さな手を這っている、虫だ。

 

「う、わあぁぁぁぁあああっ!?」

 

 正しく状況を理解すると同時に、ルミは飛び起きながら腕を半狂乱で振り回した。宙を舞ってどこへ消えていく虫。それを見届けても、まだ肌に引っ付いている気がして、全身をくまなく点検する。

 小柄な身体。胸のあたりの膨らみ。丈の短いワンピース。どこからどう見ても、少女の肉体だ。

 

「なんで僕、女の子に!?」

 

「朝から騒がしいな」

 

 何処か吐き捨てるような声に顔を上げる。黒髪の青年アベルが、呆れたようにルミを見下ろしていた。

 それでようやく思い出す。ゲームに瓜二つな世界に迷い込んでしまったこと。その時、サブアカウントで使っていたルミという少女の身体になってしまったこと。そして、アベルに助けてもらったことを。

 

「そうだった……夢じゃないんだ……」

 

「寝ぼけてるのか? ほら、目覚まし代わりに食え」

 

「あ、ありがとう」

 

 木彫りの水筒と麻袋を手渡された。水筒には当然、水が保存されている。ならこちらは何だろうと麻袋を開くと、乾燥した肉のようなものが入っていた。

 

「干し肉だ。あまり質は良くないから水で流し込め」

 

「……実物は初めて見たなぁ」

 

「まずくてもちゃんと食えよ。途中で倒れられても困る」

 

 一体ルミを何だと思っているのか。非常事態で食べ物の味に文句をつけるほど我儘なつもりはない。思いっきり、齧り付いた。

 硬い。小さくなってしまった口では、噛み千切ることも難しい。水筒を脇に挟み、両手で干し肉をもって、全力で肉を引きちぎった。ゆっくりと咀嚼する。味が濃い。塩の味が酷い。

 だが、肉の旨味も確かにあり、決して食べられないわけではなかった。水を一気に煽る。

 

「あれ、アベルは食べないの?」

 

「俺は……さっき食った。気にせずに食え」

 

「ならいいんだけど」

 

 少しずつ噛み千切っては咀嚼を繰り返し、ルミは干し肉を平らげて見せた。

 

「ごちそうさま。何から何まで本当にありがとう」

 

「気にするな。じゃあ行くぞ。結構歩くからきつかったら言え。それと……」

 

 既にアベルは荷物の準備を終えており、ルミの荷物は服と片手剣が一本だけだ。腰のベルトに鞘ごと剣を取り付けようと四苦八苦していると、アベルが声をかけてくる。

 

「その剣、俺が持つか? 重いだろ」

 

「いや大丈夫、大丈夫。これぐらい……良し」

 

「……本当に大丈夫か?」

 

「大丈夫だって!」

 

 転移直後のように、しっかりと剣は腰に固定されている。激しく動いても落ちることはないだろう。何より、こんな状況だがワクワクした。剣は男の子の永遠のロマンである。

 見た目ほど重たくも感じないし、アベルの手を煩わせる必要はないだろう。

 

「なら今度こそ行くぞ」

 

 何処までも心配げなアベルと共に、ルミは人里を目指して森を歩き始めた。

 

 ☆ ☆

 

 想像以上に広大な森だ。あまりに移り変わりのない景色はルミを辟易とさせると同時に、本当に道があっているのか不安にさせてくる。だが、それに反してアベルは、手元の道具を度々確認しつつも、迷いなく足を運んでいた。

 ルミは彼を信じて、付いていく他ない。

 

「このペースなら昼過ぎには到着できそうだ」

 

「え、日暮れに間に合うかどうかって話じゃ?」

 

「ルミの体力が想像以上にあったからな。本当は何回も休憩を挟むつもりだったんだよ」

 

 肩越しに振り返りこちらを見るアベルは、純粋に驚いているようだった。

 指摘され、ルミ自身も首をかしげる。ルミは──真雪は、平均的な男子大学生だ。特別鍛えているわけではないが、引き篭もっているわけでもない。現代日本基準では平均でも、こうした森を歩くには不十分な体力しか持ち合わせてはいないだろう。

 なのに、未だルミは過度な疲れを感じていなかった。全く疲労がないわけではない。それでも、まだまだ余裕があるのが現状だ。

 

「無理はしてないな? そんな剣を持っての移動、一般人の女性には相当な重労働のはずだ」

 

「してないって。自分でも驚いてるけど、意外と平気」

 

「……そうか」

 

 腰に下げっぱなしの剣も重量感はあるが、さほど負担にはなっていない。心配してくれるのは助かるが、どれもアベルの杞憂だった。

 だが確かにゲームのアバターだったルミの姿を思い浮かべれば、とても体力があるようには見えないだろう。

 

 これは、あれか。異世界転移で定番のゲームの力をそのまま引き継いでいるとかいう、あれだろうか。

 

「フロスト……………………。なんちゃって」

 

 まさかと思い口にした単語は、空しく大自然に消えていった。当たり前か。魔法の名前を呟くだけで超常現象が発揮されるわけがない。

 今のルミは、“ルミ”の容姿だけを引き継いだ少女だ。最低限は上げていたゲーム内でのレベルなんて、ここでは何の意味も成さない。

 

「どうした?」

 

「い、いや何でもないっ!」

 

 小声のつもりだったのにアベルに聞かれたのか。急に恥ずかしくなってきて、ルミは必死に首を横に振った。

 そんな姿にアベルは眉をひそめるが、こちらの追求を拒絶する姿勢に気づいたのだろう。大きくため息をつく。

 

「話したくないならそれでいいけどな。もう少しは上手く隠せ」

 

「いや別に言っちゃダメなわけじゃないんだけどね? ただ説明が長引きそうだから……」

 

「まあ、話したくなったら話せば──待て」

 

 突如としてアベルの声に緊張感が混ざる。ルミは言われるがままに立ち止まると、身を固くした。野獣か、実在は半信半疑だが魔物の類だろうか。どちらにせよ、危険なのは間違いない。

 ここは手馴れている様子のアベルに任せよう。静かに彼の指示を待つ。

 

「おい、人間なら返事しろ。返事がないなら、今から攻撃する」

 

 そう言うや否や、アベルの右手が翠色に輝きだした。

 不可思議な現象に刮目すると同時に、ルミの頭の中には一つの解答が浮かび上がる。魔法だ。ゲームでは当たり前のように行使し、実在はしない創作上の技術。それが今、現実となって存在している。

 

「──はぁッ!」

 

 返事はない。アベルは右手を振るい、激しい風切り音が森に響き渡った。不可視の刃に植物のツタなどが切り裂かれていき──

 

「……ちっ、早いな」

 

 何かが、木の陰から飛び出した。人間よりも一回り大きい肉体。とても生物とは思えない腐った肉の集合体のような身体。何より無数の目玉が生理的な嫌悪感を呼び起こす。

 間違いない。ルミたちを襲撃し、散り散りにさせた原因。アベルが、悪魔と呼ぶ正体不明の化け物だ。

 

「アベル! 上だっ!」

 

「わかってる……!」

 

 一体、どういった手段を用いたのだろう。悪魔は木々よりも高い上空に飛び上がっており、アベル目掛けて真っすぐに特攻を始めていた。

 だが、アベルに緊張はあっても焦りはない。腰の剣を引き抜き、下段に構える。

 

「しっ!!」

 

 気合一閃。彼は悪魔の着弾地点を正確に見極めると飛び退き、逆に斬撃を合わせて見せた。両断には届かなくとも、悪魔の身体が半ばほどまで縦に切り裂かれる。

 真っ当な生物なら致命傷だ。しかし、アベルもルミも、それだけで悪魔が息絶えるとは思っていない。

 

 事実、毒々しい液体を傷口から流しながらも、悪魔は複数の瞳でアベルを見定めた。

 

「目が光って……!?」

 

「……っ!」

 

 次の行動に予測がつかず、様子見に徹していたアベルは、ルミの叫びを聞いてすぐさま悪魔を蹴り飛ばした。宙を舞った先で目玉が光り、あらぬ方向へと破壊がぶちまけられる。

 その余波で森の木々の一つが風穴を開けられ、ルミ目掛けて倒れてきた。

 

「う、うわあああああぁぁっ……!?」

 

 幸いにもゆっくりと倒れてきただけだ。悲鳴を上げつつも、どうにか安全圏へと逃れる。土埃が舞う中で見失ってしまったアベルと悪魔の姿を探して──

 

「あ、アベル!」

 

「俺は大丈夫だ」

 

 アベルは、地面に倒れて動かない悪魔を注意深く睨みつけていた。

 もう一度、剣で斬られたのか、悪魔の傷口は十字に変化している。おびただしい量の緑色の血が、大地を穢している。もう動く様子は、なかった。

 

「……死んだ、のか?」

 

「す、凄い! こんな化け物を倒せるなんて!」

 

 興奮冷めやらぬまま、アベルの元へ駆け寄った。悪魔は恐ろしい存在だったが、それ以上にアベルの動きが人間離れしていたのだ。上空から加速しつつ突っ込んでくる肉の塊を、普通なら迎え撃てるはずがない。

 しかし、事実としてアベルは成し遂げた。それはサブカルチャーの中にしか存在しないはずの、超常的な戦いだ。ゲーマーの一人として、興奮しないはずがない。

 悪魔の恐ろしさよりも、アベルの頼もしさと臨場感あふれれる光景への興奮が上回っていた。

 

「ルミ。あんたを襲ったのは、こいつか?」

 

「うん、間違いないと思う。あの時はもっと数がいたけど……こいつ、魔物とかじゃないんだよね?」

 

 尋ねつつも、答えはわかり切っていた。こんな化け物はゲームの時にも存在しなかったのだから。

 

「違う、はずだ。けど俺は別に、学者ってわけじゃないからな。断言はできない」

 

「でもこんな生き物は……」

 

「ああ。初めて見るし、聞いたこともない」

 

 この世界の住民であるアベルにとっても、やはり悪魔は特異な存在なのだ。

 彼はいっそ臆病なぐらいに、剣先で何度も悪魔を突き刺す。反応はない。そこまで確認してようやく、アベルは息をついた。

 そして剣を収めてしゃがみ込むと、小さなナイフを取り出して、悪魔の身体を切り裂き始めた。

 

「な、なにしてるの……!?」

 

「サンプルを持ち帰る。ギルドを通じて学者に売り渡せば、少しはこの悪魔の正体もわかるはずだ」

 

「うえぇ……」

 

 悪魔が解体されていく様子に、ルミは吐き気を催して眼を逸らした。

 

「ちょっと我慢してくれ。死体を丸ごと持ち帰るわけにもいかないだろ」

 

「そうかもだけど……」

 

「嫌なら他所を向いててくれ」

 

 言われて視線だけでなく顔ごと背ける。それでも尚、耳に届く不快な音に寒気が止まらない。明らかに普通の肉ではなかった。腐肉、という表現もルミの知識の中で、最も近い言葉を選んでるだけだ。

 きっとその本質は全く異なる何かなのだろう。やはり気味が悪い、では済まされない。存在そのものが許されない何かなのだ。

 

「待ってろ、すぐに……っ!?」

 

「うべっ!」

 

 突然、肩を強く押され、前のめりに倒れる。咄嗟に受け身は取ったが、盛大に土と草を味わう羽目になってしまった。

 急にアベルはどうしたというのだろうか。まさか今更になって凶悪な本性を現したのか。

 

「アベル!? 急に……え」

 

 身体を起こしつつ振り返って。目を見開いた。アベルが尻餅をついて、苦痛に表情を歪めている。彼の服の右袖は炭化して消失し、その下にある肌も焼き爛れていた。

 何が起きたのか、わからない。けれど、ルミを陥れるために押し倒したわけではないのは確実だった。

 

「だ、だいじょ──」

 

「来るなッ!!」

 

「……っ」

 

 無愛想ながらも優しく接してきていたアベルからは、信じられないほどに緊迫した叫びだ。殴り合いの喧嘩すらしたことがないルミは、思わず身を竦ませてしまう。それで、正解だったのかもしれない。

 

 ──上空から滑空するような軌道で、新たな腐肉の塊が飛び込んできたのだから。

 

「──ぐぁ」

 

「アベル!?」

 

 悪魔に突撃にアベルの身体が大地を転がる。木の幹に衝突してようやく、彼の身体は停止した。アベルに止められていなければ、あれを受けていたのはルミの方だ。ゾッとする。だが、安心なんてできるはずがない。

 恐らくは重傷を負っているアベルの元へ、急いで駆け寄っていく。

 

「く……っそ。なんだよ、それ。こいつら、飛べるのか……!?」

 

 倒れたアベルを見下ろすのは、あの悪魔だ。悪魔たちだ。三体もの悪魔が、浮遊しながらアベルを囲っている。囲みながら、不可解な言語を鳴らしている。

 嘲笑っていると感じるのは、気のせいではないはずだ。

 

『迢ゥ繧翫□迢ゥ繧翫□』

 

『豁サ繧薙□谿コ縺輔l縺』

 

『蠕ゥ隶舌&』

 

 悪魔たちはすぐに動かない。フワフワと浮かびながら、その大量の目玉でアベルを見つめている。今のうちに何か行動しなくてはならない。だが、一体ルミに何ができるのか。

 

「ちくしょう……しくじった……!」

 

 アベルは苦痛で表情を歪め、右手はまともに使えるのかすら定かではない。重症なのは素人目にも明らかだ。そんな彼を庇いつつ、三体の悪魔から逃げ果せなければならない。空を自由に飛べる悪魔たちから。

 

「逃げろ……っ。悪いが、俺一人じゃこいつらを……倒しきれない……。時間を稼ぐから、さっさと逃げろ……」

 

「で、でも……」

 

「でもじゃねえッ!! 動かないと本当にここで死ぬぞ!?」

 

 理性が、アベルが、逃げるべきだと叫んでいる。一人の犠牲で生き残れるのならば、間違いなく逃げるべきだ。

 それ以上に、まだ死にたくない。やりたいことがたくさん残っている。どうしてこんな世界に迷い込んでしまったのか。どうして“ルミ”になってしまったのか。何も知らないまま終わってしまうなんて、納得ができない。

 

 けれど、アベルを見殺しにすることだって、容易には受け入れられなかった。たった半日程度の関係で、友人とすら言えない間柄だ。だがルミを助けてくれた恩人だ。そんな優しい青年を置いていくことなんてできない。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 

 腰に下げた剣に、自然と手が動いていく。重量感は確かにある、本物の凶器だ。しかし、あまり重たいとは感じない。技術も何もなく振り回すだけなら可能だと、半ば確信できた。

 アベルのように、ゲームのアバターのように戦えなくとも構わない。ただ、この窮地を脱することさえできれば──

 

「ま、待て……ッ! ルミ、変な気狂いは……!?」

 

「気狂いかもしれない、けど」

 

 ルミは──真雪は臆病だ。誰よりも自分自身が理解している。今だって、膝から震えていた。正体不明の化け物を前に、怖くて怖くて仕方がない。

 しかし、それ以上に。目の前で誰かが死んだと、そう自覚するのが恐ろしかった。

 

「嫌だ、死んで欲しくない……!」

 

 剣を引き抜く。やはり負担はさほどない。長距離を歩いても、大した疲労のない身体だ。きっとゲームと全く同じ能力は再現できなくとも、純粋な身体能力だけなら“ルミ”の力を保持している。

 努力で手に入れた力ではない。これはただ、偶然手に入れただけの身体だ。だからどこまで動けるかもわからない。もしかしたら悪魔に一蹴にされて終わりかもしれない。

 

 それでも、今は自分のものであり、誰かを助けるために使えるのなら──この恐怖を押し殺すだけの価値は、あるはずだ。

 

「う、うぁあああああああ──ッ!!」

 

 ただ両手で剣を振り上げ、悪魔の一匹のその剣先を振り下ろす。こちらを脅威と認識していないのか、悪魔はルミに全く興味を示していない。どういうわけか、避ける様子は微塵もなくて──

 

『螢翫l縺溘%繧上l』

 

「ぅ、うっ……!」

 

 無防備な悪魔に剣が突き刺さった。浮遊する力も失われそのまま落下すると、剣によって大地へと縫い留められる。血液のような何かを吹き出しながら、悪魔は絶命した。

 

「やばっ、抜けない……!?」

 

 服や顔に体液が付着するが、気にしている余裕はなかった。それよりも剣が死体に引っかかり抜き取ることができない方が問題だ。どれほど力を入れても、解放されることはない。

 ふと視界に影が差した。ゆっくりと顔を上げる。

 

『谿コ縺輔l縺』

 

『莉イ髢捺ュサ繧薙□』

 

「ひぃ……! ごめんって、ちょっと待ってくんない!?」

 

 こちらに見向きもしなかった悪魔が、明確にルミを敵視していた。仲間が殺されれば、いくらなんでも無視はできないというわけだ。当然だろう。

 ただそれだけのことで身体は竦んでろくに動かなくなってしまった。一方的な攻撃で、相手が人ではない化け物だからこそ、ルミは殺すという選択ができただけなのだ。

 

 軽口を交えて少しでも冷静を装っても、自分の内面まで誤魔化すことはできない。悪魔の目玉が光り始めても、少女の身体は言うことを聞いてくれない。

 

 ──しかし、ルミが狙われるということは、もう一人の青年が自由になるというわけで。

 

「──馬鹿野郎」

 

『謳榊す』

 

 悪魔の背面が斬り裂かれる。あまり傷は深くない。殺すには足りない。けれどアベルは、左手一本で構えた剣を確かに悪魔に向けていた。

 

「どうして逃げなかった……!?」

 

 ルミへ悪態を付きながら、アベルと悪魔の一体は死闘を展開し始めた。自由に飛び回り上空から光の球を放つ悪魔を、アベルも魔法の風を起こし対応する。詠唱も何もなく自在に操る風で、どうにか悪魔を地面に叩き落そうと四苦八苦していた。

 彼はそちらで手がいっぱいだ。だから、最後の悪魔はルミがどうにかしないといけない。

 

「動け、動け……動かないと、死ぬっ!」

 

 冒涜的な化け物がルミを見据える。恐ろしくて呼吸が安定しない。窒息してしまいそうだ。先ほど倒した悪魔は本当に無防備だった。だから大きな虫を退治したのと、気持ちとしてはあまり変わらなかった。

 次は、違う。お互いがお互いを殺し得る者同士での、命の奪い合いだ。

 

 一歩間違えれば死ぬ。今更になって逃げられるかも怪しい。仮に逃げられても、怪我をしたアベルでは二体の悪魔を捌き切れずに殺される。戦うしかない。

 

「……っ」

 

『謾サ謦?&繧後◆蜿肴茶縺吶k?』

 

 すぐ傍で繰り広げられる戦いと裏腹に、ルミと悪魔は睨み合い続ける。緊張感でこちらが自滅するのを待っているのだろうか。何となく、違う気がする。どちらかと言えば、悪魔は困惑している。そう感じられた。

 いっそそのまま困っていてくれ。アベルがもう一体を倒してくれれば、二人がかりでどうにか──

 

『縺?>谿コ縺』

 

 そんな希望的観測が叶うはずもなく。悪魔はその腐った肉体で体当たりを仕掛けきた。浮遊する人間大サイズの腐肉が迫る。咄嗟に左へ跳ぶ。

 不快な腐臭が眼前を通り過ぎていった。それだけ攻撃は終わらない。空中で翻った悪魔はもう一度、突撃を開始した。

 

「落ち着け、大丈夫、避けられなくはないっ!」

 

 信じられないほどに身体が軽く、間接は柔軟だ。頭の中で思い描いたままに、身体が自由に動いてくれる。悪魔の知能が低いようで助かった。こんな単調な突進だけを繰り返してくれるのであれば、どうにか凌ぎ切れる。

 自信が付いてくる。余裕が生まれてくる。徐々に回避という行動を最適化していく。

 

『縺ィ縺九◎縺』

 

 しかし、延々とその拮抗を許してくれるほど、悪魔は生易しくはなかった。

 アベルが相手している悪魔と同じだ。地上から四メートルほどの位置に浮遊したまま、その目玉がルミを睨みつけ、輝く。

 

「……うぁ!?」

 

 とにかく走る。木の影を経由して、悪魔の視線から逃れようと足を動かす。数歩前までルミが立っていた位置が、次々と爆破されていった。

 転んだ瞬間にその爆発が直撃するだろう。アベルの右手を痛々しく焼き、使い物にならなくした一撃が。想像しただけでも泣きそうになってくる。苦しいに決まっている。その痛みに怯んでいる隙に、更に追撃を受けて全身が粉々にされるだろう。

 

 怖い。恐怖を原動力に必死に歯を食いしばって、森を駆け抜けていく。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

 

 呼吸が荒い。緊張のせいか、あれだけ余裕のあった体力が凄まじい速度で消耗していく。元の男子大学生の身体なら、とっくに力尽きていた。今だけはルミの身体になったことに感謝する。

 ちらりとアベルの方を一瞥した。彼の怪我は見るからに苦しそうで、どうにか悪魔と拮抗させているのが奇跡のように思える。助力は期待できないかもしれない。

 

『騾?£繧九↑』

 

 どうすれば良いのか。悪魔は軽く跳んだ程度では届かない位置に浮遊している。

 何かを投擲するか。無理だ。石を拾うために立ち止まれば、その瞬間に光の爆破に巻き込まれる。

 ならば、自力で悪魔にまでたどり着き、叩き落すしかない。

 

「は、ぁぁっ!! く、は……ぁ!」

 

 もう体力が持たない。心臓は張り裂けるほどに鼓動を続け、肺が懸命に酸素を取り込んでも尚、供給が追い付いていない。間もなく足が動かなくなる。悪魔に、爆殺される。

 やるしかない。できるのか、自問する。わからない。知るはずがない。この身体がどれだけの力を宿しているのか、成りたてのルミが把握しているわけがない。

 

 でも、やるしかないのだ。だって、こんなところで死にたくないのだから。

 

「う、うぁああああああ……っ!!」

 

 木の陰に隠れ、光が着弾すると同時に飛び出す。悲鳴のような雄たけびを上げて、ルミは悪魔に突貫した。一気に距離が詰まっていく。無数の目玉がルミを見据える。

 その中でもひと際大きな目玉が、光を収束させていって──

 

 ダメだ。間に合わない。正面から回避するしかない。

 

 見極めろ。できるはずだ。目を見開き、限界まで稼働する脳によって、眼前の光景を必死に処理する。──悪魔と、目が合った。

 

「──ぅ!!」

 

 咄嗟に頭を傾ける。光球が髪を掠めていったのはその直後だ。次の攻撃までラグはある。一気に踏み込み身体をバネのように曲げ、ルミは跳んだ。

 アスリートも顔負けの身体能力は、彼女を悪魔の高さにまで導いて見せた。悪魔は逃げない。驚いているのか、その場で浮いているだけ。

 

 恐怖に加えて嫌悪感も押し殺し、ルミはがむしゃらに拳を叩きつけた。

 

「あぁっ!? あああああああああぁぁぁ────」

 

 柔らかい何かに腕が突っ込み、ルミと悪魔は揉みくちゃになりながら地面に落下した。悪魔がクッションになったおかげで怪我はない。すぐに顔を上げる。

 目玉の一つを潰された悪魔がもがき苦しみながらも、残った目玉でルミを射抜いた。

 

「や、ば──っ」

 

 至近距離での光球の予備動作。今度は間に合わない。ルミにできたのは身を固くし、瞳を固く閉ざすことだけだった。

 せっかく美しく作られた少女の身体が、吹き飛ばされる。刹那──

 

「させるかよ」

 

『縺ヲ縲√※縺ヲ縺ヲ縺ヲ縺?>縺?>縺』

 

 青年の声、そして何かが肉を貫く音。来るべき衝撃が訪れず、ゆっくりと瞳を開けば。ボロボロになりながらも、悪魔に止めを刺したアベルがいた。

 悪魔は死んでいる。三体とも、全て。ルミとアベルによって屠られていた。

 

「うっ……!」

 

 安心感によって力が抜ける──それ以前に自らの身体の惨状に吐き気がこみ上げてきた。腕で悪魔の目玉を貫き、その体液を浴びた身体は凄まじい悪臭を放っている。

 どうにか腕を引っこ抜くと、すぐさま木の陰でうずくまった。

 

「お、おえぇ……」

 

 せっかく貰った朝食が流れ出ていく。気持ち悪い。本当に気持ち悪い。ただ汚いからだけではない。一歩間違えれば自分が死んでいた事実に、遅れて身体が動作不良を起こしていた。

 

「ごほ……っ、ぅあ……っ」

 

「……大丈夫か?」

 

「あまり、うぇ……大丈夫じゃ、ないかも……っ」

 

「集落まであと少しだからそれでも耐えてくれ。そしたら水浴びもできる」

 

「が、頑張る……。それより、アベルの方こそ……」

 

 大怪我だよね。そう続けるはずだった言葉は出てこなかった。振り返った先で、アベルの顔から表情が消え去っていたから。

 無愛想だとかそういう話ではない。完全に無なのだ。なのに、彼の瞳の奥には計り知れない怒りが浮かんでいる。湧き上がり続ける怒りを、激情を、どうにか抑え込んで無表情を装っている。それがきっと、アベルの表情の理由だ。

 

「ごめん……逃げろって言われたのに……」

 

「いや結果的に助かった。むしろ礼を言わせてくれ」

 

「え、でも……」

 

「話せるならもう歩けるか? 他に悪魔が潜んでるかもしれない。さっさと集落に向かいたい」

 

 逃げろと言われながらも戦ったのが、怒りの原因だと予想したのだが。どうにも違うらしい。だとすれば、彼の豹変の理由が推測できなかった。

 明らかに態度が冷たい。怪我をして余裕がなくなったというわけでもない。明確にルミを拒絶するような雰囲気を漂わせていた。あれほど、甲斐甲斐しく世話をしてくれていたはずの青年が、だ。

 

「あ、アベル? 本当にごめん。もうこんな無茶は……」

 

「大丈夫そうだな。行くぞ」

 

「え……ま、待ってよ!」

 

 背中を向けてアベルはさっさと歩き出してしまう。ルミにできたのは、そんな彼を懸命に追いかけることだけだった。

 



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第五話 慣れない身体

 集落が見えてくる。高度な文明は感じられない、長閑な田舎風景だ。それでもルミは、安堵の感情を抱かずにはいられなかった。

 悪魔は複数いる。野獣や魔物の類だって少ないながらも生息していると聞く。疲労と怪我で消耗した二人にとって、危険との遭遇は致命的であり、緊張が心を焦がしていた。

 

 それに加えて心労になっていたのは、アベルの態度だ。

 

「良かった、集落ってあそこだよねっ?」

 

「……そうだ」

 

「きっと薬か何かはあるし、早く治療してもらおう!」

 

「……ああ」

 

 会話が弾まない。否、会話が成立していない。悪魔との戦いを切り抜けてから、アベルはろくにルミの相手をしてくれはしなかった。怪我が苦しくて余裕がないわけでも、会話が苦手なわけでもない。

 それは明らかに、拒絶の姿勢だった。

 

 初めから嫌われていたり、害を成してくる存在であったりすれば、ルミだって何も思わなかっただろう。しかし、一日足らずとはいえ友好な関係を築けた相手だ。明確に突き放されれば、心に靄がかかるのは止められない。

 逃げろと言われたにも関わらず、悪魔に立ち向かったことが悪かったか。二人で揃って生存できたのは、結果論でしかない。犬死する確率の方が高かった。それがアベルの逆鱗に触れてしまったのかもしれない。

 

 だが、謝ろうにも会話の余地がなければ、頭を下げることさえ難しかった。晴れない気分に苛まれながら、集落への残りの道を踏破していく。

 

「……っ。君たち、どうしたんだ!? おーい! 怪我人だ! みんな来てくれ!!」

 

 集落は簡易的な木の柵で囲まれた、小さな里だった。やはりこの世界には危険が多いのか、見張りらしき男性が目を光らせている。彼はルミとアベルに気が付くと、大声を上げて住民たちを呼び出した。

 

「ひ、ひでえ火傷だ……っ! とりあえず水を持ってこい! 出来ればじっちゃんに頼んで氷も出してもらえ! あとは塗り薬だ!」

 

「何があった!? 魔物に襲われたにしても、火を噴くやつなんかこの辺りにはいないぞ」

 

「噂の悪魔だ。王都から討伐隊が派遣されるまで外出は控えた方がいい。村中に伝えるんだ」

 

「わ、わかった。けど、お前さんの手当てが先だ!」

 

 慌ただしく男性陣がアベルの治療のために走り出す。それを何となく眺めていると、ルミの元にも複数の女性が寄ってきていた。彼女らには妙な迫力があり、思わず一歩下がってしまう。

 

「まあ……!? 貴女も大丈夫? 怪我は?」

 

「け、怪我はないです。ただ……身体を洗いたくて……」

 

「そうよねっ! 水浴び場はこっちよ!」

 

 どうにも女性が逞しいのはどの世界でも共通らしい。三十後半程度に見える女性は、未知の液体に濡れたルミにもひるまず、手首を掴んで集落の奥へと引っ張っていく。

 あまりの勢いにルミはされるがままに従う他なかった。

 

「ほら、服とかは持ってきてあげるから、先に身体を流しておきなさい!」

 

「あの……ただお金とかなくて……」

 

「いいのよ! そんなこと今は気にしないで! 若い女の子が汚れたままの方が問題だわ!」

 

 アベルとも離れ離れになり、連れていかれたのは集落を流れる川だ。その一部分が木の板で囲われており、水浴び場として使われているようだった。

 その中にルミの身体は押し込まれて、

 

「足りないものがあったら言ってね!」

 

「え……っと」

 

 何か返事をする間もなく、扉が外側から閉じられた。

 彼女らなりの親切なのは間違いないが、少し強引過ぎないだろうか。何とも言えない気持ちになり、重々しくため息をついた。そうやって大きく呼吸をすると、自らが放つ異臭に鼻が曲がりそうになる。

 集落への道のりがそれなりにあり、徐々に嗅覚が麻痺していたこと。命の危機に晒されていたこと。それらが合わさって意識が逸れていたが、今のルミの格好は大惨事だ。

 真っ当な感性を持っているのならば、すぐさま身を清めなくてはならない。

 

「すごい綺麗な水だなぁ」

 

 川で直接水浴びするという、随分と原始的な方法だったが、水は透き通るように綺麗だった。少々冷たいことに目を瞑れば、飛び込むことに抵抗は一切ない。そのためにまず、衣服を脱ぎ去る必要があって──

 

「……っ」

 

 必死に忘れようとしていた事実に直面に、ルミは顔がカッと熱くなるのを感じた。生まれた時から十九年間、男子として生きてきたはずなのに、今のルミは間違いなく女の子だ。つまり服を脱げば異性の裸体が露わになるわけで。

 

「ダメ、じゃない……?」

 

 現在の身体を自分自身とは未だ受け入れ切れていない。だから、赤の他人の、それも年頃の少女を脱がすような背徳感に襲われる。

 だが同時に。自分の身体なのだから何も問題ないだろうと主張する理性だって存在していた。

 

 男性としての倫理観。人間として当たり前の常識。その二つの感情は、後者へと傾いた。

 

「何も、悪いことは、してない……はず」

 

 腰に巻かれた細いベルトを外し、ワンピースの裾に手をかける。それで今更ながらに自分が女装をしていることに気が付いた。身体は女性なのだから何もおかしくはないはずだが、妙な気恥ずかしさを覚える。

 ダメだ。思考に耽れば耽るほどに、羞恥心で手が動かなくなってくる。ルミは一思いにワンピースを脱ぎ去ると、その勢いのままに男物とは似ても似つかない下着をはぎ取った。

 生まれたままの姿になった自分。一糸まとわぬ少女の裸体。それを意識するよりも早く、ルミは川へと足を踏み入れた。

 

「つめたっ」

 

 ひんやりとした大自然の水は、敏感な肌には少々刺激的だった。だが季節の問題か、或いはそういった地域なのか、汗ばむ程度には温かい。冷たい水浴びはすぐに気持ちの良いものに変わっていった。

 

「ふぅ……」

 

 汚れが落ちていく。悪魔の返り血が流され、清められていく。

 壁に囲まれた空間に一人。危険に怯える必要もなく、ようやく一息つくことができた。

 

「これから、どうしよう……?」

 

 だからこそ、考えずに済んでいたことにも頭が回ってしまう。安全な場所に辿り着き、ひとまず命の危機は去った。

 だが、元の世界に帰るためにはどうすれば良い。元の身体に戻るためにはどうすれば良い。離れ離れになった友人たちは一体どこに。

 それらがすぐに達成できないとして、それまでの衣食住はどう確保するのか。

 

 問題は山積みだ。しかもその全てが早期に解決しなくてはならないものばかり。

 

「内定だってどうなるんだぁ……」

 

 来年就職する予定だった企業を思い浮かべ苦笑する。今後の人生に響く大いなる問題だが、そもそも二度と家に帰れないかもしれないのだ。それですら優先順位の低い悩みだろう。

 最優先されるのは、今後の生活と友人たちの安否。そして──

 

「……本当に、女になってる」

 

 自らの身体のことだ。水に沈む小柄な身体は、長年も見慣れたものとは似ても似つかない。男性的な特徴は何もなく、元の姿とは別の形で大人へと成熟しつつある身体は、間違いなく女性のものだ。

 別に全く耐性がないつもりはない。けれど、異性に性転換してしまっている状況には、凄まじい違和感と倒錯的な羞恥心を抱かずにはいられなかった。

 

 だが一つ、不幸中の幸いはある。

 

「流石ルミ。凄く可愛い」

 

 水面に映る少女の顔を見て、現実逃避に呟いた。ぱっちりと開いた緑色の瞳。まつ毛は長く、左右対称に近い小顔は恐ろしいほどに整っている。

 水に濡れて長い白髪が張り付いた肉体も同じだ。手足はすらっと長く伸びていて、腰回りは折れてしまいそうなほどに細い。胸は少々控えめでも確かに女性らしさを演出している。

 

 元の身体では可もなく不可もなく、努力次第の見た目だと自負していた“真雪”だが。“ルミ”となった今では非の打ち所がない美少女だと胸を張れるだろう。

 ナルシストかもしれないが、たった一日では自分の姿だと認識できないのだ。どこか他人事のように新たな“自分”を見ているルミがいた。

 

「ネタに走らない限り、自分の持ちキャラを可愛いと思わないゲーマーはいないし」

 

 この異常事態の原因がわからない以上人間でさえない化け物に変貌していた可能性もある。それを考えれば、容姿端麗な少女への性転換ぐらい、運が良かったと言えるかもしれない。

 

 とはいえ、だ。やはり真雪は真雪であり、ルミではない。様々な点において、女性として生活できるとは到底思えない。だから、元の身体に戻る方法も必ず見つけ出そう。

 

「でも、少しは慣れないと……かぁ」

 

 そう決心しつつも、ルミは赤い顔で自らの身体を洗い始めた。

 

 ☆ ☆

 

「……なんか大事な何かをなくした気がする」

 

「どうした、急に?」

 

「でも、何着ても似合ってるからセーフ!」

 

「だからどうした?」

 

 アベルが寝泊りすることになった、村の小さな宿の一室。鏡の前でワンピースを着こんだ姿を確認して、ルミのテンションは上下に振り回されていた。簡素ながらもリボンまで縫い付けてある。

 自らの意思でこんな女性物の服に袖を通してしまったのだ。服の下ではしっかりと下着まで装備している。だが、着ないわけにはいかなかった。

 せっかく服を用意してくれた村の女性たちの好意を無為にできないし、何よりも揺れて擦れるのだ。何がとは言わない。ただ、女性の気持ちをほんの少しばかり理解してしまった。

 

 男として完全に終わった諦念。鏡の中の少女を着飾ってやれた満足感。その狭間にルミは囚われている。

 

「それで、何の用だ?」

 

「いや、さ……これからどうすればいいのかなって……」

 

 部屋の主の言葉に本題へと意識が引きずり戻された。身体について悩むのは後回しだ。

 それよりも今後の行動方針を決めなくてはならないが、ルミは自らが置かれた状況を何も理解していない。転移や肉体の変貌はもちろんのこと。

『Drain Universe Online』と似た世界であるとしても、どこまでゲームの知識を信用して良いのかわからず。

 野垂れ死なないためにも、どこかに保護してもらえるのか、或いは仕事をどうやって探せば良いのか、この世界の制度など何も知らず。

 散り散りになってしまった友人たちと再会する方法にも、見当がつかない。

 

 だから、この世界の住民であるアベルに相談するため、部屋を訪れたのだ。

 

「何から何まで頼り切りで申し訳ない、けどさ……」

 

 悪魔との接敵後から急変したアベルの態度。それを省みれば、適当にあしらわれる可能性も考えられた。だが、今のルミが助力を期待できる相手は彼ぐらいなのだ。

 不安に胸が締め付けられながら、アベルを見つめる。

 

「……はぁ。そんな目をするな。別に放置したりはしない」

 

「ほ、本当?」

 

「ああ、誓ってやる。……それと、悪かったな。冷たい態度を取ったのは俺の個人的な問題だ。素人が悪魔に向かっていったのは褒められないが、結果的に俺は助かった。礼を言う」

 

「そうならいいんだけど……」

 

 嘘は感じられない。村に到着するまでにあった、明白な拒絶の雰囲気も消え去っている。

 アベルも一息ついて心の整理がついたのか。それほどまでに彼を不快にさせた理由は気になるが、藪蛇だろう。下手に触れてしまえば、今度こそ関係が悪化してしまうとは容易に察せられる。

 

「それで、今後のことか」

 

「うん。僕はどうしたらいいか、正直さっぱりで」

 

「あんたの出身による。王国なら騎士団にでも駆け込めば保護してもらえるだろう。共和国……シャルリダ共和国でも面倒だが、同じく国経由で家には帰れる。だけど、グリデント帝国なら問題だ。何せ国交断絶中だからな」

 

 その辺りの情勢はルミも知っている。この世界とゲームの大まかな情勢は同期しているからだ。

 最も治安が安定しているザリアモール王国。ルミの現在地だ。

 続いて人の出入りが多く、王国ほどではないが安定しているシャルリダ共和国。

 強さこそが正義の国風を掲げ、システムとしてもストーリーとしても治安が最悪なグリデント帝国。

 そして、廃人プレイヤーたちが血で血を洗い、絶え間ない領土争いを行っている大陸北部の無開拓地域。

 

 この大陸は以上の四つの地域に別れている。最後の無開拓地域に関しては、『危険な生物が多くどの国も管理したがらない魔境』という設定だった。つまり三国家いずれかの出身であるとアベルが想定するのは常識的な考えである。

 

「あの、ごめん。僕はこの大陸の出身じゃないというか……」

 

「……は?」

 

「別の世界から来たって言って、信じてもらえる?」

 

 だが生憎、常識では測れない状況に巻き込まれているのがルミである。盛大に顔を顰めるアベルに、ゆっくりと説明しなくてはならない。

 

「なんだそれは。別の世界……?」

 

「うん。気が付いたらこの世界の小宇宙に移動させられてて、直後の悪魔に襲われてもう一回転移させられるわ、もう滅茶苦茶でさ」

 

「待て待て。理解が追い付かない。……ルミは王国の名前とかは知っていたよな? なのに別の世界から来たって?」

 

「ややこしいんだけど……えっと、なんて言うのかな。僕たちの世界からこの世界のことは観測できてたんだよ。お互いに干渉はできなかっただけで」

 

 頭痛に耐えるようにアベルが無事な左手で額を抑えた。

 

「……よくわからないけど、そういうこともあるのか」

 

「納得してもらえた?」

 

「全く出来てない。けど、あんたが寄る辺もない遭難者だってことは理解した。ああ、くそっ……想像以上に面倒なことになってるな」

 

「ごめん……」

 

「謝るな。あんただって被害者だろう。しかし、どうするかだな……」

 

 その場で唸りだすアベルをただ眺めることしかできない。現実となった王国の情勢や法律、制度などルミが知っているはずもないのだから、アベルに任せるしかなかった。

 しばらく悩んでいる姿を静かに待っていると、彼はちらりとルミを一瞥した。

 

「……死にたくないだけなら、奴隷になるのが手っ取り早い」

 

「ど、奴隷!? それはできる限り避けたいというか……」

 

「奴隷と言っても、昔の名残でそう呼んでいるだけでさほど酷い待遇じゃない。働き先のない人間のための、職業安定所としての側面が大きいんだ。人権だって保障されているし、自主的に退職も許されている」

 

「そ、そうなの? なら最低限そこで路銀を稼ぐのも……」

 

「とはいえ、ルミなら間違いなく娼館送りだ。仕事までは選べない。……身体を売るのは嫌だろ?」

 

「嫌だっ!」

 

 ゾッとする。ルミの見てくれが良いのは自覚したばかりだし、男なら放っておかないと確信できる。きっとそれなりの稼ぎを得られるだろう。だが、例え生きるためだとしても、男の相手をするなど死んでも御免だった。

 見た目はともかく、ルミの中身はれっきとした男性だ。受け入れられるわけがない。

 

「ど、どうすればいい……!? 嫌だよ、男にあんなことそんなことされるのはっ!」

 

「わかってるわかってる。何かできることはないのか?」

 

「え、えっと……プログラミングが少々……」

 

「ぷろ……なんだって?」

 

「たぶんこの世界には存在しない道具を使った仕事」

 

「じゃあダメだろ」

 

 日本人の大学生にできることなどそれぐらいだ。具体的にこのような技能がありますと、胸を張って答えられる人間の方が少ない。

 

「お、お願い! 何でもするから、だから奴隷だけはぁ!!」

 

「わかったって言ってるだろ!? おい、離れろ!」

 

 奴隷堕ちを避けるためなら恥も外聞もなんだって捨てて見せよう。何時でも土下座をできるように、アベルの足元に這いつくばる。

 しかし、必死の願いはアベルによって一刀両断にされてしまった。逆効果だったと判断してゆっくり立ち上がる。

 

「はぁ……なら、そうだな。俺の仕事でも手伝うか?」

 

「えっと、開拓者ってやつ?」

 

 初対面の時にアベルが名乗った身分。それは開拓者と呼ばれる職業だった。しっかりと記憶していたルミが尋ねれば、アベルも肯定を返す。

 

「そうだ。世界に無秩序に湧き出し、消えていく小宇宙。その中を調査して、資源が多い世界や、貴族が別荘に使えそうな安全な世界の情報を売る仕事だ。当たればかなりの大金が、そうでなくとも魔物の素材なんかを持ち帰れば、生活に困らない収入はある」

 

「……雑用ぐらいしかできることないけど」

 

「それでいい。肉体労働だからな。疲労困憊で帰ってから、戦利品をギルドに卸したりするのは面倒なんだ。その辺りを代行してくれるだけでも十分助かる。元々、誰かを雇うか悩んでいたしな」

 

 その程度の労働で食べていけるとは到底思えない。ルミが思い悩まないように、アベルが大袈裟に話しているのは明白だった。

 しかし、その厚意を受けなければルミに残されたのは奴隷送りだけ。選択の余地はない。

 

「僕にできることなら、何だってするから! なので、お願いします」

 

 勢い良く頭を下げる。迷惑になる以外の選択肢がないのならば、せめて誠意をもって頼むぐらいはしなくてはならない。今のルミにあるのは、この身体一つだけなのだから。

 ただアベルにしてみれば、気に食わない対応だったようだ。顔を上げたルミにしかめっ面を向けている。

 

「……あんたが真面目なのは良くわかった。ただ、な」

 

「はい?」

 

「そもそも一人で男の部屋に来るのもそうだ。若い女性が何でもするとか滅多なことを言うな」

 

「あっ……そっか。確かに、そうかも……」

 

 言われてもみて、ようやく気が付いた。確かめるように視線を移したルミの手は、白くて繊細な少女のもの。そうだ、今のルミは女性なのだ。

 確かに軽い気持ちでして良い発言ではなかった。変な誤解を生みかねない。

 

 しかし、だ。やはりどうしても真雪は“ルミ”に、女性になってしまったと自覚ができなかった。頭ではわかっているつもりなのだが、鏡に映る自分を目にしても、華奢な身体を見下ろしても、どこか現実感が伴わない。

 ゲームのアバターが元になっていることもあり、赤の他人を見ているような気分になるのだ。

 

 先ほどの水浴びのように身体を触りでもすれば流石に思い知らされるが、少し時間が経過するだけで頭からすっぽ抜けてしまう。このままでは他者とのやり取りに悪影響を及ぼしかねない。

 性転換を受け入れるつもりがない以上、慣れてしまうのもそれはそれで問題だが。

 

「全く、あんたの世界じゃそれが普通だったりするのか?」

 

「いや人間なんてどこでもほとんど同じだよー。文化とか細かいところはだいぶ違いそうだけど」

 

「なら、あんたが変わり者なだけか」

 

「へ、変人扱いは酷いって! 昨日まで男だったんだから仕方ないじゃん」

 

「……は?」

 

 もう何度目かわからない、呆けた様子のアベルに思わず頬を緩める。

 

「昨日まで男……は? どういうことだ?」

 

「そのまんま。気が付いたら小宇宙の中にいて、身体が女の子になってた」

 

 冷静沈着で無口な男性。それがアベルの第一印象だった。しかし僅かな時間接しただけでも、彼は人一倍に優しく、そして想像以上に感情豊かなことが窺える。ただそれを表に出すことが苦手なだけなのだ。

 だから、ちょっとしたものでも良い。感情を目に見える場所に引きずり出すだけでも、何だか嬉しくなる。

 

「冗談じゃないんだな?」

 

「冗談でもなんでもなく、本当につい先日まで男だったよ。面影すらない」

 

 いくら魔法の存在するファンタジー世界とは言え、別世界からの来訪者も、完全な性転換も、驚愕に値する事柄らしい。必死に提示された事実を噛み砕こうと、アベルはルミの姿を爪先から頭のてっぺんまでしっかりと観察する。

 それを受けて、ルミはちらりと鏡を一瞥した。白髪少女の美貌には一点の曇りもない。いくら見られても恥ずかしくないことを確認して、甘んじて視線を受け入れる。

 

「…………けど、今は確かに女性なんだろ」

 

「え、ああうん。残念ながら」

 

「いや性別なんて些細な事か。誰かが困ってる。大事なのはそこだ」

 

 己の手を見つめて、何やら呟く青年。しかし、すぐさま言葉を続ける彼に、ルミは困惑する暇さえ与えれなかった。

 

「あんたの事情はそのぐらいか?」

 

「たぶん、大体話したかな」

 

「わかった。散り散りになった友人ってのも、同じ異世界の人間なんだろ。そいつらを探す方法も考えておく」

 

「ほ、本当!? 何から何までありがとうっ!」

 

 至れり尽くせりな言葉に笑みが零れる。そんなルミの姿に反して、アベルは視線を逸らしながら頭をかく。

 

「ただ、自分が女性なんだって自覚はなるべく持ってくれ。本当は男ならわかるだろ? ルミのその態度は、色々と誤解を招く」

 

「それは本当に……申し訳ございません……」

 

「わかったならいい。俺の怪我が治ったら王都に向かおう。それまでは村の外に出なければ自由に構わない」

 

「りょーかい。……って、ずっと僕の話ばっかりでごめん。怪我は大丈夫なの?」

 

 今後の展望に不安になるばかり、アベルの容態を気にする余裕がなかった。彼が想像以上に元気そうだったから、と言い訳もできない。

 そんなルミの前で、アベルは包帯でぐるぐる巻きになった右腕を軽く動かして見せる。

 

「問題ない。表面を焼かれただけだからな。三日もすれば使えるようになる」

 

「でもろくに動かなそうに……」

 

「痛みの問題の方が大きかった。本当にすぐ治る範疇だから気にするな。……そんなに心配するならあの時みたいな無茶は二度とするなよ」

 

「わ、わかった」

 

 尤もな言葉にルミは縮こまる。一歩間違えれば二人揃って粉々になっていただろう。

 

「そもそもルミが先に逃げてくれれば、俺だって全力で離脱するって選択肢も取れたんだ」

 

「えっ……そうなの? じゃあ僕は本当にお邪魔だった……!?」

 

「……とは言っても、それで助かったかどうかもわからない。助けられたことには礼を言っておく。けど、いくら才能があろうとも戦場は素人が飛び込んでいい場所じゃない。次も上手くいくとは思わないでくれ」

 

 そうだ。次はない。今回は運が良かっただけ。もう一度同じ場面に出くわした時、二人揃って助かるとは限らない。

 だから、次同じ場面に出くわしたのならば。犠牲を許容した選択をしなければならないのだろう。吐き気がする。誰かが死ぬという現実が、あまりに身近にありすぎる。現代日本ではあり得なかった世界だ。

 しかし何もかもが理想通りになるなど、それこそ理想でしかない。

 

「そう、ならなければいいな」

 

 だから心から願う。命の危機など、訪れなければ良いのにと。

 



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第六話 ほのかに香る死

「忘れ物はない? 怪我も大丈夫? 王都までの道は整備されてるけど魔物も時々出るからね。気を付けるんだよ」

 

 小さな集落の小さな宿屋。その玄関にて。

 この数日ですっかり顔馴染みになった宿屋の女将さんが、ルミの身体を隅々まで確認していく。人口に乏しい集落であること。ルミの姿が若い少女であること。本人の気質がお節介好きなこと。

 様々な理由が重なった結果なのだろうが、元の世界のホテルなどではとても考えられない対応だ。

 

「大丈夫ですって。見ての通り、準備万端ですからっ!」

 

 だが悪い気はしない。大袈裟な動作で力こぶを見せつけようと腕を曲げ、そんなもの微塵も現れない細腕に辟易とする。なんであろうと、元気であるアピールはできたはずだ。

 

「そうかい。じゃあ達者でね。故郷に帰れるように祈ってるよ」

 

「……はい」

 

 ルミの事情を全て話しているのはアベルだけだ。この場限りの関係性になる彼女には、ルミが遠く離れた故郷から何かしらの事故で転移させられてしまったと、嘘の説明だけをしている。魔法や魔術の存在するこの世界では、人間が大陸の端から端まで瞬間移動することも、珍しい程度だと疑われることはなかった。

 心優しい彼女にそんな嘘をついていることは罪悪感を刺激する。本来は男性だと黙っていることもそうだ。けれど悪戯に話したところで、話がややこしくなるだけだろう。第一、そうしたところで何も解決しない。

 

「俺も世話になりました。ただ治療費は本当に……」

 

「若いのが気にするんじゃないよ。困ったときはお互い様さ。それよりも、男ならその子をしっかり守ってあげな」

 

「……もちろん」

 

 アベルは女将の言葉に、何やら曖昧な表情で頷いた。

 ちらりと一瞥してくる切れ長の瞳をルミは努めて無視する。元男、現少女の身として扱いを困らせている自覚はあるが、ルミにはどうしようもできないのだ。

 

「よし。なら出発だ。なるべく俺の近くから離れないように」

 

「はーい」

 

 木の柵を超えて、二人は集落を後にする。気の抜けた返事になってしまったが、油断するつもりはない。ルミが足を引っ張りさえしなければ、アベルが魔物や悪魔などに負けることもないだろう。

 細心の注意を払いながら、二人は王都への道を歩き始めた。

 

 ☆ ☆

 

 天候は晴天。少々暑苦しいが、熱中症などを恐れるほどではない。見晴らしの良い平原では外敵からの奇襲も可能性は低く、そもそも地平線の先まで大型の獣は見当たらない。

 つまり平和だ。細心の注意が緩んでいくのを感じる。あくびが零れてしまいそうだった。

 

「ふわぁぁ……」

 

「寝るなよ?」

 

「え、なに? 歩いたまま寝るとでも思われてる?」

 

「そんな感じの雰囲気だぞ」

 

 あんまりな評価にジト目で睨みつける。いくら想像と違って長閑な散歩道だったとしても、危険だと言われている場所で眠りこけるほど阿呆ではない。

 

「悪い悪い。まあ、本当に危険な時は言うから、それまではいくらでものんびりしててくれ」

 

「なーんか馬鹿にしてない?」

 

「気のせいだ」

 

 少しずつお互いの性格を理解し始めたからだろうか。或いは本来のルミが同年代の同性だと知ったからだろうか。アベルは当初よりもずいぶんと気安い態度を取ってくるようになっている。

 正直、年下の少女として明らかに守るべき対象と扱われるのはむず痒かった。友人のような距離感で接してくれるのは非常に助かる。尤も同年代の男性──“真雪”の身体のままだったとしても、非戦闘員の庇護対象なことに違いはないのだが。

 

「あんたの世界って、どんなところだったんだ?」

 

「どうしたの? 急に」

 

「いや、ずいぶんと物珍しそうに歩いてたからな。……こういう風景はそっちにはなかったのか?」

 

 あまりに代り映えせず、すぐに飽きてしまったものの。アベルの言う通り、村を出た当初は大自然の真っ只中で景色を楽しんだものだ。

 

「うーん、そうだね。ないことはなかったけど、僕の生活圏内じゃ自然なんてほとんどなかったなぁ」

 

 大学進学を機に、大学近くの安アパートで一人暮らし。ルミは──真雪はそんな珍しくもなんともない生活をしていた。首都圏に入っていたこともあり、目に映るものなど鉄筋やコンクリートの人工物ばかりだった。

 街道を除き人間の手などほとんど入っていない大自然。利便性を求め続け自然を排斥した大都会。どちらが良いかは甲乙付け難い。

 

「王都を直接見ないとわからないけど、たぶん生活水準は僕がいた世界の方が……いや僕の住んでた国の方がだいぶ高いと思うよ」

 

「ずいぶんと発展してるんだな。それだと村での三日間とか野宿はしんどかったんじゃないのか?」

 

「うーん、ないものは仕方ないし別にそこまでストレスはなかったよ。そりゃあ温かいお風呂とかは恋しいけど」

 

 文化レベルの低下による不便は、想像よりも順応できている。上下水道なんてものはなく、井戸から水を汲まなければならないのは大変だったが、肉体の性能が良いおかげで問題にはなっていない。

 水道も王都など栄えている都市であれば整備されているとのことだ。技術の歴史などは知らないが、この世界の文明は見た目よりも現代に近しい時代まで進んでいるように思う。

 

「そんなことよりも身体の方だよ! ぜんっぜん、慣れない! たまに足の長さを勘違いして転ぶし!」

 

 適当に腕を掲げながら愚痴る。こればかりは順応できる気がしなかった。

 朝起きるたびに、自分が女性になってしまっていることに驚いてしまう。ちょっとした段差でも歩幅を見誤って躓いてしまう。何より着替えや水浴びの度に、視界に映る女性の裸体にどぎまぎしてしまっていた。

 周囲の人間が女性扱いしてくることにも違和感を覚えずにはいられない。

 

「俺は女性になった経験なんてないからわからないが……」

 

「自分で動かしてる身体と、視界に入る身体が一致しない感覚かな。たまに他人の視点を借りてるような気分になってくるんだよ」

 

「……精神的にきつかったら、愚痴ぐらい聞くからな。元に戻る方法もあんたの友人と一緒に探さないとか」

 

「ありがと。本当に頼りになりますねっ」

 

「おいやめろ。なんで急に猫を被り出すんだ?」

 

 実にわざとらしく、アベルの胸に手を付きながら上目遣いに見上げてみれば、青年はあからさまに狼狽えて見せた。女性経験には乏しいと思われる。それはルミも人のことは言えないのだが。

 

「せっかく可愛い女の子になったんだし、まあ使えるものは使わないと」

 

「……あんた、本当に身体の変化に戸惑ってるのか?」

 

「それはそれ。これはこれってわけで。アベルだってこんな可愛い子に甘えられたらまんざらでもないでしょ。男だからわかるよ」

 

「中身が男だから問題なんだ。裏が透けて見える」

 

 懐疑的な視線はケラケラと笑って誤魔化す。女性になったことは受け入れがたい。けれど“ルミ”が可愛らしい少女であることはまた別の話だ。

 一時的なものとはいえ、恵まれた容姿をただ放っておくのは実に勿体ない。

 

「はぁ……ルミは何というか。大人しそうなやつだと思ってたが案外、愉快な性格をしてるな……」

 

「つまらないよりはマシでしょ?」

 

「騒がし過ぎても面倒だからな?」

 

 人生は楽しく生きようがルミのモットーだ。解決すべき問題であろうと、今すぐにどうにもできないのならば、ある程度は楽しむ余裕も必要だろう。

 

「髪を切らなかったのも同じ理由か」

 

「うん。せっかくロングが似合ってるんだから、切るのも勿体ないしね。維持するだけでも大変だって思い知らされたけど……」

 

 世の女性には頭が上がらない。水で汚れを流し、乾かすだけでも重労働だったというのに、更に手入れなどが必要なのだろう。それを毎日と。凄まじい労力だ。

 

「あーあとさ。王都についたら……」

 

「…………」

 

「アベル?」

 

 先ほどまではしっかりと返してくれていたアベルの言葉が聞こえない。不思議に思い見上げれば、彼は張り詰めた表情で街道の先を睨みつけていた。

 悪魔の時と同じだ。冗談を交える余裕などない、危機が迫っているときの表情。そんなアベルを前に、ルミもおふざけを引っ込める。

 

「血の匂いだ」

 

「血の……?」

 

「人間でも嗅ぎ取れるぐらいだ。数が多い。こんな街道の近くに獣の群れは来ないだろうから……恐らく大勢が怪我してる。それもかなり重症で」

 

 血の匂い。重症。自然と悪魔との死闘が想起される。

 死が身近に迫ってくる命の奪い合いだ。それが再び、そう遠くない位置で巻き起こっている。どうすれば良いのか。縋るようにアベルを見上げれば、彼もまた葛藤しながらルミを見下ろしていた。

 

「……大きく迂回する。危険は避けるべきだ」

 

「えっ、でも」

 

「いいから。行くぞ」

 

 それがアベルにとって最善の選択ならば、きっと素直に従うことができた。けれどたった数日の付き合いでも。横顔を見上げただけでも。悔しさを噛み殺そうとする表情を見れば、それが苦渋の決断だったのは明白だった。

 当たり前だろう。アベルは初対面のルミを迷うことなく保護し、自身を囮にして悪魔から逃がそうとする男性だ。感情表現が苦手でも、その内にあるのは強い正義感だと、嫌でも理解させられる。

 

 そんな彼が怪我人を避けようとしているのは、ルミがいるからだ。多少動ける程度の素人。そんな人間を連れて危険には飛び込めない。誰かを保護する前に、既に保護した少女に安全を提供する義務があると考えている。

 

「僕は、どこかに隠れてるからさ」

 

「…………ルミ」

 

「助けたいなら、助けに行かない? 何もできないけど、足手纏いにはならないようにするから……」

 

 ルミには何もできない。ちょっと高い運動能力を授かっただけで、ほとんど見た目通りの少女以上のことはできない。

 けれど、そんなルミのせいで、アベルが助けられたはずの誰かが、命を落としてしまうのは嫌だった。助けられたかもしれないと、アベルが気に病むのを見るのは嫌だった。

 この先で倒れている誰かも、既に助けられたルミも、順番が違っただけで同じ困っている人間なのだから。

 

「……絶対に隠れてろよ」

 

「うん」

 

「俺がどうなろうと、合図するまで絶対に出てくるな。危険を感じたら街道を真っすぐ歩けば王都につく。わかったな?」

 

「うん、絶対に守る」

 

 お互いの意思を確認するように、しばし見つめ合う。しばらくして、アベルの方から視線を逸らした。

 時間が惜しいとばかりに、二人は歩き始める。

 

「様子を見てくる。怪我人がいるなら回収するから、ルミは街道を少し逸れたところで伏せていてくれ。何かあったら大声で助けを求めろ」

 

「りょーかい」

 

 そう言い残し、優しい青年は駆け出した。

 



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第七話 人形の侵略者

 血の匂い。暴力の気配。アベルはそれが世界で一番、嫌いだった。

 痛いのは嫌いだ。怖いのは嫌いだ。だから、苦痛と恐怖に襲われている人々を見ると、彼らの気持ちを想像してしまって──昔から自然と身体が動いてしまう。

 

 アベルとはそんな青年だ。だからこそ、眼前に広がる光景に激しい義憤が湧き上がっていた。

 

「てめぇ……っ! 何してるんだ!?」

 

「ん? 変わったモブが湧いてんな」

 

 ぐちゃりと生物の根源的恐怖を煽る音が響く。それは死を確信させる音。

 平原を赤く染める血だまりの中心で、ハゲ頭の男が見知らぬ人間の頭を踏みつぶした音だ。一体どれほどの膂力があるのか、被害者の頭蓋骨は粉々に粉砕され、中身をぶちまけている。

 一人ではない。アベルが到着する前にハゲ頭の凶刃に倒れたのだろう。物言わぬ死体となった十人ほどの人々と横転した馬車が、この惨状を演出している。

 

「なんだぁ? この辺りだと低レベルのモブしか湧かないはずなんだろ」

 

「武器を捨てて投降しろ。従わないなら命の保証はしない」

 

「ははっ、特殊イベントってやつ? いいねぇ。単純作業のレベリングには飽きてきたところなんだ」

 

 理解できない戯言ばかりが飛び出してくる。会話が通じていない。不快感に眉根を寄せながら、アベルは臨戦態勢を整えた。

 ハゲ頭もこちらを薄く笑いながら見据える。彼の装備は安価な皮鎧に幅広の剣。おかしい。犠牲者の集団は恐らく商会の団体だ。小規模とはいえ、財産である商品を運んでいる以上は護衛を雇っている。

 

 ──こんな軽装備の男一人に護衛が全滅させられたのか。

 

 一騎当千の英雄や凶悪犯罪者は存在する。だが、常人には決して届かない境地へ辿り着く彼らは、善悪関係なく独特の雰囲気を纏うものだ。ハゲ頭からそういった気配はまるで──

 

「──おいおい、舐めプか?」

 

「……っ!?」

 

 眼前に肉薄する刃に、アベルは咄嗟に屈んだ。遅れた数本の黒髪が切り裂かれるのを無視し、すかさずハゲ頭の足を払う。

 

「おっと、レベルの割によ……」

 

「ぺらぺらとおしゃべりだなッ!!」

 

 しかし、ハゲ頭は動揺することなく、僅かに地面を跳ねることで回避。その瞬間にアベルは身体をバネのように跳ね上げ、男の顎を下から殴りつけて見せた。

 一瞬とはいえ宙に浮き、身動きを取れないタイミングでの必殺だ。相手の実力がわからぬ以上、下手な追撃は打たない。すかさず飛び退いて呼吸を整える。

 

「いたた……。あー今のはだいぶ効いた。けど悪いな。このアバターには気絶ってバステは実装されてないもんでよ」

 

「くそっ、どうなってる?」

 

 難なく立ち上がるハゲ頭にアベルは懐疑的な視線を向ける他ない。顎を通じて脳を揺らしたのだ。何かしら防御したのならともかく、確かに直撃させた。

 なのにハゲ頭にはふらつく様子さえない。言葉とは裏腹にダメージがあるのかさえ定かではなかった。

 

 よっぽど肉体を鍛え上げているのか。或いはアベルが悟れないような防御手段があるのか。

 

「それか、魔物が化けてる可能性か」

 

「こんな低次元世界の低俗な獣扱いはやめてくれや。このアバターの種族は確かに人間だぜ」

 

「人間にしては妙なことが多くてな」

 

「まあそりゃそうだ。NPCのあんたらからすれば、俺らは奇妙に見えるだろう、よッ!」

 

 凄まじい踏み込み。ハゲ頭は刹那の間に距離を詰め、気が付いた時には足を振り上げていた。隙も出だしも遅いハイキックの短所を、身体能力で無理やり潰してきている。滅茶苦茶だ。

 心の中で悪態を付きながらアベルは右腕で頭を庇う。

 

「うっ……!」

 

 骨が軋む。完治していない傷が痛む。苦痛に動きが一瞬だけ停止した。

 

「遅いなぁ」

 

「くそっ!?」

 

 すぐさま足を掴んでやろうとするが、コンマ数秒の遅れによって逃げられる。そこから続くのは足技の連打だ。器用に軸足を切り替え、踊るように蹴りの嵐を、時折虚を突くように剣を振り下ろしてくる。

 早い。回避するので精いっぱいだ。嫌になる。こんな悪党にさえ実力で劣る自分自身が。

 

 半身を取って真正面からの踵落としを回避。隙だと判断してその足へ剣を振り上げるが、即座に判断を変え防御に回す。アベルの顔面を切り裂く寸前で、ハゲ頭の剣とアベルの剣がぶつかり合い不協和音を奏でた。

 

「本当に遅いぜ。まあ、所詮は王国領だもんな? 頑張れよ、中ボス」

 

「っ!!」

 

「おっ?」

 

 剣を剣で滑らせる。鍔迫り合いの力が流れ、強制的にハゲ頭の得物があらぬ方向に弾かれた。得物が腕ごと外側へ流れ、体重をかけた右足は地面に縫い付けられている。

 今度こそ間違いない。明白なハゲ頭の隙だ。その好機に──アベルは迷いなく剣を投げ捨てた。

 

「あぶねっ!?」

 

「いいや」

 

 顔すれすれを飛んでいく刃物にハゲ頭は小さく悲鳴を上げ、アベルは一歩踏み込む。彼の手首を掴み、捻ると武器を落とさせた。お互いに無手となった状態で、アベルは淀みない動作でハゲ頭の軸足に自らの足をかけて。

 

「おらぁっ!」

 

「が、はぁ……っ」

 

 らしくない雄たけび。次の瞬間、アベルは男を投げ飛ばしていた。ハゲ頭が地面に叩きつけられた見届けることもせず、すぐさま馬乗りになって──

 

「──動くな。動いた瞬間に殺す」

 

「……へ、へへ。マジかよ」

 

 予備の短剣を首に添えた。指一本でも動けば、喉元を引き裂くことができる。生殺与奪権を完全に掌握したというわけだ。

 

「せっかく契約したアバターだってのに、ここでゲームオー……いてっ」

 

「俺の許可なく口を開けるな」

 

 薄皮一枚だけ首を斬る。はっきりと優劣を見せつけなくてはならなかった。

 もう一度自由にさせたら、同じように捕らえられるかわからない。何より一見有利に見える状況だが、アベルに打てる手は非常に限られていた。

 鞄の中のロープで縛ろうにも、そんな素振りを晒せば即座にハゲ頭は脱出するだろう。押さえつけられてはいるが、それ以上の発展がない。

 

 取れる選択肢は二つ。このまま殺してしまうか、尋問するか。

 

「何のためにあの商団を襲った?」

 

「なに? 喋っていい感じ?」

 

「無駄な発言は控えろ。お前は黙って答えればいい」

 

 僅かに迷った後、アベルは尋問を選んだ。聞き出せるだけ聞き出して、殺してしまおう。できるのならば騎士団に突き出したいが、悪人を野放しにするよりはよっぽどマシだ。

 

「ただのレベリングだ。経験値が欲しかったんだよ」

 

「れべ……経験だと? 人殺しの経験でも欲しかったのかっていうのか?」

 

「説明面倒くせぇ。NPCには理解できねえよ」

 

 相変わらず会話が通じない。同じ言語を使用しているはずなのに、どこか人外染みた気配を覚えずにはいられなかった。

 戦った感想だってそうだ。顎を貫いてもまるで効かなかったのはもちろん、彼の戦いには恐怖がない。命の奪い合いだ。どれほどの達人であろうとも、恐怖を完全に排斥することはできないはずなのに。

 

 どこか自分の死を認識していないような。まるで人の形だけを遠隔から操作しているような。

 

「お前……」

 

「勝手に口を開くなと言ったはずだ!」

 

「──少し、勘付いたね?」

 

 背筋が凍った。男の口調が変化する。男の瞳から感情が消え失せる。ただ彼という存在の奥底から、凶悪な何かがアベルを観察している。そんな気味の悪い確信があった。

 

「なあ、“ボク”。どうすればいいんだ?」

「ちょっと待ってて。すぐに“ボク”が来るから」

「あいよ。苦しいから早めに解放してほしいぜ」

「君の失態だ。我慢してくれよ」

「俺だけじゃなくて“ボク”の失敗でもあるだろ」

「ははっ、違いない」

 

「──っ!!」

 

 一人の口から、二人の声が聞こえる。一人の中に二人がいる。いや違う。一つの身体の中に──何かが宿っている。

 殺さないといけない。危険だ。この化け物は危険だ。今すぐに殺さなくてはならない。使命感に駆られるがままに短剣を振り上げて──

 

「やめときなぁ! この嬢ちゃんがどうなってもいいのかぁい?」

 

「……!! しまっ、た」

 

 悪意を排することは、叶わなかった。

 

「ご、ごめん。足手纏いにはならないって、言ったのに……っ」

 

 振り返った先で見知らぬガリガリで不健康そうな男と、容姿端麗な白髪の少女が立っている。男がルミにナイフを突きつけて、ニヤニヤと笑っている。

 商団の護衛を一人で壊滅させられるはずがない。そう、わかっていたはずだった。なのに目の前の戦闘に頭がいっぱいで考慮できなかった。

 

 ──ハゲ頭の仲間の存在を。

 

「ごめんっ、ごめん……っ!」

 

 情けなさに泣きそうな少女の姿を見て、アベルは状況が絶望的なことを自覚した。

 



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第八話 “プレイヤー”

 現代日本人にとって、殺し合いとは遠い世界の話だ。

 だからこそ娯楽として、フィクションのそれを求める。命の奪い合い。それに伴う信念のぶつかり合い。お互いがお互いの人間性を剥き出しにして吠える、喜劇や悲劇。

 実に面白い見世物だ。それが作り物であればの話だが。

 

「が、頑張れ……」

 

 街道から少し逸れた草むらの中。ルミは目立たないように地面に伏せながら、遠巻きにアベルとハゲ頭を見つめていた。付近には壊れた馬車と、血に沈みピクリとも動かない人々が倒れており、ハゲ頭の凶悪さを静かに示している。

 そんな凄惨な光景の中心で、彼らは剣だけでなく腕を、脚を、全身を余すなく使って相手の命を奪ってやろうと戦いに身を投じていた。

 これが映画のワンシーンであれば、固唾を呑みながらも興奮と共に結末を見届けただろう。しかし、これは作り物ではない。本当に生きている人間と人間が、本気で行う殺し合い。そこに苦痛はあっても、熱狂などありはしなかった。

 

「よしっ!」

 

 だが、思わず声をあげてしまう。アベルのアッパーカットが殺人鬼に突き刺さり、大きく頭部を揺らして見せたからだ。気絶まではしなくても、意識を朦朧とさせられるはず。

 なのに、ハゲ頭の男は平然と動き続けていた。まるでアベルの攻撃など、全く効いていないと言わんばかりに。

 

「なんで……? 確かに顎を打ったのに」

 

 ルミにとって、脳震盪の話はあくまで聞きかじりの知識だ。実際には顎を殴ったところで意識が朦朧とすることはないのか。それとも本当に効いていないのか。考えても答えは出ない。

 できることは彼の迷惑にならないように息を潜めることだけで──

 

「カワイ子ちゃん発見~」

 

「……え?」

 

 生理的な嫌悪感を抱かせる、醜い男の声。茫然と振り返ると、骨と皮しかないようなガリガリの男性が舌なめずりをしていた。

 

「ひっはぁ!!」

 

「いぁっ!?」

 

 横腹に鋭い痛み。何が何だかわからないままに平原を転がる。呼吸が上手くいかない。苦痛に涙が溢れてくる。

 悪魔との死闘を経験したとはいえ、ルミの精神面は現代日本人のままだ。喧嘩さえ慣れていないルミには、蹴り飛ばされた痛みだけでも冷静さを失うには事足りてしまった。

 

「ひっひっひっ。そうだよなぁ。このマップにしてはレベルが高い中ボスなんだ。正攻法じゃない攻略法があるよなぁ」

 

「ひぃ……!? あ、アベル、たすけ……!」

 

「例えば、人質作戦なんてどうだぁ?」

 

 うつ伏せのまま起き上がることもできずに、背中を踏みつけられる。身動きができない。ちょっと運動神経が優秀なだけで、技術も何もないルミに脱出は困難だった。

 まずい。本当にまずい。アベルとハゲ頭が戦う音は今も届いている。つまりルミに牙を剥いているのは別の殺人鬼だ。助けは来ない。

 

「動くんじゃねぇぞぉ?」

 

「わ、わかったっ。言うとおりにするから……!」

 

「良い子だねぇ。まずは手首を縛って」

 

 自由を奪われても尚、抵抗できるほどルミは豪胆ではない。震える声で絶対服従を宣言する。

 満足げに笑うガリガリの男。彼はルミの細い手首に触れた。これもまた魔法の一種なのだろうか。初めからそうであったかのように縄が現れ、ルミの両手首を背中側で縛る。

 

「あらぁ? 現実改変が妙に遅いなぁ」

 

「……っ」

 

「ん~? なんでだぁ? 少しだけど抵抗されてる?」

 

 何が気に触れるかわからない。ルミは悲鳴だけは出すまいと、縮こまることしかできない。

 わかるのは、視界の外で男が唸り声をあげて悩んでいることだけだ。長く長く、ずっと彼は思考を巡らし続けているようで。

 

「あれぇ? ──もしかして君、プレイヤー?」

 

「ぇ……?」

 

 一つの回答を確かめるように投げかけられた疑問は、若い少年のような声だった。音の発生地点からして、ガリガリの男が話していることには違いない。なのに先ほどとは全く異なる声と口調が聞こえてくる。

 

「NPCじゃないよね? 妙に存在強度が高いし……」

 

「君は一体……?」

 

「“ボク”はプレイヤーさ。二重操作でレベリングしてたんだよ。いやごめんね。まさかNPCと一緒に行動してるとは思わなくてさ」

 

 まるでゲーム上のチャットような気安さで。少年の声はルミに語り掛けてくる。

 

「本当にごめんよ。一緒に行動してた黒髪の剣士はペットか何か?」

 

「あ、アベルのこと? ペットって……違う。命の恩人だよ」

 

 訳がわからない。未知とは恐怖だ。痛みや死とは異なる恐怖を必死に抑え込みながら、ルミは振り返った。手首の拘束はいつの間にか外れている。

 立ち上がり周囲を見渡しても、いるのはガリガリの男だけ。少年らしき姿は見当たらない。

 

「命の、恩人?」

 

「そ、そうだけど……何か変だった?」

 

 明らかに男の口元の動きと、少年の声が発せられるタイミングが一致していない。吹き替え版の映画のような喋り方だ。気味が悪くて、一歩後退してしまう。

 

「ふーん」

 

「あ、あの……」

 

 お世辞にも整っているとは言い難い、それどころか清潔感の欠片もない三十路の顔面が間近に迫る。表情を歪めても尚、彼はじっとルミを細い瞳で見つめ続けていた。

 逃げる、べきだろうか。大声をあげてアベルに状況を知らせ、とにかく捕まらないように逃げる。下手に友好的な態度を取ってきたせいで、どう対応すればよいのかわからなくなってしまっていた。

 

「君、さ」

 

「は、はい?」

 

「NPCじゃないのは間違ってないね。やっぱり魂とアバターが完全に同調してない。でも、遠隔操作じゃなくて、魂が癒着してる。それに……NPCほどじゃないけど、プレイヤーにしては存在強度が低い」

 

「何を言って……」

 

「わからない? ああ、そうだね。何を言っているのかわからないのなら、それが答えだ」

 

 瞳の色が変わる。ガリガリの男の意思が舞い戻ってくる。表に出ている気配が、彼の背後にいる何かから、見た目そのままの魂に切り替わって。

 瞬間、ルミは踵を返した。全速力で逃走を狙う。ここ以外に、チャンスはないという判断。しかし──

 

「あべ……」

 

「逃げるんじゃないよぉ、お嬢ちゃん。人質作戦、再開と行こうかぁ!」

 

 それを男は許してくれなかった。ルミが逃げ出すことも想定済みだったのか。手首を掴まれると男の元へ引き戻され、そのまま口元を叫べないように押さえつけられた。

 

「んー!? うぅっ……ひ……っ」

 

「大人しくしろよな? じゃないと、こんな細い首なんて簡単に切り裂けちまうぜぇ」

 

 冷たい金属の感触。首筋に鋭利なナイフが添えられていた。死ぬ。殺される。男が少し刃を引くだけで、ルミは殺されてしまう。

 あまりの恐怖に奥歯は噛み合わず、がくがくと震え出した。足腰が覚束なくなり、とてもではないが抵抗する選択肢が思い浮かばなくなる。

 

「よし歩くぜい。あっちの“ボク”の元に行かないとなぁ」

 

「ぅっ……うぅ……」

 

 促されるがままに歩き始める。恐ろしい。だが、それ以上に情けない。

 アベルの足だけは引っ張らないと心に決めていたのに。まんまと殺人鬼に捕まってこのざまだ。一体どのような顔をして彼の元に赴けば良いのだろうか。

 

 頬を伝わる涙に気づいた。情けなさが重なっていく。男の癖にただただ足を引っ張り、泣くことしかできない自分が情けない。

 本当の本当に、情けなかった。

 

 ☆ ☆

 

「……っ」

 

 アベルがハゲ頭の男を地面に叩き伏せ、何やら尋問している。一体どのような会話があったのだろうか。必死の形相になったアベルが短剣を振り上げた、その瞬間。

 

「やめときなぁ! この嬢ちゃんがどうなってもいいのかぁい?」

 

 ルミを押さえつけるガリガリの男が、喜悦を隠しもせずに叫んだ。

 短剣を振り上げた姿勢のまま、アベルがゆっくりと視線をこちらに向ける。首元にナイフを突きつけられ、身柄を拘束されたルミと視線が絡む。彼の瞳に後悔と絶望が浮かぶのが、はっきりとわかった。

 

「……!! しまっ、た」

 

「ご、ごめん。足手纏いにはならないって、言ったのに……っ」

 

 ルミのせいだ。ルミのせいで状況が悪化した。それなのに、ただ涙を流して謝ることしかできない。

 

「その子から手を離──ッ!?」

 

「俺のことを忘れるなよッ! 寂しいじゃねえか」

 

 義憤に満ちた表情で叫ぶと同時。押さえつけられていたハゲ頭の男が、一瞬の隙を突いてアベルに肘鉄を喰らわせた。体勢が崩れ、押さえが効かなくなったチャンスを男が逃すはずがない。

 すぐさまアベルを蹴り飛ばし立ち上がる。地面を転がった彼を、そのまま逆に拘束しようとして──

 

「な、めるなぁ!!」

 

 けれど、ただ許すアベルではなかった。体幹と足の力だけで起き上がり、勢いのままに頭突きを叩きつける。ハゲ頭とアベル、双方の額がぶつかり合い、双方の顔に苦痛が浮かぶ。

 だが仕掛けたアベルの方が復帰は早い。追撃はしかけずに、手にした短剣を構えたまま距離を取るように飛び下がった。

 

 ちょうどアベルを挟んで、ハゲ頭とルミたちが向かい合うような状況だ。血生臭さに塗れた中で、殺人鬼の二人は笑い、アベルは苦しげに歯をかみしめ、ルミは恐怖と情けなさに涙を流す。

 

「助かったぜ、“ボク”。これで形勢逆転だ」

 

「ひっひっ、任せろよ。“ボク”と契約したよしみだろぉう? それに、ゲームはクリアを目指すものだからなぁ」

 

「なん、なんだ……? あんたらは」

 

「NPCには理解できねえよ。お前らは玩具でしかないんだからな」

 

 単語の意味は理解できるのに、文章として上手く認識できない。得体の知れない不気味さにアベルは顔を顰めていた。

 ルミだって同様だ。プレイヤーと名乗り、アベルをNPC呼ばわりする様子だけ見れば、『Drain Universe Online』の世界に転移してしまった日本人のようにも思われる。だが、彼らからは困惑を感じられない。自分の意思でここに立ち、無差別な虐殺を行っているのは間違いないだろう。

 

 だから理解できない。プレイヤー。NPC。二重操作。殺人を“レベリング”と宣う異常性。

 まるで画面の向こうからゲームを楽しんでいるような振舞いにもかかわらず、彼らは確かにこの世界が生きていることを認識している。そうでなければ、ルミはともかくアベルと会話するはずがない。

 設定されたメッセージしか話さないNPCだと本当に思っているのならば、言葉を投げかけるはずがないのだ。

 

 彼らはアベルも、血の海に沈む人々も、皆が自分の意思をもって生きていることを知っている。その上で、ゲームに興じるかのように殺していた。

 

「さぁて、どうするかねぇ」

 

「さっさと要求を言え。その代わりにルミを、その子を解放しろ!」

 

「へへっ、女の子想いの素晴らしい人格者だなぁ。でも、どうしようかなぁ?」

 

「ひぃっ……!」

 

「──ッ! これ以上彼女に何かしたらあんたの首を跳ね飛ばしてやるぞ!?」

 

 切られた。皮一枚を切られただけだ。けれど、自分の首元から鮮血が滲んでくるのを確認してしまった。このガリガリの男の気分次第でルミの命はない。

 動けなかった。何もできなかった。どんな行動でも彼の気分を害し、死に繋がるようにしか思えない。その恐怖がルミの身体をこれ以上なく麻痺させていた。

 

 奥歯が割れるのではないかと、本気でそう思わされるほどに、アベルの表情に怒りが湧き上がっていく。

 

「良い顔だ。最高のエンタメだぜぇ……! だったら──抵抗するなよぉ?」

 

「くっはははははぁっ!」

 

「ぐぁ……っ」

 

 ハゲ頭の男が、アベルを大振りでぶん殴る。咄嗟に反撃しようと短剣を構えるアベルだが、人質に取られたルミを一瞥して──無防備に再び拳を受け入れた。

 

「コンボ練習にちょうどいいぜ! おらおら、ちゃんと立ってろよ!? 倒れるんじゃねえぞ!!」

 

「ぐ、ぉそ……っ、たれ……!」

 

「あ、アベルっ!!」

 

 殴られる。顔も腹も、全身のあらゆる場所を。アベルは一切の抵抗なく殴られ続ける。残虐な光景を前に息を呑むルミと対照的に、ガリガリの男は気味の悪い笑い声をあげて見せていた。

 

「けひひっ。悪役ムーブってのも楽しいなぁ! なあ、嬢ちゃんのせいだぜぇ? 嬢ちゃんがまんまと俺なんかに捕まるから、あのNPCはボコボコにされてるんだぁ……!」

 

「……っ! や、やめてくれよ! どうして、こんなこと!?」

 

「レベリングって言っただろぉ。経験値をだな」

 

「痛めつける理由にはなってないッ! 経験値が欲しいなら……そもそもこれはゲームでもなんでもないけどっ、魔物とか動物を狩ればいいだろ!? なんでわざわざ人を……」

 

「…………」

 

 激情が僅かに恐怖を上塗り、ルミは怒りのままに吠えた。そんな少女の言葉を受けて──再び別の何かがガリガリの男の表層に現れる。彼の姿のまま、別の誰かが会話を引き継ぐ。

 

「君、どういう立場? ゲームが何かを理解してるよね」

 

「僕だって知りたいよ……! ネトゲで遊んでたら急にこの世界に飛ばされただけで、何もわかっちゃいないっ!」

 

「へぇ。偶発的な事故、にしてはおかしいな。本人に自覚がないってことは……この世界に原因があるか。全く、ただ第四の壁を壊せば面白いってわけでもないのに」

 

 やはり言葉の意味をはっきりと咀嚼することは叶わない。この世界をゲームとして扱う姿勢はともすればルミと同じ立場にも思えるのに、致命的なところで差異がある。

 何よりも、見た目通りの男の人格と、裏側で話す少年の人格。二つの意思が共存している姿は歪で悍ましいものだった。

 

「ゲームマスターにでも確かめないと君の状況はわからないかな。まあ、安心してよ。あっちの中ボスを倒したら君は解放するから。PKは趣味じゃなくてね」

 

「僕のことなんかいいっ……! すぐにあっちのハゲ頭にアベルを殴るのをやめさせて!」

 

「うーん。なんであのNPCに固執するの? 別にいいじゃん。中ボスだったとしても、所詮は低次元的存在だよ」

 

「NPCなんかじゃない! 君たちに殺されたあの人たちも、アベルも、確かに生きてるだろ……! ゲーム扱いなんてするな! この世界はもう現実なんだ!」

 

 恐怖を噛み殺しながら主張する。どんなに情けなく涙を流しても、これだけは譲れない。

 ルミを助けてくれたアベルも、集落の宿で接した住民たちも、今感じる命の危機も。何もかもが本物だ。この世界とルミたちが遊んでいたゲームに酷似していようと関係ない。

 

 ──“真雪”が“ルミ”になって立っているこの世界は、確かに生きている。

 

「だから、もうこんなことはやめてよっ! 遊びたいなら誰の迷惑にもならないようにしてくれ!」

 

「……おかしい、ね」

 

「何が……?」

 

「“ボク”にとっては、この世界なんてただの遊び場だ。ろくな知性もない生き物を狩ったり、世界を壊して遊んでるだけだよ。君たちと同じさ」

 

 違う。同じわけがない。少なくともルミは無用な虐殺など好まない。

 

「どこが同じなんだよ!? 僕はこんなこと……」

 

「同じだよ。だって君、動物なら殺していいと思ってるでしょ?」

 

 言葉に詰まる。迷いながら紡ぎ出された意思では、恐怖に打ち勝ち音にすることは叶わない。だって、動物でも狩っていろとは、ルミ自身が発した言葉なのだから。

 

「考えたことないの? この世界の魔物や動物には、人間みたいな知性があるかもって。“ボク”は……考えたことなかったな。この世界のNPCにまともな知性があるなんて」

 

「そんな詭弁で正当化を……っ」

 

「確かに詭弁かもね。でも、“ボク”はNPCなんかに人権があるとは思い付きもしなかった。だから倒して遊んでた。君だって、動物に人権があるとは思わなくて、代わりに倒されても良い存在だと思ってたんだよね」

 

 吐き気がする。この男を、少年を、決して肯定してはならない。それは彼が邪悪だからではなかった。彼の主張に、同意できてしまう部分があるからだ。

 ゲームで遊ぶプレイヤーの中で、敵を倒すことに疑問を抱く人間がどれほどいるのか。多くのプレイヤーは当たり前のように敵NPCを虐殺し、レベルを上げて、ボスを倒す。ただ娯楽のためだけに。まさか電子データに知性があるとは考えもせず。

 

 彼も同じだ。話のスケールが違うだけで、口にしていることは同じだ。ルミにとっては生きているように見える世界でも、少年にとってはゲームのために用意された箱庭でしかない。そこで敵を倒すことに、疑問が介入する余地は一切存在しない。

 彼は遊ぶように人を殺して回っている。

 

「正直、君のセリフなんかも“ボク”にはそういう演出に思えて仕方がないんだ。アバターとしてロールプレイするならともかく、こうやって自分の言葉で会話するのは奇妙な感覚だよ」

 

「君は、何なんだよ……っ!?」

 

 悍ましい。恐ろしい。ルミが間違っていた。中途半端に同じゲーマーのような単語を操るせいで錯覚を起こしていた。

 彼は何も誤認していない。この世界がゲームだと思い込んでいるから虐殺しているわけではない。生きていると理解したうえで、虐殺を決行する異常者でもない。少年にとっては──この程度の世界は生きているとは言わないのだ。

 

 ただ人の形をした玩具が、高度なAIで会話のような何かをしているだけ。それに応じるのは、全力で世界観に没入し遊ぼうとしているから。少年にとって、それだけのことだ。

 

 その価値観に基づけば、“ルミ”さえもこのゲームを面白おかしくするための演出の一つでしかない。

 

「さっきも言ったでしょ」

 

 ガリガリの男が笑う。歯を剥き出しにして、屈託のない表情を作り出す。その姿に無邪気な少年の姿が透けて見えた気がして。

 

「──“ボク”はプレイヤーの一人さ」

 

 実に楽しげに、そう名乗った。



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第九話 少女の足掻き

 この世界は過酷だ。たった四日間過ごしただけで、ルミはそう確信していた。

 転移直後の悪魔による襲撃。二度目の悪魔との遭遇、死闘。そして自らをプレイヤーと名乗る正体不明の殺人鬼。

 自身は人質にされ、アベルは無抵抗に殴打され続けるしかない。

 

 たったの四日間だけでこれだ。家に帰りたい。平和な日本に元の男の身体を取り戻して帰りたい。だが、どれだけ祈っても、現実逃避以上の効果はなかった。

 

「ぐっ、ぁ……」

 

「ははっ! 随分と頑丈だな! 根性は認めてやるよ!!」

 

「アベル、僕のせいで……っ」

 

 既に数え切れないほどの拳を受け、アベルは死に体だ。二本足で立ち続けていることが奇跡のように思える。

 

「動くなってぇ。あいつが死んだら解放してやるって、“ボク”が言ってたろぉ?」

 

「……ひっ」

 

 助けないと。せめて、人質にされ続けることだけは避けないと。ルミがこうしてガリガリの男にナイフを突きつけられ続けている限り、アベルは抵抗を許されない。

 けれど、か細い悲鳴を上げることしかできない。動け、動けと必死に言い聞かせても、恐怖で四肢は固まったままだった。

 

 情けない。本当に情けない。アベルは恩人だ。この世界に突然、ゲームアバターの姿で転移させられ、直後に小宇宙の崩壊に巻き込まれて友人と離れ離れに。そして森で遭難状態だったルミを助けてくれた。

 悪魔に再び襲われたときには、身を挺して守ろうとしてくれた。

 

 間違いなく、恩人なのだ。なのに、ルミの余計な一言で戦いに赴き、そしてルミの失態でこうして命の危機に瀕している。

 

「なさけ、ない……っ、なんで僕はこんなっ、こんなっ……!」

 

 足を引っ張るどころではない。恩を仇で返してばかりだ。

 言い訳ならいくらでもできる。修羅場慣れしていない日本人だから。戦い慣れている殺人鬼に勝てるはずがないから。こんなか弱そうな少女にされてしまって、身体を動かすことさえ違和感があるから。

 だが、どれも慰めにはならない。今確かなことは、ルミがどうにかしなくてはアベルが死ぬということだけだ。

 

「嫌だ……っ、僕のせいで死なせるなんて……っ!」

 

「ひはっ、暴れでもするかぁ?」

 

 説得は期待できない。時間がないのもあるし、この殺人鬼たちは──或いは彼らの背後にいる誰かにとって、この世界はゲームでしかない。そんな連中と言葉を交わしてもろくにわかり合えないとは、先ほどの問答で確かめていた。

 戦うしかない。命を握られた状況から脱出し、ルミの手で叩き伏せるしかない。

 

 ──動け。

 

 けれど、どうやって。ガリガリの男がその気になれば、ルミの喉元を切り裂いて終わりだ。たった一手でルミは死ぬ。

 

 ──動け。

 

 可能か不可能か以上に、その事実が恐怖となってルミの自由を奪う。恩人が死にかけているというのに、我が身可愛さで身動きができない。

 

 ──動かないといけないんだ。

 

 恐怖も涙も押し殺せ。アベルが殺されるのだ。そっちの方がよっぽど恐ろしいと、自分自身を騙せ。

 

「ふぅ……っ! ふぅ……っ!」

 

 怖い。涙は結局止まらない。死の気配にとめどなく溢れてくる。怖い。恐ろしい。だから──動かなくてはならない。

 

「およよぉ?」

 

 殺人鬼は完全にルミのことを非戦闘員だと舐め腐っていた。だから、こうしてナイフを持つ手首を握っても、特にリアクションを起こさない。無駄な足掻きだと嘲笑するだけだ。

 

「ああぁっ、あああぁぁあああああぁああ────ッ!!!!!」

 

「……んなっ!?」

 

 その油断に付け込み、ルミは全力でナイフを引き剥がしにかかった。火事場の馬鹿力も合わさり、信じられない膂力で指を引き剥がし、ナイフの主導権を強奪しようと試みる。

 見た目はか弱い少女であっても、この身体はゲームアバターの“ルミ”だ。技術やスキルは再現されてなくとも、単純な身体能力は現実となっていた。

 

 ──そこらの男性よりも、握力だけなら勝っている。

 

「へへぇ……! その小さな手で、随分な怪力だなぁ!」

 

「う、ああぁっ! ああぁぁああっ……!!」

 

 会話に興じる余裕なんてあるはずがない。一瞬でも力を緩めれば、男にナイフを取り返される。一度抵抗を試みたルミに手心を加えてくれるとは思えない。きっと、今度こそ首を切り裂かれて殺されるだろう。

 

「は、な、せえぇぇぇ……!!」

 

「それはできない相談だぜぇ……!!」

 

 ルミの握力は強い。けれど、それは常識の範疇の話だ。魔法の存在する世界をゲームと呼ぶ殺人鬼。彼の力だって平均よりも遥かに高い。不意打ち気味だった最初こそルミが勝っていた力比べも、やがて拮抗して状況が膠着する。

 指先が限界まで酷使されて悲鳴を上げる。けれど、負けてしまえば痛いでは済まない。

 

「うぅっ、あああぁぁ……っ!」

 

 ダメだ。このままでは負ける。殺されてしまう。徐々に切っ先が喉元に迫ってくる。

 死にたくない。嫌だ。こんな意味もわからないまま、終わってしまうなんて。どうしてルミがこんな目に合わなくてはならない。死にたくない。殺させたくない。

 退け。この男たちのせいだ。この男さえ引き剥がしてしまえば。

 

 退け。死にたくない。退け。退け。退け。退け───

 

「退けって、言ってるんだよぉぉぉッ!!!!!!」

 

「へっ、現実改変……いや魔法かぁ……! “ボク”と契約してる俺にそんなも……へぁ!?」

 

 瞬間、何が起きたのかはルミにだってわからなかった。ごっそりと身体の内側から力が抜ける。まずい、押し負ける。そう怯えた直後に、負荷が消えた。

 背後からルミの首に腕を回し、ナイフを突きつけていたガリガリの男。彼が凄まじい勢いで突然、ルミから弾かれたのだ。ナイフはその場に置き去りになり、ルミの手の中に。男は受け身も取れずに平原を何度も跳ねながら転がっていく。

 

 何が何だか把握できないが──これは好機だ。

 

「アベルッ!!」

 

「……良く、逃げてくれたっ」

 

「おいおい、あいつ女一人も捕まえておけねえのか? どうなってるんだよ、“ボク”」

 

 ひたすら打撃を耐えていたアベルの瞳に、再び意思の光が灯る。血塗れになりながらも彼の心は折れていない。むしろこれまでの鬱憤を晴らすために、強い覚悟が現れていた。

 

「やってくれたな、くそ野郎め」

 

「はっ、けどそんなボロボロな身体で俺に勝てるとでも、思ってるのかァ?」

 

 ハゲ頭が両手の拳を叩きつけて吠える。奴の言う通りだ。どれほどアベルの心が強くても、身体は既にズタボロだ。加勢しなくては。ルミなんかでも助けになるのならば──

 

「ルミッ!」

 

「──っ」

 

「大丈夫だって悪魔の時にも言ったはずだ。ここは、任せておけ」

 

 血塗れでどう見ても満身創痍な姿。なのに、静かに宣言するアベルには、絶対に勝つと信じさせる何かがあった。

 固唾を呑む。ルミが脚を止めた間に、ハゲ頭は獰猛な笑みを携えてアベルに肉薄していく。

 

「女に格好つけてる余裕は、ないんじゃねえのか!?」

 

「あるんだよ、単細胞──ッ!」

 

 大振りの右ストレート。それがアベルの脳天を貫く寸前、彼は左足を半歩引いて回避して見せた。両者がにやりと不敵な笑みを浮かべる。

 

「避けられるのは想定済みだぜ!」

 

 手首を押さえて再び投げ飛ばそうとするアベル。対して、ハゲ頭は左足を軸に右回転して、即座に手を振り払う。その勢いのままに後ろ回し蹴りをアベルの後頭部に叩き込もうとして。

 

「それは──こっちのセリフだ」

 

「なぁッ!?」

 

 不意打ちのような一撃を、アベルは姿勢を低くすることでやり過ごして見せた。無理な体勢のまま連撃を放ったハゲ頭は、すぐに動くことはできない。脚を引き戻すための時間は、達人同士では致命的だ。

 

「ルミッ! ナイフを投げろ!!」

 

「う、うん!」

 

 言われてすぐさま、二人の元へナイフを投擲する。咄嗟の指示で投げた刃物は狙いを僅かに逸れ、二人のやや頭上を飛ぶ軌道を取った。

 横目でそれを確認しながら、アベルが動く。隙だらけのハゲ頭の顔面に拳を叩き込み、怯んだ彼の頭を両手で掴んだ。そのまま地面を全力で蹴り、ハゲ頭を土台に上下反転する。

 

 天高く伸ばされたアベルの長い足が──ルミの投擲したナイフを足首で挟んで捕らえた。そのままハゲ頭の背中側に着地。流れるような動作でナイフを蹴り上げ、右手に持ち替える。

 ハゲ頭は完全に対応が遅れている。すぐさま振り返っても、既にアベルはナイフを後一手で突き出せる体勢を整えていた。

 

「くっ、そ……がぁ!?」

 

「……っ」

 

 人が死ぬ。いくら悪人とはいえ、人間が命を散らす予感にルミは反射的に瞳を固く閉じて──

 

「──終わりだ」

 

「が……ほぁ……っ!」

 

 苦しげに咳き込む声に、ゆっくりと瞼を開く。アベルはハゲ頭の背中を、ナイフで貫いていた。

 大量の血を吐き出しながら、ハゲ頭は忌々しげに、それでいて静かに笑った。

 

「ああ、こりゃ……死んだな」

 

「当然の報いだ。あんたは人を殺し過ぎた」

 

「は、は……くそ。もう声は聞こえねえ。“ボク”との契約は失敗だったな」

 

「契約……おい、あんたの中にいるのは一体……?」

 

「説明なんぞ出来ねえさ。あれは俺らには本来、認識できない存在だ。プレイヤーって名乗ってたが……どういう意味何だか。俺からしてみれば人間と同調して行動を誘導する、観測者ってところだな」

 

 遠目に聞こえる二人の会話。相変わらず理解しがたい気味の悪い言葉の数々。アベルが一つの予測に表情を歪ませる。

 

「誘導するって……あんた、まさか」

 

「ごはぁ……っ。いや違う……ぞ。人を殺したのは、俺の意思で、もある。操るとは……違、うんだぜ……が、はっ……! 奴ら、は……俺らと契約して……“同調する”。俺は俺のまま、“ボク”にもなって、いた……」

 

「…………」

 

「理解、出来ねえよなぁ……ッ! ああ、無理だ……俺みたいなアバターにも、お前みたいなNPCにも、奴らのことは……理解できやしねえ……」

 

 命の鼓動が消えていく。紅い鮮血の流出が引き金となって、ハゲ頭が死んでいく。しかし、残された時間が僅かなことを理解した上で、ハゲ頭は再び笑って見せた。

 

「せいぜい、足掻けよ……。もう……この宇宙は目を付けられたんだ……! 遊ばれない、ように……気を付け、な……」

 

「ご忠告、痛み入る」

 

「がぁ……っ」

 

 アベルがナイフを引き抜く。最期にハゲ頭は大きく痙攣して、平原に転がった。自然の緑色が赤く赤く染まっていく。自らが殺した人々と共に、殺人鬼の片割れは命を落とした。

 それを見届けて、アベルは尚もナイフを構える。ハッとなってルミも振り返ると、ガリガリの男がアベルを遠巻きに睨みつけていた。まだ、もう一人の殺人鬼は生きている。

 

「あーあぁ。せっかく“ボク”と契約した仲だったのにぃ……」

 

「もう仲間はいない。次はあんただ」

 

「受けて立つぜぇい……って俺は言いたいところなんだけどよぉ。アバター全ロスは嫌だって、“ボク”がなぁ」

 

 緊張を抱きながら身構えるルミ。静かに切っ先を向けるアベル。二人の予想に反して、ガリガリの男は背を向けた。

 

「これだけのことをしておいて、逃げる気か?」

 

「俺だって敵前逃亡は嫌だけどよぉ。お互いに痛み分けってことにしておこうぜぇ? あんたが虚勢張ってるのは丸わかりだけど……そっちの嬢ちゃんが土壇場で何をするか、わからないもんでぇなぁ」

 

「…………」

 

 汚らしい視線がルミを見定めるように貫く。生理的な嫌悪感に思わず身体を隠すように腕を回すと、ガリガリの男は引き笑いのような声を上げた。

 

「ひっへっへっ。もうすぐ正式サービスも開始だぁ。そうなったら……また楽しませてくれよぉ」

 

「……君は」

 

「ああ、それと忘れてた」

 

 口調が切り替わる。同じ瞳、同じ口なのに、肩越しにルミを見る姿は全くの別人のようで。

 

「“ボク”の名前はイーサバー。フレンド登録をよろしく頼むよ」

 

 最後まで訳のわからない言葉を残し、ガリガリの男はルミたちの元を去っていった。周囲を見渡す。死体にされてしまった被害者の集団。ボロボロのアベル。そして、ルミ自身。他には何も見当たらない。

 今度こそ危険は去ったと、安堵が浮かぶ。

 

「あっ、れ……?」

 

 途端に足腰から力が抜けた。平原に三角座りで崩れ落ちる身体を唖然と見下ろす。見れば、ルミの手が知らず知らずのうちに震えていた。

 悪魔の時とは違う。一応は言葉の通じる人間との殺し合い。明確な殺意と悪意。一歩間違えればアベルもルミも殺されていた事実に、少女の身体はまともに動くはずがなかった。

 先ほどまで行動できていたのは、張り詰めた緊張や使命感がギリギリでルミの背中を押していたからだ。

 

「く、そっ……」

 

「……!? アベルっ!」

 

 だから、アベルが静かに倒れ込むのを見て、ルミの身体は即座に活動を再開してくれた。立ち上がり、慌てて駆け寄る。仰向けに倒れた彼の姿に、思わず口元を抑えた。

 ボロボロどころでは済まない。顔などの露出している箇所はもちろん、服の下も痣や打撲だらけだろう。きっと骨だって何か所も折れている。どうして意識を保っていられるのか、ルミにはわからない。

 

「す、すぐに救急車っ、いやないんだった……! 集落に戻って……それより王都の方が近いの……? と、とにかく医者の所に!」

 

「おち、つけ……大したことない……ただ少し、休ませてくれ……」

 

「休んだぐらいじゃどうにもならないよっ!」

 

 ルミのせいだ。ルミがいたせいで、アベルはこんな怪我を負ってしまった。悪魔の時と何も変わっていない。ルミが足を引っ張ったせいで。

 

 ──黙れ。

 

 後悔も自己嫌悪も後回しだ。今はとにかくアベルを助けることだけに思考を費やせ。集落までは半日かかる。王都の方がきっと近いが、それでも数時間かかるだろう。しかもそれは万全の状態で歩いた場合の話だ。

 アベルは立つことさえできていない。ルミが背負って歩くか。それも無謀だろう。いくら力が見た目に反して強くても、体格の差はどうにもできない。小柄なルミでは、男性のアベルを背負うのは現実的ではなかった。

 

 本当にこの場で休ませるべきなのか。死体の転がる平原のど真ん中で。

 街道の近くは人間の領域であり、魔物や獣は近づかないと聞いている。けれど、これだけの死体が転がっていて、ハイエナの類が全く寄ってこないなどあり得るのだろうか。

 休んでいる間に獣が寄ってきたとして、ルミ一人で対応できるのだろうか。

 

「無理だ……僕なんかじゃ、アベルを守り続けるなんてっ……! それに、食料だってあまりないよ……っ」

 

 元々、早朝に出発し、日が落ちる前に到着する予定だった。荷物になる食料や水は本当に最低限だ。

 ならば、一体どうすれば良い。

 

「……そう、だ」

 

 その時、一つの考えが浮かんだ。恥ずかしいという気持ち。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いたくなる理性。それら全てを、なかったことにする。

 

「できる、はず。さっきも……良くわからないうちにできたはずなんだ……」

 

「ルミ……?」

 

 刺激を与えないように、慎重にアベルの胸に両手を置く。先ほどガリガリの男からナイフを奪おうとした時、ルミは奴を不可思議な力で弾き飛ばした。ひたすらに“退け”と祈った結果だ。彼はそれを、『現実改変』或いは『魔法』と呼んでいた。

 

「治れ……治れ……っ!」

 

 この身体はゲームアバターの“ルミ”だ。見た目は画面から飛び出したかのように再現され、その身体能力もゲームのステータスをそのまま反映したかのように、常人を超えている。

 声やゲームでは描写されていなかった身体の部位も、完璧に白髪の少女“ルミ”として創られていた。ならば、操れないはずがない。ゲームではキーボードを叩くだけで使えていた魔法を。治療魔法を。

 

 ただルミがやり方を知らないだけなのだ。この身体には魔法を扱うだけの能力が備わっている。それはガリガリの男との攻防で、既に証明されていた。

 

「できるだろ……っ! アベルに迷惑ばかりかけて……君は何も返せないの……? そんなのダメだ! だから──早く、治せよっ!」

 

 不甲斐なさ。情けなさ。それら全てを呑み込み、心の底から叫ぶ。

 その瞬間だ。身体の内側から、腕を通して何かがごっそりと抜けていったのは。同時にアベルの身体を淡い光が包み込んでいく。ゆっくりと奇跡のように、青年から傷が消えていく。

 

「ルミ? あんた、魔法を……」

 

「ふっ、うぅ……まって、今しゃべると……」

 

 自分でもどうやっているのか理解できていない。良くわからないままに、魔法の感覚を途切れさせないために集中する。力が抜けていく。呼吸が苦しくなり、加速度的に体力が奪われていく。

 それでも、アベルの全身から痣がなくなるまで、手をかざし続けて。

 

「ぁっ……」

 

「おい、ルミ!?」

 

 目立った傷がなくなるの確認すると、一気に緊張の糸が切れた。身体を起こすことさえできずに、魔法の光も消え失せ、ルミはアベルの胸元に倒れ込む。外傷はないはずだが、激しい疲労感に指一本動かせない。

 

「見様見真似で魔法を行使したのか? 俺の前に来るやつは、どうしてどいつもこいつも……」

 

 呆れと驚愕。そしてほんの少しの羨望。ルミの耳に届いたのは、そんな声だった。けれど、すぐに優しげな言葉がそれに続く。

 

「でも助かった。ありがとう。今度こそ、後は任せろ」

 

「うん、お願い……」

 

 意識が遠ざかる。でも、これできっと大丈夫だ。大きくて頼もしい手の感触を覚えながら、ルミは闇に沈んでいった。

 



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第十話 一難去って何とやら

 規則正しい緩やかな揺れ。覚醒しつつあった意思がゆっくりと浮上してくる。すぐ前には黒い髪が。そしてその向こう側には遥か高い石の城壁が見える。

 何があったのか。はっきりと思い出せない微睡の中で顔を上げた。

 

「起きたか?」

 

「あ、れ……アベル?」

 

 名前を呼び、ようやく状況を把握し始める。どうやらルミはアベルに背負われているようだった。意識を失ったまま、王都まで数時間の道のりを運んでもらったということだ。

 

「ご、ごめんっ! もう大丈夫だから、僕を担いで歩き続けたなんて……」

 

「慣れない魔力の消費をしたんだ。まだ休んでおけ」

 

「えっ、でも……」

 

「いいから。驚くぐらいに軽かったしな」

 

 言われて、また思い出す。眠るために忘れてしまう事実を。今の自分はルミという小柄な少女だということを。それでも大きな荷物には違いないが、成人男性と若い少女とでは負担はかなり異なる。

 それに四肢に力が入らないのも事実だった。降ろされたところで、結局迷惑をかけるかもしれない。ならばお言葉に甘えるのが正解なのだろう。

 

「じゃあ、もう少しお願い」

 

「ああ」

 

 想像以上に大きなアベルの背中に体重を預けながら小さく頭を下げて。

 本当に彼が大きく感じると、少々嫌気が差した。アベルの体格が特別良いわけではない。それ以上にルミの身体が小さいのだ。こういった時に、自分は性転換してしまったのだと強く突き付けられる。

 早く元に戻りたいと、何度も思わされる。

 

「この壁って王都の外周、だよね? どういう状況なの?」

 

 気を紛らわせるように疑問を口にした。見上げるのはそびえ立つ遥か高い石の城壁だ。少しだけワクワクする。城塞都市なんて、まさにファンタジーの代名詞だろう。

 ファンタジー世界はたった数日でも危険だらけ。今すぐにでも日本に帰りたいが、だからこそこういった景色は楽しまなければならない。

 

「ちょっと検問があるみたいでな。王都に入るのが遅れてる」

 

「検問?」

 

 少し身を乗り出して正面の様子を窺う。恐らくは馬車など大型の荷物も通ることができる巨大な正門。加えて、その脇に備え付けられている人間専用の小さな扉。その双方に大蛇のごとく長い人の行列が伸びていた。

 鎖帷子を身に着けた、兵士と思わしき人物たちが、一人ずつ慎重に荷物を点検している。

 

「どうにも所属不明の武装集団があちこちで報告されてるらしい。大きな都市はどこも厳戒態勢みたいだ」

 

「武装集団って……」

 

「あの二人組はその一部だった可能性もある」

 

 通りすがりの馬車を襲い、そのままアベルとルミに牙を剥いた殺人鬼たち。彼らのような狂人は彼らだけではないと。一体、何が起きているのだろうか。

 ルミや離れ離れになってしまった友人たちのような、日本出身の転移者。

 この世界を正しく理解した上で尚、ゲームとして虐殺を楽しむ“プレイヤー”。

 

 両者は似て非なる存在であり、共にこの世界の異常だ。そこに因果関係が全くないとは思えない。何か原因があるはずだ。そして、その原因は必ず波乱を巻き起こすと、不思議と確信してしまった。

 それにルミが元の世界に戻る方法を探すのならば、きっと奴らと相まみえる機会は今後も訪れる。だが、ひとまず今は──

 

「早く、休ませてほしいね……」

 

「悪いが今日は遅くなりそうだ」

 

「えっ、なんで? もう少しで僕たちの番じゃない?」

 

「ルミの身分証明書がないから手続きがいる。それに……死体を放置したままだ。すぐにでも騎士団に通報しないと」

 

「ははっ、通報はともかく身分証明書とかあるんだ……」

 

 妙に現実的な響きに乾いた笑いが零れた。魔法の存在するファンタジー世界とはいえ、現実である以上は面倒なしがらみからは逃れられないらしい。ほんの少しだけ夢が壊れたような気分だ。

 

「明日は休めるから少しだけ我慢してくれ。日付が変わるまでに帰宅できれば上々だな」

 

「うへぇ……急いで通報しないとだし優先してくれないかなぁ……」

 

「──そうですね。緊急の案件ならばお先に話を伺いますが」

 

 突然かけられる第三者の言葉。ルミは背負われたまま肩を跳ねさせ、アベルはゆっくりと振り向く。そこに立っていたのは、幼ささえ残る金髪の少年だった。ただし厳格な雰囲気を漂わせる制服のようなものを身に着けている。

 あくまで印象だけで言うならば、その制服のデザインは正に──

 

「もしかして」

 

「お察しの通り。ザリアモール王国近衛騎士団所属のカインと申します」

 

「き、騎士団……!」

 

 本物の騎士だ。コスプレでもなんでもない。市民や王のために剣を振るい、盾にもなる正真正銘の騎士団。これもまた非現実を感じるファンタジーだ。ゲーマーとして興奮を抑えられない。

 だが、テンションを上げているのはルミ、ただ一人だけだった。

 

「……カイン」

 

「お久しぶりですね、兄貴。女性を侍らせて仕事とは、随分と良いご身分なようで」

 

「彼女は保護しただけだ。そういう関係じゃない」

 

「おや、そうでしたか。これは失礼を」

 

 片や葛藤を胸の内に抑え。片や皮肉を隠しもせずに。旧知の仲らしき二人の間に険悪な空気が流れる。あまりにも重々しいやり取りに、ルミは静かにアベルの背中へ引っ込んだ。

 

「──騎士を裏切った貴方だ。てっきり気軽な開拓者の立場で、好き放題やっているのだと思いましたよ」

 

「……っ」

 

 単純な憎悪だけでは片づけられない、渦巻くような悪感情の嵐。反論すらせずに、ただ苦々しく表情を歪めるだけのアベル。

 ああ、確かに今日は長引きそうだ。諦めに似た想いを抱きながら、ルミは巻き込まれないように体を小さくさせた。

 

☆ ☆

 

 大陸東部に位置し、最大の勢力を誇る大国。グリデント帝国。その玉座が置かれる帝都バベルに青年は居た。

 

「ふむふむ。素晴らしい。中々に“プレイヤー”が集まってきた」

 

 虚空を見つめ、にやりと嬉しそうに笑う。その姿を遠巻きに見た者たちは、きっと目の錯覚かと誤認するだろう。

 何故なら青年は帝都バベルの城──その頂上に腰かけているのだから。

 

「千、二千……一万は欲しいですねぇ。そうしないとゲームにならない。ね、君たちもそう思うでしょう?」

 

『縺昴≧縺?縺ュ』

 

『莉イ髢薙r蜻シ縺ー縺ェ縺阪c』

 

「ええ、是非ともお願いしますよ」

 

 気安く話しかけるのは腐った肉と無数の目玉の怪物。ルミたちに襲い掛かった悪魔だ。青年は不協和音しか鳴らさない悪魔とどういうわけか会話を成立させている。

 この悍ましい生命体と意思疎通を可能とさせているのに、平凡な青年にしか見えない。そのちぐはぐさは対面する者の心臓を不安で締め付けるだろう。

 

「それにしても……アウラアムの小僧も面白いことをしてくれる。想定外の事態ですが、アドリブこそ腕の見せ所。この世界に取り込まれた地球人とやらも上手くゲームに組み込んでやりましょう」

 

 実に楽しげに、それでいて真剣に、今後の展望を思案する。ああでもない。こうでもない。キラキラとした情熱を浮かべながら、たくさんたくさん考える。

 

「一五〇〇年もかけた大作だ。絶対に参加者には楽しんでもらわなくてはッ!」

 

 夢を追う。己の願望を実現する。そんな純粋な想いに形作られた未来予想。

 

「だから、もっともっと考えよう。この世界を破壊するシナリオを。完璧なゲームを」

 

 この世界の住民からすれば、滅亡の合図ともいえる残酷な計画。

 そんな理想の遊戯を練り込んでいく青年は、幻のように帝都から姿を消していく。

 

 とある世界のゲームは現実へと移り変わり、彼らの遊戯は終焉を迎えた。

 だが、彼の宇宙の侵略者にとって。

 

 ──遊戯(ゲーム)はまだ、始まったばかりだ。 




 ここまで読んでいただきありがとうございます!
 これにて一章は終わりですが、ルミとアベルの冒険はまだまだ続きます。

 ひとまず連続更新はここまで……と思っていたのですが、もう少し更新を続けることにしました。
 片隅にとはいえランキングに載せて頂けたり、ここで一度中断するのは勿体ないので。

 ただ二章はまだ半分程度しか執筆できていないので、僕の筆が更新に追いつく間だけ毎日投稿していきます。なので二章終わりまで毎日投稿はちょっと厳しいかな……。
 それで質を落としては元も子もないのでご容赦ください。

 では、今後とも『TS娘の美しき理想の遊戯』をよろしくお願いいたします!


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第二章 天と地の隔たり
第一話 願わぬ新しい日常


「……朝か」

 

 じりじりと鳴り響く時計の音。そしてカーテンの隙間から差し込む陽の光。その二つに起床時間を知らされ、ベッドの上でゆっくりと起き上がった。乱雑に時計を叩き、けたたましい音を止める。

 その衝撃のせいか、軽くて細い白い房が肩から背中に流れ、寝ぼけた脳裏に疑問符が浮かんだ。数秒間、それが何なのか考え込んでしまい、答えに辿り着くと盛大な溜息を吐いた。

 

「はぁ……。戻ってる、わけないよね」

 

 胸元にぶら下がっている脂肪の塊と、真っ平らな股間をそれぞれ確かめて、今日も少女として──ルミとしての身体で一日が始まったことに辟易する。

 夢の中では男の身体だったのに、と心の中で愚痴りながらルミは部屋を後にした。

 

 廊下に出れば家の中心から物音がする。昨晩に説明されたばかりの間取りを思い出しながらリビングに向かって。

 

「おはよう。早かったな。朝食ならもう少しでできる」

 

「おはよう……いや本当に、何から何まで申し訳ないというか……」

 

 目が合ったのは、家主にしてルミの命の恩人。そして生活費の全てを賄ってくれている青年──アベルだ。異世界で絶賛ニート生活中のルミはへこへこと頭を下げるしかない。

 今日で王都に到着してから二日目。これがルミの新しい日常だった。

 

☆ ☆

 

 時は僅かに遡り、王都に到着した直後。

 年若い近衛騎士のカインの案内で王都に踏み込んだアベルとルミはそのままの足で騎士の詰め所に向かい、そして事情聴取を受けていた。

 質素なテーブルにアベルとルミが並んで座り、その向かい側でカインが次々と質問を投げかけてくる。

 

「それで、ガリガリの男は現在も逃亡中と」

 

「ああ。俺たちが倒せたのは片割れの男だけだ」

 

「魔物か悪魔だかは知りませんが、何かと契約した混ざり物の殺人鬼が野放しに……全く。兄貴は何をしていたんですか?」

 

 ついでに皮肉も。ルミとしても聞いていて気持ちの良い言葉ではないが、二人の関係性や事情を知らないため迂闊に口出しもできなかった。

 何も反論しないのを良いことに、カインの口撃は止まらない。

 

「あなたが本気を出せば二人ともその場で無力化できたのでは?」

 

「俺は、本気だった。手加減なんかしていない。それで一人を仕留めるのが精いっぱいだった」

 

「はっ、どうだか。まあいいです。人相書きを用意したいのでルミさんにはまた後日、協力をお願いします」

 

「わ、わかりました……」

 

 何故、アベルは強く言い返さないのだろうか。彼は優しい青年だが、聖人ではない。ハゲ頭の男と戦っている最中には、攻撃的な発言だって発していた。

 これだけ暴言を吐かれるのならば、少しぐらい反撃しても罰は当たらないだろうに。

 

「あとは……悪魔と遭遇したんでしたっけ」

 

「……これが悪魔の肉片だ。研究施設かどこかに回して欲しい」

 

「腐ってる……わけでもないですね。元からこんな腐肉みたいな見た目を?」

 

「ああ。無数の目玉を全身に埋め込んだ、人間大サイズの腐肉の塊みたいな見た目だった。空中を自在に飛び回る能力と、目玉が光るたびに放たれる魔力の砲撃。それと……魔法の効きが異常に悪い」

 

 最後の情報に関しては、ルミも初耳だった。カインも興味深そうに耳を傾ける。

 

「魔法の効きが?」

 

「風の魔法による切断、強風による叩き落し。どちらも通用しなかったが、耐えたというよりも効力が薄れていたように感じた」

 

「なら魔術は?」

 

「試していない。持ち合わせがなかった」

 

「ちゃんと用意しておいてくださいよ。それとも兄貴の実力なら魔法だけで十分だとでも?」

 

「……すまない」

 

 膝の上で拳を固くする。魔法だとか魔術だとか、ルミにはちんぷんかんぷんだが、アベルが不当な難癖をつけられているのは確かだった。

 やはり事情がどうとか、どうでもよい。アベルが黙っているのならば、ルミが言ってやろうか。怒りのままに立ち上がろうとして──

 

「ルミ」

 

「……っ」

 

「悪い。ただ、口を出さないでくれ」

 

 そんな悲しげな表情で止められてしまえば、部外者のルミは何も口にできなかった。きっと彼らの問題は、そう易々と解決できるほど単純ではないのだろう。

 浮かびかけていた腰を再び椅子に戻す。

 

「これぐらいですかね。騎士団でも調査を続けるので、何かあったらまた呼び出しを……」

 

「待て。まだ残ってる」

 

「まだですか? どれだけトラブルに巻き込まれているんです?」

 

 アベルと視線が絡んだ。説明しろと言うことだろう。ルミの特殊な事情についても。魔法や魔術とやらが存在する世界でも、異世界からの来訪者は聞いたことがないという。

 ならば、国の直下に所属する騎士団に相談するのは、正しい判断だろう。ほんの少しだけ迷って、それでもルミは口を開いた。

 

「えっと、僕のことで……その、僕はこの世界の住民ではありません」

 

「……は?」

 

 アベルに話した時と全く同じ反応だ。そのことに複雑な感情を抱きつつも、外には出さない。

 

「気が付いたら、小宇宙の中にいて……悪魔の襲撃でその小宇宙も崩壊したせいで、この世界の森の中で遭難していました。身体もなぜかその時に全くの別人に、男性だったはずなのにこんな女の子の姿になっていて」

 

「……………………あなたは、元の世界では男だった。けれど気が付いたらこの世界にいて、女性になっていたと??」

 

「えっと、嘘じゃないからね?」

 

 大量の疑問符と共にカインは盛大に顔を顰めた。言語化すれば「何を言っているんだ、この女は」と言った表情だ。

 

「カウンセリングなら紹介しますが?」

 

「頭がおかしくなったとかじゃないって!!」

 

「……まあ、そうですね。少し調べてみましょう。別の世界なんてそれこそ聞いたことありませんが」

 

 恐らく、いや確実に、信じていない。あくまで職務として頷いているだけだ。確かにこんな美少女が本当は男性ですと宣言したところで、誰も信じてくれないのはわかるが。

 ちなみにナルシストではない。純然たる事実だ。

 

「身分の証明はひとまず、ギルドで仮のものでも発行してください。異世界人の国籍なんて、どうすれば良いのか俺は知りませんので」

 

「え、それで大丈夫なの?」

 

「だから知りませんって。兄貴がそこらへんは何とかしてくれるでしょうし」

 

 何故か確信をもって断言するカイン。ルミはただでさえ迷惑をかけ、今後も迷惑をかける予定なのに、更に負担を重ねるのはいたたまれないのだが。

 アベルは対して気にした様子もなく、頷いて見せた。

 

「ならもう遅いので、ここまでにしましょう。先ほども言った通り、また呼び出すことになりますが、ルミさんはどこに泊まるつもりで?」

 

「俺の家だ」

 

「……ああ。確かに部屋が空いてますからね。なら兄貴の家に連絡を寄越します」

 

 これで終わりだ。身分証明書の仮発行とやらは明日で良い、と言うよりもこの時間ではどの施設も閉じているだろう。部屋に備え付けられた時計を見れば、時刻は既に深夜一時を回っている。

 

「じゃあ僕たちは失礼するね」

 

「ええ、夜道には気を付けて。騎士団としては恥ずかしながら、近頃は妙な噂も多いので」

 

 二人で立ち上がると、カインが詰め所の入り口まで再び案内してくれる。中々に息苦しい空間だった。早く横になって休みたい。疲労困憊の身体で詰め所を後にしようとして──

 

「それと兄貴」

 

「なんだ?」

 

「元男だなんて言ってる女性だからって、保護対象に手を出さないでくださいよ?」

 

 最後に特大の爆弾を置いていったと。ルミは盛大に頬をひきつらせた。

 

☆ ☆

 

 その後、丸一日を休養に費やし、二日目の朝。つまり今朝に繋がる。完成した朝食をテーブルに並べるのを手伝いながら、ルミはあくびを零した。

 

「朝は弱いのか?」

 

「慣れない環境と身体であまり寝れなくてさ……ベッドの中でじっとしてると、色々と気になって仕方がないの」

 

 視点の低さやいちいち揺れる胸。活動中でも強制的に気を引かれる状況は多いが、それ以上に就寝時間がルミには辛かった。

 やはり静かにしていると、考え込んでしまうのだ。元の世界に帰れるのか。元の身体に戻れるのか。帰ったところで今後の人生はどうなるのか。

 そして、今の自分が女性なのだと、寝狩りを打つたびに、何なら横になっているだけで突き付けられること。

 

「服の上からだとわかりにくいけど、それなりに大きくて邪魔なんだよ?」

 

「下品だし男の前だ。やめろ」

 

 布越しに自らの胸を揉む。柔らかいが、それだけだ。初めはいちいち緊張していたが、何度も水浴びや着替えを繰り返していればある程度は慣れてしまった。

 男として悲しいのかは、良くわからない。

 

「あ、ごめん……何回も言うけど、自分の身体って自覚が全然なくてさ。……何なら家賃代わりに触ってみる?」

 

「うぐ……っ!? だからやめろ! 別に見返りは求めてないって言ってるだろ」

 

「ごめんごめん」

 

 危うく、アベルが口にしていた牛乳を吹き出しかける。

 普段は冷静な人間が、露骨に狼狽える姿は実に面白い。初心な男性を揶揄う女性の気持ちが少し理解できてしまった。今後も不意打ちとして会話に差し込んでみようと思う。

 

「ルミがどう思っていようが、今のルミは女性なんだ。少なくとも他人から男として扱われることは絶対にない。だから、事情を知ってる俺相手だったとしても、そういう言動は慎め。何時か痛い目を見るぞ?」

 

「頭じゃわかってるつもりなんだけどね……」

 

 例えば風呂場だろうか。アベルの家に浴槽なんてものはないため、身体を清めるには風呂屋に向かう必要がある。そう、公共の浴場だ。

 当然、男性と女性に別れた施設になっている。

 何も考えていなかったルミは自然と男湯に踏み込もうとしてアベルに引きずり出されたし、女湯に入るにも酷い抵抗感を、或いは罪悪感を覚えた。

 

 身体が女性になっているという事実を認識しても、心は受け止め切れていないのだ。どうしても自分が男性のように行動してしまいそうになるし、女性専用の空間に踏み入る際には違和感が伴う。

 結局、女湯で入浴はしたが、全く落ち着くことができずにすぐ上がってしまった。

 

「まあ……すぐにどうこうできないのはわかってる。辛いだろうからな」

 

「正直、どうなんだろ。別に今は彼女とかはいなかったし……女性扱いされるのは慣れないけど、そんなに不快感があるわけでもないし」

 

「でも、男に戻りたいって気持ちは強いんだろ?」

 

「……うん、そうだね」

 

 何処まで行っても違和感が付きまとう生活が長時間続けば、それは十分なストレスになるだろう。今はまだ耐えられても、いずれ辛くなってくるのかもしれない。

 男として生まれてきたのだから、やはりルミは男性なのだ。

 

「元の世界、元の身体。あとはルミの友人か。色々と大変だろうけど、調べていれば何か手がかりは見つかるはずだ」

 

「だといいな」

 

「ただその前に生活の準備をする方が先だ。今日はギルドで仮身分証の発行と日用品の買い出しだな」

 

 そう言われて身体を見下ろす。纏っているのは集落で頂いたワンピースではなく、ダボダボな男物のシャツだ。アベルの私服を借りているのである。

 独り暮らしの男性の家に、小柄な少女が履けるようなズボンはあるわけなく、下半身には何も履いていない。アベルのシャツは大きく、ワンピースのように機能しているが、ギリギリ太ももを隠せるかどうかの丈しかない。

 

 実に目のやり場に困る。そんなルミの姿をアベルが一瞥したことにすかさず反応し、少しだけシャツを捲ってみた。白く眩しい太ももが僅かに晒される。

 

「……だから、やめろ」

 

「ごめんごめん」

 

 こんな美少女のセクシーショットならご褒美なると思っているのだが。これ以上は本気で怒られそうだと判断して、ルミは朝食に手を伸ばした。



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第二話 ハイテクなギルド

 活気にあふれた木造の大きな建築に踏み入る。昼間から酒を飲みバカ騒ぎする一団。真剣な瞳で掲示板を見定める二人組。様々な人々がその空間を作り上げていた。

 サブカルチャーの知識が美化している自覚はある。けれど、この独特の空気はまるで、非現実が現実になったようで。

 

「冒険者ギルドだぁ!」

 

「正確には冒険者・開拓者合同ギルドだ。……そんなに楽しい場所か?」

 

 正面玄関で叫んでいると隣のアベルが呆れたように尋ねてくる。何もわかっちゃいないと、ルミはわざとらしく長い人差し指を揺らした。

 

「冒険者ってのはファンタジーの定番! これで喜ばないのは嘘だよ!」

 

「ルミがどういうイメージを持ってるのかは知らないが、そんな綺麗な仕事じゃないからな。失業者の行きつく先は冒険者か奴隷ってのは良く言われてる」

 

「……奴隷と同列なの?」

 

「危険な仕事だからな。それに資格とかも特に要らない。見返りは大きいが……命の危険を考えるなら奴隷の方がましだ。あっちは名前ほど厳しくはないからな」

 

 幻想が崩れ去っていくと同時に、まあそうだろうなと納得する気持ちもあった。命を賭けて大成を成すと言えば聞こえはいいが、命の危機などない方が良いに決まっている。

 

「それより、早く身分証の発行を済ませる。この後に買い出しもあるんだ」

 

「はーい。というか、ギルドで身分証発行できるの?」

 

「国営の組織だからな。とは言え、誰でも発行できるわけじゃない」

 

 国営なんだと少々驚きつつ、アベルの背中についていく。内部へ踏み込んでいくにつれ、周囲の視線が集まってくるのを感じた。

 危険な肉体労働だけあって女性の数が少ないからか。とは言え、全くいないわけではない。ならばどうしてかと考え込み、すぐ答えに辿り着いた。

 

「ふっふーん」

 

 自慢げに鼻を鳴らす。単純にルミの容姿が整い過ぎているからだ。細く長いしなやかな手足。健康的な肉体は引き締まりながらも、女性らしい柔らかさを確かに持っている。

 顔だって一流だ。小さく均衡のとれた相貌には、緑色の宝石のような瞳と整った鼻筋が付いていて、頭から垂れる長い絹のような白髪がそれを彩っていた。

 服装だって外出している以上、しっかりと身体に見合ったワンピースを身にまとっている。つまりどこにも欠点はない。

 

 “ルミ”という少女の姿は“真雪”が理想として創ったものだ。自信がないわけがない。是非とも見惚れてくれと、胸を張る。

 尤も、それが自分自身となると少し眉を潜めるが。あくまで愛でる対象としての理想であって、男性である自分がなりたい理想ではない。

 

「まあ、可愛くて損はないけど」

 

「変なこと言ってないで早くこっち来い」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 慌ててアベルの元へ駆け寄る。可愛くても高いところに手が届かないところや、こうやって歩幅が小さいのは問題だった。

 

「あらー! ずいぶん可愛らしい子が来たじゃない! 私はミリアよ。冒険者および開拓者ギルドをどうぞ御贔屓にーってね」

 

「初めましてー。ルミ……ってことにしてます」

 

 アベルの横に並ぶと、眼前のカウンターの向こう側から楽しげな女性の歓声が響く。ニコニコとルミを見つめているのは、気の良さげな笑顔を浮かべる美人だった。

 歳は二十と少し程度か。ショートで切り揃えた明るい茶髪が良く似合っている。

 

「なによ、アベル。どこでこんな子を捕まえてきたの?」

 

「保護しただけだ。……どうしてどいつもこいつも邪推してくるんだ?」

 

「そりゃ若い男女で歩いていれば、噂好きな人は好き勝手に想像するわよ」

 

「こんな可愛い子と誤解されてその顔はなにさー」

 

 顔を顰めるアベルに内心でほくそ笑みながら抗議する。元男だと知っている身からすれば、交際していると勘繰られるのは堪ったものではないだろう。

 少なくともルミだったら嫌だ。

 

「とにかく、ルミの仮登録を頼みたい」

 

「はいはい。保証人はアベルでいいのね?」

 

「もちろん。それで頼む」

 

 口を動かしつつも、ミリアはてきぱきと手元の機械を操作し始めた。そう、機械だ。ファンタジー世界だと思っていたのに、当たり前のように機械を扱っている。

 食事のパンが普通に美味しかったり、上下水道どころかガスが通っていたりと、色々と勘付いてはいたが。やはりこの世界の文明はかなり発展している。

 

「魔術道具は珍しい?」

 

「へ? まじゅつ……?」

 

「うん、この道具とかね。魔術道具ってのは、魔力を動力に使った道具のことで、王都じゃキッチンの火種とか冷蔵庫とか、後は照明なんかでどこの家庭にも普及してるけど……田舎の方じゃまだまだだからさ」

 

「電気じゃないんだ……。その、魔術ってのは魔法とは違うんですか?」

 

 機械ではなく魔術道具。とは言え、動力が違うだけで機能は現代日本の家電と変わらないようだった。

 

「良い質問ね。勘違いされがちなんだけど、魔法と魔術は全く違うの。魔法ってのは何でもありな“現実の書き換え”よ。しかも法則も何もない。魔力を消費して、都合の良い結果だけを具現化するトンでも技術。学問が発展すればするほどになんでこんなことが可能なのか、さっぱりわからないって言われてるわ」

 

「え、じゃあみんなよくわかんないけど、魔法が使えてるってことなんですか?」

 

「そうよ。だからスランプに陥ったりなんかして、ある日突然に魔法が使えなくなったって話も聞くわね。なんで使えてるのかわからないから、いつ使えなくなるのかもわからないの」

 

 滅茶苦茶な話だ。てっきり魔法として体系化されているのだとばかり思っていた。しかし、考えてみればルミだって見様見真似で治療魔法が発動できたのだ。

 つまり、知るべきなのは具体的な方法ではなく、出来るという確信なのだろう。

 

「当然、頭の良い人たちはこんな不安定なものに頼れるかぁ! って考えるわけ。それで生まれた学問や技術が魔術なの」

 

「魔術が後なんだ……」

 

「そうそう。魔力を動力にしているのは同じだけど、魔術にはしっかりとした理屈がある。魔力って言うエネルギーを別の熱や光に変換したり、情報を送受信する媒体として使う技術ね。だから誰が使っても同じ道具があれば、同じ結果が起きるし、人の手を離れて自動的に稼働し続ける施設も作れる」

 

 少々難しくも聞こえる説明だが。つまるところ、魔法はファンタジーな理屈のない奇跡の行使であり、魔術は動力が違うだけで元の世界の電気機械とほとんど同質のものなのだろう。

 まだ普及している最中とは言え、そんな技術が確立しているのだ。都市部であれば生活水準は十分すぎるほどに高いのも納得だった。

 

「気になるなら公共図書館で調べてみるといいわ。えっと、名前と生年月日。それと住所は……アベルの家に泊まってるならそっちに聞いて。それを記入してちょうだいな」

 

「はーい……そういえば」

 

「どうしたの?」

 

「いや、何でもないです」

 

 全く意識していなかったが、差し出された書類を手に取ってルミは気づいた。文字が読める。見たことがない言語なのに。

 思えば、今のルミが口にしている言葉も学んだことがない未知の言語だ。あまりにも当然のように会話していたために、母国語である日本語を話しているように錯覚してしまっていた。

 意思疎通に困らないのは助かるが、知らない知識を頭に埋め込まれているのは少々不気味だった。

 

「●×●×年……? えっと今年は一五六三年だけど」

 

「え、あっ、そっかそうだったっ!?」

 

「……?」

 

「逆算して……たぶん一五四二年生まれです。その……特殊な暦を使ってる田舎の出身で……」

 

 ついつい、日本での西暦を書いてしまい慌てて訂正する。咄嗟に苦しい言い訳を吐いてしまったが、幸いにもミリアはそこまで追及してこなかった。

 ただ目を見開きながらルミの顔を凝視する。

 

「え……二十一歳?」

 

「そ、そうですけどっ?」

 

「うっそ。絶対に未成年だと思ってた」

 

「そうですかねぇ……あははは……」

 

 あくまで二十一歳なのは元の真雪としての話だ。この身体はある意味で生まれたてとも言える。

 

「そしたら最後にその水晶に手を置いて。魔力の波長を保存して本人証明に使うから」

 

「へー波長とか人によって違うんですね」

 

 言われるがままに水晶を手を伸ばした。ひんやりとした心地良い感覚を楽しんでいると、徐々に水晶が光を放ち出す。輝くような緑色に。

 それを見て、ミリアは首を傾げた。

 

「あれ? 故障かしら」

 

「何かおかしいんですか?」

 

「本当だったら黄色に光るのよ。なんで緑なんかに……ちょっと貸してもらえる?」

 

 断る理由もなく、素直に水晶を返した。ルミが手を離してすぐに、光は収まっている。今度はミリアが手を置くと、弱々しく黄色に発光した。

 

「ちゃんと黄色ね……」

 

「誰でも色は一緒のはずなんですか?」

 

「ええ、そうね。魔力の保有量で光の強さが変わるけど、色に個人差はないわ」

 

「……じゃあどうして?」

 

「私も学者じゃないからわからないわ。まあ、波長はしっかりと記録できてるし……問題はないかしら」

 

 機械の仕組みを理解している利用者は意外と少ない。魔術でも同じように、ミリアでは原因が思い付かず、ルミは根本的に知識が足りなかった。考えても答えは得られない。ひとまず問題はないと判断され、ミリアは作業を続行する。

 どこかで聞いたことがある印刷の音。少し時間を置けば、一枚のカードが魔術道具から飛び出してきた。

 

「はい、これで組合カードは発行したわ。国営の機関だけあって、身分証明として使えるから大事にね」

 

「ありがとうございます!」

 

 手渡された見た目はまんま運転免許証のカードを眺める。これで最低限の身分は示せるというわけだ。ついでに一応とはいえ、冒険者として登録されている事実が表情筋を緩めた。

 

「ただ、ね。しっかりと覚えていて欲しいことがあるの」

 

 そこに浴びせられる真剣な声。真っすぐにルミへと瞳を向けたミリアがゆっくりと口にした。

 

「それはあくまで仮登録。アベルが保証してくれなければそれすらできない。だから、あなたが何か問題を起こせばアベルに責任が発生するの」

 

「……っ」

 

「それを忘れないで。助けてもらって、生活の面倒まで見てもらって、恩を仇で返したくはないでしょ?」

 

 厳しいながらも、それは当然の言葉で。だからこそ、忘れてはいけないことだった。

 

「わ、わかりました!」

 

「よしっ、良い返事ね! アベル、ちゃんと面倒見てやりなさいよ」

 

「ああ。任せろ。ただ仕事中はどうしても数日家を空けるから……」

 

「そうね。気にかけておいてあげる」

 

 力強く頷き合う二人に、一方的に迷惑をかけるだけのルミは小さくなることしかできない。ぺこぺこと頭を低くするのが限度だ。本当にありがたいが、少しだけ居心地が悪い。

 

「アベルがいないときは、毎日うちの酒場でお昼を食べな。ちょっとした出費だけど……女の子の安否確認のためなら安いでしょ?」

 

「え、でも流石にそこまでしなくても……」

 

「いや俺は構わないから、そうしてくれ。近頃は本当にきな臭い噂が多いんだ」

 

「そうよ、遠慮なんてしないの。どうせこの男、仕事人間で貯金ばかり貯まってるから」

 

「……それは余計だろ」

 

「でも事実でしょ」

 

 気安い言葉の応酬にルミは曖昧に笑った。

 本当にルミは運が良かった。転移した先で、こんな優しい人々に手を差し伸べてもらえている。

 だから──

 

「みんなも……無事でいて欲しいな」

 

 この世界のどこかにいるはずの友人たちも、無事であることを祈った。



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第三話 女性として

「じゃあ、入る?」

 

「あんたの買い物なんだ。好きにしてくれ」

 

 華やかな装飾の店の前で、ルミはアベルと共に並んでいた。男物とは違って、どこかカラフルで種類の多い衣服の数々がガラス越しに展示されている。

 

「入っていいかな?」

 

「だから好きにしろって」

 

「……本当に?」

 

 隣に立つアベルを一瞥する。彼は少しだけ面倒くさそうに息を吐いた。

 

「俺を揶揄ったり好き勝手するくせに、なんでこういう時には照れるんだ」

 

「いや、さ。男二人で女性物の店に入ってる危ない人って感じがして……」

 

「どこからどう見ても、ルミは女性にしか見えないから安心しろ」

 

 女性の身体になっていることは理解している。けれど、社会的な立場として女性であることは受け入れられていない。きっとそれが正しい。

 だから女湯など女性のための場に踏み入ることへ強い抵抗を覚えるのだ。

 

「よし行こう」

 

 すぐに考え方は変わらない。だから視点を変えよう。

 自分の服を買いに来たのではない。ルミという美しい少女を飾り付ける服を買いに来たのだ。

 そうだ。ルミと自分を切り離してしまえば、ゲーム内でアバターを着飾ることと何ら変わりはない。多少は緊張が抜けてくる。

 

 覚悟を決めて、店の扉を開けた。

 

「いらっしゃいませー」

 

 明るい女性店員の声に愛想笑いを向けながら、ゆっくりと店内を見渡す。文化の違いから見たことがない衣服なども多い。まずは無難にズボンでも探そうかと視線を巡らして──

 

「あれ……? ズボンとかないの?」

 

「女性物の店じゃ売ってないんじゃないか」

 

「え、なんで?」

 

「……? ズボンは男の服だろう。冒険者や開拓者なら女性で履いてるやつも時折見るが、あれは専門店の丈夫なやつだからな」

 

「あーそういう……」

 

 この世界の女性の扱いを察して眉根を寄せる。明確に禁止されているわけではなくとも、基本的に避けられる風潮が残っているのだろう。前時代的な考えだが、売っていないものは仕方がない。

 最悪、男物を別の店で調達しよう。早々に諦めて、別のボトムスを探す。

 

とはいえ、ズボンがなければ選択肢は大きく削られている。

 

「スカートかワンピースとかしかないよね……」

 

「今も着てるじゃないか」

 

「これ以外にまともな服がないから着てるだけだし。仕方なく着るのと、自分で選ぶとじゃ難易度が違うっ」

 

「…………そうか」

 

「また面倒くさいとか思ったよね?」

 

 露骨に顔を背けるアベルをジト目で睨みつけ、視線を正面に戻した。やはり抵抗はあるが、身体に見合った服装を選んだ方が良いに決まっている。

 これは自分で履くものではない。ルミに着せるためのものだ。そう己に言い聞かせて、見繕っていく。

 

「無難だけど黒のスカートに白のブラウスで……これから暑くなるの?」

 

「なるな。涼しい格好の方がいい」

 

「じゃあノースリーブかな。でもまだそこまで熱くないし、一枚羽織るものを……」

 

 可愛い娘は可愛い格好をすべきだ。つまりルミも可愛らしい服装を選ぶべきである。そしてあくまでも、それはルミであって自分ではない。

 自慢のアバターを着飾ると考えれば、買い物は楽しいものになってきた。だが、夢中になる前に重要な確認事項を思い出して、同伴者に振り向く。

 

「その……予算は?」

 

「金の心配はするな。……実際、仕事ばっかりで趣味に回す時間も少ないから、貯金は有り余ってる」

 

「じゃあお言葉に甘えて……」

 

 どこか自嘲げにアベルは笑う。実はミリアに言われた仕事人間という言葉を気にしていたのだろうか。一方的にお世話になっているルミとしては下手に触れづらい。

 身を縮こまらせながら、あまり高額ではない服を優先して──それでいてルミに似合うものを選ぶ。

 

「ワンピースって着やすいから一着ぐらい。あと……はぁ……」

 

 憂鬱な気持ちでゆっくりと目的のものを探して。

 それは店の奥側にあった。外からは見えない箇所に設けられたコーナーに、直視しがたい光景が広がっている。

 悪魔のように悍ましいからではない。男性としては、どこか聖域のような立ち入り難い雰囲気を醸し出しているからだ。

 

「……俺は隅で待ってるからな」

 

「なんでさ!? ついてきてよ!」

 

「自分の服ぐらい自分で選べるだろ、二十一歳の男なら」

 

「ぐっ、うぅ……」

 

 ぐうの音も出ない。ここで引き下がらなければ、男として残り少ないプライドを捨て去るしかないだろう。

 状況が状況がだったとしても、ただでさえ人前で涙を見せたりしてしまっているのだ。これ以上は情けない姿を晒せない。

 

「ああ、わかったよっ! 大丈夫、大丈夫、別に不自然じゃないし……!」

 

 けれども、おかしいだろう。男として矜持を見せる方法が──女性の下着コーナーへ突貫することなのは。

 逃げ出したい。通販か何かは無いのだろうか。馬鹿げた思考が浮かぶが、逃げることは許されなかった。まさか一着しかない下着を使い続けるわけにもいかないのだから。

 

 さっさと終わらせよう。だから初手で最適解を選ぶ。

 

「すみませーんっ!」

 

「はーい、何かお困りですか?」

 

「その……下着のサイズがわからなくて……」

 

「なるほど。それならサイズを測りましょうか。一緒に試着もしていきます?」

 

「そ、それでお願いします……っ」

 

 緊張で声が上擦りながらも、どうにか要望を伝えたルミは店員の案内で試着室へと連れていかれた。さほど広くない空間で女性店員と二人きり。

 購入候補の衣服を傍に置いておく。

 

「じゃあ下着だけになってください」

 

「……はい」

 

 初めからわかってたため、動揺は薄い。さっさと観念してワンピースを脱ぎ捨てる。

 

「すぐ終わりますからねー。両手を上げてください」

 

「……はい」

 

 頷く以外の言語を消失し、ルミはされるがままになった。手早く胸に巻かれていくメジャー。

 ふと、この身体になってから誰かに触れられるのは初めてだなと、思い至ってしまい羞恥心が破裂しそうになる。

 

 ここに立っているのはルミだ。自分ではない。そう己を騙そうにも無理があった。鏡に映っているのは確かにルミだ。

 けれど、自分についている胸を膨らみを測られている光景が、すぐ真下に広がっている。他人事ではないのだと嫌でも突きつけられていた。

 

「アンダー●✕……トップ●✕ですね。Bの●✕か……いやB●✕でもいけるかも? こんなに細身なんて羨ましいですね」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「適当に丁度良いものを持ってきましょうか?」

 

「お、お願いします……」

 

 自慢のアバターだから当然です、なんて胸を張る余裕はさすがになかった。魂の抜けた顔のまま待機していると、すぐに店員が戻ってくる。

 実に晴れやかな笑顔で。華やかな色の下着をセットで携えて。

 

「え、あ……っ、ごめんなさい! そういうのじゃなくて動きやすいので……」

 

「恥ずかしがらないで一回試着してみましょうよ? 彼氏さんもこういう綺麗な方がきっと喜びますよっ」

 

「いや僕は誰かと付き合ったりは……ああ、一緒に来てた人も違いますよ?」

 

 一体何を言っているのだと眉を顰め、同行者の存在を思い出す。もう何度目かわからないが、そう勘違いされるのも無理がないとはいえ。

 恋愛に興味津々な若い女性店員には残念ながら、中身が男であるルミに恋人ができることはあり得なかった。

 

「でも二人きりで買い物に来るぐらいには仲が良いんですよね? 試しておきましょうよー」

 

「だからいいですって!! 動きやすい、シンプルなものでお願いしますっ……!」

 

「そうですかぁ……」

 

 あからさまにテンションを落としながら、店員は引っ込んでいった。集落の女性もそうだったが、本物の女性のなんと強かなことだろうか。

 偽物でしかないルミは、彼女らの押しの強さに戦々恐々だ。

 

「こちらが運動する方にも人気なタイプですね……」

 

「そ、そんなに落ち込まなくても……」

 

 のっそりと同一人物とは見えない店員が顔を覗かせる。要望通りのシンプルなデザインの下着を受け取りながら、ルミは頬をひきつらせた。

 どうしてルミが悪いことをした気分になっているのだろうか。

 

「だって私は可愛い子が可愛くお洒落してるのを見たくて働いてますのでー!」

 

「なんか……ごめんなさい」

 

「じゃあこっちを──」

 

「でも試着はしませんっ!」

 

「ちぇ」

 

 背中から先ほどの下着を取り出す動作を見逃さず、ルミは即座に拒絶の態勢を取った。なんて油断ならないのだろうか。

 こちらが乗ってくれることを察したうえではあるのだろうが、顧客相手に随分と大胆な対応だ。

 

 一瞬の隙も見せられない。とはいえいつまでもにらみ合ってるわけにはいかず、店員へ身構えながらも、ルミは早速白い布切れを試着してみた。男性としては悲しいことに、身に着け方がわからず戸惑う事態は既に乗り越えている。

 

「うん……確かに動きやすくていいですね」

 

「きつかったりしませんか?」

 

「大丈夫です。じゃあ同じのを幾つか。これは……買ったまま着ていっちゃいます」

 

「かしこまりましたー。お洋服の試着も終わりましたお声がけください」

 

 騒がしい店員が立ち去っていくのを確認して、ルミは下着姿で大きくため息をついた。僅かに躊躇いつつも、備え付けられた鏡に目を向ける。

 そこに映るのは当然、下着姿の少女だ。化粧はしておらず──そもそもやり方がわからず──小柄な肉体に動きやすさ重視の下着を纏った姿は、普段以上に幼さが前面に押し出されていた。

 

「はぁ……っ」

 

 裸を見た程度で狼狽える段階は通り過ぎたが、それでも哀傷を感じずにはいられない。

 現実から眼を逸らすように手を動かす。先ほど選んだスカートとブラウス。それを持ち上げて。

 

「これ、着るんだよね……?」

 

 ルミに似合うように。そうアバター感覚で考えようとしていたが、こうしていざ着るとなると“自分”と“ルミ”を切り離して考えることが難しくなってくる。

 こんなフリフリが大量に付いた可愛らしいブラウスを選んだのは一体誰だ。八つ当たりのように内心で吐き捨てた。

 

「……っ」

 

 こんな小さくて可愛らしいものを着るのか。必要に迫られたわけでもなく、自らの手で選んで。

 身体が少女になっても、中身は男性のままだ。だから女装をしているような錯覚に陥る。第三者から見れば正しい姿であり、社会的な面ではその正しい姿であるべきとはいえ。

 ルミの心情的には悪いことをしている気がしてならない。

 

「ええい! 男がうだうだとするなっ!」

 

 自分自身に鞭を打ち、羞恥心を外に追いやる。ブラウスのボタンを外し始めて、違和感を覚えた。そしてすぐ理由に思い至る。

 ボタンが左右逆なのだ。そんなところに変な男女差を感じて辟易としつつも、てきぱきと身に着けていく。一度手を止めてしまえば、そのまま恥ずかしさで動けなくなる自信があった。

 

「うっ……なんか思ったよりも短そう……」

 

 そして次はスカートだ。本当に世の女性はこんな頼りなさげな布一枚で外出しているのだろうか。

 集落で貰ったワンピースは、まだ丈が長かったうえに、他に何も着るものがないからと言い訳ができた。アベルの家では、男物のシャツ一枚でギリギリ隠れているような状態だったが、女性の格好をしていないため羞恥心はさほど刺激されなかった。

 実際、アベルを揶揄って遊ぶ程度の余裕はあったわけで。

 

 きっと、女装して街中を歩くよりも、裸で家の中を歩く方がよっぽど抵抗がない。

 

「……えっと、これでいいのかな」

 

 被るだけで良かったワンピースと違い、スカートの付け方なんて知るわけがない。見様見真似でどうにか身に着けて。

 

「はっ、はは……」

 

 見上げた先にある鏡には、“女の子”が映っていた。白いノースリーブのブラウスに、膝が隠れる程度のミディスカート。女性物らしいフリルなどが随所に飾られている。

 どうして彼女はこんなにも顔を赤くさせ、俯いているのだろう。こんなにも似合っているのならば、恥ずかしがる必要なんてないはずなのに。

 

「そうだよ……似合ってんじゃん。流石ルミだねって……」

 

 軽口で誤魔化そうにも限度をとっくに超えている。俯いた先にある可愛らしい服装が。膝を擦るスカートの頼りなさげな感覚が。肩が丸出しなことで、はっきりとする線の細さが。

 あらゆる感覚が“今のお前は女の子なんだ”と訴えてくる。“自分”と“ルミ”が別人なんだと切り離せなくさせてくる。

 

「やめろ……男なら、堂々としなくちゃ」

 

 制御できない感情を抑え込もうと無意識のうちにスカートを握り締める。その動作が“羞恥に悶える少女”を一際強く演出してしまい、すぐさま取りやめた。

 けれど赤くなった顔はどうしようもないし、胸の中に蠢く感情は無視できない。

 

 この姿のままで人前に出るのか。とても耐えられる気がしない。

 

「ルミ、いるか? まだ時間はかかりそうか?」

 

「へぁ!? い、いますよー……試着してたところでして……」

 

「どうした? 急に敬語になってるぞ」

 

「……ちょ、ちょっと見てもらっていい? 変じゃないかなって」

 

 そうだ。どうせ遅かれ早かれ、女装姿は誰かに見られる。ならばアベルに所感を確かめてもらいつつ、適当に揶揄って遊んでやろう。気を落ち着かせるために、そんな計画を思案する。

 

「別に構わないが……俺は女性のファッションなんてあまりわからないからな」

 

「それは僕もだし……変じゃないかだけでいいからさ」

 

 大きく深呼吸する。少なくとも壊滅的な見た目ではない。自信をもって胸を張れば良い。鏡に映る少女をゲームのアバターだと捉えれば、間違いなく似合っていると太鼓判を押せるのだから。

 ゆっくりと試着室のカーテンを開けて。正面に立つアベルが目を見開いた。

 

「ど……えっと、その……」

 

 口が回らない。女装姿を見られた。男なのにこんな女性の格好をしているところを見られた。そんな言葉ばかりが頭を支配して、話すはずだった言葉が喉元で詰まる。

 

「アベル……? あのぉ……何か言ってもらえると助かるっていうか……?」

 

 アベルは何も口にしない。どこかおかしいのだろうか。“ルミ”に似合っていても、元男性が着ているのはドン引きなのかもしれない。

 きっとそうだ。やっぱりもっと無難な服装にしなくては。

 

「ご、ごめん……変だったよね。やっぱ他のに──」

 

「いや待て! そういうわけじゃなくてだな……」

 

 慌てて試着室に引っ込もうとしたのに、アベルによってカーテンを無理やり抑えられた。

 

「無理に気を使わなくていいし、むしろはっきり言ってもらわないと後で恥かくからさ……」

 

「だから違うって言ってるだろ! 本当にルミはツボが良くわからないな……!」

 

 つまり何が言いたいのだろうか。視線で催促すると、アベルは逡巡したように目を伏せて。けれどすぐに意を決して顔を上げる。

 

「凄い似合ってる。驚きすぎて声が出なかっただけだ」

 

「………………そ、そうかな?」

 

 すぐには言葉の意味を理解できず、たっぷりと時間をかけてようやく呑み込んだ。そうなのだろうか。こんな可愛らしい女性の服装でも変なところはないだろうか。

 少しだけ冷静になってくる。これが恥ずかしい格好でなく、似合っている服装ならば、問題ないのかもしれない。

 

「は、ははっ、何その言い方。口説いてるつもり? 僕は男ですけどっ?」

 

「普段と比べてキレがないぞ。少なくとも誰かに白い眼を向けられることはないから安心しろ。良い意味で注目を集めることはあるかもしれないけどな」

 

「まあ、“ルミ”は可愛いからねー」

 

 もう一度、鏡を見る。白いノースリーブのブラウスに黒いスカートで飾り付けられた白髪の少女が所在なさげに佇んでいた。いっそ狙い過ぎなほどに若々しい格好だが、それが少女には良く似合っている、と思う。

 派手過ぎない程度に短い膝丈のスカートやブラウスのフリルが若く可憐な少女の長所を更に押し上げ、さらけ出された肩が細い女性らしいラインを見せつけている。

 

 そう、他人としてみれば冷静に判断できるのだ。なのに、自分自身と重ねてみた途端にしどろもどろになってしまう。それはやはり、己の性別の変化を受け入れられていない証拠だった。

 慣れなくてはいけない。けれど、慣れてしまえば元に戻った時に変な癖がついてしまいそうで怖い。

 

 なら、いっそ、いっそだ。元に戻らなければ。そもそもこの身体になった原因も、元に戻る方法も不明なままだ。だから一生このままだと諦めてしまえば──

 

「……いや、ない。それだけはないや」

 

 自らの言葉で一蹴にする。それはやはり嫌だ。可愛らしい少女の容姿は得をすることも多い。だが、同時に苦労することも多い。

 あの“プレイヤー”に襲われた時だって、こんなか弱い“ルミ”ではなく、元の男性の身体ならば。或いはメインアカウントだった“ブライ”の身体ならば。

 あんなにアベルに負担をかけることはなかったかもしれない。

 

 第一、女性として生きて、死ぬことができるとは到底思えなかった。人並みに結婚願望はあるのに男性と恋愛などできる気がしない。それだけでも男性に戻る動機には事足りる。

 

「ほ、他の服も見てもらっていい?」

 

「ああ。構わないからゆっくり選べ」

 

 だから、別に慣れなくていい。受け入れなくてもいい。ただ少しだけ我慢しよう。いずれ元の身体に戻るまで。



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第四話 初めてのお留守番

 衣服などの生活用品の買い出しを行った日の夜。夕食を取り後は寝るだけという時間に、ルミの部屋を誰かがノックしていた。とは言え、来客の候補は一人しかない。

 特に警戒することもなく、扉に背中を向けたまま声を張り上げる。

 

「どうぞー」

 

「入るぞ。明日からのこ──」

 

 家主のアベルが部屋に踏み込んできて──ルミの背中を見るとすぐさま廊下にとんぼ返りしていった。謎の行動に首をかしげる。

 

「アベル? どうしたの?」

 

「どうしたの、じゃないだろ!? 裸になってるならちゃんと言え!」

 

「あ、あー……そうだった。ごめんごめん」

 

 言われて初めて、ルミは自らの状況を思い出した。濡れた布で身体を清めている最中で、上半身が完全に露出している。染み一つない小さな背中がアベルには丸見えだったというわけだ。

 別に背中ならば良いのではないだろうか。なんて適当に考えていたのだが、確かに後ろ姿とはいえ美少女の裸体が眼前にあったらルミも動揺する。

 

「本当にあんたは……女装は嫌でも裸はセーフなのか?」

 

「うーん。女の子になっちゃったのは不可抗力だから仕方ないけど、あの服を着たのは自分の意思だからさ。そこの違いだと思う」

 

「……俺には良くわからん」

 

 扉の向こう側と会話しつつ、ルミは全身をくまなく拭いていく。可能ならば毎日、風呂屋に通いたいものだが、それなりに高価であるためニート状態のルミとしてはあまり頼みづらい。

 そもそも毎日、入浴するという文化がないのだ。これはこの世界の文化が、と言うよりも日本人が風呂好きすぎるだけだろう。もちろん、ルミも風呂でまったりするのは大好きだ。

 

「服着たからいいよー」

 

「……大丈夫そうだな」

 

「なんで警戒してるの?」

 

「ルミは実は裸のままとか、やりかねないだろ」

 

 アベルの発言のなんて失礼なことか。ギリギリのチラリズムで攻めることは少し考えたが、大事な場所を見せるような真似はしない。ルミの裸はそれなりに高いのだ。

 だから、しっかりと買ったばかりの寝巻に身を包んでいる。薄水色の手触りの良い女性物の寝巻。正直、さっき背中を見られた時よりもよっぽど恥ずかしい。

 

「まあ、いい。それより明日からの話だ」

 

「仕事で家を空けるんだっけ?」

 

「そうだ。四日は帰ってこないと思う。冷蔵庫の中身は勝手に使ってくれ。お金は自由に使えるものを置いていくから──」

 

 一つ一つ確認されていく、留守番中の注意事項。過保護なまでに細かな話にルミは頷きながらも苦笑した。まるで初めての留守番を頼まれた子供のようだ。

 ルミの中身は成人した男性だし、ルミの見た目そのままだったとしても、もう子供ではない。それでもアベルがこちらを気遣ってくれているのはわかったため、素直に耳を傾ける。

 

「──それと昼食は必ずギルドの酒場で取って、ミリアに顔を見せること。あとは……図書館か」

 

 図書館。現状、ルミが自由に使える唯一の情報源だ。こうして生活に目途が立った以上、次にやるべきことは調査。元の世界へと帰還方法と、逸れてしまった友人たちとの合流だろう。

 後者は現状、調査依頼の騎士団に申請する程度でやれることは少ない。前者に関しても期待はできないが、何も行動しないよりはましだった。

 

「場所は覚えたな?」

 

「うん、今日の帰りに寄ったところだよね。最悪、ミリアさんに聞くよ」

 

「そうしてくれ。少しは手がかりがあるといいな」

 

「……そうだね。専門機関に調査してもらえればいいんだけどね。それは難しいから」

 

 何の立場のない人間が異世界から来ました、と名乗り出たところで、大きな組織は動いてはくれまい。地道に手の届く範囲で調べるしかなかった。

 

「もっと大々的な騒ぎになってるかも、って思ってたんだけどね」

 

「ルミの予想だと大勢が転移していると思ってたんだったな?」

 

「そうそう。僕たちと同じ立場の人間はいくらでもいたし。偶然、僕たちだけが飛ばされたとは考えにくいよ」

 

 ルミ以外の転移者は噂すら聞かない。それが妙な点だった。仮にあの瞬間、ゲームにログインしていたプレイヤーが転移したとしたら、最低でも万単位の人間がこの世界に突如として出現したはずだ。

 流石に何かしらの影響は出る。出ないはずがない。だというのに、大都会の王都ですら噂一つ聞きやしない。

 

 転移者がごく限られた人間なのか。或いは何かしらの理由でもみ消されているのか。

 どちらにせよ、調べなくては理由がわからなかった。

 

「まあ、図書館で調べるのは構わない。ただ日が落ちる前には必ず家に帰れよ。あと路地裏には絶対に近づくな」

 

「何それー。子供じゃないんだからさ」

 

「今のあんたは子供じゃなくても女性だ。ルミはどうにも危機感に欠けてるきらいがある。いいな? 怖い目にあいたくなければ、何があっても約束は守れ」

 

「はーい」

 

「本当にわかってるのか……?」

 

 わかっているとも。アベルの言うことは尤もで、夜遅くに女性が一人で出歩くのは確かに危険だ。しっかりと頭に叩き込んでいく。

 初めての留守番。他人の家を借りるということで、注意深くはなるだろうがルミだって大人だ。何も問題はないだろう。

 

 不安げなアベルの視線もお構いなしに、ルミは能天気にそう考えていた。

 

☆ ☆

 

「へいへーい、こっちですぜ。旦那」

 

 人々が寝静まり、天高く月が昇る夜に。その月明りさえ届かない地下の通路を、男たちは歩いていた。先頭を歩くのは背の低く出っ張った歯が特徴的な中年の男性。手を揉み合わせながら背後の男にかしこまる姿は、実に滑稽だった。

 もう一人は彼とは対照的に、堂々と歩く若い青髪の男性。腰には幅広いサーベルを二本差し、見る者が見れば戦い慣れた人物だと即座に看破できるだけの闘志を漲らせていた。

 

「ったく、埃臭くてありゃしねえな」

 

「す、すみませんね。あっしらの商売じゃあまり綺麗な場所は借りれないもので」

 

「ああ、知ってるよ。糞が惨めな弱者を売り払う仕事だろ。そりゃ陰気臭い匂いも漂う」

 

 一切の遠慮ない悪口をぶつけられても尚、中年の男性はニコニコと作り物染みた笑みを絶やさない。それが青髪の男性の機嫌を更に損ねているとも知らずに、二人は歩き続けた。

 やがて辿り着くのは、開けた空間だ。奥には鉄格子によって隔離された大きな牢屋が並べてあって。

 そこに閉じ込められた“商品”を目にすると、青髪の男性は露骨に顔を顰めた。

 

「……ちっ」

 

「へ、へへ。どうでしょうか。近頃はあなた方のご支援もあって繁盛しておりましてな。この若い娘は純潔の元──」

 

「どうでもいい」

 

 必死に媚びる言葉の数々を無視して、牢屋に近づく。確かに綺麗どころばかりだなと、胸糞悪い想いで“商品”を眺めた。

 彼女らは皆、恐怖で怯えた目をしていた。或いは助けを求めるかのような目を。助けようと思えば、青髪の男性にはそれができるだけの力がある。権力で黙らせても良いし、武力で叩き潰しても良い。

 見た目に反して中年の男性は戦いの心得があるようだが、負けるつもりなど毛頭なかった。

 

 けれども。この商売を嫌悪すると同時に、犠牲者を助ける義理などどこにもない。見ればムカつく。だが、それだけ。わざわざ手を差し伸べる温情など、それこそ欠片も存在しなかった。

 さっさと終わらせてしまおう。青髪の男性は胸元から小さな水晶を取り出した。

 

「触れ」

 

「……っ、そ、の」

 

「良いから触れ」

 

 牢屋の中の一人を指名し、水晶に触れさせる。強い黄色の輝きを発し始めた。外れだ。

 

「次はお前だ。別に何も苦しくないから早くしろ」

 

 今度は弱い黄色。これも違う。その次はほとんど光らず判別に苦労したが、やはり黄色だ。また外れだった。

 

 初めはいちいち警戒していた“商品”たちだったが、特に苦痛がないとわかると素直に水晶に触れていく。黄色、黄色。また黄色。外ればかりだと青髪の男性は眉根を寄せる。

 そして最後の一人。

 

「……へえ、こりゃ」

 

 彼女にばかりは流石の男性も反応した。純粋に見た目が整い過ぎているのだ。非常に珍しい緑色の髪。長く伸ばされたそれには傷一つなく、背が高くスタイルの良い彼女を美しく彩っている。

 あまりに欠点の少ない容姿は、作り物のようにすら感じられた。

 

「お前もだ。さっさと触れ」

 

「……っ」

 

 恐る恐る女性が水晶に手を伸ばす。その指が触れてすぐ、変化は現れた。眩しいほどに水晶が輝く。女性が触れている間、ずっとずっと輝きを増し続けていく。

 ──神々しいほどの緑色に。

 

「はッ」

 

「な、何ですか……?」

 

 嬉しそうに青髪の男性は笑う。どこか豪快で屈託がないのに、それ以上の狂暴さが滲み出た獣の笑みだ。

 そのまま男性は、女性の細い手首を掴んだ。

 

「おい、こいつ貰っていく。いくらだ?」

 

「百四十二万ネマでいかがでしょうか?」

 

「わかった」

 

 金額を告げられるや否や、青髪の男性は白金貨三枚を──百五十万ネマを中年の男性に投げ渡す。

 

「釣りはいらねえ。もってけ」

 

「おお! こりゃ助かりますぜ旦那!」

 

 ぐふぐふと気色の悪い顔で白金貨を眺める中年から視線を逸らし、青髪の男性は言葉を続けた。

 

「いいか? 魔力計が緑色に光るやつだ。男でも女でもいい。そいつらを見つけたら連絡しろ。高く買い取ってやる」

 

「か、かしこまりました……しかし、彼女は一体何者なんですかい? 緑色に魔力計が光るだなんて聞いたことがねえんですが」

 

「あぁ? ああ、そうだな。こいつらは……」

 

 別に答える理由はない。だが、隠す理由もなかった。

 僅かに逡巡してから青髪の男性は頬を吊り上げて。

 

「地球とかいう場所から来た──兵隊だ」

 

 怯える女性を他所に、そう断言した。



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第五話 裏切り者と裏切り者

 これでもかと立ち込める紙の匂い。それに包まれながらルミはぐっと背中を伸ばした。周囲を見渡せば本と本と本と、たまに利用客が見える程度。

 ルミは公共図書館で、自身の異世界転移について何かしら手がかりがないかと調べていた。

 

 腰かける机の上に置かれたのは大量の本だ。けれど、一つ一つを確かめていっても、目的の情報は手に入らない。

 元より時間がかかることは理解していたが、成果が乏しいと徐々にモチベーションは下がってくる。

 

「……はあ。やっぱり公共の図書館なんかじゃ大した情報はないよねぇ」

 

 調べていたのは主に魔法と魔術、加えて小宇宙についての資料だ。世界を行き来する手段があるとすれば、魔法や魔術が真っ先に思い浮かぶ。

 そして別の世界と言えば、この世界で度々出現する小宇宙が連想されるだろう。

 

 世界の各地に次元の狭間として時折現れ、自然と消滅していく箱庭世界。内部の環境は様々で、過ごしやすい平原や海岸であれば、魔術で消滅を阻止しながら貴族の別荘に。希少な金属などを含むのであれば、同じく魔術で存在を維持しながら採掘場に。

 そのような形で人間に利用されている。

 

 だが、それらを異世界と呼ぶのは少し難しいだろう。小宇宙は本当に箱庭でしかない。さほど広くはなく、正に“小さな宇宙”でしかないのだ。

 だからルミの異世界転移とはあまり関連がない気がする。

 

「魔術と魔法の本に絞ってみるかな……」

 

 気晴らしのように独り言を零して。ふと視界の端に見知った顔が入り込んだ。この世界での知人など数える程度しかない。

 未だ幼さが残る顔立ち。ややくせっ毛な金髪。近衛騎士団の若手騎士カインだった。

 

「……あなたは」

 

「やば」

 

 視線を向けたのは一瞬だというのに、すぐさま振り返ってきたカインと目が合う。戦う者の勘だろうか。もう誤魔化すことはできず、ルミは小声で悪態を付いた。

 正直、カインへの印象は良くない。アベルとの間に何があったのかは知らないが、恩人に明確な悪意をぶつけるのを見せられて好印象を向ける方が難しいだろう。

 

「奇遇ですね。何か調べ物ですか?」

 

「うん、まあ……そんなところ」

 

 だが、ルミの内心などお構いなしに、カインはこちらに歩み寄ってくると声をかけてきた。

 何故こんな場所にいるのだろうか。騎士なら治安維持にでも勤しんでいれば良いのに。

 

「ルミさんが仰っていた異世界の話なら……今、城の禁書庫の閲覧申請をしているところです。何か進展があったら連絡しますよ」

 

「え、禁書庫?」

 

 意外な人物からの助け舟にルミは驚きの声を上げる。禁書庫とやらがどれほどの知識を蓄えているかは知らないが、公共図書館よりも重要な情報は眠っている可能性が高いだろう。

 

「というか、僕の言ってたこと信じてくれたの?」

 

「あの場ではあまり信用していませんでしたよ。ただ……状況が変わりました」

 

 カインは事情聴取の際、あからさまにルミの発言を疑ってかかっていた。頭のおかしな女の虚言だと言わんばかりに。

 だが、それが本来は正しい反応だ。遭難していた女性の本当は男で異世界の出身ですという発言を、そのまま信じてくれるアベルが良くも悪くも異常なのだろう。

 強いストレスで精神が壊れてしまったと推測されても不思議ではない。

 

 ならば、そんな常識的な受け取り方をしたカインが、今更になって信用した理由とは何なのか。

 

「別に箝口令が出ているわけではありませんが、あまり言い触らさないでくださいね」

 

「まあ、言い触らす友達もこの街にほとんどいないし」

 

「……ならいいです。あなたと同じ異世界から来たと主張する難民を、王国は大勢確認しています」

 

「え!?」

 

 思わず立ち上がる。そのままカインに詰め寄ろうとして。ここが静寂がルールの図書館だと思い出した。席に座り直し、声のトーンを抑える。

 長くなりそうだと判断したのか、カインも隣の椅子に腰を下ろした。

 

「そ、それで確認した人たちは……?」

 

「初めは身分証も持たない、頭のおかしな連中だと門前払いにしていたんですがね。昨日あたりからあまりに数が多く、難民キャンプを設立することが決まりました。身分証を持たない人間は現在、武装を解除したうえで王都の一角に収容しています」

 

「じゃあ無事なんだよね!?」

 

「少なくとも王都を訪れた人間は保護していますよ」

 

 ほんの少しだけ、気が楽になる。この世界の国が、転移者を認知したうえで最低限の生活を保障してくれているのだ。もしかしたらライアンやルーシーたちもそこにいるのかもしれない。

 そして、転移者について王都で噂になっていない理由がようやく理解できた。

 ルミのように幸運にも現地民に保護してもらい、王都に踏み入れる転移者はほとんどいないのだ。大抵が入り口で追い払われ、保護が始まった後も民間人とは関わることなく隔離される。

 通りで噂にならないわけだ。

 

「会いに行ったりすることは……」

 

「それは残念ながら許可できません。出所不明の難民を王都に招くこと自体、少し危険なんです。隣国の工作員の可能性もありますからね。外部との接触は完全に断たれています」

 

「そ、そっか……でも王国が動いてくれたってことは」

 

「少なくとも個人での調査よりも確度のある情報が集まるでしょうね。ルミさんが置かれた状況に関しても、何かしらわかることがあるかもしれません」

 

 すぐに何かが解決することはない。だが、いずれは何かしらの手がかりが発見されるだろう。先行き不安だったところに光明が差した気分だった。

 二度と元の世界に帰れないのではないか。元の身体に戻れないのではないか。友人たちと根性の別れになってしまったのではないか。静かに心を蝕んでいた不安が、ほんの少し解消される。

 

「良かったぁ……っ。でも、それなら僕一人が調べても無駄足かな」

 

「そうかもしれませんが、当事者のルミさんだからこそ発見できる何かがあるかもしれない。それにこの世界の人間じゃないのなら、帰るまでの間の生活のために勉強しておくことも大切では? 文化の違いなども大きいでしょうし」

 

「うっ……確かに」

 

 真面目腐った顔で正論を叩きつけられ、ルミは苦笑しながら肯定する。明らかに年下──現在の少女の身体から見ても尚、年下である──の少年に諭されるとは。

 

 再三繰り返すが、カインの第一印象は最悪だった。けれどこうして二人で話してみれば、彼が悪人でないのは明白だ。

 何処か不愛想な口調。わざわざ騎士団の情報をルミに話してくれる気遣い。その二つはどこかルミの知る青年に似ているような気がする。

 

「わざわざ教えてくれてありがとう。おかげで少しは安心できるよ」

 

「どういたしまして。まあ騎士足る者、困っている方には手を差し伸べるように教えられてきたので」

 

「……それを教えてくれた人は立派な人間だったんだろうね」

 

 カインの眉がピクリと動くのを、ルミは見逃さなかった。想像が確信に変化していく。

 今から口にしようとしていることは、お節介なのかもしれない。余計に彼らを傷つけるだけで終わるかもしれない。それでも、本来ならば優しいはずの二人が険悪な関係を築いているのを、黙って見てはいられなかった。

 口の中が乾燥するのを自覚しつつも、言葉を紡ぐ。

 

「だったらさ、他に困ってる人もいたよね」

 

「どこにですか? 少なくとも手の届く範囲には……」

 

「──アベルだよ。カインくんにあんなこと言われて、凄い困ってたよ」

 

「…………」

 

 黙り込む少年騎士。彼の瞳に明確な拒絶と憤怒が宿る。はっきり言って、少し怖い。ずけずけと言葉を発するカインには年の差に関係なく、気圧されそうになる迫力があった。

 それでも、歯を食いしばって視線だけは逸らさない。

 

「兄貴だけは、例外ですよ。……先に困らせたのはあっちです。俺の言葉で困って、少しでも自分の行いを悔めばいいんじゃないですかね」

 

「でも……」

 

「でも、何ですか?」

 

 有無を言わさぬ怒気。静かで短い言葉なのに、ルミの口を強制的に閉ざさせる。

 

「優しいあの人が俺を困らせるわけがないと? ええ、そうでしょうね。そう思うでしょうねッ。兄貴は優しくて、困ってる人間を見たら助けずにはいられなくて……!」

 

 心の奥底に眠らせていた激情が僅かに溢れ出す。ルミに刺激されたことで言葉となって形作られる。

 

「──だったらどうして、騎士にならない? 少なくとも開拓者なんかより、よっぽど人助けができる仕事のはずです」

 

「それ、は……」

 

「一緒に騎士になろうって約束したのに、どうして……?」

 

 確かに不思議だった。

 人の盾となり剣となる騎士は、誰かを守るための戦士だ。寡黙ながらも心優しいアベルにはぴったりの職業だ。実際、カインの口振りからして、一度は目指したのだろう。

 なのに、どうして騎士にならないのか。目指すことをやめてしまったのか。

 

「……理由があるんじゃ」

 

「だったら話してくれればいい。俺だって説明してくれれば納得します。でも、兄貴にどうして王国試験を受けないのか聞いても、何回聞いても……誤魔化されるだけだった……!」

 

 それもまた正論だった。正直に話せば良いのだ。ただそれだけでカインは納得しただろう。少なくとも当時ならば。

 

「でも、君がそんなんじゃアベルだって話しにくいでしょ……? もう少しだけ……」

 

「知りませんよッ! 兄貴が俺に頭を下げてきたら考えないこともありませんがね」

 

 子供の癇癪。そうとしかルミには思えなかった。大人びているカインの唯一、年相応な我儘がそこにはあった。

 

「大体、何なんですか? 部外者がわざわざそんなことを聞いて?」

 

「部外者でも、あんな喧嘩を見てたら放っておけないじゃん!」

 

「はっ。ずいぶんなお人好しですね。どうしてわざわざ、他人の人間関係を治そうとするんですか?」

 

「どうしてって……」

 

 何か言葉を発しようとして、ルミの小さな口は何も話してはくれなかった。だって自分でも回答が見つからない。どうして、ルミは彼らの関係性に口を出そうと思ったのだろう。

 何となく見過ごせなかったから。

 恩人へ少しでも恩返しをしたかったから。

 誰もが笑っている世界を見たいから。

 

 どれも違う。思いつかない。思えば、悪魔と戦った時もそうだ。どうしてルミは誰かを助けようと──

 

「兄貴なら」

 

「アベル……?」

 

「兄貴なら、どうして人助けをするのか即答しますよ」

 

 彼に向ける憎悪とは正反対な、全幅の信頼に後押しされた発言だった。

 次に紡ぐべき言葉が見つからないルミの前でカインは立ち上がり、背を向ける。

 

「二度と兄貴について聞かないでください。余計なお世話です」

 

「そ、そんな言い方……!」

 

「──自分の行動の理由すらわからない人間に。自分の理想すら自覚できない人間に。説教なんてされたくありません」

 

 もうルミの声は届かない。頑なな少年騎士を呼び止める方法なんて知らない。

 

「異世界について何かわかったら連絡するので、それだけはご安心を」

 

「…………」

 

「では」

 

 業務連絡のように言い残し、カインは図書室を後にしていった。酷く重たい心と体だけが置いてけぼりにされて、ルミは静かに己の手のひらを見つめる。

 

「自分の行動の理由、か」

 

 そんなこと、初めて言われた。ルミの──真雪の人生と言えば、幼稚園に通い、小学校に通い、中学校に通い、何となく自分に見合った高校に合格して、何となく少し頑張れば入れる大学へ進学してきた。

 そこに何か理由を探したことなんてない。ただ“それが当たり前だったから”やってきただけだ。

 

 考え出せばキリがない。現在だって、どうして元の世界に帰ろうとしているのだろうか。内定が取り消しにされてしまうから、友人や家族を心配させたくないから。いくらでも後付けの動機は作れる。

 けれど、はっきり帰りたいと願う大きな理由は、思い浮かばない。

 

 もしかしたら元の世界に帰ろうとしているのだって、ただ何となくでしか──

 

「いや、やめよう……」

 

 これ以上は深みに嵌りすぎる。頭を振って、意識から追い出した。とにかく調査を続けるべきだ。次の本を開いて目を通していく。

 カインとアベルの関係が少しでも改善すれば良いと思ったのに、逆に新たな悩みを抱えることになってしまって。

 結局、その日の調査では、何も手がかりを得ることはできなかった。



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第六話 この世界の歩き方

「ねえ、ミリアさん。ここってバイトとかないんですか……?」

 

 日が暮れ始め夕焼けが王都を覆い尽くす中。早めの夕食を取っていたルミは、机に突っ伏しながら給仕の女性に──ミリアに声をかけた。そのまま一気にジョッキの中身を煽る。中身はアルコールではなくジュースだが。

 悪酔いしたような姿なのは、ただルミのテンションの問題である。

 

「ちょっとどうしたの? 何か嫌なことでもあった? まだ混雑する時間じゃないから話ぐらい聞くけど」

 

 牛肉のステーキを運んできたミリアがそのまま隣に腰を下ろす。こんな美人に愚痴を聞いてもらえるとは僥倖だ。ほんの小さく微笑んで、自虐げな言葉を続ける。

 

「ちょっと思うことがあって……それで、バイトとかってないんですか?」

 

「残念だけどうちじゃ募集してないわね。こんな場所だけど国営だからさ。一応、ここで働いてる人たちってみんな公務員なの」

 

「あーなるほど。公務員……公務員かぁ。立派ですね……それに対して僕は……」

 

 アベルの家に保護されているニートだ。こんなファンタジー世界でまで社会的な格差を見せつけられるとは思わなかった。ますます机に顔が埋まっていくが、料理が冷めたら勿体ないとのっそり顔を上げる。

 人のお金で注文した食事なのだから、一口も無駄にはできない。

 

「事情が事情だから仕方ないわ。そうやって気にしてるうちは大丈夫よ。でも、急にどうしたの? 昼間までは図書館で故郷に帰る方法を探すって張り切ってたのに」

 

「……ちょっと、色々と言われちゃって。そもそも本当に帰る必要があるのか、わからなくなっちゃったんです」

 

 図書館でのやり取り。カインとの会話の中で突き付けられた言葉がずっと頭をぐるぐるしている。いや、他人に責任を押し付けるのは間違いか。

 いずれ自分で気づき、自問しなければならないことだった。自分の行動の理由を。どうして元の世界に帰りたいのかを。

 

「どうしてここに来ちゃったのかも、故郷への帰り方も、個人の力で調べられることじゃない。そもそも、本当に帰りたいって胸を張って言い切れない」

 

「……そう、ね」

 

「だったら……」

 

 ミリアは黙って聞いてくれている。静かにこちらを見てくれている。だから、だろうか。どうにも口が軽くなってしまっていた。

 

「アベルに迷惑かけ続けるよりも、自力で生活できる土台を用意するべきなんじゃないかって……」

 

 王国が異世界からの来訪者を正式に認めたとして、彼らが行うのは真偽と原因の調査までだ。ルミのような転移者たちを地球に帰す方法を探すとは思えない。だって、送り届けることに何のメリットもない。

 結局のところ、日本に帰る方法は自力で見つけなければならないのだ。

 

 だからいつ帰れるのか、現状ではわかったものではなかった。少なくとも一か月やそこらでは済まないだろう。一年、二年、十年──或いは、ずっと。その間、何時か帰るからとこの世界での暮らしを疎かにし、アベルの世話になり続けるのか。

 仮に帰れたとしても、何の恩も返さないままに元の世界に戻るのか。

 

 それが正しいとは、一度気づいてしまえば到底、思えなかった。

 

「それで、バイトでもして生活費の足しにって?」

 

「……はい。後ろ盾も何もない、知り合いもアベルとミリアさんぐらいしかいない中じゃ、ろくな仕事なんてあるとは思えないですけど……簡単なバイトぐらいなら」

 

 無駄に時間があるのもダメだった。いくら何でも丸一日を調査に費やしたところで集中力が続くはずがない。集中が途切れてしまえば関係ないことに思考が向けられてしまう。

 ただ日本への帰還を掲げ、目を逸らした現実に意識が向いてしまった。

 

 ナイフでステーキを小さく切り裂き、そのまま口に運ぶこともせずに黙り込む。そうしていると、酒場の喧騒に紛れてクスクスと女性らしい笑みが鼓膜を揺すぶった。

 ミリアがルミを見て、上品に笑っていた。

 

「な、何ですか? 僕は割と本気で……」

 

「いや違うの、ごめんね。びっくりするぐらい真面目だなって思っただけ。ルミちゃんは育ちが良いのね」

 

「……ごく普通の庶民の生まれですけど」

 

「それをごく普通だって思えてるのが育ちが良いってことなのよ。別にお金持ちだったり、貴族っぽい趣味を持ってたり、そういうことばかりが育ちが良いってことじゃないからね」

 

 今一納得が出来ない。ルミは育ちが良いだなんて、考えたことも言われたこともなかった。

 ルミは──真雪は、そんな高尚な人間ではない。波風立てず周囲に適度に合わせて生きてきただけだ。だからこそ、自己があまりない。明確な人生の目標も何もなく、ただ周りの状況に流されてきた。

 

 それがもう、許されない。異世界に性転換して転移する。そんなあまりに特殊な状況に置かれてしまえば、何となくで生きることなんてできやしない。自らの意思で進む道を選ぶことが求められる。

 目指すべき理想の未来すら、定まっていないというのに。

 

「明後日にはアベルも帰ってくるから、どこかで働くにしてもそれからにしなさいな。アベルだって色々と承知の上であなたを保護したんだから、ちょっとぐらいの出費は気にしてないわよ」

 

「そう、ですかね」

 

「あなたは本当に真面目ね! いいのよ、女の子なんだから少しぐらい甘えておきなさい。その代わりちょっとしたことでいいから恩返しすればいいの」

 

「ちょっとしたことって例えば……」

 

「そうねぇ。帰ってきたときにご飯でも作ってあげたら? ルミちゃん料理とかできそうだし、あなたみたいな可愛い子の手料理なんて男なら泣いて喜ぶわ」

 

 ミリアには本当は男性であることまで話していない。だから当然のように女の子扱いされることに罪悪感を覚えた。

 けれど、男性だからこそ女性の手料理に涙する感情は良く理解できる。問題はアベルがルミの正体を知っていることだが、見た目だけは可愛らしい少女なので勘弁してもらおう。

 

「そう、ですね。他にできることもないし、せめてご飯ぐらいは……」

 

「せめてじゃなくて、貴重な手料理なの! あなたは何というか、どこかちぐはぐね。自分が可愛いって自覚はあるでしょ?」

 

「ま、まあ、ありますけどっ」

 

「だったら存分に使いなさい、可愛いってのは女性の才能よ!」

 

 実に女性らしい価値観に苦笑い。けれど何も間違っておらず、男性と言うのはちょっと女性に愛嬌を振り撒かれただけで許してしまう単純な生き物だ。それで喜んでもらえるのならば、少しぐらいの労力を出し惜しむつもりはなかった。

 

「頑張ります。……アベルが泣いて喜ぶのはちょっと見てみたいですし」

 

「あははは! それはそうねっ! あの仏頂面が崩れるのは確かに見物だわ! そのぐらい美味しいご飯を作ってあげなさいな」

 

 ならば少ない時間で練習しなくては。独り暮らしで最低限の技術はあるが、手に入る食材が日本とはまるで異なるうえ、人様に出せるほど上手でもない。あくまで自分が食べる用の男料理が精々である。

 アベルが泣いて喜ぶ姿は想像すらできないが、そのつもりで臨もう。

 

「ありがとうございます、やっぱり何かやることが決まるだけで少し楽になった気がします」

 

「なら良し。何もしないってのが案外、大変だったりするからね」

 

 本当にその通りだ。どんな些細なことでも良い。何か物事に取り組むだけで気は晴れる。例えそれが問題の先送りだったとしても、まずは精神を休ませないことには何も手が付かないだろう。

 小さく笑って、今度こそステーキに齧り付く。美味しい。柔らかい肉の旨味と、濃厚なオニオンソースが口の中に幸せとなっていっぱいに広がる。

 

 そんなルミの横顔を眺めていたミリアが、ふと思い出したかのように口を開いた。

 

「そうだ。そういえばルミちゃん化粧としてないわよね? 道具がないからとか?」

 

「うぐっ……け、化粧っ? いやぁ……そもそもやったことがないというか……やり方もわからないというか……」

 

 元男性なのだから当然、化粧品なんて触ったことすらない。だがそんなルミの裏事情を知る由もないミリアは目を大きく見開く。

 

「ええ!? それはダメ、勿体ないわ! ルミちゃんぐらい整ってたら軽くでいいけど、その軽くが大事なの! 可愛い子は可愛くする義務があるのよ!?」

 

「そ、そう……なんですか……?」

 

 可愛い子は可愛くする義務がある。大いに同意しよう。けれど自分がその対象に含まれ、化粧を強要されるのはどうにもむず痒さと困惑が先行する。

 だがその曖昧な表情をどう捉えたのか、ミリアの口調はヒートアップする一方だ。

 

「恥ずかしがらなくていいの! 時間なら有り余ってるんでしょ? なら明日の……そうね。お昼ご飯あとね。私が教えてあげるからっ!」

 

「で、でも……」

 

「でもじゃないの! 私が許さないから!」

 

 あまりの圧力に肉を咀嚼しながら仰け反る。歯切れの悪い言い訳しか持たないルミに、ここまで情熱を燃やすミリアを追い払うことなどできなかった。

 けれども。この押しの強さはあくまでルミを気遣ってのことなのかもしれない。根本的に悩みを解決することはできないが、代わりに忙しさで悩む暇を与えないようにしようとしているのではないか。それに気が付いてしまうと、彼女の優しさに自然と笑みが──

 

「私のやつじゃ肌の色とか合わないわね……今日の仕事終わりにギリギリ店は開いてる……? そしたら急いで買ってきて……」

 

「…………」

 

 気遣いではなく、全て本音なのかもしれない。明日は大変だろうなと諦念を抱きながら、残りのステーキを口に運んだ。

 

☆ ☆

 

 翌日。図書館で今日も調査をしていたルミは、そのままの足で冒険者・開拓者ギルドに向かっていた。安否確認のために顔を出すのはもちろん、昨晩の約束があるからだ。

 絶対にルミの意思など関係なくミリアに好き勝手にされる。それも男性ならば一生やらなかった可能性が高い化粧で。ほんの少しだけ憂鬱だが、同時にこうして見知らぬ土地でも他人と親しくできることには感謝した。

 

 ずっと独りぼっちはきっと辛い。ルミだって人並みにおしゃべりするのは好きだ。

 

「……遅くなっちゃうかな」

 

 複雑な感情にため息をつきながらも、ルミは空を見上げた。雲一つない晴天だ。もうすぐ正午と言ったところか。具体的な時刻はわからない。携帯電話は存在せず、手持ちの時計も高価なものなのだから、どこかの建物に備え付けられているものを確認するしかない。

 明確な時間を約束しているわけではないが、あまり遅刻するのも良くないだろう。ちらりと大通りから逸れた裏路地を一瞥する。

 

「ちょっとぐらい、平気でしょ」

 

 ──裏路地には絶対に入るな。

 

 アベルから散々言いつけられていた言葉が脳裏を過る。けれどほんの数分だけ歩くだけで、すぐに別の通りに出る。ルミの脳内マップが間違えていなければ、それがギルドへの最短ルート。それにこんな真っ昼間なのだ。

 大した危険もないだろうと、ルミは薄暗い道へと踏み込んでいった。

 

「えっと……向こうか」

 

 駆け足で進んでいく。日の遮られた狭い空間は涼しくて過ごしやすいものの、人々の喧騒が遠のいていくと徐々に不気味な気配が強くなってくる。

 

「……っ?」

 

 小さな物音を拾い、ルミは反射的に振り返った。小さな野良猫が歩いている。ただそれだけ。

 

「……いそご」

 

 それだけのことにこんなにも心臓を跳ね上げている自分に気づき、ほんの少しだけ後悔した。だが今更来た道を戻るよりもさっさと走り抜けた方が早いだろう。

 更に歩幅を大きく、足を速く動かして──

 

「────」

 

 視界の端に映る光景に、気づいてしまった。若い女性だ。今のルミの見た目よりも少しだけ年上の女性。恐怖に顔を歪ませた彼女が、何者かに手首を掴まれ路地裏の陰に引きずり込まれていく。

 足が止まる。周囲を見渡す。誰もいなかった。ルミ以外には誰も。

 

「だ、誰か……!?」

 

 どうすれば良い。ルミの勘違いなら構わないが、女性の恐怖に引き攣った目は本物だった。助けなければ。大通りに出て人を呼んでくるべきか。それが一番堅実な考えだ。

 けれど、その間に手遅れになってしまったら。最悪の想像をして吐き気がこみ上げてくる。ルミなら今すぐに助けに行ける。ルミだけが、この後の惨劇を予測できている。

 

 ──どうして、見知らぬ人を助けるのか。

 

「……っ」

 

 恐怖と自問がルミを惑わせる。だが、考えている余裕などない。理由なんて知ったものか。この場では無駄でしかない思考を無理やりに振り払って、女性が引きずり込まれた場所を睨みつけた。

 大丈夫だ。見た目がか弱い少女でも、膂力だけなら男性並みにある。悪魔を倒せたし、殺人鬼の拘束だって振りほどけた。土壇場なら魔法だってまた使えるかもしれない。

 

 自分に言い聞かせて、ルミは目的地を変え駆け出した。

 事件現場はすぐそこだ。小さな身体でもあっという間に辿り着き、女性が引きずり込まれたであろうと角に飛び込んで──

 

「えっ? いない……?」

 

 そこには袋路地があるだけだった。乱雑に放棄されたゴミが転がっているだけで、女性はおろか生き物すら見当たらない。

 見間違えたのか。違う。ならば場所が違うのか。それも違う。ルミは女性を目撃してから一度たりとも視線を外していなかった。なら一体、女性はどこに消えたのか。

 

「ははっ、今日は景気がい──」

 

「──!?」

 

 しゃがれた男性の声。背後から響くそれを聞き取ると同時に、ルミは渾身の裏拳を放った。感覚頼りで放った一撃は見事に何者かを捉える。言い切るよりも前に声が途切れ、その勢いのままにルミは振り返った。

 

「ぐっ、ぅお……! このくそアマが……!?」

 

「お、落ち着け……っ、相手は一人なんだ! 脇を抜けて逃げれば……」

 

 顎を押さえ苦悶の声を上げる男性から距離を取る。ボロボロなタンクトップを来た汚らしい男だ。無関係な人間を殴ってしまった可能性も考えたが、その心配はなさそうだ。濁り切った瞳はどう見ても堅気のものではない。

 必要な心配は身の安全のみ。女性の行方は相変わらず不明だが、今は考えてる余裕がなかった。

 

「くそがッ。ただで済むと思うなよ? 調子に乗った女はたっぷりと犯してから売り払ってやんよ」

 

「……ぅえ」

 

 生物として根源的な忌避を抱かされた悪魔。死と言う明確な危険を感じた殺人鬼。彼らとも違う恐怖がチンピラ染みた男性から発せられる。

 それはドロドロとした欲望だ。男性が女性に向ける淀みきった醜い獣の本能。本来は隠すべきそれを一切の遠慮なくぶつけられた。

 

 恐ろしい。それ以上に、気持ちが悪い。悪い意味で女性の身体なんだと思い知らされる。絶対に捕まってはならない。捕まったら、死ぬよりも最悪な目に合わされる。女性としての常識に乏しいルミでも、それだけは断言出来た。

 

「今更謝っても遅いからな──ッ!」

 

 男性が踏み込む。ルミも指先まで緊張を巡らせる。ギリギリまで引き付けてから脇を抜け、この袋路地から全力で逃げ出し──

 

「──ちょっとちょっとダメでやんすよ」

 

「……え」

 

「大切な商品を汚しちゃ」

 

 すぐ背後から、豚のような醜い声が響く。袋路地になっているはずのルミの背後で。

 肩越しに見る。出っ歯で背の小さな中年と追加で二人のチンピラが、ルミを見据えていた。

 

 ──一体、どこから?

 

 疑問の答えは得られず、気づけば正面の男が眼前に迫っていた。驚愕で完全に静止していたルミに回避できるはずもなく、そのまま首を掴まれ壁に押し付けられる。

 

「う、ぐぅ……! ぁ、あ……っ」

 

「いいねぇ、最高な光景だよ! たまにいるんだよ。てめえみたいに実際に襲われるまでまさか自分がって、楽観してやがる女が」

 

「は、な……ぁ、かぁ!?」

 

「そういう連中に思い知らせるが最高に愉しいんだよな……! 次はお前の番だってよ」

 

 苦しい。首を絞められて呼吸ができない。女性を助けようとしていた気持ちなどどこかへ消えていき、無様にも救いを求める。けれど、誰も来ない。近くには彼ら以外に誰もいない。

 だから男の暴力を止める方法なんてどこにも──

 

「すとぉーっぷ!」

 

「……っ」

 

「ああ? ニバスの親分、悪いけど止めねえでくれよ。この女はいきなり俺のことを……」

 

「あっしはストップって言ってるんだよ? 労働力として男の奴隷も価値があるって知らないわけがねえですよな?」

 

 筋肉質で如何にもチンピラ染みた集団の中で唯一、腕っぷしの高くなさそうな中年の男性。彼が声を低くするとルミの首を絞めていた男性は渋々力を緩めた。

 そのまま地面に尻餅をついたルミは、必死に酸素を求めて喘ぐ。

 

「へ、あぁっ……! はぁ、ぁあ……!」

 

「それでいいでやんす。せっかく高品質の商品を傷つけるだなんて勿体ないですからね。さて、お嬢ちゃん。運がなかったって諦めてくださいませ」

 

 こちらを覗き込んでくる出っ歯で不細工な顔。至近距離で視線が絡みルミは別の理由で過呼吸になりかけた。

 あまりに不気味なのだ。彼──ニバスと呼ばれた男は常に微笑みを絶やさないのに、そこに友好的な気配がまるで感じられない。ルミを、ものとしか見ていない。

 

 正体不明な“プレイヤー”たちとは別種の気味の悪さがそこにはあった。

 

「そぉれ、『眠れ』」

 

「ひっ……」

 

「……ありゃ? 『眠れ』」

 

 ニバスの発言と共にルミは魂が揺さぶられる感覚を覚えた。意識そのものを刈り取るような目に見えない力の波動だ。何をされたのかと身を固くするが、身体に異常は発生しない。

 怯えるルミと、困惑するニバス。二人の間に奇妙な沈黙が生まれる。

 

「どうしたんすか親分」

 

「うーんそれがね。あっしの魔法が効かねえんですよ。発動していないってわけじゃねえでやんすが……」

 

「……最近、失敗続きだけど調子崩してます?」

 

「んなわけねえ! あっしも魔法だけならそりゃ天才よ! 失敗なんてあり得ねえんだ」

 

 がみがみと言い争うニバスと部下らしき男。それを確認しながらルミは必死に呼吸を整える。数が多すぎる。喧嘩して勝てる相手ではない。逃げるしかない。

 幸いにも相手も何かしらのトラブルが起きているようだった。静かに怯えることしかできない少女を装い、隙を見て一気に大通りまで駆け抜ける。

 

 悪魔や“プレイヤー”との邂逅で少しずつだが、危機的状況でも冷静な思考が回るようになってきていた。その経験が致命的な現状を打破する足掛かりに──

 

「んまあ、出来ねえもんは仕方ねえな」

 

「────っ」

 

 ニバスが視線を逸らす。今しかない。脚に力を籠める。跳ぶように立ち上がる。どうしても避けられない男だけは目を指で潰して、その隙に逃げる。

 

「──パッパと締めちゃってくだせえ」

 

「う、ぁ!?」

 

 はずだった。小柄な身体を生かして隙間を縫っていくはずだったのに、チンピラたちは即座に反応して見せた。手首を掴まれ、肩を掴まれ、背後から首に腕をかけられて。

 

「ぁ、ぐ……っ、やだ、た、す……っ」

 

 再び首を圧迫されて酸素が断たれる。苦しい。死ぬ、死んでしまう。無理だった。少し運動神経が高い程度のルミでは、人々を誘拐するプロの集団から逃げられるわけがなかった。

 どれだけ腕を振り回そうとしても、屈強な男性の身体はビクともしない。意識が暗く暗く沈んでいって。

 

「あべ……る」

 

 いつも助けてくれた青年の名前を無意識に呼びながら、ルミの世界は真っ暗に染まった。




いつも読んでいただきありがとうございます。
本日まで毎日投稿していたのですが、ストックが危ういためそろそろ更新速度を緩めようかと思います。

各章が書き終わるたびに一気に毎日投稿、また期間を開けて次の賞が書き終わったら毎日投稿……を繰り返そうと考えていたので、次の更新は僕が二章を書き終わったタイミングになります。
少し間が空いてしまいますが完結までしっかり頑張っていくので、頭の片隅にこんな小説あったなと覚えておいていただけると嬉しいです。


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第七話 形のない被害者たち

 遅れてしまいました。二章のラストまで再び毎日投稿していきますので、お付き合いいただけると作者が滅茶苦茶に喜びます。


「先日の午後三時ごろ。冒険者・開拓者ギルド本部の受付嬢ミリアさんより通報がありました。被害者は二十一歳無職の女性ルミさん。約束の正午になってもギルドに現れず、心配になって居候している開拓者のアベルさんの家を訪れても不在。その後、彼女が通っている図書館にも姿が見えないことで通報したとのことです」

 

 王都の外周部。兵士の拠点の一つで、近衛騎士団の新人──カインは淡々と状況を読み上げた。椅子に座って並ぶベテランの兵士たちが静かに耳を貸している。

 年上の鋭い眼光を一身に受けても尚、冷徹な少年の貌に曇りはない。さして緊張した様子もなくカインは続ける。

 

「通報内容に関しては調査済みで、ルミさんが午前十一時半ごろまで図書館を利用していたことは、利用記録より確認できています。恐らく図書館からギルドに向かう途中で何かしらの事件に巻き込まれたかと推察できます」

 

「図書館からギルド、それに事件当時が真昼間となると……横着して路地裏を突っ切ろうとしたな?」

 

「はい。彼女の容姿はとても目立つものなので、すぐに目撃情報は得られました。同時刻に白髪の少女が路地裏に踏み込んでいくのを見たと、複数人から証言を得ています」

 

 思い浮かべるのは二回しか顔を合わせていないルミの姿だ。あまり他人に興味があるとは言い難いカインは顔を覚えるのが苦手だった。けれど、彼女のあまりに整い過ぎている容姿は、とてもではないが忘れられるものではない。

 それは近頃、急増しつつある集団と同じ特徴で。

 

「ずいぶんと整った容姿に、身寄りのない立場……カインくん、正直に答えなさい。その被害者女性は異邦人だったのか?」

 

「……本人は異世界から訳もわからないまま転移してきたと主張していました」

 

 一切の顔色を変えずに答えつつも、カインは内心でため息をついていた。これは面倒なことになったと。せっかく上への報告は止めておいてやったというのに。

 四十台ほどの如何にも古参の兵士と言った風貌の男性が、次々と質問を投げかけてくる。

 

「何故報告しなかった? 異邦人については難民キャンプで保護するように王家から通達があったはずだ。キャンプ設立前に間所を通り抜けた異邦人も確認次第、身柄を確保するようにと言われていただろう?」

 

「申し訳ありません。軽口の一種だと判断しておりました」

 

「つまり君個人の勝手な判断だったと? 現状、異邦人たちの正体はわからないままだ。我々はもちろん、彼ら自身にとってもな。正体不明の人間……潜在的な危険を排除するために異邦人の隔離は徹底しなくてはならない」

 

 そんなことはわかり切っている。何処から現れたのか、どうやって現れたのか、何もかもが不明な人間──見た目は人間でも、本当に人間かさえ確信が持てない集団。彼らの出現が何かしらの計画の一部であり、今この瞬間に王国へ牙を剥き始める可能性を否定できないのだ。

 だから慎重を期す国王は彼らを発見次第、保護と称して収容する施策を採った。衣食住の確保で身寄りのない難民の不満を抑えつつも、管理下に置くために。尤も見た目からは“容姿が異様なほど優れている”点でしか判断のしようがないのだが。

 

 だからこそ、異邦人の疑いがあれば確信がなくとも身柄を確保するように、各地の領主や騎士団には通達が送られていた。

 けれどカインはその通達を無視した。ルミを確保せずに自由にさせたまま野放しにした。この自尊心ばかりが膨れ上がった男は悠々としてその事実を突いてくる。

 

「最年少で近衛騎士団への抜擢……実に素晴らしいご身分だが、責任感が伴っていないようだね。君の行動一つ一つが良くも悪くも王国の威信に響くと自覚したまえ」

 

「申し訳ありません。今後はこのような不手際がないように心掛けます」

 

 ──さっさと話を本題に戻せ。

 

 口での発言とは真逆の想いが胸を満たす。彼がどうしてカインを執拗に攻撃するのか、その理由を知っているのだから尚更、苛立ちは増した。

 

 王都には当然、防衛戦力として兵士が多く滞在しているが、同時に王家直属の近衛騎士団も治安維持に勤しんでいる上、兵士を罰して管理する憲兵としての側面もある。故に他の都市と比べて兵士の発言力は強くない。目の前の男は兵団の部隊長にまで昇り詰めたものの、騎士に転職できるほどの能力はないのだろう。

 最年少で近衛騎士団に所属したカインが、妬ましくて妬ましくて仕方がないのだ。

 

 本格的に近衛騎士として働く前の下積み。そんな理由で兵士と共に事件を追うことになったが、果たしてこの男の苦言を聞くことが騎士として必要な経験なのだろうか。

 

 ──アベルだよ。カインくんにあんなこと言われて、凄い困ってたよ。

 

「…………」

 

 とある少女の、新たな被害者となってしまった女性の言葉を思い出して苦笑する。他人をいびっているのはカインもだ。いくらアベルに原因があるとはいえ、カインだって部隊長の男と同じ穴の狢なのだろう。

 

「この件については後程、騎士団長に報告させてもらう。君は……」

 

「私の不手際によってご迷惑をおかけしたことは重々承知しております。しかし、こうしている間にも被害者たちの安全は脅かされているはずです。早急に調査についてお話を進めさせて頂けないでしょうか?」

 

「……む。ああ、そうだな。君の処罰については後にしよう」

 

 小言なら受け入れよう。だが、それで救出が遅れ、被害が増えることだけは受け入れられない。幸いにも兵団全てが腐っているわけではないようで、咎めるような視線が部隊長に集まる。

 彼も周囲が味方しないことを理解して、素直に引き下がった。

 

「では報告に戻ります。今回の事件ですが、先週から続く連続誘拐事件との関連が疑われています」

 

「そうとしか考えられませんよね」

 

 若手の兵士が相槌を打つ。それにカインも頷きつつ、手元の資料に視線を戻した。

 

「現在、確認されている被害者は九名。どれも若い女性とのことです。ですが住民からの通報から推察するに、実際に誘拐された人数は更に膨れ上がります。恐らく王都の内部に転移してきた異邦人が身寄りのないまま彷徨い歩き、犯人に捉えられていると考えられます」

 

「犯行グループについては?」

 

「見るからに荒くれ者のチンピラ崩れが最低でも五名。加えてリーダー格らしき中年男性の姿が確認されています。詳しい容姿についてはこちらの資料に」

 

「そこまでわかっているのか。なら一体何故、野放しになっている?」

 

 あの部隊長がこの事件に関わるようになったのは、重大性を認識し戦力を拡充したこの場が初めてだ。当然の疑問だろうし、理由もある。

 

「構成員の中に高度な魔法使いがいるようです。恐らくは幻影系の魔法を操り、調査の目を掻い潜っております」

 

 魔法には生まれのつきの適性が大きく関わってくるが、その代わり魔術と比べて汎用性に優れている。幻影を生み出す魔法を自由自在に使われては、いくら騎士や兵士でもすぐに根城の特定はできなかった。

 部隊長が顎に手を置く。ゆっくりと瞳を閉じたまま思考に更けて。

 

「だが、それだけではないな。よっぽど手馴れている犯人だろう」

 

「はい。となると……」

 

「我々の捜査が進めば、すぐに勘付いて王都から逃げ出す可能性が高い。王都の出入りは……異邦人関係で既に警戒しているか」

 

 嫌味な男だが、部隊長にまで昇進した経験と勘だけは本物だ。例え腕っぷしでカインが負けなくとも、集団を指揮する能力では足元にも及ばない。そこだけは素直に認めて、頷いて見せる。

 

「今回の捜査は早さが命だ。王の膝元での狼藉、これ以上は見過ごせん」

 

「はいっ!」

 

「もちろんです!」

 

「すぐに犯行グループのアジトを特定する。総員、行動開始ッ!」

 

 部隊長の掛け声とともに、予め決められたとおりに兵士たちが動き出す。外様であるカインも彼らと同じように部屋を後にした。

 

「カインくん、よろしくな。戦いの実力では敵わなくても、こういう調査は俺らを頼ってくれよ」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 行動を共にする男性たちと挨拶を交えつつも街中へ繰り出す。捕らわれた無辜の民を救い出し、騎士としての義務を果たすべく。その中には仲が良いとは決して言えないが、知り合いの女性だっているのだから。

 

「……ったく。ちゃんと守ってくださいよ」

 

 だが、そもそも被害者にならないことに越したことはない。その知り合いの女性を保護していたはずの青年の顔を思い浮かべて、カインは悪態を付いた。

 

☆ ☆

 

「……兵団が……めた」

 

「そ……どき……すねぇ」

 

 曖昧な意識に雑音が差し込まれる。身体が痛い。ごつごつとした硬く冷たい床がじわじわと体力を奪っている。

 

「あ、れ……?」

 

 おかしい。寝相はそこまで悪くない自負があるし、仮にベッドから転げ落ちたにせよ、木製の床ならもう少し温かみがあるだろう。疑問を解消しようとゆっくりと重たい瞼を開けた。

 

「……どこ?」

 

 それでルミはようやく、洞窟のような狭い空間で横倒しになっていることに気が付いた。石の床で眠っていれば身体に負担だって溜まっていくだろう。家に帰って温かいベッドに戻りたい。

 

「っ……!?」

 

 けれど、腕が動かせない。脚も動かせない。立ち上がることができない。背中側で両手首が、足首も同じように合わせられて、縄で縛られている。どうにか身を捩って上半身だけは起こすが精いっぱいで──

 

「だ、だいじょうぶ……?」

 

「……ぁ」

 

 泣きそうな顔の女性が、案じるような言葉を投げかけてきた。他にも十人以上いる若い女性たち。彼女らと共にルミは地下の牢屋に幽閉されていた。

 

「そうだ……僕、あのチンピラたちに……っ」

 

 無理やり意識を奪われたせいか、痛む頭に記憶が蘇ってくる。路地裏で誘拐されている女性を見かけて、助けようとした。ルミ自身もまた、ちょっと力が強いだけの少女である自覚を忘れ、身の程知らずにも救出を試みたのだ。

 その結果がこれか。助けるどころか、状況を悪化させてしまった。

 

「ご、ごめんなさい……あなたは私を助けようとしてくれたのよね……?」

 

 視界に捉えたのは一瞬でしかなかったが、あの時の女性とルミの身を案じてくれる女性の姿が重なる。間違いなく同一人物だ。やはり彼女も同じ集団に捕らわれてしまったのだろう。

 

「僕こそ、ごめんなさいっ。あんなことせずに素直に兵士か騎士に通報しておけば……!」

 

「いいのよ、大丈夫。ここは王都だもんっ。すぐにでも近衛騎士団か兵団の優秀な人たちが助けに来て──」

 

「──ええ、来やすね。優秀な兵士たちが」

 

 縋るような言葉に牢屋の外から返事が届く。二人で揃って顔を上げれば、小太りの中年男性──ニバスがにやにやとルミたちを見下ろしていた。

 

「へ、兵団が来るならあんたたちなんて……!」

 

「真正面から戦えばあっしらが負けるでしょうね。けど、その辺りを考えずに王都で商売するわけねえじゃないっすか」

 

 意地の悪く、気味の悪い笑みに、ルミは寒気を覚えた。そんな表情のままでニバスが話を続ける。

 

「兵団内に内通者がいるんで、あちらの情報は筒抜けでやんす。そのうちここにも辿り着くでしょうけど……その時には、あっしらはトンずらこいてるわけで」

 

「そ、そんな……よりによって王都の兵士に内通者なんてあり得るわけ……」

 

「まあ、あっしも最初は罠だと疑ったっすよ。けど王都でこれだけの商品を仕入れられてるのが証拠でしょう?」

 

 何も、否定できなかった。兵団に──日本でいう警察に共犯が紛れ込んでいる。眉唾物な話だが、事実としてニバスはこれだけ好き勝手に女性を誘拐しても未だ自由に外を歩き回っていた。

 兵団や騎士団からの助けは期待できない。助けが来たとしても、その時には手遅れだ。ならば、ルミが期待できる救いなんて後はもう一人しかいない。

 

「……っ」

 

 黒髪の青年。大して年の離れていない男性の顔を思い浮かべて、ルミは自己嫌悪に陥った。また彼を頼るのか。命を救われ、危機に巻き込み、生活の面倒を見てもらって、尚も救いを求めるのか。

 この世界に来てから、ずっとそうだ。いつもルミの行動が引き金となって優しい彼を巻き込んでいる。今回だってルミ一人で女性を助けられると傲慢な判断をしなければ、兵団に通報して済む話だった。

 

「だめ、だ」

 

 できない。アベルの助けをただ震えて待つなんてできないし、許されない。ゆっくりと地下の空間を見渡す。

 リーダー格のニバスに加えてチンピラが五人。ルミを含めて牢屋の中には十三人の女性が両手足を縛られ、転がされている。出口はここからは見つからない。

 この状況から逃げ出すの策を──

 

「──君、いいでやんすね」

 

「ぅ……っ。な、なにさ?」

 

「反抗的な目をしてる……どうにかして逃げようと考えてる表情っすね」

 

 図星だ。醜い顔から生み出される汚らしい視線が、こちらの胸の内を全て見通しているようで。ルミは言葉に詰まった。すぐに視線を外して少しでも距離を取りたい。

 けれど、そんな逃げの行動を一つでも取ってしまったら、もう立ち直れないと理解しているから。視線を逸らすわけにもいかない。

 

「あっしがどれだけの商品を捌いてきたと思ってるんすか? 君みたいな商品だって時折いやしてね」

 

「…………」

 

「怖がってる。怖くて怖くて仕方がないのに、自分がどうにかしねえと終わっちまうって、状況を冷静に判断してる。だから気丈に振舞おうとしてるんすよね?」

 

 気が付けば、鉄格子の隙間から伸ばされたニバスの手が、ルミの頬を撫でていた。舐めまわすようなねっとりした手つきだ。

 

「……ひっ」

 

 気持ち悪い。こんな外見も内面も汚らわしい男に触れられた。なのに足腰には力が入らず、縛られていることも相まって一歩も動けない。

 彼の指がゆっくりと顎から鎖骨に通って、ルミの身体をなぞろうとして──

 

「やめ……っ!!」

 

 嫌悪感が恐怖を上回り、勢い良く身を捩ったルミによって手が弾き飛ばされる。それでも、歯が噛み合わず、身体の震えが止まらない。

 先ほどの女性がゆっくりと身を寄せてくれても、動悸が止まる気配はなかった。

 

「ああ……っ! そそりやすねぇ……せっかくの上物で高く売れそうっすけど……いいかなぁ。たまにはつまみ食いしても」

 

「な、何をする気で……」

 

「わかってるでしょう? まずは無理やりに股を開かせて素材の味を楽しんで……それから肉を削いでいくんすよ。ちょっとずつちょっとずつ、女として終わらせて、それから人としても終わらせるでやんす。ちゃんと一部始終は写真に撮って見せてあげるから安心してくだせぇ」

 

「親分! そいつで遊ぶなら俺たちも混ぜてくださいよ!」

 

「もちろんいいっすよ。まあ、最初はあっしがいただきますが」

 

 粘ついた視線がルミに集中する。その正体は、本来ならば男性であるルミならすぐに看破できてしまった。

 男が女に見せる醜い獣の本性。理性で抑えることもせず、ルミの人格を慮ることもせず、ただ身体目当ての汚らしい欲望だ。

 

「ぅぇ……っ」

 

「お、落ち着いて……っ。大丈夫、すぐにでも助けが……」

 

 吐き気が止まらない。寒気は増していくばかりなのに、頭の中身は発熱したように朦朧とし、ろくな思考が回らない。

 

「ああ、でも検査だけはしないっとすね……魔力計を持ってきてくだせい」

 

「うっす。すぐに」

 

 一度意識してしまえば嫌でもわかる。胸元に、スカートから伸びる脚に、男たちの遠慮のない視線が突き刺さっている。肉欲の対象として見られている。

 

「無傷で全員、あっしらから逃げ出したい。ずいぶんとご立派な理想で。残念でやすが──力のない人間じゃ理想は理想のまま終わるんすよ」

 

「う、うるさい……! 来るなっ、やめ、て……」

 

「この子に触らないで! あなたたち、これ以上罪を増やしたら死刑よッ!」

 

「あっしらの余罪を考えれば今更っすね」

 

 牢屋が開く。けれど、それは脱出のチャンスには成り得ない。ニバスを含めて五人の男がルミを取り囲む。女性が一人でルミを守ろうとしてくれているが、他の被害者たちは遠巻きに震えているだけだ。

 だからどうにもできない。必死に虚勢を張る女性と、覚悟に反して震えることしかできないルミでは、何も状況を好転できない。

 

 今更だった。今更になってルミは自覚させられた。ルミは女なのだ。悪い男に目を付けられ、少しの油断がこうして地獄へと叩き落されるきっかけになるか弱い存在。

 もっと早く気付くべきだった。そのうち自覚も芽生えるだとか、何時かは男に戻るからだとか、言い訳なんてしている余裕は全くなかった。

 

 水晶を持ったニバスの腕が近づいてくる。

 だからこうして、死ぬよりも苦しい地獄へ引きずり込まれて──

 

「……っ」

 

「──ありゃ」

 

 頬に触れた水晶が緑色に輝き出した。黄色ではなく緑色。ギルドでも言われたルミの特異性な魔力反応。その光を見て──ニバスたちの瞳に落胆の色が浮かんだ。

 

「参りやしたね……よりによって君が緑っすかぁ」

 

「え、じゃあニバスの親分?」

 

「ダメっすね。つまみ食いはやめっす。流石にお得意様の依頼を蹴るわけにもいかねえんで」

 

 肩を落としながらニバスたちが牢屋から去っていく。中にルミを残したまま。助かったのだろうか。怪我一つない身体で茫然と床を見つめた。

 

「ゆ、ゆっくり呼吸して……っ! 大丈夫、私がいるから……きっと一緒に帰れるから、ね?」

 

「だ、だ……ぁ、は、ぁっ……」

 

 あまりにも気づくのが遅すぎた。悪魔と“プレイヤー”を退けられたから勘違いしていた。そもそも奴らを撃退できたのだって、アベルのおかげでしかない。

 ルミは所詮、日本で暮らしていた一般人だ。そのうえで、多少は力が強いだけの小柄な少女になってしまった。そんな人間にできることなんて、さほど多くない。

 

 悪魔と呼ばれる怪物と戦う。

 誘拐された女性を救う。

 犯罪集団の檻から自力で脱出する。

 

 どれもできるはずがない。あまりにも傲慢で身の程知らずな考えだ。ルミにできることなんて、恥も外聞も捨てて助けを祈ることだけ。

 力なき人間には理想は理想でしかない。ルミが何もかもを自力で解決できるはずがない。それに気づけなかった代償を、ルミは嫌と言うほどに味合わされていた。



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第八話 アベルの理想

予約投稿忘れておりました……


 走る走る。夜の王都を。走る走る。三日間の仕事で疲れ果てた身体に鞭を打って。

 見慣れた道。見慣れた建物。前を歩くガタイの良い男性を突き飛ばしながら、アベルは冒険者・開拓者ギルドの扉を壊れるほどの勢いで開け放った。

 

「ミリア!! すぐに出てきてくれッ!」

 

「……ここにいるわよ。他のお客さんの迷惑になるから落ち着いて」

 

 アベルが訪れるのを待っていたのだろうか。もう三年ほどの仲になる彼女は仕事に勤しむこともなく、ギルドの片隅のテーブルで腰を下ろし、こちらを見据えていた。大股で近づき、テーブルに両手を叩きつける。

 

「落ち着くわけにはいかないだろ!? わかっていることを聞かせてほしい。ルミが誘拐されたのは本当なんだな?」

 

「本当よ。家にいなかったでしょ? 図書館に顔を出したら連絡してもらうように頼んであるし……ギルドにも昨日から顔を出してないわ」

 

「詳しい時間と……何でもいい! 少しでも情報を」

 

「──情報を? 聞いてどうするの?」

 

 冷めた視線が突き刺さる。ミリアが言わんとしていること。それはいくらでも理解している。だが、アベルがただ家で仕事の疲れを癒す理由には足りない。

 

「もちろん助けに行く!」

 

「ただの中堅開拓者が何様のつもり!? 兵団に任せておきなさい! あなたが介入したところで何も解決しないッ!」

 

「なら誰かが助けてくれるのをじっと待てと!?」

 

 そうだ。兵士じゃないから。騎士じゃないから。中堅開拓者でしかないから。

 どれも理由にはならない。アベルはルミを助けたいから助けるのだ。相手が危険な犯罪グループだろうが帝国の将軍だろうが、知ったことではない。アベルは見知った相手が傷つくのを見過ごしたくないのだから。

 

「心配なのは私も同じよ! 会って数日だけど、ルミちゃんが真面目で優しい子なのはわかってる。そんな女の子が危険な目にあってるなんて耐えられない……!」

 

「だったら──」

 

「だったら何よ!? ……カインくんとのこと、忘れたわけじゃないでしょ?」

 

「そ、れ……は」

 

 見過ごせない、はずなのだ。けれども、彼の名前を出されると思い出してしまう。いや、違うか。この記憶は、この想いは、この激情は、ずっと脳裏にこびりついて剥がれない。

 失望が、諦念が、絶望が、躊躇が、嫉妬が、ずっとずっとアベルの元から離れてくれないのだ。今この瞬間も、薄汚れた醜い心身を蝕み続けている。

 

「あなたの理想は立派だし尊敬もするけどね。実力が伴っていなければ意味がない……あなたの理想は理想でしかないのよ」

 

 だから、あれほどルミを助けなくてはと吠えていた心が、たったそれだけの言葉によって冷めていくのか。

 

「…………っ」

 

「ルミちゃんがどうなってもいいって、そう言ってるわけじゃないのはわかるでしょ? 今回はもう兵団が動いてる。ここは大人しくプロに任せましょう。カインくんも捜査に加わってるって話だ……」

 

「待て。カインが? あいつは近衛騎士のはずだろう。どうして兵団の捜査に?」

 

 しまったと、ミリアの顔にはありありと浮かんでいた。例の事件以来、ミリアはアベルとカインを遠ざけようとしているきらいがある。お互いが冷静になるまで時間を開けようとしてくれているのだろう。

 しかし、逆効果だ。時を経つにつれてアベルの中の醜い心は膨れ上がり続けている。カインの華々しい噂を聞くたびに、理不尽な痛みに苛まれている。

 

「……どうにも、下積みだとか何とかで兵士の仕事に参加してるみたい。ほら、彼って近衛騎士団所属だけどまだ見習い扱いじゃない」

 

 だからカインがルミを助けるための捜査に参加していると、そう聞くだけでアベルは──

 

「……っ! 待ちなさい、アベル!! あなたまた同じことを……」

 

「うるさい! わかってる……そんなことはわかってる……」

 

 ミリアに背を向けて足へと力を籠める。後ろから届く制止の言葉。咎めるような、案じるような声色を聞けば、彼女が何を言いたいのか最後まで聞く必要もなかった。

 アベル自身、誰が間違えているのか理解している。誰が一番醜いのかを理解している。自分のせいで状況が悪化する可能性を考慮している。

 

「──でも、黙っててくれ」

 

 だが、理解した程度では止まれない。良き友人の言葉を振り払って、アベルは再び夜の王都を駆け出した。

 

☆ ☆

 

 当てはない。何かしらの技能を持ち合わせているわけでもない。アベルにできることは小宇宙の探索と剣を振ること、そして風の魔法を操ることだけ。プロの兵士のように誘拐犯の居場所を突き止め、人質を安全に救出する方法など何一つとして知らない。

 その上、開拓者としても、剣士としても、魔法使いとしても、アベルは二流でしかなかった。

 

 より安全で素早い小宇宙の探索を行える人材は探せばいくらでもいるだろう。

 一振りの剣だけで全てを切り裂き、世界を切り開く英雄の噂は耳にするだろう。

 己の魔力だけで小さいながらも世界を創造する使い手だってきっと存在するだろう。

 

 そのいずれもアベルにはできない。だから二流でしかなく、二流にしかなれなかった。なのに、アベルが抱いてしまった理想は身の丈に合わない偉大なもので──

 

「すみません! この辺りで白髪の女の子か……怪しい男を見ませんでしたか!?」

 

「お、女の子? ああ、最近噂の事件の話か? 悪いけど俺は何も知らね……」

 

「ありがとうございますっ!」

 

「あ、おい! 質問するなら少しぐらい買っていけや!」

 

 とにかく当てずっぽうだ。ギルドと図書館、その間に位置する店や通行人を相手にひたすら聞き込みをする。けれど成果は大きくない。そもそも騎士や兵士ならともかく、アベルのような一般人では真面目に答えてくれない人間だって少なくなかった。

 あまり頭の良い方法ではないだろう。けれど、これ以外の手段をすぐに思いつけなかった。走りながら考えるしかない。夜が更け、ますます人の気配が消えていくのを感じながらも、アベルは手がかりを探す。

 

「……兄貴、何してるんですか?」

 

「……っ。カイン、か」

 

 聞き慣れた声に振り返れば、月明りの下でカインが静かに佇んでいた。呆れたような表情でアベルを見据えている。

 

「こんな時間に妙な男が走り回ってると聞いて来てみたら……まさか捜査の真似事でもしてました?」

 

「真似事でも、構わないだろう……ッ。それよりカインはルミが巻き込まれた事件について……」

 

「ええ、調べてますよ? 犯人の根城も俺たちの捜査グループである程度は絞れています」

 

「そ、そうか! だったら……」

 

「だったら? 教えるとでも? 部外者の兄貴に?」

 

 カインは意地の悪い笑みを浮かべているわけではない。ただ無表情で、冷めた瞳で、アベルを見上げているだけだ。まるで咎めるように。

 

「冗談もほどほどにしてくださいよ。これから救出作戦だって時に情報を漏らすわけがないじゃないですか」

 

「そうかもしれないが……! 俺はルミを助けないと……」

 

「それは兵士の仕事です。──或いは、あなたが頑なになろうとしない騎士の仕事だ」

 

 当然のことだろうとばかりに、カインは吐き捨てる。一切の異論を挟む余地のない、完璧な正論だ。犯罪者の取り締まりは兵士や騎士に任せ、一般人は彼らに託す。人を人たらしめる社会の秩序の一部。

 例え原動力が正義感であろうとも、被害者の保護者だったとしても、アベルが手出ししてはいけないものだ。

 

「ハッ、ざまあないですね。楽な方に流れずにさっさと騎士になっていれば済んだ話なのに」

 

「違う……俺が騎士を諦めたのは……」

 

 そうだ。見習いでも構わない。アベルが騎士になっていれば、今回の件にも正式な捜査グループの一員として参加できていた可能性は高い。けれど、現実は見ての通りだ。

 アベルは騎士ではない。騎士にならなかった。そう()()()()()()()。せめて共に夢を追いかけたカインには騎士の道を捨てた理由を──

 

「俺、が……ただ……」

 

 それを告白しようとしても、アベルの弱々しい心は言葉にすることを拒絶していた。どうしても口にできない。やはり、無理だった。他でもないカインに本音を伝えることだけは。

 期待していたものが知れず、カインはあからさまに不機嫌そうにアベルを睨みつけてくる。

 

「まあ、今ここで反省しても遅いですからね。また今度で構いません。ルミさんも他の被害者も俺たちがしっかり救出するので、指をくわえて待っていてください」

 

「…………」

 

「もう家に帰って寝ててくださいよ。不審者扱いで他の兵士に連行されても困るので」

 

 カインが背を向ける。弟分の姿が遠ざかっていく。あの日の、まだカインが自分を純粋に慕ってくれていた頃のように、カインが遠くへ消えていく。

 わかっている。アベルが内心を吐露すればカインの態度は少なからず改善するだろう。全て、アベルが悪いのだ。何もかもアベルに責任がある。

 

「……ああ、くそっ──!」

 

 なのに、胸に渦巻くのは酷く濁った黒い感情だ。理性は自責を求めているのに、アベルの弱々しい心が、感情がカインを恨んで仕方がなかった。何もかもが気に入らない。カインも、自分も、周囲の何もかも。

 

「カインッ! 待ってくれ! 頼む、ルミはどこに捕まってるんだ!? 教えてくれ……!」

 

「……話、聞いてなかったんですか? それとも都合の悪い言葉は忘れましたか?」

 

「俺が間違ってるのは理解してる……それでも、俺は……っ」

 

 あまりにも無為な行動だ。アベル一人が介入したところで状況は恐らく変わらない。むしろ兵士や騎士の邪魔になるリスクが付きまとうだろう。だから、純粋にルミを助けたいのならば、素直に引き下がってカインたちに任せるのが正解だった。

 

 けれども。理性も挫折も痛みも、何もかもを押しのけて湧き上がってくる衝動がある。今から数年前。あれほどまでに打ちのめされた理想が、また鎌首をもたげてしまうのだ。

 

「俺の手で、何もかも助けたい──ッ」

 

「ハッ。俺の手で、ですか。変わりませんね」

 

 カインが肩越しに振り返りながら、確かに笑った。嘲笑するわけではない。心の底から、純粋に破顔して見せた。

 

「そうだよ……正直、俺の行動が正しいかどうか知ったことじゃない。ただ困ってる人間が目の前にいて、黙って見てることが我慢ならない。だから……」

 

「──究極的には、被害者の無事なんかどうでもいい。自分が手を差し出した。その事実が欲しいだけの、自己満足でしかない。そうですよね?」

 

 

 

 

 

 差し込まれるカインの回答に頷く。当時、指摘されるまで自覚はなかった。だが、弟分が言う通りアベルの人助けとは酷く身勝手なものだ。

 誰かを助けるときに考えなんてありはしない。とにかく身体が動くままに任せ、事件や事故に介入する。その善意と言う隠れ蓑を被せた自己満足。それがアベルの人助けだ。

 

 結果、アベルは凄惨な光景を更なる地獄に変えた経験があった。

 

 善意のつもりだったものが、人々を傷つける光景は。その地獄を容易に塗り替え全てを解決した“金髪の少年”の勇姿は。今でも忘れることはない。だからアベルは、膝を折ったのだ。

 

「俺のせいで死ななくてよかった誰かが死ぬかもしれない。大した才能もない人間が首を突っ込むのなんて馬鹿げてる……そんなことは、嫌と言うほど知った! でも……それでも……俺はじっとしてられない……ッ!」

 

「……ああ」

 

 一度口にしてしまえば、もう抑えられない。一度は諦め、抑え込んできた理想が溢れ出してくる。

 己の愚かさも、挫折も、忘れることはない。だが、それでも、友人が危機に陥ると知れば我慢できずに身体が動いてしまうのだ。最早これは、アベルと言う男の習性か何かなのだろう。

 

 そんなあまりにも自己本位な願いを受け取り、カインはその場で振り返って──

 

「──ちゃんと、言えるじゃないですか」

 

 心底、嬉しそうに笑った。久々に見る弟分の歓喜だった。本当に嬉しそうで、悦ばしいと言わんばかりの満面の笑み。なのに、見る人をどこか不安にさせるのは、彼もまたどこか歪んだ感性を持っているからだろうか。

 カインが歩み寄ってくる。大袈裟なまでに両腕を広げて、歓喜の声を上げる。

 

「兄貴は誰よりも強いんです。兄貴は誰よりも優しいんです。兄貴は誰でも困ってる人を助けるんです。兄貴は──そのことに疑問なんて持たないんです」

 

「…………」

 

「ああ、良かった。俺がちょっと嫌味を言ったぐらいで人助けを躊躇う兄貴なんていなかったんですよね? 俺を罵倒したのはちょっとした気の狂いだったんですよね? 人助けをするために一番都合が良いはずの騎士を諦めたのも、ルミさんを助けるために躊躇ったのも、何かの間違いですよね?」

 

 弟分が語る、理想の兄貴。あまりにも偉大で、あまりにも強大で、あまりにも完璧な誰か。少なくともアベルではない、理想の誰か。

 荷が重すぎても、眼を逸らすことは許されない。カインにそこまで想わせてしまったのは、他でもないアベルなのだから。

 

「犯人グループのアジト候補と、救出作戦の詳細です。勝手に兄貴なりにルミさんを助けてください」

 

「……すまない」

 

「良いんですよ。流石に今から騎士の国家資格は取れませんから。でも……次の試験は必ず受けてくださいね?」

 

 半ば無理やりに押し付けられた資料を一瞥して、アベルは小さく謝罪する。それに返されるのはカインの微笑みだ。彼はそれだけを残して、足早に背を向けて立ち去っていく。

 必要なことは全て終わらせたとばかりに。

 

「……俺は」

 

 そんなカインを静かに見送り、アベルは夜空を仰ぐ。

 何度でも言おう。ルミの無事を願うのならば、本職の兵士に任せた方が良い。けれど、アベルは自ら動かなければ気が済まない。それは最早、善意ではなく自己満足でしかないのだ。

 

 カインとの関係性にひびが入ったあの日。アベルのせいで、傷つかなくて良い人間が傷ついた。何をしても全てが裏目になり、より最悪の結果を招くことになった。

 だって、アベルには才能がない。特別に優秀なわけでもなく、凡人でしかない。

 

 ──兄貴! これで一件落着ですね!

 

 だから、その最悪を容易に解決して見せた天才を前に、アベルは折れた。自分が何もかもを救える英雄でないことを見せつけられ、自分を慕ってくれる天才を妬んでしまって──酷い言葉を吐いたのだ。

 そもそもアベルは騎士を諦めたわけではない。カインは知らないが、今でも国家試験には──惰性ではあるが──挑戦している。アベルが騎士になっていない理由は単純なこと。

 

 アベルには騎士になるだけの才能がなかった。それだけだ。

 

 それがカインとの確執。何処までも完璧な兄貴だと見上げてくれる少年と、弟分の才能に嫉妬した青年。その末路だ。

 人助けを掲げておきながら、アベルは何処までも醜い心を持っていた。

 

 ルミと共に悪魔と遭遇したあの日もそうだ。アベルが苦戦した悪魔を素人同然だったはずの少女が下した。その光景にアベルは嫉妬を抑えきれなくて、ルミに辛く当たってしまったのだろう。

 

「……それ、でも」

 

 資料に目を通しながら一度、歩き出す。目標が定まったのならば、後は実行に移すだけだ。そのためにもまずは装備を整える。歪んだ心で、綺麗な理想を掲げる青年は、静かに帰路へと着いた。



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第九話 雷鳴

 早朝四時。あと少しで太陽が昇り始める時刻に。王都内でも治安の悪い一角を兵士の集団と、騎士の少年が闊歩していた。言葉を交わしつつも彼らの歩みには一切の迷いがない。

 既に決まり切った目標に向けて、ひたむきに進み続けている。

 

「にしても目立ってますねー。遠巻きにですけど滅茶苦茶に見られてますよ」

 

「そりゃあ、こんなスラム染みた地域の住民からしたら、俺たちは目の上のたん瘤だろうよ。変に警戒される前にさっさと待機場所に着くぞ」

 

 唯一の女性兵士が目を細めて、それにベテランらしき中年の兵士が答える。

 そんな二人の会話を聞き流しながら──救出作戦に加わっている少年騎士のカインは誰よりも早く先頭を歩いていた。

 

「カイン君、随分と張り切ってるじゃん。やっぱり被害者の安否が気になる?」

 

「……え? ええ、まあ、そんな感じです」

 

「やる気があるのは結構だが、空回りはするなよ」

 

「肝に銘じておきます」

 

 彼らの推測は間違ってはいないのだが、正確でもない。カインが上機嫌で職務へのやる気に満ちているのはただ少し、“良いこと”があったからだ。

 尤も、カインにとっては良いことでも、同行している兵士にとっては違うかもしれない。何しろ守秘義務のある情報を個人に流しているのだから。何なら懲罰房送りになっても文句は言えないだろう。

 

「でも……己が正しいと信じたことは躊躇わない。そうですよね、兄貴」

 

 要は最終的にハッピーエンドを迎えられれば良いのだ。少なくともカインはアベルの介入によって状況が善い方向に転がると信じて疑わない。結果的に人質は助かり、兵士たちにも被害は出ず、犯人グループを全員捕らえられるはず。

 だから、カインに罪悪感など微塵も湧いていなかった。

 

「ここが待機場所だ。全員、何時でも動ける準備を。目標の建造物も確認しておけ」

 

 人目につかない脇道。ただでさえ人気のないスラムの、更に薄暗い空間でカインたちは立ち止まった。作戦開始時刻まであと二十分ほど。定められた時刻に、カインたちは複数のアジト候補を一斉に叩く。

 本来ならば被害者の居場所を確定させてから救出に動くべきだったが、何しろ犯人グループも兵団の動きに敏感になっていた。あまり手をこまねいていては、どのような行動に出られるのか予想がつかない。

 

 故に複数の部隊に戦力を分散した、一斉制圧だ。犯人グループが対抗策を練る前に、速攻で片を付ける。

 

 肝心なのは速度だ。決行までの僅かな時間で、カインは全身の関節を軽く解きほぐす。身体の状態は上々、精神は最高潮。何も問題はない。目標地点を睨みつけて──

 

「時間だ! 全員、所定の位置につけ! アジト候補を制圧する!!」

 

 部隊長の号令と共に、カインたちは一斉に散開した。それぞれが建物を包囲するようにばらけ、手早く扉や窓を抑えていく。カインの立ち位置は裏口だ。全員が準備を終えたのを確認して、部隊長は正面入り口の扉を乱暴に叩いた。

 

「兵団だ! ここで違法な取引が行われている疑いがある! 捜査にきょうりょ……」

 

「……っ!? 下がってください!!」

 

 嫌な予感。それを裏付ける内部からの敵対心。それを察知して、カインは真っ先に警告の叫びをあげた。同時に腰の剣を自己判断で引き抜く。

 きっと兵士たちの誰しもが、その予兆を感じ取っていた。なのにカインだけが反応できたのは、予兆から発生までがあまりにも素早かったから。

 

 魔力の収束。それが魔法として形を成し、熱エネルギーへと変換される気配。その工程があまりにも早い。

 

「ごうぉおお──!?」

 

 カインから見て、建物の反対側。爆音が鳴り響き、恐らくは扉が内側から吹き飛ばされた。部隊長の心配はしない。間抜けな悲鳴こそ聞こえたが、決して弱くはない彼は警告がなくとも自力で回避していただろう。

 だからカインは裏口に向けて脚を振り上げる。相手が暴力に訴えてくるということは、こちらも遠慮はいらない。

 

「──わかりやすくて結構です」

 

 そして、暴力になればカインの得意とするところ。最近は良いことばかりだ。上機嫌なカインはニヤリと笑いながら扉を蹴破った。

 

☆ ☆

 

 ──英雄とは、人格破綻者である。

 

 どこかの学者が著書で書き記したこの言葉は、酷く侮蔑的な意味を孕んでいながらも多くの人々が認めている。そうでなくとは、有名なフレーズとして市井に広まっているわけがない。

 実際に英雄と呼ばれるような一騎当千の強者たちは皆、あまりにも独善的で自己本位な性格をしていた。

 

 何故、強者たちは自己本位なのか。高みに登り詰めるためには確固たる自己が必要だから。それも理由の一つだろうが、もっと具体的な原因が魔法学会では通説となっている。

 

 まず大前提として、魔法による身体能力の向上や奇跡の顕現は戦いにおいて重要な要因となる。そして魔法とは願いだ。

 曇りなき純粋な願望と、自覚さえ持てていない曖昧な願い。どちらがより強固に現実を塗り替えられるのか。討論するまでもない。

 

 ──つまり強者とは己の信念に疑いを抱かない人間のことなのだ。

 

 それが正しいのか、間違えているのか。関係ない。善行であろうと悪事であろうと、その願いを自覚し、一切躊躇わず、真っすぐに突き進むものだけが強者足り得る。

 

 故に英雄とは。人格破綻者であり、頑固者であり、時に殺戮者となり、己を一切省みない狂人である。

 

 そして、ここでも英雄の卵が一人、剣を引き抜いた。

 

☆ ☆

 

 砂埃が舞い散る中、裏口から建物に侵入したカインは煙幕の向こう側から無数の視線を感じていた。爆発によって視界が悪化しても、状況を把握できる装備を整えていたのだろう。

 兵団の制圧作戦に対して迷いのない反撃。その後の展開も対策済み。あまりに準備が良い。明らかにこちらの動きは犯人グループに察知されていた。

 

「隊長ッ! 裏口のカインくんが先走って……!」

 

「なに!? ああ、くそっ。全員、プランBだ!」

 

「……うるさいですね。相手に先手を取らせる方が問題でしょうに。皆さんもそう思いませんか?」

 

 冗談交じりな問いの返答か、煙幕を切り裂いて何かが飛来する。音と風の動きでそれをはっきりと知覚していたカインは──その弓矢を左手で掴み取った。

 

「ハッ! 乱暴ですねぇ──!!」

 

 あと一歩で脳天を貫いていた矢を投げ捨て、獰猛に笑って見せる。敵の数はさほど多くない。まずは爆発でこちらを動揺させ、煙幕に紛れたゲリラ戦法で戦力差を覆そうとしているのだろう。

 悪くない作戦だ。実に堅実で荒くれ者の人売りとは思えない戦い方だ。けれど、一歩足りない。圧倒的な個に対する対策を、怠っている。

 

 被害者女性の気配はない。このアジトは囮で、チンピラがいるだけだろう。ならば、民間人を巻き込む心配はなかった。

 

「悪人は、死んでも文句は言えませんよね」

 

 小さな宣言。カインは体内の膨大な魔力を練り上げ──雷となった。文字通り、カインの姿がブレて、人から電撃と言うエネルギー体に移り変わる。そのカインだったはずの雷が、一気に建物を覆い尽くすほどに広がった。

 

「────うが」

 

 悲鳴さえ上がらない。そこら中から人体が焦げる嫌な臭いが漂い、次々と倒れる音が響く。だが、腕に自信のある数人は雷撃に耐え抜いていた。全身を土で覆い隠して。或いは単純に魔力を纏うことで魔法による現実の塗り替えを拒絶して。

 圧倒的な範囲制圧を掻い潜る。けれども。

 

「──見つけました」

 

「……っ!? 後ろだ!」

 

 その雷はカインそのものだ。故に雷撃が通った全てを認識でき、電撃の通った全ての箇所にカインは存在している。

 拡散した雷がどうにか立ち続けていた男の背後に収束し、再び人の形へ。カインの姿へと回帰する。他の男が叫んでも遅い。土塊を纏って電撃をやり過ごしていた男が即座に対応できるはずもなく、カインは無遠慮に背中を袈裟斬りにした。

 

「ば、化け物かよ……ッ。そんな滅茶苦茶な魔法の使い方、怖くねえのか!?」

 

「化け物呼ばわりは心外ですね。慣れれば平気なもんですよ」

 

「何が慣れれば、だ。全身を純粋なエネルギー体への変換なんて、一歩間違えれば二度と元の姿には戻れねえ!!」

 

「その分、魂を……魔力の根源をそのまま攻撃に落とし込めますから。威力は折り紙付きでお気に入りなんです」

 

 適当に言葉の応酬を繰り広げながら、カインは眼前の男性を慎重に観察した。髪色はくすんだ青。筋肉質な身体つきで、歳は三十に届くかどうかと言った風貌だ。そして、強い。

 幅広のサーベルを二本。両手に構える姿には油断も隙も伺えない。見様見真似で振るう我流の剣技ではなく、確かに築き上げられた技術が根底にあるように感じられた。

 

 何より、カインの雷撃を魔法ではなく、純粋な魔力で防いだ辺り、明らかに戦い慣れている。

 魔法とは現実の書き換え。魂から溢れ出す魔力を持って、世界と言うキャンパスを身勝手に改変する奇跡である。故に書き換える傍から別の魔力(絵の具)を流し込めば、上手く現実を改変できずに魔法は不発する。意味のない絵となり、ただの魔力のまま終わってしまうのだ。

 

 しかし、だ。人間の心理として、無色透明な薄っぺらい盾と明らかに重厚な鋼の盾。どちらを構えたくなるだろうか。実際には耐えられるとしても、肉薄する死を前に冷静に魔力を纏う選択をできる人間が、どれほどいるのだろうか。

 それができる青髪の男はかなりの修羅場を乗り越えてきたはずだ。

 

「ったく、割に合わねえ。ちょっと地球人を回収するだけだったのによ」

 

「……ちきゅうじん、ですか。色々と聞きたいので、まずは気絶してもらいます」

 

「手荒だな、おい!?」

 

 再び雷となり男の背後へ回り込むと、魔法を解除して剣を振りかざす。直接の電撃が効かないのならば斬るだけだ。ちょっと血が吹き出すかもしれないが、殺さなければ問題ない。

 魔力を纏わせ存在強度が高まった剣が男に迫り、だがギリギリでサーベルに受け止められる。

 

「硬いっ! 刃ごと叩き切るつもりだったんですがねッ!」

 

「早すぎるだろ! ちくしょう、反応しきれねえ俺が嫌になる……!」

 

「しっかり防御……してるじゃないですか!!」

 

 剣を振りかざしたまま、雷となったカインはもう一度、男の死角へ。だが男は対応して見せる。一度目と同じように騎士剣とサーベルが火花を散らし、一瞬の拮抗を得てカインが消える。

 

「そんな手軽に使える魔法じゃねえだろ!?」

 

 カインの得意の戦法は、電撃化と斬撃による一撃離脱だ。敵の死角から切りつけ、防がれれば雷になることで隙をかき消す。弱者ならば最初の奇襲で、それでなくとも対抗策がなければ一方的に封殺できる。

 肉体の全てを一瞬とはいえ消失するのは、確かに恐ろしいことだ。きっとカイン以外に同じ芸当はできないだろう。だが、カインは自分が魔法の制御を失敗するとは夢にも思っていない。

 そんな傲慢なほどの自負が、魔法をより強固に、強力に、仕立て上げてていた。

 

「はあぁぁッ──!」

 

「ぐっぅ!? くそったれ!!」

 

「──!?」

 

 けれども。男もまた、弱者ではなかった。出現と同時、何度目かわからない斬撃を右のサーベルで受け止めると同時に、左のサーベルがカインに迫る。ギリギリで雷化が間に合うが危うく手傷を負うところだった。

 

 防戦一方ながらも、確実にカインの動きに順応し始めている。長引かせない方が良い。即決し、カインは雷化を解きながら男へと真正面から肉薄した。

 

「保有魔力までたっぷりかよ……! 嫌になるぜ!!」

 

 実力差は明白。ならば小細工などは不要。魔力の全てを剣へと集中させる。一時的に存在としての格が膨れ上がった刃を上段に構える。踏み込みは大地を割るほどに。振り下ろす一撃は雷よりも早く。

 それでも男は回避を試みた。サーベルごときでは防げないと判断し、必死に射程外から逃れようとした。しかし。

 

「カイン! 殺すなぁ!!」

 

 兵士たちが遅れて二人の戦場に乱入してくる。更なる戦力に気を取られ、男の動きが鈍った。それが、致命的だ。

 放たれた斬撃が男へ肉薄する。最早、回避は叶わない。咄嗟に差し込まれたら右のサーベルがチーズのようにあっさりと斬り落とされる。更にもう一本のサーベルもまた、容易く切断され──

 

「な──」

 

「悪いな。凡人は凡人なりに工夫するんだ」

 

 その直前。両断されたサーベルが眩い光を放ち、弾け飛んだ。金属の破片が飛び散り、カインは目元を庇いながら後退せざるを得ない。

 やられた。これは魔術だ。魂の願いを具現化する奇跡が魔法ならば、体系化された技術こそが魔術の本質。実現可能な現象は魔法とは比べ物にならないほど少ないが、その代わり誰が使用しても効果が変わらず、何より道具に予め仕込んでおくことができる。

 

 恐らくトリガーは得物の破損。戦闘において、圧倒的な不利が決定づいた瞬間に発動する。つまり──逃走用の術式だ。

 

「くっ……カイン! 敵はどうした!?」

 

「逃げられました! まだ近くにいるはずです!」

 

「わかった! 半数はここに残って気絶した連中を縛り上げる! 残りは逃げた男を追え! 青髪の男だ!!」

 

 隊長の号令に従い、すぐさま職務を遂行し始める兵士たち。そんな彼らを一瞥し、カインは男が最後に立っていた床を調べる。靴底の形で木の床がへこんでいた。

 魔力で強化した身体能力で、一気に駆け出したのだろう。ある程度の方向を予測し、再び全身に魔力を漲らせる。

 

「俺が一番足が速いッ! 追います!」

 

「待て! お前はここに……おい! 独断専行が過ぎるぞ!!」

 

 指揮下にこそいるが、カインは彼の部下ではない。だから、正しいと思う行動を突き通すだけだ。背中にかけられる命令を無視して、カインは走り出した。



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第十話 自己本位な救い

「ニバスの親分ッ! アジトから煙が! 兵団が作戦を開始したみたいです!」

 

「了解っす。残った連中が時間を稼いでる間に、さっさと脱出しやすよ」

 

 左右からぴったりと密着どころか、押し付けるように感じる若い女性の体温。元男性であるルミは心臓を高鳴らせる、なんて余裕はない。何故なら両手足を縛られ、正に商品のように馬車の荷台へと積み込まれているのだから。

 ゆっくりと馬車が動き出す。音以外に外の状況はさっぱりわからないが、人売り達が王都から逃亡を図っているのは確かだった。

 

「どうしよう……っ、どうしよう……っ!?」

 

 身体の震えを必死に抑えながら、ルミは足りない頭を働かせる。王都の外に脱出されては、兵士や騎士の救助が絶望的になることぐらい素人でもわかる。だから今すぐにでも何か行動しなくてはならない。

 けれども。ルミに戦う力なんてない。だって、か弱い少女でしかない。男性だった頃でさえ、争いなんて無縁の生活をしていたのに、こんな小柄な女性にさせられて戦いなんてできるわけがないのだ。

 悪魔を打倒することができたのも、ただ幸運だっただけ。

 

 それを本当の意味で自覚させられた今、考え付く抵抗の手段など皆無だった。

 

「大丈夫よ……! 兵士たちがすぐにでも……っ」

 

「でもこのままじゃ逃げられて……!?」

 

 女性たちは誰しも目を伏せながら祈るばかり。無理もない。このような状況で動ける方が珍しい。

 だから、本来は男性であるルミが何とかしなくては。

 けれど最早、女性であるルミにできることなんてなくて。

 それでも動かなければ、このまま状況は悪化するばかりで。

 しかし、か弱い少女の身体は拘束さえ自力では解けなくて。

 

 考えろ。無理だ。動け。動いた結果がこれだ。やるしかない。自分がどんな姿なのか、いい加減に自覚しろ。

 

 落ち着きのない思考が混ざり、狂い、冷静さが加速度的に失われていって──

 

「上に──!?」

 

「うぁ!?」

 

 御者台から聞こえる驚愕の声。そして、一際激しく馬車が揺れる。女性たちが次々に悲鳴を上げた。それはルミだって例外ではない。混乱の最中でも何が起きたのかは何となく察することができた。

 誰かが荷台の上にいる。何かが荷台の天井に叩きつけられて、少しずつ幕が剥がされていく。誰しもが恐怖と期待を綯い交ぜにした瞳でそれを見つめて。

 

「──ルミ! いるか!?」

 

「あべ、る……」

 

 この世界では数少ない友人が、黒髪の青年が顔を覗かせた。

 またもや彼に迷惑をかけてしまったのか。胸に去来する自己嫌悪。だが、優しい青年が来てくれたことに、安堵を覚えるのは止められなかった。

 

☆ ☆

 

 兵士たちがスラム街の建物へ一斉に突入していく。その様子をアベルは遠巻きに眺めていた。

 カインから受け取った資料通りの作戦だ。複数のアジト候補の同時制圧。あの建物もその一つなのだろう。

 

 本当ならば、アベルだって乱入したい。考えもなしに飛び込んで、友人の姿を探したい。実際、数年前のアベルならばそうしていた。己の衝動に従っていた。

 だが、今のアベルには躊躇いが生まれてしまっている。本当にこれが正しいのか。アベルの介入によって状況が悪化するのではないか。そんな考えが頭を過るのだ。

 そもそもこの場で突撃したところで、兵団に疑われて一緒に捕縛されるのが目に見えている。

 

「…………」

 

 だから、この場ではじっと耐えよう。何事もなく作戦が成功するのならば、他のアジト候補も確認してから帰宅する。そう決められる程度にはアベルも丸くなっていた。

 

「……あれは、カインだな」

 

 巨大な雷鳴が響き渡り、そちらに視線を動かす。アベルが張り込んでいた建物とは別の地点で、自然現象とは思えない雷が弾けていた。

 あれほどまでの規模で魔法を行使できるのは、それこそ近衛騎士や魔法学会のエリートぐらいなものだ。そのうえで雷撃となれば、カイン以外には考えられない。

 

 アベルには、逆立ちしても不可能な芸当だ。胸の中に渦巻く黒くドロドロとした感情はとても無視できない。理不尽なカインへの怒りと、己の醜さに吐き気すら覚える。

 

「ここは外れか。手筈通り容疑者の護送を行った後……」

 

 建物の外に現れた兵士たちが何やら話し込んでいる。どうやらあの建物の制圧はすぐに完遂したようだった。

 意識を逸らして、手元の地図を確認する。ならば他の地点の様子も見に行ってみよう。最寄りのアジト候補の位置を調べながら歩き始めて──

 

「……なんだ?」

 

 目の前を大きな馬車を通り過ぎていく。それだけならば、別に不思議なことはない。商人がスラム街を突っ切るのは迂闊だろうが、急ぎならば仕方がないこともあるだろう。

 普段ならば気にも留めていなかった。けれど、“誘拐犯”を追っている今だからこそ、アベルの勘に引っかかるものがある。

 

 あの馬車が向かっている方角。それを地図の上で素早く確かめた。

 

「そうだ……あっちは王都の中心だぞ? 朝一の荷馬車がどうして街の内側に行く?」

 

 言葉を口にすればより一層、疑念が増していく。明らかに不自然だ。朝早くから出発して隣の都市へ商品を運ぶのならば理解できるし、それならば兵団の検問に引っかかる。アベルが首を突っ込む必要はない。

 だが当然、あの馬車を兵団がマークしている様子はなかった。

 

 考えすぎかもしれない。しかし、そんな安易な判断が致命的な結果をもたらすかもしれないと、そう思い至ってしまえば。もう、我慢できなかった。

 

「勘違いなら……弁償すればいいだろう……!」

 

 左手を振るい己への暗示へ。魔力が願いに呼応し風となる。

 魔法の発動と同時に、アベルは力強く踏み込み──跳んだ。重力が風圧に相殺され、アベルの身体が宙に舞った。

 

「……くっ」

 

 目を細めながら馬車を低空飛行で追いかける。自らを雷と化して自由自在に飛び回るカインと異なり。アベルのこれはただ強力な風で自身を吹き飛ばしてるだけの乱雑な魔法だ。

 細かい制御なんて利かない。咄嗟に剣を振るうことはおろか、自由に停止することさえ難しい。純粋な速度でさえカインの半分以下だ。

 

 しかし今は構わない。矮小なアベルの魔法でも、馬車との距離を少しずつ詰めることはできているのだから。

 

「──ぉお」

 

 馬車のすぐ上に辿り着く。そのまま勢い任せに天井へ落下。崩れそうになる体幹を無理やり保持して、どうにか着地した。

 

「なんだぁ? 親分、何か変な物音が」

 

「……この辺りに兵団は?」

 

「情報通りならいないはずですぜ。偽のアジトを避けて通ってるんで」

 

「──御者を代わるんで、馬車の上を確認してくれやせんか?」

 

「了解っす」

 

 まずい。勘付かれた。とは言え、いきなり攻撃するわけにもいかない。彼らが人売りの犯罪者だとは、まだ決まったわけではないのだから。

 ならばすぐにでも確かめなくては。足元から感じる大勢の人の気配の正体を────。

 

「はぁっ!」

 

 剣を引き抜き、馬車の天井へ突き刺す。それを何度か繰り返して穴を開けていく。

 

「上に──!?」

 

 御者台から顔を覗かせた男と視線が絡み合った。それを無視して、アベルは馬車の中へ顔を突っ込んだ。一斉に視線が集中するのがわかる。恐怖に震える女性たちがアベルを見上げていた。

 どう甘く見積もっても、自ら乗り込んでいるとは思えない。間違いないだろう。王国では禁止されている非認可の奴隷だ。

 

「ルミ! いるか!?」

 

「あべ、る……」

 

 呼びかけに答え、見知った友人が顔を上げる。

 一度見たら忘れることがない、異様なまでに整った容姿。本人は元男と主張し、実際にそういった片鱗を感じていたものの──泣きそうな瞳でアベルを見つめるルミは、どこからどう見ても憔悴しきった少女にしか見えなかった。

 彼女だけではない。他の女性たちもまた、酷く怯えている。許せない。沸々と湧き上がる義憤のままに叫んだ。

 

「全員、出来る限りでいい! 頭を庇って衝撃に備えろ!」

 

「アベル!? 何を……」

 

「全員だ! 言うとおりにしてくれ!」

 

 ルミが初めに従えば、困惑していた女性たちもそれに続いた。アベルは顔を上げる。すぐ眼前、身を乗り出した御者台の男が銃を構えていた。

 

「──っぁ!?」

 

 強風に煽られる馬車の上。素早い回避なんてできるはずもなく、どうにか身を捩ったアベルの頬を鉛玉が掠めていった。焼けつくような痛みが走るが、それだけだ。

 男の方も振動で上手く狙いが付けられなかったのだろう。運が良かっただけ。肝を冷やしながらも闘志は絶やさない。

 

「てめえは何なんだ!? 商売敵か!?」

 

「誰でも構わないだろ……っ! それより馬車を止めろ!」

 

「無理な相談だぜ! 急がないと約束の時間に間に合わないんでな!!」

 

 もう一度、向けられる銃口。見た限り、使っているのは魔術製のものだ。装填数が多く弾切れは期待できない。

 

「ちっ!!」

 

「そう何度も──!」

 

 再び発砲。僅か頭上を通り過ぎる。それを確かめることもせずアベルは左手を振りかざした。男へ吹き付けていた正面からの風が急激に変化。横薙ぎに打ち付けられる風に男はバランスを崩して──

 

「落ちろッ!!」

 

「う、おぉぉっぉぉぁ────!?」

 

 トドメとばかりに放たれたアベルの峰打ちを受け、御者台から転落していった。これでまずは一人。残りは御者台で馬を操る中年の男性のみだ。転落しないように少しずつ前進し、座席の空いた御者台に飛び降りる。

 そして、中年の男性の首元にナイフを添えた。

 

「抵抗するな。すぐに馬車を止めろ」

 

「……全く、随分と乱暴っすね。ご丁寧な兵団のやり口じゃない。どこの誰っすか?」

 

「どうでもいいだろう。口を閉じて、言うとおりにするんだ」

 

 命を握られているにも関わらず、中年の男性はニヤニヤと笑うばかり。アベルのことなど意にも介さず馬を走らせ続ける。

 

「何をしてる!? これで最後だ! 馬を止めろッ!!」

 

「何をしてる、ってのはこっちのセリフでやんすよ。──一体どこに、ナイフを突きつけてるんすか?」

 

 男性の言葉が嫌に脳裏を過ぎ去り、一瞬の眩暈に襲われる。視界が僅かにぼやけ、数秒もしないうちに晴れて。気が付けば、アベルは虚空を睨みつけるばかりで、男性の姿は何処にもなかった。

 

「は──」

 

「都合の良い夢はどうでやしたかね?」

 

「……っ!?」

 

 背後から男性の声。振り返れば中年の男性がそこでまったりと手綱を握っている。

 

「座標の入れ替え……っ? いやあんたは確か、幻覚系統の魔法を──」

 

「ありゃ、中々に情報通なもので。お察しの通り、あっしは人売りを営んでおりやす。奴隷商のニバスっすよ」

 

「そうか……っ、ならここで!」

 

「やめてくだせい。見ての通りあっしは争い事は苦手でして」

 

 精神に干渉してくる魔法の使い手を相手に、様子見など許されない。すぐさまニバスの手首を握り、強引に馬を制止させようと力を籠める。

 彼の言葉通り、膂力はさほど強くない。鍛え上げたアベルにかかれば、すぐ制御を奪えて──

 

「だから、どこを握ってるんすかね?」

 

「なっ……魔力は確かに纏って……」

 

 いなかった。再び眩暈に襲われ、正気に返った時には馬車の出っ張りを必死に握っていた。

 アベルだって無策なわけではない。魔法は世界の書き換え。魔力を意識して纏うなどすれば抵抗することができる。幻覚を受けないように頭を中心に防御はしていたはずだ。

 なのに、数秒とは言えアベルは確かにあり得ない光景を見せられていた。

 

「ええ、そうっすよ。あっしは特別に魔力が多いわけじゃありやせん。調()()()()()()()()()ことぐらいはできても、気を張ってる戦闘中の人間相手にかけられる幻覚なんてたかが知れていやす」

 

「……っ」

 

「でもまあ──君の魔力は随分と弱々しいようで」

 

「黙れ……っ!!」

 

 生まれ持った魔力は大きく変動することはない。何度も突き付けられた事実だが、アベルの怒りを呼び起こすには十分だった。冷静さを欠いた手がニバスへと伸びる。

 その手首が、手綱から片手を離したニバスに掴まれた。そのままメキメキと万力のような力で締め付けられる。

 

「ぅ、ぐぁ!?」

 

「争い事は苦手って言いやしたけど。君程度ならあっしでも片手間に勝てそうっすね」

 

「あんた、一体どこにこんな力が……っ!?」

 

 どれだけ力を込めても脱出できない。特段、鍛えられているわけでもないニバスの握力にさえアベルは抵抗しきれない。

 このままではまずい。兵団の作戦をすり抜けたニバスが王都から脱出する方法を準備していないとは考えにくい。彼の思い通りに進んでいるこの状況は間違いなく、こちら側の不利に直結している。

 

 自由なもう片方の手で拳を作り、ニバスの頭部に叩きつけるが。

 

「っ!」

 

「ぐっぁ……」

 

「いてて。何するんすか」

 

 カウンターのように頭突きを叩きつけられ、逆にアベルの手が痺れてしまう。痛みにバランスを崩し、危うく馬車から転落しそうだ。

 あり得ない。こんな奴隷商如きに手も足も出ないだなんて。

 

「本当に、本当に、弱いっす。それであっしから商品を取り返すだなんて、大口を叩くのもほどほどにしてもらわないと」

 

「だから、黙れ──!」

 

「腕っぷしも低く、口喧嘩も下手くそ。何のために生きてるんすか? 志ばっかりが高い無能だなんて、路地裏で腐ってる方がマシっすよ?」

 

「だまれぇ──!!」

 

 激情のままに剣を引く抜く。これまで努力して鍛え上げてきた剣技の尽くが御者台に座っているだけのニバスに捌かれていく。

 届かない。アベルの力は何一つとして届かない。剣は強化された地肌に受け止められ、魔法はただの魔力の防壁で拒絶され、純粋な膂力でも敵わない。

 

 何故か。アベルが弱いから。凡人が努力しただけでは、努力した天才には届かない。それどころか、戦闘が本業ですらない中年男性にすら負ける。

 嫌になる。お前に生きる価値なんてない。志ばかりを育て、十五になるまで己の弱さに自覚を持てず。現実を突きつけられれば、何も罪のない弟分に醜い感情を押し付けた。

 

 きっとこのまま。アベルの行動は無為に終わり、ルミを助けることはできないのだろう。

 

 何故か。お前が弱いから。

 何故か。お前が身の程を弁えないから。

 何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。何故か。

 

 

 

 

 

「──あんたが、質の悪い幻覚を使うからだ」

 

 己の醜さを映した虚空を切り開き、アベルはニバスの首に手をかけた。



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第十一話 宇宙外の瞳

「は、はは。あっしの幻覚でいいようにされてると思ってたんすがね……」

 

「最初は本気で騙されてた。けど、起きることがあまりにも俺に“都合が悪すぎる”」

 

 王都のスラム街。風の吹きつける馬車の御者台の上で、アベルは確かにニバスの首に指を這わせていた。

 力を籠めれば、折れるかはともかく酸欠に陥らせることぐらいはできる。ニバスが次の行動を起こすよりも早く、だ。

 

「幻覚の魔法使いは大きく分けて二種類だ。自分が設定した幻を見せるもの。それか、対象の記憶を読み取って効果的な幻を見せるもの」

 

「……へぇ、随分と博識なもんで」

 

「あんたは明らかに後者だろう。俺が嫌いなものを嫌と言うほどに見せてきた。おかげで最悪な気分だ。けどな……いくら俺が弱くても、あんな一方的に叩きのめされるつもりはない」

 

 余分な力が加わり、ニバスが苦痛に表情を歪める。

 

「──俺が負けたのは、天才や英雄たちだ。あんたみたいな小悪党に苦戦するつもりはないんだよ……っ!」

 

「気持ち良く話してるところ悪いでやすけど。この光景があっしの幻覚じゃないとでも? また“都合の良い”夢を見てるんじゃないっすか?」

 

「例えそうだとしても、掴んだ瞬間は現実だった。なら、俺は何が起きようとも力を緩めない。幻の中で殺されようが」

 

 言葉の売り買いを繰り返しながら、アベルは確信した。恐らくニバスの幻覚魔法は相手にとって“都合が良いこと”、或いは“都合が悪いこと”を幻として見せつけるものだ。

 だから先ほどまで、アベルは奴隷商程度にさえ手も足も出せずに、何者も救えない己を幻視させられていた。自身の醜さと弱さを直視させられるほど、都合の悪いことはありはしない。

 

「あんたの負けだ。今度こそ馬車を止めろ。兵団には引き渡すが、命まで取るつもりはない」

 

「……ええ、確かにあっしの負けっすね。今から魔法を使ったところで意味はないでしょうよ。せっかく大漁だったのに商品を手放さないといけねえなんて」

 

「長話の相手は兵士にしてもらえ」

 

「けどっすね」

 

 手綱を握るニバスの指が、強張る。注意深く様子を窺っていたアベルはすぐに見抜くことができた。湧き上がる疑念と経験が発する警告。それらを理性が処理するよりも早く──

 

「あっしはここまで商売を大きくするために、努力してきたんすよ!! それを小悪党呼ばわりとは、許せねえ!」

 

「っ!! やめ──」

 

「豚箱送りにされて堪るかってんだッ!」

 

 間に合わない。ニバスが滅茶苦茶に馬を暴れさせると同時に、アベルは咄嗟に御者台から飛び降りた。受け身の補助に風の魔法を放ち、高速で走っていた馬車からどうにか無傷で脱出する。

 それでも何度か地面を転がることは避けられず──顔を上げた先で、馬車が慣性に引きずられて横転しかかっていた。

 

「きゃあぁ!?」

 

「おおぉぉぉおぉっ!!」

 

 十人以上の人間に加えて馬車そのものの重量。発動地点は十メートル単位で離れている。出力も精度も高位なものを要求される。

 それでも女性たちの悲鳴を耳にして諦めるつもりはなかった。全身の魔力を漲らせ、魂が削れるような錯覚を覚えながらも風を操る。

 

 横倒しになりかけた馬車に下方向からの強風が叩きつけられて。

 

「ぅっ、がぁ……ッ」

 

 それがアベルの限界だ。鋭い頭痛によって魔法が途切れ、風もまた止む。眼前でゆっくりと馬車が倒れた。横転を防ぐことはできなかったが、クッション程度にはなったはずだ。予め警告していたことも合わさって、中の女性たちに怪我はないと願いたい。

 どうなっているにせよ、状況を把握しなくては。痛む頭に鞭を打って立ち上がると、急いで馬車へと駆け寄った。

 

 現場は酷い有様だった。近くに偶然存在したボロ小屋の壁には風穴が開き、すぐ傍に頭から血を流した馬が倒れている。外側からの視界を遮る馬車の荷台の中からは、すすり泣く複数の声が響き渡っていた。

 周囲の住民たちも早朝からの騒ぎを聞きつけ、何事かと顔を出し始めている。そんな野次馬たちの視線を無視して、アベルは馬車の幕を切り裂いた。

 

「乱暴なことになって済まない。怪我をした人はいますか?」

 

 自らの人相があまり穏やかなものでないことは重々承知だ。可能な限り柔らかい声色で転げ回っている女性たちの無事を確かめる。

 手足を拘束された状態で馬車ごと横転した以上、骨折の一つや二つ、それ以上の緊急性のある怪我だってあり得るだろう。しかし女性たちは恐怖で涙を流すことはあれど、痛みに苦しんでいる様子は見受けられなかった。

 

「だ、大丈夫だと思います」

 

「わかりました。何かあったら叫んで伝えてほしい。すぐに兵団も来るはずだから、もう少しだけ我慢しててください」

 

 比較的に平静さを保っている女性が答える。アベルが注意深く観察しても、意識を失っている人物もいない。今すぐに対処しなくてはならない事柄はないだろう。

 

「アベル……」

 

 だから優先すべきことは他にある。背を向けてそちらに向かおうとした時、見知った声がアベルの意識を掴んだ。肩越しに振り返る。今にも泣きそうな顔のルミと目が合った。

 

「本当に、ごめん……また僕のせいで……。怪我だって」

 

「……気にしなくていい。大した傷じゃない」

 

 短く言い残し視線を外す。言いたいことも、聞きたいこともたくさんあったが、ゆっくりと言葉を交わしている余裕はまだない。

 それ以上に、恐怖と嫌悪に塗れた顔を見ていられなかった。

 

 ルミから逃げるように視線をさ迷わせる。アベルが探しているものは、すぐに発見できた。

 

「ち、くしょ……っ、あっしは……死なない……。やっと、やっと、ここま、で……き、たのに……」

 

「……酷いな」

 

 今回の事件の主犯。奴隷商のニバス。横転の際に巻き込まれたのだろう。彼の右足は無残にも潰れ、左足首もあらぬ方向に曲がっている。それでも必死に前に進もうと地面を這いつくばる彼の背後には、紅い線が残されていた。

 とんでもない執念だ。脂汗をかきながらも必死に腕を動かす姿には狂気さえ感じられる。

 

 だが、同情の余地はない。ニバスは多くの人間を不幸にし、生きる限りそれを続けるだろう。命を取るかはともかく、兵士に突き出すことに抵抗など微塵もない。

 それにアベルは聖人ではないのだ。トラウマを抉られて、少なからず苛立っていた。

 

 だからニバスの背中を乱雑に踏みつけ、無理やりに地面へ縫い付ける。

 

「もう止せ。痛みでショック死してもおかしくない」

 

「は、ひはあ……! 死ぬわけ、ないっすよ……だってあっしは、これからでやすから……」

 

「これからなんてない。牢の中で一生を過ごすんだ」

 

「黙れ……奴隷として、こき……使われて。何度も、死にかけて……それでも死に物狂いで、ここまで商売を……成功させやした……。やっと人間らしく、生きれるように……」

 

 思わず眉をひそめる。小悪党の身の上話ほどつまらないものはない。嫌悪感を隠しもせずにニバスを見下ろした。

 

「奴隷商が何を言ってるんだ。国が認定してる職業安定所としての奴隷ならともかく。人道に反する人売りをしておいて、人間らしさを願うのか?」

 

「しかた、ねえじゃないすかぁ……あっしはこれ以外知らねえ……堅気の商売なんて、誰にも信用されねえんすからできやしねえっすよ。できるのは、後ろ暗いことだけで──」

 

「もう、黙れ。生まれを犯罪の言い訳に使うな。スラム出身の浮浪児でも、騎士にだってなれるんだ。あんたの罪はあんたに原因がある」

 

 本当に癪に障る男だった。また幻覚をかけられているのかと疑ってしまうが、魔力を集中させても外部から干渉されている気配はない。ニバスにはもう、魔法を操る余力さえ残っていないのだろう。

 

「そんなバカなこと……」

 

「あるんだよ。俺は、目の前で見てきた」

 

「ぐ、ぇ……っ」

 

 体重を更にかけて黙らせた。

 やや遠方から無数の靴音が響いてくる。恐らくは兵団のものだ。アジトの制圧作戦と同時刻に全く別の地点で騒ぎが起こり、慌てて駆け付けたのだろう。

 アベル一人で混乱する女性たちを纏めて、安全な場所にまで連れていくのは骨が折れるどころではない。救助は兵団に任せ、アベルは主犯格を──ニバスを見張っておく。

 

 これが正解のはずだ。ニバスの逃亡。彼の仲間が現れて場をかき乱すこと。そのどちらにも警戒を怠らないように意識を巡らせて。

 

「こんな……捕まらねえ……っ! 死にたくねえ……! あっしは、あっしは……」

 

「……なんだ?」

 

 何処からか、視線を感じた。背筋に冷たいものが走り、ごわごわと全身の毛が逆立つような感覚。それは生き物が本能的に発する警鐘だった。

 

 ただ原因がわからない。剣の柄を掴んで周囲を見渡すが、特段おかしなものは見当たらなかった。残党が銃口を向けているわけでも、ニバスが自爆でも試みているわけでもない。

 未知とは、恐怖だ。わからないからこそ恐ろしい。何もわからないのに、恐ろしいということだけが理解できてしまう。

 

「ニバス、あんたか!? 魔力を放つのをやめろ!」

 

「だ、れっすか……? 契約……?」

 

「おい、一体何を言って……?」

 

 大気中の魔力が高まり、場を支配していく。奴隷商はおろか、天才と謳われるカインですら、瞬間的には操れないほどの圧倒的な魔力の嵐が吹き荒れ始める。

 魔力とは現実であり、魔法とは願望だ。あまりに出力の高い無色の魔力は時に現実を塗りつぶし、白紙にしてしまう。アベルも魔力を漲らせて抵抗するが、これほどまでの濃度に晒され続ければ存在ごと抹消されかねなかった。

 

「あんたじゃないのか!? どうなってる!? 知ってることを全部話せッ!!」

 

「ええ、死にたくねえ……わかっていやす、もうあっしじゃどうしようも……なら……」

 

「ああ、くそっ!」

 

 魂がかき消される悪寒に耐えられず、ニバスから跳ぶように距離を取った。剣を構えて、いつでも戦えるように戦意を研ぎ澄ませる。けれど、やはり何もわからない。

 間違いなく何者かの干渉を受けている。だが、姿がない。加えて規模が個人で完結できるレベルを遥かに凌駕していた。

 

 ニバスに向けて風が吹き荒れ、小さな竜巻を形成していくのは見間違いではない。彼の周辺の現実が塗り潰されることで大気が消失し、急激に低下した気圧に周囲のものが吸い寄せられているのだ。

 

「なんなんだ、これ……っ」

 

 身体の震えが止まらない。怖くて怖くて堪らない。眼前の現象を呼び起こしているのは、指向性のない魔力だけで物質を消失させられるほどのナニカだ。

 圧倒的に巨大な竜でも、世界の元素を司ると呼ばれる精霊でも、まだ可愛いものだろう。

 

 直感的に理解する。目に映らず、声も聞こえないが。今、この場に降臨しているのは──世界を滅ぼせるナニカだ。

 

「あっしは死にたくねえ! あっしを“オレ”に捧げやす! だから、“オレ”をあっしに分けてやるよ」

 

「これ、は……」

 

「だから、最高の人生を(最高の脚本を)────ッ!」

 

 無秩序にまき散らされていた魔力が収束し、ニバスの中へ吸い込まれていく。彼の魂をナニカが上書きする。その最中で叫ぶ彼の声は断末魔とも、歓声とも取れる奇妙で理解しがたい雄たけびで。

 唯一つ確かなのは、事態が再び最悪まで転げ落ちたということだ。

 

「ああ……呼ばれちゃいないが着ちまったぜぇい。良い匂いだ。最高な物語の気配がプンプンしてる!」

 

「……っ」

 

 ニバスが立ち上がる。とても機能しないはずの足を酷使して。そのまま狂ったように高笑いを響かせながら、楽しげに周囲の惨劇を見渡す。

 

「人道に反した奴隷商人っ! 彼に攫われた麗しい少女たちっ! そして、彼女らを助けるために命を賭ける青年っ! ああ、イイッ! とてもイイッ!! もっと見せてくれ! 最高の! アングルで! 人間の美しさを“オレ”に見せてくれよッ!?」

 

「あんた、誰だ……!?」

 

 どう考えても彼はもう、ニバスではない。あの時、平原で遭遇した殺人鬼──“プレイヤー”。彼らと同じだ。一つの肉体に無理やり二つの魂を詰め込んだかのような違和感。何より、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 憑依とでも言うべきなのだろうか。明らかに目の前の存在は、ニバスの皮だけを被ったナニカだった。

 

 投げかけられた問いにニバスが笑いを止める。急激に彼の中の熱が冷めていくのは、目を見れば容易に理解できた。

 

「あの、な。そういうメタ発言はやめてくれね? 冷めるんだわ」

 

「めた……?」

 

「“オレ”は小悪党の奴隷商人で! お前は未来の英雄ってわけで! なら、やることは一つだろ!?」

 

 狂ったように叫び、アベルの言葉に冷め切った視線を向け、またすぐにテンションが極限まで高まっていく。とても正常な人間の情緒とは思えない。

 

 ──“プレイヤー”とは、一体何なのだろうか。

 

 それ以上の考察を巡らせる余裕はなかった。吹き荒れる魔力が収束し、ニバスの拳に纏わりついていく。最早、あれは幻覚のような小手先で生き延びてきた奴隷商人ではない。先日の“プレイヤー”よりももっと魔力が濃い。明らかにアベルよりも格上な人型の怪物だ。

 油断なく剣を構えながらも周囲の喧騒に耳を傾ける。まだ、遠い。すぐに兵団が合流してくれることはないだろう。アベル一人で、あれを抑え込まなくてはならない。

 

 できるのか。心も身体も弱々しいアベルに。

 

「違う、やるんだ……! 俺が、絶対に……!」

 

 弱音を吐きたくなる口はしかし、白髪の少女の泣き顔によって、決意を紡ぎ出す。それに成否なんて関係ない。闇雲であろうが、余計なお世話であろうが、目につく者を救いたいと願ったのならば。

 勝ち目がない敵であろうとも、命惜しさに引くわけにはいかない。

 

「いいなァ! やっぱりお前はいいよッ!! アバターに登録して良かったッ! さあ、英雄さんよ! “オレ”を……あっしを殺して、大事な人々を助けてくれよッ!!」

 

 怖気づいてしまうそうになる身体に鞭を打って、アベルは剣を片手に斬りかかった。



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第十二話 天と地の生命体

 格上との戦いで様子見は愚策だ。少なくともそう考えているアベルは迷わずに先の先を取った。普段は消耗や制御の問題であまり行わない、風の魔法を補助に回した加速も駆使して、ニバスだった者に斬りかかる。

 

「いいよォ! 風と剣技の融合、王道じゃないかぁ!!」

 

 光が屈折するほどの魔力を纏った腕。それがアベルの渾身を容易に受け止める。人間の皮膚が斬撃を喰らって掠り傷も付かない光景には辟易としたが、深追いはせずに即座に飛び退く。

 今の攻撃が通用しないのならば、防御も許さぬ速度で急所を貫く他ない。薄い勝ち筋を脳裏に描きつつ、ニバスを睨みつけた。

 

 当のニバスなのだが。悩まし気に自らの腕を見つめて立ち止まっている。戦っている相手から視線を外す始末だ。そのおかげでアベルもゆっくりと思考を巡らせる余裕ができたのだが。

 

「うーん……ちょっとやり過ぎだな。どのくらいだ? もっと弱めるべきか」

 

 そう呟きながら腕に付きまとう魔力を削っていく。手加減としか思えない行動であり、意図が理解しがたい。それに、相対するアベルとしては好都合なはずなのだが、手を抜かれている事実はあまり気持ちが良くなかった。

 

「あーわりぃな。気にするなよ。これは手加減とかじゃなくて、調整だ」

 

「……あんたらの発言は本当に理解できない」

 

「あんたら? もしかして他の“プレイヤー”に既に会ってるのか。はははっ、面白いねぇ! “オレ”が手を出す前から、演出はされてきたってわけだ!!」

 

 悦びを前面しつつ、再び吠えるニバス。叩きつけられる戦意に震えそうになる身体へとアベルも活を入れる。

 魔力の出力が弱まったのならば、渾身の一撃を再度試してみる価値はあるだろう。ならばまた先手を取るべきか。

 

「考える余裕は──与えねえっすよ」

 

「ぅ、おぉ──!!」

 

 言葉通り、アベルの魂は作戦会議ではなく、眼前の対処に追われる。アベルのように風を纏うことなく、純粋な脚力だけでアベルよりも僅かに早く、ニバスが肉薄してきたのだ。

 振りかざされた拳を左手でどうにか弾くが、小回りの利く拳撃が一発で終わるはずがない。次々と放たれる拳の連打。避け切れなかった打撃が骨を軋ませるが、致命的なものはどうにか受け流して。

 何かしらの型があるのだろう。同じ連打の組み合わせが何度も何度もアベルの生命を奪わんとする。

 

 だから、その型の境界にアベルは差し込んだ。

 

「──ぐぇ!?」

 

 合わせた蹴りがニバスの腹部を貫く。苦悶の声を上げ僅かに後退するニバスへ剣を振り上げた。これで剣の間合いだ。有利な状況を逃がさず、一気に仕留める。

 首筋に向けて全霊の剣技を──

 

「──“都合の良い”夢は、見られやしたか?」

 

「は……?」

 

 歪む。消える。目の前の現実が、否。虚構が崩れ去る。後退したニバスなどどこにもおらず、アベルの懐に飛び込んだニバスが弓のように大きく腕を引き絞って。

 

「がぁ、ハ……っ!?」

 

 掌底が叩き込まれる。骨が折れる嫌な音が内側から響き、肺と胃の中身が無理やりに逆流する。避けるべき致命的な痛みを存分に味わいながら、アベルの身体は背後へと吹き飛んでいった。

 

☆ ☆

 

「アベル……?」

 

 横転した荷馬車。ボロボロになった天幕の隙間から絹のような白髪が顔を覗かせる。

 不気味な言動を取り明らかにナニカに取りつかれた奴隷商人ニバス。彼と戦うアベルの姿をルミは余さずに見守っていた。だから、決着がついた瞬間さえも瞼に焼き付いている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()隙を突かれ、血反吐を吐きながら廃屋へと消えていくアベルの姿を、だ。

 初めは信じられなかった。だってアベルは強い。悪魔からルミを守ってくれた。平原の“プレイヤー”も撃退して見せたし、あのままでは商品として連れ去られていたルミたちを助けてくれた。

 

 未だにルミは甘えていたのだろう。心のどこかできっと、何とかなると無責任に過信していたのだろう。あれだけの恐怖を植え付けられても尚、ルミは平和ボケしていたのだ。

 

「やっべ……加減したつもりだけど、平気だよなぁ?」

 

 拳を開閉しながらアベルを吹き飛ばした方向へ歩き出すニバス。彼の姿を見つめながら、ルミはフルフルと首を横に振った。

 

「ダメだ……僕のせいで、アベルが……」

 

 その先は恐ろしくて声にはできない。けれども、目の前の光景はそれを事実にしようとしている。

 助けなくては。ルミ如きが、なんて言ってられない。他に誰もいないのだ。この身がか弱い少女であろうとも、躊躇っている時間も考えている時間もない。そのためには、手足を縛る紐が邪魔だった。消えてなくなってしまえ。

 

「……え」

 

 そう願った瞬間、ふっと手足が軽くなった。自由に動く。長時間縛られたことで痛々しい痕こそ残っているが、ルミの拘束は綺麗さっぱりなくなっていた。理由は不明。だが、好都合だった。

 

「……!? あなた、いつの間に……待って! 危ないわ!」

 

 自分に良くしてくれた女性の言葉を振り払って、ルミはアベルの元へと駆け出して行った。

 

☆ ☆

 

 また、失敗するのか。胸に走る痛みに苦しみながら、アベルはどうにか顔を上げた。アベルの身体が貫通したのだろう。廃屋にできた風穴を通り抜け、ゆっくりとニバスが近づいてくる。どうにかして対抗しようにも、これ以上は身体の自由が利かない。

 腕は鉛のように重く、指先の感覚が希薄だ。何より掌底を喰らった胸がまずい。確実に肋骨の数本はへし折れているし、下手をしたら内臓に突き刺さっているだろう。

 重要な臓器が潰れても尚、動き回れるほどに頑丈ではないと、アベルは自覚していた。

 

「あーあ。やっぱダメか。まあ、たまには悪役の勝利で終わってもいいけどよぉ……」

 

 せめてもの気概でニバスを睨みつける。相変わらず声と口の動きは一致しない。本当の本当に、不気味な存在だ。こいつの正体にも迫ることはできず、友人も、無辜の民も、己の理想も守れずに、ここで果てるのか。

 それだけは、嫌だ。諦めても諦められないからこそ、アベルはここに来たのだから。

 

「……へえ! 重症人の目じゃないぜ! こりゃあいい!! 足掻いて見せてくれよ! やっぱりお前は最高だ!」

 

 意味のわからないテンションの上げ方をしながら、ニバスが拳を振り上げる。動け。少しでもいい。せめて、兵団が到着するまでの時間を稼がなくては──

 

「いてっ!?」

 

「……?」

 

 不意にニバスが前のめりに倒れかかる。後頭部を擦って不思議そうに彼は振り返った。アベルも何が起きたのかとそちらに意識を向けて──目を見開いた。

 

「や、やめろ……アベルをこれ以上は……」

 

「お前……あっしに捕まってた女か」

 

 ルミだ。ルミがニバスに背後から殴りかかったのだ。どういうわけかアベルにご執心だったニバスは、素人の気配さえ見逃していたのだろう。完全な不意打ち。千載一遇の機会だったのだが、それを掴めと言うのはあまりに酷だった。

 せめて悪魔と戦った時の精神状態ならば良かった。あの時のルミは妙な自信のようなものがあり、何より思い切りの良さがあった。けれども、今のルミは。

 

 足腰は震え。顔は恐怖の一色に染まり。今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに弱々しい姿勢だ。とてもではないが戦える状態ではない。ニバスにぶつけた拳だって、僅かに痛みを与える程度でしかなかったのだろう。

 

「アベルが動けないなら……僕が、相手……してやる……っ」

 

 それでも。ルミは勇気を振り絞ってニバスに立ち向かおうとしていた。不可能なことは誰よりも己が理解していながらも、懸命にアベルを救おうと拳を構えていた。

 心が荒ぶる。彼女の姿にアベルの中の何かが爆発しそうになる。

 

「──ああ、イイ」

 

 それはアベルだけではなかった。ニバスが静かに感動の涙を流していた。

 

「なんなんだよお前ら!? “オレ”の予想を更に超えてくれる! なんで予感を、願望を、想像を、予知を、ずっとずっと凌駕してくれるんだ!?」

 

「……っ」

 

 ルミが気味の悪さに頬を引き攣らせていた。同感だ。この男の情緒はまるで把握できない。

 

「でもそうだよなァ! 英雄は弱きを守るんだ! 守られる人間は英雄の傷つく姿に心を痛めるんだ! なあ、なんでかわかるか!? わかってくれるよなァ!?」

 

「…………」

 

「答えられねえか! いいさ、怖いもんな! 頑張って立ち向かってるんだもんなッ!! 無理強いはしねえさ、だってお前らは理解してるんだからよッ!」

 

 呑まれている。アベルもルミも、膨大な声量と熱量──そして、狂ったような笑顔に圧倒されてしまって動くことができない。

 

「だが、敢えて言葉にするぜ──それが知性体に許された機能だからだ」

 

「機能……?」

 

「そうだ! 畜生共や生きてるかもわからねえ腫瘍の塊にはねえんだよ! 知性があれば優しくなれるッ! 義憤を抱くことができるッ! 他者を慮ることができるッ!」

 

 とても奴隷商人から放たれるとは思えない、あまりに綺麗な言葉の数々。並びたてる台詞はどれも素晴らしいものなのに、どうして恐ろしいのだろうか。

 

「他者との比較、それによる愛の発展形! それが知性を持つものと持たざるものを明確な差だッ! だから矮小な人間であろうと、知性があって心優しい存在なら“オレ”は大好きだ!」

 

 繰り返そう。未知とは恐怖だ。ニバスだったナニカは人間の言葉を操っているが、その思考形態が未知なのだ。故に理解できない。故に恐ろしい。

 

「だって──知性の本質は慈悲なんだからな!!」

 

 狂っているのではない。壊れているのではない。ただ奴にとっての当然が、この世界の常識からかけ離れているのだ。

 ナニカは本気で人の優しさを信仰している。アベルとルミに美しい生き様を求めている。その信仰を引きずり出すために、二人を痛みつけようとしている。

 

 だから、真面目に会話するだけ無駄なのだろう。今更ながらに、アベルは奴と意思疎通が不可能だと悟った。交渉は不可能だ。ここで殺すしかない。手加減して捕縛するなんて余裕はない。

 

「ルミ……ありがとう。おかげで、少しは……傷も塞がった」

 

「アベル!? 無理しないでっ!」

 

「しなくちゃダメなら、するんだよっ。それはお互い様だ……!」

 

 ナニカが気持ち良く演説している間に、用意していた魔法薬で最低限の治療を施していたのだ。骨が即座に治るような代物ではないが、止血ぐらいはできる。苦しいの変わらないうえ、肋骨が折れたまま暴れては傷の悪化を招くだろうが、知ったことではない。

 今この瞬間を、乗り越えなくてはならないのだから。ゆっくりと立ち上がって、落とした剣を拾う。

 

「ちっ。そろそろ外野が集まってきちまうな。それはつまらねぇし……禁止されてるが、少しぐらいなら構わねえか」

 

 そうだ。それにこの会話でかなり時間が稼げた。間もなく兵団が到着する。彼らの助力さえあれば、この男だってどうとでも対処できる、はずだった。

 

「──『創世』」

 

「……!? ルミ!!」

 

 膨大な魔力がナニカから溢れ出し、ルミもアベルも身を固くした。魔力を纏う術を知っているアベルならともかく、対処法を知らぬルミにこれは──

 

「え……何が……?」

 

 しかし、何ともない。ルミも魔力の奔流が何を齎したのか理解できずに困惑している。

 魔法の心得があるアベルにも、何が目的だったのか初めは理解できなかった。だが、遅れて確かに気づく。アベルだからこそ認識する。

 しかし、だからこそ。この場に具現化した奇跡をとてもではないが信じられなかった。

 

「……世界が、隔離されてる」

 

「アベル、それって……?」

 

「あり得ない……! そんな馬鹿なことが、一個人で……」

 

 天を仰げば、登りかけていた朝日が消え失せ、満天の星空と月が巡っている。目にも止まらぬ速度で無数の星々や月が空を飛び回っているのだ。

 そのように、あり得ない法則が適用される宇宙を、アベルは知っていた。

 このように、外世界から閉ざされた宇宙の感覚を、アベルは知っていた。

 

 他でもないアベルの生業とは、そんな無数の世界の開拓なのだから。

 

「これは……小宇宙だ」

 

「まあ、ほぼ正解だぜ。“オレ”がやったのは他の“プレイヤー”に内緒でな」

 

「いくら小さいからって……新しい宇宙を生み出して、そこに俺たちを閉じ込めるなんてことが!?」

 

「いやいや正確には生み出したんじゃなくて、隔離だっての。周りの建造物とかはそのままだろう? 完全な『創世』なんて流石にできねぇよ」

 

 どちらにせよ、常識外れの偉業だった。これで援軍は期待できなくなってしまった。

 恐らくこの辺りだけが小宇宙に隔離されている。入り口である世界の風穴を兵団が見つけるまで侵入はできないだろうし、そもそも人力で生み出された小宇宙に入り口が用意されているのかも怪しい。

 状況はますます悪化している。だが、端から覚悟は決めていたはずだ。アベルがやるのだ。アベルが救うのだ。アベル自身の手で、皆を。

 

「あ、アベル! 僕にできることなら、手伝うからっ!」

 

「……ああ。わかった」

 

 本当は下がっていてもらいたいが、彼女が素直に引き下がることはないだろう。そう確信できてしまうからこそ、アベルは頷いた。

 

「やるぞ、ルミ」

 

「うん……っ」

 

 凡人と素人のコンビは、諦めと恐怖を抱きながら、怪物に立ち向かっていった。



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第十三話 命を掴み命に縋れ

 アベルが剣を振り、ニバスが拳を放つ。お互いがお互いの命を奪い合うその死闘に──ルミは介入できずにいた。

 いざとなればルミだって戦えるなんて、そんな傲慢な考えはもう捨てた。それでも、アベルを助けられる人間が他にいないのならばやるしかないと、飛び出してきたのに。

 

「ぅっ……ぐぉお!!」

 

 怪我を押して戦うアベルは時折、戦闘の雄たけびに紛れて苦悶の声を上げる。そんな彼を助けることができない。そもそも、彼がこうして死地で命を賭けているのはルミのせいだと言うのに、何一つとして手助けができないのだ。

 流星と無数の月が高速で行き来する奇妙な空の下で、ルミは自問自答する。

 

 喧嘩さえしたことのない自分が、こんな華奢な少女の身体で、直接武力を行使できるとは思わない。もうわかっている。隙を見て殴りかかったところでアベルの足を引っ張るのが落ちだ。

 だから考えろ。何かあるはずだ。元男の癖に弱くて弱くて情けないルミでも、戦う以外で何か役に立てることが。

 

「……!? アベル、後ろだよっ!!」

 

 ニバスと死闘を繰り広げていたアベルが突然、あらぬ方向に剣を向けだす。虚空を睨みつけあたかもそこに敵がいるかのように振舞うのだ。

 当然、その隙を見逃さないニバスは無防備な背中に渾身の一撃を叩き込もうとしていた。

 

「な──」

 

 驚いた声は、アベルとニバスの両者からだった。ルミの言葉に慌てて振り返ったアベルは寸前のところで、二度目の致命から逃れる。掌底を剣の腹で受け止め、衝撃を活用してニバスから距離を取った。

 隣に着地したアベルがルミに言葉を向ける。

 

「ルミ、今の……どうしてあいつが後ろにいるって気づけた?」

 

「え、え? いやだって、普通に歩いて回り込んでただけだし……」

 

「……複数を対象にできないのか? 小宇宙を即興で生み出すような魔力はあるのに?」

 

 ブツブツと声に出して思考を纏める青年に、無暗に質問をぶつけるのは躊躇われた。けれど状況が理解できないルミに予想外の場所から、次の疑問が投げかけられる。

 

「おいおい! そりゃ、NPCだったあっしの規格に合わせて制限してるけどよ。なんでまた“オレ”の現実改変が効いてねえんだ!?」

 

「ぼ、僕?」

 

「そうだ! “オレ”はあっしの幻覚魔法とやらでお前らを欺いてた。なのに、お前にはしっかりと現実が見えてた!! 凄いな、運命みたいだな! 戦えるけど弱い青年と、戦えないけど魔法を無力化できる少女! こんな出来過ぎた脚本が実在していいのかッ!?」

 

 魔法が効いていない。本当に自分のそんな特異性があるのか。全てを鵜呑みにすることは難しいものの、確かに心当たりはあった。

 

 平原での戦い。別の“プレイヤー”との戦いで、奴らはルミに対して“現実改変が妙に遅い”と口にしていた。

 ニバスに捉えられた際、彼は眠りの魔法をかけようとしてルミには通用しないと驚いていた。

 

 完全に遮断しているわけではないのだろう。だが、ある程度は無意識に抵抗できているのはきっと、勘違いでも過信でもないはずだ。

 

「ルミ」

 

「う、うんっ」

 

「俺じゃあいつの幻覚を防げない。だから、俺が変な動きを始めたら教えてくれ」

 

「…………わかった」

 

 ルミに、できるのだろうか。そんな不安が返事を遅らせる。

 

「大丈夫だ。あんたは、俺が絶対に守る」

 

「…………ありがと」

 

 その不安を別の要因だと勘違いしたのだろうか。歯に衣着せぬ言葉に苦笑いする。

 本来は男なんだから守られてばかりは気に食わないだとか、僕のことは気にせずにニバスを倒せだとか。そんな本音を吐けたらどれほど良かっただろう。

 実際、赤子の手をひねるように殺されかねないルミは、黙って礼を言う他なかった。

 

 悔しかった。情けなかった。男らしく彼の隣で戦いたかった。けれど、これが女性になってしまったことを自覚していなかった罰だとすれば。今ばかりは、守られるだけの存在に甘んじて見せよう。

 そして、守られるだけの存在ならば、それなりにできることをして見せよう。傷を刺激しないように注意しながら、硬いアベルの胸板に手を添える。

 

「たぶん、できる」

 

「ルミ……?」

 

「じっとしててよ」

 

 魔法の本質はもう知った。この世界において強い願いが具現化するのならば。ルミが抱く後悔とアベルを案ずる心は、魔法にだって届き得るはずだ。

 

「……『治れ』」

 

 身体から何かが流れ落ちていく喪失感。腕を通り、指先を通り、それがアベルに沈み込み、()()()()()()()()()()()()()()()。それこそが魔法。つまり現実の改変だ。

 

「ごめん、全部は治しきれないけど……」

 

「いいや、十分だ。助かった」

 

 医学の知識は持ち合わせていないうえ、怪我の詳細まで調べている余裕がない。だから治療しきれない。それでも、幾分か顔色の良くなったアベルは不器用ながらに笑って見せた。

 

「……どうして待っててくれたんだ?」

 

「せっかくの主役とヒロインの演出を遮る気はねぇからなァ! 終わったなら──戦闘パートと行かせてもらうが、なッ!!」

 

「ああ、そうか──!」

 

 アベルとナニカが同時に大地を蹴り飛ばし、再びぶつかり合う。剣の間合いを保とうと蹴り技を組み合わせて立ち回るアベルと、懐に飛び込もうと苛烈な連撃を繰り返すナニカ。

 そして──

 

「右にいる!」

 

「……っ!?」

 

 時折、アベルの動きが狂う。ナニカに幻覚を見せられ、存在しない敵へと意識を向けてしまう。それを正すのがルミの役目だ。

 警告によってアベルは現実に立ち返る。横合いから飛んでくる裏拳を屈んで回避し、そのまま緑色に輝く左手をナニカの腹部に向ける。ルミでもようやく感知できるようになってきた魔力の気配。それがアベルなりの解釈をもって現実を書き換える。

 

 つまり風の暴力。圧縮した空気砲だ。

 

「ぶっ飛べ──ッ!!」

 

「べぇ…………!」

 

 ナニカがくの字に折れ曲がって吹き飛ぶ。すかさず追い縋るアベル。ルミも戦場に移動に合わせて、慌てて走り出した。

 アベルは風によって背中を後押ししているようで、ルミではとても追いつけない。それでも援護だけは決してやめないと必死に目を凝らしながら脚を動かす。

 

 その視点の先でアベルは、民家の壁に着弾したナニカに斬りかかっていた。ナニカもただでは受けない。すぐさま魔力の籠った拳を掲げて防御に回すものの、地に背中を付けたままでは踏ん張りが利かないのだろう。

 少しずつアベルの剣がナニカに押し込まれていく。

 

「う、おおおおぉぉぉおぉぉぉぉ!」

 

 あまりに不利な体勢に、いくら底の見えないナニカでも厳しいものがあったのだろう。遅れて近場にまで追いついてきたルミが見る限り、彼の手首に少しずつ刃がめり込んでいき──

 

「まだ、まだ……終わりにはしねぇぞ!!」

 

「ぐぅ……っ!」

 

 ナニカがアベルを蹴り上げる。僅かに怯んだ隙に剣を横に弾いて、ナニカはアベルから距離を取った。立ち上がり体勢を立て直すが、左の手首からは夥しい量の鮮血が流れ出している。

 力なく垂れ下がった様子を見る限り、すぐには使い物にならないだろう。

 

「投降しろ、と言っても無駄か?」

 

「ははァ……当たり前だぜ! あっしがお前らに殺されるまでがこの物語だからな……っ! 半端なタイミングで打ち切るのは勘弁だ!」

 

 片手だけになっても尚、ナニカの戦意は途切れることがない。むしろ自らアベルに肉薄する始末だった。

 再び踊るような戦いが繰り広げられる。アベルは蹴りと風の魔法で間合いを取りつつ、渾身の斬撃をぶつけて。ナニカはそれらを掻い潜り、必殺の打撃を叩き込もうと攻め立てる。

 

 アベルの斬撃が半身を取って回避され、カウンターで放つ拳撃はしかし、手数が半減したために容易に対処される。左手でアベルが拳を弾き、ほぼ同時に回し蹴りを叩き込む。

 少しずつ、だが確実に、戦いはアベルの方へと傾き始めていた。

 

「ふっ! おぉぉ──!」

 

 彼は左を重点的に狙っていた。手が使い物にならないのならば、攻撃だけでなく防御も手薄だからだろう。実際、ナニカの身体には徐々に切り傷が増え、全身から少しずつ命が赤い液体となって零れていた。

 完全に優劣は反転した。それを理解しているアベルも冒険はしない。堅実に攻め立て、このまま勝利へともつれ込ませる。

 

 故に。更に状況を塗り替えようと動き出すのは、ナニカの方だった。

 

「動きのないラストバトルは締まらねぇ!! 小悪党の悪足搔きってなァ!」

 

「……っ!?」

 

 ナニカが斬撃へと突っ込んでいく。自らの左腕を犠牲にしながら、無理やりに踏み込んで。大きく頭を仰け反らせた。型もへったくれもない、頭突き。魔力で強化された額がアベルの顔面に突き刺さる。

 

「ぐ、ぅ……っ」

 

「さっさと起きないと……悪役の勝利で終わっちまうぞッ!?」

 

 脳天に突き刺さる衝撃にふらつくアベルの前で、今度こそ最後の一撃を放つべくナニカが構えた。きりきりと弓のように引き絞られる()()。アベルに一撃で重傷を負わせた掌底が、また一度開帳されようとする。

 

「二度と、受けるわけがないだろう……ッ!」

 

 だが、アベルも気合で意識を覚醒させた。歯を噛みしめ、血がにじむほどに剣を握り、戦いの決着の予感に覚悟を決める。

 最早、ルミにできることはない。ただ彼の勝利を願うことだけが許された行動だ。

 

 ──本当に?

 

 違和感が心臓を撫でる。致命の気配が背筋を伝う。何かを見落としている。ナニカの何かを見落としている。不意の頭突きからの必殺が、彼の最期の策なのだろうか。

 その正体に突き留められないままに、ルミは叫んだ。

 

「左の掌底が来るよ!!」

 

「そうか──」

 

 悟ったようにアベルは僅かに構えを変え、ルミも叫びながらに気づく。掌底が迫る。それを半歩引いてやり過ごして──返すアベルの刃がナニカの首筋を斬り裂いた。

 その瞬間は、外から観戦していただけのルミにとっても長く感じられた。

 

 アベルは剣を振りぬいた姿勢のまま。

 ナニカは掌底を放った大勢のまま。

 時が止まったかのように静かな時が流れて。

 

「あ、空が……」

 

 無数の星と月。奇妙な空が割れて、崩れていく。辺り一帯を隔離していた小宇宙が消失していく。世界が正常に戻り、周囲の喧騒が舞い戻ってきて。

 それと共に、ナニカは膝から崩れ落ちた。

 

「……ありがとう。俺には右の拳が飛んでくるように見えてた」

 

 残心を解きながらアベルは小さく呟く。

 最期の攻撃に左を選んだナニカだが。そもそも奴の左手は先ほどの攻防で使い物にならなくなっていたはずなのだ。それがフェイクだったのだろう。他者の肉体を乗っ取って活動している“プレイヤー”は、肉体の痛みなどを感じていない疑いがある。

 或いは本来ならば動かない肉体を、強引に動かす術があるのかもしれない。

 

 幻覚と先入観によって、右の拳だと錯覚させ。実際には左の掌底で必殺を叩き込む。それが奴の最期の策だった。

 

「ぼ、ぼぇ……ッ! あー死んだ死んだ! 悪の奴隷商は英雄とヒロインのコンビに見事打倒された!」

 

 血に伏したナニカが笑っていた。溢れ出す魂の残り火を気にもかけずに、瞳を爛々と輝かせて、狂ったように歓びの叫びを上げていた。

 思わずアベルが身構える。ルミも身を固くする。もう一分も持たずに息絶えるのは間違いないのに、彼の異様な熱意が二人に恐怖を植え込んで止まない。

 

 覗いている。ニバスの肉体の奥から、ナニカが、“プレイヤー”がアベルとルミの顔を少しでも記憶に刻み込もうと覗き込んでいる。

 

「最高だったぜ、お前ら! ちゃんと顔と名前は覚えておく! またお前らの物語が見たい! すぐにでも準備しようッ! ああ、楽しみだ!! 次はどんな悪役と脚本を、用意しよう、か……! はは、はははははははは…………」

 

 首に穴が開き、酷く話しにくそうにしながらも高笑いを上げて。最悪の“プレイヤー”は奴隷商のニバス共々に事切れた。

 命の気配は消えた。見開かれた彼の瞳には生気がまるで感じられない。一足早くアベルが息を付き。それを見たルミもようやく筋肉を弛緩させる。

 

「……二度と会いたくないよ」

 

「同感だ。関わらないで欲しい」

 

 心の底からの本音だ。ただでさえ正体不明の不気味な存在なのに、あんな狂った感性の男に目を付けられては堪ったものではない。

 今後が思い遣られる。けれども、少なくとも今回の事件は、解決したのだ。

 

「ルミ!? 大丈夫か!?」

 

「終わった、んだよね……?」

 

「ああ、もう終わった。心配は要らない」

 

「そっか……そっか……」

 

 安堵すると同時に力の抜け過ぎた身体は、その場に崩れ落ちてしまった。危うくお尻を強打するところだったが、直前でアベルに支えられて事なきを得る。

 慙愧の念と使命感でどうにか動かしていた足と腕は、自分でも驚くほどに震えていた。一度気が抜けて、自覚してしまえば、心までガタが来る。あれだけ泣いたのに、また勝手に涙が溢れてきてしまった。

 

「こ、怖かった……な……。ははっ、やば。止まんない……」

 

「……兵団が到着したみたいだ。話は俺がするから、今はゆっくり休め」

 

「うん……ごめん……」

 

 喧騒がすぐに近くにまで迫り、事故現場や横転した馬車に押し込まれていた女性たちを見て、驚く声が届くが。そちらに意識を向ける余裕はない。

 今は頭の中身を整理するので精いっぱいだった。



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第十四話 後処理の憂い

 奴隷商から被害者女性の救出作戦、その翌日。カインはザリアモール王国の王城を闊歩していた。見習いとは言え近衛騎士団の一員であるのだから、一部を除けば王城内を自由に歩き回る権限は持ち合わせている。

 とはいえ、こうして一人で歩くのは数えるほどしかなかった。見慣れない道に少々、迷いつつも目的の部屋を見つける。

 

「カインです」

 

「どうぞ、鍵は開いている」

 

 ノックに対する部屋主の返答を待って。カインはゆっくりと扉を開けた。

 絢爛豪華。そんな言葉が似合う部屋で書類と睨めっこしているのは、金髪の美丈夫だ。柔らかい髪の質感に、穏やかそうな垂れ目。如何にもな優男と言った表現が不遜ながら適切だろう。

 

「来たね。報告をお願いできるかな」

 

「はい、ユバル殿下」

 

 彼こそが他でもない。ザリアモール王国第三王子。そして近衛騎士団団長。ユバル=ヴァン=ザリアモールだ。

 正直、こんなヒョロヒョロした男が団長なのか、なんて第一印象を抱いたものだが。一度戦場に立てば、的確な指示と多大な魔力を生かした魔法。そして美麗な剣技で敵を寄せ付けぬ強者の一人なのは間違いない。

 

「……しかし、正確な情報は後に報告書でまとめられますが」

 

「いいや、構わない。現場の人間だからの感想も聞きたいからね」

 

「それなら、ごほん」

 

 簡単なメモを確認しながら、カインは予めまとめておいた言葉を頭の内で反芻した。

 

「今回の奴隷商事件ですが、途中で一般人の介入がありつつも結果的に被害者女性十三名の救出に成功。しかし主犯のニバスが死亡する結果に終わりました」

 

「成果としては上々だろうね。……結果としてはだけど」

 

「そう、ですね。その一般人の介入がなければ、逃亡を許していた可能性があります」

 

 目を伏せるユバル王子にカインは同意する。件の一般人──アベルの介入がなければ、ニバスたちの行動を止められなかった。兵団はしくじったのだ。どういうわけか、こちらの作戦は筒抜けだった。

 たかが一介の奴隷商を相手に。

 

「……ここからが本題です」

 

「うん、続けて」

 

「被害者女性を連れた主犯のニバスは王都の中心に向けて逃亡を試みていました。その先に別の隠れ家あるかと初めは予想されていたのですが……」

 

「被害者が救出されない限り、兵団が警戒態勢を解くわけがない。隠れ家を移すだけじゃ時間稼ぎにしかならないと、奴らもわかっていただろうね」

 

 その通りだ。王都の出入りは強化された検問が目を光らせている。犯人が王都の中に残っており、被害者の安否が不明なままならば、兵団は捜査を止めない。結局のところ、逃げ隠れるだけではじわじわと追い詰められるだけだった。

 なのに、わざわざ王都の中心部を目指していたのは──

 

「奴らが向かっていた先に拠点らしきものを発見しました。問題はその中身です」

 

「…………」

 

 ユバル王子が瞳を鋭くする。そんな彼にも物怖じせずに、カインは言葉を紡いでいく。

 

「魔力充填装置がありました。とても個人では持てないような大規模なものが。それこそ()()()()使()()が長距離の空間転移の補助に使うようなものです」

 

「……ただの奴隷商が空間転移の準備までしていたと?」

 

「はい、恐らくは」

 

 時空に干渉できる魔法使いはいるにはいる。けれど、世界的に見ても数えるほどしか存在しない。そのうえで転移魔法のような高次の魔法を人の身で行使するためには、外部から魔力を供給せねばならないのだ。

 つまり人材が非常に貴重で、使用するためには膨大な資金が必要になる。一介の奴隷商ごときに用意できるはずもない。

 

「帝国の上位貴族か、共和国の資産家辺り……いや、私たちの王国に潜んでいる可能性もあるか。誰かしらが奴隷商のバックについていた?」

 

「盗み出された可能性は? 貴族や商人が今どき、奴隷商を支援するとは思えません」

 

「それこそあり得ない。転移魔法は戦略兵器だ。その運用に必要な魔力充填装置の管理は徹底されているからね。協力者がいると考える方が自然だよ。あまり、信じたくはないけどね」

 

 どちらにせよ、異常な事態だ。相手が誰であろうとも、魔力充填装置を用意できるほどの大物が、わざわざ奴隷商を支援している理由は思いつかない。

 強いて言うのならば、一つだけ心当たりはあるが。

 

「……逃げた犯行グループの一人が、ちきゅうじんという単語を発していました。これは異邦人が供述する“地球”という単語と合致していますし、異邦人の女性が高く売れるという会話はされていたようです」

 

「なるほど、ね。つまり、彼らの目的は異邦人……いや、地球人でそのために人攫いのプロと取引をしていたと」

 

「あくまで俺の見解ですが」

 

 何処かの決して小さくない組織が地球人を集めている。目的は何なのか。当事者たちも把握していない地球からの転移に関与しているのか。そもそも一体どこの誰が首謀者なのか。

 まだまだ情報が足りなさすぎる。ただわかるのは、この騒動は今後に起きる大事の予兆に過ぎないということだけだ。

 

「うん、ありがとう。これ以上は妄想になってしまうね。もっと情報が集まらないと話が進まない」

 

「そうですね。では、俺はこれで」

 

「ドライだなぁ。茶でも飲んでいけばいいのに」

 

「殿下と茶を飲めるほどの教養は持ち合わせていないものでして」

 

 体の良い言い訳であり、事実でもある。そんな言葉を残して、カインは王子の執務室を後にした。



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第十五話 望まなかったものを捨てて

 夢の底から微睡へ。微睡から覚醒へ。ゆっくりと意識を浮上させたルミは目元を擦りながら上半身を起こした。

 

「……っ。だい、じょうぶ」

 

 見慣れない部屋の構造に心臓が跳ね上がり、すぐに手足の自由を確かめる。当然ながら、縄で縛られていることはない。何度か手を開閉して、ようやくその事実を呑み込めた身体は脈拍を緩めていった。

 既にあの事件から三日が経過している。だが、未だに捕らわれていた時間を忘れることはない。恐ろしくて、自分がそんな姿をしているのか、本当の意味で思い知らされて。

 

 この世界に飛ばされてから始まった、今日も女性のままなのかを確かめる寝起きの習慣。そこに手足の拘束がないのかを確かめる習慣が追加されてしまった。

 

「ははっ……バカみたいだな……」

 

 想像していたよりもルミは涙もろいし、臆病だったらしい。自虐げに笑いながら震える肩を抱きしめた。

 

「よりによって、ここで誰かに襲われるなんてあり得ないのに」

 

 口にすることで自らに言い聞かせる。そう、この部屋はアベルの家ではなかった。

 異邦難民保護施設。保護なんて言葉を使っているが、実際には正体不明の異邦人の収容施設だ。衣食住は保障されているし、強制労働をさせられるわけでもないが、自由に移動することさえままならない。

 その代わり内からも外からも警戒されている施設の中では、ちょっとした争い事さえ見逃されることはないだろう。

 

 あの奴隷商の事件後、いつの間にか異邦人──地球出身だと看破されていたルミはこの施設に無理やり送られてしまった。生活に不自由はないし、同郷の人間と言葉を交わせたのは喜ばしいことだが、どうにも暇を持て余している。

 

 だが、今のルミに必要なのは、その暇なのかもしれない。

 

「ルミさん、起きていますか?」

 

「……! は、はい。毎回ごめんなさい」

 

「いえいえ。扉の前に食事を置いておくので、お早めにお取りください」

 

 職員男性の声が響き、ルミは更に強く自らの腕を掴む。その足音が遠ざかっていくのを聞いて、筋肉を弛緩させた。ベッドから降りると扉を開いて言葉通り、足元に置かれた朝食をトレーごと部屋の中に持ち込む。

 

 柔らかいパンとスープ。そして何やら見慣れぬ卵料理らしき何か。それらを眺めながら、情けなさに反吐が出そうになった。

 

「やっぱ、ダメだ……っ」

 

 身体が震えている。ただ職員男性の声を耳にしただけで。

 あの事件以来、ルミは男性が恐ろしく感じるようになってしまった。我慢できないわけではないが、近くに寄られるとどうしても震えが止められない。集団で集まっていると眩暈までしてくる始末だ。

 馬鹿みたいだろう。二十年近く男性として生きてきた人間が、少女の姿になって男性恐怖症を患っているなど。笑い話にもなりはしない。

 

 何よりも己の中で整理がつかない。早く治してしまいたいし、認めたくないのだ。男性が苦手になったことも、自分が女性であることも。

 

「もう嫌だ……早く、元に戻りたい……」

 

 初めこそは“ルミ”可愛いなんてまんざらでもなかったが。もう女性の身体は散々だった。こんなに弱々しい身体ならば。犯罪者に身体を狙われるぐらいならば。今すぐにでも男に戻りたい。

 そして、男性恐怖症だって認めたくない。その事実を認めてしまえば、内面まで女性になっていることで受け入れるようで、二度と男性には戻れなくなってしまう気がした。

 この華奢な身体が、それを女性として扱う社会が、忌々しくて仕方がない。

 

 一人寂しく朝食を咀嚼しながらに考える。認めたくはないが、解消しないとならないことは理解していた。他の人間が食堂で栄養を補給している中、一人だけ個室に運び続けてもらうのは忍びない。

 ならば、どうすれば良いのか。曖昧ながらも展望はあった。

 

「ごちそうさま」

 

 朝食に感謝を述べて、部屋の棚から小さなハサミを取り出す。まずは形から入るべきだ。何よりもそれが周囲への意思表示となる。

 鋭利な刃を見つめて、ルミは僅かに逡巡した。

 

☆ ☆

 

「あんたも大変だな」

 

「ああ、全くだ。けど他の世界の話ってのは中々に面白かった」

 

「俺っちもだぜ。やっぱ異世界ってのはワクワクするからな。また話を聞かせてくれや」

 

「構わない。それじゃ、これで」

 

 食堂から各住民の部屋に繋がる通路で、アベルは知り合ったばかりの男性と別れた。会話の通り、彼はこの世界の住民ではない。つまりここは異邦難民保護施設だ。訳が分からない。正真正銘、アベルは現地民だというのに。

 どうやらルミと共に過ごしていたことが問題だったようだ。疑わしきは収容せよ。現状、異邦人の明確な判別基準が存在しない以上、疑いのあるアベルも問答無用で異邦人扱いと言うわけである。

 

 そんなこんなで生活の自由を奪われてしまったわけだが。何も悪いことばかりではないのかもしれなかった。

 

 真っすぐに通路を早足に歩く。向かう先は最近、引き篭もりがちな少女の部屋だ。あの事件以来、どうにも人間不信を患わっているきらいのあるルミ。知り合いであるアベルはともかく、初対面の相手にあからさまに怯えてしまっていた。

 この保護施設に彼女の故郷の友人がいれば良かったのだが、どうにも外れだったらしい。だから、唯一の知り合いであるアベルが気に掛ける他ないのだ。

 

「……あの子もな。どう扱えばいいんだか」

 

 悩まし気に独り言ちる。言動の節々に片鱗が垣間見えるし、本人もあくまでそう主張しているが。どうにもルミを男性として扱うには無理があった。本来の姿でも知っていれば、感覚も変わってきたのだろうか。

 彼女の穏やかな気質、なんやかんやで女性としてのお洒落は楽しんでいそうな気配。そういった要素が合わさり、どう考えても男性には見えない。時折、気が抜けて男性トイレに踏み込んだりするが、それだけならば変わり者の少女で済んでしまう話だろう。

 

 本音を言ってしまえば、非常に面倒だ。けれども、彼女のことを想うのならば慎重にならざるを得ない。心に傷を負っている今こそ、丁寧なケアが必要だった。

 

「ルミ、いるか?」

 

「あ、アベル? ちょうど良かった」

 

 だから言葉選びは慎重に、だ。頭の中で何度も反芻しながら白髪の少女が顔を覗かせるのを待って──

 

「ル──」

 

 用意していた言葉が、一瞬で消え失せていくのを感じた。見知った美貌が眼前にある。けれども、その印象が昨日までとあまりに異なる。

 

「ああ、これなら気にしないで。ちょっと……気分転換だから」

 

「気分転換、って」

 

 曖昧に笑って見せるルミ。彼女の長い髪は、バッサリとショートヘアになるまで切り落とされていた。アベルでも女性の髪が大事なことは理解している、いや、彼女は女性であって男性なのだから、無頓着なのかもしれなくて──

 

「それより、頼みたいことがあって」

 

「……頼みたいこと?」

 

 真剣な声色に現実へと意識が引き戻される。驚いたが、彼女の髪は彼女の自由だ。切りたい気分だったのならばアベルに止める権利はない。

 だから気を取り直して、彼女の次の言葉を真摯に待つ。

 

「──僕に、戦い方を教えて欲しい」

 

「…………」

 

「もうみんなに迷惑をかけたくない」

 

 予想外の言葉に再び驚愕を覚えながらも、心のどこかで納得した。

 己の弱さを隠したがる悪癖。その弱さを嫌う性根。そして、誰かを頼ることへの忌避感。そんな彼女の想いを間近に見れば、嫌でも理解させられる。

 

 ──ああ。見た目がどうであろうとも、彼女は確かに男性なのだ。

 

「こ、この頼み自体が迷惑かもしれないけど……」

 

「……やるなら徹底的にだ。厳しくやる」

 

「……っ! うんっ!」

 

 尤も、容姿だけならばこんなに可愛らしい笑顔を振りまく人物なのだが。内面と外面。どうにも噛み合わせの悪い少女に戸惑いつつも、アベルはルミの願いを了承して見せた。

 何かが動き始めている。とても個人では抵抗さえ難しい何かが。だから、彼女が諦めようと、努力し続けようとも、どちらを選ぼうとも力を貸してやろうと、心の底から誓った。




これにて第二章は終了となります。途中に少し期間など空いてしまいましたので、最後まで目を通してくださった方には本当に頭が上がりません。
今回の章はアベルやカインの掘り下げが、第一章は導入としての色が、それぞれ強かったので、第三章からようやくルミの物語を本格的に始められそうです。

また最後まで書き切ってからのまとめて投稿となるので、少々お時間をいただくかもしれませんが……覚えていてくださったら覗いていただけると嬉しいです!


第三章『空に映る残影』cooming soon……


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