乾いたターフを湿らせる (やわらかスマホ)
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第一話

 将来の夢は何か、子供の頃からそう問われることは案外多かった。

 

 決まってそういうときは曖昧に笑って流していた。なりたい職業、叶えたい夢……どうにもピンと来ない。とは言え、いつまでもそんなことは言ってられない。

 

 叶えたい夢は見つからない、ならば、現実的に自分にとって有益となる職業に就くことにすればいい。

 

 社会的に高い地位が認められており、収入も問題がなく、仕事内容もやりごたえがあるもの。その条件で探してみて合致していると感じた職があった。

 

 ウマ娘のトレーナー。

 

 ウマ娘とは、走るために生まれてきた、輝かしい歴史を辿った別世界の存在の名前と魂を受け継いだ生き物。ベースはヒトだが動物のような耳と尻尾があり、その身体能力はヒトとは比べ物にならない。

 

 最高時速は70キロを超えるし自動車でも持ち上げられるパワーもある。けれど、基本的に温厚な者が多く種族には女性しか存在しないという何とも歪な生物だ。

 

 ウマ娘にとっては走ることとレースで勝つことが生きがいとも言える。そんな彼女たちの走りを指導して支えていくのがトレーナーという職業だ。

 

 ウマ娘たちが走るトゥインクル・シリーズは世の中で最も熱狂的な人気を誇るスポーツ・エンターテイメントであり、必然的にウマ娘を育て上げるトレーナーの地位も高い。

 

 各地から優駿たちが集まってくる中央のトレーナーになることさえ出来れば将来も明るくなる。そうして上手くウマ娘を重賞で勝たせることが出来れば金も名声も勝手に転がり込んでくる。地方でも悪くはない、だがどうせ狙うのであれば上を目指した方がいいし、強いウマ娘も必然的に中央に集まるために選択肢が広がる。

 

 そんな程度の理由で、俺は中央のトレーナーになることを決意した。日本一のウマ娘を育てたいだとか、東京優駿を勝ち抜いてダービートレーナーになりたいだとか、そのような輝かしい夢もなく。ただの打算的な目標のために。

 

 ……けれど、まあ、関係ないだろ? そんなことは。世の中は結果が全てだ。俺が内心どんな低俗な思いを抱いていようが、担当のウマ娘を勝たせることさえ出来れば何も問題はない。

 

 そうして目標を定めてからは早かった。

 

 まずは昼夜を問わず勉学に励み、バカみたいに倍率の高いトレーナー養成校に入学した。

 

 入学してからはまた勉学に次ぐ勉学の毎日。スポーツ医学にコーチング技術に最新のトレーニング理論。ウマ娘のメンタルケアについてやウイニングダンスの振り付けなど広く深く、数多くの知識を詰め込んでいく。

 

 休まる時間など殆どない日々だった。けれど、別に苦に感じたこともない。目標に確実に近付いている実感があったし、自分という存在が少しずつ磨かれていくのは意外と心地が良かった。

 

 そうしてあっという間に数年が経ち卒業試験となり、それに合格してから待ちに待った中央のトレーナーライセンス試験を受けた。数ある免許試験でも最難関だ、と養成校では何度も聞いていたのでどんなものかと思ったが……まあなんとか受かることは出来た。

 

 思ったよりはあっさり受かったので拍子抜けではある。話に尾びれがついたかあるいは大袈裟に言って受験生を脅かしていたのか……いずれにせよ、これでトレーナー免許は取れた。それから中央のトレーニングセンター学園、通称トレセン学園での面接試験を経て俺は晴れてトレーナーになった。

 

 

 

 

 ……そしてトレセン学園にトレーナーとして就任して二週間が経って。

 

 俺は早速窮地に立たされていた。

 

「……スカウトがまったく上手くいかねえ」 

 

 自分がトレーナーとして担当するウマ娘のスカウトが全くうまくいかないのだ。トレセン学園では新入生のウマ娘は模擬レースや選抜レースなどで己の実力をアピールしてトレーナーからのスカウトを待っている。

 

 俺も当然それらのレースはチェックして上位に入着した娘や見どころがあると感じた娘に声を掛けるのだが全く相手にされない。まだ結果も出していない新人だからかなり厳しいものになるとは思っていたが予想以上だった。

 

 強いウマ娘は実績のあるベテランや有力なチームを束ねるトレーナーを求めるのは道理。かと言って何もせずに諦めて傍観していれば担当が一人も付くことがないまま時が過ぎ去り、スカウト能力なしとみなされ地方にでも飛ばされるだろう。

 

 誰でもいいから手当たり次第に声を掛けるか? だがこれも正直微妙に思える。養成校では優秀と言える成績ではあったので、おそらく誰かしらは応じてくれるだろう。新入生がメイクデビューを果たすためにはトレーナーがつかなくてはならないのだが、膨大な数のウマ娘に比べてトレーナーは不足しており、必ず余るウマ娘が出てくるからだ。

 

 けれど、そうして質を下げたウマ娘でトゥインクル・シリーズを勝ち抜けるとはとても思えない。中央のトレセン学園に入学している以上は誰でも全体で見れば間違いなく上澄みなのだが、それでも超えられない壁というものはある。天才の中の天才には努力だけでは決して勝てない。見比べればわかる、上と下ではどれだけ絶望的な差なのか。

 

 例えば選抜レースで見たあの天才、宙を飛び跳ねるように走るダイヤの原石を見てしまうと、才能の残酷さというものを思い知らされる。トレーナーがいかに研磨しようとも有象無象ではアレに生涯届きはしないのだと。 

 

 いずれにせよ、スカウトが上手くいかないのは事実なので、何かしらの手立てを考えなければならない。そもそもなぜここまで成功しないのか。実績がない新人だからというのは大きな理由の一つだろうが、同期のトレーナーは既に何人か有望なウマ娘と契約している。

 

 つまり新人というだけが全てではなく、俺自身にも原因がある。何が足りない、どんな理由だ? ウマ娘に真摯に寄り添う姿勢やひたむきに夢を駆ける情熱か、あるいはもっと単純に信頼を築くに足るコミュニケーション能力の不足か。

 

 もしこれらの理由が大きいのであれば俺にとっては難題に過ぎる。ある程度取り繕うことは出来ても、やはり本当にトレーナーという職業に誇りを持つ者にはその点では敵わない。滲み出る雰囲気が違うだろうし、本気の姿勢というのは確かに相手に伝わるからだ。

 

(……もう少し粘って無理そうなら強いチームのサブトレーナーになるしかないな)

 

 トレーナーライセンス試験を優秀な成績で突破したため、学園からは就任直後でも単独でウマ娘を指導することが許されている。けれど、このままいつまでもスカウトに成功しないのであればその資格にも何の意味もない。

 

 まだ諦めるには早いのだが周囲の視線も厳しいものになってきてはいるし、時間の経過とともに目ぼしいウマ娘には担当がつき始めてしまっているため実質的なタイムリミットも迫っている。

 

 あと何日か励んでそれでも誰も捕まえられないのであれば、すっぱりと諦めて有力なチームのサブトレーナーとして働く道を選んだ方が賢明だろう。単独でトレーナーとしてウマ娘を担当して勝たせることが出来れば一番だったが、なかなか上手くいかないものだ。ライセンス試験のときよりも遥かに難しい。

 

 この世界は結果が全て。どのような崇高な想いを抱いていようが、あるいは下衆な気持ちでいようが結果を出すことが何よりも大事なことだ。上を目指せるウマ娘のスカウトもトレーナーの大事な仕事。俺はトレーナーとして結果を出すための最初の一歩で既に躓いている。まだメイントレーナーは時期尚早だった、それだけの話なのだろう。 

 

 トレーナーとしての名門に生まれていたり、あるいはメジロ家やシンボリ家などの名家のウマ娘とのコネでもあればまた違ったかもしれないが……。あいにく一般家庭の出なのでそのようなものは望みようがない。

 

 まあ、サブトレーナーとして歩み始めるのも悪い選択肢ではない。熟達したベテラントレーナーの手腕を間近で拝見できて大いに参考になるし、様々なウマ娘たちと実際に触れ合えるので知識と現実の差を埋められる。何年かすればその経験は力となり実績に代わり、スカウトするときも有利に働くはずだ。

 

 ――そうしてその日も無事スカウトは失敗に終わり、俺はグラウンドに設置されているベンチに腰掛けながら、広大なターフをとんでもない速度で走るウマ娘たちを遠巻きに眺めていた。

 

(やはり何度見ても不思議なもんだな、あんな華奢な少女たちが自動車並みの速度で走ってるってのは)

 

 ウマ娘の生体構造についてはまだ完全に解明されてはいない。なぜあそこまでの身体能力を誇るのか、どうして種族単位で走ることとレースで勝つことにこだわるのか。ウマソウルと呼ばれる異世界からの魂を継承したことが関係していると推測する研究者はいるが、それだって信憑性に欠ける。というかウマソウルってなんだよ、何の魂だ。

 

 あまりにもスカウトが上手くいかないためにそんな益体もないことを考える。現実逃避であることはわかっているし、もっと建設的な思考を巡らせて一秒でも早く担当ウマ娘を得なければならないのだが、どうにも疲れた。この作業はなかなかに心を削る。

 

 会社の営業職などはやったことがないが、こんな感じなのだろうか。とりあえず今日の所は引き上げよう、思っていた以上に心身ともに疲弊しているようだ。すっかり日も落ちてきておりウマ娘たちも寮に帰り始めているし。……そして帰り支度を整えていると。

 

 ……ふと、目に入ったものがある。

 

 まばらになった人陰の中で、それを全く気にも留めずにただ前を見て芝の上を走る姿。

 

 遠目で見てもはっきりとわかる。ウマ娘の中でも小柄だがそれを感じさせない力強さが溢れる走り。一歩を踏み込む脚の歩幅が大きい、俗に言うストライド走法。まるで脚にロケットエンジンでもついているかのようであり。大空を自在に飛び回るように、跳ねるように駆けているあのウマ娘は――

 

(……トウカイテイオー。まだ練習しているのか、ずいぶん熱心だな)

 

 トウカイテイオー。

 

 今年この学園に入った新入生であり、その中でもトップクラスの才能を持っている注目株だ。先日行われた選抜レースでは二着と何バ身もの差をつけて圧勝していた。

 

 メイクデビューもまだ果たしていない新入生であれだけの走りが出来るなどとても信じがたい。レースを自分の思う通りに動かすセンスや抜群の運動神経は凄まじいの一言。だが真に特筆すべきは、身体全体の類を見ない程の柔らかさだろう。

 

 膝や足首の柔軟性が極めて高く、それをバネのように活かして爆発的な推進力へと換えていける。それがあの速さの秘訣だと俺は考えている。身体は鍛えていけばある程度まで柔らかくすることが出来るが、あそこまでとなるともはやトレーニングで身に付くようなレベルではない。

 

 紛れもなく、正真正銘の天才。それがトウカイテイオーというウマ娘を表すに相応しい評価だ。本人曰く、「ボクは最強無敵、無敗の三冠ウマ娘になるんだ!」とのことらしいが決して大言壮語ではない。憧れているらしい生徒会長のシンボリルドルフを超えることだって、あるいは不可能ではないかもしれない。

 

 あの輝かしい才能に惹かれ、俺もすぐにスカウトを申し出たのだが速攻で断られた。いや、断られたという表現は正しくないか。正確にはスカウトが殺到しすぎて相手にさえされずに埋もれて終わった。あれだけの才能だ、担当につくことさえ出来れば三冠ウマ娘のトレーナーも夢ではないわけだし、我先にと押し寄せるのも当然だろう。

 

 噂によるとトレーナー希望者が集まりすぎて、最後はジャンケンで勝った者がなることに決まったらしいが……そんなことあるか? 早々に脱落したから真偽は知らないが、トレーナーとはいかに希望者が多かろうがジャンケン大会で決まるものではない。大方、あまりにも人が集まりすぎたために誰かが皮肉っただけだろう。

 

(しかし、これは期待の新入りウマ娘に接触する良い機会か?)

 

 トレーナーはとっくに決まっているだろうから一番の目的は果たせないが、実力のあるウマ娘と話すことは勉強になるだろう。どういうことを考え、どんな趣味趣向なのか。あれを口説き落としたトレーナーについても興味が湧く。今後スカウトする際の参考に出来るかもしれない。

 

 そうと決まれば、トレーニングが終わったタイミングを見計らって声を掛けるとするか。

 

 そのような軽い気持ち、そう、本当に大した考えもない軽い気持ちだった。

 

 ……ただ溢れんばかりの才能を持つ有望なウマ娘と話してみたかったという興味本位。たったそれだけで俺の人生が大きく変わるなどこの当時は思ってさえいなかった。



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第二話

「お疲れさま、頑張ってるみたいだな」

 

 トウカイテイオーの練習がひと段落するのを見届けてから、俺はクールダウンを終えてストレッチをしている彼女に声を掛ける。そうしてあらかじめ自販機で買っておいたスポーツドリンクを手渡す。

 

「わっ、これくれるの? ありがとーっ! 練習いっぱいしたし、ちょうど喉渇いてたんだよねーっ!」

 

 鹿毛の長い髪をポニーテールにまとめており、その中で一房だけ白色のメッシュが混じり、三日月のように垂れている少女――トウカイテイオーは快活に笑って礼を言う。

 

 ゴクゴクと勢いよく喉を鳴らしながら渡したスポーツドリンクを飲み干している。それと同時に長い尻尾もバサバサと前後左右に揺れており、なんというかいかにもな明るく活発としたスポーツ少女という印象だ。

 

「ところでさ、キミは誰? バッジを付けてるからトレーナーなんだろうけど……」

「……ああ。俺は今年からトレーナーになった新人だよ、はじめましてだな。名前は――」

 

 別に初対面ではなく、以前の選抜レースの際にスカウトしたことがあるのだが完全に忘れられているようだ。疑問符を浮かべる顔からは何の悪意も見受けられず、本当に初めて会う者への対応。あれだけ何人にもスカウトされているくらいだから、有象無象のことなど覚えてはいられないということか。

 

 まあ、別に大したことではない。むしろ逆にこれだけのウマ娘が一人一人の顔をきちんと忘れずに覚えている方が驚くべきことだ。才がある存在は自覚しているか無自覚かの差はあれど、傲慢で他者の意など介さない我の強い者が多い。

 

 気にせず初対面だということにして再び自己紹介をする。自身の名前や簡単な経歴、どのような理由で今回声を掛けたか。俺の話を聞きながらトウカイテイオーはえらく表情豊かに相槌を打ちながら聞いていた。

 

「ほうほう。ではキミは、このボクと話がしてみたかったってわけだね。このさいきょー無敵、無敗の三冠ウマ娘になるトウカイテイオー様と! じゃあ特別に話してしんぜよう、何でも聞いてよねっ」

「お、おう。ありがとう、忙しいなか時間を取らせて悪いが少しだけ付き合ってくれ」

「うむうむ、テイオー様の優しさにたくさん感謝してよ?」

 

 トウカイテイオーはなぜか偉そうに笑顔で胸を反らせて頷く。しかしなんというか……意外と話してみると人懐っこいというか面白い性格の奴だな。傲慢な所は確かにあるが嫌味は感じられない。初対面だと思っている俺へも態度が気さくだし壁を作っている様子も見受けられない。

 

 だがこの元気が有り余っているような、テンションの高さに長時間ついていくのは些か疲れそうだ。いくつか聞きたいことを聞いたらさっさと退散するとしよう。トウカイテイオー自身にも寮の門限があるしあまり付き合わせるのも悪い。

 

「じゃあ早速聞きたいんだが。君のトレーナーは誰だ? どういう所に惹かれて担当になると決めた? トレーナーとしての実績か、それとも自分と相性が良さそうだと感じたのか……答えられる範囲でいいから教えてくれないか?」

「……え? まだボク専属のトレーナーとかいないよ、さっきまでの練習はボク一人でやってたんだ」

「――は?」

 

 きょとんとした顔で自身にトレーナーがいないことを告げるトウカイテイオー。俺はその思わぬ返事にバカみたいな間の抜けた声を出してしまった。

 

 いや、だって、お前。この前選抜レースで大勢に囲まれてただろ。あの中にはまだ新人の俺とは比べ物にならないくらいのベテランもいたし選り取り見取りもいい所だった。それなのに全員断ったのか? なぜ? 何のために?

 

「選抜レースのときあんなスカウトがいたのに全部断ったのか? あれだけいれば誰か気に入る奴の一人や二人はいるだろ」

「うーん、そうなんだけどね……。なーんかあんまりピンと来なくってさ。どうせ走るのはボクなんだから、トレーナーなんて誰でもいいやって、面倒になってジャンケンで決めようとしたらカイチョ―に怒られちゃったし」

「じゃ、ジャンケンだと……お前まさか、本当に……」

 

 マズいことをしたと少しは感じているのか、あはは、と頬を掻いて渇いた笑みを浮かべているが。俺としては開いた口が塞がらない。生徒会長が怒る理由も納得できる、いやむしろ納得しかないレベルの呆れた発言だ。

 

 トレーナーとはウマ娘にとっての大事な杖とも言える存在。夢を駆けるウマ娘を導き、支え、道を共に歩んでいくのがトレーナーだ。ウマ娘だけでは危うい場面でも優秀な杖があれば転ぶことを避けられるし、転んだとしても起き上がることが出来る。そんな一蓮托生とも言えるトレーナーをろくに考えずジャンケンで決めようとするなど……。

 

 率直に言ってバカなのか? 

 

 確かに才能はある、どのようなトレーナーが面倒を見たとしても、普通に育てるだけで一線級になれることは疑いようがない。けれど、こいつの夢であるクラシック三冠はそんな甘いものではない。いくら才能で勝っていても、自身に合ったトレーナーと二人三脚できなければ足元を掬われる危険は大いにある。

 

「……一応、お前たちを指導する立場の者として言っておくが。トレーナーは真剣に選んだ方がいいぞ。トレーナー次第でどれだけ持って生まれた才能を伸ばすことが出来るかが変わる。言われるまでもないような当たり前のことだが、将来に関わることなんだから全力を尽くせ。あのときもっと真面目にトレーナーを選んでおけば良かったなんて、そんなくだらない後悔はしたくないだろ」

「うぅ……カイチョ―にもそういうことたくさん言われて怒られちゃったんだよね。ちょっと考えなしだったなーって今は反省してるよ。だからスカウトは保留にしてるんだ……」

 

 先程とは打って変わって、トウカイテイオーは消沈した様子になっている。ウマ耳も萎れたように伏せられ、尻尾も力を失くしたように垂れ下がっていた。喜怒哀楽の主張が激しいし、感情の動きが一目瞭然過ぎるだろ。

 

(クソ、柄にもないことをしちまった。会って間もない、大して知りもしないウマ娘に偉そうに説教するなど……)

 

 最初からこんなことを言いたかったわけではないのだが、あんまりにもあんまりな発言だったので言わざるを得なかった。いや、今考えてもおかしいわ。自分の力に相当の自負があるのはわかるのだがそれでも適当過ぎるだろ。ジャンケンて。せめて少しは相手を見ろよ。

 

 肩書が欲しくてトレーナーになった俺が言うのは我ながらどうかと思うが、そんな俺でも最低限の仕事に対する責任感はある。いくらなんでもそのような軽い気持ちで担当を決めたりはしない。自分自身の生活に加えて、相手のウマ娘の夢も掛かっているのだから当然だ。

 

 トレーナー契約も絶対というわけではなく、相性が悪かったり何か問題が起きれば、どちらか一方の通告だけでも担当契約を打ち切ることは出来る。出来るが……それは非常事態に行う最終手段のようなものだし推奨される行為ではない。

  

 無理に解消すれば当然学園からの評価は厳しいものになる。トウカイテイオーならばそれでも構わないと抱え込もうとする者は多いだろうが、わざわざ無用なリスクを背負い込む必要はないだろう。

 

 だがその辺のことはもう生徒会長のシンボリルドルフが十分注意した後みたいだし、これ以上外野がとやかく言うことでもないか。本人も見るからに反省している。才に恵まれれば増長してしまうのも無理はない。それを責めて必要以上に踏み込むなど余計なおせっかいも良い所だ。少し気まずい空気になってしまったし次の質問で終わりにすることにしよう。

 

「お前の夢は無敗の三冠ウマ娘になることだって言ってたよな。生徒会長に憧れてのことらしいってのもどっかで聞いたことがある」

「――うん、そうだよっ! ボクね、カイチョ―みたいになりたいんだ! カイチョ―はね、強くて速くてカッコよくて、さいっこうのウマ娘なんだ。無敗の三冠、伝説の七冠を獲って。それで皇帝って呼ばれてるカイチョ―みたいになりたい……それがボクの夢だし、目標」

 

 トウカイテイオーはまたも表情を一転させ、今度は輝くような、文字通り夢見るような顔つきで遠くを見つめる。夢を語る少女の顔は普段の幼げなものとは違い、どこか大人びて見えた。

 

 それは俺がここに至るまでに別のとき、別の場所で幾度となく見たことがある、ひたむきに夢を追いかける者がよくする姿。それを見て、俺は――

 

「――なあ、夢を見るってのはそんなに良いもんなのか? 夢を見ているお前は今幸せなのか?」

 

 これはいつか誰かに訊いてみたかった。トレーナー養成校ではこの少女のように高らかに夢を語る者が多かった。日本一のトレーナーになりたい。皆に幸せを与えることが出来るウマ娘を育てていきたい。傍目で聞いていてもわかるほどに熱意が籠った素晴らしい夢であり、目標。

 

 わからなかった。俺には夢と呼べるものが今まで存在しなかったから。なぜこんなにも己の身を焦がすような想いを抱くことが出来るのか。願った彼らの大半は中央のトレーナーになることは出来ず、夢を叶えることは出来なかった。幼い頃から抱いていた夢が無情にも現実に破れ、堪らないと泣き崩れた者もいた。

 

 夢を追いかけていた彼らは幸せだったのだろうか。こんな想いをするのなら最初から夢なんて見なければ良かったと、今はそんな風に思ってしまってはいないだろうか。……だとしたら、ほんの少しだけ、気分が悪い。

 

 せめて、夢を見ていた間だけでも幸せであってくれていたのなら……。

 

 別に特に親しい間柄でもないウマ娘に対する質問か? と思ってしまうがそこは勘弁してほしいところだ。養成校では勉学に勤しむばかりで交友関係はあまり育めなかったし、そもそもライバルである彼らにそんな質問をするのも気が引けた。何より、それ自体が自分には夢がないと暴露しているに等しい。

 

「ん~……」

 

 俺の雰囲気が変わったことを察したのか、トウカイテイオーは思いのほか真面目に思案している。いきなりこんな突拍子もない質問をされても真剣に考えてくれている。勝ち気でやや生意気な部分はあるが、根は優しいのだろう。

 

「幸せかって言われると、よくわかんないや……。でも、今は毎日がとっても楽しいよっ! 憧れのカイチョ―と同じ学園に入って、カイチョ―の背中を追いかけて、三冠ウマ娘になるために一生懸命練習する。うん、すっごく楽しいっ!」

「……そうか、充実してるみたいだな。ありがとう、とても参考になった」

 

 向けられる表情を見て、声の調子や仕草を感じて。俺は答えを知ることが出来た。あいつらが同じかどうかはわからない。けれど、胸に突き刺さっていた棘が抜けるような解放感を覚える。当初の予定とは少々異なってしまったが、訊きたかったことは訊けた。もう帰るとしよう。

 

「じゃあ俺はこの辺で失礼させてもらうよ、今日は付き合ってくれて感謝してる」

「ええ~っ、もう帰っちゃうの? もうちょっと話そうよーっ。カイチョ―の話とかいっぱいしたい」

 

 割と奇麗に話をまとめられたので退散しようとするが、名残惜しそうにトウカイテイオーに引き留められる。俺の方はもう話したいことはないから帰らせてくれねえかな。

 

「いや、もう遅くなってきたしお前も帰れよ……。門限までそんなに時間はないぞ」

「ボクがちょっと本気出せば寮なんてすぐ着くし、よゆーよゆーっ! せっかく知り合えたんだし、もう少しだけいいでしょ? キミの質問にも答えてあげたんだからさあ」

「……少しだぞ、本当に少しだけなら付き合ってやる」

 

 まあ長い間気になっていた疑問も解決したし、望むのならばその御礼代わりとして付き合うのが道理か。貰うばかりで与えることをしないなど愚の骨頂だ。この世の原則はギブアンドテイク、さっきの借りはこれで返せる。

 

 そうやって承諾すると、トウカイテイオーは飛びつかんばかりの勢いで、嬉しそうに帰りかけた俺の傍に寄ってくる。その様子に若干の後悔を感じたのも束の間。

 

「やったーっ! ねぇねぇ、何から話す? やっぱりカイチョ―の話が鉄板だよね。カイチョ―はさ、出たレースの中で三度しか負けてないんだよ。あれだけいくつものGⅠに出てるのにだよ? それがどれだけ凄いかわかる? 『レースに絶対はないが、シンボリルドルフには絶対がある』って、そう言われる程なんだから。カイチョ―の走りはどれもカッコよくて最高なんだけど、ボクが初めて見たのは日本ダービーのとき。もう、すぐにファンになっちゃったよ。二着のウマ娘も十分速かったのに、それでも大きく差を付けて一着で悠々とゴールイン! 勝った時のポーズがすっごく決まってて、カッコ良かったなあ……。勝った後の会見してたウィナーズサークルまで思わず飛び込んで行っちゃったよ。記者の人たちとかみんな苦笑いしてたけど、カイチョ―は穏やかに迎えてくれてさ。『ボクはシンボリルドルフさんみたいになります!』って言ったら優しく頭を撫でてくれて、『覚えておこう、待ってる』って言ってくれたんだよ! ボクとっても嬉しかったなあ、それからはもうカイチョ―みたいになりたくって必死でさ――」

「…………」

 

 トウカイテイオーが延々と早口でシンボリルドルフについて語り続ける。とんでもないマシンガントークだ。よく一つの話題だけでこんなにも話すことが尽きないなと逆に感心してしまう。

 

 俺は心を無にしてひたすら耐え続けた。黙ったままだとたまに意見を求められるので適当にシンボリルドルフを褒め、話の合間に適当に相槌を打つ。

 

 こいつは少女特有の甲高さと粘りつくような甘ったるさがある、なかなか特徴的な声をしている。一度聴いたら忘れられないような独特の声音だ。その声でずっと話を続けられるのは割とキツい。甘い食べ物をこれでもかと食わされるような。関係ないのになぜか胃がもたれるような気さえする。

 

 どんなに長くても門限近くまでには終わる、そう思うことで心の平穏を保つ。これは対価だ、質問に答えてもらったことへの礼。いわゆる等価交換。言うほど等価か? とも思うが義理は果たさなければならない。

 

 ……結局俺がトウカイテイオーから解放されたのは門限ギリギリ、走らなければ間に合わないレベルの時間だった。あれだけ喋っていたのにまだ物足りなそうなあいつの手を引っ張り、遅くなってしまったので仕方なく寮までともに走って送り届けた。

 

 寮長であるフジキセキという、宝塚にでも出てきそうなウマ娘には苦笑と一緒に小言をもらってしまった。監督者としてこんな時間まで止められなかったのだから当然の話だし、弁解する元気も残っていなかったために潔く受け入れる。

 

 憧れのカイチョ―の話が出来たためか、満足気に手を振って寮に消えていくトウカイテイオー。それとは対照的に、俺の疲労は限界近くまで溜まっていた。

 

 まだまだ慣れないし覚えることも多いトレーナーとしての生活に、上手くいかないウマ娘のスカウト。それに加えて今日の出来事……疲労困憊、満身創痍とはこのことだろう。だが、まあ。そんなに悪い気分ではない。

 

 夢を持つことは出来そうにないが、夢を持つ者がどんな気持ちでいるのかはある程度知ることが出来た。

 

 ――もう少しだけ、諦めずにスカウトを続けていくとするか。



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第三話

「あっ、トレーナーさん。探しましたよ、宜しければ少々お時間を頂けませんか?」

 

 トウカイテイオーと話をしてから一週間近くが過ぎたある日。

 

 トレセン学園の校舎を歩いていると、理事長秘書である駿川たづなさんに声を掛けられた。緑色のレディーススーツに身を包み、同色の帽子を被った若い女性だ。いつも礼儀正しく穏やかで、とても話しやすい人物。

 

「あー……もちろん大丈夫ですよ。何でしょうか、駿川さん」

 

 この時期での要件なんて心当たりが一つしかないので気まずそうに返事をする。おそらく、というかほぼ間違いなく担当ウマ娘をまだスカウトできていないことが原因だろう。

 

 あれから気合を入れてスカウトにまた励み始めたのだが、それだけでなんとかなるほど現実は甘くなく、結局未だに担当ウマ娘を手に入れることは出来ずにいた。

 

 しかもあの日から妙にトウカイテイオーに懐かれてしまったため、あいつが一通り自主練を終えると延々と長話に付き合わされてしまうので、そう時間も長く取ることが出来ない。なら追い払えよ、という話なのだが。ウマ尻尾を振りながら嬉しそうに近付いてくるあいつを見ると、どうにも無碍にすることは出来なかった。

  

 ペットとして犬でも飼っていたらあんな感じなのだろうか……。まあ、あいつがいようがいまいがどうせスカウトは成功していないだろうし、もう仕方がないと今では割り切っている。

 

「もうっ、駿川さんなんて他人行儀な呼び方はやめてください。私とトレーナーさんの仲じゃないですか、遠慮せずに名前で呼んでくださって構いませんよ」

「いや、駿川さん、それは……」

「……たづな」

「ええっと……たづなさん」

「はいっ! よく出来ました!」 

 

 駿川……いや、たづなさんは嬉しそうに両手を合わせて微笑んだ。俺とこの人は単なる職場の先輩と後輩だし、特別な関係でも何でもない。なんなら知り合って一か月にも満たず、無関係の他人から知人にクラスチェンジした程度の間柄でしかないのだが、そんなことを突っ込める雰囲気ではなかった。

 

 この学園にトレーナーとして就任したとき、右も左もわからない状態だった俺に優しく様々なことを教えてくれたのがこの女性だったため、この人に頼まれると弱い。今でもある意味迷子のようなものだが、当時は本当に何もわからなかったし。

 

「ところでたづなさん、俺に何の用でしょうか? ――いや、しらばっくれるのはナシか。担当ウマ娘の件ですよね」

「……ええ、そうです。トレーナーさん、スカウトの方はまだ上手くいっていらっしゃらないのでしょうか?」

 

 たづなさんは憂いを含んだ表情で俺に尋ねてくる。案の定、スカウトの件か。この時期で担当を持っていないトレーナーは今では珍しいので当然のことではあるが、気が重くなる話だ。地方に飛ばされる前の最後通告か何かだろうか。

 

「正直に言えば、全然ですね……。どうすれば上手くいくのかまるでわかりません。そろそろサブトレーナーとして働く道も検討し始めてる程ですよ」

「そうなんですか……。トウカイテイオーさんと最近親しくされているようですが、彼女とは契約を結ばないのですか?」

「いえ、あいつには一度断られているし、話してるのだってただ世間話をしてるだけですよ。あいつも俺のことは暇つぶしの相手程度にしか思ってないでしょう」

 

 スカウトを保留にしているために、現在トウカイテイオーには担当トレーナーはついていない。かと言って俺があいつのトレーナーになれるかと言えばそれは無理な話だろう。初めて選抜レースで声を掛けたとき、俺は奴の眼中にも入っていなかった。今更同じことをまた繰り返しても結果は変わらないだろう。

 

 無駄なことをして関係を険悪なものにすることはない。というか、仮に担当出来たとしてもあいつの世話をすることなど、今となっては御免被りたい。下手に親しくなってしまったから理解したが、あの夢を背負うことはなかなか重そうだ。

 

「では、差し出がましいかもしれませんが、私が何人かウマ娘たちを選んで紹介しましょうか? 実を言うと、貴方のことが気になっているというウマ娘たちは結構いるんですよ? ――今期のトレーナーライセンス試験、トップ合格者の貴方を」

「ああ、そんなこともありましたね……。試験での成績なんて大して意味はないですけど」

 

 遠い目をして俺は呟いた。そういえばあの試験をトップで合格してたな……。あまりにもスカウトが成功しないため、そんな事実はすっかり記憶から消し去られていた。むしろ現状を鑑みるに、あの結果は何かの間違いだったのではないだろうか。スカウトの出来から考えると、俺以外の同期の方がよっぽど優秀に思えるんだが。

 

 合格した当初も試験の順位なんて別に意味はなく、合格してライセンスを得ること自体が重要だと考えていた。肝心なのはトレーナーになって担当ウマ娘を勝たせるという結果であり、一位で合格したという過程に大きな価値はないと。とにかく、トップ合格というなかなかに輝かしい経歴を持っている俺が今まさに落ちこぼれかけている、それだけが事実だ。

 

「このようなことを言うのは失礼であることはわかっていますが、それでも言わせてください。どうかもう少しだけ、スカウトする娘たちの幅を広げてみてはくれないでしょうか? 理事長も含め、私たちは貴方のことを評価しています。貴方ならば、立派なウマ娘を育て上げることが出来ると」

「……過大評価ですよ、それは。俺はスカウト一つ上手くできないトレーナー未満の男だし、そんな評価は相応しくない」

「いえ、ご自分を卑下なさらないでください。あの成績は並大抵の努力で成し遂げられるものではありません。担当のウマ娘さえ決まれば、きっと貴方は羽ばたいて行ける。私はそう信じています」

 

 たづなさんの、誠実で曇りのない瞳から向けられた信頼に俺は耐えきれず視線を逸らした。出会って一か月もない貴女に俺の何がわかる。思わずそう言いたくなってしまうが、そのようなくだらない言葉をこの人に投げかけたくはなかった。

 

 スカウトするウマ娘の幅を広げろ、か……。つまりいつまでも高望みはしないで自分に合ったランクのウマ娘を選べ、そういうことだろう。なぜこんなにもスカウトが難航しているのか、その理由の一つが俺の相手に求める基準の高さにあることは薄々感じていた。

 

 けれど、もしそこまで才能に恵まれていないウマ娘を選んで、そいつを勝たせてやれなかったら。そいつの夢を叶えさせてやることが出来なかったのなら、俺は……。

  

 ――いや、違う。弱いウマ娘など選んでは負けるだけだし、俺の評価が下がるのが嫌なだけだ。勝負の世界は、トレーナーは、結果を出すことが出来なければ無意味なんだ。

 

「貴女の忠告は本当にありがたいし、もっともなことだと思います。ですが俺は、どうしても自分の基準を曲げることは出来ません。それで駄目なようだったらサブトレーナーになることも、地方に飛ばされることも覚悟のうえです。……期待に沿うことが出来ず、申し訳ありません」

「そうですか、残念です……。ですが、あまり思い詰めないでくださいね? この娘となら一緒に頑張っていける、この娘を勝たせてあげたい。そのような気持ちを抱ければそれで充分スカウトする理由になると思いますよ。もちろん勝つことも大事ですけど、そんな娘と一緒に駆け抜けた経験は貴方の財産になりますから」

「……はい、とても参考になりました。お気遣い、感謝致します」

 

 心配そうに見つめてくるたづなさんに礼を言って、俺はその場を後にする。こんな俺のために気配りをさせてしまって申し訳なく感じたが、あの見透かすような視線からはもう逃げ出したかった。

 

(この娘となら一緒に頑張っていける。そう思えるのならスカウトする理由としては充分、か……)

 

 俺は今までウマ娘の現在の能力、有する才能でしか彼女たちを見ていなかった。内面など二の次、まずはレースを勝ち抜ける才覚がなければ何も始まらないのだと。

 

 それが全て間違っているとは思わない。夢を追ったはいいものの全く勝てずに終わりました、では話にならないからだ。俺たちトレーナーにも、担当するウマ娘たちにもそれぞれの生活がある。勝てなければ路頭に迷うだけだ。

 

 けれど、たづなさんの言うように、もう少しだけそれらの――ウマ娘たち個人の人格にも目を向けるべきではなかっただろうか。彼女たちと実際に触れ合って、共に長い道のりを歩めそうかどうかも確かめるべきではなかっただろうか。

 

 ……まったく。トレーナーとは、本当に奥が深い職業だな。

 

 

 

 

「ねぇねぇ、ちょっと聞いてよーっ! 今日カイチョ―に会いにお昼に生徒会室に行ったらさ、いなかったからがっかりしてご飯食べたあとソファでお昼寝しちゃったんだ。そしたらエアグルーヴがすっごく怒ってさー、酷いと思わない?」

「いや、酷いのはお前だよ。なんで用事もないし生徒会役員でもないのに生徒会室に平然と行くんだよ。しかも昼寝までするとか傍若無人すぎるだろ」

「えぇーっ? だって、生徒会室のソファってすっごくフカフカで気持ち良いんだよ? お昼寝するならあそこに限るのに」

 

 悩みを抱えたまま。それでもいつものように惰性でスカウトに乗り出した俺を待っていたのは、またしてもトウカイテイオーだった。陽気に話しながら、ポニーテールとウマ尻尾がまるで生き物のようにそれぞれ飛び跳ねている。こいつほんといつも元気だな。

 

 エアグルーヴとやらの苦労が偲ばれる。確か生徒会の副会長だったと記憶しているが、こいつがお目当ての会長に会いに行くたび、顔を合わせて相手をしてやってるのだろうから大変なことだろう。というか先輩なのに呼び捨てにしてるのかよ、先達にはちゃんと敬意を払え。

 

「……あれ、キミ、なんかちょっと元気ない? いつもとちょっと違うような――」

「別に、いつもこんな感じだろ。……何も変わらないから気にするな」

 

 トウカイテイオーがふと気付いたように眉を寄せる。前から思っていたが、こいつは人のことなど見ていないはずなのに案外と目ざとい所がある。勘が鋭いというか、本質を見抜く能力が備わっているように感じる。

 

「ふーん、そっか……。でももし本当に元気がなかったとしても、ボクとお喋りしてたらそのうち良くなるよね。だってボク、話だってちょー盛り上がる、最強無敵のテイオー様だもんね!」

「いや、それはどうだろうな。お前の話は大抵つまらないからなあ……」

 

 こいつの話は大体自分の自慢か、あるいは尊敬するシンボリルドルフの話だ。しかも殆どのパターンでオチも山もない。まるで事実だけをただ羅列する日記帳のような平坦さ。まあなんとも微笑ましいのは確かだが、外見と同じく子供の会話だ。

 

「少しは面白い話が出来ないのか? そんなんじゃそのうちシンボリルドルフも呆れちまうぞ」

「ああっ、言ったなあ! ボクだって面白い話の一つや二つ出来るやいっ!」

 

 その後。ムキになって、わいわいと騒ぎ立てるトウカイテイオーに振り回されながらも、俺はわずかに気持ちが軽くなるのを実感していた。担当ではないものの教え子であり、こんな年下の少女にすら心配を掛けてしまっている自身が情けなくて苛立って、俺はつい憎まれ口を叩いてしまうが。

 

 このようなくだらないやりとりでも、精神の安定には効果的なのだと学ばせてもらった。むしろこいつ犬みたいだし、動物と触れ合うことで心を癒すアニマルセラピーとかいう奴だろうか。いつか犬を飼ってみるのも悪くないかもしれない。

 

「……ところで、お前はまだトレーナーを決めてないのか? あれから心を入れ替えたみたいだし、今のお前が選んだ奴ならシンボリルドルフも文句は言わないだろ。リギルの東条さんからも誘われてるみたいだし」

「えっと、あの女の人ボクちょっと苦手なんだよね……。練習とか見てると怖そうだし、なんかエアグルーヴみたいでさあ。ボク、どうせなら楽しんでやりたいんだよ」

「なるほどな。まあ、ウマ娘がトレーナーに求めることはそれぞれ違うし、お前が肌に合わないと感じるのなら仕方ないか」

 

 チームリギル。それは、トレセン学園にいくつも存在する中で最高峰に位置するチームだ。トレセン学園で最高クラスということは、つまり日本最強格と言い換えていい。所属するウマ娘はそれぞれがGⅠをいくつも獲った選りすぐりの中の選りすぐり。こいつが憧れているシンボリルドルフもそこに属している、トップエリートのみが揃えられた天才たちの集い。

 

 チーフトレーナーを務めるのは東条ハナという女性。何度か目にしたことがあるが、眼鏡を掛けタイトスーツを着こなして怜悧な雰囲気を醸し出した、いかにもなキャリアウーマンという人だった。間違いなく日本有数のトレーナーなのだろうが、気軽に声を掛けることは出来そうもないので、トウカイテイオーの言いたいこともわからんでもなかった。

 

 この時期でもまだトレーナーを見つけていないのは些か問題ではあるが、こいつの場合、その気になればすぐにでも見つかるだろうしそう大したことでもないだろう。俺とは違って、既にパートナーが埋まっている以外のケースで選んだ相手に断られるということはまずあるまい。

 

「もうボクのことはその辺でいいじゃん。それよりさあ、そんなことを言ってるキミの方が大変なんじゃないの~っ? まだ担当ウマ娘決まってないんでしょ?」

「……しょうがないだろ。スカウトってのは難しいんだよ、特に実績もない新人にとってはな。お前だってやれば……いや、案外上手く出来そうだけど俺は苦手なんだ、そういうの」

「あはは、キミちょっと愛想悪いもんねーっ、ボクじゃなかったらこんなにキミに付き合ってあげてないよ? でもボクは優しいから、スカウトが上手くいかないキミをこうやって慰めてあげてるんだ」

 

 にっしっし、とまるで悪戯好きなチェシャ猫のようにトウカイテイオーは笑う。まったく、好き勝手言いやがる。しかし、からかい半分だろうがこいつの言うことも的を射ている。

 

 他人と比べて愛想がないのは自分が一番理解している。そんなものはこれまでの人生で重要視されていなかったし、なくても実力でどうとでも出来ていたが、今となっては軽視すべきではなかったかもしれない。いや、いつかは必要になることはわかっていたが。向いていないと適当に理由をつけて、回避していたツケが回ってきただけか。

 

「あっ落ち込んじゃった? ごめんね、そんなに気にしないでいいよ。キミが良い人なのはボクがよく知ってる。絶対、いつか皆キミの良さに気が付くはずだから」

「別に。ただ本当のことを言われただけだ、落ち込むも何もない。だけど、そうだな……これからは、もっと言葉を尽くして自分をアピールしていくよ」

 

 考え込んだ俺にトウカイテイオーは少し慌てて声を掛けるが、むしろ逆に感謝してるくらいだ。お前と話して気分は軽くなったし、お前と話して気持ちが固まった。早速、宣言通りアピールを始めるとしよう。

 

「……トウカイテイオー」

「う、うん」

 

 意を決して呼び掛けると、なぜか固い返事が返ってくる。何をそんなに緊張しているんだ、らしくない。お前はそういうキャラじゃないだろ。いつもみたいに偉そうに、天真爛漫に、快活にしていればいい。そんなお前だからこそ――

 

「――俺の担当ウマ娘になってくれ。お前と一緒に歩いていきたいんだ」

「ぴ、ぴぇ……ぴえぇっ! ぼ、ボクと!? あ、あの、キミ、本気なの……?」

 

 俺の渾身のスカウトを聞いたトウカイテイオーは耳と尻尾をピーンと逆立て、謎の鳴き声を上げた。いや、どういうリアクションだよ。ただスカウトしただけだろ。覚えてないみたいだが、最初に俺が同じようなことを言ったときはそんな反応じゃなかっただろ。

 

 あのときは、その他大勢に囲まれて何もすることが出来ず、相手にもされずただ埋没して終わった。だが今はもう、ここには俺とお前の二人しかいない。邪魔する者は誰もいない、お前は俺を見るしかない。

 

 ……もう逃がさない。今度こそ俺は、俺が欲しいと思っているものを手に入れる。

 

「本気だ、本気に決まってる。こんなことを冗談で言うほど俺は愉快な男じゃない」

「で、でも……。今までずっとそんな素振り見せなかったよね? ボクが毎日アピール……ごほん! 話してても、からかってきたりするだけだったし……」

「気が変わったんだ。どうしてもお前が欲しくなった。お前の夢を叶えてみたくなった――ダメか?」

「だ、ダメってわけじゃ……ないけど……」

 

 トウカイテイオーは頬を薄く染めて、もじもじしながら上目遣いで見つめてくる。別に愛の告白をしてるとかじゃないんだから、その恥じらう乙女のような反応はやめろ、やりにくいだろ。

 

 だが、このリアクション――脈はあるな。もう一押しすればなんとかなるか? 少なくとも、今までスカウトした中でこんな手応えを感じたことは一度もなかった。一気に畳み掛けよう。

 

「俺は所詮、実績も経験もない未熟な新人トレーナーだ。ベテランと比較して頼りなく思う気持ちはあるだろう。だが、お前の夢を叶えるために、どんな努力も惜しむつもりはない。後悔はさせない、必ずお前を無敗の三冠ウマ娘にしてやる。だから俺を選んでくれ、俺にはお前が必要なんだ――他の誰でもない、トウカイテイオーというウマ娘が」

「そ、そんなに……? そんなにボクのことが必要なの……?」

「ああ、短い時間ではあったが一緒に過ごして。俺には、お前が必要だったんだとわかった」

「ボクが、必要……。えへへ、そうなんだ……」

 

 トウカイテイオーは頬を緩めてだらしなく笑っている。感情が高ぶっているのか、彼女の尻尾も扇風機のようにぐるんぐるん旋回していた。

 

「そこまで言われたらしょうがないなあ……このボクが、キミの愛バになってしんぜよう! そんなに言うならボクのこと、これからずーっと目を離さないでよねっ! 絶対だよ! 絶対の、ぜーったいに、絶対っ!!」

 

 照りつける太陽のように眩しい笑顔。満面の笑みとはこのことだろう、見てるだけで気分が明るくなってくる。そんな少女を担当することが出来るというのだから、なんという僥倖なのだろうか。

 

 彼女は、無敗の三冠という夢を現実にすることが出来るほどの才を持つウマ娘だ。そんな力のあるウマ娘と契約できたことよりも、この太陽のような少女と、これからともに歩んでいけることの方が嬉しかった。

 

「もちろんだ、ようやく口説き落としたってのによそ見なんてするわけないだろ。これからよろしくな――テイオー」

「うんうん、これからよろしくね――トレーナー!!」

 

 ……こうしてやっとのことでテイオーと専属契約を結んだその後。

 

 またしても、寮の門限近くまで、やけに興奮して距離の近くなった彼女の話にずっと付き合わされることとなった。その後は手を繋いで帰りたいと言われ、渋々と言う通りにして寮までともに帰る。

 

 初めての担当だから勝手がわからないのだが、トレーナーと担当ウマ娘はこんなこともするのか? 手を繋ぐ必要なんて何処にもないだろ。そう思ったが、断ろうとするとテイオーが悲しそうにするから仕方がなかった。フジキセキの微笑ましいような、呆れたような表情がなんとも印象に残っている。

 

 しかし、まあ、良い気分だ。雨は降っていないはずなのに、なぜか妙に芝が重く感じるのは不思議だったが、それさえどうでもいいと感じるほどの爽快感。俺は、トレーナーとしての第一歩をようやく踏み出すことが出来たんだ。

 

 これから俺の選んだ愛バ、テイオーと二人三脚で歩んでいける。トレーナーとしての喜びを、やっと理解することが出来たような気がした。



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第四話

「今日から、俺とお前が契約を結んで初めての練習になる。本格的にトレーニングを始める前に、まず言っておきたいことが――」

「えへへー、なになに~っ?」

「……おい、あまり引っ付くな。話しにくいだろ」

「もうっ、そんなに照れなくてもいいのに。ホントはボクに抱きつかれて嬉しいんでしょ、ボクにはわかってるんだから」 

 

 いや、そんな事実は何処にもないが。先に言った通り、ただ話をするのに不都合である、それ以外の感情は何も存在しない。

 

 テイオーと専属契約を結び、担当ウマ娘にしてから翌日。学園の授業が終わった彼女を連れてグラウンドまで来たのだが。にやにやと頬を緩めてまるで話にならない。昨日契約を結んでからずっとこんな感じだ。

 

 トレーナーとウマ娘の間には強い信頼関係がなくてはならない。この相手なら大丈夫だと、心の底から互いに信頼することがなければ、強豪のひしめくトゥインクル・シリーズで勝ち抜いていくことなど到底不可能だからだ。

 

 青臭いことを言うようだが、信頼とは力になる。響きだけを取れば単なる奇麗ごとのように聞こえるだろう。

 

 だが大事な相手のため、という原動力はときに理屈を超えた力を発揮する。実際に偉業を為したウマ娘たちの中で、トレーナーと確かな絆を育んでいない者などいないだろう。少なくとも、俺が確認した限りではそう感じる。

 

 だから担当ウマ娘とこのように友好関係を築けている、それ自体は歓迎すべき事態ではある。あるのだが……少し、距離が近すぎるようにも思える。

 

「……まあいい。もうそのままでいいから聞いてくれ。基本的な練習方針についてだが、日々の練習時間はそう長くは取らないようにしたいと考えている」

「えぇーっ! なんでーっ!? いっぱい練習した方がいいじゃん、ボクたち無敗の三冠を目指してるんだよ? いくらボクだって、たくさん練習しないと勝てるかわかんないよ」

 

 だらしなく緩んでいたテイオーの表情が一転して不満げなものに変わる。目指すべき大願があるにも関わらず、大して練習しないと言っているように聞こえるのだから、その反応も当然だろう。

 

「とりあえず聞いてくれ。練習時間を多く取ることが必ずしも良いことじゃないんだ」

「そーなの? いっぱい走って、いっぱい練習した方が絶対強くなれると思うけど」

「いや、残念だがそんなに単純な話じゃない。練習自体はもちろん必要だが、すればするほど効果が出るわけじゃないからな」

 

 練習時間を多く取ったからといって、その分だけ成長出来るとは限らない。身体に疲労が蓄積していけば自然と集中力が落ち、練習効率も下がる。効率が落ちるだけならまだいい。最悪なのは、それに伴う怪我や故障の発生だ。

 

 ウマ娘がトゥインクル・シリーズを引退する理由は様々だが、その大きな理由の一つがこの怪我や故障だ。自動車並みの速度で走行している彼女たちは、心身のほんのわずかな乱れだけでも思わぬ大事故を引き起こしてしまうことがある。

 

 捻挫や骨折ならばまだマシな方。治療して適切なリハビリを行えば復帰することも可能だからだ。だが、酷いケースでは下半身不随となり、日常生活で歩くことさえ出来なくなることもあり。最悪の場合、死に至る危険性もある。

 

 ……それだけは、それだけは避けなければならない。自身の判断ミスで大事な担当ウマ娘を死に追いやってしまうことなど、絶対にあってはならない。そんなことがあれば、俺は俺を一生許すことが出来なくなる。

 

 とにかく、大事なことは適切な練習時間を見極め、効率的に練習していくことだ。

 

「……と、まあ、こういったことが練習時間を長く取らない理由だ。翌日に疲れを残さない範囲の練習をして、その時間を極限まで集中して大切にしよう。お前には才能がある、わざわざリスクを冒す必要はない」

「ふっふーん、そっかそっか」

 

 俺の説明を聞き終わったテイオーは、なぜか得意げな顔になっていた。なんだその表情は。この話を聞いてどうしてそういう反応になる。

 

「テイオー、お前ちゃんとわかってるのか? これは大事な話なんだ、お前の身体や夢に関係することなんだからもっと真剣に聞け」

「うん、聞いてるよ。要するにぃー、トレーナーはボクのことがすっごく大事だってことだよねっ! いやあ、愛されてるなあボクって」

「お前な……」

   

 嬉しそうに相好を崩したテイオーは俺の腕にしがみついた。密着することで砂糖菓子のような甘い少女の香りが鼻孔をくすぐり、その甘ったるさに思わず眉を顰める。

 

 そんな話はしていない。ほんと真面目に聞けよお前、どういう思考回路でそうなった。

 

 これはいずれ問題になるかもしれないな、何かあるたびにこうも頓珍漢な反応をされても困る。なぜこんな風になってしまったのだろうか。以前はもう少し落ち着きがあった筈だが。いずれにせよ、これが続くようなら折を見て修正していかなければならないだろう。

 

「じゃあボク、練習行ってくるね! 無敵のテイオー伝説、ここからスタートだぁーっ!」

 

 そうしてひとしきり勝手に俺の腕を奪ってじゃれついた後。テイオーは無駄に威勢よく芝のコースへと駆けていった。まったく、暴走特急のような忙しない奴だ。こんな調子では付き合わされるこっちの身が持たない。

 

 だが、まあ……退屈だけはしないか。

 

 

 

「あのさあ、次の休みなんだけどね。ボクと一緒に何処か遊びに行かない?」

 

 一日の練習を終え、すっかり日も暮れてきた時間帯。学園から与えられた専用のトレーナー室で帰りの準備を整えていると、制服に着替え終わったテイオーからそんな提案をされた。

 

 トレセン学園とは、URAが運営する日本最高峰のウマ娘養成機関。その存在目的は、国内外を問わずトップクラスの実力を持ったウマ娘たちを集め、その脚を磨いてトゥインクル・シリーズへと送り出すことだ。

 

 様々な夢を抱いてやってきたウマ娘たちは、その願いを叶えるためにここで日夜練習に明け暮れている。とはいえ、そんなトレセン学園でも毎日欠かさずに授業のカリキュラムが組まれているわけではない。世間一般的な学園と同様に、休日はきちんと存在する。

 

 当然の話だ。いくらウマ娘たちが人間とは比較にならない身体能力を誇り、トゥインクル・シリーズで活躍した娘が国民的スターとして扱われることになるとはいえ。彼女たちはスターやアイドルである前に一人の学生なのだ。

 

 それも、多感な時期とされている思春期の少女。ウマ娘の全盛期は思いのほか短く、活躍する者の殆どが中等部から高等部の学生で占められている。だからこそ、まだ精神が成熟しきっていない彼女たちは健全に過ごさなければならない。ときにはレースから離れ、休養して英気を養うことも大事なことだ。

 

 そんな至極当然な理屈で、学園にも休日が存在する。与えられた休みでは、ウマ娘たちは寮でゲームや漫画などの娯楽を楽しんだり、友人と街に出掛けたり。あるいは、勝ちに貪欲な学生はトレーナーを連れ出してそれでも練習に明け暮れたりと様々だ。

 

 だから、テイオーが休日に街へ遊びに行くこと。それ自体は俺も何も文句はない。むしろ、根を詰めて休日にまで練習を続けようとする方が困ってしまう。どれだけ才能があっても、誰であってもずっと走り続けることは出来ない。ときには羽を伸ばしてゆっくり休んできた方が、よほど夢への近道に繋がる。

 

 ――けれど、その休養に俺がいる必要は感じない。

 

「悪いがパスだ、貴重な休日にまでお前に付き合ってはいられないからな」

「ええーっ、一緒に行こうよトレーナー! ボク一人だとつまんないよーっ!」

「友人と行けばいい。お前に友人が多いことは知ってるからな、俺なんかと一緒に行くよりもよっぽど楽しめるはずだ」

 

 トウカイテイオーという少女は、人気者だ。

 

 容姿は活力に満ち溢れた端麗な美少女。性格は天真爛漫で人懐っこく、物怖じしないで相手とコミュニケーションを取ることが出来る社交性の高さがある。加えて、ウマ娘としてのレースにおける実力は折り紙付き、天賦の才に恵まれている。

 

 これだけの要素が揃って、人気者にならないはずがない。大体誰とでも仲良くなれると本人は豪語していたが、実際に多くの友人に囲まれているのを見たことがあるし、その言葉も嘘ではないだろう。

 

 だからこそ、それらの友人たちと一緒に行動することで友情を育んだ方がいいだろう。トレセン学園に所属するウマ娘たちは、究極的にはレースで倒さなければならないライバルだ。しかし、だからといって私生活でまで壁を作ることはない。親しい相手だからこそ、全力でぶつかって打倒したいという気持ちが生まれることもあるだろうしな。

 

 そう思って断りの返事を出したのだが、それでテイオーが納得することはなかった。断られたことがショックだったのか、拗ねたような、傷ついたような表情でなおも食い下がる。

 

「ぶーぶー! ボクはトレーナーと一緒に行きたいんだよーっ! トレーナーのケチ! 昨日あんなにボクのことが欲しいって言ってくれたのに! あの言葉は嘘だったんだね、ボクの気持ちを弄んだんだ!!」

「……お前、そういう言葉は外では絶対に言うんじゃないぞ。変な誤解を招くだろ。大体、俺はトレーナーでお前はその教え子なんだ。プライベートでまで一緒にいるのはあまりよろしくない」

 

 随分と人聞きの悪いことを言う奴だ。一体いつ俺がこいつの気持ちを弄んだというのか、ただ誘いを断っただけなのに大袈裟な反応をしてくれる。

 

 それに、実際問題として。トレーナーと担当ウマ娘が私生活でも行動をともにするのはあまり褒められたことではない。普通の学園で言えば、部活の顧問と女生徒が休みでも仲睦まじく行動するようなもの。外聞としてはとてもじゃないが、決して良いとは言えないものになるだろう。

 

 学園で仕事をしている間は、確たる責任をもってしかとこいつを育て上げよう。だが公私の区別はきちんと付けるべきだ。その線引きを怠り、ずるずると友人のような関係を続けてしまえば。

 

 ――いずれ、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。そんな予感がする。底なしの沼に一度沈み込んでしまえば、どれ程もがいたところでもう抜け出すことは出来ない。そんな、漠然とした不安。

 

 だからこそ、一線を引くことが大切だと考える。俺とテイオーはトレーナーと担当ウマ娘、そういう関係であることを常に忘れてはならない。

 

「トレーナーってホント固いよね、そんなの皆全然気にしてないよ。マヤノだって、よくトレーナーとデートしたってボクに自慢してくるんだから。ボク達だって一緒に出掛けてもいいじゃん!」

「仮に誰も気にしなくても俺が気にするんだ。もういいだろ、さっさと帰るぞ。明日も早いからな」

 

 マヤノとは、テイオーが暮らしている寮のルームメイトであるマヤノトップガンのことだ。無邪気で子供っぽく、だからなのか大人に憧れており、常にそのような女性になりたいと口にしているウマ娘。性格のタイプとしては、目の前で文句を垂れているこいつに近い。

 

 しかし、知らなかったが思っていたよりもトレーナーとウマ娘は付き合いが深いらしい。まさか、休日に一緒に遊ぶことも珍しくないとは。俺が気にしすぎなだけかもしれないが、それで大丈夫なのか? 何か問題になったりしないのか?

 

 ……まあいい、とにかく帰るか。帰ってからもやるべきことは山とある。無駄なことにいつまでも思考を割いてはいられない。そうして、踵を返してトレーナー寮へ帰ろうとすると。

 

 不意に、後ろから袖を掴まれた。

 

「あのさ、どうしても、ダメなのかな……。ボク、トレーナーと一緒がいいんだ、どうしてもトレーナーと遊びに行きたいんだよ。お願い……」

「お前……」

 

 縋るような、泣き出しそうな瞳で見上げられる。親からはぐれて不安で堪らない、迷子の子供のような弱々しい表情。こんな顔をされては堪らない。こっちが悪い事をしている気分になってしまう。

 

 ……仕方がないな。

 

 俺はうなだれている様子のテイオーに向き直り、その頭にポンと手を置く。しょげて前へとウマ耳が倒れていたことで、ひどく撫でやすくなってしまったその頭を一撫でする。

 

「わかったわかった、俺の負けだ。一緒に行くよ。だからそんな顔はするな、調子が狂うだろ」

「ホント? ホントに一緒に行ってくれるの……?」

「おいおい、そんなに疑うなよ。ま、行かないと誰かさんが泣き叫んでしょうがないからな。ボランティアってやつだ、たまには良いことをしてみるのも悪くない」

「もーっ! トレーナーが最初から素直にボクの言うことを聞かないから悪いんだよ! いっつもボクにいじわるして!」

 

 すっかり元気を取り戻したテイオーといつも通り騒ぎ合う。調子が戻ったのは何よりだが、少し安請け合いをしてしまったか。あれほど避けた方がいい、そう考えていたことを話の流れでつい約束してしまった。

 

 だが、あのようにへこんだテイオーの姿はこれ以上見ていたくなかった。こいつにはいつも元気で笑っていて欲しい。そんなテイオーだからこそ、俺は担当ウマ娘にすると決めたのだから。

 

 まあ約束してしまったものはもうしょうがない。少し休日に付き合うだけだ、そう何度も続けなければ特に問題はないだろう。それくらいでこいつの機嫌が取れるのなら、むしろお安い御用だと言えるかもしれん。

 

 それに、休日ともに行動すればそいつの趣味趣向はある程度わかる。何を好んでいるのかを把握できれば、あまり調子が芳しくないときに役立つだろう。ウマ娘にとっては調子の高さというのも重要なファクターとなる。シンボリルドルフが大好きということは嫌という程よく知っているが、それ以外の情報も欲しかった所だしな。 

 

 纏わりつくテイオーの相手をしながら、俺はそんな風に自分を納得させることにした。



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第五話

 ――夢を見ている。

 

 自分が夢の中にいることは、最初からわかっていた。

 

 何度も何度も、同じような光景を見せられれば誰だって気付く。

 

 白く染まった空間で、自身から伸びた影が人の姿を取り、延々と俺を責めてくる。

 

 いつも通りの、くだらない夢だ。

 

 影が、矢継ぎ早に俺への非難を口にする。

 

『お前では、トレーナーなど務まらない』

『願いも誇りも信念もない、ただ薄っぺらいだけの男』

『もっと相応しい者はいくらでもいた、お前と彼らは違うのだ』

 

 こいつは、常に決まって同じようなことを喚き立てる。俺はトレーナーとして相応しくない、もっと夢や誇りのあるまともな人間が代わりになるべきだったと。

 

 バカらしい。誰がどんな夢を抱いていようが、俺には何の関係もない。俺がトレーナーになれたのは、純然たる実力があったからだ。夢や誇りの有無などどうだっていい。

 

 結果だ、結果だけが全てなんだ。俺はトレーナーとなり、彼らは願いを叶えられなかった。ただそれだけの話だろう。

 

 どれだけ御大層な夢を掲げようが、叶わないときは叶わないものだ。現実は贔屓しない。人の内面など見やしない、ただ結果だけを公平に与えるのみ。

 

 だからこそ、俺はいつだって結果を求めている。目障りな他人を黙らせるには、結果を叩きつけるのが一番手っ取り早いからだ。

 

 ……影の糾弾は、尚も続く。

 

『トウカイテイオーのトレーナーなど、お前に務まるわけがない』

『あのウマ娘は天才だ、お前のような者が潰すことは許されない』

『今からでも遅くない。担当を降りて、トレーナーを辞職しろ』

 

 戯言だ、まったく聞くには値しない。

 

 テイオーは俺を選んだんだ。あいつはもう俺のものだ、他の誰かにくれてやるつもりなど欠片もない。

 

 トレーナーになるために、決して少なくない努力を重ねてきた。今更辞めることなどありえない。そうだ、ここで投げ出してしまったら、今まで俺は一体何のために――

 

 ……気付けば、影は消えており、俺はただ一人残されていた。

 

 誰もいない、誰もわからない、俺だけの空間。

 

 だからこそ、ふと頭を過ぎるものがあった。

 

 どうして俺は。

 

 あのとき、よりにもよって。トレーナーになろうなどと――軽々しく思ってしまったのだろうか。

 

 

 

「ねえねえトレーナー! まずは何処に行こっか、ボクが決めちゃってもいいよね?」

 

 とある休日のこと。 

 

 俺とテイオーは、二人並んでトレセン学園近辺の商店街を歩いていた。この前にした一緒に出掛けるという約束をここで果たしているわけだ。

 

 あらかじめ待ち合わせた場所で既に待っていたテイオーは上がパーカー、下がショートパンツに黒のレギンスというボーイッシュな装いをしていた。こいつの私服は初めて見るが、活発な本人によく似合っている組み合わせだと感じる。

 

 しかし、相変わらず朝から無駄に元気なものだ。こちらは仕事が終わった後もやるべきことが多いため、大して睡眠時間を取れていない。少しは遠慮してもらえると助かるんだがな。

 

 車を出すことを提案したのだが、すげなく断られてしまったことも中々に痛手だった。曰く、「こういうのは歩いた方がそれっぽいからね!」ということらしいが、何がそれっぽいのか理解に苦しむ。

 

 どうせ移動するなら車の方が便利で楽だろうに。何事も可能な限り効率的に行うべきだ、休日なのに余計な体力を使っては元も子もないだろう。

 

「そうだな、お前に任せよう。好きなように決めるといい、俺には特に行きたい場所なんてないからな」

「なら最初はゲーセン行こうよっ! ボクと対戦しよ、どんなゲームでもキミに勝っちゃうからさ!」

「じゃあゲーセンはナシだな、別の場所にしよう」

「さっき好きに決めろって言ったばっかだよね!? わけわかんないよーっ!」

 

 テイオーの困惑した叫びが朝の商店街に響き渡る。まったく、近所の人に迷惑だからあまり大きな声を出すんじゃない。

 

 いきなり前言撤回した俺も悪いが、一緒にゲームセンターに行く気をすぐに失くさせたこいつも悪い。おそらくあの口ぶりだとゲーセン常連で相当な腕前だと思われる。ボコボコにされることがわかっていて、そんな上級者とゲーセンを楽しめる気はしなかった。

 

 人生においてゲーセンなど数えるほどしか行っておらず、行けば行ったで楽しめるかもしれない。だが、どうせやるなら勝ちたいからな、勝利というのはわかりやすい結果の一つだ。

 

 そうして早速要望が却下され、少し拗ねてしまったテイオーを宥めすかしてから、俺は他の目的地を聞き出すことにした。

 

「もーっ、トレーナーはワガママなんだから。女の子の扱いが全然わかってないよ。ボクじゃなかったらもう怒って帰ってるよ?」

「悪かった、反省してるからそろそろ機嫌を直せ。お前のような優しいウマ娘を担当に出来て俺は幸せ者だ。他の場所にはちゃんと付き合うから許してくれ」

「……じゃあ、カラオケ行こ。ボクの歌をずっと傍で聞いててね、歌うのはずっとボクだから。特別にそれで許してあげる」

 

 その程度なら大したことない、お安い御用だ。元よりカラオケで歌うなど柄ではない。むしろテイオーが常に歌い続けてくれるなら、その間は体力を温存出来て逆に好都合というもの。

 

 そうして最寄りのカラオケボックスへと向かい、俺は無敵のテイオー様の臨時ライブにおけるただ一人の観客と化したわけだが。目の前に広がる光景に驚きを隠せなかった。

 

「トレーナートレーナー! どうだったボクの歌! この歌かなり自信あるんだよねーっ!」

「そうだな、大したもんだ。文句の付け所がない。今すぐウイニングライブしたって何も問題はないだろうな」

「へへーん! ボクは歌でもダンスでも無敵のテイオー様だからね! レースでもライブでも、一番になって皆にすごーいって言ってもらいたいんだ!」

 

 テイオーが、どうだ見たかと言わんばかりに胸を張る。強いて言えば、こうやって何かにつけて勝ち誇る所がなければもっと良かったんだがな。まあ、これも愛嬌のうちか。こいつのこういう部分は、ある意味で長所でもある。

 

 しかし、世辞でも何でもなくかなりの出来栄え。高い歌唱力、巧みなステップから繰り出されるダンスのキレ、歌詞に合わせてころころ変わる表情の豊かさ、いずれの点においても極めて高い完成度を誇っていた。

 

 まだメイクデビューは果たしていないが、もう何も練習せずともすぐにだってウイニングライブでファンを魅了することが出来るレベルだ。いや、それどころか他者に教導することさえ可能だろう。レースで発揮されている、軽やかな足捌きがこの歌というジャンルでも存分に活かされている。

 

 歌自体についても素晴らしい仕上がりだ。特徴的な甘い歌声が高い歌唱技術と組み合わさり、全体的にとても魅力的なものに仕上がっている。

 

 トレーナーとは総合職であり、歌やダンスについてもある程度修めているため、基本的なことなら指導することが出来る。だが、テイオーに関してはその必要性はまったくないだろう。むしろ、明らかに俺よりも遥かに上手い。楽が出来るに越したことはないので結構なことだ。

 

 ……だが、歌っていた曲の歌詞については些か気になった。

 

 その内容は恋愛をダービーに見立て、まだ恋に恋しているような、純情な少女が勇気を出して気になる相手にアプローチをしようとするもの。そんな幼げな少女らしくない、途中で挟まれる他の女性に対する強い嫉妬心が印象に残った。

 

 未だに恋愛感情など知らないようなテイオーにはあまり似つかわしくはない曲だ。持ち歌のようだが歌詞の中に込められた想いなど、あまり理解できてはいないのではないだろうか。とはいえ、藪をつついて蛇を出すことはない、わざわざ指摘するのはやめておこう。

 

 そしてテイオーの気が済むまで彼女のプチライブに付き合い、カラオケボックスを後にする。

 

 それからは、若い女性に人気のある服屋やウマ娘のシューズが置いてある靴の専門店など、目的もなくあちこちを巡った。

 

 ウィンドウショッピング、詰まる所ただの冷やかしだ。何か気に入るもの、良さそうなものがあれば代わりに買ってやってもよかったのだが、テイオーはただ見学するだけで満足していた様子だった。

 

 テイオーの感情は傍目に見ていてとても極端でわかりやすい。興味があるもの、好きなものにはとことんまで興味を示すくせに、逆に自身が惹かれないものにはまったく興味を覚えない。

 

 具体例を挙げるのであれば、最初に俺がスカウトに失敗したケースか。あのときの俺は、再び会ったとき、まったくテイオーに覚えられていなかった。時間こそ多少経っていたが、それでも自分をスカウトした人物を完全に忘れるというのは中々ない。

 

 ――つまり、覚える価値がない、興味が惹かれないと無意識に判断されたわけだ。

 

 別に非難しているわけではない。相手がそういう人物だと把握すること自体が大事だからだ。どのような人物にもそれぞれの個性があり、それによってある程度は接し方を変えていく必要がある。トウカイテイオーという少女には、そういう性質があるというだけの話だ。

 

 それにしても……結局、そのようなことがありながらこの少女のトレーナーになるとは因果なものだ。今の俺は、こいつにとって少しは興味が惹かれる存在になれているということなのだろうか。

 

 とにかく、何か欲しいものがあるわけでもなく、ただ街を散策することだけがテイオーの目的であることは明白だった。

 

「はちみーはちみーはっちっみー、はちみーを舐めると~♪」

 

 それなりに時間が経ち。いつしか無理やり俺の手を取ったテイオーが、上機嫌によくわからない歌を歌いながら弾むように歩いている。

 

 というか本当に何の歌なんだそれは。はちみーとは、ミツバチから採れるあのはちみつのことだろうか。このような珍妙な曲は一度も聞いた覚えがないのだが、まさか自分で作ったのか?

 

「あっ、はちみーだ! 行こうよトレーナー、はちみー買おっ!」

「はちみー? ああ、あの移動販売車のことか。わかったからあまり引っ張るな」

 

 何かを見つけたテイオーが俺の手を引っ張りながら一目散に駆けていく。身体能力に優れたウマ娘は、腕力一つとっても成人男性ですら優に凌ぐ。だからこそ、こうやってされるがままにするしかないのだからもう少し加減が欲しい所だ。

 

 連れられてやって来たのは、はちみつドリンクなどを販売している移動販売車だった。値段は追加になるが、ドリンクに入っているはちみつの量をある程度調整することが可能らしい。

 

「お姉さん、はちみつ硬め・濃いめ・多めで! トレーナーはどうするの?」

「そうだな……じゃあ俺は、この軟め・薄め・少なめとかいうのを頼むとしよう」

「トレーナーってば何もわかってないなーっ、通はボクみたいなブレンドで頼むんだよ?」

「何の通だそれは。甘いものは大して好きじゃないんだ、そんないかにも甘ったるそうなもんが飲めるか」

 

 よく利用しているからかは知らんがテイオーは一丁前に通を気取っていた。だが、こいつの頼んでいるものはもはやドリンクではなくただのはちみつなのではないだろうか。

 

 そして、テイオーの注文を聞いた販売員の女性が、どろどろとしたはちみつの原液をほぼそのまま紙コップに流し込んでいく。嫌な予感がしたので真逆の注文にしたが、どうやら俺の判断は正しかったようだ。

 

 こんなものは到底飲めない。他人の好みになど口を挟むつもりはない。だが、流石に少しは薄めてあるのだろうが、殆どただのはちみつに近いものを飲み続けられるほど俺の味覚は甘党ではなかった。

 

 こうしてテイオーの望み通りはちみつドリンクを買った後。段々と歩くのも面倒になってきたため、適当に何処かで一旦休憩しようと考え、俺たちは道沿いにあった公園のベンチで身体を休めていた。

 

「そういえばトレーナーの買ったはちみーってどんな感じなの? ボクにも少し飲ませてよ。ほら、ちょこっとだけでいいからさ!」

「別に何のことはない、ただの薄めのはちみつドリンクだが……。まあ、お前が気になるなら好きに飲めばいい」

 

 何処か物欲しそうな顔で、テイオーが俺の飲んでいるドリンクを指差した。もはや喉も乾いていないし、味にも飽きてきたので言われるままに手渡す。別に間接キスがどうとか気にするほどガキでもない。そもそも、こいつを相手にそんな青いことを考える方がどうかしている。

 

 だが、次に取ったテイオーの行動には少々驚かされた。購入したはちみつドリンクはストローが付属されている。なので、てっきりテイオー自身が持っているストローを俺のやつに突き刺して使うのだと思っていた。

 

 ――しかし、テイオーは紙コップに刺さっていた俺のストローをそのまま口に含み、美味しそうに飲んでいく。そこには何の躊躇も見られなかった。

 

 深く考えずに手渡した俺も悪いが、このような行動はどんな観点から見てもよろしくない。自身の行ったことを理解していないと思われるので、これは注意する必要があるか。

 

「おい、お前少し行儀が悪いぞ。立派なスターウマ娘になりたいんなら、もっと貞淑さを心掛けた方がいい。大人の女性は、他人の飲みかけを平気で口に入れたりはしないもんだ」

「あはは、そんなに心配しなくても大丈夫だよトレーナー! ――ボク、誰にだってこういうことするわけじゃないから」

「……そうか。いや、まあ、それならいいが」

 

 なんだ、これは……。一瞬だけ、底冷えのするような気配を感じた。自分が草食獣で狩人に狙われたのなら、あるいはこんな気持ちを味わうのかもしれない。

 

 そもそも誰に対してもあまりしない方がいいだろう、そのように指摘するつもりだったがつい返事がおざなりになってしまった。いつものように、ムキになって言い返してくると想定していたので調子が激しく狂う。

 

 薄ら寒い気配を感じたのは一瞬だけ。今では何事もなかったかのように、テイオーはいつも通り無邪気な様子だ。気のせい、だったのか、あれは……。

 

 気を取り直して座ったままテイオーと雑談を続けていく。今更別の場所に行く気にはなれなかったからだ。しばらく話していると、ふと彼女の表情に曇りが見えた。

 

「あのさ……迷惑だったよね、休みなのに無理やり連れ回しちゃって。ごめんね、トレーナー」

「いや、いいさ……。気にするな、お前はまだ子供なんだ、このくらいのワガママならなんてことはない。迷惑なんて、好きに掛けてくれていい」

「……トレーナーってほんとずるいよ。いつもいじわるなのに、たまにとっても優しいんだもん」

 

 テイオーは申し訳なさそうにして俺の顔色を窺っていた。常に傍若無人に見える彼女だが、決してただの暴君ではない。相手を思いやる心は充分に持っている。

 

 そのようなこいつの気遣いに、俺は何度か助けられていることだってある。だからこそ、この程度は気にしないでいいのだと彼女の頭を軽く撫でる。

 

 しかし、テイオーはこんな俺の行動になぜか不満そうに口を尖らせる。まったく心外だな、別に意地悪をしているつもりはない。たまにからかうこともなくはないが、基本的には優しい方だと思うが。

 

「ボク、すっごく弄ばれちゃってるよ。これが男の人にとって都合の良い女なんだ。それで、いつか飽きて捨てられちゃうんだね……」

「……だから、人聞きの悪いことは言うなと何度も言ってるだろ。俺がトレーナーでいられなくなったらお前のせいだぞ」

 

 悲しそうに目を伏せながら、おかしなことを言い出すテイオー。というか、そのろくでもない知識は誰からの受け売りなんだ。子供そのままなこいつだけではこのような考えに至らないだろう。

 

 犯人はルームメイトのマヤノトップガンか? 俺の大事な担当ウマ娘に余計なことを吹き込んでくれる。あいつとは、いつか二人で真剣に話し合う必要がありそうだ。

 

 ……俺はそれから寮の門限が近くなるまで、到底理解できない流れで落ち込んだテイオーの相手をし続けた。



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第六話

 俺がこのトレセン学園にトレーナーとして就任してから、早いものでもう二か月以上もの時が過ぎ去っていた。

 

 暦は6月の半ばを示しており、本格的に梅雨入りを始めた時期となっている。その関係もあってか、前日の天気は雨。それが降り止んだ今日になっても芝の水分が乾ききっていないため、すっかり学園のコースは重バ場と化していた。

 

 重バ場になると、ぬかるんで重くなった芝に足を取られて走りにくくなる。そのような状態のターフを好んで走りたがるウマ娘はそう多くない。しかし、だからこそ重バ場を走ることは良い練習になり得る。

 

 レースで大番狂わせが起きやすいのは、得てして重バ場のときだ。常に圧倒的な強さを誇っていた1番人気のウマ娘が、予期せぬ雨で変化したバ場に対応できず、あっけなく敗れ去ってしまうことも珍しい話ではない。

 

 なぜこのようなことが起こるのか。それは芝が乾いて走りやすい状態、いわゆる良バ場のときと重バ場のときでは求められる能力が違うからだ。

 

 良バ場のときに一般的に強く求められる能力は、高速化しやすいレースを制することが出来るスピード。反対に、重バ場で必要となってくるのは荒れた芝でも構わず踏み越えていけるだけのパワー。このように、バ場が変化すればウマ娘に求められる能力も自ずと変化する。

 

 そういうわけで良バ場でのスピード自慢が、重バ場においてパワー不足で負けてしまうというケースが起こってしまうわけだ。だからこそ、重バ場に慣れておくことは重要になってくる。いつでも芝が快適な状態とは限らない、大事なレースにたまたま雨が降っただけで負けるなど、到底許容できない。

 

(この梅雨の季節を利用して、今のうちにある程度重バ場への対応も学ばせておくべきか……)

 

 放課後のグラウンド。練習場を走るウマ娘たちを見ながら、俺はそんな感じで今後の育成プランを練っていた。担当ウマ娘であるトウカイテイオーは用事があるため少し遅れるとのことであり、手持ち無沙汰な状況なのでこのように考えを巡らせている。

 

(……しかし重バ場を警戒しすぎるのもそれはそれで問題だな。結局のところ、主戦場は良バ場。これを疎かにするようでは本末転倒だ、比重についてもよく考えなければ――)

 

「……あ、あの、すみません。テイオーちゃんのトレーナーさん、ですよね?」

「ん? ああ、そうだが……」

 

 思考に耽っていると、何処からか歩み寄ってきたウマ娘に声を掛けられた。見覚えがないが新入生だろうか、大人しそうな雰囲気の少女だ。

 

 話を聞いてみるとやはりテイオーと同じく新入生らしい。要件は走行時のフォームをトレーナーである俺に見てほしいとのことだった。まだ担当のトレーナーが見つかっていないため、どうしても自分では改善しにくいようだ。

 

 俺がテイオーの担当であることは知っているが、それでもテイオーが不在の今だけでいいからお願いしたい。初めて会ったのにこんなことを頼むのは失礼だとわかっている、けれど……と強く願われる。

 

 そこまで必死に頼まれてしまっては断るのも後味が悪いため、俺は彼女の頼みを承諾することにした。ただし、出来る限り手短に終わらせるとの条件を添えて。いつまでも他のウマ娘を見ていたら確実に騒ぐ奴が一人はいるからな。

 

 だが、担当がついていないウマ娘に指導することは別に禁止事項でも何でもない。彼女らは教官と呼ばれる指導員にグループ単位での指導を受けるわけだが、その人数の多さから個別の指導ではなく全体での基礎的な訓練がほとんど。

 

 よって、ただでさえトレーナーが見つからず出遅れてしまっているのに、余計に前進するのが遅くなってしまうという悪循環が待っているわけだ。だからこのくらいの贔屓なら構わないだろう、暇なこのときくらいなら付き合ってやるのが学園への義理立てにもなる。

 

「――だいぶ良くなってきたな。あえて言うのであれば、もっと腕の振りを意識することと、身体全体から余計な力を抜くことだ」

「はい、ありがとうございました! でも、やっぱりトレーナーの人ってすごいんですね。ちょっと見ただけですぐにわかるなんて……」

 

 新入生の少女を軽く走らせ、何が問題になっているのかフォームをざっと確認した後。一通り改善点を指摘すると、彼女から礼と共にきらきらとした尊敬の目線を送られる。素直で初々しい反応が新鮮に感じる、うちのアレにもぜひ見習ってほしいものだ。

 

 それに、別に言うほど大したことじゃない。トレーナーとして雇われている以上、この程度のことが出来なければトレーナーバッジをつける資格などない。特にここ中央では、このくらいは軽くこなす逸材なんてごまんといる。

 

「本当に、すごく丁寧でわかりやすかったです! あのとき、勇気を出して声を掛けてれば良かったなあ……」

「あのとき? まさか、俺がスカウトをしてたとき見ていたのか?」

「……はい。貴方のこと、実はずっと良いなって思ってたんですけど、中々自分からは話しかけられなくて。そうやって躊躇ってるうちにテイオーちゃんと契約されちゃって……ほんとダメですね私って」

 

 あはは、と少女が自嘲気味に笑う。一方で、俺は自分が意外にも注目されていたことを今更知って何とも言えない気分になった。たづなさんが前にそんな感じのことを言っていたが、ただの社交辞令でもなかったわけか。

 

「……あの。もしあのとき、私が先に声を掛けていれば。貴方は、私のトレーナーになってくれていましたか?」

「それは……」

「――すみません、困らせちゃって。じゃあ私はそろそろ失礼しますね、これ以上はテイオーちゃんに悪いですから。今日は本当にありがとうございました!」

 

 未練を断ち切るような調子で俺に礼を告げ、少女は去っていった。その後ろ姿を見ながら考える。もしもテイオーと契約するよりも前に声を掛けられていたら、彼女と契約を結んでいたのかどうかを。

 

 ……まあ、結んでいないだろうな。

 

 理由は簡単だ。上を目指せるに足る才能を感じられない、ただそれだけの理由。向上心もあるし実力も悪くはない、性格の面だって扱いやすい純朴な性格。だが、純粋に才能だけが圧倒的に足りていなかった。

 

 トレセン学園に入学する前、地方では通用してきたのかもしれない。しかしここは中央、地方で名を上げた者が日本各地から集まってくる魔境。その程度の人材など腐るほどそこらに転がっている。

 

 中々に好ましい性格の少女ではあった。御多分に洩れず彼女にも夢があるのだろうが、どのようなものであれ叶ってほしいとも思う。しかし、彼女がトゥインクル・シリーズで成功することはないだろう。

 

 現在の状況で担当トレーナーがついていないというのは、そういうことでもある。どれだけ好感を抱いたとしても、それで勝たせてやれる程トレーナーも万能ではない。俺たちに出来ることは、ウマ娘たちに元々ある才能を磨いて腐らせないことだけなのだ。

 

 ……仕方がないことではある。だが、そうやって全てを簡単に割り切れるわけではなく、苦いものがわずかに残る。

 

「――トレーナー!!」

 

 それから他のウマ娘と併走を始めた彼女を眺めていると、大声で俺を呼びながら走ってくる小柄な人影が見えた。待っていた人物がようやく来たらしいが、いつも通り元気が有り余っているようで何よりだ。感傷に浸っている暇もない。

 

「さっき他の子の練習を見てたよね! なんでそういうことするの!?」

「いや、なんでと言われても暇だったし頼まれたからな」

「キミはボクのトレーナーでしょ! 他の子のことなんてどうだっていいじゃん!」

 

 来て早々テイオーは随分と荒ぶっていた。その尻尾も彼女の感情を表すかのように荒々しく揺れている。どうやら担当ウマ娘である自分を差し置いて、違う娘を指導していたのが気に入らないらしい。

 

 まるで彼氏の浮気現場でも目撃した恋人のようにも見えるし、大切にしている玩具を取られそうになった子供のようにも見える。いずれにせよ、この程度のことで爆発するのでは堪ったものではない。

 

「何をそんなに怒ってるのか知らんが少し落ち着け。あの娘はお前が来るまでの間軽くフォームを見てやっただけだ」

「……ふーん、そういうこと言っちゃうんだ。ボクがどんな気持ちかも知らないで」

 

 意味不明な怒りに燃えていたテイオーの表情が変わる。挑むような顔つきだ。俺の言動がお気に召さなかったのだろうが、これほど理不尽なこともそうはないのではないだろうか。ただちょっと他のウマ娘を指導しただけだろ。

 

「――いいよ、誰がキミの愛バなのかわからせてあげる。見るべきは他の子か、それともボクか。その目でちゃんと確かめてよね」

 

 そして、常とは違う鬼気迫る様子でテイオーは練習場へと向かっていく。その日の練習は過去最高に充実したものとなった。そのことで彼女を褒めると、嘘のように機嫌が元通りになったのだからもはや閉口するしかない。一体何だったんだこの騒ぎは。

 

 

 

 そのようなことがあった一日も終わり。俺はトレーナー室に備えられているパソコンでデータ処理を行っていた。日々の練習内容、今後のレースにおける出走計画、ライバルとなり得るウマ娘たちの情報収集など。考えること、やるべきことは枚挙に暇がなかった。

 

 これに加えて学園からも仕事を依頼されることもあるのだから、中々にトレーナーとは多忙な職業だ。あらかじめその辺については多少聞き及んでいたために寮生活を選んだが、それで正解だった。時間は有限だ、可能な限り節約しなければやってられない。

 

「なんかトレーナーって大変そうだね……。ボクのためにいつもお仕事お疲れ様っ!」

「別にお前のためだけにやってるわけじゃないが、まぁ労いたいってんならその気持ちは受け取っておこう」

 

 机で作業を行う俺の横にはテイオーが立っていた。パソコンの画面を覗き込みながら朗らかに笑っている。トレーニングが終わった後、この部屋で多少雑談することがすっかり日課となってしまっていた。

 

 とはいえ、毎度毎度門限ギリギリまで過ごしていてはテイオーの寮の責任者であるフジキセキに悪いし、何より俺自身の身体も持たない。よって愚図るこいつを説得していかに早く帰らせるか、それが俺のトレーナーとしての腕の見せ所になる。

 

「それにしても、お前も怒ったり笑ったりと忙しい奴だな。毎日を刺激的に過ごせているようで何よりだ」

「むうっ、あれはトレーナーが悪いんじゃん! 他の子の面倒なんて見て、ボクというものがありながら信じらんないよ! 浮気だよ浮気!」

「……まったく、たかがこの程度のことで大騒ぎが出来るのはお前くらいのもんだろうな」

 

 不満げに口を尖らせるテイオー、その意味不明な発言を軽く受け流す。いちいち真面目に返していてはキリがない。それなりに長くなってきたこいつとの付き合いで学んだ処世術だ。

 

「ところでさあ、トレーナー。メイクデビューの時期って本当に10月頃なの? ボク、やっぱりそんなに待てないよ」

「そうだ。前にも言ったことがあるが、お前のデビュー戦は10月を予定している。これだけはいくら騒がれても変えるつもりはない」

「ええーっ! 今すぐ出ようよトレーナー! ボク、これからすぐにレースに出たってきっと勝ってみせるよ。キミだって、ボクがたくさんレースに勝ったら嬉しいでしょ?」

「そりゃお前ならジュニア級で勝ちを重ねることは造作もないだろうな。だが、そこに大した意味はないんだ」

 

 メイクデビュー。それは担当トレーナーがついたウマ娘のデビュー戦のことであり、通常は6月頃、つまり今からでも参加することが出来る。そのため、トゥインクル・シリーズに参戦するのが10月になってからというのは、テイオーが文句を言うように確かに悠長だと思えなくもない。

 

 けれど、俺には早期にデビューすることにおけるメリットは感じられなかった。

 

 今すぐにデビューすれば、その分だけ何度もレースに出走することが出来て経験を積める。メイクデビューで敗北した場合、未勝利戦と呼ばれるレースで勝利しなければ次のステップには進めないわけだが、チャンスが多ければ上に登れる機会も当然増える。

 

 万全を期するのであれば、メイクデビューを落としたときのために余裕を持ったスケジュールで臨むことも悪い選択ではないだろう。あの【皇帝】シンボリルドルフですら敗北と無縁ではいられなかった。レースに絶対はない。

 

 ――しかし、それでも言える。トウカイテイオーがデビュー戦で敗北するなどありえない。

 

 スカウトのために何人もの新入生を見てきたからわかる。単純な才能だけで述べるのであれば、同世代にこれ程の才覚の持ち主は存在しない。届きうる者ならば確かにいるが、それは鍛えて研磨された状態での話。現時点でこの天才の暴力に抗えるウマ娘はいないだろう。

 

 そもそも俺たちが目指しているのは無敗の三冠。元より敗北など想定しない――してはいけない。少なくとも、クラシック三冠の栄誉を掴み取るまでは無敗を貫く必要があった。

 

 だからこそ、メイクデビューを遅らせる決断を取った。まだまだ未熟なウマ娘を相手にしても得るものは少ない。ただ自分たちのデータを取られて損をするだけで終わる可能性すらある。目下の所、他の陣営からすれば今後のクラシック戦線において最大の脅威になり得るのはトウカイテイオーなのだから。

 

 その分だけ基礎的な訓練を積んで地力を高めていた方が余程有意義だろう。仮に俺がトウカイテイオーを相手取る場合、このように基本を固められるのが一番厄介だと考える。シンプルに強いというのが最も手に負えない、対策の仕様がないからな。

 

 そのようなことをざっとテイオーに説明する。前にも話したことはあるが、今回蒸し返されてしまったので仕方がない。こいつは結構な気分屋だ、子供っぽいとも言うが感情の起伏が激しくその場の思い付きで喋ることも多々ある。

 

「キミがそんなに言うなら納得してあげてもいいけどさーっ。だけどね、トレーナーってボクがちょーっと目を離すとすぐにふらふらするからなあ。だから――」

 

 俺の話を聞き終わったテイオーはしばらく悩まし気にした後、にやりと悪戯っぽく微笑んで俺に抱きついてきた。急な衝撃に驚いて握りしめていたマウスを手放す。

 

「これからはもっともっとボクのことを見ててよねっ! 他の子のことも、デビューが遅れることも特別に許してあげるからさ!」

「……おい、無駄だと思うが一応言っておく。邪魔だから今すぐ離れろ。大体はしたないと思わないのか? 年頃の少女がそんなことでどうする」

「えへへーっ、ボク子供だからそういうことわかんないなーっ! 子供だからいっぱいトレーナーに甘えちゃうもんねーっ!」

「都合の良いときだけ子供の振りをするんじゃない、本当に呆れた奴だなお前は」

 

 いつも通りの他愛のないやりとり。放課後に妙に不機嫌な状態で現れたときはどうなることかと思ったが、元通りになってほっとする気持ちが少なからずあった。あれは嫉妬心だろうか、子供が親に構ってもらえず駄々を捏ねるようなものだろう。

 

 だが、嫉妬心とは執着の裏返し。トウカイテイオーはどうでもいい存在に執着するようなウマ娘ではない。つまり、俺もいよいよこの天才からある程度の好感を抱かれるようになったというわけか。出会った当初のことを思うと感慨深い。

 

 可愛いウマ娘に嫉妬されて嬉しい、などと感じるほど俺の頭はお花畑ではない。むしろ逆に行動を制限される場合もあるだろうし面倒なことしか予想できない。しかし、嫌われるよりは遥かにマシだ。本当の最悪は担当契約を解消されること、それに比べればこの程度などどうということはない。

 

 このような逸材、俺のこれからのトレーナー人生で果たしてどれだけ現れてくれるのだろうか。そう思う程度には、俺自身もテイオーに対して愛着を持ち始めている。

 

 先程までの出来事からわかるように、情緒が不安定なことも多いがテイオーは俺によく懐いてくれているし、練習の成果も上々。新人トレーナーとしては悪くない出来だと言えるだろう。

 

 全ての選択を最適解で乗り越えられたわけではない、だがその場におけるベストは尽くしてきたつもりだ。

 

 だから――俺はトレーナーとしてちゃんとやれているはずだと、そう信じた。



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第七話

「海だ―っ!」

 

 季節は夏真っ盛り。目の前には広大に広がる青い海と、激しい日差しに照らされて焼けつくような熱を持った砂浜がある。俺たちは夏季休暇のこの時期で、夏合宿を行うために海に来ていた。

 

 トレセン学園にも通常の学園と同じように夏季休暇がある。期間としては大体7月上旬から8月いっぱいまでと言ったところだ。一般的なそれよりも少し長いその休暇、そこで学生たちは何をするのか。

 

 友人たちと遊びに出かける、久々に家族に会うために帰省する……夏季休暇の過ごし方は原則として自由であるため、それぞれで異なっている。

 

 だが、やはり一番多いのは夏合宿でのトレーニングだろう。

 夏合宿とは、夏季休暇でトレセン学園が主体となって行う大規模な訓練行事のこと。海辺にある宿泊施設を借りて、教員やウマ娘たちが泊まり込みでこの真夏の中、何週間も猛特訓に励んでいく。

 

 特にやることがない学生たちは、ほぼ全員がこの夏合宿に参加することとなる。

 厳しい暑さに、足を取られる砂浜。常とは違うこの環境で丸一日をトレーニングに費やす。そのため、夏合宿をやりきった生徒は以前よりも一回り成長していく。

 

 トゥインクル・シリーズで本気で勝ち抜いていきたいのなら、この行事に参加しない手はない。だからこそ、その御多分に洩れず俺たちも合宿に参加して、このように海に来ているわけだ。

 

(……しかし、あいつは何度海で騒げば気が済むんだ)

 

 視界の先、海水を蹴りながら嬉しそうにはしゃぐテイオーを見ながら嘆息する。

 練習を行うためにこの海辺に訪れると、いつもあいつはこうやって騒いでいる。海に初めて来た場合や、久しぶりに訪れたというのなら話は分かる。

 

 だが、もうここへ来てから一週間以上が過ぎている。それなのにこうして毎日飽きもせず、海というだけで大盛り上がり出来るのだから見上げたものだ。

 俺など海に対してもはや何の感慨も浮かばない、ただ訓練に使う道具だという認識程度しかない。

 

「テイオー、楽しそうな所悪いがそろそろいいか」

「あっ、トレーナー! トレーナーもボクと一緒に海で遊ぼうよっ! 水中バレーとかどう? ボク一度やってみたかったんだよねーっ!」

「……何しに来たんだお前は。俺たちは友人同士で海に遊びに来たわけじゃないんだぞ」

「ええーっ? でもさ、ちょっと遊んでからの方が練習も捗ると思わない?」

 

 こいつの遊びに付き合っていたら日が暮れてしまう。一度誘いに乗ったが最後、トレーニングの時間を大幅に削られるのは目に見えている。大事な夏合宿の時間を無駄にするわけにはいかない。

 

 俺は適当なことを抜かしているテイオーを軽くいなしながら練習を開始させる。

 今日の練習はごく単純で、砂浜を駆けさせることだけだ。だが、このようなシンプルなものであっても学園で芝の上を走らせることとはまた違った効果がある。

 

 砂浜は足が取られやすく、その力を充分に伝えにくい。速く走ろうとするには慣れと経験が必要となってくる。加えて厳しい暑さにも襲われながら行うため、足腰と体力を鍛えられる良い訓練になる。

 

 俺は基本的に、このような単純かつありきたりな訓練を好んでいる。他にここでやってきたものは、向こうの岸まで泳ぐ遠泳や大きなタイヤを引きながら走るものなど。

 全て誰もが知っているし誰でもやっているような練習内容だ。だがそれでいい、特別な練習など必要ない。大事なことは、基本を疎かにしないことなのだから。

 

 何も知らない者ほど、特別なことをやりたがるものだ。彼らは人とは違ったことをすれば、自分が何か特別な存在になれるのだと信じている。

 だが、それは違う。人より抜きん出るための近道などない。基礎を大事にしてしっかりと身に付けていく、その繰り返しを忘れないことでいつしか差が開いていく。

 

 とは言え、ウマ娘一人ひとりにもそれぞれの個性がある。練習内容に対する向き不向き、好き嫌いといった適性も鑑みて判断しなければならないが、その辺りは臨機応変だ。

 

 テイオーはどのような練習であってもすぐに適応するし、高い結果を出しているためにそこを考慮する必要があまりないのは助かるところだ。何に対しても卒なくこなすため、日々その天賦の才を再確認させてくれる。

 

(それにしても、なんて暑さだ。ただ立っているだけでこれとは……)

 

 練習開始からしばらくが過ぎて。 

 

 額から滝のように溢れ出る汗を拭う。凄まじい猛暑だ。監督者としてテイオーの練習を眺めているだけなのに、まるで汗が止まる気配がない。

 何もしてない俺でさえこうなのだから、激しい運動をしているテイオーの負担はどれほどか、と思うが見ている限りそこまで堪えている様子はない。これがウマ娘と貧弱なヒトの差なのか。

 

「……テイオー、俺は少しそこで休んでいる。お前も一旦休憩しろ、練習を始めてからそろそろ良い時間になるしな」

「トレーナーってばもう疲れちゃったの? あはは、だらしないなあ。ボクはまだまだ大丈夫なのに、ちょっと運動不足じゃない?」

「何とでも言え。とにかく、今から休息の時間だ。終わるまで休むなり遊ぶなり好きにしているといい」

 

 にっしっし、と悪戯な笑みを浮かべるテイオー。

 生意気にも俺をバカにしているようだが、真夏に無理をすることは非常に危険だ。体調判断を誤り、熱中症などで倒れてしまえばそれこそ目も当てられない。

 

 ここでやせ我慢をすることに何の得もない、俺がいなくなっても代わりのトレーナーがその間はテイオーの練習を見るだろう。だが、それは出来得る限り避けたい未来だ。トレーナーとして、俺にはこいつを見る責任がある。これは誰にも譲れない。

 

 無様に倒れてしまう前に、体力を回復しなければならない。俺は日差しよけのビーチパラソルが差してあるレジャーシートに横たわりながら、暫しの休憩を取ることにした。

 

 …………。

 

 ……。

 

 意識が浮上する。

 

 どうやら、眠ってしまっていたらしい。軽く休むだけのつもりだったが自分が思っていたよりも随分と疲れていたようだ。テイオーの言っていたように、運動不足なのかもしれないな。我ながら不甲斐ないことだ。

 

(しかし、なんだこれは……歌か?)

 

 何か声がするなと思ったが誰かが近くで歌を歌っているらしい。ご機嫌な調子の鼻歌が耳に流れてくる。どこかで聞いた覚えのある曲だ。あれは確か、以前にテイオーがカラオケで歌っていた……。

 

 頭の方にも違和感があった。寝る前に敷いてあったレジャーシートの硬い感触ではない、何か温かく柔らかいものを枕にしているような。

 

 ……まさかとは思うが、これは。

 

「起きたんだ、トレーナー。目が覚めて最初にボクの顔が見られるなんて、トレーナーはすっごくラッキーだねっ」

「……何をしてるんだ、お前は」

「何って、膝枕だよ膝枕。なんかトレーナーがぐっすり寝ちゃってたから、優しいボクが親切にも枕になってあげてたんだ」

 

 まだ眠気の残る瞳を開くと、テイオーが俺の顔を覗き込みながら満足げに笑っていた。燦々と照り付ける太陽にも劣らない、眩しい笑顔。

 何がそんなに嬉しいんだ、疑問を抱きながら俺は無言で身体を起こした。

 

 まさかこいつに膝枕などをされることになるとは……。

 なんという気恥ずかしさだ。そもそもなぜこいつは膝枕なんて唐突にやり始めたんだ、意味が分からん。普通にそのまま寝かせておくか、でなければ素直に起こせ。

 

「トレーナーって結構可愛い寝顔なんだね。ふふっ、いつも仏頂面だったから新鮮だったよ」

「……お前、何か俺にいたずらしなかっただろうな」

「へ!? ぼ、ボクがそんなことするわけないじゃん! 自意識過剰だよ!」

「これで鏡を見たとき、顔に落書きでも描いてあったらお前の安全は保障できないぞ」

「……あ。なーんだ、そっちか」

 

 わたわたと慌てていたテイオーの表情が元に戻る。

 何かの勘違いに気付いたかのようだが、そっちも何もないだろ。お前がしそうな悪戯なんて、顔に落書きをするとか髪の毛を変に弄るとかその程度しかない。

 

「ところでさ、トレーナーも結構疲れてるみたいだし今日の練習はこれで終わりにしない?」

「この程度なら別に問題はない。そもそもこのために休息を取ったんだ、これで終わりにしたら何の意味もないだろう」

「でもね、トレーナーに無理して倒れられちゃったらボクだって困るし……」

 

 妙に抵抗して練習を切り上げようとするテイオー。

 俺の体調を心配する気持ちも確かにあるのだろうが、この感じはそれだけではない。付き合いも長くなってきたからわかるが、これは練習を終わらせることで何かを行うのが目的だろう。

 

「……で、お前は練習を終わらせて何がしたいんだ? 何処か遊びにでも行きたいのか?」

「あはは、バレちゃった? 流石ボクのトレーナーだねっ! 近くで夕方から夏祭りがあるらしくってさ、ボクもちょっと行ってみたいなー、なんて」

「そういうことなら別に構わないがあまり遅くなるなよ、俺は部屋で休んでるから」

「なに他人事みたいな対応してるのさっ! トレーナーも一緒に行くに決まってるじゃん!」

 

 むしろなんで俺が一緒に行くのが当たり前なんだ。何度か付き合ってしまったから本当に今更だが、トレーナーと担当ウマ娘が私生活でまで一緒にいるのはおかしいだろ。

 

 練習自体は意外と真面目に行っているので、気分転換に遊びに出かけることは構わない。

 だが気の合う友人とでも行けばいいと毎回断っているのに、こいつはいつもしつこく食い下がってくる。俺と行ったって楽しいことなど一つもないというのに、物好きな奴だ。

 

 ……子犬のように唸りながら抗議をするテイオーの姿に、今回もまたこちらが折れることになりそうだなと覚悟した。

 

 

 

 結局来ることになってしまった、夏祭りが行われている場所をテイオーと歩く。

 急な話だし特に意気込みなどもないため、両者ともに浴衣ではなく普段着だ。

 

 辺りには様々な屋台が立ち並び、祭りの雰囲気に酔った人々の喧噪が騒々しく耳に届く。日も沈んできているが、この興奮はこれからもしばらく続くだろう、祭りはまだ始まったばかりだ。

 

「ねえねえ、まずは何する? 射的とかいいよね、ボクあんまりやったことないんだ」

「意外だな、お前は祭りに毎年来てるだろうし手慣れてそうなもんだが」

 

 俺の言葉にテイオーは曖昧に笑った。

  

 そういやこいつ旧家の令嬢だったな、思っていたよりも遊び慣れてはいないらしい。旧家の令嬢、つまり簡単に言えば良い所のお嬢様だ。

 どう見てもその辺の悪戯好きな子供にしか見えないため、俺も初めて知った時は驚いた。しかし、トウカイテイオーが実はお嬢様であるのは確かな事実である。

 

 言われてみれば気品が……いや、ないな。だが、何不自由なく暮らして親の愛情をたっぷりと注がれて育ってきたのは随所で感じていた。そうでなければこのような性格には育たないだろう、良くも悪くもテイオーは純粋で天真爛漫だ。

 

「じゃあ今日は俺がエスコートしてやろうか。これでもお前よりは長く生きてるんだ、祭りくらいなら何度も来てる。ではお手をどうぞ、お嬢様」

「むっ、何それ。格好つけてるみたいだけど全然似合ってないよ。普通でいいから普通で」

「おいおい、ずいぶん手厳しいな」

 

 ふざけて手を差し出したのだが、あまりにも素っ気ない返事に苦笑する。

 とはいえ、その手をきちんと取っている辺り言葉ほど辛辣なわけではなさそうだ。

 

 まあ、この人混みの中ではぐれたらなかなかの一大事になってしまうからな。

 

 それから俺たちは、先に挙がったように射的を行ってみたり食べ物屋の屋台をいくつも巡っていった。

 

 ふとテイオーが不意に立ち止まる。その視線の先には金魚すくいの屋台があった。

 

「おい、寮では基本生き物を飼うのは禁止されてるんだ。それはやめておけ」

「ええっと、ボクが飼いたいとかじゃなくてさ……」

 

 テイオーは何かを思案するようにしてから、俺の方をちらりと見る。

 そして、意を決するように言った。

 

「……あのね。もし、キミがペットを飼ってたとして、その子が病気になっちゃったらどうするの?」

「そりゃ当然治すだろ。むしろそれ以外に何があるんだ」

「でも、治らないかもしれないよ? それに、すごいお金が掛かって他の子を代わりに買った方が早いかもしれないし」

「くどいな。そんなことは関係ない。一度面倒を見ると決めた以上、どうなろうと最期まで見捨てはしない。それが責任ってもんだろ」

 

 テイオーがいやに真剣な顔で質問してくるため、俺もいつものように茶化すのはやめて真面目に答えた。

 しかし何が知りたいのかはわからんが、仮定の話にしてはやけに食い付いてくるな。

 

 病気になったから捨てる、飽きたから捨てる、他の奴の方が魅力的に見えてきたから捨てる。

 そんなことでどうする。自分の勝手な都合で命を預かっているんだ、せめて最期まできちんと責任を取らなければならない。

 

 他人が何をどうしようと別に構わないが、俺だけはそうしなければ許されない。

 それこそが、今の俺を支えている唯一の――

 

 いや、違う。そんなことはどうでもいい。いつまでもくだらないことに気を配っている暇などない。

 

「……トレーナーのペットになる子はきっと幸せだね! ボクも鼻が高いよ」

「どうだろうな、そんなことはそいつに聞いてみないとわからん。というかなんでお前が嬉しそうなんだよ」

「えへへーっ、やっぱりボクの見る目は間違ってなかったなーって思ってさ!」

 

 テイオーがだらしなく頬を緩ませながら、俺に強く身を寄せてくる。

 どうやら、俺の回答はこいつにとって非常に満足のいくものだったらしい。

 

 確かに今のは自分でも模範回答のように思えてしまう、行儀の良い答えだ。

 だが、別に俺はペットへの優しさからそう答えたわけじゃない。単なるこだわりの問題だ。俺は善人などではないのだから。

 

 せいぜい勝手に勘違いしておけばいい。俺の本質は善人とはかけ離れているが、良い人だと思われることに不都合はない。

 

 その後も二人で祭りを楽しんでいると、轟音とともに――空に花火が舞い散った。

 次々と打ち上げられる、色とりどりの花火が爆発音とともに夜の空を鮮やかに彩る。

 

 百花繚乱とはまさにこの事だ。夏祭りの最後を締めくくるに相応しい、豪華絢爛な催し物。

 

「……綺麗だね、トレーナー」

「そうだな、これを見るためだけでもここに来た甲斐はあった」

 

 感動しているのか、テイオーはいつもと違い物静かになっていた。

 薄暗闇の中、花火に照らされた横顔がいつもよりも大人びて見える。今ならば、こいつがお嬢様であると言われても違和感はないだろう。

 

「……ボク、また来年もこうやって花火が見たいな。――キミと、一緒に」

 

 テイオーがぽつりと言った。万感の想いが込められたような呟きだった。

 こいつは今何を感じているのだろう。どう思って先程の言葉を言ったのだろう、少しだけ気に掛かる。

 

「わかった、俺が忘れてなきゃまた付き合ってやってもいい。ま、お前が良い子にしていたらの話だが」

「うん――約束だよっ!」

 

 満面の笑みでテイオーが微笑む。

 同時に、一際大きな花火が勢いよく夜空に爆ぜる。まるで、何かを祝福するかのようだった。

 

 夏が終わればいよいよメイクデビューの時も近い。

 このように呑気に遊んでいる時間など、以前の俺であれば良い顔はしなかっただろう。

 

(だが、悪くない――悪くないじゃないか)

 

 このときばかりは、素直にそう思った。



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第八話

 ついにメイクデビューの日がやってきた。

 

 中京芝2000メートル、天候晴れ、バ場状態は良好。走る条件としては申し分がない、これならば問題なく練習通りの結果を出せるだろう。

 

 レースが目前に迫り、控え室で待機しているテイオーに向かって俺は軽く声を掛ける。

 

「いよいよこれからお前のデビュー戦が始まるわけだが、調子はどうだ?」

「もう絶好調! 早く走りたくてうずうずしてるくらいだよっ」

「そいつは結構。ま、お前は緊張なんてするタマじゃないからな」

 

 宣言通り、テイオーからは闘志が漲っているのが感じられた。初めての公式レースなので少しは緊張しているかもしれないと思ったが、杞憂だったようだ。

 トウカイテイオーというウマ娘は人に注目されるのが大好きな目立ちたがり屋なので、むしろ人が集まるほどやる気が溢れるのだろう。

 

「ねえ、ところでレースの作戦とかは何かないの? レース場の説明は聞いたけどさ、他には何も言われてないし」

「作戦か……そんなものはない、今日は好きに走れ」

「ええっ!? 何その適当な答え! いつもびっくりするくらい生真面目なボクのトレーナーらしくないよ!」

「……おい、お前は普段どういう目で俺を見てるんだ」

 

 わざとらしいくらい大袈裟な反応をするテイオーに、俺は抗議を込めて視線を鋭くした。別に俺は生真面目でも何でもない、逆にこいつが適当すぎるだけだ。 

 

「そもそも作戦なんて小賢しいものはお前には必要ない、少なくとも今はな。ただ普通に走ればお前なら勝てる」

「トレーナー……うん、そうだね。ボクは、いや、ボクたちは最強だからね」

 

 テイオーはしっかりと俺の目を見つめてから力強く頷いた。 

 

 俺はトウカイテイオーというウマ娘を信頼している。この娘ならば俺の期待を裏切らない、そう信じているからこそ余計なことは言わなかった。

 そう、余計なことだ。このレースを迎えるに当たって、対戦相手の情報収集は当然欠かさず行ってきたがその上でそう言い切れる。

 

 ――テイオーならば、間違いなく勝てる。

 

 絶対はないとされているレースで絶対の勝利を見せてくれる、俺はそう確信していた。油断も慢心もしていない、ただ彼我の戦力差を冷静に分析すれば自ずとそのような結論になる。

 

 ここに至るまで、テイオーには基礎的なトレーニングを中心にやらせてきた。早くデビューしたところでジュニア級の相手などまだ問題にはならないだろうし、長期のレースに耐えうる身体作りをしていきたかったからだ。

 

 テイオーは才気に溢れるウマ娘だが、体格は平均的なものよりも小柄で華奢な部類に入る。まだ身体も出来上がっていない成長期でもあるので、まずはじっくりとフィジカル面を整えた。

 

 彼女は全身がバネであるかのような優れた柔軟性を持っているため、怪我をする可能性は低いだろう。それでも、ウマ娘はガラスの脚と形容されるほどに脚が脆い種族だ。念には念を入れるに越したことはない。 

 

 だが、もう準備は整った。これならば――

 

「あれ? トレーナー、もしかして笑ってるの……?」

「……何?」

「今までずっと一緒にいたけど、ボク、トレーナーがそんな風に笑ってるの初めて見たかも……」

 

 テイオーがまるで信じられないものを見たかのような、驚愕の色を浮かべた顔をした。

 

 失礼な奴だな、俺は常に笑っていないわけじゃないし笑うことが出来ないわけでもない。感情のない機械でもあるまいし、俺だって何か楽しいことや嬉しいことがあれば素直に笑うさ。

 

(だが、そうか……。笑っていたのか、俺は)

 

 自分の表情が笑みを浮かべていたことに、指摘されるまで気付かなかった。だがよく考えればそれも納得しかない。楽しくて――嬉しいと思ってるんだ、俺は。

 

 何か月も手塩にかけて育てたウマ娘の晴れ舞台なんだ、そりゃ楽しいに決まっているだろう。楽しみで楽しみで仕方がない、早く皆に披露してやりたい。俺の愛バはこんなに強くて速いのだと、見せびらかしてやりたいんだ。

 

 まるで自分の宝物を友人に自慢する子供のような心境。我ながらその幼稚さに呆れてしまうが、気分がいつになく高揚しているのは否定できない。

 

「はは、そうだな。初めてのレースにどうやら俺も興奮してるらしい」

「いつもと違ってなんだか子供みたいだね。ふふっ、なんかすっごい面白いものを見ちゃったよ」

 

 俺の笑みにつられてテイオーも呆れが混じったような微笑みを浮かべる。これからレースが始まるというのに、緊張感の欠片もない緩み切った雰囲気。

 だがこれでいい、緊迫で張りつめた空気など所詮俺たちには似合わないのだから。

 

 だから俺はいつものように軽く言葉を投げかける。

 

「――ここからだ、ここから俺たちのレースが始まる。テイオー、お前の強さを俺たちに見せてくれ」

「うん、ちゃんと見ててね――トレーナー。すぐにボクと契約出来て良かったって思わせてあげるから!」

 

 そして、後に【帝王】と称されることになるウマ娘の進撃が始まった。

 

 

 

 このメイクデビュー戦はフルゲート9人で行われる。

 

 体操服に身を包み、5番のゼッケンを付けたテイオーがスタートの合図を今か今かと待ち構えていた。5枠5番、中枠で特に有利でも不利でもないちょうど真ん中に位置している。

 

 テイオーの脚質は先行。スタートから常に先頭を走る逃げウマ娘の直後に位置取り、第4コーナー付近から一気に抜け出して勝利を狙っていく戦法だ。

 

 先行のウマ娘には多くの素質が求められる。レースの要所で反応よく前方へ進出する勝負勘、差しや追い込みといった後ろの脚質からの追撃を凌げる脚力。

 

 当然スタートダッシュも上手くなくては前目につけることは出来ないし、バ群を怖がらない闘争心の高さも必要となってくる。だが、それらを充分にこなせる先行ウマ娘は強い。

 

 集団の前方に位置するため、他のどの脚質と比べても競争中の不利を受けにくいからだ。逃げウマ娘を常に捉えきれる位置にいることで、後ろの脚質と違ってスパートが間に合わないといった危険性も少ない。

 

 思わぬ事故が少なく、実力が反映されやすい脚質だ。だから強い先行ウマ娘から勝利をもぎ取ることは至難の業となる。順当に走れば順当に勝つ、それが一流の先行なのだから。

 

 それでは、それを踏まえた上でトウカイテイオーがどのような先行ウマ娘なのかというと――わざわざ語るまでもないだろう。

 

 ……ゲートが開いた。ウマ娘たちが一斉にスタートする。

 

 テイオーのスタートダッシュは上々だ、早々にバ群を抜け出して先頭集団に位置している。むしろそうでなければ困る。先行とはスタートも大事なのだ、もちろんその練習も欠かさず行ってきた。

 

 それからは先頭に陣取る逃げウマ娘のすぐ後ろ、ひたすら3番手をキープしながらテイオーは走り続けている。理想的な位置取りだ、レース自体もややスローペースで進んでいるために脚も残せている。

 

 一般的に、レースの展開がスローペースであればあるほど前目の脚質が有利であるとされている。展開が遅ければ必然的にウマ娘たちが脚を溜めやすく、前目のウマ娘が後続に捲られにくくなるためだ。

 

 差しや追い込みがラストスパートをかけようにも、逃げや先行も充分な末脚を発揮してしまうために今一歩届かなくなる。逆にハイペースであれば後ろの脚質が有利と言われる。とはいえ、これもケースバイケースなのでいつでも当てはまるわけではないのだが。

 

 いずれにせよ、先行としては理想的なレース展開だ。遠目なことに加えて高速で走っているため、細かい表情までは読み取れない。けれど、テイオーが今どのような顔つきでいるのかは想像がついた。

 

 ――あいつはきっと、勝気な笑みを浮かべている。

 

 脚は充分に残っている。第4コーナーからなどとは言わず、もっと早くてもお前らなんてすぐに置き去りにできる。お前たちでは自分の相手になっていないのだと、その纏う雰囲気が雄弁にそう告げていた。

 

 実際にはそこまで傲慢なことは思っていないだろうし、口にすることもないだろう。だがトウカイテイオーというウマ娘は、普段の無邪気な様子からは想像もつかないような威圧感を放つときがある。 

 

 結局のところ、彼女の本質は強者のそれなのだ。生まれついての強者であるがゆえに、その振る舞いがときに不遜であるかのように他者に映ってしまう。

 

 強すぎるがゆえに、まだ弱いということがどういうことなのかを理解できてはいない。何をやらせても上手く出来てしまう挫折を知らないエリート、それがトウカイテイオーだ。

 

 おそらく、これから先でどうしようもない苦難を味わったとき。そのときになってようやく彼女は弱者の気持ちを知るだろう。元々が優しい性格なんだ、それでわからないほど愚鈍ではない。

 

 だが、出来ればそんな機会は先延ばしにしたかった。まだ、あの笑顔を曇らせたくはないんだ。

 

 せめて――俺たちが夢を叶えるそのときまでは。甘いだろうが、そう思う。

 

 ……そしてレースは緩慢なペースを保ったまま、序盤からずっと変わらない集団の流れを維持して終盤の第4コーナーに入った。

 

 ここで待ってましたと言わんばかりに一気にテイオーが動く。

 

 おそらく『見ててねカイチョ―! いっくよー!』とでも思っているのだろう。本当にシンボリルドルフが今見ているのかは知らないが、公式戦は記録に残るのでまあどのみちいずれは見るだろう。

 

 テイオーは勢いよく、それでいてキレのある走りで上手くコーナーを曲がり、そのまま二番手につけていたウマ娘を至極あっさりとかわした。そして迎える最終直線。

 

 そこから――トウカイテイオーの真骨頂が発揮される。

 

 最後のコーナーを終え、体勢を整えたのも束の間。テイオーは逃げる先頭のウマ娘を見据えてから、一度姿勢を低くした。

 

 その身体が深く沈み込み、脚を大きく溜めてから――空気を突き破るような、爆発的な加速を炸裂させる。

 

 そう、まさに爆発だ。空気が激しく振動する音が聞こえてきそうなほど、暴力的なラストスパート。桁外れの瞬発力で一気にトップスピードまで加速、すぐさま慌てふためく先頭を抜き去っていく。

 

 まるで獲物を捉えて勢いよく飛びかかった肉食獣のような、あるいはギアを上げたスーパーカーのようなスイッチの切り替え。

 

 その走行のストライドは大きく、力強くターフを蹴りつける。トップをひた走る独走状態になっても尚、テイオーの脚色は衰えない。

 

 この暴威を可能にしているのが選抜レースの後、見学者たちによっていつの間にか名付けられたもの――テイオーステップ。差しや追い込みにも負けていない、彼女の持つ最終直線での最大の武器だ。

 

 テイオーステップ。その華麗な脚さばきはウマ込みの中であっても容易に切り抜け、ラストスパートでの爆発的な末脚を可能にさせる。異様とも言えるほどの関節の柔らかさを誇るテイオーだからこそ可能な離れ業。

 

 俺の確認した限りでは――テイオーの得意な中距離のジュニア級で、このテイオーステップを破れるウマ娘はまだ存在しない。

 

 周りを多くのウマ娘で囲い込もうとしてもするりと抜けられ無駄に終わり。先行であるがゆえにラストスパートでは有利な距離で始まるにも関わらず、その末脚は強烈。

 

 これでは、経験の足りないジュニア級ではどうしようもないのは仕方のないことだ。だが、この理不尽さこそが俺があのとき欲しかったもの――トウカイテイオーというウマ娘だ。

 

 ……そして、レースはただ一人の圧倒的な勝利者を残して終わりを告げる。

 

『勝ったのは5番、トウカイテイオー! 強い、強すぎる! これは完璧な勝利です、他の追随をまるで許さなかったぞ!』

 

 実況の興奮を隠せない言葉がレース場に響き渡り、観客たちも1着をもぎ取ったウマ娘のその強さに大きな歓声を上げる。

 このメイクデビュー戦はこれから行われる重賞レースの言わば前座なのだが、次世代のスターを予感させるウマ娘の登場にそれを感じさせないほど盛り上がっていた。

 

 レース結果は2着とは8バ身差の圧勝。しかも走り終えて観客席に手を振るテイオーの様子からは疲れがまるで見えない。つまり、それはまだまだ余力を残しているということを意味する。

 

 だが、その結果を俺以上に深く噛み締めているのは、テイオーと直接対決したウマ娘たちの方だろう。

 

 トウカイテイオーという優駿。そのあまりにも隔絶した才能と能力を目の当たりにして。彼女たちは嫉妬と諦観、羨望が入り混じったような表情を浮かべていた。

 

 レースでの勝者は常に一人。2着だろうが最下位だろうが等しく敗者だ。ならば勝者となるには、こんな化け物を倒さなければならないのかという絶望。

  

 才能の差に打ちひしがれてしまっているのがよくわかる。もう一度走れば今度こそ勝てる、そのような甘い考えを完全に切り捨てるほどの圧倒的な暴力。

 

 メイクデビューしたこのウマ娘たちは決して弱者などではない。名門である中央のトレセン学園に入学し、自身のトレーナーを見つけることも出来たのだから、ウマ娘全体で言えば紛れもない強者だろう。

 

 だが、上には上がいる。そんな強者であっても赤子扱いするほどの天才がここにいた――ただ、それだけの話だ。

 

 これが現実なんだ。どれだけ夢を掲げようとも、結局は開きすぎた才能の差は覆せない。努力でなんとかできる範囲など容易に超えている。そもそも、天才であっても努力は変わらず行っているのだから。

 

 わかってはいるがあまり長く見ていたい光景ではなく、俺は彼女たちから目を逸らした。変えた視線の先では、栄光を掴んだ勝利者が対照的に光り輝いていた。

 

「みんなありがとーっ! 無敗の三冠ウマ娘になるボクのこと、これからも応援よろしくねーっ!」

 

 テイオーは輝きに満ちた笑みを浮かべながら、未だに興奮冷めやらぬ様子の観客席に向かってアピールしていた。

 

 大きく掲げられたその右手は、数字の3を表している。この宣言通り、きっと夢を叶えて三冠ウマ娘になってみせるという意気込みの表れだろう。

 

 現実を思い知っている周囲のウマ娘に気付いている様子はなく、ただ前だけを見つめているその姿。ほんの少しだけ、思う所はあったがすぐに飲み込んだ。

 

 ……俺はトウカイテイオーのトレーナーなんだ。愛バが素晴らしい勝利を収めた、ならそれ以外の事実はどうでもいいことだろう。

 

「トレーナートレーナー! あのね、見ててくれた? ボク、ちゃんと勝ったよ――大勝利!」

 

 アピールを終えたテイオーが、観客席の最前列にいる俺に向かい嬉しそうに駆け寄ってきた。主人が帰ってきたのを察して飛びついてくる犬のようだな、と失礼ながら感じてしまう。

 

 褒めて褒めて、と言わんばかりに尻尾を振っているので尚更そう思ってしまう。ウマ娘が受け継ぐという、ウマソウルとは異世界における犬の魂のことなのだろうか。

 

「トレーナー、何ぼさっとしてるのさ! キミの愛バが勝ったんだから、言うべき言葉があるでしょ! ほらほら、早く早くーっ!」

「わかったわかった、あんまり急かすな。……初勝利おめでとう、流石俺の選んだウマ娘だな」

「えへへーっ、これからもボクはいっぱい勝っちゃうから、たくさん褒め言葉を用意しておいてね!」

 

 待ちきれないとばかりにこちらの賞賛を要求してきたので、苦笑いしながらテイオーを褒めてついでにその頭を撫でる。

 子供とはいえ家族でもない女性を撫でるのはあまりよろしくないのだが、背も低いし犬みたいだしなんとなく撫でる癖がついてしまっていた。

 

 まあ嫌がられたらやめればいいか、その辺の機微については割と自信がある。トレーナーという職業上、観察眼は人並み以上にきちんと養っているつもりだ。

 

「この後ライブだね、楽しみだなーっ。さっきのレースみたいに、ボクがセンターになって一番目立てるんだからきっと最高だよねっ!」

 

 レースの勝者から順にセンターに近い位置で迎える、勝者のためのパフォーマンス――ウイニングライブ。

 

 初めてにして堂々のセンターが決まり、期待に胸を膨らませているテイオーの姿。出来れば、この笑顔を失いたくはないと改めて感じた。



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閑話「変幻自在の恋愛相談」

時系列は第三話の前後となります。内容を忘れている方は、事前に軽く読み返すことをおすすめします。


「ボクがあんなにアピールしてるのに、あのヒトってほんと見る目ないよ! 担当ウマ娘が欲しいならまずこのボクにお願いするべきだよね! マヤノもそう思わない!?」

 

 新入生のウマ娘たちがトレセン学園に入学してから、一か月近くが経ったある日の晩。学園の敷地内にある学生寮のうちの一つ――栗東寮。その一室で一人のウマ娘が荒れていた。

 

 そのウマ娘――トウカイテイオーは、トレードマークである鹿毛のポニーテールを揺らしながら、自身と共に暮らしているルームメイトへと不満を訴える。

 

 トレセン学園の学生寮は基本二人で一部屋だ。よって、マヤノと呼ばれたウマ娘――マヤノトップガンがこの部屋で一緒に過ごしている相方となる。

 

「テイオーちゃん、またその話してるぅ。マヤもう飽きちゃったなあ……」

 

 マヤノトップガンが目を擦りながら眠そうに返事をする。彼女の所々が外にハネた橙色の長髪も、本人の意思を表すようにうつらうつらと揺れている。

 

 天真爛漫、元気溌剌で甘えん坊なのがマヤノトップガンというウマ娘なのだが、彼女はまだ精神・肉体ともに子供であるため非常に多くの睡眠を必要としていた。

 

 早寝遅起きが基本の彼女にとって、夜も更けてきたこの時間を耐えることは中々に重労働である。加えて飽き性でもあった彼女だが、その優しさから健気に友人の愚痴に付き合ってあげていた。

 

「だって……あのヒトがどうしても、って言うならボクだって考えてあげてもいいのにさー! いつもいつも他の子のことばっか見ててつまんないよ! ボクが一番すごくて強いウマ娘なのに!」 

「でもでも、その新人ちゃんも誰かスカウトしなきゃなんだからしょうがないんじゃない?」

「だからそれならボクをスカウトすればいいんだよ! 何度もそう言ってるじゃん!」

「あわわ、テイオーちゃん、マヤに当たらないでよぉー……」

 

 怒気を帯びた返答にマヤノトップガンはたじろいだ。『マヤ、眠いからもう早く寝たいのにな……』と思いながらもルームメイトの怒りの矛先を逸らすため、話を変える。

 

「ところでテイオーちゃん、その新人ちゃんにはどういうアピールしてるの?」

 

 マヤノトップガンが純粋に今まで気になっていたことを質問する。この友人は普段どういうことをあのトレーナーに行っているのだろうか。

 

 話題に上がっているその新人トレーナーとは何度か話したことがある。物静かで落ち着いた大人の男性だったが、同時に何処か近寄りにくい雰囲気も感じていた。

 

(テイオーちゃんには悪いけど、マヤはもっと優しそうなヒトがいいかなぁ)

 

 口に出したらトウカイテイオーが怒るのが目に見えているため、余計なことは言わない。だが、マヤノトップガンの好みとは若干ズレている男性である。

 

 彼女の見る限り、その新人トレーナーは良い意味でも悪い意味でもグラウンドで注目を集めていた。

 

 まず端正な顔立ち、冷静沈着な態度が思春期のウマ娘たちの興味を惹き。次に練習を眺める、その真剣な眼差しが彼女たちをそわそわさせる。

 

 トレセン学園に入学しているウマ娘は、日本各地から揃えられたエリートである。しかし一人の女生徒であることに変わりはないため、基本的に格好良い男性に弱かった。

 加えて、トレーナーというウマ娘の本能を満たしてくれる相手となれば尚のことだ。

 

 自分をスカウトしてくれないかな、とその新人をチラチラ覗き見るウマ娘は多かったのだが。期待に反して彼は殆どスカウトすることなく、一日をほぼ見学だけで終わらせていた。

 

 多くのウマ娘たちが、『この人いつスカウトしてるんだろう』と疑問に思いながらも。その他者を寄せ付けない空気によって、上手く話しかけることも出来ないまま時は過ぎていく。

 

 彼本人としてはスカウトする相手を厳選しすぎたため、結果的にそうなってしまっただけなのだが。それを知る由もない周囲からは一種の名物のように扱われていた。

 

 しかし最近では、期待の新星トウカイテイオーとよく絡んでいるのを目撃されるため、ついに契約が決まってしまったのかと大勢の少女が嘆くこととなった。

 

 まあその当の本人は――上手くいかない現実の前に、買い置きしてあるはちみつドリンクをやけ飲みしている最中なのだが。

 

「ええっと……ボクがどれだけ強くて速くて頭が良いかってことを話したりとか、後は目の前で一生懸命走ってみたり……」

「ふーん、そっか。それで後は?」

「後って言われても、それだけだけど」

「……え?」

 

 ――それだけ? それだけなの?

 

 マヤノトップガンは絶句した。アピールというのだからもっと多彩な工夫を凝らしているのかと思ったが、それではただ自分の自慢話をして普通に走っているだけではないか。

 

 そもそもその程度でスカウトされるようなら、もうとっくにスカウトされているだろう。

 トウカイテイオーは誰がどう見ても天才であるため、わざわざそっち方面のアピールを必要以上に行うことに意味があるようには思えなかった。

 

「はぁ、テイオーちゃんはダメダメだねー。そんなつまんないアピールじゃ大人のオンナにはなれないよ?」

「なんだよもーっ! ボクだって精一杯頑張ってるんだよ! でもどうすればいいのかわかんないんだからしょうがないじゃん!」

 

 ルームメイトのこれ見よがしな溜め息にトウカイテイオーは逆ギレした。

 

 自分でもみっともないことだとは理解できていたが、言わずにはいられなかった。今まで何もかも思い通りに出来てきた彼女であったが、生まれて初めて壁にぶち当たっている。

 

 何もせずともいつでも相手の方からやってきたため、端的に言えば――トウカイテイオーは、自分を売り込むのがとても下手くそであった。

 

「ねえテイオーちゃん。だったら、ちゃんとそのヒトに自分の気持ちを伝えないの? 自分のトレーナーになってくださいって。言わなきゃ気持ちは伝わらないよ?」

「ボクだってわかってるんだよ、そんなこと。でもね、もし断られたらって思うと……」

 

 わかっている、こんな遠回しなやり方では伝わらないことくらい。けれど、もし正直に自分の気持ちを伝えたとして、それでも断られてしまったらどうすればいいのだろう。

 

 相手にその気があるのなら、あの程度の拙いアピールでも少しは効果があるだろうし、何も言われていないということはつまり――

 

 想像が悪い方へ悪い方へ向かってしまい、トウカイテイオーは陰鬱な気分になった。いつもはもっと積極的に攻めるはずの自分なのに、なんでこんなにうじうじしてるのだろう。

 

 マヤノトップガンはそんな風に落ち込んでいる友人に向かって、慰めるように優しく声を掛ける。

 

「うん、自分の気持ちを相手に伝えるのは怖いよね。だけどテイオーちゃん――レースも恋も、なんでも早い者勝ちなんだよ! そうやっていつまでも悩んでて、そのヒトが他の女の子に取られちゃってもいいの?」

「ダメだよ! あのヒトはボクのトレーナーになるんだから、他の子になんて絶対に渡さない! 渡すもんか!」

 

 気落ちしていた先程とは一転して、トウカイテイオーの感情が激しく昂る。

 あのヒトが自分以外のウマ娘を担当する、それを想像するだけで嫉妬心がマグマのように煮えたぎる。このボクが目を付けていたのに、そんなこと――

 

 許さない、認めない。あのヒトは――ボクのものなんだから。

 

 トウカイテイオーのその情念の深さまでは知らないマヤノトップガンだったが、やる気を出した様子を見て満足げに微笑んだ。

 

「うんうん。マヤも応援するから、勇気出して頑張ろーね! 名付けて、『マヤちんの大人な恋愛相談』! テイクオーフ!!」

 

 こうして。件の新人トレーナーがこの会話を聞いていたら、盛大に顔を顰めるであろう会議が夜遅くまで行われていった。

 

 

 

 ――その翌日。

 

「たっだいまー!」

「ふみゅう……おふぁえりなしゃい、テイオーちゃん……」

 

 トウカイテイオーがとても機嫌が良さそうに、元気いっぱいに寮の自室へと帰ってきた。

 

 既に半分夢の世界へと旅立ち掛けていたマヤノトップガンは、ベッドで小さなクマのぬいぐるみを抱きしめながら挨拶を返す。

 もう夜は更けており、門限ギリギリの時間帯であったため、彼女が睡魔に敗北するのも時間の問題であった。

 

 そんな相方の様子を知ってか知らずか、トウカイテイオーは興奮が隠しきれないといった様子で話し始める。

 

「マヤノマヤノ、やったよ! あのヒトがボクのトレーナーになってくれたんだ!」

「えっ!? ホントなの、テイオーちゃん! やったね、マヤたちが昨日遅くまで頑張ってたおかげかもっ!」

「あはは! まあ、ボクに掛かればこんなこと楽勝だからねっ!」

 

 嬉しくて嬉しくて堪らないといった仕草で、ポニーテールと尻尾を大きく跳ねさせるトウカイテイオー。

 

 そんな彼女の様子に、当事者ではないマヤノトップガンでさえも嬉しくなってしまう。ついさっきまで感じていた眠気が一気に吹き飛ぶほどの朗報だ。

 

 トウカイテイオーが頑張って気持ちを伝えた結果なのだろう。やっぱりキラキラな想いはきちんと相手に届くんだな、と純粋無垢な彼女は素直に感銘を受けていた。

 

 実際には直前まで意気込んでいたトウカイテイオーだったが、そのトレーナーの顔を見た瞬間。すごく嬉しくなっちゃって夢中で話し込んでいた結果、いつの間にか話の流れでスカウトされていただけなのだが。

 

 その事実をマヤノトップガンが知ることは終ぞなかった。だが、終わり良ければ全て良し、当人たちが幸せならそれで問題はない。

 

「あのねあのね! それにぃー、ボクのことが欲しい、必要だって言ってくれたんだよ! ねぇマヤノ、これってそういうことだよね!?」

「きゃー! それって愛の告白!? すっごく大人な感じで聞いてるマヤの方もきゅんきゅんしちゃうよ!」

「えへへへへーっ! これでやっとボクもトレーナーのものになれたんだね……」

「テイオーちゃんが大人の階段をダッシュで駆け上がったような顔してる……。いいなあ、早くマヤもそういうロマンチックなこと言われてみたいなあ」

 

 だらしなく緩みきったトウカイテイオーの笑顔を見て、マヤノトップガンは羨ましそうにクマのぬいぐるみを強く抱きしめる。

 

 夜の寮内に少女たちの談笑が響き渡る。女三人寄れば姦しい、とはよく言う言葉だが。それが二人だけであっても充分以上に賑やかで騒がしかった。

 

 その話題のトレーナーがここにいれば。常に浮かべている冷静な表情が一変するほど、二人に対する抗議の言葉が山のようにあっただろうが……。

 残念ながら彼は不在であり、トレーナー寮にある自室で何処かやり遂げたような顔で、疲れた身体を休めようとしていた。

 

 トウカイテイオーはいつまでも幸せを噛み締めている。その姿に、マヤノトップガンは一つの確信を強めた。

 

「テイオーちゃん。そのヒトのこと、とっても好きなんだね」

「ぴぇっ!? ち、違うから! トレーナーがボクのことを好きで好きでしょうがないから、仕方なく付き合ってあげているだけで……」

「――テイオーちゃん?」

「……うん。最初はこの気持ちがなんなのかわからなかったけど。ボク、やっぱりトレーナーのことが――」

 

 トウカイテイオーが恥ずかしそうに顔を伏せながら話す。

 

 最初に会ったときは特になんとも思わなかった。固そうな見た目と違って、意外に話しやすいなという印象を抱いた程度。

 担当トレーナーをまだ決める気にもならず。本格的な練習を始められなかったため、その鬱憤を晴らすには丁度いい相手だったから付き合っただけ。

 

 ――けれど、何度も話しているうちにどんどん深みに嵌まっていった。

 

 ああ、楽しいな。このヒトにもっと自分のことをよく知ってほしい、そしてもっと一緒にいたい――出来るのならば、いつまでも。

 

 こんなに胸が暖まる瞬間が、これまでの人生であっただろうか。憧れのカイチョ―と話している時とも違う、心が満たされていくような充足感。

 

 これが恋だというのなら、今までの自分は確かに子供だった。マヤノトップガンに恋も知らないお子様だと、ずっとバカにされてきたのも納得できる。

 

「ねえテイオーちゃん、そのヒトの何処が好きなの?」

 

 完全に恋する乙女の顔をしているトウカイテイオーを見て、マヤノトップガンは興味津々な様子で訊ねる。

 彼女も年頃の女の子なので、人並み以上に恋愛には興味があった。むしろその手の話題に関しては、学園内でもトップクラスに好んでいる。

 

「一緒にいてとっても楽しいし、よく見たら顔だってボクの好みだし、何よりすごく優しいんだ。ボクのことを真剣に想ってくれてるんだな、っていうのが伝わってくるよ」

「にひひ、テイオーちゃんべた惚れだねぇ。テイオーちゃんの方こそ、大好きだって気持ちがマヤによーく伝わってくるよ?」

「う、うるさいなあ! もういいじゃんかそれは! ……でも、これからレースもあるのに、こんなこと考えてていいのかな……」

 

 トウカイテイオーの声の調子が下がる。彼女は現状に少し罪悪感を覚えていた。

 この学園に入学しているウマ娘は、レースに勝つために日々努力を重ねている。自分だって、カイチョ―に憧れて無敗の三冠ウマ娘という夢を掲げている最中だ。

 

 こんな風に恋愛沙汰に気を取られていていいのだろうか。掲げた夢を叶えるためには、恋愛なんて邪魔なだけだろうし。

 トレーナーも、もし自分の内心を知ったら……あまりにも色ボケしていることに幻滅してしまうかもしれない。

 

 夢と恋の狭間で、うら若き少女は苦悩していた。そんな友人の姿に、マヤノトップガンは喝を入れる。

 

「テイオーちゃん、恋もレースも頑張ればいいだけだよ。好きなヒトのために頑張れば、きっとレースだって勝てるからっ!」

「あっ、そうだよね! 全部頑張ればいいだけじゃん! なんたって、ボクは最強無敵のテイオー様なんだから!」

 

 マヤノトップガンの激励にはっとさせられる。

 

 そうだ、自分は最強無敵なんだ。無敗の三冠ウマ娘になって、トレーナーとの仲をもっと深める。その両方をこなすことくらい出来ないはずがない。

 

 それにマヤノトップガンの言ったように、トレーナーのためにも夢を叶えたいという気持ちは大いにあった。あのヒトを三冠ウマ娘のトレーナーにしてあげたい、自分も夢が叶えられて嬉しいし一石二鳥だろう。

 

 そして、あのヒトとずっと一緒に――

 

「結婚式には絶対呼んでよね、テイオーちゃん! マヤ、友人代表になってキラキラのスピーチしちゃうから!」

「ちょ、気が早すぎるよマヤノ! まだボクとトレーナーは――」

「あーっ、まだってことはやっぱりいつかする気なんだ。すっかり大人のオンナへのテイクオフしちゃって、マヤちょっと寂しいなあ」

「もーっ! あんまりからかわないでよーっ!」

 

 訪れる眠気など気にも留めず。二人の少女が楽しそうにじゃれ合いながら、いつまでも騒ぎ続ける。

 

 ――夢に恋。そして未来を語る少女たちの姿は、いつだって眩しくきらめいていた。

 

 

 

 その後のとある日。つまらないトレーニングをサボっていたマヤノトップガンは、友人がトレーナーと話し込んでいるのを偶然見掛けた。何やらトウカイテイオーが一方的に不満を述べているようだ。

 

「ねえねえ、ボクなんか今日はやる気出ないなーっ! 練習終わったらさ、何かご褒美くれない?」

「……なんだ、いきなりどうした」

「いつも真面目に練習やってるんだからいいでしょ? だからね、頑張ったら頭撫でて。優しくだよ!」

「練習を真面目にやるのは当たり前だ、ふざけたこと言ってないでさっさと走れ」

「ちょっとトレーナー! 担当ウマ娘のコンディションを整えるのも自分の仕事だってよく言ってるじゃん! もっとボクに優しくしてよーっ!」

 

 一見すると喧嘩をしているようにも感じられるが、両者ともに何処か穏やかな様子だった。つまり、これが彼らのいつものやりとりなのだろう。

 

 特にトウカイテイオーなんて、よく知っているはずの自分が目を見張る程がっつり甘えていた。デレデレテイオーだ。

 

(テイオーちゃん、すっごく幸せそう)

 

 どうか、この二人がこのままいつまでも仲睦まじくいられますように――マヤノトップガンは、切にそう願った。



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第九話

『もしもし、トレーナー? あのさ、ボクこれから出掛けるんだけど、やっぱり一緒に行かない?』

 

 メイクデビューから一週間程度が経った休日の朝。

 

 テイオーから電話があったので出てみると、開口一番こんな誘いを受けた。寮にある自室で朝食を摂り、いざ勉学に勤しもうと取り組み始めた矢先の出来事だった。

 

「またそれか、その話は昨日終わっただろ。忙しいから行けないと言ったはずだが、同じことを何度言わせるつもりだ」

『だって……一人じゃつまんないじゃん。ボクってほら、誰かに見られて輝くタイプだし』

「そういう役目はマヤノトップガンにでも頼んでおけ。俺は溜まった書物を読み漁りたいんだ」

『ぶーぶー! そんなのいつだって出来るじゃん! キミにはデビュー戦を勝った愛バを可愛がろうって気持ちはないの!?』

 

 テイオーが電話越しでもわかる程、不満を前面に出して喚き立てる。少女特有のきんきんとした騒ぎ声が耳に障り、俺は携帯を遠ざけた。

 

 飼っている犬にしつこく散歩をねだられているような気分だ。毎度のことながら、何をそんなにムキになるのかと思うくらい聞き分けが悪い。

 

 テイオーとの付き合いも約半年になる。日々接しているおかげか、自分でもなかなか親しくなれたと思う。

 こいつは明るく元気なため、一緒にいて楽しくないと言えば嘘になる。出来れば付き合ってやりたいのが本心だ。

 

 トレーナーと担当ウマ娘がプライベートでも共に過ごすというのは外聞が悪いが、正式に禁止されているわけでもない。というかいくら言っても聞きやしないしな。

 

 とはいえ遊んでばかりもいられない。ウマ娘ならばいい。練習やレースで疲弊した脚を休め、気持ちをリフレッシュさせる意味合いがあるからだ。

 

 だが俺たちトレーナーは話が別だ。古今東西かつ数多の情報を常に取り入れ、的確な判断を下せるように努力する義務がある。

 

 ――情に流されて、判断を見誤ってはならない。

 

 トレーナーの仕事とは、ホストのように担当ウマ娘を接待することではなく。時に非情になってでも、彼女たちの夢を叶えることなのだから。

 

「……で、話はそれだけか? なら忙しいから切るぞ、また明日な」

『えっ!? ちょっと待ってよトレーナー! まだボク言いたいことが――』

 

 返事を最後まで聞かずに電話を切る。こうやって強引にでも終わらせないと、結局最後には付き合わされてしまうからな。

 

 まあ少し心は痛むが仕方のないことだ。どうせ怒っているだろうから、明日機嫌を取ってやればいいだろう。

 

 気持ちを切り替えて勉学を開始する。年が明ければクラシック戦線に加わることになる、時間は有効に使わなければな。

 

 

 

 ――それから数時間後。

 

 いくつかのウマ娘に関する研究論文を読み終え、昼食を終えた俺は凝り固まった身体を軽くほぐした。

 

 長時間机に向かっていたため、ひどく肩が張っている。だが悪くない疲れだ、やはり新たな知識を得ていくのは気分が良い。

 

 なんとはなしにふと携帯を手に取ってみると、着信履歴が数件とメッセージが何通も届いていた。

 

 何回も通知が来ているのは知っていた。まあどうせテイオーだろうと思い気にも留めていなかったが、やはり全てあいつからだった。

 

(……まったく、諦めの悪い奴だ)

 

 苦笑しつつ、メッセージを読むために画面を開く。

 

『トレーナー、ボクこれからゲーセン行くんだ。いつものダンスゲームでまた最高得点更新しちゃうから!』

『服屋に行ったんだけど、店員に勧められて新しい服買っちゃったよ。後でトレーナーにも見せてあげるね!』

『今カラオケで歌の練習してるんだ―! 次のライブのためにもたくさん歌っておかないとね!』

『ねえトレーナー、今すごく調子が良いんだ。少しでいいから聴きに来ない?』

『もう一時間経っちゃったじゃん、早くしないとテイオー様のライブが終わっちゃうよ?』

『トレーナー、どうして返事してくれないの? 今部屋にいるんだよね?』

『……トレーナー、寂しいよ。早く返事してくれないと、ボク、もうダメかも……』

『トレーナー。ボク、ずっと待ってるから……』

 

 ――メッセージは以上だった。

 

「なるほど、な……」

 

 全てを読み終えた俺の口からは、思わずそんな言葉が飛び出していた。何がなるほどなのかは自分でも理解できていない。

 

(……さて、次はこの前買った書物でも読むか)

 

 引退した元トレーナーが出版した、長い現役生活で得たノウハウや心構えを記した著書。今まで読むのを心待ちにしていたものだ。

 

 まだまだ未熟な俺には参考になることばかりのはず、これを読んで今見たことは全て忘れてしまおう。

 

 ……というわけにはいかないだろうな、残念ながら。

 

 現実逃避はこの辺にして、対応を考えなければならない。放っておいたらさらに厄介なことになるのは目に見えている。

 

 しかしテイオーも、あっさりしているように見えて意外に面倒な奴だ。少し仲の良い程度のトレーナーに対してですらこのザマだ。

 

 将来あいつの恋人になる奴は大変だろうな。恋人ともなればこれよりさらに束縛されるだろうし、他の女と仲良くしただけでも嫉妬するかもしれない。

 

 憧れの対象である、シンボリルドルフに向けるような感情の大きさ。それが形を変えて襲い掛かるのだから、さもありなんというものだ。

 

 テイオーの恋人があいつに振り回される姿を見てみたい気もするが、その頃にはもう俺もお役御免になっているだろう。どうせ何年も先の話だろうし。

 

 いずれにせよ、今あいつと向かい合っているのは俺だ。まずはこの状況をどうにかしなければならない。

 

 おそらく言いたくもないことを言う必要があるだろうが、これも仕事だ。やりたくないで済まされることではない。

 

 意を決して、俺はあいつに電話を掛ける。

 

『あっ、トレーナー!? もー遅いよ、何やってたのさ! 勉強は終わったんだよね?』

 

 電話に出たあいつはいつも通りだった。メッセージの文面では落ち込んでるように見えたが、そういうわけでもなさそうだ。

 

「――テイオー、俺は何度も言ったな。忙しいから付き合えないと。なのに、なぜお前はあんなものを送ってくるんだ?」

『え……?』

「あんな文面を何度も送られたら、流石に連絡しないわけにはいかない。お前は俺の邪魔をして何か楽しいのか?」

 

 意図して声を低くしながら言う。けれど、決して荒げはしないように注意を払う。怒っているわけではなく、諭しているだけなのだから。

 

 携帯の向こうから、テイオーの息を呑むような気配がする。普段とは違う雰囲気だと察したのだろう。

 

「お前は俺を好きな時に呼べばついてくる、召使いか何かとでも思っているのかもしれないが。だけどな、悪いが俺だっていつもお前に付き合うことは出来ないんだ」

『ち、違うよ! そんなこと一度も思ってない! ボクはただ、トレーナーと一緒にいたくて――』

「わかってるさ、お前に悪気がないことは。だが、悪気がないからって何をしても許されるわけではない」

 

 こいつの本心は、ただ親しくなった俺と一緒に遊びたいだけ。

 

 そんなことは百も承知だ。あのメッセージにしたって、一向に返信しない俺の気を引くために送っただけだということも。

 

 そこまで理解しているのなら、こんな注意はせずに黙って付き合ってやればいいと他の奴は思うかもしれない。

 

 だが、そうやって全てをなぁなぁで済ませてしまえばこいつはどうなる? 何をしても平気だと勘違いして、どんどん増長していってしまうだろう。

 

 線引きが必要なんだ。やっていいことと悪いことがあるのだと教えてやらなければならない。今回の件は、明らかにやりすぎだった。

 

「お前は少し直情的すぎる。自分の都合をただ押し付けるだけではダメだ。お前と同じように相手にも都合があり、利害がぶつかるときはあるのだから」

『……うん』

「これからは物事を多面的に考えることも覚えていけ。こうしたらどうなるか、相手はどう思うのかも視野に入れるんだ」

『……うん、ごめんなさい』

 

 テイオーが消え入りそうな声で謝る。自分でやっておいてなんだが、こいつのこんな声は聞きたくなかった。

 だが、これは弱さだ。そうやって今まで甘やかしていた俺の心の弱さが、テイオーの判断を誤らせてしまった。

 

 ……彼女のためを思うのなら、時には厳しく接することも必要だったというのに。

 

『あ、あのさ、トレーナー。ボクのこと、嫌いになった……?』

「……バカか、こんなことで嫌うわけないだろ。くだらないことを言うな、次から気をつければいいだけの話だ」

『……うん。ボク、ちゃんと気をつけるから……これからも、一緒にいてね?』

「――」

 

 切実な想いが込められたような言葉だったため、返答に詰まってしまう。

 

 本当に調子が狂う。いつものように生意気な態度ならばやりやすいのだが、こいつのこういう姿はやはり苦手だ。

 

「――なあ。ところでお前は、まだカラオケボックスにいるのか?」

『え? うん、そうだけど……』

 

 先程の願いへの返事代わりに質問を投げ掛けると、テイオーからは呆気に取られたような声が返ってくる。

 何の脈絡もない質問だったから無理もない。だが、俺にとっては重要なことだった。

 

「そうか、そいつは良かった。ちょっとばかり肩が凝ってきたんでな、気晴らしに歌でも聴きたいと思っていたところだ」

『もしかして、今から来てくれるの……?』

「なんだ、イヤなのか? あれだけ何件も送ってきたくせにわからない奴だ」

『全然イヤじゃないよ! でも、トレーナーってホント素直じゃないよね。そんなにボクと一緒にいたいなら、最初からそう言えばいいのにさ!』

 

 途端に声に元気が戻ってきたテイオーに、現金な奴だと内心で笑う。

 

 しかし、結局耐えきれずに甘やかしてしまっている。今回は厳しく諭そうと思っていたのに、最後まで非情に徹することが出来なかった。

 

 俺は中途半端だ。皆のように担当ウマ娘を心から信頼し、真摯に寄り添っていくことも出来ず。そうかといって一線を引いて厳しく管理することも出来ていない。

 

 ――本当に説教が必要なのは、何もかもが半端な俺の方なのかもしれない。

 

『……いつもありがとね、トレーナー』

 

 ぽつりと呟かれた感謝の言葉を聞きながら、そんなことを思った。

 

 

 

「……沖野さん。担当ウマ娘との距離感はどんな感じが望ましいんですかね?」

 

 翌日、テイオーとの練習が終わった後で。

 

 俺は先輩トレーナーである沖野さんを誘って、彼の行きつけであるというバーに来ていた。いかにもな雰囲気の大人の飲み屋だ。

 

 大人のオンナに憧れているマヤノトップガンが見たら、おそらくこの空気だけで酔ってしまうだろう。

 

「あぁ? なんだいきなり。そんなもん、相手によって変わるだろ。親しく接して欲しい娘もいれば、なるべく放っておいて欲しい娘だっているんだからよ」

「いや、そうなんですけど。少し、気になりまして」

 

 沖野さんは俺の質問に怪訝そうな声で答えてから、軽くグラスを傾けてカクテルを口に入れる。

 

 この沖野という男性は、学園でも有名な“チームスピカ”のトレーナーだ。

 

 年齢は聞いていないがおそらく30前後。髪を後ろで一つ結びに束ね、左側頭部を狩り上げた独特な髪形をしている。

 

 普段は棒つきのキャンディをまるで葉巻のように咥えており、飄々として軽薄そうな印象を相手に与える人物だ。

 

 だが、沖野さんも彼が率いるスピカも決して甘く見ていいものではない。

 

 俺は普段会話する中で、彼がウマ娘に対して熱い想いを抱いている優秀なトレーナーであることを知っている。

 

 担当ウマ娘にセクハラまがいのことをして、彼女らに蹴られている姿をよく目撃されるが。あれだって、確かな絆がなければ成し得ない光景だろう。

 

 彼に育てられているチームスピカも逸材揃いだ。

 

 スペシャルウィーク、サイレンススズカ、メジロマックイーンなど。いずれもトウカイテイオーにすら引けを取らない程の優駿が集められている。

 

 沖野さんとは、トレーナー同士の交流会や普段の練習での業務連絡など。様々な機会を通して友好関係を深めた。

 

 学園でしばらく勤務していれば、自ずと他のトレーナーとも接触する機会がある。たまたま縁があったのがこの人だったという話だ。

 

 俺は、沖野さんに前日にあったテイオーとの出来事を軽く話した。

 

「へぇ、なかなか青春してるじゃないの。アオハルポイント高いぜこいつは」

「……何すかそのしょうもない得点は。沖野さん、俺は真面目な話をしているんです」

「いや、だってよ。他になんて言えばいいんだよ。お前さんは別に間違ったこたぁ言ってないしな」

 

 沖野さんが苦笑する。確かに間違ったことを言ったつもりはない。だが、自分が正しいのかどうかは自信がなかった。

 

 俺は本当に上手くやれているのか、もっと他に良い方法があったのではないか。そんな疑念が常に付き纏っている。

 

「お前さんはちっとばかし真面目過ぎるな。そんなに深く考えず、もう少し肩の力を抜いてみろ。心配しなくても、新人にしちゃあ上出来なもんだぜ」

「……新人にしては良く出来てる。だからってそれが手を抜く理由になるんですかね。あいつらにとっては、新人だろうとベテランだろうと関係ないんです」

 

 学園のウマ娘たちにとっては、夢を叶える機会は一度きりだ。まだ未熟な新人だから、この程度でも仕方がない。

 

 そんな言い訳をして歩みを止めたくはなかった。むしろ、新人だからこそ常に試行錯誤して成長しなければならないんだ。

 

 俺の様子を見かねたのか、沖野さんが呆れたように言う。

 

「そりゃそうだけどよ。人間、気を張ってばかりじゃ持たねえぞ? 時には気楽に構えることも必要なのさ」

「そう、ですね……。確かに、少し焦りすぎているのかもしれません」

 

 トレーナーとして担当ウマ娘の夢を叶える。その結果を出すことに囚われすぎて、視野が狭くなっていたのかもしれない。

 

 根拠のない自信を持つことは禁物だが、心に余裕を持つことも大切かもしれないな。俺が揺らいでいたら、担当ウマ娘であるテイオーにも良くないだろう。

 

 話を聞いてもらって気持ちが多少落ち着くのを感じた。悩みを相談するだけでもメンタルケアには良いと聞いたことがあるが、実際その通りだったようだ。

 

「沖野さん、今日はありがとうございました。気持ちが楽になったのを感じます、貴方に相談して正解でした」

「なら良かった。だがまぁ、そんな改まって礼を言う必要はないさ。後輩の悩みを聞いてやるのも先輩の務めってもんだからよ」

 

 沖野さんが手をひらひらと振って快活に笑う。

 

 尊敬すべき先輩であり、競い合うライバルでもあるこの人。いつか、恩返しも兼ねて彼を超えられるように努力していこう。

 

 決意を新たにしていると、沖野さんが神妙な顔になって告げた。

 

「……ただ、一つだけお前さんに忠告することがある。しばらくの間、担当ウマ娘をこれ以上増やすのだけは絶対にやめておいた方がいいぞ。間違いなく面倒なことになる」

「それは、俺がまだ未熟だからですか?」

「いや……それもないわけではないが、もっと他の要因だ。こんなの説明するのも野暮ってもんだし、言ってももう手遅れだろうから理由は深く言えんが。とにかくそうしとけ」

「えぇ……。何ですかそれは、普通に気になるんですが」

 

 一体何の話なんだ、手遅れとか怖いことを言わないで欲しいんだが。これ以上の追及は許さない雰囲気を感じたので、聞き出すことも出来ない。

 

 まぁいい、どのみち担当を増やすほど余裕があるわけではない。精神の安定のためにも、この忠告通りテイオーに専念すればいいだけだ。

 

 その後もしばらく雑談をして。財布の中身が空っぽだった先輩の分まで金を払い、俺たちはバーを後にした。

 

 

 

「あのね。あれから反省してボクもずっと考えてたんだけどさ。これからは、ボクがトレーナーの部屋に行けばいいんじゃないかな?」

「……何?」

 

 沖野さんに悩みを相談して心機一転した次の日。

 

 放課後に練習を始めるためテイオーと合流すると、奴は突然こんなことを言い始めた。

 

「だってほら。そうすればトレーナーも勉強できるし、ボクもトレーナーの傍にいられるし一石二鳥じゃん! 流石ボクだね、すっごく冴えてるよ!」

「……」

「もちろんトレーナーの邪魔するつもりはないよ? それどころか、料理とか掃除も手伝ってあげちゃうし。普段はあんまりやらないけど、ボクって割と何でも出来るからね」

「……」

 

 さも名案であるかのように得意げに語り続けるテイオー。その反面、俺は上手く返す言葉が出なかった。

 なるほど、確かに理屈としては悪くはない。今度はそう来たかという気分だ。だが、感心してばかりもいられない。

 

 このまま話を進められては、休日における俺のプライベートスペースにまでこいつが居座ることになってしまう。

 

(……教えてくれ、沖野さん。これはどうするのが正解なんだ)

 

 せっかく気持ちを入れ替えられたと思ったが。またしても面倒なことになってしまい、俺は堪らず天を仰いだ。



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第十話

 年の瀬も押し迫り、慌ただしさが増してきた12月。

 

 昼食を終えた後。昼休みのトレーナー室に、随分と珍しいお客様が来訪した。

 

「お邪魔するよ、トレーナー君」

 

 挨拶と共にやってきたのはシンボリルドルフ。トレセン学園現生徒会長にして、幾つものGⅠを制覇して七つの冠を戴いている“皇帝”だ。

 

 鹿毛の長髪で、まるで三日月のような色違いの前髪が一房だけ存在する所はテイオーとよく似ている。違うとすればストレートに下ろしているか、ポニーテールにまとめているかの点くらいだろう。

 

 だがこの皇帝様は常に威風堂々としており、静かな佇まいでありながら漲る覇気が抑えきれていないため、感じる印象はテイオーと全くの別物ではあるが。

 

 とはいえ顔の作り自体は類似しているように見受けられる。血縁関係にはないようだが、姉妹と言われても違和感はない程に。

 

「よく来たな、ルドルフ。すぐに茶を淹れるから適当に寛いでいてくれ」

「いや、そのような気遣いは無用だよトレーナー君。私もそう長居するつもりはない」

「悪いがそういうわけにはいかないな。来訪客に茶の一杯も振舞わないんじゃ、俺の品性が疑われるんでね」

 

 遠慮するルドルフを空いた場所に座らせ、俺は茶を淹れるため席を立った。あらかじめこいつが来ることは以前から伝えられていたため、歓待の用意は整っている。

 

 ちなみに長らくルドルフのことをフルネームで呼んでいた俺だが。先日、本人に略称でいいと許可をもらったためにその言葉に甘えさせてもらっている。

 

 いちいち長ったらしい名前で呼ばなくて済むのだからありがたいことだ。面倒だからと言って、親しくもないウマ娘に略称で馴れ馴れしく話しかけるのも問題だしな。

 

「皇帝様に出すには少しばかり貧相なもてなしだがな。すまないがこれで我慢してくれ」

「我慢も何も、押しかけて来たのは私の方だ。どのようなものであろうと、文句を言うような厚顔無恥な振る舞いはしないさ」

 

 淹れ終わった茶を、買い置きしていた茶菓子と共に皇帝に献上する。ルドルフは湯呑みを手に取ると、俺の淹れた茶を上品な仕草で口に含んだ。

 流石に絵になるな、ただ茶を飲んでいるだけなのにその姿からは気品すら感じる。

 

「……濃厚な味わいだ。緑茶特有の苦みや渋みの中にも、まろやかな甘さがある。率直に言えば、とても美味しいよ」

「皇帝様の口に合って何よりだ。わざわざ淹れ方を勉強した甲斐があったってもんだな」

「茶の淹れ方まで学んでいるのか……。粉骨砕身、君たちトレーナーの努力には私も頭が下がるよ」

「別にこんなものを覚えるつもりもなかったんだがな。休日にペットの面倒を見る機会が多くなったんで仕方なくだ」

 

 ルドルフからの言葉に気分を良くする。褒められるために学んだわけではなく、来客をもてなすマナーとして習得した技術に過ぎないが、これほどのウマ娘に賞賛されて悪く思うわけがない。

 

「テイオーにも以前、同じものを振舞ってみたんだが散々だったよ。苦いだの美味しくないだの、淹れ方が悪いだので話にならなかった」

「ふふ、それは災難だったな。彼女は少しばかり甘党だからね、このような飲み物は口に合わなかったんだろう」

「あいつの甘いもの好きは筋金入りだな。しまいにはこの茶にも大量の砂糖を入れてたくらいだ。俺はもう奴に甘いもの以外を出す気がなくなった」

 

 テイオーが休日に俺の部屋に来たいと言い出してから二か月近くが経った。

 

 最初は多くの厄介事が容易く想定されるため、何度懇願されようとあいつを部屋に入れるつもりはなかったのだが。あんまりにもしつこいため俺も根負けしてしまった。

 

 おそらく強く拒絶すれば断ること自体は不可能ではなかっただろうが、そうすることでまたこの前のようにしょうもない事態を引き起こされても困る。

 

 まあ、何事もプラスに考えるべきか。断ることで無駄に騒がれたり落ち込まれたりするよりは、いっそあいつの提案を受け入れた方が余計な労力を使わなくて合理的だ。

 

 そうして、定期的にテイオーが訪れることが決定してしまったため。不本意な形ではあるものの茶の淹れ方くらいは修めておくべきかと学んでみたのだが……。

 

 その結果は先に述べた通り大不評だった。だから一度目で酷評されて以降、俺が奴に出すのは砂糖を多く入れたカフェオレやココアへと変わっている。

 まったく手の込んでいないそちらの方は大絶賛されているのだから、流石の俺でもやりきれない思いが募った。

 

「舌がお子様な奴はこれだから困る。甘いものが好きなのは構わないが、こういう渋い飲み物にも理解を示してもらいたいもんだ」

「彼女にも悪気はないんだ、許してやってくれ。逆にそう言う君だって甘いものは苦手だそうじゃないか。千差万別、誰しも好き嫌いがあるのは仕方のないことさ」

「……そうだな、お前の言う通りだ。自分の好みや価値観を押し付けるのは良くない。くだらないことに拘る俺の方こそ狭量だった」

 

 ルドルフの穏やかに諭すような物言いに、俺の感じていた微かな不満が霧散していく。こいつの声や話し方は聞く者の心を落ち着かせる効果があるように思う。

 

 発言にも何一つとして間違った所はなく、彼女の言動の全てが正しいものだと認識してしまう程だ。

 俺もウマ娘を導くトレーナーとして、なるべくみっともない姿は見せないように努めているがここまでにはどうやってもなれない。

 

 ――これが“皇帝”シンボリルドルフか。なるほど、確かにこれは絶対の君臨者だ。テイオーに限らず多くのウマ娘が心酔しているのも頷ける。

 

「ところで、今日はどんな用件で来たんだ? わざわざ世間話をするほどお前は暇じゃないだろう」

「君とは一度このようにじっくりと話をしてみたかったという気持ちはあるが、確かに今日の本題は別にある。……テイオーが最近、よく休日に君の部屋に訪れているという話を彼女から聞かされていてね」

「――なるほど、そういうことか。生徒会長としては当然こんなことは見過ごせないというわけだな、すまなかった。俺も担当ウマ娘がトレーナーの部屋に入り浸るのは良くないと思っていたんだ、テイオーにはこの後キツく言っておこう」

 

 ルドルフの真剣な表情と話の導入から全てを察する。つまりこいつは生徒会の会長として俺に警告をしに来たわけだ。

 それはそうだ、普通に考えて年頃の女生徒が男性トレーナーの部屋に頻繁に行くのは不味いに決まっている。

 

 そんな俺の言葉を聞いて、何故かルドルフが慌てて止めに掛かる。ひどく珍しいことに焦っている様子だ、こいつのこんな姿は初めて見る。

 

「トレーナー君、早合点しないでくれ! そんな無粋なことを言いに来たんじゃないんだ。君と彼女が部屋で休日を満喫していること、それ自体は別に構わない」

「いや、構うだろ。何か問題が起きてからじゃ遅いぞ」

「……私たちは君を信頼している、謹厳実直な君ならば大丈夫だと。とにかく、君とテイオーはよく自室で一緒に楽しんでいるそうじゃないか」

「まぁ楽しんでいるかと言われるとやや疑問は残るが、一緒には過ごしてるな」

 

 てっきり会長として俺の行為を非難しに来たのだと推察したのだが違うらしい。前から思っていたが、この学園はトレーナーと担当ウマ娘の距離が妙に近いケースが多いな。

 

 学園もある程度ならばそれに目を瞑っているようにも感じられる。トレーナーと担当ウマ娘の間に絆が芽生えることで、その娘から想像を絶する想いの力が引き出されると言われることもあるが。

 

 その効果でも期待しているのかもしれない。学園のトレーナーにウマ娘ではなくヒトが多いのはそのためだろうか、ヒトとウマ娘の間からでしか発現しない何かが存在しているのか?

 

「それで、だ。テイオーは休日、君の身の回りの世話をしているらしい。相違はないかな?」

「間違ってはいないな。何を考えているのかは見当も付かないが、家政婦の真似事をするのが今のお気に入りらしい」

「ふむ、そうか……」

 

 ルドルフが顎に手をやり、何事かを思案する。しばらく考え込んだ後、少しばかり言いにくそうにしながら口を開いた。

 

「その、なんだ……。物事には正当な報酬が与えられて然るべきだ、トレーナー君もそうは思わないかい?」

「なんだ、回りくどいな。いつも泰然としているお前らしくもない、何が言いたいんだ」

「わかった、単刀直入に言おう。時期は問わないが、今度テイオーを労ってあげてはもらえないだろうか?」

「……何だと?」

 

 皇帝からの思わぬ頼みごとに間の抜けた声を出してしまう。何を言い出すのかと思えば、まさかテイオーを労ってくれなどと言われることになるとは。

 まさかあいつがルドルフに頼み込んだのだろうか。自分がトレーナーにぞんざいな扱いを受けているから何とかしてくれ、というように。

 

 俺の表情から思考を見て取ったのか、ルドルフが疑問に応じるかのように続ける。

 

「勘違いはしないでくれ。私は君がテイオーに理不尽を強いているとは思っていないし、彼女から頼まれたわけでもない」

「ならどういうことなんだ? 実際、俺は出来る範囲であいつの面倒は見てるつもりだぞ」

「そうだろうな、私もそこを疑うつもりはない。ただ、健気に君の世話をしたと話すテイオーに少しばかりの報酬があれば。彼女ももっと喜んで君に尽くせるのではないか、と愚考してね」

 

 つまり日頃テイオーに身の回りのことをやってもらっているのだから、御礼なりなんなりであいつの機嫌を取ってやって欲しいということか。

 確かに休日において料理だの掃除だのはしてくれている。別にこちらが頼んだわけではないのだが、それでも成果に対して礼の一つも言わなければ筋が通らないか。

 

「わかった、考えておこう。だがお前も案外あいつには甘いんだな。公明正大な生徒会長にしては贔屓が過ぎるんじゃないか?」

「はは、そう言われると返す言葉もないな。彼女は私によく懐いてくれていてね。ときに立場を忘れてつい可愛がってやりたくなってしまうんだ。……幻滅したかい?」

「いや、逆に見直したよ。どんな相手でも完全に平等に扱えるんなら、それこそ恐れ多くて話もまともにする気が起きないからな。そんな奴はもう神や仏と何も変わらない」

「――ありがとう、そう言ってくれると気持ちが楽になる。しかし君と話すのは心が弾むな、彼女が君を慕う理由がわかるような気がするよ」

 

 言ってから、ルドルフが屈託のない笑顔を見せる。彼女の笑った顔は、普段よく見ているものを想起させた。やはり、ルドルフはテイオーによく似ている。

 もっと取っつきにくくお堅いウマ娘かと思っていたが、想像以上に気さくだし何より情の深いウマ娘だ。

 

 そんなルドルフだからこそ。いつもテイオーを相手にしているかの如く、俺はからかうように指摘することにした。

 

「お前は将来、きっと親バカになるな。賭けてもいい」

「まったく何を言っているんだトレーナー君。そんなことを言う君の方こそ、余程親バカになりそうじゃないか」

「……俺が? どうやら皇帝には冗談のセンスだけはないようだな、俺なら間違いなく厳しく子供を育てることが出来る」

 

 そんな風にして、昼休みが終わるまでの間。幾分か打ち解けられた俺とルドルフはしばらく軽口を叩き合っていた。

 

 

 

 ルドルフの来訪から何日か経った休日の午後。

 

「トレーナー、お掃除終わったよー! 次はどうすればいいの、何でもボクに任せてよ!」

 

 可愛らしいエプロンを身に纏ったテイオーが俺の前にぴょこりと顔を出した。自分の部屋なのに当然のようにこいつがいる事実に、悲しいことではあるが大分慣れてしまっていた。

 

 もはやいつものことではあるが、今日も今日とて家事を張り切っている。当初、渋々と彼女を部屋に招き入れたときはここまでやる気に満ち溢れてはいなかった。

 

 むしろ最高に酷かった。勝手にゲーム機を持参して執拗に相手に誘ってきたり、平気で菓子などを食べ散らかしたりなどとやりたい放題もいい所だったからな。

 

 見かねた俺は興奮のためか暴走していたこいつを叱り、幾つかのルールを制定することにした。『俺の作業の邪魔をしない』や『片付けはきちんと行う』などの至極当然なものだ。

 部屋に入る前に再三言っていた、トレーナーの邪魔はしないとは一体何だったのか。どうせこうなるから部屋になんて入れたくなかったんだが。

 

 流石に前回からそう間を置かずに注意を受けたことで大分懲りたのか、今度は精力的に俺の世話を焼きたがるようになってしまった。本当に何をするにも極端な奴だ。

 

「今はお前に頼むことはないから休んでていいぞ、子供じゃないんだから自分のことは自分で出来るしな」

「じゃあさ、やることないなら一緒にどっか買い出しに行かない? 夕飯のメニューとか考えながらさ。ふふ、ボクこういうのちょっと憧れてたんだよねーっ!」

「別に夕食なんて適当に済ませておくから大丈夫だ。お前はその辺でゲームでもしていればいい、そんなことまでやらせるのは悪いだろ」

 

 纏わりつくテイオーに対し、俺はそちらを見ずに『月刊トゥインクル』を読みながら雑に返事を返す。

 

 月刊トゥインクルとはその名の通り、トゥインクル・シリーズについての情報が詳しく記載されている雑誌であり、その中でも最大の発行部数を誇る大手だ。

 

 レースの開催情報、有力選手の大まかなデータやインタビュー記事、記者のコラムなど様々な有益情報が載っている。

 その中でも今の俺が求めているのはトレーナーへのインタビューだ。いずれ自分も受けることになるだろうから、そのときどのように答えるのが無難なのかの判断材料になり得る。

 

 中央のトレーナーとして在籍している以上。新人だろうと関係なく、今の俺はトレセン学園の顔の一つでもあるのだから無様を晒すことなど許されない。

 

 そうしてしばらく雑誌と睨み合いをしていると。不意に横から手が伸びて、持っていた雑誌を奪い取られる。

 視線の先には、膨れっ面をした担当ウマ娘の姿があった。ほったらかしにしていたためか、どうやらご機嫌斜めな様子だ。

 

「もうっ、トレーナーのバカ! パパやママに教えてもらわなかったの? 話をするときは相手の顔を見て話しなさいって! ボクのことをちゃんと見てよ!」

「……確か邪魔はするなと言っておいたはずだが、これはどういうことだ?」

「うぅ……。で、でも、やっぱり話は相手の顔を見てするべきだってボクは思うし……」

「ま、いいさ。別に急ぎの用件ってわけでもない。……で、何の話だったか」

 

 俺の言葉に、ぷんすかと怒っていたテイオーの顔がバツの悪そうなものへと変わる。とはいえ今回は俺の行儀も悪かった、この程度で責めるのは器の小ささが露呈するだけというもの。

 テイオーと向かい合った俺は、気にしていないと示すように俯いた彼女の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でる。

 

 こいつは背が小さいため、少し屈んで下を向いていれば座ったままでも簡単に撫でることが出来る。先のルドルフの頼みもあるし、ここは優しくしてやるとしよう。

 話を促されたテイオーは、屈んだ状態で上目遣いをしながら恐る恐るといった感じで喋り始める。 

 

「ええっと、一緒に夕飯の買い出しに行きたいなあって。……ダメ?」

「ダメではないが、もっと良い提案があるな。たまには外食でもしてみるのはどうだ? いつもお前には世話になっているからその礼も兼ねてな」

「ホント!? ねぇ嘘じゃないよね、もしこれで冗談とかだったら流石のボクでも許せないよ!」

 

 テイオーの瞳が一気に輝く。ポニーテールも尻尾も喜びを表すかのように跳ね回っている。

 たかが外食くらいで大袈裟な奴だな。こいつはお嬢様だから、もっと良い食事を味わってきただろうに。

 

 しかし、やはりテイオーはこうやって無邪気に騒いでいるのがお似合いだな。どう見てもこいつは世話するタイプではなく、世話される側のウマ娘だったので現状には違和感しかなかった。

 

「冗談なわけないだろ、何をそんなに疑ってるんだ。今日は特別だ、何処へだろうと好きな場所へ連れてってやるさ」

「じゃあお寿司とかでもいいの!? ボク、こう見えても結構たくさん食べるから後悔しちゃうかもよ?」

「なんだって構わない。家事の件だけではなく、お前にはいつも感謝してるからな。――あのとき俺を選んでくれてありがとう、来年もよろしく頼む」

「――トレーナー! ボクも、ボクも感謝してるよ! あのときボクをスカウトしてくれてありがとっ! ボク、キミのためにも絶対に夢を叶えてみせるからねっ!!」

 

 感極まったのか、テイオーが勢いよく俺に抱きついてくる。何度でも思うが、こいつの感情表現は激しすぎるな。この盛大なスキンシップはウマ娘特有のものなのだろうか。

 

 だが、俺がテイオーに感謝しているのは紛れもない事実だ。もし彼女がスカウトに応じてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。

 

 これ程までに才覚に恵まれたウマ娘と契約することが出来たのは本当に僥倖だった。彼女のおかげで、俺はトレーナーとしての職務を全うすることが出来る。

 

 ジュニア級も間もなく終わり、とうとう本番となるクラシック級へと歩を進めることになる。俺たちの夢を叶える舞台までもう少しだ。

 

 そして、クラシック戦線で無敗の三冠を勝ち取り……見事にテイオーの夢を叶えることが出来たそのときこそ。

 

 ――あんな辛気臭いものではなく。奇麗に輝く、素晴らしいものが見られるだろう。



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第十一話

 年明けを迎えて新しい年となり、1月も半ばを過ぎ去った時期。

 

 透き通るような青空が広がり、天気は爽やかな晴れ模様。それにも関わらず吐息すらも白く染まってしまう程に、凍てつくような寒さがあった。

 そんな気温の中であっても、レースは変わらず行われる。誰よりも速く走りたいという、ウマ娘たちの存在理由を証明するために。

 

 “若駒ステークス”。

 

 京都レース場で行われる、芝2000メートルのクラシック級オープン戦。その格付けとしては、最上位であるGⅠなどを含めたもの――いわゆる“重賞”と呼ばれるレースと比べると下に位置している。

 

 しかし、それでもこのレースの重要性はオープン戦とは思えない程に高かった。昨年デビューした有力なウマ娘たちが集まっているからだ。

 つまりこの若駒ステークスを制した者が、今後のクラシック戦線において主役の一人となっていくのは間違いないということになる。

 

 パドックでの観客たちへのお披露目も終わり、そんなレースの開始が間近に迫った中で。若駒ステークスの出走バの一人であるナイスネイチャが、空を見上げて物憂げに脳内で呟いた。

 

(はぁ、太陽が眩しいっすわ……。アタシもこの天気みたいに、清々しい気分でいられたら良かったんだけどねぇ)

 

 ナイスネイチャ――赤みのかかったボリュームのある鹿毛をツインテールにまとめており、赤と緑の耳カバーを付けているウマ娘だ。

 その飾り付けられたウマ耳は、しばしば友人達から『クリスマスツリーみたいで可愛い』と褒められることも多いのだが、今はそんなお祭り気分ではいられなかった。

 

(今日はあの“トウカイテイオー”が出るんだもんね……。テイオーと一緒に走るなんて罰ゲームかっての、勝てるわけないじゃん)

 

 内心で愚痴をこぼす。沈んだ気持ちで辺りを見渡すと、ターフの上に出走するウマ娘たちが揃ってきている。

 もうすぐレースが始まるのに、自分でも辛気臭いことだとは思うが。ひっそりと愚痴を吐くくらいは許してほしいところだ。

 

 トウカイテイオーとはナイスネイチャと同期にデビューしたウマ娘で、一言で表せば才能溢れる天才。

 

 入学直後から選抜レースや模擬レースで常に1着を取って周囲の注目をかっさらい、デビューした後も連戦連勝の超有望株。

 

 夢は尊敬するシンボリルドルフが達成した無敗の三冠と大きく、しかしそれが大言壮語には感じられない圧倒的な実力。

 

 性格は元気溌剌で天真爛漫。いつも自信に満ち溢れており、負けることなど端から考えていないような勝気な姿勢。

 

 ただ前だけを見て、ひたむきに夢を追い続けているその姿。少し捻くれた部分のあるナイスネイチャには直視できない程に、眩しくキラキラと輝いていた。

 

(なんかあの子っていつ見てもキラキラしてるんだよねぇ、何処の主人公だっての。アタシなんてそんな主人公の引き立て役がせいぜいだってのに)

 

 漫画やアニメの主人公かと思ってしまうくらい出来すぎなトウカイテイオーに比べ、自分の地味さを思い返してナイスネイチャは嘆息した。

 

 まず出だしからパッとしなかった。入学直後に行われた選抜レースでは3着だったし、その後何回かあった模擬レースでも2着が精一杯。

 

 やっとのことでトレーナーにスカウトされ、“チームカノープス”という中々に有名なチームに加えてもらってデビューしたのはいいものの――。

 

 迎えたメイクデビュー戦では結局2着。続く未勝利戦でようやく初勝利を挙げることが出来たのだが、なんというか本当に華がない経歴だ。

 

 トレーナーが見つけられずにデビューさえ出来なかった子や、出来ても勝ちきれなかった子もいるのだから贅沢を言っているのは理解している。

 けれど、あと一歩が足りないこのもどかしさも結構心に来るものがあった。

 

(……そりゃまったく勝てないんなら、アタシだって諦めもつくよ? でもこんな風に毎回3着とかだとさぁ、すっぱりと諦めることも出来ないんだよね)

 

 ナイスネイチャも自分に一つも良い所がないとまで卑下するつもりはない。トレセン学園に入学出来たのだから、こんな自分だってそれなりに優秀であることは自覚している。

 

 泥臭い道のりではあったものの、こうやってオープン戦にも出走しているのだから自分も結構やるじゃんと自画自賛したい気持ちもあった。

 

 だが――そこまでだ。結構やるとか良くやったとか、そんな感じの敢闘賞ばかりになってしまうのが自分だということも嫌という程わかってしまった。

 

(まあいいや、レース前なのにそんなことばっかり考えてても仕方ないしね。ネイチャさんの下町育ちのこの雑草魂、ちょっとばかり主人公様に見せつけてやるとしますかね)

 

 気持ちを切り替えてこれから始まるレースに集中する。あのキラキラなウマ娘、トウカイテイオーに勝てるとまで自惚れてはいないが、それでも手を抜くつもりはない。

 

 斜に構えているナイスネイチャも立派なウマ娘であり、勝ちたいという欲求は存在しているからだ。やるからにはもちろん全力を尽くす。

 

 そんな風にして気合いを入れていると、件のウマ娘であるトウカイテイオーがこちらへと近づいてきた。

 

「ネイチャ、今日はよろしく! こうやって公式戦で一緒に走るのは初めてだけど、良いレースにしようね!」

「テイオー……。アンタこんなとこで話してていいの? アタシなんかに話しかける暇があるなら観客へのアピールでもすればいいのに」

「それはもうたくさんやったから大丈夫! 今はネイチャと話したい気分だったんだ」

 

 鹿毛のポニーテールを揺らしたトウカイテイオーが人懐っこく笑う。こうやって愛嬌があるからこのウマ娘は憎めないのだと、ナイスネイチャは思った。

 

(才能に恵まれてて、可愛くて、性格もまっすぐで素直。ホント、アンタって主人公だよね。アタシみたいなモブとは全然違う)

 

 光り輝く太陽を前にすると、どうしても目を背けたくなってしまう。眩しすぎる光に目を灼かれてしまうから。

 自分のような脇役とは違うのだと、はっきりと理解させられてしまうから。

 

 そんなネガティブな心を押し殺して、いつものようにナイスネイチャはシニカルに言い放つ。

 

「さっすが一番人気のテイオー様は余裕綽々ですねぇ。アタシなんて緊張で心臓バクバクだってのにさ」

「あはは、流石にボクもまったく緊張してないわけじゃないけどね。でも楽しみな気持ちの方が大きいんだ、これからボクの強さを皆に見せられると思うとワクワクするじゃん」

「……ワクワクする、か。いやぁ、やっぱキラキラなウマ娘は言うことが違うわ。じゃあアタシも頑張るとしますかね。アンタに勝つ、とは言い切れないけどベストは尽くすからさ」

「うん。でもボクが一緒に走るんだから、1着だけは諦めてね。その結果はずっとボクの――ボク達だけのものだから」

 

 今ので言いたいことは全て言ったのか、トウカイテイオーが去っていく。それまで終始にこやかに話していた彼女だったが、最後の言葉だけは目が完全に笑っていなかった。

 それだけ本気ということなのだろう。無敗の三冠を達成するためにはただ一度の敗北すらも許されない、夢の実現へ向けた並々ならぬ執念が窺えた。

 

(しっかし、あのテイオーがわざわざ声を掛けてくるなんてねぇ……)

 

 ナイスネイチャにとって意外だったのはむしろそこだった。トウカイテイオーは前しか見ていない、自分のような脇役なんて眼中にもないと思っていたのだが。

 

(……あんな宣戦布告みたいなこと言ってくるなんて、実はネイチャさんも少しはライバル視されてたり? はは、まぁそんなわけないか)

 

 胸中で冗談めかして独りごち、今度こそレースに向けて気持ちを備える。たった1人しか勝利が許されない、ウマ娘たちの真剣勝負が今にも始まろうとしていた。

 

 

 

「はぁ……はぁ……。3着、やっぱり今回もこんなもんか……」

 

 レースも終わり。クールダウンを終えて乱れた息を整えたナイスネイチャは、電光掲示板に表示される順位の結果を確認して感慨もなく呟く。

 

 まるでロケットブースターでも搭載しているかのように、終盤ぐいぐいと加速していったトウカイテイオーはともかくとして。2着のウマ娘にすらも追い縋れなかった。

 

 言い訳するつもりはない、自分は現在持てる力を全て出し切ったと言える。それでもなお3着にしかなれなかった。

 

(3着でも充分凄い、あと一歩じゃん頑張ってとか皆簡単に言うけどさ。その一歩がとんでもなく遠いんだよね……)

 

 毎日のトレーニングは当然欠かさず行っているし、トレーナーと一緒に出走レースの研究もしている。考えられる限りの努力を重ねて――それでも3着が関の山。

 こうして最後の一押しが足りない敢闘賞が続くと、これが自分の定位置であるかのように思えてしまう。

 

(こんな感じでずっと3着ばっかり取っちゃうのかなぁ……。そうしていつか『ブロンズコレクター』なんて呼ばれたりして。いやいや、もうやめ! 気分が滅入るだけだしね)

 

 つい自虐してしまうのは自分の悪癖だと理解していたため、無理やり思考を終わらせる。こんな自分をいつも応援してくれる地元の商店街の皆もいるだろうし、憂鬱な顔は見せられない。

 

 その商店街の人たちを少し探していると、華麗に1着を手にした本日の主役――トウカイテイオーの姿を見つけた。

 観客席に向けて勝鬨を上げていた彼女は、それを早々に終わらせると一目散に自身のトレーナーの元へと駆け出していった。

 

 トレーナーにしばらくあしらわれていたが。後で軽く褒められて満面の笑みを浮かべるトウカイテイオー。その一幕を覗くだけで、彼女がいかに彼に好意を向けているのかがわかる。

 

(テイオーってあのトレーナーさんのこと、やっぱり好きなのかな。いやぁ、あのどっからどう見てもクソガキだったテイオーがあんな恋する乙女にねぇ。アタシも年を取るわけだわ)

 

 自分も彼女と同じ年齢であるにも関わらず。まるでずっと傍で見守ってきた親戚か何かのように、ナイスネイチャは感慨深そうに頷いた。

 

(でも大丈夫なのかな、テイオー。あのトレーナーさんって恋愛感情とかあんまりなさそうだけど)

 

 ナイスネイチャが見る限り、あの青年がトウカイテイオーとどうにかなる可能性はかなり低いように思えた。

 彼は冷静で落ち着いた人物であり、普段のトウカイテイオーへの態度から案外優しい部分も見え隠れしているのだが……。どうにも誰かと恋愛しているところは想像できない。

 

 何度か話したことはあるが、「俺は恋愛なんて興味ないな、少なくとも担当ウマ娘に手を出す程餓えちゃいない」とかなんとか言いそうな雰囲気がある。

 トウカイテイオーは外見も言動も幼いため、年の離れた妹とかそんな感じに分類されているであろうことは想像に難くない。

 

(それでも、アンタは諦めずにずっとアピールしてるんだね。いつか――あのトレーナーさんが振り向いてくれるのを信じて)

 

 ナイスネイチャにとって、トウカイテイオーは完全無欠の存在だった。何をしても上手くいっている主人公だと思っていた。

 

 だが、そんな彼女にも一筋縄では達成できない願いがあった。そのためにいつも必死で努力しているのだと思うと、強く共感する思いがある。

 

 ――いや、もしかしたら。自分が知らなかっただけで、彼女は思ったよりもよっぽど努力も苦労も重ねているのかもしれない。

 

(アタシも腐ってばっかりはいられないなぁ……。こんなの柄じゃないけど、負けずにやってみますかね)

 

 ナイスネイチャは自分に喝を入れるように頬を叩くと、未だに熱狂している会場を後にする。

 

 ……勝ちたいと、そう思い始めてしまったこの気持ちはしばらく冷めそうもなかった。

 

 

 

「うひゃあ、冷たいよーっ! トレーナー、もういいでしょ? こんなに冷やさなくたって大丈夫だって!」

「もう少しの辛抱だから我慢しろ、レース直後は脚への疲労が最も溜まる。酷使している脚だけは冷やしておかないと怪我に繋がりやすいからな」

 

 トウカイテイオーが若駒ステークスを無事に勝利で飾った後。

 

 ウイニングライブが始まるまでの空いた時間を利用して、彼女は控え室で自身のトレーナーからアイシング処置を受けていた。

 冷やすことで走行後に強い負荷が掛かった筋肉が炎症することを抑えたり、疲労を軽減したい場合にこのアイシングは重宝される。

 

 激しいレースで熱を発した身体の部分のうち、特に負担の大きい膝やその周辺が氷嚢で容赦なく冷やされていく。

 控え室では暖房が充分に効いており、屋外とは違って快適な気温ではあるものの冷たいものは冷たい。よってトウカイテイオーもトレーナーに抗議していた。

 

「よし、アイシングはこの辺でいいだろう。次はマッサージだな、お前のストライド走法は脚への負担が大きい。これも念入りに行わなければならない」

「……トレーナーはそうやっていつも簡単にボクの脚を触ろうとするけどさ、ボクだって女の子なんだよ。ちょっと、いやかなり恥ずかしいんだけど」

「そんなことを言われてもな、俺だって別に好きで触ってるわけじゃない。必要に迫られて仕方なくやっていることだ」

「ちょっと何それ! 嫌々ボクの脚を触ってるの!? 恥ずかしい気持ちを抑えながら、キミのために必死に我慢してるのに!」

 

 トレーナーが本当に渋々といった表情で膝中心のマッサージを始めるのを見て、トウカイテイオーは堪らず叫ぶ。

 

 乙女の柔肌に遠慮なく触れておいてなんて言い草なんだろう、まったく女心がわかっていない。こっちはこんなに恥ずかしいのに、このヒトは何も動揺していないし。

 

 出会った頃から何も変わらない朴念仁なトレーナーに、トウカイテイオーは頬をぷくりと膨らませる。

 

「……トレーナー、もうマッサージはいいけど変な所は触らないでよ。もし触ったら責任取ってもらうからね」

「ただ担当ウマ娘の脚をマッサージしただけで何の責任が生じるんだ……」

 

 トレーナーが苦笑いする。担当ウマ娘がこのように彼を困らせるのは日常茶飯事であるため、受け流す術も板に付いていた。

 

「そういえば、さっきレースが始まる前にナイスネイチャと話していたな。あれはどんな話をしていたんだ?」

「あぁ、ネイチャには『今日はボクが勝つから覚悟しといてね』って宣言したんだ。ネイチャとは仲の良い友達だけど、レースでは勝たなきゃいけないライバルだしね」

「……意外だな、お前がそんな風に相手を気に掛けるとは思わなかった。特にナイスネイチャはその……まだ、お前の敵にはならないだろう」

「うん、今なら何度やってもボクが勝つっていう自信はあるよ。それでもネイチャは侮れない、万が一があるかもしれない」

 

 実力ならば上回っている自負がある。けれど、ただ相手よりも強いというだけでは勝利の女神が微笑まない時もある。

 

 本人にはあまり自信がないようだが、ナイスネイチャの末脚はトウカイテイオーにとっても脅威だった。もしかしたら、不運が重なれば勝利を奪われてしまうかもしれない。

 

 そうなってしまえば全てが終わりだ。自身とトレーナーで描いた『“無敗”の三冠』という夢が潰えてしまう。それだけは、絶対に認められない。

 

 トウカイテイオーのその真剣な眼差しを見て、トレーナーはふっと表情を和らげた。珍しいことに嬉しそうな笑みを浮かべて言う。

 

「……お前は変わったな。出会ったばかりの頃のお前は、前ばかり見ていて後ろをまるで気にしていなかった」

「トレーナー……?」

「でも今は違う。背後から迫るライバルの影をきちんと認識して、視野も広くなった。先を見据えることは大事だが、同じくらい横や後ろを確認することも大切だ。お前が成長してくれて、俺は嬉しく思うよ」

「――もしボクが変わったとするなら、それはトレーナーのおかげだよ。キミがいつもボクに真摯に向き合ってくれるから、絶対にその期待に応えなきゃって思えるんだ」

 

 トウカイテイオーのその言葉を聞いて、トレーナーは優しげな顔になった。常に何処か皮肉に染まったような表情ばかりなのに、肝心な時はこうやってとても優しい。

 

(ホントにズルいヒトだよね、そんな顔されたら離れられなくなっちゃうよ)

 

 こっそりと溜め息を吐くトウカイテイオー。自覚はないのだろうが、あまりにもウマ娘を誑かすのが上手い。いつも素っ気ない態度のくせにたまに見せる温かさに参ってしまう。

 

 いつだって一緒にいたくなる。もちろんもう逃がすつもりなどないが、自分の気持ちを再確認できた。

 

 このヒトと、いつまでも夢を追い掛けていられたなら――それは、どれだけ幸せなことだろうか。

 

 だからこそ、トウカイテイオーはこう思った。

 

(これからもずっと一緒にいようね、トレーナー。無敵のテイオー伝説には、絶対にキミが必要なんだから!)



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第十二話

 若駒ステークスからいくらかの時が過ぎた休日。

 

 俺は担当ウマ娘であるテイオーと連れ立って街を歩いていた。目的地はデザートが評判であるという喫茶店、いつものように一緒に行きたいとねだられて向かう羽目になっている。

 横を見ると彼女は至極ご機嫌な様子で軽快に進んでいる。今にも鼻歌でも歌い出しそうな程に鮮やかなステップだった。

 

「トレーナーもさぁ、最近は結構すんなりついてきてくれるようになったよね。うむうむ、物分かりが良くなってワガハイも嬉しいぞよ」

「……なんだその喋り方は。無駄なことは嫌いなんだ、どうせ行くことになるんなら余計な問答はあまりしたくないからな」

「ふっふっふ、ようやくトレーナーも気が付いたみたいだね……この無敵のテイオー様からは、決して逃げられないってことをさ!」

「……」

 

 にやにやと俺の顔を覗き込み、こちらが呆れるくらいのドヤ顔を披露しながら隣で能天気なことを言ってくるウマ娘。

 俺はその言葉に何も返さず、すっかり脳にまではちみつが詰まっているその頭を軽く指で弾いた。

 

「あたっ! ちょっといきなり何するのさ!」

「いや、隙だらけだったからな。つい手が出てしまった」

「こんなときに警戒なんてしてるわけないじゃん! わけわかんないよーっ!」

 

 そんな風に適当に騒いでいるうちに、目的の喫茶店が近付いてくる。その店の入り口近くでは、見覚えのあるウマ娘が何やら悩まし気な様子で立ち尽くしていた。

 

 背中にまでかかる美しい葦毛、背筋がピンと伸ばされた気品ある立ち姿……見間違いようもない、あのウマ娘は――。

 

「あっ、マックイーンじゃん。おーい! こっちこっち!」

「て、テイオー!? それにそのトレーナーさんまで……どうして此処に?」

 

 大きく手を振ったテイオーに呼び掛けられて、こちらに振り返ったウマ娘――メジロマックイーンは、驚きに染まった表情で俺たちに疑問を投げかけてきた。

 

 メジロマックイーン。

 

 名門メジロ家の出身で、メジロの至宝とも呼ばれる実力者。沖野さんのチームスピカに属しており、長距離を得意とする『ステイヤー』としての類まれなる才を誇っている。

 

 名家のお嬢様らしく、優雅で上品な言動は見る者を感嘆させる。俺のすぐ傍にも確か旧家の令嬢がいたような気がするが、両者の振る舞いには雲泥の差があった。

 

「どうしてと言われても、喫茶店に来る目的なんてわざわざ語るまでもないと思うが」

「そうそうっ! ボクたちはこの店で評判のスイーツを食べに来たのだ! トレーナー、後でボクと一緒に食べ合いっこしようね!」

「悪いがデザートは好きじゃないからお前が一人で食べてていいぞ、俺に遠慮はするな」

「えぇーっ! ねぇ一緒に食べようよー、カップル限定のでっかいパフェとか頼んでさぁ」

 

 俺の返答に不満そうに口を尖らせるテイオー。マックイーンはこのような俺たちのやりとりを微笑ましそうに眺めていた。

 すまないがそんな目で見ないでもらえないか、こいつはどうだか知らないが俺は至って真面目なんだが。

 

「あらあら、相変わらず仲が大変よろしいですのね。私も少し羨ましくなってしまいますわ」

「ふふーん、ボクとトレーナーはもう切っても切り離せない親密な関係だからねっ! まさに『人バ一体』ってやつだよ」

「……なんでもいいからそろそろ話を進めるぞ。マックイーン、お前もこの喫茶店に用事があるんじゃないのか?」

 

 見せつけるかのように俺の腕に抱きついてくるテイオー。それを気にも留めずにマックイーンに質問を投げ掛ける。

 店の入り口近くでいつまでも騒いでいたらあまりにも迷惑すぎる、早い所本題に入らないと普通に営業妨害になってしまうからな。

 

「い、いえ……私は、その――」

「マックイーンもここのデザートを食べに来たんじゃないの? 確かスイーツとかすっごい好きだよね?」

「そ、そのようなことは――! ないとは言えませんが、私は現在カロリー制限を行っている身でして、スイーツなど頂くわけには参りませんわ……」

「……カロリー制限、か」

 

 マックイーンは何処か煮え切らない態度だった。テイオーの言からデザートの類が好物らしいし、本人のカロリー制限中という言葉からある程度の事情は察せられる。

 

 身体を絞るためにデザートを我慢しているものの、つい喫茶店の前を通りがかってしまい誘惑に負けそうになっている。

 大方そんなところだろうな。女性というのは大概甘いものには弱いもんだが、このお嬢様も例には洩れないわけか。

 

「別にデザートの一つや二つくらいなら食べてもいいんじゃないか? その分だけ運動すればいいだろう、奢るからお前も一緒に来ればいい」

「えっ、マックイーンも一緒に? うーん、まぁマックイーンならいいかな……」

「……お誘いは大変ありがたいのですが。由緒あるメジロ家のウマ娘として、このような誘惑に負けるわけには……」

「そんな物欲しそうな顔で言っても何の説得力もないな。いいから行くぞ」

 

 うだうだと悩み続けているマックイーンの背中を強引に押し、俺たちは三人で喫茶店の扉をくぐることになった。

 

 そもそも俺たちが来るまでずっとこんな調子だったのなら、今まで相当我慢してきたことは明白だ。

 たまには好きな甘いものを食べさせてストレスを発散させてやるべきだろう、耐えてばかりというのも健康には良くない。

 

 ……そうして喫茶店に入ったはいいものの、俺にとって予想外の出来事が起こってしまった。

 

「いやあ、評判通りここのデザートは最高だねーっ! いくらでも食べられちゃうよ!」

「くっ、テイオー……貴方、いくら何でも食べ過ぎですわよ。ぶくぶく太ってそこのトレーナーさんに嫌われても知りませんから」

「ふふふ、ボクはいくら食べても太らない体質だからね。あれれ、どうしたのかなマックイーン。食べないの? ねぇもう食べないの~?」

「カロリー制限している私に対してなんと残酷なことを……! なぜこのようなことが平気で出来るのです、貴方には慈悲の心がないのですか!?」

 

 俺の担当ウマ娘が何故かマックイーンを散々に煽り倒している。

 

 テイオーの前にはショートケーキにフルーツパフェ、にんじんゼリーなど様々なデザートが並んでいる。それらを美味しそうに頬張り、えらくノリノリで楽しそうにマックイーンへ見せつけていた。

 対するマックイーンはというと。メロンパフェを見たこともないような至福の笑みで平らげた後は、流石にそれ以降の注文を控えている。

 

(まぁ賑やかで何よりだな、連れてきた甲斐があったというものだ)

 

 二人の言い争いを尻目に、俺はカップを傾けてコーヒーを口に流し入れた。もう面倒だからこのまま我関せずを貫きたい。

 その思いも虚しく、こいつらのろくでもない口論は次第に激しさを増していった。 

 

「トレーナーさん、貴方のウマ娘でしょう! 彼女の暴挙を止めてください、このような行為は到底許されることではありません!」

「あっ、ダメだよマックイーン! いくら自分がスイーツを食べられないからってボクのトレーナーを困らせたら!」

「いつも彼を困らせているのは貴方ではないですか! どうせここに来たのも貴方がワガママを言ったからに決まっています!」

「トレーナーはこんなことで怒らないもん! このヒトはボクのことをいつも一番に考えてくれてるんだから!」

 

 さらにヒートアップしていく二人のウマ娘。もはや限界だと感じた俺は仲裁に入るべく、飲みかけのカップから手を放す。

 ちょっとした親切心で誘っただけだったが、こんなことになってしまうとはな……。

 

 ――それから数分後。

 

「ごめんね、トレーナーにマックイーン。ボクちょっと調子に乗り過ぎちゃったよ……」

「いえ、謝るのは私の方ですわ。申し訳ありません、メジロの名に泥を塗るような醜態を晒してしまいました……」

「……いや、気にするな。大したことじゃない、だが俺だけならいいんだが店に迷惑を掛けるような真似は今後控えてくれ」

 

 先程までの様子が嘘のようにしゅんとしているテイオーとマックイーン。彼女たちはウマ耳をへたれさせながら謝罪の言葉を口にしていた。

 

 騒ぎ立てるこいつらをどうにか落ち着かせた俺は、激しい疲労感を隠しながら最低限の注意をする。

 所詮子供のじゃれ合いではあるんだが、如何せん場所が悪すぎる。外でこんな騒ぎを起こしていることが知られたら洒落にならない。

 

(それにしても、休日だというのに何をしているんだろうな俺は)

 

 俺にとって、休日とは身体を休める日のことではなかった。さらなる研鑽を積んで、他者よりも先を歩くために用意された時間だ。

 

 より良い結果を出すためには妥協は許されない、常に持ち得る全力を尽くす必要がある。だが無理をしているつもりもなかった、俺には当たり前のことだったから。

 

 だというのに、今の俺は担当ウマ娘に付き合ってこんなことをしている。これで俺は成長出来ているのか? 一歩でも前に進めているのか?

 

 ……いや、経験は力だ。どのようなものであれ、経験することは無駄にはならない。

 

 それに俺が付き合うことでテイオーが喜んでくれるのなら悪くない取引だ。焦りすぎるなと沖野さんにも言われている、これは決して意味のないことではないと信じよう。

 

「うぅ……。春の『天皇賞』も近いというのに私としたことが……」

「春の『天皇賞』か。まだ三か月はあるんだが、少し根を詰めすぎじゃないか?」

「――いえ、『まだ』三か月もあるではないのです。『もう』三か月しか私には残されていないのですよ。だからこそ、これからの日々を大切にしなければならないのです」

「そうか、そうだな……」

 

 気落ちしていたマックイーンの顔が引き締まり、その声が真剣さを帯びる。今年からシニア級になった彼女は、あと三か月で春の『天皇賞』へと挑戦できる。

 その一連の様子を見るだけで、マックイーンが春の『天皇賞』の制覇にどれだけの想いを乗せているのかがわかった。

 

「『天皇賞』で1着を取ることこそ、私に課せられたメジロ家の使命。もはや義務であると言っていいですし、長年思い続けた夢でもあるのです」

「夢、か……」

「えぇ、私の大切な夢です。春の『天皇賞』はメジロ家の大黒柱でもある、おばあ様とおじい様の思い出のレース。あの方たちのためにも、絶対に負けるわけには参りません」

 

 熱い想いを述べるマックイーンの瞳が爛々と輝く。夢を語る連中はいつもこうだ、呆れるくらいに一途で愚直でひたむきで。

 眩く見ていられない程のきらめきを放っている、今でもこいつらが何故こんなにも夢にまっすぐなのか理解できていない。

 

 だが、それでも――。

 

「……良い夢だな。多くの願いや期待が込められているのを感じる、その夢が叶うことを俺も祈ってるよ」

「ありがとうございます、トレーナーさん。貴方の想いも背負って、このメジロマックイーンは春の『天皇賞』制覇の悲願を果たしますわ」

「トレーナー! ねぇねぇボクはボクは!? ボクだって『無敗の三冠』っていうすっごい大きい夢を持ってるんだよ!」

「いや、お前の夢なんて成り立ちも含めてとっくに全部知ってるが」

「なんでそんな雑な対応なのさ!? マックイーンのときと全然違うじゃん!」

 

 喚き立てるテイオーに我慢できないという様子でマックイーンが吹き出す。それからもしばらくの間、俺たちは叶えるべき夢について話し続けた。

 

 

 

 喫茶店で会計を済ませた後。用事があるらしいマックイーンと別れた俺たちは、行きと同じく二人で歩いていた。

 何やらマックイーンはカラオケボックスに向かうとか言っていたが。ウイニングライブの練習だろうか、やはり印象に違わず勤勉な優等生だ。

 

「……マックイーンは良いウマ娘だな。優雅で気高く、強い」

「ふんだっ! マックイーンなんて大したことないよ! ボクの方がよっぽど強くてカッコいいウマ娘なんだから!」

「何を対抗してるんだ。お前とあいつは違うんだ、比較しても仕方ないだろう」

「だってトレーナーがマックイーンのことばっか褒めるから悪いんじゃん。キミはボクのトレーナーなんだから、ボクだけを褒めてればいいの!」

 

 テイオーは完全にへそを曲げていた。確かに喫茶店でも少々邪険にしてしまったかもしれない。

 いや、言い訳をさせてもらうとぞんざいに扱っているのではなく。大分親密になったため、つい気安くしすぎてしまうせいだ。

 

 ……結局、それも甘えか。親しければ何をしても許してくれるなどただの妄想だ。

 

「嫌な思いをさせて悪かったな、これからは気を付けよう。お前は最高のウマ娘だ、俺には勿体ない程のな」

「う、そんな言葉でボクは騙されないよ。トレーナーはすぐにそうやってボクを惑わせるんだから!」

「まぁそう言うな。お前の機嫌が直らないと非常に困る、今の俺にはお前しかいないんだ」

「……そこまで頼まれたらしょうがないなぁ、今回だけだよ? 次からは目移りせずにちゃんとボクのことをいっぱい褒めてくれないとダメだからね?」

 

 あっという間に顔をにやけさせて態度を軟化させるテイオー。こいつちょろいな、という感想が一瞬でも脳裏に浮かんでしまった自分を責めた。

 だがお世辞に弱いため騙されやすそうなことも否定できなかった。少なくとも俺がトレーナーである間は、あまり目を離すことは禁物に思える。

 

 なんだかんだでこいつも良いとこのお嬢様だからな……。純粋でたまに世間知らずな所もあるし、両親が心配になって頻繁に電話を掛けてくるのも頷ける。

 

「そういえば、マックイーンの夢について話してて思ったんだけど。トレーナーってさ、どうしてトレセン学園のトレーナーになろうと思ったの?」

 

 すっかり機嫌が元通りになったテイオーにそんな質問をされる。こいつにとっては何気なくふと思い立っただけだろうが、嫌な所を突かれた。

 それらしい理由をでっち上げることもできるが、担当ウマ娘には正直に答えよう。幻滅されたらその時はその時だ。

 

「……中央のトレーナーという肩書が欲しかった、通りが良いからな。優秀なウマ娘を育て上げれば名声も高まる。それに、トレセン学園は給料も多い」

「ふーん、そっか」

「淡泊な反応だな。俗な理由だとは自分でもわかっている、軽蔑しても構わないぞ」

「いやぁ、なんかトレーナーらしいなと思ってすごく納得しちゃったよ。逆に『日本一のウマ娘を育てたかったから』とか言われた方が驚いちゃったかも」

 

 テイオーが「あはは……」と苦笑いを浮かべる。こいつの想像の中の俺はどうなっているのだろうか。かなり気になるが知れば心に少なくない傷を負いそうだ。

 

 とにかく、始まりはそんな理由だった。そのようなくだらない理由で――俺は、ここまで来てしまった。

 

 そしてテイオーは顎に手を当てていくらか思考した後、さらに疑問を投げかけてくる。

 

「――じゃあさ、どうしてトレーナーだったのかな? その条件なら、医者でも弁護士でも別に良かったんじゃない? キミならなんだってなれそうだしね」

「……買い被り過ぎだ、俺はそんなに優秀じゃない。トレーナーを志したのだって適当に選んだだけで、行き当たりばったりな男だ」

「そうなんだ……。でも良かった、どんな理由でもキミがトレーナーになってくれて。そのおかげで、こうやってボクはキミと出会えたんだからね!」

 

 咲き誇る向日葵ですら見劣りしそうな程に、テイオーが嬉しそうに笑う。今だけはその笑顔から顔を背けたかった。

 

 ……俺は、そんな風に信頼を寄せられる程大した人間じゃない。ただの俗物だ。

 

「ボクと契約出来て、トレーナーも本当にラッキーだったよね。だって『無敗の三冠ウマ娘』になっちゃうボクだったら、トレーナーの欲しがってるもの全部あげられるもん!」

「……あぁ、そうだな。お前がいれば、全部手に入りそうだよ」

「うんうん! だからね、これからもボクと一緒に頑張っていこっ!」

 

 言葉に詰まった俺はテイオーの頭を優しく撫でる。彼女は気持ちよさそうに目を細めていた。

 

 ――金も、地位も、名声も。

 

 かつて望んでいた全てのものが、今では俺の手の届く範囲にあった。いや、むしろ現時点ですら上出来なほどに結果を出せている。

 

 だというのに、そう考えてもまったく喜びに震えることはなかった。本当に、俺はそんなものを欲しているのか?

 

 いつになったら、何処まで結果を出せば……俺の心は満たされるんだ。



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第十三話

 3月、晴天に恵まれた中山レース場にて。

 

 俺は熱気に包まれている観客席にいた。眼前では、今まさにある一つのレースが終わりを迎える所だった。

 

『勝ったのは4番、トウカイテイオー! やはりトウカイテイオーだ! 2着から3バ身以上の差をつけた余裕のある勝利です! この弥生賞でも一番人気に恥じぬ強さを見せつけました!』

『連戦連勝、本当に強いですね彼女は。次はいよいよクラシック戦線の本番、皐月賞です。その中心となる彼女から今後も目が離せませんよ』

 

 実況と解説がレースの勝者である、トウカイテイオーを賞賛する。デビューから未だに敗北を知らないそのウマ娘は多くのファンを魅了していた。

 このレース――弥生賞でも彼女は貫禄の勝利をもたらした。ならば、かの“皇帝”シンボリルドルフのように無敗の三冠を達成することも出来るのではないか。

 

 弥生賞とは、中山レース場で行われている芝2000メートルの重賞競走。そのグレードはGⅡであり、最高格のGⅠに次ぐ高さを誇っている。

 この弥生賞というレースは上位者に皐月賞での優先出走権が与えられる、いわゆるトライアル競争だ。コース条件が皐月賞とまったく同じであることも相まって、まさに前哨戦と呼ぶに相応しいものである。

 

 ――そんなレースで勝利したのだから、次の皐月賞でも期待が出来る。皐月賞を獲って、その勢いのまま三冠を達成してくれるだろう。

 

 興奮で声を荒げる観衆のそのような期待が手に取るようにわかる。今や、トウカイテイオーはクラシック三冠制覇という“夢”の実現をその目で見たい者にとっての大本命だ。

 

「見たか、これがテイオー様の実力だぁーっ! 次はいよいよ皐月賞! 今日みたいにさくっと勝っちゃうから、皆もいっぱいボクを応援してねっ!」

 

 歓声を上げる自身のファンに向かって、本日の主役となったテイオーが派手にアピールをする。まるで踊るような流麗なステップの後、天高く掲げられたピースサイン。

 自信に満ち溢れて力強く、それでいて愛嬌を忘れないその宣言でさらに観客席が沸き立っていく。

 

 ……もはや、トウカイテイオーというウマ娘は完全に皆の心を掴んでいた。まだGⅠタイトルこそ獲っていないものの、人気・実力ともにスターウマ娘と言っても過言ではない。 

 

(だが――()()()。まだこれから、何も始まっていない)

 

 圧巻の勝利に熱くなる周囲とは裏腹に、俺の思考は冷めきっていた。弥生賞を勝ったからと油断はしない、次も同じように勝てるとは限らない。

 トウカイテイオーというウマ娘をこの目で初めて見たあの日から、ここまでは確実に来るだろうと予想していた。当然の結果だ、テイオーは天才なのだから。

 

 本当の勝負はここからだ、最高ランクであるGⅠには独特の展開がある。GⅠ(グレード・ワン)は最高峰のウマ娘たちが己の信念や誇りを懸けて、全力でぶつかり合う至高のレース。

 一番人気だから、最も実力があるから……そんな理屈が常に通用する舞台ではない。全員が死力を尽くした果てに、誰もが予想もつかなかった結果になることだって多い。

 

 今日の結果に浮かれてしまえば、肝心の皐月賞で足を掬われる危険性は大いにある。最後まで気を緩めることはしない……全てが終わる、その時まで。

 

 そもそも、今テイオーが連勝出来ているのだってあいつ自身の才能と実力によるものだ。俺は大したことはしていない、その溢れんばかりの素質をただ単純に伸ばしただけ。

 別にトレーナーが俺でなくたって、ここまでならあいつは軽く到達していただろう。それ程までに圧倒的なダイヤの原石だった。

 

 所詮、俺はたまたま運良く優秀なウマ娘と契約できただけの新人トレーナーに過ぎない。学園の同僚や世間からも、少なからずそういう目線で見られていることは知っている。

 実際その通りだ、何も間違っちゃいない。俺はまだまだ未熟者で、トウカイテイオーという優駿の全てを引き出せているとはとても言えないだろう。

 

 ……だが、いずれは。

 

 俺でなければダメだったと、誰もが口を揃えて言わざるを得ない程の結果を叩き出してやろう。今までずっとそうやって生きてきた、これからもそうするだけだ。

 

 まずはテイオーの夢である無敗の三冠を達成させる。その後は、可能な限り重賞で勝利を積み重ねていこう。一歩ずつ、確実に。

 

 そうしていけば、いつかはきっと――。

 

 

 

「やっほーっ! 無敵のテイオー様のご登場であーる! さぁ、もてなせもてなせーっ!」

 

 弥生賞の翌日。

 

 学園のトレーナー室で資料の整理をしていると、勢い良くドアが開かれてテイオーが飛び込んできた。

 基本的に大きなレースの次の日は完全休養日に設定している。激しいレースを終えたウマ娘の脚は、本人が想像している以上に多大な負荷が掛かっているためだ。

 

 ウマ娘という種族の脚は、残念ながらその高速に耐えきれるほど丈夫には出来ていない。細かく気を使ってやらなければ、すぐにでも怪我で走れなくなってしまう。

 だからこそ、メリハリをはっきりとつけて休むべきときは休ませているのだが……。

 

「やれやれ、今日は休みだって言ってるのにお前も大概暇な奴だな」

「いやぁ、トレーナーが一人で寂しくしてるかなって思ったからさ。ボクってばトレーナー思いの優しいウマ娘だと思わない?」

「どうせ遊び相手が欲しいだけのくせによく言うもんだ、そろそろ慎みを覚えたっていいんだぞ」

 

 テイオーに軽口を返しながら資料を片付ける。とりあえず今日はここまでにしておこう、こいつが来たのなら予定を変更する必要がある。

 しかしこいつのこういう人懐っこいところは変わらないな。もはやテイオーは国民的なスターへとなりつつあるが、その態度に変化は見られない。

 

「ありゃ、やめちゃうの? 別にボクに遠慮しなくたっていいんだよ? 近くでトレーナーを見てるだけでもボクは満足だから」

「お前がよくても俺が落ち着かないだろうが。大体なんでいつもずっと俺を見ようとする、見てたってお前が楽しめることなんて何もないぞ」

「何言ってるのさ、仕事してるトレーナーを眺めてるだけでもとっても楽しいよ。ボクのためにこんなに頑張ってくれてるんだなーって思うと、嬉しくなっちゃうんだ」

「そういうもんなのか? 俺には理解できない感情だな……」

 

 微笑みを湛えるテイオーだったが、俺にはその行動原理が理解できなかった。一緒に何かをするのであればまだしも、ただつまらない作業を見物するだけで満足するなど……。

 はっきり言ってしまえば時間の無駄であるとさえ思う、ゲームや漫画に興じていた方がまだ彼女のためになるのではないか。

 

 時間はなるべく有効に使うべきだ、そう考えた俺は部屋の片隅からある物を取り出す。

 

「そんなに暇を持て余してるんだったら俺と少し打たないか? ルドルフから話は聞いているぞ、お前も嗜んでいるんだろう」

「おぉっ、チェスじゃん! いいねーやろやろ! ボクね、チェスはちっちゃい頃からやってるからすっごく強いんだよ!」

「ほぅ、それは期待できるな。俺もチェスの腕には自信がある、お手並み拝見させてもらおう」

 

 言いながら机にチェス盤を置き、盤上にいくつもの駒を並べていく。

 

 白と黒、それぞれ6種類16個の駒を使って敵のキングを追いつめるボードゲーム――言わずとも知られているが、それがチェスだ。

 日本では似たような競技である将棋の方が盛んだが、世界では圧倒的にチェスの方が普及しておりその歴史も長い。

 

 世界各国で流行っており、競技人口も多いため俺は昔からたまにチェスで遊んでいた。今の世の中、インターネットを使えばいくらでも国を問わずに対戦相手が見つかるからな。

 戦略性が非常に高く、その奥行きも深い。頭の回転を磨くにはぴったりの趣味であり、完成されたそのゲーム性は俺の心をしかと掴んでいた。

 

 駒を揃えてそれぞれの持ち時間を計る時計を設置した俺は、わくわくしながらじっと待機しているテイオーへと向き直る。

 

「先手は譲ろう、遠慮せずにかかってくるといい」

「ふふーん、そんなに余裕ぶっちゃっていいのかなぁ? ボク、最近ではあのエアグルーヴにだって勝ってるんだよ? キミも結構強そうだけど、流石にボクには勝てないと思うな」

「それは楽しみだ、弱い者いじめをするのは気分が良くないからな」

「またトレーナーはそうやって口が減らないんだから。負けて泣いちゃっても知らないからね」

 

 チェスとは先手が有利とされているゲームだ、実際に勝率も先手の方が高い。対戦相手であるテイオーの実力はまだわからないが、年長者として不利を受け入れる。

 その道のプロには到底及ばないが、そこらのアマチュアには引けを取らない程度には腕に覚えがあるからだ。

 

 これで負けたらまったく格好がつかないが、それならそれで構わない。テイオーがそこまでの強者であったのなら、そちらの方が良い勉強になる。

 チェスに限らず、どのような競技でも強い相手と戦った方が有意義な時間を過ごせる。

 

 それにまぁ、負けることは好きではないが――こいつに負けるのであれば悪くはない。そう思えてきた程度には、俺はテイオーを担当ウマ娘として好いている。

 

 らしくもない思考を巡らせながら、俺はテイオーとの対局に没頭していった。

 

 ……流れるように時間が進んでいく。いつしか互いに無言になり、静寂の中でただ駒を打つ音だけが部屋に響く。最初のうちは意気揚々と攻めていたテイオーだったが、次第にその顔色が悪くなっていった。

 

「――チェック」

 

 俺は自身の持つ黒のルークでチェックをかける。チェックとは、次の一手で相手のキングを取りにいける状態のことを言う。将棋の王手と言えば話は早いだろう。

 これでテイオーの白のキングは追いつめられた、上手く逃れることが出来なければゲーム終了だ。

 

「ま、まだだよ……。ここから逆転してみせるから。まずはキングをこっちに動かせば――」

「チェックメイト。キングにもう逃げ場はない、これで詰みだ」

 

 テイオーが後方に下げた白のキングに向かって、控えていた黒のビショップで囲む。もはやどう足掻いても白のキングが取られることは確定した、これでゲームセットだ。

 言うだけあって強かった、定石はよく抑えていたし少なくとも初心者からは完全に脱却している。積極的なテイオーらしく攻め気が目立つスタイルだ、もっと経験を積めばまだまだ強くなるだろう。

 

 敗北を受け入れられなかったのか、テイオーが俯いてわなわなと震えている。

 

「う、嘘だ、こんなの何かの間違いだよ……。ボクが負けるなんてぇーっ!」

「ははは! なかなか良い声で鳴くじゃないか、さっきまでの威勢はどうした?」

「どうしてそんなに嬉しそうなのさ! いつもこんなときばっかり楽しそうな笑顔するんだから、このいじわる!」

  

 負け犬が遠吠えしている。テイオーがあまりにも面白いリアクションをするので愉快な気分になり、笑いが出てしまった。反応が大袈裟すぎるだろ。

 ついからかってしまいたくなる。あまりよろしくないことではあるが、褒めてばかりだとどうせ調子に乗るしこれくらいが丁度いい。

 

「お前といると退屈しないな。毎日楽しませてもらっているよ、流石は俺の愛バだ」

「そういう言葉はもっと別のタイミングで聞きたかったなぁ! 今言われても全然喜べないんだけど! とにかくもう一回やろ、次は絶対ボクが勝ってやるから!」

 

 テイオーが再戦を願うので盤上の駒を元に戻して、また試合を行う。……当初計画していた予定は崩れ去ったが、これはこれで得るものもあるだろう。

 

 

 

「チェックメイトだ、今回の対局は悪くなかったぞ。徐々に搦め手も加わってきて、緩急が上手く織り交ぜられてきた」

「うぅ、また負けた……。ていうかさ、ちょっとトレーナー強すぎない? もしかしたらカイチョーよりも強いかも」

「まぁ俺も子供の頃からやってるからな、単に年季の差が出ただけだ」

 

 それからも数局打って、いい加減に疲れも溜まってきたので小休止する。チェスはただ駒を進めるだけの単調な作業だが、脳を酷使するので短時間でえらく疲労する。

 チェスや将棋のように先の先まで見通す頭脳労働は、想像以上にカロリーを消費すると言われている。例えばプロの世界では、一局で数キロ痩せることだってあるそうだ。

 

 それは極端な例だろうが、何戦もして少なくないカロリーを消費しているのは間違いない。俺は一旦席を立ち、ご機嫌取りも兼ねてテイオーに甘い飲み物でも用意してやることにした。

 

「……トレーナー、こんなに強いなら最初からそう言ってよ。全然勝てなくてすごく悔しいし恥ずかしかったんだからね」

「いや、最初から腕に自信があるとは言ってただろ。むしろお前が対局する前から自信満々すぎて、どれだけの実力なのかと警戒したくらいだ」

「パパやママだって褒めてくれたし、エアグルーヴにだって勝ったから大丈夫だって思ったんだ。でも、こんな……あぁもうっ! トレーナーのバカ! 変態!」

「わかったわかった、とりあえずこれでも飲んで落ち着け」

 

 テイオーに砂糖が大量に入ったココアを差し出す。彼女はそれを受け取り不機嫌そうなジト目をしたまま、ちびちびと口に入れていく。

 結局、何度対戦をしようがテイオーが俺に勝つことは出来なかった。連敗したことによる鬱憤がこれで少しでも晴れればいいんだが。

 

 そもそも、テイオーは幼少の頃よりチェスをやってきたと言うが。実際に行っていた時間はそう長くないだろう。

 レースに向けた練習は元より、歌にダンスにゲームなどテイオーの趣味は多いためチェスに割ける時間は少ない。

 

 対して俺は学生時代、休日の気分転換に一局打つことも多く経験の差は大きかった。だから敗北しようが何も気にすることはないんだがな。

 

「しかしやはりチェスは良い、頭の体操になる。これからはたまにこうやって打つのはどうだ? そうすれば、お前もさらに柔軟なレース運びが出来るかもしれないぞ」

「えぇー……。どうしよっかな、いくらトレーナーの頼みでもそれはあんまり気乗りしないや。だってトレーナー強すぎなんだもん、代わりに格ゲーとかにしない?」

「気持ちはわかるが、流石に格闘ゲームではレースセンスはチェスほど磨けないからな……」

 

 俺の提案にテイオーはあからさまに嫌そうな顔をした。挑まれた勝負事からこうも彼女が逃げようとするのは珍しい。

 トウカイテイオーは相手が強ければ強いほど燃え上がる、負けん気の強いウマ娘だ。それは強いウマ娘になるにはうってつけの気質であるのだが、それでもこうなってしまった。

 

 少し容赦がなさすぎたか……。だが、それでも俺との対戦に再び興味を持ってもらわなければならない。

 テイオーとこうやってチェスをすることは、両者にとって多くのメリットがあるからだ。

 

 ウマ娘のレースは時間にして数分以内で終わる、非常に短いもの。その一瞬の競争の中で、目まぐるしい駆け引きが行われている。

 コースの内からいくのか、外からいくのか。道中のペース配分、位置取りはどうするのか。どのタイミングで仕掛けるのか。どの相手をマークするのか。

 

 他にもコースや天候、芝の状態によっても考えることは増えていく。それらの無数の要素を頭に詰め込み、瞬時にその場における最適解を導き出さなければならない。

 頭の回転が速ければ、そういったレースプランを組み立てることも上手になる。その練習としてチェスを頻繁に行うのは最適だ。

 

 テイオーは当然として、俺自身にもそれは良い経験になる。実際に相手と向かい合って打つ対局は、パソコンで画面越しで行う一戦とはまた違った駆け引きが要求されるからだ。

 

(だからこそ、もう一度こいつにはやる気を出してもらいたいんだが……)

 

 どうしたものかと思案して、一つの解決策を思いつく。単純なことだが駄目で元々だ、ひとまず試してみようか。

 

「じゃあこうしよう。お前がもし俺に一度でも勝てたら――お前の望みをなんでも一つ聞いてやろう、それならどうだ?」

「――え、なんでも!? 今なんでも聞くって言ったの!?」

「あ、あぁ……。だが、俺に叶えられる範囲での話だ。俺にも出来ないことは山とある、現実的に無理なことや他人に迷惑を掛けるような願いは聞けないぞ」

「うん、大丈夫大丈夫! トレーナーなら……むしろ、トレーナーにしか叶えられない簡単なお願いだから! すっごくやる気出てきちゃった、早速もう一戦やろ!」

 

 恐ろしいほどに食い気味なテイオーに気圧される。いくらなんでも極端すぎだろ、どんな願いをするつもりなんだこいつは。

 

 願いを叶えるランプの魔神を気取ってみたが、何か失敗したのではないかと感じる光景だ。このチェスで例えるのならば、敗北に繋がりかねない悪手を打ってしまったような感覚。

 脳が警鐘を鳴らしているのがはっきりと理解できた。マズい、これで敗北してしまえば俺の今後に関わるような一手が来るかもしれない。

 

 思惑通りにテイオーのやる気を引き出すことは出来た。だが、とても良い笑顔をしながらこちらを見つめるその様子からは、何処か言い知れぬ寒気を感じる。

 

(……とりあえず、時間を作ってチェスの研究をしておいた方が身のためだろうな)

 

 先程とは打って変わって果敢に対局を挑んでくる彼女に、俺は内心で溜め息を吐いた。



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第十四話

 皐月賞。

 

 日本ダービーや菊花賞に先駆けて行われる「クラシック級三冠レース」の第一弾であり、その名誉あるGⅠレースに出られるウマ娘は18名。

 

 そう――この一生に一度の晴れ舞台に挑めるのはたったの18名である。彼女らがいかに優駿であるか、どれだけの者が理解しているだろうか。そもそもが名門である中央のトレセン学園に入学できること、それ自体がエリートの証。

 

 そこから自身のトレーナーを見つけてメイクデビューを果たすことも困難を極める。これはトレセンが抱えている長年の問題でもあるのだが、ウマ娘の数に比してトレーナーの絶対数が少なすぎるからだ。

 

 加えて首尾よく担当を見つけられたとしてもデビュー戦か、もしくは未勝利戦で勝てなければ先へは進めない。そこを乗り越えてオープン戦や重賞を勝ち抜いて――ようやく辿り着けるのがこの皐月賞なのだ。

 

 まさに上澄み中の上澄み、選ばれし18名と言っていい。

 

 そんな、デビュー二年目であるクラシック級における頂点を決める戦いが、今まさに行われようとしていた。

 

『さぁやってまいりました、本日のメインレースである皐月賞! 皐月賞では「最も速いウマ娘」が勝つ! このクラシック三冠レース、最初の王冠を手にするのは一体どのウマ娘なのでしょうか!? 選び抜かれた優駿たちが今――本バ場に入場します!』

 

 そして最初に入場することになっている1枠1番のウマ娘から順に、選手たちがこの中山レース場の(ターフ)に降り立ってくる。

 登場した各ウマ娘を簡単に実況が紹介していくが、観客たちはそれを聞きながらも何処か気もそぞろな様子。

 

 観衆はある一人のウマ娘の登場を待ち詫びており、どうしても気持ちが急いてしまっているからだ。早く、早く――あのウマ娘を俺たちに見せろ、というように。

 ……そして、ついに入場するウマ娘も次で最後となり。多くのファンが見守る中でそのウマ娘が姿を現す。

 

『いよいよ出てきました、トリを飾るのはもちろんこの娘! 本日の主役、8枠18番トウカイテイオー! 堂々の一番人気です、無敗を貫く「レースの天才」がこの皐月賞でも華麗に勝利を奪うのか!?』

 

 8枠18番、トウカイテイオー。

 

 鹿毛(かげ)のポニーテールをなびかせて歩いてくる、小柄ながらも気迫に満ちたウマ娘。圧倒的な強さと人気を誇るその少女の入場に、場内のファンのボルテージが最高潮に達する。

 

 彼女の元々の人気の高さに加えて、最高峰の格であるGⅠレースであること。いつもの体操服とは違う勝負服を着ているのも相まって、盛り上がりも一段と大きい。

 勝負服とは、ウマ娘がGⅠレースに出走するときにのみ着用の許される特別な衣装。この勝負服を着用してレースを走ることは、多くのウマ娘にとって憧れとなっている。

 

 基本的に、勝負服のデザインには本人の意向が反映される。トウカイテイオーの勝負服は、白と青を基調にした軍服のような装いをしていた。

 見る者が見れば、シンボリルドルフのそれにとても似通っていることにすぐ気付くだろう。かつて“皇帝”の絶対的な勇姿に憧れた少女は、その勝負服にも理想を取り入れていたのだ。

 

 そんな勝負服を着こなして大歓声を浴びるトウカイテイオーは、いつにも増して魅力に満ち溢れていた。まるで満天の星空の中、一際輝く一等星のように。

 

 ――荘厳なファンファーレが鳴り響く、とうとうゲートインの時間がやってきた。

 

 時は4月中旬。中山芝2000メートル、天候は曇りでバ場は稍重。この皐月賞を制して、「最も速いウマ娘」だと証明するのは果たして誰なのか。

 

 

 

(……スタートは順調だね。うん、まずは第一関門はクリアってとこかな)

 

 トウカイテイオーは前日の雨でやや重くなった芝を駆けながら、冷静に分析する。ウマ娘が収まるゲート前に設置されている、ウッド式の発バ機。

 スタートの合図であるそれが開放される瞬間、研ぎ澄まされた極限の集中力(コンセントレーション)で即座に飛び出すことが出来た。

 

 脚質先行のウマ娘にとって、スタートで出遅れることは大きなロスとなる。常に前目につけて勝ちを狙っていくのが先行であるため、スタートから良いポジションを狙うことは定石だ。

 今回のトウカイテイオーは大外枠のため、コースの一番外を走らされている。よって最初は外周を回らなければならないため、余計に出だしで躓いてなどいられない。

 

(だけど大外枠でも考えようだよね。最内だったらバ群に包まれて走りにくかっただろうし)

 

 特に、一番人気である自分なんて尚更だろう。このレースで誰がマークされるかと言えば間違いなく自分である、そのことをトウカイテイオーはよく理解していた。

 

『お前は今回も一番人気のウマ娘だ。一番人気ということは、つまりお前が一番強いと皆が思っているということ。だから常に警戒されるのは当然だと考えておけ』

 

 レース前、トレーナーは自分にそう言っていた。一番人気であることは、最も敵を増やすことと同義であると。

 だからこそ、バ群に飲み込まれやすい内枠も手放しで有利だと言い切れない。外枠であっても別にデメリットばかりではないのだ。

 

 そして、何より――。

 

(……トレーナーはいつも良いこと言うよね、すごく勉強になってるよ。でも、今回はボクが教えてあげる)

 

 内枠だとか、外枠だとか……そんな()()()()()は関係ない。

 

(トウカイテイオーは――キミの愛バは、そんなことでどうこうなるほど弱いウマ娘じゃないってことをさ……!)

 

 トウカイテイオーの瞳に闘志が宿る。しかし、今は全力を出すには早すぎる。血気に逸る気持ちを抑えて、来たるべきタイミングに備えて着々と脚をためて待つ。

 

 現在は第2コーナーを抜けて8番手付近、やはり大外枠であることもあっていつもより展開は厳しい。

 レース自体もハイペースになっている。中山の最終直線は距離が短いことで有名だ、最後に直線一気で後方から豪快に抜かしていくことは難しくなる。

 

 つまり道中でなるべく前方に位置することが重要だし、末脚を発揮しきるには距離が足りないために逃げ・先行有利、差し・追い込みに不利である。

 

 だからこそペースが上がってしまうことは仕方のないことだった。先行有利のこの中山で、トウカイテイオーをあまり前に行かせるわけにはいかない。

 少なくとも、有利なポジションだけは奪わせない――。奇しくも誰もがそのような意思で一致していた、このウマ娘を打倒するには形振り構っていられないと。

 

 内に良いポジションが空いていない、外へ外へと押し出される。おまけに芝が乾ききっておらず、スピードがいつもより乗り切らない。

 これだけの悪条件が重なっているが――それでもなお、トウカイテイオーの表情に焦りは見られなかった。

 

『レースは第3コーナーを終えて直線に入りました! おおっと、ここでトウカイテイオーが中団から上がってくる! 6番手、5番手とかわして一気に先頭集団へ!』

 

 トウカイテイオーが第3コーナー後の直線でペースを上げる。本気で仕掛けるのはまだ先だが、ここでギアを一段上げなければ万が一がある。

 周りのウマ娘もそれに気付いて抜かせまいと必死に速度を上げるが、物ともせずに自慢の巧みなステップであっさりと切り抜ける。

 

 そうして彼女は思惑通りに外側の先頭集団に位置したまま、レースは第4コーナーを過ぎて最終直線を迎える。

 

『残るは400メートル! 最終コーナーを回って直線へと入ります! 真っ先に飛び出してきたのは18番トウカイテイオー! 中山の直線は短いぞ、後ろの娘たちは間に合うか!?』

 

 先頭集団からスピードスターの如く抜け出して、最終直線へと一番に飛び出したトウカイテイオー。ここで彼女は追いうちを掛けるようにさらにその速度を上げる。

 

(――いくよ。しっかり見ててね、トレーナー! これが今までキミが育ててくれた、ボクの本気の走りだ!)

 

 トウカイテイオーは脳裏に大好きなヒト(トレーナー)の顔を思い浮かべる。そうするだけで、無限の力が湧いてくるように感じた。

 そして姿勢を一瞬低くした後。深く踏み込んだ脚を思い切り蹴り出し爆発的に加速――そのままの勢いで宙を舞うように駆け抜けて、芝に吹き荒れる一陣の風になる。

 

 中山の最終直線には急坂があるが、そんなものは何も関係がないとでも言わんばかりの圧倒的な走りだった。

 

 俗に言う――テイオーステップ。

 

 メイクデビューのときですら高い完成度を誇っていたトウカイテイオーの十八番。クラシック三冠制覇に向けてさらに磨き上げられた彼女の脚は、シニア級の古バですら目を見張るもの。

 

 トウカイテイオーが今まで出走してきた全ての公式戦で、このテイオーステップの前に他のウマ娘は敗れ去ってきた。

 クラシック級において最強クラスのウマ娘が集まるこのGⅠレース、皐月賞であってもそれは何も変わらない。

 

『トウカイテイオー強い! この皐月賞を制したのはトウカイテイオーです! 堂々駆け抜けました! クラシック三冠のうち、まずは一つその頭上に冠が載せられます!』

 

 最速でゴール板を通過してクールダウンもそこそこに、トウカイテイオーが興奮に上気した顔で人差し指を立てて空に掲げる。

 三冠のうち最初の一つを制覇したというサイン、それを見て場内が大歓声の渦になる。トウカイテイオーへの声援はしばらく鳴り止むことはなかった。

 

 国内最高峰のレースであるGⅠレースでも圧勝。当日のバ場は稍重であり、どちらかと言えば小柄で少し力不足なトウカイテイオーにはとても有利だと言えなかった。

 大外枠であったために距離の不利を被ってもいる――それにも関わらず、何の危なげもない完勝劇。

 

 ……もはや疑いようもなく、このクラシック級において彼女は最強のウマ娘だった。

 

 

 

 

 

 

「ねぇねぇトレーナー、さっきの走りどうだった? ボク、すごく強かったでしょ!」

「……あぁ。素晴らしい走りだったよ、大したものだ」

「だよねだよね! 皐月賞でもこんなに圧勝するなんて、やっぱりボクって天才じゃん!」

 

 レースを終えた後、俺はテイオーと控え室にいた。ウイニングライブに備えて、専用衣装に着替えていた彼女は本当に上機嫌な様子である。 

 

 皐月賞を華々しい勝利で飾り、三冠のうち最初の一つを獲って夢の実現まで順調に進んでいるのだから当然だろう。そうでなくとも、最高峰のウマ娘が集まるGⅠを制覇することはそれだけで偉業だ。

 

(……本当に強かった、まさかあれ程とはな)

 

 先のレースで見せたテイオーの走りのキレは、練習のときと比べると一段も二段も鋭いものだった。傍目からでもわかるほどに気迫が漲っており、三冠制覇への並々ならぬ意気込みが感じられた。

 

 皐月賞に向けて準備は万端だった、本人の実力も言わずもがな。だから当然勝つとは思っていた、しかしここまで余裕で勝てるとまでは想定していない。

 俺にとってもテイオーにとってもGⅠという大舞台は未知の世界、何かしらの落とし穴があって苦戦してしまう可能性を危惧していた。

 

 ……けれど、レース結果は今までと何も変わらず危なげのない勝利。

 

 わかっていたつもりだった、トウカイテイオーが才能の塊であることは。しかし改めて思い知らされる、こいつは化け物だ。この勢い、本当に無敗のまま三冠を奪い取れる強さを感じる。

 トウカイテイオーは何処までも天に駆け昇れる逸材。しかし、それに比べてトレーナーであるこの俺はどうだ? 本当にこいつと釣り合っているのか?

 

 いつも偉そうに講釈を垂れているだけで、何の役にも立っちゃいない。こいつだって内心鬱陶しく思っているだろう、トウカイテイオーは俺の助力などなくたって夢を叶えられる。

 いや、むしろ逆に足を引っ張ってしまっている可能性すらある。俺がトレーナーでなければ、今よりもさらに凄まじい高みへ至っていたかもしれない。

 

 俺はこのまま、本当にこいつの担当を続けていていいのか? いつか自分のミスでこの才能を潰してしまうかもしれない、そうなる前に担当契約を解除した方がお互いのためではないか。

 未熟で至らない俺のせいでテイオーの夢が断たれる恐れすらある、それだけは断じて認められない。涙を流し、嘆きと失意で塗り潰されるこいつの顔なんて見たくない。

 

 やはり担当を降りるべきだろう、俺では力不足だ。トウカイテイオーは“皇帝”だって超えていける逸材、最初は悲しむだろうがこれはこいつのためなんだ――。

 

「……トレーナー、急に黙っちゃってどうしたの? もしかして疲れてる? ごめんね、ボクのためにいつも頑張らせちゃってるよね」

 

 気付けば、テイオーが心配そうにこちらを覗き込んでいた。純粋に、ただただ俺の身を案じているその表情。曇りのない信頼と好意が垣間見えるそれを見て、俺ははっと我に返る。

 

 俺は今、何を考えていた――?

 

 テイオーはやはり自分の手に余ると考え、身勝手に担当ウマ娘を放り出そうとしていた。普段あれだけ、トレーナーとして高みを目指すと息巻いていたくせになんだこのザマは。

 何が彼女のためだ、結局はただの自己保身ではないか。いつか来るかもしれない失敗を恐れて、無様に責任から逃げようとしている。

 

 あぁ、これではっきり理解した。認めたくはないが認めよう、俺は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を恐れている。

 

 だから、少しでもウマ娘たちの夢を叶えられない危険性を感じればすぐに身を引こうとする。責任を取りたくないし、悲しみに暮れる顔だって見たくないからだ。

 

 ――なんという惰弱。逃げと保身しか感じられない醜い思考。

 

 トレーナーであるならば、俺に限らず誰だってそんな不安や恐怖とは戦っているだろうに。そうやって俺だけが逃げるのか? 慕ってくれている担当ウマ娘を我が身可愛さに見捨て、悲しませてまで弱い心を守りたいのか?

 

 ……もう終わりにしよう、そんなことは。

 

 失敗や苦難を恐れるな、みっともなく言い訳して責務を投げ出すのはやめろ。今はただ、こいつと一緒に夢を駆けることだけ考えればいい。

 弱い心はここで捨てていこう、こいつの前で情けない姿などこれ以上見せたくはない。たとえどんな結末が待っていたとしても、挑戦もせずに諦めるよりはマシだ。

 

 ――だから。

 

「テイオー……お前は強い。トレーナーである俺自身ですら目を見張る程にな。これからもし俺に不満が溜まったり、力不足を感じたならいつでも契約を解消してくれていい。止める権利など俺にはない」

「なになに? もしかしてボクがあんまりにも強かったから誰かに取られないか心配しちゃってたの? あははっ、トレーナーも結構可愛いとこあるじゃん」

 

 テイオーがいつものように悪戯っぽく笑いかけてくるが、今はそんな軽口に付き合う気分ではなかった。

 おもむろに彼女の小さな肩を抱き寄せ、至近距離でその顔を見つめる。

 

「ぴぇっ、トレーナー!? い、いきなりすぎるよ! まさかこんなところで……?」

 

 暴挙とも言える俺の突然の行動に悲鳴を上げて驚き、何事か呟いているテイオー。最初こそびくりと身を強張らせていたが、すぐに受け入れたように大人しくなった。

 別に乱暴なことなど何もするつもりはないが、下手に暴れられるのも面倒なので助かる。

 

 そして間近に見えるテイオーのあどけない顔を凝視する――穿つように、貫くように。彼女の空色の瞳は、しばらく動揺と羞恥に揺れていたが何故かゆっくりと閉じられていった。

 

 ……おい、なんで目を瞑るんだ。

 

「目を閉じるな、俺の顔をよく見ろ」

「う、うん……」

 

 どういうわけか閉じられたテイオーの瞳を無理やりに開かせる。これは決意と覚悟の表明だ、お互いの顔が見えなくては何も話にならない。

 

「お前はいつだって俺から離れられる。だがな――それでも言おう。よく覚えておけ、トウカイテイオー。俺はお前を手放すつもりはないし、逃がすつもりもない。お前はただ、黙って俺についてくればいいんだ」

「……うん、よろしくお願いします」

 

 向ける視線の力をさらに強くしながら宣言する。こいつがどれだけの優駿で俺ごときには勿体ないウマ娘だろうが、決して逃がさないという絶対の意思を込めて。

 誰が何と言おうがもう知ったことか、こいつ自身が離れたくないと思えば何も問題はない。

 

 テイオーは呆気に取られたようにぼーっと俺の顔を見つめていた。やがて、熱に浮かされたような瞳でぽつりと言う。

 

「……ボク、言われた通りトレーナーにちゃんとついてくね」

「あぁそうだ、それでいい」

 

 先程のレースの疲労が出てきたのか顔が赤らんできた彼女の返事を聞いて、俺は表情をふっと和らげる。

 

 決意を言葉にして、覚悟を示すことで自ら退路を断つ。逃げ道などもはや必要ない、どのような困難であろうと必ず乗り越えてみせよう。



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第十五話

「ねぇトレーナー、ちょっとそこの本棚見てもいいかな?」

「別に構わないが、お前が面白いと思えるような本は置いてないぞ」

 

 皐月賞後のある休日のことだった。

 

 自室にある作業用のデスクでパソコンと向かい合っていると、テイオーからそんな言葉が掛けられたので軽く承諾する。

 俺の部屋には見られて困るものなど何一つない、強いて言えば誰かに見られて困るのは目の前にいるこいつの存在だけだ。

 

「面白くなくたっていいんだ、トレーナーが普段どんな本を読んでるのか気になってさ。キミの好みをもっとよく知りたいからねっ!」

 

 そうしてにこりと笑ってから、テイオーがポニーテールを翻しながら勢いよく本棚へと駆け出していく。

 どうやら俺の趣味趣向を知りたくて仕方がないらしい、健気な奴だ。年の離れた妹のようでもあり、よく懐いたペットのようでもある――優秀な教え子にして俺の愛バ。

 

 あの皐月賞での一件を経て――俺はテイオーと確かな絆を紡ぎ、深い信頼関係を築くことに成功した。

 そのおかげかあれ以来よくあいつからの視線を感じている。目が合うと嬉しそうに微笑んでくるし、こちらの言うことも前より素直に聞いてくれるようになった。

 

 少しでも離れようとすると激しく抵抗するのが問題と言えば問題だが、この程度の弊害は予想の範疇だ。

 元々少なからずべったりしたがる性質は見られていたし、あんなことを言えばその傾向が悪化することくらいわかっていた。

 

 だが、それを承知の上で俺はあいつに宣言したんだ。テイオーと最後まで走り抜ける決意をしたことを伝えなければいけなかった、それが覚悟というものだ。

 つまらない逃げ道など用意して何の意味がある? 不退転のこの意志は――もう何があろうと崩すことは出来ないというのに。

 

(それにしても、まさか俺が担当ウマ娘と絆を結べるとはな……)

 

 あいつが俺を見る眼差しにはいつも熱が籠っている。常にこちらの一挙手一投足に注目しているし、練習でも献身的に要求に応えようとしてくれている。

 そこにテイオーとの強い絆を感じるのは、俺の一方的な勘違いや自惚れなんかじゃないはずだ。むしろこれが絆でなければ一体なんだというのか。

 

 ……担当ウマ娘とこんな関係になれるなんて、想像すら出来なかった。

 

 俺は打算的で空虚な人間だ。物事を損得勘定だけで考えてしまうことが多いし、何をしても心が満たされることのない渇いた人生を送ってきた。

 トレーナーを志したのだってくだらない動機だった、輝かしい夢や熱い情熱を抱いていた奴らとは比べるべくもない低俗なもの。

 

 いつも心の何処かで罪悪感を感じていた、こんな俺がトレーナーなどという職業に就いていて本当にいいのかと。

 トレーナーの仕事はウマ娘と夢をともにすること。肩に乗せる責任は重大だ、その重さがあの頃の俺には理解できていなかった。

 

 だからこそ、深く考えもせずにトレーナーになろうなどと思ってしまったんだ。愚かな自分を後悔したことも多い、だがそれでも止まるわけにはいかなかった。

 ここで何もかもを投げ出してしまったら、何のために競合相手の夢を踏み潰したのか。いつか俺を見たとき、せめてあいつらにとって誇れるトレーナーでいなければならないから。

 

 ずっと、そうやって自分勝手な罪滅ぼしにも似た感情で働いてきた。これではスカウトも成功しなくて当然だろう、誰がそんなトレーナーに指導されたいと思うのか。

 

 だが、今では違う――それだけじゃない。

 

 俺は心からテイオーと一緒に夢を駆けたいと思っている。罪悪感でも責任感でもない、俺がそう望んでいるんだ。

 トレーナーとしてあいつを支えていきたい、その感情には一片の偽りも誤魔化しもない。

 

 他のトレーナーは、きっと最初から皆このような想いを抱いていたのだろうな。ならば、これでようやく俺も少しはトレーナーらしくなれたのだろうか――もしそうなら、これほど嬉しいことはない。

 

 そんなことを考えながら、パソコンでトゥインクル・シリーズに出走しているウマ娘たちのレース動画を再生する。

 過去のレース映像を眺めることで得られる情報は多い。トレーナーがその勝負に備えて担当ウマ娘にどのような訓練を施したのか、何を重視していたのかある程度推測できる。

 

 どのような駆け引きが有効であり、勝てるウマ娘はどういう戦略を取っているのか。一番人気のウマ娘が敗北してしまうケースはなぜ起こるのかなどにも注意して観察していく。

 

「――トレーナー! なんなのこれ、どういうことかボクに説明してよ!」

 

 しばらく画面を注視していたため、疲れた目をほぐしていた所だった。

 

 テイオーがえらい剣幕で俺の前に戻ってくる。先程まで優しく微笑んでいた奴と同一人物だとは到底思えない変わりようである。

 その手にあったのは犬の写真集だった。この前俺が買ってきた、世界各国の美しい犬を集めた犬好きなら垂涎の一冊。

 

 ……いや、どういうことなのかはお前が説明してくれ。犬の写真集が本棚にあったから何だというんだ。

 最近は将来について前向きに考えることも多くなった。いつまでも学園の寮にいるというのも味気ないし、いつかは自分の家を建てたいと考えている。

 

 そのときに庭に犬でもいれば賑やかで退屈しないんじゃないかと思って、今のうちに目ぼしい奴を物色しているだけだ。

 とはいえ犬の写真集を本棚の表に置いておくのは俺のイメージに関わるため、目につきにくい奥の方に押し込んではいたのだが。

 

「こんな本を買うなんて――まさかいつか犬を飼うつもりとかじゃないよね?」

「何が気に入らないのかまるでわからんが、いずれは飼いたいと思っている。この寮を出て家を建てて、庭で犬を飼って日々を過ごす。ふっ、そんな生活も悪くないと思わないか?」

「いつになく穏やかな表情しないでよ、全然ダメ! 犬なんてトレーナーには必要ない、ボクは絶対に許さないからねっ!」

 

 ぴしゃりと怒りを込めて言い放つテイオー。その眉は吊り上がり、ポニーテールと尻尾が本人の感情を代弁するかのように荒々しく波立っていた。

 いや、許さないと言われてもな……。お前の許可なんて別に必要ないだろ、将来のことだし俺が犬を飼おうが飼うまいがそもそもこいつには関係ない。

 

 しかし、そうやって頭ごなしに正論を述べたところで火に油を注ぐだけだろう。こういうときは根気強く説得の言葉を重ねることが大事だと、俺はこの一年間のトレーナー生活で学んでいた。

 

「そう言わずにお前も少しだけ想像してみろ。トレーナーとして遅くまで業務に励み、心身ともに疲れ果てた時に犬が元気よく出迎えてくれる。考えるだけで癒される光景じゃないか」 

「まったくそうは思わないよ! そもそもトレーナーがそんな想像をしてるだけですっごく不愉快なんだからっ!」

 

 テイオーはまるで取り付く島もない様子だった。何がこいつをこんなに不機嫌にさせるのか見当も付かない、犬を飼うという話だけでなぜこんな面倒なことになるんだ。

 こいつが怒りを剥き出しにしている理由がわからない。ならば探っていく必要があるな、毎日のトレーナー業務で培われた観察眼を活かす時が来たようだ。

 

 しばらく様子を窺っていると、テイオーが感情のままに言葉を吐き出していく。わなわなと小さな身体を震わせているその姿、果たしてどのような気持ちを抱えているのか。

 

「もしかして、飼った犬を抱きしめたり頭を優しく撫でたり身体をブラッシングしたりするつもりなの? 許せない、許せないよ……そんな羨ましいこと、ボクは絶対に許せないっ!」

「いや、そこまで羨ましいならお前も犬を飼えばいいだろう。両親はお前に甘いし、頼み込んで実家で飼ってみたらどうだ」

「羨ましいのはそっちじゃないよ! トレーナーのバカ! 唐変木! いつも頭が良さそうなこと言ってるくせにこういうときだけ鈍いんだから!!」

 

 ……あまりにも散々な言われようだった。つい先程まで俺とこいつは確かな信頼関係で結ばれていると思っていたが、やはりただの錯覚だったのかもしれない。

 

 しかしこの理不尽さには何処か既視感があるな。あれは確か去年の梅雨の時期くらいだったか、こいつの不在時に他のウマ娘を少々指導したときの状況に酷似している。

 あのときは自分という担当ウマ娘がいるのに、他の奴を指導したから腹を立てていたんだったな。先程のテイオーの言葉も踏まえると、凄まじくしょうもない結論が導き出された。

 

(こいつ、まさか犬に嫉妬しているのか――?)

 

 バカらしいことだがそうとしか思えなかった。担当トレーナーである俺が、犬に現を抜かそうとしているのが気に入らなくてこうやって喚いているのだろう。

 テイオーには結構好かれている覚えはあるが、まさか犬を飼おうとしただけでこれとは嫉妬深いにも程があるな。

 

 まったく……現在飼ってもいない犬に嫉妬しているようではまだまだ子供だ、この分じゃ落ち着いた大人の女性になるのは遠い。

 しかしまだ中等部の学生であるにも関わらずこの嫉妬深さに独占欲、なかなかに将来有望じゃないか。

 

 こいつをいずれ嫁にもらう男が一体どうなってしまうのか、学術的な興味が湧いてくる。これは私見だが、幸せな結婚生活を送れるのかもしれないがそこに自由は存在しないだろう。

 

 ま、それもまた一興。今まさに似たような生活をしている俺から言わせてもらえば、これはこれで案外悪くはない。

 何事も慣れるものだ。こいつとこんな風にあれこれ騒ぎながら暮らすこの日々は、思いの外俺を楽しませてくれている。

 

 いずれにせよ、こいつには結婚どころか恋愛すらまだ早い。つまらない男にくれてやるには惜しいウマ娘でもある、少なくとも俺が担当している間はこいつは渡せないな。

 そういう“約束”をしたばかりなんでね、悪いが年頃の少女らしい恋愛は俺との契約を終えてからにしてもらおう。

 

「大体、犬なんて何処がいいのさ! 吠えるとうるさいし飼い主を見るとすぐに尻尾を振るし、散歩とか毎日構ってあげないといけないし邪魔なだけじゃん!」

 

 思考を戻すと、未だにテイオーがぷんすかと悪態をついていた。やけに犬に対して敵愾心を燃やしている、同族嫌悪か? 俺からすればこいつも犬もそう大した違いはないんだが。

 

「犬なんかよりボクの方がずっとキミの役に立てるよ! 犬じゃ出来ないことだってボクならたくさん出来るんだから!」

 

 テイオーが力強く俺に自身の有用性をアピールしてくる。こいつは飼ってもいない犬と張り合おうとしていた、お前の戦う相手は本当にそれでいいのか?

 あまりにもツッコミどころが多すぎて、もはやなんと言っていいのかわからない。はっきりと言えるのは、こいつが未だかつてない程に掛かっているという事実だけだ。

 

「……ふぅ、仕方がないな。お前がそこまで言うならこの話は白紙に戻そう、俺だって是が非でも犬を飼いたいってわけじゃない」

「あ、あのさ……。そんなに犬の世話がしたいなら、代わりにボクの尻尾とかブラッシングしてみない……? ほ、ほら、ボクだって尻尾の色や艶なら犬なんかに負けてないし」

 

 わずかな残念さを感じながら告げると、テイオーから思わず耳を疑う提案をされる。ウマ尻尾とはウマ娘にとって敏感な器官だ、それを恋人でもない異性にケアさせるなど正気か?

 

 聞き間違いかと思い、まじまじとテイオーの顔を見てしまう。そこにあったのはさっきまでの憤懣やるかたないという表情ではなく、恥じるように目を伏せて頬を朱に染める姿だった。

 まさか本気なのか……。だが、申し訳ないがこいつの尻尾のケアなんてまるで興味が湧かなかった。しかし、それを正直に言ってしまえば俺とこいつは戦争になるだろう。

 

 しばらく固まって返事を渋る俺を見かねたのか。テイオーが小生意気な仕草で口角を高く上げ、挑発するように言った。

 

「ふーん、トレーナーって担当ウマ娘の尻尾のケアも出来ないんだ? そんなことで立派なトレーナーになれるのかな」

「……安い挑発だな、一山幾らで売られているジャンク品にも劣る価値しかない。だがいいだろう、今回だけはお前の思惑に乗ってやる」

 

 俺はテイオーの要望を受け入れることにした。普段ならこんなつまらない挑発に乗ることなどないが、今回に限ってはいつもとは違う。

 たとえ俺をブラッシングさせるための方便に過ぎないとしても、他ならぬこいつに少しでもトレーナーとして相応しくないなどと思われるのは気に入らない。

 

 たかがウマ娘のブラッシング程度、この俺が出来ないとでも思っているのか? 今まで様々なことに取り組んできたが、俺が本気でやって出来ないと感じたことは殆どない。

 ウマ娘の尻尾をケアすること自体、万が一誰かに目撃されれば社会的に極めて厳しい状況に陥ってしまうのが大きな問題だが……。

 

 他のウマ娘になら頼まれても決して首を縦に振ることはないが、テイオー相手ならまぁまず大丈夫だろう。

 こいつの根底にあるのは好きなものを渡したくないという、子供らしいただの嫉妬心や独占欲だけだ。加えて俺の方だって疚しい気持ちなど欠片もない。

 

 何処から持ってきたのか、テイオーからウマ娘の尻尾用のブラシとローションを受け取り準備を整える。いや、本当になんでこんな物が用意してあるんだよ。

 まぁいい、とにかく始めよう。自分で言っといて緊張している彼女を前に座らせ一言声を掛けてから、尻尾のケアを開始する。まずはその豊かな尾の根元を軽く掴んでほぐし――。

 

「あっ!」

「どうした、何か問題でもあるか? 生憎こんなことは初めてなんでな、無作法があったら遠慮なく言ってくれ」

「う、ううん。な、なんでもないから大丈夫……いきなりだったからびっくりしちゃってさ」

 

 尻尾に触れた途端、電撃が走ったようにテイオーの身体が跳ねたので驚いて作業を中断する。この反応、力加減を誤ったか? もう少しデリケートに扱った方がいいのかもしれんな。

 気を取り直してケアを再開する。今度はさらに丁寧に、壊れ物を扱うように尻尾の根元から毛先まで触って丹念に揉みほぐし手櫛で梳いていく。

 

「ふぁっ! あっ、ひゃあっ!  と、トレーナー、ちょっと待って……」

「……おい、お前もう少しその声は抑えられないのか? 俺は本当にただ尻尾を軽く触っているだけだぞ」

「だって勝手に声が出ちゃうんだからしょうがないじゃん! 全部トレーナーの手つきがいやらしいから悪いんだよ!」

 

 触ったら火傷しそうなほど、顔を真っ赤にさせたテイオーに駄目出しをされる。完全に謂れのない中傷だ、少し触るだけで我慢できなくなるこいつの堪え性のなさが悪い。

 尻尾をほぐして手櫛でちょっと梳いただけでまるで性犯罪者のような扱い。そもそも俺は好きでこんなことをしているわけじゃない。

 

 先ほど挙げた理由に加えてもう一つ。

 

 立派なトレーナーになるには、担当ウマ娘の身体のケアはしておいた方がいいという判断に基づいた行為だ。

 そう、俺はあいつらが誇れるような素晴らしいトレーナーになるために――。

 

 ……そこまで考えて、ふと現在の状況を確認する。仕事でもない休日に未成年のウマ娘を自室に連れ込み、その尻尾を好き勝手に弄ぶ。

 

(――トレーナーの姿か? これが……)

 

 生き恥。その言葉が一瞬だけ脳裏を過ぎった。

 

 俺は今、トレーナーとして相応しい姿でいられてるのか? トレーナーとして、ヒトとして何か道を踏み外してはいないだろうか。

 バカな、俺はいつだって担当ウマ娘に対して真摯に向き合ってきた。正しい道をただひたすらに歩いているはずなんだ。

 

 今更何を迷うことがある、そうだ――これは必要なことなんだ。担当ウマ娘の心身をケアするのがトレーナーの職務。

 確かにこの絵面はお世辞にも良くはないだろう、だが俺がやっていることは何も間違っちゃいない。

 

 ……それから俺は、無心でテイオーのブラッシングに専念した。

 

 触れるたびにいちいち声を上げるこいつをもう気にすることはなく。尻尾専用のローションを塗ってブラシで整えて、その尻尾の色と艶に更なる磨きをかける。

 ようやく一通りの作業を終えたが、満足そうなテイオーとは裏腹に俺の疲労感は半端ではなかった。

 

「あぁ、気持ち良かったぁ……。ありがとね、トレーナー! ねぇねぇ、後でまたお願いしてもいい?」

「……尻尾のケアくらい自分でしろ。今回は特別だ、こんなことあまり他者が何度もやるもんじゃない」

「えぇーっ! いいじゃんか別にこれくらい、トレーナーのケチ!」

 

 言葉とは裏腹にあまり不満そうな様子は見られず、テイオーは何処までも上機嫌だった。

 

 尻尾のケアも無事に終わり。放心したように全身の力を抜いたこいつは、今俺の身体に背中を預けてもたれかかっていた。

 幼い少女が父親にするような行いだ、本当にこいつは良くも悪くも子供らしい。

 

「ならさ、三冠を獲ってからのご褒美っていうのはどう? ボクたち二人ならきっと夢を叶えて最強になれるけど、やっぱり報酬があった方がさらに頑張れるじゃん」

「まぁ……それならいいか。素人のブラッシングなんかが褒美でいいならその程度付き合ってやっても構わない」

「やったっ! じゃあボク、これからはもっともっと頑張るよ! だからトレーナー、ボクたち二人で絶対に最強になろうねっ!」

 

 もたれかかるテイオーが振り向いて俺の顔を見上げ、心底嬉しそうに顔を綻ばせる。慣れない俺がする尻尾のケア程度で、こいつのやる気が上がるんなら良い取り引きだろう。

 夢を叶えられた後でなら、その程度いくらでも付き合ってやる。こんなこと本人には口が裂けても言えないが――俺は、夢を叶えて喜ぶお前の姿が見たいんだ。

 

 そのためなら、どのような努力や苦労も厭わない。日本ダービーを間近に控えたこの休日で、俺はさらに想いを強固なものにした。



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第十六話

 その日は、日本中が熱狂の渦に包まれていた。

 

 日本全国、ありとあらゆる場所で。

 老若男女を問わず、皆がある一つのことに夢中になっていた。

 

 これからこの東京レース場で行われる一大レース、“日本ダービー”に。

 

 日本ダービー。

 

 その正式名称は「東京優駿」であるが、一般的には副称であるこちらの呼び方の方がよく知られている。

 

 クラシック・ディスタンス――芝2400メートルで行われるこのレースは、スピードと同時にスタミナも必要となる。

 皐月賞に続くクラシック三冠レースの第2弾であり、その規模は名実ともに日本最大級。

 

 ダービーはトゥインクル・シリーズの中でも最高峰のビッグレースだ。

 最も歴史と伝統、そして栄誉があるこのレースで勝利することは、全てのウマ娘やトレーナーにとって憧れである。

 

 一年間のレースを振り返るに当たって、しばしばこのダービーの優勝バが話題の代表として挙げられることも多い。

 日本ダービーとはそういうものだ。最高の栄誉の一つであり、最大級の目標。

 

 俺自身、かつてはこのダービーを制覇することを目標としていた。ダービーを制したウマ娘を育て上げた者は、ダービートレーナーの称号を得られる。

 それは最も誉れのある称号の一つだ、わかりやすくそいつの実力を証明してくれる。獲得するまで10年、あるいは20年……もしかしたら、生涯得られないかもしれない。

 

 URAから直々に表彰されるような偉大なトレーナーでさえ、運に恵まれずにその称号を手に出来なかったということもある。

 どれだけの苦難が待ち受けているか予想もつかなかったし、勝ち取れた時の喜びもまた想像できなかった。

 

 だからこそ、ダービートレーナーになることは俺の目標だった――。

 

 ……筈なのに。俺は、それをあろうことか今の今まで忘れていた。

 

『これで二冠目だね。ダービーでもパパっと勝って、“ダービーウマ娘”になって帰ってくるから! ついでに、キミも“ダービートレーナー”にしてあげるからいっぱいボクに感謝してよ?』

 

 つい先程、テイオーが控え室で何気なく言ったその言葉。それを聞くまで、俺は自分が以前ダービーを目標にしていたことを忘れていた。

 もちろん夢などと言えるほどに大仰なものではなかった、ただの目指すべき場所の一つだ。

 

 別にダービーに対して、何かこだわりや思い入れがあったわけではない。ただその格式の高さに惹かれただけ。

 言うならば、灯りに群がる蛾のようなもの。名声さえ得られれば、俺は何でも良かったから。

 

 ……だとしても、ダービートレーナーになるという野心は強く根付いていた筈なのに。

 

 いつからか、俺は日本ダービーという名誉あるレースを夢の通過点だと考えるようになってしまった。

 『無敗の三冠』という夢に立ちはだかる障害の一つ程度でしかない、と。

 

 トウカイテイオーがこの日本ダービーの覇者となれば、俺は念願のダービートレーナーになることが出来る。

 しかし、そんなことはもうどうでもよかった。そんな称号に価値を感じなくなってしまった。

 

 ――あいつが夢を叶えてくれれば、それだけで構わない。

 

 このような生温いことを考え始めてしまっている。あいつとずっと一緒にいたせいか、随分情に絆されてしまった。

 まるであいつの大好きなはちみつドリンクのような甘ったるい思考、奴には本当に振り回されている。

 

 それこそ最初から――現在に至るまで、ずっとトウカイテイオーに俺の心は乱されている。

 

 入場規制が行われる程に観客が押し寄せ、異様な熱気に包まれた東京レース場。

 20万にも及ぶ大観衆が今か今かとレースの開始を待つ光景を横目に、俺は初めてテイオーに出会ったときのことを思い返す。

 

 

 

 トウカイテイオーに対して、最初に抱いた感情は“驚愕”だった。

 

 選抜レースであいつの走りを初めて見たとき、俺は心底驚いた。

 こんな風に走るウマ娘がいるのかと、思わず目を疑ったほどだった。

 

 まるで大空を自在に舞う鳥のように軽やかで。

 最高級のエンジンを積んだスポーツカーのように力強い。

 

 はっきり言ってしまえば、一目惚れだった。

 惚れたんだ、俺は――あいつの、その走りに。

 

 そのとき感じた胸の高鳴りには、我ながら呆れたものだ。好みの女を見つけた初心な学生と何も変わらない……いや、実質似たようなものだ。

 あいつが欲しかった、どう口説けばあれを自分のものに出来るか……そればかり考えた。

 

 けれど、どう行動したところであいつをスカウトできるわけがないのは明らかだった。

 実績もない新人が有望なウマ娘に選ばれるはずがない。少なくとも、俺があいつと同じ立場なら絶対にそんな無謀な選択はしない。

 

 大抵のウマ娘にとって、夢を叶える機会は一度きりしかない。

 クラシック三冠やトリプルティアラに挑めるのは生涯で一度だけ、それでなくともウマ娘という種族の全盛期は短い。

 

 そんな一生における最も貴重な時間を、何の信頼も置けない新人に任せるウマ娘など多くない。

 トレーナーはウマ娘を導く杖となる重要な存在、だからこそ彼女たちも慎重に選ぶ相手を見極める。

 

 ましてや今回の場合、その対象はトウカイテイオーだ。

 同世代でも頂点と言えるほどの天賦の才の持ち主、引く手あまたでベテランだろうが何だろうが選び放題。

 

 それでどうして、ただの新人に過ぎない俺がスカウトできる道理がある?

 もはや行動する前から結果などわかりきっている、スカウトなんてするだけ無駄だ。

 

 俺は無駄なことが嫌いだ、合理的じゃない。わざわざ失敗がわかりきっていることを行うなど、バカのすることだ。

 それでも、結局スカウトに向かったのは――俺がただのバカで、どうしても諦めたくなかったから。

 

 ……まぁ、周知の通り案の定スカウトは失敗に終わったわけだが。

 

 勧誘に出向いたとき――トウカイテイオーはにこやかな顔こそしていたが、周りを至極興味のない目で見ていた。

 多くのベテランや中堅、新人トレーナー達がこれでもかと集まっていたが、まるで気が引かれないという様子。

 

 そして、俺に至ってはその視界にすら入っていなかった。

 

 俺の熱は一瞬で冷めた、これは万に一つの可能性もないと悟ったからだ。

 それでも一縷の望みをかけて……人混みを掻き分けあいつに必死に声を掛けるが、ただ流される。

 

 俺は無敵の帝王、トウカイテイオー様には相手にされることさえなかった。

 所詮こんなものだ、自分がいくら求めたところで相手もそうであるとは限らない。

 

 夢見がちな乙女じゃないんだ、あれだけ盛大に振られれば嫌でも現実に気付く。

 それであいつとの縁は全て終わったのだと思った、いくら同じ場所にいようがもう住む世界が違うのだと。

 

 そうやってすっぱりと諦め、自分の気持ちに折り合いをつけた――そう思っていた。

 だが一人で自主練をしているあいつを見掛けた時、よせばいいのに声を掛けたのは未練だったのかもしれない。

 

 今にして思えば、決してただの興味本位だけではなかった。

 あの走りの持ち主と少しでも接点を持ちたかったという、浅ましい下心があったのだろう。

 

 自分が欲していた存在が、思ったよりもずっと普通の少女だったのには笑ってしまったが。

 むしろ、同じ年頃の少女と比べても子供らしいウマ娘だった。

 

 それに俺のことなどまるで記憶になかったのも傑作だ、こっちはお前を忘れた日はないというのに。

 スカウトした相手に初めましてなんて滑稽な挨拶をする羽目になるのは、後にも先にもお前だけだろうな。

 

 だが、それでこそトウカイテイオーだなと妙に納得する思いがあった。ここまで眼中にないと逆にいっそ清々しい。

 それにレースとはたった一人の勝者を決める争いだ、これくらい傲岸不遜な方が頼もしいというものだ。

 

 自己紹介の後、いくらかの雑談を挟んでから――夢を駆けるあいつの想いを知った。

 ひたむきに、まっすぐに。何処までも一途に懸命に夢を追い掛けるあいつの瞳は、本当に輝いて見えた。

 

 そのとき、俺は痛感した。

 ――ああ、これでは届かないのも当然だな。

 

 どれだけ太陽に焦がれたとしても、その手に掴むことなど出来やしない。ただ自分の身を滅ぼすだけだ、俺が欲するにはあまりにも分不相応。

 生まれ持った才覚も、抱いている大望も、その全てが俺の身には余るもの。

 

 だから、聞きたいことを聞いた後はすぐに立ち去ろうと思った。手に入らないものにいつまでも固執したところで何の意味もない。

 どういうわけか妙に懐かれたのは解せなかったが、どうせただの暇潰しに使われているだけだろうから。

 

 しかし、そう考えていたのに毎日寄ってくるあいつを振り払うことは出来なかった。

 あいつにとっては気まぐれ程度だろうが、無碍に扱うのは気が引けたし……何よりも、惜しくなったんだ。

 

 トウカイテイオーがまだ担当を決めていないことは知っていた。だから、あわよくばという気持ちがあったことは否定できない。

 本当に女々しいことだ。俺にこのような考えがあったなんて、生涯あいつにだけは知られるわけにはいかない。

 

 紆余曲折を経て決心して二度目のスカウトをしたとき、あいつが承諾してくれたのはもう殆ど奇跡に近かった。

 勝算など欠片もなかった、ただ熱意に身を任せただけのみっともない口説き文句。

 

 何度振り返ってみても、あれでスカウト出来たことが不思議で仕方なかった。

 だが、理由はどうあれ結果としてスカウトは成功し――あいつは、俺の担当ウマ娘になった。

 

 つくづく思う、人生とは何が起こるかわからないものだと。

 初めは見るも無残に勧誘を断られた相手と、こうして共にあの日本ダービーに挑んでいるのだから――。

 

 ……そうやって感慨に耽っている俺の耳に、厳かなファンファーレの音が鳴り響いてきた。

 どうやらとうとうゲートインの時間がやってきたらしい。テイオーは今回も8枠18番なので、最後にゲートに収まることになる。

 

 前走である皐月賞のときとまったく同じ大外枠。これらは抽選で決められるため、文句を言うのもお門違いなのだがどうにも偏りが酷い。

 大外枠でダービーを制したウマ娘はまだいない。スタートしてすぐにカーブがあるこのコースは、大外枠では距離ロスがあるため大きな不利が生じるからだ。

 

 だが、テイオーならば問題なく勝つだろう。

 実況も言っているが、ゲートに向かうあいつの姿はとても悠然としている。皐月賞のときと同じだ、大外枠だろうが何だろうが関係ない。

 

 それからすぐにレースが始まり、俺の予想通りにテイオーは勝利した。

 第4コーナーから一気に先頭集団を抜け出し、最終直線でその末脚を見せつけ最速でゴール板を駆け抜ける。

 

 最高峰のレースであるダービーでも今までと変わらない。続く2番人気のリオナタールに5バ身以上の差を付ける快勝だ。

 高らかに“二冠目”を意味するピースサインを掲げたあいつを見て、俺は確信を深める。

 

 トウカイテイオーの伝説はこれからも続いていく。あいつならきっと無敗で三冠を獲れる、その夢を叶えられる。

 俺だけではなく、この会場にいる誰もがそう思っているだろう。シニア級ならばいざ知らず、このクラシック級であいつが負ける姿なんてまるで想像できない。

 

(もう残すは菊花賞のみ、それが終わればようやく――)

 

 俺は、あいつの夢を叶えることが出来る。

 この調子なら次の菊花賞でも心配はいらないだろう。初の長距離走であるためスタミナを補強するのは必須だが、課題などその程度。

 

 明確な終わりが見えてきたことに、思わず頬も綻んだ。

 全てが順調だと思っていた、思っていたんだ。

 

 

 

 ――日本ダービーから二日後、テイオーの骨折が判明するまでは。

 

 

 

 トウカイテイオーは左脚を骨折した。

 

 全治3か月、10日間の入院が必要。

 それが病院であいつが医者から告げられた診察結果だった。一緒に隣で聞いていた俺は、おそらく茫然自失という言葉を体現したような顔をしていたに違いない。

 

 ダービーから二日後、練習を再開したテイオーは急に左脚を押さえてうずくまった。

 その光景を見て、俺の頭の中は完全に真っ白になった。激しいレースの後に脚を押さえる、それが何を意味するかなんて――。

 

 考えたくなかった、何かの間違いや悪い夢であってほしかった。

 だからなるべく何も考えずに急いでテイオーを病院へと運んだ、せめてほんの少しでも軽いものであることを願って。

 

 その思いも虚しく、あいつは脚を骨折していた。

 どうしてこうなった? こんなことには絶対にしたくなかったから、脚のケアを入念に行っていた筈なのに。

 

 デビューを遅らせて身体作りに励ませた。練習ではストレッチもクールダウンも徹底させた。脚を激しく消耗させたと感じたときは、アイシングやマッサージだってしていたんだ。

 大きなレースの翌日は休養に専念させたし、出走計画だって決して無理はなかった……。何か、見落としがあったとでもいうのか。

 

 あいつのストライド走法は、基本的に脚に負担が掛かりやすい。それでもこれだけケアに気を配れば、どんなに最低でもクラシック級までは持つ計算だった。

 

 テイオーに宛がわれた病室で、俺はただ現実逃避気味に思考を巡らせる。

 眼前にいる彼女は項垂れていた。純白のベッドに腰掛けた、その左脚に巻かれたギプスが痛々しい。

 

 俺にもっと知識や経験があれば、こんなことにはならなかったのだろうか。

 あまりの無力感に胸が張り裂けそうになる。どうして――俺は、正しい答えを選べないんだ。

 

 ずっと下を向いていたテイオーが、ぽつりと言葉を発した。

 

「実はね、ダービーの後からちょっとだけ脚が痛かったんだ……」

「……なぜそれを今まで黙っていた?」

「大したことなかったし、こんなことでトレーナーに迷惑掛けたくなくて……」

「……」

 

 おそらくダービーの走りで骨にわずかにひびが入り、その後の練習で折れたのだろう。

 異変をずっと黙っていた方がよっぽど迷惑になるだろうが。その言葉が口から出かかった。

 

 ぎり、と奥歯を強く噛み締める。激しい憤りで表情が歪んでいくのを自覚する。

 抑えるのに苦労した、ここで口を開けば間違いなく罵倒になってしまう。

 

 俺よりも落ち込んでいるであろうテイオーに、追い討ちを掛けるような真似はしたくない。そう考えたが、どうやら怒気が漏れていたらしい。

 

「ご、ごめんなさい! ボクが悪かったからそんなに怒らないで……」 

 

 テイオーの顔面は蒼白で涙目となり、俺に酷く怯えていた。

 これまで見たこともない表情だ。沈んでいるとはいえ普段快活な彼女がこうまで震えるほど、今の俺の顔は見るに堪えないようだ。

 

(……何をやっているんだ、俺は)

 

 ただでさえ気落ちしている少女を怯えさせるなんて……。深呼吸して気持ちを整える。

 だが、テイオーに対して腹を立てていたわけではなかった。みすみす骨折という事態を招き、愛バの異変にも気付けなかった無能な自分が許せなかっただけ。

 

 とにかく、まずはテイオーの精神を安定させることが先決だ。

 反省も後悔もここですべきことではない。今はただ、こいつを落ち着かせなければ。

 

「俺の方こそすまなかった、謝るからそんなに泣くな。いつもの調子はどうした」

「……べ、別に泣いてなんてないやい! ただほんのちょっと、びっくりしただけで……」

 

 屈んで目線を合わせ、俯いたその頭をそっと撫でる。

 慣れない笑顔を作ることを懸命に心掛けた。俺は上手に笑えているだろうか、それだけが気に掛かる。

  

 撫でようと手を伸ばしたとき、こいつがびくりと身体を強張らせたのが可笑しかった。

 まさか殴られるとでも思ったのだろうか、そんなことをするわけないのにな。

 

 物事が上手くいかないからと暴力を振るうなど、トレーナー云々以前にヒトとしてゴミ屑だ。

 逆境の中でこそ、その人物の真価が問われる。今までなんてただの遊びのようなもの――ここからが正念場だ。

 

「……落ち着いたか?」

「うん……で、でも、特別にもう少しだけ撫でさせてあげてもいいけど? このテイオー様の頭を撫でられるなんて、キミはすごく幸運なんだから」

「……そうだな、俺は幸運に恵まれているよ」

 

 小さな頭を優しく撫でながら、心からそう思った。俺は本当に幸運だ。

 結果こそこうなってしまったが、お前が契約してくれたことは感謝しかない。

 

 しばらくそうしていると、テイオーが決意を秘めた顔でこう言った。

 

「ボク、菊花賞に出るよ! そして勝つから! 全治3か月なんて余裕じゃん、全然間に合うよ!」

「……」

「リハビリだって頑張る! 辛くても、頑張るからさ……。トレーナーも、ついてきてくれるよね……?」

 

 強く俺を見据える瞳のその奥は、不安と恐怖で揺らいでいた。

 見捨てられることを恐れている小さな子供のような弱々しい表情に、俺は嘆息する。

 

 ――まだ、そんなくだらない心配をしているのかと。

 

「ま、骨折したからさようならってのもつまらない。こう見えて面倒見は良い方なんでね、ペットの願いくらい聞いてやるさ」

「……もうっ! 自分の愛バをペット扱いするなんて信じらんないよ! トレーナーはもう少しボクを女の子らしく扱うべきだと思うな!」

 

 文句を言いながらも、その暗い顔色が一気に晴れていったのを俺は見逃さなかった。

 先行きは険しいものになるだろう、菊花賞まで半年もないんだ。全治3か月とは言っても、そこからすぐに前と同じようには走れない。

 

 しかし、俺はもう悲観してはいなかった。この程度の困難など、障害にはなりえない。

 自分に自信が持てたからだ、何故ならあの頃とは違って今の俺には()()がある。

 

(――なにせ、俺はあのトウカイテイオーを口説き落とした男だからな)

 

 一度はまったく相手にもされなかったというのに、今では担当トレーナーだ。

 なかなかどうして、大したものだと思わないか? 自分を褒めてやりたいくらいだ。

 

 不可能だと思われたことだってこうして出来たんだ、これくらいわけないさ。

 

 テイオーだってこんなことで終わるウマ娘じゃない。信じている――あの日俺が焦がれた輝きは、そう簡単に消えはしない。

 大丈夫だ……お前もこのくらいの困難なんてどうってことない。

 

 ――トウカイテイオーなら大丈夫。お前は今でも、俺の憧れなのだから。



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第十七話

 テイオーが骨折して入院するという、悪夢としか言いようがない出来事があった翌日。

 

 俺は、学園のトレーナー室でパソコンの画面を睨んでいた。どうしても今日中にやっておかなければならないことがあるからだ。

 

 学園における諸々の事務も、テイオーが骨折して事情を知りたがっていた取材陣への対応も既に終わらせている。

 正直に言えば、マスコミの相手をする時間的余裕も精神的余裕もなかったのだが。邪険な扱いをして連中を敵に回すのも面倒だからな。

 

 そのような雑事を速やかに片付けて、俺が何をしようとしているか。それは――どうしてあのときテイオーが骨折してしまったか、という原因の究明だ。

 

 あいつの骨折から一日が経った今でも不可解だ。怪我に関しては細心の注意を払っていた、少なくともデビューから一年もしていないうちに脚を折るなどあり得ないはずだった。

 しかし、現実としてテイオーは骨折している……つまり結果から考えれば俺が何かを見落としていたことになる。

 

 医師の診断によると、日常的に脚部に大きな負荷が掛かっていたことによるダメージの蓄積が原因だそうだ。

 これ自体はいい。大抵のウマ娘は、自身の速度に脚の強度が追い付いていない。走り続けることで脚に疲労が溜まり折れてしまうというのはよくあることだ。

 

 俺とて新人とはいえトレーナーの端くれだ、そんなことは重々承知。それを踏まえて脚のケアをしていたにも関わらず、あいつが骨折してしまったことが腑に落ちなかった。

 だからこうして、テイオーのレース映像を見て原因を探っている。失敗したという現実を素直に認め、即座に解決策を探らなければ同じことの繰り返しだ。

 

 練習内容やレースの出走計画は一般的には特に問題はなかった。しかしトウカイテイオーというウマ娘にとっては違ったのだろう。

 では何がどう違うのか。皐月賞やつい先日の東京優駿、数々の記録を隈なく観察してテイオーの走りを確認していく。

 

 一通りの映像を見終えた後、俺の出した結論はこうだった。

 

 ――トウカイテイオーの走り方は、普通のストライド走法と比べても尚多大な負荷が掛かっている。

 

 歩幅を大きくして走るのがストライド走法であるが、一歩の幅が大きくなることで地面に着地する際に衝撃がかかる。

 これが脚を始めとした身体への負担となってしまい、怪我や故障に繋がることも多い。

 

 テイオーは膝や足首が極端に柔らかい。それをバネのように活かして大きなストライドに変え、爆発的な推進力を得ることがあいつの速さの秘訣だ。

 だがそこから生み出される圧倒的なスピードと引き換えに、その脚への負担は俺の想像を超えるものになっていたのかもしれない。

 

 あいつは膝や足首が柔らかいから、怪我や故障はしにくいのだと思っていた。

 

 だが、違う――()()

 

 柔軟性が極めて高いからこそ、ストライドがより大きくなって脚への負担が増してしまう。普通に走っているだけで、テイオーの脚にはダメージが蓄積する。

 今回の一件でよくわかった。トウカイテイオーのあの走り方は、その見た目以上に脚に負担を掛ける。

 

 このまま何の対策も打たずにいたら、順調に怪我が治ったとしても再発は免れない。幾度もの骨折とリハビリを繰り返し、最後には引退する……そんな結末を迎えるだろうな。

 それを防ぐためには、フォームを変えるのが一番手っ取り早い。歩幅を小さくして回転数を上げる「ピッチ走法」に変えれば問題は解決するだろう。

 

 しかし、それではテイオーの強みを完全に潰すことになる。あいつはストライドの伸びで速度を稼いでいる、ピッチ走法では真価を発揮できない。

 そうなれば見る影もないような凡走になるに違いない。怪我の不安から遠ざかり、安定した身体を得る代わりに勝利を失う。

 

 もしテイオーがただ走るだけで満足なら、俺はそうなったって構わない。あいつにはもう充分稼がせてもらった、本人が納得するならそれでいい。

 

 しかし――。

 

『ボクね、カイチョ―みたいになりたいんだ!』

『トレーナー、ボクたち二人で絶対に最強になろうねっ!』

 

 あいつの言動を思い返す。

 

 シンボリルドルフに憧れ、「無敗の三冠」を目指し。いずれは、憧れすら超えた最強になろうとしている……その姿を。

 

 ……やはり、フォームを変えることは出来ない。

 

 安定感を得ても勝てなくなってしまえば本末転倒だ。それは、もはやあいつにとって引退するのと何も変わらない。

 俺が取るべき道はただ一つ、あのストライド走法を維持したまま骨折をさせないことだ。

 

 あいつの走り方は確かに脚への負担が大きい。だが、一度や二度のレースですぐさま骨折するわけではない。

 曲がりなりにもデビューして半年以上は何も起こらず無事だったんだ、今まで以上にケアを念入りに行えば防ぐことだって不可能ではないはず。

 

 ――もう種は割れている、二度目はない。

 

 考えも纏まったところで、気分転換のためにグラウンドにでも行こうかと思い立つ。

 デスクワークばかりしていると身体に悪い、適度な息抜きも挟まなければ逆に作業効率が落ちてしまう。

 

「おい、俺は少し出てくる。お前は――」

 

 どうする、と振り向きざまに問いかけようとしてすぐに自分の間抜けさに気付く。

 

(……ちっ、バカが。誰に話しかけている)

 

 いちいち同行の是非を問わなければならない相手など、もうここにはいない。

 テイオーは骨折して入院しているという事実を、今更ながら俺は実感した。

 

 ……そして、思っていた以上にあいつがいる日常に慣れてしまっていたということも。

 

 

 

「貴方、トウカイテイオーのトレーナーよね。少しいいかしら」

「……別にいいですが。俺に声を掛けてくるなんて珍しいですね、東条さん」

 

 グラウンドのコース場で練習に励むウマ娘たちを何とはなしに眺めていると、非常に珍しい人物がやってきた。

 

 東条ハナ。

 

 この学園において最強と名高い、チームリギルのチーフトレーナーを務める女性だ。

 タイトなビジネススーツに身を包み、眼鏡を掛けた怜悧な瞳からは他者を寄せ付けない雰囲気を感じる。

 

 俺はこの学園に一年以上トレーナーとして在籍しているが、彼女とは殆ど会話をしたことがなかった。

 せいぜい事務的な連絡程度だ。そもそもが雲の上の存在であるし……言ってしまえば纏う雰囲気が中々に接しにくい。

 

「リギルの練習は見ないでいいんですか?」

「あの子たちなら今は休憩中よ、貴方と世間話をする余裕くらいはあるわ」

「そうですか……」

「えぇ、そうよ」

「……」

「……」  

 

 ……会話が続かない。

 

 あまりにも耐えがたい沈黙の空気が流れていく。

 東条さんの方を見ると、いつものように澄ました顔をして俺ではなくグラウンドの方を見ていた。

 

(何しに来たんだこのヒト、俺に用があったんじゃないのか)

 

 この先輩とは偶然姿を見掛けたから話しかけた、そんな風に気安い関係ではない。

 とはいえ今の状況での用件など一つしかないだろうが、こちらとしては自分から口に出したくはない話題だ。

 

 ……しばらくの沈黙の後、ようやく東条さんが口を開いた。

 

「トウカイテイオーのことだけれど。彼女、骨折したみたいね」

「……はい、全治3か月です。ですが次の菊花賞には間に合わせますよ、何も問題はありません」

「怪我が治ったとしても、その後の調整を考えればギリギリになるわよ」

「――全て承知の上です。怪我を完全に治し、菊花賞で勝たせる。厳しいスケジュールになるのは理解していますが、必ずやり遂げてあいつの夢を叶えます」

 

 彼女の用件はテイオーの骨折についてなのだろう、やはり予想の通りか。

 試すように言葉を投げ掛けてくる東条さんに対し、俺は自分の意志を示すようにしっかりとした返事をする。

 

 事前の想定とはかけ離れた現状ではあるが、それでも夢への道は断たれていない。

 確かな可能性が残されている以上、悲観するなど愚かなことだ。むしろテイオーの抱える問題を今発見できて、幸いだったと考えることもできる。

 

 東条さんはそんな俺の発言を聞いて、なぜか物憂げに目を伏せた。

 鉄面皮とも思えた顔がわずかに変化している……なんだ、その表情は。

 

 憐憫や同情と似ているが少し違う、おそらくそれを表すに最も近い感情は――憂慮だ。

 東条さんは、揺るがず強固な決意を秘めている俺を心配していた。

 

「……走り始めた時に持っていた夢や目標を叶えられるウマ娘は、ほんの一握りよ。殆どの子たちの夢は、厳しい現実の前に崩れ去っていく」

「……」

「だけど、そうやって夢が破れたとしても全てが終わるわけじゃない。夢は形を変えていく、たとえ叶わなかったとしても……また、新しい夢を見ることは出来る」

 

 まるで諭すように、東条さんが優しく言葉を重ねていく。

 いや、実際に俺を諭しているのだろう。彼女の様子は、普段の冷たささえ感じる言動からは想像も出来ないくらいに温かだった。

 

「……何が言いたいんですか。お前では無理だからもう諦めろと?」

「いえ、そうではないわ。貴方は優秀よ、それはこの私が認める。でもね……少し、気負い過ぎてはいないかしら」

「気負い過ぎ、など。そんなことは……」

 

 自分の何を諭そうとしているのか困惑して、つい喧嘩腰になってしまう。

 失礼な態度を取ってしまったにも関わらず、東条さんが気を悪くした様子はない。

 

 思っていたよりもずっと懐が深い女性だ、俺は彼女を誤解していた。

 しかし、気負い過ぎか……。確かにそうだな、俺は気を張りすぎているんだろう。

 

 いつだったか、沖野さんにも以前似たようなことを言われた覚えがある。

 ベテランのお歴々からすれば、俺という男はどうにも余裕がなく見えて仕方ないらしい。

 

 ――そうだとしても、譲れないものがある。

 

「……いえ、貴方の言う通りです。俺はあいつの夢を叶えることに躍起になっている……けれど、それの何が問題なんですか?」

「それ自体には何も問題はないわ。そうは言っても、度が過ぎれば話は別よ。あまりにものめり込んでしまうのは悲劇にも繋がりかねない。夢を叶えたけれど彼女が再起不能になった、では意味もないでしょう」

「あいつが怪我をした原因は既に突き止めました。骨折などもうあり得ません」

「……はぁ、頑固者ね。もういいわ、じゃあ最後に一つだけ聞かせて頂戴。……貴方は、なぜそこまで彼女の夢を叶えようとするの?」

 

 まるで教師が出来の悪い生徒に対して嘆くような、そんな仕草で東条さんが頭を軽く振る。

 そして普段通りの冷徹な眼差しに戻り、質問をしてくる。

 

 なぜあいつの夢を叶えたいかなど、そんなことは決まっている。

 

「ただ俺が、そうしたいからですよ」

「……ふぅん」

「別にあいつのためだなんて奇麗事を言うつもりはありません。あれだけ夢にひたむきなら、叶えてやればさぞ喜ぶと思いませんか? 俺は、そのときの光景が見たいだけなんです」

 

 東条さんの言うように、夢が破れたところで全てが終わるわけじゃない。

 どんなに才能がある奴だって、完全に理想通りの夢が叶うなんてことは殆どないから。

 

 きっと、もし夢が叶わなかったとしても新しい夢や目標を掲げてあいつは前に進んでいくんだろうな。

 思いっきり泣いた後で……悔しさや悲しさを乗り越え、それを糧にして成長するだろう。

 

 そうやって一つの夢が終わったら、また次の夢を描いて歩いていくんだ。人生が終わる――その時まで。

 

(――だが。やはり幼い頃に抱いた、最初の夢を叶えられるに越したことはないだろ?)

 

 義務感でも責任感でもなく、ただ俺がそうしたい。

 いつもバカみたいに笑っているあいつが理想通りの夢を叶えたなら、きっとこちらが呆れるくらいの笑顔を見せてくれるに違いないからな。

 

 つまりは結局俺自身のためだ、誰かのために身を粉にして働くなんて柄じゃない。  

 

 俺のそんな答えに東条さんがほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから穏やかに薄く微笑んだ。

 

「そう……見た目と違って意外に情熱的なのね。でも、そういうことはあまり担当の子には言わない方がいいと思うわよ。長くこの世界でトレーナーを続けたいのならね」

「こんなこと本人には言えませんよ、調子に乗らせるだけですし」

「……どうかしら、貴方の場合気付かずに言っていそうだけど。まぁこれ以上はこちらには関係のないことか。じゃあ私はこれで失礼するわ、時間を取らせて悪かったわね」

「いえ、有意義な時間を過ごせて感謝しています。リギルのトレーナーと討論する機会なんて滅多にない」

 

 そうして去っていった東条さんの背中を見ながら思う。

 夢は形を変えていく、か……。強い実感の籠った言葉だった、きっと彼女は多くの夢が破れた場面を見てきたんだろうな。

 

 そのたびに挫けずに歩みを止めなかった者でないと、あのような台詞は出てこない。

 あれが最強チーム、リギルの東条ハナ。いずれは彼女にも追いついてみせよう。

 

 しかし……何かあいつの顔が見たくなってきたな。

 残っている仕事をある程度処理したら、少し足を運ぶとするか。

 

 

 

「遅いよ、遅すぎるよ! 普通愛バが入院したら真っ先にお見舞いに来るよね!? もうすぐ夜じゃん!」

「悪い、ちょっと偉いヒトと互いの思想をぶつけ合っていたんでな」

「わけわかんないこと言って誤魔化さないでよ! 明日からはちゃんと余裕が出来たらすぐに来てもらうからね!」

 

 病室へ見舞いに訪れたが、テイオー様はご立腹だった。

 日が暮れてきた頃に面会に訪れたのが不満らしい。だが、こんな風に怒れる程の元気があるのなら心配はいらないな。

 

 周りを見渡すと、籠に入った色とりどりの花束が幾つも飾られているのが見受けられる。

 どうやら先客が何人もいるようだ。詮索するような野暮な真似はしないが、俺以外にもこいつを見舞ってくれる者が多いことを喜ばしく感じる。

 

「まぁそう怒鳴るな。見舞いの品としてこんな物を持ってきた、これをやるから許せ」

「あっ、もしかして果物!? 美味しそう……ねぇねぇ、遅れたお詫びにそれボクに食べさせてよ」

「……」

「ほら、見ての通りボクって怪我人じゃん? それなのに、わざわざ自分で取って食べるなんて大変でしょ? ならさぁ、どうすればいいかキミならわかるよね? だから――むぐっ!?」

 

 いちいちうるさい口に持ってきた果物をぶち込んでいく。

 食べやすいようにカットする必要性のない果物を選択したのは正解だった。苺や蜜柑などを即座に要望通り、こいつの口に詰め込むことが出来る。

 

 ……それから俺の対応に文句を垂れてくるこいつを宥めたりしているうちに、あっという間に時間は過ぎ去っていった。

 

 しばらくして最初の頃の不機嫌さが収まったテイオーが、不意に真剣な表情をして言う。

 

「あのね、トレーナー。ボク、昨日からずっとこれからのことを考えてたんだけど……聞いてくれる?」

「聞くだけなら構わんが」

「えへへ、ありがと。ちょっと長くなるかもだけど、ちゃんと聞いててね」

 

 テイオーが軽く息を吸う。

 

 その仕草に若干の不審さを感じた俺だが、気付いたときにはもう遅かった。

 

「まず退院してギプスが取れたら早速リハビリを開始してすぐに終わらせるんだ。しばらく走れないなんて我慢できないよ、菊花賞だってあるのに足踏みなんてしてられないからね。こんな怪我なんてパパーっと治して菊花賞で勝って、ボクは三冠ウマ娘になるんだから! 無敗の三冠ウマ娘になれたらやっとボクも憧れのカイチョ―に近付けたことになるよね! その後だってまだまだボクたちの夢は終わらないよ、ちゃんとついてきてよねトレーナー! シニア級になったらライバルのマックイーンと対戦したいな。レースでも勉強でも、マックイーンにだけは負けたくないし。春の天皇賞とか丁度いいんじゃない? ボクはどっちかって言うと中距離の方が好きだけどどうせなら相手の得意な長距離で勝ちたいしね。後はジャパンカップとか宝塚記念、有馬記念とかも制覇したいなーっ、勝ちたいレースが多すぎて今からワクワクしちゃってるよ。それでトゥインクル・シリーズで一通りタイトルを取ったら次の舞台はやっぱりドリームトロフィーだよね。憧れのカイチョ―をそこで超えるんだ。カイチョ―はすっごい強いウマ娘だけど、ボクたち二人ならきっと超えられるよね。ううん、絶対に超えてみせる! それからそれから――」

「…………」

 

 テイオーの長口上はまったく止まる気配が見えなかった。

 長すぎる、なんだこれは……。俺は一体何を聞かされているんだ。

 

 てっきりリハビリについてや何か今後の意気込みのようなものを語るのだと思っていた。

 だが、こいつの口から飛び出てきたのは全てが砂糖菓子で出来たような甘ったるい青写真。

 

 もう帰っていいか? 俺はお前の描いた幸せな未来予想図を聞くために、わざわざ忙しい合間を縫って来たわけではないんだが。

 

 昨日は去り際こいつに「余計なことは考えず、今はただ休め」とだけ言っていた。

 だというのに余計なこと考えすぎだろ、ちゃんと休め。

 

(とりあえず、こいつが明るく笑えるようになったならもう何でもいいか)

 

 そうやって前向きに考えながら、俺は長すぎるこいつの話を聞き流した。



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第十八話

 それは、去年のある冬の日の出来事。

 担当ウマ娘であるトウカイテイオーが、俺の部屋に入り浸るようになった後の話だ。

 

 隣を歩いているテイオーが、溜め息を吐きながら嘆いた。 

 

『最近冷えるねっ! あーあ、どうせなら雪でも積もってくれればいっぱい遊べるのになぁ』

『そんなに寒いなら中にいればよかっただろう、わざわざ無意味に外に出る必要はない』

『そりゃ部屋でもゲームとか漫画とか、遊べるものはたくさんあるけどさ。やっぱり外に出て身体を動かすのが一番楽しいじゃん』

 

 その日は特に冷え込む日だった。天気予報によれば、今年一番の寒さらしい。

 道理でやたらと寒く感じるわけだ。吐息は白に染まり、身体も自然と縮こまってしまうような、肌を突き刺すような空気。

 

 本当に雪が降ってもおかしくはない――そんな日に、こうして何時間も外を連れ回されているのだから堪ったもんじゃない。

 何か用事があるのであれば、付き合ってやるのもやぶさかではないのだが。ただの散歩だというのだからやる気も失せるというものだ。

 

『大体、雪なんて積もってもただ邪魔なだけだ。お前も大人になればそれがよくわかる』

『トレーナーってば相変わらず捻くれたこと言うなぁ。雪だるまを作ったり、雪合戦したり出来るし楽しいじゃん。何事も楽しんでやるっていうのは大事だよ?』

『……ま、お前の意見にも一理あるのは認めるがな。雪が降っても歓迎しない奴がいるってことは覚えておけ』

 

 降り積もった雪を遊び道具に使う、そういう発想が子供だというんだ。

 こいつも相変わらず遊ぶことしか考えていないな。呆れたような、微笑ましいような何とも言えない気分に陥る。

 

 とはいえ、わざわざ言葉にしたりはしない。こいつの指摘の通り、自分の発言がつまらないことは自覚しているからだ。

 どんなことでも前向きに捉えられるのであれば、それに越したことはないからな。

 

 その点で言えば、こいつはいつも明るいし人生を存分に楽しめているようで何よりだ。

 もはやある種の才能だろう、そのポジティブな思考は嫌味抜きで羨ましく思える。

 

 そんなことを考えていると、急にテイオーが立ち止まった。

 

『あっ、プリだ! ねぇねぇトレーナー、一緒にプリ撮らない?』

『……一応聞いておくが。プリとはプリクラのことを言ってるのか?』

『そうそうそれ! せっかくだから一緒に撮ろうよ!』

 

 そう言って、テイオーが興奮した様子で街角に設置されている筐体をびしっと指差す。

 

 プリクラとは、筐体に内蔵されたカメラでその人物の姿を撮影し、シールに印刷された写真を得ることが出来る機械のことだ。

 フレームやスタンプ模様を入れたり、文字を書き込んだりと好みに応じて写真を加工できるため、若い女性を中心に人気を博している。

 

 テイオーだって年頃の少女であるし、別にプリクラを撮りたがること自体はいいのだが……。

 その行動に、今度こそ俺は呆れの感情を隠すことが出来なかった。

 

 なぜならさっきこいつが指し示したものは、プリクラなどではなかったからだ。

 

『お前……あれは証明写真を撮る機械だぞ』

『……へ? 嘘、だよね?』

『本当だ、嘘だと思うのなら確かめてみればいい。自分の行動がいかに滑稽か思い知るぞ』

 

 俺の言葉を聞いて、テイオーが慌ててその筐体の元へと駆けていく。

 間違いを認めたくないのか、何度も何度も周りを確認している。しかし、やはり事実は覆せないのでやがて呆然と立ち尽くした。

 

 そんなテイオーの仕草があまりにも可笑しかったので、俺はせせら笑いを抑えずにゆっくりと近付いていく。

 

『くく……プリクラは流石に勘弁だがな、証明写真なら撮ってやってもいいぞ。こちらの方はまだ使い道があるからな』

『も、もうっ! しょうがないじゃん! だってボク、一度もプリなんて撮ったことないし!』

『そんなもの今時は小学生だって知ってるぞ。仮に知らなかったとしても、証明写真の機械と間違えるなんてことはないだろうよ』

『トレーナーのいじわる! ボクが失敗するとすぐそうやってからかってくるんだから!』

 

 羞恥のためか、テイオーの顔が見る見るうちに赤くなっていく。

 そんな自分をこれ以上見られたくないのだろう、足早に何処かへと歩き去ろうとしていた。

 

 俺としてはこのまま帰宅してもいいのだが、膨れたままのあいつを放っておくと翌日の練習に差し障りが生じてしまう。

 拗ねてしまったお嬢様の機嫌が直るまでは、大人しく後をついていった方が賢明か。

 

(それにしても、まさかプリクラの機械もわからないとはな……)

 

 先程のテイオーの言動を思い返すと、わずかに頬が緩んでしまう。

 世間知らずにも程がある、あいつくらいの年齢の少女なら誰でも知っているような――。

 

 ……いや、待て。

 

 誰でも知っているようなことなのに、なぜあいつは知らなかったんだ? 遊ぶことが好きで、友人だって多いはずのトウカイテイオーが。

 普通に同じ年頃の友達と一緒に遊んでいれば、必ず何処かで知っていくであろうことを知らなかった理由、それは……。

 

 そうやって思考を重ねていくと、ある一つの結論が導き出されてしまう。

 俺は後悔した。あいつをからかったことにではない、その事実に気付いてしまったことをだ。

 

 ――つまりトウカイテイオーは、俺が思っていたよりも()()()()()()()()()()()()のではないか?

 

 かつての記憶を掘り起こしてみれば、初めて声を掛けた時は遅くまで自主練をしていた。

 主な趣味であるカラオケやダンスゲームだって、ウイニングライブに直結しているし夢と無関係ではない。

 

 祭りだって手慣れている様子ではなかった、それに加えて決定的なのが先程の行為。

 ……年頃の少女らしい遊びを控えてまで、夢に集中していたという証拠じゃないか。

 

 あいつは、最初から本当に夢に真剣だったんだ。俺がただ、今までずっと気付いていなかっただけで。

 

(クソ、こんなことに気付かなければよかった。もしくはこれが、ただの考えすぎであればどれだけいいか。知ってしまえば――)

 

 知りたくなかった事実に気付いてしまい、俺は思わず顔を歪めた。

 こんなことを知ってしまえば、否が応でも入れ込んでしまうのは避けられない。

 

 あいつは天才肌でレースでも勉強でも余裕でこなす優等生。

 休日は遊びにも全力で取り組んで、公私ともに非常に充実した毎日を送っているのだと思っていた。

 

 だが、そうではなかったのかもしれない。天才であるのは間違いないが、それと同時に私生活を犠牲にした努力家だったのだろう。

 そして、そんな少女が時間を削ってまで一緒にいたがる俺という存在は――。

 

(……やはり、あのときの判断は間違いだったな)

 

 テイオーと契約して最初のトレーニングが終わった日。

 あいつはしきりに俺と一緒に出掛けたがっていたが、何と言われようとも断るべきだった。

 

 あそこから徐々に関係性が深まっていってしまったのは疑いようがない。

 トウカイテイオーは、俺にとって少しばかり特別なウマ娘だ。それは認めよう、だがプライベートでまで親しくしたいと思ったことは一度もない。

 

 恐れていたのは契約を解除されることだけで、円滑に練習が行える程度の関係性があれば別によかった。

 トレーナーにとって初めての担当ウマ娘ってのは特別に感じるらしい、俺もその例に漏れずそれで判断を誤ったか。

 

 今更、テイオーを突き放すような態度を取ることなど出来ない。実利の面でもそうだし、感情の面でもそうだ。

 俺がここで露骨に距離を置けば、あいつはメンタルに支障をきたし練習どころではなくなってしまうかもしれない。俺自身もあの少女のそんな姿を見るのは心が痛む。

 

 そうだ、こうなってしまってはもう手遅れだ。ならば逆にこの友好関係を利用すればいい、これを絆として力に変えてもらえば、あいつはさらに強くなる。

 言い訳のように自分に言い聞かせ、急ぐように先を歩くテイオーの手を取って引き留める。

 

『ぴぇ、トレーナー!? 急にどうしたの?』

『……先を行かれて迷子になられても面倒だからな。あまり離れるな』

『そっか……。えへへ、こうすると冬でもあったかいね』

 

 テイオーが嬉しそうに、その感触を噛み締めるように俺の手をそっと握り返す。

 軽く呼び止めるだけのつもりだったが、意図せず手を繋ぐような形になってしまった。

 

『……手袋越しなんだ、温かさなんて感じないだろう。とにかく、もう手を放すぞ。……ぐっ! バカな、外れないだと……!?』

『にっしっし! いくらトレーナーが凄くても、ウマ娘のボクに力では敵わないよ!』

 

 なんとなく気恥ずかしくなって手を振りほどこうとすると、万力のようなとんでもない力で握りしめられる。

 隣を睨むと、犯人であるテイオーが悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。

 

『トレーナーの方から握ってくるなんてびっくりしちゃったよ。だったら、ボクも遠慮なくキミと手を繋いで歩けるね!』

『お前という奴は本当に……!』

 

 先程からかわれた意趣返しも兼ねているのだろう。俺がどれだけ手を放そうとしても絶対に阻止してくる。

 少し仏心を見せるとすぐにこれだ。まったく、こいつには油断も隙も見せられないな。

 

 そうして、俺はこいつの気が済むまで手を繋いだまま街を歩くという刑罰を科された。

 こんなことばかりしているから、必要以上に担当ウマ娘と距離が近くなってしまっているんだろうな。

 

 だが、俺はまだまだトレーナーとしては未熟なんだ……試行錯誤を繰り返すのは事前に織り込み済み。

 どうするのが適切であるかはわかってきた――次はもっと、上手くやるさ。

 

 

 

 欧米では、仕事とプライベートのオンオフがきっちりしている人物が多いらしい。

 オンオフの切り替えとはつまるところ、思考に緩急をつけることだ。誰であっても長時間集中し続けることは出来ない、時間を効率的に使うには休むことも必要となる。

 

 だから休日に一旦仕事を忘れ、リフレッシュするのは理に適った行為である。

 疲れたならそれで心身を休め、次の日に備えた方が結果的には仕事も捗るからだ。

 

 そんな考えで商店街を当てもなく歩いているが、まったく気分が紛れている気がしない。

 理屈はわかっていても……中々思い通りにいかないことはあるというわけだ。

 

 せっかくの休日だというのに、街を歩きながらも仕事のことばかり考えてしまう。練習内容やいかにテイオーの脚の消耗を抑えるか、菊花賞の後の出走計画についてなど。

 トレーナーとしての思考が無数に流れ込んでくる、我ながら大した仕事中毒だ。

 

 これなら寮でいつも通り論文でも読んでいた方がいくらかマシだったかもしれない。もしくは、テイオーのお見舞いに行ってみるとかか。

 けれど、前者はともかく後者に関しては気が進まなかった。あいつの見舞いになんてそれこそ毎日のように訪れている。

 

 テイオーには他に見舞いの客も多いが、トレーナーである俺も行った方が当然喜ぶだろう。むしろ、行かないと逆に機嫌を損ねてしまう。

 しかし今日だけは気分が乗らなかった。去年の冬の一件を思い出してしまったからか、あいつと顔を合わせる気にならない。

 

 やはり寮に戻った方が有意義だと踵を返そうとしたそのとき、あるウマ娘の姿を見掛けた。

 

 ふわふわとした鹿毛のツインテールに、まるでクリスマスツリーのような特徴的な耳カバーをしているあの少女は――ナイスネイチャか。

 

「こんなところで会うなんて奇遇だな、ナイスネイチャ」

「あっ、テイオーの……トレーナーさん?」

 

 せっかくなので彼女に声を掛けてみることにした。

 たまにはテイオーではなく、他のウマ娘と話してみるのも悪くないだろうしな。

 

「これから何か用事でもあるのか? だったらすぐに消えるが」

「いやぁ、別にそんなのはないけどさ。でもそっちこそいいの? アタシと話し込んでたことをテイオーが後で知ったら怒るかもよ?」

「怒らせておけ、どうせあいつはちょっとしたことで怒るんだ。この程度のことは誤差だろう、この前なんて――」

 

 心配そうにしているナイスネイチャに、少し前に起こった犬の写真集を発端としたいざこざを話す。

 自分で話していてあまりにもバカらしいが、それくらいあいつの言動は予想できない。

 

「えぇ……。そりゃ凄いわ、いろんな意味で……」

「言っておくが、そんなことは割と日常茶飯事だからな。いちいち気にするだけ無駄というものだ」

「うーん、もう少し気を付けた方がいいんだろうけど、今更な気もするし……」

 

 話を聞いたナイスネイチャがドン引きしていた。

 気持ちはよく理解できる。俺だって、他人から同じ話を聞かされたら似たような反応になるだろう。

 

「なぁ、ナイスネイチャ。よければ少し一緒に歩かないか? お前は俺たちにとって競争相手の一人だが、特にデータ収集などの下心はない」

「そりゃ天下のテイオー様が担当ウマ娘だもん、アタシなんかのデータはいらないよね。つまりこれはデートのお誘いってわけか、固そうに見えてトレーナーさんもやりますねぇ」

「ま、そういうことだ。ウマ娘ってのはどいつもこいつも美人だからな、お前が隣にいれば景色も華やかになる」

「そんな調子の良いこと言って、後でテイオーがどうなっても知らないよ? ……ていうか最悪の事態になったら、アタシのことだけはフォローしといて」

 

 最後の台詞を言ったときのナイスネイチャの表情は、とても真剣なものだった。

 随分と大袈裟な奴だな。あいつは確かに嫉妬深いが、どうせ子供らしい癇癪しか起こさないというのに。

 

 ――こうして、ナイスネイチャと休日の一時を過ごすこととなった。

 

 ともに過ごしていてわかったことがある。それは、ナイスネイチャがとても親しみやすいウマ娘だということだ。

 トウカイテイオーのように明るく元気に溢れているわけではないが、気が利いているし話がしやすい。

 

 斜に構えていてやや自己評価が低い点が見られるが、その落ち着いた雰囲気は好感が持てる。

 商店街の連中から至る所で声を掛けられていたのも頷ける、地元のちょっとしたアイドル的な存在なのだろう。

 

 ナイスネイチャのおすすめの料理店で食事をした、その帰り道。もう学園も近い、寮が別である以上はそろそろ別れの時間だ。

 そんなタイミングで彼女は、おずおずと言いにくそうに話を切り出した。

 

「あ、あのさ……。テイオーって菊花賞に出られるんだよね?」

「――もちろんだ、全治3か月ならば充分出られる。何としても俺があいつを出させて、そして勝たせる」

 

 出走させるだけならば容易いことだ、ただ安静にさせていればいい。

 それは最低条件、問題は菊花賞に出させたうえで勝利を掴み取れるかどうかだ。

 

 東条さんが今の俺を見たらまた眉を顰めるだろうな、入れ込み過ぎだと。

 そんなことは言われなくても理解している――だが今回だけは、あいつだけは。

 

 決意を秘めた俺を横目に、ナイスネイチャはほっとした笑みをこぼした。

 

「よかったぁ。柄にもなく頑張ってるのに、その肝心の相手が出ないんじゃ空回りもいいとこだしね」

「……お前も菊花賞に出る予定なのか?」

「うん、まだ出走条件は満たしてないんだけどね。どうしても、菊花賞でテイオーに勝ちたいって思っちゃったからさ。こんなスポ根、アタシには似合わないと思ってたんだけど……」

 

 あはは、と照れくさそうに頬を掻いているナイスネイチャだが……。

 シニカルな態度の裏側、その瞳の奥に宿っていた熱い炎は、彼女もまた勝利を求めるウマ娘であることを証明していた。

 

()()()()()トレーナーさん。トレーナーさんに聞くのもどうかと思うけどさ……。どれだけ頑張っても勝てないかもしれない、そんな努力ってやっぱり無駄なのかな」

「……」

「勝つのは才能に恵まれた主役で、いつも輝いててさ。脇役には眩しすぎて、きっと手が届かない。それくらいはわかってる。わかってた、つもりなんだけどなぁ……」

 

 ナイスネイチャが悲し気に目を細め、そして強く拳を握りしめる。

 才能の差という厳しい現実を突きつけられ、それでもなお勝利を諦めたくないと全身で叫んでいた。

 

 彼女の言うことは至極もっともだ。どんな努力をしようがどれだけ苦しもうが、この世界は結果が全て。

 生まれついた才能がある奴が勝利していくし、殆どの場合でその差を覆すことは出来ない。

 

 凡人が1を学んでいる間に、天才は10かあるいは100のことを学んでしまう。凡才しか持たない者が、勤勉な天才に抗う術はない。

 理不尽なことが多すぎるんだ、この世界は。そうでなければ、スカウトであんなに――。

 

 とにかく、ナイスネイチャの言っていることは正しい。

 ……正しいが、全てではない。

 

「陳腐な台詞で悪いが、無駄かどうかなんて他人が決めることじゃない。決めるのはお前自身だ。どうしても諦めたくないのなら、迷わず挑戦するべきだ」

「え……?」

 

 俯いていたナイスネイチャが、はっとしたように顔を上げた。

 悔し涙を堪えているような、その瞳がぱちくりと何度も瞬きをする。

 

 俺がこんな激励のようなことを言うのが、あまりにも意外だったのだろう。

 確かにテイオーのトレーナーという立場としても予想外だろうし、性格的にも似合っていないと感じるだろうな。

 

 とはいえ俺もトレセン学園のトレーナーなんだ、悩めるウマ娘の背中を押すのも仕事内容のうちだ。

 高い給料をもらっているんだ、時間外勤務だが給料分くらいは働いてやろう。

 

「やらなければ後悔するし、すぐに物事を諦めてしまっては逃げ癖にも繋がるぞ。この世界は、結果を出さないと意味がない。だからこそまぐれだろうが偶然だろうが、最後に結果さえ残せればいいんだ」

「後悔する、か……」

「そうだ。お前が諦めてさえいなければ、挑戦することは無意味なんかじゃない。どれだけ絶望的に思えることだって、やってみると案外なんとかなるものだ」

 

 俺が、トウカイテイオーをスカウトしたときのように。

 一度目はもちろんのことだが、二度目にしたって勝算なんてまるで見えなかった。

 

 最初と比べれば話が出来ていただけマシになっていたが、新人の俺があいつのお眼鏡に適う保証なんて何処にもなかったから。

 けれど、どうしても諦めたくなかったからスカウトした――それだけの話だ。

 

「……大事なのは、挑戦する心を忘れないことだと俺は思っているよ」

「アタシだって、いつかはきっとって思っちゃってるけどさ。それでも……諦めずに追いかけ続けても、ずっと勝てなかったら?」

「ずっと一つのことを追いかけられるってのも、なかなか幸福だと思うがな。ま、それでも疲れたのなら――そのときは、また新しい何かを見つければいいさ」

「――そっか」

 

 俺からしたら、夢を持ってそれに向かって進めるだけでも幸福に思える。

 夢は叶わないことが多いし、そうなったときの嘆き悲しむ姿は見ていて辛いが……。

 

 追いかけているときの輝く姿を見ると、きっと夢を持てて幸せだったんだろうなと感じるようになった。

 それに、東条さんが言っていたように――夢に破れたり疲れたのなら、その願いの形を変えていったっていいんだ。

 

 沈んでいたナイスネイチャが何処か吹っ切れたような、晴れやかな表情になる。

 そしていつものシニカルな笑みを浮かべ、からかうように言ってくる。

 

「……トレーナーさんってさ、結構熱いんだね。それに優しい、こうやってテイオーのことも虜にしちゃったわけか。よっ、女誑し!」

「バカらしい……。あいつは勝手に懐いていただけだ、俺は何もしていない。そんな戯言が言えるならもう大丈夫そうだな、俺はこれで帰るぞ。今日は付き合ってくれて感謝している」

 

 ナイスネイチャと別れ、単身で帰途につく。

 あれであいつが活力を取り戻し、大きな障害となったとしても構わない。

 

 ――そのときは、高い壁になったあいつを俺たちが乗り越えるだけだ。

 

 

 

 

 

 

「いぇーい! ここで会うのは久しぶりだね、トレーナー!」

「――来たか、テイオー」

 

 元気な挨拶とともに、テイオーがトレーナー室に入ってきた。

 松葉杖を突きながら器用にピースサインをして、快活な笑顔を見せてくる。

 

「やっと退院できたよ、病院ってもう退屈で退屈でしょうがなくってさーっ!」

「退院早々騒がしい奴だな、もう二週間くらい休んでた方がいいんじゃないか?」

「またまたぁ、ボクがいなくて寂しかったくせにーっ!」

 

 俺の皮肉をまったく気にする様子もなく、テイオーが機嫌良さげに近付いてくる。

 入院生活の10日間がよっぽど堪えたのか、いつもよりもテンションが高い。

 

 これからの予定について早速話していきたいのだが、この様子では後回しだな。

 入院前と何も変わらず、ただ無邪気な言動に肩を竦める。

 

「退院してはしゃぎたくなるのはわからんでもない。だが、それでもお前はもう少し落ち着きを持ってもいいかもしれんな。この前ナイスネイチャと会ったが、あいつは歳の割にしっかりしていて感心したよ」

「……この前?」

 

 俺のその言葉を聞いて。ぴくり、とテイオーの耳が動く。

 先程までの態度がまるで嘘のように、一気にその表情から笑顔が消えていった。

 

「ナイスネイチャは良い女だったな。料理も得意らしいし、家庭的なウマ娘だ。あいつを嫁にもらう男は幸せ者だろう、お前も見習ったらどうだ?」

 

 そうやって、ナイスネイチャを例に挙げて俺はテイオーを挑発していく。

 こんなことを言えばテイオーが反発するのは火を見るより明らかだ。だが、あるいはいつもの嫉妬心が対抗意識に変わり、プラスの効果をもたらすかもしれない。

 

 加減を間違えれば、火遊びでは済まなくなる危険な賭けだ。しかし、焼死体になることを恐れていては何も始まらない。

 ……大事なことは、困難でも恐れずに挑戦していく勇気を持つことなのだから。

 

「……ねぇ、それどういうこと? お見舞いに来なかった日があったけど、もしかしてネイチャとデートしてたの? ボクが一人寂しく入院してる間に?」

 

 テイオーの目から徐々に光がなくなっていく。……やはり駄目だな、今回はもうここで切り上げておくか。

 これ以上煽ると、火傷で終わればまだマシな事態を招いてしまうだろう。

 

「さて……無駄話はこの辺にしておこう。俺たちの今後の練習計画などについて話していくぞ。お前ももう頭を切り替えろ、これは大事な話なんだ」

「今の話よりも大事なことなんてボク達にはないでしょ! ボクに隠れてネイチャと何してたのか、ちゃんと全部話してもらうからねっ!」

 

 トレーナー室でテイオーと騒ぎ合う。何度も繰り返してきた、いつも通りのことではあるが……今日は、ひどく懐かしく感じた。

 

 まったく、随分と待たせてくれたものだ。

 ここからまた走り始めよう――お前の抱く、輝かしい夢を叶える道を。



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第十九話

「お前がいない間に、今後の予定について簡単にまとめておいた。今から一緒にそれを確認していきたいんだが……」

「……」

「……おい、ちゃんと聞いてるのか? 大事な話だと言っているだろう」

「……ふんだっ!」

 

 俺の言葉にまともな返事をしようともせず、テイオーがそっぽを向いた。

 完全に拗ねている。不愉快な態度をもはや隠すこともせず、視線も決して合わせない。

 

 無事に退院したこいつがトレーナー室に意気揚々とやってきた直後、俺が言い放ってしまった迂闊な一言のせいだ。

 こいつのよくわからない嫉妬心を利用して、対抗意識を刺激すれば良い変化をもたらすかもしれない。

 

 そんな程度の軽い思いつきだったのだが、結果はご覧の有様だ。最初にここに来たときは鬱陶しいくらいのテンションの高さだったのに、今では見る影もない。

 すぐに失敗だと悟り、前言を撤回したのだがそれでこいつの機嫌が直るはずもなく……今のこの状況に至ってしまっている。

 

 あまりにも浅はかな、程度の低い行いだったと言わざるを得ない。テイオーが相手だとつい口が軽くなってしまうことも多いが、今回は限度を超えていた。

 そもそも、他者を自分の思い通りに動かそうという目論見自体が誤りだったのだろう。おかげでせっかくテイオーが退院したのに、いきなり険悪な雰囲気だ。

 

「……トレーナーってさ、結構浮気性だよね」

 

 ずっと押し黙っていたテイオーが不機嫌そうに口を開いた。

 その唇は尖っており、態度もぶすっとしているが……。どんな形であれ、ようやくコミュニケーションを取れそうなことに内心で安堵する。

 

「ボクがちょっと目を離すとすぐに他の子の練習とか見てあげちゃうし、意外に悩んでるウマ娘の相談とかも乗ってあげてるしさ。それにこの前だって、ボクに内緒で犬の写真集なんて買ってるし……」

 

 いや、そこに何か悪いところあるか? 担当しているテイオーが不在のときに暇つぶしで他のウマ娘の面倒を見てやることはあるが、むしろ褒められて然るべき行為だと思うが。

 あと犬は関係ないだろ、犬は。写真集に関してはただの一個人の趣味趣向なんだから、それくらいは好きにさせろ。

 

 そう言ってやりたい気持ちで溢れかえっていたが、そんなことをすればますます事態の収拾がつかなくなるので心の中に押し込める。

 

「ボクはね、トレーナーなんて選び放題だったんだよ? キミも知ってると思うけど、この最強無敵のテイオー様には、スカウトがいっぱい来たんだから。そんなボクとこうやって契約できてるんだから、トレーナーはもっとその幸運に感謝してボクを大事にするべきだよ」

 

 テイオーの愚痴は尚も続いている。先の俺の言動がよほど腹に据えかねているのだろう、言いたい放題とはまさにこのことだ。

 普段から溜まっていた、些細な不満もこの機会に放出している勢い。確かにこいつの言うことにももっともな部分はある。

 

 トウカイテイオーは自他ともに認める天才で、才気に満ちたウマ娘だ。トレーナーを自身の好きに選べたというのは誇張でも何でもなく、純然たる事実。

 才能に恵まれた者は、当然だが大抵の場合自分に自信がある。能力があれば自然と良い結果はついてくるし、周囲の目線も好意的になるからだ。

 

 こいつはその実力に相応しく、気位もかなり高い。常の天真爛漫な仕草に目を奪われがちだが、テイオーは自己に対する確かなプライドを持っている。

 そんな自分が蔑ろにされていると感じたのだから、文句の一つや二つは言ってやらねば気が済まないのだろう。

 

 俺としては、こいつを自分なりに丁重に扱っているつもりだった。トレーナーになる以前までの俺であれば、ここまで他者に対して気を配ることなどなかったしな。

 だが、それも相手に対して伝わらなければ何の意味もない。改善していく必要性があるのかもしれない。

 

 つもりだと言って望んだ結果が出ていないのなら、それは何かが足りていなかったということに他ならないからだ。

 ただの自己満足で終わらせず、絶え間なく試行錯誤して研鑽を積み重ねなければ、頂点になどいつまで経っても登れない。

 

「……ていうかさ。『ネイチャは良い女だったな、お前も見習え』とか、そもそも退院してすぐの愛バに言うことじゃないよね。ホントありえないから」

「……ああ、その通りだな」

「どうせボクはネイチャみたいに家庭的じゃないよ、料理だってまだあんまり覚えてないし。それでも、トレーナーのために一生懸命頑張ってるのに……。こうやって怪我して走れなくなっちゃったら、もうどうでもいいってことなのかな」

 

 そこまで言うと、テイオーの顔に憂いの影が差した。その視線が悲しげにギプスに覆われた、骨折して動かせない脚へと向けられていく。

 走ること、勝つことを本能で求めるウマ娘にとってそれがどれ程の苦痛であるか……。ヒトの俺には、その心情を推し量ることすら出来ない。

 

 未熟な俺の無力さが引き起こした罪の象徴、思わず目を背けたくなるような光景がそこにはあった。

 しかし、そこから逃げるような真似だけはしない。これを糧にして、必ず這い上がってやる。

 

「――違う、そんなことはない」

「……ふぇ?」

 

 力強い俺の否定に、テイオーが素っ頓狂な声を上げる。

 今までの不満もこのときばかりは忘れてしまったような、そんな彼女の様子にも構わずに俺は先を続けていく。

 

「俺はどうでもいい奴をわざわざスカウトするほど暇じゃない。一度面倒を見ると決めたのなら、それを覆すことだってない。お前だから俺は選んだんだ――その事実は、今も昔も変わらない」

「そ、そっか……。もう、ネイチャとデートしてた浮気者のくせに口だけは達者なんだから」

 

 テイオーの頬が朱に染まっていき、ぷいっと顔を逸らす。

 恥ずかしいことを口にしている自覚はある。けれど、自分の気持ちは相手に伝わらなければ意味がないのだと悟ったばかりだ。

 

 今は担当ウマ娘と仲違いなんてしている場合じゃないんだ。こいつに笑顔が戻るのなら、この程度いくらでも言ってやる。

 トレーナーと担当ウマ娘、一心同体とまではいかずとも気持ちは同じでなければ出来ることも出来なくなってしまう。

 

「先程の発言に深い意味はない、だが著しく配慮に欠けていたものだったのは認めよう。とにかく、俺は悪くないなどと見苦しい言い訳をするつもりはない。すまなかった、テイオー」

「……はぁ。そんな真剣に謝られたら許すしかないじゃん。ボクが悪者みたいになっちゃうし」

 

 先の行いについては完全に俺に非があったため、真摯に謝罪する。

 トレーナーとして、大人として。自身の過ちは素直に認めなければ、ウマ娘を導く資格などなくなってしまう。

 

 間違いを犯すことよりも、それを認めずに正当化しようとする方がよっぽどみっともない。

 いつでも、誰に対しても胸を張れるような自分でいたかった。

 

「悪い、だが俺が言うのもなんだが気にすることはないぞ。お前にも良いところはたくさんあるからな」

「……ふーん。じゃあ良いところってさ、例えばどこ?」

「――は?」

 

 今度は、俺が間の抜けた声を出す番だった。

 そのような返しが来るとは予想だにしていなかったためだ。いつもだったら、この辺で良い感じに話がまとまるのだが。

 

 テイオーが値踏みするような目で俺を見てくる。言葉では許すと言っておきながら、こいつはまだ納得しきってなかったのだろう。

 

「たくさんあるんならさ、ボクの良いところを言ってみてよ。ボクの何処が好きなの? もちろん、ネイチャよりもいっぱいあるんだよね?」

 

 尋問するかのような勢いで要求を投げ掛けてきた。こいつの望み通り、その問いに答えなければこの場は収まりそうにない。

 

 なんだこいつ面倒くさいな。

 引き金を引いてしまった俺が全て悪いのは重々承知のうえだ。それでも、素直な感想としてそんな風に思ってしまう。

 

 何も言わず、ただ散歩をして餌を与えていれば喜んでくれる犬はやはり至高だな。こいつが卒業したら、すぐにでも家を手に入れて飼いたいものだ。

 こいつの担当が終われば、もはや誰に憚ることもなく自由に犬を可愛がっていくことが出来るわけだし。

 

 卒業して環境が変わってまで、テイオーが同じように俺に付き纏うことはまずないだろう。わずかに寂しさを感じなくもないが、こいつも結構な飽き性だ。

 いつもよりも手こずりそうなため、そうやって解決の前に思考に休息を入れていく。

 

 しかし今回もそうだが、トレーナーになってからは上手くいかないことばかりだ。

 就任直後のスカウトはいきなり難航、ようやく契約した担当ウマ娘との距離感も上手く掴めない。挙句の果てには、あれだけ念入りに注意していたのに骨折させてしまう始末。

 

(――だが、それでこそだ)

 

 こんなに物事に苦戦したことは今までなかった。全力を尽くしたとしても尚届かないかもしれない、それのなんとやりがいのあることか。

 目標達成が困難であればあるほど、成し遂げたときの喜びもまた大きくなる。

 

 少し不謹慎かもしれないが、このような状況において俺は不甲斐なさと同時に楽しさも見出していた。

 結局は今までと同じように結果を求めていくだけだが、これならいつも以上に充実した日々を送れそうだ。

 

 ……とりあえずまずやるべきことは、やけに濁った瞳で見つめてくる担当ウマ娘の機嫌を元通りにすることからだな。

 

 

 

「えへへーっ、トレーナーがそんな風に思ってくれてるなんて知らなかったなぁ。そういえば、これからのことについて話すんでしょ? 早速始めよっか!」

 

 上機嫌になったテイオーがにやにやしている、今にも歌い出しそうな様子だ。

 

 ……あれから。こいつをこの状態にするのにどれだけの時間を掛け、どのような言葉を投げ掛けたのかについては、もはや語りたくもない。

 第三者からすれば、レースしか知らない純粋無垢なウマ娘を言葉巧みに操っているように見えるかもな。

 

 だが、実際には俺の方がこいつに振り回されている。今回は俺の失言が原因であるものの、それを抜きにしてもこいつは相当な逸材なのではないだろうか。

 ウマ娘という種族自体がトレーナーを独占したがる性質を持っているのか、それともテイオーが特別嫉妬深いのかは知らんが。

 

 後者であればそれはそれで問題だが。むしろ前者であった方が厄介だ、もしそうなら今後の身の振り方をよく考えた方がいいかもしれん。

 新しくウマ娘を担当するたびにこんな調子では、いくらなんでも俺の精神が持たない。いずれはチームを設立して複数人を指導する立場だからな。

 

「その話をしていく前に、大前提として共有しておくべき情報がある。お前の――その脚についてだ」

「……うん」

「……はっきりと結論から言えば。お前の脚は、おそらく折れやすい」

 

 そうして、テイオーに対して俺が立てた仮説を説明していく。

 

 テイオーは身体が柔らかく、関節の可動域が広い。通常ならそれでカバーして怪我をしにくくなるが、同時に骨に掛かる負担も大きくなる。

 脚へのその負荷が徐々に蓄積されていき、最終的に折れてしまったのではないかということ。 

 

 こちらとしてもケアを怠っていない筈だったが、見積もりが甘かったことも隠さずに全て話していった。

 笑顔が消えたテイオーは、俺の話をただひたすら無言で聞いていた。

 

 やっとの思いで機嫌を直させたのに、それが無に帰ったような光景。とはいえ、いずれは向き合わなければならないことなら早い方が良い。

 今は時期が悪いと問題を先延ばしにしていくことは、殆どの場合で良い結果に繋がらない。

 

「……ボクも、おかしいとは思ってたんだよね。あれだけトレーナーが慎重に計画を立ててくれてたのに、あんなにあっさり折れちゃうんだもん」

「……」

「もう、そんな顔しないでよ。ボクは大丈夫、そうかもしれないって覚悟はしてたから」

 

 あはは、とテイオーが朗らかで溌溂とした笑みを浮かべる。

 それが空元気であることは一目瞭然だった。そうかもしれないと考えてはいても、実際にそれを他者に叩きつけられるのは心に突き刺さる。

 

 だが、こいつが大丈夫だと言うのなら慰めることも同情することもしない。

 そのような余計な気遣いはかえって失礼に当たる、俺はただこいつが倒れないように支えていればいい。

 

「あんなに、トレーナーが気を付けてくれたのにね。脚だっていっぱい触られちゃったのに……。ほんと、いつも触ってくるから、ただボクの脚を触りたいだけかと思ったこともあるよ?」

「……お前の言い方には大抵語弊があるな。ただのマッサージなだけで他意はないし、加えるとお前の身体に興味もない」

「最後の言葉わざわざ加える必要あった!? トレーナーは相変わらず失礼すぎるよ!」

 

 努めて普段と同じようにバカらしいやりとりを行う、そうしていれば普段通りになれるのだと信じて。

 いや、違う。深刻なことは何もない――こんなものは笑って乗り越えよう。

 

「これからは、お前の脚部不安を念頭に置いた計画を立てる。リハビリ後は練習内容やレース間隔を抑えて様子を見ていくが、そこはあらかじめ了承しておいてくれ」

 

 テイオーに今後のスケジュールをざっと記した書類を渡す。

 それには菊花賞までとそこから先、大きく二つに分けた簡単な予定を記した。

 

 ただあくまでも予定表に過ぎないため、これから如何様にも変化する可能性がある。

 状況は常にとめどなく流動していく、そのときに応じて細かく変化させ臨機応変に動かなければならない。

 

 それでも、あらかじめ大まかな指針を用意することは決して無駄にはならない。

 内容についてはもちろん口頭で説明していくが、形として残るものもあった方が理解の助けになるだろう。

 

 テイオーは俺の作成した書類の束をちらりと一瞥だけすると、すぐに俺の方に向き直った。

 自分の今後を左右する予定なのに、まるで読もうとしない。もうとっくに座らせているから両手は好きに使える筈なんだが。

 

「わかった、そういうのは全部キミに任せるね。ボク、トレーナーのこと信じてるから」

「良い子だ、その期待は裏切らないと誓おう。だが何かあったら遠慮なく言え、こちらの意見を一方的に押し付けたくはない」

「うんっ!」

 

 褒めるように頭を撫でると、眩しい笑顔でやけに良い返事が返ってきた。

 こういうときは素直なんだが、急に態度が豹変するときがあるのが困る。いつもこうだったら俺も楽に仕事が出来るんだが。

 

 トレーナーと担当ウマ娘というのは、どうあっても互いの絆が求められる。

 どちらかが無理を強いて我慢させてしまう歪な関係では、トゥインクル・シリーズを走り抜けることなど到底不可能だからだ。

 

 その点俺たちはどうなんだろうか、きちんと絆を結べているのか?

 俺としてはしっかり結べているのだと信じたいところだが、とてもそうは思えない状態に陥ってしまうケースが多々あった。

 

「あれ? ねぇ、他にはボクに何か言うことないの?」

 

 テイオーがなぜかそわそわしている。ちらちらと上目遣いでこちらを見て、何かを期待しているような仕草だ。 

 これはまたしょうもないことが始まるな。そんな嫌な確信があったため、溜め息をつくのを抑えながら俺は訊ねることにした。

 

「……何かとはなんだ」

「ほら、『俺を信じてついてきてくれ、俺から離れるな』とかさ」

「その流れはこの前やっただろ、何度同じことを言わせるつもりだ」

「それくらいいいじゃん、そういう嬉しい言葉は何度だって聞きたいからねっ!」

 

 テイオーが途端に無駄にはしゃぎ始めた、だが流石にこれ以上は付き合っていられない。

 現状や今後の予定をただ話すだけなのに、それだけで一体何分掛かっているんだ。

 

 自分にも大きな責任があるから強くは言えないのだが、いくらなんでもあまりにも時間の浪費がひどい。

 怪我をしたから走れないとはいっても、こいつにはやるべきことなど山のようにある。

 

 レース知識の吸収や対戦相手になりうるウマ娘のデータ確認、といった座学でもいい。チェスや将棋で俺と対戦して頭の回転を磨いてもいい。

 あるいはダンベルでも用意して脚に負担が掛からない、上半身の筋力トレーニングでもいい……とにかく、時間はいくらあっても足りない。

 

 ……しかし、退院直後の今日だけは。少しくらい休息に充ててもいいか。

 詭弁に過ぎないのはわかっているが、担当ウマ娘と親交を深めるのもそれはそれで大事なことだからな。

 

 今のように無邪気な姿と、先程見せた嫉妬深い姿。

 それがまるでコインの表と裏のように激しく入れ替わる愛バをあしらいながら、俺はそんなことを思う。




最近は忙しく小説を書くどころではなかったのですが、まだ忘れずに見てくださっている方がいるのを確認して活力が湧きました。

いつも読んでくださる方、感想や誤字報告を送ってくださる方、本当にありがとうございます。


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第二十話

「なるほど……それでは、トウカイテイオーさんのリハビリは順調に進んでいるということですか?」

「はい。もうギプスは取れてつい最近機能回復訓練を始めた所なのですが、経過としては予定通りに進んでいますよ。菊花賞への出走は十分に間に合う範囲です」

 

 梅雨が本格化を迎えてきた6月の終わり頃。

 季節が夏へと向かい徐々に気温が高くなってきたことに加え、雨量が増えることでじめじめとした空気が鬱陶しいこの時期。

 

 俺は、トレーナー室で記者から取材を受けていた。

 今は午前中のため、担当ウマ娘であるテイオーは授業の真っ最中だ。このフリーな時間を利用して、俺たちトレーナーは様々なことをこなす。

 

 トレーニングメニューの作成や出走計画の見直し、学園に提出する書類の作成、人手が足りなければ教員の手伝いをすることだってある。

 このマスコミへの取材応対も午前中にやるべきことに含まれる――テイオーとの練習が始まる午後までには、全ての雑事を終わらせなければならない。

 

 テイオーが骨折してからおよそ一か月の時が経過した。

 折れた脚の骨はもうくっついたために固定具であるギプスは外れ、今はリハビリに取り組んでいるところだ。

 

 骨がくっついたからといって、すぐに歩けるようになるわけではない。

 出来上がってすぐの骨はまだまだ脆いため、強い負荷が掛かるとすぐに折れてしまう。それに、長い間動かさずに固定されていた脚は著しく筋力が低下している。

 

 実際、テイオーは最初自分の脚で立つことすら出来なかった。

 ギプスが取れて喜び勇んでいたあいつの顔が、一気に苦いものに変わるのを見たのは記憶に新しいが……それが普通なんだ。

 

 再生したばかりの骨に負担を掛けないように、まずは立つことから始めていき、そこから徐々に歩行訓練へと移行していく。

 まともに歩けるようになって、松葉杖が不要になるのはさらに一か月は必要だと考えていいだろうな。こればっかりは焦っても仕方がない……じっくりと、慎重に行わなければ。

 

(――あんなことは、もうたくさんだ)

 

 テイオーが骨折したあの日に抱いた絶望は、今でも胸に焼きついて離れない。

 

 何もかもが順調に進んでいると思っていたが、全て俺の思い上がりだった。

 不幸中の幸いというべきか、なんとか菊花賞には間に合いそうではある。もしも、さらに骨折の度合いが酷かったら……そう考えるだけで肝が冷える。

 

 ……この失敗を俺は忘れることはないだろう、だからこそ今度は欠片も油断しない。

 

「あ、あの……どうかされましたか? お顔が少し……」

「――いえ、なんでもありませんよ。あまりこういう取材にはまだ慣れていないので、緊張してしまいまして」

 

 心配そうに声を掛けてくる記者に愛想笑いを浮かべる。

 

 記者は、「そうですか」とほっと胸を撫で下ろした表情へと変わった。しかし、なるべく顔には出さないようにしていたというのに随分と目ざとい……流石に記者というだけはある。

 この記者の名は乙名史悦子(おとなしえつこ)。月刊雑誌『月刊トゥインクル』を編集している若い女性記者だ。

 

 流れるような長く美しい黒髪をした奇麗な女性で、蹄鉄型のペンダントと常に肩に掲げているショルダーバッグが特徴的である。

 礼儀正しく誠実で、物腰も柔らかく、勤勉でその知識も並みのトレーナーを凌駕すると言われるほどに豊富。

 

 これだけなら眉目秀麗な容姿に加えて、穏やかで優秀かつ仕事熱心という、およそ非の打ちどころのない人物に聞こえるだろう。

 そこで終わってくれたなら何も文句はなかった。俺も男だ、彼女のような美人と話すのはもちろん嫌いじゃない。

 

 いつもは騒々しい子供ばかり相手にしているから尚更そう思う。それだけに本当に惜しいことに、この記者には多くの美点を台無しにするような悪癖があるのだが……まぁいい。

 

 そこからは、当たり障りのない世間話のような会話をした。

 

 基本的には俺が担当しているテイオーについての話題だ。彼女がいかに優れているか、どれだけファンに復帰を望まれているか。

 今年度のクラシックロードの主役とも言える彼女が、三冠制覇への最後の舞台である菊花賞に出走できそうで本当に幸いだということなど。

 

(主役、か……)

 

 熱心に俺の担当ウマ娘を誉め立てる、乙名史記者の口ぶりが軽く引っ掛かる。

 

 前に話をしたナイスネイチャのことが頭に浮かんだからだ。レースに出れば誰もが平等の立場であるし、主役も脇役もない……言うなれば誰もが主人公。

 誰だって自分のレースや人生においてはそいつが主役であるというのに、そんな言い方ではまるでテイオーの勝利しか望まれていないように聞こえてしまう。

 

 当然、ただの言葉の綾でこの記者にそんな考えは微塵もないだろう。俺がテイオーを担当しているからこう言っているだけで、他の相手の前でも変わらず礼を尽くすはずだ。

 くだらないことを思案するのはもうやめにするべきか。そもそもテイオーが主役であり、大勢のファンが勝利を望んでいるというのなら好都合じゃないか。

 

 テイオーのために、そして俺自身のために……障害になるものは踏み潰す。

 

 ナイスネイチャや他のウマ娘にどれだけ譲れない願いや尊い夢があるのだとしても、どんなことをしても叶えたいと感じるものは俺にもあった。

 

「ところで、貴方はご担当しているウマ娘と非常に仲が良いそうですね。休日ではよくトウカイテイオーさんと一緒に出掛けることも多いとか」

「えぇ、まあそうですね。とてもありがたいことに、彼女はこんな未熟な自分を慕ってくれていまして……。シューズなどのスポーツ用品を共に買いに行ったりしています」

「ふむふむ、トレーナーと担当ウマ娘の関係はレースにも影響することですからね。仲が良好なのは何よりなことです」

 

 乙名史記者がふと思いついたように訊ねてきたので、当たり障りのない返事をする。

 正直に言えば慕われているのか舐められているのか区別がつかないし、一緒に出掛ける用事だってしょうもないことが多い。

 

 だが、あいつとの関係性に問題がないのだと外にアピールするのは重要である。

 クラシック三冠制覇にあと一歩というところまで迫った天才ウマ娘、そんな彼女を骨折させてしまったのは経験も実績もない新人トレーナーときた。

 

 世間の人々はこれを聞いて果たしてどう思う? 誰だって少なからずこう思うはずだ。

 何も知らない無能な新人が、加減もわからず無茶なトレーニングを重ねて将来有望なウマ娘を潰した――と。

 

 実際に、それは全て間違っているわけではないのが頭の痛いところだ。

 怪我はどうしようもない事故のような側面もあるが、それでもトレーナーが注意深く観察していれば防げることだって多い。

 

 担当のウマ娘を骨折させておいて、ただの事故だったで済ませるような奴はクズだ。

 ウマ娘は自動車並みの速度で走行する。つまり転倒時の事故は命に関わる危険があるのだから、怪我だけは絶対に防がなければならなかった。

 

 本来ならどのような悪評であっても甘んじて受け入れるべきではあるが、それでも余計な横槍を入れさせるわけにはいかない。

 俺とテイオーにはしっかりとした信頼関係があり、アクシデントはあったものの今は二人三脚で再起に向けて励んでいる――周囲にそう思わせる必要があった。

 

「特に、今のテイオーはあんな状況ですからね。彼女が無事にレースに復帰し、三冠の栄誉を掴み取るために……。私は、彼女を支えて出来うる限りを尽くすつもりです」

「――! な、なんと……」

 

 俺の言葉を聞いた乙名史記者が驚きで目を見開き、小刻みに震える。

 そして、勢いよく音を立てて座っていた椅子から立ち上がったのを見て。俺は、いつもの病気がまた始まるなと辟易した。

 

「今、出来うる限りとおっしゃいました……!? す、素晴らしいですっ!!」

「……」

「脚の負担を少しでも和らげるために特製のシューズをご自分で開発・製作し! 精がつくようにディナーは必ず三ツ星レストランで食事を行い! さらには休みの日には疲労を癒すために日本各地の秘湯巡りまで行うつもりなんてぇ……!!」

「……」

 

 乙名史記者が持っていたペンを俺に突き付け、ひどく興奮した面持ちで叫んでいる。

 

 彼女は取材に熱が入ってくると、今回のようにこちらの発言から物事を深読みしすぎて、勝手に拡大解釈するという嫌な癖がある。

 美人で知識も豊富であり優れた女性だが、これが唯一にして最大の欠点だった。

 

「貴方にそこまでする覚悟がおありだなんて、感服いたしましたぁ……!!」

「……ははは、まぁそれほどでも」

 

 完全に自分の世界にトリップしている相手に対し、乾いた笑いで返す。

 こうなってしまってはこちらが何を言ってもロクに話を聞かないからだ。それなりに長い付き合いになるが、やはりこの記者はやばい。

 

 とにかく、この様子なら放っておいても俺に不利になる記事は書かないだろう……ならば、もはやこの程度は些事だ。

 状況を好転させるために利用できるものは全て利用する、全力を尽くすというのはそういうことなのだから――。

 

 

 

 

 

 

「やっぱりこの部屋は落ち着くねーっ、まるで実家のような安心感!」

「……おい、ソファに寝そべるのはだらしないからやめろ。少しは家主に遠慮したらどうだ?」

「まあ細かいことはいいじゃん、トレーナーの部屋ってことはボクの部屋でもあるわけだし」

 

 休日の昼下がり。

 

 寮にある俺の自室でともに昼食を終えると、腹が満たされて眠くなったのかテイオーがソファにごろりと寝そべった。

 その傍若無人な様子に呆れつつ注意するのだが、横になったままふざけた返事が寄こされる。というか何が実家のような安心感だよ。

 

 ここは俺の部屋であって断じてこいつの住処ではない。もっと正確に言えば俺のものですらなく、学園の所有物件を貸与されているだけだ。

 こいつは最近脚を固定していたギプスが取れ、代わりにサポーターへと変わった。それほど脚を気にしないでよくなったために調子に乗っているのだろう。

 

「それに前々から言おうと思っていたんだが、私物をいくつも置いていくのもよせ。歯ブラシだのコップだのはきちんと持ち帰れ、俺の部屋をお前の私物で埋めるな」

「えぇー……でもさ、いちいち持ち帰るのって面倒じゃない? どうせ何度も来るんだから、むしろこの部屋に置いてった方が『合理的だし効率がいい』よね、トレーナー!」

「くだらないことばっかり学びやがって……」

 

 テイオーが憎たらしいほどに良い笑顔を俺に向ける。

 

 何事も合理的に、効率的に行うべきだ――それは俺の口癖だし、ポリシーのようなもの。

 可能な限り無意味な行動を避け、最大効率で物事を進めることこそ結果に繋がる。そう教えてもいるが、こいつの自堕落な行動を正当化するものではない。

 

 この部屋には現在、テイオーの私物が溢れている。

 先に話題に挙がったような歯ブラシやコップ、外出用の服や靴。さらにシャンプーやウマ尻尾用のオイルなど様々な物が置かれており、もう誰の部屋なのかわからなくなりつつある。

 

「……楽をすることと、物事を効率的に行うことは似て非なるものだ。『急がば回れ』という言葉もあるように、目的を達成するためには遠回りが必要になる場合だってあるぞ」

「ふっふっふ、心配は無用だよトレーナー! こうすることで、ちゃーんとボクの目的達成には繋がってるんだからっ!」

「バカは休み休み言え。俺の部屋をお前の私物で満たすことで、何の目的が達成できるというんだ……」

 

 にやりと得意げに口の端を上げるテイオーだが、俺としては以前よりも口が減らなくなったことを嘆きたい気分だった。

 元々小生意気な部分はあったが、誰の影響か余計に屁理屈をこねるようになってきた。

 

 こいつは純粋無垢だしひたむきでまっすぐな分、好きになったものには一途になり染まりやすい一面がある。

 かつて“皇帝”シンボリルドルフの勇姿に魅せられ虜になったように、心を奪われたものに対して多大な影響を受ける傾向が見られる。

 

 大方、漫画かゲームに出てきた登場人物の真似でもしているのだろう。わかりやすいし単純な奴だからな。

 

「まぁ今回はこの辺にしといてやる。他にもお前に言いたいことがあるからな、というより次に言うことが本題だ」

「はぁ、また小言かぁ……。流石にちょっと多すぎるよ、エアグルーヴじゃないんだからさ」

「そう思うならもっと態度を改めてほしいもんだが……。とにかく、真面目な話だから寝てないで普通に座れ」

 

 ぶーぶーと文句を垂れるテイオーをソファに座らせ、会話がしやすいように俺もその脇へと腰を下ろす。

 ……すると。ささっと迅速にテイオーによってその距離が詰められ、両者が密着した状態となってしまう。

 

 近すぎると話しにくいため邪魔で仕方がないのだが、いちいち指摘するのももう億劫だった。

 何事も合理的かつ効率的に行うべきだ、と胸中で便利な呪文のように繰り返す。

 

「これからは、俺とお前にとって最も大事な時間となる。だからこそ、食事における栄養管理にも気を配っていきたい。つまり何が言いたいかというと――食事制限を行う、ということだ」

「しょ、食事制限ってもしかして……。マックイーンがよくやってるスイーツを我慢する、みたいなやつのこと!?」

「平たく言えばそうだな。好きなものを好きなだけ食べるのではなく、身体に必要な栄養素のみを摂っていこうという話だ」

 

 テイオーがまるで雷にでも打たれたかのように、激しい衝撃を受けた顔をする。

 こいつは高カロリーのにんじんハンバーグばかり食べたり、山盛りのデザートを平らげたり、甘すぎるはちみつドリンクを愛飲したりと不健康極まる食生活だったからな。

 

 それが出来なくなるかもしれないとなれば、当然ショックも一際大きいだろう。

 しかし、こいつの食事はあまりにもスポーツ選手のものとはかけ離れ過ぎていた。その天才性からある程度は目を瞑っていたが、今の状況ではもう許可は出来ない。

 

 好物を我慢させ調子を落とすリスクを抱えて、無理に栄養管理を行っても良いことはないと以前までは判断していた。

 だからこそ、程々に栄養が摂れているのを確認した後は、食生活に対して必要以上に口を挟むのは控えた。

 

 頑健な肉体を形成するには、適切なトレーニングを行うと同時に十分な栄養素を摂取する必要があるが、そこまでしなくてもこいつなら勝てるはずだと慢心して。

 

 ――愚かな思考だった、今では間違いだと断言できる。

 

「で、でも、ボク……いくら食べても太らないから大丈夫だよ?」

「太らないからって何でも好きに食べていいわけじゃない。トレーニングと栄養はセットで考えるべきものだ。いくらしっかりしたトレーニングを積んでも、栄養が不足していれば意味がないからな」

「それはわかるけどさ……だけど、今さらになってこんなの――」

「――違うな、むしろ今だからこそだ。お前の脚部不安が判明した今だからこそ、栄養管理を徹底的に行う必要が出てきたんだ」

 

 よほど食事制限が嫌なのか、テイオーが表情を曇らせてぐずる。

 こいつは旧家の令嬢であるし、何不自由なく暮らしてきたはずだからな。食べたいものを我慢するという経験自体がないのだろう。

 

 しかし、今回の件だけは何としても了承してもらわなければならなかった。

 身体を動かしているエネルギー源は食物から摂取される。皮膚や骨、内臓や筋肉、髪の毛のその一本一本に至るまで……身体の全ての組織は栄養素から出来ている。

 

 適切な栄養摂取をしないでトレーニングに励んだところで効果は薄い。俺はこいつの才能に目が眩み、それを軽視してしまった。

 テイオーはその柔軟性や走法の問題でもあるが、他者よりも骨が脆いのは確かだ。だからこそ、丈夫な体を作るためにも、今まで通りの食生活を送らせるわけにはいかない。

 

 ……こいつはまだ子供だ。叶うなら好きなものくらい自由に飲み食いさせてやりたかったが、もうそれは出来ないんだ。

 

 不安そうな表情でこちらを見つめてくるテイオーに対し、穏やかに優しく諭していく。

 

「聞いてくれ、テイオー。栄養管理は大事なことなんだ。何も毎日ってわけじゃない、レース後には好きに美味いものを食わせてやる。誰にも負けない筋力をつけるため、そして怪我に脅かされない身体を作るため……今は食事制限は欠かせない。全ては勝つためであり、お前が夢を叶えるためだ――わかるな?」

「夢を、叶えるため……。うん、わかった。ボク、トレーナーの言う通りにする」

 

 辛抱強くテイオーへの説得を続け、ようやく彼女の首を縦に振らせることが出来た。

 このようなことを無理強いしても何の意味もない。俺が断行してもおそらくこいつは従っただろうが、好物を我慢させられるのがやがてストレスへと変わり心身に悪影響が出るだけだ。

 

「あ、あのさ、食事制限はボクも仕方ないって思うけど……。でも、一つだけ聞いてもいい?」

「なんだ? 遠慮せずに言ってみろ」

 

 こいつにしてはおずおずと言いづらそうに質問してくるので、努めて微笑みを作りながら問い返す。

 彼女にとっては大きな決断だったのは間違いないため、それに免じて大抵のことは文句を言わずに受け入れるつもりだ。

 

「ねぇ、はちみーは? はちみーも飲んじゃ駄目なの? ボク、はちみーがないと死んじゃうよ!」

「……はちみーは、別に飲んでもいい。ただし、あまり飲み過ぎるなよ」

「――トレーナー! ボク、信じてたよ! トレーナーは絶対にボクにそんな酷いことは言わないって!!」

「……」

 

 感極まったのか、瞳に大粒の涙を浮かべたテイオーに抱きつかれる。

 何がその心に響いたのか知らないし知りたくもないが、もう何でもいいと思考放棄して俺はされるがままになっていた。

 

(なんなんだこの茶番は……)

 

 時々、俺は自分がトレーナーなのか保育士なのか、わからなくなるときがある。

 とにかく、これでテイオーも適切な栄養素を摂ることに同意してくれた。怪我のリスクはさらに一段階低下したわけだ。

 

 一歩ずつ、だが確実に歩いていこう。

 失敗を恐れず、前に進むことをやめなければ――必ず、望んだ結果はついてくるはずだから。



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第二十一話

 8月も間もなく半ばを迎える。

 うだるような厳しい暑さが続き、辺りに響くセミの鳴き声が鬱陶しく感じられる季節。

 

 暦の上では秋とされているが、現実として秋の訪れを感じるのはまだまだ先になるだろう。

 まさに猛暑と言える――そんな夏の日、俺は学園の室内プールでテイオーのトレーニングを見ていた。

 

 指示した距離である500メートルを瞬く間に泳ぎ終えたテイオーが、プールサイドにいる俺の傍まで泳いでやってくる。

 滑らかで無駄の少ない動きだ。骨折から二か月以上が経過し、既にジョギング程度なら軽くこなせるほどに脚の機能は回復してきた。

 

「よーし、終わりっ! ねぇトレーナー、タイムはどうだった?」

「前と大して変わっていない。そう焦るな……水泳は脚への負荷は少ないが、だからってまだ無茶をするのは禁物だ」

「それはわかってるけど……。でも、皆はこうしてる間も合宿で頑張ってる。ボクたちただでさえ遅れちゃってるのに、悠長になんてしてられないよ……もっと練習しなきゃ」

 

 そうぼやいたテイオーの顔からは、現状に対する焦燥感が滲み出ていた。

 

 現在、トレセン学園は夏季休暇の真っ最中だ。

 7月から8月にかけてのこの長期休暇は、通常であれば大多数の生徒が夏合宿に参加する。

 

 海辺にある宿泊施設を学園が借りて、生徒も教員も泊まり込みで激しいトレーニングを連日で行う――それが夏合宿。

 俺たちも去年は夏合宿に参加して、それまでとは一段も二段も違う成長をすることが出来た。

 

 しかし、今年は当然不参加だ。脚の骨折がまだ完全に治りきっていないのに、合宿になど行けるわけがない。

 合宿が始まった7月頃のテイオーは、満足に歩くことさえ出来ていなかった。そんな状態では行っても何も出来ないどころか、かえって逆効果にすらなる。

 

 学園に在籍する大部分の生徒は合宿へ向かうが、それでも全員がそうではない。

 俺たちのように怪我のリハビリに励んでいる者、あるいは引退して次のステージを見据えている者などそれぞれに事情がある。

 

 そのような者のために、学園は夏季休暇の間でもいつも通り開放されている。

 流石に人手が足りなくなるため一部機能は縮小されているが、それでもこうやって普段通りの練習を行うには何の支障もない。

 

 まぁ、両親との折り合いが悪く実家に帰りたがらないウマ娘だっているんだ。そのような者のためにも、この学園は夏休みに閉鎖されていないのだろう。

 うちの理事長はウマ娘の健全な教育のためなら、どんな努力でも厭わない情熱的な人物だからな。

 

 しかし、本音を言えば夏合宿に参加できなかったのは痛かった。

 基本的に、ウマ娘はレースの少ない夏で大きく能力を伸ばす。夏を終えた頃には別人のような成長を遂げている者だって少なくない。

 

 そんな重要な時期でこうやって足踏みしているなど……。俺自身、口ではテイオーを諫めてはいるがこいつが焦る気持ちもよくわかる。

 だが、それでもなお急ぎ足になるのは危険すぎる。本当に恐れるべきことは、足踏みではなく後退――再度の骨折だ。

 

 それに足踏みも終わりつつあり、最近はゆっくりとだが先へ進んでいる――優先順位を決して間違えるな。そうやって、血気に逸りそうになる気持ちを落ち着ける。

 とはいえ、怪我を恐れすぎて大した練習が出来ないのも問題ではあるか。結局のところ、身体に負荷を掛けなければ筋肉は鍛えられない……大事なのはリスクを見極めることだ。

 

「……なら、お前の要望に応えて今日はもう少し量を追加するか。あまり怪我に怯えすぎても強くはなれないからな」

「やったっ! そうこなくっちゃ、早速もう一回――」

「待て待て、話は最後まで聞け。当然俺が何か違和感を感じたらすぐに止めるし、お前からも隠さずに何でも話してもらう。絶対に体調に関して俺に隠し事はするな」

「あはは! もちろんわかってるって、トレーナー! じゃあいってくるねーっ!」

 

 そう言うや否や、テイオーは豪快に水飛沫を上げて泳ぎ去っていった。

 

(……まったく、本当にわかってるのかあいつは)

 

 まさに水を得た魚のように、活き活きとしたその様子に思わず呆れてしまう。

 まだ怪我は完全に治りきっていないのだから、常に慎重に行動しろと再三言い聞かせているというのにこれか。

 

 俺もやや過保護になっているのかもしれないが、ハラハラしながら奴を見守るこちらの身にもなってほしいところだ。

 水中では浮力が存在するため脚への負担は地上よりも軽い。だから俺が神経質になっているだけだろうが、やはりああいう動きは心臓に悪いな。

 

 水泳は全身の筋肉が満遍なく鍛えられるし、体力も自然とつくためスタミナトレーニングにはもってこいだ。

 目標であるクラシック三冠の最後を飾る菊花賞は、距離3000メートルの長距離に区分されている。トウカイテイオーには、今までこのような長距離を走った経験がない。

 

 未知の領域では、いくら才能があっても存分に実力を発揮できるとは限らない。そのことも踏まえて考えると、体力はいくらあっても足りないだろう。

 だからこそ、水泳という脚を酷使しないトレーニングで徹底的にスタミナを鍛え上げるのは合理的であるのだが……。何処かで忌避感を感じてしまうのは俺の弱さ故か。

 

 芝のコースを全力で走りでもしない限り、まず大丈夫だと頭では理解しているんだがな。

 情けないことに、あのときの光景は軽いトラウマになってしまっているらしい。まあこの恐怖は必要なものだ、それも消え去ってしまえばいざというときの歯止めが効かないのだから。

 

「ふぅ、久しぶりに思いっきり身体を動かしたって感じだなぁ……。今までなんて、勉強とかリハビリとかばっかで全然思うように運動できなかったし」

 

 ……本日の練習もひと段落して。

 プールから上がったテイオーが、タオルで身体を拭きながらすっきりとした顔で呟いた。

 

「仕方ないことだが、水泳のタイムは以前と比べると振るわないな。こればっかりは徐々に身体を戻していくしかないか」

「そうだね、すっごく鈍っちゃってる。これからはもっと頑張らないと」

「何度でも言うが、焦りは禁物だぞ。まずお前がやらなきゃいけないことは、怪我を完全に治すことだ。また骨折すれば今度は走れなくなる恐れだってある、それは肝に銘じておいてくれ」

「……うん、わかってる」

 

 ウマ娘の本業は芝やダートを走ることであり、水泳のタイムなど本来関係はない。

 しかし今までよりタイムが落ちているというのは、どれだけ筋力が衰えてしまっているかの指針になりえるため、全て捨ておくのも問題だ。

 

 テイオーの叩き出した記録は、そこらのウマ娘では相手にならないものであるが、それでもこの優駿にしては満足のいかない速さだった。

 やはり脚の筋力だけではなく、そもそものスタミナも相当衰えてしまっている。これらを怪我する以前の状態まで戻し、さらに可能な限り上回るレベルに仕上げたいところだが……。

 

 もう菊花賞まで残り三か月を切っている、時間的にはかなりキツいスケジュールになりそうだな。だが、そのような難題だからこそ挑戦する価値があるというものだ。

 

 ここまでやってきてやはり駄目でした、など認められるわけがあるか。

 確実に、冷静に――何もかもを十全にこなしてやる。内心の不安も恐怖も、こいつの前では絶対に見せることをしないと誓う。

 

 俺がついている限り、必ず勝てるのだと思わせてやろう。それが嘘だろうが虚勢だろうが、そうやって安心させてやるのがトレーナーの役目だ。

 だから……そんな風に、影が差した表情をするのは今すぐやめろ。

 

「なぁ、今日の夜って何か用事はあるか? 連れていきたい場所があるんだ」

「……え? 別に特にないけど、なんか珍しいね、トレーナーから誘ってくるの」

「ま、たまにはな。学園と寮を往復するだけの毎日ってのも味気ないだろ、俺が良い場所へ連れてってやる」

「もちろんいいけど、トレーナーって意外にズレてるとこあるし、あんまり期待できないなぁ。ボクをがっかりさせないでよね?」

 

 小生意気な返答に「言ってろ」と吐き捨てながら、ともに室内プールを後にする。 

 さて、寮に戻ったら早速準備をしないとな。あれをこいつが気に入るかどうかはさておき、どんな形であれ息抜きは大事だ。

 

 

 

 夜の河川敷は、予想に反して人がまばらに点在していた。

 

 辺りはもう薄暗いというのにまだ元気に騒いでいる子供に、それを見守る保護者。仲睦まじく肩を寄せ合っている若いカップルなど、思っていたよりも先客が多い。

 夏休みだからだろうか、あまり他人のことは言えんが暇を持て余した連中は存外いるようだ。

 

「ねぇ、こんなところに連れてきてどうするつもりなの? 特に何もないけど」

 

 テイオーが不思議そうに周りをきょろきょろと見回す。

 良いところと言われて連れてこられたのが、馴染みの深い学園近郊にある河川敷ではそういう反応にもなるだろう。

 

「まぁもう少し待て、今から準備をするから」

 

 持参してきたバケツに川から水を汲み入れた後、鞄からあるものを取り出して点火する。

 細長い棒状をしたそれは、パチパチと音を立てながら暗闇に眩しい火花を散らした。

 

「わぁ、これって――」

 

 テイオーが一転して顔を綻ばせ、幼い少女のように瞳を輝かせる。

 使い終わったそれを水の入ったバケツに入れて消火しながら、その急激な変わりように苦笑する。たかがこの程度のものでそんなに喜んでくれるとは、安上がりもいいところだ。

 

 俺がさっき火を点けたのは市販されている花火――その中でも『手持ち花火』と呼ばれる種類のものだ。

 おそらく店で売っている花火と聞くと誰もが最初に連想するようなもので、その名前の通り手で持った細長い棒の先から火花が炸裂する。

 

 この周辺で花火がやれそうな場所は、この河川敷以外思いつかなかったからな。ここに連れてくるしかなかった。

 流石にロケット花火など、他者に危害が加わる可能性があるものは禁じられているが。それ以外のものであれば、厳重な火の始末やゴミの処理を条件に許可されている。

 

「所詮は子供の遊びで使うような花火だがな、暇潰し程度にはなるだろ」

「奇麗だね、トレーナーにしては気が利くじゃんっ!」

「まったく、お前も大概余計な言葉を加えたがる奴だな。……今年はあの祭りには行けなかったからな、ちょっとした罪滅ぼしみたいなもんだ」

「あっ……。覚えてて、くれたんだ――」

 

 熱っぽい目でまじまじと見つめられ、顔を背けて「たまたまだ」と素っ気なく返す。

 感激したようなその表情を直視するのはなんとなく面映ゆかった。こいつは感情表現が大袈裟なんだ、いちいち喜怒哀楽が急変しすぎる。

 

 去年のこの時期、夏合宿の合間にテイオーに頼まれて祭りに出掛けた。

 そのとき打ち上げ花火を一緒に見たのだが、来年また二人で見に行こうという、こいつとの約束を俺は果たすことが出来なかった。

 

 俺の未熟さがこいつの骨折を招き、合宿に行くどころではなくなってしまったからだ。

 別にまた一緒に花火が見たかったわけではないが、約束を守れなかったという事実は俺の心に棘のように突き刺さっていた。  

 

 おそらく、その痛みの名は罪悪感と無力感だろう。

 担当ウマ娘の些細な願いさえ叶えることが出来なかった……今回のこの行動は、それを少しでも解消したいという動機からでもある。

 

 普段とは違いテイオーは妙に大人しくなってしまったため、静寂が俺たちを包む。

 もっとバカみたいに騒いでくれることを望んでいたが、無駄なことを喋ってしまったか。

 

「そら、こんなのもあるぞ」

「おおーっ! なな、何これ!? いっぱい燃えてるよっ!」

 

 地面に置かれた筒状のその花火は、先端から炎や火花を出して盛大に燃えている。色とりどりの火花が舞い、まるで噴火山のように吹き上げるそれにテイオーも盛り上がっていた。

 このおかしな空気を素早く変えるために別の花火を用意したのだが、思惑通りになって安堵する。辛気臭いのは御免だからな。

 

「『噴出花火』だ。見ての通り火を点けるとこうやって派手に燃え上がる」

「へぇ……なんかすごいね。花火ってこんなのもあるんだ」

 

 テイオーが感心したような声を漏らす。

 いつものように賢しらにも見える態度ではなく、自分が知らなかったものを前にして驚きを隠せないといった調子だった。

 

「なんだ、この手の花火もやったことがないのか? 利き紅茶が出来るようなお嬢様には馴染みがないかもしれないが、俺たち庶民にはそれなりに知れ渡っている代物なんだがな」

「もうっ! すぐそうやってお嬢様だなんだってからかってくる! それくらい普通誰でもわかるでしょ、お嬢様っていうのはマックイーンみたいな子のことなんだから!」

「紅茶の違いが何でもわかるのは普通じゃないから言ってるんだ。お前のは既に立派な特技だぞ、存分に胸を張っていい」

「それ、ぜんっぜん褒められてる気にならないんだけど……」

 

 テイオーに向けていつものお嬢様弄りをすると、ジト目になって苦言を呈される。

 はっきり言って他人の出自に対して、このようにからかうのは趣味が悪いと理解しているのだがなかなかやめられない。

 

 偶然ではあるが利き紅茶が出来ると知ったとき、こいつには悪いが笑ってしまった。

 苦いものが嫌いでコーヒーでも緑茶でも駄目なら紅茶はどうか、そう思ってのことだったが意外すぎる特技だった。

 

 こいつの一番好きな飲み物は間違いなくはちみつドリンク。なのに、なぜ紅茶の細かい味の違いがわかるほどに詳しいのか。

 それは、実家が高級な紅茶の銘柄を豊富に取り揃えている、あるいは上流階級お得意のお茶会などに頻繁に出席していたからだと推測される。

 

 舌とは磨かれるものだ、普段から良いものを数多く味わっていなければ利き紅茶など到底出来るはずもない。

 それを容易くこなしている時点でこいつがお嬢様であるのは疑いようがないが、いつもの快活な様子とのギャップが俺を笑わせてくる。

 

 利き紅茶が出来る事実を知った日を思い返し含み笑いをするが、それをこいつに咎められ再び夜の河川敷で口論が始まる。

 そうやって担当ウマ娘とひとしきりじゃれ合っていると、急にテイオーが意を決したような表情になる。

 

「あ、あのさ、ぼ、ボク……! ボクね、キミの――」

「おいおいどうした、少しは落ち着け。大分掛かり気味になってるぞ、ひとまず深呼吸して息を整えろ」

 

 テイオーがこちらをじっと見つめ、盛大にどもりながら必死に何かを言おうとしてくる。

 しかし、こんな調子では伝わるものも伝わらないだろう。

 

 親切心からそう考え、とりあえず一旦落ち着かせようと、いつもの癖でぽんぽんと軽く頭を撫でたのだが。こいつは「うぅーっ!」とまるで子犬のように唸りながら睨んできた。

 

 やれやれ……随分と反抗的な目つきだな。例えるなら、飼い犬に手を噛まれる一歩手前の状況といったところだ。

 こうやって仏心を見せても結局相手には一ミリも届かないのだから、トレーナーとはつくづく孤独な職業だと感じる。

 

「トレーナーのバカ! どうしてトレーナーはいつもそうなのさ! せっかくボクが大切なことを言って、すごいお礼をしてあげようと思ったのに!!」

「……何をそんなに怒っている。それにその気持ちだけで充分だ、別に見返りが欲しくてやっているわけじゃないし仕事の延長でもあるからな」

「それでもボクは、トレーナーにお礼をしてあげたいんだよ。キミにはいつもたくさんお世話になってるから……。何か、ボクにしてほしいことってある?」

「お前にしては随分と殊勝な心掛けだが、本当に気持ちだけで満足なんだがな……」

 

 テイオーの瞳はいつになく潤んでいるため、本気で礼がしたいと考えているのだろう。

 そう思ってくれたこと自体は嬉しいが、別に彼女に何かをしてもらいたいとも思わない……俺はただ、当然の務めを果たしているだけだからだ。

 

 しかしそう言ってくれる担当ウマ娘の気遣いを無碍にするのもどうかと感じ、しばらく思案することにした。

 

 ……やはり特に浮かばないな。今まで欲しいものは全て自分の力で手に入れてきた。

 何よりお前の心配りから生じたその言葉だけで、俺にはもう充分すぎる。

 

「ならお前には、俺に関する評判を良くしてもらおうか。クラスでも生徒会でも何でも構わないが、『トレーナーはすごく優秀で親切なヒトです』とでも後でさりげなく触れ回ってくれ」

「まぁ、別にそうしてあげてもいいけど、まずは理由を聞きたいかな」

 

 冗談めかしてそう言うと、テイオーは露骨に眉を顰めた。事前に想定していたものとはまったく違った要求であったためだろう。

 俺は、その様子を意に介さずに先を続けていく。

 

「お前は学園の人気者だからな、単純に俺のイメージアップが目的だ。次に有望なウマ娘をスカウトするときに少しでも楽がしたい、流石に毎度毎度あんなに手こずってられん」

「……なにそれ、もう次の話? じゃあそんなこと絶対に言ってやらないから。『トレーナーは不愛想で口が悪くて女心がわからない』って言ってやるもん」

「おいおい、謂れなき誹謗中傷は勘弁してくれ。俺がお前と契約するまでどれだけ苦労したと思ってる、次はもっと手早く終わらせたいと思うのは当然の思考だろ?」

「あのときキミが契約できたのは優しいボクのおかげなのに、ふざけたことばっかり言ってるからだよ! 大体、ボクがいるのに次のスカウトのことなんて――」

 

 いつものように、くどくどと粘着質な長口上が始まる。

 明朗快活で何事にも物怖じしない、太陽のようなウマ娘。その一方でこいつにこのような一面が存在することを知っている者は、俺以外に誰がいるのだろうか。

 

 ま、これにももうだいぶ慣れた。こうなるのはある種の予定調和のようなものだ。まるで似合わない神妙な顔で、お礼がしたいだなんだと言われるよりはずっと据わりが良い。

 

 こいつには、既に多くのものをもらっている。

 今更他の何かを欲しがるほどに、俺は強欲でもないし恥知らずでもないからな。

 

 そうして俺は恒例になってきた、ウマ尻尾を荒ぶらせたテイオーを宥める作業に移る。

 星がやけに奇麗に見える、そんな夏の夜の出来事だった。



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第二十二話

「先日は本当に助かりました、トレーナーさん」

「いえ、大したことじゃないですよ。あの程度なら時間も掛からないですし」

「ふふっ、それは頼もしいです。でも、無理はなさらないでくださいね?」

 

 夏季休暇が終わり、暦が9月となってしばらくが経ったある日のこと。

 

 生徒が授業中である今のうちに、本日のトレーニング内容を見直そうと考えていたまさにそのとき、トレーナー室に来客があった。

 控えめで丁寧なノック音の後、俺の返事を聞いてから現れたのは――理事長秘書の駿川(はやかわ)たづなさん。

 

 この前忙しそうな彼女の仕事を軽く手伝ったのだが、それに対する御礼を述べるために来たそうだ。

 その場で感謝は伝えられたし別に大層なことはしていないというのに、なんとも義理堅いというか律儀な女性だと思う。

 

 もうカレンダーでは夏などとうに終わり、季節は秋へと変わっている。秋にはとにかくイベントが多い。聖蹄祭に、秋の代名詞であるハロウィン。お月見や紅葉狩り。

 後者に関しては個人規模で行うことがほとんどだが、前者の二つは学園を挙げて開催される大きな催し事である。

 

 ちなみに、『聖蹄祭』とはトレセン学園の生徒が主導となって催し物を企画・運営し、または参加するイベントのことだ。

 いつも応援してくれるファンに向かって、感謝の念を示す意味が大きいため『ファン大感謝祭』と呼ばれることの方が一般的である。

 

 要は普通の学園で言うところの文化祭だ。とはいえ、流石に生徒が全てを取り仕切るというわけにもいかず、俺たち教職に就いている者にも裏方の仕事が存在する。

 開催時期が間近に迫ってから、慌てて準備するのでは間に合わないしファンにも失礼だ。ハロウィンの時期とも近いため、早く全体の見通しを立てるに越したことはない。

 

 そんな事情もあって、たづなさんはそれらの下準備のために学園を忙しなく駆け回っていたのだが……。

 普段は沈着冷静に業務をこなす彼女でも、最近は余裕がなさそうに感じられたので見るに見かねて一部の仕事を肩代わりした。

 

 今回の件は、そのことに関しての改めての礼だそうだ。この女性には就任時に大いにお世話になったから、単なる恩返しのようなものなんだがな。

 

「それにしても、トレーナーさんは本当にご立派になられましたね……」

「……?」

 

 たづなさんが何処か遠い目をしながら呟く。

 感慨深そうな表情だった。昔世話をしていた子供が、いつの間にか大きくなっていたことを喜ぶ親戚か何かのような。

 

 どういうことか訝しむ俺の視線を察したのか、彼女は少し慌ててこう言った。

 

「ああ、申し訳ありません! 勝手に一人でしみじみとしてしまって……」

「別にそんなことは気にしないでいいですが、とにかく俺なんてまだまだですよ」

「ご謙遜はなさらないでください。初めて学園にいらした頃から貴方を存じている身としては、最近の立ち振る舞いには感激の念すら覚えます」

「……そう、でしょうか」

 

 たづなさんが自分のことのように誇らしげに、穏やかに微笑んでくる。

 後輩を可愛がっている……あるいは我が子を慈しむような母性すら感じられるその視線は、直視など出来そうもなかった。

 

「ご担当であるトウカイテイオーさんがあんなことになってしまい、期待していた周囲から心ない反応をされたこともあるかと思います。ですが、貴方はそんな状況でも決して下を向かずに走り続けている」

「……」

「さらにご自身が大変な時期であるにも関わらず、他人である私を気に掛けてくださった……まだ二年目の新人である、貴方がですよ? とてもお優しい方だと思いました――あまりにも優しすぎて、心配になってしまうほどに」

「……買い被りです。俺は、優しくなんて――」

 

 力なく否定する俺の言葉が、何処か虚しく部屋に響いていく。

 就任直後から思っていたが、なんなんだこの女性は。どういうわけか俺への評価がひたすらに甘く、ことあるごとに褒めてくる。

 

 本当に優しいのは貴方の方だろう。いつもやらなくていい仕事まで抱え込んで、見てて気分が悪くなるから少し手を貸しただけだ。

 大体、優しさなど何の役に立つ。優しいだけでは何も成し遂げられない。無能な善人ではなく有能な悪人が結果を出して成功していく、それが世の中だ。

 

 だからこそ、俺は俺のために行動している――くだらない勘違いはもうやめてくれ。

 

「……無理だけは、本当になさらないでくださいね? 手伝ってもらった私が言うのもなんですが、お疲れのようにも見えます。貴方が倒れてしまったら、トウカイテイオーさんだけではなく私だってすごく悲しいですから」

「――お気遣い、ありがとうございます。ですが今は追い込みの時期、多少の無理は通さなければ結果など出せないですから」

「そうですか……。じゃあ今度のお休み、気分転換で一緒にお出かけしませんか? 働きすぎはやっぱりいけませんからね。近所で良いラーメン屋を知ってるんです、お礼を兼ねて私が奢りますので!」

「い、いえ、それはちょっと……」

 

 俺の返答に一瞬だけ寂しそうな顔をした後、たづなさんはさも名案だとばかりに手を叩いてそう告げた。

 本来であれば、このような美しく心優しい女性と休日をともにすることは歓迎すべき事態ではあるのだが……。

 

 休日は資料研究などもあるし、何よりほぼ毎回欠かさずやってくる奴がいるため予定など空けられそうもなかった。

 無理にあいつの来訪を断って、後で何をしていたのか発覚した場合を考えると、たづなさんと出掛けるなどとても現実的じゃない。

 

 面倒ごとが容易く想定されるのに、わざわざ見えている地雷を踏みに行くなど愚か者のすることである。だからこそ俺は断腸の思いで、彼女の誘いを断ることにした。

 

「……すみません。休日は研究のため、レース見学に行くことになっていまして。また次の機会に誘っていただけると嬉しいです」

「――まあっ! レース見学ですか!?」

 

 断るために適当な理由をつけたのだが、たづなさんは妙な所に食いついてきた。

 いつも穏やかな彼女らしくなく、驚きに大きく目を見開いていき、その白い頬も瞬く間に紅潮していった。

 

「ぜひ、ぜひご一緒させてください! 何処のレース場で、どのレースを見学されるご予定なのでしょうか!? もし重賞だけ見て帰るというならそれはもったいないことですよ! それ以外のレースにだって熱いドラマがあるんです! そのことを貴方にもわかっていただきたい!」

「……す、少し落ち着いてください。貴方らしくもない」

「落ち着いてなんていられません! 私、これでもレースに関してはちょっとだけうるさいんです! 大事な大事な後輩である貴方が、レースの醍醐味をきちんとご理解なさっているか確認しないと! もしまだ重賞しか興味を感じられないのなら、ご理解いただくための努力は決して惜しまないつもりです! ですからレースを見学するというなら、ぜひご一緒させて――」

 

 たづなさんが非常に昂った表情で俺に迫ってくる。

 ウマ娘で言えば完全に掛かりまくっている、レースなら後半に耐えうるスタミナが残るのか懸念される状態だ。

 

 普段の彼女の姿とは程遠い様子、何処か既視感があると思ったが乙名史記者が暴走したときに似ていなくもない。

 俺の担当ウマ娘であるトウカイテイオーが、だらだらと湿っぽい仕草で不満を述べるときの面倒さにも近い。

 

 どうして俺の周りにはこういう女性が集まるんだ、頼むから冷静に話をさせてくれ。

 その点、以前に会話したナイスネイチャは癖がなく扱いやすいウマ娘だった。というか普通、あの手のタイプの方が多いはずだろ。

 

 俺はこの場を上手く切り抜けるための案と同時に、そんな益体もないことを考えた。

 

 

 

(くそ、思ったよりも手間取ったな……)

 

 レース見学という単語が出ただけで突然興奮したたづなさんを説得していたら、それなりの時間が過ぎてしまった。

 彼女は最後にはなんとか正気を取り戻し、しきりに俺に謝罪していたのだが。俺はもう不用意にあの女性にレースの話題を振ることはないだろう。

 

 失態で肩をがっくりと落としていた彼女に同情して、いつか一緒にレース見学に行こうという余計な約束まで交わしてしまった。

 テイオーのことを考えると気が重いが、たづなさんだっていつも世話になっている大切な女性だ――借りは返さなければ、俺の気が済まない。

 

 ビジネスの基本はギブアンドテイク、何かをもらったのなら対価を支払うのは当然だ。

 しかし、もう間もなくテイオーが部屋に来る時間だな。それまでには仕事を全て処理しておきたかったが、この分では明日に回すものもいくつか出てしまうだろう。

 

 テイオーの骨折は、今ではもう完全に治って芝でも全力で走れている。

 医者からもお墨付きをもらっており、また無理を重ねなければすぐに再度の骨折をすることはないそうだ。

 

 とはいえ、時速70キロで走るウマ娘にとってはただの練習だけで徐々に身体に負荷が積み重なっていく。

 ましてやテイオーの脚は一般的なウマ娘よりも折れやすい、これからも細心の注意を払う必要があるだろう。

 

 だからこそ、トレーニング内容に関しては一切の妥協が許されない。ただ適当に走らせていたのでは、いつかまた骨折してしまうのは明白だ。

 あいつの選手生命に大きく影響するため、これだけは見直しておかなければ。菊花賞ではスタミナがモノを言う、やはり走り込みやプール練習を増やすべきか?

 

 俺が見たところ、テイオーは明らかに中距離走(ミドルディスタンス)を最も得意としているウマ娘だ。

 スタミナを補強してやらなければ、長距離では最後の直線であいつの末脚を活かしきることが出来ないだろう。

 

 ただ、今まで数か月まともに走っていなかったためにスピードも衰えている。比重をどうするのかは難しい問題だな、まったく芝を走らせないというわけにもいかない。

 京都レース場で行われる菊花賞では、「淀の坂」と言われる高低差のある坂に二度も挑むことになる。その対策として、坂路トレーニングも増やさなければならないだろう。

 

 やるべきこと、したいことは枚挙に暇がない。何か効率的な練習でもあればと思案しているのだが、そのような都合のいいものも存在しないからな。

 目の前にあることを一歩一歩、確実にこなしていくしかないのが現状だ。

 

(それにしても……マズいな、本格的に眠くなってきた)

 

 たづなさんが退出してから、どうにも瞼が重かったのだがとうとう限界が近付いてきたか。

 これは別に彼女のせいというわけではない。元々、疲労困憊だったところに先のやりとりで最後のダメ押しが加わったに過ぎないものだ。

 

 俺がただ体調管理を誤っただけだが、何はどうあれもうテイオーがやってきてしまう。しかしこんな状態ではどうしようもないため、時間まで少し仮眠した方が賢明だろうか。

 

 ……そして最後の力でとある作業をしてから、襲い来る眠気に耐えきれず俺は瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

「ごめーんっ! ちょっと遅くなっちゃった! 今すぐ準備するから――あれ?」

 

 予期せぬ用事が出来て遅刻してしまい、慌ててトレーナー室へと駆け込むトウカイテイオー。

 そんな彼女が目にしたのは、作業机に突っ伏して寝ている自身のトレーナーの姿だった。

 

 珍しいことにぐっすりと熟睡しており、滅多なことでは起きそうもなかった。

 自身がそうなってしまうのを予見していたのか、傍には『来たらすぐに起こせ、必ずだぞ』というメモ書きがまるでダイイングメッセージのように置かれている。

 

(疲れてるんだ。そうだよね、ボクがあんなことになっちゃったから……)

 

 トレーナーは凄いヒトだ、それは愛バである自身が一番よくわかっている。

 何でも出来るし、何でも知ってる。仕事に対する責任感も強いこのヒトが、あろうことか学園で眠ってしまうなんて、よほど疲労が溜まっていたに違いない。

 

 自分が骨折してしまったあの日から、トレーナーは殆ど休んでいない。

 学園の業務もあっただろうに、骨折のリハビリにはいつも付き合ってもらっていたし、休日にも彼の部屋にお邪魔してしまっていた。

 

 トレーナーのためを思うなら、本当はそんなことするべきじゃない。いつも彼の時間を奪ってしまっていたのも、こんなに疲れている原因の一つであるのは間違いないのだ。

 だけど、どうしても離れることが出来なかった――なぜなら、トレーナーが好きだから。

 

 すごく整ってて、作り物みたいに感じられるトレーナーの顔が好き。

 切れ長で冷たい印象を与えるけど、たまに優しく細められるトレーナーの瞳が好き。

 いつも不機嫌そうに閉じられているけど、笑うときは素直に笑うトレーナーの唇が好き。

 

 落ち込んだときに、励ますようにそっと頭を撫でてくれるトレーナーの大きな手が好き。

 事あるごとにからかってくるけど、本当はそれだって嫌いじゃない――あまり感情を見せないこのヒトと、距離が近付いている気がするから。

 

 というか、トレーナーのことはもう全部好き。

 だからこそ、一時でも離れたくない……迷惑なのはわかっているけど、この気持ちだけは抑えることが出来なかった。

 

(……トレーナーは、ボクのことどう思ってるんだろう)

 

 スカウトのときなど、愛の告白のような台詞を言われたことは何度もある。

 皐月賞では、「あれ、プロポーズされたのかな?」と思って心をときめかせたが、翌日には彼の様子は以前と同じに戻っていた。

 

 ようやく大好きなヒトと結ばれたと思ったのに、何とも肩透かしな結果だった。

 おそらくだが彼にとっては単なる決意表明のようなものだったのだろう、ちょっと紛らわしいにも程がある。

 

「……まさか、誰に対してもあんなこと言ってるわけじゃないよね?」

 

 聞こえていないのは百も承知であるが、それでも不満を示すために彼の耳元で囁く。自分の気も知らず、すやすやと気持ち良さそうに寝てるその頬をつねってやりたい。

 このヒトが他の女性と話しているだけで胸がムカムカするのに、もし同じことを言っているのだとしたら……そう考えるとおかしくなってしまいそうだ。

 

 自分のトレーナーは、学園でも結構モテる。

 まず顔が良いし、中央のトレーナーだけあって非常に優秀だ。クラスでも担当トレーナーの話になると、よく羨ましがられることが多い。

 

 性格もちょっと話せば見た目と違って優しいことなんてすぐにわかるし、意外に面倒見もかなり良い。

 機会に恵まれ彼に軽く指導された者が、いつまでも未練がましく熱っぽい瞳で見つめていることも少なくない。

 

 いつか複数人の指導が可能になってチームを設立したら、自分のことも売り込んでほしいなどと言われることもある。

 当然お断りだ、トレーナーとの貴重な時間を他の子と共有するなんて出来るはずがない。彼はずっと自分だけのものなのだから。

 

 このヒトに自分の存在をはっきりと刻み込むために、今まで様々なことをやってきた。

 トレーナーの部屋に入り浸って、多くの私物を置いていったのもその一環である。

 

 あれらをトレーナーが見るたびに自分という存在をアピールできるし、万が一にも他の子がやってきたときに牽制することも可能になる。

 変な子が間違って大切なトレーナーに付き纏わないように、愛バとして守ってあげているんだ……。うん、そういうことにしておきたいかな。

  

 とにかく、もし仮に百歩譲ってトレーナーが自分に対して恋愛感情がないのだとしても。

 それでも絶対に、他の子より特別なのは間違いないはず。……そのはずだ、きっとそう。

 

 担当ウマ娘だし、他の子を近付けさせないために休みだって暇さえあればトレーナーの部屋に通ってる。現に、彼との距離感も以前よりずっと近くなった。

 計画は全て予定通り進んでる、トレーナーの中で自分は大きくなってるだろう。今は大変な時期だけど、夢の果てである菊花賞が終わったら……。

 

(……でも、ボクも随分変わっちゃったなぁ)

 

 トウカイテイオーは、我ながらあまりにもドロドロとしたその思考に溜め息を吐いた。

 昔の自分は、確かもっと素直で純粋だったはずなのだが。自分がこんなにも嫉妬深かっただなんて知りたくなかった。

 

 全てはトレーナーと出会ってから。彼に声を掛けられて、仲を深めていって、スカウトされたあのときから……自分が決定的にこうなってしまったのだと感じる。

 このヒトの全てを自分のものにしたい、憧れのカイチョ―にだって渡したくない。その想いは、時が経つごとに大きく強くなっていった。

 

(ボクをこんな変な子にした責任、キミにはちゃんと取ってもらわないと)

 

 眠りこけているトレーナーの背中を、包み込むようにしてぴとっと寄り添う。

 少し恥ずかしいけれど、彼の体温や鼓動を感じることが出来てとても幸せな気分になれた。

 

 いつかこのヒトの方から自分を力強く抱きしめてくれる、そんな未来が来るといいな……心の底から、そう思う。

 いや、違うか。絶対に実現させるんだ――だって自分は、最強無敵のウマ娘なのだから。

 

「――大好きだよ、トレーナー。今はゆっくり休んでてね」

 

 そして彼女はトレーナーの顔を覗き込み、愛おしそうに微笑んでその頬を撫でた。



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第二十三話

お久しぶりです……(小声)


 季節は秋を迎えた。

 鬱陶しいほどの残暑もすっかり和らぎ、爽やかな秋風を感じられる過ごしやすい気温だ。

 

 よく読書の秋だのスポーツの秋だの言われるが、この季節は何をするにも都合が良い。

 心地良い天気はやる気をもたらすものだ――天候とは、思っている以上に人の気分を左右させる重要な事項である。

 

 例えば晴れた日には気分が高揚し外出したくなるだろうし、逆に曇りや雨であったのならば気持ちも少なからず憂鬱になるのが道理。

 ……つまり何が言いたいのかというと。この秋というのは、絶好のトレーニング日和が続く最高の季節であるってことだ。

 

 放課後のグラウンド。いくつもある芝のコースの一つに、流星のような速度で駆けていく二つの影があった。

 その二人は決して並んでいるわけではない。規則正しい速度で前を走り続けているウマ娘に対し、もう一人が必死で追い縋っているのだ。

 

 前方のウマ娘の走りは尋常じゃない。体内時計が恐ろしく正確なのだろう、あれ程の速度で疾走していてもペースが微塵も乱れることがなく。

 遠目で見てもなおわかる、その余裕綽々な姿からは無尽蔵のスタミナを感じさせる。脚を溜めた最終直線でのスパートは、間違いなく鮮烈なものになるはずだ。

 

 後方に位置するウマ娘は、もはやついていくだけで精一杯といった様子。

 これは彼女、トウカイテイオーが弱いというわけではない。怪我から復帰して間もないこともあるだろうが……ただ単に、前を往くウマ娘が異常なだけだ。

 

 そのウマ娘の名は――メジロマックイーン。今年の春の天皇賞を見事に制した、世代最強クラスのステイヤーである。

 彼女たちの激しいレースを隣でともに眺めていたチームスピカの沖野さんが、おもむろに口を開く。

 

「……調整、なかなか良い感じじゃねえか。最初はどうなることかと思ったが、この様子なら問題なく菊花賞でも戦えそうだ」

「まだなんとか最低限、という程度の仕上がりですけどね。しかし思っていたよりも順調に進んでくれました、あいつが頑張ってくれたおかげでしょう」

「なーに他人事みたいに言ってんだ、お前さんも一緒に頑張ったからだろ? リハビリってのはな、本当に辛くてしんどいもんだ。ウマ娘だけの頑張りじゃ耐えらんねぇ、お前が懸命に支えたおかげでテイオーはここまで来れたんだよ」

 

 ふとこぼした何気ない一言だったのだが、沖野さんから思いもしない激励が返ってきてしまい苦笑いを浮かべる。

 おそらく、俺の本心が見透かされているからなのだろう。この学園の関係者はどいつもこいつも優秀で困る、隠しごとをするだけでも一苦労だ。

 

 俺は今まで、自分がいたからテイオーはやってこれたなどと自惚れた考えをしたことは一度もない。支えであれたらいいとは思っているが、実際にどれだけ支えになっているか。

 別に俺がいなくてもあいつは普通にこれくらいは乗り越えるのではないか、そのような考えは頭の隅からずっと消えることはなかった。

 

 その思考、あいつを過剰に神聖視することこそがダービー直後の骨折に繋がったのは理解している。

 あいつは天才だが、その中身はごく普通の少女と何も変わらない。俺と同じで間違えもするし、不安や恐怖を感じることもあるのは手痛い代償と一緒に知った。

 

 才能に恵まれ、あらゆる物事を容易にこなすと思われたトウカイテイオーにも脚部の脆さという弱点があった。

 完璧な者など存在しない、誰だって困難を乗り越えるには他者の助けが必要だ――だが、彼女を助けるのが俺で本当にいいのかとわずかに躊躇う。

 

 ……お前のせいでテイオーは骨折した。

 婉曲的か直接的かの違いはあれど、そのような趣旨の言葉はあれから何度も記者やファンに投げ掛けられた。

 

 まぁその通りだな、反論の余地はない。俺じゃなくて経験豊富なベテランだったら、あるいは何のトラブルもなく三冠を手にしていたかもしれん。

 だが、だからといってテイオーの担当を辞めるというのはただ責任から逃げているだけだ。骨折させてしまったからこそ、復帰まで寄り添うのが正しい責任の取り方だろう。

 

 俺は、俺に出来うる限りをやっている。仕事で手を抜いた覚えはないし、怪我をしてからの経過も順調だ。

 客観的に見てもそこまで悪くない仕事ぶりのはずなのに、どういうわけか自身を肯定しきれずにいた。

 

 ――なんなんだ、この気持ち悪い感覚は。

 自分がトレーナーであること自体が誤りであるかのような、ここにいることが間違いであるかのような嫌な気分だ。

 

「……ま、これでもダービートレーナーですからね。その肩書が廃らない程度の働きはしましたよ、傷心のあいつに恋人のように優しく献身的に付き合ってやりました」

「その例えはマジで洒落にならんからやめといた方がいいぞ……。とにかく、お前たちが大丈夫そうで一安心だ。おハナさんも心配してたぜ、菊花賞が終わったら話しかけてやれ」

「東条さんが、ですか……?」

「おいおい、そんな反応は失礼だぞ。ああ見えてもおハナさんは優しいんだ、お前と同じようにな」

 

 気を抜くと沈みそうになる心を鼓舞するように軽口を叩くが、沖野さんの言葉でそれどころではなくなる。

 リギルの東条さんが俺を気に掛けている……? 意外に面倒見が良さそうだというのは、前回の接触で何処となく察していたが。

 

(東条さんか……。彼女のことは、正直未だに苦手なんだが)

 

 トレセン学園において、最強のチームであるリギルをまとめている東条ハナ。常に冷静沈着で自分にも他人にも厳しい、氷のようなトレーナー。

 ……というのは表向きの印象だ。おそらく情に厚いのであろうことは沖野さんの言からも推測できるが、それでも東条さんにはやや苦手意識がある。

 

 とはいえ、仕事で個人の感情を持ち出すのは二流のすること。あまり気は乗らないが、一段落したらいずれ礼を兼ねて接触する必要があるか。

 

「しかしマックイーンとの併走を許可してもらった件については、本当にありがとうございました。どうしても個人で行うトレーニングだけでは限界がありますから」

「礼ならもう最初に聞いたぜ、そう何度も言う必要はねぇよ。マックイーンさえ乗り気なら俺もとやかく文句は言わん。互いに意識しているあいつらなら併走は良い刺激になるしな」

「それでも、また礼を言わせてください。……何せ貴方たちの協力のおかげで俺は三冠ウマ娘のトレーナーになれるんだ、たかが礼だけで済むなら安いものでしょう」

「ははっ! 生意気言うようになったじゃねえか! なら菊花賞で勝ったらまた飲みに行こうぜ、もちろんお前さんの奢りでな」

 

 愉快そうに笑った沖野さんに軽く頭を小突かれる。

 何もなくても酒場では毎回俺が金を出していたような気もするが、わざわざそれを指摘するのは野暮というものだろう。

 

「――じゃあ、俺はもう行くぜ。あんま目を離してると他の奴らがうるさくて仕方ねえからな」

「わかりました、その間マックイーンは俺が責任を持って見守ります」

「頼むわ、だけどもう少しその張った肩の力は抜いとけ。お前さんに欠点があるとしたらそういうとこだ、あと飲みに行く件のこと忘れんなよ?」

 

 この場を去ろうとする沖野さんに対して、深く頭を下げる。このヒトには世話になってばかりだ、今回の併走許可に関してだけでなくいつも目を掛けてもらっている。

 バーでの代金を奢るくらいならいくらでも奢ろう。話したいことも数多くある、愚痴や苦労話を肴に一晩中貴方と飲み明かしたい。

 

 ……そして、沖野さんは応じるように片手を上げ、いつもの飄々とした様子を崩さずに他のスピカのウマ娘の元へと戻っていった。

 

「これで勝ったと思わないでよ、次は絶対にボクが勝ってやるんだからっ!」

「あらあら、負け惜しみとは見苦しいですわね。あれだけ何度も私に叩きのめされておきながら、そんな大口を叩ける諦めの悪さだけは認めてあげてもいいですけれど」

「……なんだか心なしか敵意を感じるんだけど、ボクに何か恨みでもあるの?」

「それは貴方の気のせいでしょう。今まで食堂でスイーツを見せびらかされていた程度で怒るほど、私は狭量なウマ娘ではありませんしね。まぁ、最近はそうでもないようですが」

 

 沖野さんと入れ替わるようにして、併走を終えたテイオーとマックイーンが戻ってくる。

 何やら騒がしく言い争いをしているが、これはいつものことだ。こいつらは暇さえあればこうしてじゃれ合っている、それだけ仲が良いという証拠だろう。

 

 併走は結局マックイーンの完勝だった。距離は菊花賞を想定した3000メートル、長距離という彼女の得意な舞台であったのだから当然と言えば当然の結果。

 マックイーンは既にシニア級なので経験の差もある。だが、怪我明けや経験がどうこうというよりも距離適性の差が最も大きい。

 

 ステイヤーとして比類なき才を誇るマックイーンに対し、テイオーは長距離も走れる中距離のウマ娘という印象だ。

 経験も才能も、この長距離という舞台では全てが上の相手に多少なりとも健闘できたのだから、今はそれで及第点としよう。

 

 そもそも、長距離におけるメジロマックイーンはあまりにも強すぎる。

 有り余るスタミナにモノを言わせたロングスパート――あれに勝つには、超一流のステイヤーが故障を顧みず猛特訓して、それでようやく届きうるのではないか。

 

 少なくとも現時点でのテイオーでは相手にならない。しかし、そのような格上だからこそ併走する価値がある。

 負けず嫌いのテイオーは滅多に味わえない敗北で奮起するし、その様子を見てマックイーンの方も感じ入るところがあるはず。

 

「お疲れ様だ、マックイーン。これで汗を拭いてくれ、そんな姿はお前のような優雅な令嬢には相応しくない」

「あら、お上手ですわねトレーナーさん。ですがこれは私の努力の証、汗に濡れた姿であっても恥ずべきところなど何もありません」

「……はぁ、何このやりとり。格好つけちゃってさ、タオルくらい普通に渡せばいいじゃん」 

 

 傍までやって来たマックイーンに、専属の執事であるかのように恭しくタオルを献上する。

 一礼してそれを受け取った彼女は、気品ある仕草で流れる汗を拭いていった。何をするにも品を感じるウマ娘だ、生まれつきというよりもそうあるべしと心掛けているのだろう。

 

 俺の担当ウマ娘は、一連の小芝居を呆れたように口を尖らせて眺めていた。

 これ以上茶番を続けているとまた機嫌が悪くなる恐れがあるので、早々に切り上げてテイオーにもタオルを手渡す。

 

「それにしても見事な走りだったな、春の天皇賞を彷彿とさせた。長年の夢を叶えても、慢心せずに精進を続ける姿勢には感心する」

「お褒め頂き、ありがとうございます。春の天皇賞を無事に制することが出来たのは望外の喜びでしたが、私には新しい目標がありますからね」

「――目標、か。お前はステイヤーとして頂点に上り詰めたと言っていい、そんなお前が今さら何を目標とする?」

「決まっています、春の天皇賞を連覇することです。この脚が動く限り、限界が訪れるまで私は春の盾を追い求めましょう。だからこそ、夢が叶ったからと立ち止まることはありません」

 

 笑顔でそう言い切った彼女の顔からは、みなぎる自信と気高い覚悟を感じた。

 夢を叶えたら、また次の夢へ――。生きている限り、挑戦が終わることは決してない。

 

 そう語るマックイーンの姿は黄金のように光り輝いているが……お前の言う通りだな。

 困難に挑戦していくことが人生の醍醐味。挑戦こそが、俺の心を熱くする。

 

「……やはりお前は良い女だ、いずれ機会があればお前ともじっくり話したいところだな。良い店を知ってる、そのうち二人で食事でもしよう」

「まぁ、デートのお誘いですの? 淑女への誘い文句としては落第点ですが、その熱い瞳に免じて良しとしましょう。見事なエスコートをしてくれることを期待していますわ」

「――ちょっと待ったーっ! もう一回ボクと併走しよ、マックイーン! 今度は絶対に負けないから!!」

 

 マックイーンとそんな会話をしていると、割って入るかのようにテイオーが大声を出した。

 おい、今良いところなんだから邪魔するなよ。俺が様々な経験を積んで成長することは、担当ウマ娘であるお前にもメリットがあるんだから。

 

「ねね、これくらいいいでしょ? もう疲れも取れたし、ガンガン練習しなきゃいけないしね」

「……別に構わないが、念のため距離は縮めるぞ。2400メートル――クラシックディスタンスなら許可しよう」

「そうこなくっちゃ! じゃあ行くよ、マックイーン! ほらほら早く離れて離れて!」

「まったく貴方という方は、本当に子供なんですから……。トレーナーさんの日々の苦労が偲ばれるというものです」

 

 戻ってきたときと同じようにわいわい騒ぎながら、テイオーとマックイーンが再び芝のコースへと向かっていく。

 嵐のような連中だったな、忙しないとはまさしくああいう奴らのことを言うのだろう。

 

 何はともあれライバルとして認め合っているあいつらの併走は、互いをさらなる高みへと導いてくれるはずだ。

 今のままでもテイオーは充分に戦える。少なくとも菊花賞で1着争いには加われるだろうが、打てる手があるならば油断せずに打つべきだ。

 

 マスコミを始めとした周囲の反応は、当初想定していたより悪くはない。

 おそらくテイオーの調整が菊花賞までに間に合いそうだからだろう。これがもし、骨折の具合が全治一年、いや半年であったとしても何を言われていたか。

 

 だが、そんなことは至極当然のことだ。誰しも結果でしか物事を判断しないし、出来もしないのだから。

 俺が仮に菊花賞でテイオーを勝たせれば、あいつらはこぞって手の平を返して俺を賞賛するだろう、世の中とはそういうものだ。

 

 二人三脚で苦難を乗り越え栄冠を手にした、そうやって各所から俺たちは称えられるだろうな。つまり菊花賞で勝てば全てが丸く収まる、あいつが勝てば――全て。

 

 そうだ、あいつは勝たなければならない。夢を叶えて、報われるべきだ。それだけの努力をしている。

 努力した者が必ずしも成功するわけじゃない、むしろそうでない者の方が多いくらいだ。だがせめて俺の手の届く範囲だけは、何とかしてやりたいと願う。

 

 ――暦はとうとう10月になった。菊花賞まで、あと一か月。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 メジロマックイーンは、並んでコースまで歩くトウカイテイオーに問いかけられる。

 

「あのさマックイーン、まさか本気じゃないよね? さっきのデートがどうとかってやつ」

「先程のお誘いですか、私も女ですもの。あれだけ情熱的に誘われれば、少なからず気持ちは揺らいでしまいますわ」

 

 マックイーンは微笑みを湛えながら、冗談半分といった様子で返事をする。

 冗談半分――つまり、ある程度は本心も混じっているということだ。少なくとも、あの誘いに彼女は悪い気がしているわけではなかった。

 

「……親切心で言っとくけどさ、トレーナーはいつもあんな感じだから。期待してるときっと恥かいちゃうよ」

「えぇ、もちろん理解しています。彼はただ私の話を聞きたいだけで、そこに何の他意も含まれていないのでしょう――だからこそ、好感が持てるのです」

 

 莫大な富と権力を有するメジロ家、その一員であるマックイーンには幼い頃から多くの男が接触してきた。

 若く美しく、ウマ娘としての才も溢れていずれは当主になることすらありうる――そんな彼女に対して下心を抱いて近付いた者は数えきれない。

 

 そのような低俗な輩に飽き飽きしていたマックイーンにとって、テイオーのトレーナーはとても新鮮に映った。

 あの若さであれだけの見識や観察力を持ちながら、貪欲に高みを目指し続ける飽くなき向上心……これが中央のトレーナーなのかと唸ったものである。

 

 自身のトレーナーである沖野ももちろん優秀であるのだが、テイオーのトレーナーは何処かが違った。

 まるで何かに追い立てられているかのごとく、必死に努力を積み重ねている姿にマックイーンは感嘆の念を隠せなかった。

 

 テイオーと一緒にいるときは天真爛漫な彼女に隠れてわかりにくいが、一人で仕事をしているときの彼の様子は鬼気迫るものがある。

 

(何が貴方をそこまで駆り立てるのでしょうか……担当ウマ娘であるテイオーを骨折させてしまったから、その負い目を感じて?)

 

 危うくテイオーの夢が途絶えてしまうかもしれない、そんな怪我だったのだから責任を感じても仕方ないがそれでも行き過ぎているように思える。

 そもそも、彼女が怪我をする前から似たような雰囲気は感じていた。つまり、根本的な原因はそこにはない。

 

 マックイーンは彼の心の裡が知りたかった。骨折こそさせてしまったものの、新人トレーナーとしては充分すぎる経歴であるように思えたから。

 個人的な事情であるかもしれないし、よく知りもしない自分が踏み入るのは失礼に当たるだろう。けれど、ともに食事をすれば何かわかるかもしれない。

 

「私は彼にとても興味があります。あの方が私と食事がしたいと仰るのなら、喜んで参りますわ。……もちろん、貴方抜きで」

「――駄目、絶対に駄目っ! あのヒトはボクのトレーナーで、ボクのものなんだから! いくらマックイーンでも、そんなことは絶対に許さない!!」

 

 マックイーンがからかうように宣言すると、案の定テイオーは怒り始めた。

 しかしその変化は思いのほか急激であり、普段の彼女の性格を知っているマックイーンからすると二重人格のようにすら思えてしまう。

 

(あのテイオーがここまで執心するなんて……。トレーナーさん、貴方は一体彼女に何をしたのですか)

 

 マックイーンが気付かれないように内心でそっと溜め息を吐く。

 テイオーが自身のトレーナーに懸想していることは簡単に見て取れるが、まさかここまでとは。

 

 彼女からは、恋慕などという生易しい言葉では言い表せない情念を感じる――これはもはや、呪いのようにおぞましく深い愛だ。

 自分もあの男性については好感を持っているが、別に恋心を抱いているわけではなく好奇心がほとんどだ。

 

 だが本当に何をすれば、子供だったテイオーがこんなことになってしまうのだろう。

 少なくとも恋に恋する思春期の少女にありがちな、時間経過で冷めていくような小さな感情にはとても見えなかった。

 

 推測するに不用意な言動を重ねて距離を縮め過ぎた結果なのだろうが、この先どうなるのか彼の身を案じてしまう。

 

「……テイオー、よく聞いてください。彼は確かに貴方のトレーナーですが、貴方のものではないのです。彼にも意思がある、そうやって束縛するのは良くないことなのですよ」

「それは、もちろんわかってるけど……。でも、ボクはいつでもトレーナーと一緒にいたいんだ。そう思うとなんか我慢が出来なくなっちゃう」 

 

 自身の言動がマズいことは流石に理解しているのか、諭すように優しく語りかけるとテイオーも徐々に大人しくなっていった。

 彼女の根底にあるのは、大好きなトレーナーとずっと一緒にいたいという純粋な想いだけなのだろう。

 

 そう考えると、テイオーに若干引いていたマックイーンも応援したくなってくる。

 

「ならもっと淑女としての立ち振る舞いを身に付けるべきです。貴方も良家の子女でしょう、彼が離れられなくなるくらい、魅力的な女性になりなさいな」

「で、でも、トレーナーはきっとボクに夢中のはずだよ! 『お前が欲しい』とか、『黙って俺についてこい』とか、そういうことたくさん言われてるんだから!!」

「えぇっ! そ、そんなことを言っていたんですの、あの方は!?」

 

 頬を薄く染めながらとんでもないことを暴露するテイオーに対して、流石のマックイーンでも名家の令嬢らしからぬ叫び声を上げてしまう。

 おそらく愛の告白の意図ではないだろうが、それでもその発言はどうなのだろう。こうなったのも自業自得な部分が大きいのではないか?

 

(これは……もう、手遅れかもしれませんわね)

 

 テイオーの瞳は蕩けており、漫画であれば間違いなくハートマークになっている。

 それを見たマックイーンは、もはや自身の手には負えないと完全に匙を投げた。



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第二十四話

「テイオーさん、もう脚は大丈夫なんですか!? あたし、すっごく心配で……レースも歌もあんなに完璧だったのに……」

「もっちろん、よゆーよゆーっ! むしろもう前より速く走れちゃうよ? 何せボクは、最強無敵のテイオー様だからねっ!」

「わぁ……! 流石です、テイオーさん! 菊花賞、絶対応援しに行きますね――もちろん、ダイヤちゃんと一緒に!!」

「うん、頑張って一緒に応援しようねキタちゃん」

 

 10月も半ばに差し掛かろうとしていた頃。

 

 今日も今日とて、担当ウマ娘であるトウカイテイオーと休日に街を散策していると、二人組の幼いウマ娘たちに声を掛けられた。

 

 おそらく小学生であろうこの少女たちはどうやらテイオーのファンらしい。

 正確に言えば片方がそうであり、もう片方はメジロマックイーンのファンらしいがその辺りのことは別に何でもいい。

 

 テイオーの大ファンであり、ウェーブした黒髪を肩で揃えているのがキタサンブラック。

 背中を覆い尽くすほどに長い、明るい茶髪をなびかせている少女がサトノダイヤモンド。

 

 キタサンブラックからは活発そうな印象を受けるし、逆にサトノダイヤモンドからは大人しくてお淑やかな雰囲気を感じる。

 両者の性格は一見すると対照的にも思えるが、それでも仲は非常に良好であることが随所で見て取れた。

 

(それにしても、サトノダイヤモンドか。サトノ、まさかな……)

 

 そこまで歴史は深くないが、メジロ家に迫るほどに様々な事業を展開しているサトノグループを連想させる名前だ。

 見た目もいかにもな箱入り娘といった風貌だし、あるいは本当にサトノ家のご令嬢なのかもしれんな。

 

 ――そうだとしても、まるで興味が惹かれない。

 

 彼女がサトノグループの娘ならこれを縁にして友好的に接触すれば、サトノ家と繋がりを持つことが出来るかもしれない。

 一大財閥とのコネクションは俺にとってあらゆる場面で有効に働くはずだ。いつか、さらなる苦境に陥ったときの助けとなるのは間違いないだろう。

 

 だが、コネで得られた結果に何の意味がある?

 自身の力で難局を打開してこそというものだ。人脈も一つの武器であるのは理解しているが、そのような手法は好きにはなれない。

 

 そもそも彼女たちはテイオーの知人であるし、部外者である俺が話に割り込むのもどうかと思うしな。

 こいつらは気を遣ってか時々俺にも不自然に話題を振ってくるが、だからこそ返事は全て適当に返している。

 

 三冠にあと一歩まで迫ったスターウマ娘とその小さなファンたちで、存分に交流を深めていればいい。

 大体、テイオーは休日に俺と一緒にいすぎる。特定の人物としかコミュニケーションを取らないのは、視野を狭めてしまうし推奨できない行為だ。

 

 十人十色。誰しもそれぞれ違う考え方や価値観を有しているため、様々な相手と触れ合うのは見識を深める良い機会である。

 そうやって多くの経験を積んでいくことで子供は大人になっていく、それをトレーナーである俺が邪魔するべきではない。

 

 ……ふっ。ファンを大事にしろよ、それがお前の力になる。

 

「――盛り上がってるところ悪いが少しいいか? これから用事があるんでな、俺はここで消えさせてもらおう。後は三人でゆっくり楽しんでくれ」

 

 この中での異分子は誰がどう考えても俺だ、そう判断して姦しく談笑している少女たちに別れを告げる。

 そして俺は、急なことに目を白黒させているこいつらに背を向けて歩き去っていった――。

 

「……ねぇ、どうしていきなり逃げようとするの? 用事なんてないでしょ、さっきまでそんなこと何も言わずに一緒に歩いてたじゃん」

 

 ――などということもなく、速攻で担当ウマ娘に妨害される。

 

 ちっ、今ならさりげなく帰れるかと思ったがやはり駄目だったか……。大人しくファンの相手をしていればいいものを。

 これで時間が空いたなら最近山積みになっている論文でも読破しようかと思っていたが、どうにも雲行きが怪しくなってきた。

 

「おい、裾からすぐに手を放せ。お前と違って繊細なんだ、そのバカみたいな力で引っ張られたら服が持たないだろうが」

「その脚を止めてくれたら放してあげる。どうせボクにこの子たちの相手をさせれば楽が出来るとか思ったんでしょ、悪いけどそうはさせないから」

「……下衆の勘繰りだな、見当違いも甚だしい。俺はただ気を遣ってやっただけだ、お前が小さなファンに心置きなくサービスできるようにな――邪魔者は退散するに限るだろ?」

 

 透き通るような秋晴れ――心地良い気候の下で、トレーナーと担当ウマ娘による激しい攻防が繰り広げられる。

 本音を言えば、一人でも面倒なのに三人の子供たちの相手なんてしてられん。

 

 テイオーがここで秋のファン大感謝祭を開けば俺は自由になれて、こいつらはさらに絆が深まり良い思い出の一ページになる。

 誰も損しない、まさに考えられる中で最高の展開だというのに何が不満だというのか。

 

「え、もう行っちゃうんですか? テイオーさんのトレーナーさんなんですよね……? あの、全然邪魔なんかじゃないです! あたしたちには気を遣わないで大丈夫ですから!!」

 

 互いの主張を一歩も譲らぬその争いに突如割り込んできたのは、キタサンブラックと名乗った黒髪の少女の方だった。

 俺の前に道を塞ぐように回り込み、小さな身体で懸命に主張してくる。それを見てすぐにもう一人の少女――サトノダイヤモンドもやってきたため、完全に前後を囲まれている。

 

 引く手あまたも良いところだった、我ながら大した色男ぶりじゃないか。

 まさか見知らぬ少女たちにまで逃走を妨害されるとは思わず、意味不明な状況で皮肉げに軽く笑う。

 

 優しさ故なのだろうが俺のためを思うなら放っておくか、テイオーを引きつけておいてほしかった。しかし、この現象がスカウトのときに起こっていればどれだけ楽だったか……。

 少なくともあれほどまでに無為な時間を過ごすことはなかっただろうから、人生とは相変わらず儘ならないものだ。

 

 とりあえず、こいつらを振りほどくだけなら容易いことだ。ウマ娘に単純な力で上回る必要などない、ただ冷たく拒絶すればそれだけで事足りる。

 けれどそれはどうしても出来ない。そのような自分本位な立ち振る舞いは、決して正しくないからだ――中央のトレーナーとしても、人間としても。

 

 俺は所詮紛い物だ、本物のトレーナーの振りをし続けているだけの偽物に過ぎない。だからこそ、明らかに間違った行動をすることは俺の心が拒絶していた。

 

「あたしたち、中央のトレセン学園を目指してるんです、憧れのテイオーさんやマックイーンさんみたいになるために。だから、トレーナーさんのお話にはすごい興味があって……」

「駄目だよキタちゃん。トレーナーさんは忙しいんだから、無理に引き止めちゃったら悪いよ」

「ダイヤちゃん……。そうだね、こんなことしたらきっと迷惑だよね。すみません、忘れてください……」

 

 俺の前に立ち塞がっていた小さなウマ娘たちの耳が気落ちしたようにへたれ、その顔が俯いていく。

 なんだこれは、何も悪いことはしていないはずなのに凄まじい罪悪感に襲われる。子犬を虐待したらおそらくこんな気分になるのかもしれない。

 

 演技でやってるとしたら中々の大物だし、狙っていなくてもそれはそれで厄介だな。 

 無垢な子供のささやかな願いを無碍にするほど俺は腐っちゃいない、こんな頼み方をされた時点で退路など何処にもなくなってしまう。

 

 偽善的な思考に肩を竦めたくなりながらも、いつものように演技の準備をする。

 “中央のトレーナー”として相応しいと思われるための芝居の始まりだ。

 

 俺はしゃがみ込み、笑顔の仮面を張り付けて二人の少女の顔を見つめた。

 成人男性と子供のウマ娘では、背の高さがまるで違う。だからこそちゃんと相手をするときには姿勢を低くして目線をしっかり合わせ、なるべく柔らかく接する必要がある。

 

 子供は感受性が豊かだ、だからこそ壊れ物を扱うように慎重に相手をするべき――俺がかつて教わった、当たり前だが大事なこと。

 今ならはっきり理解できる、高みから見下ろしていたのでは伝わるものも伝わらない。

 

「いや、迷惑なんてことはないさ。聞きたいことがあるなら遠慮しないでいい、それくらいなら喜んで付き合うから」

「でも、用事があるんじゃ……」

「私たちのことなら本当に気にしないでください! テイオーさんとの大事な時間も邪魔してしまいましたし、これ以上は……」

「用事なんて後回しにするから大丈夫、君たちの方がよっぽど大事だ。子供が余計な気を回さなくていい、将来は俺の担当ウマ娘になるかもしれないなら尚更な」

 

 型に嵌めて作ったような奇麗事を言って、優しく見えるようにそっと微笑む。

 背後で、未だに俺の服をきつく握りしめていたテイオーが「誰……?」と呆気に取られたように呟いた。

 

 ……お前は本当にいつも良い所で水を差してくるな、わざとやってるのか?

 

「あ、ありがとうございます! うわぁ、とっても嬉しいです! トレーナーさんって、最初はちょっと怖そうとか思ってたんですけど、すごく優しくて良いヒトなんですね!!」

「トレーナーさんトレーナーさん! 早速なんですが質問してもいいでしょうか? テイオーさんのトレーニングとか、私いろいろ聞きたいことがあるんです!!」 

 

 途端に目を輝かせたウマ娘たちが我先にと傍までやってくる。

 優しく正しく、知識に溢れたウマ娘想いの好青年。いつか俺が思い描いた理想像にこれで一歩近付けただろうか。

 

 ――この少女たちがわずかでもそう思ってくれるなら、それこそが俺にとっての救いとなる。

 

 

 

「……トレーナーってさ、なんか最近調子に乗ってるよね」

 

 隣にいるテイオーが、溢れる不満を隠そうともせずにそうぼやいた。

 

 キタサンブラックとサトノダイヤモンド。二人の幼いウマ娘と別れた俺たちは、最初と同じように並んで歩いている。

 あの後はそれなりに彼女らと打ち解けることに成功――むしろ成功しすぎたため、一旦場所を喫茶店に移して会話をした。

 

 そもそも本来はあの少女たちと縁を結ぶつもりなどさらさらなかったのだが、まぁ少なくとも悪いようにはなるまい。

 喫茶店でデザートを奢りながら様々なことを語り合った結果、基本的な情報は入手することが出来た。

 

 キタサンブラック――父親は有名な歌手であり、人助けが好きな人情派の少女。

 サトノダイヤモンド――やはりサトノ財閥の令嬢で、箱入り娘に見えるが芯は強い。

 

(……もしあの少女たちがトレセン学園に入学すれば、このデータもスカウトの一助になるかもな)

 

 本当に入学できるのか、仮に入学できるほどの実力を身に付けたとして、俺が相手にされるのかなど多くの問題点がある。

 そもそもがまだ先の話である、だがいずれにせよ将来への布石としては充分だろう。

 

 とりあえず今の俺が優先してやるべきことは、担当ウマ娘の相手をしてやることか。

 まさかいつも調子に乗ってるような奴に言われるとは思わなかったが、トレーナーが自分のファンとよろしくやってるのを見たらあまり穏やかではいられないだろうしな。

 

「ネイチャとデートしたり、マックイーンを口説いたりさ。しかも今度はキタちゃんたちにまで手を出すなんて……ウマ娘なら誰でもいいの? この変態!」

「……弁明するのも面倒だ、もう何とでも言え。しかしお前も似たようなことばかり口にしていて飽きないのか? そこらにいる犬の方がお前よりは多芸だろうよ」

「あ、そういうこと言うんだ……。ていうかトレーナーこそ、何かあったらすぐに犬の話するのやめてよね」

 

 俺の言葉を聞いたテイオーがますます膨れっ面になる。

 確かに、思い返せばほんの少しだけ話題に出る機会は多いかもしれない。だが好きなんだから仕方ないだろ、それ以上の理由が他に必要か?

 

 こいつと犬の魅力について語り合っても理解が得られるとは思えないし、むしろさらに機嫌を損ねるだけだろう。

 自分も犬と大して変わらん仕草をしてるくせにその魅力がわからんとは……まぁいい、とにかく鎮火作業に入るか。

 

「――安心しろ、俺はお前一筋だ。最近他のウマ娘と交流を深めているのは、様々な経験を積んでお前とのトレーニングに活かすため……つまり、全てお前のためにやっている」

「うぅー……そういうとこ! そういうとこだよ、トレーナーの悪いとこは!!」

「何を騒いでる……とにかくお前は特別だ、そのせいで対応がやや雑になってるかもしれんがな。だが特別なお前だからこそ、扱いが違うのは当然だろ?」

「と、特別!? えへへ、やっぱりそうなんだ……」

 

 テイオーの表情がにやけ、瞬く間にふにゃふにゃと柔らかくなる。

 

 こいつは特別扱いされるのが好きだ。自身を特別だと確信しているし、他者にもそう扱ってほしいという欲求がある。

 勝ち気で自信家、目立ちたがり屋な性格はそこから来ているのだろう。それだけの実力はあるし、そのこと自体には何も言うことはない。

 

 仮に責められるものがあるとしたら、テイオーのそんな性質を利用している俺だろう。しかし、それでも彼女が特別であるのは嘘じゃない。

 大事な教え子だし、その才に惚れ込んでスカウトした初めての担当ウマ娘だ――特別であって当然。

 

 なのにどうして、俺の言葉はこんなにも胡散くさく安っぽく聞こえてしまうのか。これではまるで詐欺師か占い師だ、我ながら笑ってしまう。

 同じ内容でも他の奴らが言えばさぞかし絵になるのだろうが、それを俺が口にすると途端に空虚に響く。

 

 いたいけな少女を騙しているような気分にすらなるのだから、もはや自身に対する呆れの感情さえ浮かばん。

 だが他の何を手放したとしても、今トウカイテイオーに逃げられるわけにはいかない。

 

 ……俺は、こいつの脚がその速度と引き換えに脆くなっていることに気付かなかった。

 これは誰がどう慰めようとも変わらない、あまりにも大きすぎるミスだ。

 

 百戦錬磨のベテラン、あるいは才気煥発のトレーナーであるなら、すぐさまこの問題を発見して未然に防いだことだろう。

 それがいかに一般人にとっては未来予知に等しいことであっても、日本最高峰の連中ならばきっと可能であったはずだ。

 

 ――だというのにあの事態をみすみす招いたのは、俺が未熟だからに他ならない。

 

 俺がまだまだ至らないから、ちゃんとしたトレーナーではないから、あんなことになった。

 二度と同じことは繰り返さない。この失敗を胸に刻んで、さらなる成長を遂げてやる。

 

 まだだ、まだ足りない。もっと先へ、もっと前へ――!

 誰よりも優秀で、誰が見ても立派なトレーナーになろう。

 

 まず手始めにテイオーの夢を無事に叶える。そうしていけば、いつか必ず俺は“本物”になれるはずだ。

 だからこそ、お前を掴んで離さないために、嫌気が差す台詞であろうと言い続けよう。

 

「ふふっ、特別かぁ……良い響きじゃんっ! まぁ当然だよね、ボクたちは一蓮托生だしずっと一緒にいるんだもんね!」

「……わかってくれたのなら何よりだ。菊花賞も近いというのに、こんなことで仲違いをするのもバカらしい」

「うんうん、菊花賞で勝って、無敗の三冠ウマ娘になる! それがボクたち二人の大事な夢だし、そのためにももっといっぱい仲良くしよっ!!」

 

 満開に咲き誇る花のような笑顔でテイオーが笑いかけてくる。

 トレーナーと担当ウマ娘の間に絆が芽生えると、ウマ娘はトレーナーの信頼に応えようと限界を超えた力を引き出すこともあるという。

 

 一説によるとウマソウルが心身に影響を及ぼしているだとか、想いの力が肉体に作用しているだとか様々な見解がある。

 いずれにせよ、俺のためにも頑張りたいという気持ちはプラスに働くだろう。勝つためならば、彼女の尊い想いすら計算に入れよう。

 

 ロクな末路を迎えないかもしれないが、それでも俺は結果を出さなければならない。

 だがそれはそれとして、先程の彼女の言葉に一つだけ引っ掛かる点があった。

 

「……いつから俺の夢になった。それはお前の――お前だけの夢だろう」

「ええーっ? でもボクの夢ってことは、トレーナーの夢でもあるじゃん。ボクたちはすごく仲良しで、一蓮托生なんだからね!」

 

 

 

「――――」

 

 

 

 何気ない、いつもと同じようなテイオーの論調。

 その言葉に、何故かはっとさせられる。ウマ娘の夢が、俺の夢……?

 

 次の瞬間――天啓が降りてきたような感覚に襲われる。

 あぁそうか……そうだったのか。こんな、こんな簡単なことで良かったのか。

 

 そうだな、何も俺自身が夢を持つことはなかった……。担当ウマ娘の夢を叶えること、それを俺の夢にすればいいだけじゃないか。

 いや、あるいは形にせずとも既にそうなっていたのかもしれない。こいつの夢を叶えたいと心底から願ったからこそ、俺はあんなにも必死になっていたんだろう。

 

 魂が震える、心が満たされる――これが、この感覚が夢なのか。

 悪くない、悪くないな……。

 

 何をしても簡単で、退屈で、つまらなかった。

 少し真面目に取り組めば何だって出来た。

 

 そんな有様で夢中になれるものなど、何一つ見つかるわけがない。

 だから俺はずっと、自分の心の渇きを癒す何かを探していた。

 

 そのために必要なもの……それはもう、とっくに手に入れていたんだ。

 今の今まで俺が気付いていなかっただけで、とっくに――。

 

「ククク……ハハハ! ハハハハハハハッ!!」

 

 片手で顔を覆うが、溢れ出る哄笑を抑えることは出来なかった。

 すこぶる良い気分だ、これほどまでに愉快なことが果たして今まであっただろうか?

 

「ト、トレーナー!? どうしちゃったの、今日なんか変だよ!?」

 

 さっきまで甘えるような声色で語り掛けてきたテイオーが、乱心とも言える突然の俺の行為に慌てている。

 担当ウマ娘や通行人に怪訝な顔をされてもまるで意に介さず、俺はその場でただただ思いきり笑った。 

 

 誰かにわかってもらおうなどとは思わないし、実際に説明しても俺の気持ちは理解されないだろう。

 どれだけ衝撃的な出来事だったのか、それは俺だけが知っていればいい――。

 

 あまりにも爽快な気分であったため、ひとしきり笑い尽くした後。

 その様子を呆然と眺めていたテイオーが、恐る恐るといった感じで上目遣いをしながら顔を覗いてくる。

 

「あ、あのさ……大丈夫? その、なんか、ちょっとおかしかったし……」

「――あぁ、俺はもう大丈夫だ。全てお前のおかげだよ、感謝してもしきれない」

「ぴぇっ!? ど、どういたしまして……?」

「くく、お前という奴は本当に……最高のウマ娘だ。俺が選んだだけのことはある、あの時間は決して無駄じゃなかった」

「全然大丈夫そうに見えないんだけど! 嬉しいけどわけわかんないことになってるよ!?」

 

 こんな言葉でも今度は虚しく感じることはなかった――さっきまでとは、俺の中の何かが確実に変わっていたからだ。

 欠けていたものがついに埋まったような、渇きが満たされたような、そんな充足。 

 

 テイオーが困惑しているのも当然だが、笑みがこぼれるのは止められそうにない。

 胸に突き刺さっていた棘が抜けて、重しが消え去り身軽になった解放感を覚えているのだからこの瞬間だけは我慢してくれ。

 

「さて……それじゃあ、早速行くか」

「ほぇ? 行くってどこに?」

 

 顔全体に疑問符を浮かべているテイオーの手を取って告げる。

 この状況でどこに行くかなど、そんなことは決まっているだろう。

 

「もちろん、学園にだ――今から練習しに行こう。どうにも気分が良くなってきたんでな、少し付き合え」

「ほ、本当にどうしちゃったのさ、さっきからずっと変だよ? いつもは『休日は素直に休むことも大事だ』なーんて言ってるのにさ」

「今日はそういう気分なんだ。とにかくついてきてくれ、たまにはいいだろ」

「ふっふーん、無敵のテイオー様の走りを休日にも見たいのかね? トレーナーってばしょうがないなぁ」

「――いいからさっさと行くぞ、時間が惜しい」

「わわっ! ちょ、ちょっと引っ張らないでよーっ!」

 

 うだうだとしょうもない御託を垂れるテイオーの手を強く握って先導する。

 意外なことだが、俺が強く意思を示せば案外こいつは素直に従う。

 

 強制することは趣味じゃない、だから普段このような行動に出ることはない。だが今日だけは話が別だ……気分が高揚して堪らないのだから。

 そうして、いつもとは逆にテイオーの手を引っ張りながら俺たちは学園へと向かった。

 

 これが、満ち足りているという気持ちなのか……知らなかったな。

 ようやく俺は、自分のことが好きになれそうな気がするよ。



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第二十五話

「――いよいよだ、ついに待ちに待った舞台が始まるな。どうだ、緊張してるか?」

 

 11月3日、京都レース場の控え室にて。

 

 俺は、いつになく口数の少ないテイオーに向かって世間話でもするかのように声を掛けた。

 ここに連れてくるまでの間、こいつはやけに大人しかった……今までのレース前とは明らかに様子が異なっている。

 

「べ、別に緊張なんてしてないもんね。だって、どんなレースでもどうせボクが勝つのは当たり前だし?」

「強がらなくていい、むしろ念願の日を迎えて緊張するなという方が無理な話だ。今日勝てば長年の夢がようやく叶うわけだしな、何も恥じることじゃない」

 

 この期に及んでいつもの小生意気な調子を装おうとするテイオーを諭す。

 声は平時よりやや上擦っていたし、仕草もより落ち着きがなくなっているのは一目瞭然――簡単にわかる強がりなどこの場では必要ない。

 

 常にリラックスして自然体でいられるのならそれが最善かもしれないが、夢が成就するか否かという大事な日にまで何も変わらないのは逆に異常だ。

 こいつは自信家ではあるが、その中身は普通の少女とそう大差ない……そのことはこの俺が一番よく知っていた。

 

 そして、俺の言葉を聞いたテイオーの様子が徐々に変わっていく。

 “無敗の三冠”を目指す最強無敵の帝王から、何処にでもいるようなただのウマ娘へと。

 

「……正直に言うとさ、ほんのちょっとだけ緊張してるんだ。だけどそんなこと言ったらなんかトレーナーに笑われそうだし……ていうか今も笑ってるじゃん! だからこういうこと言いたくなかったの!」

「くく、すまんすまん。いやなに、お前でもそんな感情になるんだなと思ってな、随分としおらしいじゃないか」

 

 俯いて静かに語り出したと思ったら、今度は俺の顔を見てぷんすかと怒り出した。

 自分で促しといてなんだが、緊張して大人しくなっているトウカイテイオーというのはとても新鮮だし面白い。

 

 おそらく、こいつの担当にならなかったら未来永劫拝むことが出来なかった貴重な光景だろうな。

 何も普段からこうあってほしいとは思わんが、疲れているときはなるべくこんな感じでお願いしたいもんだ。

 

 そのような考えが表情に出てしまっていたのだろう、俺の謝罪がただの形だけであることを見て取ったテイオーがますます口を尖らせる。

 

「もうっ、実際に走るのはボクなんだからね。いくらボクでもちょこっとくらい緊張するときだってあるから。トレーナーは違うの? そりゃボクは無敵だけど、でももしかしたら勝てないかもとか思わない?」

「別に心配はしていない、なぜならお前が勝つのは当然だからだ。この日のためにあらゆる手を尽くしたからな、負ける想像をする方が難しいってもんだろ」

「――!」

 

 テイオーの瞳が驚愕で見開かれるが、驚くようなことは何もない。

 今日という日に備えて出来ることは全てやってきた。考えられる限りの全力を尽くし、こいつもそれに懸命に応えてくれた……これで負けるなどあり得ない話。

 

 誰だって勝負事で最初から負けを考えている奴はいないだろうが、それを踏まえた上でも勝利しか見えなかった。

 自身の夢をはっきりと形にしたあの日から、俺の中で大きく何かが変わったからだ。

 

 くだらない悪夢で睡眠の質を下げられることもなく、他のトレーナーを見るたびに湧き上がる理解できない不快な気持ちになることもかなり減った。

 常に最良のパフォーマンスで仕事がこなせるこの全能感――大袈裟かもしれないが、自分には不可能などないようにすら感じた。

 

「それに何事も楽しんでやるんだろ? お前も楽しめ、結末がわからない未知のものほど心が躍るもんだからな」

「何事も、楽しむ……。それ、前にボクが言ってた――」

「そうだ、お前にしては良いことを言っていたよな。ま、どうせ勝つのは俺たちなんだが、過程を楽しむ気持ちも大事だと思い始めたんだ」

「……トレーナーってさ、最近雰囲気変わったよね。前だったらきっとそんな言葉は出てこなかったよ」

 

 雰囲気が変わった、か……。

 心境の変化があったのは事実だが、こいつにもわかるほど如実なものだったようだ。

 

 確かに、結果だけを重んじていた自分が過程を楽しむようになるとは意外すぎるからな。

 だが根っこの部分は変わっちゃいない。やるからには結果を出して頂点を目指す――ほんのわずかに、肩の力を抜くようにしただけだ。

 

「しかし、こんなときに言うのもなんだが充実した時間だった。これが終わったら――俺とお前でまた新しい夢を見よう。退屈は御免だからな、次もこうやって暇が潰せるようなものを用意しといてくれ」

「新しい夢、かぁ……。じゃあさじゃあさ、次は“春シニア三冠”なんてどう? これはカイチョ―でも取ってない記録なんだよ! ただ並ぶだけじゃなくて、次はカイチョ―を超えてやるんだ!」

「春シニア三冠、目標としては充分だな。ざっと想定するだけで凄まじく険しい道のりであることがわかる……だが、それくらいの方が面白い」

「にっしっし! まあボクたちは最強だからね、目標はいつも大きく持たないと!」

 

 まだクラシック三冠も制覇していないというのに、次の夢について二人で笑顔で語り合う。 

 

 “春シニア三冠”とは、春シーズンに行われる三つのシニア級GⅠレースを制したウマ娘に与えられる称号のことである。

 『大阪杯』、『天皇賞春』、『宝塚記念』の全てに勝利したウマ娘だけが手にする、偉大な記録にして栄光の証。

 

 来年テイオーも参戦することになるシニア級では、デビュー三年目以降の古豪が跋扈する激戦区となるだろう。

 どのレースでもこれまで以上の熾烈な争いになるだろうが、特にメジロマックイーンが参戦する『天皇賞春』は想像するだけで……。

 

 ――期待と興奮で胸が高鳴ってくる。

 

 今描いているこの夢が終わったとしてもまた新しい夢が待っている、俺にとってこれ以上に幸せなことは存在しない。

 目指すべき頂き、超えるべき壁があり、それに向かって進んでいけることの幸福は何物にも代えがたいから。

 

 もちろん俺一人が先走っても空回りするだけだ、担当ウマ娘であるテイオーと足並みを揃えることは必須。

 ここもトレーナーという職業の深いところだ、相手の様子を普段からよく観察し、細かい部分にまで目を届かせる必要もある。

 

 自分だけが良くても、相手だけが良くても最善の結果を出すことは出来ない。

 ウマ娘と二人三脚で駆け抜けなければならないこの仕事――最初は俺にはまるで向いていないと思っていたが、最近はやりがいを感じている。

 

 ――あのときトレーナーになろうと決めて、本当に良かった。

 

 全ての始まりは、はっきり言って褒められたもんじゃない。

 ただ金や名誉を求めて、大した理由もなく志した職業ではあったが、今ではそんな仕事に夢中になってしまっていた。

 

「さて、もう時間だな――俺がやれることは全てやった、後はお前に託すだけだ」

「トレーナー……」

「脚のことなら余計な心配はするなよ。今回だけでどうにかなるほど無茶な鍛え方はしていないし、その後も俺がなんとかしよう。だからどんな結果になろうが受け入れるが、悔いのないように必ず全て出し切れ」

 

 レースの時間がもう間もなくというところまで迫ってきた。

 テイオーなら勝てるだろう。それは楽観でも思考放棄でもなく、今までの積み重ねから来る単純な信頼だ。

 

 あえて懸念点を挙げるのなら、再度の骨折を恐れて及び腰になってしまうこと。

 その不安を消し去るために檄を飛ばす――お前の脚なら大丈夫だから、余計なことは気にせずに全力で走り抜けろと。

 

 そう告げて見つめたテイオーの表情は、いつもの自信に満ち溢れたものへと戻っていた。

 力強く椅子から立ち上がり、トレードマークのポニーテールをなびかせて元気いっぱいに部屋を出ていこうとする。

 

「――行ってこい、お前の抱いた最初の夢を叶えにな」

「うん、行ってきます!」

 

 テイオーの骨折から瞬く間に時は過ぎ去り、とうとうその時がやってきた。

 菊花賞が、始まる――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 菊花賞。かの有名な『天皇賞春』と同じく、京都レース場で施行される重賞競争(GⅠ)

 

 春から続くクラシック三冠レースの最終戦であり、「最も速いウマ娘が勝つ」皐月賞、「最も運があるウマ娘が勝つ」日本ダービーに対して、この菊花賞は「最も強いウマ娘が勝つ」とされている。

 

 それは、このレースが距離3000という長丁場であることと、「淀の坂」と呼ばれる坂を二度越える必要があるため――スピードだけではなく、スタミナやパワー、根性に賢さなど全てを高水準で持ち合わせる必要があるからだ。

 一般的に、距離が長くなればなるほど勝つためには総合力が大切になってくる。それが3000メートルの長距離ともなれば、要求される能力は生半可なものではない。

 

 だからこそ、この菊花賞を勝利した者が「最も強いウマ娘」に相応しいというわけだ。

 そんなクラシック期で最強を決めるこのレースで、二番人気を獲得したあるウマ娘がいる。

 

 ――3枠5番、ナイスネイチャ。

 

 流石に一番人気こそ怪我から復帰して悲願の三冠を目指す、あのトウカイテイオーに譲りはしたものの、ファンからの期待が急激に高まっているウマ娘だ。

 8月にGⅢの小倉記念で一着、さらに10月に菊花賞トライアル、GⅡの京都新聞杯に出走して見事に勝利を飾り「夏の上がりウマ娘」となっている。

 

 以前行われた若駒ステークスでは三着でトウカイテイオーに敗北、皐月賞と日本ダービーには怪我も重なり出走すら出来なかった。

 その鬱憤を晴らすかのように今夏にはメキメキと実力を伸ばしてきており、これまでとは別人のような成長を遂げていた。

 

 トウカイテイオーが怪我明けということもあり、あるいはナイスネイチャなら彼女に勝てるかもしれないと言われるほどに。

 

(……テイオー、調子は良さそうだね。うん、やっぱアンタはそれでこそだよ)

 

 そんなナイスネイチャは、先にターフに降り立って大観衆の注目を一身に浴びているウマ娘を嬉しそうに見た。

 このレース場まで来て最初にするのが彼女を探すことだというのだから、自分でもちょっと引くくらい意識しすぎだと思うけれど。

 

 1枠1番、トウカイテイオー。

 

 今回もいつも通り一番人気、復帰直後だろうがその人気に微塵も陰りはなかった。

 そうでなければ困るとナイスネイチャは思う。いつもの調子のトウカイテイオーを倒してこそ意味があるのだから。

 

(でもまあ、やっぱりほんのちょっとくらい調子が悪くてもいいかなぁって。いやいや、何考えてんだアタシは……そんな弱気じゃ駄目だっての)

 

 自分を鼓舞するように心の中で喝を入れる。

 小倉記念でも勝ったし京都新聞杯でも勝った……。この菊花賞ではなんと二番人気にもなっているし、世間の評価は大分上がっているのだからもっと自信を持っていいはず。

 

 死にもの狂いで必死に努力してようやくここまで辿り着いたんだ――テイオーと同じ、菊花賞という大舞台へと。

 

(――ほんと、アタシにしては出来過ぎだよね。こんな大きなレースに出て、まさか二番人気だなんて)

 

 以前までの自分では考えられなかったステージに立っている事実に、ナイスネイチャは感慨深く想いを馳せた。

 けれど、まだだ――もう少し、もう少しだけこの先の風景を見てみたい。

 

「――やっほー、ネイチャ! こうやってレースで会うのは久しぶりだね!」

「テ、テイオー……びっくりしたぁ。あのさ、心臓に悪いからいきなり現れないでよ」

「もーっ、ボクのせいにしないでよ。ネイチャがぼーっとしてるのが悪いんじゃん」

 

 目を閉じてゆっくりと闘志を燃やしているそのとき。

 急にはきはきとした大音量で話しかけられ、思わずウマ耳と尻尾がピーンと立ってしまう。

 

 羞恥のためその犯人に愚痴を零すが、テイオーはどこ吹く風だった。

 こんなときに自分の世界に浸ってたのは悪いかもしれないが、突然テイオーがこっちに来るなんて予想外だというのに。

 

「……で、なんの用なの? アタシは見ての通り集中してるから手短にね」

「うん――結構前だけど、()()()トレーナーがお世話になったって聞いたからさ。そのお礼を言いに来たんだ!」

「――げ! アンタなんでそれを……。あはは、ちょっと一緒に食事しただけだって――」

 

 トウカイテイオーが光のない瞳で言ってくるため、冷や汗を流しながら言い訳をする。

 しかしすぐにでも念願の舞台が始まりそうなのに、なぜ自分は妻子ある男と不倫をした女のような台詞を吐いているのか。

 

 こうならないように彼女のトレーナーにはしっかり口止めしたというのに……。

 彼はおそらく自分がどれだけ愛されているか気付いていないのだろう、そうでなければこんな惨い仕打ちを出来るわけがない。

 

「――トレーナーの相手をしてくれてありがと、お礼に今日は全力で叩き潰してあげるから覚悟しといて」

「あのぉ、なるべくお手柔らかに……。でも、アタシだってただ叩き潰されるつもりはないからアンタこそ覚悟が必要かもよ?」

「へぇ……ネイチャも変わったんだ。前までとは全然気合いが違うってわかるよ――菊花賞、これなら面白くなりそうだね」

 

 無邪気なようでとんでもなく湿度が高いトウカイテイオーに気圧されながらも、しっかりと目を合わせて宣戦布告をする。

 今度という今度は本気だからだ、今日は必ずこの少女に勝ってみせるという強い決意があるのだから。

 

 そう告げると、テイオーは興味深いものを見たとでもいうように不敵な笑みを浮かべて去っていった。

 少しはライバルとして認めてもらえたということだろうか。だがそれはそれとして、ネイチャも変わったとはどういう意味なのだろう。

 

 気になりはしたものの、ゲートインを告げるファンファーレが鳴り響いたためにすぐに思考を打ち切る。

 雑念を隅に追いやり、ナイスネイチャは勝利のために意識を研ぎ澄ませた。

 

 

 

『出走の準備が整いました――スタートです! 18人のウマ娘に出遅れはありません、揃って奇麗なスタートを切りました!』

『序盤の熾烈なポジション争いを制し、誰が一番に抜け出すか注目しましょう』

 

 ゲートが開き、ナイスネイチャも皆と同様にタイミングよく飛び出す。

 横目でテイオーを追って見るが、彼女も華麗にスタートを成功させていた。

 

『無敗の三冠が懸かった大事なこの一戦、果たして期待通りの結果を出せるでしょうか? 怪我から執念の復帰を果たした一番人気、トウカイテイオー!』

『二番人気のナイスネイチャにも注目ですよ。彼女は最近ぐんぐん実力を伸ばしてきていますからね』

 

 解説のその言葉にナイスネイチャは軽く苦笑する。

 人気が出てきたことは一応理解していたが、改めて口にされるとなんとも面映ゆい。

 

(期待されてもって感じはするけどさ……。でも、なんだかんだで応えたくなっちゃうよね)

 

 こんな自分に期待してくれる人がいるのだから、その想いは裏切りたくない。

 けれど、まだ全てを出し切る場面ではない――最終局面まで力を温存しなければ。

 

 自分の脚質は“差し”。

 集団の中間付近に位置取り、最後に末脚を駆使して一気に差し切る戦法だ。

 

 最後の最後に脚さえ残っていれば、テイオーにだって末脚では負けるつもりはない。

 だから、脚を溜めるためには無理に前へ出ず冷静にレース運びをしなければならない。

 

『各ウマ娘、第2コーナーを回りました! 全体のペースとしてはややゆったりしたものになっています!』

『一番人気のトウカイテイオーを意識して、先頭集団が飛ばすことも考えられましたが皆冷静に自分のペースを保っていますね』

 

 様子見の序盤はあっという間に過ぎ去り、18人のウマ娘たちは第2コーナーを過ぎ去って向こう正面へと順に走っていく。

 

 ナイスネイチャはしっかりと自分の流れを乱さないレース運びをしていたが、それは他のウマ娘も同じだった。

 誰もがテイオーを意識しているのは間違いないだろうが、無理に彼女に対してポジション争いを仕掛けることはない。

 

 それは、最内という有利な位置から始まったトウカイテイオーがそのポジションを決して手放さないからだ。

 今までの彼女であれば、多少の不利を感じれば内側を手放すということもなくはなかった。

 

 そもそも、テイオーはその巧みなステップでポジション争いでも滅多に負けることはなかったのだが――必要以上に良い位置にこだわっていなかったのも事実。

 ナイスネイチャは、その理由を「どうせ後からどうとでも出来るから無理はしない」というテイオーの驕りゆえであると推測していた。

 

 それは実際に驕りであるが、そんなテイオーに皆が圧倒的な敗北を喫していた。

 突け入る隙があるのならそういうところだろうとも考えていたが、今回の彼女は違う。

 

 ……一言で言えば、テイオーは必死だった。

 いつも浮かべている余裕をかましているような薄ら笑いは見られず。距離ロスを気にしてポジション争いでは決して妥協しない。

 

 そのようなテイオーに対し、他のウマ娘はこれ以上相手にすると自分の身を危うくするだけだと悟った。

 複数で掛かればその位置を奪うことも可能かもしれないが、その代償と釣り合わないと全員が感じたためだ。

 

 レースにおいて良い位置取りで走ることは距離ロスを抑えられ、勝利へと繋がる。

 だがポジション争いだけに集中しているようでは本末転倒だ、大事なのは一番でゴール板を駆け抜けることなのだから。

 

(……でも、ようやくアンタが手の届く場所まで来てくれたと実感するわ。むしろ、アタシがそれだけ高く登ったのかもしれないけどさ)

 

 テイオーはなりふり構っていない、どんなことをしても勝つという気概が見受けられる。

 それはつまり――彼女が、自分たちのことをそうまでしなければ勝てない相手だと認めてくれたということだ。

 

 ナイスネイチャにとっては、そのことが堪らなく嬉しくて……思わず笑みが零れてしまう。

 はっきり言って、これまでのレースではまるで相手にされていなかったから。

 

 同じレースを走ったことは何度もあるが、彼女の目線はいつもこちらを向いていなかった。

 テイオーが見据えているのは、もっと高くて遠い場所……自分なんて眼中にないくらいの。

 

『間もなく第3コーナー! ナイスネイチャが中団からじりじりと上がってきた! 他のウマ娘はどう出る!』

 

 それがどうだ、今ではあのスターウマ娘と死力を尽くしてこうやって戦えている。

 遠ざかっていくばかりだった彼女の背中をやっと捉えることが出来たんだ。

 

 ナイスネイチャは、先を走っているテイオーの後ろ姿を見る。

 いつもの白と青を基調とした勝負服に、風で大きく揺れるポニーテール。

 

 小さなその少女の姿が、誰よりも大きく眩しく見えていた。

 誰よりも才能があって、誰よりも人気があって、誰よりも眩しいキラキラなウマ娘。

 

 あの子にずっと憧れていた――あんな風になれたらと思っていた。

 だから目標だった、誰かに聞かれたらきっと笑われちゃうかもしれないけど……あのキラキラした少女にずっと勝ちたかったんだ。

 

(――勝ちたい、2着でも3着でもなく! 1着になって証明したい! こんなアタシでも主人公になれるんだって!!)

 

 ナイスネイチャの全身から闘志が迸る。

 距離3000はクラシック級の誰もが経験していない長丁場であったが、後半に差し掛かる今でもあまり疲労感はなかった。

 

 ここまで来て疲れていないなどあり得ない。あのテイオーに届くかもしれない、その興奮が全てをかき消してしまっているのだろう。

 大量にアドレナリンが分泌されているのが自分でもわかるため、一時的に疲れを感じる機能が麻痺してしまっているのかもしれない。

 

 ……だが、そんなことはもうどうでもいい。

 

 あの子に勝てるのなら、この後どうなったっていい。

 トウカイテイオーに勝つという偉業を成し遂げるには、限界の一つや二つは超えないと話にならないから。

 

『さぁ第4コーナーだ! 内から来るか、外から来るか……この後最後の局面です!!』

 

 脚に力を込めて、ギアを徐々に上げていく。

 勝負所は最後の直線400メートルであるが、少しでも順位を上げておかないと差し切れないだろう。

 

 別にテイオーに対して恨みなど欠片もないし、むしろ友人なので好きな部類だ。

 やたらと想い人のことで暴走しがちなのは困ってしまうが、健気だしどうか幸せになってほしいとさえ願っている。

 

 だが、それ以上に勝ちたいという想いの方が遥かに強かった。

 勝ちたい――勝ちたい勝ちたい勝ちたい、勝ちたいんだ!

 

(トウカイテイオー……アタシは、アンタに勝つ! 勝ってみせる、今日――ここで!!)

 

 自分もテイオーも、いつ走れなくなってしまうかわからない――ウマ娘とはそういう脆く儚い生き物だ。

 だからこそ、後悔のないように今この時を全力で駆け抜けることに意味がある。

 

 ナイスネイチャはその魂を燃やし、憧れの背中を追って愚直に前へと脚を踏み出した。

 きっとその先(勝利)へ――進めることを信じて。



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第二十六話

『最終コーナーを回って、最初に立ち上がったのはトウカイテイオー! 栄光まであと400、このまま逃げ切ることが出来るのか!?』

 

 クラシック路線の終着点、菊花賞。

 

 誰が「最も強いウマ娘」であるか決定する大事な一戦で――トウカイテイオーは、いの一番に最終直線へと抜け出してきた。

 ここ京都レース場では、向こう正面の中ほどから第3コーナーにかけて高低差4.3メートルにもなる「淀の坂」が存在する。

 

 菊花賞は3000メートルにもなる長距離走であるため、外回りのコースを1周半強走ることとなる。

 スタート地点は第3コーナー手前の上り坂途中――つまり、ウマ娘たちは序盤と終盤で二度に渡る坂越えを強いられるのだ。

 

 そのような京都レース場で行われる菊花賞、制するには坂越え対策は必須。

 トウカイテイオーとそのトレーナーもそれは重々承知しており、この「淀の坂」をより効率的に駆け上がる努力を怠らなかった。

 

 その甲斐もあってなんとかペースを乱さずに進めており、坂の終わりで下っていく勢いをそのままに最終直戦まで一気に走る。

 前方にはもう誰もいないし、体力もまだ持ってくれる……このままスパートをかけて終わらせてしまおう、そう思いながらトウカイテイオーは脚に力を込め始める。

 

(それにしても、レースは相変わらず気持ちいいなあ。皆の注目を浴びてるときのこの感覚、ほんと最高だよ)

 

 久しぶりの公式戦、ウマ娘たちが鎬を削って一番を争うレースはとても気に入っている。

 コースから香る芝の匂い、全身で風を切っていく心地良さ、何よりも大観衆が自分の強さに驚愕してくれるのが堪らない。

 

 骨折してからはもちろん公式戦には出走していない、だから併走トレーニングや模擬レースのみになるのだがやはり本番の空気はまるで違う。

 特に今回の場合、皆から漂う雰囲気が今までとはまったく異なるのを感じた――なんとしても自分を倒して三冠を阻止しようと張り切っているだろう。

 

(みんな、ちょっと見ない間に随分立派になっちゃってさ。まぁ、それでも勝つのはこのボクだけどね!)

 

 油断すると間違いなく足を掬われるな、率直な感想としてそう思う。

 夏の間に力を蓄え、この菊花賞という一大レースに臨んでいる彼女らは疑いようのない強者であり、自分にも届きうる。

 

 それでこそ夢を懸けて争うに相応しい、全力で相手をするのに不足はないというものだ。

 けれど最後に笑うのは自分だと、そう考えたその時――。

 

『おおっと、ナイスネイチャだ! ここでナイスネイチャも凄い脚で上がってきた、勝負はこの二人の一騎打ちとなるのか!?』

 

 最終直線はおよそ400メートル、そこでスパートを掛け始めてすぐ。

 実況の言葉と、何より背後からの凄まじい威圧感にトウカイテイオーは思わず振り返った。

 

 ――そこにいたのはナイスネイチャだった。

 凄まじい闘志を身に纏い、食らいつかんとばかりにこちらへと一心不乱に迫ってきている。

 

 他者はあまり気にせず最強を自負しているトウカイテイオーですら珍しく振り返り、瞠目してしまうほどの圧倒的なその様子。

 まるで別人だ、このプレッシャーは――おそらくメジロマックイーンにすら匹敵する。あるいはこの瞬間だけに限れば……。

 

(なに、あれ……本当にネイチャなの?)

 

 トウカイテイオーは戦慄すると同時に、訪れる未来を予測した。

 普段の様子から誤解されやすいが彼女は非常に聡明であり、瞬時に彼我の戦力差を冷静に分析することが出来てしまった。

 

 ――このままではおそらく負ける、最後の最後で差し切られる。

 

『はっきり言って、お前の長距離適正は中距離に比べると一歩劣る。超一流のステイヤーと戦うには心もとないものになるだろう』

 

 菊花賞に向けた練習中、トレーナーにそう言われたことを思い出す。

 反論してやりたかったが、長距離を走る練習を積み重ねているうちに悔しいが納得させられてしまった。

 

 最後の直線でどうしても今一歩スピードが乗り切らず、中距離でいつも感じていた手ごたえを得られない。

 それでもほんの少し中距離より速度が出ないだけ、最強の自分には何も問題はないはず。

 

 しかし背後から迫るのは、そんな楽観を粉々に吹き飛ばすような光景だった。

 考えたくはないが、ナイスネイチャの長距離適性は自分よりも上なのではないだろうか。

 

(ぼ、ボク……負けちゃうの? せっかくここまで来たのに……)

 

 ――トウカイテイオーは、公式戦で初めて敗北を予感した。

 

 普段ならば何の迷いもなくここでスパートして、後ろなど気にせずに一番でゴールするのだが今回は違う。

 どうやってもナイスネイチャから逃げ切れる気がしない、そんなことを考えてないで早く脚を動かさなきゃいけないのに。

 

(動いて、動いてよ……。もっともっとスピードを上げないと負けちゃうじゃん)

 

 まるで走り方を忘れてしまったかのように委縮していく脚に、必死に力を入れる。

 もし自分の力が及ばずに敗れるのであれば仕方ない、相手を称えて次こそは勝つと奮起するだけなのだから。

 

 けれど、今回は……今回だけは違う。

 負けたらトレーナーがきっと悲しむ、「長年の夢を叶えられなかった自分」を気遣って心を痛めてしまう。

 

 彼は表面上はなんともないような振りをして、こちらを懸命に励ましてくるだろう。

 内心では自身の不甲斐なさを嘆きながら……そんなことになるのは絶対に嫌だった。

 

(……負けたくない、負けたくないよ。ここでボクが負けたら、トレーナーの努力まで全部無駄になっちゃう)

 

 無敗の三冠、その夢が最後に潰えることは泣いちゃうくらい悲しくて悔しいだろう。

 しかしそれ以上に耐えられないのは、今までのトレーナーの献身に応えられないという事実だった。

 

 トレーナーは、口癖のように結果が全てだと言っている。

 自分もそう思う、「結果は残念だったけどよく頑張ったね」では駄目なんだ。

 

 勝ってこそ――勝って夢を叶えてこそ、あの人の想いに応えることが出来る。

 どれだけナイスネイチャや他のウマ娘がこの勝負に懸けていようが、敗北だけは受け入れるわけにはいかない。

 

(……トレーナー。ボク、頑張るよ、だから勝ったらたくさん褒めてほしいな)

 

 いつも仏頂面でつまらなそうにしているけど、誰よりも優しいトレーナーのことがずっと大好きだった。

 あの人に優しく頭を撫でてほしい、頑張ったなって褒めてもらいたい……そんなことを期待して自分を奮い立たせる。

 

 後ろからの猛追に挫けそうになるが、負けじとただ前を見据えた。

 これからはもう後ろは振り返らない、ここまで来れば後は全力で走るだけなのだから。

 

 負けない、負けたくない――勝ってあの人を笑顔にするんだ。

 大体、よくよく考えてみれば自分は最強なんだから負けるわけがないじゃないか、何をそこまで怯える必要があるのか。

 

(そりゃネイチャたちも強くなったけどさ、でもすっかり忘れてることがあるんじゃない?)

 

 ――今まで誰に散々ボコボコにされてきたのか、それを思い出させてあげる。

 

 トウカイテイオーは、そうやっていつものように不敵な笑みを浮かべた。

 怪我明けだから本調子ではない? 距離適性で劣っている? 相手のウマ娘が決死の覚悟で挑んでくる?

 

 そんなことは丸ごと全部関係ない、全てを呑み込んで自分が必ず勝利してみせる。

 自分が勝つのは絶対だ、絶対に勝つ。

 

 無敗の三冠ウマ娘になって、ずっと支えてくれたトレーナーに喜んでもらいたい。

 だから負けられない! 負けられないんだ! 絶対に勝つ! 絶対に、絶対に――!!

 

 

 

(――――絶対は、ボクだっ!!)

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もう少しだ、もう少しでついに届く。

 

 前を走るトウカイテイオー、その背を全身全霊で追いかけながらナイスネイチャは思った。

 確かにテイオーは速い――ずっと目標にしてきただけのことはあった、しかしほんの少しずつだが確実に距離は縮まっている。

 

 もっと距離が短ければ勝負はわからなかっただろうが、このままいけばきっと最後に差し切れることだろう。

 自分でもこんなに速く走れたことに驚いてしまうが、間違いなく生涯において最高の調子が出ていた。

 

(テイオー、悪く思わないでよね。アタシ、どうしてもアンタに勝ちたいんだからさ)

 

 トウカイテイオーが、どれだけ“無敗の三冠”という夢にこだわっているかは知っている。

 “皇帝”シンボリルドルフに魅了されたことから始まり、骨折というアクシデントに見舞われても決して色褪せることのなかった想い。

 

 それを阻止してしまうことに良心の呵責はあるが、勝負事でそのような気持ちになるのも失礼であるだろう。

 テイオーだって嘆きはするものの、負けたからとこちらを恨むような器の小さなウマ娘ではないだろうし。

 

 逆に変に遠慮する方が彼女への侮辱となるとして、最後までペースは緩めない。

 流石にどんどん脚は重くなってきたし、呼吸も苦しくなってきた……とはいえ溢れる勝利への渇望がこの疲れさえ塗り潰す。

 

 ようやく憧れに手が掛かるという確かな実感。

 ナイスネイチャがそんな気持ちを噛み締めているその瞬間――“それ”は起こった。

 

「――!?」

 

 ――突然、目の前にいたテイオーが爆発的に加速していったのだ。

 

 恐ろしいほどの勢いだった、見る見るうちに再び差が開いていってしまう。

 先ほどまでのが彼女のスパートではなかったのか? 今までは本気を出していなかった?

 

 思いも寄らぬ事態にナイスネイチャは困惑した。

 テイオーのレースは飽きるほど見て研究してきたが、ラストスパートにおいてここまでの速度を出したことはないはずだ。

 

 最終直線でのスパートが自慢である、脚質が差しの自分をも上回る末脚の鋭さ。

 テイオーだってその気になれば差しも出来るだろうが、流石に本職である自分より速いなんてことはあってはいけないはずなのに。

 

「くっ! うああああああああああああっ!!」

 

 そんな事実は認めたくなくて、ナイスネイチャは咆哮して必死に追い縋る。

 もう少し、もう少しなんだ……やっとあの子の背中に届きそうなのに。

 

 しかしどんなに叫んだところで距離は縮まらず、離されていく一方だった。

 ナイスネイチャは、その光景で嫌でも残酷な現実を突き付けられることとなる。

 

 ――もうどれだけ走っても、トウカイテイオーの前に出ることは出来ないのだと。

 

(……そんな。アタシは本当の本当に全力で、全てを出し切ってるのに――)

 

 ナイスネイチャは、絶望して膝を屈しそうになる。

 努力に努力を重ねて全てを懸けて臨んだ試合、自分の限界すら突破した自覚があるのにそれでもなお届かないのか?

 

 しかも相手は怪我をして数か月休養しているのに対して、こちらは夏に連勝してノリに乗っている。

 これだけの好条件が重なって勝てないのなら、この先もう何をやっても――。

 

(あはは、やっぱ駄目だったかぁ……。脇役が一丁前に夢見ちゃったなあ、こんなアタシが主役になんてなれるわけないのにさ)

 

 皮肉げに、ナイスネイチャが力なく笑う。

 結局、どれだけ頑張ってもキラキラした主人公には勝つことなんて出来なかった――どんなに足掻いたところで所詮脇役は脇役。

 

 どうせ最後には負ける、引き立て役の運命なんだから努力をしたところで何もかも無駄。

 そうやって達観して全てを諦めようとしたが、不意にある言葉が脳裏を過ぎる。

 

『お前が諦めてさえいなければ、挑戦することは無意味なんかじゃない』

『……大事なのは、挑戦する心を忘れないことだと俺は思っているよ』

 

 テイオーとの圧倒的な差に打ちひしがれていたときに掛けられた言葉。

 それを発した相手が、よりによってそのテイオーのトレーナーであるのが笑ってしまうところだが自分の心に響いていた。

 

(……自分が諦めなければ決して無意味じゃない、挑戦することが何より大事。ねぇそうだよね、トレーナーさん)

 

 何をしてもここからテイオーに勝つことはないだろうが、それでも胸を張って前に進もう。

 彼女を追い越すという挑戦をしたことに後悔はないし、いつかあの少女に勝てるまで諦めることもしない。

 

 テイオーの背をただ見つめるだけで終わりではなく、きっと自分がその先を走ってみせる。

 決意を新たにするが、ただ一つだけ強く思うことがある。

 

(ああ、悔しいけどやっぱ主人公(アンタ)はカッコいいなぁ……) 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 駆ける。

 トウカイテイオーは、ひたすらにターフを駆け続ける。

 

 意識が切り替わり、視界がクリアになっていく。

 自分という存在が以前より一段階引き上げられたのを感じた。

 

 いける、これならどこまでだって飛んでいける。

 風も音も光も――邪魔するものは、どんなものでも追い越そう。

 

 正面スタンドでは観客がざわついているし、実況や解説も何か叫んでいる。

 しかしよく聞こえない、自分だけが別世界に入り込んでしまったような錯覚を覚える。

 

 そんな世界で、彼女はただ一つ確かなものを発見する。

 

(……トレーナー。らしくもなくなんか叫んでるね、すごく珍しいや)

 

 観客席の最前列、そこで自身に対して声援を送っているトレーナーの姿を見つけた。

 本当に貴重なことに、彼は大声を出しているのだがまったく聞き取れない。

 

 多分、「走れ! トウカイテイオー!!」とかそんな感じのことだろうけど。

 いつもクールで表情を変えないくせに、慣れないことをしてるその様子に苦笑してしまう。

 

 でも、いいんだ。キミが、必死になってくれている――その姿が、勇気を与えてくれるから。

 キミのために勝ちたい。どんなときでも、キミの絶対でいたい。

 

 自分のせいでトレーナーが傷つくのはもう嫌だ、ここで勝ってあの人が最高のトレーナーだと証明してやるんだ。

 ちょっとだけ贔屓が混じってるかもしれないけど、自分の好きな人は誰よりも格好よくて誰よりも優秀なトレーナーなんだから。

 

(ボクは、自分が思ってたよりも大したことないウマ娘だった)

 

 トウカイテイオーは、ふと自身のこれまでを振り返る。

 トレセン学園に入学した当初は、自分は天才でなんでも出来るし他者の助けなんて必要ないと思っていた。

 

 だからこそ、担当のトレーナー選びについてなど軽く考えていた。

 どうせ走るのは最強無敵のこのテイオー様であるし、トレーナーなんておまけに過ぎない。

 

 トレーナーとしての知識は流石にないから、それなりのトレーニングメニューは作ってほしいが中央にいる者ならそれくらい誰でも出来るだろう。

 そうやって適当にしか考えず、スカウトが殺到したこともあって面倒になりジャンケンで決めようとしてしまったほどに。

 

 その傲慢を敬愛するカイチョーこと、生徒会長のシンボリルドルフにきつく叱られてしまい。

 納得はしつつも、何処かもやもやしたものを抱えていた時に出会ったのがトレーナーだった。

 

 そこから紆余曲折あって、意気投合した末に担当契約を結び。

 日本ダービーまで全勝する快進撃を果たすが、その直後に脚を骨折してしまう。

 

 ……トレーナーは自身の未熟さを恥じているようだったが、一番の原因は自分だ。

 彼はそのとき出来るベストは尽くしていたと素人ながらに思うし、他のトレーナーであったとしてもあれを防げたとは思えない。

 

 仮に骨折を未然に防ぐなら、自分の脚が他者よりも脆いという前提条件に気付いていなければならないが、きっと難しいことだろう。

 身体が柔軟であるというのは一般的には怪我をしにくい体質だし、あれだけ気を付けていたのに骨折は免れなかったのだから。

 

(笑っちゃうよね、脚が脆くて一人じゃ満足に走れもしないくせに最強なんてさ)

 

 過去に抱いていた考え、そのあまりの愚かさに自虐する。

 自分はただ小器用なだけで、トレーナーの助けがないと走り続けられないウマ娘だった。

 

 あの人のおかげでここまでこれた、本当に何度感謝を伝えればいいかわからない。

 怪我をした自分を見捨てず、リハビリやトレーニングに常に優しく付き添ってくれて、こうして菊花賞まで間に合わせてくれた。

 

 自分だけだったら、きっと出走することすら出来なかっただろう――あの人がいたからリハビリもトレーニングも頑張れたんだ。

 信頼してくれる相手がいるからこそ、その真摯な想いに応えたいという力が生まれる。

 

 ボクは、キミが信じてくれたから――。

 最強でいられる、絶対でありたいって強く願うことが出来る。

 

(……トレーナー、そこで見ててね。ボクが一番でゴールして、夢を叶えるところ)

 

 だからどうか、いつまでもボクのことだけを見ていてください。

 キミが一緒にいてくれるなら――ボクは、どんな相手にも絶対に負けないから。

 

 独白の直後、トウカイテイオーは誰よりも先にゴール板を通過する。

 ……その姿は、まるで白い流星のようだった。

 

『――トウカイテイオーだ! 菊花賞を制したのはトウカイテイオーです! 怪我に苦しめられながらも決死の思いで掴み取った三冠! ここに三冠ウマ娘が今新たに誕生! 彼女が尊敬している“皇帝”シンボリルドルフと並ぶ、無敗の三冠ウマ娘となりました!!』

『終盤でナイスネイチャが上がってきたときはどうなるかと思いましたが、執念とも言える凄まじい末脚で逃げ切りましたね。しかし二着のナイスネイチャも見事な走りでした』

 

 実況の言葉も、解説の言葉も耳に入らない。

 観客が大盛り上がりしているが、それすら今はどうでもいい。

 

 激戦が終わった後だというのに、少女は再び駆けていく。

 誰よりも勝利の喜びを分かち合いたい、愛しい人の元へと。

 

「――トレーナー! やったやった、やったんだよボク! とうとう無敗の三冠ウマ娘になれたんだ!!」

「ああ、見ていたよ。終盤は圧巻の走りだったな、大したもんだ」

「もーっ! どうしてそんな普段通りなのさ、これじゃキタちゃんたちと会った日の方が楽しそうだったよ、たくさん笑ってたし」

「あれは……いろいろあったんだ、早く忘れろ」

 

 最前列にいたトレーナーに飛びつかんばかりに駆け寄るが、思ってたより反応は薄かった。

 あの日みたいに顔を押さえて笑ってくれるかもしれないと思ったのに……だけど、そういう冷静沈着なところも好き。

 

「とにかく本当に本当にありがとっ! 全部キミのおかげだよ!!」

「いや、お前が頑張ったからだ。俺は何もしていない」

「ううん、キミがいてくれたから勝てたんだ……ならさ、ボク達二人の絆の勝利ってことで!!」

「絆、そうなのか……? まあそれは置いとくとして、もう少しこっちに近寄れ」

 

 トレーナーが手招きしてくるので、疑問符を浮かべながらも指示に従う。

 この前は手の平を差し出して、「お手」とか言ってきたことがあるから喧嘩したが、いくらなんでもこんな場所ではやらないだろうし。

 

「……よく頑張ったな。おめでとう、テイオー」

「あ……。うんっ! これからも一緒に頑張っていこうね!!」

 

 いつもと違って、信じられないくらい暖かい笑顔で優しく頭を撫でられる。

 頑張った甲斐があった、こうされることが自分にとって何よりも嬉しい報酬なのだから。

 

 これからも……こんな風に、この人とずっと夢を叶えていきたいな。

 トウカイテイオーは、瞳を閉じてその身に余るほどの幸福を堪能する。

 

 ……この日。トウカイテイオーは、公式戦無敗でクラシック三冠を制覇した。

 ウイニングライブにて彼女が満面の笑みで掲げた三本の指は、多くのファンにとって忘れられない光景となる。



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閑話「変幻自在の花嫁教育」

「では改めまして……『無敗の三冠』おめでとう、テイオーちゃん! 菊花賞はマヤも見てたんだけど、すっごくキラキラしてて感動しちゃった!!」

 

 激闘の菊花賞から早一週間。 

 世間は、“皇帝”シンボリルドルフに並ぶ新たな三冠ウマ娘の登場に熱狂していた。

 

 ――“帝王”トウカイテイオー。

 

 トウカイテイオーは日本ダービーまで連戦連勝して圧倒的な強さを見せつけてきたが、その直後に骨折。

 全治三か月の怪我を負い、菊花賞での勝利どころか出走すら危うくなったものの、執念の復帰を果たし見事に栄光を手にした。

 

 そんなあまりにドラマチックな物語に民衆は大いに沸き、トウカイテイオーはさらなる人気者となる。

 その彼女はというと――現在、友人であるマヤノトップガンから祝福を受けていた。

 

 菊花賞直後、トウカイテイオーの疲労は限界近くまで溜まっていた。

 それを気遣っていたからこそ、こうして本格的に祝うのが落ち着いた今になったというわけである。

 

「ありがとっ、マヤノ! 無敗の三冠ウマ娘になるのは小さい頃からの夢だったから、無事に叶えられてとっても嬉しいよ!」

「うんうん、マヤもテイオーちゃんがどれくらい頑張ってたかよーくわかってたよ? 友達として、テイオーちゃんの夢が叶う姿を見られて幸せになれちゃった!」

 

 休日の栗東寮、その一室で。

 朝も早くから二人の少女が無邪気に笑い合っていた。

 

 基本的に、トウカイテイオーは休みも変わらず自身のトレーナーにべったりである。

 だが、それを心配した彼から「たまには友人とゆっくり親交を深めてこい」という至極真っ当な発言をされたために現在こうなっている。

 

「……でもねマヤノ、夢を叶えられたのはボクだけの力じゃないよ」

「ふむふむ、というと?」

「トレーナーが――あの人がいてくれたからボクは勝てたんだ。ボクだけだったら怪我もレースもきっと乗り越えられなかったと思う」

「て、テイオーちゃん……」

 

 しみじみとして感慨深そうな、それでいて熱っぽいトウカイテイオーの瞳。

 普段の子供っぽい様子とは異なり、いつになく大人びた彼女の姿を見て、マヤノトップガンはわなわなと小刻みに震える。

 

 自分の胸から湧き上がってくるこの激しい感情は何なのだろう?

 ただ一人の相手だけを一途に想い、真摯な信頼を寄せる目の前の少女。

 

 それは、それこそがまさに――。

 

「――愛! 愛だよテイオーちゃん!!」

「ま、マヤノ……?」

「テイオーちゃんはそのトレーナーちゃんのことをいっぱい愛してるんだね、傍で見てるマヤがドキドキしてきゅんきゅんしちゃうくらいに」

「これが、愛なのかな……。でも、これからもずっとあの人と一緒にいられたらいいなっていつも思ってるんだ」

 

 まるで夢見るように、はにかむような笑顔でトウカイテイオーが答える。

 長年の夢を叶えたばかりだというのに、少女は今も蕩けるような甘い夢の中にいた。

 

 立派に恋する乙女をしているそんな友人に対し、マヤノトップガンも徐々にヒートアップしていく。

 ちなみに余談だが普段の彼女は早寝遅起きであるため、こうやって朝から張り切っていると夜には早々に力尽きていると思われる。

 

「おおーっ、テイオーちゃんラブラブだねっ! マヤにもたくさんお話聞かせて欲しいな、今日は一日付き合っちゃうよっ!」

「うん、まずは骨折した後のことなんだけどさ――」

 

 トウカイテイオーが、思い出に浸るようにぽつりぽつりと語り出す。

 

 骨折してしまって意気消沈していた自分を優しく元気づけてくれたこと。

 マスコミへの対応などで疲れていただろうに、そんな感情を表に出さずにお見舞いによく来てくれたこと。

 

 リハビリやトレーニングに献身的に付き合ってくれて、怪我で心身ともに弱っていた自分の心の支えになってくれていたこと。

 休日によく押しかけてしまっているが、言葉ほどには本気で嫌がっておらずいつも受け入れてくれること。

 

 たまにナイスネイチャと浮気デートしたり、犬の動画を見て微笑んでいるけどそんなところも許せてしまうくらいに好き。

 ――などなど、完全なる惚気話が一時間を超えてもなお続いていた。

 

 常人であればあまりの話の長さに眉を顰めたり、あるいは付き合ってもいないのに超重量級の少女の愛にドン引きしていたことだろう。

 しかしマヤノトップガンはその辺には非常に理解があり、むしろ逆にその姿勢は見習いたいとさえ思っていた。

 

 ……つまるところ、彼女らはなんだかんだで似た者同士ということである。

 

「それでそれでっ? 愛しの彼とはどこまで進んだの、テイオーちゃん!」

「……実はまだ告白はしてないんだ。でもきっとトレーナーもボクのことが大好きなはず」

「うーん、そう思いたい気持ちはマヤも痛いくらいわかるけどぉ……。何か根拠とかってあるの?」

「だって『お前は特別だ』とかいつも言われてるし、それに脚とか尻尾ももうたくさん触られちゃってるんだよ……?」

 

 スカウトの台詞を初めて聞いたときは愛の告白かと思ったが、あるいは本当にただの勧誘文句に過ぎないかもしれない。

 そうであればあまり期待しすぎると傷付いてしまうだけなので、一応理由を問いただしてみたがトウカイテイオーは割と強気だった。

 

 ここまでされているのに、これが好きな相手でないのなら一体何なのかと。

 トレーナーは女の子を弄ぶような最低な男ではない、そのような信用があるからこそ彼女はかなりの自信を持って言い切ることが出来た。

 

 なぜかドヤ顔で勝ち誇っているトウカイテイオーとは対照的に、マヤノトップガンは雷でも受けたように身体をのけぞらせて驚く。

 脚とはウマ娘の生命とも言える大事な部分であり、尻尾は敏感でデリケートなので他人に触らせることはまずない部分。

 

 ウマ娘にとって、よほど信頼する相手にしか許さない大事なところをたくさん触られた?

 まだ嫁入り前の娘なのに、男の人にそこまでされてしまったら……。

 

「そ、そんなの、もう結婚するしかないじゃん……」

「――うん、そうだね。まだボクは結婚できない年齢なんだけど、そのときが来たら絶対責任取ってもらおうって決めてるんだ!」

 

 いつものように、快活な笑顔でトウカイテイオーがそう告げる。

 彼女のそんな姿は、外見のような可愛らしいものではなく、今まさに獲物を捕食せんとする肉食獣を連想させた。

 

 トレーナーにとっては身体のケアで行った以外の理由はまったくなかったが、両者の認識の相違により事態は拗れに拗れていた。

 彼本人としては職務を忠実に果たしているだけのつもりであったが、いろいろと誤解を招きやすい言動が災いしてこんなことになってしまっている。

 

「ひゃわわ、でもまさかテイオーちゃん達がそこまで進んでたなんて……」

「あれれ、どうしたのかなマヤノ? まあマヤノにはボク達みたいな大人な関係は刺激が強すぎたかもね」

「ま、マヤだってこのくらい全然へーきだもん! 気にしないで続けてくれていいからっ!」

 

 予想以上に親密に触れ合っていた二人に対し、「だ、大丈夫かな……この話マヤにはちょっと大人すぎない?」と怖気づくマヤノトップガン。

 恋に恋する年頃であるが、なんだかんだで初心なため少しでもハードな内容になると思考回路がショートしがちであった。

 

 二人の生活を想像するとどうしても恥ずかしくなってしまい、火照った顔を両手で覆って必死に隠そうとする。

 だがそれを見ていたトウカイテイオーに悪戯っぽい表情でからかわれてしまったため、負けじと意地を張って先を促す。

 

「じゃあ遠慮せずにどんどん話を進めてくね。とにかく、ボクが無敗の三冠ウマ娘になれたのはトレーナーがいてくれたからなんだ」

「そうだね、テイオーちゃん達の愛の力がきっと奇跡を呼んだんだよっ!」

「……うん。ボクだけの力じゃきっと勝てなかった、あの人がいてくれたおかげだよ。だからね、これからは――トレーナーのために走ろうと思うんだ」

「――」

 

 そう言い切ったトウカイテイオーの瞳は真剣そのものであり、その異様とも言える雰囲気に呑まれそうになってしまう。

 流石のマヤノトップガンも返す言葉を失ったため、ただただルームメイトの口が再び開くのを待つばかりであった。

 

「……トレーナーはボクのために何でもしてくれたんだ。悲しいときは傍にいて慰めてくれたし、辛いときも励まして背中を押してくれた」

「……」

「そんな優しいあの人に、恩返しがしたいんだ。小さい頃からの夢を叶えてもらったお礼に、今度はボクがトレーナーの力になりたい」

「テイオーちゃん……」

 

 目の前にいるこの少女は、本当にあのトウカイテイオーなのだろうか?

 マヤノトップガンが一瞬とはいえそう思ってしまうほどに驚くべき告白であった。

 

 唯我独尊とまではいかないが、彼女は天賦の才に恵まれているゆえにそれ相応のプライドの高さがある。

 思いやりの心はもちろんあるが、しかし我が強い彼女の行動原理がここまで他人に依存するようになるなんて驚愕でしかない。

 

「ボクに何が出来るのかってずっと考えて……やっぱりレースで勝つことかなって。ボクが勝てばトレーナーの評判も上がるし、もちろんボクも嬉しいから一石二鳥だしねっ!」

「――テイオーちゃん」

「なになに、こんなのボクらしくないって? あはは、ボクだってそう思うけどしょうがないじゃん」

「――マーベラース! その愛、とってもマーベラスだよテイオーちゃん!!」

「またこの流れ!? 今度はどうしたのマヤノ!?」

 

 マヤノトップガンは大きく万歳して彼女の愛を賞賛する。

 大切な相手のために何が出来るのか、どうすれば喜んでもらえるかを健気に考え、献身的に尽くそうとする……なんというマーベラスな愛なのだろう。

 

 思わず友人のマーベラスサンデーが乗り移ってしまうくらい感動的だった。

 ちなみにマーベラスサンデーとは、同じくここトレセン学園に所属しているとてもマーベラスなウマ娘のことである。

 

 とにかく、この友人の愛がどうか報われてほしいという強い気持ちがより一層芽生えた。

 彼女たちは愛の力で菊花賞にも勝ったし、一途で純粋な愛は何よりも素晴らしいものであるとマヤノトップガンは信じているから。

 

 実際のところ――。

 愛の力で勝ったというのは、夢見がちな少女の単なる思い込みというわけでもなかった。

 

 ウマ娘とはその想いの強さによってどこまでも速くなる生き物である。

 愛もまた立派な想い、つまり彼女は奇しくも正鵠を射ていた。

 

「気にしないで、ちょっと感激してただけだから。それよりテイオーちゃん、これからもマヤのことどんどん頼っていいからねっ!」

「そ、そうなんだ……じゃあ早速お言葉に甘えるけど、他に何かあの人が喜びそうなことってあるかな?」

「うーん、やっぱりこういうのって皆で意見を出し合った方がいいかも……。ちょっと待っててね、すぐにばびゅーんと助っ人を呼んできちゃうよっ!」

 

 そう言うや否や、マヤノトップガンは風のように走り去っていく。

 部屋に一人残されたトウカイテイオーは、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。

 

 

 

「い、一体何なのですか! いきなりこんなところに連れてきて、私にも予定というものが……!」

「マックイーンちゃん、さっきも言ったでしょ! 恋する乙女のためにマックイーンちゃんの力が必要なの!!」

「ボク、本当に困ってて……。力を貸してくれないかな、マックイーン」

「ま、まぁ、とりあえず話を聞くだけなら構いませんけれど……」

 

 メジロマックイーンは困惑していた。

 部屋でゆっくり読書を楽しんでいたのに、急にマヤノトップガンがやってきて意味のわからないことを言いながら半ば強引に連行されたからだ。

 

 連れられた先で、トウカイテイオーが珍しく神妙な顔をしてこちらに頭を下げてくる。

 無下に断るのも後味が悪いため、ひとまず事情を聞いてみることにした。

 

「……トレーナーさんに今までの恩返しがしたい、ですか」

「そうそう、テイオーちゃんは尽くす女だからね! きっと良いお嫁さんになれるよっ!」

「や、やめてよマヤノ……まだ気が早いってば」

 

 褒められて照れるトウカイテイオーだが、「まだ気が早い」という言葉からいずれは結婚したいという考えが透けて見えて恐ろしい。

 マックイーンは彼女の愛の重さに震えたが、そもそもなぜ自身に白羽の矢が立ったのか不思議でしょうがなかった。

 

 頼られて悪い気はしないが、自分はこういう色恋沙汰には無縁だというのに。

 だがどんな場面でもメジロのウマ娘として恥じぬ行いをしなければ、そうやって出来る限りは力になろうと決意する。

 

 メジロマックイーンは突然の要請にも関わらず、ベストを尽くそうと考えを巡らす。

 そのような彼女の律儀な性格がマヤノトップガンの選出理由であった。

 

「――まずトレーナーさんの好きなもの、欲しているものは何なのでしょう? やはりそれがわからなければ難しいですわ」

「トレーナーは何よりも勉強が好きだよ! 欲しいものは……お金とか名誉を求めてトレーナーになったっていうのを聞いたことがあるけど」

「ふーん、テイオーちゃんの愛しの彼って結構ギラついてる感じなんだねぇ。でもでも、それくらいワイルドなのもマヤ的にはアリかも!」

「えぇ、出世欲ばかりでは問題ですが殿方には上昇志向が大切ですからね」

 

 信頼している自身の愛バに勝手に明かされた、トレーナーの俗物的な欲求はここの女性陣には概ね評判が良かった。

 とりあえず実力さえあれば志望動機なんてそこまでこだわらない、トレーナー以上に合理的で鷹揚な彼女らの思考であった。

 

 あと彼の好きなものに関してだが、トウカイテイオーが真っ先に思い浮かんでしまったのは犬だった。

 それが悔しくて仕方ないため意図的に隠す、いつか絶対に自分の方が好きだと言わせるという謎の対抗心が彼女には存在している。

 

 こんな感じでしばらく話し合うのだがなかなか良い意見が出ない。

 しかしメジロマックイーンはこの光景に微笑ましさを感じていた、この会話をあのトレーナーに聞かせられればそれだけで目的は達成だろうに。

 

「――もう、よいのではないですか? 特別な贈り物など必要ないのです……貴方が既に告げたであろう感謝の言葉だけで、彼はきっと満足したと思いますよ」

「マックイーン……」

「マックイーンちゃん……」

 

 トレーナーへの恩返しがしたい、そう考えること自体は確かに尊い想いである。

 だがわざわざそんなことをしなくても、もう気持ちは充分に彼に届いているはずだ。

 

 そうやって穏やかに諭すマックイーンを他の二人がまじまじと見つめる。

 どうやら自分の言いたいことが伝わったみたいだと彼女が安堵したのも束の間。

 

「なんかマックイーンらしいつまんない回答だね、いかにも優等生って感じだよ」

「マックイーンちゃんの言いたいこともよくわかるけど、恋する乙女としては相手にたくさん尽くしたいものなの、ユー・コピー?」

「ちょ、ちょっと! いきなり連れてきてその言い草はあんまりではないでしょうか!?」

 

 極めてまともな意見を述べたつもりであったが、二人に言葉のナイフで刺されて若干涙目になるメジロマックイーン。

 このような恋愛脳の少女たちには、正論などまるで通じないことはよくあった。

 

「じゃあ発想を変えてみようよ! テイオーちゃんをもっと大人のオンナに成長させれば、将来のお嫁さんが素敵になって喜んでもらえると思う!」

「……マヤノってほんと『大人のオンナ』って言葉好きだよね。それでさ、具体的にはどうすればいいのかな?」 

「もうお好きになさってくださいな……」

 

 何かをしてあげるのではなく、トウカイテイオーを女性としてさらに成長させる方向へと話がまとまっていく。

 いつか彼のお嫁さんになるわけだし、そんなテイオーがもっと魅力的になれば皆が幸せになれるだろうという考えだった。

 

 なぜかトレーナーが彼女と結婚するのが前提になっているが、当然そんな保証は現在何処にもない。

 あまりにガバガバな理論ではあったがその努力は無駄にはならないだろうと、マックイーンは投げやりになりつつも賛同した。

 

「大人のオンナになるためにはメイクが不可欠! というわけでテイオーちゃん、マヤがじっくりお化粧の仕方を教えてあげるからねっ!」

「うわぁ、これ全部化粧品なの? 何がなんだか全然わかんないや……」

「えぇ、私も見慣れないものばかりで感心していいのやら……」

 

 ――そんな流れで、マヤノトップガンによる花嫁教育が始まった。

 

 自身の保有する大量の化粧セットを持ち出し、大人のメイクの仕方を徹底的に教授していく。

 トウカイテイオーにとっては化粧などまるで縁遠いものであったが、それで愛する彼が喜んでくれるならと次第にやる気になる。

 

「……赤色のリップはちょっと派手じゃない? ボクには似合わないよ」

「よく聞いてテイオーちゃん、こういうのはギャップが肝心なの。普段は子供っぽいテイオーちゃんでも、大人なメイクをすればそのギャップでイチコロだよっ!」

「そんなものなの……? ていうかさ、そう言うマヤノだって子供っぽいじゃん!」

「むぅ、マヤは立派な大人だもんっ! お化粧も出来ないテイオーちゃんと一緒にしないでほしいかな!」

「あの、お二人とも、喧嘩はなさらないでください……」

 

 ときに仲睦まじく、ときに喧嘩しながら。

 他者から見ると明後日の方向かもしれないが、それでもトレーナーを喜ばせたいという一心でトウカイテイオーは努力を積み重ねる。

 

 ……それから数時間後。

 

「ふぃー、ひとまずはこんなところかなぁ。テイオーちゃん、こういうのは新鮮さが一番大事だから、教えたことは本気デートのときとかに披露してねっ!」

「うん、わかったよマヤノ! ボク、マヤノのためにも絶対にトレーナーをメロメロにしてみせるからね!」

「なんでしょうか、彼のためにしているはずなのになぜか罪悪感が……」

 

 何か大きなことを成し遂げたような顔で友情を確かめ合っている二人のウマ娘。

 それを見て、マックイーンの心にはトレーナーに対する申し訳なさが生じてしまった。

 

 つい勢いに任せて外堀を埋める手伝いをしてしまっているが、果たして彼はこれから大丈夫なのだろうか。

 いや、これだけ愛されているのだからきっと悪い気はしないだろう……そうやって必死に自身を正当化する。

 

「なんだかお腹空いちゃったなぁ、いろいろやってたからいつの間にかお昼過ぎてるし。ねぇ、今から皆で何処かに食べに行かない?」

「あっ、それならマヤがお洒落なレストランに案内してあげる! それが終わったらテイオーちゃんのお洋服選びだね、ついでにマックイーンちゃんのも探すから安心して!」

「私はついでなのですか、いえ、別に何でもいいですけど……。ところでマヤノさん、そのレストランのスイーツの評判はどうなのでしょう?」

 

 少女たちがそうやって姦しく話をしながら街へと繰り出していく。

 次の目的は昼食と、意中の男性を虜にするための洋服選びであった。

 

 ――変幻自在のウマ娘による、未来の花嫁への教育はまだまだ終わりそうにない。 



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