腐った血 (下之森茂)
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戻ってきた男

 

【挿絵表示】

 

 

1990年2月頭、フランス首都、パリ。

日付が変わった頃に男がアパルトマン(アパート)を出た。

 

中肉中背、フランスの成人男性に比べると

やや小柄に見えるシルエット。

黒色のパーカーのフードを深く被り、

その上には革ジャケットを羽織る。

両手を突っ込み、やや猫背で周囲を見回して歩く。

 

この男がイタリアから越してきて1ヶ月が経った。

 

地中海性気候のイタリアに比べると当然寒いが、

夏場は短く涼しく、なにより不快な湿気がないのが

パリの特長だ、と男は周囲の仲間に述べていた。

 

パリには男の仲間が多い。

半島に比べ、異邦(いほう)人でも商売がしやすい。

マフィア(ウォップ)どもに売り上げを奪われる心配もない。

イタリアはヨーロッパの虫垂(ちゅうすい)だ。

 

男はイタリアを発つ前に、

ハワイで商売をしないかと誘われたが、

半島よりも暑すぎる気候の関係で断っている。

 

なによりパリには不法移民が多い。

 

フランスでは近年アフリカ移民が増加し、

黒色人種の姿が目立つようになった。

排他(はいた)的な国民性は相変わらずだ。

 

男は遠く東の果ての島国から来た東洋人だった。

 

10年ほど前まではこのパリに住んでいたので、

土地勘もあり欧州の言語や文化にも精通している。

近年はとみに東洋人の観光も増えて景気がよい。

 

パリは歪な円形の都市になっている。

その東西には(こぶ)のように取り付いた森がある。

セーヌ川が街全体を横切るかたちで流れ、

街の中央にはノートルダム大聖堂のあるシテ島。

それとマリー・アントワネットを収容した、

コンシェルジュリー監獄(かんごく)がある。

 

ちなみに百年戦争時代、

イングランド領だった1390年、

記録上パリ議会で最初の魔女を裁いたのは

グラン・シャトレと呼ばれる要塞の裁判所で、

コンシェルジュリー監獄の右岸にあり

いまはシャトレ広場という噴水公園になっている。

 

1429年、イングランドからオルレアンを

解放したことで知られるジャンヌ・ダルクは、

パリから西に離れたセーヌ川の川下、ルーアンで

前述の魔女同様に生きたまま火炙りにされた。

 

こうしたムダ知識は観光客の知識欲を満たし、

相手の警戒心を解くのに役立つ。

 

パリの街の中心からほど近い西側の8区は

特に国外からの観光客が多い。

 

世界中で有名なブランド店が立ち並び、

3つの通りに囲まれた三角地帯は

トリアングル・ドール(ゴールデン・トライアングル)とも呼ばれる。

 

通りのひとつ、街の中心から西へと伸びる

シャンゼリゼ大通りにはエトワール凱旋(がいせん)門がある。

 

あのナポレオン・ボナパルトが建造させ、

あのシャルル・ド・ゴールが凱旋(がいせん)パレードを開いた

あの凱旋(がいせん)門がいまでは国のシンボルになっている。

 

それらを目当てにする観光客は、

近くのお高いホテルに泊まる。

近くのついでにエッフェル塔にも登れる。

 

ホテルの宿泊費は5,000フラン|(約12.5万円)を

超えるが近辺では珍しくはない。

これでも安い方だ。

 

(ふところ)(つつ)ましいバックパッカーたちは

決まって離れた街の北側、18区に泊まる。

 

それでも1泊400フラン|(約1万円)ほど。

男の住むアパルトマン(アパート)も北の18区に位置する。

 

18区に目ぼしいものがない、というわけでもない。

 

18区の南側、標高130メートルにもなる

モンマルトルと呼ばれる丘には寺院があり、

パリ市内を一望する景色が楽しめ

常に観光客で賑わっている。

 

(ふもと)には有名なキャバレー

『ムーラン・ルージュ』があり、

歓楽街が多く夜も賑やかである。

 

ただしこれは18区の南側での話だ。

 

この北側はというと、目ぼしいものはなにもない。

 

強いて述べるとすれば、モンマルトルの丘から

北へと伸びる長い長い坂道と、

狭い狭い一方通行道路に敷き詰められた

路上駐車の列とドミノ列になるスクーター。

 

それから有色人種の移民たちと、

落書きに近いグラフィティが目立つ。

 

去年、ベルリンの壁崩壊が

世界中のテレビに取り上げられると、

その壁に描かれたグラフィティをマネて、

白色の建物があちこちキャンパスにされた。

 

18区は至るところにグラフィティが盛んに行われ、

黒人がレイシズム(人種主義)に対しメッセージを残した。

『白色』の景観は『黒色』で台無しになった。

 

それとは別に道路標識にも落書きされ

機能しないでは困るので、

侵食する有色人種たちに脅かされた

パリの街の治安も問題視されている。

 

それでも世界では冷戦がようやく終結し、

アパルトヘイト撤廃の流れが起きはじめ、

色分けされない時代が訪れようとしていた。

 

とはいえ有色人種である東洋人の男は、

10年前からここでの生活に不便を感じてはいない。

むしろ便利になったとさえ感じている。

 

フランスでは電話回線を情報端末に繋ぐ

ビデオテックス(VTX)のミニテルが普及した。

 

ホテルやチケットの予約がミニテルで容易に行え、

通信料金と共に街のキオスクで手軽に支払える。

 

その裏では出会い系、アダルトサイトでも

利用され、新しい犯罪の隠れ(みの)になった。

 

犯罪率が高いほど、

男にとって仕事はしやすい。

パリは絶好の土地だった。

 

口内に溜まった唾液(だえき)を飲み込む。

男の身体が、(のど)(かわ)きを訴えている。

 

街角に立つ客引きの娼婦が手招きをするが、

同業のシノギが多く足がつきやすい。

 

線路を越えた東側の19区や20区には

労働者系移民が多く暮らしている。

 

東端の20区では今年から治安維持が強化され、

移民狩りも行われているとウワサ話を耳にする。

 

しかし男の狙いは常にバックパッカーであり、

高いリスクを犯してまで足を運ぶ気にもならない。

 

公園のベンチに腰掛けて、

渇きを誤魔化そうと男は貧乏ゆすりを繰り返した。

 

飢渇(きかつ)(ともな)苛立(いらだ)ちがピークを迎えたころ、

異様な赤が視界に入った。

 

酔っぱらってフラフラと歩く黒髪の、

美味そうな女の後ろ姿だった。

 

その頃には理性が吹っ飛んでいたのか、

背後から忍び寄って首筋を噛み付いた。

 

長く伸びた犬歯が牙となり皮膚を穿(うが)ち、

(くちびる)(したた)る血を一気に吸い上げる。

 

男の特殊な唾液(だえき)が女の痛覚を麻痺させ、

また過剰(かじょう)な出血を抑える効果があった。

 

わずかな血でも身体が満たされるのを感じる。

 

こうして他人から血を吸う度に、

自分がヴァンパイア(吸血鬼)であることを自覚する。

 

それから男は女の身体を見下ろした。

 

ムームーと呼ばれる南国の民族衣装、

赤色のワンピースを着た有色人種の女。

 

寒い冬のパリに、こんな寒々しい格好をした女が

深夜に出歩くはずもない。

 

鼻を突く粘りついた異臭に気づいて、

舌にまとわりつく血の違和感に男は牙を抜いた。

 

血のあまりの不快さにえずくよりも先に、

突然まばゆい照明が男に浴びせられた。

 

真っ白な防護服に身を包んだ集団が銃口向けると、

男は驚き硬直し、無抵抗のまま暴動制圧用の

固いシールドで勢いよく地面に押し倒された。

 

防護服の集団は、無言で男の両手両足を

背中側に回して結束バンドを使って縛る。

 

牙を剥いた口には鉄の棒をねじ込み、

すぐ外せないよう顎と頭に革ベルトで固定する。

 

それから男に麻袋を被せて視界を奪い、

乱雑に車へ投げ込んだ。

 

暗闇のなかで少しでも声を漏らしたり

身動きひとつ取ろうものなら固い棒で殴られ、

男を乗せた車は長時間移動を続けた。

 

男は考える。

 

警察か、対立するグループによるものか、

美人局(つつもたせ)による単なる拉致(らち)とも考えられた。

 

しかしあまりにも手際がよく、

異様な状況にどれも納得いく仮説にはならない。

そしてあのハワイ女はなんだったのか。

 

車はひたすら左回りに移動していて、

移動時間も現在地もまったく検討がつかない。

 

長時間の拘束(こうそく)我慢(がまん)ならずに車内で粗相(そそう)したが、

無言のまま棒で殴られるだけで済んだ。

 

着いた先では鉄のイスに両手足を縛り付けられ、

腕に針が差し込まれたので男は(うめ)いたが、

針が抜かれるとまた警棒で頭を殴られた。

 

やがて麻袋と猿ぐつわを解かれ、

なにもない大部屋に男ひとりが取り残された。

 

天井近くには横長に狭いガラス窓があるが、

カーテンがされていて様子は分からない。

出入口は分厚い鉄扉(てっぴ)のひとつだけ。

 

待たされる間に2度目の排尿(はいにょう)をした。

冷めきって凍結寸前だったジーンズが

一瞬だけ溶けて暖かくなった。

尿の臭いが鼻を刺激する。

 

あのハワイ女が脳裏(のうり)をよぎるが、

彼女は別のもっと不快な臭いだった。

 



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閉ざされた部屋

長い緊張が途切れ、男がうたた寝をした頃に、

目の前のカーテンが開かれた。

 

メガネをした小柄の女が見下ろし、

合図ひとつで後ろのサングラス姿の大男が

手元のスイッチを押した。

 

鉄の椅子に座っていた男の、

睾丸と肛門の間(アリの門渡り)に電撃が走る。

 

激痛と絶叫の後で3度目の排尿。ただしくは失禁。

 

「おはよう。フヂタくん。」

 

広い室内に響くスピーカーからの音声。

 

目の前の女が、フジタの名を呼んだ。

ただ、発音はよろしくない。

 

ガラスから見えるのは黒髪で黒縁メガネの女。

 

黒色のジャケットに黒色のインナーシャツ、

黒色のネクタイと全身黒ずくめでいかにも怪しい。

 

それと同じ格好でスキンヘッドの大男は、

天井に頭がつきそうなサイズで遠近感を狂わせる。

 

一見すると拷問(ごうもん)部屋だが

ふたりの拷問(ごうもん)官はガラスの向こうの部屋で、

死刑執行人よろしくイスに電気を流すのみ。

 

室内は空調がなく非常に寒いが、

フジタは緊張からか恐怖からか、

頭の毛穴が開いて汗を垂らした。

 

「…お嬢ちゃんは何者だ?

 ここはどこだ?

 俺をどうするつもりだ?」

 

この場の不安を払い除け、

フジタは先に質問を浴びせた。

 

「日本人は質問が多いわね。

 顔はレバノン人にも見えるけど。

 私はテギュ、こっちはグラーヴよ。」

 

「婦女暴行の現行犯だ。」

 

「婦女? あれは人間か?」

 

グラーヴと呼ばれた色眼鏡にスキンヘッドの

いかにも寡黙(かもく)そうな大男の言葉に、

フジタは眉間を歪ませた。

 

フジタの質問に、ガラスの向こうで

ふたりが顔を見合わせた。

 

ふたりの名前、テギュとグラーヴは

フランス語の発音記号を意味する偽名だ。

 

フジタは偽名を名乗るこの連中に、

自分が連れて来られた意味を再度考えた。

 

「あなた、ヴァンパイアのくせに

 モノを知らないのね。」

 

箝口(かんこう)令が敷かれているんだ。無理もない。」

 

「じゃあ、やっぱり。

 あの女の血をわざと吸わせたのか、俺に。」

 

「あれは保健省の備品。

 歩く腐った死体。ゾンビ。

 あんたが血を吸った相手。」

 

「俺になんてもんを吸わせてんだ! チビ女!」

 

「グラーヴ。」

 

(いて)ぇ!!」

 

死体の血を吸ったと知るや(いきどお)るフジタであったが、

テギュの命令ひとつで股間に電撃が走る。

 

フジタは痛みにうつむいて、

しばらく口から唾液(だえき)()らす。

 

「私が話してる途中。

 そういえばヴァンパイアの汚い唾液(だえき)でも、

 ゾンビに対して麻酔効果が機能するのかしら?」

 

「知らねぇよ。

 なんせゾンビ相手なんて初めてだから。

 こっちから質問はいいのか?」

 

「どうぞ。」

 

「アレが保健省ってことは、

 あんたら国の人間か?」

 

「HIVって知ってる?」

 

「俺の質問は? (いて)ぇ!」

 

「はい、口答えしない。」

 

「…エイズくらい知ってる。ゲイの病気だろ。

 ヤク中どもが感染してるやつだ。」

 

「そんな認識か。」

 

ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の発見から

まだ数年しか経っていない。

 

フランスでは血友病患者にも

非加熱製剤による感染が拡大し、

権利や政治の問題で大騒ぎになった。

 

フジタが住んでいたイタリアでの

HIVの感染経路は主に性感染、

ヘロイン中毒者によるシリンジ(注射器)使い回しと

それらの輸血、それから母子感染であった。

 

「ヴァンパイアにHIV問題はないのか?」

 

「俺を知ってるなら、そういうことだ。」

 

ウイルスは血液、母乳、精液、

腟分泌液(ちつぶんぴつえき)に多く含まれる。

 

ヴァンパイアは血を栄養源にする怪物だが、

衝動(しょうどう)で吸血行為に及ぶほど理性は乏しく

その数は年々減少傾向にある。

 

つまり感染してしまうと、

怪物どもはまともな医療を受けられず

野たれ死ぬことが多い。

 

偉そうな言い回しをしたフジタに、

グラーヴは3度目の電撃をお見舞いした。

 

「ちなみにアレは

 HIVには感染してないわよ。」

 

「そりゃありがたい。

 フランスは人体実験でもしてるのか。」

 

「フヂタは自分がヒトのつもりでいるのね。」

 

テギュに揚げ足を取られてヴァンパイア(フジタ)は黙った。

 

「世界各国でHIV撲滅の為に

 ワクチンを研究している。

 その副産物で開発されたのがあのゾンビ。」

 

「ワクチン打って歩き回る死体になったって?」

 

「そうよ。日本で開発されたワクチン。

 製薬先進国が作ったその特効薬は、

 大豆と枯草(こそう)菌でできているの。」

 

枯草(こそう)菌…?」

 

納豆(ネイトー)を作る菌よ。」

 

「そうか…。あの女から発した

 足の指の間みたいな臭いの正体は

 納豆(なっとう)だったのか…。」

 

食欲を失せさせる黒ずむ茶色や臭い、

糸を引くあの光景を思い出してフジタはえずく。

 

それとテギュの納豆の発音も気になる。

 

「日本人のくせに

 納豆(ネイトー)に妙な偏見(へんけん)持ってるわね。」

 

「イングランド育ちなんでね。」

 

「偉そうに言ってるけど、

 結局ろくなもの食べてないじゃない。

 まあいいわ。その特効薬はヒトの体温で繁殖(はんしょく)し、

 他のウイルスや菌を寄せ付けなくなる。

 それと同時に呼気で簡単に空気感染する。」

 

「空気感染だって?」

 

「呼気から大気中に芽胞(がほう)を撒き散らすの。

 暑さ寒さ、それから熱、乾燥にも強い菌。

 それが納豆(ネイトー)菌を使った迷惑なところね。

 症状は眼瞼下垂(がんけんかすい)、血色不良、言語能力の喪失(そうしつ)

 それから歩行、平衡(へいこう)感覚の低下が顕著(けんちょ)になる。

 あとは指の壊疽(えそ)。脈拍数の異常。

 認知機能の――。」

 

「おいおい。」

 

「だから日本人には耐性があったのよ。

 納豆(ネイトー)に耐性のない外国人が使うと

 性欲の低下と勉強や労働などの意欲の減衰(げんすい)

 他者への依存(いぞん)、責任転嫁(てんか)、自殺率の上昇…。」

 

「そんなデタラメの承認がよく降りたもんだ。」

 

フジタの意見にテギュも、

グラーヴまでもうなずいた。

 

単一民族国家に等しい日本では、

新薬開発において人種や民族での

臨床結果をこれまで重視してこなかった。

 

「問題なのが感染者は、

 脳がまるで機能しなくなるのよ。

 そして面倒なことに感染者を脳死として

 認定するにも、法整備に時間がかかる。

 国を相手取って裁判にかけるのも同じ。

 当然、人権問題もあって親族の同意も必要ね。

 感染力が高く会社、学校、家族間で

 感染者数が爆発的に増える。一家心中も増えた。

 それにチーズやワインなんかの、微生物が関わる

 発酵(はっこう)産業も大きな打撃を受けてね。」

 

納豆菌の繁殖(はんしょく)力を考えれば、

他の菌など勝ち目はない。

 

「最悪、人類は日本人以外ゾンビ化する。」

 

「だからハワイか。」

 

以前、フジタが仕事に誘われたハワイには

年間200万人を超える日本人観光客が訪れ、

ゾンビの最初の感染が拡大した。

 

日本人観光客の増えるパリも、

もはや対岸の火事とはいかない。

 

そして日本人を偽っていたフジタには、

ゾンビになったハワイ人の女があてがわれた。

 

「それで俺が贖罪の山羊(スケープゴート)になったわけか。」

 

「潜伏期間は18時間。」

 

「それで、どうしたら開放してくれるんだ?」

 

「すると思ってるの?」

 

「ヒトの良心に期待してるだけだ。

 あんたら、国の何者なんだ?」

 

「あぁ、てっきり気づいてるものかと思った。

 対外治安総局(たいがいちあんそうきょく)、ご存知DGSEの

 運用部門(DO)及び研究部門(DR)

 リサーチ・サービス(SR)付属の作戦部(SO)

 特殊作戦セクション・サービスZ。」

 

「サービスZ? ゾンビのZか?

 そんな都合のいい部署聞いたことがないぞ。

 お国の情報機関がなんで俺なんかを

 ターゲットにしてんだ!」

 

「先週新設されたばかりだもの、

 普通知らなくて当然よ。

 それにあんたは日本人でしょ?

 ゾンビに感染しても抗体があるんじゃない?

 ヴァンパイア相手なら昨今わずらわしい、

 人権問題にだって発展しないし。」

 

「ユダヤ人を焼いたナチ党と同じことをする。

 っがぁ!」

 

「敗戦国同士、()えてろ。」

 

フジタの過ぎた発言に、

グラーヴがスイッチを押した。

 

激痛に悶えるなか、

フジタはさらなる罵倒を思い浮かんだ。

 

フランスは第二次大戦で

ナチス・ドイツの侵攻に恐れてパリを明け渡し、

イギリスに逃げた亡命政権は

自由フランスを名乗る。

 

イギリスの手を借りてパリを取り返した、

シャルル・ド・ゴールが凱旋(がいせん)門をくぐった。

 

そして戦争終結後に、『四大戦勝国』を

ひとり主張している大間抜けがフランスであった。

 

しかしフジタは度重なる電撃による

股間の痛みで唾液(だえき)が垂れ落ち、ろれつが回らず、

苦言(くげん)(てい)する気力も失せていた。

 

「ボウフラ程度の価値もないヴァンパイアめ。」

 

目の前の人種差別主義者(レイシスト)(にら)みつけた。

 

「あんたの血から抗体ができたら、

 開放も善処してあげるわ。」

 

「…開放? そりゃ得意のギロチンか、

 もしくは火(あぶ)りの間違いじゃないのか?」

 

「そんなことしたらあなた、

 聖人になっちゃうじゃない。」

 

フジタはジャンヌ・ダルクほど純潔(じゅんけつ)ではないし、

当然ながら敬虔(けいけん)でもない。首を切り落とされたり、

(あぶ)りにされてはひとたまりもない。

 

ヴァンパイアはウイルスであっけなく死ぬ。

銀どころか鉛の銃弾で頭を撃たれれば死ぬし、

心臓を杭で打たれてもやはり人間と同じく死ぬ。

 

「フランスに戻ってきたのが運の尽きだ。

 異常性欲者の仲間め。」

 

今こうして捕まって人体実験を受ける最中、

グラーヴの言い分はもっともだとフジタは思う。

 

10年近く前、パリに住む日本人留学生が

友人を銃殺し、死姦して食べた事件があった。

 

このセンセーショナルな事件は

世界中で取り上げられ、

ヨーロッパ在住のアジア人は差別され、

襲撃を受けることもあったという。

 

フジタはこの事件を機に

イタリアに河岸(かし)を変えた。

 

だがイタリアの気候はフジタの肌に合わず、

パリに戻ったことが彼の運の尽きだった。

 



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腐った世界

自らの呼吸がやけに早く浅くなっている異変に

フジタは気づいた。

 

電撃を浴びすぎて体力が落ちたのではない。

体温が上がって頭が熱を発し思考が覚束(おぼつか)ない。

 

尿で濡れた股間の冷たさよりも、

身体の内側から熱があふれ出して暑く感じる。

 

ガラスの向こうではふたりが、

別室から渡された資料を見て

なにやらやりとりをしている。

 

放置されるとフジタは妙な焦りを覚えた。

 

それからこの部屋に連れてこられたときに、

左腕から採血されていたことを

ぼんやりと思い出した。

 

「どうして俺なんだ?

 ヴァンパイアは他にもいるだろ。

 なんで俺なんだ…。」

 

熱で真っ赤になった顔で

うわ言のように後悔を繰り返す。

 

ルー・ガルー(人狼)って知ってる?

 あんたたち亜人種はすべて、

 私達が把握しているの。

 人権意識が高まったおかげで

 外交利用できるもの。」

 

「お前は売血ブローカーだ。

 我々が見逃す道理もない。」

 

ふたりの言葉にフジタは唖然(あぜん)とした。

 

ヴァンパイアであるフジタの、

過去の犯罪行為はすべてかれらにバレていた。

 

横浜生まれではあるもののフジタは偽名で、

イングランドで育ち、欧州で半世紀近くにわたって

同類のまともなヴァンパイアに向けて

採取した血を売っていた。

 

顧客の中には同類ではない特殊な人間もいたが、

世界中が混乱していれば商売はしやすかった。

 

ビデオテックス(VTX)のミニテルのおかげで、

フランス中の同類に売ることも可能となった。

 

100年近く生きていて、

便利な世の中にもなったと実感したばかりだった。

 

「そんなに血が売りたければ、

 中国の農村部にでも行くんだね。

 あっちも既にマフィアのシマよ。」

 

その中国ではHIVの国内での拡大を懸念して、

血液製剤の輸入を禁止した。

 

中国国内の血友病患者たちは血液製剤を求め、

貧しい農村部が血を売ることで

政府は綺麗な血液製剤の材料を得た。

 

そんな中、血覇|(売血ブローカー)が非合法に

無秩序な採血を行い、汚れた血を広めるという

本末転倒な結果を生んだ。

 

さらには去年、『六四天安門事件』も起き、

自由な活動は制限されることとなった。

 

「見逃してくれよ! 頼む!」

 

叫び懇願(こんがん)するフジタであったが、無慈悲にも

ガラスの向こうのカーテンは閉じられた。

 

フジタは熱を身体に溜め込み、

沈黙のままうなだれる。

 

()れた股間に自らの臭い唾液(だえき)がこぼれ落ちた。

 

フジタの血から納豆菌は繁殖(はんしょく)し、

白血球数の異常な増加は細菌感染症によるもので、

彼がゾンビ化する結果は火を見るよりも明らかだ。

 

グラーヴが拷問部屋の照明を落とす。

 

かれら対外治安総局、サービスZの仕事場は、

パリ市内の東端、20区にある本部の

地下深くに存在する。

 

「日本人でもヴァンパイアはダメだったな。

 アレはどうする。」

 

「ゾンビのままなら日本相手に

 交渉材料として使えるでしょ。

 珍しい日本人の感染者だし。

 それに異常性欲者をふたりも出して、

 世界に恥を晒したくないでしょう。」

 

「なるほど。金になるな。」

 

「そういうこと。

 日本人のヴァンパイアなんて

 どうせ上は信じないでしょうし、

 報告書は適当にでっち上げといて。」

 

「分かりました。いつもどおりに。」

 

テギュは笑ってみせるが、

ゾンビ問題はまだ解決していない。

 

テギュとグラーヴのふたりは、

フジタの経過を観察していた

ガラス窓の部屋を移動した。

 

大きな歩幅で歩くグラーヴの常に2歩前を、

小さな歩幅で小柄なテギュが足早に歩く。

 

「しかし上からはアレを

 なんとかしろと言われているんだよね。

 ゾンビは亜人種じゃないのにさぁ。

 ビキニみたいにアメリカ(ヤンキー)が核でも落としたほうが

 手っ取り早いんじゃないか?」

 

「まったくだ。

 しかし次の手を考えなければいかん。」

 

「私とお前の同類でも

 抗体はできなかったとなるとあとは――。」

 

ドワーフと巨人族のふたりが廊下を歩く。

テギュがメガネのレンズを拭きながら少し考えた。

 

「次はエルフにしようか。

 長寿で野生の暮らしが長い連中だ。

 納豆(ネイトー)に耐性ぐらいあるでしょ。」

 

「それならボルドーか?」

 

グラーヴのエルフといえばボルドーという考えは、

フランスでも有名なオベロン王に由来する。

 

「もう国内対象は、上から止められてる。

 ベネルクスあたりからしょっぴきましょう。

 100人いればひとりは抗体を持ってるでしょ。」

 

「当てずっぽうな。」

 

「上のやり方を真似するだけよ。」

 

「あまり派手にやり過ぎると、

 保健省がいい顔しないぜ。」

 

「ははっ。

 あいつら薬害エイズ事件(血友病患者の件)で、

 それどころではなくなるさ。」

 

HIVの発見はアメリカの国立衛生研究所と

フランスのパスツール研究所で政府を巻き込み、

どちらが先かを争っているところだ。

 

さらに今回のゾンビ騒動に世界中の政治家は、

山積する問題に頭を悩ませている。

 

「政治の腐敗が表面化するのも時間の問題か。

 どいつもこいつも腐ってやがる。」

 

「ゾンビや人間は腐ってても、

 納豆(ナトゥ)は単なる発酵よ。」

 

「俺はどっちも食えないぜ。」

 

「そもそも人間は食い物じゃないわ。

 いや、私達にとっては人間は食い物か。

 世の中腐っていてこそ、私達のような

 亜人種が生きる上で必要な養分になるわね。」

 

グラーヴが鉄扉のガラス窓から

ゾンビになったハワイ人の女を眺めた。

保健省からの借り物なので返却の必要がある。

 

ヴァンパイアなどという怪物に噛まれても、

相も変わらずふらふらと徘徊していた。

 

いわゆる脳の制限が解かれたせいもあり、

ゾンビはたくましい生命力を発揮する。

書類上はすでに死体にも関わらず。

 

抗体ができたあかつきには、ゾンビが

不眠不休で働く未来も想定されている。

 

それはグラーヴ個人のみならず

世界的にも望ましい未来ではない。

 

「しかし、サービスZ(俺たち)の立場も

 すでに怪しいぜ。」

 

「いまさら100も200も変わらないさ。」

 

ふたりは別の小さな部屋に入った。

足元には1メートル四方の小さなガラス窓。

それを囲むように立ち、下を見つめる。

 

ふたりが見下ろすガラスの床のはるか下には、

巨大な空間が広がり、中には20区で狩られた

有色人種たちがゾンビとなってうごめいている。

 

「不法移民たちを魔女狩りで実験体にした

 腐った上の尻拭いなんて、ツイてないわね。

 あいつも、私達も。」

 

 

(了)

 



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