始まりは海の向こうから (天凪。)
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X=1 第一村人

「ふむ、早速北上してコーン(ベルト)の跡地に向かいたいところだが」

「流石に全裸で原生林を進むのは無理があんね。特殊部隊のメンツだけならまだしも、ゼノも一般人もいるわけだし」

「となると、やはりこの辺りで一旦拠点を作り装備を整えるべきだね」

 

 蔦と葉で局部を隠しただけの貧相な身なりでゼノは一つ二つ頷いた。

 突如として我々を――否、世界を襲った石化現象。いつの日か同僚に尋ねられた『もしも』の話を、復活者全員が移動の支度を整えるまでの束の間にゼノは思い出す。

 『もしも石器時代の世界に飛ばされたら』。その時のゼノはこう答えた。『ゼロから科学の武器を作って独裁者になれる』と。

 

 おお、文明が滅びを迎えた今が正に、その仮定を現実のものとする絶好の機会ではないか! 倫理や政治などのゴミのような御旗をかざす愚者が尽く消えた今こそ、科学の力で全てを支配することができる。

 偉大なる人類の進歩を何者にも邪魔されない理想郷。それを作り上げる好機を手に入れたゼノは、自然と悪辣な笑みを浮かべた。

 

「ねえ、ちょっと! これを見て!」

 

 しかし特殊部隊の隊員の一人、マヤの声に妄想も途切れる。

 彼女が指したのは一本の木。その太い幹に刻まれたものにゼノは目を丸くした。

 

――Head West.(西に向かえ。) I'm waiting there.(私はそこで待っている。)

 

 切れ味の悪いナイフで刻んだような無骨な文字を指でなぞる。苔と蔦で覆われ、見えづらい位置にあったそれ。間違いなく、人間の文字だ。

 

「おお……我々以外にも復活者がいるようだね」

「……刻まれたのは随分前だな。少なくとも数ヶ月……否、一年は経ってる。削り口が妙に荒い……使ったのは普通のナイフじゃねえな。石器か?」

 

 文字の朽ち具合からスタンリーが推測を立てる。本当に文明の全てが滅び、金属を加工する技術を失ったのなら、刃物が石器でもなんらおかしくはない。

 

「ていうか私達より早く起きれるものなのぉ? 私達以外周りは皆石像じゃない」

「復活時間が環境によって左右されるのであれば不思議な話ではない。現に同じ場所にいた我々はほぼ同時に復活している」

「でもこれ書いたやつが味方だって確証は? 待っているのが石化攻撃してきたやつらの仲間だったら危険すぎないか」

「そもそも復活者じゃなくて生存者の末裔の可能性も……」

 

 騒ぎ立てる周囲を他所にゼノは文字に見入っていた。

 元来ゼノは好奇心旺盛なのだ。科学者たるもの不思議なものに目がないのは当然のことであった。

 

「……『行きたい』って顔してんね、ゼノ」

「! おお、スタン。やはり隠し事はできないね。うん、この文字を刻んだ彼ないし彼女がどんな人物かとても気になるよ」

 

 この文字の主は一体どんな人物か。導きの言葉を残すということは他の復活者を助ける余力を持っているということだ。石の世界でゼロから生活基盤を整えるのは一朝一夕でできることではない。

 

「敵の可能性は確かにゼロではないが、あの石化光線は南から発生していた。発生源に敵がいるならまだしも、わざわざこちらまで移動してくる理由はない」

「つまり俺らと同じ復活者の可能性が高いって言いたいワケね」

「そういうことだ。それに万が一敵だったとして……スタン、君なら制圧できるだろう?」

 

 それは絶対の信頼だった。疑いの問いかけではなく、幼馴染を心から信じている言葉だ。

 スタンリーは口角を上げる。

 

「――ああ、できるね」

 

 いつもの煙草がないのが惜しいくらいの艷やかな笑みで、いつものように返した。

 

 

 * * *

 

 

 スタンリーの手を借りて岩をよじ登ったゼノが息を切らせながらぽつりと呟く。

 

「即北上しなくて正解だったよ……」

「ゼノは頭脳労働派だかんね」

 

 おぶってやろうか? と揶揄ってくる幼馴染にゼノは口を尖らせた。

 背の高い木々が連なる鬱蒼とした原生林。かつては綺麗に整備された道は面影もなく、足場は非常に悪い。体を鍛えていないゼノや一般人のルーナは肩で息をしていた。ルーナの付き人であるカルロスとマックスはある程度体力があるためついていけてはいるものの、やはり軍人と比べるべくもなく消耗は激しいようだった。

 

「日も落ち始めてっし、今日は野営を……ん?」

 

 太陽の位置を確認すべく西の空を見たスタンリーの目に、灰色の筋が飛び込んでくる。

 あれは、そう、煙だ。

 

 煙の元へ向かうと、明らかに人の手の入った獣道が一本伸びているのが分かった。この道をそのまま使うのは万が一の時危険だが、それ以外は足場が悪く歩くのには不向きだ。

 そこでスタンリーは自身を含めた数名で斥候の役目を負うことにした。こちらのブレーンであるゼノを危険に晒すわけにはいかないからだ。 

 獣道から逸れた茂みの中を音を極力立てずに目的地へ向かう。しばらく進むと開けている土地が見えてきた。そこに人工的な柵と堀があるのを確認し、スタンリーらはそっと木陰から様子を窺った。

 

 一本の木を中心にして、大ぶりの枝を蔦で繋げた粗末な柵の囲いが作られていた。更に柵の周りを拙いながら鼠返しまである堀で囲っており、外部の侵入者を拒絶している。

 中央の木にはツリーハウスが建てられていた。柵で使われているよりは太い木材で作られたそれは、植物を編んでできた風除けで覆われている。ツリーハウスの下にぶら下がっているのは干し肉だろうか? 木の根元には石器の槍や斧といった道具が数本立てかけられているのも見えた。

 煙は広場にある焚き火から上っていた。土器の鍋が火にかけられており、何かを煮炊きしているようだった。

 現代文明の利器は何処にもない。やはり敵ではなく復活者のものと見て間違いないだろう。

 しかし、当の拠点の主らしき人影は何処にもなかった。

 

 外出しているのだろうか、いずれにせよ今のところ危険はなさそうだ。

 スタンリーは監視を二人残して道を引き返した。ゼノらと合流し見てきた拠点の様子を伝える。

 

「それなら接触しても問題なさそうだね。それだけ生活基盤が整っているなら北上の準備もすぐにできそうだ」

 

 乗っ取る気満々じゃん。なんてスタンリーは思ったが、ウキウキと鼻歌でも歌い出しそうなゼノにまあいっかとツッコミを放棄した。幼馴染が嬉しそうで何よりである。

 獣道を通って拠点に近づき、途中で道を逸れて監視役と合流する。

 

「ターゲットが戻ってきました。人数は一人、顔を確認できなかったため年齢は不明」

 

 茂みから拠点を覗くと、報告の通り見知らぬ人間が鍋の向こう、木の側でこちらに背を向けて何か作業をしていた。

 

「今なら不意打ちできますね」

「誰がすっかよ。おら、正面の門に回んぞ」

 

 敵対するわけでもないのに攻撃するなんて馬鹿のすることである。悪戯っぽく言う監視役の頭を軽く引っ叩き、再び獣道に戻って道なりに進み、門に辿り着く。

 門と言っても腰ほどまでしかない粗末な扉があるだけだ。堀の上に簡素な橋を渡すことで出入りができるように作られているようで、その橋は今はかけられておらず、門の向こう側で柵に立てかけられていた。

 作業に夢中でこちらには気づいていない拠点の主に、スタンリーが代表してHeyと声を張り上げる。

 

「そこのやつ! 指示通り来てやったぜ」

 

 瞬間、バッと勢いよく主が振り返った。スタンリーは思わず目を見張った。想像以上に、拠点の主が若かったからだ。

 

 夕日に照らされる金髪の奥で大きく見開いた目が瞬く。鮮やかなアースカラーがスタンリーらを凝視し、しかし不意にふ、と和らいだ。

 

「――いつか、私以外に誰か復活するとは思っていたけど……その人数は予想外だな」

 

 母を見つけた迷子のような、安堵に満ちた笑みを浮かべる彼は、十代半ばほどの少年にしか見えなかった。

 

 

  * * *

 

 

 少年は“アレックス"と名乗るとゼノ一行に服と食事を分け与えた。

 服は鹿の皮を鞣したものだった。数がそう多くなかったため、女性優先で手早く貫頭衣を作ってくれたのだ。食事も元々火にかけていた鍋のスープだけでは足りないからと、備蓄を切り崩して煮物を追加した。香草と塩と骨から取れる出汁で味付けされた料理はどれも美味だった。碌に調味料もないため、火を通しただけの質素な食事を覚悟していた一行は拍子抜けしつつ舌鼓を打つ。

 

「それにしても随分手慣れているね。鞣しもよく出来ている。もしや昔からサバイバル慣れしていたのかい?」

「ははっ、まさか」

 

 葉っぱの器に盛った飯をつつきながら、焚き火の向かいでアレックスは笑った。

 

「最初は何も分からなくてちょっとしたことですぐ死にそうになってた。食べ物はないし素っ裸で夜は寒いしそこら中に肉食動物がうようよいてろくに眠れなかったし。我ながらよく生きてたと思う」

 

 あの慣れた手付きを見たゼノらには想像もつかないことだった。しかし、少年がたった一人、素っ裸で石器時代に放り込まれたら、普通はたちどころに死んでしまうだろう。それを乗り越えたアレックスは、若いながらに非常に優秀な人材に違いない。

 

「色々試行錯誤した結果今はこうだけど、それまでは本当に大変だった。革もそう、洗って乾かすだけじゃ固くなるって知らなくてさ。叩けば柔らかくなるって気づくまではしばらく服なしだった」

 

 春から夏は虫刺されであちこち痒くてしんどかった、とアレックスは腕をさする。彼の服は露出度が非常に少なく、頭と手くらいしか肌を出していなかった。確かにそんな経験をすれば刺されない努力をするか、と納得する。

 

「初めて冬を迎えた時はそれこそ死を覚悟した。想像以上に寒くて凍死しかけたし、食べ物を見つけられなくて餓死もしかけた。あと、一回だけ山火事にも遭ったな……雷で自然発火して……完全に舐めてたよ、冬……」

 

 美しいアースカラーが遠い目をした。カリフォルニアの冬は比較的暖かいとはいえ、日によっては路面の水が凍るほど寒くなる。それに冬になれば当然、森の恵みも少なくなる。自然と狩りで食糧を調達する他なくなるわけだが、サバイバル知識に乏しくてはなかなか獲物も捕まえられなかっただろう。山火事に関しては運が悪かったとしか言いようがない。旧現代では山火事は頻繁に起こっていたが、あれの原因は大抵人為的なものだ。雷だとて、普通は雨と共に落ちるから、発火することは極稀。

 少年の苦労を想像した隊員達はよく頑張ったとアレックスを労った。

 

 人心地ついてだらけ始める面々を他所に、アレックスは一足早く食事を終える。葉っぱの器を焚き火に放り込むと、立ち上がってどこかへ向かおうとした。

 

「どこに行くんだ?」

「ん? あんた方の寝床を作りに。この人数は家に入りきらないからな」

「そんならちょっと待てよ、俺らも手伝うぜ」

「いいよ、私の残したメッセージで来てくれたんだからもてなすのは当たり前だ。それに森の中を歩いて疲れたろう? 今日はゆっくり休むといい」

 

 それでも気になるって言うなら、明日からたくさん働いてくれればいいさ。そう言ってアレックスはスタンリーの提案を流し、倉庫へと向かった。スタンリーは食い下がることなくその背を見送る。

 それから少しして、隣でちまちまとスープの干し肉を齧るゼノに声を潜めて話しかけた。

 

「……どう思う?」

「実に素晴らしいよ。ただ、気になるところは残るね」

「やっぱ?」

 

 ゼノは干し肉を飲み込みながら頷く。話が嘘でないことが前提だが、と前置きをし、続けた。

 

「語り方からして、彼は本当に何も知らない子供だったはずだ。それが大人数を支えられるほど安定した生活基盤を築くまで成長した……もちろん、彼自身の努力と強運の成したことなのだが……しかしそれならば」

「……」

 

 堀と柵で囲われ、整備された拠点。大の男数十人に分け与える余裕まである食糧。倉庫には革や食糧以外にも何か備蓄している様子が窺えた。皮の鞣し方一つ知らないような、サバイバル知識ゼロの子供が積み重ねてきた努力と奇跡の結晶だ。

 

 広場の真ん中で、敷き詰めた草の上に毛皮――春に服として使うには厚手のもの――を敷いて簡易的な寝床を作る少年を見つめ、ゼノは疑問を零した。

 

「――彼は一体、いつ目覚めたんだ?」



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X=2 比較的高性能

感想が四つも届いていて有難い限りです。


 翌朝、昇り始めた太陽の光でスタンリーは目を覚ました。木枠に葉っぱをかけただけの簡易的な屋根の下、地面よりかろうじてマシな草の寝床の上で自分がすっかり熟睡していたことに内心驚く。体感数千年ぶりの睡眠に気が抜けたらしい。それは他の面々も同じで、スタンリーが起きた時は誰も彼もまだ夢の中だった。

 ……ただ一人を除いて。

 

「あれ、おはよう。まだ寝てても良かったのに」

 

 片手に大ぶりの壺を抱えているアレックスが静かに倉庫から出てきた。すっかり身支度を整え、昨日と変わらない姿の彼を見て、素人の子供の気配でも起きなかったのかと頭を抱えそうになる。

 

「おはよ。むしろ寝すぎたって感じがすっけどね」

「そうなんだ? あ、でもそういえば軍人だっけ」

 

 アレックスには今いる面子のほとんどが旧現代では特殊部隊だったということを昨夜の内に教えた。妙にゴツい人が多いと思ったとアレックスはあっさり受け入れたが、スタンリーが隊長だと聞くと目を丸くして「全然そうは見えない」とスタンリーをまじまじと見つめた。軍人らしからぬ秀麗な顔立ちを揶揄してのことかと思ったが、「まだ若いのにすごい。優秀なんだな」と純な笑みを向けられて毒気を抜かれたのを覚えている。

 

「顔洗うならあっち。綺麗な水湧いてるところあるから」

「ああ、後で行くわ。アレックスは何すんだ?」

「川に朝飯の調達」

 

 大ぶりの壺は魚を入れるためのものらしい。しかし、とスタンリーは革の手甲に覆われたアレックスの腕を見る。手甲越しでも、その腕は細い。体を覆うマントで分かりづらかったが、そもそもアレックスはかなり細身のようだった。成長期に過酷なサバイバルを強いられ、十分な栄養を摂れなかった弊害だろう。大人数の朝食分の魚となると重さもかなりのものになるが、彼にそんな重い荷物を運ぶ力があるようにはとても見えなかった。

 

「手伝うぜ」

「いや、仕掛けた罠から魚回収するだけだからいい。それより、顔洗った後でいいから火を起こしといてくれるか? どれだけ経っても火起こしは苦手でさ、やっといてくれると助かる」

 

 ……まあ、彼は今まで一人で生活していたわけだし、見た目以上に力持ちなのかもしれない。

 そう考えて頷き、先刻教えられた水場に顔を洗いに行こうとした。その背にアレックスが言葉を投げかける。

 

「そうそう、朝飯の後はこの辺の地理とか色々教えておきたいんだ。だからその時は頭脳派の面子集めといてほしい。地図は一枚だけだから、この人数全員に見せるのは手間なんだ」

 

――は?

 出かけたその一音を既でのところで、了承の言葉に変え、川へ向かうアレックスを見送った。

 彼の姿が見えなくなった頃に、スタンリーは思わずぽつりと呟く。

 

「……地図まであるのか」

 

   * * *

 

 アレックスは全員が起き出した後に帰ってきた。壺いっぱいに魚を取ってきていたが、それでも一人一尾はないため昨日と同じく汁物を作ることになった。

 

「朝からこんなに魚獲ってきたの? 大変だったでしょぉ」

「前々から仕掛けていた罠にかかっていたのを集めただけだからそうでもないよ」

 

 切れ味の鈍い石器で器用に魚を捌きながらマヤに笑う。

 アレックスは土器に水をたっぷり入れ、捌いた魚を全部ぶち込んだ。ほろほろになるまで煮る間に各々石器で木の器を作る。食器が足りないからだ。昨晩は葉っぱで代用したが、汁気の多いものを入れるにはやはり不便だったので一人一つ自分で作ろうということになったのだ。土器だと粘土の調達、成形、乾燥、焼きと土器は工程が多いが、木であれば木材の調達、削り出しの二工程で済むから即決だった。

 スタンリー率いる特殊部隊が手頃な木を一本切り倒し、そこから木材を切り出して配布する。なお、ここでゼノを除くアレックスやルーナら一般人組は「なんでそんなあっさり木を倒せるの?」と言わんばかりに特殊部隊の面子を凝視していた。

 器作りは、サバイバル慣れしているアレックス、ナイフを使い慣れている特殊部隊メンバーは瞬く間に終えていたけれど、そういったことに慣れていない数人はやはり手間取っていた。

 

「その削り方だと危ないよ」

「ひょえっ!?」

「利き手は右? じゃあ右でナイフ持って、左手の親指を刃の背に添えて……」

 

 慣れていない数人の内の一人であるルーナは、今まで服を縫う時に一言二言しか言葉を交わしていないアレックスが突然隣に腰掛けて自分に話しかけてきたことに驚き、目を白黒させた。茶色と緑がまだらに混ざる不思議な色合いの瞳がやや伏せられ、ルーナの手元を見つめる。髪色と同じ金の睫毛が思ったよりも長いことに気が付き、そしてそんなところも見えるくらい彼が近い距離にいることにちょっとドギマギした。

 アレックスはこの場にいる凄い軍人よりも早く目覚め、そしてたった一人でこの拠点を築き上げた少年だ。紛れもない努力家である。年齢も近く、見目も悪くはないし、筋骨隆々なマヤ相手であってもレディファーストを忘れない紳士だ。

 この人現代では絶対モテてたでしょ、と内心思いながらルーナはすまし顔を作って覚束ない手つきで指示通り木を削っていく。

 

「ん、その調子。怪我しないようにな」

 

 隣の少女がそんなことを考えているとは露ほども知らないアレックスは、思ったより器用みたいだから放っといてもいいかなと考えていた。

 手つきが覚束ない数人の内、ゼノはスタンリーが率先して教えていたし、カルロスとマックスはやり方自体はわかっているようでお互い競うようにしていたため口出しは不要と判断し、一人でなんとかしようとしていたルーナの手伝いをすることにしたのだ。

 

「見て、できたわ!」

「うん、ちゃんと底が平らだ。これなら地面に置いても倒れない。……ふちはもうちょっと綺麗に均した方がいいな。口をつけた時傷つく」

 

 すまし顔を作るのを忘れたルーナがぱっと顔を華やがせ、できたばかりの器をアレックスに見せる。

 この子初めて笑ったな。口には出さず、代わりに微笑みを返し、アレックスはルーナの手から器と石器をするりと取ると、トゲを払うようにふちを整えた。

 

「せっかく綺麗な唇だから、傷ついたら嫌だよね」

「へ、」

「君、肌や髪の手入れに熱心なタイプだろ? こんな世界じゃ美容云々は二の次三の次になっちゃうけど、防げるものは防いでいいと思って」

「あ、あ~、そういう……」

 

 この歳で女の子に綺麗な唇なんてさらっと言ってしまえるなんてとんだ天然ジゴロだ。ルーナと会話を盗み聞いた者は揃って同じ感想を覚えた。

 

 朝食を終えて各々寛ぐ中、スタンリーはゼノと他記憶力の優れた数名を連れて倉庫のアレックスのもとへ訪れた。

 

「へえ、随分色々あんじゃん」

「何が必要になるか分からなかったからな。ゲームでも物資は溜め込むタイプなんだ」

 

 倉庫として使われている掘っ立て小屋は、幅はあまりないが奥行きがあり、左右の壁には棚が設置されていた。そこに土器が整然と並べられており、木の札でラベリングされている。床は土が剥き出しで、真ん中の辺りに昨晩アレックスが寝たのだろう寝床が放置されていた。

 寝床を踏まないように奥に進むと、奥の壁一面に巨大な地図が一枚貼り付けられていた。地図といっても現代の詳細なものではなく、森の範囲や水場の位置、動物の縄張りの範囲が大まかに書き込まれただけのシンプルなものだ。その地図には魚の骨でできたピンがいくつか刺さっていた。

 

「おお、実に素晴らしい! 使っているのは羊皮紙だね」

「うん、でかい地図欲しかった時に手頃な皮が手に入ったから」

 

 アレックスが左側の壁にあった倉庫唯一の窓を開けると、光が差し込んで地図がより見えやすくなった。

 地図の中央、開けたところに書かれたHomeの文字をアレックスは指をさす。

 

「真ん中のここが今いる拠点。南北は森ばっかで、東は川を挟んだ向こうにハゲ山がある。西は草原が広がってる」

「ふむ。塩は西の海から採ってきたもので合っているかい?」

 

 Meadow(草原)より西は再びForest()が広がり、その先は地図外にあたる。しかしこの辺りは元はピナクルズ国立公園であるため、西に行けば太平洋が広がっているはずだ。

 アレックスはゼノの指摘に頷く。

 

「ああ。見切れてるけど、草原と森越えてもうちょい行くと海に出るんだ。でも塩がなくならない限りあんま行かない」

「距離があるからか? 片道一日くらいかかるだろ」

「それもあるけど、草原にはバッファローの群れが住んでるし、象とかキリンみたいなサファリパーク出身ですみたいなのもいるし、そういう草食動物を狙ってライオンやコヨーテも群れ単位でうろついてて……とにかく危ないんだ。私の足じゃ毎回片道二日はかかるし、どうしてもって時以外はこの森に籠もってる」

「なるほど」

 

 バッファロー――アメリカバイソンは、成獣で二メートルの体高になる巨大な牛だ。大きいから遅いのかと思いきや、彼らは人間の三倍の速さで走れる。その速度で体当たりされたら人間なんてひとたまりもない。更に体当たりした後角を突き刺してトドメを刺そうとしてくるのだから、現代でも近づくのは厳禁とされている。

 象は言わずもがな、あの巨体に踏まれれば死は免れない。キリンだとて、その蹴りはライオンすら一撃で殺せるほどの威力を秘める。

 肉食動物でないならなどと油断してはならないのである。

 

「特に今はどの動物も大抵子育てシーズンだから草原には絶対行くなよ、死ぬぞ。

 ……あと、この辺でヤバいのはここから北の……ここ。この池の辺りを縄張りにしている狼の群れ。一回鉢合わせたことあるけど、多分十五頭くらいはいるんじゃないかな」

「よく襲われなかったな」

「丁度鹿を持ち帰る途中で、代わりに差し出したら見逃してくれたんだ。あれがなかったら死んでた」

「お前……山火事といい、今までよく生きてたな」

「それは本当にそう」

 

 今まで一体何回九死に一生を得てるんだか。死んだ魚の目で乾いた笑みを浮かべるアレックスに微妙な空気が漂った。

 それを咳払いで霧散させ、改めて地図に向き直る。

 

「あと南西にピューマか豹みたいな足跡もあった。今のところまだ一回も見てないから実際のところは分からない。ネコ科は上から来ることもあるから怖くてさ、近づかないようにしてんだ。悪い」

「いや、十分だ。一人なのによくやってんよ」

「スタンの言う通りだな。ところで、この骨のピンはなんだい? 随分たくさんあるけれど」

「ああ、それは罠の場所。あちこちに仕掛けてるから忘れないようにチェックしてるんだ。狩りは苦手で、獲物は全部罠で獲ってる。

 他に何か質問はある?」

「地形的に危険な場所はあるか?」

「んー……元がピナクルズだったから、どこも岩で高低差があるくらいだな。ここに来るまで歩いたからなんとなく分かるだろ? この森は大体あんな感じ」

 

 それを聞いた途端ゼノが嫌そうな顔をした。デスクワーク派のヒョロガリ科学者にはあの道中の登り降りは鬼門も鬼門だった。

 

「ん、質問もうないみたいだし、ひとまずこんくらいかな。

 軍人の皆さんには狩りを任せたいんだけど、チーム分けとかその辺の裁量は私にはよく分からないから。この後罠の確認と新しい罠仕掛けに行くからその時にこの辺の道案内はする。ついてくる人選は任せた」

「OK、狩猟組を選抜しておく」

 

 スタンリーと他軍人の面子が出入り口に向かうのを見送り、アレックスは窓を閉めようと振り返る。するとそこにはゼノが未だ残っており、興味深げに羊皮紙の地図を観察していて目を丸くした。

 

「? ゼノ? 何か気になることでもあった?」

「いや、大したことではないんだが……こんなに大きいのに継ぎ目の一つもないから、一頭の動物で作ったのだろう? 一体なんの動物で作ったのか気になってね」

「ああ、それ、熊」

「……熊?」

「そう、熊。グリズリーの皮で作ったんだ」

 

 さらっと落とされた爆弾にゼノはしばし呆けた。

 

 グリズリーとは北アメリカに生息するヒグマの仲間だ。直立すると二メートルほどにもなる巨体に優れた嗅覚、鋭利な爪、強靭な顎を持つ獣。当然、普通の人間が敵う動物ではない。

 思わずゼノは壁一面に貼り付けられた地図を見上げた。縦横二メートル弱はある。一番使いやすい胴体部分のみを引き伸ばして手頃な形に切って整えたのだろう。間違いなく成獣のサイズであった。

 

「銃は……」

「あるわけないだろ。石器時代の文明力だぞ。あるのは打製石器だけだって」

「……狩りは苦手なんじゃなかったのか? 君は化け物かい?」

「失礼だな? つーか、真正面から殺り合うわけないだろ。死ぬわ普通に。罠に嵌めて倒したんだ」

「罠だって? 鹿や猪ではないんだよ? 一体どうやって……」

「三日かけてでっかい落とし穴掘ってそこに落とした後、火をつけた木炭たくさん入れて蓋した」

「一酸化炭素中毒にしたのか。エレガントだがクレイジーすぎる」

「他に選択肢がないならやるしかないじゃないか。南北と西は肉食獣の群れ、東は何もないハゲ山だぞ? グリズリー相手でもタイマンならまだ勝算があると思ったんだ」

 

 で、まあ計画通り倒せたから良かったけど、血抜きもできなかったし勿体ないけど結局皮と牙だけ持ち帰ってあとは全部埋めた。と話しながらアレックスは窓を閉めた。

 グリズリーの成獣はおよそ三〇〇キログラム。彼の細腕では持ち上がらないのは当然だった。そんな細腕でグリズリーを嵌め殺したわけだが……。

 

 そのまま倉庫から出ようとするアレックスに、ゼノは鋭い視線を投げかけた。

 

「アレックス。君は、一体何者なんだ? その話は俄には信じがたい。もし本当なら、君はあまりにも異常だ。それにこの拠点を作り上げ、これほどの物資を溜め込んでいるんだ。この生活もほんの一年や二年の話ではないだろう」

「ええ……嘘はついてないんだけど、疑ってるのか?」

 

 アレックスの形の良い眉が下がる。

 

「快く食料や服を分け、地図まで見せてくれたことには感謝しているさ。だが、それとこれは話が別だ」

「うーん、何者だって言われてもなあ」

 

 ゼノの突然の詰問にアレックスは困り果てているようだった。

 その様子は善良な人間が困っているようにしか見えなかったが、やはり違和感は拭いきれない。ゼノは頭を搔いて答えあぐねるアレックスをじっと見た。

 

「生まれも育ちもカリフォルニアの一般人としか言いようがない。あとは、この世界での生活が無駄に長いだけ」

 

 それだけだ、と目を伏せてアレックスは言葉を零して出ていった。

 

 嘘をついているようには、見えなかった。




厳密に言うとアメリカバイソンはバッファローじゃないみたいなんですけど現地ではバッファローと呼んでるようなのでバッファロー呼びしてます。まあでかい牛おるやでってことで。

アレックスにチートはありません。完全記憶能力もなければスタミナおばけでもフィジカルおばけでもなく、なにか特殊な分野のエキスパートだとかそんなこともないです。


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X=3 君は何者?

各話タイトル修正しました。
更新が遅くて申し訳ありません。評価バーが赤になってとても嬉しいです。

アレックスのイメージ絵描いてみたので興味のある方はどうぞ……
【挿絵表示】



 ゼノ、スタンリー一行がアレックスと合流して数日が経ち、食糧や物資を調達してくる狩猟採集組、服や道具を作る内職組、食糧の加工や食事の用意をする調理組などが決められ、各々仕事に従事するようになった。備蓄不足で蔦と葉っぱの装備だった面子にも革の服が行き渡った。替えまではないが、一先ず生活する上での尊厳は保たれるようになった。

 

 当初アレックスは狩りのしやすい場所や、人間の食べられる果実の生っている場所、その他ゼノが求める素材の場所を実地で教えるために狩猟採集組についていくことが多かった。が、エリート揃いの特殊部隊は物覚えがいいため段々と出番が減り、内職組に混ざりがちになっていった。

 

「石鹸って作るの結構危ないんだな」

「強アルカリを使うからね。目に入ったら失明するし皮膚に触れたら溶けてしまう。僕としては、材料が綺麗に揃っているのに作れていなかったことが不思議でならないが……」

「なんかの漫画で見たことあって材料は覚えてたけど作り方は忘れてたんだ。試行錯誤したんだけど妙に弱いのしか作れなくて……でもこれ見て思った、覚えてなくて正解だ。私一人だったら絶対怪我してた」

 

 今日のアレックスは最初から内職組で生活必需品の製作の手伝いをしていた。

 ゼノとアレックスが撹拌する土器の中身は、水酸化カリウムと油を混ぜて反応させている最中のもの--まあ、所謂石鹸だ。

 材料は大したものではない。貝殻と灰と水と油の四種類があればいい。アレックスの倉庫には貝殻を焼いて作った炭酸カルシウムと、灰を水に溶かした上澄み液である炭酸カリウムがあった。炭酸カルシウムを更に焼いて--これはかなり高温で焼かなければならないため、窯を作る必要があり、ゼノらが到着してすぐには作ることができなかったのだ--酸化カルシウムを作り、それを水に溶かした水酸化カルシウムと炭酸カリウムを混ぜれば水酸化カリウムが作れるのである。

 要は貝殻を二回焼いて水に混ぜた液体と、灰の上澄み液を合体させれば強アルカリが作れるのである。この知識があれば現代でも簡単に死体の処理もとい石鹸作りができるわけだが、アレックスはその辺りをとんと覚えていなかった。

 

「だからって芋から酒作って蒸留してアルコール消毒しようって発想になんの意味分かんねーけどね」

 

 そんな二人の会話に、採集から戻ってきたスタンリーが呆れた声を挟む。

 彼は二人の傍に腰を下ろし、煮沸消毒済みの水を入れた水筒に口をつける。背中に背負った籠には、果実に始まりキノコや繊維の強そうな草などが雑多に詰め込まれていた。

 

「おお、スタン! お帰り、良い収穫はあったかい?」

「いんや、特別なもんはねえよ。大体はもうアレックスの倉庫にあんだろうな」

「まあこの辺で私が行ってないところはもう洞窟の奥くらいのものだからな。一人で洞窟探検するほど命知らずではないんでね」

「洞窟探索は危険がつきものだ、装備が整わない内に手を出して死傷者が出てはたまらない。さてアレックス、良い固さになってきたからケースに詰めよう」

「分かった」

 

 撹拌していた石鹸を平たく四角い木箱に詰める。これが固まったら無添加の素朴な固形石鹸の完成だ。

 その作業を眺めながら籠を下ろしたスタンリーが口を開く。

 

「話戻すけど、なんでアレックスは酒の作り方知ってんだ? 子供だろ?」

「アマゾンの原住民のドキュメンタリーとかで見たのを真似した。噛んで容器に戻すやつ」

「おお、口噛み酒だね! 唾液でデンプンを糖化させて放置することで醸造させるものだ。人為的に作る酒の発祥とも言われる。原始の世界にピッタリで実にエレガントだ」

「うん、原理は知らなかったけどね」

 

 キラキラと目を輝かせるゼノに、至ってクールにアレックスは返した。

 

「へえ、昔ながらの製法ってやつ? 流石に飲んだことねえな。どんな味すんだ?」

「……絶っ対に飲むなよ、スタンリー」

 

 アレックスは痴漢を見る目でスタンリーをじとりと見た。これまで憧憬や嫉妬といった様々な視線を浴びてきたが、こんな目を向けられたのは初めてでスタンリーは頬をひくつかせた。

 しかしはたと気付く。鮮やかなアースアイの下にうっすらと青い隈が出ていることに。

 

「分かった分かった、飲まねえよ。飲みたがってた酒飲み連中にも言い聞かせとく。

 んなことよりアレックス、お前寝れてねえの? 隈できてんぞ」

「え、ほんと? 鏡ないから気付かなかった……まあ、ずっと一人だったからな。いきなり大人数の共同生活になってまだ慣れてないだけだよ」

「ふむ、確かに急な環境変化に体が追いつかないことはままあることだ。眠れない日が続くようであれば僕に相談するといい、睡眠導入剤でも作るとしよう」

「そう言って麻酔とかじゃないよね?」

 

 石鹸を綺麗に均しながらアレックスが茶化す。瞬間、ゼノの目がきらりと光った。

 

「この文明レベルでできる麻酔はエーテル麻酔が最も適していると思うがジエチルエーテルの合成に必要な硫酸がない。イエローストーンに行ければ硫酸が手に入るからそれまでお預けだね。あと亜酸化窒素作りに必要な材料が現段階で入手可能だから笑気麻酔が可能といえば可能なんだが使える器具が土器では心許ない。ガラス加工が可能なレベルでなければ難しいね」

「マジレスじゃん、半分以上何言ってるか分からないんだけど」

「ゼノだかんね」

 

 オタク特有の早口だと笑うアレックスと慣れた様子で聞き流すスタンリーを余所にゼノはどんどん自分の世界に入っていく。その手はすっかり止まっていたので、アレックスは一通り笑うとゼノの手から土器と木箱を奪ってさくっと作業を終わらせた。

 

「じゃ、私はこれ仕舞ってくる。あ、スタンリー。籠寄越せ、それも持ってく」

「お、サンキュ」

 

 スタンリーから受け取った籠を背負い、石鹸の木箱を重ねて持ってアレックスは倉庫に向かった。

 

 アレックスが倉庫に入っていったのを確認してから、スタンリーはゼノに声をかける。するとそれまでブツブツと思考を垂れ流していたゼノが途端にそれをやめて代わりに少々難しい顔をする。

 

「どした? なんか引っかかるとこでもあったか」

「いや……やはりこちらの考えすぎなのではないかと思い始めててね。彼は科学好きでもないのに年齢に見合わず知識の幅が広い。だがその元を辿るとほとんどがテレビや漫画といった子供が触れるようなものばかりなんだ。人並み以上に記憶力があった、と考える方がしっくり来る」

「ふーん……」

 

 ゼノの言葉にスタンリーは冷たく目を細めアレックスのいる倉庫を見遣った。

 

「スタン、君はどう思うんだい?」

「……俺は、やっぱまだ信じきれねえな。テレビだの漫画だのからっつっても限度があんだろ、何千年も経っててなんでそこだけピンポイントで覚えてんだっつの。……それに」

「それに?」

 

 スタンリーは口角を下げ、面白くなさそうな顔で続ける。

 

「他の奴ら……俺と同じようにアレックスを疑ってた面子からな、『やっぱり彼の言ってることは本当なんじゃないか』『アレックスはただの子供、それもすごく良い子だ』なーんて意見が段々増えてきてんだよ。おかしくねえか、軍の中でも警戒心の強え奴らだぜ? それがあっさり懐柔されてってんだ。これを疑うなっつーのは、ちっと無理があんだろ」

「ふむ、それは確かに……」

 

 特殊部隊は気のいい人間も勿論いるが、それ以前に軍人なのだ。たとえ力を貸してくれた恩人であろうと、怪しければ真実心を開くことはない。……はずであった。

 アレックスを疑う声は日毎に消え、代わりに擁護する声が大きくなっていった。今ではアレックスを疑う方が少数派になっている。

 このままではアレックス擁護派と否定派で内部分裂が起きかねない。服も食糧も寝床も彼の助力があって極短期間で入手できたが、こうなってくるとやはり話は別だ。

 

「あいつには絶対何か秘密がある。それを暴くまでは、俺はあいつを仲間だとは思えねえ」

 

 ついさっきまで当のアレックスと和やかに会話していたとは思えないほどの凍えるような目でスタンリーは宣言するのであった。

 

* * *

 

--寝れねえ……。

 

 スタンリーは周りを起こさないようにごろりと寝返りを打った。昼間アレックスに寝不足を指摘した癖に、その自分が眠れない状態になってどうする。密かに溜息を吐いた。

 原因に心当たりはある。しかし解決するのは難しいものだった。

 何もアレックスが怪しくて不安で眠れないなんて繊細な理由ではない。そんな理由だったらアレックスと合流した日から寝不足になっている。

 スタンリーの内面に起因しているのだ。そしてそれはきっと、相当時間をかけねば治ることはない。

 

 再び小さく溜息を吐き、薄く目を開く。

 寝床の場所は初日と変わっていない。しかし葉っぱの屋根だけだったものが今は風避けのカーテンが設けられたため初日に比べればずっとマシになった。……とはいえ、男共全員詰め込んで雑魚寝という形なので、むさ苦しすぎて正直寝心地は良くない。

 人数の少ない女性陣は今もアレックスの善意で彼のツリーハウスを使っている。どんな住居か覗いてみたことがあるが、まあ、この石の世界では高級住宅に該当するだろうということは分かった。女贔屓だと不満をこっそり漏らす男もいたが、アレックス当人が土剥き出しの狭い倉庫で寝泊まりしているためか直接文句を言う者はいなかった。

 

 ぼう、と天井を眺めていると、カーテンの隙間から月明かりでも星明りでもない光が差し込んでいることに気がついた。位置的に焚火の明かりだろうが、寝る前に火事にならないよう消すことになっている。

 消し忘れか、それとも誰か起きているのか。まだ眠れそうにないスタンリーは、周りを起こさないように音を殺して寝床の外に出た。

 

 自分で切ったことが窺える、ざんばらの金髪の少年が焚火に薪を焚べていた。普段より火力の小さい焚火の上には鍋がかけられており、少年が時折木製のレードルで中身を混ぜていた。

 その様子を見ていると、気の強そうな猫目がきろっとスタンリーを見つける。

 

「へえ、今日はスタンリーか」

「……()()()?」

「まあ、座ってゆっくり話そう」

 

 焚火の四方を囲う、切り倒して枝を払っただけの丸太のベンチを勧められる。訝しむが、どの道戦闘技能のない子供のアレックス一人制圧するのは容易だ。素直に勧められた丸太に腰掛ける。

 アレックスは常に身に纏っていたマントを脱いでいた。マントの下は皆が着ているのと同じ貫頭衣で、幅が広く固そうな革のベルトを腹部に巻き、下はズボンを穿いていた。革の手甲は前腕のみで、二の腕が晒されている。細い腕には擦り傷や切り傷の他に何かに噛まれた痕や痣といった傷跡が肉の代わりに無数についていた。

 

「他の皆には秘密にしてくれよ」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべてアレックスは声を潜める。鍋には白い液体が入っており、そこから芳醇な匂いが漂っていた。

 

「これ……牛乳か? それにしちゃ匂いが違えな……」

「山羊のミルクだよ。ハゲ山の方にちょっと仲良くしてる群れがいるんだ。これは若い子に分けてもらったミルクだから、初めてでも飲みやすいよ」

 

 で、ここに……と取り出したのは小瓶だ。栓を抜いて、木の匙を差し込み、中身を掬って取り出す。柔らかな甘い香りと共に、とろりとした液体が火に照らされて現れる。

 

「蜂蜜まであんのか」

「採取するのほんっとうに大変だから内緒だぞ」

 

 純白のミルクに黄金の線が何度か垂らされた。よく混ざるようにレードルでくるくると回し続け、頃合いを見てアレックスは木のコップに少しミルクを取って味を見る。

 

「ん、いい感じ。スタンリー、コップ貸して」

 

 細い手がスタンリーに差し出される。断るという選択肢が頭を過ぎったが、今正に味見でアレックスが口をつけたものだ。自分の管理するコップであれば、毒を盛られる心配もないだろう。

 逡巡はほんの一瞬で、分からない程度のものだった。スタンリーは自分の荷からコップを出し、アレックスに渡す。

 アレックスはそこにミルクを注ぎ、スタンリーに返してから自分のコップにもミルクを注いだ。

 

 鍋に残ったミルクが焦げつかないように、焚火の薪を崩し軽く砂をかけて火を弱めるアレックスを見ながら、スタンリーはそっとミルクに口をつけた。

 山羊のミルクと聞いて臭みがあるだろうと思っていたが、想像以上にすっきりとした味で驚く。山羊の食料だろう草の風味はわずかに感じられるが、牛乳よりも口当たりはさっぱりしていた。蜂蜜の優しい甘さの裏に爽やかな辛味があり、体の芯からじんわりと温かくなる心地がした。

 

「うまいな……」

「だろ? ハゲ山の辺りに生えてる草は水気が少ないからか、山羊ミルクなのに草の匂いがきつくなくて飲みやすいんだ」

「蜂蜜以外にもなんか入れてるだろ。ジンジャーか?」

「そう。ハニージンジャーのホットミルクは、母さんがよく作ってくれたんだ。本当はここにシナモンも入れるんだが、シナモンってこの辺にはないんだな。ゼノに聞いたんだが、もっと温かいところじゃないと自生してないらしい」

 

 母親のレシピで作ったホットミルク。それを褒められたアレックスは、本当に嬉しそうだった。

 大人びた表情をすることの多いアレックスの子供っぽい笑顔に瞠目した。

 

「眠れない時はホットミルクが一番いい。安心するから」

 

 母の影を追う子供の顔で、ひとの心を柔らかく包み込む声音を吐き。爪が欠けて骨ばった両手で持ったコップから、ちびちびとホットミルクを舐める。

 スタンリーには大人にも子供にも見えるのにそのどちらでもないちぐはぐさが奇妙に感じられて仕方なかった。いっそどちらかに振り切ってくれればよかったのに。

 そんな考えを隠すようにホットミルクをぐっと呷った。

 

「……あんた、もしかして俺達がここに来てから毎晩こうしてんの?」

「あ、バレた?」

「そりゃな。『今日は俺』っつーことは、その前に何人も来てんだろ」

「うん。きっと眠れない人もいるだろうなって思ったから」

「なんでんなことが分かる?」

 

 アレックスはスタンリーから目を逸らし、弱くなった火をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。

 

「……眠りに落ちるその瞬間。自分の意思とは関係なしに、飛び起きる」

「!」

 

 スタンリーは目を見開いてアレックスを凝視した。それは先程スタンリーを襲った現象だったからだ。

 

「石化していた数千年の間、私達にとって“眠り”とは“死”を意味していた。意識が遠のく度に全力で抵抗した……だから今、頭では『もう眠っても大丈夫だ』と理解していても、反射的に起きてしまうんだ」

 

 かつて意識的に行っていた覚醒は、やがて無意識の抵抗に変わり、いつしか当たり前の日常となっていた。眠りを避けることが常態化した結果、石化が解けたというのに、どんなに疲れていようと、どんなに眠ろうとしようと、条件反射で体が強制的に意識を覚醒させるのだ。

 染み付いた習慣というものは、そう簡単には消えてくれない。理解と納得は別物なのだ。

 

「私も復活したばかりの頃はそうだった。だからきっと、君達の中にも同じように“眠れない”人が出てくると思って……こうして待つことにしたんだ。……ひとりの夜は、長いから」

「アレックス……」

 

 炎が揺らめく瞳が瞼に隠される。

 

 職業柄、一人で夜を明かすことには慣れていた。一言も喋らず、植物にでもなったかのようにじっとして待つことは、仕事でよくやることであった。だから夜は長いだのなんだのという感傷を、スタンリーは持ち合わせていなかった。

 しかし、スタンリーの経験した孤独な夜と、アレックスの経験した孤独な夜は性質が全く異なる。

 アレックスの過ごした夜は、真実“孤独”だった。己以外に、生きた人間はいないからだ。石像に触れたとて、そこには温もりも鼓動もない。気配さえ無である。

 一寸先の闇の中に息づく死を感じながら、疲れた体を引きずり、息を潜めて夜明けを待つ。大人の庇護下にあっただろう子供が、たった一人で。

 

--ああ、歪に育つわけだ。

 

「……あんたの時と俺達じゃ状況が違う。動けねえやついても代わりのやつがいんだから、放っときゃよかったろ」

「や、まあ、うん。皆私より年上でしかも軍人ばっかりだから、余計なお世話かな〜とも思ったさ。でも何もしなかったらそれはそれで気になって寝れなくなってただろうし、ま、結局私の自己満足ってことだよ」

 

 おかわりいる? と差し出された手に空になったコップを乗せる。レードルでミルクを掬うアレックスを横目にスタンリーは頭をがりがり掻いた。

 

 眠れない大人を気遣って、毎晩こうして母のレシピのホットミルクを作って待つ子供。絆されるやつが出ても何もおかしくない。

 

 スタンリーがいまいちアレックスを信用しきれていないのは、原始回帰したカリフォルニアに素っ裸で放り込まれた子供が一人で生き延びて大人数十人を受け入れられるほど備蓄のある拠点を築いたという点があまりにも怪しすぎるからだ。

 大人でさえゼロスタートのサバイバルは困難を極めるというのに、目の前の少年は乗り越えた。乗り越えた上で、スタンリー達をほんの数日とはいえほぼ備蓄のみで養った。

 

――有り得ねえな。

 スタンリーはそう切り捨てた。

 

 仮に、アレックスの言葉が真実だとして。どれだけの時間をかければ、ここまでの拠点を作れるというのか。

 アレックスは見たところ十代半ばだ。童顔だとしても精々十八、九といったところだろう。

 この年齢でスタートなら、まだ分かる。だがこの年齢が現在だ。そうなるとアレックスは、ローティーンの頃に、下手すれば一桁の年齢でサバイバルを始めたことになってしまう。

 そんなことが、可能なのか?

 

 無理に決まっている。無理な、はずなのだ。

 

「……アレックス」

「なに?」

 

 ホットミルクを波々と注いだコップを受け取りながら特徴的なアースアイを見つめ返す。

 

「あんた、今いくつだ?」

 

 不思議そうにする彼に、スタンリーはずっと口にできなかった問いを紡いだ。

 

「えーと、日を数えてないから正確な数字は分からないけど……今年で十、六? かな」

 

 指折り数えて答える少年に絶句する。

 十六歳。やはり、若すぎる。

 

「も一つ聞いていいか?」

「どうぞ?」

「石化したのは、何歳ん時だ」

 

 スタンリーは虚偽は許さないと言わんばかりに視線を鋭くさせるが、それに気づいていないのか気づいてて無視しているのか、あっけらかんとアレックスは即答した。

 

「十一の時だよ。もう五年はここで暮らしてる」

 

 五回冬越えたから合ってるはず、……具体的に数字にするとやばいな……と呟くアレックスを他所に一層頭を抱える。

 

「……待て。待て、待て。十一? 有り得ねえだろ、なんで生き残れてんだ」

「ああ、うん、そうなるよなあ」

 

 アレックスは苦笑しながら自分のコップにホットミルクを注ぎ直した。

 

「話すとまた長くなるし嘘臭くなるんだけど」

「いい、もう十分嘘臭えし。一旦全部吐け」

「ひど……まあいいや」

 

 ますます苦笑を深めると、アレックスは居住まいを少し正してゆっくり口を開いた。




石鹸作りに使う灰は海藻を焼いたものでも代用できます(そのレシピの場合できる強アルカリは水酸化ナトリウム)。原作で千空が作った石鹸は海藻版ですね。

感想にあった質問
Q.万能型だけど本職には及ばない器用貧乏という感じでしょうか?冒険者?
そんな感じです。強メンタルと強運と地道な努力でなんとかする人です。一回死んで転生してる分特にメンタルは強い方です。なおストレスを感じていないわけではないので抱え込んだそれがどこに響いているかは……。
アレックスは日本組でいうクロムポジションに該当しますが、クロムほど優秀じゃないです。現代でいうと早慶ギリギリ合格できるか落ちて滑り止めのGMARCH行くかってくらいです。

ドクスト世界の人類はフィジカル中心にメンタルもインフレが激しいのでアレックスはまだまだ一般人だと思います。普通の人間はそもそも三七〇〇年も起きてられませんよ……。ミジンコ並だと言われてる千空ですら一人全裸で原始の森に放り込まれて半年以内にツリーハウス建ててちゃんと生活しつつ復活液研究までしてる時点で相当逞しいです。あれでミジンコ扱いならアレックスは……?


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X=4 目覚め

大変お待たせしました。
今回からアレックス過去編になります。


 

――ピシッ……ビシビシ……

 

 亀裂から光が差し込む。今まで指一本たりとも動かせなかった体が、徐々に自由を取り戻していく。

 

――バリバリバリィッ

 

「よしっ……やっと復活だ!」

 

 体中に貼り付いている石片を物ともせずに立ち上がる。ぱらぱらと崩れ落ちていく石を払いながら周りを見回した。

 木、木、木。見渡す限りを木々が両手を広げている。見晴らしは最悪だが、私はただただ嬉しかった。

 

 

 

――この世界が『Dr.STONE』の世界だと気がついたのは、国際宇宙ステーションへ行くメンバーの中に石神百夜の名を見つけた時だった。

 当時私は既に前世の記憶を取り戻していた。しかし丸っきり普通の現代だったものだから、まさか漫画の世界に転生していたなんて夢にも思っていなくて油断していた。朝のロケット発射のニュースでその名を見つけた時は口に含んでいたコーヒーをぶちまけたものだ。

 そんなまさかと慌てて覚えているキャラの名前を検索して、獅子王司やあさぎりゲン、七海財閥が実在することを知り、天を仰いだ。

 

 『Dr.STONE』。謎の石化現象によって突然全人類が滅びを迎えた世界で、自力の復活を遂げた主人公石神千空が滅んだ現代文明を科学で復興させるという物語だ。

 この時点で「あ、詰んだわ私」と思った。トリップに気づいたのがあまりにも遅すぎたからだ。

 正確な日付は覚えていないが、石化現象は石神百夜が宇宙ステーションに行ったその年に起こる。更に生き残り人類の一人であるリリアンの滞在予定期間は一週間。リリアンの帰還を待たずに、ということは、一週間以内に人類は滅びるということ……。

 

 たった一週間で何ができる? もっと早く、せめて去年にでも気がついていればサバイバルスキルを多少は身につけられたのに。

 否、そもそも脳をフル稼働させていた主人公でさえ目覚めるのに三七〇〇年もの時間を要したのだ。五感を全て失った上一ミリも動くことすらできない状況を常人が耐えられるか? 仮に耐えられたとして、三七〇〇年も経っていたら付け焼き刃の知識なんて全部吹っ飛んでるに決まっている。

 

 そして何より、今私が住んでいるのが日本ではなくアメリカであるというのが最悪だ。

 

 日本であれば意識を失ってもワンチャン復活液をかけてもらえるが、アメリカだとそうはいかない。一応主人公の師匠が北米に文明を築いたというのは覚えているが、確か主人公と違って復活液そっちのけで兵器を生産していたはずだ。北米編の途中で前世は死んでいるから、その後のことはほとんど知らない。というか漫画自体うろ覚えだ。転生してそれなりに時間が経っているから仕方がない。よく石神百夜の顔と名前で気がつけたものだと自分を称えておく。

 

 とにかく、自力で復活しなかったらそのまま死亡ということも十分有り得るのだ。

 

 というか当たり前のように意識を失わなければOKとか考えていたが、他にもクリアしなければならない条件が少なくとも二つある。

 まず硝酸。復活液自体は硝酸とアルコールの混合液であることは覚えている。混合比や濃度はさっぱり覚えてないが、とにかく硝酸は自力復活に必須だったはずだ。

 そして石化後三七〇〇年間指一本たりとも欠けずにいることも必要だ。三七〇〇年もあればハリケーンや、最悪噴火とかの自然の脅威に一度は巻き込まれるだろうし。割れてもくっつければ治るらしい――ああでも、断面が風化してたら駄目なんだっけ?――が、初期復活じゃ一体誰が割れた体をくっつけてくれるというんだ?

 要するに復活には意識の保持、硝酸、割れない強運の三つの要素が必要不可欠ということだ。

 

 私は頭を抱えた。

 

 意識の保持、これは気合と根性の話だ。未来の私頑張れ。

 硝酸、これも予め硝酸が採取できる場所で石化することでクリアできる。

 

 問題は割れずに三七〇〇年生きること。運ゲーにも程がある。どうしろっていうんだ。意識があるのに体割れてたらおしまいじゃないか。

 え、意識保ったまま頭とか割れたらどうなるんだ? 割れたって分かるものなのか? 普通に即死するのか? それとも風化と共にゆっくり死ぬのか? いずれにせよ怖すぎるだろ。

 

 いや、いや。考えても意味はない。もうタイムリミットまで一週間を切っている。三七〇〇年も保つ頑丈な素材で身を固めるなんてただの子供の私ができるわけないし、それ以前に素材自体思いつかない。宝箱よろしくコンクリートとか? 石化する前に窒息死するわ馬鹿。

 

 これに関してはもう、運ゲーに勝つしか方法はない。

 そう腹をくくった私は、硝石が豊富なピナクルズ国立公園に毎晩足を運んだ。比較的近い場所に住んでてよかったとつくづく思った。

 主人公が石化したのは昼間、学校にいた時間。時差を考えるとカリフォルニアはざっくり日没後から日付を跨ぐまでの夜の時間帯になるだろう。

 リリアンの帰還予定日までピナクルズで夜のハイキング。この漫画の記憶が全部私の妄想で、何もなければそのまま普通の生活に戻るだけだ。

 

 なんて思っていたが案の定原作通り石化光線は津波となって地球を飲み込んだ。

 遥か向こうから迫り来る緑の光に腹を括った私は、体を伸ばした状態では割れる可能性が高いからと、背を丸めてダンゴムシのようになって光線を受けたのだった。

 

 

 

「私が一番早く起きるなんてことはまずないだろうし……とりあえず北米組の拠点を探すか」

 

 全裸は嫌すぎるのでひとまず蔦や葉っぱで局部を最低限隠す。かさかさして気持ち悪いが背に腹は代えられない。

 原作では確か北米組はコーンの栽培を行っていた。コーン帯はここピナクルズから北に位置しているから、ひとまず北上してみるか。

 幸い朝方のようなので太陽の位置から大雑把に方角を割り出し、北に向かって足を進めた。

 

 ……が、すぐに足を止めることになった。

 理由は簡単、あまりにも足場が悪すぎるからだ。

 小石、枝、木の根に草、色々なものが足を痛めつけてくる。素足で公園を駆け回ったことすらない現代っ子の柔い足裏は秒で音を上げた。

 

「…………まずは靴だな……」

 

 うっかり尖った小石を踏んで悶絶したり、木に触れた拍子に皮膚に刺さったトゲを抜くのに四苦八苦したり、這々の体になりながら辿り着いた小さな川で傷口を洗う。川底も見えるほど綺麗だから水質は大丈夫のはず。薬一つないこの状況で膿んで敗血症にでもなったら即お陀仏だ。……消毒もできるようにならないとゼノ達の拠点を見つける前に死ぬかもしれない。

 

 手頃な大きさの石に腰掛けて足を小川に浸し、その痛みと冷たさで少し冷静になると、すべきことを考える余裕が生まれた。

 

 目指さなければならない北米組の拠点の正確な位置は分からないが、サクラメント川流域というのは分かる。大規模な農耕をするなら大量の水がいるから、大きな川の近くに農地を作るのは当然だ。

 ピナクルズからサクラメントの街まで距離はどのくらいだったっけ。文明が滅んでない頃でさえ、徒歩では一日で着くような距離ではないだろう。

 ……こうやって考えると、起きてすぐコーン帯に行こうだなんてとんでもない無茶だというのはよく分かった。全裸でカリフォルニア縦断は無理ゲーが過ぎる。前世の下地がある分自分は常に冷静な方だと思っていたが、かなりテンパっていたらしい。

 

 最終目標はサクラメントにあると思われる北米組の拠点に辿り着くこととして、それに必要なものを書き出していこう。

 そこらへんに落ちていた木の枝で土に文字を書く。

 

 まず食糧。徒歩でどれくらいかかるか検討もつかないが、道中木の実とか、最悪虫とか食べればなんとかなるとして。真水が手に入るか怪しいから水を中心に保存食に加工したものを三日分以上は持っていきたい。水の持ち運びってことは水筒を作らないと。……水漏れしない水筒、作れるだろうか。

 そういうのを考えるのは後にして、次に服だ。特に靴は重要だ。現代人の素足で原生林を進むのは無理。あと粘膜の保護のためにも下着は急ぎで作っておくべきだろう。寄生虫とか怖いし。野生動物も怖いから防具なんかも欲しいが作り方が分からないから保留。

 他にも、無傷で踏破は百パーセント無理だから、せめて化膿しないように消毒液……アルコールが必要だ。酒作って蒸留すればいけるか? というか酒って作るのにどれくらい時間かかるんだろう。石鹸作る方が早いか。石鹸の作り方あやふやだけど大丈夫かな。

 それと道具各種だな。必須なのは斧、あとは小回りの利く小さなナイフとか。石器以外にもロープとかは欲しい。そう都合良く薪になる乾いた木があるとは限らないから焚き火用に多少は木もあるといい。

 大荷物になるからどう考えても荷物を入れるバッグも作らないといけない。

 

 パッと思いついたものを書き出してみたが、これだけの装備を整えるのはかなり大変そうだ。拠点作って、生活基盤確保して、装備を整えてとやっていたらどれだけ時間を取られるのか。早く原作キャラと合流して安全を確保したいのに……。

 北米組の初期拠点が近くにあればそれを借りたいけど、そもそも北米組がどこで復活したのか覚えてないから、まずは自分で拠点を作らないと。

 

 そうと決まれば今晩の寝床を探そう。もうだいぶ日が登っている、というか傾き始めてる。十四時か十五時くらいか? 日没なんて作業してたらすぐだから急ごう。

 

 小川に浸していた足を振って水を切り、何もない地面を慎重に探って歩く。途中で長い枝を見つけたので、それで邪魔なものを払えば進みやすくなった。

 そう時間もかからず小川の近くに根本に大きな洞のある木を見つけたので、その樹洞を寝床にすることにした。

 入り口は狭く、子供の私でさえ屈まないと入れないが、中は外から見るよりも広い。流石に大人が入れるほどの広さはないが、子供の私なら丸くなれば十分眠れるくらいだ。昆虫と菌糸類の温床となっていて掃除をしなければとても寝転がれないけれど。今のムカデっぽいやつ、私の前腕くらいの長さがあった気がするが気のせいにしたい。あんなの見た目だけでも無理なのに噛まれたらやばすぎる、虫嫌いじゃなくても怖い。早く掃除しよう。

 蜘蛛の巣を払い、キノコを引っ剥がし、石混じりの腐葉土を取り出し、と掃除しつつ出てきた巨大な蜘蛛や多足類と格闘していれば時間はあっという間に過ぎる。気がつけば空は茜色に染まり、森は見る見る内に明るさを失っていった。

 本当は寝床を整えたら火起こしチャレンジがしたかったが、今から薪や枯れ草を集めるのは難しい。火起こしは明日に回して、今日は水をたくさん飲んで空腹を誤魔化して眠るとしよう。

 小川の水をがぶ飲みした後、作ったばかりの獣道を辿って樹洞に潜る。土の上に虫のついていない葉っぱや蔓草を敷き詰めただけの寝床は、ベッドに慣れた身としては固すぎて普通なら寝られたものじゃない。が、疲れた体のお陰かすとんと落ちるように眠りに就くことができた。

 

 

 

 どれくらいの時間が経ったか、ふっと意識が浮上する。瞼を上げても明かりのない洞の中は真っ暗闇だ。視線を出入り口があるはずの方へ向けても何も見えないから、夜明けはまだ先のようだった。

 こんな時間に起きても仕方がないから二度寝しよう。凝り固まった体をほぐすように身動ぎして体勢を変えようとした、その時のことだ。

 

――ガサガサッ……パキッバキッ

 

 体が硬直する。何の音だ? 無意識に息を潜めていた。風の音かもしれないのに、直感がそれを否定する。

 もっと地表に近いところで、何かが低木の間を通った。そんな音だ。

 

 物音は尚も続く。不規則な音は徐々に近づいてきた、それに伴って私の心臓もどくどくと忙しなく脈打つ。それを落ち着けるために、静かに空気を吸い込み――明らかな獣臭さを感じて喉の奥がぎゅっと狭まった。

 

「……ぁ、」

 

 目だ。

 思わず漏れた声にそれが反応する。月明かりだろう僅かな光を反射して、灰色がかった黄色い目玉がぎょろりとこちらを見た。

 人間にしてはやけに低い位置にその目はある。人間では、ない。

 冷や汗が背中を伝う。必死に息を殺して、あれの体がこの樹洞の出入り口より大きいことを祈った。狭い洞の中に逃げ場はないが、入ってこられない限りは安全なのだ。

 震える手で口を押さえて洞の奥で体を縮める。黄色い目は暗闇の中の私をしっかと捉えて離さない。

 あれの頭部が、ぐっと洞に押し入ってきた。獣の臭いと湿った呼吸が近い位置でする。

 骨ごとどうにかなってしまいそうな震えが止まらない。

 

 このまま噛みつかれて引き摺り出されて食われるんだ。そんな想像が頭を巡った。

 

 しかし。想像とは裏腹に、黄色い目のそれは私に噛みつくことはなく。離れた場所でした鳴き声に反応してあっさりと洞から頭を抜いて、二度と振り返らずに去っていった。

 

 しばらくして物音が聞こえなくなっても、私は再び眠ることはできなかった。空が白んで洞の中に日が差し込むまで、私は身動ぎ一つできず、まるで石に戻ったように固まっていた。

 



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