千空と女ヤクザ (イーディス艦)
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1話

2010年、10月29日。それは、『警視庁国際テロ捜査情報流出事件』が起きた日。

 

 

winnyというファイル共有ソフトに、公式文書114点が流出した。

文書の内容は、テロ関連の捜査対象者または協力者の在日ムスリム人についての個人情報、中東の在日大使館の口座記録、出入り、日本警察や在日米軍の機密情報諸々...だ。

 

 

この事件の犯人は特定されていない。表向き、公安内の派閥争いの結果意図的に流された情報ではないかということで処理された。

 

 

しかし、裏では全く別の犯人像が打ち立てられていた。

 

 

 

「そんで、なんで大阪までわざわざ来たん?あんた、歌舞伎町のマンションにおったんやろ?」

 

 

大阪に拠点を構える指定暴力団・栗生組の組長、栗生晶(くりゅう あきら)は、立派な文机と並ぶとちょっとユーモラスになってしまうほど小柄な娘だ。自称18歳。でも容貌は15くらいに見える。晶は時代錯誤な着物を着て、座布団に行儀よく座っていた。

 

 

「実は●●組に不本意な記事を書いてしまって、ずっと嫌がらせされて...、しまいには刺されたんです」

 

 

晶と対面して座る少し青白い顔をした男は、フリーのヤクザものの記者だ。

 

ヤクザについて知りたいという好奇心で、住人の8割5分がヤクザ(の事務所)というトンデモマンションに入居した命知らずである。そんな無茶をやらかすだけあって、本当に肝が座っている。

 

 

ヤクザマンションに居たとき、上の階から薬中(ポン中)のヤクザが落ちてきて、鉄柵に突き刺さった天然グロ画像流血沙汰事件を眼前で目撃したときも、ケロリとしていた。今までも何回もヤクザに不都合な真実を記事にして、何回もヤクザに「お前、殺すぞ」と言われても、やっぱりケロリとしてきた。...そんな男である。

 

 

そんな彼でもここまでノイローゼになることがあるんだな、おお、ヤクザ怖。これだから人殺しは嫌やねん。と、てめえもヤクザの人殺しの癖に晶は思った。

 

 

 

「気の毒やったな。ま、大阪ならあいつらも手出しできひんやろ。好きなだけおったらええよ」

 

 

そんなことを言いながら、晶は頭の中で、この記者を襲った某組に話を付けといてやろ、と思った。勿論、友好的な方法でである。

 

 

栗生組組長のもとには、記者だけでなく、政治家や企業人・芸能人・思想団体その他諸々、毎日多くの人が来る。

 

理由は単純で、暴力は金になるからだ。暴力団といっても本当に暴力できる(気概のある)人間は一部で、その他の構成員や協力者のカタギはただその暴力の傘を利用していることが殆どだ。

 

 

そして栗生組は人数こそ少ないが、幹部クラスはほぼ全員武闘派と呼べる。おかげ様で警察には日本で3組織しかない特定危険指定暴力団に認定されている(2011年7月現在)。

 

 

 

まあそれはさておき。

 

記者が去っていき、また新たな客人が襖を開けて入ってくるのを晶は見つめていた。

 

 

「よう来てくれはりました...」

 

いつもどおりに迎え入れようとして、晶は目を見開いた。晶にとってあまりに予想外の客人だったからだ。

 

 

「なんで...あんさんが此処に来はったんです?」

 

晶が困惑する声で尋ねたその瞬間から、石神千空の誘拐計画は始まっていたのだった。

 

 

====

 

 

2011年7月21日。石神千空、9歳、小学3年生の夏休み初日。この日を迎えて浮足立たない小学生が日本に居るだろうか?...いや、居ない。

 

天才科学少年・千空君も、例に違わず浮足立っていた。今年の夏はロケットの素材づくりに費やしたいと思って、5ヶ月くらい前からウキウキだったんである。

 

 

夏休みといっても全てのことからフリーになれる訳ではない。午前中は夏休みなのに学校のプールがあって(千空には何故休みの日に体育の授業を受けなきゃなんねーんだと思った)、千空は今、その帰宅途中だった。

 

 

千空は青信号を待って横断歩道に立っていた。

 

...すると突然、自分の視界を横切るように車が止まった。この車、前に出過ぎじゃね、と思ったら、中から黒スーツの怖いあんちゃんが出てきて、千空の腕を車内に引きずり込んだのだ。

 

「アッー...」

 

と千空が言う間に、あれよあれよと拘束され、猿轡を噛まされた。

 

千空を乗せた車は高速道路に乗って大阪に到着。何がなんだか訳が分からない内に、無駄にでっかい和風家屋に連れて行かれ、大広間に行き着き、中高生ほどに見える若い女に値踏みされるような目で見つめられていた。

 

 

千空が体が動かないなりに眼球をぐるぐるすると、神棚や代紋つきの灰皿入れが置いてあって、黒いスーツのいかついあんちゃんが1室に10体は居ると分かった。

 

...ここ、ヤクザの事務所じゃねえのか?

 

と千空は流し見した任侠ドラマの知識を総動員させて結論を出した。

 

100億万点あげたい大正解。

 

 

 

「猿轡を外してやってくれや」

 

女が静かに指示を出すと、千空を攫った輩たちは言われたとおりに千空の口を自由にした。

 

 

「っふぅ...一体なんなんだよお前ら」

 

千空が気丈に尋ねると、周りの黒スーツあんちゃんが「失礼やな...」と体を乗り出した。それを晶は手で制した。

 

 

「ウチは、栗生晶申します。ピチピチの18歳、職業はヤクザやっとります。あんさんの名前は?」

 

「...石神千空」

 

なんでヤクザに素直に名乗ってんだ、と思わなくもないが、相手が先に名乗っている手前、無視もどうかなと千空は考えたのだ。根が純粋なので。

 

 

晶はウンウン頷くと、「依頼通りや。ほんまおおきに。中江、報酬をお渡ししたってや」と晶の右に座っている中年男性に声をかけた。

中年男性は頷き、千空を攫った輩らを引き連れて退出していく。

 

「依頼...って何だよ。俺を攫う指示を出したのはあんたなのか」

 

「ウンウン。色んな疑問があるよなあ。順番に答えたるから待っとれ」

 

 

そして晶は手を組んだ。

 

「まず一番大切な話をさせてもらうわ。千空君、あんた、その名前ちょっと贅沢すぎひん?」

 

「は?」

 

「空は要らんかな。あんたは今日からコードネーム千(セン)っちゅうことで、ウチらの仕事を手伝ってほしいねん♡」

 

 

晶はベリーチャーミングな笑顔を浮かべてそう言った。

 

 

====

 

 

コードネーム千(セン)の初仕事は殴られることだった。というか、殴られるフリをすることだった。

 

背景が真っ白な部屋にて。

 

千空は目隠しされ、手足を拘束され、足が届かない椅子に座らされた。そして、まあまあ痛いかな...くらいの力でぶたれる度にカメラを止め、ぶたれた箇所に赤いチークを塗られ、またカメラを再開してぶたれてカメラを止めてチークを塗られ...。

 

 

そんなこんなでボイスチェンジャーやらモザイクやらで編集をばっちり済ませて完成した動画は、北野武監督監修の映画並にエキサイティングな仕上がりだった。

 

 

動画を再生してみよう。

 

 

真っ黒な廃墟をバッグに、KKKのような全身を隠す白い衣装を着た直立不動の人間と、目隠しした拘束されて座っている少年が映る。

 

 

 

白い人間は突然拘束された少年の頬をぶった。何度も何度もぶつ。そのたびに少年の体は、空気の少ないバスケットボールをドリブルしたみたいに跳ねた。おまけに殴られた場所はどんどん赤黒くなっている。

 

何分かそうした後、少年はぐったりして殴られても反応が鈍くなった。白装束の人間はようやく手を止める。

 

 

そこで、不愉快な機械音声が入った。

 

「●●●●に告ぐ。お前が姿を表さないなら、我々はこの少年を殺す。1ヶ月後だ」

 

...動画はここで終わり。

 

 

 

 

「センちゃん、役者やなあ」

 

晶はけたけた笑ってもう1回動画を再生しだした。

悪趣味すぎる、と千空は思う。

 

 

「こんなんで本当にその...思想犯が釣られんのか?」

 

「おん。絶対に釣られる」

 

「根拠は?」

 

「ウチの爺ちゃん」

 

 

てめえの爺ちゃんの戯言なんざ知らねえよ‼と千空は叫んだ。切実にお家に帰りたい。

 

 

 

 

 

...少しだけ、話は前に遡る。

 

晶は千空に「今日からあんたはセン」宣言した後、もっと荒唐無稽な話をしだした。

 

「ウチらはヤクザや。でも公安警察お墨付きのヤクザやねん。これは今此処におる奴ら以外には言うなよ」

 

 

決めつけちゃ悪いが、晶という女はパラノイア型の統合失調症患者なのかと千空は真面目に思った。

 

 

「公安警察っちゅうのは...あ、公安調査庁もやけど...スパイ獲得を重視するやん。暴力団とか左翼とか宗教団体とかに入っとる一部の奴らを唆して組織を裏切らせ、密告させんのや。

 

右翼の活動団体なんかには、スパイ獲得よりは、牙抜きっちゅうて、公安警察の身分を明かした上で組織公認アドバイザーになって、団体設立のために制服やらパンフレットやら手配したり、勉強会に参加したり...まあ色々宥和政策してはるけど。

 

な?」

 

「そういうモンか」

 

千空はイマイチぴんときていない顔をした。今までの興味の範囲外だったので。

 

 

「要するに、公安に協力する暴力団員は、そう珍しいくないっちゅうわけ。せやけどウチらは結構特殊や」

 

 

晶によると、この組の幹部クラスは全員警察OBか元自衛隊員であり、時々公安から依頼を受けおっている事実上の下部組織だという。

 

 

千空は100億%うそくせえと思ったが、それが事実だと仮定して話を進めようと思った。

 

 

「んで、お前らが公安の下部組織だっつうことと、俺がどう関係すんだよ」

 

 

「名前は言えんけど、とある思想犯がおってな。機械による超管理社会のために色々工作しよるねん。そいつがあんたを狙っとるんやって」

 

「はあ?」

 

「だからあんたを餌に思想犯を釣り上げようっちゅう試みらしい」

 

「なんで思想犯が俺を狙ってんだよ」

 

「...えらいショタコンやからやないの。知らんけど」

 

 

 

千空はその後も色々と尋ねたが、「これ以上の説明はできへん。っちゅうかこれだけ喋ったのが公安にバレたらどつかれるから黙っときなはれ」と言われ有耶無耶にされた。

 

 

 

結局この女達が集団洗脳にかかっているのか真実を言っているのか千空には分からなかった。

 

ただ1つ確実に分かるのは、逃げるなら慎重にタイミングを伺わなくてはいけない...ということだけ。周りの奴らは全員ポッケがちょっと膨らんでいて、銃を持っているのは容易に想像できた。

 

 

 

 

動画撮影を終えた千空は、1つの部屋をあてがわれた。やはり畳じきの部屋だ。違い棚や文机、行灯、あとは千空が普段使っているランドセルや洋服なんかも積まれていた。

 

 

「お前ら、俺の家に行ったのかよ」

 

驚いた顔で千空は晶を見やる。

 

「ウン」

 

晶は全く悪びれずに頷いた。

 

「...ってめえ、白夜になにかしやがったらマジで許さねえぞ」

「安心しい。荷物を預かっただけやないの」

 

晶は、ランドセル青色なんて、洒落とるんやねえと呟いた。

 

「白夜は俺のこと、なんて...?」

「ウチはさっきまでセンちゃんと一緒におったやろ?知らんに決まっとる。けど、多分、公安の方から説明されとるんやないかな...」

 

捜索願いは出てないはずやで、と晶は言う。千空はそれを聞いて、外から助けてもらうのは難しいのか...と思った。同時に、白夜は今頃どうしているのか気になった。本当に無事なのだろうか。俺と同様に誘拐されていないのだろうか。

 

「とにかくセン。あんた此処で1日5時間、生活能力やらマナーやら覚えてもらう。それ以外は自由時間。外に出る以外は自由にしてええよ、あと他になんか必要なもんは揃えたる」

 

晶は早口でそう言って、「中江、おるか?」と縁側に向かって声をかけた。するとツカツカと、庭作業していたのか剪定バサミを抱えた中年男性がやってきた。

 

「さっきの話聞こえとった?」

「はい」

「ならよろしく。ウチは今からちょっと出かけるから、センちゃん見とって」

「はい」

 

 

 

晶がすたこら去っていくと、中江は渋い声で「ほな説明さして頂きます」と言った。やけに逆らえない雰囲気がある男だと思った。

 

「センさんは一応、組織の中では部屋住みっちゅう身分で働いてもらいます」

「...」

 

こいつも俺のことを千空と呼ばないのか。今更だけど、なんだよ空が贅沢っていう理論。と千空は思ったが本当に今更なので言わない。

代わりに、「部屋住みってなんだ?」と尋ねた。

 

「組の若い衆は、生活基盤が成り立っとりません。せやから自立できるまでは、組長の家の1部屋に住まわしてもろて、資金援助を受け取る代わりに家事をします」

「タダ飯食うべからずってか。理屈は分かったけどな、俺は不可抗力で此処に連れて来られたんだが?」

 

誘拐された被害者が加害者のハウスキーパーするなんて話聞いたことねえぞ、と千空は付け足した。

 

「...組長のお考えとしては、あんさんに1人で生きる力を身につけてほしいとのことです」

「余計なお世話すぎんだろ。なんでそんなことを会って数時間のねーちゃんに言われなきゃいけねえんだ...」

「貴方がこれからずっと、大人の都合に振り回される人生になることを危惧してのことです」

 

中江は実に含みのある言い方をする。なんとなく、思想犯が何故か千空を狙っているという話と関連していそうだ。きっと聞いても答えないだろうが。

 

千空はため息をついて、「そりゃお優しいこった」と言葉を投げた。

 

 

 

 

 

しち面倒くせー、と思っていた掃除は、中江の発言ですぐに吹き飛んだ。

 

「ええですかセンさん。掃除は科学です」

「っ...!」

 

千空の表情が分かりやすく輝く。

 

「キッチンの油汚れ、手垢、排水口のぬめり...これらの汚れに共通することは?ヒントはpH(ペーハー)です」

「ククク...んなもん正解言ってるのと同義だろ。酸性だァ」

中江は満足そうに頷く。

 

「そのとおり。これらの酸性の汚れは、アルカリ成分で中和して落とします。では逆に、アルカリ性の汚れといえば?」

「そうだな、トイレの汚れとか...、石けんのあととか...だろ?」

 

千空は指折りながら数えてみた。今まで、汚れを科学の教材としては認識していなかったため、そんなにポンポン挙げられない。

 

しかし、中江は「ほんまにようできますな」と褒めてくれた。

 

「あとはシンクの黒ずみやとか、タバコ吸われる方やったらタール汚れもアルカリですわ」

「確かにそーだな」

「ほいじゃ次は洗剤の種類を参照しましょか...」

 

 

 

千空と中江のお掃除講義からもうすぐ5時間というところ、用事から帰ってきた晶は本家中を歩き回っていた。

 

「...センちゃん、中江。どこお?」

「その2人なら、今も何処かで掃除してはると思います。さっきまでは洗濯機掃除してたから、近くでやっとるんちゃいます?」

「え、まだ(掃除してはるの)?」

 

確かに中江はスパルタなところがある。そろそろ止めさせんと、と晶は心配になった。

 

 

 

 

そこで、風呂場のほうから千空らしき男の子の声が聞こえる。

晶は風呂場の扉を開けた。

 

「なあ、あんたらそろそろ終いに...ウワッ」

晶は腰の抜けたような声を出した。

 

もともとそれなりに綺麗な風呂場が、病的なまでに磨き上げられているのが見えたからだ。本家の風呂場はちょっとした銭湯くらいの設備と広さがあるが、それら全てに1ミリのくもりさえ存在していなかった。

 

 

「ウワッ...なんやえらいことになってはるやん」

 

晶の呆然とした顔に、千空はやけにキマった顔で、

「これが科学の力ってやつだ。唆るだろ?」と投げかけた。その隣では中江が孫を見るような優しい顔で千空を見ていた。

「...おん」

一体、この短時間で2人に何があったというのだろう。

 

 

 

夕食を食べるときも、中江のお小言は続いた。

 

 

 

「センさん、今のはちょっとあきまへん。もう一度。座るときはまず、下座足を半歩後ろに引く」

「おう」

「一定速度で垂直に、両膝を曲げて腰を落とす」

「こうか」

「ええです。ほいで下座足が床についたときに反対側の膝を床に付けて跪く...そう。片足ずつ寝かせて腰を落とす」

 

 

夕食の時間が近づいてぞろぞろ集まってきた若い衆は、千空たちのレッスンを興味しんしんで見ていた。彼らの大半が、千空と同様に中江にしごかれ済みだったからだ。

 

ちなみに今日の夕飯はサバの味噌煮だった。ヤクザ達がご飯を食べるとき、難しい魚の骨を取る作業も意外と上品にできているのは、中江の熱い指導のお陰である。

 

 

 

 

千空が綺麗に座れるようになったのを見て、

 

「なんやお前、えらい飲み込み早いやん」

と、若い衆の1人は感心したように千空を褒めた。こうして1人が千空と会話し始めると、他の人間もぞろぞろ話しかけたがった。

 

...基本的に、ヤクザだって可愛い子供は好きなんである。

 

若い衆とヤクザの話題は、いつの間にかお酢パック(中江に習った。お酢をトイレットペーパーに浸して貼り付けるだけで、タイルの黒ずみを一発で綺麗にできるスグレモノ)になり、またいつの間にか学校の授業についてになり、果てにはロケットづくりの話になった。

 

千空はいつか自力でロケットを飛ばして宇宙に行きたいのだと宣言した。

 

男どもの目がロマンで煌めいた。

 

「ロケット軽量化に不可欠なカーボン作るには、炉がい(る)んだよな」

千空はそういえば、という顔で呟いた。

 

「炉ぉ?」

晶は目をぱちぱちさせた。

 

「何でも必要なもん買っていいってことは、炉は...流石に駄目か?」

 

千空だけではなく周りの全員が、期待に満ちた眼差しで晶を見た。晶は頭を掻いた。

 

「...本体価格は?」

「100万」

「ええよ」

 

晶には千空への負い目があるし、成果物もぶっちゃけ気になる。100万の支払いは、晶のポケットマニーからだった。

 

炉は3日で届くと聞いて、千空はとっても嬉しそうにした。

 

 

 

 

その日の夜、晶は寝間着姿で布団一式を持って千空のもとへ訪れた。

 

「...?布団ならちゃんとあんぞ」

 

千空は宿題の手を止め晶を見つめた。

 

「せっかくやから、一緒に寝よう思うて」

「ハ⁉」

何でそーなんだよ、と千空が突っ込むと、晶は「見張りやけど?」とあっさりした口調で言った。

 

「別に今んとこ逃げる予定はねーよ」

 

そこは若干諦めて開き直っている。千空はたくましいのだ。

 

しかし晶は、千空を親元から引き離した罪悪感が作用して、せめて一ヶ月の間寂しさを感じさせないくらい忙しくて騒がしくしようと思っていたので引き下がらなかった。

 

 

 

代わりにこんな与太話をした。

 

 

 

「ウチ1人で寝よると、殺した奴らの霊が枕元で、憎い...憎い、とか言うてくるねん。おかげで万年寝不足や」

「そーいうの要らねえ」

 

千空が不満げに口を挟むと、晶はちょっと大げさに肩を竦めた。

 

 

「オカルトなんて存在しねえっつうのは、これまで色んな研究者が証明済みなんだよ」

 

幽霊を見せるのは極度の孤独とストレスだという研究結果もある。

 

「幽霊なんて100億%幻想だ」

その言葉を聞いて、晶は1瞬表情の抜け落ちた日本人形みたいな顔をしたあと、意味ありげに薄く笑った。

 

「なんだよその顔...何訴えかけてんだよ」

「実はなセンちゃん...この建物、」

「おう」

「...やっぱ何でもないわ」

「言えよ‼」

 

 

千空は幽霊なんか信じていないが、信じていないからって不気味さや不快感を感じない訳ではない。

 

確かにこの和風家屋は、少し手を加えればお化け屋敷のセットに使えそうなほど、物の1つ1つがアンティークで静謐な雰囲気を纏っていた。

 

それだけでなく、ここはヤクザが住んでいるのだ。流血事件だって何回かあったのだろう。

 

「...」

 

結局千空は晶と一緒に寝ることになった。

 

別に怖いからではない。ないって言ったらないのである。

 

 

 

 

一緒に寝るといってもお互いになにか会話をするでもなく、疲れていた千空はすぐに泥のように眠った。

 

 

 

 

 

 



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2話

 

「センさん。もう起きてはりますか」

「ん...?」

 

7月22日。朝6時30分。千空が起きた頃には晶も彼女の布団もなくなっていた。

 

千空は眠い目を擦って襖の向こうの人影...、中江に声をかけた。

 

「なんだァ?」

「もし体調が悪くなければ、今日は朝ご飯の準備の手伝いしてもらいます」

「分かった。今行く」

 

千空が支度をして中江と共に台所に向かうと、既に5人ほどの若い衆(今日のご飯担当)が台所で慌しそうにしていた。

 

彼らは千空達の姿を見咎めるとラーメン屋みたいに大きな挨拶をした。

 

「「「おはようございやすっ」」」

「おはようございます」

 

中江がいつも通りの渋い声で挨拶を返す。

 

「おはよーございます」

 

千空も彼に倣って返事をした。

 

「センさんには、味噌汁を作ってもらいます」

中江がそう言った。

 

千空は、

「それくらいなら、ウチでもよく作ってんぞ」と返した。

 

実際、白夜の手伝いでご飯を作ることは何回かあった。

 

「そりゃ、頼もしいですわ」

中江が笑った。

 

「鍋に水と、細かく切った昆布を入れてください。蓋はせんでええです」

「おう」

「弱火で20分煮込みます」

 

鍋で煮込む間、千空は若い衆達が作るご飯を手伝うことにした。

 

「センは、ピーマンのわたぬきできるか?任せてもええ?」

「おー」

 

若い衆の1人に仕事を頼まれて、千空は指でわたを取り払っていく。子供がせっせと働く姿を見て若い衆が皆で和んでいたところに、

 

「センさん。もう沸騰しそうなんで、鍋の昆布を取り出してもろて」

 

と中江が声をかけた。

 

味噌汁の具材の入れ方には順番がある。火の通りにくい具材、大きめの具材は先に入れなくてはいけない。

 

さいの目に切った豆腐、水で戻したわかめを入れて煮立たせ、少しして火を止めた。

 

味噌を溶かして入れた後に再び火にかける。沸騰する直前に小口切りにした長ネギを入れる。

 

「こんなもんで、完成です。センさんの家の味噌汁とは違いますか?」

「味噌は同じだけど、具材はちげーわ。俺の家だと人参とか大根とか色々入れてる。あと、出汁は味の素」

「味の素は便利ですもんね。うまいし」

 

 

 

朝ご飯の時間になって、ぞろぞろ人が集まってきた。

 

「センが味噌汁作ったんや」

 

と一緒に厨房に立った若い衆が言うと、皆が口々に「何やいつもよりウマイな」「出汁が濃厚で風味豊か」「お前らデレデレしすぎてドン引きやで。でも味噌汁はほんまに美味しいですー」などと言ってきた。

 

やっぱりむさい男が作る味噌汁より、子供が自分達のために頑張って作ってくれたほうが嬉しくて美味しく感じるのが人情だ。

 

千空は照れ隠しと、そういう大人の気持ちなんか分からないことから、

 

「お前らいちいち大げさだわ。同じ分量と手順で作ってんだから誰がやっても同じだろーが」と突っ込んだ。

 

「そんなことないで。ナア親っさん」

 

若い衆の1人が、さっきまで黙って咀嚼していた晶に声をかけた。

 

「そうやなあ。筋がええね。ウチ料理苦手やからいっぺん教えてもらいたいわ」

「いや親っさんは料理が下手っちゅうか...」

「なんやねん」

「イヤ、さっぱりした生き様がよお表れとるええ腕前やと思います」

 

若い衆は命が惜しいのでマイルドに答えた。晶は料理は上手なのだが、全工程が雑なんである。玉ねぎのみじん切りが角切りになる程度に。

 

晶はその発言の含意に気づかず、何事か思い出したようで顔を上げた。

「そーいやセンちゃん、明日、半日空いとる?」

「...空いてっけど?」

「ちょっと出かけよ」

「おう」

 

きっと拒否権はないはずなので、千空は安易に頷いた。

 

 

 

 

昼には簡単な掃除を済ませ、中江による礼儀作法の時間が始まる。

 

「立礼には3種類あります。会釈、浅い敬礼、深い敬礼。どう使い分けると思いますか?」

「取り敢えず、会釈は挨拶だろ?」

「惜しい。挨拶は浅い敬礼、両手が膝上の中間までくるのが正解です。会釈は部屋の出入りとお茶あ運ぶときですね。また今度、お茶の運び方も練習しましょ」

 

 

千空は午後には宿題をやった。この調子であと2、3日やったら、ポスターや習字以外の宿題が終わりそうだ。

また今度、絵の具や習字セットが欲しいって言わねえと、と千空は思った。

 

 

 

 

今夜も晶は千空の部屋に寝にきた。

 

習字セットの話をすると、晶は「ウチの構成員に習字の師範代がおるから、呼んどくな。教えてもろたらええわ」と言った。

 

「そーいや明日って何処に行くんだ?」

「多分、まともなカタギが生きてて1度も行かんとこ」

「すげー行きたくねー」

 

千空はやっぱ安易に頷くんじゃなかった、と思った。晶がニコニコして千空を見つめる。

「折角やから社会見学しよ。ウチの側におって一言も喋らんでおったら安心やから。な」

 

 

====

 

 

7月23日。6時30分になった。晶は絶対に喋るなということと、女装することを千空に命じた。

 

「ガキにこういう服を着せる趣味の奴らが集まる場所か?」

 

黒いレースのワンピース(はーと)と目深帽子を片手にげんなりする千空に、「ショタコン共と一緒にせんといてや」と晶はぷりぷりした。

 

「ただの変装や変装。あんたは今、千空やなくて、コードネーム・センやから」

「あっそ」

 

コードネームと聞くと秘密結社ごっこする子供みたいだなと千空は思った。

 

 

 

晶が運転する赤い車は大阪のなかの見知らぬ住宅街に向かった。

 

そこから黙って5分ほど歩く。

やがて、寂れた工場のような場所についた。千空が辺りをよく見てみると、見張り役の男達(シキハリ)が立っているのに気がついた。

 

「栗生晶です」

 

晶が見張りに声をかけると、見張りはドアをノックした。ノックに応じて中から扉が開いた。

 

千空は、一体どこに連れていかれるのか...と不安に思いながら、晶につれられて扉の先の通路を進み、突き当りの扉を開けて靴を脱ぐ。

 

またその先の通路を若い衆に連れられて歩いた。窓は全て内側から雑に板が打ち付けられている。軽い要塞みたいな建物だ。

 

突き当りの扉を開けた途端、賭博をする男達の大きな声が飛び込んできた。

 

「さあ張っておくんなはれ」

 

張り手(賭博の客)たちが、胴師(ゲームの親にあたる人)の様子を見ながら、胴師が手ぬぐいに落とした数字のカードを推測している。

 

「西日本やと、賭博でやるのは大抵本引きいうてな、主催者と張り手で金を取り合う。

ルールはな。胴師が1から6枚の札を持って、その1枚だけ手ぬぐいの中に落とすねん。張り手は胴師がどの番号を落としたのかを推測するんやけど、そのとき1つの番号に賭ける1枚張りから、4つの番号を選択肢として提示できる4枚張りまで選択できる。

 

...勿論、外す確率が高い1枚張りで番号当てたらぼろ儲けや」

 

晶が千空にそんな説明をしているうちに、

 

「「「悪うおました」」」

 

張り手だったヤクザの親分たちが一斉に声を上げ、金の精算をしていた。丁度1ゲームが終わったようだ。

 

 

「ほな、行こか」

 

晶たちはさっきゲームを終えた胴師のもとへ近づいていく。

 

「晶ちゃんやないか。盆中にきはるなんてえらい珍しいな」

「せやね、偶にはええかな、と思って」

 

晶は愛想笑いを浮かべた。

 

「なあ、次はウチが胴師をやろうと思っとるんやけど、1回やっていかへん?」

 

「晶ちゃんが?」

 

周辺にいた盆中の主催者の幹部が、「張り手でならええけど...」と難色を示す。

 

「心配せんでもお金はかけまへん。ただ、ウチが勝うたら、ウチの組に何か大事があったとき、組のもんの居場所がなくならんように盃交わしてやってほしいねん」

 

そう言って晶が交渉してみたところ、

 

「...なんや。近いうちに、何かやらかすんか」

親分たちが揃って険しい顔をした。

 

「そんなんないで。ただの保険や、保険」

晶は手を振って笑った。

 

「1枚張り(スイチ)で番号を当てたら、今日のあんさん方の盆中の代金、全部ウチが持たせてもらいます。その代わり、はずしたらウチのさっきの提案受け入れてもらいます。...どうです?」

 

「...ほんまか?ちょっと太っ腹すぎるんちゃいますの」

盆中の代金受け持ち...と聞いて、親分達の目の色が変わった。

 

千空も、そんな安請け合いしねえほうがいいんじゃねえの...と思った。中江は間違いなく止めそうだ。

 

千空はこの場で喋っちゃいけない約束なので、手でばってんを作って晶にみせた。がしかし。

 

「でも、ウチが勝てばええやんな」

 

と、晶は強気に笑った。

 

 

 

晶は、胴元として、5人の張り手を相手に勝負をすることになった。

 

晶は左肩に浴衣をかけて動きを隠しながら、後ろ手で札をくくっていく。胴元がこの動きをする間、盆中に居る人間は全員、絶対に喋っても動いてもいけないルールになっている。

 

理由は張り手達が胴師の動きを見逃さないためだ。

 

 

そんなルールのために、晶が札をくくる間辺りは不自然なほど静かで、圧迫感があった。

 

 

「出来ました」

 

晶は手ぬぐいに札を1枚落として宣言した。

 

その途端、左右にいた合力(賭博を盛り上げる合いの手係)が「さあ、張ってくんなはれ」と声を上げた。

 

スイチで...ということで、5人の張り手達が出した番号は、1が2人、2、3、6がそれぞれ1人ずつだった。

 

つまり、4か5を出せば晶の完全勝利となる。3分の1の確率だ。

 

晶は、目の前に置かれた6枚のカードから自分が手ぬぐいに落としたと思っている数字を手にとり、右側に置いた。...数字は4だった。

 

千空は多少ほっとした。

 

「...まだや。チョンボかもしれん」

 

親分の1人が思わず声を上げる。チョンボとは、胴師が手ぬぐいに落としたと思う数字と、実際に手ぬぐいに入っている数字が違うことだ。

 

チョンボをしたら胴師が反則負けになる。

 

 

...晶が手ぬぐいを開き、中の数字を示した。手ぬぐいの中に入っていた数字もやはり4だ。つまり、晶の完全勝利だった。

 

「悪うおました」

 

親分たちが気落ちする表情を隠して、晶の提案を飲むことを了承した。

 

 

 

 

 

帰りの車の中で、「おめーめちゃくちゃ運がいいんだな」と千空が言うと。

 

晶はあっさりと、

「ああ、アレ、イカサマしたんやで」

と認めた。

 

「イカサマ...」

「おん。手ぬぐいを開けるとき、手に隠した札と手ぬぐいの中の札を置き換えたんや」

「アリなのかよ、それ」

「ばれんかったら合法」

 

晶はウフウフといたずらっぽく笑ったあと、ちょっと真面目な顔をした。

 

「今日、見とって分かったやろうけど、ギャンブルってのは親が確実に儲かるようになっとるんや。

...せやからセンちゃん。あんさんは絶対にやったらあかんで」

「言われなくてもやらねえよ」

 

 

 

 

寝る時間になった。晶も千空も、2人ともやっぱりすぐに寝た。しかし千空は、不審な音が原因で途中で目が覚めてしまった。

 

(何だこの音)

...それは、低い唸り声のような音だった。

 

(まさか、幽霊とか言わねーだろーな)

 

千空は今のところ、それほど孤独やストレスを感じている自覚はない。それなのに幽霊を本当に見ちまったら、幽霊の存在を立証したくなっちまうじゃねえか...。

 

千空は、ワクワクと恐ろしさと半々で目を開き、音の発信源を探った。

 

...発信源は案外すぐに見つかった。隣で寝ている晶が、悪夢か寝苦しいのかで魘されていたのだ。

 

「おい、おめー大丈夫か...?」

千空は、苦しそうな顔をして脂汗を滲ませる晶に声をかけるも、晶が目覚めることはなかった。

 

「...しゃーねーな」

 

千空は、昔に白夜にやってもらったように晶の頭を撫でてみた。こうされると、怖い夢を見ても平気になるのだ。

 

「...お。やっぱコレ、効果あんだな」

 

晶の表情が少し穏やかになったのを見届け、千空は満足そうに頷く。

 

そして、晶の額に白く小さな手を乗せたまま、すやすやと二度寝した。

 

 

 

 

 



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3話

7月24日。この頃には千空も、6時30分に自然に起きられるようになっていた。

 

起きてから、今日は炉が届く日じゃねぇかとワクワクしていた。

 

業者がデカデカしたものを運び込むのを、千空は満足げに見つめ、若い衆達も業務の傍らに物珍しそうにチラチラ眺めていた。

 

「セン、あんたコレで何作るっちゅうとったっけ。確か、ロケットやんな」

 

若い衆の1人が千空に尋ねた。

 

「おう。...もっと具体的にいや、目標は、カーボンファイバー強化カーボンを作ることだ」

「なんだそりゃ?」

「ロケットの先端部分に使われてる素材だ。高い強度と軽量性がある」

 

カーボンファイバー強化カーボンを作るためには、まずカーボンファイバーを作る必要があった。

 

アクリル繊維を空気中で300度で酸化させ、繊維状のカーボン、カーボンファイバーを得る。このカーボンファイバーを細かくして、ピッチという結合材を加える。...で混ぜる。

 

千空が謎の黒っぽい液体を混ぜているのを見て、庭の草を毟っていた男が、

「なんや、魔法使いの料理みたいやな」

と声をかけた。

「食うなよ。ちょっとくらいなら死なねーだろーけど、念のため」

「頼まれたって絶対いやや」

 

あと他にも2種類方法があるけれど、今回は型込め成形を使って加熱処理する。型に混ぜ混ぜした内容物を入れ、上から酸素がはいりこまないよう圧力を加える。その後、1300度にした炉の中で加熱処理。

 

炉の周りは熱放射で酷く熱くなっていた。千空も当然玉のような汗をかく。想定以上の暑さに、やっぱ去年の冬休みにやれば良かったわ...と千空は思った。

 

「熱中症になってまうやん」

 

若い衆の1人が、熱さまシートとポカリスエット、パラソルを差し入れてくれた。

 

「マジでおありがてえわ」

それらを受け取りつつ、炉の中でどろどろの塊だったものが固形物になる様子を、千空はじっと見つめていた。

 

楽しいな、と思いながら。

 

 

 

午後は中江にお茶の入れ方を習った。

 

「お湯を沸かして、人数分の湯のみにつぎます。今回は2人分ですね」

「何でわざわざ湯のみに入れるんだ?直接急須にお湯を入れたほうが合理的じゃねえか?」

「お湯を冷ますためです」

「ふーん」

千空は言われたとおりにお湯を湯のみについだ。

 

「じゃ、急須に茶葉を入れてください。2人分なら4gくらいですわ」

湯のみに入れたお湯をゆっくり急須に注ぎ、その後、約1分ほど、お茶の葉が開くまで待つ。

 

お茶の葉が開いたら、急須を4回廻して湯のみに均等につぐ。

 

「お茶のつぎ始めは薄く、後になるほど濃くなります。複数人のお茶を用意したくて、お茶の濃さを全員均等にしたいなら、どうすればええと思いますか?」

「アレだろ?ちょっとずつ交互に入れんだろ」

「正解です。...そして一番大切なんは、急須の最後の一滴まで垂らすことです。まあやってみなはれ」

「おう。...こんな感じか」

 

こうして2人分のお茶をつぎ、実際に飲んでみた。

 

「そういえばセンさん、最近の子供は夏休みにカブトムシを取りに行かへんっちゅうのは本当ですか」

中江が唐突にそんな話を持ち出した。

「まー、あんま聞かねえかもな。俺はカブトムシ、取りに行ったことあっけど」

「ほんまですか」

「おう。白夜と2人でな。東京に等々力渓谷っつう場所があんだが、そこは木が鬱蒼としてっから昼間でもカブトムシが出やがんだ」

「ええですね」

 

中江はお茶をちびちび飲みながら言った。

 

「近頃の若い衆は、虫が触れんと言いよるんです。最初聞いたときは、えらい驚きました」

「確かに、俺の学校でも、授業中にハチが入ってくるだけでクラスメイトが大騒ぎだな」

「さよか。...親御はん方は、もっと子供に虫取りさせなあかんちゃいますかね」

お茶を飲み終わった2人はさっさと片付けをして、掃除を始めた。

 

 

寝る時間になって、晶はキラキラした顔で千空のもとに訪れた。

 

「センちゃん、ねーむーろ!」

「なんでそんなにテンション高ぇんだよ」

「決まっとるやん。嬉しいからやで」

「...嬉しい?」

 

千空は、何か喜ぶべきことがあっただろうかと思って、首を傾げた。

 

晶はニコニコしながら言った。

「昨日、センちゃん、ウチに抱きついてきよったやん」

「は?...あ」

 

 

確かに抱きついた...というか、晶の頭を抱えたまま寝たというか。千空としては、晶が魘されていたからそうしたのだが。

 

「甘えてくれよったんやろ?嬉しいわあ。ウチのこと、お姉ちゃーん♡って呼んでくれてもええんやで」

「なっ...ばっ...ちげーわ‼アレはただ、おめーが...」

「うん。ウチが?」

 

晶が千空を見つめた。なかなかどうして嬉しそうな顔をするので、千空は何も言えなくなって押し黙った。

 

「あ"ー、なんでもねえよ」

 

千空は少し頭を掻きながら吐き捨てる。

 

別に甘えたかったわけじゃない。...昨日のあんたは、放っといたら、何だか、死んでしまいそうに見えたからそうしたんだ...

 

なんてことは、ちょっと言いづらかった。

 

 

 

結局、その日は晶が千空の手を握りながら眠ることになった。

 

 

====

 

 

7月25日。今日は書道の先生がやってくる日だ。

 

師範代ということで、初老の男性がやって来た。彼は、普段は、書き揚げという名札を書く仕事をしているらしい。

 

初老の男性は「よろしゅうたのんます」と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

千空も、中江に習ったように軽い敬礼をした。

 

 

 

「センさん。あんさんの習字道具は儂が貸します。それと、一緒に、ええ筆の見分け方も教えますんで、自分で買うときの参考にしなはれ」

「...おう。分かった」

 

初老の男性によれば、良い筆は、「尖」「斉」「円」「健」という4つの要素で生まれる。

順番に、穂先がとがっている、穂先全体がよく整っている、穂全体がきれいな円錐形になっている、穂先の弾力がほどよくなっている...という意味だ。

 

「初めて書道をやるなら、イタチやタヌキや馬の毛でできた筆が丁度ええ硬さです」

「馬の毛...店でよく見かける茶色いやつだよな?」

「そうです」

 

次に、筆の持ち方だ。筆は親指と人差し指と中指で持つらしい。

「鉛筆と同じように持っちゃ駄目か?」

「センさんの鉛筆の持ち方ってどんな感じなんです?」

 

そこで千空が実践してみた。筆を鉛筆と同じように握っているのを、初老の男性はまじまじと見た。

 

「正面から見て、人差し指だけ筆の前にきて、中指は筆の後ろで筆を挟んではる。...それでええですね。でももうちょっと、柄の上の方を持ったほうがええですわ」

 

柄の下のほうを持つと、筆を自由自在に動かせなくなるらしい。

 

 

「あとは、姿勢を意識します。机に対して真っ直ぐに座るのを心がけなはれ」

 

千空は背筋を真っ直ぐ伸ばした。

 

「...もうちょっと高さがあったほうがええですね」

 

書道家は座布団を取ってきて、千空の足元に1枚敷いた。それで丁度、机が千空のおへその高さと同じくらいになった。

 

「あとは、お手本を見ながらひたすら書く。書く以外に上達の近道はありまへん」

 

こうして、千空が書いたら書道家が赤を入れて修整し、それを踏まえてまた千空が書き...と、2、30枚は書くことになった。明日筋肉痛になりそうだ...と千空は思った。しかしそのかいがあって、上達したようだ。

 

 

夕方になった。新聞紙の上で提出用の半紙を乾かしていると、中江たちが現れた。

 

「今日のマナー講座は中止でええですか」

 

中江は千空に声をかける。晶や中江達は、真っ黒な着物や紙袋を携えていた。

 

「何処に行くんだ」

千空が尋ねると、晶は「お通夜に参列してくる」と答えた。

 

そこで千空はちょっと予定を変更し、カーボンの実験の続き...含浸という作業(ピッチを加熱し揮発分が放出されることで、昨日作って冷ました固形物...正式には炭素質成形体というが...に細かい穴がたくさんできてしまうのを、樹脂に浸すことで塞ぐ。炭素質成形体の密度を高めるための作業)と、モデルロケットを打ち上げる資格を得るために火薬取締法の勉強をして、夕食とお風呂を済ませて布団に寝っ転がった。

 

やがて、いつも晶と寝ていたせいなのか、1人ではなんだか眠りづらいなと千空は感じた。睡魔を呼ぶために軽い運動がてら便所に向かおうかと外に出てみる。

 

千空が、用を済ませて渡り廊下を歩いて戻ると、千空の部屋の前には晶が突っ立っていた。

 

...帰ってきたのか。

 

声をかけようとするも、晶の横顔は酷く張り詰めていた。月の青白い光のせいで、死ぬ間際の人間みたいな顔色に見える。

 

結局、晶は千空の部屋の襖を開けないで踵を返し、晶の部屋に行こうとしていた。

 

千空は不思議に思って、

「晶、今日は一緒に寝ねえのか」

と尋ねると、晶は一瞬肩を震わせ振り返った。

 

「千空、あんた起きとったんか。不良やね」そう言って晶は笑った。

 

「寝間着に着替えようと思っただけやで」

晶はその言葉の通りに、着替えてからまた千空の部屋にやって来て、千空の横に寝転んだ。

 

 

「お通夜...晶の大事な人のだったのか?」

 

さっきから晶は笑っていたが、どこか気落ちしているように感じて千空は尋ねてみた。晶はちょっと遠くを見るような目をした後、静かに語り始めた。

 

「...そーやねぇ、大事っちゅうかなんか、偶にお目にかかる仙人って感じやったかな」

「仙人?」

「そそ。進んで貧乏になって、マルクスやら芦津やらの本ばっか読んで、仲間と理想郷の話ばっかしとる人」

 

千空は、説明を聞いていると確かに掴みどころのない人物像だな、と思った。仙人っぽいのかもしれない。

 

「その人は死ぬまでな、大いなる理想家やったんや。金も家庭もなくて、そんで携帯もなくて。誰に電話かけよー思っとったんか知らんけど、電話ボックスん中で死によったって。...見つかったときには半分腐っとったんやって」

「...」

 

千空は思わずその光景を想像して、喉が詰まったような嫌な気分になった。

 

「...こんな仕事しとると、葬式会社と友達になるくらい周りの人がばたばた死による。でも、銃に撃たれて死んだとか、コンクリ詰めされたとか聞くよりも、ウチはこういう死に方が一番嫌やってん」

 

晶は顔を両手で覆って項垂れた。

 

「..ほんまは、理想なんて考えない方がええねんな。世界平和とか、自由とか人権とかは、ただの悪夢やで。そんなもん考えよる人間は、絶対に孤独に死ぬから...」

 

千空は、晶が泣いてしまうのではないかと思って、どうすりゃいんだ...とうろたえた。熱力学の法則は知っていても、女の慰め方なんて知らない。

 

オロオロする内に、晶はパッと顔を上げ千空を見つめた。その目に涙らしきものはなくて、千空はひとまず安心した。

 

「...あんたは自分のために生きてな千空。ええな?」

「...おう。当たりめーだ」

晶は千空の返事を聞いて、満足そうに笑って頷いた。

「ほいじゃ、もう寝るで!」

 

晶は、昨日から必ず千空と手を繋いで眠るようになった。どうやらつなぐとつながないのとでは夢見が違うらしく、「あんさんは超能力者やないの」と言っていた。勿論、千空は超能力なんて持っていないけれど。

 

行灯が消えた部屋の中で晶のすべすべした手を見つめながら、千空は、いつか中江に言われたことを思い出した。

 

ー「貴方がこれからずっと、大人の都合に振り回される人生になることを危惧してのことです」ー

 

晶は、千空が千空自身のために生きず、他人の都合に振り回されて生きるのを極度に恐れているようだ。

 

...千空が他人に従順で健気な性格の少年などでなく、自分の知的好奇心のためなら何でもしたがる科学バカだと知っているはずなのに、何故だろうか?

 

 

 

 

 



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4話

7月26日。千空はいつもより少し遅くに起きた。時計は6時39分だという。でも誤差の範囲かな、と思って朝の支度をした。

 

千空は今日は朝ご飯づくりを手伝った。酢飯を団扇で仰ぐ係。今日はちらし寿司を作るのだという。

 

ちらし寿司が完成して、皆で朝ご飯を食べていたら、晶の電話が鳴った。

 

「はい。もしもし?...」

 

晶は少し顔を張り詰めさせて席を立ち、暫くしてから戻ってきた。

 

「センちゃん。今日の予定は?」

「中江たちと掃除して、カーボンファイバーの試作して、火薬の勉強して寝る」

「掃除は明日にせい」

「は?...何でだよ」

 

千空は、科学ができる掃除が気に入っていたので、ちょっとばかし不満の声をあげた。

 

「一体何させる気だ?」

「ウチの仕事のお手伝いや」

「先に言っとくが、俺は、触法行為はしねえ」

「難しい言葉をよお知ってはるのねえ」

 

晶はクスクス笑った。そして食後の千空は当然のように女装(変装)させられ、赤い車に乗せられた。

 

「何処行くんだよ」

「ラブホ」

「らぶほ?」

 

健全な小学生である千空は、聞き馴染みのない言葉に首を傾げた。

 

「おん。性的欲求を満たす場所。あすこは情報の宝庫やで。DNAのゴミ捨て場みたいなもんやからな」

千空は、なんだそれ、と思ったが、どうせ行くから分かるのだろうとも思った。

 

到着したのは、寂れた町並みの中でやけにメルヘンチックな中世の城のような建物だった。

 

晶はつかつかフロントへ行き、ホテルの受付の男に、

「さっき電話した者やけど」

と言った。

 

男は晶たちを受付の奥に招いた。

 

「静かにしとってな」

晶が千空に掠れた声で告げる。千空はこくっと頷いた。

 

やがて、一組のカップルが部屋の奥から出ていった。晶はハンドサインで「行くで」と伝え、さっきのカップルが使用していた部屋に向かった。

 

「なんでエレベーター使わねえの」

「いざという時、逃げる場所がないからやな」

 

そうこうして目当ての部屋に辿り着く。一面ピンクの壁紙で、ベッドは回転式だし下から照らせるライトが付いていた。おまけにベッドの向かいには大きな鏡が立て掛けてあった。

 

「なんつーか、悪趣味な上に実用性の欠片もねえな。なんでベッドを回す必要があんだ?」

「ベッドでファションショーでもしよるんやろ。知らんけど」

 

晶は鞄の中からゴム手袋やらジップロックやらを取り出した。

 

「センちゃんはコレ着けて、ベッドの辺りに落ちとる毛え拾ってくれる?」

「...おー」

 

作業を続けながらも、晶は千空に説明を入れた。

 

「この部屋使っとった男はな、警戒心抜群の男やで。尾行も張り込みもすぐ気づきおるし、出しとるゴミも、下手に探られんように自分で処理しよる。せやけどな、外食で食べとったモン、酒の量、靴底の減り方、そんなモンでも個人情報はえらいぎょうさん分かるねん」

 

例えば。偏食家でアルコールをよく飲むという情報があれば、将来どんな病気になるか分かる。筆跡からは性格がわかり、靴底を見れば体の偏りが分かる。それがどうしたと思われるかもしれないが、体の偏りは、いざというときの逃げる報告を推測する鍵となるのだ。

 

 

「そんで、面白いことに、どんだけ気い使っとる男だって普通に女を抱くねんなぁ」

 

晶は、ゴミ箱に捨てられた薄いゴムを汚いものを触るように掴むと、ジップロックに入れた。

 

「センちゃんは、掃除は科学やって教わったんやって?」

「おう」

「人間分析も掃除に負けず劣らず科学や。例えば鑑識の結果、尿酸値が高いと出た。これから何が分かる?」

「...痛風持ち。短気になりがち?」

「おん。正解や。あとは、統計として、企業の重鎮や仕事ができる奴らには尿酸値が高いんが多い。恐れず決断できるようになるから、出世しやすいねんて」

 

それを聞いて、千空は目を輝かせた。

「そんなことまで分かっちまうのか。唆るな、ソレ」

「せやろ?他にもあるんやで。異常犯罪者は染色体がxxyの割合が高いとか、逆に酸素値が低いと慎重になるとか」

 

晶は静かに立ち上がり、

「今回ウチらが集めた証拠も、そういうふうに鑑識に回されて、調査書に書かれるっちゅうわけ」

 

そう言って千空のほうを見つめた。

「...ええかセンちゃん。女連れ込むなら、自宅か、100歩譲ってビジネスホテルにせえよ」

「女友達とファッションショーする趣味なんて俺にはねえし、関係ねーだろ」

「ん?ファッションショー?......ああ」

 

イマイチ此処がどういう場所かつかみきれていない千空があまりに純粋なことを言うので、晶は天を仰いだ。

 

「...あかんなセンちゃん。やっぱウチ、こんなとこにあんさんを連れ込むべきじゃなかったんやな。堪忍な」

「?何だよ今更...」

 

 

 

寝る時間になって、晶が今日も千空の部屋にやってきた。

 

「そういえば、センちゃんのお父さん...白夜はんて、どういう人なん?」

 

晶が唐突に千空に尋ねた。

 

「どう...って言われても、なんつったらいーかよく分かんねえな」

千空はちょっと考えて、白夜がクリスマスに自分の車を売って、千空のためのラボを買ったという話をした。「サンタより」とカードに書いてあって、千空は、本当は白夜が買ったと分かっていたけど、騙されたフリをしたのだ。

 

晶はそれを聞いていて微笑ましそうにした。

 

「優しい人やね。白夜はんも。センちゃんに似とるわあ」

いや、センちゃんが白夜はんに似たのか。と晶はすぐに訂正する。

 

「...別に俺は優しくねえけど、確かに、白夜はお人好しだな」

 

最近ずっと会えていないから、白夜について語る千空の瞳は少し寂しげだった。晶はそれに気がついてしまって、何となく目をそらした。

 

「...おめーの親は?」

 

千空が晶に尋ね返す。晶は、右斜め上をじっと見つめながら、

「ウチの親は...そうやね、生みの親と育ての親が居るなあ」と返した。

 

「ウチは、爺ちゃんとずっと一緒に暮らしとった。せやから、爺ちゃんがウチのほんまもんの親なんやと思ってた。けどな、ウチは、拾いっ子だったんやって。そうやって聞いたときは、ウチのこと追い出したくて言った冗談やと思ったわ!」

 

晶は当時のことを思い出したのか、少し笑った。

 

「産みの親に会ったことはあんのか?」

「んーん。ないねん。顔も名前も知らん」

晶は軽く首を振って、その後千空の方に向き直った。

 

「なあ、センちゃんやったらどう思う?もし白夜はんが産みの親やなかったら、どう思う?...産んだ人に会いたい?」

 

千空は目をぱちくりさせて、顎に手を当てて考え込んだ。

 

「...仮に、血のつながりはなかったとしたら、」

千空の言葉の続きを聞き漏らさないように、晶は耳を傾けた。

 

「そうだとしても白夜は、俺の親父だろ」

「...おん。そうやんな」

「産みの親は、別に。会えたら会えたでちょっと話してみてえけど、どうしても会いたいとは思わねえかもしれねー」

「...さよか。なんか、安心したわ」

「何でだよ」

「別に?」

 

晶は隠しごとをした。実は、晶は、白夜が千空の本当の父親ではないことを知っている。そして、千空の産みの親のことも知っている。産みの親との面識はないのだが、プロフィールが示された調査書は熟読した。

 

(やっぱ、このことだけは、あんまり言いたないやん...)

 

晶達が狙っている"思想犯"が、千空の母親であることだけは、流石に千空には伝えがたい。

 

 

====

 

 

7月27日。千空は、今日は、ポスターを進めようかなとぼんやり思っていた。

 

「しっかし、何を描こうかサッパリ思いつかねえんだよな」

 

千空は中江と一緒にキッチンの掃除をしていた。面倒かもしれないが、基本的に、排水口は毎日掃除するべきものだ。千空は、食器用洗剤をつけたスポンジで三角コーナーを洗い排水口を洗い、細かい部品は歯ブラシや竹串で洗っていった。

 

「テーマはなんなんですか」

 

横で換気扇のフィルターを拭いていた中江が尋ねた。

 

「火災防止か、赤い羽根か、男女平等参画か、自由画」

「センさんは、絵えは得意ですか」

「見たものをそのまま描くならできっぞ」

「せやったら、庭で火い焚べて、それを描いたらええんちゃいます?」

 

千空は、確かにそれはそうだな、と思った。

 

 

 

 

昼前になって、千空は、昨日のうちに含浸を済ませて再び加熱しておいたものを確かめに来た。

 

...平たい円上の黒い物体で、表面には光沢感がある。

 

ちゃんと冷めているかを指でちょんちょんしながら確かめ、大丈夫そうだったので両手で鷲掴みにした。

 

「カーボンファイバー強化カーボンの完成だぁ‼」

 

千空はウキウキして、耐久性を調べるために暇そうな若い衆を探して頼んでみた。

 

「コレ、へし折れそうか?手段は問わねえ」

 

粘土盤程度の薄さだからいけるだろう、と思った力自慢の若い衆達が数名名乗りでて、何とかへしおろうとして試して回した。しかしムキになって手から血が出るまで頑張った奴が出たため、耐久力テストはお開きになった。その後千空一同はちょっと叱られた。

 

 

 

説教という嵐を乗り切り、正座の足を崩しながら若い衆の1人が声をかける。

 

「そのカーボン強...なんやったっけ」

「カーボンファイバー強化カーボン」

「おん。ソレや。ソレって、ダイヤモンドと同じ材料なんやろ?」

「おう、炭素な」

 

千空が答えたのを聞いて、別の若い衆が色めきたった声を出した。

 

「そんならセン、あんたダイヤモンドも作りはるんか⁉」

「言っとくが、ダイヤモンドはこの炉じゃ作れねえよ。またバカ高い機械を買わなきゃなんねえ」

「ほんまかー...」

 

さっき話しかけてきた若い衆は、ちょっと落胆したような顔をする。

 

「...けど同じ石繋がりで、クリスタルとかだったら、身近に手に入る材料でも簡単に作れっぞ」

「ほんまか?」

 

若い衆が浮足だった。

 

「おう。やってみたいか?」

 

 

 

 

 

寝る前に千空は晶に打診してみた。

 

「なあ。クリスタルが作りてえんだけど、ホウ砂と、瓶と、モール...あと割り箸と糸って買ってもいいか?」

 

クリスタルづくりなら、あとは、かき混ぜ用のスプーンと絵の具が欲しいのだが、それは本家の中にあるのでわざわざ買う必要はないだろう。

 

「...ん、別にええよ」

 

晶はすんなりと了承した。止める理由がない。

 

 

晶はしばらくして思いついたように話しかけた。

 

「...なあ、クリスタルって水"晶"のことやんな」

「まあ、正確にいえば結晶全般のことだけど...確かにそーだな。それがどうした?」

「ウチは"晶"やから、...なんやえらい親近感が湧くねん」

 

晶は少し眠たそうに笑った。

 

「そーかよ」

千空は、何だよソレ、と思いながら短く笑う。

 

「...じゃあ、綺麗にできたら俺の分はおめーにやるよ」

「...ほんま?」

「おう」

「嬉しいわあ。ウチ、センちゃん大好きや」

 

晶は布団ごしに千空を強く抱きしめ、おでこにキスをして目を閉じた。

 

「...は」

 

千空はいきなりな展開に目を瞬いて、一瞬後に顔を真っ赤にした。

 

「ッ...つーか、おい!おめー、この体勢のまま寝るつもりかよ...!」

 

千空が抗議すると、晶は「ん」と瞼を閉じたままに眠たそうにたじろぐ。

 

「...しゃーねえな」

 

千空も本気で抵抗するつもりはなかったので、そのまま眠りについた。

 

 

 

 

 



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5話

7月28日。朝食の時間に、一緒にクリスタル作りがしたい人を募ると、6人ほどが手を挙げた。一応、千空は晶と同伴でないと外出禁止なので、その6人に頼んで買い出しをしてもらった。

 

「そんじゃ、手順を説明すんぞ」

 

千空が道具をそれぞれに割り当てながら口を開くと、若い衆達は一斉にウンと頷いた。

 

「まずは瓶に熱湯をいれて、ホウ砂を溶けるだけ入れる。このお湯...60度なんだが、お湯100gあればホウ砂は130g溶ける。きちんと計算して入れろよ」

 

そういう訳で皆さん分量をカップで量りながら水溶液を作っていった。

 

「よし。じゃ、絵の具を入れんぞ」

 

千空は自分が宿題のポスターに使おうと思っていた絵の具を差し出した。そこでめいめいが好きな色の絵の具を取っていく。

 

千空は、皆が選ばなかった緑色の絵の具を選んでお湯の中に突っ込んだ。

 

「クリスタルの形の骨格として、モールを好きな形にして糸でぐるぐる結んで固定する」

 

栗生組の若い衆達は、裁縫もやらされているからか流石に器用らしく、さらさらと糸を結んでいった。

 

「割り箸に糸で吊り下げて、瓶の中に入れろ。モールが瓶の底につかないように、糸の長さは工夫しとけよ。...んで、ティッシュで蓋をする」

 

若い衆達が6人全員やり終えたのを見て、千空は、

「終わりだ」

と言った。

 

「ほんまにこれで終わりなん?」

石づくりというわりにあっさりしているのが意外だったのか、若い衆が尋ねた。

「そうだ。...そもそもクリスタルがどこで生まれるか、知ってっか?」

「洞窟」

「...まあそれも正解だけどな」

 

千空は、地下だよ、と言った。

 

地球の中心部の殻に含まれる二酸化ケイ素が、マグマの熱で溶かされ、冷えて固まれば石英となる。

 

そんな石英の中でも、無色のものが生成されたら水晶と呼ぶ。

 

「まあ簡単に言っちまえば、溶かして冷ませば作れんだ、クリスタルってのは。ダイヤモンドは、バカ高ぇ圧力かけなきゃ無理ゲーだけどな」

 

ほーん、と若い衆達が感心の声を上げた。

 

 

 

 

さて、皆のクリスタルのでき具合は、明日のお楽しみということになる。

 

 

そう思っていたのだが、晶が寝る準備をしていた千空に衝撃の1言を告げた。

 

「なあセンちゃん。明日あんた、帰れるで。今すぐ荷物を纏めなあかん」

 

「...は」

千空はぽかん、とした声を上げた。

「ほんまに釣れたみたいやで。思想犯」

晶はしんみりと言った。

 

犯行声明では1ヶ月...といったのに、まだ1週間しかたっていない。

 

「おめでとさん」

 

晶は千空の頭を撫でた。

「...おう」

確かに、白夜と会えるのは嬉しい。だが少しだけ...いや大分、栗生組の皆と離れるのは寂しかった。

 

千空が複雑な顔をして俯いているので、晶はほんのちょっと嬉しくなった。

 

「少しは楽しかったみたいやね、ここの暮らしも」

「...おう」

千空は素直に頷いた。晶は、良かった、と返すと、少し間を開けてから尋ねた。

 

「あんな。ネタバレしてもええ?」

「ネタバレ?」

「そそ。何であんさんが攫われたのか。まだ話してなかったこと、少しだけ」

 

晶は、ここから先のことを言うべきか否か少し迷っていた。真実を知るのが幸福か不幸か、晶には分からない。ただ、千空なら、教えなければいつか自分で探りそうだなという危惧は少しあった。

 

「何があっても、秘密にするって約束できる?」

「...分かった」

 

千空は晶の目を見てしっかりと頷いた。晶も頷き返して、話を始めた。

 

 

 

まずは栗生組、設立秘話について。

 

そもそも、晶の爺ちゃんは、公安のトップ...警備局長を勤めていた。彼は自分が引退するときに、このように考えた。

 

・ヤクザは現在厳しい取締を受けており、取締を逃れるために、これから、地下に潜ってマフィア化することが考えられる。そうなれば警察で立ち向かうのは難しい

 

・そうでなくても現在はヤクザではなく半グレが増えていて、犯罪者の一斉摘発が難しくなっている

 

・時代の煽りを受け、公安では現在、公安警察を反社会的組織にスパイとして潜り込ませるような活動は禁止されている

 

・現在、他国、特に中国のスパイ活動が懸念される。日本には、テロ対策法がないので、来日した外国人をスパイ罪で捕まえることができない

 

→これらの対策として、爺ちゃんは、幹部レベルに公安のOBばかりで、公安の手足として動く、非合法・非公式の実動部隊が必要だと考えた。

 

 

 

「せやから爺ちゃんは、OBや、エリートコース外れて左遷されたような元公安を、ぎょうさん集めた。

 

...ウチらは表向きヤクザやし、実際、ヤクザと全くおんなじことやっとる。けど麻薬(ヤク)の取引だけはしとらん。あとは公安のえらいひとの命令で、捜査を手伝ったり、...偶に、あんまセンちゃんに言いたくないこともする」

 

言いたくないこと、それは殺しの案件だ。

 

スパイ容疑では逮捕できない外国人でも、それ以外の罪で捕まえることは、勿論できる。

 

千空がいる間にも、晶は、外国から産業スパイしに渡日した男と寝ていた、水商売の女を撃ち殺し...眠る男の手にチャカを握らせる仕事をした。女を殺したのがスパイの男だと偽装して、殺人容疑で現行犯逮捕するために。

 

勿論、相手の女は、風営法には引っかかっているかもしれないが、射殺される必要性は皆無の一般人であった。

 

 

 

「...俺の誘拐も、公安の指示。確かにお前は最初にそう言ってたな。あんときは信じてなかったが...」

「今は、信じた?」

 

千空はこくりと頷く。

 

 

「そう。ある日、ウチんとこに、爺ちゃんがわざわざ訪ねてきよった。ウチらの関係性がバレるような行為は極力避けるべきやのに。...ウチは爺ちゃんを見ていて、きっと、今度の依頼は馬鹿にならんやつやな、と悟った」

 

晶は千空のほうを見た。

 

「センちゃん。あんたを誘拐して釣りたかったのは、思想犯だけやないねん」

 

 

 

2010年、10月29日。『警視庁国際テロ捜査情報流出事件』を起こした犯人。

 

この事件の犯人は特定されていない。表向き、公安内の派閥争いの結果、意図的に流された情報ではないかということで処理された。

 

しかし、裏では全く別の犯人像が打ち立てられていた。その犯人とは...、

 

「爺ちゃんの見立てでは、その犯人は、爺ちゃんの元同僚や。公安のやり方に嫌気が差したって言って自主退職した男がいるねんて」

 

その男は現在も、公安を潰すための協力者...現役やOBの公安警察官や、その協力者として働く者を秘密裏に集めているのだという。

 

「犯人グループが、仲間にしようと狙いよるのは、公安に恨みつらみを持つ人間や。

 

...せやからウチは、犯人グループに潜り込むために。明日、爺ちゃんにしっぽ切りされるんや」

「...どういう意味だ?」

 

千空が尋ねると、晶は何処か自嘲するように笑った。

 

「明日、栗生組に警察のガサが入る。一般人のあんたを殺そうとした罪で、ウチは逮捕される」

「...!」

「その後は余罪の炙り出しやね。5年、10年か分からんけど、長いこと捕まったほうがきっと、犯人グループを安心させられるやろ。"あの女は、今まで散々公安のため力を尽くしてきたのに、思想犯を捕らえるためだけに公安に使い捨てにされた。きっと公安のことを恨んでいるはずだ"...ってな。

ウチらに騙されてやがんの。えらいウケるやろ?」

「...なんにもウケねえよ」

 

千空は苛立った。その、爺ちゃんとやらは、あまりに身勝手じゃなかろうか。警察の都合で晶たちに手を汚させ、警察の都合で捕まえてしまうなんて。

 

「...俺が警察に証言すればいいだろ。誘拐なんてなかったって。あのビデオは単なる悪戯だ、...まあ、実際そうだろ?そしたら、おめーは逮捕されないんじゃねーか?」

「そんなことしよったら、情報漏えいさせた犯人が捕まらんやろ?」

「......、だからってなんでおめーが、逮捕されなきゃいけねえんだよ」

「どっちみちウチは人殺しのヤクザやで」

「それは...、...その人殺しは、おめーの意思だったか⁉」

 

千空は声を張り上げ、小さな両手を晶の肩に置いて揺さぶった。

 

「ヤクザになれって言ったのは、おめーの爺ちゃんなんだろ⁉人を殺せって言ったのも爺ちゃんなんだろっ‼そんな酷い奴の言うことなんて...聞く必要あるかよ...‼」

 

千空の瞳は潤んでいた。何故かどうしようもないくらい怒れて、自然に涙が出てきたのだ。

 

「...爺ちゃんは、酷いんやない。正義のためなんや。正義のために、仕方なしに切り捨てるんや。

 

...爺ちゃん自身やって潜入捜査でなんべんか死にかけとる。嫁はんやって失った。それでも"民を安らかにするため"には仕方あらへんのや」

 

晶も千空の泣き顔につられて、静かに涙を流していた。

 

「...俺には...分かんねえよ」

「うん...そうやね」

項垂れた千空を、晶は強く抱きしめた。

 

「...ウチも、ずっと忘れとった。今思い出した。仕事する度、何でこの人殺さなあかんのやろって、昔はウチかて思っとったんや。

...いつから鈍くなってもうたんやろ...」

「...なら、」

「ううん」

 

晶はきっぱりと言った。もうここまで来て後には退けない。晶は今更、善人には戻れない。

 

「センちゃん...千空」

 

千空は、1週間ぶりの名前を取り戻した。千空には、そのことが、どうしてこんなに息苦しく感じるのか分からなかった。

 

「あんさんが死ぬまで、ウチを覚えとって」

 

晶の声が千空の耳を擽った。

 

「ウチが本当はどういう人間なのか、何を考えて何をしたのか、あんただけはずっと覚えてて」

「そんなん...言われなくたって、忘れられるわけねえだろ」

「...おおきに」

 

晶は心の底から安堵して、ため息のように掠れた声で返事をした。

 

 

「晶」

「おん」

「ぜってー死ぬなよ。また会いに来るから」

 

晶はそれを聞いて、千空から離れると、千空の頬を両手で包み込んだ。そのまま、愛おしそうに撫であげ...少し眉を下げた。

 

「...嬉しいけど、あかん」

「どうしてだよ」

「...いつ会いに来るつもりか知らんけど。あんたがウチの刑務所に尋ねてきたら、不自然やない?」

「...じゃあ、全部片付いたあとは。その...情報漏えいした犯人とやらを捕まえたあとは?」

 

千空が引き下がらないので、晶は目を丸くして尋ねる。

 

「なんでそんなに会いにこようとすんねん」

「お前、放置したら100億%自分から死にそうだから。俺が見張っとかねえとヤバいだろ」

「...心配?」

「おう。割とマジで。お前も白夜も、大人のくせにどっか抜けてて見てて不安になんだよ」

「あははは!」

 

晶はけたけた笑って、ほんまやねー、と呟いた。

 

「小学生に心配かけたらあかんわな。分かった。ウチら、何があっても精一杯生きような」

 

晶が力強く微笑む。

 

「...なあ、千空、あんたもやで」

「たりめーだ」

千空も口角を上げて頷いた。

 

 

 



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6話

7月29日。6時30分。

 

千空はいつの間にか早起きが習慣になっていたので自然に目が覚めていた。

 

晶は、初めて、この時間になってもなお千空の側にいた。いつもはさっさと着替えて仕事を始めていたのに。

 

それを見て千空は、この生活ももう終わりなのだ、と改めて実感した。

 

「...晶」

 

千空が声をかけると、晶は安心させるように微笑んだ。

 

「ほな、起きよか」

「...おう」

 

千空の部屋はダンボールだらけになっていた。

昨日の内に纏めておいたこのダンボール達は、中江が取りに来て、車に積んで、千空宅に送られるのだという。

 

 

中江以外の本家に居る若い衆たちは、一度は警察に身柄を拘束されるものの、すぐに別のヤクザ達のもとに引き受けてもらうという手はずが整っている。本家には居ない幹部達もそうだ。

 

こうして今日、栗生組は解散となる。

 

 

「...なあ千空。どうせならウチ、一張羅を着ようと思っとるねん」

晶がぼんやりと空を眺めながら呟く。

「一張羅?」

「そそ。せっかく逮捕されて、地上波に映るんやから、女っぷりを上げとこ思って!」

 

晶はいつの間に千空の部屋に持ち込んだのか、いくつかの着物を示した。

 

「どれが一番素敵に見える?」

「...」

 

...ベッドでファッションショーなんて千空は一生しないだろうと思いこんでいたものの、こんなに早く体験することになるとは、千空は思わなんだ。

 

「俺、ファッションセンスなんて持ち合わせはねえぞ」

「おん。それでええよ。千空が直感で一番ええなって思う着物がええ」

 

千空は少し頭を掻いて、

「じゃ、コレだな」

と指をさした。

 

薄い灰色の着物で、白い線でヒビのようなツタの模様が細かく入っている。硬くて脆い氷のような模様が、なんとなく、晶っぽい気がしたから。

 

「帯は?」

「...帯か」

 

千空は、何回か着物に帯を当てて、「あ"ー正解が分からん」とブツクサしながらも、

 

「やっぱコレか。山吹色...つうの?」

何となく明るい色の方がいいかな...と思って、光沢感があるオレンジのような黄色のような無地の帯を差し出した。

 

「さよか。おおきに」

「...やっぱ自分で選んだほうがいいんじゃねえの」

 

着物の合わせ方のルールなんて知らないので、千空は少し不安だった。

 

「ううん。千空のがええ」

 

晶ははにかんだように笑うと、着替えて来る、と言って立ち上がった。

 

 

 

 

朝食の時間に、荷物を送り届ける役の中江は居なかった。

 

ただ、それ以外はいつもどおりの朝ご飯の光景。...そのはずなのに、千空には何処か空気が張り詰めているように感じられた。

 

ここに居る若い衆たちは、千空が誘拐された本当の理由も、栗生組と公安の繋がりも、何も知らないのだという。

 

そして今日彼らの組長が逮捕されることも、勿論知らない。千空は、急遽新天地に放り出されることになるだろう彼らが元気にやってくれることを祈った。

 

 

...そして、"その時"は案外すぐに訪れた。

 

バタバタと機動隊が本家の門から推し寄せ、その内の1人が「手を上げなさい。何か妙な動きを見せたら射殺する」と宣言したのだ。

 

「...親っさん!」

「アホ。動いたらあかん」

 

若い衆達を静止し、晶は機動隊に、無抵抗の両腕を差し出す。すぐさま両腕に手錠がはめられ、厳戒態勢で外に誘導される。

千空の元にも機動隊の数人が保護のために駆け寄ってきた。

 

「...晶‼」

 

千空が叫ぶと、晶は歩きながらも、千空のほうを向いてふわりと微笑んだ。

 

(また会える。...そのはずだ。約束したんだから)

 

千空は、そうは思いつつも、去っていく晶の背中を見て、泡立つような不安感が消えなかった。

 

 

 

千空はその後、機動隊の人々によって東京の警視庁本部に連れて行かれた。そこに白夜が居るそうだ。

 

「...千空‼」

 

白夜は、千空を見かけた瞬間に駆け寄ってきて、抱きしめた。

 

「良かった...良かった、本当に」

 

白夜が男泣きしながら千空の無事を喜んだために、千空も泣けてきてしまった。

...白夜に久しぶりに会えた安心感と、これで二度と栗生組の皆に会うことがないという寂しさと。

 

 

 

 

暫くして白夜の涙が落ち着いてから、2人は1週間ぶりの自宅に戻った。そして白夜は、家に見覚えのないダンボールの類が積まれているのにびっくりしていた。

 

 

 

...これは中江が持ってきたものだろう、と千空はすぐに分かった。

 

ひときわ大きなダンボールを開けたら、例の炉(カーボンを作ったやつ)があって、白夜は更にびっくりした。

 

「お前それ、まさか、ヤーさんに買って貰ったやつか...⁉」

「おう」

「幾らしたって?」

「100万」

「おおお...」

 

白夜は両手をぷるぷるさせていた。それって後から不当な金額を要請されるんじゃ...とか、犯罪の片棒を担がされるんじゃ、とかを心配していたのだ。

 

「...別に、晶はそんなんしねーよ」

 

そういう性格でない。...それに彼女はもう、捕まってしまったのだ。請求したくなったって千空のもとへは行けないだろう。

 

「...晶...さんか。なあ千空」

「ん?」

「警察には、千空が暴力振るわれてた動画は偽物で、ちゃんとお前は丁重に扱われてるって聞いた...けど、それって本当なのか?」

「まー、そうだな」

「怖いこととか痛いこととか、何もなかったのか?その晶とかいう人を、庇っているんでもなく?」

「そんなんねえよ」

「ホラあれだ。1回脱げ千空」

「...」

 

千空はいやいやながらも脱いだ。

 

こうして白夜は、千空の体にアザの類が一切ないのを知って、確かに千空を傷つけるようなことはなかったのだろうと少し安心できた。

 

 

 

 

その後、千空が妙に掃除・洗濯・料理などでスキルアップし、佇まいや所作が美しくなり、何より夜ふかしを控えるようになったのを目撃した白夜は、そういう変化を見咎める度、ヤクザの英才教育ってすげぇ...!という感嘆の声を上げることになる。

 

 

====

 

 

晶の事件は、それから連日報道されることとなった。

 

被害者となった千空には、未成年で存命なことから、強い報道規制がかかっている。

 

しかし、いたいけな少年を誘拐し、ネット上に暴力的な犯行声明を出した暴力団組長の犯人さんのほうは、何回も写真や映像が出た。犯人は女性、しかも若くて愛らしい顔だち。加えて、犯行目的がよく分からない奇抜な事件だった...とあって、多くの人の関心が寄せられたらしい。

 

 

 

一躍有名人になった晶は、好き勝手に色々言われた。犯罪者に人権はないのだ。

だから、犯罪心理学の専門家が、複雑な養育歴によって非行を重ねたのだろうと言い、元警視総監が暴力団の摘発を強化するべきだと主張し、一般のコメンテーターたちが、怖がったり痛ましがったり遺憾の意を示したり、下世話なあれそれを想像したりしていた。

 

 

 

「若いのだから、罪を償って、真っ当な道を歩んでほしい」

 

大体どこのニュースでも司会がそう言って締めくくるのを、千空は、

 

(事情なんか断片的にしか知らない癖に、よく口が回るよな)

 

と思いながら聞いた。別に怒っていたわけではない。そんなもんだろ、と無感動に聞いていただけだ。

 

 

...ニュースによると、晶は取り調べでも黙秘を続けているのだという。それも"爺ちゃん"の指示であろうことは想像できるが。

 

 

 

 

 

 

連日の報道を見ながら、千空は、そういえば晶にクリスタルを渡しそびれたことに気がついた。完成するはずの日に警察のガサ入れが入ったのだから、渡せなかったのも仕方ないけれど。

 

「...うし」

 

以前作ったものはどうなってしまったのか分からない。現場検証を済ませたら、きっと近いうちに捨てられるのだろうな、とは思う。

だから、どうせなら、大きな人工クリスタルを作りなおそうか。

150cmほどしかない晶と同じくらいか、それ以上かの背丈のもの。...そんなデカブツを持っていったら、きっと晶は腰を抜かすだろう。

 

(なんやえらい大きないソレ、...そんなんウチどう運べばええねん‼)

 

なんて突っ込んで、その後で、

 

(...約束、覚えてくれはったんやね。おおきに)と笑うのだろうか。

 

...笑ってくれるだろうか。

 

 

 

「ククク。唆るぜ、これはよぉ」

晶の反応を想像して千空の口から自然に笑いが溢れた。

 

実は、クリスタルは、ゆっくりと冷まして固めたほうが大きな結晶が出来る。幸い時間はたっぷりある。これから、晶に再び出会うその時まで、少しずつ大きくしていけばいい。

 

 

 

再び会えるという約束を、今は、ただ信じていたかった。

 

 

 

 

 

 

 



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最終話

 

晶は、取調室で、「何故こんなことをしたのか」と若い男に言われた。

 

確か自分の事件は公安預かりになる予定だと晶の爺ちゃんが言っていた。だから、目の前にいる男も公安なのだろう。配属が、国内テロの外事3課からか、暴力団関係の3課からかはわからないが。

 

 

...晶が千空を誘拐し、犯行声明を出した理由は何だったのか?

 

そりゃ、あんたのとこの上層部とウチの爺ちゃんが計画したのを、忠実に再現しただけやけど...?

 

そんなことを言えるわけがないので、晶は黙って微笑んだ。

 

 

 

警察の取調があったら、怒鳴られようが泣かされようが、一言も喋ってはならない。供述調書を書かせないためだ。警察の皆さんはこれを書いて提出しないと次の段階に移れないということで、大変困るのだ。

 

取り調べ中の若い男は、押しても引いてもだんまりを決め込む晶に、だんだんと苛立ちを募らせているようだった。

彼は、最近ろくに眠れていないのかもしれないし、ようやくひと仕事を終えて家族と団らんというところで、晶のために仕事ができてしまったのかもしれない。

 

(ほんま堪忍な。ウチのこれやって、一応仕事やもん)

 

晶は微笑みながらただじっと耐えていた。

 

 

====

 

 

結局、刑務所に入れられることはなかったが勾留され、解放されたのは4年後、2015年になってからだった。

喋らなかったおかげか意外と早く解放された。

 

 

 

晶は、久しぶりの娑婆(シャバ)の空気を吸って、4年前とは随分変わった町並みを当てもなく歩いた。刑事施設を出たところからずっと尾行がついているのは気づいている。それが、晶たちが探していた情報漏えいの黒幕に繋がる組織の人間ならばいいのだが...。

 

 

 

無一文の晶は、近くの公園のベンチに座った。そこで何をするでもなく空を見ていた。子供たちも同じ公園で遊んでいたのだが、様子がおかしいお姉さんに近づこうとする人は居なかった。賢い判断だ。

 

 

やがて、にわか雨が降ってきた。晶はずぶ濡れになりながらも、やはり放心したように空を見上げていた。誰かが心配そうに傘を差し出してみても反応を返さなかった。

 

 

飲み食いも排泄もしないで、ひたすら座り続けること3日目。

 

晶は風邪やら極度の脱水症状やらで死にかけていた。その間も尾行する人間の気配はあったので、きっと有事の際は自分を助けようとするつもりだろうと晶は思った。

 

...だんだん意識が朦朧として、静かに背もたれに倒れかかる。

 

駆け寄ってくる誰かの気配を感じて、晶は目を閉じた。

 

 

====

 

 

「良かった。目を覚ましたんだね」

 

次に晶が目を覚ました場所は、見知らぬ場所だった。晶の爺ちゃんと同じくらいの年の白髪の男が、ベッドに横たわる晶をみて静かに笑っていた。

 

「君は公園で倒れたんだ。酷い熱を出して、その後2日ほど生死を彷徨った。覚えているかい」

 

晶は、喋っている白髪の男のほうを見向きもしない。

 

「君が助かって良かったよ」

 

白髪の男がそう言ったところで、晶の眉根が不機嫌そうにピクリと一瞬動いた。そしてまたすぐに真顔に戻った。

 

「なんで放っといてくれんのや」

晶は歌うように呟いた。

 

「...あのまま消えられると思ったのに」

「...どうして消えたいと思うのかね」

 

白髪の男は静かに尋ねた。彼は見極めているのだな...と晶には分かっていた。晶が彼らの仲間になれるか否か、見極めているのだ。

 

「ウチは爺ちゃんに見捨てられた。もう生きとっても意味ないねん」

 

晶が"演技"すると、白髪の男は痛ましいものを見る目で晶を見る。

 

「...そんなことを言わないでくれ。寧ろ君は生きるべきだ。公安警察の偽善に気がついた、私達の仲間であるのだから」

「...こうあん?」

 

晶は驚いたフリをした。そこで初めて辺りを見回してみる。白髪の男以外にも4人ほどの男たちが立っているのを確認した。

 

「そうだ。君は確か、元警備局長だった真木さんの養子だろう?」

「...あんた、ウチの爺ちゃんのこと知ってはるの?」

「勿論。彼とは警察大学警備専科教養講習で一緒だったからね」

 

晶は、ビンゴや、と思った。多分コイツが、爺ちゃんの言っていた『警視庁国際テロ捜査情報流出事件』の黒幕や。

 

 

 

晶はこれからこの男の懐に入り込み、自分を信用させ、この男が事件の黒幕である確証を取った上で...

 

殺すのだ。

 

理由は、それが爺ちゃんの意思だから。歯車のように粛々と実行するだけ。

 

 

====

 

 

2019年、5月16日。晶は黒幕の男と2人きりで、とあるオフィスの8階に立っていた。

 

2人だけで話ができるところまで黒幕に信用されるのに、実に4年かかった。黒幕の男は、かなり慎重な性格なのだろう。だからこそ昔の公安警察のような組織でも生き延びてこれたのだ。

 

...やっとここまで来た。だから晶は、核心をついた質問をした。

 

「2010年に、公安内部の情報をネットに漏洩しはったのは、あんさんですね」

「そうだよ」

 

黒幕の男はあっさりと認めた。

 

「何でそんなことをしはったんですか」

 

晶に尋ねられて、黒幕の男は、静かに手を組んだ。

 

「私は昔、公安警察、極左過激化対応の3課...今はもう改変されて、共産党関係は2課になったと聞いたな。まあ所属はいいんだ。共産党の党幹部や防衛委員を追っていた」

 

 

 

黒幕の男は現役の公安警察のときは出世頭だったという。その活動を支えたのは、ある1人のスパイのお陰だった。

 

「共産党の機関紙を配達している高校生を見かけたんだ。...丁度君くらいの。調べたら、両親が共産党員で、その子も将来は幹部候補だろうという子だった。私は偶然を装って彼に近づいた」

 

配達途中やバイト先で声をかけ、少しずつ距離を深めていく。仲良くなったら、バイト先のお勘定をその子のために多めに払ってやる。家族が入院したと聞けば多めに見舞いの金を渡したし、高校生だったその子の進路の相談にもよく乗ってあげたのだという。

 

 

 

「私が警察であることを匂わせ、共産党の資料を欲したときにはもう、その子は私から離れられなくなったんだ。両親や仲間を裏切り、野心を捨て、私の捜査に協力してくれた」

 

しかし、長年のスパイ活動はその子の心情に重たい影を落としたのだそうで。

 

次第にその子は、定職につかず酒に入り浸り、借金地獄に陥って、共産党の会議にも欠席がちになったという。

 

 

 

「私はその子に情が湧いていたから、個人的にもお金を貸していた。その子が落ちぶれていくのが辛くて、見ていられなかった。あわや共倒れみたいな状況だった。...それ以外にも、公安警察内の派閥争いやら不祥事やら家庭内の不和やら...煩わしくなって、私は公安を辞めたんだ。殆ど衝動みたいなものだ。スパイにしたその子にも1言も告げないで、逃げ出したんだ」

 

その後、黒幕の男は、探偵事務所を立ち上げてそれなりに成功していたらしい。

 

「...ある日突然、かつての上司から電話がかかってきた。私がスパイにしたその子が、自宅で首を吊ったのだと聞いた。10年間...私はその子と関わった警察時代の10年間を思い出して、涙が止まらなかった」

 

黒幕の男は堪えきれないと言いたげに立ち上がって、晶に背を向けて窓の向こうを見た。

 

「...その子は、私にあてた遺書に、"スパイはいつか必ず裁かれなくてはならないから、自分はここで死ぬのだ"と書いていた。あの子の死は私のせいだ。

 

...私は、人1人の人生をめちゃくちゃにした責任を、どう取ればいいのかと考えて...、考えて...」

 

黒幕の男は言葉に詰まったようだった。

 

「...せやから公安を、潰そうと思ったんですか」

 

晶が尋ねると、黒幕の男は少しの間を開けて首を振った。

 

「潰れればいいとまで言うつもりはない。けれど、こんな強引な捜査では...駄目だ。"民を安らかにする"のが公安の存在意義だのに、今のままではその"民"すら蔑ろにしている。

 

私はそう、君の養父...真木さんに訴えかけたことがあるよ。彼は聞く耳を持たなかったけれどね」

 

 

黒幕の男は、諦めきったような怠惰な動きで首を振った。そして晶の方に向き直ると、悲しそうに微笑んだ。

 

「君を見ていると、首を吊ったあの子を思い出す。君も公安の偽善に、...真木さんの計画に振り回されて、ヤクザなんてやらされて。最後は、自殺に見せかけて失踪した科学者を捕えるためだけに捕まるようなことをさせて、その後はあっさりとポイだ。

 

...お陰で4年前には、君は死のうとしただろう?」

 

公園で何もせずに座り続けて高熱を出した、あの日の話をしているのだろう。あれは、この黒幕をおびき寄せるための晶の演技だということを、目の前の男は知らないのだ。

 

 

「君が死なないでいてくれて良かったよ。こう言ったら失礼かもしれないが、少し罪滅ぼしができたような気持ちになるんだ。君を見ているとそれだけで、今の自分の道は間違っていなかったと思える」

「...堪忍してください」

 

それ以上は聞きたくなくて、晶は思わず口を挟んだ。

 

「気分を害してしまったかな。しかし感謝の気持ちを伝えたかったんだ。君はいつも、本当によく働いてくれているから...」

「...」

 

やめてくれ。晶は耳を塞ぎたくなった。

 

...私は今だって、あんたを裏切っとるんや。今日はあんたを殺そうと思って、懐に銃(チャカ)を入れてきた。

 

「君は、真木さんのことを裏切っていることに、罪悪感を抱いているかもしれないが...」

 

もう黙れ、と思って、晶は男の頭蓋骨に正確にチャカを撃った。どぉん、と鈍く音が響いて、男が床に崩れ落ちた。

 

...血がどくどくと床に広がるのを、晶は地獄を発見してしまったかのような心地で見つめていた。

 

 

 

 

この4年間、晶の体調は最悪の状態を更新し続けていた。不思議なことだが、千空と別れたあの日から、一度も熟睡できたことがない。疲れ果てて、やっと寝られた...と思ったら、今度は悪夢ばかり見るのだ。逃げるように飛び起きる日々だ。

 

...それなのに、起きていたって悪夢を見る。ほら、目の前に倒れている男も悪夢だ。

 

(...こんなのもう散々や。何が正しいのか分からん)

 

先程、黒幕の懺悔を聞いて、晶の心は揺れていた。

 

爺ちゃんだけでなく、撃ち殺した男にも、彼なりの正義があったということを、晶は4年間でまざまざと知らされてしまったのだった。

 

...でも、2人だけではない。電話ボックスで孤独死した仙人も、捉えられた科学者にも、彼らなりの歴史があり、彼らなりの美しい何かがあるのだろうということを晶は分かっていた。

晶は多分、他人にそれについて説明されたら、その全てを「そうかもしれん」と肯定してしまえるだろう。多分、晶の血液は無色透明なのだ。だから、彼女にとっては、人類全員に何かしらの理があるように見えてしまう。

 

...何が正しいのか分からん。もしかしたら、正しいことなんて何処にもないのかもしれん。

 

そう思えてきて心底迷った晶は、今までずっと、晶の爺ちゃんこそ絶対唯一の正義だと思い込もうとした。だから、爺ちゃんのためにヤクザになった。どんな酷いことも耐えてきた。

 

 

 

...けれど、今ではもう、そうやって思い込むことすら難しい。晶はあんまりにも疲れて擦り切れていて、ほとんど空っぽだった。

 

何も気にせずに眠れたらいいのに、とふと思った。

 

 

 

「ごめんなセンちゃん...約束、守れんかもしれん」

 

ー「ウチら、何があっても精一杯生きような」ー

いつか2人でした約束も、数秒前は、確かに守る意欲はあったのだけど。

 

「でもなぁ、ウチが生きてても、手ぇが汚くなってくだけなんよ...」

残念なことに、汚してしまったらもう元には戻らないのだ。

 

晶はチャカを自らのこめかみに押し当てて、目を閉じた。

 

「...堪忍な」

 

 

 

 

 

 

 

晶が自死を選んだその数分後に、世界を緑色の光が包んだ。その光は、人類を石化する光であり、同時に人間の死をキャンセルする魔法の光でもある。

 

いつもでも眠りたかった晶が次に目を覚ました場所が、彼女の望み通りの冥界であるのか、はたまた、ストーンワールドという名の現世であるのかは、石"神さま"のみが決めること。

 

 

 

 

おわり!

 

参考資料の数々。

カーボン

イラストでよくわかる世界一のお掃除術

外国人に正しく伝えたい日本の礼儀作法

右翼の掟公安警察の真実

潜入ルポヤクザの修羅場

公安警察スパイ養成所

あとネットでひいたものもいくつか。

 

参考にした歌は米津玄師さんの『カンパネルラ』でした

 

 

 

 

 

 



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