私は在る,私は存在する (キャベツ太郎)
しおりを挟む
『H』のディナー
時は2008年──
日本には暗雲が立ち込めていた。
武偵校生を狙った連続爆破事件により東京とその周辺都市は、爆弾テロに対する警戒が高まっていたのだ。
犯人は武偵殺しの模倣犯なのか、関連性のない個別犯の仕業だというものもいた。
しかし──
我が曾孫アリアの推理は、全く違うものだった……。
そんなある日、ディナータイムを軽く過ぎた頃。
「おはよう。いや、こんばんはだったかな……」
──と。
ノックもせずに扉を開けて入ってきたその男を、
「やあ、そろそろ来る頃だろうと
僕はありきたりな言葉と共に出迎えた。
「推理、ね。……これはいつも言っている事なんだが」
どうやら常日頃から何かしら積み重なりゆくモノがあるらしい。
「ふむ、なんだろうね」
そう惚ける僕に男は深くため息をつき、片手で運んでいた銀のトレーをさりげなくディナー向けにセッティングされていたテーブル──僕の目の前に置いた。
「私はいち研究者であって君の家政夫じゃない。まして世話焼き
お小言を交えながら、それでも手元はいそいそとナイフやフォークを並べ、ワイングラスに芳醇な香りのする液体が注ぎ込まれてゆく。
その手際たるや、お見事としか言い様がない。かくいう僕も彼のパフォーマンスのファンでね……。
そんなワケで彼には申し訳ないけれど、この類のお説教を締めくくるのは「もちろん、言うまでもないさ」と反省の色なんて見られない生返事と相場が決まっているんだ。
「せっかく私が煩い連中の頭を押さえながら大食堂を用意した意味が、無いとは思わないのかい。……思わないんだろうね、その様子じゃあ……」
そうは言うものの、ひとつの組織の中で多少の意見を押し通しても骨折りにならない程度の発言力が、真横の男にはある。
今さら書庫や音楽ホールのいくつかを潰し、かつ大食堂のひとつやふたつを拠点の中にこさえる程度、男にしてみれば造作もないことだろう。
それを知っているからこそ部屋の主こと僕──シャーロック・ホームズは男の小言に悪びれもせず、決められた時間に食堂に顔を出さないでいるんだ。
誤解があると面倒なので断っておくが、なにも僕は男をただ困らせたくてそうしている訳ではない。ただ、その方が互いにとってよかろうと判断したまでさ。
無論その代償はそれなりに高くつく事もある。しかし、それでも足し算引き算のできる方だと自負している僕は、ディナータイムに食堂へ向かわず、彼に部屋へ来させる方を選んだ。
前述の計算の内訳は省くが、かなり高度な応用がそこあるとだけは述べておく。僕と彼、二人を取り巻く関係はかなりややこしいのさ。それはもう、ね。
「……まあいいさ。いい加減キリのいいところで食事にしてくれたまえ、メインが冷めてしまう」
前菜のクロシュ──皿に被せていたシルバーの覆いを取ったのだろう。ふわり、と食欲をそそる香りが僕の鼻腔を擽った。これはテリーヌだろうか。
なるほど、たしかに上等なディナーを台無しにしてしまうのはもったいない。言われるがままナイフとフォークを手に取り、「大したものだ」と素直な感想を呟くと、男は擽ったそうに笑う。
「なあに、年の功というものさ。食事は人生に潤いをもたらしてくれる。お陰で私も枯れずにここまでやってこられたわけだ……っと、頭脳明晰な名探偵殿には釈迦に説法だったかな?」
芝居ぶった口調で「やれやれ、歳はとりたくないね。年寄りの長話ほど恐ろしいものはない……」と続けるのを聞き届けながら、ふと、僕は恐らくいま自分に背を向けているであろう男の姿を脳裏に浮かべた。
シルバーグレーの頭髪をオールバックで整え、一際目を引く年季の入ったウェストコートとパンツは僕のお気に入りに負けず劣らず古めかしく、彼が積み重ねてきたであろう長い時間を十二分に感じられたはずだ。
しかし彼の時はそこで止まっており、進むことも戻ることもない。彼の三人の弟子曰く、彼女らの尊い師は憎き太古の神により永遠の呪いを掛けられているという。
そんな──。
悠久の時を生ける存在として、人類の営みの行く末を見届ける。
それこそが【イ・ウー】影のNo.2と密かに囁かれ、博士と呼ばれる彼──ヴィクターという男が(これは無論偽名だろうが……)こちらの誘いに乗り、三人の連れと共に組織に存在する理由だ、と僕は推理している。彼は無類の人好きなのだ。
底抜けの博愛主義者でありつつ、近代に入ってからは人が人であることに最大の敬意を表す。彼はそういう男だった。
また、飽くなき探求者でもあることを忘れてはならない。この、日に三回は必ず出される食事も、彼を語る上では夜空に輝く数多の星のひとつに過ぎないだろう。
どんな腕利きの料理人も、ことレパートリーの豊富さでは彼の足元にも及ぶまい。ここ数年で食卓に出されたメニューが被ったことなど、殆どなかったのだから。
今晩は、珍しくその稀に見る例外のある日だった。
……それはさておき。
「このローストは絶品だったよ」
「それはどうも」
そんな、他愛もない会話を続けながら──。
最後の品目に手をつけたところで、むむ……、と僕は食事の手を止めた。例によってデザートに未知の薬物が仕込まれていたのだ。
心配せずともこれは毒薬ではない。それはわかる。
手がけたのがヴィクター、つまり彼である以上、少なくともタルトの味を損なうことはないだろうし、また人体にも悪影響を及ぼすようなものではない。
が、それはそうと人体実験に付き合わされる被検体たる僕に一言あって然るべきではないだろうか。どうだろう。
「おや、どうしたんだい。
含み笑いを隠そうともせず、ふむふむとペンを走らせるヴィクターに、僕は無言で視線を向けた。今度はヴィクターがこちらの抗議を無視する番だった。
なんとも言えない独特の重みが、僕の頭部にのしかかる……。
と、毛髪が異様に伸びているのは今回仕込まれていた薬品の効果と見て間違いないだろう。
持ち前の推理力でどんなことでもわかる、ともすれ未来予知とも言える能力を持つ僕でさえ、一服盛られることがわかっていてもその先、薬がどんな効果をもたらすかがまるでわからない。
口をへの字に曲げて、
「毛生え薬かい?」
僕が訊くと、くつくつと笑い声が返ってきた。
「いや、これはちょっと予想外だったな。場所が場所だけに、ここ最近は深海魚に凝っていてね。切り取ったのは触手だけだから……残りは鍋にでもしてみようか」
そら、これだ。はなから推理しようがないのでは、優れた頭脳もまるで意味がない。故にこの場合は推理をしない、これが正しい。
口ぶりから察するに大元になったのはアンコウの一種が持つ
彼から
コンコンコン──
と、今度はちゃんとしたノックが部屋に響く。
『おっししょー様、そろそろお時間ですよー』
『いつまでのんびりしてるんだよクソジジイ』
『はいそこ、旦那様に汚い言葉を使わない』
扉の向こう側にいるのは彼の弟子だ。どうやらこの後の予定があるらしい。それは僕も同じだ。「ああ、すまない」とひと言声をかけて、彼はこちらを向く。
「
それはどういった意味での言葉なのか。誰に聞かせるでもなく「楽しみに、ね」と独り言ちる僕の前から食器を片付け、くつくつと笑いながらヴィクターは部屋から出ていった。
ふむ……。明日はアンコウ鍋か。
しばらくして、どこからともなく激しい音と揺れがこの部屋全体にまで伝わってきた。艦内のどこかで戦闘が始まったに違いない。
心当たりならある。また、いつものようにヴィクターがブラドに難癖をつけられたんだろう。組織内での私闘をよしとしているが故に、こういったことはままあるのだ。
特にヴィクターとブラドの衝突はその頻度が高く、軽い諍いから今日のような激しい戦闘まで、細かく数え出したらキリがない。両者が顔を合わせる度に勃発しているうえ、ブラド側が進んで喧嘩を売りに待ち伏せているフシすらあるのだから。
ブラドはヴィクターがある少女を事実上の庇護下に置いていることを快く思っていない。自分を差し置いて影のNo.2などと囁かれているのも気に入らないようだ。
対するヴィクターも旧友の曾孫に対する仕打ちからブラドのことを快くは思っていないものの、こちらは前者とは打って変わって積極的に相手をどうこうしようとは考えていないらしい。
事実、これまで彼から手を出したことは一度もなく、今夜のような戦闘はいつも彼の弟子が我慢できず反撃した結果によるもので、大抵は彼がブラドの挑発を徹頭徹尾無視して終わる。そんな態度がまた気位の高い吸血鬼の神経を逆撫でしているようなのだが……。
『うー! がるるる!』
『こんのXXXXが!!』
『大人しく消滅しやがれくださいな!』
とても見目麗しいレディーが発したとは思えない耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の嵐と共に、相模湾近海を航行中の原子力潜水艦が2度3度と立て続けに大きく揺れる。
海上は台風の影響で大しけ。今頃は荒れに荒れていることだろう。それでも、これほどまでに揺れはしないだろうが……。
恐らく、彼の仲裁が入ったに違いない。
銀氷の魔女すらも凍え、震え上がりそうな冷気が艦内のそこかしこに流れ込み始めた頃。
潜水艦は荒れ狂う海面を目指し、ゆっくりと浮上しつつあった。
目次 感想へのリンク しおりを挟む