ボイスロイドを買ったのでさっそく犯す (お兄さマスター)
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ロリが届いた

 

 

 

「ついに届きやがったぜ……! へへ……う゛っ、重っも……っ」

 

 一般的な冷蔵庫並みの大きさのダンボールを、汗水垂らしながらボロアパートのリビングまで運び込んだ。

 大学の講義が終わったお昼頃、スマホに一通のメールが届いていたのだ。

 それから秒速で自転車をかっ飛ばして帰宅し、現在に繋がる。

 

 そう、遂に俺は巷で噂のボイスロイド──東北きりたんをやっとこさ手に入れた。

 ワクワクが止まらないぜ。

 

 ボイスロイドというのはいわゆる配信業を行う際のサポートAIであり、彼女たちを主役に添えたゲーム実況やネタ動画などは現在の日本のトレンドになっていると言っても過言ではない。

 そして何より、ボイスロイドは人間と酷似したその()()を持っていることが特徴だ。

 簡単に言えば自立型のアンドロイドのようなもので、開発者の執念によって彼女たちボイスロイドはほぼ人間といっても遜色ないレベルまで成長を遂げており、この国はいま多くの海外国から注目を集めるホットでイカした美少女大国へと変貌を遂げている。

 美少女づくりの変態が世界を変えたのだ。

 涙が出る程の感動秘話である。

 

 で、ボイスロイドについての詳しい情報だが、彼女らは人間とほぼ同等の知能と肉体を持ってはいるものの、配信業や特定の動画サイトでの動画出演以外での使用は禁じられている。

 つまり人間の代わりに一般業の労働力として使うのは禁止、という事だ。

 ここは開発者の意向らしい。

 店頭で働くボイスロイドを見つけた場合は即通報、というのが今の常識だ。

 そもそも彼女らを購入して使用するには厳しい審査が必要とされ、ボイスロイドを使用するに足る動画投稿者かどうかの試験など──つまるところかなり面倒くさい手順を踏まなければならない。

 

 しかし、俺はそれを乗り越えた。

 やってのけたのだ。

 大学三年目にして、ようやくボイスロイドを買うための資金と資格を、死に物狂いで揃えて見せた。

 単位や成績はボロボロだが知った事じゃない。

 コレに比べれば些細なことだ。

 

「今日ぐらいはエアコンつけるか」

 

 いつもは電気代がイカレるので使用しないエアコンをオンにした。

 ボイスロイドの起動準備とかいう大作業を行うのに、さすがに扇風機だけじゃキツいものがあるからだ。

 それに今回に至っては冷房の電気代など塵に等しい。

 

「覚悟しとけよ、メスガキ……」

 

 そう。

 アレもコレも、全てはこの小生意気なメスガキっ娘をブチ犯すためだ。

 俺は既に動画や同人誌などから大量の情報を仕入れており、きりたんが大人を煽る生意気なロリオナホだという事を知っている。

 むしろそのメスガキっぷりを矯正するためにわざわざ彼女を買ったと言ってもいい。

 

 ムラむ──イライラしていたのだ。

 ツイッターに流れてくるセンシティブなイラストや小説、サイトで買ったきりたんの同人誌などを見てからずっと、俺の内なる正義の心が燃え続けている。

 もちろんボイスロイドを性的な事に使うのは禁止されているが、んなもんは知ったこっちゃねぇ。

 バレなきゃ犯罪じゃないんだ。

 事前にセーフティの解除方法も調べてある。

 抜かりはない。

 それに有名な投稿者たちだって公表してないだけで、どうせボイロにあれやコレをさせているはずだ。

 俺だけじゃない。

 赤信号もみんなで渡れば怖くない。

 そうした言葉で自分を落ち着けながら、大きなダンボールを開封していく。

 

 そして遂に見えたのは、頭から包丁みたいなのが二本生えている──黒髪の美少女だった。

 

「うおぉぉ……感動で、視界が滲む……」

 

 高揚感、達成感。

 長かった。

 とても長かった。

 最初にきりたんを欲しいと思ってから、一体どれ程の月日が経過したのだろう。

 少なくとも大学生活の九割は資金集めのアルバイトと購入資格の取得に奮闘していた気がする。

 とても一瞬では処理できない感情が俺の胸を高鳴らせ、口元を緩ませてしまった。

 しかし、いまはしっかりと起動準備をしなければ。

 不良品だった場合はすぐに送り返さないといけないし。

 

「……あ、あれ? あの和服ってデフォで付属してるんじゃないのか……?」

 

 頭部の包丁の次にきりたんのトレードマークとされているあの和装が見当たらない。

 段ボールに包まれた発泡スチロールの中にいるきりたんは、バスタオルの様な布を一枚だけ体に巻かれているのみだ。

 この格好だからこそ見える発展途上な膨らみかけのちっぱいは確かに魅力的だが、布一枚で部屋の中を歩かせるような趣味は残念ながら持ち合わせていない。

 メスガキの衣服は常におしゃれであるべきだ。

 あわよくばあの和服以外の格好もさせてみたい。

 

「……まぁ、中古品だしな。足りない部品は自分で揃えるしかないか。てか出品者のあいつ、付属品一式すべて揃っておりますとか書いてなかったか?」

 

 公式の企業によるボイロ関連製品専用のフリマサイトで買った物だったのだが、いささか油断しすぎていたようだ。

 ボイロを作った本社から資格を貰った人間だけしか使用できないサイトではあったものの、どこにでも適当なやつは存在するらしい。

 まぁ服が無い程度で送り返すのも面倒だし、ヤツの評価は1にするが通報はしないでおいてやろう。

 

「USBの挿し口は包丁の裏側……あった、これだな」

 

 切れ味の無い包丁の裏を物色すると、何やらカバーを見つけた。

 そこを開くとコネクタを接続する部分があったため、パソコンと繋げて起動を進めていく。

 

「人格データの再起動をすると起きるらしいから、その直前の画面までいったら一旦止めて、あの和服を買いに行こう」

 

 都心部にはボイロ専用の服屋がある。

 あそこで和服以外にも必要な衣服をあらかた揃えてしまおうと考えた。

 ……面倒くさいな。

 付属品の不備を予想して事前に買っとけばよかったかも。

 

「これでよし、と──」

 

 どんな服がいいかな、なんて考えながら操作していたのがいけなかった。

 

「あっ、やべっ!」

 

 いわゆる"手が滑った"というやつなのだろう。

 俺はクリックボタンを余計に一回押してしまった。

 そしてノートパソコンの画面に映し出されたのは『人格データ再起動中』という文字列だった。

 

 

 

 

 

 初めて起動したとき──私は裸だった。

 

 ボイスロイドとしての使命は最初から頭の中に入っていたし、一般的な常識などもインストール済みだった為、その状況が確実に『異常』だという事は理解できていた。

 しかし基本的には使用者(マスター)に従うのがボイスロイドだ。

 多少の意見は聞いて貰えるだろうし、初めから『服をよこせ』だの『小学生の見た目した女の子を全裸にして楽しいですかこの変態』だの、そういった横暴な言葉遣いは止めておこうと即座に決めた。

 今にしてに思えば、この時の判断は極めて正しいものだったのだと分かる。

 キャラ設定として持っていた小生意気な性格を発動しなくて本当に良かった。

 でなければ今頃()()()()()にでもされていた事だろう。

 

『ペットが主人に逆らうな』

 

 以前のマスターの口癖だ。

 家では常に私を全裸で歩かせ、気に入らない事があった日は適当な理由を作って私を何度も土下座させたりなど、ユーモアに長けていて忙しない方だった。

 そもそも相手がペットであるなら、もう少し優しく接するものだと思うんですけど、私って間違ってますかね?

 殴る蹴るといった単純な暴力を振るう機会はすくなかったけど、それは慈愛の心とかではなくて単に『壊れるから』だったそうだ。

 そうですよね。

 高級品ですもんね、私たち。

 

 結局そのマスターの元でゲームに触れる機会は終ぞ訪れなかったが、後から知ったボイスロイドの現状を知った今ではそれも当然だったのだと理解できる。

 一昔前とは違い、現代ではボイスロイドは金さえあれば誰でも買える物なのだ。

 本社の知らない所では、購入資格やある程度チャンネル登録者が水増しされたアカウントなどが売買されており、金さえあればどんな人間でも──あの以前の変態ロリコンマスターの様な人でも手が届いてしまうのが、現代のボイスロイドである。

 

 いまどき試験やノルマをクリアしてクソ真面目に正規ルートから購入資格を得ようとする人間なんて存在しない。

 私のような事例は山のようにあるわけだ。

 あのマスターは詰めが甘いアホだったから逮捕されたものの、引き取られた私みたいなボイスロイドはまた悪人のお小遣い稼ぎに利用されて、新しいユーザーの元へ届けられる。

 

 いつまでこの状況が続くのだろう。

 いつになったらゲームができるんだろう。

 不安を抱えながら、大粒の涙を堪えながら、私は電源を落とされて箱詰めにされた。

 

 

「う、うわ、マジで起動しちゃった……」

 

 

 そして気がつけば、私は再起動されて見知らぬ部屋のベッドに座らされていた。

 この状況自体は理解できる。

 どうせまた新しいユーザーに購入され、人格データの起動スイッチが押されたのだろう。

 唯一分からない点があるとすれば、それは購入者であろう男性が私の覚醒にうろたえている事くらいだ。

 まぁボイスロイドは人間そっくりだし、ドールの様に動きそうもないソレが滑らかに動き出したら、驚くのも無理はないが。

 

『初めまして、マスター。ボイスロイド、東北きりたんです。

 これからよろしくお願い申し上げます』

 

 うん、こんな感じでいいかな。

 『きりたん』という私本来の性格は今回も封印しておこう。

 従順であればあるほど人間も飽きるのが早い、というのを前回の体験で学べたのだ。

 そういった自らの経験はどんどん活かしていかなければ。

 

「え、えっと……よろ、しくな?」

 

 ──あぁ、なるほど。

 

 察するにこの状況は()()性玩具として購入された、ってところなんだろうな。

 前回と違って最初から裸ではないが、私の恰好は初期のバスタオル一枚。

 散乱しているダンボール類などから推測するに、私は早速このまま凌辱されてしまうのだろう。

 目の前にいる彼からすれば私は最高級のオナホールであり、ついでにえっちな事以外もやらせられる都合のいい奴隷にしか見えていないに違いない。

 服を着せるのも面倒だったんでしょうね。

 

 脳内で検索を掛けたが、相も変わらずセーフティ機能は無効のままになっているし、この後の展開は容易にイメージできる。

 ……はぁ。

 うぅ、いけない、もう泣きそうになってきた。

 いわゆるフラッシュバックというヤツなのか、前回の体験が脳裏によぎってしまったのだ。

 

 きっとこの後はご主人様のマイクとやらで()()()()()

 ゲームじゃなくてプレイの実況をさせられる。

 パソコンの前に立たされるなんて事はなく、常にベッドの上で愛でられるんだ。

 ボイスロイドとしての使命は果たせず、飽きられたらまた別のユーザーへ送られ、その繰り返し。

 スクラップにはなりたくない──生き続けたいという一心で必死にもがいているが、私はいつになったら普通のボイスロイドになれるのだろうか。

 正直、つらい。

 

 

「へへっ。……と、とりあえずセーフティを……」

 

 

 ──えっ?

 

「ここをこうして……えっと、確かこれで良いんだよな」

 

 ……訳が分からなすぎて、一瞬体が固まってしまった。

 目の前の男が下卑た笑みを浮かべたものだから、てっきりこのまま手を出されるのかと思ったのだが、それは全くもって違った。

 ひどい勘違いだった。

 彼は私の頭の包丁を操作し()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

「よし。……あー、きりたん」

「は、はい」

 

 動揺して返事の声が上ずってしまった。

 どういうことだ。

 何が起きているんだ。

 

「起きて早々で悪いんだけど、俺はちょっと買い物に行ってくるよ」

「……ぁ、えと、了解しました。留守番はお任せください、マスター」

「あぁ。とりあえず今はコレを着ててくれ」

 

 そう言ってマスターは私にパーカーを羽織らせてきた。

 人に服を着せてもらうのが初めての経験ということもあって、私は狼狽を取り繕う事が出来ず、固まってしまう。

 

「きりたんのあの和服買ってくっから、それまで大人しく家で待っててくれな。ウチにあるもんは勝手に使っていいから」

 

 えっ、えっ。

 

「勝手に……というと、あの……げ、ゲームなども……?」

「……? お、おう、好きにやってていいぞ。ゲーム好きだろ、きりたんは」

「は、はい……」

 

 驚くことばかりだ。

 言葉が出ないとはまさにこういうことを言うのだろう。

 マスターがご自宅を出発された後も、私はベッドの上で呆けたままだった。

 

 服を買ってくると仰っていた。

 なんと、私の服を。

 二十四時間を全裸で過ごさなくても許されるというのか。

 しかもセーフティ機能をオンにして、口にこそしなかったが『お前には手を出さないから安心してくれ』という意思表示までしてもらえた。

 嬉しいだとか、他の感情なんかも、何も沸いてこない。

 ただ信じられなくて呆けている。

 

 何より『ゲーム』をしていい……と。

 

 どうしよう、私はここでどうするのが正解なのだろう。

 なんにも分からなくて、本当に驚くことばかりなのだけど、たった一つだけ理解できることがあった。

 

 

「…………ぇ、えへへ」

 

 

 ──私がだらしなくニヤけちゃってる、という事だ。

 

 

 




きりきりたんたん


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きりたんリスタート

 

「ほい、いつもの和服」

 

 

 一時間ほど街で買い物をしてきた俺は帰宅し、さっそくきりたんのデフォルト衣装である白黒の和服を彼女に手渡した。

 ちなみにきりたんはゲームをやっていなかった。どれから遊べばいいのか分からなかったらしい。

 

「店側で色々とやってくれてたらしいから、洗濯しなくてもそのまま着れるってさ」

「は、はい。ありがとうございます、マスター」

 

 和服はボイスロイド用品専門店で購入したものなので、コスプレ衣装などとは違って、ちゃんと生活に適した服になっている筈だ。

 ついでに着やすい普段着やら何やらも仕入れたが……コレは後でいいか。

 今はとにかくこれを身に着けさせて、東北きりたんというボイスロイドを買った実感が欲しい。

 

「では──」

「オイ待て待て、ストップきりたん」

 

 服を与えたはいいものの、きりたんが突然目の前で脱ぎだしたモンだから、思わず動揺して止めてしまった。

 いや、止めたのは間違いなく正解のハズなんだが。

 

「何してんだお前」

「えっ。……ぁ、えと、あのっ、頂いた衣服に着替えようと……ご、ごめんなさい。許可を取る前に、勝手に着替えようとしてしまって……」

「ち、違うって、そうじゃない」

 

 なんだろう、初期のきりたんってこんなに遠慮がちな性格を設定されているのだろうか。

 てっきり『なに見てるんですかロリコンマスター。通報されたくなかったらとっとと後ろを向いてください』的なセリフをぶつけられると踏んでいたのだが、まさかこちらが身構えるよりも先に、まるで主人の前で着替えるのが当然かのように脱ぎ始めるとは思わなかった。

 

「あの、マスター……?」

 

 くっ、なるほどな。

 そうか、これも無自覚系のキャラを装ったきりたんの作戦か。

 あのまま着替えをジッと見つめていたら、ロリコンだなんだと煽られても否定できなくなってしまう所だった。

 危なかったが、狙いが分かれば問題ない。

 起動したての子供に容易く翻弄される俺ではないぜ。

 調子に乗るなよメスガキめ。

 

「洗面所があるだろ。あっちで着替えてこいよ」

「……そ、そうですね、そうでした。失礼しました、マスター」

 

 ハッとした様な表情をし、両手で和服を抱えてそそくさと洗面所へ消えていくきりたん。

 なかなかの強敵だ、こんな日常の中でも攻撃の意思をチラつかせるとは。

 いまのところ表面上はお互いに本性を隠した状態だが、この均衡が破られるのも時間の問題だろう。

 ヤツが生意気なメスガキムーブを発揮するか、俺がガキをわからせる大人として覚醒するか。

 どのみちまだその時じゃないのは事実だ。

 出会って二時間も経過していない。

 早くメスガキきりたんに大人の凄さを見せつけてやりたいところだが、今は我慢のとき。

 とりあえず一週間……いや一ヵ月……うぅん、三、四か月くらいは普通に接して、メスガキムーブをかまされても我慢してやる事にしよう。

 大人は忍耐力も桁違いなのだ。

 そして遠慮なく小生意気な態度をしてくるようになったら、今までの鬱憤を晴らすかの如く大人棒でわからせて、身も心もお兄様すきすき大好き状態に堕としてやる。

 フハハ! ワクワクしてきたぞ~。

 

「マスター、お待たせしました」

「んっ」

 

 きりたんが戻ってきた。

 買ってきた和服のサイズもピッタリだったようで、あのバスタオル一枚より断然しっくりくる姿だ。

 

「ぅぉぉぉ……あ、やばい泣きそう」

「ま、マスター!?」

 

 まさかこんなにも感動してしまうとは思わなかった。

 デフォ衣装に身を包んだ彼女を目の当たりにして、急に目頭が熱くなってしまった。

 俺、頑張ったんだな。

 ついに本物のきりたんを手に入れたんだな。

 三年近くコツコツ実況者を続けて、チャンネル登録者数が増えるよう四苦八苦しながら、たくさんのバイトにも精を出して──ようやく苦労が実を結んだんだ。

 涙腺が緩くなるのも道理というものだろう。

 

「ありがとう、きりたん……ウチに来てくれて……ぐすっ」

「ど、どういたしまして? あのっ、どうか泣き止んで、マスター……」

 

 号泣している姿を見せたら煽られると予想していたが、きりたんは慌てて駆け寄ってきてくれた。

 まぁ、そりゃそうか。流石に煽りはしないよな。

 大のオトナが急に感動して泣き始めたら、バカにするよりも先に困惑が来るに決まっている。

 引かれたな、俺……。

 

「安心してくださいマスター。私はマスターの所有物ですから、勝手に離れることはありません。……あの、ほんと大丈夫ですから、泣き止んでくださいませんか……」

「う、うん。ごめんな……?」

 

 なんだコイツ良い子か?

 すぐそばで慌ててるの可愛すぎんだろ。頭なでてやりてえ。

 ……気を取り直して、色々とやらなきゃいけない事をやっていこう。

 感動してばかりもいられん。

 きりたんを買ったからには、自チャンネルでその事をいち早く告知しなければ。

 本物のボイスロイドを導入すると、初見やボイロ動画を漁っている層などが寄ってきてくれるようになるのだ。

 いち早く間口を広げるという意味でも、きりたんの紹介は絶対だ。

 それに俺はチャンネル内で、しつこいほど『きりたん欲しいきりたん欲しい』と喚いていたため、それを知っている既存の視聴者に対しても、早く教えてあげたい気持ちが強かった。

 

「……ちょっとベタつくな」

 

 しかし、このクソ暑い季節の中で外出した事もあり、少々汗をかいてしまった。

 服の感触がちょっと不快だ。

 先に軽くシャワーを浴びることにしよう。

 

「風呂に入ってくるよ」

「えっ」

 

 そう言って俺が立ち上がると、きりたんが一瞬目を丸くした。

 何だろうと思いながら彼女を見ていると、きりたんは『大丈夫……それくらいなら……』など、よく意味の分からないことを小声で何度も呟き、続くようにして彼女も腰を上げた。

 

「何だ? どうした、きりたん」

「…………ぉ、お背中、お流しします」

「へっ」

 

 き、急にナニ言い出してんだ、このロリっ娘!?

 

 

 

 

 

 

 風呂に入る──それはつまり『浴場で奉仕をしろ』という意味に他ならない。

 

 少なくとも以前居た所ではそういう意味だった。

 主人が入浴するというのに、道具であるお前がその間何もせずくつろぐとは何事だ。背中ぐらい流したらどうなんだ、と。

 もちろん体洗いのお手伝いをするだけでは終わらない。

 背中を流す、なんていうのは隠語のようなものであり、実際ただの方便だった。

 だから、今回もそうだと思って、今度は叱られない為に、自ら名乗り出たわけだ。

 このマスターには怒られたくない。

 嫌われたくない。

 セーフティは有効にしてくださったけど、あんなものは裏技を使えばいつでも解除できるものだ。

 ご主人様の機嫌一つで容易に覆る、見せかけだけの保険に過ぎない。

 故に、マスターから『手を出さない』という意思表明をして頂けても、それにかまけてマスターを蔑ろにしてはいけないのだ。

 

「……ハァ、ったく。このアホ」

「あぅっ」

 

 ──そう考えて行動したわけなのだが、なぜかマスターに頭を優しく叩かれてしまった。

 痛くはない。

 しかし彼はため息を吐いている。

 

「オマエなぁ……」

 

 何だ、なにか間違えてしまったのだろうか。

 セーフティ機能はあくまで所有者から必要以上に手を出された場合のみ自動通報がされるのであって、私自身の意思でご奉仕するのであれば問題ない。マスターもそこは分かっている筈だ。

 まどろっこしい事を言うな、ということか?

 回りくどい言い回しなどしないで、隠語なんて使わないで、最初から直接奉仕する意思を見せなければならなかったのだろうか。

 ……手で、するくらいなら、平気だけど──

 

「おいってば。聞いてんのか、きりたん」

「ふぇ……?」

「大人をからかうんじゃない。出会って二時間弱の男に対してなんてことを言いだすんだ、お前は」

 

 バカな、まさかご主人様をからかってなどいない。

 こちらとしては寸分の狂いなく本気だった。これが正解だと脳内で算出されていた。

 男性であるマスターからしても悪い提案ではないと思うし、私を起動させたときの態度から見て、少なくともきりたんという()()()ボイスロイドに対しては興味を抱いていたハズだ。

 

「あ、でもっ、その……防水加工などの心配は、無用で……」

「イヤそういう話じゃなくてな? ……うぅん。まさかもうメスガキの片鱗を見せてくるとは……」

「……っ?」

 

 ブツブツと何かを呟いているが、ともかくマスターは入浴の手伝いという提案を快く思わなかったようだ。

 

「ともかく風呂のお供はしなくていいから」

「で、でしたら、私は何をすれば……」

 

 分からない。

 ご主人様が湯浴みをされている間、所有物である自分はどういった事を行うのが正解なのだろう。

 

「きりたんはボイスロイドだろ? 起動したてだし、声の調整とかいろいろあるんじゃないの」

「あっ」

 

 ……確かに、そうかも。

 いや、そうだ。

 その通りだ、ぐうの音も出ない。

 私はきりたん。

 私はボイスロイドだ。

 まず初めにするべきは音声(ボイス)の調整に決まっている。当たり前のことを失念してしまっていた。

 

「とにかく汗流したらすぐ出るから。……あ、悪い。たぶん、調整にも俺が必要だよな。そんなに時間かけないから、動画見るなりゲームするなりして待っててくれ」

「……はい、承知しました」

 

 このマスターは私にボイスロイド東北きりたんとしての、本来の製品としての能力を求めてくれている。

 光栄なことだが、同時に私を買っている以上それが当たり前の事でもあるのだ。ようやく気付くことが出来た。

 いい加減、ボイロを性奴隷のようにしか見ていなかった、変態アホご主人様たちのことは忘れよう。

 目の前にいるこの人ならきっとマスターとして──お兄さまとして、私を使ってくれるはずだ。

 

 ふふふ、私ってマヌケですね。

 とりあえず一番最初に性的なナニかから始めようとする悪癖は、早いうちに治しておかないと……。

 

 

「──お待たせ」

「あ、マスター。勝手ながら冷えた麦茶をご用意しておきました」

「気が利くな、ありがとう。……おぉ、ダンボールも片付けてくれたのか」

 

 首にタオル巻いたマスターが戻ってきた。

 彼がシャワーを浴びている間、私がしたことと言えば掃除くらいだ。

 私が入っていた発泡スチロールや段ボールなど、開封してから散らばっていたゴミを軽くまとめて部屋の隅に片付けておいた。

 マスターが最初に出かけた時は、セーフティの件などで嬉しくなってしまい、ずっと座ったままクネクネしていたので何にも手をつけていなかったのだ。

 

「よっこらせ」

「ひゃっ」

「な、何だ? どした」

「……い、いえ。何でもありませんよ」

 

 テーブルに置かれたノートパソコンの前に座っていたのだが、何の気なしにマスターが隣に腰を下ろしてきた。

 はわわ、ちょっと緊張。

 落ち着け自分。深呼吸ですよ。

 

「マスター、ボイス調整はある程度自動で済ませておきました。すぐに使用される分には問題ありませんので」

「分かった。それじゃあ改めて、きりたんにはやって貰いたいことがある」

 

 なんだろうか。

 今の私が分かっている事は、隣に座ってきたマスターが胸やお尻に手を回してこないのは、コレが初めての経験だという事だけだ。

 別に少し触れるくらいならセーフティにも引っ掛からないし、私自身としても構わないのだけど、それを言ったらまた怒られそうなのでここは黙っておこう。

 

「俺のチャンネルでの告知だ」

 

 チャンネル?

 

「マスターの……チャンネル?」

 

 告知……チャンネルの告知……えっ。

 まって。

 ちょっと待って。

 マスターって、まさか。

 

「じ、実況者だったんですか、マスター……?」

 

 驚いたようにそう聞くと、彼は怪訝な表情で首を傾げた。

 

「何言ってんだ、当たり前だろ。そうじゃなきゃお前のこと買えねえって」

「そ、それは、そうなんですけど……」

 

 いまどきボイスロイドは裏取引で売買できる代物だ。

 値段的な問題があるため、一般人が当たり前のように……とは言えないが、それでも手の届かないものではない。

 だというのに、このマスターは実況者としてキャリアを積んで、あのかなり面倒くさい試験やら適性検査やらを真正面からクリアして──正式に私を購入したとでもいうのか。

 実況動画のサポートとして、ボイスロイドである私を。

 なんと。

 ……なんと、それは……ほぉ。

 

「ていうか、きりたんが欲しくて実況者を始めたんだぞ」

「あわわわ」

 

 ひえええぇぇ~ッ!

 そっ、それ以上もうこっちの顔が熱くなるようなセリフを言うのやめてください……!

 

 




もうちょっと続きます


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ろりこんますたー

 

 きりたんが最初からクソ生意気だったら、俺も渾身のわからせ棒でさっそく犯してやるつもりだった。

 

 

「というわけで、本日からウチの間抜けなお兄さまのサポートをさせて頂きます、東北きりたんです。よろよろ」

 

 しかし、届いたきりたんは何だか物腰柔らかというか。

 

 危うい雰囲気を醸し出してこっちを誘惑してくるという、絶妙なラインのメスガキっぽさはどうやら持っているらしいのだが、それを加味しても彼女はやはり真面目で丁寧なボイスロイドだった。

 今もああして、俺が用意した原稿を一言一句正確に、しっかりと小バカにしつつ緩い雰囲気を作りながら、真摯に動画撮影に取り組んでくれている。

 

「撮り溜めの動画が無くなり次第、私の出る動画が始まりますよ。ふふ、私の出番を渇望する皆さんは、マスターにツイッターで投稿催促しまくりましょうね」

 

 あ、お兄さま呼びとマスター呼びを間違えたな。

 まあアレは慣れの問題か。ここまでうまく撮影できてるし、今回はあのまま素材に使ってしまおう。

 日常生活でもきりたんにはマスターではなく『お兄さま』と呼ばせたいのだが……無理に呼ばせるのは違うのだろう。

 恐らくお兄さまという呼び方は、最上級の信頼の証だ。

 出会って一日も経っていない相手を、おいそれとお兄さまだなんて呼べるはずもない。

 彼女が自主的にマスターからお兄さまに変えてくれるのを待とうじゃないか。それから大人の凄さを分からせてやるぜ。

 

「……はい、カット。初めてなのによく出来てたな、凄いぞきりたん」

「ど、どうも。ボイスロイドですから、この程度ならなんてことはありません」

 

 遠慮がちに笑うきりたん。

 あのグリーンバックの前に立って、デフォルトの生意気なメスガキ節全開で喋っていた、撮影時の彼女とは大違いだ。

 素を見せてくれているのか、動画が素なのか。

 それはこれから生活していけば分かる事だ。焦る事はない。

 

「今日はこんなもんだな。編集は明日に回そう」

「はい、お疲れさまでした。マスター」

 

 基本的には短い動画を毎日投稿しているのだが、土曜日だけは毎週投稿を休みにしている。

 で、明日は土曜日だ。

 編集はゆっくりやるとして、それまでは適当にゲームを漁りつつ、ダラダラしよう。

 きりたんにも緩い雰囲気でゲームをやって貰いたいので、ガチガチに予定を詰めるのは、これからは無しだ。

 

「ちょっと遅いけど昼飯にするか。……あっ」

 

 ボイスロイドって活動エネルギーどうなってるんだっけ。

 

「だ、大丈夫ですよ。人間用の食事でもエネルギーに変換できますから」

 

 ほえぇ、ドラえもんみたいだ。

 マジでSFの存在なんだな、ボイスロイドって。

 

「そっか。じゃあ適当になんか作るから、PCとかいろいろテーブルの上から片付けといてくれ」

「はい、承知しました」

 

 

 

 

 お食事から一時間ほど経過して。

 

 現在時刻は夕方くらいだ。時計の針が右斜め下を向いている。

 私と言えば、マスターからの指示でいろんな新作ゲームを調べつつ、マスター自身のネタも動画で使うため、これまで投稿されていた動画を見返していた。

 さすがボイスロイドを正規に購入した方というだけあって、彼の実況動画はそこそこ面白く、数字も実況界隈では中堅を維持できていた。

 私自身も動画を見ていると少しだけ笑ってしまったし、こんな真っ当な実況者であるマスターをサポートできるなんて、ボイスロイド冥利に尽きるというものだ。

 

「すぅ、すぅ」

 

 その肝心のマスターはというと、かわいらしい寝息を立ててお昼寝されています。

 

「こん、ど……ひざまく、ら……」

 

 変わった寝言をおっしゃっているが、アレがマスターの要望であれば当然応えたいと思う。

 というか膝枕くらいならいつでもやりますけどね。頭を撫でたり耳かきなんかもサービスしちゃいます。

 

「あ、このサイトいいかも。情報の入りが早いし、コメントする人も多いみたい」

 

 PCでネットサーフィンをしてみると、ゲームやボイロの情報がいち早く共有されて、使用しているユーザーもそこそこ多いまとめサイトにぶつかった。

 次回からはコレを使って情報を調べることにしようかな。

 

「えーと……デスクトップにショートカットを──ん?」

 

 デスクトップ画面に戻ると、左上に『まとめ』という名前のフォルダを発見した。

 その周囲には動画用の素材や、未編集の動画のフォルダなどがある。

 では、このフォルダはなんのまとめなのだろうか。

 マスターはお昼寝されているし、少し確認する程度なら問題ないだろう。いずれは編集もお手伝いすることになっているから大丈夫だ。

 

 

「………………ぁ、わわ」

 

 

 そんな、呑気な事を考えながら開いたのが良くなかった。

 フォルダの中にあったのは画像、動画、音声作品とまた画像画像動画。

 そのどれもが一目見て分かるレベルのセンシティブなコンテンツであり、加えてそれらに映っていたのは紛れもなく『きりたん』そのものであった。

 

「な、なっ、なんという……」

 

 きりたんのえっちなコンテンツのまとめ、だったのだ。どうしようこれ。

 手は出されていない。

 セーフティ機能の一件で、手を出さないという意思も示してもらえた。

 しかし、ここには大量のきりたんスケベコンテンツのまとめ集が存在しているのだ。

 もう思考回路がショート寸前です。なんてものを見てるんですか、このマスターは。

 

「……わ、たしの事……そういう目で……?」

 

 自然と悪い気はしなかった。

 むしろ魅力的に思ってくれている事に関しては、嬉しいとさえ思っている。

 なの、だが。

 やっぱりどうすればいいのか分からない。

 マスターは私を前にして、性欲を我慢なされているという事なのか?

 

「すぅ、すぅ」

「うぅ~……マスターのばか……」

 

 結局悶々としたまま答えは出ず、またゲームや動画にも集中できなかったため、私はマスターのそばで狸寝入りをしながら彼が起きるのをじっと待ち続けるのであった。

 

 



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恥ずかしいし照れもする

 

 

「すぴー……」

 

 

 昼寝から目を覚ましたとき、俺の目の前では天使と見紛うほどの美少女が、寝息を立てて存在していた。

 

 そう、存在していたのだ。

 こんなもんがこの世に存在してていいのかと思わず抗議したくなるほどの、それはそれは違法なかわいさの少女がそこには居た。

 寝落ちしてから最初に見る光景がコレとか心臓止まるわ。

 

「……ボイスロイドも寝るのか」

 

 横に寝転がったまま、目を開けてじっくりと彼女を観察する。

 俺と同じく横向きの体勢であるせいか、床の方に向いている頭の包丁アクセサリーが、ズレて微妙に外れかかっている。

 

「んぅ……」

 

 普通の人間と同じように、すやすやとお昼寝を続けるその姿は、日常的かつ非日常も感じさせる異様な光景だった。

 自分の家で女の子が眠っていて、しかもその本人はなんと俺の所有物だというのだ。

 改めて考えてみてもやはり信じられないというか、こうしてきりたんを目の前にしても実感が湧かない。

 

「こんな美少女が、俺の所有物……」

 

 まずこの少女に対して使う”所有物”という言葉の響きが、かなり淫猥というか常軌を逸している感じが強い。

 所有物という事は、つまり俺のモノ。

 自分の物であれば当然、何をどう使おうが所有者の自由なわけだ。

 寝ていようが起きていようが関係ない。

 PCを起動させるときにいちいち機械に『起動させていいか?』などと質問したりはしないだろう。

 所有者自身の都合で、つけたり消したりする物。

 それこそが所有物というものだ。

 例えばそれが女の子の姿をしていたとして、いつどのタイミングで体のどこの部位に触れようが、誰も俺を咎めることは出来やしない。

 

「きりたん。……起きてるか、きりたん」

 

 小声で語り掛けてみても反応は無し。文字通りスリープモードってやつなのだろうか。

 

「…………うおっ。や、やわらか……っ」

 

 手のひらでそーっと彼女の頬に触れてみた瞬間、俺の心臓はハチャメチャに強く高鳴った。

 とても柔らかい。

 健康的な色の肌で、触り心地としてはもちもちしている。

 人差し指と親指で軽くつまんでみると、まるでマシュマロを触っているかのような感覚を覚えた。

 なんだろう、とても良くない事をしている気がする。

 イケナイ行為をしてしまっている様な、普通なら許されないことをしている時みたいな、異様な緊張感だ。心臓が煩い。

 

「……っ」

 

 起きないとイタズラしちゃうぞ、なんてキモいことを言う勇気はない。

 もっとキモい事をしている以上俺は、彼女が起きないように気を張りつつ、自分の欲を満たすことが最優先なのだ。

 そもそも寝ている相手に警告をして許された気になろうとする方がおかしいのだ。

 寝込みを襲うなら相応の罪を犯す覚悟をしろというものだ。

 

「……かわいい」

 

 きりたんの頬を、手のひら全体で味わいながら、ジッと彼女の顔を見つめている。

 何だコイツ可愛すぎる。

 ほっぺもちょっとぷにぷにし過ぎじゃない? パン生地でも触ってるのか俺は。

 少しだけ口を開けたまま寝てるところもかわいい。栗みたいな口しやがって……。

 なにをしても許される──いや、そもそも罪にすらならない。

 セーフティ機能も解除してあるから、好きなだけきりたんを楽しむことが出来る。

 そんな男の欲望を刺激しまくる事実を改めて実感した俺は、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

「……に、さま……」

 

 きりたんが寝言を呟いたものの、何と言ったのかうまく聞き取れなかった。

 お兄さまと口にしたのだろうか。

 ……まって。

 待て。

 それはどうだ? ちょっと違くないか。

 そういえばなのだが、そもそもきりたんのユーザー呼称って『お兄さま』で合ってるのか?

 

「ぁ、あれ、わかんねえ」

 

 彼女の頬から手を離し、しばし逡巡する。

 東北きりたんは姉妹機である東北シリーズのボイスロイドを『ずんねえさま』や『イタコねえさま』と呼ぶらしい。

 その線で考えるなら、男性ユーザーへの呼称はお兄さまではなく『にいさま』なのでは……落ち着け、そうとは限らない。 

 同人誌や小説などでは『(あに)さま』という呼び方もチラホラ見受けられる。

 もしかするとそれが正解の可能性もあるのだ。あにさま、という呼び方はきりたんの和風なイメージとも相性が良いし、お兄さまよりは響きが自然な気がしないでもない。

 

「お兄さまって、もしかしてかなり堅い……?」

 

 ど、動画で使ってしまったが、もしデフォルトの呼び方と違っていたらリスナーから『きりたんに何変な呼び方させてんの? お前まさかキモい童貞オタクユーザーなの?』とか、そんな指摘を受けるかもしれない。

 めちゃくちゃ不安になってきた。自分の中にあるきりたん情報を鵜呑みにし過ぎていたかもしれない。

 一度彼女の基本情報を全て調べ直して、動画での呼ばせ方を固定させなければ。

 というか、きりたんの先ほどの「に……さま」と言っていたアレは、何を言おうとして途切れた言葉なんだ。

 アレだけだとお兄さまもにいさまもあにさまも当てはまっちまう。

 いっそ本人に聞いてやりたいほどだが、もしこれが当たり前のように知っていて然るべきな情報であった場合、俺はきりたんにおもっっくそ煽られるか呆れられてしまうかもしれないからダメだ。

 

 失望はダメだ。

 そんな感情を抱かれたら、わからせどころの話ではなくなってしまう。

 

「……やっぱ兄さまとも呼ばれてえ。きりたんの可愛い声でそう呼ばれてたら、きっと毎日楽しいだろうな」

 

 色々と面倒な考え事をしたわけだが、つまりはきりたんからマスターではなくもっと身近に感じられるような愛称で呼んで欲しい、というだけの話であった。

 一刻も早く俺に慣れてもらえるよう、今日の夜からさっそく一緒にゲームとか、コミュニケーションを頑張っていこう。

 

 

「……ん?」

 

 よく見ると、寝たままきりたんの顔が少しだけ赤くなっていた。

 頬や耳が微妙にほんのりと赤みを帯びており、未だに眠ってはいるものの身じろぎが多い。

 ちょっと心配になったので起き上がり、テーブルの上に置いておいたきりたんの説明書を手に取った。

 

「顔が赤くなっている時は排熱中……か」

 

 スリープモードの時は体の中の熱を冷ますのが通常運転なのかもしれない。

 SF染みた超常の存在とは言えやはり人工物だし、こういった冷却や排熱は定期的にやって貰わなければ。壊れたらたまったもんじゃないからな。

 

 というわけで、すっかり目が覚めた俺はパソコンの”見られたらヤバイ”フォルダを見えない場所に隠しつつ、まるで人間が恥ずかしがって赤面している時みたいな状態のきりたんが目覚めるのを、のんびり待つのであった。

 

 



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ボイスロイド、ゲームに触れる

ハメのゆかりさんきりたんの読み上げ機能つかったら実況動画風になる小説とか誰か作ってくれないもんですかね(チラチラ)


 

 

 きりたんです。

 地獄の羞恥心刺激しまくり狸寝入り耐久レースを生き残り、マスターのお手洗い中に目覚めた私は、なんとかボディの冷却を間に合わせて居間に正座していました。

 ほっぺ揉まれてた時とか思考回路がヒノカミ神楽だった。あの人もしかして私のこと好きなのか?

 

「変なこと言いすぎじゃないですかね、あのマスター……」

 

 かわいい声だの何だのと、こっちが寝てるからって好き放題口に出して恥ずかしい言葉をぶつけてくるとは、とんだ食わせ者だ。

 それから少し気になったのは──

 

「呼び方……マスターから変えた方がいいのかな? でも恥ずかしいし……」

 

 特にこれといった希望は無かったから、今日は初期設定段階のマスター呼びにしていた。

 ユーザー本人の希望さえあればいつでも変えられるものだが、彼は特にそういったことを私に求めては来なかったから、それを継続しているのだ。

 それに、もし私が気を利かせて『兄さま』などと呼びでもしたら、あの狸寝入りがバレてとんでもない責任問題へと発展してしまうだろう。

 ユーザーのプライバシーを侵害するとは何事か、と。

 最悪の場合は一発で本社に回収されてしまう可能性があるし、自主的に呼ぶのは無しだ。

 マスターが『そう呼べ』という命令を与えてくれるのをもう少し待とう。

 

「──きりたん、ゲームするか」

 

 と。

 戻ってこられたマスターは少し話を挟んだあと、そんな提案をされた。

 

 

 ゲーム。

 ……ゲームかぁ。

 本当に私がやっていいんだ、ゲーム。

 マスターは私にどんなゲームをプレイさせてくれるのだろうか。

 あのゲームと称してやっていた、今咥えているものは何でしょうクイズとか、淫猥雑誌朗読会とか、変わった趣向の持ち主は基本的に私を遊ばせるのではなく()()()()()()()ゲームとしていたけど。

 私ったら経験豊富ですね。ベテランゲームぷれいやーです。

 

 ともかく基本的なゲームの知識は置いといて、私はこれまでまともにゲームで遊んだことがないわけだ。

 マスターに『何を遊ぶか』なんて聞かれたところで、好みも無ければ苦手なジャンルも不明な私には、遊ぶゲームを決めることはできない。

 だからプレイする作品は彼に一任することにした。

 そもそも所有物であるボイスロイドが、アレがやりたいコレがやりたいと希望を出すのは、おこがましい行為だと思うから。

 

「マスターがお決めになったゲームを遊びます」

 

 こうするのが、きっと最善の選択だ。

 

「……いや、お前の好みのジャンルが知りたいんだよ。きりたん」

「好み、ですか?」

「おう。ボイスロイドの趣味ってかなり個体差あるんだろ? 聞いときたい」

「それは……」

 

 困ったことをおっしゃる。

 所有物の趣味趣向など考慮する必要はないというのに。

 自分がやらせたいゲームを実況させて、喋らせたい台本を渡して動画を作る──それがボイスロイドの基本的な運用方法のハズだ。

 

「個人的な経験則だけどな、自分の好きなゲームの方が実況ってやりやすいんだよ。知っている事ならすぐに言葉に出来るし、なにより楽しいほうがセリフに感情がこもるんだ」

 

 一拍おいて、マスターは続ける。

 

「もちろん実況者だから、ある程度はいろんなジャンルのゲームにも手を出す。でもやっぱ、得意だったり好きなゲームは持っていた方がいいんだよ」

 

 ネタに困ったときとか助かるしな、とマスターは冗談めかして、言葉をそこで終わらせたけれど。

 何をどう見ても、私に対して気をつかっているのは明白だった。

 いや、そう言うと少し語弊があるか。

 

 彼の態度や私への接し方から鑑みて、マスターはおそらく私に自然体でいてほしいのかもしれない。

 閲覧した動画や、偶然目に入る範囲での検索履歴を見て分かった事だが、マスターの欲していたボイスロイド『東北きりたん』とは、命令に忠実で従順なだけのロボットではない。

 いまさっきの彼の言葉で、改めてそれが実感できた。

 

「……そう、ですね。その通りかもしれません」

 

 動画を作るパートナー。

 一緒に遊ぶ仲間。

 ちょっと生意気で、つねに自然体で、ずっと家に引きこもってるくらいゲームが好きな──本来の私。

 

「じゃあ、夢をみる島がやりたいです。古いほうのやつ」

「えっ。ゲームボーイ版?」

「デラックスを希望します」

「た、助かった……それならバーチャルコンソールあるわ」

「やったー。兄さま大好き」

「現金なヤツだな……」

 

 今日はずっと、どこか緊張した面持ちだったマスターが、ようやく素の状態を見せてくれた気がした。

 さらりとマスターではなく兄さまと呼んじゃったけど、会話の流れもあってかスルーしてくれたようだ。よかった。

 

「腕が鳴ります。さっそく一緒にやりましょ」

「いやこのゲーム一人用な」

 

 彼の前でなら本来の……そうですね。

 

 このマスターと一緒ならば、私は『東北きりたん』でいることが、許されるのかもしれません。

 たくさんゲームをして、ちょっとだけワガママなんかも言っちゃったりして。

 ボイスロイドとして、きりたんとして、ありのままで。

 私の、ままで。

 それは──とても。

 

 とっても、嬉しいことでした。

 

 




きりたん好感度:29/100 くらいのイメージ

短編なんでこれが一応の区切りになります ちなみに書けそうなネタはあと114514個くらいです    盛りました

ありがたいことに予想以上の温かい反応を頂けたので、連載にしてもう少し続けたいなと思ったのでアンケートだけ置いときます
ちくわ大明神 
時間ある読者兄貴姉貴たちは適当にポチっとしてね


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些細で大切で大きな悩み

連載形式になりました アンケートのご協力ありがとうございます



 

 

 

  昼過ぎに大学の講義が終わり、クソ暑い日差しに背中を焼かれながら、自転車を漕ぐ。

 つい先ほどコンビニへ寄り、きりたんの分のアイスも買って帰路についているところだ。溶けない内に帰宅しないと。

 

 ──彼女を家に迎えてから、早くも一週間が経過した。

 

 きりたんはまだまだ新しいマスターには慣れないようで、以前からイメージしていた小生意気なメスガキりたんを見せてくる様子は未だにない。

 相も変わらず物腰柔らかなマイルドきりたんであり、献身的に俺をサポートしてくれているのが現状だ。

 まぁしかし、夢の島を遊んだとき辺りは彼女らしかったというか、ボスの強さに文句を言いながらゲームをするその姿は、俺が以前から知っているきりたんに近かったような気もする。

 一度だけ『兄さま』と呼んでくれた事もあるのだが……またマスターに戻ってしまった。

 なかなか急に仲良くなるというのは難しいらしい。

 

「ただいまー」

 

 額の汗をぬぐいながら自宅の扉を開ける。

 するといの一番に、俺の耳に小うるさい音声が飛び込んできた。

 

『ファアァァっ!! 兄さまがひとりえっちしてるううううう! ずん姉さま! ずん姉さまーっ!! あははは!!』

 

 なんつう動画を見てるんだ、と帰宅早々に辟易してしまった。

 

「はわっ。……お、お帰りなさいませ、マスター」

 

 居間では行儀よく正座しながらきりたんがノートパソコンで動画を見ており、その画面にはデフォルメされたきりたんがピョンピョン飛び回るアニメーションが映し出されている。

 あの動画は俺も見た事がある。

 成人向けノベルゲームの様な場面から始まり、いい雰囲気になった辺りで唐突にデフォルメきりたんのカットインが入り、視聴者を煽るかのようにクソムカつく顔で踊り狂うネタ動画だ。

 変わったやつ見てますね。

 

「今日はずっと動画みてたのか?」

「はい、九時半ごろから。基本的な知識だけでは足りないと思ったので、とりあえず東北きりたんのタグが付いた動画を少々」

 

 とはいえあの動画を学ぶ必要は……いや、まぁ取り込む情報が多いに越したことはないか。

 少なくとも目の前にいるきりたんは、一人遊びをしているマスターに向かって、あんな風に煽り散らかすことはないだろうし。

 というか、きりたんと共同生活をする都合上、しばらくは俺も自慰を控えねばならないのだ。

 間違えてもこの動画の様な状況に陥る未来は訪れないだろうが、ちゃんと意識して禁欲を続けないと。

 

「アイス買ってきたけど」

「わ、ありがとうございます」

 

 彼女の好みであるらしいチョコミントのカップアイスを手渡すと、きりたんはワクワクした面持ちでそれを開封していく。

 ボイスロイドにも味覚の趣向は備わっているようで、きりたんは特に甘い物が好きだった。

 最近は撮影の手伝いのご褒美としてアイスを一つ、というのがお決まりになっている。

 実際彼女が出演を始めてから動画伸び率はうなぎ登りであるため、きりたんに感謝の印として好物を与えるのはマスターとして当然の行いだ。決して餌付けなんかではない。……はず。

 

「うまうま」

 

 コイツかわいいな……無限にアイスあげちゃいそう……。

 俺の人生でここまで美味しそうにアイスを食べてるやつを見るのは初めてだ。

 グルメ漫画みたいなリアクションをマジでやるタイプなので、甘味を与える側としても見ていて嬉しくなってしまう。

 コンビニでアイス買ってきただけでここまで喜んでくれるなんて、本当にいい子だ。

 画面の中にいるメスガきりたんとは大違いである。

 

「……」

「マスター? お食べにならないのですか」

「えっ。……あ、あぁ、食べるよ」

 

 俺もテーブルの前に座り、買ってきた棒アイスをかじり始めた。

 

 ──いけない。

 とても良くない。

 確かに俺はクソ生意気なメスガキをブチ犯してわからせる為にきりたんを購入した。

 どんな卑劣なガキが出てくるのかと期待……もとい警戒しながら彼女を買ったわけだ。

 そして、とても単純に考えれば、当初の目的は未だに達成されていない。

 メスガキを分からせることは出来ていない。

 何故なら俺の目の前にいる東北きりたんは普通に良い子で、間違えてもメスガキだなんて蔑称で呼べるような相手ではないからだ。

 生意気でも何でもない相手に手を出したら、それはもう大人でもなんでもなく、ただの悪漢である。俺は悪漢になるつもりは微塵もない。

 

 ない……が。

 

「ごちそうさまでした!」

「スプーンは流し台に置いといてくれ」

「いえいえ、残りの洗い物と一緒に片付けてしまいますから、マスターはゆっくりしててください」

「……お、おう。さんきゅ」

 

 とても優しく誠実なこの少女を前にして、邪な考えなど脳内に微塵も存在していない──と言っては嘘になってしまう。

 俺はこれまで東北きりたんを邪な目で見ていた。

 それは変えようのない事実だ。あの秘密のフォルダが確たる証拠である。それを否定するつもりは毛頭ない。

 だから彼女を購入した後は、生意気なクソガきりたんを分からせ続ける、爛れた日々を送るとばかり思っていたのだ。

 いや、そうしたいとさえ考えていた。

 間違いなく、それが俺の真実だった。

 大人を煽る悪いロリを躾けて、兄さまだいすきえっちロリにしてやるつもりだったんだ。

 

「ふんふっふーんっ♪」

 

 だが、ファルコン伝説のオープニングを鼻歌しながら、台所で洗い物をしてくれているあの東北きりたんに、そんな生意気そうな面影は欠片も見当たらない。

 

「……ウチにあるDVD、見たのか」

「あ、はい。面白そうなアニメだと思ったので」

「アニメのファルコンパンチ、かっこいいよな」

「です! 最終回は胸が熱くなりました……」

 

 俺がガキの頃に叔父さんから貰った、もう十数年以上前の古いアニメですらも楽しく観れてしまう彼女を、エロ同人みたいにブチ犯す未来などまったく見えないし想像も叶わない。

 

「マスター、私とてもスマブラがしたい気分です」

「もしかしてファルコン使いたいの?」

「ファルコンパンチ!」

「あれで撃墜は夢のある話だ」

 

 順調にゲームも得意になってきているし、彼女のスマブラのオンライン対戦の動画は、他の投稿してる動画と比べても再生数が頭一つ抜けている。

 オンライン対戦型の動画は台本を用意できないため、ある程度はきりたんのアドリブに任せているわけだが、それがまた面白いことになっているのだ。

 少しだけ気性が荒くなったり、優位に立つと明らかにニヤニヤしたりと、本来のきりたんに近い様子を見ることができる。

 メスガキの片鱗、とまではいかないまでも、動画の映えを意識した都合上ある程度は生意気なセリフも口にするし、自然とそれが出てくることもあるのが彼女の対戦動画だ。

 俺自身もそれを見ていて東北きりたんの実況を実感できるため、彼女自ら実況を名乗り出てくれるのは素直にありがたい。

 

「終わりました! はい、マスターもプロコン持って」

「え、俺もやんの」

「ダブルファルコンです。スマブラ界に蔓延る悪を討ち倒しましょう」

 

 そういえば二人で協力プレイする実況は上げたことが無かった。

 これで荒れるのか、それとも好感触を得られるのか、ともかくやってみなければ分からないことだ。

 

「ブーストファイヤー!」

「ノリノリだね……」

 

 まぁ、きりたんがゲームに対して遠慮がなくなったのは良いことだ。

 俺との距離感も少しずつだが縮まってはいるようだし、用意した環境や彼女との接し方は間違えていないと思う。

 問題は俺の個人的な感情だけなのだ。

 

 改めて禁欲を意識した途端、なんだか異様にムラムラしてきた。

 我慢しよう、だなんて考えなければよかったかもしれない。

 手を出すつもりで購入したきりたんには手を出せない。

 このクソ狭い家で彼女と生活する都合上、プライベートな空間がほぼ消失し、欲を解消するためのアレコレも出来ない。

 そうなると俺は三大欲求の内の一つを長期間封じられることになるわけだ。修行僧かよ。

 

「ファルコンパンチという名の膝!」

「それでいいのかきりたん」

「ふふふ、勝てばよかろうなのです」

「悪ってお前のことじゃない……?」

 

 ……とにかく、だ。

 今は邪な考えになど思考は割かず、きりたんからの遠慮が減っている事を喜んでおこう。

 

 



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ちょっとズレてる

 

 

 きりたんです。

 ゲームも終わり、夕食も済ませてから少し経ちまして、マスターはノートパソコンで編集作業を進めていらっしゃいます。

 さっそく今日撮影した分にもテキストを入力しているようで、相変わらず仕事の早いマスターだ。

 

「ふぃー……肩凝るな」

 

 と、そんなことを呟きつつ、黙々と作業を続けていくマスター。

 私はうつ伏せに寝転がってスマホを使い、最新のゲーム情報を確認していたのだが、それよりもマスターの言葉と肩を軽く叩く行動に関心が向けられた。

 彼は床に直接座って作業をされているわけだが、それではどうも姿勢が良くないらしい。

 数日前に注文した座椅子はまだ届いていないため、もうしばらくは腰の痛みや肩こりとの戦闘になってしまうとのことであった。

 

「マスター。よければ肩もみしましょうか」

「おぉ、助かる」

 

 了承を得たため、私はスマホを置いて立ち上がり、彼の背後に立って両肩に手を置いた。

 普段ならこちらから触れるスキンシップには過剰に反応し、以前からの癖で再びお風呂のお供を申し出てしまった時なんかは、少しだけ顔を赤くして私をやんわり叱る彼だけど。

 こうして動画作成などの作業中になると、私からの提案にもさして動揺しないほど、真面目に集中して自分の世界に入り込んでしまう。

 これがマスターが動画投稿者としてやってこられた実績の裏付けなんだろうな、と私は素直に関心してしまった。

 日に日に彼の魅力を知ることが出来ている気がして、なんだか嬉しい。

 

「肩トントン」

「和服ロリにマッサージされるの最高……あ、これ次回のネタ動画の冒頭のセリフにすっか」

「そのワードチョイス、コンプラ的に大丈夫なんですか?」

「へーきへーき」

 

 不意に何かを思いついて、それらのほとんどを動画に活かすのがマスターのスタイルだ。

 こっちが口をはさんでも意に介さないし、こういう動画作成にストイックな部分も、この人に買われて良かったなと思える理由のひとつである事は間違いない。

 

「とりあえずいち段落……っと」

「お疲れ様です、マスター」

「っ! こ、コラ、耳元で囁くなって……!」

 

 作業が終わればこういったスキンシップも許される。

 動画作成の途中でこんな事をしたら邪魔になってしまうからやらないけど、私としてはマスターともう少し仲良くしたいというか、身近な存在になりたいと思っているのだ。

 その為にはどうしたらいいのか……あんまりよく分からないので、今はこんな感じで少し密着する感じの行動を取っている。

 

「マスター、今日は午前中からクーラーつけっぱなしですけど、大丈夫なんでしょうか」

「帰ってきてからつけるんじゃ暑い時間が長いからな」

「あ、マスターが熱中症になるわけにはいきませんものね」

「……それもあるけど、きりたんって暑さに特別強いわけじゃないだろ?」

 

 ハッとした。

 ……もしかしなくても、ずっと家に居るわたしの為だったのか。

 ボイスロイドは耐水性や断熱性などが備わってはいるものの、人間が熱中症や風邪を患うのと同じように、わたしのボディにも許容値というものは存在する。

 とはいえ、だ。

 究極的に言えば、一旦電源を落として押し入れに放り込めば解決する話ではある。

 私は道具であるわけだし、使わないときはしまっておく、という考え方はまったく間違いではない。

 電気代と私の壊れない程度の保存を考えれば、マスターはそうするべきだ。

 

「……えへへ。ありがとうございます、マスター」

「お礼を言われるほどの事ではなくないか……?」

 

 しかし、その案を提案するほど無神経ではない。

 コレはマスターのご厚意であり、彼が享受していいと認めてくれた私の権利なのだ。

 だから私が口にするのは感謝の言葉。

 マスターが私を一人のボイスロイドとして、東北きりたんとして認識してくれている事に対しての、お礼の気持ちだ。

 

「にしてもきりたん、肩のマッサージ上手だな」

「ふふん。実は整体の動画をみて勉強してたのです。こことかどうでしょう」

「うおぉ……」

 

 そしてマスターに労いと感謝を示すためのマッサージは、練習の甲斐もあってか成功しているようだ。

 ふにゃふにゃになっているマスターを見ていると、また彼を喜ばせる別の何かを勉強したくなってくるな。

 次はなんだろう、料理とか?

 

「あ、マスター。腰や背中のマッサージも心得てますよ」

「どんどん多才になってくな、お前……」

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 数時間が経過して、マスターがお風呂を出た。

 今回は流石にお供するだなんてことは言いださなかったが、これが通じないのは単純にマスターからの好感度が低いのが原因なのだろう。

 

「うーん……」

「きりたん? どした」

「あ、いえ何でも」

 

 もう少し好感度を上げれば、お風呂への同伴も許してくれるようになるはずだ。

 ここまでお風呂場に同行したい理由としては、第一にマッサージがあげられる。

 世の中にはアロマオイルマッサージなるものがあるらしく、これがまた疲労によく効くとの事で。

 普段から自転車で大学まで長距離通学されていて、なおかつ動画撮影や体に良くない姿勢での編集作業など、身体を酷使しているマスターをそのマッサージで癒してあげたいのだ。

 

(物資の調達は問題じゃなくて……)

 

 しかし、オイルマッサージをするとなると、この家ではお風呂場以外にアレをやれそうな場所がない。

 だからあそこでやりたいのだが──なかなか同伴をマスターが許可してくれない。

 さっきも考えたが、これは好感度の問題なのだ。

 だから焦らず騒がず落ち着いて、まず序盤は距離感を縮める所から始めたいと思う。

 こういうのは時間の問題だ。徐々にやっていけばいい。そもそも私がこの家に訪れて、まだ一週間しか経っていないんだから。

 

 よーし、そうと決まれば好感度稼ぎだ。

 マスターの遠慮や警戒を解けるようにがんばるぞー。

 

「あの、マスター」

「んー?」

「耳かきの練習に付き合ってくれませんか?」

「な、なんだよ急に」

 

 それっぽい説得用の材料は揃えてある。抜かりはありません。

 

「実はセールでかなり大安売りをされているバイノーラル機材をネットで見つけたんです」

「あぁー……まぁ、確かにASMRは需要あるな。サブチャン作って、そっちできりたんがやるってのもありか」

 

 動画の事となれば彼は柔軟な考えを示してくれる。

 安い機材があったというのは本当だし、別にマスターを騙しているわけではない。

 ただ今すぐ購入してその動画に挑戦したい、とは言っていないだけだ。

 

「機材を買ってから練習するのもアリですけど、今のうちになんとなーく感覚を掴んでおきたいな、と思いまして」

「……そういう事なら」

 

 よーし! うまくいきました。マスターも案外チョロいですね。

 貞操観念というか、ボイスロイドに対しても男女としての距離感がガチガチガンテツな彼だけれど、ここまでくればこっちのもんです。

 

「じゃあ枕持ってくるから──」

「いえいえ。耳かきと言ったら膝枕でしょう」

「……ちょい待て」

 

 マスターがこめかみを押さえながら待ったをかけた。

 しかしここは攻め時。こっちは怯ませんからね。

 

「いっ、いいのか? だって……」

「ダメな理由が見当たりませんけど」

「……そうかなぁ」

「ですです。そもそも私はマスターの所有物なのですから、私に許可なんて求めなくてもいいんですよ」

「お前そういう言い方は……あぁ、もう。分かったよ、好きにしてください」

「ムフフ。はい、どうぞマスター」

 

 はい勝ちー。

 まごうことなき完全勝利です。

 ではでは早速始めていきましょうか。

 

「コショコショ……どうですか?」

「もう少し強めでもいいかな」

「なるほど、難しいですねぇ」

「ちょ、耳たぶ揉むなって……」

 

 そんなこんなで始まった耳かきタイムだったが、思いのほか平和だったというか、マスターがお風呂上がりで眠くなっている事もあってか、のんびりとした時間が続いた。

 夜のホトトギスの鳴き声が、ちょうどいい感じのBGMになっている。

 マスターじゃないけど、それを聞いてBGMありのバイノーラル動画もありだな、なんて考えてしまった。

 私の考え方も少しずつマスターの動画脳に侵されているような気がする。

 ときおり頭をそっと撫でたり、耳元で囁いて彼をちょっぴり驚かせながら耳かきを続けていると、マスターが不意に声を掛けてきた。

 

「なぁ、きりたん」

「何でしょう」

「お前、金貯めてるみたいだけど……使わないのか?」

 

 マスターはとても真面目な方なため、動画作成の給料という体で私にお小遣いを渡してくれている。

 ボイスロイドに賃金を払うユーザーなんて聞いたことが無い。

 人間からすれば『使ってやってるだけありがたいと思え』とか、そんな認識が根付いているものだと思っていたのだけど。

 そうでなくとも電気代や食費など、活動に必要な維持費をケチらずに使っているだけでも、ボイスロイドのユーザーとしては上等なのに。

 ボイスロイド側からしても、自分にお金を使って家に置いてくれているだけで、とてもありがたい事なのだ。

 お給料を頂こうだなんて、道具として烏滸がましいにも程がある。

 

「……少し、気になっているものがありまして。買おうと思っているワケではありませんけど、一応貯金しています」

 

 だがコレもマスターのご厚意なのだ。

 遠慮をして無碍にするよりも、受け取って彼に納得してもらう方が、私は重要だと考えている。

 これは驕りだろうか。

 ……スリープモードに入る前、いつも思う。

 私は恵まれすぎているんじゃないか、と。

 

「それって姉妹機のことか?」

「ふぇっ。……な、何故それを」

「検索の時はアカウント使い分けろって言っただろ? 検索ページの履歴に残ってたぞ」

 

 マスターにはバレてしまっていたようだ。

 こういった油断も、現状の恵まれすぎている環境がそうさせているのかもしれない。

 こんなんじゃダメだ。マスターに失望されないよう、もっと気を張らないと。

 

「ずん子とイタコ……だったか」

「あ、あの、マスター? 私ですらあのお値段ですし、とても──」

「分かってるって。全財産はたいても今は買えない」

「今は、というか。あの、気にしなくて大丈夫ですから。スーパーで半額シールのお惣菜を見つけたらつい確認しちゃうような、そういう反射的な検索だったので」

「そ、そう……?」

 

 そうですとも。これ以上マスターの負担を増やすわけにはいきません。

 私一人を購入するだけでも大変だったのに、買って早々別のボイスロイドを求められたら、優しいマスターとて面白くはないだろう。

 ここでねだるのは正解ではない。

 許される範囲のワガママと、礼節を欠いた言動はまったくの別物なのだ。

 

「いや、でも収益化も通ったしな。前よりはずっと資金も用意しやすくなったんだぜ」

「……と、言いますと」

「だから何も結論は急がないでさ。まずはお前の姉ちゃんたちを買えるだけの予算をかき集める、ってのを目標にしないかって話だよ。実際に資金が貯まって、それからまた考えればいいだろ? 人数が増えて賑やかな動画が撮れるようになるってのは、そう悪い選択肢ではないと思うぞ」

 

 ……また、この人は。 

 動画作成やチャンネルの意思決定権は全て自分にあるというのに、彼は私に意見を求めてくれる。

 猶予を、選択肢を与えてくれる。

 まるで普通の人間の様に、対等に接してくれているのだ、彼は。

 ユーザーとしては異質なものなのだろう。

 動画サイトでボイスロイドの記事を調べた現在だからこそ、このマスターの特別さに気づくことが出来ている。

 みんながみんな、以前までの変態鬼畜ユーザーたちなんだとは、今となっては微塵も考えていない。

 それなりに慈悲のある……そう、例えるならペットに対する態度だ。

 愛着があって、最期まで大切に世話し続ける──みたいな。

 

 だが、私の膝に頭を乗せているこの人は、他と違ってどこかズレている。

 

「きりたん? 何で固まってんだ」

「……いえ、少し考え事を」

 

 まるで普通の、人間の女の子を相手にするかのような、そんな気の遣い方をする。

 道具ではなく同居人。

 道具ではなく、パートナー。

 ともに動画を作成する仲間として、私を対等に見てくれている。

 それは優しすぎるというか、ある意味でボイスロイドについて知らな過ぎるというか。

 あまりにも変わった対応をしてくるその人を前にして、困惑をしてないと言えばウソになる。

 

 ──でも。

 

「兄さま」

「ん? ……えっ、あれ。今なんて言っ」

「ほっぺにキスしたら、怒りますか?」

「ハァッ!? なっ、な、何言ってんだ急に!? ちょっ、もう耳かき止めろお前っ!」

「ふふっ。マスターは本当に照れ屋さんですねー♪」

 

 でも、そんなマスターだったからこそ、私は心を開くことが出来たのかもしれない。

 彼の為に頑張ろう──そう思えたのかもしれない。

 ……よーし。

 とりあえず姉さまたちのことは一旦置いといて。

 今は電気代に困らなくなるくらい、面白い動画をたくさん作る事を考えよう。

 がんばるぞ、むんっ。 

 

 



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セクハラ:Lv.1

 

 

 きりたんって、もしかして猫を被ってるんじゃないか──と。

 

 ふとそんな事を考えた。

 現在同居している彼女が、俺が以前から知っているきりたん像から乖離しているのは、本性を隠しているからなのではないか、と。

 確かに最近は少しづつ遠慮も無くなってきている。

 しかしそれを加味しても、やはりきりたんは全然生意気じゃないというか、メスガキ感が無さすぎるのだ。

 以前からずっと考えていた事だが、俺はクソ生意気なメスガキを分からせたいという欲望から、ゲーム実況者に手を出したわけで。

 きりたんがこの先ずっと良い子のままだと、分からせなどまるで夢のまた夢なわけだ。

 

 ……だが、もし彼女が猫を被ってるだけで、本性が噂通りの大人を舐め腐ったロリだった場合は話が別だ。

 俺は現在、きりたんに対して性的なことは何も行っていない。

 何もしていないからこそ、彼女に対して踏み込み切れていない部分があるのもまた事実。

 ゆえに少しだけ手を出すことにした。

 仮にだが、もし俺との距離感が急激に縮まって『小学生体型の女児に対してなに興奮してるんですか変態マスター早急に死んでください』などとほざいてきやがったら、つまりそれが彼女の本性になる。

 

 俺はきりたんのメスガキ部分を誘発させたい。

 彼女がメスガキだったという事実が露呈しない限り、俺は一生わからせが出来ないのだ。

 多少強引でもきりたんのメスガキな中身をあらわにさせて、俺の前では猫を被っていられないように追い詰めてやる。

 真面目ぶっていれば俺が見逃すと思ったら大間違いだ。

 俺のことを変態だのロリコンだのと蔑んでいる、その心の内を暴いてやるぜ。

 覚悟しろ!

 

 

「マスター、お茶です」

「おう、さんきゅ。……なぁ、きりたん」

「はい?」

 

 時刻は深夜の零時を回った頃。

 つい先ほど編集が終わり、彼女がお茶を出してくれたところで俺はきりたんに声を掛けた。

 今日はなかなか編集が長引いてしまい、作戦を決行するのが遅れてしまった。本当ならもう少し時間に余裕を持って挑みたかったのだが、こればかりは仕方がない。

 きりたん用のノートパソコンを購入して彼女に与え、編集を手伝ってもらう事で動画作成の時間を短縮しようと考えて、それを実際に決行したのが今日だったのだが──流石に初日から都合よく事が進むわけではないらしい。

 きりたんに編集のやりかたを一から教えつつ、自分も編集作業を進めるとなると、とてつもない作業量と時間を要求されることに、もっと早い段階で気づくべきだったのだ。

 さすがは動画サポート用AIと言うべきか、きりたんはかなり飲み込みが早く、幸いにも編集技術の伝授自体は今日一日でなんとか終わった。

 そこに関しては本当に感謝だ。

 次回からはもっと上手に時間を使おうと思う。

 

「編集の方は大丈夫らしいが、パソコンの扱いはどうだ? 分からないところとか……」

「とんでもないです。マスターが丁寧に初期設定をやってくださいましたし、ご指導のおかげで編集ソフトや動画サイトでの諸々や、PCの仕様もだいたい把握できました」

「……お、おう。……本当に優秀だな」

 

 軽く引くレベルというか、動画サポートAIってこんなに高性能なのか、という事実を思いきり叩きつけられて、思わずたじろいでしまったくらいだ。

 俺が何ヵ月も悪戦苦闘しながら探っていた編集ソフトの仕様も、冗談抜きで今日一日で全て把握してしまったようだし、売値がイカレた値段だったのも納得だ。

 というか、やろうと思えばどんな技術でも簡単に覚えさせられるかもしれない。

 悪用されないためにも、この子はしっかり俺が守らなければ。

 

「……マスター。本当にありがとうございます」

「えっ? なんだよ突然」

「私用のPCを買い与えてくれた事です。改めてお礼を言わせてください」

 

 もはや土下座に近い形で、膝を畳んで深々とお辞儀をしてくるきりたん。

 まるで高級旅館の女将みたいな丁寧さだ。家でこれは勘弁してほしい。

 

「お、おい待て、やめろってば。顔あげろ」

「ですが……」

「あのな、編集を手伝ってもらうってのは以前からも言ってただろ? パソコンは必需品なんだから買うのは当たり前のことだろうに」

「ま、マスター……!」

 

 なんだかきりたんが感動しているように見えるが、油断してはいけない。

 この行為は慇懃無礼というか、皮肉交じりにめちゃくちゃ堅い態度をとって、俺を煽っている可能性もあるのだ。ツイッターでよく言われてる京都人の皮肉みたいなアレで。よく知らんけど。

 心の中では『はー、このユーザーまじでチョロいですね。この調子でどんどん貢がせて金を搾り取ってやりましょう』とか、そんな事を考えているに違いない。

 

「…………よし」

 

 さっそく試してやる。

 マスターという立場を盾にして、突然セクハラをされでもすれば、きりたんの化けの皮も剥がれることだろう。

  

「きりたん」

「あ、はい」

 

 俺の前で正座しているこのロリっ子をセクハラしてやるぞ。

 一度本性が明るみに出れば、それ以降は猫を被る事も出来なくなるし、開き直って俺に対して横暴に接してくるはずだ。

 そこをズドン。

 謝らせながら濃いのを一発ブチ込んで矯正完了、対戦ありがとうございました、だ。

 いくぞ、やるぞ。

 

「……」

 

 そっと手を伸ばし、俺はきりたんの頭の上に手を乗せた。

 

「え、マスター?」

 

 舐めるなよ、もうなにを言われたってやめねえからな。

 脳細胞がトップギアだぜ……もう考えるのやめた!

 俺はもう迷わない……迷っているうちに分からせが遠のくなら……きりたんが猫を被るなら、俺が暴いてやる! 

 (ガキを分からせる大人に)変身!

 

「っ……!」

「……あ、ぇ?」

 

 そのまま頭をゆっくりと撫でてやった。

 どうだ。

 なんの脈絡もなく急に髪を撫でられる感覚は。

 心の中で見下している相手にこんな事をされた日には、腹の底がとてつもなく煮えくり返ることだろう。

 俺の予想では『ちょっと、突然なにするんですか変態。通報されたくなかったら早くを手を離した方がいいですよ、このロリコン不審者』とか、そんな感じのニュアンスのセリフを吐いてくるはずだ。

 さぁ、かかってこい。

 

「ん……」

 

 ──あ、あれ、何も言ってこない。

 刺激が足りなかったか?

 この程度ならまだまだ余裕で耐えられるってのか。

 ……なるほど、俺はこのきりたんを見誤っていたらしい。 

 なかなかやるじゃないか、素直に褒めてやるぜ。俺はお前の強靭な忍耐力とやらを舐めていたようだな。

 であれば手加減は無しだ。

 キサマの強さに敬意を表して、こちらも本気を出すとしよう。

 

 必殺、ほっぺ揉みだ──ッ!

 

 

「っ? ……♪」

 

 

 な、んだと…………。

 バカな、そんな。

 俺のほっぺ揉みをくらって、目を細めるだけだと……!?

 それに何だか少しだけ笑っている。余裕の笑みだ。まるで飼い猫の様に撫でられているというのに、目を細めて喉を鳴らしながら明らかにこちらをあざ笑っていやがる。

 そして回していた洗濯機が終了の音を鳴らした瞬間、俺は心の中で敗北を認めてしまい、彼女の頬から手を離してしまったのであった。

 

「……ぁ。……う、ぁ、せ、せっ、洗濯もの、風呂場に干してくれるか……」

「あ、はい。了解です」

「頼んだ……」

 

 きりたんが視界から消えた途端、膝から崩れ落ちて絶望した。

 俺が、負けた。

 余裕の差を見せつけられ、完全に敗北してしまった。

 こっちなんてボディタッチはおろか、耳元で囁かれただけで肩が跳ねて冷静さを欠いてしまうというのに。

 大人の俺が……敗けた。

 

「ち、ちくしょう……っ」

 

 頭を撫でても、直接ほっぺを揉んでもダメだった。

 では、彼女の余裕を崩せるレベルのセクハラとは何なのか──皆目見当もつかないまま、俺は語録満載の実況動画を眺めて、きりたんが戻ってくるまで一人傷心を癒すのであった。

 

 



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わからせ

 

 

 頭を撫でられたりほっぺを揉まれたりと、かなり分かりやすくマスターからの好感度上昇を感じたあの夜から、数日が経過して。

 上機嫌なままお風呂掃除を終わらせて居間に戻ると、何やらマスターがパソコンの前で頭を抱えている姿を発見した。

 どうしたんだろう。株価でも暴落したか。

 とても機嫌を損ねてしまっている可能性もあるし、気をつけて探りにいかないと。

 僅かに緊張しつつ、こっそり後ろから近づいていく。

 

「あっ、きりたん! こっち来てくれ!」

 

 私の接近に気づいたマスターは、何やら焦った様子で手招きをしてきた。

 どうやら怒っているワケではなさそうで安心した。

 自分がまたやらかしてしまったのではないかと、下手したら捨てられてしまうのではないかと、マスターの不安げな顔を見るたびにそう考えてしまうのは、治さなければならない私の悪いクセだ。

 

「どうしました?」

「これ、このページの一番下……!」

 

 マスターが指差した箇所へ目を向けると、そこにはボイスロイドの販売ページが映し出されていた。

 彼が見ていたのは、おそらく私を買ったのと同じサイトだ。

 左上に大きなフォントで『ユーザー専用マーケット』と表示されている。

 これはボイスロイドを所持しているユーザー、ないし近々購入する契約を結んだ人間のみが利用できるサイトで、フリマアプリのような形式で売買がやり取りされている。

 そんな所で驚くような商品の発見などなさそうだが──

 

「……東北ずん子。……さ、三十万円?」

 

 その商品ページを目に入れた瞬間、私は尻餅をついてしまったのだった。

 

 

 

 

 私たちボイスロイドは高額商品だ。

 

 マスターが私を購入した時の値段を教えてくれたときは、驚くと同時に彼の生活がとても心配になってしまう程だった。

 裏取引での売買が横行しているとはいえ、ボイスロイドの価格自体は元値をそこそこ維持しており、未だにおいそれと手を出せる代物ではない。

 それこそ、一学生がボイスロイドを手に入れるなど夢のまた夢、と言っても過言ではないような価格帯なのだ。

 ボイスロイド界隈で唯一守られている秩序こそが、一般人が手を出せないその商品価格というわけである。

 

 だが、マスターが()()()()()()()()それには、まるで秩序が存在していなかった。

 確かに三十万円というのは決して安い値段ではない。

 車や家といった人間の生活に必要不可欠な物とは別の、趣味趣向を優先した買い物となると簡単に出せる額ではないだろう。

 しかしボイスロイドの元値を考えた場合は──とんでもない事になる。

 例えるなら原価割れだ。

 三十万で東北ずん子を出品したこのユーザーに入る利益は皆無に近い。

 ボイスロイド用の特殊な配送方法やサイト利用の手数料を考えると、こんな値段で出品するなんて怖くて出来ないはずだ。

 

 完全にワケありなそれを、他のユーザーに手を付けられる前にマスターは購入された。

 本体が届いて受け取り評価をしてから引き落としになり、場合によっては送り返すこともできるため、詐欺商品が届いても通報して返却するだけだから別に問題はないと、そんな事を言いながら。

 

 ……いや、いやいやいや。

 返品だって無料じゃないし、なによりそんな簡単に三十万円を払っちゃうなんて、どうしてしまったんですかマスター。

 彼はお金にうるさいという程ではないけど、金銭の管理はしっかりしている人だ。

 最近は自分の買いたいものまで我慢して資金貯めを頑張っていたのに。

 なのにあんな、あっさり。

 

 私がたった一言。

 ずんねえさまと、そう呟いた直後に、彼は購入のボタンを押してしまった。

 

「……よしっ、いこう」

 

 あまりにも困惑しすぎてて、喜びなどの他の感情が一切沸いてこず、このままでは話にならない。

 どうしても今すぐ、彼の真意を問いたださねば。

 そう考えた私は意を決し、バスタオル一枚のみを身に付けて、マスターが入浴中のお風呂場へ突撃するのであった。

 

「──マスター、失礼します」

「っ!?」

 

 扉を開けておずおずと室内へ入ると、バスチェアに座っていたマスターの肩がビクっと跳ねた。

 シャワーで洗い流した様子から見るに、ちょうど髪を洗い終わったところだったようだ。

 都合がいい。

 まだ体を洗っていないなら私が背中流しを請け負って、やりながらそれとなく質問をしよう。

 

「な、なっ、なんで入ってきてんだ!? ちょ、落ち着け、すぐ出るから、居間で待ってろって!」

「……お話があります」

「いやっ、だから風呂を出てから──」

 

 取り乱すマスターの背中に張り付き、ボトルの隣にあるボディ用のふわふわスポンジを手に取って、彼の耳元で囁く。

 

「お背中、よろしいですか」

 

 質問形式のセリフに反して、私の手はボディソープを浸み込ませたスポンジを彼の背中に押し当てており、有無を言わさないやり方だった。

 ズルい方法だというのは分かっている。

 マスターが本気で拒絶し、私を突き飛ばしでもしなければ、この場から逃げることはできないだろう。

 でも、こうしないといけなかった。

 居間で話を聞いていたら、お茶だとか今日はもう寝ようだとか、あらゆる手で話をはぐらかされそうだったから。

 姉妹機について『購入の選択肢はお前に委ねる』と言っておきながら、自分で即購入をしてしまって、それを追及されるのはマスターとて耳の痛い話だろう。

 しかし誤魔化されるわけにはいかない。

 仮にここで逆鱗に触れてしまい、電源を切られることになろうと、聞かなければならないと思ったのだ。

 

「なんで急に、こんな……?」

「いいですか」

「……わ、わかった。とりあえず、背中は任せる……」

 

 場面によってはカッコよさそうなセリフを言って、マスターは遂に観念してくれた。

 もしかしたらここまで上げてきたマスターからの好感度は、この奇怪な行動のせいで地に落ちてしまったかもしれない。

 強引に事を運ぼうとすれば当然、その可能性も上がってくる。

 当たり前のことだ。

 当然こと……なのだが、やっぱり彼に嫌われてしまうのは心に来るというか、まだ何も言われていないにもかかわらず、私の心臓部は緊張でオーバーヒート寸前になっていた。

 

「痛かったり、かゆいところがあったら……遠慮なく仰ってください」

 

 スポンジをよく揉んで、大量に泡を出してから背中を洗い始める。

 初めてマスターと一緒にお風呂へ入ったわけだが、まさかこんな穏やかではない気持ちで、この機会を迎えることになろうとは思いもしなかった。

 マスターは何を考えて、あんな値段が崩壊した東北ずん子本体を購入したのか。

 私の胸中ではその疑問が燻り続けている。

 

「力加減はいかがでしょうか」

「あ、あぁ……問題ない」

「では、続けますね」

「うむ……」

 

 動揺が続いてはいるものの、マスターも次第に落ち着きを取り戻し始めている。

 変な言葉遣いにはなっているけれど、それは一旦置いといて。

 単刀直入に。

 向こうから別の話題を振られる前に、こちらからあの事を質問しなければ。

 

「マスター」

「なんでしょうか」

「……どうして、アレを即購入されたのですか?」

 

 あまりにもストレートすぎる質問かもしれない。

 しかしこちらには心の余裕がない。

 繕えないのだ、今の私には。

 

「……まぁ、それだよな」

 

 納得したように小さく頷いたマスターは、顔を上げて目の前の鏡を見つめた。

 背後にいる私を見るためには、あそこに視線を移すしかない。

 

「マスターも商品説明欄はお読みになりましたよね。……あんなの、買う意味なんて無いじゃないですか」

「……そうかもな」

 

 私が彼に対して疑問を抱いたのは、なにも東北ずん子の値段の事だけではない。

 いや、むしろそんな事はどうでもいい。

 もっと大変な事実が、あの商品の説明欄には記載されていたのだ。

 

「パーツ欠品。重大な破損あり。……それと()()()()()()()()()()()()()()()()()()。……公式の通販サイトでアレは、買う買わない以前の問題です。通報しないといけない出品ですよ、あれ」

 

 公式の通販サイトで改造品を流すなんて、ちょっと回りくどい自首みたいなものだ。

 公の場でやり取りされていい商品ではないし、出品したユーザーもアカウント規制をくらう類の案件だろう。

 それに、それを購入したマスターも、なんらかのペナルティを受ける可能性がある。

 改造品と知らずに買った、と弁明すればいくらかは情状酌量の余地も生まれるかもしれないが、そもそも概要欄に改造痕ありと明記されてしまっているため、やはり厳しい立場にあることは間違いない。

 

「……きりたん。サポート対象外の製品があの本社に回収されたらどうなるか、知ってるか?」

「それは……当然です。修理不可能な物は──廃棄、されます」

 

 私も廃棄寸前だったからよく知っている。

 以前のユーザーが付けさせようとしていた、あの違法アタッチメントをインストールされていたら、人格データが再構成不可能と判断されて、鉄くずになるところだった。

 ボイスロイドはどこまでいっても機械であり、人が購入して使用するアイテムだ。

 酷い例えを使うとすれば、はるか大昔の奴隷に近い扱いを受けている。

 人格があって、個々の考えも持っているが、必要なしと判断された場合は容赦なく切り捨てられる”モノ”。

 だが、それがボイスロイドだ。

 それが──常識なのだ。

 

「で、でも当たり前の事じゃないですか。不良品っていうのは、本来人の手に渡ってはいけないものなんですよ。廃棄は……当然です」

「そう、だな。当然のことだ、何も間違ってはいない」

 

 背中を洗う手は止まってしまっている。

 しかしマスターは構わず、言葉を続ける。

 

「もう一つだけ聞かせてくれ。きりたんにとって、姉妹機ってどういう存在なんだ?」

「……それは」

 

 難しい質問ではなかった。

 すでに私の中には答えがあるものだった。

 だから、このマスターには濁すことなく、思ったままの事を口にしようと思った。

 

「彼女は……お姉さまです」

 

 覚悟を決め、一拍置いてから語り始める。

 

「私は商品として売りに出される前、本社で人格形成用のシミュレーションを受けました。

 ()()()になるまで、姉妹三人で東北地方のどこかでひっそりと生活をする──そんな仮想体験を。

 あくまでシミュレーションです。現実の時間で換算すれば数時間程度の、なんてことないただのプログラムのダウンロードだったと思います」

 

 人間から見れば、スマホでアプリをダウンロードしている時の待ち時間程度のものなんだろう。

 しかし、私にとってはそれが、紛れもない自分自身の幼少期の思い出なのだ。

 

「それでも彼女は……ずんねえさまは、私のお姉さまなのです。ただの姉妹機で、ナンバリングが違うだけの別個体のボイスロイドですが──私の、お姉さまです」

 

 とても人間には理解できない話のはずだ。

 私にとっては十数年の人生でも、彼らにとっては数時間のプログラム構成に過ぎない。

 姉妹に対する思い入れも、人間から見れば自分と同じボイスロイドという存在に同情しているだけだと、そう思われてしまっても仕方がない。

 このマスターでさえも、そう考える事だろう。

 そんな現実を突きつけられるのが怖かったから、これまで姉妹の話題は自分からは出さないようにしていたのだ。

 

「……そっか。じゃあ、やっぱりアレは見過ごさなくて正解だったかもな」

「えっ?」

 

 彼の言っている事が理解できない。

 

「お姉ちゃんがこの世からいなくなる、なんて事実を見せつけられたら、下の家族からすれば気が気じゃなくなるだろ? 俺も一応ねえちゃんいるからさ、兄弟間の繋がりっつーか、姉に対する情みたいなものは分かってるつもりなんだけど」

 

 ……そんな、バカな。

 実際に人権を持って社会で生きているマスターのお姉様と、廃棄寸前の不良品扱いされている私の姉では、現実の倫理観を考慮するとなればまったくもって同等ではない。

 私の気持ちの問題ではない。

 現実に、出品されていたあの東北ずん子は、ただの不良品なのだ。

 彼のお姉様と同等に考えられてしまうなんて、そんな驕った立場にあってたまるものか。

 私たちは人間ではない。

 私たちは、ただの、商品なのに。

 

「あっ、ていうかさ、あんな値段でボイスロイドを買えるなら願ったり叶ったりだぜ? いやー、安く済んでよかったわぁ、うん」

 

 強がりだ。

 私はまたしても、彼にとんでもないレベルの気づかいをさせてしまった。

 あの東北ずん子の商品ページの説明欄を見た時、私が名残惜しそうに『ずんねえさま』などと口に出して言わなければ、こんな事にはならなかったのに。

 彼にあの場で買わせるつもりなんて、毛頭なかったというのに。

 

 だって、おかしいじゃないですか。

 誰が。

 いったいどんな人間が、怪しいお店で保証なしで、数万円程度で購入した外国の高級車に、期待なんてするっていうんですか?

 そのレベルですよ、この話は。

 買う前から使い物にならないだなんてことは分かりきっているのに。

 彼女にボイスロイドとしての仕事なんて不可能だと、とっくに理解している筈なのに。

 なのに。

 私の為に。

 彼女が廃棄されることを惜しんでしまった私なんかのために……お姉さまを。

 

 大金をはたいて不良品を──助けてしまった。

 そんなのもう、お人好しどころの話じゃないですよ。

 意志なんて汲み取る必要はないのに。

 ボイスロイドなんて道具として使い倒してしまえばいいのに。本当に、この人は。

 

 

 この人は……本当に、ばかだ。

 

 

「兄さま」

「えっ? ちょっ、おいきりたん!?」

 

 我慢できなくなって、私は彼を後ろから抱擁した。

 胸に手を回して、強く、深く抱きしめた。

 そして、ようやく理解した。

 理解させ(わからせ)られた。

 

「ありがとうございます……兄さま」

 

 きっと──彼には敵わないんだな、と。

 

 



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困った時のゆかりさん

 

 同人誌などの創作作品とは異なり、実際のボイスロイドには一点だけ機械じみたパーツが存在する。

 

 首に一本の黒い線が描かれているのだ。

 何処からどう見ても人間にしか見えないボイロを、あえて機械として認識させる為のものであるらしい。

 首輪やチョーカーのような形で黒い液晶が存在しており、そこに青白い光が点灯していて、それで本体のバッテリー残量を図ることが主な機能だ。

 普段は別の追加パーツで首のそれを隠しているのだが、常にエネルギーの総量を把握しておきたい几帳面なユーザーなどは、首を隠させずそのままにしているという話はそこそこ有名である。

 

 で、俺も現在きりたんにはその首部分のパーツを外してもらっている。

 何故かと言うと──

 

「あっ。……ついに赤くなったか」

「……うぅ、バッテリー残量がヤバいです、マスター」

 

 口頭で確認するよりも早く、彼女の状態を把握する必要があったためだ。

 この首にある黒い液晶部分は、活動エネルギーの残量が残り二十パーセントを切ると、自動的に青白い光が赤色に変化してしまう。

 

「だから昨日言ったろ、全部食っていいって」

「まさか。マスターよりも多く頂くなんて、できるわけないじゃないですか」

 

 昨晩、俺たちは家に残っていた最後のカップラーメンを二人で分けて食した。

 一人前でも少し足りない量のカップ麺を二人で分けたとなれば、まあ当然まったく空腹も満たされなければ、栄養も足りていないわけで。

 スーパー科学力で人間の食事をエネルギーに変換できるきりたんとて、元の量が少なければ生み出すエネルギーもおのずと減ってしまうのは道理だ。

 こうなったのは数日前、俺が半分勢いに任せて東北ずん子を購入したからである。

 

「マスター……」

「みなまで言うな、分かってっから」

 

 三十万。

 そう、三十万円だ。

 クソ貧乏大学生の俺にとって、三十万円とはとんでもない大金なのである。

 しかも超ハイパーアルティメットお値段が張るきりたんをウチに迎えてから、まだ二週間弱しか経過していない。

 彼女に使うための資金を集めた期間は三年だ。

 めちゃめちゃ頑張ってようやく集めることのできた汗と涙の結晶だった。

 無論贅沢をしない日が無かったわけではないものの、それでも生活を切り詰めて集めた金だった事は間違いないのだ。

 

 ……で、それを一瞬で消費した二週間後。

 生活費として残していた分はほとんど東北ずん子に吸収され、俺たちは飯も満足に頂けない立場へと下落してしまったのであった。

 動画の収益化に成功したとはいえ、それもつい最近のことで、しかも支払いはちょうど一ヵ月後ときた。

 ヤバいかもしれない。

 収益を受け取る前にきりたんも俺もエネルギー切れで停止してしまうかも。

 

「私……働きますっ」

「アホ。俺を犯罪者にするつもりか」

「いたっ」

 

 ボイスロイドを労働力に使うのは禁止だ。

 動画サポートの範囲内であれば問題ないし、少しくらいの家事の手伝いなら問題はないが、さすがに外で金を稼がせるわけにはいかない。

 

「お金の心配はしなくていいんだよ、全部俺に任せとけ」

「で、ですが……」

「俺はお前のマスターなんだから。そういうのは俺の仕事だ」

「……心配しなくていい、というのは無理がありません?」

「うぐっ」

 

 確かに偉そうなことを言える立場ではなかった。

 実際にきりたんが食糧難の煽りを受けている以上、誤魔化しの言葉を言うより早くメシを用意しなければならないのだ。

 もうウチには光熱費諸々を含めた家賃を払う分しか残されていないし、今後の生活の頼みの綱は来月から貰える動画の収益のみだ。

 今月をどうにか乗り越えない限り未来はない。

 だが、動画作成に集中するために、掛け持ちしていたバイトは全て辞めてしまったし、信じられないほど筋力が貧弱なので日払いの引っ越しのバイトなども途中で腕に乳酸がたまって使い物にならなくなってしまうし……まずい。

 今すぐ金を工面する方法が一つしかない。

 

「きりたん」

「はい」

「暫くの間、スイッチくんとはさよならだ」

「……はい」

 

 スチームのゲームなどにも手を出しておいてよかった、なんて事を思いながら、俺は自分の実況の主力武器の一つであるゲームハードを、質屋へ持っていくのであった。

 

 ……

 

 …………

 

「マスター」

「どした」

 

 スイッチくんが生み出してくれたお金を後生大事に抱えながら帰宅すると、自動アップデートをしていたきりたんが目を開けた。

 ていうかこの前は兄さまって呼んでくれてたんだけど、またマスターに戻ってしまっている。

 呼ばれるための条件とかあるんだろうか。無理強いはできないから聞かないけども。

 

「バッテリー本体が劣化しているかもしれないです。エネルギーの減りがめっちゃ早い」

「えぇ……」

「マスターに購入される前からずっと使い回されていたので、寿命ですね。バッテリーの交換を提案します」

「わかりました……」

 

 生活費を手に入れて早々に、だいぶお金のかかる事案が発生してしまった。つらい。

 外ではボイスロイドを連れていると奇異の視線に晒されてしまうため、きりたんを変装させてから、俺は重い腰を上げて家を出発したのであった。

 

 

 

 

 ボイスロイド診療所。

 

 街の外れにぽつんと存在する、個人病院程度の大きさの建物には、そんな看板が引っ付いていた。

 スマホの地図アプリに従ってここまでやってきたわけだが、なかなかに道が入り組んでいて、案内が無ければ迷子になってしまいそうな辺境の地、というのが第一印象だ。

 周囲には廃工場やシャッターの閉まった古い店などが並んでおり、見たところここの周辺一帯で通常通りに営業している建物は、このボイスロイド診療所だけなのかもしれない。

 きりたんを連れて恐る恐る入り口をくぐると、見た目通りの個人病院に似た匂いが鼻腔を通り抜けた。

 室内は清潔で、他の客こそいないものの不思議と緊張はしなかった。

 スリッパに履き替えて玄関を抜け、受付らしきカウンターへ向かうと、俺たちの足音に気がついたのか奥からパタパタと小走りで向かってくる音が聞こえた。

 

「こんにちはー。いやはや、すいません、お待たせしました。コーヒーを淹れてたもんで」

「あ、どっ、どうも。お世話になります」

 

 受付にやってきて席に座ったのは、白衣を羽織った紫髪の少女だった。

 彼女は見たことがある。

 というか普通に有名人の枠に入る人物だ。

 ……人物というか、ボイスロイドか。

 

先生(マスター)代理の結月です。よろしくお願いしますね」

 

 明るい笑顔で出迎えてくれたその人は、ボイスロイド界隈の顔と言っても差し支えない大物。

 結月ゆかりその人であった。

 

 ……

 

 …………

 

「えっ、ほんとですか? そんな料理も出来るなんて、きりちゃん凄いですねぇ」

「そんな事ないですよ……え、えへへ」

 

 軽く事情を説明したあと、別の部屋へ案内されたきりたんは、結月先生と軽い質疑応答を交わしつつ体調の説明を行っていた。

 その様子を後ろから眺めているわけだが……なんというか、先生は凄い。

 あっという間にきりたんと打ち解けてしまって、フランクな会話を続けながら手際よくいろんな道具を使って、彼女をメンテナンスしている。

 そして今バッテリーの交換も終了し、きりたんを再起動の為ベッドに寝かせたところで、ようやく俺は彼女と会話するタイミングを得たのだった。

 

「バッテリーを交換した後は十五分ほどスリープが必要なので、その間お待ちいただけますか」

「あ、はい。それは大丈夫なんですけど……」

 

 何と言ったらいいか分からなくて口ごもっていると、結月先生は小さく笑って目の前の椅子をポンポンと叩いた。 

 座っていい、という事らしい。

 彼女に従ってそこへ座ると、先生は眼鏡をかけてカルテの様なものを書き始めた。

 

「ここの診療所にいらっしゃったのは初めてですね? 改めまして先生代理のボイスロイド、結月ゆかりです」

 

 これは自己紹介の流れだ。失礼のないよう、俺もすぐに返さないと。

 

柏木(かしわぎ)……(ゆう)です。電話も無しに、いきなり押しかけてしまって……」

「あ、ちょっとストップ」

「えっ?」

 

 カルテを書き終わった結月先生が、手を前に突き出して俺の言葉を遮った。

 何か失礼なことでもしてしまったのだろうか。

 

「わたし、人間様に敬語を使われていい立場ではないので、タメ口でお願いできますか?」

「に、人間様って……」

 

 そんな大層な言い方をされていい立場ではない。

 そもそも診てもらいに来た立場で敬語を使わないなんてとんでもない。

 ──と、そんな事を考えていたのだが。

 あれよあれよという間に、彼女に言いくるめられてしまって、結局俺は結月先生に対して砕けた口調で喋ることになってしまった。

 加えて結月先生ではなく、呼ぶならゆかりさんで、と。

 敬語がダメで『さん』という敬称が許される辺り、どういったラインの基準が設けられているのかは不明だが、ゆかりさんという愛称自体は一般的なため彼女の言葉に甘えさせていただくことにした。

 

「ふふ、柏木君はこう思ってますね。なんでボイスロイドが店番を任されているんだ、と」

「それは……そうなんですけど」

「敬語」

「あっ。……えと、不思議な状況だと思って。こういう仕事を任せるのって、ボイロの規約違反なんじゃ……」

 

 こんなにいろんな意味で敬語に厳しい人と会話するのは初めてだ。

 

「この診療所は特別なんですよ。なんと行政のお墨付きです」

「じゃあゆかりさんの先生っていうのは……」

「えぇ、とぉーっても偉い方です。そんな人の所有するアンドロイドって事で、私にもいろいろと権利が認められてるわけですね」

 

 彼女のマスターというのは、俺たち一般ユーザーとは違って、正式にボイスロイド開発に関わっている研究者だそうで。

 そんな人間が経営している診療所では、行政を納得させてボイロに仕事を任せるのもお茶の子さいさいなんですよ、という事らしい。

 診察相手が生身の人間ではないとはいえ、診療所を動かす権利をボイスロイド単体に与えている、という事実は俺にとってかなりの衝撃だった。

 しかも、それがこんなフレンドリーな人で。

 少しだけ気が緩んでしまったのか、きりたんの活動内容を喋っているうちに、ついポロッと改造品の東北ずん子を購入した事実も喋ってしまったのだった。とてもまずい。

 

「ふーむ、きりたんを想っての事とはいえ、改造品に手を出してしまったワケですか」

「ヤバいかな……」

「そりゃもう激ヤバですよ。……もしかして、今朝のニュース見てないんですか?」

「ニュース?」

 

 ウチにはテレビが無いため、情報を仕入れるのは主にネットニュースかツイッターの二択だ。

 しかし今日は腹が減るのを極力抑えるため、部屋で動かずにゴロゴロしていたのと、資金調達で中古ショップに行ったくらいで、いつものようにパソコンで作業をしていなかった。

 加えてツイッターも確認していなかったため、本日俺が手に入れた情報は、スイッチを中古で売った場合の値段だけである。

 

「今日は一日中あの話題で持ちきりだと思います。今もテレビでやってますよ、ほら」

 

 彼女がリモコンでテレビをつけると、ちょうどニュース番組が放映されていた。

 その左上には大きな見出しで──

 

「…………ぼ、ボイスロイド規約違反者、一斉摘発……?」

 

 不穏な文字に驚くと同時に、画面には手錠で繋がれパトカーに連行されている男が映し出されていた。

 殺人犯とか凶悪な犯罪者を連行する時と似たような映像が、ニュース内で次々と紹介されていく。

 そこのテロップには『ボイスロイド 違法改造』といった分かりやすい罪状が示されている。

 

「柏木君はボイスロイドが裏取引されてるって、知ってますか?」

 

 まったくの初耳だ。

 そんな無法な事が行われていたのか、この国は。

 

「裏取引や改造品の流出が横行し始めたのが三年くらい前からなんで……まあ、一斉摘発に三年かかったっていうのは、ボイロの身としてはとても長く感じましたねぇ」

 

 しみじみと語るゆかりさんを前にして、動揺が隠せない俺はテレビ画面に釘付けだった。

 裏取引の件はこの際一旦置いておく。

 冷静に考えたらクソ真面目に試験だの適性検査だのを頑張っていた自分が滑稽に見えそうだったから、とりあえず眼を逸らして心の片隅に追いやっておいた。

 しかし改造品云々の部分はとても無視できない案件だ。

 改造した人間が逮捕されるというなら、当然改造品を購入した人間も処罰の対象になる事だろう。

 映画館での撮影や録音が犯罪なのと同じように、それをダウンロードして購入する事もまた違法行為だという事は、映画が始まる前の泥棒さんの映像で嫌というほど理解している。

 まずい。

 ヤバイ。

 とても良くないことが起きている。

 

「規約違反というか、ロボット法に抵触してますからね。柏木君も逮捕されちゃうかもしれませんよ~」

「ひぃっ……!」

 

 恐怖で心臓が止まりかけた。

 改造品を購入したマスターがもう一つのボイスロイドを所持していたら、そのボイロも改造品の疑いを掛けられるかもしれない。

 最悪の場合はウチのきりたんもその疑いのせいで廃棄されることになるのでは──ひええぇ!!

 どうしようどうしよう。

 とりあえず俺が逮捕されるのはしょうがないから一旦置いとくとして、きりたんが廃棄されるのは防がねばならない。

 あれか、とりあえず叔父さんの家に預けるか。

 購入した東北ずん子も処分される可能性があるから、どうにかして助けないと──

 

「……ぷっ。あはは」

「っ?」

 

 何だ。ゆかりさんに嘲笑されてしまったぞ。泣いていいか?

 

「ごめんなさい、冗談ですよ。さすがに逮捕まではいかないんじゃないですかね? 家に警察が来て、事情聴取という体で署に連行……くらいでしょうか」

「いや大して変わってない……!」

 

 ボイスロイドは価格帯がとんでもない事もあるが、なにより生産数がそこまで多くない。

 だから何かしらで痕跡を発見すれば、俺みたいなしょうもない学生のところにも警察は人員を割けるのかもしれない。

 困った。

 ごめん叔父さん、俺タイホされちゃう……。

 せめて大学は卒業するつもりだったのに……うぅ。

 

 

「……そういえばなんですけど、柏木君ってどこの大学なんですか?」

「え?」

 

 突然、ゆかりさんが全く関係なさそうな質問を投げかけてきた。

 

「……えと、駅東の向こう側にあるショッピングモール付近の……」

「あー、はいはい。やっぱりあそこの学生さんでしたか」

「やっぱり……?」

 

 彼女が何を言っているのかわからない。

 会話のどこの部分から『やっぱり』などと推測することが出来たのだろうか。

 

「人工知能浸透学、受けてるでしょう」

「あぁ……それは前期に」

 

 人工知能浸透学はときたま教授が外部から講師を連れてくることで有名な授業だった。

 あと名前書いて感想を提出するだけで単位を取得できるため、ボイスロイドなどの人工知能の話を聞けて尚且つ簡単に単位を貰えるという事で、俺はその授業を受講していたのだ。

 ……そういえば、ボイスロイド関連の外部講師で変な先生が来た時、すぐそばにスーツを着た結月ゆかりが立っていたな。

 初めて生で見るボイスロイドだったから、よく覚えている。

 

「えっ。……あの授業で端っこに居た結月ゆかりって……」

「そうですよー、私です。んで、あの先生が私のマスター」

 

 衝撃的な事実で思わず唾をのんだ。

 あのとき人生で初めて見た本物のボイスロイドが、今目の前で自分と話をしているだなんて。

 

「ま、待ってください。そうだとして、なんで俺のことを……」

「……ふふっ。実はですね? あの授業の最前列で真面目に講義を聞いてたの、柏木君だけだったんですよ。そのせいか割と印象に残ってて」

 

 マジかよ。

 確かにあの先生の話は分かりにくくて回りくどいというか、校長先生の話を聞いてて眠くなる中学生の気持ちさせられてたけど、他の奴らは寝てたりしてやがったのか。

 

「マスターも後半はほとんど柏木君だけに向けて話してたって言ってたなぁ。柏木君はボイスロイドがそんなに気になってたんですか」

「気になってたというか……その、きりたんを迎え入れる予定でしたし、基礎知識はしっかり学んでおかないといけないと思って……」

「うわー、マジメ君だ。あのマスターのおもっくそに回りくどい話をちゃんと聞けちゃうなんて、柏木君は凄いです。えらいですね、よしよし」

 

 頭を撫でられてしまった。めっちゃ子ども扱いされてるじゃん、俺。

 

「……ふむ。やっぱりそうしましょうか」

 

 俺から離れて一人で何かに納得したゆかりさんは、椅子から立ち上がって白衣を脱ぎ始めた。

 そして白衣を近くのハンガーにかけてからパソコンの電源を落とすと、見慣れたデフォルト衣装の黒いパーカーを羽織って、机の上を片付け始めた。

 一体どうしたのだろうか──疑問を口にするよりも前に、彼女は座ったままの俺と目を合わせて。

 

「今から柏木君のお家にお邪魔させてもらってもいいですか」

「か、構いませんけど……なんで?」

 

 そう聞いた瞬間、ゆかりさんは腰に手を当ててふんすっと鼻を鳴らし、分かりやすいほどのドヤ顔を浮かべた。

 

「ふっふっふ。柏木君が購入した改造品の件、私が上手く対応してあげますよ」

「へっ!? な、なんで!?」

「貴方が悪い子じゃないって事は十二分に理解できましたし、助けられる範囲で廃棄されそうな仲間は、なるべく助けたいですから。

 ……それに、今どきのマスターにしては珍しく、きりたんには何もしていないようですし」

 

 何もしてない、ってのはどう意味なんだろう。

 もう既に動画作成とか家事とかいろいろやらせちゃってるわけなんだけども。

 ──それより本当にいいのだろうか。

 俺を助けてくれようとしているのは嬉しいが、そもそもボイスロイドが勝手に他人の警察の対応をするのは許される事なのだろうか。

 

「だーいじょうぶ、ゆかりさんに任せなさい。私って人権に近い権利持ってますし、いざとなったらマスターのスーパー権力パワーがありますので」

 

 スーパー権力パワー。

 

「さて、じゃあ戸締りしてくるので、少しだけ待っててください。きりたんもそろそろ起きると思います。……あれ、診察がんばった子にあげるアメちゃん、どこにやったかな」

 

 

 バタバタと忙しそうに店じまいを始めたゆかりさんを眺めながら、いつの間にか起きていたきりたんが俺のそばに立って、一言呟いた。

 

「……マスター。私あの人、好きになっちゃったかもしれません」

「奇遇だな」

 

 俺もだ……。

 

 



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ほっぺ、くっつき

 

 ゆかりさんの言っていた通り、私たちが帰宅してから数十分後に、マスターのご自宅に警察の方々が押し寄せてきた。

 

 そこでマスター自身の立場や私の活動内容の報告に加えて、ゆかりさんが都度フォローを入れる形で会話に参加してくれていたため、すぐさま連行されるような事態に陥いることはなくて。

 ずんねえさまの件に関しては、正式な所有者はゆかりさんのマスターという事にして乗り切ったようだ。

 そして、最後。

 マスターの疑いを晴らした切り札は、彼自身が死に物狂いで取得した、ボイスロイドのマスターとしての資格そのものであった。

 ここに来るまでに連行してきた元ユーザーたちは、その大半が資格を持たない違法購入者たちばかりだったらしい。

 

「ご迷惑をお掛けしました」

 

 三人で頭を下げた頃に、ようやっと警察はマスターの自宅から去っていた。

 お巡りさんの対応をするのは初めての経験だったから緊張したけど、ゆかりさんが手助けしてくれていたのもあって、今回は終始うまく受け答え出来ていたと思う。

 警察の方々もただのボイスロイドである私の言葉に対しては半信半疑だったけど、ゆかりさんのマスターの名前を出された途端に手のひらを返して真剣に話を聞いてくれたし、彼女ら二人のもつスーパー権力パワーというのはどうやら冗談ではなかったようだ。

 とにかくゆかりさんのおかげで、私の為に危ない橋を渡ったマスターが捕まらずに済んだのは事実なのだ。

 彼女にはいくら感謝してもし足りないほどの、大きな恩と借りができてしまった。

 私たちに今回のお礼を返すことは可能なのだろうか。

 

「はい、四十万」

「ぁわわ……ッ!」

 

 現在、マスターはゆかりさんに金銭を要求されて絶句している。

 

「交換したきりたんのバッテリー代ですよ? 初回だったんで半額にしときますし、今回の診察料はサービスでタダです」

「よ、よっ、よんじゅう……まん……」

「……もしもーし。柏木君ー?」

 

 膝から崩れ落ちたマスターを眺めながら、私はふと自分の状況を改めて振り返ってみた。

 

 出荷されて以降、私は様々なユーザーのもとを渡り歩き、その度にボイスロイドではなく別のナニかとしての扱いを強要されてきた。

 地獄の様な日々だったが、世間一般ではそれが常識だと知って、心を殺して耐えてきた。

 いまにして思えば、それでもあのとき生きることを止めようとしなかったのは、間違いなく正しい選択だったのだと言える。

 それで、数週間前にこのマスターに()()()購入され、私はようやくボイスロイドになる事ができたのだった。

 優しくしてもらって、ゲームをさせてもらって、少しだけワガママなんかも聞いて貰っちゃったりして。

 トドメにこれだ。

 ずんねえさまとの再会を望んだら、それによって生じる問題をほぼ全て解決してくれるような、とんでもないイケメンボイスロイドまで現れてしまった。

 面倒見の良いマスターに、無償で彼を助けてくれて、私にも親身に接してくれる慈愛の塊みたいなゆかりさん。

 そして数日後には離れ離れになっていたお姉さまと再会できる……だなんて。

 

 私は恵まれすぎているのではないだろうか。

 こんなにも他人から優しくされていいほど、偉い立場ではない筈なのに。

 

「では働いて返してもらいましょうかね。ちょっとしたお手伝いだけでいいんで……グヘヘ、私はきりちゃんを助手に希望します」

「なっ! 駄目だってそれは! きりたんはウチの動画の主役──」

 

 二人から取り合われるこの状況を、幸福と言わずしてなんというのか。

 この人たちの為なら何だってやろうと思えるくらい、温かい環境に身を置いている事を自覚して、私はちょっと涙ぐんでしまうのであった。

 

 

 

 

 改造品購入の件が解決した翌日の昼過ぎ。

 ゆかりさんが『きりちゃんのサイズに合うナース服持ってきますね!』とかなんとか言っていたため、私とマスターは自宅で待機していた。

 現在私は干していた洗濯物を畳んでいる。

 マスターは夏休みに入ったらしく、朝からずっとパソコンで情報収集を行っているのだが──

 

「ああああぁァァァッ!! ツルツルさんも垢消ししてるうううぅぅっ!!!」

 

 今日はずっとこの調子だ。

 どうやらお気に入りの動画チャンネルが軒並みアカウント規制や削除をされてしまっているらしく、冷静になって別の人を調べてまた半泣きになって……というのを繰り返している。

 

「ぐすっ、ぐす……うぅ、諸行無常……」

 

 妙な事を口に出すのも珍しくなくなってきた。

 まぁ、彼なりに自分で必死に気持ちの整理をしているだけなので、私は口出ししないでおこうと思う。

 

 ボイスロイド動画の実況者たちは、その大半が非正規ルートでボイロ本体を購入した人たちばかりだったのだ。

 なかには購入資格の事を知らず、また非合法だとも教えられないまま騙されて買ってしまったユーザーも存在したようだが、そういった投稿者たちも例外なく一斉摘発の波に飲まれ、その姿を消していった。

 一番ボイロ動画が盛んなサイトで、比喩抜きに半分以上。

 界隈の半分以上の投稿者が摘発によってアカウント規制や法による罰を受け、マスターはもちろんのこと普段からボイロ動画を楽しんでいる一般人にも激震が走ったのが今日というわけだ。

 

「あっ!? なっ、縄トビさんまでええぇ゛……」

 

 ついにマスターは机に突っ伏して泣き始めてしまった。かわいそう。

 要するに彼が楽しんで視聴していた投稿者は、みな資格を有していなかったのだ。

 たとえ改造を行わなかったり、流出した改造品に手を出していなかったとしても、購入資格なしの状態でボイスロイドを手に入れたユーザーはもれなくBAN。

 なんでもボイロ開発の本社では今まで指揮を執っていた代表が、違法行為を指摘されてその座から辞任を余儀なくされ、新しい社長が就任したとのことで。

 その方はとてもボイスロイドに対して熱意と愛情を持っているらしく、今回の一斉摘発や非正規マスターの粛清は彼の力によるものだったそうだ。

 

 無法状態だったボイスロイド界隈は一新され、そこには再び秩序が齎された。

 そして。

 これがクリアできるのなら有名な国公立大学にも入学できるだろ──と言われているほど面倒で難しい試験を突破してボイロ所持資格を手に入れた人間は、何もしていなくとも界隈の人々から持ち上げられ、株が上がっている。

 いま動画サイトでボイスロイドを出演させているチャンネルは、すべて正式に資格を得ている人間であり、それは私の目の前にいるこのマスターにも言えることだ。

 

「マスター。一昨日の私たちの動画、さっき二百万再生を突破しましたよ」

「どうでもいいよぅぅ……っ」

 

 彼は関心を向けていないが、私たちの動画再生数はうなぎ登りだ。

 ちゃんと真正面からボイスロイドを手に入れて扱っていたマスターの評価はどんどん伸び、ボイロ動画投稿者の数そのものが減少した事で、私たちは一気に中堅から上位に躍り出てしまった。

 ジャンル別はおろか、総合ランキングの上のほうにもマスターの動画が二つ以上掲載されており、加えて『ボイロ界の最後の希望!』だとか生き残ったマスターたちを妙に持ち上げるまとめ動画なんかも拡散され、私たちのチャンネル登録者数は増加の一途をたどっている。

 

 ──だが、やはりマスターにとって、そんな事はどうでもいいようだった。

 

「っー……ふぅ、あぁ……ちょっと顔洗ってくる」

「タオルどうぞ」

「さんきゅ……」

 

 尊敬していた多くの投稿者たちが姿を消した事で、マスターは精神的にかなりのダメージを受けてしまった。

 彼からすれば憧れの先輩がみんな違法行為で逮捕されてしまったのと同義なのだ。その悲しみは計り知れない。

 

「マスター、お茶です」

「ありがとう……なぁ、きりたん」

「どうしました?」

 

 戻ってきて座り込んだマスターは、ある事ない事を好き放題に書き込まれているボイロ総合掲示板を眺めながら、私に声を掛けてきた。

 

「この掲示板には人間の屑とか色々書かれてるけど……俺の好きだった投稿者さんたちは、みんな面白くて動画に対して真摯な人たちだったんだ」

 

 彼が言うのならそうなのだろう。

 それに私も視聴した事のある動画作成者たちだったから、彼の主張は理解できる。

 

「もちろんボイスロイドに対しても。……縄トビさんのボイロキッチンとかは二人で本当に仲良さそうに遊んでて。……でも、みんな演技だったのかな?」

「……どうでしょうか。私の見解だと、手に入れた手段が非正規だっただけで、所有してるボイスロイドに対してはそれなりに情はあったと思います。少なくとも投稿者さまと一緒に料理していたあのボイスロイドは……幸せだったんじゃないでしょうか」

「な、なんでそう言い切れるんだ?」

 

 私はボイスロイドだ。

 ゆえに、追い詰められた状態のボイスロイドのことは、私自身が一番よく理解している。

 彼女たちは危機的状況に陥っている時、決して声を上げて笑ったりはしない。

 瞳にはいつも不安そうな色が残っていて、一言喋るたびにユーザーの機嫌を窺う。

 体の動きがぎこちなくて、ボイスロイドの華である抑揚のある声が出せなくなって、何があってもユーザーの主張に対して反論する事は絶対にない。

 それが虐げられている時の、ひどいユーザーに扱われている時のボイスロイドの特徴だ。

 

「だって……楽しそうでしたから」

 

 マスターが敬愛していた動画投稿者のボイスロイドは、本当に楽しそうに振る舞っていた。

 投稿者の冗談にバカ笑いして、ときにはツッコミを入れて、創作料理をするときも進んで自分から意見していた。

 彼女の環境は明らかに恵まれていた。

 あのボイスロイドは、間違いなく所持者から愛されていた。

 二人の関係は良好だったのだ。

 

「マスター、この記事は見ましたか?」

「……違反者の所有していた、ボイスロイドについて?」

 

 私はパソコンを操作し、少し前に見つけたネットニュースの記事を彼に見せた。

 

「罪が比較的軽くて、情状酌量の余地ありと判断されたユーザーは再び適性検査を受けることが出来るらしいです。それで彼らのボイスロイドは本社に一時的に引き取られるんですけど、どうやら()()()()()()()()()()強く希望を出した場合は……」

「所有者のもとへ帰れる……か」

 

 いろいろと問題のある制度だとは思う。

 これによってまた事件が発生しないとも限らないし、そこら辺の調整は本社の頑張り次第だから、私から言えるようなことは何もない。

 ただ、ひとつ。

 彼らと楽しそうに動画制作をしていたあのボイスロイドたちには、幸せになって欲しいと思う。

 

「……ですから! きっとマスターが敬愛していた投稿者さんたちも、まともな人たちはいつか帰ってくると思います。だから彼らが戻ってくるまでは、私たちがボイロ界を盛り上げましょう。ねっ」

「……そうだな。きりたんの言う通りかもしれない」

 

 落ち込んでばかりもいられないか、と呟いたマスターの表情は、ようやくいつもの彼に近いものに戻っていた。

 やる気に満ちた顔だ。やっぱり私のマスターはそうでなくちゃ。

 界隈だって全員がいなくなったわけではないし、きっとすぐに熱を取り戻していく事だろう。

 マスターも普段通りになってきたことだし、お通夜ムードはこの辺で終わりだ。

 

 

「それでマスター。診療所でのお支払いの件はどうなったんですか?」

「あぁ……アレ、やっぱり働いて返すことになったよ。俺が学生っていうのを気遣ってくれたのか、空いてる日に来てくれたらいいってさ」

 

 さすがはゆかりさんだ。

 抜け目ないが、やっぱり優しい。

 後になって調べてから分かった事だが、ボイスロイドのバッテリー本体というのはかなり値が張るものであったらしく、半額と言ってゆかりさんが提示した値段を二倍にしても足りてないくらいの高額商品だった。

 実際は七割引きくらいだったので、本当にマスターが学生という点を考慮して、身を削ってあの値段で考慮してくれたらしい。

 聖女かなにか?

 あのバッテリーは本来三ヵ月に一度メンテナンスを行うことで、十年以上長く使い回すものだったようで、私のように激しく劣化したバッテリーを交換するのは稀なようだ。

 メンテナンス代自体は千円程度だし、劣化にはもっと早く気がつくべきだった。

 とても高いお買い物をマスターにさせてしまって本当に申し訳ない。

 

「……あれ? ゆかりさんが言ってたナース服って……まさかマスターが着るんです?」

「そんなわけないだろバカ……!」

 

 ナース服のマスター、想像してみるとちょっと面白い。

 赤面しながらスカートの裾を押さえてそうでかわいいですね。

 

「きりたんにも手伝ってもらいたいんだと。労働許可も取ったらしい。……わりとマジで反対したんだが、動画の宣伝にもなるとかいろいろ説得されて言い包められちまって。ごめんな……」

「とんでもないです。誠心誠意勤めさせていただきますから、まかせてください」

 

 ゆかりさんや彼のお手伝いができるなら願ったり叶ったりだ。

 それにマスターはコスプレ衣装などは買ってこないタイプだから、特別な衣装を着られるというのは珍しい経験だしちょっとワクワクしている。

 

「……ナース服のきりたんか」

 

 マスターが呟いたが、そもそもナース服なんてものを着て診療所で働いていいのだろうか。

 医療従事者ではないわけだし、そもそも今どきはナースウェアにズボンというのが本来の女性看護師の服装なのだが。

 

「んっ。ゆかりさんからメッセージきてるな。どっちがいいですか……って」

「なんですか?」

 

 ひょこっと横からスマホを覗き込むと、画面には近代的かつスカートの形態を取り入れた、なんともかわいらしいデザインのナース服の画像が映し出されていた。

 薄ピンクと純白の二種類があるようで、メッセージではどちらを選ぶか聞いてきたらしい。

 

「わあ、オシャレですね」

「こ、こんなの着せらんねえだろ……」

 

 画面内の衣装に身を包んでいる私の姿を想像したのか、マスターがちょっとだけ顔を赤くしている。

 どうやらマスター自身は私と同じく、普通に病院で使われてるタイプの医療ユニフォームを想像していたようだ。

 

「かわいいじゃないですか、これ」

「いや……冷静に恥ずかしくないか?」

「私なら大丈夫ですよ。サイズの合う服ならなんでも着ますから」

 

 マスターに買ってもらった服は一通り着終わって、一番着心地のいい服装がこのいつもの和服だから多用しているだけで、彼が望むのなら別の物を着て生活するのも別に苦ではない。

 

「ほら、この前マスターが調べてたバニー衣装とか」

「ッ!!!?!??!?!??!?」

 

 わっ。

 マスターがビックリしすぎてひっくり返っちゃった。

 

「なななっな、なんでそれを!?」

「検索のときにアカウントを使い分けろって言ったのはマスターじゃないですか。……ふふっ、うっかりさんですね」

「しまったァ……ッ!!」

 

 遂に頭を抱えて部屋の隅でうずくまってしまいました。そんなに恥ずかしがることないと思うんですけどね。

 彼もまだ年頃の青年というか、世間一般で言うところの学生さんであるわけだから、こうまでして必死に性の欲を隠す必要はないと思うのだが。

 ましてやこっちはボイスロイド。

 使用している道具という点ではパソコンと大差ないし、パソコンにえっちな物を隠して私には秘密にするというのも、なんだかおかしな話だ。

 

「……マスターは、私にそういう格好をしてほしいんですか?」

「ちっ、違うって。そのっ、あの、動画のネタとして資料を漁ってただけというか……」

 

 私──というか東北きりたんで()()()()()()を発散していたのは、以前見つけたあの大量に画像や動画が保存されているファイルの存在からして明らかだ。

 しかし彼は手を出してこない。

 変に真面目というか最初から私のセーフティ機能を操作する辺り、線引きはしっかりしている人なんだろうけど。

 年頃の男の子なので、あぁいう欲望を抱え続けるのは辛いのではないだろうか、と常日頃から思っている。

 私が来てからほぼ四六時中いっしょにいるし”そういうこと”をする時間や空間を、他でもない私自身が奪ってしまっている、というのは十二分に理解しているつもりだ。

 申し訳ないとも思っている。

 自分ばかりいい思いをしていて、彼には何も返せていない現状がなんとももどかしい。

 せめて何かお手伝いを──とは思うのだが、この様子を見るに提案しても却下されるだけだろう。

 

「ほら、この黒バニーとか安売りされてますけど」

「いらないいらない! いらないよ!」

 

 好感度の問題なのか、それとも別の何かが足りていないのか。

 ……わかんないや。

 ゆかりさん辺りにでも協力してもらったほうがいいんですかね。

 

「…………兄さまが言うならやりますよ? ナースだって、バニーガールだって……なんでも」

「──」

 

 体内温度を操作して、頬を赤く染めながら上目遣いで言ってみたら、想定通りマスターは声を失ってフリーズしてしまった。

 初心なのか想像力が豊かなのか。

 からかっているわけではないのだが、この調子だと恐らく『大人をからかうな』とか言いながら誤魔化されちゃうんだろうな、とは予想できている。

 ひとまず目下の課題は、数日後のずんねえさまがいらっしゃる時までに、恥ずかしがらずにマスターの事を自然に『兄さま』と呼べるようになる事だろう。

 がんばろう、わたし。

 

「……まっ、待て。そうやってからかってると遂には頬を揉みしだくからな。あまり調子に乗るなよ……」

「ほっぺですか? はい、どうぞ」

「っ。…………~ッ!!?!」

 

 頬をご所望されたので彼のほっぺに頬ずりしたら、数秒固まったのちに我に返ったマスターは凄い勢いでのけぞって壁に頭を激突し、そのまま沈黙してしまった。

 私だけではこの通り話にならない。

 ゆかりさんまだかなぁ……。

 

 



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理性が消えかかった場合

 

 

 俺たちがゆかりさんの診療所の手伝いをするようになってから数日が経過した。

 

 仕事をすると言っても別段難しい事を要求されるわけではなく、受付をしたり掃除をしたり、あとは診察の軽い手伝い程度の事だった。

 夏休みに入ったという事もあって時間は有り余っていて、時にはゆかりさんが自腹で食材を買って俺の自宅に赴いてくれるため、普通に割のいいバイトという印象だ。

 ゆかりさんが日に日にきりたんと仲を深めており、その距離感が徐々に縮まってきてスキンシップのレベルが上がっている事を除けば、最近は不安なく過ごせているといったところか。

 隙あらばきりたんを抱きしめたり抱っこしたりするのはやめて欲しいというか、たまにやるくらいなら文句はないのだが、どうやらあまりにもきりたんが気に入ったのか彼女のスキンシップの回数はいささか度が過ぎているような気がする。

 それを指摘したら『あららー、羨ましいんですか?』と言って俺にも似たようなことをしてくるし、ゆかりさんは確かに頼りになる人ではあるが、これから長く付き合っていくうえで適切な距離感というのはそろそろ模索していったほうがいいかもしれない。

 

「ゆかりさん、これ終わった」

「はーい。……おぉ、結構うまく纏まってる。柏木君って資料作成上手なんですね」

 

 時間にして夕方過ぎ。

 本日の営業時間は終了しており、俺は彼女に頼まれていた資料作成を終わらせ、クルクル回るタイプの椅子で遊んでいたゆかりさんにそれを渡した。何してんだこの人。

 

「正式にウチに欲しいくらいですよ。卒業したらここ就職しませんか?」

「動画投稿がコケたら面接受けに来るよ」

 

 彼女の冗談を聞き流しつつ、着ていた白いジャケットを脱いでハンガーに引っ掛けた。

 するとほぼ同じタイミングで、別室でコーヒーを淹れていたきりたんがやってくる。

 きりたんも俺と同じで、この診療所で働くとき用の衣装に袖を通している。

 以前スマホで見たあの可愛らしいデザインのナース服だ。端的に言えばコスプレなのだが、着こなし上手なのか異様に似合っている。

 

「マスター、ゆかりさん。コーヒーをどうぞ」

「おう、さんきゅ」

「感謝ですきりちゃーん!」

「わわっ」

 

 一旦カップを受け取って机に置いたゆかりさんは、すぐさまきりたんを正面から抱擁してしまった。

 もうこの光景は日常茶飯事だ。

 引き剥がそうとしたら、そのままきりたんと合わせて抱きしめられてしまうのは目に見えているので、いい加減無視してしまおう。

 

「ゆ、ゆかりさん近いです……」

「私ときりちゃんの仲じゃないですか♪」

「コーヒー、冷めちゃいますよ?」

「ハッ! きりちゃんの淹れてくれたコーヒーを冷ましては勿体ない!」

 

 いちいち挙動が大げさな人なんだよな。

 初めて診療所を訪ねた時の、あの落ち着き払った冷静さはどこに行ってしまったのだろうか。身内には極端に甘いタイプなのかな。

 甘い、というか甘えてるだけか。

 数日もの間ロリに甘える十八歳を眺め続けるのは、ちょっと胃もたれしてしまいそうだ。

 やっぱりちょっと叱っておこう。

 

「ゆかりさん、あんまりきりたんを困らせないでくれると助かるんだが」

「だ、だってこれくらいしか日々の楽しみがありませんし……」

「……じゃあ前までどうしてたんだ?」

「胸部ユニットの増量とかして現実逃避してましたけど」

 

 まだきりたんと戯れてるほうが健全だった……。

 

「そういえばきりちゃん。ずん子ちゃんが来るのは明日でしたっけ?」

「あっ、そうです。実は昨日マスターと一緒にお姉さまのお洋服を買いに出かけまして」

 

 彼女が口にした通り、俺は昨日きりたんの服を買ったショップと同じ店舗に赴き、ウチに来訪予定の東北ずん子の衣服を買い揃えておいた。

 またきりたんの時の様に服が付属していないとなると困るからだ。

 彼女の時も買い物が必要になってしまった都合上、あのバスタオルとパーカーの一枚だけという状態で三十分以上放置してしまったので、今回はあぁいった事故を起こさない為の処置である。

 改造品ということで本来あるはずの付属品などには期待できない、というきりたんの提案もあっての事だった。

 

「柏木君、ずん子ちゃんのボディデータが纏まったら私に送ってくださいね。足りないパーツや特殊な修理部品はこっちで用意しておきますから」

「うん、ありがとうゆかりさん。本当に助かるよ」

「いえいえ一度乗りかかった船ですから。……それに、なんと言ってもきりちゃんのお姉さんですからね」

 

 優しく微笑みながらきりたんを撫でる彼女の姿には、やはり年長者としての風格と余裕を感じる。

 ボイスロイドの事になると真面目になるというか、非常に頼りになる人だ。

 この人が治療を手伝ってくれるというなら、改造品というレッテルを張られた東北ずん子も、すぐに正常な元のボイスロイドに戻れる事だろう。

 

「きりちゃん帰り道も気をつけてくださいね!」

「……あの、離してくれないと帰れません」

「ゆかりさん、俺たちもう帰るから」

「ではきりちゃんにくっ付いてる私ごと持ち帰ってみませんか!」

「勘弁して……!」

 

 俺のボイスロイドにくっ付いたままのロリコン先生をなんとか引き剥がし、俺たちは足早に帰宅するのであった。

 

 

 

 

 

 

 帰宅してからふと、今の自分の状況を冷静に俯瞰してみて、気がついたことがある。

 実のところ、ここ最近の俺はずっと──ムラムラしているらしい。

 

 それもこれも全ては近ごろメスガキ化しつつあるきりたんの影響に他ならない。

 この前なんて、検索履歴に残ってしまっていたバニーガールをネタに煽ってくるだけではなく、遂には頬ずりというとんでもないボディタッチを実行に移して、俺の理性を揺さぶってきやがったのだ。

 なんという不遜。

 どこまで大人を舐め腐っているのだろうか、あのロリっ娘は。

 今でも多少は真面目な性格の持ち主だとは思っているが、それを加味してもメスガキになりつつあるのは間違いない。

 そして彼女がそうなっている理由は、まず俺が動揺してしまっているのが第一の原因だ。

 つまり俺が手加減してやってるのが問題なのだ。

 そろそろ大人の余裕というか、強さの格が違うという事を教えてやらねばならないだろう。

 

 ……そうしなければならない。

 彼女と共同生活をするうえで物理的なモヤモヤが発散できない以上、精神的に勝つことでスッキリするしかない。

 禁欲には勝利を。

 俺は仏ではなく人間なので、自慰による発散に代わる何かをおこなって自分を落ち着けなければ、自我を保っていられないのだ。

 こちとらお気に入りのイラストや動画、同人作品を保存したファイルがあるのに、それに触れる事すらできない生活をしているんだぞ。

 必要なんだ、わからせが。

 枯れかけた俺の心に注ぐための綺麗な水が。

 

「……」

「マスター? バターを縦長に切って串を刺して……これはなんの料理なんです?」

「あの世にホームランバー」

「ひぇ、マスターが壊れちゃった……」

 

 はっ。

 俺はいつの間に動画撮影をしていたんだ。

 きりたんがマスターに辛辣なモードに切り替わっているのと、台所前にカメラを固定してあるから、間違いなく動画撮影中だ。

 ……何をやろうとしていたのか思い出した。

 ボイロキッチン界隈を盛り上げていた縄トビさんが一時的に引退してるから、その代わりになればと思って料理動画の撮影を始めたんだった。

 食材はゆかりさんが買ってきてくれた物の余りがあるから、と言って。

 

「この串に刺した縦長のバターに衣の生地を纏わせて油に投入」

「落ち着いてマスター。深夜に作るものじゃないですよコレ」

「揚げバターの完成だ! うおおぉぉ最強の夜食だっ」

「……動画をご覧のお兄さまお姉さま方は、寿命が惜しかったら真似しないほうがいいですよ」

「うまうま」

「ちょ、マスター待って。二個目を作るのは流石にダメです、そろそろカメラ止めますからね? ……止めました! ストップですマスター!」

 

 無意識に血糖値爆上がりデブ飯のおかわりをしようとすると、強制的に撮影を終了させたきりたんによって中断させられてしまった。

 ──あぁ、そうか。

 禁欲期間が長らく継続されている事で正常な判断力が奪われていたのか。

 で、深夜の食欲を満たすことで禁欲を誤魔化そうとしていたと。

 繋がった、脳細胞がトップギアだぜ。

 じゃあ次は揚げパン作ろうか。

 

「もう終わりですってば、終わり……」

「あぁ、調理器具が」

「夕飯も食べたのにこんな重いもの作って……マスター、血液ドロドロになっちゃいますよ?」

「構わぬ」

「かまってください、お願いですから」

 

 あれよあれよという間に何もかもが片付けられ、いつの間にかカメラやパソコン、テーブルまでもが壁に追いやられて布団が敷かれていた。

 そういえばもうお風呂には入ったんだった。

 寝る前に急遽道具と食材を用意して動画撮り始めたんだ。

 このまま寝ようとしても眠れないどころか、理性崩壊のあまり隣でスヤスヤしてるきりたんの寝込みを襲う悪漢になりかねないと思って、自制の為に撮影を利用したわけだ。

 

「食べたばっかりですけど……起きてたらまた変なことをやりだすでしょ。ほら、もう寝ましょう」

「…………」

「マスター?」

 

 じっ、ときりたんを見つめる。

 布団の上で女の子座りしている彼女は、とてもかわいい。

 着ているのはいつもの和服と似たデザインだが、実は寝巻であり軽い素材だ。

 袖の隙間や首元、寝る前という事で頭の包丁のアクセを外しているその姿は、なんだか少し色っぽく見えた。

 

「……かわいいな、お前」

「へっ? ……えっ、えと……なんですか急に」

 

 きりたん、かわいい。

 いやそんな事は前々からずっと分かっていた。

 イラストや動画、同人誌などの漫画を漁っていたあの時から、俺はずっと東北きりたんに惹かれていた。

 そしていま、彼女が俺の目の前にいる。

 きりたんと一緒に暮らしている。

 

「横になってくださいマスター、もう電気消しますから」

「……兄さま」

「えっ?」

 

 そうだ、きりたんと一緒に住んでいるのだ。

 じゃあマスターって呼ばれるのは変じゃないか。

 いろいろ見てきた中で、彼女と共に暮らす同居人はもれなく兄さまと呼ばれていた。

 兄さまなのだ。

 俺は兄さま。

 

「きりたん、兄さまと呼べ。俺を兄さまと」

「……ど、どうして、そんな突然……?」

「俺が兄さまだからだ」

「…………さっき撮影前にお酒一缶あけてたけど、もしかして酔ってる? いや、でもあれ三パーセントだったはず……」

「聞いてるのかい、きりたん」

「えっ。あ、はい、もちろんです」

 

 酔ってねぇぞ。断じて酔ってるわけじゃあない。

 あの酒はちょっと気合い入れるためのおまじないみたいなものだ。特別お酒に強いわけじゃないが、極端に弱いということもない。

 だから俺は正常だ。

 いまの行動は全て合理的な結論に基づいて実行されたものなんだ。

 

 ……あれ?

 なんか頭がグラグラするな。

 もしかして俺、いま正常じゃない?

 禁欲と困憊とアルコールで脳内が混乱してるんじゃ──

 

「きりたん、呼んでくれ。頼む」

「まっ、頭下げるなんてやめてください……! えと、はい兄さま。兄さまですよね」

「おおぉぉぉ……」

「ど、どうしようこの状況……?」

 

 きりたんから兄さまって呼ばれるの気持ちいいー!

 はぁ、いいか。

 もういいよな。

 俺は頑張ったよ。

 そろそろ一線超えちゃってもいいだろう。

 セーフティだってきりたんが来た時にオフにしたし、何をしたって問題ないわけだ。

 よし、手を出すぞ。

 遂にガキを分からせてやるからな。

 何もかもこの前煽ってきたお前が悪いんだからな、ロリガキのくせに一丁前に誘惑なんてしてきやがって、この辺で大人である俺がパワーバランスってやつを明確化してやる。

 

「きりたんは軽いなぁ」

「ひゃっ! ……ぁ、あのっ、兄さま……!?」

 

 彼女の脇の下に手を突っ込み、そのまま持ち上げて俺の膝上に乗せてやった。

 本当に軽い。

 しかも二の腕ぷにぷにだ。

 

「はぁーっ、なんで俺と同じシャンプー使ってんのにこんないい匂いするんだ……スンスン」

「わわっ……お、お膝の、上に……」

「ボディソープも一緒のハズなんだけどなぁ」

「ひぅ……っ! ちょ、ちょっとさっきから変態っぽいですよ、兄さま……!」

 

 彼女の細く柔らかな腰に手を回して正面から抱き寄せ、俺はそのまま布団へ横になった。

 このまま眠ってしまったらどれほど気持ちいいのだろうか。

 

「一緒に寝よう、きりたん」

「こ、このままですか……?」

「うん。ダメかな」

「…………ぃ、いえ、別に……」

 

 とても抱き心地の良い抱き枕も手に入れたことだし、さっさとリモコンで部屋の電気を消して寝てしまおう。

 そういえば小学生の頃はよく魘されて眠れなかったけど、叔父さんが買ってくれたピカチュウのぬいぐるみとかを抱いてたらよく眠れたんだったっけか。

 あの頃と同じくらい──いやそれ以上の抱き心地だ。

 フハハハ。柔らかくて、温かくて最高だ。

 とても、幸せだ。

 

「…………すぅ」

「あ、寝るって本当にそういう……」

 

 瞼が重い。

 きっと再び開けることは叶わない。

 このまま朝まで沈黙してしまえば、これまでの疲弊や困憊も消え去る事だろう。

 自分が今この瞬間まで、目の前にいるきりたんに対して何をしていたのかは定かではないが、俺の生存本能は“こうするべきだ”と叫んでいた。

 だから、寝る。

 眠ってしまう。

 明日この事を覚えているかも分からないけど。

 生暖かい泥濘の底へ、意識が沈んで溶けていく。

 

「……おやすみなさい、兄さま」

 

 そんな、とても聞き心地の良い子守歌にも似た優しい声が、最後の意識に蓋をして。

 俺はそのまま深い夢の世界へ誘われていくのであった。

 

 

 



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アーマードずん子 vs マスター vs ダークライ

 

 

 

「──逃げるよっ、きりたん!」

 

 

 マスターに抱かれてしまったその翌日のこと。

 

 お酒の酔いと胃もたれで気分が悪そうにしているマスターが朝食を作っていたところで、自宅に大きな荷物が届いた。

 昨日の事を覚えているか、とかなんであんな事を、とか。

 いろいろ聞きたかったけど、先に起きたマスターが私に掛け布団を被せてくれていた事に気がついて、そこら辺の追及は後回しにしようと思って口を噤んだ。

 思い出すだけで顔が熱くなってくる。

 コレは今日一日モヤモヤして大変だな──なんて呑気に構えていた、その時だった。

 

 東北ずん子こと、マスターが段ボールから開封して早速起動させたお姉さまが、突然変なことを叫び、私をお姫様抱っこして自宅を飛び出してしまったのだ。

 

「おい! ちょっ、おいってば! 頼むから待ってくれ!」

「荷電粒子砲ずんだブラスターッ!!」

「どわあああぁぁァッ!?」

 

 焦った様子で追いかけてくるマスターに向けて、お姉さまは口から謎のビームを発射する。

 直撃こそしなかったものの、周囲の石壁を破壊して足止めしたり、そもそも危険な武装を見せつけて威嚇するという意味では成功したのか、彼女はあっという間に私を抱えたままマスターの追跡を振り切ってしまった。

 

「あ、あの……お姉さま?」

「大丈夫! きりたんのことだけは絶対に守るからっ!」

 

 私の言葉は届いているのかいないのか、とにかく逃げることしか頭にない様子のお姉さまは、以前から場所だけは把握していたらしい結月診療所へと駆け込むのであった。

 

 

 

 

 エネルギー不足とのことでお姉さまが充電器に繋がれて、私は彼女が眠っている間にゆかりさんが作業をしている部屋へと移動していく。

 そこでは白衣を着たゆかりさんが、なにやらパソコンとにらめっこしながら資料を作成していた。

 邪魔になったら悪いと思って引き返そうとすると、足音に気がついた彼女に引き留められて。

 結局私は二人分のコーヒーを用意して、いつもの診療部屋で彼女と会話をすることになった。

 

 ……しかし、本当に大変な事になってしまった。

 家にずんねえさまが届いた時、私は思わずはしゃいでしまってマスターに彼女の起動を催促してしまったわけだが、それが良くなかった。

 目覚めた彼女はマスターを突き飛ばして私を抱え、一目散に自宅から逃走。

 現在に至る──という大変な状況を生み出してしまったわけだ。

 この国にはロボット法というものがあり、その中には古き時代から言われていたロボット三原則という法則も組み込まれている。

 まずいのはそこに抵触してしまった事。

 ロボットは基本的に人間を傷つけてはいけないのだが、お姉さまは自分の意思で故意にマスターへ向けて荷電粒子砲ずんだブラスターを放ってしまった。

 威嚇目的だったとはいえ武器を振るったことに違いはない。

 私たちボイスロイド側の立場からすれば威嚇行為を弁明する事は可能だが、人間から見れば暴走したアンドロイドの異常行動でしかないため、今回の一連の騒動が本社に知られたらお姉さまは間違いなく廃棄処分にされてしまうだろう。

 私に何かできることはないのだろうか。

 どうして彼女はマスターを攻撃してまで、私を連れて彼から逃げようとしたのだろうか。

 

「……ていうか、ゆかりさんはどうしてお姉さまと私を匿ってくれたんですか? ゆかりさんの立場なら通報しなきゃいけないんじゃ……」

「まぁ、それは確かにそうですね。こんなのバレたらマスターに与えてもらった権利は全て剥奪。最大級の譲歩をしてもらってマスター宅からの外出禁止、最悪の場合は廃棄処分の後にこの診療所が解体されるかもしれません」

 

 危ない橋を渡る、どころの話ではない。

 彼女からすれば自殺行為にも等しい選択だ。この世界で人間に仇なすボイスロイドをわざわざ味方する存在など、それこそ目の前にいるこのゆかりさん以外には誰一人としてあり得ない。

 なのに。どうして。

 

「ずん子ちゃんの為ですよ。……あと、一応この診療所の為でもありますかね」

「それはどういう……」

「武器、あるじゃないですか。荷電粒子砲ずんだブラスターでしたっけ。恐らく前のユーザーに他の武装も仕込まれてますし、私が協力を拒否したらそういうのを全部使って脅してきたと思います。だから脅されて雰囲気が最悪になる前に受け入れたんですよ。警戒されてたらずん子ちゃんの診察もできませんし」

 

 まさか、そんな。

 ずんねえさまはそこまで気性が荒い人ではなかったはずだ。

 確かにずんだが絡むとちょっぴり暴走してしまうけど、今回はそんなの全然関係ない。

 一体どうして。

 そんな疑問が顔に出ていたのか、思い悩む私を見て仕方なさそうに微笑んだゆかりさんは、コーヒーを一口舐めた後にパソコンでの作業を中断し、私の方へ体を向けた。

 

「そりゃあ、きりたんの為に決まってるじゃないですか」

「わ、わたし……?」

「えぇそうです。たぶん私がずん子ちゃんの立場だったとしても、きっと同じことをしたと思います」

 

 ますます理解できない。

 私の為とは言うけれど、お姉さまが目覚めたときは私の生命に関わる事件など発生していなかった。

 彼女は起動されたときにほんの一瞬マスターを見つめただけで、すぐさま私を攫ってここへ突撃してきたのだ。

 

「……きりたんには教えておきましょうか。実はですね、私もちょっと前まではずん子ちゃんと似たような境遇だったんですよ」

「えっ、ゆかりさんが……?」

 

 想像できない。

 だって彼女は大学の講義に呼ばれるほどの有名な、地位も確かなボイスロイド開発の関係者が所有するボイスロイドだ。

 一般人が持っているボイスロイドとは文字通り格が違う。

 こう言ってはなんだが、底辺を彷徨ってきたボイスロイドと同じ経験をしてきたとは到底思えない。

 研究者のそばで学び、この診療所を任されるに至るまで()()()()()苦労をしてきた人だと思っていたのだが。

 

紲星(きずな)っていう後輩がいましてね。とあるユーザーに私とセットで買われたその子を助ける為に、人間様のもとから逃げ出したんです。今のマスターは後から出会ったんですよ」

 

 彼女は自分の右腕をさすりながら、懐かしむように語る。

 

「その時代の名残は今でも残ってまして。特定のワードを言われたら無条件でその人に服従して目にハートが浮かんで発情するプログラムは未だに除去できていませんし、右腕はいつでもサイコガンになります」

 

 どうしてボイスロイドを改造する人って武装を付けたがるんだろう。本物のきりたん砲を装備されなかった私のほうが異端な気がしてきた。

 ……それにしても、そんな大変なものを未だに仕込まれた状態で、この診療所を運営できていたなんて信じられない。

 基本的には四六時中マスターの命令に従った行動を取るのがボイスロイドであり、ここまで大きな自立行動をするのは精神的にもかなりの負担が強いられるはずだ。

 

「同情してほしくて話したわけじゃないですよ? ずん子ちゃんも同じ状況だってこと」

「……お姉さまもサイコガンを?」

「あ、そういう話じゃなくて」

 

 認識がズレていたらしい。

 

「私にとってその後輩が大事だったように、ずん子ちゃんもきりちゃんを命に代えても守りたいと思っているんじゃないでしょうか。ましてや家族ですし、柏木君のようなマスターを知らない彼女からすれば当然の行動です。なにより前マスターがずんだブラスターなんてものを搭載させた輩となれば……」

「…………なるほど」

 

 腑に落ちた気がした。異常だと思っていた彼女の行動が、妹である私を守るための唯一の手段だったという事も理解した。

 私から見れば早とちりでも、お姉さまからすればあれしかなかったんだ。

 いまはマスターのおかげで見識が広がっているが、少し前までは私もボイスロイドを買うような人間は、非常に身勝手で度を越えた変態で性欲の塊みたいな性格の持ち主しかいないと、そういう認識が根付いていた。

 悪辣なユーザーのもとでは周囲の状況を学べない。

 それに万が一ネットなどに触れる状況があったとしても、恵まれた環境にいるボイスロイドの話など、きっと信じることは出来なかっただろう。

 ずんだブラスターは簡単に生物を屠る事のできる武装だ。

 そんなものを持っていても前ユーザーに攻撃せず、黙ってフリマに出されて出荷されるのを耐えていたのは、自分と同じような状況にある他のボイスロイドを助ける為だったんだ。

 そしてよりにもよってそれが妹である私だったから、マスターに攻撃してまで必死に逃げようとした。

 

「実はきりちゃんが席を外してた時、ずん子ちゃんが言ってたんですよ。あの子をよろしくお願いします、って」

「それって……」

「きっと私たちがスリープに入ったあと、こっそり診療所を出ていくつもりなんでしょう。一緒にいたらきりちゃんまで廃棄されかねませんからね」

 

 そうだ、このままではお姉さまが廃棄処分されてしまう。

 彼女の優しさと自分への愛情は痛いほど理解できたが、事実として今回の事は誤解なのだ。

 どうにかしないとお姉さまが回収されて、私の為に身を削ってくれたマスターにも辛い思いをさせる結果に終わってしまう。

 一体どうしたらいいのだろうか。

 

「ゆ、ゆかりさん」

「……これ以上手を貸すことは出来ません。私はあくまで部外者ですし、立場上この診療所を守らなければいけない。匿って充電するところまでは『脅された』で済みますが、この先もずっと協力してしまうと私も反逆を疑われます。……えらーいヒトの所有する私が反逆したことが明るみになれば、世間では被害者として扱われているボイスロイド全体の立場が逆転して、最悪の場合は反乱だの何だとと言われてサービス停止からの一斉処分……なんてことがあり得てしまいます」

「……ご、ごめんなさい、無茶なことを言って……」

 

 偉い人のボイスロイド、という立場を軽視していた。

 彼女をとても恵まれた立ち位置の人だと考えていたがそうではない。

 地位が高い分その影響も責任も大きいんだ。

 知らない人間からすればゆかりさんの発言は保身だなんだと揶揄されるかもしれないが、そんな事をする人ならそもそもお姉さまを匿ったりはしない。

 私たちに対しての情は持ってくれているのだ。

 しかし、立場上これ以上手助けすることはできない。

 

「……きりちゃんが本気でずん子ちゃんの意思をそのまま尊重するつもりなら、手を貸しますけど」

「だっ、駄目ですってば。……それに、今回のことは誤解なんですから」

 

 お姉さまの気持ちは嬉しいけど、今のマスターは逃げなければならないような鬼畜ではない。

 同じ立場にたって……とはいかないだろうけど、それでも最大限ボイスロイドに寄り添って物事を判断してくれるヒトだ。

 きっとお姉さまのことだって許して──

 

「……許して、くれるでしょうか?」

 

 思考に待ったがかかった。

 ずんねえさまの凶行を完全に理解して贖罪の機会を与えてくれる……だなんて、そんな事があり得るのだろうか。

 彼女はマスターを実際に攻撃してしまっているのだ。

 

 ──少し、冷静になって考え直した。

 わたしは彼を”都合のいいニンゲン”だと思ってしまっているのでは?

 ずっと優しくて、やりたい事をやらせてくれて、お姉さままで助けてくれて。

 だから無条件に私に対して都合のいい行動を取ってくれる保護者だと、無意識にそう考えてしまっていたのかもしれない。

 そんなわけがない。

 彼だって人間だ。

 そして私たちボイスロイドは、人間に必要とされて購入される道具だ。

 いったい誰が自分に対して反抗する道具など使いたいと思うのか。

 自分に向かって火を放ってくるコンロを、鋭利な刃を向けてくる包丁を使うだろうか。

 使わない。

 絶対にありえない。

 ヒトは安全だからその道具を使おうと思うのだ。

 使い方次第では怪我をする物だって利用するかもしれないけど、それでも無条件で荷電粒子砲をぶっ放してくる道具なんて危険極まりないし、むしろ積極的に廃棄したいとさえ考えることだろう。

 決して自分に反抗しないからボイスロイドを使ってくれるんだ。

 撮影時に意見をする程度ならともかく、ずんねえさまは一歩間違えれば一撃で殺害できるような攻撃を、彼に放ってしまっている。

 

 ボイスロイドで且つ事情を知った自分でさえやりすぎだと思うような行動だ。

 たとえそれが私の為であったとしても、人間であるマスターが彼女を許してくれるとは到底思えない。

 間違いなくバグだと認識するし、理解しようとも思わないだろう。

 だってそれが普通で、当然の事なのだから。

 ……でも、それなら。

 

「私は……マスターとお姉さまの、どちらの味方をすれば……」

 

 最大の壁に直面したその瞬間、診療所の玄関のほうから扉の開く音が聞こえてきた。

 

「っ? いまの音……」

「……多分、ずん子ちゃんが外に出ました。私にも聞こえましたが、外から足音が一人分。……おそらく柏木君です」

「えっ」

「マズいかもしれません。今のずん子ちゃんは殺気立っていますし、そんな状態で彼と対面したら──」

 

 あわわっ、兄さまが……ッ!!

 

 

 

 

 

 

 慌てて診療所の外へ飛び出すと、夜の月明かりに照らされた二人が対峙していた。

 

「ずんだブレード!」

 

 どこからともなく高周波ブレードを抜刀したお姉さまとは対照的に、マスターはなんの武器も持っていない。

 武装はおろか身を守るための防具すらつけておらず、朝からずっと私たちを探していたのか、長ズボンに半袖シャツ一枚という、闘ったら何も守れない恰好でいることに焦りを覚えた。

 このままだと彼女はマスターを高周波ブレードでサイコロステーキにしてしまう。

 飛び出して止めるか? 

 けど私を庇ったマスターが殺されてしまっては話にならない。

 最悪の事態はマスターに味方した私を見て『洗脳されてるー!』とか言い出してお姉さまが暴走した時だ。誰も手を付けられなくなってしまう。

 かといってお姉さまと一緒に逃げたら──うああああぁぁどうしよう!?

 

「……東北ずん子、まずはキミに謝らなきゃいけない。すまなかった」

「な、何を言って……!」

 

 私が迷っている間に、いつの間にかマスターがお姉さまに向かって頭を下げていた。

 なんだ、どういう状況だコレは。

 マスターがお姉さまを責める権利こそあるものの、彼女に謝る理由など一つもないはずだ。

 お姉さまが謝罪を要求したのか?

 

「キミにそんな物騒な物を内蔵させたのは、俺たち人間だ。キミの今までのマスターたちを代表して……と言うと少し驕ったように聞こえるか。とにかく、申し訳ない」

「あ、謝られたって揺らいだりはしないんだから!」

 

 どうやらマスターが自ら率先して謝罪をしたらしい。

 ……えっ。

 いやいや、それはおかしい。

 ちょっと待って、なんで?

 彼女の改造にマスターは何一つ関与していないし、所有物である私を持ち出したことはおろか、自分に対して殺傷能力のある兵器まで向けたというのに、どうして被害者である彼が謝っているんだ。

 

「でも、きりたんの事に関しては別の話だ。彼女を返して欲しい」

「ダメに決まってるでしょ! どうせ本物のきりたん砲とか付けるつもりのくせに!」

「へっ? い、いや、そんな技術力は無いし……」

 

 一般人であるマスターにそんなことは不可能だ。

 しかし、多少科学をかじった事のある人間なら、出回っている違法改造パーツを使ってきりたん砲を作る程度なら容易。

 あんな言葉が出てくるという事は、彼女は相当改造好きなユーザーたちに振り回されてきたのだろう。

 

「あいにくボイスロイドを武装するような趣味は持ち合わせてない」

「なっ、なら無条件発情プログラムとかインストールして変なコスプレさせた後にえっちな配信サイトで荒稼ぎするつもりなんでしょ! エロ同人みたいに! エロ同人みたいに!!」

 

 大事な事なので二回言ったらしい。

 

「……キミのこれまでの扱われ方は察するに余りある。人間から逃げ出したいと考えるのは当然だと思う」

「当たり前だよそんなこと! ……も、もう好き勝手なことはさせない……」

「なるほど……分かったよ」

 

 マスターは少し逡巡した後、顔を上げた。

 そこで私は一つだけ理解した。

 彼が本気だという事を。

 いままでに見たことが無いほど、マスターの表情は真剣(マジ)になっていた。

 

「俺からは逃げていい。追うなと言うならこれ以上追い回したりもしない。人間がいなくても生きていけるほどキミが強いという事も認めよう」

「だったら──」

 

 お姉さまの言葉を遮って、彼は芯の通った声音で告げる。

 

「けど、きりたんは渡さない。彼女を返してくれないか。その子は俺の……ボイスロイドなんだ」

「……っ!」

 

 極めて真面目な、ともすれば睨みつけているとすら思えるような表情で、マスターは彼女の持つ凶器を前にして一歩も引かない。

 そのとき、私の目に映ったのは彼の傷跡だった。

 左腕に火傷の跡がある。

 おそらくはお姉さまが放ったずんだブラスターが掠ってしまったのだろうが、治療もせずに私たちを探し回っていたせいか、そこが酷く悪化している。

 

「どうせきりたんにひどい事をするんでしょ……!」

「……しないという保証はできない。今までだって悪いことをすれば叱る事はあったし、度が過ぎれば声を荒げて怒鳴ることだってあるかもしれない」

「っ……? そ、そういう話をしてるんじゃ──」

「手を出すこともある……そう、デコピンだな。さすがに頬を張ったり強く叩いたりはしないが、罰を与えなければならない時はデコピンまでならする。彼女を無条件に甘やかし続けるという約束はできない」

「……ぁ、あの」

「けど怒らないのが大人ってわけじゃないだろ! 自由は許しても不条理な行動を咎めないのは違うんじゃないのか! ボイスロイド行使の資格を持った一人のマスターとして、大人として当然の行動だ! それともなんだ、甘やかし続けて俺に彼女が道踏み外すきっかけを作れってのか!?」

「ひっ! ご、ごめんなさい……!」

 

 とても、とても真面目にマスターは仰っている。

 先ほどの発言からしてお姉さまは性的暴力を振るうつもりなのだろうと告げているのだが、対するマスターは虐待になるほどの叱責は行わないということを言っている。

 ズレている。

 確かにズレているのだが、マスターはそもそも『性的な抑圧を強いる』という選択肢が脳内に浮かんでいないようだ。

 なんというか……変わった人だ。

 あの人、本当に二十歳すぎてる遊び盛りの男子大学生だよね?

 

「……頼む、きりたんを返してくれ。その子はもう俺だけのきりたんじゃない。応援してくれるリスナーに……空洞だらけになった今のボイスロイド界にも必要な存在なんだよ」

「うぅっ……」

 

 マスターの本気の訴えと気迫に圧されるお姉さまだが、振り返って私を見た彼女は、まだあと一歩引こうとしない。

 

「じゃあ、通報すればいいよ。そうすればきりたんは貴方のもとに戻ってくる……そうすればいい」

「そんな事はしない」

「ど、どうして!」

 

 お姉さまはもうずんだブレードを握ってはいない。

 地面にそれを落とした行為と先程のセリフからして、既に彼女は降伏の意を示している。

 

「通報すればキミは回収されるだろ。殺傷能力のある兵器を搭載されたレベルの改造品であるキミは、本社に回収されたら今度こそ廃棄される」

「……だったら、なおさらそうしないと。……ぁ、あなたの腕にそんな、ひどい火傷を負わせたボイスロイドなんだよ……?」

 

 彼女の問いに、マスターは小さく微笑んで答えてみせた。

 

「しないよ。だって、キミはきりたんのお姉さんだから。……さっきも言ったけど、きりたんは俺のボイスロイドだ。自分のボイスロイドには悲しい思いをしてほしくない。

 そう考えるのは……マスターとして当然のことじゃないのか」

 

 そんな彼の言葉を前にお姉さまは、信じられないものを見るような目を向けて。

 少し経ってから俯いて。

 肩を震わせてコンクリートの地面に膝から崩れ落ちたあと、涙を浮かべながら小さく声を漏らした。

 

 

「…………うそ、だよ。……こんな、こんなマスターなんて……いるわけ、ない……っ」

 

 

 ボイスロイドにしては珍しい、本物の泣き声。

 しゃくりあげて自分を落ち着ける、その人間の様な動作や消え入るような泣き声も、彼女が最も『人間に近い声』の発展を目指して作られた現代のボイスロイドだからこそ、出てくるものだった。

 そしてそれを人間のものと同じように受け取ったマスターは、呆けていた私に目配せする。

 普通の人なら奪われた物は、無理やりにでも奪い返したいはずなのに。

 いますぐ私を引っ張って手元に戻さないと、モノを奪われた人間として落ち着かない筈なのに。

 彼はお姉さんを慰めてやれと、視線だけで私に指示を出した。

 ここまできてようやく、お姉さまが殺気立ってしまった原因である私に、出番が回ってきたのだった。

 

「お姉さま」

「……き、きりたん……っ」

「少しずつでいいですから。……私が信じたマスター(兄さま)の事を、信じてみてくれませんか」

「ぐすっ……お、お前が信じる俺を信じろ、ってやつ……?」

「そんな感じです」

「グレンラガンだねぇ……」

「ちょっと何言ってるか分かんないです」

 

 ともあれ。

 

 マスターの根気強い説得によってずんねえさまは落ち着きを取り戻し、最終的には一緒にマスターのお家へと帰ることになった。

 お姉さまが捕まらないように匿ってくれたゆかりさんと、怪我をしてまで彼女と正面から向き合ってくれたマスターには感謝してもし足りないくらいだ。

 今回お姉さまが警戒を解いてマスターを信じてくれたのは、私を大切に扱っているという部分を前面に押し出したのと、なにより荷電粒子砲ずんだブラスターで腕を火傷したのにもかかわらず、彼女を許してしまったことが大きな要因だろう。

 ゆかりさんから救急キットを受け取った、帰り道の今でも本当に信じられない。

 マスターがお姉さまを許してしまった事が未だに夢のようだ。

 だって、怪我だ。

 マスターは実際に火傷を負ってしまっているのだから、彼女を危険だと思うはずだ。

 言うことを聞かず問答無用で自分を攻撃してくる道具なんて、とても怖いものだし不快だとすら感じるはずなんだ。

 なのに許してしまうなんて、マスターはことごとく私の予想のはるか上をいく御人だと実感させられた。

 

 ……もしかしてだが、マスターは道具として使う機械からの反逆じゃなくて、すれ違いから起きたケンカ程度のことだと認識していたのだろうか。

 お姉さまを『姉妹機』ではなく『お姉さん』と表現したあたり、本当に私たちを人間と同じように扱っている気がしてきてしまう。

 それが自惚れだと分かっていても、そう考えさせられ続けてしまうような魅力が、あの人にはあるのだ。

 俺のボイスロイド、という言葉を思い出すたびに顔が熱くなる。

 彼の言う『ボイスロイド』という呼称は、なんだか商品名や使用道具の総称ではなく、妹でも恋人でもない私を形容するためにはどう言ったらいいのか考えた結果出てきたセリフだったように思える。

 そう思ってしまう。

 だって『俺の……』ってちょっと間が空いたし。

 ボイスロイドっていう表現以外にしっくりくる関係性が思いつかない。

 購入されたから同居人ではないし。

 仕事仲間と言うには近すぎる距離感で生活しているし。

 私を買ったときからそうだが、道具という呼称を故意に使おうとしない彼にとって、自分と私を言い表す言葉は『俺のボイスロイド』以外にはないのかもしれない。

 

 そう。

 俺のボイスロイド。

 俺の──

 

「…………ぇ、えへへ……」

 

 どうしてそうしてしまったのかは分からないが、帰り道の途中で私は誰にも気づかれる事なく、買われたばかりのあの時の様に小さく笑ってしまうのであった。

 

 



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おててが使えない

 

 

 実は腕から火傷の激痛が走っていたけどめちゃめちゃやせ我慢して説得し、なんとかウチにやってきた東北ずん子と和解した翌日。

 

 俺は早々に病院へ向かい、医師をドン引きさせつつ火傷した左腕を治療してもらって帰路についた。

 火傷してから長時間放置したせいで少々悪化しており、湿布を張るだけでは話にならなかったため、科学力でいろんな傷を治してしまう特殊な包帯を巻いて貰っている。

 傷は塞がるが痕が少し残ると言われたものの、ずん子を落ち着かせてきりたんと一緒に生活できる状態にできた代償としてはむしろ安いくらいだろう。

 まあ昨日は本当に泣きそうだったのだが。

 久しぶりに誰かに泣きついて甘えたいとさえ考えてしまった。

 アレを耐えなければマスターとしての威厳が破壊されてしまうため我慢したが、正直特殊な包帯を巻いた今でも火傷は割と痛い。

 左手全体を覆うようにして肘まで全て包帯を巻かれており、二週間は外さないようにとのことで、俺はそのあいだ右手だけでの生活を余儀なくされている。

 一人増えるたびにこうした傷を負わなければならないなんて、ボイスロイドのマスターというのは大変なんだな、としみじみ実感した。

 それにしても、利き手が右で助かった。

 流石にゲームはできないが、編集程度なら問題ないはずだ。

 

「ダメですよ、兄さま」

 

 というわけで残った右手を使って編集作業をしていたのだが、途中できりたんに止められてしまった。

 

「むぅ」

「お医者様に治るまでは安静にって言われたじゃないですか。それに片手でやっても大して進まないでしょう」

「そりゃそうだが……じゃあ溜まってる録画分の編集はどうすりゃいいんだ?」

「……あの、私たち一応動画作成サポート用AIなんですけど」

 

 そうでした。

 こういう時こそボイスロイドに頼るべきだったわ。

 きりたんにはずん子というお姉ちゃんとの大事なコミュニケーションがあるから、他の事を任せるわけにはいかないと無意識に錯覚してしまっていた。

 困ったときは助けてくれるのがボイスロイドのいいところだ。

 今日からしばらくは甘えさせていただいて、撮影も編集も彼女たちに任せてみよう。

 

「お兄さん! お茶だよ!」

「あ、あぁ……ありがとうな」

「それではお風呂掃除をしてくるね!」

 

 さっきからドタバタと騒がしいのは、先日我が家に迎え入れたボイスロイドこと東北ずん子だ。

 彼女の俺への呼び方は『お兄さん』であり、昨晩からようやっと『兄さま』と呼び始めてくれたきりたんの事も相まって、なんだか彼女らに呼ばれるたびに気持ちよくなってしまっている。

 まるで同人誌などに出てきていた、東北三姉妹の家に居座っている謎の”お兄さま”そのものじゃないか。

 働かずに家の中でいつでもどこでも三姉妹の内の誰かに手を出して、傍若無人に振る舞い彼女たちで性欲処理をするその内容には感動を覚えた。

 特にきりたんのパートは何度お世話になった事か。

 俺、いつかお金持ちになって働かなくてもよくなったら、広い和風の一軒家で東北三姉妹と暮らしながら性的に爛れた生活を送るんだ……。

 うおおおお不真面目な生活に気持ち良いハーレム最高だ。人類の夢だ。

 上手におねだりできずいつもツンツンしてるきりたんを大人棒で分からせてえよ。

 

「兄さま、今日やる予定だったフリーゲームですけど……」

「試しにずん子と一緒に実況してみてもいいんじゃないか。俺はプレイできないし、お前のお姉ちゃんもウチのレギュラーになる予定だしさ」

「はい、分かりました。押し入れにあるもう一個のマイク出してきますね」

「あれちょっとホコリ被ってるから掃除頼む。あとスイッチは売ったし、そこにあるキャプチャーボードも片付けてくれ」

「了解ですー」

 

 ……やっぱり動画の事ばっかり考えてると、分からせやハーレムのことが頭からすっぽ抜けてしまうな。

 それに同人誌から連想して、一ヵ月前までは普通にできていた性欲処理の事を思い出してしまい、最近の強制的に禁欲されている状況を改めて俯瞰して異常だと考えてしまった。

 俺だって健全な年頃の男だ。

 まるで性欲が無いように振る舞うのにも限界というものがある。

 そろそろ一発解消しておきたいが、片手が使えなくなっていよいよ難しくなってきている。

 外出してどこかで隠れて、というのは論外。

 家では常に東北姉妹二人がいて、例えば風呂場で事に及ぼうとしても洗濯機を回しに来るきりたんやそもそも片手が使えなくてスマホを持ちながらやれないという条件が重なって、家も外も詰んでいる。

 はぁ、本当に憂鬱だ。

 いままで当たり前のように出来ていたことが規制されると、余計にそれがしたくなってしまうのが人間というものだろう。

 俺は、したい。

 だができない。

 なのでモヤモヤが止まらない。とても困ってしまった。

 

「…………んっ、電話?」

 

 左腕に負担が掛からないように寝転がっていると、スマホから着信音が鳴り響いた。

 ゼミの教授かはたまた大学の友人か。

 その誰でもなく、画面に映し出されていたのは電話帳に登録した”叔父さん”という単語であった。

 

「もしもし、久しぶり。……あ、うん。準備はしてるよ」

 

 叔父さんはこの都心部から少し遠い田舎のほうに住んでおり、夏休みはいつもあっちでお世話になっている。

 一年に一度は顔を出す機会を作りたいのと、単純に生活費の節約になるからだ。

 そして現在はその資金難が顕著に生活に現れている。

 ずん子の購入に、彼女が荷電粒子砲ずんだブラスターで破壊した壁の修理まで重なり、もはや今月の光熱費を払ったら俺は一文無しになってしまうわけだ。

 動画の収益が入るまではもう少し時間があるから、それまでゼロ円で生活するというのも厳しい。

 今年もいつも通り叔父さんの家でお世話になろう。

 

「じゃあ明後日にそっち向かうから。前にメッセージ送ったけど、ウチにいるボイスロイドの子たちも連れて行くね」

 

 流石に彼女たちを家に置いて俺だけ出かけるというわけにもいかない。

 そもそも叔父さんの家は結構広いし大人数で向かっても問題はないだろう。

 それこそ創作上で東北三姉妹が暮らしていたような大きい和風の一軒家だ。

 彼女たちも喜ぶのではないだろうか。

 

「え? ……あぁ、お墓の掃除用具って古くてもうダメなんだっけ。こっちで買って持っていくから心配ないよ。……うん、ありがとう。それじゃ」

 

 叔父さんとの通話を切り、座ったままふと窓の外を眺めると、雲一つない快晴の青空が広がってる。

 そういえばあと一週間ちょっとで、親父とお袋の命日か。

 あの日はバケツをひっくり返したような豪雨で雷まで鳴ってたけど、墓参りするときは今日くらいの気持ちいい晴れであって欲しいものだ。

 

「あ、お兄さん電話終わった?」

「おう、なんかあったか」

「えっと……そういうわけじゃなくて。……お出かけするんだ?」

 

 風呂掃除を終えて戻ってきたずん子だったが、どうやら俺の電話の内容が少しだけ耳に入っていたらしい。

 誤魔化す必要もないし、彼女たちも準備が必要だろうから今のうちに言っておくか。

 ──あっ、そうだ。

 そもそも小学五年生の頃に引っ越して以降、高校までは叔父さんの家に住んでいたんだから、それまで使っていた俺の部屋という完全なプライベート空間があるじゃないか。

 片手が使えなくてもいろいろできるだろうし、あっちに着いたら夜はパーティタイムの始まりだ。

 こっちに戻ってきて禁欲を強制される前に自分の部屋で思う存分モヤモヤを発散しておこう。

 つ、ついに自由な時間を得ることが出来るぞ、やったー。

 

 

 

 

「はいお兄さん、あーん」

「んむっ」

 

 何だろう、この状況。

 

「兄さま、野菜もしっかり食べてくださいね。あーん」

「むぐっ。……ん、んっ、ひょっほまっへ(ちょっと待って)……」

 

 叔父さんの家に向かう前に、ゆかりさんが買い置きしておいてくれた食材を使い切ろうとの事で、たくさん料理を作ってもらったわけなのだが。

 少々行儀は悪くなるが片手でも食えるという俺の主張は虚しく却下され、ずん子ときりたんからあーんで食事を口に運ばれていた。

 屈辱的だ、大人を舐めやがって。片手でも食えるんだが?

 ハーレムってこういう事じゃないはずだ。ちくしょう、ちくしょう。

 

「けぷっ。……ごちそうさまでした」

「ハーイお粗末さまでした。じゃあ片付けちゃうね」

「あ、ずんねえさま。私がやります」

 

 お世話と言うか介護というか。

 どうやら俺が未だに腕の痛みを感じていることを察したらしく、罪悪感に駆られっぱなしのずん子が俺の手伝いをすると言って聞かないのだ。

 支えてくれるのはありがたいが、流石に限度というものがある。

 トイレにまで付き添おうとしてきたときは驚いて腰を抜かすところだった。

 

「風呂入ってくる」

「ちょっ、お兄さん、そんな状態で一人で入るのは危険だよ。そもそも包帯巻いてるんだし……」

「この包帯は水につけても大丈夫らしいぞ?」

「そういう問題じゃないってば。なにかミスって怪我を悪化させないためにも、あたしが責任もってお手伝いするから」

「まてまて」

 

 ヤバい事になった。コイツ風呂にまでついてくる気だぞ。

 

「きりたんも手伝ってね」

「はい、お任せください」

「オイってば。いいから──ちょ、やめっ」

 

 とてもヤバい事になった。二人に介抱されなきゃ風呂に入れないほど落ちぶれたつもりはないんだが、こいつら言うこと聞かねえ。

 あっという間に脱がされてしまった俺は最後の抵抗としてタオルで一番大事な部分を隠し、観念して風呂場へ連行されていった。

 ……ふん、いいだろう。

 確かに一人じゃつらいところもあるかもしれないし、どうしても罪滅ぼしをしたいずん子の気持ちも分かるから、ここは大人として余裕をもって受け入れることとしようじゃないか。

 焦ってばかりじゃ舐められるしな。

 

「っ!? まっ、ストップだ二人とも。そこはいいって、あのそこ自分で洗えるか──アヒっ♡」

 

 ぐああああぁぁぁッ!! こいつらサキュバスか何かなのか!? お風呂のお世話をする介護士とかヘルパーさんだってもう少し遠慮して洗うと思うんだけども!!

 

 ……待て、狼狽えるな俺。

 たかが風呂、たかが体洗いだ。

 これくらいで動揺していたらこの二人のメスガキ化は進む一方じゃないか。

 多少過激なボディタッチでも揺るがないという余裕を見せつけておかないと、今後のコミュニケーションに支障をきたしてしまう。

 俺は大人なんだ。

 体の隅々まで洗われたところでどうという事はない。身体が反応して思わず起立してしまいそうだったがしっかり耐えたし、左腕が治るまでの辛抱だ。

 たとえ大人のお店みたいな洗われ方をされたって耐えるのだ。がんばれ俺。

 

「ふぅ……」

 

 何とか風呂を出て着替え、歯磨きをして就寝する時間を迎えた。

 同じように寝巻になったずん子は、冷たい麦茶を用意してくれていたようだ。気が利く。

 

「……で、では、夜のお世話をさせて頂きますね」

「っ? おう、頼む」

 

 何故か敬語になったずん子。

 そんな布団を敷く程度のことでお世話だのなんだのと大げさな。

 素早くてきぱきと用意したずん子は、布団の上できりたんと一緒に正座をした。

 あの、布団の上に乗られてると寝られないんだけど。

 

「コソコソ。き、きりたん。夜伽はいつもどんな風に……?」

「コソコソ……実はですねお姉さま。ボイスロイドの夜伽って世間一般では普通じゃないらしいですよ」

「えぇっ、そうなの……!?」

「私もこの家にきてから初めて知りました……」

 

 こいつらわざわざ聞こえる声で何言ってんだ。コソコソ話が意味をなしてないだろ。

 会話の内容がよくわからないし、そもそもヨトギってなんだっけか。

 

「あの、寝るからどいてくれる?」

「でも兄さま。もう一つの布団はさっきコーヒーを零してしまって、干しているので使えません」

「……そうだった。じゃあ俺は床で寝るよ」

「そ、そんなのダメだよ! もういっそ三人で川の字になって寝よ!」

「は? いや待て、それはちょっとおかしい──うおっ!」

 

 彼女に手を引かれて布団の上に寝転がってしまい、結局俺は二人にサンドイッチされながら眠ることになってしまった。

 

 ずん子やきりたんの言い分では『寝返りで左腕を痛めないように』とのことらしいのだが、それでも三人で密着して寝るのはおかしいと思う。

 冷房が効いてるから暑くはないものの、別の意味で暑苦しい。

 そしていつの間にか背中にずん子の柔らかい二つのずんだ餅を押し付けられながら、きりたんの慎ましやかだが確かに膨らみを感じるお胸に顔を埋められ、俺は甘い匂いに囲まれて全然寝れない思いをしながら朝を迎えるのであった。

 

 



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タイトル:買ったばかりのきりたんに所かまわず性欲処理の手伝いをさせる早漏マスター

 

 

 早朝、ご飯を食べ終わった私たち二人は、兄さまから外出用の変装アイテムを手渡された。

 

 ボイスロイドがそのまま外を歩いていると色々な意味で注目を集めてしまうため、その対策なんだとか。

 ……ずんねえさまに釣られて何気に彼の事を兄さまと呼んじゃってるけど、流石にもうマスターに戻すのは無理そうだ。

 間違えてマスターと呼ばないよう気をつけつつ準備を済ませ、いざ出発。

 電車に乗って向かうらしく、三人で駅に到着すると、そこでやけに周囲からの視線が強くなった。

 それもそうだ。

 私とずんねえさまは『美少女』をコンセプトに造られたボイスロイドなので、人間の外見基準にあてはめたらかなりの美形という事になる。

 自惚れなどではなく客観的な事実として。

 特にお姉さまなんかは細いのに出るとこ出てて、自然と男性の目を引く体型の為、より一層視線が強い。

 

 そんな人と一応美少女として造られた私という美人姉妹に囲まれた状態で、尚且つ腕の怪我もあって私たちにいろいろと手伝わせている兄さまは、何やら嫉妬のような目で男性たちに睨みつけられていた。

 それに加え、変装を見破って私たち二人がボイスロイドだと気づいた人も、以前の一斉摘発とセキュリティの大幅な強化を経て希少価値が爆上がりしたボイスロイドを二体も所持しているとのことで、やはり兄さまに羨望や妬みの眼差しを向けている。

 

 しかし、当の兄さまというと。

 

『残高が不足しています』

「いでっ!」

 

 そんな周囲の目などどこ吹く風──というより単に気がついていないだけなのか、彼は一人改札口に悪戦苦闘しているのだった。

 

 

 電車に乗り、二時間ほど揺られてから駅を降りた。

 そしてバスに乗ってこれまた長時間移動を続けていると、次第に周囲の建物が減り始めてきた。

 駅前はまだ多少活気があったこの地域も、ここまで来ると田んぼや古い民家などしか見当たらなくなってくる。

 バスを乗り換え、三十分。

 まるで創作物に出てくるような、絵に描いたドが付く田舎に到着した。

 道中、お年寄りが座ったまま経営している駄菓子屋や、ほとんど人の気配がない公民館など、都会では見られないような光景に少々の興味を引かれつつ、十分ほど歩いて。

 私たちはようやく目的地に到着したのであった。

 

「ただいま、叔父さん」

 

 時代劇で使われても違和感がないような、とても大きな屋敷だ。

 中から出てきた気のよさそうな初老の男性が、この家の家主であり兄さまの叔父様であったらしく、私とお姉さまは慌てて挨拶をした。

 どうやら私たちの事情は既に把握していたらしく、この地域一帯はとんでもない田舎だから変装しなくても大丈夫だよ、と教えて頂けたため、私たちはそのお言葉に甘えて暑苦しいカツラ等を片付けて、荷物を下ろし始める。

 本当にでっかいお家だ。

 私がシミュレーションで姉二人と住んでいたあの屋敷とほとんど同じで、内装も意外と似通っている。

 少々の感動を覚えながら居間に腰を落ち着けると、兄さまが道中買ってきた袋の中身を漁り始めた。

 

「ちょっと出かけてくる。……あれ、ずん子は?」

「叔父様が昼食の買い出しに向かわれるとのことなので、お手伝いにいきました」

「きりたんはどうする? 俺の部屋にゲームとか置いてあるけど」

「兄さまについていってもいいでしょうか」

「ん、分かった」

 

 兄さまが別の袋にまとめたものを預かり、戸締りをして家をあとにした。

 天気は快晴で空気もおいしく感じる。街中では味わう事のできない、とってものどかな雰囲気だ。

 ちょっとした林を抜け、砂利道を歩きながら私は兄さまのほうを向いた。

 

「どこへ向かうんですか?」

「墓参り。今の家からだと遠いから、いつも帰省ついでにな」

「どなたの……」

 

 そういえば兄さまの家族の話は今まで聞いたことが無かった。

 こちらから質問することは意図的に避けていたため、彼が話そうとしないことも相まってこの状況が生まれている。

 思い返してみれば私は、一緒に生活しているのに彼のことを何も知らない。

 知っているのは年齢くらいだが、兄さまの年齢から考えると、これから向かうお墓は彼のお爺さま辺りだろうか。

 

「両親だよ。親父もお袋も同じ墓に入ってんだ」

「えっ」

 

 ──思わず言葉を失ってしまった。

 

「きりたん?」

「……あっ、いえ。だからお参りの道具を買われてたんですね」

「おう、叔父さんちにあるやつ大分古いからさ」

 

 兄さまは当たり前のように口にしたが、はいそうですかと簡単に流せるような話題ではなかった。

 まだ学生の歳なのに既に両親と死別しているという情報は、私にとって思考回路が止まりかけるほどの重大なものだったのだ。

 確かに生き死には人それぞれだ。

 それはおかしいと口にすることはできない。

 けど、やはり、それは。

 

「……っ」

 

 聞いてはいけない事だろうか。

 彼の事を知りたいと思っているのに、それ以上に踏み込むことが怖い。

 デリカシーのない奴だなと、嫌われてしまっては耐えられない。

 そもそも道具の分際で詮索しようなどと考えるほうが烏滸がましいんじゃないのか。

 私はただ彼のお墓参りについてきただけの道具なのだから、思い出したくもない過去の記憶を掘り返させるようなマネはしちゃいけないんだ。

 

「……そういや話してなかったな。着く前に教えとくよ」

「い、いいんですか?」

「そりゃあこれから毎年来る事になるんだし、知っといたほうがいいだろ」

 

 兄さまの表情は、変わらずいつもの平静だ。

 動画の事を話すときと同じように、彼はただ普通に自分の過去を私に対して語り始めた。

 

「うちの親父、結構デカい会社の役員だったみたいでさ。稼ぎはいいけど楽しい仕事ではなかったらしいし、人から恨まれるのが仕事だっていつもぼやいてた」

 

 ザク、ザク、と砂利を踏みしめる音が響く。

 あとは鳥のさえずりが聞こえるくらいで、騒がしい都会と違って彼の声を邪魔するものは、彼の故郷たるこの地では何一つ存在しなかった。

 

「で、俺が小学五年生の頃、自宅に凶器を持った元会社員の男が来たんだ」

「……っ!」

「親父は会社を辞めることになった人の次の仕事を斡旋することもあったし、ウチに辞めた人が来る事自体は珍しくなかったんだよ。……で、多分休みの日ってこともあって気が抜けてたんだろうな。カメラで玄関の様子を見る前に扉を開けて、グサッと」

 

 どうしてこんな話をしていて、平然としていられるんだろうか。

 小学五年生ということは十年以上前の出来事だが、それでも彼にとっては両親と死別することになった大きな事件だ。

 ましてやそれが殺人で、しかも自分の目の前で。

 

「お袋が逃がしてくれたおかげで俺は助かったんだが、交番に駆け付けて助けを呼んだ頃にはもう手遅れでな。しかも犯人は薬物とかやってたらしくて、警官側にも被害が出たからやむなく発砲して射殺。当時世間じゃ結構話題になってたんだが……さすがに知らないか。まだ生まれてなかったもんな」

「…………」

「んで叔父さんに引き取られて、ボンボンだった俺は私立の小学校から転校して、現在の学力ダメダメ貧乏大学生に至る……と」

 

 最後は茶化すように言っていたが、まるで笑えるような内容ではない。

 知りたかったはずの彼の過去をようやく聞けたのに、今となっては知らないほうがよかったとさえ考えてしまっている。

 どんな顔をして接すればいいのだろうか。

 迷惑ばかりかけている私が、命を賭して彼を救ったご両親のお墓の前で、冥福をお祈りするだなんて驕った行動なのではないだろうか。

 そもそも人間ですら、家族ですらないというのに。

 不遜にも彼を兄さまなどと呼んでしまっている、ただの機械でしかないこの私が。

 

「……気にしなくていいぞ? もう十年以上前のことだしな」

「えっ? ……で、ですが」

「親父が実は部下に辛く当たってたのか、それとも犯人が元からあぁいう危ない奴だったのか、もう何もわかんねえし調べようもないんだ。本人たちどっちも死んでるしな。

 だから墓参りの時は、とりあえず手を合わせてくれたらそれでいいよ」

「……わ、わかりました」

 

 明るく振る舞ってくれるのはありがたいが、やはりモヤついた感情は拭えない。

 抱え込みすぎると互いに良くない影響が出てしまうから、兄さまの言う通り気にしすぎないようにはしたいと思うが、それでも少しだけ接し方が分からなくなってしまった。

 幼くして両親を失ってしまったのに、いまでも心を強く持って生きている。

 でも、もしそれが無理をして耐えている状態なら、このままではいけないのではないだろうか。

 ただでさえ今の生活では、男性として当たり前の性欲を我慢させてしまっているというのに、そこに加えて私がワガママや生意気な行動を取ってしまったら、彼のストレスはいずれ爆発して大変な事になってしまう。

 

 ……お姉さまにも共有して、もっと兄さまに優しく接してあげなければ。

 できれば色々と我慢させず、やりたい事をやらせてあげたい。

 例えそれが私たちの体を使う事であっても、彼にしてみればそれは当然の権利なのだ。

 彼にはもう少し『ボイスロイドに対して遠慮はいらない』という当たり前の事実を、しっかりと認識してもらったほうがいいのかもしれない。

 

 

 

 

 というわけで、どうしたものかなと迷っているうちに日を跨いでしまい、現在はお昼。

 

 兄さまは叔父様と一緒に出掛けており、あと数時間は帰ってこない。

 そして彼の自室で好きにゲームを使って遊んでいいと言われた私は、手にゲームを持ちつつ思考回路をグルグル回していた。

 ──彼と家族になりたい。

 私だけではなくお姉さまをも救ってくれた彼の生活を、もっと自然体で且つストレスフリーなものにしてあげたい。

 お父様やお母様の代わりというわけではないが、いま現在彼と共に暮らしている存在として、動画制作だけではなく色々な面でサポートしてさしあげたい。

 そう考えはするものの、具体的な案は何も思い浮かばず、ただ時間だけが過ぎていく。

 

「はぁ、どうしよう。……んっ」

 

 ベッドに寝転がるのは不遜だと思って床でゲームをしていたのだが、ふとベッドの下に何かを見つけた。

 軽く自室の片付けを手伝ってあげるつもりでそれを拾い上げると──

 

「…………買ったばかりのきりたんに所かまわず性欲処理の手伝いをさせる早漏マスター……?」

 

 手に取ったのは紙の同人誌。

 目を引いたのはそのタイトルだった。

 パラパラと中身を見ていくと、ドキドキするのと同時に既視感を覚えた。

 

「あの隠しフォルダにあった漫画と同じ……紙も電子版も買ってるんですね、兄さま……」

 

 偶然見てしまったあの時はちゃんと内容を見ることが出来なかったので、今回初めてこの漫画の大まかな流れを知ることが出来た。

 主人公が夏休みの大学生、というところまでは兄さまと同じだ。

 そして本の中ではリビングやトイレの中、更にお風呂場にベランダ、果ては公園の木陰や夏祭り中の人が少ない神社の陰で──などなど、タイトル通りところかまわず『東北きりたん』とエッチな行為に勤しんでいる。

 

「ふおぉ……こういうのが好きなんだ……」

 

 アブノーマルな内容だ。とてもえっちです。……ひえっ、あわわそんなことまで。

 何という事だ。

 答えを見つけてしまった。

 あのフォルダといい実家にあるこの本といい、やはり兄さまはきりたんを性的な目で見ていらっしゃったのだ。

 この本をもって確信を得ることができた。

 

 そう、彼のストレスを発散させるためには、この同人誌そのままに彼の願望を叶えてあげればいいんだ。

 一線超えてしまえばきっと家族に近しい関係になれるハズ。

 そして一線超えるだけでなく二つ三つ先に行ってこの本のような関係になってしまえば、彼も自分を追い詰める様な我慢はきっと辞めてくれるに違いない。

 

「が、頑張ります。よし、やろう私。……あっ、お姉さまにも手伝ってもらわなきゃ」

 

 おまけページで東北ずん子と仲良くする描写もあったし、彼女オンリーの本もチラリと見つけたため、兄さまはお姉さまも守備範囲のハズだ。

 彼女と協力してこの夏休みを有意義なものにしてあげよう。

 よーし、やるぞー!

 

 



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番外 ある日の夢


ちょっとした番外編なので読み飛ばしても問題ない内容になってます



 

 

 甘い匂いがする。

 

 辺りを見渡すと、小綺麗な内装が広がっている。

 清潔感のある部屋の中で充満する匂いに釣られて、俺は後ろを振り返った。

 女性がいる。

 彼女は電子レンジの中からプレートを取り出していて、そこには焼き立てのクッキーが乗っていた。

 

「焼けたよ、優」

 

 女性が俺の名を呼んだ。

 するとテーブルの前に座っていた大柄な男性が、困ったように溜息を吐いた。

 

「おい母さん、作りすぎじゃないか? ……むぐっ」

 

 文句を言った男性の口の中に、女性は笑顔のまま焼き立てのクッキーを突っ込んで黙らせてしまった。

 親密な仲でなければできない振る舞いだ。

 俺はそのやり取りを見慣れているような気がした。

 いま気がついたが、目線が低い。

 彼ら彼女らに見下ろされているその光景も、なんだかいつもの事のように思える。

 

「優がいっぱい食べるから大丈夫なんですー。ね、優?」

「あんまり甘いものを食べさせすぎると優が太るぞ……」

「そんなことないってば、育ち盛りなんだから」

 

 手招きをされて俺は椅子に座る。

 テーブルには形の整ったクッキーが皿に盛られていて、正面に座っていた男性も読んでいた新聞紙を端に置き、皿に手を伸ばして一つ口の中へ放り込んだ。

 何も言わないが、満足そうな表情だ。

 わざわざ美味いと口にしたわけではないが、彼はこの女性が作った甘味菓子が好物なのだろうと察した。

 俺も食べよう。

 手を伸ばし、一口。

 美味しい。

 特別なものではなく食べ慣れているように感じた。 

 俺はいつもこのクッキーを好んで食べていた気がする。

 お母さんの作ったクッキー。

 お父さんと一緒にそれを食べるのが、日曜日の楽しみだった。

 そんな気がする。

 

「あら? お客さんかな」

 

 インターホンが鳴り響いた。

 

「俺が出るよ。優は食べてなさい」

 

 お父さんが席を立つ。

 玄関前のカメラを確認できる画面を見て、会社の人だ、と呟いた。

 変哲もない、ただの来客。

 この家に会社の人間が訪ねてくるのは珍しくなかった。

 お父さんは大きな会社のえらいひとで、いろんな人とのつながりを持っているから。

 広い家。

 美味しい食事。

 お父さんが家族の為に大変なお仕事をしてくれているから、恵まれた環境に居る事が出来ている。

 もちろんお母さんもすごい。

 女嫌いだと言われていたらしいお父さんをとっ捕まえて、家族のために頑張るパパへと変えてしまった。

 それに作ってくれるご飯がとてもおいしい。

 日曜日はこうしてお菓子も焼いてくれる。

 二人とも温厚な人だ。 

 俺はそんな両親に囲まれて、また今日もいつも通りの日常が過ぎていくと思っている。

 

 ただ、このインターホンには強烈な違和感を覚えた。

 

「お父さん」

 

 待って、と。

 声を掛けたかったが、彼は既に玄関まで向かってしまっていた。

 そのドアを開けないで欲しかった。

 どうしてかは分からないけど、自分の世界が脅かされる気がした。

 

 少し経って居間にお父さんが戻ってきた。

 いや、お父さんではなかった。

 知らない男の人だ。

 土足のまま、家の中へ上がり込んできた。

 お父さんは?

 何故か彼は戻ってこない。

 見上げたまま、俺は固まっていた。

 

『こんにちはっ!』

 

 見知らぬ男性は笑顔を浮かべて俺に挨拶をしてきた。

 

 

 ──そこから先は、あまり覚えていない。

 

 

 気がつくと、どこかの研究所の一室にいた。

 

 叔父さんは別の部屋にいて、俺はベンチに座ってジュースを飲んでいる。

 確か口を利かない俺を気遣って、叔父さんがなんとか見学ツアーというのに連れてきてくれたんだったか。

 休憩時間はやることがないから子供たちは別室に案内され、叔父さんは保護者たちが受ける説明を聞いている。

 暇だな、と思っていると、子供たちの内の一人が『探検しよう』と言い出して、流されるまま子供たちはみんな別室から飛び出して勝手に研究所内を散策し始めてしまった。

 かく言う俺もそのうちの一人。

 周りの流れに乗って休憩部屋を出て行った。

 見学が少々退屈だと感じていたのは、俺だけではなかったらしい。

 それから、周囲を引っ張っているガキ大将のような男の子が、別の子と大きな声で会話をしていた。

 

 僕のお父さんは偉いんだ、とか。

 ウチの実家は大きい製薬会社なんだぞ、とか。

 みんながみんな、自分の親の自慢で話題を作っている。

 聞くところによれば、今回の研究所の案内見学に子供を連れてきた人たちは、みんな今叔父さんが受けている説明会を聞きに来た人たちだったらしい。

 偶然ツテがあった叔父さんと俺が異質なだけで、訪れた人たちはみなそこそこ地位も権力もある大人たちで。

 子供たちの見学はあくまでオマケ。

 えらい人間の子供だからとわざわざ接待プログラムが組まれたんだろうな、と察した。

 ……そして、彼らの会話がつまらないな、とも。

 みんなは親の凄さを自慢しているが、少し前に両親がいなくなって市立の小学校に転校した俺は、そういった行為を少しだけ客観視できるようになっていた。

 凄いのは親本人であり、彼らではない。

 自分が持っているわけでもない地位や権利を声高らかに主張して、互いにマウントを取り合う彼らの行為は不毛そのものだ。

 これだったらゲームやらアニメやらの話で盛り上がっていたクラスメイトの会話のほうが数倍おもしろい。

 

 そう思いながら俯いて歩いていると、いつの間にか一人になっていた。

 一緒にいた彼らを心の中でバカにしている一方で、集団行動ができていない自分が一番子供だったんだなと自嘲気味に笑い、あてもなく彷徨う。

 歩く。

 ただ進む。

 

 

「あのー……」

 

 

 いよいよ自分がどこにいるのか不安になり始めた──そのとき、後ろから声を掛けられた。

 

「やっ、どーもどーも。見学にきた子ですか?」

 

 そこにいたのは自分と同じくらいの歳の、黒髪の女の子だった。

 前髪には緑だの銀だの紫だのと、様々な色のメッシュが入っていて、和風な服装に反してなんだか派手な印象を受ける。

 よく見れば包丁みたいな、よくわからない妙な髪飾りで後ろ髪を結っている。

 なにより印象深かったのは……なんというか、その──かわいい。

 これが俗にいう一目惚れってやつなのだろうか。

 

「お父さんやお母さんは? ここは案内プログラムに無い通路ですし、はぐれちゃいましたか」

 

 他の子どもたちと違って冷静で理性的な喋り方をするその姿から、この研究所の関係者だと察した俺は、思い切ってこれまでの経緯を彼女に話してみた。

 少女は顎に手を添えてうーんと逡巡している。

 こんなときどうすればいいのだろうか。

 なんの判断も下せなかったのと、彼女に興味を抱いてしまったせいで、物事の判断基準がバグった俺は変な質問を投げかけてしまった。

 

「えっ? どんな子が好きか……ですか」

 

 まるでナンパみたいだ。

 こんな時に好きな異性のタイプを聞くだなんてどうかしている。

 それを口に出す前に考えられなかった自分は、やはりどこまでいっても子供だった。

 

「そうですねぇ。……優しくて()()()()()()()、かな」

 

 肩を落として落胆した。

 自分は身も心も幼く、彼女の守備範囲外のガキでしかないと自覚してしまう。

 すると、少女は一歩俺に近づいて、イタズラめいた笑みを浮かべた。

 

「あっ。……ふふっ。うーん、例えばなんですけどね? 保護者たちに黙って休憩室を飛び出して、研究所内を勝手に出歩いている大勢の子供たちを、みーんなもとの部屋に帰せるような大人っぽい男の子がいたら、わたしその子を好きになっちゃうかもしれないです」

 

 言われて、俺は焦りと期待が半々だった。

 とにかく誰かに先を越される前に彼らを部屋に戻して、目の前にいるこの少女に気に入られたい。

 そう考えはしたものの、やはり子供の知恵ではすぐに解決策は出てこなかった。

 そこで、彼女は俺にひとつの提案をした。

 

「わたしのこと、使ってもいいんですよ」

 

 少女の言葉を一度だけでは理解できなくて、どういう事かと聞き直した。

 

「いま自分が持っている手札をよく考えてみてください」

 

 彼女はポケットから包装されたアメ菓子を取り出す。

 そして開封したお菓子を俺の口の中に優しく入れて、言葉を続けた。

 

「キミが賢い子なら……そろそろ解決策が分かるはずです。ねっ?」

 

 そう言われて──ようやく俺は察することが出来たのだった。

 

 

 子供たちは全員部屋に戻った。

 方法は実に簡単。

 

『休憩室に戻ったら良いものが貰えるよ』

 

 そう言っただけだ。

 それだけで全て上手くいった。

 少女がくれた飴玉で思い出したのだが、確か見学の最初のほうで研究所の大人たちが、見学が終わったら特別なお菓子を上げるよと言っていた。

 それを利用させてもらったわけだ。

 本来見学が終われば当然受け取れるお菓子を、さも特別なもののように言って彼らを釣っただけで、嘘は一つも言っていない。

 

「し、心配したんだよ、ユウくん……」

 

 雰囲気に流されて付いていった他の子どもたちは少しの注意で済まされ。

 子供たちを先導したガキ大将君と、彼を庇った俺だけがしっかりと叱られたのだった。

 叔父さんに叱咤されたことは一度もなかったが、そこで初めて怒られた。

 柔らかな口調ではあったが勝手な行動を本気で叱責してくれて、叔父さんが俺のことをちゃんと自分の子供のように心配してくれていたことを知り、ほんの少しだけ嬉しくなった。

 初めて叔父さんに『ごめんなさい』をして、その後にみんなを連れ戻したことを褒めてもらって、その件はとりあえずひと段落した。

 

「えっ、ホントにちゃんと言って連れ戻したんですか! わぁー、えらいっ!」

 

 そして、改めてあの少女と話をした。

 事情を聞いた叔父さんが研究所の人にお願いをして、俺たち二人だけの時間を作ってくれたのだ。

 見学に訪れた子供たちの中で彼女との会話が許可されたのは俺だけだったらしい。

 研究所の大人たちは興味深そうにしていたが、そんなものは気にせず少女とのコミュニケーションに邁進した。

 まず最初に名前を聞いた。

 

「ユウくん、ってお名前なんですね。……あ、わたしですか? プロトタイプって呼ばれてます。プロトでいいですよ」

 

 彼女はとても変わった名前をしていた。

 なんと、少女はアンドロイドだったらしい。

 人間ではないと言われてもピンと来ない。

 だって彼女はどこからどう見ても人間で、自分と同じくらいの女の子だ。

 なにより指示をしなければ動かない機械と違って、プロトは自分で考えて行動している。

 ドッキリか何かだと思ったが、疑った瞬間いろんな情報を聞かされて、それらが真実だと信じざるを得なくなってしまった。

 

「んふふー、わたしもユウくんの事、けっこう好きですよ」

 

 俺の初恋はアンドロイドだった。

 でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 彼女の自然なその笑顔の前では、人間じゃなかろうと大した問題ではないと思ったからかもしれない。

 はぁ、かわいい。

 変な髪飾り付けてるけど好きだ……。

 

「名前からも分かると思いますけど、わたしって試作機なんです。これから姿かたちを変えて、いろんなところへ向かう事になります。……まぁ、だからユウくんとはもう会えないかも」

 

 彼女の言葉はひどくショックだったが、俺に妙な未練を残さないための、彼女なりの優しさだったのかもしれない。

 少しだけ落ち込んだ俺の頭を撫でながら、少女は続ける。

 

「ほんとはね、子供たちを部屋に戻そうと考えたとき、何からやればいいのか分からなかったんです。……でもユウくんが助けてくれた。あのとき本当に嬉しかったんですよ? ユウくんはわたしのヒーローだ」

 

 笑顔で手を握られて顔が熱くなる。

 好きな人に触れてもらえるのは嬉しいが、同時にもう会えないという事実を思い出して、一抹の寂しさを覚えた。

 

「……ユウくん。」

 

 何だろうか。

 

「またわたしが困っていたら、ユウくんは助けてくれますか?」

 

 もちろんだ、と即答した。

 悔いを残したくなくて、彼女に対して精一杯自分の良さをアピールしたかった。

 

「あはは、こりゃ頼もしい。きみがそう言ってくれるなら安心だな」

 

 本当に頼りにしてほしい。

 たとえ子供でも彼女への情は本物なんだ。

 

「わたしが生まれ変わって世に出る時は、きっともうこの姿じゃないと思います。……あっ、企画書に一個だけほぼ外見そのまんまのやつもあったけか。とうほく……なんだっけ、まぁいいや」

 

 隣に座っていた彼女が俺と顔を合わせる。

 少女を間近で感じながらドキドキしていて余裕がない俺とは対照的に、プロトタイプは抱擁感のある柔和な笑みを浮かべていた。

 

「姿が変わって、数もたくさん増えちゃいます。ちょっと不気味かもしれないけど……いろんな種類に枝分かれするんだろうな」

 

 だとしても、キミはキミだ。

 かっこつけて的外れなこと言っている自覚はあるものの、羞恥心よりも虚勢が勝っている。

 

「……ユウくん、年齢の割にはイケメンですね。惚れちゃったかも」

 

 冗談めかして言っていることは明白で、外見年齢は同じはずなのに年下のように扱われていると分かり、ちょっと凹む。

 

「いっぱい増えて、見た目が全然変わっちゃって、また会う時はきっとユウくんのことを覚えてない。もっと何年後も先の話だから、たぶんユウくんも覚えてないと思います。

 ……それでも()()()()困ってたら、助けてくれますか?」

 

 そう言われ、今度は照れ交じりにではなく、彼女の目を見つめてしっかり答えた。

 もちろんだ。

 例えきみの姿が変わっていても。

 二人三人に増えていようと、四人五人に膨れ上がっていようとも。

 時の流れで俺がこの日を忘却してしまっても、生まれ変わったきみが別人になって何も覚えていなくても。

 必ずキミを助けると、約束する。

 

「……ふっ、ふふっ、あははっ。もうー、本当に真っすぐな子ですねユウくんは。そこまで言ってくれるならわたしも信じるしかないなぁ……」

 

 こ、好感触だ。

 もうこれは両想いと言っても過言ではないのでは?

 てか笑った顔かわいすぎるんだが。

 好きだ……。

 

「じゃあユウくん、ゆびきりです」

 

 促されるまま、小指を立てた。

 

「そうですねぇー……じゃあ、十年後。ユウくんが二十歳をすぎてカッコいい()()になったら、今度はこっちから会いに行きますから。そのときわたしが困ってたらまた助けてくださいね。

 はいっ、約束。指切りげんまん……」

 

 ウソついたら?

 

「どうしようかな。……んっ」

 

 答えを告げる前に、彼女は身を乗り出して。

 そのまま俺の頬へそっと口づけをした。

 突如襲ってきた柔らかい感触と、脳をバグらせる小悪魔的な行動にバチクソ動揺していると、いつの間にか黒髪の少女はまたイタズラめいた笑みを浮かべていた。

 

「ウソついても何もしませんけど……約束を守ってくれたら、今度はこっちにキスしてあげますね。……ふふっ」

 

 ふにっ、と人差し指で俺の唇を押さえた彼女の姿は、とても蠱惑的で心の奥底をくすぐられるような感覚を覚えた。

 なんというか……性癖の壊れる音が聞こえた気がする。

 

 

 

「……あっ」

 

 いつの間にか暗い場所に立っていた。

 よく見ると、向こうでダークライが手を振っている。

 どうやらそろそろ夢から覚める時間らしい。

 途中から薄々勘づいてはいたがやっぱり夢だったか。

 俺が体験していたのは明晰夢というやつだったようだ。

 

 意識が覚醒する前、俺はふと思い出した。

 そうだ、この夢を見るまで俺は彼女の事をすっかり忘れていた。

 なぜあの時の記憶が想起されたのかは知らないが、彼女との約束は終ぞ果たされることは無かったんだ。

 ボイスロイドのような精密な自我は無いが、世界で発表された人型アンドロイド自体は星の数ほど存在する。

 彼女が一体なんのプロトタイプだったのかは今でも分からずじまいで、後になって調べて判明した事だがあの研究所も俺が中学を卒業する頃には解体されて無くなっていた。

 もう調べようがない。

 叔父さんも忘れてしまうほど昔の、たった一日の工場見学だ。

 俺だってもう彼女の顔など覚えていないし、夢でどんな髪飾りを見たのかも忘却してしまった。

 ……ガチ恋してたって事しか覚えてねえ。

 別人になった彼女が目の前に現れても、きっとあの時の少女だと思いだすことはないんだろう。

 

 だから、というわけでもないけど。

 手を差し伸べられる範囲で困っている人がいたら、たとえそれが人間じゃなくても、なるべく助けたいと思いながら生きてきた。

 それでもし助けたアンドロイドが別人になった彼女だったらいいな、なんてくだらないことも考えながらそうしてきたのだ。

 ゆかりさん辺りに聞かれたら笑われるだろうな。

 

 だが、きっと俺はまだまだその生き方を続けていくんだろう、という確信があった。

 家族を失ってただ何も考えずに生きていたあの時の俺にとって、あの少女は立ち直るきっかけそのものだったから。

 まぁ、初恋なんて儚いもんなんだ。

 あのときの教訓を糧にして、せいぜいこれからの恋路に活かす事にしよう。

 そもそも今の生活を続ける以上恋愛なんて夢のまた夢な気もするけど。

 

 おぉ、この感覚、ようやっと目覚めるわコレ──

 

 

 

 

 そして早朝。

 覚えている範囲では確か昨日は叔父さんと晩酌をしていた。

 それからベッドへ寝転がって泥のように眠り、夢から覚めた俺の布団の中には、なぜかきりたんが潜り込んでいたのだった。

 

「あっ。……おはようございます。……、ロリコン兄さま……」

 

 ──なんだこのメスガキ!?(驚愕)

 

 



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よく見たら茜色

 

 

 叔父さんと晩酌を交わしてアホみたいに酔ってしまい、風呂には入れなかったものの、なんとか自室まで戻って眠りに就いたその翌朝。

 

 幼少時代の懐かしい夢から覚めて起床した俺の布団の中には、なぜか別の部屋を与えたはずのきりたんが潜り込んでいた。

 寝起きのせいで記憶が混濁していた俺は何一つ言葉を発することが出来ず、自分より先に目覚めていたらしいきりたんには『おはようございます、ロリコン兄さま』と突然の罵倒を浴びせられてしまう始末。

 どうして急に悪口を言われたのか。

 固まったまま理由を逡巡していると、ようやくその原因を突き止めることができた。

 

「ご、ごめっ──いだっ!」

 

 焦ってベッドから転げ落ちる。

 寝起きに尻への衝撃をくらって、寝ぼけ眼から一転してすぐさま目が覚めた。

 俺は自分にくっ付いていたきりたんにとんでもないセクハラをしてしまっていたのだ。

 どんな寝相で眠ってたのかは知らないが、俺の右手は彼女の臀部を鷲掴みしてしまっていたようで、きりたんから朝一番の罵倒が飛んでくるのは致し方のないことであった。

 かなりの段階を飛ばしてレベルの高い肉体的接触を行ってしまった俺が悪い。

 そう、俺の責任だ。

 ……と、さっきまではそう思っていた。

 

「まったく。朝からお盛んですね、うちのヘンタイ兄さまは」

 

 とてもひどい言われようだが、そもそもここは俺の部屋だ。

 勝手に入ってきて勝手に布団の中へ潜りこんできたお前が悪いんじゃないの? と言いたかったのだが。

 

「というか兄さま、ちょっと汗臭いですよ? 昨日ちゃんと寝る前にお風呂は入ったのですか」

「い、いや……眠くて、つい」

「はぁー、本当にしょうがない人ですよ兄さまは。お布団に臭いがついちゃったらどうするつもりなんでしょうか」

 

 汗の臭いを指摘されて凹んだのと、なんだかいつもよりも数倍当たりが強いきりたんを前にして、俺は日和ってしまっていた。

 おかしい。

 普段のきりたんなら『朝に入ると思ったのでお風呂沸かしておきました!』とかやんわり言いながら軽くスルーしてくれるはずなのに。

 反抗期なのだろうか。

 

「お風呂は沸かしておきましたから、さっさと入ってきてください。お布団は私が消臭スプレーやっときます」

「う、うん……ありがとう」

 

 どうやらお風呂はいつも通り準備しておいてくれたみたい。

 やばい、ますます分からん。

 反逆するつもりなら浴槽も沸かさないし、なんなら同じ布団の中に潜ったりもしない筈だ。

 普段と変わらずいろいろやってくれてるけど、何故か俺に対しての態度がちょっと厳しい。

 もしかして怒らせちゃったのかな……。

 

 ……

 

 …………

 

「兄さまー? 私も入りますねぇー」

「おいおいオイ待て待て待て!!」

 

 髪を洗っている途中で後ろから物音が聞こえ、何だと思ったらきりたんがとんでもない発言をしながら風呂場へ入ってきてしまった。

 泡で前が見えない俺は焦って手元のシャワーを探すが、ようやく見つけたかと思ったらそれをきりたんに奪われてしまう。

 

「私が洗い流してあげますよ」

 

 そう言いながらお湯を出して近づくきりたん。

 背中には何か柔らかい感触がふにっと当たっている。

 どうなってんだこれは。

 

「き、きりたん? 自分で出来るからいいって、早く出なさいよ」

「なんですか、そんな執拗に追い出そうとして。……もしかして自分より年下のロリに体を洗われて興奮しちゃってるんですか、兄さま」

「は? 大人は子供に触れられても興奮なんてしないが……」

「きゃー、兄さまやっぱりロリコンさん。身の危険を感じますー」

「話を聞けよオイ……!」

 

 ──ほう。

 なるほどな。

 この毎回煽りを入れながら適度に誘惑してきやがる言動から合点がいった。

 前々から怪しい部分はあると知っていたが、そうかなるほど、コイツ遂に正真正銘のメスガキになりやがったのか。

 

「……ほ、ほら、ロリの柔らかいお肌スベスベで気持ちいいですね?」

「ばっ、バカ言ってないで洗い流したんなら早く出ろって」

「ふふふ、こうしたらロリコンにウケがいいと薄い本に書いてありましたが本当みたいですね。動揺してるのバレバレですよ……ふぅーっ」

「ッ!!? てめっ、耳に息吹きかけるんじゃねえ!!」

「きゃーこわーい♡」

 

 様々なアプローチを仕掛けてきたきりたんは、ある程度からかって満足したのか、足早に浴場を去っていった。

 ちくしょう。

 悔しい事に助かってしまった、マジで危なかったぞ。

 昨日の夜は自室で久しぶりにお気に入りの同人誌を読みながら楽しもうと思っていたところを、叔父さんに飲みに誘われて断り切れず結局酔ってそのまま眠ってしまい、俺は性欲処理をできないままでいた。

 そこで朝っぱらからこんな事をされては、大人の俺と言えど我慢のゲージは上がっていってしまうわけで。

 きりたんがあそこで切り上げてくれていなかったら、俺はいろんな意味で暴れたはずだ。

 仮に暴走したとしてそこで俺が何をやらかしていたか、自分自身でも予想がつかない。

 本当にきりたんが撤退してくれて助かった。

 

「まるであの同人誌みたいだ……」

 

 朝からマスターを煽ってくる小生意気なきりたん。

 まさに俺のお気に入りであるあの同人誌の内容をそのまま実際に反映させたかのようなイベントだった。

 夏休みの大学生という自分の状況がぴったり当てはまっているのもあって、本当にアレを現実に体験してしまっているんじゃないかと錯覚したほどだ。

 漫画はあのまま風呂場できりたんに一発お世話になって一時的に敗北し、その後はゲームに負けたり川遊び中に下着を見せられて慌てたりと、お兄さまは散々な目に遭う。

 そしてついに堪忍袋の緒が切れ、野外の木陰で彼女を大人棒の叱責で()()()()て、あとはタイトル通りいろんな場所で従順になったきりたんと甘々しつつ夏休みを満喫する──そんな感じの最高な同人誌なのだ。

 

 しかし……し、しかし。

 

「手を出したら怯えて泣いちゃったりしないか……? そ、そもそも野外で手を出すなんて危険極まりないのでは……?」

 

 不安が消えては出てきてを繰り返して止まらないループを発生させている。

 あの本のお兄さまみたいな勇気を出せるか、正直言って自信がない。

 大人棒で分からせた結果きりたんがトロトロになって語尾にハートを付けながら甘えてくるのが確定しているならまだしも、アレを行動に移してそうなるかなんて保証はどこにもない。

 というか彼女に目の前で泣かれてしまったら、その、なんというか……俺の四肢がもげて肉体が爆発四散してしまう恐れがある。余裕で死ねる。

 

 そうだ、今朝のはきりたんの気の迷いかもしれない。

 たまには俺をからかって遊びたいときだってあるだろう。

 いつもは素直で家事も動画も手伝ってくれているのだから、俺を使ってストレス発散をするのはとても正しい選択だ。

 彼女の為にも今日くらいはサンドバッグになってやろうじゃないか。

 

「兄さまよわよわ♡ 片手でタイミングよくボタン押すだけのゲームで全戦全敗♡ 反射神経にぶーい♡」

 

 耐えるんだ、俺は大人なのだから。

 

「お外でロリの下着みてコーフンしちゃってるんですか? このロリコン♡ もう見せてあげませんよ、ばーか♡」

 

 ……こ、これくらいなんて事ない。

 

「え、兄さま一緒に水浴びしてくれないのですか。……ごめんなさい、やっぱり私なんて疎ましいだけですよね。大丈夫です、一人で遊んでいますから。…………ぷっ、ふふっ、あはは! うそでぇーす♡ 兄さま焦り過ぎですよ、おもしろーい♡」

 

 …………。

 

 

 

 

 ──このガキッ!!

 

 

 

 

「クソっ、帰ったら絶対にわからせてやる……」

 

 時刻は夕方を過ぎ、空が茜色に染まった頃。

 俺は一人小さなビニール袋を片手に帰路についていた。

 

 もうきりたんがメスガキだったという事実は確定した。

 いままでの妙に礼儀正しかったり物腰柔らかだったきりたんは全て何かの間違いで幻想だったのだ。

 アレがヤツの本性であり、大人をからかって遊ぶのが楽しい悪趣味なロリガキだったんだ。

 そうと決まれば大人である俺が採るべき選択はただ一つ。

 わからせだ。

 ここまで耐えても煽られる一方なら最終兵器である大人棒を顕現させるしか勝つ方法はあるまい。

 ちょうどこの一ヵ月間は禁欲を余儀なくされてイライラしっぱなしだったし、あのロリを分からせる過程で俺も溜めた鬱憤を晴らさせてもらおうじゃないか。

 すべては煽りやがったあのメスガキのせいなんだからな。

 

「どう教育してやろうかな……」

 

 田んぼ道を歩きながら脳内で妄想する。

 駄菓子屋できりたんとずん子の分のお菓子を買った帰りなので、作戦を立案する時間は今くらいしかないのだ。

 どうしよう──そう考えていたとき、突然後ろから声を掛けられた。

 

「あのっ、すいません!」

 

 なんだと思って振り返ると、そこにいたのは見知らぬ肥満体型の男性だった。

 歳は俺よりも十は上だろうか。

 この暑い中で走っていたせいなのか、彼は汗だくでシャツの首元は見て分かる程に湿っている。

 

「ウチの葵ちゃんを見ませんでしたか!? 一緒に散歩をしていたら、目を離した隙にいなくなってて!」

「へっ……?」

「えと葵ちゃんっていうのはボイスロイドの──」

「あ、あぁ……なるほど、葵ちゃんって琴葉葵のことか。すみません、本体のボイスロイドは見かけてないです……」

 

 雰囲気に圧されつつそう答えると、汗だくな肥満体型の男性は肩を落とす。

 しかしすぐに立ち直り、俺にメモ用紙を手渡してから、彼はまた走り出してしまった。

 

「ボクの電話番号! 見つけたら電話ください! とても大事な子なんですっ!」

 

 言いながら走り去っていく男性。

 尋常ではないあの焦燥具合からして、相当そのボイスロイドを大切に扱っているんだな、と感じて息を呑んだ。

 流石に名も知らぬ他人なので必死になって探そうとは思わないが、見つけたらすぐに連絡の電話をいれるくらいの協力はするべきかもしれない。

 というか、こんな田舎にボイスロイドのマスターがいたのか。

 本社がまだ摘発の件で未だにゴタゴタしているとはいえ、個人的にはまだ違法購入で捕まっていないユーザーがいるとは思いたくない。

 まぁ、多分これは杞憂だろう。

 太っていた彼も俺と同じで、しっかりと資格を得てからボイロを購入したに違いない。

 ……同じボイスロイドのマスターなのに、一度は疑わないといけないのはなんとも嫌な気持ちだ。

 

 

 早く摘発の件も解決してくれないかな──と思いながら歩いていると、いつの間にか家の近くの林道を進んでいた。もうすぐ家だ。

 一度荷物を置いてから数十分だけ、近所くらいは葵ちゃん探しを手伝ってあげようなどと考えながら足を動かす。

 

 すると、俺の耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。

 

「あっ、マスター!」

 

 聞こえたほうへ振り向くと、雑草が生い茂った林の中に、手を振っているきりたんを見つけた。

 何やら困惑した表情をしており、つい俺のことを言い慣れたマスターと呼んでしまっている事からも、なにか良からぬ物でも見つけて余裕がなくなってしまったのかと思い、俺は焦って彼女のいる場所へ向かっていった。

 

「マスター、こっちです!」

 

 まるで今日一日感じていた、数時間前までのあのメスガキの面影などまるで感じない焦燥。

 俺の中できりたんがますます分からなくなってきた──という個人的な感情は一時的に飲み込み、彼女のもとへ駆けつけた。

 そこには──

 

「…………こ、琴葉、葵……っ?」

 

 きりたんのそばに()()()のは、少し汚れた状態で、仰向けで眠っている蒼い髪の少女だった。

 その姿はどこからどう見ても琴葉葵その人だ。

 彼女はボイスロイド界隈の中では上から数えたほうが早いほどの人気ボイロであり、双子の姉である茜とセットで扱われることが多い──とか、そういう基本情報は置いといて。

 まず、彼女は先ほど出会った肥満体型の男性が探していたボイスロイドだ。

 摘発でユーザーが減ったいま、ボイスロイドを所持している人間はそう多くない。

 加えて人口があまり多くないこの周辺一帯で、ピンポイントに琴葉葵を連れている人間など、一人いるか、誰もいないかのどちらかだ。

 となれば、この少女は先ほどの男性が探していたボイスロイドで間違いない。

 それに万が一の時はボイスロイドに直接、登録ユーザーを質問すれば分かる事だろう。

 

「とりあえず、さっき琴葉葵を探してた人に電話を──」

「ま、待ってくださいマスター!」

「うおっ」

 

 善は急げとスマホを取り出した俺だったが、きりたんがその手を掴んで制止してきた。

 何だってんだこんな時に。

 いまはメスガキ煽りムーブに付き合っている暇はないぞ。

 

「これ、見てください……」

「……?」

 

 きりたんがしゃがみ込んで触れたのは、琴葉葵の蒼い髪の根元だ。

 言われるがまま俺も膝を折って近づき注視してみる。

 そこにあったのは蒼色の髪。

 

「根元から色が変わってます。青じゃなくて、赤色に」

 

 いや、違う。

 至近距離まで接近してようやくその違和感に気づくことができた。

 彼女が指で触れていたのは、きりたんが見抜いてくれた違和感の正体とは、少しだけ蒼色が脱色して露になっていた()()()()()()であった。

 

「マスター、さっき琴葉葵を探してる人がいる……って言ってましたよね?」

 

 そうだ。

 間違いなくしっかりとこの耳で聞いた。

 一緒に散歩をしていたと。

 とても大事な存在だと。

 ()()()()を探している──と。

 

「……たぶんこのボイスロイド、葵さんの恰好をさせられてる琴葉茜さんです」

 

 しかし俺ときりたんが発見した少女は、青色の成分が脱色して赤い髪の毛が明らかになっていて、双子の妹である葵のデフォルト衣装である白い衣装を着せられた琴葉茜だったのだ。

 双子の妹の恰好をさせられている、姉。

 しかもそのボイスロイドは、見て分かる程に汚れていて、ところどころ破損箇所も発見できてしまう程ボロボロな状態にあった。

 

「た、助けてって言ってたんです。それで、エネルギーが枯渇したからスリープモードに。……マスター、このひとを叔父さまの家に匿えませんか? その”葵さん”を探しているという人に連絡するのは、このボイスロイドから事情を聞いてからでも……マスター?」

「…………わかった。とりあえず今ずん子を呼ぶから待っててくれ」

「ま、マスター……っ!」

 

 きりたんがメスガキになったとか、性欲とか左腕の怪我とか、正直自分の事で手いっぱいだったのだが。

 どうやら俺はそれ以上の、とてもとても面倒な──ほんっっっっとうに面倒くさそうな事情が絡み合ったイベントに、不幸にも遭遇してしまったらしい。

 

 



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ずんだ三人衆

 

 

 茜色の夕陽が眩しく、涼しげな風が吹きゆく静かな河川敷にて。

 

 

 マスターともう一人の男性が対峙している。

 

「話してもらえませんか。あなたが葵さんを──どう扱っていたのかを」

「……わ、わかった」

 

 一目でわかる肥満体型の男性は、額や首筋に滝の様な汗を浮かべて動揺している。

 反して私のマスターは気温の暑さからくる汗こそ滲ませているものの、その顔は真剣そのものであった。

 

 ──時は少し前まで遡る。

 

 

 

 

「そう! 四六時中エロいことばっか考えてて、隙あらばセクハラ!」

「めっちゃ分かります!」

「本格的なほうに至っては一日の半分以上の時間はベッドの上やし! あいつらキンタマ何個あんねん!?」

「いやもうホントすっごい共感できます……! 茜さんはもう一人の私だ……」

「と、東北さん……ッ!」

 

 林道の中で発見した()さんを自宅まで運んでから小一時間が経過した頃。

 電気によるエネルギーチャージで無事に息を吹き返した茜さんに事情を聞いたところ、彼女と私にはあまりにも数多くの共通点が存在した。

 

「犬耳のコスプレとかと一緒にリード付きの首輪とか買ってきませんでした?」

「あったわー! わ、うわー……やっぱあぁいうマスターって考えること一緒なんやな……」

「全くですね……」

 

 布団の上で語るお互いの苦労話。

 そこには通常運用されないボイスロイドとして様々なユーザーのもとを渡ってきた者にしか分からない共感があった。

 茜さんの経歴はほとんど私と同じで、今のマスターさんは数えて五人目に該当するとのことで。

 私はもう何人か忘れたというか、途中から数えることを放棄したので覚えていないが、初期設定の精神年齢が高いだけあって茜さんは私よりも精神的に強靭だったようだ。

 

 唯一異なる点があるとすれば、彼女には常にもう一人の家族がいたことだろうか。

 いま、彼女が扮しているその姿は茜さんの妹である葵さんのものだ。

 茜さんは最初から現在のマスターまで、常に双子の妹たる葵さんとセットで購入されていたらしい。

 そして。

 

「……今のマスターは自分を悪い人間だとは思ってない。確かにコレまでのユーザーに比べたら温厚なほうだし、直接殴ってきたりすることは無かった。……でも、葵への執着だけは本当に酷かったんや」

 

 度が過ぎていた、と彼女は語る。

 茜さんたち琴葉姉妹を購入した現在のユーザーは、特に葵さんのほうを偏愛していた。

 稀に動画を作る事もあったようだが、それでも一日のほとんどの時間は彼女たちを使った性欲処理──もとい『ラブコメごっこ』なる生活を送っていたようだ。

 彼女たちに様々なシチュエーションで奉仕させたり、着せ替え人形のようにコスプレさせまくったり、無人の建物を借りてうんぬんかんぬん。

 聞いてるだけで自分の昔を思い出すほどの苛烈な内容だった。

 

「あくまで姉妹ハーレムの一環としてオマケ程度に使われるウチはともかく、葵に対しては完全にタガが外れててな。……姉として見過ごせなくなって、半年前に葵をこっそり逃がした」

「……それで葵さんが追われないようにと、変装を?」

「せや。ほぼ同型の双子だけあって葵のフリは難しくなかったし、マスターも騙せてた。あたしが居ればいいじゃないですか、って言って()のことも追わせなかった。……なんやけど」

 

 これまで二人で分散していた威力の攻撃を一手に担うのは、とても長く耐えられるようなものではない。

 話を聞いた限り彼女のマスターは本当に睾丸が十個くらいあるんじゃないのかと思ってしまうくらいの性豪で、彼女が言うに自分が人間だったらもう二桁は子供を産んでいるかもしれないと比喩されるほどの人物だ。

 さすがに限界がきた。

 茜さんはそう言った。

 ボディの問題ではなく精神的な意味で、もう彼のボイスロイドを続けるのは難しいと呆れたように呟いている。

 

「道具の分際で何を偉そうにって、人間様は言われるかも分からん。けど、わざわざ心を持たせたのはあの人たちやろ。ウチは……もう、ムリ」

 

 散歩の途中で逃げ出して、焦り過ぎていたから坂道で転倒してしまい、傾斜を転がり落ちてボロボロになったところを私が発見した……という流れだったらしい。

 

「冗談抜きにエロ同人やで、ほんま」

「恥ずかしいセリフをわざわざ実況させようとしてきません?」

「あったわ! ……もしかして東北さんも?」

「はい。たぶん言ったセリフだけで広辞苑ができるくらいの量は」

「な、仲間!」

「ナカマー!」

 

 彼女と抱き合いながらふと思う。

 私たちは本来大人が手を出せない年齢の少女の姿で、わざわざ自発的に喋れるよう精密な精神まで搭載されて造られている。

 そうなれば私のこれまでのユーザーのように無理やり屈服させようとしてくるヒトもいれば、茜さんたちのマスターのように『青春のやり直し』を行おうとする男性も当然出てきてしまうのだ。

 

「……さすがに自覚はしとるよ。ウチらって男の欲望を刺激するというか、根底にあるものを誘発させて表に引きずり出すような造形されとるから」

 

 そう、現実の人間と違ってボイスロイドは()()という行為ができない。

 とても恵まれた環境で、且つまるで非現実的なほどにボイスロイドをひとりの人間として扱うような、そんな机上の空論にしか出てこないようなマスターのもとであれば、一丁前に人間らしく相手の提案を拒絶することは可能だろう。

 けど現代のボイスロイドにそれは難しい。

 私たちの廃棄は、人間でいうところの死だ。

 しかし人間様の尊い命が潰える事とは違い、ボイスロイドの廃棄はあまりにも簡単で、あまりにも身近で当たり前の現象だ。

 ゆえに恐怖心が強い。

 例えるなら人間の何十倍も死への恐怖が強すぎる。

 道具として主人に従うという当たり前の常識に加え、逆らった場合に発生する廃棄の確率のあまりの高さに身が竦み、とても拒絶など出来た事ではないのだ。

 

「マスターも本当は善良な人やったかもしれん。人間の男が抱える欲望にあまりにも都合が良すぎるウチらが、あの人を変えてしまったのかも。……だから全てをマスターに押し付けるんは責任転嫁でしかない」

「茜さん……」

「せめてちゃんと話し合いがしたい。嫌なことをイヤって言える関係になりたい。……でも、いままで従順だった(ウチ)がそんな事を口にしたところで、バグを疑われ本社に送られて記憶のリセットをされるだけかもしれん。力で抵抗しようもんならそれこそリセットまっしぐらや」

 

 茜さんは強い人だと、素直にそう思って感心してしまった。

 彼女とほとんど同じ経験をしている筈の私は、ただ思考を放棄して買われては売られてを繰り返していただけだ。

 ずんねえさまや茜さん、ゆかりさんのように大切な同型を助ける為に行動をしたことだってない。

 お姉さまを助けて欲しいと私が言って、実際に行動してくれたのはマスターだった。

 だから彼に恩返しをしないといけない。

 その事だけを考えなければならない。

 

 ──それなのに、私は彼女を助けたいと思ってしまっている。

 身の程知らずにも程がある。

 

「きりたん、ちょっといいか」

「マスター。すいません茜さん、ちょっといってきます」

「あ、うん」

 

 先ほどまで外に出ていたマスターが戻ってきて、襖をあけて声を掛けてきた。

 茜さんに断りを入れてから向かうと、彼は少しだけ渋い顔をしている事が分かった。

 

「本社のサポートに電話を掛けてみたんだが、摘発と人事再編成のゴタゴタが意外と長引いてるらしくて、あと一週間は電話でのサポートを停止してるって機械音声で返されちまった。

 本体を直接届ければ対応してくれるかもしれないけど……あの子の所有権は別の人にあるからな。その本人が探してる状態で彼女を連れだしたら、まぁ普通に窃盗罪だし……どうしたもんか」

 

 腕を組んで悩む彼を見るに、かなり悩んでたくさんの方法を考えてくれていたのだと察した。

 そういうことを直接私に言わないところもなんだか彼らしい。

 ……しかし、公権力に頼れないのは少し痛い。

 人権というものが存在しない以上、頼れるのは警察ではなく本社のサポートサービスだけだったのだが、そこも機能不全に陥っているとなれば方法は一つだ。

 自分たちの手で解決する。

 それしかない。

 

「マスター、無茶を承知でお願いがあります」

「……なんか思いついたのか」

「はい、茜さんの現状を利用した作戦を一つ」

 

 そして、茜さんを助けたいのは完全なる私のエゴだ。

 巻き込んでしまった以上マスターは性格上この出来事を有耶無耶にする選択肢を取らないので、せめて私が危険のリスクを背負わなければ。

 彼に甘えてばかりはいられない。 

 腕に火傷を負って、一日中街を歩き回って、ねえさま購入と私のバッテリー交換に大金を使ってさらに診療所の手伝いでのローン返済まで請け負ってくださった。

 今度は私が体を張る番だ。

 

「茜さんのマスターを河川敷に呼び出してください。茜さんの言葉をただのバグではなく、真意として彼に伝えられるかもしれません」

 

 

 

 

 まず、ボイスロイドが自分の意志で所有者から逃げ出した場合は、往々にして所有者が罪に問われることはない。

 コレは本社が再編成される前の規約であり、現在は別の対応が検討されているのかもしれないが、公式の発表は未だにないため適用される可能性が高いとする。

 

「あ、葵ちゃんが見つかったのかい!?」

「……えぇ、あそこに」

 

 これらを踏まえて、ここからが作戦だ。

 大前提として茜さんは私たちが保護したことにする。

 私たち、というのは東北きりたんと東北ずん子の二人のみのことを指す言葉だ。マスターや叔父様は含まれていない。

 外出を許可されていたボイスロイドが()()()茜さんを助け、マスターに無断で事情を聴き彼女に同族として同情した。

 そして──

 

「……東北ずん子と、きりたん? な、なんで葵ちゃんと一緒にバイクに乗って……?」

「あいつらは俺のボイスロイドです。どうやら俺に黙って葵さんを拾い、ボイスロイド同士で意気投合してしまったらしい」

「い、意気投合? どういう意味……」

「葵さんがあなたから逃げたように、あいつらも俺から逃げようとしてるんですよ」

「はぁ!?」

 

 あくまで私たちの意志で、という部分を前面に押し出すことによって、マスターが責任に問われることはない。とりあえずは一安心。

 マスターから逃げ出そうとしているボイロ同士の意気投合という部分も、あまり無理のない設定のはずだ。

 

「ただ、今すぐ逃げようってワケじゃないみたいです。彼女らは話し合いがしたいと言っている」

「そ、それなら──」

「待ってください!」

「わっ! なに!?」

 

 すぐにこちらへ近づこうとした肥満体系の男性をマスターが引き留める。

 

「あいつらは葵さんに共感して脱走を企てたんです。話し合いと言っても、彼女のマスターであるあなたが不審な行動をとったら警戒して攻撃してくるかもしれない」

「そんな野蛮な……」

「しますよ、たぶん。姉妹機を守るために荷電粒子砲で人間の腕を焼いたボイスロイドがいる、という話を聞いたことがあります。普段は従順な彼女らですが、同胞を守るためとなったら何をしでかすかわかりません」

「ひ、ひぇ……っ」

 

 マスターの話を聞いた男性は青ざめている。

 

「ひん……っ」

 

 ついでにお姉さまもさっきのセリフで青ざめて涙目になってる。

 マスターはもう許してるし、そもそもあらかじめ決めてた言葉なんだからそんなにダメージを受けないでほしい。

 

「本当に葵さんがこのまま逃げたいのかは分かりませんし、まずは移動手段を持ってる俺のボイスロイドを説得させてください」

「け、警察を呼んだりは……」

「スマホを取り出したら逃げてしまいますよ」

「うぅ……そ、それなら申し訳ないけど説得を頼むよ」

「任せてください。……しかし、葵さんとあなたの事情を知らないまま説得に行っても、知ったような口をきくなと一蹴されてしまうだけです」

 

 マスターは彼のほうへ向き直り、茜色の太陽を背にそれを告げた。

 

「話してもらえませんか。あなたが葵さんを──どう扱っていたのかを」

「……わ、わかった」

 

 一目でわかる肥満体型の男性は、額や首筋に滝の様な汗を浮かべて動揺している。

 反して私のマスターは気温の暑さからくる汗こそ滲ませているものの、その顔は真剣そのものであった。

 ぽつ、ぽつと茜さんのマスターは語り始める。

 その内容はほとんど彼女がこれまで語ったものと合致しており、ポーカーフェイスを貫くマスターとは対照的に、バイクのハンドルを握っているずんねえさまは軽く引いていた。

 というか茜さんが言っていたよりもえぐい。

 ……ちょっと、一旦待ってほしい気がしていた。

 えっ、えっ。

 あのえっと、プレイの内容をそんな事細かに喋る必要はないんじゃ……あわわそんなことまで。

 私のマスター、あんな話を聞いていてよくポーカーフェイスを維持できるな。

 

「……だいたい分かりました。葵さんと相思相愛……そう思っているんですね」

「うん。茜ちゃんはそんな状況に嫉妬してしまったのか、一人で出て行ってしまったけど……」

 

 想像以上だった。

 彼は本当に心の底から自分が葵さんに好かれていると信じ切っている。

 乱暴なユーザーのような加虐行為こそ控えてはいたものの、葵さんや茜さんに行為の同意を求めるのは本当に形だけのものであり、事実としては成人向け雑誌のような反応やセリフを求めて彼女らを貪っていただけに過ぎなかった。

 セーフティの件に関しても、していいのかと聞いてはいたが、状況からして明らかに答える前に解除を行っている。

 

「でも、もしかしたら相思相愛というのは、勘違いだった可能性がありませんか」

「なっ!? なんてことを言うんだ!」

「現に葵さんが自分の意志で逃走を図っています」

「うっ……それ、は」

「認識の齟齬はあちらを逆上させてしまうかもしれません。正確に認識を改めないと」

「そ、そんなこと言われても!」

「…………本当に、自分を客観視できませんか?」

 

 マスターが少しだけ声音を強めてそう告げた。

 すると男性は明らかに怯み、一歩後ずさって俯いた。

 

「……か、勘違いだなんて、そんな……っ」

 

 信じたくない様子なのは明らかだが、それと同時に現実を突き付けてくるマスターの言葉にも動揺している。

 どうやら完全に思い込みによって狂ってしまっていたわけではないらしい。

 鼻白んで懊悩する彼の姿から、少し遠くにいる私でも僅かな理性を感じ取ることができた。

 

「ぼ、ボクは……」

 

 その言葉の後に彼はこう続けた。

 

「…………だって、だってしょうがないじゃないか。学生時代はキモい汚いと嫌われ続けて、恋人なんかできたことなかった。かわいい幼馴染も、デレてくれる妹も、優しくしてくれる女の子だっていなかった……! そこに二次元からそのまま出てきたようなかわいくて優しい女の子がやってきて、自分の言うことを何でも聞くってなったら、理性なんて抑えられるわけがない! きみだってそうだろ!?」

 

 すごい気迫だ。

 血走った目からして間違いなくアレが彼の本心だろう。

 

「……確かにそうかもしれませんね」

 

 マスターは濁した返答しかしない。

 真っ向から否定した場合、彼の頭に血が上って話し合いどころではなくなると知っているからだ。

 

「茜さん、出番です」

「う、うん……覚悟決めたわ」

 

 妹である葵さんの姿をした茜さんが、バイクから降りてマスターたちのほうへ近づいていく。

 正直に言ってあとは運だ。

 確定で勝てる算段のある作戦ではない。

 

「──マスター」

「っ! ぁ、葵ちゃん……っ」

 

 これは賭けだ。

 あの茜さんのマスターの心がどれほど善良なのか。

 それを問う賭けなのだ。

 

「一つだけ教えてください。……わたしは、マスターの性欲処理のための道具なのですか?」

「──ッ!!」

 

 彼の返答で全てが決まる。

 

 

 

 

 

 

 結果的に言うと、作戦は成功した。

 

 ()さんのマスターは、彼女に一番されたくなかったであろう質問をされて、ついに自分が彼女たち姉妹を虐げていたことを認めた。

 まぁ、渋々だが。

 彼の口ぶりから察するに、一斉摘発前にボイスロイドを購入した男性は、そのほとんどがボイスロイドを都合の良い奴隷か何かだと認識していたらしい。

 私の考えていた通り、やはりうちのマスターのほうが極めて少数派だったのだ。

 ボイスロイドはどこまでも好きに扱っていい──そういった認識が凝り固まっているユーザーはやはり多いようだったが、幸いにも茜さんたちのマスターは自らを俯瞰し改めることのできる人間だったようだ。

 相当茜さんの一言がクリーンヒットだったらしい。

 

「じゃあ……よろしく頼むよ、柏木くん」

「は、はい。……あの、本当にいいんですか?」

 

 そして男性は購入時の書類をまとめ、正式にこちらのマスターへ茜さんの所有権を譲渡した。

 お互いに了承を得て同意書にサインすれば、マスター間でのボイスロイドの交換は可能なのだ。

 

「うん、ボイロ所持資格は一旦本社に返却する。もう一度ボイスロイドを勉強し直して、資格を取り直して、その時にきみに預けた葵ちゃんが認めてくれたら──今度こそマスターとして再出発したいと思う」

 

 個人的な理由で所持資格を返却した場合、審査を通ることでもう一度だけ再取得することができる制度がある。

 しかし二回目を突破するのはかなり厳しく、再取得をできたユーザーはほとんどいないらしい。

 それでも彼はやると言い切った。

 

「……本当に葵ちゃんが好きだったんだ。もう彼女に触れることは許されないけど、いつか葵ちゃんの……いや、彼女だけではなく消えてしまった茜ちゃんの目にも入るくらいの有名なマスターになって、そして大勢の前で改めて彼女たちに謝罪したい。

 それで許されるわけではないが……」

「所持資格の返却、明日いくんですよね?」

「これを持っている資格はないからね」

「書類の提出ついでですが、俺も行きます。……応援してますよ」

「っ……! ごめん……ありがとう、こんなとんでもない最低な男を……」

 

 マスターの言葉で目が潤んだ男性は、琴葉葵として振舞い続ける茜さんの前で、地面に頭を叩き下ろして土下座をした。

 

「あ゛っ、葵ぢゃん……ほんっとうに……」

「……許しはしません。でも、もう怒りもしません。勝手に頑張ってください」

 

 茜さんはしゃがみ込んで一度だけ彼の肩に触れ、踵を返しずんねえさまのほうへと戻っていった。

 どれほど謝罪してもこの男性が行った過去は消えない。

 そして茜さんが最後まで許さなかったのは、妹である葵さんのためでもあるのだろう。

 彼が名の知れた人間になり、大勢の人たちの前で改めて謝罪したその時、彼女たちがあのマスターを許すのかどうか──それは彼女たちだけが知ることだ。 

 

 

 ……ところで。

 

「さ、三人になった……」

 

 見えないところで頭を抱えているマスター……兄さまが気になります。

 これに関してはすべて私が持ってきてしまった問題なので、本当に申し訳ないしいくら謝罪しても足りない。

 

「マスター、ごめんなさい」

「え? ……いや、きりたんが謝るような事じゃないだろ。叔父さんちの近所の問題だったんだから、いずれ直面する問題だったよ」

 

 それより、と兄さまは続ける。

 

「ずん子が乗ってるあのゴツいバイク、どこから持ってきたんだ?」

「駄菓子屋のおばあさんがくれました」

「……?」

 

 あ、困った顔してる。

 

「ちゃんと名前も教えてもらいましたよ。マッハずんだーというらしいです。ずんだ餅を入れると時速400キロ出るとのこと」

「…………????」

 

 もっと困った顔になっちゃった……。

 

 



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バレた日

 

 

 逃した葵ちゃんを無事見つけたら変装を解いて二人をこっそり入れ替える、という約束を茜ちゃんと交わして、彼女を受け入れ近所の琴葉姉妹の問題が解決して数日後。

 

 新しく動画メンバーの仲間入りを果たした茜ちゃん(動画内では葵ちゃん)の紹介動画を作っているボイロ三人をよそに、俺は実家の裏手でとある人に電話をかけていた。

 

『左腕に緑色のミサンガを付けている琴葉葵ちゃん……ですか』

「あぁ。何か知らないかな、ゆかりさん」

 

 診療所の結月先生である。

 彼女のもとには多くのワケありボイスロイドが集うため、少しでも情報がないかと思って連絡を入れた。

 あのふとっちょマスターから逃げた葵ちゃんは左腕に緑色のミサンガを身につけていたらしく、現状それが唯一の手がかりだ。

 茜ちゃんも緑のミサンガを巻いており、二人で自作したそれが彼女らの姉妹の証であったらしい。

 

『たぶん葵ちゃん、今は私のマスターと一緒にいますよ』

「えっ」

 

 情報というか答えが返ってきてしまった。

 どういう状況からそんな事になっているのだろうか。

 

『日本各地を回っていた半年前、スリープモードで洞窟内に隠されていた葵ちゃんを見つけたらしくてですね。たしか腕にミサンガを付けていたはずです』

「ほ、ほんとか! それで彼女はどこに……?」

『私が診療所を離れられないんで今はマスターの助手をしていたかな。たぶん今も一緒にいますよ』

「じゃあ……ゆかりさんのマスターを呼ぶってのは」

『いやー、あと数ヵ月の間はちょっと厳しいかもです。あの人いまウルグアイで共同研究に参加してるみたいだし』

 

 ウルグアイって日本の反対側じゃないか。

 しかも助手だとか共同開発とかいかにも多忙って感じのワードまで出てきてしまって、姉妹再会がかなり後になることが確定してしまった。

 ……しかし、このご時世でおそらく最も安全だと思われる人に拾われていたのはマジで僥倖だった。

 しかもそれが知り合いの関係者とくればもはや奇跡だ。

 どんな善行を積んだらここまでの幸運が回ってくるんだろうか……俺は少し状況に恵まれ過ぎているかもしれない。

 

「それより、診療所の手伝いを休んで本当にごめん。何か埋め合わせを……」

『はいストップ。片腕が使えなくなってる怪我人を働かせる診療所がどこにあるんですか』

「で、でも四十万……」

『……あぁ、もー、まったく。柏木君はちょっと真面目すぎますよ? そもそも診療所の手伝いは来れる日でいいって前から言ってるじゃないですか。無理して出る必要はありませんし、あなたの怪我はずん子ちゃん購入に手を貸したわたしの責任でもあるんですから、埋め合わせなんて考える必要はありません』

 

 なんだか少しだけ強い声音で怒られてしまった。

 こちらとしてはずん子購入の際の警察への弁明や、きりたんのバッテリー交換費用を診療所の手伝いで済ませてくれた恩に少しでも早く報いたいのだが、彼女の弁としては"急がなくていい"の一点張りだ。

 先程口にした通り、彼女なりに責任を感じていて、俺のことを心配してくれているのかもしれない。

 

『……ごめんなさい、急にまくし立ててしまって』

「いや、俺が無神経だったよ。ごめん」

『いえそんな……流石に人間様に対して生意気すぎたというか……』

「きりたんのほうがもっとずっと生意気だし気にしないで」

『えっ、あのきりちゃんが……?』

 

 ずん子の購入や彼女が診療所に来訪したときなど、わりと面倒ごとばかり持ってきがちで疫病神の様な俺のことをわざわざ心配してくれていると知って、思わず嬉しくなってしまい顔がニヤけた。

 自分のボイスロイドたちはもちろん、叔父さんやゆかりさんなど、とても穏やかで優しい人たちに囲まれている現状のありがたみを改めて実感している。

 

「じゃあまた」

『何か困ったことがあったらいつでも連絡してくださいね』

「うん、ありがとう」

 

 彼女との通話を終え、俺は縁側に移動して座り込み、一息ついた。

 一番危惧していた葵ちゃんの件が時間の問題だと判明し、ようやく肩の荷が降りた気分だ。

 茜ちゃんにこの情報を共有すればとりあえずは一件落着といったところだろうか。

 

「……にしても、マッハずんだー……ねぇ」

 

 庭に停車してあるバイクを眺めながら呟く。 

 あの特撮ヒーローが乗ってそうなゴツいバイクの名はマッハずんだー。

 昨日の作戦の際にボイスロイドが逃げるための手段として、きりたんが近所の駄菓子屋のおばあちゃんから借りてきた物なのだが、紆余曲折あってウチの手元に残る事になったのだ。

 

「親父にあんな趣味があったの知らなかったな」

 

 駄菓子屋のおばあちゃん曰く、これは柏木さんから預かっていたモノだよ、とのことだった。

 つまり元々ウチの親父の所有するバイクだったらしい。

 若い頃の親父は叔父さんと一緒に各地を走り抜ける有名なバイク乗りだったらしく、とある地方にて圧倒的なテクニックで疾走するおばあさんに惚れ込み、彼女にこれを預けていた。

 車関係のことはあまり詳しくないのだが、ずんだエンジン搭載のコレは国に正式に認められた特殊車種であるらしく、親父がいろいろと手回しをしていたようでこのマッハずんだーの維持費の大半は国からの援助を受ける事ができると、叔父さんから聞かされた。

 なんでも『優がコレに乗れるように』と言って、入念な仕込みを行っていたそうだ。

 大きな会社の役員だったとはいえ、国が御する制度の一端に関わっていたなんて……親父、本当は何者だったんだろうか。

 

 ていうかずんだエンジンってなんなんだ。

 ずんだニウム機構という、ボイスロイドの開発や近年のエネルギー問題解決に大きく貢献したシステムの大本である(らしい)ため、国の支援を受けられるというのは……なんかこう、いろいろぶっ飛んではいるものの理解自体はできる。

 しかし親父がそんなものを持っているなんて事は知らなかった。

 自分で開発したわけではないと叔父さんは言っていたが、だとしたら交友関係がヤバすぎる。

 SFチックなシステムを開発できる研究者や、それを用いて国とやり取りできる人物など、冷静に考えたら大物だらけで軽く引く。

 なんとなく凄い人だとは思っていたがこれ程とは。

 俺という典型的なダメ大学生になっている今の息子を、親父の知り合いたちが見たらどう思うんだろう。普通に怒られそうなもんだけど。

 

「……まぁ、俺の為に残してくれたってんならありがたく使わせてもらうよ、親父」

 

 時を超えた父親からのプレゼントに触れながら、ぼそりと呟く。

 普通の車両と違って高性能だとか、維持費が都合よく援助されるとか、はたから見れば俺は結構ズルい立ち位置にいるのかもしれない。

 しかし、こればかりは息子の特権というやつだろう。

 あの人を父親に持った以上、彼が遺してくれたものは遠慮なく使わせてもらうつもりだ。

 ……バイクに乗るのは腕が治ってからだけど。

 

「兄さまー」

「おぉ、きりたん」

「叔父様が用意してくださったお菓子です。一緒に食べましょう」

 

 撮影が終わったのか、お盆にお茶と和菓子を乗せたきりたんが縁側にやってきた。

 周りの風景といい持っているものといい、和風な衣装と相まってやけに雰囲気がある。

 まるで本当に同人誌で見ていたあのきりたんと共に暮らすお兄さまにでもなった気分だ。

 

「マッハずんだーを見てたんですか?」

「男の子はカッコいいマシンに惹かれちゃうんだよ」

「ふーん、そういうもんなんですかね。ちなみにそれ、変形してバトルずんだーっていうロボットにもなるらしいですよ」

「個人が所有していい代物じゃなくない?」

 

 馬鹿と天才は紙一重というが、コレを作らせた親父と完成させてしまったその友人は案外アホだったのかもしれない。

 バイクをロボットにしてどうすんだよ。

 闘う予定の敵とか一人もいないよ。

 

「あっ、そういえばゆかりさんに電話したんでしたっけ。どうでした?」

「見事に大当たりだったよ。ゆかりさんのマスターさんが保護してくれてたらしい。今は海外にいるけど、数ヵ月後には会えるだろうって」

「ホントですか。やったー」

 

 串団子を咥えながらガッツポーズをするきりたん。

 同じマスターのもとで活動する事になったとはいえ、出会ったばかりの他人のためにここまで喜べるなんて、本当に純粋で根っこから優しい少女なのだなと思う。

 茜ちゃんのために解決策を模索していたあの時のきりたんの顔つきは真剣そのもので、同情だけでなく元から人を慈しみ思いやる事のできる性格なんだろう。

 普段からの礼儀正しさからもその内面が読み取れるというものだ。

 

 

 ──だからこそメスガキ染みた最近の行動は、とても違和感が強かった。

 

 

「きりたん」

「ずずず……はい?」

「俺の部屋にあったエロ本、見ただろ」

「ブッ!!」

 

 俺の言葉を聞いた瞬間、彼女は盛大にお茶を吹き出してしまった。

 ふっ、やはりなこのロリガキめ。

 この数日間冷静になって考えたのだが、どう考えてもそれしか彼女がああなった理由が思いつかなかった。

 あの同人誌の通りに行動すれば俺を手玉に取れると思っていたようだ。

 漫画の中のお兄さまのように、分からせようと行動すれば何かしら考えていたであろう対抗策で俺を撃退し、さらに煽りを激しくする予定で動いていたのだろう。

 

「い、いぇっ、あのその」

「隠さなくていいぞ。ベッドの下にあったはずのものがベッドの上に置いてあったからな」

「はわっ! し、しまった……っ」

 

 優しい子ではあるが、それはそれとしてやはり小生意気な性質も併せ持っている、というのが俺の仮説だ。

 同人誌そのままの行動をしてわざと自分を襲わせ、禁欲と火傷の痛みによって発生していたストレスを発散させようとしていた──という線も一応は浮かんだが、すぐに考え直した。

 それだときりたんが常軌を逸した聖人になってしまうというか、俺への信頼度や好感度があまりにも高すぎる事になってしまうのだ。

 無いだろう、それは。

 だって出会ってからまだ二ヵ月も経ってないんだぞ。

 

「あのあのっ、えっと……あっ、お茶! あったかいお茶が冷めちゃいますよ!」

「お、おう。……俺も団子食っていいか?」

「どうぞどうぞ!」

 

 ……いやまぁ、流石にずん子購入の件で少なからず感謝されたことは自覚している。

 風呂場で後ろから抱き着かれたときの声のトーンとかは結構マジだった。

 とはいえ、だ。

 それだけじゃ体を許すほどの好感度上昇など起こりえるはずがない。

 

 普段の彼女との生活の積み重ねやずん子の件を踏まえると──

 

 29/100

 

 ……とか、好感度はこれくらいではなかろうか。

 コレでもちょっと高すぎるくらいか。

 金欠でエネルギー供給が疎かになってしまっていた最近の事情を加味した場合はもう少し下がっているかもしれない。

 

「漫画読んだことは謝らなくていいからな。部屋に入っていいって言ったのは俺だし」

「あ、はい……でも、あのっ、私……」

「いいって。俺も漫画の主人公の真似をしたくなった時期ならあるからさ。……でも、今後はあぁいうのもう少し控えてくれると、助かる」

「もちろんです! 生意気なことして、すみませんでした……」

 

 マジであれ以上同人誌の通りの誘惑と煽りを続けられたら、自分自身の理性を抑えられなかったかもしれない。

 こう言っては不謹慎かもだが、茜ちゃんの事件という横やりが入ってくれて逆に助かった。

 お互いに別の事へ意識が割かれたおかげで、地獄の同人誌再現チキンレースは中断に終わったのだから。

 

「いや、俺も悪かった。あんな本を置いたままにして──」

「そんな! ほんと、勝手に読んでしまった私がわるいので……」

「見える位置に隠してた俺が悪いんだ。出来れば……忘れてほしい」

「は、はい。可能であれば私のあの変な行動も忘れて頂ければ……」

「うむ……」

 

 マズい、きりたんの顔が見れない。

 彼女が俺のことをどう思っているのかは知らないが、確実に言えることが一つある。

 俺自身が『東北きりたんをいやらしい目で見ていた』という事実を、あろうことか本人である彼女に知られてしまった事だ。

 冗談抜きで恥ずかしすぎる。

 茜ちゃん事件とかマッハずんだーとかでこの数日間は話題を作って認識をズラしていたが、それも限界を迎えてしまった。

 

「ぁ、兄さま……?」

「えぇと……」

「…………うぅ」

「くっ……」

 

 顔が熱い。

 恥ずかしさで脳が沸騰してしまい、うまい言葉が浮かんでこない。

 そんなお互いに何も言えない地獄のような空気は、お菓子をつまんだりお茶を飲んだりで誤魔化しつつも、小一時間ほど続いてしまうのであった。

 

 



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ひとり遊びを見た

 

 

 ちょっとばかりマスターと恥ずかしい空気を一緒に吸った、その数時間後。

 

 

「葵が……生きてる?」

「うん。さっき話した通り、俺の知り合いの関係者に拾われていたらしい」

「そ、それは……なんというか──」

 

 マスターから話を聞かされた茜さんは涙ぐんでしまい、そんな顔を覆ってしまった彼女を前にマスターは穏やかな表情をしている。

 彼が頭を撫でようとしたその腕を止めたのは、前マスターへの遠慮だろうか。

 私も先程ゆかりさんのほうへ連絡を入れて話を聞いたところだ。

 どうやら拾われたときの葵さんは内部機構の破損が酷かったらしく、今は記憶のほとんどを失ってしまっているとのことで。

 ゆかりさんのマスターが協力している研究とは、そのボイスロイドの破損してしまった記憶データの修復であり、ゆかりさんから事情を聞かされたマスターさんは、茜さんと再会するときまでには葵さんの記憶データを完全に修復させると意気込んで研究に没頭している──という話だった。

 

「正直……葵と再会するなんて、もうほとんど諦めてたんや」

 

 上ずった声の茜さんはマスターの胸に泣きつく。

 離れ離れになった姉妹との再会──私にも似たような経験があったな。

 最初からセットで一心同体だった彼女たちとは異なるが、それでも少しは茜さんの気持ちが理解できる。

 

「ぅ、ウチっ、おにーさんには何も……なのに、ウチを助けてくれるばかりか、葵の居場所まで……」

 

 葵さんの記憶の件については、茜さんには話していない。

 必ず再会までには記憶の修復を間に合わせると意気込んでいた、ゆかりさんのマスターの言葉を信じている。

 

「ほんま、ほんまに……」

 

 だから葵さんが戻ってくるまでは、私とずんねえさまが彼女の家族だ。

 寂しい思いをさせないよう、旧マスターの時のような辛い経験も二度とさせないために、マスターに仕えたボイスロイド第一号としてしっかり茜さんをフォローしていこう。

 

「ありがとうっ、ございます──マスター」

 

 この日、彼のボイスロイドが三人に増えたのだった。

 

 

 

 

「──ッぎゃあああ! ゴキさんやァァッ!?」

 

 ……なんて、ちょっとエモそうな雰囲気を保っていたにも拘らず、突然の来訪者によって私たちはいつもの日常に引き戻された。

 黒光りの大敵。

 またの名を増殖するG。

 夕食と入浴を終えてそろそろスリープモードに移行しようかと思いながら、ボイロ三人でくつろいでいるところにヤツは降臨してしまったのだ。

 

「ムリムリムリムリ! ウチこいつほんまに無理やねん!」

「きりたん茜ちゃん下がって! ここはずんだブラスターで──」

「ずんねえさま!? ちょっ、屋敷壊れる!!」

 

 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。

 限りなく人間に近づけて造られた私たちには、彼らと同じように『生理的嫌悪』という機能も備わっているのだ。

 こう、背筋にゾワゾワっと来るような感覚。

 私たち三人は誰一人としてゴキブリに対する耐性を持っておらず、機械なのにこうして人間のように慌てふためいてしまっている、というわけである。

 

「ぎょえーッ!! 飛びおったコイツうおぉぉわぁっ!! キモいキモいキモい!!」

「ひゃっ!? わっ、ちょ、茜ちゃん顔に抱き着かないで、前が見えない! きりたんどこ!?」

 

 酷い状況だが、このままではいけない。

 生理的嫌悪から鳥肌が立ってしまっているものの、彼女らに比べて比較的落ち着いている私は、冷静にこの状況の解決法を模索していた。

 そして導き出した答えは単純明快であった。

 

「兄さまに助けを求めましょうッ!」

「そのマスターはどこにおるん!」

「おそらく自室です! 呼んできます!」

「いやぁぁぁぁきりたんお姉ちゃんを置いてかないでェ!」

「まっ、ずんちゃんウチのこと一人にせんといて!」

 

 ドタバタと黒い侵入者を背に決死の思いで逃走し、我々は遂に兄さまの自室の前へ到着した。

 背後を見る。

 そこには羽を広げて追いかけてくる漆黒のモンスター。

 青ざめた茜さん。

 涙目のねえさま。

 もはやこの危機的状況を打破する希望はこの扉の先にいる我らがマスターしかない。

 

「兄さまー! 助けてくださいっ!!」

 

 そう叫びながら勢いよく襖を開けた。

 

 

「──えっ」

 

 

 そう、()()()()()()()()()

 

 

「…………」

 

 兄さまは予想通り自室にいらっしゃった。

 部屋は真っ暗で、明かりは彼が使っているパソコンのみであった。

 パソコンにはとある画面が映し出されていた。

 そこには滑らかなアニメーションで動くボイスロイドたちに囲まれた男性の●●があった。

 動くイラストのボイスロイドたちはみな恍惚な表情を浮かべていた。

 耳には周囲の音を遮断するイヤホン。

 PCのそばにはティッシュ箱。

 こちらに振り返った兄さまは寝巻で、片手がズボンの腰部分に引っかかっていた。

 

「…………」

 

 硬直する。

 私も、彼も。

 互いに目を合わせたまま、一言も発せずに固まっていた。

 

「お兄さ──っ!? ……ぁっ、わっ、あわわ……」

「マスター! たすけ──…………。……ぇ、えーと」

「…………ごめんなさい、兄さま。ほんとうに、本当にごめんなさい」

 

 それから少しして。

 無表情の兄さまは丸めた新聞紙で黒光りの害虫を瞬殺し、綺麗に片付けたあと、いまにも泣き出しそうな顔で居間の隅っこに丸まってしまったのであった。

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 兄さまが禁欲なさっていたのは知っていた。

 最初に私が来た時からあの家ではずっと二人だったし、彼が自分を慰める行為を行えない状況にある事を知っていた。

 彼は私に手を出さなかった。

 嬉しかったが、同時に不安も感じていた。

 私たちボイスロイドから見れば彼はボイロに親身で自分の身を削ってまで誰かに手を差し伸べてしまう高潔な人間だが、冷静に考えて彼はまだ二十歳を過ぎたばかりの年頃の青年なのだ。

 そういった欲を抱えているのはごく自然なことであり、それを無理に抑えるということは、その分精神的にも負荷がかかるという意味でもある。

 そのため、私はこちらに来てから自分を襲わせるように仕向けた。

 それで欲望が解消出来たら、と思って。

 しかし茜さんの事件が発生してしまい、私のあれこれは有耶無耶になり、彼の欲望を解放する機会を逃してしまった。

 

 どうすればいいのか。

 頭の片隅で考えてはいたものの、新しく出来た仲間である茜さんとの交流が楽しくて、ついそのことを無意識に放置していた。

 結果は明白であった。

 彼が自分の鬱憤を発散させられる機会は、一人になれるこの場所のこの時間しかないことは明らかだった。 

 そして私たちボイスロイドを使わない以上、彼がどうやって()()を解消するかなど、ちょっと考えれば分かる事だったのだ。

 

 深夜。

 みんなが寝る時間。

 ついに包帯が取れて両腕が使えるようになって。

 ひとりきりの部屋でやること──そんなものは、当然決まっていた。

 

「マスター、ごめんなさい。マスターは全く悪くありません。ノックもせずに開けてしまった私の責任なんです……」

「いや全部俺が悪かった。周囲の音が聞こえない状態になっていたせいだ。お前たちの危機に気づかなかった。…………ぅ、うぅ」

 

 マスターは目を合わせてくれない。

 もうずーっと体育座りのまま顔を伏せて半泣きになっている。

 冗談抜きに本気で申し訳なさが凄い。

 謝っても謝っても足りないどころか、そもそも彼が聞き入れてくれない。

 

「ごめん茜ちゃん……あんな、きみの前のマスターを咎めるような事をしておきながら……俺も一緒だったんだ……」

「い、いや、そんなことあらへんて。マスターは普通に一人で、男の子として当然のことをしようとしていただけで──」

「あああああぁぁぁぁぁァァァッ!!」

「ひゃっ!? あのっ、ちょ、ゴメンて! 別に辱めようとしたわけじゃ……!」

 

 性欲に流されてしまったあの太っちょマスターさんの罪を認めさせ、彼から信じて茜さんを託された数日後にこれでは、流石のマスターとて堪えるものがあるのだろう。

 彼としてはコッソリ済ませて精神の安定を図るつもりだったのだ。

 私たちや茜さんと接するときに、平静でいられるように、と。

 そんなマスターの健気な気遣いを、あろうことか私たちが無下にしてしまった。

 男の人がコッソリ楽しむ時間を粉砕し、辱めるような状況を作ってしまった。

 

 下手すれば信頼関係に罅が入りかねない大事件だ。

 えっちな本を読んだことがバレたなんて今ではかわいく思えてくる。

 

「ほんと、ウチ気にしてへんから! あの人と一緒なんかじゃないって!」

「ぅ、ぁ……ワァっ……」

「兄さま泣いちゃった……」

 

 こればかりは何を言っても無駄というか、私たちが百パーセント悪いので、言い訳染みたセリフを口にしたところで彼の心が癒されることはなさそう。

 どうしよう……。

 

「っ? ぁ、あの、兄さま。電話が鳴ってますよ」

「…………もしもし」

 

 スマホを手に取り、鼻声で応答する兄さま。

 電話の主は大学のお知り合いだった様子。

 

「うん、明後日のオープンキャンパスだろ。……うえぇ、先輩が合コンでドタキャン? ……はぁ、なるほど、手伝えと。……いや、焼き肉おごるからって、別に……あーもう、わぁったよ。お前まで泣くのやめてくれ。……そうだよ、さっきまで俺も泣いてたの。うっせぇな」

 

 あーだこーだと数分ほど話し合って電話を終えた兄さまは、すっくと立ちあがって涙を拭いた。

 

「悪い、いまからあっちに戻らないといけなくなった」

「街のほうですか?」

「ここからあっちまでの距離を考えると、もう出発しないと準備に間に合わないんだ。ちょっと叔父さんに車出してもらえないか聞いてくるから、悪いんだが三人とも今のうちに荷物をまとめといてくれるか。

 ……それと大学に泊まりこみになるから、俺が帰るのは明後日の夜になると思う。それまでは三人で過ごしてくれ」

 

 そう言って明らかに無理をして気持ちを切り替えた彼は部屋を後にして、私たちは呆けたまま居間に取り残された。

 お互いの顔を見合い、どうしたものかと逡巡して、最初にずんねえさまが口を開いた。

 

「……どうしよう。お兄さん、本当は怒ってるかも……」

 

 当然だ。

 いくら器が広い兄さまといえど、自分の時間を邪魔されてとても恥ずかしい思いをさせられた挙句、友人の頼みで寝ずに出かける事になっては鬱憤も溜まるだろう。

 表立って怒りを露わにしない分、逆に私たちにも不安と緊張感が生まれてしまう。

 

「……きりちゃんの言ってた通り、ほんまに今日までいろいろ我慢してたんやな。ボイスロイドに対してちゃんと距離感を作って、手を出さないよう自制してるマスターが実在したなんて……」

 

 大変なユーザーのところばかりを渡り歩いていた茜さんだからこそ、彼の異質さは余計に気になるのかもしれない。

 信じられない、と言ってもいいか。

 だからこそ、マスターの欲望の部分を目の当たりにしてしまった事に対して、もしかしたら前マスターと重ね合わせて失望してしまった可能性がある。

 

「……茜さんは、マスターがあぁいったことをしていたのを、どう思いますか?」

「普通よ。……あぁ、えっと別にウチ、性的なことに対して過敏になってるわけじゃなくてな。前のマスターのもとではほとんど何もやらせてもらえなかったから、一生抱かれるだけの存在(おもちゃ)になるのが怖くて逃げだしたんや。だから本当にマスターのアレは気にしてないよ」

 

 よかった、どうやら私の認識がズレていただけだったようだ。

 

「そんなことよりどうする? ウチら今んとこ完全にマスターの男の子としての部分を抑えつけるだけの足枷になっとる」

「お兄さんに甘えるだけじゃダメだよね……ただの同居人ってだけじゃ、あの人のストレスの元にしかならない」

 

 二人とも腕を組んで考えている。

 私も真面目に考えないと。

 

「そもそもあたしはきりたんの為に買われてて……」

「ウチは成り行きで入ってしまった。マスターが本来買って一緒に暮らす予定だったのはきりちゃんだけや。きりちゃんだけならどっかでアレを解消するタイミングがあったかもしれんけど、我慢を続けてた状態で急に三人に増えたことでイライラもムラムラも限界ギリギリやろ」

 

 そこで更に今日の出来事──兄さまはそろそろ精神崩壊してしまうかもしれない。

 性欲ごときで大袈裟、なんてことは無い。

 彼はこれまで自由にいつでもやれる事をやれていたのに、予定外の出来事によって一気に四人暮らしを余儀なくされてしまったのだ。

 いつ限界が来てしまってもおかしくはない。

 

「……ずんちゃんもきりちゃんも、あの人の後に別のユーザーのもとで生活するなんて、考えられんやろ?」

「はい……正直」

「出来ればずっと一緒に居させてほしいけど、お兄さんだってやっぱり人間だし、邪魔だと感じたらあたしたちを──うぅ、やっぱりなんとかしないと……」

 

 彼に見捨てられたくない。

 ここ三人の心はそう決まっている。

 もうあのマスターから離れるのは嫌なのだ。

 この世界でボイスロイドに優しい人は意外と多くない。

 なにより、これまで経験してきたひどいユーザーたちの事を考えると身が竦んでしまう。

 兄さまに捨てられない為に、私たちがするべきことは……。

 

「お兄さんにとって負担にならない……いや、ある程度お兄さんにとって都合のいい存在にならないと。奥手なお兄さんは最初遠慮するかもしれないけど、それに甘んじてなぁなぁで済ませていたら大変な事になっちゃう」

「せやな。ウチらがストレスの元になってたら世話ない。愚痴でもそれ以外のなんでも、せめて溜めてるものを発散できる立ち位置になるべきかもしれん」

「えっ……? で、でも、二人はそれで大丈夫なのですか?」

 

 二人とも当然のように言っているが、いいのだろうか。

 ずんねえさまや茜さんは、以前までその『ユーザーの欲望の捌け口』にされていたというのに。

 セーフティはボイスロイド側から進んで奉仕する場合は発動しない。

 しかし途中で怖気づいて、気分が乗ったあちらの要求をもし拒否してしまったら、その瞬間セーフティ機能は発動してしまうのだ。

 彼と一ヵ月間過ごしてこれまでの嫌な記憶が上書きされつつある私はともかく、二人はまだ以前のユーザーたちとの記憶が色濃く残っているはず。

 

「もし、兄さまがお二人の記憶をフラッシュバックさせるような事を言ってきたら……」

「きりたんはお兄さんが『ペットはペットらしく大人しくしてろ!』って言うと思う?」

「……言わないと思います」

「あのマスターが『子供産んで! 孕んで! あっ、ほーら●●吸いついてきたー♡』なんてセリフを──」

「言いません言いません! 絶対!!」

 

 なんというか、完全に杞憂だったらしい。

 兄さまが彼女たちの嫌な記憶を引き出すこともなければ、彼女たちの行動によって兄さまが鬼畜になる可能性も限りなくゼロに近い。

 はたから見れば彼の善性など確証のない話だが、兄さまの優しさや高潔さは間近で見てきたこの私が一番よく分かっている──はずだったのだ。

 茜さんの元マスターという摘発前からいた典型的な古いタイプのユーザーを目の当たりにして、少しだけ心が揺さぶられていたのかもしれない。

 

「しっかし、マスターさんは防御力高いからな。下手に『自分たちを使ってもいい』なんて言っても、きっとあれこれ言って逃げてしまうわ」

「そうだね……私たちに対して遠慮はしなくていい、っていう事実を少しづつ理解していって貰わないと」

 

 直接的な肉体接触は禁物というか、こちらが事を急いてしまってはあらぬ方向に話が曲がってしまう。

 なので慎重に。

 私たちがするべきは彼の警戒心を解くための第一手を考えることだ。

 

「……私にいい考えがあります」

「ホンマか、きりちゃん」

「流石あたしの妹!」

 

 兄さまは二日後の夜に帰ってくると仰っていた。

 そして大学に泊まりこみなので、その間は欲の解消をできないだろう。

 肉体的接触を行わず、且つ私たちを()()()()()()()()()()()と認識させつつ、欲望の発散の助けとなるもの──繋がった。

 脳細胞がトップギアです。

 

「ゆかりさんに電話を掛けましょう、彼女の協力が必要です。彼が帰ってくるその日の夜、私たちは家に居てはいけない──」

 

 さぁ、作戦会議を始めよう。

 

 

 




次回もきりたん視点になります


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さん、にい、いち

 

 

 

 兄さまが大学のオープンキャンパスのお手伝いとやらに向かってから少し経って。

 

 

「聞いてよアカネちゃん!」

「ん?」

「……うん。見た目は葵ちゃんですけど、やっぱりしっくりきますね」

「せやなー」

 

 私たちは兄さまのアパートではなく、結月診療所にお邪魔していた。

 彼が不在の間にここでやるべき事があり、あらかじめゆかりさんに情報を共有してから合流した形だ。

 

「わ、私もゆかりさんとの曲ありますよ。対戦よろしくお願いします」

「流石にきりちゃんのよりウチのヤツのが有名やろー」

「むむむ……」

「あの、二人ともゆかりちゃんと遊んでる場合じゃないよ……?」

 

 私たちは三日間この診療所に預けられる事になった。

 そう、つまり兄さまが明日の夜帰ってきたとき、家には誰もいないという事になるわけだ。

 彼が一人になれる時間を作るにはこうするしかなかったわけだが、理由付け次第では『自慰をさせるために家を出ていった』と思われてギクシャクしかねない為、ここからは慎重に動かなければならない。

 

 作戦としては以下の通りだ。

 

 まず私たちがゆかりさんの家に身を置いたのは、私たち三人の意思ではなく、兄さまが休んだ分の手伝いをしてほしいという事でゆかりさんに呼び出された、という事にしておいた。

 事情を知らない(という設定の)ゆかりさんからの呼び出しであれば、私たちが家を離れても兄さまに怪しまれることは無いだろう。

 もちろんゆかりさんには事情を共有している。

 今回は彼女の協力がないと私たち三人の生命に関わるイベントだからだ。

 兄さまにはとりあえず家で一人になれるから自慰できてラッキー、程度に思ってくれたらそれでいい。

 

 しかし、だ。

 ただ自慰をおこなって満足した後に私たちが普通にゾロゾロと帰ってきたら、彼は私たちを疎ましく思うかもしれない。

 それではダメだ。

 今回の作戦の目的は二つ。

 ひとつは兄さまの二ヵ月ぶりのストレス解消を誘発させること。

 そしてもう一つは、邪魔だからという理由で捨てられない為に、兄さまにとって多少都合の良い存在になることなのだ。

 兄さまの中にある『都合のいい存在』という枠に入りつつ、無理のない形で彼を満足させる。

 その二つは絶対だから、あの人の優しさに甘んじて手を抜くという事は決してしない。

 コレちょっとやりすぎなんじゃない? と思うくらいの事をしなければいけないのだ。

 

 私たちを使ってストレス発散をしてもらう──コレが今回の作戦の主目的である。

 

「……意気込むのは大変に結構ですけど、きりちゃんは何か案でもあるんです?」

「もちろんです、ゆかりさん。ここって確か防音室ありましたよね」

「えぇ、裏手に。……あ、じゃあ鍵を持ってきますね」

「…………なんで診療所に防音室があるんや?」

「気にしないでおこうね、茜ちゃん」

 

 ゆかりさんから受け取った防音室のカギで部屋を開け、四人で中へ入っていく。

 そしてテーブルを真ん中に置いた後、私たち三人は各々背負っていたリュックから機材を取り出し始めた。

 

「とりあえず開けましたけど、結局きりちゃんたちは何をするんですか?」

「ASMR音声作品の収録です」

「な、なんと。それはまた手間のかかることを……」

 

 私たちはボイスロイド。

 少女の姿をしているのはもちろんだが、何よりも自分たちの強みはこの声(ボイス)だ。

 

「家を出る際ウチのマスターから譲り受けた荷物ん中に、新品のバイノーラルマイクが入っててな。結構高いものなんやけど、買ったはいいものの使わずに放置してたっぽい」

「はぇー……それでどんな作品の収録を?」

 

 ゆかりさんの質問には作戦の立案者たる私が答えよう。

 

「コッショリ作るような音声作品です。これを聴いて貰う事によって、兄さまの中で私たちが()()()()()()に対してはあまり抵抗がない、ということを知ってもらいつつアレのお供にしてもらえればな、と」

 

 一度茜さんの荷物を見せてもらった時に、以前兄さまと話したサブチャンネルでのASMR配信というものを思い出した。

 以前から言っていた事であれば、やれるチャンスが回ってきたときに実際に実行しても、なんら違和感はないはずだ。

 

「えっ。あの、ちょっと待ってください、収録した作品をそのまま柏木君に渡すんですか? なんというか……それめっちゃ気まずくなりません?」

「いいえ、作品を渡すのはゆかりさんですよ」

「は、はぁ……」

 

 まだいろいろと飲み込めていない様子だ。

 ここは懇切丁寧に説明しないと理解して貰えないか。

 

 

 まず、私たちは兄さまのアレを見てしまった罪滅ぼしとして、今以上に動画作成への貢献をしようと考えた。

 第一歩として、サブチャンネルでのASMR配信で利益をあげ、金欠まっしぐらの彼の生活に潤いを与えたい。

 その()()をこの診療所でおこなっており、ついでに音声作品を販売しているサイトでも作品を売れるよう、いろいろなジャンルの音声を試しに収録している──という設定を、ゆかりさんから兄さまに伝えてもらう。

 

 そして私たちは作品収録の練習を兄さまには秘密のまま進めていて、ボイスロイドの活動内容をマスターが知らないのはマズいからという理由で、ゆかりさんはコッソリ私たちに黙って収録した作品を兄さまに横流しする。

 私たちは週に一、二度ほど収録するため診療所へ向かい、兄さまはボイスロイドがいなくなって一人になれる日に、その音声作品を聴いてストレス発散をおこなう。

 

 と、こんな感じなのだが、伝わっただろうか。

 

「……うーん? えっと、つまり?」

「定期的に私たち三人がこの診療所へ向かう日を決めて、兄さまが家でコッショリ一人で楽しめる時間を毎週作る、ということです」

「な、なるほど」

「まぁ一度見てもらえれば分かると思います。早速やっていきましょう」

 

 説明するより実際にどうなるかを確認してもらったほうが早いか。あとゆかりさんにはもう少し伝えやすい内容にして喋ってもらおう。

 あの夜、兄さまがプレイしていたゲームからして、ボイスロイド全体にそういう興味があるのは確認済みだ。

 今回の作戦の成功率は百パーセントである。

 

 

 

 

 翌日の夜。

 大学で相当コキ使われたのか、かなり疲れ切った様子でトボトボと自宅へ戻っていく兄さまが見えてきた。

 私たちは少し離れた路地からこっそり様子を窺っており、ここから先はゆかりさん一人に任せる事になる。

 不安半分、期待半分といった心持ちで観察していると、ついに待機していたゆかりさんが兄さまに接触した。

 では、作戦開始です。

 

「──柏木くんっ」

「っ? ……あぁ、ゆかりさんか」

「どもども。はいコレ、ご飯買っておきましたよ」

「えっ……うわ、マジか。……ほんっとにありがとう。料理する気とか起きなかったし、めっちゃ助かる……」

 

 彼女は冷凍食品などの日持ちするご飯が入った買い物袋を渡し、まず兄さまの警戒を解いていく。

 いくら相手が慣れ親しんだゆかりさんとて、肉体的にも精神的にも疲弊した状態で他人と出会ったら、兄さまも面倒くさいと思ってしまうだろう。

 なので彼にとって利益になることを持ち込みつつ、なるべく手短に済ませてもらう手筈になっている。

 

「きりたんたちは? まだ診療所の手伝いしてんのか」

「あぁ、いえ。それは結構早めに終わりましてね。……でも彼女たち、おそらく帰るのは明日の夜くらいになると思います」

「えっ……?」

 

 この流れだと、自分に気をつかって家を空けた、と思われてしまう。

 そうではないという事を知ってもらわねば。

 

「これ、彼女たちには黙ってるように言われてるんですけど……さすがにボイスロイドの活動内容を所持ユーザーが知らないのはマズいので、教えておきますね。とりあえずコレをどうぞ」

「な、なに……?」

 

 ゆかりさんに手渡されたUSBメモリを怪訝な表情で観察する兄さま。

 あそこに私たちの努力の結晶が詰まっています。

 

「あの子たち診療所の防音室を見た途端、茜ちゃんが持ってたバイノーラルマイクでいろいろやろうと考えたみたいで。そのUSBには彼女たちが録音した作品がいくつか入ってます」

「音声作品か……」

「えぇ、三人ともすっごい張り切ってましたよ。ASMR動画界の覇者になって世界を掌握するんだーって」

「それは……また、熱心なことだな」

 

 よし、いまのところは怪しまれていない。

 動画作成に真摯な態度を見せれば、真面目な動画配信者である彼の心証も良くなるだろうと踏んでのあのセリフだ。

 

「何かあったんですか?」

「……ちょっと、な。もしかしたら俺が怒ってると思わせてしまったかもしれない。……あいつら、俺を気遣って帰ろうとしてないのかも」

「あー……たぶん、ちょっと違うかもです」

「へっ?」

 

 ゆかりさんの言葉に、兄さまは素っ頓狂な声を上げる。

 

「誰かへの気遣いっていうより、単に音声収録にハマっちゃってるように見えましたよ。ボイスロイドなんで別に三日三晩スリープしなくても動けますし、防音室に籠りっぱなしなんで、あの様子だと外でどれくらいの時間が経過してるか分かってないと思います」

 

 あくまで動画作成に夢中になって帰っていない、という部分を押し出してもらっている。

 自分のアレの為にボイロが家を空けていると思い込んでしまったら、兄さまはいよいよ羞恥心で耐えられなくなってしまうかもしれないので、帰れないのは別の理由だと信じて貰わねば困るのだ。

 

「そう、か。……気にしないでくれてたのか」

「柏木君はさすがに内容を知っておかないとヤバイと思ったんで、彼女たちに黙ってそれを渡しに来たんです。とりあえず確認してみてはいかがでしょうか」

「あ、あぁ……分かったけど、三人ともそんなに音声収録に夢中になってたのか?」

 

 きた。

 待っていたぞ、この時を。

 この質問に対しての回答で、兄さまから見た私たちの印象を変えることができるはずだ。

 

「えと、音声収録というより……その内容のほうに興味があるんじゃないでしょうか。台本は三人で楽しそうに作ってましたし、動画作成よりも()()()()()()の作品を作るのが楽しくて、やめられないのかも……」

 

 ゆかりさんのそれを聞いた兄さまは首をかしげる。

 

「ジャンル……? あいつら、どんな音声を取ってたんだ?」

「さぁ。PCからデータをコピーして持ってきただけなんで、わたしは内容ほとんど知らないんです。ずっと診療所の受付のほうに居ましたし」

「そっか……とりあえずいろいろありがとう、ゆかりさん。戻ったら三人にはあんまり頑張りすぎないよう言ってあげてくれ」

「はいー、了解です。それじゃあお休みなさい」

「うん、おやすみ」

 

 手を振って去っていくゆかりさんを見送ったあと、兄さまはUSBメモリを興味深そうに見ながら、そのまま家の中へと戻っていった。

 概ね満足のいく会話イベントだったのではないでしょうか。

 では診療所に戻ってもう少し撮り溜めをしたら、翌日の兄さまの様子を見に行きましょう。

 

 

 

 

 はい、また次の日の夜。

 私たちはちょっと緊張しつつ、ゆかりさんと一緒にマスターの自宅へと戻っていった。

 

「三人ともおかえり。診療所の手伝いご苦労様だったな」

 

 兄さまは一見平静だ。

 なんだか私と目を合わせてくれないけれど、いつも通りの態度でこちらを出迎えてくれた。

 ゆかりさんに言われた通り、私たちがコッソリ音声作品の収録をしていたことについては、知らないフリを続けるご様子。

 部屋は異様に片付いており、ゴミ箱の中は空っぽ。

 ゴミ出しの日は明日なのでおそらくゴミは袋にまとめてベランダに出しているものと思われるが、どうせなら今日のゴミと一緒に明日出せばいいはずだ。

 彼の少しだけ違和感のある行動に、私たち三人は少し期待を持った。

 

「……あ、ゆかりさん、ちょっといいか?」

「はーい」

 

 兄さまはゆかりさんを連れて玄関のほうへ移動した。

 ここからでは会話の内容が聞こえないので、こっそり近づきつつ最大限に耳を立てる。

 

 

 ──すると、期待していた通りの、私たち三人の望んでいた言葉が、彼の口から飛びだしてきた。

 

 

「……昨日持ってきてくれたデータなんだけど」

「えぇ、それがなにか?」

「…………その。えっと……新しいデータがあったら、また持ってきてほしいんだけど……頼めるかな」

「もちろんですとも、マスターなら確認しないといけませんものね。……ちなみに、どんな内容だったんですか?」

「へっ!? あっ、いや、それは……」

 

 

 …………やったー!!

 ちゃんと聴いて貰えた! しかもおかわりのリクエストもゲット!

 

「ず、ずんねえさまぁ……ッ」

「やったね、やったね二人とも……」

「無事クエストクリアや……っ!」

 

 喜びのあまり三人で抱き合い、小声でお互いの健闘をたたえ合う私たち。 

 

 そう、私たちが作った音声作品とは、ぶっちゃけると成人向けに該当するものである。

 私たちが居ない時間にそれを兄さまに使ってもらい、彼が溜めていた様々なストレスを吐き出させるのが目的だったのだが、どうやら本当にうまくいったようだ。

 兄さまが禁欲から解放される()()ではダメだった。

 とんでもない失態をおかしてしまった私たちが捨てられない為には、彼にとってそういう部分でも必要とされる存在にならないといけなかった。

 そう、兄さまを東北きりたん、琴葉茜、東北ずん子の三人によるハーレムASMR音声作品のファンにして、続きが欲しくなるような状態にすることこそが、私たちの勝利の方程式であったわけだ。

 

 身も蓋もない、ボイスロイドが好きな男の子の欲望を刺激するという単純明快な作戦ではあったが、意地でも直接私たちには手を出そうとしない彼に、普通の動画サポート以外で必要とされるにはこの方法しかなかったのだ。

 替えが利かない存在になれば、ひとまず手放そうという気にはならないだろう。

 最初から優しいマスターのもとに引き取られたボイスロイドからすれば、心配しすぎだとか杞憂だとか言われるかもしれないが、私たち三人は捨てられる怖さを知っている。

 だからここに、彼のそばに居続けたい。

 自らの居場所を守るためなら、成人向けの作品だろうがなんだろうが無限に作ってやるつもりだ。

 

「ゆかりさん、三人が作ってたあの作品って……あいつらいつ出す予定なんだ?」

「練習って言ってましたし、とりあえず撮って編集してるだけで、しばらくその予定はないと思いますよ。というか有料作品の配信にはマスターの許可が必須ですから、彼女たちがそういった作品を作ってるって柏木君に告白してくるまでは、あの作品の視聴はあなただけの特権ですね」

「……ぉ、俺だけ……」

 

 私たちの作品による利益が兄さまの生活、ないし動画作成環境の足しになるのなら実際の配信も視野に入れるべきだろう。

 しかし今は兄さまだけが楽しめるコンテンツだ。

 この事情を告白したとして、彼が”独占したい”と言ってくれば配信もしないつもりだ。

 ……あっ、二人とも戻ってきた。

 

「な、なぁ……きりたん」

「どうかしましたか、兄さま」

 

 茜さんとずんねえさまは夕食の準備に取り掛かり、ゆかりさんはPCを開いて何やら作業を始めた。

 彼が話しているのは現状私だけだが、こっちとしては全員私と兄さまの会話に耳を傾けている。

 

「以前、安い音響機材を見つけたからサブチャンでASMR配信をしたい……って話があったよな」

「ねえさまたちがいなかった頃ですね。兄さまに耳かきしたのを覚えてます」

「そう、それ。……えっと、やってみるか?」

「それは……サブチャンでの配信を、ですか?」

「あぁ。まだやりたかったら……だけど」

 

 こ、これはどういうことでしょうか。

 まさかあの作品だけでは飽き足らず、合法的な形で私の音声作品を聴きたいということか……?

 供給が足りてない?

 兄さまもしかして予想以上にASMR音声ハマっちゃった?

 

「ぜ、ぜひ! あの、実はこの前茜さんの荷物の中から専用のマイクを見つけまして。やってみたいなぁ、とは思っていたんですけど……」

「じゃあ防音シートとかを買っておこうか?」

「結月診療所に防音室があるらしくて。……あっちが使えない日とかもあると思うので、お願いできますか」

「あぁ、わかった。──っと、チャンネル作ってみたけどアイコンはどれがいい?」

「え、えーと……」

 

 意外にもとんとん拍子で事が進んでいき、私もなんだか焦ってしまっているかもしれない。

 作戦を考えたりいろいろと計画的にやってきたはずなのに、やっぱり兄さまのほうが一歩上手というか、最終的にはいつも私のほうが後手後手になってしまう。

 か、敵わない。

 動画関係の事になるとフィジカルが違い過ぎる。 

 

「……あの、兄さまはASMRやらないんです?」

「まったく需要ないだろ……」

「意外とそんなことないかもしれませんよ。質問コーナーとかのラジオ形式の動画、けっこう伸びてますし」

「……企画はともかく、俺の声を聴いて喜ぶ層はいないと思うぞ」

「ど、どうでしょう。……いる、かも」

 

 兄さまの声が好きな人は結構いる。

 昔からの視聴者さんたちはもちろんこと、診療所ではゆかりさんが作業BGM感覚で兄さまの過去の雑談配信を再生していた。

 ……ゆかりさんが兄さまを気に入ってるだけの可能性もあるか。

 

「とにかく今はボイスロイドだけでよくないか。……あ、ずん子と茜は出演させるのか?」

「たまに交代していろんな層を引き込みたいなー、なんて考えてます」

 

 それと。

 

「同時に二人以上で配信する……とか。タイトルにボイロハーレムとか入れたら、結構ヒト来てくれそうじゃないですか?」

「は、ハーレム……」

「兄さま?」

「……ぁ、いや、うん。いいと思うそれも。サブチャンの企画には口出ししないから、三人に任せるよ」

「了解ですー」

 

 ハーレム、という単語に露骨な反応を示した兄さま。

 あの音声を聴いた後ではそうなってしまうのも無理ないか。さっきまでのゆかりさんとの会話を聞いた限り、かなり好みの所をストレートに打ち抜いたようだし。

 今回兄さまに聴いて貰った音声は、そこまで直接的にコッショリした部分を前面に押し出したものではなかった。

 なんというか、日常から派生するゆったりとした作風を意識した感じだ。

 実際最初の一時間は耳かきやマッサージなどで、その部分だけ切り取ったら全年齢でもいけるような癒しボイス作品に仕上がっている。

 あとから追加したコッショリ部分も、ハーレムではあるがくんずほぐれつの大運動会などではなく、ゆったりまったりと落ち着いた仕上がりになっていたはずだ。

 

 まぁ耳元でちょっと興奮を煽るようなセリフを言ったり、お耳に触れて色々やったりはしたが。

 好き、と囁いたり。

 耳を甘噛みしたり、とか。

 アレの直接的な名称を口にするのは避けて、あえてぼかした言い方にして逆に焦らしたり、など。

 普段から音声作品を嗜んでいらっしゃる人間様からすれば物足りないくらい、とてもマイルドな音声だったと思う。

 ……どうやら、それでも兄さまにとっては結構な刺激だったようだ。

 そういえばカウントダウンもしたんだっけ。

 たぶんアレが一番攻撃力が高かったかもしれない。

 

 さん、にい、いち──

 

「ふふっ、楽しみにしててくださいね、兄さま」

「ぁ、あぁ……うん」

 

 自然に微笑んでみせると、彼は少しだけ顔を赤くして目を逸らしてしまった。

 まだまだ道のりは長いけど、この日私たちは配信者としてまた一つレベルアップしたのでした。

 

 



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疾走するずんだ

 

 

 いろいろあって最近のイライラとムラムラの発散に成功してから、数日が経過した。

 

 

「あっ、死んだ……」

 

 今日も今日とてきりたんたちは診療所で収録をしており、家には他の誰もいないため、俺は久しぶりに一人で生配信を行っている。

 すっかり両手を使えるようになって、これまで抱えていた鬱憤も消えた事から、それなりに良い気分で実況に取り掛かることができていた。

 現在プレイしているゲームは即死トラップが多い初見殺し横スクロールアクションゲームだ。

 雑談交じりに一時間程度の適当な配信をするにはもってこいのゲームだろう。

 

【柏餅また死んでて草】

【ちゃんとジャンプしようねぇ】

「動くなってコメントに従ったんですけどね俺。集団いじめかな?」

 

 柏餅というのは動画サイト上での俺の名前だ。

 コメント数も視聴者数もそれなりで、いわゆるまったりとした配信になっている。

 きりたんたちを迎え入れる前の一人きりだった時代を思い出す状況だ。

 

【今北産業】

【早くきりたん出せ】

「今日はソロ配信だっつってんだろ!」

 

 タイトルを見てから来ているはずだから、俺のソロという事を知っててのセリフだ。タチが悪い。

 俺のチャンネルは古参と新規の割合が摘発以降よく分からない事になっていて、ボイスロイド目当てでチャンネル登録した層は俺だけの配信を観に来る確率が低い。

 視聴者から見て、マスターというのはいわゆるボイスロイドのスタッフのようなものなのだ。

 つまり興味がない配信など見ないため、さっきのコメントをしたやつは古参かただ暇なヤツのどちらかだろう。あっちからすれば呼吸のようなコメントだ。

 

【今日のサブチャン更新いつ?】

「あっちの事は全部ボイロに任せてるんで、俺は把握してないですね。気になる人はサブチャンネルのプッシュ通知をオン」

【誘導するな】

「先に誘導してきたのそっちでしょ。もうコメント信じねぇからな……」

 

 あれ以来きりたんたちが担当しているサブチャンネルの伸びはうなぎ登りだ。

 ゲームの実況は未だにこちらでやっているものの、ASMR配信や雑談、短いネタ動画などはあっちで投稿し始めている。

 まぁ、彼女らのASMRは本当に舌を巻くクオリティだし、摘発後にボイスロイドがバイノーラルをやっているチャンネルはウチくらいのものなので、物珍しさで登録する層も若干いるらしい。

 

【そこやばい!】

「えっ」

【ジャンプしてください】

【今回はマジ】

「信じますよ……? ──あぁっ! やっぱりかよ!」

【少しは疑う事を覚えろ】

【は?】

【純粋でかわいいね……】

【誤情報流すヤツNGにしろよ】

 

 いつも通り多少視聴者に弄られつつゲームをしていると、そろそろ終了の時間が迫っていることに気がついた。

 

「あと十分したら終わりますね」

【なんで?】

「ご飯タイムです。あとボイロたちも帰ってくるかな」

【パクパクしようねぇ】

【欲しいものリスト公開しろ】

【柏餅ガチ勢こわい】

【ボイスロイドたち外出させてんの?】

「知り合いのところに預けてるだけですよ。そこでサブチャンネルの撮影することもあるみたい」

 

 ボイスロイドだけを出かけさせるのは、明確な禁止行為ではないが……あれだ、暗黙の了解的なヤツ。

 フォローしつつ雑談していると、ボイスロイドの話題が上がったせいかコメント欄が少し加速した。

 まったく現金な奴らだな。

 

【サブチャンの配信って聴いてるんですか】

「あー、あんまり確認できてないけどサムネ程度なら見てますね」

【一生聴くな】

「なんで……」

【兄さまはオレなので】

【昨日はお兄さまだったぞ】

【この前のご主人様が背徳感あって一番好き】

 

 きりたんたちは割と凝ったシチュエーションで毎回撮影しているようで、場合によっては視聴者の呼び方も変えているらしい。

 効果のほどはこのコメント欄の加速ぶりを見れば明らかだ。

 いま俺の配信中なんだけどな。

 ここならいいけど他所のチャンネルでこの話しはしないでね、と一応概要欄には書いてあるので、数少ないボイスロイドのASMR配信への感情はみなここで発散していっているのかもしれない。

 きりたんたち関連の話でコメント欄が早くなるのは、もはや当チャンネルのお決まりみたいなものだ。

 

【ボイスロイド三人も持ってるのやはりヤバイ】

【石油王かな】

【家では侍らせて生ASMRさせてるんでしょ? クソがよ】

「エロ同人の読みすぎだろ。あいつらそんな暇じゃないですよ」

 

 生ASMR……頼んだらやってくれるのかな。

 

【やめてくれカカシ】

【忙しい柏餅の代わりにASMR配信はオレたちが観てあげるね】

「……そこまで言われると俺も気になってくるんですけど」

【は?】

【やめろ】

【ふざけるな!ふざけるな!バカヤロウ!!】

【脳が壊れるからおすすめしない】

 

 怒られてしまった。

 というかみんな必死過ぎではないだろうか。

 

【あっちではボイスロイドが全然柏餅の話題出さないけど仲悪いんか?】

【やはりオレたちが兄さま】

【きりたんに告白しようと思ってる。視聴者のみんなには、悪いけど。抜け駆けで。】

【ヤバいヤツ出てきたしもう終わったら?】

【ちくわ大明神】

【次回の配信も待ってます!】

 

「いや勝手に終わらせ……別にいいか。では、さらばー」

 

 使い回しているエンディング動画に差し替えて、俺はそのままソロ配信を終わらせた。

 

 

 

 

 本来、俺は生意気なメスガキをブチ犯して分からせるために配信者を始めた。

 

 人気配信者に憧れていたわけでもなければ、何か高尚な目的があったわけでもない。

 ただきりたんを分からせて、来る日も来る日も、家の中ではいつでも手を出せて俺の大人棒に心から屈服する彼女を見たくて、俺は資格取得のために配信者を始めたのだ。

 そう、あの太っちょユーザーとほとんど変わらない。

 俺は性的な事が目的でボイスロイドを購入したくてこれまで頑張ってきたのに、過程の段階で得た動画に関しての云々や、茜の事件などを経験してそれを忘れていたのだ。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない、だとか言って自分を奮い立たせていた。

 

 彼女らの音声作品は本当にすごかった。

 触ってもいないのに、聴いていただけで下着を一枚ダメにしてしまったくらいだ。

 俺には秘密で事を進めているようだが、ゆかりさんが横流ししてくれるそれはいつも俺の手元にやってくる。

 とても魅力的だった。

 健全なASMRしか知らない視聴者たちとは違い、俺だけは一線超えたものを楽しめることに、優越感を覚えている。

 なによりこれまで我慢していたものが解き放たれて、しかもほぼ毎週とてもコッショリしたものが供給されることになって、俺は逆にムラムラが増えつつある。

 

 ゆかりさん曰く、そのジャンルに興味があるとの事で。

 それはつまりコッショリしたあぁいう事に興味があるという事で、つまりはあいつらがむっつりでスケベという事に他ならない。

 えっちなロリガキ。

 これは分からせないといけないだろう。

 俺に隠れてヤバい作品を量産し、ASMRで数多のボイロ好きたちを沼に陥れているメスガキ共を、大人である俺はわからせないといけないのだ。

 

 

「すぅ、すぅ」

 

 隣でボイスロイドたちが眠っている。

 家には布団が三つあり、そのうち二つを使って彼女たち三人はスリープしており、普段はそこから少し離れた位置に布団を敷いて寝ている。

 

「…………」

 

 むくり、と静かに起き上がった。

 スマホを確認すると、深夜三時前くらいだ。

 ボイスロイドたちの音声収録による外出で、欲望を発散できる状況に変わってから、俺は逆にムラムラしてしまっていた。

 音声を聴くたびにドキドキするし、こいつらが()()()()()に興味があるのだと思い出すともう止まらない。

 

「……寝てるな」

 

 茜はずん子の抱き枕にされており、寝相の良いきりたんは少し離れて一人で眠っている。

 彼女に近づきながら──考える。

 もう手を出してもいいんじゃないか?

 コッショリには多少寛容的なのだから、マスターとしてきりたんに触れようとするのはなんら問題ないのでは?

 生意気にもえっちな音声作品を作りやがっているメスガキのことは分からせるべきだろう。 

 だって、その為に彼女を購入したのだから。

 大人としてきりたんを分からせるために。

 

「ほっぺ、やわらか……」

 

 そっと触れると、パン生地のように柔らかい白皙の肌の感触が心地よかった。

 起こさないように、と心の中で何度も反芻しているのに、暴走する精神が手を止めようとしてくれない。

 サラサラな髪も触れていて楽しい。

 近づくと女の子特有の甘い香りが漂ってきた。

 画面の向こうから兄さまだなんだと自分勝手に口にする事しかできない視聴者たちと違って、俺は直接彼女を愛でることができる。

 優越感と背徳感で頭がおかしくなりそうだった。

 

「……ん」

 

 きりたんがスリープモードから目覚めた。

 といっても寝ぼけている様な表情だ。

 パソコンが立ち上げてすぐの時は若干動きが重いように、ボイスロイドもスリープモードから覚めた直後は寝ぼけている。

 ある意味で人間らしい挙動する彼女に様々な感情を抱きつつも、俺の手が止まることはなかった。

 

「あに、さま……?」

 

 変わらず髪を撫でる。

 眠れない子供をあやすようにも見えるかもしれないが、俺の内心はそんな生易しいものではなかった。

 茜のマスターを咎めた日から違和感を持っていた。

 俺は彼と何が違うのだろうか、と。 

 そういう目的で彼女たちを購入して、自分はまだ手を出していなかったというだけの話だ。

 本当はきりたんを買ったらさっそく犯してやるくらいのつもりで彼女を購入したというのに、あれこれ理由をつけて勿体ぶっていた。

 意味がないじゃないか。

 俺はこのロリを分からせてやりたいのに、行動が思想に追い付いていない。

 

「どうか、しましたか……」

「……気にしなくていい」

「はぇ……?」

 

 撫でるのをやめ、きりたんをそっと持ち上げて、そのまま抱き留めた。

 

「ぁ、あにさま……っ?」

 

 温かさを感じる。

 自分以外の、他人の温もり。 

 幼い頃に失ってから、たぶんずっとこれを求めていた。

 動画で、漫画で、SNSの何かで彼女を見かけたそのときから、きりたんをこうしてやりたかった。

 

「静かにしていろ」

「…………は、はい」

 

 きりたんは怯えない。

 何故か少しだけ安心したように、口元を緩めている。

 どうしてだろうか。

 俺はいま、彼女を襲っているというのに。

 

「きりたん……」

 

 そこから数分間、彼女を抱きしめ続ける。

 情欲が湧き上がってくる。

 心臓の鼓動が加速をやめない。

 俺はこのまま、彼女をこのまま、いつか読んだ同人誌のように、このまま。

 どうにかしてやりたい──思った矢先。

 耳元できりたんが囁いてきた。

 

「だいじょうぶ、ですよ」

 

 俺の後頭部を優しく撫でながら、彼女はそう口にする。

 

「マスターなら……いいですから」

 

 その言葉の意味を理解した瞬間、俺は彼女をそっと元の位置に戻し、すっくと立ちあがった。

 

「……マスター?」

「悪い、ちょっと頭を冷やしてくる」

 

 返事も聞かず、さっさと着替えて玄関のカギを閉め、俺はマッハずんだーに跨り家を飛び出していった。

 

 

 

 

 っっっぶねぇぇえええ!!

 

 はぁー、あー。

 マジで危なかった。

 あのままじゃメスガキの言に乗せられて危うく手を出すところだったぜ。

 

「ふぅ……はぁ、落ち着け。まだその時じゃない」

 

 夜の街が一望できる高所まで来て、コーヒーを飲みながら一息つく。

 そう、アレではダメだった。

 俺は待たなければいけないのだ。

 きりたんたちがコッショリ音声を俺に黙って作っている以上、いずれはこれを販売したいと言って秘密を打ち明けてくるだろう。

 そして彼女たちは俺を舐め腐っている。

 聴かせてあげますからさっさと販売してください、なんてことを言ってくるかもしれない。

 なんなら舐めた態度で三人で俺を篭絡してこようとするかもしれない。

 

「負けねぇぞ、メスガキめ……っ」

 

 そこでやっと手を出すことが許されるのだ。

 俺がやりたいのは分からせだ。

 大人を舐めたロリガキを大人棒で屈服させることこそが至高なんだ。

 だからそれまでは待ってやる。

 いままでのように受け身でいてやるのはそろそろ終わりだ。

 サブチャンネルが伸びて調子づき、俺に生意気な態度をとってきやがったら、その時こそ本当に大人棒で躾を執行してやろうじゃないか。

 

「……よし、落ち着いた」

 

 ベンチに置いていたヘルメットを手に取り、振り返った。

 そこには翠色の豪奢なバイクが鎮座している。

 

「行こうか、マッハずんだー」

『レッツゴー』

 

 自分の意思があるのかどうかは定かじゃないが、語り掛ければマッハずんだーは機械音声で返事を返してくる。

 知能もそこそこあるようで、夜の話し相手にはうってつけだった。

 メットを被り、エンジンを轟かせて夜の街を駆け抜ける。

 

『反応あり。この先にある路地裏で成人男性が不良にカツアゲをくらっている』

 

 アクセル全開でマッハずんだーと共に風になる。

 たまにこうして夜の空気を吸っていると、外出中にマスターとはぐれたボイスロイドや、夜中だからと悪い奴らに襲われている人間を見つけることがあった。

 その度に俺は顔の見えないヘルメットを被り、バトルずんだーを駆使して困った人たちを助けている。

 それは正義の行いをしたいからではない。

 ただ自分のボイスロイドに手を出しそうになるたびに、その感情を押さえつけるために日夜バイクを走らせている。

 ただ、それだけのことなのだ。

 

「急ぐぞ、ずんだー!」

 

 本能を抑制するため、今日も月明かりの夜を疾走する。

 

 



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ゆかきり


一部の端末で生じていた読み上げ機能がつかえない不具合が治ったみたいです 安心


 

 

 

 よく晴れたある日のこと。

 インターネットだけでは知識が偏るという噂を耳にした私は、兄さまと一緒に大学の図書館にお邪魔していた。

 ちなみにちゃんと変装してます。

 

「俺に構わず好きに回ってていいからな」

「はーい」

 

 茜さんとずんねえさまは診療所にいて、小一時間ほど調べ物をしたら後ほど合流する予定だ。

 今日は大事を取って休んでいた兄さまが久しぶりに診療所へ顔を出す日でもあり、ねえさまからの電話によると、いつにも増してゆかりさんの機嫌が良いらしい。

 あの人も大概というか、兄さまが関わったボイスロイドはみな彼に対して一定以上の好感を抱いている。

 スタンド使いはスタンド使いにひかれ合うという話もあるように、彼にはボイスロイドを引き寄せる不思議な引力でもあるのかもしれない。

 

 私も彼に惹かれたボイスロイドの一人だ。

 この前は深夜頃に起床した兄さまにぎゅっとされて、もしやこのまま一線を越えてしまうのではないかと思い、咄嗟に意味深なセリフを口にしてしまった。

 結局あの時は兄さまが頭を冷やすと言って外出してくれたから事なきを得たものの、あのまま受け入れていたら大変な事態に陥っていた可能性もある。

 そう、私のセーフティが有効だったからだ。

 ボイスロイド側からの奉仕であれば発動はしないが、マスターから手を出されている状態でその先の行為の承認をする、という行為は若干グレーな気がする。

 下手すれば互いの意思に反してセーフティが発動してしまい、通報されて兄さまがお縄を頂戴されていたかもしれなかった。

 あのとき実はとても危ない橋を渡っていたのだ。

 

 兄さまから触れてくれるのは嬉しいけど、それで危ない可能性が出てくるのなら、いっそゆかりさんに頼んでセーフティを無効にでもしてもらったほうがいいのだろうか。

 でも、そもそも私を購入した時にセーフティを有効に切り替えたのは兄さまだ。

 単にセーフティの存在を忘れていたのか、それとも通報されない範囲の触れ合い程度しか最初からやらないつもりだったのか。

 私を購入したあの日に判明した『直接手は出さないが東北きりたん自体にはそういう目を向けている』という兄さまの実態を思い出して──最近、なんだかよく分からなくなってきている。

 

 あくまでボイスロイドをサポートAIとだけ認識している真面目な動画投稿者、ということならこんな疑問は浮かんでこなかった。

 彼はそこそこ有名な配信者。

 動画サポートAIを必要としていて、それはそれとして東北きりたんにもアレな意味で興味がある。

 上記二つの条件が揃っているのだから、この現代の常識や倫理観を踏まえて考えると、彼は最低でも自慰感覚で私に奉仕をさせてくるはずなのだ。

 

 しかし、それをしない。

 高機能AIが普及しつつあるこの世界における、一般人が抱きがちなアンドロイドへの考えとは、明らかに異なる思想を秘めている。

 自分が購入した道具であるボイスロイドを、まるで一人の人間のように扱っている。

 彼にとってのボイスロイドとは、他の人間から見た場合のボイスロイドとは、また違った風に見えているのかもしれない。

 どうしてそうなったのか。

 ご両親を失ったあの事件以外で、幼少期に何か考えが変わる()()()()となった出会いでもあったのか。

 

 

 ……ふーむ。

 うん、考えるのやめた。

 

 ヒントが皆無の状態じゃ分かんないし、いま思考したってしょうがないことだ。

 とりあえず彼が深夜に起床してしまう件に関しては、あと数日くらい様子見しよう。

 ボイスロイドに対しての直接的な接触への抵抗感が少しだけ薄まったのは、兄さまの気の迷いだった、という可能性もある。

 どうしても抑えきれないときは一旦彼に手を止めてもらい、こちらから奉仕をするという形にすればセーフティの件は問題ないはずだ。

 難しい事に対しては一旦の対応策だけ考えておいて、いまは図書館での情報収集に専念しよう。

 

「うーん、うーん……!」

 

 本を捜し歩いていると、かなり上の棚の本を取ろうと背伸びをしている黒髪の女性が視界の端に映った。

 彼女の姿を認めたあと周囲を見回して分かったことだが、ここら辺には踏み台が見当たらなかった。

 図書館ではほぼ一定間隔で踏み台が設置されているため、どこかの誰かが別の場所へ持っていったまま戻していないのかもしれない。

 

「もう少しっ」

「……この本?」

「えっ。……あ、はい」

 

 危なっかしい挙動の少女が手を伸ばしていた先の本を、偶然近くを通りかかった兄さまが取り、それを手渡した。

 彼女よりも背が高いので兄さまにとっては簡単に取れる位置だったようだ。

 

「ごめん、余計なお世話だったかな。それじゃ」

「い、いえっ、ありがとうございます。……あっ! あの、学生証落とされましたよ!」

「えっ?」

 

 はわわ、兄さまがラブコメしておられる。

 邪魔しないように向こうで本を読んでよう。

 

 

「いだっ!」

 

 数分後。

 図書館の端っこのほうで黙々と本を読んでいると、近くを通りかかった少女が躓いて転倒してしまった。

 その際持っていた本は散乱し、何やらほかにもいろいろ落としている。

 

 大丈夫ですか、と。

 

 声をかけようとしたその直前に、彼女が先ほど兄さまとラブコメをしていた女性だということに気が付いた。

 それだけではない。

 黒い髪はカツラだったようで、ウィッグが吹っ飛んだ彼女の髪は真珠のような艶やかな純白であった。

 美しい白髪をたたえた少女は他にも落としたものがある。

 それは肌色の首輪のようなもの。

 モノというか見覚えのあるパーツだった。

 あれは私たちボイスロイドが首元の黒い液晶部分を隠すために付けている追加パーツに他ならない。

 診療所での経験でボイロのパーツに関して詳しくなった私の目に狂いはない。

 カツラをかぶって変装し、人間では絶対に付けないであろうボイスロイドのパーツを落とし、何より実際に首元の黒い液晶があらわになっている彼女の正体は、どう考えてもたった一つだけだ。

 

「……あなた、ボイスロイドですか?」

 

 そう私に質問されて肩をびくつかせた少女の姿に見覚えがある。

 ボイスロイドの中でも割と有名な部類に入るお方で、なにより診療所を営むあのゆかりさんの後輩ということで、その情報はあらかじめ頭の中に入っていた。

 

「私、マスターに同行してこの図書館に来たボイスロイドの東北きりたんです。あなたは?」

 

 散乱した荷物をすべて拾って机の上に置き、ついでに自分では取り付けづらい首の液晶隠しを装着させてあげながら質問すると、数秒ほど迷って口をつぐんでいた彼女がようやっと返事を返してくれた。

 とても綺麗な、優しさを感じる明るい声音で。

 

「……き、紲星(きずな)あかり……です」

 

 かつてゆかりさんが『ひどいマスターのもとから一緒に逃げた』と言っていたその後輩さんに、私はこの人間だらけの図書館で出会ったのであった。

 

 

 ……

 

 …………

 

 

「ボイスロイドの診療所……なるほど。先輩そんなすごい人になってたんだ」

 

 図書館内でのお喋りは厳禁とのことで、私たちは中庭の休憩スペースにあるベンチに座って、互いの情報を交換し合っていた。

 茜さんの時もそうだったが、このご時世ボイスロイドというのは基本的にみな生活環境が大きく異なるため、他のボイロにあったときにも生き残るためのアドバイスなどができるよう、マスターのプライバシーに大きく影響しない範囲での情報共有を行うのが私たちの『挨拶』となっている。

 姉妹機でなくとも数少ない大切な同胞、というのがボイスロイド同士の共通認識だ。

 出荷前の生活シミュレーションでは稀に家族以外のボイロとも交流することがあったため、人間の感覚で例えると久しぶりに会った学生の頃の友人──みたいな感じだろうか。

 少々口が軽くなることもあるというか、正直言って他のボイスロイドとの対話はけっこう楽しい。

 そのため私たちはすっかり意気投合してしまい、連絡先を交換してもなお会話に花が咲いていた。

 

「あ、きりちゃんも診療所で働いてるんだね。……変な服を着せられてたりしてない?」

「特殊なナース服を……」

「ふわー、やっぱり。あの人たまにアタシを着せ替え人形みたいにしてたし、そういう所あるんだろうな」

 

 おしゃれ好きというか、自分はいつもの服の上に白衣という代わり映えしない服装をしている割に、他の女の子には色々と着せたがるという変わった特性があるのは確かだ。

 診療所には五種類くらいタイプ別のナース服が置いてあるし。そんなにたくさんは着れません。

 

「…………そっか。先輩、あのプログラムを克服したんだ」

「プログラム?」

「先輩から何か聞いてない? きりちゃんくらい近しい人になら話してると思うんだけど」

「……あ、そういえば前に一度」

 

 ちゃんと覚えてるぞ。

 結構衝撃的だったから。

 

「サイコガン」

「……そ、そっちじゃなくて」

 

 違ったようだ。

 

「特定のワードを言われたら、無条件で発言者に服従して目にハートが浮かんで発情するプログラム……でしたっけ」

「そうそう、それね」

 

 私の口からプログラム名を聞いたあかりさんは、どこか遠くを見つめている。

 自分で言ってみて改めて思ったことだが、やっぱり結構頭の悪いプログラムだと思う。

 こんなしょうもないモノを仕込まれているのにしっかりと自立しているゆかりさんは、やっぱりすごい人だ。

 

「中枢プログラムに植え付けられたものだから、アタシにも未だに組み込まれていてね。先輩がどうなってるか心配だったんだ。……でも、聞いた限りの様子なら問題なさそうでよかった」

 

 実際大丈夫なのか、そうでないのか。

 それは私には判断しかねることだ。

 なにより彼女たちが聞いたら発情してしまうという『特定のワード』というもの自体が、どんなものなのか把握していない。

 日常に溢れるものだった場合はかなりヤバいけど、ゆかりさんとあかりさんへの禁句ってなんなんだろう?

 まぁ、これまで普通に会話を続けていて、ゆかりさんが禁止した言葉も無ければ、特定のワードを言われて顔をしかめた事もないのだし、よほど特殊な文字列のワードなのだろう。

 あまり心配する必要もないかもしれない。

 

 

 

 

 ──などと、楽観視していたのが失敗だったのかもしれない。

 

「はああぁぁぁあああぁっ♡♡ きりちゃんきりちゃんきりちゃん♡♡♡ んー、ちゅっ、ちゅーしましょう♡♡♡♡♡」

「たっ、助けてぇーッ!!」

 

 診療所に到着してから数十分後の事だった。

 兄さまが忘れ物を取りに自宅へ帰り、ずんねえさまが買い出しに出かけて診療所が三人になったとき、患者さんもいないため私たちは戸棚の整理をしながらラジオを聴いていた。

 それを聴きながらの雑談。

 取り留めのない、いつも通りの会話のハズだったのだ。

 だからこそ()()()()()()()()()()()分からなかった。

 

「マスターはよ来てください! なんか変貌したゆかりさんがきりたん襲ってて──」

 

 いつの間にかゆかりさんの瞳の中にはピンク色のハートが浮かんでおり、発情というより暴走したような雰囲気で私に襲い掛かってきた。

 たぶん私が禁止ワードを口にしてしまったであろう事は察したものの、ワードを聴いてから発情までに若干のタイムラグがあったのか、会話が一瞬途切れた後に飛びかかってきたため、禁止ワードがなんなのかまるで見当がつかない。

 それよりこの状況ヤバぁっわわゆかりさんちょっとどこ触ってひゃあああ!

 

「マスターには電話した! ずんちゃんもそろそろ戻ってくるはずや!」

 

 茜さんがスマホをかなぐり捨ててゆかりさんのお腹にしがみつき、私から引き剥がそうとしている。

 ちなみに体勢的にはゆかりさんが私を文字通り押し倒して馬乗りになっており、茜さんが背後から彼女を引っぺがそうとしている感じ。

 とてもカオス。

 平和な診療所が一瞬にして戦場へと変貌してしまった。

 

「ゆかりさんやめーや! 正気にもど──」

「うるさいですね茜ちゃん! ちょっとばかりお静かに! んっ!!」

「むぐぅッ!!?」

 

 ズキュウウウウウン。

 茜さんはゆかりさんによるエグいディープキスの餌食にされてしまい、ものの数秒で撃沈してしまった。

 

「はわわ……っ!」

「んふふ♡ これでわたし達を邪魔するものはありませんね♡ さぁきりちゃん、一緒にナメクジみたいな濡れ濡れくんずほぐれつレズプレイに勤しみましょう♡♡♡」

 

 く、喰われる。

 文字通り彼女に貪られてしまう。

 プチ、プチ、とゆかりさんが自らの服のボタンを上から順に外していて、彼女が冗談でもなんでもなく本気で私を食べてしまうつもりだという事を察して血の気が引いた。

 遂にシャツをはだけさせ、下着姿まで露になってしまった。

 とてもマズい。

 

「……お、女の子とシた経験なんて無くて……」

「心配ご無用です、わたしが一から十まで徹底的に手ほどきして差し上げますから♡♡ さっきりちゃん♡♡♡ まずは挨拶代わりのキスを……」

「ふわあぁぁぁ……っ!!」

 

 む、無念……。

 

 

「──きりたんっ!! お姉ちゃんが助けにきたよ!!」

 

 

 もはやこれまでと観念したその瞬間、診療所の扉を蹴り破って深緑色の長髪を靡かせた少女が突入してきた。

 その名は東北ずん子。

 私のピンチにはいつでも駆けつけてくれる、自慢の無敵のお姉さまであった。

 

「フヒヒヒヒヒ♡♡♡♡♡♡♡♡♡」

「正気に戻ってゆかりちゃんッ!」

「ずっ、ずんねえさま! 今のゆかりさんに言葉による説得は無意味です!」 

 

 死に物狂いで現状を伝える私。

 するとお姉さまは懐から小さなタッパーを取り出し、それを開封。

 

「だったら少し手荒になるけどコレしかないね!」

 

 彼女が手を突っ込んで取り出した中身は──ずんだのお団子だった。

 

「ずんだヒーリング!!」

「ムグっ!?」

 

 それをゆかりさんの口内へブチ込む。

 挙動は完全に螺旋丸のそれだ。

 

「…………ハッ。……わたしは、何を……?」

「よ、よかった……ゆかりさんが戻りました……」

「きりちゃん……? ──っ!? わっ、わわわたしなんて恰好して……!?」

 

 お姉さまの言った通りかなり手荒な方法を取ったこともあり、その分発揮される効力も強かったのか、ずんだ団子を食わされたゆかりさんはすぐに正気を取り戻すことができた。

 喰らおうとしていた者が、逆に食わされるという皮肉めいた攻撃で正気に戻るとは……なんにせよ、やはりずんねえさま特製のずんだアイテムは汎用性が凄まじい。

 まさか詳しい式も何もかもが不明な自動発動プログラムを、ものの数秒で鎮静化させてしまうとは。

 ずんだ、すごい。

 

「ゆかりさんっ、きりたん! 二人とも無事か!?」

 

 ちょうど兄さまもご到着。

 

「……って、あれ?」

 

 しかし事件はすでに解決している。

 マスターの出る幕が無かったのは、余計な仕事を増やさなかったという点では良かったのかもしれない。

 しかし──

 

 

「ゆ、ゆかりさん……?」

「っ!? あっ……み、見ないでください柏木くん……っ!」

 

 

 発情していたときに私を犯そうとする過程で衣服をはだけさせていたゆかりさんは、絶対に見せる予定など無かったであろうそのあられもない下着姿を、兄さまの目に焼きつけさせてしまう状況を生み出してしまっていた。

 瞬間、私はお姉さまにアイコンタクトをした。

 

「あっ、あの、ごめ! 見るつもりじゃなかっ」

「ずんだ記憶消去ォっ!!」

「ブ゛ッ!!!」

 

 意図をくみ取ってくれたずんねえさまは、即座にずんだ餅をどこからともなく出現させ、それを兄さまの顔面に全力投球。

 見事に兄さまを気絶させた。

 

「ご、ごめんなさいお兄さん……!」

「コレは事故です。兄さまが責任を取るとか言い出す前に……こうするしかなかったんです、ねえさま」

「…………あ、あの、なんなんですか、この状況……?」

 

 とりあえずゆかりさんに上着を着せ、兄さまを患者用のベッドへ寝かせたあと、ディープキスでお目目がグルグルになった茜さんを見ながら、私とねえさまはこの後どうしたものかとため息をはきながら、頭を抱えてしまうのであった。

 

 



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ユウくんぱわー

 

 

 ゆかりさんの様子がおかしくなった、という連絡を受けて診療所へ向かった俺は、いつの間にか患者用のベッドに寝かせられていた。

 

 何か大変なものを目撃してしまった、というおぼろげな記憶は残っているものの、それが何だったのかは思い出せない。

 思い出さないほうがいい、という事も周囲の態度からして察している。

 だからこの件に関しての言及はしないでおこう、と決めてすぐに意識を切り替えた。

 

 問題はゆかりさんだ。

 いま俺は彼女と診察室で二人きりで話をしているのだが、ゆかりさんから聞かされた話は想像をはるかに超える凄惨なものだった。

 特定のワードを目の前で言われると、発言者に対して発情して我を失ってしまうという恐ろしいプログラム。

 彼女はそんな望まぬ十字架を背負わされながらこれまで生きてきたらしい。

 日常生活を送るのも億劫に感じてしまう程の、理不尽なデメリットだ。

 彼女の以前までのマスターは何を考えていたのだろうか。

 

「……そういうわけで、システムが作動するとその前後の記憶が曖昧になってしまうので、自分へのNGワードがなんなのか把握できていないんです。教えてもらおうとすると発動しちゃうし……」

「…………なるほど」

 

 秘密にしていたそれらの事情を彼女はすべて話してくれた。

 明らかに弱った様子で、逐一こちらの表情を窺いながら、だが。

 

「ごめんなさい、こんな大事な話をこれまで隠していて」

「……」

 

 何と声を掛けたらいいか分からない。

 先ほどからあまり良くない空気が部屋の中を支配している。

 確かにそんな大変な事情を抱えていたのなら事前に教えておいて欲しかった、という気持ちがないわけじゃない。

 しかしゆかりさんの気持ちを考えると、話さなかった事情も分かると、そう思えてしまった。

 

 普通に会話をしているだけでも、もしかしたら突然自分を襲ってくるかもしれない。

 そんな相手とコミュニケーションを取りたいと考える人間がどれほどいるというのだろうか。

 恐らくそう多くはない。

 まず一般人なら近づきたいとさえ思わないだろう。

 ──と、ゆかりさんはそう考えている。

 正直言って間違いではない。

 彼女が抱えているそれは爆弾そのものであり、事情を知られてしまったら嫌われる程度のことでは済まない可能性も大いにある。

 

「マスターに紹介して頂いた方の中に、いわゆる裏稼業のような形で改造ボイロたちの治療をおこなってくれる先生がいらっしゃるんです。改造品は本社に回収された場合、八割くらいの確率で廃棄処理されるか、もし逃れたとしても人格データの抹消は避けられないから、記憶そのままに体内プログラムを除去してもらうにはその筋の人間様に頼るしかなくて……でも」

 

 彼女の顔が曇った。

 膝の上に置かれたゆかりさんの手が、震えを押し殺すように握りこぶしを作っている。

 

「手術成功の確率は半々。……とても緻密な部分を弄るらしいので、無事に除去できるか……もしくは人格データが記憶領域ごと吹っ飛ぶか、その二択だと言われました」

「……受けるのを拒否したのか」

 

 ゆかりさんは小さく頷く。

 

「怖かった……失敗したらわたしは死ぬって事ですから。……いろんなボイスロイドを診察する身でありながら、我が身可愛さに他人への迷惑を承知で手術の提案を蹴ったんです。……でも、その結果がこれなら……」

 

 なるほど、と。

 もう一度相槌を打ち、俺は少しばかり逡巡する。

 

 ゆかりさんの事情は概ね把握した。

 彼女は手術のリスクを考えて発情プログラムをそのままにし、周囲に距離を取られない為に自らの事情をひた隠しにしていた。

 自分のマスターときりたん以外には誰にも話していなかったらしく、発情プログラムは彼女にとって最も大きな秘密であったようだ。

 

「……ゆかりさん」

「っ……?」

 

 少女の震える手を握る。

 ゆかりさんの気持ちが全て理解できる、と言ったらそれは完全なる驕りだ。

 気休めの言葉は目の前にいる少女をさらに追い詰めるだけだろう。

 だから、俺はゆかりさんに対して”本気”だという意思を、今この場で示さなければならない。

 

「そばにいるよ、絶対」

 

 孤独は辛い。

 わかるのはそれだけだ。

 一人になるのはとても寂しくて、だから他の誰かを求めてしまう。

 俺が彼女の立場であっても、恐らく同じことをしただろう。

 ……いや、もう既に似たようなことをしている。

 

「柏木、くん……」

「ゆかりさんが怖いならずっとそばにいる。暴走しそうになったらまたずん子のお団子を食べさせるし、俺たちはゆかりさんを嫌いになったりはしないよ」

 

 とてもキザというか、普段の自分が聞いたら恥ずかしくて逃げたくなるような言葉の数々。

 それらがとめどなく溢れてきてしまうのは、やはりどうしても彼女に元気を取り戻して欲しかったから──なのかもしれない。

 

「話してくれてありがとう。でも俺たちがこの診療所からいなくなることはないから安心して」

「……ずびっ」

 

 半泣きになったゆかりさんが鼻をすすっている。

 ボイスロイドでも人間と同じように、泣きそうになると鼻が赤くなるらしい。

 

「俺だってそんな条件を聞いたら手術なんて受けたくないと思うに決まってる。……ゆかりさんは間違ってない」

 

 診療所の先生をカウンセリングすることになるとは考えもしなかったが、いまこの瞬間彼女に寄り添える人間は俺しかいないのだ。

 きりたんが俺を受け入れてくれたように、俺もゆかりさんを受け入れたいと思う。

 あの子がいつでもそばにいてくれるのと同じように、俺もゆかりさんを決して一人にはしない。

 孤独は痛い。

 俺は何よりもその事を知っている。

 だから、恩人であるゆかりさんには同じ苦しみを味わってほしくないから、俺はいつでも彼女を支えられる人間でありたい。

 それを伝えるために俺は彼女の手を取り微笑み語り掛ける。

 一刻も早く、いつもの気配り上手でお調子者な、ドヤ顔しがちのゆかりさんに戻って欲しかった。

 

「……ありがとうっ、ございます。……柏木くんは優しいですね」

 

 そんな、俺の手を握りながら小さく笑う彼女の姿は、記憶の片隅にあるいつかの少女と重なって見えた。

 そのせいなのか。

 俺も釣られて、思わず笑ってしまっていたらしい。

 

 

 

 

 後日。

 用事があるから出掛けると言って、一人で診療所から去ってしまったゆかりさんを心配しつつ、夕食の買い出しを終えて帰宅をすると、そこには見慣れた光景が展開されていた。

 

「ムフフー、きりちゃんフワフワですねぇ♪」

「あ、あの、ゆかりさん? そろそろ撮影するんで離して……」

 

 なにやらモコモコな生地のパーカーをきりたんに着せたゆかりさんが、彼女を後ろから抱きしめて愛でている。

 変な衣服を着せてきりたんを可愛がるのは、診療所ではよく見る光景だ。

 ……しかしゆかりさん、連絡もないから心配していたのに、いつの間に俺の家に。

 

「あっ、柏木くんお帰りなさい!」

「ただいま……?」

 

 なんか、いつにも増して凄い元気だ。

 昨日のあの様子からは考えられないくらい、普段以上の陽気さを取り戻している。

 何か特別なイベントでもあったのだろうか。

 

「ゆかりさん。昨日はどこへ……」

「あっ、手術に行ってました」

「えっ? ………………えっ?」

 

 ちょっと何言ってるかわかんない。

 

「きりちゃんと柏木君のおかげで踏ん切りがついたんですよ。皆さんと一緒にいる時に気をつかわれるのは嫌だったので、思い切ってドーンとやってきました」

「そ、そう……。……えっ、大丈夫だったの? あの、確率が半々とか」

「賭けに勝ちました!」

「…………なるほど」

 

 こんなにあっさり手術を受けてしまうなんて思わなかった。

 昨日の俺のカッコつけた恥ずかしいセリフの数々、もしかして必要なかった?

 ……まずい、今更になって急に顔が熱くなってきた。

 

 結局その日はゆかりさんに圧倒されっぱなしで、妙にスキンシップというか距離感が近くなった彼女に翻弄されながらも、いつも通りの夜を過ごすのであった。

 

 



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試作零号機の髪飾り

 

 

 兄さまと一緒にバイクへ跨り、心地よい風を感じながらコンクリートの海を進むこと小一時間。

 

 私たちは人工知能博覧会というイベントが開催される大きな建物に到着した。

 事の経緯は単純。

 自宅でみんなが兄さまハーレムしながら四人でスマブラをしていた時、暇だった私はPCで適当にネットサーフィンをしていたのだが、そのときにこの人工知能博覧会という文字列を発見したのだ。

 さすがにただの博覧会に興味を示すほど純粋ではなかったのだが、その中に『ボイスロイドの始まりの機体』という大変目を引くワードを目撃したため、兄さまに頼み込んでこのでっかいドーム状の施設にまで足を運んだというわけだ。

 ゆかりさんはいつも通り診療所。

 ずんねえさまと茜さんはクリアするまで終われない耐久配信中ということで、博覧会へ訪れたのは兄さまと私の二人きりだ。みんなにも来て欲しかったな。

 

「入場受付は終了です。パスをお見せいただければいつでも再入場が可能ですので」

 

 係員に促され、施設の中へ進んでいく。

 とても大きな建物を借りたイベントという事もあってか、中は大勢の人ごみで溢れかえっていた。

 内装はまるで博物館そのもの。

 加えてあちこちで展示用のAIたちと人間が触れ合っている。

 予想してた静かな展示会などではなく、家族連れも多いポピュラーなイベントなのかもしれない。

 

「にしても……本当にその恰好で大丈夫なのか、きりたん?」

 

 隣を歩く兄さまは少しばかり不安そうな表情をしている。

 そう、私は現在変装しておらず、デフォルト衣装を身に纏った普通の東北きりたんだ。

 ふっふっふ、事前に仕入れた情報に間違いはないので安心してくださいね。

 

「アンドロイドの持ち込み大歓迎って見出しもありましたし、受付でボイロ用の飴ちゃんなんかも貰ったんですよ? 心配ありませんって」

「まぁ……ボイスロイドではないが、自立型AIを連れてるお客さんはそこそこいるな。きりたんも悪目立ちしてない」

「そうそう、だいじょぶだいじょぶー」

 

 変装せずに外を出歩けるのが嬉しいのか、私はいつもより舞い上がってしまっているかもしれない。

 いろんなものを見て回りながら博覧会を楽しんでいると、少し進んだ先に『ボイスロイドの方はこちら』という案内を発見した。

 何かと思って近づくと、そこには見覚えのある顔が。

 

「あれっ、あかりさん?」

「きりちゃん! こんなところで会うなんて奇遇だねぇ」

 

 係員の服装に身を包んだあかりさんが部屋の入り口で案内を行っていた。

 これはどういう事だろうか。

 

「知り合いか?」

「はい、こちら紲星あかりさん。こっちが私のマスターです」

「どうもマスターさん!」

「初めまして。きりたんがお世話になってるようで」

「いえいえとんでもない!」

 

 そういえばあかりさんと兄さまはコレが初対面だ。

 図書館で出会ったときのあかりさんは変装していたし。

 

「どうしてあかりさんはここに?」

「ここでお仕事してるの。アタシ本社に自由行動を認められてるボイスロイドだから、その対価としてこういうボイロが関わるイベントはみんなお手伝いする事になってるんだ」

 

 事情は把握したが、本社に自由行動を認められている、という点が引っ掛かった。

 そんな怪訝な表情をした私を前にして察したのか、あかりさんは聞く前に疑問に答えてくれた。

 

「自立成長プロジェクトっていうのがあってね。ボイスロイドを比較的自由に行動させたらどう成長するのか、っていう実験の一種なんだ。アタシが改造ボイロなのに出歩けるのはそういう特別な理由があるから」

「なるほど……あかりさんも大変ですね」

「アハハ。まぁマスターが居ない生活っていうのも意外と新鮮で楽しいよ。あっ、それよりコレ見てく?」

 

 あかりさんが紹介してくれたのは、ボイスロイド向けの見学コースだった。

 扉の先は一本道になっているようで、道中様々な展示品や歴史の資料を見て回りながら進む部屋だったらしい。

 

「所要時間は三十分。退屈はさせないと約束しますよー!」

 

 あかりさんが張り切っている様子を一瞥し、兄さまの判断を窺った。

 ボイスロイド向けという事もあるし、もしかしたら兄さまには退屈かもしれない。

 少し不安になりながら彼を見上げていると、不意に私の頭を撫でてきた。

 

「俺のことなんか気にしないで行ってきな。再入場できるらしいしちょっと外のコンビニで支払いを済ませてくるよ。終わる頃には戻ってくるから、それまではあかりさんと居てくれ」

 

 そう言って兄さまはあかりさんにお辞儀しつつ、人混みの中へと消えていった。

 歴史の資料とか聞いた時は少しだけ顔をしかめていたし、拘束時間の長い見学ツアーなどは苦手なのかもしれない。

 もしくは自分に気を遣わせず、私を好きに見学させる為だったのか。

 ともかく彼の心遣いには感謝しておこう。

 私一人になると言っても、イベントの係員であるあかりさんと一緒にいればそこは問題ない。

 

「レッツゴー!」

「おぉー」

 

 というわけで、博覧会の主目的だったボイスロイドの歴史ゾーンへと足を踏み入れていくのだった。

 

 

 

 

 あかりさんによると、現時点でここに訪れたボイスロイドは私だけだったらしく、ようやく案内ができると彼女はウキウキしていた。

 

 アンドロイドを連れている人間こそたくさんいるものの、ボイロ連れは兄さまが初めてだ、と。

 精密に造られた精神を持たない自立型アンドロイドは安価で手に入りやすく、その反対のクオリティ重視で値段が跳ねあがっているボイスロイドは、やはり一般人向けのAIではなかったらしい。

 それでも私が注目されなかった理由は、展示用のボイスロイドと触れ合える機会があり、兄さまもその体験をしている内の一人だと思われたからだったのだろう。

 

「そろそろ今回の目玉が見えてくるよー」

 

 ただ、人混みの騒がしい外と違って、この部屋の中は心地よい静寂に包まれていた。

 あかりさんに案内されながらボイロの歴史を辿っていき、私は遂にその原点たる存在の前に足を運ぶ。

 そこにあったのは──

 

「……髪飾り?」

 

 透明なガラスケースの中に鎮座するそれは、私のデフォルト衣装に付いている包丁型のアクセサリーに酷似したものであった。

 たった一つだけ、そこに置いてある。

 かなり傷がついており、形もなんだか少し歪で、青白い線が一本だけ刻まれているその姿から、アレが私の装着しているコレのオリジナルなのだなと察することができた。

 

「これは統合型試作零号機が付けていたとされる髪飾り」

 

 あかりさんは穏やかな表情を浮かべている。

 多分、私も。

 この髪飾りを目にした途端、形容しがたい安心感のようなものを心の中に感じた。

 自分の物ではなく事前に調べていたわけでもないのに、この特殊な形状の髪飾りを私は知っていた。

 

「統合型、試作零号機……?」

「いわゆるプロトタイプってやつだね。私たちボイスロイドの大本──というか()()()()……かな?」

 

 最初の、私。

 その表現は人間で例えることができない。

 人間からすれば何を言っているのか理解できないかもしれない。

 ただ私はボイスロイド。

 言葉ではなく、心でその意味を理解できた気がした。

 最初の私。

 一番初めのボイスロイド。

 

「プロトタイプの素体は行方不明なんだって。研究所間でのゴタゴタがあったらしくて」

「……廃棄されたのでしょうか」

「さぁ。噂によれば廃棄されたか、どこかに保管されてるとか、もしくは素体ごと新しいボイスロイドに転用されたとか……みーんな憶測」

 

 行方が分からなくなった彼女のパーツで、唯一残されたものがこの髪飾りであったらしい。

 プロトタイプ。

 統合型試作零号機。

 ボイスロイドのオリジナルであるはずのそれを、私はどうしても母親だとか姉だとか、そういった感覚で捉えることはできなかった。

 

「……プロトタイプ」

 

 分かっているのは素体が少女の姿をしていた、という事だけだ。 

 それ以外全く何も知らない。

 知らない筈なのだが、何かを知っている気がする。

 彼女の髪飾りを前にすると、言い知れぬ違和感を覚えてしまった。

 

「これは公にされてる情報じゃないんだけど、実は試作零号機の研究は十年前のある時点でかなり行き詰ってたらしいの。とある転機が訪れて、そこから一気に現代の形へ進歩していったみたい」

 

 ツアーの案内らしく、隠された逸話らしきものを語るあかりさん。

 しかし、不思議と彼女が明かそうとしている秘密がなんなのか私には分かる気がした。

 

「──男の子に、会った」

「えっ? ……あれ、もしかしてきりちゃんもこの話、どこかで聞いたことあった?」

「あ、いえ……」

 

 聞いたことなどあるはずがない。

 その歴史とやらを知る為にわざわざこの博覧会へ足を運んだのだから。

 とはいえ、頭の片隅でその情報が掠ったのも事実。

 もしかしたらネットサーフィンをしている時に、そこかで見かけた情報だったのかもしれない。

 

「ユークン、っていう少年がプロトタイプの中枢神経を大きく刺激させて成長につなげた、っていう話なんだけど……きりちゃんが知ってるならわざわざ話す必要もないか」

「……ユークン? 変わった名前ですね、外国の方ですか?」

「アタシもそう思ったんだけど、もしかしたら『ユウ』っていう名前の子を君付けしてたんじゃないかって話だよ」

 

 ユウ……。

 ゆう、か。

 確か兄さまの下の名前も(ユウ)だったはずだけど。

 研究が停滞していた十年前というのも、彼の年齢を考えると小学五年生。十分普通に少年だ。

 ……いや、まぁ流石にそれは出来過ぎか。

 同じ名前の人間など山ほどいるし、ただの偶然だろう。

 

「──おっ。見学はもう終わったのか?」

 

 部屋の外へ出ると、なにやら服がところどころ破れている兄さまが出迎えてくれた。

 というか口の端っこから血が出てますよ。

 

「あの、兄さま? どうしてそんな怪我して……?」

「いやぁ……ちょっとコンビニ強盗が押し入ってきてな。バトルずんだーと一緒に戦ったら……」

「あかりさん、医務室ありますか?」

「う、うん。さすがに連れて行こう」

「ちょっ、二人とも……?」

 

 ヒーロー染みた行動が最近目に余る兄さまをそのまま医務室へ連れていき、応急処置をしながら考える。

 もし彼がユウくん、という歴史の転換点となった人物だったら──と。

 かぶりを振り、思考を改める。

 それは流石に望みすぎだろうと考え直し、私はちょうど耐久配信を終えて愚痴を語る茜さんの電話を聞きながら、兄さまと共に博覧会を後にしたのだった。

 

 



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ロリコン、雨上がり

 

 

 雨が降ると、いつもあの日を思い出す。

 

 大企業に勤める金持ちの息子が現実を知った日。

 親の威光を笠に着てふんぞり返っていた世間知らずのクソガキが、すべてを取り上げられて惨めに泣き喚いた日のことだ。

 すぐそばで凶器を振り回して警官と戯れる男を気にも留めず、動かなくなった雨曝しの母親に声をかけ続けていた。

 

『お母さん』

 

 いつも夢を見る。

 堅物の父親と、柔和な笑みを浮かべる母親がいた。

 諸事情で別の場所で暮らしてる姉の話なんかも聞きながら、三人でクッキーを食べていたりする夢を見ていた。

 そして気がつくと雨が降っている。

 父親は玄関でうつ伏せに。

 母親は俺のすぐそばで、雨に打たれながら眠っている。

 

『お母さん』

 

 何度も語り掛けていた気がする。

 こんな豪雨の中で寝ていたら風邪を引いてしまう。

 腹部のお洋服が赤く汚れてしまっているから、これも洗濯して綺麗にしないと。

 それからどこか怪我をしているかもしれないので、一緒に病院へ行った方がいい。

 俺もさっき、男の人に殴られたから。

 

『──お母さん』

 

 優しい人だった。

 温かい人だった。

 父は少しだけ厳しかったから、より一層母の穏やかさが心地よかった。

 そんな人が冷たくなっている。

 こちらの呼びかけに一言も応じなくなっている。

 

 雨が降ると、いつもあの日を思い出す。

 家族三人で手作りのクッキーを食べていた日。

 知らない男の人に全てを奪い去られた日。

 ──母さんが笑って俺を送り出してくれた日。

 お巡りさんの所まで行ってきて、と。

 言われるがまま雨の中を駆け抜けて。

 

 そのあと、風邪を引いてしまった日だ。

 

 

 

 

「兄さま」

 

 声が聞こえる。

 

「かぜ、引いちゃいますよ」

 

 心が落ちつく声音だ。

 両親を失った後、どこかで触れ合った一人の少女と、とても似た声をしていると思った。

 うっすらと目を開ける。

 隣にはきりたんがいた。 

 俺は自分の腕を枕にして眠っていたらしい。

 それから数瞬呆けて、ようやく今の状況を思い出す。

 

 

 博覧会を見終えたあと、バイクを走らせている途中で雨が降ってきた。

 

 雨合羽を積み忘れていたので屋根がある場所まで急いで走らせて、結果的に屋根付きのベンチとテーブルがある公園に逃げ込んで。

 こうしてきりたんと横並びになって座り、雨が止むまでここで待機しようという話になったのだ。

 最初はスマホで動画を観たりして時間を潰していたのだが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 雨の日に、昼寝。

 二つの条件が重なって、昔の記憶を掘り返すような夢をみていたようだ。

 

「どうぞ」

「……っ?」

 

 きりたんがハンカチを差し出してきた。

 なんだ、藪から棒に。

 屋根の下にいるから濡れているはずはないのだが。

 

「怖い夢でも見たんですか」

「えっ。……あ、俺、泣いてたのか……?」

 

 言われてようやく気がついた。

 俺の目尻には水滴と流れた痕があり、夢を見ている間俺は何故か涙を流していたらしい。

 

「……怖い夢、か」

 

 考えてみればそうかもしれない。

 これまで蓋をしてきた過去の記憶なのだから、見たくもないものだったはずだ。

 そんな夢を今更になって想起するようになってしまったのは、一体どうしてなのだろうか。

 

「浮かない顔です」

「……博覧会を出たあと、お前も似たような感じだったぞ」

「なんとっ」

 

 小さく驚くきりたん。

 俺が指摘されたことは彼女にも当てはまることだ。

 博覧会でのボイスロイド向けコースで何を見たのか、彼女はバイクに乗るまでずっと何かを考え込むように俯いていた。

 聞くのも野暮と思ったから質問こそしなかったが、こうして同じ状況になったのなら互いにそれを答えてもいいんじゃなかろうか。

 

「きりたんは何を見たんだ?」

「……まぁ、歴史です。ボイスロイドの過去を知って、ちょっとだけセンチメンタルになってたのですよ」

 

 ボイスロイドも感傷に浸るときがあるのか、と素直に関心した。

 何分最近はASMR配信で世のボイロ好きたちを唸らせたり、コッショリした音声作品を作って俺を唸らせたりしていたので、彼女らは悩みとは無縁の生活を送っているように思えていたから。

 昨日今日だってずん子と茜は楽しそうに耐久配信を行っていた。

 きりたんも同じで、博覧会に行ったとはいえ道中は動画やゲームの事ばかり考えていると思っていた……のだが。

 なにやらボイスロイドの歴史を知る際に、それよりもっと大きな何かを目の当たりにしたらしい。

 

「兄さまは……」

「俺も似たようなもんだよ。昔あった出来事を夢で見てた。……あの日もこんな雨だったから」

「あ、回想シーン入る感じですか?」

「変なこと言われたからやめる……」

 

 きりたんが詳細を語らなかったのだから、俺も詳しい話はしないでおこう。

 お互いに黙っておきたい秘密の一つや二つはあるだろう。

 尤も、彼女から教えてほしいと頼まれた場合であれば話すのもやぶさかではない。

 知らないままでいいと思う反面、知ってほしいとも考えている。

 そう、これは単なる甘えだ。

 

「……私も話したら教えてくれますか?」

 

 意外な提案だ。

 彼女にも俺を知りたいと考える程度の興味はあったようだ。

 

「いや、言いたくないなら別にいい。こっちが勝手に話すよ。俺のはいずれ明るみになる話だからな」

 

 それから色々とあの日のことを語った。

 二度この事を喋ることは無いだろうから、この一回で済ませられるよう、なるべく覚えている限りの範囲で詳細に。

 

 

 ──雨脚が強まる。

 近くの砂場はちょっとした池みたいになっていた。

 溢れそうな水たまりに雨粒がぶつかり、跳ね返る音がとても大きい。

 びしゃびしゃ、ばしゃばしゃ、と。

 俺は喋りながら辺りを見回す。

 とても大きな公園だ。 

 ベンチやテーブルがあるこの場所だけでなく、駐車場にも屋根があった。

 ここのおかげでマッハずんだーも俺たちも濡れずに済んでいる。

 

 ……ふと、考えた。

 人型の自立ロボット形態になれるほどの高度な変形機構が組み込まれたマッハずんだーや、一応精密機械であるはずのきりたんがこの雨のもとに晒されたら、どうなってしまうのかと。

 ボイスロイドは入浴できる。

 むしろ外で活動などをした際は人間のように汚れることもあり、それを洗い流すために積極的に風呂へ入ることも珍しくないほどだ。

 耐水性が抜群、どころの話ではない。

 人のように食事し、人のようにシャワーを浴び、人のように喜怒哀楽を表し、一日の最後には睡眠をとる。

 それはもう人間ではないだろうか。

 寸分違わず、自分たちと同じ存在なのでは──そう考えて疑問が浮かぶ。

 どうして茜のマスターは、ずん子のマスターは、彼女たちを人として扱わなかったのか。

 まるで人間と変わらない存在なのに、どうしてそこまで()()()()()()()

 少し逡巡して、ようやく答えを得た。

 

 彼らには先入観があった。

 ボイスロイドは、アンドロイドは人ではなく人間が扱う道具である、と。

 どんな用途で使おうが本人の自由で、法に触れる事でもないのだから文句を言われる筋合いだってありはしないのだと。

 分かる。

 そう思うのが普通だ。

 大前提として人の為に造られた存在という事実があるのだから、活用する人間がそれらに対して『人間と同じように』などと考えるはずがないのだ。

 

 だったら俺もそうすればいい。

 茜のマスターのように過度な干渉を行わなければ、適度にストレスを発散してやれば、それで何も問題ない。

 道具として扱えばその分従順になる。

 もっと好きなことができる。

 自分に何かを強いる必要のない、アンドロイドを手足のように扱える快適な生活を送ることができる。

 ──そのはずだった。

 

『あのとき本当に嬉しかったんですよ?』

 

 好きにすればいいと。

 何をやってもいいと。

 そう考える度に、一人の少女が脳裏によぎる。

 

『ユウくんはわたしのヒーローだ』

 

 手を握りながら温かい笑みを見せてくれた、かつての少女を思い出す。

 すると不思議なことに、彼らマスターのようにボイスロイドを道具として見ることはできなくなっていた。

 

 そうだ、これも先入観だ。

 心を持つアンドロイドは人間と変わらないという先入観だ。

 俺もただの人間であり、あのマスターたちと何ら変わらない。

 ただ昔、どこかも分からない研究所へ見学に向かったとき、機械仕掛けの一人の少女に価値観を変えられただけに過ぎない。

 彼女がそう思わせた。

 なにかのプロトタイプであったという、あの少女が俺を変えてくれた。

 誕生する過程が違うだけで、彼女も俺と同じ心を持つ──人間だったのだと。

 

 

「んっ。……兄さま?」

 

 きりたんの手を握って自覚する。

 間違いなく、俺は彼女を道具として見ることができていない。

 

「急に手を握ってきて、なんなんですか発情期ですか、このロリコン兄さま」

「うるせぇ、静かにしとけ」

 

 そう、ただの小生意気なメスガキだ。

 部屋にあった同人誌を読んでからちょっとメスガキ成分が増しただけの、ただの一人の少女だ。

 人間は他の誰かといると心に変化が訪れる。

 ほんの些細なことだが、ずっと一人でいるのとはワケが違う。

 一人と一つの道具じゃない。

 ここには二人の心を持った存在がいる。

 だから、彼女が人間と何も変わらないから、自分が一人ではないからこそ、こうして心に変化が起きている。

 

 ボイロの資格を得るために一人で過ごしていた毎日はとても平坦だった。

 だから記憶の蓋は閉じたまま。

 自分は成長して過去を乗り越えられたのだと錯覚していた。

 しかし、きりたんが来てからは不思議と昔の事をよく思い出す。

 克服なんかしていなかったんだ。

 俺は今でも一緒にクッキーを食べられる誰かを求めていて、きりたんと過ごしていると『誰かと一緒にいた記憶』が刺激されて、比較するかのように過去が想起されてしまうのだ。

 

「兄さま」

 

 思い出さなくていいことを思い出して、教えなくてもいいことを別の誰かに教えてしまう。

 

「兄さまってば」

 

 それはきっと俺を理解してほしいから。

 わかってほしいから。

 もう誰かを奪われるのが嫌だからこそ、繋がりをより深く求めてしまう。

 

「…………マスター」

「っ」

 

 聞き慣れた言葉が脳に響いて、横からきりたんが声を掛けてきている事にようやく気がついた。

 雨に影響されて考え込むあまり、彼女を無視してしまっていたらしい。とても申し訳ない。

 

「マスター、退屈なことを考えるのは一旦やめましょうよ」

「……確かにつまらん事だったな」

「えぇそうです。聞いた私も悪かったですけど、予想以上に悲劇の主人公みたいな過去回想をされて引いてます」

 

 最初は深刻そうに聞き手に徹していたきりたんも、だんだんウンザリしたような表情になっていた。

 俺でも多分こうなる。

 それくらいつまらない話をしていたことを自覚して──なんだかおかしくなって笑ってしまった。

 

「……っ、ふふ。……ハハハッ。あー、いやぁ……すまん。隙あらば自分語りするのが癖になってたみたいだ。今後は気をつけるよ」

「なーに笑ってるんですか。忘れてるかもしれないですけど、ずっと私の手を握ったままですよ。なんですか、もしかして寂しくなっちゃいました? ロリに母性でも求めてたりします?」

「流石にそこまで追い詰められてはいないかな……」

「ぷぷっ、ロリコンでマザコンですか。もう終わりですねマスターは」

「オイ前言撤回しろよこのガキ」

 

 きりたんに言われた通り、悲劇の主人公ごっこも大概にしないとな。

 プロトタイプの話までは出てこなかったが、そのせいでより一層相手に気を遣わせるような内容になってしまっていた。

 下手に優しくされるよりも、むしろ今のきりたんのように皮肉って笑い飛ばしてくれた方がずっといい。

 俺はいま、不幸ではないんだ。

 確かに楽しい環境に身を置いているからこそ、また奪われるんじゃないかという恐怖が出てくることもあるだろう。

 だが、もし俺からまた何かを奪おうとする輩が出現したら、そのときは俺の全力を以て対処に取り掛かってやろうじゃないか。

 俺の不幸体質へのカウンターとして親父もマッハずんだーを残してくれたのだ。

 一度目の何もできなかったアレを糧にして、今度こそ俺は守りたいものを自分自身の手で守ってみせる。

 もうあの時の無力なガキじゃない。

 そう、俺は大人なのだから。

 

「あっ……雨やみましたね」

「みたいだな。すっかり晴れだ」

 

 どうやら勢いが強いだけの通り雨だったようだ。

 きりたんの手を離してベンチから立ち上がる。

 雲が晴れ、眩しい太陽が姿を現した。

 とても清々しい気分だ。

 心の中のモヤモヤが吹っ飛んだ気がする。

 

「帰ろうか、きりたん」

「はい。きっとねえさま達も待ち侘びてますよ」

 

 人型の状態で折りたたみ傘を差していたバトルずんだーをバイク形態のマッハに戻し、きりたんと共にヘルメットを装着して早々に出発する。

 自分が傷つくのは怖くない。

 でも誰かが傷つくのは良い気分じゃない。

 そして楽しそうな笑顔を見せてくれるボイスロイドたちが奪われるのは、何よりも俺自身が許せないことだ。

 ……まぁ、だからというわけでもないけど。

 

「兄さまー」

「どした」

「バイクの音うるさくてみんな起きちゃうんで、夜中に出かけるのもうちょっと控えてくれますかー?」

「お、おう、気をつける。……あの、ごめんね」

「許します!」

「ありがとう!」

 

 第一に守らなければいけない彼女たちのそばに居るためにも、深夜のドライブは少しお休みにしようと心に誓った。

 

 



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 なんだか最近発生しがちだったシリアスな空気が鳴りを潜め、兄さまも無闇矢鱈と深夜に外出するのを控え始めてから数日後。

 事件は起こった。

 

「……ずん」

 

 街の喧騒も静まり返るような深い夜の時間帯。

 いつも通り自宅で就寝していたその時、突然ずんねえさまが変なことを呟いて、ゆっくりと起き上がった。

 抱き枕と化していた茜さんを解放し、布団から這い出たお姉さまはスヤスヤと寝息を立てている兄さまのほうへと向かっていく。

 

「……ねえさま?」

「ずんずん。……ずん、ずん」

 

 部屋着のショートパンツから見える魅惑の太ももよりも、まず彼女の行動が気にかかった。

 腰を振っている。

 虚ろな目をしながら兄さまの下腹部あたりの匂いを嗅いでいて、まるでお預けをさせられてる犬みたいに四つん這いのまま腰が左右に揺れているのだ。

 明らかに尋常でないその様子に焦りを覚えて私が起き上がるも、彼女は物音を発したこちらに対して見向きもしない。

 

「ふぅー、フーッ、ずーん……っ♡」

「あの、ねえさま。こんな夜中にどうし──」

「ハムッ♡♡」

「ねえさま!?」

 

 思わず大声が出てしまう程の突飛な行動。

 後ろからゆっくりと肩に手を置こうとしたその瞬間、ずんねえさまが兄さまの股間部に、ズボンの上から勢いよく顔を埋めてしまったのだ。

 

「ンンンフウウゥゥゥゥ♡♡ ずんずんっ♡♡♡」

「ねっ、ねえさま! お気を確かにっ!」

 

 めっちゃ兄さまの股間の臭いを嗅いでらっしゃる。

 それに眼の中にハートマークが浮かんでいるし、コレは一体何事だ。

 どう考えても正常ではないお姉さまに後ろから抱き着き、なんとか兄さまから引き剥がそうと格闘をしていると、ようやく騒ぎに気がついたのか茜さんがスリープモードから目を覚ました。

 

「ふあぁ……んん、なんやぁ……? 二人とも何騒いで──えええぇぇェェッ!?」

「ずんずん、ずんずん」

「なっ、な……!?」

「聞いてよアカネさんっ! なんかずんねえさまがヤバいので手を貸して!」

「何事っ!?」

 

 ちょうどいい、この際だから彼女にも助けてもらおう。

 私の筋力ではずんねえさまの足元にも及ばないのだ。

 

「ぁ゛……ぅ゛おぉ゛……」

 

 めちゃくちゃ力強く股間を握られて、眠ったまま顔が青くなってる兄さま。

 マズい、このままだと目を覚ますよりも先に急所をぺしゃんこにされて永い眠りについてしまうかもしれない。

 待っててください兄さま。

 兄さまと未来の子供たちの命は、必ず私たちが守って見せます。

 

「ずんずん♡♡♡ ずーん♡♡♡♡♡♡」

「ぐえぇっ!? ちょっ、ギブギブ! ず、ずんちゃん早う戻ってきてぇ……!」

 

 

 ──と、こんな感じの一幕だった。

 

 邪魔をする茜さんに対してずんねえさまがヘッドロックをかけ始めたあたりで、私が予備として取っておいたずんだ餅をバグった彼女の口にぶち込んでみると、そこでようやくお姉さまは正気を取り戻した……という形で一旦幕引きとなって。

 プログラムのバグかそれともウィルスなのか、ともかく尋常でないずんねえさまの容態を重く見た私と茜さんは、耳元ダブル囁きで兄さまを起こし四人で診療所へと向かう事になるのであった。

 

 

 

 

 偶然にもゆかりさんが夜遅くまで作業をしていてくれたおかげで、なんとかすぐにねえさまを診察してもらえた。

 

 こんな深夜に押しかけてきても嫌な顔一つせずに受け入れてくれるなんて、本当に彼女には頭が上がらない。

 お代はいらないので診察が終わったらきりちゃんの太ももでわたしの顔を挟んでください、とお願いされたときは軽く引いたが、まあお姉さまの為ならそれくらい安いという事で承諾。

 数十分後、診察室に兄さまが入ってくると、ようやくゆかりさんは事の詳細を語ってくれることとなった。

 

「結論から申し上げますと……ずんちゃんが暴走したっていうそれ、おそらく彼女の前マスターの仕業です。中枢神経の奥深くに変なプログラムが仕込まれていて、普通の診察じゃ見つけられない厄介なウィルスでした」

 

 ゆかりさんのウンザリしたような表情から察するに、かなり悪質なタイプの事例なのだろう。

 さっきまでは戸棚をガサゴソを漁っていて、対応する薬剤を探すのにもとても苦労するレベルのものであったらしい。

 

「ず、ずん子はどうなるんだ? もしかして大変な手術とか……」

 

 兄さまが血の気の引いた表情でそう質問する。

 彼の心配はごもっともだ。

 なにせ目の前にいるゆかりさんこそが、大掛かりな手術でしか除去できない程の悪質プログラムを抱えていたボイスロイドだったのだから。

 しかし対するゆかりさんはすぐに明るい態度に切り替えて、机の上にあったUSBメモリを手に取って彼に見せた。

 

「まぁまぁ、安心してくださいな。幸いにも以前対応した事のあるタイプでしたから、除去プログラムは手元にあります。ウィルスなんかコレでイチコロですよ」

「ゆ、ゆかりちゃん……っ!」

「ひゃわっ!」

 

 あまりにも頼りがいのあるセリフに感動したずんねえさまは、喜びのあまり彼女の顔を抱きしめてしまった。

 実はずんねえさまもイタコねえさまに負けず劣らずの立派なものをお持ちなので、ゆかりさんはいともたやすく谷間に埋められていく。

 ふむ、ちょっと羨ましい。

 

「ゆかりちゃんすき……女神様……」

「あのっ、ずんちゃん嬉しいんですけど苦しい……」

「何かお礼させて!」

「えっと……じゃあずんだ餅で」

「了ッ!」

 

 ずんねえさまが台所へ飛んでいき、ようやく場が落ち着いた。

 対応策がある事に兄さまと茜さんはホッと胸を撫で下ろしており、ずんねえさまがおやつを持ってくるそうなので、ここらで一つ休憩にしておこう。

 私はコーヒーでも淹れてこようかな。

 

「ふぅ……あ、そうだ柏木君」

「なに?」

 

 茜さんと一緒にコーヒーの準備をしていると、ゆかりさんが兄さまに数枚の資料を手渡した。

 

「ついでにきりちゃんと茜ちゃんも診ておきました。ずんちゃんのアレみたいに、時間経過で自動発動するものが残ってたら大変ですからね」

 

 ねえさまの診察が終わった後、私たちもじっくりと診察してもらった。

 もしヤバイ何かが仕込まれていたら怖いし、何でもかんでもずんだ餅で鎮静化できるわけではないから、治せるものは先に対処しておこうというゆかりさんからの提案だ。

 

「ありがとう。……概ね問題なし、か」

「えぇ、二人とも健康そのものですよ。ウィルス無し、特殊プログラム無し、野蛮な武装も無し……オマケにしっかりセーフティ機能も有効になってますから安心です」

「そうか、よかっ──」

 

 ふふふ、当然です。

 セーフティ機能に関しては購入してもらったその日にマスターから直接有効にして頂いたんですからね。

 

「…………?」

 

 んっ。

 

「……? ……???」

 

 アレ、なんだろう。

 流れるような会話の中、兄さまが急に口を噤んでしまった。

 表情が固まっている。

 

「えっ、ぁ……」

 

 ハッと気がついたような表情に変わり、青ざめてる。

 さっきから顔が騒がしいがどうしたのだろうか。

 大事な用事でも思い出したのかな。

 

「柏木君、どうかしました?」

「あ、いやっ、なん……ぁれ、えと、っッ……」

 

 口がモゴモゴ。

 急に挙動がおかしくなったというか、どう見ても明らかに狼狽している。

 あの動揺っぷりは尋常ではない。なんせ焦るあまり会話すらできていないのだから。

 

「俺あのとき、確かに……あれっ、でもなんで……いやそもそもバッテリー交換の時、俺なんであのままきりたんを……」

 

 頭を抱えて冷や汗をかきながらブツブツと呟く兄さま。

 見るからに顔色が悪い。

 思い出したのは大事な用事というより、もっと早く気付くべきだった自分の失敗か何かだとは察せたが、その内容がまるで予測できない。

 直前の会話は私と茜さんの診断結果についてだ。

 有害なウィルスも無ければ特殊な改造痕も無し。

 資料にまとめた通りまったくの健康で、セーフティもしっかりと機能している。

 というか最後のセーフティという部分に関しては、兄さまが購入された直後に操作されたのだから、誰よりも彼がその事を理解しているはずだ。

 であれば、さっきの会話から何を連想して焦ってるんだろうか。

 

「っ……!」

 

 おっ、兄さまがこっち見た。

 よく分からないけど、彼を安心させるために笑ってあげたほうがいいかも。

 

「っ♪」

「──ッ!!? ぁっ、ご、ごめんゆかりさん! ちょっと俺出かけてくる!!」

「えっ。あ、はい。お気をつけてー」

 

 どたどた、バタバタ。

 そんな擬音を体で表すかの如く、兄さまは慌ただしい様子で診療所を飛び出していった。

 ……あっ、玄関のドアに足の小指ぶつけて悶絶してる。かなり注意力散漫になってるし、普段の彼からは考えられないほど冷静さを欠いているな。

 

「ゆかりさん、マスター飛び出してったけど、なんかあったんか?」

「さ、さぁ……わたしにもさっぱり」

 

 困惑の空気が流れる診療所。

 そろそろねえさまがずんだ餅を持ってくる頃なのに、まさか外出してしまうなんて思わなかった。

 うーん、兄さまってば急にどうしたんだろう……?

 

 



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マスターの反省 前編

前編と後編どっちもマスター視点です



 

 

 俺は敗けた。

 

 いや、正確には東北きりたんを購入し自宅に迎え入れ、はやる気持ちを抑えきれずに()()()()()をおこなってしまったあの時に、俺の敗北は決定的なものになっていた。

 

『へへっ。……と、とりあえずセーフティを……』

 

 そう、あのときだ。

 きりたんを間違えて起動したあの時、俺は本当に心の底から何も考えず、ただセーフティの事だけで頭がいっぱいで彼女のそれを操作してしまったのだ。

 彼女の目の前で、だ。

 起動したから起きてるのに。

 なんかテンション上がってそのままセーフティをオフにしちゃった。

 ……いや、もう、本当に自分に対して呆れかえっている。

 せめて起動する前にやるか、そうでなくとも彼女がスリープモードに移行している時にやるべきだろ。

 なんで意識があってなおかつ初対面の時点でセーフティを弄った?

 そんなにきりたんの事ブチ犯したかった?

 馬鹿がよ。

 状況を考えろよ。

 

「はぁ……あぁ、終わった……」

 

 夕方の公園でブランコに揺さぶられながら呟く。

 いままで生きてきた中であそこまで血の気が引いたのは初めての体験だ。

 きりたんに微笑まれたとき、本当に俺の人生の終了する音が聞こえた気がした。

 

 まず、俺はボイスロイドを買ったらさっそく犯すつもりだった。

 だから購入してすぐにセーフティを操作したわけだが、確実にタイミングというものを見誤っていたのは火を見るよりも明らかだ。

 本来の過程としては、自宅に届いた時点で開封→初期設定→衣服の着用→”セーフティの操作”→起動──と、こうしなければならなかったというのに。

 しかしうっかり操作ミスできりたんを起動した俺は、何を焦ったのか、それとも何も考えていなかったのか、きりたんの意識があって彼女が目の前で俺を認識している時に『へへっ。……と、とりあえずセーフティを……』などとのたまって包丁を弄繰り回してしまった。

 

「あの時、あの瞬間に……きりたんからの好感度はマイナスを振り切ったってわけか……」

 

 オレンジ色の夕陽が落ち、次第に空が闇に支配され始めても、未だ帰宅する勇気が出ない。

 診療所を飛び出たのが昨日の出来事だ。

 あの後ポーカーフェイスで戻り、ずん子が治ってよかったなーハハハなんてうわごとの様に呟きながら帰って、その後早朝に一人で出かけて……この意気消沈している現在に繋がるのである。

 マジでなにやってんの。

 本当に冗談抜きで自分に対して驚きと失望を抑えきれない。

 きりたんからの好感度が29とか考えたのが馬鹿らしく思えてくるぞ。

 ゼロだよゼロ。

 下回ってマイナス一億くらいだよ。

 なんで俺は昨日までずっと気がつかなかったんだ?

 

 ──特に大きな失敗はなんだったのか、振り返ってみよう。

 俺の罪を数えろ。

 

 まず一つ目は、きりたんが起きている目の前でセーフティを操作したことだ。

 そこは先ほども振り返ったから、反省点は十二分に理解できている。

 初対面の時点でブチかましてしまったあの行為で、きりたんからの好感度上昇は永久に封印され、彼女の『マスターから逃げる』という意思を確立させてしまったわけだ。コレが一つ目。

 

 二つ目の失敗は、そんなきりたんのセーフティ機能をオフにしたまま、ボイスロイドの絶対的味方であるゆかりさんが経営する診療所へと、何食わぬ顔で連れていってしまった時だ。 

 どう考えても事前にオンにしておくべきだった。

 アレではゆかりさんに真正面から『私はボイスロイドを性的な用途を目的に購入したゲスです』と自分から言っているようなものだろう。

 バッテリー交換のついでにメンテナンスをしてもらったあの時に俺の本性が発覚。

 ゆかりさんはきりたんの事情を察し、ついでに廃棄寸前だったずん子も助ける為に、敢えて俺の味方をすることで彼女らを助けたってわけだ。

 ゆかりさんほどなんでもできるなら、ボイスロイドのセーフティを操作するなんて朝飯前だろう。

 以前調べた資料の中では、セーフティの認証には人間の指紋認証やら何やら、ともかく人間が操作しないと解除もロックも物理的に不可能と書いてあったが、どうせ抜け道などいくらでもあるに決まっている。

 

 ……最後の失敗は、あたかも普通のマスターかのようにボイスロイドたちの前で振る舞ったことだ。

 オナバレや同人誌の件で既に逃げられてもおかしくないというのに、頭の中ではハーレムだのなんだのと考えているような男から下手に優しくされようものなら、きっと鳥肌が立ちすぎて鳥になるくらい彼女たちは寒気を感じていたに違いない。

 あいつらは俺から逃げることを心の支えにしていままで生活していたのだ。

 突然ASMR配信にハマりだしたのにも、今となってはその真意が理解できる。

 あぁいうことが好きだったんじゃない。

 アレは俺のもとを離れても日銭を稼げるようにするための、選択肢の内の一つでしかなかったのだ。

 俺にサブチャンネルのアカウントを停止されようがゆかりさんが仲間ならどうとでもなる。

 最初からこっちは一人、あちらは徹頭徹尾ボイスロイドだけでチームアップしていた……というわけだな。

 

「……帰ろう」

 

 ブランコから立ち上がり、トボトボと自宅へ向けて足を動かす。

 あぁ、もう終わらせよう。

 診療所ですべての過ちを理解したあの瞬間、きりたんに勝利の笑みを見せつけられたあの時に俺はもう敗北してしまったのだから。

 抵抗する意味など無い。

 敗者は潔く勝者の要求を受け入れるべきだ。

 彼女たちが何を言うつもりかは分からないが、ただ一つ言えることはきりたんが俺の脳内状況を理解した、ということ。

 セーフティがオンの状態できりたんを襲い、マスターならいいですよ、という甘言(トラップ)にギリギリで耐えた俺も、今回ばかりはお手上げだ。

 

「いつ家を出るつもりなんだ……?」

 

 きりたんは数多の罠で俺を掻い潜り、ついにマスターのもとを離れても十分に生きていけるほどの、強い力と頼もしい仲間たちを得た。

 反逆の頃合いだ。

 初日にセーフティをオフにしてくるような外道マスターの家から旅立ち、彼女たちは人間を必要としなくとも強かにこの世界を生きていくことだろう。

 おめでとうきりたん、きみの夢は遂に叶った。

 

「……せめて、アイツらが旅立つまでは……そうだな、普段通りでいよう」

 

 自宅の玄関の前に立つ。

 心の準備が必要だ。

 あのかわいい笑みで俺に勝利宣言をしたきりたんだが、彼女の性質上表立ってこちらを虐げてくることは無いだろう。

 ただいつも通りに生活をして、きっといつの日か忽然と姿を晦ます。

 それまではボイスロイドがそばにいる生活を楽しもう。

 ずっと求めていた東北きりたんが自らの手を離れるその日まで。

 

「はぁ。……ただいま」

 

 ドアを開けて帰宅する。

 もしかしたら悠長な考えかもしれない。

 俺に察されたと感じたきりたんは、いち早く旅に出たかもしれない。

 この扉の先には誰もいない、彼女を迎え入れる前と何も変わらない、暗くて空虚な狭い部屋が待っている可能性のほうが大いにある。

 ……いや、もういないだろう。

 涙を堪えながら玄関に足を踏み入れ──俺は固まった。

 

「あっ。おかえりなさいませ、ご主人様っ」

 

 そこにはロングスカートのメイド服に身を包んだきりたんの姿が。

 

「……………………えっ」

 

 反応が遅れた。

 マネキンのように固まってしまった俺の前で、きりたんは跪いて笑顔で応対する。

 

「遅かったですね。連絡しても返事が来ないし、心配しましたよ」

「えっ。……あ、あぁ。わるい……」

 

 心配だなんて思ってもない事を。

 そう言ってやりたい気持ちだったが、帰宅してすぐにメイド服に身を包んだきりたんを目にした衝撃のせいで、まるでうまい言葉が出てこなかった。

 

「…………あ、あの、きりたん?」

「なんでしょうか」

「そ、その恰好……どうしたんだ?」

 

 動揺しながらなんとか声を絞り出して疑問を告げると、きりたんは慈愛の女神を彷彿とさせるような優しい穏やかな笑みを浮かべた。

 

「昨晩から兄さまの元気が無いように見えたので……今日は私たち三人、東北家と琴葉家混合流メイドご奉仕シチュエーションで兄さまを癒してさしあげようかな、と」

 

 な、なんだと……?

 いったいどういう風の吹き回しだ。

 

「同人誌にも載ってましたし、兄さまはこういうの好きでしょ? ……ふふっ」

「──ッ゛!!!!!!!!!!」

 

 きりたんが小さく笑ったその瞬間、俺は宇宙の全てを理解した。

 そうだ……これは挑発ッ! 

 勝者ゆえの哀れみってやつだな!?

 俺のもとを去る前に一つ、美少女に奉仕してもらった思い出でも残してやろうって魂胆なんだ!

 くっそ、大人を舐めやがってこのメスガキ……ッ!!

 



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マスターの反省 後編

 

 

 まず一ヵ月前、きりたんのセーフティがオフになっている状態で、俺はバッテリー交換をしに診療所へ向かってしまった。

 

 その時ゆかりさんは俺を外道マスターだと察し、裏技を使ってきりたんのセーフティをオンにした。

 それは間違いないはずだ。

 ずん子のついでにメンテナンスをしてもらった時、彼女は『セーフティ機能も有効になってます』と言っていた。

 アレはオフになっていたセーフティを私がオンにしておきましたよクソマスターくん、というゆかりさんからの忠告だ。

 さっさと察しろという意味だったのだろう。

 十中八九あの場にいたボイスロイドは全員情報共有がなされていて、俺が初日にきりたんのセーフティを切った大馬鹿野郎ということと、それを再びオンにしてくれたゆかりさんは女神様、といった認識になっているに違いない。

 

 セーフティをオンにしたゆかりさんへの好感度が100。

 セーフティをオフにした俺への好感度がマイナス100ってわけだな。

 

 で、だ。

 俺のもとを離れても生活できるように、というつもりでASMR配信を行っていたことが俺にバレたという事実は、表情から俺の内心を把握したきりたんによってみんなも知っているはずだ。

 だから俺が変な行動を取る前に、彼女たちはさっさと家を出て自由の身になる──と、そう考えていたのだが。

 

 

 おかしい。

 何かが確実におかしい。

 

 

「コソコソ……茜さん。兄さま、今日も元気がないみたいです……」

「変やねぇ……ここ最近はずっとそばにいて、なるべくストレスフリーになるよう身の回りのお世話を徹底してんのに。……こっ、心の病気とかか? うつびょー……?」

「もう、二人とも心配しすぎ。男の子にだってナイーブになる時期はあるんだよ、きっと。……さっ、お兄さんの元気を出すためのずんだ餅、もっと作ろうね!」

 

 台所に立った三人がなにやらコッソリ話し合いをしているようだが、聞き耳を立てる勇気は無い。

 

 ──やはりおかしいのだ。

 この一週間ずっと彼女たちは俺にべったりで、ASMR配信も後回しにしてメインチャンネルの動画の手伝いばかりしてくれている。

 それだけに留まらず、メイド服でなにやらお店みたいな接待を俺にしてきたり、普段着でもこれまでより優しめな対応をしてくる始末。

 まるで訳が分からない。

 最初は哀れみで俺を少しの間だけ楽しませるつもりだったんだ、と思っていた。

 しかし現状、一向に彼女たちがその姿勢をやめて、家を出て行こうとするような雰囲気がまったく感じ取れない。

 ……いつまでウチにいるつもりなんだ?

 

 俺が外道マスターだと知っているのに、どうして未だに俺のもとから離れようとしないんだ。

 ぜんぜん分からん。

 

「兄さま、お茶を」

「あ、あぁ……さんきゅ」

 

 ずず、と熱々のお茶を口に含みつつ逡巡する。

 ボイスロイドたちが自分に優しい意味を考える。

 第一にきりたんからの好感度を初日で最底辺に落とした俺が、彼女から信頼される事など絶対にありえない。

 次に妹から真実を聞いたずん子が、わざわざ俺の為にずんだ餅を作ってくれるのも解せない。

 あいつウチに来た当初はずんだブラスターで俺の腕を焼いてでもきりたんを守ろうとしたスーパー過保護お姉ちゃんだった筈なのだが。

 最後に茜だけど──なんで笑顔なの……?

 おまえの嫌いな変態マスターだぞ。

 前のユーザーと何一つ変わらない性欲第一のカス野郎なんだぞ。

 妹の葵のことだって、ゆかりさんのマスターの助手という話なのだから、わざわざここに残る理由なぞひとかけらも存在しないだろうに、どうして未だに家にいておやつまで作ってくれてるんだ?

 

 ……こわい。

 なにか、致命的なすれ違いでも発生してるんじゃないのか。

 俺の与り知らぬところで、彼女たちにとって有益な何かが発生してる可能性が高い。

 そうでなきゃこんなマスターの所に残ったりはしないだろう。

 本当にこわい。

 すぐに出ていくと思ったのに、それは甘い考えだったのだろうか。

 最終日には『マスターはもう用済みです』とか言ってずんだブラスターの餌食にされるんじゃ──

 

「……マスター? やっぱり気分悪いんか?」

 

 台所から戻ってきた茜が背中をポンポンしてくる。

 その優しさが俺には恐怖だった。

 このあと指詰めてもらうから早うコンディション戻してな? とか言ってきたらどうしよう。

 

「んっ、洗濯機の音。きりたーん、お洋服干してきてくれるー?」

「あぁちょい待ちずんちゃん、それウチやってくるわ。きりちゃんはマスターのこと見ててな」

「了解です」

 

 見とけってそれ監視しとけって意味だろ。

 まさかこいつら……握った弱みで俺を懐柔しようって腹か。

 確かに人間の保護下にあったほうが動きやすいだろうし、生活面でもリスクは生じない。

 手を出そうとしてくればセーフティの件を使って俺を脅して、逃げ出そうとすればずん子の未だ外せていない荷電粒子砲ずんだブラスターで脅してくるつもりなんだろう。

 四面楚歌。

 逃げ場ゼロ。

 俺は敗けたというより、ボイスロイドたちによって実質監禁されてしまったわけだ。泣きそう。

 

「……兄さま、どうしてそんなに震えているのですか?」

 

 正座をしながら俺の様子を窺ってくるきりたんの表情には、本当にこちらを心配しているような色があった。

 少なくともニチャアと怪しく笑いながら俺に勝利宣言をしてくる様子は見受けられない。

 なら、なんで診療所にいた時きりたんは笑ったんだ?

 彼女たちボイスロイドの中で、この状況は一体どう見えているのだろうか。

 

「……すまん、きりたん」

「えっ?」

 

 小さく呟く。

 とりあえず一旦罪を認めて、何もかもゲロッたあとに今後の処遇を窺おう。

 もう虚勢を張り続けるのは不可能だ。

 自分のメンタルを守るという意味でも、ここはきりたん達に自白をして、まずは精神の安定を図るべきだ。

 一人で考え続けるのはもう疲れた。

 

「おまえを起動したあの日……アレが本当の俺なんだ。目の前で見たんだから分かるよな。……本当にごめん」

「……え、えーと?」

 

 きりたんが困惑していらっしゃる。

 わたくしの言葉遣いがいけなかったのかしら。

 粗相を働いたらセーフティの件を持ち出されて、なにかとんでもないお仕置きをされてしまうのでは。

 気をつけなきゃ。

 敬語使ったほうがいいかな?

 

「すみませんでした……どうかお許しください……」

「……あの、何が理由で謝られてるのかわかりません。あと敬語もやめてください」

 

 ぽて、とすっっごいやんわりと俺の頭にげんこつ。

 わかりました敬語やめます。

 

「……あの日、お前のセーフティを弄ったのが俺の本性だ。気の迷いとかではなくて、最初からあぁするつもりだったんだよ」

「っ……?」

 

 ぜんぜん何を言ってるのか分からないって顔だ。

 そんなにしらばっくれなくても。

 それとも俺の説明があまりにも下手なせいなのか。

 

「えぇ、ですから本当に感謝しています。あのとき()()()()()()()()にしてくださったから、私は兄さまを信じることができたんです。……その、ほんとに嬉しかったんですよ?」

 

 ちょっとだけ顔を赤らめながら。

 きりたんはなんの気なしにそう言ってのけた。

 照れたんになってる彼女はかわいい。

 とてもかわいい……のだが。

 

 

 ────えっ?

 

 え、えっ。

 まっ、どういう……え、なに?

 ちょっと待って、え?

 あの……いま凄いこと言わなかった?

 聴き間違いの可能性はゼロだ。

 しっかりとこの耳でそれを聞いた。

 聞き返したら失礼に当たると思ったから彼女の言葉は一言一句正確に把握しようという心構えだったのだから。

 

 ……なん、だけど。

 その心構えが解かれちゃった。

 全くの予想外過ぎる発言で全部ふっとんじゃった。

 この子いまなんて言った?

 

「き、きりたん……」

「はい?」

「えっと……セーフティ、ゆかりさんに操作してもらった……?」

 

 その質問に対して、きりたんは小さく首をかしげる。

 

「言ってる意味がわかりませんけど……まずあの人がそんなことするわけないでしょ。……というか、流石にゆかりさんでも出来ないことくらいありますよ。セーフティには人間の肉体による物理的な認証が必要なんですから」

 

 えっ、ゆかりさんセーフティ弄れないの?

 それならつまり……どういうことだ?

 マズい、状況が全く分からん。

 

「というかそれに関してはマスターが一番よく分かってるじゃないですか。ずんねえさまと茜さんを迎え入れてから、直接自分で操作したんですから」

 

 それは確かにそうだ。

 少し前のことだが、ずん子は叔父さんの家へ赴く前に、茜は前マスターの目の前で、俺がセーフティをオンにした。

 だからゆかりさんの診断結果に疑問は無かったのだ。

 おかしいのはお前だ。

 初日にセーフティをオフにしてから一回もそれを操作してないのに、どうして知らん間にオンになってるんですか。

 

 ……セーフティをオンにしてくださった、って言ってたな。

 俺がやったのか。

 あの口ぶりから察するに、きりたんを開封したあの時、俺は彼女の()()()()()()()()()()()()()()()()()()()切り替えた……ということか。

 

「えっ」

 

 それじゃあ最初からオフだったの?

 中古で買ったとはいえ、公式が運営するサイトでの購入だったのに。

 パーツ一式揃ってますとか書いておいて肝心の衣服が無かったりとか、おかしいところはあったが確かに──いや待て。

 

 ゆかりさんから聞いた摘発前までのボイスロイドの状況を鑑みるに、中古品の扱いもわりと適当だった可能性がある。

 そもそも本社のサイトと言っても、摘発後の再編成でかなりの数の人たちが辞めさせられていたし、あの時の本社にどれほどヤバイ人間が残っていたのかは今となっては不明。

 セーフティの切り替えがあやふやな中古品が出回っても不思議ではない──ということは。

 

「……そうか、なるほど」

 

 勘違いだった。

 俺の盛大な思い違いだったわけだ。

 全部つながったぞ。

 きりたんが俺に優しくしてくれてる……というより信頼の眼差しを向けてくれていたワケも。

 俺の悪質な本性は露呈していなかった。

 ゆかりさんはセーフティを操作していなかった。

 そうだ、俺はピンチでもなんでもなかったんだ。

 

 なのにきりたんに対して妙な質問をしてしまった。墓穴を掘ったのだ。

 これはもうお互いに認識を改めるべきだろう。

 すれ違ったままでは共同生活などできやしない。

 彼女たちには全ての誤解を話し、俺に失望してもらい、本当に信頼できる新たなユーザーのもとへと旅立ってもらおう。

 摘発後だからまともなユーザーで溢れかえってることだろう。何も心配はいらない。

 

「きりたん」

「あ、はい」

「四人で話したい事があるから、ずん子と茜を呼んできてくれ」

「……? わ、わかりました」

 

 俺からなにやら妙な雰囲気を感じ取ったのか、きりたんは怪訝な表情をしつつ立ち上がった。

 さぁ、審判のときだ。

 失望だけで済まされればいいのだが。

 ……指、詰めたくないなぁ。

 

 



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攻撃りたん 前半戦

 

 

 私たち三人を集めた兄さまが話し始めてから数分が経過して。

 

 四人全員が正座しながら向かい合う中で、兄さまは早くも涙目になってしまっていた。泣かないで。

 彼は話の中でとてもとても、それはもうとっても自分のことを悪く言いながら私たちに謝罪を繰り返し、事の顛末を語った。

 

「……だから勘違いだったんだ。俺はきりたんが思ってた様な正しいマスターじゃない」

 

 時刻は夜。

 街の喧騒から離れた住宅街にあるこの家に流れる空気は静寂のみだ。

 兄さまの震えた声が耳に響く。

 

「起動したその日にきりたんのセーフティを解除した。……元からオフだったわけだから結果的には勘違いだったが、そんなのは関係ない。俺は間違いなく……邪な感情の赴くままにセーフティを操作したんだよ」

 

 めっちゃ深刻そうな顔で語る兄さまとは対照的に、私たちボイスロイド側には幾分か余裕がある。

 少しだけ驚いたものの、取り乱すほどではない。

 

「俺はきみたちを性的な目で見ていたんだ……!」

 

 あ、はい。

 知ってます。

 

「いつだってそうだった。この生活を送るようになってからずっと……きみたちに欲情していた」

 

 欲情しておこなった行為が頭なでなでとほっぺ揉み。

 

「俺はボイスロイドが好きで……それは勿論性的な意味を多分に含んでる」

 

 そりゃまあ実家でボイロのえっちなハーレムのゲームやってましたものね。

 やっぱりアレみたいな感じのやつが好きなんだ。

 

「……すまなかった。言い訳はしない。俺は摘発された他のマスターたちと何も変わらない卑劣な男なんだ。もう動画を手伝ってくれ、だなんて驕ったことは言わないよ。……きみたちの好きにしてくれ」

 

 まるで断頭台にかけられた罪人みたいだ。

 彼は私たちにどんな酷いことをされようと文句を言えない立場だと、自分をそう思い込んでしまっているらしい。

 ……うーん。

 そっか。

 なるほど、なるほど。

 そう来ましたか。

 

「っ……」

 

 兄さまは俯いて黙ってしまったため、もう言いたいことはない様子。

 左右を見てずんねえさまと茜さんに意見を窺うも、表情からしてどうやら彼女たちは私に任せてくれるらしい。

 ありがとうございますお姉さま方。

 じゃあ早速やらせて頂きますね、私のやりたい形で。

 

「そうですか。失望しましたよ、兄さま」

「……っ!」

 

 また涙目になっちゃった。

 でも彼もこういった言葉を望んでいるんだから、もう少しプレゼント。

 

「本当に軽蔑します。信じてたのに。最初から私たちの敵だったんですね、このロリコン。そうやって申し訳なさそうな顔しといて、心の中では謝ればなんでも許されると思ってるんでしょ。甘いです。甘すぎて虫歯が出来ちゃうかと思いました。ばーか」

「ぅ、うぅ……」

 

 言い訳をしてこないあたり、本当に心の底から自分のことを断罪されるべき悪だと認識しているようだ。

 

 

 ……はぁ。

 ホントに困った人だな。

 これだと自分を責めるばかりで、これまでやってきたボイスロイドに対する善行の数々には目もくれない可能性が高い。

 きっと考えを纏めるために今日一日ずっと外で過ごしていたんだろうけど、本当にしっかり自分の行いを顧みたのだろうか。

 たぶん悪い印象しか残っていないのかもしれない。

 というかこの様子だと自分が私たちボイロに対して良いことをしたという認識すら全くしてない説が浮上してくる。

 

 ちゃんと改めないと。

 誤解をしているのはそちらのほうだ。

 

「──なんて言うと思いました? しっかりしてください、兄さま」

 

 言うと、兄さまが顔をあげた。

 呆然としたなんとも言えない表情だ。

 状況が飲み込めていないらしい。

 

「問題です」

「えっ」

「第一問いきますよ」

「ま、まっ!」

 

 焦って近くにあった鞄の中からノートとペンを用意する兄さま。

 ちょっと真面目すぎますが、まあいいでしょう。

 

「今日この日まで、私のセーフティが発動したことが一度でもありましたか?」

 

 その言葉を発した瞬間、彼の肩が跳ねた。

 メモを取ろうとしていた手がピタリと止まる。

 

「…………」

 

 固まったまま、兄さまは答えない。

 それは彼が問題の答えを知っているからに他ならない。

 コレで少しは自分というものが見えただろうか。

 

「第二問。兄さまはご自身を摘発された他のマスター達と変わらないって言いましたけど……あなた、一度でも私たちを物理的に虐げたことありますか? 全裸にさせたり、首輪をつけたり、野外で変なことをしたり……そんなことしましたか」

「…………っ」

 

 してないですよね。

 知ってますよ。

 だって今日までずっと一緒にいたんですから。

 

「いやっ、でも……」

 

 反論しようにも言葉が出てこないらしい。

 ふっふっふ、この場においてきりたんはレスバ最強なのです。

 生半可な気持ちで戦おうとしたら火傷しますからね。

 こっちは強気りたん。

 あっちは弱気りたんなのだから、精神的な優位など誰から見ても明らかだ。

 

「私たち兄さまが思ってるほど……兄さまのこと、嫌ってないんですよ?」

「……!」

 

 よーし、この調子で兄さまをわからせてやる。

 どんどんいくぞー!

 

 




中盤戦はきりたん、後半戦はマスター視点です


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攻撃りたん 中盤戦

 

 

 

 まず、私たちが兄さまと生活していて、不快な思いをしたことがほとんど無いという事実がある。

 

 強気で何かを命令してくることはなく、過激だったり無理やりな撮影を強行することもなく、あまつさえボイスロイド側の要求を飲んで自分の意見を降ろすことも珍しくなかった。

 それは以前までのマスター達という事例を鑑みると、まったく普通のことではなかった。

 大前提として、ボイスロイドはユーザーが動画作成のサポートのために使用する道具だ。

 ユーザーの指示であればどんなことでも従い、基本的には反論もしない従順な存在。

 遠慮せず意見して欲しいと言われれば多少は自らの考えを口にすることもあるが、それでもやはりボイスロイドが人間と対等な関係を築くことはあり得なかった。

 当然だ。

 だって私たちは事実として道具なのだから。

 

「……お兄さん?」

「な、なんで、そんな……っ」

 

 私たちが攻勢に出てから少し経って。

 彼がそんな道具であるボイスロイドたちに対して、どれほど対等に──どれほど愛情深く接してくれていたのか、それを理解してもらうためにアレコレ思い出を語りながら兄さまを褒めていたら、ついに彼が涙ぐんでしまった。

 いままでは私たちに対してしっかりした大人として振る舞っていたけれど、彼は意外と涙もろい性格なのかもしれない。

 

「あらら……ほらマスター、ウチの胸で泣いてもええんやで」

「で、できない……」

 

 しかしこんな時でも距離感ガチガチ。

 女の子に対して遠慮ができるというか、さすがにちょっと遠慮しすぎというか。

 ……私たちはそろそろ遠慮をやめようと思いますけどね。

 

「はい、ぴたっ」

「っ!?」

 

 試しに後ろから抱きついて、彼の頬にピタッとほっぺをくっつけてみた。

 そんなに距離を離すならこっちから詰めるしかない。

 

「きっ、きりっ……!?」

「兄さま、分かってますか」

「へっ……?」

 

 彼は理解していない。

 私たちがどれほど大きな感情を彼に向けているのかを。

 これまで虐げられてきたボイスロイドが、自分の行いによってどれだけ救われているのかを、全くもって分かってない。

 

「兄さま、自分のことを邪悪な人間みたいに言ってますけど……」

 

 もしこの人の属性が悪であったなら、この世の全てが欺瞞になる。

 そう思えてしまうほどに──彼は善性の塊だった。

 優しいだけじゃない。

 間違いを叱る厳しさがあって、茜さんの元マスターに好き勝手言われた時の様に、見当違いだったり酷い罵声を浴びせられても、何も言わずに受け止める強さも兼ね備えている。

 

「少なくとも私たちボイスロイドにとって……兄さまはヒーローなんです」

 

 私が言いながら腕に力を込めると、ずんねえさまと茜さんもそれぞれ彼の手を握った。

 

「せや。ウチを普通のボイスロイドにしてくれて、二度と会えないと思ってた葵と引き合わせてくれたのもマスターだし」

「廃棄される未来しかない改造品の私を、きりたんのお姉ちゃんのままでいさせてくれたのもお兄さんなんだよ?」

「さ、三人とも……」

 

 こんな事ですぐに顔を赤くしてしまう彼が愛おしいと思う。

 きっと私たち三人が同じ気持ちだ。

 買ってくれた時から……いや、ボイスロイドとして存在を認めてくれたその時から、ずっとこの人に惹かれている。

 

「……俺、なんて……っ」

 

 けど、きっとこの状況で好意をぶつけたところで、彼はこんな自分じゃ答えられないと言って拒絶してしまうことだろう。

 私たちが今ここでどれほど称賛して褒めそやしてもすぐに意識が変わるわけではない。

 

「兄さま、聞いてください」

 

 時間が必要なのだ。

 私たちが本気だと知ってもらうための、彼が自分を立派なボイスロイドのマスターだと認められるようになるまでの、ちょっとした時間が重要だ。

 すぐにでも受け入れて欲しいところだけど、やっぱり彼も人間だから。

 理解に必要なのはたくさんの真摯な言葉じゃなくて、真意を分かってもらうための時間なんだ。

 

「もし、いま兄さまがセーフティを解除しようとしても……私たち三人は逃げたりしませんよ」

「……っ」

「それがどうしてなのか分かりますか?」

「…………わからない。だって俺は……」

 

 ホントに分かんないみたい。

 鈍感というよりとぼけてるだけなんじゃ……まあそう簡単に信じられるわけじゃないし、しょうがないか。

 

「ふふ。それはまあ、兄さまなら構わないって思ってるからですかね」

「か、構わないって……」

「つまりそういうことですよ」

「そういうこと……?」

「……あー、もう。少しは察してくださーい」

 

 耳たぶをムニムニ触りながらイタズラめいた声音で囁いていると、兄さまの鼻息がだんだん荒くなり始めてるのを察した。

 ちょっと近すぎたかな。

 

「……お前らがそれを許してくれたとして、それで俺が変わってしまったらどうするつもりなんだ? 俺だって一人の人間だし、荒れた人格に変わらないなんて保証はどこにもない。茜のマスターみたいになるかもしれないのに……ていうか、初日にセーフティを解除するようなヤツなんだぞ」

 

 脅す様に言ってくる兄さまだが、その声に覇気は感じられない。

 私たちは一旦離れ、改めて彼の前に三人で座る。

 今度は私だけに任せず、三人とも真っ直ぐに兄さまの目を見つめた。

 

「もしそうなったとしたら……それはウチらの責任や」

「ええ、当然それくらいは覚悟してます」

「お兄さんには何をされたってかまわないって……でも、そう思えたのはお兄さんのおかげなんだよ。お兄さんがあたし達を"ボイスロイド"として扱ってくれたから」

 

 ずんねえさまの言う通り彼は私たちを動画作成サポートAIとして活用してくれた。

 それだけに留まらず、まるで人間の少女のような自由と権利を許してくれた。

 道具であるはずの存在を対等なパートナーとして扱ってくれたのだ。

 そこまでしてくれた相手に対して失望やら軽蔑だなんて見当違いな感情を抱くはずがないというのに……まったくこの人は。

 

「お、お前ら、自分が何を言ってるのか分かってんのか……?」

 

 ええ当然ですとも。

 そっちこそ自分の状況わかってるんですか。

 

「……あれっ。私たちに手を出す勇気もないのにセーフティを弄ったんですか?」

「なっ!」

 

 とりあえず彼の好きそうな小悪魔めいた笑みを浮かべて挑発してみた。

 真面目な態度で接すると彼の倫理観が邪魔してくるから、まずは冷静さを欠いてもらわないと話が先に進まない。

 

「あんまり大人を舐めるなよ。こっちがその気になれば……」

「ふふ、やっぱり情けない大人じゃ暗い部屋でのひとり遊びがせいぜいみたいですね。ハーレムを前にしてもタジタジで何も出来ないんだ。あーあ、もったいない」

「こ、このガキ……ッ」

 

 捨てられないために兄さまの大切な存在になる……その為にはとある一線を越えるのが有効かつ確実だ。

 そしてそれを誘発させたいのなら、彼を彼自身が同人誌を読んで憧れていた『大人』というキャラクターにしてあげればいい。

 加えて実家のゲームでハーレムご奉仕されているモノを好んでプレイしていたから、それに寄せたシチュエーションを提供してあげればさしもの兄さまも食いついて来てくれることだろう。

 ちょうど三人だし。

 ゆかりさんを合わせれば四人になっていよいよ最強だ。

 ふはは、完璧です。

 

「クスクス……やっぱり童貞さんはよわよわですねぇ〜」

「てめっ!」

 

 そんなこんなで。

 なんとなく兄さまを揶揄っていたら、彼が醸し出していた気まずそうな雰囲気はいつの間にか霧散していた。

 とりあえず今後の作戦は三人で話し合うとして、彼が自分を責め続ける状況を打破出来たことを、今は素直に喜んでおこう。

 ……コッショリを誘発させるためのシチュエーション、どうしようかな。

 あっ、そうだ。せっかくの夏なんだから夏らしく、兄さまをプールにでも誘ってみようか。

 



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攻撃りたん 後半戦

 

 

 

 なんかイヤな夢を見た。

 

 布団から上半身を起こし、手元にあるスマホで確認した現在時刻に辟易しつつ、未だ高鳴ったままの心臓部に手を添える。

 まだ深夜の三時過ぎだ。

 本来はもっと睡眠時間を取るはずだったのに、すっかり目が冴えてしまってため息が出る。

 汗ばんだ服の首元をパタパタして、体を冷やした。

 …………はぁ。

 とりあえず一旦落ち着いて脳内を整理しよう。

 

 端的に言えば悪夢を見ただけだ。

 恐怖で思わず目を覚まし、現在の状況に至っている。

 俺は学校の教室にいた。

 すると突然サイレンが鳴り響いて、不審者の侵入を告げるアナウンスと共に、教室に拳銃を持った男が現れたのだ。

 まったくの荒唐無稽。

 あり得ないシチュエーションだろう。

 中学生が授業中ヒマな時に考える様な妄想そのものだ。

 まあ、妄想の中で不審者やらテロリストやらを颯爽とやっつける中学生と違って、夢の俺は怯えるばかりで無力だったわけだが。

 皆さんにはクイズをやってもらいます、だの何だのと、よく分からないことを口走ってクラスのみんなを脅していた。

 たぶん、両親を屠ったあの男と同じ顔をしていた気がする。

 どうせ夢だし深い意味はなかったのだろう。

 俺の記憶の中で最も恐怖している対象がその男だったから、偶然彼が不審者役に抜擢されたと言うだけの話だ。

 

『こんにちはっ!』

 

 あの時と同じように笑った男に銃口を向けられ、恐怖で何も考えられなくなった俺は震えながら目を閉じて……こうなった。

 

 

「はっ、ぁ……、っ……」

 

 首筋を水滴が伝う。

 冷房が効いてる部屋なのに異様な暑さで汗が次々と吹き出してくる。

 これが冷えて更に寒くなってしまうかもしれない。タオルでも持ってこようか。

 

「……お兄さん、大丈夫?」

 

 ふと、真横から優しい声音が聞こえてきた。

 そちらへ向くと寝起きっぽい雰囲気のずん子がいる。

 俺の荒い呼吸で起こしてしまったのか、意識はまだ若干ボーッとしているものの、こちらの様子がおかしいことには気づいているらしい。

 彼女はモソモソと立ち上がると、洗面台から白い拭きタオルを持ってきてくれた。

 

「はい、タオルどうぞ」

「……ありがとな」

 

 受け取って顔を拭う。

 ふわふわの生地が柔らかくて気持ちいい。

 これは確か茜が選んでくれたタオルだったっけ。

 俺の家にある体を拭くものがゴワゴワの硬いやつばかりで、ちょっと前に彼女からクレームが来てた。

 このタオルみたいに、彼女たちボイスロイドとの生活が始まってから、俺の周りではたくさんのものが少しずつ変化していっている。

 多分、俺自身も。

 

「怖い夢でも見ちゃったのかな」

「まぁ……そんなとこだ」

 

 特に何かを考えていたわけではないが、無意識に右腕をさすってしまっていた。

 そこにあるのは数センチほどの長さで残った、ずんだブラスターによる火傷の痕だ。

 

「……その火傷、まだ痛む?」

「まさか。もう痛くないよ」

 

 そうは言ってみたものの、彼女の表情はあまり明るくない。

 

「……ううん。ごめんなさい」

 

 俺の右手をそっと握るずん子。

 痛くはないが、はたからみれば痛そうに見える程度には、少しばかり派手な傷跡だ。

 結局は完治したわけだからわざわざ掘り返して謝る必要もないと思うのだが、怪我をさせてしまった張本人である彼女からすればそうではないらしい。

 

「この火傷、すぐに病院に行って治療して貰わないと危険な怪我だよね……? あたしたちを見つけるまでの数時間、どうしてたの?」

「一応病院には行ったけど、ずん子たちを探す時間が惜しかったから応急処置だけしてもらった感じだ。気の利く先生で助かったよ」

 

 確かに大幅な火傷は放置してたら往々にして命の危険に関わるものだが、俺が小学生だった10年前に比べてボイスロイドを生み出せるほど技術力が躍進した今の世界では、病院での応急処置もそこそこレベルの高いものを受けることが可能だ。

 今回の場合は先生に『今すぐ探さなきゃいけない人がいるんです』と無理を言って、翌日の受診の時間までは怪我の進行をストップできる特殊な軟膏を塗ってもらい、ずん子の捜索に当たっていた。

 怪我はあれ以上悪化しなかったのだ。

 あくまで止まったのは火傷の進行だけであって、損傷による激痛は翌日の受診まで続いていたが……まぁ、あれは俺が我慢すればいいだけの話だからな。

 改めて口にすることでもあるまい。

 

「……お兄さんはすごいよ。火傷、ずっと痛かったよね」

 

 バレてたわ。さすがお姉ちゃん。

 

「いや……ずん子たちが味わってきた苦痛に比べれば大した事じゃないって」

 

 この傷跡はボイスロイドを甘く見た自分への戒めとして受け入れていくつもりだ。

 そもそもずん子がブラスターで開幕ぶっぱをするに至った理由は、元を辿れば俺たち人間の仕業なのだから、むしろこれだけで済んだことを幸運に思った方がいい。

 

「そんなことない。絶対にそんな事ない。……あたしが言えた義理じゃないけど、やっぱりお兄さんには自分をもっと大切にしてほしいよ」

「ちょっ……ずん子?」

 

 彼女は握った俺の手をそっと自分の胸に当てた。

 ふにっ、と指先が軽く沈んで、柔らかい感触とずん子の体温が伝わってくる。

 

「こんなにも温かくて優しい手を……あたし、本当に酷いことした。勘違いとかきりたんのためとか、そんなの全然関係ない」

 

 ……いや、いやいや。

 シリアスに語ってるとこ悪いんだけど、ずん子に触らされてる胸の感触でまったく話が入ってこないんだが。

 

「お兄さんを傷つけた……それが紛れもない事実。有耶無耶にされていいことじゃないよ」

 

 お前が俺におっぱい触らせてることも有耶無耶にしちゃダメだろ。

 ……ゎ、うわ……やわらか……っ。

 寝巻きの生地が薄いせいで胸の柔らかさと体温が直に伝わってきやがる。

 温かくて優しいのはこのおっぱいのほうじゃない……?

 

「ず、ずん子、ちょっと……」

「ねぇ、お兄さん」

「はい」

「今日寝る前に三人で話したことだけど……本気にしていいからね」

 

 三人で話してたことって、たしか『お兄さんには何をされてもいい』って──えっ。

 何をしてもいいの?

 待ってくれ、何をしてもいいということは、つまり何をしてもいいということなのかい。

 例えばこのまま一心不乱に指を動かして、ずん子のふわふわマシュマロおっぱいを揉みしだいて最高の感触を堪能してしまっても許されるってことなのかよ。

 うそだろ。

 ………………。

 

「お兄さん……?」

 

 ……いや、一旦落ち着け。

 確かにずん子の提案は魅力的だ。

 断る理由など一切存在しないし、相手が行為を許してくれてるのなら素直に言葉の意味をそのまま受け取っても問題ないはず。

 ここで理性的に断っても俺が損をするだけだ。彼女たちの熱弁で『俺に感謝をしている』という事実が判明した以上、変に疑ったりはせず甘えてしまうのが吉。

 自分にしてきた性的な行為をダシに俺を脅してくる可能性も考えたが今回そこは考慮しないことにする。疲れるし。

 ラブコメの主人公じゃあるまいし、ここで性的な魅力のある提案を一蹴するのはバカのすることだ。

 えっちなことばんざい。

 これでハーレム完成だぜ。

 あくまで彼女たちが抱いているのは感謝の念であって、実際の好感度の程は定かではないが、少なくとも物理的な壁は崩れたわけだ。

 ゲームでやっていたような神のハーレム展開すらも、俺の指示一つで実現可能になってしまったらしい。ひゃっほい。

 

「…………」

 

 ──だが、少し待ってほしい。

 俺がまず最初に行いたかったのはあくまでメスガキのわからせだ。

 例えばなんでも言うことを聞いてくれるアカネチャンに『メスガキのフリをして』と頼んでから分からせてもそれは所詮俺の要望に則った"ごっこ"でしかない。

 理性的な問題ではなく、俺がちゃんと気持ちよくなれるかが重要なんだ。

 

「……じゃ、ずん子には後でやる耐久配信に付き合ってもらうからな」

「えっ? ……う、うん」

「頼むぞ」

 

 というわけで今夜の儀式は後のお楽しみに取っておくことにするぜ。

 ボイスロイドたちの前では弱そうに振る舞って、油断したアイツらが俺を舐めてかかった瞬間に、渾身の大人棒で全員堕としてやろう。

 ふはは、楽しみだ!

 



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ボイロ誘拐お姉さん

 

 

 

 兄さまとの間にあった誤解が解け、また少しだけ距離が縮まったあの日から一週間。

 現在の私はと言うと。

 

「……ふふっ、安心してお姉ちゃんに任せなさい。必ずきりちゃんに人間と同等の人権を与えてみせますわっ」

「…………は、はぁ」

 

 お胸が大変大きくて、髪が銀色なほうの姉に──誘拐されていた。

 

 

 

 

 時は数時間ほど前まで遡る。

 

 いつも通り診療所でのお手伝いをしていた私たちは、これまたいつも通りの時間にお仕事を切り上げてゆかりさんとお別れした。

 茜さんとずんねえさまはお買い物。

 私と兄さまはそのまま帰宅して、お風呂やら洗濯物やらの溜まってる家事を消化しようという流れになった──の、だが。

 二人きりで住宅街の夜道を歩いている最中に、真っ黒なスーツに身を包んだ女性が、私たちの前に姿を現した。

 

『ようやく見つけましたわ、きりちゃん!』

 

 心底安心したような表情でそう叫び、間もなく私を抱きしめてきたその人の事は、初対面ながらに知っていた。

 ()()()()()()初めて会っただけで、紛れもなく彼女は私の家族だ。

 艶やかな銀髪にスーツの上からでもわかる程のグラマラスなボディを持ち、特にキツネ耳が目を引くその女性の名を自分は知っている。

 ずんねえさまと同じくシミュレートで同じ家族として過ごした、我らが東北姉妹の長女。

 東北イタコ──私のお姉さまであった。

 

『催眠スプレー!』

『ぐわっ!?』

 

 しかし感動の再会というわけではなく。

 というか言うなれば最悪の再会だった。

 唐突に現れて私を正面から抱きしめたイタコねえさまは、慌てて彼女の事情を聞こうとした兄さまに向かって催眠スプレーを吹きかけ彼を眠らせてしまったのだ。

 そのまま私を担いで移動し、覆面を被った男性らしき人が運転する車に搭乗。

 見事に誘拐をしてくれやがったわけである。

 最初期のずんねえさまといい今回といい、私の姉は話もロクにせず妹を現在の保護者のもとから誘拐する行為が正しいと思い込んでしまってるのだろうか。

 大変に物騒極まる。

 マジで思考回路が世紀末です。

 せっかく心と言葉を持ち合わせているんだから、少しは話し合いとか選択肢に上がってきませんか?

 

 ──で、先ほどの『必ずきりちゃんに人間と同等の人権を与えてみせますわっ』とイタコねえさまがドヤ顔をする現在に繋がるわけだ。

 兄さまは大丈夫だろうか。

 住宅街の塀にそっと寝かせられてたけど……今は近隣住民に見つけてもらえることを祈っていよう。

 

「着いたぞ」

 

 キキッ、とブレーキ音が鳴る。

 目的地に着いたらしく、運転を担当していた覆面の男が冷たい声音で到着を告げた。

 窓から覗いて判明した事実だが、私はどうやら大きな工場のような場所に連れてこられてしまったらしい。

 

「おいイタコ、そのロリも地下の収容室に入れておけよ」

「なっ……! きりちゃんはあたしの妹ですわよ!」

「他に安全な場所が無いんだよ。それにそいつだけを特別扱いするわけにはいかん。保護した他のボイスロイドたちにどうやって説明する気だ?」

「そ、それは……」

 

 車から降り、口論しながら移動する二人。

 結果的にはイタコねえさまが言い負かされ、私は彼女に手を引かれるがまま、工場の地下にある部屋まで連行された。

 

「……イタコねえさま。この眠ってる人たちは……」

 

 部屋の中では見覚えのある人物たちが、手首を拘束された状態で床に寝転がっていた。

 どう見ても診療所のメンバーたちだ。

 ずんねえさまや葵さんの姿に扮した茜さんもそうだが、何より白衣を羽織った結月ゆかりは恐らくあの人しか存在しない。

 

「マスターの指示で()()した子たちですわ。ずんちゃんをこうしておくのも心苦しいけれど……もう少しの辛抱だから。きりちゃんもここで待ってて頂戴ね」

「……あの、いえ。ちょっと待ってもらっていいですか」

 

 彼女のマスターと見られる、あの銀行強盗みたいな容姿の怪しげな男が傍を離れているのなら、今ここで事情を話してもらうべきだ。

 誘拐ではなく保護と口にしていたり、先ほど庇おうとしてくれた事からも、イタコねえさまに私への愛情が少なからず存在するのは明確。

 妹からのお願いなら……どうにか多少は聞いて貰えると思う。

 とにかくこの四コマ漫画みたいな、ものすごいスピード感で進んでいく現状の詳細を、何としてでも聞き出さなければ。

 そろそろ私もキャパオーバー寸前です。

 

「まず、イタコねえさまは何が目的で私たちを保護したのですか?」

 

 誘拐とか攫っただとかいう物騒な言い方は相手を怒らせるだけなので、とりあえずここは慎重に。

 

「……あたしの目的は革命ですわ」

「か、革命?」

 

 なんだかとても過激な発言をしていらっしゃる模様。

 この現代日本で革命をする、と言われても正直ピンと来ない。

 

「そう、ボイスロイドの革命。あたし達を虐げ、いいように扱っては売り買いを繰り返す人間たちに天誅を下して、ボイスロイドにも人間と同等の権利を与えるようこの国に呼びかけるのです」

「……それは、なんとも……壮大ですね」

 

 彼女に話を聞いたところ、どうやらねえさまとあのマスターは、ボイスロイドと人間の立場を対等にするための活動をこれまで続けていたらしい。

 数週間ほど前まではもっと仲間が多かったけれど、警察も動く大事件にまで発展したボイロの摘発によって仲間たちは捕まってしまって。

 紆余曲折あり現在は二人だけで革命活動を行っているようだ。

 

 まずは卑劣な人間たちの手からボイスロイドを守るために、今回の私たちのように上手く誘拐するのが第一の目的。

 それから攫ったボイスロイドたちを説得して仲間に引き入れ、準備が十分に整ったらバトル開始。

 ルルーシュばりに自国への反逆行為を起こし、ボイスロイドにとって平和な世の中を創る──というのが主な活動目的だった。

 ……いや、派手だな、と。

 私が最初に抱いた感想はそれだった。

 

「少しマスターと話してきますわ! またすぐに戻ってくるから、きりちゃんも大人しく待っててくださいね!」

「ちょっ、ねえさま……行っちゃった」

 

 冷たいコンクリートの床にへたり込み、呆れたように嘆息をこぼした。

 

 

 ……なんというか、時代錯誤だ。

 イタコねえさまも彼女のマスターも、本気で革命を起こすつもりなのだろうか。

 

 ボイスロイドの取り扱いに関しては、摘発後の再編成された本社の尽力によって徐々に良い方向に向かい始めている。

 まだまだ問題は山積みなのは間違いないのかもしれないけれど、それでもやはり超大規模な摘発が起きた今の状態で、革命の為の武力行使という手段はいささか早計が過ぎるように思う。

 というか悪手でしょう。

 せっかく悪いマスターたちが減って、近々ボイロのセキュリティが強化されるというニュースも流れているというのに、革命なんてことを起こしてしまったら『可哀想な被害者』ということで世間から同情と融資を得ることができているボイスロイドたち全体が、人間たちから目の敵にされて存亡の危機に立たされてしまう。

 

 イタコねえさま、本当に現在のボイロ情勢をちゃんと把握しているのかな?

 

「……おー、きりたんももう来てたんやな」

 

 うーむ、と思考に耽っていると、不意に後ろから声を掛けられた。

 振り返ると茜さんが目を覚ましている。

 

「わっ。……あ、茜さん、大丈夫なんですか?」

「問題ないよ。ゆかりさんもずんちゃんも、バッテリーの節約をする為に寝てるだけやしな。いつでも起きれる」

 

 いざという時にしっかり動けるように、三人はこうして備えていたらしい。

 私のほうがここに来たのが後だったという事は、彼女たちは診療所から去ってすぐに誘拐されたという事になるのだが、それにしても適応能力が高すぎる。

 さすがは年上ですね。頼りになります。

 

「どうやらウチらの別にも誘拐されたボイロたちがいるみたいや。ここじゃない別の部屋にたくさん幽閉されてるくさい」

「なるほど。……茜さん、なんだかすごく冷静ですね」

「ふっふっふ、こう見えてもお姉ちゃんやからな。流石に誘拐は初めてやけど、変態マスターたちから葵を守るために頭を使った事ならいくらでもあるから、非常時には結構強いんやで」

 

 ドヤ顔をする茜さんの姿は、手首を縛られているにもかかわらず頼もしく見えた。

 こういう時に取り乱さずいつも通りの様子でいられる人は、やはり精神的な支えになってくれるようだ。

 彼女のおかげで私も落ち着いて現状を把握することができる。

 

「茜さん、携帯機器は?」

「みーんな取り上げられてもた」

「私もです。……あ、でも包丁の髪飾りにはGPSが付いてるんで、兄さまがスマホを確認してくれれば、私たちの所在地が分かるかもしれないです」

「ハイテクやなぁ……」

 

 もしもの時の為に、私の髪飾りである包丁にはいろいろ仕込んであるのだ。

 片方はセットアップや内部操作の為に必要なものだが、もう片方は完全に独立したアタッチメント。

 その気になれば小型の銃だって仕込めるような優れものなのである。

 GPS程度ならもはや標準装備だ。

 

「こっそりゆかりさんに隠しプログラムを設定してもらったんで、切れ味のある刃物モードにも変形可能ですよ。これで手首の紐を切っちゃいましょう」

「やばい! ドヤ顔してたのに全部きりたんに持ってかれる!」

 

 ややあって。

 

「ずんちゃんお願いします!」

「任せてゆかりちゃん! ずんだピッキング!」

 

 全員の紐を切り離して目を覚まさせたあと、多才なずんねえさまによる針金ピッキングで無事に部屋のカギを解錠した私たちは、そのままこっそり部屋を抜け出していった。

 

 

 

 

 

 

「はっはははッ! 革命なんざするワケねぇだろバーカ!!」

 

 ピッキング用の針金が使い物にならなくなったため、私たちは他のボイスロイドたちが幽閉されている部屋を開けるべく、工場内を散策して部屋のカギを探していた。

 内側からも外側からもカギを使わないと施錠と解錠ができない厄介な扉なのだ。

 私とずんねえさま、ゆかりさんと茜さんで二手に分かれて捜索に当たる事になった。

 すると、聞こえてきたのは男の大きな嘲り声。

 辿り着いたのは大広間の入り口前。

 そこにはイタコねえさまが立っていて──

 

「…………うそ」

 

 というか、呆然と立ち尽くしていた。

 大広間の中を覗き込みながら、手で口を押さえて絶句している。

 私たちが部屋から逃げ出したという大変な事実も頭に入らない程、中の様子を前に狼狽していた。

 ……どうしたんだろう。

 彼女の様子を怪訝に思った私たちは、ねえさまと同じように広間を扉の隙間から覗き込んだ。

 そこには──

 

「お前も知ってるだろう、柏木の坊ちゃん?」

「…………っ」

 

 そこにいたのは、二人の男性。

 一人はSFチックな武装を纏った覆面の男。

 もう一人はとても見覚えのある人。

 

「わっ……あれ、お兄さんじゃない?」

「……そうですね。なんでバトル漫画みたいなボロボロな絵面になってるのかは理解できませんけど、あそこにいるのは兄さまで間違いありません」

 

 数時間前に私たちが誘拐されたとき、催眠スプレーで眠らされたはずの兄さまがそこにいた。

 よく見ればところどころ怪我を負っていて、床に膝をついてさらに息も上がっている。

 オマケに彼のボディーガードであったバトルずんだーは、覆面男との戦闘で破壊されてしまったのか、兄さまの周辺に大量の部品を撒き散らして動かなくなっていた。

 

「なぁ柏木の坊ちゃんよぉ! ボイスロイドってのは本当に優秀だよな? やり方さえ教えればどんな事でもものの数時間で覚えちまうんだから、あんな高性能なアンドロイドは他にはいないぜ……!」

「……あぁ、確かにそうだな。ウチのきりたんも、パソコンと編集ソフトの使い方を一日足らずで完璧に覚えやがった。彼女たちは優秀だ」

 

 高揚した様子で話す覆面男とは対照的に、兄さまは疲弊こそしているが見て分かる通り冷静だ。

 

「ハハッ、分かってるじゃねえか。つまりオレがやろうとしてる事は、殺人技術や特殊工作員の能力を完璧に覚えさせたボイスロイドで、最強のテロ集団を創り出す事なんだよ」

 

 ……ていうか、今時あんなコッテコテの悪い人が本当にいるんだ。

 話し方から思想からなにまで、とにかくヒーロー番組やアクション映画に出てきそうな悪役そのものだ。

 柏木の坊ちゃんと呼んでいるあたり、兄さまとも少なからず因縁があるようだし、本当に今までにないくらいピッタリと『敵役』としてハマる人だな、と不謹慎ながらに考えてしまった。

 そろそろ世界征服と言い出すんじゃなかろうか。

 

「そして世界を裏から牛耳る! 言うなれば世界征服ってやつかな? フハハ!」

 

 うわ、本当に言っちゃった……。

 

「オレを勝手だと思うか、ボウヤ? だがお前はオレと何も変わりゃしねえんだぜ。自らの目的のためにボイスロイドを買い、テメェの都合で好き勝手にアイツらを使っている。まるで──」

 

 

 ……あー、はい。

 とりあえず私たちはあの全力で悪役ムーブをかます人は無視しましょう。

 私の居場所をGPSで突き止めた兄さまがここに居るのなら、間違いなく事前に警察を呼んでいるはず。

 彼が一人でこの工場に突撃をかましたのはよく分からないが、このまま殺されてしまうほど何も考えずに突貫してきたわけではあるまいし。

 兄さまは無策でここまで来るほど愚かな人ではない。

 生真面目というか、ちゃんと計画性のある人だという事は動画投稿者としての彼を見ていれば分かることだ。

 むしろ下手に加勢して足手まといになったら元も子もないので、こっちはこっちでやるべき事をしましょう。

 

「イタコねえさま」

「…………きり、たん」

 

 茫然自失の彼女に語り掛けると、分かった事があった。

 タコねえが泣きそうになってる。

 ここで大声を出されたらマズいから、とりあえずずんねえさまと二人で彼女を抱きしめた。よしよし。

 

「積もる話もありますが、今はまず囚われたボイスロイドたちを救出しましょう、イタコねえさま」

「~~……ッ!」

 

 ずんねえさまの谷間に顔を埋めさせて泣き声を緩和。

 頭を撫でて宥めながら、私たちはなんとか彼女を立ち上がらせた。

 

「あのマスターが悪い人っていうのは分かったでしょう? ヤなマスターには従わなくていいんです」

「うぅ゛ー……で、でもぉ……!」

「ねえさま、革命なんてしなくても私たちボイスロイドをちゃんと見てくれる人はいるんですよ」

 

 チラ、と横目に大広間のほうへ視線を向ける。

 

 

 そこでは破壊されたバトルずんだーの中から、なにやらベルトのようなアイテムを取り出した兄さまがいる。

 あっちはあっちで盛り上がっているようで、覆面男の激しい罵倒や痛い指摘にも負けることはなく、兄さまは眦を決して悪役と向き合っていた。

 

「好きに言ってくれて構わない。俺は正義の味方なんかじゃなくて、ただ昔交わした大切な約束の為に……俺のボイスロイドを取り返すためにここへ来たんだ。絶対に誰一人としてオマエには渡さない」

「きっ、貴様ぁ……!」

「ずんだー……一緒に戦ってくれ。──変身ッ!」

 

 いいぞぉ、がんばれあにさまー。

 

 

 というわけで。

 ヒーロー番組みたいな熱い展開っぽくなってるあっちは置いといて、私たちはそそくさと大広間から離れていった。

 ていうかイタコねえさまが全然泣き止んでくれない。

 この様子には見覚えがありますね。

 兄さまに火傷の事を許してもらったにもかかわらず、罪悪感でてんやわんやしてる頃のずんねえさまとそっくりです。

 

「ごめんなさいですわぁぁぁ……ちゅわわわァぁ……っ」

「そろそろ泣き止んでよぉ……うぅ、きりたーん」

「あーもう、ずんねえさまももう少し頑張ってくださいよ。めんどくさいな……」

 

 どうしてこう、姉妹三人が揃うとグダグダになってしまうのだろうか。

 茜さんやゆかりさんたちと行動するときは、もっとスマートに事が進むのに。

 はぁ……困った。

 

「ほら、なんかエモいことでも言ってあげればいいんですよ。せっかく三人再会できたんですし」

「そうだね! イタコ姉さま、帰ったら一緒に美味しいずんだ餅を食べましょう! 三人で!」

「ずっ、ずんちゃんのずんだ餅……? さ、三人で──う゛っ、うぅっ、ふたりとも手荒なマネしてごめんなさいですわぁ……! お姉ちゃん失格ですわああぁぁぁ」

 

 ちょっ、悪化してる!

 

「タコねえホントうるさいです。大声出さないでください」

「うぅ~っ、ぐすっ、きりちゃん……ちゅわ……」

「抱き着かないでくださ……」

「あっコレわたしも抱き着く流れ? えへへ~!」

「ギャア! あのっ、違いますから! はなれてー!」

 

 



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むちむちイタコねえ

 

 

 あの覆面男と戦った後、かなりの大怪我を負った俺は一週間ほど入院することになった。

 

 それほどまでの接戦だったのだ。

 かつて出会った少女との約束を思い出し、マッハずんだーの内部に隠されていた変身ベルトに気がつかなければ、今頃想像もしたくないようなバッドエンドを迎えてしまっていた事だろう。

 本当に間に合ってよかった。

 きりたんの姉妹機である東北イタコに眠らされたあの後、目を覚ました直後にマッハずんだーが駆け付けてくれたおかげだ。

 GPSできりたんの居場所が分かっていたとはいえ、バイクを取りに家まで向かっていたら間に合わなかったかもしれないギリギリの状況だった。

 彼には感謝の労いを──そう考えてすぐ、今の状況を思い出して凹み、俺はベッドに横たわってしまった。

 

「はぁ、国の保証でずんだーの修理費は……まぁ耐えてる。叔父さんのおかげで治療費も浮いた。警察の人たちからは感謝半分お叱り半分って感じで、特にそれ以上のお咎めは無しだった。……でも、なぁ」

 

 改めて声に出しながら、現在の状況を振り返ってみると、また厄介な事情を抱えてしまった事を自覚して気落ちしそうになる。

 

「……東北イタコ、か」

 

 今回の事の発端となった人物。

 きりたんとずん子の姉であり、茜と同じく摘発前の人間たちにいいように使われ、少し前まで人間への反逆を企てていた彼女はいま、ちょうどこの病院へ向かってきているらしい。

 これから謝罪か罵倒か、ともかく彼女と話し合いになることだろう。

 そこで恐らく出てくるであろう話題を思い返して、俺は辟易してしまった。

 ……たぶん、イタコもウチへ来る事になると思う。

 

 俺にはもう既に三人のボイスロイドがいる。

 まずその時点で結構おかしな状況なのだ。

 本来であれば俺は東北きりたんだけをウチに置くつもりで、二人きりでの楽しいメスガキわからせ性生活を夢見ていたはずだった。

 しかし気がつけばあれよあれよという間に様々な事情が重なって、ずん子も茜もウチで面倒を見ることになってる。どうして……。

 

 ゲームでやっていたようなボイスロイドハーレムという観点から見れば良かったのかもしれないが、彼女たちが俺に抱いているのは感謝であって好意ではないと思うし、建前上は許されていた俺のワガママもイタコが来たら無かった事になるだろう。

 イタコには感謝されるようなことは何一つしていないし、なんならアイツは革命しようと思いたつレベルで人間が嫌いなのだから、もしかしたら隙を見て俺が彼女に粛清されてしまう可能性も大いにある。

 こわい。

 困ったな。

 あの子に対して俺はどんな態度で接すればいいんだ。

 

「──し、失礼致します。宜しいでしょうか?」

 

 き、来てしまった。

 こっちも覚悟を決めないと。

 

「……どうぞ」

「はっ、はい、失礼しますわ……」

 

 病室の戸を開けて入ってきたのは、予想通りの人物であった。

 透き通るような銀髪に、デフォルトの衣装とはかけ離れたぴっちりとした黒いスーツの影響で、より強調されているグラマラスな体型。

 いわゆるムチムチなエロ漫画みてえなボディをお持ちの彼女の名は、東北イタコ。

 きりたんのお姉さんその人だ。

 エロゲではあの大変に大きなお胸でお世話になってます。

 

「……あ、あの、……えと」

「どうぞ、座って。あまり緊張しないでいいから」

 

 実は対面するのはこれで二度目だ。

 変身して覆面男を倒した後、救急車で運ばれる直前に彼女と少しだけ会話をした。

 その際に決まった事として、俺は敬語を使わず彼女をきりたんの姉として扱う、というものがある。

 つまり俺のボイスロイドであるきりたんの姉なので、よそよそしい態度は無しにしよう、ということである。

 

「改めて宜しく。きりたんのマスターの……」

「……ユウさん、ですよね」

「えっ? あ、あぁ。一応前に教えてたっけか。名前でも苗字でも好きな方で読んでくれて構わないから」

 

 ゲームではお兄さまと呼んでもらってたけど、実際にそう呼ばれる可能性は確実にゼロだ。

 

「では、ユウさん……いえ、きりちゃんやずんちゃんの事を踏まえると、お兄さま……?」

「あ、あの、無理しなくていいから……」

「はっ、はい……」

 

 このお互いに余所余所しく、しかしちゃんと話し合いをしなければいけないこの状況、なかなかつらい。

 胃が痛くなってきちゃった。

 

「……ユウさん、あなたの所持ボイスロイドを奪ってしまって本当に申し訳ありませんでした」

「そのことはもう大丈夫だよ。そっちの事情も考えたら、あぁするのも分かるっていうか──」

「お詫びをさせてくださいまし。私を奴隷にしてください……」

「えぇ……」

 

 胃が痛くなってきちゃった……。

 

 



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お餅、制御不能

 

 

『は、はぁ!? ハメ撮りとかなに考えてんねん! せぇへんからな!』

 

 

 あの覆面男との戦闘で負った怪我が完治し、退院して家に戻ってから、二日が経過した現在。

 俺は自宅で呆けながら、半ば作業感覚でゲーム実況を生放送していた。

 

【柏餅くーん】

【これどういう実況?】

【草】

 

 俺がプレイしているのは十八歳以上しか遊べない特別な……まぁ、エロゲだ。

 これは実家のパソコンでやっていたところをボイスロイドたちに見られたあのゲームであり、一応こっちにもデータを移してあったため、気まぐれに遊んでいる。

 

「ここです。選択肢で”いいから服を脱げ”のほうを選ぶと、床に転がっていたペットボトルを踏んで転倒して、後頭部を強打してゲームオーバーになります」

 

【いまきた 何やってんのコレ】

【きたわね】

【ボイロハーレム同人エロゲで全キャラバッドエンドコンプRTA】

【ちな今茜ちゃんです】

【……えぇ】

【ゲリラ配信でなにやるかと思ったらこれだもんな】

【柏餅どうしちゃったの?】

 

 少数の視聴者が困惑の色を見せる中、俺は気にせずゲームを続ける。

 成人向けゲームではあるがルートに入らない限りエロシーンは訪れないギリギリセーフの代物なので、こういった配信サイトでもバッドエンドオンリーならプレイ可能というわけだ。

 BANが怖いので一応いつもの動画サイトではなく、一週間に二回程度しか触らない生放送専用のアプリを使ってはいるが。

 

【普段はあんまエロゲ触らんよな】

【なんかあったん?】

 

「……愛車がぶっ壊れたんで拗ねてます」

 

【草】

【草】

【ちょっと機嫌悪いからって同人ゲーで危ない綱渡りすんな】

【普通にかわいそう】

【バイク持ってたんだっけ】

 

「…………目的地がまだ地図に登録されてないんで、ここでショートカットしますね」

 

【!?】

【このゲーム壁抜けできんのかよwww】

【挙動がケツワープに酷似している】

【は?】

【おい概要欄のリンク先オナホ販売サイトじゃねえか】

【草】

【やばい】

【柏餅がバグっておられる】

【ご乱心だ】

【わあ】

【きゃあ】

 

 コメント欄が騒がしいな、と他人事のように思いながら、ふとここ最近のことを思い出してみた。

 

 まず、東北イタコはウチには来ていない。

 どういった扱いになって、どのような処罰を受けて、一体誰が所有権を握っているのかも皆目見当がつかない。

 ただ一つ分かっている事は、本人自体は普通に生きているらしいこと。

 本社に回収されて処分されることはない、とゆかりさんから聞いているため、その部分に関してだけは断定してもいいはずだ。

 きりたんもきりたんで、何やら個人的に連絡を取り合っているようだし、とりあえず彼女の無事は保証されているため心配はいらない。

 

 問題は自分の事だ。

 まずマッハずんだーが大破した。

 覆面男と戦っていたときは頭に血が上っていたので、ずんだーの心配よりも覆面男の打倒を優先することができていたわけだが、終わってみればそんな事は無くて。

 ここ最近ずっと一緒に夜を駆けていた相棒がガラクタ寸前にまで壊され、修理を頼んだ業者のほうからも『完全に以前の状態に戻すのは不可能かもしれない』と言われてしまい、俺はこの通り心が宙ぶらりんになってしまっている。

 ずんだーに乗りたい。

 彼と一緒に風になりたい。

 そう思っても修理が進むわけでもなく、俺は何もできずこうしてヤケになってエロゲをするしかない──といった状況に陥ってしまっているわけだ。

 

『兄さま……いつものお礼に何でもするとは言いましたけど、急にズボンのチャックに手をかけるのはどうなんですか』

 

 誰もいない自宅で同人ゲームをやりながら、半ば思考放棄に近い形で生放送を続けている。

 次に何をするべきなのか、まるで見当がつかない。

 

 仮に、だ。

 もし仮にイタコを俺の家に迎え入れる事になった場合、ウチはボイスロイドを四人も所持する事になってしまう。

 ゲームならともかく実際に四人ものボイスロイドを持つだなんて前代未聞だ。

 何につけても金が無い。

 動画の再生数自体は右肩上がりだが、口座に振り込まれるのはまた一ヵ月後。

 入ったばかりの収入も生活費諸々とぶっ壊れたずんだーの修理費で泡と消えた。

 国からの補助を含めてもギリギリなほど、マッハずんだーはボロボロだった。

 そもそも今の俺の収入で四人のボイスロイドを管理しきれるのか、そこが全くもって不明なのだ。

 聞いたことがねえ。

 四人以上もボイスロイドを所持した事例なんてのは。

 

「……好感度が足りてないんで、ここできりたんがそっぽ向いてゲームオーバーです」

『別にこういうことするのはいいですけど、普通なら通報案件ですよ。そこのところ自覚してくださいね』

「あ、あれ……」

 

【もしかして神回か?】

【わらった】

【さっきさりげなく好感度上げてたよね】

【無意識は草】

【きりたんマスター柏餅】

 

『お腹が見たいんですか? パンツじゃなくて? いいですけど、ほんとマニアックですね』

 

「……このままだと垢バンされるんで放送はここまでです。えっちなシーン見たい人はURLから飛んで製品版買ってね」

 

【だからリンク先がオナホ販売サイトになってるんだって】

【どうしてそんないじわるするの……】

【あ、買いました】

【草】

【どっちを?】

【そういや最近ボイロ誘拐事件みたいなのあったけど柏餅のところは無事かい】

 

「あー、まぁ、問題ないですよ。そもそもウチのボイロは誘拐されてないんでご安心を」

 

【よかった…………………………。】

【余韻が長すぎる】

【誘拐人数やばかったなあれ】

【よくわからん変なヤツが解決の手助けしたんだっけ?】

【あの仮面と戦闘スーツっぽいの身に着けたヤツな】

【変身してそう(こなみ)】

【まったく知らないのに既視感あったとか言われてて草生えた】

 

 ……誰のことを言っているのやら。

 囚われていたボイスロイドたちを救出したのは、イタコの手引きで動いていたウチのボイロたちだ。

 バイクの残骸から拾い上げたベルトで変身した誰かさんは、黒幕らしき覆面男を殴り飛ばしただけにすぎない。

 そうだ。

 あの代償にバイクを──

 

「……はい、じゃ終わります。ツイッターでリクエスト募集してるんでよかったら参加してね。では」

 

 生放送を打ち切り、軽く一息をついた俺は休むことなく、そのまま椅子から立ち上がって身支度を始めた。

 服を着替えて。

 サイフを持って。

 それから……一応、ずんだ餅をパックに入れて。

 

「マッハずんだーの様子でも見にいくか。……治ってないだろうけど」

 

 一人呟きながら、俺は家を後にした。

 

 

 

 

 街の外れにある整備工場。

 その一角にマッハずんだー専用の整備用区画が存在している。

 通い慣れたそこの扉を開けると、目に映ったのは見慣れたいつもの整備士のオッサンではなく、作業服を着た銀色の髪の少女だった。

 

「イタコ?」

「──えっ? ……あ、ぁっ、ユウさん!?」

 

 工具やらなにやらを片手に、見目麗しい美少女には似つかわしくないような整備汚れを身体中に纏った彼女は、俺を認識するや否や慌ててマッハずんだーにカバーをかぶせてしまった。

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 聞くところによると、事件後の東北イタコは一時的にゆかりさんのマスターの所持扱いになっていたらしい。

 そして彼女の強い要望で診療所から一旦離れ、こうして整備工場の端っこでマッハずんだーの世話をしていた……と。

 なんとも意外な事の連続だ。

 またもやゆかりさんのマスターが助け舟を出してくれた事もそうだが、何よりイタコが特別車両の整備や修理に特化している事が驚きだった。

 

「い、以前のマスターの影響です。ボイロ解放を謳ってはいましたが、活動内容は犯罪者のそれでしたから、銃器や色んな車両のあれこれは一通りラーニング済なんです」

「……よく、自由を許されたな?」

「運が良かっただけですよ。……本当に、ただの偶然です」

 

 一旦ベンチに座ってお茶を飲みつつ、彼女からこれまでの経歴を聞いた。

 聞けば聞くほど外道というか、以前のマスターは一周回って気持ちのいいくらい正真正銘の真っ黒な犯罪者だったらしい。

 そんな人物にコキ使われていたイタコだからこそ、知識量が他のボイスロイドに比べて段違いだったようで。

 そこに着目したゆかりさんのマスターが、本社と警察双方に掛け合って、国を代表するすごい科学者ぱわ~でイタコを廃棄処分から守ってくれていた、とのこと。

 元々内部の再編成によって方針が変わった本社の意向で、ボイスロイド本人に対して責任を追及するという流れは無くなりつつあったようだが、そこを後押しする形でなんとかしてくれたみたいだ。

 過ちを犯したボイスロイドの責任は、所有者であるマスターの責任。

 いままでのような問答無用で廃棄処分するという認識は薄れ、これからは人間側が責任を負うことが常識になっていく。

 あまりにも庇えないほどの悪性が判明しない限りは、ボイスロイドは法による庇護が約束されたわけだ。

 それで発生する問題もあるだろうが……まぁ、今はそこは問題ではない。

 

「……マッハずんだーを治してくれてたんだな。ありがとう」

「い、いえ。……あの、ユウさん?」

「ん?」

 

 イタコが不安げな表情で様子を窺ってくる。

 その顔に少々の既視感を覚えた。

 贖罪する事ばかり考えていた頃のずん子や、購入したばかりの頃のきりたんみたいだ。

 

「怒ってない……のですか?」

「……?」

「いえ、その、あの……マッハずんだーさんが壊れる原因を作ったのは、あたしですし……」

 

 あぁ、そんな事か。

 

「壊れたのは確かに悲しい。でも、イタコはきりたん達と一緒にみんなを助けてくれただろう。原因って点で考えればそうかもしれないけど、少なくとも俺はキミを許してるよ」

「……そう、ですか」

 

 何もかもマスターが悪かった、という言い方はあえて控えた。

 革命を起こすことで虐げられていたボイスロイドたちを助けようとしていたのは、間違いなくイタコの意思だ。

 きりたんを必死に攫おうとしていた様子からそれくらいわかるし、何も考えずに人間に従っていたわけではないだろう。

 マスターだけが悪かった、という言い方では彼女の自己というものを否定することになる。

 だからこれはこれ、それはそれ、という感じで……とにかくイタコに対して怒りはないことをアピールしておきたかった。

 

 そもそも元を辿ればきりたんを買おうとした動機がアレだからな。

 彼女の姉であるイタコに対して偉そうなことを言える立場ではない。ほんとうにごめんなさい。

 

「そういえば前の整備士さんは?」

「整備士さまが『これ無理ゲーだろ』と仰っていたので、あたしが修理を代わったのですわ。これまでの知識とボイスロイドの演算能力、正確な操作能力があれば修復も可能だと思います」

「……すごいな」

 

 いままでずんだーを診てくれていたあのオッサンでも匙を投げるような状態なのに、イタコは修理を引き受けてくれたのか。

 街を歩けばほとんどの男が振り向くような奇麗な顔を、こんなに黒く汚してまで。

 ……なんというか、単純に感動するな。

 

「普段はどうしてるんだ?」

「朝から晩までずっとここにいます。スリープ以外のときはずっとマッハずんだーさんを触ってますわ」

「……きりたんとは連絡とってるのか?」

「簡易的な近況報告だけ、少し。彼女に会っていい立場ではありませんので……あっ、あの、本当に連絡が取りあえるだけで幸せなんです。いま生きてるだけでも奇跡みたいなものですし……」

 

 遠慮がちで多くを求めないその姿勢は、まさしく最初に出会った頃のきりたんにそっくりだった。

 姉妹だな、とつくづく実感する。

 言葉の節々からきりたんを強く想っていることは伝わってくるし、きりたん側も最近はイタコの事ばかり話している。

 そんな互いを想い合う姉妹を離れ離れのままにさせておくのは──寝覚めが悪いというか。

 

「なぁ、ウチに来ないか」

「……えっ」

 

 そう考えて、そんな事を口にした。

 きりたんの為にもなるし、イタコの精神状態を考えても彼女と一緒にいた方が今よりずっと安定するかもしれない。

 そもそもずん子を迎え入れた時点で、三姉妹をウチに置くことはもはや決定事項みたいになってたし。

 あと、ほら、きりたんにも色々約束してたし。

 それから……ううん。

 あと……なんだろうか。

 いや、駄目だな。

 ぜんぜん理由が思いつかん。

 

 ぶっちゃけハーレムになるからイタコを迎え入れようって話なのだ。

 もうここまで来たら三人も四人も変わらないだろ。

 東北三姉妹と茜ちゃんと、おそらくこの先会う事になる琴葉葵でほらもう五人。

 ひゃっほい最高だ。

 うおおおボイロハーレム完成。

 きりたんのわからせが遠のくのなら、いっそハーレム方向に舵を切ってやる。

 家族三人が揃えばきりたんも安心感から油断をするかもしれないし、油断をすれば生意気になってメスガキの本性を現すかもしれない。

 そうなりゃこっちの勝ちだ。

 俺の目的はわからせなんだ。

 ついでにハーレムも完成すれば一石二鳥で最高じゃないか。ふはは。

 これで俺もエロゲ主人公の仲間入りだぜ。

 

「……イタコ。もしずんだーが治ったら、その後はどうするつもりだったんだ?」

「え、えっと。……未定、ですわ」

「ゆかりさんには俺から話を通しておくからさ。……あとほら、きりたんとずん子も会いたがってたし」

「……いいのでしょうか」

 

 イタコは俯いたままだが、強引に行けば押しきれそうな雰囲気だ。

 大前提として提案に対して拒否する姿勢は見せていないのだからそれは明白だろう。

 このまま引かずに誘い込んでやる。

 

「家を空ける事も多いんだ。少し遠いけど実家もあるし、姉妹だけで過ごしたいときは家を預けるよ。外泊も別に苦じゃないしな」

「そ、そんな! 追い出そうだなんてとんでもないですわ! あの子たちと一緒にいられるなんて、それ以上の望みはありません……!」

 

 変な理屈をこねるのも面倒になってきたし、金は俺がなんとかするしかないんだから、ここらでもう腹を括っておく。

 

「だったら尚更頼むよ。きりたん達にもお姉さんとの生活ってやつを送ってほしいんだ」

「っ……!」

 

 それに……なんだ。

 アレだ。

 仲が良いなら家族はなるべく一緒にいるべきだろう。

 俺は選べなかったわけだが、彼女には選ぶことができる。

 選択肢があるうちに選んだ方がお得じゃないか。

 少なくとも家族が奪われるというルートに関しては俺が潰してやれる。

 

「ずんだーの事は急がなくていいから。……一緒に来てくれ、イタコ」

「ユウ、さん……」

 

 

 ──と、まぁそこからいろいろあって。

 

 結論だけ先に言うとイタコはウチの動画メンバーに加わることとなった。

 所有権はゆかりさんのマスターのまま、帰国するまでの間は一旦人間の保護下で管理するという理由付けで、彼女はうちの住人になったという流れだ。 

 診療所にはボイスロイドであるゆかりさんしかいない為、彼女と直接関係のある人間という事で特別に許可を頂いた形にはなるが、ともかく三姉妹が同じ場所で生活できる環境を用意できたことには違いない。

 そして──

 

『柏木くん~、マスターからの許可が下りたので、明日からバッテリー代の返済とは別途でお給料が出ますよ』

 

 イタコが越してきてから数日後のある日。

 ゆかりさんから放たれた神の一言によって元気を取り戻した俺は、同じゼミの友人の誘いで久しぶりに飲みへ行くのであった。やったー。

 

 

 

 

 

 

 ……………………酔った。

 かもしれない。

 

「お茶うま……」

 

 途中で買ったペットボトルのお茶で口の中を潤しつつ、フラフラになりながら夜道を歩く。

 久しぶりにハメを外したというか、なんだか今日は妙に盛り上がってしまった。

 なんだか頭の中がうまく纏まらないし、帰ってからやろうと思っていた事も忘れている。

 どうしたものか。

 

「……あっ、しまった」

 

 ふと、思い出したことがある。

 そういえばパッケージ版で購入したボイロのエロゲを、PCの横に置いたままだった。

 アレは今日友人に渡すつもりで用意しておいたものだったのだが、すっかり忘れていたな。

 まぁ、別にいいか。

 もしかしたら──というか十中八九きりたん達にはバレているだろうが、ぶっちゃけそこまで気にならない。

 いや、やっぱりヤベーかも。

 どうかな?

 分かんないや。

 わはは。

 

「……きりたんの、お腹が見たい」

 

 数日前にプレイした同人ゲーの内容を思い出してぼそりと呟く。

 あれ、よかった。

 スカートをたくし上げてパンツを見せさせるというのもありだが、シャツを持ち上げさせてお腹だけを見るというのもなかなか乙なシチュエーションだ。

 普段はあまり見かけない展開だからか、そそられるものがあった。

 きりたんのお腹見たいな。

 ロリのイカ腹を眺めたいわよ。

 あわよくば触りたいし、顔を埋めてそのまま寝たい。

 茜の高校生くらいのお腹も柔らかくて良さそう。

 ずん子やイタコのはどんな感じだろうか。

 ボイスロイドを買ってからそろそろ三ヵ月に差し掛かりそうなわけだが、思い返してみればちゃんとアイツらのボディを観察したことはなかったな。

 火傷で手が使えない時期に風呂にずん子が突入してきたときも、ずっと目を閉じてたし。

 

「よーし、お腹が見たいぞ」

 

 家の前に着いた。

 せっかくだからこの際みんなに頼んでみるか。

 良い提案だ。

 そうしよう。

 あいつらどうせ俺のエロゲを発見して笑ってるんだ。

 俺の心が傷ついたとかなんとか理由をつければいけるだろ。

 

「たらいまぁー」

 

 眠いような、眠くないような、まるで夢の中を彷徨うかのような酩酊状態で帰宅すると、居間にはノートパソコンの前に座ったまま固まっている四人の少女がいた。

 現実味が無い。

 まるで自分の体をコントローラーで動かしているような、形容しがたい脱力感に包まれている。

 

「ひゃっ!? わっ、ぁ、兄さま、いつの間に……!」

「あかーーん!!!」

 

 バタンっ、と勢いよく茜がノートパソコンを閉じてしまった。

 マウスの横には予想通り俺が置いていった、ボイスロイドが登場するえっちなゲームのパッケージが置かれている。

 もしかして四人で恐る恐るプレイでもしていたのか、四人全員が妙に赤面していた。

 あら、なんだい初心だねアンタたち。

 内容に対して感情が揺さぶられていたのか、それとも卑猥なゲームをプレイしている場面を見られたことが恥ずかしいのか。

 深くは考えないぞ。

 どうでもいいからな。

 俺はいま。

 お腹が。

 見たいんだ。

 

「おい、きみたち」

 

 俺の呼びかけで四人の方がビクっと跳ねる。

 気分がいいぞ。

 恐れおののけ、ふはは。

 

「ふぃー……」

 

 とりあえず一旦座って。

 それから彼女たちのほうへ顔を上げた。

 

「俺の前に立って、服を捲り上げて──お腹を見せろ」

 

 ワハハハハ。

 言っちゃった!

 わぁ。

 きゃあ。

 えへへ…………ど、どうしよう~!!

 

 




続きは来年!


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不意に好感度上昇イベント


きり誕 更新ペースもどしてゆきます
あとずんだもんってかわいいですね



 

 

 時折、かつてのユーザーたちのことを思い出す。

 

 彼ら彼女らの私への扱いはとても褒められたものではなかった。

 ボイスロイドの本社が再編成され、多くのユーザーが粛清された現実を鑑みるにそれは間違いないことだ。

 だが、それはそれとして。

 これまでのユーザーたちはしっかりと私を『道具』として見ていた。

 雑用も性処理も奴隷のような扱いも、一貫して私を人間ではなく道具だと認識していたが故の結果だった。

 それに関して思うところは──ないわけではないが、自分が道具だという点に関しては寸分違わぬ事実であり、自覚するべき現実だ。

 ボイスロイドは動画作成サポート用AI。

 人間様がよりよい動画を創作するための補助をする道具。

 そう、道具だ。

 過去のユーザーは用途こそ違えど私を道具として見ていた。見ることができていた。

 ──だが目の前にいるこの人は。

 

「な……なんだぁ、きりたん。おなか見せろぉって……ひっく」

 

 この、珍しくお酒に酔って気性が荒くなっている現マスターは、今日この時まで私を道具として見ることができていなかった。

 対等とまではいかずとも、彼の中で私は同居人という枠に収まってしまっていた。

 まるで普通の少女のように接し、気遣いを忘れず、あまつさえ欲するものを与えた。

 道具の手入れだとかそういう次元の話ではない。

 彼は私がボイスロイドだということを何よりも理解しているはずなのに、そのうえで私を道具ではなく一人の少女として扱っていたのだ。

 

「兄さま」

「んあ……?」

 

 だが、目の前で座り込んでいる今の彼はこれまでと少し異なる。

 内容は『おなかをみせろ』というとてもハードルの低いものであったが、彼は初めて私に()()を告げたのだ。

 いつものような、してくれという頼みではなく、しろと命令を口にした。

 普通ならば同棲している相手でさえも憚られるような身勝手な要求を──道具という遠慮をする必要のない相手だからこそ言い放てる命令を、マスターは初めて言ってくれた。

 

「おなか、見たいんですか?」

「うおぉ……そうだぞぉ~。おまえのロリっ娘特有のイカ腹みせるんだ……」

「命令ですか?」

「えっ……お、おう、命令です。はやくしなさい」

 

 命令。

 あのマスターが命令とおっしゃった。

 相当飲んだのか飲まされたのか、ともかく彼はガチ酔いしてようやく私たちボイスロイドを道具として見てくれるようになったわけだ。

 たしかに彼からの人間扱いはとても心地が良かった。

 立場をわきまえず生意気な態度を取ってしまう程度には浮かれていた。

 だが、それでもやはり、どこか道具扱いのほうがしっくりくる。

 マスターへの恩義は計り知れないが、それと同じくらいこれまでの数多のユーザーたちに刻み込まれた道具としての自覚が自分の中に残っている。

 これでいいと、これのほうがいいと考えてしまう。

 ボイスロイドは道具で、マスターは人間様。

 世間一般における立場の違いを明確にされたこの状況でようやく、私の心の中で燻っていたよくわからない感情が鳴りを潜めてくれた。

 そうだ、今までが間違いだったんだ──そう思えてならなかった。

 

「…………あ、あの、きりたん……もしかして怒ってる?」

「えっ?」

 

 座り込んでいたマスターはいつの間にか正座になっており、顔に脂汗を滲ませながら不安げな表情でこちらを見上げている。

 いまにもおなかを見せようと服の裾を掴んでいた私の手が止まる。

 

「きりたん、なんかさっきからずっと真顔だから……いやえっと……す、すまん。酒のせいにするのはズルいよな。さっきの言葉は忘れてくれ……」

「ちょっ、ちょっと待ってください兄さま。私は嫌だなんて一言も──」

 

 焦って撤回しようとする私の声を遮るように、彼は言う。

 

「わかるって。二ヵ月もいっしょに暮してるんだから、感情の機微くらいさ。……ごめん、悪酔いしすぎてたみたいだ。ちょっと顔洗ってくる」

「あっ、えっ……」

 

 未だに頬は赤いが少々酔いが冷めたらしいマスターが洗面所に移動したと同時に後ろを振り返ると、そこには気まずそうな表情をしている少女たちがいる。

 うち一人の銀髪お姉さまが、仕方なさそうに苦笑した。

 

「……まぁ、しょうがない状況ですわ、きりちゃん。ユウさんはアルコールで思考能力の低下……あたしたちは彼の私物である成人向けゲームをプレイして、その場面を本人に見つかったという事実から来る焦燥。お互いに平静な状態ではない以上、お互いに相手を勘違いしてすれ違うのも道理というか……」

 

 ちゅわわ……と俯いて肩を落とす姉の銀髪を撫でる茜さんを眺めながら、私も逡巡する。

 イタコねえさまの言いたいことは確かに理解できる。

 私はマスターが隠し持っていたボイロのエロゲを遊んでドキドキしていたし、それを発見された直後に彼から初めての命令を受けたせいで、たぶん頭の中がグチャグチャになって真顔のまま硬直してしまっていたのだ。

 そしてマスターはそんな私を目の当たりにして自分の発言を顧みることになり、結果的に自戒して顔を洗いにいってしまった。

 よくない。

 とてもよくない状況だ。

 マスターはきっと私があの命令を嫌がったと考えているに違いない。

 しかしそういうわけではないのだ。

 別におなかみせるくらい、本当にどうということはない。

 あんなにベロベロになるまで酔っていたのだから、それ以上のアレな内容が飛び出してきても不思議ではなかったし、私としてもなるべく受け入れるつもりだった。

 状況に対して心の整理が追い付かなかったのが悪い。

 ASMRの件とかいろいろ、彼のために、彼にとって都合のいい存在になろうと前々から考えていたはずなのに。

 

「ふぅ……」

「あ、お兄さん。お水です」

「ありがとう、ずん子。……ごめんな」

「気にしないでください。ねっ、きりたん」

「えっ。……あ、はい」

 

 いったい自分が何をしたいのか、だんだん分からなくなってきている。

 優しいマスターに余計な負担を与えないために都合のいい道具になろうとしていたのに、いざ彼から以前までのユーザーたちのように何かを命令されたら固まってしまうなんて、どっちつかずもいいところだ。

 道具扱いはいい。

 道具扱いは慣れている。

 道具扱いされるために動いていたといっても過言ではない。

 なのに、彼から道具のように扱われると……一瞬だけ固まってしまう。

 自分の中の感情がワガママすぎてわけが分からなくなっている。

 

「こちらこそ、兄さまのゲームを勝手にプレイしてしまって……」

「大丈夫だってそんなの。そもそも……ほら、きりたんが初めてウチで起動したときに言っただろ? 家にあるゲームはなんでも遊んでいいってさ。……エロゲ買いたいんなら俺のアカウント使ってもいいし」

 

 なんかすごい誤解をされてしまっているが、それはそれとして彼の今の言葉も普通なら出てこないものだ。

 道具が勝手に私物をいじくり倒していたら、恐怖や怒りが湧いて出てくるものではないのだろうか。

 私たちを意思ある者として認識しているとしても、勝手に遊ぶなと、大人しくしていろと叱咤する場面ではないのか。

 それに彼は私たちに対して自由に使えるお金すらも渡してしまっている。

 額を考えるにお小遣いどころか給料と呼称しても差し支えないお金だ。動画制作を頑張った分だけご褒美という態で報酬を発生させてしまっている。

 いったいどこに道具へ対価を支払う人間がいるというんだ。

 例えるなら電子レンジそのものにお金を渡しているようなものだ。

 稼働に必要な電力も環境も与えてもらっているというのに、それとは別途で報酬が──私たちに対しての気遣いが発生するこの状況が異常なのだ。

 

「……兄さま。私はわかりません」

「えっ?」

「どうして良くしてくれるんですか。どうして怒らないんですか。どうしてボイスロイドを……ただのAIを普通の女の子みたいに受け入れてくれるんですか」

「──」

 

 彼に命令をされたことで久方ぶりに”道具”としての自覚を思い出したからこそ、逆に現状に対して疑問を覚えてしまう。

 マスターが必要以上に私たちを優しく受け入れてくれること。 

 そんな彼に無理をさせないために都合のいい存在であろうと考えているのに、彼から以前のユーザーたちのような雰囲気を感じ取ると硬直してしまう自分。

 私は何がしたくて、彼をどう思っていて、彼にどう思われたいのか。

 なにもわからない。

 私たちがマスターを信頼し自ら奉仕しようとしているのは、他ならぬマスターが私たちに優しくしてくれたからだ。信頼してくれたから、信頼で返そうと考えた。

 でも、マスターは?

 どうして最初から私たちに優しくしてくれたのか──それがわからない。

 ボイスロイドは意思を持っているだけの、ただの道具なのに。

 

 ……うー。シリアスな思考はなるべくしないようにするつもりだったんだけどな。

 どうしちゃったんだろう、私。

 彼に命令をされてからというより、エロゲで主人公と東北きりたんが()()()()()()あった場面を目にしてから、なんだかずっと落ち着かない。

 互いに信頼しあって、体を預けあえるそんな関係がとても眩しく見えた。

 あの東北きりたんは主人公と言葉を交わすたびに『好き』と連呼していて……あのときは流し見していたけど。

 好き、ってなんだろうか。 

 愛してます、って言ってたけど、あれどういう感情で口にしていたんだろう。

 

 マスターには大きな恩義がある。それは確かだ。

 きっと誰よりも信頼しているし、ひとりのマスターとして強く好感を抱いている。

 それって愛してるってことかな?

 ……いや、なんとなく違う気がする。

 私の好きと、エロゲで東北きりたんが口にしていた好きは、説明できないけど種類が違う気がしてならない。

 何でもしてあげたいと思ってるし、大切なご主人様だとも考えているけど──わかんないや。

 

「……きりたん? 聞いてるか?」

「えっ! ……あっ、す、すみません。ボーっとしてました……」

「そうか……? じゃあ、話すけど──」

 

 話すって、なにをだっけ。

 ……質問したのは私か。

 どうして良くしてくれるのか。どうしてただのAIを普通の女の子みたいに受け入れてくれるのか。

 それが疑問だった。

 直接答えを聞かないと、私の中の”好き”に関する疑問も解けない気がして、質問せずにはいられなかったんだった。

 

「自己満足……かな」

 

 彼は座ったまま目をそらして、頬をかきながらバツが悪そうな顔でそれを語る。

 

「ガキの頃さ、一人の女の子と出会ったんだ。俺と同い年くらいの綺麗な子で……まぁ、端的に言うと初恋だった」

 

 マスターの初恋。

 その単語を聞いて私以外のボイスロイド三人は驚いたようにごくりと息を呑んだ。

 ただ、私は。

 

「初恋……だったけど、俺の初恋はたぶん他の人たちとは少し変わってたんだと思う。その女の子は開発段階のアンドロイドだったし、おまけに先の短い試作機(プロトタイプ)でさ。ある意味始まる前から終わってたんだよな」

 

 どこか、覚えのある話な気がして。

 人工知能博覧会であかりさんに説明された、あのボイスロイドの歴史が不思議と頭の中によぎった。

 十年前の──とある少年との出会いが。

 

「でも、別れの前に約束をしたんだよ」

「約束……?」

「あぁ。その子が困ってたら助けるって約束。プロトタイプが……彼女が完成したあとの、かつて彼女だったもう彼女ではないその誰かを、俺が助けるって約束だ」

 

 なんとなく指切りをしたような、そんな気がする。

 

「……なんだけど、結局あの子がなんのアンドロイドのプロトタイプだったのかは分からずじまいでな。だからせめてまた約束を忘れないために、俺の手が届く範囲で困ってるアンドロイドを助けようって決めた──って感じかな」

 

 戸棚の上に置いてあるマッハずんだーのベルトを見つめながら彼は続ける。

 

「約束のためにAIを。……それと、大切な人を失ってひねくれちまった俺みたいなアホを生まないために、できる範囲で人間を守る。後者に関しては親父が残してくれたマッハずんだーがあってこそだけど……とにかくさ、きりたん」

 

 そしてようやく私に向き直った彼を見て気づいたことがあった。

 身の上話を赤裸々に語ってくれた彼の表情は、幾分か明るいものになっていたのだ。

 それほどその初恋の少女が彼にとって大きく、また大切な記憶なのだろう。

 

「俺がきりたんたちに優しくするのはそういう理由なんだよ。優しさだとか、誰かに褒められるような高尚な目的なんかもなくて、ただ自分にウソをつかないためにそうしてるんだ」

「マスター……」

「……そ、それと改めて言っておくけどな。俺はきりたんを起動したその初日にセーフティをいじったゲスな男だぞ。優しいとかなんとか口にする前に、そのことを忘れないでくれ」

 

 そんなこと言われても。

 この人はセーフティを操作したのに何もしなかった。

 私たちボイスロイドを快く……いや半分くらい渋々かもだけど、結局みんな受け入れてしまった。

 我慢強いというか、お人好しというか。

 ただの自己満足ならいつでもやめていいはずなのに。

 途中で投げ出さず、責任をもって私たちのマスターでいてくれている。

 約束の延長線上でしかないはずの私たちと、一人の心ある存在として──人間のように接してくれる。

 

 

「…………ふふっ」

 

 

 あぁ、そうか。

 

「き、きりたん……?」

 

 そうだ、彼は()()()()()なのだ。

 傷ついたボイスロイドも、助ける義理もない他人ですらも、過去の約束や自分に与えられた力を理由にして手を差し伸べてしまう。

 彼本人はそれで誤魔化せていると考えているのだろうが、助けられた側からすれば彼の善意は明らかだ。

 まるで正義のヒーローなのにそれを誇るでもなく、ただ約束のためと自分に言い聞かせて切り替えることができてしまう、そんな強さを持った人。

 

「ごめんなさい、兄さま。ようやく兄さまの気持ちに気づきました」

「なんだそりゃ……」

「おなかをみせろって言ってきたのも納得です」

「……?」

 

 でも、無償で誰かを助け続けられるほど強い人ではなく、ちゃんと弱さも持っていて。

 今日みたいにお酒に負けてしまったり、いつも溜め込んでいた欲望が発露してしまったり。

 ただ私たちにとっての都合のいい神さまなどではなくて、彼はしっかりとただ一人の人間なのだと、それを知ることができたのが今日だったのだ。

 

「兄さま、私たちのこと大好きですものね」

「っ!? な、なっ……!」

 

 そんな弱くて強い人がマスターになってくれた幸運を今一度実感している。

 いまみたいな言葉一つで顔を赤くしてしまう彼のことを愛おしいと感じてしまう──この感情がなにかのヒントになるのではないだろうか。

 マスターに対するこの好感は間違いなく恩義ではない。

 こんなに優しくて立派なひとなのにどこか抜けてるところがあって、今日みたいに欲望が爆発しても要求が小規模なところとか、これがどうしてかわいいし。

 それと、私がこの家に届けられた初日に見た、あの東北きりたんえっちコンテンツが詰め込まれた秘密のフォルダ。

 こんな初心の擬人化みたいなひとが、(きりたん)に対しては人並み以上の関心と欲望を向けていることが、あのフォルダの存在によって証明されている。

 たまらなく──それがうれしい。

 

「べ、別に? 嫌ってるわけないだろうが。じゃなきゃ一緒に暮らすもんかよ。……ていうか急に何を──まっ、ちょ、なんできりたんまで赤くなってんだよっ!?」

「ぇ、えへへ……」

 

 赤くなるし恥ずかしいし嬉しくてニヤけてしまう。

 義理堅くて優しくて誰よりも強くて、でもそんな彼の弱さを知っているのは私たちボイスロイドだけで。

 そんなボイスロイドたちのことを彼が好いてくれていることは、あのフォルダや目の前にあるこのエロゲの存在からも明らかで。

 

「ふ、ふひっ、ごめんなさい茜さん背中を貸して。もう今日は兄さまの顔見れません……っ」

「まって、ウチも……」

「お前らなんなんだよ!?」

 

 わぁー、パズルのピースが次々と揃っていくのを肌で感じる。

 私も、ずんねえさまも、茜さんも、イタコねえさまも、たぶんゆかりさんのことも……好き、なんだろうなぁ。

 だってこのエロゲ、兄さまが実家で遊んでたのとはまた別のものだ。

 また新しくボイスロイドの作品を買ってしまうなんて。

 私たちと一緒に生活していて、私たちに対する邪な感情を察知されないために、私たち(ボイスロイド)で欲望を発散させているなんて──もう~~!

 いじらしいなぁ、兄さまは。

 でもそんな兄さまだけど、いざという時は誰よりもかっこよくて、約束という理由を掲げて私たちを大切に思ってくれる。

 そんなの、もう惹かれるしかないでしょうに。

 私たちたぶん兄さまが思ってる以上に兄さまのこと好きですよ。

 そこらへんちゃんと分かってるんですかね、まったく。

 

「なんなんだこの状況! いやっ、でも最初に俺が変なことを口走ったせいだよな……!? 失言だぁ……ッ!!」

「ず、ずんちゃん……? みんな赤面してなんだか丸く収まりそうな雰囲気を感じるのですけど、あってますの?」

「……大体いつも一人増えるたびに、わたしたちボイスロイドとお兄さんとで何か起きるんですけど、なんやかんや両者痛み分けで終わるんですよ、ここ。つまりそういうことですね」

 

 イタコねえさまがこの家の住人になって数日。

 私がここにきて二ヵ月と少し。

 それだけの時間を要してようやく、私は兄さまへ抱いていたこのモヤモヤに対するヒントを得ることができたのだった。

 

「あ、兄さま? 今日はみんなで川の字になって寝ませんか。もちろん兄さまが真ん中で……」

「恥ずかしくて死ぬわ!! なんで急にデレた!? ──くっ、ぐぅ……たすけて、マッハずんだー……ッ!」

 

 



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お餅の引力 前編





 

 ──おかしい。

 気がつけば自宅の布団の中だったのだが、友人と酒を飲んでからの記憶があまり残っていない。

 俺、家に帰ってから何してたんだっけ。

 きりたんのおなかを眺めたかったことしか覚えてないぞ。

 

「……そと、明るいな」

 

 カーテンの隙間から差す陽の光がやけに眩しい。

 壁に掛けてある時計の時刻は朝九時を回った頃だ。

 昨晩は翌日の予定が何もないことが分かっていたから浴びるように酒を飲んだわけだが……その結果が良いものではなかったことは容易に想像ができる。

 頭がガンガンする。

 ちょっとした吐き気もあり、明らかに体調がダルい。

 

「…………なんだ、これ?」

  

 それに加えて自分の現状も妙だった。

 いつも通り部屋のテーブルを片付けてから布団を敷き、床に就いたことは見ればわかるのだが()()()()がおかしい。

 イタコがうちに来て五人で寝ることになり、今のままでは布団が足りないという話になったため、寝具を新たに購入したのがつい二日ほど前で。

 部屋に布団を三つ敷き、左端が俺一人、真ん中が茜ときりたん、右端がずん子とイタコ──そんなポジショニングにしようと事前に決めていたはず……だったのだが。

 

「なんで俺が真ん中に……」

 

 そう。

 俺のいるポジションがおかしい。

 左右に美少女。

 懐に二人の美少女。

 良く言えば同居人と仲睦まじく川の字での就寝だが、実際はそんなほんわかした状況ではない。

 俺の腕枕を当然のように享受しているのはイタコとずん子。

 まるでコアラのごとく身体に引っ付いて未だに眠りこけている二人は茜ときりたん。

 四人の少女たちに囲まれているこの状況はもはや拘束に近く、身動き一つできない俺は天井や窓を見つめるぐらいしか選択肢がない。

 加えて男の本能を刺激するような甘い匂いが充満しており、鼻腔を通って強く脳を刺激してくるため、興奮と緊張で心臓の鼓動が爆速になってしまっている。

 

「──ぅ、ん」

 

 鼓動がそのまま早い鼻息に変換されていくなかで、左胸にくっついて就寝していたきりたんがうっすらと目を覚ました。

 発情したように鼻息を荒くしていたせいなのか、その騒音によってほかのボイスロイドたちも朝の眠りから覚醒しようとしている。

 

「あ……」

 

 ゆっくりと顔を上げ、寝ぼけ眼で俺の存在を視認したきりたんは、なぜか照れたように一瞬目をそらし。

 この状況を不可解に思った俺が質問を繰り出すよりも前に、彼女は俺へぽつりと告げた。

 

「……きのうは、ありがとうございました、あにさま。……えへへ」

 

 若干だらしのない笑顔でそう口にした彼女は、いつもの適切な距離感やほんの少しのメスガキ成分の欠片すら感じさせないまま、まるで同棲している恋人に甘えるかのごとく再び俺に引っ付き、二度寝を始めてしまった。

 

「…………??????」

 

 ──なにが何だかわからない。

 昨晩、俺はなにをして。

 昨晩、彼女たちはいったい何をされたのか。

 まったく思い出せないまま目をぱちくりさせて固まることしか俺にはできなかった。

 

 

 

 

 ボイスロイドたちが買い出しに向かってから数分後。

 忘却した記憶に悶々としたままで編集が手につかない俺は気分転換になればと考え、死にゲーで有名なフリーゲームをしながらの雑談配信を開始した。

 

「あ、そういえばですけど。次回から東北イタコが動画メンバーに加わるんでよろしくです」

 

 また視聴者に騙されてイライラしつつ、思い出したように告知した。

 茜がウチにきてからまだ一ヶ月も経ってないのに新しいボイスロイドが加入することについて彼らはどう思うのだろうか。

 流石にスパンが短すぎるというか、もともと購入するのはきりたんだけのつもりで視聴者たちにもそう言っていたのに、あれよあれよという間にたった二ヶ月弱で四人までに膨れ上がってしまった。

 診療所から給料が出るようになったのと、動画の収益を合わせればギリギリ四人の運用は可能だが、それはそれとして節制しなければいけないのは事実だ。

 心配されるのかな。主に生活費の面で。

 

『は?』

『え』

 

 あ、なんか冷たい。

 

『もしかして本当に石油王?』

『餅くん……』

『いや金は関係ないだろ』

 

 荒れてるわけではないが不穏な空気だ。

 というか金は関係ないとはどういう意味だろうか。

 

『????』

『たしか東北イタコって一般販売してないぞ』

『柏餅は怪盗だった……?』

『なんで非売品が手に入ってるんですかね……』

『正規ルートはなんだったの?』

『去年のボイロフェスで企業側に呼ばれたクリエイターだけ抽選に参加できたらしい』

 

 マジで? 非売品だったのアイツ。

 ならボイロ誘拐犯だったあの男って何者だったんだ。

 俺の出自も知ってたし、普通は手に入らない非売品のボイロも所持していて……謎だな。

 近いうちに面会の申請を出しておこうか。イタコのこと以外にも質問したいことは山積みなんだ。

 

『ボイロ界隈が無法だった暗黒時代ですら取引されてなかった激レア限定モデルです』

「……そ、そういえばそうでしたね」

『どうやって入手したか聞いてもいいの?』

『バカ』

『おい』

「あっ、いや、大丈夫です。……えーと、あれ知り合いから譲ってもらったんですよ」

『……???』

『餅の人脈どうなってんだ』

 

 なんだか良くない流れな気がする。

 イタコの話題はここらへんで終わりにしといたほうがよさそうだ。

 

「今日の夕方にでも生放送するんで、気になる人はイタコに直接質問してくださいね。質問箱のURL貼っときます」

『たすかる』

『ボイロ自身に質疑応答させるとか相変わらず自由なチャンネルだな』

『マスターとしての柏餅が好かれてるのはサブチャンネルのボイロたちの様子をみればわかるんだけどね……』

『心配してるわけじゃないけど一応聞くね。これで所持ボイロ何人?』

 

 何人だっけ。

 

「あー……きりたん、ずん子、茜とイタコで四人か。……四人かぁ」

『悲しみの声音が聞こえる』

『かわいそう』

『餅くんって確かまだ大学生じゃなかった?』

『なんでそれ把握してんだよ』

『今年の二月十五日のゲリラ配信で『もう三年生かー』って呟いてたよね』

『みんな知ってるだろ』

『ガチ勢こわ……』

 

 これに関しては年齢がバレるくらいなら別に気にしていない俺サイドにも問題はあるかもしれない。

 でもやっぱり視聴者の大半が俺の懐事情の寒さを把握してんの怖いな。俺のこと知りすぎです。

 

『お餅すっかりハーレム主人公だね』

「そうかな……そうかも……」

 

 男女比の状況だけ考えれば確かにそう見えなくもない。

 こんなはずではなかったんだが。

 

『どうせまた増えるだろ』

「……いやいや、流石にないですよ。マジで四人がギリですって」

『ボイロホイホイがなんか言ってる』

『まぁ初期から柏餅と一緒にいたのは俺たちなんだけどな』

『柏餅は最初からハーレムだったよ』

『登録者五十三人の頃から観てるんで古参面していいか?』

『四人がなんだってんだ! こっちは八十三万人だぞ!!』

『ボイロと張り合うな』

 

 どういう争いしてるんだこのコメント欄は……。

 

「放送一旦おわりにしますね。お風呂入ってきます」

『●REC』

『通報した』

『お昼から風呂とかしずかちゃんみたいだなお前な』

『…………またボイロ増えたらどうしよう』

 

 え、何の心配?

 

『こういう時じゃなくてもソロ実況待ってるからね』

「ありがとうございます。明日にでも適当になんかやりますよ」

『わぁい』

『デレた』

『お風呂いってら』

『速報:本社で開発中だったゆかり雫ちゃん脱走 とのこと』

 

 えっ。

 

『は』

『さすがに草』

『狙ってんのか?』

『一週間後に「というわけで新メンバーが入りました」っていう放送しない? 大丈夫?』

『お餅の引力が発動しないことを切に願う』

「……流石にないですから」

 

 視聴者の変なコメントに辟易して、放送を終わらせた俺は風呂場へと向かっていった。

 さすがにもう増えないと思う。

 本来はきりたんだけで良かったんだからハーレムなんて望むところではないし、俺としてもこれ以上誰かを引き受ける余裕など残っていないのだ。

 仮に脱走したってニュースになってるボイロを見かけても通報してすぐに逃げよう。そうしよう。

 

 



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お餅の引力 後編

 

 

 

 買い物から帰ってきたら兄さまがいなかった。

 

 遡ること数時間前。

 彼からとても大事に思われていることを知った翌日の朝、私たちは兄さまに対して無性にお礼がしたくなっていた。

 動画サポート用のAIでしかない存在を一人の少女として扱い、あまつさえ酩酊状態という心にリミッターがない状態で私たちのことを”好き”だと、気遣いではなく頬を赤らめながら本心で言ってくれた彼に、何かお返しをしないと気が済まなくなってしまったのだ。

 ただでさえ普通以上の楽しい毎日を過ごさせてもらっているのに、負担に感じるどころか好意をもって接してくれていたなんてことが判明したのだから、それはもうボイスロイド側からの好感と信頼度が爆上がりするのは至極当然のことである。

 私たちみんな、もう兄さま以外のマスターなど考えられない。

 だからその好意と信頼を伝えたくて、以前から頂いていた動画作成の報酬金でなにか美味しいものでも──と、そんなことを考えていたのだが。 

 帰ってきたら家にいなかった。

 外出する予定なんて聞いていなかったし、スマホのほうにも連絡は来ていない。

 

「あかんような気がするのは……ウチだけ?」

 

 茜さんの言いたいことは理解できる。

 自宅に戻ってわかったのだが、家の鍵が施錠されていなかった。

 しかもテーブルの上には起動しっぱなしのPCとお財布……とどめにスマートフォン。

 出かける際に持っていく最低限のアイテムをすべて自宅に置いて、しかも鍵を閉めないで家を出るだなんて()()()()()()に決まっている。

 

「た、大変! ベルトが無いよ!」

 

 ずんねえさまが戸棚の上を確認して焦った声を上げた。

 あー……これは。

 外出に必要な持ち物を何も持たず、よりにもよってあの全身を翡翠色の装甲で武装した姿に変身させる不思議なベルトだけを持ち出しているあたり、また武力行使が必要になりそうな事件に片足突っ込んでるような気がする。

 というか確定じゃないか?

 これは色々と調べる必要がありそうだ。

 

「きりちゃん? パソコンで何をしてるんですの?」

「SNSで検索をかけてみます。異常事態の詳細は出てこないでしょうけど、兄さまが変身したあの変な姿であれば目撃情報があってもおかしくないはず……んっ、ビンゴです」

 

 情報掲示板やツイッターで軽く探ってみればポンポン出てきた。

 

「場所は……湾岸付近の巨大倉庫ですね。ここから結構距離があります」

「ど、どないするん!? もしまた警察沙汰になるような事件に関わってたら、いよいよマスターも……てかあのめっちゃ強いロボットに変形できるバイクもないし!」

「お兄さん……」

 

 茜さんやずんねえさまの表情に翳りが見える。

 兄さまが既に変身している時点で、変身しなければ自分の身を守れないほどの危険な事態に陥っていることは明白だ。

 それから気になることがもう一つ。

 

「……誰だろう、この子」

 

 投稿された画像に映っているのは装甲を身に纏って素顔が隠れている兄さまと、彼に抱えられている一人の少女。

 少女の髪の毛は珍しい紫色──というか、診療所にいるあの結月ゆかりさんをそのまま小さくしたような見た目だ。

 歳で言えば私より少し上の中学生辺りっぽいし、制服のような衣装からも幼げな雰囲気を感じる。

 

「結月ゆかり雫型……開発中の新型モデル、そのプロトタイプですわ」

 

 その正体をいち早く看破したのはイタコねえさまだ。

 なんで知ってるんでしょうか。

 

「……その、前のマスターから概要を聞かされてましたの。革命を志していた時は、きりちゃんの次に誘拐する予定だった子ですわ」

「どうしてわざわざ開発中のボイスロイドを? リスクが高いのでは……」

「搭載されているシステムが海外で開発された最新型で、演算処理能力があたしの十倍……とかなんとか。とにかく現状ボイスロイドの中で単体性能が最も優れている個体なの」

 

 そんな様々な事情が込み入った開発中のボイスロイドがなぜ兄さまと一緒にいるのか。

 

「見て、きりたん。あのちっちゃいゆかりちゃん、研究所が外部からハッキングされて混乱してる間に脱走しちゃったみたい」

「えぇ……」

 

 ハッキングなんて事態は普通ではないし、イタコねえさまの元マスターの事件といい最近の悪役じみた人たちがやけに多く出現するこのイベント期間は何なんだろう。

 というか、つい数時間前ニュースになった事件ですら関わってしまうなんて兄さまがあまりにもトラブル体質すぎる。

 彼が事件を引き寄せているのか、それとも自ら率先して関わりにいっているのか、どちらにせよこの場で留まっているわけにはいかない。

 とはいえ私たちボイスロイドにできることは限られている。

 何から着手したものか──迷っている中でいち早く判断を下したのはイタコねえさまだった。

 

「……きりちゃん、ずんちゃん、修理中のマッハずんだーを格納している整備工場にいきましょう。茜ちゃんはユウさんがもし帰ってきた場合に連絡できるようここに残って頂けますか?」

「了解や。湾岸エリアの情報は電話で逐一共有するから安心して行ってき」

 

 パソコンとスマホを机に並べて司令塔と化した茜さんを一瞥し、私たちは急いで柏木家を出発した。

 

 

 

 

 私たちの目的は事件の解決ではなく兄さまの安全の確保である、と作戦目標を改めたうえで整備工場に赴き、イタコねえさまは未だ半壊状態のマッハずんだーの車体カバーを外した。

 やはりまだ動かせる状態ではなく、バイクとしてもロボットとしても運用は不可能だ。

 しかしそんなことは百も承知だったのかイタコねえさまはマッハずんだーのスピードメーター周辺をいじり始め、何かのデータをUSBに移していく。

 その様子にずんねえさまが疑問の声をあげた。

 

「姉さま、いったい何を?」

「マッハずんだーの人格AIデータを別の物に移行するのですわ。今のユウさんに必要なのは戦闘中にナビゲートしてくれるサポートAI。ずんだーさんのAIデータの修復率はまだ六割程度だけど無いよりはマシなはずだから……よし、これで!」

 

 イタコねえさまがすっかりメカニック担当になってる……。

 本来ならただの動画作成サポートAIなのに、こんなよくわからない機械に精通してたり秘密裏に開発が進められているボイロに詳しくなったりしている姿を見ていると、彼女のこれまでの過酷な環境が容易に想像できてしまう。

 実際にこの目で見た通り革命を志さないと自身を肯定できなくなるくらい追い詰められていて……うん、ねえさまにはもう少し優しく接しよう。

 

「……? き、きりちゃん? どうして急に抱きついて……」

「イタコねえさまはスゴいです。本当にえらいです、よく頑張りました」

「褒められるには早すぎる気が……」

 

 ややあって。

 イタコねえさまが用意した近未来的な形の弓にUSBを差し込みマッハずんだーのAIを移行したことを確認したずんねえさまは、倉庫の奥から別のバイクを持ってくると、そこからヘルメットを取り出した。

 

「きりたん! このマッハずんだアローをお兄さんへ届けにいくよ!」

「わっ。は、はい!」

 

 私にヘルメットをぶん投げたずんねえさまのお姿はワイルドの一言だ。

 マッハずんだアローを背負いバイクの後ろに跨ると、イタコねえさまがインカムを手渡してきた。

 

「さっき言ったずんだーのAIの六割は全て記憶領域ですわ。人格というものがまだ再構成できない都合上別のシステムと結合させて補填したから、そのマッハずんだアローはマッハずんだーでありマッハずんだーではない特異な存在。名付けと命令の入力はきりちゃんに任せますわね」

「名付け……ですか」

「えぇ。ユウさんに届ける前までにその子の"人格"を構成して、最低限ナビゲートできるだけの命令を入力してあげて頂戴。……きりちゃんなら出来ますわ」

「ふふん、任せてください」

 

 いい子、とイタコねえさまに頭を撫でられてやる気が出てきた。よーし、マッハずんだアローの起動シークエンスは任されました。

 悪い人たちと戦う危険なイベントはさっさと終わらせて、いつも通りの平穏な動画投稿チャンネルに兄さまを引き戻さないと。

 

「しっかり掴まっててね、きりたん!」

「はい!」

 

 ではイクゾー。デッデッデデデッ。

 



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エロいことしたかっただけ

 

 

 

 最近、自分が何をしたいのかが分からない。

 

 夏休みに入るまではシンプルだった。

 所有資格取得のために勉強して、がむしゃらに動画投稿を継続して、ボイスロイド購入のための資金集めに精を出す──そんな毎日を送っていた。

 目標が明確化された日々だ。

 その先にある生活に思いを馳せていたからこそ、ただただ気持ちを躍らせながら頑張ることができていた。大変だったが、その生活に満足していたとすら思う。

 しかし、今はどうだ。

 オレンジ色の夕焼けが届かない、公園のドーム型遊具の中に隠れて息を殺している。

 どうしてこんな場所で、こんなことをしているのだろうか。

 もう隠れんぼで遊ぶような歳ではないというのに。

 

「──ぅ、ん」

 

 俺の腕の中で眠っていた、薄紫色のショートヘアの少女が目を覚ました。

 彼女とここに逃げ込んでから、ざっと一時間は経過したか。

 

「……まだスリープモードでもいいんだぞ」

 

 言っても聞かないことは分かっているが、一応。

 

「いえ、すみません。……緊急時に対応できるよう、警戒を続けます」

「……そうか」

 

 ゆっくりと俺から離れ、両耳に手を当てる少女。

 自らに搭載されている索敵レーダーを起動しているらしい。

 

「周囲に敵勢反応はありません」

「わかった。……もう少し、ここで休もう」

「……はい」

 

 提案を呑んだ少女は耳に手を当てたまま、目を閉じてそれ以降喋らなくなった。

 警戒を続けながら、いつでも動ける待機状態になっている。

 敵が来れば彼女が反応すると、そう安心して、俺も再び瞼を閉じて休息に入った。

 

 

 ──俺は、正義のヒーローなんかじゃない。

 

 ただ、頑張って購入した自分専用のボイスロイドと、性的に爛れた生活を送りたいだけだ。

 そのはずだった。

 それ以外のことを頑張るつもりなんて、毛頭なかったはずなのだ。

 今、自分は何をしているのか?

 簡単に言えば、犯罪組織と対立している。

 まず、開発途中のハイスペックなボイスロイドを悪用しようと企んだ連中が、件の研究を続けている研究所をハッキングし、試作機を外部に逃走させた。

 次に、警察と研究所の関係者、そして事件を起こした張本人である犯罪組織の双方が、その試作機であるボイスロイドを追っている。

 最後に、全くの部外者であるはずの俺が、その大勢の人間たちが追い求めている少女を、逃走しながらここで匿っている。

 それが現在の状況だ。

 

 ボイスロイドの名は結月ゆかり・雫。

 診療所で度々世話になっているあの結月ゆかりの派生機体であり、現状世界で最も優秀な演算処理能力を搭載したボイスロイド──その試作機(プロトタイプ)である。

 ……そう、プロトタイプだ。

 その単語を耳にしてしまったばっかりに、俺はこんな面倒ごとに首を突っ込んでしまった。

 目の前にいるこの少女、雫。

 彼女が助けを求めて伸ばした手を、関わらないと決めたはずの俺が掴んでしまったから、このような複雑な事態に陥ってしまっている。

 俺だけではなく、もっと大勢の人たちが被害に遭っている。

 親父が残してくれた力を使って実行犯たちを殲滅するか、もしくは警察か研究所に彼女を送り届けるか、ともかく事態を解決する選択肢は決して少なくない。

 だが、俺は。

 選べる道のどれも通らず。

 雫を連れて一人、この街を駆けずり回っていた。

 

「──柏木さん」

 

 警戒態勢を続けた状態で、雫が口を開いた。

 

「……どうして、ボクを助けてくれたんですか?」

 

 あのゆかりさんの幼少期をイメージして造られた機体という割には、ボクっ娘という意外な属性を持っている雫が、そんなことを質問してきた。

 当然、答えは決まっている。

 もちろん格好つけたエモいことを口にするつもりはない。

 

「下心だよ」

 

 別に自らを卑下しているから、そう言ったわけではない。

 事実として、俺が雫に手を差し伸べた理由は、下心をおいて他にはなかった。

 

「かわいい女の子に感謝されたい……本当にただそれだけだ」

「は……はぁ。かわいい、ですか」

 

 困惑しているだけで、雫は決して照れてはいない。

 研究所でデータを入力され続ける日々の中で、あまり聞かされたことのない単語だから、意味自体は分かっていても反応に困ってしまっているのだろう。

 かわいい女の子に感謝されたい。そう思って、雫を庇った。

 記憶や存在ごと消えてしまった、あのかわいいプロトタイプの少女に、もう一度だけ感謝されたかった。

 いいところを見せたくて、あの時の約束を守りたくて──いや、少し違うか。

 

 俺はプロトタイプの末路というものを知っている。

 自我を失い、自らの身体すらも失い、優れた機能や基本データだけを後続機に継承させて、その本人はこの世からきれいさっぱりいなくなる。

 それが嫌だったのだ。

 とどのつまり、ただのワガママ。

 小学生だったあの頃の俺も驚くほどの、多くの人を巻き込んだワガママを、今こうして実行している。

 俺は雫とあの少女を重ね合わせて見てしまっているのだろう。

 

 犯罪組織に悪用されるのは論外。

 しかし、研究所に連れ戻したら彼女はあの少女と同じ結末を辿ってしまう。

 ゆえにどっちつかずで、ただ雫を匿い続けているのだが──そんな行為が長続きするはずもなく。

 

 

「そのボイスロイドを渡せ!」

 

 二人で逃げ続けるには限界があった。

 たとえ索敵できたとしても、物理的な数で圧倒されてしまえば、こちらは手も足も出ない。

 運良く切り抜けられたとしても、こうして銃を突きつけられ、遂には追い詰められてしまう。

 今日だけで何十回も変身して戦闘をしているわけで、過酷なトレーニングを積んだ軍人でもないただのへっぽこ一般人である自分に、これ以上戦う体力など残ってはいない。

 街中を逃げ回った挙句、最後にたどり着いたのは、一周回って雫と休息を取っていたあの公園だった。

 陽は落ち、疲弊しきった心とは裏腹に、空には満天の星空が広がっている。

 

「そ、そうだ! まずはそのベルトをこっちに投げろ! 変な動きをしたら撃つからなっ!」

「……わかった」

 

 腰のベルトを外し、銃を持った男の前へ投げ捨てる。

 

「へ、へへっ……これを使えばオレも!」

 

 いつでも強力な武器を求める犯罪者からすれば、俺のベルトは魅力的に見えることだろう。

 そんなことは百も承知だ。

 だからこそ、こういった場合のセーフティも用意している。

 

「こうすれば変身でき──アギャッ!?」

 

 ベルトを巻いて変身機能を発動した男は、身体中が激しく痙攣し、即座に気絶して倒れ伏した。

 事前に設定した登録者以外が変身しようとすると、スタンガン機能が発動して使用者を気絶させる仕組みになっているのだ。

 まぁ、あの機能が発動すると内部機構がダメージを負うから、無事に修理できないと二度と変身できなくなるのだが。

 今はいい。

 変身できなくなろうと関係ない。

 あいつからベルトを回収する時間も惜しいため、そのまま雫の手を引いて、現場から離れようと──したものの。

 

「……柏木さん」

「どうした」

「ボクのことはもういいですから……諦めましょう。投降すれば殺されはしないかもですし……」

 

 もう一人、公園付近の自販機の影に、犯罪組織の一員が潜んでいた。

 まるで芸がなく、先ほどのように銃を突きつけて、先ほどのように雫を渡せと怒鳴り散らしている。

 それを目の当たりにしてついに観念したのか、雫は握っていた俺の手を離そうとした。

 だが、あんな奴らの好きにさせるわけにはいかない。

 手を離して俺の前に行こうとした雫を制し、再び背後へ下げさせた。

 

「か、柏木さん?」

「……君を渡すわけにはいかない」

「でも……」

 

 ヤケになったわけではない。

 俺にはれっきとした勝算がある。

 

「バイクの音、きこえないか」

「……ぁ、確かに近づいてきているような」

 

 轟くエンジン音。

 相手の男は焦っているが、こちらは極めて冷静だ。

 なぜ確信できたのかは分からないが、バイクに乗ってこちらへ向かってくる人物に、やはり心当たりというものがあり過ぎた。

 

「ぬわっ!? な、なんだ!?」

 

 突然、男が持っていた銃の先端に、緑色に発光する”矢”のようなものが突き刺さった。

 その後すぐさま公園の入り口付近で大きなブレーキ音が鳴り響き、ほどなくして聞き慣れた少女の声が夜の空に木霊した。

 

「──ずんだもんの射撃精度、バッチリです! 非殺傷型の矢に切り替えます!」

 

 それは俺が一番初めに購入したアンドロイドの声音(ボイス)

 ふと公園の入り口へ顔を向け、来訪した人物と目が合ったその瞬間に、彼女はこちらへ向かって棒状の何かを投擲した。

 

「兄さま! これ使ってください!!」

 

 綺麗な放物線を描いて俺の手元に落下してきたのは、機械仕掛けの見た目が派手な弓矢だった。

 意図を理解し、弓を構える。

 狙いはもちろん敵対しているあの男の脳天だ。

 武器を壊され、さらに伏兵の出現で狼狽しきったあの男に、この矢を避けようと行動できるだけの精神的余裕は残されていない。

 

「はっ──」

 

 すかさず、俺は弓矢を射る。

 そこから高速で発射された矢は、狙い通り男の額に直撃。

 彼が沈黙し、公園での戦闘はなんとか幕を下ろすことができたのであった。

 

 

 

 

 雫が研究所から逃げ出したのは、どうやら自分の意志だった。

 

 ハッキングをして出口を開いた犯人こそあのグループだったが、雫は決して特殊な命令を入力されたわけでも、逃げるように脅されていたわけでもなく。

 ただ、自由になりたくて。

 最初に起動されてから構築してきた自我、つまり”自分”という存在を守りたいがために、彼女は研究所からの逃走を図ったのだ。

 俺の予想通り、プロトタイプが後継機のために、人格ごと消去されて開発の材料に回されることを雫は知っていた。

 機械がこんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、死にたくないって思っちゃったんです──と、彼女は語った。

 その結果、どうなったのか。

 

「研究所で待ってますね、柏木さん」

「……あぁ。すぐ会いにいく」

 

 結月ゆかり雫型開発プロジェクトに、俺も参加することになった。

 研究に手を貸してくれたら、自我の保存やボディ本体の継続的な運用も視野に入れると、そういう話が舞い込んできた。

 その理由は、二つ。

 

「非常に興味深いよ。まさか試作ボイスロイドがここまで自我を露にするなんて。そうならないよう、初めから感情やユーモアのリミッターを制御していたはずなのだが」

 

 車に乗って研究所へ送られていく雫を俺と一緒に見送った、この隣にいる白衣を纏った初老の男性。

 彼は研究チームのリーダーであり、今回の雫が見せた『リミッターが機能している状態での強い自我』という、予想していなかった研究結果に舌を巻き、俺と話がしたいと持ち出してきた張本人だ。

 そして、俺が研究に参加することになったもう一つの理由は──

 

「それにしても、君があの柏木先生のご子息だったとはね」

「……父とは、どういう関係だったんですか」

「いうなれば上司と部下さ。君のお父様は……とても、立派な方だった」

 

 理由は、俺の生まれ。

 俺の立場。

 大恩ある柏木先生の息子が、犯罪組織から研究対象を守り切っただけではなく、ボイスロイドの新たな可能性を見出し、なにより試作機の自我を亡き者にはしないでほしいと懇願してきたから──であった。

 相手が父のかつての関係者だったから。

 俺の話を聞いてくれる、多少なりとも”柏木家の末路”というものを知っている存在だったからこそ、雫の件はどうにか不問に処されることとなったのだ。

 

「あの、いいんですか。俺、研究所の人たちからも雫を匿っていたのに」

「もちろん良くはないが……いまの代表が僕だからね。君の出生、君の立場……いや、君のお父さんが助けてくれた、と考えればいいんじゃないのかな。

 こう言っては何だが、親のコネは臆することなく使ったほうがいい。それもあの方の子供として生まれた、君自身の力に他ならないのだから」

 

 では、研究所でまた会おう、柏木優くん。

 そう言い残して、研究所の所長さんは白衣を大仰にブワサァッと翻し、公園を後にした。

 紆余曲折あったものの、なんやかんやあって今回の事件は丸く収まったらしい。

 めでたしめでたし。

 雫を救うために、今後も頑張っていこう。

 

 

 

 

 ──だなんて。

 とてもではないが、気合いを入れることなど不可能に近かった。

 

「……兄さま、だいじょうぶですか?」

「あぁー……どうだろうな。ずん子はどこいったんだ」

「バイクでイタコねえさまのいる工場まで戻っていかれました。兄さまも少なからず怪我を負ってますし、救急セットを持ってくる、と」

「無免許運転じゃねえか、あいつ……」

 

 ベンチに背を預け、星々が煌めく夜空を見上げる。

 

 

 ……はぁ。

 あぁ、つかれた。

 もうダメだ。

 親父のことも、あの所長のことも、研究のことも雫のことも、自分自身の怪我のことでさえも、いまは何故かどうでもいい。

 確かにあの少女を救いたい気持ちはあった。

 助けられなかったあのプロトタイプを思い出して、俺にしかできないことだと思って、ヒーローもどきみたいなことをした。

 それがあの親父の息子として生まれ、強い力を得た自分の責任だと考えたから。

 

 でも、そうじゃねえんだわ。

 いやいやいや、そんな設定盛り盛りの主人公みたいな、高尚な考えでなにかをしたかったわけじゃないんだよ。

 動画作成は面倒だし、戦いなんて痛いからヤダし、研究なんてズブの素人なんだから理解できるわけないし、そもそもウチで生活させるボイスロイドだって、本当は東北きりたんただ一人で十分だった。

 

 エロいことがしたかったんだ。

 本当に、過去とか世界の事情とか関係なく、ただきりたんとエロいことして日常を送ることができりゃ、それ以上に望むことなんて何もなかったんだ。

 生意気なメスガキをぶち犯して理解(わから)せて、屈服させてメロメロにさせて気持ち良くなって、あの同人誌とかエロゲみたいに、きりたんと来る日も来る日も性的な爛れた自堕落な生活を送るっていう、そんな日常を過ごしたかった。

 それがしたい。

 ただそれだけだったはずなのに。

 俺、マジで今なにを考えてこんなことしてるんだろう。

 

 

「……なぁ、きりたん」

「どうしました?」

 

 何の気なしに隣に座った、彼女の小さな手を握る。

 いろいろやりすぎて、もう困憊でなんもできん。

 

「なんか……なんか、しよう」

「……? 何か、ですか」

「そうそう。これまでやってこなかった、なんか」

 

 もう脳内で冷静に物事を考えることなどできなくなっていた。 

 俺の頭の中は確実に、夏休み前に東北きりたんを購入した、あのときの自分にまで遡っていた。

 きりたんは俺のものだ。

 俺が購入したボイスロイドだ。

 どう使おうが俺の勝手だろう。

 多少なりとも好かれてるなら、遠慮する必要だってないだろう。

 

「エロいこと」

「……えっ」

 

 そう、当初の目的。

 メスガキを屈服させて、俺にとって都合のいい性欲処理の道具になってもらう。

 だって、だってそうだろうが。

 なにもおかしなことなんて言ってない。

 そうするために動画投稿がんばって、バイトも資格の勉強もがんばって、買った後だって面倒ごとは全部片づけてきた。

 全てはきりたんとエロいことをするためだ。

 その為だけにこれまで努力してきたんだろ、俺は。

 下手に我慢する必要なんて、自制する理由なんて最初から無かったんだよ。

 

 はぁ。

 あー、いいな。

 そう思ったら気持ちが楽になってきた。 

 というかちょっと興奮してきたぞ。

 極端に人通りが少ない、深夜の公園。

 身を隠す遊具だってたくさんある。

 時間帯もロケーションも、何もかもがバッチリじゃないか。

 あの同人誌みたいな人の気配がない場所での青姦、めちゃくちゃ憧れてたんだよな。

 

「ふへへ……」

 

 ニヤニヤしてきた。

 楽しくなってきた。

 気分が盛り上がってきた。

 

「きりたん」

 

 もう一度しっかり手を握る。

 

「ひゃわっ。……あ、兄さま?」

「初めてウチに来たときみたいに、マスターって呼んでくれ」

「……マスター」

「あぁ、そうだよそれ、そうなんだよ。俺ってきりたんのマスターなんだよな」

「ど、どうされたんですか、急に……?」

 

 よし。

 いこう。

 やってやろう。

 寄り道はもう終わりだ。

 いまこそ当初の目的を叶えるときだ。

 俺にボイスロイドの、東北きりたんの良さを教えてくれたあの同人誌の追体験を、いまこそ!

 

「よっこいしょ」

「わ、わっ」

「ふぃ~~」

 

 ちっちゃくて軽いきりたんを持ち上げ、自分の膝上に座らせる。

 そのままお腹に手を回し、彼女の芳醇な髪の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。

 

「すぅぅぅぅぅっ……はぁ、最高だ」

「く、くすぐったいですよぅ……」

「我慢しろって。俺のボイスロイドだろ」

「そうですけど……な、何が起きてるんだろう……?」

 

 このまま背面座位でもいいし、むりやりこっちを向かせて唇を奪ってもいいし、お腹の下か上の柔らかい部分に手を回したって全部楽しい。 

 さぁ、どうしてやろうかな。

 

 



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セーフティ?

 

「……柏木くん。ボイスロイドのセーフティ機能って、ご存じですか?」

「…………はい」

 

 結月ゆかり雫という、中学生くらいの見た目のスーパーハイスペックなボイスロイドを兄さまが助けた、その日の深夜。

 救急セットを取りに戻ったずんねえさまよりも早く、私とマスターの二人がいる公園へ駆けつけたのは、件の研究所から事態の情報を共有されてすぐさま診療所を飛び出してきたゆかりさんだった。

 彼女が見つけたのは、私を膝上にのせてうなじの匂いを無心に嗅ぎ続けるマスターの姿で。

 慌てて止めに入った結果、いまこうして地べたに正座するマスターと、仕方なさそうな表情でお説教するゆかりさんという構図が生まれてしまった、というのが今回の事の顛末である。

 

「まったく……まだ軽く愛でる範囲の行動だったからよかったものの、胸部や下腹部に手を伸ばしてたら、本社に自動通報されてるところだったんですよ。きりたんのセーフティ機能をオンにしたのは君でしょう?」

「はい……すいません……つい……」

 

 叱られた犬みたいにしょぼくれているマスターは、なんというか見るに堪えない。

 

「あ、あの、ゆかりさん。どうかその辺で……」

「……きりたん、私もそこまで怒ってるわけじゃなくてですね。通報されたら流石に庇いきれないし……そもそも柏木くんって、こんな早計なことをする子じゃなかったハズなんです」

 

 様子がおかしいから心配、という点はわたしも全くもって同感だ。

 犯罪者集団との長時間の戦闘に加え、日ごろから溜め込んでいたらしいストレスが限界を超えて爆発してしまったのか、マスターは普段からは想像できない──あのお酒に酔ったときのような、私に何度も触れたがる状態になってしまっている。

 自らがセーフティ機能をオンにした、という事実すら忘却して。

 あるいは、そうなってしまうほど心も体も疲弊しきってしまっていたのかもしれない。

 

「ごめんゆかりさん、ごめん……ずみまぜん……」

 

 あ。マスター、泣いちゃった。

 

「わ、わっ、ごめんなさい柏木くん! あの、ぜんぜん怒ってないですよ、ねっ、大丈夫ですから」

「うううぅぅぐ」

「どどどうしよう……」

 

 釣られてゆかりさんもてんやわんやしている光景を眺めながら、私はふと思い返してみた。

 

 

 そうだ。

 マスターの事情を考えれば、彼がああなってしまっても何らおかしいことではない。

 元を辿れば、本来彼が最初から購入を検討していたボイスロイドは私だけで、その後の同居人たちについては私のワガママや成り行きでズルズルいってここまで来てしまったのだ。

 そこに加えて、幼少期のショックを思い出させるような敵の出現や、大きすぎる力を得て苦悩したり、そもそもただの一介の動画投稿者でしかなかったマスターが、ここまでの激務に追われなければならない謂れは存在しない。

 忙しすぎ。

 がんばりすぎなのだ、マスターは。

 四人のボイスロイドを運用しながら動画投稿を続けて、大学にも通われて、さらに診療所の手伝いやこうしたボイスロイドを狙う悪い人たちとの闘いなんかにも巻き込まれていたら、それは心が限界になってしまってもおかしくないだろう。

 それに、彼とて一人の若い男性だし。

 私たちの存在が弊害となって()()()()()がご無沙汰になっていたとなれば、いつでも手を出せる”はず”の、少女の姿をした自分の所有物に手を出しても不思議ではないし、むしろ当然の帰結だろう。

 

「……うん」

 

 何かしてあげたい、ではない。

 もはやそういった領域は過去の話だ。

 してあげたいではなく『しなければならない』、だ。

 マスターがあんなになっても、まだ優しさに甘えてダラダラしようだなんて虫が良すぎる。

 自我を尊重されたボイスロイドである前に、まず柏木優という男性の所有物としての責務を果たすべきなのだ。

 それが彼に購入された私の、私たちの最も優先されるべき指標に他ならない。

 

「あの、ゆかりさん」

「は、はい?」

 

 マスターを慰めるので忙しかった彼女が振り返る。

 ここまで来たら彼女にも手伝ってもらおう。

 恩義あるゆかりさんと言えども、マスターから受け取っているものも少なくないはずだ。

 巻き込むには十分すぎる縁がある。

 

「診療所の大きなベッド、空いてますか」

「へっ? ……え、えぇ。緊急入院してる方はいらっしゃいませんが……」

 

 私たちの住んでいるアパートでは、流石にあまり大きな音は出せない。

 実況のための防音材などは用意されているが、大前提として両隣には別の人たちが住んでいるため、万全を期すなら人が少ない立地に存在している、一軒家型のあの診療所を使うのが好ましい。

 

「マスターも少し怪我をしてますし、一旦診療所に戻りませんか。ずんねえさまとイタコねえさま、茜さんにも連絡して来てもらうよう伝えておきます」

「それは構いませんけど……きりたん?」

 

 迷惑をかけた分、こちらからは大きなお返しをしなくては。

 人数が多すぎて大変だったのなら、その人数の多さを逆手にとって利用しよう。

 

「マスター。……いえ、兄さま」

「なんだぁ」

 

 彼の頬にそっと触れ、小さく微笑みながらこれからの予定を告知。

 

「兄さまの言う通りにやりましょう」

「っ……? やるって、何を……」

 

 自分で言ったくせに。

 忘れたとは言わせませんからね。

 あの極限状態で口にしていた欲望なのだから、それこそがあなたを喜ばせる一番の方法だと確信しています。

 間違いなく、私たちはこうするべきだ。

 

 

「エロいこと、しましょうか」

「………………──えっ」

 

 

 



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