攻略が楽勝過ぎた精霊 (高町廻ル)
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良い事がありそうな平和なある日
「士道…?…どうした?…キスをするつもりだったんだろう?…しないのか?したいんじゃないの?」
相手の精霊のその一言に声をかけられた相手である士道はびくりと肩を震わせてしまう。
現在の彼は好感度を高めて十分な封印条件を満たしてキス直前まで行ったというのに、その行為の直前で相手の肩を持って強引に体を引き離してしまったのだ。
「ち、違うんだ…そうじゃなくて……」
何故という相手のそのセリフにまともな返答を返すことが出来ない士道。
彼の唯一にして絶対の力である「キスを介して精霊の力を封印する」という特別たらしめる力でありまた体質。その力を使ってこれまで多くの精霊と呼ばれる、空間震を発生させる世界を殺す災厄を封じ込めてきた。
だが今はその力を披露する事が出来ない。
「
そこで彼は意を決し相手に対して瞳を合わせて、その決定的な一言を口にしてしまう。
「お前を封印出来ない」
◎
五河士道の朝は平均的な高校生の基準では早い。
それもそのはずで一般的と呼ばれている家庭では親が朝食の用意をするものなのだが、今現在の五河家の両親は不在なため彼が自分と妹の朝食を用意する事になっている。
彼自身家事を行う事はそこまで苦には感じていない、むしろ食べて喜んでもらえてありがとうと言った感じだ。
「おはよー…おにーちゃん」
「おはよう琴里。もうすぐ朝食が出来るから待っててくれ」
「あーい……」
相手の眠気の残る返事だったが特段咎めるということは無い。
彼の妹になる五河琴里はラタトスクと呼ばれる精霊を封印と保護を行う組織の長を務めている。精神的にも器量的にも未熟な部分は多分にあるがそれでも精一杯務め上げて見せている。
彼女は内でも外でも多分にストレスやプレッシャーを感じているはずで、そのせいで睡眠だけではとれない疲れを感じているはずだ。少しくらいあくびをかましても許されるだろう。
「いただきます」
「いただきまーす」
ごく一般的な朝食一式を前に二人はごく普通な食事開始の挨拶をする。
琴里は出された焼き魚をパクリ、そして。
「おいしー」
「そうか、よかった」
彼女はシンプルな賞賛の単語を発する。
それを焼いた本人もその素直な感想が嬉しい、その声色と表情にはお世辞や感謝だけでなく本心も含まれている。
二人が朝食を食べ終わりそして後片付けを終えると、ふとした登校までの隙間時間が生まれてブレイクタイムに入る。
テレビの映っているニュースはここ最近まで都内ではトラブル続きだったというのに、今は呑気にも地方の美味しいもんを紹介している。
これらは裏でラタトスクが手を回しているからであり、メディアが呑気というわけでは決してない。
「何というか…平和だな」
「ん~まぁそれが一番だねー」
これから何か大きなことをが起きる前兆かのような、ただただ穏やかな朝が二人を迎え入れていた。
◎
寒さが身に染みるそんな日。
近年は地球温暖化が叫ばれて温暖な気候にシフトしつつある。とはいえ人は環境や気候に抗う事は困難だ。
冬でもキッチリと防寒をすればそこそこの温かさを確保できるとはいえ、寒いものは寒い。
冬と言えば寒いし、寒いと言えば冬だ。
少し寒さに身を震わせながらも二人の男女が会話をする。
「やっぱ寒いな」
「うむ、やはりマフラーは手放せないぞ」
五河士道と夜刀神十香の二人は登校の道中でそんな呑気な、それこそ何の気負いを感じないお気楽な会話を繰り広げていた。
空を見れば澄んだ青空が広がっていた。それはきっといい事がありそうな序章を感じさせるそれだった。
初めて二人が出会った時はここまで親密な関係背を築くに至るとは思ってもいなかった。
士道が十香との出会いは既に九ヶ月近く前になる。去年の四月の街中で空間震のど真ん中で悲しそうな瞳をしながら鎮座しているのを見たのが出会いだった。
その時は精霊とか、助けられる力があるとか何も知らなかったのだがそれでも彼は力になりたいと考えて、真っ直ぐに精霊の世界へと飛び込んでいったのだ。
何よりも封印した後も彼女は士道が何度も折れそうになったり、理不尽な力に屈しそうになっても必死に支え、そして力を貸してくれたのだ。
士道はそんな彼女の事を一番に信頼しているし、何よりも特別に、そして大切に感じているのだ。
彼がそんな事を考えていると十香が相手の視線に気が付いて見つめ返して声をかける。
「……?どうしたのだ?何か私の顔についているのか?」
「えっ、あ、いやぼーっとしてただけみたいだ」
彼は無意識に相手を見つめていた事に気が付いて恥ずかしさを振り払いながら口を開く。
十香は少しだけ不安そうな表情を作りながら話す。
「そうなのか?うむ…だが気分が悪くなったら言うのだぞ、前のようなことがあってからでは遅いからな」
「ああ、分かってるって」
十香の心配に士道は苦笑いしながらも答える。
だがそれも無理のない話だった。一ヶ月ほど前の話だが、精霊の力を封印し続けた結果、彼の体内に過剰な霊力が溜まってしまい暴走または暴発寸前まで至ったのだ。
あわや彼の体内に残る霊力が爆発するのかと思われた時に、ファントムというコードネームが付けられた謎の存在が士道を助けたことで取りあえず表面上は問題を解決することが出来た。
厳密には多くの謎を残し、不安要素を先送りにして、そして後味の悪さだけを残す形で。
「むぅ…約束だぞ……」
士道が心配させまいと明るく振舞っているのをさっして不満げな雰囲気を滲ませる。前もそうやって無理をした結果手遅れになりかけたのだ。
十香の機嫌メーターがやや不機嫌に振っているのを感じて慌てて言葉を繋いでいく。
「わ、分かってるって!いや本当にここ最近は何にもないんだって、本当に平和すぎるくらいで」
士道のその言葉を事実だった。
彼の体調ももちろんだが、星宮六喰を封印して以降というもの新たな精霊は出てきていないし、DEMもあれだけ動いたというのにここ最近は動く素振りの影も見せないのだ。
精霊の皆に気を揉んだり、それに関わるトラブルに巻き込まれる事こそあるが、それは既に彼にとっての日常となってしまっているため相対的に平穏なのだ。
「うむっ」
彼女は相手が嘘をついていないのをその口調と表情から感じ取って、安心したと力強く頷いた。
二人は再び特段深い内容ではない会話を続けた。それは一時間もすれば忘れてしまうような他愛のない会話だったなのかもしれない。
でもそんな日常を過ごして欲しいと士道は思っている。相手の為にも、そしていまだに自分に素直になりきれていない自分の為にも。
◎
「おはよう士道」
「おはよう折紙」
「それに十香」
「うむ、おはようだ」
教室に入ってきた二人を出迎えたのは鳶一折紙だった。
彼女はかつてASTと呼ばれる対精霊組織のエースとして活躍しており、今はその職務から退いている。
それに至るまでに複雑な経緯こそあるが今の彼女は元魔術師であり、現精霊なのだ。
「…………」
折紙は二人が一緒に入ってきたのを羨ましそうな、そして軽くであるが嫉妬といった雰囲気を見せる。
彼女は士道に対してぞっこんなのだ。
その事をかつては自分の寂しさを紛らわすための依存だったと言っていたが、これからは本気で士道に対しても、そして精霊とこの世界にはびこる理不尽に対しても目を逸らさないと誓っている。
だからこそ目先の事で頭に血を昇らせるような短絡的な真似はもうしない。自分の至らなさで大切な家族や人を失うのはもう十分だった。
士道と狂三が行った過去改変は決して許される事ではない、だがそれをさせたのは折紙が憎しみに囚われた結果だ。そして彼女が背負わなくてはいけなかった罪は無かったことになった、心を締め付ける後悔はあってももう雪ぐことは出来ない。
そうであるならその後悔を忘れずに、かつての自分が建前でしかなかった自分と同じような目に会う人を救いたいという言葉をこれからは本当の事にしていくだけだ。
とはいえ―
「…………」
「…………」
十香と折紙の交わる視線は少しだけピリピリとした緊迫感があった。
もう憎しみあう関係性ではないとはいえ、二人は士道を巡る恋のライバルだ。問題が解消されたからとはいえ今すぐハイ仲良くしますとは行かない。
ただ険悪さは無く、今の二人の関係性は喧嘩するほど仲が良いといった具合だ。士道の精神が削られること以外は特に問題ない。
◎
午前の授業はつつがなく消化して、午後の授業とのつなぎである昼食休憩の時間になった。
皆がそれぞれに昼食の用意をしている中で他クラスからの刺客が士道の教室へと現れた。
『たのもーっ!!』
「な、なんだ?」
あまりに元気なその声に士道は若干だが驚いた声をあげてしまう。だが教室に響いた二人の声は彼にとっては聞き覚えのあるものだった。
「呵々、士道よ!この貴重な昼餉の刻、我に謁見できることをありがたく思うがいい!」
大声を張り上げているのは八舞耶倶矢、士道が封印した精霊の一人だ。時折痛々しい言動を繰り返すが周りからはそんな一面を愛嬌として受け入れられている。
「釈明。耶倶矢は士道とお話がしたくて仕方ないのですがどうしても素直になれずに痛い言動を口にしてしまうだけなのです」
「ちょっとー!?夕弦ぅ!!」
そんな彼女をいじっているのは胴体の一部を除いてうり二つの相貌を備えた少女である八舞夕弦だった。
かつてどちらかは消滅してしまい一つの存在となってしまう定めを持って生まれた姉妹だったのだが、士道の封印能力によって二人はそのままで生活する事が可能となって来禅高校に入学し、こうやって士道の傍にいるのだ。
「えーっとどうした?もしかして昼食を忘れたとか…じゃないよな」
士道は二人がやってきたあり得そうな理由を口にしたが、それを話しながらも二人の手には弁当箱と思われる小包が握られているのを見て違うなと思う。
夕弦は声をかけられて仲睦まじい姉妹のじゃれ合いを止めて問いかけへ回答をする。
「回答。耶倶矢と夕弦は美味しい自信作のお弁当を作ったのですがどっちの方が美味しいのかと議論になりました。ですが裁定者が当事者では公平な判定は不可能」
「だから料理の上手いあんたに味見して欲しいってワケよ」
「うーん……」
耶倶矢もそれに乗っかって理由を話し始めるが、それを聞いた相手はどうにも煮え切らないといった感じ。
かつての二人は勝利を譲り合う形で何度も対決していた。彼はその事を思い出して霊力が暴走したらどうしようかと思ってしまっていた。
瞬時にその事を八舞姉妹も感じ取った。
「あーいや違うのよ。別に本気で白黒つけたいって話じゃなくてね」
「補足。別に喧嘩というわけでは無く、お互いに自信作が出来たから食べて欲しかっただけです」
「そ、そうなのか?」
もともと二人の作戦は「胃袋で掴め姉妹丼(意味深)作戦」なのだ。
二人の魅力的な弁当によってしっかり異性としてアピールしようぜという考えだったのだ。
ただ相手を不安または不快にさせてまでやる事では無かったため、すぐさま作戦を中断する事にした。
「…………自信作」
そんななかちょっと意地汚いのは十香だった。どうやら美味いもんがあると聞いて反射的に食いついてしまった。
士道や八舞姉妹は苦笑いを、折紙もちょっと呆れたといった雰囲気を醸し出していた。
耶倶矢が一番に話を切り出した。弁当箱を髄っと掲げて言う。
「ふふ、わが眷属よ。己の主の施しに歓喜するがよい!」
「いいのかっ!」
相手からの提案に目をキラキラさせる十香。
しかし士道は大丈夫なのかと不安になったため、彼女とは別の意味で問いかける。
「いいのか?」
「回答。元々彼女の分も用意だけはしていました」
学校内では士道の傍には十香がいつもいるため、彼女が食べたそうにしていた場合にも困らないように彼女の分も予め備えだけはしていたのだ。
結局そこに折紙を加えた五人の昼食会が始まった。
◎
学校が終わり放課後を迎えて、士道と十香は夕食の買い出しの為に街をぶらついていた。
高校生カップルがエコバッグを持って買い物をするという光景は本来であればとても目に付く風景なのだが、半年以上も同じ事を繰り返していればいつもの仲良し男女がまた来たといった感じに受け入れられている。
「シドー、今日の夕飯は何なのだー?」
「そうだな、今日はスーパーのお肉が安かったと思うからすき焼きとか?」
「おお~スキヤキ!肉だーっ」
「ついでにフライパンも買っておこうかな…今日の朝、魚が焼きにくかったし……」
大なり小なり精霊というのは食べ物を口にするという行為にこだわりというものを持っている。胃袋から好感度を稼ぐというのは士道の持っている技量とマッチした精霊攻略方法だ。
ただちょっと十香は食べ物に関して意地汚い面が強いと言わざるを得ないが。
そんな会話を繰り広げていると突然。
―ウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥ……
『…ッ!』
二人は会話を中断してハッとする。
街中に響き渡るけたたましい警戒音。それはこの世界に生きる人達であれば何度も聞いた音であり、幼い頃から教え込まれて来たそれ。
商店街の人達はすぐさま避難の為に歩き出したり、店の戸締りを慌てて行っている。
「空間震警報……」
十香はまだ一年未満でしかない人間としての生活だが、それでもこれから何が起こるのかしっかりと理解はできている。
空間震と呼ばれるこの世界では知らない人など存在しない理不尽な自然災害。辺り一帯をくり抜くようにして発生する、人がその場で紡いだ歴史を一瞬にして消滅させる神の御業のような現象。
「ん…」
そこで士道のスマホの通話が来た事を教えてくれるアラームが鳴る。
スマホの画面を見ると琴里の名前が表示されている。
「もしもし琴里か?」
『ええ、士道すぐに来て頂戴。フラクシナスで拾う座標はメールで送るわ』
「分かった」
どうやら琴里は既に司令官モードでフラクシナスの内部にいるようだった。
短い通話を切って士道は十香に向き直る。
「十香、今からシェルターに移動してくれ」
「……シドー…は行くのか?」
「ああ行く、それが俺のやりたい事だからな」
十香としては行って欲しくないのだが、同時に精霊として生まれたが故の咎に苦しむ自分と同質の相手を救って欲しいとも思っている。何よりも士道をそのつもりでいる。
だからこそ彼女は止めることが出来ない。なら出来る事は一つしかないだろう。
「ただ約束して欲しいのだ」
「約束?」
相手のその言葉にしっかりと耳を傾ける。一言一句聞き逃すことの無いようにと。
「自分の事を一番に大切にして欲しい、精霊と関われは傷を貰うのは分かってはいるのだが…それでも傷ついて欲しくない…送り出す事への矛盾は分かっている…でもどうか……」
十香の脳裏に浮かぶのは折紙に撃たれた姿、エレンの凶刃に貫かれる姿、六喰の呼び出した屑鉄に貫かれそうになる姿。
琴里の霊力が無ければ既に死んでいたであろう。いくら常人以上の回復能力があったとしても何度も賽を振ればいつかは外れを引くはずだ。
士道は朗らかでありながらも力強い笑みを浮かべて言った。
「ああ分かってるよ。自分も無事に帰ってこそだよな」
「うむっ!困ったらすぐに相談するのだぞ」
十香も自分の思いが伝わって嬉しくなる。
士道はそう言って持っていた荷物を相手に預けて街の中心へと走って行った。
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白衣の精霊
「琴里!」
「士道落ち着きなさい、興奮した猿じゃないんだからすぐさま人間に進化しなおしなさい。出ないとお仕置きよ」
フラクシナスのテレポート機能によって拾われた士道は興奮気味にブリッジに飛び込んだ。だがその所作にエレガントさなど無いので、琴里にすぐさま咎められてしまう。
だがそこで四つん這いになる男性が一人。
「うっきーっ!司令!よろしくお願いします!!」
「気持ちわるっ」
尻を掲げて求愛のポーズ…もとい折檻を求める神無月がいた。
いつもの光景と言えばそうだがいまだに慣れる事は無さそうなそのやり取りに冷や汗を流しながらも、士道は落ち着いて会話を繋ごうとする。
「えっと…それで精霊は…?」
「ええ、もちろん捕捉しているわ。メインモニターに映してちょうだい」
そんな会話の背後では神無月が何やら悶えていたが誰もが見なかったことにしていた。
司令官のその一言で夜空を映していたブリッジから空間震の発生地点に視点が切り替わる。
そこにはそれまで人が積み重ねてきた歴史が跡形もなく消し飛ばされており、その地点の真ん中には一人の少女が呆然と立ち尽くしていた。
勿論生存者や一般人ではない、避難せずに空間震のど真ん中に居座る人間など限られている。
そもそもモニターに映る相手の装いは対精霊用のスーツでもない。ラタトクスが何度も見て来た精霊を守護するための絶対の要塞である霊装と呼ばれるものだった。
目の前に映る相手は金緑色の髪に、光に反射して鮮やかな玉虫色のワンピースに、上から羽織るように薄っすらと輝く白衣をまとっていた。
「彼女が……」
「ええそうよ。今回彼女が士道がデレさせる相手ね」
「デレさせる…ね…」
好感度を上げてキスをするというのは理解こそ出来ているのだが、いまだに口にするとなると少しどもってしまうのはチェリーだからだろうか?
「まだ照れているのかしら?慣れなさいよ、チェリーからプレイボーイに進化しなさいよいい加減」
「うっ、慣れないもんは慣れないんだ」
「マイリトルシドーシリーズ続編を作らなければいけないようね……」
「だから嫌なんだっ!……?」
寒気を超えて絶対零度な提案を受けて反射的に叫んでしまう士道。
だがそこでふと視界に入ったのは、先ほどまでお尻叩きを望んでいた神無月が四つん這いを止めてモニターを食い入るように見ていた事だ。
正直な話、彼がデートや女性心理において役に立つことは無いため、部屋の隅っこで何をしてようが知った事かといった感じなのだ。
そもそも神無月は精霊に関しては救いたいとそこまで思い入れがあるわけでは無い。
彼の所属は今でこそ精霊保護組織だが、前の所属はASTという精霊殲滅組織に身を置いてたくらいだからだ。
士道が知る限りここまで精霊に食いついたのは初めてだった。
その横顔に見えるのは緊張以外にも怒り、悲しみ、悔恨と複雑な何か。
士道に限らずフラクシナスのクルー全員が今までになかった反応にどうリアクションをしたらいいのか分からなくなってしまう。
「神無月?どうしたのかしら?」
今までにない行動パターンを見て琴里もさすがに無視できないようで心配そうに声をかける。
だが声をかけられた相手はいつものテンションに戻って返事をする。
「え?お仕置きですか?」
「言ってないわよ!?その耳は飾りかっ」
「ぎゃわんっ!」
琴里の怒りをにじませたローキックが相手の脛に直撃する。だけどそれを食らった相手はうずくまりながらもどこか嬉しそうで…
「彼女は『ドクター』だね」
「令音さんは彼女の事を知ってるんですか?」
変態のやり取りを無視して口を開いたのは村雨令音だった。
白衣に巨乳にいつも何度も手直ししたと思われるボロボロのクマの人形を携えた女性だ。いわゆる精霊の専門家と言える人物でこの組織の心臓を担っている。
そんな彼女はまるで悲しむ様な、憂うような、そして僅かながらの憐憫と同情が入った表情で今回のターゲットになる精霊について話し始める。
「ああ、もちろん知っている。彼女は人間に対して過激な行動を取る攻撃的な精霊なんだ」
「それって……」
そう言われて士道の脳裏に浮かぶのは狂三だったり、六喰のような人を殺める事に対して躊躇いすら持たない絶望的な存在だった。
もちろん彼女たちにも明確な目的やポリシーは持っていた。それでも自分の目的や理想の為であれば殺人や人権を踏みにじるハードルを越えてしまう覚悟を持っていた。
だが今映像に映っている相手はどうなのか分からない。狂三のように何かしらの大義を背負っているのかもしれないし、六喰のように天使の力が関係しているのかもしれない。
考え込んでいる士道を見て琴里は茶化し気味に声をかける。
「何?怖くなっちゃった?」
「まさか、取りあえず相手と話してみない事には何も始まらないよなって思っただけだ」
「それでこそ士道ね」
今から口説こうというのに、その相手が怖くて仕方ありませんでは話にならないだろう。
基本的に精霊が対峙する人間というのは恐怖かもしくは怒りを持っている。だからこそ士道はまずそれ以外の感情を持っている特殊な存在であると、相手には分かってもらわなくてはいけない。
「あー…気合を入れているところ済まない、言葉が足りなかった」
『?』
令音の申し訳なさそうな声。
それを聞いて皆が視線を向ける。
「過激で攻撃的と言ったが人を殺すまでは至らないんだ」
「えっ…そうなの…?」
琴里の驚いた声。周りも声は出さなかったが令音の雰囲気的につい危険すぎる精霊だと思ってしまっていたから拍子抜けといった感じだ。
「そうなんだ。世界各地に顕現し多くの負傷者こそ出すが、空間震被害を除けば死傷者までは出さないんだ。そして何よりも魔術師や顕現装置を重点的に狙って一般人相手には害さないんだ」
「なるほど……」
令音から与えられた情報をゆっくりと噛みしめる士道。
それが本当であるのなら、相手が理解の及ばない快楽殺人者でないのなら、話し合いが成立する余地は十二分にあった。
そんな事を考えている士道をフラクシナスのクルーたちは頼もしそうに見守っていた。
どんなに困難であっても諦めない彼の行動は結果として厳しい壁を突破し続けてきたのだ。
今度だってまた…と期待をしている。期待だけでなく奇跡を起こすために自分達もまた全てを掛けてサポートすると気合を入れている。
そんなテンションを上げていくブリッジ内の空気の中で、
「…………」
神無月だけは何かを考え込んでいた。
そんな空気の中で突如としてアラーム音が鳴り響いた。琴里は少しだけ頭を冷やして部下に指示を出す。
「何?現状報告!」
司令からの指示に反応したのは椎崎だった。
「ASTがコードネーム『ドクター』と接触しました!」
◎
遠くから震源地を顕現装置によって強化された視力によって観察しているASTの面々。精霊は廃墟となってしまった街中を歩いていた。そんな中隊員の一人から現状報告が入る。
「隊長あれはASTの資料にもあるドクターと一致しています」
「ドクター…ね……」
「どうかしましたか?」
隊員をまとめる隊長である日下部燎子は何かが引っかかっているようで煮え切らないといった様子だった。
「…私が…ASTに所属したばかりの頃にドクターはよく日本に出没していたのよ……」
「そうなんですか」
「当時は入ったばかりで後方支援だったり、演習や講習ばかりで直接対峙したわけじゃなかったんだけど…それで…まぁ…ね…」
『……?』
どうにもハッキリとしない態度に、現場でありながら精霊から目を離して隊員たちは不審げな視線を送る。
「何かがあるだろうから隠す事はしないけど……」
周りから注がれる視線に気が付いた彼女は不安を煽ると分かってはいたものの、黙っているのもまた部下たちの心の中に憂苦という毒が垂れてしまうと気が付いて話始める。
「当時ドクターと関わった先輩方の多くがある日を境にぱたりと辞職したり、転職したりしたのよ」
「え……?それって怪我や後遺症…ですか?」
部下の一人が一番あり得そうな予想を口にするが、その上司は首を横に振った。
「いいえ全員五体満足の健康体だったわ。それは私も気になって何でやめるのか聞いたんだけど先輩方は何も教えてくれなかったわ……それで…………」
「それで…何があったんですか…?」
そこで再び言葉に詰まってしまう日下部。
「それで…言われたのよ…『これから先、ここに残って精霊と戦うなら心を殺せ、相手は人によく似ただけの害獣だと思いなさい』ってね……」
その言葉を聞いて皆は何を返せばいいのか分からなかった。
ただ漫然と感じたのは、先人の心をへし折ったであろう精霊の恐怖と、これから自分たちは向き合わなければいけないかもしれないという不安だった。
「まー不安ばかり募らせても仕方なし!取りあえず私達に出来るのはドクターをぱっぱと追っ払って報告書を書くことよ」
暗くなった空気を掃うように日下部は元気な声でそう言った。
顕現装置は脳内の想像を現実に再現する機械だ。マイナスなイメージを募らせればそれだけ作戦の成功率は下がってしまうし、死人が出てしまうかもしれない。死者ゼロ人で帰還する事こそ自分に与えられた使命なのだから。
隊長のその言葉によって部下たちも改めて気合を入れなおしていた。
◎
精霊は空間震によって廃墟となってしまった街中を俯きながら歩いていた。
どんなに大きな被害が出たとしても、失ったものが命ではない限りは復興用の顕現装置によって復活させることが出来る。
そんな事は分かっていても自分の存在によって、顔も知らない誰かの何か大切なものがたとえ一過性であったとしても失われてしまうという事実には変わりないのだ。それが彼女の心を蝕んでしまう。
「…………?」
彼女の耳に何かの飛行音が届いた。ふと顔をあげると周りを隙なく取り囲んでいる魔術師たちがいた。
「あー…お前達かー…どーせ敵わないのに無駄な努力ご苦労な事だな公務員」
呆れたような口調で話す。
その言葉は顕現装置によって強化された五感を持っているASTの隊員たちの一人は拾ってしまい激高してしまう。
「何だと!?精霊が分かったように語るなぁっ!!」
それは言われたくなかった事なのかもしれない。報告書の上では精霊を追い返したという事にはなっているのだが、その実内容は精霊の周りではしゃいでいるだけで、時間が経てば勝手に消えていなくなるだけなのだ。
結局のところ魔術師はいてもいなくてもさしたる変わりはない。なんなら顕現装置によって暴れた事によって被害を広げている可能性すらある。
そのたびに無力さは実感しているし、屈辱をばねにして訓練もタクティクス面を鍛えるために綿密な勉強会だって常日頃から行ってはいるのだ。
それでしてなお、精霊の首には届かない。
「まてやめろっ!」
怒りに我を忘れた隊員は上司から指示を無視して銃を発砲してしまう。
「へー凄いなー」
撃たれる直前にドクターの右手が光り輝き始める。それは天使を顕現させる兆候だった。
天使、それは精霊が持つ見えざる奇跡の力で戦闘能力の権化、人類が精霊に勝てない理由の大半はこの存在に尽きた。
放出された光がドクターの手に収束して徐々に型取られていく。それを見た他の隊員たちは困惑の声を漏らす。
「何だあれは…」
彼女の手に握られていたのは一本のメスだった。
これまでに出てきた天使は十香の大剣、四糸乃の冷気を発生し続ける巨大な人形、七罪の箒など意匠は兎も角としてそれなりのサイズの武器を顕現させていた。
だが目の前の精霊が生み出したのは確かに刃こそついているがその大きさは手のひらサイズなのだ。これまでのパターンから逸脱している存在だった。
銃から発せられた光弾が真っ直ぐに飛んで行くのだが、それにメスの刃を合わせる。
ドガアッ!と先ほど光弾を射出した銃が破壊された。
「うわあっ!」
『ッ!?』
破壊された銃の爆発に驚いた人とそれを見て驚愕の声を漏らす人たち。相手はその場から動かず、そして直接触れなかったのに武器を破壊して見せたのだ。
「この程度じゃ私は倒せないかな…この事実は本当に残念だけど…それじゃあまぁ……」
するといつの間にか彼女の両手の指と指の間である水かき八つに挟む形で八本のメスを握っていた。
「倒しちゃうけどいいよねー?」
一方的な蹂躙劇が始まった。
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邂逅
士道はフラクシナスから降ろされて廃墟と化した街中を疾駆していた。余り精霊の近くまで戦艦で向かうと相手の警戒を深めすぎてしまうからだ。
耳に付けているインカムからは現在進行形で行われている精霊とASTの戦闘の経過状況の報告が伝えられている。琴里がもたらしたある情報が士道の足を止めてしまう。
『不味いわね…このままじゃASTが全滅だわ…』
「えっ…あ、いやでもドクターは人を殺さないんだろ?」
しかし彼はすぐさま令音がもたらした情報によって全滅という不穏な情報を覆い隠そうとする。
もちろん殺さないのであればいくら魔術師が攻撃を受けても構わないと思っているわけでは無いのだが。
『確かにそうだけど…それでも今回は被害者が出ないとは限らないわ…これまではたまたま運が良かったってだけかもしれない……』
「っ……」
士道の脳裏に浮かぶのはかつて夕焼けの中で折紙を半殺しにした十香が浮かんでしまった。彼女は人を傷つけたくはないと思っていたが、士道が殺されたと思ったときにその事が頭から抜けてしまっていた。
コードネームでドクターと呼ばれる彼女だってどのような思惑を持っていようが、何かしら信念や大切なものを傷つけられて頭に血が上ってしまう事だってあり得なくはない。
そこまで考えると彼の足は自然と動き出していた。そして進んでいくうちに先ほどまで戦闘があったというのにあまりにも静かであるという事に気が付いた。
「なぁ…琴里…」
『ええ…案の定というか…ASTは全滅ね、一応今のところ死人は出てないけど……』
歩いて行くうちに爆発によって生まれたものとは違う、銃弾や何かしらの武器によって叩きつけられたような粉砕痕が残る街中の風景が視界に入るようになった。
既に廃墟となったこの街で人の気配の消え失せた空間であったのだが、
「装い的に魔術師ではなさそうだけど…あなたもしかして一般人?そうなら今すぐここから避難した方がいいけど?」
「な……」
街中を走っていると突如上から声がかけられた。
慌てて士道は声をかけられた方向を探すと三階建てのビルの上にいたのは金緑色の髪に、ドレスに白い白衣のような上着というミスマッチな装いの少女。
外見年齢で言えば高校生くらいだろうか、精霊は霊力のせいで細胞の発達に影響が出てしまい実年齢と外見に齟齬が生じるのだが。
「でも……」
精霊の目に少しだけ険が混じる。まるで目の前にいる存在が理解しがたいかのように隙なく観察している。
「あなたから私と同じ力を感じるなー、見た感じ精霊って事は無いんだろーけど…そういえば魔術師って言ってもその単語を理解できてない風じゃ無かったし」
「っ……」
「試してみるか……」
するといつの間にか持っていたのはメスだった。多くの人は身に覚えは無いが、ドラマなり画像で見た事だけはある代物。
士道は直感で目の前の相手が持っているそれはただの金属の物だとは思えなかった。だからこそ彼の口からこれまでの経験に培われた予測が出てしまった。
「それは…?まさか天使?」
「ほー天使を知ってるんだ?……お前一般人じゃないな」
(雰囲気が!?)
そう言うとメスの一つを士道の足元に向かって投げつける。すると刃が振れた先から地面のコンクリートがグズグズと溶け始めた。
彼は慌ててその場から後ずさってしまった。
「……こ…れは…」
「もう一度聞くけどお前何者?」
明らか彼女のまとっていた雰囲気と口調にスイッチが入ってしまっている。
精霊の腕力によって無理矢理コンクリートが粉砕されたのであれば理解出来る。だが今のはメスを軽く投げて刃が触れただけで地面が溶けたのだ、間違いなく腕力では無かった。
『士道!攻撃されたとはいえ相手が話しかけているのにだんまりはよしなさいよ!』
「わ、悪い」
『…って選択肢が出て来たわね』
琴里は相変わらずアドリブが下手な兄を叱責するが、ここでフラクシナスの顕現装置によって演算された選択肢が表示された。
①「ただ巻き込まれただけの一般人だ!」
②「俺の名前は五河士道、君の味方だ。まずは名前を教えてくれないか?」
③「俺の愛で君のその氷も溶かして見せる」
「総員選択!」
琴里の掛け声と共にフラクシナスのクルーたちは最善だと思う選択肢に票を入れる。
結果は①と②が同票で③が少数意見となっている。
「うーん…①と②はまぁそうね…前者はもう難しいし後者は保守すぎかしら…③は変わり種って感じ……」
「あのー……」
「何かしら幹本?」
クルーの一人が手を挙げて意見をしようとしたためそれを許可する琴里。そしてそれと同時に感じた違和感もあったのだが何なのかは気が付かなかった。
「思った事なのですが、割と闊達に話しますし彼女は思っていたより人と関わっている様な感じがしたので③は難しいかと…疑心を植え付けてしまいましたし…」
「ふむ、なるほど…確かにそうね」
彼のその意見に琴里もまたなるほどといった感じ。
「ところで思ったのだが彼女の名前を聞くのが先ではないのかな?」
令音の冷静な指摘にブリッジ全員が息を呑んだ。思っていたよりも目の前の精霊の行動に気を取られて基本の事が頭から抜けていた様だった。
琴里は慌てて指示を出す。
「士道聞こえていたと思うけど②よ」
彼はインカム越しからの指示に従って会話を開始する。
「俺の名前は五河士道、君の味方だ。まずは名前を教えてくれないか?」
「はぁ…?味方って……あー…名前ね、って何で私が教えなきゃいけないんだって感じなんだけど、あなたが何者かも分からないのに」
先ほど霊力を感じた違和感を相手は見逃す気は無いようだった。先ほどよりも少しだけ厳しさを増した瞳で逃さずに士道を射すくめてくる。
「うっ……」
「あなたって精霊?じゃないよね、ならやっぱり私の寝首をかこうとしている魔術師?」
この質問をしている時点で、彼女は薄々目の前にいる男が自分に対して攻撃的な思考を持っていない事は感じ取ってはいるのだ。
「ち、違う!」
「お、おぉ…分かった……」
先ほどまでどもっていた相手が突如として大声を発したためつい怯んでしまう精霊。そして相手の要求に折れた。
「まあいいか、私の名前はきょうか。うつろの字の虚に、難しい方のはなって読むやつの華ね、お花の方じゃないよ」
「虚華……」
「名前をそれとなく聞いてくるのはいいけど、結局私はあなたへの処遇を決めかねているんだけど?空間震の近辺に来て、こうやって精霊に接触して来るなんて普通じゃ無いもの」
今すぐに攻撃行為を行うような剣呑さは消えたものの、相変わらず警戒モードは継続をしている様子だった。
『不味いわね…相手はただの一般人だとも思ってないわ…少し手詰まりね……』
琴里は唸ってしまう。
相手はこれまで浮世離れした感性を持っていた精霊ではなく、ある程度の会話能力や精霊を取り巻く環境も把握しているのだ。出まかせで突飛な行動なりを取ってもより疑心を深める結果になりかねなかった。
『また選択肢ね、士道会話を数秒繋いで』
「ああ、わか―」
「てか何つけてんの?」
彼が一瞬フラクシナスから通信を受け取って目の前の相手から意識が逸れた一瞬に目の前に移動したのは虚華だった。
スッと右手を相手の左耳に添えると付けていた通信機を抜き取る。
「んな…」
「なにこれ、イヤホン?」
この時士道が驚きと共に感じたのはスッとした鼻梁、パッチリとした目、そして控えめにふっくらとした顔の輪郭、パーツは美人でありながらもどこか愛嬌のある顔立ちをしているなという事だった。
だがそんな思考とは裏腹に今現在置かれた状況は最悪の一途だった。彼から奪ったインカムを虚華は耳に付けたのだ。
『ちょっと士道!?』
「あんた誰?声の感じ的に小中学生くらい?」
『ッ!』
「あなたが一人でこんな通信機を用意したとは考えにくいから裏に大きな組織とか匂うね。そもそも高校生をこんな危ない災害現場に送るなんて正気じゃないよ」
彼女の再び剣呑さの増した声に琴里は反射的に怯んでしまった。相手からすれば怪しい組織が裏にあると思ってしまっている。これではいくら口説こうとも心を開かれる事はない。
「そろそろ話しなよ、別に逃げたいなら逃げたいでいいし、だんまりを決め込んでも背中を撃ったりとかしないよ?」
ここが分水嶺だった。ここで選択肢を間違えれば取り返しがつかなくなる。
士道やフラクシナスのクルーが動揺から動けない中、ここで虚華は薄く溜息を吐いた。
「まぁ、中々いないよね…」
彼女の表情は悲しみ、そして瞳に何かの憧憬を写していた。
これ以上誤魔化そうとしたり、大事な事をぼやかしても相手の機嫌を悪くする一方だと思った彼は年貢の納め時だと感じて話を切り出した。
「話す…よ、何のためにここに来たのか」
「!」
彼女は相手の覚悟を決めたといった声色に少しだけ驚いた表情を作る。
『士道!…ッ分かったわ私達の目的や接触した意図を話すわ……』
琴里はすぐさま止めようとするのだが、今は精霊にインカムを取られてしまっているため静止の声が届かない事を思い出してすぐさま腹をくくった。
『―というわけよ』
「はぁ…精霊の力を…封印ね」
琴里の説明を聞いて虚華は半信半疑といった感じだ。力を封印できると言われてこれまで自分を守ってきたアイデンティティを、はい分かりましたと簡単にうなずいて手放すとは思えなかった。
「俺は…いや俺たちは嘘はついてない…その信じて欲しいんだ……」
士道の真摯な訴え。
「……………………」
だが虚華は黙って何かを考え込んでいる。話を聞いていないわけではない、上の空気味ではあるのだが話を聞く中でキチンと相槌は打っていた。
「多分嘘はついていないんだろうけど…そうだね…うーんどこまで信じたらいいのか……」
『…封印後もラタトクスは…キチンと力を失ったあなたの保護やアフターケアは継続して行っていくわ』
少しでも相手の疑心を紛らわせようと琴里は自分たちは安全ですよアピールをする。
「ん…まぁそれは別に期待してないけど…じゃあ取りあえず封印されている精霊に会わせてよ。そっから考えるからさ」
「えっ…」
それはあまりにも唐突過ぎる提案だった。
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お話をしませんか?
「美味しいなこのピザは!」
「ふむん……」
十香は士道と別れた後、精霊の住んでいるマンションに帰宅して同じ施設に住む仲間と食事をとっていた。
その隣には六喰も無表情気味だがそれでも少しだけ高揚している感じで咀嚼をしていた。
八舞姉妹もまたテーブルに並べられているピザに手を伸ばしていたのだが。
『あっ……』
ふと、二人の手が重なった。それはまさに一心同体とも言えるほどお互いの事を理解し、そして趣向も同じだからこそ起きた現象。
「あ、どうぞ…」
「譲渡。耶倶矢の方が先に触れていました」
頬を薄っすらと赤らめながらもお互いに譲り合う二人。もしこの場に美九がいたら大興奮間違いなしだろう。
付き合いたてのカップルか、もしくは付き合う寸前の男女の様な初々しいやり取りをする二人。
そんななか四糸乃は思った事をふと口にした。
「七罪さん、よく六人分も冷凍ピザを買っていましたね……」
『七罪ちゃんてば大食漢?』
この場には十香と四糸乃だけでなく、七罪と八舞姉妹の二人に六喰の計六人がいた。
例の美味しいピザとは七罪が用意した冷凍食品なのだが、突発的なピザパーティーであってもすぐさま用意するのは簡単なことではないだろう。つまり彼女は常日頃からそれだけの冷凍食品をストックしていたという事だ。
「…う、うん…もしかしたらいつの間にか私って忘れられて食事とか無視されちゃうかもしれないから…念のために……」
『……………………』
全員がそのネガティブな想定に何を言っていいのか分からなくなってしまう。流石にそこまで士道やラタトクスの面々が薄情ではないと思っているが。
そのやり取りで皆が思い出してしまったのは、今こうしている間も士道やラタトクスは新たな精霊とコンタクトを取っているという事実だ。そして考えてしまう、今自分たちはここで呑気にピザを咀嚼していいのかという事だ。
分かってはいる。こうやって精霊たちが気兼ねなく暮らせる空間を作る事、そしてそれを楽しんでもらう事こそが彼らの望んでいる事だというのは。そこに負い目など感じてはいけないし、感じるなどとても失礼だ。
だがそう考えてしまう事を止めることが出来ない。
誰もが同じことを考えている沈黙の中、口を開いたのは十香だった。
「……むぅ…シドーは大丈夫だろうか…」
精霊達を自分と同じように助けてやって欲しいと願っているし、実際に士道もそのために動いている。だがそのたびに苦渋の決断を迫らせたり、傷だらけになる事に対して心苦しくなってしまっている。
「ふむ…主様であれば大丈夫だろう。不安に思うのは分かるが送り出したのであれば十香、お主は信じて然るべきだ」
悩みの中にいる十香に声をかけたのは六喰だった。
彼女はかつて自分の家族が、己の知らない所で独自のコンテンツを築き上げており、それを心細く感じ信じきれなくなり精霊の力を使って無理矢理にでも自分の側に押し留めようとした。
だが士道の傷つきながらでも彼女に対しての真っ直ぐな訴えを受けて、もう少し周りの事を信じようと思ったのだ。
いまだに家族や絆について考えてばかりで答えは出ないが、それでも必死に模索し続ける事こそがあの日家族にした行動への報いになると信じて。
するとそこでぴんぽーんっと外部からの来訪者の訪れを教えてくれるチャイム音が部屋に鳴り響いた。
「…?…こんな時間に…?」
「疑問。既に外は真っ暗です」
八舞姉妹は既に日が落ちて多くの人達は家に帰って夕食なり家族だんらんを楽しんでいるであろう時間に訪ねてくる人がいる事に不信感を。
精霊用のマンションは常にラタトクスが常に厳重な警備態勢を敷いているため、あからさまな不審者であれば一瞬でつまみ出せれているはずで、ここのチャイムを鳴らせるという事は精霊達にとって顔見知りの人物だと考えられた。
「……もしかして士道じゃない?」
「そうですね…士道さんが帰ってきて十香さんに話に来たんじゃないかと…」
『あーら、士道ちゃんったら直接乗り込むだなんてだ・い・た・ん』
「主様はお主と別れてそれっきりだったからの」
七罪はこの場で考えられる来訪者の予想を口にする。それに乗っかるのは四糸乃、よしのんそして六喰。
「おお、そうか!無事だったかっ」
十香はルンルン気分な感じで相手の顔を見る事の出来るインターホンに駆け寄っていく。
「シドー無事だったか!」
まだ相手がその人であるのか分かってすらいないのに、既にその気になっている十香はそのままろくに確認もせずに声をかけてしまう。
そこに映っていたのは皆の予想したとおりに士道その人だった。ただしその表情にはどこか緊張があった。
「ああ、俺だ。悪いけどオートロックを開けて欲しいんだが」
「…?…どうした…何か嫌な事でもあったのか…?」
それを素早く察した彼女は心配そうな声色を出す。
「…それは…あとで話すからとにかく―」
「そんなまどろっこしいことしなくてもいいでしょ、ああいやちょっとあなた達の話を聞いてみたいだけだよ」
「お前は……」
士道があまりにも歯切れも悪い態度に業を煮やしたのかカメラの死角から顔を出したのは虚華だった。
それを見た十香はすぐさま目の前に現れた存在の正体に気が付いた。個人差こそあれど淡く輝く服に独特な雰囲気は間違えようもなかった。
「精霊…どうなっている……」
ただ出てきたのは呆然とした呟きだった。
「あ、これいい茶葉だね…それにクッキーも甘くしっとりとしてて美味しい」
「口にあって何よりだ」
このようなパターンも一応想定して用意されていた応接室に通された虚華は、そこに置かれていたソファーで出されたお茶を楽しんでいた。
そんな呑気な感想に律儀に対応するのは士道だった。
配置は虚華の体面に士道と琴里の二名。ソファーに座っている精霊を隙なくじっくりと見つめているのは封印された精霊達。
ピザを食べていた面々だけでなく、琴里は勿論折紙や美九に二亜も現状の説明と連絡を受けてこの場に集まっている。
『…………』
皆が一応に隙を見せまいと見つめていた。
「そんなに怖い雰囲気出さないで欲しいんだけど、ほらここは可愛い新人って事で一つ」
明らかな緊張ムードに虚華は冗談を口にして場を和ませようと画策するのだが、そう簡単に未知の精霊を受け入れろと言っても無理があった。
「ならならっ!新人という事は後輩!後輩さんは先輩の言う事は絶対!年功序列なんですよぉっ!!可愛い子は大歓迎ですぅ」
そんな中、相手のフランクな雰囲気に気が付いたのは美九だった。
意味不明な理屈を持ち出して虚華の隣へと飛び込んでいき彼女に抱き着いた。
「ちょっと!?何してんのよっ」
あまりにも大胆な行動を見て琴里は慌てて声をかける。もしこれで機嫌なり信頼がガタ落ちする事でもあったら最悪だ。
相手は未封印の力を全開に扱える未知の精霊に対して、ここにいる面々はラタトクスの秘密兵器によって力を殆ど取り上げられて強めの人間程度でしかない。この場で未封印の精霊が暴れでもしたら精霊達の安全だけでなくこの住宅街の人達の安全すら危うい。
そこまでを考えての焦りだったのだが。
「うわー大胆…これが噂に聞く百合っ子ってやつ?…そういうのって本でしか見た事無かったんだけど実在するんだー…フィクションって何なんだろ」
驚いた感じではあったものの、相手の機嫌は特に機嫌が悪くなるわけでもなく普通のテンションを維持していた。彼女に不機嫌な感じはなくあくまでニュートラル。
『琴里…当然気が付いているとは思うが今の彼女は特に不機嫌さを隠しているわけでは無いよ。上機嫌でも無ければ不機嫌でもないあくまで中間、ただあえて言うなら機嫌は僅かに上向いているが』
通信機越しに精霊の精神状態をモニタリングしている令音がインカムに情報を入れる。
いきなり面識のない場所と人達に囲まれて、その上抱き着かれているというのに落ち着いた雰囲気は崩さない。
「ほーう?どうやらその手のサブカル知識は豊富なようだね。ならおねーさんも自己紹介をしちゃおうかな?」
相手の持つどこか緩い雰囲気を俊敏に感じ取った二亜はいまだに抱き着かれたまま相手に、彼女は胸にばしんと手を当てて自己紹介を始める。全く揺れなかったのは誰も指摘しなかった。
「私の名前は本条二亜、きょーちゃんと同じ精霊ね。とは言っても力は封印されたり奪われたりで精霊の絞りカスだけど……」
「封印……」
相手はあだ名には触れず封印という単語に興味を示した。そもそもラタトクス機関の精霊保護思想や封印そのものについて興味が引かれたからこそここにやってきたのだ。
そして相手に自己紹介を続ける。
「一応現役の漫画家でペンネームは『本条蒼二』ね」
「へ…?…本条蒼二って『SILVER BULLET』の…?…まさか女性だったの?え、ホント?」
虚華は周りに視線を巡らせると皆は首を縦に振った。
「あ、やっぱりご存じだった?雰囲気的にもしかしたらって思ったんだよねー」
二亜はここまでの虚華の立ち振る舞いや闊達とした喋り方から、ある程度人間として知識を持っていると考えていた。
同じ事に気が付いた折紙は声をかける。
「…………質問いい?」
「はいどうぞ?えーっと……」
「鳶一折紙」
「はい折紙さん」
折紙は自分の名前を名乗ってから質問を再開した。
「あなたは『ファントム』という存在に霊結晶を与えられた?」
「ふぁん…?…なにそれ…漫画の設定?」
ここにいる一部の人物が薄々勘づいている精霊の正体、だがいまだに確定した事ではないため不安を煽らないように黙っている事項。精霊とはファントムと呼ばれる存在に霊結晶を与えられた元人間説。
把握できている範囲でも折紙、二亜、琴里、六喰、美九は人間として生まれて後天的に精霊になっている。
精霊として人間社会の知識をほとんど持っておらず、また右も左も分からない存在とはとても思えなかったための質問だったのだ。
ここで相手がすっとぼけたり嘘をつくメリットは皆無なため、どうやら本気で相手は質問に対してピンと来ていないようだった。
「ごめんなさい、ちょっとよく分からないかな、そのファントムとか…ごめんなさい望んだ答えを返せなくて……」
相手は少なくとも人間として生まれ落ちたという記憶は持っていないという事だ。折紙は相手のその言葉に首を振って謝る。
「くくっ…ワンピースの上にあえて羽織るミスマッチな白衣…我と同じ波動を感じる……」
相手がフレンドリー気味な雰囲気を感じ取った耶倶矢が気になった事を口にする。どうやら霊装とはいえ、普段着が白衣である事が彼女のセンサーに反応したのだ。
それはマッドサイエンティストな風味を感じる装い。
そう、やっと見つけた自分の同志を。
「……ああなるほど中二病?…そういうのって早めに卒業しておかないと後々黒歴史になるらしいから気を付けた方がいいよ。ああ、ちなみにこれは霊装であってあなたと違って私はそういう傍から見てて恥ずかしいのじゃないよ」
「……………………」
一撃で黙らされてしまう耶倶矢。そして目に涙が浮かんでしまう、だが何とか気合で零れる事だけは耐えきってみせる。
周りはフォローをしなくてはいけない事は分かってはいたが、相手に対してこれまで何となく思っていた事をズバリ言ってしまったのでどう動けばいいのか分からなかったのだ。
「…よしよし」
「うっ…ゆずるぅ…きょうかがぁ…きょうかがぁ……」
苦しい空気の中、最初に硬直から抜け出したのは夕弦で、よしよしと頭を抱き寄せてあやしていく。
その優しさに目のダムが決壊してしまう。いつもであれば嫉妬の対象であるその母性の塊が今はハートにひびが入っている彼女を優しく包み込む。
そこまでやり取りをしたところで、士道は質問ばかりで客人が話の主導権を握れていない事に気が付いた。
「そう言えば虚華は精霊の皆に色々と聞きたいんだよな、ごめん質問攻めみたいな格好になって」
「ううん。いきなりよく分からないのが現れても困るだろうし、別に迷惑とか思ってないから」
穏やかな雰囲気でウェルカムな感じを醸し出していく虚華。
最初こそ緊張していたこの場の雰囲気だったが、徐々に空気も柔らかさを感じる者へと変わっていった。
「あ、じゃあ聞きたい事なんだけどいいかな」
「ええ勿論ラタトクス機関の分かる範囲でなら」
虚華はここで聞きたい事を質問する事にした。琴里もまた精霊の意思は尊重する構えだ。
「えっと…妹さんも……」
「違うわよ!そういうのじゃ無いわよ!?」
司令官モードを中二病で括られそうになって慌てて弁明に入る。
だがそのムキになり気味の返事に虚華は何かに気が付いたようにハッとし、そして優しい瞳になって何も言わなくなる。
琴里は相手のその態度に顔を真っ赤にするのだが、大声で怒鳴る事だけは何とか耐える。
そんな態度を知ってか知らずか相手はそれ以上の追及は行わずに考えていた質問をする。
「じゃあ、封印されると実際にどれくらい力を失うの?」
「…そうね、精神状態にもよるけど…トップアスリート並みの身体能力まで落ちるわね」
仮に何もせずにトップアスリート並ならそれはそれでとんでもない事だが、騒がれない様に力の使い方や世界の常識はキチンと教えていくつもりだった。
「天使や霊装は?」
「例外を除けば、精神状態によって顕現したりするけれど、それでも大体本来の十分の一程しか使えないわね」
その回答に興味深そうにふむと考えている虚華、そして質問を重ねる。
「それじゃあ、封印された事で弱体化した隙に殺されかけたりしたことはある?」
『…ッ!』
その内容に琴里や士道だけでなく周りの精霊達もまた体を固くしてしまう。
答えだけで言えばその危険はある。
かつての士道は六喰との対話の中で、封印して力を取り上げることが結果として精霊を危険に晒す事になると思い悩んだ。事実DEMは何をしたいのか不明な得体の知れない組織で、いつでもラタトクスや精霊の寝首をかこうと奸計を張り巡らせている。
士道は自分がしたいから助けるという答えを出したが、それはあくまで六喰は本気で人と関わりたくないというわけでは無いという前提があったからだ。
本当に人との関りを絶ちたいのであれば地球の周りを漂う事はせずに人力ではやってこれない彼方の星にでも行ったはずだ。
「ああ、やっぱだろうなーとは思ってたけどあるんだ」
彼女は周りの反応を見てさもありなんといった感じだ。想像できない話といったわけでは無かったのだろう。
会話の空気から突っ込まれたくない内容に差し掛かっているのを感じた十香は慌ててセールスポイントを口にする。
「たしかにそういう事もあるが楽しい事もいっぱいだぞ!」
「例えば?」
「ご飯とか美味しいぞ!」
「あ、そう……」
「学校に行ったりするのはいいぞ!」
「それは、そうかもしれないね」
「友達を作って遊ぶのは楽しいぞ!」
「うん、知ってる」
「むぅ……」
「あ、なんかごめん…」
十香は頑張って話題を振っていくのだが、イマイチ盛り上がらない虚華との会話にどうしたらいいのか分からないといった感じだ。
士道は十香の頑張りを見てはいたが、やはり黙っているのは失礼だと感じて正直に話す。
「…何度もある」
「そう、まぁ弱った精霊なんてASTやDEMからすれば格好の得物だろうからね」
相手の返事から彼は一つ引っかかった事があったため質問をする。
「DEMを知ってるのか?」
「何度も命を狙って来たからね。あいつらは精霊だけじゃなくてそれに関わった人も容赦なく狙うような奴らだし」
そう語った彼女の瞳は何か痛みを堪えているようだった。周りにいた人たちはその雰囲気を感じたが相手の機嫌を悪くしてはいけないため黙っていた。
DEMはただ顕現装置を開発出来るという事だけでなく、企業単体で過剰に戦力を保持するなど後ろ暗い事をたくさん抱えている。上に立つ人間は明らかに人が持つ倫理観を逸脱しているし、目的の為であれば精霊のせの字も知らない人間でも容赦なく手をかけるだろう。
「虚華…あのだな…俺は……」
「いいよ封印の件」
「……へっ?」
「どうやるのか知らないけど封印お願い」
相手から到底信じられないようなセリフが出てくる。意外な回答に彼は驚いたリアクションしか出来ない。
命を取られるかもしれないリスクを承知で封印オーケーの同意が出たのだ。
「へ、ホントに?」
「うん、やってみる価値はあるかなって」
琴里は相手が了承した事に信じられないといった感じだ。これまでの会話で封印によって大きく弱体化するデメリットを埋めることが出来る魅力的なメリットを提示出来ていたとは思えなかったのだ。
だが同意が得られるのであればそれに越した事はない。そう考えて彼女は話始める。
「なら士道とデートをしてもらうわ」
「は?」
提示される唐突なイベントに虚華はポカンとしてしまう。
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彼女って何者?
結論から言えば戦闘は一方的な結末だった。
精霊の力の権限である天使の力を解放した虚華がASTの隊員たちを一瞬で畳んでしまったのだ。
そもそも精霊の体を守護する強固な鎧である霊装と、世界の摂理を嘲笑うかのように一切合切無視してしまう天使の力。顕現装置というこれもまた世界の摂理を超える機械持っているASTであっても歯が立たない、部隊は既に半壊して隊としての体裁を保ててはいなかった。
『無事な人は今すぐに撤退しなさい!これ以上の戦闘継続は危険よ!』
部隊のリーダーである日下部はこれ以上の損害を出さない為に撤退の指示を出す。負傷して立ち上がれない人がいる中で見捨てるのは心やはり痛むが、どうしようもない事実に直面したとしても上に立つ人間は必ず何かしらの決断を下さなくてはいけない。
『…………』
その声は虚華にも聞こえてはいたはずなのだが、倒れた人間に対して死体蹴りをするわけでもなければ、背を向けようとする相手に狙いを定めるというわけでもなく黙って撤退をしようとする姿を眺めていた。
(…?…さっきまで挑発して来たのに今度は何もしてこない…?)
その対応に日下部は撤退の指示をしておきながら気持ち悪さを感じてしまう。自分の行った事は間違っているのだろうかとただただ疑いばかりを募らせる。だが現状出来る事はいかにこれ以上被害を出さずに逃げるかどうかだ。
『…………ふん』
『あ』
すると虚華はその場から飛び出して遠くに行ってしまった。それが何故なのかはASTの人間には図ることが出来なかった。
「これはどやされるじゃ済まないわね」
「でも死人は出ていません!…悔しいですけどいつもと変わらないですよ…倒せずに精霊の気まぐれで戦い…が終わるのは…」
隊長である日下部は溜息をつきながらぼやく。部下もまた擁護をしようとするのだが、常日頃から感じている
治療用に顕現装置があるとはいえ、多くの負傷者と戦闘装備の多くを失ったという結果は間違いなく失態と呼んで然るべきものだ。
国民の血税が使われておりお偉いさんや顕現装置を提供してくれるスポンサーに説明する事を考えるだけでこれから気が遠くなる思いだった。
(…なにより……)
精霊はまともに話し合いが通じない破壊衝動を抱えた狂暴な生命体だと聞いていたのだが、あの精霊は死なないようにあえて手加減をしているように彼女は感じた。情報として聞いてはいた事ではあるのだが実際にそれを目にすると高い知性を感じた。
何をすれば戦線をコントロール出来るのか、どう動けば相手は混乱するのか。全て分かって動いているように見えたのだ。
(もしかしたら…)
それこそがかつてASTの先輩たちの心が折れた理由なのかもしれないと彼女は思った。
◎
虚華がロストしてからある程度フラクシナスでミーティングを終えた後、五河兄妹は家に帰ってリビングのソファーで休んでいた。
座りながらも士道は脱力した体勢から気の抜けた声を出す。
「デートかー……」
「何よ、いつもとやる事は変わらないわ。会話して、相手を理解して、そして好感度高めてキスをするだけよ」
「そうなんだが…どうにも気合が入りにくいというか……」
「情けないこと言わない!…と言いたい事だけどあまりにもイレギュラーね」
兄の緊張感のない声に妹は叱責をするのだが、同時に相手のその気持ちも理解が全くできないというわけでもなかったのだ。
これまでの精霊はまず対等な立場で会話をする事がまず難しかったのだ。だが虚華は会話する事に問題はないし、見ず知らずの相手である美九がいきなり抱き着いても機嫌を悪くする事無く対応をしてみせた。
そして力を封印される事を了承して積極的にラタトクスや士道と交流を持とうとしているのだ。これまで狂三のように彼に興味を持って、明確な目的を持って接触を計った精霊はいたが、彼女のような悪意や妖しい雰囲気は一切感じなかった。
つまり虚華は封印される為に自ら理解して積極的にデートをしてくれるという事だ。
『ッ』
『どうしたんだ?』
虚華が何かを感じて小さく声を漏らすのを見て士道は心配そうな声音を出す。相手は何度も経験したであろうある現象だった。
『この感じ…隣界に引っ張られる……』
『ッ…消失ね』
琴里は悔しそうな声で言った。もっと会話をして相手の趣味趣向や会話の傾向などを知りたかったのだが、それも神のいたずらによって強制的に中断させられてしまう。
『士道とのデートは了承してくれるでいいのよね?』
『まぁ…デートがなんで封印に繋がるのかよく分からないけど分かった…』
そう言って彼女はその場から消えた。
「まあ兎も角、虚華はいつ現界してもおかしくないから明日からデートプランとかのシュミレーションを詰めていくわよ」
「分かった」
「一層マイリトルシドーシリーズの続編が求められているようね」
「もっと違う方法はないのかよ!?」
琴里は兄の良いリアクションが見れてカラカラと楽しそうに笑った。彼もまた淡くはあるが笑みを浮かべた、少しだけ心の中にある不安や言いようのない脱力感が少しだけだが消えた。
「今日は休んで明日から緊張感を持って行きましょう」
彼女はそう言って締めくくった。一日だけでいろいろなことがあり過ぎたのだ、少しくらいは休んだってバチは当たらないだろう。
何よりも士道は最前線で一番緊張する役割を与えられているのだ。表面上は穏やかでフレンドリーな感じでも、心の中に何を抱えているのか分かったものではないのだ。まだ相手の真意をつかむには不安な要素や欠けている情報が圧倒的に不足している。殆どゼロからスタートするのも同然だ。
するとそこでインターホンが鳴った。
「こんな時間に誰だ?」
「さぁ?ただこんな夜遅くに迷惑ね」
妹のそのリアクションからラタトクスの資格ではないと安心するのだが、夜遅くに訪ねてくるなど普通ではないため二人は別種の緊張感を持っている。
二人は玄関に向かうとドアノブに手をかけてゆっくりと開く。するとそこにいたのは十香だった。
『十香…?』
「こんばんわだ、シドーに琴里」
二人の驚きと困惑の声にも特段不快に思うなりをするわけでもなく、彼女は夜使うのにふさわしい挨拶をする。
「どうしたんだ…ってこんな寒い中じゃあれだな取りあえず上がるか?」
「いいのか?」
「ああ、丁度琴里とも色々と話し終わった後だからな」
「ん……」
士道の提案におずおずとした感じだったが、その後の色々と聞いてから十香は少しだけ言い出し辛そうな雰囲気を醸し出した。
どうやら虚華絡みで何か引っかかる事や気になる事があるんだなと士道と琴里は思い至った。
「美味い!」
「そりゃよかった」
彼女を家の中に入れて、リビングに配置されている食卓テーブルで十香に向かい合う形で五河兄妹が座るという配置で向かい合っている。ちなみに客人の前にはプリンを置いていた。
プリンを食べる手がひと段落したところで琴里は本題に切り込む。
「それで十香は虚華の事で何か気になる事があったのよね?じゃないとこんな夜遅くに訪ねてくるはずないもの」
「うむ…彼女が話すのを見て何か嫌な感じがしたのだ…それが気のせいであったのならいいのだが…」
彼女の食べる手が止まって、美味しさで先ほどまで緩んでいた表情に真剣みが加わったところで口を開く。
「何と言ったらいいだろうか…かつての私のようにどこか投げやりのように感じたのだ…何かが引っかかる……私の勘違いであるのならいいのだが……」
「投げやり?虚華がか?」
「何かがある…と思うのだ…」
十香のその指摘に士道は彼女の何処がといった感じだった。
普通の人と全く同じとは言わなくても、普通に話せて精霊を取り巻く境遇を理解出来ており、封印による危険性を分かって立ち振る舞っているように感じていたのだ。そこに投げやりだったり、やけくそだったりは少なくとも感じなかったのだ。
だが琴里は何か引っかかるものがあるようだ。
「そうね…でも精霊との邂逅には何があるか分からないわ…気が付かなかっただけで十香だけが感じた何かがあったのかもしれないわ…」
妹その言葉に素直にそうだなとは言えなかった、厳密にはそう言いたくは無かったのだ。
「でも俺には虚華が悪い奴には……」
「…それは同感…でも何年も命を狙われて来たであろう相手がいきなり他人に全部を許してくれるとは思わない方がいいわ…」
信じたい気持ちは当然あるが、長年命を狙われていたであろう相手が、はい分かりましたと簡単に力を手放そうとすることの言い知れない危うさにここで気が付いた。
だがそんな不安など精霊攻略という修羅場を何度もくぐり抜けて来た彼からすれば小さな懸念でしかない。
「前に言ったけどとにかく相手に思い切ってぶつかって理解を深めないとな、もし辛い事や苦しい事があるなら全部体当たりで解決するだけだ。それしか俺には出来ないからな」
「シドーもかつてそうやって恐れずに向き合ってくれたからこそこうして私はここにいられる」
「まあプレイボーイとは程遠いけど、それで救われた人はたくさんいるわ。それでこそ士道よ」
その力強い士道の言葉に十香も琴里もどこか嬉しそうだった。
◎
次の日の朝、士道はいつも通り朝起きて、いつも通り朝食を作って、いつも通りに登校の為に精霊たちの住んでいるマンションに向かっていた。
現状新たに現れた精霊である虚華はまたいつ現れるのか分からなかったため、取りあえず警戒だけしてそれ以外は普段通りに過ごす事となったのだ。
「シドー!おはようだ」
「おはよう」
昨日までの悩みは何だったのかと思ってしまうほどに十香は元気な姿を士道に見せていた。
今日は彼女だけでなく八舞姉妹も一緒に居たのだがどうにも様子がおかしい。姉妹というよりは主に耶倶矢に異常がみられた、いや逆に異常が見られ無かったのだ。
「挨拶。おはようございます士道と十香」
いつも通りの夕弦の挨拶。これは特段問題はない。
「…ぁ…おはよう……」
そして耶倶矢のあまりにも大人しすぎる挨拶。いつもであれば「呵々」などとセリフの枕につけて割と痛めな言動をする。周りからは痛可愛いと呼ばれている独特な愛嬌を生み出すのだが、今日は何やら気落ちしている様子だった。
「ああ…おはよう二人とも……」
「む?おはようだがどうしたのだ?」
耶倶矢の異常、いや正常ぶりに同然二人は気が付いていた。いつもの無駄に元気な中二病ガールはどこにいったのかと。
「…え?何を言ってるのかな?私はこれが普通…これが普通…コレガフツウ……」
『…………』
だが耶倶矢はその指摘を受けても虚な瞳で自分に言い聞かせる様に呟くだけだった。
そのあまりにも異常な光景に士道と十香は黙り込んでしまう。
「実は―」
すると二人の傍に寄ってきた夕弦は耶倶矢には聞こえない大きさのひそひそ声で何があったのかを話始める。
どうやらあの日、虚華に中二病的なふるまいは黒歴史であるとハッキリ言われてからどうにも調子が上がらないとの事だった。
これまでは周りがいくら思っていてもどこか容認していた、それもまた彼女の魅力の一つだと否定することなく納得をしていた。
だが虚華はそんな周りの人達が全力で守ってきたガラスのように危ういバランスで保たれていたハートを無造作に踏みにじってしまった。
彼女はそこまで悪意があったわけじゃないのかもしれないが、こういうのは自分がどう思っているのかではなく、相手にどう思われたのかが大切なのだから。
「なるほど…それは…そうだな……」
士道はそんなことは無い…とは言うことが出来なかった。何故なら今の彼はかつて中二病だったころの自分をネタにされて琴里にいじられているのだから。なによりも中二病が恥ずかしい事であるという自覚があるのだからこそ彼は卒業したのだ。
そう考えると傷口が広く、そして深くなる前に卒業するように促した虚華はまだ良心的なのかもしれない。そんな知り合いを彼は欲しかった。
自分で気が付いて直すのであればそれは問題無いのだが、士道には今の彼女は無理して抑え込んでいるだけのように見えている。
事実として無理をしているし、これ以上精神が乱れれば何が起きるか分からない、そんな事務的な理由だけでなく士道自身もただただ彼女には無理をして欲しくないのだ。
「そういえば聞きそびれていたのだが中二病とは何なのだ」
「心の病」
「なっ…!…耶倶矢は病気なのか!?治さなければ!」
「やっ…今のは忘れてくれ」
こんな時のピュアな十香の優しさがとても辛い。いじられているのは耶倶矢のはずなのに士道もまた辛く、そして恥ずかしくなってしまう。
なによりそんなやり取りを聞いていた耶倶矢は昨日と同様に泣きそうになってしまう。
そんな姿を見ると何か声を掛けなくてはと考えてしまう。
「…なぁ耶倶矢……」
「…はい、何でしょうか?」
「うおおぉ……」
ものすっごく畏まった口調に士道は怯んでしまう。これまで素の口調が出てしまう事は何度かあったのだが、今の彼女はそのどれにも当てはまらないキャラになっていた。
だからといって彼は怯んでばかりもいられない。傷心の精霊をフォローするのは彼に課せられた責務なのだ。
「耶倶矢あのだな、そんな無理をしてもだな」
「無理?何のことでしょうか?」
どうやら彼女はよっぽど意固地になっているようだった。
「虚華に言われたからって無理して自分を変える必要なんてないんだ」
「虚華?誰の事でしょうか?」
「いや虚華を記憶から抹消するな」
中二病という事実を抹消しただけでなく、その心を抉ってきた張本人すらも記憶から抹消しようとしていた。
「うむ…やはり耶倶矢が無理しているのは見ていて辛いぞ……」
「肯定。大人しくいつもの口調を出すまいと戦々恐々としているだけの耶倶矢など見たくありません」
そんなやり取りを傍から見ていた十香は心配そうな声を出す。そしてそれに呼応して夕弦も辛そうな表情に。
「む…っ…ううっ……」
相手の悪意のないそんな心配を真正面から受けて、流石の耶倶矢も無視することが出来なくなってしまう。
他者の言う事をここになって耳に入れることが出来るようになった彼女を見計らって、士道はここで自分の意思を伝えようとする。
「いずれどうなるかは別としてさ、今くらいは自分の本心に正直でいいんじゃないか。それで結果として辛くなったら相談してくれていいから」
「そうだぞ!困ったらいつでもだぞ!」
「同意。耶倶矢が苦しいのであればいつだって胸を貸します」
そんな彼の意見に同意するかのように乗っかる二人。耶倶矢の事を心配する気持ちは決して偽りではない本心だ。
因みに夕弦は胸をドンと見せつけていた、それは姉妹の片割れには存在しない男の視線を釘付けにするそれだ。それが相手に発破をかけるためわざとであるのか、それとも相手の事を考えて無意識下で出てしまったものなのかは彼女にしか分からない。
「…~ッ!」
裏のない疑いようのない優しさを受けて彼女は唸ってしまう。
「…………呵々っ」
『!』
すると耶倶矢の口から使用率の高い単語が飛び出してきて三人は驚いた雰囲気を出す。
「我は風に愛され支配に置く者!かの女の言葉で揺らぐほどやわでは無いわ!!」
(((揺らいでただろ)))
勢いを取り戻した彼女を見て三者がそれぞれそう思った。
虚華を忘れようとするのは止めたが、次は自分にとって都合の悪い事を忘却しだした。脆く崩れやすいお豆腐メンタルガールだった。
◎
朝の一件こそあったがその後は特に問題のない学校生活を送っていた。
だが士道は授業にあまり集中できていなかった。眠たかったり、体調が悪いわけでは無い。今の彼の脳内の思考のリソースの大半はある事で埋め尽くされているからだ。
「…士道」
「…………え?あ、何だ」
隣の席に座っている折紙に名前を呼ばれて彼は驚いて顔を上げて声の主に視線を向ける。無表情ではあるのだが、前の世界の事と合わせてもそれなりの長さの付き合いになるため、相手が心配そうにしているのは彼も分かった。
「授業が終わってからもう三分も経っている、次は理科室に移動」
「え、あっ、そうかそうだったぼーっとしてた…」
「やはり虚華の事か?」
「…………」
折紙が心配こそしているがやんわりとした対応をする反面、十香は周りが自分たちの会話に注目していないのを確認してからストレートに尋ねた。
「ああ」
彼は素直に認めた、ここで無理に隠そうとしても不安がらせるだけで害だけで益は無い。そもそも精霊達にはバレているし、朝も虚華の話題が出たからだ。
「昨日十香に言われた事がどうにも頭から離れなくてな」
「?十香が?」
当然折紙は昨日の件を知らないのだからオウム返ししか出来ない。
「あの後うちに来て、虚華の事で気になる事があるって言われて…」
「気になるって?」
「虚華が投げやりのように感じたって」
それを聞いて折紙はふむ…と言った感じで何かを考え込む。
士道はそんな姿を見て問いかける。
「何か折紙も思う事があるのか?」
「いえ…無い…けど彼女が私のようにファントムから霊結晶を与えられていないのであれば、あれだけ話せて考えられるという事は何処かで人間社会の事を学んでいるはず」
「そういえば二亜の『SILVER BULLET』の事も知ってたよな。それに中二病がどうこうとか百合っ子とか言ってたし、サブカル知識も豊富そうだった」
精霊マンションに来た際も多少至らない点はあったものの、彼女は基本的に落ち着いて闊達とした対応をしていた。少なくとも霊結晶を与えられていない、元人間では無い精霊にはあまり見られ無かった、それこそ狂三のような人間慣れした対応だった。
「こうして落ち着いて生活している今でこそ思うのだが…もし私が最初にシドーに霊力を封印すると言われたら…素直に首を縦に振れたか分からない…もしかしたら警戒してシドーを拒否したかもしれん…」
「十香……」
十香は落ちつた声音であったが少し苦汁を滲ませた表情でそう言った。
だがそう思ってしまうのも仕方のない事だ。当時自分に関わってくるのは命を狙ってくるASTの隊員だけで、身を守ってくれる要である天使と霊装を奪うと言われてはい分かりましたとはならないだろう。
かつての士道は封印の事など全く知らず、ただあの時は必死に相手の事を考えて理解しようと必死だっただけだった。だからこそ彼女も心を開いてくれたのだ。
力を失って以降はラタトクスが保護する約束とはいえ、そもそも己の身を脅かす存在に対して完全に守れていない事は分かっている、それでも封印の道を殆ど迷いなく選ぶのは普通では無かった。
推測でしかないのだが、虚華もまた他者から強い拒否を受けて生きてきたはずだ。
「…………」
そこまで考えると士道はこれから相対するであろう相手がとても異質な存在に思えてしまった。だからと言ってビビってなどいられないのだが。
「シンちょっといいかな」
「うおっ!」
「いつの間に……」
「気配を感じ取れなかった…」
すると彼の背後から声がかけられる。それに驚いたのは彼だけでなく、折紙と十香も話に夢中でその相手の気配を感じ取れなかった。
三人の傍にいたのはこの学校の教員であり、またラタトクスの構成員の一人でもある村雨令音だった。
いつまでも驚いているのも失礼なので気を取り直して質問をする。
「令音さん、何かあったんですか?」
「いやね、シンにお客様が来たから今は物理準備室に通していてね」
「客…琴里ですか?」
彼は自分の思いつく限りあり得そうな予測を口にする。この時間帯にやってきて、令音に話が通っていて、そしてもはや秘密基地と化している場所で待っていると聞いたら彼が思いつく解答は一つだろう。
だが令音は首を横に振って否定する。
「違うんですか」
「半分正解だ、彼女も来ている」
「誰が……」
相手の言い方に、もう一人の来訪者が誰なのか分からなくなってしまう。
一方で折紙は訪ねて来た相手が分かったようだ。
「まさか…」
「想像の通りの相手だよ」
「誰なのだ?」
令音は相手の思考を察する。十香はいまだに分かっていないようだった。
そして令音は教室まで士道を呼びに来た答えを口にする。
「訪ねてきたのは虚華だよ」
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ノープランで行こう
「っは……出来た…静粛現界……久しぶりだけど出来てよかった……」
虚華はとあるビルの真ん中に突っ立っていた。
これまでは己の意思とは別に隣界から引きずられるように地球にやってきていたのだが、今回は自らの意思で士道に会うためにやってきた。
屋上にある柵越しに下を見ると多くの人達が道を歩いているのが彼女の視界に映った。
「……こうやって歩いている人達を見るの久しぶりだなー…」
当たり前の日常を過ごしている人たちがいた。
だるいなーとか考えながら学校や職場へと歩く人たちがいた。
朝のさわやかな空気に当てられて、いい事がありそうみたいな根拠のないポジティブに浸る人たちがいた。
そしてそれらの日常はこれからもずっと続いていくと何の根拠もなく思っている人たちが沢山いた。
「いいな……」
彼女は少しだけ潤んだ瞳でそう言った。瞳には目の前に映る風景だけでなく、かつて映っていた何かも映していた。
「とにかくラタトクスとコンタクトを取らないと、そう言えばあのマンションって精霊が住んでたはず……行くか」
そう言って次の行動方針を決め、そして屋上から下の階段に繋がる扉に向かおうとするのだがそこで自ら服に気が付いた。
「うわまずい…っと」
そう言うと彼女の霊装が輝くと、先ほどまでのドレスに白衣という異質な装いから、白いシャツの上に茶色いコート、ジーンズ、おしてキャスケットという落ち着いたシックな感じの服装に早変わりした。
「制服やスーツの人達がいたから平日っぽいけど…この服なら職質とかされないよね…?」
そんな事を言いながら建物の外に出るために行動を起こす。
「着いた、多分ここだ」
短期間の邂逅した時の記憶を頼りにしながら昨日のマンションにたどり着いた虚華。前に来たときは暗かったためある程度しか分からなかったが恐らく間違いはないだろうと考える。
精霊として備わっている身体能力を極力使わずに徒歩で目的地まで行った。下手に目立つ行動を取ったり、霊力を使うとASTに捕捉されるか空間震が発生してそれどころではなくなるからだ。
「平日だけど不在とかじゃないよね…?」
そう言いながら彼女は施設の中に無造作に入る。
今頃は監視カメラにいきなり前兆もなく未封印の精霊の姿が映ったものだから、フラクシナスや地上にあるラタトクス関連の施設はすったもんだになっているはずだ。
一方でそんな事など知りようのない彼女からすれば対応が遅いなくらいにしか思えない。
「ここで間違ってないよね?」
初めて訪ねた際は夜中だったため、いまいち記憶が不明瞭になってしまっているためか不安になってしまう。
すると奥の扉からガチャリと言う音が聞こえる。
「……誰?」
「ラタトクス機関の者です。今は司令が不在なため少しだけ待ってはもらえませんか?」
スーツを着た人間が現れて、極力丁寧かつ棘を感じさせないように気を遣っているのが分かる感じて話しかけてくる。
「はい、今は学校ですもんね。分かりました」
これはある程度予想が出来る事だったため、素直に了承する。相手はその対応に少しだけ緊張感が抜けた面持ちになる。士道のように未知の恐怖に応対できる神経など普通の人間は持っていないのだ。
そんな事は虚華も分かっているためか、目の前の相手に恐怖の対象として見られていたとしても特段傷つきはしない。きっと士道だが特別なだけなのだ。
「ここで待っていればいいですか?」
「それは……」
『今から士道の通う学校まで案内するから付いてきてもらえるかしら』
彼女の質問に対してそこまで考える余裕が無かったのか言葉に詰まってしまうのだが、そこでスピーカーから琴里の声が響く。
どうやらこのイレギュラーな事態でも素早く学校から抜け出したフラクシナスに乗り込んだようだった。
「妹さん、いや別に学業を優先してもらっても…そこまで迷惑をかけるわけにはいかないし……」
『静粛現界したならあなたはまだASTに捕捉されていないわ、デートするならこれほど条件がそろっている事はそうないわ』
「デートて…」
学生の本文は勉強である事など百も承知ではあるのだが、この機会を逃せば次に邪魔が入らないベストコンディションでデートができる機会はそうないだろう。
何よりも封印の具体的な方法は教えていないが、一応デートに対してある程度前向きでいてくれている相手に深い事を考えさせる時間を与えたくないというのもあった。冷静に考える時間を与えて無駄に詮索をされて非協力的になられても困るのだ。
「…学校の皆さんに迷惑が掛からないなら…」
あまり気は乗らないようだったが、相手の提案なのだから彼女は首を縦に振るほかない。
◎
「本当に一体何なんだっ」
「すまない、授業前だというのに呼び出してしまって」
士道と令音は学校の廊下を早歩き、ちょっと走ってそうだけど言い訳次第では歩いているとも言えなくもないスピードで疾駆していた。走る中で令音からインカムは受け取っている。
彼の直感でしかないのだが、虚華は意味もなく人を傷つけるような存在ではないと思ってはいるのだ。それでも何か一つでも間違えればこの学校にいる多くの人達に被害者が出かねない。
「妹さんの入れる紅茶って凄く美味しい」
「このくらいレディの嗜みよ、コツはお湯で蒸らして最後の一滴まで出し切る事かしら」
物理準備室の扉を開けるとそこには机に座って紅茶とお菓子を楽しんでいる虚華と琴里の姿があった。
二人のほのぼのとしたやり取りに、うっかり士道は緊張感が削がれてずっこけそうになってしまうのだが何とか気合で踏ん張ってみせた。思っていた以上に攻略対象がフレンドリーだった。
部屋に入ってきた相手に気が付いた虚華は椅子から立ち上がって頭を下げた。
「ごめんね士道、授業中に呼び出す気は無かったんだけど…」
「あぁ、大丈夫だ。それより警報が鳴らなかったんだが空間震は……」
「気合で静粛現界」
「そんな事が出来るのか……」
何というかあまりにもあっさりと言うものだから呆れるほかなかった。
そこで相手の背後にいた琴里が自分の服を指さして何かのジェスチャーをしていた。
(制服…?)
彼は何故妹が中学の制服をここで見せつけているのかその意図に気が付かなかったのだが、ボケッと考えている内に大事なことを思い出した。
オシャレ目的なのか、霊装を着て街中にいるのをおもんばかったのかは不明なのだが、普通の人間らしい装いをしていたのだ。十香が見よう見まねで来禅高校女子用制服を模写していたため、それと類似した技術だと考えられる。
「虚華のその服良いな、似合ってる」
「ん?そう?霊装でぶらつくと目立つからなんだけどありがとう」
オシャレ目的ではなかったようだが機嫌はよさげにしている。服飾のチョイスを褒められて悪い気はしないという事か。
そしてサラッと言ったがあいては霊装が街中では普通ではないという常識自体は備えているようだった。
「えっとここに来た理由というか…一応昨日した約束の件なんだけど」
「ああ、そうだった。その…えっとデートなんだよな…」
改めてデートしますよと言われると流石にこれまで幾度となく修羅場を経験して慣れてきた彼でも恥ずかしくなってしまう。
それと同時に彼が考えたのは学校にどのように説明しようかという事なのだが、その思考を察してか令音がフォローを入れる。
「シン、学校の事はこちらで処理しておくから行ってくるといい」
「ありがとうございます」
決して気兼ねなくとは言えないが、取りあえずここから彼の仕事が始まるのだ。精霊をデレされてキスをして力を封印するという世界を掛けたデートが始まる。
◎
(いざデートをするといっても何も考えてなかった)
虚華を引き連れて街中に繰り出したのはいいものの正直ノープランだったのだ。これまで無計画だったり、アドリブまみれのデート自体は別になかったわけでは無いのだが、虚華のある一言が彼を追い詰めていた。
『せっかくだからラタトクスの仕込み抜きで遊びに行こうよ』
彼女はいたずらっ子のように下をちろりと出してそう言ったのだ。彼女には士道の後ろ盾の組織の正体は既に筒抜けだ。
前に琴里が力を逆流させて封印が解けた事があった際も、何をやってもラタトクスの意図でしょうと指摘された事があったのだ。
実際の所、あれは琴里が恥ずかしくて素直になれないための照れ隠しであったが、やりにくいことには変わりない。
(気まずいわけじゃないけどだんまりは不味いよな……)
今話題を提供しなくては後々話題を切り出しづらくなってしまうのは間違いないため、何とかしなくてはいけないと少し焦ってしまう。
ふと歩いていた彼の視界にファミレスが映った。そこから彼が連想したのはこんな一言だった。
「あ、そうだ、食事とかどうだ?」
「お腹空いてるの?まさか朝を抜いたとか?」
「……いやそうじゃないんだけど」
「……あ…もしかして要らない事を言っちゃった…?」
「いや思い付きだからそんなわけじゃ……」
忘れそうになるが今は十時台、本来であればまだ二限目の授業を受けているはずなのだ。よほどの腹ペコ早弁マンでもない限り空腹になる時間帯ではないだろう。
彼の中では基本的に精霊というのは大なり小なり食べ物につられやすい気質を持っている。少なくとも彼はそう思っていた、だが思えば食べるのが好きというよりは彼が腕を振るって用意してくれたり、一緒に居られる時間が好きなのかもしれない。
料理を作るという行為は相手のことを考える行為の一つなので、自分の事を考えてくれるその事実そのものが嬉しいのだ。
士道はそんな心の機微など気が付きようもない。
「あれって何?」
二人の間に流れる雰囲気が気まずくなったのを察してか、虚華は目に入った物を質問する。案外行動原理は似ている二人なのかもしれない。
「あれはタピオカミルクティーだよ」
「タピオカって何?」
虚華はタピオカという単語にピンとは来ずに首をかしげる。どうやら最近流行ったものには疎いようだった。
「前に気になって調べたんだが、芋の一種らしいな。美味しくて甘いって結構流行ったんだよな」
「ほー、いつの間にかそんなミルクティーが流行ってるんだ」
店先のサンプル品を彼女はまじまじと見て興味深そうにしている。ミルクティーは知っているがそれに浮かんでいる謎の黒い粒に興味津々な様子だ。
「とは言っても全盛期よりは廃れているんだけどな」
「悲しい…やっぱり永遠なんて無いんだ……せっかくだから買お…う…」
そこで彼女の言葉が詰まってしまう。士道はそんな様子に不審さを感じる。
「どうした?」
「お金持ってない……」
「あー…ラタトクスからお金は貰ってるから気にしないでくれ」
他人からお金を用意してもらっているなど男の面子的には口にするべきではないだろうが、金銭面で不安がっている相手を安心させることが出来る一言はこれしか思いつかなかったのだ。
「美味しい…んだけど甘すぎる…喉が焼けそう…」
「そうか?口に合わなかったか?」
二人分のそれを買ってその場で立ち飲みしたのだが、士道とは違って虚華は口に広がる味に難色を示した。機嫌が悪いというわけでは無いものの気分が良さそうとは言い難いそんな感じだった。
「……嫌いなら無理して飲まなくていいんだぞ」
「でも飲み切らないとせっかく買ってもらったのに勿体ない」
「そうだとは思うけど…でも無理してまで飲むことは無いと思うが…」
お金を払ってもらったのに廃棄してしまうのはあり得ないという彼女の理論には、常に家の台所や冷蔵庫を取り仕切る士道にとってはとても共感できる理屈ではある。
しかし口に合わないものや嫌いなものを無理してまで喉に通して欲しいとまでは思ってはいない。
そんな事を考えている間にも彼女はストロー越しにちびちびとだが飲んでいる。しかしその表情には苦悶が滲んでいる。
「甘すぎる…どうしよう…よく士道は飲めるね……」
「…そんなに驚くようなことじゃないと思うが……」
「じゃあ……」
彼女の持っていた透明なカップに入ったそれをずいっと相手に向ける。その行動に最初彼は何をされているのか分からなかった。
「…?…何を……」
「あげる…っていうか元々士道のお金だけど…捨てちゃうのは勿体ないでしょう」
「ぅ……」
相手の意見におかしなところは特にないのだが、士道は節約とか勿体ない精神よりも頭に浮かんでしまった事があったのだ。
間接キスという相手の口を付けたものに己の唇を付けるという行為だ。普段であれば何とか表情に出さないようにする事も出来たのかもしれないのだが、今は精霊とのデート中であり、キスによって相手の力を封印しなくてはいけないという使命を課せられた彼には否が応でも唇関連の事を意識してしまうのだ。
「……?…ああそういう…」
士道が自分の差し出した飲み物に躊躇いを見せているのを最初は不審に思ったが、すぐさまその理由におおよそのあたりをつける。
「あれだけ女の子に囲まれているのに間接キスで動揺するの…?まさか経口部分の細菌を気にするような潔癖症じゃないんだろうし」
彼女の嘘でしょ?みたいな反応にうぐ…と詰まってしまう。その反応に士道は少しだけカッとなるが、口から出るのは極力棘を無くした感じの声音。
「わ、悪いかっ?」
「いや別に悪いわけじゃないけど純情すぎると思うよ。女なんてよほど大嫌いな相手じゃない限り間接キスで気持ち悪がったり、勘違いとかしないから。もしかして意外と女性に夢見がち?」
「夢見がち…?」
呆然としている相手を見てどう説明したらいいのか悩んでいる感じて首をかしげていたのだが、すぐに思いついたことを彼女は口にした。
「例えば…そうだね…性欲は男だけで女性には存在しないと思っているとか」
「せ、せいよく」
その一言に彼は衝撃を受けた、目の前の女の子からそんな単語が出た事もだが。
童貞の彼には自分の中の昂ぶりを自覚することは出来ても、相手の中に存在する快楽に関連するリビドーの事など想像できるはずもない。
「いやそんなはずは―」
脳裏に浮かぶのは彼にとっての純情さの塊である十香。
その幻想を守るために何とか否定しようとするのだが、そこでふと脳裏に浮かんだのは鳶一折紙、何の脈絡もなく下着を脱いだり媚薬を飲ませてくる精神異常者だった。
そして彼女は相手の言葉が詰まった事を見逃しはしなかった。
「心当たりあった?」
「……………………」
「まあ取りあえず飲みなよ」
士道は黙って力なくうなだれた。
そして二人分のタピオカミルクティーを飲んだ。とても美味しかったはずなのだが、幻想を砕かれて動揺している彼の記憶にはいまいち定着しなかった。
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何故か好感度が高い
どんなに心を乱されたとしても世界を救うデートは士道の意思とは無関係に続行される。
今二人がいるのは一回に食品販売フロアがあるようなオーソドックスなタイプの複合総合施設、いわゆるデパートというやつだった。
相手が何を好んでいるのかが分からない以上は冒険するよりは、取れる選択肢の多い場所をチョイスするのが無難な選択肢だと思ったのだ。士道はそう考えて相手に切り出す。
「取りあえずぶらつこうか」
「そうだね、気になった物を見つけたら足を止めよっか」
彼女もまた別段デート自体に何かをしたいという目的を持っているわけでは無いためそれに乗っかる。
あてどなくぶらついていると彼の目にケーキ屋さんが飛び込んで来てつい足を止めてしまう。
「どうしたの?」
「え?ああ、いや。みんなのお土産にどうかなって…あ……」
相手の何気ない質問に彼はうっかり口を滑らせてしまう。
封印関連が主目的とはいえ男と女が一対一でデートをしているというのに、別の女の子の事を考えていましたなど絶対に口にしてはいけないだろう。そんな事は琴里に注意されるまでもなく分かっていた事だった。
虚華は相手にそう言われて閉口している。
「…………」
「いやあのだな……」
彼は慌てて弁明を図るのだが一度行ったことは無かった事には決してならない。
「精霊の皆はどういうケーキが好きなのかな?」
「へっ?」
「皆の分って事は結構かさばっちゃうね。運ぶのどうするの?」
虚華は士道の傍まで寄って、屈みながらお店のショーケースに並んでいる色とりどりのケーキたちをじっくりと見ている。
相手は目の前の自分よりも優先して考えている人たちがいますと言外に伝えられても一切不機嫌になるわけでもなく、むしろその話題に乗っかってきたのだ。
「いやだな、さっきのは……」
「別に士道はいつでもたくさんの人達を大切にしているってだけでしょ?だから精霊と交渉するなんて危険なことが出来るんだよ。きっとそれは短所じゃなくて長所なんだから誇っていいんじゃないかな」
彼女の全てを分かったうえで行われる優しいフォロー。だがその優しさが強ければ強いほど心苦しくなってしまう。
「でも虚華とデート中なのに……」
「いいっていいって別に悪気があったわけじゃないんだから。そんな謝ってる時間よりも色々なものを見て楽しみたいな」
『シン、彼女の言葉に嘘は無いよ。本気で多くの人の事を、そして精霊の事を考えている君に感心しているんだ。事実として彼女の君への好感度は上昇しているよ』
「…………」
インカムから入ってくる令音の情報。それは彼にとってマイナスになる要素が一切ないものだった。
「…そうだな」
「そうそう、ラタトクスと何を話していたのか分からなかったけど気を取り直そう」
相手が気にしていないというのであれば、それを何度も掘り返して謝ろうとするのはかえって不機嫌にさせるだけだろう。
「ちなみに十香が好きな味はな―」
士道は相手からの質問に素直に答える事にした。
彼は自然と精霊たちの話題になると饒舌になった、それを虚華は嫌がることなくニコニコと相槌を打ちながら聞いていた―
「それでなー」
「うんうん」
『って士道!いつまで他の女の子の事で話し込んでいるのよ!?』
「……はっ!」
いつの間にか目の前の相手を押しのけて封印された精霊の趣味趣向や出会いまで色々と話し込んでしまっていたのだ。いくら相手がそれを容認したとしても流石に限度を超えてしまっているだろう。
『ですが好感度は特に問題ありませんね…僅かずつですが好感度は上昇傾向にあります……』
『それはそれで問題よ…いったい虚華はこのデートのどこに魅力や面白さを感じているのよ……』
オペレーターの一人からの報告に琴里は頭痛を堪えるように唸る。
仮に好感度が振り切れている琴里であれば、そんな士道の人柄であっても受け入れる事も出来たはずだ。だが殆ど友誼を結んでいない虚華がこうもあっさり彼の人柄を受け入れているのは違和感があるのだ。
だが違和感の正体を掴もうとしている間もデートは進んでいく。ただし順調とは言い難いのだが。
「…………」
ケーキ屋の店員がこの二人はいったい何をしているんだという風な感じで見てきていたのだ。
一見すれば仲の良いカップルに見えなくはないのだが、二人の間でかわされる会話の内容は別の女の子の事ばかりなのだ。一体何がしたいのだと思われても仕方のない事だった。
(話に乗っかってくれてるけど流石にこれ以上は……)
これ以上は男として色々とダメな気がしてきた士道は話題の変更を図った。
「ケーキは取りあえずおいといてさ、他のフロアも見てみないか?」
「そうだね」
相手の提案に嫌な顔一つせずに乗っかる虚華。
相手がどんな失態やミスを犯そうがそれを笑って受け流すなり、それもまた相手の個性だと受け入れる構えだった。
その場からそそくさと離れて上の階に繋がるエスカレーターを上がっていく二人。
「あのネックレスとかどうだ?」
「うーん…そうだねー……」
「もしかして気に入らなかったか?」
「そういうわけじゃ……ごめんね、ちょっとゴテゴテしていて嫌い」
「…そうか……」
様々なテナントを見て話題を振るのだが相手の食いつきはイマイチだった。
彼の知っている彼女のパーソナリティ情報は殆どないため、どうしても手さぐりになってしまうのは致し方のない事とはいえ焦りが生まれてしまう。
これまでのデートであれば少なくともそうだったのだが、今回ばかりは毛色が違った。
『こんなに情けない姿を晒しているのに好感度が中々下がらないわね…事前に封印には士道への好感度が高ければ好ましいと説明はしたけど、ここまで好感度を上げていてくれるとはね……』
(ほんと…何でなんだろうな)
フラクシナスのAIに搭載されている演算装置によって割り出された情報では、封印に必要な数値までもう少しというところまで来ていると結論が出ている。
これまでの精霊とのやり取りでは考えられなかったパターンに困惑しかなかった。
そんな事を考えているとふと目に入った物があった。
「これは…?」
「ん?」
その店は生活雑貨を取り扱っていた。彼の目に留まったのはフライパンだった。
前に魚が焼きにくかったため新しいものを買わないとと考えていたのだが、新たな精霊の発生によってそれどころではなくなったため保留にしたままだったのだ。
何かを気にした彼の仕草を瞬時に読み取った彼女は当然のことに質問をする。
「どうしたの?」
「んーいや別に…」
「嘘。何か気になったんだよね?教えてよ」
誤魔化そうとしてもそれを一切許す気は無いらしく再び問いかけていく。
「いやさ、家のフライパンが少し焼きにくくなってた事を思い出したんだ」
「士道って料理作れるんだ。凄い」
彼女は家庭的な一面を見せた相手を素直に賞賛した。だがその賞賛も彼からすれば特別なことではない。
「うちは親が不在がちで自然と自分でやるようになっただけだよ」
「……そっかー」
虚華はその相手の返しに何とも言えない表情になった。
それを見て彼は親がいないために上達したというのはプラスとして捉えられにくい事だと気が付いた。
話をこれ以上深刻化させない為に慌てて弁明を図る。
「家にいなくても家族は家族で揺るがないし、料理を作るのも食べてもらえるのも嬉しいし楽しいんだ」
「…?…あ、そうか…別に士道がそれに負い目を感じていないならいいよね」
相手は何やら勘違いをされていた事に気が付いたようで話を合わせて来た。
士道は何やら逃してはいけない小さな綻びを察知してその事について問いかける。
「虚華、一体―」
「そうだ折角だからここで買ったらどうかな」
「え?」
あまりにと唐突な提案に一瞬思考が停止してしまう。それはあまりにも予想外過ぎた発言だった。
返答に困っている間にも彼女はお構いなしに言葉を繋いでいく。
「今思い出したわけだしいいんじゃないかな」
「デート中なのにそんな…」
「デート中なのに他の女の子の話題を出しておいて今更じゃない」
「ぐっ……」
そう言われると弱ってしまうのは士道側だった。相手からしても男がデート中に他の女の子の話題を出すべきではないと思ってはいたのだ。
しかしその指摘をしている相手は本気で咎めようとしているわけでは無く、あくまで軽めにいじっているという感じだった。
『何やってんのよ…本当に……』
ただただ琴里の呆れた声がインカム越しに伝えられた。
ぶらついていた彼の視線にふと入ってきたのは本屋だった。
思い出されるのは二亜の漫画のタイトルやペンネームを把握していた事だった。
「そうだ、虚華って漫画とか読んでたんだよな」
「うん、色々と切っ掛けがあってね。そう言えば二亜さんの漫画の続きが気になるなー」
色々との部分が気にはなったものの、ここでいきなり踏み込んでしまうのはあまりにも距離を詰め過ぎだと思って突っ込まない。相手もまた突っ込まれたくないのか話題の変換を図っていた。
本屋の中に入るとすぐさま出入口にて二人を待ち受けていたのは大人向けの雑誌だった。
「ッ」
「?あ、へー」
それが目に入って強く顔を逸らしてしまった士道を見て虚華は面白いものを見たという顔をする。
そして彼が視界にとらえた雑誌を取って口を開く。
「いや士道もやっぱり男の子だなぁって…あんなに女の子に囲まれているのにこういうので照れちゃうんだね」
ニコニコとしながら雑誌片手に彼をいじってくるのだが、女の子が大人のプロレス本(男向け)を持って話しているという破壊力抜群の構図に、健全な男の子である彼は顔を真っ赤にして口をパクパクとしてしまう。
「んなっ!お、女の子がそんなことしていいのかよ!?」
「ん?だから士道は夢見すぎだって女の子もわりかし興味津々だったりするんだよ?」
「そ、そんな…」
またもや衝撃の一言、彼の中にある優しい幻想がどんどん崩れていく。
それと同時に周りの客たちは騒がしい二人のやり取りを微笑ましく感じる人もいれば、迷惑そうに嫌な顔をしている人もいた。
『さっきから何呆けてんのよ!好感度はある程度いい線行ってるから自分からアタックしなさい!』
「あ、アタックか」
『手の一つでも握りなさい、今の好感度なら拒否される事は無いはずよ』
インカム越しから送られてくる琴里からの指示。
士道が驚いたのはアタックしろという指示よりも、手を繋いでも拒否されないほどに好感度が上がっている事だった。正直今回のデートでいい所を見せれていたとは言い難かったからだ。
だが悩んだり怯んでばかりもいられないため切り出していく。
「その本はいいからさ、取りあえず中に入っていこう」
「!」
そんな言葉と共にさりげなく相手の手を握って引いていく士道。
虚華は一瞬驚いて体を固くしたのだが、すぐさまその手を握り返す。ラタトクスの演算通りに拒否をされることは無かった。
手を引いて二人が向かった先は雑誌コーナーだった。そこには二亜の描いた漫画が載った雑誌が置かれていた。
彼女が思い出したのは二亜と呼ばれる女性が漫画家であると自称した事と、周囲の人達は一切否定しなかった事だ。
「本当にあの人が本条蒼二なんだよね」
「間違いないぞ。俺も前に生原稿を見せてもらったからな」
「それはまた羨ましい」
彼女の口からそんな言葉が出ると士道はその場で思った事を提案した。
「今度時間を作って仕事場に入れてもらえるように頼もうか?二亜も虚華の事気に入ってたっぽいし」
二亜はよほど機嫌が悪くなければ士道わ精霊のお願いは聞いてくれるだろうと思ったのだ。何より漫画のファンであろう相手を蔑ろにはしないと思ったのだ。
だが読者からすれば誰もがお金を払ってでも行きたい聖地、そして血の涙を流すほど羨むであろうその提案に対して虚華は少しだけ難色をした。僅かながらではあるが握っている手が汗ばんで力が入っている。
「うーん…まぁそれはいいかな…素人がズカズカ入っちゃいけないだろうし……」
「何か嫌なことを言ったか?」
「いや嬉しいしそうじゃないんだけど…さ…色々と思うところがね……」
相手は珍しくバツの悪そうなリアクションを見せた。
そんなやり取りをモニターしている琴里から指示が入る。
『士道、虚華の数値が少し揺らいでいるわ。話題を変えるのよ』
「他にも本を探そうか。もしかしたら面白いやつとかあるかもしれないし」
「色々と知らない漫画とかあるかも」
話題の変更に助かったといった感じですぐさま相手の提案に虚華は乗っかった。
二人はある程度ぶらついてから、一休みを入れる目的と食事の為にファーストフードの店に入った。
『あ、こんな新しいハンバーガーが発売していたんだ、チャレンジしよ。○○バーガー一つで、後ポテトにコーラで』
そんな中、士道やラタトクスの目を引いたのは虚華が特段詰まるわけでもなくあっさりと注文をした事だった。
そんな相手は席に座ると包を開いてその小さな口で美味しそうに頬張り始める。
(どんな切っ掛けがあって虚華はこんなに街や人に慣れたんだろうな……)
彼もまたハンバーガーをくわえながらも、相手の顔を見ながらそんな事を考える。
『だっておまえも、私を殺しに来たんだろう?』
彼の脳内には人間という存在を最大級に警戒するかつての十香の姿があった。
だが一方で彼女の対人関係に関するスキルは、ちょっといたずらっ子ではあるもののごく普通の高校生と比べても特段不自然さは感じないものだった。何なら今の十香の方がまだ不自然さを感じるくらいだった。
そして何よりもこのデートを異質であると感じたのは、これまでは士道やラタトクスが精霊をもてなす客人を扱うような関係性が殆どだった。
しかし虚華は士道の好きな事や気になった事を積極的に話題にしようとしていたのだ。
本来であればデートというものは一方的に相手が尽くすものではなく、お互いがお互いに尊重して楽しむために、二人で考えあって楽しい時間と空間を作り上げていくものだ。
虚華は多少は雑な面があるとはいえ基本的に自ら率先してデートを盛り上げようとしていた。
「……?…私の顔になんかついてる?」
「え、いやそうじゃなくてな」
どこまで聞いていいのか彼にはその線引きが分からなかった。基本的にフレンドリーとはいえ何が切っ掛けで今の好感度が下落するかも分からないのだ。
虚華は士道の顔を見て何かに気が付いた。
「あ、士道の右の方にソースが付いてる」
「え、本当か?」
相手からの指摘に慌てて左手で唇の右側を拭う。だが触れた手にはソースの感触が無かった。
「あ、ごめん自分から見て右だから士道からだと左側だった。てか手で拭っちゃうから油でむしろ汚れちゃってるし……」
苦笑いをしながらも椅子から軽く立ち上がって、用意されていた紙のふきんを右手に持って彼の汚れている左頬を拭い始めた。
相手は無自覚なのか顔をグイッと近づける、士道の視界いっぱいに広がる虚華の顔。
「ッ」
視界いっぱいに広がる美貌、それが少しだけ照れくさくて顔を逸らそうとするのだが、
「拭きにくいから顔動かさないで」
彼女はそう言って左手を士道の顔に添えて動かないように固定をする。よって視線を逸らして逃げることが出来ないのだ。
よって両頬を綺麗にするまで悶え死にの刑確定だった。インカム越しに琴里の溜息が聞こえた気がしたがそれは耳には上手く入らなかった。
「…………」
(え…?)
虚華は彼の顔を拭きながらも少しだけ懐かしむような悲しむようなそんな微妙な表情を作っていた。
また一つ彼女の謎が増えてしまった。
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虚華の願い
目の前の大型モニターには会話で盛り上がっている男女がいた。士道と虚華だった。
「ビックリするくらい順調…かもしれないわ…もう一押しで封印可能圏内だし……」
ラタトクスの指定席に座っている琴里はふかふかの指定席に座りながらそんな風に呟いた。
最初はラタトクスの仕込み禁止令が出されてどうなるかと思ったのだが、士道がミスをしても虚華は別段気にする事もなく、むしろ積極的にデートを盛り上げようとすらしていた。
これまでデートを重ねても相手精霊自身に問題があったり、順調でも横槍を入れられて最悪な状況になったりしたのだが、だが今回は静粛現界によって出現を悟られていないし、虚華は積極的にデートを成立させようとしている。
これまでの精霊はファントムから霊結晶を与えられた組以外は基本的に世間の常識に疎いため、外出には最大限の警戒をしなくてはいけなかったのだ。だが虚華は基本的に店員や一般人に対しても普通に接していたのだ。
「そうですね」
「もう何もしなくてもいいのでは?」
「帰ります?」
「いつASTやDEMがやってくるか分からないんだから気を抜くんじゃないわよ!折檻するわよ!!」
部下が分かりやすく気を抜いたため上司である彼女は大声で喝を入れる。まだ封印は完了していないし、どのようなイレギュラーが現れるのか分かったものではない。
「……………………」
折檻というその単語が琴里の口から飛び出したというのに、それに一番飛びつきそうな神無月は一言も発さずにじっとモニターを見ていた。
彼のパーソナリティや行動パターンを熟知しているフラクシナスのスタッフは気持ち悪いものを見ているような表情を一様に作る。その異物を見るような目と表情すらも彼の興奮材料になりかねなかったのだが、彼は今はそれすら気にする余裕がなさそうだった。
職務に真っ当に向き合っているという社会人であれば至極当たり前のことをしているだけで気味悪がられてしまう男、神無月。
「どうしたのよ神無月…いい加減気持ち悪いわよ……理不尽に蹴り飛ばすわよ……」
真面目に精霊やデートをモニタリングするのは大切だが、いつも通りの行動を取ってくれないとさすがの琴里もいつものテンションを出せなくなっていた。
「え!?本当ですか!!」
「いつも通りだったー!」
流石に直接名指しで話しかけられたら反応するのだが。熱烈琴里ラブな彼が自分へのそんな愛おしい(本人比)振りを逃しはしない。
◎
二人はゲームセンターで時間を潰し始めていた。
映画に行くという案もあったが、確かに楽しむだけならアリな選択肢だったがデートの主目的の一つはお互いの事を知る為なので、黙る事を強制される空間は却下となった。
「士道!右からゾンビが来てる!」
「えっうおっ!動きはやっ…て銃弾切れた!」
「やられるって!?」
ゾンビたちを倒して先に進むというシューティングゲームに熱中している二人。
色々とデパートのフロアを回った結果二人で遊べるのはゲームセンターの筐体しかないという結論に達したのだ。
「うわー…敵が出すぎだよ……」
「まさかあそこで樽を撃つと爆発して破壊された壁からうじゃうじゃ出てくるなんてな……」
「それ士道が撃ったせいじゃん!」
「なっ…!俺だって分かってたら撃たなかった!」
「…………」
「…………」
二人は先ほどまでそこそこ血みどろのゲームをやっていたためやや殺気だっていた。お互いに睨みあっている。
だがその険悪な雰囲気が長続きする事は無く。
「…………ぷっ、あははっ!」
「!」
虚華は吹き出して笑い始めた。
所詮はゲームでの出来事であって本気で喧嘩をしていなかったとはいえ、いきなり喜を見せるという、先ほどまでの怒から切り替えるというせわしない感情の変化を見せる相手に士道はポカンとしてしまう。
「いやーごめんごめん、こうやって気兼ねなく遊ぶなんて久しぶり…たくさんの事を楽しめて本当に良かったというか…つまらない日々を忘れられてさ、やりきって悔いなしっていうか…ありがとうね士道」
「……虚華?」
それはあまりにも儚いと感じる優しさと悲しさの対極な感情を内包している美しい笑顔だった。
その表情を見た瞬間彼の脳裏にチリッと走ったかつて体験した記憶。
『シドー。やはり私は―いない方がいいな』
それは十香が一日士道とデートをした結果、人が紡ぐ世界とその美しさ、そして否が応でも自覚してしまう精霊が生み出す空間震という未曾有の大災害。
だがなぜ今この思い出を彼が想起したのか、彼自身が困惑した。
『シン、彼女の好感度が封印の十分可能な数値まで到達した。後は頃合いや場所を図ってキスをするだけだ』
『後は士道のタイミングに任せるわ。下手に介入すると好感度に悪影響を及ぼしそうだし……』
インカム越しに令音と琴里は必要な情報だけを伝えて、後は士道の選択にゆだねる構えだった。
「まだ時間はあるんだからもっと遊ぼうよ!時間は有限なんだから!」
「お、おいっ」
虚華は本当に楽しそうな表情で士道の手を引いてフロアを歩き始める。
既に彼女の方から相手の手を引くほどまでに彼を気に入っていた。
◎
「…………」
季節は冬になっているため、放課後になると太陽は既に落ちようとしていて空は黒色に差し掛かろうとしていた。
十香は難しい顔をしながら家に帰っていた。考えていたのは今朝士道が訪問して来た虚華の力を封印するために学校を早引きした事だ。
事情は勿論分かっている。封印するには相手に気に入られてキスを介して霊力を体に入れて封じる事は。彼女が考えていたのは彼が女の子と一緒にサボっているということそのものではなく、相手の女の子の事だ。
何かが引っかかっていた、思い出せと彼女の直感とも言える何かが警鐘を鳴らしていた。
「呵々っ!わが眷属よ!何を悩んでおるか!主である我に打ち明けてみよ!」
士道たちに朝励まされた耶倶矢は相変わらずのめんどくさいテンションで十香の背中に声をかける。これで人違いであったのなら目も当てられないが、残念ながら彼女の持つその艶やかな黒曜石のようなロングヘアーは唯一無二の物だ。
「お疲れ様です十香」
「お疲れ様だ夕弦に耶倶矢」
十香は挨拶をされたらそれに返さないような礼儀知らずではない。思考を中断して挨拶を返す。
相手の顔が少しだけ強張っているのを見て夕弦は何事かと質問をする。
「質問。先ほどまで悩まれていたようですが何か心に引っかかる事があるのですか?」
「……うむ…二人は今シドーが虚華に会っている事は知っているな?」
「知ってるわ、それがどうかしたの?…正直苦手だけど…でも悪いやつじゃないと思うけど…」
十香の真面目な雰囲気にいつもの中二病モードを止めて真面目に対応する耶倶矢。
「うむ、きっとシドーともみんなとも仲良くなれると思っている、いるのだが…何か嫌な気がするのだ……」
「ふーん…まぁでも何だかんで友達になれるんじゃない?」
「友達…?」
耶倶矢の何気ない単語に十香は引っかかりを覚えた。そして脳裏に浮かぶのは昨日のやり取り。
『友達を作って遊ぶのは楽しいぞ!』
『うん、知ってる』
虚華はそう言ったのだ。その発言は見方や受け取り方次第では彼女に友達がいたとも取れるのではないだろうか。
「そうだ…虚華には友達がいたかもしれない…?…仮にいるのだとしたらその相手は誰だ…いったいどこにいるのだ……」
「挙手…思うのですが……」
夕弦は十香の指摘に手を控えめに上げて発言をしようとする。二人は発言の続きを促す。
「提唱。もし仮に虚華に友達がいたのであればその相手が彼女に人としての常識や知識を教えたのではないでしょうか?」
◎
士道は虚華と手を繋ぎながら高台にある公園に向かっていた。
やはりキスをするならば景色のいい場所に限るというありきたりな理由だが、既に辺りは暗くなっているため夜景がきれいに見えると踏んでいる。
だがそれと同時並行で別の事を考えていた。
(そうだ…あの時虚華は友達がいるような口ぶりだった…あまりにも自然な感じだったから見逃していた…)
その誰かに人としてのイロハを学んだのであれば彼女の闊達とした口ぶりや、サブカルチャーに関する知識を持っているのも分かるというものだ。
(じゃあ誰なんだ…?…ラタトクス以外にもそんな精霊と向き合える優しい人がいるのか?)
そこまで考えたところである事が引っかかった。
『DEMを知ってるのか?』
『何度も命を狙って来たからね。あいつらは精霊だけじゃなくてそれに関わった人も容赦なく狙うような奴らだし』
それは虚華が苦々しい表情で言った事だった。もし精霊に関わった人を狙うというその標的が件の友人だとしたら?
虚華がその時に感じた絶望はどれほどのものだったのだろうか?
それらはあくまで士道が想像した最悪過ぎるシナリオでしかないのだが、何故か今の彼はその嫌な想像を振り払うことが出来ない。
冷静に考えればあったばかりのラタトクスを簡単に信じることは出来ないため、仲の良い人や関りのある組織があったとしても素直に教えるはずは無い。そのように考えるのが普通だった。
「もしかして士道が連れて来たかった所ってここ?」
「へっ?」
「いや疑問符で返されても……」
彼が脳をフル回転させて思考を巡らせている間も時間は平等に過ぎている。
気が付くと彼の目的地である高台のある公園に到着していた。意識は別の事を考えていて散漫でも足はこの街の地図の事はキチンと覚えていたようだ。
「おー夜景が綺麗じゃない」
「ああ、そうなんだいい場所だろ?」
「うん、もしかしてあの建物が昼間に遊んだデパートかな」
気持ちが心なしか沈んでいる士道に対して、虚華は電気が生み出すオブジェを楽しんでいるようだった。
(あまりにも都合がよすぎて忘れていたけど…命を狙われる精霊がこうもあっさりと力を捨てようとするものなのか……?)
『多分嘘はついていないんだろうけど…そうだね…うーんどこまで信じたらいいのか……』
『…封印後もラタトクスは…キチンと力を失ったあなたの保護やアフターケアは継続して行っていくわ』
『ん…まぁそれは別に期待してないけど…じゃあ取りあえず封印されている精霊に会わせてよ。そっから考えるからさ』
ラタトクスが精霊の力の封印を目的として動いていると説明した際に、琴里は力を失った後もきちんと守ると言った。それは虚華がそれを不安に思っているだろうと思ったからこそ口にしたのだ。
だが相手はその事は別に期待していないと言ったのだ。
封印によって弱体化は了承しているのに、ラタトクスのアフターケアは別段欲していないというのはどうにも分からなかった。
「そろそろいい時間だね。楽しかった」
「ああ、俺もだ」
「そう言えばこのデートの主目的って力の封印なんだよね?結局何をするの?」
「ああ、えっとだな……」
虚華はこれまで気になってはいたが、迷惑になったり気を悪くするかもしれないと思って言ってこなかったことを口にした。
そこで士道は相手の肩をしっかりと握ってぐっと体を引き付けて顔をお互いの顔を近づけた。
「えっ…へ…ええっ!」
虚華は自分の置かれている状況に気が付いて、顔を真っ赤にして驚きの声をあげる。
それは実体験として誰かからキスをされるという事は無かったのだが、彼女の蓄えた知識の中にはキスの手前の状況になっているのに気が付いた。
だが動揺こそしていたが目を瞑って相手の行動を容認した、つまりキスされる事を受け入れたという事だった。
『今度時間を作って仕事場に入れてもらえるように頼もうか?二亜も虚華の事気に入ってたっぽいし』
『うーん…まぁそれはいいかな…素人がズカズカ入っちゃいけないだろうし……』
『何か嫌なことを言ったか?』
『いや嬉しいしそうじゃないんだけど…さ…色々と思うところがね……』
本屋での一件、それはまるで次の約束を取り付ける事を恐れているようなそんな雰囲気を感じた会話。
彼がそんな事を思い出しながらも時間の針は少しづつ進んでいく。二人の顔の距離はもう僅かでゼロになる。
『いやーごめんごめん、こうやって気兼ねなく遊ぶなんて久しぶり…たくさんの事を楽しめて本当に良かったというか…つまらない日々を忘れられてさ、やりきって悔いなしっていうか…ありがとうね士道』
士道の脳裏に浮かんだのはデート中に虚華が口にした言葉だった。まるで自分自身の全てが終わったかのようなそんなニュアンスにもとれるセリフ。
(……まさかっ!)
彼は脳裏に浮かんだ目の前の相手の目的に気が付いてとっさに肩を掴んでいた腕を伸ばしてとっさに距離を作る。
「士道…?…どうした?…キスをするつもりだったんだろう?…しないのか?したいんじゃないの?」
虚華はもろにキス顔を見せてしまって、その事実が途轍もなく恥ずかしくて少しだけ棘のある口調で話してしまう。
「ち、違うんだ…そうじゃなくて……」
不機嫌になった相手を見て少し引いてしまったが、どうしても伝えなくてはいけない意志があった。
だからこそ一切引くことなく言い切った。
「虚華…俺は……お前を封印出来ない」
彼がそのセリフを口にするとこれまで暗闇の中でも優しい空気が流れていたのに、突如としてまるで絶対零度化のような厳かな雰囲気になってしまう。
『って士道!何言ってくれてんのよ!後はキスするだけだったのよ!』
誰もが凍り付いて動けない中で、一番最初にその硬直から抜け出した琴里は素早く叱責をした。あと一歩で封印可能であったことは士道自身も理解できたはずなのにそれを投げ出すというあり得ない行動は彼女でなくても怒り心頭だろう。
だが今の彼にはその叱責で怯んでしまうような、心に割ける精神的なリソースは存在しなかった。今の彼にはある事しか考えることが出来ない。
「なぁ虚華」
「え…?」
「…次はさ、どこに遊びに行こうか……」
「何を……」
相手は目の前で目まぐるしく動いていく状況に上手く対応できていないといった感じだ。
「だからさ、次の約束をしようって話だよ。デートってだけじゃなくて精霊の皆とももっと話して欲しいって俺は思ってるんだ」
「それは……」
虚華は相手の提案に感嘆に首を縦に振れなかった。今日のデートの感触を考えれば、少なくともあっさりとまでは言わなくても好感触の返答は得られてもおかしくないというのにだ。
相手のその困惑、そして焦っているような対応を見て、彼は自分の予想が間違いのない事を確信してしまった。
二亜の漫画家としての現場の見学を提案した際にやんわりと断ったのは、次の約束をする事そのものを嫌ったから。
「……そうか…やっぱ…出来ないんだよな…だってさ……」
彼はここで虚華がここまでラタトクスの思惑に乗ってきた理由を述べた。それはラタトクスの願いや行動理念とはまさに対極とも言えるものだった。
「虚華が今日、デートに乗っかってきたのは力を封印させて弱体化をしてから自殺するためなんだろ……」
その言葉に二人の中に流れていた雰囲気だけでなく、フラクシナスの内部も凍り付いた。そして流れるのは気味が悪いくらいの沈黙。
その誰もが永遠にすら感じるほど静かな中で重い口を開いたのは士道だった。
「黙ってるって事は肯定なんだよな…否定や言い訳はしないんだな…」
「ああ、そうだよ。よく分かったね……」
虚華はここでやっと口を開いた。そして士道が語った全てをその口で一切の偽りなく肯定した。
彼は呆然といった感じで言葉を紡ぐ。
「何でなんだ……」
「精霊は…生まれながらに強力な力を持って生まれたが故に…そう簡単に死ぬことは出来ないから…天使に霊装が死ぬことを妨げてくるんだよ…だから死にたくても死ねないんだ…」
「そうじゃない…それだけじゃない…何で死にたいんだよ……」
「そっちか、そうだね…ここまで迷惑をかけたんだから話そうか…長くなるけど……」
そう言って虚華は己の過去を話し始めた。
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ごく普通の高校生
御守恋菜はごく普通の高校生だった。
何か特別な能力を兼ね備えて生まれたわけでも無ければ、特別なポジションにいたり宿命を背負ったというわけでもない。
本当にただ普通に学校に通って普通に帰宅するだけの、面白みのない毎日を過ごしている。
少しやぼったそうな黒ぶちの眼鏡に目にかかって鬱陶しそうな前髪と、長めのロングヘアー。まさに地味といった風貌の少女はマンションの自宅の玄関をくぐろうとしている。
「……行ってきます」
彼女の内向的さを象徴するようなやや気弱そうで小さい声で朝の出発の挨拶をする。だがその声に誰も返事をしない。
それは彼女が親から無視をされているというわけではない。現在彼女の両親は仕事に傾倒していて殆ど家に帰ることが出来ていないというのが現状なのだ。
それを思い出して肩にかけている通学用の鞄についているストラップに触れる。それは珍しく家族の休みが重なった際に遊びに行った時に買ってもらった有名なネズミのストラップだった。
学校の自分に宛がわれている教室の扉をくぐるとそこにはクラスメイトである生徒たちが楽しそうに雑談をしているという光景だった。
「…………」
恋菜は黙って俯きながら自分に宛がわれている座席にそそくさと座った。
間違いなく自分の居場所のはずなのに何故か悪い事をしているような、ここが自分にとって場違いな場所かのように思ってしまう。
御守恋菜には友達がいない。中学まで漫画やアニメに小説に傾倒して友達なんていて楽しいの?と考えてボッチを極めていたのだ。
だが高校生になる直前にそれが恥ずかしい事であると感じるようになって、心機一転友達を作ろうと張り切っていたのだ。
入学直後の四月こそ色々な人やグループに無謀にもアタックをしてそれなりに話せるクラスメイトを獲得した。
だがこれまで友達を作るための努力も、それを継続する苦しさも知らなかった彼女は、共感できない話題に相槌を入れる接待のようなやり取りや、興味が引かれなくても友人の好きなことは無理にチェックする大変さを痛感して自然とボッチに戻ってしまい、現在五月今のようなクラス内での立ち位置になった。
決していじめられているわけでは無いが、必要以上に関わる事も無いちょっとした隅っこにいる人枠に収まっている。
ふと彼女が教室の黒板前で話している三人組を見る。かつて自分が積極的にコミュニケーションを取った元友人と言える人達だった。
元々漫画の好きなグループだったのだが、どちらかと言えばアニメのようなメディアミックスされた話題作が多かった。彼女もまたその手の作品を毛嫌いするわけでは無かった。
だが彼女はどちらかと言えば知る人ぞ知る連載が始まって一年も満たない作品を割と好んでいたため、どこかで軋轢が出てきて自然と会話がぎくしゃくし始めて自然消滅、厳密には恋菜がそのグループから抜けてしまったのだ。
(きっと私は…)
思ってしまうのは三人からすれば自分と関わったのは黒歴史でしかないんだろうなという後ろ向きな思考だった。
彼女は自分の席でいつも通りに本を読んで始業の合図の待つ事にした。
昼休みに入ってすぐに彼女は教室から出たが誰にもその事は認識されなかった。厳密には教室の扉から出る瞬間だけは何人かは認識していたのだが、すぐに興味を喪失されてしまう。
教室の外に出た彼女が向かっているのは購買だった。目的は当然ながら昼食を買う事。
「はぁ…」
購買前でおしくらまんじゅうになりながら待っている今の自分の現状に溜息をこぼしてしまう。
(朝の通勤ラッシュってこんな感じなのかなー…)
そんな現実逃避的な思考を巡らせてしまう。全国の汗水流して働いているお父さんお疲れ様だった。
彼女は徒歩で通学しているため、それはあくまでイメージでの話でしかないのだが。
恋菜は購買で買った焼きそばパンを胃に流し込んでから、いつもの通りに図書室への直行した。彼女は図書室の主というやつなのだ。
元々彼女自身本は好きなのでボッチ関係なくこうなっていたのは間違いの無い事なのだが、教室にもグラウンドにも居場所が無いため流れついての図書室に避難という部分も若干あるのは自覚ありで泣きたい気持ちになる。
「あれ?」
彼女の視界に入ったのは自分よりも先に本を読んでいる茶髪にくせっ毛のあるショートヘアーの女子生徒だった。
それを見て驚きと珍しいなという純粋な興味だった、全くもって偏見でしかないのだが、もっと友達とはしゃいでそうな派手そうな容姿だったからだ。
そして思い至る。こんなに早く図書室にやって来て本を読んでいるという事は、それなりに本好きであるかもしれないため気が合うかもしれないという事だった。
「っ…」
けれど掠れた音が喉から出てくるだけで言葉にはならない。
かつて勇気を出して友達を作ろうとしたのはいいのだが、結局はボッチになったという事実がその一歩を踏み出す勇気を奪ってしまっているのだ。
脳内では様々な誘い文句こそ浮かんだのだが、それが現実になる事は無かった。
◎
びっくりするほど恋もトラブルもなーんもない学校生活を終えた彼女は夜ご飯を買うために放課後スーパーに寄っていた。
「冷蔵庫に何おいてたっけ……」
彼女の視線の先には品ぞろえが豊富な冷凍食品の数々だった。基本的に料理を自作するという概念が存在しない彼女には、外食かレンジでチンして食べられるものの二択しか思いつかない。
―ウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥ……
「…ッ…空間震警報…?」
ここ数年になって増加の傾向にある正体不明な自然災害である空間震。
彼女は学校等で警報が起きた際の行動はレクチャーされているため落ち着いて避難をしようとする。
「うわっ」
「あっごめんなさい」
自分の背後にいた女性がぶつかってしまい恋菜は少しつんのめって、肩にかけて持っていた鞄を落として中身をぶちまけてしまった。
「いえ…大丈夫です」
どちらかといえば気弱な彼女は相手に食って掛かる事も無く小さな声でそう答えた。
「早く拾わなきゃ」
そう言ってぶちまけられた教科書を乱雑に鞄に放り込んでその場から避難をしようとするのだが、
「あれ…?…ストラップは……」
鞄についていたはずの親に買ってもらったそれが無くなっていたのだ。考えられるのは先ほどの衝撃で何処かにいってしまったという可能性だろう。
「どっ、どこっ」
慌ててその場に屈んでストラップを探し始める。そんな事をしている間にもスーパーの店員も客もその場から立ち去っていく。
(不味い不味いっ)
ストラップ探しをしていたらすっかり街から人がいなくなっていた。その事実が彼女を途方もなく焦らせる。
空間震の脅威は実際に目撃こそした事は無いが、ありとあらゆる場所で嫌というほど教え込まれて来たからか、今の街に一人でいるという状況がどれほど危険であるのかはキチンと理解できていた。
(早くシェルターに…)
取りあえず現状するべきであるのは避難する事である為、落ち着いて避難経路やシェルターの場所を思い出して行動をしようと考える。
「え…?」
すると遠くが真っ白に光ったかと思うと轟音が鳴り響いて、強烈な衝撃が恋菜を襲った。彼女は叫ぶことも出来ずに吹き飛ばされてしまう。
「いっ…つう……」
彼女は遠くから爆音が炸裂する音で目を覚ました。
「これって……」
そして意識を取り戻して起き上がった彼女の視界に飛び込んできたのは瓦礫の塊と成り下がってしまった街だった。
話には聞いていた空間震被害の現場の状況とよく酷似した景色が目の前に広がっていた。
「いったい何が……」
目の前の景色にも驚かされたのだが、彼女に今現在進行形で耳に入ってくる何やら戦闘音のような衝撃音が耳に継続的に届いているのだ。
音と閃光のする方向に引かれるように、痛む体を無理矢理引きずってその方向へと歩いて行く。
「どうやってこの建物を直すんだろ……」
既に廃墟となっている街を歩いていると思いついてしまうのはそんな感想だった。
どんなに深刻な建物への被害であっても数日もすれば元通りの街並みになってしまうという、陰謀論がいくつも囁かれている現象だった。普通であれば元の状態に戻すのは五年や十年はくだらないだろう。
一般人である彼女には復興用に存在する顕現装置など知りようもない事実なのだが。
そして何よりも気になったのは、衝撃で崩れたわけでも無ければ、空間震によって削られたわけでもない何やら鋭利なもので切られたり、銃弾のようなもので抉られたような外壁があった。
「せ、戦争…?」
彼女の口から洩れたのは国境という概念を実感しにくい、島国育ちの平和ボケした感想だった。
そんな事を考えているといつの間にか、まるでSFかのような戦闘音が聞こえなくなっていた。
「撤退です!」
「!」
そして彼女の耳に届いたのは男性の声だった。その声の方を向くと上空にいたのは金髪のロン毛の男性だった、顔立ちは整っており凛々しく、声色は紳士的といった印象を彼女は受けた。
だがそれよりも気になったのは全身を機械で固めて宙に浮いているという現実離れした状況だった。それこそ彼女の知識にあるSFの光景そのものだった。
そんな事を考えている間にも、機械の鎧を着こんだ人たちが空を掛けて遠くへと飛んで行ってしまう。仕方のない事ではあるのだが、それを恋菜は呆然と見ている事しか出来なかったのだ。
「…あっ…もしかして本当に不味いんじゃ……」
やっとの事で思い至ったのは、あの機械をまとった強そうな人たちが逃げざるを得ない状況がこの先に存在するであろうという事と、今の彼女にはその危険を目の前にして自衛をする方法が無いという事実だ。
「…お前も敵か?」
「……あ」
先ほどまで目の前に非日常な光景が飛び込んで来て、情報を処理することが出来ず何をしたらいいのか分からずに呆然と立ち尽くすしか出来ない恋菜は、突如としてかけられた声に体が凍り付いてしまう。
「質問をしているつもりだが…言語が通じないのか?ASTの奴らと同じに見えるが」
「……あ、あなたは…?」
声の主は半壊した建物の上にいた。恋菜は少し不機嫌で苛立ちの混じったその声音を聞き、慌ててその主の方へと顔を向ける。
彼女の視界に飛び込んだのはドレスに白衣という誰もが合わせないだろうと思われる服装、そしてスッとした鼻梁、パッチリとした目、そして控えめにふっくらとした顔の輪郭という美人と可愛さを同居した美少女がいた。
相手は瓦礫の上からふわりと飛び上がって恋菜の前に着地をする。その際に着地音がせずに、まるで重力を感じさせない不思議な挙動だった。
恋菜は何を言ったらいいのか分からなかった、とにかく、
「あっあの…えっと……」
しかし相手はびくびくしながらぐだついている恋菜の態度をみて苛立ったように手にメスを構える。そしてその刃を目の前の恋菜の喉元に突き付ける。
「…あっ」
「質問はお前が敵かどうかの二択のはずだが?」
隙なく相手の挙動を観察しながらも苛立った声で言う。
正直な話、恋菜はこの時点で腰が抜けてちびりそうだったのだが、精神力を振り絞って何とかその場に足の裏を縫い付けることに成功する。
「て、敵じゃない……」
「じゃあ何なんだ?」
「殺さないで…」
彼女のその冷や汗を流しながらのセリフを情けないと切って捨てる人間はいないだろう。
いきなり空間震被害に巻き込まれてしまったと思ったら、訳も分からない組織が逃げるのを見て、恐らくだが撤退判断を下すに至ったであろう存在を前にして何とか単語を口に出来るだけ立派としか言いようがない。
「…………」
恐怖に染まってしまっている相手を見て持っていたメスを消した。
突如としてこの場を支配していた威圧感が消えたのを感じて、恋菜は驚いた声を出していしまう。
「え……」
「消えろ…さっさとどこにでも行け…」
そう言って精霊は身をひるがえしてどこかに行こうとした。
その背中を見て恋菜は奇妙な感覚を覚えていた。ASTという単語に特別詳しいわけでは無いのだが、予想では空を飛んで撤退していた組織だと思われた。
あのような最高機密に指定されているような連中を退けた相手の顔には強者のオーラを纏っているのに、その反面満たされたような雰囲気は感じなかったのだ。
何よりも身をひるがえす直前に見せた疲れたような表情が脳裏に焼き付いて仕方なかった。
背負うモノや程度は違う、いや比べようもないのだがそれでも言わずにはいられなかった。
「あ、あのっ」
「…!」
恋菜のその呼び声に精霊は足を止めた。
彼女は自分でも何故教室にいるクラスメートには話しかけられなくて、正体不明の少女に声を掛けられるのか分からなかった。
無理矢理にでも理由を見つけようとするのであれば図書室で話しかけなかった事に後悔を覚えたからだろうか。
「私は…御守恋菜って言うの…良かったらだけど…と、友達になれないかな…?」
「友達?」
「仲の良い人同士…みたいな……?」
友達と言われても相手は特にピンとは来ないようだった。一応彼女は説明したが、この極度の緊張状態ではまともな解説は出来ようはずもなかった。
「その友達とはどうすればなれるんだ?雰囲気的にあいつらのような敵対的なものではないのだろう?」
「うっ」
精霊に言われて恋菜は困ってしまう。友達になろうと言ってもそもそも現在進行形でボッチな自分がなりかたなど分かるはずがない。
そもそも友達という人間関係はお互いに「はい、なりましょう」と言って成立をするわけでは無いのだが、経験の浅い彼女には分からないし、精霊である相手はそれ以前の問題だ。
だがそこである事に気が付いた。
「名前……」
「何だ」
「あなたの名前を知らない……」
これからどのような関係性を築くにしてもまずは自己紹介が最初だろう。
「名前か…不思議なものなんだが誰かに名乗るのは初めてだな…そもそも聞かれた事すらないからな……」
そこで初めて精霊は口元が緩んで、険の取れた表情になった。
恋菜は相手が改めて途轍もなく可愛い美少女である事を再確認した。
「虚華だ」
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遊びに行かないか
「神無月隊長お疲れ様です」
「ええまったく、自分の利権や地位ばかり口にする現場を知らない老人の相手は疲れましたよ。今すぐにでも中学生に踏んで癒してもらいたいものです」
「前者は兎も角、後者は全く共感出来ませんが」
「そうですか?ならば大人になる一歩手前の未成熟な少女の魅力について語りましょう」
「すみません、共感出来ないではなく共感したくないです」
神無月は心を許せる眼鏡をかけた部下の一人といつも通りのやり取りを行う。
周りの部隊員たちは気味悪がってこそいたのだがもう慣れっこといった感じだ。
彼は相手にすればするだけ調子に乗り出すタイプなので、下手にシカトしたり大げさなリアクションを取るよりも、あくまで普通にそして普段通りに接するのが一番の対処法なのだ。
だが最近部隊に入って来た新人である日下部遼子はそうもいかない。
「な、何なんですかあの人は……」
「ああ、あなたって最近入った研修生よね」
ウェーブのかかった茶髪の女性が彼女のその呟きに反応する。
すぐさま日下部は声をかけてくれた相手を見るのだが、まだ対精霊組織に転属してさほど経っていない彼女はすぐさま名前と顔が一致しない。
「えっと…その……」
「鳴村凛院」
「すみません鳴村先輩」
「いいのよ、今度から覚えてね」
名前を覚えられていなかった事にも特に怒っているというわけでもなく、新人が過ごしやすいように気を遣ってか朗らかな感じて受け答えをする。
「その…あの人は部隊長なんですよね…何というかその……」
「ああ、幼女好き大魔王検挙寸前ゴミカス野郎ね」
「そこまでは言ってませんが!?」
あまりにも散々すぎる相手の人物評に日下部は大声でツッコんでしまう。
どうやら鳴村の表情は真剣そのもので、上司に対しての陰口ではなく本気の人物評のようだ。
「正直人格や趣味趣向は破綻してるんだけど強くて優秀なのは間違いないのよね」
彼女はうんざりといった表情でそう言った。そして頭痛を堪えるように顔をしかめながら追記した。
「あの人が隊長になってから精霊戦闘での負傷者や死傷者の数は格段に減ったし、上の人達との交渉も巧みに行って上手い事予算を引き出してくれているけど変人なのがねぇ……」
理想と災禍の二面性を持つ上司に苦しめられるのは部下なのだ。
◎
幸か不幸か学校は休校にはならなかった。だがそれは当たり前の日常が続いていたというわけでは無い。
「おいあいつの家って吹っ飛んだらしいぜ」
「うわっまじかー……って事はあいつ野宿?」
「避難所にいるらしいけどな」
「あ、じゃあ見舞いでも行くか?」
「傷口に塩ぬったったんなって」
恋菜のクラスメイトの男子同士が空席を指さしながらそんな会話をする。
彼女の所属する教室内では何人かの席が空席となっていた。
亡くなってはいなかったが、家などが空間震災害に遭ったであろう生徒が何人かが休んでいたという情報は入ってこそいた。
だが自分が中途半端に同情をしたとしても何も事態の解決はしないため特に何もしたりはしなかった。
「…………」
御守恋菜は昼休みの学校内でボケッと心ここにあらずといった感じで購買で買ったパンを食べていた。
いつもであればこの後、図書室で何の本を読もうかや午後の授業は何だっけとか、夕食は何を食べようかなど今日の日程の確認等をしているところなのだが、本日の彼女はそのどれにも当てはまらない事を考えていた。
『友達というのになったのはいいがそれで何をすればいいんだ?』
『ええ…うー…そうだね……』
当たり前だが現状彼女は友達というのがいないため、友人関係の人間と何をするのがいいのかよく分かっていないのだ。衝動的に提案をしたのはいいがじゃあ次のステップに進むにはどうすればいいのか。
そこで彼女は何とか提案を捻りだす。
『……遊ぶとか…?』
『疑問形?…しかし遊ぶか……仮に顔を会わせても奴らがやってくるんだがな』
その虚華の言葉に相手が想起したのは体にぴったりとフィットしているスーツに、要所要所にまとっている機械の鎧を身に着けていた人たち。
そしてこれまで疑問に思っていた事を質問してしまう。
『奴らって、あの飛んでた人たちだよね?』
『そうだな』
『でも何で虚華はあんな人たちと戦ってるの?虚華が悪い人に思えないんだけど…だって私に……』
恋菜は少なくとも虚華が超極悪人には見えなかったのだ。
仮に手あたり次第に人を傷つけるような人であるのならば、彼女は既にあのメスの錆になっているだろう。
それを察してなのか今の彼女の口調は少しだけ緊張感の取れたものになっていた。
その言葉を聞いて少しだけ戸惑ったような表情をして考え込んでいた。それは何故狙われているのかが分からないのではなく、相手に説明をしたら嫌われるのかもしれないと考えているそれだった。
ここでやっと思い至ったのは自分が人間からすればとてつもなく危険な存在であるという事実だ。
そしてある程度予想はできている、目の前の恋菜という少女が本当に何も知らずにこの危険な場所にやってきてしまった事を。
彼女は失いたくないとこの少ないやり取りの中で思ってしまっている。
相手がここまでする意図は分からなくても自分と話そうとしてくれるその事実そのものが、僅かではあるのだが荒れ切っている彼女の心を潤しているのだ。
『奴らはだな…』
やはり言い淀んでしまう。自身が知っている事を口にすれば恋菜は自分ともう二度と関わりたくなるだろうとそう予感している。
だがそれと同時に友達という仲の良い関係性では隠し事はしてはいけないのではと思っている。
円滑な関係性の為に都合の悪い事は一旦だんまりを決め込むのか、己の背負っている性を理解してもらおうと傷つくことを覚悟で踏み込むのか。
『ASTは私を殺すために組織されている部隊だ』
『殺すためって…虚華がそんな悪い事をしているようには私には思えない……』
『ああそう思ってくれるのはありがたい、しかしまぁ残念というか私は存在しているだけで多くの人に憎まれる存在だからな』
『…どうして……?』
それから虚華の口から語られたのは精霊という存在と空間震の関係性、ASTが顕現装置というオーバーテクノロジーを活用して自分の命を取ろうとしている事。
それらの情報はこれまで様々な組織に狙われてきたため、断片的に得て来た情報から導き出したものだ。
恋菜は相手の口から出てくるその独白を相槌をうちながらも聞いていた。
『まぁおおよその事情を理解は出来ただろう?その友達になりたいというのは嬉しいんだが、人と精霊にはあまりにも大きすぎる溝があるんだ』
虚華は自分でも思っていた以上に痛々しい事を言っているなという自覚はあった。
こうなる事は理解できていたのに、それでもなお傷つくという感情を覚えるなんて馬鹿らしいなと彼女は思っている。
『空間震を狙って発生させるとか出来ないかな?』
『は?』
相手からの突如としての提案にポカンとしてしまう。自分が想定していたのは恐怖に染まる恋菜の顔だったからだ。
『ほら海に向かって生み出したり、上空高い所とかに発生させる事が出来たら今よりもずっと被害を減らせるって思うんだけど。それに一度生み出したらインターバルがどれくらいとか、それにいろいろ調べればもっと…あ!それこそ空間震を新しいエネルギーとして活用できる目途とかが見つかったらむしろありがたがれる…んじゃないかなと思うんですが……』
最初こそ勢いよくまくし立てていたのだが、途中から相手が呆然としていたのを見て自分の勢いを見て引いているのかな思い至ってしまい尻すぼみになってしまう。
『ふふっ…』
『え、えーっと…』
相手の苦笑を見て恋菜は何をどうしたらいいのか分からなくなってしまう。
『私ってば無理なことを言っちゃったかな…』
『ああ、全くの無理難題だ。それがどれだけ困難か理解出来ないはずがないだろ』
『うう…』
虚華の言葉に自分でも熱くなりすぎていた自分を自覚して、顔を俯かせて恥ずかしくなってしまう。それが簡単に出来るのであればそもそも精霊の命は狙われてなどいないのだから。
『だがお前が…いや恋菜がいなければそれをやろうという発想すら思い至らなかった…不可能に近くても抗ってみる価値はあるのかもしれないな…』
不可能に近いと口にはしたのだが、それでも何故か今は何でも、それこそ翼が生えて重力すらも振り切る事も出来るようなそんな気がしていた。
『じゃあ!』
恋菜が俯かせていた顔を上げて相手の方を見るのだが、そこには誰もいなくなっていた。
「精霊…かー…」
昨日の一日で彼女の中にある日常は大きく形を変えてしまった。予期せずして知る事となってしまった世界の裏事情。
今までは空間震災害は対岸の火事としてしか自覚していなかった一件も、既に彼女の中では無視できない大きなタスクとなっている。
だってそれは友達の一生に大きく関わってしまうのだから。
もっと話を聞きたかったのだが気を抜いた一瞬で相手の姿が消滅していたのだ。
その後、精霊の出現や機密情報の塊である顕現装置が使われた災害現場に長時間いるのは不味いと思い至って慌ててその場から逃げ出した。
(というか昨日一日の出来事全てが夢オチとかないよね?)
ある意味現実的な意見だった。余りにも友達が欲しいメーターが振り切れ過ぎたあまりにある事ない事を想像してしまったのではと思ってしまった。
身が入らなかった午後の授業を終えて大絶賛帰宅部である彼女は再び例のスーパーに行こうと思って足を進める。
だが彼女が目的地に着くことは無かった。
「ってよく考えたら分かる事じゃん……」
当たり前の事なのだが昨日の空間震によってその周辺には黄色いテープの規制線が張られて立ち入り禁止になっていた。
今から普段使いしていない店を利用するのはどうにも怖かったため、もういっそ外食かスーパーよりは高くつくがコンビニを利用するのか悩み始める。
これによって昼食の際に思った夢オチ説が視界に広がる光景によってしっかりと否定されていた。
「……そうだよね…仕方のない事ではあるんだよね…」
これまで愛用して来た店が使用不可能になっているという事実を見て、精霊の取り巻く環境というのを改めてイメージではなく事実として理解することが出来た。
昨日までは当たり前だった日常が、精霊の現界によって生まれた空間震によって一瞬にして失われてしまうという事実。そんな当たり前の日常を守るためにASTは命と胸に秘めた正義の心を掲げて戦っている。
だからこそ彼女は理不尽だろうという気持ちと、仕方のない事でもあるという二つを同時に思ってしまうのだ。
「どうにかしたいって思ったし、嘘じゃないけど…どうしようかな…結局私なんかが首を突っ込んでいいのかな……」
御守恋菜には特別な力など備わっていない、微笑み一つで多くの者を己の虜にする事など出来なければ、ありとあらゆる問題を解決出来るような奇跡の頭脳を持っているわけでもない。
結局のところ最終的には自分自身の身には振りかからない問題でしかないのだから、自分は口だけの人間でしかないのでは?と思ってしまうのだ。
すると虚華は恋菜に声をかける。
「まぁいきなり根本的な問題解決ができるはずもないだろうし、切り替えて友達らしく遊びに行こうか。余りそこら辺の知識は無くてだな、色々と教えてくれない?」
「うんそうだね、というかどこかに行こうか…って言っても私のよく行く場所って本屋とか電気屋とかばっかりなんだよね…」
「ほんや、でんきやというのはどういう場所なの?」
「そっか、楽しいか分からないけど取りあえず行ってみる?」
「うん、初めて行く場所だから楽しみだな。これがワクワクするって事か」
「じゃあ…い…こう……?」
そこで会話をしている相手が誰なのかを自覚することが出来た。
「って何で虚華がいるのっ!?」
目の前にいたのは昨日邂逅したばかりの恋菜の友人となってくれた精霊の彼女だった。
「あはは…恋菜って面白過ぎだろう…気が付くのが遅すぎるぞ」
相手はくすくすと笑いながらいたずらっ子のような楽しそうな瞳でそう言った。
しかし恋菜は途方もない違和感を覚えた。何故なら、
「く、空間震は?」
精霊が現界する際に空間震と呼ばれる一帯を破壊しつくす災害が発生するはずなのに、恋菜の把握している限りそれが起きた形跡も報告も無かったのだ。なら何故今、彼女の目の前に虚華はいるんだという疑問にぶち当たる。
虚華は説明するのに困ったという顔を作る。どうやら明確に理由が分かっているという話ではないらしい。
「うーん…感覚的な話になるんだけど…いつもは自分の意思とは無関係にこの世界に引っ張られるんだ…」
「えっ」
それを聞いて恋菜は愕然としてしまう。
精霊の意思とは無関係に起きるのであればそれこそ理不尽にもほどがあるだろう。事実であるのなら一層空間震の問題は拗れてしまうし、このままではいけないと感じた。
「いつもはって事は今回は違うの?」
恋菜は相手のセリフ内で気になった部分を質問する事にした。
「今回は初めての試みだったんだけど狙って現界したからな、その際はどうやら空間震は発生しないみたい」
「狙って…?」
「友達と遊ぶために決まっているだろう」
「えっ」
そんな事を言ってもらえるとは思っていなかったので間抜けな返答をしてしまう。自分の為にわざわざ時間を確保してくれる人自体がいなかったため戸惑ってしまったのだ。
どうやら図らずも突発的な友人との外出が決まったようだった。
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あなたの好きなものであるなら
「取り合えず遊びに行…こう……」
「どうした?」
「いやね…」
「変に気を遣うな」
恋菜はこれを言ったら癇に障ってしまうのではと思ったが、目下最大の問題であるため口にする事にした。
「…その服は不味いかなー…って…」
霊装を指摘された虚華は何のことやらというリアクションを取る。
基本的にまとっているのはこの一張羅であり、また空間震の被害地にいることの多い彼女には自分がどれだけ浮世離れしているのかその自覚は無い。
「その服はあまりにも目立ちすぎるんだよ、何か別の服に着替えないと…」
「目立つのか、例えばどんな服ならいいんだ?」
「そうだ、今から家に取りに行くから待っててくれる?」
そこで恋菜は自分の家にある服を着てもらおうと考えたのだ。
だが相手からすればいつまでこの静粛現界を維持できるのか分からない以上は、一秒でもこの逢瀬を無駄にはしたくなかった。
そこで虚華はふと相手の服を見てある事を思いついた。
「要はいま恋菜の着ている服なら問題は無いんだな?」
「まぁそうだけど、それを今からとって…えっ…」
返事をすると同時に相手を見ると、ドレスに白衣というあまりにもミスマッチな服飾から一転して自分と同じ制服をまとっていたのだ。
「えっ…どうやって…」
「霊装を操作すればこの程度は簡単だ」
「えっ凄い」
服代要らずの便利スキルに感嘆しか出来ない恋菜だった。
街中に繰り出す二人。
虚華の興味はただの一般人に向けられた。当然軽めの警戒付きではあったのだが。
「人ってこんなにいたのか…まさか全員がASTというわけはないよな……」
「みんな一般人だよ…もしかしたら休みの日の人もいるかもだけど、そんな偶然は無いと思いたいね」
二人が遊びに行くとしても恋菜の生活圏はいつも同じ場所やルーティーンを繰り返す彼女にはそこまで手札があるはずもない。
だが普通の一般人であれば呆れられるかもしれないのだが、一般的な常識や世界を知らない精霊からすればどこに連れて行ったとしても興味津々でいてくれるのだ。
「なんだこれはっ!」
虚華は初めて見る光景に驚きと興味を爆発させていた。初めて見るであろう空間震によって崩壊していない街並みや建物だけでも好奇心が抑えられない。
今彼女たちが来ていたのは本屋に電気屋などあらゆる施設が詰め込まれた複合商業施設、いわゆるデパートだった。
今は本屋の前にある実写化の決定している小説作品のPVを流しているモニターに釘付けになっている。相手が知りたいであろう物がたまたま知っていたため説明をする。
「ああ、これは一昔前に流行った小説でねー、医療関係の内容なんだけど治療そのものに焦点を当てるんじゃなくて医療費や治療費に焦点を当ててる作品で、医者側と患者側がいかにお金をぶんどるか値切るかが見物でねー」
「し、小説…?…医療…値切る…?」
ついうっかりオタク特有の自分のホームグラウンドにやってきたまだ真っ白な相手を何が何でもその沼に引きずり込んで出させはしないという、怒涛の早口ラッシュを敢行してしまったのだ。
これまでどちらかと言えばどもったり、もごもごしたりする事の多かった恋菜が突如ハイテンションで話し始めたものだからつい虚華は引いてしまったのだ。
それを察して素早く恋菜は謝罪を入れる。
「ご、ごめん…いきなり話過ぎた…」
「いやいいんだ、それより色々と教えてくれないかな」
彼女は相手から謝罪にも別に何ともないといった返しをする。そもそも世界からすれば害悪でしかない己の存在に対して、こうも恐れることなくがっついて話してくれるだけで自分の心のどこかが救われているようなそんな気がしたのだ。
これまで彼女に何かしらの言葉や感情をぶつける人間は一様に身に覚えのない怒りや怨念ばかりだった。
だが今の彼女は間違いなく喜の感情を表に出していた、それは人というものを詳しく知ってるわけでは無い彼女でもどれだけ尊いものであるのか理解できていた。
「これはモニターとかテレビって言うものなんだ」
「なるほど、だが中にいる人は窮屈ではないのかな…」
虚華はもういっそベタとしか言いようのないテレビ評を繰り広げる。
「えっとそう言うのはフィルムとかデータによって記録されたもので、ようは映した物や人の記録をその画面で再生しているんだよ」
「それはまた…凄いんだろうな……」
「う~ん…」
恋菜の中にある単語で捻りだす事の出来る説明をしていたが、相手のリアクションの通りに凄い事は漠然と伝わってはいても具体的に実感は出来ないようだった。
そこで彼女は丁度いい自分の持ち物に気が付いた。
「あ、そうだ。これ見て」
「ん?」
そう言って見せたのは自分のスマートフォンの画面だった。彼女はカメラモードにして内カメを表示する。
「おお…なんだこれはっ」
「これはカメラっていう一枚の絵を記録する装置なんだよ。ほらこんな風に」
そう言って写真を一枚撮影してみせる。そしてフォルダを見せると二人がスマホをのぞき込むというツーショットの構図がしっかりと記録されていた。
「こんなことが出来るのか…」
「これが写真で、さっきのテレビの映像はこれを何度も連続で撮影して流して動いている風に見せているんだよ」
虚華は相手のスマホを取って興味深そうにまじまじと見ていた。そんな光景を微笑ましい気持ちで恋菜は見ていた。
数分いじると満足したのか別の事に相手は興味を映した。気になった事は棚に所狭しと置かれている小説だった。
「それは?」
「えっとね、これは小説って言って文字を使って色々な話を作るやつでね」
「文字ってなんだ?」
「えーっとね、そうだね…言葉を記号化したもの…みたいな…?」
文字という当たり前のことを質問された事などこれまでなかったため、戸惑いながらもなんとかそれっぽい回答をする。
虚華はその説明を受けてなるほどと頷いたのち、棚に置かれた一冊の本を持って問う。
「つまりこれ、いやこの場所はその文字というのを理解しないと楽しめないというわけか」
「ッ」
そこで恋菜が気が付いたのは自分は言葉も文字も分からない相手に、現状は理解する事すら困難であろうことを無自覚に強要してしまったのではないかという事だ。
そんな嫌悪に陥っている間にも虚華は、その話題の本は立ち読み可能なのかビニールで封をされていなかったためパラパラとめくって中身を読んでいたのだが、結局のところ文字が分からない以上は何が何やらというリアクションだ。
「ごめんなさ―」
「文字というのを良かったら教えてくれないか?」
「え?」
「もし次もこうやって会うことが出来たら…文字を教えて欲しいんだ」
相手はそんな鬱々とした雰囲気を吹っ飛ばしてしまうような笑みでそう言った。
「文字を…?」
「ああ、恋菜の好きなものであるなら私も楽しんでみたいんだ」
「……………………」
その言葉に何とも言えない気持ちになってしまう。
かつての彼女は友達を作るために無理に話題を作ったり、興味の無い事であっても頑張って情報収集に明け暮れていた事があった。最初は頑張ることが出来たのだが、時間が経つごとにそれらは大きな重石であり、また枷となってしまった。
御守恋菜にとってはそれを維持する事が出来なかったのだ。ただただ学校で友達と過ごす楽しいはずの時間が義務的に行われているように感じてしまい、いつの間にか努力して築き上げてきたグループやその友達と距離を取るようになってしまいボッチに戻ってしまったのだ。
(最低だ…こんなことを考えるなんて…虚華がそんな相手じゃないって分かってるくせに……)
そこまで考えたところで彼女は心の中にはびこる暗雲にしくじたる思いを感じていた。
思ってしまった、目の前にいる相手が無理して自分に合わせようとしているのではないのかと。
だがその疑念を募らせれば募らせるほど不安で仕方なくなってしまう。だからこそ聞かなくていい事を聞いてしまう。
「虚華ってさ…その…無理とかしていない…?」
「どうしたの?そんな藪から棒に」
恋菜からのそんな問いかけに何を聞きたいのか分からないという風に聞き返す相手。
「そのさ…私ってばうまく話を合わせられないし…友達らしい事なんて全然できてないだろうし…虚華をきっと戸惑わせちゃって気を遣わせているんじゃないかって…」
「…………」
話せば話すほど自分のみみっちさというものを再確認してしまう。
その話をすればするほど相手の顔はどんどん曇り、そして苛立ちが募っていく。それを見てどんどん彼女は縮こまってしまう。
すると虚華は恋菜の両頬に自分の両の手を添えてぐいっと顔を上げさせ、目と目を強制的に合わせる。
「前にも言ったが私はそうしたいからそうするんだ。恋菜の過去に何があったのかまでは分からないが、一緒に居たいと思っている相手がこうも自分を下げていては気分は良くないんだが」
「それは……」
確かにその通りだと彼女は思った。もし仮に自分の好きな異性がいたとして、その相手がチャームポイントだと感じる部分を目の前で卑屈に否定をしていていい気分はしないだろう。
「もし友達というのがよく分からないのなら私とおそろいだ」
「おそろい?」
「ああ、だから一緒に友達というのを学んでいけばいいと思わないか?一緒に何かが出来るなんて今から楽しみだ」
「…友達を学ぶ……」
全くもって変な話だと思う。友達である相手と友達について学ぶという、傍から見ればおかしいそんな関係性。でも何故か今は嫌な気はしなかった、きっとそれくらい気楽に考えられた方が気持ちは楽なのだろう。
「私は恋菜とこの世界を見て回りたいんだ。そんなことよりも色々と連れて行ってくれないか?」
「…うん!」
この日初めて恋菜は気負いのない表情で返事をした。
◎
「良い匂いがする…これは…?」
「ハンバーガーのお店だよ」
某有名チェーン店に入った二人はレジの順番待ちをしていた。
(というか精霊って人間の食べ物を食べた途端にアレルギーを発症とかしないよね?)
ふとそんな事を考える。もし食べ物を口にしたとたんに泡を吹いて倒れでもしたら目も当てられない。
本人にもそうだが、お店側にも食中毒疑惑やらで途轍もない迷惑が掛かってしまうという事に気が付いた。
「虚華って嫌いな物とか食べられないものってあるの?」
「嫌いな物…というか何かを食べたこと自体が…あるような…ないような…」
「ええー…それ大丈夫なの…」
恋菜は精霊というのはもう自分の常識という物差しで図ってはいけないなと再確認した。
そんなやり取りをしている内に二人の順番が回ってくる。取りあえず恋菜は女子高生に十分なくらいのオーダーをする。
「ハンバーガーにチーズバーガー、それにポテトM二つにコーラとグレープジュースで」
「何だその呪文は……」
恋菜の注文姿に虚華はあんぐりとした感じになってしまう。
右も左もよく分からない彼女からすればこの場所は異国にポツンと置き去りにされたようなもので、そんな中で堂々と立ち振る舞っているように見える相手はとても頼もしく見えた事だろう。
オーダーをしたメニューが出てくると、そのトレーを持って店内の席に座る。
「むー…」
決して彼女は恋菜の事を疑っているわけではないのだが、これまで口にするどころか見た事すらない物体を見てたじろいでしまう。
それを見た恋菜はハンバーガーの入ってる包みを開いて素早く齧り付いた。
「おいしーよ?」
「おおー…」
それを見て恐る恐るではあるのだが同じように包みを開いて口に入れる。
彼女の口の中に広がるのはソースの甘さと肉の脂とジューシーな口どけ。初めて食べるその味は彼女を感動の渦に放り込むには十分だった。
「う、美味いぞっ!」
一度味を知って未知の存在への恐怖を払拭し今のた彼女はがっついて食べる。
「あー…」
「ん?」
恋菜は虚華が周りの視線など知った事かと言わんばかりにがっつくものだから、口もとがソースや油で見るも無惨な状況になっている。
「女の子はね、そんな風にガツガツ頬張ったり口周りをテカテカにしちゃダメなんだよ」
「んん…」
そう言ってやれやれと言った感じで、トレーに置かれていた紙の布巾で虚華の口元を拭う。
虚華は口もとを綺麗にしてもらった後、気になった質問をする。
「何でダメなんだ?」
「へ?あー…うーん…マナーとか世間体、後は…見栄とか…かなぁ…」
「よく分からないが口もとは気を付けた方がいいというわけか」
「そうそう」
相手はそんな事を聞かれても困ったなと言った感じで、しどろもどろになりながらも何とか回答を捻り出す。
人というのは当たり前と化している常識には意外と疑問の目を向けないものだ。常識という培ってきたものは意外と疑惑の目を向けない。
目の前の精霊は世界というのを初めてじっくりと見る機会を得たせいかあらゆることに興味津々なのだ。
「めんどくさいんだな人間というのは…」
「面倒といえばそうだけど、これが当たり前だから今更な感じだけど…まぁ…ルールって何かしらの不都合や不利益があるからこそ作られるわけだから……」
恋菜が十五年の歳月をかけて身に着けて来た知識だが、少なくとも外見年齢だけみれば同じであろう相手には全く通用しなかった。
相手が身に着けているのは自分の命を狙ってくる存在と、精霊の取り巻く過酷な環境だけだ。
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焦りと穏やかさ
とある日、新人隊員の日下部とその上司である鳴村は専用の訓練スペースでマンツーマンでの戦闘訓練を行っていた。
「顕現装置の使い方が結構スムーズになってきたわね」
「はい、ありがとうございます!これも鳴村先輩の指導のおかげです!」
「あはは…そんな畏まらなくていいって…知ってるんだよ、あなたが勤務外も専門書を読んだり、顕現装置をコッソリ持ち出して朝方まで訓練してんの」
「えっ」
もしそれが本当であれば許可もなしに顕現装置を持ち出すのは重大な軍規違反だった。目の前の女性はハッキリとその事を知っているぞと公言した。
「も、申し訳ございません!二度とこのようなことは致しません!」
精霊がいつ現れるのか分からない以上は、限られている装備の一つを勝手に持ち出すなど許されるはずもない。
物は何であれ使えば消耗するのは明らかで、その顕現装置というオーバーテクノロジーをメンテナンス出来る人員やその時間は限られているため無言で持ち出すのは、その装備に命を預ける人間の死を呼びかねないのだ。
ASTは万年戦力不足であるのだが人員の補充がままならないのは、当然顕現装置を高レベルで扱える素質を持った人間が少ない事と、訓練に当てられる装備も時間も限られていたため前線に立てる人は少ないのだ。
「ま!今回はテキトーに見逃しといてあげるけど次からはバレずにやりなさい!」
「ええ…」
「まー最近のドクターはこっちに殆ど反撃してこなくて装備の消耗も殆どないから勝手に使っても問題ないからね」
許してもらえたことは勿論驚いたのだが、その後に続いたバレずにやれというセリフを言われて彼女には困惑しかない。
「分かるんだよね…あなたって結構焦ってるよね?せっかく精霊と戦う部隊に配属されたのに蓋を開ければ訓練や対精霊シュミレーションの毎日…ここにいていいのか不安で仕方ないのよね」
「それは……」
事実だった。入隊してから既に三ヶ月が経とうとしていたのだが、彼女はいまだに精霊と対面した事は無い。だが給料はしっかりと払われている、その事実が焦りを生み出してしまう。
「私もこの手で精霊を倒せる!って思っていざ入隊したはいいものの訓練訓練また訓練の毎日で不貞腐れていた時期があってねー」
鳴村はあっけからんといった感じでそう言った。
「そう言えば鳴村先輩は何故ASTに入隊をしたんですか?」
「んー…そうだね…一言でいうなら復讐かな」
「復讐ですか……」
いきなり物騒なセリフが飛び出した事に日下部は少しだけだが怯んでしまう。
「私の両親は昔空間震に巻き込まれて亡くなっちゃってね。それで少しでも自分と同じ境遇の人がいなくなればって思ったけど…綺麗事を並べても所詮は根っこにあるのは燃え盛る復讐心なんだろうね…」
己を騙る彼女の表情は自虐に包まれていた。
精霊を倒すという大義を騙っているはずなのにどんどん小さくなっていく相手に何を言ったらいいのか分からなくなってしまう。
そこで日下部は相手の首にかけられている恐らく写真を入れていると思われるロケットを見る。
「あ、そう言えばそのロケットって何が入っているんですか?」
「ん?これ?」
相手が話題を変えようと必死になっているのを察してそれに乗っかる。
首からソケットを外して中身を開いて見せる、中には二人の少女が写っていて片方はソケットの持ち主であるのは分かるのだが、もう片方の茶髪にくせっ毛の少女が誰なのかが分からない。
「これは妹とのツーショットだよ」
「えっ……」
それを聞いて日下部が想起するのは先ほど口にした家族の弔い合戦の為にASTに入隊したという話だ。これでは結局話題を変えられていないではないかと沈んでしまう。
相手の反応を見て何に気持ちが沈んでいるのか鳴村はそこで気が付いた。
「ごめんごめん言葉不足だったよ。親は亡くなっちゃったけど妹と私は何とか無事だったんだよ。今は二人暮らししてる」
「あ、そうなんですね」
それを聞いてホッとする。目の前の相手は天涯孤独ではなかったのだと。
そこで鳴村は何かを思い出したと口を開く。
「そうそう。来週は訓練に付き合えないけどごめんなさいね」
「何かあるんですか?」
「来週は妹の授業参観があるから有給休暇を取る予定なんだよねー」
◎
二人は一冊の漫画誌を恋菜の家で一緒に読んでいた。
「おれ…にぎって…い…る、まを、はら…う…じゅうだん…がっ……」
「そうそう…少しずつだけど常用漢字が読めるようになってる」
恋菜は約束を果たすため虚華に日本語を教える事にした。
最初は小学一年生が行うような五十音順のひらがなやカタカナを教えたのだ、だが一つの違和感が発生した。
「あ、い、う、え、お…これで間違いないよね」
「あ、うん…本当に覚えるの早いよね…羨ましいな…」
あまりにも文字を覚えるのが早かったのだ、仮に学習能力が高いとしたらそれは水と一滴も零さないスポンジのような異常な頭脳だ。
(天才…?)
ただ恋菜が同時に思ったのはそれこそ元から覚えていた文字をこれを機に思い出しているかのようだという事だ。
ひらがなとカタカナの約百文字であれば何とか短時間で覚えることが出来るのかもしれないが、常用漢字となると約八千文字にも及ぶ。ある程度日常で扱う漢字をフィーリングでも読めるようになるのに五、六年の歳月をかけるはずなのだ。
二人が出会ってすでに二週間は経っている、だがそのような短い歳月で漢字を覚えるのはいくらなんでも無理がある。
「そう言えば今週の『SILVER BULLET』のこのセリフよく分からなくってねー…教えてくれない?」
「え?ああ、どのあたりかな」
そんな事を考えながらも相手は漫画を楽しんでいたようで気になった部分の解説を求めて来た。
ここ数日は虚華が気になった事を恋菜が教えるというサイクルが成立していた。
「女の子は綺麗で清廉潔白だなんて嘘々、そんなのは男の勝手な幻想にすぎないから」
「そ、そうなの?」
少しだけ歪曲した恋菜の知識を植え付けられながら……
「ふう……」
「そうか、もうこんなに時間が過ぎていたのか…」
日本語の勉強(漫画観賞)を行う事二時間が過ぎて二人は少しだけ疲れていた。
漫画読みが楽しいとはいえ、小さな文字を長時間追い続けるのは大きな負担なのは間違いない。
「何か飲み物とお菓子を取ってくるね」
「ありがとう」
「うん、ちょっと待っててね」
そう言って恋菜は自室から出て台所へと向かって行った。その背中を虚華はじっと見ていた。
「もうそんなに時間が過ぎていたのかー…」
虚華はぽつりとそんな事を口にする。
既に赤の他人では済まされないほどの時間が二人の間に流れた。楽しさに流されて二人の中に強い友誼が結ばれた。
少し前までは考えられないほどに穏やかで優しい、そして居場所と居心地というのを感じる場所。
「……ん?」
ふと部屋の中を覗くと本棚に並べられている本が僅かにではあるのだが統率感がなかった、彼女の違和感というセンサーが働くのだ。
恋菜は買った本はキッチリと並べているのだが、今日は背表紙が微妙に前後して、何かが奥に挟まっているように思えたのだ。
「なんだ…?」
本を前に押すのだがやはり何かが奥に挟まって本が本棚の奥までキッチリとハマらないのだ。
原因が気になったため本棚の中の本を取り出して奥に挟まっているものを取り出す。彼女が手に取ったのは、女の子同士が手を取り合って熱っぽい視線を向け合っているそんな表紙が。
一方台所でお菓子を物色していた恋菜はもてなす相手の事を考えていた。
「最近の虚華はチョコレートが気に入ってたよねー…」
最近買ったチョコレートケーキを冷蔵庫から取り出してお皿に乗せる。いつ来てもいいように用意していたのだが、賞味期限が切れる前に訪ねてきたのは幸いだった。
トレイに二人分のケーキとコップに注いだ飲み物を用意して自室に戻る。
「虚華ー持ってきたよー」
「えっ…あ…」
「どうし…た…の……」
最初は気軽な口調であった恋菜であったが、顔を真っ赤にした虚華が彼女のコレクションを読んでいるのを目撃して彼女の中の時間が見事に凍結する。
「あ…あっ…ああぁぁ……」
「えーっとぉ…綺麗な絵だね……」
「ち…」
何かを察したのか相手を何とかフォローしようとする虚華。
どうやらここで本を隠しているという行為が、彼女にとって見られたくない秘密であったことに気が付いたようだった。
よって恋菜が取れる行動は一つだった。
「違うからああああ!!!!」
◎
ある日、目の前の出された料理たちをつつきながら虚華はふと思った事を質問する。
「そう言えばさー」
「何?」
虚華はリビングの食卓テーブルの上に置かれている冷凍食品のオンパレードで夕食を取っていた。
初めて虚華が冷凍食品を見た時はもう何が何やらといった感じでぽかんとしていたものだった。
今はレンチンに慣れてしまったためあの時のようなリアクションは見られ無いのが残念なのだが。
「恋菜のお母さんとお父さんっていないの?」
「えっ……」
虚華からのふとした質問に恋菜は呆然としてしまう。相手からそんな事を聞かれると思っていなかったし、そもそも一度としてそんな事は教えていなかった。
「どうしてそんな事を聞くのかな」
「色々な小説や漫画を読んでいたんだけど、普通子供は親と一緒に食事をとるのが当たり前らしいんだけど恋菜の親を見たことが無いからおかしいなって思ったんだ」
それは好奇心からくる悪意は籠っていない質問であったのだが、それを受けた相手からすればあまりにも残酷な内容だった。
聞かれた以上は黙っていても不安を煽る結果にしかならないだろうと考えて恋菜は口を開く。
「お父さんもお母さんもいるよ…でも忙しいから…ほとんど帰ってこないんだ……」
「そうなのか?」
「うん、あと言っておかないといけないんだけど……」
「どうしたん?」
相手が沈んでいる理由が理解出来なくて虚華は少し訝し気な表情を作る。
「きっとその質問をされた人は楽しくないだろうからしちゃダメだよ」
「え…恋菜は…」
「うん、正直傷ついてる…かな…」
相手のその言葉を聞いて恋菜の表情に恐怖とも言える何かが滲んでいく。
もう既に彼女無しの日常は考えられない、それほどまでに深く関わっているのだ。もしこの一件で決別などしたらきっと立ち直れないという自信がある。
涙を滲ませながらも虚華は何かを言おうとする。
「わ、わたしはっ……」
だが彼女は何を言ったらいいのか分からない。
これまで精霊として多くの人を傷つけてしまった。怨嗟や憎悪をぶつけられる事など一度や二度では済まされないほどにだ。
意味は分かっていなくても目の前にいる相手は傷ついたとはっきり口にした。
絶対に嫌われたくない、それが彼女の本音だった。
恋菜はそれを見て椅子から身を乗り出し、相手の手を取って視線を同じ高さに合わせて言葉を紡ぐ。
「うん、悪意が無かったことくらい知ってるよ」
「ッ!」
相手の目を見ると傷ついたと言いながらも穏やかな色をまとっていた。それは幼子の失態を優しく諭しあやしてやるようなそんな優しさが。
「でも私は恋菜を…」
「うん、じゃあ次から気を付ければいいと思うんだ。まだまだ虚華は知らないことだらけで未熟ってだけじゃない?」
彼女は簡単に許した。そもそも傷ついたと言ってもそこまで失意のどん底に落ちるほどではないし、それを言われるのが知らない誰かではなく自分でよかったと思っていたくらいなのだ。
「次から気を付ければいいと思うよ。さ、冷えちゃう前に食べちゃお」
その後、恋菜は虚華に何故先ほどの質問が傷つくのか具体的に説明をした。
◎
「恋菜遊びに来たぞ!」
またある日の朝、虚華は恋菜の住んでいるマンションにやってきてインターホンを鳴らす。だが残念なことにその日、彼女は学校に行っていたため不在だったのだ。
「たしかここにあったはず…あった」
彼女が探していたのは、このような不在だった場合に外で待機することが無いように、郵便受けの上にスペアのオートロックを開けるための鍵を貼り付けているのだ。
「おじゃましまーす」
当然だがその言葉に答える人は家にはおらず、ただ静まり返っている部屋がそこにあった。
(そうだな……)
家族でない虚華ですらこの静かな家を寂しいと思ってしまうのだ。血の繋がった親が返ってこない恋菜は、もっと胸にぽっかりと穴が開く様な寂しい気持ちを抱えているはずだ。彼女が前に注意したのも頷けた。
「お菓子お菓子…っと…」
ある程度虚華の為にお菓子を買い溜めしていたため自由に食べていいとのお達しを貰っていたため、彼女は迷いなく台所に向かって行く。
「ん?」
そこで台所に入った時に違和感があった。それはゴミ箱がいつもであればキッチリと蓋が閉められているはずなのに、今日は開けっ放しになっているという事だった。
気になって中を覗くとそこには一枚のプリントがくしゃくしゃに丸められて入っていたのだ。彼女はそれを手に取って開く。
「なになに…『授業参観のご案内』?」
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悲劇の片道切符
「おーしっ」
鳴村凛院は朝から張り切っていた。
いつもは仕事で朝早く出勤して、夜遅くまで帰れず、唯一の家族である妹と過ごせないため、今日一日は仕事を忘れて一緒に過ごし倒してやるぞと。
「はぁ……」
一方でそんな姉を食卓越しに見ている妹の鳴村真院は憂鬱だった。
目の前で張り切るの姉を見てどうしようかと思ってしまっている。授業参観に気合を入れる家族ほど恥ずかしいものは無いだろう。
懸念はそれだけでなく、彼女にはぶっちゃけると友達がいない。ただでさえ心配症の姉をこれ以上心配させたくないのだ。だからこそその事実は何が何でも隠していたいのだ。
「せっかく有給休暇をとったなら家で休んでていいから…」
「なーに言ってんのよ、授業参観なんて今だけなんだから行かなくてどうすんだって話でしょ」
それとなく来ないでくれという提案も一顧だにされない。
それも仕方のない話で、凛院からすれば親が亡くなってからの授業参観は、周りにお前には来てくれる人はいなんだろと見せつけられるような、強烈な劣等感を植え付けられるそんな場所だったのだ。
だからこそ妹のそれに行かないという選択肢はあり得なかった。
「ああー…もぉー…」
真院はいつも以上に学校に行きたくなくなってしまう。
今考えているのは「あー今すぐにでも熱が出ないかなー」とかだ、ただ残念ながら彼女は中学時代には皆勤賞を取るほどの健康優良児なのだ。
「いってらっしゃい!」
「…いってきます」
そんな叶わぬ願いを抱えながら通学用の鞄を持って家を出る。
外は忌々しいほどに快晴だった。
◎
真院が自分に宛がわれている教室に入ると騒がしいクラスメイトが彼女を出迎える。と言っても彼女を皆が歓迎しているというわけではなく、ただ朝の教室で各々が駄弁っているというだけだが。
ハッキリと言うと鳴村真院はそれなりに高いレベルでの美少女だった。
長身でスタイルが良い事は勿論だが、すっとした鼻梁に少し気弱さが入った瞳はその顔を見た相手に愛嬌を与える。何より親の遺伝から受け付いたくせっ毛のある茶髪は何となくだが明るいイメージがある。
この高校に入学してから一ヶ月程は様々な人から声を積極的にかけられたものだったが、中身がそこまで明るいわけでも友人作りに前向きではないと知られてからは、少しずつだが誘われる事もなくなっていったのだ。
いつの間にか居場所が無くなった彼女は、教室以外の場所に居場所を求めるようになり自然と休み時間は教室から出るようになった。
彼女は校内の様々な場所に足を運んだのだが一番安心できるのは人がほとんど足を運ばない図書室だった。
「おーい、そろそろホームルーム始めるぞー」
気怠そうな担任教諭が教室に入ってきて号令を出す。
その言葉が教室に響くと先ほどまでくっちゃべっていた生徒たちは自分に宛がわれている席に着いた。
◎
「んじゃこの問題分かるやついるかー?」
いつもはただ教科書の内容を板書するだけの教員も、教室の最後列に多くの父兄を招き入れる授業参観とあってか挙手をさせて回答をするように促す。
『…………』
だが小学生ならともかく高校生になった彼ら彼女たちは恥ずかしがったり、この茶番感に辟易といった感じで殆どの生徒は相手にしていなかった。
そのような空気だからか教員もそれを察していつも通りの授業を続行する。
「ッ!?」
そこで真院は背中から並々ならぬ雰囲気を察知した。
ちらりと背後を盗み見ると自分の姉が両の手をぐっと握って、力強い目力で何やら期待するような視線を送る。
(やめてぇ…)
授業中だというのに彼女は頭を抱えてしまう。
だが一方で彼女の姉である凛院は主に四十代から五十代が目立つ親たちの中にあっては異様に目立つし、何よりその容姿は誰もが羨むものだった。
「おいあの綺麗な女の人って誰の母親だよ」
「まさか、誰かのお姉さんとかだろ。どう見てもあれは二十代だし」
「すっごい美人さん…何か特別なことをしてるのかな…」
生徒たちもいつの間にか教室の背後に陣取る凛院に気が付いてざわついていた。
どうやらこの後に一波乱起きそうだなと真院はそんな不吉な何かを感じていた。
特段波乱らしい事が起きることなく授業参観は終わりを迎えた。授業は一限目だけなので今すぐに帰ったところで問題は無かった。
クラスメイト達はそれぞれ疲れたとか、緊張したとかを各々口にする。
だがその中にあって一人だけは別の事を考えていた。
(早く逃げないと)
自分の姉が変に目立っていた事は周知の事実で、これから誰の家族なんだという捜査が始まるのは間違いなかった。
既に春先に目立ってそして話しかけられたはいいものの、結局上手い事やれなかったのは彼女にとっては軽いトラウマだ。
鞄を持ってそそくさと教室から出ようとするのだが。
「真院お疲れ様!」
「う…」
だがそんな願いなど妹ラブな姉の前では全くの無意味でしかないのだが。
教室にいる皆が二人に視線を向ける。既に二人が姉妹である事はやり取りによって確定してしまった。
誤魔化しがもう効かない事に気が付いた彼女は素直に返事をすることにした。
「…うん…お疲れ様」
「今日は全然手を挙げなかったけど体調が悪かったの?」
「高校生にもなって手なんてあげないよ……」
二人のやり取りは皆が興味深そうに見ていた。
容姿端麗だが教室の隅でいつも静かにしているクラスメイトにこんな綺麗な姉がいるとはと、既にクラスの話題を掻っ攫いつつあった。
「う、ううっ…もう帰るからっ…」
「へっちょっと待ってよ、真院の友達に挨拶でも…」
その面白いものを見たという興味深そうに見てくるその視線に耐えられなくなった真院は教室から出て行く。その背中を追っていく姉である凛院。
「もーちゃんと挨拶をしたかったのに」
「恥ずかしいから止めてってば」
恥ずかしさを堪えるように顔を真っ赤にして俯きながら廊下を歩いて行く。
癖のある髪型に茶髪の二人はよく目立ったため廊下にたむろしていた人たちの視線を集めた。
そこで別の教室前に多くの人がたむろしており通行不可になっていた。
勿論迷惑ではあるのだが、授業参観といういつもとは違う雰囲気のせいか迷惑だと思うよりは興味の方が強かった。
凛院も真院もまた苛立ちよりは興味の方が引かれた。
「あれは何かしら?」
「ん?なんだろうね」
姉はこの光景が通常の出来事なのか問いかけるが、当然そんなはずは無く妹も疑問符を浮かべる。
二人は人の集まりに向かって歩いて行く。そして人混みのど真ん中にいるある人物を認めてしまう。
「え……?」
「どうしたの?」
ただただ凛院は間抜けな声をあげる事しか出来ない。
そんな不自然な反応を見せる姉に不安を覚える。
「ありえない……」
妹の心配そうな態度などもう彼女は認識することが出来なかった。
何故なら彼女の視界の先にいたのは精霊である虚華だったのだから。
◎
「ここが学校か、漫画に載っていた通りだ」
虚華は恋菜が通っている高校の前でそんな事を口にする。
朝に見つけた「授業参観」という単語を見て、とっさに相手の家に置いてあるパソコンを使ってその意味と高校の住所を調べてやってきたのだ。
ちなみに今の彼女は通販サイトで適当に選んだ服をチョイスして作った物を着ている。仮に何を着たらいいのか分からない時はそうしろと恋菜に言われていたのだ。
彼女は校門をくぐるのだが運がいいのか警備員や手の空いている教師に見つかって咎められることは無かった。
今日は授業参観であるため学校の生徒ではないと分かる人間であってもある程度はスルーされるのだ。
「おお…」
ワックスのかかった廊下を歩く感覚は初めて体感する事である為、そのキュッとする感覚を楽しむ。
今彼女の履いている靴は精霊の力によって作られた物で、霊装の力が僅かにだが備わっているため汚れを弾く性能があるためそのままでも廊下は汚さない。
「うっおお……」
漫画や小説の中の出来事でしかなかった学校という世界を目の当たりにしてやや興奮気味だった。
ふとそこで彼女は自分がここに来た目的を思い出す、恋菜の家から持ってきた授業参観の案内のプリントを見てどの教室に行けばいいのか探し始める。
◎
「…………」
教室で宛がわれている自分の席で恋菜はじっと静かに本を読んでいた。いつものルーティーンと言えばそうなのだが、今日はいつも以上に体を小さくしてじっとしていた。
クラスメイト達が話しているのは、親が来るから恥ずかしいとか、親が来ないから勝ち組だとかそんな他愛もない会話。
昨日、彼女は親にそれとなくメールではあったのだが授業参観の連絡を入れた、だがどちらも仕事が忙しいから来れないという欠席の連絡が入っていたのだ。
そしてやるせない気持ちになった彼女は連絡のプリントをゴミ箱に入れたのだ。
(分かってた事なのに勝手にやって勝手に傷ついて馬鹿みたい…)
既に本の内容が全く頭に入ってこなかったため、読書を中断してぼんやりと外の景色を楽しむことにした。
窓の先にはいつもと変わらない日常が広がっているにもかかわらず、いつも以上に彼女の気持ちは沈んでいた。
「ここはこの方程式を応用してだな」
黒板に板書されるのはこの先どのようにして人生に応用するのかが見当もつかない数字と記号の羅列、それを生徒たちは積極的にノートに写していく。
授業参観といってもいつもと変わらない授業風景なのだが、生徒たちの多くは後ろに鎮座している親御さんが気になっているのか時々ちらちらと背後を確認している。
生憎そんな心配をする必要のない恋菜は、恥ずかしがっている同級生たちを見て溜息を薄く吐いてしまう。
(誰も来ない私は気楽な身分ですねっと…)
親から来ないという旨のメールを受け取った彼女はもう無敵なのだ。
だが同時にふと脳裏に過ぎったのは最近できた彼女の友達、もし恋菜のために来るとしたら彼女以外はありえない。
(って何考えてるの……)
いつ現れるのかも分からない不安定な存在である彼女が今日のこの瞬間にピンポイントで来るなどあまりにも都合がよすぎるし、そもそも授業参観の事など教えていないのだ。
するとそこで学生たちと背後にいる保護者たちが少しだけだがざわつき始める。
「誰だあの子」
「学生じゃないよね、今日は平日だし」
「つかめっちゃ可愛くね…」
生徒たちのざわつきは当然授業を真面目に受けている彼女にも届いていた。彼女もさすがにそのざわつきが気になって後ろを振り向く。
「…なんなん…ブッ…!」
「や、恋菜、プリントを見て来たぞ。教えてくれればよかったものを」
虚華がプリントを片手にごく普通のテンションでここに来た理由を報告する。
今は授業中なので彼女が勝手に話すのは許されないのだが、そこまでは調べていない。
そのセリフを聞いて教員と生徒たちは一応に恋菜の方を見る。今人生でも一、二を争うほどの注目を集めている恋菜は何をどうしたらいいのか分からず俯いてしまう。
ここで黒板の前に立つ教師は我に返って注意を促す。
「あのすみませんが……」
「虚華だ」
「虚華さん、今は授業中ですので私語は…」
「しご?」
虚華は教師からの注意に自分の何が悪いのか、自分が何を改善するべきなのかが分かっていないようで困惑している。
それを察して恋菜は相手にいまするべき事言う。
「虚華、今は勝手に話しちゃダメなんだよ」
「そうなのか?そう言えば漫画でも学校では静かにしていたような。そうか、すみませんでした」
そう言われて相手は素直に頭を下げて教室の後方で静かにしていた。
その後授業は再開したが、虚華登場の強烈なインパクトのせいで教室内にいる誰もが授業に集中できてはいなかった。
◎
(早く逃げないと…)
授業を終えた恋菜が真っ先に考えたのがそれだ。もうすぐ彼女の突如教室に現れた謎の美少女虚華との関係性を知ろうと人が群がる可能性があった。
ここで逃げたとしても問題を先延ばしにするだけなのだが、大事なのは未来ではなく今どうなるかなのだ。
「無視をするな」
「ぐえっ」
だが鞄を持って教室から出ようとする彼女の首根っこを掴んで離さないのは虚華だった。教室の出入り口のところで止められてしまう。
「おい恋菜、何で私から逃げようとするんだ。傷つくだろう」
「うぅ…ごめんなさい…許して……」
「な、何でそんなに追い詰められているんだ…?」
相手があまりにも真に迫った弱さを見せるものだから虚華はちょっとだけ引いてしまう。
一方でクラスメイト達は遠回しから大目立ちしている虚華の事が気になっていたようだが、その内の一人が勇気を出して二人のもとへと歩いてくる。
「ね、ねぇ…御守さんだよね。その人は…友達?」
「えっ…えーっと…」
突如声をかけられて彼女はテンパってしまう、この場面でさほど仲良くない相手に声をかけるなんてすごいな。あと彼女は「自分の名前覚えてるんだ…友達が多い人は違うな、自分には出来ないな」とか考えていた。
ずっと黙っていても不自然がられてしまうため何か言い訳をしなくてはと考える。どストレートに精霊など言えるはずもないし、そもそも真実を言ったとしても電波だと思われるのがオチだ。
「あ、そうだ。従妹だよ御守虚華っていうんだ」
「従妹?いや、私は…ああそうだ…たまたま休みと重なって恋菜の家に遊びに来ているんだよ」
最初は何を嘘をと虚華は思ったのだが、すぐさま恋菜がこの場を凌ぎたがっているのを感じてそれに乗っかった。
どうやら堅苦しかったり気難しい人物でもなさそうという事で、多くの生徒が話をしたい、お近づきになりたいと群がってくる。
「な、何だ?」
「虚華と仲良くなりたいんじゃないのかな」
いきなり人に囲まれた彼女は困惑の声をあげるが恋菜がそれは悪意からくるもではないと弁明をした。
その後、もみくちゃにされながらも二人は質問ラッシュを裁き切った。
その近くでASTの人間が見ているとも知らずに……
◎
「ところでなんだが…いいか?」
「どうしたの虚華?」
二人は学校から恋菜の家に帰って休んでいた。
そんな中でふと何かを思い出したのか虚華は口を開いたのだ。
「何で恋菜は積極的に話さなかったんだ?」
「え」
その一言に恋菜は固まってしまう。それを見ても相手は口を開くことを止めない。
「あの時どこか話すのを嫌がっていたというか…怖がっているようなそんな気がした」
虚華が口にしたあの時というのは授業終わりに質問攻めにあったそれだろう。
話題の大半は当然虚華の事だったのだが、それ以外にも虚華の事は抜きで恋菜にそれとなく話しかけていた人はいたのだ。
だが彼女は話しかけられても一言二言淡々と返しただけで話題を広げようとはしなかった。
質問攻めにされながらも虚華はそれを見逃さなかったのだ。
「私にはそんなに悪い人だったようには見えなかった、どうしてだ?嫌いな人なのか?」
「それは……」
「まあ私に話したくない事もあるんだろうけど…」
虚華は相手が答えに窮しているのをみて、これは流石に踏み込み過ぎたなと思い気が沈んでしまう。
「そうだね…虚華になら…あなたなら何かが分かるのかな……」
恋菜は高校に入ったばかりのころに頑張った事を話し始めた。
虚華は相手の話を聞き終わった事には難しそうな表情を作っていた。
「なるほど……」
ポツリと一言そう言った。
相手が答えることに困っているのを見て慌てて恋菜は弁明を図る。
「でもさ、別に無理して友達を作る必要はないし、私には虚華がいるから…」
「…………」
その言葉を受けても相手の表情は晴れなかった。
決して友達であると言われて気分を悪くしたわけでは無い、でも何かが引っかかっているのかその顔には懸念があった。
「自分にとって好ましくない事でも、その相手と友人関係であるためなら仕方なく覚えなければいけないか…それは難しいな……」
何を言ったらいいのか虚華は困っていた。
人生経験が圧倒的に少ない彼女では恋菜の懸念全てをフォローできる言葉など持たないのだから。
だからこそ彼女が言えるのは心の底から思った事だけ。
「あの日恋菜が友達になれないかと言われて、そして空間震について真剣に悩んでくれたのが本当に嬉しかった。その時と同じように過程とか仕方ないとか、何をしなければいけないのだとか、そんなめんどくさい事など一旦忘れて、相手そのものにまず真剣に向き合えばいいんじゃないのか?」
「それは…」
そう言われて彼女は何を返していいのか分からなかった。
だが言葉に詰まっていても相手はお構いなく思ったことを話し続ける。
「恐らくだが…あの時話しかけた恋菜は私がめんどくさい存在である事など考えてなかったはずだ。その時と同じような感じで周りの人達と向き合えばいいんじゃないかな」
決して強制する事ではない。あくまで彼女は思った事を口にしただけ。
あの瞬間の恋菜は打算など考えずにただ思った事を口にしただけだったはずだ。
だが本当に今のままでいいと思っているのなら、今の今まで人との向き合い方で頭を悩ませたりはしなかったはずだ。
だとすれば御守恋菜はどうしたいのか、そしてどうなりたいのか、その答えなどとっくに出ている。
まだ心の中いい座り続ける不安。やりたい事は分かっている。だからこそ最後の一押しが欲しくて恋菜は口を開く。
「ねえ…虚華……」
「何だ?」
ここまで言葉を紡いでなおまだ悩んでいる相手であっても、彼女は呆れることなく付き合い続ける。
「私なんかで大丈夫なのかな……?」
この期に及んでいまだに不安を払拭出来ない相手でも、虚華は優しげな表情で言った。
「『私なんか』なんてつまらない事を言うな。恋菜の事を大切に思っている私に失礼じゃない。それに恋菜なら大丈夫、精霊であり、また友人…いや親友である私のお墨付きじゃ不満?」
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所詮は精霊でしかない
鳴村凛院が高校の校舎で精霊を目撃してから既に一週間が経過していた。
彼女とその上司にあたる神無月は基地にある部屋の一つで、そこで諜報部が持ってきた資料を挟んで話し合っていた。
その資料には楽しそうに街中で歩いている姿や、美味しそうにファーストフード店で食べ物を食べている姿が盗み撮られていた。
「なるほど…確かに鳴村君の報告通りこれは『ドクター』に間違いないですね…」
「はい、私も最初は目を疑いましたがやはり精霊でしたか…空間震を気取らせずどうやって現れたのか見当もつきません…」
二人はあまりにも人間社会に溶け込んでいる精霊の姿に驚きしかなかった。
「そして精霊と一緒に居る彼女はいったい何者なのでしょうか……」
「資料では本当に普通の女の子だそうです。過去に精霊や空間震に関わったことが無ければ、顕現装置も知らないそうです…」
勿論精霊にも驚いたのだが、それだけでなくその写真に一緒に写っている少女にも驚きを覚えた。
厳密にいえば空間震の現場に一度だけいた経験はあるが、その時は精霊から逃げかえる途中だったため把握できていなかったのだ。
凛院はふと思った事を口にする。
「一緒に居る理由…例えば精霊に脅されているとかでしょうか…」
「それは…どうでしょうか……」
その言葉に上司である神無月も改めて写真を見て答えを決めかねていた。
もし仮に精霊に関する事情を知って傍にいるのであれば、考えられるのは精霊に脅されて人間の情報を集めるために利用されているだろうか。
だが同時に何となくだが分かってしまう、写真に写る彼女は脅されて一緒に居るそれではない事を。
「少し話が変わりますがDEMからの出向魔術師が来るそうです」
「DEM…ですか…どうにもこうにも……」
その報告を聞いて彼女は何とも言えない表情を作る。
DEMは顕現装置を作る事が出来る企業の一つで、各国の顕現装置を提供している軍隊や政府に対して強い干渉力を一企業でありながら有している組織だ。だが黒い噂が絶えないため好かれているとは言い難い。
彼は目の前の相手が嫌そうな雰囲気を出したのを感じて問いかける。
「嫌ですか?」
「いえそんな事は……」
「この会話は盗聴されたり録音はされてませんからいいですよ、正直胸糞悪い連中ですし、今回の一件、DEMはドクターに前から注目をしていたようでこの辺に目撃情報が多い事を嗅ぎつけて無理矢理部隊員の枠を開けてねじ込んできましたから穏やかではありません」
「…………」
DEMから出向して来る魔術師はそれなりの実力を有しているのは間違いないはずなのに、戦力不足で悩んでいるはずの二人はどうしても手放しに喜ぶことは出来なかった。
もしかしたら何か取り返しのつかない事が起きようとしているのではと考えてしまうのだ。
◎
上司からの報告があった翌日、件の出向魔術師がやってきたのだ。
ASTの隊員たちは目の前に立っている焦げ茶色の髪に、体の所々にタトゥーあしらい、キツイ睨むような目をした女性に注目をしていた。
神無月の腹心の部下の一人が目の前の女性の説明をする。
「こちらがDEMの出向社員になります『ブレンダー・ラスト』さんです」
「…………」
紹介をしてもらっても目の前の女性のブレンダーは何も話そうとしない。ただ周囲にいる人間を値踏みするように観察をしている。
この場にいる人間たちはだんまりを決め込むものだからざわついてしまう。
「……すみません、ブレンダーさんからも一言貰えませんか」
あまりにも何も言わないものだから一言貰えないのかと催促をする。
当初の想定ではここで自己紹介や質疑応答を行ってこの場所や人たちに馴染んでもらおうと考えていたのだ。
「…この中でマシな奴は一握りか…マジでがっかりだわ。アタシの邪魔だけはすんじゃねーぞ」
ブレンダーのその一言にその場にいた人間全員が凍り付く。そして何を言われたのかに気が付いてカッとなってしまう。
「言わせておけば…!」「DEM直属だからって…」「精霊に一人で立ち向かえるって思ってんの?」
ここでDEMの人間に対して文句を言う事のリスクなど分かっているのだが、自分達の精霊に対する戦績も、そして実力不足を嫌というほど自覚はあったため、相手に言われた事に対して穏やかではいられない。
「そこまで言われて黙ってはいられないわね」
そんな中、明確に相手に発言をしたのは凛院だった。
「あん?」
「私達がどれだけ命を削って戦ってきたのか、来たばかりのあなたに分かったような口をきかれたくは無いわね」
凛院とブレンダー、二人の間に流れる空気はあまりの荒れていて先ほどまで小さく悪態をついていた人たちも静まり返ってしまうほどだった。
ここで隊長である神無月はこれまで守っていた沈黙を破って口を開く。
「そうですね。ここで言い合っていても仕方のない事です。まずはお互いの実力とその距離を測るためにもここは模擬戦を行って分かりあおうではありませんか」
◎
顕現装置をまとった男女たちが訓練所である広場に集まっている。
「いちいち相手にするのも面倒だ。ハンデだ、取りあえずまとめてかかって来い雑魚ども」
誰でも装着が可能な汎用タイプの顕現装置ではなく、ブレンダーの体に合わせていると思われるオーダーメイドであろうそれを着てそう言った。
誰もがその舐め切った一言に怒りをあらわにしてしまう。だが彼ら彼女らの中に残っている人としての理性が武器を構える事だけは止めさせる。
精霊はただの災害であり、害獣のようなものであると割り切ることは出来るのだが、目の前にいるブレンダーは気に入らない相手でこそあるのだが間違いなく人間であり、その相手に憎しで刃を振るう事は躊躇ってしまうのだ。
「いいでしょう。では訓練を始めましょうか」
「い、いいんですか…?」
上司が多対一を容認したため部下である凛院は躊躇いを口にしてしまう。
いくら気に入らない嫌いな相手であっても大人数で取り囲むのは彼女らの意思に反していた。
「別にいびりじゃないですよ。ただここで引いて一線を引かれても困りますし、ここでどちらが優れているのか決めればいいじゃないですか。それで構いませんよね?」
「つーか最初にそう提案しただろ、改まってわざわざ口頭確認すんじゃねぇよ」
ブレンダーは神無月に顔を向けられそう確認をされ、心底めんどくさそうにそう言った。
その態度を見て周りの隊員たちは覚悟が決まったようだった。
人間性では一切信頼されていないが、戦闘面では常に犠牲者が出ないように配慮をして、面倒な上層部の人間から守ってくれている神無月を心の底から嫌いな人はここにはいないのだ。
全員が所定の位置に立って手に持った武器を構える。
『……………………』
「…………」
じっとASTが睨みつける一方で、ブレンダーは緩慢な姿勢で武器を持つこともなく立ちすくんでいる。
その心底舐め腐っているとしか思えない態度に尚更苛立ちを募らせてしまう。
「では訓練を…始め!」
その合図とともに全員が銃を発砲し、一気に距離を詰めてレーザーブレードを振り下ろす。
逃げられるタイミングではなかった、そもそも全ての攻撃を躱せるような回避に使える都合のいいスペースは存在しないように計算された連携だった。
「まぁこんなもんだろ」
『!?』
だがブレンダーは一切の攻撃をその肌に受け付けなかった。
彼女の全身に可視化するほどの顕現装置によって生み出された大量の魔力が吹き荒れて、強引に全ての攻撃を跳ねのけたのだ。
「まあいいんじゃねーの?平和ボケした国の割にはやるじゃん。連携は悪くねえし、ただの雑魚かと思ってたが、いたらいたでウザったい雑魚程度には使えるな」
心底馬鹿にしているのか、本気で関心をしているのか分からないそんな平坦な声音で先ほどの攻撃を評価する。
「ッ…!…くっ……!」
攻撃に参加していた凛院はここまで絶望的な実力差がある事に焦りながらもなんとか一矢だけは報いてやろうと、レーザーブレードの出力を上げてその魔力の壁を切り裂こうと踏ん張る。
そんな姿勢を見てブレンダーは少しだけ目を見張っていた。
「オマエやるじゃん」
彼女はこれには本気で関心をよせていた。
ここにいる多くの隊員はその実力の差に愕然として戦意を失うか、呆然とするかの二択だった。
しかし凛院だけはまだ諦めずに噛みついてやろうと必死になっているその諦めの悪さを見せていた。
「ただ、まだ意志と実力が釣り合ってないんだよなぁ!」
とはいえその攻撃は相手の魔力の壁に少しだけめり込むに留まって、肝心の本体には微塵も当たる気配がない。
そして魔力をコントロールして砲弾の形に変換して凛院の体に打ち込んで倒す。
彼女の必死の攻撃もブレンダーからすればそよ風にもならない存在で、逆にブレンダーの何ともない攻撃は彼女にとっては致命傷だった。
「あ…ぐぅっ…!」
凛院は何とか立ち上がろうとするのだが、あまりにも重い一撃は彼女から立ち上がる意思を奪い取っていた。
「やはりこうなるのは仕方ないですかね」
神無月にはこの結果になる事が最初から分かっていたようで、特に驚くこともなくそう締めくくった。
一方のブレンダーは相手の様子を確認する事も無く身を翻してその場から去ろうとする。
その背中を何とかここに留めようと必死に彼女は手を伸ばすが届くことは無い。
「筋は悪くねーよ?ただ…まぁ心が人間であるうちはあいつらの足元にも及ばねぇ」
最後に一瞬だけ立ち止まったブレンダーは相手にそう言った。
◎
「…………はぁ」
虚華は意識が引っ張られるような感覚と共に空間震によって崩壊した街並みを眺めていた。
静粛現界を覚えたとしても、否応なく空間地を生み出す現界が無くなるというわけでは無かった。
人としての生活を知ってからというもの、自分の存在によって生まれる被害に対してこれまで以上に心を痛めるようになっていた。人の素晴らしさを知れば知るほど自分の存在がどれほどに害悪であるのかを理解できるようになっていた。
「来たか」
そしていつもの通りにASTの人間が彼女を取り囲んでいる。
彼女は分かってしまっている。目の前にいる人達一人一人がこれ以上の被害を出すまいと武器を取り、勇気を振り絞り、そして必死になって目の前の強敵である自分に立ち向かっているという事を。
今日も適当に相手をして適当に隣界に戻るまで時間を稼げばいいやと考える。
「おいおい、こんな覇気のねえやつが本当に精霊なのかよ?」
だがその戦いが始まる前の緊張感のある空間の中で、その空気を切り裂く様な言葉を発する人間がいた。それはブレンダーだった。
(何だこいつは…)
虚華はこれまでにいなかった相手を認めて驚きと不快感を覚えた。
今日までに確認した魔術師とはかけ離れた口ぶりや身なりは彼女が不快であると感じるには十分なものだった。
「まあ…攻撃してみりゃ分かるこった!」
「それは認められません」
勝手にヒートアップしている相手に冷静に声をかけるのは神奈月だった。
「はあっ?何をアタシに命令してやがる!」
「あくまでもあなたは出向社員です。ここでは現場責任者の指示に従ってもらいます」
「……」
その言い分をどう思ったのか黙り込むブレンダー。だが次の瞬間彼女の体がブレた。
「な……」
ブレンダーが剣を構えて真正面から飛び込んでいった。
(こいつ速い!)
そのスピードはこれまで虚華が体感したことの無い速度なだけに虚を突かれてしまう。
振り下ろされた剣は霊装である白衣をまとった腕によって簡単に受け止めることが出来た。
「はっやっぱ精霊か!」
「何なんだお前は…」
相手の狂気に染まっている表情に僅かな畏怖と不快感を受け取った彼女はポツリとそう呟いてしまう。
その言葉を聞き逃していなかった相手はこう言った。
「何なんだって!?てめーをぶっ殺すのが魔術師のオシゴトなんだよ!」
そう言い放つとレーザーブレードの出力が上昇して、少しずつだが白衣が焼かれていく。
それを見て虚華は咄嗟に天使で反撃を図るのだが、そこで躊躇いを覚えた。どんなに醜悪な相手であっても人間であり世のため人のためにここに立っているはずなのだと。
彼女は受け止めていた腕が切られる前に力を入れて相手の武器を振り払い、そして後方に跳んで距離を取る。
これまでASTの魔術師は基本的に防戦一方だったため、少なくともブレンダーは虚華に脅威であると意識をさせている事に驚かされていた。
「ふっ!」
精霊を絶対の存在たらしめる武装、彼女の天使であるメスを生み出してそれを相手に向かって投げつける。
だがパッと見では小さな刃にしか見えないそれはブレンダーの瞳には大した脅威には映る事はない。それどころか精霊の持つ戦闘能力の権化である天使が見た感じにではあまりにも弱そうで、それが彼女を苛立たせる。
「なめてんじゃねーぞ!」
投げつけられたそれを手に持っていた武器で吹き飛ばす。だがそこでレーザーブレードの刃に異変が起きた。
本来であれば矛盾するようだが、顕現装置によって本来であれば特定の形を持たないはずのエネルギー塊であるはずのそれは、まるで金属が超高熱によって炙られてグズグズと溶けるように消滅した。
「は、はぁ!?ざっけんな…んな下らねえことがあるかよっ!」
自分の思い描いていた光景にならない事実に焦りと怒りを覚えたのか荒っぽい口調でありながらも、同時に口にすべき言葉に詰まってもいた。
そこで虚華は倒壊していない建物にもメスたちを投げつける。するとコンクリートの塊はその場でバラバラに砕けて粉塵となって辺り一帯に拡散した。
「逃げられるぞ!」
戦いを見ていた一人の隊員が精霊が逃走の為に力を使った事を察したのだが、それに気が付いた時には既に姿を消していた。
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高潔な意思を通すには
五河士道と御守恋菜には共通点と相違点がある。
共通点
精霊を見た時にその未知なる恐怖よりも力になりたいと思った事、そして行動に移そうと動いた事。
相違点
現実として精霊の力やそれを取り巻く理不尽に対処する力が有ったか否か。
その行動をバックアップする強力な後ろ盾となる組織が有ったか否か。
◎
「クソがっ!」
ブレンダーの苛立ちは最高潮に達していた。基地内に置かれていた資材を見つけるや否やそれを蹴りつける。
それもそのはずで、ふざけているとしか思えない容姿に武器を扱う相手に簡単に逃げられてしまったからだ。
「次はタダじゃおかねぇ…!」
「タダではおかないのはこちらもです。命令違反の件について後で話がありますので」
「うるせぇ!オマエが止めなきゃ討てたんだろうが!」
神奈月は皆が敬遠してしまうその雰囲気であっても恐れる事なく踏み込んでいく。
一方でその苛立ちと口論を遠くから眺めているASTの隊員は何とも言えない気持ちを抱いていた。
単純に不快だった相手が失敗したのを見てスカッとする気持ちと、精霊を倒す事にここまで執念を見せるその姿勢だ。
少なくとも自分たちは精霊を倒す事に何処か諦めの気持ちがあり、消失なりをして何処かに行ってくれればそれでいいと思っていたからだ。
感覚で言うなら台風は抗わずに過ぎるのをじっと待つに限る、だからこそ精霊を取り逃して悔しがるという発想自体が無かったのだ。
「あの…神奈月隊長…」
「はい、何でしょうか?」
「例の件の追加報告書なのですが…」
隊員の一人であろう女性が資料を片手に話している上司に声をかける。
その声はどこかおどおどとしている。近くで暴れている獣の琴線に触れたくは無いのだろう。
一方でそれを受け取った神奈月は口論をやめてその資料をパラパラとめくり始める。
「どれどれ…」
「なにアタシを無視して勝手に遊んでやがんだ」
だがブレンダーは自分との口論を勝手に止められて別の事に注目された事を面白くは当然思わず、相手が手に取っていた資料を奪ってそれに目を通す。
彼女が目にしたのは、今日相手にした精霊が何度も現界しては街中を練り歩いているというにわかには信じられない内容だった。しかもただ人間のふりをして社会に溶け込んでいるだけでなく、普通の人間と友誼を結んでいるのだからなおさら驚かされる。
「なーんだこいつ…バケモンが人間のふりなんかして何がしたいんだ…?」
「勝手に資料を取らないでください」
流石の彼女も世界に最悪をもたらす生物である精霊からは考えられない奇行に呆然と声を出すしか出来ない。
一方で持っていた資料を取り返した神無月は恐らく目の前の相手が反省する事はないだろうなと思いながらも、上司として一応の注意だけはする。
案の定相手はそれに相手をしなかったのだが、それは話を聞いていて無視をしたのではなく、得た情報をどう使うのか吟味をしていたからこその沈黙だった。
(いや…奇怪であるなんざどうでもいい…これはヤツの弱点になるのか…ならうまく使わないといけねーよな?)
ただただ純粋な悪意が始まろうとしていた。
◎
ある日、虚華はいつもの通りに静粛現界を行って親友である恋菜の家のマンションのインターホンを鳴らしていた。
「……?…いないのか?」
しかしいくら鳴らしても反応はない、それを不審に思う。
彼女は今日は学校が土日休みというのは知っており、いつもであれば直ぐに反応があるはずなのにだ。
悲しい事に恋菜の家を訪ねるのは虚華ぐらいしかいないため、インターホンを鳴らせば反射的にそれに飛びついてしまうという悲しい習性なのだが、それを彼女が知る必要はないだろう。
出ないものはどうしようもないため、いつもの通りに彼女は郵便受けに貼り付けられているオートロックを解除するための鍵を取ろうとする。
「ん…何だこれは……」
だがそこに鍵はなく、代わりに貼り付けられていたのは一枚の封筒だった。それを見て彼女は不安を掻き立てられる。
これまでに相手からサプライズのようなものを受けた事は無かったし、恋菜はあまりそのようなことをしないタチだと思っていたからだ。
封筒を開けて真ん中で折られた紙を開いて何が書かれているのかと読もうとするのだが、そこで中身を見た途端に心臓が止まりそうになる。
「な、何だこれは…」
そこに書かれていた文字は全て赤い色だったのだ、それはまるで血文字のようで言い知れない不気味さを醸し出していた。
『この女に会いたいならここに来い』
内容はこのようなことが簡潔に書かれていた。そして封筒の中にはまだ二枚の紙が入っていた。
一枚は来る場所を指定する地図。
もう一枚は恋菜の写真だった。ただしそれは普段の様相ではなく、明らかに殴る蹴るなどの暴行を受けて倒れている写真だった。
「まさか……」
そこで最初の赤色の血文字らしき手紙を見やって嫌な想像を働かせてしまう、厳密にはあえて考えないようにしていたそれ。
―もしかしたらこの血の主は恋菜ではないのか?
それを自覚するとすぐさまマンションを出て霊装を展開し宙に身を躍らせていく。
◎
何でこんなことになったんだろう?
御守恋菜が痛みで気が遠くなりながらも必死に繋いだ意識の中で考えていたのはそんな事だった。
『なーんもないや……』
朝起きて冷蔵庫内やキッチン中を探し回って彼女が出した結論は家には口に出来る者が皆無であるという事実だった。
これは仕方ないなと思いすぐさま寝間着から外に出ても問題ない服装に着替えて、近場にあるコンビニへと向かおうと玄関から家を出る。
エレベーターを降りてエントランスの前までたどり着くとそこで違和感があった。
いつもであれば南側にある日の光が差し込む明るい出入り口があるはずなのだが、今回限りは明るいという印象を払拭する存在があった。
「えっと…」
『…………』
黒服を着た明らかに怪しいですよといった存在達がじっと彼女を見つめていた。
彼女は言い知れない恐怖を感じて後ろに下がろうとするのだが、そこで背後からも気配を感じた。
『うっ…なん……』
恐る恐る背後を見やると、前方と同じで複数人の男たちが取り囲んでいた。恋菜は既にあ艇が自分を狙っている事には気が付いている。
『あの…何か御用ですか…?』
恐怖を抑え込もうとしているが抑えきれない声の揺らぎを見せながらもなんとか言葉を絞り出す。
だがその問いかけに答えたのは男の声色ではなく、少し金切り感のある女の声だった。
『オマエが精霊相手の人質に使えそーだから、まぁ用があんだよねー』
『え……』
その言葉が聞こえると同時に恋菜の意識は途切れた。
次に目を覚ました時にはいつものベッドの柔らかい感触ではなく、冷たく硬い地面に頬擦りをしているという状態だった。
「つめた……」
頬から伝わる感触をストレートに口にする。
自宅であるのならこのような感触を覚える事は無いため、ここは何処だろうかと思い立ち上がろうとする。
「んんっ…?」
だが何故か立ち上がることが出来ない、その事を不審に思った彼女は倒れたまま自分の足元を確認する。
「え、なんっ…」
そこにあるはずのものが無かったのだ。彼女の右足が綺麗さっぱり消えてしまっていた。
「な、何でっ!」
「おいおい、やっと目ぇ覚めたかよ。こっちが眠くなるっての」
「ッ!?」
その声、自分が気絶をする前に聞こえた少しヒステリック感がある声。それを耳にすると声の元へと視線を向ける。
するとそこにはブレンダーが剣を片手に立って恋菜を見やっているという光景だった。
「それじゃー目を覚ましたところで質問するが、オマエはナニモンだ?」
「足っ…足が…」
「質問してんだから無視すんじゃねーよ」
錯乱状態に陥っている相手を見て不快なのか。そこで指をパチンと鳴らすとこの場に溢れていた何かしらの障壁のようなものが消えた。
「ああああぁぁぁっ!??」
その瞬間、恋菜は足や全身の痛みによって叫ぶ。
ここまで何も感じなかった、厳密には感じていてもおかしくないのは分かるはずなのだが、混乱によって頭からすっぽりと消えてしまっていたのだ。
足を切られたら痛いという事を。
それ以前に殴られて気絶をしたというのに、痛みが無い事もおかしな点だった。
「ったく無視すんじゃねーっての」
「えっ…」
その言葉とともに恋菜の体の痛みが嘘のように消えた。
「精霊と繋がってんなら知ってるんだろうが、顕現装置で痛みを取ってやってたんだよ。てかちょっと考えれば分かんだろ?脚切られたら普通激痛で飛び起きるってよ」
どちらかと言えば短気な彼女にしては珍しく懇切丁寧な説明だった。
ここで恋菜は何とか最低限の思考能力を取り戻して辺りを見回す。最低限の光源だけが確保された倉庫のような場所だった。
そして彼女の周りには顕現装置の鎧を纏った人間が何人か取り囲むように待機している。
「落ち着いた所で聞くがオマエはあの精霊の何だ?」
「せ、精霊っ…」
その質問によって恋菜は目の前の相手がASTの人間である事にやっと気が付いたのだが、精霊を狙うにしても普通の人間をこのように拷問するとは思っていなかったため、何をどうすればいいのか分からず、喉からかろうじて空気を漏らす事しか出来ない。
ブレンダーは再び混乱の中に戻りそうになっている相手を見て僅かに溜息を漏らしたのち、持っていた資料を見せる。その内容は精霊と街中を練り歩いている人間がいるということだった。
「それは……」
「おう、オマエが精霊と繋がってんのは分かってんだよ。それで色々とオハナシしてもらおうと思って来てもらったんだが?」
話を聞きたいとは言っているものの、その本質は強引な拉致監禁だった。
正直な話ふざけるなという話なのだが、今の彼女が置かれている危機的状況は本人が一番分かっておりそのような口をきいたらそれこそ足を失う以上の悲劇が襲ってくるのは間違いなかった。
「わ、私は……」
その恐怖をただの人間でしかない彼女が克服できるはずもなく、恐れがハッキリと声として出てくる。
その様相をじっと見ていたブレンダーは溜息を吐きながら呟く。
「つーかいつまでもグズグズすんじゃねーよ…もう一本失わねーという事も分からねぇのかぁ?精霊なんて害獣に懐柔されるような奴だ、キッチリと躾けてやらねぇとな…」
その言葉を耳にした瞬間、恋菜は思考が真っ白になった。自然と口を開いてしまっていた。
「訂正…してください……」
「はぁ?」
相手が口を開いたかと思えば出てきたのは自分に対する反撃だったため不審そうに唸る。
一方で熱い血が上り切った恋菜は既に目の前の相手に対する恐怖が消えてしまっていた。
「虚華は害獣なんかじゃない!私の大切な親友だ!訂正しろ!」
「あはは!空間震を生み出すだけの人の形をしたバケモンを人間扱いとか面白すぎだろ!!」
だが相手の確固たる信念を見せつけられてもブレンダーがそれに対してまともに向き合うはずもなかった。それどころかブレンダーの部下であると思われる人たちも苦笑するか、バカにするかのように薄ら笑いをする始末だった。
だがそんな対応を受けても恋菜が怯むことは無かった。こんな自分でも親友だと言ってくれる相手がいるのなら、例え馬鹿にされても笑われても胸を張っていたいと思ったのだ。
「まあいいや、取りあえず―」
ブレンダーはひとしきり笑い終えた後、次にするべき事を言おうとする。
だがその瞬間、壁が轟音と共に破壊される。
「来たか……」
だが彼女は驚きよりはやっと来たかといった感じで少し笑みを浮かべていたくらいだった。
「お前達…覚悟は出来てるか…」
現れたのは当然虚華だった。
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まるで害獣のようで
日下部は椅子に座りながら、机に広げられた資料を見てふと思った事を口にした。
「顕現装置の講習会が入るなんて突然ですね」
「そうね。こういうのはもっと前もって説明されるはずね、そもそも全員が一堂に集められるのもどこか…」
凛院は講義中であるのだが、そんな相手の気を抜いた言葉を咎めることなく同意を示す。
仮に抗議が入るとしてももっと人数を絞ったり、時間ごとに人数を分けていつでもイレギュラーに対応できるように考えて計画を練るはずなのだ。
ここには隊長である神無月もいる。まるでこの場にASTをこの場に縛り付ける事が主目的のような……
◎
「精霊がヒーローみてえに来やがったか、鳥肌が立つんだっての!」
ブレンダーはやってきた虚華を見るやそう言い放った。
そしてその声に呼応するように彼女の部下であると思われる人たちが一斉に武器を構えて攻撃を加える。
すべて攻撃が急所や顔や感覚器を狙った執拗なもので、すべてが悪意と殺意をまとった容赦のないものだった。
(虚華っ!)
恋菜はそれを初めてみた。これまで魔術師に命を狙われている事は知ってはいたものの、実際に攻撃をくわえられる場面は目にした事は無かった。
だがらこそやるせない思いに駆られてしまう。自分の親友は決して世界を破壊しようとする意志など持っていないのに……
だがそんな不安や悲しみなど何とやらという感じで虚華は全ての攻撃を躱し、捌いていく。
敵はそれを見て驚きを隠せない。これまでASTの人間が討ち漏らしていたのは、その隊員の実力が足りないからだと考えていただけに自分たちの武装や連携をこうも簡単に凌いで見せた事が信じられなかったのだ。
「この…クソガキがあああっ!」
レーザーブレードを持った人間が一人その事実を認めたくないのか、咆哮とそして狂乱に駆られた表情ともに相手の体を切り裂かんとしていく。
だが相手のその恐怖すら感じてもおかしくないそれを見ても虚華は無表情で天使を構えて向かい合う。紙一重の間合いで相手の武器を躱して、そのかわし際に持っていたメスを使って相手の頬に傷をつける。
「ッ…この程度で……」
やられるわけも無いだろと言おうとしたのだが、口が突如として止まる。相手のまとっていた顕現装置の鎧の重みが己の体を蝕み自由を奪っているのだ。
「おいどうした」
「何だ…いきなり体が重く……」
「これは…神経毒…脳に異常が…?」
ブレンダーの部下の一人が驚いて切られた仲間の傍へと行くのだが、意識も口調もハッキリとしているのに戦闘不能になっている事に驚きを隠せない。
それこそが虚華という精霊が持っている天使の力の一端なのだが、そのからくりと力の本質を、自分の大切な親友を傷つけた相手に対して彼女が懇切丁寧に説明する事は無い。
既に戦闘不能になっている相手から意識を外して、ここに来た本来の目的である相手の方へと視線を向ける。
「恋菜…済まない…今すぐ助ける……」
「謝らないで……」
相手の謝罪を受けてすぐさまその一言を止めさせる。それはまるで自分の存在が虚華にとっては重しのように思えてしまってここにいること自体が、そして彼女の友人である事が一つの間違いであるかのように思えてしまったのだ。
「おーおー…美しい友情だねぇ…感動だねぇ…」
だがそのやり取りを見たブレンダーは酷薄な笑みをたたえてそう言い放った。これまで戦いには一切関与せずに静かに戦闘を観察をしていただけに、その口調は突如としてこの場に現れたかのようで妙に目立った。
「…覚悟しろ…恋菜に手を出した罪は重い…」
「手を出したってこういう事かなぁ?」
虚華から受ける激怒や激情など何のその、ブレンダーは剣を構えると無造作に振り下ろして恋菜の左腕を突き刺してそのまま斬り降ろしてしまったのだ。
「ああああああああぁっ!?」
「恋菜っ!お前ッ…!」
その激痛に呼応するように叫ぶ相手を見て、今まで以上に彼女の頭に血が上ってしまう。
だがその殺気を受けてもブレンダーが恐れおおのいたりするはずもなかった。
「あはは…なに雑魚を散らした程度でこの場の主導権取った気になってんだよ」
あくまで彼女からは狂気こそあったが焦る様子は無かった。ここまでの展開は読めていないわけでは無かったという事か。
虚華は素早くメス構えて威嚇をするのだが、同時に相手も剣を恋菜の首筋に付きつける。
「ぐっ…」
「お前がどんな力を備えているのかは知らねぇが…少なくともその刃に触れた対象にしか効果は無いんだろ?そうでなければとっくにこの女を取り返しているはずだ」
これまでの相手の行動を踏まえた上でおおよその能力の効果範囲の当たりをつける。
広義でいうのであれば超近接型といえるし、仮にメスを投げる事も出来るのだがそのスピードはたかが知れていた。
「さぁーてどうする?今どうするのかが賢明かは言わなくても分かんだろ?」
「ぐっ…くっ…!」
その指摘に唸る事しか出来ない。
虚華のスピードで斬りかかりに行くとするなら、それを見てから反応をしたとしても僅かにだがブレンダーの狂刃の方が先に恋菜を襲ってしまう。
その事に気が付いて虚華の中に葛藤が生まれる。
(クソッ…いくら傷つけられても天使の力で直す事は可能だっ…だがっ…!死んでしまったら直せない…!)
ここで勢いのまま結果としての勝利を手にする事は十分可能だった。自分の方が魔術師達よりも強いという慢心ではない自負があった。
だが今の彼女の勝利は相手を打ち倒す事ではなく、恋菜を助け出す事だ。それだけは間違えてはいけなかった。
「…………」
彼女は苛立ちを隠さないままに天使であるメスを消した。
それを見てブレンダーは感心といった感じだ。
「へぇ…物分かりは良いな…じゃあ取りあえずその霊装を解除してもらおうか」
「ッ……」
一瞬だけ躊躇いこそ見せたが相手のその要求を素直に飲んだ。そうしなければ恋菜は殺されてしまう。
淡い光に包まれたと思うとよく街中を練り歩いている際にチョイスをする服装に早変わりする。
だがそれを見たブレンダーは不満顔だった。
「おいおい、そうじゃねーだろ」
「何だと…」
「なーに服なんか着てんだよ。マッパに決まってんだろ?」
もはや人を人とも思わないような心折りに来るそんな要求。だが相手はそれでも飲むほかがないのだ。
それを聞いて慌てて恋菜は口を開く。
「虚華止めて!私なんかの為にっ!」
「…前にも言ったが私なんかなんて言うな、その言葉は嫌いだ」
相手の一言を否定する虚華だった。
もしなんかなどという単語で括れてしまうような相手であるのなら彼女はここまでしようとは思わない。
そして彼女の体をまとう霊装が光り輝き弾けたかと思うとそこには一糸まとわぬ虚華の裸体があった。
決して巨乳だとかタッパのある体形というわけでは無かったが、白い肌にどこか彫刻のような繊細さとバランスの取れたそのプロポーションは誰もが息を呑んでしまう不思議なオーラを放っていた。
彼女のその表情には羞恥があったが、それは裸を見られているから恥ずかしいのでは無く、言われるがままになってしまっている自分自身の屈辱から来るものというだけだ。
「グフッ!?」
「虚華っ!」
すると突如ダン!という命を狩るための発砲音が炸裂する。虚華の腹に凶弾が撃ち込まれてしまいその体に風穴が開くとともに、銃弾の勢いによってその体が吹き飛ばされて地面に倒れこんでしまう。
霊装という身を守る城を失っている彼女はまさに文字通りの無防備状態だった。
それを見た恋菜は涙を滲ませて相手の名前を叫ぶ。
「おいおい精霊に銃弾が通じたぞ」「マジか…こんなことがあるんだな…」「今なら殺せるってわけか」
最先端の顕現装置を備えてなお手の届かなかった精霊の首を今まさに討ち取れる手前まで来て、狂喜と困惑の二種類の感情が織り交ぜられた感想が魔術師達から出てくる。
「おいおい…初っ端から殺すなよ~?…精霊の弱点とか知りたいからな…死なない程度にたっぷりなぶってやれ…」
興奮する部下とは違い、ブレンダーは冷静に一切隙も油断もなくそう命令を下した。
ただただ一方的な蹂躙劇が始まった。
◎
天使と霊装を封じ込まれ、反撃も防御も許されない状況に陥った虚華の体は瞬く間に傷つけられていった。
両足は既に切り落とされ、左腕も肘から下は無くなっていた。
だが体の一部を失い全身ボロボロにされた激痛に耐えながらもなんとか彼女は意識を保っていた。まだこの場を切り抜ける事を諦めてはいなかった。
「おやおや…精霊ってのも体の構造は案外人間らしいんだなぁ……」
目の前の存在を何だと思っていたのか、ブレンダーは薄ら笑いを浮かべながらも興味深そうに言い放った。
その余裕綽綽な態度が虚華の苛立ちを加速させるのだが、相手の足元で涙を浮かべながら痛みにさいなまれている恋菜がおり、いつ殺されてもおかしくない状況にあったため黙って耐え忍んでいる。
(せめて一瞬だけでも私から意識を外させる事さえできれば…)
虚華はそんな事を考える。現状ブレンダーは一瞬たりとも自分から意識を外しておらず、天使なり霊装をまとう前兆を見せれば容赦なく恋菜の首を刎ねる筈だ。
一方で相手の部下は全員が油断しており、雑魚の目を盗むのは難しくなかった。
だからこそ大将さえどうにか出来ればこの絶望的状況を打開する事は可能だ。
「うぐっ…!」
そんな事を考えている間も魔術師達の遊び半分のような気まぐれな銃弾が彼女を襲い、痛みで唸り声をあげてしまう。
体は既に蜂の巣状態だが、精霊として持っている耐久力によって何とか命を繋いでいる状態だった。
(私なんかのせいで虚華が……)
恋菜はただただ残酷に過ぎていく時間を黙って嫌になるほど体感していた。
自分が人質となっている為に虚華は勝てる相手であっても手も足も出なくなってしまっている。
だがそこで前に言われた事をふと思い出した。
『「私なんか」なんてつまらない事を言うな。恋菜の事を大切に思っている私に失礼じゃない。それに恋菜なら大丈夫、精霊であり、また友人…いや親友である私のお墨付きじゃ不満?』
恋菜は今何をしたいのか、何をするべきなのか。虚華という親友である自分はここで這いつくばっているだけでいいはずがなかった。
友人である事を継続するために仕方なく何かをしなければいけないのではない。
ただ大切な相手の為に、今何をしたらいいのか深く考えなくても自然と脳裏にはその答えが浮かび上がっていた。
今彼女に残っているのは左足と右腕だけしかない。そもそも万全の状態であってもこの場から逃げることは困難だった。だが全く動けないという話ではない。
「うわああああぁぁっ!!」
残された四肢でありったけの力を振り絞って、不安な心を追い払うために叫びながらもブレンダーに組み付こうとする。
だがそんな努力も意味は無かった。相手が展開している顕現装置によるフィールドはまるで鉄の壁のようでビクともしない。
「な、何やってんだこいつ」
不意を突かれた事は確かで、驚いて足元でへばりつこうとしている相手を見下ろしていた。
だが一瞬だけ精霊から注意を逸らしてしまったのだ。それこそが相手の狙いであると気が付いた時には、既に彼女の魔力によって生み出された領域が切り裂かれていた。
「何っ!?」
領域が破壊されたと思った時には、五体満足に戻っている虚華がメスを握ってブレンダーを切り裂こうとしていた。
『うわああああぁぁっ!!』
(恋菜!?)
恐怖を押し殺して飛び込んでいく恋菜を見た瞬間、自分の意思とは違う何か生きる者としての根源や本能ともいえる物が反応をしたのを感じた。
『これは……』
目の前に現れたのは宙に浮いている彼女の天使であるメスだった。彼女の脳内に天使の使い方や性能が自然と流れて込んで来る。
『ッ…なるほど……』
そして独りでに動き出してそっと虚華の体に触れた。
すると彼女の体が淡く光り輝いたかと思うと斬り飛ばされた四肢や痛めつけられて出来た傷が綺麗さっぱり消えた。
そして宙に浮いているメスを握りそれを相手に向かって投げ飛ばし、そのまま新しい天使を生み出し、霊装をまとい直して真っ直ぐに飛び込んでいく。
(こいついつの間に!)
先ほどまで虫の息寸前だった相手が突如として無傷の状態で飛び込んできたため、当然のことながら部下も、そしてブレンダー自身も思考に空白が出来てしまい、目の前の出来事に対して冷静に対処をすることが出来きずに対応が遅れてしまう。
その一瞬を突かれてメスによって切り裂かれそうになるのだが咄嗟に後方に飛んで剣を持っている右手の指先に掠るに留まる。
指先だけとはいえ傷つけられたという事実が途方もない怒りを彼女から生み出させてしまう。
「ッ…テメエ…どうやって…やってくれんじゃねーか…」
「…私の心配よりも自分の心配をしたらどう?」
相手の満々の殺気を受け止めても虚華の表情に気負いはない。激怒している相手の事など無視をして本来の目的を果たそうとする。
「恋菜…ごめん……」
「あ…やまらない…で……」
虚華は傷ついた恋菜の体を抱きしめてただひたすらに謝罪をする。それはまるで大罪を犯した咎人が神に許しを得るために懺悔をしているようだった。
一方の恋菜は虚華が無事であった事にホッとしたのか体から力が抜けて眠ってしまった。
それを見て虚華は慌てるのだが、胸が規則正しく動いているのを確認して安心する。
無視して勝手に話し合っているのを見てブレンダーが大人しくしているはずもなかった。
「って…無視してんじゃねぇ―」
だがそこでカラン…と彼女の持っていた剣が地面に落ちた。そこで指先の感覚が無くなっている事に気が付いた。
「は…あん…?…何がどうなって…」
彼女はそこで先ほど指先が浅く切られた事を思い出して、恐る恐るではあるが目で確認をした。
彼女の右腕が指先から少しずつだが黒い灰になって、まるでじわじわと巡る毒のように体の中心へと侵食しようとしていたのだ。剣を落としたのは指先が灰になって消滅したからなのだ。
「終わりだ」
「って…この程度でいい気に何じゃねぇよ…!」
相手から勝ち誇った言葉を掛けられてブレンダーは、頭に血が上りはしたが僅かに残った冷静さをフル活用する。
落ちた剣を左腕で拾い方から右腕を切り落としたのだ。
「なにっ…!」
「まさか…自分が傷つく覚悟はねえとか…そんなしょっぱいやつと思ったか…」
驚く相手に対して、ブレンダーは右腕の出血を必死で抑えながらも上がった息でそう答えた。そして魔力でこれ以上の出血を止めて左手で剣を構える。
「さて…第二ラウンドと…」
「ブレンダー様」
まだまだ衰えない相手の敵意を見て、虚華は左腕で恋菜を強く抱きしめながらも右手に天使を握って構える。
だがそこで部下の一人であろう男性が傍によって声をかける。
ブレンダーがそれを邪魔ととらえるのはごく当然の事だった。
「邪魔すんじゃ―」
「ASTの連中がこの場に来ます。これ以上DEM社の足止めは難しいです、精霊が一般人を巻き込んだことにしていますがこれ以上ここにいるのは……」
「チッ…」
上司が苛立つであろうことは当然理解は出来ていたのだが、報告をする方が優先順位が高い事は分かっていたため無理にでも口を開いた。
その報告を受けてブレンダーは舌打ちをする。流石に遊び過ぎた事を後悔していた、もっと早くかたを付けていれば精霊を討ち取れたのだが、一方的に精霊を蹂躙できる機会に目がくらんでしまったのだ。
ギリッと虚華とその腕の中にいる恋菜を睨みつける。そして剣で切り落とした右腕の付け根部分をトントンと叩きながら、憎しみ滴る声でそう言った。
「クソがっ…テメエ…この右腕の借りは…キッチリ利子付きで返すからな…」
そう言い残して部下の一人に肩を貸してもらいながらその場から離脱をする。
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めんどくさいタイプの女
先ほどまでの悪意に満ちた空間からその匂いの元が消え去ってしまった。
不気味だと思われた倉庫はたった二人だけしかいないため、怖さよりもどこか寂しさが滲んでいた。
緊張感が消えたのか虚華は恋菜を抱えながら地面にへたり込んでしまった。だがそのまま沈んでいるわけにはいかない。
「恋菜…すぐに直す…」
左腕で支えていた相手にそう声をかけると、右手に握るメスをそっと体に添える。すると相手の体が淡く光ると体がみるみる再生して五体満足の健康体に戻ったのだ。
「…っ…うぅっ……」
恋菜の少し乱れていた息が正常な状態に戻ったのを確認して、これまで抑え込んでいた不安が一気に溢れてしまったのだ。
「んんっ……」
涙をぼろぼろと流して大泣きするわけでは無かったが、ただ花瓶にひびが入って僅かに漏れたかのようにただむせび泣いていた。
するとそこで足止め食らっていたASTの人間たちが彼女のところまでやってきたのだ。
「すぐさま被害状況の確認を!」
隊長である神無月はすぐさまそう言って指示を出す。
既に建物は戦闘の跡地になっており、明らかに精霊が暴れたであろうことが分かった。
そして一人の女の子を抱きしめているその光景は、ASTの魔術師からすればまるで人質を取っているようにしか見えない事だろう。なによりもその少女こそがASTの資料にも載っていた御守恋菜だったのだ。
すぐさま現場の状況を見て鳴村凛院は精霊が人質を取って立てこもっていると判断した。
「あなた!その子から離れ……」
離れなさいという言葉を最後まで口にすることが出来なかった。
目の前の精霊は涙を流しながらも恋菜を抱きしめていた、それも命がある事に喜びを感じ、そしてかけがえのない存在を慈しむ様に。
その光景を見てこの場にいたASTの構成員は思ってしまったのだ。精霊が巻き込んだというのも、精霊が破壊衝動のみしか持たない怪物であるというのも全てがDEMの吹き込んだ嘘でしかないのだと。
それは一般的な常識からは少しずれた表現なのかもしれない、だが今の彼女は間違いなく愛情に類似する感情を見せていた。
そしてそれを見た隊員たちは目の前にいる精霊は人間と同じように人を慈しんで、一緒に笑って共に歩んでいけるものを持っているのだと思ってしまった。
普通に考えればそんなはずは無いと思ってしまうのだが、誰かに言われた知識よりも今自分たちが目にした事が全てだった。
「…………」
虚華は気絶をしている恋菜をお姫様抱っこすると、遠まわしからこちらを眺めているASTの人間をじっと見たのち空いた天井の穴から飛び立っていく。
止めさせる事や何か声をかける事は彼女たちは可能だったのだが、危害を加えないであろうことは心で分かっていたためその場から動けなかった。
◎
恋菜を連れて彼女の家へと連れて来た虚華は、相手の体をベットに寝かせる。その安らかな寝顔を見てホッとする。
『クソがっ…テメエ…この右腕の借りは…キッチリ利子付きで返すからな…』
しかしふと思い出されるのは去り際に吐いたブレンダーの捨て台詞。
「…これから先もきっとこのようなことになる…なら…私に出来る事は…」
ある一つの選択肢が取れないのは天使の性能の情報が脳内に流れた時に気が付いた。ならもう一つのやり方しか彼女には残されていなかった。
再びメスを取り出すと、恋菜の頭にそっと刃を添える。すると恋菜の体が淡く光り輝くと、その光が少しずつ体から剥離していき元通りになる。
一見すれば何も変わっていないように見えるがある致命的な変化が起きている。
(これでいいんだ…)
彼女にはこれしか出来ない。精霊というこの世の生物の中でもトップクラスの力を有していながらも、彼女は無力感に苛まれていた。
「…そう言えば…確か恋菜の秘密の本に書いてあったな…好きな相手にこうするのが愛情表現なのだと…」
恋菜の顔に向かって自分の体ををぐっ引き寄せると、相手の唇に自分のそれをそっと重ねた。
そして唇を離すと一言だけ告げた。
「ありがとう」
◎
「…………」
恋菜の朝はそこまで早いというわけではない。学校から徒歩圏内に住んでいるし、朝食を抜けば寝起きから二十分もかからずに朝のホームルームに間に合うほどだった。
「頭痛い…」
寝起きのせいか、どこか調子が悪いような変な感じがしたのだがその違和感の元が何なのかは分からない。ただ熱が出ているわけでは無かったため、学校を休むのも憚られるためトーストを焼いて着替えて学校へ向かう事にする。
「えっ……」
マンションのエントランスにいたのはウェーブのかかったロングヘアー、そしてスーツ姿の女性だった。
恋菜の知る由もない事だが、鳴村凛院だ。
「すみません、少し話を聞きたいんですがお時間はいいですか?」
「え、えっと……」
「私はこの通り刑事でなのですが、あなたに聞きたいことがあります」
「その……」
身分証明の手帳を見せながらそう言った。実際の所は自衛隊関連の人間なのだが、許可を得て刑事のふりをしている。
いきなり警察がやってきたと聞いて何をどうしたらいいのか分からない恋菜だった。
なんせ彼女には何故自分が警察に目をつけられているのかまるで心当たりがないのだから。
「時間は取らせないので一つだけ質問をいいですか?」
「は、はい……」
事情聴取は任意なので拒否する事は可能なのだが、朝から特大のイレギュラーに遭遇したためかされるがままになってしまう。
「単刀直入に聞くわ。あなたのあの精霊との関係性を聞かせて欲しい」
聞きたかったのはそれだった。ただ側だけ調べても何もわかりなどしない、もし彼女が精霊にとって大切な人物であるのであればもしかしたら空間震やそれを取り巻く問題に一つの解決策を見出せるのではと思ったのだ。
そして困難であるかもしれないが、精霊との友誼を結ぶことも可能かもしれないと思ったのだ。
凛院自身は空間震被害さえ無くせれば方法は問わなかった。仮に精霊が意図して空間震を起こしているわけでは無いのならそれはそれでいいのだ。
とにかく知りたかったのだ、あの時見せた涙が何を意味していたのか。
だがその質問を受けた当の人物は相手は何を聞いているのだろうという困惑ときょとんとした感じの表情を滲ませた。誤魔化そうとしているのではなく、相手が本当に何を聞いているのか分からないといった感じだった。
(まさか……)
相手のそのリアクションを見て彼女は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
「あの……」
そして彼女の予想を裏付ける決定的な一言を口にしてしまう。
「精霊って…どういう意味ですか…?」
◎
「そうですか…あなたもですか……」
「すみません…でも…もう私は戦えないんです…」
神無月の心惜しそうな反応にも、凛院は既に何かが折れたような覇気のない表情でそう言った。だが声自体は弱々しさがありながらも、意志を曲げる気が無い事だけは伝わった。
彼女が上司の前に差し出したのは辞表だった。彼女は辞める気なのだ、精霊を討伐するという大義を背負っている集団であるASTをだ。
DEMが暴れまわったあの日から既に二週間が経っており、ブレンダーの暴挙や勝手に部下や顕現装置を密入した事を咎めようとしたのだが、上からの圧力によってそれ以上の追及をすることが出来なかったのだ。
「あなたを含めてもう七人目ですか…困りました…が仕方のないことかもしれません……」
「すみません…でも…あんな姿を見たらもう戦えません…」
「分かりました。あとで現場以外の別の役職に就けるように上と掛け合いましょう。顕現装置を扱えるあなたを無下にはしないはずです」
「ありがとうございます」
凛院は上司からの提案に頭を下げた後部屋から退出をした。
彼女は退室した後俯きながら歩いて行くと、無意識下で足が覚えていたのか整備室に到着していた。この場所でよく精霊にどうすれば立ち向かえるのかなどを同僚や整備員と夜な夜な話し合ったものだった。
だがそれらの努力ももうする必要性は無くなってしまうのだ。
そんな事を考えて感傷に浸っていると、背後から声がかけられる。
「鳴村先輩!!」
「…どうしたの」
「噂で聞きました!先輩もASTを辞めるって!いったい何があったんですか!?」
声をかけてきたのは日下部だった。
ここ最近部隊員たちが次々と辞職していく状況に不安を感じており、ついに凛院までもがいなくなるのを聞いて問いかけずにはいられなかったのだ。
「…別に…ただ自分がここにいても邪魔にしかならないと思っただけ…」
「ドクターが…一般人を意図的に巻き込んだ一件に行った人たちが次々と辞めていくんです…いったい何があったんですか……?」
凛院を含めた辞める七人の隊員の共通点はあの日、悲しみに暮れる虚華のあの姿を見てしまったという一点だった。
だがそれを口にするのは憚られた。
そもそも虚華が人類全員と仲良くしたいという確証はなくただの憶測でしかないし、精霊が人間に対して敵対的であるという前提があるからこそ人の姿をした存在に対して躊躇なく武器を振るえるのだ。
その一点に翳りを生んでしまえば自分と同じように刃をその手と心に持てなくなる、彼女のように。
だからこそ凛院は一つだけ口にする事が出来るアドバイスを伝える。
「これから先、ここに残って精霊と戦うなら心を殺せ、相手は人によく似ただけの害獣だと思いなさい」
「いったい何が…」
それを言われて何を返したらいいのか、はいわかりましたなのか、その言葉の意図をもっと深掘るために質問を重ねるのか。
日下部はここで何をしたらいいのか分からずにただただ混乱してしまう。
一方でこれ以上は突っ込まれたくないのか凛院は少し悲しそうな表情をしたのちその場から逃げるように去って行った。
数日後、鳴村凛院はASTの最前線から抜けて後方支援の仕事に就いたとだけ伝えられた。
抜けた表向きの理由は家族である妹との時間を大切にしたいとされた。
◎
つい先日おかしな質問を刑事にされたが、それを除けばごく普通の日常を過ごしていた。
御守恋菜はいつも通り購買でパンを買って食べた後、図書室へと向かっていた。
するとそこには図書室の主である自分よりも先にこの場所を訪れて静かに本を読んでいる女子学生がいた。つい先日もいたのだがどうにも勇気が出ずにそそくさとその場から離れたものだった。
(あの本…?)
相手が手に取っているそれは恋菜自身かつて読んだことのある一冊だった。
だがそれを確認しようと遠目からでも分かるほどに前のめりになったせいなのか、読んでいる本人がその視線に気が付いたのだ。
「……?」
「あっ…」
何か?といった感じのその視線を受けてつい怯んでしまった恋菜は、素早く視線を外してポケットに入れていたスマホを弄り始めて少し気まずくなった空間を誤魔化そうとする。
(私なんかが話しかけても迷惑なだけだよね…)
別段スマホに用があったというわけでは無いため、適当に弄り回しているとふと写真フォルダを開いてしまう。
「え…?」
そこには自分と金緑色の少しくすんだ髪をした少女とのツーショット写真があったのだ。それはどこか写真慣れしていなかったり、不意を突かれたのかちょっとだけ間抜けな表情をしていた。
だが同時に何の気負いのない自然体な二人が写っていたのだ。
「この写真…いったいどこで……」
だが身に覚えのないそれは恐怖でしかない、そのはずなのだが。
(楽しそう……)
彼女はそう思ってしまったのだ。
この写真の二人は義務とか責任などは一切なく、ごく自然体でいられる気負いのない二人に見えたのだ。
『私なんかなんてつまらない事を言うな』
ふと思い出されるのは自分にとって身に覚えなどあるはずのない一言。
だがその言葉が脳裏をよぎった瞬間に恋菜はスマホをしまって、本を読んでいる相手に向かって歩いていた。
そしてその相手の傍に立って言った。
「あの…その本って面白いよね」
◎
「…そう…だったのか……」
士道は目の前の彼女が語ったかつての親友との短く儚く、そしてかけがえのない思い出を噛みしめた。
虚華が人間に慣れている理由も、人間社会に違和感なく溶け込める理由も、そして彼女が死ぬことを望んでいるその理由もおおよそが分かってしまった。
彼女はそこで天使を一振り作る。
「追加で説明をするとこのメス、正式名称改造施術は刃が触れた対象の根源や構造を私の希望する通りに改編する力を持ってる。私が瀕死に陥ると自動的にメスが起動して私の体を元通りにするんだよ。だから私は自分の意思で死ぬことは出来ない」
それはあまりにも彼女にとって残酷な宣言なのか、そして同時に心に残っている思いを映す鏡なのか。
それはきっと彼女の心の中にある弱さであり、また強さでもあるのだろう。
「虚華は……」
「ああ…私にとっては恋菜が全てだった…恋菜がいたからどんな残酷な世界も仕打ちも耐えられた…今はもう世界の色もその全てが灰色に見えるよ…」
相手のその説明と雰囲気だけで何を聞きたいのか理解した彼女は、端的に今抱える気持ちを語った。
その言葉は彼女の抱える思いのほんの一端にしか過ぎなかった。見せない心の深奥には溢れんばかりの愛と悲観が詰まっているに違いなかった。
『少しいいかしら?』
そこでスピーカーなのか琴里の声がその場に響いた。恐らくだがフラクシナスの顕現装置を応用したものだと思われる。
「何かな、士道の妹さん?」
『その恋菜って子は死んでないのよね?』
「会っていないから確認はしていないが、記憶を失って他人になった相手はもう人質としての効果は無いんじゃないのかな…仮にしようとしてもさせないけど」
『ならその人はこれから私達ラタトクス機関が責任を持って保護するわ。だから現在進行形で行っている恋菜って人の記憶の処理を中断して頂戴』
琴里は話を聞いた中で一つの提案をする。それは虚華にとって不利になる提案では無い、むしろメリットしかないはずだった。
「そうだね、それは願ってもない提案だ…」
『なら…』
「でもラタトクスは封印した精霊達の安全を保障できていないんだろう…?…私と再会してまた危険な目にあわせるわけにはいかない…そうでなければあの日…身を引き裂きそうになるほどの覚悟は何だったんだろう…?」
『それは……』
士道がかつて嘘偽りなく答えた質問に対するの一つが、精霊の力を封印されたとしてもDEMに命を狙われると言うものだが、ここに来てあの時の誠実さが仇になってしまった。
彼女の希望である恋菜との再会を叶えるのは困難だった。ラタトクスは封印された精霊を保有する機関であり、それを狙うDEMには目を付けられておりいつ雌雄を決する時が来てもおかしくないのだ。
そんな組織に大切なものを預けろと言っても無理だろう。そこまで考えた士道はそこで閉ざし続けてきた口を開いた。
「…勝負をしないか……」
「……勝負?」
突然提案されたその単語に虚華は驚いた声を出して振り向く。勝負と言われても何を競うのか分からなかったのだ。
「俺が…俺達が虚華の生きる希望を持たせる……」
「……それって別に勝負ってわけじゃないと思うけど…別に私はあなたに勝ちたいと思ってないし…そもそも争う間柄じゃない……」
「うぅ……」
勝負内容らしい事を口にするのだが、相手のごく冷静な反論に士道は気弱に唸る事しか出来なくなる。
そもそも虚華の願いは精霊の力を封印によって捨てる事なのだが、士道やラタトスクサイドはそれをさせる気がない時点で勝負になっていない。
「まぁ…いいよ…その勝負ってのに乗ろう」
虚華は簡潔にそう言った。余りにもあやふやで何が起きるのかもわかっていないその提案に乗ったのだ。
「い、いいのか?」
「それに乗らないと封印ってのをしてくれないんでしょ?なら私にある選択肢は一つだと思うけど」
(!…まさか…)
虚華の表情を見て士道は気がついた。
数多のギャルゲーをやらされてきた彼だからこそ気がついた。分かったのだ、目の前にいる女の子のキャラというやつが。
そして彼の心に灯が付いた。相手への希望は決してゼロでは無いのだから。
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相談のお時間
「なるほどねー…」
「すみません司令、今のいままで黙っておりまして……どのようなお仕置きも折檻も受け入れる所存です」
「……まさかあなたがASTの隊長だった時に虚華と関わっていたとはね…」
最後の神無月のお仕置き発言は無視して、琴里は今日の今まで相手が不調だった理由を知って納得といったといった感じで頷いた。
今彼女がいる場所はフラクシナスの個室の一つで、琴里と神無月だけでなく士道と令音の二人もいた。
虚華が消失した後に士道を回収したのだが、その際に神無月から真面目な顔で話がある事を聞いてこの場を設けたのだ。
そしてその内容は当然の事、五年前のASTに所属していた時にあった事をこうして話したのだ。彼にとっては話す事も辛い思い出である事は間違いのない事なのだが、言わなくては虚華の事を理解出来ないだろうと思い至って告白したのだ。
ともかく今からやる事はもう決まっていた。
「話してくれてありがとう神無月…マリアいいかしら?」
『はい何でしょうか琴里?』
「神無月が今言った五年前の出来事の詳細と、御守恋菜という人物の今現在を調べてもらえるかしら?」
今得た情報をもとにこれから虚華という人物の自殺願望を消さなくてはならないのだ。情報を集めて彼女を理解し、そして生きる希望の灯を取り戻させなくてはいけない。
「シンやラタトスクとは違う道をたどった少女か…」
『…………』
令音がポツリと呟いた。
虚華の事だけではない、ただ知りたかったのだ。
何一つとして勝算も無く、たった一人で精霊や空間震といった背負いようもない圧倒的な壁を前にしても立ち向かった少女が何を思ったのか。
そしてその彼女に精霊の力を封印する事が出来たのであれば何かが変わったのだろうかと。
「兎に角そっち方面はマリアや諜報部に任せるわ。こっちはこっちで難題よ、勝負と言っても何をどうすれば勝ち負けが決まるか分からないんだからね」
「うっ…分かってるよ…」
ジト目で琴里に指摘された士道は怯んでしまう。特に何も考えずに提案したのだから同立ち回るのかが効果的なのか分かるはずもなかった。
「思ったのですが…」
ここで神無月が手を挙げて発言権を得ようとする。
「一意見ですが…封印直後にすぐさま取り押さえればいいのでは?」
「ダメだ!」
『!?』
彼の提案に瞬時に否定を割り込ませたのは士道だった。余りにも食いついてきたものだから何があったのかと三者は驚いてしまう。
「し、士道、どうしたのよ…神無月だって流石に本気で言ってないわよ……」
「あ、悪い…」
彼はあまりにも自分自身が熱くなって真に迫ってしまったものだから、驚かせてしまったために謝った。
「それをするとさ…DEMが十香や二亜にした事と同じじゃないか……」
その一言で他三人がハッとする。
かつて十香は文化祭のステージで拉致をされて捕まり、無力化されたのちに拘束された事があったのだ。
二亜もまた捕縛された後拷問を受けた事があった。
力を取り上げて閉じ込めるというのは、精霊に人間らしく生活して欲しいというラタトスクが絶対にやってはいけない事だろう。
「そうね、精霊に人らしく生きてもらうのがラタトスクの理念だもの」
「すみません。迂闊な発言をこの罪は司令のせっか―」
「とにかく相手の心を生きる事に向けさせるわよ!」
神無月は心のつっかえが消えたせいなのかいつもよりもグイグイと琴里に迫っていた。一皮むけた彼はもう無敵なのだ。
一方の琴里は部下のセリフをキャンセルして自分たちがするべき事を改めて表明する。
そもそも接触も簡単に行えて、あまつさえ好感度を上げることが簡単すぎたのだ。要はそんなに甘くはなかったという話だっただけだ。
◎
次の日、士道は珍しく一人で登校していた。理由は単純で十香が日直で早めに登校をしていたからだ。
「…………」
近くにいつもの相手がおらず誰とも話すことなく歩き続けている。そのせいだろうか、彼はいつも以上に物事を複雑に考えすぎていた。
虚華に限らず精霊が抱えている世界の問題。
ASTやDEMを筆頭とした命を虎視眈々と狙っている組織。
虚華にとっては生きる希望であった親友である御守恋菜との決別。
そして何より彼女自身が精霊の力を失い死ぬことを望んでいるがゆえに、好感度は封印をするのに必要十分な条件が揃っているにもかかわらずキスを行えなくなってしまっているのだ。
五河士道がラタトスクにとって最大の切り札であり、精霊にとって最強の対抗策になる封印能力は取り上げられているに等しかった。
これまでの精霊とは違ってゴールそのものが違うのだ。相手の抱える問題を解決したり、好かれるための策略は全く通用しない。世界の素晴らしさや人間の良い部分と悪い部分は既に知り尽くしている相手なのだ。
これまでの対精霊のセオリーが全く通用しない相手。
だからこそどこから手を付けたらいいのか全く分からない。何をすればすべてが丸く収まるのか見当もつかない。
「……あれ」
そうやって頭を悩ませているといつの間にやら学校の教室前に到着していた。深く考え事をしていると視野が狭窄して、時間の感覚が曖昧になってしまうのだろうか。
「おお、シドー!」
「士道、おはよう」
教室に入ると素早く精霊である二人が挨拶に来る。
「ああ、おはよう」
『…………』
当然貰った挨拶を無視するような不義理な男ではない士道はすぐにそれに返しをする。
だが挨拶を貰った二人は何か言いたげな表情のままじっと相手を見つめていた。
理由は単純、士道が虚華と街に繰り出したのを送り出したからなのだ。仮に精霊の封印を完了したのであれば何かしらの連絡が入って然るべきなのだが、現状のラタトスクはやる事が多く、その辺りがおろそかになってしまったのはいけないだろう。
何よりも彼の悩んでいる表情を見れば成功とは言い難い結果であったことを察したのだろう。
「…………ぅ」
現状脳内が混乱を極めている彼は不安そうな瞳で気遣っている二人にどう応えるのがベストなのかその答えを出すことが出来なかった。結果として小さな唸り声を出すほかなかった。
「……もしかすると虚華がうーんと悪いやつだったのか…?」
「だとすれば許せない。今すぐにでも―」
「待って、待ってくれ!」
話題が物騒な方面に流れていくのを感じて慌てて彼は会話をキャンセルする。よく周りを見るとちらほらとクラスメイト達が聞き耳を立てていたので、重要機密である精霊やら空間震がらみの話を聞かせるわけにはいかないだろう。
「詳しい事は後で話すから今は待っててくれないか?」
彼が今言えることはそれしかなかった。
周りの人達が自分たちに注目している事に今気が付いたのか二人もその提案を承諾した。
◎
「増えてるな…」
昼休み、解放されている来禅高校の屋上に弁当箱を片手に持った士道は訪れたのだが、そこには十香と折紙の他に夕弦と耶倶矢もその場に集合していた。ここには来禅高校に通う精霊が全員集合していた。
「憤慨、水臭いです士道、悩んでいるのであれば相談して欲しいです」
「呵々、我らの所有物であるのに主人に隠し事など片腹痛いわ!……まぁ虚華の事なんだろうけど…私、苦手…」
二人は力強くそう答えて見せた。ただ耶倶矢だけは受けたトラウマのせいなのかちょっとだけ苦虫を嚙み潰したような表情になっていたのだが。
「これは十香が…?」
「うむ!きっと虚華の事だろうから他の皆も呼んだぞ!」
この事を提案したのは当然ながら十香だった。
士道自身の事も、そして新たな精霊である虚華に対しても心配する気持ちはみな同じ。だが同時に気遣っているつもりであれこれ聞こうとして、それが相手にとって余計な心労に繋がるのもまた嫌なのだ。
十香もまたこの行いが士道にとってプラスに働くのか明確な自身は無い。ただ出来るのは少しでも力になりたいのだという気持ちを伝えるだけだった。
「…………」
士道もまた皆が向けてくれるその思いを察した。
先日の星宮六喰の攻略…に限らず何度も精霊の皆には助力をしてもらった。だが本来であれば精神が揺さぶられれば霊力の逆流、ひいては反転すら起こりかねない危うい存在である封印精霊をデートそのものや戦いに駆り出すのは許されないのだ。
だが事実としてラタトスクや士道の力だけで今日の今まで乗り越えられた困難は殆ど無かった。だからこそ情けない話なのだが今回も助けを求めなければいけないのだ。
ここので昨日起きた出来事を全て話して知恵を貸してもらうのが最上の選択なのは疑いようもない。だからこそ葛藤してしまう、何故こんなにも自分は情けなく無力なのだろうかと。
「士道」
そこで言葉を発したのはここまで沈黙を守っていた折紙だった。
「頼ったり縋ったりするのは恥ずかしい?」
「…っ」
それは彼の心の中にある考えを揺さぶる射すくめた一言だった。図星を突かれた彼は微かに、そして小さく動揺の息を吐いた。
だが素早く気持ちを立て直した士道は口を開く。黙っていてはそれこそ肯定と同義だからだ。
「それは……」
「士道は前私に頼ってくれるのが嬉しいと言ってくれた。その逆のあなたから私に頼ってくれたらとても嬉しい」
かつて折紙を巡って時空を超えた出会いをし、そして世界そのものを改変した大きな戦いがあった。
彼女は士道に対する感情は明確な愛では無く、寂しさや無力感を埋める者からくる依存だと言い切った。だからこそ今度は依存ではなくちゃんと精霊も、世界に蔓延る理不尽も、そして士道の事からも目を逸らさないと誓った。
「頼る事は弱い事ではない、それはきっと強さと勇気が必要な事。士道はかつての私のような一人で抱え込む弱い人になって欲しくない」
折紙は前の世界で親を亡くしてからというもの、自分は独りぼっちであると考えて頼れるのは自分の身一つであると考えていた。だからこそ精霊の善性を見せられ自分の常識を覆されるような出来事から必死に目を逸らし、耳を塞いできた。
そのせいでいったいどれだけの人に迷惑をかけたのだろうか。
「それは……」
士道言葉に詰まってしまうのだが、そこで十香を始めとした他の三人が優しげな瞳で自分を見つめている事に気が付いた。
彼女たちは彼からある単語が飛び出してくるのをじっと待っている。
(そうか……)
一人で出来ない事をいちいち悔やみ悩んでいても仕方ないのだ。今出来る最善に全力を尽くす以外、彼に出来る事などないのだ。
今更になってそんな当たり前の事に気が付いた。
「実は虚華の事で困っていて…良かったら力を貸して欲しいんだ」
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大学生の御守恋菜
令音は強引に有給休暇を使ってある場所に向かっていた。
探すのは難しくなかった。マリアやラタトスク機関の力、それにある事件の当事者である神無月の証言があれば目的の人物の現在地を特定するなど一時間もかからない。
「村雨解析官」
「…ん」
「目的地に着きました」
ラタトスクの構成員が運転する車に乗って外の風景をぼんやりと見ていると、ドライバーから目的地に到着した旨を伝えられる。
車の外に出ると寒さが肌を襲いながらも、雲一つない青空から降り注ぐからっとした太陽が彼女の網膜を襲う。そんな陽の光に少しだけ目を細めながらも彼女は呟く。
「ここだね」
『ええ、令音。ここが今の御守恋菜が通っている学び舎です』
彼女の呟きに反応したのは、耳に付けたインカム越しから声が聞こえるマリアだった。
そう、今現在の恋菜はあの事件から五年の時を経て高校を卒業し、国立大学に通う大学生になっているのだ。
村雨令音自らがこの場に訪れたのは、精霊の専門家の肩書きを持つ彼女が直接相手と接触をして可能であれば記憶を復活させるのが目的だ。そして彼女に説得をしてもらい虚華の牙城を崩すきっかけになればという事だ。
正面に見えるのは赤レンガの立派な学び舎。そして奥にはコンクリートや一部ガラス張りの連絡橋が存在する近代的なデザインの建物がちらほらと見える。恐らくそこは増築部分であり、統一感が見られ無いのはそのせいだろう。
「確か彼女は……」
『現在の御守恋菜はこの大学の文学部所属です。入り口から入って右側の第三校舎で主に文学部の講義が行われています。詳しい現在地を特定するためにこの場のカメラをハッキングしましょうか?』
「いや…いい…後は自分の足で探すよ…」
結構危うい相手の提案に少しだけ令音も引いてしまう。結局丁重にお断りを入れるほかなかった。
現在の令音はいつものスーツに白衣ではなく、シャツに上着、そしてジーパンというまぁ普通な格好をしている。
令音の容姿であるならラフな格好をすればギリ大学生で誤魔化せなくはない。
なお不健康そうでダルそうな雰囲気こそあるが、整った容姿とそのナイスバディのせいでちょっと目立っているのは秘密だ。
そこで彼女は校舎に向かう中、あらかじめ持たされた現在の恋菜を写した写真(隠し撮り)を片手に校舎内を練り歩く。
「ふむ…中々に見つからないものだな……」
令音は歩き回っても件の人物が自分の視界内に現れない事に困り果てたような表情をする。
マリアの助力を受ければ簡単に見つかったのだろうが、流石にそこまではやり過ぎだと断ったツケが今彼女を襲っていた。
『私に何か言う事があるのではないですか?令音?』
「…………」
それを察したマリアからの煽りが、目的の人物が見つからない事に加わって令音の苛立ちを加速させる。
「面臭かったぁ…」「もう午後の講義無いから遊びに行かね?」「あたしサークルあるからパスー」
そうしていると講義の一つが終わったのか生徒たちの声が廊下に響き始める。等身大の男女たちが講義という拘束を解かれて自由な場所へと飛び出して行っている。
そんな中、令音の耳に届いた会話があった。
「ねぇ恋菜ー?あんた午後の講義あったっけ?」
「ないよー」
「じゃーカラオケ行こうよ」
「ごめんねーこれから友達と会う約束してるから」
「ぬぬっあたし様の誘いを断るというのかー頭が高いぞっ!」
「この埋め合わせは後日キッチリと~」
「うむ!苦しゅうないっ!」
令音はそんな会話をする二人の女性を見た。片方は誰か分からなかったが、もう片方は分かった。
それは御守恋菜だった。
相手はそんな会話をしながらも令音のいる方へと歩いてくる。
かつて野暮ったい前髪と眼鏡を掛けて内向的そうな印象を与えていた彼女だったが、眼鏡をからコンタクトに変えて、髪をバッサリ切ってセミロングのさわやかな感じに変わっていた。
外見だけでなく口調や感じも、どもったりせずに暗い雰囲気から脱却して明るいキャラクターになっていた。
そこでインカムから声が届いてくる。
『御守恋菜との一致率九十九パーセント。本人に間違いないかと』
「ふむ…一応知ってはいたが、虚華から聞いた話とは随分と違った人物像になっているようだが」
五年もすれば人間の持つ考えや雰囲気など変わって当たり前と言えばそうなのだが、高校生の時点で培っていた性格や行動パターンが大きく反転するという事は、よほどのことがあったのだろうか。
黙って相手を見つめていても状況が進展や好転する事は無いため、令音は意を決して声をかける。
「少しいいかな?」
「はい?…えっと、私に何か用でしょうか?」
当然だが一度も声をかけられたことはおろか面識すらない相手から呼ばれたため、一瞬警戒の色こそ見せるのだが、すぐさま優し気で人当たりの良い雰囲気をまといながらそつのない対応をする。
令音は短いやり取りではあったものの、虚華の話に聞いた御守恋菜のパーソナリティとは違うのを感じた。
彼女の聞いていた情報ではもっと表情に余裕がなかったり、どもったりするような反応を見せると思っていたのだ。
「んー?もしかして恋菜の知り合い?」
「ううん、違うと思うよ。私が忘れてなければ多分初対面だと思うんだけど…もしかしてどこかでお会いしたことが…?私その辺に自信が無くて……」
身に覚えのない生徒から声をかけられて一体何事だろうかと僅かながらの警戒を見せる二人。
恋菜は不安そうに令音に言葉を掛ける。
令音はどこの誰とも分からない相手から話しかけられたら当然の反応だろうと思い、改めて挨拶をする。
「ああすまない、初対面なのに突然声をかけてしまって。私は村雨令音というんだがちょっとだけ聞きたい事があって時間を貰えないかな?」
その言葉に恋菜は少しだけ躊躇いを見せた、だが左手に付けている腕時計をチラリと見て答える。
「私は御守恋菜です。その…これから高校時代の友達と遊ぶ約束があるので少しだけいいのであれば…」
「すまない殆ど時間は取らせない。突然の訪問なのに丁寧な対応を感謝するよ」
こうして令音は何とか相手の事を知るための時間を確保する事に成功した。
◎
令音は恋菜の待ち合わせ場所に着くまでという約束で街中を歩きながら話を聞いていた。
学校から少し離れたところまで歩いたところで恋菜のほうから、今回の相手がコンタクトを取ってきた理由を問いかける。
「それで…聞きたい事って何でしょうか?」
「ああ、それなんだが…実は私の知り合いと連絡が取れなくなってしまってな…」
令音はいつも通りの落ち着いた淡々としたトーンでそんな返しをしてしまったためか、かなり深刻な雰囲気を作り出してしまった。
「まさか…失踪…ですか…?」
相手からすれば架空のでっち上げであるためそこまで深刻なつもりなど無いのだが、そんな事など図りようがない恋菜からすれば期せずして大問題に遭遇してしまったようなものだった。
相手が思った以上に深刻そうな雰囲気をその相貌に滲ませたのだから令音は慌てて訂正を図る。
「ああいやそこまで大事では無いんだ。ちょっと昔の知り合いに用が有るみたいな無いような。見つからないならそれはそれで問題はないんだ」
「はあ……」
相手の対応に対して腑に落ちないものは感じたのだが、あまり相手の事情に深く切り込まない方が吉であると考えて追及はしない。
(大丈夫かなこの人……)
令音に当人に対する不安とあまり話の全容が見えなりやり取りに、一緒に居ること自体に漠然とした不安を感じ始める恋菜。
事実として表沙汰には出来ない組織に所属している、精霊という超常の存在の研究のスペシャリストなのだから彼女の勘はあながち間違っていないのだが。
「実はその相手に君が昔会っているのかもしれないと聞いて話を聞きに来たんだが」
「私がですか?」
そう言われても心当たりなどあるはずもない。彼女の知り合いに親のいない人はいないし、後ろ暗そうな過去を持っていそうな友人など心当たりはない。
だがそこで彼女の脳裏に違和感があった。
(……あれ…?…誰かを忘れているような……)
「…どうしたのかな?」
「え?いや何でも無いです。私の周りにそんな怪しい人いたかなってちょっと考えこんじゃいました」
令音に話しかけられた事によって彼女は深くその違和感を深堀することが出来なかった。
「……ふむ。それでどうかな?」
「うーん…やっぱりその人の名前とか、あと写真とかを見せてもらえないと何とも…」
恋菜はごく当たり前の事を言う。そもそもどこの誰なのか把握しなければ心当たりなどあるはずもない。
「ああ、なるほど。失念していたよ」
そこで令音はコッソリと士道とのデート中に隠し撮りをしていた虚華の写真を取り出して、それを恋菜に見せながら問いかける。
「彼女は虚華というんだが身に覚えはないかな?」
「…ッ!」
その写真を見た途端、これまで落ち着いた雰囲気で会話をしていた恋菜が動揺からか固まる。
「まさか…身に覚えが」
「はい、虚華って名前に覚えはないですけど…写真のこの子は見た事があります!」
そう言うと慌ててスマホを取り出して相手に何かを見せようとする。だがそこで恋菜に異変が起こる。
「え…?」
突如動きが止まると呆然と宙の一点を見つめ始める。
令音はその異変を察知して何があったのかと問いかける。
「一体どうし―」
『令音!霊力の反応を検知しました!』
マリアの焦ったような忠告が令音のインカムに響く。そこで彼女はいつもは無表情なその表情を崩さざるを得なくなる。
恋菜の頭の上に一枚のメスが現れたのだ。それは虚華の天使である改造施術だった。
「一体何をする気なんだ……」
メスが光り輝き辺り一帯を照らし始める。強い輝きが辺りを侵食するのだが、何かが壊れたり、目の前にいる令音には何も害がなかった。
少しずつだが光もその輝きを抑え始める。
「これは……」
光が消えて世界は元通りになったのだが、周りは何一つとして変化はしていなかった。令音は当然ながら体に異変は無かったし、周りの建物にも破損の後のようなものは見られ無かった。
先ほどまで異常事態があったというのに、恋菜は何事もなかったかのように驚きの表情を浮かべる令音に問いかける。
「えっと…どうかしました?」
「え?いや、先ほどの光は…」
「光?」
恋菜は何が何やらといった感じで周りを見回している。
どうにも会話が成り立たない。まるで先ほどの起こった異常事態だけが切り取られて、その前後が無理矢理繋げられたようなそんな違和感。
(なるほど…そういう事か……)
令音は今目の前で何が起こったのか、そのあらかたを理解した。
するとそこで声がかけられる。
「おーい!恋菜ー!」
「あ、真院!」
声をかけたのは鳴村真院だった。彼女はあの日、恋菜が図書室で勇気を出して声をかけた相手だった。
その声に反応して恋菜もまた手を振ってそれに応える。
「彼女は」
「すみません。友達とこれから遊びに行く予定で…」
「そうだったね。すまない、協力してもらって」
「いえいえ、何か令音さんの知り合いの方の事で思い当たる節があったら連絡しますので電話番号を交換していいですか?」
「協力感謝するよ……」
恋菜は令音と電話番号を交換した後、丁寧にお辞儀をしたのち友人である真院の元へと向かって行った。
「ふぅ……」
その背中を見送った後、令音は僅かにだが息を吐いた。そこでインカムから緊張感のある声が響く。
『令音、恐らくですが御守恋菜のあの症状は…』
「ああ…とにかく今日あった事をまとめて、そして報告しなくては」
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大所帯
ここは五河家のリビング。
学生のお勤めの時間は終わって夕方になっている。
「というわけで作戦会議と行きたいんだけど…」
琴里はソファーに座ってラタトスクの司令として司会進行をしようとするのだが。辺りを見渡して少し呆れたような、そして困ったような表情になる。
それを察して令音が思っていた事を口にする。
「予定よりも随分と大所帯になったね」
「あはは……」
士道も苦笑いする他なかった。それは昼間に自分が学校の屋上で言った事と似ていたからだ。
リビングには琴里、令音それに士道だけでなく、彼らがこれまでに封印して来た精霊達も全員集合していたのだ。
少し時間は戻って来禅高校の屋上。
『うむ…虚華は死にたいから封印を願っているのか……』
士道が全ての事情を話し終えて、その場で最初に出た言葉は十香のそんな一言だった。
口は開いていなかったが夕弦に耶倶矢、そして最近僅かにだが表情が分かりやすくなってきた折紙も困ったなといった感じだ。
口を開きづらい雰囲気になったためか、士道が慌てて話題を繋げる。
『そうなんだ。だからこそ何か代わりになる生きる希望を見つけれればって思っているんだけど…当てがないわけじゃないけど、結局希望的観測だしなぁ…』
好感度は十分封印可能圏内ではあるが、仮に封印しても死を願っているのならば結局のところ意味が無い。
何とかして封印後も前向きに生活をしてくれるように説得をしなくてはいけないのだ。だがこれまでに邂逅した精霊にそのようなタイプはいなかった、強いてあげるなら七罪がそれに近い。
生きる希望と言われてますます十香や八舞姉妹は困ったように眉間にしわを寄せる。
そもそも相手の事を詳しく知らないため、この場で明確なアドバイスをすること自体困難を極めているのだが。
『…………』
『…?…折紙?』
だがそんな中で一人だけ違ったリアクションを見せる者がいた。
折紙だった。士道は僅かにだが違った反応を見せる相手の名前を呼ぶ。
この時彼が折紙に対して感じたのは、悲しみや共感、そして僅かながらの怒りだろうか。それが誰に対して向けたのか分からなくて彼は不安になってしまう。
『何か気になる事や気に障る事があったのか?』
『いいえ、ただ今の虚華は他人の言葉が入ってこない状況だと思う』
『そうなのか?』
『厳密には視野にそれしか入ってこない状況になっているはず。かつての私もそうだった』
かつての鳶一折紙は精霊という存在が薄々自分が思っているような、世界に害悪だけを与えたり、分かり合えない存在でない事に勘図いていた。
だが当時の彼女はその事実を受け止められるほどその心は強くなかったためか、都合の悪い事から必死に目を閉じ、耳を塞いだものだった。
結果として多くの人達を危険な目に遭わせて、迷惑をかけた。だからこそ今の彼女はそんな過去の過ちの全てを認めて、辛い現実に向き合うために日々精進している。
先ほどは言葉を濁して何かを誤魔化したようだが、他の精霊達とは違う経緯と信念を持っている彼女だからこそ虚華の在り方について何か感じることがあるのだろうか。
『私も似たようなことを考えた事はあった…が虚華のそれは僅かだが違う…様な気がするのだ……』
十香はまるでくしゃみが出そうなのに喉に突っかかってそれが出ないような、そんな悶々とした感じの表情で唸るように言った。
そこで夕弦が右手をスッと伸ばして発言を申し出る。
『提案。では他の皆の意見も参考にしてはいかがでしょうか?』
「では今日一日で調べた事を話していくよ」
「お願いするわ」
令音が最初にここで話すべき事の一つである御守恋菜の調査結果について切り出し始める。
「端的に言ってしまえば今の彼女は半精霊と呼ぶべき存在になっている」
「えっと…それはどういう事でしょうか…」
精霊になっているという結論を聞かされて四糸乃はおずおずしながらも質問をする。
発言途中でそれを遮断された形なのだが、令音はそれに苛立つというわけでもなく続きを離し始める。
「簡単に言うと今の彼女は半人半精霊、もしくは自覚のない精霊モドキになっているんだ」
いきなり人間ではなく精霊でしたと言われてもはいそうですかと素直に納得する事など出来るはずもない。かつての狂三のように一般人のふりをしていたのならいざ知らず、恋菜は間違いなく普通の人間だったのは間違いない話なのだ。
当然そう思ったのはこの場にいる全員も同じで、代表して琴里が思った事をそのまま話始める。
「それは無いでしょ…だって御守恋菜は間違いなく普通の人の両親から生まれた……」
だがそこで彼女は言葉を詰まらせてしまう。思い至ったのだ、この場には少なくとも五人の例外がいる事に。
「そうだ、琴里と同じで彼女は後天的に精霊になっている」
あの時、天使の力を無自覚とはいえ振るった恋菜は精霊の特徴を一部とは備えていた。ならば広義で精霊の仲間であると令音は結論づけたのだ。
ファントムと呼ばれる存在が霊結晶と呼ばれる物質を人間に与える事で精霊に生まれ変わらせることが出来る。何故そのような事をするのかそのメリットを掴むことが出来ない謎に包まれた存在。
「って事は虚華ってファントムっていうのと繋がりがあるの?」
あまりの衝撃的な事実にお馴染みの中二言葉を忘れて素の状態で話しかけてしまう。
だがその質問を受けても令音は迷いなく首を振って答える。
「いやそうとも限らない」
「どうして?」
「彼女の天使の力は自分の望んだ通りに対象を改編する力だ。だとすれば恋菜くんの体を精霊の力に耐えられるようにする事も可能ではないだろうか、十全でなくても一部だけならそれも可能ではないかと個人的には考えているよ」
令音が出した結論にどうしたらいいのか分からなくなる一堂。
つまり虚華は改造施術の力の一部を恋菜に宿らせることで記憶を封印させて更に天使に彼女の護衛をさせる。そうする事でこれから先精霊と一切関りを持たせないようにしたという事だろう。
「まったく…覚悟を決めるってのは…まさかここまでやってくれるとはね……」
令音が今日恋菜に接触して得た事を聞いて、琴里は忌々しそうな口調でありながらも僅かに憐憫のようなものを含ませた表情になる。
「そこまでやるなんてきょーちゃんには脱帽だよ。私の漫画にもそのシチュ使わせてもらおうかな?」
『…………』
暗い雰囲気を一掃しようと二亜があえてそんな冗談を口にするのだが誰一人として笑う事は無い。
そんな中、令音の端末から声が響く。
『せっかく真面目な会議だというのに二亜ののーたりんには困ったものです』
「悪かったって思ってるって…マリアは当たりが強いなぁ…」
さばさばガール(AIに性別はあるのか)による罵倒を受けてしゅんとしてしまう二亜。
彼女としては大人としてこの場に蔓延る暗い雰囲気を何とかしようと空気を読んでいるつもりなのだが、元からのズレた明るい気性のせいなのか、それが効果的だったことがイマイチ無い。
「うーむ…一体何から手を付けたらいいのだ…」
十香の言った通りに問題が多く、何から手を付けるのが最適解のなのかいまだに見当がつかない。
だが琴里は手詰まりというわけでも無さそうだった。
「あら?確かに困難だけど手立てがないわけじゃないわ。令音が出してくれた結論のおかげで一つだけ光明も見えているじゃない」
「どういう事だ琴里?」
「自分に何が出来るのか忘れちゃうなんて感心しないわね?」
士道の質問に若干呆れた表情をしながらも答える。
そして琴里は自分の指を唇に添えて投げキッスをする。その場にいた一同は何を伝えたいのかその意図に気が付かなかったが、折紙は素早く気が付いた。
「そういう事。確かに御守恋菜にその手は有効」
「私もそれを提案しようと思っていた」
令音もまた琴里のその意見に首を縦に振った。
「一体どういう事なんだよ…」
「まったく…一から十まで女の方から言わせるのは相手のストレスになりかねないわよ?」
ここまで肝心の士道が気が付かない事に呆れたといった感じでつっこむ琴里。
「ふむん…」「なるほどですぅ」「にゃははー気が付いちゃったねー」
他の精霊達も続々とこれから何をするのかそれに思い至ったようで納得といった感じでそれぞれ頷いていた。
「な、何だよ…勿体ぶるなよ…」
「はぁ…いい?…御守恋菜は精霊の力の一部を受け継いだ相手なのよ?って言ったら士道や私達に出来る事なんて一つじゃない」
そこでやっと士道はこれから何をするのかに気が付いてハッとした。
相手が精霊であるのなら人類に出来る事は二つ。
それが困難であっても殲滅か、対話によって妥協点を見つけるのか。ラタトスクが選ぶ道は一つしかないだろう。
「士道の封印能力で恋菜って人に取り憑いている天使を剥ぎ取って虚華の事を説得してもらう。それを虚華への攻略法の一つとして考えているわ」
琴里はそう締めくくった。
それは相手の覚悟を踏みにじる卑怯な手ではあるのかもしれないが、彼女をここまで意固地にさせている要素を使って無理矢理にでも突破口を開こうという考えなのだ。
そこに思い至った士道はその表情に難色を示す。
「だけどそれは……」
「分かっているわ。成功してもそれはあくまでも最後の一手。だからこそここにいるみんなで虚華本人の説得方法も同時に模索するわ」
その一言にその場にいた皆は頷いた。
これから何が出来るのか、そして何が起こるのかそれは誰にも分からない。だがここにいるメンバーならきっと乗り越えられるとそう信じている。
「とは言ってもいつ虚華が現れるか分からない以上は現状作戦を練る以外できないがね」
令音のその一言によって高まっていた熱気がちょっと抜けてしまった。
「ちょっと!余計なことを言わないでよ!…分かってはいるわよ……」
琴里は令音にガッと噛みつくのだが相手の意見はもっともで、現状は現界していないため手の出しようがなく、今すぐにでも接触することの出来る恋菜の事を優先するのは致し方のないのかもしれない。
「兎に角まとめるわよ。今私たちラタトスクのする事は二つ」
そこで彼女は右手の人差し指と中指を立てる。
「御守恋菜の力を封印する事。そして虚華が前向きに生きるために出来る事を考える」
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幕間 凛院さん再就職頑張りましょう
「再就職先考えないとなー……」
凛院は自宅のテーブルの上いっぱいにチラシやパンフレット、そしてハローワークで貰った資料を見ながらぼやく。
既に退職願を出してから一ヶ月程が過ぎていた。だがASTの末席に「鳴村凛院」の名前は依然として残り続けている。今の彼女は窓際で資料の整理や、残された後輩の為にマニュアルの作成などに勤しんでいる。
理由は単純で多くの退職者が出すぎて流石に全員いっぺんにいなくなると組織そのものが空洞化してしまうのだ。そのため基本的には現場に出ない事になっているが、人員がどうしても足りなくなり必要性に駆られた際には非常勤隊員として出る事になっている。
正式な隊員として働いていた時よりは労働時間も手当ても無いため、確実に今の方が給料は少ないのだが、自由に使える時間や休みも格段に多く、そして取りやすくなっている。
非常勤での契約もあと五ヶ月で切れるためそれまでに次の働き口を考えなくてはいけないのだ。
「うーん…やる気でない~……」
元々命がけの仕事であったため基本給が高く、また世界的な機密事項である顕現装置に精通していたため、その口止め料として通常よりもはるかに多い退職金が出るためそこまで焦って働く必要性にかられていないためどこか体に力がみなぎらない。
だが同時に今の凛院の年齢は二十代半ばであるため、早めに再就職をした方がやり直しや潰しが効くためのんびりもしていられないのだ。
「真院帰ってくるの遅い……」
ふと壁に備え付けの時計を見ると時刻は五時半を過ぎていた。
季節は八月半ばでまさに学生にとっては天国シーズンで、外も全然明るいため年齢的にも時間的にも女子高生が出歩いていても問題はない。
(いつも基地にいたから気が付かなかったけど…真院って結構外を出歩くんだね…)
姉である自分にとって妹は親を失った今絶対に守らなくてはいけない存在だ。多少過保護気味になってしまうのは仕方ないし、妹もまたその姉の気持ちを理解しているのか困惑しながらも受け入れてはくれている。
「夏休みは真院と沢山遊べると思ったんだけどなぁ…真院ボッチだし……」
前線から退いたのが七月末だったため、夏休みはそれまで忙しかった時間を取り戻すために色々と家族サービスをしようと思っていたのだが想定していたよりも二人の自由な時間が重ならなかった。
因みに凛院は自分の妹に友達が少ない引っ込み思案な性格である事はとっくにお見通しだった。別に無理して友人は作るものではないし、それが辛い事であると認識していないのなら別に一人が好きでも構わないのだ。
妹はどちらかといえばインドア派であり、ならば友達の代わりに自分が外に連れて行ってやらなくてはと義務感すら覚えていたほどだったのだ。
だが蓋を開ければ凛院は外出する機会が多かった。
(ん、ん?というかこんなに外に出る機会が多いって事は…これは……男の影っ…!)
彼女はがばっと起き上がる。
父と母が残してくれた大切な体、それを好き勝手にしている男がいるかもしれないという事実に旋律を覚える。
「いやいやマテマテ落ち着きなさい、短気は損気よ私」
だがそこで彼女は何とか落ち着きを取り戻して椅子に座る。そして今朝の出来事を思い出す。
「たしか真院は宿題を持って出て行ったはずだわ。なら考えられるのは図書館に行って宿題の消化よ」
もはや自分に言い聞かせていると言っても過言ではない状況だが、その暴走を止めてくれる人間はこの部屋にはいない。
するとここで家の玄関扉が開く音がする。この家の鍵を持っている人間は二人しかいない。
「ただいま」
この部屋に住んでいる人間の一人、鳴村真院だ。
ちょうど考えていた相手がグッドタイミングで現れたため一瞬怯んでしまう。
「お、お帰りなさい」
「ただいまお姉ちゃん」
真院はいつも通りのテンションでリビングにある食卓テーブルに宿題を入れているトートバックを置く。
そこでテーブルを先に占有している再就職用の資料をチラリを見て彼女は姉に問いかける。
「やっぱり今の仕事辞めちゃうんだ…自衛隊って公務員だよね…勿体ないなー…」
働いたことの無い人間特有の公務員至上主義を聞いて凛院は苦笑いをしてしまう。自衛隊といっても、その本質は世界の裏で暗躍する機密組織なのだがそれを妹に話す事は出来ない。
公務員は自衛隊系だと出張やら転勤が多くて大変だし、収入的に安定していてもパートナーへの負担が多く結婚に踏み切ったり、自分の持ち家を持つのが難しいため、意外とプライベートでの制約が多くなりがちでそこまで憧れる職種ではない。
真院は再就職の話題には興味を失い、冷蔵庫の中から飲み物を取り出して傍にあったコップに注ぎながら、チラリと姉の方へ視線を向けて話しかける。
「明日ってお姉ちゃん家にいたりするかなー…?」
「明日は一日中家にいる予定。冷蔵庫の中もしっかり買ってるし、友達もみんな仕事で予定合わないし」
「へ、へぇー…」
「?どうしたの?」
なにやら煮え切らないような雰囲気を出してくる妹に不審そうな反応をする姉。
恥ずかしそうにしながら真院は口を開く。
「んっとね…友達を家に呼ぶ約束をしちゃった…というか…」
「ええええええええ!!!?」
「そんな驚いたリアクションする!?」
「あのボッチの真院が!」
「ボッチって…気づいてたの!?」
「あれで隠せてるつもりだったの!?」
この場で明らかになった姉妹の友人把握事情。
これまで友人がいるかのように振舞うため意味もなく外出したり、スマホを意味もなくいじって微笑んでみたりと姑息な策を弄していたのだがそれも無意味だったようで。
「ちなみにその友達は点と点で結べるの?奥行きは存在するの?」
「いやキチンと友達は実在するよ!二次元じゃないよ!エア友達とかじゃないから!」
あまりに失礼極まりない質問に食い気味に否定する真院。ここで自分の黒歴史が公になってしまい恥ずかしさで冷静さを失ってしまう。
「へー真院がねー」
弄りながらも凛院はどこか嬉しそうだった。別に友人が多い事が全て、幸せの全てだとは思っていない、だがやはり一緒に居てくれる友人がいてくれるのはやはり嬉しいのだ。
そして友達というワードで連想してしまう、かつてドクターと呼ばれた精霊が御守恋菜という少女を大切にした事を。
それはただの想像の範囲内でしかないが、あの二人には種族の違いを超えた友情があったのかもしれないと思ったのだ。
そして仮にそうであるなのなら、それを台無しにしたのは間違いなく人間が生み出す偏見だ。直接手は下していなくてもその環境を作った一因は間違いなく凛院も担っている。
「…………」
「お姉ちゃん?」
「へっ、ああ、じゃあその友達が来る時は私は家を空けてた方がいいかな」
つい考えこんでしまった。もう既に取り返しのつかない出来事であるというのに、人間というのはあの時ああしておけば…と何度も後悔する事を繰り返してしまうのだ。
「…………」
一方の真院は姉のそのリアクションを見てどこか不気味な物でも見たような表情を作る。
「な、なによ」
相手の表情を見て聞き返す。何か自分はおかしなことを言ったのだろうかと、何か配慮に欠けた言動であったかと。
「お、お姉ちゃんが気を遣った…!」
「なによそれー!」
真院の感動といった口調に異議を唱える凛院。
相手の言った通り、これまでの凛院の性格からすれば家をやって来る友人の為に外出して空けておくなど中々考えられない事だ。本来の彼女であれば何が何でも家に居座って相手の顔をぜひ拝もうとするはずだ。
だが一瞬脳裏に浮かんだドクターの事が彼女を配慮という道に走らせた。
「そこまで気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ…それに外は暑いしね」
真院の友人は見られて恥ずかしいような経歴を持っているわけでは無いので、よほどシスコン対応が無ければ姉がいても特に問題無いのだ。
「あら、そうなの?」
恥ずかしがって外出のお願いするかと思ったらまさかの面会オーケーを貰って驚く凛院。
(ん…まてよ…これはまさか会って欲しいって事…?という事は……)
だがそこで余計なことを考えてしまう。そこで黙っておけばいいもののついうっかりが顔をのぞかせるのが彼女の悪い所だ。
「まさか真院に結婚を前提にした彼氏が…!」
「何をどうすればその考えに至るの!?」
◎
凛院は外出する用事が無いというのにキッチリと化粧をしたり、服装も外で出歩ける程度のものをまとっている。
妹の友人の前で変な所は見せられないと早朝からずっとそわそわしっぱなしだ。
「恥ずかしいよお姉ちゃん…」
本来であれば緊張するのは自分のはずなのに姉がこのありさまであるから緊張もくそも無かった。
「そう言えば聞いてなかったけど、真院の友達って女の子?」
妹に友達が出来ていたという衝撃的展開のせいで質問する事を忘れていた事に気が付いた。別に女の子だろうが、男の子だろうが本人が楽しく一緒に居られるのなら別にどうでもいいのだが。
「うん、同級生の女の子だよ。別のクラスなんだけど趣味が色々とあっちゃってちょくちょく話すようになったんだ」
「はー…」
クラブ活動や委員会に参加していないゴリゴリ帰宅部の真院が既に出来上がっている学校内のグループに飛び込むのは中々に勇気がいるはずなのだが、その状況から友達が出来るのは純粋に凄いなと姉は思った。
「あ、てか真院から話しかけてないでしょ、さては仲良くなった切っ掛けは相手から話しかけてもらったとかだなー?」
そこでふと凛院は思い至った事を口にする。積極的に他人と関わらない妹が自分から友達を作る為に動いたとは考えにくかったのだ。
「あ、な、なぁ…」
まるでその場面を見ていたかのような予言っぷりに顔を真っ赤にしてもごもごしている真院。
相手のその態度だけで自分の予想がピタリと的中しているのを確信する。
さすがに意地が悪すぎたなと思い話題を切り替えようとするのだが、そこでマンションの玄関のインターホンが鳴る音がする。
「あ、来た」
ゆでだこ状態から何とか復活してモニターに向かって行く。
「うん…うん…オートロック開けたから入ってね」
モニター越しに何かしらのやり取りをしたのち入ってくるように言う。
「友達?」
「うん」
姉妹はそんな軽いやり取りをする。自分たちが借りている部屋は三階の為、件の相手はすぐにやって来るだろう。
すると玄関先のチャイムが鳴る。
「来た来た」
そう言って彼女は友人を迎えるために玄関の方へと小走りしていく。
すると扉の開く音と会話が途切れ途切れに凛院の耳に届く。
「鳴村さんの住んでるマンションって綺麗で高級感あるよね」
「こんなの普通だよ、というか御守さんの家の高級タワマンと比べたらうちなんて」
「え……」
会話の中に見過ごす事の出来ない固有名詞を拾って慌てて玄関とその通路に通じているドアを開くとそこにいたのは―
「み、御守恋菜……」
「あれ…あの時の刑事さん」
そこにいたのは鳴村凛院がASTを辞める切っ掛けの一つになった女の子だった。
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大学生とデートをしよう
士道のこれまでの濃密な恋愛経験の中で女性を口説いたことは当然何度もあるのだが、年上となるとその数は限られてしまう。ちなみにその一人が練習相手に選んだ彼の担任教諭である岡峰珠恵だ。
勿論美九や二亜も明確な年上で魅力的な女性なのは間違いのない事実ではあるのだが、年上としての魅力や言動、立ち振る舞いは決して年齢とイコールではない。
彼からすれば二人は年上の大人なレディーというよりは同世代、下手したら年下の女の子としか見られ無い事もしばしばだ。
今から口説かなければいけないのは普通の人間と変わりのない、それも自分にとって明確に年齢もそして精神的にも上だと断言できる現役大学生の御守恋菜が相手なのだ。
これまでの命をチップにするそれとは違う変わった緊張感に彼は手に汗を握ってしまう。その姿は相手の通っている近くにあるこじゃれた喫茶店の中にあっては少し浮いてしまっていた。
『これから女性を口説こうってのにそんなに顔が強張ってちゃ先が思いやられるわよ?』
そんな様子を現在進行形でモニタリングしている琴里は彼のつけているインカムに届くように声をかける。
相手からそう言われて少しだけカッとなってしまった彼は少しだけ文句、または言い訳をする。
「仕方ないだろ…これまで大人な人を相手にしたことなんて殆ど無いんだから…それに学校を続けて欠席もよくないだろうし…それに虚華の事もだな…」
『はぁ…学校の方は公欠という事にしているわよ…みみっちい…学校や虚華の事はラタトクスや十香たちに任せておけばいいわ…』
その反撃にもならない言い分を聞いた彼女は少しだけぼやいたのだがふと何かを思いついて声を詰まらせたのち、意を決してある提案をする。
『ほーう…?…なら相手が来るまでこの琴里おねーちゃんが大人の女性に対する免疫を付けさせてあげよう・か・し・ら?』
「……何意味の分からない事を言ってるんだ?」
彼女の勇気を振り絞ったそのセリフだったのだが、残念ながら士道がその心を乱す事は一切なかった。
いくら血の繋がりのない義理の兄妹だとはいえ、五河家の息子として実の家族同然に育てられてきた士道が琴里に対して女性に対するその手の緊張感やプレッシャーを感じる事は殆どない。
それゆえに琴里のプライドや神経を逆撫でするような一言を無自覚に発してしまうのだ。
『うるさいっ!会ってもない女の子にデレデレしている暇があるなら、さっき説明したこれからの手順をキチンと確認しなさいよ!!』
「すっすまん……」
相手のキレ気味だったがそのもっともな意見に改めて自分がやるべき事を再確認する。
そこで令音が改めて説明をする。
『シン。一応確認しておくが、御守恋菜くんへのアポの方は私の方からキチンと取っておいたから今の君は私の遠い親戚という事になっている』
「はい」
『君は休みを利用し村雨令音の家に遊びに来て、小さい頃に虚華と関りがあり用事があって来れない私の代わりに彼女に話を聞くという事になっている』
「…わかりました」
士道は中々無理のある設定だなと思ったが、それの代案を提示できるわけではないため首を縦に振る。
そんなやり取りを周りに聞こえないように小さな声でやっていると目的の人物が喫茶店の扉を開けて入ってくる。
「…………」
スマートフォンを片手に店内を見回している恋菜。それは何処か不安そうで挙動不審気味だった。
「お客様、一名様でよろしいでしょうか?」
「えっと…その…待ち合せなんですが…」
店員が素早く対応をするのだが、そもそも誰と待ち合わせをするのかその容姿を知らない彼女は慌てて店内を見渡すのだが、一人で来ている客は士道以外にもいるため特定はできない。
『士道から話しかけるのよ』
『先手を取るためにシンの容姿までは伝えていないから、ここは頼めるかな』
「分かった」
まずは彼から話しかける事で会話の主導権を握ろうというわけか。彼は自分に宛がわれていた席から立ち上がって声を掛けに行く。
「あの、すいません…御守恋菜さんですよね?」
「そうですが…あなたが令音さんの言っていた士道さんですね」
そんな二人のやり取りを見て店員は士道が座っていた席まで誘導をして、注文が決まったら呼ぶようにとだけ言って、士道にひっそりとウインクをかましてその場から去って店の奥に消えていった。
実のところこの喫茶店の従業員はラタトクスの協力のもと、その構成員が紛れ込んでいるためバックアップ体制はバッチリなのだ。
二人は席に座って落ち着くと何処からともなく挨拶をかわす。
「初めまして御守恋菜です」
「五河士道です。今日は突然呼び出してすみませんでした」
丁寧な対応をする彼に相手は微笑みながら言った。
「いいえ、力になれるのかは分かりませんけれど、令音さんや士道君の知り合いの方が見つかるお手伝いが出来れば光栄です」
「っ……」
本人自身も言っていた事なのだが、これまで年齢相応の大人の女性というものに向かい合った経験のない彼は、落ち着いた大人のお姉さんとはこういうものなのかと実感してしまった。
そもそも虚華の事は身に覚えのないという事になっているため、休日の時間を消費してまで知りもしない相手の為に丁寧に対応する義理は無いのだが、そうしないのは御守恋菜という人物のパーソナリティがなせる業だろう。
事実として何の力も特別な立場でもないにもかかわらず精霊と友人であろうとしたそれが証明している。
『こほん』
「はっ」
インカムから琴里のものと思われる声が聞こえてくる。
いつまでもこの優しい空間と相手に浸っているわけにもいかない、彼がここに来た理由はそれを堪能する事ではないのだから。
「すみません。休みの日にわざわざ…その…」
「平気平気、どーせ暇だから」
大学生の貴重な休日を使わせこうして呼び出してしまった事への罪悪感を感じている相手を安心させるために、極力作った朗らかな笑みで何ってことは無いよといった感じでそう答えた。
「じゃあ本題に入るんだけど士道君や令音さんの探している人についてなんだけど…」
「ああ…えっと…それは……」
「…?…どうしたの…?」
恋菜からの質問に士道は少し視線を逸らしたのち、店の厨房の方をチラリと見る。
一方の恋菜は相手のその反応を見て訝し気な反応をする。
この喫茶店は既にラタトクスの手が伸びているため、ありとあらゆる手で二人の逢瀬を盛り上げていく予定なのだ。
問題は虚華の話を聞きたくて呼んだのだが、仮にそれを聞いたとしたら再び天使の力が発動して意識の改ざんが行われて振り出しに戻されてしまう。
それだけならいいのだが、発動したメスが相手に攻撃をする可能性も無くはないため下手に地雷を踏み抜くことは出来ない。
「あの、すみません」
「はい?」
そこで喫茶店の店員が若干申し訳なさそうに二人に話しかけてくる。
二人の会話に割り込むことに罪悪感があるのだろうが、あいにくその人物はラタトクスの人間なためそれは演技でしかない。
「実はお客様が先ほど当店の来場客一万名様目でして…」
「へっ?」
思っても見なかったその言葉にポカンとしてしまう恋菜。
一方の士道は十香の時とやる事は同じだなと辟易してしまうのだが、自分に相手を引き込むようなトークスキルが無い事が原因の一つなため呆れるのは失礼だなとも思う。
「なので特別特典として特別クーポンの盛り合わせに特別メニュー!それにどうやらお二人はお似合いのカップルな様子!なのでカップル用の裏メニューデザートも用意させてもらいます!!」
「えっえぇ……」
「…………」
突如として控え気味だったトーンから一変して、熱いテンションで語り始める店員。
恋菜はそれに圧倒されてしまう。士道はこれほど露骨なイベント目白押しなら逆に怪しまれてしまうのではと思ってしまう。
ラタトクスの意図としてはとにかくイベントの質よりも、数でごり押しして相手に深く考える隙を与えないという考えなのだ。
「カップルて…」
一万名目の来店よりも彼女の脳に残ったのはカップルというワードだった。当たり前だが今日あったばかりの士道はカップル以前に顔見知りですらないのだ。
今考えているのはカップルじゃないけど記念のデザートって何なのかな美味しいのかなという事と、嘘をついてまでデザートを得るなんてそんな意地の汚い真似をするのはちょっとなという二つの事だった。
「ありがとうございます」
「!」
士道はカップルというその一点を否定せずに店員にお礼を言う。それを聞いて恋菜は驚いた表情になる。
士道のそれを聞いた店員はニコニコ笑顔で「ではごゆっくり」といって厨房の方へと消えていく。
「あー…その…あうぅ……」
店員が消えて行った後の気まずい沈黙の中で先に口を開いたのは恋菜だった。
彼女の表情は羞恥や困惑だった。
あの場で素早く「彼とは恋人ではありません」と言う事は勿論可能だった。
だが士道が先んじて店側のその誤解を受け入れてしまった事。そしてなによりデザートという誘惑に負けてしまった自分の意地汚さを見抜かれてしまったみたいで、彼女は恥ずかしさに手を口にやりながら頬を赤らめて身をくねらせる。
「せっかく貰えるなら貰っておこうといいますか…意地汚いですね…あはは…」
「いやそんな事は…あはは…ありがとうございます……」
彼の恥ずかしながらのそのセリフに、一見すれば否定のようなのだが内心は先行して意地汚い事をしたと言ってくれたことで自分の中の醜い部分が少しだけ浄財されたように感じて気分は軽くなる。
もちろん士道はそこまで考えていたわけではないのだが。
『士道ナイスフォローよと言いたいけど…感触は良くなってるけど好感度は別段変化なしね…』
「…………」
虚華との別れ以降普通に人間社会の中で暮らして来た恋菜からすれば異性と普通に過ごしたりすることは珍しくないだろう。
人の温かみに飢えている精霊とはやはり立ち位置が違い過ぎたのだ。それでは中々キスまで持って行くのは厳しいと言わざるを得なかった。
可愛らしく羞恥を見せてはいるが、それは天然でやっているのか、異性の気を良くさせたいがために計算込みで行っているのかは本人しか分からない。
(魔性とは違うけど…)
魔性と思ってまず彼が思いつくのは狂三だった。
ゴシックな装いから繰り出される色気ムンムンの「あらあら」「ですわ」といったお嬢様な風味がある口調。何よりもその一挙手一投足の全てが男のその目を喜ばせるためにあるとしか思えず、何とも言えない劣情と情欲を掻き立ててくるのだ。
御守恋菜はあざとく積極的に見せつける狂三とは違うが、どこか恥じらいがあって相手の庇護欲を掻き立てるものがあった。もっともそれが狙ってやっているのかは本人しか分からない。
『思わぬ伏兵が現れたわね……』
「…………どういう事だよ」
『今は目の前の相手に集中しなさいっ』
「は、はいっ」
彼は知ってか知らずか琴里の抱えている地雷を踏んでしまい、相手の苛立ちの籠った声につい畏まってしまう。
するとそこにフルーツ特盛の巨大パフェがドン!と机の上に置かれる。
当然二人は突如として召喚されたその物体を見て目を丸くしてしまう。代表して士道はそれを見て感じた衝撃をついうっかり口にしてしまう。
「な、なんだこれは……」
「お待たせしました。こちら『カップル縁結びラブラブデラックスパフェ』です」
『…………』
士道と恋菜はその場で適当に考えたとしか思えないその名前に何をどうリアクションすればいいのか分からなくなる。
令音はそれをどう曲解したのか何かズレた事をインカムに吹き込み始める。
『安心してくれシン。そのパフェには変なものなど絶対に入っていない、絶対に入っていない』
「…いや何で二回言ったんですか…?」
令音からすれば、いまだに緊張状態にある士道の肩の力を抜かせてやるためのジョークも含まれているだろうが。
琴里もまたその冗談に乗っかる。
『そうよ。ホレ薬なんて入ってないんだからね』
「本当に入れたんじゃないだろうな!?」
その冗談なのか分かりにくい一言に士道つい大声を出してしまう。
だがそのやり取りは彼だけにしか分からないもので、恋菜からすれば突然目の前の男が癇癪を起したようにしか見えない。
「ど、どうしたの士道君…突然叫び出して……」
「あ、いや何でも無いです…ちょっと蚊が飛んでいて苛立ってしまって…」
「冬なのに…?」
明らかにおかしい会話になっており相手は少しだけ怪しむような視線、もとい何か可哀想な子を見るような目になってしまう。
だがそこまで深く追求するつもりもないらしく、すぐさま彼女の興味は目の前に置かれたパフェへと集中する事になる。
「じゃあ…いただきます」
彼女はパフェ用の長スプーンを手にして目の前の巨大パフェの一部をすくう。そしてそれを口に運ぶ。
「意外とチョコレートとフルーツって合うんだ……」
口から出てきたのは困惑と少し混じった喜びの声音だった。
その言葉を聞いた士道もまた興味津々さと胡乱な感じで同じく口に運ぶのだが、彼の舌に広がるのはフルーツのみずみずしい口当たりとチョコレートの甘さだった。
当たり前だがこれを作ったのはラタトクスなので相手を不愉快にするようなスイーツを出すはずがないのだ。
もちろん惚れ薬どころか、異物は何一つとして混入されてなどいない。
「本当だ…何ともない…」
「何とも?」
「…………何とも言えない口当たり」
「それは美味しいのか不味いのかいったいどっちなのかな」
こうして本来であれば探し人の話題で呼び出したにもかかわらず、いつの間にか男女でデートをしているという構図に持って行った。
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学校はいい所だぞ
まだ夜が明ける直前、強い寒波がまだまだ体に染みるそんな早朝。
「どういう顔をして会えばいいんだ……」
虚華はそんな事を先ほどから何度もぶつぶつと呟きながらも、心中とは趣の異なるそんな街中を歩いていた。勿論彼女が纏っている服装は霊装ではなく、黒を基調としたズボンにコートといった外見年齢相応な装いである。
彼女の脳内において再生されるのはつい先日の士道の言葉。
『…勝負をしないか……』
『俺が…俺達が虚華の生きる希望を持たせる……』
それは彼女が自殺志願者である事を知った彼が口にした苦しいにも程がある提案だった。
そもそもの前提としてそれは勝負として成り立っていないのだ。
士道の勝利条件は勿論虚華を立ち直らせる事なのだが、一方の虚華の勝利条件は士道を含めたラタトクス機関を諦めさせたうえで封印をさせる事だ。どこまで行っても平行線でしかない、一ミリたりとも妥協という角度変更をする気のない不毛な争い。
「あああ…何をどうすれば…もう会いたくない……」
彼女を様々なことを考えたのちその場に立ち止まって顔を手で覆ってそんな嘆きを口にする。
そもそもあんな事をしてしまった時点で封印自体はもう既に不可能に近いのだ。なので存在する微かな希望にすがるよりかは精霊の力を手放す、または弱体化する方法を別に探した方がよっぽどか建設的な選択肢なのだ。だが彼女は自分の心の内にまだ気が付いていない。
既に数える事も億劫になるほどに、悩んで悶々としてからの罪悪感爆発のサイクルを繰り返しながらも精霊マンションに向かって歩いて行く。
幸いだったのはまだ殆ど人がいない時間帯であったため奇怪な視線を向けられない事だった。
「あーもぉ…何でここに来ちゃうんだ……」
何だかんだで行く当てのない彼女は、まるで生物の根源に宿っている帰巣本能が発動したかのように先日訪れた例の精霊マンションへと着いてしまう。もう既に朝日は昇っていて周囲の住人もちらほらと見えている。
するとマンション近くの近隣住人の少し恰幅の良い女性がゴミを捨てるために家から出てくる。そして道端でぼんやりとしている風に見えている彼女を見つけると声をかける。
「あら?おはよう」
「あ、どうも…」
彼女は突然声をかけられてややしどろもどろな返しをしてしまう。
だが声をかけた方の女性は身に覚えのない顔に怪訝そうな表情を作る。観光客にしてはこの時間にうろついているのはおかしいし、地元住民であるならこの町に不慣れそうな雰囲気が出るのもおかしかった。
「あなた…?」
「あ、いや。今日このマンションに引っ越すつもりで……」
「…そうなのね」
相手はその苦しい発言と焦った風な表情を見て、引っ越してくるには手ぶらである事におかしい事には気が付いていた。だが相手にとってはその事に聞かれたくない部分である事を察したためそれ以上追及するような真似はしない。
「その…すみません」
自分が明らかに不審人物である事にいい加減泣きが入ってきた虚華は、逃げるようにマンションの中に入っていく。
こうして施設に入る事に足踏みをしていた彼女は無事にたどり着くことが出来ましたとさ。
マンション内の床を踏む音が現在無音の施設内に重苦しく響く。
その場から逃れるために勢いよく施設内に入ったは良いものの、根本的な問題として今現在彼女の思考領域を埋め尽くしているどの面下げてここに来たんですか?問題は解決していない。よって彼女の足取りは重い。
「うむ、よく来たのだ!」
そんな気落ちしている彼女を出迎えたのは十香を含めた精霊達だった。代表して元気印である彼女が出迎えの一言を口にする。
「うん……あれ…?」
明らかにここに来るのが分かっていたとしか思えないシチュエーションに目を丸くしてポカンとしてしまう虚華。
実のところ静粛現界を自在に使いこなす事の出来る彼女がいつ来てもいいように、普段からラタトクスは街中全域に監視網を張り巡らせ、また既存の監視網も強化している。なのですぐさま彼女が現界した事を察知して、事前に用意をしていたお出迎えプランの一つを実行したというわけだった。
虚華はフリーズこそしてしまったがすぐさま気を取り直す。
「その、おはようございます」
まさに日本人が恒例とする挨拶をかましたのだが、どこかそれは滑稽に映ってしまう。
虚華はきょろきょろと辺りを見回す。何を、いや誰を探しているのかこの場の人間全てが理解が出来ていた。
そんな姿を見ていた美九は面白いものを見たといった感じで手を口に当ててニヤニヤとする。
「うふふー。だーりんならお仕事でここにはいないんですー」
「ん、そうなんだ。考えてみれば災害である精霊の力を封印できるなんて特殊な才能を持っているなら自分自身が自由に使える時間は限られているだろうし」
『…………』
美九のちょっとしたイジリに対して虚華の返答を聞いた精霊たちは、彼女自由に使える時間と聞いて少しだけ言葉に詰まってしまう。
事実として士道のプライベートな時間は精霊達の世話、つまりアフターケアをするという事情を抱えているため一人でゆっくりと気を張らずにいられる時間は思っているよりも少ない。
そう考えてしまうとチクチクと罪悪感にも似たようなものを何故感じてしまう。虚華のその言葉に傷つけようとする意図は含まれていないのにだ。
とにかくこの場に目的の人物はいない。
「どうしよっか、このままここにいても迷惑がかかるだろうしとりあえずお暇を……」
「ところがどっこい、おねーさん達からある提案があってねーこれからきょーちゃんには私達と今日一日付き合ってもらうからね」
「はい?」
二亜から告げられたそれに、何やら知らないうちにスケジュールが埋まっている事を知って何が何やらといった感じの虚華。
◎
フラクシナスのブリッジに精霊達だけでなく、ラタトクスのメンバーに五河兄妹も集まっている。
『朝早いのに皆をフラクシナスに呼び出した理由は他でも無いわ。今さっき虚華の現界を補足したからよ』
琴里のその一言に、それまでうつらうつらとしていた精霊たちの目が覚め、これから聞かされるであろう話の本題を待つ。
『皆には虚華の説得をお願いするわ』
『挙手。それは士道と共にという事ですか?』
夕弦はシンプルに思った事を口にする。琴里は士道抜きでお願いをしているようなニュアンスを感じ取ったのだ。
決して相手精霊を押し付けたいとか関わりたくないという話ではないのだが、封印計画の核にあたる彼が居なくてはいけないと誰もが考えている。
ここで事情を説明するのは令音だった。
『ああ、そうしたいのは山々なんだ。しかし今日のシンは虚華と関りのある相手と面会の約束を取り付けていてね。体は一つしかないからね』
その説明に付け加える形で琴里も口を開く。
『一度説明はしたけど虚華の問題は封印そのものが出来ない事じゃないのよ、だからこそ皆にはそれぞれのやり方で彼女の生きる気力を持たせてあげて欲しいというわけ』
『という事は私があの子を手籠めにしても構わないという事なんですね!?』
『あーうん、がんばれー』
その懇願を聞いて突っ込んできたのは美九だった。どうやらあの手この手を使って虚華を完落ちでもさせようと画策しているのだろうか。
琴里はもう何も言わなかった。
相手をするのが面倒くさいのか、または死なれるよりはそっちの方がまだましだと思ったのか。これから虚華に降り注ぐであろう災難を考えたらこれはあまりにも無責任すぎるだろう。
『…………』
ハイテンションになっている美九を黙って見つめている七罪、心なしか不機嫌そうに見えない事もないようなあるような。
『どうしたんですか七罪さん?』
『七罪ちゃんてば不機嫌?』
『べつに』
四乃糸とよしのんは機嫌が下がり気味なそれを見て心配そうに声をかけるが、すぐさま何ともないと切り返されてはそれ以上の突っ込みは出来まい。
人の心というのは中々に難しい。
『本当は俺が虚華に対して向き合うのが当たり前の筋だと思う。だからこんなことを頼むのは無責任だと思うし情けないと思ってる……』
少しだけ節目気味で、顔色も気持ち僅かではあるのだが悪く見える士道が口を開く。
『皆に手伝って欲しい』
◎
今いるメンバーは目の前の少女虚華を説得するために呼び出された面子なのだ。実際に精霊の力を差し出して封印されて普通の人間と同じように日々を過ごしている。
士道がいないがゆえの応急処置ともいえる対応策であるのは前提にある。
だが同時に琴里は精霊から普通の人間になった経験を持っているがゆえに出せるものを、虚華に対して発揮してくれるのではないのかと秘かに期待も寄せているのだ。
「なるほどね……」
虚華は相手が何を狙っているのか、それに気が付いたようだった。
要は別のアプローチから自分を説得する気なのだろうと。
(別に意地になる所でもないしね)
自分に対して楽しい事を提供しても無駄と言ってしまうのは簡単ではあるのだが、一応自分の為にあれこれ考えてくれている相手の厚意を無下にするのは中々に良心が痛むのも確かであるため一旦乗っかる事を心に決めるのだ。
「じゃあ…今日一日よろしくお願いします」
その言葉を虚華から聞いた一同は一瞬驚いたような、意表を突かれたような表情を作る。
それもそのはずで、精霊側ひいてはラタトスクの意図が分かっているこの状況で策に対してこうも簡単に乗っかるとは思わなかったからだ。
「うむ、任せるのだ!」
そんな中でも十香は相手が承諾してくれて、嬉しそうに、そして胸を張って自信満々げにそう言った。
◎
「どうだ!」
「いや…どうだと聞かれても……」
十香からの問いかけに困惑といった感じで返すしか出来ない虚華。
今現在の二人がいる場所は来禅高校の校舎内だった。先ほどの求められた感想は学校の校舎についての意見というあまりにも回答に窮してしまう内容だった。
だが求められた以上は何とかその期待には応えようとは思ったのか虚華は何とか口を開く。
「学校にそんなに行った経験がないから分からないけど…白い壁の綺麗さの中に滲んでいるシミに、浅さがありながらも多くの人がこの場所で積み重ねた歴史を感じさせるのではないでしょうか……?」
「むぅ…?」
言った本人も何を伝えたいのか分かっていないのだが、伝えられた方もまた何が何やらといった反応を見せる。
だがこのまま黙って時間が経過するのを待ち続けるのはあまりにも二人の間には悪すぎるため十香はすぐさま気を取り直す。
そもそも彼女に出来るのは打算や計算を抜きにしたただストレートに伝えたい事を伝える事だけだ。
「この場所は私が居る事を許してくれる場所の一つなのだ!だから虚華にも見て欲しいと思ったのだ」
「……そうか、それはとても素敵な事だと思う」
その言葉を聞いて相手がすぐに脳裏に浮かんだのは恋菜の事だった。ラタトスクを除けば精霊の為に力を尽くした数少ない人間。
「ありがとう」
様々な事を考えた彼女が付け加えたのはそんなシンプルな一言だった。
そしてそこに添えられている表情は儚い笑顔だった。まるで儚なさを体現するかの様なそんな優しさと、寂寥というのを感じさせるそれ。
そしてこんな自分の為に色々と気を使ってくれてありがとう、そしてこれ以上は無理をしなくてもいいよというそんな意も込められているのかもしれない。
「いや!これだけじゃ無いぞ!!まだまだ知って欲しい事は沢山あるんだからな!」
いきなり雰囲気がクライマックスに突入した事に驚いた十香は慌ててこの場の主導権を握り直す為に行動を開始する。
相手からすれば士道の時のように積極的に盛り上げる気は無かった様で、自然な流れで話題を切ろうとしてきた。
だが最低限はこのやり取りに付き合うあたりは彼女の中の良心が働いたのだろうか。
十香は相手の手を取ってそのまま自分が充てがわれているホームルーム用の教室へと連れて行く。
そこは力を封印されて以降の彼女を受け入れてくれた場所の一つだ。今日に至るまでに、夜刀神十香という女性を象ってきた要素の一端を担っている。
「待っていた」
「はい……?」
教室にいるのは十香と虚華の二人だけではなかった。
教室の黒板の前に立って声をかけたのは鳶一折紙だった。その装いは十香のように制服ではなく、スーツに眼鏡だった。
声をかけられた虚華はその相手の方へと意識を向け、何が何やらといった感じで呆然といった感じで返す。
そんな軽い混乱状態にある彼女をよそに折紙は眼鏡をくいっと触って言葉を紡ぐ。
「では授業を始める」
どうやら折紙がスーツ姿なのは教師になったつもりのようだった。だた彼女がその服装をまとっていると、教職員というよりは出来るキャリアウーマンといった印象が強い。
「授業…?…い、いったい私に何をさせる気なの…」
本当に何をする気なのか、自分に何をさせようとしているのかを読み取ることが出来ずにしどろもどろといった反応を見せてしまう。
「私はこの場所が好きだ。シドー達以外にもこんなにも多くの人が私を受け入れてくれるのかと感動したのだ」
十香は口を開いた。自分の立てた作戦だと打算や作戦が含まれていますと言ってしまえば感動味も薄れるのだが、そんな一面が含まれているとはいえ十香に邪気は一切含まれていない。あるのは士道と同じように相手の事を知ろうとする気持ちと理解し分かち合おうとする思いだ。
言い終わると彼女は空いている前の席に座る。
だがこの状況をはい分かりましたと言って受け入れいるのは中々に難しく、虚華は何かを言わずにはいられない。
「いや学校は勉強する場所だけどわざわざ私が授業を受けなくても―」
「では授業を始める」
「でも勉強以外にも学校には色々と楽しい事があるでしょ―」
「では授業を始める」
「はい分かりました、先生……」
折紙の有無を言わせないその態度から虚華は自分の意見が通りそうにない事を察したのか、これ以上意見するのを止めて十香の隣の席に座る。
(士道はこんな人の相手を毎日しているんだなぁ……)
彼女はこの場にはいない相手の事を思う。
実際の所勉強に限らずだが、色々な人を触れ合ったり、校舎内を案内するなどをしたかったのだ。だが今日は休日であるため校舎内はがらんとしてしまっているため十香の感じているこの場所の面白みは薄れてしまっている。
ならば街中の案内などすれば良かったのかもしれないが、他の精霊たちのプランと被ってしまうため、色々と考えた末にこのようなプランになってしまったのだ。
因みに折紙が付き合っているのは彼女にプランを組むところから任せてしまったら、異常な行動を取ってドン引きされてしまい精霊たち全般に不信感を持たれたくないからだ。
因みに一時間だけ授業をしたが特にイベントなどはなく粛々と時間だけが経つという結果に終わった。
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漫画家は辛い
「ふっふっふー……お次はおねーさんがこの世界の楽しさを伝えてしんぜよう…」
「…よろしくお願いします」
二亜はいつも通りの少しウザ気なテンションで虚華に話しかける。
相手は少しだけめんどくさそうだなという成分と、大半を占める目の前のこの人があの超有名漫画家の本条蒼二なのかという懐疑的なものがその表情に含まれている。
現在二人のいる場所は二亜が借りている自宅兼職場であるマンションの目の前。
彼女が提案するプランは、士道が提案した二亜の職場訪問だ。前は次の約束を取り付けるのを嫌った虚華がうやむやにした事で取り付けられなかったのだが、その際のリアクションから漫画家の仕事場に対して全く興味が無いわけでは無い事は分かっていたため、その面から攻めようという話だった。
「じゃーん!ここが漫画家の仕事場だよ!」
「お、おお…凄い……」
そこには机の上に所狭しと載せられた紙にペンと言った明らかに描くために存在するであろうそれ。そして部屋一面や床に配置または散乱されている資料の為や個人で楽しむためにあるであろう本の数々。
マンション内に入り連れて来たのは二亜にとっては当たり前に入りびたる場所であり、虚華にとってはあまりにも聖域過ぎる場所。
彼女が日本語を覚えたのは親友である恋菜が好きな物であり、また読み聞かせてくれた漫画による部分が大きいため、それを生み出しているこの場所はまさに神聖なる場所なのだ。
憧れの存在を一番に感じることが出来るこの場所に何の心の準備をする事もなく突撃してしまったためか、この場で何を言うのが二亜の気持ちを良くすることが出来るのか分からなかった。
そして虚華の麻痺して語彙力が低下している脳で繰り出したのはあまりにもしょーもない感想だった。
「…漫画家の部屋っぽい……」
「ぽいんじゃなくて正真正銘漫画家の部屋なんだけど……」
二亜はその感想を受けて困惑してしまう。
漫画家である事はキチンと言っていたし、そもそも伝えられているため『漫画家の部屋っぽい』という感想はあまりにも間抜けすぎる。
「まぁまぁせっかくだし?色々と見てみてよ、ほらそこに生原稿あるし汚さなければいくらでも触ってくれていいからさ」
「さ、触るなんて恐れ多い…」
あっさりとお触りオーケーのお達しを貰えた事に困惑してしまう虚華。
(わ〜しっかりとファンだー)
恐々とした態度に微笑ましさすら感じてしまう二亜。
職業漫画としてファンや素人を仕事部屋に招き入れるなど限られている為、相手のリアクションは新鮮だった。
そんな事を考えている間も相手は机の上や床に乱雑に置かれたペンやトーンを興味深そうに観察していた。話だけなら知っているが実際に目の当たりにして感動したといったところだろうか。
二亜はそこで温めていたプランの一つを提示する。
「せっかくだから漫画家のお仕事体験コース行っちゃいますか」
「体験コース?」
声をかけられた事で仕事場を観察していた虚華は声をかけてきた相手の方へ顔を向けその内容を復唱した。
「そうそう、トーン貼ったりベタ塗ったり」
「え、ええっ!」
それはすなわち原稿を作る一助をするという事だった。
二亜のそのあっけからんとした対応に虚華は驚きのリアクションを取るほかない。作品の質に直結しかねない重要な一要素を素人に任せるなど普通はあり得ないだろう。
「や、さすがにそれはちょっと……」
「いーって、この原稿は読み切りの一つというか、まぁ落書きみたいなもんだし」
その一言を聞いて原稿に視線を落とすのだが、そこには漫画家本条蒼二として決して妥協を許さないそんな美麗な絵が描かれていた。
一読者として目の前のそれが落書きというレベルでない事はキチンと理解できていた。
つまり落書きというのは自分に余計なプレッシャーを感じずに楽しんで欲しいという彼女の気持ちの表れなのだ。
「……ご厚意に甘えて」
「手伝ってもらうわけなんだからそんなに畏まらなくていいよ」
二亜の中では虚華は冷静で僅かに不敵な雰囲気をまとっていたため、ここまで戦々恐々かつ丁寧な対応を見て少し苦笑いをしてしまう。売れっ子漫画家パワーは凄いのだ。
そんなこんなで始まる職業体験。
「で、出来た……」
「きょーちゃんって結構筋が良いよ。初めてなのにトーンを切るのに淀みないし、ベタ塗りもはみ出さず早い」
一時間ほど原稿手伝いをしたあたりで虚華の集中力が途切れる。
憧れの漫画家の原稿を前にして失態など犯すわけにはいかないという緊張感の中だと想像以上に精神力が削られるのだ。
「上手くいったら今度は正式にアシスタントとしてやってみない?しょーねんと一緒にさ」
「ん…気が向いたら」
「うわー…それって気が向かないやつだー」
しれっと封印後の話を振る二亜だが、その相手はそれとなくその話題をはぐらかしてくる。
そう簡単に首を縦に振ってくれるとは思っていなかったのだが、提案に対してフラれたらフラれたで凹むものは凹むのだ。
「ま、いっか。楽しかったし」
彼女は上手くいかなかったからといって凹んで居続けていても仕方ないため、そんな事を言ってこの場は切り上げる事にする。そして冷蔵庫の前について話しかける。
「後ろのスケジュールまでまだもう少しあるし。何か一つまみでもする?」
「そこまでしてもらうのも悪いかなって……」
「遠慮無用!それともおねーさんの酌は飲めないってか!?」
「お酒出す気なんですか…?」
二亜はノリの悪い相手にうがーっと理不尽に怒る。
とは言え当然ぱっと見高校生くらいの相手にお酒を本気で勧めるはずも無いし、相手の同意もなく無理矢理飲ませる気もない。あくまでジョークでしかない。
「色々と買い溜めしてたはず―」
そう言って冷蔵庫の扉を開くのだがその中には上から下までぎっしりと詰められていたのはビールの缶や酒類の入った瓶ばかりだった。
「これは……」
「いやーはは…これはこれは…お見苦しい所を」
お酒がイコールでダメの象徴という話ではないものの、酒ばかり詰め込まれた冷蔵庫を見せてしまうとどうにも恥ずかしく、そして居たたまれない気持ちになるのだ。
あまりにも人として見逃す事の出来ない冷蔵庫のラインナップを見て心配してますといったトーンで話しかける。
「いくらなんでもこの量は……」
「いやねー原稿がギリギリになると、時間に追い詰められたり担当の発するプレッシャーとかでどうにもストレスが溜まっちゃって…ついつい手が伸びちゃうんだよねぇ…」
「え」
「あっ」
二亜はそこまでぼやいたところで、相手のリアクションを見てしまったと両手を口に当ててストップをかけるのだが時すでに遅し。
虚華に生きる希望なり世界を捨てたもんじゃないというのを伝えようとしているというのに、社会人のリアルな苦悩や苦しみな部分を見せてしまっては悪影響だろう。生きていれば嫌な事などいくらでもあるだろうが、ここでそれが出てしまうのは最悪だった。
虚華少しの間何かを考え込む仕草をすると意を決して口を開く。
「……漫画家って本当に辛いお仕事なんですね」
「そ、そんな事ないよ!絵を描くのは楽しいよ!?人生って楽しいんだよ!!」
二亜は相手に気を遣われている事に気が付いて慌てて弁明を図るのだがもう既に後の祭りと化していた。
◎
「呵々っ、今度は我ら姉妹が相手をしてやろう!」
いつものめんどくさいテンションで話しかけてきたのは耶倶矢だ。だがそのテンションにはどこか翳りがあった。
「……大丈夫?」
「違うから!そういうんじゃないから!」
心配してますといった感じを前面に出してくるのは虚華。そして心に重い疾患を宿している痛い子だなという視点もまた現在進行形で続行中だ。
トラウマが若干ぶり返したのかいつもの中二ちっくな感じを投げ捨てて否定に入る。
「確認。そんな事よりも今度は私達夕弦と耶倶矢の手番です」
このままでは無為に時間を過ごすだけだと思った夕弦は、この場に集まったそもそも理由である『虚華の生きる希望を復活させようの会(仮)』に議題の中心を持って行く。
「それで」
虚華は辺りを見回す。そこは街の中心の雑多的な雰囲気のある商店街だった。食用品に、日用品から娯楽施設まで様々な施設が所狭しと敷き詰められた場所。
双子姉妹はここで何やら作戦があるようだった。
「ここで何を?」
「よくぞ聞いた!」
耶倶矢は会話の主導権を握る為かいつも以上に大きな声で食い気味そう言った。
続けて夕弦が話を繋げる。
「回答。やはり生きる上で喧嘩する事もあります」
「…………はい?」
「ですがそれを乗り越えた先に真の友情や愛があるとは思いませんか?」
「はい?…えっと…何を伝えたいのか…」
あまりにも繋がりを感じない点だらけの発言達に虚華は何をどう返したらいいのか分からない。
耶倶矢は察しの悪い相手に業を煮やし、ここでやることを話し始める。
「要は…私達とこのゲーセン内で勝負しなさい!」
「んん?ゲームは兎も角何が何やら……」
「ふはは!叩きのめしてくれる!」
「ええー……」
いくら何でも勝手に話が進み過ぎてしまうため、もう何度目かもわからない困惑顔を作ってしまう。
ゲームセンター内で遊ぶこと自体に異論があるわけでは無い。
だが会話から出てくる点を繋ぐ線が一体何なのかが分からないためそれが気になって仕方ないのだ。
相手の意図も分からないまま謎のゲーセン巡りが始まった。
「食らえ!我が必殺、下方炎獄脚(下段技)!」
「あっずるっ!」
先ほどから耶倶矢は虚華を格ゲーでボコボコにしていた。
始まってすぐに小ダメージを与えて体力面でアドバンテージを作ると、後は遠距離技や少しリーチのある下段技をひたすら使ってひたすらにヒットアンドウェイを繰り返し続ける戦法を取り続けていた。
流石に初見のゲームで経験者に勝てるほどセンスがあるわけでは無く、大方の予想通りの結果になっている。
彼女は負け続けていても何だかんだで様々なゲームを二時間ほど付き合い続けているが、負け続けることが楽しいはずもなく表には出さないが不機嫌さは塵も積もってきている。
(接待して欲しいとは別に思ってないが…)
強がっても人間負けたら悔しいし、それなりに機嫌も悪くはなる。それを分かりやすく態度に出すか出さないかはその人の気性次第なのだが。
「確認。耶倶矢そろそろでは?」
「そろそろか」
「何が…?」
負けた回数を数えるのも面倒くさくなってきた頃。ちなみにゼロ勝なため勝つ回数を数えるのは簡単。
双子は息ぴったりの挙動である機械を指差す。
「あれです」
「あれだ」
「あれって…」
双子らしい息ピッタリな挙動で八舞姉妹が指を差したのは撮影した写真を自分好みに加工、そしてシールとして出力する個室型撮影機。
「プリクラ?」
プリクラ自体を知らないと言うことではないため、それそのものには驚いてはいない。だがこれまで白黒がキチンと着く対戦型のゲームをメインに行ってきたため、突如毛色の違うものを勧められるとどう立ち回るのがいいのか分からなかったのだ。
困惑する相手の事をどう受け取ったのか夕弦はいつもの能面を僅かに崩して質問をする。
「質問、嫌ですか?」
「嫌じゃない…けど突然どうしたんだろう…みたいな」
虚華は思った事をストレートに口にする。
耶倶矢はここで自分達の狙いの様なものを口にする、しょうとしたのだが。
「我ら八舞はかつて己を犠牲にし、己が命を投げ打って…」
「ごめん、その喋り方何を言ってるか分かりづらい…」
「…………」
彼女は虚華にアイデンティティを抉られた事により涙目で黙り込んでしまう。
すると夕弦が彼女の体をゆっくり、そして確実な力でギュッと抱きしめる。
「よしよし……」
「うぅ…ゆずるぅ!」
いつもであれば敵にしていた夕弦のその母性の象徴も、心が傷ついた耶倶矢を受け止めるのに役立っていた。
「回答、では私から説明します」
かつて八舞姉妹は一人の存在だった。
だがある日それが二人に分かれて、耶倶矢と夕弦という二人の存在を生み出してしまった。
最初は問題ないと思っていた。なんならこの残酷な仕打ちを強いてくる世界で、境遇を分かち合える相手がいる事は頼もしかった。
二人はそれこそ生まれた時から一緒に居たのではと思ってしまうほどに仲睦まじい姉妹になった。
そこまでは何の問題もなかった。だがある日、本能とも言うべき部分が警鐘を鳴らしたのだ。
このままでは二人は元に戻るという事と、どちらかの人格が八舞の主人格となりもう片方は消滅する定である事に。
考え抜いた末に二人が取った行動は、どちらがより八舞に相応しい能力を要しているのか決める為に勝負をするという事だった。
幾度となく行われる名勝負。二人の力は拮抗しており白星と黒星の数は拮抗し、差が広がらない日々が続いた。
だがその戦いに白黒がつくはずもなかった。
なぜならお互いがお互いを生き残らせる為にわざと譲ろうとしていたのだから。
それは互いを強く、そして誰よりも大切に思ってしまった故に起きてしまった優しい悲劇。
だがそんな日々は士道との出会いによって唐突に終わりを告げた。
その後お互いの事を大切に思い合っている事が分かった姉妹はより一層仲良くなりましたとさ。
「という訳なのです」
「…うん……うん?」
夕弦は自分達の過去について話し終えた。
虚華はその話を聞いて最初は良かったとホッとしたのだが、そこでこのイベントと昔話をどう繋げていいのかわからずに首を捻ってしまう。
「気を悪くさせたらごめんなさい。今教えてもらった事とゲームセンターに来てからの意図が全く繋げられないんだけど…」
彼女は意を決してそう言った。
だが二人は何が何やらと言った感じでキョトンとした表情をする。
『?』
「何を言ってるの?みたいな反応をされても」
虚華は相手の態度を受けて侵害だと言った感じで言い返す。分からないものを素直に口にして何が悪いというのか。
ようやくウィークポイントを見つけたのか耶倶矢はここで一転攻勢に出る。
「フハハハ!無知でなるならばこの我が直々に教授してやろう!!」
「分かりにくい言い回しなのに何が言いたいのか分かった」
虚華はここで苛立っても仕方ない為、少し棘だけを見せるにとどまる。
「我ら八舞は凄い仲良し」
「うん、側から見てても仲良し姉妹だと思う」
ゲーム中もそれ以外でもお互いに大切にし合っているのは誰が見ても明らかな事であり、それを否定する材料は見当たらない為同意する。そもそも仲良しであるならあるに越した事はないのだ。
「追伸。元々仲は良かったのですが、仲違いや危機を乗り越えるたびにそれまで以上に仲良くなったのです」
夕弦が追加説明を加える。
どうやら険悪な関係に一度してから仲直りをする事で仲良くなろうというアプローチだったという訳だ。
そこまで察して虚華はわなわなと肩を震わせる。
だがそれは怒りによるものではない。
(わ、わ……)
一言で総括する。
(分かりずらっ!)
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よしのんは策士
八舞姉妹の作戦は微妙な感じに終わってしまい、今度は四糸乃と七罪のターンが回ってくる。
「今度は私たち三人が虚華さんのおもてなしをします」
『よろしくねぇ虚華ちゃん』
「よ、よろしく」
「……よろしく」
スラスラと喋る四糸乃とちょっと大人の余裕らしきものをまとっている人形、そして体を小さくしながらも一言挨拶をする七罪。
それぞれ三者三様なアクションを見せるのだが、虚華が気になったのはそこではなかった。
「ん?三人?いったいどういう」
彼女からすれば四糸乃の事情など知りようがないため、少しだけ配慮に欠けた言葉をかけてしまう。
そこで四糸乃の手に装着されているパペットから発される圧のようなものが強くなったような感じが出てくる。
ちなみにそれを見ている傍観者の七罪はハラハラしながらも何も言う事も出来ずオロオロとする。
『んん~?虚華ちゃんてばなかなか面白いジョークを言うのね。だけど私ブラックジョーク好きじゃないのよねぇ』
「はい?」
『通用する冗談と通用しない冗談を使い分けなきゃダメよ』
「はぃ…」
何やら地雷に足を掛けてしまった事に気が付いた彼女はよしのんの忠告に肯定の意を示した。
(色々と闇が深い……)
ここで色々と察してずかずかと詮索しないのは、かつて恋菜に対しての地雷を踏んだ経験が活きたのか。
「よ、よしのん…!虚華さんはそんなつもりで言ったんじゃ……」
明らかに空気が重くなったため四糸乃は慌てて収拾に入る。
だが昔よりは引っ込み思案ぶりが解消されたとはいえまだまだうまく口を動かす事は出来ないためもごもごしてしまう。
「取りあえず…この街の案内をしようかな…って…気に入らなかったら拒否してくれていいけど…」
友人の窮地にいてもたってもいられなくなった七罪はそこで重い口を開いて説明をする。生来の自信なさからか最後の方は尻すぼみになってしまったのだが。
「地元の人じゃないと知らないスポットとかあるだろうし楽しみ」
二人が今出来る事を全力で頑張っている姿を見て、少しだけ癒された虚華は優し気にそう言った。
『……!』
その一言で露骨にホッとした表情をする二人。相手が挑戦を受けないはずがないとは分かっていたものの、実際に対峙する際のプレッシャーの前では不安だったのだろう。
一行は街中を練り歩いていた。外見は中学生二人と高校生の三人組は幸いにも休日であったため奇怪な視線を向けられずに済んだ。
四糸乃と七罪は昼間は士道を筆頭に高校生組が学校に通っているためぶっちゃけ暇つぶしで一緒に街中を散歩している事が多いため、普段街で生活している時で気にもかけないようなスポットを良く知っている。
たまに空き地を陣取ってパンを販売している移動販売車。よく子供にお菓子を分けてくれるおばあちゃん。よく猫たちが集まる広場。
地元出身の人ですら知らないような街の昼間の顔を知っている。
ぶっちゃけると何を伝えたらいいのか分からないため普段通りに生活しましょう作戦だった。
「この神社が士道さんと初めて会った場所でよく一緒に出掛ける場所なんです」
「そうなんだ」
そんな中買ったパンを頬張りながら歩いている。
四糸乃から紹介されたのは件の神社だった。観光地や名所として認識されるほど芸術的な一面を兼ね備えていないし、別に特殊な場所でなければ、特別な歴史を備えている場所ではない。
だが彼女にとっては運命そのものを変えたかけがえのない場所なのだ。
『うふふ、四糸乃にとっては愛しの愛しの士道との馴れ初めの場所だもんねぇ?』
「よ、よしのん!」
よしのんの思わぬ口撃に顔を真っ赤にしてしまう四糸乃。七罪もちょっとかわいそうな物を見るような視線を送っている。
一見すれば微笑ましい光景である、だがそれを遠目から見た虚華はある事に気が付いた。
(聞いたわけじゃないけど二重人格っぽいからあの人形が話す事はあの子が思ってる事なんだよね?)
基本的によしのんは四糸乃が見聞きした事しか反応できないし、四糸乃が考えている事しか口に出来ない。
(つまり自分は士道が好きだから、お前は下手に手を出してくるな、狙うなよって牽制を無自覚に別人格に口にさせてるって事?)
もし本当にそうだとしたら中々の策士である。
人によっては微笑ましい独占欲とも取れなくはないし、自分自身の立場を悪くする事無く愛嬌だけを残してくるのだから。勿論本人にその自覚があるのかどうかは別なのだが。
面白いリアクションをしているものだからちょっとだけいじってみたくなる。
「そっか、四糸乃は士道の事が好きなんだね」
「あっ…いやそんな事は…無い事は…ありまっ…!」
あまりにもどストレートに言われてしまったものだからとっさに否定しようとするのだが、大切な思いなのか微妙な冷静さが戻ってしまい何が言いたいのか分からなくなってしまう。
「ごめんごめん。でもまあ誠実な人だとは思うし、責任感も強そうだし、そこまで彼の事を知ってるわけじゃないけどいい人だと思うよ」
このままだとただの意地悪野郎になってしまうため話題を微妙に逸らす事にする。そしてその内容はここにいる全員が気にかけている事でもある。
「そうなんです、士道さんはいい人です」
『虚華ちゃんたら見る目ある~』
「…わ、私も良い奴だと思う…」
一同それぞれ虚華が士道に対して好感触なのを見るやそれを後押しするようにそれぞれが同意を示す為に口を開く。七罪だけはとっさに認めるのが恥ずかしいのか素直じゃない返しをしてしまったが。
別段このやり取りで虚華の心情に大きな変化があったというわけでは無かったが、ただ一つだけ思ったのは自分が思っていたよりも五河士道という少年はこの異常な状況下でも多くの人に愛されている素晴らしい人物だなという事だった。
◎
「きゃーっ!いいですよぉ!」
「何が?」
高層ビルの中にあるレストランの一角で美九は紅茶の入ったカップに口つけている虚華を相手に大興奮していた。
一方の相手は邂逅が始まって早々にいきなり騒ぎ始めた相手に対して胡散臭そうな視線を送る。
「光に照らされて何色にも映える髪を持つ令嬢が優雅に紅茶を嗜むっ…いいですぅ!」
「あ、そうですか……」
一人で勝手に盛り上がってしまう相手にもう呆れたらいいのかどうすればいいのか分からなくなってしまう。
外は既に夕日が差し込んでいて金緑色の髪はたなびく度に様々な輝きを見せてくる。
そもそもこの場所は虚華をもてなすためにあるはずなのだが、美九は自分が楽しむ事しか考えていないとしか思えない。
(別に自分を特別に扱って欲しいわけじゃないからこういう反応はありがたいんだけれど)
楽しそうならまあいいか、そんな感じで自分の中に落とし込む虚華。そもそも自分の事を説得して欲しいと思っていたわけでは無いのでこれでもいいかと考える。
ただただ美九が楽しむだけでこのお茶会は終わってしまう。なお虚華は精神的に疲れただけの模様。
◎
(そう言えばこうやって夜空だけをじっくり見る機会なんて無かった)
現在虚華がいるのは辺りに家などがない閑散とした公園。公園の目下には街のネオンが映えている。
今日の弾丸スケジュールのほとんどを消費し終えて、最後のイベントである六喰との天体観測が始まろうとしていた。
ここは田舎というほど寂れた場所ではないのだが、辺り一帯にはビルの照明やネオンなどは無く、綺麗に星が見えるスポットになっている。実際に星が賑やかに輝いている。
星を見ると言われて彼女が想像したのは望遠鏡などを使って、肉眼では見ることが困難な輝きを楽しもうとするそれだった。
「あ、天体観測ってこういう事?」
「ふむん?」
虚華の呟きに、何かおかしな事でもといった感じで返す六喰。
二人は地面に敷いたマット上に寝っ転がってただぼんやりと上を向いていたのだ。
確かに星を見るという目的を達する中で、このようなやり方もあるため嘘はつかれていない。
寒くならないようにひっそりと顕現装置を使ってちょっと涼しいなくらいに辺り一帯の温度を調整しているのは秘密だ。
因みに遠目には今日一緒に遊んだ精霊たちがコッソリと伺っている。
何とも微妙な表情をする虚華をみて不安になった六喰は言葉を掛ける。
「……つまらないのかの?」
「えっいや、つまらないというか…こうやってのんびり横になる事自体が中々ないから何をどうすればいいのか困惑かな」
「?」
六喰は相手のその返事によく分からないといった雰囲気を醸し出す。
その反応を見てこれは自分の説明不足だなと感じて、首を隣にいる相手に向けて彼女は説明をする。
「えっとだね…これまで現界の度にASTやDEMに狙われたり、それ以外でもいつまで現界出来るのか自分でも分からないからのんびり横になるなんてことしなかったから」
恋菜といる時間は、この世に現れることが苦痛ですらあった彼女にとって、退屈だった時間を紛らわせるどころか至福の時間にすら変換してもらった。だがそれでも限られた時間に追い立てられていた事には間違いなかった。
「…ふむ、そうか…むくは寝てばかりであったから分からぬ……」
「そ、そうなんだ。まぁのんびりするのも悪くないね」
六喰はかつて地球の軌道衛星場という宇宙空間でただひたすら漂っていたという過去を持っている。
それは様々な要因が重なってその結末を選んだのだが、その理由の一つに他者と関わらずに何の刺激もない平坦な生を謳歌したいというのがある。その点は人と積極的に関わってきた虚華とは真逆なのかもしれない。
「ところでおぬしに聞きたいのじゃが…」
「何かな?」
中々間を詰める会話に窮している中、六喰は聞いておきたかったことがあるとその口を開く。
「主様の事をどう思っておるのかの?」
シンプルでストレートなその問いかけ。つまり士道の事をどうしたいのか、自分は士道とどうなりたいのかと聞いているのだ。
だが残念ながらそれはうまく伝わらない。
「主様…って誰…?」
六喰と直接話したのはほぼ初めてであるため、一体何を聞きたいのかその目的の相手が誰なのかが分からない。
「主様は主様であろう」
「その主様って人は『ぬしさま』って名前なの?それともあだ名や所有形容詞みたいな…?」
どうにも会話が嚙み合わない事に困惑しながらもなんとか相手の意図を読み取ろうと必死になる虚華。
そこで六喰は相手に自分の質問が何故伝わらないのか気が付いて少しだけハッとする。
「主様は五河士道のいう名前じゃ」
「はい?」
その問いに対する答えを聞いて一瞬何が何だか分からなくなってしまう虚華。
そして視線の先にいる少女を見やる。体の一部があまりにも大人びているものの、身長やその顔立ちは幼く、外見年齢は成人女性ではない事が伺える。
(主様って士道が呼ばせてるって事?こんな中学生くらいの女の子に一体何をさせてるの…喋り方もなんか古臭いし…そういう趣味なの?年下の女の子にお兄様とか呼ばせて喜んじゃう系の人なの?)
突如として五河士道への評価が下がってしまう。
幸いなのは真那と遭遇しなかった事であり、兄さまと呼ばれるその姿を見せてしまったら下がるなんてものでは済まないだろう。二亜のように兄さま呼びで興奮するというわけでは無い。
「……人には色々と事情があるよね…」
「?」
彼女はそのような形で目の前の問題を飲み込むことにした。下手に突っ込んでは闇が深そうなことを知ってしまい、頭が痛くなりかねないためそのような判断を下した。
そんな事を考えているとは知らない六喰は何が何やらといった感じで疑問符を浮かべる。
そんな中で逸れてしまった話の本題を思い出した虚華は目線だけを相手に向けて口を開く。
「あーそうだ。士道の事をどう思ってるのかだけど…誠実でいい人だと思うよ。もし私が普通の人間だったら友達になりたいくらい」
それは偽りのない本心だった。
五河士道はラタトスクによって担ぎ上げられたり誘導されている部分は確かにある。
だが精霊という存在するだけで空間震を起こす危険生物を前にしても、その理不尽極まれる境遇を何とかしたいという強い思いを持っている。
その一点を虚華は間違いなく好ましく思っている。
だがそれは人間性がただただ好きというだけでない。そこには彼女の中にある恋菜に心を救われた過去が間違いなく加味されている。だからこそ彼女は士道を好ましく思っていられるのだろう。
その言葉を聞いて六喰は嬉しそうな表情を作る。ベクトルは僅かに違うものの彼女もまた彼の事を好ましく思っている。
「ならば…主様に精霊の力を預けてもよいであろう?」
そして僅かに躊躇いの混じった表情から口にしたのは封印を受け入れて欲しいと取れるそんなセリフ。
それはこれまで誰も口にしてこなかったそれだった。
そして二人とも会話が止まってしまう。
「…………そうだね」
わずかな沈黙が支配した後、口からそれはこぼれた。
「頭の中にある冷静な部分ではこんなことをするのは止めておけって忠告してくれてる。でもね…大事な何かを失って沸騰している自分が心とは裏腹に体から気力を奪っていくんだよ…きっとこれから先、どんなに足掻いても満たされる事は無いんだろうね…」
「……………………」
その内容はあまりにも漠然としており、理解して欲しいとは思い難いそんな事を淡々と話していく。
だが六喰はそれを聞いて何が言いたいのかその一端を感じ取ることが出来た、出来てしまった。
かつての彼女もまた精霊の力を間違った方向に使ってしまい、自分の元から家族を離散させてしまったという過去を持っている。そしてその事実に耐えられなくなった彼女は自分自身の心に鍵を掛け、惑星の衛星軌道上へと己を封印して他者との関りを途絶した。
やっている事のスケールこそ違うのだが、大切なものを自分のせいで失い、そして自棄になってしまっている。
「…………そうか」
相手の気持ちの一部が理解出来てしまったからか、六喰の口から洩れたのはそんな言葉だった。
自分の口から説得する事の出来る言葉は出てこないと気が付いてしまった。
相手の態度と思考が一致していない事は彼女自身が一番分かっていても、頑固に固まってしまった感情を明確に言葉によって曲げることが困難である事は自分が一番分かっていた。
自分が一度通った道だからこそ、それは安いものではないと分かる。
「ありがとう、私の為に色々と考えてくれて」
六喰の考えている事を察した虚華はただ感謝の言葉を素直に伝えるに留まる。
そして会話の無くなった二人は自然と視線を上空へと向ける。そこには多くの星が瞬いていたが、何故かそれは寂しそうに輝いているように思えた。
気まずい沈黙が数分間、経過時間を数えるのさえ気まずくなるほどの時が過ぎる。だがそんな中でそれを切り裂いたのは虚華だった。
「ッ!?」
彼女は慌ててがばっと上体を上げる。どうやら何かに勘付いたようで遠くに視線を向ける、肉眼では見えない何かセンサーを頼りに知覚しようとしている。
「どうかしたのかの?」
六喰もまた慌てている相手につられて上体を上げる。虚華の見ている方へ視線を向けるのだが、そこには真っ暗な空と街のネオンしか見えない。
だが相手はその質問に答えられるような余裕はないらしくその場で立ち上がる。
「恋菜が危ない…!」
そう言って虚華は霊装を身にまとって空へと飛び立っていった。
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共通の話題
士道と恋菜はラタトスクの大量クーポン券仕込みによってごく自然(不自然)にデートへとしゃれ込むことに成功していた。
当初の目的は恋菜に虚華の話を聞く事であるのだが、それをしてしまえば彼女の記憶は消されてしまうため当初の目的自体が達成困難ではある。つまりこの作戦の本題は御守恋菜をデートに誘って好感度を稼いで精霊の力を封印する事にある。
そもそも無料クーポン券が手に入ったからと言っても、ある程度の身分が保障されているとはいえほぼ初対面の相手と行動を共にすること自体不安の塊ではある。恋菜は案外がめついのか、タダというのに弱いのかもしれない。
そんな傍から見れば不信感丸出しのイベントの中、恋菜はルンルン気分でご機嫌な様子。
「楽しみだな~」
「そうですね」
「でも本当に貰っちゃってよかったの?」
「何がですか?」
「士道君の分の『本十冊無料引換券』だよ。私二十冊も貰っちゃっていいの?」
「…………大丈夫です」
『本十冊無料引換券』というあまりにも胡散臭いそれを違和感なく受け止めてしまっている恋菜に本気で心配になってしまう士道。いくら本が好きだとはいえ、ラタトスクがバックアップに入っていなければこれは明らかに詐欺だろう。
そんな心配をよそに二人は先ほどまでいた喫茶店の近くにあるデパート内の本屋へとたどり着く。
すると新刊の雑誌が置かれているコーナーに視線を送る士道なのだが、だがそこには例の大人のプロレス本が。
「…ッ」
「ん?」
悲しいかな、士道は例のごとく息を呑んでしまう。そしてそれを見逃してはくれない恋菜。
相手の視線が向いている方へと彼女も同じく視線を送る、そして見つけてしまう例のブツ。
「これはー……」
彼女は超男向け雑誌を認知してどうこの場を取り持てばいいのか苦慮をしてしまっている。
『士道ッ!早くフォローしなさいよ!』
口に手を当てて硬直してしまっている相手を見て琴里は何とかこの場の空気を修復しなくてはいけないと思い至る。
「そ、れはだな……」
「ま、まぁその手の本は女の子も男の子が思っている以上に興味津々だったりするし…?」
「言う事は同じかよ!?」
「ひっ、お、同じ…?」
「す、すみません。こっちの事情です……」
かつて虚華にいじられたトラウマがぶり返してしまいつい大声でツッコミを入れてしまうのだが、何も知らない恋菜からすれば情緒不安定にしか思えないし、何よりいきなり大声で怒鳴りだしたらそれは怖いだろう。
だがこのままでは二人の関係は冷え切ったままでデートどころではなくなってしまうため、士道は慌てて話題を振る事にする。
「そう言えば恋菜さんはどういう本が好きなんですか?」
「んー…そうだねぇ…」
先ほどまで視線を向けていた大人向け雑誌のコーナーから離れて、漫画や小説の新刊が並べられている一角へと足を運ぶ。
「漫画や小説、それにラノベとかいろんなジャンルを読むけど……特に最近熱いのはこれかな~…」
恋菜が手に取ったのはいわゆる百合というジャンルに属する一冊だった。
内容は親の再婚によって引き合わされた二人の女子高生が、言い知れない背徳感を得ながらも禁断の愛を育むといった内容だった。
正直、相手の趣味趣向が分かっていないこの状況でそのチョイスは心臓に毛が生えているとしか思えない。
当然士道はそれを知っても、封印をするために好感度を稼ぐという目的がある以上は拒否などせずに、作戦上は興味がある素振りをする。
「あ、その漫画読んだことあります」
だがその前提以前に彼はその手の話題に少しだけ精通していた。
「そうなの?」
「はい、俺の知り合いにそういうジャンルが好きな女の子がいて、色々とおすすめの漫画とか教えてもらっているんです。最初はウキウキで彼氏を作ろうとしていたのに、いつの間に同居している相手を好きになっちゃうっていうやつですよね」
「男の人で読んだことある人っていたんだ……」
図らずも士道は共通の話題を引き当てることに成功し、恋菜の好感度を上昇させることに成功していた。
これには琴里も満足な様子だった。
『やるじゃない士道、好感度が上昇しているわ』
(本当にたまたまなんだけどな…)
彼は心の中で苦笑いをしてしまう。
相手の御機嫌取りをしようとしたわけでは無いし、知ったかぶったというわけでもない。ただ自然体の彼のままで応答をしただけなのだ。
そもそもこれまでの彼は明確な狙いや作戦を持ってして会話を行うよりも、下心なしに自然体に話す方がよっぽどか上手くいっているのだが。
◎
「何か気になるものってあります?」
「うーん…そうだなぁ……」
二人は当初の目的をすっかり忘れてデパート内を散策していた。
彼女とて女の子であるため本に限らず、お洒落な服や美味しそうな物についつい視線が向かってしまう。
士道の中で精霊達を除いた女の子のイメージは可愛い小物や煌びやかな装飾に目がないといったものだ。
「このアクセサリーとかどうです?」
「こういうゴテゴテしたものはどうにもね…」
「そ、そうですか」
「ごめんね…気を遣ってもらってるのに……」
アクセサリーに難色こそ示していたが、相手は決して見た目に対して無頓着というわけでは無い。
前髪はサッパリと眉が僅かに隠れるに留まっている長さでキチンとして清潔感があるし、服装もコートを着ているがだぼったさは無く体にキチンとフィットしている丁度いいサイズをチョイスしている。
少なくとも着れれば何でもいいと考える、服飾に一切興味がない人間のする格好ではない。
(そう言えば……)
ここで士道は相手の服装について何も反応を示さないでいた事に気が付いた。
だがそれも無理もない話であり、元々呼び出した建前は探し人について聞きたい事があるという内容であったため、まるで男女で遊びに来たかのように服について似合っているとか話したら違和感があったはずだ。
だからこそ琴里もラタトスクとしてもその辺については何も言及しなかったのだ。
「そう言えばその服可愛いですね」
「へ…あぁ…ありがとう」
いきなり褒められたものだから驚きと恥ずかしさの滲んだ表情で恋菜は反応した。
『へぇー結構いい反応をしてくるわね。もう少し畳みかけて頂戴』
琴里は相手がまんざらでもないリアクションを見て兄に指示を出す。
「服というか、お洒落さんなんですね」
「うーん個人差はあると思うけど、この程度は普通じゃないかな」
「そうなんですか?」
士道の中ではオシャレをする、よそ行きの格好をするというのはある種の特別な儀式とも言えるものだった。女の子の準備は男の子に比べて圧倒的に時間がかかるものであるとも聞いているためだ。
それを普通の事というのは彼の中にはない発想だった。
「例えば朝起きて寝癖が出来たら整えるよね?」
「はい」
「それと同じかな。どんな内容でも誰かと外で会うならメイクとか、洋服を誰に見られても恥ずかしくないレベルにしておくのは礼儀みたいなね」
「なるほど……」
そんなやり取りをしていて彼が思ったのは、目の前にいる女性は誰からも好かれる人気者で、さぞかしモテるんだろうなというしょうもない感想だった。
そして同時に思うのは事前情報として聞いていたとはいえ、虚華から聞いた御守恋菜の人物像からまるで別人のようになっているという事実だった。
かつての彼女であればそこまで身だしなみに関心は無かったはずだし、そもそも呼び出されてもおよび腰でこうして顔を会わせてくれたかも怪しいはずだ。
こうして自分に会うためにあれこれ下準備してくれたことに感謝しながらも、そもそも虚華を説得するために一ピースとして接触をしているため申し訳なさも感じてしまう。
「女性って…大変なんですね…」
「あはは、そーかも」
『女性にそんなこと言わせるんじゃないわよ、曲がりなりにもデート中なのよ。仮に言うならありがとうでしょ』
「す、すまん」
そんな情けないやり取りを見て琴里は呆れながらそう言った。
だがそこで恋菜はある事に気が付いたようで僅かに首をひねる。
「まってね…いつの間にかデートみたいなことをしてるけど…そもそもの目的は……」
「あ!そうだ!あの店とか面白いものが売ってるとは思いませんか!?」
「え…ええっ!」
当初の目的である虚華の事を聞くために呼び出された事を思い出しそうになったのを俊敏に察した士道は、話題を逸らすために手握り引いて、そして大声で押し切る事にする。
因みに相手からしれっと出たデートという単語を聞いて、一応この現状をそういう風に見てくれているんだなという謎の感動を覚える士道だった。
◎
店の中を歩き回った二人は休むためにフードコートの一角にあるテーブルを陣取っていた。
恋菜はふと何かに気が付いてスマートフォンを取り出し画面を見て口を開く。
「何だかんだでもう夕食の時間だ」
「確かにそうですね」
「そう言えば士道君が泊ってる場所はここから遠いのかな?門限…というか時間は大丈夫?」
「いや俺は大丈―夫ですね。遅くなったら令音さんが迎えに来てくれることになってますから」
士道は恋菜の心配からくるその言葉を聞いて素直に答えそうになったが、咄嗟に出す言葉のチョイスを意識した。彼の住んでいるところはこのデパートから電車で一時間ほどなので門限など気にしなくてもいい。
五河士道は村雨令音の親戚筋という事になっており、本来はもっと遠くの田舎に住んでいる事になっているため場合によっては下宿先に帰れないのではと相手は心配したのだ。
実際の所、どんなに遅くなろうが途中でデートを士道側から中断するのはあり得ないため、いざという時は令音(ラタトスク)が迎えに来てくれるのは間違っていないのだが。
「そうなんだ」
彼女はその返答に対して別段疑問符を浮かべることなく素直にうなずいた。
『そろそろ食事の時間ね』
琴里は自分もお腹が空いたのを思いそんな事を呟く。彼女は朝から殆ど飲まず食わずだったのだ。
「そういえばこのフードコートの無料食事券が残ってますし良かったら夕食を食べていきませんか?」
「うーん、そうだね。せっかくだし頂いちゃおうかな」
士道からのそんな提案に恋菜は同意を示した。
考えてみればいくら年下相手とはいえデートの経費の大半を無料クーポン券で済ませているのに全く不快そうにならない時点で、案外お金に対してシビアな感性を持っているのかもしれなかった。
二人の占有しているテーブルにはそれぞれがチョイスした料理が並ぶ。
士道はオムライス、恋菜はラーメンにチャーハンに餃子という中華これでもかてんこ盛りセット。
正直な話、恋菜の食事のチョイスは大食らいアピールに口臭が気になるものでデートでそれを選ぶには中々勇気がいるのではないだろうか。
士道がそんな事を考えてあっけにとられていると、その視線を察知した、というよりもそのような視線を向けられるだろうなと思っていた恋菜は話しかける。
「フードファイターみたい?」
「え、いやそんな事は……」
突然すぎるそれに士道はついタジタジになってしまう。
だが恋菜はニコニコとした表情でなんてことはない雰囲気で話始める。
「いいのいいの。昔は周りの人に見られるのを意識して遠慮してた部分もあったけど…そんなしょーもない所にこだわっていたら疲れちゃうからね」
「そうなんですか……」
実のところ昔の御守恋菜はかなり奥手で自己主張が苦手な性格である事を彼は虚華の話やラタトスクの調査によって知っていたため、信じられないといった表情を作って小芝居をした。
彼のその演技をそのまま真に受けた恋菜はスマホを開いてある写真を見せる。それは高校時代のまだ虚華と出会う前の彼女の写真だった。
彼女は少しだけ照れくさそうにしながらも言葉を繋げる。
「昔はこんなに野暮ったい眼鏡に髪型…すっごい恥ずかしいよね」
「うわ、懐かしいねその姿」
そこで二人はテーブルの傍に二人の女性が現れていた事に気が付いた。
恋菜は二人の顔を見ると驚いた声をあげる。
「へっ真院!それに凛院さんも!?」
「先日ぶりだね」
「こんばんは、恋菜ちゃん」
相手のその驚きなど知った事かという感じで普段通りの返事をする真院と凛院。
どちらもスタイルが良く容姿端麗であるため周りの視線を中々に集めているが、そんなものは慣れっこなのか別段変わりなく普段通りのテンションで話している。
真院はこの場にある写真よりも気になるものがあるようで、恋菜と士道に対して視線を交互に向けていた。
「ふぅん…」
「な、何よ…?」
これから何を言われるのかは大体察していたのだがそのような返しをしてしまう恋菜。
「いやね、とうとう恋菜にも早い季節の春が来たのかなって」
「いや違う違う……」
その指摘に対して彼女は手を交互に振ってジェスチャー交じりに否定をするのだが、この最高のシチュエーションを相手が逃してくれるはずもない。
「恋菜って年下が好みだったの?」
「違うって!」
あまりにもいじられるものだからついつい大声で反論をしてしまう。
その仲の良い友達同士が作る空気が面白いのか凛院は口に手を当ててくすくすと笑っている。
するとそれをモニター越しに見ていた神無月はふとつぶやく。
『彼女は鳴村凛院…元ASTの隊員で…私の元部下ですね…』
『そうなの?』
いきなり出て来たその情報にまず琴里が食いつく。
『ええ、彼女はとても優秀な魔術師でしたが…例の一件で折れてしまい…後方支援に回ったと聞いてます』
『虚華と関わった魔術師の多くが退職したという一件だね』
令音は神無月のその説明を補足するように情報を付け足す。
彼はその説明を受けてしみじみと言った感じで言う。
『当時は部隊員の四分の一が退職願を出してきて大変でした……』
「ところで二人はどうしてここに?」
「よーく聞いてくれましたっ」
凛院は恋菜からその質問に対して嬉しそうな表情を作り、真院の肩に手を添えて顔を近づけながら言う。
「姉妹デートでーす!」
「ただの買い物だよ…遅くなったから食べて帰ろうとしてただけ」
嬉しそうな姉に対して、妹は少しウザったそうな感じで答える。だが凛院は心奥底から嫌っているというわけでは無く、ちょっと呆れたような仕方ないなと言った雰囲気を醸し出している。
「ところで連れのその人は?」
「ん…えーっとね…」
真院からの質問に恋菜は答えにくそうにした。
今更だが、本来の目的は士道や令音の知り合いについて聞きたい事があるというものだった。だがそんな言いふらしがたい内容をこの場で口にしてしまうのは憚られてしまう。
そもそもそんな事を忘れてこれまで遊び惚けていたのも中々の問題ではあるのだが。
『士道!困ってるんだから適当に嘘をでっちあげて誤魔化しなさいよ!』
「…わ、わかった」
これまで内輪で盛り上がっていたため黙々と料理を口に運ぶほかなかった士道だが、妹に叱られてその重かった腰を上げることになる。
だがしかしその必要は無くなってしまった。
突然の爆音がとどろいたのち辺り一帯を土煙が覆った。
爆風が晴れて士道は何とか視界を確保する事に成功するのだが、そこはもう既に彼の知っている世界ではなくなっていた。
「なんなんだっ」
彼は今の今まで煌びやかで明るかった空間が突如として荒廃と化してしまったのに愕然としてしまう。
「真院に恋菜ちゃん無事!?」
「大丈夫お姉ちゃん」
「私もなんとか……」
一方の凛院の焦った声に二人は何とか返事をする。
だが焦っているのは彼女だけでなく、この場にいた一般人も驚愕や戸惑いをあらわにしており、何をしたらいいのか分からずにあたふたとしていた。
『これは魔力反応…魔術師です!』
士道のインカム越しに聞こえたのはそんな情報だった。
そこでデパートの一角を瓦礫へと変えた張本人がこの場に現れた。奇麗だったフロアは既に瓦礫にまみれて汚れてしまっており、その上を通ればじゃりじゃりと音が生まれる。
確実に誰かが一歩ずつ間合いを詰めてきていた。
「よー久しぶりだなぁ…御守恋菜……」
そこに現れたのはブレンダー・ラストだった。
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幕間 恋菜さんイメチェン頑張りましょう
「二人が顔見知りだったなんて驚いた」
「顔見知りってほどじゃないわ、仕事で少しだけ話を聞かせてもらっただけだから」
真院、凛院そして恋菜は食卓テーブルをはさんで雑談をしていた。そこに険悪な雰囲気は全く無い。
「ごめんなさい、鳴村さんの名前忘れちゃってました…」
「いいのよ、顔を合わせたのだってたかだか五分足らずだしね。対して接点のない相手全員を覚えるのは難しいわ。あと鳴村だと真院と被っちゃうから私の事は凛院でいいわ」
「は、はい、凛院さん」
過去についた刑事だった云々の嘘を全力で誤魔化して、何とか優しくて大人びた女性を演じる事に成功した凛院。恋菜からは落ち着き払ったレディーに見えているが内心は混乱を極めている。
あの日、多くの魔術師と精霊の運命を変えてしまった子が今目の前にいるのだ、それも自分の妹の友人として。正直冷静に振舞う事を意識するだけで精一杯だ。
凛院は知っている、目の前の症状はドクターと呼ばれた精霊が記憶を奪ってでも守ろうとした少女である事を。
ならば今彼女が出来るのはこの事実を墓場へと持って行く覚悟で胸に秘めて、妹の友人を快く受け入れる良き姉でいる事だ。
そこで彼女はふと思った事を口にする。
「そう言えば夏休み中外出が多かったのって、恋菜ちゃんの家にお邪魔してたの?」
「そうだよ、一緒に夏休みの宿題したりゲームしたり」
「てっきりボッチなのを誤魔化すために図書館に行って宿題しているものだと……」
「それはもういいでしょ!?」
再びそのネタで弄られた事でクーラーがガンガンに効いている室内でありながら真院の顔は茹ダコみたいに真っ赤だ。
「んっふふ……」
『…………』
俯きながら手を口にやってこらえきれない笑いを浮かべている恋菜。そんな彼女を見て姉妹はじゃれ合うのをやめて相手を見る。
自分に向けられた二人の視線に気が付いて慌てて彼女は釈明を入れる。
「ご、ごめんなさい…その…つい……」
恋菜は自分が空気を読まなかったせいで、この場が変な空気になっていると思ったのか申し訳なさそうにますます俯いてしまう。
「ん~…?」
凛院は椅子から立ち上がると俯いている相手の傍に立つとその頬に手を添える。
「えっ、え、えっとぉ…」
「うんうん、恋菜ちゃんって結構素材は良いと思うよ」
凛院は相手の顔を上げさせてその顔を見る。
目は眼鏡で目立たなくなってしまっているが二重でパッチリとしているし、肌にシミやシワの類もない。そして口も唇は艶やかで口角も上がっており非常に若々しい印象を相手に与える。
だが本人が彼女の妹に負けず劣らずのマイナス思考で引っ込み思案気味であるため、その素質の良さを十全に発揮できていないのだ。
凛院はどんな切っ掛けがあってこの子があの真院に話しかけたんだろう…と考える。
相手の顔から手を離すと腕を組んで何やら考え始める。
「二人は今日何か外せない用事とかある?」
「これといって無いけど、宿題も殆ど終わってるし…」
「私も大丈夫です…」
凛院から問いかけに真院と恋菜は時間は空いていると答える。
二人の返事を聞いて凛院は言った。
「よし、なら決まりね」
◎
「着いたわね」
凛院が運転する車に乗った三人がたどり着いたのは、この近くでは比較的大きい部類に入るデパートだった。
「ごめんね御守さん、お姉ちゃんって一度決めたら中々聞いてくれないから…」
「だ、大丈夫…取って食われるわけじゃ無いから…」
一方の学生二人組は後部座席でそんな会話をしていた。何故凛院が二人を連れ出したのか、その目的がよく分からないまま連れてこられたため不安が募る。
◎
「さてさて…」
凛院は二人の連れをデパートの一角を占める化粧や服飾品を扱うフロアへと連れていた。
堂々としている鳴村姉妹に対して恋菜はこのような場所に明るくないためか、辺りをきょろきょろしており上京したての田舎娘といった感じだ。
視界に入ってくる情報がこれまで彼女が好んできたサブカルチャーとはかけ離れているため何をどうしたらいいのか分からないため、傍にいる仲間の真院に話しかける。
「わ、わー…凄いね…オシャレ…?な服とか」
「大丈夫?」
既に体力が枯渇寸前の友人を見て心配そうに真院は話しかける。
いつもと変わらないテンションで口を開く相手に驚いている恋菜。
「大丈夫って…こんなオシャレなリア充空間にいて鳴村さ…真院こそ大丈夫なの…?」
鳴村さんと言いそうになったがここにはその苗字を名乗る人間が複数人いるため、勇気を出して下の名前で呼ぶ。
呼ばれた相手は驚いたが、何とか一定の冷静さを取り戻して応答する。
「へっ…いやええと、しょっちゅうお姉ちゃんに連れてこられるから慣れてるし……」
「え……?」
その一言に驚く恋菜。そこでふとこの夏の事を思い出す。
毎日無地の同じような組み合わせの服ばかり選んでいた自分と、毎日色合いと組み合わせを変えてマンネリ化を避けていた相手。
決してぼさぼさで手入れを怠っていたわけでは無いがそこまでこだわりの感じない己の髪と、毎日トリートメントを含めて時間を掛けて手入れをしていたであろう相手。
同じ友達が少ない同盟であったが、女を磨く努力をしていたか否かで天と地ほどの差があったという事だ。
「私達、同じ仲間だと…盟友だと思ってたのに…私真院の友達止めるね…」
「何でよ!?」
突然の絶交宣言に中々見せな大声で突っ込んでしまう真院。
そんな彼女の両肩に背後から手を当ててニッコリ笑顔で凛院は話始める。
「真院は私が細かく注意していないとすぐに見た目をずぼらにしちゃうからねーこうやってコスメとか服とか口酸っぱく言っておかないとすーぐダメにしちゃうから」
「…………」
そう言われて真院は少しだけふくれっ面を作る。
自分の事をそこまで見てくれることが嬉しいのと、何度も何度も注意されるのが恥ずかしいという感情が混じっている。
すると肩に添えていた手を離して次は恋菜の肩を掴んで言う。
「だ・け・ど、今日は真院じゃなくて恋菜ちゃんをお世話しちゃいまーす!」
「えっ…」
相手の予想外のセリフに一瞬間抜けな顔で呆然としてしまう。だが頭が何を言われたのかを理解するとすぐに引っ込み思案が炸裂する。
「わ、私ですか…む、無理ですよ…私なんかじゃ…」
「私なんか…なーんて言ってたら何にも楽しくないわよ。それにその言い方はこうやって一緒にあなたと出歩いてる私や真院がまるでそんな程度の低い人と仕方なくいるみたいじゃない。そんなの悲しいわ」
凛院のそのセリフに恋菜は固まってしまう。言われた事が何故かずっと前にも似たようなことを言われたかのようだったからだ。
自分を下げる行為は周りにいる人達の価値すらも下げる行為である。それと似たようなことをずっと前に言われたような気がしていた。
決して相手の口調は怒っているわけでも説教をしているわけでも無かった。あくまで優しく何かを伝えようとしているだけ。それがとても体に染みるのだ。
「えっと…その…化粧とかファッションとかを教えてください…」
「はい!よくできましたっ!」
相手の言葉は小さくて決して堂々としたものではなかった、だが確かにもう一歩を踏み出した尊い一歩だった。だがその覚悟を感じて凛院は嬉しくなる。
「いい?女性が自分を磨いて着飾るのは挨拶をされた挨拶を返す、太陽が東から昇って西に沈む、それと同じくらい当たり前の事なのよ?いわば女の子に生まれてから課せられる常識でありエチケットにも等しい事なの、それを怠るなんて許されないのっ!」
その誓いの一言と共に恋菜をお洒落にするプロジェクトが始まる。
ちなみにいうとの真院はそれを見て手を頭に当てて頭痛を堪えるポーズをしていた。
◎
「もう六時過ぎてるんだけど…」
「えっ、あ、ホントだ」
正午から始まったオシャレ計画だったが、凛院があまりにもハマってしまったものだからすっかり時間の感覚が無くなってしまっていた。
「わ、わー…」
恋菜は凛院から借りた手鏡や真院に撮影してもらった全身写真を見て時間の事など忘れて感嘆の声を出す。
最初こそさっさと終わらないかなと考えていたが、やっていくうちにその奥深さに引き込まれつつあった。
今日一日で買ってしまった化粧品を軽く付けたり、これまで彼女がどこか自分に似合わないと敬遠して来た薄い白色に近い少し薄手の空色のワンピースを身にまとっていた。
いつもは恥ずかしがって出すのを躊躇っていたおでこだが、前髪をヘアピンでとめて丸出しにしていた。
凛院は野暮ったい黒ぶち眼鏡も取り換えたかったが、それは度入りだったためそれだけは叶わなかった。
そんな大変身とは行かなくてもそれなりにイケている格好に変身した恋菜。
「いい感じいい感じ」
満足そうな凛院。だが一方の真院は別の感想を抱いていた。
(てか恋菜っていつも野暮ったい服装してるから気が付かなかったけど着やせするタイプだったのか…)
真院が注目していたのはワンピースの裾部分だった。意外と胸部のスケールが大きかったためか、胸に服が押し上げられて裾の前側の方が後ろ側よりも短くなるという現象が起きていた。
「これで恋菜ちゃんもオシャレに目覚めちゃった形だ」
「そ、そうですかね……」
「そうだよ。途中からめんどくさそうな感じ無くなってたもの」
「す、すみません」
彼女としては可能な限り隠していたつもりだったが、やはり慣れない事をすれば疲れるためどこか投げやりになっていた部分があった。相手はそれを見逃さなかった。
「いいのいいの、昔は真院もそんな感じだったから分かっちゃうんだよね」
「今もめんどくさいよ…」
気にしていない事を強調するために軽口を叩く凛院。だが真院は心の底からしんどそうな表情をする。
「せっかくうちに遊びに来てくれたのに連れ回しちゃってごめんね」
「でもこれまで見てこなかった世界が知ることが出来て本当に楽しかったです。また今度色々と教えてもらえませんか?」
凛院はそんな謝罪を述べる。
だが恋菜は心の底から楽しかったと言った。それは紛れもない事実だった。最初は自分を磨くための投資は時間の無駄だと思っていた。
だがやっていくうちに、自分が変わっていく事が楽しいと思えるようになっていた。
「次は真院ね」
『いやいや、もう帰ろう(りましょう)よ』
本当に時間感覚を忘れてしまっている凛院だった。
◎
「二人とも卒業おめでと~!」
薄っすらと瞳に涙を浮かべながら恋菜と真院に抱き着く凛院。
抱き着かれて気恥ずかしそうにしている恋菜と暑苦しそうにしている真院。
真院はあの時から変わらずだが、恋菜は入学したころを知っている人からすれば驚くほどの変化を遂げている。
眼鏡を外してコンタクトに乗り換えて、長く野暮ったかった髪をバッサリ切って肩まで整えて明るい印象を与える。何よりもどもったり俯く事が殆ど無くなり、外見だけでなく中身もイメチェンを成し遂げている。
高校一年生の時の夏休み明けに登校した際にこれまでの野暮ったさを捨てて別人になった彼女はすっかり注目の的になったものだった。
「ありがと、お姉ちゃん」
「ありがとうございます、凛院さん」
二人は素直にお礼を伝える。そして恋菜は気になっていた事を質問をする。
「そう言えば凛院は仕事大丈夫だったんですか?」
「いいのいいのオーナーに頼んだらオーケーが出たから、これでも営業成績はトップだしね」
凛院はすっかりASTから足を洗って今はアパレル業界に転身を遂げていた。
お喋り好きなのを活かしての接客、そして今では接客だけでなく辺りのエリアのいくつかを回って店舗ごとでの視察や指導を行うなど順調に出世している。
「高校卒業って言われてもなんか…実感ないです、こう…何と言ったらいいんですかね…大学に進学するからなんか実感わかなくて…」
恋菜は高校を卒業する事に悲しみを感じないわけでは無いのだが、涙を流して別れを惜しむほど感極まったりはしない。
小学校を卒業すれば中学校に移行する。中学校を卒業すれば高校に移行する。そして高校を卒業すれば大学に移行する。
親に養われることどもの身分であるという身分である事実はいまだに変わりない。
「私は大学進学じゃなくて就職したかったんだけどなー」
「ダメよ、大学に行く選択肢があるのに行かないなんて犯罪に等しいわ」
一方の真院は恋菜と違って親に養われる身分ではなく、自分の姉の収入を当てにして生活をしている。
そもそも就職以前にアルバイトすら彼女の姉はする事を許さなかった。自分の妹にお金の心配をさせるなど凛院のプライドが許さなかった。
既に妹が奨学金制度を利用しなくても大学卒業に十分な資金の当ては出来ている。
「何となくというか…二人は同じ大学に行くかなって思ってたけど、違う学校を選ぶなんてなー」
凛院はふと思った事を口にする。
仲の良い人と簡単に離れたくない、それが高校生であるなら進路選択という方法で意思表示を行うものだ。だが二人は大学も、そして文理選択も被らなかった。
「得意分野はどちらも違うし」
「別に学校が違うからって赤の他人になっちゃうわけじゃないですし」
「そうそう高校の三年間結局同じクラスにはならなかったし、これまでと大して変わらないよ」
凛院と恋菜はそれぞれ思った事を口にする。
二人のその意見は高校生になったばかりの頃には考えられないものだった。これまで人の関りに対してドライかつマイナス思考に捉えていたのだが、今はそんな簡単にこの関係性が無くならないと確信しているのだ。
そうあり続けたいと願うのならきっとそれはそうあり続けるはずだ。
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さようなら
「おい!」
「何ですか?騒々しい……」
部屋の扉をぶち破らんばかりの勢いで開けて入って来たブレンダーに対して咎めるような口調で窘めるのはエレン。
そして明らかに社長専用ですと言わんばかりのシックな雰囲気を持つ木造のデスクと、ふかふかのチェアに深く腰掛けているのはこの場の最上位に立つ存在であるアイザック・ウェストコット。
ここはDEMにおける日本での拠点の一つの施設であり、組織のトップとその右腕相手にこうやって面会可能な時点で、このくすんだ茶髪のブレンダーもまた相当上位の権限を持っている事にほかならない。
「『ドクター』が現れたって聞いた!現れたらすぐアタシに伝えろって言っただろ!?」
「さあ?どうでしたかね、少なくとも私は直接あなたに懇願されたことはありませんが?」
エレンは相手に対してそう言い放った。
実際の所、ブレンダーは自分の部下や他部署の人間に対してドクターの情報を得次第自分の所へ連絡するように言っていただけで、アイザックやエレンに直接お願いをしたわけでは無かった。
だからと言ってブレンダー・ラストという人間がそれを聞いて冷静になれる性格であろうはずがなかった。
彼女は右手をすっと掲げる。それは真っ黒なグローブに包まれているが、僅かにだがその動きにぎこちなさがある。
「五年前にあのヤローにやられた借りを利子マシマシで返してやんなきゃ気が済まねえんだよ」
それは前に虚華と対峙した際に灰となって消滅してしまった右手を補う義手だった。だがそれは顕現装置の応用によって限りなく健常者と同じような動作が出来るとはいえ、それでも負傷前と全く同じとはならない。
彼女からすれば傷がついてしまった事や不自由よりも、精霊ごときに不覚を取ってしまった事こそが許せないポイントなのだろう。
ここまでのやり取りを不気味なほど沈黙を保っていたウェストコットは、そこで沈黙を破った。
「いいだろう。君の求める情報を渡そう」
「アイク!」
それは相手の我儘を全面的に許しますと言ってしまうようなもので、それを通してしまっては上に立つ者の威厳が保たれないのを危惧したエレンは強い声で咎める。
しかし彼は手でエレンを制する。
だが彼の目的からすればあくまで資金源や情報収集の為に設立したに過ぎない企業内での地位や肩書などゴミくず同然に近いためか、ぞんざいな扱いを受けてもさほど心という水面が揺れることは無いのだ。
「君が欲しがっているのはこれだね?」
そう言ってウェストコットが杖の引き出しを開けて机の上に出したのは、一つにまとめられた紙、つまり何かしらの資料だった。
何かしらというのは厳密には正確な表現ではなく、虚華が五河士道と邂逅してから今に至るまでのDEMが把握できている範囲内での情報がひとまとまりにされているのだ。
「勿体ぶりやがって…」
ブレンダーは相手の机の前まで進むと資料を殴り取ってお礼もなしにその場から立ち去っていく。
「…………良かったのですかアイク?」
正直爆発寸前といった感じのエレン。
敬意も何もないただの野蛮人が彼相手に対等に口をきいているというその事実に耐え難い怒りがあるのだろう。
だがその沸騰した彼女の温度に対して、まるで対極の極寒のように冷めきった無表情で対するのはウェストコットだった。
「いいさ。性格に難があっても実力ある魔術師である事に変わりはない、口だけは立派な保身に走る者どもよりも彼女のことを気に入っていてね」
かつて彼は鳶一折紙が命令違反で解雇される寸前に助太刀に入ってASTの魔術師として復帰できるように手を回した事があった。
多少なりとも難があろうが、実力があれば使うのが流儀なのだ。
「彼女には我々にとって重要な情報は渡していない。真那と同じさ、舞台を有利に動かす起爆剤になればそれでよし、ならなければプランを練り直せばいいのさ」
例えその最後が使い捨てるようになったとしても。
結局、最終目的さえ達する事が出来ればその過程が近道だろうと遠回りになろうともどっちでもいいのだ。
大事なのは僅かずつでも前進している事、目的に近づいている事。
アイザック・ウェストコットはその腕力によってどんな状況からでも軌道修正をこなせてしまうそんな男なのだ。
◎
ブレンダー・ラストという少女は何一つとして不自由のない、それどころかあまりにも恵まれすぎていると言っても過言ではないほどに持っている少女だった。
艶やかな茶髪に誰が見ても目を奪われるほどの愛らしいの女の子。くりくりパッチリとした瞳に丸みのある愛らしい輪郭。それが彼女という存在だった。
彼女の生まれであるラスト家は幅広い分野に出資をする資産家であり、その家に生まれたブレンダーはまさにお嬢様で生まれながらの勝ち組というわけだ。
人生は順風満帆に見えた。
誰もが彼女の人生には光しかないと思っていたのだ。
そんなある日、彼女の家にスーツ姿の男性が大事そうにケースを抱えてやって来たのだ。
「ねえお母さま。あの人はだれ?」
「あれはお父様とちょっとお話に来た人よ」
娘からの質問に母は少しだけ言いにくそうにしながらも何とか説明をする。
やってきた男性は少しだけ後ろ暗さのあるDEMという組織からやってきた人間で、世界の中でも指折りの機密情報を扱っているためまだ幼子にはまだ触れさせたくなかったのだ。
なので母は話題を逸らす事にした。
「お庭で遊びましょうか、おやつも用意しているの」
「うん!」
子供とはげんきんなものであっさりと首を縦に振ってしまう。
親に手を繋がれたブレンダーは嬉しそうな笑みと共にその場から離れていく。
「難しいとはどういうことですか!」
「ですから言った通りに顕現装置をこれ以上流すのは難しいという事です」
「こちらが一体これまでにどれだけの出資をしてきたと思っているんだ!」
部屋一面に充満するのはそんな怒号だった。彼はラスト家の現当主であり、ブレンダーにとって父親にあたる人物だった。
彼は顕現装置というまさに神の御業ともいえるオーバーテクノロジーに心を奪われてしまった男だった。だからこそこれまでにDEMやその開発費に対して金に糸目をつけるようなことはしてこなかったし、それによって相応の富を得て来たのだ。
顕現装置を活用すれば荒廃した街を一晩で修理することが出来る。それによって得られる富はいったいどれほどのものになるだろう?考えるだけでも高揚が止まらないだろう。市場独占なんてスケールで話が留まる事は無いはずだ。
「先日ある国から軍事用の注文が大量に来まして、他国との輸出個体数の兼ね合いを見ましてこのような判断をしました」
相手はそんな風に淡々と話していくものだから、ラスト家当主の顔はみるみる赤くなっていく。
「……………………」
だがそこで少しだけ呼吸を整えて何とか冷静さを思い出す。
ここで短気を起こして強情になったところで現状が自分有利に働くことは無いし、最悪関係が切れてしまう事だってあるのだ。
世界中にDEMと関係を持ちたいと思っている人間や組織など星の数ほどあり、仮にラスト家がいなくても痒い程度で痛くはないのだろう。
そこまで考えていると沸騰した脳を何とか冷やす事に成功した。そして極力落ち着いているのが伝わる声音で話しかける。
「わざわざこうして使者を出したという事は提案や代案があるという事ですかな?」
「そうです、まさか手ぶらで大手スポンサーの所に来るほど我々は恩知らずではありませんよ」
DEMからの使者である男は持ってきてたケースを手に取った。
母娘の広い庭での穏やかなティータイム。
いつもと口当たりの違う初見のクッキーだったが、それは問題なく彼女の舌を喜ばせる。
(おいし…)
確かに楽しい時間であるのは間違いなのだがどこか心ここにあらず。
ブレンダーはふと邸宅の窓の一角に視線を向けてしまう。そこは先ほど彼女がちょっと胡散臭いと感じた男性がいるであろう部屋の窓だった。
「どうかしら?」
「おいしい!」
「よかった」
母親からのそんな質問に満面の笑みでそう返す。それはまるで心の中にある不安を払拭するためかのように見える。
そんな心情など予想しようもない母は嬉しそうな表情でポツリとそう言った。
そこでポツリと雨粒が落ちた。
「雨だー」
「あらら…お茶は中断ね…取りあえず家に入りましょうか」
「はーい!」
そんな言葉に笑顔で手を挙げながらブレンダーは答える。
そして母親のそんな一言で使用人たちはお茶用のセットを慌てて片付け始めた。
「うーっ…くすぐったい…」
「痛くないですかー?」
ブレンダーは使用人の女性(メイド)の一人に少しだけ濡れた髪を拭いてもらっている。
くすぐったいと言ってはいるが不快というわけでは無く、あくまで嬉しそうな表情はキープされている。
「タオルを片付けて来ますので少しだけ待っていてくださいね?」
「はいっ!」
メイドからの指示に手を挙げて嬉しそうに返事をする。
最初は言われた通りにその場で待っていたのだが、まだ齢一桁の子供が待ってくれというお願いに対してそのまま素直に待てるはずもない。
元気な返事に反してブレンダーは家の中を歩き始める。
『なるほど、次回はこちらを贔屓しくれると―』
『今後はこのような方面で―』
「んー?」
途轍もなく拾い自分の家の中を冒険者になったかのような気分で散策していると男性二人が話している声を拾う。
片方は彼女が常日頃から聞きなれている父親のものだが、もう片方には聞き覚えがない。だが予想はついていた、それは今日現れた父と面会をしているスーツ姿の男性だ。
その声に導かれるかのように商談をしている男二人のいる部屋まで歩いて行くブレンダー。
部屋の扉を開けると、薄暗かったが視界に入った自分の父親へと声をかける。
「お父様ー?」
「っブレンダー…どうしたのかな?」
「お外で遊んでたら雨降ってきたの」
「いつの間に…」
父は娘が現れた事に驚いたがすぐさま冷静に対応をする。だがあまりにも相手との交渉に集中していたためか雨が降っている事に気が付かず、それに驚いてしまう。
窓の外に気を取られていると、いつの間にかブレンダーは当主とDEMの交渉人の間にあるテーブルの上に置かれた機械の目の前にいた。
「これなーに?」
「ブレンダー!触っては……」
子供特有の興味津々さでその上に電球のようなものが付いているメタリックマシーンを触ろうとする。
それを見た父は慌てて静止しようとする。だが制止も間に合わずブレンダーはそれに触れてしまう。
すると彼女が触れたそれは突如光出して、雨雲によって薄暗くなっていた部屋を明るく照らす。
「まさか…」
「これは……」
当主は眩い輝きに閉じそうになる瞼を必死に開けながらもなんとか目の前で起きた事を整理しようとする。
DEMの社員もまた驚いていた。なんせまだ齢一桁の子供が顕現装置を無自覚とはいえ起動させたのだから。
「驚き…ました…理論上は触れただけで動かせる簡易機体だったのですが…まさか脳処理や頭部コネクタなしでここまで簡単に動かせるとは…お嬢さんは顕現装置を扱う才能に長けているのかもしれません」
◎
夫婦の間に重苦しい空気がただよう。
それもそのはずで、あの日から数日たった今日DEMから一つの提案が届いたのだ。
「顕現装置の優先的斡旋と引き換えに娘を魔術師にするために引き渡せと……」
「確かに顕現装置を高いレベルで使える素質を持つ人間は限られてはいる、ただまさかブレンダーがそうだとは……」
二人を悩ませているのは娘をDEMに連れていく事を条件に、これまで以上に機材や情報を優遇するという内容だった。
「まさかあなたこれを飲むのかしら…?」
「もし…もしもだ……」
妻のまさか…といった感じの反応に彼はキッパリと否定をせずに言葉繋げる。
「ブレンダーが魔術師として高いレベルまで行って…顕現装置のノウハウを持って帰ってくれれば…今以上にラスト家は繫栄する事が出来る…」
「……っ」
当主である彼が口にしたのは、あくまで一方的に利用されるのではなく一時的に服従するふりをするだけだというそんな内容だった。
それを聞いて彼女は息を呑んでしまう。つまり娘を差し出す事に対して積極的であるという事だ。
親としての良心がそんな事をするのは間違っていると吠えている。
だが同時にその目論見が功を奏した時、これまで資金的な補助を積極的に行っているにもかかわらず、相手からどこか軽んじて見られているのに憤慨していたためここで上下関係をひっくり返せるという欲が出てくる。
その欲望が頭を支配してしまった結果、二人はどうしようもなく判断を間違えた。
自分の子供に己の欲求や願望を背負わせてはいけないという当たり前の事に気が付かなかった。
ブレンダーは寂しそうな瞳で両親を見つめる。
先日告げられた親元から離れて特別な学校に入れるという話。どこかおかしいようなそんな気はしていたのだが、親が強硬に勧めてきたため首を縦に振ったのだ。
だがそれでも離れて暮らすのが寂しい事には変わりない。
「行ってきます……」
「ああ、頑張るんだぞ」
「頑張りなさい」
だが二人はその視線を無視して頑張るようにエールを送る。本心は娘のためではなく自分たちの利益を優先しているのにだ。
「では行きましょうか」
ブレンダーは黒服の男に連れられるまま一目で高級車と分かる車に乗って家から出て行った。
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べりーべりーのーさんきゅー
九十度横になってしまっている視線。
―どうしてこんなことになったんだろう?
ふとブレンダーの脳裏に過ぎってしまうのはそんな事だった。
「次は顕現装置の限界稼働時間の確認と起動時間に対する稼働効率の反比例性の確認を行います。まだ休憩の時間でありません」
研究員の男性から淡々と告げられるそんな機械的な内容の数々。地面に倒れこんでいる子供に語り掛けるべき言葉ではない。
この場所は顕現装置の特訓や実験を行っている施設の一つである。
そこではブレンダーに限らず老若男女様々な人間が、兵器用に限らず身体機能の補助や感覚器官の後付けなどを行うための機材を起動している。
ここにいる理由は千差万別だ。自分意志で未来を切り開くため、単純に金を稼ぐため、地位や名声を得るため、そして親に売られただけ子供がいる。
ブレンダーがここにいる理由は問うまでもないこと。
目の前の研究員の指示に従って何とか彼女は倒れている自分の体を起こす。
起こすために手を地面につけた時に僅かにだが指に力が入っており、それは何とか心の中で抑え込んでいる怒りや悲しみが漏れてしまっているかのようだった。
(くそくそくそくそくそ―)
そして何より俯いてこそいるため見えていないがそこにはまるで泥沼かのような濁った瞳。
するとその場に突如として現れたのはブロンドの長髪が特徴の美女。
「進捗の状況はどうなっていますか?」
「え、エレン執行部部長!何故ここに……」
ブレンダーを相手にしていた男は突然現れた彼女に突如として体を硬直させる。何故ここにいるのか本気で分からないのだろう。ただ分かるのは下手な返答をしようものなら即刻その命は刈り取られてしまうという事だ。
相手の怯えた反応にもエレンは不快そうなリアクションを取らない。世界一の実力者で血に濡れた道を進み続けてきた自分は、誰からにも畏怖されるべき別次元の存在である自覚がある為むしろそうでなく普通にフレンドリーに接してくる方が不快に感じるくらいなのだ。
「ええ、アイクから研究の進捗状況を直接見て確かめてくるように言われましてね。最近この研究施設の業績の伸びが良いですからそのノウハウが分かればわが社の更なる業績向上に役立ちますので」
「…え、ええ…なるほど、そういう事ですね…」
先ほどまでの冷徹に、そして淡々とブレンダーに接していたのが嘘のように怯えた瞳で接する男。
「それで何か研究結果の好調さにつながる直接的な要因等はありませんか?」
エレンは本気で調査する気など無いのか、手順を省略するためなのか相手に対してストレートに質問をする。
その質問を投げかけられた相手は一瞬だけブレンダーに視線を向けた後、すぐさま逸らして何を離したらいいのか苦慮したかのように顔をこわばらせる。
今この男の研究が捗っているのはひとえにブレンダーの優秀な能力のおかげが多分にあるのだ。そして本人もそれを自覚している。
だからこそもしそれを口にすれば重要な実験素体が別の人間に渡ってしまうかもしれない、自分の利益が減ってしまうというあまりにも矮小な考えを巡らせてしまったのだ。
だがそんな小物の考える事などお見通しなのか、一瞬だけ向けた視線の方向へとエレンもまた視線を向ける。
「あの子供ですか?」
そう言いながら彼女は俯いたまま直立しているブレンダーの元へと足を向ける。そして相手の顔を見るために彼女自らわざわざ腰を折って見つめる。
「…………なるほど、興味深いですね」
エレンは相手の事を一言でそうまとめた。
彼女の視界に飛び込んできたのは、一見無表情にこそ見えたが目元はひく付き、口元は怒りでぴくついているそんな女の子。堪えていてもまるで表面張力を脱してコップから溢れる水かのように隠しきれない怒りを滲ませていたのだ。
「この研究施設の研究状況が良好な理由は把握出来ましたので帰ります」
そう言ってエレンはその場から身をひるがえしていく。その際に顔を僅かにだがブレンダーの元へと向ける、そこには何やら含み気な笑みをたたえていた。
ブレンダーは何いったい面白いのか分からなかった。
◎
「やあ、呼びつけてしまって悪かったね」
「…………」
ブレンダーは目の前の椅子に座っている若干くすんだ白髪の男からあまりにもフレンドリーに話しかけられたものだから、結果としてここで何を言い返すのか分からなくなってしまい黙る事しか出来なかった。
「ブレンダー・ラスト、アイクを前にその態度は―」
「いいさ、挨拶もなしに呼びつけて畏まれというのも難儀な話さ」
エレンからすれば無視していると取れなくもないため窘めようとしたのだが、ウェストコット自身も崇敬の念を抱いて欲しいなどど考え要るわけでは無いため逆に窘める結果に。
彼からすれば自分に服従するのかしないのかは関係ないのだ。かつての同志かその他の大勢という括りで分けているに過ぎない。目の前の少女に興味こそ湧いているが、現状はその他大勢という枠から抜け出ているわけでは無い。
「君の事は色々と調べさせた。何でも君には顕現装置の扱う才覚を持っていたからDEMに連れてこられた」
「…………」
「そして君の才能を無駄にしない為に両親が強く背中を押したと」
「っ……」
これまで無表情で淡々と告げる。
ブレンダーは両親という単語には僅かに反応したが基本的に告げられた情報に新鮮味のあるものは無かったため、大きなリアクションは取らなかった。
「今告げた事に大きな表面上齟齬はない。だけどまだ裏に隠れされた真実が残っている」
「し、んじつ…?」
だが次に告げられたウェストコットの言葉に、彼女は何か不穏な空気ともいえるものが覇だをなめるのを感じて無視できなものになっていく。
「君はね、売られたのさ両親に」
「売られた…?」
売られたと言われても何を意味しているのか分からない。
「君のご両親はDEMに多額の金を出資するスポンサーでね。けれどそのポジションに満足できずもっと深い繋がりを作るために君を売ったって話だね」
「う、そ」
「本当」
「…………」
突如として現れた胡散臭い男の言う事など一笑に付して然るべきであるのだが、何故か告げられた情報すべてが現実との齟齬が無い事が理解できてしまった。
それが自覚できてしまうと胸の中に蟠っていた、頑張って蓋をしていたぐずぐずした感情が増幅したうえで溢れだしてしまいそうだった。
(ア、あ…?…何なんだ…私ってナンなんダ……)
まだ自分の両親が娘の事を思ってレールをひいたのであれば我慢も出来たのかもしれない、だが己の利益の為に自分を売ったのだとだとするならこの虚しさをどうやって発散すればいいのだろうか?
「自分の気持ちをそこまで偽る必要性はない」
「偽る……」
「決していい子ちゃんである必要性はない」
彼はブレンダーに優しく諭すように言う。
「心の中にある本心を自由に解き放てばいい。DEMは全力を持ってしてそれを手伝ってあげよう」
もう戻れない。
何も描かれていない真っ白なキャンパスを筆によって一度汚してしまえば戻すことは出来ない。
例えその上から白い絵の具で塗りつぶしても全く同じには戻れない。
◎
「よく来ましたね」
「は、はいっ。それでどのようなご用件でしょうか…」
公式ではウェストコットの秘書という扱いになっているエレンは社長室へとやってきた、ブレンダーを相手していた研究員を出迎えた。
一方の相手は怯えて舌が回らないようだった。
噂では名指しでその部屋に呼び出された人間は無事に帰ってくることは無いのだとか。実際にそんな事はあるはずもないのだが。
「あなたをここに呼んだのはある人物が用があるからです」
「まさか社長が…」
「そうですね…あながち間違いではありませんが細部は微妙に違いますかね…」
「いったい何が……」
相手は本当に何が何やらといったリアクションを取る。社長室に呼ばれたのにその本人はこの場所におらず、では誰が何のために呼び出したのかその全容が掴めないのだ。
ダン!
突如として発砲音が部屋の中に炸裂する。
「グッ…あっ…?」
火薬のにおいが充満していると思ったら彼のどてっ腹に風穴が開いてしまい、そこから熱い赤が流れ落ちていく。
彼が痛みによって膝を突き視線が地面にしか向かなくなっていると二つの足音が聞こえてくる。
「見事に肝臓を一撃で躊躇いなく撃ち抜いている。初めて拳銃と握ったとは思えない腕前だ」
足音の主の一人はウェストコットだった。彼は拍手をしながら引き金を引いた人物を賞賛していた。
「ああ、こんなもんなんだ。人を撃つなんてこんなもんか」
凶弾を放ったのはブレンダーだった。
それに気が付いた男は腹の熱さを忘れて、今度は頭が熱くなってしまう。何故下民であるブレンダーが自分向けて銃口を向けるなどという蛮行を犯すか。
「ぶ、レンダー…お前…何を……」
「意外と即死ってしないんだね。映画だと結構ヒットマンが一撃で殺したりするけどフィクションか。てか結構話せるって人間の生命力ってのは黒光りに似ててしぶといんだなァ……」
目の前で流血して瀕死の男性がいるにもかかわらず何とも感じていないかのようにブレンダーは振舞う。男の瞳には少し前まで逆らう事すら出来なかった少女の姿は無くなっていた。
「拳銃って意外と反動があるんだね。よくアニメとかで簡単に片手撃ちしてるのを見るけどよくあんなに使いこなせるね」
まだ手が反動で痛むのか手に息を吹きかけながらそう言う。
「…いったい…なぜ……」
「目の前にいる彼女の要望はあなたへの制裁との事なので」
エレンはいったい何が起きているのか分かっていない男に淡々と説明をする。
「しゃちょーから私が好きなようにしていいって言われて、取りあえずムカついてたあなたを殺したいってお願いしたらこんな舞台を用意してもらったんだ」
どこか嬉しそうな口調でブレンダーは話す。そして銃口を再び男へと向ける。
それに気が付くと痛みで混迷している意識の中でも何とか口を懇願の形にする。
「まっ…たすっ…けっ……」
「さようなら」
そして銃弾は男の脳天に吸い込まれていった。
◎
真っ赤な業火によって包まれているラスト家の本邸。それを起こした張本人はまさにその業火の中に鎮座していた。
「ブレンダー…すまなかった…だから……」
「謝罪とかべりーべりーのーさんきゅーだし」
ラスト家の当主であり、ブレンダーの父親である男は手を地面につけて必死に命乞いをしていた。彼の隣にはすでに口を開かぬ亡骸となってしまっている妻がいた、ここで判断を誤ってしまえば同じ道を辿る事は間違いなかった。
今のブレンダーは灰色の鎧を纏っていた。
彼女がもし仮に普通の人間であったのなら、まとうそれの重さのせいで動くことすら出来ないだろう。
だがDEMのもとで血反吐を吐くほど特訓して来た彼女からすれば、大重量である鎧もまるで紙でもまとっているかのように重さを感じない。
「おとーたまもすぐにおかーたまの所に送ってあげるから心配しないで?二人は仲良しだもんねぇ?」
「ち、違うんだ……」
娘の仲良しという単語が何を示しているのか気が付いて、父は震えながらなんとか口を開く。
仲良しというのはきっと自分を売る事に賛同した事を指している。
「私達がしてしまった事は謝る!どれだけ時間がかかっても償う!だから―」
だがブレンダーの握っているレーザーブレードがあっけなく己の父親の首を刎ねた。そしてつまらなそうな表情で言い放った。
「だから謝罪とかべりーべりーのーさんきゅーなんだって」
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本命が来る
「よー久しぶりだなぁ…御守恋菜……」
ブレンダー・ラスト、彼女はかつて虚華と恋菜の前に立ちはだかった存在。
だが名前を呼ばれた当の本人は目の前にいる相手が誰なのか、そして何故自分の名前を知っているのか、そもそも現在進行形で起きているデパート強襲、あまりにも疑問に思えるタスクが多すぎて既に脳内はオーバーヒート寸前だった。
「あ、あなたは……?」
「聞いてはいたが本当に覚えてねぇとはな」
ただただ疑問符を浮かべる事しか出来ない相手を見てブレンダーは少しだけ失望したようだったが、事前情報として頭に入れていたのか癇癪を上げるようなことはしない。
「まあいい、テメエを使って釣り出せればそれでよし、出来なきゃそれまでだ」
彼女はただただ自分の欲望を満たすために動くのみだった。その過程で周りがどうなろうがそんな事は些細なことでしかないのだ。
「ブレンダー・ラスト!あなた何をしているのよ!?」
勝手に自分の中で話を成立させているブレンダーに果敢にも話しかけたのは呆然とする妹の肩を抱いている凛院だった。
彼女は知っている。かつてあくまでも一般人でしかない恋菜を人質に取って暴れまわったことを、そしてそんな事は二度とさせてはいけないと。
今の彼女は顕現装置の鎧を持たないただの一般人でしかなく、声をあげたところで何一つとして状況を好転させる札を持っていない。だとしても立ちはだかった。
だがブレンダーは眉をひそめて訝しげな表情を作る。
「はん?誰だオマエ?」
「ッ…!」
だがその言葉を掛けられた当の本人は鳴村凛院という人物を覚えてはいなかったのだ。
その事実に凛院は頭に血が上り過ぎて沸騰しそうになる。自分の事など覚える価値一つない無価値だと切り捨てられたかのようで。
『士道!今すぐにその人達を連れて何とか所定のポイントまで来て!フラクシナスで拾うわ!』
琴里はすぐさま兄に指示を出す。とにかくその場から逃げなければいけないし、狙いが恋菜であるなら、彼女を連れて逃げればこの場から注意を逸らせて被害を減らすことが出来るのではと思ったのだ。
「わ、わかった!」
すぐさまその意図を察した士道は行動に移る。恋菜の手を取ると鳴村姉妹に向かって叫ぶ。
「ついてきてください!」
そう言って敵とは逆方向へと走り始める。余りに鬼気迫る勢いで指示を出されたため姉妹もまた反射的に従ってしまう。
「あー…アイツか…エレンの言ってた五河士道ってのは…」
ブレンダーは思い出したかのようにポツリとそう言った。
資料や人伝から聞いていた精霊の力を封印することが出来る特殊能力を持った少年。彼女からすればそこまで興味をそそられる相手では無いためそこまで気にかけてはいなかった。
彼女の目的は御守恋菜とそれに繋がっているはずの虚華だけで、その周りの人間などわざわざ覚えたり気にかけるべき存在ではなかったため視界に入っていなかったのだ。
今回はエレンが事前にそういう少年がいることを言ってきたために記憶に残っていただけだった。
そして何よりラタトスクという精霊を保護するために動いている組織、つまりブレンダーを妨害する可能性の高い敵性組織がいることも聞いている。
(気に入らねえんだよ…どいつもこいつも…誰かの為とか偽善ぶるんじゃねえ…体裁良く周りに見せようとすんじゃねえ…)
相手に対して不快指数を高める要素を見つけて苛立つが、現状一番の目的である恋菜の確保を始めるために動き始める。
「あなたっ、あれを見ても驚かないのね!?」
妹の手を引きながら走る姉の凛院は士道にそう話しかける。
だが素直に自分の身分や裏にある組織の事を口に出来るはずもない。
「色々とあるんです!」
「まさかDEMじゃないでしょうね!?」
「そんなはずないでしょう!?」
凛院がまさか…と言った感じでそう問いかけてくるため、士道は侵害だ!といった感じで返す。あのような組織と一緒くたにされてはたまったものではない。
そんなやり取りをしていると一行の目の前にフロアの端っこにある非常用を兼任している階段が現れる。
『まずはその階段で降りて頂戴』
「あの階段を降りましょう!」
士道は琴里から言われた指示をそのままオウム返しする。
だが下に降りようとするとそこで横から複数の光線が発射されて階段が消し飛ばされてしまう。
「オイオイオイぃ…まだまだ追っかけっこは続行だぜぇ?」
逃げ道を確実に塞いでいくのは当然ブレンダーだった。その片手にはレーザーを放ったと思われる砲身を持っていた。
「上に行くのよ!」
既に後戻りすることは出来ない、後退する道はブレンダーによって塞がれてしまっている。だとすれば取れる選択肢は階段を上るしかない。
凛院はそこまで判断して上階に上がるように指示を出す。逃げ道が無い以上はその指示を肯定する他ない。
まるで誘導されるかのようにじわじわと屋上へと追い込まれていく。
◎
「屋上……」
士道はポツリとそう言った。相手に誘導されているのは分かっていたがそれでも口にせざるを得なかった。
外の屋上には小さい観覧車やジェットコースターが設置されており、その他に売店やゲームセンターなどが限られたスペースに敷き詰められている。
デパート内にいる時は気が付かなかったが、既に外には空間震警報が鳴り響いていた。恐らくだがその理由は誰にもブレンダーの邪魔をさせない事だろう。
「琴里…フラクシナスがここまで来るのにあと何分かかるんだ!?」
『五分は待って頂戴!バンダースナッチ達の妨害を受けてるのよ!!』
相手からの質問に琴里は焦った声で返事をする。
この手際の良さ、どうやらDEMはブレンダーを全面バックアップする姿勢のようだった。
「さてさて……」
焦っている一行をいつの間にか屋上の施設の屋根にのって見下ろしているのはブレンダーだった。
「な、何なのよっ!訳が分からないよ……」
あまりにも非現実的かつ理不尽なことが起こり過ぎて真院はとうとうヒステリックを起こしてしまう。
だがそれも仕方のない事なのかもしれない。
これまで親が空間震によって亡くなったという過去こそあるが、基本的に世界の裏側の事など何も知らない一般人でしかない彼女の脳が受け止めるにはあまりに多くの事が起こり過ぎている。
「ったくよ。好きなものは取っておくたちじゃねえんだよなぁ…いらねえ回り道させやがって……」
すると心の底からそう思っているのか全く読めないトーンでブレンダーは言う。そしてその場から降りて士道たちと同じ目線に立つ。
士道は虚華や神無月の話で聞いていた悪辣非道としか言いようのないブレンダーの人物像に反して、実際に彼の瞳というフィルター越しに見た彼女の顔は思っていた以上に整った顔をしている事に気が付いた。だがその端正な顔立ちも相手のその歪んでしまった性格が反映されているのか口元や目元に歪みが生まれてしまっている。
先ほどからずっと怯えて何も口を開くことが出来ずに震えている恋菜の盾になるように、ブレンダーとの間に体を滑り込ませる。
そんな男らしい光景を見たブレンダーは一つ口笛を吹く。
それは単純に実力差を理解していない相手を嘲笑う半分と自分の両親とは違う誰かの為に動くその心意気を称賛もしている。
「こっちは五河士道には興味ねぇんだよな。エレンやウェストコットはやたら敵対視してたが別に私はお前を狙ってねーんだよ」
本来の彼女であれば一笑に付して切り捨ててしまうところだが、何か汚してはいけない尊いものを見たのかその選択肢を取らずに引く選択肢を与えた。
だが彼はより一層相手を目付ける。
「だったら…やっぱり引けないんだよ…」
「ふうん?まあそう言うの嫌いじゃねえよ?そう言うムーブは物語の主人公なら百点満点だと思うぜ?」
ブレンダーは決して士道のその行動自体を愚かであるとは言わなかった。彼女はレーザーブレードを構えてそのまま勢いよく飛び出してそれを振り下ろさんとする。
その時士道の視界はまるでスローモーションのように感じた。それはまさに死の直前に見えるという、体感覚の延長というやつだろうか。
仮に大怪我を負ったとしてもイフリートの力によって、瀕死の重傷だとしても復活する事は可能だった。だが過去に卓越した顕現装置の力をその身に受けた際に回復の力が緩慢で死にかけた事があった。
目の前にいるブレンダーの力量がどれほどのものであるのか未知数な部分があるが、もしそれが即死間違いなしの一撃であるのなら、さしもの回復能力も通用しない可能性があった。
「だっ……」
その時目の前で起きるであろう惨劇を予感してこれまで恐ろしくて動けなかった状態から脱した。
「ダメーッ!!!!」
彼女の体が淡く光り出す。
「オマエ…それはっ…!」
士道を切り裂くはずだったブレンダーの凶刃は相手を切り裂くことは無かった。刃は虚華の持つメスによって受け止められていた。
その現象を前にしてブレンダーは驚愕と憤慨の混じった表情を作る。何故お前がその力を使っているのかと。
「恋菜…?」
「恋菜ちゃん…何でドクターの…」
鳴村姉妹も目の前で起こった信じがたい現象に呆然といった表情になる。
精霊の存在を知らない真院は突如として恋菜がメスを生み出して訳も分からないままに受け止めるという異常な光景として受け止められない。
だが姉の凛院は違う、虚華の権能を知っている彼女は、ただの人間であるはずの恋菜が何故か精霊の力を扱えているという予想外の光景にただ呆然とする。
一方のブレンダーは僅かばかり呆然としていたが、目の前に現れたそれを認めるとすぐさま距離を取る。
かつて彼女はそのメスに掠っただけで右腕を失うという損失をしたのだ。いまだに義手を見るたびに幻痛が起こり、また寝ていてもそれによって飛び起きることもあるくらいにトラウマとなってしまっているのだ。
彼女は考えた、そのトラウマを乗り越えるには虚華という精霊を自分の手によって排除しなければいけないと。
「何だオマエッ…記憶喪失ってのは嘘か…?…それともあの野郎がいやがんのか…」
ブレンダーはかつて恋菜を攫った際に間違いなく人間である事を確認していたため、精霊の力を一端とはいえ扱った事実に混乱してしまう。
「いったいこれはどういう事?」
誰もが次の一手に何を持って行くのが正しいのか苦慮していると、止まった時間を動かす起爆剤が現れる。
その相手は士道とブレンダー、そして最後に恋菜に視線を向けてから口を開いた。
「何であなたがいるの…なんで恋菜を連れ出したの…士道……」
怒りや悲哀、困惑すら一周回ってもう無になってしまっているのは虚華だった。
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再会
ブレンダーはその声を忘れることは無かった、右腕を失ってからの五年間ずっと記憶と符合するその声を聞いたら迷いなく飛び掛かれるように常時シュミレーションを行ってきたのだ。
そして今、その長年の研鑽の効果を発揮する機会に恵まれることになる。
「出やがったなぁ…精霊ッ!!」
彼女は迷いなく虚華に向かって飛び込んでいく。
「邪魔」
寒々しさすら感じる相手の雰囲気。
手元に生み出したメスによってレーザーブレードの一撃を受け止める。過去にその二つが鍔ぜりあった際にはブレードの方が溶けてしまい負けてしまった。
「なにっ」
「もう既に対策済みだボケ」
だが今回はメスによる触れた対象の現実改編能力が作動せずに、純粋な馬力勝負に持ち込まれてしまう。
その事実に虚華は驚きを顔に貼り付け、ブレンダーにはしてやったりといった酷薄な笑みが浮かぶ。
「ぐふっ!?」
僅かばかり時間二つの武器は鍔ぜりあうのだがその均衡が長く続くことは無く、虚華は何故か後方に吹き飛ばされてしまう。
そして吹き飛ばされた体は施設の一つに突き刺さってしまう。
「あれは……」
この中で唯一顕現装置に詳しいであろう凛院はブレンダーが何を行ったのかにおおよその当たりを付けていた。
するとそこで先程聖霊を吹き飛ばした施設の残骸から声が聞こえてくる。
「……なるほど、サイコキネシス…念力の類か…それでメスを無力化したわけか…」
「おーおーザッツライト!」
僅かに痛む腹をさすりながらも立ち上がって来る相手に対して、楽しそうに肯定を示すブレンダー。
単純な話で、メスの改編能力は触れた相手にしか効果を得ないのであれば直接触れなければいいというシンプルな回答を見出したというだけだった。
そもそも現実ではありえない物理法則を生み出す事こそが顕現装置の存在する意義の一つであるため、触れずに何かを起こすなどおちゃのこさいさいだった。
だがそれだけで精霊の力を減衰、または無効化させるのは容易ではないため、それだけブレンダー・ラストという魔術師の力量が高い事の証左なのだが。
そのやり取りを遠目から眺める事しか出来ない凛院は旋律に近いものを胸に浮かべている。
(精霊に対して単純に腕力で対抗出来るなんて……)
ただ念動力を鍛えるだけでは精霊の単純な腕力に押しつぶされてしまう。だが目の前の魔術師は武器同士の鍔迫り合いで競り負けなかったのだ。
「……」
「オイオイ…もうそれは…効かねえんだよ!」
ここで虚華は再びメスを取り出す。
また再びバカの一つ覚えのように切りつけようとしていると感じたブレンダーは、苛立ちのままにレーザーブレードを構えて一直線に相手の元へと飛び込んでいく。
「同じ手はくわない」
自分の元へと飛び込んでいく相手を見ながら彼女はそう言った。そして手に持っていたメスを地面へと投げつける。
すると突き刺さった先から白い煙が生まれて辺り一体を埋め尽くす。
「げほっ…テメェ!逃げる気かぁ!?」
相手の狙いに気がついたブレンダーはそう叫びながら強引に剣を振り回したが、何かに当たった手応えは無かった。
◎
「振り切れたか…」
先ほどまで戦闘があったデパートを上から見下ろす事が出来る、目と鼻の先の距離のビルの屋上に虚華はいた。
『……』
そして彼女の側には士道に鳴村姉妹、そして恋菜がいる。
虚華はあの場にいた全員を連れて逃げたのだ。
皆は一様に何かを言いたげな表情をしていたが、口が考えていることに追いついていなかった。
「なぁ…虚―」
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫、そこにいる彼に安全な場所に誘導してもらえばいい。彼はそういうツテを持ってるから」
最初に口を開いたのは士道だったが、虚華はそれを上から塗りつぶすかのように彼を方には視線を向けずに言葉を発した。
それを聞いた真院は小さな声で隣にいる恋菜に話しかける。
「そうなの?」
「さ、さぁ…?」
「えぇー…」
友人からの問いかけにも恋菜は不安そうな返事しか出来ない。
そもそも彼女は士道の事を令音という共通の知り合い越しの、田舎からやってきた少年としか認識していない為、先ほどのブレンダーの様な超常的存在に対処出来ると言われても何が何やらだ。
するとそんな二人のやり取りを見ていた虚華は優しげにも見え、そして悲しそうとも取れる表情でポツリと呟いた。
「そうか…良かった…」
―ちゃんと恋菜の事を理解してくれる友達が出来て
一瞬様々な恋菜との思い出がフラッシュバックしていた虚華だが、その空白時間に捩じ込むかのように相手の目の前に現れたのは今の恋菜だった。
「ッ」
「もしかして…私の事を知ってる…?」
彼女は驚いて口をぱくぱくさせている相手を見ながら気になっていた質問をする。
それは五年前からポカリと穴の空いてしまった何かだった。何故か満たされることのない空虚な感情を常に頭の片隅で意識しながら生きてきた。
もしかしたら目の前にいる相手はそれが何なのかを知っているのではないかと何故か考えてしまった。
「えっ、あー…うぅ…」
だが一方の虚華はそれどころではなかった。ここまで一度も他者に見せたことが無いほどに慌てていた。
今の恋菜は昔のザ・地味といった風貌ではなく。あの頃よりも身長は伸びて、眼鏡を外し、髪はバッサリ短くして明るい印象を与える。
己の天使の力を分けた相手だからこそ、雰囲気だけで恋菜と判断出来たのだが、そうでなければすぐには分からなかっただろう。
いきなり別人かと思ってしまうほど垢抜けた相手を前に、さしもの彼女も中々冷静を保つ事が出来ないようだった。
事実、顔を真っ赤にして視線を逸らし泳がすことしか出来ていない。
『士道!もうすぐフラクシナスが到着するわ!…それにしても……』
琴里は自分の兄に回収の為に今いる場所に着くことを報告する。そしてモニター越しに今現在の状況を見て興味深そうに呟く。
『士道と一緒に居る時よりも圧倒的に虚華の計測データが乱れてるわね……』
「うぐっ」
事実をストレートに突かれて彼は小さくだが唸ってしまう。自分の時はそこまで相手はドキドキしていなかったのかと。
モニターに映るデータに動揺が見られるという事は、手段の一つである御守恋菜を先んじて懐柔して虚華を説得してもらう作戦はやはり効果的であったという事だった。
「そうだ」
ここまで恋菜と真正面から対峙して動揺を見せていたが、ここで一定の落ち着きを取り戻した。
そして彼女はゆっくりと確実な口調で話し始める。
「私の名前は虚華、まだ恋菜が眼鏡を掛けていて髪も長かった時に友達だった」
「友達…何で…昔の私の事を……」
その事実に驚愕を表情に貼り付けるのだが、そこで恋菜の頭上に光るものが現れる。
「あれって……」
この場でそれにいち早く反応したのは凛院だった。それはかつて彼女が心を折られてAST、ひいては魔術師である事を止めてしまった原因となった精霊の主武装。
「なにそれ……」
「め、メス…?」
真院はもう意味不明な現象のオンパレードで語彙力が消滅。
恋菜は漫画やドラマの中でしか見た事のない医療器具の名前を口にする。だがそれが何故ここで光り輝きながら宙に浮いているのかは正確に理解出来ていない。
「なん……」
メスが光り輝くと、恋菜からふと力が抜けてその場に倒れようとする。
「危ない!」
「恋菜っ!」
だが地面に激突する前に凛院が慌ててその体を支える。そして一泊遅れて真院も倒れこむ友人の隣に膝を突いて寄り添う。
倒れこんでしまった彼女の体には何一つ問題はない、ただし目を覚ましたら全ての記憶を封じ込まれてしまっているという致命的なエラーを抱えているのだが。
「虚華…それは……」
「別に…士道を心の底から嫌悪したわけじゃないけど…私を何とかしたいのが根底にあるだろうから…でもね…恋菜を巻き込もうとしたのは傷ついちゃうのが嫌だから…私がそれを一番嫌ってるのを想像できなかったわけじゃないよね…?」
士道が何とか言葉を絞り出そうとしたのだが、やはり虚華は上からそれを被せるように言葉を重ねてくる。
決して怒り心頭で食って掛かっているわけでは無い。自分の事を考えてあれこれ動いてくれた結果である事に対して一定の理解は示している。
だがそのやり方は彼女の心が全面的に了承できるものではない。
それは彼女が欲しく欲しくてやまない世界線であり、血の涙を流しながらも決別を告げたものであるのだから。
彼女は誰よりも精霊である自分は人間という種族を傷つける以外に存在意義が無い事を知っているのだ。誰よりも人との関りを渇望しているにも関わらずにだ。
だが士道としてもそんな風に絶望的な現実をただ受け入れる事しか出来ない、自分の存在価値をマイナスに捉える事しか出来ない事実を受け入れさせるなど到底容認など出来ないのだ。
「そんな事は無い!精霊だからって人と一緒に―」
だがそこで士道たちは光に包まれて、その体は浮遊感に包まれ始める。それはフラクシナスのテレポート技術であり、それを使って四人を安全な戦艦内へと連れて行こうとしているのだ。
だが精霊である虚華は纏っている霊装の力なのか、テレポートの力を自分に対する敵対的行為として判別しているのかその力を弾いていた。
「気にする必要はない。彼女は私がキッチリとケジメはつける」
宙に浮いて戦艦に収容されている相手にそう言って、目下のデパートで暴れているブレンダーに視線を向ける。その表情を穏やかさや優しさを殴り捨てた、敵は必ず倒すという確固たる氷の意思があった。
◎
「よぉ…逃げたんじゃねえんだな…これ以上隠れるってんならこの辺一帯のビルを根こそぎ破壊して炙り出そうとしてたんだがなぁ」
「ここで恋菜を襲う災いの芽は摘んでおこうと思ってな。これは五年前の私の甘さが残してしまった遺恨だ」
虚華は相手の挑発にも一切乗る気は無く、虚華はただ淡々とこれから起きる現実を予告する。
五年前に恋菜を人質にとった一件で、彼女は相手の右腕を喪失させた。だがやろうと思えばあの時に相手の命を奪う事は可能だった。だがそれをしなかったのは、それをしてしまえばきっと恋菜が悲しむだろうと思ったからだ。
だが今の彼女を抑えてくれる心の防波堤は存在しない。
一方で挑発したはずが逆に挑発し返されたことで、沸点の低いブレンダーはすぐさま熱くなってしまう。
「てめっ…舐めるなぁっ!!」
レーザーブレードを構えてそのまま一直線に飛び込んでいく。
その攻撃を相手は受けるのではなく紙一重のタイミングでかわしていく。先ほどの僅かな手合いで武装のレベルを把握して、魔術師として現在の力量をしっかりとアップデートを完了させていた。
「チッ…学習済みってわけかよ…」
一度痛い目を見たためか虚華は真正面から斬りあうような事はしない。
五年もかけて技量を上げて、新たな武装を用意したというのに既に相手はそれに合わせてきていた。
とはいえ新たに得た力である念力の力は、相手から反撃ではなく回避という選択を強制させる程度には効果を発揮させていた。お互いに必殺の選択肢があれば後は戦闘経験と日ごろの特訓の成果がモノを言う事になる。
まだまだブレンダーが勝てない、敗北が確定したというわけでは無い。メスの直撃さえ受けなければ致命傷にはならないのだ。
「どうやら勘違いしているようだな」
「はぁ?」
虚華からいきなり告げられた一言に怪訝そうな表情になるブレンダー。
バカにしているわけでもなく、ただ淡々と事実だけを述べているだけだった。
「メスを防げばいつかは私に勝てると思っている事だ」
勘違いといった言葉を補足するようにメスを生み出しながら彼女は言った。
相手の行動を見て鼻で笑いながらブレンダーは言う。
「メスはもう効かねえよ」
「かもしれないな」
相手のその言葉に乗っかることなく言われた事を素直に肯定する。事実として防いだため、ムキになって何度も挑むのは賢い選択肢ではないのだろう。
まるで今のままでは勝てないと白状しているかのようでブレンダーは気味の悪そうな顔をする。
「何だよ気持ちわりぃな…」
「いいか、この力は相手を切りつけるだけにしか使えないわけじゃない。こういう使い方もある」
右手に持ったメスを何も持っていない左の掌に添える。そして一切の躊躇い傷を残さない勢いで振りぬく。
彼女の瞳の白い部分がまるで侵食されているかのように黒く染まっていく。
「覚悟は出来ているか?」
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敗北から学べる事もある
「無事でよかったわ」
四人が収容されたフラクシナス内部で彼らを待ち構えていたのは琴里のその一言だった。
「凄い…ASTよりも設備が充実してる…」
「なにこれ…漫画みたい…」
何時もここに入り浸っている士道は驚かないが、鳴村姉妹は恋菜を介抱しながらも何が何やらと言ったリアクションを取っている。
「ありがとう琴里―」
感謝の言葉を述べるのだが、ふと士道は周りを見渡すとある人物だけがここにいない事に気がついた。
「―じゃなくて虚華はここにいないのか!?」
「すまないシン。彼女は霊装の力でテレポートがキャンセルされてしまって連れてこれなかった」
彼の問いかけに対して申し訳なさそうに答えたのは令音だった。
いくらフラクシナスに搭載されている顕現装置をもってしても精霊の持つ防御力を貫通する現象を起こすのは至難の業だったのだ。
いまだに目の前の圧倒される光景を前に凛院が抜け出せていない中、彼女に声をかけたのは神無月だった。
「久しぶりです鳴村さん」
「え…へんたい…隊長!?」
「今変態と言いそうに…いえ言いましたね…」
彼女は突然現れた元上司を前についうっかり心の中で言っていた事が漏れてしまう。
指揮官としての能力、魔術師としての力量の高さは直属の部下であったからこそ誰よりも彼女は理解できていた。
そして同時に知ってもいた、話がまともに通じない変態が自分の上に立っているという事実に。
(結構カッコイイ…)
一方で目の前の男の性格など知らない真院はそこそこ顔がイケている大人な男性という印象を受けた。本当に外ズラは文句なしなのだ。
そんなやり取りをしていると士道はモニターの一つに写っている妹(自称)が戦っている姿を拾う。
「あれは…真那……」
「ええ、真那はあそこでバンダースナッチ達を足止めしてくれてるわ」
琴里は映像の通りの説明をする。今フラクシナスが到着できたのはあそこで足止めをしてくれている彼女のおかげなのだ。
映像越しに映る映像は決して真那が不利な風には見えないのだが、ある程度揃えられたバンダースナッチ達が距離を取りながら連携して倒す事が困難なようで足止めを食らっていた。
「考えられるのは真那を足止めしその間に我々か虚華を討つ事だが…それならばエレンやアルテミシアが出てこない理由が分からないな…」
令音は他のモニターに映っている虚華とブレンダーの戦いを見ながら言う。
もしここでフラクシナスやラタトスクに大打撃を与えたいのならば出てこないのはおかしいし、精霊の命を狙うのであれば絶好の機会なのにだ。
実際のところはブレンダー自身が精霊を一対一で倒してこそと思っているのと、そもそもDEMの上層部はいう事を聞かない都合の悪い存在である彼女をここで使い捨てられればいいと思っているのだ。
「まさか十香たちを…」
「それはないわ、皆は地上にあるラタトスクの基地で保護しているもの」
士道の懸念だったが琴里はあっさり精霊たちの安全を保障した。そして言葉を繋げる。
「現状の問題はあの二人の戦いを止めさせることなんだけど…」
モニターに映っているのは虚華へとブレンダーが無茶苦茶に斬りかかっているという状況だった。
現状はどちらが優勢かというわけではないものの、この状況がいつまで続くか分からないため今すぐにでも手をうたなければいけない。
ここでマイクが戦場の音声を拾う。
『いいか、この力は相手を切りつけるだけにしか使えないわけじゃない。こういう使い方もある』
するとメスで自分自身の掌を切り裂いて呟く。
『覚悟は出来ているか?』
◎
戦場に沈黙が降りていた。
空中に罠を設置するような特殊能力を相手が持っていない事など重々承知しているのだが、それでも下手に動けばやられてしまうかもしれないという見えないプレッシャーによってブレンダーは隙なく構える事しか出来ない。
これまで切り裂いた対象の存在を自由自在に改編するという当たれば一撃必殺足りうる攻撃を起点に常時優勢に立ち回ってきた虚華。
ブレンダーはあまりに大きなその技のせいで、自分自身に改編能力を適応するという手までを想定できなかったのだ。
「どうした?来ないのか?」
金縛りにあっている相手を見て口を開く虚華。
「その程度で退くわきゃねーだろがァ!?」
自分が軽く見られているという事実に屈辱を感じるブレンダーは吠えながら飛び込んでいく。
並レベルの魔術師であれば視認する事すら不可能な速度で敵の目の前までそれこそワープと勘違いするほどの速さで近づき、レーザーブレードを相手の首元に向かって斜めに振り下ろす。
だが、ガン!と何か硬い物にぶつかる音がする。レーザーブレードは物を切断する事に特化した高熱と切れ味が自慢の武装なのに切り裂くことなく引っかかってしまう。
「なに……?」
相手は何もしていなかった。ただその場に立ち尽くして真正面から攻撃を受けただけ。
仮に相手の肌が切り裂けないほどの硬度を持っていたとしても、切り降ろす勢いに押されて後ろに後ずさってもおかしくないのだが、それを許さないほどの筋力を得ていた。
「残念だったな」
虚華はそう言ってガシッとレーザーブレードの刃をその手で掴んだ。
そしてもう片方の手を人を殴るために五本の指全てを折って拳の形を作る。
「食らっておけ」
彼女はそう言って拳を躊躇いなく相手に向かって放つ。
ブレンダーはとっさにレーザーブレードを手放して両手をクロスして防御の形を作る。
「ぐふっ!?」
だが相手の拳はその防御の上から潰す勢いだった。単純に鎧の耐久力に顕現装置が生み出す防御力と痛覚の減衰、そして念力をまとう事による硬度増量によって理論上大抵の攻撃は難なく防げるはずだった。
だが相手の放つ拳の惰力はそんな理論など無理矢理吹き飛ばしてしまう威力だった。
「うぐ…ギぎ……」
腹部を貫かれて唸りながらうずくまっているブレンダー。
そんな彼女を見下ろしながら先ほどそのうずくまる原因を生み出した相手は呟く。
「残念だが…ここで未来への災いの芽の一つを摘み取らせてもらおうか…」
その言葉を受けて自分が地面を見てしまっている事に気が付いた。
トラウマを払拭するために五年もの歳月をかけてきたというのに自分の努力の全ては精霊という力の権化を前に無力だった。
「ぐふっ…はぁ…あはは……」
「?」
くぐもった笑いを漏らす相手に虚華は不審そうな視線を送る。この状況で何が相手を笑わせているのか理解できなかったのだ。
「何がおかしいんだ」
「結局よぉ、たかだか人間じゃテメエらバケモンには勝てねえって事なんだよなぁ…」
「かもしれないな…だが今更それに気が付いたところで手遅れだ…」
言外に人ではないという扱いを受けた事に慣れたはずなのに若干だが傷ついてしまう。それはきっと恋菜に再会した事と、士道やラタトスクの面子と邂逅した事でまるで自分が普通の女の子であるかのように錯覚してしまったのだろう。
あれが例外中の例外なだけで、本来世界が彼女に向ける視線はいつだって世界の異物であるという事実だけだ。
「だからよ……」
ブレンダーは虚ろな感じで呟きながらゆらりと立ち上がる。
「アタシは人間やめてやんだよ!?」
彼女がそう叫んだと同時に頭から小さな爆発のようなものが発生して血が噴き出してその場に倒れこんでしまう。
「な…んだと…」
突然叫んだと思ったら頭から血を噴き出してその場に倒れこんでしまった相手を見て呆然としてしまう虚華。
先ほどまで精霊を殺すための執念だけで生きていると言っても過言ではなかった相手が、目的を目の前にして自ら命を絶つという行動を取った事が理解出来なかったのだ。考えられるのは精霊によって手を掛けられるくらいなら自ら命を絶った方がマシだと考えたのだろうか。
「…そうか…終わったか……」
彼女は目を見開きながら頭部から血を流す遺体を眺めながらそう淡々と締めくくった。
だがその表情は目的を成し遂げたのとは対照的に鬱々としたものだった。
当初の目的を完璧な形で完遂することは出来なかった。
そして何よりも彼女は人と触れ合えるそんな世界を夢見ていたのだから、それが自分にとっても、そして世界の誰からも害悪であると断じられるような人物であろうと、無条件にいなくなって欲しいとまで考えるほど心が腐ってしまっているわけでは無い。
「こんなことを言える身分では無いが…安らかに眠ってくれ…そのうち私もそちらに行く…地獄でお前に謝ろう…」
相手を顔の傍に膝を突いて顔に右手かざして瞼を降ろして目を閉じさせる。そして謝罪の言葉を投げかける。
目の前にいる女性の命を絶ってしまったのは自分の責である事を誰よりも自覚してそんな言葉を選んだ。
そして顔に添えていた手を離そうとした瞬間それは起きた。
「地獄に…行くのは…テメエが先だァ……」
「……なに…」
遺体から離そうとしていた彼女の腕が物言わぬ存在になっていたはずのブレンダーの手によってガッシリと掴まれた。
彼女は頭から血を流しながらも上体を上げて、目の前に憎き敵と同じ高さの目線に合わせる。
「言っただろ…?…人間じゃ…精霊には勝てない…な、らぁ…もぉうこんな人間の体…なんざ…捨ててやる…も、うどうにでもなれ……」
「いっつ…」
これまで感じたことの無い万力によって腕を掴まれる。それによって生まれる痛みによって顔をしかめてしまう。
自分自身の身体能力を極限まで引き上げているというのに、その防御力を無視して痛みを感じるシナプスを強制的に刺激して来る。
「なんだ…この力はっ…!」
相手の手を振り切ろうとするのだが、やはり相手が発生させている万力が逃げることを許してはくれない。
彼女の経験から想定していた魔術師の持っている力を遥かに超えている。
「ぐふふあはは…イイ表情すんじゃねーかよ」
相手が分かりやすく焦っているのを見てブレンダーは楽しそうに笑い始める。
そして更に相手の腕へと力を加えていく。するとミシミシと人体から発生してはいけない不気味な軋む音が生まれる。
「こいつ…」
「いいねえ…さいっこーな気分だ…一緒に地獄に堕ちようぜぇ……」
そしてべキリ…と見た目の華奢さからは想像できないほど強靭さを得ているはずの細腕がブレンダーの握力によって握りつぶされてしまう。
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今よりもきっと
「虚華っ!」
士道はモニターに映っている光景を見て声をあげる。
メスで自分を切りつけたかと思ったら、精霊とはいえ規格外の身体能力を得てブレンダーを圧倒し始める。そして相手が自分の敗北を察したのか不気味な笑い声を上げて突如自決をしたかと思いきや、唐突に意識を取り戻して虚華の腕を握りつぶしてしまったのだ。
「どいう事なの?あの胸糞魔術師……突然息を吹き返したかと思ったら腕力だけで精霊を圧倒してるわよ……」
目の前に映る状況に混乱を極めているのは彼だけでなく、司令官モードの琴里もまた信じられないと言葉に窮する。
自分自身が精霊であるからこそ分かってしまう。
精霊の持つ身体能力は顕現装置の生み出す魔力程度で互角に渡り合うのは、エレンのようなもはや人間を辞めたような存在でなければ不可能に近い。
「……そう言う事…なるほど…ブレンダーはここで死ぬ気という事ですか…」
誰もが目の前の現象の解析に苦慮していると、口を開いたのは神無月だ。
「何か心当たりがあるの?」
「あくまで予想の範囲でしかありませんが…」
彼は琴里からの質問に言い出しそうにしながらも答える。
「恐らくですが…脳や体の機能を体内に埋めた機材によってその人が持つ潜在能力を無理矢理に拡張…そのような使い方をすれば臓器を消耗品として使うようなものです。まさしく命を削って捨て身の戦法…それによって強化された精霊の身体能力に追いついたという事でしょう」
神無月はあえて真那の事は口にせずに説明をする。
ブレンダーは真那と同じで体の多くを顕現装置を扱うために捧げているというだけだった。
普段はそれほど機材に頼らずに、本人の資質だけで魔力を生成して戦っている。だがこの土壇場に追い込まれて彼女は体に埋め込まれた最後の一手を使ったという話だった。
まさしく人間である事を捨てた一手だった。
◎
「いっつ~…!」
「どうだ…同じ場所まで這い上がってきてやったぞ…」
腕をへし折られた痛みによって瞳に涙を僅かに溜めながら唸っている虚華。
そんな相手のリアクションを見て歪んだ口元で嬉しそうに笑っている。
(こいつイカれてる!?)
彼女は戦慄にも近い感情を感じていた。
相手を見れば全身から現在進行形で出血をおかしてしまっていた。このまま力を使い続ければ死んでしまうのは目に見えていた。
つまりブレンダーは仮に自分が死んでしまったとしても、目の前の憎き敵に対して一秒でも長く生きてその屍を見ることさえ出来ればそれでいいのだ。
ブレンダーは既にへし折られて元に戻すのが不可能なほどにぐしゃぐしゃになった腕にさらに力を加えて、もう片方の手を握りしめて殴りかかろうとする。
だがそこで虚華は掴まれていない方の手にメスを生み出すと、もう片方の肩にそれを突き刺す。すると肩口に滑らかな断面を残して腕をすべて切り落とされる。
「チィ…」
思いっきり自分の拳を振り回したがそれは空を切ってしまう。既に引っぱっても重みが無くなってしまった片腕を忌々しそうに見ながらブレンダーは舌打ちをする。
(イカれているか…それは私も同じか…)
ふと虚華の脳裏に浮かぶのは士道が自分の狙いを知ったあの悲しそうな顔だった。
あの時の彼も今の自分と同じようなことを思って嫌悪したのだろうかと、そんな事を戦場で敵を前にして考えてしまう。
彼女の切り落とした肩口にメスを刺すと傷口が光始め、前と変わらない腕が再生する。手をぐーぱーと開閉して感触を確かめる。
そして直後に息を荒くして肩が上下に激しく動き始める。ここで初めて見せる消耗している明確な証だった。
「はあ…はー…ふーっ…」
「なるほどなあ…やっぱその強化技は負担が大きいようだな」
それを見て初めて相手の明確なウィークポイントを見つけて興味深そうな反応を見せる。
これまで無敵としか思えなかった相手が見せた弱み。人間の驚異の粘りが見せた細い勝利を手繰り寄せることが出来る勝機だった。
「どーいうカラクリだぁ?自分を対象にする改編が負担か?それとも一つの対象に複数の改編を重ねがけるのが無理なのかなぁ?どーやらオマエの死期も近いようだぞぉ…?」
相打ち覚悟の正気ではない状況下でありながら、確実に相手を絶命に追い込むためか頭の片隅では冷静な殺意と分析力を残していた。
(この辺が私の引き際なのか…だけどせめて恋菜に害する存在を一つ削ってやる。私だけでは絶対に死なない)
このような状況に陥って何故か冷静だった。
『虚華が今日、デートに乗っかってきたのは力を封印させて弱体化をしてから自殺するためなんだろ……』
かつて自分の事を救い出そうとした少年の顔が浮かぶ。誰よりも優しくて、そして誰よりも損な役回りばかりを演じてしまう尊い道化師。
『俺が…俺達が虚華の生きる希望を持たせる……』
こんなどうしようもない自分を見捨てることなくぶつかってくる、呆れてしまうほどの頑固者。
実際の所彼から生きる希望を持たせるデートとやらを受けてはいないのだが…精神的に気持ちは伝わっている。
(案外悪くなかったな。恋菜、士道、そしてみんなと一緒に居られた時間は至高だった)
だからこそ思う。きっと目の前にいる魔術師をここで取り逃がしでもしたら、虚華の大好きな人たちの災いになるだろう。
「ああ…一緒に死んであげる…だからかかって来い」
◎
「琴里ッ!今すぐにあそこへ連れて行ってくれ!」
「ダメよ!何の対策もしていないのに飛び込ませるなんて出来ないわ!」
「でもこのままじゃ…!そうだ!六喰の力で…!」
「士道一人に何が出来るのよ!?いくら精霊の力を使ってもブレンダーをどうにか出来るはずがないわよ!?」
五河兄妹は強い口調で言い合ってしまう。
精霊の命は絶対に救わなくてはいけない。だが同時に五河士道の命は将棋でいうところの王将であり絶対に取られてはいけない。だがその王を守る駒が今ここには無いのだ。
いくら彼が精霊の力の一端を扱えるとしても一流の魔術師に通用しないのは、エレンと対峙した経験から嫌というほど痛感している。プロが扱うレーシングマシーンを持っていてもそれを十全に扱えるわけも無いのだ。
真那はバンダースナッチを引きつけられている最中。他の封印精霊たちはまだここにたどり着くには時間がかかりすぎる、それまで二人の戦いが長引いている保証はどこにもない。
ブレンダーを倒しながらも、虚華を封印しつつも、士道の安全もキチンと確保する。その全ての条件をクリアするのは至難の業だった。
このように手をこまねている間もモニターに映っている戦いは激しさを増し、いつ二人の命に決着がつくのか分からない綱渡りな状況が続いている。
「令音…何か手はないかしら……」
「困ったね…せめて真那がいれば…それに神無月はこの船から降りられないからね…」
無自覚なのか強がりのメッキが若干剥がれてしまった琴里だが、令音はそれを指摘すことなく返答する。
そして帰ってくるのは人員そのものが足りないという厳しすぎる現実だった。
精霊を保護するという題目で動いている組織であるためか、戦艦の性能は圧倒的なものがあるのだが、配備されている個人戦闘用の鎧型の顕現装置も、そしてそれを扱える人員もギリギリの数で回しているのが現状だった。
◎
場面は再びデパート屋上の遊園地エリア。
「ああ…私が一緒に死んであげる。だからかかって来い」
「たまんねぇよなぁ!?」
相手の覚悟を決めた表情と構えを見て、ブレンダーは叫びながらもレーザーブレードを構え、それを突き出しながら一直線にまるで銃弾かのように飛び込んでいく。
一方相手は唯一無二の武装であるメスを取り出して受ける構えを見せる。姿勢を低くして膝を突いてメスを地面に刺す。
「まーた目くらましかぁ!?」
「まさか、それでは芸がないだろう」
刺した先から地面にあたるコンクリートが盛り上がって、それがまるで大蛇かのようにうねりブレンダーに向かって四本のそれが襲い掛かる。
「ウザってぇ!」
ブレンダーは叫びながらもコンクリート塊を紙一重のタイミングでかわすとかわしざまにブレードを突き刺して、そのまま切り裂きながら真っ直ぐに敵に向かって飛び込んでいく。
(やはりコンクリートの物質を強化するのでは殆ど足止めにならないか。やはり煙のように流動体の方が有効か?いや何度も同じ手はくわないだろう)
簡単に倒せると思ってはいなかったものの、ここまで効果が薄いとさすがに戦略の練り直しを要求される為、少しでも観察して対抗策を得ようとする。
虚華はおおきく振りかぶってくる相手のブレードを大きく後ろに下がってかわす。逃げた先には観覧車がある。
「逃げの一手じゃ勝てねーぞ!」
何度躱されてもその執念が衰えることはなく、むしろ燃え盛る炎に油を注ぐがごとくテンションを上げてくるブレンダー。めげることなく再びブレードを握りしめて飛び込んでいく。
相手に攻撃が当たる間合いまで接近すると思いっきり横切りをかます。
だが虚華はその一撃に対して右手に持っているメスを観覧車を支える巨大なポールに突き刺す。するとメスが刺さっているはずなのにまるで滑るかのように動き出し虚華の体ごと上へと移動する。
一方で空ぶった一撃はポールを真っ二つにした。だが観覧車が倒れることは無い。恐らくは虚華が倒れて地上に甚大な被害を出さない為に観覧車の形をその力で無理矢理固定しているのだ。
周りに対して考えもなく攻撃を振りまく姿を見て観覧車の一番上に立っている彼女は咎める。
「危ないだろう、観覧車が落ちたらどうする気だ」
「へっ!人様らしく振舞ってんじゃねえ!」
相手から忠告にもなんてことはないだろうといった感じで返す。目の前にいる敵さえ倒せれば周りにいくつの屍が積み重なろうが構った事ではないのだ。
ブレンダーは空高く飛び出して、相手のいる観覧車の頂点よりもさらに高い位置に陣取る。そして腰に付けているレーザー銃を取り出して真下に向かって撃ちこんでいく。
相手の攻撃は虚華を殺す一撃を狙っているのではなく、どちらかと言えば足元を崩して隙を作るのを狙っているようで、狙い自体は甘い部分があった。当然その狙いが分かっていれば問題はなく観覧車の乗客部分を渡りながらもそれらを簡単にかわしてしまう。
「えっ……」
だが突如足場にしていた観覧車が傾き始めたのだ。自身の力で構造そのものを固定していたはずなのに何故か崩れ始めていた。
(なんで……)
その原因を探るために上にいたブレンダーから視線を外して下を見ると、観覧車を設置していた地面に接している土台部分がレーザーによって蜂の巣にされていた。本体は破壊出来ないが、地面との接点をボロボロにして足元から崩してきたのだ。
「くっ」
盲点を突かれて悔しそうに唸るが、そのままにしていたら観覧車が傾き切ってデパートの階層を貫いて地上へと甚大な被害を出してしまう。
彼女は慌てて観覧車にメスを突き刺して個体を気体に変換する。すると観覧車は消滅して辺りに霧のようなものが生まれる。
だがその隙をずっと待っていたブレンダーはレーザーブレードを地面に着地した瞬間の虚華の胸元へと突き込んでしまう。
「げふっ!」
「取ったっ!!」
ブレンダーの一撃は生命の急所を確実に捉えてしまう。それは人間であれば決着がつくはずの交錯だった。
だが虚華は人間とは比べ物にならないほどに強力な力を持つ生命体なのだ。貫かれているはずなのに相手の足はまだしっかりと地面を踏みしめていた。
「何で死なねぇ…」
確かな手ごたえとは裏腹に相手が絶命をしている様子がない。
すると霊装が光り輝いていた。厳密には霊装自体ではなく、その中で何かが強く光り輝いているのだ。
「まさか…」
「先ほどの…メスを…体に刺した、ままだった…からな…」
息も絶え絶えではあったがそれでも確かな意思を持って返す。
腕を治した際に使っていたメスを消すことなく、そのまま刺しっぱなしにしたまま戦闘を継続していたのだ。それによって本来であれば致命傷で命が刈られていたかもしれないはずの一撃を受けながらも命を繋いでいるのだ。
驚いてしまい硬直してしまったブレンダーのその隙を見逃さなかった虚華は、素早くブレードを持つ手を殴って弾いて、得物を胸から無理矢理抜くことに成功。
「ッ!テメエっ!」
「隙、だらけ」
自分が見せてしまった一瞬の空白を突かれてしまい歯噛みしてしまう。すぐに立て直して殴りかかろうとしたのだが、それを許す虚華ではなく相手が構えるよりも先に右拳が相手の顔へと突き刺さる。
「ぐっぶっ!?」
ブレンダーは悲鳴にも近い声を出すのだがギリギリ踏ん張って膝を突くことだけは拒否する、それと同時にカウンター気味に何とか掴みかかろうとする。
だがそれよりも先に虚華の蹴りがモロに入ってしまい相手の体を吹き飛ばす。
吹き飛ばされた相手の体はジェットコースターのレーンに叩きつけられて接触部分が凹み、彼女の体は重力に引きずられて自由落下して地面に叩きつけられてしまう。
「が、くぁ……!」
ブレンダーは直接与えられた攻撃と地面に叩きつけられた痛みによって弱々しく唸る事しか出来ない。
そこで地面に倒れていた彼女の耳が誰かの足音を拾う。誰かというのは正確な表現ではないのかもしれない、この場にはたった二人しかいないのだから。
その足音の主を彼女は俯いていたが分かっていた。俯きながら苦々しそうな表情で呟く。
「クソッタレが…」
「安心しろ…余計な苦みも…辱めも……与える…つもりはない…お前はここで終わるんだからな……」
どちらも既に満身創痍でもう意識を保つのも一苦労といった様相だった。
だがまだギリギリ動ける虚華に対して、ブレンダーはこのまま放っておいたら出血多量で死んでしまうだろう。
そこで彼女はメスを生み出して相手に向ける、弱り切った今の相手であればそれは通ると考えているのだ。
「次に…目を覚ました時は…きっと…今よりもきっと…マシな―」
彼女のそのセリフは最後まで告げられることは無かった。彼女の胸に衝撃があったかと思うと、そこから強い痛みと灼熱かのような熱さが溢れる。
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ここで死ぬ
「え……?」
気が付いた時には自分の視線が上を向いていた。おかしいのだ、先ほどまで確かに前を向いていたというのにだ。
「な…ん……?」
何とか首を動かして正面に視線を送るとそこにはバンダースナッチとみられる機体が複数体あった。恐らくだがその中の一体が自分を発砲したのだと彼女は分かった。
(いつの間に…気が付かなかった…ステルス性能に特化しているのか…)
「あはは…形成…逆転だなぁ……」
「あ…がぅ…」
虚華が薄れそうなる意識の中で必死に分析をしていたのだが、そこで彼女にのしかかる影があった。
ブレンダーは血まみれになっている顔でも嬉しそうに歪みながらも嗤っていた。そして両手を虚華の首にやって思いっきり締め付ける。
すぐさま迎撃をしなくてはいけないのだが、大量出血によるダメージと酸素不足による集中力の欠如によって、彼女はまともに思考を回すことが出来ずにされるがままになってしまっている。
(あ…死ぬ…?)
ここでやっと自分がこれまで強く望んでいた事象に直面している事に気が付いた。
恋菜に出会ってから別れるまでの幸せだった僅かな時間。
そして人と一緒に居ることを諦めた、それこそ死にたくなるほどに長い時間。
最後にラタトスクという精霊との共存を真剣に考えてくれる人たちに会えたほんの一時の時間。
そしてこのまま何もなければブレンダーは力尽きて死んでしまう。それは決して本意ではない結末ではあるのだがもうそれは相手が選んだ未来であり、これ以上何もしなくていいのだ。
後は肩の力を抜いてしまえば当初の願いが叶う。
精霊として初めてクレーターのど真ん中に現れた日から自分は何のためにこの世に存在しているのか、それこそ迎えた夜の数だけ考えてきた事だった。いまだにそれに対する明確な答えは出せていない。
だが少なくとも自分の死によって助かる人がいるのであれば、空間震によって亡くなってしまった人たちに少しでも浄罪になるのかなと思ってしまう。
「死ね!シネってんだよおおお!」
一方でブレンダーはもはや瞳から血を流して真っ赤になってしまい血走ったを超えてしまった形相で、更に首を絞める手に力を入れていく。
意識がだんだん遠のいていく中で、かつて友人だった彼女の事を思い起こしていた。
一緒に食事を摂ったり、一緒に本屋や電気屋を練り歩いたり、一緒に漫画や小説を楽しんだりした輝かしい思い出の数々。それは今の虚華という優しい精霊を築いてきたかけがえのないピースたちだ。
そんな事を想起しているとふと脳裏に浮かんだのは、今の垢抜けて大人になった恋菜の姿だった。
そこに何があったのかは想像しか出来ないのだが、きっと彼女なりに考えて前に進む選択肢を取った結果なのだろうと考える。
周りの風景に映る屋上エリアを認識する。
今の二人で一緒にジェットコースターを楽しむ姿。今の二人で一緒に観覧車を楽しむ姿。売店やゲームセンター内で楽しそうにしている二人の姿なんかも想起してしまう。
今日一日、会った楽しかった時間を思い出す。
教室いっぱいの生徒たちがいる中で授業を受けている自分。原稿にトーンを張ったりベタを塗っている自分。放課後にクラスメイト達と街を練り歩いたりする自分。休みの日には街中をぶらりするのも楽しいだろう。そしてのんびり星を見るなんて時間を忘れられて素敵だろう。
そして一度でいいから何の思惑も裏も表もなくデートなんかもしてみたいなと思う。どこまでも頑固で真っ直ぐな彼なんかにエスコートしてもらえたら光栄だろう。
「うっ…!…くううぅっ…!はっ…!」
「コイツ…!」
虚華は相手の手を掴んで何とか自分の首から引き離そうと必死に力を入れる。
ブレンダーは突如として反抗を始めた相手を見て驚き、そして苛立ちを口にする。
あと少しで落とせたというのに一瞬だけ絞める力を抜いてしまった事で相手に一呼吸をさせてしまったのだ。
一瞬の隙を突いて何とか酸素を取り入れて僅かに復活した意識ですぐさま虚華は足をばたつかせて相手に蹴りかかる。その内の一撃が相手の腰辺りに当たる。
「痛ってえ…大人しくしやがれってんだ…」
ブレンダーは何とか離すまいと粘ってはいるのだがその声は弱々しい。
既にお互いに限界に近く、力ずくで振り切ることが出来なくなってしまっている。
『…………』
そんな硬直が続く中、これまで沈黙を保ってきたバンダースナッチ達が動き始める。そして機体に備え付けられている銃口が虚華とブレンダーに向かって標準を合わせている。
(まずい…)
戦場がこれ以上動きそうに無いのを見て、DEMが痺れを切らしたのだ。
虚華はここで焦って相手の髪を掴んだり、手で顔を押したりとめちゃくちゃしてなんとか振り切ろうとする。
「私ごと…殺されるぞ!はやく、ここを…どけ!」
「へっ…願ったり叶ったり…だ…一緒に…しんでやらー…」
それを聞いたブレンダーは首から手を離し、相手の胴体に抱き着いて放すまいとする。
相手の行動を見て分かりやすく彼女は焦った顔をする。
「くっ…くそっ…!」
それはもうこの場で状況を好転させる策を持っていないという事だった。
「いいねえ…その焦った顔…ここに来てぇ…自分の命が…惜しくなったってかぁ……」
虚華の表情に焦りだけでなく恐怖や悔恨が混じり始めたのを見て、昂ぶりを超えていよいよ精神的に絶頂すら感じ始めるブレンダー。
そのようなやり取りをしている間もバンダースナッチ達は着々と準備を行っている。
既に打ち損じが無いようにありとあらゆる急所に標準を合わせている。だがそれは精霊だけでなく本来であれば味方であるはずの魔術師のそれにも標準を合わせているのだ。
(最初からどちらも始末するつもりで…このままでは…)
ここに来てDEMは精霊だけでなく、厄介者になっているブレンダーも事故として処理するつもりなのだと気が付いた。
組織の全容や内部事情など知りようがないのだが、ブレンダーのあの性格では憎まれたり疎まれてもおかしくはないなという不思議な納得感をここで彼女は覚えてしまう。
だが今それに気が付いても手遅れというものだった。それは相手だけでなく自分自身についても。
そしてバンダースナッチ達のマズルフラッシュが炸裂した。
「ッ!?」
虚華はそれを認識すると反射的に目をつぶって後はもう運を天に任せる。
「氷結傀儡!」
その時彼女の耳に届いたのはある男の声と、とある精霊の持つ天使の力の名前、そして大量の氷塊が突如現れる事による轟音だった。
突如現れた氷塊が自分を守る盾になっているのだ。
「これ…は…」
虚華は目の前で起きている現象を理解する事が出来なかった。そもそも自分以外の精霊が力を扱う場面を目撃したことが無ければ、封印された精霊の力がどのような末路を辿るのかも分からないのだ。
「大丈夫か虚華っ!」
「へ……?」
もう既に気を失っているブレンダーにのしかかられている彼女に声をかけるのは士道だった。
上に乗っかっている相手をそっとどかせて、仰向けに倒れこんでいる虚華の上体を支えて大きな声で話しかける。そんな事をしなくてもそもそもの話意識は保てているのだが。
よく彼の背後を注視すると何か空間に穴が開いているのが見えた。その力は六喰の精霊の力の一端なのだが彼女がそれを知りようもない。
「し、どう…あなた…精霊だったの…?」
彼女はこの場で考えられる可能性の一つを自分の体を支えてくれる相手に向かってポツリと呟く。
その質問を受けた相手は微妙そうな表情を作る。彼自身が自分に宿る力が何のためあるのか計りかねているからだ。
「いや、そういうわけじゃないんだけどな…」
「まだ敵が…あそこにいる…早く…」
そこで彼女は今自分が置かれている状況を思い出して伝える。最初の一射撃目こそ防いだのだがまだこの場所が完全な安全地帯になったというわけでは無い。既に防がれた事は相手も理解して次の手を打つために動き始めるはずなのだ。
だが彼女の耳に届いたのは次の発砲音ではなく、バンダースナッチ達が爆散する衝撃音だった。
「え……」
彼女は自分への追撃者が消えた事に驚きの声をあげる。
それまで視界を大きく阻害していた氷塊が虚空へと消滅していく。クリアになった視界の先にいたのは魔術師だった。
「大丈夫?虚華?」
右手にブレード、左手に銃を持った顕現装置の鎧を纏った凛院はそう言った。
◎
『彼を守る役目…それ私に任せてくれないかしら?』
戦力が足りず目の前の死闘に対して手をこまねいていいるしか出来ない現状にフラクシナスのブリッジ全員が手をこまねている中、一人の女性が手を挙げた。
最初にその申し出に反応したのは令音だった。
『たしか君は……鳴村凛院だね?昔ASTの魔術師でもあったと神無月から聞いているよ』
『ええそうよ、これだけの設備があるならフリーの装備一式くらいあるでしょう?そこの彼は私が護衛するわ』
凛院は初対面の相手であっても気後れすることなく堂々とした態度で応答する。
一方の神無月はなるほどいった感じで頷きながら答える。
『確かに彼女であれば任せられます』
『お願いしていいんですか?』
士道もまた降って湧いてきた助け船に乗る事にする。
もう既に凛院が士道について行くという流れは出来上がっている。だが一人だけこの流れについて行けない人物がいた。
『お、お姉ちゃん…?何言っているの…?ちょっとおかしいよ……』
彼女の妹である真院だけは何故自分の姉が自ら戦場に出る事に名乗りを上げたのかも、そして周りがそれを了承したのかも分からなかったのだ。
もう既に今日一日だけで自分の持っている常識では計る事の出来ない現象が多すぎて頭が痛くなってしまっている。だが唯一の家族がモニターに映る危険な現場に飛び込むと聞いてしまえばさすがに首を縦に振るわけにはいかないのだ。
『そっか…まだ真院には話してなかったかー…』
あっちゃーといった感じて頭に手を置いて困ったなと言った軽いリアクションする凛院。そして体を妹の方へと向けて優し気に説明をする。
『昔は私はドクター…いえ虚華を憎んで殺そうとしてたの』
『え、えっ』
『だけど結局私が弱くて叶わなかったけどね』
それはあまりにも細部が欠け過ぎた不親切極まる説明だ。だがそんな事はお構いなしに説明を続ける。
『だけど分からなくなっちゃったんだ。ただの害獣だと思ってた…いや思い込もうとした彼女が私達の変わらない優しさと心を持ってるんじゃないのかって考えちゃってね、そしたら怖くなって戦えなくなっちゃった』
彼女の脳裏に浮かぶのは涙を浮かべて恋菜の体を抱えていた虚華の姿。その時、精霊は自分たちが思っているような存在ではないのだと思ってしまった。そう考えてしまえばこれまで何も感じてこなかった剣も銃も自分の手には途轍もなく重たい存在に思えてしまった。
多分この説明ではすべてが伝わりきる事は無いだろう。
『だからお姉ちゃんはね。あの時自分が感じたそれが正しかったのか確かめるためにもう一度戦うの』
◎
決着は既についた。精霊の命は守られてDEMの刺客は全滅という結果に終わった。
この場所は既に安全が保障された空間になっている。
「…………」
虚華はメスを取り出すと自分の胸元に当てる。すると傷口が塞がってこれ以上の出血を押し留める。
だが彼女は全身の傷全てを修復はしなかった。その事を不審に思った士道は相手に声をかける。
「だ、大丈夫なのか…?」
「うん…これ以上直すと…余力…無くなっちゃうから…」
何とか立ち上がれるだけの力を取り戻した彼女は気絶してしまっているブレンダーの傍へと行く。そして相手の顔をじっとのぞき込む。
「どうしたんだ…?」
士道は恐る恐るといった感じで問いかける。自分の心の中にあるそれが当たらない事を願いながら。
問いかけられた当の本人はメスを構えながらも、なんてことはないといったトーンで言い切った。
「今からコイツを殺す」
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めんどくさい奴ら
「…………」
久しぶりに浴びる太陽の光に目を細めながらも、彼女、虚華はアスファルトに舗装された寒空の下を歩いていた。
もうすぐ二月に差し掛かる為か極寒というほどの寒さではなくなっており、後一ヶ月もすれば温かさが少しずつ顔をのぞかせるはずだ。
あの日の激闘から二日ほどしか経っていないが彼女の体はそんな戦いの痕跡を一切残さず綺麗になっていた。それはメスによる治療だけでなくフラクシナス内に備え付けられている治療用の顕現装置の恩恵でもある。
既に完治してピンピンになったためか戦艦内での生活は一瞬で別れを告げて、今日からは精霊が住むためにこさえたマンションに強制入居する事になったのだ。
今の彼女の服装は黒いシャツにグレーのコート、そしてジーンズを履いている。だがそれはごく普通の服であり、精霊の特殊能力によってまとっているものではない。
ちなみに今彼女が持っているバッグの中身には変えの服装が用意されている。
◎
『殺すって…そこまでする必要はないだろ!?…それをやったらDEMとやってることが同じじゃ……』
虚華の口から出た『今からコイツを殺す』の一言に一番最初に反応したのは当然士道だった。
少しだけ遠巻きから凛院は黙って見つめていた。今目の前にいる存在を見極めるために。
『……?…ああ、そういう事…』
相手が突如としてDEMの名前を口走って興奮しだしたのを見て何が何やらといった感じでポカンとしていたのだが、どうやら自分の言い回しが誤解を招きやすい事に気が付いて得心が行く。
『私の持っている天使の力は触れた対象の情報を改編する事、ならこれをこの彼女に使って容姿も記憶も全くの別人にする。そうすればこの魔術師は世界的に死んだのと同然だと思わない?』
『『!』』
してやったりといった感じの笑みを見せる虚華をみて、士道と凛院はハッとする。
仮にここでブレンダー・ラストを生かしたとしてもその処遇はとてもシビアなものになるだろう。
ASTやDEMに引き渡したとしても行く末はもう明らかだ。
かと言ってラタトスク機関に預けても持て余してしまうだろう。
それは決して手放しに褒められた作戦ではないのかもしれない。何故ならそれは人の人間の死を意味している、だが現状これ以上の代案が出ないのも確かなのだ。
『今から彼女を顕現装置を使っても、そして私自身でももう戻せないほどに別人に作り替える』
◎
「お姉さま~っ!」
「げっ」
ふとそんな事を思い出している虚華に向かって遠くから声をかけてくる人が。その声を拾った彼女はうんざりといった感じのリアクション。
声をかけた相手は手を振りながら追いかけてきて、追いつくと満面の笑みを虚華に向ける。
「酷いじゃないですか!急いで追いかけたのにそんな嫌そうな反応!」
割とぞんざいな扱いを受けているはずの相手だが、口にした内容とは裏腹に表情はやはり嬉しそう。
足を止めて相手の方を向いて彼女は少し疲れたといった感じで話しかける。
「それでどうしたの?ブレンダー?」
追いかけてきた相手の髪はくすんだ茶髪だった。
今彼女の目の前にいる女性は虚華が改造したブレンダーの生まれ変わった姿だった。
「お姉さまがマンションに引っ越されると聞いて急いで追いかけて来たんです。あ、お荷物を持ちますよ」
「…遠慮するよ、あなたに預けると下着の枚数が減ってそう…あと予想は出来ているけど…一応追いかけて来た理由を聞いておこうか…」
「ぜひ身の回りの世話をさせてください!」
「いらん」
「いけず!」
明らかに仲良しなやり取りを行う。虚華はこのやり取りによって既に精神的にはどっと疲れていた。
「あの優しかったお姉さまは何処に行ったのですか!?」
「死んだ」
完全に記憶を失ったブレンダーが目を覚ましたのは一日前の話だった。
最初にブレンダーが目を覚ました際にはここが何処なのかも、そして自分が何者なのかも、そして目を覚ます前までの記憶が一切なかった。何故ならそうなるように改編したのが虚華なのだから。
当然ブレンダーは錯乱状態に陥った。
だがそれは想定内の事で、ラタトスクの人間が全力で社会復帰をするためにフォローをする予定だった。
しかしその事を知った虚華は『彼女は私がキチンと面倒を見よう』と言い出したのだ。
だが封印直後でまだ精神を何処までコントロール出来るかもわからない相手に、人一人の面倒を見させるなどおっかなくてさせられない。
だが『私が犯したことだ、最後までキチンと面倒を見たい』と一顧だにしなかったのだ。
そして錯乱している相手と対峙するや優しく抱きしめて、相手の耳元でコトコトになるほどに優しく甘い言葉を使って必死に慰めた。
結果としてブレンダーは立ち直ったのだが、どうやら虚華の取った行動が彼女の変なスイッチを押してしまったようでこのありさまなのである。
虚華は手を頭に当てる頭痛を堪えるポーズで呟く。
そもそもまだ体の健康状態が分かっていないため経過観察中であるはずなのに、どうやってあの空中戦艦から脱出したのだろうかと考えてしまう。
「どうしてこうなったんだ…?」
「どうかされましたか?」
「ん…まぁ取りあえず立ち話もあれだからひとまずマンションに行くよ」
「はいっ!」
取りあえずついてくることを許されたためか嬉しそうにブレンダーは返事をする。
◎
『…………』
『何を言いたいのか分かるよ。力を封印したいんだよね』
目の前で黙ってしまった士道を見て、虚華はおおよそ何を言いたいのか当たりをつけていた。
『そう…なんだけど…それだけじゃないというか…』
『んん?』
彼女は相手がそうだと言えばあっさりと力を渡すつもりだった。
だがどうやら煮え切らないというよりも、伝えたい事はあるのだがどう噛み砕けば伝わるのか考え込んでいるという雰囲気を感じ取っていた。
『…あのさ…虚華は力を捨てて弱体化する事で死のうと考えているんだよな…?』
『まぁ…そんな事も言ったね』
彼女は自分にとっての黒歴史を掘り返されて恥ずかしくなってしまい、それを誤魔化すために鼻をかいて誤魔化そうとする。
だがその指摘をした相手はそのリアクションにはさほど興味はないようだった。
『あのさ…ずっと思ってたんだが…虚華って本当は死にたくないんだよな』
『んー…?…確かにあの時首を絞められてた時に色々と考えたけど……?』
どこか会話の歯車が嚙み合ってないようなと感じながらも士道への問いかけに答える。
実際の所、本当に心の底から破滅願望を持っているのならあの時反抗などせずに一思いに絞められていれば良かったのだ。だがそうしなかったという事は、結局のところそういう事なのだ。
彼女はさっきから人の黒歴史をそんなに掘り返して何が楽しいのか…そういう事を考えてしまう。
(そんな回りくどい事をしなくても逃げないんだけどなぁ……)
もう既に封印を受け入れて一人間として生きていく覚悟は出来ている。だがそれを彼女の方から告げるのは中々に勇気がいるのだ。
因みに先ほどから凛院は「何だこの表面をくすぐる様なめんどくさいやり取り…」と呆れている。
恥ずかしがっていてはそのうち現界していられる時間を超過してしまうため、自分から切り出す事を決意する虚華。
『『あの……あ、お先にどうぞ…………』』
そう思ったのは自分だけでなく相手も同じようで見事にハモッてしまう。そして訪れる気まずい空間。
『とにかく自殺はしないから早さっさと力を封印しよ!!』
『え…いいのか…?』
『気が変わったんだよ!で、どうやれば封印できるの!?』
『えっと…ある程度好感度を上げてキスをすれば………』
相手の剣幕に押されてしどろもどろになってしまう士道。だが言葉の続きを繋げることは出来なかった。
何故なら虚華は何のためらいもなく彼の唇を自分のそれで塞いできたのだから。
『な、な…』
『これで封印完了なの?』
何度かしてきた事とはいえいきなりすぎて目を白黒させてしまう士道。
一方の虚華は唇を離してから劇的な変化が起きない自分の体を不審そうに見ている。
『ふざけているの?』
『違う…もう少しすれば…怒らないでくれよ…』
士道はこれから起きる現象を察して自分の上着を脱ぎ始める。
『何をして……』
するとボロボロだった霊装が光り輝き始める。今まで霊装が力強い光をまとった事は何度かあるのだが、今回のそれはまるでロウソクが最後の力を振り絞って燃えているかのような儚さにも似たものがあった。
そして光が輝き切った時、その中から現れたのは生まれたばかりの姿の虚華が。
『ぎ、ぎゃああああああああ!!!?』
これまで誰も聞いた事の無い彼女の叫び声がその場にこだました。
『えっとだな…虚華……』
『なに?』
士道はまだ何かを伝えようとしているのだが、問題の相手が顔を真っ赤にし、目に涙を溜めてぎろりと睨み返すため、なかなか本題に入れない状況が続く。
虚華は士道に貰った上着を羽織るだけで下には何も履かないという中々に刺激的な格好でこの寒空の下にいる。凛院は彼女の背中をさすって慰めている。
『…………うん』
ここで彼女は息を整えて冷静さを取り戻した。流石に自分にも全く非が無いわけでは無いと思ったのだろう。
『最後まで説明を聞かなかった私が悪いから…それでまだ何か言いたい事があるの?』
『あ、ああ、そうなんだ』
いまだに混乱から復活出来たわけでは無いが、相手が冷静に耳を傾けてくれる状況になったため、士道は今日までずっと引っかかっていた事を問いかける。
『虚華が過去を色々と話してくれた日を覚えてるよな』
『うん』
『それで気になった事があったというか……』
『う、うん?』
自分には相手に引っかかる様な事をしたという心当たりがないため何が何やらといったリアクション。
『虚華が勝負を受けるって言った時に微笑んでたんだよ、確かにあの時笑ってたんだ』
『…………へっ』
虚華は士道からの予想もしていなかった指摘に呆然としてしまう。自分自身その時意図して笑っていたという意識は無かったためもう何が何やらだ。
『その…嬉しそうだったと言うか…待ってましたというか…こういうのを…その…ギャルゲー的に言えば…だな……』
自分でも言語化するのに困っているのかハキハキと話すことが出来ない。ちなみに恥ずかしいのか「ギャルゲー」の所だけは声が露骨に小さかった。
『なるほど……つまりかまってちゃんね』
お互いに何の情報を共有したいのか不透明化して遠回しすぎるやり取りが続いていくなか、その硬直を破るかのように口を開いたのは凛院だった。
彼女の発した言葉に二人はその主に顔を向ける。
『ほら、SNSとかでもリスカしている画像をアップして死にたいとか言って構って欲しいアピールするめんどいやついるじゃない?本気の本気で死ぬ気とかないくせにね。あとは敢えて相手に意地悪とかして気を引こうとしたりする阿呆とかね』
凛院はここぞとばかりに畳みかけるように言葉を並べていく。話の後半はなにやら謎の力が籠っており、どうやら実体験のようで。
士道には心当たりがあったのだ。ラタトスクの作ったゲーム内にはヒロインの敵キャラとして主人公に妙なアプローチをして妨害をするヘイトを生んで来る悪女的奴が。
虚華は決して不快感を生み出すような人間性を兼ね備えているわけでは無いが、あの時封印出来ないと言われて、一日デートの為に貴重な時間を潰されて不機嫌にならないのはどこか不信感があった。
『無自覚だったと思うけど…その…虚華はあの時…仮に封印されなくても…相手をしてもらえれば……』
『あ、あ、ああぁぁ……』
士道が恐る恐るといった感じで指摘をする中、虚華は先ほどすっぽんぽんに剥かれた時の羞恥が主成分だった時とはまた違う成分が混じった赤面を作る。
もう一度走り出したら止まれないため士道は思っていた事をさらに繋げていく。
『そもそもさ、本当に虚華が心そこから死にたいって願いを持ってるなら天使が虚華を死なせるはずだよな。でもそうはならなかったって事は…そういう事なんだよな……』
『うぎゃあああああ!!!!』
もう人語を忘れてしまった哀しい元精霊の叫びが夜の街に響いた。
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力は願いを写す鏡
「…うーん……」
眉間に手を当てて頭痛を堪えるような仕草をする虚華。
あのやり取りはたった二日前の出来事だが、人生で忘れる事など出来ようもないほどの黒歴史を刻まれてしまったと確信に至るほどの一日だった。
そしてこれからその黒歴史を認識している相手達と共同生活を送らなくてはいけないのだから気分も重くなるというものだった。
「どうしましたか、お姉さま?」
「んーん、別に何もー」
目の前にいる少女にこの事を知られてはもう生きていけないため、絶対に口止めをしなくてはいけないなと決心する。
そんなこんなでいつの間にか目的のマンションの近くまで着く。
すると二人の姿を見つけたのは、前に彼女がこの場所に来た際に挨拶をくれた一人の女性だった。
「あら…?あなたはこの前の」
「あ、どうも」
目の前にいる女性が二日ほど前に会ったばかりの相手だと気が付いて何とか返事をする。
そして同時に思い出したのは自分がこの街に引っ越すと口から適当な事を言った事だ、まさかその時の言霊が現実になってしまうとは思っていなかったが。
「全然顔を見なかったから心配していたのよ。それにその荷物は…」
「ちょっとごたごたして忙しくて挨拶に行けなくてすみません。この先にあるマンションに引っ越して来た虚華です。よろしくお願いします」
「そうなの、よろしくね」
前と違いその表情には偽りない晴れやかさにも似たものがある為か、女性は嬉しそうに彼女に挨拶をした。
だがここで女性は隣にいる女の子を視界に映す。前は一緒に居なかったし、そもそも見覚えのない相手だった。
「ところで隣にいる子は…?」
「よく聞いてくれました!」
自分にフォーカスされたのが嬉しいのか張り切って話始めるブレンダー。
「私はお姉さまの愛の奴隷―」
「従妹です。いえ従妹であってほしくないですけど…」
これ以上変な噂が広まるのを避けるため虚華はブレンダーの首根っこを掴んでそのまま引きずっていく。
「何が愛の奴隷だ」
「事実です!」
「現実を歪曲するな。無い煙を立たせるな」
マンションの前に着いた二人は言い合いをしていた。主に内容は変な外堀を埋めようとしているブレンダーの態度についてだ。
(つ、疲れた……)
少しの距離を歩いただけだというのにこの疲労感…こんな調子で人として人間社会に溶け込んでいけるのだろうかと不安を覚えてしまう。
そこでふと思い出したかのように支給されていたスマートフォンを手に取って時間を見る。
「そろそろ約束の時間らしいんだけど…」
「何かあるのですか?」
「妹さんからこの時間に着くように言われてたんだよ。わざわざ街中を歩かせてね。何かサプライズがあるらしいんだけど…」
本来であればわざわざ封印直後の精霊に荷物を持たせて街中を歩かせなくても、フラクシナスのテレポート技術を使ってマンションの屋上に直接送ればいいのだがそうはさせなかった。
理由は何か見せたいものがあるからとの事だがそれが何なのかは当然伝えられていない。
「虚華ようやく来たわね」
マンションの玄関口前にいたのはチュッパチャップスを咥えている琴里だった。彼女の傍には士道と鳴村姉妹もいる。
「別に逃げも隠れもしないけど…」
素直に指示に従った事が少しだけシャクなのか素直ではない返答をしてしまう。
虚華の傍に寄り添っている相手を見て琴里は面白いものを見たといった感じを表情を作り、手を口に当てて揶揄い始める。
「すっかりモテモテじゃない」
「本当に困っているよ、ブレンダーには……」
琴里が何とかからかってやろうと躍起になっているが、本当にブレンダーの件で疲れている虚華はそこまで強く言い返したりはしない。
実際自分のせいで相手の人生を狂わせてしまった自覚は有りであるため、どのようなことがあっても投げ出さないつもりなのだが。
「こうやっていじる事が目的ではないのだろう?何かしらやりたい事があるから街中をわざわざ歩かせるなんて事をさせたんだと思っているんだが」
「ああ、それね。一応サプライズはあるから入って頂戴。ちなみにあなたに割り当てられた部屋は402号室だから。これ鍵ね」
説明も半分に鍵を渡されてマンション内に入るように勧められる虚華。鍵を受け取った際に胡乱気な視線を琴里だけに留まらず、ここまで黙って見ている士道や鳴村姉妹に視線を向けたが目を合わせてもらえない。
薄く溜息を吐きながら自動ドアをくぐるとそこには過去に封印された精霊や手の空いたフラクシナスのスタッフたちが一堂に集結していた。それぞれが「おめでとう」や「これからよろしく」など挨拶や自己紹介をする。
「えーっと、ありがとうございます」
だがそれは虚華にとって想定をしていない状況ではなかった、それが彼女に申し訳なさを感じさせてしまう。
わざわざ彼女に街中を歩かせるという時間稼ぎは人員を集めるためだろうなというのは予想出来る事であった。だからこそ心の底から驚いたリアクションが出来なくて申し訳ないのだ。
「え……?」
挨拶をする人たちの人混みを通り抜けるとそこには御守恋菜がいた。それはサプライズというにはあまりにも予想を超えた人物の登場だった。
(悪趣味すぎる…)
驚きから何とか立ち直った虚華が思ったのは相手の傷に踏み込んで来て何が楽しいのだろうかという事だった。
先ほど琴里が自分を弄ろうとしていたが踏み込んでいいラインと、そして相手との距離感があるだろうと思ったのだ。
「あ、どうも……」
相手から顔を逸らしながらそそくさと奥に見えているエレベーターに向かおうとする。
だが彼女がエレベーターに向かうことは出来なかった。
「ぐえっ」
彼女の首根っこが誰かによって掴まれる。
横目でチラリと確認すると掴んできた相手は恋菜だった。だが彼女に突然掴まれた理由が分からなかった。
今の彼女は自分の事など忘れているはずで、考えられるのはシカト気味の対応に怒った事だが、初対面である相手から軽い挨拶をされただけでこのようなことをするだろうかと考える。
取りあえず相手が何に不服だったのかを確かめるために話しかける。
「な、何をする……」
「おい虚華、何で私から逃げようとするんだ。傷つくだろう」
恋菜の口から飛び出してきたのはそんなセリフ。
『おい恋菜、何で私から逃げようとするんだ。傷つくだろう』
それはかつて虚華が恋菜の学校の授業参観に向かった際に自分から逃げようとした相手に向かってかけた言葉だった。だがそれは恋菜の記憶には無いはずの思い出のはずなのだ。
「恋菜っ何でそふぇをにゃにをするんひゃ」
驚いて振り返って問いかけようとする虚華だがそのセリフは続かなかった。何故なら相手が怒り心頭といった表情で虚華の両頬を思いっきり引っ張っているからだ。
そしてずいっと顔を近づけて言い放つ。
「私あんなこと頼んでない!!」
「ひゃにほ……」
この場になっても混乱に陥ってしまい若干すっとぼけたような発言をしてしまう。
だが相手はそれを許しはしない。それまで頬を引っ張っていた手を離すと相手を抱きしめながら話始める。
因みにブレンダーは自分を差し置いてべたべたと引っ付いている(ように見える)恋菜に食って掛かろうとしたが、邪魔はさせまいと他の精霊たちが力ずくで抑え込んでいた。
「もう全部思い出してるんだよ…初めて空間震の中心で出会った日から…私が捕まったあの日までの事…それにこの間の事も……」
恋菜は瞳に涙を溜めながら虚華の中にあったまさかが事実である事を認めた。
「な…んで…そんなはずは…私の天使の力…メスを封印…されたとしても…封印していた記憶が戻るなんて……」
そんなはずは無いと思っていただが事実として目の前のかつての親友は記憶を取り戻している。
彼女の力は一度改編してしまえばそのままになってしまう。仮に戻したいなら彼女自身で元に戻し直す手順を踏まなければいけないはずだ。事実としてブレンダーは天使の力の封印後も別人になったままだ。
「多分それが虚華の望んだ事だからじゃないかな」
いまだに目の前で起きた事が信じられないといった感じの虚華に話しかけたのは士道だった。
「私が…望んだ…?」
「虚華の力は対象を自分が望んだ形に改編する力なんだよな?」
「そうだけど…」
彼女の天使の力は刃が触れた対象を自分の望む形に改編する能力。改めてその事実を共有する。
「なら恋菜さんの記憶を戻してもう一度やり直したいのが虚華の願いなんじゃないのか?」
前にブレンダーと戦いで首を絞められて絶命寸前に陥った際に彼女は思ってしまったのだ。
今の恋菜とジェットコースターに乗ったり、観覧車を楽しんだり、売店やゲームセンター内でぶらついたら楽しいだろうなと思ったのだ。その願いを汲み取った天使が恋菜の記憶の封印を勝手に解除したという事だった。
恋菜が元に戻った理由は納得がいったが、それによって生まれた問題は現在進行形で発生しているのだ。
抱きしめていた腕を緩めて至近距離で恋菜は視線を向ける。その手は相手の肩を力強く握っており、もう逃がさないという意志表示のように見えた。
「私が弱いからあんな事したの?虚華にとっては私ってただ籠に閉じ込めて守れればそれでよかったの…?」
「ち、違う!でもっ…恋菜が私と関わって傷つくのが…嫌だった…」
「でも…それでも私は一緒に虚華と悩みたかった…それが結果として私の記憶を奪う結果になったとしても……だって私達親友じゃない…」
ただ血を吐くかのような苦しい心から出た叫びがあった。
その言葉を聞いて虚華はついにこみ上げてくるものが抑えられなくなっていた。目の奥が熱くなって瞳から涙がこぼれてしまう、そして涙が頬を伝っているを自覚するともう駄目だった。
「わ、私だってっ…こんな事したくなかったっ…でもっ…!…弱い私じゃ恋菜を守れなかった…私だって…恋菜と一緒に居たかったに決まってる…」
ここで虚華は涙を流し嗚咽を漏らしながらも今日まで自分が思っていた事を口にする。
それは今の今まで心の奥底に隠して来た剥き出しの本心だった。
その言葉を聞いた恋菜は体を少しだけ震わせてから僅かな時間考えた後口を開いた。
「許してあげない……」
「えっ…」
決して許される事をしたとは思っていなかったが、この状況で出て来た許さないといった言葉はあまりにも意外過ぎたため虚華は言葉にならない声を漏らしてしまう。
恋菜は相手を再び力強く抱きしめ返しながら言った。
「一緒に居てくれないと許さないから…」
彼女の口から洩れたのは本人の抱く願いだけでなく、虚華もまたこの五年間抱き続けてきた想いだった。
虚華の両手がふと力がみなぎり相手の体に触れようとするのだが、まるで何億もの値打ちのする芸術品に触れようとしているかのようにその手が止まってしまう。かつて自分から手放してしまったあの尊い時間をこうも簡単に取り戻していいんだろうかと、そんな事を考えてしまう。
『追加で説明をするとこのメス、正式名称改造施術は刃が触れた対象の根源や構造を私の希望する通りに改編する力を持ってる。私が瀕死に陥ると自動的にメスが起動して私の体を元通りにするんだよ。だから私は自分の意思で死ぬことは出来ない』
それはかつて士道に説明した自分の力だった。
結局のところ虚華の力はどんなに自分の本心を隠してもまるで映し鏡かのように彼女の本質を見せてしまうそんな存在なのだ。
死にたくない、恋菜と一緒に居たい。
今こうして彼女が生き残って記憶を取り戻した親友と再会する事が望みだっただけなのだ。
だったら今くらいは未来の事とか、訪れるかもしれない懸念を忘れてこの幸せを思いっきり受け止めてもいいだろう。
「うん…」
虚華は親友を力強く、そして確かな熱を持って抱きしめ返した。
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