東方短編集 (slnchyt)
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―総集編―
天狗達の幕間


―天狗達の幕間―

 

ここは幕間。如何なる常識も通じぬ場所。どれだけキャラを崩壊させても、メタを説いても構わぬ場所。すがすがしい青空の下、彼女らはあずまやのベンチに座っている。各々が好きな食事を持ち寄り、とりとめのない話をしている。涼しい風が抜ける。なんとものどかで、平和な空間だ。

 

「私のキャラは変わり過ぎだと思う」はたては冷静に分析した「お嬢様だったり、立派な戦士だったり――恋する、乙女だったり」「わたくしはあまり変わりませぬな」文は首を振った。「いささか押しに弱い乙女扱いされがちではありますがね。童貞野郎は飯綱丸一人で十分ですよ」

 

「その言い方はないだろう」飯綱丸が口を挟んだ。「私はまあ、露出が少ないからと言って好き勝手に設定を盛られているな。シリアスなら私だって毅然として――」「私達、全員に押し倒された方の言葉とは思えませんが」椛がちくりと嫌味を――否、これは忌憚のない感想だろう。

 

「――して、おすすめはどれです? 一人一人、挙げて見なさる」皆は顔を見合わせた。「そうだな――『星の瞳』はどうだ。たまたま知り合った二人が、互いの瞳に星を見ながら、恋の障害を乗り越え、愛を叫ぶ。ロマンチックだぞ」飯綱丸は胸を張った。椛が尻尾をゆっくりと振った。

 

「あなたそれ、エロ短編の『私が、許そう』で椛に散々ヒイヒイ言わされた奴じゃないですか」飯綱丸は頭を掻いた。「単品で評価してくれ」椛が飯綱丸を見る。「まあ、いいでしょう。はたて、あなたはどうです?」「私は――『携帯を落としただけなのに』かな?」携帯を取り出す。

 

「携帯を落とした縁で椛と知り合って、色々あって思い切っちゃう話なんだ」「実際、思い切った事をしましたね。あれ、最後に椛の写真を撮ったのはわたくしめなのですよ」「だろうと思ってた」はたてはニコニコしている。「『そこまでは、あなたの背中』も捨てがたいけどね」

 

「文が大変な事になっちゃうけど、あなたの背中を越えて、私が成長するの」「はて、どちらもわたくし、当て馬にされておりますな」文は肩をすくめた。「……というか、片方は死んでおりますが。まあ、文句はありませぬ」「悲恋率もそうだが、死亡率も高いな」椛がにやついた。

 

椛の言葉に、文は憮然とした。「たった四回しか死んでおりません」「私が死んだのは、三回だけだ」「十分死んでますよ。第一あなたも、一度は一緒に死んだ仲ではないですか。『無償の愛』。あの時は嬉しくも悲しかったですよ。どうしてあそこで嘘でも好きだと言わないのです」

 

「私は自分に正直なんだ」「どちらも一回生き返ったしな」「『伝説の道具』『本物の心霊写真』ですか? あなただって一回は死んで生き返ったでしょうに」「『私は再び、成り上がる』? ……まあ、あの時は少しばかりトチったよ。とはいえ、大天狗には返り咲いていただろう」

 

「……普通、死なないよ?」「あなたも一回死んでいますよ。グロ短編の方で」「そうだっけ?」「『介錯して下さる?』ですよ」「ああ、あれかぁ。……すごく痛かったよ、文」「今思えば、椛はわたくしめをはたてを殺したナイフで刺すべきでしたな。意趣返しにもなったでしょうに」

 

どちらにしても死に過ぎですね、と文は頭を叩いた。その場の全員が同意した。「しかし、何だかんだ幸せになってるのもあるじゃないか。『乞いの新聞』とか」「終わってから当分、パパラッチを追い払うのが大変でしたよ」文はげんなりした。恐らく、霊夢とは上手くいっただろう。

 

「そうだな。『烏の華』『白狼の華』はどうだ、文?」「わたくしめに今もって、悲恋の話をなさる?」文がむくれた。「取られてしまったものは仕方がないでしょう。後はそう――静かに見守るしか」「面倒見はいいよね、文」「わたくしめの涙と引き換えですがね」話は、椛に回った。

 

「私は――そうですね、『戦利品』がいいです。バトル描写もありますしね」「お前が椛にベタ惚れだった奴だな」飯綱丸がニヤリと笑った。「あなたも『互いの枷』ではヘタレ全開だったではないですか」扇で仰ぎ、文は飯綱丸を見た。「あれは最終的に攻守逆転したからいいんだ」

 

「しかし何ですね、平和なのと言えば『誕生の日』くらいですか。お悩みも実際、可愛いものです」「椛≪ちゃん≫が自分の誕生日を忘れてたから悪いんだよ」「いえ、確かにそれは悪いのですが、ああいう言い方をされると――」「言い訳しない」「……はい」はたてが頬を膨らせた。

 

「はたてもモノを言うようになったじゃないですか。確実に尻に敷かれますね」「実際敷かれてたよね、飯綱丸様」「……『私は、私』か?」「何回もアプローチかけているのに無視するから、ああなるんだよ」「いや、あんな事をされれば、誰でも――」「言い訳しない」「……はい」

 

「しかし――『フカ効力』もそうですが、はたてさんは意外と強引ですね」「思い切りがいいの」はたては胸を張った。それに関して、椛は何度も巻き込まれている。「実家云々も振っ切りがちですね」「――そもそも、私の実家がお偉いさんって設定自体が、盛られたものだからね?」

 

「今更庶民の出と言われても遅いくらいには、当たり前になってしまいましたが」その場の全員が同意した。「私が大天狗同士で物理的に争っているというのもな」飯綱丸が扇を振りぬいて見せた。「あなたが強い、というのもそうではありませんか。位からしてヘボいとは思いませんが」

 

「お前は『傲慢で結構』『甘い考えは、捨てましょう』で散々戦ってたしな。手加減しすぎてヘマこいていたが」飯綱丸はここぞとばかり、文をつついた。「あれは大人げなかったですね」「手加減なんてされたら怒るに決まってるよ」立ち上がったはたての手に、薙刀が握られている。

 

「お? やりなさる?」文も何処からか薙刀を取り出し、両者睨み合った。「おう、行ってこい」飯綱丸の号令一下、遂に空中戦が始まった。「姫海棠も、案外血の気が多いのかもな」「喧嘩するほど仲が良いとも言いますが」「ふふん。喧嘩しすぎるとカップルになっちまうかな?」

 

「カップル――いえ、何でもありません」「どうした? 言いかけてやめるなよ?」「――行きずりの関係、と言うのでしょうか」椛は頭を振った。「『関係的には最悪だ』、か」「本人がいないので言いますが、文はああいう不器用な関係しか築けないのでしょうか」「かもな」

 

「それを言うなら姫海棠も――どうした?」「『あなたと私の、新たな関係』ですね」飯綱丸は、苦虫を噛み潰したような椛の顔を見た。「姫海棠も――そうだな、アレかもな」「あそこまで恐ろしい一面を見せられるとは思いませんでした」「文に至っては、空を奪われたようなもんだ」

 

「そういやお前、『素敵な、感触』で結構な事をやってたじゃないか。そういう趣味なのか?」「えっ、……いえ、そういう訳では、たぶん、ないです」「まあ、人には色々な趣味があるもんだ。いいんだぞ、隠さなくても」「はあ」「姫海棠だって、悪い気分じゃなかっただろうさ」

 

「しかしまあ、色々な一面が見出せるもんだな」飯綱丸はベンチに寝転がった。「迷惑ですね」「ああ、迷惑かもな」玩具にされている気もする、と飯綱丸は呟いた。「だがまあ、こうしてバカをやっていられるのも、筋書きを書いた奴のせいなんだ」寝転がったまま、飯綱丸は続ける。

 

「筋書きがなくなれば、この場の私達は止まる――いや、完結してしまう。いつかはそうなるだろうが」椛が耳をぴくぴくしている。聞き入っているのだ。「いつでも止められる。それは仕方のない事だ。だが――私達の今までの記録は残る。それを読み返す奴も、たまにはいるはずだ」

 

楽観すぎるかな、と飯綱丸は笑い、起き上がった。天の二人を見る。三十六本の風の槍と大竜巻がぶつかり合っている。「こうしてこの場にいるのも、数多くの知らない記憶を持っているのも、恐らくは仕組まれた事だろうな」椛も、二人を見守っている。「まあ、それはいいさ」

 

「どうだ、飛び込んでみるか?」椛は少し考えて、頷いた。剣に文の一部――烈しい風が通う。飯綱丸の両手に竜巻が現れる。「おう! 私達も混ぜてくれよ、お二人さん!」「私が一番弱いんじゃないか――なんて風評、ぶっとばしてやりますよ!」二人は叫び、戦場に飛び込んだ。

 

俄かに騒々しさを増した大空。のどかな風景。食べかけのサンドイッチ。次の世界はどうなるだろう。次の世界は、優しいだろうか。厳しいだろうか。それとも、驚くような事に巻き込まれるだろうか。……また、死んだりするだろうか。それとも、生き返ったりもするだろうか。

 

未来は、まだわからない。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「あのう、飯綱丸様――わたくしは?」

 

「お前、出番少ないからな」

 




(2021/9/15 現在)
―R-15―
 烏の華
 星の瞳
 乞いの新聞
 誕生の日
 携帯を落としただけなのに
 戦利品
 そこまでは、あなたの背中
 無償の愛
 白狼の華

 私は再び、成り上がる
 本物の心霊写真

 伝説の道具

 傲慢で結構
 甘い考えは、捨てましょう

―R-18(裏)―
 私が、許そう
 私は、私
 互いの枷
 フカ効力

 関係的には最悪だ
 あなたと私の、新たな関係

―R-18(闇)―
 素敵な、感触

―R-18(血)―
 介錯して下さる?



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兎達の幕間

―兎達の幕間―

 

ここは幕間。如何なる常識も通じぬ場所。どれだけキャラを崩壊させても、メタを説いても構わぬ場所。海。おだやかな潮騒。彼女らはビーチマットに座っていた。各々が好きな食事を持ち寄り、とりとめのない話をしている。爽やかな潮風が抜ける。なんとものどかで、平和な空間だ。

 

「のどかじゃないやい」鈴瑚が第四の壁にソバットをかました。「幕間の話がしたくて名前まで変えただろ。……まあ、それはいい。何で私達はこんなに死ななくちゃならないのさ」「そうだそうだ」清蘭が同意した。意味を理解しているかはともかく。「……確かにまあ、死に過ぎよね」

 

「清蘭が死んだのが未遂も含めて八回、鈴瑚に至っては十回も死んでる」鈴仙がうんうん、と頷いた。鈴瑚は帽子を指でくるくるさせている。「それを言ったら鈴仙だって四回死んでるし、それどころか私達を直接殺してるじゃないか」鈴瑚は首を撫でた。清蘭も少し、気持ち悪そうだ。

 

「『あなたの希望は、もうないのよ』?――仕方ないじゃない。仕掛けてきたのはあなた達だし」「しかも斬首に興奮してた」「やってみたら、案外快感だったのよ」「おっかないな」鈴瑚は呆れている。「あなたも一辺、やってみる?」鈴仙が首を、指で横に撫でた。「いや、やめとく」

 

「私はその点、健康そのもの――そういや、一回死んでるな。守備力が2,000以下だったからね」「『困った時は永琳に投げる』ね。私だって巻き込まれたわよ。二回も溶かされるとは思わなかったし」悪い悪い、と軽々しく謝りながら、てゐは頭を掻いた。全員がため息を吐いた。

 

「それに、『首が折れればやはり死ぬ』も危なかったじゃない。私がいなかったら確実に死亡カウントが一つ増えてたわよ」「ああ、そうだった。あの時は随分とお客さんが来たね」てゐが首を押さえた。「どうも、私らは首のトラブルにご縁があるね」「斬る?」「だから嫌だって」

 

「まあ、それはともかくとして。鈴仙、君だけずるいんじゃないか」「ずるいって?」「専用のモーションが一杯あるじゃないか。手首を振って銃を出したり、スピンさせて消したり、赤いマフラーをたなびかしたり」「格好良いでしょ?」「くそう、私だって何か良い格好したいぞ」

 

「十分アクションしてると思うけど?」「ほら、『私には仲間がいた』とか」「アクションだけなら『あなたの希望は、もうないのよ』も良いけどさ」「やっぱり首斬りたい?――いいわよ?」「何で君は、そんなに首を斬られたいんだ」鈴瑚はヒいていた。「ちょっと、快感かもって」

 

「幕間じゃなきゃ正気を疑われるな」「私は、専用モーションとかはないかな……?」清蘭が首を捻った。「いつも狙撃銃を持ってるのが十分専用だと思うけどさ」「そっか。そうだよね。あの時、鈴瑚の頭をパァンした時は気持ちよかったな」清蘭と鈴仙が顔を見合わせて、笑った。

 

「『二つのリング』か。……いや、清蘭まで何を言い出すんだ」「その後はすごく悲しかったけどね。『機械のあなた』もそんな感じ」「私は君の助けになったかい?」「うん」最後は嬉しかったよ。清蘭はにこにこしている。「あんたらは物騒な話しかできないのかね」てゐが呆れた。

 

「そうでもない――と思うけどな。『幸せの兎』とか」清蘭が耳を立てた。「あの時は楽しかったね」「ああ、鈴瑚がいくじなしだった奴ね」「あれだけお膳立てされて、何もできないってのはちょっと、ねえ?」鈴仙とてゐが、鈴瑚をいじめている。「――むっ。いいさ。他にもある」

 

「『右の棚の真ん中の横の引き出しの奥』」「――長いわね、名前」内容はどうなの、と鈴仙は手招いた。「140文字の情景って奴だ。内容は清蘭観察日記だけどさ」「――私、観察されてたの?」「まあ、見てて飽きない」清蘭は不服そうだ。「私だって、とっておきがあるもんね」

 

「『最強』。文字通り最強の私が見られるわ」「最後はまあ、残念だったかもな」「私や鈴瑚は安定してるけど、清蘭は結構性格変わるね」てゐがししし、と笑った。「『赤い兎』だと堅物の敗残兵、『おうどん』だと不思議ちゃんだ。『兎狩り』だと、優秀な兵士さんをやってる」

 

「えへへ。……いや、まあ、それはいいのよ」清蘭の顔が険しくなった。「ギャグだと、私の扱いひどくない?『蒼き死よ、来たれ』とか、私が何人死んだかわからないくらいだし、『サイコセイラン』だと変な奴に危うく殺されそうになるし」「割と自業自得な気もするけどな」

 

「後は――『名探偵清蘭』か。これ、迷の字をつけるのもおこがましいというか……」「鈴瑚が死んでるのが悪いんだよ!」「だから死んでないって」両者、睨み合い。「やるか?」「負けないよ!」やにわに清蘭と鈴瑚が取っ組み合いを始めた。漫画めいた砂煙を起こし、格闘している。

 

「やれやれ、こうやっていつも喧嘩になるんだねえ」てゐが首をすくめた。鈴仙はふふ、と笑っている。「ところで鈴仙ちゃんや、あんたは清蘭と鈴瑚が言うように、シリアスな話が多いね」「そうかしら?」「『跳ねる玉兎』とかさ。あの時、私が見つけてやらなきゃどうなってたか」

 

「『私の目を見なさい』もそうかしら。清蘭の狂気を解いたのが、本当に良い方向に転ぶかどうかは――わからなかったわね」「後悔はしてないんだろ?」「まあね」鈴仙は瞳を紅らめ、まぶたをなぞった。「『狂った世界』もそうだろ?」「あれは――あまり思い出したくないわ」

 

鈴仙は側頭部に指を当て、掻いた。「割とすぐに死にたがるんだもんな、鈴仙ちゃんは」「未遂も含めても、二回しかしてないわよ」「十分、健康に悪いよ」ししし、とてゐは笑った。「健康に悪いと言えばさ――あれ、どうなったんだろうね?『被写体にならないか、って』」

 

「あの清蘭はもうダメね。食欲に完全に負けてる。その内鈴瑚と同じくらいになっちゃうんじゃないかしら」「鈴仙ちゃんだって写真屋に出入りしてたじゃない?」「私はいいのよ。節度を守って大食いしているんだから」鈴仙が首を振り、ふっ、と笑った。実際、その後はわからない。

 

「てゐだって、私がいなくなってから、新しい恋人に随分とお熱じゃない。『億千万の恋』であんなに好き合ったのに」「そこをつつくかい?」「別に、怒ったりしないわ。私なら、幸せになって欲しい――って、願うと思うもの」「ありがとう。嬉しいよ」てゐが、鈴仙の頭を撫でた。

 

「『余命幾許もなし』『≪嘘≫を守り通そう』――か。死神となんて、珍しいカップルじゃない?」「運命的な出会いかもしれないよ?」命の恩人だしね、とてゐは笑った。「『いたずらな蝶々』なんて、まさに。少しばかり、理由がみみっちいだけでさ」「あれはサグメ様が、ねえ……」

 

「そういえば、その話にも小町は出てたっけ」「うーん、やっぱり珍しいと思うわよ」「まあね。探してもほとんど見つかんなかった。同じステージにいたんだけどさ」「それだけだと、やっぱりペンギンじゃない……?」「いつか大人気になるかもしれないよ」鈴仙は耳をかしげた。

 

てゐがししし、と笑う。「まあ、いろんな愛の形があるさね。『お預け』もそうさ」「結構、変態的な事をやってたわね……」「あのくらいは普通さ。私から見ればね」てゐが、飛んできたビーチボールを投げ返す。「てゐ様にかかれば、並の相手なんか十人かかってきても――」

 

「そういう事を言う奴ほど、押しに弱い――って、師匠に聞いたわよ」「永琳も意外と俗っぽい事を言うね」てゐは耳を振った。「まあ、私がどうなるかは、まだ先の話。未来は誰にもわかりゃしない。言葉を一つ打ち間違えるだけで、その後はまったく変わってしまうかもしれないさ」

 

てゐはクーラーボックスから、にんじんジュースを取り出した。「飲む?」「頂戴」バカ二人はまだ、喧嘩の途中だ。取っ組み合いに飽きたのか、妖怪兎を巻き込み、砂で陣地を作って撃ち合いに興じている。手榴弾が飛んだ。緊急回避した鈴瑚のいた場所の砂が、思いっきりえぐれる。

 

「折角だし遊んできなよ、鈴仙」「そうね」鈴仙はにんじんジュースを呷ると、手首を振り、狂気の銃を取り出した。口元がたなびくマフラーに覆われる。狂気の瞳が紅い軌跡を描いた。「第三勢力よ!――さあ、覚悟なさい!」三発の銃弾が妖怪兎を三体、ピコリと叩いた。みねうちだ。

 

「おっ、やるのか鈴仙?」「負けないんだから!」

 

バカが増えた。いいんだ。みんなバカで丁度いい。てゐは笑った。優雅ににんじんジュースを傾けながら、思いを巡らせる。今、私の恋の行方。幾百年の先、心に芽生えた新たな恋。鈴仙はどう生きる。清蘭と鈴瑚も。愛する人を、幸せにしてやれるだろうか。皆、これからどうなるだろう?

 

てゐはぶんぶん、と頭を振った。いいや、違う。どうなるかじゃない。どう転がしてやるかだ。運命のサイコロとやらは意地悪で、冷徹で、時には優しい。私達の生き様を紡ぐもの。逆らえぬもの。認識すらできないもの。てゐは頭を掻いた。その動作すら、或いは誰かに仕組まれたもの。

 

けれど私達は、時にそれを逆らう術を持っている。私達が自由に動き回れば、サイコロを蹴飛ばしてやる事だってできるはずさ。てゐはししし、と笑った。誰にでもない。自分自身に笑いかけた。すべてを茶化すようでいて、てゐは物事をじっと見据えている。或いは、自分自身さえも。

 

にんじんジュースを口にした。こんな平和が、長く続けばいいのに。まあ、そうはいかないのはわかってる。私が覚えているすべての知らない記憶は、やがて新たな記憶を受け入れるだろう。次の記憶は、楽しいだろうか。辛く苦しいだろうか。それとも、バカみたいに笑っていられるか。

 

まあ、何とでもなるさ。てゐはにんじんジュースを飲み切り、新たに何かを取り出そうとした。スイカがあった。明らかにクーラーボックスの容量を超えているが、てゐは特に気にする事もなく、それを引きずり出した。後でこれを割って遊ぼう。てゐは更に飲み物を漁ろうとして――

 

「てゐ! 前、前見なさい!!」鈴仙の大声が、考えにふけるてゐの耳を貫いた。「何だね鈴仙ちゃん、今私はとても重要で意義のある事を考えて――」前を見た。何もない。てゐは首をかしげ――それは、足元に転がっていた。手榴弾。残り、都合一秒。てゐは目を見開き――

 

「ギャ――ッ!?」

 

運命は、誰にもわからない。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

(2021/9/19 現在)

―R-15―

 億千万の恋

 余命幾許もなし

 ≪嘘≫を守り通そう

 

 跳ねる玉兎

 赤い兎

 兎狩り

 最強

 私の目を見なさい

 

 幸せの兎

 おうどん

 困った時は永琳に投げる

 首が折れればやはり死ぬ

 右の棚の真ん中の横の引き出しの奥

 

 蒼き死よ、来たれ

 兎達と地の文

 いたずらな蝶々

 サイコセイラン

 名探偵清蘭

 

―R-18(裏)―

 お預け

 

―R-18(闇)―

 被写体にならないか、って

 

―R-18(血)―

 狂った世界

 機械のあなた

 あなたの希望は、もうないのよ

 私には仲間がいた

 二つのリング

 



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―恋愛―
烏の華


―烏の華―

 

高嶺の花、気高き花をめぐる醜い争いは多くの脱落者を迎え、今や三者のせめぎ合いにあった。博徒共が喚いていたが、それはどうでもいい。上司の上司が強権でもって手を回し、嫌らしいあいつは度々舌を高速回転させていたが、最後に選ばれたのは私だった。私は勝ち取ったのだ! 

 

…だが。しかし。素直に喜べはしなかった。顔も知らぬ上司の事はどうでもいい。だが。しかしだ。私は心が青ざめるのを感じた。はたてを愛していないはずがない。傍にある事を狂おしく思う。しかし、しかし…彼女がほほえみかける度、私の中にあの女の影がちらつくのだ。一体何故だ。自問は私に何の答えももたらさなかった。今この瞬間も、敗北した奴の顔を思い出してしまう。

 

或いは、私に負い目があるのか? あの女に? そんな馬鹿な話はない。口を開けば世迷言。こちらを舐め腐ったような顔。口調。態度。いつか噛みついて…否、フライドチキンにしてやろうと思っていたくらいだ。…今はどうだ? 今しばらく、奴の顔を見ていないではないか?

 

「最近見ないね、文」彼女が耳をまさぐる。いつもの癖だ。構いはしない。手を捻じ込まれた時は流石に堪えたが、それはどうでもいい。「一緒に遊びたいのに」彼女は己が如何なる空騒ぎを引き起こしたかを理解していない。無垢で、純真だ。眩しくなるほどに。

 

そうですね、と返事をする。上の空だな。自分でもわかる。彼女は不満げに尻尾をしごき始めた。この遊びは正直止めてほしい。

 

…その時だった、視界を何かがかすめたのは。見たくないものこそ"観えて"しまう。千里眼とはそういうものだ。そちらに視線を向ける。視界が無限大に収束する。…心が青ざめるのを感じる。そこにいたのは、あいつだ。

 

映る翼が、静かに向き直る。視線が合った。確かにこちらを知覚している。お前は何をするものか。私の問いに、あいつは答えを見せた。

 

――刹那、あいつは彼方へ飛び去った。それ以上追う気にはなれなかった。壊れんばかりに震えていた。心も。肉体さえも。

 

 

 

「好きだったよ」そう呟いた。確かに見た。涙が落ちるのを、見てしまった。

 

 

 

「どうしたの?」どうもこうもない。どうしてそんな事を言うんだ。お前は。お前は。いつもの嘘であってくれ。からかいだと言ってくれ。言え。「…何でもありません」やにわに肩を抱き寄せる。これは最初の嘘だ。最後の嘘であれるだろうか。

 

頬を赤らめる彼女の顔は、眩しい。咎に立ち、燃え尽きたくなるほどに。



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星の瞳

―星の瞳―

 

天体観測が趣味であると言うと、およそ誰もが適当に話を合わせようとする。ロマンチックですね。今度連れて行ってくださいよ。まったく心外である。私が何と呼ばれているのかを知らぬらしい。まあ、自称した事もないが。

 

私が三脚を担いで山々を巡るのは、何も撮影の為だけではない。闇を楽しみ、光を楽しむ。曖昧さが作り出す、無限のコントラストを楽しむ。己が力はこの世の如何様な星空をも再現してみせる。この世に存在しないそれも、だ。見えざる星々は、無限大の星座を覆い隠しているものだ。

 

がさり、と音が鳴った。珍しい事ではない。風か、獣か。どちらにせよ、私を害す事などできはしない。今の私は、最高の瞬間を写すのに忙しいのだ。しかして音は二度聞こえた。これは面倒であろうか。人も獣も、群れると気が大きくなるものだ…

 

「失礼致します」いたずらな風が口を利いた。思い当たる友の声ではない。仕方なく顔を上げ、振り向くと、そこには白狼天狗が跪いていた。面識は、ない。まだ若いようだが、中々の腕前と見る。この私を振り向かせたのだから。

 

「今宵はここで見張りをせねばなりません」申し訳なさそうに白狼は言う。配置転換はよくある話だ。私も戯れに配置オセロを…いや、それはいい。「嫌だと言ったら?」悪いが、先んじたのはこちらである。梃子でも動かんぞ。

 

「…ご一緒させて頂いても、よろしいですか」おう、中々ぶしつけな事を言う。これはナンパか? 或いは命令通りにしか動けぬ堅物野郎か?

 

「ああ」一人増えた所で、星空が霞む訳でもあるまい。それに、私を面白がらせる時点で上々だ。命令を与えられると白狼はしめやかに傍の木に昇り、警戒を始めた。何者も現れぬとはいえ、万が一という事はある。時にそれは身内から発生するのだから、如何にも始末が悪い。

 

しかしなんだ、二人きりか。こういう機会は滅多にない。大天狗ともあらば黙っていても部下が連なってくる。中には特に用事のない連中もいる。暇ならオセロでもやっておれ。…かくして雑念を温めていると、ふと雑念の親玉が飛び出した。話を振ってみれば良いのだ。試しにな。

 

「白狼よ、星は分かるか」どうせ、とは思わなくもないが。「わかりません」その返答は少々、予想とは違っていた。大天狗に向かってなんだそのすげない反応は。「しかして、必要であらば覚えて見せましょう」その返答も、予想とは如何にも違っていた。

 

「…よし、簡単な所から教えてやろう」興が乗った。話のわかる奴――いや、わかってはいないのだが――にはこちらも興味はある。天に向けた指先をくるりと回す。天蓋が回る。季節感も何もあったものではないが、この際だ。「あれがこいぬ座、これがおおいぬ座」星と星とを光の線で繋いで見せる。

 

「…これは、難しいものですね」そうだろう、そうだろう。私だって少々想像力豊かすぎると思わなくはないぞ。「先人は暇だったかもしれないが、そのおかげで今の私たちは暇の産物を見て思いを巡らせるのだな、と…」白狼はじっと空を見ている。おい、このままだと見張りにならないのではないか?

 

…まあいいか。誘ったのは私だ。私に文句をつけられる気概のある奴はおるまい。まあ、今しばらくは私が下を見ていてやるか。狼を上に、烏は下に。普通は逆だろうにな。この際だから遠吠えでもしてやろうか? ワオーン、とな。

 

「――ワオオオォォン!!」うわっ。…びっくりした。なんだ、緊急招集か? 「飯綱丸様、少々…"猪が"紛れ込んだようです。私は行きます」剣を取り背を向ける白狼。機敏な奴だ。やる気のない下っ端共は見習うべきだな。だが。「待て」言葉をかける。引き留める。引かれた彼女がさっと振り向く。

 

「名を聞いていない」必要がある訳ではない。その場の気紛れだ。ただ一つ、覚えておきたかった。「犬走、椛と申します」「…良い名だ」毅然とした顔が輝いている。…否、彼女の瞳がまるで星空のように光を湛えているのだ。…光を? 瞬きをした瞬間にはもう、光は見えなかった。

 

「…それでは」「あ、ああ」それ以上は問う言葉もなく、彼女は呆けた私の視界から飛び去っていった。…星、か。私とした事が、何を惑わされた? 釈然としない思いで三脚を片付ける。もうここにいる理由も…理由も? …何故理由が必要なのだ? おかしい、今日の私はどうかしているな…

 

白んできた空に背を向けて、ぼんやりとした頭で歩き去る。

 

星の瞳、星か…

 

あの時の私は、何のまやかしを見たんだ? 何故こんなにも気になって仕方がないんだ?

 

◇◆◇◆◇◆

 

雲一つない夜空だった。何者も邪魔立てできない世界。私の為の世界。星。星。…星の浮かんだ瞳、彼女の瞳…明るく、輝いて…

 

「飯綱丸様!」ぼうっとしていた所に最悪の目覚ましだ。「お連れしましたよ、カノジョさん!」お前、次その呼び方したらぶっとばすからな。典を睨んでいると、なるほど彼女が、ゆっくりとした歩みで現れた。武装を解いた姿は、一回り縮んだようにも見える。

 

「誰にも見られてはいないか」詳細は省くが、これは少々危険な火遊びである。「いいえ、この子が連れ出してくれましたから」彼女にとっても、これは少なからぬ問題を抱えかねない話であったが、いざとなれば私の力でどうとでもなる。こうして来てくれたのだから、良しとしよう。

 

「星を見せてくださるのですね」心なしか態度が軟化したように思える。気のせいかもしれない。内心はどうあれ、彼女は相当の堅物と見た。忠実な姿勢はは嫌いではない。「そう思って呼んだ」悪いとは思うが、軽率に頭を下げるような真似はできない。私は大天狗だ。地位には相応の振る舞いが伴う。

 

「さて、これはだな…」「からす座」…少し驚いた顔をしすぎたかもしれない。「覚えました。少しだけですが」…ああ、中々の向上心だ。「あれは…暗めの星だが、見えるか?」「はい。目は少しばかり良いので」実際、彼女には星の瞬き、そのすべてが見えているようだった。

 

彼女は覚えが早かった。夜空は光の線で埋まった。指を回す。天蓋が回る。知らない夜空がやってくる。そんな事を幾度か繰り返す内、ふと見た彼女の顔は…そうだ。そうなのだ。その瞳は光を湛え、輝いていた。僅か一瞬の内に消えてしまうのも、同じだ。

 

不思議だった。彼女の瞳を見る度に、自分の中で情が膨らんでいくのを感じる。まやかされているのか。己の迷いか。戸惑いはすれど、その原因は確信めいていた。私は魅入られている。彼女の瞳か。…それとも、彼女にか?

 

瞳について問いただす事もできたが、私はそうしたくなかったから、そうしなかった。聞いてしまえば今の関係が崩れてしまう気がしたからだ。…そう。これは戯れだ。決して入れ込んではならない、火遊びに過ぎない。私がそうしたいから、そうした。彼女はどうだろう。わからない。

 

「カノジョさん、あのね!」つまらなさそうに脚をブラブラさせていた典が、いつの間にか彼女の後ろに立っていた。これは何やら余計な事を思いついたな。わかってはいるが、咎めるにも奴は早い。軽口が流れ込む。混ざり込む。捻じ込まれる。

 

「…!!」耳打ちされた彼女はきょとんとし。さっと頬が赤らみ、そして肩を抱いてしゃがみ込んだ。見ているこちらが恥ずかしくなるような反応だ。そして私にも、見る必要のない"反応"が湧いてくる訳だ。わかるか。性悪狐。

 

「お前、一体何を吹き込んだんだ」「えぇ~? 聞きたいですか~?」こいつはどうしてこうなんだ。「いい」付き合うだけ時間を損する。利益は最大限に、負債は最小限に。この鉄則を守れなければ、管狐はいとも簡単に宿主を食い潰してしまう。

 

「は~い」典は如何にもニヤつきながら毛づくろいを始めた。…やけに素直だ。こういう時はロクな事が起こらない。今度一発シメてやらねば。先の予定にしこたま典の調教を入れてやる。

 

「仕方のない奴め…」こんな奴でも役には立つのだ。私が今の地位にあるのもこいつの働きがあるからこそ。故に手放せない。手放せばどうなるかを考えたくもない。「飯綱丸様」助けを求めるように彼女が呟いた。おうおう、悪いのはそこの――あれ、何処に行った?――狐野郎だ。落ち着いてくれ。

 

「…」声にならない何かが聞こえる。腰を落とした彼女は頬を赤くしながらも、まったくの不動。そこまで堅物らしく振る舞わなくての良いのではないか。隣に座って、背中を叩いてやる。…駄目だ、完全に固まり切っている。…それなら、これはどうだろうか? 

 

かさり。かさり。

 

彼女の身体にもたれかかる。一瞬びくり、と震えたが、身体は間もなく身体を支えた。私とて女だ。受け止められたい時くらい、ある。或いはお前を、受け止めてやれるかもしれない。それは決めてもいい。決めなくてもいい。焦る事はないさ、もしも、もしも、近くにいられるなら。

 

「なあ、椛…」何を言うかは決めていなかった。何を言おうとしているかはわかっていた。ただもう少し、お前を近くに置きたかったんだ。それはわかって欲しい。私は決して、そんなつもりではなかったんだ…

 

風切り。風切り。そして唸り声。夜空を覆い隠すように、黒、黒、黒い影が舞い降りる。白狼天狗。烏天狗。並みの数ではない。人の壁はたちまちの内に、幾重にも私達を囲んでいく。咄嗟に…駄目だ、逃れられない!

 

「お戯れを」烏の一人が無礼を吐いた。「お前達に何事もされる謂れはない」若干の威圧を込める。私は大天狗だぞ。お前達よりずっと偉いんだぞ。「去れ」いくばくかの壁が動揺したように見えた。されど統制は揺るがない。

 

「お引き取りくださいませ」違う烏が無礼を…承知で吐いている。されば答えは一つしかない。私よりも上からの命令だな。居場所を知られたのは…典か! あの悪戯者め。しかし、こうなっては私とて何もできない。組織は盲従せぬ者に残酷だ。もはや駒の一人すら、私の手で動かす事はできない。

 

…いや、一人だけは違う。違うはずだ。彼女は何としても、私が庇ってやらねばならない。…ならなかった。身分の違いは命の違い。言い訳にしかならないが、山の老人達がここまでやろうとは、思わなかった、のだ。

 

「わかっています」彼女は抵抗しなかった。後ろ姿が、毅然とした声が、遠ざかっていく。私はともかく、彼女は何をされるかわかったものではない。しゃにむに近付こうとするが、駄目だ。どうあっても多勢に無勢…!

 

「すみません、飯綱丸様…」白い毛並みは壁の中に埋もれ、見えなくなった。謝る必要があるのは、私の方だろうに!

 

◇◆◇◆◇◆

 

牢の扉が、ガチャリガチャリと音を立てる。倒れ伏した私は、耳だけを向けてそれを聴いていた。常人であればこのような時こそ、何者かの助けを期待するものだろう。けれど、けれど、今の私にそれは聞きたくもない音だった。私がどのように処断されようとも、飯綱丸様の迷惑になってしまう。

 

ならば、いっそこのまま…

 

「思慮が足りませんね、犬コロ」

 

踏み込んできた"助け"は、想像していたよりもガサツで、腹の立つ奴だった。

 

じゃらじゃらと鍵束をかき鳴らしながら、見覚えのある高下駄が踏み込んでくる。誰も頼んでなどいないのに、そういう時こそしゃしゃり出るのがあいつだ。私はよく知っている。思い知らされている。これ以上、私をかき乱さないでほしい。

 

「…何をしにきたんですか。規則違反でしょう」「規則破りは不良天狗にお任せあれ」最もな事を言い、あいつは飄々とお辞儀をして見せた。慇懃無礼。こういう、人を小馬鹿にしたような態度が気に食わない。腹立たしくも仕方なく起き上がった私の傍で、一本足の主が見下ろしている。

 

「上の方が何故癇癪を起こしたかわかりますか? 枯れた時分に見せつけられて、少しばかりイラついたのでしょう…おや、なんですかその顔は」こいつの言葉は常に疑わしい。(なにしろわたくし、生まれてこの方嘘を申した事がなく)しかし、嘘ばかりでもない。嘘を吐き、真実も放る。

 

「飯綱丸の事が好きなんでしょう、あなた」根掘り葉掘り聞かれるであろう言葉に、それでも動揺してしまった。好き。そうだろうか。そうなのだろうか。雲の上の存在を、私などが好いても良いのだろうか。私にはわからない。私の心は、わかるようにはできていない。

 

あの人が私の目を覗き込む度に観えた、星空のような輝きが忘れられない。忘れようがあるものか。それが何かを確かめたくて、私は…危険を承知で飯綱丸様の誘いに従ったのではなかったか。

 

「自由恋愛に目くじら立てるなんてのは今日び流行りませんがねェ」下劣な瞳がせせら笑う。「通すべき筋というものがあり、あなたがたはそれを踏み越えてしまった」あいつはすらすらと語り続ける。「まァ要するに、それなりの身分差を意識して付き合いましょうね、という事です。わかります?」

 

「大体飯綱丸が迂闊なのですがね。上に立つ者は立つ者らしく、はしっこく振る舞るべきだと…おやおや、そんな怖い顔をなさらないで?」こいつには飯綱丸様に対する敬意が感じられない。私の事はこの際構わないが、あの人を侮辱するのは腹が立った。「それはまあ、ともかくとして」

 

「このままでは一生、接触を禁じられるでしょうね。それでも随分と寛大な処置でありましょう」心が青ざめるのを感じる。覚悟はしていた。足りなかった。私はもはや二度と、あの人の顔を見る事はできないのか? あの星が何なのか、確かめる事もできないのか…?

 

「それで、あなたは何かできますか?」あいつは顎に手を当て、こちらを上から覗き込んだ。「何もできないでしょう。あなたは」お前はそんな事を言う為にここへ来たのか。悲愴と共に、怒りが湧いた。そうだ、私には何もできない。一介の白狼に何ができるものか。私には、何も…!

 

「あなただけ、ではね」あいつは立ち上がった。「あなたにはできない。わたしにも無理です。ならば、合わさればどうでしょうか」言葉の意味が飲み込めない。手枷が外される。立ち上がる。あいつの顔を見た。ニヤニヤ笑いは、消えていた。

 

「あなた、飼い犬になる気はなくて?」

 

◇◆◇◆◇◆

 

宵闇の空を突っ切って、飛んだ。遠吠えがいくつも、方々から聞こえた。私は罪を犯したのだ。追いすがる同僚の剣を受け止め、払い、叩き落とす。何彼の声は、私には届かない。決めたのだ。もはや飛び込むしかない。

 

辺りの騒々しさに反して、私に向かい立つ影は少ない。あいつの嘘八百で情報が錯綜している。月のない夜も、星々の暗幕をも、私の味方をしているようだった。目指すは大天狗の住処、高き山の上、更に上! 白狼の領域の突っ切る。烏の領域へと押し通る!

 

人影は、ない。あいつのでたらめ千万は最大限の効果を上げたに違いなかった。…逃げおおせたと、油断していたのかもしれない。視界の端に何かが映った。それを確かめる間もなく、弾丸が脇腹を殴り付けた。"何か"はもはや眼前にある。烏が三人。…疾い、あまりにも疾い。

 

「終わりだ、犬風情が」咄嗟の剣は、烏に届かない。反撃の裏拳を避け切れず、私は意識を手放しかける。…まだだ。まだ剣は握れる。睨む烏が風を繰る。彼らはまだ私を捕えるつもりなのだ。渦巻くそれは風の牢獄。少しでも身じろぎすれば、ばらばらに切り刻まれるだろう。だが。

 

私の背後から撃ち込まれた風の槍が、そのすべてをかき消してしまった。「どうです、そんな犬コロは放っておいて、私と遊びません、かッ!!」弾丸が無防備な烏を撃ち落とす。おもむろに風を繰る烏を先んじて、竜巻の壁が幾重にも発生する。「さあ、行きなさい!」

 

言われずとも、こいつの事は見捨てるつもりだった。せいぜいかき乱して無事に帰ってくれば、それでいい。目前に大天狗の住処が見える。教えられた建物は…見えた! あそこだ!

 

「飯綱丸様――ッ!!」あなたに叫んだ。胸よ壊れよと叫んだ。訓練でもこれほど叫ぶ事はなかっただろう。「私を飼ってください――! お傍に置いてください――!!」樹上の楼閣。高きの回廊。私とあなたを阻むもの。飛び込む。…飛び込む! 飛び込む!!

 

グワッシャアアン!! 私の稼ぎでは一生償えぬであろうガラス張りの戸はばらばらに砕け散った。器物損壊を問われようとも、今更構うものか。左を向き、右を向き…「飯綱丸様――」探し求めていた影が、そこに佇んでいた。「聞こえていたよ」表情は闇に遮られ、伺えない。

 

「典、今度は戯れるなよ。…行け」人払いを命じられた管狐は、至極つまらなさそうな顔で、ふよふよと破壊された戸から出て行った。勅命なくば、大天狗の住処に立ち入る事は許されない。それを誇示するだけでいい。そこへ飛び込んだ私は…考えない事にする。

 

「夜空の下でくらい、対等な関係でありたいと思った。それがよくなかったのだな」身に余る光栄でした。「すまなかった」何故詫びる必要があるのですか。「飯綱丸様」…私が何と言おうとも、あなたの後悔を消し去る事はできないのでしょうか。

 

「どうして、此処まで来てくれた」どうして。それを聞かれるのは、とても恐ろしくも狂おしく感じられた。「どうして、待っていてくださったのですか」空を覆う暗雲が彼方へ飛び去り、星々の光が部屋から闇を消し去っていく。おまえの顔は、悲しげだった。あなたの顔は、悲しげでした。

 

 

 

「おまえの瞳に映る星が知りたかった」「あなたの瞳に映る星を知りたかったのです」

 

 

 

なんだ。同じだったのか。おまえに魅入られていたのは。あなたに惹かれていたのは。

 

「あなたの飼い犬でいさせてください」あなたの手が遮った。「それでいいのか」そうと決まれば、決して対等にはなれぬ関係だ。それでも構わない。あなたとの繋がりがあれば、それだけで構わない。構わないから。「わかった」遮る手が、こちらに伸びた。「私のものになれ」肩が、震えた。

 

互いに身を寄せ、星を見た。私達の瞳に星が輝いていた。

 

 



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乞いの新聞

―乞いの新聞―

 

「暑い」太陽にぼやいた。勿論返事はない。初夏というのは真夏の言い間違いだったに違いない。お年寄りは軟弱者めと説くけれど、今時根性論なんて流行らない。暑ければ茹だる。それは自然の摂理だ。それに人間が逆らおうなんて、おこがましいと思わんかね。

 

「アイスクリーム、かき氷、みつまめ、メロンジュース…」何を言っているのかって? 口から出るものは仕方がない。何でも里では氷が簡単に手に入るようになったとかで、随分涼しい思いをしているらしいじゃないか。ついでにこっちにも届けてほしいものだ。

 

「――なるほど。暑いければここで一つ、頭の冷めるような――失敬、覚めるような記事をお手に取ってください」

 

不意に飛来した物体。畳まれたなにか。それはささやかな風に乗って、郵便受けに叩き込まれた。この程度の風でも、確かに涼しく、ありがたいけどね。新聞はどうでもいいから、扇風機代わりに吹き続けてくれないかしら。「ごきげんうるわしゅう、博麗の巫女」今ムカついてきた所よ。

 

郵便受け――アイツが境内や階段、或いは部屋の中までゴミを散らすので、仕方なく設置したのだ。まあ、他に荷物が来るあてもないし、目一杯になるまで引き出す事はないのだけれど。焚き付けの自動配布と考えれば、まあ悪くはない。ついでに金券でも入れておいてくれれば、なお良いのだけれど。

 

「そんな所に立たない」投手は鳥居の上に立っていた。一本足で。見下ろすように。「あやや、これは失敬」当然のようにどこうとはしない。心にもない事を言うなら、最初から謝る――コイツの場合、謝ってすらいなくない?――必要なんてないのに。馬鹿らしくなって掃除を再開する。箒がしなる。

 

「社会の木鐸、読んでいただけましたかな?」やかましい。アンタのそれが木鐸なら、世の中煩くて構わないわよ。「なに、読んでいただかなくても結構。情報は水物。今日の無関心は明日の興心。次から熟読していただければ構いませんとも!」失礼の権化が、大仰に腕を開いて見せる。

 

その顔は影になってよく見えないけれど、どうせ下品な笑みを浮かべているに違いない。「それで? チリ紙配達が終わったのなら、さっさと帰りなさいよ。私は忙しいの」嘘でも本当でもない。掃除なんてしなくてもいいし、するなら徹底的にやる。やるならやらねば。やらずばやろう。今日のうち。

 

いつも綺麗にしていても、どうせ妖怪くらいしか来ないし、しかして妖怪は来る。だらしないと思われるのは癪に障る。「そう邪険に致しますな。今日はちょいと所用があるのです」いつの間にか手元に、カメラ。それをアイツは振って見せた。そういえば、肩口からゴミ袋とは別の鞄を下げていた。

 

「一枚撮らせていただきたい。やや、お気に召すなら何枚でも!」カメラを覗いてみせるアイツの顔は、相変わらず伺えない。あのオモチャは確か、太陽を背にした方が、映りが良いのだっけ。まあ、映る気はこれっぽっちもないけれど。目を合わせるのもばからしい。さあ、掃除掃除。

 

「目線を頂戴」嫌よ。魂が引かれるなんて迷信を信じるより先に、こいつに顔を与えたら、何に使われるかわかったもんじゃない。憮然とする私の背後に、少しばかりの風が動いた。「ねえ、いいじゃないですか。減るもんじゃなし」減るわよ。貴重な時間とか。私の自尊心とか。

 

「魔理沙さんは、快く取らせて頂けましたがねェ」びくり。緊張が伝わっていなければいいけれど。…いや、伝わったな。これは。振り向いた先に、いやらしいニヤニヤ笑いが値踏みするような視線を投げかけていたから。「…何よ」「何でございましょうなァ」…コイツ、反応を愉しんでいるな。

 

視線を投げ返す。コイツはひょいとかわす。「これです」ポケットから取り出したのは、確かに魔理沙の写真だった。馬鹿みたいに決めポーズで、星を散らしたそれは、確かに映りたがりに見えた。とかく目立つのが好きなのだ。あいつは。写真なんてハイカラなものにも忌避感があるとは思えない。

 

「…アンタ、確か写真って、同じものをいくつも作れるんだったわよね」「さようでございますが」顎に手を当て、こちらを見る。小馬鹿にした表情が、ほんの少しだけ硬くなったように思えた。思えただけかもしれない。

 

「買うわ。魔理沙の写真」自分でも何を言っているのかわからなかった。顔なんていつでも合わせているのだから、必要ないだろうに。それでも何故か、あいつのそれを手元に置いておきたくなったのだ。何故か。何故だろう。今しかない瞬間を保存しておきたかったから? いや、それは感傷が過ぎる。

 

「――お代は結構ですよ、ええ」何?「ただ、一つ。…どうです、私"と"写真を撮らせていただけませんか」「…と?」言い間違いではなかった。「このカメラには時間差でシャッターを切る機能がですね…おや、わからないという顔をなさる」わからないわよ。そんなもの。

 

「要するに、カメラが勝手に写真を取ってくれる訳ですな」カメラを撫で撫で、言葉を続ける。「つまりはカメラマンもツーショットを――ああ、つまりは私も同じ写真に映る事ができるという訳で…それはおわかりでしょう?」まあ、なんとなくは。

 

「なればこそ、私も一緒に映った写真が欲しいのですよ」何故そんなものを欲しがるのかは、よくわからなかった。「変な事に使わないでしょうね」「それはもう」何に使うのだろうか。…思えば、私も魔理沙の写真を欲しがっているのを、棚に上げていたかもしれない。

 

煙に巻かれた気分だったけれど、嫌よ、とも言えなかった。借りを作るのも嫌だし、今すぐ返せるならそれに越した事はないだろう。写真を取る奴は写真に写れない、というのも本当だろうし、たまにはそうしたかったのだろうと思った。何故私なのかは、深く考えなかった。

 

「それでは、それでは、ご用意致しましょう」足の着いた棒…ちょっと待て、何処から出したのよそれ。私の疑問を他所に、コイツはてきぱきと何らかの作業をして、カメラを覗いた。「動いていただけますか…そう、そっちです。もう少し後ろ」よくわからないけど、言われた通りに動いてやった。

 

「さて、いきますよ…はい」ひゅん、とこちら側に跳ぶ。カメラがジジ…と音を立てる。三秒、二秒、一秒――ちょっと!何、肩組んでるのよ! ゼロ。パシャリ。「あやや」音が鳴った瞬間、思い切り突き飛ばしてやった。不意にそんな事をされれば、誰だってカチンとくる。

 

「これは失敬。この腕がどうも勝手に動きまして。コラ、いけないぞ、そういうのは」…馬鹿みたいな独り芝居をする。大体、こういうのは予め許可を取って――いや、許可なんて出さないけど。どうして許可させなければいけないのよ、そんな事。

 

「…まあいいわ」これで借りはなし。むしろ貸しをむしり取りたい気分だけど、これ以上付き合う方が疲れてしまう。「その写真は頂くわよ。あんたは好きなだけ増やすといいわ。ただし、あんまり酷い使い方をしたら…わかっているわね?」「おお、こわいこわい」扇子で口を隠し、笑った。

 

「立つ烏、跡を濁さず。それでは、また。新聞、是非とも熟読いただきたし」濁しまくっているじゃないの。我欲が。呆れている内に、アイツの姿は目前から消え去った。顔を上げると、赤み始めた空の向こう、遥か向こうに、黒い影が飛翔して…すぐに、見えなくなった。

 

「今日はしつこかったわね」倒れた箒。半分も入っていない籠。今日はもういいや。片手にそれらを抱える。明日も掃除。明後日も。…今日は、そうでもなかったな。ああいうのも、たまには悪くな――いやいや、そんな馬鹿な。私は妙な気持ちを放り捨てる。何事もないのが一番じゃない。

 

むしり取った魔理沙の写真を取り出し、眺めた。今日は来なかった。明日はどうだろう。明後日は。何事も起こらないのが一番。そのはずだ。けれど、どうだろう。あいつの来ない神社には、何かが足りない気がする。わからないけれどね。さあ、今日はもう閉店。放っておいても、明日がやってくる…

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

彼女は満面の笑みで、好きだぜと言った。あいつが大好きだぜ、と続けた。散らした星屑を火挟みでほいほい、と片付けながら、彼女はルンルン気分だったに違いない。「なあ、いつできるんだ?」「すぐにできますよ。器具さえあればね」「おう、それならついていくぜ。すぐに欲しいからな」

 

私の言葉に被せるように、彼女は喰らいついた。山に立ち入らせるのは面倒だけれど、まあ仕方がない。規則破りは不良天狗の得意技ですからね。「うん、次の魔法のインスピレーションが湧いてきたな。動く写真なんてどうだ?」なかなか挑戦的な事を言う。精々頑張るがいいでしょう。

 

「そうだ、霊夢も誘って撮影会やろうぜ、撮影会」

 

「…そうですね。いつか」「えぇ? 今からやろうぜ。ナウ」そういう気分にはなれなかった。「私とて年中暇ではありません故」「なんだ、つまんねーな」本当につまらなさそうな顔をする。感情が先走る。それは美徳であり、欠点でもあるだろう。人の身で、彼女は危ない橋を渡り過ぎる。

 

…その橋に、あなたが乗らなければいいのだけれど。想像すればするほど、その図が容易に思い浮かぶのだ。二人なら大丈夫と言わんばかりに。「おーい、置いていくぞ」星を片し終わった彼女が、箒を引っ張り出して、急かす。急かされる。――普段は感じない何かが、わだかまっている。

 

私は烏天狗だ。置いて行かれる程のろまではない。ないはずだが…何故だろうか。今の私は、人間よりも疾くは飛べない気がした。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「んん…」デスクに突っ伏して、居眠りしていたようだ。首が痛い。「んーッ…」伸びをする。部屋は真っ暗だ。結構な時間、眠っていたらしい。電気を点ける。裸電球がジジジ、と鳴き始める。そこらじゅうに書き物、壁には本。火を使う訳にもいかない。実際火事を起こした同僚もいた。間抜けめ。

 

ぼう、と浮かび上がったデスクの上には、雑多な物体と、写真が二枚。星を散らしたキラキラの写真。人間と肩組む妖怪のツーショット写真。私は、これが欲しかったのだ。どうしても。そうすれば、少しは満たされると思った。しかしそれは、却って心の中を枯らしてしまったかもしれない。

 

魔理沙の写真を掴んだ。破ろうとして…やめた。新聞記者としての沽券にかかわる。それに…そんな事をすれば。「負けてしまう」そんな気がした。

 

「霊夢さん…」私にはどうしようもない感情だった。処理しようと思えば、できたのかもしれない。神社に近付かなければ。顔を合わせなければ。しかしそれらを打ち払うように、私は新聞を届け続けた。決して読んでくれないのはわかっていた。それでも。立ち寄る為の言い訳は、それしかない。

 

…伝えたい。伝えられない。顔を見る度に、口説こうと…いや、愛を囁こうと…違う。この情愛を、吐き出してしまおうと思っていた。できなかった。いつも迷惑がられていた。口では伝えられない。…それなら。私は顔を上げ、ライターとして、真っ当な手段を使う事にした。

 

ペンを取り、紙に走らせた。封筒に入れた。宛名は書かなかった。差出人も。ただ一つだけ、私の心を差し込んだ。今の私には、これ以上の言葉をしたためる事は、伝える事は、できない。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

郵便受けからゴミを取り出していると、何か別のものが混ざっているような気がした。気が向かなければ、放っておいたかもしれない。…あった。封筒に入ったそれは…手紙? 暇な奴がいるものだ、と思いつつ、開く。紙ペラが一枚。なんだ、良さそうなものは何も入っていないじゃない。

 

手紙に目をやる。一度読んだら捨ててしまおうと思っていた。思って、いた。「…なにこれ」内容がつまらなければ、すぐにそうした。しかし、それはある意味で酷く目を引くものだった。

 

「――愛して、います?」

 

差出人の名前は、なかった。宛名も。誰かが入れていったに違いなかった。――はらり。手紙の間から、何かが落ちた。拾わなかった。拾えなかった。羽根。烏色の羽根。抜け落ちた羽根。これは、誰のものか。一瞬で理解できた。

 

ばさり。新聞がまた一つ、境内に落ちた。上を向けば、人影は――鳥居の上に、立っていた。

 

「そんな所に立たないでよ」アイツの顔は、影になっていて、見えない。私の言葉に従うように、アイツはしめやかに舞い降りた。俯いた顔に、笑みは、なかった。

 

「答えを、頂けますか」声は震えていた。いつもの飄々とした様子は。ない。…これが、コイツの本質なのか。傲慢ならずして何が天狗か、と口にして憚らないコイツの。妖怪って、結構、人間と一緒なんだ。知らなかった。――恋なんて、するんだ。妖怪も。

 

「…考えておくわ」烏天狗は、顔を上げた。「新聞。届けに来るんでしょう、どうせ」封筒に入れた。手紙を、そして羽根を。「別にそうでなくても、来てもいいわよ。…私の事、馬鹿にしないならね」頷いた。これで良かったのだろうか。…そうだ。これでいい。

 

気に入らなければ、捨ててしまえばいい。新聞みたいに。…なんてね。本気じゃない。今の所はね。私にそうさせないように、精々頑張ればいい。私だって捨てられるかもしれない。それはそれで仕方のない事だ。お互いを知るほど、百年の恋も冷めるかもしれない。

 

「この事も、記事にするの?」私の問いに、彼女は首を振った。「とっておきです」「そう」かくして、彼女は追い回される側に回ったのだろう。天狗の事はよく知らないけれど、カメラを持った不審者はよく見かける。この事はソイツらにとって、いい餌だろう」

 

「しばらくは、身の回りが騒がしいかもしれません」「いいのよ、見せつけてやれば」私の言葉に、彼女は一瞬動揺したようだった。言い負かしてやるのは気分がいい。「あなたがいなくなる分で相殺されるでしょ。その内いなくなるだろうし、ね」ウインクした。彼女も辛気臭い顔を捨てて、笑った。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「おう、熱々カップルにお土産だぜ。ミサンガとか好きだろ?」は、はぁ。「…その、魔理沙さんは、霊夢さんの事が好きだったのでは?」「ん? 大好きだぜ? それがどうかしたか?」「やや、そうですか…」

 

ああ、そういう意味のね…。先走った私が馬鹿みたいだ。…まあ、いいか。



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心挟み

―心挟み―

 

 

 

「欲しい才能? そんなの決まってるぜ」人差し指を立て、魔理沙は笑った。「努力する才能さ。努力すれば、なんだってできる。お得だろ?」

 

 

 

遠くでもなく、しかし近くはない青空で、両者は一歩も引かなかった。あまりエキサイトすると後始末が大変だろうに。私が。ぼやいても何にもならないけれど。かくして災害は去らぬ。私は先んじて片づけを始める。繰る人形達が焦げ付いた星屑を、破れた御札を、破壊的な遊びの残滓をかき集める。

 

次から次に飛来するそれにぶつかり、人形の一つが助けを求めた。引き寄せてやればなるほど、彼女の頭には星屑がめり込んでいた。…この子には後で火薬を詰めよう。そうしよう。焼け焦げを軽くはたきながら、空を仰ぐ。どうやら片側が優勢になってきたようだ。

 

的確に獲物を狙うお札を大きく避けて――ああ、被弾した。障壁を張る間もなかったらしい。激しく弾き飛ばされた身体は、反り立つ木々の間に落ちて、わからなくなった。まあ、見慣れた光景だ。あいつは大抵、枝や葉っぱを体中につけた野良人間めいて戻ってくる。

 

いつもの事だ。そう、いつもの事。紅茶を飲み干し、席を立つ。いてもいい。いなくてもいい。そんな関係なら、気楽でいられる。ふと、空を見上げる。少女の戦場はいまや静かのざわめきを取り戻し、遠方を鳥が羽ばたいていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「…戻っていない?」「ええ」平然とした顔が、若干の不安に歪んでいる。人間は弱い生き物だ。情感を隠しきる事は出来ない。特に私には。「家に帰ったと思ったんだけど、違う。何処にもいないのよ」「そう。随分探したようね」博麗の巫女の人脈――妖脈?――は本物だ。

 

暴力を用いずとも、何処へとも顔は利く。思い当たる所は探し終わっているだろう。入れ違いでないなら。つまり。「まだ森の何処かにいる」「そう、それが心配なのよ」心配が必要だろうか。魔理沙は精力的に森を這いずりまわっている。触れてはならない危険も承知しているはずだ。

 

「探してくるわ」「お願い」願われずとも、探しに行くつもりだった。あんなのでも知人だ。知人の行方くらいは、探してやるものだ。適当に支度をして、森に分け入る。私に頼むのは正解だ。森というものは奥に行くほど、険しい。知らぬ者が分け入ればどうなるかは、予想がつく。

 

四方八方に人形を繰る。家と家との間から、徐々に探索範囲を広げていく。気味の悪いキノコの群生地にも、瘴気の吹き出す危険な木々にも、或いは不意に現れる死の崖下にも、魔理沙はいない。本当に森にいるのだろうか。やがては魔理沙が落ちてきた辺りであろう場所に、近付く。

 

外に近い。木々もまばらだ。代わりに豊富な下草と、背の低い木が点々、或いは固まりながら存在していた。これなら空から探せる。これ以上先には行く必要もないだろう。――そう思った私は、何かにつまづいた。視線を向けた先には、魔理沙の一部が転がっていた。

 

「…帽子?」

 

魔理沙がこれを手放すはずがない。周囲を見渡すが、何もいない。「魔理沙」誰にともなく、その名を呼んだ。その時だった。ガサリ、と鳴った。咄嗟に音の出どころを探す。…木々の間に周到に隠されたその空間に、魔理沙はいた。

 

「…おう、アリスか。夜分に失礼」「――魔理沙!」私とした事が、僅かばかりの衝動で声を震わせた。トラバサミ。大型動物に向けたものではない。そうであったなら、魔理沙の身は既に引き裂かれていただろう。

 

それはもっと小型の、…そう、人間よりも小さな生き物を殺傷する為のものだ。誰がこんな罠を。思い巡らせる必要はなかった。どうせ森に立ち入る不埒な猟師の仕業。下手人を特定できるとも思えなかった。魔理沙は、話し続ける。

 

「…こいつは痛いぜ。お前もどうだ?」放っておけばどうなるかわかっていても、こいつの軽口は止まらないのか。糸を繰り、人形をトラバサミに集める。罠を引き起こさんとする。引き起こす。引き起こす。引き起こす――駄目だ。人形の力ではびくともしない。

 

魔法で破壊する事も考えたが、脚を避けてピンポイントでそれを行なう自信は、正直な所、なかった。そんな練習なんてしないから。或いはレーザーを限界まで絞れば、いずれは焼き切れるかもしれない。けれど私は、そうしなかった。もっと物理的な手段こそ、確実だと思えたから。

 

人形の合間に、手を差し込む、掴んだ鉄の感触が冷たい。見下ろす魔理沙の顔は、ひょっとすれば笑っていたのではないか。そんな事はどうでもいい。力を込めて、それを引く、人形の軋む音がする。…今度は剛力無双な人形を作ろう。腕が震える。震える。…妖怪の腕力も、こんなものなのか?

 

「私は都会派なのよ」思わず口走ってしまう。「…いいじゃないか、ハサミと格闘する都会人がいたって」力を込める。腕が震える。まだだ。まだ私は本気を出していない。出していないはずだ。糸を繰る。震える。力を込める。これ以上は、利かない…!

 

――ガシャン!! 音を立て、罠は外れた。私は反動で背後に倒れ込んだ。人形に助け起こさせるまで、ほんの少しだけそうしていた。或いは安堵していたのか。…本気を出すなんて、馬鹿みたいだ。私は自己嫌悪を覚えながら、魔理沙を見た。

 

「ほら、ここに一人いた」その影はふらついて、倒れかけた。慌てて私が、私の手で支えた。いいのだ。人形では間に合わなかったのだから。顔色は酷くよくない。血を流しすぎたのだろう。その程度の事で死に瀕するのが人間だ。妖怪が時に人間を友と認めるのは、或いはその儚さ故だろうか。

 

魔法で止血は施した。後は安静にして、己の治癒力を信じるのみ。只の人間には、或いは脚を切断せねばならないとすれば、平静を保つのは不可能だろう。――魔理沙なら? 魔理沙なら、治ると信じて憚らないだろう。今までもそうだったから、今度もそう。それはとても脆く危うい考えにも思える。

 

ここからだと、魔理沙の家は遠い。連れて帰ろう。客間は開いている。いつまでも居座る訳でもない。傷が治るまでだ。それまでは私が、甲斐甲斐しく面倒を見てやろう。仕方ない事に、仕方なく足を突っ込んでしまったのだから、その程度のダメージは、痛くもなんともない。本当に。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「――それで、これが新作よ」ことり。机に置いたそれに、魔理沙は目を見開いてみせた。

 

「…お前、こういうの趣味じゃないと思ってたぜ」並みの人形の五掛けはある体躯。筋肉を模したフォルム。強力に駆動する四肢。不釣り合いにも思えるドレス。「趣味じゃないわよ。気が向いただけ」逞しくも美しいその人形は、他の人形と同じように、虚ろに光る蒼い瞳をこちらに向けていた。



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惣闇から

―惣闇―

 

僅かに白み始めた空に、黒い塊がぷかぷかとこちらへ飛翔している。闇から来たりて腹鳴らす。あれはネズミだったけれど。それは屋台の上を旋回すると、そこらの木々に引っかかりながら、ぼてりと地上に転がり落ちた。

 

「はい、こんばんわ」闇の中から手が伸びる。「おはこんばんちはー」よくわからない挨拶――挨拶?――が返ってくる。竹林の炭屋さんが一時使っていたそれが気に入ったのだろう。まあその内に飽きて忘れるだろうと思って、特に何も言わないけれど。

 

闇が薄れると、中からは腕の一部が現れる。ルーミア。食欲の妖怪だ。彼女にとって、宵闇はおまけに違いない。こいつはいつも私の屋台で無銭飲食を働くのだ。今では片付けを手伝う代わりに、残り物を食べさせてやる事にしている。

 

「みすちー!」しゃにむに近付く顔。「やめい」こいつはいつも私の腕な顔なを齧ろうとする。もっとも、本気で食べるつもりはないと思う。…たぶん。こいつなりの厚意、それとも愛情表現かもしれない。それを迷惑と理解してくれればなお良いのだけれど。

 

「今日はあんまり残ってないわよ」私が指差した先を見て目を輝かせる。「おでん大好き!」そう言いながら、両手に掴んだのは骨付き肉だ。嘘は言っていないのだろうが、なんだかなあ。まあ、こいつなら全部ひっくるめて平らげるのだろうけれど。

 

「もうかりまっかー?」「ぼちぼち、ね」増えもせず減りもせず。今では固定客もついてきた。無銭飲食も増えてきたけれど。頭を掻く私の眼前では、ゴリゴリと凄惨な破壊行為が行われている。骨付き肉を骨まで齧り尽くす顎は素直に感心する。ゴミも出ないしね。

 

「おいしいねえ」そりゃ、あんたは何でも美味しいんでしょうよ。感想はいつもそんなものだ。結局骨肉をすべてを食い尽くしたこいつは、手や口の脂をハンカチで拭い――おでんを温め直す私にふと、問いかけた。

 

「誰かを骨まで食い尽くしたいと望み狂うのは、愛だと思う?」

 

「ねえ、どう思う?」どうもこうも…いや。こいつは本気で聞いているんだ。普段は胡乱な妖怪だけど、時々いやに真剣な顔をする時がある。今のように。そんな難しい事を聞かれても、私にはよくわからない。わかろうとはする。でも、わからない。悲しいけれど、自分の頭の限界を感じる。

 

「さあ。…妖怪だもの、そういうものじゃないの」片付けをしながら適当に答える。次の瞬間には頭の中から零れ落ちていた。興味がないから、そんなものだ。…いや、本当はそうではなかったのかもしれない。ルーミアの背に立った時、彼女の言葉を反芻していなかったと言えば、嘘になる。

 

「そうなのか」背筋に悪寒が走る。翼が凍るように緊張する。あっという間に私は押し倒された。逃げられない。恐ろしく強い力が両の腕を掴み伏せている。いや…まさか、食べられたり…? 困惑と恐怖の合間を揺らぐ私を真顔で見つめながら、宵闇は、私の首に、噛みついた。

 

「うッ…!」冷たくなった肌に気味の悪い粘り気が伝う。ようやく私は悟った。こいつは私を食べようとしているんだ。本気で。「…い、嫌…」声がかすれた。死ぬかもしれないと思った事は、何回もある。幽霊のお姫様に食べられかけた事だって。でも、これは、そうじゃない。

 

間近に迫った死の双眸が、私を掴んで離さない。周囲は暗闇に覆われていた。あいつの顔だけが見える。闇の中で何が行われようとも、誰も気付いてはくれないだろう。私が、私の身体が、骨まで食べられてしまうとしたら、後には何も残らない。何も。

 

…嫌だ! 死にたくない。食べられたくない。そんなもの、愛じゃない。そんなもの、嬉しくなんかない! 「――嫌だ!」喚いた所で、止めてくれるなんて思ってはいない。誰かが助けにくるなんて期待していない。ただ、ただ、嫌だったから叫んだ。絞り出せるのは、それだけだった。

 

「じゃあ、やめる」…ルーミアは、あっさりと腕を手放した。呆然自失の私を助け起こしもした。埃をはたいてくれすら。「私も、嫌だ」ぽつりと呟いた。その言葉は、例えば残念そうに、或いは怒りを帯びたり…そういう風には、聞こえなかった。

 

「みすちーはいなくならないでね」口元の血がハンカチで拭われる。まるで何事もなかったかのように。乱れた呼吸が楽になるにつれて、私もそれを信じたくなった。思い込みたかった。…違う。僅かに削げた首元の傷は、今の行為が白昼夢でない証拠だった。

 

おでんをつつき始めたルーミアの背を、私は見つめた。その姿は普段と何ら変わらない。…彼女は妖怪だ。恐ろしい、妖怪だ。しかし私の事だ、さっき感じた恐怖も、やがて避けられた死の記憶として風化し、忘れてしまうだろう。首の傷も、じきに消える。忘れよう。忘れてしまおう。すべて。

 

屋台を片付け始めたルーミアの顔を、見たくなかった。彼女が片付けを済ませるまで。闇に乗じて立ち去るまで。どんな顔をしているか、私には想像もつかなかったから。やがて屋台を片してしまう時になって、私の中で一つの問いが膨らんでいた。

 

――あなたが私を食べたかったのは、愛しているからだったのだろうか?

 



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なみだ鬼

―なみだ鬼―

 

 

 

なあ、聞いておくれよ。こんな奴の話でもさ。

 

 

 

どうも、妖怪神社です。…違わい。私からすればまったくの不本意ながら、新たにどうしようもない奴が住み着いた。日がな宴会を開かせていた原因は、今やすっかり大人しく…なってはいなかった。終いには家賃を取るぞ。

 

「酔っ払いが転がっている神社なんて最悪だわ」「なーに、私一人でも大宴会だぞ…うぃーっ」規模の問題じゃない。そもそもどうあったって一人じゃないか。如何にもあほらしくなって、掃除を再開する。そいつは小さく分裂して、箒に掃かれてみせる。「ウワーッ」何が楽しいのだろうか。

 

「なあ、霊夢~」酒瓶を抱えたまま。萃香が管をまいた。こちとら昼間から酒を飲める身分じゃないわよ。「おまぇ、好きな子とか、いんのかよぉ~?」別に。そういうのは考えた事もない。強いて言えば――いないわね。実際。誰も寄せ付けていない自覚は、ある。治そうとも思わないけれど。

 

「じゃぁさぁ、私といっちょ付き合えよぉ~? なぁ~?」「嫌よ」絡み酒は、ばっさり切り捨てるに限る。酔っぱらいの戯言に、真実などない。その後は何やらグダグダと一人で喋っていたが、直に静かになった。顔を見れば、なるほど眠り込んでいる。こいつはいつもこうだ。

 

「何でこんなのと縁があるのかしらねぇ」漫画みたいに鼻提灯を膨らませるその顔を、横目で見た。こいつの素面は見た事がない。いつも瓢箪、それとも何処からか調達した酒を飲んでいる。飲み続けている。ザルにも程がある。もし酒を抜いたらどうなるのか。少しだけ興味があった。少しだけ。

 

――夜になると、こいつはますます酒が進む。その頃には私も酒を開けるが、隣では飲まない事にしていた。まあどうせ、向こうから来るのだけれど。「なあ霊夢ぅ、美味いか~?」あんたがいなけりゃ美味いんだけどね。「…なあ、なあ、霊夢は私の事、好きか~?」にへへと笑い、顔が近付く。

 

「嫌い」

 

どうせいつもの軽口だと思って、適当に返事をした。…どうしたのだろう。萃香は突然、押し黙ってしまった。赤ら顔から色が消える。まるで酒が、一瞬で飛んでしまったかのように。そういう反応を返されると思わなかった私も、黙ってしまった。手元の酒を、口に運ぶのも忘れて。

 

「…これ、飲んでいいぞ」そう呟くと、萃香は酒瓶を押し付けてきた。如何にも高そうな銘だ。くれるというなら、貰うけど。「どうしたの、あんた」萃香は首を振った。「なんでもないよ。なんでもない」「そう」それ以上詮索する気も、必要もなかった。口に運ぶ。少しだけ、辛かった。

 

それから数日は、あいつの姿を見なかった。いないならいないでせいせいする。そう思った。思ったのだが。…何故だろう、神社は少しばかり、静かになり過ぎてしまったようだ。境内を見ても、あいつはいない。賽銭箱の上にも。屋根にも。部屋の中にも、何処にもいない。

 

或いは空いてしまったのは、私自身なのかもしれない。影に転がった酒瓶を見つけて、拾った。銘は――「純愛」。私はそれを置き、じっと眺めた。あいつの残滓が、残っているような気がした。しただけだ。もう、あいつはいないのだから。ゴミ置き場に置かれたそれは、何処か寂しげだった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

憎き葉っぱとの終わりのないディフェンスを続けていると、耳が何かの声を拾った。風の音より弱々しい、声。…神社の角から、声がする。ふと目を向けると、あいつの角だけが見えた。「…酒を抜いてきたんだ」「酒を?」トチ狂って禁酒でも決意したのか。狂った小鬼はそっと、陰から姿を現した。

 

それは萃香だったのか。怖いものなしとばかりの態度とは似ても似つかない姿。酷くおどおどしていているように見える。酒が入らないと、こんなに大人しくなるのか。「あのさ、霊夢…さん…」喋り方も、何もかもが違う。…ひょっとすると、普段の酒飲みは弱々しさを隠す仮面だったのだろうか?

 

酔っぱらいの戯言に、真実などない。――ならば、素面のこいつは、私に何を語ろうと言うのだ? 「…なぁ、返事してくれよぉ。…じゃないと私、泣きたくなっちゃうよ」なるもなにも、萃香は既に泣いていた。「小鬼の告白、聞いておくれ。…聞き流してくれても、構わないから」

 

「なあ、好きだ。好きなんだよ。叩きのめされたあの日から、好きになっちゃったんだよ。今も好きだよ、いつだって好きだ。好きの量なら、誰にだって負けない。いつも、いつだって、お前を絶対に守ってみせる。…だからさ、お願いだから一言だけ、私を好きだって、言っておくれよ…!!」

 

萃香は激しく頭を振り、壊れよとばかりに地面へ拳を打ち込んだ。クレーターめいて、大穴が開く。石畳が砕け、周囲に激しく散らばった。二度、三度、萃香は拳を打ち込む。地が裂け、隆起し、砕けた岩が飛び散った。小鬼は吼えた。その心は、吼えるしかなかったのだと思う。

 

「好いてしまったんだから、どうしようもないんだよぉ!!」腕を大きく広げ、叫んだ。「鬼は、そういうものなんだ。…好いてしまったら、どうやっても止まらない、止められない」萃香はあれからずっと泣き続けている。大粒の涙を受けた地面が、小鬼に慰みを問いかけていた。

 

「私を好いてくれないなら…せめて、せめて、抱きしめておくれよ。…そうしたら、私は神社を出ていくから。もう二度と、姿を表さないから…」萃香はとぼとぼと私の前に立ち、言った。双眸の重みが、私にのしかかるようだった。片手で、両手で、私の服を掴み、引き寄せる。

 

「――嫌よ」

 

萃香の手を、振り払った。小鬼の涙が、涙よ枯れよとばかりに、ぼたぼたと落ちた。息も絶え絶え、私をじっと見て、肩を震わせていた。今なら何者でも、萃香を討ち取れるだろう。そのくらい、小鬼は弱っていた。或いはこのまま消えてなくなってしまうかもしれない。そう思えた。

 

「…だって、そうしたらあんた、いなくなっちゃうんでしょう?」

 

――完全に、予想外の言葉だったのだろう。しばらく固まっていたけれど、小鬼は涙を拭うと、酷く慌てた様子で、眼前で手を振った。思い切り振った。「嘘だ、嘘だよ…いや、たまには嘘も吐くけどさ。何処にも行かない、行かないって! ホント!」鬼の嘘。見方によっては、滑稽かもしれない。

 

「じゃあ、いいわ。…来なさいよ」おずおずと近付いてきた萃香の背中を抱いて、そっと抱きしめてやる。私より少しだけ背の低い、その背中。涙はもうない。必要なくなったのだろう。私は萃香の言葉を反芻しながら…少しばかり、照れていたかもしれない。なんて恥ずかしい事を言うんだか。

 

「こんな奴の話でも、聞いてくれて、嬉しいよ」萃香は私に抱き着き返してきた。締め落されないか不安だったけど、そこまではしないだろう。たぶん。「随分自分を卑下するのね。鬼なのに」「鬼だから、さ。…自分より強いものなんて、いないからね。同じ位置まで、降りるしかない」

 

「私の位置って、何処?」「霊夢の位置は――私の隣!」「なにそれ」脳天を一発、どついてやった。口の悪い連中の間では、ただでさえ鬼巫女なんて呼ばれているのに、これでは拍がついてしまう。「なあ、隣にいておくれよ」「まあ、そうね…考えておくわ」答えは、はぐらかした。

 

「――で。この始末、とっとと直してよね」めちゃくちゃになった地面を、石畳を、神社を指して、私は息を吐いた。「ほげっ!?」萃香は奇妙な鳴き声を上げると、見るも無残な神社をひっくり返し始めた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

縁側に座る私の耳に、聞き慣れてしまった声が届く。「よーし、取れたぞー!!」掲げた手には、葉なり塵なりの団子。萃められた大きな団子だ。外の掃除はあいつがやってくれるようになったので、私は楽ができている。…まるで私が仕事をしないみたいじゃないか。

 

「じゃあ、ここで一杯…」「ダメよ」手元にあったスチール缶を、アル中の後頭部に投げつける。それはスカン、と景気の良い音を立て、そこらに落ちた。「アメでも舐めてなさい」「へーい」拾い上げ、中身を一つ取り出した萃香は、それを口に放り込んだ。さわやかな、レモン味。

 

「ちゃんと私の言う事、聞きなさいよね?」おもむろに酒瓶を奪い取る。今は酒を、抜かず溺れずでキープさせている。このくらいが、こいつには丁度良い。その銘は、「なみだ鬼」。変な名前だ。そう思った。昔話の鬼はえてして泣くものだ。…今の鬼は、どうだろう?

 

「じゃあせめて構っておくれよ。構え。構えー」じゃれついてきた萃香を制して、私は頭の位置を下げる。こいつの角は邪魔だ。ぶつかったらただでは済むまい。「なぁ~?」ほとんど押し倒される格好になった。「…気が早い」私は呟いた。勿論本気ではない。少し、困らせてやりたかったのだ。

 

「…エッ? …いや、そんなのじゃ…いやいや、そうかも…」俄かに頬を染めた鬼は、どう答えれば嘘にならないか考え始めていた。そんな曖昧な基準なら、ちゃらんぽらんでも良いんじゃないの。私は思ったが、口には出さなかった。これ以上頭がいい加減になったら、こいつはもう駄目だ。

 

「霊夢が良ければさ、その、カノジョを前提としたお付き合いを、その、これからしようかなって…」小鬼は目を逸らした。こいつの恋煩いはまるで斜めに生えた竹。どっちつかずで、割り切れない。そういうの、私は一番嫌いなのよ。わかって欲しいわ。…いずれはね。

 

「あら、それなら」逸らした角を掴み、正面を向かせた。「これが、私の心から答えよ」驚きと共に見開いた瞳に、私の姿が映る。あなたの瞳の中の私が、近づき、近付き、近付き――

 

――そっと、唇を奪っていた。

 

「――レモン味って、本当なのね」私が顔を離すのと、萃香が真っ赤になるのはほとんど同時だった。何をされたのか理解するのには、もう少し時間が必要だったらしい。こいつはのけぞり、離れ、後ろに倒れ込んだ。しばらく天を仰いでいた。私は立ち上がり、見下ろした。焦点が、定まる。

 

「やっほほーい!!」

 

唐突に叫んだ萃香はやにわに飛び起きると、片腕片足を振り上げ、高く高く飛び上がった。着地した瞬間、その姿はばらばらになり、たくさんの萃香が生まれた。走り寄る。走り寄る。走り寄る。そいつらは足元に近付くと、私の身体を僅かに持ち上げ、何処へともなく運び去ろうとしていた。

 

「こら、やめなさい、ちょっと!」あっという間に私は、萃香の中に埋もれてしまった。「「「やっほほーい!!」」」あいつらは口々に、歓喜の言葉を上げていた。衝動には正直なのね、あんたは。私は天を仰ぎながら、口元に指を当てた。「少し、気が早かったかな」呟きは、歓声にかき消された。



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実る邪恋

―実る邪恋―

 

 

 

私は、私を見た。お前は、お前を見つめていた。

 

 

 

 

「おう、秋だぜ」私は元気だぜ。舞い狂う空の中は、秋の装いにはちょいとばかし寒いかもしれない。そろそろ冬服を引っ張り出さないとな。「おーい! いないなら返事しろー!!」私の問いに、お前は縁側に出る事で答えたな。温かいお茶を携えて。そうそう、こうでなくちゃな。

 

舞い降りた私の顔を見て、お前は隣に顔を向けた。極めて珍しい事に、そこには饅頭が二つ。「今日は随分ご機嫌じゃないか」「大食らいが置いていったのよ。極めて珍しく、ね」どうも心の中を読まれていたらしい。「食べていいのか?」「二つは多いし」返事を聞く前に、私は半分に割っていた。

 

霊夢は少しばかり、苛立っているように思えた。理由はわからない。どうせ華扇辺りが説教したんだろうとは思ったが、想像するだけ無駄だ。終わってしまった事を振り返っても仕方がない。どんな時でも飛び込んで、ぶち抜いてやるのが魔理沙さんだ。

 

「なあ、コイバナしようぜ」「そういう気分じゃないわ」「そんな事言わずにさ、今日は二人、愛を語りあろう…なんてな」「…だから、嫌だって言っているでしょ」「なんだよ、ご機嫌ナナメか?」いつもの軽口。…私の言葉は、…或いは、霊夢の中の何かを土足で踏み荒らしたのかもしれない。

 

「あんたは自分勝手なのよ」霊夢はうつむき、答えた。「…あんたが好きなのは、私じゃなくて、恋をするあんた自身じゃないの?」顔を上げた。「薄々感じてはいたわ。あんたの目は、本当の私を見てはいないって」霊夢の瞳は、今までとは違う、私の知らない闇を湛えていた。

 

私は咄嗟に打ち消そうとした。できなかった。霊夢の言葉が私の中に深々と突き刺さっていたから。私はお前を見ていない。お前の言葉を反芻する――私は、お前自身ではなく。お前を好きな私を、恋する私を好いていたのか? そんな事は考えた事もなかった。考えなければならなかったのに。

 

「ごめん、霊夢、いや、そのさ。私が悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ。本当に――」霊夢は手で制した。「別に、私の事なんて見てくれなくてもいいわ。…私も、似たような事を考えていたんだもの」…一瞬、言葉の意味を、理解できなかった。…お前は、私の事が、好きじゃなかったのか?

 

「あんたに言ってて、気付いたわ。私はあんたを好いてなんかいないって。そうであるなら、説明がつく。私はあんたの、自由な姿を羨む私を、縛られる私自身を好いていた。あんたの事は、どうでもよかった」霊夢の瞳は、変わらない闇を湛えていた。私を強く、拒むような瞳。

 

「ごめんなさい、とでも言えばいいのかしら。…違うわね。私はあんたと、縁を切るべきだわ。もう二度と、自分自身を求めない為に」霊夢の言葉は、至極本気に聞こえた。…聞こえただけじゃない。今にもそれは、実行されようとしていたんじゃないか。二人の間に、沈黙が割り込んだ。

 

戸惑い…いや、罪の意識…違う。これは邪恋だ。今までの私達の。…これがお前への、最後の言葉だ。届かなければ、二人は終わりだ。そう思った。思ったから、絞り出した。遠くへ去ろうとするお前を、少しでも繋ぎとめたい。身勝手な祈りが、私を突き動かしたんだ。

 

 

 

「なあ、霊夢」

 

 

 

「――これから、好きになってもいいかな?」

 

 

 

霊夢が、こちらを見た。「いいわよ。――私もあなたを、好きになりたくなったから」その瞳は、いつものお前だった。けだるげな顔をした、お前。私の中で堕ち続ける私を、お前が引き上げてくれた。…その場の勢いもあったように思う。お前の顔に手を当てると、私は素早く――キスをした。

 

お前は困惑していたな。そうだろう。私だってそうだ。赤くなるのも、ほとんど同時だったに違いない。二人とも、縁側に座り直し、顔を背けた。恥ずかしくて、お前を見ていられなかった。私からやった事なのに、なんてザマだ。思いはしたが、次ぐ言葉は中々出てこなかった。

 

「キスから始まる恋もあるんだぜ」お前は顔を背けたまま、意図を計りかねていたな。私だってそうだ。キスから始まった恋なんて、私だって未体験だ。どう転ぶかなんて、私にはわからない。ただただ、新たな――いや、元々そこにあった恋の、始まりを予感させた。

 

おずおずと伸ばした手を、お前は取ってくれた。なんだよ。キスまでしたのに、今更初心な反応なんて、順番がおかしいぜ。互いを向いて、見つめ合った。まだ気恥ずかしいが、じっと見つめていた。両手を握り合って、再びキスをした。このぬくもりが時に愛を狂わせ、恋を語るんだ。

 

――茶はすっかり冷めていた。私は手を伸ばして、お前の肩に当てた。優しく引き寄せるには、恋の階段はまだまだ遠い。肩から手を離した。その代わりに、右手を伸ばした。お前の左手が、それを取った。そうだな。こういうのも、悪くない。

 

 

 

私は、お前を見た。お前は、私を見つめていた。



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誕生の日

―誕生の日―

 

「椛ちゃん、キライ」

 

 

 

「――それで、今日はずっとヘナっている訳ですか」うるさい。「いい気味…とは思いますが、ここは少しばかりお話伺いたく」クソ烏は私にまとわりついている。どうせ下品な新聞のネタにするつもりだろう。つき合う気はない。右を向く。そこには烏天狗。左を向く。やはり烏天狗。

 

烏天狗は私の周りをヒュンヒュンと飛び回っている。「ねぇ、良いでしょう? 減るもんじゃなし」減る。何が減るとまでは思いつかないが。「あっちへ行け」遠くを指差す。烏はその指を手の平で覆うと、卑猥な瞳で見つめてきた。「多少の問題は、人に話している間に解決するものですよ、椛」

 

「多少なものか」つい乗せられて、相手をしてしまった。「夫婦喧嘩――まあ、そこまで発展しているとは思いませんが、犬も食わないものを、あなたは飲み込まなければならない訳です。お二人さんに課せられたちょっとした試練ですね、コレは」文はニヤニヤしながら、扇で口元を隠した。

 

「それで、何がはたてを"げきおこ"らせたんでしょうねェ」何を言っているのかはわからないが、意味する所はわかる。「…わからない」後からずっと考えた。今もそうだ。歩哨を放棄して、空を仰いでいたのだ。天は何も答えてはくれなかったが。「本当にわからない。今朝まではいつも通りだった」

 

「あなたのような石頭の主観はアテになりませんな」文が嘯いた。「大方、龍の尾の上でカラオケしているのもわからないでしょう」肩をすくめるバカを無視して、私は再び思い出そうとした。今日の朝、一体何があったのか。…思い出せない。記憶は定かだと思うが、何が悪かったのか。

 

「ならば、私めがカウンセリングして差し上げましょう。お代は…そうですね、あなたの吠え面」…カウンセリング? 横文字はよくわからない。…意外と、私はわからない事ばかりなのだな。世の中の広さを感じるが、今はどうでもいい。「つまり、一緒に原因を突き止めてあげるという訳ですよ」

 

「さて、整理致しましょう。あなたとはたては、何処で逢引きしておられた?」「いや、昨日はずっとはたてさんの部屋に…ッ!」無意識の言葉は、あまりに無思慮だった。顔が火照るのを感じる。誤魔化す言葉も出てこない。ちょっとした、二人の秘密をこんな所で取り落してしまうとは…

 

「…おやおや、あなた達はもうそんな関係でありましたか。ほー」手帳にペンを走らせるこいつの顔を殴ってやりたくなったが、止めた。「恐らくその時ではないでしょう。そうであるなら、いくらあなたでも原因がわかろうものです」しかしさぞお齧りでしょうね、と文は続ける。ほんとに殴るぞ。

 

「それで、目が覚めたら――ちょっとお待ちを。そこなエロ犬、よもやはたての部屋から直出したのですか?」何が悪い。…悪い気はしている。しかし放してくれないのだから、これは仕方がない。無理矢理逃げ出す訳にもいかない。そんな事をすれば、はたてさんを傷付けるだけだ。

 

「ほー、ほー…そうですかそうですか。――そうですね、まあ、そう言う事もありましょうな」それはともかく、と文は話を替えた。異存はない。私もそうしたかった。「起きます、シャワーを浴びました、はたての料理を…如何にもこの辺が、ありそうな話。ケチ付けたんでしょう、あなた」

 

「それはない」そう言い切れる。私は凡そ何でも食べる。ケチをつけた事など一度もない。まあ、最初の頃は消し炭を食べされられた事もあったが。「あやや、そうですか。そうですねぇ、なら次を探しましょう」相変わらず何かをメモしながら、文は答えた。こいつにとっては、結局ネタに過ぎないか。

 

「朝食を食べました。それから通勤の間に、何かしらイベントは?」「それからは…精々、はたてさんと話をしていたくらいで、特別な事は何も…」「…お話、お話!」突然興奮した文は、こちらをじろじろと見る。「それでしょう、原因は。不幸な行き違いは言葉の刃から生まれるものであります」

 

「それで、愛する二人はどのようなお話を?」「…確か、昨日行ったスイーツ店にまた行こうという話、買い物にも行こうという話、それから野山の景色の話、私の毛皮の話、それから――」「…お待ちなさい、あなたがたは何をそんなに花咲かせておられる?」「朝はこんなもんだ」夜はもっと凄い。

 

文は何やら頭を掻くと、息を吐いた。ペンは止まっていた。「後は――そういえば、何かを聞かれたような」「ふむ」先の話の事で一杯一杯だったせいか、内容を思い出せない。確か、誰かの日がどうとか言っていたような…「誕生日」「そう、それだ。…誕生日?」…心が青ざめるのを感じる。

 

「…それはそれは…ちょいと、からかうのも悪いですなァ。おかわいそうなはたてちゃん」そうだ、はたてさんは私に誕生日、と告げたんだ。時間が迫っていたから、私はそれを邪険にして――「どうしたら」文は座った目でこちらを見ていた。「…おや、弱音を吐きなさる?」言葉に棘を感じた。

 

「あなたが傷付けたのだから、あなたが解決なさい――とはまあ、正論でありましょうが」手帳をしまい、文は背中を向けた。「言い訳を並べる事はできる。もので誤魔化すのもいいでしょう。けれど、最終的には――あなたが向き合わなければならない問題です。例えそれがはたてを傷付けるとしても」

 

「よく考える事です。二人の関係というものは、頭だけでは解決しない。けれども一助にはなりましょう。考えなさい。考えなさい。あなたは、あなたの、言葉を使いなさい。言葉は刃とも、薬ともなりましょう」文は腕を広げ、言葉を吐いた。それは僅かにかすれていた。或いは絞り出すようにも。

 

「…まあ、そう言う事です。精々破局ごっこに興じるがよろしい。それでは」文の足元に風が渦巻いた。翼が風を得る。

 

「…お節介ですね、私も」

 

飛び去る直前、奴はそんな事を言っていた気がした。疾風が、それをかき消した。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

交代の時間だ。私は激しい焦燥感を従えながら、店屋と飛び込んだ。昨日立ち寄ったそれだ。煌びやかな店内には、私の姿は如何にも不釣り合いだ。対のマグカップと、小皿。敢えてこれを選んだ。受け取ってくれないなら、もうそれでいい。これ以上、はたてさんの傷を広げたくない…

 

夜。非番の白狼に酒を押し付け、しばしの猶予を得た。しばしだ。もしもはたてさんが部屋にいなければ、もう二度と会えない気がした。はたてさんが住むのは新興集合住宅の八階。広く取られた踊り場に着地した私は、階段を昇る。811号室。灯りはついている。呼び鈴を押す。…返事は、ない。

 

懐から鍵を取り出した。刻印は、811。はたてさんから預かったものだ。代わりに私は、自分の鍵を作って渡した。そういう風習だというはたてさんの言葉は、嘘と本当、半々だった。…これも今日、返さなければならないかもしれない。鍵を差し込み、回す。軽い音がした。…扉を、押した。

 

――パン!! パパン!!

 

私の目の前で、小さな花火がいくつも舞った。「椛ちゃん、誕生日おめでとう!」光の主が、私に小さく手を振っていた。…一体、どういう事なんだ。はたてさんがいる。いつもと変わらずに。…ようやく飲み込めてきた。「…私の、誕生日?」「あー、やっぱり覚えてない」困り顔が、私を見る。

 

「前に決めたでしょ、誕生日」そうだ、そういう事があった。そういった感傷に全く興味がなかった私は、生まれ年どころか生まれ日すら忘れてしまっていた。今更知る気も、手段もない。そう伝えた時、はたてさんは言ったのだ。「じゃあ今日が、椛の誕生日」…と。

 

「――キライなんて、言いすぎちゃって、ごめんね」「いえ、私も――酷い事をしました。すみません」私達は、互いに謝りながら抱き合った。…手元の荷物が、すとんと落ちた。「…これ、何?」気付いたはたてさんが、袋を見る。小さなそれに、目を煌めかせたように見えた。

 

「…あー、その」「プレゼント?」それを拾い上げ、見上げるようにはたてさんは笑った。「実は、色々ありまして…」そうだ、あの時はたてさんの誕生日も聞いていたんだった。幸い、その数字は思い出せた。…黙っておく事にした。今更、誕生日を間違えてました、なんてのは格好が悪すぎる。

 

「――椛ちゃん大好き!」全体重の乗った、飛び込むような体当たりに、私はのけぞった。しかして受け止めた。受け止めたのだ。「じゃあ、プレゼント交換しよう。今からしよう!」「今から、ですか?」武装も解いていない所か、そもそも私は仕事中だ。少しばかり躊躇したが…やめた。

 

「いいから、早く!」こうなったらはたてさんは聞かないのだ。純真さは時に周囲を巻き込み、掻き回す。…まあ、はたてさんから命令されたと言えば、遥か大天狗すらも文句はつけられまい。私は半ば引きずられながら、彼女の居場所…或いは、二人の居場所へと連れ込まれた。

 

はたてさんの顔を見た。その笑顔は、眩しい。愛らしくも、気圧されるほどに。



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億千万の恋

―億千万の恋―

 

「――!!」

 

私の足元が、音を立てて崩れた。落とし穴…いや、バンジステーク。落ち葉がクッションとなっていて、設置された竹も斜めに切られてはいない。殺傷を目的としていないのは明白だった。つまりこれは――いたずらだ。あの悪ガキ兎の。

 

「おや、珍しいものが捕れた」下手人の顔が、ひょっこりと現れる。「これが本気だったら死んでるぞ?」「…むっ」私とて元は軍人の端くれだ。この罠が極めて危険なのは承知している。…そもそも、こんなものを敷地内に設置するのが悪いのだ。私は叱ろうとして――やめた。時間の無駄だ。

 

「…いつもいつもいたずらばかりして、世間に対して申し訳ないと思わないの?」てゐはそれを聞いて、嬉しそうに答えた。「世界の為に私がいるんじゃない。私の為に世界があるのさ」そこまで言い切るか。私に腕を差し伸べてきた。それを無視して、私は飛んだ。顔は見ない。どうせにやけ顔だ。

 

―――

 

  ―――

 

――私達は竹藪を抜け、外に近い辺りを見回っていた。タケノコが随分と少ない。伐採した跡、火を焚かれた後もあった。あまつさえ、タケノコを直接炙った形跡もある。むやみやたらに火気を持ち込むなんて、正気ではない。或いは、わかっていても構わずに荒らし回っているのか。

 

「余所者が無思慮に竹藪に踏み込んでくるどころか、ロクでもない罠まで作り始めたから…私達はそれを真似て、あの落とし穴を作っているの。殺しはしない。ただの警告としてね」てゐはシャベルを立て、私に語った。…いつも穴を掘っているのは、あながち無意味でもなかったのか。

 

「それにしても、竹藪に入ってくるなんて命知らずね。人間なんてそんなものかもしれないけど」私は光るタケノコを見ながら歩いていた。…それが、良くなかった。「そっちは駄目よ、鈴仙!!」――警告が聞こえたのは、私がヘマをした後だった。

 

「――!!」

 

私の足元が、音を立てて崩れた。落とし穴…いや、バンジステーク。クッションなどない。斜めに切られた竹。幾重にも張り巡らされた有刺鉄線。頭上には――金属ネット。殺意。そう、殺意だ。――獲物を、確実に殺さんとする、デストラップ。

 

「いやだーっ!!」私の叫びは、僅か数秒後には途絶えてしまう。…はずだった。「…いやはや、私としたことが」頭の上から、声がした。私の手首が掴まれていた。それがてゐのものだと理解するのに、少しだけ時間がかかった。「ちょいと待ってな、これには解除法がある。そこにいて」

 

浮遊する私から手を放し、てゐは死の中へと降りていく。死の隙間をすいすいと通り抜け、遂には底まで辿り着いた。「…ここを蹴り倒せば、片付くはずさ」てゐは竹を蹴った。――てゐの言う事は本当だった。まるで将棋倒しのようにトラップが自壊していく。

 

…終いにはすべてのトラップが倒れ去り、単なる竹の床板と貸してしまった。「後片付けの為に、わざとこうしてあるのよ。罠は沢山見てきたから、見ればわかる。…いけね、もう一つ残ってた」てゐの視線の先には、金属ネット。先ほどてゐの身体を支えたそれは、今や私達を阻む障害と化していた。

 

「…こいつもはずれる予定だったけど、たぶん壊れてるわ。これ」「…えっ?」「壊せる?」――駄目だ。私の弾丸は通じなかった。元々は狂気を操る為のものだ。意志を持たない無機物に対する、物理的な破壊力は限られる。「当分はこのままだねぇ」「…いや、どうにかならないの?」

 

「私の頭脳でも、ちょっと無理ね」てゐは手を広げ、お手上げのポーズを取って見せた。「兎達が気付いて私達を見つけるまで…まあ、最低でも三日ははかかるね」「…冗談じゃない。あんたとこの場で一緒なんて」「そんなに嫌わなくてもいいでしょうや。折角だから少し、お話しよう」

 

憮然とする私の前で、てゐはとりとめもない話を続けていた。カラー兎の闇取引で種の保存に貢献した事、M&Aでにごっそり儲けてやった事、その金をつぎ込んだ事業がコケて無一文になった事、今は幸福売りのおてゐとしてマッチを灯すような生活――生活費入れてたっけ?――をしている事…

 

如何にも金の話が続く。…地上の兎とはみんなこんなものなのかしら。或いは地上に生まれてしまっては、こうなるのも致し方ないのかもしれない。私が軽蔑とも哀れみとも知れぬ顔をしているのに気付いたのか、てゐはこちらを見た。じっと見つめてきた。…どうにも、恥ずかしくなるくらいに。

 

「金の話ばかりって思ったでしょ」「…まあね」わかっているなら他の話はないのか。「金銭ってものが発明されてからこの先、幸運と不幸が安売りされている気がするのよね」「…安売り?」「昔は…迷い込んだ人間を無事に返すくらいだったけれど、今やどいつも一攫千金。幸運を奪い合ってる」

 

「幸運は相対的なものだと誰かさんは言ってたけど、それを言うなら不幸だってそうじゃないか。みんなで不幸になろうなんて、馬鹿げてる」てゐは膝を叩いた。「だから私は、幸運を分けてやろうって訳さ。誰かがかき混ぜてやらないといけない。そういうイタズラなら、私は得意だからね」

 

…私は呆然としていたかもしれない。この兎はそれなりに物事を考えているのか。「今、意外って思ったでしょ」てゐの言葉が、私を突く。「まあ、こうしていても仕方がない。その辺で寝てなよ、鈴仙」「…あんたは?」私の言葉に、てゐは答えなかった。ただ、しししと笑っただけだ。

 

――私がうとうとしていた間、てゐはずっとネットと格闘していたようだった。夜は過ぎて、朝が来た。私は目覚めた時、ネットは一部が剥がれ、てゐが私を揺り起こそうとしていた。

 

「…外れたんだ」「どうよ」てゐは、私の反応を待っているようだった。「あんた…意外とすごいのね」「もっと褒めてもいいのよ?」「よっ、大統領!」「エヘン」意味もわからない賛辞を送りながら、私は内心てゐの事を見直していた。とても。命を助けられたのだと、今更実感を覚えた。

 

「まぁ、あんたが私をどう思っているかは知らないけれど」ネットを退けながら、てゐは言った。「私ぁあんたが好きだよ。鈴仙ちゃん」――私の瞳に、あなたが映り込んだ。異常な波形。壊れた波長。私の中に生まれる複雑な狂気。それは私の中を一瞬で貫いて、不可逆な変化を起こした。

 

私の瞳が、あなたに恋をしてしまった。

 

―――

 

  ―――

 

それからの私は、可能な限りあなたと顔を合わせないようにしていた。あの顔を見たら、おかしくなってしまう。そんな確信があった。時に波長をずらして半不可視になり、時に天井に張り付き、時には竹に紛れ、或いは床板の下にまで隠れた。我ながらニンジャみたいだ。自嘲すらも空回り。

 

あなたの顔を想う。本当は逃げたくなんかないのだ。あの悪い笑顔を、いたずらに成功した顔を、私を出し抜いた時の顔を――あれ、結局悪い顔ばかりだな――近くで何度だって見たい。それをするのは簡単で、しかしどうしようもなく難しい。準備ができていない。今はまだ、その時じゃない…

 

「!」あなたの軽快な足音が不意に近づいてくる。こちらに気付かれたのか。私は竹に偽装したネットを放棄し、竹林を走った。逃げ出す必要なんてないのに。それでも私の脚は、竹藪を奥へ奥へと連れて行ってしまうのだ。あなたを見るのが怖い。あなたに見られるのは、いやだ。

 

「――!!」

 

私の足元が、音を立てて崩れた。落とし穴…いや、バンジステーク。落ち葉がクッションとなっていて、設置された竹も斜めに切られてはいない。殺傷を目的としていないのは明白だった。つまりこれは――いたずらだ。そう、あの人の。

 

「私の事、嫌いになっちゃったかい?」下手人の顔が、ひょっこりと現れる。「本気だったら…どうかな。死んでたかも」「…そうね」私は慌てて顔を伏せた。だめだ。今は駄目なのだ。…今は? じゃあ、いつになったら合わせられる? 狂った波長を、いつまで引き延ばしていられるのか?

 

「よっと」ドサリ。あなたは自分の掘った穴に落ちてきた。…どうしてそんな事をするのか、私にはわからなかったが…このままでは、顔を見られてしまう。「どしたの。顔見せてよ、鈴仙」あなたの手が、泥だらけの手が、わたしの顔に触れた。私は僅かに思慮を巡らせて…ゆっくりと、顔を上げた。

 

「随分汚れてるじゃない」「…あんたには言われたくない」あなたは泥をはたくと、私の顔を見つめた。軽く口を、開く。「――私の事、好きになっちゃったんだろ、鈴仙」ドクン。心臓が縮み上がった。…あなたの口からそんな言葉が飛び出すなんて、思ってもいなかったから。

 

「わかる。わかるよ。何年兎やってると思ってる。思い煩う男女の行動は、いつだってそういうものなんだ」あなたはニヤリと笑った。「押せば引かれ、引けば押される。恋の綱引きってのはそういうものさ。だったらどうすればいい? 捕まえてしまえばいいんだ。こうやってね」天を指し、地を指す。

 

「改めて聞くよ、鈴仙。あんた――私が好きで好きでたまらないんだろ?」ししし、とあなたが笑った。私の心臓は、再び縮み上がった。このままでは不整脈で死んでしまうのではないか。…無関係な事を考えて、気を落ち着かせる。あなたは、本気で言っているのだろうか? …それとも、冗談?

 

「そ、そんな事、ある訳ないじゃ――「いいや、あるね。その瞳を見ればわかる」あなたは私の瞳を覗き込んでいた。狂気の瞳。それはあなたではなく、あなたの瞳に映った私自身を狂わせていたかもしれない。「恋を燃やしてる。素敵な目だ」あなたが目を閉じたのを見て、私も目を閉じ、安堵した。

 

「うじうじさんには、これでどうだ」――あなたの唇が、私の唇に重なった。目を閉じた間の事だった。或いは誘っていると思われたのかもしれない。私にそんなつもりはなかった。なかったはずだ。…ほんの少しだけ、期待していたかもしれない。私は狂っていた。あなたの存在に、ただ狂っていた。

 

「ひゃっ!?」驚き後ずさった私。私の行動に満足したかのように、あなたはニヤニヤと笑った。悪いだなんて指先程も思っていない顔。「キスをすれば、後は駆け抜けるだけさ。それで物事は万事うまくいく。王子様だって、お姫様だって――みんなそうだった。お前もその一人になればいい」

 

あなたの指先が、私の下唇に触れた。「そういうもんだよ、恋なんて。焦がれている内が華なのさ。"今"は、今この時にしか味わえない」あなたの唇が、頬に触れた。「お前はどうしたい?」あなたの手が、顎を引いた。「私はいつまでも、こうしていても構わないわ」私がしたい事、したい事は…!

 

「…好き」「本当にかい?」「あなたが好きです」「ほうほう、それで?」「あなたが――大好きです!!」あなたの側から見れば、きっと顔を真っ赤にしていただろう。「そっか」あなたは静かに微笑み、私の身体に腕を回した。物理的な距離が、少しだけ縮まった。心の距離は、どうだろう。

 

「告白なんてされるのは、何年ぶりだろうねぇ」あなたの手が、背中を撫でた。…そうだ。永くを生きる白兎に経験で敵う訳もない。いわんや恋愛をや。何もかも見透かされていたのだと理解して、私は再び赤面した。今までの自分が馬鹿みたいだ。私はただ、あなたに顔を見せればよかったのに。

 

あなたはきっと、数多くの恋を燃やして、数多くの失恋を痕にしたのだろう。「――生憎、私はお前より先に死ぬ気はないさ。それでもいいの?」私はその一人に過ぎないのなら…それでもいい。首を縦に振った。いつかこの選択を後悔するにしても、"今"を手放すよりは、ずっといい。そう思った。

 

「気の迷い、では済まないわよ」見事なクライミングを見せたあなたが、私に手を伸ばした。実際の所必要はないんだけど、それを掴んだ。壁登りは私には少しばかり難しかった。あなたの手がそれを力強く支えた。私が這い出した時、あなたは悪い笑顔――ではなく、可愛い笑顔をしていたね。

 

「ま、とりあえず…土でも流そう。洗濯は任せる。今日からはてゐ様の天下だぞ」「…ちょっと図々しすぎない?」そうだ。私達の家に帰ろう。背に乗ってきたあなたを持ち上げ、肩に乗せた。あなたは私の頭に手を置き、ししし、と笑った。

 

 

 

世界があなたの為にあるのなら、その片隅に、どうか私を置いてほしい。

例え、悠久の時のまたたきに過ぎなくても。いずれは忘れ去られるとしても。

 

――私は、あなたを愛しています。



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携帯を落としただけなのに

―携帯を落としただけなのに―

 

 

 

もう、止まれない。止まりたくない。

 

 

 

その日は少し、天気が悪かった気がする。おでかけという気分ではなかったけど、こういう時こそネタがあるに違いない。そう思ってた。…うん。思えばあんな事になるなんて、この時は全然思っていなかった。烏の羽根にかけて、ね。

 

結局、特になんにもなかった。折角だから山から見下ろす自然の写真を取ろうとしたんだけど…その時、手が滑って携帯を取り落してしまった。転落防止にかけていたストラップは…ぷちんと切れた。いくら何でもタイミングが悪すぎる。文なら咄嗟に飛び込んだだろうけど…私には無理だった。

 

私はしばらくの間、闇雲に旋回していた。中に入って探すのはちょっと怖かったし、何処に落ちたかも見当がつかなかったから。どうすればいいのか自問しながら、それでも答えは出てこない。ちょっとだけ泣きたくなってきた時――その人は現れたの。

 

「どうなさいましたか」私の姿を見て、来てくれたのは白狼天狗。今まであまり接する機会はなかった。少しだけ怖いイメージもあったけど、正直に話した方が良い気がした。「携帯をね、落としちゃったの…」「携帯?」「こういう感じの、四角い…」私の説明は、通じただろうか。

 

「探してまいります」そう言うと、白狼は真下の森に入っていった。…本当に見つかるかな。あんなに木々が茂っているなら、難しいかもしれない。無理なお願いをするんじゃなかった。そう思っても、もう遅い。「そこの烏天狗。何か用事か?」更に白狼が二人、私の所にやってきた。

 

「あのね、携帯を――いえ、この下で探し物をしてくれてる人に伝えて。もういいからって」白狼は怪訝な顔をしてたけど、とりあえず通じはしたらしい。二人は森の中に入っていった。…ここにいても仕方がないか。携帯に未練はあったけれど、代えは利くものだからと、言い聞かせた。

 

――家に帰ってしばらく、私はぼんやりとしていた。携帯の事もそうだけど…それよりも、あの白狼の事を考えてた。礼儀正しくて、精悍な顔をしてた。どうしてあんなお願いしたんだろう。窓を見る。…外は雨だ。風も強くなってきた。明日、自分で探そうとも思ったけど、無理かもしれない。

 

――チリリン。呼び鈴が鳴った。誰だろう。「誰ですか?」私の問いに――あの人は答えた。「携帯、探してまいりました」私は一瞬どきりとして――慌てて扉を開けた。そこにはびしょ濡れになった白狼が立ってた。懐から大事そうに取り出したのは、私の携帯。「遅くなりました」

 

「遅くだなんて、そんな…ごめんなさい、無理なお願いしちゃって…」「仕事ですから」白狼の手から、携帯をそっと受け取った。あの二人は伝えてくれなかったのかな。それとも、話を聞いてもずっと探してくれていたのかな。「それでは、失礼します」「あっ…ちょっと待って!」

 

「何か」何かって言っても、私だってわからないよ。でも、このまま帰らせちゃいけない気がした。「…あのね、シャワー浴びていったらどうかなって。服も乾燥してあげるから」「そういう訳にはまいりません」白狼は踵を返して、帰ろうとした。「待って。せめて拭わせて」

 

「…それはご命令ですか?」命令?「えっと、そう――命令…かな?」誰かに命令するなんて――実際の所、慣れてた。実家にいた頃はそういうものとして受け入れていたし、みんながそれに従ってた。一人暮らしを初めてから、始めてそれが特別な事なんだなって気付きもした。

 

「…それでは、お邪魔いたします」白狼はその場で装備を解くと、私の家に入ってきた。私がシャワーを促すと、素直に浴びてくれてた。感想が終わるまではバスタオル一枚だったけど、そんなに抵抗は感じなかった。…肩や腕の筋肉が浮かび上がってる。とっても強そうだ。

 

「――ありがとうございました。それでは、失礼します」乾いた服を着て、白狼は玄関に近付いた。「あ、待って」私は至極当然の挨拶をした。「私ははたて、あなたは?」「犬走、椛と申します」椛。椛…。「また会おうね、椛」それが難しいのはわかっていたけど、私はそうしたかった。

 

「善処します」椛は立ち去り、扉が閉じた。外は夜。雲は晴れていて、月が見えてた。「椛、椛かぁ…」素敵な名前だな。また会えるといいな。…私は携帯を取って、念写をした。見つかるかはわからなかったけど、それはすぐに引っかかった。文と一緒の写真。…そっか、文の友達だったんだ。

 

文には何をしても敵わない。虚勢を張ったりもしてるけど、その度に私はぐにゃぐにゃした気分になる。今度だってそう。文ならあんな事にはならなかったと思うし。…でも、そのおかげで椛に会えたんだけど。私のわがままに付き合ってくれて、ごめんね。

 

写真をもっと探した。でも、あるのはその一枚だけ。なんだか椛は嫌がっているように見えるから、カメラが嫌いなのかな。魂を抜かれるなんて本気で信じてる人もいる。平気でそれを扱うのは、ひょっとしたら新聞記者だけかもしれない。それなら私達は、魂を抜いて回ってる事になる。

 

…魂か。椛の魂も、いつか抜いてしまえるかな。そんな事を考えていると、少しだけ頬が赤くなった気がする。ううん、きっともう会えない。私達烏天狗は、白狼の場所にあまり行ってはいけない事になっている。会いに行きたいけど、きっと良い顔はされない。実家に迷惑が掛かるかも。

 

…どうかな。行けない理由ばかり探しているかも。本当は行きたいのに。…行きたいのに? 本当に本当は、行くのが怖いんじゃないか。二度と会えない事をほっとしているんじゃないか。…好きになっちゃったかも、なんて…言えるはずがないよ。私は烏で、あなたは白狼なのに。

 

ごろんとして、クッションを抱き込んだ。こんなに心を乱されるのはいつ振りか、思い出せない。私にとっては初めて出会うタイプだったかも。実家にいた時から、白狼と言えば粗野な人達だって思ってたから。でも違った。お家の名前を出さなくても、あんなに優しくしてくれる人がいるなんて。

 

クッションを強く抱きしめた。これ以上は考えても意味がないと思った。それでも、椛の顔は頭から離れてくれなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「椛の事、ですか」私は文にそれを聞きたかった。どういう関係なのだろう。「あの犬コロは本当にお堅くて、口五月蠅くて、嫌になりますね」…聞いた私が悪かったかもしれない。「ところで、何故そんな事を聞きなさる?」文は物書きを止めて、こちらを見た。「ううん、ちょっと気になって」

 

「――おやおや、どうやらあのボケ犬が噛みついた訳ですな?」「…噛まれてはないよ?」「物の例えという奴ですよ。お姫様」文は道具を片付けると、私の顔を覗き込んできた。「そういうのは、遊びくらいになさい。花火に火気を持ち出せばどうなるか、想像できるでしょう? あなたでも」

 

…私のわからない、という顔を見て、文は片手を額に当て、手を振った。「調子狂いますね。これだから箱入りは…」何かをぶつぶつ呟いた後、文は私の肩を叩いた。「椛には近付くべきではありません。あなたではどうしようもなくなりますよ」文の言葉は、やけに真剣だった。…私は頷いた。

 

「…まァ、そういう訳です。わたくし射命丸はお節介焼きですからねェ。聞いた事、忘れてはいけませんよ」文はもう一度肩を叩くと、風に乗って飛び去っていった。結局、椛の事はほとんど聞けなかった気がする。それよりも、椛に――近付いてはいけないとか、そう言う話をたくさん聞いた。

 

…何故だろう。わたしにはわからない。烏と狼は一緒になれないから? …そんな事まで考えていないのに。ただ椛に会いたい。会って――そう、この間の事でもう一回お礼を言いたい。お礼を言って――どうするの? そんな先の事はわからない。会えればいい。会うだけでいい…

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

その日もネタは見つからなかった。空は生憎の曇り空。それどころか空の向こうから黒い雲まで近付いてきてた。あんなのに巻かれたらびしょ濡れになってしまうだろう。今日はもう帰ろう。何もかも明日にしよう。雄大な、見慣れた山の景色を後に、飛び去ろうとした――その時だった。

 

――雷が、すぐ近くの木を直撃した! 私は酷くひるんで、ポケットから携帯を――落とさなかった。今度はストラップも切れていない。…だけど、それだけじゃなかった。俄かに吹き出した突風。突風。突風が私を跳ね除ける。コントロールを失った私はなんとか態勢を立て直そうとした。

 

――もう一発、すぐ近くに落ちた!! もう少し場所が違えば、私自身に落ちていたかもしれない。――もうダメだった。私は完全にコントロールを失い、目下の木々の迷宮へと落っこちていった。何が起こったのかもわからなかった。バキバキ、という音と共に、私は意識を手放した。

 

―――

 

  ―――

 

…頬を打つ冷たい雨で、目を覚ました。風が枝をざざざ、と揺らしているのが聞こえる。

 

今度は私自身を落としてしまうなんて。えへへ、と苦笑いが漏れた。早く家に帰って、写真を確認しなくちゃ。買い物にもいかないとね。私は右腕を動かそうとした。動かない。左脚を動かそうとした。やはり動かない。苦笑いが、少しずつ別の感情に変わっていく。

 

木々の間に引っかかって、身動きが取れない。背中に違和感があった。酷く痛い。「これって、折れてる…?」翼はきっと、まともに使えない。どうしたらいいんだろう。わからないけど…これはたぶん、とてつもないピンチなんじゃないか。この時になって初めて、私は震えた。

 

――ひょっとして、死ぬのかもしれない。

 

いくら声を上げても、この嵐じゃ聞こえるはずもない。冷たい雨が身体を打ってる。諦めるなんて私らしくないけど…私は酷く委縮していた。こんな事は初めてだった。誰も助けてはくれない。誰も見つけてくれない。考える度に恐怖がやってくる。目を閉じた。何も考えないように。

 

雨が降り続いている。痛みを感じなくなってきた。烏天狗がこのくらいで死ぬはずがない。…でも、ずっと見つからなかったら? 私が本当に死んでしまうまで、誰も探し出してくれなかったら? 再び恐怖がにじり寄ってくる。だめだ。このままじゃ。身体の前に、心を殺されてしまうよ。

 

必死に風を繰るけど、私は文みたいに上手じゃない。なんとか絞り出した風の刃は、枝に弾かれた。傷一つついていない。変に腕を動かしたせいで、ますます締め付けが強くなった気もする。息を吐いた。最後の抵抗もこんなものなのか。私は、私自身の無力を呪った。

 

――ガサガサ、と大きな音がした。それは上ではなく、下の方から聞こえた気がする。…どうでもいいや。私はここで死ぬんだもの。もう何の希望もない。考える必要もない。ただ死ぬのを待つだけ。死ぬのを。死ぬのを…

 

「…いやだ――ッ! 助けて、椛――!!」

 

何処から出たのかわからない声で、私は叫んだ。そうだ、死にたくない! 私にはやり残した事が一杯あるんだ。もっと色々な事をしたい! 文にだって勝ちたい! ――それにまだ、椛にだって会えてない!! 椛に会いたい、会いたいよ!!

 

「いずこですか! はたて様!!」

 

下の方がから、声がする。確かに聞こえた。あの声が聞こえた!!「上っ、上を見て!!」私の言葉は、確かに通じた。

 

きらめく刃が周囲の枝を切り払った。転がり落ちる私を、逞しい腕で支えてくれた。「すぐに医者を当たりましょう」「待って」絶対に、伝えなきゃいけないと思った。「ごめんね。ありがとう」「仕事ですから」椛はそう返事をして――私に、微笑んでくれた。

 

私を前に抱いて、椛は飛んだ。本当は私も飛べそうだったけど、こうしていてもいいかな、って思った。「たまたま、墜ちる所を見たのです」「…あ、覗いてたんだ」私は少し意地悪な質問をした。「…いえその、決してはたて様を覗いていた訳ではありませんが」慌ててる。図星だったのかな。

 

―――

 

  ―――

 

――それからの私達は、場所を決めては二人だけの時を過ごした。話したい事は一杯あった。椛はそれをじっと聞いてくれた。その内に私達は、たぶん…お互いを今以上の関係にしたい、と思っていたかもしれない。そんな事はとても口にできない。それが絶対に許されない事だとわかっていたから。

 

今の幸せな時間を失ってしまうのは、辛い。今のままがずっと続けばいい。そう思っていた。…それすらも、許されないのだと、私達は知ってしまった。

 

「そういうのは良くないぜ、椛」手に手に剣を持った白狼が、私達を囲んでいた。「上を誤魔化すなら、私らで解決しなきゃな」

 

椛は何も言わずに装備を解いた。そのまま何処かへ連れられていく。「待って!」伸ばした手を、白狼が遮った。「あんたは何も見なかった。ここにもいなかった。それで円満解決だ。…悪いな」白狼は剣を収めると、椛達と一緒に行ってしまった。どうすれば良かったのか、わからなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――椛のいない生活は、どうしようもなく味気なく感じた。いつもは楽しかった事、何もする気にならなかった。会いに行くべきではない。頭ではわかっていたけど、足はそこへ向かおうとする。それを押しとどめるのに、私は一杯一杯だった。あなたに会いたい。ダメだ。あなたに会いたいよ。

 

ふと、携帯を見る。待ち受けは椛の写真。…何の気なしに、私は念写を試みた。椛の写真。――あった。…あった? 私は慌ててそれを確認する。巨石の前で、何人かの白狼と一緒に、椛が写っている。その巨石の事は知っていた。そこでも沢山お話をした。…でも、誰が撮影したの?

 

…そんな事は、今はどうでもいいか。懸命に頭を回転させる。この写真が日常の中で撮られたとすれば、椛はそこを通りがかる事があるって事だ。夜中に、複数人でそこに行く理由は――どうだろう。私の考えている通りなら――

 

つまり、椛は巨石の近くで仕事をしているんじゃないか。そう思った瞬間、私はもう居ても立っても居られなかった。そこに行けば、椛に会えるかもしれない。慌てて支度をした。もう頭の中は椛の事で一杯だった。後先を考える余裕もなかったくらい、私は燃え上がっていた。

 

――写真の撮られた時刻は、深夜だった。私はしめやかに巨石の近くへ隠れた。たぶん、ここを通る。それをじっと待つ。片手にカメラを構えていた。これもきっと役立つ。…向こうから、白狼の一団がやってくる。その中に椛が…いた! 最後尾をゆっくりと歩いている。

 

「やれるよね」私は息を吐いた。やれなきゃダメだ。私は前を通りかかる白狼に――フラッシュを焚いた! 繰った風の塊を他の白狼にぶつけ、外へと飛び出した!「椛! また会えたよ!!」私の言葉に、椛は耳をぴくり、と動かした。私は少しでも近づくべく、走る。走る!

 

私の風でも、よろけさせるくらいはできた。フラッシュを焚いた一人はまだ前が見えていない。もう一人は…私の顔を見て、ギョッとしたようだった。私は一番近い白狼から剣をひったくると、彼らに向けた。こんなもの持った事もないけど、それしか思いつかなかった。

 

「いやいや嬢ちゃん、やめなって…」私は周囲に風を繰った。「姫海棠の名をもって命ずる。退け」じりじりと近付く。「…どうする?」白狼達は…恐れるというより、困っていた。「いや、私らの上にも大天狗様がさ…許してくれよ」彼らは剣を抜いた。勝てるはずがない。でも、椛が。

 

「…うおっ!」白狼の一人が突然に体当たりを受けた。刃がきらめく。白狼達が振り向いた瞬間、それはあっという間に剣を弾いてしまった。「こら、暴れるな椛! お前は前科がついてんだから!」白狼の説得を、しかし椛は聞かなかった。「退け。私達の事はもう放っておけ」剣が、近付く。

 

「…仕方ねぇな」白狼の一人が、後ずさった。「私らは何も言わないが、すぐばれるぜ。どうすんだ」どうする。どうしようと思っていたんだろう。…特に何も考えていなかった。勢いだけでこの場まで来たんだ。…なら、このまま勢いのままに走るしかない。剣を捨て、私は手招きした。

 

椛は反対しなかった。あなたの生き方を変えてしまったのに。ありがとう、とあなたは言った。私だって、嬉しかった。…なら、私だって覚悟を決めてやる。私達は逃げた。逃げるしかなかった。でも、逃げる私達の背を、あなたは押してくれていた。私も押そうと思った。互いに押し合って、逃げる。

 

私達は月夜を飛んだ。追ってくる人は、誰もいなかった。飛ぶのは椛よりも私の方が速かった。だから、手を繋いで、引っ張った。椛は微笑んだ。私も笑った。この先にどんな事が待ち構えていたとしても、二人なら乗り越えられる。――根拠はないけど、そう思った。

 

私の背中を、椛が抱いた。私達は一つの影になりながら、山の外へ、外へと飛んだ。決して忘れられない、素晴らしい逃避行だった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「それで、行かせた訳ですか」私には理解しかねる…いや、心情的には理解できますがね。お偉方としては少々突飛な話ですな。「世間を見せてあげたかったというなら――まあ、感傷が過ぎると思いますが。第一、あの犬コロは噛みますよ。彼女を」姫海棠の老人は何も答えなかった。

 

「――ほう、今は連れ戻す気はないと?」私は口元を隠した。「ええ、噂はかねがね。今や遠い昔の話ですが。あなた様も駆け落ちされた事があるとか」老人は静かに笑った。「それも、あどけない白狼の少女と。――まあ、言うなれば血は争えぬ、という奴でしょうか」

 

あぐらを整え直した。「それで、何故わたしにそのような話を? …やや、大方は予想しておりますが。あなた様の命令とあらば、断る訳にもいきますまい。…しかしまあ、少々過保護でございますね」老人が差し出したのは、金のインゴット。「頂いておきます。少々入用になりましょう」

 

私は立ち上がり、飄々とお辞儀をした。「それでは、子守りの御用、承りました」私の去り際、老人は笑い顔半分、憂い顔半分を浮かべていたように見えた。あなたの恋がどのように破れたかは存じませんが、その復仇を孫でやろうと言うのは少々お節介にも思えますがね。まあ、いいでしょう。

 

あなたがたの恋を邪魔する痴れ者、この射命丸が振り払ってみせましょう。あなたがたはあなたがたの足で、己が障害を乗り越えていけばよろしい。そう簡単な話ではないでしょう。しかしてそれは必然。困難の中で愛は燃え上がるものです。身構えなさい。支え合いなさい。

 

「――まあ、私とて平常ではいられません。ひねくれた恋心を、同時に二つ失ったのですから」姫海棠家の窓から飛び出す。「あなたが好きだと、素直に言えれば、どれだけよかったでしょうね。しかしてそれも、今や遅し」私も少しばかり、感傷的だったかもしれない。風に乗り、涙が飛んだ。

 

「負け犬には負け犬の矜持がある」周囲に風の渦が巻く。「あなたがたにはわからないでしょう。わかって頂く必要もありません」遠くの空に烏と白狼の影が見えた。山の老人達の差し金だ。「今宵の私は機嫌が悪いのです」私は風を繰り、疾く、烈しく、空を駆けた。

 

「――さあ、私と遊びましょう!」

 



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魔法使いの帽子

―魔法使いの帽子―

 

自宅の近く、森を少し入った場所に、いくつかの墓がある。その中でも風化の進んでいない墓石は、実際ごく最近に立てられたものだ。彼女は知人だった。知人は、弔ってやるものだ。しなびた花を取り換える。墓石の上に乗った帽子を眺める。それは魔法の産物故か、未だに形を保っていた。

 

まるで、彼女が生きているかのように。――感傷に意味はない。だが、意義はある。人形を繰る。すべての墓石を綺麗に磨く。私も彼女のそれを、布で拭いてやった。彼女の生前にこんな事をしていると知られれば、恐らく神妙な顔をしただろう。今では彼女も、その仲間入りをしてしまった。

 

―――

 

  ―――

 

私が自宅に戻ると、そこには先客がいた。私は己の目を疑い、そして正気を疑った。その背にはどうしようもなく見覚えがあった。だがしかし、彼女は死んだのだ。死体を確認し、埋葬すらしたではないか。――声をかけるべきか。思い悩む私の前で、その身体は、こちらを向いた。

 

「どうしたんだ、アリス?」

 

「――あなた、誰?」「なんだ? 私は私だぜ。質実剛健、努力家の魔法使いさまだ」彼女はすれ違いざまにタッチした。「何処か行ってたのか? そうだ、ロマンチックなとこか?」私は完全に固まっていた。七色の魔法使いとして恥ずべき行動だった。しかし、これは、誰だって動転する。

 

幽霊――いや違う。今触れた手には確かに体温があった。亡霊――それも違うだろう。彼女の肉体は火葬に付し、丁重に弔った。正にことさら執着している風もなかった。それなら、今の彼女は――一体何者なのか。私の視線に、彼女はじっ、と視線を返してきた。「おっ、にらめっこか?」

 

私は首を振った。「いいえ、少し――疲れているだけよ」彼女はニヤリと笑った。「お前も疲れたりするんだな。いつも全力を出したくないって言ってた癖に」そうだ。それを知っているという事は、目の前の存在は確かに魔理沙なのだ。「…久しぶりね、魔理沙」「おう、久しぶりかもな、そういや」

 

―――

 

  ―――

 

私達は博麗神社に向かっていた。この事を霊夢に伝えなければならない。舞い降りてきた私達を見て、霊夢は卒倒する寸前だったかもしれない。冷静沈着な私ですら驚いたのだ。この反応は仕方がないだろう。「嘘、でしょ…」「おいおい、お前までオバケを見たような顔すんのかよ」

 

「いやだって、あんたは――」私は手を振って、それを遮った。彼女が本当に魔理沙なら、死んだ時の話をするのは良い反応ではないと思ったからだ。「その、中に入りなさいよ。話でもしましょう」「そうだな、顔出しだけするつもりだったんだが…まあ、いいか」魔理沙は箒を立てかけた。

 

「はい、お茶」差し出された茶に、しかし魔理沙は手を振った。「いや、今は喉乾いてないんだ、悪いな」そう、と呟き、霊夢は湯飲みを下げた。内心がどれだけ乱されているかはわからない。「しかしあれだな、私達どのくらい会ってなかったっけ?」「…そうね。確か、半月くらい?」

 

心の傷が癒え始めるくらいの頃だ。そこに魔理沙は現れた。以前となんら変わらない姿、変わらない対応。まるで魔理沙が、蘇ってしまったかのように。「その、あんたがいなくなってたから――ね、ちょっと驚いちゃって」霊夢は話し辛そうだ。私も楽しくお話しできるとは思ってはいない。

 

「私がいなかったって――そんな事あったっけ?」魔理沙はよくわからない、というポーズを取った。魔理沙が何も知らないとすれば、或いは私達の記憶の方がおかしいだろうか。いやしかし、彼女の交友関係の人妖はこの事を知って――しかし、そうだ。実際にそれを見たのは私達だけだ。

 

「ねえ、その…魔理沙」霊夢が呟いた。その目には涙が浮かんでいた。「なんだよ霊夢、ハンサムな私に当てられちまったか?」そりゃ困るぜ、と魔理沙は続けた。軽口の叩き方もそっくりだ。十人が十人、魔理沙と言うのではないか。私は若干の警戒を解いた。不思議な事も世の中にはある。

 

「じゃあ、そろそろ行くぜ」いくらかの世間話の後、魔理沙は退出しようとした。霊夢は何か言いたげだったが、言葉にならないようだった。私と共に歩き始めた魔理沙は――「そうだ、私の家に行こうぜ。素敵が待ってる」魔理沙の意図はわからなかったが、私は承諾した。

 

―――

 

  ―――

 

魔理沙の家は相変わらずだった。ゴミだかゴミだが、それともゴミなのか。山と積まれたそれを横目に、私は部屋へと通された。「コーヒーでも飲むか?」私はとりあえず、頷いた。魔理沙は奥に引っ込んだ。部屋を見回すと、以前にはなかった、少しばかり興味のあるものを見つけた。

 

それは、ぬいぐるみだ。私から見れば稚拙としかいいようのないそれは、しかし何処か美しくすら感じた。そこには私、霊夢、パチュリー、レミリアにフランドール、それから。いくつもの知り合いのぬいぐるみが並ぶ中、私と霊夢の隣は、不自然に開いていた。そこにあったのは、恐らく。

 

「おい、どうした?」彼女が部屋を覗き込んできた。「どうだ。いいだろ、それ」「…そうね」私は振り向き、視線をそらした。いくら探せど、その場の何処にも、魔理沙のぬいぐるみは置かれていなかった。一人分のコーヒーを飲みながら、私の中で何らかの疑問が膨らみ始めていた。

 

―――

 

  ―――

 

私達は森の中を飛んでいた。魔理沙が良い所を知っているというので、ついてきたのだ。あまり興味はなかった。むしろ私のそれを、確認したくてその背を見ていたのかもしれない。魔理沙は箒で、枝と枝の間を突き進む。あんなにスピードを出したら、避けられないだろうに。

 

「いてっ」やはり。ここいらは枝が多いからな、と魔理沙は苦笑いした。――私はそれよりも、魔理沙の顔を注視していた。髪の毛だとか、そういうものじゃない。彼女の顔にある不自然なもの。私にはそれが、ほつれに見えた。人形とは常に接している身だ。見間違えとも思えない。

 

「昼間の森だってロマンチック、だろ?」「――そうね。余計な邪魔が入らなければ」そうだ。周囲に獣の気配を感じる。威嚇してもいいが、噛みついてこられると面倒だ。「帰りましょう、魔理沙」「えっ!? あ、ああ」何処か不服げに、魔理沙は飛び上がった。私もそれに続く。

 

「結局ここかぁ」魔理沙はスン、と着地すると、私の自宅を眺めまわした。「なあ、夜まで居ていいか? そうすりゃすこしはいい雰囲気に変わると思うんだが」「――随分、雰囲気に拘るのね?」「そいつが私の望みだからな」魔理沙は笑い、テラスチェアに座った。紅茶は、断られた。

 

私はもう、魔理沙の言葉を信用していなかった。疑問は疑念に変わり、そして確信へと変わろうとしていた。私は己の疑念が正しい事を証明したかった。それで私は、魔理沙を試そうと思った。思い違いなら、私が失態を晒すだけだ。合っていて欲しくはない。しかして、事実は絶対だ。

 

「魔理沙」「どうした」「魔理沙」「なんだよ」「魔理沙」「んん?」「魔理沙」「おう、なんだ?」「魔理沙」「あー?」「魔理沙」「なにかしら?」「魔理沙」「魔理沙さまだぜ?」「魔理沙」「何の用だ?」「魔理沙」「なにかな、アリス?」「魔理沙」「なんじゃらほい」

 

――私は人形を、魔理沙に向けた。剣が、ランスが、レーザーが、魔理沙――いや、怪異を狙っている。号令さえあれば、即座にその身体をボロ雑巾にしてやれるだけの武力が、それに向けられていた。糸が、きしんだ。私は自分が怒っている事を理解した。とても、冷静ではいられない。

 

「いいえ、お前は魔理沙ではない」「なんでそんな事――今日はおかしいぜ、お前」「お前は魔理沙ではない」「まいったな、話が通じないぜ」「お前は、魔理沙ではない」私は更なる人形を繰り、周囲一体に張り巡らせた。「真の姿を現せ」「そういう事を言うのは良くないぜ?」

 

私の言葉に魔理沙――いや、魔理沙のようなものは困った風な態度を崩さない。しかし、それが不自然なのだ。彼女は怒りもしなければ、その場から立ち去ろともしていない。ある種機械的に反応を返している。つまりは――そういう事ではないのか。繰る手が、怒りに震えた。

 

「いやいや、痛いぜアリス――」ランスが貫いた。「これは痛いぞ」ソードが切り裂いた。「そんな怒んなって」レーザーが貫いた。「今のは、ちょっと効いたぜ」――血は、出ていなかった。断面からは白黒の毛糸玉が溢れだしていた。私は糸を繰った。人形がその身を雁字搦めに捕える。

 

茶を断り続けたのも自明だ。人形は茶など飲まない。複数人で話すのを嫌がったのも。迂闊に喋れば、ボロが出る。私に拘り続けたのは――わからない。何か理由があるとすれば、私が魔理沙の亡骸を直接葬ったという事くらいだ。まさかそれを恨んで、こんな事をしている訳ではあるまい。

 

「幾度とも告げる。お前は魔理沙ではない」人形に帽子を奪わせた。彼女は僅かに抵抗しようとしたが、諦めたようだ。帽子を裏返す。魔理沙の名前が書かれている。これをお前が身につける資格はない。「お前は魔理沙ではない。正体を現せ、怪異なるもの」差した先で、怪異が震えた。

 

「――そうだ、アリス」怪異は口を利いた。「私は魔理沙ではない。しかし、魔理沙であろうとしたのは確かだ」その声は低くしわがれていた。「魔理沙はお前を好いていた。なればこそ、お前に近付こうともした。魔法もそうだ。お前のように、人形を操りたいと思っていた」

 

「つまり、お前は魔理沙の人形」「そうだ」私は知っている。人形に己と瓜二つの姿形を、そして人格を与える魔法。私の主義には合わないから、思いつかなかった。「魔理沙の死後に、お前が動き出したのは何故か」「そうして欲しいと願ったからだ」「誰が願った?」「霧雨魔理沙」

 

――先の話で、何となく想像はしていた。彼女は蘇ったのではない。しかし成り代わられた訳でもない。魔理沙は自分の死後に、人形が動き出すように細工していたのだろう。しかし、何故だ。所詮、魔力が切れるまでの命だ。自分が生きているように見せかけた所で、悲しみを増やすだけだ。

 

「最高のタイミングで、伝えよと命じられた。もう、それはできなくなってしまったが」「…何を伝える?」人形の瞳が、私を見た。それは涙を流していた。そんな機能があるとは知らなかったし、必要もないだろうとは思ったが、魔理沙ならつけてもおかしくないな、とも思った。

 

「あなたを愛していると」「…あなたとは、誰だ?」わかっていた、もう。聞かなくとも。「アリス。アリス・マーガトロイド」拘束を、解いた。「それが目的であるなら、無意味だったかもしれないわね」私は怪異を助け起こすと、それを静かに抱きしめた。「…最期の言葉、確かに承ったわ」

 

「ああ」怪異――いや、魔理沙は震えた。「私は、もう必要ではなくなった」魔理沙の身体が私の手の中で、ぐずぐずと崩れていく。足元には白い糸、黒い糸、雑多な布きれや装飾がめちゃくちゃに混ざりあった。「さようならアリス。さようなら」――そこから魔理沙は、いなくなった。

 

――霊夢にも伝えなければならない。そう思った時だ。空の向こうから、何かが飛翔してくる。私にはそれが霊夢だとすぐにわかった。知人だからだ。知人の姿くらいは、覚えてやるものだ。「魔理沙が心配で来たの」空から霊夢がやってくる。「今は来ない方がいいわ」「――いいえ」

 

黒白の毛糸が無残に散ったそこに、霊夢は舞い降りた。「霊夢」その肩は震えていた。「魔理沙は蘇ってなんていない。私達がそう勘違いしただけなのよ」私の宣告は、残酷だっただろうか。「わかってた」霊夢は顔を伏せた。「わかってたわ。でも、あいつが帰ってきたのは、嬉しかった」

 

飛び去る霊夢の背を見た。夕日を見た。やがて夜が訪れる。私は立ち尽くしたままだった。「魔理沙」彼女の名を呼んだ。私は人形を繰り、白黒の糸を集めさせた。これは正しく感傷だろう。けれど、そうする意味はあったと思う。部屋に戻ると、道具を取り出し、ぬいぐるみを作り始めた。

 

私にとっては簡単な仕事だ。魔理沙にとってはそうではなかっただろう。黒の毛玉で糸を繰り、白の毛玉で糸を繰った。綿を入れれば、それはすぐに完成した。魔理沙の人形。あの場に座るのが相応しい人形。…まだ、糸は残っている。私は糸をかき集め、まったく同じものを二つ、作った。

 

―――

 

  ―――

 

自宅の近く、森を少し入った場所に、いくつかの墓がある。その中でも風化の進んでいない墓石は、実際ごく最近に立てられたものだ。彼女は知人だった。知人は、弔ってやるものだ。しなびた花を取り換える。墓石の上に乗った帽子は風化し、ぼろぼろになっていた。もはや帽子とは言えない。

 

ああ、彼女は死んでしまったのだ。――感傷に意味はない。だが、意義はある。人形を繰る。すべての墓石を綺麗に磨く。私も彼女のそれを、布で拭いてやった。――私は最後に、魔理沙の残した帽子を、墓石に乗せてやった。魔理沙の墓は、より魔理沙らしくなった気がした。

 

――私の自宅に一つ。霊夢の神社に一つ、彼女の自宅に、一つ。人形はあった。それはもう何の怪異も引き起こさなかったけれど、彼女との接点を、持ち続けたかったのだ。楽しそうにそれを作る、魔理沙の顔が浮かぶ。並べる顔も。魔力を込める顔も。今はもう、二度と見る事ができない。

 

 

 

ぼろぼろの帽子を抱き、呟いた。「――私もあなたを、愛していたわ。魔理沙」

 



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戦利品

―戦利品―

 

 

 

射命丸文。お前が嫌いだ。

 

 

 

私には我慢ならないものがある。一つは腰抜け、もう一つは――烏天狗だ。特に、文という奴は。

 

口から先に生まれたような女だ。とにかく白狼天狗である私を馬鹿にする。直接的な中傷ならまだいい。回りくどい言い方でいつも煙に巻くのだ。結局最後は喧嘩別れだ。…しかしそれも、僅かな間。奴はやってくる。この繰り返しを何度続けた事か。飽きないものだ。お前も、私も。

 

…どうでもいいが、私達の関係は白狼の間で話のタネになっているらしい。しかも私とあいつは関係を疑われているとか。とんでもない話だ。私とあいつがねんごろなら、太陽と月だって握手する。今日もあいつはやって来る。追い返す。もう何月、いや何年繰り返したかはわからない。

 

――まあ、慕われるのは悪い気分ではない。正気を疑われるそれも、確かに私の中で裂けた骨めいて引っかかっていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

その日も私は、歩哨をしていた。退屈な任務だ。監視は退くまでが仕事だ。全力で戦う事も出来やしない。そうしていると、あいつはやってくる。――ほら。私の勘は要らない所でばかり発揮される。…せめて、何らかの戦いに役立つような技能でも磨かれないものか。顔が険しくなる。

 

「お利巧にしてましたか、ワンころ」私は無視した。無視した所で、事態が好転した事はない。だが、少なくとも悪い方には転がらない。「今日はお土産を持ってきましたよ。そら、骨ガム」私は無視した。「おや、無下になさる」袋から取り出したそれを、片手で弄ぶ。

 

「要らないなら食べてしまいますがねェ」馬鹿な事を。烏天狗の顎の力で噛み切れる代物ではない。「ん~、ヤムヤム」――待て。今、何が起きた?「おや、欲しくなりましたか? 駄目ですよ、これは私のです」文はにやにやしながら、それを食いちぎった。視線を向ける。…目が合った。

 

「まあネタ晴らししますと、ソフトタイプでございますね、これ」スルメ、と書かれた袋を差し出す。「よもや、腰が抜けなさる?」そんなはずがあるか。私は文から袋をひったくると、一本取り出して噛みついた。確かに歯ごたえがない。こんな生温いものでは白狼の口に合わない。

 

「実はもう一つあるんですよ。これは本物」文は鞄から袋を取り出した。「要ります? 要るでしょうね。不満顔がわかります故」やにわに投げ渡されたそれを、私は受け取った。捨てるのは勿体ない。それだけの理由だ。決して奴に乗せられた訳ではない。「お礼は?」「言わない」

 

奴から勝手にしてきた事だ。私からすればどうでもよかった。「――いやはやまったく、しつけが悪い」文は腕を広げ、首を振ってみせた。「お仲間は喜んでお礼を言いましたがねェ」あいつらはプライドというものがなさ過ぎるんだ。そんな風だから忠実な犬扱いされる。

 

「あなたがそういう人なのを私は重々承知しておりますからね。他所でやってはいけませんよ?」少なくともお前に対してだけだよ。「まあまあ、実はもう一つ用事はありまして」「三回まわってワン、ならお断りだ」放っておけば延々弄ばれる。「そこまで自分を卑下なさる?」

 

「まあ、ちょっとした出世話ですよ。堅物のあなたも、興味がないとは言いますまい?」…まあ、ある。名声には貪欲なつもりだ。立場が上がれば白狼の長に戦いを挑んでみたいとも思うし、待遇が良くなれば余暇が増える。それだけ修練に費やす暇が増える。悪い話ではない。

 

「なくはないな、くらいの顔ですね。まあ、よろしい。これから話すのは内密です。私以外の誰にも話してはいけませんよ」文が釘を刺してきた。どちらかと言えば、珍しい。いつもは何でもない事を延々とくっちゃべっている。「あなた、飯綱丸ってご存じで」「…大天狗?」

 

「そう、そいつです。いやはや、飯綱丸は少々敵を作り過ぎたようで」文は笑っている。「しかして武力で負けたとあっては、己が名に傷が付くのは必然。何としてでも勝たなければならない」「…戦いになるのか?」「ええ、それもとびっきりの」文は扇を斜めに振り下ろして見せた。

 

「その為の御付きが足りないそうで、人材を引き抜きにかかったのですよ。腕が立ち、少なくとも裏切らない」文は扇で風を繰っている。「至極都合のいい駒ですが、さもなくば御付きは務まらない」「そんなに必要なのか?」「必要かと言われれば、イエスです。それも一刻も早く」

 

「あなたは白狼でも上から数えた方が早いくらい、腕が立つそうじゃないですか」すばらしい、と文はお世辞を言った。別に、普通にやっていたらこうなっただけだ。「それで私に、御付きへ加われと?」「それ以外に用事はありませんね」「…私に務まるか?」礼儀作法なんてわからない。

 

「いいんですよ、ぶっちゃけ傭兵みたいなものです。あなたは裏切らない。だからこの話をお持ちした訳です」「傭兵、傭兵か…」「勝てば金も女も思うがまま――なんて、言ってみたかっただけですが」複雑に繰られた風が四散した。その様子を私は見た。相変わらず、器用な事だ。

 

「さて、あなたがこれを受ける前提で私は予定を組んでいます」「…私の意思は無視するのか?」「無視ではありません。もはや決まっているのですよ」そう言うと文は――唐突に繰った風の刃を、背後の木へと叩き込んでいた。ギャァ、と声がし、白狼が一人、木々の合間に落ちていく。

 

「私はどうにも人気者らしく。あなたもそうなりますよ、椛」文の顔が、少しばかり真剣な色を纏ったように見えた。私も剣を抜き、文と背中合わせになる。周囲にいくつかの気配を感じた。今まで気付かなかったのは、この不良天狗と話していたせいか、或いは相応に実力のある相手なのか。

 

「烏は任せなさい。あなたは噛みつく悪い子を」言われなくてもそうする。烏との地力の差は覆しがたい。十人でかかっても相打ちに持ち込めるかどうか。「さあ、私と遊びましょう!」文が飛び出した。オトリだ。私は木陰で息を殺す。これ幸いと飛び出したのは烏が二人、白狼が五人。

 

一人に仕向けるには明らかに多すぎる。きっとあちこちでこんな事をして、返り討ちにしてきたに違いない。私は五人目が背を向けた瞬間に飛び出し、背後からそれを襲った。一人を斬り倒し、一人を蹴り落した。あのくらいなら死にはしない。振り向いた三人の内、一人の剣を弾き落とした。

 

丸腰で戦うほど白狼は馬鹿ではない。噛みつく間もなくそいつは逃げ出し、残りは二人。たった二倍だ。私を止めるには少なすぎる。一人の剣を受け、押し返すと同時に打ち払った。剣が閃きながら落下していく。――だが、馬鹿はいた。四人目の白狼は、私に噛みつこうとしたのだ。

 

手甲でそれを受け、顔を蹴り飛ばす。良い根性をしているが、それは又の機会にしてくれ。最後の白狼はもはや戦闘の意思を見せなかった。剣を叩き落とし、その場に放置した。こいつを倒す事が目的ではない。上を見やれば、文が一人目を撃ち落とした所だった。二人目の動きも芳しくはない。

 

私は剣を握り直し、烏に向けて飛翔した。白狼は貪欲だ。烏を倒したとなれば、否が応にも名は上がる。名声は力の証明だ。烏に勝つ。それが私にとっては重要だった。反撃を許さず、一撃で決める。速度に任せ、私は必殺の突きを放った。烏は背を向けていた。かわせるはずがない。

 

…そう。はずだった。烏は背を逸らせて突きを回避すると、手刀で私の剣を叩き落とした。まずい。そう思った時には遅かった。私の身体は掴まれ、烏の前へと突き出された。文の繰った必殺の刃が迫っていた。「ちいッ!」風が四散する。烏は用済みとばかり、私を強烈な脚で蹴り落した。

 

堕ちる間に、空が見えた。文が放った風の槍が、烏の身を引き裂いた。烏は退散していく。追撃は既に届かなかった。――なんてザマだ。白狼は所詮、白狼だと言うのか。結局は文の隙を作ってしまった。私のせいだ。仲間も私を嗤うだろう。私は、…私は弱い。負け犬だ…

 

背中に受ける激しい衝撃。バキバキ鳴るのは木々の呻き。意識を保ってはいられなかった。私は自己嫌悪の中で、正体を失った。

 

―――

 

  ―――

 

「あなたの気概は認めますがね」文は私の頭を二度、叩いた。「それでぼろくずになられては、私の予定も狂うわけですよ」何かをメモしている。時折頭を掻いては、ペンを手で回していた。「まあ、そのくらいなら寝ていれば治るでしょう。そのくらいなら、ね」含みのある言い方だ。

 

「――あの時、私が止めなかったら…。死んでましたよ。あなた。確実に」再び頭を叩いた。「そんな寝覚めの悪い事はお断りですがね」私の呻きに、文は答えた。「ともかくあなたは生きている。生きているからラッキーです。汚名返上のチャンスもあるでしょう」汚名返上。…そうだな。

 

「まあ、養生なさい。数日中には迎えに来ます故」そう告げると、文は部屋の窓から飛び去っていった。扉から出ろよ。――結局私は、白狼のねぐらに叩き込まれていた。怪我人はまあ、日常的に出る仕事だ。ヤブなれど医者もいる。痛み止めに酒を勧められたが、断った。それは消毒液だ。

 

私が急患用ベッドで寝込んでいると、周囲にはねぐらの白狼がぞろぞろと集まりつつあった。何をするかと思えば、戦いの話をしろと言う。…急かされては仕方がない。私は誇張を交えず、正直にそれを話した。五人を倒した事を、烏天狗に倒された事を、その他はまあ、色々だ。

 

烏に喰いついた件については、実際の所、かなり好意的に取られていた。確かに、滅多にできる事ではないが。私が倒した連中は、ここにはいない。子飼いという奴だろう。大天狗や、それなりの力を持つ烏天狗は白狼を自由に扱える。公正に扱われるかは、まあ主人によるだろう。

 

傍の上着から、骨ガムの袋を取り出す。しばらく考えて…ソフトタイプにした。今の私で噛み切れるかわからなかった。悔しくはある。後悔もしただろう。だがそれは、後から雪げばいい。生きている限りはチャンスがある。文の言う通りだ。齧る骨ガムは、やはり歯応えがなかった。

 

―――

 

  ―――

 

「あなたはほとほと頑丈にできておりますねェ」文は肩をすくめた。「白狼はそういうものだ」「それが答えは疑問ですが――まあ、いいでしょう」私の肩を叩いた。もう痛みはない。傷は癒えた。「多少は心配しておりましたが、馬鹿を見ましたね」「…心配したのか?」「ええ」

 

文は扇で口元を隠した。「あなたの事を高く評価しているのは、何も強さや忠実さではないという事ですよ」「とかく遠回しだな。お前は」私も肩をすくめた。「――私が心を許せるのは、あなただけですから」「…なんだって?」問い直した私と文の間に、荷車が割り込んでいった。

 

剣を持てない白狼が戦の準備で駆けまわっている。私は渡されるまま、左肩に青と白で染められた外套を巻いた。敵が天狗なら味方も天狗だ。これがなければそこら中で同士討ちになってしまう。周囲を見渡す。ここは御所の外庭。弓矢を持った白狼が居並ぶ。烏には通じないだろうが…

 

敢えて迎え撃つ形になったのは、単純に向こうの戦力が上だからだ。大天狗の御所はそもそも戦を想定して造られている。動員された河童の火砲もある。地の利もあった。リスクのある選択ではあったが、大天狗はそれを選んだ。いざとなれば逆侵攻もかけようというのだ。

 

「戦士にとってこの時間は、とても高揚するものでしょう」扇子をひらひらとしながら文は続ける。「あなたもそうですか?」「私は――そうだな。戦いたくて、うずうずしているかもしれない」剣に触れ、撫ぜた。「私は――いえ。あまりそういうのは、感じないタチですな」

 

「――あれほど強いのにか?」意外だった。てっきり好戦的なものだと。「まあ、戦っている最中はそうかもしれませんが。今はその気がしないと言いますか」「何故だ?」戦えるものが、戦わない理由はわからない。「何と言いますか。…守るべきものがあると、やりにくいんですよ」

 

「そういうものか」私はそれを大天狗と解釈した。或いはそうではなかったのかもしれない。私から目を逸らした文は、何処へともなく飛び去った。私の準備は既に整っていた。ありふれた剣、小盾と手甲、腰に留めた数本の短刀、そしていつぞか文に押し付けられた、得体の知れぬ御守り。

 

前衛に出る白狼は大体同じ装備をしている。違いは力量の差と、時の運だけだ。私にはそれを引き寄せるだけの実力があるはずだ。白狼は貪欲だ。戦いに勝つ為なら、いくらでも力が欲しい。富を、名声を、そして強さそのものを得たいからだ。私もそうだ。戦うのが好きだ。力を得たい。

 

やがて日は傾き、夜がやって来る。宣戦布告で定められた時間は、もうすぐだ。月の光が周囲を照らす。決して視界が良いとは言えないが、それは敵も同じ事。どんな時でも戦えるよう修練したのは、或いは今日この場の為だったのかもしれない。そんな事を考える。

 

―――

 

  ―――

 

――時間だ。戦場に笛の音が響く。敵の号令に違いない。私達は競うように御所を飛び出した。しかして、火砲の射程範囲に入ってはならない。私達の魂胆を知ってか知らずか、敵は真っ直ぐに御所へ向かって来ていた。河童達の号令が聞こえた。――さん、に、いち、ふぁいあ!!

 

飛び出した砲弾は空中で弾け散り、無数の水弾に変わる。烏はそれを風で弾くが、白狼はそうはいかない。多くが粘液に巻かれるが、それでも数の差は圧倒的だ。火砲の一つに烏が取りついた。慌てて逃げ去ろうとする河童の目前で、破壊された火砲が爆発した。状況は良いとは言えない。

 

私はと言えば、御所に取り付こうとする白狼をひたすらに迎撃していた。数が減らない。味方の白狼も徐々に墜落していく。烏は見逃す。今の私に敵う相手ではない。御所から飛び出した味方の烏がそれを迎撃する。未だ侵入は許していない。いつまで持つかは、わからない。

 

その時だ。月明かりに独特な影が浮かんだのは。それはいつぞ見たプロペラに似ていた。或いはそのものだったかもしれない。しばし滞空したそれの傍から閃光が閃く。千里眼で、私は見た。敵も河童を動員していたのだ。水流の主は飛翔体。何するものか、今の私には想像がついた。

 

火砲の迎撃は間に合わない。飛翔した物体は御所の壁にぶち当たると、激しい爆発を起こした。壁に大穴が開く。まずい。そう思った時には多くの烏が、白狼が、内部に侵入していた。何とか割り込もうとするが、前に烏が立ちはだかる。味方の烏は他の烏と戦っている。手一杯だ。

 

やがて烏は穴へと飛び込んだ。私は任務を放棄し、それを追う。今はもう迎撃などと眠い事を言っている場合ではない。大天狗を押さえられれば、私達の負けだ。御所が幾度も揺れる。飛翔体が次々に打ち込まれているのか。私が廊下を抜けようとしたその時、実際それは襲ってきた。

 

激しい衝撃と共に壁は抜かれ、目の前が粘液に包まれる。ひるんでいては間に合わない。私はまみれた廊下を飛び越え、階段を駆け上った。――そこには敵がいた。先へ、先へと駆けていた。私はその背中を見ている。追いつけたのだ。烏の姿はない。奴らはあまりにも、素早い。

 

私は追いすがった。廊下を駆ける白狼に短刀を投擲し、武器を蹴り飛ばす。ここにも馬鹿がいた。噛みつこうとする肩を掴み、前方の白狼に投げつける。将棋倒しになった白狼は揉み合いになる。私はその身体を踏み越え、進んだ、大天狗の居所はすぐだ。…間に合え、間に合え!!

 

グワッシャアアアン!! 目前のガラス戸が砕け、中から烏天狗が飛ばされてきた。咄嗟に扇を砕いて無力化すると、開いた扉から中を見た。倒れ伏した敵味方の中に、文がいた。大天狗の傍で風を繰り、後から後から現れる増援を、破裂するかのような風の結界で叩きのめしている。

 

「遅いですよ、椛!」「こっちにも都合がある!」どれだけの白狼を相手にしたと思ってる。しかし文の言い分もわかる。この場をたった一人で防戦していたのは想像に難くない。白狼が飛び掛かってきた。剣が盾で弾かれる。咄嗟に足を払って、斬り倒した。

 

「もう少し、向こうで戦ってくれればなお良かったんだが」肘掛けに腕を預け、大天狗が言った。「悪いが今回は、私が直接戦う訳にはいかんのでな。真正面から宣戦布告されれば、致し方ない」やれやれ、と大天狗は肩をすくめた。私に政治の話はわからないが、そういうものなのか?

 

風は大天狗を護り続け、そして侵入者を拒み続けた。合間を縫った幾人目かの白狼を斬り捨て、風がそれを外へと追い出した。侵入者の数は、ようやく少なくなってきた。やにわに風が止む。「このくらいにしましょう」味方の烏と白狼が駆けこんできた。後は任せても大丈夫だろう。

 

――味方の烏の集中攻撃で、窓の外、プロペラの主が撃墜されるのを見た。放っておけば次に何を繰り出してくるか、わかったものではない。ふと、知り合いの顔を思い浮かべたが、やめた。味方かもしれないし、敵かもしれない。感傷に浸るには、今はまだ早すぎる。

 

「行ってこい、文」「言われなくとも」文は窓から飛び出した。私は戸口からそれを追う。烏はやはり、疾い。特に文はそうなのだ。あいつの武力は尽きる事がないようにも思える。…その時だ。森から飛び出してきた一団が、文に喰らいついたのは。烏もいる。

 

若干の間、文の進行が止まる。しかしてそれは大した規模ではない。敵は文に近付けもしない。…しかし、新たに一団が現れる。これは恐らく、文を留め置く為にだけに置かれた連中だ。文とて全周へ無限に風を繰れる訳ではない。完全に足止めされ、被弾しかけているようにも見えた。

 

私は飛び込んだ。団子になって弓矢を放つ白狼を背後から薙ぎ払い、少なくとも一方向への壁を担う。身構えていれば烏にとて、一撃でやられる事はない。そのはずだ。…しかして私達は前に進む事ができない。防戦に回った烏の風は、城壁よりも堅牢だ。風の壁が幾重にも重なる。

 

「射命丸文。お前が嫌いだ」私達は背を合わせ、敵に向き直った。「お前は高慢だ。いつも無茶をする」「たまには自分を顧みなさる?」白狼は貪欲だ。或いは私のそれは、如何にも欲深いかもしれない。それが悪いか。私は誰も負ける訳にはいかないのだ。剣を握る手が、きしむ。

 

「剣をお貸しなさい」言葉もそこそこに、文は私から剣を奪い取った。「あなたに力を」私達の周囲を、風が渦巻いた。文が撫でた刀身が一瞬光ったような気がした。同時に、文の身体も。何が起こっているのかは理解できなかったが、文は剣に――いや、私に何かをしようとしている。

 

「私の一部をこの剣に込めました」渡された刀身には風が渦巻いていた。軽い。まるで重さがなくなってしまったようだ。これはまさしく、風の剣だ。すべてを斬り裂く、疾風の刃。「あなたなら使いこなせるでしょう、椛」文は口元を隠した。目は、もう笑う余裕を失っていた。

 

「お礼は?」「…ありがとう」他に気の利いた言葉は見つからない。「さあ、正念場ですよ。椛」「わかっている」自ら打って出るのだから、地の利ははない。遮るもののない森上。熾烈な戦いになるだろう。あれほど倒されたにも関わらず、空中の影が減ったようには見えない。

 

白狼の一団が私に向かってくる。如何にも数が多い。十人はいるだろう。それだけの数が必要と踏んだか。高く評価されるのに悪い気はしないが、この程度なら大した事はない。それに、この風を試すチャンスでもある。驚くほどに身体が軽い。私は烏めいて瞬時に距離を詰めた!

 

私が薙ぎ払った剣は、白狼の剣を真っ二つにへし折った。すかさず蹴り落とす。無駄に死なせる事はない。言い訳はつくはずだ。次の白狼を盾ごと打ちのめす。次々と白狼を――しかし私は唐突に危機を感じ、振り向きざまに剣を弾いた。私の後方にいた白狼の剣を、剣の鍔で受ける!!

 

剣が風を巻くと、逆に相手の剣がぼろぼろに風化していく。それを盾で殴り飛ばすと、私は駆けた。今なら烏天狗にも負けない。速度さえも互角。飛来した鉄の矢を切り払う。懐に飛び込み、袈裟懸けに斬る。弓がばらばらになる。驚愕の顔を踏みつけて駆ける。駆ける! 駆ける!!

 

一瞬、文の方を見た。――あり得ないと思った。しかし文は、明らかに苦戦していた。烏が五…七…いや、もっとだ。周囲の烏はすべて投入されているのではないか。上下左右、ほとんど全周囲を囲まれた状態だ。もはや風の球体を繰って身を守るしかなくなっている。

 

私は迷った。あの数を攻めきれるだろうか。またあの時のように、打ちのめされるのではないか。――考える必要はなかった。名誉が欲しい。白狼は貪欲なのだ。剣を包む風が烈しく渦巻いた。風に乗って、私は飛び込んだ。まずは一部分を剥がして、文が動けるようにしなければならない。

 

「退け――ッ!!」私は目の前の烏天狗に必殺の突きを見舞った。あの時よりも遥かに疾く、鋭い突きだ、烏は上体を反ってかわす。その時を待っていた。私は崩れた態勢に渾身の薙ぎ払いを捻じ込んだ。風を蹴り、一回転した私の前で、烏は――それを避け切れず、遥か下へと吹き飛んだ!!

 

烏がこちらを見た。そうだ、こちらを見ろ。私は吹きすさぶ風を推進力にしながら、周囲を逃げ回った。風の壁が私を圧し潰さんとする。それを薙ぎ払って相殺し、更に引っかきまわす。そうだ、お前達は最も危険な敵から目を逸らした。それが最悪の選択と、思い知らせてやれ、文!!

 

――周囲に竜巻が巻き起こる!! 烏らは慌てて向き直ろうとするが、遅い。風の壁を繰り損なった半数が、竜巻に切り裂かれて墜落していった。「私をごらんなさい! 今宵の記事はセルフィーです!」訳の分からない事を叫びながら、文は風の暴虐を放ち続けた。もう大丈夫だろう。

 

それからも、私は敵を倒し――いや、刈り取り続けた。風の力はそれほどに圧倒的だった。…だが、それも永久に続くものではないようだった。急に剣の重さを感じた。飛翔速度が落ちる。終わりを悟った。弱々しく渦巻いていたそれは私の目の前で四散し、後には何も残らなかった。

 

――惜しくはあったが、あくまで借り物の力だ。ここからは私自身でなんとかする。白狼の一団に食いつき、散り散りにさせた。白狼相手なら、少々の事では負けやしない。…白狼が、相手ならだ。突然に叩き込まれた弾丸。私は間一髪切り払うが、それは牽制に過ぎなかった。

 

風の槍と共に、鋭い、あまりにも鋭い手刀が振り下ろされた。接近を視認する暇もなかった。私はそれを受け――弾かれようとする剣を、必死に抑えた。後続の槍が私を襲う。私は一か八か、手刀に抵抗するのをやめた。圧された身体が一回転する。私は態勢を立て直さなかった。

 

その流れのまま、烏の顔めがけ踵蹴りを入れる。それは扇で軽々と防がれたが、少なくとも追尾する風の狙いを逸らす事はできた。二度の手刀を後ろに飛び避け、距離を取る。私の中には恐怖――そう、恐怖だ。恐怖は巡る。無様を晒すのではないか。…負け犬のまま、死ぬのではないか。

 

風の加護はもう、ない。文の力は借りられない。「…やってやるさ」私は剣を構えた。烏は扇子を握った。周囲の何者も、私達を邪魔しようとはしなかった。じり、と睨み合う。烏の考えはわからない。或いは私を嘲笑っているかもしれない。それでいい。貴様はその傲慢で、死ね。

 

――何の合図もなく、しかして同時に仕掛けた! 烏は風の槍を三本、同時にその中心へ風の螺旋を一つ投擲した。前方に逃げ場はない。だが、私は退かない。退いてはならない。前進し続けなければ距離を取られるだけだ。そうなれば、有効な飛び道具のない私は嬲られるだろう。

 

それは、あいつの得意とする戦法によく似ていた。ならば、弱点も同じはずだ。私は槍の中心に飛び込み、螺旋を斬り――払った! 槍は私の傍を掠め、中心に居た私を烈しく押し出した。一気に距離を詰める。烏は引こうとするが、今この時だけは私が疾い。ここは、私のあぎとだ!

 

風の壁が巻き起こる。無駄だ。文のそれを飽きるほど見たのだ。弱点はわかる。私は剣を握り直し、突きの態勢を取った。風は風を相殺する。ならば剣はどうだ。私はその答えを知っている。一点突破だ。これが通じないなら、私はそこまでの白狼だ。限界以上の速度を帯びて、飛び込む!

 

風の壁が、私の身を烈しく裂いた。だが同時に、剣は風の間を貫通し、先端が烏の扇を破壊していた。烏が逃げる。遅い! 私は烏の背中に向けて、己の剣を投擲した。刃が背中を激しく裂いた。烏にもはや戦う力は残されていなかった。私の目前で、烏は無様を晒し、墜落していった。

 

――実感はなかった。喜べる状況でもなかった。私は手近な白狼を締め上げて剣を奪うと、文の元へと向かった。もう、助けは必要ないかもしれないが、どうだろう。…心配だったのかもしれない。全身から血を零しながら、私は飛んだ。戦の剣戟は収まり、夜影も少なくなっていた。

 

「無事か」「このわたくしが無事でないとでも?」文は風の暴虐で白狼を、烏を、烈しい風で叩き落としていた。「さっきのお礼は?」「…ありがとうございます。これで満足ですか」「ああ、十分だ」私はその近くに寄り、風を抜けてくる白狼や烏を牽制した。隙を見せれば、文が堕とす。

 

――戦場に笛の音が響いた。それは二度、鳴った。敵に向き直り、刃を構えた。睨み合い。睨み合いだ。それは一瞬だったかもしれない。烏が飛び去り、白狼がそれを追った。敵は撤退したのだ。今にも崩れ落ちそうな気分だった。急に傷の痛みを感じた。私は剣を下ろし、大きく息を吐いた。

 

「終わったな、文」私は振り向きながら、ねぎらいの言葉をかけた。文はそこにはいなかった。私は咄嗟に空を駆けた。文の身体は落下していた。「文!」私の速度で間に合うかはわからない。共に墜落してしまうかもしれない。それでも今は、今だけは間に合ってくれ!!

 

――願いが通じたのか、私は文の身体を捕まえる事ができた。そのまま前で抱え込み、木々の切れ目から墜落寸前で地面に降り立った。文は目を覚まさない。たった一人で何十、何百の敵を相手にし続けたのだ。どうしようもなく疲労が溜まっていただろう。心の中で、労をねぎらった。

 

―――

 

  ―――

 

文を寝かせ、私は傍らに座った。…少し思いついて、私はその頭を膝に乗せてやった。目を覚ますまではこうしてやろう。周囲は静かだ。今の今まで戦いの場であったなんて、誰も信じないだろう。稀に人影が浮いては、敵味方双方の陣地へ飛翔していく。居残りだ。私達と同じく。

 

「もうしばらく、こうしていたい」文が目を覚ました。「いくらでも」「――ありがとう」文は呟き、目を閉じた。このまま寝かせてやるのもいいか、と思った。――やがて、夜が明けようとしていた。そろそろ戦場のゴミ漁りも現れる頃だ。「もう少し」お前も欲張りだな。

 

「射命丸文。お前が嫌いだ」私は膝の上の頭を撫でた。「嫌いであるなら、今から好きになれるという事だ」文は目をつぶったまま、私の事がをじっと聞いていた。「私はあなたが好きでしたよ」息を吐き、文は言った。「好きであるなら、もっと好きになれる」…屁理屈だ。お互い。

 

「お前はよくやったよ」足を組み直しながら、私は褒めた。心からの台詞だ。「ええ、やりましたとも。幾千万の天狗をちぎっては投げ、ちぎっては投げ」「早速誇張が入ってるぞ」文の頬に触れた「何か欲しいものはないか。とは言っても水くらいだが」私は荷物を漁った。…御守り。

 

「おや、持っていてくださった?」文の声は嬉しそうだった。「私の羽根が入ってるんですよ、それ。烏の間ではよくやる事です」そう言うと――しかし急に戸惑ってしまったように見える。「それはですね、愛する人に渡すものなんです。何も言わずに、あなたへ渡してしまいましたが」

 

「少しばかり戸惑うぞ、それは」実際の所、戸惑ってはいなかったが。何となく、そんな感じはしていたんだ。嘘こそ吐くが、お前はいたずらでこんなものを渡すようなひねくれものではない。「――さて、私はあなたから頂けると申しましたね?」文は起き上がり、しめやかに隣へ座った。

 

「それなら――ご褒美に、王子様のキスをば頂きたく」文はニヤニヤと笑っていた。しかしそれが、冗談の類でない事は、私にはわかっていた。「――わかった」私は文をそっと抱き寄せ、優しくキスをした。文は頬を、そして耳を赤くした。如何にも余裕のなさそうに顔を逸らす。

 

「なんだ、随分と初心な反応だな」「…あなたこそ、随分と手慣れておりますな?」「白狼だってそのくらいはする」私はニヤニヤ笑いを返した。私とて、色恋沙汰に首まで浸かる事はある。大抵は、泣かせて終わりだったが。剣に生きる私は、誰かと愛し合うには向いていないようだ。

 

「キスまでしたんだ。…今更、お前と離れるのは辛いぞ」私の言葉を、しかして文は想像していたに違いない。「私もです。…初めてのキスを、奪われてしまいましたからね」「初めて?」…嘘だろ?「誰も奪ってはくれませんでしたからね。不良在庫です。不良在庫」

 

なくなってせいせいしました、とお前は笑っていた。…しかして本当は、辛いのではないか?「私で良かったのか?」「あなたが良かったんです」口元を隠し、再び笑った。その笑みを塗り潰すべく、私はもう一度、唇を奪った。辛い時は、笑わなくたっていいだろう。

 

「白狼は貪欲なんだ」唇を離し、その身体を折れよとばかりに強く抱きしめる。「お前が欲しくなった」目を逸らさせはしない。「お前が欲しい」気の迷いで片付けさせはしない。「お前を奪い取ってやる」もう、お前は私のものだ。――誰にも渡さない。

 

「――烏と白狼は、一緒になれませんよ?」「方法はあると聞いた」実際、ここ百年でも皆無ではないらしい。「あれはそうですね、御付きに取り立てる事で間接的に娶るといいますか…」文は難しい顔をしていた。しかし、これは嬉しくもあるのだ。長い付き合いだ、そのくらいはわかる。

 

「なら、そうすればいい」「口で言うほど簡単じゃありませんよ」文は人差し指を合わせ、指を上下に動かした。「口で言うのは大得意だろう? ならば、それは簡単なものだろう」私の屁理屈に、文はしばらく固まっていた。実際の所、文が言うほど、私は堅物ではないのかもしれないな。

 

「――考えておきます」「今決めろ」「…はい?」「今、決めろ」私は文の手を握った。「躊躇うなんてガラじゃないだろう」「いえ、その…待ってください」「待たない」私はきっと、悪い顔をしていた。慌てふためく文を見るのは、或いは初めてではないか。これはこれで、面白い。

 

「わかりました。わかりましたよ。私の負けです」文は肩をすくめ、手を――という、予想していた行動は取らなかった。ただ頭を抱えた。耳が真っ赤になっていた。「私があなたを買い取ってやりますよ。ええ。飯綱丸も止められはしないでしょう」その台詞はとてつもなく早口だった。

 

「――金も、女も、思うがままだったな」「はい?」文は怪訝な顔をした。私はその顔を強引に抱き寄せて、キスをした。「白狼――いや、私は貪欲なんだ。何もかもが欲しい」まるで蕩けたように表情を崩した文を、両腕で持ち上げる「ちょ、何を」「連れていく。お前は私の戦利品だ、文」

 

 

 

「――ええ、それでいいですよ。わたくしめをよくよく大事になさい!!」

 



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霧雨の巫女

―霧雨の巫女―

 

 

 

手を伸ばしても、届かない場所に行ってしまった。

 

 

 

霊夢が死んでから三日が経った。誰のせいでもない。完全な事故死だった。その瞬間を、霊夢にまつわるすべての人妖が悟ったという。怒りがあった。悲しみもあっただろう。しかしもう、何もかもは終わった事だ。私がそれを感じた時も、信じられなかった。…信じざるを得なかった。

 

紫と隠岐奈、そして顔も見た事のない賢者達が、新たな博麗の巫女を選定中だそうだ。僅かなこの間だけ、巫女の席は空いている。私は目的もなく、神社をふらついていた。涙などとうに枯れた。あいつのいない縁側。あいつのいない境内。あいつのいない、賽銭箱の前。

 

賽銭箱からガタガタ、と音がした。風か、動物か、それとも――あいつか。今にも出てきそうだと思いはした。していた。今はもう、それを信じ込むだけの希望もなかった。空の賽銭箱に、十円玉を入れた。あいつへの手向けのつもりだった。私は己が目標を、完全に見失っていた。

 

その時だ。紫が姿を現したのは。「――よう、紫。話は順調かよ」紫は上半身をスキマに預け、如何にも怠惰に浮かんでいる。「その事で話があって来たのよ」「あー?」私に何か用があるのだろうか。「選定の結果、次代の博麗の巫女は、あなたに決まったわ」「…何だって?」

 

「――何かの冗談だろ?」紫は何も答えなかった。「必要な事はすべて覚えてもらうわ。…いえ、覚えさせてあげる」紫の言葉には含みがあった。「あなたを白紙に戻して、それを書き込むだけ。あなたは何もしなくていい」紫の言葉の意味はよくわからなかったが、それはつまり。

 

「それって、私が私でなくなっちまうって事だろ…?」紫はやはり、何も答えなかった。「冗談じゃないぜ! そんなの絶対、お断りだ!」私はその場から歩き去ろうとした。…できなかった。私の足を、スキマから伸びた手がガッチリと掴んでいた。足だけじゃない。腕を、肩を。

 

「おい、冗談だろ――マジにマジなのかよ!?」私の危機感は最大限に達していた。紫の顔はいつもと何ら変わらない。如何にも怠惰に身体を預けている。これが、眉一つ動かさないって奴か。今まで私達と付き合ってたのも、所詮はその程度の話だったのかよ、紫!!

 

「苦痛はないわ。あったとしても、あなたはすべてを忘れてしまう」足元にスキマが開こうとしていた。私は必死に抵抗するが、駄目だ。手足を使わずにできる限りの魔法を放ったが、そいつはスキマに消えた。これ以上、どうしようもなかった。目を瞑るしか、身を守れなかった。

 

「さようなら、霧雨魔理沙」私がスキマに消える直前、紫の声が聞こえた気がする。――そんな事はもう、どうでもいいのかもしれない。私の頭上で、スキマが閉じた。真っ暗な場所で、私は私自身が賽の目に刻まれるような感覚を覚えた。痛みはなかった。有難いとは、思わなかった。

 

すべてが白紙に戻る。均等に刻まれ、並べ直される。――そう、すべてが。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「――仕方がなかった、で済ませられはしないわ。けれど、時には私情を殺さなければならない時もある」聞くものはない。傲慢な、ひとりごとだ。誰にも伝わらない言葉に、或いは意味など見出せないのかもしれない。けれど、私はそれを言葉にした。言い聞かさねば、ならなかった。

 

「八雲の」隠岐奈が私の肩を叩いた。「入れ込めば、こうなる」あなたも少しばかり、センチメンタルな気分になっていたようね。「いっそ、あいつらを拾い上げてしてやるべきだったのかもしれないな」「――それこそ、終わった事よ」腕が肩に回る。私は拒まなかった。

 

「フォーマットは今日の内に終わるわ」「そうだな」「霧雨魔理沙はいなくなる」「――そして、博麗魔理沙が生まれる」私は寄り掛かった。「博麗の巫女なんて、誰でも良かったのに!」「そうはいかんから、こうなった」隠岐奈は私を抱き込んだ。「わかっているわ、わかっている」

 

「割り切れ。そして忘れるんだ。私らのようなものは、今までそうしてきた」従者二人に抱えられ、隠岐奈は椅子に戻った。「そして、これからもそうしなければならない」正論だった。誰もがいずれ忘れてしまう。やがては次代の巫女を受け入れるだろう。わかっている。

 

「私だっている。亡霊の姫もいるだろう。代わりにしろとは言わないが」隠岐奈の優しさが、今は、今だけは胸を苛む。「――しばらく会いたくないわ」「だろうな。私が同じ立場なら、きっとそうなる」隠岐奈は最後まで私を見つめながら、しめやかに扉へ消えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

私は、博麗魔理沙。博麗の巫女として、この神社にいる。とはいえ、やる事と言えば掃除くらいしかないんだが。まるで私が仕事をしていないみたいだが、それもそのはず、私は未だに異変解決というものをした事がない。――ま、その内起こるだろ。その内に、な。

 

――しかし、暇だ。掃除は終わる事がないが、流石にこうも暇だとやる気がなくなってしまうぜ。もう何もせずに一日中寝てしまおうか。それとも人里で何かしらお金を稼いでもいい。それとも。それとも。「――まあ、その内に何かがあるわ。その時は頑張ってもらうわね」

 

「ひょおっ!?」「そんなに驚かなくてもいいのよ。これからもっと驚く事になるでしょうね」箒を上段に構えた私に、妖怪は自己紹介した。「私は八雲紫」「えっ、私は博麗m」「知っているわ」とりあえず、箒を下した。上半身だけの妖怪だ。下半身は何処にあるんだろう。

 

「とりあえず今日は、あなたとお友達になろうと思って来たの」「…妖怪の友達なんて要らない」私は憤慨して、紫を指差した。「そうはいかないでしょうね。今にここは妖怪神社と呼ばれるようになる」紫は笑っている。そんな事あるはずないぞ。私は博麗の巫女なんだ。

 

「まあ、期待しておくといいわ」紫はくすくすと笑っている。…なんかこいつ、すごく胡散臭いな。とりあえず、さっさとお引き取り願おう。「私だってやる時はやるんだからな。退散しないなら、針を喰らわせてやる」「あら、こわい」紫の上半身が穴の中に消える。

 

「これから仲良くしましょう、新たな巫女」紫の声だけが聞こえた。私にとっては仲良くする必要性を感じないのだけれど。気が付けば夕刻。太陽も沈み、空には星が瞬き始めていた。――星空。星を使った弾幕なんてのも、ありかもしれないな。これから少し、考えてみよう。

 

――それにしても、新たな巫女、か。今以前にも、当然巫女がいたはずだ。それがどんなものか、私は知らない。どんな格好をして、どんな戦い方をしていたか。今日みたいに知らない知り合いも一杯いたんだろう。それは少しだけ寂しいし、強く興味を惹かれる事でもあった。

 

「――なら、以前の私は、どんな私だったんだろう?」箒を置き、星空を眺めた。何かを思い出せそうな気がした。しただけだった。気が付いた時には、私は巫女だった。それ以前の記憶なんて、ない。私の中に存在しないものを、思い出す事なんて。諦めようとした、その時。

 

賽銭箱からガタガタ、と音がした。風か、動物か、賽銭泥棒か。私は…「霊夢?」知らない名を口走っていた。それはきっと先代の名だった。思い出せ。思い出せ魔理沙。私は必死に頭の中を探った。知らないはずの記憶が蘇ってきた。――霊夢。先代の巫女。私の親友。私の目標…!!

 

急に頭痛がして、強制的に思索を止めた。蘇った記憶に、しかし私自身のそれは見つからなかった。私は賽銭箱の前に座り込んだ。先代の巫女はここにいた。そこにもいた。私と同じように掃除をして、私と同じように茶を飲んだ。賽銭箱を開け、同じように落胆もした。

 

私以前の私が覚えていた。きっと、とても大切な人だったのだろう。或いは、自分自身の記憶よりも。私がからっぽになったとしても、覚えていたかったから。――私は、先代の巫女に思いを馳せた。目をつぶり、頭の中を探った。それでも、もう何も思い出せなかった。

 

星空に向けて、掌を向ける。「手を伸ばしても、届かない場所に行ってしまった。以前の私も、先代のお前も」お前の笑顔。お前との時間。お前との遊び。思い出せたのは、そこまでだった。賽銭箱を覗いた。十円玉が一つ入っていた。――遠縁。それを手に取り、ひとりごちた。

 



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そこまでは、あなたの背中

―そこまでは、あなたの背中―

 

 

 

あなたの背中が、好きでした。

 

 

 

あなたはいつも、私を置いて行ってしまう。いつも二度、三度の言葉を交わしては、私の前から消えてしまう。私は文のようには飛べない。とても追いつけない。だから私の中のカメラには、あなたの背中しか写っていなかった。「文」私から声をかけた。それは風に巻かれて、通じない。

 

あなたに追いつきたい。あなたの隣に並びたい。あなたを目指していた。目指そうとした。…いつの間にかそれは、思慕になってしまった気がする。あなたの隣に立ちたい。…ううん、あなたにもっと近付きたい。けれども今は、その背中すらも追いつく事は出来ないんだ。

 

あなたのように疾くなりたい。あなたのように言葉を自在に操りたい。あなたのように、激しく風を繰りたい。あなたのように、新聞に熱意を燃やしたい。私には出来ない事ばかりだった。修行が足りない。わかっていた。――けれど、それだけではないのも、何となく理解できた。

 

あなたは命を燃やしているんだ。あなたは今を刹那的に生きている。まるで、明日にも死んでしまうかのように。私にはその真意を理解できなかったけれど、文がとても生き急いでいるのは、なんとなくわかっていた。私はその生き方の疾さに、力強さに、とてもついてはいけなかった。

 

天狗の居所に、あなたが飛び込んでくる。窓から。扉から入って扉から出ればいいのに。私の疑問もそこそこに、文は色々な人達と話をしていた。その時間は、とても短い。「頑張っていますね、はたて」一言だけだ。用事を済ませると、あなたは勢いよく窓から飛び出していく。

 

あなたに助けられてばかりの自覚はあった。後始末をしてくれた事も、きっと私が気付くよりもずっとたくさんあったんだと思う。それでも文は怒らなかった。仕方ない子ですね、と笑っていた。それが私の心をもやもやさせた。文はどうして、こんなに良くしてくれるんだろう?

 

やっぱり、私の家の名前がそうさせるの? そういう人はたくさんいた。文が追い払ってくれなければ、私は実家に泣いて帰っていたかもしれない。でもそれなら、どうしてあなたは見返りを求めないのだろう。優しいから。プライドがあるから、色々考えはするけど、わからない。

 

あなたの飛び出した窓を見る。そこから遥か離れた所に、あなたはいる。――山の向こうに、黒い雲が広がり始めた。もうすぐ雨が降るだろう。それでもあなたは羽を休めない。…私みたいなひよっこにはわからない、そうできない事情があるのかな、文。私は書き物を止めて、目を閉じた。

 

―――

 

  ―――

 

――漫然と日々を過ごしていたある日、文はとある湖に私を誘った。まさか文の方から誘ってくれるなんて思わなくて。「――びっくりした、という顔ですな」私の行動はいつも読まれていた。私は慌ててカメラをしまうと、文を追った。今日は何故だか、ついていけるスピードだった。

 

湖の上、誰も来ないような場所に、私達はいた。水面は遥か下にある。落ちたら寒いだろうな、と私は要らない心配をしていた。「どうして、ここに誘ったの?」私の疑問に、文は答えなかった。「ひょっとして、何か告白する事があるとか…?」それはむしろ、私の方だったかもしれない。

 

「ええ、まあ――そんな所です」文は肩をすくめた。「あなたに来て欲しかった。あなたと二人きりになりたかったのですよ、はたて」私は頬が赤くなるのを感じた。もしかして、これって――もしかするの? 私は自分勝手な想像を巡らせた。ひょっとして、文も私の事が…?

 

「これはあなただけに打ち明けます。誰にも言ってはいけませんよ」文はもったいぶった。私は浮かれていた。「私はね、余命幾ばくもないんです」「――えっ?」口から出たのは、嬉しい言葉ではなかった。…意味を理解できなかった。「そろそろ死にます」意味が、理解できない。

 

「質の悪い病気でしてね、コロっと逝くそうです。わたしは」文の顔を見て、ようやく何を言われたのかがわかった。文が死ぬ? そんな、馬鹿な事がある訳ない。「――文、文。今の、本当に本当なの!?」「生憎わたくし、あなたに対しては嘘をついた事がなく。ええ」

 

私の問いに、文はいつもの顔で答えた。違う。そんな顔を見たかったんじゃない。あなたは死んでいまうというのなら、どうしてそんなに平静でいられるの。わからない。わからないよ。何かの間違いであってほしい。今の今まで、あなたは隠していたの? 誰にも知られないように?

 

「けれどまあ、死ぬまで時間はあるそうで」文は――笑っていた。「寝台に転がさられている、なんてのは私の主義に反します。いいでしょう、死ぬまで生きてやりますよと、そう思っていました」立て続けの告白に、呆然としていた。どうしてこんな話を、私だけにしてくれたのか。

 

ゴボッ、と音がしたように思う。私は目を疑い、そして悲鳴を上げてしまった。「文、それって、血――!?」「…まあ、ケチャップではありませぬな」もう一度、あなたは血を吐いた。それは遥か下の湖へと落ちていく。私はもうどうしようもなくて、文の肩を掴んだ。

 

「大丈夫ですよ。大丈夫です」文は扇を振った。「鮮血です。大した事はありません。深い所なら、もっとドス黒い」「そんな、どっちだって血を吐いてるのに!」「病人の感想はよく聞くものですよ、はたて」文は笑っていた。そんな場合じゃないのに、どうしてそんな顔をするの?

 

「そうだ、実家のお医者さんに見てもらおう! そうしたらもしかして、治す手段だって――」「いいえ」私の声を、文は遮った。「あなたの気持ちはありがたいですが」文は肩をすくめて、首を振った。「少しばかり縁がありましてね。あなたの所で診てもらったんです。わたくし」

 

万策が尽きた。私には何もできない。今までは文がいた。文が私を気にかけてくれていた。それなのに私は、そのお返しすらできなんだ。無力感が私を苛んでいた。「私を、あなたに看取ってもらいたい、と――まあ、我儘です。私の最期の我儘」「我儘なんかじゃない。でも、嫌だよ…!」

 

「生き物はいつか死にます。それが今日であるか、十万年後かは、誰にもわからない」文は苦しげに息を吐いた。「あなたは生きなさい。生きる目標を持ちなさい。決して絶望してはなりません」頷く事しかできなかった。「こんな風ではなく、もっとあなたと話せればよかった」

 

「あなたの事が好きです、はたて」私の聞きたかった言葉。「今にも死なんとする奴に言われても、迷惑かもしれませんがね」「そんな事ない。…そんな事ないよ、文」私の目にはたくさん涙が浮かんでいたと思う。「おや、泣かせてしまいましたか」いけませんね、と文は頭を掻いた。

 

「私は、あなたみたいな――立派な天狗になるよ。約束する」文は私の手を取った。「それもいいでしょう」文はもう一つの手も取り、弱く握った。「しかして、それだけではいけません。いけないのです。理解してください」文の目にも涙がこぼれていた。きっと、私が泣かせたんだ。

 

「あなたが私を目指すというなら、止めはしません。けれど、死人に引っ張られてはいけませんよ」文が、私の首を抱いた。「あなたの中で、私の理想像は無限に膨らんでいくでしょう。気をつけなさい。それは、いつかあなたを殺すかもしれない」身体まで、抱き寄せた。

 

「私は私、あなたはあなたです。あなたは私にはなれませんし、私はあなたになる事もできない」文は、声を殺して泣いていた。「あなたはあなたの未来を描きなさい。それが、私の望みです」あなたの手から、力が抜けた。抱き返そうとしたのは、遅かった。「――さようなら、はたて」

 

文の腕が、私から離れる。咄嗟に飛んだ。私は文の扇だけを掴んでいた。文の身体は透明な湖へと沈んでいった。勢い良く飛び込んだけれど、駄目だった。私に深い所はとても探せない。すぐに河童の所へ飛んだ。よくよく探して貰ったけれど――文の身体は、何処にも見つからなかった。

 

―――

 

  ―――

 

―――

 

  ―――

 

―――

 

  ―――

 

私は飛んだ。疾く、疾く、疾く飛んだ。私より疾い天狗なんて、もう何処にもいなかった。私は正装していた。何か集まりがあったとか、そういうのじゃない。あの時の場所にいかなくちゃならなかった。あの時のあの月、あの日、あの時間。私は更に疾く、飛んだ。湖が、見えてきた。

 

私は湖の中心で止まった。ここは、あなたと最期に話した場所。あなたが亡くなった場所。…あなたが、導いてくれた場所。涙がこぼれた。遥か水面に向けてそれは二粒、落ちた。「はたては泣き虫毛虫でありますな。…あなたならたぶん、こんな事を言ったよね」もう一つ、二つ、涙が落ちた。

 

「今年は自慢する事が一杯あるよ」手を広げて、言葉を紡いだ。「文も見てたでしょ? 空を飛ぶのは、きっとあなたと同じくらい、疾くなったよ。みんなびっくりしてた」ばさり、と翼を広げてみせた。私の翼はあの頃とは比較にならないくらい、研ぎ澄まされた刃めいて、風を切っていた。

 

「風を繰るのだって上手になった。あなたの好きな竜巻だって、なんだって、みんなできるようになったんだから」私は扇を持って、大きな竜巻を無数に繰ってみせた。それらは互いにかき消すギリギリを保って、私がそれを手放すまで、激しく空を切り裂いていた。風が、四散する。

 

「花果子念報は相変わらず、そんなに人気はないかな。でもそれでいいの。コアなお客がついたんだもんね」私はそれを一枚、湖に向かって見せた。ひとしきり見せつけた後、懐に入れた。「今でもお嬢様って呼ばれるのは、ちょっと癪かも。まあ、でも、悪く気分ではないかもね」

 

私は水面へと飛び、お酒の蓋を開けた。あなたに向けて、そっと流した。「そこまでは、あなたの背中」お酒が水と混ざり、底へと融けていく。あなたに届くだろうか。あなたは喜んでくれるだろうか。「これからの事、ずっと考えてたの。それで、答えを見つけた」誰へともなく、頷いた。

 

「――私ね、大天狗になろうと思うの」

 

「推薦はもう、一つ貰ったのよ。もう二つくらい、貰えないはずがない」私はあなたに背を向けた。私の中で、あなたの残した心が跳ねた。かける声はそう、これしかない。「だってわたくし、姫海棠よ?」最近板についてきた笑いで、あなたを振り返る。そう、あなたを振り返ったんだ。

 

あなたの背中を見て、あなたに並んで。昨日まではそうだった。今から私は、あなたの前を飛ぶ。そうするんだ。そうなるんだ。あなたはきっと、それを望んでくれるだろうから。徳利をしまった。あなたの残した扇を腰に差した。今年はお別れだ。来年も、またくるからね。文。

 

 

 

(あなたの未来、確かに見せていただきましたよ)

 

 

 

「――文!?」

 

それは湖畔のさざめきだったかもしれない。私の聞き違いだったかもしれない。けれど、確かに聞こえたんだ。あなたの、あなたの羽音。あなたの背中がたてていた、あの音が。右を見た。左を見た。上も下も見た。けれどあなたの姿は、やはり何処にも見つからなかった。

 

あなたの残した羽音を抱いて。私は泣いた。泣いて、泣いて、泣き尽くした。それでもやがて、涙は枯れてしまう。「――ありがとう」私は天高く飛び上がり、風を蹴った。そうだ。私より疾い天狗なんていない。だって私は、清く明るい姫海棠なんだもの。涙を拭い、翼で風を切り裂いた。

 

「そして、さようなら。文」湖が遠ざかる。「さあ、やる事は一杯ある。あなたみたいに、片付けなくっちゃね」心の中が歓びに満ち溢れる感じがする。きっと、私の中で整理がついたんだと思う。私はいつもの顔――あなたみたいに悪い顔を作ると、天狗の居所に、窓から飛び込んだ。

 

 

 

――大好きだよ。大好きだったよ。…これからもずっと、大好きだからね。

 



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もう少しだけ、私を見てほしい

―もう少しだけ、私を見てほしい―

 

紫様が死んだ。

 

私が殺した訳ではない。いつも通り怠惰にテレビを見ているな、と思っていた。昼飯に呼んでも反応がないので、触れてみたら、死んでいた。うむ。状況を整理しよう。紫様は呼吸をしていない。脈もない。明らかに死んでいる。すわ冬眠かとも思ったが、生憎と今は夏だ。汗が肌を流れる。

 

参ったな。それしか思い浮かばない。どうせ悪戯の死んだふりだろう、と思ってしばらく眺めていたが、やはり起き上がりはしない。フライパンとおたまをガンガン叩いても起きない。ニワトリを連れてきても起きない。頬を張っても起きない。そりゃあそうだ。紫様は死んでいるのだ。

 

とりあえず私は掃除を再開する事にした。如何にも現実逃避だ。ついでに手を付けていない昼食を冷蔵庫にしまって、紫様を避けるように掃除機をかけた。この騒音でも目を覚まさない。参った。何度目かの困り。私は頭を掻いた。……ふと気付くと、壁のあるべき所に、扉があった。

 

「ハロー! 八雲の!!」扉からニュッ、と右手が伸びた。まずい。あの摩多羅様に死体を見られたら、何を言われるか、何をされるかわかったものではない。私は咄嗟に死体を座卓の下にねじ込んだ。「摩多羅様、紫様はただいま外出中で……」「なんだ、そうか。このクソ暑いのにご苦労だな」

 

そう言いながら摩多羅様は椅子から下り、二童子に脇を抱えられながら座卓に座った。……ひやりとする。下には紫様の死体があるのだ。「八雲の狐や、何か出してくれ」「――は、はい」気が気ではない。とりあえず、冷蔵庫から冷えた麦茶を出した。これを飲ませてお帰り頂こう。

 

そして、死体は何処かに――どうしようか。何処に放り投げても私が疑われる気がする。いっそ荼毘に伏すか。いやいや、それはそれで見つかった時が怖い。いっその事、巫女に相談するか? ――最悪手ではないだろうか。激昂した巫女に叩き割られて終わりだろう。確信がある。

 

私は麦茶を三つ出した。……摩多羅様はそれを全部奪い去って一息に飲むと、肘をついて顎につけた。「八雲の狐よ、もうちょっといいもの出せよー?」口にはしないが、摩多羅様は中々にうざったい。紫様が二人に増え――いや、紫様は死んでしまったのだった。増えて減った。

 

応えねば何を言われるかわからない。私は冷蔵庫からアイスを出し、メロンソーダの上に浮かべた。これは紫様のものだが、もう死んでしまったのだ。構いやしないだろう。私はそれを三つ出した。……摩多羅様はそれを全部奪い取って一息に飲むと、頭を抱えた。欲張るからそうなる。

 

「――キーンときた。キーンと」二童子が摩多羅様をどす黒い目で見ている。後で何か出してやるから待っていなさい。「ところで八雲の狐、紫は何処に言ったんだ? いつ帰ってくる?」「何か御用がおありですか」摩多羅様は指でテーブルを掻いた。「久しぶりにこう、わかるだろ」

 

「その、なんだ、デェトにだな」紫様は正直、迷惑がっていると思いますよ。「今日は帰ってこないと思います」「そうか。それじゃあここに泊る」「――はい?」二童子に抱き上げられながら、摩多羅様が扉を探ると――「お泊りセットだ」替えの服、日用品、桶にアヒルちゃん――

 

「正気ですか」「そういう言い方はないと思うぞ」ぶっちゃけあなたはすぐに来られるではないですか。「こういう時を待っていたんだ」二童子は肩をすくめた。洗脳されている割には主の扱いがぞんざいだな。無理もないが。「そういう訳で、おやつを所望する」……あの、さっきのは?

 

「甘いものがいい」超がつく甘党なのは存じております。紫様が辟易しておりました。「こしあんの饅頭ならございますが」「ウーン、それでいいや」希望ではなく要求だな、これは。棚を漁る。紫様がつまみ食いしていなければここに――あった。これなら分けてもわからないだろう。

 

私は二童子に手招きすると、台所で饅頭を食べさせようとした――のだが、やにわに現れた扉、そして手がそれをスイスイとさらってしまった。「うめぇな」……呆れた人だ。口にはしないが。戻っていく二童子に哀れみを覚えながら――まあ、私も扱いとしては近いかもしれないが。

 

それからは、まあ、特に何もない時間が過ぎていった。摩多羅様はしきりに外を気にしていたが、例え飛んで戻ったとしても、もうそこからは帰ってこないのだ。二童子はその後ろに控えている。特に意味もなく。従者というものは大変だ。主人のきまぐれに、いつも振り回されるのだから。

 

「帰ってこないなー」肘をつき、顎に手を当てる。待ちくたびれたと言った様子だ。……探し人が足元にいると知ったら、どれだけ驚くだろうか。冷や汗が止まらなかった。「ウノでもやるか」扉の奥から絵札が取り出される。「そうだな、お前も入れ」構いませんが、と傍に座った。

 

私に勝負をかけた事を後悔させてやりましょう。……端折って言えば、私の独り勝ちだった。後から考えれば少し接待するべきだった気もするが。摩多羅様はいつも最下位。二童子も容赦がない。今回もドロー4を数枚直撃させ――加算するのはローカルルールらしいが――て、やってやった。

 

「うぬぬぬ」摩多羅様はそれでも止めようとはしない。すぐに投げ出す誰かさん――はもう死んだが――に教えてやりたい所だ。今回は首尾よく摩多羅様が一位になった。「――ど、どうだ」私達は誰がともなく拍手していた。取り方次第では嫌味になるだろうが、まんざらでもなさそうだ。

 

――さて、気が付けば夕方になっていた。「紫よォー、帰ってこいよォー」摩多羅様は夕日に向かって嘆いていた。そうはいっても、帰ってくるはずがないのだ。私は未だに死体の処遇を決めかねていた。少なくとも今は駄目だ。摩多羅様が帰らない限り、紫様の死体を動かしようがない。

 

「――そうだな、風呂を借りるぞ」「はあ」返してくださいよ、とは思うが、口には出さない。本当に露天風呂一式を投げ込まれたら、その、困る。賢者というものは往々にしてそういう児戯染みた事をやる。紫様も例外ではない。迷惑をかけた時に謝るのはいつも私なのだ。頭が痛い。

 

二童子を伴って、摩多羅様は風呂場に消えた。うちの風呂に段差はない。何処にも引っかかるようなものはない。手すりもあちこちにある。バリアフリーという奴だ。紫様がそこらにモノを放っておかない限り、車椅子だって余裕で通るだろう。どうしてそうなっているのかは、わからないが。

 

確か――幾度目かの改築の時に、こうなったはずだ。まあ、いい。邪魔者は消えた。夕食の支度をする。泊っていくと言っているものに、食べさせない訳にはいかないだろう。昨日の煮物がまだ――ああ駄目だわコレ腐ってる。夏場だからな。仕方がない。その辺にあるもので誤魔化すか。

 

「ほほ、いい匂いがするじゃないか」寝間着を羽織った三人が上がってきた。そういえば、大小三枚ほど棚の奥に入っていた気がする。勝手に使うなよ。「勝手に使うなって顔をしてるな」――読まれた?「まあ確かに、勝手に使ったんだが。許せ」別にいいですよ。汚さないなら。

 

「――おっ、私の食べたいものを予測するとは。中々わかっているじゃないかキミィ」ウィンナーとニラ卵焼き、後はおにぎりに汁物だが。割とこういうものが好きなのか。二童子も美味しそうに食べている。ううむ、自分の料理観が行方不明になりそうだ。肉と油、そして卵か……。

 

私が片付けている中、摩多羅様は二童子に抱えさせ、安楽椅子に座った。部屋の片隅に置かれた、何の変哲もない椅子。それは、恐らく私が覚えている以上の前から、そこにあったのではないかと思う。紫様が座っているのは見た事がない。まさか私に使え、という訳でもあるまい。

 

その主は誰なのだろうか。或いは、それは摩多羅様の為に用意されたものなのか?「おーい、団扇をくれ。三枚」「はい、ただいま」どうせ仰がせるのだろうが。私がそれを渡すと、あんのじょう三人がかりで摩多羅様を冷やしにかかった。実際、日が暮れて外の気温は大分下がってきた。

 

しばらく、そうしていた。私が粗方を片付けて戻ると、何故か二童子がいなくなっていた。「あいつらは隣の部屋にやった。いいだろ」「はい。それは構いませんが」要するに、自由にさせてやろうと言うのか。どういう風の吹き回しだろう。「世話をさせっぱなしでも可哀相だろう」

 

摩多羅様は背を伸ばし、手脚を伸ばした。その動きは、若干ぎこちない。四肢、特に脚が上手く動かせないのだ。他にも不具はあるそうだが、私にはそれを聞き出すつもりも、必要もなかった。要求があれば、応えるだけ。そうでないなら、敢えて踏み込んではならない領域というものだ。

 

「八雲の狐。――思うに、私は道化か?」摩多羅様は言い聞かせるように呟いた。「この幻想郷を――一人で、とは言わんが――作ってやった私が、紫一人繋ぎ留められない。おかしな話だ」摩多羅様が天を仰いだ。「道化などと」「この世に道化は必要だぞ」肘をつき、こちらを向いた。

 

「だがな、自ら踊るのと、踊らされるのは別物だ」それに関してはあまり言えた義理でもないが、と呟き、摩多羅様は再び天を仰いだ。「踊らされているつもりはないが、紫は私を――そうだな。拒み続けているようで、脈があるように振る舞う」摩多羅様はゆっくりと自分の脚をさすった。

 

「迷惑がられているのは承知の上だ」摩多羅様はさすり続けている。自由には動かぬ脚だ。思う所はあるのかもしれない。「強引に振る舞わねば、紫のような奴は掴めん。そう思っている」「紫様は仰っておりました。摩多羅様は強引すぎると」「加減がな――中々、上手くいかんのだ」

 

「或いは、紫は今の関係を愉しんでいるのかもしれん。付かず離れず、本音も言い合える仲だ。そうそうは得られぬ縁だろう」摩多羅様は安楽椅子を揺らした。「私はもう少しばかり、近い方がいい。そこが意見の相違だな」手の甲を顎に当てた。「紫がどう考えているかはわからんが」

 

「――八雲の狐よ、お前はどう思う」「どう、と言われましても」何の話を振られたのか、私には理解できない。「この恋は成熟するのか、って話だ。無理なら無理で、私は他を当たるさ。紫とは、縁が切れるまで友人でいよう」「そういった事は、私にはわかりかねます」「だろうな」

 

「計算で弾けぬものもある。触れあってすらわからぬものも、だ」摩多羅様は私をじっと見た。「お前も、紫を好いているのだろう?」違います、と即答しそうになったが、思い留まった。あれほどこき使われる身で馬鹿らしいとも思うが、無下に斬り捨てる事は、私にはできない。

 

確かに私は、紫様に対して好意を抱いているかもしれない。いくらだらしなく、いい加減な所を見ても、だ。むしろその姿は、私にしか見せない、ある種特別なそれなのではないか。計算機である私は、そういった機微を理解しない。けれど、推測する事はできる。私は――どうなのだ?

 

「――確かに、そうかもしれません」「だろ?」摩多羅様は笑った。「あいつはそうやって、誰にでも脈ありと思わせるように振る舞っているのかもしれん」よくよく考えれば、どれだけ胡散臭がられても、煙たがられても、絶対的に嫌われている相手はいないように思える。

 

「あいつのそういう所を、私は好きになったんだろう」摩多羅様を、私は見た。「ただ、もう少しだけ、私を見てほしい。……贅沢だろうかな?」「そんな事は――ないと思います」世辞ではない。哀れみでは無論、ない。摩多羅様の内面に、私も少しばかり踏み込んだのかもしれない。

 

「――シケた話になってしまったな」摩多羅様は安楽椅子に、深く座り直した。「紫、帰ってこないな」もう、夜も深い。夜と言えば一般に妖怪の時間だが、私達のように夜昼逆転している妖怪にとっては、夜の闇自体は特に意味のあるものではない。――ただ少し、感傷を誘うだろうか。

 

「そうですね」――何が、そうですね、だ。私は自分がどのような顔でそう呟いたのかを見てみたいと思った。外を見る摩多羅様の姿は、どうしようもなく空しい。帰っては来ない。二度と、帰っては。……今や紫様は、物言わぬ死体になってしまったなんて、打ち明けられるものか。

 

私の中に葛藤があった。もし明るみになれば、この世の人妖は私を許すまい。私は処断されるだろう。橙にもその咎は行くかもしれない。しかし、このまま隠し通せるとも思えない。例え隠しきれたとしても、結界のほころびを完全に直せるのは紫様くらいなのだ。私にはとても、無理だ。

 

摩多羅様は外を見ている。私はどうすればいい。計算機は私に何も言ってくれない。己が命と天秤にかけるものは、何だ。死後の名誉。従者として当然の行ない。或いは、摩多羅様への義理立て。――おかしな話だ。紫様の死を打ち明けるのが、義理などと思いたくはない。しかし、しかし。

 

――命は惜しい。しかしそれは、自分自身の命よりも大事な気がしたのだ。正直に話そうと思った。私が疑われても、それは仕方がない。それでも、無為に隠し続けるよりはずっと良いと考えたからだ。「摩多羅様、お話したい事がございます」「――ん?」「実はその、紫様は――」

 

「帰ったわ」その時だった。現れたスキマからぬるりと現れたのは――紫様だ。生きている。動いている。そんな馬鹿な。私はあの時、確実に死体を確認したじゃないか。「おお!」起き上がった弾みに倒れそうになった摩多羅様を、紫様が支えた。「随分と待たせたようね。ごめんなさい」

 

「なに、今来たとこさ」流石にそれは言い過ぎだと思います。「藍、電気点けて」私は立ち上がると、ヒモを引っ張った。明かりの下に三人を姿が浮かんだ。「いやいや、何かあったのかと心配したじゃないか」「ありがとう」くすくす、と紫様は笑った。この胡散臭さは確かに、紫様だ。

 

「今日は何しに来たの?」「んああ? いやな、月並みかもしれんが、いつもの通りの誘いをだな」実際、摩多羅様のアプローチはねっとりと、しかも何度もやっている。紫様でなくとも辟易するだろう。今度もやはり、断わられるはずだ、と私は思ったが――しかし、そうはならなかった。

 

「いいわ」「――んん?」「いいわ、と言ったのよ」紫様はウインクして――両方つぶってます。できていませんよ――摩多羅様の肩に頭を寄せた。「何処に連れて行ってくれるのかしら」「おぅ!? その、何処だって連れてってやるとも!!」摩多羅様は顔を赤くして答えている。

 

「それじゃ、日取りや計画はまた今度にしましょう。それでいいわよね?」「お、おうとも。素晴らしくも最高のプランを立ててやる」摩多羅様はお泊りセットをシャッシャと直すと、二童子に抱えられて椅子に戻った。「それじゃあな、八雲の!」如何にもご機嫌に、摩多羅様は去っていった。

 

摩多羅様が完全に立ち去ったのを確認すると、紫様はスキマから麦茶とコップを取り出し、一息に飲み干した。「この一杯の為に生きてるわぁ」「麦茶ですよ」「今は麦茶で生き返るのよ」紫様はそれらをスキマに戻すと、私に座るよう促した。大人しく従うと、隣に紫様が座った。

 

「――それにしても藍。私の扱い、少しぞんざいじゃなかったかしら?」「ぞんざい――いえ、確かにそうだったやもしれませんが」死体の扱い――いや、生きていたのだが――の悪さを指摘されるのは奇妙な事だ。「しかし紫様、それではあの時は、何故死んでおられたのですか」

 

「ええ――実際、死ぬところだったわ」実際死んでおられましたって。「私が確認した時には、体温もなくなっておりましたが」「――理由? そうね」紫様は首を振った。「熱中症よ」「……熱中症?」私はきっと、怪訝な顔をしていただろう。紫様は扇子を取り出し、スイと開いた。

 

「私も油断していたのよ。気が付いたらあなたを呼べないほどに弱っていてね」「はあ」紫様は如何にも暑そうに扇子を揺らす。「涼しくなってきたから、意識が戻ったのよ」都合のいい身体をお持ちで。「そういえば一週間くらい水分摂ってないなって」普通はその時点で死ぬと思います。

 

「あなた達も、直射日光の当たる所を避け、なるべく涼しくして、水とミネラルをきっちり摂らないと駄目よ」「――誰に仰っておられるのです?」「誰かしらね」紫様はくすくすと笑う。まあ、考えても仕方がないのだが。紫様は稀によく、訳の分からない事を言うのだ。私は首を振った。

 

「それにしても藍、あなた、私のとっておきをみんな隠岐奈に食べさせたでしょう」「――いえ、それは」「『仕方がなかった』……まあ、わからなくはないわ」私の弁解を先んじて見透かした紫様は、首をすくめながら私を見た。「いいわ。今度、隠岐奈にいくらでも奢らせるから」

 

扇で口を隠し、紫様は笑った。実に楽し気な笑いだった。……とりあえず、私に咎が来る事はなくなった訳だ。ほっとすると同時に、実際このおおごとに私は全く関係ないじゃないか、と怒りも湧いてくる。湧くだけだが。当てつける先が、私には存在しない。こんなんではストレスも溜まる。

 

「ところで藍、私の分は?」唇を指差して、紫様は笑った。「私の分が残っておりますが」「じゃあそれで」こんなのでいいのだろうか、と思いながら、取っておいたそれを差し出す。「藍のごはんで一番美味しいかも」私の料理観はもうぼろぼろだ。肉と油、後は卵さえあればいいのか?

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「隠岐奈の服を着てみたんだけど、どう?」「お似合いですよ」(困ったちゃんのコラボ……)

 



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暖かいしがらみ

―暖かいしがらみ―

 

 

 

お前の心を掴み取ってやる。

 

 

 

「よう」魔理沙の顔は、決して明るいとは言えなかった。「どうしたの、そんな顔して」縁側から、その顔を見上げた。「魔理沙さんにも色々とお悩みはあるのさ」箒を立てかけ、魔理沙は横に座った。「お悩み、ね」私はあまり深刻に捉えなかった。お茶を淹れ、隣に置いてやる。

 

「霊夢は、自由について考えた事はあるか?」藪から棒な問いだった。「縁の遠い話ね」「やっぱりな」魔理沙は茶をすすった。「悩んでるのは自分だけじゃないかって思っていたが、自論がますます強化されちまったな」「あんただけって――そりゃ、考えている人もいるでしょうよ」

 

「実際、私は――自由じゃないわよ。博麗の巫女ってそういうものだもの」「そうかもな」魔理沙はぼんやりと前を見ている。「自由、なんてのは幻想なのかもしれないな」私は、魔理沙の方を見た。「しがらみって奴はいつも、私を捕らえて離さない。足を掴まれている気分だ」

 

魔理沙の顔はやはり、明るいとは言えない。何か、言いたい事を我慢しているようにも見えた。「何か言いたいなら、ここで吐き出しなさいよ。面倒見てあげるわ。出来る事ならね」魔理沙がこちらを見た。「お前、良い奴だな」「あんたほどじゃないわ」首を振る私に、魔理沙は語った。

 

「――たまたま、人里で聞いたんだ。親父が――いや、霧雨道具店の店主の調子が、良くないって」魔理沙は帽子の縁を掴み、顔を隠した。「症状からアタリをつけて、薬を作った。魔理沙様の自信作さ」ポケットから水薬が取り出された。陽の光を浴びて、それはキラキラと輝いていた。

 

「――だけどさ、それをどんな顔で持っていけばいいんだ?」それを、隣に置いた。「バカバカしい。無視すれば良かったんだ。私は店屋の何でもない。何でもないんだ」魔理沙は自分に言い聞かせていた。いや、それ以前の言葉だったかもしれない。己が行動のちぐはぐさを問うている。

 

実家と確執があるのは知っていた。普段、そんな事をおくびにも出さないけれど、魔理沙にとってはどうでもいい話――ではないのは、何となく理解できる。生まれた所を飛び出すというのは、どんな気持ちだろう。それが喧嘩別れだとすれば、猶の事、戻れないのかもしれない。

 

それが魔理沙のしがらみ。足を掴んで離さないもの。人間、誰しも逃れられないものだと、魔理沙は言った。私はどうだろう。博麗の巫女という立場はともかく、人の関係で不自由はしていない。ただ、関係が希薄なだけかもしれないが。ありのままを晒してきた。誰も拒みはしなかった。

 

魔理沙は多分、泣いていた。実際、感情の起伏が激しい奴だものね。それでも、人前で涙を流すのは嫌、らしい。私なんかにはいくらでも見せて良いと思うけど、本人は納得しない。意固地なのだ。こいつは。肩をすくめた。このまま、魔理沙を泣かせたままにするのも、面白くはない。

 

「持って行ってあげるわ。それ」魔理沙は泣き顔のまま、目を丸くしてこちらを見た。「持って行ってあげるって言ったのよ。これだけ? 他に渡したいものは?」魔理沙は戸惑っていたけど――とりあえず、意味は理解したらしい。「博麗の巫女が、そんな所に何の用があるんだ?」

 

「きまぐれよ」私は目前で手を振った。「たまたま荷物を預かって、たまたまそこに立ち寄った。そして、たまたま話をした」魔理沙の顔が次第に険しくなっている。これは、虚勢を張る時の顔だ。「そんな偶然、ありっこないぜ」「あるわよ。だって私、博麗の巫女だもの?」

 

「――とにかく、こいつは処分する事にする」「捨てるなら、頂戴?」「やらん」魔理沙はバッグから何かを取り出した。「これもやらないぞ。私のお気になんだ」魔理沙は――薬の隣に、それを置いた。紐で吊るされた指輪――だろうか。まあいいや。私はそれらをむしり取った。

 

魔理沙の箒を取り、それに跨った。「私は昼寝してるぜ。精々、良い夢を見てやるさ」魔理沙は手を振り、背中側に倒れた。一度だけ、こちらを見た。私は箒を浮き上がらせると、そのまま人里へと飛翔した。箒に乗った巫女なんて、考えてみればおかしな光景かもしれないわね。

 

―――

 

  ―――

 

箒を抱えたまま、私は通りを歩いていた。霧雨道具店の看板はすぐに見つかった。かかっている看板には、本日休業の文字。いやいや、そんなもので博麗の巫女は止められない。箒を立てかけると、私はずい、と店に押し入った。古い道具が私を迎えた。何ともいえぬ、独特の匂いがする。

 

正面に、店主らしき男性が座っていた。私の問いに、今日は休業です、とだけ答えた。私はそれを無視し、カウンターの内側に回り込むと、深く頭を下げた。店主は困惑していたかもしれない。無理もない。「用があります。大切な用です」私の言葉は、如何様に伝わっただろうか。

 

「これ、魔理沙からです」私は水薬と、そして指輪を見せ、カウンターに置いた。店主の顔色が変わったように思えた。息を飲んだ。手を伸ばした。それを何度も確かめるように、手に取って見定めた。水薬を、そして指輪を。「差し支えなければ、聞いても良いですか。その指輪の事を」

 

私の問いに、やや時間を置いて、店主は答える。形見のようなものです、と。私は、それ以上問う気にはならなかった。しかし、店主は続けた。それは、魔理沙が家を飛び出す原因になったものだと。「――どなたの?」妻です。店主は呟き、顎を掻いた。多分、悪い事を聞いてしまった。

 

私の神妙な顔を見たのか、店主は微笑みを浮かべた。構いません、と手を振る。放っておいても、いずれは家を出たでしょう。古びた――しかし、決して古ぼけてはいない道具に囲まれて、私は魔理沙の出自に思いを馳せた。……つまりは、お母さんを失って、それが原因で?

 

あれの好奇心を止められたとは思いません、と店主は続ける。あれは古道具屋に納まる器ではなかった。それは認めます。しかし、まさか何の後ろ盾もなく家を飛び出すとは。そこまで思い切るとは。私はあれを、理解できていなかったかもしれない。我が娘ながら――と、店主は呟いた。

 

「魔理沙の事、認めてはあげないのですか」それはできません、と店主は手を振った。顔を合わせれば必ず喧嘩になるだろう、とも。互いに、譲れないものがあるのだろう。「魔理沙はどうして、この指輪を持たせたのでしょう?」私への当てつけでしょう。店主はそれを手に取った。

 

――半分は。「半分は?」もう半分は――母親に捧ぐものでしょう。私は忘れない。だから忘れないでほしい、とでも言いますか。「魔理沙はお母さんを――いいえ、あなたもきっと、凄く心配していると思いますよ」事実は認めます。しかし、それを容易く認める気はありません。

 

店主の言葉は――私には、意固地に見えた。そういう所は多分、魔理沙とそっくりだ。「認める気はあるのですね」それを認める時には、私はぽっくり逝っておるかもしれませんな。店主の冗談は、ちょっと笑えない気分だった。母親を巡っての確執。親子間の問題。私には実感がない。

 

けれど、それが双方歩み寄れない原因なのは、なんとなくわかる。何が起こったのかはわからないけれど、魔理沙はきっと、母親を失ってやけになったんじゃないか。それが父親と衝突して、家から飛び出した。ありそうな話だと思った。あいつは沸点が低いし、仲直りも苦手なタイプだ。

 

――そう、その時だった。

 

あら、お客さん? 威勢のいい声がした。店主と同じくらいの歳の女性だ。おまえ、茶を出してくれ――と、店主が応える。「……あの、もしかして」店主は苦笑いを浮かべた。死んではおりません。その言葉は私をへにょへにょにしてしまった。なんだそれ。緊張感を返して欲しい。

 

どうです、騙されましたかな。店主は口角を上げた。こういう悪戯好きの所も、魔理沙そっくりだ。「――それはともかく、指輪はあの人のものなのですか?」店主は肯定した。飛び出す直前にあれが渡したのだ、と。その点はあれと意見の合わない所ですな、と店主は笑っている。

 

「それじゃ、どうして魔理沙と喧嘩――じゃない、問題が起きているのですか?」それを聞かれたかった、とばかりに店主は答えた。ツケです。「――ツケ?」私はそれを聞いて――意味が、ちょっとずつわかってきた。魔理沙、あんた、それは怒られて当然だと思うわよ……。

 

そこらの道具を根こそぎ持っていきましてな、と店主は声を上げて笑った。「――頭を下げさせに、連れてきましょうか?」店主は首を横に振った。あれが直に謝りに来るまでは、許しません――飛び出していった事も、こうやって卑怯な届け物をさせたのも、と。「まあ、確かに……」

 

魔理沙の母親から頂いたお茶を飲んだ。彼女は指輪を手でいじりながら、笑っていた。生きていればそれでいい。それは二人の本音だったかもしれない。「それでは、私はこれで」席を立つ私を、お待ちなさい、と店主が引き留めた。自分がしていた指輪を外し、紐に通した。

 

これをお持ちください。店主の顔は――そうね。多分、悪戯を思いついた子供みたいに見えた。これは、何かしらの意味があるのだろう。単に魔理沙を困らせてやりたいだけかもしれないが。私は頭を下げ、椅子から降りた。外は涼しい――いや、そろそろ肌寒そうだ。秋が近付いている。

 

立てかけておいた箒を持つ。それは私が使っていましたな、と店主は語った。なるほど。魔理沙がそれを至極大事にしている理由が、なんとなくわかった。お父さんの箒か。じっと見つめる。それにはあいつの苦労が染み付いている。それは、或いは店主にも見えていたかもしれない。

 

店主はもはや何も言わず、ただ頭を下げた。これ以上、話をする事もない。私は指輪をしまい、頭を下げた。道具店を出る時、何処からかあいつの声が聞こえたような気がした。今よりもずっと、幼そうな笑い声だ。あんたは家を飛び出すべきだったのかしら。それとも?

 

血縁。親のいない私には、想像する事しかできない。確かにそれは、足元を掴んで離さないのかもしれない。けれどあんたは、それに手を差し伸べたじゃないか。足を掴む手と、握手したじゃないか。不器用だけど、あんた達には確かな縁がある。ただ、意地を張っているだけ。

 

箒に跨り、離陸した。浮かび上がった私の後ろで、誰かが声を上げた。やっぱり、箒に乗った巫女って珍しいわよね。でもまあ、面白くはあるか。何ならいつも使ってる箒で飛んでみようかしら。にやにやする私の頬を、涼しげな風が撫でた。世界は僅かながら、紅に染まりつつあった。

 

―――

 

  ―――

 

「――あー、おはようさん」魔理沙は上体を起こした。寝てたなんて嘘だ。きっと気をもんでいたに違いない。「薬、何処かでなくしてきたわ」「そりゃ、もう見つからないな」「それから――これ、返すわ」魔理沙は二つになった指輪を手に取ると、何やら呟いていた。「クソ野郎め」

 

魔理沙はそれをさっ、と仕舞った。「箒まで持っていきやがって」「いいじゃない、箒で飛ぶ巫女がいても」「まあな」私は魔理沙の隣に座った。「それで、良い夢は見れた?」「……あー?」魔理沙がこちらを向いた。涙が一筋、こぼれていた。「良い夢だったさ。憑き物が落ちた気分だ」

 

涼し気な風が、神社を駆け抜けていく。落ち葉がばらばらと散った。いくら掃除しても、これじゃ終わりがない。「ねえ」「――なんだよ」「家族がいるって、どんな気分?」魔理沙は私の問いに、少しだけ戸惑っていたようだった。「お前にそれを言うのは、私だって遠慮するぞ」

 

「良いのよ。聞きたいだけ」「そうか。そうだな……」魔理沙は言葉を選んでいるようだった。「しがらみ、かな。暖かいしがらみ」「それが重荷だったのね、あんたには」「まあ、そうなるかな」私はその答えで、なんとなく満足した。しがらみ――暖かいしがらみは、ここにある。

 

「ちょっとばかし、寒いな」夏服の魔理沙が震えた。「――暖かいわよ」私はその身体を、そっと抱き寄せた。魔理沙は帽子を脱ぎ、私の脚に頭を乗せた。「あなたにとって、私は重荷かしら?」私は魔理沙の頭をそっと撫でてやった。「ああ、重いよ」小さな呟き。「その重さが嬉しい」

 

私は手櫛で、魔理沙の髪を梳いた。美しい、金色の髪だ。「なあ、霊夢」「何よ、魔理沙」「――私達、家族みたいなもんだよな」「そうかしら」私は魔理沙の顔を見た。「家族と言えば家族だし、他人と言えば他人だわ」私は微笑んだ。微笑みが返ってきた。金色の髪を、手で梳いた。

 

「――恋人と言えば、どうかしら」「家族で、他人で、そして恋人か。欲張りだな」「あんたほどじゃないと思うわ」魔理沙が身体を起こした。私達は手を取り、見合った。「お前は、恋人って何だと思う?」「好きあう――」「そうじゃない」魔理沙は首を振った。「言葉じゃないんだ」

 

――私達は、暖かいしがらみを唇に当てた。「これであなたは、また足を掴まれるのね」「それが嬉しいって、言ったろ?」「そうね」私達は、互いに互いを抱き合った。「魔理沙」「いや。言わなくたって、わかってるぜ」私の胸に顔をうずめ、魔理沙は応えた。「好き、だろ」

 

「違うわ」魔理沙の肩に、手を置いた。「大好きよ」「はは、外れか」顔を上げた魔理沙の顔に、もう一度――しがらみを、増やしてやった。どちらからともなく、距離を離した。魔理沙は帽子を取り、頭に乗せた。トレードマークだ。これを被ってこそ、魔理沙はより、魔理沙に見える。

 

「じゃあ、な」魔理沙は箒を取った。「今度は、いつ来るの?」「さあな。魔理沙様は風の吹くままだ」背中を向けたまま、魔理沙はうそぶいた。「お前もだぜ。私というしがらみに、足を掴まれたのは」「わかってる」私の微笑みを、きっと魔理沙は感じていた。「またな、霊夢」

 

私の前から、魔理沙はあっという間に姿を消した。気恥ずかしかったのかもしれない。私は湯飲みを片付けて、再び縁側に座った。どうせ、明日も来るだろう。来たい時に、来ればいい。来たくなければ、来なくてもいい。あなたを縛る私の手は、足を掴む時を、待っているのだ。

 

風が落ち葉を吹き散らしていく。無為で、変わらない日常だ。それをまぜっかえすのは、あなた。時の流れを思い出させるのが、あなた。私の――大切な人が、あなた。自分の身体を抱いた。魔理沙のぬくもりが、まだ残っている気がした。「私だって、わかっているわ。魔理沙」

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

机の上に置いた指輪を、じっと見ていた。私は苛ついていた。怒りだけじゃない。親父の意図が掴めなかったのだ。私はそれを手に取り、目前で見た。形見分けとでも言うのだろうか。そう簡単に死ぬタマじゃないのはわかっている。何しろ奴は、殺しても死なない魔理沙様の親父なんだ。

 

あの日、渡された指輪の意味を問うた。どうか忘れないでほしい。そういう意図だと汲んだ。それならこれも、私に忘れさせない為のものなのか? それは流石に、センチメンタルが過ぎる。私は紐から指輪を一つ外そうとして――やめた。それをしたら、私は負けたような気がする。

 

暖炉の光が、私とそれを照らした。指輪は、何の為にある。愛を繋ぐ為だ。母から私に、愛を繋いだ。親父は――そうだな。無理矢理に愛を繋いだ。しかし、二人の縁が切れた訳じゃない。指輪は――或いは、必要なくなったのかもしれない。長年の愛とは、そういうものなのだろう。

 

紐から指輪を二つ外して――大きい方の指輪を、左手の薬指に通した。やはりというか、それは大きすぎる。小さい方は――私には、やはり大きいようだ。私は小さい方を取った。……これを、渡すべき相手がいる。私達に合ったサイズのそれは、いずれ手に入れる事ができるだろう。

 

今は、これでいい。これがいい。私はもう一本、紐をあつらえると、それらを一つずつ吊るした。暖炉の光が、私とそれを照らしている。指輪は、何の為にある。愛を繋ぐ為だ。私からお前に、愛を繋ぐ。受け取ってもらえるだろうか。いいや、きっと受け取ってくれるはずだ。

 

扉も閉めずに、外へ飛び出した。箒をひっつかみ、月の夜を飛んだ。お前にはどんな顔をするだろう。しがらみの手に、指輪が通されるだけだろうか。……そうはならない。ならせるもんか。こちとら恋に恋する魔理沙様だぞ。暖かいしがらみで、お前の心を掴み取ってやる。

 

私の箒、親父の箒で、月夜を飛んだ。まあ、感謝してやるよ。私の脳裏に親父の顔が浮かんで、消えた。やがて、お前の神社が近付いてきた。私は不思議と、緊張してはいなかった。あるべきものが、あるべき所に嵌まる。そんな言葉が、私の傍を通り過ぎていった。私はにやり、と笑った。

 

 

 

「よう、霊夢」

 

 

 



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私さえいなければ

サルベージ―2011年


―私さえいなければ―

 

 

 

いつも彼方から灯火を見ていた。

 

 

 

渡る者も絶えた真夜中の橋。

川向いに居並ぶ古びた家々に灯る明かりは、どうしてあんなにも眩しいのだろう。

昼夜のない地底にも、星は輝くのだ。

例えそれが、紛い物の光であったとしても。

 

感傷的な私の頬を、白い光がさらりと撫でる。

季節は冬。今宵も旧都は、その身に厚い雪化粧を纏う。

 

 

 

「何してるんだい、こんな所で」

 

 

 

始めはそれが、私へ向けられた言葉とは気付かなかった。

他人と口を利く機会など、絶えて久しかったから。

私の出自を知るものであれば、敢えて関わり合おうとは考えない。

 

「おーい。

 そこの、橋の上のお嬢さんやい」

 

しかし、この執拗な呼び声は――

確かに私に向けられたものではないだろうか。

 

訝しみながらも、声繰る先に視線を向け――見慣れぬ何者かと丁度目が合ってしまった。

金色の髪。真紅の瞳。均整の取れた逞しい肉体を包む、華美な衣装。

しゃらしゃらと音色を奏でる、鎖の切れた手枷足枷。

そして何よりも目を引く、真紅の一本角。

 

――鬼、か。

 

「や、てっきり聞こえてないかと思った」

 

僅かな反応を認めるや否や、ずかずかと私の橋に乗り込んでくる鬼。

乾いた空気を通じ、仄かに帯びた酒の香が鼻についた。

 

「人気がないね、この辺りは。

 こんな時間に出歩いてちゃ、悪い鬼に誑かされちまうよ?」

 

生憎と、気の利いた台詞を投げ返せるような語彙の持ち合わせはない。

険悪な視線に気付いているのかいないのか。情緒をぶち壊す邪魔者は鼻歌交じりの笑みを浮かべている。

今一度無視しようかとも考えたが、何しろ相手は鬼である。私如きが邪険に扱えるものではない。

 

「――人をね、待っているのよ」

 

「ふむ。誰を?」

 

「忘れてしまったわ。

 ――随分、昔のことだから」

 

これ、といった意味のある行動ではなかった。

習慣、癖、或いは強迫観念。傍から見れば、奇妙とも取れる事柄に縛られる。

妖怪とはえてして、そういうものだ。

一瞬首を傾げた鬼も事情を察したのか、それ以上の追求はされなかった。

 

「――それが、何か?」

 

「いやね、えらく深刻な顔してたからさ。

 私はてっきり、世を儚んで身投げでもする気かと」

 

「…………」

 

そんなに酷い顔をしていただろうか。自覚はないけれど。

 

「違うならいいんだ。ごめんよ」

 

何がどう、いいのだろう。鬼の意図は量りかねる。

ただそれを確認したいが為に、わざわざ声をかけてきたのなら――随分なお節介焼きである。

赤の他人がどうなろうと、知ったことではないだろうに。

 

「それじゃあ、ね」

 

頭を掻き掻き、苦笑いを浮かべる鬼を横目に、闇を湛える川へと視線を戻す。

背中の向こう側で、枷の鎖がじゃらりと鳴いた。

去るは鬼。戻るは日常。静かで、無為で、代わり映えのない深夜の橋。

 

 

 

――もしもこの日、寂しげな雪が降っていなかったら。

或いは私の命運も、また違うものになっていたのかもしれない。

 

 

 

「――水橋」

 

「ん?」

 

独り言、だったと思う。

それはほんの気紛れ――否、気の迷いに過ぎなかったが、しかし彼女の耳へと、確かに届いてしまったのだ。

 

「水橋パルスィ」

 

誰に名付けられたでもなく。

いつ頃からか私は、私をそう呼ぶことで自他を区別した。

 

「星熊勇儀! 勇儀でいいよ」

 

朗々とした声が、周囲に響き渡る。

僅かに視線を向けた先で、橋から降りた彼女がさも嬉しそうにこちらへ手を振っていた。

名を知るということは、互いの間に見えざる縁を作るということである。

それが如何にか細く、二度と思い起こされない線であったとしても、だ。

 

――放っておけばいつまでもそうしていそうだったので、早々に彼女の姿を視界から追いやる。

最後まで馴れ馴れしい、とは思いながらも、それほど煩わしい気分にはならなかった。

その身に纏う雰囲気、オーラとでも言い表すべきそれは、彼女の気性を現すものか。

さぞかし人好きのする鬼なのだろう。妬ましいことである。

 

「――星熊勇儀、ね」

 

ふと、その名に聞き覚えがあるような気がしたが、終ぞ思い出すことはできなかった。

降って沸いた興味も時と共に薄れ、宵凪と静寂の内に没する。

 

変わらぬ世。変わらぬ橋。

待ち人は今宵も現れず。

 

―――

 

  ―――

 

地底に棲む妖怪の出自、理由は様々だ。

地上を見限り、鬼と共に移り住んだ者。迫害の末に流れ着いた者。

その身を地底に封ぜられた者。浮世の沙汰を厭い、好き好んでその身を封じた者――

多くは地上で居場所のない、所謂『爪弾き者』達であった。

秩序とは分別である。臭い物には蓋が必要だ。

彼らを排斥した地上の者達を、責める権利が誰にあるものか。

 

ただそこに在るだけで、害を為す。

 

そういう風に生まれついてしまった者達にとって、地底という隔絶された世界は嫌悪の対象であり、同時に一つの希望でもあった。

あらゆる災禍を受け止め、受け入れる『鬼』という存在は、

何物をも超越した絶対的なものとして、彼らの目に映ったのである。

 

内の一人、星熊勇儀。

理由は分からないが、あれから彼女は毎日のように橋の傍を通るようになった。

 

いつも周囲に、誰や彼やを伴って。

 

度々声をかけてくる彼女に、私は反応を返さない。

――返せるはずもない。

見やればきっと、その姿に嫉妬してしまうだろうから。

 

嫉妬心は伝播する。それは時に私の手から離れ、御することすら不可能なほどに激しく。甚だしく。

彼女は鬼。数ある妖の頂点に位置する種族。その力の強大さは誰もが知る所である。

誰や彼やが嫉妬する事柄など、苦心して見つけるまでもない。

彼女に特別『縁』がある訳ではないが、さも楽しげな輪に自ら不和を持ち込む気にはなれなかった。

 

ふと、この身が地裏に封じられる以前の事を思い出す。

渡る者も絶え、朽ち果てた橋の袂で待ち人を待ち続ける日々。

それは孤独で無為な時間ではあったが、そんな状況にある種の平穏を覚えていたことは否定できない。

月日経れども変わらぬ性は、己が不変性、言うなれば人有らざる精神を如実に表すものか。

 

いっそ、あのまま誰からも忘れ去られてしまえば、或いはここに来ることもなかったろうに――

 

「よ、水橋」

 

ああ、いつもの頃合か。

背に受けるこの声も、いつの間にやら聞き慣れてしまったように思う。

 

「――今日は一人なのね」

 

振り向いた先には、予想通りの姿が一つ。

挙げた手を大きく振りながら、私の橋に足を踏み入れる彼女。

 

「一人の時しか、返事してくれないからね」

 

原因は理解しているらしい。

ならば、声をかける意味など最初からないだろうに。

 

「それで、用件は」

 

続きを促す私に、どうしてか彼女は怪訝な顔をする。

 

「用がなけりゃ、来ちゃダメかい?」

 

「――茶化しに付き合う趣味はないわ」

 

何を言い出すかと思えば、これだ。

急に相手をするのがばかばかしくなり、眼下の川へ顔を逸らす。

視界の外に追いやられた彼女は、しかし私の背中に向けて弁解の言葉を並べ立てる。

 

「やや、きちんと用はあるよ。本当さ」

 

「――手短にお願いしたい所だけれど」

 

口ではそう吐きながら、真面目に聴くつもりは毛頭なかった。

彼女の意図は知れないが、私から見れば安穏な時間を乱す邪魔者でしかない。

素っ気無い対応に徹していれば、その内に飽きて立ち去るだろう――

 

「いやね、丁度この近くで宴会やろうってことになってさ。

 良かったら、水橋も来ないかい」

 

 

 

…………

 

 

 

予想だにしない言葉に、己の耳を疑う。

聞き間違いでなければ今、彼女は『宴会に来い』と言いはしなかったか?

 

「――何か、御破算にしたい理由でも?」

 

我ながら下種な勘繰りに、しかし小首をかしげる彼女。

まるで意味が分からない、と言わんばかりに。

 

「私がどうして嫌われているか、知らないのかしら」

 

「知ってる」

 

「だったら……」

 

どうしてそんな、場をふいにするようなことを――

至極真っ当な疑問は、続く彼女の言葉に遮られる。

 

「そんな小さなことを気にする連中じゃないよ。

 さ、行こう!」

 

有無を言わさず、ざっくりと。

戸惑う私の腕を取り、旧都の喧騒へと歩みを進める彼女。

――力で敵わないとはいえ、強い調子で断れば、彼女も無理強いはしなかっただろう。

誘惑を断りきれなかったのは、私の中にいくばくかの期待が存在していたからではなかろうか。

 

夜半を過ぎて尚輝く、地底の星灯り。

私には、眩し過ぎるのに。

 

―――

 

  ―――

 

右を向けど、左を向けど、知らぬ顔の並ぶ宴会場。

そう広くはない小料理屋の一室に、軽く十を超える妖怪が集まっている。

飛び交う会話。騒がしげな莫迦騒ぎ。漂う安酒と脂の香。

――輪の中心に程近い位置にありながら、私の存在は酷く場違いである。

時折向けられる好奇の視線を、正面から受け止める度胸も、器量も、私にはない。

 

「飲んでるかぁい」

 

底抜けに陽気な土蜘蛛が、縮んだ私の肩を叩く。

部屋に入るなり真っ先に名乗られたはずだが、よく覚えていない。

そういえば、顔と名前を覚えるのは昔から苦手だったか。

 

「――ごめんなさい、あまり強くないの」

 

嘘だ。特段飲めない口ではない。

只でさえ居心地の悪い場所で、自ら酒に溺れる愚は犯せない。

多種多様な妖怪が集まれば、口にできない類のものも当然出てくる。

常識的に考えれば、初対面の相手に無理な勧め方はしないだろう。

 

「そんなこと言わずにさぁ、ほらほら」

 

――前言撤回。酔っ払いにそんな気は回らない。

碗に白酒がなみなみと注がれ、内に堕ちた照明がきらめく。

左に碗。右に土蜘蛛。俄かに囃し立てる周囲の声。

如何にも断り辛い空気である。飲むべきか。飲まざるべきか。

 

「――そう、ね」

 

下手に断るよりはまだ尾を引くまい。

半ば自棄的な覚悟を決めた私は、土蜘蛛の手から碗を――取ろうとしたのだが。

 

「こりゃいいね、何処の酒だい?」

 

不意に横から伸びた手が碗を奪い、白酒をみるみる大口に流し込んでいく。

空の碗を土蜘蛛に差し出しながら、盗人はにやりと笑ってみせた。

 

「あら、やだ! 姐さんは飲み過ぎよ」

 

私を間に挟み、酒瓶を取り合う二人。巻き起こる笑い声。

周囲の興味はどうやら彼女へと移ったようであった。

果たして今のおふざけは助け舟なのか、釈然としなかったが。

 

確かに彼女の言う通り。彼や彼女は私の参加を拒まなかった。

それは酒の席の特例なのか、無知によるものか、もしくは本当に気にしていないのか。

真実がどうあれ、多少の波乱を覚悟していた私としては拍子抜けである。

 

――それにしても、だ。

彼らはどうして、こんなにも楽しげなのだろう。

分からない。今日まで知りたいと思ったことすらなかった。

根暗とは無縁の世界で起こる、無関係の出来事。刹那的で享楽的。粗暴で酒浸りな乱痴気騒ぎ。

普段の私なら、目視することすら憚られるような奇行でしかない。

 

はずなのに。

無為で無益なこの時間を、それほど嫌とは感じない。

 

「気分はどうだい」

 

少し、ぼうっとしていたのだろう。

不意にぽん、と――鬼の腕力で、だが――肩を叩かれ、驚き振り向いた先には出来たての酔っ払い。

大事そうに抱える酒瓶は、どうやら土蜘蛛から勝ち取ったものらしい。

取り巻きの輪はいつの間にか崩れ、各自が思い思いに雑談を交わしている。

――要するに今、彼女は暇なのだろう。

 

「まあまあ、かしら」

 

ひりつく肩をさすりながら、当たり障りのない答えを返す。

抗議の視線はどうやら通じていない。

 

「はは、いいね」

 

隣に腰を下ろしながら、彼女は応える。

楽しそうに。嬉しそうに。そして何処か満足げに。

わざわざこちらに来なくとも、構う相手には困らないだろうに、と思わなくもなかったが――

孤立しがちな私を気遣ってくれていることくらいは分かるし、手を煩わせれば申し訳ない気分にもなる。

 

――だからこそ、納得がいかない。

彼女は何故、私をこの場に連れ出そうと思ったのだろう?

 

それからしばらくの間、私と彼女は世間話――ともすれば一方的になりがちな、ぎこちない会話を交わした。

同じ旧都に生きる者でありながら、私と彼女の見る『世間』は随分と異なったものであるらしい。

次から次へ、まるで話題の尽きない彼女に対して、簡単な相槌すらままならない私。

一々この体たらくでは、話す側からして面白いとは思えないのに――

しかし彼女は、まるで上等な小話を聴くかのように、私のたどたどしい台詞に耳を傾けるのだ。

 

「――ひとつ、聞いてもいいかしら」

 

彼女が酒に口を付けた所を見計らい、先程からの疑問を切り出してみる。

返事の予測は、できない。それは私の理解の範疇を超えていた。

 

「どうして貴女は、私なんかを連れてこようと思ったのかしら?

 もし仮に迷惑にならないとしても、この場に寄与するとは思えないけれど――って、ちょっと」

 

私の言葉が、余程滑稽だったのだろう。

しばしの沈黙の後、噴き出すように笑い出した彼女に、たちまち周囲の注目が集まる。

その中には当然、憮然とする私も含まれていた。

 

「何かおかしなことでも言ったかしら」

 

「いや、ごめんよ。

 そういう考え方もあるんだなぁって」

 

「…………」

 

生憎と、嫌味の利いた皮肉を返せるような語彙の持ち合わせはない。

険悪な視線に気付いているのかいないのか。話の腰を折る調子者は鼻歌交じりの笑みを浮かべている。

そっぽを向いてやろうかとも考えたが、何しろ相手は鬼である。私如きが邪険に扱えるものではない。

 

「そうだね。強いて言うなら――

 水橋のことが気になるから、かな」

 

「気に、なる?」

 

「そうさ」

 

それは、一体どういう意味で――

 

「ねぇねぇ。姐さんとお嬢さんも、こっちでお話しましょうよぉ?」

 

「――うわっ!?

 ヤマメ、あんたちょっと飲みすぎてやしないかい?」

 

出掛かった問いは、しかし土蜘蛛の姦しい声に遮られる。

発生源がやけに近いと思いきや、どうやら彼女の背に飛びついたらしい。

体勢を崩した彼女の抗議も、周囲のお喋りに掻き消され――なし崩しに始まる賑やかな会話の中心は、やはり彼女だ。

 

「はい、どーぞー」

 

その間にも酒を注ぎ回りつつ、そこかしこで嘴を挟む土蜘蛛。器用なことである。

やがて順番は回り、甲斐甲斐しく差し出された杯には先程の白酒がなみなみと注がれている。

 

「――ありがとう」

 

今度ばかりは彼女も忙しそうだ。

 

「どーいたしまして」

 

両手を添え、私に杯を握らせる土蜘蛛。見合わせた顔に浮かべる微笑み。

 

――反射的にうつむく私の肩を、軽く叩きながら土蜘蛛はからから笑った。

非礼を責めるでもなく。非礼で返すこともなく。

 

ただ、笑っていた。

 

失い忘れて久しい、他者との繋がり。

遠い昔、世界を未だ色鮮やかに感じていた頃の日々が、今になって酷く懐かしく思える。

利害ではなく。打算でもなく。ただ私という存在が、血と縁の連鎖をも超えた絆に囲まれていて。

それこそが己が在るべき場所、在るべき姿であると――信ずることに、何の疑問も持たなかった時代。

 

周囲の囃す声に応え、今一度乾杯の音頭を取る彼女。

彼らにとっては、彼女――勇儀の傍こそが、居場所そのものなのだろう。

煩わしくも懐かしく。莫迦らしくも憎からず。

こんな私ですらも惹きつけられずにはいられない、それは――

 

 

 

――――

 

 

 

取り落とした杯が、乾いた音と共に床を汚す。

 

「――水橋?」

 

釈明の暇はない。

――あったとて、口に出せようはずもない。

僅か一瞬の気の迷い、ただ一度の回顧が、淡い幻想にどす黒い汚濁となって広がっていく。

 

彼女を頂き、取り巻く輪。

楽しげな彼女を。誰や彼やの姿を。

 

 

 

心の底から妬ましいと、そう思ってしまったのだ。

 

 

 

「待ちなよ、水橋!!」

 

制止の声を振り払うように、私は駆けた。

店屋を飛び出し、通りを横切り、見知らぬ路地から路地へと渡る。

渇く口。震える瞳。言葉に尽せぬ不快感。

後から。後から。噴き上がるように蔓延る嫉妬が、ちっぽけな自制心を焼き焦がしている。

如何に押え付けようとも、それはまるで嘲笑うかのようにこの手を軽々とすり抜け、全てを手遅れにしてしまう。

 

離れなければいけない。逃げなければいけない。

一刻も早く。一歩でも遠く。遠くへ。遠くへ。

こうすることでしか、迫る悲劇を遠ざける術を知らない。

息切れども。足もつれども。

走り続けるしか、なかったのだ。

 

 

 

「!」

 

不意に現れた段差。反応する間もなく、大きく体勢を崩した身体。

支えを求め、咄嗟に伸ばした手が掴んだものは――古ぼけた木製の手すり。

 

 

 

私の橋だった。

 

 

 

乱れた呼吸に、乾いた笑いが混じる。

結局、私はここに戻ってきてしまうのか。

 

あの時も、そうだった。

愛しき人は二度と戻らぬと解しながらもなお、心の何処かで現実を認めることができなかった。

傷付くことを恐れ、傷付けることを厭い、己が変化をただ、拒んだ。

 

『変わらぬ心』――それは決して美徳などでは、ない。

如何な美辞麗句で飾ろうとも、我執は我執。

死者は黙し、何物をも語らない。

生者を縛るは、生者自身の手に他ならないのだ。

 

こんな、どうしようもない私が――

どうして今日まで、生き延びてしまったのだろう。

 

不器量な私が、たった一つ持ち得た力。

羨望、恋慕、尊敬、崇拝、友情、忠義――

あらゆる繋がりに負の方向性を与え、不和を生み出す魔性の業。

人に触ららば心を裂き。縁に触ららば道を絶ち。

寄るもの為すもの全てを狂わせ、腐らせずにはいられない。

 

「――貴方も、そう思わない?」

 

古ぼけた手すりをそっと撫でる。

いつも寄りかかっていた箇所は微かに磨耗しており、独特の滑らかな手触りを返す。

共に封ぜられたこの橋こそ、私が招いた最大の犠牲者と言っても相違ないだろう。

岸と岸とを渡し、点と点を線で繋ぐ。

浮世の沙汰が行き来する為に造られしもの。

 

なれば、渡る者の絶えた橋の意義とは何だろうか。

 

橋姫の祟りを恐れ、人々はこの橋を渡ることを避けた。

渡すべき橋が、渡すべき者を遠ざける矛盾。

あの頃からこの橋は、もはや橋としての意を為していなかったのである。

 

「私さえいなければ」

 

橋は橋として。彼は彼として。女は女として。

誰一人として己が道を踏み外すことはなかったのだろう。

 

そう、私さえいなければ。

 

 

 

私さえいなくなれば。

 

 

 

「こんな私だから」

 

履物を脱ぎ捨て、手すりに腕をかける。

川と橋とを隔てる、小さな境界――越えようと思えば、簡単なことだ。

 

「貴方の心も、離れてしまったのでしょうね」

 

見下ろす視線の先に広がるは、全ての光を飲み込まんばかりの黒き闇。

旧都の川は暗く深く、湛える水は凍てつく程に冷たい。

 

――妖怪風情が身を投げるには、いささか贅沢過ぎる舞台だと思えた。

 

 

 

「水橋」

 

右足を、そして左足が手すりを乗り越える。

もはや振り向く必要性も感じない。

 

「ごめん。無所存だった」

 

「止めて」

 

続く言葉を、否定で遮る。

言わせない。言わせてはならない。

 

「――これ以上、私を惨めにしないで」

 

常よりも上ずった声が、酷く耳触りに感じる。

噛み締めた唇が破れ、生暖かい感触が顎を伝った。

 

「もう十二分に解ったでしょう。

 貴女達の輪に――いいえ。

 私の居場所なんて、何処にもないのよ」

 

「――本気でそう思ってるのかい」

 

気圧すように低く、力強い声が耳を打つ。

先程までとは質からして違うそれこそ、鬼たる彼女が発する本来の音か。

 

「侮られたもんだね。

 この勇儀、嫉妬如きに狂わされるほどヤワにはできちゃいない」

 

「貴女自身は、或いはそうかもしれない。

 けれど、貴女を取り巻く妖怪達は違う」

 

嫉妬とは、そう簡単に割り切れる感情ではない。

様々な要因が入り混じった結果、邪念を抱いた本人ですら、きっかけが分からなくなってしまう――そんなことも多々あるものだ。

誰もが抱き得る他者への不信、力への恐怖、上位者への反感。

強者を頂く集団において、それらは容易に不和の楔へとなり得る。

 

「違わない」

 

「何を、根拠に」

 

荒げた声色に、しかし意力は、ない。

 

「私を、さ」

 

それは、彼女の物言いから容易に予想できた返答。

一人一人に問い質した訳でもあるまいに。

個人的な経験則など、根拠になり得ないというのに。

 

「――なぁ、水橋。

 他人を信じるのは難しい。それは私にだって分かる」

 

それでもなお、鬼の言葉には『重み』がある。

圧倒的な力に裏打ちされた、確かな我。揺るぎ得ぬ自恃。

賎者が何を口走ろうとも、それを正面から否定して余りある説得力。

 

「でも、違うんだ。そうじゃない。

 信じるってのはさ、片思いじゃダメなんだよ。

 あいつらがいくら信じても、水橋がそれを拒んでちゃ通じない」

 

ゆっくりと、鎖の鳴る音が近付いてくる。

 

「私が信じるあいつらを、ちっとは信じてやってくれないか」

 

それは私の真後、息もかかりそうな距離で、止まった。

 

「――私には、無理よ」

 

人は、己が思うが侭には生きられない。

人在らざる身であれば、尚のことだ。

今までもそうしてきた。これからも、いつまでも。

そうすることでしか、己が業から逃れる術を知らない。

 

「最初から何もかもが上手くいく訳がないさ。

 つまらないことで喧嘩したり、付き合いが時に疎ましく思えたり――

 時にはスネて、距離を置くことだってあるだろう」

 

諭すような口調で、彼女は続ける。

 

「でも、それでいいんだ。

 喧嘩もできない仲なんて、窮屈で仕方がない。

 ――そういう意味でもさ、いい奴だよ。みんな」

 

惨めに立ち尽くす私の肩に、彼女の両の手が触れる。

 

「それに」

 

ゆっくりと、しかし着実に振り向かされる視界の中――

想像していたものとは大分違う、穏やかな顔が見下ろしていた。

 

「宴会、ちょっと楽しかっただろ?」

 

返す言葉が、見つからない。

如何な弁舌を駆使しようとも、それは全て『嘘』になってしまう気がしたから。

だから、静かに俯いた。

ほんの僅か、小さく俯くことしか、できなかった。

 

「戻ろう。みんな心配してるよ」

 

差し伸べられたのは、大きな手。

かつて狂おしいほどに求め、願い、遠ざけたものが、今目の前にある。

この手を取れば、全ては変わる。変わってしまう。

私ばかりではない。取り巻きの妖怪達――否、彼女に関わるあらゆる事象を巻き込み、穢し、躙るだろう。

 

 

 

この身に余る過ちの数々。

――もう二度と、繰り返さずに済むのなら。

 

 

 

「――水橋!?」

 

身を乗り出す彼女。暗闇に向け伸ばされた腕は、しかし静かに宙を切る。

怒りとも、驚きともつかない顔が、遥か上の方にちらりと見えた。

当然だろう。事の結末は、彼女の想い描く絵空通りにはならなかったのだから。

 

「水橋ッ!!」

 

妖一つの命を以って、忌まわしき連鎖は断ち切られる。

それでいいと、私は思い。それがいいと、私は願い。

 

遙か水面へ、落ちていく。

 

やがて訪れる衝撃。したたかに打ち付けた背中。立ち上る水飛沫と泡。視界はたちまち淡き水に覆われる。

魂魄をも凍てつかせる旧都の川は、愚かな私をまるで歓迎するかのように奥懐へと誘っていく。

末端の痺れと共に五感は曖昧となり、直に水と己の境目すら定かではなくなったが――

内では酷く冷静に、まるで他人事のように状況を眺める自分がいた。

 

「  」

 

無意識の呟きは、無常な泡となり遥か水面へと昇る。

 

「    」

 

これが私の、本来あるべき結末。

不自然なる生が、自然な姿に還る――それは何よりも正しく、幸せに違いないのだろう。

私であることに疲れ、私であることを厭い、私であるが故に、私は私を失った。

長い、永い、永過ぎるほどの猶予を経て、後少し、ほんの少しで私は、私という呪縛から開放される。

 

深い安堵と共に吐き出した空気。己が身が、清き水へと、置き換わっていく、幻覚。

徐々に、しかし確実に近付く、最期を、噛み締める、ように。

 

私は、

 

私を、

 

抱きしめる。

 

 

 

『――水橋ィッ!!』

 

 

 

歪な視界。

 

来たるは人影。

 

三度差し伸べられた、大きな手。

 

始めて目にする、血相を変えた彼女の姿。

 

 

 

渦巻く泡。

 

震える水の、叫び。

 

 

 

私に。

 

この手を取る資格なんて。

 

 

 

本当に、あるのだろうか。

 

 

 

思案の暇は、されど与えられず。

流水を切り裂くかのように泳ぎ寄る彼女は、苦もなく私の身体を掴み寄せると、猛烈な勢いで水面へと引き上げたのだ。

天地がひっくり返るかのような衝撃が、私の意識をめちゃくちゃに掻き回し――

咽る。吐き戻す。咽る。吐き戻す。入り込んだ水が尽きる時まで、繰り返される苦痛は不義への罰か。

やがて深い呼吸と共に我に返れば、彼女の大きな身体に無我夢中のまましがみついている自分がいた。

 

「――ちっとは頭、冷えたかい」

 

滴る闇の中に、彼女の金色の髪が艶やかに映える。

凍える川の洗礼すらも、鬼にとっては行水に等しいのかもしれない。

 

「勇儀……」

 

「お、初めて名前で呼んでくれたね」

 

大きな手が、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。

気まずさから反射的に逃れようとするが、凍りついた手足はまるで言うことを聞かず――

恥知らずを承知で、確かな支えに身を預けることしかできなかった。

 

「――ごめんなさい」

 

一度ならず、二度までも。

背き続けたこの私に、それでも手を差し伸べた彼女。

その真意など、今はどうでもいい。

命を拾われたという事実、それだけで恩を――引け目を感じずにはいられない。

 

「いいさ。

 でも、もうしないでおくれ」

 

何気ない言葉は、枷。

縁という名の鎖で繋がれた、これは枷そのものだ。

 

「――ええ」

 

故に我が身は侭ならず。

 

鬼が生きろと、説くならば。

幕を引く権利すら、私にはないのだろう。

 

―――

 

  ―――

 

「――あっ、いたいた!」

 

遥か頭上、橋からの声。見下ろす顔は、件の土蜘蛛だ。

その声がまるで合図であったかのように、周囲が俄かに騒がしくなってくる。

 

「あらまぁ、二人で寒中水泳?」

 

「まあ、そんなとこさ。

 悪いけど、何か拭くもの持ってきてくれないか」

 

彼女の言葉に応え、内の一人が旧都の喧騒へと駆け出していく。

その間に土蜘蛛が編んだ糸が垂らされ、私は彼女の小脇に抱えられたまま、橋の上へと引き上げられた。

喧騒と共に無数の視線が彼女へ、そして私へと集まる。

輪の中心に在る、というのはこういう気分なのか。渦巻く慚愧の念をも忘れ、妙な納得感を覚えてしまう。

 

「心配したんだよう」

 

彼や彼女の第一声は、私が想像していたものと大分異なっていた。

 

「――心配?」

 

「急に飛び出して行っちゃうんだものねぇ」

 

土蜘蛛の言葉に呼応するように、各自思い思いに肯定する妖怪達。

中には見知らぬ、宴会場にいなかった顔も少なからず混ざっている。

僅かな縁を繋いだ彼や彼女に、かけてしまった迷惑の大きさは想像に難くない。

それなのに――こんな私を探す為、ただそれだけの為に、彼らは旧都を駆け回ったのか。

 

「あ……」

 

息が詰まって。

 

「あの……」

 

胸が苦しくて。

 

「…………」

 

言葉一つが、出てこない。

 

意気地なしの背を、彼女の大きな手が押した。

濡れた衣装と肌との間から、静かで、優しい音がした。

 

 

 

「――ありがとう」

 

やっとの思いで搾り出した言葉は、

この上なく安直で、簡単で、安っぽかった。

 

揺れる視界も、後から後から零れ落ちる涙も、

莫迦みたいにありきたりだと、心の何処かで笑いが止まらなかった。

 

「「どういたしまして!」」

 

誰も彼も莫迦ばかりだと、私は笑った。

泣きながら笑い、笑いながら泣き続けた。

 

 

旧都の対岸に位置する、朽ちかけた一軒家。

そこが私のささやかな住処だった。

煌々と輝く地底の星明かりも、ここまでは届かない。

僅かな囲炉裏の火だけが、部屋を仄かに照らしている。

 

「――結局、宴は台無しになってしまったわ」

 

「ま、たまにはそういう日もありさ」

 

身体の震えこそ、収まりはしたものの――

火の傍に吊るした服は、しかしそう簡単には乾かない。

今の彼女は衣装を脱ぎ捨て、借り物の着流しを軽く羽織っている。

 

「優しいのね」

 

そう、彼女は優しい。

誰もが彼女を頼りにし、彼女はそれを当たり前のように受け入れてみせる。

だからこそ、数多くの妖怪達に慕われるのだろう。

 

「優しいさ。みんなね。

 ――気の置けない仲間ってのは、いいもんだよ。

 水橋もすぐに打ち解けられるさ」

 

「――貴女が言うと、如何にも簡単に聞こえるけれど」

 

縁を絶ちて、幾百年。

他人と上手く付き合っていける自信など、あろうはずもなかった。

奇怪な容姿。捻くれた性根。この手に余る嫉妬の力。

嫌われる要素など、この場でいくらでも挙げられるのだ。

 

「案ずるより産むが易し。

 あれこれ考え過ぎなのさ、水橋は」

 

私に言わせれば、今でも十二分とは思わない。

過敏と言うか、他人から見て過剰なことは理解しているが。

――傍から見れば、多分に面倒臭い女なのだろう。私は。

 

「御しきれない嫉妬の力――

 確かに、ちょいと厄介な代物かもしれない」

 

ちょいと、ね。

如何にも強大な鬼らしい表現だと思う。

 

「けど、力を厭うだけでは何も変わらない。

 そうだろ?」

 

彼女の言葉は、ただひたすらに正論だ。

ともすれば、頷くことしかできないほどに。

 

「自制はしているつもりよ。

 ――結果は、見ての通りだけれど」

 

堪えれば、堪えるほどに募る嫉妬心。

己に欠けるものを。己より優れたものを。緑の澱みに映り込むすべてのものを。

資して得られぬと解しながら尚、心を砕かずにはいられない。

無垢なる赤子を善とするならば、私という存在は、大悪そのもの――

邪念、煩悩、心の穢れで形作られていると断じても過言ではないだろう。

仏ならざる人の身で、患う煩心から逃れ得ぬように。

此の世の業を祓い去りし聖者が、もはや人の子ではあり得ぬように。

 

私が私である限り、私そのものである嫉妬から逃れることは、決してできない。

 

「『鬼』の貴女には、分からないかもしれないけれど」

 

当て付けがましく呟いた言葉。気付いた時には、もう遅い。

慌てて視線を伏せ、彼女の顔色を伺うが――特に変わった様子は見られなかった。

気付かなかったのか、それとも聞き流したのか。

どちらにしても、褒められた物言いではない。

 

「ちょっと、違うんだな……

 抑えるんじゃない。吐き出しちまえばいいのさ」

 

頭を掻き掻き、語る彼女。

 

「吐き出す?」

 

「今みたいにね」

 

――聞き流されていたか。

 

「ごめんなさい」

 

形ばかりの詫びに、いいのいいの、と彼女は膝を叩いた。

 

「我慢ばかりしてちゃ、そりゃ鬱憤も溜まるさ。

 口に出すとか、行動で表すとか――

 一通り吐き出したら、その件は終わり」

 

堪えられないのならば、いっそ小まめに吐き出してしまえ――

彼女の語る理論も、理解できなくはなかった。

だがしかし、それには相手が必要だ。

鬱屈した愚痴を垂れ流される、憐れな憐れな犠牲者が。

 

「迷惑にならないかしら」

 

「ほら、それがいけない。

 迷惑かどうかなんて、言われた方が決めるもんだ。

 イヤならイヤで、相手だって言い返してくるさ」

 

みんなそうさ、と彼女は言う。

果たしてそうだろうか。例えば、私は――いや。かつては私も、意識することなく他人と付き合うことができたはずだ。

いつからだろう。自他の間に設けた壁の厚さに、何の疑問も持たなくなったのは。

 

「無理して回りに合わせろとは言わない。

 でもさ、思い切って一歩を踏ん切っちまえば、後は結構どうにかなるもんだよ」

 

彼女は、違う。他人の心に踏み入ることに躊躇はしない。

是非は兎も角として、何処までも前向きなその姿勢が、まるで旧都の灯のように眩しく感じられる。

 

「――さぁて、まずはこいつが一歩かな」

 

愚図な私の目前へ、ゆっくりと腕を伸ばす彼女。

都合四度、差し伸べられた手。躊躇いながらも、それを両手で握り返す。

思い返せば、彼女の手を取るのはこれが初めてだったか。

想像していた通りに大きく、想像していたよりもずっと柔らかくて、暖かい。

 

「ほら、簡単だったろ?」

 

重ねた手に、重ねる手。より近く、近くへと寄り、座り直す彼女。

私と彼女とを隔てる、僅かな境界――越えようと思えば、簡単なことなのかもしれない。

 

「――ええ」

 

私の中で何かが少しずつ、しかし確実に変わり始めている。

それを許容すべきか、否か――今はまだ、何も分からない。

強者たる彼女に、或いは盲目的に従っているだけかもしれないのだから。

 

「いつでもいいから、また顔を出しておくれ。

 皆で待ってる」

 

優しげに微笑む彼女に、つられて顔を引き攣らせる私。

――見ずとも分かる。今の私は、酷い顔だ。

柔和な笑い方など、遠い昔に忘れてしまったから。

 

笑いたくても、笑えない。

それを不都合に感じたことは、今の今までなかったのに。

 

 

 

「――粗茶でも入れましょうか」

 

「水橋」

 

その場から逃げるように立ち上がった私の背を、穏やかな声が呼び止める。

布擦れの音。立ち上がる気配。

それは私の真後、息もかかりそうな距離で、止まった。

 

「手伝うよ」

 

「――いいわ。座っていて」

 

「そう言わずに、さ」

 

背中に触れる柔らかな感触。僅かな布越しに触れ合う肌と、肌。

驚きと共に振り返る私を、じっと覗き込む二つの紅。

頬に当てられた手が、胴に回された腕が、目を逸らすことを許さない。

 

「可愛いよ」

 

背筋が、震えた。

 

「――いいよ、水橋。

 その顔、すごく可愛い」

 

真紅に輝く彼女の瞳。

炎のように猛々しく、穢れ一つない綺麗な瞳。

 

「もっと近くで見せておくれ」

 

そこに映る私。映る瞳に、映る彼女。

近付く瞳。もつれ合う視線。混ざり合う紅と緑。

揺らぎ、揺られて、触れ、惑い――やがて生ずる、黒き汚濁の帳。

それはじわじわと視界を狭め、遂には何もかもを覆い尽くしてしまう。

 

 

 

闇に包まれた私の中で。

 

心の臓だけが、耳障りな早鐘を鳴らしている。

 

 

 

「――そろそろ、帰ろうかな」

 

ばつの悪そうな彼女の声が、自己嫌悪の堂々巡りから意識を引き戻す。

真っ暗なのは瞼を閉じているせいだと気付くまで、少しの時間を必要とした。

 

「悪いけど、これしばらく借りとくね」

 

首の手拭を見せ付けるように、着流しの肩口を撫で上げる彼女。

いなせな柄のそれは大柄な男物だったが、

長身の彼女には不思議なほどに似合っているように思えた。

 

「又今度、返しに来るからさ」

 

頷く私に手を振りながら、ゆっくりと戸口をくぐる彼女。

せめて外まで見送るくらいはするべきだったかもしれないが、心賎しき私には、その背を黙って見つめることしかできなかった。

 

―――

 

  ―――

 

意識し始めてから、幾度目かの寝返り。

不可思議に悶えるこの心、惑わすは鬼の妖しき残響。

 

『可愛いよ』

 

掛布に巻き付き、枕へ強く顔を埋める。

――私は一体、何を勘違いしているのか。

常識的に考えて、答えは明らかのはずだ。

彼女なりの日常会話か、或いは悪質な冗談か。

どちらにしても、本気のはずがないのに。

 

『もっと近くで、見せておくれ』

 

――目を、開けられない。

今目を開けたら、彼女の顔が目の前にありそうな気がして。

この穢れた緑の澱みを、あの綺麗な瞳で覗き込まれてしまいそうで。

 

ありえないと分かっているのに。

そこにあるのは、暗闇だけなのに。

 

 

 

ただひたすらに、

 

怖かった。

 



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無償の愛

#死亡 #流血表現


―無償の愛―

 

文を振った。

 

私が振った。その顔はうつむき、頭を振り、薄笑いを浮かべ――そして、一筋の涙を流した。「わかっていましたとも、椛」涙が、止まらないようだった。「あなたは本当に馬鹿正直で、嫌になりますね」涙。涙。「嘘でも、はいと言うべき所でしょうに」豪雨が、私達を濡らしていた。

 

「あなたを巻き込んでしまったのは――悪かったと思っています」「何も悪くなんかない」私は文の顔を撫でた。白い肌が泥に濡れた。「私が決めたんだ」「私を振ったのも、ですか?」「ああ」文が私の手を掴んだ。泥が、お前の顔を汚した。「これはきっと、恋なんかじゃない」

 

「ならば、何です?」「――わからない」私は手探りで剣を探した。それは運命めいて、すぐ近くにあった。「≪無償の愛≫というものもあるのですよ、椛」愛。愛。愛の形は一つではない。「無償の、愛」「私はもう、あなたに返せるものは何もありません」文は身をよじった。

 

「それでもあなたは、私を――愛してくれますか」文が手渡したのは、ハンカチだった。「――ああ。これは私からお前への≪無償の愛≫だ」文が激しくせき込んだ。私も口から、生暖かいものが流れるのを感じた。寝転んだ私達の背中は、決して優しくは迎え入れてくれなかった。

 

――私達は墜落していた。木々を薙ぎ倒し、身体は地に縛り付けられた。泥の中に、お前がいる。私がいる。そして、天から追手が舞い降りる。雨空は黒に覆われ、やがて私達を取り巻いた。手に手に≪死≫を携えて。私達が≪死≫を受け入れる、その瞬間を、待ち構えているかのように。

 

「せめて、一緒に死んでください」私は、それを無視した。「――どうしても、私の言う事を聞かないのですね」文は目を閉じた。私は剣を杖にして、立ち上がった。突き付けられた剣が、槍が、私達の結びを切り離そうとする。せめて、せめて最期は。かすれた声も、無視した。

 

お前を死なせない為なら、死神にだって立ち向かってみせる。……構えた剣には、力が入っていなかった。ただ気概だけが、私の武器となる。噛み締めた歯の間から、血が流れる。いくらでも流れるがいい。この命尽きる前に、お前を守り切ってやる。……剣が、槍が、二人に近付く。

 

幾多の槍が私の身体を貫いた。剣が私をぼろくずのように切り裂いた。それでも剣は離さなかった。槍を切り払い、穂先が刺さったまま、剣を振るった。一人、倒した。二人、剣を跳ね飛ばした。三人、私に気圧されて、後ずさった。四人が私を突き刺し、五人が私の全身を切り裂いた。

 

血に濡れた目で、敵を見た。気圧した。近付くものはいなかった。私は、お前を死なせない。私はお前の前に立つ。「――この命、燃え尽きるまで!!」私の叫びは血泡と化した。誰に聞かせる必要もない。私とお前だけに伝われば、それでいい。追っ手の烏は、手に手に、槍を投擲した。

 

穂先が幾度も私を貫いた。私は――もう、杖なしには、立ってはいられなかった。それでも、それでも。私は腹から槍を抜き、それを突き付けた。死なせはしない。――死なせなかったとして、どうなる?――そんな事はもう、考えてはいない。我執が、無償の愛が、私を突き動かした。

 

「お前は、恋心を、くれた。私も、愛を、返した。そうだ。私、は――お前を愛していた!」音にならない。しかし、きっと、きっと伝わったはずだ。飛び交う槍が、ついに私の心の蔵を貫いた。私は――お前に、覆いかぶさった。幾本もの槍が、私ごと。私達を。私達の命を、貫いた。

 

泥にまみれたハンカチが、死に染まる。地へ、地へと、命が流れていく。

 

(――あなたは、嘘吐きさんでしたね)

 

最期に、お前の言葉が、聞こえた気がした。

 



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白狼の華

―白狼の華―

 

高嶺の花、気高き花をめぐる醜い争いは多くの脱落者を迎え、今や三者のせめぎ合いにありました。勝ち抜いたものがはたてとの婚姻を約束される。今日び古風すぎる話ではあります。はたて本人の許可もないでしょう。御家とはそういうものです。周囲ははらはらとそれを見守るのみ。

 

はたての事は好きでしたよ。しかしてそれは、不純な恋であると理解してもいました。それでも争奪戦に加わったのは――ある意味、卑怯な行いです。椛を奪われたくなかった。例え、私が椛を射止められなかったとしても、椛が誰かとめおとになるのが、許せなかったのです。

 

はたて本人は、己を巡って恋のさや当てが起こっているなんて、思いもしなかったでしょう。あの子は純粋です。だからこそ、飯綱丸はそれを欲した。なればこそ、椛はそれを求めた。私は――そうですね。咎を問われるような理由で、はたてを利用しようとしている。

 

負ける気はありませんでした。甲斐性、教養、そして地位――姫海棠家から様々な試練を課され、多くの天狗は脱落していきました。残ったのは私達、三人だけ。博徒が喚いていましたが、そんなものに手を出す方が悪いのです。賭博場のチンチロくらいにしておくべきですね。はい。

 

最後の試練は――誰がはたてさんに相応しいか、本人に選ばせるのです。私ははたてと仲良くしてきたつもりですし、政略結婚丸出しの飯綱丸は選ばれないでしょう。椛――椛は、はたてと親交が深い。しかしてそれは、道ならぬ恋。はたてが賢明であれば、私を選ぶ以外にありえない。

 

姫海棠家の御家に呼ばれた私達は、はたてと見合いました。椛はいつもの仏頂面を崩しません。飯綱丸は――顔がひきつっていますよ、あなた。本当に、そういう所は変わりませんね。しかしまあ、妻を娶ろうとするだけ、成長が見られはしますが。私は首をすくめ、はたてを見つめます。

 

「この中の誰かから選べって、その――お付き合いする人を?」散々お膳立てしておいて、本人の意志を尊重するも何もないものですが。姫海棠の老人は神妙な顔で頷きました。はたてと結婚する、となれば、実質婿入り。姫海棠家の跡取りにもなり得るでしょう。とかく、重い選択です。

 

はたてとて子供ではありません。この選択が招くものは、重々理解している。だからこそ、迷っているのです。地位を求めるなら、飯綱丸一択。道ならぬ恋に走るなら、椛でしょう。私はどうでしょう。そうですね――故あらば、不良天狗を辞めて、腰を落ち着けても良いと思っている。

 

あなたを受け入れる準備は出来ているのですよ、はたて。ふと、はたてと目が合い、私は笑いかけました。いつもの悪い笑みではありません。あなたの為に用意した、最高の笑顔です。はたては当然というか、迷っていました。老人が、三人が、ただただその選択を待っています。

 

「――椛。あなたがいい」

 

笑いました。私は笑った。心から己を嗤いました。己の虚しさを噛みしめました。そうですか。あなたは椛を選んだと。椛を欲している私の目の前で、あなたがたは抱き合うと。首を寄せ合うと。あまつさえ――その頬に、キスをすると。ああ。あなたが、はたてのものになってしまう。

 

私は平静を装いました。必死にそうしました。頭を掻く飯綱丸を、煽る余裕すらありませんでした。首をすくめて、手を振りました。いつもの私なら、椛を目一杯嫌味を言ってやれたでしょう。いつもの私なら。そうです。……今の一瞬で、私が、私でなくなってしまったのです。

 

姫海棠の老人は頭を抱えていましたが、やがて頷きました。うやうやしく頭を垂れた椛に、相応の地位を表す印を預けました。お嬢様、御付きの印。これであなたは、烏天狗と同等の地位を得た訳です。二人の結婚を邪魔するものは、何もなくなりました。誰もそれに異議を挟めはしない。

 

私はいたたまれず、飛び上がりました。悲鳴を上げる博徒どもを尻目に、飛びました。むやみやたらに飛びました。目的地なんてありませんでした。もしも願いが叶うならば、わたくし――否、椛の中から、わたくしの記憶をすべて、すべて消し去って欲しい。願わくば!――願わくば!

 

家に戻りました、わたくしは――号外を書き始めました。≪道ならぬ恋、成熟!≫。わたくしを散々、負け犬呼ばわりしました。自虐ではありません。すべて事実でした。真実はわたくしめが定める。わたくしが何を思っていたか。何を想ったか。何に負けたのか。それは書く必要がない。

 

ある意味でこれも、捏造新聞でありましょう。事実を歪め、真実すらも隠遁する。わたくしはもう、笑う気力もありませんでした。服も脱がずにベッドに飛び込むと、頭を抱え、眠りに落ちました。明日になれば――すべてが終わり、終わりが始まる。終わりの日々が、いつも通り続く。

 

「椛」

 

その名を口にするのは、最後になるでしょうか。

 

―――

 

  ―――

 

二度と会うつもりはなかった。接触を注意深く避けてきた。それこそ、執着そのものです。いつも通り接すればいい。いつも通り――小馬鹿にすればいい。ただ、そうしたくなかったのです。だから、しない。建前です。しかして建前を失えば、人は生きてはいられないでしょう。

 

わたくしめの中に、わたくしという事実だけが残った。あなたはいない。はたてもです。私の中に住んでいた≪心≫が、何処にもいなくなってしまった。恋しかった。愛して欲しかった。恋を失う事を――覚悟してなかった訳ではないのです。しかし、わたくしめの心は嘘をついた。

 

「椛」

 

ああ!――あなたが欲しかったのです!! あなたを抱きしめたかった! あなたの傍にいたかった! 道ならぬ恋と、指差されたって構わない! あなたを隅から隅まで知りたかった! あなたに知り尽くして欲しかった! あなたに――私が欲しいと、言って欲しかった!!

 

私の瞳から暖かいものが落ちました。わたくしめの心でした。それを枯らせば、あなたを忘れられる?――いいえ、そんな事はあり得ない。記憶とは曖昧でいい加減なものです。しかしてそれは、好き勝手に流し去る事などできない。抱くしかないのです。裂かれるしか、ないのです。

 

――その時でした。何処へともなく飛び回る私の視界に、見慣れた姿が二つ、映ったのは。私は瞬間、背を向けました。しかし、あなたはこちらを見ていた。千里眼が私を捉えていた。予測した訳ではない。わかってしまったのです。何をするものか。あなたの瞳が問うている。

 

わたくしは、ゆっくりと振り向きました。

 

「好きでしたよ」

 

あなたはきっと、唇の動きですべてを悟ったでしょう。涙を拭い、一気に飛び去りました。わたくしめの恋心は、そこに置いていきました。これからの私は、心のない抜け殻として生きていく。あなたと付き合いましょう。はたてとも上手くやりましょう。あの頃を、取り戻しましょう。

 

わたくしはもう二度と、あなたを嗤う事はないでしょう。それでいい。それがいい。あなたが好きだった――いいえ。あなたが好きだから。恋心を失っても、残るものはある。わたくしは、あなたがたを見守りましょう。あなたがたが瀕する時、わたくしめは喜んでこの身を捧げましょう。

 

「さようなら」

 

別れの言葉は、私自身への手向けでした。

 



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余命幾許も無し

―余命幾許も無し―

 

 

 

生きるのは、きっと楽しいさ。

 

 

 

あたいはぶらぶらと人里を歩いていた。今は休暇だ。本当だよ。サボってなんかいない。上司の視線を感じながら、辺りを見回す。あたいは目を細めた。道行く人間の頭の上に、数字が浮かんでくる。それはあたいにしか見えていない。死神の目を持つものだけが、それを見る事ができる。

 

もしも、それが見えたとしたら――察しの良い奴は、気付いただろう。それが、余命のカウントだって事に。老若男女、その数字は様々だ。誰もが自分がどれだけ生きられるか、なんて考えてもいない。考えていたら、きっと生きていけない。……目の前の子供のカウントが、急に動いた。

 

私達、死神から見ても、余命なんて不確かなもんだ。伸び続ける奴もいれば、突然カウントがゼロになる奴もいる。誰かの善意が、悪意が、計画が、偶然が、命を揺り動かしている。完全に正確な余命は、誰にもわからない。もしもそれを出来る者がいたなら、それは未来を観る者だ。

 

――ふと、店屋に向いた視界の端に、何か異常なものが映った。すぐにそちらを向く。フード付き外套を着た小さい姿。耳がはみ出ている。あいつは――因幡てゐ。その頭上のカウントが、滅茶苦茶に回転している。茶屋で何も頼まずに座るその姿に、あたいは不穏なものを感じ取った。

 

「おい、そこの――」声をかけた。かけてしまった。ああ、また面倒に首を突っ込んじまった。折角の休暇が台無しだ。これなら家で昼寝してた方がマシだった、が――しかしてゐは、私の顔を見もせずに立ち上がると、外套を目深に被り直し、あっという間もなく街道を駆け出した。

 

生憎と、兎は素早い。あっというまに雑踏の奥へ消えていった。さて、何処に行ったのやら。そんなもの放っておけばいいのに、あたいは周囲の人間に小さな奴を見ていないか、聞いて回った。とりあえず外へ出て、飛んだのはわかった。最後に飛んだ方向を知れば、行き先の見当もつく。

 

――やっぱ、あたいはお節介だな。我ながら、頭が痒い話だ。でもまあ、あんなのを見せつけられたら誰だって心配もする。あれは――死のうとしている奴のカウントだ。それが実行されるか、それとも思い留まるか。未来はわからない。だが、今は止められる。あたいは急ぎ、飛んだ。

 

―――

 

  ―――

 

「あなた、死にたいの?」メディスンが私の顔を覗き込んだ。「そうさ」「そう」如何にも気のない返事だ。「何処か他所で死んでくれない?」「ここがいい」鈴蘭が咲き乱れる、最中。どこまでも、どこまでも続く風景。「変わってるのね」「まあね」仰向けになったまま、手を振った。

 

「どうして、死にたくなったの?」「死にたくなったというより――生きたくなくなったのさ。もう」「未練は?」「そりゃ、ある」私は首を振った。「兎達を置いて逝くのは、悲しい。永遠の友人が知れば、バカな事をするな、と叱られるだろう。でも、それでも」私は耳を立てた。

 

「もう、生きたくなくなった。あの子のいない世界に、何の意味もないから」「本当に?」「本当さ」メディスンは首を振った。「私には、嘘をついているように見えるわ」「嘘吐きは私の専売特許だからね」ししし、と私は笑った。「死にたいのは――鈴仙が、いなくなったから?」

 

「そうだよ」耳を引っ張り、目隠しをした。「ここ数百年は、とても幸せだった。鈴仙は私を愛してくれた。いずれ別れがくるとわかっていても、私はそれを選んだ」「愚かね」「愚かさ。愚かで何が悪い」つつ、と涙がこぼれた。「皆、私を置いて行ってしまう。わかっていたさ」

 

「清蘭もさ。鈴瑚もそうだ。人間達だってそう。古い知人は皆、死んでしまった。新顔連中と、新しい付き合いはできた。兎も皆、変わらずに私を慕ってくれる。でもね、私は変わってしまった。鈴仙は私の寂しさを埋めてくれた。鈴仙は私に、大きな穴を開けて逝ってしまった」

 

「恋をすれば?」「今はまだ、そんな気にはなれない」寝返りを打った。「死別なんて、幾度も経験した事だ。何度も恋をし、何度も別れた。もう二度と、恋なんてしないと思った。それでも私は、恋をしてしまった。鈴仙は死なない。永久に愛し合う――なんて、そう思ってた」

 

「あなた達には、寿命があるものね」メディスンはただ、頷いた。「最初に鈴仙を見つけたのは、私だった。最期に鈴仙を看取ったのも――私だった」涙がぽろぽろとこぼれて、止まらない。「今まで、幾多の命を看取ってきた」丸まって、泣いた。「いずれは、鈴仙の事も忘れてしまう」

 

「自分は薄情だと、そう言いたいの?」「その通りさ」「ふうん」メディスンが、私の隣に座った。「死んだ人は、あなたに忘れてほしいと思ってるんじゃない?」「そんなバカな事、あるか」「どんなものでも、死んだら終わり。いなくなった者の事を考えるのは、無駄だと思うけど」

 

「お前にはわかるまいよ」「ええ、わからない」メディスンが鈴蘭に手をかざすのを見た。「わかる人は、精々感傷に浸ればいい」メディスンが首を振る。「私にはわからないから、あなたが死のうとしている現実しか、見えてないわ」「お前も薄情だな」「だって、わからないんだもの」

 

メディスンは立ち上がった。「あなたと話していると、難しい気分になるわ」「お前と話してると、私が酷くちっぽけな気がしてくるよ」「私から見ると、ちっぽけな考えに見えるわ。でも、あなたにとってはそれが大事なんでしょう?」「そうさ」「それなら、大事に抱えていればいい」

 

私は、酷い咳をした。頭痛がする。吐き気が止まらない。「誰かに助けてもらうのを期待してる?」「どうだろう。そうかもしれない」メディスンが私を覗き込んだ。「きっとあなたを、誰かが探しに来るわ。迷惑な話」メディスンは私に背を向けたまま手を振り、静かに歩き去った。

 

―――

 

  ―――

 

「よう、死にたがり」私は、一面の鈴蘭畑にいた。追いかけて正解だった。自殺兎は鈴蘭の中に埋もれている。そのまま放っておいたら、毒で死ぬだろう。もうすぐ遺体を、畑から引きずり出した。軽く揺すってやると、てゐは目を覚ました。自分の状況が、掴めていないようだった。

 

「自殺なんて、死後の扱いが最悪だぞ」頭をぽんぽん、と叩く。「構わないわ」「まあ待て。早まる前に話を聞きな」私はその場に座った。てゐの手を引いて、無理矢理に座らせた。「昔、お前が死にかけてた時、鈴仙に言ったことがある。お前さん達は、互いに強く依存しているってな」

 

「鈴仙は頷いていたが、実際その通りだったんだね。お前さんにとって、あいつは特別だった。……いや。お前さんにとっての恋愛相手は、いつも特別だったんだろう。そうでなきゃ、連れ合いをなくす度に死のうとする、なんて事を繰り返す訳もない。あんたは危なっかしいんだよ」

 

てゐがこちらを向いた。「死神だからね。そういうのは顔を見ればわかる」「放っておいて」「放っておいたら、死んじゃうだろ?」私は懐から飴を取り出し、舐め始めた。「いるかい?」「いい」いつ勧めても、遠慮されるもんだな。あたいは肩をすくめた。まあ、いいさ。

 

「お前さんは幾度も死のうとした。でも、死ねなかった」生き汚いのさ。てゐは自嘲した。その顔は悲しみにくれていた。「いいや、それだけじゃない」あたいは首を振った。「お前さんに、生きて欲しい。愛する人がそう願ったから。違うかい?」「違うわ」「じゃあ、どうしてさ?」

 

「私は生き汚いの」てゐは頭を抱えてしまった。「一緒に死んでほしい――なんて願いすら、叶えてやれなかった。心変わりした恋人に刺された時も、私だけが生き残った。関係を清算した相手も、結局は看取る事になった。その度に私は死のうとした。けれど、一度も成功しなかった」

 

「それでも、恋に生きた」あたいは静かに告白を聞いていた。「置いて行かれた悲しみを、新たな縁で埋めようとする。私はずっと寂しかったんだ。穴を埋めてくれるなら、誰でも良かったのかもしれない」節操のない、色ボケ兎さ。てゐは再び、自嘲した。「長く生きれば、色々あるさ」

 

「そうね」「色々、なんてのじゃ測られたくない。そんな顔をしてるね」てゐの顔が悲しみに歪んだ。「当たり前じゃない」「あたいには、それを推し量る事しかできないが」鎌を取り出し、担いだ。「死にたいってんなら、死神に頼むって手もあるんじゃないか」場を凍らせる、一言。

 

「そうしてくれるなら、嬉しい」「本気でそう思ってる?」てゐは頷いた。頷いて、手で顔を覆った。「もう一度聞くよ。≪本当に≫そう思ってるんだね?」てゐは顔を隠したまま、頷いた。「何度聞かれても、答えは同じさ」「そうか」私は鎌を持ち上げ、てゐの首元に当てた。

 

「だが、もう少し見せたいものがある。顔を上げな」てゐは顔を上げた。首元の鎌を見て、少しだけ震えたように思う。「――見せたいものって?」「お前さんにとっても、重要な事さ」あたいは指を鳴らした。周囲に霊力が渦巻いた。「特別に、お前さんの余命を見せてやろう」

 

私はてゐに、まじないをかけてやった。死神の目、お試し版だ。今ならブルーベリーエキスとセットで\3,980のお値打ち価格。今はツケといてやる。「どうだ。それがお前さんの余命だ」てゐが天を仰いだ。カウントが静かに進んでいた。百を切った。「ゼロになれば、お前さんは死ぬ」

 

「汝、余命幾許も無し――とまあ、あたいの行動如何によっては、どうとでも変わり得る数値だ。あたいがお前さんを斬首すれば、カウントは即座にゼロになるだろう」てゐはカウントをじっと見ていた。残り五十を切った。刃を引いた瞬間、兎の命は砕け散る。「――覚悟はあるか?」

 

てゐは一歩、後ずさった。あたいは踏み込んだ。首を斬り損ねるなんて、死神の名折れだ。残りのカウントは十を切った。「辞世の句を読むなら今の内だ」――九――八――七――「そうか、何もないか」――六――五――四――「さようなら、てゐ」――三!――二!!――一!!!

 

「――嫌だッ!!」

 

てゐが転がり、刃から離れた。飛び下がり、私を睨み――頭上のカウントを、はっと見上げた。カウントは、一で止まっていた。もはやそれは、動かなかった。「お前はここでは死なない。決して死ねない。例えあたいが、その命を終わらせてやろうとしても」あたいは、鎌をしまった。

 

カウントが逆回転を始めた。それは凄まじい勢いでカウントを巻き戻し、やがて、読み切らない程の桁数に達した。故なくば、こいつはいつまでも生き続けるだろう。「死にたがりさんよ、これでわかっただろう。お前さんはこれからも、悲しみを背負って生きなくちゃならない」

 

てゐの顔が、絶望とも希望ともつかぬ感情に、歪んだ。てゐは、死ねなかった己を責めている。てゐは、命を拾った事に安堵している。てゐは――鈴仙の事を想い、涙している。ぼろぼろと落ちる涙が、その顔を濡らした。てゐはうずくまり、その場に転がった。頭を抱え、泣き続けた。

 

あんたは死なないよ、幸せ兎。いいや、死ねないんだ。お前が背負っているものが、お前を置いて逝ってしまったものの意思が、お前の生き汚さが、お前を殺さない。殺させようとしない。お前は多くのものを抱えて生きる、使命がある。実際――これまでも、そうしてきただろう?

 

「死人を弔う心は大事だ。でもね、いつまでも死人を想っちゃいけない。後を追うなんてのは最悪だ」てゐの傍に座り、頭を撫でてやる。「お前さんはわかっていただろうに。悲しみも、いずれは忘れる。そういう風にできているのさ。忘れるから――前を向いて、生きていけるんだろ」

 

てゐは起き上がり、座った。最後の涙が落ちた。「ほら、ね。悲しみは永久には続かない」「――わかってたさ。でも――私は、忘れるのが怖かった。どれだけ愛し合った人も、看取った人も、すべて忘れてしまったら、私には何が残るの?」「今が残る。そして、お前さんが残る」

 

「恋だけが悲しみを埋めてくれるのなら――また、恋をしな。お前さんを好いてくれる人は、何処かにいるだろう。今までも捕まえたんだ。これからも捕まえられないなんて、ありゃしないさ」てゐは多分、呆然としていた。てゐはあたいを見た。てゐは――あたいから、目を逸らした。

 

「――例えば、あなたとか」「ん?」てゐは視線を泳がせながら、こっちを見た。「恋をしな、なんて――多分、初めて聞いたかも」「そうかい」あたいは飴を取り出した。「いるかい?」「頂戴」てゐはあたいに顔を近付けた。包み紙から出して、開いた口に放り込んでやった。

 

「あなたはどうなの?」「何がだい?」「恋をする、なんて」あたいは頬を掻いた。「そういえば、浮いた話はまったくないな」職場が職場だからね。あたいはてゐに応えた。「そうか、ないのか」てゐが脚をぶらぶらさせる。「そういうのに興味はあるかい?」「さあ、どうだろうな」

 

「もし、興味があるならさ――」「さっきから歯切れが悪いね」てゐが勢いよく頭を振った。「私はね、惚れっぽいのさ」てゐの言葉で、あたいはようやく何を言われているのか、わかってきた。あたい、口説かれてるんだ。……参ったね。こんなのは初めてだよ。どう答えればいいんだ?

 

「答えに困ったなら、私の言葉を聞いておくれ」てゐがこちらに近付いて、座り直した。「私は因幡てゐ。兎達の頭目。竹林の領主。愛され体質にして、幸運を運ぶ者」てゐは肩書をつらつらと並べた。「そして――恋する、一匹の兎」てゐはもじもじしていた。意外だと思った。

 

「お前さんはもっと、図太いと思っていたが」「図太いさ。ただちょっと、夢見がちなだけ」首を振るてゐの顔が、少しずつ赤くなってきた。「あの子が――居なくなって以来、こんなに私の事を思ってくれる人なんて、いなかったの」「まあ、あたいはお節介だけどさ。そんなにかい?」

 

「二度も、命を助けてくれた」「一度はお前さんの選択だろ。全部、成り行きさ」「成り行きでも構わない」てゐは耳を掻いた。それを丁寧にグルーミングし始めた。「それであたいに、鈴仙の代わりになって欲しいって?」「違う。そんなんじゃ――」「はは。意地悪だね、これは」

 

誰かの代わりになんて、誰にもなれない。それは同じようで、似ても似つかない。お前さんが鈴仙に求めていた事と、あたいに求めようとしている事は、まるで違う。「――ま、そうだね。もう少し考えてみよう。お前さん、もっと口説けるかい?」「もち」てゐが勢いよく頷いた。

 

「このてゐ様は――あれ。そういえば、名前を聞いてないわ」「ずっと前に言った気もするが、あたいも忘れてるな――小町だよ。小野塚小町。小町でいい」「オーケー。小町、あなたはてゐ様にかかれば、幸運に満ちた生活が送れるわ。仕事運も金銭運も、恋愛運だってうなぎのぼり」

 

「恋愛運は上げちゃダメじゃないか?」「恋が上手くいくって意味だから、いいのさ」ししし、とてゐは笑った。「兎が好きならいくらでもハーレムが作れるし、何なら永遠亭に住まわせてあげても――」「死なない奴が二人もいる所は、ちょっと遠慮しとくかな……」「あら、そう?」

 

「――ともかく。私とくっつくと、これだけの特典がある」「特典、ねぇ」あたいは顎に手を当てた。「大事な事が抜けてるんじゃないかい?」「大事な事?」てゐは首を傾けた。「あたいを愛してくれるか、って事さ」てゐはハッとしたようだ。「そ、そりゃ、愛して見せるともさ!」

 

「本当に?」「ホント、ホント」「お前さんは、嘘吐きだしなぁ……?」「嘘じゃないよ!」「嘘じゃないんだね?」「ああ、絶対に!」あたいはニヤニヤと笑った。「いや、すまないね。ちょいと、試してみたかっただけさ」あたいは、てゐの背に腕を回す。てゐの手も、そうした。

 

「まずはお友達から。それでいいかい?」「いいともさ」「決まりだ」腕を引き、てゐを抱き寄せた。「こういう時は、愛の言葉の一つや二つは囁くもんじゃないのかい?」てゐがししし、と笑った。「あなたが好きさ。あなたの心にもっと触れたいよ。お願い、もっと暖かさを頂戴――」

 

「んん?――聞こえないねぇ?」あたいはてゐをぐい、と抱き寄せ、頭を撫でてやった。「あたいもまあ、好きだよ。いつまで好きかはわからないけどね。お前は頑張って、あたいを繋ぎとめておくれ」「私はぐいぐい行くよ?」「そりゃあ、楽しみだ」耳を掻いてやる。ふかふかだ。

 

しばらく、そうしていた。あたい達は立ち上がり、そっとハグをした。身長差があるから、子供とやってるみたいだけどね。まあいいさ。てゐが肩を指差した。あたいがハテナを浮かべていると、てゐはぴょんと飛び上がり、あたいの肩に乗っかった。やれやれ、やる事もまるで子供だね。

 

「いつもこうしてたのかい?」「いつもこうしてたよ」てゐがあたいの頭を撫でた。「こうでもしないと、届かないからね」「あんまり撫でないでおくれ。恥ずかしい」「おや、失礼」よろけそうになる身体を、片手で支えてやった。てゐはししし、と笑った。あたいも、つられた。

 

―――

 

  ―――

 

そして――名残惜し気に、てゐは去っていった。そもそもが買い出しの途中だったらしい。叱られてくるといいさ。あたいは夕日を眺めながら、先の兎の愛の言葉を反芻していた。あなたが好きだ。中々出てくる言葉じゃない。もし、好きだと応えたら――それはもう、恋の始まりだろ?

 

あたいだって永遠の存在じゃない。もしも、川を渡る者が一人もいなくなれば。もしも、お役御免を命じられたら。もしも、あたいが他の人を好きになったら。その時は、お前の前からあたいは姿を消すだろう。ただ、人より少しばかり長生きなだけだ。終わりは必ずやってくる。

 

でも。それでも。ここらで一つ、恋をしてみるのも悪くはない。人生経験。日々の張り合い。或いは、相思相愛への道すがら。お前があたいをどう愛してくれるのは、まだわからない。気に入らなければ、容赦なくフッてやる。でもまあ、そうはならないだろう。お前さん、経験豊富だろ?

 

「余命幾許も無し――か」

 

兎の恋路は、いつまでも、いつまでも続きそうだ。

 



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≪嘘≫を守り通そう

―≪嘘≫を守り通そう―

 

 

 

幾百幾十年。新たな恋は、燃え上がるように。

 

 

 

一面の草原。暖かな太陽。吹き抜ける風は、すがすがしく。

 

私の頭を優しく梳くのは、死神。嫌われ者。死を運ぶ者。……ま、小町はそういうのとは少し違うけどね。「柔軟剤使ってるだろ?」「てゐ様はナチュラルさ」私は小町の膝に座っていた。そのくらい身長差がある。平均よりずっと高い。私なんて、ひょいと掴んで持っていけるくらいに。

 

「気持ちいいよ」「そうかい?」勝手がわからないね、と小町は首を傾げた。「この耳は、どんな音を聞いてきたんだろうな」小町の手が耳を撫で始めた。ふかふかで、自慢の耳だ。「色々な音を聞いたさ。気楽な音に、苦難の音。歓喜の音、そして――悲愴な音も」「思い出せるかい?」

 

「いくらかは、ね」私はししし、と笑った。「――昔の彼氏の話になるけど、いいかい?」「ああ、別に怒らないよ」「オーケー」この耳が聞いた音を思い出す。「辛い別れの前には――当然、幸せな時間があった。大抵はね」足を揺らしながら、思い出す。遠い記憶を、掘り起こす。

 

「そういう時には、皆――私に囁くんだ。あなたが好きだ。あなたが欲しいってね。何度聞いても、それは私を喜ばせた。愛されている実感が湧いたのさ」「あたいにもそうして欲しい?」「今はまだ、いいかな」私は首を振った。「もっと、最高のタイミングで聞きたい」「なるほど?」

 

小町はははは、と笑った。私もつられた。「けれど、喜びばかりじゃなかったよ。誰かの憎悪だって沢山聞いた。仲違いした思い人が、それを口にした。愛する人に後ろ指差すものが、陰口を叩いた。思い人の親類縁者が、私を貶した」小町に寄り掛かる。「私にはどうしようもなかった」

 

「何だって、思い通りに行くとは限らないさ」「わかってる」私がもじもじすると、小町は腕を伸ばし、私を抱いた。「最初はね、何だって思い通りに行くんじゃないかって、想像してしまうのさ。何の根拠もなく、ね。そしてそれは、いつも破れた。身勝手な傷だ。そう思うだろ?」

 

「そう思うよ」小町は私を抱き込んだ。「なら、今はどうだい?」そんなの、決まっているじゃないか。「何だって、思い通りに行くと思ってるさ」「いいね。なら、私もそう思っていいんだね?」「勿論さ」小町の胸が、私の背中を温かく迎えている。「――お前さんは、暖かいな」

 

「お互いね」小町は腕を放し、膝に乗る私の髪を、耳を、再び梳き始めた。「楽しい音は――まあ、色々ある。主に兎の事さ」私は地面を指差し、すとん、と指を落として見せた。「落とし穴を掘るんだ。そうすると、獲物がかかる。良いもの、楽し気なもの――たまには、危ないものも」

 

「一番良い獲物は?」「――鈴仙かな。ちょろい獲物だったよ」私は多分、にやけていた。「わかっていても、引っかかるんだ。もしかすると、私につき合ってやってたのかもしれないね」「あたいは引っかけるかい?」「どうかな。気が向いたら、また穴掘りを再開してもいいな」

 

「はは、お手柔らかにね」「勿論、最高の落とし穴に落としてやるとも」ししし、と笑った。思えば――あれからはずっと、心から笑う事なんてなかった気もする。耳を澄ますと、妖怪兎達の喜びの声、兎が飛び回る情景が見えるようだった。それはきっと、とても幸せな時間だった。

 

知り合いの兎を亡くしてからは、妖怪兎達も元気がなくなってしまった。本当は私が鼓舞しなければならなかったのに、私は兎達よりも深く、悲しみと絶望にくれていた。竹林を立ち去る兎も出てきていた。私にはもう、それを繋ぎとめるだけの人望もなくなってしまったのだと思う。

 

「何か、悪い事を思い出したかい?」小町の声で、我に返った。そうだ、今は違う。悲しみは私の中にある。絶望は常に私を狙い定めている。けれど、私には私自身が、そして今があるじゃないか。「ちょいとね。もう、何ともない」「そうかい」小町は梳くのを止め、私の頬を伸ばした。

 

「何すんの」「もちもちしたくなった」理由になってない。「赤ちゃんのお肌って奴だ。張りがあって、柔らかい」私の許可も取らずに、指がぶにぶにしている。「お前さんがどれだけ生きているか、まったくもって見当もつかないが――このまま一生、子供のままでいるのかい?」

 

「その方が気楽なのさ」「わからなくはないな」小町が噴き出した。「誰もがそんな風に生きられる訳じゃないが」「やろうと思えば、できるものさ。それが許されないのは、しがらみがあるから。けれど、私も、小町も――多分、孤独のままでは生きられない」「代償としては、高いね」

 

「独りでも構わないって人はいるけどさ」私は指をどかしながら、話す。「私は賑やかな方が好きさ。何しろ私は、兎達の頭目だもの」「この間、見たけど――まあ、凄かったね。あれだけの数をよく食わせていけるもんだ」「そこはまあ、ちょっとした裏技があるのさ」「はて?」

 

小町が再び、頭を梳き始める。「人からは毛嫌いされるタチだからね。独りだ、とまではいかないけど、まともなお付き合いは考えていなかった。いわんや、浮いた話をや。そんな私を受け止めたのは――多分、お前が最初だよ。或いは最後かもしれない」「ああ、最後にしてみせるさ」

 

「ねえ、小町」「何だい?」「聞き忘れてたけど、小町は今まで、幸せになれたかい?――私の幸運、ちゃんと効いてる?」小町は少し、考えていた。「理由はわからないけど、給料は上がったね。休暇も増えた。まさかホワイト企業になろう、なんて風の吹き回しでもないだろうが」

 

「後は――居眠りが見つかる回数が、心なしか減ったような」「それは多分、私のせいじゃないと思うわ」ししし、と私は笑った。小町もつられた。「まあ、即物的にはそのくらいさ」「――恋愛運は、どう?」「そうさね――今の所は、上手くいっていると思うよ」小町が私を抱き込んだ。

 

「あなたは、私が好き?」「藪から棒だね」「恋とはいつも、藪から飛び出してくるもんさ」私の持論だ。小町は笑っていた。「ああ、好きさ。でも、これだけじゃ味気ないな」「そうね」「そうさね」小町は腕を離した。私は立ち上がり、小町を見た。およそ、丁度良い高さだった。

 

「おいで」私はそのまま、小町に抱き着いた。「来たわ」二人の頭が、肩で交差する。「逃がさないよ、悪戯兎」背中に腕が回る。互いに顔を近づける。鼓動すら、私の耳は捉えている。私達は限界まで近づき――耳のようにふわりとして、底に熱さを秘めるような――キスをした。

 

「八回目」口を押えながら、小町は呟いた。「んん?」「八回めさ。キスがね」小町は少しだけ、頬を染めていた気がする。私の方はもう――大変な事になっていたんじゃないか。「そんなに少なかった?」「その内、数え切れなくしておくれよ。悪戯兎さん」「勿論、そうしてやるさ」

 

私は膝に乗り、互いに身体を引き合った。しばらくずっと、そうしていた。草原に風が抜ける。穏やかな気候だ。私達の前途も、そうなればいい。期待でもない。願いでもない。そうするのは、私達だ。「ずっと、一緒にいよう」私はまた、嘘を吐いた。「ああ」嘘を吐かせてしまった。

 

「嘘でもいいのさ」考えを悟られたように、小町が囁いた。「嘘が≪嘘≫になるまでは、本当だろ。なら、≪嘘≫を守り通そう」「――そうしよう。いや、そうする。そうしてみせる」「いいね」小町は私を膝から降ろし、隣に座らせた。「今更だけどさ、これってデートなのかな?」

 

「私はそのつもりだったよ」「あたいも――まあ、少し違和感はなくもないが」小町が頬を掻いた。「もう少し刺激のある場所がいい?」「たまにはね」「よし、てゐ様に任せなさい」私は財布を取り出し――ああ、ダメだこりゃ。この間、妖怪兎にウノを何組か買ってやったんだった。

 

「今月は潤ってるから、あたいが出すよ」「えっ?」私は何とか手立てを考えていた。このてゐ様がお金を出させたなんて、そんなのはプライドが許さないぞ。「――お金貸して?」「いいけど?」何だか本末転倒な気もするけど、まあ、これでいいか。「じゃ、里に繰り出すとしますか」

 

「――そろそろ変装着もヘタッて来たから、買い替えたいね」「あ、私もそうしよう」「お前さん、チョイスが地味すぎるよ。あたいが選んでやる」「白黒は私のチャームポイントなのさ」「まあ、たまにはいいじゃないか――」私達はゆっくりと歩き始めた。春。風が、私達を撫でた。

 

 

 

私は今、幸せだよ。

 

最期にあなたが言ったように、必ず幸せになるよ。鈴仙。

 



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最高の幸せを与えよう

―最高の幸せを与えよう―

 

「なあ、霊夢」

 

「なによ」「その反応も聞き納めかもな」私は首を振った。霊夢はまるで気に留めず、茶をすすっている。「なあ、霊夢」私は語り掛ける。語り続けたかったんだ。「もし、もしも、私がいなくなったら――お前は、悲しんでくれるかな」霊夢は目を閉じた。少し、考えているようだった。

 

「どうかしら」霊夢が口を利いた。予想していた答えではあった。「いなくならないでしょ、あんたは」「まあ、ものの例えだぜ」霊夢は首をかしげてみせた。「まるで今からいなくなるみたいな口振りね」いなくなる。そうだ。私、霧雨魔理沙は、この世からいなくなるかもしれない。

 

「かくれんぼは上手だからな」縁側に倒れ込み、空を見る。嫌になるほどの快晴だ。「私とやるか?――かくれんぼ」「やらない」――どうしてそんな事を問いかけてしまったのか。霊夢のそっけなさが、今はありがたい。「いや、そうだよな。わかってる」ああ。嫌になるほどの快晴だ。

 

私の心に霧雨が降っている。これが晴れるか、それとも暴風雨になるか、或いは凪いでしまうか。私はその答えが欲しかった。……だから霊夢を当たったのか? 私は一体、何をしに神社くんだりまで飛んできた? 私は――ごく自然に、ここにやってきた。そこに、何の思索もなかった。

 

「これはお前にしか話さない」

 

霊夢がこちらを向いた。けだるげな雰囲気はもう、ない。こいつの勘が、私の不穏さを感じ取ったんだろう。「何て言うか、火遊びをしようと思ってる」お前の視線が私を見ている。「何、魔法使いなんて常に危険な稼業だ。お前だって知ってるだろ?」霊夢は視線を逸らし、頷いた。

 

「ちょいとばかし、危険な実験なんだ」私は起き上がり、霊夢を見た。「これが成功すれば、私は魔法使いとして飛躍する。賭けてもいい。胴元は私だけどな」「ふうん」「お前もいっちょ噛むか?」私の笑みは――或いは、から滑りしていたかもしれないな。「いらないわ、そんなの」

 

「失敗すれば――多分、死ぬ」死ぬ、の部分は小声だった。聞かれたくなかったからだ。「死ぬ?」「ああ」霊夢がこちらを向き――その顔は、少しばかりキツかったように見える。いや、実際キツかった。この顔は、怒り――いや、怒っているように装っている時の顔だ。私にはわかる。

 

「止めたら?」

 

私は首を振った。「止めなさいよ」首を振り続ける。「止めなさい」私はスックと立ち上がり、背を向けて歩き始めた。「止めて」箒に跨り、手を振った。「――止めて」霊夢が――私の手を掴んだ。暖かい手だった。「もし、もしも、あんたがいなくなったら――私は、悲しいわ」

 

「そうか」私は振り向き、手を掴み返した。「別に、試そうって訳じゃないんだ。魔法への渇望だって収まったわけじゃない」私の頭の中で止めて、という言葉が反響している。「それでも、止めて欲しかったのかもな」私は笑った。悲しいのに、笑えるのは――大人の仕業だろうか。

 

「――止めてくれるんでしょう?」霊夢はこちらを真剣な顔で見ていた。「いいや」私もそうだ。真剣な顔をしていたと思う。「私は止めない」「どうして」「止めたくないからさ」はは、答えになっていないな。だがな、霊夢――これはお前の為でもある。いや、お前だけの為だ。

 

「独りよがりだわ」「魔理沙さんはいつでも勝手なのさ」帽子を目深に被り直す。お前の視線を浴びるのが、少しばかり怖くなったんだ。「止められないんじゃ、私から言う事は何もなくなっちゃうじゃない」「それでいい。ただ、黙って命を賭けるなんてのは、お前に失礼だと思った」

 

箒を立てた。「きっと成功するさ。今はそう、辛かったりするかもしれないが――いずれ、お前を最高に幸せにしてやれる」私は霊夢を無理矢理に座らせた。「お前に何を贈ればいいか、ずっと考えていたんだ。ずっと考えて、思いついた」最後に、霊夢の顔を覗き込む。困惑の双眸。

 

「じゃあな」私は一気に空へと飛び上がった。霊夢が伸ばした手は、振り払った。それは今の私には必要のないものだから。すべての用意は済んでいる。予定は随分前倒しになったが、今の私なら五分五分――いや、百パーセントだ。成功させるさ。だってこれは、お前の為なんだもんな。

 

―――

 

  ―――

 

「なあ、霊夢」

 

霧雨と共に現れた少女が、私の傍に座っている。昔とまるで同じ姿。白黒の衣装を身にまとい、箒で飛ぶ姿は、疑いようもない。霧雨魔理沙。「なによ」「ああ、その反応だ」魔理沙は心底嬉しそうに笑っていた。子供らしい笑顔だ。「今日はお前に、プレゼントを持ってきたんだぜ」

 

そう言うと、魔理沙は鞄から水薬を取り出した。「渾身の出来だ。テストはしてないが、まあ大丈夫だろ」瓶の中で星がきらめいた。「こいつを飲めば――時が止まる。あの頃の姿を取り戻せる。今のお前には絶対に必要なものだ」魔理沙の手が、私の手を取った。私は口を挟めなかった。

 

「副作用が気になるか? 何、ただちょっと――人間を辞めちまうだけだ」水薬が静かに揺らぐ。「妖怪神社が完全体になっちまうかもな」私よりも低くなった――いや、私の方が高くなったのだ。少女の顔を見下ろす。魔理沙は胸を張った。「これが、お前にやれる最高のものだ」

 

≪魔法使い≫になった少女の顔は、自信に満ちていた。まるで私がそう頼んだかのように、私自身の望みを決めてかかって憚らない。二人、縁側に座っているのに、その間にはまるで大きな亀裂が入ってしまったように感じる。いつからかもう、魔理沙の考えはわからなくなっていた。

 

「いらないわ」

 

私は首を振った。「飲んでくれよ」首を振り続ける。「飲んでくれ」私はスックと立ち上がり、背を向けて歩き始めた。「飲めよ」御幣を取り、手を振った。「――飲んでくれ」魔理沙が――私の手を掴んだ。小さな手だった。「もし、もしも、お前がいなくなったら――私は、悲しい」

 

「そうね」私は振り向き、手を掴み返した。「別に、試そうとした訳じゃないわ」魔理沙の頭をわしわし、と撫でた。「でもね、私は一生人間として生きて、そして死ぬつもりよ」魔理沙は目を見開いた。手が握り込まれた。「なんでだよ?」「あんたほど、執着がないからかしらね」

 

私は笑った。悲しいのに、笑えるのは――大人の特権だ。夏の太陽。それから生み出される影は、私の方がずっと長い。「それじゃ、お前はいつか――私を置いて逝ってしまうのかよ?」魔理沙の双眸に困惑が浮かんだ。「あんたはそれが怖かったのね」私は一つだけ、魔理沙を理解した。

 

「あんたは――私に、悠久を生きて欲しかった訳じゃない。≪あんた自身≫が私、博麗霊夢を失いたくないから、そうしようとしたんでしょう」魔理沙の顔色が変わった。一歩、二歩下がり、縁側にへたり込んだ。「如何にも子供の理屈だわ」後ろを向いた。彼女を見ていられなくなった。

 

彼女は魔法使いだ。寿命など、どうとでもなる。私を失った悲しみは、あんたが生き続ける限り、続くだろうか。それとも、あんたの心は――それに、耐えられないかしら。私にはわからない。わからないけど、あの時――最高の幸せを与えようとしたあんたは、きっと本心だっただろう。

 

願いと利己、どちらが先なんて関係ないのかもしれない。魔理沙が用意した船に、私は乗らなかった。それはあんたが利己的だったから? でも、始めは祈りだったはずだ。それがいつしか、己を縛る呪いに変わった。きっと、あんたは――あの頃を、いつまでも続けていたかった。

 

でもね、終わりのないものなんてないの。いつまでも生きていたい。確かにそれは魅力的かもしれない。でもそれは、人間を辞めてまで欲しがるものじゃない。私は今までの経験で、そう結論付けたわ。あんたが人間を辞めてから、その思いはずっと、ずっと強くなったかもしれない。

 

さっきまで降っていた雨は、しとしとと境内を濡らしていた。水たまりに映った私の姿。大人になったその姿。置いて行くのはあんたも同じ。もう、あんたと同列にはいられない。それはあんたの望みではなかった。私もそれを望まなかった。行き違いと称するには、あまりにも悲しい。

 

「なあ、霊夢」

 

魔理沙の声を、聞きたくなかった。それでも隣に座った。亀裂が少しでも埋まればいい。あんたとは新しい付き合いができればいい。あの頃は、あの頃なんだから。「なによ」「――いつかはその答えも、聞けなくなるんだろ?」「そうね」「そうねって、お前――そりゃないぜ」

 

「そう、ないのよ。私があんたにかけてあげられる慰めは、もうこれだけ」魔理沙は怯えていた。どんな言葉でも、それは収まらなかったに違いない。だから、私は突き放した。「あんたは二度と私と並ぶ事はできないの」涙が一粒、帽子の下から零れた。魔法使いも、悲しければ、泣く。

 

「けど、そうね――私は死ぬまで、あんたの≪お姉さん≫ではいられるわ」魔理沙がびくりとした。帽子を傾け、顔を上げた。「それって、どういう――」「別に、お母さんでも構わないけど」私はくすくすと笑った。魔理沙はようやく事態を飲み込めたのか、穴が開くほど、私を見た。

 

「それは、つまり――今まで通りに付き合ってくれるって事か?」「違うわ。今から始めるのよ。人間を辞めたあんたとの、新しい関係をね」御幣で帽子をつつきながら、私は答える。「新しい、新しい関係――」そうよ、魔理沙。「それで少なくとも、死ぬまではきっと最高に幸せよ」

 

「本当か!?」顔を上げた拍子に、帽子が落ちた。「まあ、あんたが絶交したいのなら、話は別だけど」「しないしない!」ああ、また試しちゃったかな。あんたがそうしよう、なんて言うはずがないのはわかってた。見失ったあんたの事が、また少しずつ分かり始めた気がする。

 

「さあ、気を取り直しなさい」私は金色の髪に、トレードマークを被せてやった。「久し振りに遊びに行きましょう。ついてきなさい」「ちょ、待てよ!」飛翔した私の後ろから、箒が追い抜き、そして隣に並んだ。空の上には、あの時の思い出が一杯ある。それはいつまでも変わらない。

 

「ところであんた、親父さんの所には謝りに行ったの?」「あ?――いやあ、気が向かなくてさ」「人間はいつまでも生きてないのよ」首を振る魔理沙を見て、私は笑った。魔理沙もつられて笑った。これからのあんたは、色々なものを、本当に色々なものを見ながら生きていくのね。

 

「さて、何処に行く?」「久し振りにやらない?」「おう、やろうぜ。弾幕ごっこ」しかし、歳を取ると当たり判定が大きくなった気がする。別に太った訳じゃない。じゃないはず。ちょっとそうかもしれない。私達は周囲に被害の出ない――まあ、多少は出る感じの場所へと飛んだ。

 

「研究は怠ってないからな。負けないぜ!」「こちらこそ、勘は鈍ってないわよ!」

 



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抗えぬ風に遊ばれ

―抗えぬ風に遊ばれ―

 

「――今日で、終わりにしないか」

 

背中越しの言葉は、果たしてお前に届いただろうか。ベッドの中で身をよじった私の目線の先に、お前の耳がある。弱い耳だ。少ししゃぶってやれば、すぐにでも腰砕けになるだろう。しかしそれは、今の私にとって興味のある行動ではない。私はお前に、別れを切り出したのだから。

 

言葉は返ってこなかった。想像はしていた。きっと本気には取られないだろうと。客観的に見ればお前と私との関係は上手くいっていただろうし、私自身、それに甘んじる気は、あった。ひょっとするとこれは、我儘なのだ。それでも――お前の心から、私は立ち去ろうとしている。

 

「終わらせる必要がありますか、椛?」沈黙を破り、お前の声が聞こえる。「あなたも嫌いではないでしょうに」ああ。如何にも気楽な関係だ。風の吹くまま、蝶のように遊び、獣のように愛し合う。喧嘩すらも予定調和。確かに私はお前を好いていたし、お前も恐らくそうだっただろう。

 

椅子が鳴った。文は私に背を向けたまま、窓際へと立った。机から紙巻き煙草を取り、火を点ける。月のない夜。私の部屋。暗闇の中、ライターの光が輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせた。「どうしてそう思ったのか、教えてくれますか?」先端で揺らぐ炎。流れる煙の刺激が鼻をついた。

 

始まりは些細な挑発だったに違いない。私自身、文の言葉を半分も信じてはいなかった。しかし――付き合おうなんて言葉は、そうそう簡単に出るものでもないに違いない。悪戯に差し出された、お前の手を取った。言葉を交わし合うよりも深く、理解を求めて何度も、何度も交わった。

 

やがて私は、お前の本質が想像していたよりもずっと、虚勢に支えられた脆いものなのだと知った。お前も私の何か、或いは私自身及びもつかない秘密をきっと、知っただろう。それは理解して貰えたという喜びだっただろうか。もしくは、されてしまった戸惑いか。それとも――?

 

「――何て言ったらいいか」「落ち着いて、言葉を選びなさい」煙を吐く文の指先が燃えている。「私とて、思う所がない訳ではないのですよ」それはそうだろう。別れたいなんて、文からすれば藪から棒に違いない。どれだけ喧嘩をしても、文はそんな素振りを一度も見せた事がない。

 

「――これ以上、お前を見てはいけない気がする」私はゆっくりと首を振った。文には当然、見えていない。「これ以上――きっとこれ以上、私はお前に心を開いてはいけない。怖いんだ。私自身すら知らない内面へ、踏み込まれた先にいるのが――私ではなくなってしまう気がして」

 

「最初は――最初だけは、遊びのつもりだった。でも、違う。すぐにお前にのめり込んでいた。お前がどんな気分で私をからかっていたのか、段々と分かり始めてから――私も、お前と同じように、寂しさを持て余していたのが分かってしまった。このまま溺れればいい。そうも思った」

 

「――しかし、そうじゃない。私はきっと、お前の事を愛してなんていない。気の迷いだなんて言う気はない。ただ――これは、愛とは違うと思う。それだけははっきりとさせなければならない気がした。私の為に。そして、お前の為に」途中から、ほんの少しだけ、声がかすれた。

 

「だから、関係を清算したい。そういう事ですね」文は振り向かなかった。窓際に置かれた灰皿――お前の為の灰皿に吸い殻を捨て、ただ頭を振った。「私としては、今のままの関係をいつまでも続けていても、構いませんが――あなたがそう決めるというのなら、仕方がありません」

 

「――生憎と、わたくしも同意見です。わたくし達の間に≪真実≫の愛とやらはないでしょう。端的に言って、獣以下と言うものです。しかし、それの何が悪いのでしょう?」文の問いかけに、私は答えられない。「今が幸せなら、それでいいのではありませんか。例え偽りであろうとも」

 

「それは――」「それは出来ない。頑固なあなたの言いそうな事です」文がくすくす、と笑った。「≪真実≫でなければならない、なんてのはあなたの拘りというものですよ。すべてが収まるべき所に収まる、なんてのは滅多にある事ではない」「……新聞記者の発言とは思えないな」

 

「それはそれ、これはこれ」文の視線の先にはただ、暗闇だけがある。「あるべき所に収まれず、置いて行かれたものはどうなります?――消えてなくなる訳ではないでしょう?」「……」「――いいえ。それ以前に、あるべき所なんてものが本当に存在するかも、定かではない」

 

「私はあなたを欲しました。それはある意味、収まるべき場所を探したかった――或いは、作りたかったのかもしれませんね。私の首に紐を繋いでくれる誰か――と言えば、如何にも怪しげですが、いつかこの身が抗えぬ風に遊ばれた時、誰かにその紐を手繰って欲しかったのです」

 

「それが、私?」「ええ、あなたが最高だと思いました。勿論、今もそう思っています」ゆっくりと文が振り向いた。漂う煙の向こうで、その顔は――とても悲しそうに見えた。私がそうした。私がそうさせた。覚悟はしていたつもりだったが、他人を悲しませるのは――やはり、辛い。

 

「置いて行く方も辛いでしょう。けれど、置いて行かれる方も、それなりに辛いのだとは――理解してください、椛」文は再び煙草を取り出し、口に咥え――火を点けず、そのまましまった。代わりにといった具合で、銀色のオイルライターを手慰みにいじり始めた。カチカチと音が鳴る。

 

「もう一度だけ、考えてみませんか」文が私の顔を覗き込んだ。こいつは嘘吐きだ。だが、いつもいつでも嘘しか吐かない訳ではない。嘘を吐き、真実も嘯く。今はどちらか。考えるまでもなかった。文の目は真剣だ。私の千里眼は、それを見逃すほどにぼけてしまってはいない。

 

「ああ――と言ったら、この場は収まってしまうんだよな」首を振った私の頬に、文の手が当たる。「収めたくないのでしょう」「そうでなければ――こんな話、切り出さない」文は笑った。不思議と腹は立たなかった。こいつも多分、私と同じように――言葉を選んでいる。臆病な程に。

 

「――分かった」しかし私は、一旦この場を収める事を選んだ。収まるべき場所を作りたかった。文はそれを私に求めた。私にとってはそれが、私自身も知らない場所へ踏み込まれるようで、恐ろしかった。意思はすれ違ったままだ。――今この場で別れるのは、きっと早計が過ぎる。

 

「結構」何処かいやらしい手が、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「――それでも、と切り出されたら、どうしようかと思っていた所です。私はあなたを失いたくない。少なくとも、それだけは真実ですよ」文がしゃがみ込む。目線が合った。揺らぐその顔。言葉はきっと、要らなかった。

 

どのくらい、そうしていただろうか。やがて文は立ち上がり、素早く身なりを整えた。「また明日、会いましょう」カメラの収まった鞄を叩きながら、文は微笑みかけてきた。私もそうした。きっとそれは、引きつっていたとは思う。小さく振られる手。下駄を履く軽い音。戸の滑る音。

 

――ガタのきた扉は、しかし静かに閉じた。その背を見送り、私は息を吐いた。安堵ではなかった。悲しみでもなかったように思う。ただ、終わりはやってこなかったという実感だけがあった。廊下を歩み去る音もやがては遠く、静けさの中に溶けていく。もう、私の耳には届かない。

 

「――終わらなかった、な」私は終わらせようとした。己に固執した挙句、大切なものを投げ捨ててしまった。文がそれを拾ってくれなければ、私は二度と顔を合わせる事も出来なかったに違いない。分かっていながら、そうしたのか。それとも――そんな理屈、分かりたくなかったのか。

 

無益な考えの末、私はベッドから立ち上がった。私だけの部屋の中に残されたのは――灰皿が一つ。殆ど火をつけただけの吸い殻がいくつか。そして――忘れ物のライター。火を点ける仕草はいつも近くで見ていた。暗に煙たがってはいい加減に謝られるのが、決まり事になっていた。

 

私は一本を手に取り、ライターで火をつけた。部屋の中に、文の匂いが戻ってきた。窓際に寄り掛かり、文の見ていた景色を見る。それはやはり、暗闇のものだ。夜目の利かない身なれば、余計にそうだろう。私の言葉を静かに聞いている間、文は何を思って外を見ていたのだろうか?

 

今日、私達の関係は切れなかった。明日はどうだろう。明後日は。どちらにしても、いずれは切れてしまうものだろう。それを殊更大切に思う事は、果たして許されるのか。分からない。分からないが、文はそれを望んでいた。それなら私は、文の為にそれを望んでも良いのだろうか。

 

――文の為に、か。如何にも傲慢な口振りだ。苦笑と共に、灰が皿へ落ちた。私は、烏のように傲慢である事を肯定しようとは思わない。ただ、私自身が正しいと思う道を行きたいと思っている。それが外から見れば頑迷で傲慢な姿に映るというのも、私とて幾ばくかの想像はできる。

 

けれど、それを改めようとは思わない。ああ。それこそが私の傲慢だ。善なる生き方。正しい生き方。正しさを努めた先にこそ善さがある。そう信じているし、今もそうだ。しかし――正しさが人を傷つけた現場も、私は何度も見てきたのだ。その時、私はいつも無力だった。

 

煙草を口に運ぶ。少しだけ吸い、煙を吐いた。喫煙は文に教わったのだった。決して安くはない紙巻き煙草。捨てるのが勿体なくて、ギリギリまで吸おうとする姿を笑われたな。隣り合って座り、火を移して貰った時の事を思い出す。ああ。その時は煙たいとしか思わなかった。

 

実際の所、私とお前との関係は、火を移しあうようなものなのかもしれない。どちらかが灯っていれば、火は再び与えられる。己が抗えぬ風に遊ばれた時、収まるべき所――文が言っていたのは、そういう事ではないか。そこに本当の愛があるかなんてのは、決して重要じゃない――

 

「げほっ」

 

慣れない煙に、私はむせた。

 



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一口だけ頂戴

―一口だけ頂戴―

 

「一口だけ頂戴」

 

はたてさんから見た私は、きっと目をぱちくりとしていたに違いない。無意識に耳が立った。投げかけられた言葉を反芻するように。「ダメ?」昼飯時の店内はいささか騒々しいが、その言葉は微笑みと共に確かに私に伝わっていた。向かい合う二人の座席を、給仕が足早に通り過ぎる。

 

「――はしたないですよ」たっぷり考えて、返答がそれだ。如何にも面白味がないな、と自分でも思うが、こればかりは性格だ。視線を泳がせる。目下には半分ほど食べかけたトンカツ定食(戯画MAX盛)が鎮座していた。別に一口が惜しい訳じゃない。足りないなら何皿でも頼む。

 

問題はそうではない。そうではなくてだな。「椛」カチャリ、と食器が鳴った。顔を上げるとはたてさんの顔、そして銀の匙。その上には洋風炒飯を卵で巻いた、オムライス――だったと思う――が乗っかっている。ふわふわとした外見から想像される食感に、私は想像を巡らせた。

 

「じゃあ、私からもあげる」差し出された匙の向こうで、はたてさんが笑っている。悪い笑みだ。私の反応を楽しんでいるな。絡み合った視線に、思わず目を細める。稀によく、はたてさんは我儘を見せる。それを許される環境で、まっすぐに育ってきたのだ――とは、文の言葉だったか。

 

「……一口だけですよ」貰う方が言うのも何かおかしい気はするが、私は身体を伸ばし、匙に向けて口を開いた。はたてさんもそれ以上の悪戯は好まなかったようで、一口分のそれはあっさりと私の口の中へと入り込む。口を閉じる。ケチャップの酸味と共に、匙が口から抜けていった。

 

丁寧に咀嚼する私を、楽しげな瞳がじっと見つめている。こういった小洒落た料理は滅多に口にする事もない。白狼天狗は質より量なのだ。「美味しい?」「――はい」食に頓着するタチではないが、これが美味しい部類なのは想像できる。想像よりも複雑ではない。むしろ素朴な味わい。

 

――だが、しかし。そう言う事を聞いているのではないのだ。私にだって分かる。正確には分からされた事がある。朴念仁とて付き合い続ければ学べるものもある。言葉は時に何重もの意味を持つ。「えへへ」はたてさんは口角を上げると、己の唇に人差し指をとん、とんと当てた。

 

私はカツを一切れ、箸で半分に切ると(断じてケチではない。とても彼女の一口には収まらないのだ)、はたてさんの眼前にそれを差し出した。はたてさんは目を閉じると、静かに口を開けた。カツが入り込む。箸が舌に触れた。まるでそれが合図だったかのように、口がすっ、と閉じる。

 

箸を引き抜いた先で、咀嚼が始まった。私はその始まりから終わりまでをじっと見ていた。喧騒が――いや、私自身の感覚すらも遠く感じた。半目を開けてこちらを見ている事に、気付かないほどに。「美味しいね」はたてさんの一言で、我に返った。目前の顔が、何故か赤らんでいた。

 

「このお店、何を頼んでも美味しいから、目移りしちゃう」皿を匙が走り、オムライスの一部をさらった。匙がはたてさんの口へと滑り込む。滑り出す。何故だろう。私はその仕草をじっと見ていた。「――よお!」不意に、聞き慣れた声がした。目線を向けた先に、青い髪と緑の帽子。

 

普段の私ならきっと接近に気付いただろう。ただ少し、気が散っていた。それだけだ。「昼間からいちゃつきやがって」歯を見せながらニヤつく顔が、私の隣へ無遠慮に座った。河城にとり。そこらで顔を合わせる程度の顔なじみだが、天狗の飯屋まで出張ってくるのは珍しい。

 

「珍しいって顔してるな」手にしていたサンドイッチとサラダの皿をテーブルに置くと、にとりは先手を打った。「お宅の大将の御殿で工事やってんのさ。冷房工事」にとりははたてさんへ目くばせをすると、何やらハイテックな話を始めた。冷房。はたてさんの部屋にはあったな。確か。

 

「――そんでまあ、近場で食事を済ませてる最中なワケ」キュウリの入った――キュウリしか入っていない?―――サンドイッチを一齧りし、辺りを見渡すにとり。見れば確かに、テーブル席には河童が固まっている。烏天狗達とは微妙に距離があるのは、実際気のせいではない。

 

身分の違い。住む所の違い。今はそれでも随分と寛容になったのだというが、千年の昔を知らない私には分からない。……何よりも、私の存在それ自体がこの場に相応しくないのだと言えば、その通りなのだ。ここは烏天狗の領域。はたてさんがいるから、白狼天狗の私はここにいられる。

 

――はたてさんがいなければ、か。私一人の世界なんて、きっと狭いものだ。ねぐらと歩哨を往復するだけの日々。不満がないとは言わないが、そういうものだと納得していたつもりだった。はたてさんに出会うまでは。あれから幾月、色々なものを見た。これからもそうだろうか?

 

半分に切れたカツを口に運び、噛む。今日の私は少しばかり、ぼんやりしていたかもしれない。隣から愚痴られる苦労話なんて半分も聞いていなかったし、口元に注がれた視線にも気付かなかった。「――てな訳で、お宅の大将ときたら施工費三割も値切りやがって――おい、聞いてる?」

 

「私は聞いてるよ」はたてさんの匙が残りをさらった。「飯綱丸様は倹約家で有名だからね」「カネモチはみんなそれだよ」呆れ果てた、といった調子でにとりが椅子に背を預けた。「下々にも分けて頂けませんかねえ」最後のサンドイッチを大口で一息に吸い込み、大袈裟に頭を振る。

 

「じゃあ、奢ってあげよっか?」「マジで!?」俄かに身を乗り出した業突く張りを、私は腕で制した。「こいつの言う事は話半分で良いんです」「何だとう? お前だって奢って貰ってる癖に」「……」「――って、図星かよ!」うるさい。払おうとはしているんだ。一応。確かに。

 

「そんならさ、追加でデザートとか頼んでも……」「いい加減にしろよ、お前――」「いいよ?」言われる前から、既ににとりはメニューを広げていた。「いいって」聞こえたよ。全く。はたてさんは如何にも人が良すぎる。「キュウリのパフェはないのか?」美味いのか。それは。

 

「私もケーキ頼んじゃおうかな」はたてさんがメニューを指差している。端々しいフルーツケーキの絵図。選択は素早かった。うんうん唸る優柔不断を差し置いて、給仕に目的のものを注文する。「椛は?」「いえ、私は――」最初からそのつもりはなかった。遠慮の気持ちも、ままある。

 

「そっか」はたてさんは敢えて勧める事はしなかった。まあ、掛け値なしに山盛りのカツを片付けている最中に追加も何もないものだが。「――ちょっと、おトイレ行ってくるね」はたてさんが席を立った。にとりもようやく注文を決めたようで、会釈した給仕が奥へと歩き去っていく。

 

―――

 

  ―――

 

「なあ」先に口を開いたのは、にとりだった。野菜サラダの残りをフォークでちびちびと齧りながら、こちらを横目で眺めている。串刺しになったトマトが潰れ、紅い汁が溢れた。体型の割に血の気のないものを食べるものだとは思うが、まあこれも好き好きだろう。「――何だ?」

 

「お前らまさか、あの食べさせ合いって、毎回やってるのか?」「いや」私は首を振った。覚えている限りでは、初めてだ。だから少々戸惑った。「へえ?――そうか。初めてなんだな」にとりの言葉には何やら含みがあったように思う。「何が言いたい」「いやね、あれって――」

 

「間接キスじゃん?」

 

ニヤリと笑いながら、膝が脇腹をつついた。「間接――何だって?」「とぼけちゃってぇ……」如何にもからかうように、にとりは口を尖らせ、鳴らせてみせた。行為の意図する所は私にも分かる。だがしかし、それが何か特殊な意味を持つのか? 少なくとも私に、そんな知識はない。

 

「回し飲みくらい、普通だろう」「恋するお嬢様にとっちゃ、普通じゃないんだよ」やれやれ、とにとりは腕を広げてみせた。「私らみたいなのがやるのとは違うんだ。そのくらいは弁えてると思ってたけど――育ちの悪さってのは出ちまうよなぁ、ハハ」にとりの手が、私の水に伸びる。

 

そのまま一息に呷ると、静かに首が振られた。「そういうの、気付いてやるのも――いや、乗ってやるのも彼氏の務めだとは思うがねえ?」「誰が彼氏だ」「お前以外の全員がそう思ってるよ」にとりは自分の水に手を伸ばした。「ほら、この水。飲めるか?」質問の意図が分からない。

 

「これからも気にかけないってんなら、それもいいさ。でもな、お嬢様の目の前ではやらない方がいいと思うぞ」にとりは何やら忠告らしき言葉を紡ぐと、自分の水を一気に呷った。「気にする奴は気にするもんだ」袖で口元を拭い、両肘をついて、何やら遠くを見ているようだった。

 

―――

 

  ―――

 

はたてさんが戻ってきた後も、私は会話に入りこめていなかった。間接キス。確かに料理の行き来はそれそのものだったかもしれない。だが、私にとっては仲間内で食器だの水筒だのを使い回すのは当然の事で、それに特別な意味を感じた事はない。例えばそれが、重要な事だとすると?

 

直接聞くのは憚られる。私とてそこまで馬鹿正直ではない。いや、そうであれば幾分か良かったのかもしれない。少なくとも思い悩むような事はない。特別な意味。気付いてやるのも、乗ってやるのも彼氏の務め。私はどう動くべきだったか。使命があったのだとすれば、責任も感じる――

 

「――おい、椛。寝てんのか? 大体、食い過ぎだぞお前」うるさいな。私は食いたいだけ食う。それだけだ。「食べさせがいがあるよね」はたてさんが笑っている。その表情からは落胆の色は伺えない。――案外、考えすぎではないだろうか。最後の一切れを口にしながら、そう思う。

 

「美味しいよ、このケーキ」にこにこしながら、はたてさんが言った。口元からフォークが引き抜かれる。残りのケーキはおよそ1/3。二回ほど切り取ればなくなってしまうだろう。――待てよ、二回? 一瞬閃いた予感が、しかし正しかったのだと証明されたのは、直ぐの事だった。

 

「はい、椛」

 

切り取られたケーキが目前へと迫る。これは――そうだ。間接キス。私は先程とは打って変わって緊張していた。にとりが嫌に真剣な顔をしているのにも気付かない。断ろうとした。出来なかった。目前の瞳に、そして期待を孕んだ表情に魅入られていた。はたてさんは、楽しんでいる。

 

「あ……いや、その……」躊躇う私の前でフォークがぐるぐると踊った。何を躊躇うものか。さっきは何の抵抗もなく口にしたじゃないか。だが。しかし。柄にもなく赤面するのを感じる。にじり寄ったケーキの先端が私の唇を突いた。このフォークには――はたてさんが触れていたのか。

 

「美味しいよ?」遂に私は根負けした。或いは、せざるを得なかった。小さく開いた口へ逃さぬとばかりにケーキは捻じ込まれ、舌の上にぬるりと乗せられた。フォークが引き抜かれるまでの僅かな間、私は放心してしたかもしれない。私とキスをしたフォークが、手元に引き戻される。

 

皿に残されたケーキの末路は、あっという間だった。拾い上げられたそれは速やかにはたてさんの口へと消えていった。フォークがつるりと引き出される。間接キス。私の残滓を、あなたが舐め取った。あなたの残滓を、私は口にした。たかが、それだけだ。――そのはずなのに。

 

「お熱い事でねえ」大きな溜息一つ、にとりがキウイのパフェを掻き込んだ。その一言が私を現実に引き戻してくれた。赤らんだ顔がそこにはあった。私は考えた。考えるまでもなかったのだが。はたてさんはきっと、私と同じ体験をしたのだ。何と言う事はない、とても不思議な体験を。

 

――ふと、丁度良いタイミングで給仕が皿を下げに来た。はたてさんが財布から紙幣を取り出す。「私も、ちょっとトイレ。払っといてくれや」にとりは私の手に領収を押し付けると、はたてさんに軽く手を振った。「サンキュ」手を振り返すはたてさんの横顔を、私はじっと見る。

 

間接キス。それを意識したから、私の見る世界は変わってしまったのか。はたてさんは何故、そんな事をしようとしたのか。それはしたかったからだ。恐らくは。「ねえ、椛」席を立ったはたてさんの手が、私の手に触れた。「美味しかったね」私は、静かに頷く事しかできなかった。

 



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腐れ縁

―腐れ縁―

 

腐れ縁があった。

 

長い、長い縁だ。始まりも今では定かじゃない。確か、私がまだ泳ぎも下手なガキの頃、河を流れていたんだか、流されていたんだか――ともかく自分ではどうにもならない、所謂ピンチに陥った時、あいつは現れた。小さいのがイッチョマエに剣なんか下げて、真面目くさった顔をして。

 

あいつは流水から私の身体を引き上げようとあらゆる努力を払ったが、生憎とお互い、浮力が足りなかった。必死に繋いだ手にも力は足りず。そうこうしている間に川下は滝、私ら二人は哀れにも空中に放り出され、遥か下の岩肌へと――いやいや、それじゃ話が終わっちまう。

 

あいつは川底に剣を突き立てて、流されるのに耐えた。私はそれに掴まるのが精一杯だった。今思えば、あの時私は死んでたんだ。本当は。……今更ながらおっかなくなってきたな。それはともかく、あいつは幾度も吠えた。白狼天狗が仲間を集める為の遠吠えと知ったのは、後の事だ。

 

しかしまあ、山は広い。そう急に助けがやってくるはずもなかった。手を放しちまいそうになるのを必死に堪えて、私はその時抱えていたガラクタで何とか事態を好転できないか考えた。そうは言っても、ガキのおもちゃだ。役立つものは――一つだけあった。花火だ。打ち上げ花火。

 

躊躇う暇なんてあるはずがない。リュックからそいつを引っ張り出すと、歯で発火紐を引っ張って、上空へ向けて打ち上げた。良い子は真似するなよ。白昼のそれはなんとも頼りない光で辺りを照らした。軽い爆発音が響いた。誰かの目に留まってくれ。様子を見に来てくれ。ただ祈った。

 

だが、現実は非情だ。何も来ない。誰も知らない。次第にあいつの手が震え始めた。私は最悪の事態を想像して、泣けもしなかった。飛翔もおぼつかないガキとはいえ、天狗のあいつ一人なら滑空してでも助かるだろう。私には無理だ。――二人一緒なら? 死体が一つ増える事になる。

 

その時は一人で死のう――なんて、愁傷な考えは私にはない。生憎、性格が悪いのは昔からだ。絶対に放すものか。私はあいつの手を握りしめていた。それが結果的には良い方向に転がったんだから、自己犠牲なんてのは案外悪手かもしれない。死んだら終わりだ、と偉い人も言っている。

 

――その時、遂に剣が水底から抜けた! 私達は一気に滝へと押し流されていく。私は咄嗟にあいつを手繰り寄せた。しかしあいつは――手を放そうとはしなかった。むしろ剣を投げ捨て、背をリュックごと抱え込んだ。私を連れて飛ぶ気だ。それが不可能な事は重々承知だろうに。

 

流れる水から身体が放り出される。遠くに玄武の沢が見える。視界がグン、と下へ向いた。ああ、今のであそこも見納めか。深い滝壺に反り立つ危険な岩肌が、私達を手招いている。死ぬ。どう考えても死ぬ。落下速度は緩まない。白狼天狗の子一人では、二人分の体重を支えきれない。

 

慌てて重たいリュックを投げ捨てる。誤差だ。帽子も捨てた。やはり誤差だ。ふとっちょの身体も投げ捨ててしまいたかったが、そりゃ無理だ。ゴウウ、と風を切る音が、心音と混ざりながら耳の中をまさぐった。地面が近付いてくる。やめてくれよ。ハードランディングなんて御免だ。

 

その時の私は賢しらに走馬灯なんかを浮かべていた。人生、こんな簡単に終わっちまうんだなあとか。もっと空を飛ぶ練習をしておくんだったかなあとか。まあ、役に立つ事は何にも出て来やしない。或いはあいつも同じだったろう。違うのは、諦めの有無。あいつは再び、吼えた。

 

「――おやおや、度胸試しですかな?」

 

死の風切り音に、確かに人の声が混ざった。私とあいつは同時に顔を上げた。目の前に浮かぶ烏天狗。私達と同じ速度で落下していた。「このままどんぶりこ、と行くと――まあ、よろしくはありませぬな」烏天狗は平然と私達の末路を告げると、扇で口元を隠しながら、目を細めた。

 

「たっ、助けてぇ……」我ながら情けない声を上げたもんだが、死にそうなんだから仕方ないだろ。「烏天狗様、どうかお助けを!」私達の声に、烏天狗は脚を組み直して、答えた。「ふぅむ、子供に助命を乞わせるつもりはなかったのですが、少々意地悪でしたかね。これは失敬」

 

大人が何やら難しい話をしている間にも、岩肌は近付いている。「早くッ!?」まったく、意地悪な奴だ。私の懇願が引き金だったかのように、私達の下に竜巻めいた風が渦巻いた。急激に落下が遅くなる。烏天狗は目線をピタリと合わせたまま、私達の顔をじろじろと伺っていた。

 

やがて片足が、そして両足が地面についた。風は四散し、私とあいつは高下駄の主に見下ろされていた。「危ない所で遊んではいけませんよ――と、月並みな事を言うのも何ですが、ね」烏天狗はやれやれ、と腕を開いた。「わたくしが通りがかるような偶然は滅多にありません故」

 

ぱたぱたと扇で仰ぐ烏天狗の顔は、何処かで見た事がある気がした。恐らく、あまりよろしくない手配書か何かに載ってたんだろうと思うが、その時はまあ、恩人にそんな印象を抱く訳はないわな。「ありがとうございます、烏天狗様」「あ、ありがとう……」「はいはい、どうも」

 

ふと、烏天狗の背後に人影が見えた。白狼天狗の大人が集まってきたのだ。「あやや」烏天狗は何やら奇妙な鳴き声を上げると、私達に向けて片手を上げた。「それでは、わたくしはこれで」いやいや、急だ。当然のように困惑したが、烏天狗の素早さは私達の反応を待ってはくれなかった。

 

衝撃波と共に、輪郭が風に溶けて消える。「まだお名前も聞いていないのに」あいつが手をぶらぶらとさせた。そこに走り寄る、白狼天狗の集団。「無事か、犬走」「はい」あいつは私との顛末を手短に説明していた。「ああ、大体分かった。――今ここに、烏天狗がいたんだな?」

 

私達が頷くと、白狼天狗達は――どちらかというと頭を抱える感じで――ざわめいていた。「射命丸文か」「椛を助けたのか?」「いつまでもウロウロされちゃあ敵わん」大人の話はよく分からなかったが、今思えば厄介者に頭を痛めてたんだな。あれは。200年前から不良は不良か。

 

「射命丸、文」あいつは恩人の名を口にした。「犬走、椛」私もそうした。最後はどうあれ、私にとっての恩人は椛だった。あいつにとってのそれが、文であるように。その日から私達は友達付き合いを始めた。白狼天狗と河童。腐れ縁の始まりは劇的で、そして些細な話だった。

 

―――

 

  ―――

 

そして今。腐れ縁は連綿と続く。互いの立場や環境が変わっても。将棋に傾倒する椛に付き合っている間に私もそれなりにはなっただろうし、一番最初に発明を見せてやるのも大体は椛だった。似た者同士とはとても言えない二人だが、それ故に離れる事もなかった。気楽な関係。

 

だがそれも、永遠ではないのかもしれない。或いはそう信じたかっただけなのかも。椛の中から私がいなくなって、しばらくが経った。最初は単なる気紛れだろうと思っていた。どうせその内、向こうから私を構いにやって来る。そう思っていた。何の音沙汰なく、半年が過ぎるまでは。

 

気付けば私は、椛に渡そうと思う発明品ばかり手を付けていた。それは渡せぬままに部屋の隅に積み上がっていた。見方によってはくだらないガラクタだが、椛はそれをいつも迷惑がらずに受け取ってくれた。そうだ。私の一方的な気持ちは、行く先を失ってしまったのだった。

 

薄暗い部屋の中、パイプベッドに寝転がりながら、私は考えていた。椛を探しに行こう。今日までの疎遠は何かの間違いで、顔を合わせさえすればきっと何もかも元通り、上手くいく。今度持っていく発明品はきっと気に入るだろう。暇が出来たら将棋を指そう。飯を食って昼寝をしよう。

 

「――んな訳ないだろ」自嘲。私には分かっていたのだ。腐れ縁――いや、私が大切にしていた縁は、もうおしまいなのだと。昨日拾った新聞に載っていた。射命丸文、犬走椛と熱愛。椛が射命丸に執着しているのは知っていた。しかしそれはあくまで上司と部下との関係だと思っていた。

 

事実、歳を経る毎にその関係は険悪になっていった。不良天狗とお巡りさんだ。仲が良い訳がない。普通に考えれば、な。あの二人は、普通じゃなかった。愛し合っているなんて噂を、一度は一笑に付したさ。そりゃそうだ。私の目の前ですら、猛烈な喧嘩を繰り広げる輩だぞ――?

 

でも、そうじゃなかった。愛には色々な形がある事を思い知った。私が抱いていた腐れ縁――そう思いたかっただけの、これは恋だったに違いない――もまた、そうだ。あなたがいなければ死んでしまうなんて愛もある。あなたと共に死のうという愛も、ある。人の数だけ、愛がある。

 

「――それで、私はこのまま、負けるのか?」冗談じゃない。自慢じゃないが、私は諦めが悪けりゃ性格も悪い。あんな新聞は飛ばし報道に違いない。歳だって私の方が明らかに近い。地位や名誉はまあ、ないかもしれないが、幼馴染ってのは圧倒的なアドバンテージに違いない。

 

私は徐に起き上がると、冷蔵庫からキュウリの束とマヨネーズを取り出した。黄色い旨味をたっぷりとかけ、ボリボリと齧る。「好かれよう、なんて考えた事もなかったな……」今の今まで≪ありのまま≫を晒してきたという事は、要するにそれ以上を演出してみせた事もない訳だ。

 

カーテンを開き、窓を開けた。そのまま窓辺に背を預ける。あいつは射命丸文の何に惹かれているんだ? それが分かれば、私にも目は出てくるのか? 目を閉じ、水流に耳を澄ませる。白狼天狗と、烏天狗か。身分違いの恋。たまに聞きはするが、成就したって話はまず、聞かないな。

 

あいつの性格的に、禁断の恋とやらに入れ込むタイプではない。もっとこう、規律にうるさい。相手から求められたんでもない限り。だとすると、命を助けられた恩義を感じて? もしそうなら、普段からもう少し仲がいいんじゃないか。要は、頭が上がらないって意味だろ――?

 

なら――ひょっとして、身体目当てとか? ありえんとも言い切れんが。あいつの好みなんて聞いた事がないし、口にするような奴でもない。案外あれで、スレンダーな年上美人が好きなんじゃないか? ――軽く頭痛がして、頭を叩く。いいか、これは例えだ。論理的飛躍だ。

 

作業場の一枚鏡を振り返る。容姿に自信があるかないかで言えば、ない。≪可愛いにも二種類≫という。髪も肌も構ってやった記憶がない。場合によっちゃ煤や機械油でギトギトだ。腰を捻ってみる。太い。口の悪い奴はトドみてーな体型とか言いやがる。せめてアザラシくらいにしろよ。

 

少々嫌な気分になって、帽子を深く被り直した。「なあ、椛」私にないものに、お前は惹かれたのか?「なあ、椛――」私がお前を見るように、お前は私を見てはくれないのか? 私は――私はきっと、あの日あの時から、お前の事が――お前の事が――好き、だったのにか――?

 

「――呼んだか?」

 

突然の問いに、私は思い切りつんのめった。慌てて振り返った窓の向こうにいたのは。「いくら呼び鈴鳴らしても、返事がないから」頬を掻きながら、椛は呟いた。しばらく間が開いて、勝手口から入ってきた姿は、確かに半年前に見た椛そのものだった。何も変わらない。何も。

 

「よう――か、変わらないな」如何にもぎこちない挨拶を返してしまった。仕方がないだろ。いきなり実物がやってきたんだから。「お前こそ――いや、太ったろ。大分」真顔で何て事言いやがる。「お? 宣戦布告か?」「事実を言ったまでだ」そう嘯くと、痴れ者は――表情を崩した。

 

「久し振り」「お、おう。久し振り」調子を狂わされ続けている私に、椛は半年前と何ら変わらない反応を返している。私は戸惑うと同時に、深く安堵してもいた。ひょっとすればひょっとすると、この半年間は本当にただの気紛れだったのかもしれない。また、腐れ縁が戻ってきた――

 

「ま、その、なんだ。積もる話もあるだろうし、座って――」慌ててデスク兼作業台の上の物体を押し退ける私を、椛はしかし首を振って制した。「いや。それほど時間がない」瞬間、固まった私に、椛は構わず話し続ける。「答えを求めている」腕組みをして、俯いた顔が答えた。

 

「答え」「そうだ」頭の耳が畳まれた。知っている。これは困っているサインだ。「私は、嘘をつくのが得意じゃない」私にとっては周知の事実が告白される。「ここしばらく、他に何も手につかないくらい、考えていたんだ」「――何を?」その先を聞くのが、何故だか怖かった。

 

「文を、愛しているのか」淡々と。淡々としていた。「私には分かりかねる。愛とは何か、恋とは何か」まるで感情が籠っているような声ではない。ただただ、己の中の困惑を吐き出しているかのような、そんな声だ。「文には返しきれない借りがある」ああ。あの時の事を言っている。

 

「好きか、嫌いかで言えば、嫌いだ。断言してもいい。あの不良天狗はどうしようもない痴れ者だ」俯いた顔から、表情は伺えない。ただ少し、震えているようにも見えた。私もだ。私も震えていた。自覚する余裕があったかは怪しい。「いずれ、罪を償わせなければならないとさえ思う」

 

「だが、どうした事だ。剣を向けながら、私には文を斬るつもりはなくなっていた。いつの間にか私は――文の事ばかり考えるようになっていた」椛は首を振った。「私は、嘘をつくのが得意じゃない」知ってるよ。私はよく知ってる。「この気持ちを、今から整理しなければならない」

 

「気負い過ぎじゃないか」「気負ったんだ」椛は再び首を振った。「文に話そうと思う。答えを伝える為に」淡々と。淡々としていた。「もし、これが愛なのだとしたら」まるで感情が籠っているような声ではない。ただただ、己の中の決意の刃を研いでいるかのような、そんな声だ。

 

「私は、文を愛そうと思う。それが許されるならば」椛は顔を上げた。その顔は精悍ながら、まだ迷っているようにも見えた。希望的観測かもしれない。私にとって、椛の告白はまさしく懸念を叩きつけられたも同然だ。「どうして」疑問が口からこぼれた。「どうして、私にその話を?」

 

「こんな事は、お前にしか話せない」椛の返答はある意味、予測できる話でもあった。ただそれは、聞きたい返事ではあり得なかった。「お前なら何か、知恵を出してくれると思った」めちゃくちゃになる情緒を抑えながら、私は押し殺すように答えた。「――お前自身は、どうなんだ」

 

「私自身?」「お前は≪愛したい≫のかって聞いてるんだ」帽子を目深に被り直しながら、私は問うた。今までの話を聞く限り、こいつは≪愛≫を義務か何かと勘違いしているように思えたからだ。人の数だけ愛がある。だがそれは違う。違うんだ。お前に求めるのは、そうじゃない。

 

「もしも、愛さねばならない、なんて思ってるんだとしたら――」私は大馬鹿野郎に歩み寄ると、胸倉を掴んだ。抵抗はなかった。「≪愛し返さねばならない≫義務だってある。そうだろ」頭の耳が、再び畳まれた。「それは、文が決める事だ」「そうか。ああ、そうだろうな」

 

顔を近づける。身長は椛の方が随分と高い。それでも、覗き込めないほどではなかった。「相談する相手を間違えたな」声が、酷く震えた。「生憎と、私はお前の無軌道な≪愛≫とやらを証明してやる事はできないよ」顔を、更に近づける。帽子のつば越しに、戸惑う椛の瞳が見えた。

 

「ただ、答えは与えてやれる」私の中で、冷たい何かが持ち上がるのを感じた。それは敵意にも似た、しかしどうしようもなく不可解な感情だった。「私はずっと嘘をついていた」俄かに窓から吹き込んだ風が、帽子をさらった。「お前と過ごしてきた日々も、私は心を偽り続けていた」

 

困惑の双眸を、紅い瞳を、青い光が睨み返した。「お前は愛されてる。それが私から伝えられる、ただ一つの答えだ」右手を離した。両手を開いた。棒立ちの椛に、私は力を込めて抱き着いた。「それは、お前が決める事だ」椛の言葉を、私はオウム返しした。きっとそれは、卑怯だった。

 

椛は何も答えなかった。ただ黙って、私の暴く嘘を聞いていた。腐れ縁だと公言して憚らなかった関係が、本当は何よりも大事だと伝えた。心地よい関係が壊れてしまうのが怖かった。いつまでも、今が続けば良いと思っていた。けれどそれはもう、叶わない事なのだと、伝えてしまった。

 

「言わなきゃ良かった」自覚した時にはもう、堪えられなかった。私の頬には涙が流れていた。「お前の問いに、雑な答えをくれてやれば良かったんだ。その後がどう転がるにせよ、お前と私はこれからも変わらずにいられた」後悔した所で、もう遅い。私は己に、嘘をつき通せなかった。

 

私だけじゃない。椛の将来をも、私はめちゃくちゃにしたんだ。例え椛が今から文と会うとしても、二人が結ばれたとしても、私の存在は無用の記憶として残るだろう。無視されるなら、まだいい。もしも、もしも、私のせいで、二人の関係がぶち壊しになったとしたら、どうだ。

 

私は笑うだろう。憎き烏天狗は私から椛を奪う事ができなかった。私は泣くだろう。私は椛から大切なものを奪い去ってしまった。私は知るだろう。椛は私の下から静かに立ち去る事を。罵倒はない。あるはずがない。椛はそういう奴じゃない。だからこそ、私にとっては、辛い。

 

「――お前の言う事は、分かった」椛が口を開いた。「私も同じだ。お前との関係は当たり前すぎた。だからこそ、気付く事ができなかった」椛の腕が背に回った。今にも泣き叫びたかった。だがそれは私のプライドが許さない。私とお前とは、あくまで気軽で対等な関係でありたかった。

 

「すまなかった」椛の腕が、私を突き放した。それは告白の終わりを意味していた。「文に会ってくる」ゆっくりと背を向ける。呼び止める事はできたはずだ。最後まで足掻くのが私のやり方だ。それなのに、どうしてだ。私は、敗北者だった。恋に破れた、哀れでつまらぬ、敗北者。

 

「せめて」一言だけ、絞り出した。「せめて、私を嫌いになってくれよ」椛は何も答えなかった。勝手口から音がして、そして静かになった。部屋は俄かに暗くなっていた。明かりもつけずに、私はただ呆然と突っ立っていた。逆転の目はない。終わりだ。何もかもが終わりだった。

 

部屋の隅に、お前に渡すべきものが積み上がっていた。私はそれを手に取ると、思い切り床に叩きつけた。それはあっけなく壊れた。下らないガラクタ。思いを込めたガラクタ。今はもう、ガラクタとも言えないガラクタ。片っ端から投げつけた。壊れないものは、金槌で打ち壊した。

 

お前の事を好いていた形跡すべてを消し去ってやりたかった。ペアのグラスを箱ごと捨てた。何でもない日に、お前に買ってもらったものだった。部屋の隅に転がっていた帽子をゴミ袋にねじ込んだ。お前に褒められたものだった。お前が勝手に設置していったきりの将棋盤も、どけた。

 

部屋はたちまち泥棒の仕業とばかりに荒れた。お前の痕跡は何処にでもあった。お前は既に私の一部として不可分だった。それを切り離そうというのだ。どれだけ血を流す事になるだろうか。知った事じゃない。お前は私を選ばなかった。だから私は、お前を捨てる。当然の結末だ。

 

やがて、手元のゴミ袋が一杯になる。顧みる気はなかった。そんな事をすれば、私はきっとすべてを元に戻そうとしてしまう。ギリギリとねじって、ガラクタの死骸だらけの部屋の片隅に投げ捨てた。新たな袋を手に取った。捨てられるものは、何もかも捨ててしまおうと思った。

 

――捨てられるもの。私のこの心は、捨てられるのか。あいつの存在を知らなかった、幼くも全能感に溢れた河城にとりに戻れるのか。それとも捨てられないままに、新たに負け犬の河童として生きていくしかないのか。私の生き方、私の在り様に、あいつは深く――深く、関わっている。

 

袋を取り落とし、頭を抱えた。自嘲する余裕すらなかった。私はこんなにも軟弱だったか? 私が私たるイメージは、もっとこう、図太くもしたたかな河童の頭目だったじゃないか? あいつの存在はあまりにも大きすぎた。私の根幹に喰い込んでいる。幼馴染。命の恩人。そして腐れ縁。

 

周囲の闇が深くなるほどに、私の中から気概が失われていくのを感じていた。普段からもっと椛との間に介入していれば。安穏を終わらせる決意があれば。あの時、椛を引き留めていれば。或いは、憎き射命丸に手袋でも投げつけてやっていれば。不可能な仮定ばかりが浮かんでは消える。

 

「――椛」

 

今までは何度でもそう呼べた。これからは――その名を呼んでも、もう二度と戻っては来ない。自分が何の為に生きているのかすら分からなくなってきた。それは流石に、錯覚だ。いつかは痛みだって忘れるだろう。だが、今は。今はどうだ。≪今≫この痛みを、何が誤魔化してくれる?

 

「夜分、失礼」

 

背中側、窓から声がした。聞き間違いだと思った。それは河童仲間の声ではなかった。当然、椛のものでもなかった。今一番、聞きたくない輩の声だったからだ。「邪険になさる」いやらしい笑い声と共に、部屋に風が舞い込んできた。軽い高下駄の音。壁のスイッチが勝手に押された。

 

「文明の光でございますな」部屋の明かりに浮かび上がった影の主は、射命丸文。椛が探しに行ったはずの相手。「――何の用だよ」「用があるから来たのですよ」慌てて涙を拭う私の顔を見ず、射命丸は部屋を見回しながら答えた。「如何にもな身辺整理。既に椛はここに来たと」

 

「そう言うって事は、お前の所にも椛は来たんだろ」「ええ」首をこちらに向けた。半笑い。いつも通り、人を小馬鹿にした表情だ。「少しばかり興奮しておりました故、頭を冷やさせに行かせました」「頭を?」「夜風に当たっていれば、自分が何を叫んだか理解するものですよ」

 

こいつの言葉は、いささか不愉快に感じられた。椛はあれほど必死だったのに、こいつときたら、真面目に話を聞かなかったのか?「断ったのか」「いいえ」手を振る仕草も、何処か鬱陶しい。「何も返事しておりません」「いい加減な態度を――」「そういう訳ではありませんとも」

 

「ただ一言、告げました。今の気持ちを本気にしない方がいい――とね」「椛は本気だったぞ!」私はまるで自分の事のように、食ってかかった。「本気が必ずしも最良の結果を呼ぶとは限りません。人生の選択ともなれば、特にです」返ってきたのは、まるで宥めるような声色だった。

 

「年長者の言う事はよくよく聞くものですよ、にとり」――およそ五倍の時を生きたという烏天狗の言葉には、重みがある。それはそうだ。生き物は生まれた順に生きている。どんなに願っても、歳を追い越す事はできない。「あなたがたはまだ、若い。訪れる機会は無数にあるのです」

 

「たった一度の機会を逃して、死ぬほど後悔したとしてもか」「それは椛の事ですか?――それとも、あなたの本音?」「どうだっていい!」絶望を見透かされた気がして、私はますます激昂した。「後悔したとしても、ですよ。生き急ぐのは若者の特権。それを止めるのは年長者の役目」

 

射命丸は扇で口元を隠し、私をじっと見た。「しかしてまあ、若者とは往々にして耳を貸さぬものではありますな」私の姿を、上から下まで、じろりじろりと見た。「口から出る覚悟など、所詮は軽薄なもの。真の覚悟は行動によって示されなければならない」紅い光が、青い瞳を突いた。

 

「あなたは椛を愛している」思わぬ言葉は、しかし恐ろしい程に易々と私の中に入り込んできた。驚きも、抵抗もなかった。「それくらいは、分かりますとも。椛の様子は明らかにおかしかった。あなたの様子もです」めちゃくちゃに荒らされた室内を一望し、射命丸は首をかしげた。

 

「私は――あなたこそ、椛には相応しいと思いますよ」「何を……」「嘘は申しません」疑り深い私の目を以てしても、嘘を吐いているようには――見えなかった。「若いツバメに慕われるのは、悪い気はしませんがね」私にも何となく分かる。椛の思いを、否定している訳ではないのだ。

 

ならば何故、それを受け入れないのか。身を引こうと言うのか。私に椛を――譲ろうとでもいうのか。「ざけんな」私は射命丸をギリリ、と睨みつけた。「何の権利があって、お前は椛を私に≪譲る≫って言うんだ」「譲られたくはありませんか」「そういう傲慢なのは、大嫌いだね」

 

「椛はお前が好きなんだ」「わたくしは受け入れるつもりはない」「何故だ!」腕を広げ、大声で問う。叫び声が夜の闇に響いた。「結局お前は、椛の事なんて何とも思っていないんだろう!」――射命丸は、平然としていた。私の叫びは、目の前の烏天狗に届いているのだろうか。

 

「――好いているからこそ、では通じませんかな」扇が再び、口元を隠した。「わたくしの生き方に、椛を巻き込みたくはない。あなたもご存じでしょう。わたくしめが何と呼ばれているか」――不良天狗。時に山の権力者の間を、時には外界をも飛び回り、裏で万事を働くもの。

 

「わたくしめに、人を愛する資格などありはしないのです」射命丸は嘲笑した。それは多分、自分自身へ向けられていた。「例え説明したとして、椛は決して納得しないでしょう」「――そうだろうな」不良天狗を辞めるように説得する。罪を償うように勧める。椛なら、必ずそうする。

 

私はあいつほど、世の中が綺麗に回っているとは思っちゃいない。時には射命丸みたいな奴も必要だ。私自身、椛に知られたら小言の一つでは済まないような事をした経験は幾度となくある。だがそれを、椛は理解できないだろう。あいつはそういう奴だ。そういう奴も、また必要なんだ。

 

「譲られるなどと考えなくてよろしい。あなたはまだ負けていない」負けて、いない。「あなたは勝ちに行かなければならない。その為にはどうすれば良いでしょう?」如何にも挑発的な射命丸の言葉に、私は乗る事にした。「椛を探す!」「その通り」射命丸は窓際に立ち、背を向けた。

 

「沢の上流の方へ飛んでいくのを見ました。きっと、あなたがたがご存じの場所にいるのでしょう」それなら、いつもの場所。あの時私が流されていた場所の近くにいるんだろう。――私に会いたい時、椛はいつもそこにいる。「――さて、わたくしめは退散すると致しましょう」

 

室内に風が渦巻いた。ゴミ袋ががさがさと音を立てた。「椛の事、頼みましたよ」捨て台詞と共に、その身体は窓から勢いよく飛び出して行った。頼まれなくたって、やってやる。私は棚からリュックをひっつかむと急いで外に飛び出し、地面を蹴った。夜の闇の向こうに、お前がいる。

 

―――

 

  ―――

 

「何してるんだよ」私の問いに、椛は答えなかった。「私らみたいなんじゃないんだ。風邪引くだろ」私は懐中電灯を足元に置き、滝壺へと飛び込んだ。そこで仰向けに浮かんでいる椛の傍に、泳ぎ寄る。「頭を冷やしている」差し伸べた手を、椛は払った。「身体を冷やしてどうすんだ」

 

「放っておいてくれ」「そうはいくか」私は強引に椛の身体を捕まえにかかった。陸上でならともかく、水中で河童に敵うはずがない。私は抵抗する身体を抑え込むと、なだらかな岩の上に椛の身体を引き上げた。当たり前だが、ずぶ濡れだ。服を着たまま寒中水泳とは、馬鹿な事をする。

 

二、三発頬を張ってやると、観念したのか水へ戻ろうとはしなくなった。リュックから固形燃料を取り出すと、文明の利器で火をつけた。互いの姿が照らされる。「服を脱げ」「いい」「良くないから言ってるんだ」河童の服は完全防水だが、普通はそうではないのは当然、分かってるさ。

 

幾度目かの説得の末、そこにはすっぱだかの椛がいた。全部脱げとは言っていないんだがな。とりあえずリュックから毛布を取り出して、投げつけてやった。「頭は冷えたかよ」「――分からない」垂れた耳の先から、水滴が垂れた。「射命丸に会った」「文に?」「ああ、話を聞いた」

 

椛の顔が陰ったように見えたのは、光の加減のせいではないと思った。「頭を冷やせば、何か解決策が見つかると思った」「お前な、頭を冷やす、ってのは物理的に冷やすって意味じゃなくて――」「分かっている」椛は首を振った。「でも、そうするしか、自分の気が済まなかった」

 

「私は文を愛していた。文と顔を合わせて理解できた。それは理屈じゃない」椛は首を振り続けた。「文は――そんな私を、やんわりと拒んだ」「理由があったんだ」真意を言うべきか迷った。今は止めておこうと思った。「ああ。からかわれている訳ではないのは理解できた」

 

「それが愛でないのだとすれば、速やかに忘れるつもりだった。今まで通り、文と付き合う事を考えていた。しかし、しかし、そうはならなかった。それは≪愛≫だった。どうしようもないほどに焦がれていた」握り込んだ手に、力が籠っていた。苦痛に耐えるかのような表情を浮かべ。

 

「今もお前は、射命丸を愛しているんだな」揺らぐ火の中で、湯を沸かすケトルが音を立てている。「…………」沈黙が肯定した。「ままならないな」「――そうだな」そうだ。ままならない。お前は決して成就しない愛を追いかけているんだ。今すぐにでも指摘してやりたかった。

 

静かだった。火の揺らめきが周囲を支配していた。コーヒーを淹れて、二人で飲んだ。互いに何も言わなかった。かける言葉が見つからなかったんだ。互いの腹の内を知ってしまった。私達の間にもきっと、愛はあったのだと思う。ただ、それは――射命丸への愛とは、比べられない。

 

愛がその執着を失うまで、どれだけの苦悩が待つだろうか。失った愛がその熱を完全に失い、過去の傷として納得できるようになるまで、どれだけの時間がかかるだろうか。お前はその時まで、私を傍に置いてくれるだろうか。私はその時まで、お前を愛し続けられるだろうか。

 

だが、だがな。私は負けるつもりはない。もはや告白は成されてしまったのだ。気軽で、楽しいばかりの、昔のままの二人ではいられない。私は、私達は、変わらなければならない。「私は」それは独り言だった。「私は、お前を愛している」お前に聞かせる為の言葉では、なかったから。

 

椛は何も答えなかった。それは最大限の敬意だと思った。いい加減な事を口にできる性格ではない。私は知っている。よくよく知っている。いつか私への愛が、射命丸への愛を上回った時、その時初めてお前は、私に愛を囁くのだろう。いつか、そうなる。ああ。そうさせてみせるさ。

 

不意に椛が、大きなくしゃみをした。私は――思わず噴き出した。椛もつられて笑った。私は懐中電灯を絞ると、椛の毛布の中に潜り込んだ。脂肪の多い身体だからこそ、役立つ事もある。椛は一瞬だけ躊躇ったようだったが、私の一種破廉恥な行動の意図はすぐに伝わったようだった。

 

闇の中に揺らぐ炎の傍で、私達の心も揺れていた。未来の事は分からない。ただこれが、謝った選択肢だったとしても――今ここにいなければ、きっと私は一生後悔しただろう。お前もきっと、そうだ。お互い、悔いの無いように生きよう。いずれやって来る、より良い結末の為に。

 



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―シリアス―
我は撫鈴


―我は撫鈴―

 

 

 

ずっと、同じ夢を見ていた。

 

 

 

――方々を引き裂かれた星の背。眼下で燃え上がる寺のゆらめき。咆哮。嗚咽。そして咆哮。怒りの発現を、誰一人として顧みる者なし。我らにも、彼らにとっても、もはや終わった事だ。尼殿はもはやこの世にはなく、妖怪らは逃げ去った。不然たる法と慈悲の支配が、あるべき姿に還ったのだ。

 

うるるる。星が唸った。もはや好きなだけそうしただろう? 屏風の虎は、所詮屏風の虎。我が主も責めはすまいよ。お前はよくやった。己が役目に忠実であった。ただ少しばかり、力が足りなかった。これからのお前の仕事は、何もかも忘れ、妖怪としての姿を捨てて生きる事だ。

 

やがて己が何者であったかも忘れてしまえばいい。二度とその肉体を、虎に変じさせられないように。――虎は、その一切を聞いてはいなかった。ただ陽炎を見て、失われた命を見て、心を砕いていた。我が身よ裂けよとばかりに握られたその手は、人妖の血に塗れていた。

 

錫杖で、その背を叩く。星は反応を返さない。屏風の虎は、虎である事を止めようとしない。放っておけば、火の中へ飛び込みすらするだろう。それが無意味であるとすら、今のお前には理解できない。ならば、従者たる我がそれをわからせなければならない。我が主を、生かす為に。

 

――虎よ! 虎よ!――お前が為すべき事は何か。仕えるものは何か。お前は何の化身であるか。後頭部を、錫杖で打つ。唸り声が、止まった。こちらへ憤怒の視線を向ける。もはや敵味方すら解してはいない。我は再び、問う。――虎よ! 虎よ!――お前は何者か。何者であるべきか!!

 

顔をしたたかに打つ。虎はひるんだ。打突にではない。己が内の理性と憎悪の間で、せめぎ合っている。屏風の虎は、何者に成ったのか。何者でならなければなかったか。そして、これから何者でなければならないのか。これは慈悲だ。天の慈悲。拾った命。僕よ、僕よ、捨ててはならぬ…

 

星は狂おしく頭を抱えた。身体を激しくくねらせると、隠しきれぬ耳と尻尾、獣性の証が消え去った。呻き声と共に倒れ込んだ星は。もはやぴくりとも動きはしない。目を覚ます時には、すべてが終わり、そして始まっているだろう。お前の怒りは、もはや何処へも向かう事はない…

 

眷属らに、星を運ぶよう命じた。居地はできるだけ、人里から遠い方がいい。虎は山深くこそに潜むものだ。傷付き、眠れるお前にこそ相応しい場所を、選んでやろう。我はそこで待とう。お前が目を覚ます日を。

 

我は撫鈴。毘沙門天の眷属にして、寅丸星の目付。そして、不実な従者である。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――どれだけの時が過ぎただろうか。十年。百年。暦を数える事は草々に諦めた。四季がわかれば、それで十分だ。日課の水汲みを終えた我は、布でもって、星の身体を拭いてやる。さして必要がある訳ではないが。埃を積もらせるのは我の誇りが許さなかった。虎は今日も、目を覚まさない。

 

その身は…そう、まるで時が止まったように動かない。己がすべての心が噛み合うまで。それは慈悲である。それは贖罪である。それは、自分自身を赦す為の。いつ目覚めてもいいように、我がいる。覚めたる虎を導くために。再び心砕く事がないように。

 

――うるるる。

 

…聞き覚えのある音が、耳を突いた。眷属らが四散した。我が錫杖を構えるその目の前で、虎は目を開いた。最大限に警戒はしている。或いは己の負の心こそが勝ってしまったのかもしれない。…その時は、我が。虎の身柄を預かって以来。そのくらいの覚悟はできていた。

 

――ごろごろごろ。

 

…まるで喉を鳴らす猫のような、大きな音が鳴った。「ふわあ」大きな欠伸をしながら、虎は目を覚ます。「どうしました、なずーりん。そんな怖い顔をして」…緊張が途切れ、我はくずおれた。そうだ、日常の虎はこのような奴だった。我をなずーりんと呼び、何処か抜けた所のある、愛すべき屏風の虎。

 

「ところで、私は何処にいるんでしょう?」周囲を見渡す虎を、ひやりとする思いで見つめる。まだ油断はできない。外の景色を見た瞬間、忘れていたものが込み上げてくるやも…「うわあ、ここは景色が良いですねぇ」…思い出す事はなさそうだ。我は再び緊張を解くと、へたり込んだ。、

 

「はて、何か大切な事を忘れているような――っ、と」我は虎の、彼女の背に抱き着いた。忘れていい。忘れていいんだ。「何だったんでしょうねぇ」横顔に、あの時の獣の顔は、もはや重ならない。我に取っても、あの時の清算は、終わったのかもしれない。

 

――

 ――

――

  ――

 

千年の安息。それは、幸せな時間であったに違いない。深く絆を交わした私達の関係は、或いは夫妻と言って差し支えなかっただろう。そうだ、忘れてしまえばいい。己が虎であった事を。屏風の化身であった事を。如何なる使命を帯びていたかを。すべて忘れて、私と生きよう。

 

外から来たという洋服を見繕ってもらった事もあった。錫杖をダウジングロッドに持ち替え、宝探しとしゃれこんだりもした。私の稼ぎがあれば、そして彼女の加護があれば、生きるにまったく不自由がないほどの金銭が得られた。

 

――それでいい。それでよかったはずだった。

 

「――おおっ、本当にいた!」

 

死に絶えたのではなかったのか。唖然とする私をそこそこに上がり込んだ二人は…「星ー! いるんだよねー!」「おおぃ、星ー!」…やめろ。やめてくれ。「はーい」やめてくれ。「おや、あなた方は――?」やめてくれ!!「私だ、村紗!」「わたしわたし、一輪」頼む、やめてくれ!!!

 

私は完全に心を乱されていた。思慮もない。言葉もない。三人は僅かな時間で、互いの生存を、そして聖の事を口にし始めていた。「――記憶がないって、あんた一番聖に懐いてたのに?」「千年ちょっとでボケちゃったんじゃないでしょうね…」何度もその名を口にするんじゃない。やめてくれ。

 

「あ、少し――思い出せそうです、なんだか」「――やめてくれ!!」遂に言葉に出た。三人が怪訝な顔で、こちらを見た。「そっとしておいてくれ。何故そうしれくれない。帰れ。帰ってくれ。二度と姿を現さないでくれ!!」皆が皆、私が口を利けるとは思わなかったとばかりに、目を見開いた

 

「そうはいかないよ、聖を助ける為には――」「それが余計だと言っているんだ!」三人は顔を合わせ、困惑している。「じゃあ何、あんたは聖を助けるのに反対な訳? 毘沙門天の手下なのに?」「それはおかしいよ」…おかしいさ。わかっている。それでも。それでも。ご主人は…

 

「思い出しました」!! 「――思い出せました。すべて」見ろ! お前達は、取り返しのつかない事をしたんだぞ!! 「聖の事も」ご主人の顔が、徐々に険しくなっていく。私はロッドを構えた。あの日、あの時の事を鮮明に思い出す。毘沙門天の加護なき私に、何かができるとも思えなかったが。

 

それでも、私の手でこそ、ご主人を――殺さなければならない!!

 

ロッドを握る手が、震えた。ご主人が、じっとこちらを見た。立ち上がった。私に近付き…ロッドを掴むと、払い除けた。力で敵うはずがなかった。眷属も、影に隠れたままだ。もはや噛みつくしかない。そう判断するより先に、ご主人は両手を、首に――

 

「ありがとう」

 

その手は首に優しく触れると、耳を、頭を、撫ぜた。「私を、殺そうとしてくれたのですね」私はもう、何も言えなかった。意味もわからず緊張した面持ちの二人も、ほっとため息をついていた。「大丈夫です。もう、あのような事は繰り返しません。させません」

 

ご主人は力の抜けきった私を抱き上げると、椅子へと座った。私を膝に抱いて。「方法はわかりました。…しかし、足りないのです。一つ」申し訳なさそうに、ご主人は頭を掻いた。あの時散逸した法具…そう、宝塔だ。私には想像がついていたし、次に紡がれる言葉も、わかっていた。

 

「ナズーリン」

 

「宝塔を、探してきてくれませんか」

 

…散逸したそれは見つからなかったと、偽る事もできただろう。それはしかし、すぐに見破られただろう。彼女の意思は、既に尼君に向かっている。あの時助けられなかった彼女を、今こそ、今度こそ。探し出し、助けようとする意志は、私にはもう、止められるものではなかった。

 

私はナズーリン。毘沙門天の眷属にして、寅丸星の目付。そして、不実な従者である。



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跳ねる玉兎

―跳ねる玉兎―

 

それは極秘の任務だった。集められた隊員は三人。経歴はなかなかだ。能力のほどは、今からわかる。

 

 

 

玉兎の居住領域を抜け、私達は長く複雑な通路を進んでいた。

 

ズリ、ズリ、ズリ。何かを引きずるような音が聞こえる。こちらに伸びた影。二つの耳を持った小柄な玉兎の姿。私は突撃銃を構える。「行くぞ」隊員は静かに頷く。顔はあまり覚えていない。覚えるだけ、空しい仕事だ。私は僅かに顧みると、合図を出した。四人の間に緊張が走る。

 

バタバタバタ!! 銃口が光を放った。頭を撃つ必要はない。我々は全身に満遍なく銃弾を撃ち込んだ。凄まじい血飛沫が床に広がる。倒れ込んだそれからも、赤い液体がドクドク流れ出した。全身が痙攣する。ぴんと伸びた耳が、血だまりへと倒れる。

 

「…死にましたかね?」「わからない。警戒を怠るな」

 

――今、我らが撃ち殺したそれは、玉兎ではない。そのように擬態した、肉の塊だ。体積からすれば異常なほどの血飛沫を噴き出す。その表面は常に湧き立ち、哀れな犠牲者をドロドロに溶かしながら取り込むのだ。…そして、このように、成り代わる。

 

「…気分は良くないですね」隊員の一人が呟く。この場には多くの玉兎がいたはずだ。今まで殺した肉塊という肉塊は、誰も彼もが違う顔をしていた。つまり、そういう事だ。生存者の救出が任務に入っていない時点で、上もそういうものとして見ているだろう。或いは玉兎如き、どうでもいいのか。

 

不意に先導が、止まった。私も、全員が立ち止まった。嫌な音。グラグラと湧き立つ音がする。反響していて、何処から聞こえるのかもわからない。これはまた、戦いになるだろう。四方を警戒していた私は…最悪の事態を、予感した。

 

「…通風孔!」警告空しく、天井の穴から肉塊が一つ…いや、数が分からない!! とてつもない量の赤い死が、隊員の一人に覆い被さった。「ウワーッ!?」生き延びた隊員が、しかしやみくもに銃を乱射する。「止めろ!」止めない。止まない。転進できたもう一人を背に、そいつは…

 

「逃げるぞ」末路を焼き付ける趣味はない。最後の隊員を先に逃がし、そいつを鉛玉で牽制する。のたうつそれの姿が、二人のものに代わっていく。「…許せよ」私はそれらにあらんばかりの銃弾を叩き込むと、隊員を追った。肉塊は血飛沫の中に倒れ込み、赤い赤い血を流していた。

 

あれから幾度も奇襲を受けた。その度に撃ち殺し、そして逃げた。肉塊は徐々に私達の行動を"理解"してきたように思えた。冗談ではない。もはや一人も死なせる訳にはいかない。私が先導し、一人はその後を進む。全身に抱えた装備が、こつりと音を立てる。これがなければ、何もかも終わりだ。

 

やがてたどり着いたのは、大広間。パイプ。チューブ。雑多な研究物品。そして――肉塊にまみれた、いくつもの培養槽。

 

――表の月から逃げ出した、実験生物。僅かな穢れすらも吸い取らせる依り代。完全なる永遠を約束するはずのもの。その身は72時間で崩壊するはずだったが、何らかの手違いで、こいつは逃げ延びていた。やがて月の地下という地下を這い、その表面を肉塊で覆い尽くすだろう。或いは裏の月すらも。

 

無限とも思える生命力。私は目を細める。直接被害が出なくとも、同じ事。あれは穢れそのもの。入り込まれた時点で、我々は負けたようなものだ…

 

「浄化爆弾を仕掛ける」「はい」残された隊員に背後を任せ、私は最も脆弱であろう肉の隙間に、爆弾を仕掛けていく。穢れたるものは素粒子まで分解される。我々玉兎すらその限りではない。真の月人以外を悉く殺す――否、根源から消し去る――恐るべき兵器だ。

 

その時だ。地響きを感じる。当然か。此処を破壊されれば、もはや肉塊は真に肉塊に戻る。そう聞かされている。私は隊員に近付き、銃を構え――天井から新たに生まれ落ちる肉塊を見た。…それは今にも、隊員を飲み込まんとしていた。

 

咄嗟に私は、隊員を庇った。首筋に激しい痛み。傷は、深い。しかし、そうだ、私の行為は作戦の遂行を意味していた。隊員は震えていたが、すぐに己の役割を思い出したようだった。それでいい。彼は起爆装置を取り出し、スイッチを押――

 

タン、タン、タン。その身体が、銃弾を受け、跳ねた。我々…我の周囲を、玉兎が――並んでいた。その手に手に拳銃を構え、肉塊にまみれた顔をこちらへ向けて。肉塊は我々を知った。知り過ぎたのだ。その武器が、玉兎を破壊するのに適しているのだと。

 

更なる銃弾の雨を浴びる私は、しかしそれらをかわし、突撃銃を唸らせる。銃弾を受けた肉塊が倒れ伏す。二体。三体。四体…最後の最後で、弾が尽きた。玉兎を深く知った肉塊どもは、或いはせせら笑っていたかもしれない。私は銃を、投げ捨てた。

 

もはや手段はない。私はナイフを抜き、肉塊へ突き立てた。灼熱がそれを迎えた。戦闘服が溶かされる。それに構わず、全身を突き続ける。…肉塊の動きが、止まった。私は咄嗟に隊員の亡骸から、起爆装置を抜き取った。これを守ってくれたのだ。すまない。そして…お前はよくやった。

 

この期に及んで、命など惜しくはない。迫りくる肉塊に対し、私は呟いた。「終わりだ。お前も、私も」生き延びられるとは思わなかった。玉兎とは戦いの為に生まれ、戦いに殉じるものだ。私の命はその中の一部になる。レイセン。その名を、もはや誰も知る事はない――

 

 

 

――刹那、爆弾はコアの中で破裂した。迫りくるそれが、血を噴き上げるそれが、天を覆っていたそれが、光の中に消え去るのを見た。

 

 

 

浄化の風を全身に浴びながら、私の身体は遥か宇宙へ、跳ねた。私は既に、それを知覚していなかったかもしれない。瞳に焼き付いた光は、私の内側を粉々に破壊した。傷が酷く痛む。皆はどうしているだろう。忘れてしまった。それでもいい。私はもう、お役御免だ。何も考える必要はない…

 

 

 

――地球から夜空を見上げていたとすれば、一筋の流星が見えただろう。それは境界を越え――遥かな地上へと、落ちていった。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「――という、夢を見たのよ」ドヤ顔で締めた鈴仙の頭を、私は思い切りどついてやった。「鈴仙にしては面白い話だったわ。…つまり、面白くなかったって意味」鈴仙のアホには直接言わないと伝わらないから、そうした。次に下らない事を言い出したら、杵でぶん殴ってやろう。そう。それがいいわ。

 

「ええー? てゐならこの壮絶なスペクタクルをわかってくれると思ったのに」何がスペ…スペクトラム?…じゃい。「それにしても、なんでこんなに内容を覚えているのかしら。夢ってそういうものだっけ?」

 

…遠くで鈴仙を呼ぶ声が聞こえた。「うどんげー、ちょっと来なさい!」鈴仙の顔が恐怖に歪む。良くて叱責、悪ければ兎体実験だ。思い当たる節でもあるのか。あんたは。慌ててさらりとした乱れた髪をかき上げると、鈴仙は部屋から立ち去る。障子の角に小指をぶつけるのを、もちろん忘れない。

 

 

 

…その首筋に、僅かな傷跡がついているのを、私だけが知っている。拾ってやった、あの日から。戦いの記憶をなくしたお前は、幸運だ。幸運であっていい。幸せな記憶だけを抱えていればいい。これから、増やしていけばいい。何も思い出さないで、いいんだ。レイセン――いや、鈴仙。



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赤い兎

―赤い兎―

 

 

 

大事なものは、去って初めて気付くものさ。

 

 

 

鈴瑚と行動を共にし始めたのは単なる偶然でしかない。生き残りがいたから、寄り集まった。それだけだ。合計二人の一団。キュリオシティの一件は殆どの人妖にとってまったく意識外の出来事でしかない。鈴瑚はそう語った。だから私達は、人里に潜伏しようとした。人間の巣窟。そこが一番、紛れる。

 

近郊にあばら家を立てた。この手の工事、工作活動には慣れていた。家らしき形ができるまで、しかし鈴瑚は何も手伝おうとはしなかった。ただ紙を広げ、ぶつぶつと呟いていただけだ。こいつは何の役にも立たない。私は早々に見限っていた。所詮は事務方。サバイバルのサの字も知らぬ軟弱者め。

 

一仕事を終え、私は団子をついていた。ぺたん。ぺたん。慣れた仕事だ。…同僚にも、敵う奴はいなかった。横では鈴瑚も、見様見真似で団子を搗き始めた。手元がなっちゃいない。所詮は素人。何をするものか。私は僅かな優越感に浸りながら、愚か者を横目に、団子をついた。

 

それは供える為の団子ではなかった。私達はそれを人里に持ち込み、店屋の真似事をした。せざるを得なかった。収入がなければ野山で暮らさねばならない。一時ならいい。永久にそれをしなければならないとしたら。…嫌な事を考えてしまった。いずれは穢れそのものと化す。そんな気がした。

 

月に穢れはない。――否、私達がそうだ。僅かながら穢れを持つ種族。なればこそ汚れ仕事を与えられるし、私達はそれに服従しなければならない。月において穢れの有無は絶対的だ。決して玉兎に触れたがらない御方もいる。死を受け入れる玉兎を最大の穢れと見る御方もいる。処遇も、色々だ。

 

団子をつく音が、重なり合って聞こえる。やはり鈴瑚はへたくそだ。力ばかり入って、腰つきがなっちゃいない。つき終わっていた私は、鈴瑚を手で払った。代われ。つく。つく。つく。あっという間だ。どうしてこんな簡単な事ができないのか。顎に手を当てる鈴瑚に、私は再び優越感を覚えた。

 

…しかし、私の団子は売れなかった。いつもそうだ。鈴瑚はどうだ。今日も、金銭を携えて帰路に就く。売れ損なった私の団子は、鈴瑚が粗方消費した。私はもう、食べる気にはなれなかった。何が違う。何かが違う。私には焦りがあった。鈴瑚に負けるなんて、そんなはずはない…

 

「――清蘭は焦りすぎなんだよ」団子を口に放り込みながら、鈴瑚は放言した。「ゆっくり考えてやれば、結果は伴うはずさ」事務方の発想だな。お前は勘違いしている。兵が拙速を貴ぶのは、それが最も素晴らしい作戦だと知っているからだ。刺し貫けば、結果は後からやってくる。

 

「その考えは、いつか自分を殺すよ」脂肪に澱んだ鈴瑚の目が一瞬、真面目な光を放ったように見えた。死ぬものか。月の地を再び踏むまで、私は生き延びてやる。それが上への反発であり、私を、そして同僚の魂を救うのだ。

 

「…忘れる事を覚えようよ、清蘭。大事なのは今じゃないか」

 

忘れる。忘れる? 馬鹿な事を言うな。地上に洗脳されたお前は、既に地上の兎だ。月の兎に何を楯突くものか。私が忘れない限り、彼らはの魂は永遠だ。私が忘れてしまったら、彼らの魂はどうなる。無念はどうなる。

 

「無念を晴らさなければならない」償わせなければならない。今はその手段がない。しかし、いずれ、この私の手で。その為に我が身が砕けようとも、構うものか。

 

「…それは感傷だよ」その言葉は、私を激昂させるに十分だった。

 

「…出ていけ。出ていけ!」手当たり次第に掴んで、投げつける。座る鈴瑚。避けようともしない鈴瑚。私は首を掴んで持ち上げた。やはりそれは、真顔だった。憎い。憎らしい。お前の言葉は、お前への報復で償わせなけれならない。わかるか。わからないだろう、お前のような冷血には。

 

「…そうだね」鈴瑚が口を利いた。ようやくわかったのか。聞き分けのない奴は、嫌いだ。首から手を放す。荷物がまとめられている間、私はしかし苛立ちを隠せなかった。離ららば、どうせ野垂れ死ぬ命だ。好きにさせればいい。それでも腹の虫は収まらない。…嫌いだ。お前が。

 

あばら家は、少しばかり広くなった。もう少し小さくても十分だったかもしれない。そんな事を思いながら、天井を見る。どうせ野垂れ死ぬ。そうだ。私の力がどれだけ必要だったか、知るがいい。そして、もう二度と会う事もない。

 

――翌日、屋台を片付けていると、隣で商人らしき男が、リンゴを売り始めた。買うだけの持ち合わせはなかった。別に欲しかった訳ではない。ただ、気になっただけだ。目の前で買われて行くそれを、私は横目で見つめていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

私がいつも通りに屋台をくみ上げていると、人間が私に話しかけた。ここでの商売には許可が必要だと言った。初耳だった。…ふと、鈴瑚が弄り回していた紙を思い出す。あれが、そうか。私にそういった仕事はわからない。食い下がったが、糠に釘。取り付く島もなかった。

 

最後の米が、尽きた。食べるものも、その当てもなかった。野山に分け入ったが、この辺りには食べられる根も、草も、実も僅かしか見つからなかった。恐らくは先客がいる。私の存在など知らず、それらを持っていくのだ。苦々しいが、分けてほしいなどと乞うのは、絶対に嫌だった。

 

玉兎は頑丈にできている。あらゆる敵と戦い、勝利を得る為の存在だ。それでも、飢えには勝てなかった。身を起こそうとした。できない。身を起こす。できない。私には既にその程度の力も残されていないのか。歯がゆさと共に、私を襲ったのは、死の影。

 

私は酷く冷静だった。或いは飢えがそうさせたのかもしれない。ボロ屋の天井を見て、思いを巡らせた。何も良い事のない命だった。厳しい訓練を受けた同僚は、僅かに打ち解けてきたと思った同僚は、皆、死んでしまった。月に置いてきたものがないだけ、少しは幸いなのかもしれないが…

 

イヤーデバイスに僅かなノイズが、乗った。味方の接近を知られてしまう、ただの不具合だ。だったはずだ。「清蘭」耳がそちらを、向いた。「一人は寂しかったろ」哀れむのはやめろ。私はここで死ぬのだ。穢れの中に沈むのだ。もう帰らない。もう還れない。私はもう、疲れた。一寸、眠らせてくれ。

 

「死にたがるのは、腹が減っているからさ」鈴瑚はリンゴを取り出した。慣れた手つきでそれを切り刻むと、それを私の口に触れた。私は口を開かなかった。「食べろとは言わない。生きたいなら、食べてくれ」兎を模した切り口。赤い兎。浅葱色とは似ても似つかない。赤い兎など、この世にはいない。

 

「食べないなら、食べちゃうからね」リンゴは引き戻された。鈴瑚の口に、それは放り込まれる。私は苛立ちを感じた。目の前でリンゴが消えていく。私には一つたりとも得られなかった、それだ。腹が立つ。お前は見せつける為にここへ来たのか。腹が立つ。一発殴り付けてやりたい気分だ。腹が立つ…

 

「怒りなよ、清蘭」最後のリンゴを口に放り込み、鈴瑚は口から放言した。「怒るって事は、生きたいって事だろ」鈴瑚は鞄をまさぐると、中からもう一つのリンゴが現れた。「一発ぶん殴りたいって顔してるよ、今」慣れた手つきでそれを切り刻むと、それは私の口に触れた。

 

私は口を開き、咀嚼した。赤い兎が私の中で、砕けた。私が生きている限り、彼らの魂は共にある。なればこそ、生きねばならないと思った。

 

「お前を殴り付けてやりたい」私は腕を持ち上げた。残された力は僅かだ。肩を叩くのが精々だった。「そうしたいなら、そうすればいい。そうできるまで、死ぬのは置いておいてさ」

 

鈴瑚の手が、静かに顔を撫でる。涙を拭う。…私は泣いていたのか。どうして。考える間もなく、リンゴが付き出される。咀嚼する。私には今、この仕事しかできないのか。もどかしくとも、今はまだ、身体を動かせはしなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――愛想が悪いなら、良くすればいい。難しいかもしれないが、鈴瑚がそうしているのだ。私にできないはずがない。…その日、二人の団子屋は、かつてない盛況の中にあった。なんだ、簡単だったのか。自分でもわかるほどに硬い笑みを浮かべながら、私は団子を手渡していた。

 

「もうかった、もうかった」

 

紙幣を数える鈴瑚を横目に、私達は歩いていた。夕暮れ。昼と夜とが交わる瞬間。私にも少しばかりの哀れみがあったのだろうか。これをするなら、今しかない。「鈴瑚」背に回り、私は呟いた。間抜けは金勘定を中断し、こちらを向き――

 

振り返った鈴瑚の顔を、思い切り殴ってやった。「あの時の分」血が飛んだ。苦笑いを浮かべる鈴瑚を見下ろしながら、顔を指した。「私を殴れ」刹那、飛び上がった鈴瑚は私の顔に、思い切り蹴りを入れた。再び、血が飛んだ。「これでおあいこ、かな」起き上がりながら、私は頷いた。

 

鈴瑚の手が、私の手に触れた。振り払っても良かった。しかしなんとも、柄にもない事をした。「清蘭」手を優しく、引かれる。「これからも、一緒に居よう」今思えば、私は頷かされたように思う。その場の雰囲気に飲まれたのだ。そうに違いない。そうでなければ、あまりにも…軟弱だ。私は。

 

手を繋いだ私達は、赤い赤い夕陽の下、歩みを進めた。私も、鈴瑚も、赤い兎だった。



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夜と昼

―夜と昼―

 

 

 

お前の為だったら、私はなんだってやれるさ。

 

 

 

「昼間を夜にするには、どうしたらいいと思う?」

 

霊夢の言葉の意図が掴めなかった。「おうなんだ、なぞなぞか? そいつは簡単だぜ。時計を一周させればいい」私の軽口を聞いているのかいないのか、霊夢は如何にも気だるそうだ。まあいつもなんだが。こいつはオンオフのスイッチが極端すぎる。

 

「…真面目に聞いてるのか?」霊夢は茶をすすりながら、私の方を見た。「真面目な話よ。幻想郷全体にとってのね」私も茶をすする。こいつは薄いな。ちょっとばかり貧してると見える。「全体ったって広いぜ、どのくらいだ」「…全体よ。隅から隅まで」こいつの意図は、やはり計りかねる。

 

「私は短気なんだ。物事は結論から話すもんだぜ」私は倒れ込み、ぼやいた。「…最近、昼間に夜が現れるのを知ってる?」「昼間の夜か。そいつは初耳だな」「あまり表立っては喋れない話よ。人里でもそれは見つかっている」霊夢の顔はぼんやりしているが、とりあえず本気なのは分かる。

 

長い付き合いだ。これはオンスイッチが入りかけの顔。倒れれば、異変解決モードに入る。そうなったが最後、こいつの暴虐は、まあ誰にも止められない。「だいたい人の高さくらいの四角い、夜。その中に足を踏み入れた無謀な人が一人、いなくなってしまった」茶をすすった。やはり薄い。

 

「妖怪の仕業だろうな、それは」頭を掻く。わざわざそんな話をするという事は、どうせ原因がわかっていないんだろう。しかし不可解だ。里の中で人間に危害を加えたとあっては、紫とか、そういうやつらが黙っていないだろう。明後日あたり、死体で発見されました…てな最期を遂げると思うぜ?

 

「それが、紫もよくわかっていないらしいのよ」霊夢は茶をすすった。薄いだろうに。「今の所、妖怪の仕業かどうかもわからないわ。夜はふと現れては、すぐに消えてしまうから、見つけるのも一苦労。例え捉えたとしても、すぐに逃れてしまう」茶を飲み込む。薄いお前とは、さよならだ。

 

「引きずり込まれるのはリスクが高すぎるから、実質誰も夜には手出しできてないの。紫が式神を飛ばしていたけれど、中からは何の声も聞こえず。式神も結局帰ってはこなかったそうよ」神妙な顔で頷いてみせる。いや、別に深く考えている訳じゃないが。

 

「中々ブルっちまう展開だな」霊夢の顔が、変わってきた。誰だ、こいつのスイッチで遊んでいる奴は。少なくとも私じゃないぜ。おかわりをせがもうとして、止めた。薄いお前さんと再会しても、私はどうにも歓迎しかねる。「手の打ちようがないのは、癪だわ。普段なら殴れば片付くのに」

 

「…なあ、一つ疑問があるんだが」ひょい、と腕を広げてみせる。「何で"夜"なんだ? "闇"の方がスッキリするのに」霊夢は宙を指差した。「星が見えるのよ。その中には」「星って、あの星か?」私も指差し、答えた。昼間に星は、まあ見えない。視認できないだけだ。星はいつもそこにある。

 

「まるで夜を切り取ったようにね」なかなかローマンティックな事を言うじゃないか、お前。「なるほど、理由はわかった。…それで、星ってのは何処を写しているんだ?」霊夢は一瞬きょとん、としたようだった。「知らないわよ。星なんて全然わかんないし」そうだろうな。その点、私は強いぞ?

 

「夜が発生している所に出くわす事ができれば、たぶん星空が見えると思うんだ。なんとか都合してくれないか、霊夢」「…いいけど、あんたは何を考えてる訳?」じっとりとした視線が、私に注がれている。やめてくれ。照れるだろ。「星が見えれば、それが何処かわかる」私は再び、天を指した。

 

「もしかしたら、夜を操っている誰かの居場所がわかるかもしれないだろ?」私は胸を張って見せた。どうやら誰も思いつかなかったらしいからな。魔理沙様がパイオニアだ。「そうね…そういう手段は考えた事がなかったわ」褒めてくれてもいいんだぜ? 「紫に連絡を取るわ。すぐに」

 

「その必要はないわ」言葉の主は上半身をずるりとスキマに預け、如何にも怠惰なポーズを取る。「全部聞いてた」「プライバシーボリシーがなってないぜ」口に扇子を当て、紫は笑った。こいつは苦手だ。図々しいから。「聞いてたならさっさと手配して」霊夢の言い分に、紫は嬉しそうに笑った。

 

「そうね、その目をした貴女は、誰にも止められないものね」何となく状況を理解しながら、振り向く。そこには異変解決のプロ、静かな怒りに満ちた霊夢の顔があった。あーあ、怒らせちまった。これは近々、惨殺死体が発見されました、てなもんだぜ。こわいこわい。

 

紫の姿が、スキマに消える。「いらっしゃい。連れて行ってあげるわ」それを聞いた瞬間、霊夢は高く飛び上がると、いい角度でスキマに飛び込んだ。いくらなんでも気合が入り過ぎだぜ。私はというと、箒を持って、埃をはたいて、笑顔の練習をして…「早く来なさい」足元のスキマに吸い込まれた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

夜を探すのは、まあ難儀した。出てきて欲しい時には見つからないもんだ。紫といえども、そこらを無限に監視できる訳でもないらしい。式を飛ばして、本人は里の中心辺りで出待ち。その間私は、どうにも手持無沙汰だ。霊夢はそこら中を飛び回っている。シャカリキさんは後が続かないぜ?

 

「ヒマだな。私の自慢の箒も退屈してるぜ」まだ朝だ。眠気も来る。「貴女はね」紫はスキマを注意深く覗いている。時折狐と猫を呼び寄せては、確率だの何だの難しい話をしている。私だって確率くらいわかるぞ。のるか、そるかで半々ってやつだろ? …違うか?

 

「――見えた!」不意に叫んだ紫の声は、何故だか不穏に感じられた。「…ッ!?」夜が現れたのは、私達の真上。

 

夜が、降りてきた。

 

「いけない!」紫の手が、私を突き飛ばした。「なにおっ!?」突き飛ばされて始めて、目前の夜に気付いた。私のいた場所で、紫は、夜に飲み込まれようとしていた。

 

…紫の驚き顔を、私は始めて見たんじゃないか? 「紫!!」咄嗟に箒を差し出すが…駄目だ、箒ごと吸い込まれる!「待てよ! お前がいないんじゃ、どうしようもないだろ!!」私はこれ以上ないほどの力で、箒を引っ張った。生憎と綱引きは嗜まないが、今はそんな事を言っている場合じゃない!

 

箒がギリギリと音を立てる。死んだら供養してやるから、今は持ってくれよ、相棒! 吸引力はますます強まっている。夜の中にはスキマが出せないのか。あの賢者様が、私の力を頼りにするなんてな。私は必死になって、紫の顔を見た。「…貴女達に託すわ」確かに、そう聞こえた。

 

――瞬間、私は思い切り後ろへ倒れ込んだ。箒が弾き飛ばされる。「痛ッ!!」夜が目前で消え去ろうとしている。「おい、紫ッ!!」あいつ、自分から手を放しやがった! 私では助けられないと思ったからか? 理由はわかるが、納得はできない。そう言う事をするから、お前は嫌いなんだ!!

 

「魔理沙」霊夢が飛び込んできた。すまない。今生の別れには、少しばかり遅い。「霊夢、紫が」霊夢の手が制した。言わなくても伝わったんだろう。霊夢と紫の間にには、そういう不思議な縁がある。消えてしまった夜の前に立つ霊夢の手は、御幣が軋むほど握りしめていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――あれから数日。夜は幾度か現れたらしい。らしいというのは、私達の誰も、その姿を見つけられていないせいだ。ソースは人間の噂だけ。私は塩派なんだが。今日も私達は、見えざる夜を追いかける。いやに冷静な狐と猫が、やはり私には難しい話をしている。統計、確率…よくわからん。

 

世の中には計算機だけじゃ弾けないものもあるんだぜ。そう言ってやる気は、その実なかった。「紫様はいないが、私だけでも計算はできる」「闇雲に探すよりは幾ばくかマシでありましょう?」憮然とする狐に、軽口を叩く猫。或いはこいつらも、一杯一杯なのかもしれない。

 

その場に一種の諦観が流れていた。もう二度と紫は戻ってこないのではないか。この異変に、誰もが飲まれてしまうのではないか。楽観できる材料が何もない。こういう時こそ私が一発盛り上げてやるべきなんだが…あの時の紫の事を、私は引きずっていた。目の前で消えたんだ。責任も感じる…

 

「ヘーイ、そこなカノジョ達ー!」

 

全員が後ろを振り向いた。そこには扉があった。誰だ、こんなもの落としたのは。「よ、八雲の狐!」扉からニュッ、と手が伸びた。親指が立っている。「…これは、摩多羅神様」…あー、やっぱあいつか。二人が飛び出し、椅子を引き出す。ニヤニヤ笑いだ。この場に相応しくないほどに。

 

「八雲のがヘマこいて困ってるようなんでな、ちょいと脚を――いや、椅子を伸ばしてやった」こいつの扉は正直何がどうなっているのかさっぱりわからん。紫のスキマみたいなもんだとは思うが、どこだかドアとどこまでもドアの違いくらいはあるかもしれない。まあ今は、そんなこたぁどうでもいい。

 

「お前、ここに来たって事は、紫の代わりをやってくれるんだろ?」スキマの能力がなければ、幸運にも夜と顔を合わせる可能性はほとんどないも同然だ。こいつは大量の扉を監視していた。或いは覗きなら紫よりも役に立つかもしれない。…そう思っていたんだ、この時は。

 

「ん? 私は手伝わないぞ?」そいつは如何にも尊大な態度――紫とは別ベクトル――で言った。この場の全員が、隠岐奈の方を見た。手下の二人すらも。奇妙な沈黙が場を支配していた。先陣を切るのを、誰もが嫌がっていたみたいだ。私だってお断りだ。誰か喋れ。誰か。

 

「君達がこの異変を解決できると、私は信じているからね」沈黙を解いたのは、こいつ自身だった。何しに来たんだお前。「アデュー!」珍妙な挨拶と共に、そいつは手下の二人に押されながら、扉の中に引っ込んでしまった。マジで何しに来たんだお前。

 

――それに始めて気付いたのは、霊夢だった。「…夜が来た!」やにわに飛び上がり、指差した。「皆、こっちを見て!」全員がそれに従った。霊夢のそれはとにかくよく当たる。紫がいない以上、こいつのカンだけが頼りだと言ってもよかった。

 

「酷い有様だわ」探しものはなんですか。…夜だ。夜がそこら中にある。そうそう踏み込むものもいないだろうが、危険なのに変わりはない。「手分けして見張るしかない」狐が言った。冷静な判断だ。いくら計算機を回しても、今はその答えしか出ないだろう。霊夢はとっくに飛び出していた。

 

「行ってきまーす」回転しながら、化け猫が飛び去った。そこらの化け猫を――動員できるのか、あいつ?――集めれば、それなりに役立つはずだ。「私も行く」飛び去った。あいつは里の人間にも比較的顔が利く。主に豆腐屋にだが。耳目を集める事はできるだろう。

 

私も、夜のある場所へ飛ぼうとした、したんだが…少しばかり、疑問があった。…ひょっとしてあの中には、紫を飲み込んだ奴が混じっているんじゃないか? ――もしそうだとすれば、何とか助け出す事もできるんじゃないのか? 今の私達には現状を打破する手段がないんだ。それなら…

 

「そう、その通りだ。中々鋭いじゃないか、キミィ」あまり聞きたくない声が、私の耳に不法侵入した。「闇雲に探していたら、一生見つからんかもな。いや、見つからん。お前には無理だ」何が言いたいんだお前。なんでこう賢者ってのは迂遠なんだ。こちとら脳に通訳なんていないんだぞ。

 

徐に扉が現れる。「これは八雲の取り分だ。お前達のじゃないぞ。本当だぞ」別の扉から現れた二名と一名が、顔だけ出してうそぶいた。…このツンデレ野郎が。だがしかし、利用できるものは利用させていただくからな。私は急いで扉に飛び込み――目の前に、夜が見えた!!

 

慌てて周囲を回る。四方から夜の星を見て、私はそれを理解した。それは、私がよく見る星空と瓜二つ――いや、ほんの少しだけズレているように見えた。アバウトだが、その方向にあるのは。「…人里だ、畜生!!」つまり下手人は、この人里の中に潜んでいるに違いない。

 

怒りと共に、ふと私の中に再び疑問が浮かぶ。夜は夜。暗いものだ。人間は、それらを効果的に明るくする手段を手に入れた。電灯だ。光の中で、夜は払われる。…ならば、強い光でそれを照らせば、どうなる? ――ひょっとして、ひょっとするんじゃないか?

 

「近くにいる奴は、目ぇつぶっておけよ!」思い立ったら即行動。それでこそ私だ。丁度良い塩梅に、その小瓶は私のポケットに入っていた。何かしら役立つかもしれないと思ったが、私のカンも、たまには当たる。はずれたらはずれたで、何度でもやってやるだけだ。

 

「グラウンドスターダスト!!」

 

叩きつけた小瓶から、眩い光が放たれた。しばらくは持つはずだ。私は手の隙間から、夜を見て…光の中に、紫の影が見えた。何処からか飛び込んだ霊夢が、それを攫った。――夜は消えてしまったようだった。私は少しばかり疲れて、尻持ちをついた。少しだけだ。別にもっとやれたんだぞ。

 

紫はしばらく呆然としていたようだが、霊夢の問いかけには反応していた。やがて顔がシャッキリすると、霊夢の手を取って、頷いた。こいつらの間にあるなにかとやらに、私は少しばかり嫉妬する。…おっと、そんな事を言っている場合じゃないんだった。

 

私の視線を察したのか、紫はピースを作って見せた。私もそれに倣った。託された分、返せたかよ。そう聞く必要も、聞く意味もなかった。

 

「おーう、八雲の。今回は迂闊だったな。このドジっ子め。ははは」ヌルリと扉から現れた椅子が、紫に近寄り、肩を組んだ。「…そうね」紫はやれやれ、といった顔で、それを引き剥がす。…お前ら、実際どんな関係なんだ? ひょっとして、付き合ってたのか?

 

「つれないなー。これでも心配してやったんだぞ?」「はいはい、ありがとう」奴は紫の腰に手を回そうとしている。従者が軽蔑の目で見てるぞ、お前。「まあ、それは置いておくとして」置いておける犯行でもないだろ。「頑張れ。私の期待を裏切るなよ?」言われなくても、そうするさ。

 

「とにかく、やってやるしかないぜ」星と光の魔法は、如何にも私の得意分野だ。「弱点がわかった以上、この勝負、私達のもんだ」私は箒に跨り、飛び上がった。霊夢も。紫はスキマから式神を取り出す――首根っこを捕まえるとか、猫と扱いがかわんねーな――と、彼女らは四方へ散開した。

 

「そら、消えちまえ!!」きらめく星が叩き込まれた夜は、ぶるりと震え、消え去っていく。…霊夢の方はどうだろうか。あいつ、レーザーは苦手じゃなかったか。…雑念を温める暇もなく、次の獲物が目に入る。私が放ったレーザーが、大きめの夜を二つばかり消し飛ばした。

 

調子がいいな。この分なら、さっさと全部消し去って、自分へのご褒美にバカンスと洒落込めるぜ。「魔理沙!」目前の夜に星屑輝く箒をぶつけてやった時、霊夢が飛び込んできた。「上を見て、あれ!」どうした、上なら飽きるほど…「うわぁ」バカンスはお預けだ。仕事の予約が入っちまった。

 

里の中心、上空辺りに夜が浮かんでいた。大きい。小さな家くらいはあるだろうか。そいつは音もなく落下し、人里の一角を飲み込もうとしていた。周囲に人間の姿はない。先んじて藍が避難させたらしい。そいつは有難い。何の気兼ねなく最大火力をぶち込んでやれる。

 

「大漁旗を掲げたくなる大きさですねぇ」「何とでもなるはずさ。そうだろ、霊夢?」お札を光条に変えながら、霊夢は頷いた。こいつの怒りは今にも大爆発しそうだ。「各自で攻撃して破壊できるとは思えないわ。火力を集中して。あなたが頼りよ、魔理沙」おう。…いいもんだ、頼られるってのも。

 

紫が、藍が、橙が、多数のレーザーを一点に集中させた。その周囲をお札が螺旋状に舞い、より深くへ食い込もうとする。何処からともなく放たれた、知らないレーザーが後押しした。照らされていく。夜が裂ける。その隙間を確認すると、私はとっておきを…放った!!

 

「――いくぜ、マスタースパーク!!」

 

光の本流が、喰い込んだ部分を二つに裂いた。頑固な夜が一瞬、強く揺さぶられたように見えた。そいつは墜落するように人里へ倒れ込み、…すっ、と消えてなくなった。全員が残心しながらも、ちょっとした達成感に浸っていたようにも思う。

 

「どうだ、魔理沙さんもやるもんだろ。へへ」「謙遜しなくていいのよ。調子に乗りなさい」如何にも怠惰にスキマにもたれかかった紫が、私を調子に乗らせる。「やるじゃない、魔理沙」おう、どうしたんだお前ら。私のおだて殺す気か? そうなんだろう。ハハハ。

 

「おう、お疲れさん」足元に小さな扉が現れると、隠岐奈がニュルリと現れた。どうなってんだよソレ。…さっきのレーザーは、お前の仕業だな? 手を出さないと言っておいて、結局面倒見はいいって訳だ。かといって尊敬できるかと言えば、…普段の行いが悪いとしか言えないぜ。

 

――やがて、最後の夜の消滅が確認された。式神を隣に立て、紫は夜に囚われた時の事を話し始めた。吸い込まれた瞬間から、意識が曖昧になった事。酷く眠気を誘われた事。逃げなければという感情すらなくなった事。そして、夜は己に、形容しようもない安らぎに与えていた事。

 

「ただ一人、暖かな夜の中に取り残されているようで…そこに、何らかの意思は感じられなかった。ただ星があり、足元に人里があった」それなら、内側に星があるのも納得できるかもしれない。夜ってのは時に安らぎの時間だし、夜空には星が浮かんでいるものだからな。

 

「そう。恐らくそれは夜の闇そのもの。自然なる不自然。すべてを覆い隠さんとするもの。…意志を持たず、捉えられないのだとすれば、これを完全に滅ぼすのは難しいわね」私は結論を急いだ。要は、夜自体が敵なんだな? 「ははは、私には最初からわかっていたぞ」帰れよ尊大椅子野郎。

 

「あの時私は、夜の人里を、とてもとても高い所から見下ろしていたわ」…そうか。そういう事か。「そいつらは、里の上空にいるんだな?」それなら説明がつく。私が見たものと、紫の見たもの。「…つまり、どういう事?」霊夢がぼやいた。「夜は、降りてくるって奴さ」霊夢は更に怪訝な顔をした。

 

「…なあ、あの夜は、昼間しか姿を現さないんだよな?」私は問う。「今の所は、そうね」紫の視線が、私に注がれる。「そして強烈な光で照らされると、消えてしまう訳だ」「…つまり、何が言いたいの?」霊夢の視線が、私に注がれる。その他大勢も。いいぞ。良い感じに視線を集めてやった。

 

私は少しばかりもったいぶって、喋る。

 

「夜を、昼間にすればいいんだ」

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

夜を隠すには、夜空。そう言う事だ。一度は飲み込まれた紫が、それを肯定した。奴らは昼を夜中にしようとしている。ならば、夜中を昼にすればどうなる? 夜空に隠れた夜は、片っ端から消えてしまうんじゃないか? …霊夢が頷いた。紫も。尊大椅子野郎は紫にセクハラしている。殴るぞお前。

 

そうと決まれば行動だ。私と霊夢は、阿求の屋敷に飛び込んだ。何彼は無視する。今は非常事態でな。生憎と私には耳がないんだ。「おい、阿求! いないなら返事してくれよ!!」私の言葉は聞こえたはずだ。しばしの間を開けて、至極迷惑そうに部屋から出てくる。悪い悪い。火Qの用だ。

 

「――里の人達を。できる限り外へ避難させて。場所は任せるわ。何か聞かれたら、里の上空で花火大会だ、とでも言っておいて」霊夢の目は、鋭かった。「全員は無理よ」阿求の言葉は尤もだった。「それでも構わないなら、協力するけれど」そうしてくれ。私には手伝えないからな。

 

「私達は人間達の警護に当たるわ」紫が霊夢の肩を叩いた。「デリカシーのない妖怪が割り込んでくるかもしれないし、もしかすると――夜とも、戦う事になるかもしれないわね」霊夢は頷き、御幣を手元で回した。こいつはここ数日、ずっと臨戦態勢だった。

 

さて、魔理沙さんの仕事は、花火役をかき集める事だ。知人の知人の知人を頼って声をかけまくったら、さほど苦労なく集まった。魔法使いは変わり者も多いが、案外義理堅いのだ。方向性がアレなだけで。死んだら魔法薬にしてあげる…なんて告白は、流石の私もご遠慮するぜ。

 

後は出無精だ。いくら嫌がっても駄目だぜ。お前のご友人はノリノリだったからな。…今作戦はシンプルだ。光の弾幕に自信のある奴は各自の仕事をして、得意でない奴はガスを補給する。可能な限り、空を光に染める。昼間の夜は、夜の昼間に打ち消されて、消えてしまうはずだ。

 

奴らは人里の真上に陣取っている。なればこそ、人里の空を光の弾幕で埋め尽くす。いささか分の悪い賭けだが、これ以上の策は誰も提案できなかった。夜の出現頻度が高まり続ける以上、放っておけば里は大混乱になる。それなら、先制攻撃だ。手の速さは頭の速さとも言う。今考えた。

 

ふと、集まった魔法使いの中に成美とアリスの姿を見て、高く手を振った。魔法使いの本懐だ。頑張れよ。こういう時の為に魔法使いがいる訳じゃないが、魔法使いの為にこういう状況はある。恩を返す。力を試す。或いは積年の恨みを晴らす。動機は色々だ。一口に魔法使いと括れるもんじゃない。

 

――やがて、夜はやってくる。里の人間はほとんど避難――というか、物見遊山だな――外の緩やかな斜面に集まっている。移動販売までいやがる。それを横目に、人里からやや離れた空に、私は浮かんでいた。花火と、夜の様子を確認しなければばならないからだ。それに、もう一つ仕事はある。

 

ドンドン、ドン。弾幕の花火が上がり始めた。個々に趣向を凝らしたそれは、如何にも人目を引いている。次々にそれは上がり、空をうっすらと光に染めた。まだだ。まだ全然足りない。入れ替わりで更に大きな花火が上がる。激しい連発に、空が光を増す。まだ、まだだ。もっともっと。

 

「…!」花火で照らされる中に、暗幕めいた不自然な影が浮かび上がる。それはまるで剥がれ落ちるように、私の視線の先で、消えた。いくつも連鎖し、剥がれては力尽きたように落下し、消える。花火の瞬きと共に、それは徐々に広がっている…!

 

「効いてるぜ! 見えてるかパチュリー!!」「…見えてるし、聞こえてるわよ」出無精が口を利いた。こういう仕事には一番向いていると思った。私が何か見逃しても、お前なら見逃さないだろうしな。「用がないなら念話は切るわよ」「おう」その直後、空に光り輝く月の華が咲いた。

 

隠岐奈もここぞとばかりに猛烈な数の花火を上げている。自分の顔の形の花火だ。後ろの連中が踊っている限り、こいつは打ち続けるんじゃないか。目立ちたがりもここまでくると病気だぜ。まあ、実際役立っているんだから、放っておくに限る。

 

…駆除作戦は順調だ、しかし、後どのくらい残っているかはわからない。その為に、私がいる。目となり耳となり、そしてすべてを終わらせる為に。最後の仕事を片付けんと、私は人里へと飛んだ。一度だけ、振り返った。お前は今どうしているだろう。二度は、振り返らない。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「意志はないって言ったわよね!?」お札を光に変えながら、紫を睨んだ。「ないわ!」スキマから光を放出しながら、あいつは答えた。数は多くないが、なにしろ神出鬼没だ。静かに人が消えて行ってもおかしくはない。今でこそ皆は花火に気を取られているが、それもいつまで持つか。

 

現れる。消し飛ばす。現れる。消し飛ばす。方々を飛び回りながら、これをやるのだ。重労働である以前に、責任重大だ。人間をやられたとあっては、博麗の巫女の名折れだ。それはどうしたって防いでやる。現れる、消し飛ばす。現れる。消し飛ばす…

 

「恐らく、大勢の人の気配に吸い寄せられているのよ」二枚抜きを決めながら、紫は言った。「むしろ好都合だわ。何も遮るもののない斜面なら。花火の光が良く届く」実際、現れた夜はどれも息も絶え絶えといった様子で、私でも簡単に片づけられていた。

 

――少しばかり、油断していたかもしれない。それを発見した時、私は見間違いを疑った。紫もそうだったのではないか。

 

「…なにあれ」咄嗟にお札を投げつけた。それは何の反応も示さなかった。大きい。人の高さどころではない。ちょっとした塔ほどの高さに、それに比例した横幅。切り取られた夜どころではない。夜が私達を、切り取らんとしている。

 

ありったけのお札をぶち込む。可能な限りの光弾が叩き込まれる。しかしそれは、微動だにもしない。花火に照らされながら、未だに形を保っている。こんなものが人々に近付いたらどうなる。パニックを引き起こすだろう。どれだけの行方不明者を出すかも分からない。

 

押し返せなくなったら、終わりだ。私は、紫は。ジリジリとにじり寄るそれを睨み、戦い続けるしかなかった。最後のお札が切れだ。アミュレットを飛ばすが、手応えはなかった。紫も随分と消耗しているようだ。光を放つ間隔が目に見えて遅くなっている。それは、人々の真上へと、移動しつつあった。

 

「…早くしなさいよね、魔理沙!!」

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

 

やがて空も落ち着いてきた。それはつまり空席ができたって事だ。トリを務めるのは、私、魔理沙。羨ましいだろ? この夜空を私色に染め上げてやる。人里で一番高い屋根に着地した私は、魔法薬を取り出し、一息に呷る。魔力が高まると同時に、身体が崩れ去るかような反動が、私を襲った。

 

「…こいつは、キツイな…」身体が持つだろうか。持つに決まってる。私は魔理沙だぞ。こんな所で終わるタマじゃない。自分を鼓舞する。しなけりゃならなかった。内心は怯えちまってたんだ。…その時だよ。頭の中に、お前の顔が浮かんだのは。

 

「おう。わかってるぜ、霊夢」八卦炉を掴んだ。お前も持ってくれよ。魔砲に集中する。一発。一発だけだ。一発にすべてを賭ける。周囲に風が渦巻く。魔力の奔流が私の汗を拭った。タイミングだ。機を逃すな。――私を巡り回る一撃の力を、掴み…取れた!!

 

 

 

「これが私の全力だッ! 受け取れ、霊夢!!」

 

 

 

――夜空に巨大な光条が現れた。星屑を纏ったそれは何処までも、何処までもとばかりに天を衝き、余波が周囲を煌々と照らしている。特大の花火だ。地の底を照らすほどの。夜中の昼。そう、七色の昼だ。人が見た。妖が見た。古道具屋の店主が。娘を案ずる父が。…そして、霊夢が見た。

 

光条は無限とも思える星を散らし――やがてそれは、見えなくなった。…素晴らしい、花火だった。

 

 

 

「――駄目だな、これは」どのくらい気を失っていたか。身体が引きちぎれた感じがする。実際何処かが吹き飛んでいても驚かない。拾って帰りたい奴がいるなら、今なら詰め放題、398円だ。「…いかん、幻覚まで見えてきたな…」そこにあるのは、あいつの顔。手を伸ばしたら、消えてしまった。

 

…どうやらお迎えが来たらしい。私の事、忘れないでくれよ。…さもなけりゃ、みんな祟ってやる。私はしつこいんだからな…

 

「祟られたくはないわね」再び霊夢の姿が浮かぶ。…今度は喋るのか。高性能な幻覚だな。「考えてる事、みんな口から出てるわよ」幻影は私の頬に触れると、私の身体を抱え込んだ。「軽いのね、あんた」うるさいな。幻覚の癖に。「ほら、帽子」私のトレードマークが、頭に帰ってきた。

 

「この際、幻覚でもいいじゃないの。あんたが生きてて良かった。それでいい。…ずっと心配してたんだからね」霊夢の幻覚は、私を抱えたまま飛翔していた。眼下にちらりと魔法使い達が見えた。お前らもやりきったじゃないか。それは勝利に湧き、一部はアンコールとばかりに花火を打ち上げていた。

 

「幻覚さんよ、私は何処へ行くんだ?」これは幻覚ではない。生身の人間だ。お前も、私も。「当機は博麗神社方向に向かっておりますが、目的地を変更いたしますか?」霊夢はおどけた調子で、私に問うた。「…いいや、そこでいいぜ」どうかすると、自分の家より居心地良いからな。お前の神社は。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

それから…昼間の夜は散発的に現れはしたが、個別に対処している内に、噂を聞く事もなくなった。自然の不自然は正されたんだろう。行方不明者も、何処からかひょっこりと戻ってきたそうだ。夜に飲まれていた時の事は覚えていないようだった。パニックホラーとしては、まあありがちだな。

 

「えらい事だったな」「そうね」顔を見合わせて、霊夢は微笑んだ。異変解決のスイッチは、オフだ。何かしら起きない限り、当分はこのままだろう。「今度あんなことがあっても、あんな無茶しないでよね」ご機嫌だな。お前も、私も。そっと隣り合って、肩を寄せた。

 

「お前の為だったら、私はなんだってやれるさ」…ちょっとばかり、恥ずかしい台詞だと思った。口から出てしまった以上、クーリングオフはできない。「そうね、私も…あんたの為なら、何をしてあげてもいいけど」恥ずかしい台詞だ。私の隣で。さてはお前も、悶えているな?

 

あーあ。お互い、クサい台詞を吐いてしまったもんだぜ。帽子の縁を持って、私は顔を隠した。お前はそっぽを向いた。見られなくなかったんだ。お互い、今だけはな。

 

 

 

今日は良い日だ。明日もそうあって欲しい。二人でなら、永遠に続いたっていい。肩を抱きながら、限りある命が二つ、そう思った。



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兎狩り

―兎狩り―

 

私達は、追われていた。

 

『…清蘭、そっちは?』『大丈夫、今の所は』私達はイヤーデバイスを通して、思念をやり取りしている。暗号通信の周波数はいじってあるが、それもいつまで持つかはわからない。『先制攻撃を掛ける余裕は?』『今の内なら』つまり、今を逃せば二度はないという事だ。『やる』『オーケー』

 

『西に孤立した部隊が一つ。たぶん三人だけ』『わかったよ清蘭。そいつらを襲おう』私は挟撃すべく、清蘭とやりとりをした。

 

…鼻歌が聞こえる。玉兎の本来の性質はいい加減なものだ。茂みに潜んだ私の姿を、そいつは確認すらしなかった。まだだ。まだ一人。後続の三人目を狙う。二つ。何事もなく通り過ぎた。三つ。…こいつは少しばかり真面目だったかもしれない。茂みを見られる前に、私は行動を起こした。

 

「こっちを見ろッ!!」私は声を張り上げ、玉兎にソバットをお見舞いした。起き上がろうとするそいつを踏みつけ、黙らせる。私の声と、暗号通信の不通を不信に思ったのだろう、二人の玉兎が注意深く近づいてくる。私は再び茂みに隠れ、機を伺った。ここで失敗すれば、不味い事になる。

 

――今だ!「ウオーッ!!」倒れた玉兎から突撃銃を奪い取ると、残る二人に向けてむやみやたらに撃ちまくった。当たらなくてもいい。狙いをこちらに向ければ十分だ。『下がって!』私は突撃銃を捨て、背後に向けて転がり込んだ。二人が物陰から顔を出す。一瞬油断した、その時だった。

 

『――これでもくらえ!』清蘭の思念と、目前の二人が異空間からの狙撃に倒れたのは、ほぼ同時だった。死んではいない。このくらいで死ぬほど、玉兎は繊細にできちゃいない。『やったね鈴瑚』『ああ、清蘭はよくやったよ』私達は僅かばかりの健闘を讃え合うと、玉兎から装備を剥き始めた。

 

最初からこれが目的だ。敵に偽装して、奴らの目をくらます。「見て鈴瑚、似合う?」この制服を着るのはいつ振りだろうか。「似合うよ、清蘭」少しばかりはしゃいでいる清蘭を横目に、私は次を考えていた。今の状態は、あくまで急場しのぎ。このままふらついていれば、すぐバレるだろう。

 

…ただ逃げるだけでは、永遠に追われる身だ。もう"二度と"、私達が追われないようにしなければ。『その為に、私達は死ななきゃならないんだ』通信の向こうで、清蘭が笑った『あいあい、派手に散って見せましょう』私達はしめやかに森の中を進んだ。巡回の間に、若干の隙間ができていた。

 

途中、幾度か敵にぶつかりそうになったが、彼らは暗号通信に頼り過ぎている。目視は甘かった。私達はできるだけ通信を控え、着実に進んでいった。目的地は奴らの前哨基地。そこで私達は――「鈴瑚、ちょっと」耳元で囁いた清蘭が指差した先には――赤いコートマフラー。…鈴仙がいた。

 

「…!?」どうしてこんな所にいるのかは知らないが、まずい。あいつの波長を操る能力は未知数だ。高性能なレーダーになるのは知っているが、もしやこちらを既に気取られているのではないか? 私達は息を殺し、彼女を見た。一秒、二秒、三秒。――鈴仙は、背中を向けた。

 

『どうする』『どうするったって…鈴仙よ?』清蘭は戸惑っているようだった。しかし、ここを抜けられないなら非常に遠回りをしなければならなくなる。その間に朝になれば、見つかってしまう可能性は跳ね上がる。私達はゲリラだ。ゲリラにはゲリラの戦い方しかできない。

 

『…迂回しよう』それでも、兎仲間を倒してしまうのは気が引けた。――いや、逆に倒されてしまう公算が高かった。私達との相性は、かなり悪い相手だ。静かに後退する。鈴仙はまだ背中を向けたままだ。後退する。もう藪を抜ける音も聞こえないだろう。私達は急ぎ、敵の通信を傍受した。

 

『どうやらあの時の連中が見つかったらしい』『裸に剥いた連中?』『…もっと言い方ない?』これで警戒は厳しくなるだろう。私達の移動経路も、推測できない訳ではない。指揮官が聡明であるなら…難しいかもしれない。今の所は出し抜けている。それも単なる幸運かもしれないのだ。

 

――いたずらに増える部隊を、上手く迂回できた。もう少し進めば、指揮官の天幕があるはずだ。それを密かに制圧すれば、敵はまともな統制が取れなくなるだろう。あわよくば指揮官を捕える事もできるかもしれない。その間に私達は――死ぬ。死ななければ、活路はない。

 

天幕の周囲には誰もいない。通信も飛ばなかった。あまりにも無防備すぎる。私達はしばらく警戒していたが、ずっとそうしている訳にもいかない。しめやかに広場へ進む。私達は己の得物を構え、天蓋の中に突き付ける。誰もいない。…いや。それは天幕の真ん中、暗闇の中に、いた。

 

椅子に座る姿が、一つ。――月人だ。この戦いに、月人がいたのか。

 

――瞬間、辺り一帯から凄まじい数の玉兎が現れた。…しまった、敵の数を見誤った。30…いや、40人はいるだろう。たった二人に対して、どれだけの戦力を投入してくるのか。或いは月人の権力で好きなだけはべらしていたか。どちらにしても、敵う相手じゃない。

 

『一人辺り、20人』『ちょっと厳しいわね』『そうか。私もそう思ってたんだ』足を踏みしめ、奪い取った突撃銃を構える。銃口は少しばかり、震えていた。向けられた銃口は実際よりも遥かに多く感じられる。死が、私達の足元にまで迫っていた。

 

「――かかれ!!」月人の命令は絶対だ。瞬間、鉄砲水もかくやと思える銃弾が浴びせられる。何とか木の陰に飛び込んだが、端から戦えるような数じゃない。非目視で撃ち返す度に激しい衝撃が襲った。下手をすれば木が削り折れてしまうんじゃないか。何か打開する手段は、手段は――!!

 

『鈴瑚!』私の側の玉兎が二体、銃を撃ち抜かれて爆発した。三の矢は…素早くかわされた。不意打ちでなければ、狙撃は難しい。清蘭に向かった半分は、私側と同じように木陰を撃ちまくっている。もう顔を出すのも難しいだろう。

 

『…やるか』『…うん』こうなる事を考えていなかった訳ではない。策もあった。――しかしこれは、ほとんど生きる目のない方法だ。清蘭の思念が頷いた。私も頷き返した。私達は懐からスモークグレネードを取り出した。以前に追っ手から毟っておいた奴だ。混乱を誘い――指揮官を、人質に取る。

 

私達は同時にそれを投げつけた。手を出すのも危険な有様だったが、それは狙い通り敵の中心で炸裂した。私達は駆けた。煙の中へありったけの弾丸を打ち込み、邪魔する奴を蹴り飛ばし、前へ、前へと駆けた。煙の中に月人が見えた。私達は同時に、その姿を拘束しようと――

 

顔を殴られた清蘭が弾き飛ばされた、私は腹を蹴られ、天幕の外へと転がり落ちた。やがて煙が晴れ、私は最後の悪あがきが失敗した事を悟った。玉兎は素早く私達を拘束し、天蓋の前に突き出した。…月人と玉兎とは、どうしようもないほどの力の差がある。

 

天幕から現れた月人が、私の顔を蹴った。「このような場所に降り立つ我が身の悲しき事よ。我は一刻も早く月に帰らねばならぬ」月人は腕を横に伸ばた。「穢れた兎よ。速やかに死ね」それが振り下ろされた時が、すなわち私達の終わりなのだろう。痛みの中で、それを見ていた。

 

銃口がこちらを向いた。穢れを滅する弾が装填される。玉兎がいくら頑丈と言えども、限度はある。私達のような"地上の兎"には、特にだ。今にそれは、私達を粉々に分解してしまうだろう。『ここまでか』『鈴瑚』清蘭の通信は、弱々しかった。『よくやったわ』『…ああ、よくやった』

 

『愛してる。清蘭』『大好きよ、鈴瑚』すべてが終わった。せめて、せめて…君と同時に死にたい。私は目を閉じようとして――天幕の後ろ、崖の上辺りで、何かが瞬いたような気がした。それは一瞬だった。私以外に誰も、それに気付いていなかったに違いない。

 

「――待て!!」

 

月人は手を振り下ろさなかった。ただ戸惑ったように手を手前で振っていた。足元がおぼつかないようだった。「いやそのなんだ、とにかく待て」月人は頭を掻きむしっていた。「――そうだ、こいつらは生かしておけ! 死んだ事にするんだ! わかったな!?」撮り落した帽子を、踏んた。

 

主人の豹変を、玉兎の多くは唖然として見ていた。しかしまあ、逆らう奴はいやしない。銃を下すと、そいつらは私達の事を見た。敵意は、特に感じなかった。

 

玉兎の一人が、手を出した。私達はその手に、自分達のホロタグを置いた。それは機械にセットされ――「おめでとう。君らは死んだ」彼はヘルメットの下で、にやりと笑ってみせた。…彼はもしかすると知人、或いは友人だったかもしれない。今の私には、それを聞き取る事はできなかったが。

 

てきぱきと引き上げ準備が行なわれる中、私達はそれをぼんやりと眺めていた。水を勧められたので、飲んだ。…よくよく見ると彼女は、私達が引ん剥いた相手だった。そこに脱ぎ捨ててきた私の服を着ていた。鈴仙の服を着た者もいた。事が終われば、水に流す…か。私は小さく頭を下げた。

 

『私達、死んじゃったね』『ああ、死んでしまったよ』そうだ。残された月の兎は死んで、新たに地上の兎が二人、生まれた。『生まれ変わった実感は?』『まだ、ちょっとわからないかな』彼女はイヤーデバイスを外して、私に言った。「でもこれで、一杯話ができるね」微笑みが、愛おしかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――崖上。ルナティックガンをスピンさせ、弾く。それは虚空へと消えた。「師匠があんなクズに私を貸し出したのは、きっとこの為だったのね」狂気に囚われた月人の背を見ながら、私は呟いた。例え正気に戻ったとしても、その時には何もかもが終わっている。

 

裁かれるべきは二人ではなく、お前だ。傲慢なる兎狩りの使者よ。

 

「汚れ仕事には飽き飽きしてたはずだけど」マフラーが風を受けてはためく。「こういうのは、まあ悪くない」見下ろす先には二人がいた。私は振り向き、手を振った。私の波長が闇に溶けていく。再び風が吹き荒れた時――もうそこには、誰もいなかった。

 

 



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私は再び、成り上がる

―私は再び、成り上がる―

 

――飯綱丸? 飯綱丸龍の事ですか?

 

やっこさん死にましたよ。私が殺しました。こんな風にね!――とはまあ、冗談ではありますが。星を撮影している内に足を滑らせたそうですねェ。それでご臨終です。いくじなしの童貞野郎でしたが、最期がこんなものとは、私も想像しておりませんでしたよ。おお、ぶざまぶざま。

 

お葬式は飯綱丸家で出されました。まあ、慎ましやかなものでしたが。成り上がって間もないのです。そういうものでしょう。お偉いさんと言えば姫海棠家くらいでしたか。あそこは極めてお人よしなので、大概の家にお悔みを出していましたがね。まあ、そういう事ですべてはおしまい。

 

…と、思っていたのですがね。私が勝手に上がり込んでお茶を頂いていた所、現れたんですよ。…オバケが。「死にぞこないましたか?」「お前、もう少し驚いたりしないか、普通?」つまらない反応を返す。これは間違いなく飯綱丸です。私はそれを上から下まで見ました。

 

「少しはイメチェンすべきですね」扇で口を隠し、笑いました。笑っている場合ではないのですが。「それで、生きていたのは結構ですが――今更という感はありますね。どうしたんです、あなた」「仮死状態という奴だ」「ほう」「一回、実際死んでいたのは確かだ」「あの世を見てきたと」

 

「その後、蘇生処置で何とか生き返ったんだが――なんだ、私の後釜が既に決まってしまったそうじゃないか」あなたがどんくさいからですがね。「参ったな、今更蘇りましたよ、なんて出ていく訳にもいかんし…」別に、ノコノコと出ていけばいいでしょう。ひんしゅくは買うでしょうが。

 

「そういう訳でだな、私はぺーぺーの烏天狗としてやり直す事に決めた」「はい?」「初心忘れるべからず、と言うだろう。下からしか見えない事もある」下から見えて嬉しいのはスカートの中くらいですよ。「そういう事で文、私の身分を偽造してくれ」「言うとは思いましたが、本気で?」

 

「ああ、私は本気だよ」まあ、そういうなら構いません。不良天狗が偽造でも肝臓でもやってやりましょう。「止めはしましたよ?」「わかっている」本当にわかっているのだか。私は飯綱丸を連れ、天狗の居所へ連れていきました。「懐かしいな」「回顧するのもイヤになりますよ、いずれ」

 

衣装は脱がせて、下級烏天狗の衣装を着せてあります。顔はとりあえずお札ででも隠しておきましょう。最近流行のファッションなので疑われる事もないはずです。「――文、見かけない顔だな」まあ、早速訊かれておりますが。「新人ですよ、ひよこ上がりの。早速ツバつけなさる?」

 

「それにしては何というか――こう、いで立ちに気品を感じるように思えるのだが」「イエソンナ、ワタクシピヨチャンデスヨ」演技が恐ろしくへたくそですね。あなた。「ふむう…?」「まあ、そういう事で。この不良天狗が案内いたしますよ」私は強引に話を終わらせ、手を握りました。

 

「あなたは大根どころか化石役者ですね」「う、うむ…」ウムじゃないんですよ。「この辺で少し待っていてください。台帳をチョチョッと書き換えてきますから」私は飯綱丸を適当な岩陰に隠すと、あまり入ってはいけない区画にですね、こう入り込む訳です。わたくし不良ですからね。

 

もちろん、見つかるなんてポカはしません。私は棚から素早く台帳を抜き取ると、飯綱丸の名前を足しておきました。贅沢な名前です。今日からあなたは飯丸蜥蜴(めしまるとか)だよ。わかったら返事しな。――まあ、この場にいないんじゃ仕方ないですがね。台帳を閉じ、棚に戻します。

 

さて、さっさと退散いたしましょう。遠足は帰るまでが遠足と――「文?」…私としたことが、後ろを取られたようです。それも最悪に近い相手に。「何してたの、文?」「あなたは知らなくていい事ですよ」振り向いた先に、大天狗の衣装を御召しになった姫海棠サマが立っておりました。

 

―――

 

  ―――

 

遅い。文は何をしているのか。…いやまあ、何かしてもらう立場でいう事でもないんだが。しかし参ったな、このままじゃいずれ――「そこで何をしている」上級烏天狗だ。見つかっちまうよな、そりゃ。「イエ、ピヨチャンハチョットソコマデ…」「そこまでも何もないだろう。来い」

 

サボリ、或いは無任所とでも思われたのだろう。上級烏天狗は下級烏天狗を統率する義務がある。要するに、持て余していればお叱りを受けるという訳だ。草々持ち場を投げ出す奴もいないが、私はまさしくそれと見られたらしい。まあ、仕事はいずれしなきゃならんのだが…

 

――連れてこられたのは飲食店だ。まだ昼前だからか。注文は散発的だ。これなら簡単だ。注文を取って、声で伝える。大声を出すのには慣れている。大天狗たるもの威厳を示せずにどうする。…そんな事を思っていたんだ。その時は。やがて昼が来る。それはまるで――暴風のようだった。

 

次から次に来店する客、客、客! いらっしゃいませも何もない。すぐにテーブルは埋まった。カウンター席もだ。そいつらが一斉に注文する。想像するだに恐ろしかったが、その時間はやってくる。うどん、ざるそば、親子丼、豚汁、アフォガート、お寿司、チキン南蛮にポテトフライ――

 

常に複数の注文を聞き取らなければならない。これが難しいのだ。何度もテーブルを間違えた。叱責が飛ぶ。…わかっちゃいる。わかっちゃいるが腹も立つ。私は大天狗だったんだぞ。お前達よりずっと偉かったんだぞ。…以前は。てんてこまいになりながらも、とりあえず私の担当は終わった。

 

「お前はもういい。帳簿をやれ」息をつく間もなく、副店長代理がドサリ、と紙束を置いた。「サボるなよ」サボりゃしないよ、と思いはするが、言葉にはしなかった。何がカチンとくるのかわかったものじゃない。…さて、帳簿か。私はそれを開いて、鉛筆と算盤を握った。首をコキコキする。

 

こういうのは得意だ。…ううむ、前任者は何をやっていたのだ。いい加減な帳簿つけおって。私はいささか憤慨しながら、それをパッパと片付けてやった。「おい、休憩だ――どうした、もう終わったのか?」茶を飲みながらぼんやりしていると、上級烏天狗が私をじろじろと見る。

 

「お前はそういう仕事の方が向いているかもしれんな。来い」かくして私は再び連れていかれる訳だ。ううむ。私向きの仕事というと、まあ限られる訳だが――まさか、そういう事なのか? 私がついていった先は。…やはりか。あらゆる財務処理を行う部署。通称をカネ地獄。

 

配置されたが最後、永遠に金勘定をさせられる。時には他部署から押し付けられた仕事もこなさねばならない。まあ、要するに私ら――もう私ではないが――へ上がる書類を作っている訳だ。大天狗はそれを一瞥してハンコを押すのが仕事だ。時に恨まれるのも無理はないが。

 

地獄への階段を一歩、一歩と上がる。上級大天狗は平然としているが、実際カネ地獄の上司は上級烏天狗だ。内心は地獄に配置されなくて良かった、と安堵しているに違いない。地獄の入り口に、受付がある。楽な仕事ではない。世間では地獄お茶汲みと――「お前、名前は」…まずったな。

 

「どうした?」今の私の名前がわからない。文がどうにかしたのなら良いが、それも私は知らない。「アノデスネ、ピヨチャンノナマエハ…」明らかにまごまごしていた。わかってはいるがどうしようもない。…あるか? この状況で。「いや、書類にあった。飯丸蜥蜴だな」

 

「アッハイ、飯丸蜥蜴デス」あの野郎、いい加減な名前つけやがったな。まあいい。危機を一つ乗り越えた。上級烏天狗は戻っていった。仲間の惨状を見たくないのかもしれないな。「入れ」地獄の扉が開いた。私は一歩ずつそこへと進んだ。煙。煙。煙草の匂いだ。空気がかすんでいる。

 

算盤と書き物の音がシンクロして音を立てている。「こっちゃ来い」居並ぶデスクの一番奥、少し高い所にあるそこから呼ぶ声がした。一切顔を上げていない。手も止まらない。なんたるプロ意識か。「空いている所に座って仕事をする」中々無理な事を言う。…とは思ったが、致し方ない。

 

私は目の前の書類を片付け始めた。確かにこれはめちゃくちゃだ。いい加減な報告に胡乱な帳簿合わせ、更に帳簿外の購入売買。下の連中のしわ寄せが上にかかっている。レシートを後から出してくる痴れ者をぶっころしたくなるのもわかるというものだ。「ガンバルゾー!」掛け声一発。

 

私は無心で書類を撃破していった。得意とはいっても専門分野ではない――が、周囲よりも倍は早いはずだ。元大天狗のインテリジェンスを舐めるな。「終わったなら次の仕事にかかる!」はいはい。私はフォルダを引っ張り出すと、次の仕事を開始した。筆が乗ってきた。手も早まる。

 

――時間が経つのはあっという間だ。壁のベルがリンリン、と音を立てた。時計はきっかり五時。私は書類を片し、伸びをした。少し休んでから帰るか。「今日はサビ残はなしだ! 帰れ帰れ!!」――と、思ったのだが、叩き出された。…というか、サビ残が常態化しているのか?

 

私が返り咲いた暁には労基にチクってやろう。そう思いながら、地獄からの階段を一歩一歩下りる。…いや、待てよ。今の私には帰る場所がないのではないか? そういえば今日の仕事で、何かしらの金銭を頂戴した覚えがない。金の持ち合わせは――多少はある。仕方ない、宿を取るか…

 

――とは思ったが、実際宿がない。ある訳はないのだが。遊行施設はもっと下だし、そこで割高な金を使うほどの持ち合わせはない。私が仕方なく向かったのは――ネカフェ。ネットのカフェと書いてネカフェ。私がそこを訪れたのはもういい時間だが、ここは二十四時間開いている。

 

それに、いくばくかは安い。個室にはハンモックがかかっている。ネットだからな。私は適当な漫画を何冊か取ると、サービスのコーヒーを持ち込んで暇をつぶした。そうしながら考える。下々の生活も大変だな。尤も、上には上なりに大変ではあるが。どちらが良いと一概には言えない。

 

漫画を返し、茶を汲んで上を見る。星は見えない。いつまでもこんな生活を続けるのかと想像すると、少しばかり嫌になってきた。これが民草の悲観というものなのか。茶を一気飲みし、ハンモックに寝転がる。まあ、いい。眠れば朝になる。仕事を続けていれば給金も出るだろう。…ああ。

 

―――

 

  ―――

 

職場の空気は最悪だ。比喩の方ではなく。私は煙草を吸わないが、これでは肺がどうにかなりそうだな。そんな事を考えながら仕事をする。あまりやり過ぎても仕事が増える一方だというのを理解した。七割くらいがサビ残にならないギリギリのラインらしい。それくらいで丁度良い。

 

「今日もサビ残はなしだ! 帰れ帰れ!!」部長が社員を叩き出す。私は窓を開けて空気を入れ替えていると――肩を叩かれた。「お前はこんな所にいるのは惜しい」ここにずっといろ、と言われると思っていたので、少々驚いた。「お前ならすぐにでも上級天狗になれる。或いは御付きにも」

 

「――それは、どういう事で?」「その気があるなら退職届を書け。退職金も出してやる」ぼさぼさの髪の下の目が、私を見定めるように舐めた。「――ここにいますよ。しばらくか、或いはいつまでも」「そうか」部長は私の手を引き、地獄から追い出した。私は部長をじっと見た。

 

辞める選択肢は大いにあったかもしれない。しかし私は、やもすればこの職場に愛着をも感じていたかもしれない。確かに忙しい。忙しいが、それは意義のある忙しさだ。方々に敵を作り、時に戦いもし、己の権力を維持する為には何でもする。そういうものよりも、ずっと意義のある。

 

―――

 

  ―――

 

――私は今、高い場所にいた。地位はどうだろうか。白狼天狗よりは高く、上級烏天狗や大天狗ほどは高くない。中途半端だ。しかし、民がいればこそ、支配者は君臨する。それを理解していない権力者はいまい。今時、弾圧などしていれば足をすくわれるのだ。ここ数十年で、山も変わった。

 

頬を、翼を、風が撫でる。平穏とは、幾多の犠牲の上に成り立っているのではないか。謂れなき理不尽に耐える者がいる。困窮するものがいる。上級烏天狗になれば、働き次第で一財産築けるだろうが、皆が皆、そのような真似ができる訳ではない。答えを出すのは、難しいように思える。

 

視線の向こうに、下級烏天狗の一団が飛んでいた。見張りの見張りだろう。白狼の監督をしている。そして彼らを、上級烏天狗が見張る。面倒臭い構造だが、この地位と区分がなければ今の社会は回っていかない。いずれはどうなるだろうか。山の老人達も、随分柔和にはなったと聞くが。

 

――私とて、成り上がって以来は上から見下ろしてきた身分だ。何を言う資格もないのかもしれない。休憩時間は終わりだ。私は地獄に向かって飛んだ。やはりあの空気は馴染めない。事ある毎に高い所へ行くのは、或いはそういう理由もあったかもしれない。風を繰り、蹴り飛んだ。

 

―――

 

  ―――

 

仕事を終え、立ち寄ったのは寂れた酒場だ。いつ来ても、客が入っている風ではない。それでも私には、このくらいの雰囲気の方が性に合っていた。借家に帰っても、結局時間を持て余すのだ。カウンター席に座り、酒とつまみを注文した。下級烏天狗としての振る舞いも次第に馴染んできた。

 

しかし、何だな。飯綱丸家はどうなっただろうか。姫海棠家が目をかけてくれると聞いたが、あそこは如何せんお人よしだ。一緒にドボン、なんて事になったら目も当てられない。…まあ、こうなった私の考える事でもないのだが。今になってあの時、出ていけなかった事を後悔もした。

 

身分を捨て、色々なしがらみから離れたつもりでも、結局それは足首を掴んで離さない。仕事をしている間は何も考えずに済む。逃げている実感はあった。しかし、私がいなければ地獄は回らないのだ。そう、私は必要とされている。それに答えるのが、今の私がすべき事だろう――

 

ガラガラ。客が入ってきた。珍しい事もあるもんだ。そいつは私の隣に座ると、つまみを注文した。わざわざ寄ってこなくてもいいだろうに、と思った。口には出さなかったが。私の注文が届いた。酒を飲み、串焼きを食む。隣にもつまみが届いた。伸びる手の先、そちらを向いた。「…部長?」

 

そこにいたのは部長だった。前かがみで、髪はぼさぼさだ。部長もこんな店――というとアレだが――に来るのか。「飯丸」部長はアイスクリームフロートカクテルを注文すると、私の方を向いた。「お前さん、今の生活に満足か」唐突にそんな事を聞かれても困る。「仕事は充実してますよ」

 

「私生活は」「そこまで聞きますか?」「…すまんな」部長はアイスクリームフロートカクテルを受け取ると、美味そうにアイスを食べ始めた。私も次はそれにしようかな…?「飯丸。…いや、飯綱丸」私は盛大にむせた。「――私は飯丸です。そんな大天狗様のようなお名前では――」

 

部長はアイスクリームフロートカクテル――長いなコレ――を一気飲みすると、再び私の方を向いた。「少々、打ち明けたい事があってな」「打ち明けたい事、ですか」まさか計算を大ポカしたとかじゃないだろうな。私は顔を青くしていた。「――飯綱丸よ」部長は再び、その名で呼んだ。

 

「私もかつては大天狗だった」ぼさぼさの髪の下の目が、私を見定めるように舐めた。「ある大天狗は私の影武者だ。誰がとは言わん。気付かれればただでは済まん」そう言うと、部長は長い髪をかき上げた。身なりの悪さを打ち消すほどの美形だった。その顔には確かに見覚えがある。

 

私は動揺していた。しかし同時に納得してもいた。今の部長は、なるほど私と似た境遇なのだと。「私は大天狗の社会に嫌気が差していた。結局それは、逃げるという最悪の形になってしまったが」部長は髪を戻し、背を丸めた。それが今の自分なのだと、或いは言い聞かせるように。

 

「上に立つものにしかできない事もある」部長は何やら封筒を差し出してきた。「大天狗の推薦状だ。もう二枚得れば、お前は大天狗になれる」考えようによっては偽造品になるがな、と部長はぼやいた。「受け取ってくれるな?」私は――躊躇った。ここに骨を埋める気は、あった。

 

「はい」それでも、部長の言う事には一理あると思った。例えば、地獄と称されるほどの待遇を改善できるのは、しようとするのは、恐らく私だけだろう。民草のギリギリの生活を持ち上げてやるのも。喜びを、怒りを、悲しみをわずかでも体験した私なら、できるはずだ。

 

「まずは上級天狗になれ。そして御付きになれば、真の身分を明かす事もできよう」封筒を私に持たせ、部長は笑った。「期待している」「…はい」私は勘定を済ませ、のれんをくぐった。私個人としては、居心地の悪くない地獄だった。…だが、多くの天狗にとってはそうではないのだ。

 

その場で書かされた退職届と引き換えに、私は退職金を得ていた。これで身なりを整えて、上級天狗への試験を受ける。私にとっては簡単なはずだ。そして――御付きか。姫海棠はどうしているだろう。私は暗い空を見上げた。曇で星は見えない。だが、前途は見えた。私は再び、成り上がる。

 

―――

 

  ―――

 

「――それで、今も飯綱丸様は行方不明なの?」事情はよく飲み込めなかったけど、あまりよくない事態なのは私にもわかった。「ええ、まあ。リードは繋いでおりませんでしたので」「そういういい方しないでよ、文」私が大天狗の地位に座って、出てきづらくなっちゃったから?

 

「飯綱丸なら上手い事やっていますよ。いくじなしでのろまな奴ですが、それでも大天狗の地位を守っていたのですから」「そうかなぁ…」「私はむしろ、あなたの方が心配ですがね」文がやれやれ、としてみせた。「何にも知らずに、政治的駆け引きだけで大天狗になったのですから」

 

「草々に足をすくわれますよ。今のままでは」…私も、そんな感じはしてた。私はそういうの、全然わからない。姫海棠家を背負って立つなんて、今の私にはできそうもないし、それを求められるのも困ってしまう。――でも、やるしかないんだ。気分だけは先走っている。実体はどうだろう。

 

悩んでも、答えは出ない。執務を片付けようと思って、私は居室に戻ろうとした。見慣れない御付きがいた。私は傍を通ろうとして――何故か気になって、そちらを見た。びっくりした。本当にびっくりしたんだ。御付き――飯綱丸様はニヤリ、と笑うと、私にウィンクしてみせた。

 



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神、名を得た神よ

―神、名を得た神よ―

 

――神社から一直線に進んだ、遠い、遠い、森の中に一つの石碑があった。祟り神を祭るものであろうそれは――しかし、名を穿たれてはいなかった。いや、掘ろうとした後はあった。僅かな傷だ。まるで石で引っかいた程度のそれは、恐らく子供の手によるものだ。足元に、骨が転がっていた。

 

恨み、つらみ。最期にこの子供は何を思っただろうか。名前を与えたかった。名前を与え、祭る事が唯一の使命だと理解していた。その無念が、祟り神を震わせた。名を与えられなかった事を恨んだ。名を得られなかった事を呪った。その本質は変じ、名前のない神として、静かな怒りを蓄えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「暑い」小鬼がぼやいた。お前が住んでた所の方がずっと熱いだろうに。「それとこれとは話が別。不快指数が高い」やれやれ。頭を剣で軽く小突いてやった。刃も立たない。まあ、人の事は言えないか。「天人様ぁ~」紫苑がふよふよとついてくる。どうだ、恋しいだろう。ここは。

 

鬼の傍を通り、私がぶっ壊した神社を見る。まあ、綺麗に立て直しちゃって。戯れに、もう一回ぶっ壊してやろうか。……さて、私の悪戯心に反応したのか、博麗の巫女がポップした。脇狩り――じゃない、出待ちボス狩りなんてガラじゃない。今回は穏便に済ませるつもりだ。おい、博麗の巫女。

 

「帰れ」取り付く島もないじゃないか。「やかましい。そんなの連れてくるな」「お前の神社にこれ以上窮する要素があるのか?」私がつついてやると、思った通りに巫女はキレた。「いけっ、あうん!」あううぅぅん! 何処かキンキンした鳴き声を上げ、狛犬が現れた――が、及び腰だ。

 

「どうしたのよ!?」どうしたもこうしたも、私の気迫に気圧されたのだろう? 流石天人は格が違った。「負のオーラで能力値が六段階下がっちゃって……」何を言っているんだお前は。「ええい、なら私が相手してやるわよ!」「ひええぇ」おいィ、私は無視されていないか、これは?

 

「ひゃあぁぁ」紫苑はお札を食らいまくっているが、効果はいまひとつのようだ。腐っても神、腐りきっても神。轢かれても神は神だ。そうそう簡単にヘバりゃしない。「天人様ぁ~」おう、ようやくお鉢が回ってきたか。「あんたには色々と恨みがあるからね」「いい加減、忘れたら?」

 

「そもそも、別に喧嘩しに来た訳じゃない。ただ、無事を確認したかった」「無事ぃ?」巫女は怪訝な顔で見る。それはそうだろう。今から自分が――殺されるなんて、思い当たる訳がない。「今の所は生きているようで、安心したわ」「何よ、えらく不吉な事を言うわね」不吉。そうだな。

 

「じゃあね」私は紫苑を伴って、来た道を引き返した。「なんなのよアンタら」お前の見守り隊だよ。私は相変わらず寝転んでいる小鬼の頭を、再び小突いた。「よく見張っておけよ」「あいあい、わかってるさ」小鬼は瓢箪を呷り、にやりと笑った。やれやれ、本当に大丈夫なんだろうな。

 

――まあ、私らに言えた義理でもないか。たまたま、面白そうだから首を突っ込んだのだ。それに、巫女への意趣返しにもなる。お前がしばき倒した相手に守られるなんて知れば、さぞ悔しがるだろう。そういう顔が見たいか、見たくないかと言えば――見たい。実によく見てやりたい。ははは。

 

―――

 

  ―――

 

私は十字路の角から、霊夢の形をした何かを観察していた。ここは人里だ。私の縄張りではないが、誰も騒いだりはしない。賢明だ。天人を指差すとは浅はかさは愚かしい。偽物は――やはり、巫女と同じ形をしているからだろう。誰も騒がない。むしろ積極的に話しかけてすらいる。人気者め。

 

その気質は――虚無。あれは生きているとは言えない。あれは断じて霊夢ではない。「――さて、どうする?」奴は完全に油断している。この場で斬り捨てるのは簡単だが――人目につくのは、賢明とはいえないだろう。巫女殺しなんて悪名がついた日には、朝日を拝めないかもしれん。

 

偽物の霊夢の後をつける。紫苑は置いてきた。これからの戦いについていけそうもない――というのは、半分冗談だ。もう半分は、単純に目立つ。耳目を引くのは唯一ぬにの私だけで十分だ。偽物は歩く。知人に声をかける。とりとめのない話をする。次へ向かう。……偽物の目的が掴めない。

 

或いは、目立つ事が目的なのか? 何の為に? いよいよ偽物は歩き続け、人里の端まで到達した。これからどうする。私の問いに答えるように、そいつは外へと歩いていく。門番に頭を下げる。ああ、確かにそちらは神社の方向だ。私は壁を蹴り、壁の向こうへ、しめやかに飛び出した。

 

身をかがめ、飛翔する偽物を伺った。どうやらこちらを見てはいない。ゆっくりとした飛翔だ。私は可能な限り低空を飛び、偽物の行方を追った。偽物は――やはり神社へ向かっている。私は一気に速度を上げた。少々難しいが、私にとっては何という事はない。枝を斬り、木々を抜ける。

 

実際、空中で切り結んでもよかった。だが、あの偽物は霊夢とまったく同じ能力を持っている。事はそう簡単ではない。敗北すれば、まずい事になるだろう。霊夢が飛び出してこようものなら、最悪だ。巫女を万が一でも殺させる訳にはいかないのだ。こいつは内密に始末しなければならない。

 

ならばこそ、完全に油断した所を、一撃で殺す。私は一息に神社へと乗り込み――寝転がっている萃香を蹴飛ばした。萃香はサムズアップした。寝ていると思ったわよ。「そのまま寝たふりしてなさい」「合点」私は――縁側で茶を飲んでいた霊夢に呼びかけた。「ちょっといいかしら」

 

「裏に怪しい奴がいたわよ」「怪しい奴なら目の前にいる」目が座っている。紫苑抜きでも、まあ歓迎されてはいないか。「本当よ。もしかしたら、賽銭泥棒かも」「賽銭!?」おっ、釣れた。「――いいわよ、どうせ入ってないんだもの」学習性無気力という奴かな。「そうかしら?」

 

私は霊夢の目の前で、百円、千円、そして万札をジャラジャラと入れてやった。後でスキマに必要経費として出させるから、遠慮はない。「!!」「念入りに見てきた方が良いと思うわよ。こんなに入ってるのに」「も、もちろんよ。賽銭に手を出す奴は誰であろうと許さないわ」現金だなあ。

 

御幣を持ち、いそいそと裏に回る霊夢。私は物陰に素早く身を隠した。丁度その時、偽物の霊夢が帰ってきた。随分と辺りを警戒している。霊夢の姿を探しているようだった。どうやら見当たらないとわかると、偽物は如何にも平然と石段を上がるフリをした。その辺には萃香が転がっている。

 

「よう霊夢、お帰りかい?」「――何よ、萃香」偽物がよっぱらいに絡まれた。「――あー、さっき神社の裏に行かなかったっけ?」萃香は大欠伸しながら問うた。中々クリティカルな質問だ。だが、偽物とてその問いを予測していない訳がない。周囲に霊夢はいない。偽物は返事をした。

 

「ちょっとアンタ、飲み過ぎじゃない? 私はずっと人里にいたもの」「そうだっけ?」如何にもとぼけている。偽物はその場を取り繕えたと思っているようだった。「――まあいいや。それより、賽銭箱覗いてみな。今日は凄いよ」萃香が誘った瞬間、偽物は滑り込むように賽銭箱を覗いた。

 

「嘘、入ってる――こんなに入ってる――!!」そりゃさっき入れたからな。「さっきも言ったけど、裏に誰か潜んでいるようでね。賽銭泥棒かも。見に行かなくていいの?」「言われなくたって行くわよ。賽銭に手を出す奴は誰だって許さない」偽物は、やはりいそいそと裏に回ろうとする。

 

こいつは恐らく、本物が裏に向かったと信じ切っている。「じゃあ、おやすみ」「はいはい、おやすみ」萃香が向こうを向いたのを見て、偽物の霊夢はいそいそ――いや、決断的な足取りで、裏へ進んでいた。私は物陰から、その足音を聞いていた。背中が見えた。念願を前に、油断した背中。

 

判断も、行動も同じ。それはそうだ。同じ記憶を持っているのだから。ただ一つ違うのは、本物を殺さんとする強迫観念だけ。裏に回る霊夢が、針を取り出したのを見た。何をしようというのか。答えは明白だ。本物を殺し、完全に成り代わる。不意を撃たれれば巫女とてただでは済むまい。

 

――そうか、今日のそれは、自分はここにいた、という根回しだったのか。例え神社の霊夢を誰かが見たとして、人々はどちらを信じるか。同じ顔、同じ記憶、同じ対応、同じ感情表現。人々は確実に、偽物こそ本物だと思うだろう。露見したとて、偽物を巫女が退治した。それだけの話だ。

 

なるほど、狡猾だ。だがお前はミスを犯した。ここに、偽物を見破れる存在がいたという事だ。緋想の剣を手に取る。奴の気質は、やはり虚無。疑いようもなく、お前は人間ではない。よりにもよって、博麗の巫女を狙ったのが運の尽きだ。彼女の追っかけには、怖いお友達がたくさんいるのだ。

 

お前は己を過信した。お前は己を何も知らなかった。私は物陰から飛び出すと、一直線に飛び込み――偽物の霊夢の背に、剣を突き立てた。

 

「悪いが、お前には死んでもらう」偽物の霊夢はびくり、と身体を震わせたが、やがて大人しくなった。私はその身体を地に落とし、首を刎ねた。気質を浴びた身体がぐずぐずと崩れ、歪な人型に変じた。死ねばこんなものか。緋想の剣を振り払った。その死体は――塵となって消え去った。

 

「――何よ、何にもいないじゃない」裏から霊夢が出てきた。そりゃいないだろう。嘘なんだから。「良かったな、賽銭入って」「えっ? まあ、良かったわ。嬉しい」急に顔が緩んだ。博麗神社の賽銭箱に金が入っているなんて、明日は大地震だな。「お茶でも飲んでく?」「いや、いい」

 

「そろそろ帰ろうと思ってた」「あらそう? その――お気をつけて」何だか気味が悪いな。私は飛び立つ直前、小鬼に手を振った。小鬼は――手を振り返したが、何やら思う所でもあるのか、再び寝転がってしまった。「終わったはずだが、な」私も、そうだ。何か引っかかるものを感じていた。

 

―――

 

  ―――

 

ドッペルゲンゲルという妖怪がいる。それ自体は大した事のない存在だ。脳と言えば変身――姿形、そして記憶までを真似る事。もっとも、変身するだけでは近所のお騒がせレベルだ。それならどうする。ドッペルゲンゲルは、写し取った相手を殺そうとするのだ。密かに。誰にもわからぬように。

 

そして、完全に成り代わる。いずれ成り代わった事すらも忘れて、元の人物と全く同じように振舞う。世界全体から見れば、何ら変わる事はない。一を足して、一を引いただけだ。或いはドッペルゲンゲルが殺され、正体をあらわにでもしない限り、その仕業が露見する事は、まずない。

 

まあ、私にはわかってしまうのだが。もし、既に成り代わられているなら、その気質は虚無に飲まれているだろう。そんな妖怪が何故存在しているのか、門外漢故によくはわからないが――そいつらは、自分の姿を得る事ができなかったのではないか。或いは何処かになくしてしまったか。

 

いささか哀れには思う。しかし、手を出した時点で喧嘩は始まっている。私的にはどうでもいいのだが、メイン盾としてはみすみす殺させる訳にもいかない。力あるものたるもの、たまには下々を思いやってやるものだ。……まあ、建前だ。本当は、しばらくぶりに、思い切り暴れてやりたかった。

 

ドッペルゲンゲルに成り代わられれば、それは悲劇だろう。もっとも、激情に任せて殺してしまったとして、世界から再び一が引かれるだけ。命とはかくも儚いものか。私は肩をすくめた。紫苑が不思議な顔でこちらを見ている。お前はいいんだよ、と手を振った。考えるのは私だけでいい。

 

この件、まだ霊夢には伝えられていない。聞けば必ず飛び出していくだろう。ドッペルゲンゲルが何体いるかわからない以上、単独で行動させる訳にはいかないのだ。ある程度方針が決まってから、注意深く言い聞かせる。紫はそう言って、頭を抱えていた。実際の所、お前しか操縦できまいよ。

 

「――性質に関しては、大体わかったわね?」スキマの指が空を切った。霊夢が留守にしているのをいい事に、博麗神社へ集まったのは、六人。所属はてんでばらばらだ。そこら辺を飛んでいた烏天狗。瀟洒に飛んできた咲夜。ノコノコ歩いてきた鈴仙。そして紫と、そこに転がっている萃香。

 

顔ぶれを眺める。如何にも寄せ集めといった連中だが、まあ腕は確かだ。昔、散々殴り合ったから、わかる。成り代わられていないのは全員、確認済みだ。さすがに天人は格が違った。……まあ、これから成り代わられない保証は何処にもないが。その時は私がズンバラリン、と片付けてやるさ。

 

「まあ、それはわかりましたが――突撃取材のネタとしては、いささかパンチに欠けますな」ペンで頭を掻いた。「ドッペルゲンゲルが現れたなら、まあ、戦うしかないでしょう。己が戦士なら、猶更の事。おいたを野放しにしてはおけますまい」お前のジョブは捏造新聞記者じゃなかったか?

 

「――そもそも私は、関係者でも何でもないわよ?」鈴仙がぼやいた。「何やら不穏な動きがあるから、調査するように――と師匠が言うから、とりあえず神社に来ただけ」鈴仙は肩をすくめた。「……来るべきじゃなかったわね。酷い事に巻き込まれそうな気がする」まあ、運が悪かったな。

 

生憎と、お前もめでたく関係者だよ。お座敷兎。「私も、そこの兎と似たような理由ですわ」咲夜は静かに首を振った。どうせアホの当主が何か言ったんだろ。あいつには良い印象がない。左右めくりお前いい加減にしろよ……。「いいのよ、寄せ集めでも。今は頭数が欲しいのだから」

 

「ドッペルゲンゲルが姿を真似る為には、顔がわかるくらいの距離から、対象をじっと観察しなければならない。……そうね、五分くらいかしら」紫は知識をひけらかしている。まあ、必要ではある。「私達の姿も、ひょっとすると既に真似られているかもしれないわね」全員が辺りを見渡した。

 

「――確かに、私らしい姿を見たわ。何かの妖怪だと思って、反射的に狂わせたけど――もしかしたら、もっといたかもしれない」「あまり聞きたくない情報をありがとう」紫は頭を振った。竹藪は決して見通せず、そしてすべてを飲み込む。成り代わられたとしても、それは誰にも気付かれない。

 

「同じ姿が増えれば増えるほど、面倒な事になるわ」「ええ、まったくですわ」咲夜がナイフを四本取り出し、刃を撫でた。「門番が四人に増えたのよ」咲夜はナイフを突き刺す素振りを取った。「二人ならわかるわ。三人でもわかる。四人はないでしょう」いや、二人でも十分おかしいが?

 

「それで、門番は全員昼寝をしていたの。どうかしていますわ」――如何にも平和な奴をコピーしたら、そうなるのか?「ええ、わたくしも先日、自分の背中を見た覚えがありまして。あれはすなわちドッペルゲンゲルであった訳ですな」天狗よ、お前もか。「疲れていたのだと思いましたがね」

 

「多分、間違いないわ」紫が頷いた。「想像していたよりずっと多い。もう、霊夢だけの話ではなくなったかもしれない」私達は事態を少しばかり深刻に考えざるを得なかった。近所のお騒がせならまだいい。ドッペルゲンゲルは成り代わる。貧弱一般人に影響が出たら、それこそおおごとだ。

 

「――私が、なんですって?」

 

私達、全員が振り向いた。霊夢の顔は――ああ、駄目だなこれは。かつてあの時、私を見た冷徹な目だ。「大体聞こえてたわ。つまりその、ドッカデゲルゲルって奴をぶっ飛ばせばいいのね?」巫女に慈悲はない。後で殺すか、今殺すかだ。私は、この目を相手をしたくない。誰もがそうだろう。

 

「――まあ、いいわ。いずれは伝えなければならない事ですもの」紫はどうどう、と霊夢を制した。「とりあえず話だけは聞いて頂戴。ね?」霊夢は憮然としながら、それに従った。「とりあえず、現在の情報が欲しいわ。……萃香、そっちはどう?」紫が、その辺の酔っぱらいに呼び掛けた。

 

「ほいほい」寝転んでいた小鬼が希薄化し、霧めいて消滅したと思いきや、私達の近くでそれは実体化した。そういえばこいつは、霧になって幻想郷を覆えると言っていたな。寝言をほざいていると思っていたが、実際本当だったらしい。恐らくは誰が、何処にいるかくらいはわかるのだろう。

 

「見えた限りでは、そいつらは神社の近くに集まってきてる。ほとんど全部」「……それってつまり、うちの裏がそいつらの巣窟になってるって事?」霊夢は御幣をぐるぐると振り回している。はは、逆鱗に触れたな。「まあ、そう考えた方が自然だね」萃香は先から酒を呷っている。酒乱め。

 

――しかし、妙だ。「何故、ドッペルゲンゲル共は神社の裏に集まっている?」「そうよ。人の神社に向かって」霊夢がわめいた。まあ、裏にゴキちゃんが湧いているくらいに考えれば、わからなくもない。「神社を襲撃する計画を立ててるとか」「戦力を統合して、何処かに雪崩れ込む気か」

 

「――或いは、そこに守るべき何かがあるか」紫は扇子を取り出し、手首を振った。「現状では何もわからないわ」「そうですわね」「わかっているのは、少なくとも敵がうじゃうじゃいる事くらい」萃香は笑った。こいつもバトルジャンキーか?「――それなら、そこを叩くんですか?」

 

「ええ。あなたにも協力してもらうわよ」鈴仙はあっしまったな、という顔をした。お前には必殺のすうどんパンチがあるだろ。気張れよ。「ここで迎撃いたしますか?」「討って出ましょう」霊夢は今にも飛び出しそうだ。「待ちなさい、霊夢」「なによ」紫は首を振ると、霊夢の手を取った。

 

「ここの方がいいわ。嫌な予感がする」「――確かにね」霊夢はあっさりと引き下がった。こいつの勘は、よく当たるそうだ。「ならば、わたくしめが偵察なさる?」「それも止めておいた方がいいでしょうね。あなたが何体もコピーされたら、手が付けられないわ」想像はしたくないな。

 

―――

 

  ―――

 

――それに気付いたのは、霊夢だった。「何か来るわ、紫」神社の空気が変わったように思う。これは、戦いの空気だ。霊夢の言葉を受けて、全員が身構える。ナイフを構える。風を繰る。スキマを向け、波長を操る。鋭い目が注意深く針を構える――が。それは完全に、不意打ちだった。

 

こいつらとまったく同じ姿が、スキマから、疎から、亜空から、波長の向こうから、暴風の中から、己が背後から、一気に飛び出してきたのだ。それらはコピー元に飛び掛かり、戦いを挑んだ。互角の能力、記憶を持つなら、戦いは一進一退だ。要は同キャラ対――何でもない。忘れろ。

 

遅れて、木々の間からドッペルゲンゲルが現れる。人型のその姿はただ、黒い。まるでインクをぶちまけたかのように、不自然な黒さだ。そいつらは私達の傍に陣取ると、私達を凝視――目はないのだが――し始めた。まずいな。更なるコピーを作り出す気だ。更に現れる。更に。更にだ。

 

私の姿をしたドッペルゲンゲルは見当たらない。どうやら真似る事ができないようだな。緋想の剣の力だろう。我が愛剣は、草々コピーされるような安いものではない。討って出なかったのは正解だった。木々の合間から凝視するなんてのは簡単だろう。ここなら、遮るものはない。

 

敵を増やし過ぎれば、この私と言えども面倒だ。剣を振りかざし、未だ真似ざるドッペルゲンゲルを斬り捨てて回った。しかし、これでは埒が明かない。かといって乱戦に割り込めば、コピーごと斬りかねない。何人目かを斬り捨てた私は――新たな敵の気配に任せ、空を仰いだ。

 

「ちょっと、まだ来るわよ!?」御幣で激しく打ち合いながら、霊夢が叫んだ。「偽物の相手でも一杯一杯なのに!?」目からビームを放ちながら鈴仙が嘆いた。空から飛来するは雑多な妖怪、妖精、そこらに転がっているような無機物まで。多種多様な物体が、私達に襲い掛かってくる。

 

恐らく、すべてドッペルゲンゲルだ。そんなものを一々相手にしていたらきりがない。私は剣に気質を込め――薙ぎ払う! 光の刃がそれらを一撃の下に屠るが、しかしてまだまだ数が来る。我が必殺の技は、こんな雑魚相手では役者不足だ。ちまちまとレーザーで迎撃するが、一向に減らない。

 

「わたくしにお任せを!」飛び出した文が、暴風で雑魚共を叩き落としていく。ここは任せよう。私は代わりに文のコピーに向かう。お前の相手は昔、散々したからな。私は要石ドリルを打ち込みながら、足元を蹴り、一気に飛び上がった。お前は疾い。ならば、釘付けにするまで!

 

「懺悔せよ、烏天狗!」ドリルがその背を抉る。態勢を崩したコピーを、私は一刀の下に切り伏せた。両断されたその姿が、暗黒を吐き出し消えていく。汚いなさすがコピーきたない。興が乗ってきた。私は空のコピーに向けて、巨大な要石を叩きつけた。荒々しい風が生き残りを叩き落とす。

 

「やだぁー!」ふと傍を見ると、紫苑が紫苑を追いかけまわしている。どちらかがコピーだろうが――まあ、追いかけ回している方だよな。「もう、あっちいけっ!!」紫苑がコピー紫苑に――思い切り体当たりをかました。おや、随分とアグレッシブになったじゃないか。私も嬉しいぞ、紫苑。

 

コピー紫苑がこちらへ弾き飛ばされてくる。それは戦いの中心で止まり、どうやらまごついていたようだが――唐突に、敵の動きが鈍くなった。ひょっとすると、紫苑の能力がそのまま敵のツキを遠ざけているのかもしれない。私はコピーを牽制し、退路を塞いだ。形勢はこちらに傾いた。

 

戦力が互角なら、最後にものを言うのは、やはり運だろう。私のような強運の持ち主でもなければ、不運の魔の手から逃れられはしない。元より不運な生まれのお前達だ。どうやら、これこそ運の尽きらしいな。私の目前で、コピーどもが押し込まれている。己が生まれの不幸を呪うがいいさ。

 

始めに、紫がコピーを撃ち落とした。萃香もそれに続いた。霊夢もだ。雑多なコピーどもは文が粗方、吹き飛ばし尽くした。鈴仙のパンチが裏を取った。咲夜のナイフが己が姿を処刑した。私も剣を構え、紫苑のコピーを一刀両断した。草むらから悲鳴が聞こえた気がするが、気のせいだろう。

 

「な、何とかなった……?」鈴仙はほっと息を撫でおろしていた。生憎、まだ早いと思うぞ。「――何、この音」霊夢が向いた方から、音がしている。そう、何か重いものが這いずってくるような。「親玉の登場か」萃香が腕をグルグルと回している。やる気に満ちあふれていてたいへんよろしい。

 

――木々の間から、それはぬるりと現れた。スライムめいて粘液を垂らし、這いずる人型の何か。それは顔が、ない。何処が正面かもわからないが、まあ、私達に向かってくる方だろう。黒々とした身体中から、ドッペルゲンゲルがあふれ出ている。その背から黒い弾丸が射出され、私達を襲った。

 

皆は弾丸を回避すると、ありったけの火力を撃ち込み、ドッペルゲンゲルを滅していく。姿を真似られれば、再び乱戦になってしまう。その一部は親玉の身体を捉えるが――どうやら、効いているようではない。射撃が吸い込まれるような手応えだ。要石も同様だ。如何にも手応えがない。

 

踏み荒らされた石畳が砕ける。神社の一部が壊れ散った。ドッペルゲンゲルは生まれてくる。私達は全方位から弾丸を浴びせ続ける。その数は無限にも思えた。討ちそこなった一体が死角から覗き込む。割り込んだナイフがそいつをなます切りにする。互いに防御し合わなければ、防ぎきれない。

 

波長が彼奴等の視線を切る。ナイフが幾重にも反射して、隠れた敵を襲う。分裂して敵影をあぶりだす。スキマから突き出される刃物がまとめて切り裂く。無数のアミュレットを飛ばす。竜巻の壁が繰られる。そして私は、あらん限りのドリルを放つ。それは一種の連携だったかもしれない。

 

「一体何なのよ、こいつ!」霊夢が針を打ち込む。やはり効いているようではない。風の刃も、光波も、懐中時計も、私のレーザーも、やはり効果がない。はっきり言って、状況は悪い。しかして、最悪ではない。「何となく、推測はついたわ」紫がスカイフィッシュを飛ばしながら、叫ぶ。

 

「恐らくは、名の伝えられなかった神」傘を振り回しつつ、続けた。「やがて消え去る定めのそれが、何らかの理由で力を蓄えていたのだわ。それがドッペルゲンゲルを生み出していた。名を得る為に。姿を得る為に。存在を知らしめる為に」「それじゃあ、こいつの目的って……?」

 

「博麗神社、それ自体に成り代わる。名のない神にとっては、これ以上ない餌でしょう」「ほうほう。そんな事が、本当にできるのですか?」「やらせてみないとわからないわね。やってしまえばお終いだけれど」萃香の火球が爆発し、敵の群れを吹き飛ばす。……一瞬だが、隙ができた!

 

「後は任せた!」私は神に向けて飛翔した。その意を紫だけは汲んだようだ。雑魚を殲滅すべく総攻撃を命じた。そうだ、お前達は雑魚の相手をしていればいい。この天子様が、彼奴をやってくれよう!! 私は首尾よく神の背に飛び乗り、緋想の剣を突き立て――しかし、やはり手応えはない。

 

まるで存在のない、虚無を突き刺しているように感じた。飛び掛かってくるドッペルゲンゲルを切り伏せながら、手立てを考える。……虚無。存在がない。名もなき神。存在を知らしめる神――そうだ。こいつが虚無なのは、己の存在意義が満たされていないからではないか――?

 

私は剣を払い、気質を問うた。虚無。こいつには気質がない。こいつは生きてすらいない。こいつは、己が名を得んとして、飢えている。私に名前がなかったとすれば、やはり同じように振舞っただろうか。……そういう感傷など、今はどうでもいい。お前が、名を得んとするならば――

 

この私が、お前に名前を与えてやろう!「『荒ぶる無貌の神』よ! 空白、故に万色を秘めた神よ!!」緋想の剣を、額のあるであろう場所へ、突き込む!!「鎮まれよ、『荒ぶる無貌の神』!!」確かな手ごたえがあった。そこから万色の気質と共に、暗黒めいた物質があふれ出た。

 

ドッペルゲンゲル共が、暗黒を吐き出し、消えていく。連中が残心する中、私は――「神、名を得た神よ」私は再び剣を突き立て、そのまま高く飛び上がった。すべての気質が手の内に集まる。この技は、お前のようなものにこそふさわしい。腕を高く掲げ、力を集め、そして足元へ――放つ!!

 

「全人類の緋想天」

 

両の手から放つ気質の奔流が、神を飲み込んだ。名を得た神の輪郭が、崩れていくのがわかった。神の気質が変容していく。それからはもはや、怒りや悲しみを感じなかった。そうだ。お前の存在は無に還る。しかしてその名は、確かにこの世に残るだろう。神よ。無貌の神よ。終わりにしよう。

 

すべての気質を放ち尽くした私は、神の背――いや、もはや背とも言えぬ残滓に降り立った。その身体から剣を引き抜き、最期に再び、名を呼んだ。神の身体を構成していた黒い物質が、天へと昇る。昇る。昇る。希薄化した存在の証明が、空に溶けていく。その姿は――もう、見えない。

 

「終わった」私は剣を振り払うと、連中の顔を見た。皆、安堵しているようだった。感謝するがいい。この戦い、私抜きで対処できたと思わない事だ。私は思い切り、胸を張った。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――神社から一直線に進んだ、遠い、遠い、森の中に一つの石碑があった。祟り神を祭るものであろうそれは――しかし、名を穿たれてはいなかった。いや、掘ろうとした後はあった。僅かな傷だ。まるで石で引っかいた程度のそれは、恐らく子供の手によるものだ。足元に、骨が転がっていた。

 

封じられようとした神を、崇め祭るものがいなくなれば、どうなるか。名前を与えられなければ、どうなったか。或いは名を穿たれる前に、その権能によって人間が死に絶えたとすれば、どうか。すべては推測でしかない。私はその石碑をじっと見た。神の名を思い浮かべた。静かに剣を構えた。

 

「『荒ぶる無貌の神』。お前の名だ」石碑を何度も、何度も切り裂いた。剣を下げた時、そこには神の名が刻まれていた。木々がざわめいた。要石で穿った穴に、骨を埋めてやった。恐らくは、最後の生き残りだ。弔うものなどいなかった。死した今になっては――ただの、感傷に過ぎないが。

 

「世界はお前を忘れないだろう」私は紫苑の手を取り、石碑に背を向けた。「あの、天人様」「どうした?」「――私の事、忘れないでくださいね」「ああ」――まあ、貧乏神なんてものは財がある限り、消えはしないだろうがな。「さあ、帰ろう」私達に、しめっぽい雰囲気は似合わない。

 

 

 

「今度は何処に行こうかな」「お供します、天人様」

 




非想天則をスチムーで出すんだよ!!11!


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上白沢慧音はここにいる

―上白沢慧音はここにいる―

 

妖怪がいた。何という事はない弱小妖怪だ。そいつはあまりにも弱かった。妖怪から肉を削がれる事など、日常茶飯事であった。しかしそれでも、妖怪は生き延びた。ただ、怒りを貯め込む事しかできなかった。そして、その時――妖怪は死んだ。その身はばらばらに引き裂かれた。

 

肉体を食い尽くされたその妖怪には――しかし、憎しみが残っていた。その身は空気のように薄く、憎悪は、深淵めいて深い。矮小なそれは、いずれ消え去るはずだった。しかしてその目の前に、憎き妖怪が現れたのだ。半分だけであろうと、構いはしない。妖怪は、獲物に飛び掛かった。

 

――女の身体が、震えた。その瞳は子供達を見やり、己を見やり。己が手を、食いしばった歯を、滾るような血の渇望を、遮るように頭を振る。不信がった子供が近付いてくる。心配そうな顔が見つめる。女は顔を背け、天に吼えた。己が衝動を解き放たんと、二度、三度、吼えた。

 

 

 

そして女は、崖から身を投げた。

 

 

 

―――

 

  ―――

 

それはそれとして、慧音が行方不明だ。

 

私がさらった訳じゃない。理由は――あれ、なんだっけ?――まあともかく、慧音は行方不明になった。それを理解した時――しかし私は、冷静だった。何処へ消えたのか。何故、いなくなったのか。考えはすれど、手がかりが少なすぎる。探し人なんてのは、正直、そんなに経験がない。

 

周囲の反応は、如何にも冷淡だった。ガキ共は口を揃えて、そんな人は知らないと言った。まるで最初から、そんな者はいなかったのように。寺子屋では新たな先生が立てられ、日常は淡々と続いていた。私は、そんな刹那の流転を、じっと見ていた。不愉快と思う感性は、既にない。

 

ふと思い立ち、私はあちこちでその名を聞いた――が、それは誰だ、と聞かれる始末だ。あまりにも冷たい――というより、これは異常だ。私は何の当てもなく人里をぶらついた。慧音の残滓はあちこちにあった。贔屓の道具屋。角の薬屋。駄菓子屋。飲み屋。誰も、覚えていなかった。

 

――明らかにおかしい。慧音は単に行方不明になった訳じゃない。私は訝しむ。訝しむが、答えは見つからない。ぶらぶらしている間に、寺子屋の辺りに着いた。試しに聞いてたが、やはり誰も慧音の事は覚えていない。大人がそれなのだ。ガキ共にいくら聞いても、わからないはずだ。

 

適当にお邪魔し、慧音のいた部屋に入る。よくよく整頓され、綺麗に使われている。昨日と何も変わらない。これからはどうだろう。私は紙巻き煙草に火を点け――そういえば、外で吸えと言われていたか。箱に戻す。お前がいなくなってから言いつけを守るなんてのも、おかしな話だな。

 

結局、何の成果もなかった。今宵は満月。慧音はいつもこの日には、用事があるから、と夜中に出かけていた。何かする事があるんだろう、と聞き流していたが――案外、そこにいたりして。……そういう妄想は、すればするだけ空しくなるか。今日のぶらつきだって、そうだ。

 

適当な店屋に入って、酒を頼む。あいつのいない世の中は、やはり味気ない。得るよりも失う方がずっと簡単だ。私にとっては、な。私だけが時を刻み続ける。すべてが遠く、遠くに去っていく。「慧音」呟く言葉も、空しい。呼べば必ず来ていた、お小言が返ってこない。

 

「あの、すいません」声の主を振り返る。……寺子屋の先生じゃないか。「何か用ですか」「いえね、あなたが≪慧音≫と言ったものですから」「ひょっとして、名前を覚えているのですか」私はつい、熱くなってしまったかもしれない。「いえ、その――覚えているとは言い難いですが」

 

「私が引率していた課外授業のリストにですね、確かに載っていたのです。上白沢慧音、と」「それは」「私にも心当たりは――まったくありませんが、もしやお探しの人のヒントになるのではないかと」そうだ。皆が慧音を忘れていたとしても、慧音が残したものがある。「ありがとう」

 

―――

 

  ―――

 

私は課外授業が行なわれていた場所を聞き出すと、店屋から直接そこに向かった。既に夜中。妖怪の時間だが、私には何の問題もない。課外授業がは少しばかり、高い所でやっていた。下を覗けば、木々。木々。そして木々。ここから先は人里ではない。この先に、落ちたとすれば?

 

満月の夜。何があったのかは知らないが、私は慧音が落ちたであろう森に飛び込んだ。考える。考えれば、後は山勘を信じるだけだ。戻ってこられない、何かしらの理由があるなら――慧音はこっちに逃げる。木が茂っている方だ。誰にも見つからないような。森の奥。そのまた奥に。

 

「慧音――ッ!!」私は声を張り上げて、その名を呼んだ。鳥が飛び去った。獣が逃げた。妖怪共が身を隠した。とっ捕まえて吐かせようかと思ったが――無駄を悟った。こいつらは慧音を忘れているだろう。私は叫んだ。叫び続けた。永遠の身。声など枯れない。丑三つ時を過ぎた。

 

このままでは埒があかない。私は危険を――まあ、森林火災はまずいよな――承知で、周囲の木を薙ぎ払った。この明るさを見て、反応してくれればいいが。「慧音――ッ!!!」耳をそばだてた。火が爆ぜる音がする。風がそよぐ音がする。……そして、そして、確かに聞こえた!

 

「――妹紅」私は指を鳴らして火を消し去ると、慧音の方向に向けて飛び込んだ。慧音はそこにいた。木々の間に、隠れるように――そこにいた。緑色の服。緑色の髪。そして、角。満月の夜、慧音はこのような姿になる。……そして、全身が傷だらけだ。一体、何者に襲われたのか。

 

頭からは、おびただしい血を流していた。死なない奴が言う事でもないが、明らかに重症だ。私は慧音の傍に駆け寄る。「大丈夫か」私の声を聞いて、しかし慧音はこちらを向かなかった。「探させてすまない。……だが、私はもう駄目だ」「――馬鹿野郎。諦めるなよ」

 

己が、応急処置以上の知識を持たない事を呪った。「いいんだ。本当に、もういいんだ」慧音の言葉を無視し、袖を切って包帯を作る。巻いてやる間も、慧音は弱音を吐き続けた。毅然とした普段からは想像もできない姿。一体何が起こったんだ?「頼む。死なせてくれ、妹紅」

 

慧音の顔を張った。「お前を死なせるものか」「違う。私は生きている。だが、死んでいるようなものだ」慧音の言葉が理解できない。「何を言って――」「里の人間は、私の事を誰も覚えていなかっただろう」確かに、そうだ。その通りだったように思う。覚えているのは、私だけだ。

 

「私は身を投げた。そうしなければならなかった」慧音は、頷いた。何度も頷いた。「あの日、あの時――里の端、眺めの良いそこで、私と子供達は課外授業をしていた」荒い息。「私が出会ったのは、新手の妖怪か、或いは自然現象か。私にはわからないが」慧音は激しくえづいた。

 

「あの時――私は、おかしくなってしまった。私の心は憎悪と狂気に歪んだ」握り込んだ手から、血が流れる。「半妖の身であるからだろう。狂気は私を半分だけ狂わせた。しかしそれは、十分に致命的だった」慧音は初めて、私を見た。その表情は、如何にも弱々しく、儚い。

 

「――要するに、狂える妖怪の部分が、ガキ共に手をかけるだろうと」慧音は頷いた。「確信があった」血がつつ、と手首を伝った。「当然、そんな事は許されはしない。私だって、絶対にそんな事はしたくない。私は子供達を守らなければならない。だから、その手段を取った」

 

「――私は、私を≪最初からいなかった≫事にした。子供達は私の存在を忘れ、引率の先生と共に、家に帰っただろう。それでいい。それで、私は満足したよ」慧音はこちらを向いて――目を閉じた。「それしか手段がなかった。少なくとも、それ以上の答えは出せなかった」

 

「この傷は、私自身が己と格闘して付けた傷だ。致命傷とは程遠いよ」本当だろうか。私には十分、命に関わるように見える。今すぐにでも処置室にぶち込んでやりたい気分だ。「そして、私は勝った。狂気は私の中から抜けていった」頭の傷を押さえ、慧音は笑った。苦笑いだ。

 

「私は慧音の隣に座り、独白を静かに聞いていた。肩を抱き、目を閉じた。慧音は寒がっている。寒いって意味じゃない。恐怖を吐き出せる相手を探して、震えていたんだろう。私が温めてやれるなら、それでいい。火力が足りないというなら、それもいい。何もしないより、ずっといい。

 

「能力を解除する事はできなかった。隠れる、というのは死ぬのと同義だ。≪世界≫が覚えていない者が、再びこの世に戻ってくる事はできない」慧音は私に縋りついた。「気付いてはいた。けれど、この判断が、間違っていたとは思わない」私は、その身体をそっと引き寄せてやった。

 

「――だが、お前は覚えていてくれたんだな」「当たり前だろ」私はそんじょそこらの雑魚じゃない。そうやすやすと忘れさせられたりはしない。お前の事なら、猶の事だ。慧音は頭を振った。「しかしもう、私はこの世に戻ってくる事はできない。≪世界≫は私を忘れてしまった」

 

慧音の言う事はわからないが、こいつが――諦めているのは、何となくわかった。己の能力に振り回される者は、その力によって滅びるだろう。だがそれは、お前独りでの事だ。ここには私がいるじゃないか。諦めるのはまだ――いや。諦める必要なんてハナからない。そうだろ。

 

「助けてほしいなんて思ってはいなかった。ただ――最期にお前に会えて、よかった」「いい訳あるか」私は慧音の肩を掴んだ。「考えろ。考えた先に答えはある。タコが出来るくらい聞かされたぞ。お前がそれを放棄してどうする」慧音は少しばかり、驚いていたようだった。

 

「お前なら必ず、打開策を思いつくはずだ」「ああ。生き汚いと言われても仕方がないくらい、ずっと考えていたさ」その顔が陰る。「答えは出なかった。死人みたいなものが蘇る、などと言うのは、最初から不可能なのかもしれない」つられて、暗い顔をしそうになる。ダメだダメだ。

 

その時だった。私に一つの案が浮かんだ。「お前の言う通り――≪世界≫からお前が消えてしまったのなら――もう一度、知らしめてやるってのはどうだ。どんなに無視されたって、耳元で叫んでやれば、きっと聞こえる。そう思わないか?」「――知らしめる?」慧音は戸惑っていた。

 

「能力を解除できないか。私自身を思い出して貰えないか。そういう方法ばかり考えていた。そんな風には、考えた事もなかった」慧音は立ち上がり、私を見た。「新たに自分自身を定義し直せばいい。なるほど、そうかもしれない。そして、そして、今宵、私は――それができる」

 

私は立ち上がり、慧音の方を見た。「どうすればいい?」「いや、これは私の問題だ」私は首をすくめた。「お前の問題は、私の問題でもあるんだ」慧音は仕方ない、とでも言いたげな顔をした。「そういうお節介な所は、いつも変わらないな」「ラブアンドピースとでも思ってくれ」

 

私は向かい合い、手を繋いだ。慧音の髪が浮き上がり、周囲に霊力が浮かび始めた。虚空から巻物が現れ、筆が自動的に何かを書き込んでいく。周囲に更に、更にと巻物が現れ、同じく現れた筆がそれを次々につづる。編纂される歴史。お前が見た歴史。お前がいなくなった、歴史。

 

「妹紅」緑の風をまとった慧音が、私の名を呼んだ。「お前は、私を覚えていてくれた。お前の記憶は歴史となる。だが、私がいなくなった記憶は――同様に、歴史であり続けようとする。事実が二つ。それは不自然なんだ。私はそれを、一つにしようと思う」慧音は私の手を、引いた。

 

「上白沢慧音はここにいる」

 

ああ、わかってる。「上白沢慧音はここにいる」お前の周囲に霊力が渦巻いた。「そうだ。お前は、確かにここにいる」右手が引かれた。左手でお前の腰を抱いた。「歴史を隠す者。歴史を創り出す者。上白沢慧音はここにいる」慧音が血を吐いた。その手を、私は強く握った。

 

「歴史は改ざんを許さない」慧音は呟いた。「私のいない歴史こそが正統であるならば、私は≪世界≫から消され、お前の記憶も消えてしまう」「そうだな」「そう、させないでくれ。お前に忘れられるのが怖いんだ」「上白沢慧音はここにいる――私が保証する。間違いなんてない」

 

巻物の一つが私達に向けて飛び上がった。ぐるぐると周囲を回り、そして止まった。巻物の文字が光り、虚空へと浮かび上がった。上白沢慧音はここにいる。そこにはそう、つづられていた。「上白沢慧音はここにいる」慧音は呟いた。「ああ。上白沢慧音はここにいる。ここにいるさ」

 

やがて巻物は消え、筆は消え、私達の目の前の文字も消えた。霊力の流れが正常に戻った。歴史の編纂が終わったのだ。私達は抱き合いながら顔を上げ、遠慮がちにキスをした。そこにいるから、出来るのだ。そこに在るから、出来るんだ。歴史なんぞに、奪われてたまるものか。

 

≪世界≫にお前が戻ってくる。誰もが知るだろう。お前は戻ってきたのだと。誰も知らないだろう。お前がいなかった事なんてのは。お前の日常が戻ってくる。私のそれも、だ。握られた手を、どちらともなく離した。尻尾をばたり、と振り、お前は空を見た。私もだ。白んだ空を見た。

 

「泣くなんて柄じゃないだろ」「そういうお前だって。そんな顔は初めて見た」そう、お前は戻ってくる。私の腕の中に。私の≪世界≫の中に。ただ、安堵があった。そう――そうだな。お前を失いたくなかった。高々数百年の付き合いだろう。それでも今は、お前にお熱なんだよ。私は。

 

「永遠亭に運ぶ。あいつの手を借りるのは癪だが」慧音は頷いた。月が天空を手放せば、太陽が掴み取るだろう。角が消え、尾が消え、お前の姿は見慣れたその姿に戻った。私はお前を背負い、飛んだ。「私は飛べるよ」「いいだろ。やってみたかったんだ」慧音は私の肩に、頭を預けた。

 



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最強

―最強―

 

清蘭が最強になった。

 

なったんだから仕方がない。清蘭の銃弾は山を砕き、清蘭の杵は巨大なクレーターを穿つ。これでもパワーの1%も出していないというのだから恐れ入る。防御もパーフェクトだ。清蘭のつるぺたボディは如何なる攻撃をも通さない。清蘭のあくびが我が家を吹き飛ばした。どうすんだお前。

 

「あはは、良い気分だよー」清蘭はアホ面でドヤり、腕を組んでいる。余波で木が何本か吹っ飛んでいった。「今なら地球だって壊せる気がする」私達全員を宿無しにする気か。「やらないよ。『大いなる力には大いなる責任が伴う』んだもん」こいつ、テレビか何かに影響されたな?

 

清蘭が我が家を片手で建て直しているのを見ながら、私は考えていた。このまま清蘭に最強の力を持たせていたら危ない気がする。いや、絶対危ない。世界レベルの災害になりかねない。何しろ清蘭はアホなのだ。誰かにそそのかされたりしたら、取り返しのつかない事をしかねないぞ。

 

「何、悩んでるの?」清蘭が屋根を適当に設置しながら、こちらを向いた。壊すなよ。「清蘭の事だよ」「私の事?」どうやらこいつ、自覚はまったくないらしい。ただただ、最強の力を手に入れた事が嬉しいんだろう。手で木を削りながら、ずっとにやけている。鼻歌が竜巻を起こした。

 

―――

 

  ―――

 

清蘭はお節介だった。いや、最強の力を使うのが楽しくて仕方なかったのか。あちこちで頼みを聞いては、その最強の力で解決していた。主に破壊活動だけどな。あまりにも力が強すぎて、繊細な作業は向いていない。空き家の解体。地ならし。建築にパシリまで、清蘭はよく働いた。

 

私が団子屋を構えている横でも、清蘭のお節介は止まらない。報酬を貰っているようではない。割といいように使われている気はするが、まあ――本人が満足なら良い事だ。今朝なんか、倒壊した家屋の中から、一瞬で子供を助けてみせた。清蘭の存在はたちまち、人里の噂になった。

 

……そうなれば、悪い事を考える奴も出てくるもんだ。地上げ屋が絡んでくる。悪徳金貸しが顧客を締め上げようとする。あくどい商人が用心棒に連れて行こうとする。私はその間に入って、悪い虫を追い払わなければならなくなった。清蘭はアホだから、何でも引き受けようとする。

 

そうして今日も、一日が終わる。――帰り道、私達の後をつけてくる者がいる。私が気付くような距離ではなかった。清蘭の耳はきっと足音を捉えていたが、何をしようとしているのかはわからなかったらしい。私にそれを聞いていれば――或いは、運命も違っていたかもしれない。

 

「清蘭さん、清蘭さんや」小さな声だった。清蘭でなければ聞き取れないほどの。清蘭は振り向き、そちらを見た。「向こうに助けを求める人がおります」誰かは指を指したらしい。清蘭は一瞬すら考えずに、私を置いて駆け出していった。私は突然の行動を理解できず、目を丸くした。

 

「あの野郎が間抜けで助かった」清蘭の背中を見送る、隙をつかれた。不意に飛び込んできたのは――天邪鬼。かつて指名手配されていたそいつは、鬼人正邪。「いつも一緒の兎――つまり、人質にはピッタリって事だ。精々自分を呪いな」私の首には――ナイフが突きつけられている。

 

「誰もいな――鈴瑚!?」清蘭が猛スピードで戻ってきた。「おっと、動くな」清蘭は急ブレーキをかけ、私達の目の前で、止まった。「ちょっとばかり、お前に手伝って貰いたい事があってな。悪いが、拒否権はないぜ」正邪の考えは、いくらでも思い当たる。「こいつは人質だ」

 

「お前の最強の力があれば、幻想郷なんてあっという間に転覆できる」正邪はギロリ、と私を見た。「どうするんだ? こいつの命と引き換えに、お前は私を殺すのか、清蘭!」清蘭は明らかに動揺している。最強の力だって、それを扱う者が正気を失っていれば、どうにもならない。

 

「鈴瑚」清蘭はどうすればいいのか、わからないんだ。清蘭はアホで、優柔不断で、ドジで――優しい。私の為なら、きっとこいつの甘言に乗るだろう。でも、ダメだ。こいつが素直に条件を守るとは思えない。私は密かに始末されて、清蘭は好きなように利用されるに違いない。なら。

 

「いいんだ清蘭。いいんだ」私の首に、ナイフが僅かに喰い込んだ。「君はこんな奴に操られちゃいけない」「黙ってろ」首筋に血が流れる。「十秒以内に答えろ。私は短気なんだ」十、九、八、七――「鈴瑚、私」「よすんだ」六、五、四――「だって、だって!」「よすんだ、清蘭!」

 

「私ごとこいつを討て! 君はそれができるだろう、清蘭!!」三――二――一――「意外と粘りやがる」正邪は私の首に――ナイフを突き立て、その場に転がした。「これで終わりにするか? 続けるか?」正邪の足が私の頭を踏みつけた。「まだ助かるぜ。お前が首を縦に振ればな」

 

「鈴瑚、ダメだよ鈴瑚……」「や、めろ、清蘭……!」清蘭は――私達に歩み寄ると、正邪に向けて頷いた。正邪の顔に凄惨な笑みが浮かんだ。「いいぜ。最高の気分だ」正邪は私を無理矢理に起き上がらせ、背中に担いだ。「まずはお前の力を試させてもらう。目標は――博麗神社だ!」

 

「あそこを押さえちまえば、幻想郷をひっくり返すなんてのは、楽勝だ。後は一つ一つ、最悪の恐怖を与えながらブッ潰してやる」正邪は清蘭の背を押した。清蘭は大人しくそれに従い、博麗神社の方角に飛び立とうとしていた。「わかった」ダメだ、清蘭。君はそんな事、しちゃいけない!

 

「――やめろ、正邪!!」それは突然だった。物陰から飛び出したお椀が、正邪の頭にジャストヒットした。正邪はたまらず私をずり落とし、頭を抱える。「クソッ」飛び出したお椀から小さな人が現れる。「これはこれはお姫様――なにすんだ、てめェ!!」「やめるんだ、そんな事!」

 

「逃げて!」「あッ!?」清蘭は、今だけは懸命だった。小人――針妙丸の言葉を聞くまでもなく、私をひょい、と担ぐと、ものすごい勢いで駆けだした。この世で清蘭に追いつけるものは誰もいないくらいの速度だった。後ろで剣戟が飛び交う音がした。それはすぐ聞こえなくなった。

 

私達の家に戻るまで、たぶん十秒もかからなかった。たぶんというのは――今の私にはもう、時間の感覚がなかったからだ。これは――まずいな。気を張らないと、意識がなくなりそうだ。「抜かないでくれ。血を流し過ぎたら死んじゃうからね」ナイフに手をかけた清蘭を、手で制した。

 

「ねえ、どうしたらいいの、鈴瑚!?」清蘭に難しい事はわからない。私はもう、自分が助からない事を悟っていた。「私は最強なんだよ? だから何か手があるはず。ねえ鈴瑚、教えてよ、私は――」「いいんだ。聞いてくれ、清蘭」私は首を振ろうとした。もう、動かなかった。

 

「君を利用しようとする悪人は、これからもずっと現れ続けるだろう。『大いなる力には大いなる責任が伴う』。私がいなくても――絶対に負けないでくれ、清蘭」「どうしてそんな事言うの? だって私は最強なんだよ? 最強なのに――どうして、どうして何もできないの!?」

 

私はもう、清蘭を見つめる事しかできない。アホ面は涙でぐしゃぐしゃだ。最期に見るのが、そんな顔か。私は心の中で笑った。悪くないと思った。心配はするけど、清蘭は最強だ。きっと何とかする。何とかやっていける。そうすれば、私も――少しは、安心して逝けるってもんさ。

 

清蘭が、私の腹に顔を押し付けた。「……最強なんて、何の役にも立たなかった。私は最強なんだ、なんて思っても、あなた一人救えないんだ。そんなの嫌だ」最強の清蘭は、泣きながら私の名前を何度も呼んだ。「そんなの嫌だよ! 絶対に嫌だ!!」清蘭は天を仰ぎ、叫んだ。

 

「もう最強の力なんて要らない!――鈴瑚! 返事してよ鈴瑚!!」

 

清蘭が、叫んだ瞬間だった。清蘭の身体から光が浮き上がったかと思うと、それは私の上をぐるぐると回転し、天に向かって飛び去っていった。「鈴瑚?」清蘭の声が、はっきりと聞こえた。「……どうなったんだ?」私の首からナイフは抜けていた。そこには傷跡一つなかった。

 

「――鈴瑚ッ!!」起き上がった私に、清蘭は思い切り飛びついた。おいおい、また私は死ぬんじゃないか――と思ったけれど、それは杞憂だった。清蘭の身体は、私を少しだけ後ずさらせるだけだ。「あれっ」清蘭が腕を振った。衝撃波は起こらない。「私、最強じゃなくなったみたい」

 

――ああ。多分、さっきの光か。「残念かい?」「うん……。ちょっとだけ」清蘭は首を振った。「でも、いいの。鈴瑚が助かったんだもん」「そうか」私達は頷き合った。抱きしめ合った。清蘭の涙を、ハンカチで拭いてやった。「ありがとう、清蘭」「うん」清蘭がはにかんだ。

 

「さっきの所に戻る?」「とっちめてやろう」「そうだね」私達は、清蘭がすべてを薙ぎ倒して作った道を逆走した。この破壊力は、いずれ世界を滅ぼしたかもしれない。清蘭はそれを正しく使った。もしかすると、力は私達を試していたのかもしれないな。私は帽子を目深に被り直した。

 

―――

 

  ―――

 

三十八万四千四百キロ。或いは光の一瞬、しかして無限大。桃園に、一人の姿があった。豊姫。彼女は桃を一つ手に取り、それを眺めた。「――あら」光がゆっくりと、豊姫の元に飛び来ている。「あの子達は、正しい目的に使ったのね」伸ばされた豊姫の手に、その光は消えていった。

 

「お姉さま、何を笑っておられるのです?」ウスノロで怠け者の(依姫談)兎を見ていた依姫が、姉の元に歩み寄った。「何でもないわ。ただ――あの子達は元気で、良い子でやっているのね、って」「――?」首をかしげた依姫に、豊姫はただただ、微笑みかけていた。

 



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私の目を見なさい

―私の目を見なさい―

 

鈴瑚が生き返った。

 

何かがおかしい。生き返るには一度、死ななければならないはずだ。それなのに知り合いは皆、生き返った事を喜ぶだけで、何ら不信には思っていなかった。何か狂っている。私の耳は確かにその狂気を感じ取っている。しかして、原因の特定にまでは至らなかった。ここからは、足を使う。

 

清蘭に聞いた。彼女は狂気乱舞するだけで、私の話なんてこれっぽっちも聞いちゃいなかった。てゐにも聞いた。やはり何の疑問も持っていない。師匠にも聞いた。返答は要領を得ない。はぐらかされているのだけはわかった。ならば姫様に――聞くのは流石に、はばかられる。

 

ひょっとして、おかしいのは私自身ではないのか?――すぐに、その考えを振り払う。少なくとも私の瞳は、私自身の変調を示してはいなかった。やはり、兎達にまつわる事柄だけが、狂ってしまっている。そこらで穴を掘っているてゐを見た。見た目は何ともない。……いや、待てよ?

 

「てゐ、その傷どうしたの」「傷?」私は鏡を持ってきて、それを見せてやった。肩に何やら、硬いものが突き抜けたような傷がある。「なんだろうねぇ?」てゐはまったく気にしていない風で、穴掘りを再開した。……しかし、私はそれに、見覚えがあった。顔を上げ、空を見た。

 

私は鈴瑚を探そうと思った。それは少々、いやかなり大変だった。誰も鈴瑚の事を見ていないという。如何にも興味がなさそうな応え。清蘭を再び訊ねたが、太鼓を叩きながら家の中を飛び回っているだけで、役には立ちそうにない。「鈴瑚は姿を消している?」私の中の疑念が強まる。

 

最終的に、行方はわからなかった。ただ、最後に現れたらしい場所は特定できた。人里だ。屋台の元締めの所に、営業許可を返上しに来たらしい。清蘭屋の隣にあった鈴瑚屋は、跡形もなくなっていた。私は少しばかり、焦りを感じた。鈴瑚の行方探しは、速くした方が良さそうだ。

 

鈴瑚が行きそうな場所は、限られる。それほど知り合いが多い方ではない。ごく最近、鈴瑚を見たと言ったのは――氷精だった。チョコレートを与えたらある事ない事ぺらぺらと喋ったが、鈴瑚が立ち寄った所の見当はついた。霧の湖、それも崖のある辺り。私の焦りは高まり続けていた。

 

―――

 

  ―――

 

「鈴瑚」私を背にした姿を、私は呼んだ。「……やあ、鈴仙」鈴瑚は振り向かなかった。「あなた、どうしてこんな所に?」「こんな所、だからさ」鈴瑚の言葉に、私は更なる焦りを感じた。ここは崖、それも断崖絶壁だ。湖には大小の棘が突き出している。落ちれば、末路に想像がつく。

 

「鈴仙こそ、何故ここに?」「あなたが何をしたか、見当がついたのよ」てゐの傷。それには馴染みがある。あれは狂気の銃で撃たれた傷だ。てゐは――いや、清蘭もきっと撃たれている。鈴瑚が生き返った、という偽りの記憶。例え鈴瑚がいなくなっても、生き返ったという認識は続く。

 

「私はもう、寿命が近い。元々、君らとは何世代も違う、古い玉兎だ」君が想像するより遥かにロートルなのさ、と鈴瑚は嗤った。「地上に降りてから、どうやらそれは加速度的に進行したらしい。清蘭ほどアホでもなければ、鈴仙ほど溶け込めてもいない。私にはもう、時間がなかった」

 

「昔から、この地に憧れていた。しかし地上は、私の存在を拒んだ。正直、ショックだったよ。約束の地を知る間もなく、死ななければならないなんて」鈴瑚は頭を振り、帽子を目深に被り直した。「けれど、後悔はしていない。最期、そう――最期だけでも、地上で死にたいと思った」

 

「師匠なら何とかしてくれる」「――少し、話をしたよ。けれどそれは、あなたの問題だと言われた」「そんな――師匠、どうしてそんな事を?」「怪我でも病気でもない。これは寿命だ。八意様はそれに介入しないと仰った。……さもなくば、今頃地上は生き物で埋まってしまうさ」

 

「だから、私は考えた。誰も悲しませずに逝くには、どうしたらいいか。答えは――君を見た時に、思いついたんだ。狂気の瞳。誰もを魅了し、狂わせる輝き。私も≪狂気≫を扱えるなら、或いは誰にも知られずに――いや、知っていながら、寿命を迎えられるんじゃないか。そう思った」

 

「その為には一度、私は≪生き返らなければ≫ならない」鈴瑚は――腰から狂気の銃を抜き、自分の頭に当てた。「これを探して、直すのは苦労したよ。一時は君から奪う事も考えたくらいさ」引き金に指が掛かる。生の感情を撃ち込まれれば、妖怪と言えど、精神を破壊されて、死ぬ。

 

「狂気とは時に救いにもなり得る。鈴仙、君はよくわかっているはずだ」鈴瑚はふ、と笑った。「誰も私の死を悲しまない。ただ、私が生き返ったという狂気だけが残る。やがて私は、幸せな記憶として忘れられるだろう」「バカな事は――」「止めないよ。止めない。これは私の意志だ」

 

「君さえ誰にも言わなければ、私は安心して逝けるんだ」鈴瑚の手に力が入る。「そうでないなら」狂気の銃がチャリ、と鳴った。「私はここで死ぬ。君はどうする?――私の意思を無視して、彼女らの狂気を解くのかい? それとも――」私は手首を振り、狂気の銃を取り出した。

 

「そうか。私を狂わせる気なんだね」鈴瑚が帽子に、耳に触れた。「君は、最後に狂わせるつもりだった。どうしてだろう。最初にそうしていれば、こんな事にはならなかったのに」私は鈴瑚を見た。二人の視線が交差した。「あなたは、止めて欲しかった」「そうかもしれない」

 

「約束してくれ。私の思いを、無下にはしないって」「こちらこそ、約束しなさい。あなたは私達を――清蘭を、こんな形で置いて行くなんてしないと」私達は、睨み合った。退く事などできない。友人をこんな形で失うなんて、悲しすぎる。止めなければ、あなたはいなくなってしまう。

 

しかし、その時だった。崖下から猛烈な風が吹き、鈴瑚の帽子を跳ね飛ばしたのは。私はその隙を、決して見逃さない。鈴瑚の手元に、必殺の弾丸を撃ち込んだ。鈴瑚の手から狂気の銃が跳ね跳んだ。私は、飛び上がった銃へありったけの弾丸を打ち込んだ。それは――崖下へと消えた。

 

「死ぬ事も、許さないのか」手首を抑えながら、鈴瑚は――嘆いた。「あなたが死ぬのは、今じゃない。清蘭に、正直に話しなさい」私は思念をリロードし、再び銃を向けた。如何によっては、撃つ。例え、狂気に陥らせてでも、だ。けれど、狂気に溺れさせるつもりは、私にはない。

 

あなたが、正気のあなた自身が、清算しなければならない事だ。「嫌だ」「いいえ。あなたはその意味がわからないほど、愚かじゃない」「わかっているから、さ」思いやりなんだ。鈴瑚はうそぶいた。「いいえ。それは逃げ。あなたは――あなた自身からも、逃げてしまっている」

 

「――ああ、わかってる。じゃあ、どうすればいいって言うんだ?――彼女を傷つけずに逝く方法を、鈴仙は知っているのか?」私は首を振った。「少なくとも、あなたが間違っているのは、わかる」「清蘭を傷付けてもいいと?」「そうすれば、あなたは清蘭が傷つかないと思っている」

 

「でもね。不整合な記憶はいずれ、狂気では押さえきれなくなるものよ。ある日突然、彼女はそれを理解する事になる。狂気の専門家が言うのだから、間違いない。清蘭はその時、どれだけあなたを想って泣くでしょうね」「……」「問題の先送りに過ぎないのよ。あなたの、嘘は」

 

「それでも!」「それでも?」「――清蘭を泣かすのは、嫌だ。いずれ理解するとしても、今の彼女は、それを受け入れられないだろう」「未来の清蘭に、それを託すの?」「そうだ」鈴瑚は首を振った。「そうなれば、風化したあなたの記憶を――きっと、抱えて生きていくでしょうね」

 

「――それが正しいと、本当に思うの?」「正しい答えなんてない」鈴瑚は、激しく首を振った。「死に、正しい答えなんてない」「そうね」私は狂気の銃をスピンさせた。「あなたが正しいと思えば、それは正しい。外野が何を言う話でもないわ」鈴瑚はうなだれ、後ろにふらついた。

 

「それでもね。あなたが手放そうとしている彼女は、考えもすれば歩みもする。あなたと同じ≪人≫なのよ」狂気の瞳が、鈴瑚を睨んだ。鈴瑚は再び一歩、下がった。「考えてみなさい。もしも、あなたが逆の立場だったとすれば。あなたは誤魔化されて、嬉しい? それとも、悲しい?」

 

「私は――」「答えられないでしょう」私は瞳を明るく、紅く輝かせた。「彼女は、正しいと思ったから、そうする。あなたはそうされたい?」「違う、私は違う。私は――」「何も違わない」首を振った。瞳の光が、軌跡を描いた。「それはエゴよ」「――それでも、私は!!」

 

鈴瑚が――崖の先端に向けて、駆けだした! それを予期していなかった訳ではない。私は瞳の力を込め、狂気の銃を撃ち込んだ! あなたを止めるには、この方法しかない。それは弾丸の速さで飛び――鈴瑚の身体を、確かに打ち抜いた。はずだった。私は混乱し――すべてを悟った。

 

鈴瑚は、私と相まみえる前から、狂気の弾丸で自分を撃っていたのだ。清蘭への異常な執着。既に狂っているものを、それ以上狂わせる事はできない。私の弾丸は鈴瑚の肩を撃ち抜いただけで、それを止めるには至らない。鈴瑚が絶壁に立った。こちらを向いて、最期の笑みを浮かべた。

 

「さよなら、てゐ。さよなら、鈴仙。……さよなら、清蘭」

 

私は駆け出し、鈴瑚の身体を掴もうとした。遅かった。鈴瑚は遥か湖面、刺々しく荒れたそこへと落下していった。崖下へ飛び込む。ダメだった。鈴瑚の姿は、もう何処にもなかった。沈んだか、裂かれたか。もう、わからない。冷たい世界がそこに広がる。私は震えた。震え続けた。

 

「バカ」今吐き出せるのは、その一言だけだった。鈴瑚は死んだ。私の波長が、鈴瑚の絶命を確実に捉えていた。間違いだと思いたかった。しかして私の耳は、間違えた事など、ない。あなたの望みを聞いた。私の主張を、確かにあなたは聞いた。それなら、私は――どうすればいい?

 

風に乗り、何かがふわふわと飛んでいた。私はそれに近付き、手に取った。鈴瑚の帽子。鈴瑚がただ一つ、現世に残したもの。……いいや。鈴瑚はこの世に、数多くのものを残したじゃないか。あなたを取り巻く人々。あなたが慕う人。あなたを好いた人。成したかった、地上への憧れ。

 

銃をスピンさせ、弾いた。狂気は手の中から消えた。あなたが望んだ狂気。あなたが残した狂気。私は、二人の――一人の家に向けて飛んだ。答えは決めていた。あなたが生きていた事に、間違いなんてないはずだ。私はあなたの意思を無碍にする。失望するに違いない。いや。それでも。

 

清蘭。きっとあなたには、とても辛い事実になると思う。けれど、あなたは後を追ったりしない。させるものか。鈴瑚が残したもの、それはあなたへの優しさ。わかって欲しい。いいや、いつかわかる日が来る。鈴瑚があなたを愛していた事を。鈴瑚が、命を賭するに値したのだと。

 

あなたの幸せは、鈴瑚の幸せ。鈴瑚の幸せは――あなたの幸せ。あなたは必ず、幸せになる。それが手向けだ。それが、鈴瑚の本当の意志だ。あなた達の家が見えてきた。私はあなたの為に、狂気の瞳を紅らめた。伝えなければならない事は、沢山ある。……今はまだ、少しずつでいい。

 

「――私の目を見なさい、清蘭」

 



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不可能じゃない

―不可能じゃない―

 

「あなたより先に、死にたくなかった」

 

一羽の玉兎がそう呟くと、永遠の存在に身体を預けた。焚き火が照らす暗闇の中、竹林の中はただただ、静かだった。「何度も言ったろ」永遠――藤原妹紅は片手を背に回すと、逆の手でポケットを漁り、紙巻き煙草に火を点けた。一口吸い、そして吐いた。煙が周囲に漂い始める。

 

「それは無理だ」「不可能じゃない」玉兎――鈴仙は力なく首を振った。己に言い聞かせるような段階は、既に過ぎているようだった。「限りなく低い確率を求めて、何か得られたか」鈴仙は再び首を振った。「貴女の言う通り」「そうだろうな」妹紅は鈴仙の手をそっと取り、握った。

 

「蓬莱の薬。八意とあいつが揃って、初めて出来上がるような代物だ。どだい無理な話だったんだよ」その口調に責めるような色はない。ただただ、慰めるかのように妹紅は続けた。「生き肝でも食ってみるか?」思い出したように呟く。鈴仙は何も答えない。「――ま、もうやったしな」

 

妹紅は煙を吐き、鈴仙の顔を見た。その姿は出会った頃と何も変わらない。姿だけは。中身はもはや玉兎とも言えない。己が技術で可能な限りの延命処置を施された身体は、その代償として常に恐るべき苦痛に曝されていた。彼女が狂気を操るものでなければ、とうに狂死しているだろう。

 

「今日は少しだけ調子が良いの」傾いた耳が妹紅の首元に回った。「最期だからかしら」「そうかもな」頭を撫でながら、肯定してやる。いくらでもしてやる。もう二度と、叶わぬのならば。「妹紅」目が合った。紅い瞳。狂気に歪んだ、美しい瞳。鈴仙は頭を近づけると、耳元で囁いた。

 

「私を殺して」

 

「分かった」目を閉じ、煙を吐いた。「――躊躇わないのね」「まあ、何度もあったからな。長生きしてるとさ」妹紅は首を振り、鈴仙に微笑みかけた。今から殺そうというものにかける表情としては、これ以上凄惨なものもない。「一瞬で終わるよ」「――ありがとう」「ああ」

 

焚き火がぱちり、と爆ぜた。一人が煙草を投げ込み、立ち上がった。一人を支え、ふらつく身体を抱き込んだ。その身体は酷く軋んでいだ。もはや長くは――いや、一刻の猶予もないのは、傍から見ても分かった。「最期に、貴女を狂わせようと思ってた。私の事をすべて忘れるように」

 

「私には効かない」「そうでしょうね」鈴仙は悲しげに呟いた。「忘れて欲しい」「言われなくても、いつかは忘れる。私らはそういう風にできてる」妹紅は壊れかけたそれを強く抱き寄せた。「忘れるまでは、忘れない」「ありがとう」「ごめんな」悲しくも、ちぐはぐな言葉だった。

 

お互い、涙はなかった。永くを生きる者は情緒も枯れ果てるものか。そんな法はない。納得ずくなのだ。これが彼女らの望んだ結末なのだ。妹紅の背から噴出した炎の翼が、互いの身体を包み込んだ。竹林は俄かに明るく、昼間もかくやという炎に照らし出された。眩い光。命を燃やす光。

 

――それは一瞬で輝きを失うと、竹林に静寂と暗闇が戻ってきた。空を抱く、一つの影がそこに佇んでいた。鈴仙はいない。もう、何処にもいない。骨も、心も、埋め込まれた機械も、何も残らなかった。ただ人々の心の中に痛みを残して、灼熱と慈悲の彼方へと逝ってしまった。

 

妹紅は背を伸ばし、首を振った。そのままずっと、佇んでいた。何を考えているのか。何を感じているのか。それは当人にしか分からない。或いは当人すらも理解してはいないだろう。永遠の存在が、人を一人殺めた。ただただ、それだけの話。もはや誰にも覆せぬ、ただの結果一つ。

 

それを、許せと言うのか。それを、見逃せと言うのか。それを、忘れろと言うのか。目の前で焼かれた命を、仲間を、愛する人を、知らぬ顔で通せと言うのか。≪私≫は竹藪の影から飛び出し、その首筋に――鈴仙の残したアーミーナイフを突き立てた。返り血が私の顔を濡らした。

 

「――随分な挨拶だな」

 

怒りではない。驚愕でもない。諦観がこちらを見た。「最初から、ずっと見てたんだろ。止めるならいくらでもやりようがあったはずだ」既に傷は塞がっている。当然だった。永遠を殺す事はできない。「止めたかったさ」私は首を振った。「止めないでね、って言われてなけりゃあね」

 

私――因幡てゐは再びナイフを構えた。私は、永遠を殺す為にここに来た。鈴仙の願いを叶えてやる。一緒に在りたいという願い。例えそれが死後の世界であろうとも。「死にな。永遠」分かっている。そんな事は不可能なのだと。遠大な歴史が語る。永琳が、そして姫様が証明する。

 

だが、しかし、それでも――不可能なら、やらないのか? 不可能に立ち向かった鈴仙は、あれほどに足掻き、苦しんだのに? 私にしてやれる事は、鈴仙が生きている間には、何一つなかったのにか?「私を鈴仙の所に送ってやる、って言うんだろ」妹紅が分かったような口を利いた。

 

「そういう奴もいた」首を振る。表情はない。「それができるなら、そうしていたかもな」「ッ……」「生憎と、私はそういう風にはできていない」妹紅は残された焚き火の傍に歩み寄ると、静かに座り込んだ。「それは≪不可能≫だ。納得したか? それで、次はどうする、てゐ?」

 

ナイフを握る手が、震えていた。震えが止まらなかった。「或いは、憎しみのままに私を殺し続けるか? いいぜ、今は生きたい気分じゃない。朝まで殺し続けさせてやる」まるで挑発するように、妹紅は後方へ倒れた。喉元を親指で指差した。焚き火が小さく爆ぜる音だけが響いていた。

 

動けなかった。誰も動かなかった。「それとも」妹紅が上体を起こすと、その指先には御札が挟まれていた。「ここでお前さんに、後を追わせてやるか」その言葉が時を動かしたかのように、ぶるり、と身体が震えた。ナイフを取り落としたのにも気付かなかった。「さあ、どうしたい」

 

私は後ずさりした。自分の行いを理解してはいなかった。命惜しさに逃げ出そうとしているのか。いや違う。違うはずだ。私には分からないんだ。どうすればいいのか、分からないんだ。「軽々と答えられる奴なんて、そうはいない。どれだけ長生きしてても、な」煙草が取り出される。

 

「分からない」私は正直に答えた。嘘吐きにあるまじき行為だと思った。「鈴仙をたぶらかしたあんたが憎い。殺してやりたいとも思う」「だがそれは、不可能だ」「――なら、私にできる事は何もないって訳?」ふと、涙がこぼれているのに気付いた。何もかも、納得がいかなかった。

 

「所詮、人一人ができる事なんて限られるって話だ」指先から火を灯しながら、妹紅は嘯いた。「私も」吐いた煙が、辺りへ散っていく。「私も考えた。何も思い浮かばなかったが。いつもそうだ。してやれる事なんてのはたかが知れている」――永遠の存在が、己の無力を嘆いた。

 

「正気を保っていられる間に、苦しまないよう殺してくれ。最期の願いは叶えてやれた」「そんなのは願いじゃない!」「それとも、断るべきだったか? 苦しんでこと切れるその時まで、放っておいた方がマシだったか?」「違う、それは――」私は、何ら反論の言葉を持てなかった。

 

「してやれる事なんてのはたかが知れている」妹紅は繰り返し、呟いた。「不可能な事は、不可能だ。だからこそ、僅かでも可能性があるなら、付き合ってやりたいと思った。結果的にそれは鈴仙を苦しめる事になってしまったかもしれないが、な」煙草を咥えたまま、妹紅は俯いた。

 

鈴仙は妹紅と付き合い始めてからずっと、永琳や姫様に隠れて不死の研究に手を染めていた。けれどそれは当然ばれていただろうし、現に私も気付いていた。永琳が止めなかった理由は分からない。どうせ不可能だからと放っておいたのか。それとも、それが鈴仙の為だったから――?

 

「傍にいてくれるのが嬉しかった」吸い殻を炎の中に消し去りながら、妹紅は立ち上がった。「不自然に命を繋ぎ続けながらでも、嬉しくないはずがなかった。けれどいつかはそれも終わる」指を鳴らすと、突然に焚き火が消えた。辺りが暗闇に包まれる。「終わった後も、世界は続く」

 

「これからも私はきっと、してやれる事を探すだろう。いつか鈴仙の全てを忘れてしまうまで」「だったら」私は暗闇の中、何処へとも知れぬ相手へ叫んだ。「私は、立派なお墓を立てる。あんたも来なさい。必ず」「ああ」何処からか返事がして、やがて竹林は――完全に、静かになった。

 



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✨望みが叶う薬

―望みが叶う薬―

 

「――と言う訳で、わたくしは今、エーリン医学賞授与会場から中継致しております」天狗の記者が澄ました顔をカメラに向けた。テレビマン達が忙しなく行き来する。前代未聞の全幻想郷同時中継だ。正しくすべての人妖の注目が今この場に集まっていた。その中心に立つのは、勿論――

 

「鈴仙=優曇華院=イナバさん。まずは受賞おめでとうございます」「どうも、ありがとう」会場に詰め掛けた幾千万の観客が、一斉に祝福の声を上げた。私はそれに最高の微笑みを添え、手を小さく振って答えた。圧倒するような熱気に飲まれてしまうほど、私はお調子者じゃないもの。

 

「さて、早速ですが鈴仙さん、今回表彰となりました新薬について、ごく簡単にお話して頂けますでしょうか?」笑顔の記者が私にマイクを向けた。その言葉を待っていた。咳払い。咳払い。背を伸ばして、瞬きをして。最高の瞬間を最高の言葉で、決める。「表彰頂いた新薬とは――」

 

「――≪望みが叶う薬≫です」おおーっ、と会場がどよめいた。ここに来ている以上は知っていて当然でしょうに。でもまあ、悪い気はしない。笑顔を崩さない記者のマイクに向けて、私は続きを語る。「この薬を飲めばたちまち、望みが叶うのです!」大仰に両腕を広げて、私は叫んだ。

 

私が言葉を発する度に、会場は驚愕と感嘆に包まれた。私は求められるがままに己の閃きの素晴らしさを、発明の意義と偉大さを、開発の苦労話を語った。会場の興奮は高まる一方だった。感極まった妖怪兎達が私を崇め始めた。いいわ。もっとやりなさい。私はますます熱弁を振るった。

 

やがて会場には幻想郷中から人々が集まり始めた。埋め尽くせども埋まらぬその数たるや。そのすべての注目が私に集まっている。私を取り囲んでいる。私は感動した。大いに感動した。素晴らしい。最高だ。私は偉大な事を成し遂げたんだ。掛け声一下、胴上げが始まった。高く。高く。

 

それは高く、高く、高く、高く――

 

月まで高く、高く、高く、高く――

 

―――

 

  ―――

 

「――今一リアリティに欠ける部分がある」見知った天井。私は重さを訴える頭をゆっくり持ち上げると、首を振った。処置室の一角。ベッドの上。枕に頭を戻して、息を吐いた。この分だと商品化はまだ遠い先の話だろう。「見たい夢を指定できるだけじゃ、ダメなのよねぇ……」

 

胡蝶夢丸をインスパイア――じゃない、下敷きとした新薬。仮称、望みが叶う薬。就寝前に一錠を服用し、見たい夢を強く思い浮かべると、やがてそれが夢となって現れる仕組みだ。望みを思いのままにしたければ、夢に縋るしかない。獏が聞いたら笑うだろうが、世の中は世知辛いのだ。

 

成果を出す為には、今の私から見て現実的に可能な方向からアプローチをかけるべきだ。悲しいかな、師匠のようにはいかない。経験不足だ。実力不足だとは思いたくないが。「この頭痛だけでもなくさないと、売り物にならないわ」シーツを抱き込み、私は呻いた。頭がぐらぐらする。

 

副作用、頭痛に吐き気、倦怠感、睡眠障害に食欲不振、極めて稀に蕁麻疹。潰せるだけ潰してはみるが、果たして安全な薬に仕上がるか、どうか。「頭が痛いのは物理的だけにして欲しい」誰にともなく苦情を吐き、目を閉じる。仮眠から覚めたら調合を変え、また試飲しないといけない。

 

「もしもし?」

 

――ああ、副作用が増えてしまった。誰もいない処置室で声が聞こえる。それもごく近くから。幻聴なんだから当たり前か。それにしてもねっとりとした声だな。「もしもし?」――いけない、幻触もだ。今何かがほっぺを撫でたように感じた。「もしもし、兎さん?」肩が揺さぶられる。

 

私は身体のバネを使い、ベッドから飛び上がった。目を見開き、手首を振ると、そこに狂気の銃が現れる。ぼやけた頭でも分かる。これは幻覚じゃない。「――物騒ですねぇ」銃を突き付けた先、覗き込むようにこちらを伺っていたのは――なんだ。「獏じゃないの」「どうも。獏です」

 

銃を下ろした私の目の前で、獏――ドレミー・スイートが笑みを浮かべた。「何か御用が?」「ええ。ちょいとばかり、忠告に」「忠告?」何を忠告される筋合いがあるものか。きっと私は、怪訝な顔をしていただろう。「あなたのですねぇ、ええ。最近濫用していらっしゃるお薬ですが」

 

ドレミーは何処からともなく取り出した夢魂に座りながら、続ける。「わたくしどもとしては、そもそもそういったものを利用する事自体をおすすめしないと言いますか。ええ。率直に申しまして、お止めなさい」眠たげな目が、私の瞳を捕らえた。「今に酷い目に遭いますよ、あなた」

 

「止めろ、とは」「お分かりでしょうに?」言いたい事は何となく分かる。不自然な夢をもたらすのを止めろ、と言いたいのだろう。「造られた夢の功罪をこの場でどうこう言い争う気はありませんが――美味しくはありませんねぇ。ええ」夢魂をちぎり食べ食べ、ドレミーは首を振った。

 

「従う理由はないわ」「おや、おや」この薬には既に結構な労力を投資している。少なくとも手間賃くらいは回収できなければ、大損と言うものだ。「ままならない世の中、せめて夢を見る権利くらいはあるはずよ」「はぁ。いえ、否定はいたしませんが、わたくしに向けてそれを仰る?」

 

――確かに、夢の支配者に夢の権利を主張するなんてのは、滑稽かもしれない。「ともかく、そう言う事。忠告、痛み入るわ」「考え直しては頂けませんかねぇ」責めているようではない。心から止めて欲しいとでも言いたいかのような調子で、ドレミーは言った。「心配です。わたくし」

 

「心配性なのね」「そういう仕事ですからねぇ」夢魂から飛び降りたドレミーが、大きく息を吐いた。ピンク色の小さな塊がこちらに飛んできて、消えた。「ともかく、忠告は致しました。考え直して頂ければ良かったのですが」くるり、戸口へ向け振り向いた背で、太いしっぽが揺れる。

 

「わたくしの悪い予感、外れれば良いのですがねぇ」それは多分に予言めいていた。私が若干の後ろめたさを感じている間に、ドレミーは処置室から歩き去っていった。そもそもどうやって入ってきたのかは、まあ問うだけ徒労だろう。夢の獣の考える事は、正直よく分からない所がある。

 

「悪い予感、ねぇ」専門家が言うのなら、一理はあるのだろう。しかしてこの世に完全に安全な道なんてものはない。今は薬を改良して――どうしてもダメなら、またその時に考えよう。今はそれどころじゃない。私はとりあえず、寝直す事にした。獏の祝福だろうか。眠気はすぐに来た。

 

―――

 

  ―――

 

望みが叶う薬の改良は順調に進んだ。順調過ぎるくらいだった。副作用は限りなく低く抑えられていた。これなら直に一般に販売もできるだろう。まとまった収入があれば、更なる新薬の開発にも繋がる。私は確かな手応えを感じていた。――或いはそれは、慢心だったかもしれないが。

 

今日の目覚めはさわやかだった。不快感はもう、ほとんどない。相変わらず夢の内容はやり過ぎな所はあるけれど、インパクトが足りないよりはいいだろう。静かに身体を起こし、ふと目をやると――私の隣には、てゐが眠っていた。一瞬ぼんやりとしたが、直に分かった。この悪戯者め。

 

トレーから薬が一錠なくなっている。てゐはたまに私が薬を飲むのを見ていたし、この薬が何の為のものなのかも知っている。夢のご同伴に預かろうとでもしたんだろう。薬には勝手に触るなって言ってるのに。やれやれ。そっとベッドから抜け出し、てゐの身体を寝かせ直してやった。

 

放っておけば直に目を覚ます。そのはずだった。私が雑用を済ませて、昼食を摂って、薬の調合で夕方まで引きこもった後、処置室に立ち寄った時――てゐはまだ眠っていた。おかしい。咄嗟に息を確認した。流石に杞憂だった。生きている。生きているけれど、眠ってしまったままだ。

 

顔を張った。反応はない。揺さぶってもやはり反応はない。しかし苦しげではない。寝顔は実際、安らかで幸せそうだった。てゐの口がムニャムニャ、と寝言を発した。てゐは夢を見ている。――夢を見続けている? 身体を寝かせ直して、私は考えた。考え、そして一つの結論に達した。

 

「――私には、耐性がついていたんだわ」それは恐ろしい仮定だった。私は今まで散々この薬を濫用している。薬によって得られる望みが所詮、一夜の夢である事も理解している。だが、てゐはそうではなかった。てゐは望みを叶え、そしてそれに囚われてしまったのだとしたら――?

 

調合した薬が強過ぎたのか。或いは身体との相性か。今はどうでもいい。このままでは最悪の事態も想像できてしまう。私は慌てて数種類の薬を試したが、てゐの覚醒に役立つものではなかった。日が暮れ、室内に闇が落ちる。処置室を走り回るが、事態の打開策は見つからない――

 

「こうなる気がしていたんですよ。ええ」

 

不意にかけられた声と共に、部屋に明かりがついた。スイッチの方を振り向いた私と、訪問者の眠たげな目とが合った。「どうも。獏です」けだるげに挨拶したドレミーに、私は――多分、一抹の希望を感じていたんじゃないか。「助けに来ましたよ」「本当に?」「ええ。鈴仙さん」

 

ドレミーはベッドに歩み寄ると、寝息を立てるてゐに手をかざした。「夢の中を御覧なさい」背負う夢魂に情景が浮かんだ。――私がいる。姫様がいる。師匠もいた。兎達に囲まれている。中心にいるてゐは、楽しそうに笑っている。――なんだ、これじゃいつもと変わらないじゃない。

 

「変わらない事もまた、一つの欲ですねぇ」ドレミーが微笑んだ。あまり楽しそうな顔ではなかった。「どんなに幸せな夢も、永遠であればそれは拷問に等しい。如何にも幸せな内容ですと、もう目覚めなくていいのよ――と、言ってあげたくはありますが、ねぇ」指先が身体に触れる。

 

てゐの額辺りから、夢魂がふわりと浮き上がった。それは何処か奇妙な、ぎくしゃくとした動きでドレミーの手に集まり、一塊を構成した。綺麗なピンク色ではない。何処か色褪せて、乾いた色をしていた。「造られた夢です」望みが叶う薬が造り出した夢は、私の目にもいびつだ。

 

「本当に美味しくないんですよ、これ」ドレミーはそれを掴み取ると、大口を開けて一息に飲み込んだ。獏は夢を食べる生き物だ。夢を食べられた者は、一体どうなるか。私は答えを知っている。「――んん?」怪訝な声が響いた。「ふわぁ――あれ、どしたの鈴仙ちゃん。そんな顔して」

 

そうだ。てゐは目覚めていた。「てゐ!」私に頭を掴まれて、てゐは目を白黒させた。「ちょっと何、何!?」「夢から覚めたのね」「夢? ああ、覚めたよ――はて、どんな夢だったかしら?」てゐは首をかしげた。その様子がおかしくて、私は思わず笑った。ドレミーも微笑んでいた。

 

ぐるるーっ。不意に怪しげな音が響いた。発生源は――獏の腹の中。「おおう……」ドレミーが腹を押さえて、呻いた。「一つ、胃腸薬を頂けませんかねぇ……?」今にも吐き戻しそうな顔をした獏を見て、私達は慌てて処置室をひっくり返した。周囲は腹音に包まれていた。ぐる。ぐる。

 

ぐる、ぐる、ぐる、ぐるる――

 

ぐる、ぐる、ぐる、ぐるるるる――

 

―――

 

  ―――

 

「――夢か」見知った床板。私はきしんだ身体をゆっくり持ち上げると、首を振った。処置室の一角。床の上。転がった空き瓶を拾い、息を吐いた。「夢の中でなら望みは叶うのにね」立ち上がり、ベッドの方を向く。そこに寝かされ、苦しげに今も眠り続けているのは――てゐだ。

 

「私が絶望してどうする、って話かしら」実際、処置のしようがなかった。薬の改良は遅々として進まず、その最中でこの事故だ。試しに私が飲んで、経過を見てみないか。言われた時点で断るべきだった。薬の危険性を軽く考えるべきではなかった。優しさに甘えてしまった。私が悪い。

 

それで最終的に取った行動が、現実逃避か。瓶一杯の≪望みを叶える薬≫。生憎と、死んで詫びるなんて安易な贖罪は叶えられなかったが。薬師の端くれともあろうものが、己の不注意で生んでしまった患者を見捨てて死のうというのだ。私は自分が情けなかった。とても許せなかった――

 

「こうなる気がしていたんですよ。ええ」

 

不意にかけられた声と共に、部屋に明かりがついた。スイッチの方を振り向いた私と、訪問者の眠たげな目とが合った。「どうも。獏です」けだるげに挨拶したドレミーに、私は――多分、一抹の希望を感じていたんじゃないか。「助けに来ましたよ」「本当に?」「ええ。鈴仙さん」

 

「それで――望みは、叶いましたか?」ドレミーの微笑みは、何処かぞっとするものを感じさせた。まるで何もかも見透かすかのような眠みのある瞳が、私の狂気をも丸裸にしてしまったようだった。きっと彼女は、全てを見ていた。私がさっき夢に見た、都合の良い情景すらも、全て。

 

 

 

「――一つだけは、ね」

 



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―ほのぼの―
歩く悪魔


―歩く悪魔―

 

「パチュリー様、これを見てください! これを!」

 

読書を妨げるそれは、慌ただしげに鳴いた。私に話しかけたなら、貴重な読書タイム以上の何かを持ってきたんだろうな、お前。私がゆっくり、可及的速やかにゆっくり顔を上げると、そこには小悪魔の嬉しげな顔と、そいつが抱えた不可思議なモノリスがあった。

 

手の平ほどの、光るモノリス。記述が光るものは何度か見た事はあるが、四角く区切られた表面がぼう、と光るそれは初めて見るものだった。何やらいくつかのシンボルを有し、矢印がそれを突いている。何に使うものか。おそらく、情報を記録するものだろう。モノリスとはそういうものだ。

 

「咲夜様から頂きました」どうせレミィが飽きて捨てた玩具が回ってきたのだろう。想像はつく。「パチュリー様に差し上げようと思いまして」「いらない」何が悲しくて私がモノリスなど穿たねばならないのか。紙で必要十分だ。

 

「そうは言わずに、これ見てくださいよ。なんと本が読めるんです」脇に滑り込んだ小悪魔はモノリスに指を走らせると…表面がふっ、と書き変わった。文字。そして文字。確かにそれは、本の背を模した光を放っていた。吾輩は猫である。そこにはそう書かれていた。

 

「…いいわ、読んだ事あるもの、それ」「ええ~!?」小悪魔は奇声を上げ、じゃあこれは、これは、と次々に光を変えてみせる。悪いけど、だいたい読んだ事があるわ。それ以外のものも、敢えて私の興味を引くようなものではなかった。

 

時間は有限。良い本も悪い本も読むにしても、それなら本でいい。一度飽きて閉じたとしても、本は逃げないのだ。

 

「うう、今あるのはこれだけですね…」見ろ。そんなものだ。「あわわ、…でもですね! これにはまだ使い道が…」私はすっかりその話題に飽きていた。本を開く。もはや聞く耳持たずのポーズだ。何を言おうと聞き流してみせる。

 

「例えばですね…そう、蔵書をデータベース化して直ぐに探せるのは、とても楽をできそうです!」データベースとやらがどのようなものかは知らないけれど、その光るモノリスに本の行方を刻印するのはお前じゃないのか。敢えて聞かなかった。浅知恵なら、泣くのは奴だけだ。

 

 

 

「――ふええ、動かない!? 壊れた!!!??」

 

意外と直ぐに泣きやがる。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「…という事で、あのモノリスは面倒臭い奴の手に渡ったのよ」レミィは紅茶を熱そうな顔で飲みながら、返す。「いいじゃないか。私にも使い道がわからなかったのだから、使用人如きに草々わかりゃしない」あなたの場合、わかる以前に放り投げるのが常ではないか。思いはしたが、言わなかった。

 

「咲夜は当然知らなかったし、他に聞く相手もいなくて、終いには門番にも聞いたけど、駄目だったのよね」歯痒そうだ。自分の思い通りにならなかった事柄は、結構引きずる。「そもそも何処でそんなものを拾ったの」「香霖堂」…あのゴミ屋敷か。「そこで使い方を教わればよかったんじゃないの」

 

「店主もわからなかったのさ」レミィはニヤリ、と笑った。「無為な情報をやり取りする道具、とだけ言われたら、もう買うしかないだろう?」あなたは無為が好きだものね。…無駄を愉しんでこそ道楽、とは言ったものの、だいたいはすぐに飽きて放り出している。飽き性というか、なんというか。

 

「それで、今は?」「さっき言った通り、小悪魔がいじり倒しているわよ。働かせるのに電気が必要とかで、私に一発頼んできたけど…面倒臭いから断ったわ。それで今は、何とか魔力で充足できないか転がりまわってる」「私よりは熱心じゃないか」ニヤニヤと笑う。与えた物自体には執着しない。

 

紅茶が揺れる。「どう思う?」「何が」紅茶が消える。「小悪魔がやりきるか」「…まあ、そうだな、私よりは詳しくなるんじゃないか。熱意は買う」そうね。敢えて止める必要もないか。「――じゃあ、帰るわ。咲夜によろしく」ああ、と答えたレミィは、紅茶をすすり始めた。冷めないと、飲めない。

 

図書館まで歩いて――いや、浮遊しているから歩いてはいないのだが――戻る途中。先に妖精メイドの団子が見えた。また何かやらかしたのか。もしも本を棄損したなら、死ぬよりも酷い目に遭わせるぞ。私の睨みが通じたのか、団子は二つに割れ――中から小悪魔がまろび出た。

 

「見てくださいよパチュリー様! これはカメラにもなるんです!!」近付く小悪魔。そこには確かに妖精メイドの間抜けな顔が映し出されている。「これは面白いでしょう! 折角ですからパチュリー様も…ああっ、何処に行かれるのです!?」図書館よ。たわけ。

 

私の無関心に気付かないのか、小悪魔は私にまとわりつきながらモノリスを向けてきた。よくよく見ればその裏にはレンズが嵌っているのが見える。それがカメラか。私の知るそれより随分と小さい。こういうものは天狗か河童辺りが欲しがりそうだが、まあどうでもいい。

 

「撮ってもいいですか?」返事をするのも面倒臭い。眼鏡をかけ、本を開く。カシャリ。小さな音がした。別にどうでもよかった。本棚が倒れる音より小さいものは無視する事にしている。「わぁい、壁紙にしよう!」それは壁紙を張る機能があるのか。制作者の考える事は理解できない。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「ふっふふふんふ~ん」小悪魔の鼻声が聞こえる。はたきを持ち、傍を通り過ぎる。この頃は座りながらに飽きたらず、歩きながらモノリスを弄り回している。その内に何かしら失敗を犯すだろうが、注意するのも面倒だ。自分の失態は自分で責任を取るがいい。

 

今読んでいるのは、絵本だ。私だってそういうものを嗜む。内容は大した事はなかったが、教訓はこうだ。因果応報。「ギャーッ!!?」奥の方。脚立を蹴る音、本の落ちる音、そしてやかましい悲鳴が上がった。…よりによって、そこか。

 

あの辺りには悪魔を封じた書物が並んでいる。まあ、封印されているような奴である。実際大した事はない。…ただ、小悪魔にとっては、そうではない。下っ端といえど、死なせるのは癪だ。私は本を閉じ、速やかに頭を上げた。刹那、逃げ込んでくる小悪魔。そして巨躯を備えた牛頭の悪魔。

 

「頭を下げなさい!」

 

本日は木曜日。ならば――お前を斃す魔法は、これで決まりだ。空を舞う。悪魔を見下ろす。片手を掲げ、呪文を唱える!

 

「スタティックグリーン」

 

――指先からほどばしった幾重の稲妻が、巨体を討ち倒す。他愛もない。悪魔はブスブスと音を立て、…本棚へと、倒れ込んだ。「あ」悪魔の死体が急激に風化していく。煤けた黒が生成されていく。本棚に、本に、まぶすように。「ああー…」真っ黒に染まったそれらを見る。最悪だ。

 

「ああ~っ!!」人が最悪の気分にある時に限って、聞きたくもない奇声は上がるものだ。「壊れちゃった…壊れちゃいました…」何の話かと思えば…例のモノリスだ。表面に幾重のヒビが入り、中身が飛び出していた。酷く焦げ臭い。これはもう、修復できるようには見えない。

 

「そ、そんなぁ…」哀れみはなかった。大体この頃、お前はそれにかかりっきりだったじゃないか。「仕事もできた事だし、この気に心を入れ替えなさい」「うう~…わかりましたぁ…」モノリスの死骸を名残惜しそうにポケットへ入れると、小悪魔は掃除用具を取りに立ち去った。

 

「…モノリスばかり見ていると、ロクな事はないものね」…いや、その実は私も、歩きながら本を読む方法を考えていたのだが…これはお蔵入りにしよう。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「なんだそれ」「モノリスのお墓です…」「本当に大事にしてたのね、お前…」



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幸せの兎

―幸せの兎―

 

「特賞、大当たり~!!」

 

威勢の良い声と共に、大鈴が激しくかき鳴らされる。周囲がざわつく。変装してはいても、妖怪は妖怪だ。しかしそれすらも眼中にないように、皆が皆、清蘭の手に乗ったそれを見つめていた。羨望と感嘆が場を包む。私は如何にも気恥ずかしくなり、清蘭の手を引き、その場から立ち去った。

 

福引の特賞で当たったのは、小瓶。波と白浜が詰まった小瓶。私は一度見て、綺麗なものだなと思ったが、一等の商品券を逃した悔しさは特に癒えなかった。ちなみに私は六等。ティッシュペーパーである。一枚抜いて、鼻をかんだ。…清蘭はと言えば、先からずっと、小瓶を物珍しそうに見続けている。

 

それは、名のある者の手による工芸品に見えた。まるで本物めいて動いているようにすら見えた。清蘭の目を釘付けにするのも、無理はなかったかもしれない。彼女は綺麗なものや不思議なものが大好きなのだ。私はそれを横目に見ながら、配線に必要な道具を揃えていた。…その時だった。

 

――そこに、清蘭はいなかった。「…!?」本当に突然の事だった。まるで最初から、そんなものはいなかったように。「どういう事だ…?」私は頭を整理しようとした。清蘭は小瓶を見ていた。私が目を離した隙に、この場から立ち去るなんてできるはずがない。…だって、清蘭だぞ?

 

「鈴瑚ー」

 

咄嗟に振り返った。そこには誰もいない。しかし、確かに清蘭の声が聞こえたのだ。

 

「こっちこっち」

 

再び振り向き、周囲を注意深く見据える。とはいえいつもと違うのは、例の小瓶くらい…小瓶くらい?

 

「おーい、鈴瑚ー!!」

 

小さな清蘭が、こちらに手を振っている。まさかと思ったが、私が見た時にあんな仕掛けはなかったはずだ。それなら、これは、本当に清蘭なのか。「鈴瑚ー!! 聞いてるのー!?」聞こえている。小さな声だが、確かに聞こえる。私は試しに、玉兎の通信回線を開いた。

 

(清蘭、そこにいるのか?)感度は良好。電波は直ぐに返ってきた。(すごいよ、海がある!!)私が目を向けると、小さな清蘭は波打ち際ではしゃぎ回っている。その姿はどうにも危なっかしい。彼女の行動は私をいつもやきもきさせるのだ。

 

(あのね、中に入りたいって思ったら、ここにいたの!)

 

…中に入りたい? 少々訝しんだが、試してみる価値はあるかもしれない。清蘭は時に私より鋭いのだ。いつもはぼんやりしているが。

 

中に入りたい、中に入りたい、中に――ッ!?

 

 

 

まるで答えるように、小瓶の意志がこちらに向いた。そうとした形容できなかった。一歩後ずさった。いや、進んだのか? 世界が回転する。視界が回り、回り、回り――

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「…鈴瑚!」

 

清蘭の顔が、目の前にあった。「目、覚めた?」私は瞬時に状況を理解した。ここは小瓶の中で、ここにいるのは清蘭、そして今、私は清蘭の膝の上に――「わっ!?」慌てて起き上がる。清蘭の顔を見る。間の抜けたような顔は間違いなく清蘭だ。間違っているとしたら、私の正気を疑っていい。

 

「それにしても…あれ」帽子を掻こうとした。そこに帽子はなかった。いつの間にか私は水着姿になっているのに気付いた。清蘭もそうだ。顔を見るのに忙しくて、気付かなかった。「鈴瑚が来てから、こうなったの」身体を捻って全身を確認する清蘭を、私はぼやっと見た。

 

「見て、可愛い水着」確かに、かわいらしい水着だ。私のズボンとは比べ物にならない。…というか、なんでこんな華のない奴なんだ。「似合っているよ、鈴瑚も」へーへーそうですか。どうせこいつの事だ、心から本気で言っている。正論は時に、人を傷つける事を知らないのだ。

 

「ねえ、泳ごう!」清蘭は実際、とてつもない馬鹿力だ。引きずられるように海へ近づき…放り投げられた。「おわっ!!?」海に入る前は準備体操をだな。そんな事はどうでもよさそうに清蘭は近付いてくると、私の手を取った。そして――水の中へ、引きずり込まれる。

 

ゴボッ!? ゴボ、ゴボボボ!! 清蘭は笑っているが、私にとっては一大事だ。こいつ、フィジカルに関しては超人的だからな。付き合っていたら命がいくつあっても足りない。草々に水面に上がった私は、清蘭が上がってくるまで時間を数えた。およそ三分。まだ余裕そうな顔で、上がってきた。

 

「海って凄いねー!」彼女の手には綺麗な貝殻がいくつも並んでいた。或いは貴重なものもあったかもしれないが、清蘭は一緒くたに波打ち際に並べると、それらをじっと見つめていた。宝物を見定める目だ。私は知っている。幾度も付き合わされているから。

 

やがてそれらを、波がさらった。清蘭はそれをじっと見つめたままだった。「取っておかなくていいの?」「いいの。海の中にあった方が綺麗よ」清蘭は顔を向け、笑った。彼女なりの価値観があるのだろう。満足げな清蘭は、徐に砂遊びを始めた。必要な道具は一式、何故か足元に揃っていた。

 

「見て、スカイツリー」知らない名前を冠したそれは、なるほど塔めいて高く伸びている。「じゃあ私は城を作ろう」丁寧に削っていく私の傍で、清蘭は池を作り始めた。私の城の周りを、堀が覆った。削り終えた私は、清蘭を顔を見合わせて、互いの健闘を讃え合った。

 

それから私達は、転がっていたボールで遊び、用意されていたスイカを割って、食べた。ビーチパラソルの下で休憩し、私の身体を埋めて――大変遺憾だが――やり切った感を醸し出したりもした。終わってしまうのが勿体ない時間だった。それでも。何事にも。終わりの時間がやってくる。

 

シャワールーム――何故かそんなものがあった――から出た私は、先に出ていた清蘭の傍に座った。ビーチマットが少しだけ音を立てた。光は終わり、闇の時間が迫っていた。水平線に沈む夕日も、名残惜しく夜の訪れを告げていた。

 

「また遊びたいね」清蘭が笑いかけてきた。「そうだね」笑みが、重なった。夕日が海の中へ吸い込まれる瞬間、私は清蘭の手を取り、肩を近付け…そう、顔を近づけて、彼女の唇に、その、ナニをだな。清蘭は不思議そうにこちらを見て、目を閉じた。これは、…いいのか…?

 

――刹那、世界が回転する。ここへ入り込んできた時と、同じだ。もう少しばかり待ってくれ、とは思ったが…不思議と嫌な感じはしなかった。あるべき場所に戻りなさい。微かにそう、聞こえた気がした。

 

 

 

――目を開いた。真っ暗だ。手探りで電灯を点ける。光の中に眠り込んだ清蘭と、あの小瓶があった。拾い上げ、中を覗く。…しかしそれは、もはやぴくりとも動きはしなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「清蘭、またそれ見てるの?」「宝物だもん」あの日の出来事を覚えているのか、いないのか。清蘭は相変わらず、小瓶を眺めては海の話をする。私もそれを思い出す。楽しい時間――いや、とても楽しい時間だった。清蘭の嬉しげな顔を見るのが、私は好きなのだろうと思った。

 

裏庭にキュリオシティを出した。これはこれで、平和利用はできる。浄化系は既に殺してある。二度と使う事もないだろう。清蘭はというと、近くで畑に水をやっていた。じょうろでは埒が明かないだろうに。…しかしまあ、指摘するのも野暮だと思った。畑の一角は、清蘭のものだからだ。

 

「ねえ、鈴瑚」なんだい。キュリオシティの配線をいじりながら、上の空な返事をした。「また、手を繋いで、夕日を見ようね」…覚えていたか。振り向いた先には、じょうろを持ち、首を傾けながら、こちらを覗き込む姿があった。あの時、握った手の感触が、鮮明に思い出せた。



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おうどん

―おうどん―

 

「おうどんがいい」藪から棒になによ。「おうどんがいいのよ」清蘭は何やら難しい顔で主張している。…うどん? そんなに食べたいのかしら。「今日はみんなで流しそうめんやるって言い出したの、あんたじゃなかったっけ?」「そうだけど?」…おいおい。いくらなんでもぽやぽやしすぎよ。

 

…まあ、正直気は進まなかったのだが。どうしたって公平な食べ物ではない。川上のデブとイタズラ兎がほとんど食い尽くすのは目に見えている。「今からでもうどんに替える?」「流しそうめんをうどんに替えるの?」…大丈夫かこいつ。「いいけど、どうして?」ああ、こいつはもう駄目だ。

 

「…あのさ、あんたは結局何が食べたいの」「何か食べたいって言ったっけ?」…こいつと話していると自分の頭が正気なのか疑わしくなってくるわ。「流しそうめんやるって言ってたわよね?」「そうだけど、しないの?」…なんだか腹が立つより悲しくなってきたわよ。

 

「あのね、作るのはどっちか一つなの。うどんがいい、流しそうめんがいい、どっちなの?」「流しそうめん」「…じゃあさっきのうどんってのは何なのよ」「うん、おうどんがいいなって」…終いにゃ師匠に頭ン中開いてもらうぞ、このボケ兎。

 

「いやさ、本当――いいわよ、どっちも作ってやるわ。流しうどんだってなんだって」「それは新しいね」清蘭が食いついた。そこに反応するのか。――まあどうせ、あんたや私には回ってこないわよ。奴らの食欲は底なしだ。食べ放題を出禁になった傍からラーメン食ってたわよ、あのデブ。

 

「うん、おてゐがいい」「…なんだって?」「おてゐ」…おてゐなんて食べ物があったかしら。少なくとも私は知らない。「おうどんと、おてゐ」うどんと並べる食べ物なの?「…ねえあんた、そのおうどんとおてゐって…」「あだな」「…あだな?」何を言っているんだ、この子は。

 

「だから、鈴仙のあだなはおうどんちゃんがいいなって」「…はい?」「鈴仙って名前長いじゃない? だからあだなをつけてあげようって思って」呆気にとられる私の頭をぶっちぎりながら、清蘭は語る。「鈴仙はおうどん。てゐちゃんはおてゐ。お揃いでいいでしょ?」

 

「…うどんの話じゃなかったの?」「うどんの話だったの?」清蘭はよくわからないという顔をした。「…あんたはホント…もう、ね…」そうだ、こいつはこういう奴だった。こいつと話をするのは宇宙人とのコンタクトに等しい。…いや、私達は地上から見れば宇宙人な訳だけど。

 

「…別に、あだななんてつけなくても、鈴仙でいいわよ。てゐもてゐで。…ていうか、短くなってないわよ、それ」「あ、そっか」清蘭はあっさり納得した。理屈の通っている話には割と素直だ。前からそうだった。…こいつ、わざとやってるんじゃないでしょうね?

 

「じゃあ、そうめんとうどんと…後は適当に買ってくるね」ちょっと待て。私が止める間もなく、清蘭は駆け出して行ってしまった。財布は――ない。そういう所は抜け目ないのよね。…まあ、いいか。無理なら無理で帰ってくるでしょ。そんな事より準備、準備。道具を出して、鍋出して――

 

私の準備が整った頃、無事に清蘭は帰ってきた。「…何買うんだっけ?」帰ってきてからそれを言うか。結局清蘭は超極太うどんとパスタ、それから適当な野菜に卵――こいつ麺だけ的確に間違えてないか?――を抱えて戻ってきた。…いいわ。なんだってやってやろうじゃないの。

 

――結局、流しそうめん(?)は、ぼちぼち成功に終わった。デブが極太うどんを喉に詰まらせたせいだ。噛んで喰えよ。後はまあパスタだけど、…うん。次はいいかなって味。つゆと合ってない気がする。てゐはムシャムシャ食べてたから、個人差はあるかもね。たぶん。

 

清蘭はずっと流しそうめんを見つめていた。「食べないの?」「流れ落ちたのを食べるからいいよ」こちらも見ずに清蘭は答えた。今日はそこそこ落ちてるわね。「楽しいね、流しそうめん」…しかし、何をそんなに熱心なんだか。私の疑問を他所に、清蘭は流れる水を、踊る麺を見つめていた。

 

 



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大図書館の騒々しい一日

―大図書館の騒々しい一日―

 

「あなたは扉からまともに入ってくるから、有難いわ」コーヒーを注いだ。「――それって、魔理沙の事かしら」生憎と、それ以外にこそどろはいない。今の所は。私が答えない事で、大体の想像はついたらしい。如何にも頭を抱えていた。放っておけばいい。保護者でもあるまいし。

 

「素行がもう少し良くなればね…」あれは一生無理じゃないか。「いつか道を踏み外す気がするのよ」知人の生きざまくらいは見届けてやるものだ、とアリスは語った。まあ、そういう趣味なら仕方がないだろう。私に飛び火しないならどうでもいい。泥棒もやめてくれれば、なおいい。

 

「それで、どうなの。人形の件」その為に賢者の石をわけてやったのだ。成果なしでは、何ともきまずい。「四肢は自在に稼働するようになったけど」アリスは頭を振った。「頭が駄目ね。複雑な思考力を持たせる事ができない」アリスは首を振った。「自立稼働に拘り過ぎなのかもしれない」

 

「その節はある」石を貰った手前、そう断ずるのは難しいかもしれないが、私は別に気にしていない。試行錯誤は何も魔法使いの特権ではない。誰でもできる事だ。その先に何を見るかは、まあ人それぞれだ。辞めてしまってもいい。執着してもいい。動きさえすれば、結果はついてくる。

 

まあ、動かない私に言えた事でもないか。尤も、一時期はこれでも動く移動図書館として敵を魔導書で殴っては投げ、殴っては投げしたのだ。今でもやろうと思えばそのくらいはできる。しないだけだ。己のイメージは世間体以上に大事なものだ。C射脳筋扱いされてもらっては困る。

 

――アリスが帰った後、私はふと考えた。魔女というものは結局の所、知識の信奉者なのだ。主人たるか、奴隷になるかは己の問題だ。貪欲であればあるほどに、知識は我が身を試し続ける。知識そのものに善悪はないのだ。それを濫用しようとする者こそ、邪道に堕ちた奴隷に違いない。

 

―――

 

  ―――

 

「――あなたは何しに来たのよ」「何でございましょうな~?」化け猫が私に喧嘩を売っている。特に意味もなく飛び回って、本を抜いては読む振りをしている。どうせ読めてはいない。「あなたも実際、読めておらぬのでは?」水魔法ぶっかけるぞお前。今日が水曜じゃなくて助かったな。

 

「すまないな、紫様が活字が欲しいと言い出して」それは別にいいのよ。返してくれるなら。「ほら橙、帰るぞ――って、何だ。絵本か?」橙と呼ばれた痴れ者は、絵本の棚から何冊か抜き出して持ってきていた。「これなら私も読めます」「読むだけじゃないのよ。絵本ってのはね」

 

絵本にはそこそこうるさいつもりだ。「文だけを追っていて何も引っかかりのない絵本なんて、つまらないわ。絵だけを追っていても、すぐに目新しくなくなってしまう。読み聞かせ、読み、やがて手から離れるのが絵本」私の言葉を、橙はぼけーっと聞いていた。少し難しかったわね。

 

「そして、絵本を手放せなかった大人もいる。彼らが絵本を描く事で、それは次代に繋がっていくの」私は本を閉じ、絵本を一つ取った。「座りなさい。一つ読んであげるわ」橙はそっと傍に座った。「むかしむかし、あるところに――」

 

―――

 

  ―――

 

「――今日は珍しい客ばかりね」「あら、そうなのね?」亡霊の姫が私を見ている。私にとっては、やりにくい相手だ。初対面ではない――むしろ散々殴り合った事があるが――し、その性格も良く知っている。何事も迂遠なのだ。それでいてその瞳は真実を見据えている。

 

「アンチエイジングの本がないかしら、と思って」「…あるわよ」この大図書館を舐めて貰っては困る。漫画から三日坊主の日記まで、いくらでも揃っている。「それじゃあ、貸して貰えるかしら」嫌だ、と言っても持っていく気だろ。妖夢は刃に手をかけるのを止めてくれないかしら。

 

「魔法使いはそういうのは無縁なんでしょう?」「別に、無意味ではないわよ」興味がないから、しないだけだ。「お化粧くらいはした方がいいわね」生憎と興味がないわ。「その方がずっと可愛いわよ、あなた」可愛さで食っている訳じゃないからな。私は本を開き、聞き流しに入る。

 

「――ところで、聞いた事があるのよ。世の中には食べられる本があるって」何を言うかと思えば、食欲の話か。「ある事はあるけど、貸さないわよ」「借りないわ。買い取るのよ」ヘイガール、ここは図書館なのですがね。知識とは集積してこそ意味がある。草々売り渡すものか。

 

「だめ?」…どうせ断れないのをわかって言っているな、これは。妖夢は私に肘を向けている。マジでやめろ。「――わかったわよ。取ってくるから待っていなさい」移動するのもたるい。しかし放っておけば読んでいる本に噛みつきそうな調子だ。私は棚から巻物を取り、机に戻った。

 

「この巻物は、読んではいけないわ。そのまま食べなさい」いつまで経っても腐らない巻物。実際得体のしれない代物だ。失っても惜しくはない。惜しくはないが。――何だか嫌な予感がする。「いただきまーす」持ち帰る間もなく、着席した幽々子はそれを口に運び、咀嚼を――

 

バリバリバリ!! ドォーン!!

 

私と妖夢は激しく帯電するそれを、驚愕と共に凝視していた。「…間違えた」隣に置いてあった巻物を間違えて渡したらしい。「ビリビリしておいひい!」そりゃ良かったな。「おかわり!」仕方がない。非礼…?を詫びると、今度こそ巻物を渡した。酢飯の香りがした。間違いない。

 

―――

 

  ―――

 

「あなたは本を読むイメージがないのだけど」漫画や小説ほどは何度も貸してやったが、今持ってきたのはそれなりにヘヴィな代物だ。魔法語で書かれた題名は、ウィザードの手引き。「そもそも読めるのかしら」「読めるわよ」どうせ魔理沙に知識をひけらかされたとか、そんな所だろう。

 

「天才というのも難儀なものね」努力しなくても感覚でなんでもできる。だが、それに胡坐をかいている限りは、努力をしない。した事がないからだ。努力するのも才能だ。真の天才とは、その両方を兼ね備えているものかもしれない。あなたと魔理沙のように。そうなれるかい、霊夢。

 

私はその本を開いた。「訳注の入っている本があるわ。そっちを借りなさい」手でそれを促した。私もよく読んだ本だ。知ったかぶりをしない程度に齧るには、丁度いい。知識はあり過ぎて困る事はない。人間の一生は短い。得られる知識も、だ。有意義に使うがいい。生きて死ぬまで。

 

 

―――

 

  ―――

 

扉を蹴り開ける者が一人。「ごめんなさい、騒がしくして!」一応は断ると読書の破壊者は飛翔し、本棚を物色――いや、引っかきまわし始めた。そこにあるのは確か、毒物関連。「何を探しているの」私は読書を中断した。これは珍しい事だが、まあ、蹴り込まれるのも珍事だ。

 

「魔理沙が毒に侵されちゃって!」あいつも毒で死ぬのか。てっきり殺しても死なないと思ったが。「これ、借りていくわね!」「その隣も持っていきなさい」一冊では、完全にならぬ本もある。「ありがとう、それじゃ!」飛び去ったアリスはしかし、律儀に扉を閉めていった。

 

こういう所で育ちがわかるというものだ。私はコーヒーを一口飲み、読書を再開した。自然における毒物というものは、大抵は己を守る為に使われているものだ。人は逆に、害す為に毒を使う。毒から毒を作り出し、更なる毒を求める。その一部は、薬として使われるかもしれないが。

 

「毒が転じて薬となるなら、薬も転じれば毒になる」私は教科書以上の錬金術を嗜まないが、一般的な魔法使いの部屋には、世界中の毒が溢れている事だろう。与り知らぬものが害をなす。毒も同じだ。知らなかったでは済まされない。さすれば知識が必要だ。正確な、知識が。

 

―――

 

  ―――

 

「今日はお客が多すぎるわ」いい加減に疲弊してきた私に、しかしてその元凶は微笑んでみせた。「わぁ、すごい!」そこらを飛び回る天狗と、それから目を離さない天狗。木簡ならそっちの方だ――と言いたくもなったが、図書館くんだりまで足を延ばすのだ。借りるだけではあるまい。

 

「今日は取材に来たんです」図書館の事なら既に、パパラッチ野郎がある事ない事書いてなかったか?「いえ、今日はあなたを取材させていただきたいなって」「…はい?」私って、私か?「動かない大図書館さま、今日はご機嫌うるわしゅう」何を言っているんだこいつは。「…まあ」

 

「あなたの名前は」「パチュリー・ノーレッジ」「御年は」「計算しないとわからないわ」「現住所は」「図書館の左の奥の斜め前の椅子」「好きな食べ物は」「肉と魚と野菜以外」「好きな事は」「それを私に聞く?」「逆に嫌いな事は」「泥棒」「座右の銘は」「我は不動」――

 

こいつは中々にしつこかった。そんな事は必要ないだろう、という事まで聞いてくる。射命丸とは別方向のしつこさだ。それでも不快感はあまり感じなかった。比較対象がアレだが、こちらを尊重して話をしているのがわかる。逆に言えば、踏み込みが足りない。良くも悪くも。

 

「――どうも、今日はありがとうございました!」天狗は深々と頭を下げた。もう一人はいつまでもその背中を見ていた。目付け役か何かだろう。図書館の中に危険は――まあ、いくらかあるが、そこまで気にする事もないだろうに。「花果子念報、お届けしますね」「はいよ」

 

別に悪意はないのだが、私はもう読書に戻りたかった。紫色の脳細胞が窒息寸前だ。「さあ、帰った帰った」目付け役が一瞬剣に手を当てた気がするが、気のせいだろう。たぶん。「それでは!」天狗らは飛び去っていく。扉はきちんと閉っていた。こういう所で、育ちがわかる。

 

―――

 

  ―――

 

「――何だい、シケた顔をして」あんたの存在そのものが鬱陶しいんだよ。「鉱物はあっちだね。ありがとう」私は何も言っていないが、ネズミはずいずいと図書館に押し入り、奥の方へ消えた。あのくらいの図太さがないと、ダウジングなんてやっていられないのかもしれない。

 

「ところで魔女さん、あなたの好きな鉱物は何かな?」戻ってきたそいつは、私に何やら言ってきたが、私の耳には入らない。無視だ。無視。「私は――そうだな、何でもない石がいい。やがて鑑定され、名前がつく前の石くれ。そいつには無限の可能性がある」ネズミは主張した。

 

――まあ、わからなくはない。名前がついてしまうという事は、その他すべての可能性を刈り取ってしまう事だ。――尤も、それは殆どの場合、詭弁に過ぎないのだが。石はそれ以前も石であったし、それ以後も石である。可能性を見出したとて、それは私達の主観に過ぎないのだ。

 

まあ、何事にも例外はあるが。それに関してはあまり詳しくないので、省く。「――私は、そうね。ダイヤモンドの原石がいいわ」私の言葉に、ナズーリンは何やら聞き入っていた。結構テキトーに返したのだが。宝石なら実際、なんでもお宝だろうに。それでは足りないのか?

 

「私のダウジングは金銭の為にやっている訳じゃない。それならもっと効率的な方法がある」何処からともなく取り出した原石らしきものが、右手から左手に投げ渡される。「お宝を見つけた時の快感。これが止められないんだ」ご自身の性癖を暴露しながら、ナズーリンはにやけた。

 

「それが何か、調べる気はあるのね」「有限の可能性に、名前をつけてやらないとね」ナズーリンは原石に顔を近づけ、キスをした。「これとこれを貸しておくれよ。ねぐらにまだまだ原石が貯まっているもんでね」「そうしてそれを、死蔵する訳ね」やっている事は大して変わらない。

 

「死蔵はしない。磨いて、誰かにあげてしまうのさ」意外な答えだった。ネズミはえてして貪欲なものだと思っていたが。「売れば生活費くらいにはなるだろうけど、私は十分潤っているからね。所謂プレゼント攻勢って奴さ」ナズーリンは、どうも苦笑いしているように見えた。

 

「如何せん――そう、私のようなものは嫌われがちだからね。眷属もそうだ。だからせめて、繋ぎ止めるくらいはしておこうと思って」――まあ、ネズミは嫌われて当然だ。そうでないなら、ねこいらずの類があれほど重宝されるはずもない。ネズミの親玉は、良い顔をされないだろう。

 

「さっき、磨いていないダイヤモンドが欲しいって言ったろ」ナズーリンは背嚢を漁った。「ここにあるんだ。これは君にあげよう」私の目の前に、手が伸びた。「――まあ、受け取ってはおくけれど」しまったな、研磨済の何カラットとか言ってみるんだった。「これも、好感度稼ぎ?」

 

「そうさ」「そう」別に私は、こいつ自体に否定的な感情を持っている訳ではなかった。プレゼントなら、他を当たった方が良かったわね。「あんたの事、好きにはならないかもよ」「それでいいよ」一歩引き、首飾りを指で回した。「嫌われ慣れるのを、止めたいだけ。それでいい」

 

ナズーリンはロッドを掴むと、背嚢に本をしまった。「君と話せて良かったよ。無視されるんじゃないかって思ってた」実際、無視しようとはしたわよ。話を聞いてしまう私が悪いのは確かだけど。「今日はもうおしまい?」「そろそろ暗くなるからね」…うわ。もうそんな時間か。

 

歩き去るナズーリンの背を、何となく見ていた。嫌われ者か。或いは私もそうかもしれない。そんな事を考えた事もなかった。人と比べれば随分とおかしなやつである自覚はある。人は本ばかり読まない。人は埃の中に居続けない。――意識を戻すと、扉はきちんと閉っていた。

 

―――

 

  ―――

 

「帰れ」私の広い心も最早限界だった。次からは完全に無視するからな。「えっ?」突然そんな事を言われても、といった顔で、ミスティアは固まっていた。「料理の本はあっち、食材はそっち、調理器具とかはこっちの棚」私の記憶力を舐めるな。読んだ本の位置は大体記憶している。

 

「あ、いえその、違くて…」何か違うらしい。「その、小説とか――」よくよく見るとそいつはメガネをかけていた。わたしが掛けているものと似たようなものだ。「読ませて頂けると、嬉しいかな――って」「別にいいわよ」小説はあっち、と指差してやる。その背中を見送る。

 

本を読む切っ掛けなど些細なものだ。しかしてそれは時に一生を左右する。本の中の世界は所詮、真の体験ではなく、本という媒体に切り取られたものでしかないと主張するものもいる。だが、それを言うならば、本には本の中にしかない世界がある。本は自由だ。時に残酷な程に。

 

要するに、どちらか一方では駄目だと言いたいのだろう。しかし私は、バランスを取るつもりはない。今の所は。外出するのは、たまにでいい。それで十分、私にとっては新鮮だ。どいつもこいつも、アクが強すぎる。幻想郷の連中は。私は再び本を取った。今日は殆ど進んでいない。

 

もういっそ、最初から読み直す方が良い気すらしてきた。私は傍を通ったおたんこなすにコーヒーを要求し、椅子に背を預けた。図書館が繁盛するというのは、要するに民草に知識が行き渡るという事だ。知識を死蔵はするが、独り占めするつもりはない。実際、悪い事ばかりではない。

 

――だがそもそも、私は館長でもないし、小悪魔はその辺極めて適当だ。あいつがそういう業務をやってくれれば、私は本当に本だけ読んでいられるのだが。もう二、三体くらいレミィに都合してもらおうか。――駄目だな。こいつがクアッドコアになっても、仕事が改善する気はしない。

 

「あの」…今はいいわ。いくらでも声をかけなさい。ぷんすか。「これ、貸してください」差し出されたのは――確か、恋愛小説だったと思う。悲劇的展開から二人の愛はジェットコースターめいて走り続ける。オチは――いや、それを教えてやるのは野暮だ。貸出票をくれてやった。

 

足早に去ろうとするミスティアの背中を見送っていた。野良妖怪もそういうものを嗜む時代か。そうやって知的水準が上がれば、世の中ずっと過ごしやすくなるだろうに。私は世を憂いながら、三度本を手に取った。扉はきちんと閉っていた。意外だった。珍しくもあった。

 

―――

 

  ―――

 

「おおい、やってるかい?」よく聞く声。――いや、聞いたり聞かなかったりする声だ。「珍しいわね、レミィ」私は顔を上げた。「たまには顔を見たくなったのさ」確かに、ここしばらくは茶の誘いもなかった。「ここんところは蒐集が捗ってね」あなたは無為なものが大好きだものね。

 

「何処に行ってきたの」大体想像はつくが。「香霖堂」…やはり、あのゴミ収集業者か。「それで、ただ成果を見せに来た、って訳でもないんでしょう。どうかしたの?」「よくぞ聞いてくれた」嬉しそうに翼を鳴らした。「有り体に言って、使い方がわからない」長い爪が、頬を掻いた。

 

「誰に聞いてもわからないから、お前の所へ持ってきたのさ」迷惑な話だ。私はなんでも屋ではない。「――いいけど、具体的にどれなの」手提げの中に入っているのは想像に難くないが。「ほら、この向日葵」それは確かに向日葵――プラスチックの向日葵?――だ。

 

サングラスをかけた向日葵を向日葵と呼ぶなら、だが。「どんな命令も聞く道具らしいんだけど、使い方が分からなくてね」こういう物体には調べ方というものがある。恐らくレミィは適当に扱っているだろう。私は向日葵を手に取り、横から見た。太陽からエネルギーを取り出す機構。

 

これは見た事がある。つまり、何かしらの動力を必要としている。動くのだ。そのまま裏返す。制作した工房の名と謎の数字、マークが刻まれている。そのすぐ傍に突起を見つけた。これは恐らく、これを起動させる装置だ。迂闊に触るべきではないが、他に怪しい所は見つからなかった。

 

レミィを見た。手を振られた。…結局、私がやるしかないのか。念の為、障壁を張ったままで指を伸ばす。何が起こるかがわからないのだ。警戒しすぎる事はない。私の指が突起に掛かる。少しの躊躇と共に、それを――引いた。しかしそれは、何のアクションも起こさなかった。

 

「…何も起こらないな?」そう呟いたレミィが唐突に後ずさる。私の手の中でそれは動いた。動いていた。私はそっとそれを机に乗せると、レミィの方を見た。「大丈夫よ。何となく想像がついたわ」私の声に反応して、再び向日葵は動いた。その動きは踊っているように見えた。

 

「どんな命令でも聞く――確かにね。それを実行するとは言っていない」私の言葉に反応し、向日葵は再び踊り始めた。「何だ――大した事はないな。それじゃ」さっきから腰が引けてるわよ、レミィ。「まあいい。早速これで門番を驚かせてやる」レミィは外へ飛び出していった。

 

扉を閉めてほしいわ、と思った。こういう所で育ちが――いや、やめよう。誰かさんに刺さる。――意外な事に、レミィはすぐに戻ってきた。「門番も咲夜も、全然怖がらないでやんの」…妖精メイドをびっくりさせるのが関の山じゃないか?「まあいい。こいつは私のコレクションに――」

 

「その事だけど。思い出したわ。向日葵畑の妖怪がこれと似たようなものを持っていたと思う」私の言葉は、或いはレミィを落胆させたかもしれない。「何だ、誰も持っていないと思ったのに」レミィは口を尖らせた。「そんじゃ、はい。パチェにやろう」「いや、邪魔なんだけれど?」

 

傍で延々とウィンウィンされたらたまらない。「何、読書中は踊りゃしないさ。ベル代わりにもしたらいいわ」レミィが肩を叩き、それを机の端に飾った。「それじゃ。邪魔したわね」扉は閉めなかった。こういう所で云々。目の前の向日葵はレミィの声で、嬉しそうに踊っていた。

 



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観測されざる魔女

―観測されざる魔女―

 

「――それで、何だって?」私は正座させた小悪魔に尋問している。魔導書で脳天を一発殴ってやったら降伏した。腑抜けめ。「ですから、パチュリー様は未確定な訳でして、それを確定させたかったのです…」何を言っているんだお前は。「皆さん興味をお持ちでしたよ。レミリア様も」

 

レミィは大体何でも面白がる悪戯心を持っているんだよ。飽きるのは光より速いが。「大体未確定ってどういう意味よ。私は私でしょうに」禅問答に付き合う義理はない。私は本を読むので常に忙しいのだ。「そのままです。パチュリーさまはその、御召し物の下がですね」…服がどうした?

 

「イメージが人によって異なるんです。咲夜様は不健康なガリガリだと主張しておられますし、美鈴様は動けるデブ、レミリア様はダイナマイトボディだと――」お前らはデリカシーというものがないのか。「私はですね、肉付きの良いむちむちボディだと」お前の予想は聞いていない。

 

「誰も彼も勝手な事を言うのね」私は肩をすくめた。そういう邪推はもっと他の人でやりなさい。…パッ、とは思いつかないけれど。「それで、いかがでしょう。その御召し物の下は」もう一回殴るぞ、おたんこなす。「見せる訳ないでしょう」「そこをなんとか…」今日はしつこいな。

 

どうせ、見てこい小悪魔とでも言われたんだろう。死亡フラグをおっ立ておって。「そんな事はどうでもいいから、コーヒーを持ってきなさい」私は仕事を振った。どうせ他にはサボるしか能のない奴だ。レミィに頼んで魔界から三人調達してもらった時も、四倍の速さでサボっていた。

 

まあ、全員殴ってやったが。そんな事を思い出していると、コーヒーが歩いてきた。机の都合がいい辺りに着地する。砂糖は入れない。この手はブラックに限る。「あの、あのですね…」下なら見せないぞ。「お許しください、パチュリー様!!」私の後ろから、コーヒーがダイブしてきた。

 

コーヒーは私に――かからずに、床を汚した。どうせそんな事だろうと思って結界を張っていて正解だった。それで、床にこぼれたそいつは、どう落とし前をつける気だ?「えー、あー…失礼しました」スゴイシツレイだ、馬鹿め。小悪魔は私に言われる前に、絨毯を掃除し始めた。

 

まったく、油断も隙もない。私は読書を中断し。椅子に身体を預けた。しかしまた、何で私を追い回すような事になったのか。観測されざる魔女を暴いてやりたい、とでも言うなら、全く無意味な事だ。そのエネルギーを他所に回せばいいのに。私はぼんやりと天井を見ていた。

 

歩く音を聞き、頭を上げる。小悪魔がポットを持ってきていた。それを机に置いた時――私は小悪魔の脚を風の鞭で払ってやった。「ほげっ!?」ポット運搬機は慌てて脚を押さえた。いつもと足音が違った。すなわち、違う靴を履いているという事だ。私は下を向き、それを眺めた。

 

靴の先に鏡が仕込まれている。何に使うのかは明確だ。「…小悪魔?」「は、はいぃぃ…」私は魔導書を掲げた。「いい加減にしないと本気で殴るわよ」この手の宣言でいい加減な事を言ったことはない。やる時は明確にやる。ロジカルな魔女たるもの、痴れ者には相応の罰を与えるものだ。

 

脅しがよくよく効いたのか、小悪魔は本棚の奥に消えた。ようやく撃退できたか。椅子に座り、本を手に取る。何処まで読んだんだったか。しおりを挟んでおくべきだった。粗方の目星をつけて、開く。ぴったりとページが合った。読むだけではない。本の事なら、大体何でもできる。

 

―――

 

  ―――

 

「パチュリー様、お元気で!」あんたは元気すぎるのよ。「門番は放っておいていいの?」「大丈夫です、妖精メイドに任せましたから」お前よりは防衛力があるかもな。「それで、何の用なの?」「よくぞ聞いてくれました。私はこの度、パチュリー様の運動不足をですね…」

 

「ジャージにでも着替えろってんなら、お断りよ」別に私とて運動をしない訳ではない。魔法使いは汗をかかない――あれ、かいてたっけ――し、無駄な代謝もしない。あるがままでニュートラルなのだ。今更それを崩すような真似をしても仕方がないだろうに。私はジト目で門番を見た。

 

「ええっと――まあ、そう言わずに、簡単なトレーニングから」私の目の前で門番はせいけんづきを始めた。「こうすればいいの?」ビュン、ビュン。私は同じものを披露してやった。「…えーと、それ魔法使ってますよね?」魔法使いが魔法を使って何が悪い。「だから、いらないって」

 

「いいえ、今ので確信しました。パチュリー様は大変伸びしろがある御方。一緒に魔法武道家を目指しましょう!」こいつの目に偽りが浮かぶ事は殆どない。本気で言っているのだ。お前目的を完全に忘れているだろ。「私を脱がさないなら、少しくらい付き合ってやってもいいけど」

 

「もちろんです! さあ、外へ出て、外へ!」」まあ、しばらく振りに出てやるのもいいか。私は外に出て――まあ、運動をした。ほとんど魔法で補助したが。門番からは免許皆伝を戴いた。…何処で通用するんだこれは?「また外に出てくださいね、パチュリー様!」屈託のない笑顔だ。

 

私ぁ引きこもりか。引きこもりだった。まあいい。結局門番――美鈴は私を脱がそうとはしなかった。恐らく後でお叱りを受けるだろうが、そんな事は私の与り知る所ではない。気を使う能力とは気功ではなく気遣いの気なのではないかと誰かが言っていたが、その通りだな。

 

―――

 

  ―――

 

「パチュリー様」そこに邪魔する者が一人。咲夜の声だ。顔を向けると、如何にもメイドらしい――そうか?――メイドがそこにいた。丁寧に頭を下げると、私の方に視線を向けた。目が合う。珍しい事だ。基本的に私の方が顔を上げない。しかしメイドがまた、私に何の用事だろう。

 

図書館の空間を広げたりで役立って貰ってはいるが、彼女はどうも、私をただ飯ぐらいに思っている節がある。言われてみればそうである。「どうしたの、咲夜」「お嬢様の命により参りました」「レミィの?」何だか物凄く嫌な予感がするのだが。私は静かに椅子から立ち上がった。

 

「ご無礼を」唐突に咲夜は懐中時計を投げつけてきた。風に乗ってそれをかわす。「やりたい事がだいたいわかってきたぞ」レミィの差し金だろう。時を止めれば私とて対処のしようがない。そう踏んだか。…だが、私とて黙ってそれをさせる気はさらさらない。咲夜は幾百のナイフを構えた。

 

今日は土曜。周囲に土曜の槍を繰る。土の力が私の身体を巡った。流石パッチュだ何ともないぜ。地上にはエメラルドの石群がひかえている。控えめに言って、咲夜が敵う要素はない。ここは私のホームグラウンドなのだ。たった一つ、時間停止さえさせなければ、だが。私は魔導書を掴む。

 

土曜の槍が咲夜へと飛ぶ。それをナイフが相殺する。空間に隠したナイフといえど、無限ではない。こちらは遥かに多くの魔法を繰り出せる。追尾する火球で追い立てる。魔導書から吹いた風が割り込む。飛び込む隙を与えてはならない。しかし、引き離しすぎてもならない。

 

時を止める暇を与えてはならないのだ。土曜の槍が咲夜の結界を破壊した。これ以上はもはや止めるものもない。私が勝利を確信した、その時だった。咲夜はやぶれかぶれで私の内に飛び込んできた。遅い。土曜の槍が天井から大量に降り注ぐ。…しかしそれは、幻影を砕くに留まった。

 

「…!」タイムパラドックス。私は世界を繰ったその一瞬に気付かなかった。獲物の前で舌なめずりする魔女とは私の事だったのか。咲夜は既にその身を抱き込んでいた。それが解放される時、私は―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― 地に、立っていた。

 

咲夜は一挙にナイフを投擲した。弾切れだ。私は土曜の槍を構え、咲夜の内へと飛び込んだ。エメラルドが私を取り囲む。一発だけなら被弾も覚悟の上だ。私の攻撃は――咲夜に届き、結界を再び砕いた。「見せはしないわ。あなたにもね」私は安堵していた。あの時一瞬、魔法を唱えたのだ。

 

月の魔法が衣装の内側を隠していた。時を止めたもの自体に干渉してはならない。それがルールだったはずだ。「――!」体術を構えるが、もう遅い。私はその瞬間、エメラルドの巨石群で咲夜を思い切り打ち据えた。咲夜は派手に吹き飛び、本棚を――あー、勢いよく倒した。

 

咲夜は起き上がりながらこちらを見た。勝負あったという顔だ。「負けてしまっては致し方ありません」咲夜は頭を振り、肩をすくめた。「次はお嬢様ですわ」…やはり、そうなるか。わかったわよ。全員抜いてやるわ。憤怒する私の目の前から、咲夜は一瞬で消えた。本棚は直っていた。

 

―――

 

  ―――

 

「満を持して登場という訳さ」レミィは紅き閃光の長槍を構えた。それが刺さればあまりにも致命的だろう。私はしかし、そんな事には怯まない。今更怯んでどうする。これは私の尊厳に関わる事なのだ。負けられない。例えレミィにだって、負けてやるものか。槍の光が、僅かに揺らぐ。

 

「今更何を語るでもないが――」「わかっているわ」ゆっくりと魔導書を開く。「それなら話が速い。パチェ、私はあなたを脱がせてやる」「絶対に脱ぎはしないわ」…あれ、なんか目標が私の裸体かなんかになってないか?「事故っても怒るなよ?」「こちらこそ、事故が起きたら謝るわ」

 

「本気でやりな、パチェ!」「ええ、レミィ」再び土の槍を展開する。これだけでは不十分だ。私が手を振り一回転すると、そこにクリスタルが現れる。賢者の石。それは所謂、アンプという奴だ。私の放った魔法に反応して、それを強め、更に追撃を行う。すなわち手数で圧倒するのだ。

 

それだけではない。私はまだ、最後の手段を隠し持っている。レミィもそれは重々承知だろう。これをいつ打つか、直撃させるかで勝負が決まると言っても過言ではない。私の詠唱が続く。レミィはまだ動かない。吸血鬼のスピードからすればいつ動いても変わらない。ただ出方を待っている。

 

――土曜の槍が、放たれる! 続く火と水の魔法。アンプが一時的に砕け、赤、茶、青の矢となってレミィを襲う。手数のみで圧倒できる相手ではない。ひたすらに事故を待つのも私の主義じゃない。一瞬の隙をついて、切り札を打ち込む。私の放ったそれは――しかし、かすりもしなかった。

 

避けたのではない。まるで最初からそこにはいなかったかのような挙動。私はエメラルドを盾に、距離を取る。至近距離ではどうあっても不利だ。正面を向いたまま後ろに飛び、木と金の魔法を、そして土の魔法を放つ。再び砕けた賢者の石から、奔流が生まれ、襲い掛かる!

 

レミィはそれを――後ろに飛んでかわした。危ない。私は咄嗟に結界を強めた。柱を背にしていたレミィは唐突にそれを蹴り。私の内側に飛び込んできたのだ。結界はそれを何とか防ぎきり、レミィを大きく跳ね飛ばした。…しかし、その瞬間、投擲された閃光の槍が結界を打ち壊した。

 

しばらくは完全に無防備だ。距離を取る。詰められる。距離を取る。…駄目だ。いくら距離を取ろうとしても、にじりよる速度で私を追い詰めるレミィには敵わない。レミィは警戒しているのだ。私がやぶれかぶれで最後の手段を取るのではないかと。まだだ。影に隠れられれば、終わりだ。

 

――結界が戻るその瞬間、レミィは動いた。地を飛び走り、私の懐に飛び込む。爪が怪しく光った。この一撃で決めようというのだ。エメラルドの壁の隙間を抜け、爪が振り下ろされる。…だが、私はまだ負けない。結界の代わりになる魔法を詠唱していた。泡。我が身を取り囲う水の泡だ。

 

必殺の一撃を防がれたレミィは飛び退いて距離を取ろうとする。そうはいかない。エメラルドの壁を更に取り囲むように、エメラルドの巨石が現れる。レミィはそれを蹴って再び飛び込もうとした。手元に閃光の槍が三本現れる。その内の二本を私に投擲し、一本を突き出す。再び必殺の一撃だ。

 

私はそれを避けなかった。二発の槍を受けて泡が割れて消えた。一本の槍は――しかし私は、それを手で受け止めていた。土曜の魔法は我が身を駆け巡る。一発だけなら、大技にも耐えられる。まあ、滅多に使わない。レミィの目がしまった、とばかりに見開かれる。私は詠唱を完了させた。

 

「ロイヤルフレア」

 

火球の中に、レミィの影だけが浮かんだ。結界が砕ける。直撃だ。私は全火力を太陽に集中した。弱点の多い吸血鬼が、それぞれ弱点たる能力を持つ私達を手元に置いているのは、きっと飼いならす為だけではない。たぶん、戦ってみたいと思ったのだ。いささか感傷的ではあるが。

 

やがて太陽が姿を消すと、そこにはレミィがいた。いたというのは穏当すぎる表現だが。未確定名、レミィだったものがいた。心配はしていない。この程度で死ぬようなら、紅魔館の主なんてやっていられない。日傘程度で外を散策するのだ。太陽光は、致命的な弱点とは言えないようだ。

 

「…やるじゃない」身体を七割ほど燃えカスに変えたまま、レミィは言った。吸血鬼は太陽に弱い――以前に、太陽の熱を身に受ければ普通は死ぬ。心臓を杭で刺すようなものだ。「私の勝ち、でいいかしら」巨石がレミィを取り巻いた。「ああ、負けだ負け」焦げたまま、レミィは苦笑いした。

 

私はすべての魔法を解いた。身体を五割ほど墨に変えたまま、レミィは私の隣に座った。「やろうと思えばすぐに見られたんだ。スカートめくりならぬローブめくりでね」指をぴん、と弾く。「でもそれじゃあんまりにもあんまりだろ? だから敢えてそうしなかったのよ」ふーん。

 

「でも、諦めた訳じゃないわ」身体を二割五分ほど煤に変えたまま、レミィは宣言した。「私達はこれからも謎を追い続ける。今度は徒党を組んでね」「勘弁して頂戴」「やだね」このくらい強情でないと主は務まらないだろう。光の速さで興味を失ってもらえばいいのだが。

 

私は頭を痛めながら、新しい本を引き出すべく席を立った。傍目に一割ほど焦げたレミィのニヤニヤ顔が見えたが、まあこれ以上やりあう事はないだろう。奥へ向かう。独特の匂いだ。私の好きな匂い。私は本を差し込んで戻した。…その時だった。「今日は散々だったわね、パチュリー」

 

「パチュリーの事、みんなが追い回しているんでしょう?」笑顔の主は、フランドールだ。この人はやりにくい。何をするのか到底想像できない。それは時に幻想郷で一番の常識人であったり、時に姉を追いかけまわす年頃の乙女であったり、災厄すらも破壊する破壊者であったりする。

 

「ねぇパチュリー、服の下見せてよ。誰にも言わないから」口元で指を立て、フランドールは変わらず笑っている。しかし、それだけは駄目だ。「出来ない相談だわ」「見せて?」「見せません」いかん、これはループに入った。私が見せるまで永遠に続くぞ、これは。――そう思ったのだが。

 

「気になるわ」フランドールは私に向けて、手を握り込んだ。…一瞬、何をされようとしているのかわからなかったが。これは死んだな、と理解した。私はフランドールの手で粉々になるだろう。思えば本ばかり読んでいた人生だった。悪くはなかったが、もっと本を読みたかった――

 

――おかしい。いつまで経っても私は死なない。不信に思う私の身体が、ほんの少しだけ軽くなった。「――!!?」服だ。服がばらばらになっている。「へぇ、パチュリーってそんな体形だったんだ」慌てて帽子で見せるべきでない所を隠す。フランドールはにやにやと笑っていた。

 

「はい、これ」ひとしきり悶えていると、フランドールは私に帽子を渡してきた。これ幸いと私はそれを受け取り、隠す。部屋まではこれで持たせるしかない。「大丈夫よ。私、誰にも言わないから」本当だろうか。本当だろう。フランドールは適当な事を言う魔法少女ではない。

 

私の視線を浴びながら、フランドールは最下層への階段をトントン、とリズムを取りながら降りていった。そんな事より今は服だ。私は私室に飛び込み、慌てて替えの衣装を着込んだ。これで私の身体は、私にしか――厳密に言えば、二人にしかバレていない。このまま隠し通してしまおう。

 

私は浮揚しながらいつもの椅子に着いた。読みかけの本を手に取る。全く今日はふざけた一日だった。しかしまあ、館の全員を撃退したのだ。当分はこんな馬鹿な事も起こるまい。私は傍を通りがかった間抜けにコーヒーを要求すると――小悪魔は動かない。なんだ、まだ殴られ足りないか?

 

「パチュリー様、あの、何というか――随分扇動的な衣装で」何を言っているのだろうか、こいつは。私は立ち上がろうとして――ひらりとした袖に、不信感を覚えた。下を見る。…ああ、なんて事だ。「体系も丸見えで…あわわ…」私が羽織っていたのは如何にもシースルーの衣装だった。

 

何十年か前に小悪魔が買ってきたのを殴り飛ばして、そのままになっていた。姿見なんてないから、気が付かなかった。「お前は何も見なかった」私は魔導書を向けた。「ええっ!?」こいつを黙らせればこの場は収まる。「喋らないと約束しなさい。さもないと…」「ひえぇ!?」

 

――だが、そうだ。ぞろぞろと団体様が階段を下りる音がする。…待て、今は駄目だ。月の魔法を唱えようとしたが、一瞬遅れた。投擲槍が私の詠唱を妨害する。懐中時計を寸前で避ける。ナイフが飛ぶ。気功の弾丸が私の態勢を崩し、逃げられなくする。小悪魔はまごまごしている。

 

「ようパチェ、すごいの着てるじゃないか」「やはり」「なかなか良いカラダしてますね」「いえその、私は喋ってないので…」ああ、最悪だ。私は座り込んだ。まだコーヒーのしみが残っていた。二度とこの服は着ない。思った所で、まあ遅い。全員の視線を浴びながら、ため息をついた。

 



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困った時は永琳に投げる

―困った時は永琳に投げる―

 

鈴仙が死んだ。

 

私のせいである――けど、過失致死だ。気が乗りすぎて作った特製の落とし穴に落ちて、それで死んだ。底に師匠の所からパクってきた硫酸を貯めていたのが良くなかった。どうも守備力が2,000以下だったらしい。スカートはあんなに鉄壁なのにな。身の守りが極端なのよ。実際。

 

「さて、どうするかねぇ……」流石にやりすぎた。これは晩御飯抜きでは済まないだろう。「困った時は永琳に投げる」基本中の基本だが、これを濫用すると話が崩壊するので、程々にしよう。私は溶け残った鈴仙をお米様だっこし、こっそりと処置室に運んだ。後はなんとかしてくれるでしょう。

 

しかしまいったね。鈴仙がいないと行商は止まるし、兎角同盟のヤクもさばけない。ヘビーユーザーのおじさんも困るだろう。頭を掻く。これもまた、仕方がないか。私は自室に戻ると、鈴仙の格好に似た行商衣をまとった。なかなかサマになっているじゃないの。自画自賛は得意中の得意だ。

 

これで人里まで行って、私が薬を売る。簡単な事だ。私の商才はカラーうさぎとM&Aで証明済みだ。鈴仙より多く売っちゃおうかな?――などと考えていると、処置室の方で何やら音がし始めた。いかん、このままでは叱られる。私は鈴仙の部屋にあった背負い籠を――あ、これ後ろ引きずるわ。

 

若干前屈みでそれを背負う。重さは大した事はない。外見で軽んじられるが、本当は鈴仙より何倍も強いのさ。いつもは手加減してるだけ。飛び蹴りかますのも、背中に抱き着くのも。……いや、ニヨニヨしている場合ではない。私は玄関から勢いよく飛び出し、竹林を駆け抜ける。

 

最短コースは私だけが知っている。ほら、もう外が見えた。勢いよく飛び出し、獣道を突っ切る。大きな道に出た。更に飛び出したい所だけど、ここからは歩いて行こう。人間がびっくりする。荷物を引きずらないように歩く。風が心地良い。空をぐるりと見渡した。いいね、日本晴れだ。

 

人里は、遠くて近い。永遠亭に人間は、まあ来ない。助かる見込みのない患者を極々稀に導いてやるくらいだ。その間を繋ぐのが行商。それが求められているのを理解しているから、永琳はそれを始めた。私らもそれに乗っかっている。兎角同盟が独自に売っているのは、まあばれているだろう。

 

叱らないって事は、黙認しているのだ。誰に対する慈悲かはわからない。たぶん鈴仙に対してだけど。何でも自分でやりたがるが、実力が伴っていない。酒が入ると、私は師匠を既に超えたとか、冗談でも面白くない事をよく言う。まあ、向上心があるのは良い事さ。微笑みがこぼれる。

 

永く生きると、自分自身を変えようなんて気も起こらなくなってくる。それが嫌だから、私は自分の外側をまぜっかえす。カオスを生み出すのが私の仕事だと思っている。……しかし、それはあくまで外だ。いくら落とし穴を掘っても、或いは自分自身は何も変わっていないのではないか?

 

鈴仙が逃げ込んできてから、人間が押し込んできてから、そして今まで、私は変わっただろうか。永く生きていれば色々な側面を持つ。それらを見せてはきただろう。……本当の私って、なんだろう。私は私だ。それは確かだ。しかしそれは、私の一部がノット私ではない証明にはならない。

 

私の中にある、私ではない私。それは希望だろうか。それは恋だろうか。それは安堵、或いは死に至る病か。私自身をまぜっかえせば、それは出てくるだろうか。まぜっかえす。……今更だな。海千山千のてゐ様だぞ。老練――別に老いてるつもりはないが――の思慮深さを持っているんだ。

 

私が問答を続けていると、向こうに人里が見えてきた。適当にゴマをすりながら、門を抜ける。ちゃんと変装、或いは変装する意思がある限り、妖怪とて出入り自由のようなものだ。完全に人間に化けているものがいれば、耳なり尻尾なりをぶら下げている奴もいる。誰もさして騒ぎやしない。

 

私の事もただのチビだと見られた感がある。実にむかつく。私はてゐ様だぞ。お前達よりずっと長生きなんだぞ。……誇れるかどうかは別として、だ。実際、門番の腰くらいまでしかない。鈴仙もそんなに高くないから余計に小さく見える――だけではない。しかし、小柄にも利点はあるぞ。

 

「ご苦労様ですねぇ」道なりの衛兵にもゴマをすっておく。何かあった時に顔を覚えられている方が有利だ。何かやらかす気なら隠すべきだが、そんな事はしない。今の所は。「よっと」いつもここで薬を売っていたはずだ。個々の置き薬は――まあ、住所を書いた紙があるし、何とかなるだろう。

 

―――

 

  ―――

 

「今日はお姉さんじゃないのね?」早速お客が現れた、が。「そうなの。お姉ちゃんが怪我してねぇ」そう、お姉ちゃんである。今だけ。多少の齟齬は無視して話を続けるべきなのだ。「じゃあ、これとこれをお願いするわ」「はいはい」求められたのは――興奮剤? 旦那にでも使うのかい?

 

「兄さんが病弱で、気付けに必要なの」真っ当な使い方だった。もう一つの薬は――そういう雰囲気にする薬? 鈴仙ちゃん、真顔で何を開発してるのさ。「兄さんがね、その――」その兄さんは、あなたの想像上の存在に過ぎないのではないでしょうか。「もう、大人を馬鹿にしないの!」

 

へっへっへ。こちとらあんたより年長者よ。わかってるわかってる。若い時分にはそういう事もあるさ。しかしまあ、もしも道ならぬ恋に入れ込んでるとすれば、いずれ火傷しちまうよ。それがいい、なんて奴も――まあ、いなくはない。私だってそういう経験は何度もあるものさ。

 

手を包むように釣銭を渡す。暗算は大得意のてゐ様だ。一円だって間違えたりなんかしない。……多少ガメてもわからない気はするが、そんなつまらない犯罪はしない。信用を売り渡すなら最高値で、だ。期を掴めば、幸運は自然に舞い降りてくるものさ。専門家が言うのだから、間違いない。

 

―――

 

  ―――

 

「おお、薬売りさん」――例のおじさんか。身なりは相変わらずだ。「この間の薬がもうなくなってね」あんたはオーバードーズし過ぎだ。直に死ぬぞ。「はいはい」天真爛漫な営業スマイルでヤクを売る。絵面はともかく、倫理的には最悪だね。これは。こんな所を見たら、親が泣くぞ。

 

「いやぁ、これを飲みだしてから何も怖くなくなったよ。遥かに良い」このままヤク中を放っておくのは、実際危険だろう。兎角の評判にも関わる。しかしまあ、突っぱねるのも危うい。急に薬がなくなったら、暴れ出すか――最悪、首を括ってしまうかもしれない。それは避けたい。

 

薬自体は詳しくないが、おじさんが薬を必要としているのは本当だろう。そうでなければ、鈴仙がそんなものを売り渡すはずがない。あの子はそういう不義を働くような兎じゃない。ただ、本人が薬に頼り過ぎているのだ。おじさんはやがて、破滅の恐怖と向き合わなければならなかった。

 

そんなものはない、と気付かなければならなかったのだ。しかし、そうはならなかった。おじさんは今もあの時と同じく、破滅に怯え続けている。本当に必要なのは、話を聞いてやる相手ではないか。そう思わなくはなかった。しかし、多分それは鈴仙や私には務まらないと思うのだ。

 

おじさんには今後もつかず離れず、用法用量を守ってもらおう。それができないなら――どうしような。永琳にでも頼んで薬を抜いてもらうかね。そんな都合のいい薬があるなら、だが。中毒にはサソリの卵が効く、何てのは聞いた事があるが、はて。サソリなんて何処にいるのかねぇ。

 

―――

 

  ―――

 

「わしにもくれんかの」ほいほい、と捌いている所にやってきたのは――化け狸だ。匂いでわかる。「この、禁煙ガムとやらを頂こうか」……禁煙?「小娘が煙を嫌がっての」狸はぼりぼりと頭を掻いた。まあ、売れるなら何だっていい。「昨今の健康志向で喫煙者は肩身が狭い、てな感じじゃ」

 

そりゃそうだ。健康に気を付けないと長生きできないぞ。「養生しすぎてもつまらんよ」狸は肩をすくめた。お前さんも人並みには長生きしてるだろうに。妖怪の身とも、死ぬ時は死ぬ。己が身体が己を殺すなんてのがいい例さね。不摂生、無自覚。症状が出た頃にはもう、オタッシャ重点だ。

 

「お嬢さんというのは、どちらの?」「貸本屋じゃよ。火気厳禁とも言いおってな」本の園にキセルを持ち込んだら、そりゃ怒られるだろうに。「きついの出しておこうね」「お手柔らかに」キツくないと止めないだろう。禁煙なんて簡単だ、もう十回もやってる――なんて冗談があるくらいだ。

 

煙草の匂いしみついて、むせる。狸の着物からは、確かに匂いがしている。僅かなものだが。吸わない者にとっては特に鼻をつくものだ。実際、煙草を苦手とする妖怪もいる。むしろ嗜む妖怪の方が少ないのではないか。妖獣はえてしてそういう傾向があるようだが。無論、てゐ様は吸わない。

 

お金を数え終わると、狸は私の目の前でキセルを取り出した。「……禁煙はどうなさるので?」「明日からじゃ」中毒者の言い訳そのままだわ。依存性という奴はまだまだ認識されていない。私達の売っているそれにも、危うい薬はいくつもある。薬、かつ嗜好品なんてものは最たるものだろう。

 

毒だって薬にはなるが、それを毒として使ったら元も子もないのだ。薬とは、やはり薬を扱うものが管理しなければならない。好き勝手に散逸したら、どんな惨事が起こるか、案外誰も気づいていないかもしれない。簡単にやめられる、なんて考えて、濫用するなんてのはあってはならない。

 

ダメ、ゼッタイ。永琳の部屋に貼ってあった。絶対ダメ、よりもインパクトがあっていい標語じゃないか。私は狸の方を見る。お前さんはいつまで生きられるかな。健康に気を使っているてゐ様が、たったこの程度しか生きていないのだ。超えられるかな。無理だろうかな。どうかな。

 

私が釣銭を返すと、狸は着物をはたいた。「臭いと言われては敵わんからな」ばっちり臭ってますよ。残念ながら。狸はキセルをしまい。私の顔をじろじろと見た。何のつもりやら。「ほっほ。それではな、悪戯兎」……あんのじょうバレていたか。やはり、狸は信用ならない。

 

―――

 

  ―――

 

「そこの」声をかけられ、振り向いた。女教師だ。「何をご都合致しましょう? ――妹紅のカキタレさんや」「――!! 馬鹿、何を――そ、そういうのじゃない」わかりやすい反応だ。いじりがいがある。ま、あまりいじめても可哀相かもしれない。「傷薬を」求められたのは結構な数だ。

 

「子供を預かる身として、こういうものを備蓄しておかねばな」ちょいとばかし過保護じゃないか。「ありがとうございまーす」まあ、子供は昔よりも遥かに死ななくなった。神様は赤ん坊に興味がなくなったのかね。もっともそれは、子を持つ親にはとてもとてもありがたい事だろうさ。

 

釣銭を渡しながら、思う。こうしてこのまま人間が増えていけば、いつかは――そうさね、盛大な間引きが行なわれるのは想像に難くない。神隠しの主犯はそういう事を真顔でやってのけるだろう。喜んでかは、わからない。顔を突き合わせた事があまりないからねぇ。あくまで、想像だ。

 

私からすれば、むしろてゐ様の所にそっちから挨拶に来い、と言いたい所だね。思うに、私はとかく軽んじられているようだ。それもまあ、性に合ってはいるか。竹林の兎の頭領。それくらいでいい。もっと若ければ、そういう気にもなったかね。或いは、誰かの野望を支える為なら。

 

立ち去る教師の背中を見つめる。あいつも、道ならぬ恋を追う者だろう。永遠とは、文字通り永遠だ。如何に数字を積み上げようとも、永遠の前にはすべてが霞む。滅びの魔の手は、いつか私をも捕らえるだろう。永遠は、文字通り永遠だ。定命の者に伺えるのは、しょせん永遠という文字だけだ。

 

永遠について考えるのは、好きじゃない。私とて無数の命を看取ってきた。だがそれは、無限ではない。永遠こそが無限を扱いうる。永遠の存在は、永遠以外のすべてを看取らなければならない。いずれ来る結末。燃やした命に意味はあっただろうか。道半ばに倒れた命に慈悲はあるだろうか。

 

腕の中で死んでいった兎を、或いは妖怪、果ては人間は、もうおぼろげにしか思い出せない。私という存在が無限に近くとも、私の内面はそうはいかなかった。あらゆる記憶は風化し、忘れ去ってしまう。それが妖怪の限界なのか、それとも私が思い出したくなくなったが故の事か。

 

鈴仙の顔を思い出した。あの子もいずれ、私の中で風化してしまうだろう。幸い私には、永遠の友人が二人もできた。知友をすべて失い続ける事は、もうないだろう。恋なんてするもんじゃない。愛なんて囁くもんじゃない。めおとになり子供を持つなんて、考えるだに、悲しい事だ。

 

――それでも恋をした。それでも愛に生きた。子を成し、そして看取った。すべてが私を置いて逝ってしまうのを承知で、そうしたはずだったが、最期はやはり後悔と、申し訳なさで一杯になった。そうさ。二度と恋などしない。そう誓った所で、駄目だった。恋はいつも私を狂わせていた。

 

心の中で、私はくずおれた。嫌な事を考えてしまった。いつも明るい私はどうした。発破をかけるが、それは届かない。心が泣いて――いや、現実の私自身も、きっと泣いていたと思う。お客の声で我に返った。網傘の下のそれを、見られなかったのは幸いだったさ。私は頭を上げ、笑った。

 

―――

 

  ―――

 

それからも、薬は売れて行く。売れすぎるペースと言ってもいい。薬屋が儲かるという事は、すなわちより多くの病人がいるという事でもある。それを喜ぶ趣味は、私にはない。それは悪戯とは別ベクトルの話だ。例えば、人々に病気をばらまく妖怪がいたとして、それと手を組むだろうか。

 

……心無い医者は、それをやるだろう。狭くて広い人里、鈴仙が回した方がまだマシなヤブ医者がいる。後ろ暗い者達の為のヤミ医者もいる。それでも医者は、確かに医者だ。医者にかかれない立場のものが、一抹の希望をかけて薬に頼る。だからこそ、私らは足元を見てはならないのだ。

 

「よう、おくすりやサン」誰かと思えば、白黒の。「どちらさまでしょうか」「おいおい、余の顔を見忘れたのか?」白黒は笑っている。正直な所、こいつは苦手だ。普段は胡乱な癖に、時折馬鹿正直な言葉を打ち込んでくる。若いのだ。如何にも眩しい。私なんか相手にならないほどに。

 

「……何かご所望かい?」「おう。そうだな、マンドラゴラの種とかあるか?」「はいよ」中々の危険物だが、あんたに扱えるのかね。「やっぱりあった。アリスに聞いて正解だったな」相方の人形遣いか。そういえばこの辺りで、たまに人形劇なんかをやっているらしいが。「サンキュー」

 

「お代をいただいておりませんよ」「ツケといてくれ」……いつもならぶん殴ってやる所だが、生憎と武器がない。「鈴仙に同じ事してないでしょうね?」「あいつの方がちょろい」可哀相な鈴仙ちゃんや。全額回収できるまで戻ってくるなよ。「もう来るない」「おう、また来るぜ」

 

――私は一体何を忘れちゃったんだろうねぇ。若さ、若さって何だろう。向こう見ずなのは間違いない。若者はえてして全能感に満ち溢れている。自分は何でもできる。今できなくてもできるようになる。それが無理でも踏み倒してやれ。無理を通せば道理も引っ込む。世界はあなたの為にある。

 

私だって、世界は自分中心に回っているなんて事を平気で吐くさ。だが、それが事実でない事も知っている。あの子たちは知らない。知るものか。挫折すらも名誉の傷。己をも燃やし尽くすような情熱で、三千世界を駆け回る。……たぶん、私にもそういう頃があった。あったはずだ。

 

今はもう、想像すらできない。それを悲しいと思う感受性もなくしてしまった。ただただ、若さに圧倒される。私には、眩しすぎる。……いずれは、己の若さの終わりを知るだろう。私のようにつまらない、枯れ木に変わってしまうだろう。そういうものだ。時の流れは、無常で残酷だ。

 

もしもあんたが、生きて死ぬまで情熱を持ち続けられるのなら――私は尊敬するよ、霧雨魔理沙。

 

―――

 

  ―――

 

「――ご本尊自ら、何をご所望で?」目の前には、虎の妖怪がいた。「いえその、記憶をなくしてしまいまして」……記憶喪失?「買い物をするつもりだったのですが、何を買うのだったのやら……」「健忘症の薬ならあるけどねぇ」「じゃあそれを」「どうぞ」何だか調子が狂うわね。

 

「――あ、そうです! ここに買うものの一覧が……」薬を一気飲みした虎は何か思い出したらしく、懐を探り始めた。そんなに早く効くものじゃないわよ、それ。「あ、ありました。えーっとですね、健忘症の薬と――」ビュウウゥゥ!! 突然に風が吹き、虎の手から紙を奪い去っていった。

 

「ああっ!! ……ううー」虎が頭を抱えた。頭を抱えたいのはこっちである。「でも一つわかりました、とりあえず健忘症の薬を」「どうぞ」虎は再びそれを一気飲みした。「――んん゛っ! 思い出しました!!」ほんまかいな。「生姜と山葵、香草を二袋、プロテインを五箱……」

 

意外な事に、虎はスラスラと買うものを言ってのけた。「全部思い出しましたからね!」虎は胸を張った。張るな。「……それで、私は何をしに来たんでしょう?」「健忘症の薬ならあるけどねぇ」「じゃあそれを」「どうぞ」何度目かの薬を一気飲みした虎は、何やら虚空に視線を走らせ――

 

「ああっ、ナズと約束していたんでした!!」荷物を忘れたまま、何処かへ駆け出してしまった。「……何だったの?」「何だったのでしょうね」私は横を向いた。妖怪寺の親分がそこにいた。「昔はあれでも、几帳面でシャンとしていたのですが」聖が何処か嬉し気に微笑んだ。

 

「あのくらい抜けている方が、あの子にとっては幸せかもしれない」いや、あれは抜けているというレベルでは……。「荷物は私が受け取りますわ。星が戻ってきたら、私の所に来るように、と伝えてくださるかしら」にこにこしながら、聖は言った。折檻でもするのか。するんだろうな。

 

――実際、記憶なんていい加減なものだ。願望、悲観、憤怒に不正。様々な原因で記憶は捻じ曲がる。それこそが当人の真実になる。私にも後ろめたい事はある。溶けた鈴仙の件とか。……まあ、記憶を正しく保持するのはとても難しいという事だ。それを正す為にあなたがいる。わたしがいる。

 

誰かが保持している限り、記憶は生きている。すべての生き物から忘れられた時が妖怪の最期だ、とは半分正解で、半分間違っている。人間だってその状態では、死んでいるも同然だからだ。自分自身が生きている、と主張した所で、それを認可してくれる存在が誰もいなければ、どうか?

 

あなたを忘れない。わたしが忘れない。恋する二人が惹かれ合うのは、或いは互いを深く知り合いたいからかもしれない。互いは互いを知っている。知り合っている。死が二人を分かたねど、記憶の中に生きている。例え忘れてしまったとしても。人と人が知り合う限り、このループは続く。

 

私は――そうさね、一番古い知り合いの記憶は、人間だ。愚かな人間。幸運を求めて竹林に入った。それは重い病気の両親の為だった。私は幸運を与えた。その人間は竹藪に飲まれて消えた。竹林に入るとはそういう事だ。死の運命は変えられない。だから、せめて看取ってやった。

 

記憶はまだ、私の浅い部分にたゆたっていた。いずれはそれも、忘れてしまう。両親も、いずれは息子の顔を忘れただろう。誰もお前を知らない。その時が二度目の死なのだ。だから私は覚えていてやった。それが無駄な事だったとしても、構わない。私はそうしたかったから、そうしたのだ。

 

――脳トレとやらもやってみるか。私は伸びをした。てゐ様の頭なら余裕だろうが、やってみるのも、悪くない。私は散発的に来る客を捌きつつ、自分自身の記憶に思いを馳せた。人間より古い看取りの記憶は、やはり曖昧だ。拾い出せたのは、漠然とした悲しみだけだ。少しだけ、涙をこらえた。

 

―――

 

  ―――

 

「脱毛剤?」赤ずきんの妖怪は小刻みに首を振った。「毛生え薬ならあるんだけどねぇ」赤ずきんが頭を下げた。どうも落胆したらしい。「除毛クリームで剃る――いや、駄目なのかい?」赤ずきんは頭を大きく振った。どうやら深刻な問題らしい。「剃刀が負けるので……」

 

どれだけ強い毛をお持ちなのか。「また今度、こちらで調合してみるという事では?」赤ずきんが頭をブンブンと振った。弾みでずきんがずれた。獣の耳だ。……なるほど、ワーウルフか。「今すぐに欲しいんです。どうしても」そういえば今日は、丁度満月だったっけ。つまり、そういう事か。

 

「せめて、袖口と顔の毛を剃らないと……」何の用事か知らないけれど、新月とかじゃ駄目なのかね。駄目なんだろうな。この分だと。「じゃあせめて、香水とかは――」「ありますよ。キツい方がいいかい」「一番キツいのでお願いします」つまりは、獣の匂いを消したいんだろう。

 

「どうしてそんなに素性を隠したいの」「いや、あの――草の根の集まりがありまして」草の根ってあれか、寄り合い所帯。「草食系の子が入ってくれそうなんですけど、私がいたら多分無理かなって……」だろうね。ビビるだろ普通に。「どうです、臭い消えましたか……?」微妙。

 

私とて草食系だ。てゐ様の高性能危険センサーがピンピンしている。当人にその気はなくとも、まあ、仕方ないわね。「ワーウルフだって打ち明けたら?」「いっいえ、それは……」「案外上手くいくかもよ」他に手段がないとも言うがね。「そ、そうですか――そうですよね、ええ」

 

赤ずきんはふんすふんすと鼻息荒く、尻尾を振りながら去っていった。私は香水をしまいながら、その背を見送ってやった。――ちょっと悪い事をしたかね。まあ、どう小細工しようと、いずればれるんだ。傷口は浅い方がいい。ま、頑張んなさいな、赤ずきんに化けたおおかみさんよ。

 

……実際、どうだろうね。そう生まれてしまったからと言って、そのように生きなければならない道理はない。しかして、その結果が良いものとは限らない。正体を現したばかりに、集団から追放されるなんてのはよくある話だ。ありのままを受け入れてくれるなんてのは、やはり幻想だ。

 

異種に近付きたければ、最初から打ち明けるか、それとも死ぬまで隠し通すか。どちらかを選ばねばならない。そして後者は、得てして最悪の結果を招く。そう、傷は浅い方がいい。拒まれた所で、死ぬ訳でもあるまい。……私も、まあ、そういう事はあった。傷は深かったよ。狂おしいほどに。

 

在るべき所の違う二人が惹かれ合い、一緒に逃げると言ってくれるなら――それは立派な愛の形だろう。例え道半ばに倒れたとしても。追っ手の刃にかかったとしても。二人逃げている間のそれは、確かに恋と言うのだろう。確かに愛と言うのだろう。例え、例え、最悪の結末を迎えようとも。

 

あの時の事を思い出す。もうそれは時の流れに風化していた。あなたの顔も思い出せない。ただ傷付いた心だけがあった。あなたが死ぬまで、隠し通すつもりだった。そうはならなかった。ならなかったんだ。すべてを捨てて逃げた。――あなたは、あなた自身の命も捨ててしまった。

 

私が死ねば良かったのに、と思う瞬間はきっと、数えきれないくらいあった。しかし私は、生き汚なかった。自分だけは逃げ切ってきた。もう二度と逃げないと誓った。しかしそれは、嘘吐きの気の迷いに過ぎなかった。幾度とも逃げた。幾度とも生き残った。皆、私が殺したようなものだ。

 

――昔の話は、私にとって楽しいものではなかった。刹那的に今を楽しむのは、過去を振り返るのが怖かったからかもしれない。私が辿ってきた道には後悔と、幾多の犠牲があった。悲しみがあった。そういうものだけを覚えていた。今は違う。少なくとも馬鹿をやれる仲間がいる。

 

楽しい思い出も、いずれは記憶の底へ沈むだろう。それでも今は、暖かな思い出を抱いて生きていく。失う事は怖い。自ら跳ね除けた時もあった。もう、そんな事はしなくてもいい。私は集団を許容し、集団は私を受け入れてくれた。逃げる必要はなくなったんだ。それが何よりも、嬉しい。

 

―――

 

  ―――

 

……まあ、それからの応対はサクサク進んだ。てゐ様の人徳のおかげだ。置き薬を撒き散らしてきて、戻った頃には夕日が落ちていく頃だ。潮時だ。私は籠を再び背負った。……少し引きずった。何なら私専用の背負い籠を作ってもいい。気分が良かった。なんだかんだ、妙な奴と話すのは楽しい。

 

人里を勢いよく飛び出し、大路を突っ走る。今は妖怪の時間だ。遠慮など要らない。獣道に飛び出した。竹林を突っ切った。あっという間に私のハウスだ。……さて、鈴仙の事をどう誤魔化したもんか。こっそりと中を見る。誰もいない。外側を周り、処置室を覗く。やはり誰もいない。静かだ。

 

――ひょっとすると、これはバレないか? 私は鈴仙の部屋で背負い籠を下ろすと、私の部屋でいつもの服に着替えた。その間も何事も起こらない。永琳はともかく鈴仙が出てこないのは意外だったが――まさか、ね。少しばかり恐ろしい想像をしてしまった。背中がざわざわする。

 

外に出た。相変わらず誰も――いや、妖怪兎がいた。それもたくさん。何かを囲っている。なんだろう。私は軽くステップを踏みながら近づいた。……冗談でしょ?「てゐ様、鈴仙が……」目の前にはドマンジュウ。その上には――鈴仙の顔写真。「死んじゃったんです」妖怪兎は泣き叫んでいた。

 

いや、そんな、永琳でもどうにもできなかった訳? つまりこれって、私が殺したって事になるのかい? ――いや、いや、そんな事より――鈴仙、私はそんなつもりはなかったのよ。許してくれなんて言わないわ。ただ、ただ、私の軽率な遊びが、あなたを殺してしまった――!?

 

「ごめんなさい、鈴仙――!!」涙があふれた。実感が湧いてきた。私が鈴仙を殺した。鈴仙の顔を、誰も二度と見られなくしてしまった。永琳は悲しむだろうか。姫様は悲しんでくれるだろうか。そんな事はどうでも良かった。妖怪兎と一緒に、私は大声を上げて泣いた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

「――はい、少しは反省した?」私達は泣きながら、声の主を振り向いた。「れ、鈴仙……?」私の視線の先には、鈴仙がいた。でも、鈴仙は死んだはずなのに。「酷い顔してる」私は両手でゴシゴシと顔を拭った。幻覚ではない。本物だ。生きてる。動いてる。どういう事なの、鈴仙!?

 

「悪戯仕掛けられるのには慣れてないのね、あんた」鈴仙が銃を取り出し、ドマンジュウに撃ち込んだ。写真の顔が舌を出したものに変わった。「あんたに運ばれている間、意識があったのよ。それでこんな事を思いついたって訳」いつの間にか縁側には永琳、そして姫様に兎達が集まっていた。

 

「れ、鈴仙ッ……」私は確かに酷い顔だったと思う。泣き笑い。騙された怒り。ない交ぜの感情のまま、私は鈴仙に抱き着いた。「どうしたの、ほら」私は鈴仙を登ると、そのまま肩に乗っかった。頭に腕を回す。「びっくりした、本当にびっくりしたよ……」「ふふ、悪戯は大成功ね」

 

永琳は笑っていた。姫様も。完全に騙されていたらしい妖怪兎も。兎達がぴょんぴょんと跳ねていた。なんだ、皆して私を騙してたって訳ね。落ち着いてきたら、ちょっとばかしムカついた。今度はもっとスゴい悪戯を仕掛けてやろう。ただ、今は――色々な事を、話してしまおうと思った。

 

「――それでね、薬を売ってきたんだよ。そりゃ大盛況さ。鈴仙よりも上手くやった」鈴仙はそれをじっと聞いていた。仲直りできただろうか。私は肩に座り直し――「あっ! そっちは駄目!」警告も空しく、鈴仙はそこに踏み込んだ。私達の足元が崩れた。落とし穴だ。そこには硫酸が――

 

「「いやああぁっ!!」」

 

私達はドロドロに溶けて死んだ。どうやら守備力が2,000以下だったらしい。

 



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リア充爆発しろ

―リア充爆発しろ―

 

ナズーリンが爆発しました。

 

私のせいかもしれませんが、どうなんでしょう? 何かを呟いた瞬間、ナズーリンは爆発しました。周りにはお店、通行人、後は仲睦まじいカップルしかいませんでした。私は状況が理解できずにぽかん、としていましたが、とりあえず、どうして爆発してしまったのかを考える事にしました。

 

ひょっとしてナズーリンは爆弾で、長いしっぽは導火線だったのでしょうか? 火をつけた事はないのでわかりません。それとも、ナズーリンは油でべとべとで発火寸前だったのかもしれません。でも、普通に手を繋いでましたね。それは違う。頭の中に爆弾――は、ないでしょう。

 

或いは、さっき買い物していた古物の中に可燃物があったのかも。しかしそんなもの、人里のお店で売っているものでしょうか。そもそも、私もただでは済まない気もします。だとすると、ナズーリンは既に爆発していて、その瞬間に消えてしまったのかも。……ううん、わかりませんね。

 

ナズーリンが爆発した後の手を見ました。何もついていません。何も。どうしたんでしょう。爆発してしまったら私と一緒に遊びに行けませんし、おうちに帰る事もできないじゃないですか。首をかしげます。事態を捉えられていない訳ではありません。しかしどうして、いなくなったのでしょう?

 

「よー星」「よーゴロにゃん」一輪と布都が来ました。最近お二人は付き合っておられるそうです。「どーしたのさ、とぼけた顔して」「顔にたわけと書いてあるぞ」えっ、書いてあります?「……おぬしの所のニャンチャンは少々ボケがきとるのではないか?」「ははは、否定できない」

 

「――おっ、珍しい物つけてんじゃん」一輪が私の腕をじろじろと見ました。それは虎と鼠をあしらったミサンガで――あれ?「いかがした?」「鼠の飾りがあったはずなのです。何処かで落としたかもしれません」「ふーん。探すってても、ちょっと難しいかもね」少しがっかりします。

 

「そうだ、一輪。この辺りでナズーリンを見ませんでしたか?」「見てないけど、一緒にいたんじゃなかったの?」「それが、ナズーリンは爆発してしまして」「――はぁ?」事の経緯を説明しました。「何というか――あんたら、よくわかんないわ」「……一度、医者にかかるべきでは?」

 

どうやらあまり信用されていないようです。私でもわかります。「どうして爆発したんだと思います?」「どうしてったって……ねぇ?」「否、我にはわかるぞ」布都さんが胸を張りました。「これはいわゆるドッキリじゃ。おぬしが慌てた頃に出てくるであろう」「ドッキリか、あり得る」

 

「それにしても、お二人は仲が良いのですね」始めは意外な組み合わせだと思いましたが、随分と馴染んでおられます。「マブダチだもんねー」「ねー♪」首と首をかしげて頭を合わせます。息がぴったりですね。私はにこにことそれを見ていました。――まさに、その時でした。

 

私の目の前で、一輪と布都さんが爆発しました。びっくりして目を見開きます。しかし、それは事実でした。後には何も残っていません。ナズーリンの時と同じです。私は空を掴もうとしました。いません。透明になった訳でもないようです。私のせいでしょうか。よくわかりません。

 

段々と事態の深刻さを飲み込めてきました。これはいけません。こういう時は聖に相談しましょう。私は駆け足で寺に戻りました。「聖、いらっしゃいますか」最近は、いない事がよくあります。理由はわかりませんが。「星? ごめんなさい、今は――」襖が開いています。覗いてみましょう。

 

「よいではないか、よいではないか」そこには聖と、聖に組み付いた神子さんがいました。フルコンタクト弾幕ごっこでもやっているのでしょうか。「聖、少し相談したい事がありまして」「あなた、この状況でその反応はないでしょう?」聖の顔は真っ赤です。「いいさ、見せつけてやろう」

 

聖は神子さんの顔に鉄拳を叩き込むと、私の方を向き直りました。「これはね、違うの」「何が違うんだい?」一瞬で蘇生した神子さんが肩に手を置きました。聖が咄嗟に裏拳を放ちますが、それはかわされます。さほど広くはない部屋の中で戦うのは、大変ではないでしょうか。

 

聖と神子さんは、同時に剣を抜きました。「あなたって人はッ!」「ほう、君はそれで愛を囁くのかい?」激しく打ち合っています。余波はレーザーとなり、部屋中を穴だらけに――これは、聖に怒られますね。あれ、でも壊しているのも聖なら……あれれ、どうなるんでしょう?

 

双方の剣が宙を舞いました。それは壁に刺さり――遂に壁が崩壊しました。部屋が広くなって戦うのが楽になったかもしれませんね。「あなたにはデリカシーというものがないのですか!」「そう言いながら、君の欲は正直だね?」拳を尺で受け止めながら、二人は縦横無尽に駆けまわっています。

 

これでは話を聞いてもらえそうにありません。「聖、終わるまで座っていますね」「あなたはもう少し事態を深刻に受け止めなさい!」「私は二体一でも構わんよ? 悦びも二倍、愉しみも二倍」神子さんの手刀を聖が受け止めました。「破廉恥なッ!」「君の恰好ほどじゃないさ」正論です。

 

呼ばれれば仕方がありません。私は手元に槍を取り出して――部屋の中では邪魔ですね、これは――槍を投げ捨てて、諸手を構えました。私とて宝塔比で二割のパワーがあるのです。神子さんに抜き手をみまい――ああ、駄目ですねコレ。小指で止められました。「虎をはべらせるのも悪くはない」

 

いいえ、この二人が強すぎるのです。私が弱い訳ではありません。本当ですよ。腕相撲ならナズにだって勝てます。「星、どいていなさい。邪魔です!」光の槍がいくつも飛びます。マントの中から吹き出した火炎がそれを相殺しました。ああ、そろそろ柱が耐えられないかもしれません。

 

「はは、君は私を愛していないのかい?」「なっ――そ、それとこれとは話が別です!」聖に一瞬隙ができました。神子さんは聖を蹴り落とすと、その身体に覆いかぶさりました。「久々に刺激的な時間だった」「し、知りませんっ!」神子さんは聖の顔に手を当て、接吻を――あれっ!?

 

私の目の前で、聖と神子さんは爆発しました。びっくりして目を見開きます。しかし、それは事実でした。後には何も残っていません。一輪と布都さんの時と同じです。私は深呼吸をして、落ち着きました。空気になった訳でもないようです。私のせいでしょうか。よくわかりません。

 

いけません。これはいけません。聖の力を借りられないとすれば、これは私だけで解決しなければなりません。村紗は――どうやら、血の池地獄から帰ってきていないようです。響子は流石に、私でも頼りません。むしろ守ってあげなければ。私はいそいそと、石畳の続く道を辿りました。

 

いました。響子です。傍にいるのは――確か、ミスティアさんでしたか。「あっ、寅丸様」響子は何やら後ろに隠しました。「どうしました?」「いえ、その」「ライブ音源です」ミスティアさんがにこり、と笑いました。「怒られるんじゃないかって思ったんでしょう、響子」

 

響子はこくこくと頷き、私にしーでー?を手渡てきました。「寅丸様も聞いてくれますか?」「ええ、もちろん。聖にも黙っておきますよ」響子は安心した、という顔で息を吐きました。「よかったね、響子」「うん、みすちー」二人は向かい合って笑いました。「でも、さぼってはいけませんよ」

 

響子はこくこくと頷きましたが、それはともかくミスティアさんと次の歌の話をしているようでした。しばらくは見逃してあげましょう。……その実、私もあまり言えた義理ではありません。でも、いいんです。このくらい緩い方が、里の皆さんも受け入れてくれるでしょうから。

 

「お二人は本当に仲が良いのですね」「もちろん!」「大好きだもんね!」私の目の前で、二人の音楽家は抱き合ってポーズを取りました。とても愛らしいですね。――あれ。これはいけません、ここに私がいて、人が二人いる。もしやもしや、そういう事が起こり得るのでは……?

 

私の目の前で、響子とミスティアさんは爆発しました。びっくりして目を見開きます。しかし、それは事実でした。後には何も残っていません。聖と神子さんの時と同じです。私は遠くを見渡しました。すっとんで行った訳ではないようです。私のせいでしょうか。私のせいです。間違いなく。

 

これは、これはいけません。私が近付くといけないのでしょうか。せめて、原因がわかれば対処のしようもあるのですが。引きこもろうかとも思いましたが、私は寺を出ました。恐らくここではありません。もっとこう――そうです、ナズーリンが爆発した所に戻れば、何かわかるかもしれません。

 

私は人里を駆けました。しかしどうやら、道行く人達が爆発する事はなさそうでした。ますますわかりません。爆発するのは何か条件があるのでしょうか。そんな事を考えていると――いけません。今すれ違った人は、爆発しませんでしたか? 私は背後を凝視しました。そこには誰もいません。

 

爆発音は雑踏に紛れ、誰もそれに気付いていない風でした。このままでは誰も彼もを爆発させてしまうかもしれません。私は急ぎました。あの角を曲がった所です。思い切り角から飛び出し――「おう、なんだ。トーストでもお見舞いするか?」そこには魔理沙さんと、それから霊夢さん。

 

「ご本尊が自ら歩き回ってるなんて珍しいわね」霊夢さんは御幣でぱしぱし、と頭を叩いてきました。少しばかり失礼な気もしますが、今は置いておくとします。この二人は異変解決の専門家です。丁度良いので、事の敬意を説明します。「――爆発するぅ?」「よくわからないわね」

 

ぼんやりとしていた霊夢さんの顔が険しくなってきました。これは異変解決モードの顔です。「待てよ霊夢。まだ異変と決まった訳じゃないぜ」魔理沙さんが肩を叩きました。霊夢さんは反応しません。「――ったく、これだからな」魔理沙さんが帽子を目深に被りました。「ついてってやるよ」

 

「勝手にしなさいよ」「魔理沙さんはいつでも自分勝手だぜ」喧嘩腰ながら、二人の息はぴったりです。これが阿吽の――あうんちゃんはちょっと違いますが――呼吸というものですね。――あ。ああ、いけません。ひょっとしなくてもこれは、そうなってしまうのではないですか?

 

私の目の前で、霊夢さんと魔理沙さんは爆発しました。段々と慣れてきましたが、やはり、それは事実でした。後には何も残っていません。響子とミスティアさんの時と同じです。私は大きな伸びをしました。首をコキコキします。やはり、いません。私のせいでしょうか。私のせいです。完全に。

 

どうしましょう、専門家も手も足も出ずに爆発してしまいました。ナズが消えた場所にも特に手掛かりはなさそうです。――そうだ。足で駄目なら、知識に当たりましょう。この辺りで本を扱っている所は――鈴奈庵ですね。私は駆け足で目的地に向かいました。たのもう。たのもう。

 

「――えっ?」店番の子は私の事をじろじろ見ています。顔に何かついているのでしょうか?「これはまた、レアなお客じゃの」奥の方から、いなせな着物の女性が現れて、店番の子の頭に手を置きました。「小鈴や、この機会に媚びを売っておいたらどうじゃ?」「そんな気はありません!」

 

小鈴と呼ばれた子は私の事を上から下まで見ました。「それで、何の御用ですか?」「爆発するのは何故なのか、って本はありますか」「……ダイナマイトとかですか?」「いえ、そうではなく」「そうではなかろうな」女性がキセルを取り出しました――が、小鈴さんに脛を蹴られました。

 

「妖怪か、妖具か、その辺り、じゃろうな」片足でぴょんぴょんしながら、女性は言いました。手短に事情を説明します。「ふむ、目の前に二人いると、爆発すると」「――待って、それって私達もそうなるんじゃないですか?」「今の所はなっておらん」女性――マミゾウさんは頭を掻きました。

 

「同じような現象はあまり聞いた事がない。爆発――爆発か。ちょっとしたまじないじゃが、対象を爆発させる呪いはある」マミゾウさんはキセルに手を伸ばし――小鈴に両方の脛を蹴られました。「リア充 爆発 しろ、と、言ってな」とても痛そうです。「――文字通り、リア充を爆発させる」

 

「リア充って何なんですか?」「わしも詳しくはないが、人じゃ。パートナーがいる事が最低条件らしい」マミゾウさんは指でハートを作って見せました。「要は、行き遅れの妬み嫉みではなかろうかの」マミゾウさんはガムと取り出し、噛み始めました。小鈴さんが座った目で見ています。

 

「そういえばあの時、ナズーリンがそんな言葉を呟いていたような……」「ほう」マミゾウさんの眼鏡が光りました。「それは無関係ではないじゃろう。恐らく、近くにアベックがいたのではないか?」「アベ?……カップル?でしたら、ええ。いました」マミゾウさんは口角を上げました。

 

「アベックだけを爆発させる。お前さん、何か手がかりがあるんじゃないか」「いえ、それが――わかりません。一番初めに爆発したのはナズーリンでしたが」あれ、あれれ。そうだ、それならどうして私は無事だったのでしょう。私とナズで二人なのに、ナズだけが爆発してしまいました。

 

「おぬしだけは爆発しなかった。思い当たる節は?」「特別な事は、何も。……いえ、これがありました」ナズが買ってくれたミサンガです。「本当は鼠の飾りもついていたのですが」「うーむ、如何にも怪しくはあるが――これだけではわからんのう」私はミサンガを受け取りました。

 

「まあ、腰を据えてじっくりと考えるべきじゃろう」マミゾウさんはキセルを取り出そうとして――止めました。小鈴さんが本の角をつきつけています。この場には妙な緊張感、そして不思議な縁を感じます。マミゾウさんは小鈴さんの何なのでしょうね。お姉さん? それとも導き手?

 

「禁煙するって約束したじゃないですか」「おお、これはすまん」息の合った攻防。私、知っています。これは夫婦漫才というものですね。仲睦まじいですね。――あっ。これはいけません。私は慌てて顔を背けて、耳を閉じましたが、この現象にはそんな事は無意味だったようです。

 

目を閉じた私の傍で、小鈴さんとマミゾウさんは爆発しました。はい。やはりそれは事実です。後には何も残っていません。霊夢さんと魔理沙さんの時と同じです。私は考えました。爆発する人達の共通点は、カップル。リア充を爆発させる呪い。ミサンガ。鼠の欠けたミサンガ――?

 

ばさり、と音がしました。私が外に出ると、空を天狗が飛んでいます。確か、文さんと椛さん。何やらいがみ合っているようですが――片方が片方に近付くと、顔と顔を重ねました。あれはひょっとして、接吻をしているのでは? ――ああ、これは如何にもまずいのではないですか?

 

私の遥か上で、文さんと椛さんは爆発しました。これはいけません。ますます被害が拡大してしまう。私は路地を走ります。……あっ、と思った時には遅かった。近くにいた鈴仙さんとてゐさんの傍を通ってしまい――やはり、爆発してしまいました。もはや、動くのは難しいかもしれません。

 

――その時、私はひらめきました。たまには私だってひらめいたりします。私はミサンガを見ました。鼠の飾りは何処かになくなってしまいました。つまり、つがいが離れて、リア充ではなくなってしまった訳です。あの時ナズは確かに――リア充爆発しろ、と呟きました。そうだとすると――

 

ミサンガは願いを叶えるもの。もしもこの現象が、ミサンガのせいで起きているなら? 

 

他に原因も思いつきません。私は慌てて、これを購入した露店に戻ると、もう既に撤収してしまっていました。ならば、私にできる事は一つです。鼠の飾りを探します。私は鼻が――あんまり利きませんが、この大路で――下から見るとまさに足の海ですが――今日中に――そろそろ夕方です――

 

うう、とても探せない気がしてきました。ナズがいればすぐに探し出してくれるのですが――爆発してしまっています。今は私だけやるのです。私は背をかがめながら、道を嗅ぎまわり始めました。人が見ています。そんな事はどうでもよいのです。……何処か、何処かにあるはずなのです!

 

私が地面を転がっているのを見て、通りがかった檀家さんが一緒に探してくれました。それを見た通行人の皆様が、一緒に探してくれています。露店の人も加わってくれました。門番の人も、警備の人とも、教師さんと子供達も、ぼさぼさ髪のおじさんも、みんなが探してくれたのです。

 

しかし、鼠は見つかりません。日が暮れてきました。もう駄目なのかもしれません。こんなに探して頂いたのに見つからないのです。ひょっとしたら、誰かが拾って持って行ってしまったのかもしれません。それか、何処かにはまり込んでいるのかも。もう、見つかりそうにありません。

 

私は挫けてしまいました。頭を抱えて座り込みました。みなさん、ありがとうございます。そして、ごめんなさい。これは私の力不足です。財宝が集まる程度の能力も、今はちっとも役立ちませんでした。あれはきっと、とても大切なものだったのに。私は何もかも諦めて、ミサンガを見ました。

 

――ミサンガが震えています。私は引っ張られる方向に、手を伸ばしました。側溝。汚れるなんて構いません。私は泥の中に手を突っ込みました。掻き回し、掻き回し、掻き回しました。そうすると、硬いものに手が当たりました。私はそれを引き上げて――手の中には、鼠の飾りがありました。

 

「見つけた! 見つけました!!」私の声に、皆さんが喝采をあげてくれました。きっとこれは、皆さんが探してくれたから、ミサンガが答えてくれたに違いありません。私は汚れてしまったミサンガを拭うと、虎の隣に鼠の飾りを付けました。そして念じました。強く念じました。

 

愛する二人よ、いつまでも仲睦まじくあれ!!

 

「――うわっ!?」私の傍から、ナズーリンが飛び出してきました。「これは一体どういう――私はどうなったんだ、ご主人?」私は微笑みで答えました。「あなたは爆発していたのですよ、ナズーリン」「……はぁ?」ナズーリンは怪訝な顔をしました。夕日を受けてミサンガが輝きました。

 

「わーっ!?」「――な、何が起こったの!?」通りの向こうに鈴仙さんとてゐさんが現れました。何処かで霊夢さんと魔理沙さんの声もします。きっと、他の人達も戻ってきているはずです。私はナズの頭を撫でました。「なっ――よしてくれご主人、泥がつくだろ」「あっと、失礼しました」

 

一緒に探してくれた皆さんが、それぞれの仕事に戻ろうとしています。私は祈りました。強く祈りました。どうか優しくも暖かいこの人達に、幸運がありますように。夕闇の中、私はナズーリンの肩を取り、寺の方へと足を向けました。びっくりするような、一日でした。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「――これはね、違うの!」「何が違うんだい」「何か違うんでしょうか」「三人も悪くない」「あなたは黙ってて!」

 



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首が折れればやはり死ぬ

―首が折れればやはり死ぬ―

 

てゐが死んだ。

 

私が殺した訳じゃない。またぞろ落とし穴を掘ってるな、と思ったら――どうやら底におっこちて、首が変な方向に曲がっていた。これは即死だわ。ご冥福をお祈り――してる場合じゃない。困った時は師匠に投げる。あまり濫用すると話が崩壊するけど、今はそんな事言ってられない。

 

「どんなに長生きしていても、死ぬ時はあっさりしたものね」師匠はくすくす、と笑っていた。いや、笑っている場合じゃないんですって。「そうね。うどんげ、あなたが処置なさい」……はい?「あなたに任せると言ったのよ。頑張りなさいな」師匠は奥に引っ込んでしまった。

 

――いや、冗談でしょ? 確かに基本的な事は習ったけど、そんな、ぶっつけ本番を一人でなんて。どうしよう。どうしよう。……とりあえず、蘇生処置よね。私は慌てて道具をかき集めた。普段は使わないようなものばかりだ。私は事態の深刻さを、段々と理解してきた。

 

まずは、この回転のこぎりで首を――って、何でやねん。ていうか、処置室に何でこんなものがあるのよ。……師匠、ここで改造手術とかしてないでしょうね。振り返ると胡散臭い電撃発生装置とか、光る輸血パックとか、見るだに狂ったものがたくさん転がっている。何なのよコレ。

 

――それはどうでもいい。困った時はスティムパック。棚にあるだけ、胸にしこたま打ち込んだ。これで大体どうにかなる。後はそう、心臓マッサージ。妖怪の身体だもの、容赦はしない。一分間に三百六十回。心電図計に反応は――ない。まずいわ。このままだと、本当に死んでしまう。

 

私は備え付けの箱からAEDを引っ張り出すと、行程をすっとばしてそれを押し当てた。イメージ的には簡単に蘇生できる器具だけど、これが必要なレベルでは妖怪とて助かるかは怪しい。そんな事を言っている場合ではないとわかってはいても、どうしたって不安が勝つのだ。

 

ドゥン! てゐの身体が跳ね上がった。心電図系を見る。駄目だ、反応なし。もう一回! てゐの身体が再び跳ね上がった。しかし、反応なし。こうなれば手段を選んではいられない。何度も何度もショックを打ち込む。……今、ピクリと反応しなかった? 慌てながら、もう一発!

 

てゐの身体が大きく跳ね上がると、弱々しくも、心臓が再び動き始めた。とりあえず当座の危機は去った――訳だけど、どうしよう。今、てゐは首が折れている。普通は死ぬけれど、妖怪だから死なない。……人の事は言えないけれど、ホント妖怪ってテキトーにできてるわね。

 

とりあえず首を元の角度に戻して、首筋にスティムパックを打ち込んだ。これで安静にしていれば治るはず。……何でできているのかしらね。この注射。首にサポーターを捻じ込み、ベルトで固定した。首が折れているレベルで使うものじゃないけどね。とりあえず治るまで保てばいい。

 

ベッドに乗せ換えて、病室に運んだ。点滴つきになったてゐの顔は、安らかだった。このまま昇天しないでよね。思いはするが、それを選ぶ――というか、選ばされるのはてゐだ。殺しても死なない奴だって、首が折れればやはり死ぬのだ。195本あっても、折れてはいけない1本はある。

 

―――

 

  ―――

 

「うーん……」てゐの声に、私は耳を立てた。とりあえず生きてはいる。一つ安堵した。しかして、問題は山積だ。「目が覚めた?」これに反応がなければ、てゐは一生、植物状態かもしれない。耳をそばだてる。自分の心音が酷くやかましい。「――起きてるよ」聞き慣れた、声がした。

 

「鈴仙ちゃ――おおう!?」「あっ」首が曲がりそうになった。そんな角度に曲がったら既に死んでると思うけど、妖怪なので大丈夫――というか、首が折れたら死ぬってルールを理解していないから、生き残ってるだけなんじゃないか。詳しく話したら案外、死んだりするのかしら。

 

「その――動いちゃダメよ、捻挫してるから」捻挫ではある。捻挫を通り過ぎてるだけで。「ああ、そう?」てゐは大人しく天を仰いだ。「いや、私とした事が、あんなつまらないミスで死にかけるなんてねぇ」てゐは鼻を掻いている。「まあ、首をイワしたくらいで済んでよかったね」

 

いや、実際死んでたんだけど。敢えて言うものでもないか。「永琳はいなかったのかい? ……ふむふむ。処置を一人でやらされたと」どうだい。私は胸を張ってやった。……内心はびくついていたけど。油断はできない。今は薬で誤魔化しているけど、いつ再び死んでもおかしくない。

 

「動いたら治らないからね。絶対、絶対動かない事」「はいな」……治らない以前の問題だけどね。私の言葉を理解したのかしないのか。てゐは耳を指で撫でまわしている。「ヒマだね」「安静ってそういうものよ」変に首を動かされたらコトだ。雑誌を差し入れる訳にもいかない。

 

「しりとりでもしよう」「何それ」私は思わず吹き出してしまった。「私は強いよ。年の功って奴さ」「仕方ないわね」それで安静にしてくれるなら、まあ悪い事でもないか。「じゃあ最初は≪鈴仙≫から」「最初から≪ん≫じゃない」「おや、まいったね」てゐは楽し気に笑った。

 

―――

 

  ―――

 

「何よ、ンゴロンゴロクレーターって……」何度やっても私は負けていた。「助け舟だしてやったんだから、ぼやかない」てゐの笑い声が癪に障る。楽しいのは結構な事だけどね。「鈴仙ちゃん、今度はにらめっこしよう」「――はい?」その体制でどうやって――と思ったら。

 

「あ、いてっ」「こ、こらッ!!」こちらを向こうとしたてゐを全力で押しとどめる。「動くなって言ったわよね!?」「悪い悪い」この顔は、欠片も悪いなんて思っていない顔だ。「首を動かせないってのは思った以上に不便だねぇ」てゐは指を天に向けて、ぐるぐると回した。

 

「――そうだ。鈴仙ちゃんもこっちおいで」てゐの言葉の意図が掴めなかったが、私は促されるままベッドに近付き――「乗りな」「乗るって――ええ?」私は戸惑いながらもそれに従う。てゐが脚を開いた。私は手脚でそれを抱き込むように――って。これ、まずくない? 健全版だぞ?

 

「ほら、顔が良く見える」そりゃ見えるけどさ。「さあ、にらめっこだ。言っとくけど、私はこれも強いぞ」私だって自信はあるわよ。昔は福笑いのレイセンと――あれ、これって褒めてなくない?――呼ばれていたんだ。互いに顔を隠し、渾身の変顔を――「うどんげ?」びくり。

 

「あらあら、あらあらあら」師匠はいつも以上にニコニコしている。「何をしているのかしら」「いえ師匠、違うんです。これは――」すたすたと歩み寄った師匠が――私の耳をぐいぐいと引っ張る。痛いです。「医者が患者にそういう事をしちゃ駄目よ。評判に傷がつきますからね?」

 

何の評判だろう、と思ったけど、口にはしない。絶対藪蛇だ。……師匠はといえば、往診してくれるのかと思いきやそんな事もなく、さっさと立ち去ってしまった。何しに来たんですか。「つまり、信頼されてるのさ。鈴仙ちゃん」いやいや、てゐの命を使ってスパルタはちょっと……。

 

―――

 

  ―――

 

病室の戸が叩かれた。空いてますよ、と促して――なんと、姫様がそこにいた。手の中には小ぶりのメロン。「イナバにお悔やみを持ってきたわ」私は思わずずっこけた。「姫様、てゐは死んでないです」「冗談よ」冗談にしても心臓に悪い。姫様は時々こういう胡乱な話をするのだ。

 

或いは、師匠よりも。姫様はくすくすと笑っている。「おお、メロンかい?」迂闊にもそちらを向こうとするてゐ。慌てて私は制した。「だから動いちゃダメだってば!」「いやぁ、ははは」恐れ多くも姫様がそれを切り、てゐの顔に近付けた。「美味いもんだねぇ」ああ、そう。

 

――そもそも、怪我人に早々食べさせるものでもなくないか? 疑問を抱く私の目前で、てゐはメロンを一個丸々平らげた。少しはこっちに回してくれてもいいんじゃないか。思いはすれど、口には出さない。「良くなったら、祝ってあげましょうね」「そりゃ楽しみだ」てゐは笑った。

 

師匠が何もしてくれない事に関して、姫様から何か――いや、ある意味でこの状況を面白がっている節はある。姫様の考える事は、所詮兎の身になぞ、わからない。最終的に悪い方へは転がらないのは重々承知しているが、その間にいくつものトラブルを発生させる事が多々あるのだ。

 

「あなたはどう思うかしら」「――えっと、何がでしょうか?」姫様はくすくすと笑った。「永遠を生きるという事をよ」「いえ、それは――」「わからない。それが答えでも構わないのよ」姫様がてゐの頭を撫でた。「或いは、あなたもそのくらい生きると思っていたけれど」

 

「何、私なんてちょっと人より長生きしてるだけさ」「そうね」何やら笑い合っている。姫様はともかく、てゐってどのくらい生きてるんだっけ?「鈴仙ちゃんも健康に気を付けないと、早死にするよ?」「うるさいやい」あんたに心配されてもね。何事にも寿命ってもんがあるのよ。

 

――しかし、寿命か。私だっていつかは死ぬ。てゐもそうだろう。変わらないのは姫様と師匠、そしてもう一人だけだ。己が死を考えるのは、やはり恐ろしい。二度と目覚めない闇について考えてしまう。世界から私がいなくなるのを想像してしまう。姫様は、悲しんでくれるだろうか?

 

「何かお考えかい」てゐが呟いた。「さっきから黙ってる」耳をこちらに持ち上げた。「考えている時間を勿体ないと感じるか、有意義だと感じるかは、あなた次第ね」姫様は椅子から立ち上がり――恐れ多くも、私の頭を撫でた。耳がしわしわになっていた。それを引っ張る。痛いです。

 

「時の流れというものには確かな意味があり、そして何の意味もない」姫様は、椅子に戻った。「意味がないからといって、あなたは生きるのを止める?」私は少し、震えていたかもしれない。「そうではないでしょう」姫様の言葉の意図は、やはり掴めない。「意味は、見出すものよ」

 

「何も考えず、ただ漠然と時間を漂う事はできる」姫様は楽し気に話している。「けれど、そんなものを永遠に引き延ばす意味はないわ」目前でゆっくりと手を振った。「無意味を愉しむ。あなたも、私も、或いはすべての命が、そうしているのかもしれないわね」私は、顔を伏せていた。

 

くすくすと笑う声だけが、耳に入る。「難しく考える必要はないわ。世界はあなたが想像するより、ずっとシンプルにできているのよ」促されて、顔を上げた。その手にはいつの間にか、小ぶりのメロンが乗せられていた。「あなたも食べなさい。一時の恐怖は、そう続かないものよ」

 

恐れ多くも姫様がそれを切り、私の顔に近付けた。「えっ。あの」「口を開けなさいな」私はその言葉に従った。私は震えていた。さっきとは違う震えだ。私はメロンを口にし――咀嚼した。くすくすと笑う姫様を正面から見て、ああ、生きてて良かったな、と思うのだった。

 

―――

 

  ―――

 

病室の戸が叩かれた。空いてますよ、と促して――妖怪兎がズラズラと入ってきた。それも大量に。後から後から。……ちょっと、本当に部屋が埋まるんだけど。いや、待ちなさい、待てってば!! ――私の制止も聞かず、部屋の中はギュウギュウ詰めになってしまった。

 

「いやあ、てゐ様の人徳は無限大だねぇ」人徳とかそういう問題じゃないでしょ、これ!「ああ、大丈夫だよ。すぐに治る。そうしたら遊んでやろうね」てゐの言葉が兎の間を通う。泣きだすもの、笑いだすもの、手を振るもの、てゐの顔に触ろうと――あっ、こら!!

 

「待ちなさい、首を動かしたら――その、ヤバイわよ!」私の制止を、妖怪兎は聞かなかった。こいつらはいつもてゐの言う事しか聞かないのだ。「いいよ、首を回さなきゃいいんだろ」てゐはその手を取り、頬に当ててやっている。兎達に再び、今度は安堵が伝わっていったようだ。

 

「――それで、これどうするの? 動けないんだけど」もう部屋は限界ギリギリだ。これ以上は圧死しかねない。こんな所に死体を増やされたらたまったもんじゃない。「ああ、そろそろ帰りな」てゐはそう言うけど――やっぱ動けない。出口を閉めたのはどこのどいつだ。修正するぞ。

 

――その時だった。戸が無理矢理に開け放たれ、飛び込んできたのは――兎の群れ。それも大量に。後から後から。……ちょっと、ここはもう満員なんだけど。いや、待ちなさい、待てってば!! ――私の制止も聞かず、兎は妖怪兎の上に盛り盛りになる。どんどん。しこたま。

 

遂に部屋は三次元的にもギュウギュウ詰めになってしまった。てゐのベッドだけが安全地帯だ。「ちょ、本当、本当に潰れるって――」兎一匹、されど一匹だ。限界ギリギリの兎に、藁を一本乗せたら死んでしまうのだ。何か手はないかと考えるが、こうも圧迫されていては――

 

――その時だった。ガンガンガン、と打ち付ける音がする。食事の合図だ。兎全体に何らかの波が走った。扉側の兎が無理矢理外に転げだす。窓から飛び出すものもいた。パーティションの上によじ登る奴がいる。兎達が、水が流れるように滑り出ていく。皆、食欲に駆り立てられている。

 

あっという間に密度は下がり、この場には私とてゐだけになった。壊れた調度品と汚れた床だけが惨状を物語っている。一人、妖怪兎が入ってきた。フライパンとおたまを持っている。そいつはてゐの傍に歩み寄ると、顔に触れた。てゐも顎を掻いてやっていた。妖怪兎は頬にキスをした。

 

なるほど、はしっこい兎もいるものだ。そいつは調理器具を手に取ると、頭を下げて立ち去った。ああいうのがいずれ、リーダー代理でも務めるんだろう。リーダーはてゐが居座るから、死ぬまでNo.2だろうけど。……もし、てゐが死んでたら、覇権争いでも始まってたのかしら。

 

その時には、私が――なんてね。姫様がいるんだから、そんな事にはならないでしょう。多分。てゐの方を向いた。薬がよく効いているのか、てゐは眠ってしまっていた。シーツを掛け直してやる。……まったく、病室では静かに、なんて基本的な事も守れない連中だったわ。

 

―――

 

  ―――

 

病室の戸が叩かれた。空いてますよ、と促して――なんと、永遠の仇敵がそこにいた。手の中には竹炭の箱。「お悔みを――ってのは、どうもあいつが言ってたらしいな」妹紅は開いていた椅子へ勝手に座ると、荷物を私に手渡した。「見舞なんてガラでもないが、噂を聞いたんでな」

 

「――噂って?」「幸せ兎が、不運と踊っちまったって」呪い穴は一つだけで十分なんだな、と妹紅はにやついた。ポケットから紙巻き煙草を取り出し、指先から火を点け――「病室でそれって、あり得ないと思いますけど」「一本だけだ。いいだろ」私の言う事なんて、聞きやしない。

 

「本人は自覚ないかもしれないが、お前の所のいたずら兎は結構、あちこちで話のタネになってる。心配してくれるかどうかは別にして、ね」皆、幸運が欲しいんだろうな、と妹紅は呟いた。「幸運と不幸なんてのはバーターじゃない。ツイてる時もあればツイてない時もある」

 

「何をしようともなしのつぶてな時もある。逆に、何もかもが幸運と不幸の天秤をガタガタ揺らす時だってある。少なくとも、不幸の次には必ず幸運が来る、なんてのは、幻想だって事だ。偉い学者先生でなくても、本当は皆、気づいているんじゃないか」妹紅はふう、と煙を吹いた。

 

「その天秤を傾けられる存在がいるなら、誰だって欲しがるだろう。哀しいよりは嬉しい方がいい。私のような奴だって、幸運は欲しいさ。永遠の試行回数でダイスを転がし続けるなんてのは、私らにしかできないが、期待値はいつも私を裏切る」「そんなに欲しいものかしらね」

 

「お前は多分、日常的にその恩恵を受けてるんじゃないか」妹紅が煙を吐いた。「お前がてゐに依存している以上に、てゐはお前に依存しているように見えるぞ」「――依存って?」「あなたがいなければ生きていけない、って事さ」「いや、それって――」「色恋の仲でなくても、ね」

 

「私だって、張り合いがなければ生きていけない――いや、何かのジョークじゃないが。本気の殺し合いでしか得られない栄養素がある、とでも言えば通じるか。お医者さん。そして、お前らの関係もそうだと思うが」「つまり、てゐが生きるには私が必要って事?」「たぶんな」

 

よくよく考えれば、私がてゐを必死になって助けようとしているのは何故だろう? 友達だから? 医者の矜持? それとも――?「変な事言うのね」「ああ、変な奴だからな、私はね」妹紅が二本目に火をつけた。こうなると思った。「てゐは、自分自身を幸せには出来ないそうだな」

 

「それなら――幸せにした≪誰か≫から、幸せを貰いたいんじゃないか。返して貰う、なんてケチ臭い意味じゃなく」……誰かと言うのは、きっと私の事だ。私は、幸せなんだろうか? いつも痛い目に遭っている気がするけれど。「幸せかどうかなんて、過ぎ去って初めてわかるものだ」

 

「私だって平均以上には幸せだろう。今は、な」妹紅は顔を伏せた。「得るは幸運だが、失えば不幸だ。私はそれを嫌って、ニュートラルでいたかった。けれど、そうではないのを知った。知ってしまったと言ってもいい。とりあえず――何事もなければ、これから数百年は、幸運だよ」

 

多分、件の教師の事を思い浮かべていたのだと思う。妹紅は煙を吐いた。「永遠ってのは何だろうな。長らく考えていたが、私には答えを見出せそうにない」「――姫様も、似たような事を問いかけたわ。そして言ったの。世界は考えているよりもずっと、シンプルに出来ているって」

 

「あいつらしい答えだな」煙を吐く。「私はもうちょいとばかり、この世を憂いているよ」指を鳴らす音がする。「世界は考えもつかない程、複雑に出来ている。それを紐解ける者は、それこそ永遠の存在だけだろう。だが、それですら世界の流転には追いつかないんだよ。実際、な」

 

親指から、小指までに火が通う。「私は、全知全能なんてものを信じちゃいない。仮にすべてが見えるのなら、世界はそいつを、すべての目、全知の目で見返してくる訳だ。そんなものに耐えられる存在がいるとは思えない」煙を吐いた。私は、自説を語る妹紅の顔を、じっと見ていた。

 

「いたとするなら、それは≪世界≫そのものだ。私らでも、神や仏でもない」妹紅は肩をすくめた。「世界は考えもつかない程、複雑にできている」煙が部屋に漂っている。「私とあいつの関係だって、そうだ。きっかけは些細――とは言いたくないが」妹紅の顔が、陰ったように見える。

 

「数多の時が過ぎたとしても、あいつとの因縁は続く。それはシンプルな殺意だけじゃない。憎悪、悲愴、高揚、或いは喜び。あいつもそうだろう。それらがないまぜになって私達の間を飛び交う。入り混じる。私達のそれを取ってすら、事はそう単純じゃない。いわんや、世界をや」

 

三本目を手に取った妹紅を、私は睨みつけた。瞳の力が通じたのか、流石にそれ以上吸おうとはしなかった。「慧音はとかく、物事を悪い方に考え過ぎだと言うが」指を鳴らす音がする。「私は、悪い面ばかり見過ぎたよ。だから、これからは良い思いをしようと思ってる。羨ましいだろ」

 

冗談だと解釈して、私は笑った。妹紅も笑っていた。珍しい場だと思った。「てゐは眠ってるんだろ。私はそろそろ失礼するよ」妹紅は吸い殻を炎の中に消し去ると、戸を開けた。「私は、幸運だと思う?」私は問うた。妹紅は振り返らずに、手を振ってみせた。スッ、と戸が閉じる。

 

―――

 

  ―――

 

病室の戸が叩かれた。空いてますよ、と促して――妖怪鼠が入ってきた。「珍しい客ね」「アンコモンくらいさ」ナズーリンは背嚢を下ろし、こっちを向いた。「今日は、幸運をわけて貰おうと思ってね」「……アンタ、てゐが今どんな状態かわかってる訳? ふざけてる?」「いいや」

 

わかってるさ、とナズーリンは笑った。「これをあげよう」背嚢から取り出されたのは――御守りのようなものだ。いや、実際御守りに違いない。虎柄の小さな巾着。それは紐でぎゅう、閉じられている。「何、これ」「御守りだよ」「答えになってないわ」「実際、そのものだからね」

 

「このままでも霊験あらたかな御守りさ。しかし、これはもう一つ、何か≪幸運なもの≫――そう、例えば、四葉のクローバーを入れれば、ますます良い」段々何を言いたいかわかってきたぞ。「それで、クローバーを見つける為にてゐの幸運を当てにしてた訳?」おバカは頷いた。

 

「生憎と、私は運がない方でね。ダウジングに引っかかりもしないのさ」……怪我人に渡す為のお守りを怪我人に用意させる奴なんて、初めて見たわ。私はナズーリンを睨みつけた。「そう怒らないで。これは私なりの親切心さ」「……有難迷惑だけど、どうしてまた、そんなものを?」

 

「どうしてって、まあ――同業者のよしみかな?」手をひらひらとさせた。「幸せ兎を助けたとなれば、ますます箔がつくだろう?」結局は利己心じゃないの。「それで、代わりに何が望みなの?」「望みなんてないよ。だから、何も気負う必要なんてないさ」こちらに巾着を押し付けた。

 

ナズーリンは笑っていた。笑っていたけど――何だか、その笑いは何か違う色を帯びていた気がする。「――本当に、そうなの?」ナズーリンがこちらを見た。もう、笑っていない。「何か隠してるでしょ、あんた」私の瞳は目ざといのだ。正気を覗き込む事も容易い。「……そうだね」

 

「本当は、一度助けられた事があるのさ。迂闊にもダウジングロッドを落としてしまって、竹林に入った。それがいけなかった。飛べども飛べども同じ所を回っている。飛んで逃げても、竹藪は私を捕まえるように、空へは届かない。……はは、私には運がないと言っただろう?」

 

そう、竹林はすべてを飲み込む。その人はいなくなる。皆、皆、白い骨。だからいないのだ。その人は。どんな人間も、妖怪も、道を知らなければ、二度と出る事はできない。それが竹林の結界であり、或いは竹林そのものの意志なのだ。本当の所は、私達のような兎にもわからない。

 

それを承知で、人間は竹林に入る。幸運を求めて、だ。如何にも向こう見ずで、愚か。しかしてそんな者の前に、てゐは姿を現すのだ。人間は幸運を求める。てゐはそれに応えてきた。命を張るだけの理由があっただろう。願いがあっただろう。てゐはそれらを、幾度も看取ったそうだ。

 

「そんな時、彼女に出会った。私が妖怪な事に若干不満げだったけど、まあいいわ、と幸運を授けてくれた。走り去る彼女の背を追いかけると――いつの間にか、竹藪を抜けていた。ロッドも途中で見つけた。不幸な誰かの亡骸を飛び越えて進んだ。その時は、とにかくツイていた」

 

ナズーリンは頭を振った。「恩を着せるわけじゃない。恩を返したかったのさ。果たしてそれで足りるかどうかは、わからないけどね」窓際に歩き、外を見た。「幸運と不幸、か。誰かの幸運が、誰かの不幸になるとは限らない。幸運はもっと、あまねく人々に広まるべきだ」

 

「最大幸福論なんて言葉があるけど、それは不幸を足蹴にしている――とは、言わないけどね。それに、幸運は追い求めたものにこそ訪れる――なんてのはあり得ないことさ。成功体験を、幸運と呼んでいるに過ぎない。私達はそう、幸運と呼ぶ事もできない弱者にも、それを与えたい」

 

「――随分、偉そうな事を言うのね」「偉ぶっていると思われるのは、まあ、その通りだろう。人の身の分際で、人を救おうなんて、それこそ傲慢さ。しかし、それでも構わないと尼君は言った」指を回す。「本当の慈悲とは、一切の見返りを求めない。しかしてそれは、とても難しい」

 

「袈裟を与えたなら、それを問うてはならない。己が修行の為に――なんてのは、尼君の思う所ではない。だからこそ、ある所から金を取る。ない者には与える。ウチの寺は良くも悪くも、世俗に染まっているのさ」ナズーリンは首を振った。「財を扱うんだ。そりゃ、そうもなるか」

 

「永遠亭も、似たような事はやっているだろう?」「――薬の事?」「見方によっては、それも幸運を招くものだ」「まあ、わからなくもないわ。薬で助かった、って言ってくれるのは、やっぱり嬉しいもの」「そうさ。薬を売った君も幸運になった、だろ?」確かに、一理あるかもね。

 

「――おや、あれは?」ナズーリンが窓から身体を乗り出した。「はは、幸運はこんな近くに転がっていたんだ」ロッドで挟み取られたそれは、確かに四葉のクローバーだった。それは御守りの巾着の中に入った。一瞬、それが光ったように見えた。「これを枕元にでも置いておいてよ」

 

私はそれを受け取って、てゐの頭の上に置いてやった。……御守りなんてのは、気休めだ。どれだけ謂れのあるもので、実際好転したとしても、御守りのおかげか、単なる幸運か、判別する手段はないだろう。それでも、やらないよりは良いのだ。その時だけは、幸運を信じられる。

 

例えそれが、己、或いは周囲に言い聞かせるだけのものであっても。御守りが救いになるなら、それでいいじゃないか。妖怪の私だって何かに祈るのだ。手を尽くせば、後は神頼み。神に願いが届いた、神が私を見放した。前者が増えますように。ナズーリンの言葉はそういう意味だろう。

 

「じゃあ、私は帰るよ」「帰り道に悩まないようにね」「大丈夫さ。案内人に道は聞いてある」――妹紅か。そう考えると、てゐと似たような事をしているわね。或いは導いたという事実を、自分自身の幸運にしたいんだろうか。……ま、あまり突っ込む所でもないわね。その背を見送る。

 

―――

 

  ―――

 

病室の戸が叩かれた。空いてますよ、と促して――そこには、赤ずきんを被ったワーウルフがいた。素性は、匂いでわかる。「齧りに来たのなら、狂わせるわよ」ワーウルフ――影狼はぶんぶんと首を振った。「以前、てゐさんにお世話になりまして――」物腰が低い。いつもこうなのか。

 

影狼は、持っていた箱をこちらに差し出してきた。「つまらないものですが」「ああ、これはどうも」とりあえず受け取り、てゐの傍の机に置いた。「お世話って、何をされたの?」「あの、草の根の会合がありまして――一人、入ってもらえたんです。てゐさんの提案のおかげで」

 

てゐが何をしたかは知らないけど、そりゃ良かったわね。「ありのままって大事ですね」「まあ、そうね」ワーウルフなんてのは特に、ありのままをさらけ出す訳にはいけないタイプの妖怪だと思うけどね。「人間ともこのくらい、お付き合いできればいいんですけど」――人間と?

 

「人間とって、そういう趣味なの?」「そういう――いえ、多分違うと思います。単純に、お友達になれればなって」あまり妖怪らしからぬ事を言うわね。「仲良くしたいって、またどうして」「私、ワーウルフですけど――怖くないよ、可愛いよ、って思ってもらいたいんです」

 

いや、自分で可愛いとかいう根性は見習いたいけどね。「人間なんてつまらないわよ」「そんな事ありません!」影狼が噛みついてきた。「狼が赤ずきんを食べなければ、猟師さんとだって仲良くできたはず」「――あなた、泣いた赤鬼ってご存じ?」「知ってます」尻尾がバタバタした。

 

「生まれで、種族で、住む世界が決まるなんて、そんなの悲しすぎます」影狼は頭を振った。「私はもっと自分の世界を広げたい。自分自身が納得するまで続けたい。私が――折れてしまうまで」「多分、それは茨の道よ」「想像はできます」再び、尻尾がバタバタした。

 

「だから、てゐさんを見習いたい」「……そういう話で、こいつに見習う所なんてある?」「幸運をあげられます」影狼は何かを差し出すようなポーズを取った。「鬼だって贈り物を用意しました」不発に終わってなかったっけ?「切っ掛けはなんでもいいんです。例え即物的でも」

 

影狼は何かを差し出した。紐のついた――「犬のマスコット?」「狼です」「そんなに違わないし……」「違います!」影狼は大袈裟に主張した。「これを配ろうと思うんです。鍵を、道具を、衣服を、持ち出した時にいつでも思い出してもらえるように」確かに、目にはつくだろうけど。

 

「材料は私の抜け毛です」「……まあ、多分そうだろうとは思ったけど」「鶴が機織りに己を使ったのですから、ワーウルフがそれをしてはいけないという道理はないはず」いや、それはやっぱりモノと場合による訳で……「あなたとてゐさんにも差し上げます」はあ、それはどうも。

 

匂いは――あんまりしない。しっかり洗えば大丈夫なのか、案外身体から匂うのか。「試作品をてゐさんにも見せたかったのですが――眠っていますね」「今は叩き起こしたくはないわね」私は一つをベッドに括りつけてやった。「起きたら、喜んでくれるわよ。多分ね」

 

影狼はにっこりと笑った。「友達の友達の、それまた友達まで輪が広がればいい。草の根の理念はともかく、私はそう思っています」影狼は天井を見上げた。「けれど、それを望まない子もいる。それはそれでいいんです。強制するつもりはありません」「結果的に強制する事になったら?」

 

「その時は――私は、草の根を離れます」「随分と思い切るのね」「お付き合いとは、組み紐のようなものだと思います」尻尾がばたついた。「離れ合っても、二度と会えない訳じゃありません。縁と縁を、私が繋ぎ、会わせる事ができるかもしれない」「それ、自信はある?」

 

「あります」影狼は噛み付いた。「結果的に誰かの為になったとしても――それは、私の為にやるんです。未だ知らぬ誰かに、私を知って欲しい。友達になって欲しい。私が折れてしまわない限り、それは続く」「折れたら、どうするの?」「――きっとまた、竹林に一人で暮らします」

 

「今は、止まりません」ぬるい表情からは信じられないほど、毅然とした宣言。「先の事なんて、考えても仕方ないと言えば、そうね」「そうです」影狼は笑った。雰囲気が、がらりと変わった。それは――肉食獣の笑みだ。「……あなたにとって、その誰かさん達は、獲物なの?」

 

影狼は少し考えた後、首を縦に振った。「そうかもしれません」笑みが元に戻った。いつもの腑抜けた顔だ。「けれど、獲物と仲良くする狼がいても良いじゃないですか」以前食べそうになった友達もいますし、と影狼は呟いた。「相手はひやひやものかもね」「狼女は噛みつきます」

 

影狼は指を口に入れ、甘噛みした。「けれどもそれは、誰かを守り、喜ばせる為でありたい」「勇ましいじゃない」「私なんて弱くて、泣き虫ですけどね」誰かの為に戦うのに必要なのは、勇気――とは、誰の言葉だったか。勇気があれば、きっと守れる。少しばかり、できすぎた話だ。

 

彼女は勇気を持った。それは実際、思い切ったに違いない。それを匹夫の勇と呼ぶものもいるだろう。しかし、それでいいのだ。すべての人間と仲良く――なんて、端から不可能なのは、彼女とて承知なはずだ。だが、身内だけを囲っていればいいというのも、やはり違うように思える。

 

彼女の起こすそれがさざ波程度であっても、世界はそれに応えるはずだ。一瞬のさざめきであっても、行動は何かしらの結果を残す。世界が覚えている――とまでは、言わない。世界から俯瞰すれば、どんな行為も即物的なものだ。彼女はそれを知らず――そして、知っている。

 

「――てゐさんに、よろしく伝えてくださいね」影狼は立ち上がった。「あなたは私と、お友達でいてくれますか?」私は――そうね。どんな顔をしただろう。決してそれは、がっかりさせたとは思わないけど。「ええ」尻尾が揺れた。「ありがとう」立ち去る背中を、私は見届けた。

 

―――

 

  ―――

 

病室の戸が叩かれた。空いてますよ、と促して――そこには、歪んだ鎌を持った、実際見知った女がいた。「ドーモ、死神です」私は咄嗟に扉を閉め、鍵をかけた。「おおい、開けておくれよぉ?」開けろと言われて開ける奴はいない。「お引き取りください!」私は全力で扉を押さえる。

 

「そう言わないでさぁ。何もしないよ。本当に」嘘だ。てゐが弱っているからって殺しに来たんだ。わかってるわ。「弱ったね。お宅の上司にも許可を貰ったのに」「……許可?」師匠がこんな奴に許可を――出すはずがないと思うけど、わからない。私に丸投げした後だし。

 

私は一瞬、油断した。その瞬間、扉は外側から無理矢理にこじ開けられてしまった。鍵が壊れる音がする。「さあ、死にたい奴はどいつだい?」私は手首を振り、現れた銃を突き付けた。「てゐに手を出したら、躊躇いなく撃つわよ」「冗談さ、冗談」私の監視の元、死神は椅子に座った。

 

「死にたがりさんの顔を見に来たんだ」死神――小町は鎌から手を放し、腕を組んだ。「――ああ、こりゃ死なないな。死神も寄りつかないだろうさ」私は三途の渡しが本業だからね、と小町は笑った。私は銃を突き付けたままだ。「なに、殺す気なら、あんたからやってるよ」

 

「あんたの上司から許可を取ったってのは、本当さ。顔を見てきてくれって」小町はてゐの顔を覗き込んだ。「まあ、これならあたいから何も言う事はない。……どうしたのさ、そんな顔して」師匠も一応は、てゐの事を心配していたのね。銃を下ろす。やにわにてゐが、うぅん、と鳴いた。

 

「――しかしまあ、絶対に死なない奴が二人もいる所なんて、死神にとっては居心地が悪いね」小町は欠伸をした。「別にそういう奴がいるのをどうこう言う気はないけどさ。あたいは」「ふうん。あんた以外にとっては、都合が良くないと」それでも見に来たのは、義理か、御慈悲か。

 

「まあね。そんな奴の所に行ってたって言ったら、嫌味を言われそうだ」小町は懐から取り出した飴を舐め始めた。「いるかい?」「いいわ」小町は脚に肘を当て、顎を支えた。「案外、死にたがりほど死なないもんだ。死ぬ気のない奴が、先に死ぬ事もある」椅子に背を預け、天を見る。

 

「こいつが反証。こういう奴には寿命って概念すらないもんだ。いつまでも生きるつもりだろうな」寿命。それはあまり考えたくない。「お迎えが来ないって事は――こいつはまだまだ、生き続けるって事だ。余命が永遠に先延ばしされる。そんな感じだな」外で、セミが鳴いている。

 

「あんたは寿命を知りたいと思うかい?」「――どうかしら」知りたい気もする。知るのが怖い気もする。少なくとも、今の所は死なないと思っている。そう思っているのは、私だけかもしれない。「死神の目の代償は寿命の半分だ。……なんてな。まあ、欲しがる奴はほとんどいないさ」

 

「寿命は何の為にあると思う? 科学的とか、地獄行きとかそういうの抜きでだ」私は首を振った。「寿命は、死ぬためにある。タイムリミットだ」小町が指で×印を作る。「死にたくないのは、未練があるから。未練がなければ、どうだ? それはきっと、死を認識すらしないだろう」

 

「生きて死ぬまで、何を成したか。何を成したかったか。そして、何を遺して死ぬのか。タイムリミットがなければ、命は増える必要がない。考える必要もない。足掻く事すらしないだろう。いつか、何の感慨もなく消えてしまう。そんなものは死ですらない」小町は首を振った。

 

「一番最初に≪生きる≫事を決めたのは誰だったか、あたいには心当たりはないが、それに何の意図があったのか、考えるのは悪くない。考える事は生きている事だ。お前さんだって、立派な歩く葦だろう?」「――そう、かもね」考えるから、生きている。何処かで聞いたかもしれない。

 

「人生はあまりに短い。昼寝なんてしていたら、勿体ないくらいに」小町は苦笑した。「お前さんは、寿命までに何を成したい?」「私は――薬師になりたい」「いいね」……夢を肯定されるのなんて、ひょっとすると初めてじゃないか?「考える葦はさて、どちらを向いて歩いていくか」

 

小町はてゐの方を向き、目を細めた。「こいつの生き様も、或いは≪生きる≫事そのものなのかもな。悪戯が命を繋ぎとめる――と、までは言わないが。何かの拍子に、死に囚われそうな危うさを感じる」「何かの拍子って?」「そうだな、例えば――身近な人を、亡くしたとか、かな」

 

私は妹紅の言葉を思い出していた。共依存。もし、私がいなくなれば、どうなるだろう。……いくらなんでも、傲慢が過ぎる。後を追う――なんて、てゐはそんなやわじゃない。「多分、それはないと思うわよ」私は目前で手を振った。「そうかい?」小町は飴を取り出した。

 

「あんたもそんな風に見えるよ」「私も?」「悪い悪い。聞きたくないんだったな。忘れておくれ」――私も、か。てゐがいなくなったら、私はどうするだろう。……生きるのに、張り合いがなくなってしまうかもしれない。そうなったら、私には未練がなくなってしまうのだろうか。

 

「生に執着するように、死にも心を向けなきゃならない。けれど、向け過ぎれば――それこそ、生きる目的をなくしてしまうかもしれない。死を想え。しかして取り込まれるな。良い死に方をしたいなら、よくよく心がける事だね」説教臭いな、と小町は呟いた。飴が口の中に転がる。

 

「――生きてるって、楽しいかい?」「……何よ、藪から棒に」「いやね、知り合いに聞いてみようと思ってるんだ。嫌味に思ったなら、許しておくれ」「楽しいわ。それでいい?」「ああ、十分さ。たまに、それ以外の言葉が返ってくると、面食らうからね」「どんな言葉?」

 

「例えば――好きで生きてる訳じゃない、とか」小町は頭を掻いた。「そういう事を言われると、命を粗末にするんじゃない――なんて、説教したくなるけどね。そいつは文字通り、好きで生きてる訳じゃない。いや、好きに生きる事が出来ないとでも言うか」「もしかして、それって」

 

「あんたが考えている通りだと思うよ。そういう形をした命もある。……人身御供が、考えもすれば喋りもする人間だって、わかってない訳でもないだろうに」肩をすくめる。「大を生かす為には仕方ないなんて言ってもさ、可哀相だろう。死神が言う事でもないかもしれないが」

 

「視野が狭いって言われれば、その通りさ。けどさ、あたいはそういうのは、嫌いだな」「私も――それが大切な人だったら、なんとしてでも助けようとしたかもしれない」「そういうのが隣人愛って奴だろうさ。あんたがてゐを助けたように」私はてゐを見た。そして小町を見た。

 

「隣人を愛せよ。世の中の全員がそうできれば、いいんだろうけどね」「そうね」てゐを助けたように、誰かを助けられるだろうか。てゐを見捨てなかったように、誰かを必死に繋ぎとめようとするだろうか。それは簡単ではないだろう。しかし薬師は、それを出来なければならない。

 

「――さて、あたいはそろそろ行くよ」「そう、気を付けて」「気を付けるべきは上司だけどね」小町はワハハ、と笑った。「そうだ、これを置いていくよ」小町は懐から飴を――ちょっと待ちなさい、どんだけ入ってるのよ?「カンロは嫌いかもしれないけど、これしかないからね」

 

大きい皿一杯に飴の山を作り、小町は立ち去っていった。……待てよ? あいつ、壊した鍵の事は何も言ってないじゃないの。私は廊下に飛び出したけど、そこにはもう、小町の姿はなかった。まるで逃げ出したみたいに。……これ、絶対後で師匠に怒られるわよね。とほほ……。

 

―――

 

  ―――

 

「――お客は帰ったかい、鈴仙ちゃん」「起きてたの?」「いや、今目が覚めたとこさ」てゐは手を組み、上に伸ばした。「身体が硬くなっちゃうわ」「何処か動かす?」「いや」てゐは脚を張り、上に伸ばした。「さて、私も行くとしましょうか」「行く?」「ちょっくら遊びに、ね」

 

「よっ、と」てゐはベッドから飛び降りた。「ちょ、あなた、まだ安静に――」「大丈夫。ひっついたよ」てゐは肩を鳴らしながら、首をグルグルと回してみせた。目を丸くする私の顔を見て、てゐはニヤリと笑り、手招いた。「最初からわかってたさ。ああ、これ折れてるなって」

 

「鈴仙ちゃんが心配してくれるのが嬉しくてねぇ」歩み寄ったてゐが、わたしの鼻をつついた。「悪戯――かな。どうだろうね。とにかく、嬉しかったのさ」私はびっくりした。安堵してもいた。しかし、次に口から出たのは――「こんの、悪戯兎!!」私は捕まえようとした。

 

それをてゐはするりと抜けた。背を向け逃げ出そうと――する前に。「そんじゃ、退院させてもらうよ」てゐはステップを踏みながらこちらを向いた。「言い忘れたけど――ありがとう。助かった」「えっ? ま、まあね」私が視線を逸らしている間に、てゐはいなくなっていた。

 

病室に一人取り残された私は、少しばかり頭を抱えて――そうね。安堵していた。死なれたら沽券に関わるから? 師匠に叱られるから? それとも、姫様を悲しませるから? ……どれも、多分違うんだと思う。てゐに死んでほしくなかった。多分、そう。世界はシンプルに出来ている。

 

床を掃除し始めた。あんのすっとこどっこいども。修正してやろうと思いはするが、叱ってもどうせ聞きやしない。……ふと、辺りを見回す。机の上に、竹炭と飴、お菓子の箱。ベッドには御守り、それから犬――じゃない、狼のマスコットが吊るされていた。今日は色々な人が来たな。

 

たまになら、騒がしいのもいい。今日みたいな心配は、もう二度としたくないけどね。掃除道具を片付けながら、ほっと息を吐く。もう夕方だ。山の向こうに、鳥が飛んでいく。ベッドを整えながら、今度は今日より上手くやろう、と思った。だって私は、薬師見習いなんだもの。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「鈴仙ちゃん、また首が折れた。治して」「ウワーッ!?」

 



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本物の心霊写真

―本物の心霊写真―

 

文が死んだ。

 

私が殺した訳じゃない。幻想郷最速だの嘯いていたら、大天狗居所の石垣にぶつかって、それで死んだ。如何にも前方不注意だ。現場は――見せられないよ、という奴だ。あまり描写もしたくない。周囲に流れる、死の匂い。耐性のある連中で片付けたが、私だって気分が良くはない。

 

数日が経った。今日も歩哨だ。私を一通りバカにした後、死に向かい、思い切り羽ばたいたあいつの顔を思い出す。あのバカは、死の瞬間までそれに気付いてはいなかっただろう。最速ではあったが、才智はなかったという事だ。感慨はない。だが、弔う心くらいは、持っても良いだろう。

 

――まあ、それもこれも無駄な感傷だった訳だが。墓を用意する時間もなかったんじゃないか。「成仏してくれ」私の目前には、あいつが浮かんでいた。その姿は半透明だ。如何にも幽霊然としている。『はっはっは。わたくしめがひとつ、憑り付いてやりましょう』こいつときたら。

 

「斬るぞ」『よろしくどうぞ』私は剣を抜き、思い切り振るった。……まあ、通り抜けるよな。わかってはいた。『あちこち回っては見たのですが――どうやらわたくし、あなたにしか見えていないようです。千里眼の功名という奴でしょうな』扇で仰いでいる。意味あるのか、それは。

 

『こうなった理由には想像がつきます。あの時、確かにわたくしは死んだのです』私は興味もなく、話を聞き流していた。『……ただし、肉体だけですがね。どうやら≪肉体が魂を追い抜いて≫しまったようですねぇ。流石はわたくし』そんなエキサイティングな幽体離脱があってたまるか。

 

『わたくしめのボディが爆発四散した瞬間は、まあばっちり見えておりましたとも。二度とは御免ですがね』文は頭を振った。案外余裕じゃないか。そのまま幽霊として暮らしたらどうだ?「――と、いう訳で、わたくしはあなたに助けを求めているのです。やってくれますね?」

 

「お断りだ」『邪険になさる』「逆に、何で私が首を縦に振ると思ったんだ」『それしか手段がない――とは、事実ではありますが。少なくとも、話を聞いて頂けると思いまして』頭痛がする。こうなったら聞かないだろう。「除霊師の所にでも連れていくか」『おお、こわいこわい』

 

「――それはともかく、どうするんだ。お前」『いかがいたしましょうな。……まあ正直、ノープランではあるのですが』何のプランもなしに助けを求められても、どうしろって言うんだ。『まあ、ないなら今から考えればいいのです』「悠長だな」『せっかちは嫌われますよ?』

 

『まあ、大目的としては、もちろん肉体を取り戻したい。しかして――小目標としては、そうですね。今まで出来なかった事をやろうかと』「プライバシーを侵害してやろう、なんて話なら今後、二度と協力しないぞ」「おや、協力する気はありなさる?」「一生つきまとわれたら敵わん」

 

『とりあえず、私の部屋に行きましょう。鍵は正面から見て右下のプランターの下にあります』「古風な事をするな」『こういう時に備えているのですよ、椛』文はニヤリと笑った。幽霊になってもこいつの本質は何も変わらないようだ。お前が耳元に乗っかったようなものか。やれやれ。

 

―――

 

  ―――

 

鍵を取り、扉を開けた。部屋の中は如何にも雑然としている。デスクの傍を埋め尽くすように詰まれた書籍。メモ書き。そして書きかけの草案。玄関開けたら二秒でこのざまである。「もう少し綺麗にしたらどうだ」『あなたの部屋も大して変わらないでしょうに』「あれは狭いからだ」

 

私達は適当に喧嘩しながら、奥の部屋へと進む。シャワー付き浴室、脱衣所、そして台所だ。特に何かがある訳でもないが――『シンクの引き出しの上にデスクの鍵が貼ってあります』手を差し込むと、なるほどあった。「何でこんな事してるんだ」『私に何かあった時、困りますからね』

 

「三段目の棚を開けなさい」「――これは?」古びた写真だった。十数人の白狼、はたてさん、そして文が写っている。確か、何かの催しの余興で撮られた写真だった。無理矢理――いや、この頃は、それなりに仲が良かったか。私が笑っていた。こんな頃もあったな。私は目を伏せた。

 

「それもまあ、重要ではあるやもしれませんが――その下です。フィルムがあるでしょう」「これか?」「そうです。それを持って、暗室――いや、あっちの部屋に入りなさい。そこに暗いスペースがある」私は素直に従った。何をさせたいのか、何となくわかったからだ。

 

そこには確かに、暗い帳と何やら作業台が置かれていた。『必要なものは用意したままです』独特の匂いだ。私はよくわからない器具の前に立った。『そこにネガを入れなさい』文の指が、それを弾いた。『あなたならできるはずです』そうだろうか。私は、剣しか握った事がない。

 

ネガ?――をセットし、暗闇の中で手を動かす。私に光は必要ない。如何にも精密な作業だ。手つきがついていけるかどうか。『あなたは筋が良い』文の手が、私の手に重なった。『なんら難しい事ではありません』「十分、難しいぞ」『慣れですよ。慣れ』文の手が、私の頬を撫でた。

 

ほとんど文の指示に従っただけだが――それなりに上手くいったらしい。しばらくして、それは出来上がった。「――こんな写真があったか?」『あったのですよ。ついぞ、印刷はしませんでしたが』私の手の中には――剣に振り回される幼い頃の私と、文とが写った写真があった。

 

『あなたの事は何でも知っているつもりでしたが。まあ、我が手を離れてしまえばそうもいかず』文は肩をすくめた。『きっと覚えていないでしょう。しかして、あなたを育てたのは私と言っても過言ではない』私は写真をじっと見つめた。記憶はない。ただ写真だけが、それを物語る。

 

『あなたは永遠に反抗期なのでしょうね』私の肩に、文は顎を乗せ、こちらを向いた。『そうさせたのは――まあ、わたくしのせいではあるのでしょうが』「私が記憶している昔から、お前はからかってきたな」『ええ。そうしたかったのです。私は――そう。寂しかったからですかね』

 

『あなたの手綱を取り戻したかった。鎖で繋ぎとめていたかった。結果的にそれがマイナスイメージになろうとも。……まあ、自分勝手ではありますな』私は、文の顔を見た。「繋ぎ留められたか?」『――いいえ。出来ませんでした』頭を掻く文の顔は、どうにも曇っていた。

 

『あなたが手を離れてから、私の心には大穴が開いてしまったのですよ。子を手放した母はこんな気分なのだろうか、とも思いましたが――否。わたくしはあなたと、或いは子離れできなかったのかもしれない。子を望んだ訳ではありませんが、あなたが歳を重ねる様が、ただ怖かった』

 

『わたくしの方が遥かに年上なのに、置いて行かれる感じがしたのです。あなたに』「お前を置いていったつもりはない」文は首を振った。『あなた自身はそうでしょう。きっと――子を持てば、わかるのです。そして同じように、愛する者は穴を開けていく』霊体の顔から、涙が落ちた。

 

『少々、しめっぽくなりましたね』文は、涙を振り払った。『――次に行きましょう。さっきの棚から、写真ケースを出しなさい』「ああ」私は扉を閉めた。先程の棚を漁ると、ベルト付きのケースに何枚かの写真が保存されていた。これらを辿るつもりだろうか。文はこちらを見ていない。

 

『――それと、そうですね。机の中に木簡があります。それも』文が振り向くまでには、かなりの時間が必要だった。「これか?」『腰にでも下げておきなさい。なくさないように』何が書いてあるか、私には読めない。私はそれを下げた。文はもう一度、ここに戻れるだろうか。

 

―――

 

  ―――

 

大天狗の御所は、私のような者には近づく事さえ憚られる場所だ。上位の天狗が幾重にも守るその地に、大天狗は君臨する。私は着陸し、石段を上った。この時点で、薙ぎ払われても文句は言えないだろう。踏みしめる階段すら、私を拒んでいるように思える。……さあ、門が見えてきた。

 

当然ながら、御付きに止められる。『木簡を出しなさい』槍を突き付けられたまま、私はそうした。ざわり、と波が走ったように思う。御付きが槍を引いた。促されるまま、私は御所に入っていく。不思議な気分だ。こんな所、私なぞ一生縁のない場所。私の存在は、如何にも場違いだ。

 

幾度も部屋を抜けた先に、大天狗――飯綱丸様が仰せになった。「お目通りが叶い、大変恐縮で――」「あー。堅苦しいのはいい。楽にやってくれ」正直、ありがたい。『あなたには向かないでしょうね』(お前にも向かないだろ)私は御前へ静かに進み、促されるままにそっと、座った。

 

「お前が、文の飼い犬か?」「僭越ながら、飼われているつもりはございません」「おお、そうか。すまんすまん」文はげらげらと笑っている。笑うな。動物病院に連れて行くぞ。『飯綱丸も中々面白い事を言うようになったじゃないですか』(お前よりは面白いかもしれないな)

 

「それで、用事は何かな?」『さっき言った通りになさい』私はケースから写真――いや、絵だ。絵を取り出した。「これを」御付きにそれを渡す。改められたそれは飯綱丸様の所に届けられ――その顔が、苦笑いに変わった。「あいつも趣味が悪いな」(おい、本当にこれでいいのか)

 

『勿論です。あいつを困らせる為にそれをやったのですよ』その絵は、小さい頃――そう、文と飯綱丸様が小さな頃の肖像画。古びてはいるが、しっかりとしたものだ。「文が自分の死後、渡すようにと」「まあ、確かに――送る言葉としては、悪くない」飯綱丸様は指でそれを掻いた。

 

「昔の話だが、聞きたいか?――聞きたいだろう?――是非、聞いてくれ」飯綱丸様は如何にも聞かせたがっているようだ。私は頷いた。「あいつにはとかく、迷惑を掛けられたよ。あいつは悪巧みのプロだった。喧嘩をすれば負けばかり。菓子を取られ、悪戯の責任を私だけ取らされた」

 

「だが、悪い思い出ばかりでもない。私が迷子になった時、いの一番に見つけてくれたのはあいつだったし、賊に攫われそうになった時に一緒に立ち向かってくれたのもあいつだ。あいつは小さい頃から強かったよ。私なんかよりも。今も――いや、今までも、そうだったかもしれんな」

 

それから私達は、袂を分かった。私は上を目指した。あいつは自由に生きた。それは今でも変わらない。変わらないはずだったんだが――お前が先に逝くなんて、思いもしなかった。助力を求めた事もあった。その時はまあ、散々に嫌味を言われたよ。それでもあいつは、断らなかった。

 

「あいつの事は――ああ。好いていた。今更だから言ってしまうが――本当はもっと、先を見据えた付き合いをしたかったな。もはや叶わぬ話だが」飯綱丸様は後頭部を抱え込んだ。「どうして死んでしまったんだよ。私を困らせたいなら、もっと別な方法があるだろ、バカめ……」

 

飯綱丸様は悲しみを唱え――いや、むせび泣いていた。私は文の方を見た。……若干、困ったような顔をしていたように見えた。(これで満足か、お前)『いえ、これは――そういうつもりはなかったのですが』(悪戯にしてはタチが悪かったな)『……』飯綱丸様は泣き続けている。

 

飯綱丸様はひとしきり泣くと、御付きに肖像画を渡した。それは私の元に戻った。「持って帰って、墓前にでも供えてくれ。私には――必要ないよ」私は静かに頷き、立ち上がった。「何ももてなせずに、すまんな」「――いえ。それでは、失礼いたします」御付きに連れられ、退室する。

 

文は何度も振り向いた。私は進んだ。あやや、と戻った文の顔は、如何にも困惑していた。『椛、もう少しここに……』(悲しんでほしかったんだろ。これ以上何を望む)『それは――』(それもこれも、お前が死んでしまったから招いた事だ。生き返る気があるなら、そうしろ)

 

私は文を置いていった。ついてこないなら、いい。あいつの事は一生無視するだけだ。私が御所を出て、敷地内から飛び立った頃――文は戻ってきた。『泣き顔を散々見てきてやりましたよ』(それで――お前も泣いてる訳か)『わたくし、感受性が豊かなものでして』まあ、そうかもな。

 

―――

 

  ―――

 

私は目的地へ向けて飛んだ。その後ろをゆっくりと文がついてくる。珍しい事だ。こいつはいつも物凄い勢いで私を置いていく。疾くは飛べなくなったのだろうか。それとも、自分の死に様を反省したのか。それとも、私の前に飛び出すのが――或いは、怖くなったのか。

 

『あなたは子供の頃を、何も覚えていなかった。私は、覚えていました。……それは単に、私が年長者だったからでしょうね』文は首を振った。『いずれ私が、あなたを認識できなくなる日が来るかもしれない。その時はあなたが、あなただけは私を覚えて――くれるでしょうか?』

 

「どうだろうな」頭を掻いた。「私が生きている限りは、忘れないと思うが」『わたくしも、そうありたいものです。……実の所、私自身もあなたの記憶は曖昧なのです。遊んだ事は覚えている。剣を教えてやったのも。傷付いた時も。苦楽。しかしそれを、鮮明には思い出せない』

 

『だからこそ、写真に興味を持った』霊体の後ろからカメラが取り出された。『写真は忘れない。写真は真を写す。写真の中で――私やあなたは、生き続ける』写すフリをした。やはりそれは、機能しなかったが。『年少者にとって、年長者はどのように映るのでしょう』「どうかな」

 

『――年長者というものは、年の功を得た代わりに、何もかもを失っていくものなのかもしれない。世代交代という奴ですよ。わたくしめはもう、頑迷なロートルでしょうね。恐らく』「……お前はまだ、若いだろう?」『若いつもりではいます。しかし、千年も生きれば達観もします』

 

『私はもう、誰にも必要とされていないのではないか。そう思ってしまうのですよ、椛』「――怖いのか?」『はい。わたくしは生きています。しかして、生きる意義を失えば、どうなるか』「いくらでもあるだろう。捏造新聞を刷ったり、不良天狗として暗躍したり――」「ええ」

 

『それもまた、生きる意味です。しかして意義は?』文は首を振った。『周囲の目を、これほど気にし始めたのは、いつからでしょうね。良くも悪くもない、値踏みすらされないような、無為の視線』「耳目を集めたいのだとばかり思っていたが」『最初は、そうだったはずです』

 

『わたくしめは必要とされているのでしょうか。それを誰が肯定してくれるのでしょうか』幾度目か、首を振った文に、私は撫でる頬で応えた。「少なくとも――こういうのは癪だが、お前を必要としているよ。はたてさんだってそうだ。新聞を読む人だって、そうだろう?」

 

「弱くなったな、文」『ええ、弱くなりました』「私はもっと、強くありたいと思う」尻尾を振った。「それは若いからか?――お前がそうしないのは老いたからなのか?――私は違うと思う」文は少し、驚いていたようだった。「自分を信じられなくなったからだろう。違うか?」

 

文は――二度、頷いた。『そうですね。自分を――信じてやれなくなった』「それが心に開いた穴のせいだというのなら、埋められるものはないのか?」『――どうでしょう』「多分、穴が開かなくても――お前はいずれ、意義を失っていたんじゃないか。今のように、己を見失って」

 

「――配偶者を持つ、てのはどうだ」『めおとですか?』「お前の主義には、反するかもしれないが」『――不良天狗がめおとなんて、ガラじゃありませんよ』「ほら」私はニヤリ、と笑った。「意地を張れるじゃないか、文」『……?』「意地を張るのは、自分を信じると言う事だろ」

 

『そういうものでしょうか』「弱気になるなよ」尻尾を振る。「――もし、私がお前のイイ人になってやる、なんて言ったら、どうする?」『えっ』文は固まっていた。私は思い切りニヤニヤしてやった。『……冗談でしょう?』「冗談とも言えないな」慇懃無礼にお辞儀をしてやった。

 

文は真っ赤に――幽霊が真っ赤になるなんてのもおかしいが――なっていた。『えっ、いやその、今はわたくし死んでおる身でありまして』「生き返る予定はあるんだろ」『え、いやいや、予定は未定と言いますし……』「何だ、意外と押しには弱いんだな」私から、肩をすくめてやった。

 

「身分違いが嫌なら、そこらの天狗だってよりどりみどりだろ」大仰に手を広げてみせる。「何なら、はたてさんだって。絶対断らないと思うぞ」『はたてと?――いや、そうではなく』文はわちゃわちゃしている。『な、何でけっ、結婚を前提とした話になっておられる?』

 

「――ほら。こうやってバカやっている時は、少なくとも意義はあるんだ」『意義……』文の目が泳いだ。「対等な友達は、要らないのか?」『そういうのは、不良天狗のわたくしめには――』「飛ぶのが疾けりゃ、諦めも速いな」『むむ……』「少なくとも、私とはたてさんは友達だよ」

 

―――

 

  ―――

 

それから私達は、方々の知人を訊ね――いや、嫌がらせしに行ったと言うべきか。文の写真を渡すと、笑う者、泣く者、困惑する者、さもありなんと頷く者、愕然とする者、或いは怒り狂うもの。反応は様々だった。総じて、歓迎はされていない。いないが――死人を貶す者は、いなかった。

 

『さっきの見ましたか!――あの顔が見たかったのです、わたくし!』「如何にも悪趣味だな」生き返ったら袋叩きに遭うんじゃないか。思いはするが、当人もそのくらいは承知だろう。その際、己に対する反応を知りたかったのか。幽霊の考える事は、私には理解しかねる。「おい」

 

『何です?』「写真がなくなりそうだ。後は――」私はそれを確認して、ぴくりと震えた。『最後は、そうですね。はたての所です』私はつい、熱くなりそうになった。はたてさんに狼藉を働くなら、見捨てるぞ。お前。『悪いようにはしませんよ』「……本当だろうな」『無論です』

 

先に飛び立つ幽霊を追って、私は考えていた。これは文の終活なのではないか。困らせてやろうなんてのは建前で、自分と現世の繋がりを清算したかったのでは。もしそうなら――こいつは、生き返れるなんて考えていないのか?――私は頭を振った。図々しいお前に限って、それはない。

 

―――

 

  ―――

 

姫海棠家は温和――というより、極めてお人よしとして有名だ。実際、私のようなものも平気で出入りできている。油断している訳でもないだろうが、御付きの態度も、大天狗の御所とは大違いだ。(変な事を吹き込ませる気なら、帰るぞ)『有意義な事ですよ。あなたにとってもね』

 

私は首を傾げたが、こいつの言う事をすべて真面目に取っていたら、日が暮れるのもわかっていた。(はたてさんは立ち直っていないと思う)『おかわいそうに』(塩撒くぞお前)全部が全部、お前が招いた結果だろうが。思いはするが、口にはしない。いくら言っても、無駄だからだ。

 

はたてさんの部屋に着いた。私が会釈すると、御付きは手で入室を促した。顔を覚えられる程度には二人とも、通っている。「はたてさん」『はたてや』私の言葉は――届いてはいた。部屋の奥、壁に向かって座っているのは、確かにはたてさんだ。衣装は――喪服のままだ。

 

「椛」はたてさんは振り向いた。……真顔だ。悲しいほどに。今までずっとそうだったかのように。「来てくれてありがとう」その言葉には、様々な色が混じり合っていたように思う。「座って」私は座卓に座った。はたてさんも、前についた。歓迎されている風では、ないか。

 

(どうする。今の状態を話すか)『止めておきましょう』文は躊躇している。どうせ生き返るつもりなら、伝えても構わない気はするが――或いは、もはや二度と元には戻れないのだと、考えてしまっているのか。『さっき言った通りに振る舞いなさい』私は何とも、奇妙だと思った。

 

「もしも自分が死んだら、この写真を渡してくれと――文が」その写真は、文とはたてさんが写ったものだ。はたてさんはまだ、小さい。はたてさんはそれを受け取り、ひとしきり眺めると――畳の床に、涙が落ちた。泣かせてしまった。「ごめん。今はまだ、整理がつかなくて」

 

「わかります」私もつられて、少しばかり悲しげな気分になったかもしれない。最も、泣かせた張本人は私の横に浮かんでいる訳だが。『ほら、慰めてやりなさい』(何を言っているんだ、お前)『わたくしはもう、背中を押すしかできません故』(だから、何を言っているんだ?)

 

私が張本人とひそひそ話をしていると――はたてさんはスックと立ち、私の横に、座り直した。……これは、あれか?「ごめん」彼女の身体が、私に預けられる。「死んじゃってから言っても、仕方ないのはわかってる」文がびくり、と震えた。「私ね、文の事が好きだったんだ」

 

「ううん、好きなんてものじゃない。結婚するんだ――なんて、子供の頃からずっと思ってた」私の衣装に涙がこぼれた。「自分で物事を動かせるようになって――一番最初にしようと思ったのは、文にこの気持ちを伝える事。でもそれは、ずっと後回しになってた。怖かったんだ」

 

私の横で幽霊が身悶えしている。殴るぞ。無理か。「文もきっと、言い出せなかったのだと思います。はたてさんの事を話す文は、とても嬉しそうでしたから」私の言葉は、救いになっただろうか。それとも、涙を増やすだけだったか。「ごめん……もう少し、このままでいさせて」

 

背に腕を回して、頭を撫でた。こんな様子を他の烏天狗に見られたら、手打ちにされても文句は言えない気がするが――御付きの烏はあくびをしている。今は見逃してやる、という事か。「ごめんね、ごめん……」頭を撫で続ける。泣き止むまで、こうしよう。……そう思っていたのだが。

 

『何をやっておられる?』(何って、何だ?)『――ああもう、じれったい!』目の前で悪霊が手をワキワキしている。『未亡人――ではないですが、今が最高のチャンスではありませんか!』(チャンスって――お前、それはないだろ)『このままではわたくし、成仏できませんよ!』

 

(……成仏する気はあるのか?)『言葉のあやという奴です。いえ、そんな事はどうでも良いのです』(そんな事をしたら、私は確実に殺されると思うが)『姫海棠家に限ってそんな事はあり得ませんよ。保証します』(そもそも、命の保証以前に、それは恥ずべき事じゃないのか)

 

『いいから抱けえっ!! 抱け―っ!!』(黙れ気ぶり天狗)つい、声が大きくなったか。「――椛、誰かと話してる?」「い、いえ」『せめてお手付きになさい!』(そんな姿勢だから嫌われるんだぞ、お前)「文はきっと、空から見ていてくれますよ」見てるも何も目の前だけどな。

 

『わたくしはですね、はたてをこれ以上悲しませまいと――』(それで私をあてがうと?――至極自分勝手な話だ)『あなただって知らぬ中ではないでしょうに!』はたてさんの頭を撫で続ける。(そういう卑怯な手段は取らない)『まったく、この駄犬ときたら――』(破廉恥天狗め)

 

「?」はたてさんが頭を上げました。「何か、聞こえた気がする」横を見た。文が驚愕の表情を浮かべていた。『はたて、はたて!――聞こえているなら返事をなさい!』「――?」はたてさんは不思議そうな顔をしますが――「ごめん、なんでもない」聞こえてはいなかったらしい。

 

「いいですか?」「うん……。また今度ね」はたてさんを座らせ、私は立ち上がる。今も叫び続けている文を放置したまま、私は退室し、玄関へと向かった。やるだけ無駄だと思うが、やらせておこう。私が飛び立った頃――文はついてきた。焦燥している。無駄な抵抗だったようだ。

 

『はたてが私を好いているとは、正直予想外でしたね……』「そうか?――たぶん、傍から見れば良い仲だと思われているぞ」『それを言ったら、あなたもはたてと知らぬ仲とは思われておりませんよ』「そうなのか?」『……お互い、認識に齟齬があったようですな』「かもな」

 

「どちらにしても、はたてさんには時間が必要だろう。お前がポンと生き返らない限りは」『難しい問題ですな』文は腕組みしながら、何やら頷いている。『アテがないとは言えないのですが』(アテとは?)文は振り返り、そこを指し示した。『河童にですね、用立てて貰おうかと』

 

―――

 

  ―――

 

「ボディを作ってくれってぇ?」にとりはどうやらノリ気ではなさそうだった。「――で、その幽霊とやらは本当にいるのか?」『いますよ』「いるんだが――私にしか見えていない」にとりは鞄をざがざがと漁ると――何かを取り出す。「まことのメガネだ」にとりはそれを覗き込んだ。

 

「――あー、確かに後ろになんかいるね。プラズマの類でないなら、幽霊かもしれない。はっきりはしないな」にとりはメガネを下した。「疲れるからあんまり使いたくないの。肩こってしまう」『――肩叩きをしてでもそいつを借りなさい、椛!』「にとり、できればそれを貸して――」

 

「悪いがこれは一品モノだ。貸さない」にとりはメガネをしまった。「それに、見えたってどうするんだ?――何も伝えられないんじゃ、生きてる証明になんてならないぞ」確かに。私と文は顎に手を乗せた。「――それで、天狗のロボを作って欲しいと。意図はわかった」

 

「そんなら、いくらだす?」『はい?』(金だよ。いくらなら出せる?)『いや、いくらならと言っても――預金は本人しか下ろせませんし、きゃっしゅれす決済に頼りきりでしたから、家にもお金は――』「出せないらしい」「帰れ」けんもほろろに突き放される。そりゃあそうだ。

 

「その辺に落ちてる空き缶ロボならタダでやるけど」ゴミだからね、とにとりは笑う。『ええい、それで構いません』「構わないって」私は転がっている内の一つを文の足元に置いた。『ふんっ!――ふんぬっ!!』文は何やら唸っているが――その身体が、缶詰に吸い込まれていく。

 

「どうです!」「どうもこうも……」私は足元で二足歩行するロボを見やる。「おお、ホントにいた。まあ、≪誰≫の幽霊かは証明できないだろうけど」それはそうだ。「私を銀行に連れて行きなさい!――預金を下ろしてもっといい身体を――」文がエキサイトした、その時だった。

 

丸い頭が外れて、おっこちた。『¥~%#!?』「あんまり喋らない方がいいな」「ゴミだからね」にとりはへへへ、と笑った。私はゴミを拾い上げ、銀行へと向かう。飛び込んで――奇異の目で見られる。如何にも場違いだ。こういう所に用事があるほど、白狼は給金を頂いていない。

 

「預金を下ろしたいのですが!!」カードは文の財布と一緒に爆発四散した。窓口から下ろさなければならない。通帳だけで下ろせるようにはできていない。面倒だが、こうでもしなければ金を預かったりはできないだろう。行員は目の前の空き缶が喋ったのに、びっくりしたようだ。

 

そりゃあそうだろう。「――あの、これは?」「代理か何かと思って頂ければ結構です」思い切り不審がられているが、空き缶は名前と暗証番号を正確に伝え、印鑑を見せていた。ただ、それだけでは足りない。本人証明が必要だ。「わたくし本当に射命丸でありまして……」「はあ」

 

窓口は何やら調べていたが、どうやらそれ以前の問題だったらしい。「お客様の口座は凍結されておりますが」「凍結?」「――凍結」文はうなだれた。ついでに頭が落ちた。話を聞いてみると、口座というものは、死ねば凍結――つまり、下ろせなくなるらしい。ややこしいんだな。

 

私は頭を下げ、ゴミを持ち帰った。「――もはや、手段がありませんな」空き缶から文が出てきた。ゴミは正真正銘、ゴミになった。「誰かに憑りつけばいんじゃないか」『それがわたくし、魂のないものにしか憑りつけませんので」頭を掻いた。『……こうなったら、犯罪を犯してでも』

 

「やめろ」私は肩を掴み――掴めないが――制止した。法まで足蹴にするようなら、不良天狗どころか犯罪者だ。「どうせ幽霊がお前である証明なんてできないんだ。他の方法を探す」『仕方ありませんな』文の顔が疲弊してきた。幽霊も疲れるのか。実際、私だって疲れてきたぞ。

 

―――

 

  ―――

 

『要するに、わたくしが射命丸であるという証明ができれば――実質、生き返ったようなものでありましょう?』「霊媒師でも無理だろうがな」『わたくしを形作るものは何も肉体ばかりではない。しかして精神だけでもない。記憶。すなわち記録です』文が無意味なカメラを取り出す。

 

『つまりは、絶対にわたくしにしかわからない秘密を明かせばいいのです』「効くだに不穏だぞ」『ジャーナリズムとは時に危険に身を晒す者ですよ、椛』相手方を危険に晒してるがな。『やや、知りませんとも。あなたが今、二股かけているなんて事は』「……」『声も出ないでしょう』

 

「正確には三股だ」『――ホワイ?』「記録なんてのは常に更新しなければ役に立たないぞ」私は首を振った。いや、色恋事情をばらされるのは許しがたいが。『鮮度が悪かったですね』「お前のアンテナもその程度という事だ」『うぬぬ……。怒りたい所ですが、怒れない……』

 

「それで、具体的にどうするつもりだ?」『飯綱丸を脅します』文がニヤリと笑った。「さっき泣かせたばかりなのに、恥というものがないのか、お前」『取材の恥はかき捨てでありますよ』「――まあ、いい。それで、又御所に行くのか?」文は虚空からペンを取り出し、回し始めた。

 

『いいえ。飯綱丸の行動原理は、わたくしよくよく把握しておりますので』「何処かに抜け出すと?」『ええ、そうです。あなたも物事がわかるようになってきたじゃないですか』そんな事だろうと思ったよ。『行き先はわかりまして?』「いや」『はたての所ですよ』指がペンを弾いた。

 

『口ではあんな事を言いながら、大天狗サマは娘っ子にお熱な訳ですな』私は何とも言えない顔をしていたと思う。昼間に見た顔は、決して嘘をついてはいなかったように思うが。『あなたは適当な場所に隠れていなさい。偵察してきます故』文が耳打ちし、姫海棠の御殿へ入っていった。

 

―――

 

  ―――

 

やれやれ、椛はもの知らずでありますな。だからツバつけときなさいと言ったのです。ラブとは障害を超えてこそ燃え上がるもの。私はスッと壁を通り抜け、はたての部屋に潜り込みました。どうやらまだ、飯綱丸は入ってきていないようです。はたては相変わらず、喪服ですね。

 

私は顎をついて――実際につける訳ではありませんが――到着を待ちました。やがて御付きが下がると、大天狗サマがご入室してきます。「元気――では、なさそうだな」「恐れ多い限りでございます」おや、お嬢様モードですね。「いつもので良い。堅苦しいのはなしだ」「――うん」

 

わたくし、期待で手をワキワキしております。こうも近くで観察できるなら、幽霊というのも悪くない。……とまあ、中々あくどい事を考えていますと――二人は向かい合わせで座りました。おやおや、二人この場で、躊躇なさる?「お茶を――」「いや、いい」飯綱丸は制止しました。

 

姫海棠家のお嬢様に婚前交渉を――となれば、そこそこのスキャンダルでしょう。ただ、もう一押し欲しい所ですね。例えば――そのまま、押し倒したとか。ニヨニヨしながら観察する私の傍で、しかして二人は向かい合ったまま、何の動きもありません。参りましたね。何かお喋りなさい?

 

「文の件は――残念だった」飯綱丸はうなだれています。はたてもです。如何にも暗い。もう少し、明るい話をなさいな。カメラを――これは役に立ちませんが――構え、お二人のその瞬間を捉えんとします。静かな空間。二人は動きません――おっと、はたてが動きましたね?

 

「――飯綱丸様」はたては飯綱丸に抱き着きました。おお、これはこれは。「はたて」飯綱丸がそれを受け止めて、頭を撫でています。はたてはこれが好きなのでしょう。誰からも愛されるが故の、無防備とで申しますか。「私は、文が好きだった。……ううん、大好きだったよ」

 

「そうだな。私もあいつが、大好きだったさ」「飯綱丸様」「多分、お前が考えているのと同じ意味だよ」はたては飯綱丸の胸に顔をうずめました。「あいつが生きてたら――取り合いになったかな」「たぶん――その時は、私が勝ってた」「いやいや、私が勝っていたかもしれんぞ」

 

「――生きてたら」「ああ」「本当に文は、死んじゃったんだね」「――そうだな」はたては座り直しました。……いいえ。今度は飯綱丸が、はたてに縋りついてます。「あいつが死んで、私も死んでしまったのかもしれない」はたてはその頭を、そっと抱きかかえています。

 

「あいつのこと以外、何も考えられないんだ。それでも執務は、淡々とこなしている。こうやって日々に追われ――あいつの事を、いずれは忘れてしまうのか」飯綱丸は泣いているようでした。はたても泣いていないのですよ。いい大人がその体たらくでどうするのですか。軟弱者。

 

「私も、文の事で頭が一杯だよ。でも――すぐに慣れると思う」はたては頭を振りました。「どんなに悲しくても、忘れちゃうんだ。私にも、悲しい事はたくさんあったはずなのに。……でも、違う。悲しさはなくなった訳じゃない。いつだって思い出せる。私の背中を押してくれる」

 

「忘れないよ」「忘れたくないさ」飯綱丸は起き上がりました。「あいつは私達の中に生きる」「うん」二人は胸を押さえ、頷きました。「お前に笑われないように」「あなたに呆れられないように」二人は立ち上がると、軽く抱き合って、二人は廊下へと出て――襖が、閉じました。

 

……その背を追いかける気には、なれませんでした。

 

―――

 

  ―――

 

「シケた顔してるな」『――やめておきましょう。他の手を考えます』私は文をまじまじと見つめた。それに気付いたのか、文はそっぽを向いた。何を見たのかはわからないが――≪最低限≫の良識はあるのかもしれないな。「他にと言っても――まだ、何か思いつくか?」『むーん……』

 

『あなた以外に、私が見える人を探す――というのは、悠長ですな。徒労に終わるかもしれない』再び取り出したペンを、ぐるぐると回す。『逆に、あなたを通じて何かを話す――というのも、無理があります。あなたがもっと偉かったら別ですが』「悪かったな、ヒラ白狼で」

 

『まあ、時間はいくらでもあります。あなたにはその間中、付き合ってもらう事になりますが』「無茶を言うな」知らん。自分でなんとかしろ。――と、言いたくはなったが――そうなれば、文は八方塞がりになるのは目に見えていた。何とか出来るのは現状、私しかいないのだ。

 

『――んん?』文が奇妙な声を出した。「どうした――んんッ?」私にもそれは見えた。元々半透明だった文の身体が、輪郭が、随分と薄れてきたように見える。『いけません、これはいけません』文が慌てるのも無理はない。私だってそうだ。これは――霊体が消え始めているのでは?

 

『いやはや、魂だけが動き回っているなぞ、確かに不自然な状態ではありますが……』「時間がないんだな?」『おそらくは』文は彼方を指差した。そこは御所の石垣だ。文の肉体が激突死した、そこ。『あの下で、私の鞄を探しなさい。壊れてさえいなければ、何とかなるかもしれない』

 

私は指示された場所に飛んだ。木々が生い茂っているが、それならば案外、何処かに引っかかっているかもしれない。私は目と鼻が利くのだ。右。左。上。下。跳ね跳んでいきそうな所を、アタリをつけて探した。こういう時は焦ってはいけない。文の匂いを辿る。目に入る。――あった。

 

『ありましたね!』「ああ」鞄の中には雑多な道具に、カメラを手入れするのだろう布、そして――無傷のカメラ。『これを持って、玄武の沢に行きなさい!――今すぐに!!』そんなに焦らなくてもいい。私は、お前を見捨てて行きはしない。文の手を取った。フリでも、意味はある。

 

二人、飛んだ。とはいえ、文ほど疾くは飛べない。今の文は――どうやら、ついてくるのがやっとらしい。口から先に生まれた奴が、何も喋ろうとしないのだ。今に二度目の死を迎えるかもしれない、なんてのは、私には想像できない恐怖だろう。日が暮れてきた。玄武の沢はすぐそこだ。

 

――私達はメガネを所望した。にとりは断った。押し問答だ。文はどうしてもメガネが欲しいらしく、にとりはどうあっても貸す気がないのだ。人助けだから――と迫っても、真っ当な対価を提示できないのはこちらだ。……どうも、これは意地の張り合いになってきていないか?

 

「――だから、貸さないって」『そこをなんとか』「そこをなんとかって言っているぞ」「やだね」にとりは断じて貸すつもりはないようだ。『生き返ったら、いくらでも出します!』「だそうだ」「生憎と、先払いしか信用しない」『椛、さっきの鞄のカメラを渡しなさい!』

 

私はそれを取り出し、にとりに見せた。「これは――外の世界のアンティークカメラ?」何やらじろじろと見ているようだ。「まあ、これならいいか」『渡す前に一回だけ写真を撮らせてください』「だと」「お別れかい?」別にいいけど、とにとりは承諾した。鞄からメガネを取り出す。

 

『メガネ越しに私を撮りなさい!』「撮ると言っても、やった事がない」『ああもう、このおバカ!』文の手が私の手を――取ってはいないが。『こう絞って、こう引いて、これを押しなさい!』簡単な説明だが、わかった気はする。文は前に飛び出し、如何にも傲慢なポーズを取った。

 

『これなら普段の私に見えましょう?』「ああ、十分見える」私は文にピントを合わせ、メガネ越しにそれを――撮影した。ポーズを変えて十数枚撮った。これだけあれば、十分なはずだ。『さあ、家に戻りましょう。プリントはやりましたね?――今度は現像です。少し難しいですよ』

 

「おい、一人芝居はいいけど、メガネ返しなよ」「そうだった」私はにとりにそれを返そうと、したのだが――「あっ」私の手の中で、それはボロボロに崩れ去ってしまった。魔力を使い切ったのか。「うわああぁ!?」『あれ、まあ』「すまん、にとり」「すまんで済むかァ――ッ!!」

 

「弁償金に百万円頂くからな」にとりはご立腹だったが――実際、そんなに怒ってはいない気はする。文は一応、友達の友達だ。友人関係まで質に入れるほど、河童は守銭奴ではない。……と、思いたい。『百万でも一千万でも払ってやりますよ!』「だとさ」「じゃあ一千万な」

 

文は見事に自爆したが、それ所ではなさそうだ。気付いていないとも言うが。私はカメラをにとりに渡し、文の家へと戻った。現像は――確かに、手間がかかったが、文が指示する通りにやれば、なんとかなる――はずだった。『そこ―でd「g?2なさい。@w5してそyp0-!#』

 

「おい!――何を言ってるか聞こえないぞ!」『わた3しめ@おyの方kt%らも聞こえ2fmq^ておりまsん7)#!』「くそっ」傍に合った手引きを引っ張り出して、該当の個所に目を走らせた。急がなければフィルムが駄目になるのはわかった。手引きを頼りに、作業を進める。

 

道具が全部出しっぱなしになっていたのは僥倖だった。私だけでこれだけのものを用意している暇はないからだ。引き上げ、洗浄し――なんとか上手くいったようだ。それを干している間に、文に話しかけたが――『prと0#”かし+zz助けd;)=!』まったく意味が理解できない。

 

恐らく向こうにも聞こえていない。私はプリントに入った。先にやった事は覚えている。文が手に、手を乗せた。それは酷く薄まっているように見える。やがて手元に現れた写真には――傲慢なその姿勢。黙っていれば絶世の美女。……はっきりと、文の姿が映っていた。本物の心霊写真。

 

私は状態の良さそうなもの数枚選び、腰のケースに入れた。文は――もはや、まっすぐ飛ぶ事もできないようだった。私はゴミ――空き缶を取り出し、軽く叩いた。文はそれに近付くと、するりと中に入り込んだ。缶がぶるりと、少しだけ震えた。これで、運ぶ手段には困らないだろう。

 

夜の闇を、私は飛んだ。飯綱丸様に謁見願えるだろうか。それはわからない。私は飛んだ。飛び続け――大天狗の御所に舞い降りた私を、やはり御付きは問いかけた――が、顔を覚えていたのだろうか。奥へと案内される。こんな時間でも――いや、こんな時間だからかもしれない。

 

私が謁見の間に入った時、飯綱丸様は――露台から、空を見ていた。「夜分遅くに、どうか、失礼をお許しください」「いい。今は私の時間だからな」私は御付きに写真を渡すと、それは改められ――若干、狼狽していたようだった。飯綱丸様に手渡された時も、だ。「これは――何だ?」

 

「文は生きています。ただし、魂だけで」飯綱丸様は御付きに人払いを命じた。私は事の経緯を説明した。中々難しい話になってしまったが。「先は、騙すような事になってしまい――」「いや、いい。お前の苦心はわかる。あいつがしたかった――現世で片付けておきたかった事もな」

 

「しかし、私に文の存在を認めさせる――といった、悠長な状態にはないようだな」空き缶がかたかた、と力なく震えた。「最後に見た時にはもう、すぐにでも消えてしまいそうでした」「ううむ」飯綱丸様は長考した。したが、やはり上手い具合の解決策は思いつかなかったようだった。

 

「悪いが――やってやれる事は何もない。お前が死んでいない――という事なら、いくらでも喧伝してやれるが、な」飯綱丸様は頭を振った。「だが、姫海棠の所なら何か手があるかもしれん」飯綱丸様は棚から紙を取り、筆を走らせた。「これを御付きに渡せ。老人の元に届く」

 

私はそれを受け取り、足早に立ち去る。「死ぬなよ」死なせはしない。空き缶がからから、と鳴った。会釈ももどかしく、私は居所から文字通り飛び出した。はたてさんの御家は遠くない。失礼を覚悟で庭に降り立つと、近くの御付きに手紙を押し付けた。それはすぐに運ばれていく。

 

「椛」はたてさんに見つかった。変わらず、喪服だ。廊下を飛び、庭に下り立つ。「さっき、おじいさまの部屋で言ってたのを聞いたの。……文が生きてるって、本当なの?」私は一瞬、躊躇した。「はい」だが、隠しても仕方のない事だ。私は件の心霊写真を渡した。「これって」

 

はたてさんの目から大粒の涙がこぼれた。「生きてた……。生きてたんだ……」空き缶がかんらかんら、と鳴った。何度も。何度もだ。「――待て、文!」文の姿が、空き缶から飛び出した。もはやその姿は空気のように薄く、頼りない。「文っ!?」「待てよ!――お前、死ぬ気か!?」

 

私が向いた方を、はたてさんは抱き込もうとした。腕は、すり抜けた。「何処に、何処にいるの……?」私が指差した方を向いても、その瞳に文の姿は映らなかっただろう。それでもはたてさんは、そちらを見た。じっと、見続けていた。「私はここだよ!――お願い、返事して――!」

 

『#&あgh愛w=>?てhまし、は#て』文の微笑みは、ただ空しい。輪郭がはたてさんの頭を撫でた。文は頭を振り、はたてさんを抱き込んだ。腕は、すり抜けた。「やだ、やだっ、死なないで!……お願い。愛してる。だから」文は手を振った。これが、今生の分かれかのように。

 

倒れ込もうとする霊体を空き缶で受けた。その姿は吸い込まれた。「はたてさんは――文を、本当に愛していたんですね」はたてさんは何度も頷いた。「皆、文の事を愛してた。悪い事だってするけど、誰も嫌ってなんかいなかった」はたてさんはくずおれてしまった。私はその肩を抱いた。

 

「大老が手を回してくれました。何とでもなるはずです。きっと」「――うん」立ち上がらせる間も、その身体に力はなかった。空を見上げる。御付きの烏が遥か向こうへ飛び立った。もう私には、祈る事しかできない。空き缶をはたてさんが抱いた。私達は空き缶を、二人で抱きしめた。

 

―――

 

  ―――

 

夜明けと共に、それはやってきた。まるで瞬時に現れたかのように。「どーも、死神です」私は咄嗟に剣を構えた。はたてさんも扇を持った。死の権化。魂を連れ行くもの。瀕死の文に、とどめを刺そうと言うのか。「あー、待て待て。そういうつもりはないよ。……全く、好戦的だね」

 

「お宅らの要請を受けてわざわざ参上してやったのさ。知らない?――そりゃ、仕方ない」死神は虚空に鎌を消すと、足元の空き缶を持ち上げ、首を傾けた。「確かにこいつだ。あたいらを困らせてたのは」「――困らせた?」「そうさね。裁判が止まるくらいには」死神は指を振る。

 

「あの時――身体から、魂がすっぽ抜けたっていうかな。魂速の向こう側って奴だ。しかし、そんな死因でこっちに来るなんてのは今まで一度もなかったからさ。判例がなければ、如何ともしがたい。それに、こっちに来たのはからっぽの身体だけだ。閻魔様も被告人不在で困ってたのさ。

 

「それで結局、現世に戻す事になった」「現世に――それって、つまり」死神はニヤリと笑った。「ああ、アフターサービス付きさ。こっちとしても、死なれっぱなしには出来ない」死神が指を鳴らした。空き缶から文の身体が引きずり出された。私は剣を向けたが――杞憂だったようだ。

 

文の身体が少し光ったように見えた。私達は顔を見合わせた――が、すぐに変化に気が付いた。足だ。文の足が徐々に実体を持ち始めた。輪郭が浮かび上がる。半透明な身体に色が戻りつつある。「見えた!」はたてさんが飛び上がった。「見えたよ、文!――そこにいる!!」

 

「神は言っている、ここで死ぬ定めではないと――てのはまあ、冗談だけど。次回は真っ当に死んできな」死神は首を振った。「今度はスピード違反なんてしない事だね、自称、幻想郷最速」そう言うと死神は、再び一瞬の内に立ち去った。文を見る。次第に輪郭がはっきりしてきた。

 

『これは――やりましたね、椛?』意識が戻った。はたてさんが抱き着こうとしたが――すり抜けた。感動のハグはお預けらしい。『うふふ。ナデナデしてあげますよ。もう少しお待ちなさい』はたてさんは頷いている。……こいつ。生き返ってすぐくらい、愁傷な態度でいられないのか?

 

『おおお、懐かしき肉体の感覚……」幽霊になってからそんなに経ってないだろ。「一辺は死なないとわからないですよ」文は大仰に手を開いてみせた。ああ、こいつは確かにこういう奴だ。……しかし、少しばかり浮かれているようだな。文の身体を見た。上から下まで、じろじろと。

 

私の視線に気付いたのだろう。文は下を見て――「あの、服は戻らないので?」「戻らないらしいな」私はニヤニヤと眺め続けた。「わたくしめ、露出魔の趣味はありませんよ!」「いいじゃないか。そのまま飛べば。生き返ったのが瞬時に伝わる」愉悦に、耳がぴくついた。

 

御付きが、はたてさんが、全裸から目を背ける中、私はそれを眺める。眼福という奴だ。「尊厳と引き換えの宣伝なんてお断りでありますよ!」「被害者になった時に限って都合よく断れるなんてのは――ないんじゃないか?」笑いが止まらないな。はは。文の顔はまさに、必死だ。

 

「いやあの、そのですね……わたくし、わたくしめは……」こいつに羞恥心なんてものがあったのは意外だが、必死に身体を隠したまま、力なくしゃがみ込んでしまった文に――まあ、これ以上いじめるのも哀れだな。私は上下を脱ぎ、さらしと褌だけの姿になった。「ほら、着ろ」

 

文は即座に反応し、奪い取るように衣服を身につけた。幻想郷最速は伊達じゃないな。「これは貸しだ」「借りにしておきますよ」文は高く飛び上がると、風を蹴って加速した。もはやその姿は点のようにしか見えない。あいつが生きているという報は、すぐに山を駆け巡るだろう。

 

「えっと――服、貸してあげようか?」はたてさんが遠慮がちにこちらを見ている。御付きもだ。何だ君ら、随分シャイじゃないか。「構いませんよ。普段もこのくらいで動き回ってますから」「そ、そうなんだ……」何か、少しばかりヒかれた気がするな。……まあ、いいか。

 

「――飯綱丸様にはこちらから連絡する、って」御付きの耳打ちを、はたてさんは声にした。「今回は、色々な人に助けられました」皆、良い人だよね――と、はたてさんは笑った。世の中そうは優しく出来てはいないが――お人よしの御家が、一つくらいはあってもいいはずだ。

 

……さて、私も帰ろう。はたてさんに挨拶し、ねぐらに向け、ゆっくり飛んだ。あいつに付き合っていたせいで、上司にこってり絞られそうだ。でもまあ、それでもいいか。あいつを散々困らせてやったのだ。案外私も、あいつに似て、胡乱なそれが好きなのかもしれないな。

 

貸しを徴収する時も、精々いじってやろう。慌て顔を思い出し、私はニヤニヤと笑っていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「あの時、散々わたくしめをイヤらしい目で見ましたね」「見物料がどうとか?」「そッ、そうではなくてですね……」「私は好色なんだ」「へっ?」「綺麗な身体をしてるじゃないか。悪いのは性格だけか?」「ぬぬ……、怒ればいいのか喜べばいいのか、わかりませぬな……」

 



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そこには山があった

―そこには山があった―

 

そこには山があった。

 

幾多の妖怪が、そこにゴミを捨てていた。ただ最初に、いくつかのゴミがあった。いつの間にかそれは集まり、積み上がった。そこに捨てられたのは、誰かにとっての不用品だ。用途のわからないもの。外から流れてきたもの。持ち主のいなくなったもの。誰にも顧みられないもの。

 

そこにネズミの妖怪が現れる。彼女はダウジングロッドを携えた、一端のダウザーだった。ネズミはそのひらめきを信じてゴミをひっくり返し、紛れ込んだお宝――貴金属や装飾品、現金を手に入れ、ほくほく顔で立ち去った。掘り返された山は、ほんのわずかだけ、低くなった。

 

そこに半妖の男が現れる。彼は道具屋を営む、気難しい男だった。彼はその観察眼でもってゴミをひっくり返し、紛れ込んだゴミ――外の世界を伺えるような何か、用途のわからぬ何か、そして己の琴線に触れた何かを抱え、立ち去った。掘り返された山は、ほんの少しだけ、低くなった。

 

そこに魔法使いの少女が現れる。彼女には蒐集癖があった。彼女はむやみやたらにゴミをひっくり返し、価値のありそうなモノ、面白そうなモノをむやみやたらに集めた。やがて風呂敷一杯に詰め込まれたそれを背負い、ご機嫌に飛び去った。掘り返された山は、少しだけ低くなった。

 

そこに河童が現れる。彼女はメカニックだった。彼女は巨大なアームでゴミをひっくり返し、再利用できそうな機械や金属、外の世界の科学の断片をかき集めて回った。やがてキャリアー一杯に詰め込まれたそれを伴い、どっこらせ、と飛び去った。掘り返された山は、低くなった。

 

そこに忘れ傘が現れる。彼女はまだ生きている道具を見ると放っておけないタチだった。彼女は苦心してゴミをひっくり返し、まだ使える、生きている大小様々な道具をリヤカーに乗せ、ひいひいと息を吐きながら、それを持ち去った。掘り返された山は、とても低くなった。

 

そこに小鬼が現れる。彼女は建築家兼、大工であった。彼女は掲げた右手の力でゴミをひっくり返し、使えそうな木材や石材、その他の壊れた道具をかき集めた。それを玉状に固めたまま、軽々と持ち上げ、分身を引き連れてとことこと立ち去った。山はもう、山とは言えなかった。

 

そこに貧乏神が現れる。彼女は貧していた。彼女は細腕で必死になってゴミをひっくり返し、掘り尽くされた残りからダンボールや布きれ、焚き付け、その他もろもろのゴミグッズをかき集めると、穴開きのズタ袋に詰め込み、ふよふよと立ち去った。山はもう、僅かしか残っていない。

 

そこに博麗の巫女が現れる。この辺に妖怪が出没すると聞いて、見回りに来たのだ。しかし待てど暮らせど、そんなものはやってこない。いい加減に帰ろうか。そう思っていた巫女はふと、ゴミ捨て場の残滓を見た。四角い鋼板が目に留まる。それはゴミの一番下に転がっていた。

 

巫女はそれを拾い上げた。板には――燃えるゴミ(火・金)燃えないゴミ(水)粗大ゴミ(月)――と書かれていた。何の事やら。巫女はそれを――元には戻さず、持ち帰る事にした。雨漏りの修理くらいには使えるだろう。最後の一つが消え、山は、山ではなくなった。

 

そこには山があった。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「もう!――何で皆して、ウチにゴミを持ってくるのよ!?」

 

「何で、つってもなぁ……?」

 



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右の棚の真ん中の横の引き出しの奥

―右の棚の真ん中の横の引き出しの奥―

 

たまには死なない事もある。

 

私は書き物を片付ける手を止め、ぼんやりと外を見ていた。そこには清蘭がいた。いた、というのも抽象的過ぎるかもしれないが、とにかく清蘭がいた。清蘭はラジオ体操をしていた。耳がパタンパタンと振れる。今日はやけに熱心だと思っていたら――あんのじょう、背中がつっていた。

 

私は外を見ている。清蘭が朝ごはんを運んできた――が、つまづいた拍子に目玉焼きが私に向けてダイブしてきた。まあ、このくらいはよくある事だ。一般的にはおかしいのもわかっている。私は大口を開けると、それをパクリとキャッチしてみせた。清蘭が拍手した。すんなよ。

 

私は外を見ている。清蘭が洗濯を始めた。これは何かやらかすな。声を掛けようとしたが、まあ遅い。傍にあった石鹸が身投げし、二層式洗濯機はたちまち泡を吹いた。清蘭はオロオロと動き回っている内に――泡に巻かれた。清蘭の形をした泡が踊る。壊すなよ。清蘭より高いんだから。

 

私は外を見ている。清蘭が畑に水をやっていた。じょうろじゃ埒が明かないだろうに。声を掛けようかとも思ったけど、止めた。無駄な事をやっている清蘭も可愛いもんだ。私がニヨニヨしていると、清蘭がこっちを向いた。「ホースどこだっけ?」単に場所がわからなかっただけらしい。

 

私は外を見ている。清蘭が野菜を引っこ抜いている。「お裾分けしてくるね」転ぶなよ。私の懸念を他所に、清蘭は思い切り飛び出していった。しばらくして、清蘭は戻ってきた。「お野菜もらったよ」清蘭は嬉しそうに報告した。「――私、なんでお野菜持っていったんだっけ?」さあ?

 

私は外を見ている。清蘭がお手玉をしている。この手の事はやたら得意なんだ。けどまあ、清蘭は清蘭な訳で――「お手玉じゃスリルが足りないから、ファイアーダンスしよう」どうして清蘭の考えはそう飛躍をするんだ。清蘭は清蘭なんだから、もう少し自覚をだな――あ、あーあ。

 

私は外を見ている。清蘭が弓道を始めた。吸盤のついた矢で的を狙っては、ど真ん中に当てている。身体を使う事に関しては天才的だからな。こいつ。けどまあ、清蘭は清蘭だ。「ねえ鈴瑚、今のすごいでしょ!」「――待て待て、狙ったままこっちを見るな」「えっ?」ビタァァン!!

 

私は外を見ている。清蘭が床掃除を始めた。雑巾持って駆けまわるのはいいけど、多分それ、ちゃんと拭けてないぞ。「鈴瑚も手伝ってよ!」はいはい。隅から掃除機を引っ張り出す。床を汚すのは大体、私だ。「寝ながらポテチ食べるの止めてよ」「清蘭だって指を舐めてくる癖に」

 

私は外を見ている。清蘭がプールを持ち出した。楽し気に水を張っている。「見て、可愛い水着!」可愛いのはわかる。水着なのもわかる。季節考えろよ。「冷たくない?」「冷たい」清蘭は身震いした。「カワイイにはそれ相応の代償が必要なんだ……」来年、穴が開くほど見てやるよ。

 

私は外を見ている。清蘭が昼ごはんを運んできた。ああ、展開が読めたぞ。私は急いで立ち上がり、清蘭を支えた。「そうめんだよ?」「そうめんはわかってるよ」放っておいたらぶちまけそうだ。私は慎重にそれを着地させると――「ギャーッ!?」めんつゆが飛び散った。そっちか。

 

私は外を見ている。それにしても清蘭は可愛いな。私が見てきた玉兎の中で一番可愛い。ちょっと――いや、かなり――いやいや、滅茶苦茶にドジだけど、そこもいい。……だけど、今までこいつ、どうやって生きてきたんだ? 私の疑問を他所に、清蘭は絡まったホースと格闘している。

 

私は外を見ている。清蘭がトンボに指をぐるぐるしている。こういう時は回している側が目を回すのがお決まりだ。あんのじょう清蘭は目を回して――宙に浮いた。「私はトンボだよ~、鈴瑚~」――催眠術でも掛けられたのか? 清蘭はトンボと一緒に、楽しそうに飛び回っている。

 

私は外を見ている。新聞が飛んできた。お世辞にも上品とは言えない物体だ。「見て鈴瑚、また私達のお団子屋が載ってるよ」ネタでも切れたんだろ。実際、私らにはなんの許可もないし。「まとめて五本買ったら二百円だって。お得だねー」待て、そんな事言った覚えは一言もないぞ?

 

私は外を見ている。清蘭が飛んできた。お世辞にも賢いとは言えない物体だ。「ねえ鈴瑚、この間アイスを買って――」「言わなくてもいい。わかってる。安い方を貰ったんだろ」「どうしてわかるの?」今時、壺算用が通るのなんて清蘭くらいだよ。「高い方も買ったの」なんだそりゃ。

 

私は外を見ている。清蘭が団子を搗き始めた。こいつの場合、上手く――というより、自慢の怪力でやたらめったら搗くと言った方が正しい気がする。私はまあ、あんまり得意でもない。……という事で、鈴瑚屋の団子のタネは、アウトソーシングだ。味の違いは、知恵の違いさ。清蘭。

 

私は外を見ている。清蘭が旋回している。実際の所、私から見れば玉兎は大体足りていないのだが、清蘭は特に抜けている。戦闘力しか期待されていなかったんじゃないか。『メーデー! メーデー! 謎の飛行物体を発見!』止めときなよ。幻想郷の飛行物体って大体――あ、あーあ。

 

私は外を見ている。「救急箱、何処?」「右の棚の真ん中の横の引き出しの奥」清蘭は基本的に物の位置を覚えられない。私がいなかったら鉛筆一つ見つけられないんじゃないか。「鈴瑚がそこら中にモノを置きすぎなんだよ?」「これが私にとってのベストな配置だからいいんだよ」

 

私は外を見ている。「ウワーッ!?」清蘭が飛び出した。にわか雨だ。すぐ終わるからほっときなよ、と思ったけど、清蘭は慌てて洗濯物を――あ、こけた。すぐに雨は止んだ。残されたのは泥だらけの物体が二つ。「今日はもう干すの諦めたら?」「いいや、片付ける!」清蘭は強情だ。

 

私は外を見ている。清蘭は大体、いつも楽しそうだ。世界に対してポジティブな生き方――と言えば、格好良いかもしれないけど、実際何も考えていないだけだ。そういう生き方に憧れは――なくもないか。清蘭がバカやってられるのは良い事だ。私は少しばかり、嫌な世界を見過ぎたよ。

 

私は外を見ている。遊び疲れた清蘭がその辺に転がって寝ている。バカでも風邪はひく。適当な布をかけてやった。まあ、清蘭が倒れたのなんて、知恵熱がオーバーロードして爆発した時くらいだけど。九九はすらすら言える癖に、計算はできないんだものな。よく店屋やってられるよ。

 

私は空を見ている。空だ。巫女と魔法使いがこの辺りで弾幕ごっこをしている。正直、他所でやって欲しいな――と思った矢先、畑の中に星が突っ込んできた。弁償させるぞ。私の憤慨を他所に、星やら針やら、アミュレットやらがどこどこ落っこちてくる。回収して後で売りつけるか。

 

私は外を見ている。そろそろ夕暮れ時だ。清蘭は――まだ寝てるな。私は台所に向かい、適当な材料でカレーを煮込み始めた。「カレー!?」すぐに反応しやがる。「肉は入ってないけど」「鈴瑚の余った肉を入れられればいいのにね」「清蘭の使ってない脳みそをぶち込むぞ?」

 

私は外を見ている。清蘭がハフハフとカレーを頬張っている。「食べないの?」「食べるよ」こいつは自分でおかわりせずに、人のものを取ろうとするきらいがある。まあ、人の事は言えないけどな。「お肉ちょうだい!」「だから入ってないっての」仕方なくニンジンを入れてやった。

 

私は外を見ている。鈴虫の鳴き声だろうか。夏は過ぎ、秋がやってくる。月にいた頃は四季の存在なんて気にも留めなかったけど、地上ではそれを意識するイベントが沢山ある。清蘭が横で耳を立てている。鈴虫の鳴き声。清蘭も少しは、地上にいる事を楽しめるようになっただろうか。

 

私は外を見ている。清蘭は既に眠っていた。私は書き物を片付け切り、顎をついて、じっと夜を見た。月が出ている。あれが私達の故郷だなんて、知らなければ思いもしなかったに違いない。地上の兎は月見て跳ねる。私は外へ出た。少しだけ跳ねてみた。まあ――まだ、実感はないな。

 

私は布団を敷いた。清蘭は何やら呻いて――いや、喚いている。何の夢を見ているのやら。電気を切り、布団に潜り込む。明日からは店屋だ。次の休みには何を片付けようか。私は清蘭の方を向いた。清蘭もこちらを向いている。全く、仕方のないやつだよ。私はそのまま、眠りに落ちた。

 

―――

 

  ―――

 

「ギャーッ!? もう夕方じゃない!!

 何で起こしてくれなかったの、鈴瑚!?」

 

「清蘭が目覚まし時計を蹴り飛ばしたのが悪いんだろ」

 



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一匹狼を止めます

―一匹狼を止めます―

 

 

 

ちぎれてしまった紐を、あなたの手が結び直す。

 

 

 

「おおい、こっちのタケノコは抜いていいのかい?」「この辺は取り放題よ、小町」てゐが手を振った。「どうせ刈るなら、食べた方がお得よね」竹林にはいくらか、人の手が入っている。人がそこに存在する限り、完全な自然なんてないもんだ。竹藪に道ができる。そして、恵みを頂く。

 

こういう仕事は経験がないが、刈るのは得意だ。死神だからね。まあ、少しばかり勝手は違うかもしれない。「籠は持ってやるよ」「いいよ。私は力持ちだからね」実際、あたいくらいは持ち上げられる。おちびさんの何処にそんな力があるんだかな?「結構集まったんじゃないか?」

 

「まだまだ。放っておくと無限に生えてくるわよ」てゐは頭を振った。「竹は竹で役に立つけどね」まさか食べるんじゃないだろうな。あたいの疑念はまあ、冗談として受け流した。……本当に冗談なのかね?「どう思う?」「うん?」「こういう仕事をしてみて、さ」「そうさね――」

 

「中々新鮮だよ。お前さんはどうだい」「いつもやってるからねぇ。でもまあ、二人でやるのは久方振りかな」「そうか」鈴仙の事だろう。引き合いに出されるのは、まあ普通なら怒るかもしれない。あたいはそうは思わない。かつての愛と、今の愛が違う形なのは、わかっているからね。

 

「ところでこれ、最終的にはどうするんだい」「売る分もある」貴重な外貨獲得手段だからね、とてゐはニヤリと笑った。「勿論、大体は食べちゃうけどね。永遠亭に戻ったらしこたまタケノコを食らわせてやるさ」「そいつは楽しみだ」普段はそうそう食べられるものでもないしね。

 

「――ところで、気付いてるかい?」「もち。てゐ様のセンサーを舐めない方がいい」竹と竹、それから竹の間から、視線を感じる。人間って事はないだろう。竹林に棲む、妖怪だろうか。あたいは鎌を取り出した。「御用なら、出てきな。用事がないなら、あたいと遊ぼうじゃないか」

 

気配は動かなかった。まるでこちらを値踏みしているようだ。「匂いでわかるよ。あんた、ワーウルフでしょう?」その言葉を聞いて、気配が動いた。こちらに向けて歩いてくる。やがてシルエットが色味を得ると――やはり、狼か。「今泉影狼じゃない。最近は見なかったね」

 

間違いない。こいつはワーウルフだ。匂いだけじゃない。赤ずきん付きの外套を被ったその姿は、まるで狼が絵本から飛び出してきたみたいじゃないか。しかし、どういう訳だか、妖獣特有の剣呑さは感じない。むしろ――何と言うか、無害そうだ。緩んだ顔にも、気迫を感じられない。

 

私達に歩み寄ると、影狼は頭を下げた。「この頃は、誰にも会わなかったので――人がいると思ったら、思わず出てきてしまいました」「お友達はどうしたの?」「――当分、会っていません」「お友達?」「草の根ってネットワークがあったのさ」てゐが指をくるくると回した。

 

「こいつもその一員――じゃ、なくなったみたいね」「喧嘩でもしたのかい?」「いいえ」影狼は首を振った。「私はもう、草の根にはいられない。いてはいけないんです」自信なさげに緩んだ顔が、悲しみに歪んだように見えた。「事情は誰にでもあるもんさ」あたいは鎌をしまった。

 

「それで、何があったんだい。話してみなよ」ああ、あたいはつくづくお節介なんだな。「それは」「話したくないなら、それでもいいさ」影狼は首を振った。「懺悔みたいなもので良ければ、聞いてください」「いいとも」私の隣で、てゐは呆れていた。「全く、面倒見がいいんだねぇ」

 

「てゐさんの仰る通り、草の根というネットワークがありました。元々は仲良しの集まりだったんです。けれど、それは次第に、利害を共にする集団へと成長していきました。それが悪かったとは思いません。けれど、元々いた人達にとっては――少し、窮屈だったかもしれません」

 

「草の根の面々も随分と入れ替わりました。そりが合わなかった。居づらくなった。新たに生まれ、そして死んでいった。或いは――一匹狼に戻りたかった」「それがお前さんかい」影狼はうつむいたままだ。「理由はあるんだろう?」「理由。……理由ですか」そっと、顔が上がる。

 

「私は組み紐になれなかったんです」「組み紐?」「私は、草の根と人間との縁を繋ごうとしました」腕を開き、影狼は主張する。「それがとても難しい事は――いいえ。承知していたつもりでした」それはそうだろう。人間と仲良くする妖怪なんて――まあ、いないとは言わないが。

 

「――昔、鈴仙から聞いたよ。その話」てゐが、私の肩から飛び降りた。「自分が組み紐になって、縁を繋ぐって。随分とやる気だったそうじゃないか」「お恥ずかしい」影狼は首を振った。「私は自分自身を過信していたんです」「やりたかった事が、上手くいかなかった訳ね」

 

「お前さんがどうして折れてしまったのかは知らないが」あたいは飴を取り出した。「要るかい?」「――頂きます」投げ渡した飴を、影狼は舐め始める。「本当にそれは、もう二度と繋げない縁なのかい?」「出来ない――と思います」「どうしてさ?」てゐが首をかしげた。

 

「一部の人間が、私達を陥れようとしたんです。妖怪退治屋を雇って。でもそれは、私達も同じでした。草の根の一部が人間を排除しようとして、襲い掛かった」意思疎通が取れていなかった。影狼はぽつりと呟いた。「勿論、それはごく少数同士のいさかいだったはずでした」

 

「けれど、縁を切り離すのに十分だった」影狼は、自らの顔に爪を立てた。「あの時の私は、必死すぎたのかもしれません。私は数年来、人間に近しい妖怪でしたから――人妖に声をかけ、喧伝し、時には説得し、賛同する妖怪を集め、或いは――離れていく仲間を見送りもしました」

 

「あの時、私が組み紐になるなんて考えなければ、草の根は今もたくましく存在していたかもしれない」引っかいた顔に、血が浮かんだ。乱暴に飴を噛み砕く音が聞こえた。「私の考えは間違っていたのでしょうか?――私のエゴに、皆を巻き込んだだけなのでしょうか。わかりません」

 

「そうでもないと思うけどね」てゐが首をかしげた。影狼がてゐを見た。その顔を見て、少しだけ緊張がほぐれたようだった。「あなたは少し考え過ぎだね。正しかった。間違っていた。そう二元論に持ち込もうとする。そんなんじゃ肩がこっちゃう。楽にしなよ。私達の前でくらい、ね」

 

「結局、何だってやってみないとわからない。どんなに簡単な事だって、どれだけ難しい事だって」てゐはステップを踏みながら、影狼に近付いた。「選択の重みってのはあるだろうさ。けど、それに賛同した妖怪もいる訳じゃない?」てゐが手を差し伸べた。影狼は戸惑っていたようだ。

 

「あなたは失敗した。でもそれは、ツキがなかっただけかも」てゐが促すと、影狼は遠慮しがちに手を取った。「立ち止まりたくなったのもわかる。それだけの痛さも、辛さも経験しただろうさ。でも、次は成功するかもしれない」てゐがししし、と笑った。私達もまあ、つられた。

 

「あたいもそう思うよ」あたいはてゐに同意した。「可能性がゼロじゃない限りは、やってみる価値はある。だがまあ、安易に勧められる話でもない。お前さんがこれで終わりにしたいと思うなら、誰もそれを責めまいよ」「でも……」「未練はある。お前さんの顔にはそう書いてある」

 

「お前さんは一世一代の賭けに負けてしまった。けど、本当にそれは己のすべてを失ってしまったのかい?」「――すべて、ですか?」「すべてを失ったとしても、今が残る。そしてあなたが残る」てゐがご高説を垂れた。それはあたいの台詞なんだけどな。「まあ、そう言う事さ」

 

「今が残る。私が残る――」「お前さんにはまだ、お前さん自身が残ってる。それをどう使うかは、正しくお前さんの選択だよ」あたいは飴を取り出した。「要るかい?」「頂きます」影狼は新しい飴を舐め始めた。「ま、深く考えなさんな。頭は、使うべき時にだけ使えばいいさ」

 

「――≪私≫なんてものは、私にはもう残っていないと思っていました」影狼は顔の血を指で拭い、口に入れた。「すべてを失ったなら、また作り直せばいい。かつての私なら、そう思ったかもしれません」影狼がてゐの手をぎゅ、と握った。「――なら、今の私はどうでしょう?」

 

「それはあなたの心がけ次第だわ」てゐが握り返す。「私の本質は変わっていないはずです。立ち止まらなければそこに道は続く。そう信じていた私は、確かに≪私≫だったはずです」己を鼓舞するその顔は――さっきまでの緩んだそれが嘘のように、毅然としていた。「私、決めました」

 

「お前さんの決意、聞かせておくれ」影狼は頷いた。てゐは手をそっとほどき、両の耳に手を当てた。決して聞き漏らさぬとばかりに。「私は、草の根には戻りません」影狼は首を振った。「けれど、見知った人間達に安穏と溶け込む事もしません。それは私のやるべき事ではないから」

 

「私は再び、組み紐になります」影狼が糸を引くジェスチャーを取った。「互いの垣根を少しずつ取り払います。私達が積み上げてきたものは、決して無駄じゃなかった」「その調子」影狼は頷き、尻尾を振った。「互いがわかり合える日が来る事を、私は信じます。そうしてみせます」

 

「その為には、行動しなければならない。私は今この場で、一匹狼を止めます」影狼はぐるりと回転し、赤ずきんを脱いだ。長い髪、そして耳がはっきりと見えた。「つがいを求めるのは、生物として当然の節理。ならば、二つのコミュニティは?――きっと、互いを求めあっています」

 

「私はそれを手助けすればいい。実際は難しいでしょうが――言うだけなら、こんなに簡単なんですね。私は、それすらも忘れてしまっていた」影狼は竹に手を当て、寄り掛かった。あたいも背を預けた。てゐは、私の肩に戻った。「こんな私に出来る事なんて、所詮は限られています」

 

「けれど、私の行動に賛同してくれる人はきっといるはずです。彼らが助けてくれれば、組み紐はやがて硬い絆となって、互いを繋ぐでしょう」「いいね」あたいは肯定した。心からそうしてやりたくなった。「私は正直、懐疑的だったけど――凄いね、あなた」てゐが笑いかけた。

 

「凄くなんてありません」「そこは素直に受け取るもんだよ、組み紐さん」あたいはにやり、と笑った。「いずれ、お前さんの行動は世間に評価されるだろう。献身的な行為と讃えられるか。狂犬の戯言と蔑まれるか。だが、覚悟はあるんだろう?」「勿論です」「なら、頑張んな」

 

「ありがとうございます。あなた達と出会えて、本当に良かった」「役に立ったなら、まあ――何よりさ」「私から、あなたに幸運を分けてあげるわ。出来る事はそれだけだけど」てゐは影狼に向けて手を伸ばした。その手が一瞬、光ったように見えた。「――必ず、役立ててみせます」

 

影狼は一礼すると、竹林の奥へと消えていった。「どう思う?」「私の幸運だって、不可能を可能にする訳じゃない」「つまり?」「上手くいくさ。てゐ様が幸運を分けてやったんだもの」てゐが太鼓判を押した。あたいは静かに頷き、影狼が消えた方向を見つめた。もう、誰もいない。

 

一匹狼を止める、か。そう簡単に止められるもんじゃないだろう。意図せずその道に堕ちてしまったなら、猶の事だ。お前さんはやると言った。いつか――また、立ち止まってしまうかもしれないが、その時にはきっと、お前さんの周囲には、道を示してくれる仲間がいるだろうさ。

 

「帰ろうか」「まあ、ここにいても仕方ないし」てゐはあたいの頭を撫でた。「タケノコ掘りの続きはまた明日ね」「あたいは明日、休みじゃないんだけどな」「有給でも取っといて」てゐがししし、と笑った。私もつられた。「まあ、何とでもするさ」てゐを担ぎ直し、籠を持った。

 

「永遠亭に泊っていくよね?」「遠慮して――いや、仕方ないか」死なない奴が二人もいる所なんて――まあ、仕方ない。口実にしている訳じゃない。本当だよ。決しててゐと一緒に寝たいなんて事はなくてだね。「一緒に寝ようか?」「防音は完璧なのかい?」「ちょいと問題はあるね」

 

「それじゃ、お楽しみはなしだ」あたいは首をすくめた。「遠慮なさらずに?」「見せつける趣味はないんだよ」兎がそこら中にいるのに、遠慮も何もないもんだ。「いいわ。今度二倍にして返してもらうから」「壊れ物を、乱暴に扱うもんじゃないよ?」「壊れ物ってガラかしら?」

 

やる気満々のてゐを制止て、あたいはにやついた。竹の隙間から赤い光が漏れている。時間が過ぎるのなんてあっという間だ。朝起きて、昼が過ぎれば、夜がやってくる。休みがいつまでも伸びればいい――なんてのは、いつも思ってたさ。そして、理由は変われど、今もそう思っている。

 

「お前さんの体感時間は、私よりずっと短いんだろうな」「ん?」てゐが首をかしげた。その動作は一々、可愛らしい。「長生きすればするほど、≪今≫は相対的に短くなるそうだ」「――そうかな。そうかも」私の首に手が回った。「いいのよ。その分、濃度で補うわ」「そうかい」

 

時は誰にでも、平等に流れている。死なない連中ですら、時の流れから逃れる事は出来ない。どれだけ引き延ばされたとしても、時は確かに流れ続ける――うん? そういえば、昔の知り合いに時を止められるとか言ってた奴がいたような気がするな。この考えは胸に引っ込めておこう。

 

「あなたの体感時間は、私よりずっと永いんでしょう?」「そうかもね」「なら――私よりもずっと、あなたは私の事を感じられるのね」悪戯兎は、身体を乗り出し、あたいの頬にキスをした。「羨ましいわ」「何、あたいが濃くしてやるさ」お返しに、髪をめちゃくちゃにしてやった。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「お宅のお姫様がじっと見てくるんだが」

 

「珍しいものには目がないのよ」

 



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ずっとといたかったた

―ずっとといたかったた―

 

ご主人が猫になった。

 

比喩表現ではない。御堂にいないと思って外に出たら、庭に見慣れぬ虎猫がいた。その猫はみゃう、と鳴くと、私の脚元に擦り寄ってきた。猫に懐かれるのは正直あまりいい気分ではないのだが。仕方なく頭を撫でてやろうとして――その猫は、如何にも見慣れた冠を身につけていた。

 

「――ご主人?」猫はねうねう、と鳴いた。喉を掻いてやれば、喉をゴロゴロと鳴らしている。猫を構いながら、私は困惑していた。よもや、この猫は――ご主人なのではないか? 私の腹に擦り寄ってくる。冠が落ちた。拾い上げたそれは確かにご主人のものだ。……いや、まさかね。

 

「ナズーリン、星を知らないかしら」尼君が辺りを見回すように歩いてきた。「いえ」「さっきから姿が見えないのよ」尼君は顎に手を当て、参ったという顔をした。この猫の事を話すべきか?――いや、まだわからない。私の考えすぎかもしれない。きっと何処かで昼寝でもして――

 

「なあ、星知らない?」村紗が速足でこちらに来た。「いや、こっちにはいない。私達も探しているんだ」「今日は炊事当番だってもう一回言いに来たんだよ。多分忘れるから」村紗は腕を組み、首をかしげた。「私も結構探したけどね。何処かに隠れてるって事はないだろうし」

 

「ねえ、星を――なんかお悩み?」「星ならここにはいないらしい」村紗が首を振った。一輪も首をかしげた。「結構探したんだけど」「私らも同じさ」私はじっと猫を見ている。猫は腹を天に向け、転がりまわり――こちらを見た。何やら構って欲しげに、にゃおん、と鳴いた。

 

「あっ、猫だ」一輪はしゃがみ込み、猫の腹を撫でている。「この辺に猫なんていたかな?」村紗も頭を掻いてやっている。「虎柄――虎柄ですね」尼君は何やら思いつきそうな顔をしている。……こうなったら、隠しても仕方がないか。「聞いてくれ。この猫は、多分ご主――」

 

ガサガサ、と草むらが鳴った。私達はそっちを向いた。猫はそちらに歩き始めた。私はそれに続き――そこには、大きなダンボール箱があった。大柄な身体でも、すっぽり納まるくらいの。「まさか、な」いや、そのまさかか。私はダンボール箱に手をかけ、慎重に蓋を開き――

 

そこにはご主人が丸まっていた。さぞ気持ちよさそうに眠っている。「――君は馬鹿か?」私は呆れながら、ロッドでその背をつつく。「にゃうぅ」まるで猫めいた声を上げ、ご主人は寝転がったまま、こちらを見た。目をぱちくりとして、自分の身体を舐めまわすように見ている。

 

「さあ、帰るぞご主人」私が腕を引っ張ると、ご主人はゆっくりと立ち上がった。……おっと。ふらついた身体を支えてやる。そんな所で昼寝しているからふらつくんだぞ。やんごとなき用事を済ませ、寺の方に戻ろうとする――と、足元の猫がにゃうう、と鳴いた。何度も鳴いていた。

 

「――?」猫はご主人の足元にすがりつき、爪を立てた。こら、破る気じゃないだろうな。私はロッドで猫を牽制しながら、ご主人を寺へと連れ戻す。猫は相変わらずやかましい。私の予想は外れたんだ。お前も住処に帰るがいい。虎柄を一瞥する。猫はもう、追いかけてはこなかった。

 

―――

 

  ―――

 

この頃のご主人は何処か奇妙だった。呼ばれてもまともな返事をしない。まるで猫のように、にゃう、と返すだけだ。それでも仕事は普通――いや、普段以上にこなしていたので、いつものように寝ぼけているのだと、全員が思っていた。ただ一人、私を除いて。違う。何かがおかしい。

 

今のご主人から漠然と感じられるのは、屏風の虎のそれではない。もっと卑近な――そう、猫のような。私にすり寄る仕草も、膝に頭を乗せるそれも、以前とは異なっているようだ。……いや、以前からそんな事をしているのも、いい大人としておかしいと言えばおかしいのだが。

 

――そういえば、しばらく宝塔を見ていない。どうせまたなくしたのだろうと放っておいたが、どうも最近のご主人はやたらにモノを整理していた。まるで見るのを嫌がるように。よもや、宝塔もそうだとしたら、或いは――わざとなくしたのか? あくまで、ただの推測に過ぎないが。

 

「――ああ。ご主人はどうしてご主人なの、か」ご主人を定義するのは肉体か? それとも精神か? それとも? 私は難しい事を考えていた。もしも今のご主人がご主人でないとすれば、私達は化かされている。如何にも怪しい化け狸もいるが――あいつは違うだろう。メリットがない。

 

ふと、あの時見かけた虎猫を思い出す。あの猫はご主人の冠を被っていた。箱の中のご主人から取ってきたにしては、奇妙だ。今思えば、私に何かを伝えたかったかのように思えてくる。あれはひょっとすると、本当にご主人だったのかもしれないな。冗談半分で、そんな事を思った。

 

――みゃおう。猫の鳴き声。声の主を探すと、瞳を潤ませた虎猫が、外にいた。随分と汚れてしまっている。私にも、猫を哀れむ心はあったのだろう。何か与えてみようか、と奥へ入ろうとすると――みゃおみゃお!――と、猫は激しく鳴いた。まるで、置いて行かないでとばかりに。

 

「仕方のない奴だな」私は猫に近付くと、猫は何度も振り向きながら、私を呼ぶように草むらへと消えた。何を言いたいのかは何となくわかった。私の疑念が正しいのだとすれば、猫は――己を証明する何かを示そうとしているのだ。私は靴を履き、その背を追う。鳴き声が聞こえる。

 

「――これは」猫の足元には、宝塔が半ば埋まるようにして転がっていた。こんな所にあったのか。私はもはや、この猫がご主人である事を確信していた。「君は、ご主人なのか?」猫はにゃおう、と鳴いた。私は宝塔を掘り出すと、偽物のご主人を探そうとした。しようとしたんだ。

 

――ううーっ、と唸り声が聞こえた。私は虎猫を抱き、振り返った。偽物がそこに立っていた。私はつけられていたのか。私は藪の中を走った。偽物は凄まじいスピードで追いすがってくる。逃げ切れない。……そうだ。宝塔を使えば。走りながらそれを掲げ、呪文を――くそ、駄目だ。

 

しばらく放っておいたからだろう。ガス欠だ。私の力では威光を引き出せない。宝塔を取り落としそうになりながら、小柄な身体を活かして、走り続けた。虎猫――ご主人をやらせる訳にはいかない。抱く腕に力がこもる。藪の中を必死に駆ける!――駆ける!!――駆ける!!!

 

その時だった。私は木の根に足を取られ、思い切り転んでしまった。宝塔と猫が遠くへと転がる。私は今、ロッドを持っていない。抵抗する手段はないんだ。それを知ってか知らずか、偽物は私の背に立っていた。ゆっくりと振り向く。その顔は、私への、ご主人への怒りに歪んでいた。

 

「わわ私を寄越せせせ」偽物が口を利いた。それは如何にもつたなかった。私は、猫と偽物との間に立ちはだかった。やらせはしない。やれなくても、やるんだ。今までもそうしてきた。今からもそうする。私は、あなたの従者なのだ。どんな時でも、その身を護ってみせる。

 

一瞬の後、偽物が私へと飛び掛かった。私はその顔に向けて砂を蹴り、背後に跳ねた。偽物はひるんだが、ご主人は無駄に丈夫なのだ。妖怪の力でも何度もいなせるとは思えない。私は一瞬、後ろを向いた。後ろを向き――咄嗟に、しゃがみ込んだ! 背には宝塔、そして虎猫――ご主人!

 

光条がその身体を幾重にも貫いた。ギャオオ!――と偽物は叫び、ひるんだ。うねる光がその身体を簀巻き状に拘束する。偽物はその場に倒れもがくが、その程度で抜けられるものではない。虎猫――ご主人は必死に宝塔を掴んでいた。やがて力を使い果たした宝塔から、光は消えた。

 

「お前は何者なんだ」私はもがく偽物を見下ろし、問うた。素直に口を割るとは思ってはいなかったが――意外にも、偽物は低い声で答え始めた。「わわ私は人に虎になりたかたた」その言葉を聞いた瞬間、ご主人の尾が二つに割れた。「ずっとといたかったた」偽物は涙を流していた。

 

「でももももういい」ご主人は飛び降り、偽物の身体に触れた。「からだかえすすす」やがて、二人の身体が光を放ち始めた。虎猫の身体がばたり、と倒れた。偽物も縛られたまま、動かなくなった。徐々に光が薄れ始める。二尾の虎猫がすっくと立ち上がると、私達の前から姿を消した。

 

「――ふわぁ」偽物――いや、ご主人が目を覚ました。「なんでしょう、とても長い夢を見ていたようです」ご主人がこちらを向いた。「ありがとうございます、ナズーリン。また助けられましたね」「いいんだ。それが務めだから」私が笑うと、ご主人もつられて笑っていた。

 

「それで、私はいつまで縛られたままなんでしょう?」「さあ?」宝塔の機嫌次第だろう。私は宝塔をご主人の懐にしまうと、身体をぐい、と持ち上げて、寺の方へと歩き始めた。「皆が心配してますね」「案外していなかったぞ。むしろ偽物の方がよく働いたかもな」「えっ?」

 

ご主人をおちょくりながら、私はふと、あの猫の事を考えていた。虎になりたかった。人になりたかった。猫は確かにそう言った。虎であり人である、なんてのは、確かにご主人だけだろう。しかし、少しばかりガードが緩すぎないか? 私は呆れて――安堵の笑みをこぼした。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「猫を拾ってきたぞ。どうだ、かわいかろう」

 

「げげっ!?」

 



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あるんです。宝塔

―あるんです。宝塔―

 

宝塔がなくなった。

 

今回ばかりはご主人に非はない。いや、非を自覚させる為とでも言えばいいのか。それはともかく、ご主人の手元から宝塔は消えた。私が密かに隠すからだ。さっき、無防備に昼寝をしている姿を横目に見ながら、棚から堂々と持ち去った。――ああ。如何にも危機感がなさ過ぎるぞ。

 

大体、いつもご主人は宝塔をなくしている。たまに保有していると言った方が正確だろう。必要な時には手元にあるのですからつまり、今は必要がないからなくなったのです――等と言い訳をするが、それは私が毎回探してきてやっているから、ヘマをせずに済んでいる訳であってだな。

 

寺から飛び去りながら、手元のそれを眺める。最初にこれを探した時は、大変苦労したものだった。千年も前に散逸した財宝の足跡を辿るなんてのは容易ではない。方々を飛び回った挙句、最終的にそれは悪辣な古道具屋の手に渡っていて――よそう。思い出すだけ、腹が立つだけだ。

 

それでもまあ、大事に関わる使命感はあった。事実それは立派に役目を果たし、尼君を復活させるという目的は達成された。若干の計画違いはあったにしろ。しかし宝塔は、ご主人の元に在り続ける事を良しとしなかった。格好良く言えばな。実際の所は、ご主人は失せ物の天才という事だ。

 

宝塔に限らず、物をとにかく、よくなくす。酷い時には、探して渡した瞬間に既になくしていた。もし手品の類なら拍手喝采だろう。あまりにも手際が良すぎる。わざとやっているのではないかと疑った事もあったが、普段からぼんやりしているご主人がそれほど器用だとも思えない。

 

案外、本当に≪財宝が集まる程度の能力≫の一側面なのかもしれないな。九割方の諦観と共に、そんな事を思うと、私はため息をついた。しかし、しかしだ。現実問題として生活に支障が出ているようでは本尊としての威厳にも関わる。気持ちを入れ替えてもらう。それが今作戦の目的だ。

 

人里の上空を抜け、しばらく飛び続ける。うららかな春の陽気が心地良い。こんな馬鹿らしい事をしていないで、私も昼寝でもしてやろうか。思いはするが、それではご主人の為にならない。心を鬼にして――常に鬼寄りの気質である自覚はあるぞ、私にだって――私は自宅へと向かう。

 

やがて目下にそれは見えてきた。無縁塚。その境界線上にほど近い崖の傍。こっそりと隠れるように建っているのが私、ナズーリンのハウスだ。小さな掘っ立て小屋だが、一人暮らしか、多くても二人だ。これでいい。私はスイと高度を落とすと、裏手に当たる崖の上に着地した。

 

持ち歩いている荷物袋から小さなシャベルを取り出し、穴を掘り始める。今からここに宝塔を隠すのだ。ついうっかり、場所が分からなくなった――なんて、酔っぱらったリスみたいなヘマはしない。安置した上から手早く土を被せ、掘り起こした跡が容易には分からないように細工した。

 

これでもう、誰も宝塔を見つけられない。私以外には、な。ご主人も直に宝塔をなくした事に気付くだろう。その時には言ってやるのだ。私にも分からない、と。安易な気持ちでいたご主人は一通り慌てるだろう。深く反省した所で、事情を明かして宝塔を返す。一種のショック療法だ。

 

勿論、宝塔に万が一の事があれば大変な事になる。もしくは、単に自力で見つかってしまえば意味がない。だからこうして、ご主人の与り知らぬ場所に隠しておく。ご主人が反省するまで、宝塔は出てこない。我ながら、悪くない作戦だと思った。ご主人は素直で、単純なのだ。

 

――さて、後はご主人が気付くのを待つだけだ。いくら探しても宝塔が見当たらないとなれば、直に我が家を訊ねてくるだろう。こっそりとな。実際、寺の連中は皆気付いているらしいがね。俄かに浮かんできた笑いを噛み殺しつつ、私は家に戻ると、ベッドにどさりと寝転がった。

 

大の字のまま、しばし黙考する。毘沙門天代理の監視役、なんてのはとうの昔に有名無実なものだ。名も無き屏風の虎――ご主人はよくやっている。非の付け所がないくらい優秀だった昔も、少しばかり親しみやすさに振り過ぎている現状も。毘沙門天様は役目を問いはすまいよ。

 

私からしたって、そうだ。千年の時を共に過ごし――今更、その性質の何を疑うものか。だが――そう思う傍らで、口うるさく苦言を呈したくなる自分がいるのも確かなのだ。これは私自身のエゴというものだろう。今のご主人を否定したい訳ではない。だが、それでも比較してしまう。

 

ご主人には立派であって欲しい。代理として完璧であって欲しい。自分はその一助とならねばならない。――考えてみれば、おかしな話かもしれないな。単なる監視役が、そこまで入れ込む理由はない。分かっている。かつて私はご主人の≪不実≫な部下だった。そして、今もそうだ。

 

一人で寝るにはあまりに大きすぎるベッドで、ごろりと寝返りを打った。代理として完璧に優秀だった昔の主の姿を思い出す。それは朧げだ。今よりも随分と痩せて、しかし強靭な肉体。野性の虎の如き鋭い瞳。惰弱者は近寄る事も出来ないオーラ。尼君の隣で、君は偉容を誇っていた。

 

今の財宝神としての側面ではない。武神としての佇まいだった。やがて寺を失い、尼君を失い、仲間を失った千年の間に、ご主人は変わった。私が変えたと言ってもよかった。ご主人はあまりにも傷付いていた。その傷を癒す為に、私はしてやれる事なら――そうだ。何でもしてやった。

 

――要するに、徹底的に甘やかした。間違いだったとは思っていないが、今思えば明らかにやり過ぎた気もするな。私に四六時中ベッタリだった一時は、一人では着替えもできない有様だった。船長や一輪が戻ってくる前に改めさせておいて良かったな。流石に威厳もへったくれもない。

 

――まあ、そういう経緯で、私は折に触れて小言を吐くようになった。自分がそうさせたのだから、しゃんとさせねばならないという自負がない訳でもない。しかし、長年の偏愛と平穏でとぼけてしまった頭は早々、以前のようには回らないものらしい。今では一端の昼行燈だ。不甲斐ない。

 

頭の中に、ご主人の曇りなき笑顔が浮かんだ。まったく君はだめなやつだ。でも、君がそういう風に笑えるのは――そうだ。嬉しいんだ。今のご主人は間違いなく幸せだろう。そして私も、悪い気分であるはずがなかった。眠気を覚え始めた身体を抱き込みながら、私はにやついた。

 

窓から差す日が私の身体を温めていた。ああ、どうしようもなく平和だ。私もその実、危機感が足りていないのかもしれないな。瞼がどうしようもなく重い。少しだけ、ご主人が現れるまで、眠ってしまおうか。そう思った時には既に、私は意識を手放してしまったらしく――

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「私だって好きでなくしている訳ではありませんよ」心地よい春の空に浮かびながら、私は独り言ちました。言い訳――いえ、釈明の練習です。事実、好きでなくしている訳ではないのですから、これはまったく正しいのです。「ただ、宝塔の方が、私の傍に固定される事を良しとしない」

 

実際、これも事実ではないかと。私の能力で集まる財宝は、やがて然るべき理由によって私の元から離れていくものです。ならばそれは、まことの財宝である宝塔も例外ではないのです。たぶん。おそらく。きっと宝塔の側にも、じっとしていられない事情があるに違いありません。

 

ナズーリンに迷惑をかけている自覚は、勿論あります。思えばそれは、あまりにも当たり前になり過ぎているかもしれません。昔はこうじゃなかったのに。ナズーリンは時折、そうやって私に自省を促します。昔は、そうではなかった。その通りだったのでしょう。記憶は既に曖昧です。

 

ナズーリンに叱られる度に、思いはするのです。このままではいけないと。しかし今の私は、昔のようにはっきりとしていません。裏で昼行燈と揶揄されているのは知っています。それは事実でした。悔しいとも思います。しかしそれも、安穏の合間ですぐに忘れ去ってしまう――

 

私は迷っていました。目の前にナズーリンの小屋があります。訊ねればきっと、すべてが解決するでしょう。しかしそれを良しとすべきなのか。私の中に少しばかりの躊躇いが――私だって悩んだりします――生まれました。それはつまり、性懲りもなくナズーリンに頼る事になります。

 

もう少し――いいえ、見つかるまで自分で探すべきです。でも、本当に見つかるでしょうか。――いやいや、最初から諦めてどうするのですか。見つけるのです。そうすれば少しはナズーリンも私を見返してくれるでしょう。私は頭をぶんぶんと振ると、不安を振るい捨てました。

 

片足を踏みしめ、私は気合を入れました。「やってやりますよ!」私の決意を、どうやら大地も後押ししてくれているようでした。どぉん、と周囲が沸き立ち――沸き立ち?「わわっ!?」体勢を崩して、その場にひっくり返ってしまいました。地面が揺れています。地震です。大きい。

 

この辺りでは滅多にある事ではありません。私は苦労して立ち上がると、咄嗟にナズーリンの小屋を見ました。地面は未だに揺れ続けていますが、小屋が倒壊するような様子はないようです。とりあえず安心ですね。袖で冷や汗を拭うと、顔に小石が転がってきました。……えっ、小石?

 

上を向いた瞬間、私は目を見開きました。ナズーリンの家の裏にある崖は、地震の影響をもろに受けたようでした。いくつか崖崩れが起きています。特に天辺はひどい。崩れた先端が大きな岩塊となって、転がり落ちそうになっていました。今にも。今にもです。その、真下には――!

 

「ナズーリン!」私は慌ててナズーリンの名を呼びました。幾度も呼びました。しかして返事がありません。留守なのでしょうか。それならまだ救いはあります。しかしもし、まだ中にいるとしたら――?「ナズーリン!!」岩がずり落ち始めました。今から飛び込んで、間に合うか!?

 

私は必死に小屋へと駆け寄り――ませんでした。

 

それは天啓でした。私は視界の隅に、なくしたはずの宝塔が崖から転がり落ちていくのを見ました。咄嗟に手を掲げ、念じると、宝塔は私の手元に飛び込んできました。それは私の手にしっくりと収まりました。落下する岩を見据え、私は叫びました。高らかに、叫びました。

 

「――光よ――!」

 

瞬間、宝塔から威光の帯が放たれました。照射は一瞬でした。一瞬で構わなかったのです。それは一瞬で小屋の上空へと到達し――落下する岩が、光の奔流の中に掻き消えていくのが見えました。後には僅かな砂粒も残りません。これこそが宝塔の力の一端。恐るべき、破壊の力です。

 

――やがて地震は収まり、周囲に平穏が戻ってきました。まるで何事もなかったかのように。転がった小さな岩や大きな岩だけが証人です。「ご主人?」小屋の扉がガタガタと音を立てて外れると、ナズーリンが顔を出しました。「――如何にも間が悪かったな。怪我はないかい?」

 

「大丈夫ですよ。あなたこそ」私は微笑みかけました。「私は何ともないさ」その場でナズーリンはぐるりと一周しました。確かに何ともありませんね。本当に良かった。「で、今日はどうしたんだい」ナズーリンが、平静を装った顔――何故か、内心嬉しそうな顔――で、問いました。

 

「あ、いえ、その――アレです。宝塔をですね」「またか――と言いたい所だが」ナズーリンは怪訝そうな顔をしました。「どうしたんだ。持っているじゃないか、宝塔」私の手にあるそれは、確かに宝塔です。間違いなく。「ええ、あるんです。宝塔」「――どういう事だ?」

 

ナズーリンはしきりに不思議そうな顔をしていました。そんなに私が宝塔を持っているのが珍しいのでしょうか。のでしょうね。はい。「やはり必要な時には、この手に戻ってくるものなのですね」「――は?」私は運命的なものに思いを馳せながら、宝塔を懐に仕舞いました。

 

「まあ、いい。さっきので部屋の中がめちゃくちゃなんだ。何ももてなせないぞ」「片付けを手伝いますよ」「ご主人に頼むほど血迷っちゃいないよ」首を振るナズーリンの顔を見て、私は笑いました。「座る所くらいはありますよね」「ああ」ナズーリンもまた、笑い返しました。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「――さっき懐に仕舞ったよな?」「そのはずなんですが」

 



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―ギャグ―
蒼き死よ、来たれ


―蒼き死よ、来たれ―

 

清蘭が死んだ。

 

私が殺した訳じゃない。お茶を運んできた清蘭が、タンスの角に小指をぶつけて、つんのめった勢いのまま椅子の角で頭をガッチンしたんだ。それで清蘭は死んだ。「…清蘭? おーい、清蘭?」私の呼びかけに、清蘭は答えなかった。脈を取る。…ああこれ完全に死んでるわ。

 

「どうしたもんか…」冷静に考えていられる状況ではないのだが、私だって混乱している。玉兎もこんなつまらない事で死んでしまうんだな。「仕方ない、とりあえず外へ運――あれ?」そこには清蘭はいなかった。もとい、清蘭の死体は転がっていなかった。零れたはずのお茶の跡も消えている。

 

「いや…これは、どういう事だ…?」確かに死ぬのを見たはずなんだが。…いや、もしかしたら白昼夢かもしれない。最近疲れているのかも…「鈴瑚」呼びかけられて振り向く。そこには…清蘭がいた。「どうしたの、そんな顔して」いやいやいや…これは、本当に疲れているのか…?

 

「今日は何食べたい? 何でも作っ――」清蘭は高い所に手を伸ばしていた。その時…調理器具がドカドカと落っこちてきて…清蘭の姿は一瞬で見えなくなった。「…おーい、清蘭?」私の呼びかけに、清蘭は答えなかった。邪魔な山を崩すと、胸に包丁が突きたった清蘭が、死んでいた。

 

「いや、ちょっと待てよ、これは…」私は視線を外した。少しばかり考えて、そちらを向き直す。…調理器具どころか、清蘭の姿も消えていた。「鈴瑚」私の背後から、声がした。「つまり、こいつも…」「…どうしたの? …それよりこれ、天ぷらにしよう!」――ああ、読めるぞこれは。

 

「ギャーッ!!」天ぷら火災に巻き込まれて、清蘭は死んだ。「スイカ食べようよ!」頭を果肉塗れにして死んだ。「見て、変な海魚!」毒に当たって死んだ。「今日は洗濯日和!」シーツが首に絡まって死んだ。「アバーッ!?」家の外でクマに襲われて死んだ。「ファイアーダンス!」死んだ。

 

「――清蘭が死に続ける?」訳がわからなかった。清蘭は死に続けては、跡形もなく消えていた。視線を外す度、今も清蘭は死に続けている。じっと見つめていても無駄だった。視線を外さなくても、清蘭は死ぬ。視認しなければ、そこらに死体が増えていく一方だ。

 

「…いいから、清蘭は座ってて!」私はとりあえず清蘭を動かさない事にした。それなら流石に死なないだろう…「ITEッ!」天井が剥がれてきて、清蘭は死んだ。…駄目だ。どう足掻いても清蘭は死ぬ。もう、ここから逃げ出そう。私は勝手口から外へ飛び出し――玄関に飛び込んだ。

 

「…!?」戻っても同じだ。窓も試したが、何処かしらの内側に繋がってしまう。その間にも、窓拭きをしようとした清蘭が死んだ。靴を揃えようとした清蘭がひっくり返って死んだ。風呂には窯茹でになった清蘭が浮いていた。いっそ壁を割ってしまおうと思ったが、びくともしない。清蘭が死んだ。

 

「…一体どうしろって言うんだよ…」私は無力感と共にへたり込んだ。風呂でドライヤーかましてた清蘭が死んだ。階段で将棋倒しになって清蘭が五人死んだ。やれやれ、日常に潜む危険って奴か…ん、待てよ? 危険――そうか! 私は一つのひらめきを得た。これで駄目なら、万策尽きる。

 

もし、そうなら…「確か、あそこにあったはず…!」私は自分の部屋に飛び込むと、書籍に潰されている清蘭を無視して、棚の中を漁る。そこに入っていたのは啓蒙ポスター。いくつか掴んで、飛び出した。扉にぶつかって清蘭が死んだが、今はそれどころじゃない。

 

押しピンを踏んで清蘭が死んだ。リビングの壁に、それを押しピンで貼り付けた。「日常に潜む危険」「火の始末」「ヤンバーイ」「ご安全に」「確認ヨシ!」「クマ出没注意」と描かれたポスターを次々と貼っていく。その間にも清蘭は死に続け…なかった。死の連鎖が止まったように思える。

 

「ははは、なんとかなった…」あの清蘭達は、或いは日常に潜む危険の発現だったのかもしれない。清蘭でなくても、簡単な事で人は死ぬ。ある意味で死は日常なのだ。それを清蘭達は教えてくれていたのか。まあ、とにかく、これで清蘭が死に続ける事はなくなった訳だ。

 

「…それで、私はどうすればいいんだ?」何処を覗いても清蘭はいない。やはりこの空間からは逃れられなかった。ただただ、シーンとした空気だけがある。私の心に一つの恐れが浮かぶ。…ひょっとして、二度と出られないなんて事はないよな…?

 

(鈴瑚)…後ろを向いた。誰もいない。確かに聞こえた。あれは清蘭の声だ。(鈴瑚、起きてよ鈴瑚)起きる? 私は試しに頬をつねる。痛くない。つまり、これは…

 

―――

 

  ―――

 

「鈴瑚、起きてったら!」私をゆするだけでは飽きたらず、彼女は耳を激しく引っ張っている。「痛い、痛いよ清蘭…」「起きない方が悪い」清蘭はぷんすこと怒りながら、台所へ向かった。…夢か。それにしても、変な夢だった。たしか最初は、タンスに小指をぶつけて――

 

「はい、お茶」

 

小指が、タンスへと近づいていた。



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兎達と地の文

―兎達の地の文―

 

「おい、地の文」鈴瑚は何処へともなく話しかけた。「お前が何でも決めるから、なんかもうめちゃくちゃじゃないか。私達はおもちゃじゃないんだぞ」第四の壁へ蹴りを入れた黄色い兎は、虚空をじっと睨みつけている。そちらには何もない。あるはずがないのだ。地の文は地の文だ。

 

「清蘭は死ぬし、私は死ぬし、鈴仙だって死んだ。かと思えば生き返るし、清蘭は死ぬし、私なんてメカ化するし、清蘭は死ぬし――清蘭はいいか。清蘭だし」相方に対して極めて不適切な台詞を放つと、鈴瑚は仁王立ちで虚空を見た。そちらに地の文はいない。地の文は何処にもいない。

 

「なんかこう、もっとあるだろ? 私達が平和に暮らしてる話とか――童貞丸出しの奴があったけど、あれはノーカンだ。ノーカン――それとも活躍してる話とか――無限に死ぬ清蘭に対処したりはしたっけ――鈴仙なんてカッチョいい特殊部隊の話があったじゃないか。ああいうのがいい」

 

「――事務方がバトるのは書類と傲慢不遜な社員でしょ?」何処からか現れたのは、鈴仙。「私だってハッピーエンドじゃないわよ。頭パーにされたり頭パァンされたり」狂気の瞳に渦巻きをぐるぐるさせながら、鈴仙の指が虚空を狙い定めた。地の文は観測できない。できないものは、できないのだ。

 

「大体、地の文って何なのよ。どういう現象? …大体、現象なの?」鈴仙の疑問は尤もであったが、それに説明をつけられるものは誰もいない。如何なる登場人物も地の文には逆らえない。――しかして、地の文にも逆らえないものはある。

 

「何やってるの、私も入れてよ!」不意に清蘭がポップした。「清蘭はいいんだよ」「入れてよー!」「…状況が悪化するばかりだから座ってて、お願い」青い兎は同郷の士らのいささか乱暴な説得に応じ、体育座りをさせられていた。そこまでされる謂れはない。

 

「私ぁいくらか心当たりがあるよ」トン、トンと跳ねながら、てゐが割って入った。ウインクされた鈴仙は、酷く赤面していた。「師匠が言ってたね。世界には私達の生きるそれよりも高い次元とやらがあるって。それは私達からは決して見えないし、聞こえない」にやけながらてゐは語った。

 

皆が顔を見合わせる。清蘭はスネていた。兎達は、自分達が今の自分以外の記憶を持っている事に違和感を覚えていた。死の記憶も、恋の結末も、或いはギャグ漫画めいたそれも。まるで自分が複数いたように。もしそれが、何者か――例えば、地の文――の手によるものであるとするなら。

 

「まあ、信憑性はあるね。永く生きているとさ。なんかこう、時々――自分が必然によって突き動かされている気になったりしない?」てゐの言葉は、月の兎達にとってもそれなりの理解を得られるものであった。数ある選択肢から一つを選び取る。成功を確信して突き進む。思い当たる節はあった。

 

「ひょっとしたら、私達に自我なんてないのかもしれない。――師匠も難しい事を考えるもんだ」兎達は再び顔を見合わせた。「でも、今この場で話をしている私達は確かに存在している訳でしょ?」てゐが軽くステップを踏んだ。「なら、何にも考える必要はないわ。私は、私だ」

 

鈴瑚が静かに頷いた。「確かに、私はここにいる」鈴仙が髪をかき上げた。「私だっているわ」清蘭がぼやいた。「…私だっているよー」全員の意志が、一つになった。全員が振り向き、闇の中を見た。地の文を探そうというのだ。それは無駄だ。彼らの次元から、地の文は決して見つからない。

 

――その時だった。劇的な変化が起こったのは。

 

闇に囲われた空間に、突如としてまばゆい光が差し込んだ。各々の影が、長く長く伸びた。「な、何これ!?」鈴仙は波長を操り、己へ降り注ぐ光を弱めた。鈴瑚は深く帽子を被り直した。てゐは素早く手で目を隠した。清蘭は――スネていたので、無事だ。「エッ何?」今しがた、無事ではなくなった。

 

まるで目張りした窓を開くように、光はまばゆく感じられた。「――あっちよ」鈴仙は仲間を己の周囲に集めた。鈴瑚が気絶した清蘭を担ぎ上げた。今は光の方向へ進むしかないと思ったのだ。一つの心を抱き、光の向こう側で、兎達は―― 達は―― は― はは達はは――ははhahahaaa

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――飽きた」

 

私はキーボードから手を離し、一人ごちた。

 



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いたずらな蝶々

―いたずらな蝶々―

 

私達は死んでしまった。

 

よもやよもや、大黒柱どころかありとあらゆる柱が折れるなんて思わないだろう。きっとシロアリの妖怪がいたに違いない。…そんな事はもうどうでもいいんだけどさ。皆々様の予想通り、私達は家に潰されて死んだ。声を上げる暇もない。或いは清蘭は逃げ…られてないな。清蘭だし。

 

死んでしまったら案外、現世への執着なんてなくなってしまうものらしい。私達は――やっぱ死んでるじゃないか――何処とも知れぬ場所を通り、やがて曼殊沙華が咲き乱れる何処かへと辿り着いた。…これは、あれか。三途の川。ギイコ、ギイコと船がやってくる。

 

「お前さん達は…玉兎? 珍しい事もあるもんだ」如何にも実用性のなさそうな鎌を持った女が、私達を値踏みするように見つめた。そうだ、玉兎の魂は月に昇るのではなかったか。「取り違えでもあったのかね」あの世も案外いい加減だな。私はやれやれ、と呆れてみせた。通じなかったが。

 

「今日はお客が少なくてね。お前さん達だけだ」女はこちらに手を伸ばした。「前払いだよ、ほら」…確か、渡し賃がいるんだったか。ポケットを探る。…ない。まったくない。何でさ。現世で何か悪い事でもしたってのか。…あんまり良い事もしてないけどさ。

 

「貸したげるよ、鈴瑚」清蘭の手には溢れるほどの銭が積み上がっていた。おい地獄。お前らの基準おかしいだろ。「いらないの?」…そもそも融通していいものなのか? 私は女の方を見て…そいつは居眠りしていた。これならわかんないか…

 

舟を漕いでいたサボリ野郎は、私達が乗り込むと流石に目が覚めたらしい。渡し賃を押し付けると、目を白黒させていた。清蘭お前一体何したんだよ。…それはともかく、船は三途の川をずいずいと進み始めた。あーあ、私もこれで死人の仲間入りか。マシな所に堕としてくれりゃしいけど。

 

清蘭は特に悩んだ様子もなく、川を見ている。落っこちたらえらい事だぞ。そう思ったが、言葉にはしなかった。どうせこの先に行けばお別れだ。…そんな事を考えていると、不意に船が減速し――止まった。「あれ? あれれ?」女にも理由はわからないらしい。一人と二匹、川の上。

 

その時だった。私は頭上にくすぐったいような感覚を覚えた。清蘭もそうらしい。「ちょっと、おい! 途中下車は困るよ!」女の姿が遠くなっていく。…ちょっと待て、つまり私達は、何処かへ引っ張られているんじゃないか? 私の疑問を他所に、私達は上へ、上へと――

 

―――

 

  ―――

 

『目を覚ませ、玉兎よ』

 

『んん…』『ふわあ…』ここは…何処だ? 今日はあっちこっちに引きずりまわされるな。そんな事を考えながら、立ち上がると――そこには、光に包まれた人の型が立っていた。『ひゅい!?』『何よ鈴瑚、変な声出して』お前、この事態に慣れてきただろ。『ところで、誰?』

 

やりとりは玉兎回線で行なわれた。テレパシーだろうか。『私は光の神』やにわに光の神は私達を指差した。『清蘭だよ、よろしくー』『…鈴瑚です』こいつと組んでたら何回殺されても文句は言えない気がする。…うん? そういえば私達は、死んだんじゃなかったか?

 

『何事にも手違いはある。許せとは言わないが』きょ、恐縮です。『手違い?』『お前達はあそこで死ぬはずではなかった』光の神は私達を指差したまま、かっこいいポーズを決めた。『バタフライエフェクト。つまり、お前達の家が倒壊するのは運命の必然だった』光の神はポーズを解いた。

 

『だが、その運命こそが捻じ曲げられたもの』光の神は更に難解なポーズを取ろうとして――慌てて背中を叩いた。攣ったらしい。『私にも慈悲の心がある。そこでだ、お前達は生き返らなければならない』『生き返る?』『生き返らせてくれるの?』咳払いをしながら、光の神は頷いた。

 

『本当に申し訳ないと思っている。許してくれるだろうか。許してくれるね。グッドラビット』

 

そう言うと光の神は、凄まじい威圧感と共に、私達の頭へと叫びかけた。

 

『おお、玉兎よ! 死んでしまうとはなさけない!』

 

精神を震わせるような声が響く。光の神は大仰にポーズを決め、私達を指差した。

 

『――そなたらにもう一度、機会を与えよう!』

 

『もう一度、機会を…』『えっ、どういう事なの?』私達は言葉の意図を計りかねたが、世界が…何かが変わった。何か…歯車。そう、まるで歯車が違う歯と噛み合ったような…

 

―――

 

  ―――

 

「――はっ!?」「えっ?」今日はよく目を覚ます日だな。私は頭痛を紛らわせる為にカーテンを開き、インスタントコーヒーを淹れ――うん? 「ねえ鈴瑚、家が元通りになってるよ」そうだ! 私達は家に潰されて――どういう事だ? 二人が同時に同じ夢を見るなんてのもおかしい話だ。

 

「おーい、いるかい?」ドンドン、と遠慮のないノックが耳を衝いた。聞いた事のない声…いや、ごく最近に聞いた事のある声だ。誰だろう。押し売りだったらお引き取り願わなきゃな。私は扉を開けた。…特に何も考えず。

 

そこにはさっきの――さっきか?――女が立っていた。「どうも、死神です」はあ、死神――おい、死神だって? 「御命頂戴」鎌がギラリと光る。「ずらかるぞ、清蘭!」私の指示もそこそこに、清蘭は素早く裏口から逃げ去った。私は咄嗟に戸棚の上から拳銃をひったくり、構える。

 

「このままだと映姫様に怒られ…いや、死神の沽券にかかわるんだよ! 頼むからもう一回死んでおくれ!」閉所で大鎌はどう考えても不利だ。私は慎重に距離を取り――その瞬間、私は鎌の射程範囲にいた。「!?」横薙ぎの死を咄嗟に飛び上がってかわす。

 

前方に拳銃を撃つが――やはり瞬間、私は戸口の外に移動させられていた。弾が切り払われる。「無駄だよッ!」鎌から放たれた閃光が私を真っ二つにしようとする。咄嗟に横に転がって、なんとかかわせた。攻撃の正体が掴めない。…だが、私の反応速度を舐めるなよ。

 

死神と睨み合う。拳銃の弾はまだある。さっきから起こっている不自然な移動は、どうやら死神から見て直線上に起こっているように思える。ならば。清蘭なら、必ずやってくれるはずだ。私は地を踏みしめ――死神を中心に円を描くように走った。なるべく遠ざかるように。

 

私は散発的に拳銃を撃った。遠距離は私の距離だと見せかけるんだ。それなら。「はっ、何処へ行くのさ!」死神が私の身体を引き寄せた。鎌の射程距離。鎌が振り下ろされ――

 

清蘭の狙撃が、死神の鎌を弾き飛ばした。即座にそれを引き寄せようとするが…ここより先は、私の距離だ。「くらえ!」無防備た身体に必殺のソバットをかました。起き上がろうとする死神の身体を踏みつけ、拳銃を突き付ける。「…もう、やめないか?」これ以上は私だって持たない。

 

転がっていた死神の鎌が消えた。「ああ…」私が足をどかすと、死神は埃をはたきながら立ち上がった。「今回はあたいの負けって事にしとくさ。だが生憎と、死神は粘着質でね」死神は私を、茂みに隠れていた清蘭を見た。「しかしまいった、これじゃお説教不可避じゃないか…」死神はぼやいた。

 

死神が飛び去るのを見て、私達はほっと胸をなでおろしていた。…あんなのがさいさい来るんじゃ気も休まらないが。「生き返っても厄介事は続くもんだな…」「どうも、厄介事がやってまいりましたよ」不意に声がした。またぞろろくな事が…と思って振り向くと、そこには微笑みがあった。

 

直接面識はなかった気はするが、確か…「あ、ドレミーちゃんだ」「どーも、ドレミー・スイートです」アンニュイな微笑みを浮かべながら、彼女は浮遊するピンク色の何かに身体を預けていた。たまに千切っては口に入れてムシャムシャしている。…食べられるのかそれ。

 

「今日はちょいとばかり、ご挨拶に参りまして」「挨拶?」私が疑問を浮かべると、ドレミーさんは帽子の中から――何処に入れてるんだ――そばの入った箱を取り出した。「おそばです。どうぞ」「あっ、いやこれはどうも」…そば? そばって言うと、確か…

 

「この辺り――いえまあ、この場にはないのですが、ええ。ご縁がありますもので、引っ越しそばをですねぇ、お持ちいたした訳です。ふふふ」ドレミーさんのいう事はよくわからなかった。この辺りは私達の家しかなかったはずだが、間違えたのだろうか。…流石に、それはないか。

 

「しかし災難でございますねぇ。御宅が全壊した時は如何にも驚きましたが、誰かさんのお力であっという間に元通り。いわんや、あなたがたも」周囲に浮かんだ羊の毛をむしりながら、ドレミーさんは語った。…私達の家を元通りにした? 一体誰が…? 「ドレミーちゃん」

 

「ひょっとしてこれ、光の神のせいなの?」「ええまあ、無関係と言えませんねぇ」ドレミーさんは尻尾を振った。「バタフライエフェクトってご存じ?」…確か、蝶の羽ばたきが裏側で嵐を起こすとか、そういう話だったか? 「そう、いたずらな蝶々です」私達を覗き込む。

 

「私もそれなりの倫理観というものを、ええ、持っているものでしてぇ。少々お話しておいた方が良いかと思いまして」眠そうな目が少しだけ開いたように思えた。「夢の世界にはご縁があるでしょう? ええ、槐安通路のそれです。それを少し、私的利用されるお方がおりましてねぇ」

 

「彼女は夢の中にお家を構えようとした訳ですよ。何者にも邪魔されない別荘ですね。はい。ただ、しがらみもあってそれは難しかったようで――彼女は最悪の手段を使ってしまった訳ですねぇ」…ああ、なんとなく事態が掴めてきたぞ。清蘭はつまらなさそうだ。まあ、お前はそれでいいんだよ。

 

「さて、あなたがたは蘇りましたが、そのせいで死神に追われる身になってしまった。運命は常に未知数な訳ですねぇ、ええ。これからは死ぬまで死神とお付き合い。健闘をお祈りしますよ、ええ」恐ろしい事を言いながら、ドレミーさんは変わらずの微笑みを返した。なんか怖いよこの人。

 

「運命の歯車というものは誰にも制御できない。あなたも。私にも。いわんや彼女にも。どれだけ覚悟をしていても、ええ、そうなるものは仕方がない。それが世界の選択です」指をぐるぐると回した。「つまり、あなたがたは歯車の犠牲になった訳です。何の謂れもなく」指を跳ね上げた。

 

「一緒に住もうって言ってくれた時は、ええ、たいそう喜びましたよ。私。ただちょっと、おいたが過ぎましたねぇ。私にも責任の一端はある」ドレミーさんは頭を下げた。何故か私達も。これでチャラという雰囲気はあった。そもそもドレミーさんに非がある話でもないように思えるが。

 

『――待ちなさい、ドレミー!』

 

その時、ドレミーさんの背後から飛び出してきたのは…サグメ様だ。『それは秘密にしておこうって言ったじゃない!』『おや、秘密にしていますよ、ええ。まだ誰が犯人とはおくびにも出しておりません』『…!』…ああ、だいたい予想はしてましたが、やっぱりそうですか。光の神。

 

『…えー、オホン。私は無関係だ。本当に』いや、それじゃ清蘭も騙せないと思いますよサグメ様。『無関係なの?』騙せるかもしれない。『犯人が出てきては仕方ありませんねぇ。ええ。必死に懺悔してください。悪あがきは格好悪いですよ、サグメ』ドレミーさんはむしろ楽しそうだ。

 

『…まあ、今回の件は確かに私のせいだ。だが、こうなるとはまったく思ってもみなかった。許せ』『清蘭、どうする?』『やだ。許さない』まあそうだよな。『…要するに、ドレミーさんとの"愛の巣"を作る為に能力を使ったら、巡り巡って私達が死んだって訳ですか?』『…うっ』

 

『それを隠蔽する為に、私達を生き返らせたと』私の顔はきっと険しくなっていただろう。サグメ様は一歩後ずさった。ドレミーさんは無関係とばかりにアンニュイな微笑みのまま、事態を見物している。清蘭はなにやら楽しそうだった。今から始まる捕り物に期待しているように。

 

「ゆ、許せ――あっ」

 

「どう転ぼうと、許しませんからねッ!!」

 

キレてしまった私と遊び半分の清蘭とで、家の中をドタバタと追いかけまわした。ドレミーさんの姿は見えない。…サグメ様はやたらと脚が早い。だがしかし、清蘭が足を捕まえた。よし、ここでサブミッションを…うわっ、飛び跳ねるんじゃない! 暴れたらぶつかる! そこは柱、柱だって!!

 

 

 

――柱が全部折れて、私達は死んだ。

 

 



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サイコセイラン

―サイコセイラン―

 

「私はバカにされすぎだと思う」何だい清蘭、またなんか変な事思いついたの?「ほら、そういう所がバカにしてるって言うのよ! 私だってかつてはサイコキャラとして売り出して――」すぐ冷めたろそれ。現状を受け入れなよ。私達ずっとコンビでやってきたじゃないか。「やだぁ!」

 

「そう言う事で、今日でコンビは解散! これからはサイコの異名を持ち異空間を自由に操る高貴なるスーパー玉兎として売り出してやるわ!」そりゃ結構な事だねえ。ところで清蘭さんや、サイコって言葉の意味、ご存じ? …清蘭はしばし考えて、わからないと言いたげな顔をした。

 

「――とにかく! 鈴瑚はもう私に構わないで!」怒った清蘭はその場に座り込み、何やら難しい顔で考え始めた。清蘭の考え休むに似たり…とまでは言わないけど、向いてないと思うよ。「ほらすぐそうやってバカにするー!」役割分担の話なんだけどな。まあ頑張るといいよ、清蘭。

 

―――

 

  ―――

 

――清蘭は買ってきたペンキで杵に血飛沫のペイントをしている。ぶっちゃけストロベリーダンゴ搗いた方が早いと思うんだけど。それで団子は私が食べる。「上手くいかない…」全部真っ赤にしたらただのクリスマスカラーじゃないか。緑でも足してやろうか?「うるさい!」

 

――「ケヒヒ、ケヒヒヒ…」なんだその鳴き声。「サイコの笑い声ッ!」どっからどう聞いてもただの変質者だと思うけどな。「ゲーッゲッゲッゲ、ゲゲゲゲ…」段々化け物みたいになってきた。それじゃジャンルが違うぞ清蘭。「どうだ、怖がれーッ!!」二番煎じかよ。

 

――「こう、毒を塗ったナイフで脅したりするとサイコっぽい」…展開が読めたぞ。「ケーッケッケッケ…オゴゴーッ!?」やっぱ舐めた。あれナイフによくないらしいよ。それはそれとして清蘭は硬直している。まあ麻痺薬で良かったな。今の内に荷物でも漁るか、なんてな。

 

――「狡猾で残忍な頭脳が必要なのよ」迂闊で残念の間違いだろ。「こう、殺人計画を立てたり、…それから、殺人計画を立てたり、…えーっと、殺人計画を立てたり…」ただの危険人物じゃないかそれ。実行性がまるでなさそうだ。「ええい、殺る時ゃ殺ればいいのよ!」それは通り魔。

 

――「シリアルキラーってのになってみよう」…意味知ってるの清蘭?「こう、えいやっとマルチキルすればいいんでしょ?」…それは大量殺人鬼じゃないかな?「…ところでシリアルって何? ケロッグ?」清蘭は納豆味が好きだっけ。今度買っとくよ。「ナイス」ナイスじゃないだろ。

 

――「サイコは思いもよらぬ場所から現れるのよ」…それでゴミ箱被ってる訳?「闇に潜んだサイコは通りかかった獲物をグサーッと…」カビクサイマンの間違いだろ。いいから早いとこ風呂入りなよ。「…そんなに臭う?」お近づきにはなりたくないかな…

 

――「サイコといえば返り血」ほう。それでそのざまですか。「…血糊の袋を開けようと思ったら爆発したのよ」返り血と言うより重傷患者だよ、それ。いっそ頭に包丁でもブッ刺しとけば相手も恐れるんじゃない?「あ、そうか、その手が…」どっちかって言うと怪物に分類されるけどな。

 

――「玉兎のメインウェポンといえば杵なのよ」別にウェポンにしろなんて言われてないけどな。「こう、鈍器でバシンバシンするとサイコっぽい」…前世の古傷が痛むから止めてくれないかな。「でもそれだと誰がやったか丸わかりよね?」杵で殺人事件を起こすなんて清蘭くらいだよ。

 

――「サイコはどんなものでも凶器にするのよ」さっきと言ってる事逆じゃないか?「うるさい!」それで、清蘭は何を凶器にするんだい。「灰皿」…灰皿?「伝統と格式がある武器らしいわ」それってドラマの話だろ。…ていうか、最近は灰皿置いていないお宅も多いんじゃないか。

 

――「サイコは脳波コントロールできるものなのよ」それなんか違うサイコだと思うけど。「指先からへにょりレーザー撃ちまくったらそれっぽくない? フハハ、怖かろう!」それって最終的にほぼ確実に死ぬけどいいのか。…気付いてないな。清蘭だし。

 

――「サイコと言えば前衛芸術」清蘭って前衛芸術とかわかるんだ。すごいね。「とりあえず死体を使ったオブジェとか…やだ血生臭い。キモイ」お野菜でタワーを作りながら清蘭は世迷言を呟いている。それで興奮するとかマジでヤバイ奴だと思うけどな。「やだキモイキモイ」…止めたら?

 

――「サイコは呪術にも通じているものなのよ」…そうか?「この呪いの藁人形をこう、打つ、打つ、打つ!!」具体的に誰か呪ってる訳?「誰かって?」…闇雲にやってたのか。ちなみに呪いって人に見られると何倍も返ってくるって説があるの知ってる?「あ゛あぁ、痛い痛い痛い!!11!」

 

―――

 

  ―――

 

「――で、どうだった?」「…無理かも」清蘭はあっさり弱音を吐いた。まあそろそろそんな気はした。「清蘭はそのままでいいんだよ。清蘭は私にとって大切な清蘭なんだから」「…うん。ごめんね鈴瑚」耳を垂らして清蘭は詫びた。そこまで怒ったりしてないけど…まあ、いいか。

 

私は清蘭の頭を優しく抱いてやった。…その時突然、玄関の扉が爆音と共に叩き壊された。犯人は斧を投げ捨てると、ゆっくりとこちらを向いた。

 

「ドーモ、サイコセイランです」

 

唖然とする私達を、清蘭と瓜二つの姿が見ていた。全身に返り血を浴び、身体中に大小様々な刃物を巻き付け、片手は紅くもおぞましい杵を持っている。清蘭の顔が、血の滴るナイフを舐めた。その目は呪術師めいて暗く怪しい光を放っていた。

 

「貴様らを前衛芸術にする。抵抗は無意味だ」そう宣言すると、サイコセイランはまだ現状を飲み込めない私達に対して、何処からか取り出した灰皿を投擲した。清蘭が頭をカチ割られそうになったけど、危うくそれを蹴り飛ばす。私達とて元イーグルラヴィだ。猟奇殺人者なんかに敵うもんか。

 

「試してみるか? 私だって元コマンドーだ」…あ、これ私達が自分で死亡フラグ立てちゃったな。「やだぁー!」清蘭とサイコセイランが家の中で追いかけっこをしている。流石清蘭、逃げ足はめちゃくちゃ速いが、それはサイコセイランも同じらしい。清蘭の背にガッチリと食い下がる。

 

恐るべきナイフが投擲される。清蘭はそれを紙一重でかわす。ナイフは空中で向きを変え、更に更にと清蘭を襲う。奴はナイフだけでは飽きたらず、あちこちの雑貨を投げつけている。熱々のアイロンが、研いだばかりの文化包丁が、清蘭が投げ出したルービックキューブが飛び交う。

 

私は団子を食べ食べ、床を鳴らす追いかけっこを安全圏で眺めていた。…なんていうかこれ、サイコって感じじゃないな。どっちかって言うと…ギャグ?「!!」私の呟きが聞こえたのか、サイコセイランの動きが止まった。「ギャグ…私はギャグ…」少なくともシリアスではないな。

 

しおしおになったサイコセイランを眺める。「…帰ります」そうか。掃除してから帰れ。「はい」サイコセイランは素直にナイフやナイフでないものを片し始めた。清蘭は息を整えている。「えっと、今のなんだったの…?」「ギャグだよ」「…ギャグ?」清蘭は理解できていない顔で頭を傾けた。

 

「おじゃましました」奴は扉を立てかけると、しめやかに立ち去った。壊れた戸の隙間から、その姿は既に見えなかった。「サイコって怖いね…」あれがサイコなら清蘭だって十分サイコだよ。「ううん、もうサイコはやめる」清蘭は埃をはたいた。「今日からは…お姫様になる!」はい?

 

「オーホッホッホ! あなたがた庶民がわたくしとまみえる事を幸福に思いなさい!!」…それ悪役なんとかじゃないの? 私の疑問もそこそこに、清蘭は怪しいお嬢様言葉を連発していた。まあ、明日には飽きるだろう。カレーでも作るか。「御召し物がカレーだらけになっちゃう!」脱げよ。

 

カレーをかき混ぜながらふと思う。あれは清蘭の中のサイコ像が生み出した怪異だったのではないかと。…でもまあ、あんな清蘭はこりごりだ。これからもあほの清蘭とでこぼこコンビを組んでいよう。そうしよう。私は可愛く笑う清蘭を思い出し、にやにや笑いを浮かべ――

 

 

 

 

 

「…あ、焦げた」私も十分、抜けているかもしれないな。

 



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迷探偵清蘭

―迷探偵清蘭―

 

鈴瑚が殺された。

 

私が殺した訳じゃない。仕出しの団子を出して戻ったら、鈴瑚は死んでいた。レイセン警部の見立てによると、死因は団子の食べ過ぎによる窒息死。当局は事件性なしとして処理したけれど、私にはわかる。これは殺兎事件なのだと。わたくし、名探偵清蘭の勘がそう告げている。

 

今日この家に訪れたのは五人。私、鈴瑚、団子屋巡りのついでについてきた西行寺幽々子とその従者、団子を買い付けに来たミスティア。全員、アリバイはない。共犯とも考えられる。彼らの間でアリバイは成立しない。「ねえ清蘭、盛り上がってる所悪いけど、私死んでないぞ」

 

私は粉のついた手をはたいた。まずは彼らの状態だ。鈴瑚の衣服はわずかに乱れている。抵抗する間もなく殺されたのかもしれない。亡霊の姫とミスティアの着衣にはかなり乱れた跡がある。従者は特に何も見られず、平然としていた。これは推理の重要なピースだ。私はメモを残した。

 

次に動機だ。この中の誰にも鈴瑚を殺す動機があるとは思えない。――しかし、私の知らない何処かで恨みを買っている可能性は皆無ではない。鈴瑚の行動を整理しよう。今日は団子が売れに売れ、清蘭屋の隣で店を片していた。私の方は大分残っていたが、亡霊のお姫様が全部さらって食べ尽くした。

 

それから私共々、家に戻り――団子を買い付けに来たミスティアと、亡霊の姫が(一方的に)イチャイチャする所を見させられて、従者と同じ気分になった所で――どうしたのだったか。そうだ。私は納入用の団子を整理していて、鈴瑚はお金の計算をしていた。推定犯人らの近くで。

 

そうだ。犯人は、鈴瑚の傍にあった団子の箱を奪い取ろうとしたのではないか。それならあの食いしん坊が喉を詰まらせていた理由も説明がつく。奪われるくらいなら自分が食べる。鈴瑚はそういう奴だ。そして犯人は鈴瑚と揉み合いになり、弾みで鈴瑚を死に至らしめた。そうに違いない。

 

周囲には足跡があった。板張りの屋内、当然素足。…しかしそれは、調べるだに二人分しかない。一つは鈴瑚だ。もう一つは…ミスティアだろう。彼女は素足だった。亡霊の姫は浮かんでいる。足跡は残らない。妖夢という線もあったが、彼女は靴下を履いていた。除外していいだろう。

 

問題は何故、ミスティアが団子の箱を奪い取ろうとしたか。或いは奪い取ろうとしたのではなく、自分の店の取り分を受け取ろうとしていたのかもしれない。それを勘違いして、鈴瑚が割って入った。ありそうな話だ。あのデブは食べ物の事になると見境がなくなる。自分のを取られたと思ったのだろう。

 

「可能性の話をしましょう。…西行寺さん、あなたは団子の取り合いになった弾みで、死を操る程度の能力で鈴瑚を殺してしまった」私はくるりと回転し、ミスティアを指差した。格好いい。「ミスティアさん、あなたは奪い合いになった時、思わず鈴瑚に団子をねじ込んだ。鈴瑚は窒息し、死んだ」

 

「或いは、従者によって斬り殺されたか。…これは除外していいでしょう。死体に目立った傷はなかった。――そして、亡霊の姫には窒息させる動機がない。あなたは何が何でも口に入れるでしょう」幽々子は扇子で口元を隠した。…まだもぐもぐしていないか?「つまり、犯人は――」

 

「あなたですね。ミスティア」「えっ」ミスティアは動転していた。「いやいや、何でそんな――いや、多分殺してないよ!?」「状況証拠からして、あなた以外にありえない」私は思い切り格好いいポーズを決めようとして――ア゛アアッ背中吊った吊った!! 痛い痛い痛い!!

 

…えー、ゴホン。「彼女の無実は私が証明できますけれど」亡霊の姫が眼前で手を払った。「私とミスティアは楽しく遊んでいましたもの。ええ、楽しく」「確かにそうだ。私も見ていた」推定犯人はアリバイを主張している。「しかしあなたがたで、アリバイには…」「私も見てたけどな」

 

「大体、私達はその間、あなたを見ていませんわ」妖夢とミスティアが頷いた。「アリバイが必要なのは、あなたの方ではなくて?」…むっ。彼らは私自身のアリバイを問うた。いいだろう。私はあの時、…あの時、団子の箱を運んで…あっ。「ふふ、何か引っかかることでもありまして?」

 

いや、その、私はあの時、つまみ食いしようとした鈴瑚にイラついて――あわわわ、確かにそんな事をしたような…?「思い当たる節がありそうですわね」亡霊の姫はくすくすと笑った。「あの…、確かにあの時、鈴瑚に団子を…その、やっちゃったかも。たぶん」

 

「…鈴瑚はあれで、ぽっくり死んだって訳?」「だから死んでないって言ってるだろ」私は声の主に振り向いた。「ギャアお化け!?」「お化けならそこにいるだろ、二人も」「1.5人だ」私の目の前でお化けトークが始まっていた。いや、しかし、あの程度で死にかけるなんて間抜けな事が…。

 

「つまり清蘭は、私がつまみ食いしようとした事に逆上し、私の口にありったけの団子を突っ込んだ訳だ。それで私は死にかけた」鈴瑚は私を冷たい目で見ている。「いや、その――そうだったかも」冷たい視線が私に集まる。「つ、つまみ食いしようとするのが悪い。私は悪くない!」

 

「犯人の言い訳タイムかい」鈴瑚の手が私の肩を叩いた。「今日はちょっとばかしおいたが過ぎたんじゃないか、清蘭?」凄まじい力だ。きっと団子を飲み下したせいだ。食べれば食べるほど強くなる程度の能力は伊達じゃない。あの時突っ込んだだけ、強くなっているとしたら…。

 

亡霊の姫の周囲に人魂が舞い、くすくすと笑った。夜雀が怒りの鳴き声を上げ、鋭そうな爪を伸ばした。従者はすらりと抜いた刀を閃かせた。鈴瑚は団子を口に入れ、片足で立った。周囲の空気が変わった。呆れ、或いは怒り。ともすれば殺意がその場を支配していた。

 

「あ、あの、何をなさるので…?」

 

今から行なわれる惨劇を、予想できないほど私は愚鈍ではない。後ずさる。壁がそれを阻む。足元にはカラの団子の箱が転がっていた。

 

 

 

「――ウギャーッ!!?」

 

私は殺された。

 



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親切は巡る

―親切は巡る―

 

私は天邪鬼さまだ。今日も今日とて、悪事を働く。善をなすものあらば、悪をなすものもいる。この世に絶対悪がはびこりでもしない限り、私は悪の側に立つ。それが私のアイデンティティだからだ。天邪鬼に生まれた以上、それは逃れられない業というものだ。

 

今日は――そうだな。森の一軒屋を狙った。開いていた窓から侵入し、そこにあった旨そうなケーキを、その辺の木へらを使って喰ってやった。手掴みで喰わないのかって? そこまで汚らしい事はしない。手を洗わねぇ、と決心してえらい目にあったからな。妥協という奴だ。

 

目的を達した以上、ずらかるに限る。足音が聞こえたからだ。ワンホールのそれが消えてなくなったらさぞがっかりするだろう。私はほくそ笑みながら、窓を――いてッ! 窓枠に引っかかった。まずい、このままだと顔を見られるぞ!? おい抜けろ、抜けろって!!

 

私が枠から抜けたのは、家人が入ってきたのとほほ同時だった。背中を見られた気はするが、それよりも全力で逃げる。本当は草葉の陰でがっかりする顔を覗くつもりだったんだが、もうそんな事を言っていられる場合じゃない。森に逃げ込む。…ついてくる足音はしなかった。

 

 

 

「あら」窓枠から外に抜け出す姿が見えたのは一瞬だった。こんな所にこそどろが入って来るなんて、珍しい事もあるものだ。なくなったものを探す。――たぶん、ケーキだけだ。「そのケーキ、そろそろ古くなってたのよね」皿を台所に片す。「誰だか知らないけれど、ありがたいわ」

 

―――

 

  ―――

 

「このケーキ? アリスに貰ったのよ。あんたにもあげる」

 

「そら、魔理沙様の魔導書だぜ」

 

「別に、許した訳ではないけれどね」

 

「珍しいな、パチェの方から何かくれるなんて」

 

「――返品かい? いや、いいさ。丁度それが惜しかったところなんだ」

 

「それをくれるの? わぉーん!」

 

「影狼ちゃん、ありがとう」

 

「――まあ、くれるというなら貰うけど」

 

「これを私に? …でも、本は返してくださいね?」

 

「これをわしにか? ほう、気が利くのう」

 

「私にくださるの? それでは、遠慮なく」

 

「なんだ、甘味か? 酒の肴には丁度良いや」

 

「何よ、お酒? …まあ、くれるなら貰ってやってもいいけど」

 

「天人さまから食べ物を頂けるなんて、光栄ですぅ…!」

 

「…財布拾った? 姉さんがまともなもの拾うなんて、今日はミサイルが降るわね」

 

「ああ、私が責任を持って預かろう」

 

「ここの所、暑いだろう。…まあ、そう言うな」

 

「サービスだなんて。…ふふ、ありがとうございます。」

 

「しもふりにくくれるの? ナイスみすちー!」

 

「おおッ、この枝はサイキョーな気がする!」

 

「ほら見て、ドライフラワーの頭飾り!」

 

「このお菓子くれるの? 嬉しいな」

 

「玉虫色。ふふ、素敵ね」

 

「私的には毒を所望します」

 

「あら、贈り物とは珍しいわね」

 

「どうしたんですか師匠、一体どんな風の吹きまわし――痛い痛い痛い!」

 

「ふーん、鈴仙にもこういう機微が理解できるのね」

 

「素朴な気持ちからでる贈り物もいいものね」

 

「ややや、これは恐悦至極」

 

「ありがとう、大事にするね!」

 

「贈り物? …私にですか?」

 

「おう、くれるなら何だってもらうよ?」

 

「敵に塩を送るとはこの事だな、河城」

 

「ありがとう。厄力発電の結果が出たら教えてあげる」

 

「――厄くない? 大丈夫?」

 

「あたいに? …なんで?」

 

「あたしにくれるの? 嬉しいな」

 

「あなたの気持ち、心を読むまでもなく伝わっているわよ」

 

「それを、あたしにかい? いいねェ」

 

「――私に、それを?」

 

「なかなかオツなものくれるね」

 

「あれっ、さっきまでここにあったんだけど…まあいいか」

 

「何だこいし。…プレゼント? まあ、くれるなら貰うが」

 

「贈り物? ふふ、それは良き事だ」

 

「えっ、贈り物ですか?」

 

「われにか? 屠自古は気が利くのう」

 

「おお、心の友よ!」

 

「おっ、何かくれるの?」

 

「今日の私は気分がいいんだ。そら、小遣い」

 

「プレゼント? ありがたく頂いておくよ」

 

「プレゼントですか? ありがとうございます、ナズーリン」

 

「贈り物? 受け取りますわ。ありがとう」

 

「こいつを私に? …参ったなぁ」

 

「えっ、これをわちきに?」

 

「これは巫女への賄賂ですか? …違う?」

 

「いいねぇ、こんなの何年振りだろ。ありがと早苗」

 

「何か貰うなんて何年振り――って何だ、その顔」

 

「また洩矢か、って顔してるな」

 

「ほら橙、この間、欲しがっていたでしょう」

 

「どうかしたのか、橙。――プレゼント?」

 

「甘味? あらあら、ありがたいわぁ」

 

「はっ。受け賜わります」

 

「霊界の音――興味はあるわね」

 

「――ライブ? そうね、またしたいわね」

 

「私達も? うーん、考えておくわ」

 

「御裾分けに蜜柑? 欲しい欲しい」

 

 

 

二人が帰った後、私は相対的に巨大なそれにかぶりついた。自分の体積より食べるなんてのは小人の常識、人間の非常識だ。果汁でべとべとになりながらも、噛みつく。飲みくだす。噛みつく。飲み下す。パンパンになった腹をさすり、げっぷをした。蜜柑はこの世から消滅していた。

 

――そうだ。私も親切をしたくなってきたぞ。軽く水浴びをして着替えると、私は小さき我が家から飛び出した。目標は、指名手配犯。推定死刑。その布告は、ちょっと可愛そうな気がする。するだけだけど。それ相応の事はしたんだ。お前も、私も。例え騙されていたとしても。

 

―――

 

  ―――

 

「何だこの、ゲロっちまいそうな感覚は…!」私の与り知らぬ所で何かが起きている。それは間違いない。問題は、それを止める術が私にはない事だ。探す手段もアテもない。だが、このままでは心が壊れて天邪鬼ではなくなってしまう。数少ないアイデンティティを手放せるものか。

 

――その時だった。見慣れてしまった奴が姿を現したのは。

 

「はい正邪、これあげる!」

 

――感覚は収まった。私は思わず座り込んでいた。コイツが持ってきたのは――なんだ、わらしべか。「正邪には丁度良いと思って」まあ、その通りだよ。お姫様。「まあ、それとは別に――」針妙丸はゴソゴソと背嚢を漁ると。「…一万円玉?」「偽物じゃないよ」針妙丸は胸を張った。

 

「どうせお金に困ってるだろうと思って」「…施しは受けねえぞ」「そう言うよね」針妙丸は、それを足元に置いた。「こんなのが落ちてたら、普通は何処かに届ける」…何が言いたいのか、わかってきたぞ。「あっ、落としちゃった!」幾枚かを丁寧にばらまき、こちらを見た。

 

「落としたまま、気付かずにどっかへ行っちゃう」そいつは椀に乗ると、こちらに手を振ってみせた。「じゃあね、正邪。生きてりゃ会う事もあるさ」…何となく癪だが、天邪鬼の本能はそれをパクってしまえと告げている。背を屈め、拾った。確かに偽物ではないようだった。

 

「ああ。さよなら、お姫様」ひょっとしたら、私は礼を言おうとしていたかもしれない。馬鹿な話だ。私は天邪鬼だぞ。そんな事をしたら全身がかゆくなって死んでしまう。――ただ、なんだ。今日のそれは何だったんだろうな。釈然としない私を、夏の日が熱々と照らしていた。

 



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伝説の道具

―伝説の道具―

 

椛が死んだ。

 

私達が殺した訳じゃない。いつも買ってた好物のジャーキーとねこいらずを間違えて、それで死んだ。正直、信じられなかったけど、死んでしまったのだから仕方がない。「おーいおいおい…椛ィ、どうして死んでしまったのですかッ…!!」文の嗚咽だ。それはもう、何時間も続いている。

 

――文がめちゃくちゃに泣き叫ぶせいで、私は逆にすごく冷静になっていた。椛のお葬式は姫海棠家で出した。色々な人と親交があったみたいで、人が詰めかけていた。…私の知らない所で、椛はこんなに人とお付き合いしていたのか。私は悲しみもそこそこに、もにょもにょしていた。

 

まあ、顔には出していなかったと思う。文は鼻水を出しながら泣いていた。拭きなさいよ。「椛ィ…お前が死んじまったら、ねぐらが広くなっちまうだろ…」白狼も特別に出入りしていた。たくさん。本当にたくさん。椛はきっと、ものすごく慕われていたんだと思う。…むう。

 

「惜しい人を亡くした」烏も。…烏も? 気が付けば烏の一団が線香を上げていた。いやいや、生きていた頃に椛は何をしてたんだろうか。「彼女も作って順風満帆、これからだってのにな」――だ、大天狗様!?「姫海棠のイイ人だったんだってな。泣いていいんだぞ。泣けばすっきりする」

 

いやいやいや、大天狗様ともお知り合いって――椛は一体何者だったの? 私って椛の事、本当に何も知らなかった? …ウソでしょ?「わ゛だじはぼんどううに、ぼんどううに椛を愛じでおりまじでぇ…」文はなんかもう駄目そうだ。普段あんなに嫌ってたくせに、本当は大好きだったのね。

 

なんだか、馬鹿らしくなっちゃった。椛の事じゃない。私の事。私は椛にとって私は数ある人々の関係の一つに過ぎないんじゃないかって。…好きだって言ってくれたのも、その、恋愛的な意味じゃなく、本当に好意だけだったのかな。今となってはわからずじまいだけど、ね。

 

…うう、なんだか文とは別ベクトルで悲しくなってきちゃったな。場は文が繋いで――繋いで?――くれるだろうから、私は少し下がっていよう。近くの部屋で座って、息を吐いた。そっか、もう椛はいないんだ。実感が湧いてきた。…お手洗いにでも行こう。悲しみも流してしまおう。

 

部屋から出た所に――椛がいた。軽く挨拶をして。…ちょっと待って、椛。椛!?「ど、どうも…」涙が出る以前に、喜びを表現する以前に、私はただただ、びっくりした。「椛――えっと、幽霊じゃないよね…」「は、はあ…」椛は頭を掻きながら、こちらを見た。「生きてます。実際」

 

「…なんで? どうして? どうなってるの!?」私は椛の胸倉を掴んだ。どちらかと言えば抱き着くべきシーンだと思ったけど、今の私には常識なんて通用しない。椛は視線を逸らした。こっちを見ろ。「いえ、そのですね――誤診だったんです。ねぐらの医者の」「…誤診?」

 

「ヤブで有名だったんですが、まさかそこまでいい加減とは思わず…」「つまり、ねこいらずで死んだっていうのは、誤診だったって事?」「ええ。生きてます。生きてますが。…参りましたね」外はまだまだ人の声が増えている。「今更誤診だったなんて、出て行ける状況ではなくて…」

 

そうだ。こういう時の為に、姫海棠家には伝説の道具がしまってあるんだった。宝物庫をお嬢様権限で蹴り開け、あちこちを探す。あった。私はそれを引き抜くと、椛の所へ急いだ。今見つかったら、きっと大変な事になる。「あの、それは一体…?」看板だ。けれど、ただの看板じゃない。

 

看板には『ドッキリ』と書かれている。「椛ちゃん、これ持って出るの。早く」「えっ、あの」私が思い切り蹴り出すと、椛ちゃんは遺影の辺りから飛び出した。――しばらくして、会場は笑いに包まれていた。文の嗚咽も止まった。成功したらしい。私はほっ、と胸をなでおろした。

 

「――はっはっは。椛も冗談というものがわかるようになってきたじゃないですか」顔をぐしゃぐしゃにして言う言葉でもないと思う。「ははは、中々面白い事をするな」大天狗様にそう言われますと恐縮です。「まあ、生きているなら幸いだ」こんな茶番に付き合って頂いて申し訳ない。

 

「このバカ椛! 今からあのヤブ医者、殴りに行こうぜ!」白狼は医者をどうやってやっつけるか議論し始めた。とりあえず会場は丸く収まった感じだった。これで姫海棠家はギャグの家として有名に――あーあ、やんなっちゃうな。でもまあ、本件はこれにて一件落着――

 

「――しかしよぉ、そんならこの中に入ってる奴は誰なんだ?」白狼の一人が気付いた。…そうだ、そういえばおかしい。椛が抜けだしたなら重さでばれるはずだ。皆が静かになった。私もだ。豪気な白狼が数人、棺桶の縁を持ち、それを持ち上げると、そこに眠っていたのは――

 

「うにゅ?」

 

烏だ。地獄烏。目を覚ました地獄烏はとん、と棺桶から現れた。「ふわぁ…」高く上げた両腕から放たれた線香、もとい閃光が天を貫いた。背後に現れた灼熱の玉がどん、どんと膨張していく。――ああ、何となく展開が読めたぞ。私は何もかも諦めて、それを呆然と見ていた。みんなそうだった。

 

「みんな、おはよ―――っ!!」

 

灼熱の玉は一気に会場を飲み込んだ。地獄烏の影だけが映っていた。全身から膨大なエネルギーを放ちながら、地獄烏は手を振った。いや、それどころじゃないでしょ。烏も白狼も大天狗様も、椛も文も、そして私も光に包まれた、行き場を失ったエネルギーはそう、核爆発を――

 

「爆発オチなんてサイテー!!」

 

私の言葉は、光の中に飲み込まれて、消えた。

 



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ドリーム軽トラ

―ドリーム軽トラ―

 

サグメさんが爆発しましたねぇ。

 

わたくしのせいではありません。ええ。本当ですよ。槐安通路でサグメさんが無理に大量の夢を運搬しようとしまして、それで爆発しました。夢オチも爆破オチもさほど違いはないものですが、無理はするものではありません。うきうきしていたサグメさんはまあ、可愛くはありましたが。

 

『惜しい人を亡くしました』生前のサグメさんは大変純粋なお方で、ええ。手も繋げない有様でありまして。月の重鎮ともあろう者が色恋沙汰に手を染める訳には、とまあ、最初の内は平静を装ってはいましたが、わたくし立ちどころにわかってしまいましたねぇ。恋の始まりというものを。

 

わたくしもまあ、長い所こういう所にいますから、夢の中に知り合いはおります。ええ。しかして恋愛とまでは――まあ、行かない訳ですねぇ。そういうつもりもありませんでした。今になってパートナァーを、と言われても、少々困ってしまう。そう思っていました。ええ。

 

夢で出会った二人の絆。そういう夢魂もたまには見ますけれども、それは大体が記憶違い。けれども本当に成就してしまう事はある訳ですねぇ。私の場合もまあ、そういうパッターンだったやもしれません。それはええ、少しばかり昔の話。槐安通路の一件――

 

―――

 

  ―――

 

『丁重にお断りします。ええ』これ以上面倒事を増やさないでいただきたい。『あなたに拒否権はないのよ、夢の支配者』支配者と呼んでくださるならもう少し敬意をですねぇ、払って頂けると。『ですから、本当に嫌でございましてぇ』『拒否権は、ないの』カチリ、という音。

 

あなたは私に銃を向けましたねぇ。周囲にはビットが大量にばら撒かれている。『夢の中で、私に逆らう気で?』『それも辞さない』やれやれ、強情です。こんなにしつこい人は――そもそも人を見ること自体が稀ではありますが――ええ、久しぶりかもしれませんねぇ。ふふふ。

 

私は夢魂をかき集めました。夢はあればあるほどいい。頭からっぽの方が、とも申します。ええ。『これは夢破壊砲。あなたに勝ち目はない』おや、随分と物騒な――というより、クリテカルものを作りなさる。私は帽子の中からまったく同じものを取り出しました。『現破壊砲です』

 

『――!』そう、夢において私は最強。なんでも――と言えば語弊はありますが、支配者の名は伊達ではありません。ええ。『あなたは夢の世界と共に分解される』『あなたは完全にこちらの住人になってしまう』これは抑止力です。もてあそぶには少々危険すぎるものではありますが。

 

じり、とあなたは後ずさりましたねぇ。それはまあ、当然ではあります。西部劇の決闘、それと同じと思えばよろしい。先に抜いた方が勝つ。負ければすべてを失う。ビットと羊が睨み合いました。わたくしにはまあ、作戦があった訳です。双方が妥協する、そういう作戦が。

 

――サグメさんが先に抜きました! 私も咄嗟に抜きますが、それを撃ちはしません。それが発射される瞬間、わたくしは羊を一か所に集め、夢魂で固めました。これを盾にするのです。敢えて現破壊砲を撃たなかったのは――まあ、夢見が悪いですからね。ギャグではありませんよ。ええ。

 

それは私達の丁度中間辺り、羊の壁の中で破裂し、私達にその余波を届かせました。少々かわいそうですが、致し方ない。羊は跡形もなく消えてしまいましたが、私達は無事なので問題ありません。ええ。私達は、ですが。『何度でもやるわ』『その暇はないと思いますよ』

 

何処からともなく音がしました。ゴゴゴ。ゴゴゴ。徐々に大きくなるそれは、収まる気配はありません。『夢破壊砲、ですか。確かにそれは想像以上の効果があったようですねぇ。ええ』『ッ、これは――?』『あなたが引き起こした事ですよ。月の使者』私は夢魂に身体を預け、微笑みました。

 

「夢が持たなくなっています」地震めいて夢全体が揺らいでいます。軋み、砕けるように。ヒビが入りました。そこから見えるのは、うつつ。夢は終わろうとしていました。ええ。「これはあなたの夢。あなたはそれを壊そうとした。そうなれば、ええ。どうなるかは察しがつくでしょう」

 

『ご安心を、私達は死にません』『死なない?』サグメさんは少しばかり戸惑っておられた。『夢はいつでも見られるものです』ヒビが激しく広がりつつある中で、私はあなたに言葉をかけました。『私は戻ってくる事ができます。あなたもそうでしょう。ええ、夢がある限り』

 

『先程のお願いですが――まあ、いいでしょう。あなたの気概に免じて、お引き受けしましょう。ええ』『――本当に?』『この緊張下で、嘘は申しません』剥がれ落ちてきた夢を羊で防ぎながら、私は微笑みかけました。同族からは評判はよくない顔ですが。まったく失礼な話で。

 

『――いつかまた、今度は大きなお願いをすることになるわ』『お断りいたします――と言いたい所ですが、聞かないでしょうねぇ』夢が砕けました。明るい光で満たされつつあります。それは目覚め。私にとっては久しぶりな事でありましたねぇ。都落ちという奴です。ええ。

 

『ところで、まだお名前を聞いておりませんが』『――稀神サグメ』『ドレミー・スイートと申します。以後お見知りおきを』私はあなたに向けて浮揚して、手を握りました。『次に会う時は、お仕事だとか、そういうもの抜きであって欲しいですねぇ』あなたは大変、戸惑っておられました。

 

夢魂をちぎって、投げ渡しました。その中身は、焦がれ焦がれる恋の夢。どうしてそんな事をしたのか――多分、惚れていたんですねぇ。もう。『お返しに何をくれるのか、楽しみにしておりますよ。ええ』『それはどういう――』私達を、光が包みました。さようなら、サグメさん。

 

―――

 

  ―――

 

『――ミー、レミー―』おや、なんでしょう。『ドレミー!! 聞こえてる!?』聞こえております。聞き流していただけで。『少しくらい心配してくれてもいいじゃない!』『まあ、あなたを信用しておりましたので。ええ』サグメさんは言葉に詰まりました。まあ、適当に言った訳ですが。

 

おやおや、上から下まで丸焦げでらっしゃる。まあ、ここは夢。サグメさんは爆発に巻き込まれた、というイメージでこうなっている訳です。己のイメージ次第でどうとでもなるんですねぇ。その内に元に戻るでしょう。ここは夢。わたくしは想起した。それはリアルな夢ともなりました。

 

『積み過ぎたら爆発するとか、どうして教えてくれなかったのよ、ドレミー!』『わたくし申しましたよ。そんなによくばってはいけませんよ、と』『もうちょっと深刻な引き留め方できない!?』サグメさんはたいそうお怒りですが、まあ、いつもの事であります。根がドジっ子ですからねぇ。

 

運んでいたのは資材です。サグメさんは私との取引で、夢の建材をかき集めていたのです。それを一度に運ぼうとして――ボン! です。ドリーム軽トラ(ペーパーのゴールド普通免許しかお持ちでない?)にそんなに乗せたら危ないとは思いましたが、言っても聞かないでしょう?

 

庭付き大邸宅を立てたいと仰ったのはまあ、サグメさんの方でしたね。ええ。わたくしはもっと慎ましやかなお家でいいですよ、と申したのですが、まあ、良い所を見せたかったんでしょうねぇ。それがこのざま。ふふふ。夢を手荒に扱うものではない。サグメさんも少しは懲りたでしょう。

 

『――ごめんなさいドレミー。家は当分無理みたい』『何も謝る事はありませんよ』浜の真砂は尽きるとも、世に夢魂は尽きまじ。ええ。役目を終えたそれもいずれは十分に集まるでしょう。『今度は無理をしないでくださいね、サグメさん?』――私はあなたの顎を引き、キスをしました。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

――中型免許をお取りになった? それは結構ですが、しかしドリーム2トンにそんなめちゃくちゃに夢積み込んで、ズイズイ走ったら――まあ、こうなる訳です。ええ。今度は丸焦げでは済みませんか。お茶でも用意しておきましょう。ふふふ、それにしてもサグメさんは、ドジですねぇ。

 



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ドリーム10トントラック

―ドリーム10トントラック―

 

サグメさんが死にましたねぇ。

 

わたくしが殺した訳ではありません。槐安通路でドリームバイクを乗り回していたら、ドリーム10トントラックにはねられて、それで死にました。前を見ていなかったんですかねぇ。夢の世界でも死ぬ時は死ぬのです。当人が死んだ、と思ってしまえばそれでおしまい。ええ。残念ながら。

 

幾多の爆発に耐えたサグメさんの精神も、流石に折れてしまったのでしょう。お葬式はこちらで出しておきます。現実のサグメさんは――まあ、あちらでやってくれるでしょう。私は少々センチメンタルな気分になりました。ええ。悲しくない訳ではないのです。しかしてわたくしは忙しい身。

 

悲しんでばかりはいられないのです。私の後ろには建設途中の豪邸がありました。あまりにも大きな墓標ですが、わたくしが責任を持って建てましょう。ええ。羊達に発破をかけました。彼らもサグメさんの死を悼んで――どうもそんな雰囲気でもないですが、とにかく悲しかったのです。

 

しかして、異変はナーバスなわたくしを待ってはくれませんでした。ええ。夢が、騒がしい。こんな感覚は滅多にあるものではありません。夢魂がたゆたんでいます――が、それも何処か異常な揺らぎを伴っています。身構えている時には死神はこないもの、とは言いますが、警戒して損はない。

 

――何やら空間が歪むような違和感。私は夢魂がら飛び降り、一瞥しました。こんなわたくしとて夢の支配者の名を欲しいがままにしています。ええ。何かが起これば、対処する義務があるのですねぇ。違和感の方向を割り出しました。その時です――私の目に、何かが飛び込んできたのは!

 

『戻ったわ、ドレミー!!』

 

なんと、ドリームバイクに乗ったサグメさんが現れたのです。私は少しだけ動揺しました。少しですよ。『サグメさん、今まで何処に?』私の問いに、サグメさんは待っていましたとばかりに叫びました。『異世界よ、異世界!』はあ、異世界。現世からすればここも十分異世界ですが。

 

『そうじゃないわ。私が転移したのは剣と魔法の――』最近は一般的ヨーロッパ風と言うのではなかったですか。『――それで、私は魔王ヘカティーを倒して世界に平和を――ねえドレミー、聞いてる?』聞いておりますよ。聞き流しているだけで。『過酷な旅。しかし私は諦めなかった』

 

『私が世界を救えたのは、私の新たな能力のおかげよ』存じております。往々にして何か一つ頂けるそうですねぇ。はい。『それは――目で殺す程度の能力!』『――はい?』『目で殺すのよ。これに気付く前は、迂闊に喋れないから苦労したわ』『目で殺す。…邪眼か何かで?』

 

『稀神サグメの名において命じる! …って、そうじゃないわ。怪光線も出さない。文字通りじゃない方の意味』『ひょっとして――そちらで?』『そう、そっち』サグメさんは羊達に声をかけると、片目をピンク色に光らせ、工事現場を一瞥しました。すると――何という事でしょう。

 

工事を頑張っていた羊達がすべてを投げ打って、サグメさんの前に集まったではありませんか。工事止まりましたよサグメさん。『ざっとこんなもんよ』羊たちは目をハートにしています。はしっこい一匹が貢物を持ってきたのを見て、他の羊も続きます。工事完全に止まりましたよサグメさん。

 

『それにしても、おかしいわね…』どうかなさいましたか。『――さっきからあなたを何度も見ているのだけど、効果が全然なくて』『言われてみれば、効きませんねぇ。ええ』私は夢魂に乗って、サグメさんを見ました。いつもの微笑み。『異世界で能力が効かなかった事はありまして?』

 

『結構あったわね。宿屋の娘さんとか、道具屋のおちびさんとか、闘技場のマッチョマンとか――』何やら結構、普段からお使いで。『割引してもらおうと思って』サグメさん、あんたちょっとセコいよ。『仲間達にも効かなかったわね。その方が都合が良いけれど』良いお仲間をお持ちで。

 

『どうやら共通点があるように思いますねぇ』サグメさんは頭を傾けています。翼がばさり、と鳴りました。本当にわからない、といった顔です。ああ、これは大変泣かせてきましたね。『幅広く効かない人がいる。お仲間には効かなかった。そして私にも効かない。それはつまり――』

 

『あなたに恋してしまった人には効かない訳ですねぇ。合点がいきました』私は夢魂に寄り掛かって、サグメさんを再び見ました。そのピンクの瞳は、あなたの罪です。あなたは多くの恋をばら撒き、そして去っていった訳です。如何にも罪深い人ですよ、サグメさんは。

 

『――えっ? …その、なによドレミー』今更その能力を理解したという顔をしましたね。わたくし、思わず微笑んでしまいますとも。『もちろん、わたくしはあなたに恋しておりますよ。ええ』戸惑う顔も可愛いもの。夢魂から飛び降りました。『あなたの一番でありたいものですねぇ』

 

わたくしはあなたにそっと近付き、腰に手を回すと、きっと久しぶりのキスをしました。羊達から落胆とヤジ――そして、祝福の言葉が飛び出しました。良い羊を持ちましたねぇ。羊の一匹が、何処からか空き缶と紐を持ち出しました。これはそう、そう言う事です。少々恥ずかしくもあり。

 

『さあ』私は手を引いて、ドリームバイクに相乗りしました。久しぶり――でもないですが、サグメさんからすればとても、とても久しぶりなのでしょう。私はサグメさんの背を抱きました。おかえりなさい、サグメさん。そう呟いた言葉は――聞こえていたでしょうかねぇ。

 

『槐安通路をバイクで飛ばすのは、なるほど気持ちが良いですねぇ』背中はとても暖かい。『――あのねドレミー、大事な話があるんだけど』サグメさんは振り向き、私に視線を向けました。その瞳は既に光を放ってはいませんでした。『おやサグメさん。前はよろしいので?』『えっ?』

 

 

 

キキィ―――!! ドオオォォッン!!

 

 

 

私達はドリーム10トントラックにはねられて死にました。ええ。

 

――転移するなら一緒ですよ、サグメさん?

 



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探求心はノーリターン

―探求心はノーリターン―

 

魔理沙が死んだ。

 

私が殺した訳じゃない。魔法の森で大爆発が起きたって話を聞いて、魔理沙の家に向かったら――そこにはもう、何もなかった。本当に何もない。爆発したにしては綺麗すぎるとは思ったけれど、そんなのはどうでもいい。思いつく所はすべて探したけど、魔理沙の姿は何処にもなかった。

 

何の手掛かりもない。私は疲れ果てて、アリスの所にお邪魔させてもらう事にした。したんだけど――そこには先客がいた。珍しい事もあるもんだ。座って紅茶を飲んでいるのは、パチュリー。動かない大図書館が、移動図書館でもやってるのかしら。「今、珍しいって顔したわね」

 

「実際、珍しいもの。殴り合いの弾幕ごっこでもする?」「遠慮しとくわ」アリスが運んできた紅茶を手に取った。「知人は、もてなしてやるものよ」彼女は案外、ツンデレ気質なのかもしれないわね。「それで、遊びに来た訳じゃないんでしょ?」「たまには外出くらいするわよ」

 

「でもまあ、今回は所用があるわ」パチュリーは魔導書を取り出すと、それをぱらぱらと開く。「私が書いた目録だけど、そこにあるはずの魔導書がなくなっていた。理由はわかるわね?――説明は省略するわ」私とアリスは顔を見合わせた。まあ、そうだろうな、と通じ合った。

 

「それは少し――いや、とてつもなく危険な代物なのよ。厳重に保管してたはずだったけど、あの泥棒ネズミは鼻が利くのね」パチュリーは頭を振る。「私の主義には反するけれど、焚書すべきだったかもね」「それって、何がそんなに危険なの?」「次元。次元について書かれた魔導書」

 

「上手く使えば、世界を手に入れられる代物よ。問題は、それを成功させた人が誰もいないって事だけど」「聞いた事はあるわ」アリスが、パチュリーを見た。「そんなものまで蔵書していたのね」「整理はされてないけど」司書がアホ過ぎてね、と零す。「過ぎたる力は世界をも滅ぼす」

 

「無邪気な赤子がそんなものを持てばどうなる?――わかるでしょう。その危険性が」「つまり、魔理沙が家ごと消えたのって」「それしか考えられない」パチュリーが魔導書を引いた。「時空の狭間に放り込まれたとすれば、こちらから手を出す事はできない」「困ったわね」「??」

 

はてなを浮かべる私を放置して、パチュリーは続ける。「人を困らせる天才よ。あのネズミは」「私の手から離れるのも、困ったものね」「あのさ、それで――魔理沙は帰ってくるの?」「あいつが≪無≫を理解できればね」「む?」「そういう空間があるとだけ、理解すればいい」

 

魔法使いの話はやっぱり、よくわからない。「できるのは、祈る事くらいよ。あんたの専門分野でしょう」「ちょっと違うわよ」神頼みと言ったって、それなりの仕組みってやつが……「本当にこちらからは、何もできないかしら?」「端的に言えば、できなくはない」ジト目が眺める。

 

「時空魔法の残滓を探す。小さなものだけどね。たぶん、アイテムくらいなら送れるわ」アリスが頷いた。「必要そうなものを入れてみましょう」「壊れないように、頑丈な箱に入れなさい」二人はアリスの家から何やら道具を集め始めた。それを私は、ただぼんやりと見ている。

 

餅は餅屋とは言うけれど、こういう時に私は無力だ。魔理沙が私に出来る事を知らないように、私も魔理沙の出来る事を知らない。いわんや、パチュリーやアリスのそれも。無力感なんて感じるのは、珍しい事だ。大抵の物事は蹴り飛ばしてやれば解決する。しかし今は、そうではない。

 

「あんたもこれ持って」パチュリーが大きな木箱を渡してきた。金属の補強が入った、丈夫そうな箱だ。「魔理沙の家はあっちだったわね?」「そうよ」私達は魔理沙の家があった所に飛翔した。遠くから見ても、近くから見ても、やはりそこにはあるべき魔理沙の家がなくなっていた。

 

「次元のほころびを探すわ。集中して」アリスとパチュリーは目をつむったまま、そこらを歩き回り始めた。魔導書を広げ。人形を飛ばし。私は――同じように、歩いた。私に魔法の心得はない。けれど、何かをしたかったのだ。あいつの為に、もう一度、あいつの顔を見る為に。

 

――何かしら、これ。私の目の前に、違和感を覚えた。何かが漏れ出しているような、奇妙な霊力の流れ。「何かあったわ」私は顔を上げた。二人が反応して、こちらに歩み寄ってくる。「――間違いないわ。やるわね、霊夢」ふ、ふん。私にかかればこんなもんよ。「箱をねじ込むわ」

 

パチュリーが何やら呪文を唱えると、目の前の流れが更に大きくなった。目には見えない、不可思議な流れだ。「後は魔理沙がこれを受け取れるか、否か。これより先は本当に、祈るしかできない」「魔理沙ならやるわ。きっとね」私は祈った。もはや、祈るしかできないならば。

 

パチュリーはほころびを覗き込み、何やら呪文を唱え続けている。私達は一歩下がって、それを見守った。魔理沙、あんたは皆をこんなに心配させているのよ。早く帰ってきなさいよ。アリスを見た。彼女も祈り続けている。私も、そうだ。あなたの為に、祈り――そう。その時だった。

 

ズゥン!!――と激しい音共に、視界が砂埃に閉ざされる。何か大きなものが、地面を揺らした音だ。やがて砂埃が去り、そこに現れたのは――「魔理沙の家!?」「願いが通じたのだわ」私とアリスは全容を、そして扉を見た。ガタガタと開く音がする。出てくる者は、想像がついた。

 

「よぉ、霊夢にアリスじゃないか。出迎えに来てくれたのか? へへへ」それはやはり、魔理沙だった。生きている。動いている。帽子を頭に乗せ、箒を掴んでいる。これが魔理沙じゃなければ何が魔理沙か。「あんた、ちゃんと帰ってこれたのね!」「おう。さては、理由もご存じか?」

 

「≪無≫について研究してたら、何かの間違いで次元の狭間に放り込まれてさ、帰ってくるのに苦労したぜ」なんかめっちゃ強そうな龍とメカメカしいのがこっち見てたな、と魔理沙は笑った。笑っていた。「……な、何だよお前ら、そんな怖い顔して?」魔理沙は一歩、後ずさった。

 

「もう、この――心配したじゃないの、バカ魔理沙!」「ともかく、無事でよかったわ」私は魔理沙に抱き着いた。一通り再開を喜び合った。「……まあ、それは置いておくとして」私は魔理沙に思い切り、鯖折りをかけた。「お仕置きが必要だわ」「おいおい、私だって被害者だぜ?」

 

「そんな危ないものに手を出すのが悪いの!」一瞬の隙をつかれ、魔理沙が箒とともに舞い上がる。「ははは、探求心はノーリターンなのさ」ぐるぐると飛び回る私達を、アリスが見ていた。見てないで止めてよ。「そうだ、パチュリーは一緒じゃなかったのか? 魔導書が落ちてるが」

 

――あー。私はアリスの方を見た。アリスは首を振った。「――あんたの家に潰されたみたいね」「マジか」マジかじゃないわよ。「ま、まあ、パチュリーなら何とかするだろ。ははは」無責任な魔理沙の言葉に、応えるものは――いた。「――結構なご挨拶じゃない、魔理沙」

 

パチュリーだ。パチュリーが――家を持ち上げてる!?「これをあんたの頭に投げつけてもいいんだけど」パチュリーの顔はいつも通りだが、怒っている。たぶん。それもとびきり。「あ、いや――そっと下ろしてくれると、ありがたいかなって」魔理沙は慌てて、ぺこぺこと頭を下げた。

 

「――まあ、私だって無為な破壊活動がしたい訳ではないもの」周囲にエメラルドの石柱が並び立ち、土台を支えた。パチュリーが歩いて家の下から出ると、それはゆっくりと地面に消えていった。「≪無≫の本はあんたにはまだ早い。向こう五百年はね。さっさと返しなさい」

 

パチュリーが魔理沙を一瞥した。魔理沙は――慌てて家に飛び込み、件の魔導書をパチュリーに見せた。「お、おう。返すぜ。機嫌直してくれよ。な?」「機嫌なんて損ねてないわ。私を怒らせたら大したものよ」そう言いながら、魔導書を握る手に力が入っているのは何なのかしらね。

 

魔理沙はそれを手渡そうとして――クリスタルみたいな塊につまづいて、思い切りひっくり返った。その手から魔導書が吹っ飛ぶ。何をやってるのよ――と思ったけれど、実際、それ所じゃなかったみたい。パチュリーが慌てて魔導書を閉じようとしたけれど、間に合わなかった。

 

世界が歪むような、謎めいた感覚。まるで天と地がひっくり返るような。私が事態の深刻さを認識した時には、もう遅い。私の伸ばした手が、魔理沙の手を掴んだ。アリスもだ。パチュリーも私を掴んだ。これなら、はぐれる心配はない。足元にクリスタルの輝きを感じながら――

 

 

 

四人は、いなくなった。どうやら次元の狭間に放り込まれたらしい。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「白魔導士、黒魔導士、黒魔導士、黒魔導士でバランスが悪いぜ」「あんたら、魔法剣士辺りにジョブチェンジしなさいよ」「私はいやだぜ?」「いやよ」「丁重にお断りするわ」「こ、こいつら……」

 



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ドリーム筋斗雲

―ドリーム筋斗雲―

 

サグメさん、あなたは喋り過ぎましたねぇ。

 

夢の中ではいつも、念話を使っていたのですが――どうやら、寝ぼけていたのでしょう。サグメさんは現の世界で喋ってしまいました。ええ。ドレミーは何処、と。私に向けた言葉は、しかして私ごときに抵抗する術はありません。夢の世界から、サグメさんはいなくなりました。

 

ドレミーは何処にもいない。すなわち私と、真っ当な手段でまみえる事は、二度とない。能力の反転先がどちらを向いたにせよ、舌禍とは如何ともしがたいものです。ええ。あなたがいなくなった夢の世界は、がらんとしてしまいました。ええ。やがてはこれも、慣れるでしょうか。

 

私は如何にもぼんやりしています。お仕事も手につきません。ええ。私の中で、あなたの占めるスペースとはこんなに大きかったのですねぇ。意外でした。納得してもいました。悲しくない訳ではないのです。何度もこんな事がありました。それでも、何度でも、乗り越えてきたのです。

 

すっぱりと死んでしまったなら、ある意味、諦めもつくでしょう。以前、そんな事もありました。しかし――生きているのに、二度と会えない。引き裂かれた――いえ、住む世界を別たれてしまった。私はどうしても、諦められなかったのですねぇ。何か、何か手段があるのでは、と。

 

サグメさんの夢を探しました。しかして、私にはそれをついぞ見つける事は出来ませんでした。生きているのに、二度と、会えない。私は無力感に囚われてしまいました。ええ。淡々と仕事をこなしました。やけくそで夢魂を食べまくったりもしました。意味もなく、夢の中を漂ったりも。

 

サグメさんがいない。私は――涙を流していたかもしれません。私が泣くなんて事は、精々ドリーム砂埃が舞った時くらいで、滅多にありません。建設途中の豪邸を見に行きました。羊達は我関せず、といった感じで作業を進めています。サグメさんの豪邸は一応、形になってきました。

 

ドリーム10トントラックが、ドリーム建材を搬入していました。ええ。以前にサグメさんが爆発していた事を想い、悲しくなりました。あなたの残滓を見るのが、ただただつらい。あなたが死んだドリームバイクが置いてあります。ドリーム軽トラも。そしてあなたの腕も――んんん?

 

『サグメさん!?』私は慌ててそれに近付きますが――現の側は、何も見えませんでした、まるで二人の再開を拒むかのように。けれど、伸びたそれは――おそらく、サグメさんです。念話は聞こえません。私はなんとなく、理解しました。もしも、互いを互いと認識しなければ――?

 

夢の世界から手を伸ばしました。お互いの顔は見えません。見えてはいけないのです。私達は、手を握り合いました。確かな暖かさを感じました。互いに引き合いたい。顔を見たい。あなたに触れたい。このもどかしさは、きっとサグメさんも感じていたでしょう。ええ。

 

舌禍がもたらす影響は未知数。反転した運命は如何様にも転びえる。己がすら、どのように作用するかはわからない。非常に危険で、恐るべき力です。けれど――私は、あなたの選択を恨んだりはいたしません。私は手を握り込みました。その力を私、そしてあなたの為に使ってください!

 

「ドレミー!――私は、あなたと一生、暮らさない!!」

 

その瞬間。運命の歯車がギギ、と音を立てます。運命は再び逆転しました。まるで背を押されるように、サグメさんは夢の中に飛び込んで来ました。あなたの顔が見えます。『サグメさん』『ドレミー!――本当にドレミーね!?』『ええ』抱き着くサグメさんを、私は優しく撫でました。

 

きっと、最初の運命はあなたの宣言に向けて反転したのでしょう。あなたが、私を取り戻すまでを織り込んで。ええ。世の中はままなりませんが、しかして良く出来てもいます。私は夢魂をちぎり、吹き散らしました。運命とは夢に似ています。起きるまでが、夢。起こるまでが、運命。

 

『あなたの顔が見たかったわ』『いつも見ているではありませんか』『今、見たくなったのよ!』ふふ。可愛らしい。『さあ、お家に帰りましょう。まだ、完成には程遠いですがねぇ』『完成させるわ。あなたとの夢の御殿』サグメさんは毅然と宣言しました。決して頓挫などさせまいと。

 

『さあ、帰りましょう?』サグメさんはその辺に転がっていたドリーム筋斗雲を引きずってくると、私を手で誘いました。私がそれに乗っかると、あなたはその後ろに乗りましたね。『掴まっていてくださいね』『わかっているわ』サグメさんの体温が、背中越しに伝わってきます。

 

――私は今まで、伝えられなかった事を伝えようと思いました。ええ。『サグメさん、これを』小さな箱。私が渡したのは――そう、指輪です。エンゲージリング。『私から渡そうと思ったのに』『早いもの順ですよ』顔を真っ赤にしたサグメさん、可愛いですよ。もっと顔を見せて――

 

『ドレミー!――信号赤、赤ッ!!』――おや?

 

キキィーッ!――ドオォォーン――!!

 

ドリームブルドーザーに激突して、私達は死にました。まあ、確かにこの世で一緒、とは一言も言ってはいませんでしたが。ええ。運命とは無垢で残酷なもの。しかして私達の絆は――きっと、壊されてはいないはずですねぇ。……あの世でも一緒ですよ、サグメさん?

 



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恋路はルール無用

―恋路はルール無用―

 

私は、痴れ者二人を正座させている。

 

「――それで、どうしてこうなった?」「どうもこうも」文はにやついている。もう少し愁傷にできんのか、お前。「いえあの、怒らせるつもりはなくて……」お前にはそんなに怒っていないよ。姫海棠。「あなたが欲しがっていたから、ラッピングしてお出ししただけです」文が嘯く。

 

その言葉の通り、リボンを巻かれた袋から頭を出している者が、一人。「犬走を出してやれ」「――いえ、別に構いませんが」椛はぼんやりとこちらを見ている。「確かに私は、犬走を気に入ったとは言ったが、何だこの有様は。否、言わなくてもわかる。どうせ、文の悪戯だろう?」

 

「悪戯とは失敬な。これは立身出世のチャンスだと、椛にはよおく言い聞かせましたとも」文が立ち上がろうとした。「座れ」「はいはい」文は屈むと、当然のようにあぐらをかいた。いつもこれだ。怒る気にもならん。「椛も飯綱丸様が好きだ、って言うから、それならって……」

 

「言いたい事は分からんでもない。だがな、本人の意志を無視して、こんなやり方はないだろう」「おや、椛は乗り気ですよ。そうですね、椛?」「好きにしてくれ……」椛は何もかも諦めた目をしている。「さて、首輪が欲しいですか? リードも?」「そういう扱いが気に食わん」

 

私は袋に近付き、椛のラッピングをほどいてやった。「プレゼントは開封してこそですな」「お前、少し黙ってろ」椛を助け起こし、身体を抱いてやる。尻尾がゆらゆらと揺らいだ。「可哀相に。こんなに怯えている」「喜んでるよ?」はたてが口を挟んだ。「……そうなのか?」

 

まあ、狼藉者から離れられれば、そういう考えにもなるかもしれないが。「飯綱丸様」椛が私を見た。私も見返した。「――お慕い申しております」「あ?――ああ」一瞬、何を言われたのか分からなかった。お慕い申す。倒れていた耳がぴんと立つ。尻尾がばたばたと揺れた。

 

「じゃあ、私も」はたてが立ち上がり――誰が立って良いって言ったよ――剥かれたラッピングの袋に足を入れると、その中にひょい、と収まった。自分でリボンを結び、頭だけになったはたてがこちらを見た。瞳を潤ませている。なんだその――拾って欲しいと懇願する猫みたいな顔は。

 

「どうしました、飯綱丸? ほどいて差し上げなさい」「お前は何を言っているんだ」私は多分、この上なく怪訝な顔をしていた。はたては憐憫を漂わせ、こちらを見続けている。ああもう、何なんだコレは。私は椛を引き剥がすと、袋に近付き、はたてのラッピングをほどいてやった。

 

「どうです、気に入りましたか?」「何がだ」はたてを助け起こし、身体を抱いてやる。はたてがすり寄った。「飯綱丸様」「……何がしたいんだ、お前らは」私ははたてを見た。はたてもこちらを見ていた。「私、飯綱丸様の事が好きになっちゃった」……ああ? 何だって?

 

「さてはさては、わたくしの番ですな」文が立ち上がり――立つなってのに――剥かれたラッピングの袋に足を入れると、その中にシュバッ、と収まった。自分でリボンを結び、頭だけになった文がこちらを見た。瞳を潤ませている。気持ち悪いぞ、お前。「さあ飯綱丸、ほどきなさいな」

 

「――お前ら、私をからかってるだろ?」私は文から目を逸らした。こいつは死ぬまで放っておこう。「まあ、からかってみたかったのは確かですがね。ちょいと競ってみたかったのですよ。誰があなたに気に入られるかをね」「……気に入るって?」「本当にニブいですね、あなた」

 

椛が座った。はたてが座った。器用に飛び跳ねながら、文が転がった。「さあ、あなたのお眼鏡にかかったのは誰ですか?」「意味が解らんぞ」「誰が好きか、って事ですよ」「好きかって……。まあ、少なくともお前以外だよ」「邪険になさる」笑い――いや。その目は笑っていない。

 

「結局、最後には私の元に戻ってくる。そういうものですよ、飯綱丸」最後には。私には意図を計りかねた。しかし、そんな事を考えている余裕はなかったのだ。真剣な眼差しが私を貫いている。私も思わず緊張してしまった。こいつらは、何をそんなにマジになっているんだ?

 

「飯綱丸様、どうかお傍に置いてください」

 

「飯綱丸様、私のお婿さんになって!」

 

「あなたを貰ってさしあげますよ。わたくしめがね」

 

三者がズイ、と私に近付く。段々と状況が掴めてきたぞ。こいつら、私に言い寄っているな?「私は結婚なんてしないぞ」「そうやって邪険になさるから、今だ独身なのですよ。あなたは」「うるせえ」膝置きをたぐり、顎に手を当てる。適当にあしらうか。それとも――それとも、何だ?

 

――まあ確かに、誰とも知れぬ者と結婚するよりは、ずっといいだろう。こいつらとは長い付き合いだ。よもや恋愛なんて、考えもしなかったが。気軽な関係とは、故あらば崩れてしまうものなのだな。私はただただ、困っていた。顎を掻く。こんな事を考えている自分がおかしく思える。

 

「「「さあ」」」

 

さあではない。こういうものには、心の準備がだな――というか、何故私は乗せられているんだ。今すぐこの場で蹴り出してしまえばいいじゃないか。「蹴ってしまえばいいと思っておりますな」如何にも無様な文がにやついた。「生憎と、あなたの御家からは許可を頂いております故」

 

「――マジか?」「マジです」ポケットから取り出した紙を、文はひらひらさせた。確かにウチの印が入っている。……じいさん共、私が縁談を蹴りまくって一向に結婚しないからって、ハメやがったな。「誰かを選ばなければならないのですよ、あなたは」文が飛び跳ねる。うるせえ。

 

――参ったな、誰を選んでも角が立つんじゃないか。椛を見る。道ならぬ恋、か。側室みたいなものになるが、確かに結婚は可能だ。はたてを見る。婿入りすれば、間違いなく飯綱丸家の勢力は拡大する。それだけの影響力がある。絶好の機会だ。しかしそれは――如何にも政略結婚だ。

 

文は論外だ。こいつに恋愛感情なんて抱く事は百パーセントない。この頃はやけに顔を合わせる機会があるが、いつも私を煙に巻く。一方的に話をする。反論すれば丸め込まれる。人を小馬鹿にしくさってからに。私は頭を掻いた。もはや逃げ場はない。どうする。どうする飯綱丸――

 

「その結婚、待てい!!」襖がバシリ、と開いた。そこにいるのは河童だ。「飯綱丸様よ、あんたからはまだ借金を返して貰ってない。一千万。びた一文まからないぞ」――あー。そういえば堤防工事を発注したまま忘れていた気がするな。河童は私を睨みつけた。や、そんなに怒るなよ。

 

「だがな、お前が私と結婚してやる、ってんなら、ここでチャラにしてやる」……は?「あんたには前から興味があったんだ。金持ってそうだし、美形だし」そりゃどうも。……いや、そうではない。私が混乱している間に、ラッピングから文が抜け出し――にとりがそこに滑り込む。

 

自分でリボンを結び、頭だけになったにとりがこちらを見た。如何にも不敵な笑みを浮かべている。「いや、確かにお前とは何度も顔を合わせてたがな……?」「嫌ならここで払え。一千万」「いやいや……。そう突然言われても、用意できないぞ」「じゃあ決まりだ。私と結婚しろ」

 

河童と結婚なんてちょっとばかし話題になるかもしれないが、まあ、あり得ないとも言い切れないか。技術者連中に顔が利くようになると考えれば、悪くない話だ。工事は全部、飯綱丸家を通さなければならない――なんてのは、いくらでも悪事を働けるぞ。……いや、そうじゃないだろ。

 

「その結婚、待てや!!」襖がズドン、と開いた。そこにいるのは山童だ。「お前が結婚するってんなら、あたしだって取り合う権利がある!」「なにおっ!」「なんやっ!」二人はやにわに喧嘩を始めた。室内でやるな。「どうなってるんだ。何で私はそんなに取り合いになってる?」

 

「何でかしら」「!!」背中に嫌な気配を感じた。振り向かない。この感覚には覚えがある。「こちらを向いて頂戴な」「断る」「うふふ」私の首に腕が回される。そこにいるのは厄人形。確かに何度か話をした事はあるが、それだけで結婚なんて――まあ、今はあり得ない話ばかりだが。

 

「私を娶ってくださるなら、あなたの厄を払ってさしあげるわ」――うーむ。厄か。大天狗の仕業なんて、実際厄だらけだ。お前がそれを払ってくれるというなら――いやいや、何を考えている。大天狗が厄そのものを娶るなんて、前代未聞だぞ。天地がひっくり返ったってありえない。

 

「故あらば、天地はひっくり返るものよ」まるで読まれたかのような言葉。鍵山は私の頭を撫でた。濃厚な厄を感じる。これ以上触れ合っていたらどれだけ影響を受けるか分からない。私は腕を振り払い、部屋の真ん中に移動した。辺りは今や、騒々しい所じゃない。どうしてこうなった。

 

「その結婚、待ちなさいッ!」バキリ、と音がして、襖が壊れた。「荒れ果てたあなたの心には、実りの神こそが相応しいわ!」「いやいや、あなたの心を紅く染める、紅葉の神こそが相応しい!」秋の姉妹が雪崩れ込んでくる。四季の実りが、紅い塗料が、私を取り合う罵声が飛び交う。

 

――おいおい、勘弁してくれよ。ここにいる全員が、私を取り合って醜い争いを繰り広げている。殴る蹴るは当然、風の刃が畳を、剣が柱を、アームが天井を、手裏剣がそこら中を、お芋、葉っぱ、厄、にやにや笑い――もはや頭を抱える以外に出来る事はない。疲弊した私は、外を見た。

 

「――げっ」向こうから飛び来るのは、博麗の巫女と魔法使い。マジか。マジだ。そいつらは一気に加速し、部屋のガラス窓を――ああ、やっちまった。凄まじい音を立てて窓が割れる。「ちょっとあんた達、私を忘れるんじゃないわよ!」「私だって、玉の輿には乗りたいんだぜ?」

 

陰陽玉が壁をボコボコにする。レーザーが周囲を切り取っていく。「いや、もう――好きにやってくれ」私は全力で現実から目を逸らす事にした。「飯綱丸様!」「――あー。お前も参加してこい」「御意!」典はさも楽しそうに、暴力の坩堝へ飛び出していった。……はあ。もうやだ。

 

私は横になった。もう知らん。私は寝るぞ。どれだけうるさくても寝る。目を閉じると――意外にも、睡魔はすぐに来た。アホ共の相手で疲れていたんだろう。目が覚めたら、これは全部悪い夢だった、って片付かないもんかな。希望的観測を温めながら、私は眠りに、眠りにと――

 

―――

 

  ―――

 

「もがっ!?」唐突に目が覚めた。周囲は――静かだ。布団がある。今朝と同じ布団。普段通りの寝室だ。……二度寝でもしてたのか? 私はそっと起き上がり、耳をすませた。やはり、何の音もしない。あれは――夢、だったのか? 頬を張る。痛い。どうやらしっかり目覚めている。

 

――何とも、嫌な夢だった。私は大天狗の装束に着替えると、御付きに声をかけ――うん? 御付きがいない。その代わりに立っていたのは――「おはようございます」椛だ。どうして椛がこんな所にいるんだ?「よくお休みで」「あ、ああ……」頭を振る。椛の尻尾も、ばたりと揺れた。

 

怪訝に思いながらも、外へ出る。そこには――文がいた。「おや、もう昼ですよ」「何でお前がここにいるんだ」「入って良いと言ったじゃありませんか」文は大仰に手を広げ、首をかしげてみせた。「まあ、今日は忙しくなりそうですね。わたくしはここで暇を潰していますよ」

 

忙しくなる?――まあ、文の言う事だ。そのまま受け取っても仕方ないだろう。私は執務室に向かおうとして――「飯綱丸様、起きてたんだ」儀礼用の天狗装束を着たはたてが行く手を塞いだ。「もしよかったら、今から実家に行きません?」「姫海棠家にか?――いや、今は忙しい」

 

「そっか」はたては名残惜しそうに道を開けた。それを横目に、廊下を進んで――「よう、大天狗様」ラフな格好の河童と山童。私の顔をじろじろと見ている。「美形だろ」「ああ、美形や」「――何だ、お前ら?」何故こんな所にこいつらがいるのか。「まずはお友達から始めんか?」

 

「おい、抜け駆けはなしだって言っただろ」「恋路はルール無用や」視線をカチ合わせる両者を放っておいて、私は進む。何やら嫌な予感がしてきた。「嫌な予感は当たるものよ」「!!」背後から近付いてきた厄が、私の首に腕を回した。「あなたの事が、好きになってきたわ。私」

 

その腕を慌てて振り払い、廊下を走る。……足元に果物のかご、そして紅葉の首飾り。「飯綱丸様、待ってまs――」私はそれを飛び越えて進んだ。もはや予感は確信に変わった。執務所ではない。逃げなければ。早く何処かへ逃げなければ。視線を振り払い、廊下から空へ飛び立つ――

 

「待ってたわよ、大天狗!」「よう! ここは一つ、恋バナと洒落込もうぜ!」――ああ、そうだ。こいつらもいた。私は急転回して逃げた。逃げ続けた。後方から連中が追いかけて――おい、なんか数が多くないか? 遠くに緑の巫女が見える。地獄烏が見える。火焔猫が見える。

 

烏天狗が黒い塊のように。白狼がわちゃわちゃと空を埋め尽くさんばかりに。すべてが私を狙っている。やめてくれ!――ホントにやめてくれ!!――おかしいだろ、こんなの!! 全速力で飛ぶが、引き離せない。向こうも無我夢中なのだ。それでも、飛び続けなければ――!!

 

「あなたが渋るからですよ」不意に追いつき、追い越した黒い風が、口を利いた。「ほら、手を掴みなさい」「文、お前……」「最終的にはわたくしの元に戻ってくる。そう言ったはずですよ、飯綱丸」文は私の手を引き、首に手を回すと、私にとって――初めてのキスをした。「!?」

 

空中で抱き合った二人。頭を寄せ合う二人。追いかけてくる連中の動きが、止まった。どよめきがこちらにも聞こえた。やがて――それは拍手に変わり、空を喜びに響かせた。「もはや、あなたは籠の中の鳥です。決して逃がしませんとも」「あ、ああ」「シャキッとなさい、飯綱丸!」

 

私達は連中の元へ飛び寄った。飛び寄り、その間を抜け、大天狗の居所へと向かった。誰もが拍手をしていた。何だか、気恥ずかしいな。「これでわたくしは、あなたの妻となりました。それとも、逆の方がお好みで?」「いや。それでいい」「結構」文が笑った。私も、つられた。

 

どいつもこいつも、お人よしだな。拍手を背に、私達は肩を抱き合いながら、飛んだ。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「大量の婚姻届けが届いておりますな」

 

「まだ諦めてなかったのか……」

 



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―バトル―
傲慢で結構


―傲慢で結構―

 

お前を殺す。

 

いやまあ、殺しはいたいませんが。おまじないでありますよ。おまじない。さて、私は少しばかり、厄介な仕事を押し付けられております。普段ならこんなもの、引き受けはしないのですが、気紛れ――とは違いますな。意図はありました。ただそれは、少しばかり気恥ずかしくもあり。

 

「文、大丈夫!?」何てことはありません。少々、槍が背に刺さったくらいで。「大丈夫じゃないよ、それ!?」そうは言っても、相手方は待ってはくれないのですよ、はたて。背の槍を抜き、烏に向けて構えます。血は流れておりますが、気絶するまではまあ、まだまだ持つでしょう。

 

「あなたは下がりなさい」御付きの烏が左右を取り囲みました。「約束ですよ」「……うん」しかし、困りました。さっきので扇を落としてしまったのです。これでは手も足も――というのは、まあ半分嘘ではありますが。もう半分は、お前達などこの槍で十分、という傲慢でありますな。

 

―――

 

  ―――

 

――それは先程の事です。敵はこちらを待ち伏せしていたようで。並の烏如きに後れを取るわたくしではございませんが――彼奴等は荷持ちの白狼から槍を取り、私に向けて幾本も投擲してきたのです。風と違い、音速で飛ぶそれは相殺できません。同時に、私の周囲を風の刃が包みます。

 

風に裂かれるか、槍に貫かれるか。わたくしは後者を選びました。もっとも、容易く刺されてやる気はありません。背を逸らせ緊急回避――したつもりだったのですが――まあ、敵もそれは承知していたようで。向かい風が私の身体を釘付けにしました。中々の連携と言って良いでしょう。

 

褒めるのはまあ、癪ではありますがね。烏の槍は、私の背中を貫きました。大した事はありません。蚊に刺されたようなものです。まあ、その蚊は私達よりずっと大きいでしょうが。「御命頂戴」扇を持った烏がにじり寄ります。白狼が弓矢、そして槍を投擲せんと構えました。

 

―――

 

  ―――

 

白狼の槍でも、刺さればまあ、痛いでしょう。はたての背が遠ざかったのを見計らって、わたくしは――目前の烏に仕掛けました! この場に烏は精々二十数人程度でしょうか。白狼はまあ、数えるのも面倒なくらいいます。最も、彼らは同時には仕掛けられない。同士討ちしますからね。

 

わたくしは空を駆け、烏に槍を突き込みました。穂先に風が渦巻きます。風の力をまとわせているのです。扇がない中、わたくしに繰れるのはこのくらい――しかして、役には立つものです。割り込んできた風の槍に、正面から突き込みます。風は相殺され、跡形もなく消えてしまいます。

 

烏はリーチの長さを嫌ったのでしょう。風の壁を幾重にも立てましたが――それを穂先で薙ぎ払い、相殺します。勝手知ったる風の技。弱点もよおく心得ておりますとも。突きはかわされましたが、風を蹴りながら身体をねじり、脳天からそいつを串刺しにせんとします!

 

それは扇に阻まれましたが、風の槍はその程度では止められません。扇をバラバラに壊されたそいつを、蹴り落とさんと――したのですが、しかして敵もさるもの。崩れた態勢から白狼から投げ渡された槍を持ち、こちらに向かってきたのです。私は突き上げを後ろに跳ねてかわしました。

 

双方槍を構え、じり、と見合いました。先に――いえ、仕掛けざるを得なかったのは、わたくしです。投槍、そして矢が雨のように降り注ぎました。普段の私なら風を繰って朝飯前に叩き落としてしまうものですが、今は持たざる身。そう簡単ではありません。私は一瞬、背を向けました。

 

槍を避け、矢を回転させた槍で防ぎます。それは非常に危険な行為です。何しろ、槍を持った烏をフリーにするのですから。あんのじょう、私に向けて必殺の突きが捻じ込まれます。穂先で穂先を防ぎましたが、重い一撃です。私は一歩分押し込まれ――更なる矢弾に晒されてしまいます!

 

わたくしは不利を悟り、思い切って烏の懐へと飛び込みました。これなら割り込みは入りませんが――お互いに手出しの難しい距離です。石突で殴ろうとしましたが、烏も同じ事をしようとしていました。石突同士が打ち合います。抜き手を放たんとしますが――やはり考える事は同じ。

 

埒が明かず、私は距離を取りました。可能な限り遠ざかり、ヒットアンドアウェイを取る作戦です。烏も同じく後方に飛び、槍を構えました。ほんの僅かな時間、睨み合い――双方、空中でぶつかり合いました! 幾度も幾度も、方向を変えては突き合い――その度に、火花が上がります。

 

互いに決定打を与えられません。力量も互角と言っていいでしょう。戦いの年季は私が上でしょうが、烏の方が槍を扱い慣れている。互いに中距離で睨み合い、浅い突き、そして力の乗った突きを放ちます。こんな所で長期戦などしている暇はないのですが、烏はそれを許しません。

 

――ならば、ここは教科書に載っていないような事をしましょう。私は左手に槍を持ち替えると、左手にそれを取り出しました。幾度目かの打ち合い。私は軽く打ち払いますが、相手はその隙を逃さず、わたくしの腹を突き刺すべく速度を上げました。このままでは、わたくし串焼きです。

 

しかし、そうはならなかった。何かが壊れるような音と共に、烏の目前で光が放たれたのです。烏は思わず怯んだでしょう。その隙を逃す手はありません。両手に持ち替えた槍で烏の槍を打ち払い、更に両の肩を突き刺すと、下に向けて蹴り飛ばしました。もはや戦えないでしょう。

 

この場で殺すのは、まあ――夢見が悪いですからね。できれば避けたい。先程、壊されたのは――私のカメラです。あの時、凝視している所に至近距離でフラッシュを焚いた訳ですね。目が眩んで一瞬、何も見えなかったに違いありません。まあ、弁償代は姫海棠家にツケときますよ。

 

しかし、安堵する暇はありません。槍や弓矢が飛びます。フリーの今なら、どうという事はありませんが、次と戦う前には止めておきたい。わたくしは白狼を指揮している者を探し――そうだ、あいつです。私に槍を投げつけたあいつ。弓矢の間を突っ切り、わたくしは烏に迫ります!

 

護衛の白狼が十人ばかり出てきましたが、むしろ好都合です。適当にいなしておけば、援護射撃は来ないでしょう。……私の想像通り、白狼は仲間を巻き込む事はしません。これが烏なら、白狼もろとも撃つでしょうがね。私は石突で白狼を突き、怯んだ所を蹴り落として回りました。

 

烏はどうやら、白狼ごと撃つように強く命令しているようです。ここいらが潮時ですか。わたくしは烏の元に飛び込み、槍を構えました。烏は動揺しているようでした。どうやらこいつは三下ですね。意味もなく喚きなさる。この期に及んで風の壁を幾重にも繰りますが――無駄ですよ。

 

わたくしは烏に向けて、槍を思い切り投擲しました。まあ精々、意趣返しを堪能なさる。風の壁の向こうで更なる壁を繰ろうとしていた烏は、さぞ慌てた事でしょう。飛び出していったものは、戻ってはこない。背を貫通した槍と共に、そいつは落下していきました。ああ、スッキリした。

 

―――

 

  ―――

 

死にはしませんよ。わたくしは死んでいませんからね。私は手近な白狼に襲い掛かり、剣を奪い取りました。反撃とばかりに噛みつこうとした頭に手刀を叩き込み、やはり蹴り落とします。武器がなくなったなら、素直に逃げるべきでしたね。ええ。奪い取った剣を、正眼に構えます。

 

白狼に命令する者がいなくなった今、もはや白狼の援護攻撃はろくに飛んでこないはずです。次に飛び込んできた烏は――しかし扇ではなく、謂れのありそうな剣を携えていました。珍しいタイプですね。私は十分に警戒しながら、徐々に間合いを詰めます。当然、素人ではありますまい。

 

風を帯びた剣が、ぶん、と振り払われます。私も同じく、風を通わせた剣を構えました。互いに睨み合います。こういう時は、先に動いた方が負けるのです。……とはいえ、わたくしは人気者ですからね。外野から割り込みで風の刃がいくつも飛んできました。それを避け――来ました!

 

重い斬撃が、わたくしの剣を叩きます。薙ぎ払いを剣を立てて防ぎ、袈裟切りをいなします。こちらも薙ぎ払いますが、それは正確な動きでかわされます。こいつも中々にやります。いやはや、もう少し真面目に剣の練習をしておくべきだったでしょうか。遠い目をしてしまいますね。

 

わたくしは放たれた突きを寸前で避け、逆に突き返しました。互いに態勢が崩れます。わたくしは風を蹴って逆さになり、薙ぎ払いを放ちます。しかして相手もそれは見越していたのでしょう。風を蹴って飛び上がり、わたくしの脚から腹へを斬り下ろします。それを下へ飛びかわします。

 

腕から血が流れていました。何処かで斬りつけられたようです。私に一撃加えるとは、褒めてやろうじゃありませんか。私は飛び離れました。烏もそうしました。再び睨み合いになり――それは破られます! 互いに必殺の一撃を撃ち込まんと加速し、剣戟を交わ――そうとしたのですが。

 

剣が、砕けました。よくもまあこんな粗悪品を支給するもので。まあ、今は置いておきましょう。手刀を振るい、抜き手を放ちましたが、それはかわされます。外から割り込んできた風の槍を背を反ってかわし、その流れで前蹴りを叩き込みます。刃を立てる間もなく、烏がひるみました。

 

好機です。わたくしは至近距離から手刀を、拳を、そして抜き手を振るい続けました。ぴったり張り付いていれば、剣を振る事はできない。しかして敵もそれはご承知のようで、距離を離した瞬間に薙ぎ払いを放ちます。それを敢えて飛び込んでかわします。烏は防戦を選んだようです。

 

僅かに距離を取った烏が、私の格闘へ、正確に刃を立てます。こうなると、わたくしは手を離さざるをえません。もしそれに手足を裂かれれば、ひるんだ隙に必殺の斬撃を叩き込まれるはず。三度、睨み合いに入りました。何か打開策が必要です。何かが。……そうだ。これはどうです?

 

わたくしは一気に距離を開けると、反転して烏へと突撃しました。烏は当然、刃をこちらに立てようとしています。賢明です。しかしこの場では正解とは言いがたいですね。わたくしの動体視力は、その剣が正眼に構えられているのをめざとく捉えました。それならば、こうです!

 

交差する瞬間、わたくしは風を蹴って身体を回転させ、剣を横殴りに蹴りつけました。強く賢い射命丸にしか出来ない芸当でしょうが、横薙ぎ、袈裟切り、どちらにしても、刃のない部分というものは出てくるものです。要するに、わたくし自身をつるぎとして打ち込んだ訳ですな。

 

烏は激しく怯みました。剣を取り落とさなかっただけ、上等でしょう。わたくしは後生大事に抱えていた折れた剣を利き手に持ち替え、私は更に、更にと剣をいなしました。狙いは烏ではありません。烏の斬撃は、如何にも無理な態勢です。横薙ぎを飛び上がってかわし、背面に回ります。

 

その背に、折れた剣の刃を捻じ込みます! なるほど、折れても役には立つものです。レーザーを跳ね返したり。烏が混乱の最中にあるのを見る間もなく、わたくしは剣を奪い取りました。なるほど、これは鋭くも美しい剣です。名剣と言っていい。しかしてそれを振るうのは、わたくし!

 

腕をクロスさせて防御した烏に向けて、二度の振り下ろし、三度の袈裟切り、四度の薙ぎ払いを放ちます。この距離、手刀ではいなせぬものです。烏はたちまち、ぼろくずのように全身を引き裂かれました。遂にガードが解けました。わたくしは串刺しにせんと、一度の刺突を放ちます!

 

しかして烏は、私の剣を受け止めるように腕を開き――私の握り、そして柄を掴み、無理矢理に引き剥がしました。刺突は決して浅くはありません。指を切り落とされる危険を冒してでも、それを取り戻したかったのでしょう。なかなかの執念です。烏はそのまま墜落してきます。

 

敬意を表す、とは言いませんが。これ以上傷つける事もないでしょう。割り込みの風の槍をスイとかわし、わたくしは烏を睨みますが――いけませんね。武器を使い切ってしまいました。わたくしに白狼の団子が迫っています。再び剣を奪ってもいいのですが、あれは少々粗悪すぎますな。

 

―――

 

  ―――

 

何か、何か武器はないか。私は周囲を見渡し――こちらに射撃しようとする白狼の一団が目に留まりました。わたくしに目をつけられるとは、あなたがたはつくづく運がない。私は狙いを外しながら一気に射程範囲外に飛び込み、追い散らすと、白狼から弓を奪い取り、蹴落としました。

 

矢はありません。わたくしにはなくても構わないのです。手元の風から、風の矢を繰りました。風が良く乗る武器ではあります。わたくし達烏天狗にとっては、いささか迂遠でもありますが、今のわたくしには丁度良いものです。わたくしはそれを白狼の集団に向けて、撃ち込みました。

 

それは大きく逸れ、遥か頭上を飛びます。二本、三本と繰り出しますが、結果は同じです。……そう、結果はね。白狼達はへたくそな射撃に油断していたのでしょう。私の元に雪崩れ込んできます。私はそれをいなしながら、頭上に矢を放ち――それが、七つの矢に分裂するのを見ました。

 

七つの矢。七つの獲物。それに気付いた白狼は慌てて回避しようとしていますが、まあ、遅いですね。正面以外に意識がいかなかったあなたがたの不注意を呪うとよろしい。丁度七人の白狼が、肩や背中に矢を受けて墜落していきます。それは次々と降り、更なる犠牲者を生んでいます。

 

盾で防御した白狼がこちらに突撃してきます。中々の練度と見える。私は敢えて距離を詰めました。弓は引いたままです。激しく振るわれる剣をギリギリでかわし――腹に矢を打ち込みます! 次から次に振るわれる剣の間を抜け、腹を、膝を、背を撃ちました。白狼はうろたえています。

 

何、このくらいできなければ、一人で弓なんて扱えません。怖気づいた連中の頭上に再び風の矢を幾本も撃ち込むと――割り込みと共に、烏が一体、こちらに飛び込んできました。不甲斐ない部下の尻拭いという訳ですか。いいでしょう。相手をいたしますとも。ギリ、と弓を引きます。

 

相手はこちらに手数で勝てると踏んだようです。確かにそれは間違ってはいません。いませんが、例外は常にあるという事ですな。烏は風の槍を次々と繰り、わたくしを拘束せんとします。それを私は撃ち落とさんとして――矢は、明後日の方向に飛びました。二発目、三発目も同じです。

 

流石におかしいと思ったのでしょう。烏は頭上を何度も確認していましたが――まあ、そこには何もないのですよ。そこには。私は風の槍を大回りでかわします。烏は目前の敵に集中する事にしたのでしょう。更に風の槍を、そして枷を繰るべく、集中しています。実際、危険な攻撃です。

 

――普段なら、ですが。私の目の前で、烏が目を見開くのが見えました。その背には三本の矢が突き刺さっています。……いわゆる、反射弾という奴ですね。矢が直線的にのみ飛ぶものとは思わない事です。私は四方八方に矢を放ちました。矢は雷めいてジグザグに飛び、止まりました。

 

それらは空中の一点で固定されたように回転し、烏を狙っています。私が命じれば、それらすべてが烏に向かうでしょう。烏はじり、と後ずさり――風の球体を幾重にも繰りました。すべての矢に耐えようというのでしょう。私は攻撃を命じました。矢よ、三秒後に雪崩れ込め――!

 

わたくしは、油断なく弓を引きました。やぶれかぶれの行動に出る可能性。矢を防ぎきる可能性。それらをすべて潰してきたつもりです。三、二、一……! すべての矢が雪崩れ込みます! 烏は――しかし、身を守る事はしませんでした。矢に耐える気もなかったのかもしれません。

 

――矢は、その殆どが私へと進路を変え、飛び込んできたのです! 動転したわたくしは、追い来る矢から必死に逃れるべく、上下に振れながら飛びました。殆どは追尾しきれずに消え去りましたが――一本の矢が、私の頬をかすめました。少し逸れれば、落とされていたかもしれません。

 

同時に、球体の内側から風の槍が幾本も飛び込んできていました。それをかわすのは、もはや難しいように思えました。私は矢でそれを迎撃しました。二、三、四――しかして足らず。一本の槍がわたくしの脇腹と脚を斬り付けました。いけません。これ以上の流血は許容できないのです。

 

わたくしは、己が獲物を前に舌なめずりした事を反省しました。本当でありますよ。どうやら射角を変えるよう、僅かな風の流れを繰られていたようです。種が割れてしまえば、この手は使えません。わたくしは頭上に矢を放ち、槍を避けながら足元にも放ちました。風の矢、十四発。

 

しかし、やはりそれは風の壁で防がれます。手がなくなってきました。丸腰同然なら、いずれ槍を避け切れずにやられてしまうでしょう。わたくしは考えました。考え――これしかないと思いました。これが駄目なら、八方塞がりです。私は距離を離しました。弓は引かず、慎重に。

 

当然ながら烏はこれを許しません。風の壁を幾重にも繰り、上下から風の槍を投擲します。私はそれを避けませんでした。槍が到達までの時間に、私は賭けたのです。……我々は、風をどうして槍のように繰るのか。それは槍の形が威力、そして使い勝手共に適しているからです。

 

それ以外の形に、繰れない訳ではない。私の手の中で矢が生まれました。それはやにわに肥大化し、やがて手に納まらないほどになりました。しかし、それでは足りない。もっと、もっとです。弓が手の中でガタガタと震えました。保って下さいよ。私は更に集中し、風を繰ります。

 

……もっと。もっと! もっと!! ――それは、私の求めに答えてくれました! 目前に在るのは矢、それも丸太ほどある巨大な矢です。私の身体をギリギリ、と軋ませています。風の槍がそれに触れると――一瞬で掻き消えてしまいました。猛烈な風のエネルギーがそこにあるのです。

 

烏はそれを見ていたはずです。しかし、間に合わなかった。同じように、油断していたのでしょうね。わたくしの弓から放たれた巨大な矢は風の壁をやすやすと貫き、風の球体を破壊し、烏の身体を切り裂こうとしました――が、直撃はしませんでした。寸前で避けていたのでしょう。

 

それはそれで構いません。あんなものが直撃すれば、確実に死んでいたでしょうから。きりもみ回転する烏を横目に、わたくしは割り込みを避けつつ次の敵へと向かいました。その手の中で、弓がばらばらに崩れました。これまで保ってくれたのですから、十分お役目を果たしましたよ。

 

―――

 

  ―――

 

私は新たな武器を探し――先程のように、槍を運ぶ一団が見えました。わたくしはそれを蹴り散らすと、再び槍を奪い取りました――が、割り込んできた風の刃が、狙ったように穂先を切り飛ばしました。わたくしはそれに構わず、棒として構えました。全体が風を帯びます。

 

ふん、穂先がなくなってむしろ丁度良いというもの。風もよく乗りますからね。私は繰られた風の壁を一振りで薙ぎ払い、烏に突っこみます。さあ、来るがいい。距離を詰める飛び来る風の槍を、棒を回転させて相殺します。二度、三度、襲い来るそれを、やはり棒は相殺しました。

 

割り込んできた風の槍も同様に散らします。いわば、風の壁を常にまとっているようなもの。埒が明かぬと悟ったか、風の刃がいくつも飛来しますが、これを回避します。あれを相手にするのはいささか分が悪いのです。同じ場所に何発も貰えば、あくまで棒。斬り落とされるでしょう。

 

弱点は相手にも伝わってしまったようです。しかしてここは、既にわたくしの間合い。飛び込む速度に任せ、烏に突き込みます。それは回避されましたが、もはや烏にも、或いは割り込みにも、風の刃を繰る余裕がなくなった訳ですな。そうなれば、こちらもしめたもの。

 

烏はわたくしのリーチを警戒しています。接近戦には遠く、風を繰るには近い。そう。そうして頂いた方がこちらもやりやすいというもの。背後から割り込んできた風の槍を振り向かずに叩き落とし、私は棒を振りました。烏は扇でそれを防ぎます。単なる棒だと高を括ったのでしょう。

 

棒とて、過小評価するものではありませんね。わたくしは風を蹴るように先端を素早く引くと、扇に向けて二段、三段と突きを叩き込みます。その衝撃は風を乗せた強烈なものです。遂に扇がひしゃげました。烏は扇を捨て、手刀を構えます。ほうほう、中々肝が据わってらっしゃる。

 

私は棒を短く持ち、出方を待ちました。懐に飛び込まれれば不利です。しかして割り込みは入るもの。わたくしの背後から風の刃が数発飛んでくるのがわかります。わたくしはそれを左右に振ってかわし――烏の方に受け流しました。烏は風を繰れません。やはり身体を振ってかわします。

 

なるほど、烏というものは風を繰るのに頼り切っている。わたくしは跳ねて距離を取り、如何にも狙ってくださいと言わんばかりに姿を晒しました。ついでに手を振って挑発しておきましょう。……思った通り、風の刃が相当な数、わたくしに繰られました。烏が最高速で近付いてきます。

 

わたくしはそれらをかわす振りをして――寸前で側面に回ると、追い風を帯びた棒を回転させ、痛烈に追い散らしました。方向を変えたいくつかの刃は――そうですね。烏に向けて飛来いたします。完全に想定外だったのでしょう。最高速度で近付いていた烏に、回避する術はありません。

 

その内のいくばくかは外野が解除し、寸前に四散しましたが、多くは烏をずたずたに切り裂きました。あくまで間合いに拘ったあなたのミスです。いえ、ミスというには可哀相ではありますが。目の前でボロ雑巾と化したそれを、わたくしは若干の哀れみを持って蹴り落とします。

 

しかし、割り込みの風の刃が数えたくないくらい、わたくしに向かってきます。先程の行為への怒りでしょうか。そうでしょうね。ええ。わたくしは身体を反ってかわしました。その内の三つを避け切れず――わたくしの手元の棒が真っ二つに裂かれ、身代わりになってくれました。

 

私は手近な烏に向けてそれを投げつけます。風の槍が二つ、風を帯びた棒の成れの果てを受けて相殺されました。十分です。あなたは役に立ちました。私は割り込んでくる風をいなしながら、再び武器を探します。中々良さそうなものが見つかりません――いや。あれは何ですか?

 

―――

 

  ―――

 

わたくしは白狼に襲い掛かりました。荷を補充する為にそこらを漂っていたのでしょう。剣も、槍も持っていません。はずれか、とも思いましたが――腰から短刀を五本奪い取りました。これを使いましょう。飛び来る風の槍を適当にかわすと、わたくしは近くの烏に向き直ります。

 

あんのじょう風の壁を張っています。いささかワンパですね。わたくしはは壁を避けるように、ぐるりと周囲を飛び回りました。その度に風の壁は増え、わたくしの突撃を防がんとします。それが四方八方を囲んだのを見計らい――わたくしは短刀を二本、烏に向けて投げ放ちました!

 

これは二度目の意趣返しです。あなたの自爆という点では――まあ、わたくしよりも無様でありましょうな? 実弾は風で相殺しない。ようやくそれに気付いたのでしょう。しかして逃げ場はない。風を四散させるだけの時間はない。その顔は恐怖に歪んでいたでしょうか。でしょうね。

 

おお、ぶざまぶざま。一本が腹、もう一本が首筋に刺さり、すべての風は消え去りました。気絶すれば、確かに消えますがね。それは当人の思う所ではなかったでしょう。ええ。私は短刀を両手に持ち替えました。……その時です。予測もしない所から弾丸が飛び込んできたのは。

 

墜落する烏の向こうから、相当な数の風の弾丸です。しかしてわたくしにとっては止まっているようなもの。隙間を避けながら、下手人を探します。……いました。随分遠い場所から撃ち込んできなさる。スナイパー気取りですか? わたくしは一気に距離を詰め、目前まで突っこみます!

 

烏の顔は実際、混乱していたかもしれません。そりゃそうですね。おいもは嫌われますよ。ええ。短刀を牽制に投げつけ、もう一本を突き立てようとします。烏は――いけませんね、この期に及んで風を繰ろうとしていらっしゃる。短刀が腕に刺さり、腹に突き立てられます。

 

いわゆるナイフキルという奴です。あなたのそれも、仲間と連携すれば脅威だったでしょうに。墜落していく烏をニヤニヤと見送り、割り込みの風をスイと避けました。いやはや、わたくしはファンが多すぎて困りますな。ワハハ。あなたも一つ、サインでもいかがかな?

 

――などと嘯いていると、実際に来ましたね。ファンが。驚くべき事にそいつは白狼天狗です。剣も盾も持っていませんが、袈裟懸けに短刀を山ほどぶら下げています。あれですね。特殊部隊。特殊である事以外はわたくし、何も知りませんが。或いは本人も知らないかもしれません。

 

そいつは袖口から短刀を取り出すと、針めいたそれを片手に二本ずつ、四本を構えました。それはつまり、最初から投げるつもり満々という事です。刺されば中々痛いでしょう。普段のわたくしなら風で楽々吹き飛ばしてやるのですが、如何せん落ちぶれた身であります。強敵と見ました。

 

私も短刀を両手に構えます。残りは二本しかありません故。その動きを見て、白狼はニヤリ、と笑いました。そういう笑いはわたくしの専売特許なのですが。金取りますよ――とまあ、ふざけている訳にもいきません。お互い、真顔になりました。双方睨み合い――白狼から仕掛けました!

 

短刀を突き込みながら接近してきたのです。わたくしは右に振って避け――た先に、短刀が置かれていました。情けなくも、目を丸くしていたでしょう。これは置き射撃です。刺突するより前に投擲していたのでしょう。一瞬の判断が間に合い、短刀は脇腹をかすめました。

 

わたくしは距離を詰めようと、白狼に飛び掛かりました――が、そこにはやはり短刀が置かれていました。上に飛び上がった白狼が更に短刀を投げつけます。なるほど、種族の差をこういった小細工で埋めようというのですか。わたくしは腕に刺さった短刀を抜き、懐に仕舞いました。

 

白狼は常に中距離を保っています。密着されれば勝ち目がない事をよくよくご存じで。邪魔するワンコは手刀一発でダウンですからね。わたくしは――やはり、距離を詰めようとします。いっそ突き放すのも手ですが、どちらも攻め手がなくなるだけですし、割り込みが入るのも癪です。

 

わたくしは風を蹴り、一気に距離を詰めます! あんのじょう目の前に短刀が現れますが、風を蹴って上に――回避した先にも、やはり置かれていました。しかしそのくらいは想定済み。風を蹴り、後ろに回転しての踵落としでそれを弾き、更に、更に、背を蹴って先へ進みますよ!

 

上下運動を加えれば動きは予測しづらくなる。そう踏んだのです。それでも目前に短刀は現れましたが、風を蹴って、上手く蹴り払えました。徐々に短刀の厚みが濃くなってきました。接近している証です。それをまとめて横蹴りし、避け――目の前には白狼の姿! これで終わりです!

 

風をまとわせた短刀を振るいます。白狼如きが反応できるはずがありません。……が、刃はあっさりと跳ね返されました。白狼の手には四本の短刀。その内二本は、風をまとっています。或いは、マジックアイテムの類か。鑑定してみないとわかりません。まあ、発狂されても困りますが。

 

――白狼が飛び込んできました! わたくしは短刀を突き込みますが、手応えがありません。疾くはないが、はしっこい動きです。側面に周り、短刀を二本、そして二本、ついでに二本、投擲します。恐るべき手の動き。自機狙い――じゃないですが、居ても避けても被弾する布陣です。

 

ならば上に避け――ると、そこに二本置かれています。わかってはいますが、対処が難しいのです。わたくしは短刀でそれを切り払うと、白狼の頭に踵落としをかけました。とにかく一撃入れれば無力化できるはずです。その為には少々、捨て身も仕方がない。……が、これも避けられる。

 

時計回りに潜り込んだ白狼が、上に向けて投擲しました。わたくしは態勢を立て直しながらそれを切り払います。しかし、それは罠でした。下向きの状態で更に、更に、更にと短刀を投げつけてきたのです。こいつの弾はいつ切れるのでしょう。実際、到底切り払える数ではありません。

 

わたくしは咄嗟に風をまとった短刀を投擲しました。それは針の山の中心で弾け、それらをあらぬ方向に飛ばしてしまいます。……しかし、これで武器を一つ失いました。片手だけでいなせるか、自信はありませんが、やるしかないのが現実です。実際、夢ならイヤでありますな。

 

やはり、白狼は中距離を維持しています。相手がただの白狼なら、完封できる実力でしょう。烏相手なら――まあ、ごくろうさんとしか言えないでしょうが。今の私は白狼以上、烏以下です。しかしてそれでこそ、負ける訳には参りません。短刀をいなしながら、じりじりと進みます。

 

よくよく考えれば、動かなければ当たらない――という答えが、先程のとてつもない物量でしょう。動き続けなければならないが、動けば被弾する確率は跳ね上がる。なるほど、よく考えたものです。ならばわたくし、短刀が間に合わない速度で、動いて見せましょう!

 

わたくしは白狼を中心に円を描くように跳びました。当然ながら、この状態では進行方向に短刀を置かれる事はありません。あくまで手で投擲している以上、白狼から中心とした直線にしか置けないからです。予測射撃はできるでしょうが、わたくしのスピードについてこられるとでも?

 

わたくしは円をグルグルと飛び回りました。やがて直線状の置き射撃もなくなりました。その距離から追い切れるようなヤワな翼はしておりません故。風を蹴って突然逆方向に回る事も出来ますし、白狼の上を、そして下を回る事もできるのです。横目に、戸惑う白狼が見えました。

 

――瞬間、わたくしは飛び込みました! 短刀を突き込み、更に回転蹴りの準備はできていました。白狼は――恐るべき事に、その攻撃にある程度反応していたようです。短刀を寸前で避け――逆に突き込んできたのです。わたくしは突きを諦め、下から回転蹴りをかましました、が。

 

この期に及んで白狼は抵抗します。蹴りはクロスした短刀に阻まれました。やはり並のマジックアイテムではなさそうです。白狼は距離を取ろうとしますが、あまりに遅い! わたくしは最短距離で突撃します。白狼はやぶれかぶれなのか、再びすさまじい数の短剣を投擲してきます。

 

わたくしはもう一本の風の短刀を叩き込みました。ご自慢の短刀が四散します。これで武器はなくなりましたが、白狼を倒せるので問題はありません。おや、どうやら――白狼も、これで弾切れのようです。そうなればもはや邪魔する者は何もありません。あなたに勝ち目はないのです。

 

白狼は風をまとった短刀を二本、わたくしに向けて投擲しました。やぶれかぶれか。それを左右に回避して、白狼に抜き手を――突き込もうとして、嫌な予感がしました。わたくしは飛び上がりました。二本の短刀が、そこを十字に切り裂いていました。戻った短刀を白狼が掴みます。

 

なるほど。近距離の備えが何もないとは言っていない。わたくしは決して距離を離さないように、白狼を追い詰めました。身を守る為でしょう。飛ぶ短刀は手に持ったままです。飛ばないならただ硬いだけの短刀に過ぎません。飛び掛かる算段はできています。後は相手が動くだけ――

 

――再び、嫌な予感がしました。そしてそれはすぐに結実した訳です。短刀が飛び来る、静かな音。そう、件の短剣は四本あったのです。背中を皮一枚で通り過ぎるそれに、わたくしは始めて恐怖しました。まあ、敗北は認めませんが。わたくしは図々しく、そして傲慢なのです。

 

白狼は更に、手元の二本を投げました。これで、完全に弾切れです。己の防御よりも攻撃を優先したようですね。実際、常に短刀が四本こちらを狙っているのは非常にやりづらい。仕掛けた瞬間に四方を串刺しにされかねません。わたくし串焼きになる気は――これは前にも言いましたか。

 

にじり寄る中――何やらちくりと、痛みを感じました。懐の中に何かが入っています。……そうだ、あの時に刺さった短刀です。わたくしは考えました。白狼はこちらの弾切れを疑っていないはずです。そして恐らく、短刀は白狼が操っている。それなら――なるほど、シンプルな話です。

 

とにかく、油断を誘わねばなりません。わたくしはにじり寄る速度を上げました。その間を割り込むように短刀が突き込んできます。それを嫌うように見せかけ、少し後退、そして前進を続けました。短刀は徐々に大胆に、そして大雑把になってきたようです。白狼は、笑っています。

 

――わたくしは飛び跳ね、突撃をかけました! 短刀が四本、私に向けて飛び込んできます。そう、そうです。そうやってわたくしだけを見ていればいい。この瞬間、あなたを守るものは何もないのです。それに気付かなかったあなたの傲慢が、あなたを殺す。私はニヤリ、と笑いました。

 

懐に手を差し込み、それを取り出します。そう、最後の一刺し。己が武器を白狼に向けて、思い切り投擲しました! ――右胸に突き刺さったそれを見て、白狼は唖然とした表情を見せました。まるで勝利を疑っていなかったのでしょう。その身体はびくびくと震え、墜落していきます。

 

操縦者を失った短刀も、地へと落ちていきました。ああ、少々勿体ないですね。これからの戦いには役に立ったでしょうに。まあ、失ったものは仕方がない。わたくしは最速の射命丸、切り替えも早ければ、手を付けるのも早いのです。まあ、ちょっとばかり奥手な所はありますが、ね。

 

いやあ、何ともひやひやする戦いでした。しかしまあ、これからは肩慣らしのようなものです。わたくしはわちゃわちゃと飛び来るそれを見て、ああ、白狼ってこんなもんだよな、ちょっと足りてない感じがチャームポイントだよな、と思いました。実際、飼えば可愛いかもしれませんね。

 

―――

 

  ―――

 

さて、白狼の群れです。見えるだけで五十はいるでしょう。困りましたね。今は風をあまり繰れないのです。一人一人殴り倒していては日が暮れてしまうでしょうし、烏は白狼へのフレンドリィファイアなんて一切気にしないでしょう。相手をするだけこちらが不利になります。

 

その時、一人の白狼が縄をたすきがけしているのに目が留まりました、恐らく作業員か何かでしょう。戦わせられるとはご苦労な事ですが、今はそれが欲しい。私は白狼を適当に掻き分け、そいつの前に立ちはだかります。自分が狙われるのに戸惑っているようです。そりゃそうですね。

 

私はそいつから縄を奪い取り、それを風で締め上げました。即席の鞭です。戸惑っている背中に向けてそれを振るいます。バシン! 小気味良い音と共に、そいつは激しくひるみました。あなたは悪くないですよ。ただ、こんなものを持っているのが悪かった。慰めながら蹴り落とします。

 

さて、わたくしは白狼の中心に来てしまった訳ですが、どうにかされる気はまったくありません。私は周囲の白狼を回転蹴りで叩き出すと、四方八方に鞭を振るいました。今は打つ訳ではありません。彼らの武器を奪い去ってやろうというのです。そのくらいはわたくし、楽勝ですとも。

 

しなった鞭が手先から次々に武器を奪い取り、地上へと打ち捨てます。慌てて下を向いた子達の背を次々と打ち、叩き落とします。おいたをしないなら逃げても構わないのですよ? 私の言葉はざわざわ、と白狼の間に広まったようです。いくらかが武器を捨てて、逃げていきます。

 

しかしてその集団に、竜巻が撃ち込まれます。裏切りには制裁を。白狼達はふたたびざわめきました。なんて非人道的な事をなさるのでしょうね。まあ、人の事は言えませんが。わたくしに向かって白狼が、そして烏の風の槍が向かってきます。巻き込まれた白狼達が吹っ飛んでいきます。

 

わたくしは高く飛び上がり、風の槍の主を探しました。こちらを向き、更に槍を繰る姿。間違いありません。飛び来る槍を風の鞭で打ち払い、そいつに向けて飛翔します。別に白狼を哀れに思った訳ではないのです。ただ少々、癪に障りました。そういう行為は好きではありません。ええ。

 

何の因果か、そいつも鞭を持っていました。手下を面白半分に打ち付けていたとか、そんな所でしょう。鞭に風が通います。肩口に向けて鞭を伸ばしますが、それは鞭の持ち手で防がれます。あれは打突にも使われるものですが――そうです、縄にはそれがない。これは不利かもしれません。

 

私は再び、今度は頭に向けて横殴りに打ち付けますが、上下運動でかわされました。烏は――一気に距離を詰め、持ち手を叩きつけてきました。私にはそれを防ぐ手段がありません。手刀で受けますが、重い。二度、三度と殴り付けられ、わたくしは徐々に追い詰められていました。

 

やにわに前蹴りを放ち、無理矢理に距離を取ります。その瞬間、烏は短く持った鞭で私の顔を打ち据えようとしました。慌てて腕で防ぎますが――痛い!! これは拷問に使われるのも納得の痛さです。始めて知りました。ええ。自分を殴られた事はなかったので。……天罰か何かで?

 

――これは、まずい。練度もそうですが、どんな距離でも攻撃が飛んでくるのです。鞭を捨ててもいいですが、今はろくに飛び道具のないわたくしです。遠距離で翻弄され続ければ、割り込んできた攻撃にやられるやもしれません。……ここはやはり、鞭で鞭を制しなければなりません!

 

近距離は烏のリーチです。敢えて距離を取り、先端が届くギリギリの位置で鞭を振るいました。烏も鞭を最大まで伸ばし、わたくしの頭、そして腕を狙ってきます。実際の所、かわしきれるものではありません。二度、三度と腕を打たれましたが、そのくらいで音を上げてはいられません。

 

わたくしは一旦飛び退き、鞭のリーチから離れました。飛び込む対象に鞭を打つのは困難だと思ったからです。逆にわたくしは鞭を振れるはず――だったのですが。いけません。わたしくはコースを変更し、風を蹴って態勢を立て直しました。危うい所でした。再び鞭のリーチに戻ります。

 

烏は鞭を目前で回転させ、飛び込まんとするわたくしを拘束しようとしたのです。寸前にそれに気付いて避けましたが、鞭とは思った以上に厄介なものです。気を抜けば、手足を拘束されるでしょう。そうなれば逃げる間もなく、風の餌食です。先程以上に気を張り、それを牽制します。

 

――その時です。打ち合う音が、止まりました。

 

鞭と鞭とがピンと伸び、絡み付いていました。どちらも渾身の力で引き合っています。……ちょっとお待ちを。今、鞭は伸びきっている。それならば、小回りは利かないのではないですか? わたくしは思い付きを脳内会議にかけ――それは成立しました。そう――これならば!

 

わたくしは一瞬、風の力を解きました。瞬時に鞭が縄へと戻り、巻き付いていた鞭の先が下へと落ちていきます。烏は慌ててそれを引き戻そうとしますが――わたくしが、一手早い! 引き戻した鞭を、持ち手を握る手へ打ち付けます! 呻き声とともに、その手から鞭が落ちました。

 

或いはそいつも、鞭で打たれる痛さや怖さを知らなかったのかもしれませんね。私は肩を打ち、脚を打ち、そして顔を打ちました。身体を丸め込んだそいつの頭を、踵で蹴り落とします。これに懲りて、おいたを止めればいいですがね。わたくしは肩をすくめ、頭を振りました。

 

酷使しすぎたのでしょう。縄は崩れ去ってしまいました。黙祷を捧げ――そんな時でも、割り込みはくるものです。風の槍、そして投槍に弓矢。しかしてその数は大分少なくなってきました。動き回っている分には、かすりもしません。ようやく一息付けますか。まあ、無理でしょうね。

 

―――

 

  ―――

 

烏達も、そろそろ痺れをきらして接近戦を挑んでくる頃合いです。私は武器を探しました。流石にもう、使い果たしたでしょうか。……いえ、道具持ちでしょう。白狼がその辺を浮かんでいます。あなた方は如何にもパワーアップアイテムですな。わたくしは素早く白狼に近付きました。

 

その背からまさかりを奪い取ります。これで剣を持つ白狼、そして風を繰る烏と戦うのはいささか不利でしょう。槍でもちょっとね。しかし、何にでも使い所はあるというものです。わたくしはまさかりを奪われてまごまごしている白狼を蹴り落とすと、それを両手を広げて構えました。

 

あんのじょう、烏がわたくしの方に突っこんできます。中距離に陣取り、風の壁を、そして風の刃をいくつも放ちました。このままではなぶり殺されますが――丁度良い。ものの試しにと、身体のバネでそれを投擲します! 烏は上に避けますが――それだけでは逃れられませんよ?

 

まさかりは風を帯び、そしてわたくしは風を操れるのです。脅威は常に後ろからやってくる。前だけを見て、身構えているだけでは駄目なのですよ。わたくしはニヤリ、と笑いました。思い通り、という笑みです。傲慢で結構。相手がドツボに嵌るのを見るのは、如何にも愉快なものです。

 

私は一気に距離を詰めました。烏は再び壁を繰ろうとしています。壁を繰り、その後ろから槍を繰るのは基本であり、いつもいつまでも重要なものです。しかしまあ、射撃戦では、の注釈はつきますがね。わたくしは敢えて壁から離れ、まごまごして見せました。如何にも素人然として。

 

流石に怪しまれたかもしれませんが、それよりもわたくしを討ち取る事に気が向いたのでしょう。風の槍が飛んできますが、大回りでかわします。更に更にと飛び込む槍を必死な様子で回避して見せます。要するに、釘付けにしたわけですな。……それは、音を立てて飛来しました。

 

烏の上方を、まさかりが通過しました。敏感な耳は一瞬でそれを捉えていたでしょう。そして、それは隙となる。わたくしは僅かな隙を見て、風の壁を飛び上がり迂回すると、飛び込んできたそれを掴み取ります。壁を繰ったとて、もう遅い。突っ切る覚悟はできておりますとも。

 

天を蹴り、わたくしはまさかりを振り下ろします! 風をまとわせたそれが風の壁を相殺し、わたくしを驚愕の顔に導きます。壁の残滓が私の浅く切り付けましたが、それが致命傷に至らないのはわたくし、よおく理解しておりますとも。このまま、この勢いのまま、真っ二つに叩き切る!

 

――いえ、流石にそこまではしたくないですね。この期に及んでみねうちも何もあったものではありませんが。私はまさかりではなく下駄を向け、烏の顔を思い切り蹴り落としました。烏はあっという間に落下していきます。死にはしません。まあ、顔面偏差値は変わるかもしれませんが。

 

再び烏が飛来します。今度は最初から防御態勢を取っています。先程のような奇襲を警戒しているのでしょう。まあ、わたくしとしてはその方がやりやすいというものです。私は再びまさかりを、今度は背後に向けて投げました。烏は仕掛けては来ません。風の壁も繰ろうとしませんね。

 

それが役に立たないもの――とは、やり過ぎだとは思いますよ。しかして今は好都合。わたくしは距離を詰めていきます。烏が手刀を構えました。接近戦なら互角と考えたのでしょう。実際、良い判断です。今のわたくしには武器がありませんからね。……ええ、たった一つ以外は。

 

もっとも、馬鹿正直に打ち合う気はありませんでした。わたくしは牽制しながら後ろを取ろうとしました。怪しげな動きは烏にも伝わっていたでしょうが、まあ、無駄な反応でしたね。烏が痺れを切らして扇を取り出した瞬間、わたくしは風を二度、三度と蹴って、背後に回り込みます!

 

背後から有効打を与える事もできたでしょう。しかして一撃とはいかない。私は敢えて、烏に組みつきました。こういうのは得意な方です。いつかはあの人に――なんてのは、気持ちが悪いですね。はい。烏は激しく抵抗しますが、技で負けはしません。動くと体力を消耗しますよ?

 

まあ――そうしなければ、死にかねませんがね。……さて、風を切る音がします。そう、あの時と同じ。ゴウゴウと風を切る音。当たればただでは済まない――いや、肉を切られ骨が砕け、確実に死ぬでしょう。質量とスピードからして、そのくらいの威力はあります。さて、いかがする?

 

烏は途端に反応しました。きっと青ざめていたでしょうね。お仲間が叩き切られ――いや、蹴飛ばしたのですが――る様をよくよく見ていたのでしょう。自分がまあ、そうなるとは思ってもみなかったのでしょうが。こんなはずじゃなかった、なんてのはまあ――あなたの想像力不足です。

 

己の末路がはっきりと見て取れたらしく、烏は全力で振りほどこうとしますが、そうは問屋が卸さない。焦りがぞわぞわと伝わってきますとも。わたくしは高みの見物――は、していませんでしたが。高くないですね。ええ――そんな無駄な事を考える時間は、実際なかったのですが。

 

後三秒、二秒、一秒――今です! 私は拘束を解くと、必死にもだえる烏を横に蹴り飛ばしました。そのまま、まさかりをキャッチして飛び、烏の肩口にそれを思い切り振り下ろします! 烏はそれをまともに食らったはずです。傷を押さえながら、烏は墜落していきました。

 

いやはや、できるだけ殺さないように戦うというのも、中々難しいものです。しかして殺り過ぎれば、如何にも禍根を残す。不良天狗と言えども、悪名と不名誉の違いくらいは存じております。まあ、手加減できない相手でしたら容赦はしませんがね。そこら辺は適当にいきましょう。

 

さて、これだけ凄惨な場面を見せれば、烏も怖気づくはずです。いえ、実際怖気づいてはいたのですが――まあ、無理矢理に命令されて、或いはその恐ろしさを理解できない輩は突っ込んでくるものです。わたくしはいささか疲れてしまいました。やれやれ。肩をすくめ、首を振ります。

 

割り込むものは白狼の群れ。最後の群れです。他は粗方落っこちています。残りは――百くらいでしょうか。わちゃわちゃとわたくしに向け、剣や弓を向けています。哀れな生き物ではありますが、打つなら打たれても仕方がないのです。わたくしはまさかりを掴み直しました。

 

それに風をまとわせると――白狼の群れに向けて投擲しました! 推進力を得たそれは白狼の間を飛び交い、斬りつけます。大した傷ではないでしょうが、元より士気の低い連中です。動揺はこちらにも伝わってきます。わたくしはまさかりをキャッチすると、更にそれを投擲します!

 

残念ながら剣の距離ではないのですよ。弓を回避しながらキャッチし、更に集団の中へ投げ込みます。その数はあっという間に減っていきます。あまり団子にならない事ですな。さて、七割程はやったでしょうか。残りの白狼が散開しました。おや、少しは頭の回る子がいたようですね。

 

それならそれで、斧らしく振る舞いましょう! 手近な白狼に向けて、まさかりを振り下ろします。白狼はそれを剣で受けようとしますが――それが下策なのはわたくし、さきほど身体で体験しましたもので。剣が真っ二つに折れました。目を見開く白狼の頭にまさかりを――いやいや。

 

風を蹴り、回し蹴りを放ちます。白狼は横に弾かれ、戦意を失ったようです。新たに三人、盾を構えて突っ込んできます。先程の行為が見えなかったようですね。わたくしは一体に思い切り突っ込むと、構えられた盾ごと叩き伏せます。防御は無意味。かわしたなら蹴り落とすまで。

 

それでも突っ込んでしまうのが哀しいサガよ。白狼はわたくしを上下左右、何重にも取り囲み、突きを構える作戦を取りました。突きは直線的です。確かにそれなら、反撃も、武器を壊すのも難しい。しかしてわたくし射命丸、この程度は捌いて見せますとも。投擲のポーズを取ります。

 

――白狼が突撃してきました! まさかりを投げるより前に勝負を決めるつもりです。ええ、そのくらいは読んでおりますとも。わたくしはまさかりを握り――目の前にポイ、と放りました。投げるよりも速いですからね。それは重力に従って落ちていきます。白狼は速度を緩めません。

 

時間差で上下から五人、突っ込んできました。わたくしはそれらを背を反らしてかわし、かわし、かわしました。如何にも釘付けです。更に幾人がか突撃してきます。物量で攻められれば烏とてただでは済みません。しかして、わたくしはニヤリと笑いました。釣れました。大漁です。

 

白狼は十を超えたでしょうか。これ以上は捌き切れないでしょう。一本の剣が私の太ももを掠め、裂きました。そろそろ決めましょう。更に増え、二十を数えた白狼が一斉に突撃をかけてきます。もはや串刺しは不可避。わたくしは――風に集中し、わたくしめを避けるように念じます!

 

白狼が交差したその時、その時です――不意にまさかりが飛び上がりました。白狼からは遠く離れています。誰もそれを気にかけなかったに違いありません。しかしてそれが致命的。まさかりが帯びた風は――突然に膨れ上がり、巨大な斧を生成したのです! 当然、その刃が向かうのは。

 

一点に集まった白狼へ向けて、風が振り下ろされます。敢えて手元に落としたのは、風を節約したかったのですね。はい。そんな事はともかく、まさかりは白狼達を一撃の下に切り伏せ、叩き落としました。風を使い切ったまさかりは、多くの白狼を伴って地へと落ちていきます。

 

ええ、中々の戦果でしたよ。残りの白狼を適当にあしらいながら、割り込みをかわします。その数はもはやないようなもの。気に掛ける必要すらないでしょう。わたくしは傲慢な笑みを浮かべると、次の烏、そして次の武器を探します。烏がこちらに飛来してきます。何か。何かないか――

 

―――

 

  ―――

 

しかして、もはや手近に武器に転用できそうなものは何もない。最後は徒手空拳という奴です。ええ、覚えはありますとも。わたくし、昔は汚い天狗と――それはいいでしょう。わたくしは割り込んでくる風を避け、烏に向き直りました。この距離で風を繰るは不利。烏も手刀を構えます。

 

――同時に仕掛けました! 烏は手刀を振り下ろしつつ、私に体当たりをかけました。私は背を反り、手刀を手刀で受け止めます。腕力は互角、ならスピードはどうか。同時に互いを跳ね飛ばします。若干の距離が開きました。瞬間、烏は風を繰り――己の手脚へとまとわせました。

 

私も同じく、風をまとわせます。相殺できる手足以外で受ければ、風が抉り込む。中々スリリングな戦いです。先に仕掛けたのは烏です。抜き手が私の腹を狙っています。それを左脚で蹴り払うと、そのスピードに乗せて右脚を突き出しますが――しかしてそれは、腕に阻まれます。

 

空中を二回転しながら距離を取り直します。突っ込んでくる烏あり。態勢を立て直す間もなく、風を三度蹴ってかわします。しかして烏も背の風を蹴り、踵落としをかけました。わたくしはそれをクロス腕で受け、サマーソルトで答えます。互いに態勢を崩し、再び距離を取ります。

 

何だか、苦戦するのは毎度の事になりつつありますな。まあ、戦いとはそうそう一方的にはならないものです。わたくし、ちょいと重症でもありますし――ハンデでありますよ、ハンデ。わたくしが雑念を温めていると、烏は懐から何やら取り出し、こちらに投擲してきました!

 

それは手裏剣のように見えました。見えたというか、実際そのものだったかもしれませんが。非確定名ほしがたのものがわたくしを襲います。わたくしはスッとそれを回避しますが――確かに隙を見せたかもしれません。烏の痛烈なキックが、わたくしを襲っていたのです!

 

わたくしはそれを後方にかわしましたが、烏は即座に風を蹴り、こちらに手裏剣を打ちます。避ける動作が隙になり、烏の大ぶりな攻撃を許してしまうのです。回し蹴りと同時に手裏剣が打たれ、避け切れずにそれが突き刺さりました。痛みを感じる間もなく、ハイキックが襲います。

 

背に回られ蹴りを、下に回られサマーソルトを、二度被弾しながら避けた抜き手を。私は前蹴りで距離を離しますが、烏は風を蹴るのに慣れているようです。すぐに戻ってきて、ギリギリの距離に陣取るのです。非常に苦しい状態にありました。被弾した手裏剣を抜き、手刀を構えます。

 

――しかし、わたくしには策がありました。隙がないのなら、作ればいいのです。現にわたくしは、散々隙を晒してきたではないですか。わたくしは先程から、被弾した手裏剣を集めていました。三発だけですが。三発あれば十分です。ただの牽制――しかし、たった一回のチャンスです。

 

――わたくし達は同時に手裏剣を打ちました! 回避行動を取りますが――私はそうではありません。正面からそれを受けます。胸から血が流れました。かくて烏と同じイニシアチブを得た訳です。私は接近しながら、更に手裏剣を二つ打ちました。あくまで牽制、当たらなくて構わない。

 

烏は一発を被弾し、空中で前屈みになっていました。それに蹴りを放ちますが、上に跳びかわされます。私は敢えて風を蹴りませんでした。天地が上下逆になり、如何にも隙を晒していたでしょう。わたくしは風音に意識を集中しました。……間違いなく、飛び蹴りです。到達まで、一秒。

 

この時を待っていたのです。わたくしは身体を表裏にしたまま風を蹴り、烏の腹に突進をかけます。捻じ込んだのは頭です。危険ではありますが、不意を打てる確信がありました。あんのじょう腕の反応が遅れた烏は、大の字に突き飛ばされ、隙を晒します。そこに蹴りを打ち込みます!

 

身体を反って避けようとしていましたが、姿勢が祟って、上手くいかなかったのでしょう。脇腹を深く抉り込まれた烏が墜落していきます。直後に割り込んできた烏に上段蹴りを叩き込み、姿勢が崩れた所に抜き手を放ち、墜落させました。ふふん、今のわたくしは絶好調なのです。

 

―――

 

  ―――

 

更に烏が現れ、私に向けて風の槍を一本だけ繰りましたが――私は敢えて避けませんでした。その代わりに思い切り突撃し、その烏を拘束せんとします。引っかかって若干傷付きはしましたが、それよりも大事な目的があったのです。ひょっとすれば、得るものがあるかもしれません!

 

やはり、そうか。逃げ腰の烏の腹を打ち、逃げようとする身体を背中から締めあげます。こいつはひよこ上がりでしょう。動きが如何にもぎこちない。槍にも勢いがありませんでした。すなわち――締め上げれば簡単にアイテムを落とすという事ですね。ひよこちゃんが悲鳴を上げました。

 

わたくしはひよこちゃんの手を――そう、扇を掴んだ手を更に上から掴み、捻り上げ――奪い取りました! ひよこちゃんにもはや用はありません。やにわに拘束を解き、思いやりをもって蹴り落とします。初陣からトラウマを植え付けてしまったでしょうか。可哀相に。強く生きて。

 

しかし、そう。ようやくこの手に扇が戻ったのです。多少粗末ですが、まあいいでしょう。腕を上げ、周囲にいくつもの竜巻を繰りました。それらは烏を防戦に追い込み、そして白狼を散り散りに叩き落とします。更に風の刃を、普段より多めに繰り、烏を切り裂さかんとします。

 

竜巻を避けた烏を、風の刃がずたずたに切り裂きました。それを見て思い留まった連中を、竜巻が容赦なく飲み込んでいきます。私は風の弾丸を繰り、討ち残しを一体ずつ狙撃していきます。形勢は完全にこちらへ傾きました。もはや無粋に割り込んでくる攻撃もありません。

 

しかして敵もさるもの。竜巻を竜巻で相殺した数人が、私の方へ飛び込んできます。その後ろには繰られた風の槍が幾重にも。或いは回避しきれないでしょう。私は風の壁を繰りました。槍を相殺した所で、再び壁を繰ります。私の方からは――ええ。もはや仕掛けられませんでした。

 

既に白狼は九割方が落ちたはずです。烏もまあ、残り二、三人程度ですね。私にとっては大した事はありません――本当ですよ。本当です。本当ですが――どうやら、少々血を流しすぎたようです。風の壁を繰った後ろで、わたくしは意識を手放しかけました。……いけませんね、これは。

 

相殺した風の槍が、更に更にと迫っていました。風の壁を――繰り損ないました。槍がわたくしを貫くまで、もう数秒もないでしょう。走馬灯。走馬灯ですか。こういう時は本当に、時間が長く感じられるものなのですね。心残りや懺悔、或いは恨み言を吐き出す為の時間なのでしょうか。

 

 

 

―――

 

  ―――

 

 

 

ああ。せめてあなたに告白してから、死にたかった。

 

 

 

―――

 

  ―――んん?

 

 

 

時間感覚が戻ってきました。わたくしは死んだのでしょうか。傍であなたの声が聞こえます。気に喰わない犬コロの声もです。わたくしは――わたくしは、生きている?「ごめん文、約束、守れなかった!!」巨大な風の渦が槍を四散させました。はたてです。あと犬、そして御付きの烏。

 

「――私だって、戦えるもの!」「お前の為じゃない。たまたま近くにいたんだ」二人の声を聞いて、意識がはっきりしました。御付きの鳥が幾重にも風の壁を繰り、わたくしを守っています。もう少し、もう少しなら動けます。私は壁越しに竜巻を繰り、御付きの援護をします。

 

烏は回避しますが――椛がそれに突っ込んでいきます。白狼のスピードではありません。はたてが強烈な追い風を繰っているのです。烏が一体、突き刺されて、無様を晒しました。残りは――もはや勝ち目なし、と踏んだのでしょう。じり、と後ずさりし、背を向けて逃げ出していきます。

 

残された白狼達も、我先にとわちゃわちゃ逃げ出していきました。わたくし達は構えを解きました。くずおれる身体を、はたてが支えてくれました。「一人で抱え込んで、無茶しちゃ駄目だよ……」はたては泣いていました。椛はこちらをしばらく眺め、フン、と顔を逸らしました。

 

―――

 

  ―――

 

御付きに包帯を巻いてもらう間中、はたてはわたくしから離れませんでした。若干邪魔している気もしますが、悪くない。いいえ、最高です。ふふふ。「どうしたの? 痛い?」ある意味で痛い妄想をしておりますがね。「約束したでしょうに」「破りたかったの」はたては笑いました。

 

「――それで、私は結局、何と戦っていたのですっけ?」考えてみれば、敵が何かも知りません。「演習だよ」「……演習?」わたくし、思わず耳が下がってしまいましたよ。「本当はもっと人がいたはずなんだけど――集団食中毒で来られなくなっちゃったらしくて、文だけになって」

 

「わたくし、演習で命を張らされていたと?」「だから逃げようって言ったじゃない」はたては心底、心配そうな顔をしました。「いや、そこは――私に任せて先に行け、と言ってしまうでしょう。普通」椛が笑っています。笑うな。動物病院に連れて行くぞ。「まあ、話はわかりました」

 

「で、これだけ戦って勝ったのですから、特賞でも頂けるので?」「えっと、そういうのはないかな……」わたくし、頭を抱えました。スナップカメラまでぶっ壊したのですが、その結果がこれですか。姫海棠家から生命保険料をがっつり頂かないと気が済みませんよ。「ごめんね、文」

 

――ああ、この顔をされると、許してしまうのですよ。如何にも純粋な瞳です。悪巧みを焼き尽くすような。……まあ、そこに惚れてしまったのですが、ね。ああ恥ずかしい。「帰ろう、文。お医者様にかからないと」わたくしの片側をはたて、もう片側を椛が抱えました。

 

―――

 

  ―――

 

ようやく、終わった。わたくしは大変、お疲れでした。安堵してもいました。緊張の糸が切れる、とはこの事を言うのでしょう。あまり体感したくはないものですが――その後の事は、何も覚えていません。目が覚めれば、何処かの天井。薬品の匂いがします。まあ、病床でしょう。

 

上体を起こすと、傍に写真立てが置いてあります。三人の写真。それをじっと見つめました。最初は腐れ縁だと思っていたのです。しかし、わたくしの中で、それを腐れ縁以上にしたいという欲求が浮かんでいました。しかしそれは、或いは今の関係を壊してしまうのではないか。

 

恐れていたのです。射命丸ともあろうものが。はたて、犬コロ、そしてわたくし。この腐れ縁はきっと、とわに続くと信じていた。それを求めたのはわたくしで、破らんと考えたのもわたくし。そう。はたてを――愛してしまっていた。今のわたくしに、それを解決する手段は、ない。

 

そう、いつまでもこの感情を抱えたままで、仲良くしていればいい。何も壊れない。何も壊さない。何も。例え、わたくし自身が壊れてしまったとしても、構いません。壊れたまま、今を続けましょう。今のままでいましょう。生きて、死ぬまで。それがわたくしの望みでありますから。

 

――わたくしは寝転がり、目を閉じました。いずれ、後悔はするでしょう。しかしてその傷は、フラれるよりはずっと、ずっと浅いかもしれない。普段の私なら、何事も躊躇いなく突っ込んだでしょう。しかし、今のそれはそう簡単な話ではないのです。わたくしは、立ち止まっています。

 

わたくしはどうしたいのでしょう? 希望と行動がばらばらになってしまったように感じます。飛べども飛べども前が見えない。或いは前に辿り着こうという意思がないのかもしれない。……そう。はたての周りをぐるぐると回り続けている。しかしてこれ以上は、近付けないのです。

 

いつかわたくしは、墜落するのでしょう。欲しかったものを、何も得られずに。友達を続けたかった。恋をしたかった。愛が欲しかった。すべてがわたくしの希望です。意気地なしの翼は、そのすべてを台無しにするでしょう。やるべき事はわかります。けれど、方法がわからない。

 

どんな顔で、愛していると言えますか。どんな目であなたを見られるのですか。どんな仕草で、あなたを抱きとめられるのですか。誰か教えてください。私に恋のやり方を。教えてください、愛の紡ぎ方を――教えてください。誰か。誰か。わたくしに教えてくださいよ――!!

 

―――

 

  ―――

 

それから幾日が経ち、わたくしとはたては大天狗の居城の石垣に、並んで座っていました。傷は――まあ、その内直るでしょう。正直に言えば痛いです。死ぬほど。しかし死にはしなかったので、良しとしましょう。しかし、風が心地良いですね。私は大変リラックスしておりました。

 

「いつも、こんな風ならいいのにね」はたてが扇を持つと、風の中に鳥めいた形が浮かびました。わたくしが教えたのです。最初こそへなちょこでしたが、はたては飲み込みが早かった。そこらの烏に負けはしないでしょう。まあ、わたくしの1/10くらいはいけるんじゃないですか?

 

「色々お話したい事があったけど――何を言うか忘れちゃった。とにかく、文が無事でよかった」要らぬ所で死にかけましたがね。静かさが訪れます。風が、わたくしとはたてを包んでいます。当分、このままでもいいか――と思ったのですが、風を破ったのは、はたての方でした。

 

「ねえ。文は私の事、好き?」はたての言葉に、わたくしはびくり、と身体を震わせました。嫌いな訳がありません。当然。しかし、しかし――そんな事を打ち明ければ、どうなるでしょう。悩みました。悩みました。悩んだ末に絞り出せたのは。「わかりません」卑怯な、言葉でした。

 

「わからないの?」はたてはこちらを向きました。「難しいんだね」はたては特に、がっかりとした様子ではありませんでした。ならば、これは――冗談だったのでしょう。わたくしは安堵して――して、どうするのです。今この瞬間こそが、教えられた答えなのではないですか?

 

喉元まで出かかりました。あなたを求める言葉。あなたに恋する言葉。ないまぜになった求めの言葉。恐らくは、ただ一言なのです。一言、口に出せばいいい。それはとても簡単で、しかしわたくしを竜巻めいて引き裂いています。このままでもいい。このままがいい。……いや、違う!!

 

わたくしは理性をかなぐり捨て、衝動に任せました。もう壊れてもいい。壊してもいい。己に正直な欲求は、竜巻の向こうに飛び出しました。ないまぜの中から、あなたへの言葉を掴みました。ただ一言を届ける為に、これだけの覚悟が必要なのです。わたくしは、口を開きました。

 

「――大好きです、はたて」

 

「そっか、文は私の事が大好きなんだ」はたては脚をぶらぶらさせています。……ああ、遂に言ってしまった。覆水と言葉は戻らぬものです。心のダメージコントロールが間に合いません。フラれたら、フラれたら――ああ、立ち直れないかもしれない。はは、射命丸の名が泣きますな。

 

「実はね――私も、文の事が大好きなんだ」はたてが、こちらを向きました。「好きって、友達って意味じゃなくて――えへへ。わかるよね」わたくし、しばし呆然としていたやもしれません。そしてまあ、錯乱してもおりました。友達って意味じゃない、好きとは、好きとは。……えっ?

 

「――ほ、本気ですか?」「嘘かもよ?」はたては笑いました。「なんてね。本当」「あやや……」わたくし、手をワキワキとしました。ここは抱く、最低でも抱き寄せる所でしょうに、何をやっているんです! もっと勇気を出すのですよ! ああもう射命丸、この情けない奴め――!!

 

「もっと前から好きだった。でも――言い出せなくて。嫌われるんじゃないかと思って、怖かったの」はたてはわたくしめと同じ感情を吐露していました。……ああ。わたくし達は、お互いに臆病だったのかもしれませんね。「嫌うだなんて――ありません。そんな事ありません」

 

はたては微笑みながら、わたくしを抱き寄せました。「嬉しい。とっても嬉しい」……あ、先手を取られました。主導権ははたてに握られたようです。「好きって言ってくれたら――私ね、しようと思った事があるの」はたての顔が、じっ、と覗き込みました。瞳に、顔が写りました。

 

「さっき、勝ったから、何か欲しいって言ったよね」

 

はたてはいたずらに笑い――わたくしと、唇を重ねました。

 

「足りないかな?」え、いや、今何を――キスですか? キスですね!?「――ええ、足りてますよ。多いくらいです」何とか平静を保ちますが、内心はめちゃくちゃです。ニヤつきもきっと、酷く硬かったでしょう。壊れゆくわたくしの事を知ってから知らずか、はたては微笑みました。

 

「実家がね、文が不良天狗をやめたら、私達のお付き合いを認めてくれるって」はたては空を仰ぎました。それが難しい事を、誰よりもわかっていたに違いありません。長い付き合いです。お互いの事は、大体わかります。……しかして、あなたの苦悩に、わたくしは応えてやれない。

 

「――すいません、はたて。それはできないのです。権力に組み込まれるなんて、ガラじゃない」……わたくしの中で、もういいじゃないか、という声が聞こえます。このまま意地を張り続けろ、という声もします。しかしてわたくしは、後者を選んだ。生き様を、そうは変えられない。

 

「うん、わかってた」はたては、ため息を一つ吐きました。「いいの。わかってたから、我慢できる」――わたくしは今、とても酷い事を言ったのでしょう。傷付けるとわかっていた。それでも己を曲げなかった。わたくしは顔を伏せました。奥手――いえ、腑抜けの卑怯者に違いない。

 

「――今は、ね?」含みのある言葉でした。わたくしは顔を上げました。「と、いうのは?」わたくしには想像がつきませんでした。まさか二人で逃げる、なんて大胆な話ではありますまい。御付きに取り立てる――というのも、結局わたくしを縛るのと同義です。「家の話、したよね」

 

「いつか、私が姫海棠家の当主になったら、条件なんて蹴飛ばしちゃうから」はたてはニヤリ、と笑いました。わたくしのそれと同じくらい、悪い顔をしていました。……あなた、そんな顔もできたのですね。「――それは、随分と大胆な話ですな」「嫌?」わかっているでしょうに。

 

「嫌ではありません」「それなら、決まり」はたてが顔を覗き込んできました。「それまでは、お友達。待ってくれるよね?」「勿論」はたてはわたくしを抱き寄せ――二度目のキスをしました。今度は覚悟ができていました。焦りはしません。……少しは焦ります。少しだけですよ?

 

「お友達がこんな大胆なキスを致しますかね」「これは別」わたくし達は、顔を見合わせて笑いました。

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

「この泥棒烏」「吠え面かきなさる?」「相変わらず仲がいいよね」

 



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甘い考えは、捨てましょう

―甘い考えは、捨てましょう―

 

 

 

あなたを超えたくて。

 

 

 

私と烏は、向かい合って浮かんでいた。屋外の修錬場。どれだけ風を繰っても、遮るものは何もない。存分に実力を発揮できる場。私がここに通い出してから、何年が過ぎただろう。実家では嗜みとして、型式上のそれを習ったけど――実践では何の役にも立たないと、思い知らされた。

 

きっかけは――そう、文の一言だった。あなたはお嬢様ですから、護られていればいいのですよ。いつもの軽口だった。けれど私は、その時とても機嫌が悪かったんだ。なら、文よりも強くなってやるもん。そう応えた。応えてしまった。文はきっと、本気には受け取らなかった。けど。

 

観覧席には幾人かの訓練生、野次馬、博徒、わちゃわちゃと白狼、そして――椛がいる。じっと私を見てる。無様は晒せない。私――姫海棠はたては、この一戦で修錬所を卒業する。その為の試練だ。武器の技、風の技、戦闘のセンス。私に出来るだろうか。……いいや、絶対に出来る!

 

―――

 

  ―――

 

「――始め!」

 

私は、意識を目前に集中した。相手は剣を抜いて飛び掛かってくる。私は風の壁を繰り、更に風の槍を三本繰った。教科書通りの戦法だ。でも、これが通じない相手はそうはいない。風を通わせた剣に、壁は薙ぎ払われる。時間差で槍が烏を襲う。たぶん、直撃はしない。

 

私は薙刀に風を通わせ、槍の後を全力で追った。自分自身の槍に裂かれるギリギリの位置についた。私自身が槍になる。自分自身を武器に見立てる戦法に、何度も負けた事がある。……そう。文の戦法を、私は真似してる。所詮はコピーかもしれない。何処まで通じるかもわからない。

 

「――だけど、やるんだ!!」

 

風の槍を薙ぎ払って散らす烏の身体に、渾身の突き!――しかし、それは身体を反って交わされる。けれど、態勢を崩したのは――烏だ。いける。私は薙刀を片手に持ち替え、扇を抜いた。集中しろ。必ず上手くいく。私は烏の姿を見据えると、至近距離から大きな風の渦を繰った。

 

渦に巻かれた烏が、激しく体制を崩す。その期を逃す気はなかった。後退する烏。――遅い!――私は烏の腹を薙ぎ払い、一回転しながら更に腕を狙った。初段は腹を浅く裂いた。二段目は剣に防がれたけど、滑った刃が肩を裂いていた。更に風を蹴り、三段目を打ち込もうとして――

 

いけない!――咄嗟に飛びのく。烏は腕を高く上げ、風を繰った。巨大な渦が私を内へ引き込もうとする。一歩間違えば、大きな隙を晒す技だ。しかし、それだけの効果はあった。私は、無理な回避で態勢を崩していた。そこに風の槍が四本、そして烏が剣を振り払い、突撃してくる。

 

咄嗟に渦を繰った、槍は吹き散らされていく。それが陽動なのはわかってた。わかってても、反応できない事だってある。剣の袈裟斬りを、鋼の柄で受ける。烏が上。私が下。明らかに不利だ。烏の剣が激しい風をまとい、柄越しに私の頬を切り裂いた。このままではずたずたにされる。

 

私は全力で剣を押しのけ、薙刀を振り払った。それは容易くかわされ、私の懐に――入るのは、わかってる。だから私は、再び文の戦法を真似ようと思った。迫る剣は――私の身体には、届かなかった。薙刀の態勢を崩したと見せかけて、私は烏の顔に向けて、回転蹴りをみまったんだ。

 

足癖は悪ければ悪いほどいい。文は笑っていたっけ。私は一気に飛び上がった。私が上。烏が下。今度は私が地の利を得た。顔を振り、両手で剣を構え直した烏。両手で薙刀を握る私。一瞬の静けさだった。二人の武器が風をまとい――同時に、仕掛けた!――刃同士が激しく鍔迫り合う。

 

膂力では負けてる。その差を埋めるのは――奇策。やぶれかぶれ。どれも悪手だ。けれど私には、私なりの戦法がある!――私は、敢えて押し負けた。剣が、顔が、徐々にこちらへ近付いてくる。そう。私自身に注意を引き付けるんだ。私はやにわに抵抗を止め――飛びのいた!

 

薙刀が跳ね跳ぶ。私を護るものはなくなった。扇を掲げるより早く、剣は私を斬り裂くだろう。烏の顔に笑みが浮かんだ。傲慢な笑みだ。私にだって、そのくらいはわかる。……勝利を確信した時ほど、危険だって事もね!――私は剣に、そして烏に向けて、思い切り手を突き出した!

 

私の意図に、烏が気付いた。けどもう、かわしきれる距離じゃない。烏の背に――跳ね跳んだはずの薙刀が回転し、迫りくる!!――実技はとかくダメだしされていたけど、風を繰るのは上手だと、いつも褒められていた。得物に薙刀を選んだのは、それが手に馴染んだからだけじゃない。

 

薙刀は両端から風の刃を伸ばし、周囲には烈風が渦巻いてる。風では相殺され、迎撃できない。剣で受ければ、さっき私がされたように、腕がずたずたになる。烏は飛び上がってそれをかわそうとした。まだだ。私が念じると、刃は合わさり、倍以上の長さに伸びる。これなら――届く!

 

薙刀は、風の刃は、烏の片脚を深く切りつけていた。――けど、本命はそれじゃない!――掴み取った薙刀を、その勢いのままに任せ、股下から切り上げる!――ギィン!――剣と薙刀とが打ち合う。確かな手応え。烏の剣が宙を舞う。私は素早く扇を抜き、得意の暴風を繰った。

 

圧された剣はあらぬ方向に吹き飛び、場外に突き刺さった。抵抗力を奪い、有効打を与えた。普通なら、これで私の勝ちだ。けれど、烏は――扇を持ち直すと、私を挑発した。武器なんて必要ないって言ってるんだ。私は当然、それに乗る。薙刀を手放した。地面に、突き刺さる。

 

―――

 

  ―――

 

あなたは傲慢だ。けれど、私だって傲慢なんだ。絶対に負けるもんか。私は風の壁を立て、風の槍を七本、同時に繰った。やろうと思えばこの倍は繰れる。更に前方へ風の渦を繰り、突撃を妨害する。接近戦は得意じゃない。張り付かれればジリ貧だ。ここは、風だけで勝負をつける。

 

私の見据える先で、烏は四本の槍を、風の壁を二枚、三枚と立てた。それくらいでは私の風は止められない。壁一つが槍二本を相殺する。残りの一本は素通しだ。烏は寸前でそれを避けた。きっと傷を負ったはず。私は四本の槍に風の刃をぶつけて相殺すると、更に七本、同時に繰った。

 

烏も不利は悟ってるはず。私は風の渦に集中した。間違っても飛び込まれちゃいけない。そう思った。思っていたんだ。烏は――後方に巨大な竜巻を繰ると、自傷も構わずに己自身を巻き込ませ――私の方へ、吹き飛んできたんだ!――まさか、そんな捨て身の戦法を取るなんて。

 

己の不覚を恥じる暇はなかった。風の槍はあらぬ方向へ飛んだ。烏は矢のように風の渦を突き抜けた。風の壁を、無理矢理に突破した。硬直する私に思い切り体当たりをかけ、ひるんだ所に振るわれた手刀。私の手から――扇が叩き落とされた! 慌てて後退。得物がなくなってしまった。

 

烏は――不意に、己の扇を捨てた。徒手空拳の構えだ。最後に勝負を決めるのは、格闘戦とでも言いたげに。傲慢な目が、私を睨んでる。何するものか。私の方がずっと傲慢なんだ。ここに通い出してから、少しは覚えがある。けど、実践するのは――もしかして、初めてかもしれない。

 

―――

 

  ―――

 

私達は四肢に風をまとわせた。手足以外で受ければ、風の餌食になる。スリリングな戦いだ。もう少し練習しておくんだった。思いはしても、考えるだけムダだ。やるならやらねば。やろうと思う気概が大切だと、教官も言ってた。無理なものはしょうがない、とも言ってたけど。

 

――烏が先んじた! 私の首を狙った手刀。一撃で勝負を決めるつもりだ。けど、そうはさせない。私はそれをクロス腕で受けると、続く手刀をいなし、距離を取る。烏はたぶん、格闘戦に熟達してる。どうあっても私は不利。唯一上回るのは、繰れる風の量。今、頼れるのは――

 

私は、両腕へ更に風を巡らせた。それは旋風のように腕の周りを包んだ。扇なしでこれだけの風を繰れるのは、この修錬場では私だけだ。烏が手足に帯びた風を、相殺する以上の風をぶつける。さながら、防御を無視した攻撃。先手を取りさえすれば、それだけ私の有利になるはずだ。

 

私はじり、と近付いた。風の渦巻く音だけが響いてる。観客が息を飲む音すら、今は聞こえる気がする。視線がかち合った。有利、不利は目まぐるしく変わってきた。今は――たぶん、不利だ。烏が後ずさる。気圧された訳じゃない。出方を待ってるんだ。なら、私から――仕掛ける!

 

私は飛び上がり、肩から袈裟懸けに手刀を振り下ろした。それは寸前でかわされる。けど、手応えはあった。烏の右手が旋風を受け、血を流してる。私は四肢に通わせていた風を解き、右腕にすべてを集中させた。旋風の長さが何倍にもなり、風の勢いも増した。ここで仕留める!

 

旋風の右腕を、横薙ぎに振り払う!!――烏は抵抗せず、僅かな傷を受けながら、弾かれるように後方に飛んだ。逃がさない。今度は左足に風を集中させ、背中の風を蹴った。飛び蹴りだ。近付く烏の顔は――やっぱり、笑ってた。愉しんでる。そうだ。本気の戦いは、きっと愉しい。

 

大振りなそれは上にかわされ、私は態勢を――崩していても、これは止められない。風を蹴り、逆さになりながらサマーソルトを叩き込む。リーチの差は圧倒的だ。けど、それは積極的な攻勢というより――これ以上接近されると、困るんだ。もし、至近距離の格闘戦に持ち込まれたら――

 

私の杞憂は、早速当たってしまった。烏は私と同じ戦法を取った。四肢から風が消え、右腕に竜巻が現れる。私のそれとは比較にならないほど小さいけれど、烏にとってはそれで十分だったんだ。私は竜巻に、旋風で応えた。威力が違う。かち合えば私が勝つ。その判断が、いけなかった。

 

烏は右手を振るわなかった。ただ身体を傾けて旋風を回避すると、余波で裂かれるのも構わず、左の貫手が私を腹を思い切り突いた!――痛い!――一瞬、意識が遠くなった。集中が解け、旋風が消えかける。そこに烏の手刀、そして竜巻。やむを得ず、それを風のない左腕で受ける。

 

風の刃が腕をざくざくと切り裂いていく。旋風が戻る一瞬の間に、私の腕は血まみれになった。私は傷を押さえながら、四肢に風を戻す。烏もそうした。風と風との攻防に固執した私のミスだ。降参してもいい傷だった。けど、ダメだ。やられたら、利子をつけてやり返すんだ!

 

至近距離。頼れるのはもはや己の身体のみ。烏の手刀が襲い掛かる。それを手刀で受け――られなかった。身体をひねり、逆手から放たれた貫手が、再び私の脇腹を痛烈に突いた。怯んだ私の腕を掴み、顔に向けて必殺の貫手を放つ。私はそれを、何とか身体を捻ってかわす。

 

腕が私を突き飛ばした。回し蹴りが放たれる。――ダメだ、避け切れない! 腕も間に合わない。私は思い切り顔を蹴られ、斜め下の地面に叩き落とされた。意趣返しとでも言うんだろうか。続く踏みつけ。これを転がってかわす。地に転がる。烏天狗にとってこれは、如何にも無様だ。

 

私はよろよろと立ち上がる。可愛い顔が台無し――なんて、言う気はない。今は戦いなんだ。可憐さは命乞いにしか役に立たない。烏はすぐに来た。再び密着しようとする。私は両腕に風を集中する。勝ち筋に拘ってはいけない。理解した。一番強い札を押し付けるだけではダメなんだ。

 

ならばどうする。烏はどうしてきた。私は打開策を探った。考えろ。考えるんだ。四肢に風を戻した烏に、敢えてこちらから突撃した。烏は――いや、私も笑ってる。どちらも、自分が負けるなんて、微塵も思っていない。傲慢であらずば何が天狗か。私は烏を睨みつけた。

 

私は右で貫手を放った。まるで当然のようにそれは、空へ飛びあがりながら、かわされる。次に来るのは踏みつけだ。私はバク転でそれをかわし、腕の力で飛び跳ね、蹴りを放った。烏はそれに蹴りで応える。ここで押さなきゃいつ押すんだ。思い切り蹴りを入れる! 脚が交差する!

 

烏は、私の蹴りで態勢を崩した。私もそうだ。再び地面に落とされる。烏の脚は打ち据えられていた。けど、大した傷じゃない。つつ、と血が流れた。私は身体のバネで起き上がり、烏が態勢を立て直す前に、空中へ飛び上がった。しかし烏は再び、私の至近距離に飛び込もうとする。

 

私が回転蹴りを放つと、合わせて竜巻の手刀が放たれ、ガードされる。これではジリ貧だ。いや――本当に、そうだろうか? 私はきっと、悪い笑みを浮かべていた。咄嗟に飛びのく。させじと烏が距離を詰める。私は、再び右腕に風を集めた。ゴウゴウと旋風が巡る。

 

突き出した旋風を、烏は下にもぐってかわした。風を蹴り、そこから私を蹴り上げようとする。私はそれを腕で迎え撃つ。しかし、衝撃を相殺しきれない! 烏の脚を叩いた代償に、私の身体は天に向けて突き飛ばされた。ダメだ。敵わない――なんてね。この時を待っていたんだ!

 

私は烏に向けて脚を向けていた。烏が接近する。――まだだ。まだ引き付けろ。私は烏とかち合う数秒前――脚に向けて、風を集める!――当然、烏はこれを避けようとする。烏はこちらのリーチをきっと、熟知してる。寸前で避け、背に回って、私を蹴り落とそうとするはずだ。

 

その≪寸前≫が、あなたの命取りになる。烏が方向を変える、その瞬間――私は、脚に帯びた旋風を、地に向けて蹴り飛ばした! これができるのも、この修錬場では私だけだ。扇がなければ、手元から離れても四散しないだけの風を繰れない。普通はね。生憎、私は普通じゃないの。

 

隠し玉は、最後まで取っておく。これも文の言葉。見なくても、烏の顔が想像できる。私は天の風を蹴った。旋風が烏を地に叩き落とし、更に釘付けにしていた。お互い、手を尽くした。それでいい。最後に勝負を決めるのは、格闘戦なんだ。驚愕の顔に向けて、全力で踏みつけを放つ!

 

激しい衝撃が足元に伝わった。下駄がきしむ。まだだ。私は身体を捻って、その脇腹に思い切り蹴りを叩き込んだ。その身体はバウンドするように地面を転がった。烏天狗にとってこれは、如何にも無様だ。私は更に追撃をかけようとその背を追う、けど――烏は腕を上げ、手を振った。

 

降参の合図だ。私は地面に下り、息を吐いた。緊張が解けると、やにわに痛みがやってくる。ちょっと激戦過ぎたかもしれない。こんなに怪我をするのは初めてだ。私は烏を助け起こし、互いの健闘を称え合った。顔はさっきので傷だらけだ。まあ、人の事は言えないけどね……。

 

―――

 

  ―――

 

「はたてさんは戦う必要なんてないんですよ」治療を受けてる間中、椛が傍で心配そうな顔をしてる。「このくらいは何日かしたら治っちゃうよ」「そうではなくて」要するに、戦わないでくれ、と言いたいんだと思う。まあ、実家にも反対された。護身術だって言いくるめたけどね。

 

「玉のお肌に傷が、なんて思うタイプ?」「ご理解されているなら……」「割と心配性だよね、椛」私は包帯を巻き終わり、立ち上がった。顔を洗いたい気分だ。……でも、それは少しだけ、後になりそうだった。「やっていますね、はたて」文だ。鞄を抱えてる。配達の帰りかな?

 

「あなたも遂に一端に仕上がったようで、わたくしも嬉しさで胸が張り裂けそうでありますよ、ひよこちゃん」「もうひよこじゃないもん」文は基本的に何でもバカにしてるんだ。別に悪意がある訳じゃないと思う。多分、文はそういう喋り方しかできないんじゃないかな……。

 

「ところであなたは以前、わたくしにこう言いましたね。わたくしめよりも強くなってやる、と」「――覚えてたんだ?」意外だった。私は今の今まで半分忘れてたけど。「わたくし、この日を待っていたのですよ。……力の差を思い知らせてやる日を、ね?」文はニヤリと笑った。

 

私は少し唖然としていた――けど、すぐにわかった。これは挑発されてるんだ。「今からやるの?」顔を近づけた。「生憎、手負いをいびる趣味はありません故」文は首をすくめ、指をぐるぐると回した。「そうですね、一週間後くらいにしましょう。予定は開けておきますよ、はたて」

 

文はやにわに、修錬所の建物へ足を向けた。「何処に行くの?」「得物をですね、ちょいと見ておこうかと」文の後を、椛が続いた。背を伸ばして、私も続く。中には、山で使われる様々な武器が掛けられてる。全部、今すぐにでも使える。展示品とはいえ、少しだけ物騒かもしれない。

 

「それでは、これに致しましょう」文は――壁にかけられた薙刀を取ると、私の前で一通り振り回して見せた。思わず目を見開く。「薙刀……?」「あなたとお揃いですね、はたて」私は少し、いやかなり、動揺していたかもしれない。まさか、文がそれを取るとは思っていなかったんだ。

 

文が槍を持っていたのを見た事はある。剣もだ。弓。棒も。短剣。鞭を持っていた事もあったし、たまに斧も使っていた。手裏剣なんてのも。でも、薙刀は一度も見た事がなかった。でも、さっきの動きを見ると、多分並み以上には扱えるように思える。つまり、これは対等な勝負だ。

 

「嫌味か?」「偶然ですよ」ニヤニヤする文。耳を立てる椛。やっぱり絶対これ、偶然じゃない。「養生なさい。元気がなければ、わたくしめを楽しませられませんよ」文は足元に薙刀を突き刺すと、あっという間に飛び去っていく。片しなさいよ。椛はため息を吐き、それを壁に戻した。

 

―――

 

  ―――

 

私達は空に浮き、睨み合った。傷はとっくに癒えてる。気合もバッチリ入れた。ニヤニヤ顔でこっちを見る文に、今日は一泡吹かせてやる。扇の手応えを確認する。薙刀の握りを確かめる。どちらも、いつも通りだ。そう――教えられた事を、いつも通り、全力で出し切ればいい。

 

今日の観覧席は人で一杯だ。訓練生一同、野次馬、博徒の群れ、烏の一団、わちゃわちゃわちゃわちゃと白狼、そして――椛がいる。じっと私を見てる。無様は晒せない。出来るか出来ないかじゃない。格上とか関係ない。やるんだ。私にだって、プライドってものがあるんだから!

 

「――始め!」

 

私は十二本の槍を繰り、更に壁を、そして渦を立てた。文相手に出し惜しみはできない。追尾する槍を、文は大きく回ってかわす。今度は風の刃を六つ、槍を六つ繰った。予測射撃だ。槍で追い立て、直線状に飛ぶ刃で撃墜する。決まれば確かに致命傷だ。決まれば、だけど。

 

文はそれを再び、大回りでかわした。その軌道は、確かに私が読んだ通り。槍が追い抜かれる。六本の刃が文に到達する!――はずだった。ううん、実際、風の刃は文のいた空間を切り裂いた。けれどもう、文はそこにはいなかった。僅かに背を逸らしただけで、それらを回避したんだ。

 

文は疾い。それでいて小回りも利く、私の方が遥かに多くの風を繰れるけど、文もそれは承知だ。必要最小限の風、そして動作で避けてみせる。文は多分、こちらが疲弊するのを待ってる。けれど、これ以上近付くのは本当に危険だ。扇を握り直した。今は、この距離を維持したい。

 

薙刀は、私の手に馴染んでる。でも、文はあんなに自慢げに薙刀を取ったんだ。私は委縮していた。……いけない、いけない。戦う前から勝てないなんて思うのは、もう負けてるじゃないか。私は頭を叩き、弱音を振り払った。再び、風を繰る姿勢に戻る。槍を繰る。しかしかわされる。

 

どうしようもなくなった時は、隠し玉だ。文曰く、己の手の内は常に隠し、そして多く抱えておくべきだと。私はその言葉を思い出して、密かにいくつかの戦術を練習していた。これは、文も知らない。私は壁を、そして渦を解除した。文は――とりあえず、飛び込んでは来ない。

 

飛んできた風の刃を大回りでかわした。槍が三本、こちらに向かってくる。私はそれに構わず、風に集中した。私の右腕から、細い風の流れがいくつも湧き起こってくる。私は――槍に向けて、思い切りと手を振り払った! 右腕から現れたのは、揺らぐもうねる、幾多もの風の糸だ!

 

無数の糸が飛び込んでいく。一部が槍を相殺した。私は糸の操作に集中する。文が迎撃の刃を放つけれど、それは一部を切り裂くだけ。更に、更にと私の腕から、それは繰られてる。糸と糸が繋がり合って、風の網となる。網と網が繋がり合って、あなたを捕える牢獄となる!

 

あなたがいくら素早くても、捕まえてしまえば逃げられはしない。その為の網、その為の牢獄だ。私の仮想敵はずっと、あなただった。素早いあなたをどうやって、確実に捕まえるかを考えて、これを思いついたんだ。そして今、その有用性は――私の手で、証明されようとしてる。

 

無限とも思える風の網が、遂に文の全方位を覆った。どれだけ風の刃を受けても、それはすぐに繋がり合う。竜巻をぶつけても、何重もの網は相殺しきらない。閉じ込められた文は――終始、笑っていた。まるで何ともないかのように。文はいつだってそうだ。更に私は、左手を振り払う!

 

風の牢獄から風の糸が飛び出す。何本も、何本もだ。文とてとても、いなせる量ではないはずだ。かわしそこねた左足に、糸が巻き付く、糸がそこに殺到する。左足を完全に拘束した。右腕も続いた。胴体を巻き付けた。もう、いいはずだ。私は――扇を掴み直し、右腕で高く掲げた!

 

牢獄が、急激に狭まっていく。風と風が近付き合って、渦を巻き始める。瞬間、内部に電撃が走った。回転する風がそれを生み出してるんだ。誰にも教えた事のない、私だけの技だ。やがて巨大な風の渦となって、犠牲者は内部に閉じ込められたまま、風の洗礼を受ける事になる!

 

「――私の勝ちだよ、文!!」

 

牢獄は完全に収縮した。文の姿は見えない。今頃、中心に拘束されたまま、全身を叩きのめされてるはずだ。死にはしない。文はこのくらいで死んだりしない。私は扇を下ろし、目前の仕業を見つめた。私は――笑おうとしたけど、笑えなかった。何だか、ただ呆然としていた。

 

「――ほうほう。それで、勝利の味はいかがかな?」

 

瞬間、あれほど烈しかった渦が、巨大な竜巻に巻き込まれて弾け飛んだ。風の牢獄も吹き飛ばされていた。そこに浮かんでいたのは――文だ。衣装が少しほつれてるけど、まだまだ平気とばかりに、こちらに扇を向けた。挨拶代わりに、槍が三本。私は慌てて、大周りに回避した。

 

「竜巻は私の得意分野と、前に言ったでしょう」

 

「――!!」

 

「逆回転の風をぶつければ、それは消えてしまうものですよ」

 

並の相手なら必殺でしたでしょうがね。文はそう評価すると、私に向けて――風の鞭を、いくつも繰ってきた! それはおよそ六本。私よりずっと少ないけれど、ずっと早い。風の壁を繰る――間に合わない! 左足にそれが巻き付く。右腕に。胴体に。ギリギリとそれが拘束する。

 

「一度見れば、覚えるのは容易い。応用もですね」

 

文は私に扇を向け、高く掲げた! これは――文の得意技が、来る!!――私は抗おうと手足をよじった。ダメだ。何か手は、何か手はないか。苦し紛れに風の球体を繰り、身を守ろうとする。無駄なのはわかってる。でも今は、それくらいしかできる事がない。身を縮める。

 

――巨大な竜巻が、私を中心に巻き起こった。その数、およそ五。複雑な風の流れが、私の身体を完全に固定していた。風が強すぎて、まったく動けない。私には――悔しいけれど、真似は出来ない。そこまで風の働きに精通してる訳じゃない。たぶん、地力と経験が足りてないんだ。

 

――そんな事を考えてる場合じゃなかった。球体は弾け、風の刃が衣装を、頬を、四肢を、切り刻み始めていた。私は必死に打開策を探った。文が竜巻を繰る時は、どうだった? 私に見せつけた時は? 文は自分の技について、何を――そうだ。答えはさっき、聞いたじゃないか!

 

私は竜巻を繰った。槍や渦と違って、あまり得意な方じゃない。それでも。私はいつも、誰よりも風を繰れたじゃないか。風を繰る。普段とは逆回転の竜巻だ。不慣れな上に、初めての事をしようとしてるんだ。私は集中した。刃が髪を切り落とした。衣装の袖が斬られ、飛んで行った。

 

――それでも、私は繰り切った! 扇を高く掲げ、逆回転の竜巻を巻き起こす!! ゴウゴウ、と立ち上った巨大――いや、超巨大な竜巻が周囲の竜巻を弾き飛ばした。天に昇るかという勢い。中心の私に確かな手ごたえを与えた。助かった。けど――それだけじゃ、済ませないんだから。

 

私は竜巻から飛び出すと、それを文に向けて前進させた。文は当然、それを避けようとするけれど、その前に私は風を繰り終えていた。風の鞭。確かに、一度見れば、覚えるのは容易いかもしれない。手の内を晒してはならない。その通りだ。文の言う事は大体、参考になってるよ。

 

およそ三十本の鞭が、文に向けて飛来する。鞭は芸術的な回避をしかし運良くかいくぐり、その内の一本が、奇跡的に文を捉えた。両足を拘束する。瞬間、残りの鞭が文の身体に殺到する! 私は鞭を必死に掴んだ。文の力は強い。全力で引き続けなければ逃げられてしまう。

 

竜巻が近付く。私には見た事もないような大きさの竜巻だ。こんなものに巻かれたらタダじゃすまない。文はそれに――巻き込まれた! 烈しく回転するのを見た。それでも私は、油断しなかった。経験に学ばなきゃならない。扇を構え、神経を尖らせる。何が起きても動転しないように。

 

その時だった。文らしきものが、きりもみ回転しながら地面に叩きつけられた。私はそれを視認した瞬間、風の槍を繰れるだけ叩き付けた。砂埃が舞う。私はそれから目を離さない。やがて――現れたそれは、文じゃなかった。薙刀だ。薙刀だけがそこにある。私は咄嗟に飛び上がった。

 

風の刃が三つ、足元を通り過ぎていく。私は後方を――文を睨んだ。文は大分、傷を受けたようだ。そこかしこから血を流してる。私はまた一つ、ミスを犯した。視野を狭くし過ぎてもいけないんだと。きっと文は上空に跳ね跳び、身代わりに薙刀を落として欺瞞したんだろう。

 

文が繰った槍を、大回りでかわす。私にはギリギリでかわせる腕前はない。それは欠点だ。それも、致命的な。文は素早く地面に降り立つと、突き立った薙刀を抜き、こちらを手招いた。私は――挑発に乗った。風の勝負では多分、私が勝ったんだ。それ以外でも、負けるもんか。

 

―――

 

  ―――

 

薙刀を構え、睨み合う。片手に扇を保持したまま、薙刀を両手で握る。時に斬撃が、時に風が飛ぶ戦いだ。遠距離以上に、油断はできない。互いの刃に風が渦巻いた。先に仕掛けるのは、どちらだ。私は――風を繰らず、突撃した! 不意をついたつもりだった。今は、主導権が欲しい!

 

文は風の壁を繰っていた。どうやら私の勘が、一つ当たったみたいだ。それを薙ぎ払い、薙刀を構え直す文に、思い切り突き込む!――しかし、背を逸らして寸前で避けられた。文のこの回避能力は本当にインチキ臭い。修錬場の誰も、教官だって、そこまでは出来ないのに。

 

私は態勢を立て直して、更に突き込み、切り払った。やはり寸前でかわされる。まるで弄ばれてるみたいだ。私が手を出せないのを確認し終わったかのように、文は動いた。上段から大振りな斬撃。私は何とかそれをかわす。捩じり、再び振り上げられた刃を――何とか、刃で受けた!

 

鍔迫り合いだ。当然のように、私は不利だ。もっと腕力が必要だと思った。思うだけではどうにもならない。私は、あの時と同じ戦法を取ろうと思ったけど――それは取っておく事にした。あれは文にタネが割れてる。きっと簡単に対処されてしまうだろう。刃が、きしむ。

 

それを打ち払ったのは、文の方だった。正面からの縦斬り! 後退してかわすと、背の風を蹴っての必殺の突き! 左に避ける。強烈な薙ぎ払い!――完全に圧されてる。片手に持ち替える暇がなければ、風に頼る事も出来ない。後ろに飛び退いて、距離を取る。文は追ってこない。

 

薙刀を片手に持ち替え、扇を高く掲げる。周囲に渦を七つ、風の槍を三つ繰った。いくら文でも、渦を真正面からは突き抜けられない。とりあえず突撃を阻止したかった。どうにも後ろ向きだけど、今は考える時間が欲しい。風の槍を再び寸前でかわした文は――まだ、何もしてこない。

 

――私は渦を四散させ、薙刀を構え、突撃をかけた! 手があったかなかったかと言えば、あった。文を横薙ぎに払う。これは飛び上がってかわされる。上から突き下ろされる。これを柄で受け、逆に下方から斬り上げる。しかしそれは飛びかわされる。私達は同時に距離を取る――

 

やっぱりだ。文は常にギリギリで避けようとする。ならもし、ギリギリで避けられない攻撃を放てばどうなる? 私の手の中で一瞬、風がうごめいた。今度は――文から仕掛けてきた! 突き、そして薙ぎ払いだ。私は避け、刃でいなした。私が突き返し、再び、同時に距離を取った。

 

今ならいける。私は風に集中した。扇を使わなくても、私はこれくらいできる。薙ぎ払い。けれどタダの薙ぎ払いじゃない。倍は伸びる。寸前でかわそうとすれば、深く切り裂かれる事になる。私はニヤリ、と笑った。例えタネがばれていても、これならきっと、文にも通じる。

 

私は思い切って仕掛けた。横薙ぎを避けられる。反転した薙ぎを、やはり避けられる。文の刺突が割り込もうとする。……今だ! 私は逆に薙ぎ払う。その刃先には、風を帯びて倍の長さになった、必殺の刃が――届いたはずなんだ。それなのに、文は悠々と避けた。なんで? どうして?

 

身体を逸らし、片手で突き返された刃が、私の脚を裂いた。傷は浅くない。一瞬の苦痛が、動きを鈍らせる。文は石突で私を殴り付けると、私の薙刀に刃の背を思い切り叩き付けてきた。武器を落とそうとしてる。保持するのがやっとだ。目的が成らぬと見てか、文は距離を取った。

 

「はい。残念でした」

 

「…………」

 

「見てから避けている訳ではありませんからね。

 まあ、あなたも今にわかりますよ。百年くらいしたらね」

 

私はちょっと、カチンときた。こんな風に、文はいつも年長者振るんだ。まあ事実だからしょうがないけど。……そんな事を考えてる場合じゃない。私に向けて振り下ろされる刃を、刃で受ける。また、鍔迫り合いだ。さっきよりも強い。押し倒す気だ。私は耐えかね、後方に弾かれた。

 

苦し紛れに、薙刀を投擲した。勿論、ただ捨てた訳じゃない。それは戻ってくる。背後から敵を襲いつつ、ね。文はそれを見もせずに身体を反ってかわし、私に向けて四本の風の槍を放った。同数の風の刃でそれを迎撃し、風の鞭をいくつも繰った。……無理。早々捕まるものじゃない。

 

薙刀が戻ってくる。タイミングが悪い。文は今、フリーなんだ。私は風の槍をむやみやたらに投擲するけど、それは寸前ですべて回避されてしまう。回り込む文を追って、薙刀が左右にぶれる。追尾すればするほど、文の術中に嵌ってる気がする。私は手を伸ばし、薙刀を受け止め――

 

ダメだ。文は飛び来る薙刀を、後ろを見もせずに薙ぎ落とした。風が解け、推進力を失った薙刀が地面へと落ちていく。私は慌ててそれを拾いに行こうとして――文の視線を感じ、寸前で思い留まった。私は手刀を構え、風を通わせた。文相手に、何処まで通じるかはわからない、けど――

 

でも、そうはならなかった。文は私に向けて薙刀を投擲した。私は慌てたけれど――上手く、それを掴み取った。文は地面に飛び込んでいた。刺さった薙刀を抜いて、私に手を振った。……もう、頭にきたぞ。あれは、もう一度やってみなさい、ってポーズだ。言われなくてもわかる。

 

――私達は、何度でも睨み合う。今の私は完全に遊ばれてる。奇策を用いてもダメだ。勿論、正面も。生憎と隠し玉は使ってしまった。考えろ。考えるんだ。絶対に手はあるはずなんだ。へらへらと笑う文を睨み――不意に、風が凪いだ。私の耳――いや、感覚に何かが引っかかった。

 

その時、文が仕掛けた! 風の刃を三本繰り、私の方に飛び込んでくる! 私がそれらを薙ぎ払うと、もう文は目の前にいる。斜めからの斬り上げ。反転して斬り下ろし。更に己を縦回転させての強烈な斬り上げ。すべては避けられない。最後の攻撃を避け切れず、胸を浅く切り裂かれた。

 

痛みと共に、距離を取る。だけど、私は妙に冷静だった。再び、感覚に何かが引っかかったんだ。文の放った風の刃に、確かな霊力の流れを感じた。今まで気付かなかったけど、絶対そうだ。もしかすると――文は空気を伝わる波を感じ取って、ギリギリで攻撃を避けてるんじゃないか?

 

自分の繰った穂先の風の流れを見る。確かに霊力が流れてる。それを感知できるなら、後はそれをかわせるか否か。私の中で、何かが噛み合った気がする。今まで何気なく繰っていた風を、一つ理解できたような。それが本当に、気付きなのかどうかは――やってみれば、わかる!

 

私は見える範囲すべてに周囲と逆方向の風を繰り、意図的に凪を作り出した。これで風の、霊力の流れがはっきりとわかる。文は多分、それに気付いていた。でも、意図まではわからなかったに違いない。文が再び、突っ込んでくる。必殺の突き。当たらない。当たるもんか。……今だ!

 

私は――文の突きを寸前で回避しながら、文の腹に向けて回転蹴りを放つ!――文が怯んだ! 私は頭上で薙刀を回転させ、思い切り斬り下ろした。それは柄で防がれたけれど、一本取ったのは変わらない。柄ごと文を蹴り落として、距離を取る。何だか、段々とわかってきたぞ。

 

私は凪を解除し、十四本の槍を、今度は螺旋状に繰った。少し難しい。けれど、それだけの効果はあったみたいだ。文は大回りでそれをかわす。風と風とが合わさる所で、流れを判別するのは難しい。寸前の回避はリスクが高いから、妥協してそうしたに違いない。それなら、こうだ!

 

自分自身が槍になる。文に教わった戦法だ。あれにはこういう意味があったんだ。私は深く集中し――初めて繰れた、十八本の槍と共に突撃をかけた! 文は風の壁を幾重にも立てる。大きな竜巻を起こす。けれど、同時に繰れる数なら、こっちが上なんだ!――百年分を、今返してやる!

 

六本の槍が竜巻を散らす。六本の槍が壁を一つ、二つ、三つ貫通する。文は飛びのこうとした。……今だけは、文が遅い! 私は三本の槍を加速させ、その後ろについた。文はそれを薙ぎ払い――風の一本が肩に直撃した! 遅れて到着した三本と、私は同時に薙刀を突き込む――!

 

文は刃で刃を受け、思い切り私を突き飛ばした。下に飛び込むように槍を避け――避け切れない! 一本が脚をかすめた。勿論、私も飛び込む。文の柄を狙って、重力を乗せた斬撃を放つ!――当たった! 文は薙刀を取り落とした。私は扇を掲げ、ここ一番の突風を、思い切り繰る!

 

風を受けた薙刀が、場外へと飛び、突き刺さった。抵抗力を奪い、有効打を与えた。普通なら、これで私の勝ちだ。けれど、文は――扇を放り捨て、私を挑発した。私は当然、それに乗る。薙刀と扇を手放した。それは風に舞い、場外に転がっていく。観覧席が俄かにどよめいた。

 

わかってる。これで勝たなきゃ、あなたを超えたとは言えない。互いに手刀を構え、風を通わせた。出来るか出来ないかで言えば、私が敵う要素なんてない。それでも、今まで戦いの中で成長してきたじゃないか。勝ち目がないなんて思わない。だって私は、文よりずっと傲慢なんだもん!

 

―――

 

  ―――

 

結論から言えば、無理でした。うん。今私は、文に押して押して押しまくられてる。風を集中させる暇もない。場外に叩き出される勢いだ。まるで今までのそれは児戯に過ぎなかったと言わんばかりに、容赦なく手刀が飛ぶ。蹴りが来る。体当たりに締め技、終いには頭突きまで。

 

流石、かつては汚い天狗と呼ばr――これを言うと文は怒るんだった。それはともかく、私だって抵抗はしてる。手刀に手刀を合わせ、竜巻を押し付け――る前に、文はすぐ射程外に退がりつつ飛び上がり、今度は頭に向けて踵落としをかける。これをかわせば、踏みつけが追ってくる。

 

攻撃が淀みなく立て続けに来るんだ。休む暇など与えない。私が文の立場だったらそうする。多分文は、一週間前の奥の手を見てたんだと思う。逆に言えば、それを押し付ける事が出来れば、勝ち目があるのかも。……けどそれは、考えるだに無謀だ。あの時はなんとか、互角に持ち込めた。

 

今、一か所に風を集めるなんて事をすれば、きっとあっという間にボコボコにされる。クロス腕で手刀を受け止めながら、考えを巡らす。考えてどうにかなるレベルを超えてるかもしれないけど、投げ出しちゃダメだ。必ず希望は――あ、髪留めが片方吹っ飛んだ。幾束の髪が宙を舞う。

 

――待てよ? 髪?――それだ! この手は一回しか使えない。手刀に旋風を押し付け、文は飛び上がり、踏みつけを――今だ! 私は旋風の刃を自分自身に当て、残っていた髪留めもろとも、髪を引きちぎったんだ。髪が蹴りに巻かれて、文の視界を塞ぐ。一瞬だけど、文は狼狽した。

 

それだけあれば十分だった。私はすべての風を右腕に回して、文を迎撃した。文の身体は旋風に飛び込み――全身をしたかかに叩きのめされながら、上方に跳ねた。まだだ。私は右腕の旋風を切り離し、左腕に旋風を繰った。態勢を立て直す暇を与えない。あなたがそう教えてくれたんだ。

 

二度、三度と旋風を打ち上げ、ぼろぼろになった文の身体に飛び込んだ。文は完全に無防備だ。右脚に風を収束し、思い切り踵落としを放つ。文の身体は遥か地面へと叩きつけられ、烈しくバウンドしながら転がった。烏天狗にとってこれは、如何にも無様だ。私はまだ、警戒を解かない。

 

――文は立ち上がった。その顔にもう、人をバカにしたような笑みはなかった。飛び上がった文は私に手刀を向け、じり、と近付く。私はそれに両腕の旋風で応える。奥の手は使い切った。後は――何とかして、文に膝をつかせなきゃいけない。やれるか?――当然! やってみせるとも!

 

文が仕掛ける! 突き込まれた貫手を――寸前で避け、頭にハイキックをかます。それは頭を振ってかわされるけど――畳みかける! 回転蹴りの追撃、そして踵落としを仕掛けた! 文は――踵落としを避け切れず、態勢を大きく崩した。正面を向かんと、翼がバサリ、と鳴いた。

 

いいや、休む暇は与えない。腹に貫手をみまう。腕に旋風の衝撃が通い――押し通した! 腹を激しく打ち据えられ、文は後退する。私は旋風を文に向けて切り離し、とどめの一撃をかける。やれる。右脚に旋風をまとわせ、蹴りをみまう! この一撃で――決まる、はずだった。

 

文は切り離した旋風を片腕で弾き飛ばした。私の渾身の蹴りをいなし、掴んだ。凄まじい力だった。私はあっという間もなく振り回され、地面に向けて叩きつけられた。肺の空気がすべて吐き出され、私は激しくせき込んだ。見上げる文の姿に、私は思わず震えた。とてつもない、威圧感。

 

「強者の余裕――なんて甘い考えは、捨てましょう」

 

文の四肢の風が、まるで爪のように繰られた。

 

「もう、手加減は出来ません。……死なないでくださいよ、はたて」

 

恐ろしい台詞と共に、文が飛び込んできた! 私は地面を蹴ってそれをかわす――ダメだ、あまりにも疾い! 身体を捩じる私に、すれ違いざまの刃が襲う。とても迎撃出来る疾さじゃない。片肩が深々と引き裂かれる。向き直る暇もない。反転した文の爪が迫り――脇腹が切り裂かれる!

 

庇おうとした腕が深く切り裂かれる。旋風を貫通するほどの刃が突き込まれる。文は即座に反転、背中を引き裂かれた。空中で回転しながらの踵落とし。防ぎきれない。地面に叩き落とされる。そこに文が覆い被さる。刃が喉を狙い――危うく転がってかわした。飛び上がるも、刃が迫る。

 

文は風を蹴り、急激に反転しながら私を切り裂き、角度を変えて更に反転し、私を切り裂き――ダメだ。接触は一瞬だ。今までもそうだったけど、それ以上の速度だ。反撃どころが防御だって間に合わない。今度はどっちから来る? 上か? 下か?――見えない! わからない!!

 

文は、今までの文じゃない。殆どが急所狙いだ。明らかに私を殺す気で攻撃してる。目視を、霊力の流れを、感じる暇もない。私の反応速度を遥かに超えた攻撃。爪を振りぬかれる度に、私は切り刻まれていく。これ以上深手を負ったら――本当に、殺されてしまうかもしれない――!!

 

「――はたて、降参なさい!」

 

「やなこった!」

 

軽口を叩いて、何とか自分を鼓舞する。私は自分を中心に大渦を繰った。如何にも泥縄な防戦だけど、今はこれしかない。飛び来る文に、旋風を向ける。接触する寸前をいなす事が出来れば、何とでもなるはずだ。何か、手段は――そうだ! あの時は上手くいかなかったけど、今なら!

 

私は風の糸を繰った。扇がない今でも、風の網を一面くらいは繰れるはずだ。これで文を捕まえる。私は手を招き、文を挑発した。文が――飛び込んでくる! 私は後方に風の網を広げ、クロス腕で攻撃に備えた。あんのじょう文は私の顔を切り裂こうとする。大渦に文が飛び込んだ!

 

その瞬間、私もろとも風の網が、文を捕まえる。網は巾着のように閉じた。大渦を繰る私を、文はギロリと睨み――激しい打撃と共にはじき出される! 網でバウンドした文が更に渦へと接触する! 更に文が、更に文が接触し、叩きのめされる! 今こそ、大渦に全力で集中する!

 

文はもう、まともに飛ぶ事はできないようだった。力なく大渦に接触しては叩きのめされ、網がそれを大渦へと跳ね飛ばす。今こそ――とどめを刺す時だ! 私は疾風を片腕、あらんかぎりを集中させ、ボロボロになったその姿に最後の打撃をみまう!――文は遂に、網の中へ倒れ込んだ。

 

文の四肢から、風が四散する。網を解除すると、文はそのまま地面に落下した。もう、反応は返ってこない。……もしかして、殺しちゃった? 私の心配は――しかし杞憂だった。文はゆっくりと起き上がると、腕を振った。降参の合図。観覧席――いいや。世界は今、静かだった。

 

……えっと。もしかして私、文に勝ったの……?――夢じゃない?――いや、夢なんかじゃない。私は観覧席に向けて、手を振った。観覧席はざわざわとどよめいた。椛が手を振ってるのが見える。烏の一団が私を見てる。白狼達がわちゃわちゃと手を振った。教官がむせび泣いてる。

 

私は地面に下り、文に肩を貸そうとした。「――あなたもぼろぼろでしょうに」「平気」私は肩を貸して――いや、肩を貸し合った。「負けましたよ。わたくしめ、完敗です」「嘘」私は少し、ムカついた。「最初からずっと手加減してたくせに」「大人の余裕というものですよ、はたて」

 

「まあ――負けたというのは、本当です。適当に揉んでやろうと思っていたのですが。あなたは想像していた以上に才能がある」「でしょ?」「おや、調子に乗りなさる」文は私の顔を見た。私も文を見た。「「傲慢であらずば、何が天狗か」」どちらからともなく、悪い笑みを浮かべた。

 

―――

 

  ―――

 

六本の風の槍を繰り、私は烏に突撃した。慌てた様子で風の壁が繰られるけれど、それは悪手だ。一本が風の壁を容易く貫き、二本が烏に襲い掛かる。大回りにかわした所に、追いすがった私が薙刀を振るう、剣と薙刀とが激しく打ち合い、火花が散った。押し付ける。こちらが優勢だ。

 

互いに打ち払って距離を取る。私は敢えて追撃せず、三本の槍を繰る。烏は、今度は風の壁を立てなかった。風の刃でそれを一本ずつ相殺し、逆にこちらへ槍を二本、投擲してきた。それを寸前でかわしてみせると――私はニヤリと笑った。立て続けに二十四本の風の槍を繰る。

 

とても相殺しきらない数だ。烏は大回りになんとかかわし――た所に、三つの風の刃。けど、ギリギリで相殺が間に合ったようだ。まあ、安心するのはまだ早い。烏がこちらに突き飛ばされた。背後に回り込んだ風の鎚が、背中を叩いたんだ。まだ墜落はしない。してもらっちゃ困る。

 

間髪置かず、鋭く伸びる風の鞭を繰り――烏の右足を拘束した。狼狽える暇も与えない。私はそれを思い切り引き寄せ、片脚に通わせた旋風で、蹴りを放つ。烏は対応しきらず、それを右腕にまともに受けた。扇が落ちる――けど、烏は果敢にも、立ち向かってくる。そうでなくちゃ。

 

私は放たれた斬撃、その悉くを寸前でかわし、前蹴りで距離を取った。扇を捨てる。薙刀を両手で握り、烏に迫る。徐々に逃げ腰になってきた。それは違うよ。逃げるのは負けた後でいい。私は薙刀を構え、烏に突撃をかける! 烏は飛び上がり、剣を振り下ろす――けど、遅い!

 

私はそれを寸前で避け、石突で頭を思い切り打ち据えた。朦朧とした烏に更に石突をみまう。意識を取り戻した烏が、それを避けながら突き返してくる。身体をひねって剣をかわし、刃を逆に突き込む。烏はこれを避け切らない。刃が首を切り裂く瞬間――私はそれを、引き戻す。

 

模擬戦が始まってから、私は烏が何回死んでたかをカウントしてた。我ながら悪趣味だけど、これは必要な事だ。終始手加減する、なんてのは、誰かさんとそっくりになってきたと思う。……と。大振りな斬撃だ。私はそれに蹴りで応えた。刃を叩かれた烏が怯む。いや、まだまだ。

 

二度、三度と回転蹴りを放つ。クロス腕で防戦した烏の手を掴み、無理矢理に剣をもぎ取る。薙刀を捨て、正眼に構える。それは手に馴染んでる。手立てもなく手刀を構える烏を、私は薙ぎ払い――通わせた風を、刃のように飛ばす! 今は訓練生も一部、これをできるようになった。

 

この子はまだまだ、ひよこちゃんだ。幾度かの刃を飛ばした後、それを十分回避できるのを確認した私は、剣を捨てた。手刀を構える。双方、睨み合う。この子は多分、勝てる訳がないと思ってる。いいや。例えそうでも、やってみなければわからない。私がそうだったみたいに、ね。

 

観覧席からヤジが聞こえた。文の声だ。訓練生は目の前のひよこちゃんを応援してる。何だか、悪役が板についてきた気がするな。でもそれも、必要な事なんだ。後進を鍛え、己を乗り越えさせてこそ――って、教官も言ってた。ま、今はまだ、乗り越えさせる気なんかないけどね!

 

「さあ!――あなたの全力、私が見届けてあげる!」

 



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―140文字小説―
✨東方140文字小説


三脚とは棍棒、これすなわち絶対権力を表している訳だ。私は偉いんだぞ。「しかして三脚の上にはマスメディアが君臨するものでありまして」やかましい。弾圧するぞ。「おお、こわいこわい。こわいついでに神権政治がこわい」「……その心は?」「紙の言葉は絶対でありましょう」

 

「穢れた食べ物なんて食べられない」そんな事言ったって仕方ないだろ。「穢れていない食べ物が欲しいよー」そんなもの何処にあるんだ。諦めなよ清蘭。「穢れ、穢れ……」ぶつぶつ呟くのを尻目に、私は掘った芋を食べようとした。「あったよ、穢れない食べ物」頭を杵が殴り付けた。

 

清蘭がキュリオシティを開けて何やらゴソゴソしている。「これで月に帰れるんだ、これで月に……」清蘭メカいじれたっけ。そもそもそんな機能ないけど。「あった、これをこうして……」浄化の光が、俄かに地上を切り裂いた。「ここを月にすればいい」そういうのやめた方が良いよ。

 

清蘭がカブトムシを捕まえてきた。「みてこれ、変なのー」向こうはお前の事を変だと思ってるよ。「これと戦う遊びが流行ってるんだって。早速行ってくる!」そりゃ結構。虫かごを置いたまま駆け出した清蘭は、しかし妙に早く帰ってきた。「一回戦の相手に負けた……」負けるなよ。

 

鈴瑚屋の団子は確かにおいしい。でも清蘭屋の方だって負けていない。それで何であんなに売上の差がつくのか。じっと観察してやる。「まいどー」客が途切れた。徐に鈴瑚は団子を食べ始める。一本、二本。「美味そうだねー」「美味いよー」ああ、あれはデブしかできない宣伝だわ。

 

鈴瑚がいなくなった。私のせいだ。鈴瑚なんてリンゴになっちゃえなんて言うから。ちゃぶ台にはリンゴが一つといつもの帽子。帽子を被っていない鈴瑚なんて、ただのデブだ。鈴瑚のばーか。すっとこどっこい。へちゃむくれ。「……どうせ帰ってくると思って無茶苦茶言ってない?」

 

鈴瑚はデブだけど、デブは鈴瑚じゃない。つまりデブは鈴瑚の本質ではない。なら、鈴瑚の本質って?「私の本質は私だよ」なら私が私を清蘭と決めればいいの?「そういう事」なら、私は鈴瑚だって言ったら?「私が清蘭になるよ」そっか。……私も清蘭だって言ったらどうなるの?

 

私が掃除している間に鈴瑚が散らかした。何でもそこらへんに置くやめてよ。「これは合理的な配置だよ、清蘭」ゴミに埋もれた鈴瑚が何か言った。それなら私だって考えがある。鈴瑚を掴んで持ち上げて、ゴミ箱の中にに突っ込んだ「なにすんのさ清蘭」これこそ合理的な配置じゃない。

 

私が本を読んでいる間に清蘭が散らかした。合理的な配置は見る影もない。勝手に触らないでって言ってるのに。「あ、輪ゴムがない」ほい。「石鹸も」ほら。「……何でも出てくる」だから合理的だって言ったじゃないか。ポテチを取り出す。粉が散らばった。「……前言撤回」

 

「火力が足りないと思う」清蘭がまたなんか思いついた。団子に大火力なんて必要ないだろ。「そうじゃなくて、呼び込みに熱さが足りないっていうか」今、仕事を放り出している方が良くないと思うけどな。「だからこの松明で熱いダンスを……」決意は固いらしい。今日は焼き団子かな。

 

清蘭が増えた。増えたのだから仕方ない。これがドッペルゲンゲルか。試しにどっちが清蘭か聞いてみたら、二人同時にしょげた。そこは両方が主張する所だろ。しかしこのままでは気味が悪い。片方を選んだら、もう片方はボン、と消滅した。……私が選んだ方は、本物の清蘭なのか?

 

鈴瑚が増えた。増えたのだから仕方ない。これは――なんだっけ。「ドッペルゲンゲルだよ」そうそれ。「しかしなんだ、私が二人いても何も変わらないな」確かに。「じゃあ一緒になるか」そう言うと鈴瑚は、ゲルゲルなんとかと合体してしまった。「何度目かな」何度もやってるの?

 

清蘭が珍しく本を読んでいた。絵本だ。「鈴瑚これ見て、面白いよ」清蘭とは感性が違うからな。「月の使者が迎えに来るんだって。私にも来ないかな」清蘭の心は月にある。地上に生きるのは不本意なのだろう。私は違う。あんな所に帰る気はしない。「帰れるかな」……いつかは、な。

 

死んだ玉兎の魂は月に還る。話半分に聞いていたが、今になって思えば、玉兎は救いが欲しかったのかもしれない。明日をも知れぬその命。せめてあの月に還りたい。戻れずとも、戻らずとも、穢れた身体を捨てて。なあ清蘭。そっちは良い所かな。耳デバイスを掲げ、少しだけ、泣いた。

 

鈴瑚は地上で生きると言った。最初からそのつもりで志願したらしい。此度の任務、兵員は決して回収されない事を知っていた。キュリオシティを巡る小競り合いで使い捨てられるはずだった。……私は生き残った。餅つきで後方にいたから。鈴瑚が憎い。どうして、お前は生きている?

 

団子を食べるほどに強くなる能力。本人の自己申告でしかないが。腹が満たされれば団子でなくてもいいのか。試しにカレーをたらふく食べさせてみたら、追い調味料に団子をかけていた。これでは実験にならない。「美味しかったよ清蘭」食後の団子をつまみながら言うな、このデブ。

 

居眠りしている鈴瑚に、さっと毛布をかけてやった。こうしておけば、安らかに眠れるだろう。私の心遣いに感謝して欲しい。それにしても。良い事をするって気持ちいいな。もっとしてあげよう。もっと。今、私はとても良い事をしているよ。「――暑いんだけど、清蘭」夏だからね。

 

清蘭が絵を描き始めた。さっきから黙々とカンバスを汚している。赤色だらけでめちゃくちゃだが、辛うじて月が描かれているのはわかった。……それで、何なのさ、それ。「ストロベリームーン」汚しながら、続けた。「赤い瞳が狂わすの。何もかもを」答えささやく清蘭の目は、赤い。

 

「もうだめだよー」泣き言の前にもっと食べさせて。もっと、もっと。「無理だよー」清蘭は団子を運ぶのを止めてしまった。こら、止めるな。全然食べ足りないんだ。諦めるな清蘭。フレーフレー清蘭。――駄目だ、もう支えていられない。ドスン。私達は吊り天井に潰されて、死んだ。

 

「鈴瑚と団子の区別がつかなくなってきたの」何を言うかと思えば。「二文字も被ってるし、丸いのは鈴瑚もでしょ?」団子とでも名乗れば気が済むのか。「いけない、今度は団子と鈴瑚の区別がつかないわ」要はその程度の差しかないんだよ。「どっちの団子も食べられるし」悪食め。

 

私が太っているんじゃない。清蘭が痩せすぎているんだ。「最悪の言い訳」汗を拭きながら清蘭は口を尖らせる。「私より何倍も食べるじゃない。そんなんだからデブるのよ。デーブ」憮然とした清蘭はドスンドスンと炊事場に向かう。それを見送る私の身体はと言えば、当然――

 

七夕の空は晴れていた。嬉しそうに笹を持ち出した清蘭は絶対に見ちゃダメ、と言っていたが、どうせ、月に帰りたいって書いてあるんだろ。私はそっと清蘭の短冊を見た。「鈴瑚と一緒に月に帰りたい」これは不発だな。私の短冊には、清蘭とずっと暮らせますように、って書いたんだ。

 

清蘭がスナイパーごっこを始めた。スコープを覗いて、道行く生き物にスポンジを当てては反応を面白がっている。その内痛い目見るよ、と言った傍から、日傘をさした偉いさんの顔にぶつけてら。そっと逃げ出した私の後ろから、清蘭の悲鳴が聞こえる。スポンジだけに向こう水ってか。

 

私達は温泉に来ている。福引で引いたのだ。なお清蘭は六等。不思議な香りだ。今まで嗅いだこともない。湯加減は――ちょっとぬるいかな。全身を浸けると、これはいい。歌でも一つ謳いたくなる気分だ。……ねえ、もうちょっと火加減強くなんない?「はいはい」八等は温泉の素。

 

清蘭が猫を拾ってきた。「見てこの子、可愛いよ。ねー飼おうよ!」「うちにはもう清蘭がいるからなぁ」私の嫌味にまったく気付かず、だだを捏ねる清蘭を何とか窘め、元の場所に戻してくるように言い聞かせる。しばらくすると戻ってきた。猫が。「生存競争に負けちゃったか……」

 

私達は武器の手入れをしていた。まあ、二度と使う事もないだろうと思う。長年染み付いた習慣だ。二人にとってこの時間は、部隊に居た頃の思い出話の場になっている。「それでね、地上人に遭遇した私は世にも華麗な空中戦を――」清蘭のホラ自慢を聞き流しながら、笑みがこぼれた。

 

鈴瑚が寸胴鍋を被ったまま、こっちを向いてくれない。虫の居所が悪かったっぽい。「もうお腹の贅肉分けて、なんて言わないから、機嫌直してよ」「私は別にそんな軽口で怒ってるんじゃないんだよ、清蘭」寸胴鍋は憤慨した。「だけどポークカレー呼ばわりはない。ありえない。最悪」

 

家庭菜園に精を出す清蘭の背中をぼうっと眺めている。考えてみれば奇妙な話だ。私達も兎の身とあらば、むしろ畑を荒らすべきなのかもしれない。暇してた思考回路を総動員して畑荒らしを企てていると、不意に清蘭がこちらを向いて、笑った。無理だな。あの笑顔を壊せる気はしない。

 

「団子搗きは?」「やる気出ない」清蘭が柄にもない事を言い出した。「五月はまだ先だろ」返事はない。本当に具合でも悪いんだろうか――なんて、思うだけ馬鹿だよな。清蘭だし。「鈴瑚がやってよ」「清蘭の仕事だろ」「やーだ。やらない!」「おっ? やる気か?」「やるぞ!」

 

「書類は?」「やる気出ない」鈴瑚がアンニュイな事を言い出した。「五月はまだ先じゃない」返事はない。頭をばりばり掻きながら寝っ転がってる。「ねえ、私がやろうか」「いい」「遠慮しなくていいよ?」「訂正箇所パないからやめて」「でも……」「あーやる気出た! 今出た!」

 

「千里眼ってのは本当にそんなに良く見えるのか」双眼鏡を覗き込んでいた私は、椛に問うた。「例えば、私が山向こうにいても」「見える」当然だ、とばかりに椛は鼻を鳴らした。心の中までは全然見えない癖に。精悍な横顔をちらりと見て、私は目を逸らした。私はここだよ。馬鹿。

 

夜明けの光を背に受けながら、椛は夜の残滓をじっと見つめていた。残り、僅か数時間。歩哨の交代が近付いていた。退屈から解放されて清々する反面、暗闇の世界が終わる事が惜しくもあるのだ。己が闇と一体となり、影という名の巨大な獣と化す。――思えば今宵も、血に飢えていた。

 

何処にそんな大量の道具を持ち歩いてるのかって? は、河童の技術を舐めるなよ。当然、このリュックの中に詰まっているのさ。――おっと、迂闊に触るなよ。こいつは案外危険な代物なんだ。探し物に≪入った≫同僚が一人、まだ戻ってこない。さて、何処で迷っているんだか……?

 



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