オレンジ~朝焼けの島~ (PlusⅨ)
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第1話・サイボーグの夢

 逢いたい。

 

 そう願った人の顔は、もう思い出せなかった。

 

 ただ、逢いたい、という気持ちだけが人の形をとって、私の目の前に現れていた。

 

 私はそれが誰だか思い出せなかった。

 

 ただ、それがかつて愛した人だったというのはわかった。

 

 愛してる、いつまでも……

 

 そんな言葉を支えに戦ってきて、もう何年が過ぎただろう。

 

 何十年かもしれない。

 

 もう、顔も名前も思い出せない。

 

 ただ覚えているのは、私にも誰かを愛したことがあったという、そんな微かな実感だけだった。

 

 戦場から戦場へ飛び回る輸送機の中、スリープモードで眠る私の意識は、いつもこんな夢を漂っていた。

 

 

 

 

 警報。

 

 

 

 脳に直接響き渡る危険信号。

 

 眠っていた私の意識よりも早く、身体が戦闘モードに移行する。

 

 太平洋上、高度一万メートル。

 

 軍用輸送機内に搭載されていた四十体のサイボーグ兵士たちが一斉に稼働状態に入った。

 

 

――状況知らせ。

 

 

 訓練によって染み付いた反射行動で、私は無意識にそう叫ぶ。

 

 その言葉は、音声として喉から発せられることなく、電気信号となって輸送機のコンピュータに伝達される。

 

 ゼロコンマ一秒よりも早く、コンピュータから返答。

 

 

――敵の対空攻撃、ミサイル接近中、数は四、到達まで残り八秒。

 

 

 報告と同時に、輸送機は右へ急旋回。

 

 私の身体に遠心力による大Gがかかる。私はコンピュータにリンクし、外部カメラの映像をリアルタイムで入手。

 

 後部下方から、四つの火の玉が矢のように向かってくるのが見えた。

 

 輸送機は出力最大で加速、右旋回しながら対ミサイル防御を開始。電波妨害およびチャフとフレアを射出。

 

 輸送機の周囲に、雪のような大量の銀片と、数十発の発火体が散乱した。

 

 旧式のミサイルならこれで回避できる。だが、最新の高度知性型ミサイルだったなら、チャフやフレアといった妨害処置を自律判断で無効化し、どこまでも執拗に目標を追いかけてくる。

 

 この、ミサイルは、どちらか。

 

 一発のミサイルが針路をそれ、あさっての方向へと飛んでいった。しかし残り三発は、電波妨害もチャフもフレアもものともせず、突っ込んでくる。

 

 輸送機は機体の傾きを90度を超えてロールさせ、ほぼ背面飛行で右急降下。その構造限界を超えた角度の急降下に、機体が悲鳴のような音を立ててきしんだ。

 

 ミサイル二発が、輸送機を見失い、先へと飛び抜けていく。

 

 だが、最後の一発が至近距離を通過。

 

 ミサイルに搭載された近接レーダーが、輸送機が被害圏内にいることを捉え、近接信管を作動させる。

 

 そして、ミサイルが自爆した。

 

 爆炎と振動。

 

 外部カメラが作動を停止する。

 

 機体は激しく回転し、さらなる力を増した遠心力が、私たちの身体を輸送用固定装置に押し付ける。

 

 輸送機は数秒間、きりもみ運動に陥ったが、なんとか体勢を立て直した。

 

 いい腕をしたパイロットだ。

 

 そのパイロットが、コンピュータを通じて、私に指示を下す。

 

 

――ミサイル第二波を探知。……左の主翼をやられた。機体を安定させるので手一杯だ、回避はできない。脱出しろ。

 

 

――了解。

 

 

 私は部下に脱出用意を命じる。

 

 パイロットからの指示。

 

 

――ミサイル到達まで五秒、固定装置解除、ハッチ強制開放、幸運を祈る。

 

 

――そちらも。

 

 

 私たちの身体を固定していた装置が一斉に外れると同時に、機体後方の隔壁が小爆発を起こし、脱落した。

 

「時間制御装置、加速起動」

 

 電子命令と同時に、私は思わず声を出していた。

 

 言い終わる前に、私も含め全員の反応速度が飛躍的に上昇していた。

 

 周囲の時間が、急激に遅くなる。

 

 空気のゆらぎが目に見えるほどの世界で、破壊された隔壁の向こう側に、炎を履きながらゆっくりと迫り来る三発のミサイルの姿が見えた。

 

 

――降下開始。

 

 

 扉に近い場所から、部下のサイボーグ兵士たちが次々と空中に飛び出していく。

 

 部下たちは空中に出ると同時に、頭部両脇から伸びるツインウィングを展開し、空中機動を開始。

 

 加速された身体、遅くなった時間の中で、接近するミサイルに近づかないよう、脱出していく。

 

 しかし、三十五体目が、接近していたミサイルのすぐそばに近づいてしまう。

 

 私は思わず舌打ちした。どれだけ加速しようとも、光の速さには勝てない。ミサイルの短距離レーダーがその部下の影を捉え、すかさず自爆信号を発した。

 

 遅くなった時間の中でも、至近距離爆発をかわす術はなかった。

 

 ミサイルが外郭に亀裂を生じさせ、真っ赤な爆煙を風船のように膨らませたかと思うと、粉々になった外郭の破片が散弾となって、間近の部下の身体を引き裂いた。

 

 その後を追うように、爆炎がその姿を飲み込む。

 

 残り二発のミサイルが、輸送機に迫る。

 

 残る部下は四名。そして指揮官は常に最後だ。

 

 私は右手の大型熱線銃を最大出力にセット、最も近いミサイル弾頭部に向けて照準、発射。

 

 極太の大出力熱線が、ミサイルを飲み込む。破片すら残さず、ミサイルが消滅する。

 

 しかし、残る一発を片付けるにはエネルギー残量が足りない。急速充電する時間もない。

 

 だが、遅くなった時間内にいる私たちにとって、ミサイルが到達するまでは、まだ余裕があった。その間に四人の部下が機体の外に飛び出していく。

 

 パイロットに告げる。

 

 

――脱出完了、そちらも脱出しろ。

 

 

――了解。

 

 

 同じく加速状態に入っていたパイロットが、操縦席ごと機体から分離されていく。

 

 その衝撃に、機体が大きく揺れ、失速、バランスを失い落下する。

 

 残るは、私だけ。ミサイルは間近だった。

 

 私は、墜落していく輸送機から身を躍らせた。ミサイルとの距離は、ぎりぎりでミサイルの短距離レーダーの範囲外だ。

 

 しかし、それよりも輸送機そのものにミサイルは接近していた。

 

 ミサイルが赤い火球となって、衝撃波と同時に大量の破片が降り注いできた。

 

 私は頭部のツインウィングを展開、力場を発生させ、破片から遠ざかろうとする。しかし、衝撃波の方が早い。

 

 空気の壁が、全身に激突した。その衝撃に、展開していたツインウィングが破損した。力場が乱れ、思うように加速できない。

 

 続いて、破片が次々と私の身体を打ち抜いていく。

 

 背中のバックパックユニット、右腕の大型熱線銃、左腕の多目的アーム、両足の追加ブースーター、全身を覆う強化装甲、

 

 身に着けていたそれらに次々と穴があいていく。

 

 全身が砕かれていく感触。

 

 

 

 私が最後に目にしたのは、視界全体を覆う、オレンジ色の炎の光だった。

 

 

 

 

 私が戦場で戦い続けて何年になるだろう?

 

 十年?

 

 二十年?

 

 いや、とっくに百年近くが経過しているのかもしれない。

 

 時間の経過は長すぎて、もう麻痺してしまっている。

 

 機械とのハイブリット体なのだから、稼働時間を測るために正確なタイマーが組み込まれているだろうと人は思うかもしれない。

 

 だが、私の体内時計は客観的な時間を刻んではくれない。

 

 加速された身体と意識によって間延びした時間の中で活動する私たちサイボーグ兵士には、人間的な時間感覚など存在しなかった。

 

 永遠にも近い一瞬の戦闘を過ごしたあと、その傷を癒すために一瞬の夢を見ながら悠久の時を過ごす。

 

 覚醒とスリープモードを繰り返しながら戦っているうちに、正確な時間など忘れてしまった。

 

 私自身の記憶についても同じだった。

 

 自分がいつ改造されたのか、もう思い出せない。

 

 自分がかつてどんな人間だったのかも。

 

 名前も、男か女かさえも思い出せない。

 

 ただ、少なくとも子供じゃなかったのは覚えてる。

 

 もう大人だった。

 

 改造された直後、初めて目にした自分の子供のような姿に、ひどく違和感を抱いたから、多分そうだ。

 

 サイボーグ兵士は一見すると子供のような外見をしている。

 

 小柄な背丈、華奢な手足、白い肌、大きな瞳、長い髪。

 

 およそ戦闘兵器に似つかわしくない、その外見は、せいぜい十歳ぐらいの少女にしか見えなかった。

 

 しかし、小柄なのはその周囲に戦闘用外部ユニットを装着し、かつ輸送の際のスペースを抑えるために限界まで小型化したためである。

 

 手足は細長く華奢であるが、外部ユニットとして装着する大馬力モーター内蔵型多目的マニュピレーターや移動支援ユニットを操る分には問題なく、むしろ内部スペースの確保のため、一般的な子供よりもスリムになっている。

 

 白い肌と大きな瞳は、それそのものが高感度センサーであるが故であり、過敏で脆弱なその身体も、厚い装甲を持つ強化服を装着すれば防御力に何の問題もない。

 

 兵士にとって本来は短く刈り込むべき頭髪は、サイボーグ兵士にとってはそれそのものがナノマシンによって構成された超極細ワイヤーセンサーである。

 

 サイボーグ兵士の脳と、それが装着する強化服および外部ユニット、さらにパイロットなら乗り込んでいる機体とのダイレクトリンクを必要とするため、髪は不自然なほど大量で、長く伸ばされている。

 

 いわば、サイボーグ兵士は各種兵器を運用するためのコアユニットとして存在しているのであり、素体の状態ではむしろ生身の人間と同等、いやそれ以下の力しかなかった。

 

 人間を超えていながら、人間以下の力しか持たない、

 

 人間に似ていながら、あらゆる面で非人間的な、

 

 不合理な形にみえて、その実、徹底的に合理化された形態、

 

 それが、サイボーグ兵士だった。

 

 だがサイボーグ兵士の最大の特徴は、その体内に搭載された、とある装置にあった。

 

 サイボーグ兵士の高速運動を可能にする、その装置。

 

 その正式名称は、外部時空遮断体内時間加速減退装置――長ったらしくて呼びづらいので、単純に時間制御装置と呼ばれているものである。

 

 それは時空を遮断し、時間の速度を操る装置。そんなものが、私たちの身体には組み込まれている。

 

 原理はよくわからない。

 

 しかし理屈だけを言えば、この身体が感じている体内時間と、外部の時間を切り離す装置であり、この装置によってサイボーグ兵士は周囲の時間とは関係なく動くことが可能だった。

 

 この体内時間だけを加速させれば、相対的に周囲の時間は遅くなり、逆に体内時間を遅くすれば、周囲の時間は早くなる。

 

 スリープモードの時は、体内時間はほぼ停止しているも同然なので、サイボーグ兵士の身体は劣化することも老化することもない。

 

 さらには体内時間を負の領域にまで押し下げることも可能だ。

 

 つまり過去への逆行。身体が若返る。

 

 これによってサイボーグ兵士は、高エネルギーによってチリひとつ残さず消滅させられない限り、何度でも復元することが可能だった。

 

 ほぼ不死身と言っていい。死んでも蘇る。時間制御装置がある限り。

 

 最強の兵器と、かつては言われた。

 

 かなりの昔の話だ。戦場に投入されてから、一年目ぐらいの話だろう。

 

 戦争の技術革新は早い。すぐに敵も味方も同型のサイボーグ兵士であふれかえった。

 

 本来、消耗品であるはずの兵士が殺しても死ななくなったのだ。物量や動員人数の差は問題にならなくなった。

 

 いつまでも、好きなだけ戦争が続けられる。

 

 死なない戦争。ゲームも同然だ。前線の兵士以外にとっては。

 

 私も、何度も破壊された。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 数え切れないくらいに。

 

 その度に新品同然の身体に時間を巻き戻された。自分の意志ではどうにもならない、一種の安全装置による作用だ。

 

 身体が破壊される前まで巻き戻されるなら、いっそこの意識も巻き戻してくれればいいのに。

 

 けれど、なぜか意識は常に連続し続ける。そういう仕様らしい。

 

 自分の身体の時間が加減速しようとも、逆行しようとも、私という意識は客観的な時間のなかに存在し続ける。

 

 奇妙な話だった。本来最も主観的であるはずの意識が、客観的時間として成立しているのだ。

 

 だから、加速状態になったとしても、意識はそのままだ。身体のみが高速運動する。そため、超高速で動く身体に意識を対応させるために、サイボーグ兵士は生体脳を物理的にも加速状態に置く必要があった。

 

 マイクロコンピュータとナノマシンによるシナプスバースト。

 

 一時的に情報処理能力を増大させられた生体脳によって意識は強制的に加速され、時間制御装置によって加速された時間に置かれた身体に追いつくことができた。

 

 だけどこの処置は、意識に対してあまりに負担が大きすぎるために長時間持続させることはできなかった。

 

 しかし、生体脳自体は時間制御装置の影響内にあるので、物理的損傷をうけても時間逆行によって修復できるはずで……

 

 では意識が感じる負担は何によるものかといえば、おそらく加速状態にある身体とのギャップそのものが圧力となって負荷をかけているのではないかという説があり………

 

 ……つまり、意識は、脳が生み出しているわけじゃないらしい。

 

 意識というのは生体脳の機能とは関係なく独立して存在するらしいということが、サイボーグ兵士の存在によって証明された。

 

 生体脳をシナプスバーストさせることによって意識に影響を与えることはできるが、それは絶対ではない。

 

 意識は物理存在に依存しているのではなく、客観的時間軸の中に存在する別次元の存在、いや、それそのものが、ある種独立した時間軸として存在しており、それゆえ、時間制御装置の影響を受けない。

 

 それはつまり、もしもタイムマシンが実用化されたとして、誰かが過去の事象に干渉して未来を改変したとしても、サイボーグ兵士の意識だけは改変されない。

 

 きっと、サイボーグ兵士は自分の身体も含めて、変貌していく世界を見ることができるだろう………

 

 ………学者は、そんなことを言う。

 

 与太話だ、と私は思う。

 

 サイボーグ兵士によって出番のなくなった生身の人間の、死ぬまでの退屈しのぎに生み出された夢物語。

 

 だいたい、タイムマシンならとっくに存在している。

 

 私たちサイボーグ兵士が、それだ。時間制御装置は一種のタイムマシンと言っていい。

 

 自分の時間を極限まで加速させ続ければ、いずれ周囲の時間が相対的に負の領域にまで落ち込む。そうすれば時間は逆行し、過去へ行けるだろう。

 

 理論上は、そういうことになる。

 

 だけど、誰もやったことがない。

 

 時間が逆行する前に、意識が加速による過負荷に耐え切れないから不可能なのだ、と言う者もいるが、本当の理由はそうじゃない。

 

 本当は、誰もそこまでの加速の仕方を知らないからだ。

 

 私たちサイボーグ兵士はもちろんのこと、整備担当の技術者も、そしてきっと開発者たちでさえ知る者はいないブラックボックス。

 

 なぜならこの時間制御装置は……いや、それを含むサイボーグ技術そのものが、現有科学で開発されたものじゃない、未知のモノだったからだ。

 

 ロストテクノロジー、超古代兵器。

 

 サイボーグ技術の核となるそういう存在が、戦争勃発直前に、どこかの島で発見されたらしい。

 

 こういう情報は、かつては最高機密扱いだったが、今じゃ秘匿すべき情報も技術も、敵味方双方に知れ渡ってしまっている。公然の秘密というやつだった。

 

 タイムマシン。

 

 もしも時間を逆行することができて、その超古代兵器を破壊することができたなら、この終わりのない、うんざりするようなサイボーグ同士の戦争も消え去るだろうか。

 

 バカバカしい、それこそ与太話だった。

 

 時間改変の影響を認識できるはずのサイボーグ兵士が、いまだそれを認識していないというのなら、時間改変そのものが行われないということだ。

 

 まだ行われていない、というロジックは成り立たない。

 

 未来の誰かが時間改変を行うにしても、それが行われるのは過去だ。つまり、現在においては既に行われたということになる。

 

 時間改変が行われるというなら、それがいつ行われるかは問題ではない。行われるという必然性だけが問題だった。

 

 だから、それが行われていないというなら、未来永劫において時間改変など行うものなど存在しないということになる………

 

 ………単なる、言葉遊び。

 

 止まらない思考。

 

 とりとめのない言葉が、いつまでもグルグルと回り続ける。

 

 私は一体、何をやっているんだ?

 

 そう疑問に思った私の目の前には、オレンジ色の光。

 

 あぁ、そうか。

 

 ミサイルの爆発に巻き込まれたんだった。

 

 身体が破壊される寸前の、死の間際に見る走馬灯のようなもの。

 

 走馬灯なら過去の記憶が蘇るものかも知れないけれど、私にはもう思い出せるような過去がない。

 

 それに、どうせ死ねない。

 

 オレンジ色の火球が、私を飲み込もうとする。

 

 その速度が、どんどん遅くなる。

 

 時間制御装置が、回避行動のために体内時間を限界まで加速させているのか。

 

 でも、もうツインウィングもバックパックも破壊され、回避起動を取ることは不可能だ。外部ユニットは体外の装置なので時間制御装置による修復も不可能だった。

 

 体内時間の加速に合わせ、生体脳も私の意識を極限まで駆動させる。

 

 火球の膨張が止まり、そして今度は縮み始めた。

 

 燃焼を終えて火勢が衰えているわけじゃない。その証拠に、周囲の破片が火球に続いて私から離れていく。

 

 縮んでいく火球の周囲に破片が集まり、それはパズルのピースのように組み合わさってミサイルを形成し始めた。

 

 

――時間が逆行していた。

 

 

 復元されたミサイルが、噴射炎を飲み込みながら後退していく。

 

 早い。

 

 逆行の速度が上がっていく。私自身の体内時間の加速が止まらない。

 

 ミサイルが遠ざかり、その後を追って輸送機が逆進する。

 

 私の仲間たちが下から上へと、輸送機の中に戻っていく。

 

 輸送機後部から大出力熱線が放たれ、射線上にもう一発のミサイルが出現する――あれは私が輸送機の中から撃墜したミサイルだ。

 

 だとすれば、あの熱線を放ったのは私のはずだが、しかし私は今もまだ空中にいる。それなのに、あの輸送機には熱線を放った私がいるのか?

 

 わけがわからない。

 

 わかっているのは、私が逆行する周囲の時間から切り離されて存在しているということだけ。

 

 逆行の速度がさらに上がり……それは同時に、私の体内時間がさらに加速したことを示す……ミサイルも輸送機もあっという間に空の彼方に消えていった。

 

 雲が凄まじい勢いで流れ、太陽が西から東へと目まぐるしく周回する。

 

 昼と夜は交じり合い、世界は再びオレンジ色の光に溶け込んでいく。

 

 変わらないのは眼下の景色だけだ。

 

 海と、小さな島。

 

 島は三日月のような形をしていた。

 

 元は円形だったが、大規模な爆発によりクレーターができ、そのため三日月の形になってしまったような島だった。

 

 そう思ったとき、その爆発が、戻ってきた――

 

 

 



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第2話・朝焼けの島

 気づけば、海岸に倒れていた。

 

 規則正しく、定期的に打ち寄せる波の音が聞こえる。

 

 薄く目を開けると、オレンジ色に染まった空が見えた。飛行機雲が一筋、高い空に茜色の線を引いていた。

 

 私は仰向けに倒れていた。

 

 外部ユニットは全て脱落していた。いや、亡失していた、というべきか。

 

 倒れたまま首を巡らして周囲を見渡したけれど、ユニットの一部どころか、破片すら見当たらなかった。

 

 私は素体状態だった。

 

 子供のような小さく細い、頼りない身体を、薄い膜上のスーツで覆っただけの状態。

 

 立ち上がろうとして、ひどい目眩を感じて、倒れ込んだ。

 

 身体がひどく重かった。意思に従って動いてくれない。

 

 頭が痛かった。

 

 目を開けていられず、まぶたを閉じる。

 

 これは、意識が長時間、加速状態に置かれたために生じた副作用だ。

 

 無理やり加速された意識が、まだ正常に戻っていない。だから、既に通常の時間に落ちている身体との整合が取れなくなっている。

 

 体内でセルフモニタリングが始まったのが感じ取れた。身体の各部に損傷はないか、プログラムに異常はないか、自動的にチェックされていく。

 

 身体そのものに損傷はなかった。

 

 けれど、時間制御装置の存在が検出されなかった。

 

 

 

 ……おかしい、明らかに変だ。

 

 

 

 時間制御装置が、異常作動しているとか、動かないとか、そういうレベルじゃない。

 

 時間制御装置そのものが消失している、とセルフモニタリングシステムは、そう言っていた。

 

 私は思わず胸に手を当ててみた。

 

 でも、別に胸にぽっかりと穴があいているとか、そんなことはなかった。いつもどおり、薄っぺらい胸の下で人工心臓が音もなく作動しているだけだ。

 

 だいたい、時間制御装置は胸に搭載されてはいない。

 

 じゃあどこにあるのか――あったのかといえば、正直言ってわからない。知らない。

 

 身体のどこかにあるだろうとは思っていたが、それがどこなのか意識したこともなかった。

 

 そもそも、形あるものなのかさえ知らない。

 

 もしかしたらナノマシンのように小さな機械の集合体で、全身の血流に乗って巡っているのかもしれないし、体内コンピュータのプログラムのひとつなのかもしれない。

 

 物質的存在か、そうでないかさえ知らなかったのだ。存在しないと言われて、初めてその事実に思い至った。

 

 そう思いながら再び目を開ける。

 

 空には変わらない茜色の飛行機雲。……私はまた、おかしいと感じる。

 

 あの飛行機雲は、なぜ消えないんだ。

 

 さっきから一向に乱れもせず、本当に空に線を引いたかのように固定され、そこにあり続けている。

 

 重い身体をよじって、海に目を向けると、水平線に半分だけ姿を覗かせた、赤く巨大な太陽の姿があった。

 

 夕陽か、朝陽か。

 

 私の体内にあるジャイロコンパスが、この方角が東であることを示す。

 

 つまり、朝陽だ。

 

 私はしばらく、その朝陽をじっと眺め続けていたが、太陽は水平線に半分姿を埋めたまま、一向に昇ろうとはしなかった。

 

 静止した景色、まるで絵画のようだ。

 

 だけど、打ち寄せる波は定期的なリズムを刻んでいて、相対的に遅い時間内に居るようには見えない。

 

 一体どうなっているんだ?

 

 その疑問が、さらなる負荷となって私の意識を苛む。

 

 苦しい。

 

 生体脳が危険信号を発している。エネルギー不足だ。加速したままの意識が逆に生体脳を加速駆動させ、そのせいで脳が必要とするグルコースが欠乏しかけている。このまま脳が糖分不足で機能停止してしまえば、意識への過負荷が膨大となり、意識はそれに耐えきれず消失してしまうだろう。

 

 不死身のサイボーグだから、生体脳は再び蘇るはずだが、消失した意識は戻ることは無いだろう。つまり、私という存在の死だ。

 

 生体脳用のグルコース補充用の予備パックが外部ユニットに搭載してあるのだけれど、その肝心の外部ユニットは亡失してしまった。

 

……ダメだ、苦しい。死にそうだ。そう思い、ゾッとした。

 

 今まで、どうせ死なないとタカをくくってきた。だから、いい加減に死なないものかと嘯いたりもした。

 

 だけど、リアルな死の危険を前にして、そんなメッキはあっさりと剥がれ落ちた。

 

 苦しい。

 

 頼む、

 

 誰か助けてくれ……

 

 誰か……

 

 

 

 

 

 フッと、私の上に影がさした。

 

 

 

 

 いつの間に現れたのか、私のそばに膝をつき、見下ろす影がある。

 

 子供だ。少女。

 

 小柄な身体に、細く長い手足。

 

 白いワンピースは朝陽に染まっていて、私を見下ろすその顔は、光の当たる側に長い髪が垂れ下がってしまっていて、影の中にあった。

 

 少女の手が、私に向かっておそるおそる伸ばされ、額をゆっくりと撫でた。

 

 心配してくれるのか。

 

「グルコースを……補充パックを……」

 

 私が発した言葉に、少女は首をかしげた。

 

 それで朝陽のあたる角度が変わり、少女の顔が露わになった。

 

 透けるように白い肌と、大きな瞳。

 

 形は良いけれど低い鼻梁と、控えめな唇。

 

 そして細い顎。

 

 まるで人形のようなその顔に、ひどく見覚えがあった。

 

 当然だ、それは私と同じ顔だったからだ。

 

 そう、サイボーグ兵士共通の、その顔。

 

「頼む……補充パックを分けて……」

 

 私は必死にそう訴えたけれど、少女は――いや、少女の姿をしたそいつは、困ったように眉をひそめただけだった。

 

 言葉が通じないのか。

 

 それとも、私の声が判別不可能なくらい不明瞭なのか。

 

 どちらにしろ、このままでは私の意思が伝わらない。

 

 少女は……いや、サイボーグ兵士だ……苦しむ私にどう対応していいかわからずに、オロオロとしながら、せめてもといった様子で、私をなで続けていた。

 

 ……その仕草は兵士としてのそれじゃなく、少女だ。

 

 素人で、子供。

 

 兵士であり兵器でもあるサイボーグに、そんな個性を持ったものがいるはずもないけれど、過負荷に苦しむ私の意識は、そんな彼女の正体を探ることを放棄していた。

 

 わかっているのは、彼女がサイボーグで、言葉が通じなくて、けれど私のことを心配してくれているということだ。

 

 溺れる者は藁をもすがる。

 

 まさしく藁を掴む気分で、私は彼女の長い髪に手を伸ばした。

 

「――ひゃっ!?」

 

 私の手が髪を軽く包んだ瞬間、少女は電撃に打たれたように身をのけぞらし、飛び上がるようにして立ち上がった。

 

 力を抜いていた私の手から、少女の髪がするりと離れる。

 

 残された私の手の内には、自分自身の長髪の先端があった。この髪の毛は外部ユニット接続用の超極細ワイヤーセンサーだ。

 

 私の手の内で触れ合ったお互いのセンサーによって、一瞬にして情報が交換され、少女はそれに驚いたらしい。

 

 私の突然の行動に驚いたこともあるけれど、それ以前に、彼女は情報の直接通信自体が初めてだった。

 

 今の情報通信で、それがわかった。少女の通信ログは全くの白紙だった。使用されたことがないのだ。

 

 その上、搭載されている言語ライブラリは、まったく未知の言語だった。

 

 もしも彼女がサイボーグではなく、完全な機械知性体であったとしたら、コミュニケーション自体が不可能だっただろう。

 

 けれど幸い、私と彼女の生体脳の構造は同じだった。言葉は伝わらずとも、私の感情は伝わったはずだ。

 

 苦しい、

 

 助けてくれ、

 

 グルコース……甘いものが、欲しい。

 

 少女が私から離れ、どこかへと一目散に走り去ってしまう。

 

 思いが通じて助けを呼びにいてくれたのか……それとも、怯えて逃げ去ったのか。

 

 後者の可能性の方が高いのかもしれない。

 

 しまった、と後悔したけれど、もう遅い。

 

 絶望的な状況の中で、私は意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨散霧消しかけた意識が、何かの力によって再び一つにまとめ上げられた。

 

 その力が、私の唇と喉を刺激する。

 

 口を塞がれていた。

 

 同時に、口腔内に液体が流れ込んでくる。

 

 呼吸器官が塞がれているために、その液体を反射的に飲み込んでしまう。

 

 水だった。

 

 唇の拘束が解け、私は大きく息をついた。

 

 目を見開くと、目の前にあの少女の安堵した表情があった。

 

 仰向けの私に、覆いかぶさるような格好だった。

 

 彼女は身を起こして、水の入ったカップを私に差し出す。

 

 私はそれを受け取ろうとしたけれど、手を動かそうとしただけで、また意識が遠のきかけた。

 

 少女は差し出したカップを自分の口に運び、そして再び私に覆いかぶさる。

 

 口移しで飲まされた水が、かろうじて私の意識をつなぎとめた。

 

 彼女はカップを脇に置き、そして、そばにあった小さな赤い実を手にした。

 

 赤い実を口に含み、二~三度噛み潰す。

 

 口移しで飲まされたそれは、とろりと、甘い。

 

 消化器官へと送られたそれは、速やかに分解され、必要な栄養素を生体脳へと運んだ。

 

 四つ目の実を消化し終えたころ、私は、身体を起こせるほどに回復した。

 

 

 

 

 

 

 

『あなたはだぁれ?』

 

 少女の手元にある三十センチ四方の板状の機械から、舌足らずの声でたどたどしい問いかけが発せられた。

 

 音声発生プログラムが組み込まれた、可搬式情報処理装置らしい。

 

 私が彼女に名前を聞いたとき、彼女はしばらく迷った末に、またどこかへと走り去って、そしてこの装置を持ってきたのだった。

 

 彼女はその装置の表面に自分の髪の先端を触れさせ、音声発声プログラムを介してこう言った。

 

『こんにちわぁ、ハツネミクです♪』

 

「……ハツネミク?」

 

 私が彼女を指差し、聞き返すと、彼女は「あれ?」という顔をして、手元の装置を覗き込んだ。

 

 装置が、歌うように言った。

 

『ハツネミクです♪』

 

 彼女は慌てて首を横に振った。

 

 違う、そんな名前じゃない。と、言いたいのだろうか。

 

 彼女は装置を横に置いて、自分を指差し、口を開いた。

 

「wsvbnvgth」

 

 彼女に触れた時に感じた、未知の言語だった。

 

 多分、自分の名を言っているのだろうけれど、何度聞いても発音できそうにない、複雑な音だった。

 

 彼女は諦めたような表情で、再び装置を手にした。

 

『ミクだよ~』

 

 能天気で明るい声がそう名乗る。

 

 ふてくされたような彼女の表情とは、ひどく対照的だった。

 

『あなたはだぁれ?』

 

 装置にそう言わせて、彼女はそれを私に差し出す。

 

 私はそれを受け取り、自分の髪の先端を触れさせた。

 

 装置に入っていたプログラムは、複数の言語ライブラリを搭載した、翻訳装置の一種だった。

 

 彼女に対応した、私にとっては未知の言語ライブラリも登録されていた。

 

 とりあえず「だれ?」と訊かれたのだから、名乗るのが礼儀だろうけれど、言葉での入力機能が無い。

 

 これは、ある言語の単語を、同じ意味を持つ別の言語の単語に翻訳するものではなかった。

 

 どうやら、この装置は、使用者の言語ではなく、感情を読み取る装置らしい。

 

 つまり感情だけで名乗れというのか。なかなか難しい条件だった。

 

「私は―――だ」

 

 とりあえず装置にアクセスしたまま、口に出して言ってみる。

 

 ほとんど同時に装置も言葉を発した。

 

『aefハツネミクwm』

 

 意味不明の音の羅列の中に、ハツネミクという単語だけははっきりと識別できた。

 

 なるほど、そういうことか。

 

 目の前でクスクスと笑い出した彼女を見ながら、私は納得する。

 

 このプログラムには、固有名詞は<ハツネミク>しか登録されていないのだ。

 

 感情に一番近い言葉を選択するというアバウトな性質上、どんな名前であろうとも<ハツネミク>としか翻訳されないのだろう。

 

 名乗るという行為を言語に翻訳しているのだから、これはいわば、気持ちを代弁する装置といってもいい。

 

 随分とアバウトな装置だが、その気になれば言語を持たないモノに対する翻訳も可能だろう。例えば、犬とか、猫とか。

 

 彼女が、私が持ったままの装置に髪で触れた。

 

『私はミク。あなたもミク。同じだね。変だね。楽しいね』

 

 彼女、ミクは、クスクスと笑った。

 

 表情が豊かだ。

 

 表情筋の動かし方さえ忘れたサイボーグ兵士とは、違う。

 

 彼女は一体何者だろう?

 

 と、訊いたところで彼女にも答えられないだろうから、やめた。

 

 感情表現だけで自分が何者かなんて、答えられるはずがない。名前だけならお互いの発音を覚えればなんとかなるが、それ以上の説明は不可能だ。

 

 だから、私は別の質問をしてみた。

 

「これは、どこから持ってきた?」

 

 私の質問を、装置が(おそらくかなりアバウトに)翻訳し、彼女に伝える。

 

 ミクが答えた。

 

『これ、拾ったの。あっちにいっぱい落ちてるよ』

 

 落ちてた?

 

 私が首をひねると、彼女は装置を持って立ち上がり、空いた方の手で、私の手を取った。

 

 彼女に手を引かれて連れていかれたのは、浜辺から陸地へと五分ほど奥へと進んだ場所だった。私が最初に倒れていた場所からは、地形上、影になって見えていなかったが、そんなに離れているわけでもない。

 

 そこに、大量の機械類が散乱していた。

 

 大半が、一見しても何がなんだかわからない機械部品だらけだった。そんなものが、野原のような開けた場所を埋めつくすように散らばっている。

 

 その機器類に混じって、ところどころに車両らしきフレームが、オブジェのように転がっていた。

 

 ガラクタの廃棄場のようにも見えたけれど、少し違うらしい。

 

 私の髪センサーが、散乱する機器類の中で電気信号が走っているのを感知する。恐らく太陽光か、もしくは温度差を利用した自己発電機能が組み込まれているのだろう。

 

 ここにある機器類は、みんな生きていた。

 

 ここの機器類の電気信号は、それぞれデタラメに、ランダムに発せられていたが、

 

『あなたとお話したいと思ったら、この子たちが教えてくれたの』

 

――教えてくれた?

 

 私が目で問うと、彼女はコクリと頷いて、そして自ら電気信号を発し始めた。

 

 彼女の長い髪が、静電気を孕んでわずかに広がる。

 

 周囲の機器類が、それに一斉に反応した。彼女の信号に同調して、同じパターンを繰り返し始める。

 

 それはまるで、彼女を中心に、水面に波紋が立ったようだった。

 

 その波紋が周囲へ同心円状に広がったかと思うと、今度はすぐに収縮し始める。

 

 その波紋はやがて、彼女が持つ装置へと収束した。

 

 今のが、“教えてくれた”という意味だろうか。

 

 彼女が、言う。

 

『あなたが“甘いもの食べたい”って言った時も、この子たちが教えてくれた』

 

 彼女がまた信号を出す。

 

 私には先ほどの信号と区別がつかなかったけれど、散らばる機器類はさっきとは違う反応を見せた。

 

 信号の波は広がり、今度は別の方向へと収縮し始める。

 

『あっち』

 

 信号が収縮する方向へ、彼女に手を引かれて歩き出す。

 

 野原が終わり、今度は背の低い木々が生い茂る林に入った。

 

 機器類はそこかしこに散乱していた。

 

 信号の収縮の終着点は、その林の中の、一本の木の根元に落ちている一枚の基盤だった。

 

 その木を見上げてみると、ちょうど手を伸ばせば届く高さに、赤く小さな実が鈴なりになっていた。

 

 彼女と二人で、ひとつずつ食べる。

 

 さっき食べさせてもらった、あの実だった。

 

 彼女に手を引かれ、散策を続ける。

 

 それで、ここが島だということがわかった。

 

 半径2キロほどの円形の、小さな島。

 

 島の東側には、私が倒れていた砂浜が広がり、そこから島中央に向かって野原、そして緩やかな小高い丘陵となっている。

 

 丘陵には背の低い雑木林が生い茂っていて、そこを抜けると、西側の海岸に出た。

 

 西側は砂浜じゃなく、岩肌がむき出しの切り立った海岸だった。

 

 機器類は、そこにも転がっていた。

 

 岩や崖っぷちだけじゃなく、ときおり海からも信号を感じたから、たぶん海底にも散らばっているんだろう。

 

 西の海岸沿いに南へ下っていくと、突然、舗装道路に出た。

 

 コンクリート舗装された一車線の道路。海沿いを巡るようにゆるくカーブしている。多分、島でいくつか見かけた車両用の道路だろう。

 

 けれど、道路は南側の一部しか残っていないようだった。

 

 私たちは、南側の突端を取り巻くように西から東へと伸びる道路を進むと、それは不意にぷっつりと途切れた。

 

 海に張り出した道路は崩れ落ちていて、その先は、波が繰り返し打ち付ける海の景色。

 

 途切れた道路の端に立って、さてこれからどうしようかと思ったところで、隣にいた彼女の長い髪が、また静電気を孕んで膨らんだ。

 

 相変わらず周りに散らばっていた機器類が、彼女の信号に応える。

 

『こっちにも、道があるって』

 

 彼女がそう言って、道路脇の斜面を指差す。

 

 茂みに隠れるように、細い一本の石段があった。

 

 丘陵の上に向かって緩やかに伸びていくその石段を登ると、そこには色あせた朱色の鳥居と、風化して表面が滑らかになってしまった二匹の狛犬像があった。

 

 どうやら神社らしい。

 

 だけど、肝心の社は残っておらず、雑草の生えた空き地だけが広がっていた。

 

――ここは日本領なのか?

 

 装置を介して彼女にそう訊いてみたけれど、うまく伝わらなかったようだ。“日本”という固有名詞が、この装置では翻訳不可能だったからだろう。

 

 だから、別の質問をしてみた。

 

――ここはどこなんだ?

 

『ここは、島で、丘の上だよ』

 

 そんなものは、見ればわかる。と言いたくなるような返答だったけれど、そう答えた彼女自身、困ったような表情を浮かべていた。

 

 きっと、他に答えようがなかったのだろう。固有名詞が伝わらないこの装置で、感情だけで状況を説明するというのは難しい。どうやら私は、答えようのない質問をしてしまったようだった。

 

 だけど、彼女が返答に窮したのにはもうひとつ理由があったことを、私は知った。

 

『私も、ここのことわからない。目が覚めたら、ここにいた。あちこち歩いてたら、あなたを見つけた』

 

――じゃあ、君はどこから来たんだ?

 

『知らない』

 

 明確な答えだった。彼女は本当に、自分がどこから来たのか知らないのだろう。

 

 そして、それは……

 

『あなたは、どこから来たの?』

 

 ……私も同じだった。

 

 きっと、言葉が通じていたとしても、どう答えていいかわからないだろう。

 

――知らない。

 

 私がそう答えると、彼女は、

 

『私たち、同じだね』

 

 そう言って、笑った。

 

 私たちのいる場所はちょうど丘陵の頂上あたりだった。景色が開けていて、そこから島をほぼ一望することができる。

 

 丘陵は私たちのいる南側を頂点として、北へ緩やかに傾斜していた。

 

 その彼方、北側の端近くのなだらかになった場所に、十字架を立てた三角屋根の建物が見えた。

 

 教会、なのだろうか。

 

 傍らの彼女が、私の視線に気づいて、

 

『行こうよ』

 

 そう言って、私の手を引いた。

 

 丘陵をくだり、島の東側に広がる砂浜を、北に向かって歩く。

 

『変わらないね』

 

 彼女が、水平線に半分だけ姿を覗かせたまま動かない太陽を見て、つぶやいた。

 

――変わるの?

 

 と、私は問う。

 

 彼女は頷いた。

 

『私が目を覚まして、島をウロウロしていた時は、ちゃんと夜になった。朝になって、あなたを見つけてから、変わらなくなった』

 

 どうやら太陽が昇らなくなった原因は、私にあるらしい。いや、私に搭載されていた時間制御装置が原因と言うべきだろうか。

 

 私の内部からその存在が消えたことが、なにか関係しているのかもしれない。

 

 頭上を見上げれば、赤い空にくっきりと残る飛行機雲。

 

 視線を水平線に落とすと、朝陽は相変わらずオレンジ色の光を横から投げかけ、砂浜に二人分の長い影を伸ばしている。

 

 その朝陽から左側へ少し離れた空に、黒いシミのような点が、ぽつんと浮いているのに気がついた。

 

 はじめは鳥か飛行機かなにかだと思ったが、目をこらしてみても、太陽に近すぎて完全に逆光になり、黒い影としか見えなかった。

 

 こちらもその浮いている位置からピクリとも動かない。

 

 なぜだろう?

 

 その疑問をずっと抱いて海を見ながら、砂浜を歩いていた私は、不意に、ある事実に気がついて足を停めた。

 

『どうしたの?』と、彼女。

 

――無い。と、私。

 

 確か、私は最初、このあたりの砂浜に倒れていたはずだった。それなのに、その痕跡がどこにも見当たらない。

 

 私を介抱してくれた彼女の足跡もなかった。

 

 木の実や、装置を取りに行くのに何度もこのあたりを往復していたのにも関わらず、だ。

 

 私は、背後を振り返って、いま歩いてきた方向を見た。

 

 砂浜には、私と彼女の、二人分の足跡がはっきりと残っている。

 

 けれど、しばらく眺めているうちに、不可解な現象が起きた。

 

 その足跡が、遠くの方からひとつひとつ、砂に埋もれるように消え始めたのだ。

 

『びっくり』

 

 彼女が目を丸くし、手元の装置がその感情をそのまま言葉に表した。

 

 私はあることを確かめるために、彼女と手をつないだまま、波打ち際へと向かった。

 

 砂浜には波が、定期的に、リズミカルに打ち寄せている。

 

 私は、波打ち際ギリギリまで近づき、そこに指で一本の線を引いた。

 

 波が一旦引き、そしてまた打ち寄せてくる。

 

 波は、線ギリギリで止まり、引いていった。

 

 そして再び波が来る。

 

 その波も、やはり線ギリギリで止まった。

 

 波はまるで測ったかのように、同じタイミングで打ち寄せ、同じ場所で止まり、同じ速度で引いていった。

 

 それを数度繰り返すうちに、砂浜に引いた線は、波に一度も触れていないのに、足跡と同じようにひとりでに消えていった。

 

『変なの~』

 

 彼女が首をひねる。

 

――ふるえてるんだ。

 

 と、私。

 

 時間が震えているのだ。

 

 ほんの僅かに時間が進んでは、また過去に戻っている。

 

 要するに時間が停止しているのと、ほとんど変わらないということだ。

 

 けれど、

 

『どうして、ふるえてるの?』

 

――わからない。

 

 結局、何が何だかさっぱりだった。

 

 ミサイル爆発の中で時間逆行を引き起こし、そして時間停止。

 

 はっきり言って、自分が今、どこにいて、どの時間にいるのかさえ、わからない。

 

 だけど……

 

 私は、傍らにいる彼女を見た。

 

 彼女は、

 

『へんなの~、へんなの~』

 

 と、歌うように呟きながら、波打ち際に線をひいては、それがひとりでに消えるのを眺めていた。

 

 彼女はこの止まった時間内でも、通常と同じように動いていられる。

 

 私のように、だ。

 

 ということは、やはり彼女も時間制御装置を持っているのだろう。

 

 しかもそれは、私の時間とも同期しているということだ。

 

 それが一体どうして起きたのか、彼女の時間制御装置を調べてみれば、わかるかもしれない。

 

 私は、

 

「ミク」

 

 と、彼女を呼んだ。

 

 こっちを向いた彼女に、私は自分の長髪の先端を持って示してみせる。

 

 彼女は少し首をかしげていたが、やがて、それが意味するところに気がついた。

 

『やだっ!?』

 

 彼女は自分の髪を、両手で左右に束ね持って、慌てて私から離れた。

 

 彼女の足元に、装置が落ちる。

 

 私は装置を拾い上げ、

 

――どうして?

 

 と、訊いた。

 

 彼女はおずおずと髪の一本を装置に触れさせ、こう答えた。

 

『それくっつけるの、ちょっと……ハズカシイ』

 

 彼女の顔が、朝陽の中でもそれとわかるくらい、真っ赤に染まっていた。

 

 私は彼女の反応の理由が、よくわからなかった。

 

 電子通信の、何がそんなに恥ずかしいのだろう。所詮、ただのデータのやりとりに過ぎない。

 

 別に、裸で触れ合おうと言っているわけでもないのに……そこまで思って、ふと、裸で触れ合うなんてイメージをよく思いついたものだ、と自分でも驚いた。

 

 裸になる、ということを意識したのも久しぶりだ。

 

 サイボーグ兵士に改造されてからというもの、自分の身体でさえ道具扱いしていたから、羞恥心という概念そのものを忘れかけていた。

 

 じゃあ、それを覚えている彼女は、やっぱり兵士ではないのだろう。

 

 私はそう思い、そのことに不思議と納得と安心を感じた。

 

 彼女が、人間ではないにしろ、少女であるということに、好ましさを感じていた。

 

 だから私は、直接通信を諦めた。

 

――ごめんね。

 

 私はそう言って、装置を彼女の足元に置いて、そして後ずさって少し離れた。

 

 彼女が髪から手を離し、装置を拾い上げる。

 

『私も、ゴメン。でも、ハズカシかったの』

 

 まだ顔を赤らめながら、それでも彼女は、私に片手を差し出した。

 

 私は、その手を取った。

 

『行こ?』

 

 彼女の言葉に、私は頷く。

 

 そのとき私は、自分がほほ笑みを浮かべていることに気がついた。

 

 それは記憶にある限り、数十年ぶりの笑みだった。

 

 

 島の北側になると、丘陵はもう終わり、そこはほとんど平野のようになっていた。

 

 その教会は、草生した平野部と砂浜の境目の部分に建っていた。

 

 教会はかなり古ぼけていて、色あせたステンドグラスがはめ込まれた窓、空に尖る三角屋根の天辺には今にも朽ちそうな白い十字架、そして壁一面には大量の蔦が這い回っていた。

 

 外見は確かに教会だった。けれど、内部に脚を踏み入れてみると、そこは私の知っている教会とはかなり違っていた。

 

 入るとすぐに待合室のような空間があり、そして、その先には、あるはずの壁がなく、砂浜とオレンジ色の海景色が果てしなく広がっている。

 さらには、教会から出たすぐそこに横たわる二本の鉄のレール。それは線路だった。

 

 そう、ここは教会の形をした駅なんだと、私は気づいた。

 

 赤錆た線路はこの教会駅を起点として、海沿いに島の西側へと伸びていた。私たちが島の西側を、中程から南下したときは線路を見かけなかったから、恐らく南側にあった道路と同じく途中で切れてしまっているんだろう。

 

 しかし、あの道路にしろ、この線路にしろ、いったい何の用途に使われていたんだろう? 私は、駅のホームで線路の先を眺めながら、そのことに思いを馳せる。

 

 その間に、彼女は、

 

『たんけん♪ たんけん♪』

 

 と、装置に呟かせながら、駅の中をウロウロしていた。

 

『ねぇねぇ、みてみて~』

 

 彼女に呼ばれ、駅の中に戻る。

 

 彼女は、駅の一画を見上げていた。

 

『これ』

 

 と、指さされた先にあったのは、壁にかけられた、一枚の大きな世界地図だった。

 

 北を上とした太平洋中心の見慣れた形式で、日本列島から南下した位置に、小さく赤い点が打たれている。

 

 この赤い点は、この島の位置だろうか。小笠原諸島にも近い位置だけど、こんな場所に島があったなんて記憶はない。

 

 だけど、もしこの地図が本物なのだとしたら、なんとかならない距離じゃない。うまくすれば、なんとか――

 

 

『――帰りたい』

 

 

 不意に、彼女の手元で装置がつぶやいた。

 

 私は、驚いて彼女を見る。

 

 彼女も、びっくりしたように手元の装置を見ていた。

 

 彼女は私の視線に気づき、首を横に振った。今の言葉は、彼女のものじゃ無い、ということなんだろう。

 

 じゃあ、誰の言葉だったのか、といえば……

 

 ……やっぱり、私なのか。

 

 私は、自分の髪が、いつの間にか静電気を孕んでわずかに広がっているのを自覚した。無意識のうちに、電気信号を発していた。それも、装置に触れてもいないのに作動させてしまうほど、強い信号を。

 

『帰りたいの?』

 

 と、彼女が問う。

 

 私は頷いた。

 

『どうして?』

 

 任務中だからだ。私は兵士だ。帰還して、報告する義務が――

 

 

『――逢いたい人がいるから』

 

 

 装置が、勝手に答えた。

 

 とても切なく、寂しそうに。

 

 あの人に、逢いたい。と、装置が泣いた。

 

 そう、泣いていた。

 

 装置から漏れ出る言葉は、彼女の使う道の言語だったのに……

 

 ……私にもすぐに理解できてしまうくらい、感情がこもっていた。

 

 彼女がそばによってきて、私の頬に触れた。その細い指先が、こぼれた涙を拭う。そのとき初めて、私は泣いていたんだと自覚した。

 

 なんで、どうして……

 

 訳もわからないまま、胸が苦しくなる。

 

 苦しく切ない想いが、静電気となって私の髪を膨らませ、パチパチと音を立てて爆ぜた。

 

 装置が、ひどく物哀しいメロディを奏でだした。言葉のようで、言葉じゃない、哀しい歌。

 

 あぁ、そうか。

 

 私はようやくこの装置がなんなのかを理解した。

 

 これは、歌うためのものだったんだ。

 

 言葉にならない想いを、歌として表現する装置。

 

 その装置が、私の抑えきれない想いを受け止めて、泣いている。

 逢いたい、帰りたいと、鳴いている。

 

 もう顔も名前も覚えていないけれど、かつて確かに誰かを愛していたあの頃に帰りたいと、その気持ちが歌になって溢れ出していた。

 

 気がつけば、私は彼女に抱きしめられていた。

 

 その胸の中で、私は、何十年かぶりに泣いた。

 

 



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第3話・ふたり

『ねえねえ、これ使える~?』

 

 彼女がそう言いながら、拾った木の枝を私に向かって振ってみせる。

 

 私は苦笑して、首を横に振った。

 

『ちぇーっ』

 

 頬をふくらませて、枝を投げ捨てる彼女。

 

 私は彼女のそばに寄り、投げ捨てられた小枝の近くにあった車両フレームの廃材に手をかけた。

 

 長さ3mほどのパイプだ。質感は金属なのに、恐ろしく軽い。

 

 これなら、イカダの材料にうってつけだろう。

 

『これにするの?』

 

 私は頷く。

 

『手伝うね』

 

 二人で、パイプの端と端をもって歩く。

 

 海沿いの赤錆た線路を、私が前、彼女が後ろで、

 

『がった~ん、ごっと~ん♪』

 

 電車を真似て、装置が歌う。

 

 教会駅前には、すでに同じような長さのパイプや、木の枝がいくつも集めてある。

 

『いっぱい集まったね~』

 

 私は頷く。

 

『これでオシマイ?』

 

 私は首を横に振る。

 

 海を渡るイカダを作るには、まだまだ材料が足りない。

 

『じゃあ、れっつご~』

 

 こうやって、私は今日も島をめぐる。

 

 

 

 

 

 今日、という概念はどうやって説明すればいいだろう?

 

 時間が止まった世界で、太陽さえも動かないオレンジ色の景色でも、それでも、私の中で一日という時間は過ぎていた。

 

 彼女とともに島を歩き、材料集めに疲れたら、雑木林に実る果実をとって食べながら休む。

 

 装置を使って彼女と語らい、そして、装置を使って様々な感情を歌わせる。

 

 彼女と一歩、歩くたび、

 

 彼女と一言、交わすたび、

 

 彼女と、歌を、歌うたび、

 

 私の中で、時が刻まれていくのを実感する。

 

 時間制御装置を失った私だけど、私の時間は、そんなものに左右されるものなんかじゃなかった。

 

 それが、わかった。

 

 

 

 

 

 日に日に、教会駅前に積み上がっていくイカダの材料が、満足行くくらい集まった頃。

 

 私は、彼女とともに浜辺に座っていた。

 

 二人のあいだには、雑木林で採れた様々な果実。

 

 雑木林には大量の果実があって、その種類が何かはさっぱりわからなかったけれど、私たちにとって有益なものかどうかは、例の散乱する機器類が教えてくれた。

 

 私はリンゴにも似た果実を一つ取り上げ、それを口元に持っていく。

 

 右手の果実を、左手で指差し、次に自分の口元を指して、ゆっくりと、

 

「食・べ・る」

 

 と、言って果実を一口かじった。

 

 それを見て、彼女も果実を手に取り、

 

「ta・bu・ly」

 

 シャクリ、とかじり、数回かんで飲み込む。

 

 そして、私がさっきやったようのと同じように、彼女は手元の果実と口元を交互に指さして、

 

「sxcfgty」

 

 と、言った。

 

 彼女の言葉で、食べる、という意味だった。

 

 私はデータログに記憶した音を必死に真似て、同じように発音してみる。

 

「せくすくーてぃ」

 

『ちがう~』

 

 装置からのダメだし。

 

 彼女はもう一度、ゆっくりと同じ言葉を繰り返す。

 

 私はそれを、何度も、何度も繰り返す。

 

『う~、惜しいっ』

 

 私の発音では、なかなか彼女の言語を正確に発することができなかった。

 

 彼女の言語というのは、どうやら声調言語の一種らしかった。

 

 声調言語とは、テキスト上では同じ言葉が、音の強弱や高低などのわずかな発音の変化で、言葉の意味がまるで異なってしまうという言語だ。

 

 しかも彼女の言語の場合、その変化というのが、かなり繊細で、しかも複雑なのだ。

 

 私の音感センサーを最大にして、会得した音をマスタリングして数値化してみて、そこでようやく違いがわかるといった程度の変化でも、彼女にとってはまったく違う意味の言葉になってしまうらしい。

 

 それでもサイボーグの性能をフルに発揮すれば、その違いを知覚できるので、私は少しずつ、彼女の言葉を覚えていった。

 

 だけど、私がどうしても発音できない言葉があった。

 

 それは、彼女の本当の名前だった。これだけは未だに、正確に発音できないでいる。なんど発音してみても、彼女にはどうしても違う意味の言葉に聴こえてしまうらしい。

 

 彼女の名前にチャレンジしたとき、最初は苦笑していた彼女だったけれど、私が試行錯誤しながら発音を繰り返していた、何度目かの時――

 

「――ひゃっ!?」

 

 彼女は上ずった声をあげて、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。

 

『それ……すごいハズカシイ……』

 

 装置の声までも、もじもじしていた。

 

 いったい私はどんな意味の言葉を言ってしまったのだろう?

 

 知りたくもあり、同時に怖くもあった。

 

 その後も何度か練習してみたが、数回に一度は彼女を赤面させてしまったので、それ以来、彼女の名前に関しては呼ぶのを封印してしまっている状態だった。

 

 おかげで今も、彼女のことは、

 

「ミク」

 

 と呼んでいる。

 

 彼女もそれで気にしていないらしい。むしろホッとしている様子さえある。

 

 すこし、悔しい。

 

 

 

 筏の材料集めも、彼女との言語講座にも飽きたら、そしたら私たちはまた島を散歩して時間を潰す。

 

 丘陵の神社跡の麓で、長い石の階段を前にして、彼女がニヤっと笑う。

 

「Jan―ken si yo!」

 

 手をぐーちょきぱーさせながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる彼女に向かって、私も手を差し出す。

 

「じゃーんけーん……」

 

「Pon!」

 

 彼女がぐーで、私がちょきで、彼女の勝ち。

 

 装置がファンファーレのような軽やかな明るいメロディを奏でる。

 

 ぐぅ~るぃ~りょ~、と彼女は歌いながら、階段を三つ上がった。本当は「ぐ・り・こ」と言いたいのだろうけど、少し舌足らずみたいな発音になってしまう。

 

「ja-n ke~n……」

 

「ぽん。……あいこで」

 

「syo!」

 

 彼女がぱーで、私がちょきで、私の勝ち。

 

 装置から悔しそうなメロディ。

 

「ち、よ、こ、れ、い、と」

 

 一気に六段登って、彼女を追い越す。

 

「ju ryu i~!」

 

 ずるいと言われようがなんだろうが、悔しければ、ちょきかぱーで勝てばいい。勝ち誇ったように見下してやると、彼女は下から装置をぶーぶーと鳴らす。

 

 じゃんけん、じゃんけん、

 

 じゃんけんぽん。

 

 あいこで、しょ。

 

 私が勝って、また差が開く。

 

「waaaaan oite ika nai deeee」

 

 うわーん、と目元を抑えて泣き出す彼女。

 

 見た目は寂しそうで、可哀想になるけれど、でも、その手元の装置からは一際不満そうなぶーぶー音が流れ出している。

 

「嘘泣き」

 

 と指摘してやると、彼女は顔を上げて“ばれたか”。そんな表情で、舌をぺろりと出した。

 

 遊びながら時間をかけて、頂上の鳥居をくぐる。

 

 見晴らしのいい社跡から、

 

 島を眺める。

 

 海を眺める。

 

 空を眺める。

 

 いつもと同じ、静かな景色。

 

 いつもと同じ、オレンジ色の景色。

 

 変わることのない時間だけれども、不思議と、飽きることがなかった。

 

 朝焼けから発せられるオレンジは、東の水平線から西にむかって細やかなグラデーションを描いていき、最果ての空にまだ残るわずかな夜の中には、陽の光に溶けそうな星が幽かに輝く。

 

 朝焼けに照らされている島の景色は、思っている以上に色彩豊かで、光に輝く木々の緑と、西側に透ける木漏れ日の格子模様の影の薄暗さにも、緑の濃淡が映え、たとえ時間が止まっていても、私たちの見る角度でその姿は様々な表情を見せてくれた。

 

 島のあちらこちらで、きらり、きらりと光るのは、散乱する機器類たちだ。過充電された電力を、時折ああやって発光させることによって発散している。

 

 私は自分の髪に、軽く静電気を孕ませた。私が発した電子信号を受けて、神社跡に散らばっている手近な機器の一つが、わずかに発光する。

 

 発光した機器は、私の「発光せよ」という信号を、他の機器にも伝え、機器たちのあいだを信号波と同時に光の波がうねって行った。

 

 丘陵から島全体へ、光のイルミネーションが瞬く。

 

『綺麗……』

 

 彼女の手元で装置がそう呟き、そして、優しい穏やかなメロディを奏で始めた。

 

 落ち着いていて、安らぐようなそのメロディ。

 

 彼女が、私の隣にいて、そして私と同じような気持ちでいてくれることが、それがとても嬉しい。

 

 そう思ったとき、装置のメロデイが、ふと変化した。

 

 今まで流れていたメロディに、別のメロディが加わった。

 

 二つのメロディ、二重奏。

 

 きっとそれは、私の感情だった。

 

 彼女が私に目を向け、そして優しく微笑みながら、そっと口を開いた。

 

「la la la……」

 

 装置からのメロディに合わせて、彼女が歌う。

 

 一つの音を変化させて、そこに様々な感情を載せて。

 

 彼女の声に、私たちの心のメロディが重なって、そして機器たちが光を瞬く。

 

 

 幸せだと思った。

 

 私は今、自分が幸せだと気づいた。

 

 誰かと心を重ねることが、こんなにも幸せなことだったと、私は思い出した。

 

 昔、誰かを愛した、もう名前も顔も思い出せないあの時の頃の感情。

 

 戻りたいと願い続けてきたそれが、戻っていた。

 

 サイボーグ兵士として、戦場で色あせていた私の心。

 

 それが、彼女と出会って……

 

 哀切、

 

 喜び、

 

 愛情、

 

 いろいろな感情がひとつに混ざり合って、

 

 言葉にならない想いが溢れ出して、

 

 それが装置によってメロディとなって解き放たれる。

 

 

 

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

 

 

 

 不意に、装置が聞き覚えのある単語を囁いた。

 

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

 そう、それは囁くような、優しい発音で、そして、

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

 その単語は、彼女の、本当の名前だった。

 

 それを装置に囁かせたのは、私の感情だ。

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

 そうだ、そういうことだったのか。と、私は気づく。

 

 彼女の名前に込められていた、彼女が赤面してしまうほどの理由。

 

 それは、言葉にできないこの感情。

 

 それでもあえて言葉にするなら、それはきっと、

 

 

――誰よりも君を愛してる。

 

 

 

 いつの間にか、彼女の歌が止んでいた。

 

 

 いつの間にか、彼女が私に寄り添っていた。

 

 

 いつの間にか、彼女の手が、私に重ねられていた。

 

 

 いつの間にか、彼女の目が、私の目を見つめていた。

 

 

 いつの間にか、私たちは互いに目を閉じ、唇を重ね合っていた。

 

 

 機器たちは祝福するように眩く輝いて、二人のメロディは、いつまでも重りあって、鳴り響いていた。



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第4話・過去と未来が触れ合うとき

 教会のベンチに腰掛け、彼女と向かい合う。

 

「i‐yo」

 

 彼女はそう言って、自分の長い髪をひと房、手に乗せて私に差し出してくれた。

 

 教会の窓から斜めに差し込むオレンジの陽が、彼女の髪を艶やかに照らし出していた。

 

「tu-sin site mo i-yo」

 

「ミク……」

 

 彼女は、あれほど恥ずかしがって、嫌がっていた直接通信を許してくれるという。

 

「本当に、いいの……?」

 

 そう訊くと、彼女は赤い顔で、小さく頷いた。

 

 手元の装置からは、少しテンポの速い、でも静かなメロディが流れ出る。

 

 それは、彼女の気持ちであると同時に、私の気持ちでもあった。

 

 いままで直接通信に特別な感情なんて抱いたことはなかったのに、今回ばかりは、不思議と気後れしてしまっている私がいる。

 

 

――直接通信は、裸で触れ合うようなもの。

 

 

 いつぞや感じた(あの時は否定的な意味だった)感覚が蘇ってきて、そして、彼女もまた同じ気持ちだというのに、それでも、この行為を許してくれたということが、私にはどうしようもなく嬉しかった。

 

 直接通信によって彼女の時間制御装置を調査し、この時間停止した世界の謎を解明するのが目的のはずだったけれど、今は、そんなことはどうだってよかった。

 

 私は、彼女のそばに寄り添い、差し出された彼女の手に、自分の手を重ねた。

 

 重なりあった手の中には、ふたりの髪が触れ合っている。

 

「いくよ?」

 

 彼女は、コクリ、と小さく頷く。

 

 私は直接通信を開始する。

 

 サーチスキャンモードを選択、彼女の中にある通信プログラムを検索する。

 

「ah…っ」

 

 他人のプログラムが体内を走り回る違和感に、彼女が幽かに声を漏らした。

 

 その仕草に、私の心が反応してしまう。

 

 今までこの行為に特別な感情を持っていなかった分、私は、彼女の反応の一つ一つを強く意識してしまう。

 

 本当は、対象プログラムの検索なんて一瞬で終わる行為だった。

 

 でも、最初に彼女と出逢ったとき、強制的にそれをやってしまって彼女を驚かせてしまった。

 

 あんな強引なことは、もうやりたくない。

 

 それに……

 

 ……けれど、なによりも、

 

 どんな形であれ、すこしでも長く、深く、彼女とつながり、その存在を感じていたかった。

 

 結局、こんな身勝手な理由で、私は彼女の検索を続けた。

 

 ひとつ、ひとつ、丁寧にプログラムをチェックするたびに、彼女は抑えたような微かな声を漏らす。

 

 性別も失って、性的興奮なんて生じるはずもないサイボーグの身体だけど、私は、彼女のその仕草に異様なまでに悩ましさを感じて、貪るようにプログラムを漁った。

 

「ah…ah…uaaa……っ!」

 

 抑えきれず、彼女が大きく声を上げて身体を震わせる。

 

 いけない、思わずやりすぎてしまった。

 

 検索を一時中断する。

 

「大丈夫?」

 

「un……dai jo bu……da yo」

 

 と、彼女は頷く。

 

 目に涙を浮かべ、頬を赤く上気させながら、

 

「ki te……」

 

 彼女はそう言って、私の手を引き、抱き合うように身体を密着させ、首筋に顔をうずめた。

 

「motto……kite」

 

 耳元に吐息とともに囁かれた言葉に、私の思考回路がショートした。

 

「hann!」

 

 検索が速度を増し、彼女のすべてのプログラムを網羅し、通信プログラムをさらけ出す。通信プログラムを介し回線を接続。そこを突破口に、さらに彼女の奥深くへと押し入っていく。

 

 どっ、と彼女の内部の感覚が、私自身にも流れ込んできた。

 

 彼女自身が感じている、

 

 感覚、

 

 感情、

 

 無意識下の領域、

 

 歌、

 

 メロディ、

 

 膨大な情報が私たちのあいだを駆け巡り、暴風雨のように包み込んだ。

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

『好き』

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

『大好き』

 

 

『wsvbnvgth』

 

 

『愛してる』

 

 

 そんな言葉が、歌が、私たち二人の内部で、雷鳴のように光り瞬く。その向こう側に、彼女の時間制御装置の存在が浮かび上がってくる。

 

 私は衝動のままに、そこへ向かって電子化された己自身を飛び込ませた。

 

 瞬間、目の前が真っ白に弾けた。

 

 身体の奥から熱があふれて一気に弾けたような感覚と、無限の広がりをもつ空間に自分自身がどこまでも広がっていく気配。

 

 そして凄まじいまでの加速感。

 

 私という存在の周囲で世界という気配が、

 

 異様に回転し、

 

 収縮し巻き戻り、

 

 進み落ち上がり捻れ、

 

 私の目の前で白い光が晴れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして私は、異様な光景を前に、ひとり立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 景色は、夜だ。

 

 雲一つない空はビロードのように黒く、輝く星同じに埋め尽くされている。

 

 そこに向かってそそり立つ、巨大な尖塔があった。

 

 それは、信じられないくらい巨大な円柱形の建造物だった。ざっと見上げても、頂点が全く見えない。その全長はきっと数キロ程度では済まないだろう、はるか空の彼方まで伸びているように見えた。

 

 塔の直径も数百メートルはありそうなのに、この高さのせいで、高い部分はほとんど糸のようにしか見えなかった。

 

 その塔の根元にはいくつもの背の低い倉庫が整然と立ち並び、その間を輸送車両と思しき車両が何台も走り回っている。

 

 その外縁部を取り囲むように鉄道が巡り、そして、そのさらに外側は、海だ。

 

 四方八方に突き出した接舷岸壁に向かって、何百、何千という数の船舶がひっきりなしに出入港を繰り返していた。

 

 ここは、島だった。

 

 それも、巨大な軍事施設だ。

 

 船から揚陸される物資に、明らかに兵器と思われるものがいくつも混じっている。それが、塔を中心に搬入と搬出を繰り返していた。

 

 そして、塔の表面を上下に移動するいくつもの光の群れ。

 

 これは、まさか……

 

 私は、目の前の塔の正体に気がつき、愕然とした。

 

 これは、軌道エレベータだ。地上から雲よりも高く空を超えて、宇宙空間にまで達する超巨大人工建造物。

 

 しかし、その理論は提唱されているものの、現在ではまだ実現不可能な夢物語であったはずだ。

 

 そんなものが目の前に存在しているなんて、とても現実とは思えない。

 

 いや、そもそもこれは現実なのだろうか?

 

 夢のように曖昧ではなく、細部の隅々にわたって明確な景色だけど、それを眺めているはずの“私”がどこに位置しているのか認識できない。

 

 この不思議な感覚、やっぱり現実じゃない。

 

 私がそのことに戸惑っていると、突然、海上でまばゆいばかりの光が輝いた。

 

 島を取り囲む数え切れないほどの大船団から、長大な炎の柱が、まるで花火のように空中へ向かって次々と打ち上げられていた。

 

 あれは、対空砲火だ。

 

 超高々度目標迎撃用ミサイルが、天空の星空めがけ幾筋もの炎柱をそそり立てながら果てしなく、そして次々と飛翔していく。

 

 見上げてみれば、軌道エレベータのはるか高みの部分でも、塔自体から対空ミサイルと思われる光の筋が四方八方へと撃ち出されている。

 

 夜空のあちらこちらで、星とは違う強烈な発光がいくつも炸裂する。

 

 遠く遥か彼方から襲い来る攻撃者が、対空ミサイルによって撃墜された光だった。

 

 破壊された破片が、大量の流星となって空を落ちていく。

 

 海上の大船団――いや、大艦隊と、そして軌道エレベータ自信から放たれ、空中を駆け上がっていく大量のミサイル群と、夜空から舞い落ちる膨大な破壊片。

 

 上下二方向から注がれる流星のシャワーが、空間を埋め尽くしていた。

 

 そんな中を、破壊をまぬがれた攻撃者のミサイルがひとつ、長い炎の尾を引きながら、高空から真っ逆さまに海上へ突っ込んでくる。

 

 一隻の軍艦がそのミサイルの直撃を受け、巨大な火柱と水柱を上げて、真っ二つにへし折れて沈没した。

 

 さらに数発の攻撃ミサイルが、迎撃の弾幕をすり抜けて海上に落下する。

 

 あたりに、水柱と、そして運悪く撃沈させられた軍艦の火柱が乱立した。

 

 空からくる流星はその数をさらに増し、海上の艦隊の迎撃ミサイルの弾幕を徐々に押し下げ、一隻、また一隻と、血祭りにあげていく。

 

 ついに、軌道エレベータ自体が被害を受けた。

 

 塔の地上百数十メートル付近の低高度部に数発のミサイルが次々と命中し、巨大な爆発が塔の一部分をえぐりとった。

 

 吹き飛び、落下するがれきが、足元の倉庫群を押しつぶす。

 

 さらに数発、ミサイルが同じ場所に着弾する。

 

 軌道エレベータ全体が、地鳴りのような恐ろしい音を響かせた。

 

 止めとばかりに、また一発、ミサイルが飛来する。

 

 もはや海上の迎撃艦隊は過半数が被害を受け、そのミサイルを防ぐだけの力を残していない。

 

 ミサイルは誰にも邪魔されることなく、真っ直ぐに軌道エレベータめがけ――

 

 ――突っ込む寸前で、集中砲火を受け、爆散した。

 

 軌道エレベータの被害箇所の目の前の空間に、ひとつの影が、そこを守るように浮いていた。

 

 その影は、人だ。

 

 それも子供のような小柄な体躯に、細い手足。長い髪は頭の両側で左右に拡がり、まるで翼のように揚力を発生させて空に浮いている。

 

 それは、サイボーグ兵士だった。

 

 しかし、私とは違う――私の知っているサイボーグ兵士とは違う。

 

 その姿は脆弱な素体のままだ。本来、戦闘中に必要な外部兵装ユニットを装着していない。

 

 しかしその代わりとして、そのサイボーグ兵士の周囲を、小型飛行機のような砲台がいくつも飛び回っていた。

 

 その小型飛行機のような砲台――おそらくサイボーグ兵士が遠隔する無人機だ。それが、また新たに飛来した数発のミサイルに向かって飛んでいった。

 

 ミサイルを取り囲むような位置に移動し、一斉に射撃を加え、撃墜する。

 

 サイボーグ兵士は、無人機を操りながら次々とミサイルを迎撃していった。

 

 しかも、サイボーグ兵士はひとりではなかった。

 

 同じように無人機を従えたサイボーグ兵士たちが、軌道エレベータ内部から次々と出撃し、防御を固めていく。

 

 と、唐突にミサイル攻撃がやんだ。

 

 雨のようなミサイル攻撃の代わりに来たのは、防御側のサイボーグ兵士と同じ、サイボーグ兵士の大群だった。

 

 攻撃側も同じように無人機を従え、それを槍のように前面に押したて、数十体ごとに編隊を組んで一斉に突撃してくる。

 

 防御側も数体が集まって、無人機を盾のように密集させ、猛烈な対空砲火を張った。

 

 空中で弾け合う弾丸と弾丸、

 

 衝突する無人機、

 

 さらに、サイボーグ兵士同士も生身でぶつかり合った。

 

 それはおよそ、私が見たことも経験したこともないような戦場だった。

 

 戦いはいっそう激しさを増していき、サイボーグ兵士たちも攻撃・防御側問わず次々と墜ちていく。

 

 全身を撃ち抜かれた者、

 

 炎に包まれた者、

 

 爆発に巻き込まれ吹き飛ばされた者、

 

 それでも、彼女たちはサイボーグ兵士だ。その身体は時間制御装置によって、損傷する前の状態に戻っていく。

 

 けれど、無人機はそうじゃなかった。

 

 破壊されてバラバラになって、周囲に墜ちていく。

 

 無人機という武装を失ったサイボーグ兵士は、それでも徒手空拳で戦いを挑むが、無人機を残している相手には敵わないらしく容易く蹴散らされてしまう。

 

 戦況は攻撃側の有利になりつつあった。

 

 防御側のサイボーグ兵士たちは、その大半が無人機を失い、いまはせめて不死身の身体を盾に、軌道エレベータの被害箇所を必死に守っている。

 

 攻撃側が、残った無人機を集結させ、防御側のサイボーグ兵士たちに一斉射撃を放った。

 

 防御側のサイボーグ兵士たちが吹き飛ばされ、守っていた軌道エレベータへの道が開かれてしまう。

 

 すかさず、攻撃側が突撃を始めた。

 

 残った防御側を押しのけ、ミサイル攻撃によって破壊された場所から、無人機ともども軌道エレベータの内部へと侵入していく。

 

 軌道エレベータが内部から次々と爆発を起こしたかと思うと、その付近一帯が激しく鳴動し、残った隔壁も上下に引き裂かれ始めた。

 

 そして――

 

 ――ひときわ激しい爆発によって、軌道エレベータは、完全に上下に分かたれた。

 

 そこから先、私は、信じられない光景を目の当たりにした。

 

 軌道エレベータが、上昇していくのだ。

 

 遥か天空へと伸びるその長大な塔が、破壊された場所から、地球重力を振り切って、上へと浮き上がっていく。

 

 遠心力だと、私は気がついた。

 

 地球自転の遠心力によって、軌道エレベータそのものが宇宙に放り出されようとしているのだ。

 

 この軌道エレベータが、私の知ってる理論で建設されているならば、その全長は約10万キロに達するはずだった。

 

 その先端の高度は、人工衛星などが浮かぶ静止軌道を超えている。そこまでいくと地球の重力よりも、地球の自転によって生じる遠心力の方が影響は強い。

 

 軌道エレベータは、その遠心力によって直立していた。だから、根元が地球という大地に繋がっていなければ、宇宙へと放り出されてしまう。

 

 それが、いま目の前で起こっているのだ。

 

 しかもそれは、想像を遥かに超えた凄まじい光景だった。

 

 軌道エレベータの上昇速度は、瞬時に音速を超えた。

 

 直径数百メートルの超巨大な構造物が音速を超えて上昇したことにより、その直下部に広大な真空地帯が発生した。

 

 一瞬遅れて、そこに周囲の空気が一斉になだれ込む。

 

 地上に残った軌道エレベータの基部を中心に、島全体を包み込む超巨大竜巻が発生した。

 

 その竜巻は島に残る構造物のみならず、周囲の海域に漂う艦隊を海ごと巻き込んで、上昇する軌道エレベータを追って、天空に長大な螺旋の水柱を伸ばしていく。

 

 竜巻に飲み込まれたものは圧倒的な力で粉々に粉砕され、高度数千メートルの彼方でばらまかれた。

 

 巻き上げられた海水はさらに上昇を続け、高度一万メートルを越えたあたりで、薄い大気と極低温によって微粒の氷結晶と化し、その大半が広大な雲へと変化した他、その一部は成層圏を超えて飛び出していった。

 

 その遥か先を、軌道エレベータは月軌道さえも超えて、深宇宙を目指して消えていく。

 

 竜巻は、一晩中続き、朝になってようやく消滅した。

 

 晴れ渡っていた空も、巻き上げられた膨大な海水によって雲を生じ、辺りには塩辛い雨が降り注いでいた。

 

 その雨に混じって時折、粉砕された機械や兵器の破片が、ぽつり、ぽつりと落下する。

 

 そこに、小さな島だけが残っていた。

 

 破壊された軌道エレベータの基部や、軍事施設の残骸が集まった島だった。

 

 振りそぼる雨と、打ち寄せる波のほかは、動くものは何もなかった。

 

 再び戦闘が起きることもなかった。

 

 何もかもが終わり、そして、そのまま何年もの時が過ぎていった。

 

 十年が経ち、

 

 百年が経ち、

 

 千年が経った。

 

 残骸だらけの島には、波と風が吹き運ぶ砂と土がかぶさり、やがてそこに草木が生えた。

 

 二千年がたった頃には、島には森ができ、鳥が通うようになった。

 

 五千年が経ち、ようやく人間が戻ってきた。

 

 木造の帆船に乗った、前近代的な格好をした漁師たちだった。

 

 彼らは島に上陸すると、火打石で焚き火を起こし、木と縄と藁で小屋を建て、小さな小舟と手作りの網で魚を獲った。

 

 小高い丘陵の上に魚の群れを見つけるための見張り台ができ、その近くに、豊漁を祈願する小さな祠も建てられた。

 

 それから数百年にわたって、人々は増えたり減ったりを繰り返しながら、島に住み続けた。

 

 その暮らしも、少しずつ発展していった。

 

 丘陵の上の見張り台は消え、代わりに小さな祠が、立派な鳥居と狛犬を揃えた神社に建て替えられた。

 

 島にはコンクリート製の岸壁を備えた港ができ、大きな動力船が日に何度も出入港を繰り返して、人と物を運んだ。

 

 島を一周する鉄道までできた。

 

 その駅はなぜだか西洋風の教会のデザインで、そこを中心に近代的な町が広がっていった。

 

 島には電気が通り、車が走った。

 

 島は大いに賑わった。

 

 だけど、島の発展はそこが最高潮だった。

 

 それから数十年と経たないうちに、島は寂れ始めた。

 

 島にやってくる人間よりも、出て行く人間の方が多くなった。

 

 島で生まれる人間よりも、亡くなる人間の方が多くなった。

 

 町には、空家が多くなった。

 

 短い鉄道を利用する者はいなくなり、廃線となった。

 

 港につく船の数も減った。

 

 やがて最後に残っていた数世帯が、最後の船便にのって去っていき、島はまた静寂に戻った。

 

 それからさらに時が流れ、残された町がすっかり廃墟となった頃、

 

 島を、地震と津波が襲った。

 

 地震は大地を隆起させ、残った建物を破壊した。

 

 そして津波が、地表のものを全て押し流してしまった。

 

 残ったのは、高台にあった鳥居と狛犬、そして倒壊寸前でなんとか残った、教会駅の建物ひとつだけだった。

 

 だけど、島の表面には奇妙なものがいくつも現れていた。

 

 それは、長い年月の果てに地中に埋もれていた、遥か太古の機械たちだった。そのほとんどが、あのサイボーグ兵士たちが使用していた無人機の部品だった。

 

 そして、バラバラになって散乱し、半ば埋もれたままの機械たちに混じって、唯一、原型を保っていたものがあった。

 

 砂浜に倒れていたそれは、小柄な身体に、細い手足、そして長い髪……サイボーグ兵士だった。

 

 いや、

 

 いや、ちがう。

 

 あれは、彼女だ。

 

 彼女の身体はあちこち損傷していたけれど、それはゆっくりと時間をかけて修復されていく。

 

 それに合わせるように、津波で禿山同然になっていた島にも、緑が戻っていく。

 

 彼女はまだ、眠ったように動かない。

 

 私は思わず、彼女に向かって駆け出そうとした。

 

「ミク!」

 

 私の声が聞こえたのか、彼女がゆっくりと目を開く。

 

 あたりの景色は夜だったけれど、やがて水平線の向こうが白み始め、朝陽が昇ろうとしていた。

 

 オレンジ色の日差しを浴びながら、彼女が立ち上がる。

 

 私はやっと彼女のもとにたどり着いて、彼女の細い身体を抱きしめた。

 

 

「ミク――」

 

「――ダメっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――彼女に突き飛ばされ、私は、教会駅のベンチから床に転げ落ちていた。



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第5話・空っぽの笑み

 私は、自分が今まで白昼夢を見ていたことに気がついた。

 

 いや、あれはきっと夢なんかじゃなく、実際にあった現実の記録だったのだろう。

 

 彼女と直接通信し、彼女の中の時間制御装置に触れたことで、私の意識は過去に飛ばされたのだ。

 

 彼女の生まれた太古の超古代文明が滅びた、その時代を、私は見た。

 

 でも、私が過去を見ているあいだ、そのとき彼女はいったい、何を見ていたんだろう?

 

 そしてなぜ、急に私を突き飛ばしたのだろう?

 

 床から身を起こした私の前で、彼女が、泣いていた。

 

「ミク……?」

 

「ごめん……ね…」

 

「ミク」

 

 顔を伏せてすすり泣く彼女に向かって、手を伸ばす。

 

 でも、その手は彼女に避けられた。

 

 彼女が、私から離れるように後ずさっていく。

 

「ごめんね……」

 

「ミク、どうして?」

 

「触れちゃ、ダメだったの。……わたしたち、出逢っちゃダメだったの」

 

 彼女はそう言って、泣きながら教会駅を出て行った。

 

「………」

 

 ああ、そうか。

 

 そうだったんだ。

 

 私は、彼女が何を見たのか、悟った。

 

 彼女は、未来を見たのだ。

 

 私の見た過去と同じように、サイボーグ兵士たちが終わることのない戦争を続ける、そんな未来を。

 

 そして、彼女は知ったのだ。

 

 彼女こそが、そのきっかけだったという事実を。

 

 そう、ここはかつて軌道エレベータがあった島。

 

 島に散らばる機器類は、かつての無人機の破片。

 

 そして、彼女は………

 

 

 

 ……私たち、現代のサイボーグ兵士が誕生するきっかけとなった、超古代文明の残したサイボーグ兵士だった。

 

 

 

 私は、彼女が現代文明に発見される、その直前の時代にいることを悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 私の時代の戦争は、別にサイボーグ兵士が生まれたから起きたわけじゃない。

 

 世界の歴史はいつだって争いの記録で埋め尽くされてきたし、人がそれを省みることもなかった。

 

 私たちの戦争が始まった理由ははっきりしない。

 

 世界のあちらこちらで紛争が頻発していて、世界中の国々も、誰が敵で、誰が味方かわからないくらいに利害関係が複雑に入り組んでいて、 そのせいでどこもかしこも緊張していて、最初の火種がどこから上がったかさえ、誰にも理解できないような……

 

 ……そんな、時代だった。

 

 きっと、サイボーグ兵士が実用化されなくったって、そんなことはお構いなしに戦争は起きただろう。

 

 戦争は兵器を生むけれど、兵器が戦争を生んだことは一度もない。そんなことは、歴史を少しでも勉強すれば簡単にわかることだ。

 

 道具や機械に、人殺しにしか使い道のないものというのも、そうあるものじゃない。

 

 だけど逆にいえば、人がその気になれば、どんなものだって人殺しの武器になる。

 

 きっと、何も持たない手のひら一つだって、首を絞められる。

 

 それが、人だ。

 

 戦争を起こすのは、いつだってその時代を生きる人間たちだ。

 

 だから……

 

 ……だから、戦争が始まったのは、彼女のせいじゃない。

 

 

 

 

 波が変わらぬリズムで打ち寄せ、静止した朝陽にオレンジに染まる砂浜の真ん中で、彼女は膝を抱えて、顔を伏せてすわっていた。

 

 私が近づくと、彼女は顔を上げ、私を見た。

 

「来ちゃ……ダメ……」

 

 その声は、拒絶というにはあまりにも弱々しかった。

 

 私は、彼女から少し離れた場所に座った。

 

 彼女は私から目をそらし、海に目を向けた。

 

 でも、その目がどこも見ていないのは、すぐにわかった。

 

「ねぇ、ミク。気づいてる?――」

 

 と、私は語りかける。

 

「――私たち、言葉が通じているよ」

 

「えっ?」

 

 私の言葉に、彼女が再び私を見た。

 

 一瞬、信じられなさそうに驚いた顔をして、すぐに彼女自身の周りを見渡して何かを探し始めた。

 

「翻訳装置なら、教会に置いたままだよ」

 

「あ……っ……うん、本当だね。……どうして…かな」

 

「きっと、直接通信のおかげだと思うよ。お互いの言語ライブラリーがリンクして、情報が共有化されたんだ」

 

 そう答える私の言葉は、使い慣れた自分の言語だ。そして、さっきの彼女の言葉は、やっぱり彼女自身の言語のままだった。

 

 それでも、私たちはお互いの言葉の意味がわかるようになっていた。

 

 彼女はそのことに、少しだけ嬉しそうに顔をほころばせたけれど、すぐに、悲しそうに表情を曇らせてしまう。

 

 彼女は曇らせた顔を伏せ、消え入りそうな声で、こう訊いた。

 

「わたしの過去……わたしたちの戦争……見たの?」

 

「うん」

 

「ひどかったでしょ」

 

「………」

 

 私は答えられなかった。

 

 彼女は、言った。

 

「戦争は、きらい」

 

 大切な人達が、みんないなくなるから。

 

 そう言って、彼女は、ぽつり、ぽつりと話し出した。

 

 

 

 

 

 彼女が物心ついたときには、戦争はすでに始まっていた。

 

 世界中を巻き込んだ戦争で、どこもかしこも戦場だった。

 

 兵士も民間人も関係なく、戦いに巻き込まれ死んでいった。

 

 死なずにすんだのは、時間制御装置をもったサイボーグ兵士だけだった。

 

 だから、彼女もそうなった。生き延びるために。

 

 戦いは終わることなく、果てしなく続いた。

 

 気がつけば、敵も味方もサイボーグ兵士しか生き残っていなかった。

 

 何もかもが死に絶えた世界で、それでも、サイボーグ兵士たちは戦い続けた。

 

 死ぬことのない不死身の兵士たちには、それしか生きる理由がなかった。

 

 存在理由を維持するためだけの戦争で、古代の文明は跡形もなく破壊し尽くされた。

 

 そして、最後に残った軌道エレベータを巡る戦いで――

 

 ――軌道エレベータなんてものにもう意味はなく、ただ、「守るもの」と「壊すもの」の理由がそこにありさえすればよかった――

 

 彼らは、自らも含めその全てを、宇宙の果てへと送り出した。

 

 

 偶然、島に落ち、スリープモードに入った彼女ひとりを残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そのあとの未来も見たよ」

 

 と、彼女は言った。

 

「人はまだ全滅してなかった。ちゃんと、生き残っていた。何もかも失っていたけれど、そこからまた前に進み出していた。……嬉しかった」

 

 取り返しのつかない世界から、人々はまた世界を取り戻した。

 

 生きる意味を失った世界は、また生きる意味を取り戻した。

 

 絶望的な世界の終焉を生きてしまった彼女には、それがなによりも、嬉しかった。

 

 なのに……

 

 

 ……悪夢が、蘇った。

 

「戦争に、また“わたし”がいた。終わらない戦争になってた。誰もが戦う意味を忘れてしまうくらい長い、終わらない戦争。だけど、すべてを終わらせてしまう戦争……」

 

 わたしのせいだ。

 

 彼女はそう言った。

 

 そう言って、水平線の朝陽を見つめた。

 

「太陽の横に見える、黒い影。あれが、もうすぐこの島に来るの。そして、わたしを見つけるの」

 

 彼女の見つめた先、朝陽の横の空に浮かぶ黒いシミがある。

 

 あれの正体が、飛行機だということは、私も気づいていた。

 

 この島を目指し飛んでくる航空機。

 

 私の中にデータとして残る歴史に、そのことが記されていた。

 

 戦争勃発直前、太平洋に浮かぶ小島で、新型爆弾の投下実験が行われた。

 

 そのとき、事前に現地調査に訪れた偵察隊によって、その島に眠る超古代兵器……彼女を発見したのだという。

 

 黒いシミのような航空機の他に、島の頭上には一筋の飛行機雲も浮いている。

 

 あれが、新型爆弾を積んだ高々度爆撃機なのだろう。

 

 この静止した時間が動き出せば、数時間もしないうちに歴史的場面が始まるに違いない。

 

 だけど、それが何だというのだ。

 

 この時間が静止している限り、その未来は始まらない。

 

 それに、たとえ戦争が始まったとしても、その戦争がすべてを滅ぼす愚かな戦いだったとしても、それは彼女のせいじゃない。

 

「ミク……、君は悪くない。生きるのも、滅ぶのも、全てはその時代の人間の責任――」

 

「あなたも、いたよ」

 

「――え?」

 

「見えた未来の中に、あなたもいた。まだ改造される前の、人だった頃のあなただった」

 彼女の言葉に、私は、言葉を失った。

 

「今とは違う姿だったけど、それでも、わかったよ。……人だった頃のあなたは、とっても、幸せそうだった」

 

 それは、私自身でさえも忘れ果てた過去だった。

 

 思い出そうとしても思い出せない、

 

 それでも、確かに誰かを愛していたという実感だけが残った、

 

 私の過去。

 

「あなたには家族がいた。愛に溢れていて、とても暖かそうで、見てるだけで、私も幸せになれた」

 

 それは、私の知らない、私の過去。

 

 彼女は、続けた。

 

「でも、それが奪われた。戦争に巻き込まれて、何もかも……奪ったのは、わたし。わたしから生まれた、わたしと同じ存在たち。そしてあなたも、わたしになった。わたしになって、すべてを忘れた。わたしが、あなたの人生を壊したっ……!」

 

 そうなのか?

 

 彼女さえいなければ、私はこんな永遠の地獄のような戦いをせずに済んだのか?

 

 家族や、愛した人のことを覚えたまま生きて、そして、死んでいけたのか?

 

 今よりも、まだましな人生があったのか?

 

 いま、彼女の存在がこの世界から消え去ってしまえば――

 

 

「わたしは、甦っちゃいけなかったんだ!」

 

 

 

 

 

 

「違うっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 私は叫んでいた。

 

「そんなことない。ミクが存在しないほうがいいなんて、私は望んでない」

 

 過去なんか忘れた。

 

 家族なんて知らない。

 

 だけど、唯一持っていた愛の実感を、ミクがもういちど与えてくれた。

 

 私が大切にしたいのは、それだけだ。

 

 ミク、君だけだ。

 

「だから、ミク、そばに居てよ。いちゃいけないなんて、言わないでよ」

 

「ダメだよ、ダメ。……私がいたら、いつか世界が終わる。それに……未来のあなたを、不幸にしたくない」

 

「ならないよ。だって、私はサイボーグ兵士になったから、君と逢えた。それが一番の幸せなんだよ?」

 

「違うよ、違う」

 

「違わないよ、どうしてそんなこと言うの?」

 

「あなたの過去は、忘れちゃいけない過去だった。壊れちゃいけない幸せだったの。それを壊したわたしが、あなたに愛される資格なんてないの……」

 

 知らない、そんなのは知らない。

 

 他人も同然だ。

 

 他人なんかどうだっていい。

 

 世界なんて知ったことか。

 

 それでも、

 

 それでも、

 

 世界の命運を握ってしまった彼女の心を、守ってあげることができない。

 

 彼女の苦しみを、癒してあげることができない。

 

 どうすればいい。

 

 私は、どうしたらいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、ミク」

 

 大丈夫だよ。

 

 ここは時間が止まっているから、君が見つかることは永遠にないよ。

 

 それにほら、イカダももうすぐ完成するよ。

 

 そしたら、一緒にこの島を出ていこうよ。

 

 あの飛行機が来る前に、誰も知らない遠くへ逃げるんだよ。

 

 別の島でもいいよ。

 

 深い山の奥でもいいよ。

 

 そこで、いつまでも二人で暮らそうよ。

 

 そこで、いつまでも幸せに暮らそうよ。

 

「ねぇ、ミク?」

 

 私は、言葉を並べ立てた。

 

 安っぽくて、中身も何もない言葉。

 

 現実逃避の夢物語。

 

 それは、駄々をこねる幼子の泣き声と同じだった。

 

 ひたすら、嫌だ、嫌だと叫び続けて、

 

 相手の共感じゃなく、同情でもなく、諦めを引き出すだけの……

 

 ……虚しい、我儘。

 

 

 

 どれだけの言葉を並べ立てのか、もう覚えていない。

 

 言えば言うだけ虚しくなる音の羅列を吐き出し続けて、喉も枯れて、もう何一つ残らず空っぽになったとき、

 

「もう、いいよ」

 

 彼女はそう言って、私に笑いかけてくれた。

 

「あなたのそばに、いるよ」

 

 それは、胸が痛くなるくらい、何もない空っぽの笑顔だった。



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第6話・二人の明日

第6話・二人の明日

 あれから、また私たちのいつもの日常が始まった。

 

 島を回ってイカダの材料を集め、

 

 一段落着いたら果実をとって食べ、

 

 そして、二人で遊ぶ。

 

 いつもの神社の長い階段の下で、彼女は私に向かってこう言う。

 

「じゃんけん、しよう?」

 

 私は頷いて、手を差し出す。

 

「じゃんけん」

 

「ぽん」

 

 私がグーで、彼女がパー。

 

「ぱーいーなーつーぷーるー」

 

 彼女が軽い足取りで、石段を登っていく。

 

「じゃんけん」

 

「ぽん」

 

 私がパーで、彼女がチョキ。

 

「ちーよーこーれーいーとー」

 

 また、彼女が遠ざかる。

 

 彼女が、私に向かって、手を差し伸ばす。

 

「じゃんけん」

 

 私も、彼女に向かって手を伸ばす。

 

「…ぽん」

 

 私たちの距離は、また離れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちの生活は、ほとんど何も変わらなかった。

 

 たったひとつ、翻訳装置を使わなくなったことを除けば。もう言葉が通じるのだから、あんなものに頼る必要もなかった。

 

 それにもともと、あれは翻訳装置じゃない。感情を歌として表現する、一種の楽器だった。

 

 だから、固有名詞も伝えられない。論理的な説明もできない。まともな会話ができない。

 

 お互いの嘘偽りのない、素直な心しか、相手に伝えられない。

 

 そんな装置があっても、今の私達には困るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イカダは着々と組みあがっていった。

 

 前後に長細い中心船体のその両脇に、一回り小さい二つの船体を平行に並べ、それを数本のフレームで溶接した三胴船の形で、その大きさもかなり大型なものになった。

 

 溶接には、無人砲台のレーザー発振部が役に立った。他にも、超伝導モーターや、発電ユニットがそのまま残っていたので、イカダの動力として流用できた。

 

 完成に近づきつつあったそれは、イカダと言うより、れっきとした小型ボートだった。

 

 航行装置や、レーダーなどのセンサーは搭載していないけれど、私自身にジャイロコンパスや高感度センサーが組み込まれているので問題ない。このジャイロコンパスやセンサー類を使えば、太陽や夜の星の位置を正確に計測することができる。そうすれば、そこから自分の座標を割り出すことができる。

 

「太陽の日出没方位は季節ごとに差があって、毎月その誤差の値は変化するんだ。今の季節が正確に分からないからその誤差値は無視せざる得ないので、多分、赤緯で1°ほどの誤差が出てしまうと思う。だから、太陽だけでなく他の天体の観測も併用して――」

 

 私はイカダを組みながら、そばで作業を見守る彼女に対して、航海術や、このイカダの操船方法、メカニズムなどを語って聞かせた。

 

「この動力部は超伝導モーターだから、回路部を絶対零度にまで冷やしてやる必要がある。それにはこっちの冷却装置のタンクにある液体窒素を使うんだけど、扱うときは気を付けないといけないよ。だって、ちょっと触れただけで身体の芯まで凍りついてしまう危険な液体だからね――」

 

「この発電ユニットは無人機の自己保存用発電システムを利用してるから、半永久的に充電可能なんだよ。このイカダなら、どこまでだって行けるよ――」

 

 遠く、遠く、どこまでも。

 

 私は島を出て、新天地にたどり着いたあとの生活も語った。

 

 

「新しく暮らす土地は、海よりも山がいいな」

 

 

「でも、両方ある方がいいな。森があって、水辺があって」

 

 

「広い湖のある森なんかが、一番理想だな」

 

 

「湖のほとりに丸太小屋を建てて、小さな畑を作るんだ。私たちはそんなに食べなくてもいいから、ほとんど趣味だね」

 

 

「だったらいっそ、花畑にしてしまおうかな」

 

 

「いろんな種類の花を育てて、季節ごとにいつも花が咲くようにするんだ」

 

 

「湖には小舟を浮かべてさ、釣りをしたり、ときには泳いだり」

 

 

「その湖の水は澄み渡っていて、晴れ渡った夜なんかは満天の星が湖面にも輝くんだ」

 

 

「空と湖の両方に星空が広がって、まるで私たちは宇宙に浮かんでいるみたい」

 

 

 彼女は、微笑みながら、私の話を聞いてくれる。

 

 

 彼女は、微笑みながら……

 

 

 

 

 

 

 

 イカダが完成間近になった頃だった。

 

 私は、超伝導モーターの冷却装置の調整を行っていた。液体窒素の流入を制御するのが難しく、私は慎重に微調整を重ねていた。

 

 そんなとき、突然、背後で大きな音が鳴り響いた。何か重いものが、地面に落ちたような音だった。

 

 驚いて振り返った私が見たのは、教会駅のすぐ前に転がる、大きな木製の十字架と、その下敷きになった彼女の姿だった。

 

 十字架は、教会駅の三角屋根についていたものだ。今にも朽ちかけそうな状態だったけど、時間が静止していたおかげで今まで落ちることはなかった。

 

 それが、落ちた。

 

 しかも、教会駅の前にいた彼女の頭上に。

 

「ミクっ!?」

 

 私は慌てて彼女のもとに駆け寄った。

 

 サイボーグ兵士の身体は脆弱だ。それこそ、人の子供と変わらない。

 

 十字架の重量はそれほどでもなかったけれど、人を傷つけるには十分な重さだった。それをどけ、彼女の容態をみる。

 

 彼女は目を閉じ、ぐったりと倒れていた。

 

 その額から、真っ赤な血が流れている。

 

「ミク……ミクっ!」

 

 頭を打ったなら、不用意に動かせない。私は彼女に触れることもできずに、彼女の名前を叫び続けていた。

 

 私は完全に動転していた。

 

 サイボーグ兵士が不死身なのを、忘れていた。

 

 取り乱す私の目の前で、十字架が宙に浮き上がる。

 

 十字架はそのまま上昇していき、教会駅の三角屋根のてっぺんに元通りに収まった。

 

 倒れていた彼女の額の血も消え、彼女が、その身を起こす。

 

「ミ……ク……?」

 

「………」

 

 彼女はしばらく、ぼうっと十字架を見上げていたが、

 

「あ……?」

 

 私の視線に気づき、こっちに顔を向けた。

 

「あ……あはは……心配かけて、ごめんね」

 

 その笑顔に、私は、彼女に触れることができなかった。



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第7話・慟哭

 この島の時間は大きく見れば静止しているけれど、細かく見ればそうじゃない。海岸に打ち寄せる波が証明しているように、おおむね数秒の間隔で、過去と未来を行ったり来たりしている。

 

 あの十字架が突然落ちたのは、その間隔があの一瞬だけ、偶然に大きくなってしまったのだろう。

 

 ほんの少し先の未来で、彼女は死んだ。

 

 そんな表現が果たして適切かどうか、私にはわからない。

 

 でも、それを否定することは、私にはもうできなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、また事故が起きた。

 

 冷却装置の調整がうまくいかなくて、気晴らしにと二人で散歩に出かけた先でのことだった。

 

 島の南側にある寸断された海沿いの道路。

 二人ならんで歩いていたはずなのに、気がつけば彼女が一人、道路の端に佇んで海を見下ろしていた。

 

 まさか、と思ったときには、もう遅かった。

 

 彼女が立っていた場所が崩れ、その姿は海に消えた。

 

 私が呆然として立ち尽くしているあいだに、崩れた道路は元通りになって、彼女も同じ場所に戻っていた。

 

「あはは、失敗、失敗」

 

 彼女は、笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷却装置の調整は、行き詰まっていた。

 

 何度、規定値に収めても、すぐに値が狂ってしまう。これが正常に作動してくれないと、超伝導モーターはまともに動くことができなくなる。

 

 いっそ回路そのものを変えてしまおうか。

 

 そう思って、彼女と一緒に部品探しに出かけた先で、三度目の事故が起こった。

 

「ねぇ、これ使える?」

 

 そう言って彼女が拾い上げた機器が、その手の中で放電現象を引き起こした。

 

 例の過充電状態だったのだろう。

 

 彼女の手から機器が放り出されたと同時に、彼女自身も背後に向かって大きく跳ね飛び、倒れた。

 

 私は、ちょうど足元に飛んできた機器を拾い上げ、それを調べる。

 

 放電によって回路が完全に焼け焦げていた。これじゃもう、部品としては使えない。

 

「ミク、気をつけないとダメだよ」

 

「うん……また、失敗しちゃった」

 

 身を起こして、彼女は笑う。

 

 

 

 

 

 彼女は、笑う。

 

 

 島のあちこちに散乱する機器たちが、うっすらと光を放っている。

 

 いつもの過充電に伴う放電現象だ。機器自身の保護のために、その身に溜め込みすぎた電力を光の形に変えて消費している。

 

 それはほとんど熱を持たない、淡い光だ。

 

 強力な熱や電圧は、機器自らをも破壊してしまう。だから、機器を手にしたものを傷つけるような大放電が、本来は起こるはずがなかった。

 

 誰かが、機器にそう命じない限り。

 

 あの時、そう命じたのは、当然だけど私じゃない。

 

 だったら、彼女しかいなかった。

 

 

 あれは、自殺だった。

 

 

 私はそう思いながら、教会駅の前で、同じように発光しているイカダを眺めていた。

 

 イカダに組み込まれた機器たちが、まるでイルミネーションのように輝き、船体を彩っている。

 

 そのイカダのそばに、彼女が倒れていた。

 

 しゅうしゅう、と不思議な音があたりに響いている。

 

 イカダの周りを、冷たい蒸気が漂っていた。

 

 白い雪の雲が、冷却装置のバルブから流れ、その下に倒れる彼女を包んでいる。

 

 彼女の顔の半分は凍りつき、氷の結晶が光っている。

 

 わずかに開かれた唇は焼け爛れ、血の泡が、まるでバラの花のように凍っていた。

 

 彼女のすぐ近くに、霜に覆われた木製のコップがあった。

 

 液体窒素だった。

 

 数滴でも体内に入れたら肺を焼き尽くすようなものを、一気に飲んだのか。

 

 まともな死に方じゃなかった。

 

 

――失敗しちゃった。

 

 

 そう言って笑いながら、彼女は、失敗しない方法をずっと考えていたのか。

 

 彼女の周りで流れていた白い雲が、その方向を逆転させた。

 

 冷却装置のバルブが、雲と冷気を吸い込み始め、そして――

 

「うぇ……っけほ……ぁ」

 

 彼女が呻き、その口から大量の窒素が液体状態で吐き出された。

 

 その液体窒素は彼女を傷つけるどころか修復し、バルブの中へと戻っていく。

 

「死ねないね………」

 

 倒れたまま、彼女がぼそりと呟いた。

 

 彼女は顔を伏せて、肩を小刻みに震わせる。

 

「はは……あははは……あはははははは――」

 

 笑い声がかすれ、それは音のない、吐き出すような嗚咽に変わった。

 

「――ぅぁ……あああああああああああっっ!!!!!」

 

 彼女の慟哭が、島に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、気を失うまで泣き続けた。

 

 意識は、時間制御装置の影響を受けない。意識が疲れてしまえば、それを癒せるのは眠りだけだ。もしも壊れてしまえば、それを直すことは誰にもできない。

 

 私は眠りに落ちた彼女を背負って、教会駅に運び込んだ。

 

 彼女の身体はぐったりとしていて、重く感じられた。

 

 思えば、こうやって彼女と肌を触れ合わせたのは、あの直接通信のとき以来だった。

 

 私の髪と、背負った彼女の髪がときおり触れ合う。だけど、私は直接通信をする気にはなれなかった。

 

 教会駅の長いベンチに、彼女を横たえる。

 

 閉じられた両のまぶたの済に浮かぶ涙の雫を指でぬぐい、私は、彼女の唇に、そっとキスをした。

 

「おやすみ、ミク。……さよなら」

 

 教会駅の隅に放置されていた、あの翻訳装置が、

 

 

――愛してる。

 

 

 と、短く歌った。



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第8話・逃げ出した海

 冷却装置の不調は致命的だった。

 

 沖に出て十分としないうちに超伝導モーターは沈黙し、発電ユニットは悲鳴を上げた。

 

 動力を失ったイカダは海を漂うしかなかった。

 

 いや、漂うなんて生易しいものじゃない。

 

 海が穏やかならそれでも良かったし、風でもあるならそれを使って帆走することもできた。

 

 だけど、ここは時間が静止――いや、振動を繰り返している世界。

 

 島の周囲の海域は、時間静止する前はどうやら荒れ気味だったらしい。

 

 数秒単位で潮流が逆転し、波が複雑な山々を生成する。

 

 とてもまともな気象じゃなかった。

 

 動力がなければ、イカダを同一方向に維持することもできない。

 

 イカダは襲い来る波に船首を向けることができず、横波を受け続けてフレームがきしみ、不気味な音を立てた。

 

 三角波が発生し、船体が高々と持ち上げられ、力いっぱい海面に叩きつけられた。

 

 その衝撃に、三胴船のうち右側の船体がフレームからはずれ、吹き飛んだ。

 

 左右のバランスを欠いたイカダに、次々と波が打ち込み、内部の機器が次々とショートしていく。

 

 傾き、今にも転覆しそうなイカダの中で、船体に必死にしがみつきながら、私は、叫んだ。

 

「ミク!」

 

 波をかぶり、海水が喉に入る。

 

 それでも私は、彼女を呼び続けた。

 

「ミクっ」

 

 私は彼女を置き去りにした。

 

 私は彼女から逃げ出した。

 

 自分を傷つけ続ける彼女を見ていられなかった。

 

 誰かを――未来を――私を、傷つけたくないと思う弱さが、生きる意志を否定するくらい強くなってしまった。

 

 波と風に煽られ、イカダがまた大きく持ち上げられ、叩きつけられる。

 

 フレームが破壊され、イカダはバラバラに砕けた。

 

「ミク――」

 

 君があのとき、未来さえみなければ……

 

 こんなひどい未来でさえなければ……

 

「ミ――ク――」

 

 私は、海にのまれた。

 

 

 

 

 

 

 まるで嵐のような激しい時間の波にのまれて私は唐突に全てを理解した

 

 時間とは人の心そのものであり人が生み出しているものだという真理だった

 

 客観的時間というのは人ひとりひとりが生み出す主観的時間の総和の平均値であり

 

 社会的生物である人間はそれに従って生きているがひとたびそれから解き放たれてしまえば

 

 すなわち人間ではなくなってしまえばその制約に囚われることなく活動できるのであり

 

 つまりそれが人間ではない人であるサイボーグ兵士達であり

 

 私たちサイボーグ兵士が持つ時間制御装置とは結局のところ主観的時間だけを操るものであって

 

 ではその主観的時間を生み出すものとは何かといえばそれが私たちに残された人間としての部分すなわち脳であり意識であり心であり

 

 時間とは過去との因果関係を成立させている概念そのものであるからその概念を成立させている意識そのものが時間を発生させている

 

 というよりも意識こそが時間そのものであってそれを制御するものというのもやはり意識そのものなのだ

 

 ということだけれどもじゃあ私の時間制御装置はどこへ消えたのかといえばそれは言い換えれば心を失ったというか奪われたとも表現できて

 

 そして奪ったのは彼女であり私は彼女に心を奪われたのだけども

 

 彼女と出逢う直前からすでに心を奪われていたのはどうしてだろうと疑問が湧いたがこの嵐のような時間に揉まれて私はその答えを知った

 

 私は最初から彼女と出会う運命で過去に来る前からずっと彼女を愛していて

 

 私に残っていた愛の実感とは来るべき過去に存在していた未来の記憶だったのだと悟ったとき私は

 

 私は

 

 私は

 

 私は―――

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ミク、もういちど、君に逢いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけば、海岸に倒れていた。

 

 規則正しく、定期的に打ち寄せる波の音が聞こえる。

 

 薄く目を開けると、オレンジ色に染まった空が見えた。飛行機雲が一筋、高い空に茜色の線を引いていた。

 

 私は仰向けに倒れていた。

 

 立ち上がろうとして、ひどい目眩を感じて、倒れ込んだ。

 

 身体がひどく重かった。意思に従って動いてくれない。

 

 頭が痛かった。目を開けていられず、まぶたを閉じる。

 

 私は胸に手を当てた。

 

 胸にぽっかりと穴があいているようだった。

 

 私に心はない。

 

 心は、彼女に預けたままだ。

 

 彼女と離れて、いまさらそれがわかった。

 

 そう思いながら再び目を開ける。

 

 空には変わらない茜色の飛行機雲。

 

 それは一向に乱れもせず、本当に空に線を引いたかのように固定され、そこにあり続けている。

 

 重い身体をよじって、海に目を向けると、水平線に半分だけ姿を覗かせた、赤く巨大な太陽の姿があった。

 

 夕陽か、朝陽か。

 

 私の体内にあるジャイロコンパスが、この方角が東であることを示す。

 

 つまり、朝陽だ。

 

 私はしばらく、その朝陽をじっと眺め続けていたが、太陽は水平線に半分姿を埋めたまま、一向に昇ろうとはしなかった。

 

 静止した景色、まるで絵画のようだ。

 

 だけど、打ち寄せる波は定期的なリズムを刻んでいる。

 

 苦しい。

 

 生体脳が危険信号を発している。

 

 エネルギー不足だ。

 

 脳が必要とするグルコースが欠乏しかけている。

 

 …ダメだ、苦しい。

 

 死にそうだ。

 

 苦しい。

 

 頼む、誰か助けてくれ……

 

 誰か……

 

 フッと、私の上に影がさした。

 

 いつの間に現れたのか、私のそばに膝をつき、見下ろす影がある。

 

 子供だ。

 

 少女。

 

 小柄な身体に、細く長い手足。

 

 白いワンピースは朝陽に染まっていて、私を見下ろすその顔は、光の当たる側に長い髪が垂れ下がってしまっていて、影の中にあった。

 

 彼女だった。

 

 彼女の手が、私に向かって伸ばされ、額をゆっくりと撫でた。

 

「ミク……ごめんね……」

 

 かすれる私の声に、彼女は微笑みで返した。

 

 その笑みは空っぽじゃなかった。

 

 まだ過去も未来も見る前の頃。お互い言葉もなかったけれど、それでも心はちゃんと繋がっていた、あの頃に見せてくれた笑みだった。

 

「ミク……わかったんだよ」

 

 私は、かすれる声で必死に伝えようとした。

 

 今なら、私は時間制御装置を自由に操れる。

 

 過去にだって、未来にだって、どこにだって行ける。

 

 永遠にこのままだっていい。

 

 それとも、やっぱり島を出ていこうか。

 

 時間を動かしてしまえば、島の周りの荒れた海もおさまる。

 

 そうしたら、今度こそ島を出ていけるよ。

 

 ねえ、

 

「ミ……ク……」

 

 彼女は何も言わずに、私に覆いかぶさって、

 

 唇で私の唇を塞いだ。

 

 私はとろけるような感触と、全身に彼女のぬくもりと肌の感触を感じ取って、

 

 自分の意識を、眠りの中へと手放した。

 



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第9話・朝焼けの島

 目を覚ました時にはもう、彼女は、死んでいた。

 

 死因は、時間制御装置の超加速とそれによって生じた過負荷による意識の消失だった。

 

 不死身のサイボーグ兵士が死ぬとしたら、それ以外にはない。

 

 本来なら超加速状態が意識消失まで続くことがないよう、幾重にも安全装置がかけられているのだけど……

 

 ……今の私は、その解除方法を知っていた。

 

 海に溺れ、その時間の中で時間のすべてを悟っていた私は、時間制御装置を自由に操る術を知っていた。

 

 彼女は直接通信でその情報を取得し、そして、それを彼女自身に適用した。

 

 私のそばで横たわる彼女の横顔は、まるで眠っているかのように穏やかだった。

 

 過負荷状態の、のたうちまわるような苦しみを私は知っている。サイボーグ兵士はどうせ死なないとタカをくくり、だから、いい加減に死なないものかと嘯く、そんなメッさえあっさりと剥がれ落ちてしまう、

 

 そんな苦しみの果ての死でさえも、彼女には待ち望んだ終わりだったのだろうか。

 

 それを知るすべは、もう無い。

 

 せめて彼女の亡骸の中に最期の想いが記録として残っていないか、

 

 それを直接通信で探ろうと思っても、私にはそれが不可能になっていた。

 

 彼女の髪に触れても、何も感じ取れない。

 

 私の髪は、ただの髪になっていた。身体の中のコンピュータも、センサーも、ジャイロコンパスも消失していた。

 

 私は、人間に戻っていた。

 

 動かなくなった彼女の身体を抱き上げたとき、その身体の影に、あの翻訳装置が置いてあったのを見つけた。

 

 生前、彼女がここに持ってきたのだろう。

 

 でも、どうして?

 

 疑問に思いながら、装置とともに彼女を教会駅へ運んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が昇り始めたことに、私は気づいていた。

 

 オレンジ色の空が青くなり、上空の飛行機雲が空の青に溶けて消えていく。

 

 そして、朝陽のそばにいた航空機が、この島に近づいてきていた。

 

 左右の翼の両端にローターを搭載した垂直離着陸機が、島を周回し、そして教会駅からすこし離れた浜辺に航空機は着陸した。

 二人の兵士たちがその機体から降り立ち、叫びながら駆け寄ってくる。

 

「こんなところで何をやっているんだ。ここは立入禁止区域だぞ!?」

 

「爆弾投下まで時間がない。一緒に来るんだ!」

 

 私はそれを無視して、屋根から落ちていた十字架を、地面に突き立てた。

 

「おい、それはなんだ? ……墓、なのか?」

 

「なんてことだ、こいつ以外にもまだ他にいたのか。いや、そんなことはどうでもいい。早くこっちに来い」

 

 肩に触れた兵士の手を、私は振り払った。

 

「おい!?」

 

 無理やり押さえつけようとするその腕に爪を立て、噛み付き、がむしゃらに抵抗する。

 

「いい加減にしろ、死にたいのか!?」

 

 私は力の限り、抵抗した。

 

 私を扱いあぐねた兵士たちの無線機が音を立て、そこから、何かの指示が入る。

 

 彼らはそれを聞くと、動きを止め、明らかに迷いを見せた表情で私を見たけれど、

 

「了解、撤収します」

 

 そう言って、踵を返して航空機へと戻っていった。

 

 ローター音を響かせ、航空機が島を去っていく。

 

 島には、再び波の音だけが響きわたった。

 

 上空を見上げると、一度通り過ぎた超高々度爆撃機が、再び島を目指して雲を引きながらやってくるのが見えた。

 

 私は十字架のそばに腰を下ろし、彼女の墓に寄り添った。

 

 はるか上空の飛行機雲が、その進路を変えた。

 

 島の真上近くで、進路を北に取り、離れていく。

 

 その飛行機雲の近くに、きらりと、何かが一瞬光り輝いた。

 

 きっと、投下された新型爆弾だ。

 

 着弾まで、あと十数秒といったところだろう。

 

 もうすぐ、すべてが終わる。

 

 私も、彼女も、一緒に残らず消え去るだろう。

 

 何一つ、この未来には残さない。

 

「これが、ミクの望んでいたことなんだよね」

 

 でも、私まで一緒に死んじゃったら、君は怒るかな。

 

 怒られてもいい。

 

 もう一度、君に逢えるなら、それでもいい。

 

 私は膝の上に置いた翻訳装置を、手で撫でた。

 

 彼女が最期にこれを持っていた理由はわからなかったけれど、これは、うわべだけの言葉や直接通信以上に、私と彼女を繋げてくれたものだった。

 

 

『――ま――す――』

 

 

 不意に、その装置が動き出した。

 

 声なのか、言葉なのか、区別のつかない大量の音が、高速で流れ出す。

 

 何だ、これは?

 

「ミク?」

 

 君なのか。

 

 君の心なのか?

 

 

『――――……を――か――』

 

 

 そうだ。

 

 これは彼女の最期の感情だ。

 

 装置に残された、彼女の最期の心だ。

 

 だけど、あぁ、なんてことだ。

 

 彼女の最期の意識は、加速されすぎていて、早すぎて私には聞き取れない。

 

 わかるのはただ、圧倒されそうなくらい高密度に凝縮された、彼女の想いだけだった。

 

 せめて、その意味を知りたい。

 

 最期に、一言だけでもいいから、彼女の言葉を聞きたい。

 

 

 着弾。

 

 

 光がはじけ、島が衝撃に震えた。

 

 島の東側の砂浜に着弾した爆弾が爆発し、島をえぐりとっていく。

 

 その爆炎が間近に迫ってくるのを、私は、はっきりと見すえていた。

 

 

『元気でいますか』

 

 

 私の耳に、彼女の言葉が、聞こえた。

 

 

『笑顔は枯れてませんか』

 

 

 私の周りの世界が、遅くなっていた。

 

 私の時間が、加速していた。

 

 

『これからも、他の誰かを深く深く、愛してくれますか』

 

 

 海街、赤錆びた線路沿いで、

 

 二人、「幸せだ」って嘘をついて、

 

 くしゃくしゃに笑いながら、繋いだ手……

 

 

 もう二人に明日がないことを

 

 ただ、ずっと。

 

 そう、ずっと。

 

 隠してしまおうと思った。

 

 

 残される君に届けたい、最期の言葉を

 

 今でも、探してるの。

 

 

 ねぇ、

 

 

 元気でいますか

 

 笑顔は枯れてませんか

 

 これからも、他の誰かを深く深く、愛してくれますか

 

 

 ずっと来るはずない君との日を願ったこの心に、

 

 鍵をかけて。

 

 

 誰も満たされない未来よりも

 

 望んだ最後だけを温めていたの

 

 怖い夢を見ただけの私に

 

 そうであったように。

 

 

 

 許すだけでも、耐え抜くだけでも

 

 ただ、きっと。

 

 そう、きっと。

 

 誰も変われないこと。

 

 傷付けない弱さが生きられないほど

 

 大きく育ったの。

 

 

 覚えていますか、

 

 初めて会ったことも、

 

 君の嘘も、甘えも、弱さも、流してゆくような、

 

 この朝焼けで あの日のように君はまた、

 

 素敵に変わってゆくよ。

 

 

 

 愛していました。

 

 最後まで、この日まで。

 

 それでも終わりにするのは私なんだよね。

 

 君の幸せな未来を、ただ、願ってる。

 

 

 

 君のいる世界で笑ったこと、

 

 

 君の見る未来を恨んだこと、

 

 

 君の声、温もり、態度、愛のすべてに

 

 

 

 

 さよなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆炎がすべてを飲み込み、焼き尽くした。



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最終話・オレンジ

 私は軍病院で意識を取り戻した。

 

 戦場で負傷して、重傷を負い、後方のこの病院に移送されたのだという。

 

 片目と片足を失って、その上、頭部にひどい銃創まで負っていたから、生きているのが奇跡だと軍医から言われた。

 

 それぐらいひどい状態だったから、私が兵士として再び戦場に立てるはずもなかった。

 

 この世界に、兵士をサイボーグ化する技術はなかった。

 

 私が病院でリハビリを受け、義足と杖でなんとか歩けるようになった頃、戦争は休戦となった。

 

 戦況が膠着状態に陥り、どこの陣営も、武器も兵士も何もかもが足りなくなってしまった事が理由だった。

 

 私は傷痍軍人として、名誉除隊が認められた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目的地の場所が場所なだけに、私の頼みを聞いてくれる船はなかなか見つからなかった。

 

 しかも私自身、身体に重い障害を負っている身だ。

 

 そんな人間を運んで、まして立ち入り禁止海域に行ってくれる物好きなんて、冷静に考えれば居るはずがなかった。

 

 それでも、私は三日間、港に通いつめ、ようやくその物好きを見つけることができた。

 

 それは時々、密漁にも手を染めているような漁船で、これから向かうその立ち入り禁止海域にも、よく忍び込んでいるとのことだった。

 

「あの島の周りは、昔から海が荒かったんだ。それに加え爆弾で島の地形が完全に変わっちまったからな。今じゃ潮の流れがめちゃくちゃで、とんでもない難所さ」

 

 まぁそのおかげで誰も寄り付かないから、魚もとり放題なんだがな。と、陽に焼けた漁師は笑った。

 

 密猟を取り締まる巡視船の目を盗むため、出港は日没後だった。

 

 夜を徹して航海し、その島についたのは明け方近くの頃だった。

 

「見えたぞ、三日月島だ」

 

 かつて円形だったその島は、爆弾投下実験によって島の三分の一を失い、三日月のような形になってしまったことから、そう呼ばれていた。

 

 島の東側は爆発のクレーターによって、入江に変わっていた。

 

 入江の中は波も穏やかで、接岸するには最適だったが、船はそこを避け、島の西側に回った。入江は、巡視船に見つかった時に逃げ場を塞がれるから、というのがその理由だった。

 

 島の西側は、昔とほとんど変わっていなかった。

 

 海沿いに張り出した崩れかけの道路が、ちょうど岸壁のような役割を果たしてくれた。

 

「上陸できるのは三時間だけだ。巡視船が来る前に出港する」

 

 漁師の忠告に頷き、私は島に足を踏み入れた。

 

 海沿いの道路を北上すると、やがて赤錆た線路に出会った。

 

 線路を辿り、北端へ向かうと、そこは入江を囲む、細長い岬に変わっていた。

 

 教会駅は、跡形もなくなっていた。

 

 地面に突き立てた、あの十字架も。

 

 周囲にいくつか、機器らしき部品が散らばっていたが、どれもこれも、真っ黒に変色し、壊れていた。

 

 

 超古代の痕跡は、何一つ残らず、消え去っていた。

 

 

 私は入江となった東側を歩き、やがて、半分に削られた丘陵の麓にたどり着いた。

 

 その周りを歩き、南側に出る。

 

 そこに、あの石段が残っていた。

 

 彼女と、いつも遊んだ、あの階段。

 

 私は、一段、一段、踏みしめながら登った。

 

 登りきったその先に、鳥居と狛犬が、まだ残っていた。

 

 私は頂上の鳥居をくぐり、

 

 見晴らしのいい社跡から、

 

 島を眺める。

 

 海を眺める。

 

 空を眺める。

 

 東の空から太陽が顔を出し、島へ朝陽を差し込んだ。

 

 朝焼けから発せられるオレンジは、東の水平線から西にむかって細やかなグラデーションを描いていき、最果ての空にまだ残るわずかな夜の中には、陽の光に溶けそうな星が幽かに輝く。

 

 朝焼けに照らされている島の景色は、思っている以上に色彩豊かで、光に輝く木々の緑と、西側に透ける木漏れ日の格子模様の影の薄暗さにも、緑の濃淡が映え、時が経つにつれて、その表情は次々と変わっていった。

 

 

「ミク」

 

 

 ここに、君がいた。

 

 

 ここで、君と過ごした。

 

 

 ここで、君を愛した。

 

 

 ずっと、ずっと忘れないよ。

 

 

 だから――

 

 

「ミク」

 

 

 ――さよなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――了―――



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