娼女人形は罅割れない ~手も足も無いけど笑顔はあります!~ (白臼)
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1.少女人形

 

 

 ハイヴェルド大公領、公都ジョンズバーグ。

 大公領はアーシルファ帝国五大領邦の一角に数えられるだけのことはあり、その隆盛ぶりは帝国首都にも引けを取らない――――いや、皇帝に対する不敬を覚悟で言うなら帝都を上回るとさえ言える。

 古い文献を紐解けばハイヴェルドの地は金鉱脈を求めて入植した人々が居を構えたことが始めにあり、それ以来幾度も土地から生まれる富を巡って争いが起こったと言われる血なまぐさい歴史を持つ。

 しかしながら10年ほど前に帝国全土に被害が及んだ『黒魔術戦争』にあっては運よく大規模な戦火を免れつつ、武器と人員の輸出入に専念できたことでその経済は大いに潤っていた。

 結果として大公領の中枢たる公都は他の都とは一線を画す繁栄を享受していると言って過言ではないだろう。

 

 栄えている都であるならば、当然のように夜の賑わいも相応のものになる。

 惜しげもない投資によって街の至る所には街灯が設置され、人々が行き交う石畳の道路を照らし出している。

 表向き法王庁は民間の研究によって発達した『魔術』一般を認めない方針を打ち出しているが、街中に設置された魔道具技術による街灯が撤去を求められたという話は無い。

 夜の暗がりを払うことで夜間の治安の維持に貢献し、人々が一日に活動できる時間を大いに延長する。

 そういった明確な利益(メリット)を当の聖職者たち自身も享受できる以上は、どれほど敬虔な僧であっても弾劾はしづらい……ということだった。

 

 そんな不夜城の呈を見せる繁華街、中央の大通りから一つ道を外れた路地へと入る。

 表側の喧騒が壁一枚隔たったかのように感じる程度に歩いたところにその店はあった。

 歓楽街の一等地に店を構えることができなかったがためにこのような場所を選んだのか……という推測は的を外している。

 むしろ余計な人混み、人通りを避けるために敢えてそうしたのだというのが見て取れる。

 

 店の構造は三階建て、かつ一階当たりの面積はかなり広く作られてあり、一見すればどこかの貴族の屋敷とも見紛うほどだ。

 門構えの装飾は猥雑な華美さを廃した品の有る作りであることもその印象に拍車をかける。

 玄関前に至っては馬車の乗り入れを想定した広い空間までも確保されており、さらには警備員までも目を光らせていた。

 

 そして、今まさにそこへと乗りつけられる一台の馬車の姿があった。

 街中を有料で指定の場所へと客を乗せて運ぶ運送サービスのものだった。

 そこから出てきた客の男性は自前の馬車も運転手も持っているだけの身分がある人物だったが、極力身内にバレたくないがためにわざわざそのようなサービスを利用したのである。

 

 何せ彼自身()()()()()店を利用したことは数えるほどしかないし、この店に至っては今日が二度目だ。

 まだ場慣れしていないことが伺える浮ついた雰囲気のまま、顔を隠すように鍔広の帽子を目深に被り、外套の襟をそそくさと正す。

 この店は完全予約制、かつ一見お断りと敷居が高く、従業員にもその辺りの意識は徹底されている。

 警備員は落ち着かない雰囲気の男性に一声かけて、彼が正式な本日の客であることを確認すると丁重に一礼して扉まで案内した。

 

 ではよろしく頼む、と鷹揚に頷いた男性だが、舌は乾き気味で服の内は仄かに汗ばんでいた。

 不安と緊張――――それと期待が彼の鼓動を俄かに逸らせる。

 警備員が手を掛けた扉の上には表札のように店の名前が掲げられている。

 

 店の名は『リーベ・エンゲル』。

 有体に言って――――娼館だった。

 

 

******

 

 

 高級娼館『リーベ・エンゲル』はその外観に恥じず、内装も相応の優美なものだった。

 足先が沈むような柔らかな絨毯、木目の上に光沢も見えるような調度品。

 最新式の魔道具を導入した照明は光量こそ控えめだが、それが雰囲気を演出するための意図的なものであることは明らかだった。

 全体的に薄暗くはあるが、エントランスホールの吹き抜け構造は圧迫感や閉塞感とは無縁の広々とした作りになっていた。

 

 男は受付で改めて来店を伝えるとラウンジの椅子に腰かけた。

 ふぅ、と一息つくがそれが却って自身の緊張の度合いを自覚させる。

 シャツの内側にじっとりと汗をかいている感触があり、心臓が肋骨の内で鈍い音を立てている。

 手持ち無沙汰をやり過ごすように、目の前の机に置いてある店のパンフレットを手に取ってぱらぱらと捲る。

 羊皮紙を束ねたパンフレットはそこそこの(ページ)数があり、一枚一枚丁寧に所属する娼婦の説明やアピール、可能なお遊び(プレイ)の内容が記載されていた。

 

 しかしながら今夜男が指名した娼婦はこのパンフレットの内容を吟味して決定したわけではない。

 前回来た時にたまたま横ですれ違っただけの相手である。

 ただそれだけの事なのだがその時に見た印象的な姿がどうしても脳裏にこびりついてしまい、その悶々とした気持ちを晴らすためにこうして今日来店したのである。

 

「こんばんは、いらっしゃいませっ♪」

 

 さて彼女の(ページ)は、と男の指が紙を手繰っていると不意に横合いから声をかけられた。

 夜半の娼館には似つかわしくない、(さえず)る小鳥のような朗らかであどけない声だった。

 

「すいません、お待たせしました。今夜はニーナをご指名頂いてありがとうございますっ」

 

 男が振り向くとそこにいた少女は深々と腰を折って一礼した。

 作法に則った所作のはずなのだが、彼女がすると幼い子が背伸びをしているような微笑ましさを感じさせる。

 顔を上げると同時に長い髪がサラサラと涼風にそよぐように揺れて、青い果実のような甘酸っぱい香りがふわりと薫る。

 上質な麻の糸を一本一本(くしけず)ったような、手入れの行き届いた綺麗な髪だった。

 整った顔立ちに載せた化粧は最小限のものだが、それがむしろ素朴な魅力を引き立たせている。

 亜麻色の髪と相まって、立っているだけでそこに小さな陽だまりがあるように思わせる可憐な少女だった。

 

 だが、最も人目を引くのは長く美しい髪でも笑顔でもなかった。

 纏っている衣装は襟元に淡紅色のリボンを巻いたノースリーブのブラウスに、ふんわりと広がったフレアスカート。

 飾り気はないが全体として清純な雰囲気を感じさせる服装で、彼女には良く似合っていると言えるだろう。それは良い。

 

 それは良いのだが――――そこから覗く手足は人間のモノではなかった。

 

「あっ。やっぱり気になりますよね?ニーナを指名してくださった方は大体みんなそうですもの」

 

 そう言われて男は自分の視線が随分と無遠慮にそこを眺めまわしていたことを悟った。

バツが悪い気分になってもごもごと謝るが。ニーナと名乗った少女は全く気を害した風も無かった。

 むしろこちらに手を見せるように差し出して自慢げな笑顔さえ浮かべていた。

 

「なんでしたら触っていただいても大丈夫ですよ?――――あたしだって、すごくきれいだって思ってますから!」

 

 ふふん、と元気な笑みを見せる少女の手は無機質なまでに真っ白だった。

 その表現は比喩でもなんでもない。指を動かすごとに小さく鳴るかきかき(・・・・)という関節の音、陶磁器じみた質感の白い光沢。

 

 ニーナの両腕は義手だった。

 肘のすぐ上に固定用と思われる黒いバンドが巻かれ、そこから指先までが義手になっている。

 それだけではない。視線を下げればスカートから覗くほっそりとした白い脚も同じ色合いが見て取れる。

両脚も義足なのだ。

 

 両手足が義肢の少女娼婦――――その事実を認識すると男の胸の内で、心臓が複雑な音を立てた。

 

「んー?そうですねっ、()()()()は後に取っておきましょうか。えーと、お客様、今晩は『ご宿泊』コースのみでお間違いなかったですよね?」

 

 固まったままの男を見てニーナは一度手を引っ込めることに決めたようだった。

 そこで問われた彼は言葉に頷きを返す。

 この娼館は一階にレストランが併設されており、あてがわれた娼婦と共に食事をすることも可能だ。

 無論、ただの飲食スペースというだけでなくその後の()()を踏まえた艶事めいたサービスもセットとなっている。

 同じフロアには小規模ながらも舞台(ステージ)が設けられており、単純な音楽や舞踊は勿論、ストリップショーやポールダンスなどの出し物も堪能できる。

 ……とは言うものの流石に高級娼館なだけのことはあり食事自体の質も相応に高く、それを目当てに来る客も一定数いるというのは、一つの余談である。

 

 そちらの方も多少の興味はあるが男が選んだのは、そちらは抜きにして部屋を取る方のみのサービスだった。

 確認を取ったニーナはそれではどうぞ、と手招きして二階へと続く階段を指し示した。

 先導するように少女が歩くと()()()()()()、と積み木が揺れるような音がする。

 少女の両脚の義足が立てる音が吹き抜けのラウンジに小さく木霊していた。

 

 

******

 

 

 ()()が今夜泊まる部屋は二階の一室だった。

 簡潔(シンプル)な作りの押戸を開いて中に入ると、空気に乗って甘い香りが漂った。

 ラウンジよりも一段薄暗いように調整された部屋の明かりは、ぼんやりとした間接照明の他にも蝋燭を使っているのが見て取れた。

 恐らくはアロマを兼ねたものなのだろう、蝋燭からは甘い香気が(くゆ)り立って鼻腔を擽った。

 

「上着はそちらのハンガー、手荷物はそちらの籠があるのでお使いくださいね。それとお飲み物もご用意しますのでお待ちください」

 

 そう言うとニーナは窓際の小さなテーブルに歩み寄って水差しからグラスに中身を注ぎ始めた。

 言われた通りに荷物を片付けながら男は思わず器用なんだね、と声をかけていた。

 

「すごいでしょう?あたしの手、『先生』が作ってくれたんですっ。こうやってモノを握ったり掴めたり。足だって、ちゃんと立てるし歩けるんですよ!」

 

 その義肢を作ってくれた『先生』という人の事が余程誇らしいのだろう。

 ニーナはあどけない顔立ちに爛漫という言葉がそっくり当てはまるようなにこにこした笑みでそう語った。

 文字通りに白磁の指先を握っては開いてを繰り返してその出来の素晴らしさをアピールする。

 指と掌が擦れ合うと()()()()と音が鳴り、それが小気味よさを感じさせた。

 

「あぁ……でもその、まだ普通の人みたいに器用には動かないので……。ちょっとできるサービスは少ないかもしれないですけど、それだけはご了承ください」

 

 そう言うと彼女はしゅん、と肩を落とした。

 それは仕方のないことだし気にはしていない、と男は椅子に腰かけながらフォローした。

 ニーナが手足に不具を抱えているのを承知で指名したのは男の方なので、その程度の事でどうこうを言うほど器は小さくないつもりだった。

 むしろ、こうして接する分には普通に手足がある人間と左程変わりがないように見えることに驚嘆しているほどだった。

 

「そう言っていただけるとありがたいです。……でも、でもなんですよっ。服を脱がせてあげたりとかー、色っぽく服を脱いだりとかー、お手々で扱いてあげたりとかー、そういうサービスだってしてみたいじゃないですかっ!あたしだってちゃんとした娼婦なんですから、いつまでも現状に甘えてたくはないんですよっ!」

 

 つまるところ彼女の指先は「握る」まではできても「摘まむ」まではうまくいかないのだ。

 服の脱着(ぬぎき)でもボタンの留め外しは一人でできない以上、ストリップの一つも満足にできない。

 そういう自身の現状に彼女は憤懣を抱き、それゆえに強い向上心を露にしているのだった。

 

 なので今はナイフとフォークでご飯を食べる練習をしていますっ、と拳を握り締めて抱負を語る彼女に思わず男は苦笑を零しながら手を差し伸べた。

 掌を少女の頭に載せてそっと撫でる。健気に努力を重ねようとするその姿が何ともいじらしくて可愛らしく、つい手々が出たのであった。

 反射的にやってしまったことだったが、それはそれとしてニーナの頭の撫で心地は男にとっても実に快いものだった。

 掌にしっくりと納まるような小さな頭骨の感触に、見ただけでもわかる艶やかな髪の手触り。

 淡いベージュの髪はそれ自体が極上の反物のようで、するするとした指どおりの良さは思わずずっと触っていたくなるほどだった。

 

「……良いですよ、もっと触っていただいて。ニーナも、自分の髪は好きなんです。娼館(ここ)のみんながニーナの代わりにちゃんと綺麗にしてくれてるんです」

 

 ――――だからもっと触って、撫でて?と少女が囁く。

 

 男がはっと目を見開くと彼女はそっと細めた眼差しでこちらを見つめていた。

 長く繊細な睫毛に縁取られた薄茶色(ライトブラウン)の瞳は部屋灯りを照り返して、濡れるような光を湛えている。

 甘えるように男の手に頭を擦り付ける仕草は子猫のようにあどけない。

 しかしそれとは裏腹に男を見つめる表情は驚くほどに蠱惑的だった。

 

 目線一つ、表情一つでこうも雰囲気がガラリと違う。

 今目の前にいる少女はどれだけ子供らしく見えても、一人の夜の女なのだと改めて彼は思い知った。

 

「ん……っ♡」

 

 髪を梳っていた指がそろりと降りて、形の良い耳を、ほっそりとした顎先へと繋がる柔らかな頬を撫でる。

 少女が漏らした吐息は鼻にかかったようなどこか甘い響きのものだった。

 明白に()の気配を滲ませたその悩ましい仕草に、男の心臓は高鳴った。

 桜色の乙女の唇が揺らめく蝋燭の明かりを反射して艶めいていた。

 

 髪は絹のようで、肌は磁器のようだった。

 ニーナに触れた場所はどこも極上の手触りで男を楽しませる。

 服のボタン一つ満足に留められない指先である以上、体の手入れ(ケア)はどうしても人任せにならざるを得ない。

 その上でこれだけの質を維持しているのは、ひとえに周りの人々の支えあってのものだろう。

 彼女が大事にされているのは愛情故か――――はたまた()()()()故か。

 そんな言葉が頭を過ぎり、男の胸の内にざわめきを生んだ。

 

「うん……そこも、触って?」

 

 じっとりと濡れたような、媚びるような響きの声が耳朶に染み入る。

 囁きに導かれるままに彼が触れたのは少女の腕だった。

 ノースリーブの服から覗くのは華奢という言葉を絵に描いたような小さな肩と二の腕……そしてその半ばに巻かれた固定用のバンドと、すぐ下にある純白の義手だった。

 血の通った柔らかそうな乙女の柔肌と、血の通わない硬質な作り物の腕。

 同じ「白磁の」という形容が似合う色合いでありながら、その有機と無機の対称性(コントラスト)はどこか倒錯的とさえ言える美を醸し出していた。

 

 敢えて彼女が袖なしの衣装を着ているのは、それこそが自身の魅力(アピール)に繋がることを良く知っているからだった。

 両手足が作り物の少女という衝撃的な外観はそれだけ人の目を惹くし、人目を惹くということはそれだけ口端に上りやすく――――つまりは顧客の獲得に繋がるということなのだ。

 

 男は恐る恐るという風にニーナの義手に触れた。

 しっとりとした潤いと血の通った暖かみのある生の肌とは全く別の、つるりとした質感。

 それでいて肌に吸い付くような感触は別種の手触りの良さで彼を魅了した。

 陶磁器のように繊細な美しさを有していると同時に、実際に触れれば大理石のように(しっか)りとした安定感さえ感じる。

 

 思考を反映してある程度の動作をする義肢型の魔道具は近年少数ながら流通している。

外見の美しさを重視した義肢も、腕の立つ職人に発注すれば作ることは可能だろう。

 だが、機能と美観の両立を此処までの質で両立しているのはニーナのこれ以外には存在しないだろうと男は確信した。

 ……果たしてこれを作ったという『先生』とは何者なのだろうか? 

 

「外してみてもいいんですよ?」

 

 黙って思索に耽りながら、腕を撫で擦っている男にニーナが声をかけた。

 惑わせるような、からかっているような、それでいて誘うような、そんな(かお)をしていた。

 

「そこの、腕の留め具のところです。指を引っ掻けて、ちょっと押し上げるだけです……ほら」

 

 彼女の声に誘われるままに彼は金具を指先でくい、と弾くように動かした。

 すると、ぱちっ、と小さな音とともにバンドと、それによって固定されていた義手が落ちる。

 ごとん、と大きな音を立てて机の上に転がったことに男は微かな動揺を覚えたがニーナは気にした素振りも無い。この程度は問題にならない程度には頑丈なのだ。

 卓上に横たわった腕はぴくりとも動かない。使用者から切り離されたのだから当然の事と言える。

 だが、先ほどまで()()()()()腕さながらに動いていた姿を知っている者からすると、その白骨のような白さと相まって()()()()とも形容できそうな物悲しさを感じさせた。

 

 しかしそれ以上に男の眼を惹いたのは、ニーナ自身の腕の方だった。

 男の手なら一掴みにできる程にか細い少女の上腕、その半ばから先が綺麗に()()()()()いる。

 本来あるべきものがそこにはない、という異様な風景は見るものに猛烈な違和感とその分だけの強烈な印象を焼き付ける。

 あるべきはずのものを幻視して、それでも実際にそこにはないという現実が彼の頭をぐらぐらと揺らす。

 

「これも『先生』がやってくれたんですよ。()()()()あとは本当に酷かったらしいんですけど、こんなに綺麗に整えてくれたんです」

 

 ニーナはそう言って残った方の腕で、なにもない側の()()を愛おし気に撫でた。

 彼女が語るようにそれは美しささえ感じる処置の痕だった。

 何せ断面には縫合痕の一つさえ見当たらない。()()()と丸みを帯びた断面はまるで生まれたときからそうであったかのように自然な状態でそこにある。

 だが切られた、と彼女は言った。それが生まれつきのものであったわけではないのは確かなようだった。

 

 それは果たして()()ものも()()なのだろうか?

 腕も脚も切り落とされて、そして今はこうして娼婦に身をやつしている。

 それはどんな凄絶な過去だったのだろうか?

 そしてどんな生き方をしていればその上であんなにも屈託なく笑えるのだろうか?

 

「ほら?こっちも外してみてください。さっきみたいにぱちんっ、て」

 

 そんな彼の胸の内を知ってか知らずか彼女は艶然とした微笑みを浮かべながらもう片方の腕を差し出した。健気な捧げ物のように。

 先ほどと同じように()()()と呆気なく腕が落ちる。腕が死ぬ。

 これで袖なしの綺麗なブラウスから覗くのは、物を掴むのも握るのもできない、芋虫めいた短い腕だけだ。

 その()()な様を見せびらかすようにニーナは腕をパタパタと振った。

 

「わぁ、これでニーナは何にもできなくなっちゃいましたっ。……もう、お客様には何されても、抵抗したりできないですね?」

 

 言葉と裏腹に少女の言葉には悲壮さも何もない。むしろ挑発するような婀娜っぽささえ感じさせた。

 小首を傾げてこちらへと注ぐ流し目は、少女というにはあまりにも色を帯びすぎていた。

 

「やだ怖い……。ニーナ、何されちゃうんでしょう?――――あと、脚の方も取られちゃったら、逃げることだってできなくなっちゃいます……」

 

 あぁ、なるほど。これはそういうお遊び(プレイ)なのだな、とそう確信するとともに男の内には熱が込み上げてきた。

 最初に少女を一目見たときから悶々と鬱々と自身の内に降り積もっていたものに、静かに火が付いたように()()()()と衝動が胸を焦がしていた。

 

 彼女の拒絶(おさそい)に乗るように、彼は少女が座る椅子の前に跪いた。

 ふわりとした裾が愛らしいスカートから伸びるほっそりとした脚はしかし、しなやかな人のそれではなく陶器の光沢を見せる義足のそれだった。

 

「んぅ……恥ずかしい……♡」

 

 男が先ほど腕に対してそうしたように純白の白い義肢を、その手触りを堪能するように撫で擦るとニーナは恥じ入るように顔を伏せた。

 反射的に顔を覆おうとしているのだろうか、手のない腕が中空で蠢いている。

 その様が可愛らしく、いじらしく――――哀れで、一層男を興奮させた。

 

 今や遠慮なく彼の手はスカートの中にまで及んでいた。

 可憐に広がる布地に隠された、秘されるべき乙女の生足も()()()()()()()()()()()という事実が奇妙な興奮を煽る。

 視界が通らないスカートの下で彼は、少女の生身の脚と義体の脚との間を何度も掌で往復して双方の感触を味わった。

 まだ未熟さの残る肉付きの甘い少女の太腿、そこにピタリと接合された球体関節を覗かせる膝と下腿……。

 

 手と指で舐めしゃぶるようにそれを楽しみつくしてから彼は両腕に対してそうしたように、ぱちん、と留め具を外してしまった。

 支えを失った両の脚を、男は貴婦人の靴を脱がすかのような丁寧な所作で取り外した。

 血の通わない少女の脚をゆっくりと床の上に置いて、彼は改めて少女を見降ろした。

 

「…………っ♡」

 

 品よく誂えられた宿の一室、椅子の上に腰かけている幼さを感じさせる少女。

 手入れの行き届いた長い髪に滑らかな肌。あどけなさを感じさせる(かんばせ)は仄かに赤らんで、愛らしさと色っぽさが奇妙に同居していた。

 清楚な雰囲気を醸し出す仕立ての良いブラウスとスカートが良く似合っていて、可憐であると言わざるを得ない。

 だが、その少女からは両手足が失われているという一点が、その光景をなんとも冒涜的で倒錯的な物へと演出していた。

 

 ――――まるで人形だ、と男は思った。

 そしてその言葉は思ったそのままに口からも放たれた。

 少女はそんな男にまるで気分を害した風も見せず、それどころか甘い笑みを浮かべてこう言った。

 

「そう……ニーナはお人形さんなんです。動けないし、歩けない。自分からじゃ何もできないんです。――――だから、今夜はお客様の方からいっぱい、いっぱい、ニーナを可愛がってくださいね……?」

 

 手がない。足がない。

 だから抵抗できない。逆らえない。逃げられない。

 両腕も両脚も切り落とされて、義手義足も外されてしまえば何もできない憐れな女の子。

 可哀想で、だからこそ可愛らしい。()()()()()()()()()()()()少女人形。

 それが娼婦としてのニーナの趣向(コンセプト)だった。

 

 ……そして、そんな彼女を敢えて指名してくるような人間は好奇心故の怖いもの見たさか――――或いは人並み以上の倒錯的な嗜虐欲を抱えた人間であることが多い。

 ()()()()()、今もまだ触れれば壊れそうな人形少女を哀れみながら、憐れみながらも欲情を抱いてしまう、そんな曲がりくねった性欲を抱いている人間だ。

 

 

(んー……この調子だといい感じでいけそうかな?よっし、次の指名に繋がるようにがんばろーっ)

 

 

 男がぎらついた目で襟元のリボンに手を掛けるのを見て、ニーナはそんなことを考えていた。

 ()()ヤって落ち着いたときに自分の身の上話でもしたら同情が買えるだろうか、などと心の中で手札(カード)を吟味しながら。

 

 

 

 



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2.ブランチの時間

 

 

 

「ふぁ~~ぁ……」

 

 翌朝、ニーナはあくびを堪えながら階段を降りていた。

 かちゃ、かちゃ、と義足の関節が立てる音は静かでゆっくりとしたものである。

 彼女の義肢は相当に高品質な魔道具ではあるのだが、それでも繋がっている感覚は相当に鈍くニーナにとっての歩行は竹馬に乗りながら生活しているようなものだ。

 階段は昇るよりも降るときの方が重心移動の関係で転びやすいため彼女はしっかりと手摺に手を添えながら、一段一段丁寧に(あくび混じりながら)段差を降りていくのだった。

 

 一階に着いた彼女が向かったのはレストランフロアだ。

 夜間は客を相手に営業しているのだが、朝と昼は従業員向けの食事を提供してくれている。

 所謂、社員食堂というものだろうか。タダというわけにはいかないが、それでも詰めている料理人(シェフ)の腕の良さから好んでここに来る者は多い。

 

 ニーナは勝手知ったるという風に食事を注文したが、彼女に関して代金はフリーパスだ。

 彼女のように住み込みで働いている者に対する場合、食費は家賃の内に直接含まれているからである。

 なお、ニーナの場合は家賃に加えて義肢作成費・維持費と()()()分の借金、及び介助費まで給料から天引きされており、手持ちはほぼいつでも素寒貧だ。

 他所に食べに行く余裕も無いので実質このレストランが自宅の食卓(ダイニング)となっている

 

「あっ。リズ姉、ミカ姉、おはよーっ」

「おはよう。ニーナ」

「おぅニーナ、おはようさん」

 

 サンドイッチを頼んだニーナはよく見知った顔が並んで席に付いているのを見て取り、そちらへと寄っていった。

 一人は豪奢な金髪を後頭部で纏めたスタイルの良い女性。

 もう一人は小柄な部類に入るニーナよりもまた一つ背の低い、童女と言った方が良さそうな女性だった。

 

「昨夜はよく寝られた?」

「寝れたは寝れたんだけど、あたしの方が途中で疲れて寝ちゃった感じ。ふぁ……」

「あら。朝方こっちの見送りの時にすれ違ったんだけど、見かけによらず激しい方だったのね」

 

 こんな小さい子相手に、と女性は付け加えそうになった言葉を飲み込んだ。

 リズ、と言われた彼女は幼げな容姿をしているニーナに比べると女かくあるべし、と言われるほどには大人びた風貌をしている。

 ラフな普段着を纏って腰かけているだけでもわかる程度にしっかりとした上背があり、結い上げた金髪から覗くうなじも艶めかしい。

 特に白い肌に包まれた肢体は肉感的で、触れれば指先が沈み込みそうな柔らかさと豊かさは見ているだけで男なら誰しも抱きしめたくなる思わせるほど。

 切れ長の瞳は一見すると険があるが、同時に思慮深さと教養の深さを感じさせる知性のある眼差しだった。

 

 そのタイミングでテーブルにニーナが頼んだサンドイッチが運ばれてくる。

 ありがとー、と彼女が満面の笑みでお礼を言うと厨房スタッフからも笑顔が返された。

 時刻的には朝と言うにはやや遅く、昼と言うにはこれまた早いという時間帯なので、これはブランチと呼ぶべきだろうか。

 

 先ほどリズが少し零したように『リーベ・エンゲル』の娼婦は一晩を共に過ごした客を玄関先まで見送って一仕事終えたということになるが、それも手足の無いニーナには難しいことなので省略されることが多い。

 義肢と衣服を身に着けるのにも他人の介助が必要なのでそこまでお客様の手を煩わせるのも……と言う判断だ。

 なのでニーナはベッドの上で半ば夢見心地のまま客を見送り、そのまま二度寝を貪ってから清掃担当の従業員に叩き起こされたという次第なのである。

 

 なおニーナの義肢装着や体の清拭もそうした従業員の仕事に含まれているが、嫌な顔をされたことは一度も無い。

 自分一人では何もできないという四肢欠損の体を抱えながら、卑屈さを一切感じさせないままに朗らかな笑顔でお礼を言うニーナの姿が彼ら彼女らに負担を覚えさせないのである。

 

「うん、結構激しかったよっ。あのねっ、あたしの昔話とかしてあげたら『可哀想、可哀想』って言いながら腰の動きが早くなるのっ。なんだかおかしくなってきちゃって、笑わないようにするの大変だった!」

「まぁなぁ……アタシらみたいなのを指名するような客って()()()()ところあるよな」

 

 でもそういうのを釣り上げるのが楽しいんだが、と含み笑いを零すのはミカと呼ばれた女性である。

 ミカ……正しくはミカエラ、という彼女はただでさえ低身長のニーナと比較してさえ更に一段背が低い。二人で並べばこの店の中で下から1、2位となる組み合わせだった。

 ふんわりと顎先辺りでまとまった黒髪のショートボブに、くりくりとした黒目勝ちの眼。

 桜色の赤みが差した愛らしい丸みの頬と合わせて無垢な童女といった風にも見える。

 ただ、今テーブルについている彼女はソファの上に胡坐を組んでもたれかかりながら、正午にもならないうちに(度数の低いものだが)エールを煽りつつ干し肉をガジガジと噛み締めている……という何とも赤の他人には見せられない姿を晒していた。

 少なくとも、彼女の指名客が見れば卒倒するだろう。

 

「そういう連中……なんつーんだっけ、ローリー……ローラー……」

「ロリコンさんっ!」

「そうロリコン。小児性愛者(ロリコン)だ。小さい女の子にしか興奮できない奴ってのはあれだよ、そういう病気なんだ。セックスはコミュニケ―ションって言うだろ?自分と同年代とか、普通の魅力的な女とかを口説く度胸も無ぇってのが自分でわかってるから一方的に手込めにできそうな奴にしか勃たねぇのさ。哀れだねぇ」

「ミカ姉、厳しいね……」

「ミカエラ、最近なにか辛いことでもあった?」

「いや別に、普段から思ってるだけの事だし……。あ、もちろん他所では言わねぇよこんなこと!」

「それはわかってるよー」

 

 ニーナはサンドイッチをフォークとナイフで切り分ける練習をしながら相槌とも呆れとも言えない苦笑を漏らした。

 ミカエラは自分の容姿の幼さを武器にまで昇華させることでこの界隈を生き残ってきた歴戦(ベテラン)の娼婦だった。

 毎夜、(ニーナ自身とは違う意味で)お人形のようなフリフリのドレスを着こんで()()()のお客さんの頬を煮込みすぎた麦粥のように緩ませている姿と、今の素の姿とのギャップは見ていて混乱するレベルだった。

 

 ――――あんなに仕事中とプライベートとの切り替わりが激しすぎて本人の頭は大丈夫なんだろうか、いや、大丈夫とは言えないから昼間からお酒を飲んだり過激なことを言ったりするのだろう。

 などと、心の中を読まれたら失礼極まると抗議を受けそうなことを考えながら、ニーナは手元でナイフとフォークの力加減を間違えて机の上に取り落としていた。

 

「……ま、まぁ。未成年への性的虐待は父親、教師、神父などが行うことが多くて性欲よりも支配欲に端を発している事の方が多いと聞くし……」

「へぇ、それは初耳だねぇ。どこで聞いたんだいそんなの」

「……『先生』のところで」

 

 先生、と口にしたとき一瞬だけリズの眉根が寄る。

 ただそれは目の前に座る他の二人にもわからない、本当に一瞬のうちに消えてしまったが。

 

「とにかく。あなたたち二人みたいなのは()()()なのが好きな乱暴な人に当たる可能性が高いのだから注意して頂戴ね。お店の方でもチェックはしてるけど、それでも万全じゃないし。特にニーナは」

「うん、あたしだったら何されても手も足も出ないしね!」

「マジだなそれは!!あっはははっ!!」

「にへへーっ」

 

 会心のブラックジョークを決めたニーナとそれに爆笑するミカエラを渋い目で見ながら、リズはニーナの手からすっぽ抜けたナイフとフォークを回収して元に戻した。

 ついでに見てみると皿の上ではパンと中の具材がずれて滅茶苦茶になりかけていたのでそれもササっと直してやる。

 物を切り分ける練習が失敗に終わっても、手掴みで食べる方向へなら修正が効くのがサンドイッチの良い所だった。

 

「でもでも、リズ姉は心配してくれてるけど……。実はあたし、ちょっと乱暴なくらいが燃えるタチっていうかー……」

 

 整えられたサンドイッチを大人しく口に運びながら、ニーナは少し照れたような表情で呟いた。

 頬を少し染めながら、もじもじとはにかみ交じりに語る姿は初心(うぶ)な乙女のようだが、内容自体は過激もいい所だった。

 

「あたしの体って小さいから抱えやすいでしょ?それでねっ、ぐいって抱きかかえられながらパンパンって音が鳴るくらい激しくされるのが好きっ」

「あー……なんとなく気持ちはわかる。相手が興奮してくれてるんだなー、ってのが解ると割と満足感あるよな、こっちも。喘ぎ声にも熱が入るっていうか」

「でしょー?」

「そして翌朝、股が結構痛いんだわこれが。アタシらだと比率で言うと大抵はビッグサイズになっちまうからな!」

「わかるー!」

 

 低身長・低体重組あるあるネタでニーナとミカエラは盛り上がる。

 先ほどの話に立ち返るが、彼女らのような系統の娼婦をわざわざ指名するような客は特殊な趣味を持っている者に分類される。

 小さいもの、華奢なもの、弱々しいもの、壊れそうなものに欲情し蹂躙することに興奮を覚えるような性質(タチ)の持ち主であれば、それがエスカレートして暴力的な行いに及ぶ可能性も無くはないのだ。

 店側でも対策は幾つか立てているが、それでも手放しで万全と言えるわけでは決してない。

 

「……貴方たちの趣味嗜好には口を出さないけれど、実際に暴力を振るわれそうになったり、怪我をしそうになったら大きな声を出して廊下の警備員に知らせるのよ。

 ――――特にニーナ。貴方は()()()()()ことがあるんだから、本当にそれは忘れないようにしなさいね」

「うっ……わかってるよ、リズ姉」

 

 リズは殊更に強い口調と眼差しを添えてニーナにそう言った。

 子リスのようにもぐもぐとサンドイッチを咀嚼しながら、彼女はバツが悪そうに肩を縮こまらせた。

 相手が真剣に話していること、そして自分を心配してくれていることくらいは彼女にも理解はできる。

 

「――――だって、あたしの()()()()()()()()()()()()()ダメだもんね。顔とか、首とか、お腹とかに痣とか作っちゃダメ。そうだよね?」

 

 ……そして、何に対しての真剣なのか、誰に対しての心配なのか、それを()()()()()()()上でニーナはそう答えた。

 だが当のリズも、先ほどまで談笑していたミカエラも渋い表情を浮かべているのに気付いて、彼女は首を傾げたのだった。

 

「……あたし、何か変なこと言った?」

「ニーナ、貴方は――――」

「よしっ!!どうせだしニーナにはアタシが編み出した小児性愛者(ロリコン)悩殺テク100連発でも教えてやろうかなっ!客層被りのライバルとはいえ、同じ店の仲間でもあるわけだしな!」

「えっ、いいのっ?っていうか100種類もあるのっ!?」

「……流石に無いなっ!」

「その場のノリっ!?」

 

 リズが口を開こうとした瞬間、そこに割り込むようにミカエラは殊更大きな声を上げてニーナの気を引いた。

 いや、『ような』ではなく事実、割り込んだのだ。ミカエラはリズに目配せをしてニーナを自身とのやりとりに夢中にさせる。

 そのためニーナはリズが目を閉じながら眉を顰めて溜息を吐く姿を視界に納めることは無かった。

 

(恨むわよ、『先生』……)

 

 もっとちゃんと彼女の情操教育をやっておいてくれ、と心の中で胡散臭さを擬人化したような魔術師に文句を垂れる。

 『彼』の性質上真っ当な倫理観を人に教えることなど望むべくもないというのは、他ならぬリズ自身が文字通りに()()()()()理解はしている。

 リズとニーナは『先生』の所にいた時期が違うので推量でしかないが、彼女を今の状態になるまで()()したのは本当に奇跡的な偶然と言えるような気紛れだったのだろう。

 それを踏まえれば称賛こそすれ罵倒の謂れは無いのだろうが……やはり愚痴の一つくらいは言いたくなる。

 

 ここの辺りの感覚は『先生』の所にいた経験のないミカエラにはわかりにくい話ではある。

 どうにも感謝が2割、文句が8割という対応をせざるを得ない。関わった多くの人間にとって『先生』とはそんな存在だった。

 

「……ところでニーナ、ご飯の後はどうする?貴方、今夜も予約が入っていたはずだしお昼寝くらいはしておいた方が良いんじゃないかしら?」

「んー……?あ、そうだね。確かにちょっと寝た方が良いかと思うんだけど、しばらくは起きてるよ。用事があるし」

「お、なんかあんのか?」

 

 眉間の皺を指で揉んで解してから、リズは適当な話題を振った。

 (少なくとも同性から見れば)あざとすぎて胸やけを起こしそうなぶりっ子ポーズをしているミカエラの真似をしつつ、ニーナは思い出すような素振りを見せてから応えた。

 

「うんっ。あたし、今日は健康診断!」

 

 ニーナはそう言うと自分の両腕の義手を広げる。

 純白の、陶器の質感を持つ指が()()、と硬質な音を鳴らした。

 

 

 

 




ニーナの喋り方について:
一人称・あたし×タメ口→プライベート
一人称・ニーナ×敬語→接客中
一人称・あたし×敬語→接客中に素が出ているとき、あるいは素が出ているように見せているとき


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3.魔術と義肢

 

 

 

「こんちわーっす。ニーナちゃんいるっすかー?」

「あっ!アナちゃん、おはようっ!こっちだよーっ」

 

 三人が一通り食事を終え、お茶を飲みながら時間を潰していた頃に来客があった。

 トランクを引きずりながら勝手知ったるという風に入ってきたのは黒いローブに黒い鍔広の帽子と、なんとも暗い色合いの出で立ちの女性だった。

 見栄えなど考えたことも無いような黒一色の服装に加え、帽子の下から覗く赤い髪は伸ばしっぱなしの乱雑なもので、眼鏡も太い黒縁の野暮な品である。

 仮に彼女が娼婦であったのならば如何せん客に恵まれなさそうな容姿ではあるが、それに関しての心配は無用だろう。

 

 彼女は娼婦ではなく、魔術師なのだから。

 

「ニーナちゃん、久しぶりっす。元気してたっすか?」

「元気元気、大元気!昨日もお仕事頑張ったよっ」

「それはなによりっす。それじゃあ体診るっすけど、部屋行くっすか?」

「いつもの感じだったら、別にどこでも行けると思うけど」

「ん。じゃあ、その辺座ってもらっていいっすか?」

「はーい」

 

 アナ……アナベルは早歩きで駆け寄ってきたニーナと抱擁を交わして笑顔を向け合った。

 その様はさながら仲睦まじい姉妹のようでさえあった。実際のところ血の繋がりは無いが、当人たちに聞いても「そんな感じ」と肯定が返ってくる程度の関係であった。

 挨拶もそこそこに二人は適当な椅子に腰かけて『診察』の準備を始める。

 

 とはいってもニーナに関してはただ座っているだけだ。

 一方でアナベルはトランクからこれまでの経過を纏めたカルテや羽ペンなどの筆記用具などなどの道具類を机の上に広げて並べ立てる。

 一通り準備が終わってから診察が始まるが――――こちらもそう大仰なものではない。

 傍から見ればアナベルがニーナの体に触れながら何事かをぶつぶつと呟いているだけに見える。それでも大概不審な光景かもしれないが。

 

「アレって何やってんの?」

「ニーナの健康診断よ。主に義肢の調整ですって」

 

 そしてそれを別の(テーブル)から観察しているのはリズとミカエラの二人である。

 ミカエラは『リーベ・エンゲル』の内では比較的新参に当たるため、ニーナの診察を見るのは初めてだった。

 彼女は興味津々といった風にその光景を眺めていたが、ただ見ているだけでは何をどうやって診断しているのかもよくわからなかった。

 頭上に『?』マークを浮かべている彼女にリズは助け舟を出すことにした。

 

「ニーナの義肢は魔道具だから、体の魔力の流れを診ているんでしょうね」

 

 ――――この世界には『魔法』という概念が存在しており、それを解析して人間が扱えるようにしたのが『魔術』という技術である。

 研究者である『魔術師』たちの探求によって世界には『魔力』という目には見えないエネルギーが満ちており、それを制御することで任意に様々な現象を引き起こすことが可能であると明かされ、また人間の体にもその魔力が宿っていることが分かった。 

 ……だがしかし魔術師と成り得るのは才能に恵まれたごく一部の人間に限られる。

 棒切れを持ってチャンバラごっこをする子供などありふれているが、そこから剣の術理を修めて剣士、剣客と呼ばれるようになるようなものはどれだけいるのだろうか?

 魔術に関しても同じで、ただ単に魔力を持っているかでではなく、その扱いを己の生業として定めるだけの不断の努力と知識の研鑽が求められる分野なのだ。

 

 故に歴史上において魔術は(その原型となった魔法も勿論の事)ごくごく限られた専門の技能者のみが触れることを許される陰に秘された分野の学問であった。

 しかしながらここ一世紀ほどの間で発達したのが魔道具関連の技術である。

 物品の中に予め魔術を仕込んでおくことで魔術の訓練を行っていない者でもその恩恵に与れるため、様々な分野でその研究が進んでいた。

 

「ふーん。そんじゃあ、()()()も魔道具技術の一環ってことかね?」

「そう言うことになるわね」

 

 ミカエラはリズの解説を聞きながら自身の下腹をぽんぽんと叩いた。

 これは気を抜けばすぐにでも弛み始める腰回り(ウエスト)を差しているのではなく、その表面の事である。

 今は服に隠されていて見えないが、彼女の下腹部にはハート型を彷彿とさせる形状の刺青が刻まれている。

 これは魔道具技術の応用で作られたものであり、性病予防と避妊の効果を併せ持った魔術的な紋様である。

 処置に際して相応の費用は掛かるが、高級娼館である此処では所属する娼婦全員が施しているものだ。無論、ニーナとリズにもある。

 

「それを入れてから、時々不自然な体の怠さを感じるようになったんじゃないかしら?それは魔術の紋様が作用するときに貴女の体の魔力を消費している証拠なのよ」

「へぇー、それは知らなかったね。女将さんはそこまでは話してくれなかったし」

 

 そこまで話をしたところでミカエラは診察中のニーナの方へと顔を向けた。

 少女は大人しくちょこんと椅子に腰かけたまま、腕をテーブルの上に投げ出している。

 アナベルは生身と義肢との接続部周りや、磁器のように白い腕の表面を医師さながらの慎重さで触診していた。

 いや、実際にやっていることは医療行為なので医師と言ってもあまり誤解は無いのかもしれないが。

 

「それじゃあ、なんだ?ニーナの方の体は大丈夫なのか?魔力っていうのはよくわかんないけど、使ったら体怠くなるんだろ」

「ううん、あたしはそんなに疲れたと思ったことはないけど……」

「――――あぁ、それはこの義肢が消費型じゃなくて循環型だからっすね」

 

 ミカエラの呟きにアナベルが反応する。

 彼女は手元の義肢に視線を注いでいるままだが、その口調に澱みは無かった。

 

「人間の体には血液みたいに魔力が順繰りに巡ってるんすけど、ニーナちゃんの場合は手足がないんで本来そこに流れるべき魔力が断面の所で滞留してるっす。そんで、この義肢は接合部から魔力を取り込んで生身の体と同じように循環させて動かしてるって寸法っすね。肉体の延長線上で元々あるべき機能をそのまま再現してるだけなので燃費は格段に良いっす。一方で皆さんのお腹に刻んでるやつは人体の機能の抑制と追加。こっちは体に新しい能力を付与したようなもんなんで本来の魔力循環構造に組み込むのが難しいんすよねー……。まぁ、それでも普通はやっぱ消費型の方が一般的っすよ。出来合いのやつをポンと載せるだけで済むっすからね。循環型は個人個人の魔力経絡の構造に合わせた特注品(オーダーメイド)になるから微調整がキツくて……」

「そ、そうなのか」

「んで、こいつを見て欲しいんすけど」

 

 立て板に水といった調子で捲し立てるアナベルに若干引いた様子だったが、ミカエラは言われるがままに彼女らがいる側のテーブルに歩み寄った。

 彼女は既に頭がややパンク気味で辟易とした表情になりつつあったが、リズの方はむしろ興味津々と言った様子で魔術師の手元を覗き込んだ。

 

「んー……海の境、沢の堰を破る。血水、六脈を巡る。精気、五色を晒せ」

「おーっ!」

 

 感嘆の声を上げたのはニーナである。

 アナベルが彼女の義手を外してから断面に手を当てて何事かを呟くと、そこからじわじわと滲むように淡い光の線が中空に伸び始めた。

 それはやがて血管のように脈を打ち、ぼんやりとした腕の輪郭を象り始めたのである。

 

「これはニーナちゃんに()()()()()()()()流れていただろう魔力の流れっす。可視化してみました」

 

 こともなげにそう言うとアナベルは、今度は机の上に置かれた義手の側にも手を置いた。

 彼女が同じように魔術を唱えると義手にも光の血管のようなものが浮き上がる。

 それらは今もニーナの腕から伸びている仮想の魔力流と同じ模様を象っている。

 これまでの資料と見比べて双方に綻びが出ていないか確認したアナベルがまた一撫ですると、それらの光はまるで蜃気楼だったかのように一息で消え去るのだった。

 

「ん。右腕は問題なしっすね」

「すごいねーっ。あたしの体にも魔力ってあるんだ!」

「まぁ、多少の多い少ないはあるけど人間には皆あるっすよ。……っていうかニーナちゃんも魔力制御訓練やったじゃないっすか。『先生』のところで」

「……そういえばそうだったね!」

 

 腕が両方あればポンと掌を叩いていたであろう、今思い出したと言わんばかりのニーナの態度だった。

 アナベルの言う通り人間には個人で多寡の差はあれど誰しも魔力がある。

 この量はどれほど鍛えたところで誤差の範囲でしかない。それ故に何より重要なのは魔力を認識し、理解し、制御する技術である……とは『先生』の弁だが――――ニーナはこの辺りの才能が全くと言っていいほど無かった。

 彼女は一年ほど『先生』の元で治療を受けながら義肢使用訓練の一環として魔力の運用に関しても指導を受けていたが、まるで()()にならなかったのである。

 

「……じゃあ、だけど。魔力の制御がもう少しうまくいってればニーナちゃんの義手ってもう少し器用に動くのかしら?」

「おっ、リズさん鋭いっすねー。まさしく、言う通りっす」

 

 リズの指摘にアナベルは我が意を得たりと頷いた。

 人間の四肢には単純な触覚だけでなく、位置覚や深部覚……今自分の体がどのあたりにあってどのように動いているのか、を感じ取る機能が備わっている。

 

 今、指を握っているのか開いているのか?

 手首を曲げているのか反らしているのか?

 腕を上げているのか下げているのか?

 普通なら目を閉じていても存在しているこれらの感覚は思った通りの動きを体にさせるためにまず必要な情報だ。

 この義肢には皮膚の触覚は再現されていないが、もしも着用者が義肢内を流れている自分の魔力を精密に感じ取ることができるのなら、そうした感覚の代用にはなるだろう。

 ニーナには残念ながらその辺りの才能はさっぱりなかったのだが。

 

「『先生』に言わせると、()()()()()()のも原因の一つらしいっすけどね」

「ゲンシツー?」

「体の一部を失った人が、その失ったはずの部分に痛みを感じる現象っす」

 

 首を傾げたミカエラに対して魔術師が講釈を垂れる。

 例えば腕を失った人間であれば、傷が塞がっているにも関わらず腕が本来あるべき場所に耐え難い程の痛みを感じることがある。

 その痛みという輪郭によって象られる本人の仮想上にのみ存在している手足を幻肢と呼ぶ。

 幻視が本来の手足に対してどの程度の割合が残っているように感じるかは個人差があるが、目を閉じていれば実際に指や肘を曲げ伸ばししたりするように感じられることもあるという。

 

「んで、魔術的な分野から解説すると、幻肢ってのは傷跡から漏出した魔力が無意識のうちになくなった四肢を形成している現象なんすよねー」

 

 そう言いながら彼女はニーナのもう片方の腕に対して魔術を行使した。

すると先ほどと同じように少女の腕の断面から伸びた魔力が血管のように腕の輪郭を作り上げる。

 

「これは意図的に私が断面部分から()()()()()いるからこうなってるだけで、普段はこの魔力の流れは上腕の中に引っ込んでるんすよね」

「つまり……どういうことなんだ?」

「…………」

 

 ミカエラの疑問に、アナベルは少し神妙な顔をしてからニーナの方へと向き直った。

 

「ニーナちゃん、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()っすよね?」

「うん、()()()()()()

 

 あっさりと彼女はそう言った。なんという事のない表情であった。

 ニーナはアナベルの魔術で出現した、自分の魔力が象る腕の(シルエット)を動かそうと試みる。

 彼女の魔力であるからには彼女の意志で動かせるはずなのだが、握り拳を作ろうとすれば指が掌を貫通し、指を開けば掌が萎れた花のように過剰に開いていく。

 多少は訓練をしたはずなのだがこの様である。自分の手も指も、その本来の可動域を思い出すことすらできていないのは明らかであった。

 

「うーん……。やっぱり難しいね……」

「……まぁ、動かせるようになっただけまだマシっすよ。昔はピクリとも動かなかったっすからね」

 

 幻肢の存在を感じられているのであれば、それと連動した魔力の流れ、ひいては義肢の動きを感じることも容易だったろう。

 しかしながら本来あったはずの手足の感覚すら覚えていないのであればこれは困難極まる話だ。

 ニーナ自身が魔術的な才能にまるっきり恵まれていないというのもそれに拍車をかける。

 ここまで来ると彼女にとっての義肢とは、本来あるはずだった手足を再現する物ではなく、付け加えられた新しい器官にも等しいだろう。

 常人からすれば脇や背中辺りから第三、第四の腕を新しく生やしているような感覚に近いかもしれない。

 扱いづらいのも無理はない話だった。

 

 ……まぁ、それでも物は考え様というもので、ニーナの運用データは貴重な資料(サンプル)として集められている。

 実際にこれらは魔力を扱う素養がないもの向けの義肢や、健常な人間が使用する追加腕型魔道具の開発に役立てられている。

 『先生』の直弟子にあたるアナベルがニーナの体を定期的に診にきているのも、そうした参照情報(サンプルデータ)収集のためでもあるのだ。

 

「はい、付け直すっすよー。……違和感ないっすか?握ってー開いてー。ん、問題ないっすね。最近腕周りで変なことはないっすか?」

「絶好調だよ!ナイフとフォークも持てるし」

「さっき取り落としてたじゃない」

「リズ姉は言わないで!」

 

 接続しなおした手の指で、開いては閉じてをくり返す。

 先程の魔力の影と違って過剰に伸びたり、指が掌を貫通したりということはない。関節部分で動きに制限がかかっているからだ。

 ただ、やはり物に触れる感覚もなく、実際に動かしている感覚も希薄とあっては精密な動きは難しい。

 先程のように食事中にナイフとフォークを使うのも覚束ない以上、これから先も不断の努力が欠かせないだろう。

 

「自分で服脱ぐくらいはできるようになりたい……できればアイシス姉くらいに器用になりたい……」

「そいつは普通に手足のあるあたしらにもムズいわ」

 

 はぁ、とニーナは肩を落として溜息を吐く。

 彼女が挙げたアイシスというのは『リーベ・エンゲル』内で最も踊りが上手い娼婦である。

 ストリップ一つとっても思わず女性でも目を奪われる艶かしさがあり、舞台(ステージ)で魅せる踊りはこれだけを目当てに通いにくるファンがいるほどだ。

 ニーナにとっても憧れの女性の一人である。

 

「ま、そんなに落ち込むことないっすよ。ニーナちゃんにはニーナちゃんの良さがあるっすからね」

 

 しゅんとしているニーナの頭をアナベルがあやすように撫でる。

 魔術の実験に明け暮れて、硬くなった皮膚に細かな傷のついた手の先。

 そんな指に触れる少女の髪はどこまでも優しく滑らかな手触りで、さながら涼やかな清流に浸るような心地よさだった。

 

「そうなのかな?」

「そうっすよ。『先生』もここの女将さんも言ってたっす。ニーナちゃんは愛される天才っすよって」

「えへへっ。『先生』が言うんならそっかなぁ……あたし天才かー……」

 

 へにゃり、と屈託のないその笑みはどこまでも幼気であどけない。

 アナベルの撫でる手のひらに自身の頭をそっと擦り付ける仕草はまるで子犬のよう。

 どんなに心荒んだ者であっても思わず庇護欲を掻き立てられずにはいられない、無垢な野花の微笑みだった。

 何も含むところもなく、相手に媚を売ろうとも思うことなく……天然で()()振る舞える。

 春を(ひさ)ぐ者たちの世界の中で、ニーナのそうしたありようはまさしく唯一無二の武器であった。

 

「……ふむ。ところでなんだけどさ、皆が話題にしてる『先生』ってどんな人なんだ?」

 

 撫でられるニーナの表情を見ながら自分もそれをモノにできないかと考えつつ、ミカエラはそう口を開いた。

 アナベルは直弟子であり、ニーナは義肢を作ってもらい、リズも一時期厄介になっていた頃がある。

 この場にいる四人の中で『先生』と面識がないのはミカエラだけだった。

 彼女が知っていることといえば、精々とても腕の立つ魔術師であり、『リーベ・エンゲル』の運営に一枚噛んでいる男性であるということくらいだ。

 

「『先生』はとっても良い人だよっ!」

「『先生』は最高の魔術師っすよ。人間としてはどうかと思うっすけど」」

「『先生」に関わるのはよしなさい。関わらないで済むのならそれに越したことはないわ」

「オーケー。深くは訊かないようにしよう」

「なんでっ!?」

 

 嫌な予感がしたミカエラは聞かなかったことにした。

 触らぬ神に祟り無し、とは裏社会とスレスレの一線(ライン)で生きる者に必須の処世術である。

 ニーナだけはミカエラの判断に驚愕しているが、彼女の危機判断は信用ならない。彼女は何事も()()()()捉えてしまう()()があるからだ。

 

 アナベルもリズの意見には同意し、ミカエラの判断を尊重した。

 直弟子である彼女から見ても、『先生』は人間としてはこれ以上ない危険人物だった。

 それにニーナが彼に懐いていること自体がおかしいのであり、憎まれてもあまり文句は言えない立場でもある。

 

 ――――頼まれたわけでもないのに勝手に治療した上で、治療費を稼がせるために彼女を調教して『リーベ・エンゲル』に放り込んだのは他ならぬ彼なのだから。

 

 

 

 

 




アナベル「っていうかなんですけど、本来は消費型と循環型みたいな感じで魔道具の種類を分けるのがナンセンスだっていう話でー。魔道具に込めて消費した魔力が何処に行くかっていうとそれは大気中に霧散するだけなんすよね。んで、人間の体内に巡ってる魔力も呼吸とか食事とかを介した代謝で自然界から取り込んでるっつーわけで最初からでっかい循環構造の中にあるわけっすよ。自然界の魔力、大魔(マナ)っつうんですけど、これは空気と土と水の流れの中に溶け込んでて自然現象一般の動力になってるっす。そういう観点から見ると人間の生命活動だって体内の魔力、ああこっちは小魔(オド)って言うんすけど、こいつで発生する魔術的な現象の一種って言いかえることができるっすね。まーつまり量の多寡、規模(スケール)の大小が違うだけでみーんな一つの大きな魔力の循環の中に組み込まれてるってことっすよ。その辺の事を理解しないで気軽に魔力を消費するだのなんだの言わないで欲しいんすよねー。魔術行使で大事なのはやっぱ流れっすよ流れ。大魔(マナ)の巡り方一つ弄るだけでどんだけ劇的な魔術現象を起こせるかわかってるやつが少ないっす。術者自身の小魔(オド)なんざ精々矢印とか立て板くらいの役割でいいんすよね。その辺わかってないで魔力を薪とか藁とかと勘違いしてるやつが魔術師界隈でも多くて困るっすよー。そういう連中の魔力運用とか無駄が多くて本当見てるだけでやんなっちゃ(ry


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4.あなたのかわいい子犬ちゃん♡ワンナイトわんちゃんプレイ(前)

 

 

 ザカリー・レオン・ロットフーゲルは公都ジョンズバーグの政庁舎に勤める官僚である。

 彼の家系はハイヴェルド大公の傘下に納まる下級貴族の一員であり、ザカリー自身は家督を継ぐ長子ではなかったものの幸い大学への進学費用は実家に援助してもらえることになった。

 帝都の大学では流石に主席というわけにはいかなかったがそれなりに優秀な成績を修め、無事に役人として就職の道が開けたのであった。

 

 彼が大学で学んだ分野は主に言語学と修辞学にあたる。

 公用語、教養語に加え周辺国のものも併せた外国語を含めて計四つの言語での読み書き会話に不自由がなくなった。

 さらには修辞学――――つまりは弁論と対話の技法までこれに加わるとなると、ただ単に「可能である」というだけでなく「使い(こな)している」と言っても過言ではないだろう。

 本人は謙遜しているがこれは十分に得難い技能・才能であり、三十に届かぬ若手官僚ながら既に周囲から高い評価を得ているのであった。

 

 しかしながら人間の仕事の常ではあるが、評価されているということは期待されているということであり、期待されているということは相応に仕事を任されるということでもある。

 彼の仕事は主に手紙・或いは直接訪問による他地域の官僚との折衝などだが、その中でも段々と責任の重たいものが増えてきた。

 (かなり上の方ではあるが)直属の上司に当たるハイヴェルド大公や既に退任した同格の高位貴族に高位聖職者との会談の席に同行させられるのは毎度胃の腑が縮み上がるような思いだった。

 手紙などを書く際には何か不味い表現を誤って使っていないか先輩のベテラン書記官に目の前で査定(チェック)される。勿論、不備があればその場で最初から書き直しだ。

 幾ら能力があるとはいえ、二十代の若者であるザカリーには荷が勝ちすぎる日々であった。

 

「癒しだ!僕には癒しが必要なんだ!というわけで癒されに行ってきますっ!!お疲れ様でしたっ!!あーっはっはっは!!

 

 そんな自棄(やけ)気味な笑い声を上げながらザカリーは庁舎を後にした。

 元々は細面の柔和な青年だったが、ここしばらくの激務と心労が祟っているのか目の下の隈と、陰が差し始めた頬周りと相まって細いというよりは(やつ)れているといった表現が適切な顔立ちだ。

 先ほどまではその風貌に合わせたかのように眉間に皺を渓谷のように深々と刻んで机に向かい合っていたのだが、今はそれさえも嘘のような威勢のよさであった。

 

 何せ今日は待ちにまった給料日。直接手渡された大金貨四つの重みがまことに心地よい。

 とはいってもあまりずっと有頂天気分で歩き回っているのもよろしくはない。

 官僚の給料日に合わせて強盗を働くような破落戸(ごろつき)もいないではないのだ。ザカリーのような浮かれ気分の若者などその手の輩からすれば良いカモだろう。

 足取りは軽く、それでいて足早に近所の銀行に大金貨を三枚まで預けると、彼はその足で繁華街まで向かうのであった。

 

 彼が浮ついているのはただ給料が貰えたからだけでなく、今日は彼が娼館に予約を入れた日であるからだ。

 そろそろ()()()()と言える頻度で通っているその娼館『リーベ・エンゲル』はかなり値は張るが、その分信頼がおける。

 店自体のサービスも上質で、働いている娼婦もみなレベルが高く安心感があるのだ。

 

「と、いうわけで予約していましたザカリーです」

「ようこそお越しいただきましたザカリー様。いつも御贔屓にしていただき誠に感謝いたします。ただいま準備して参りますので今しばらくお待ちくださいませ」

「ありがとう」

 

 男性従業員(ボーイ)の丁寧なお辞儀に迎えられた彼は鷹揚に頷いてラウンジの椅子に腰かける。

 ふんわりと体重に任せて沈むクッションの座り心地がとても快適である。調度品一つとっても上質なのが伺える。

 下級貴族出身者であれば気後れしかねない程に優美な内装であるが、ザカリーにはどこ吹く風である。

 どんな緊張感も新任一年目に元大司教との会食に同席させられた経験からすれば()のようなものだからだ。

 

 机に置かれたグラスによく冷えた水を注いでもらいつつ、今日の分の予約を頭の中で反芻する。

 『リーベ・エンゲル』の女性たちは誰も質の違った美人揃いかつ、サービスの趣向も様々だ。

 最近よく指名していた子はミカエラといい、違法な形態で運営されているような娼館でなら見かけるかもしれないというくらいに小さくて可愛らしい少女だ。

 初めは興味本位、ものは試しという気分で相手をしてもらったのだが存外嵌ってしまってしまい「自分はあんな小さい女の子にも欲情する性質(たち)だったのか……」と自己嫌悪したのも良い思い出である。

 その分吹っ切れてからは転ぶのも早かった。前回などは『萌え萌え♡きゅんきゅん♡ねこみみメイドさんご奉仕コース』で一晩精力的ににゃんにゃんしてしまったほどである。

 

 さて、そんな彼が今夜指名したのは別の娼婦で、こちらはニーナという。

 両手足が義手義足の子がいるという話は聞いていたが決め手はそっちではなく、彼女がミカエラに準じる程度の背丈で愛らしさをアピールポイントにしている子だったからである。

 そしてコース名は『あなたのかわいい子犬ちゃん♡ワンナイトわんちゃんプレイ』だ。

 前回、小さな女の子の可愛らしさ×小動物の愛らしさのコンボで新しい性癖の道を啓いた彼は果敢にもその道を開拓することを選んだのである。

 絶対癒されるぞぉ、と相好を崩している様は紛うことなき小児性愛者(ロリコン)だが、彼の名誉にかけて記しておくならば、彼は小さい子もいけるようになってしまったというだけであり、ストライクゾーンは広い。

 この店で挙げるなら、例えば他にはリズという娘が気に入っていた。彼女の胸元に顔を埋めるのは堪え難い程の癒しであったと彼は記憶している。

 

「お待たせいたしました、ザカリー様。ニーナの準備が整いました」

「あぁ、お構いなく。こちらこそありが――――……」

 

 そんなことをつらつらと考えながら時間を潰していた彼は、呼びかけられるとともに意識を現実へと戻した。

 声をかけてきた女性従業員に対し、身に沁みついてしまった外交向けスマイルで向き直るが――――彼はその瞬間、思わず固まってしまった。

 正確には、メイド服を着たその従業員が()()()()()()()を見た瞬間の話である。

 

「わんわん♪」

 

 愛らしく犬の鳴き真似をして見せる少女を見て、ザカリーは一瞬ではあるが初めてこの店での自身の選択を後悔した。

 

 

******

 

 

「お客様は初めてのご指名ですね。今日はニーナをたくさんかわいがってくださいわん♪」

「あっ、はい」

 

 ザカリーは思わず曖昧な返事を漏らした。皇子に謁見するぞ、と唐突に上司から言われたとき並の浮ついた反応だった。

 床に()()()()()、少女のにっこりとした微笑みもどこかガラス一枚挟んだたかのような隔たりを感じる。意識が遠のきかけているのかもしれない。

 

「えっと、その……()()()()のかな?()()

「?……あぁ、これですね。全然大丈夫ですよっ」

 

 わんちゃんプレイ、ということで彼女がイヌ耳のカチューシャを付けているのは当然想定の範囲内だ。

 本来とても長い筈の髪を邪魔にならないように後頭部でお団子状に纏めた頭部に、ぴょこんと生えた犬の耳が可愛らしい。

 一方で身に着けている衣服は肌も露な革製の黒下着。瑞々しい肌にあどけなさを見せるほっそりとした胴回りの体つき、それに食い込むような、或いは戒めるようなぴったりとし(なめし)革の光沢が艶めかしい。

 胴の細さに対して肉付きの良いお尻からは尻尾が一本、犬を模したものが生やされている。

 ここまでは良い。だがザカリーが尋ねたのはまた別のものだ。

 

「これ、中敷きがふっかふかのクッションになってて、体重かけても全然痛くないんです。いつもの脚より楽なくらいなんですよっ」

「あぁ……うん。そっちがいいなら、それでいいのかな……。うん、良いと思う。うん」

 

 ニーナには手足が無い。そして今夜に至っては義手義足さえ無かった。

代わりに身に着けているのが二の腕と太腿を覆う、革製の履物だった。

 ブーツのように()()()手足をすっぽりと嵌め込んだまま、四つん這いで歩く。

 彼女が()()見せるように前に向けると、底面には肉球を滑り止めまであしらわれている。

 

 人間が四つん這いで歩こうとすると、手と足の根本的な長さの比率の差もあって全体的に不格好だ。

足裏を付けるとどうしても下半身だけが上に挙がってしまう以上、膝を突いて歩くべきなのだろうが、それでは膝を擦り剥くなどして負担がかかる。

 人間は根本的に二足歩行を前提とした生き物なのは自明である。

 

 ――――なので、最初から手と足のない女の子なら、四つ足の真似事も円滑(スムーズ)にできる。

 

 それは合理的な判断、発想かもしれない。

 しかしいきなりそれを目の前にドンと勢いよくお出しされたザカリーは頭がくらくらするような思いだった。

 

(お、思っていたのと違う……!)

 

 彼が想定していたのは、先日ミカエラがしてくれていたような動物の耳付きホワイトブリムに尻尾付きエプロンドレスの可愛い女の子が媚びっ媚びの上目遣いでご奉仕してくれるような、そんなあざとさで胸焼けするレベルの甘ったるいサービスである。

 今回の件を予約する際に受付担当が一瞬見せた、「おっと、お客さん(つう)ですねぇ」と言わんばかりの視線と微笑の意味がここに来てようやく彼にも理解できた。

 

「それではお客様、こちらもお使いください」

「…………」

 

 ザカリーが引いていることに気が付いているのかいないのか、ニーナを運んできた従業員は平時と変わらぬしれっとした態度で彼に道具を手渡してきた。

 内容は赤い革製のベルトと、同色の長い紐のような物――――つまりは首輪と引綱(リード)である。

 

「わん♪」

「…………」

 

 それを確認したニーナは()()()で器用に立ち上ると、くいっと自分で顎先を上げた。

 ほっそりとした白い首筋が男の方へと晒される。

 ()()()()()()、というアピールなのは明白であった。

 道具を両手に持ったザカリーは助けを求めるように視線を泳がせると、女性従業員と目が合った。

 彼女がそのまま無言で肯きを返してきたのを見て、彼は潔く観念した。

 

「じゃ、じゃあいきます……」

「♪」

 

 自身の理性に対して断りを入れながら、ニーナの前にそっと跪く。

 幼い娼婦少女は客にすぎない彼に全幅の信頼を見せるように、目を閉じて自分の首を差し出す。

 近くに寄って見てみれば確かに魅力的な女の子だ、とザカリーは改めてそう思った。

 喉元を晒すように顎先を出し、静かに目を閉じる姿は口付け(キス)をねだる乙女のよう。

 その桜色の唇の柔らかさを確かめてみたい、という仄かな衝動を胸の内に覚えながら彼は手に持った革の(ベルト)を首に巻き付けた。

 

 人間の生活圏内で首輪を付ける()は犬か猫くらいなものだ。

 それを敢えて人に巻くということは相手をそういった対象として――――人以下のものとして貶めるような、そんな背徳の味わいがあった。

 手も無い、足も無い。見るからに憐れな少女を……こうして愛玩物として所有するかのような行為。

 互いに同意の上の、一夜の遊戯(プレイ)だとしてもそこに倒錯の味を見出さずにはいられない。

 

「わふっ♪」

「…………っ」

 

 (ベルト)を留めて、引綱(リード)を付ける。金具の立てるカチッという音がいやに大きく耳に残る。

 ほっそりとした白い首筋に無骨な赤い首輪の対称性(コントラスト)が目に映える。

 愛玩動物(ペット)の証を付けられた上で嬉しそうに無垢な笑みを浮かべる少女を見て、ザカリーは胸の中に鈍く熱い鼓動を感じた。

 

「それではお客様、最後にこちらもお使いください」

「…………」

 

 気を落ち着かせようとしていた彼に横合いからまた声がかけられる。

 まだあんの!?という言葉が喉から出かけたのを呑み込んだザカリー、彼に手渡されたのはこれまた革製の道具だった。

 こちらは全体的に角張った錘に近い形をしていて、中は空洞。底面あたりからは革製の帯が三本伸びていて端で留める構造だ。

 

「マスクです」

「わんっ♪」

「…………」

 

 つまりは犬の口吻(マズル)を模した口覆い(マスク)であった。

 ここまでやるの?という困惑の言葉は先んじて飲み下して胃に押し込んだ。

 自分が選んでしまったのが紛うことなく上級者向けコースだったことを確信しながら、彼は毒を食らわばという気持ちで手を進めた。

 

 細い顎と桃色の唇、小さな鼻を覆うように黒革を(リベット)で纏めた無骨なマスクを被せる。

 三方に伸びる構造になっている革帯を後頭部にまで持っていって留める。

 両頬を通る二本、顔の真ん中を通る一本の黒い帯はさながら顔全体を戒めているような印象を与える。

 

「わんわんっ、くぅーん♪」

 

 少し顔を振ってきちんと拘束されているのを確認したニーナは体を下ろした。

 ()()を絨毯の床に付けて踏みしめてから、()()()でザカリーの周りをトコトコと歩き出す。

 甘えるような犬の鳴き真似声は口覆い(マスク)もあってくぐもっているが、顔全体の輪郭(シルエット)の変化もあって犬らしさはぐっと増していた。

 

「くぅん♪ きゅうん♪」

「わっ、わわっ」

 

 床に膝を突いたままのザカリーの体勢をいいことに彼女はそのまま彼の胸の中に飛び込んできた。

 身構えていなかった彼はそのまま尻もちをついてしまうが、少女はまるで顔を舐めまわすかのように口吻の先で男の顔を突き回してきた。

 

 まるで()()()のことが大好きで大好きで堪らない子犬のよう。

 上ずって媚びた鳴き声で甘えながら顔を寄せて、あまつさえ作り物の尻尾を振るように尻まで左右に揺らす。

 肘辺りで切断された短い腕、その先に取り付けた犬の前足を模した履物(ブーツ)をぱたぱたと忙しなく動かす様は人のお腹の上で犬かきでもしているような落ち着きのなさ。

 

 そんな可愛らしい愛玩動物(ペット)に胸の中に潜り込まれた彼は思わずその体を抱き返してしまっていた。

 そうして改めて感じるのは少女の線の細い華奢な肢体と、驚くほど瑞々しいきめ細かな肌の手触りだ。

 露出の多い革仕立ての衣装だからこそ、その生の感触が殊更に際立つ。

 そして何より、どこまでも無垢にこちらに懐いた犬そのものの仕草が彼の心を擽るのであった。

 

「……可愛いな」

「わんっ、わんわんっ♪わうんっ♪」

 

 彼は思わずそう呟いて頭を撫でてしまった。

 するとニーナは心底嬉しそうに鳴き声を上げながら、すりすりと『ご主人様』にその体を擦り付けるのであった。

 

 

 

 






女性従業員は腕を組みながら満足げな顔で二人を見下ろしている


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5.あなたのかわいい子犬ちゃん♡ワンナイトわんちゃんプレイ(後)

 

 

 

 ひとしきりニーナと戯れた後、ザカリーはこほんと一つ咳払いをしてから立ち上がった。

 予約がある以上はラウンジでいつまでもだらだらと遊んでいるわけにもいかない。

 気を取り直して彼は片手に持った引綱(リード)をしっかりと握り直した。

 

「わんっ♪」

 

 それを確認したニーナは「ついてきてください」と言わんばかりに一声鳴いた。

 細い肩越しに振り返る可憐な横顔は犬の口先を模した覆い(マスク)もあって実に子犬めいている。

 マスクの鼻先の(リベット)が照明を照り返して犬の濡れた鼻先を彷彿とさせる。

 

 ここから()()()()を使わないのは彼女なりの切り替えだ。

 お客様に首輪と口吻を付けて貰って犬の姿になったからには犬の演技を徹底する。

 そういうのを望んでいない限りは客もそもそもこのコースを選んでいないだろうから――という判断からである。

 ……ただ、迫真の犬ぶりに初見ではやや引き気味になる客の方が多いというのは彼女もあずかり知らぬところであるが。

 

 そんな引綱(リード)の先の彼女に先導されながら、おっかなびっくりザカリーは店の奥の方へと歩みを進める。

 まだ店の二階、寝室の方へは行かない。

 なにせ今夜彼が注文したコースは()()()()のものだからである。

 高級娼館『リーベ・エンゲル』店内に併設されているレストランはこれ自体の質も高く、食事自体を目当てに通う客もいるほどだ。

 ザカリー自身も此処の食事は気に入っており、予算と相談しながらではあるが度々利用していた。

 しかし、今回ばかりは食事の予約を入れていたことを後悔していた。

 

(し、視線を感じる……!)

 

 一階ラウンジから奥へと入った所にあるレストランはまた一段と暗めの照明を使った内装となっている。

 一般的な娼館であれば、セットになっている酒場などは酔っ払いのがなり声に女の黄色い声と騒がしくてたまったものではないのだが、当然この店はそんな喧騒とは無縁だ。

 品よく整った礼服の男達と艶やかな衣装(ドレス)の女達の密やかな雑談の声、食器が触れ合う硬く小さな音。

 男女の距離感がやたらと近いこと……露骨に言うならば()()()()のことを想起させるような触れ合いが見られることを除けば、よくある高級レストランの光景だった。

 そこにザカリーが踏み込むと、俄かに人々の注意が引き寄せられる気配がした。

 

「すごいな……この店、()()()()()もありなのかい?」

「娼婦とはいえ、あんな年端もいかない子を犬扱いか……良い趣味してるな……」

「お、ニーナちゃんだ……。犬コース取った人がいるんだな……割と珍しい……」

「……あの子、一晩幾ら?あ、いや、その、参考までに、ね?」

「あいつは……たしかロットフーゲル……官僚で、若手の……なるほど……」

 

 ざわざわ、ざわざわ、と雑談の波が静かに、それでいて確かに暗がりに広まっていく。

 あどけない少女を床に這いつくばらせて首輪に引綱(リード)も付けて、そのような様をあえて人目に晒すように歩く加虐趣味者(サディスト)――――何も知らない者が見ればそのように見えるのだろうか。

 周囲の視線と注目がざくざくと短刀(ナイフ)のように飛んでくるのを感じ、ザカリーは気が気ではなかった。

 

「こんばんはー、ニーナちゃん。今日はわんちゃんプレイかい?可愛いねぇ」

「わぅん♪」

「ニーナちゃーん!また今度指名するからねーっ」

「わんわんっ♪」

 

 そしてザカリーが身を切られるようないたたまれなさを感じているのを知ってか知らずか(間違いなく知らないのだが)、ニーナは他の客にも愛想を振りまいていた。

 通りすがったテーブルの客から声をかけられると「わんっ」と元気よく犬の鳴き真似で返事をする。

 手を振る代わりに降るのは尻尾を生やした可愛らしいお尻だ。作り物のふさふさとした尻尾が左右に触れて嬉しさを表す。

 

 本当の子犬がやるのならば純粋に微笑ましいものだが、それが犬の()()をした少女であるならば少し話が違う。

 華奢な体を加虐的に戒めるような黒い革下着に包まれた、意外な肉付きの良さを見せる丸みを帯びた臀部。

 それが後ろに立って歩くザカリーの足元でふりふりと揺れる様は――――何か誘われているかのような、挑発されているような、そんな感覚を想起させられるものだった。

 よくよく見てみれば作り物のその尻尾が生えているのは尾骨の位置よりもやや下で、黒革のショーツにはそれを通すための穴が空いている。

 尾の付け根が何処に挿入されているのかを察してしまったザカリーは思わずドキリとした。

 

「……わんっ」

 

 そしてそんな彼の視線が注がれているのをわかった上で、ニーナは肩越しに振り返って一鳴きした。

 はらりと垂れた亜麻色の前髪とマスクを締める黒革の(ベルト)、その境に覗く眼差しは悪戯気な流し目だった。

 

 

******

 

 

 二人(或いは一人と()())は周囲の視線に晒されながらも自分たちのテーブルに到着した。

 卓上に乗っていた『予約済み』の札が回収され、ザカリーが席に通される。

 しかしながらすっかり犬に成りきっているニーナはそのすぐ横の床、彼の足元にちょこんと座るのみである。

 あまつさえザカリーには水の注がれたコップが出された上で、彼女には同じものが入った皿が目の前に置かれるのだった。

 

(よくやるな本当に……)

 

 従業員からも徹底した犬扱い。ここまでくると最早感心するしかなかった。

 初めは気後れしていたザカリーも一周回って冷静になり始めたほどである。

 

「くぅん、くぅーん……」

「えーっと、どうしたのかな……。あ、そうか。このままじゃダメなのか」

 

 床に座り込んだニーナが切なげな鳴き声を上げて、上目遣いでザカリーを見つめてくる。

 その仕草にどこかときめくものを感じながら、何を訴えているのだろうかと思いを巡らせていた彼はそこではたと手を打った。

 彼女はまだマスクをしているので飲み食いできないのである。

 義手を外している上、その腕も今は前脚(・・)に変えられているニーナは自分で口元の覆いを外すこともできないし、そのままでは食事ができないのだった。

 屈んで後頭部で留められているベルトを外してあげると、彼女は満足げな笑みを浮かべて「わん♪」と鳴いた。

 

 そこからは予め注文していた夕食(ディナー)の時間であったが、ここでもまた一癖あった。

 ザカリー自身ここで何度か食事を摂ったことはあるが記憶にあるそれよりも幾分か量が多い。一人と半人前、くらいはあるだろうか。

 その疑問はついでに差し出された空の深皿によって氷解した。

 皿の淵に書いてある犬のマークと足元にいる()()の期待に満ちた視線がある以上は一目瞭然だろう。 そういうわけでザカリーは自分用に出された夕食の一部を()()に盛り付けて足元に置いてみた。

 床にぺたんと座り込んだニーナは目をキラキラさせながら皿とザカリーの方へと視線を往復させている。

 いい加減にどういう扱いをすればよいのか察してきた彼が「食べていいよ」と一声かけると、彼女は四つん這いに戻って皿の中に顔を突っ込んで食べ始めた。

 愛玩動物(ペット)は飼い主の許可が無い限りは勝手にご飯を食べてはいけない、というのは当然のことなのである。

 

「……美味しい?」

「わんっ!」

 

 手も食器も使わない、文字通りの()()()だ。

 礼儀も作法もへったくれもない汚い食べ方であるのに異論はないだろう。

 貴族、聖職者、官僚、豪商などが足を運ぶこともあるこの場所では顔を顰められてしかるべきだ。

 だが口元に食べ滓まで付けながらニッコリと満面の、どこまでも無垢な笑みを浮かべるこの愛らしい子犬を見てしまうとそんな気も失せてしまうだろう。

 かくいうザカリーも思わず相好を崩して、よしよしと頭を撫でてしまうのだった。

 

 そうしてザカリーも自分の食事を始めたのだが、その光景は普段のそれとは著しくかけ離れたものになった。

 なにせ合間合間にニーナの食事の進み具合を確認して取り分けてあげないといけないのだ。

 通常このような店であれば嬢の方が客を持て成す側としてお酒を注いだりと接待(サービス)をしてくれるものなのだが、これは完全に主客が逆転していた。

 だがこれも娼婦としてのニーナのサービスの有り様であるというのは紛れもない事実だった。

 彼女が犬らしく振る舞えば振る舞うほど、愛玩動物(ペット)になりきればなりきるほど彼女を買った客は悦ぶのである。

 人に愛されること、人に()()()()()()()ことこそが彼女の仕事の本領であった。

 事実、ザカリーも既に彼女を()()()することに苦労を覚えないどころかそれが楽しみになりつつあった。

 可憐な少女がただ食事をよそってあげるだけでこれだけ嬉しそうな顔をしてくれるのだから、男冥利に尽きるというものだろう。

 

「おや……?」

 

 一通り食事を終えて、食後のお茶を啜っているところでザカリーは怪訝な声を漏らした。

 ただでさえ薄暗かった照明がまた一段と光量を落とし、その代わりにレストランフロアの更に奥まった場所にライトが当たり始める。

 その一角は床よりも一段高くなるように段差が設けられた簡易的な舞台である。

 そして舞台上に現れたのは一人の優美な女性であった。

 

「ご来店の皆々様、本日は『リーベ・エンゲル』にお越しくださり誠に感謝いたしますわ。当店を代表いたしまして心より感謝を申し上げます――――」

 

 天井から注がれるようなライトに照らし出された女性が優雅に一礼する。

 長く波打つ鴉の濡れ羽色の黒髪に、耳にしっとりと染みいるかのような美声。高級娼館『リーベ・エンゲル』の支配人を務めるライラという女性だ。

 ただそこに立って挨拶をしているだけだというのに、彼女の声はまるでベルベットの幕で首筋を包み込まれるような……身も心も預けきって耽溺したくなるような、そんな妖しい心地よさに満ちていた。

 先ほどまで食事と歓談に耽っていた食道内の全ての人の意識がそんな彼女に惹かれるようにして舞台上へと注目していくのが解る。

 

「さて、お食事中の方がおられましたらご容赦くださいませ。これよりお披露目いたしますのは当店自慢の踊り子、アイシスの舞踊にございます。僅かばかりの時間となりますがお客様の慰みとなればこれに勝る幸福はございません。それではどうぞ――――」

 

 そうして彼女は艶然とした笑みを浮かべて一礼し、舞台袖へと去っていく。

 振り返る際に靡く黒髪とドレスの裾を人々の目が思わず追ってしまうのと入れ替わるように、また一人の女性が舞台上に現れた。

 肌も露な薄絹の衣に褐色の肌の踊り手、先程紹介があったアイシスだ。

 

 彼女が無言のままに一礼するに合わせ、いつの間にか舞台端に陣取っていた楽団が演奏を始め、照明も幾重の色彩を切り替えながらの華やかな物へと変わっていく。

 だがそれらも所詮は引き立て役、書き割りの背景に過ぎない。

 舞台の主役たるアイシスがステップを刻み始めると、彼女を中心に世界が回り始める。

 

 手首に結わえた煌びやかな羽衣が翻り、ヴェールを纏った銀の髪が靡く。

 躍動する長い手足は柳のように細くしなやかで、それでいて鹿のように躍動する。

 しゃん、しゃん、と金飾りの立てる涼やかな音が楽団の音楽と一体となって鳴り響いた。

 踊りが続くごとに南方系の血筋を示す褐色の肌の上に汗が浮かび、それらが舞台明りの元で玉のように輝きながらパッと散る様が客席からも目に映った

 

「んー、んーっ!」

「あ、ごめんごめん」

 

 舞台(ステージ)に完全に目を奪われていたザカリーだが、自分の足に何かが当たる感触を覚えて下を見るとニーナが自身を見上げていた。

 食事後に付け直したマスクの口吻で彼の足をつんつんと突き、少し不機嫌そうな目で何かを訴えている。

 やきもちを焼かれているのだな、と察した彼は口では謝りながらも相好はだらしなく緩んでいた。

 すっかり馴染んでしまった彼からすれば子犬からの嫉妬も可愛らしいものだ。そこまで慕われているのだと思うと優越感さえ込み上げる。

 

「ほら、こっちおいで」

「わんっ」

 

 そう言って彼は彼女を抱きかかえて膝の上に座らせた。

 犬耳をあしらった小さな頭を撫でてあげると、ニーナはもっとして欲しいと言うように身を擦り寄せた。

 目を細めて男の手を求める姿はどこまでもいじらしく、愛らしい。

 

(軽いな……)

 

 求められるままに腕の中の子犬を撫でながらザカリーは心の中でそう呟いた。

 膝の上に載せていると改めて思うのはニーナの体重の軽さだ。

 元々普通の年頃の少女と比べて彼女の背格好は細く小さい。

 更にその上で両手足が無いのだから更に輪をかけて軽く感じるのは当然のことだと言えよう。

 

「アイシス姉、やっぱり綺麗……」

「うん、そうだね」

「……わっ、わんわんっ!」

 

 ついうっかり人の言葉で喋ってしまったニーナが慌てて犬のふりをして誤魔化す。そんな態度も微笑ましい。

 彼女がアイシスの舞台(ステージ)を見て咄嗟に口走ってしまったのは全くの本心だろう。

 壇上に注がれる彼女の視線は横から見てもうっとりとしていて、舞姫の舞踏に魅入られているのがよくわかるものだったからだ。

 ともすれば先ほどザカリーの脚を突いてきたのもやきもちというのではなくて、もっと見やすい所で舞台を見たいという意思表示だったのかもしれない、

 

 ――――そうやって一瞬覗かせたごく普通の少女らしい一面が、いっそうのこと今のニーナの有り様の歪さを浮き彫りにする。

 両手足は無く、代わりに犬の脚を模した履き物(ブーツ)で四つん這いになって、餌皿から食事を摂る。

 犬の口吻(マズル)を象った口覆い(マスク)に犬の鳴き真似で飼い主()に媚びる様は愛玩動物(ペット)そのものだ。

 そしてお遊び(プレイ)とはいえそんな待遇で、犬そのものの扱いを受けて我慢しているどころかむしろ楽し気でさえある。

 幼児の()()()()()でさえ此処まで嬉々として犬役を務める子などどれくらいいるのだろうか?

 

「わ、わふ……っ」

「…………」

 

 気が付けばザカリーは頭だけでなくニーナの体の至る所を撫で擦っていた。

 ほっそりとした華奢な体躯、幼気な瑞々しさを未だ残す肌の上に纏っているのは拘束具めいた黒革の下着。

 しっとりとしていながら柔肌に食い込むような質感のそれは少女の身を戒めて縛り付けるようで、それ自体が背徳的な淫靡さを放っている。

 首輪に結わえたままの引綱(リード)が揺れて、ちゃりん、と金具の音が鳴る。

 細い首元に巻きつけられた赤い革帯の存在が何よりも今の彼女がどういう()()なのかを示しているようだった。

 

 食事を終えたばかりで少しぽっこりとしたラインを描く滑らかなお腹、そこから降りた下腹にはハートを彷彿とさせる形状の刺青が刻まれている。

 避妊と性病予防の効果が有る魔術紋だということは彼も知っているが、口さがないものはこれを『淫紋』だの『売女証』だのと言うこともまた知っている。

 例え足を洗ってもこれが肌に刻まれている時点で春を(ひさ)ぐ身であったことは一目瞭然であり、その事実は一生消えることが無い。

 年端もいかない少女の身でありながらこれがあるというだけでニーナもまた一人の娼婦であるという何よりの証明になるのだった。

 

「う、うぅんっ♡ わぅん……っ♡」

 

 ぎゅう、とザカリーは彼女を背後から抱きしめた。

 腕の中にすっぽりと納まる雌犬少女の細さ、小ささ、幼さを感じると彼の中で何か()()()()と湧いてくるものがあった。

 鼻先をつむじに押し当てて息を吸うと濃く甘酸っぱい香りが鼻腔をいっぱいに満たす。――――乙女の香りだ。

 幾ら犬ぶっていても、こればかりは誤魔化しようがない代物だ。彼女がどこまでも()()()()を誘う女であることの確かな証だった。

 

 ザカリーの手が肌の上を這いまわるにつれてニーナの声も甘くなっていく。

 マスクの下から漏れるくぐもった声は鼻にかかったような蕩けた響き。

 仄かに火照り始めた白い肌は汗ばんで男の掌に吸い付くような心地よい手触りを与えてくれる。

 短い四つ足を蠢かせ、彼の腕の中で微かに身を捩る姿はいじらしく、()()()()、それ故に愛らしい。

 

「ん……っ♡」

 

 彼の手がいよいよ革下着のショーツ部分に触れるとニーナはびくん、と身を強張らせた。

 ザカリーの指先に触れたそこの部分は温かく、そして湿っていた。

 そのことを理解した彼は自身の胸の内に()()()()と熱く、激しい情動が湧いてきているのを感じた。

 そしてそれは種火めいた熱の形になって俄かに彼の股座へと集まりつつあった。

 

(この子が鳴くところをもっと見たいな……)

 

 それは彼の中に芽生えた加虐的な衝動の形であった。

 少女が憐れで痛ましく、子犬が愛らしく健気であれば程に湧いてくる「虐めてみたい」という性愛の形。

 人は自分の()()()()()()()()()()()()()()()()()()を可愛らしく感じるというが、これもまた「可愛がる」という行いの一つの帰結なのかもしれない。

 愛でることと弄ぶこと、愛玩するという軸の元では二つは表裏一体なのだから。

 

「わふぅ……♡」

 

 そんな彼の昂りを、尻尾を差し込んだお尻の下で感じてニーナは甘えた声で一つ鳴く。

 艶やかな踊りの舞台に胸弾ませながら、彼女は()()()の事に思いを馳せて今夜の飼い主に精一杯の媚を売るのであった。

 

 

 

 



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6.ドールズデリバリー

 

 

 

 かたん、かたん、と小さな音が響いている。

 それと同じ拍子で揺れる体。馬車が石畳の上を走っている。

 馬車の後部座席に乗せられたニーナはうつらうつらとしながらその小さな振動を感じていた。

 公都の主要な道路は石畳によって綺麗に整備されている上、乗っている馬車にはバネ仕掛けの衝撃吸収機構が備わっているということもあり利用者にとっては実に優しい。

 今のニーナがそうであるように、ささやかとさえ言えるその揺れは眠気を誘うほどだ。

 

「ふぁ…」

 

 猫のように小さなあくびを一つこぼす。

 このまま寝入ってしまっても良いのではないか?という誘惑が鎌首をもたげてくるが、彼女はそこをグッと堪えた。

 なにせ今から向かうのは仕事先だ。相手は気心知れた常連とはいえ、あまり粗相をするものではない。

 あくびと一緒に空気を薄い胸いっぱいに取り込んで頭をしゃっきりさせる。

 体を固定するベルトがあるので限りはあるが、短い手足を突っ張らせて軽く伸びをした。

 

 馬車が向かっているのは郊外にある閑静な住宅街だ。

 住宅街……とは言っても立ち並ぶのは貴族や豪商が公都滞在用に誂えたような、いわば屋敷に相当するレベルの別荘からなる高級住宅群だ。

 既に西日が地平線に沈み、東の空が青紫に染まる時間帯。

 出歩くものは少なく何処かに出かける貴人を乗せた他の馬車とすれ違う。

 幾つかの家からは明かりが漏れて、人々の声が聞こえるのは夜会でも催されているのだろうか。

 

 ニーナを乗せた馬車が行くのはさらに住宅地の奥まった場所にある、一際大きな屋敷だった。

 猥雑というほどではないが人の活気が感じられたこれまでの道中と比べ、その一角だけは一足先に深い夜に沈んでいるような、そんな静謐さに包まれていた。

 夕闇の中に佇む飾り気なく荘厳な門構は、さながら高貴なものの永い眠りを守るために築かれた霊廟のようだ。

 

 きいぃ、と蝶番が泣くような音が響いて門が開かれ、馬車はその間を通ることを許された。

 車輪が回るからから、という音は屋敷が作る大きな影に吸い込まれていくようだった。

 出迎えの使用人は老齢の者達だったが所作は淀みなく、衰えこそあれど歳を重ねたが故の年季を感じさせる。

 いずれも嘗ての勤め先で後進に後を託して一線を引いた者達であり、この屋敷はそうしたものを優先的に雇い入れているのだった。

 

 ここに『リーベ・エンゲル』からの馬車が来たという意味は彼らも重々承知の上だろうが、そのことについて何か意見を顔に浮かべるでもなく、使用人達は馬車を走らせてきた娼館の従業員と事務的なやりとりを済ませる。金銭の授受もここで行った。

 その後、彼らが後部座席から大きな箱を運び出したのを確認してから御者は馬車を走らせて行ってしまった。

 彼がここに戻るのは迎えの時、明日の朝の話である。

 

 老齢の従者たちは大きな箱を恭しく、陶磁器が入っているような慎重さで運び出す。

 玄関扉を開いて内に入れば屋敷の中は外観に負けず劣らず、一足早く深い夜を迎え入れているようだった。

 薄暗く、静かな屋内に使用人たちが歩みを進める音だけが木霊する。絨毯と靴底が擦れる音、木張りの床が体重に軋む音。

 彼等は箱の傾き一つにも注意を払い、階段を上がるときにも水平を保つように細心の配慮をしながらやがて主人の部屋に辿り着いた。

 

 金と真鍮製のドアノッカーが設けられた黒檀性の扉はどことなく故人を奉る為の祭壇を彷彿とさせる。

 であればノックの音に応えたしわがれ声は幽霊のそれだろうか。

 勿論そんなものは屋敷の雰囲気に呑まれただけの錯覚に過ぎない。

 ただ、それでもニーナはここを訪れる度にそんなことをぼんやりと感じるのだった。

 ()()()()()死の手触り。ただ彼女が知るそれよりもずっと安らかで、密やかな夜の帳のような。

 

「あぁ、ご苦労。いつものようにそこに置いていてくれたまえ」

 

 屋敷の主人は部屋の中の椅子に腰かけたまま鷹揚な態度で従者たちの仕事をねぎらった。

 しわがれた声音の通り、彼は年老いた男性だった。白い髪に皺だらけの顔。ゆったりとした白いガウンはくつろぎの為にも死装束にも見えた。

 使用人たちが一礼して退室していくのを見送ると、彼は部屋の奥に置かれたキングサイズのベッドの方へと歩み寄った。

 既に老いきったとさえ言える見た目だが足取りは確りとしたもので、背筋もしゃんと伸びている。ゆっくりとしたその歩みは特有の厳かささえ感じるほどだ。

 

「――――やぁ、こんばんはニーナ。今夜も良く来てくれたね」

「はい、今夜もニーナをお呼びいただいてありがとうございます」

 

 老人はそこに置かれた大きな箱の取っ手に手を掛けて、ゆっくりと開いた。

 大ぶりなトランクサイズの収納、その中に寝かされていたのはニーナその人だった。

 手も足も無い幼げな少女娼婦は今、ご覧通りに人形さながら()()()されて顧客の元へと配送されたのである。

 黒い天鵞絨(ビロード)張りの柔らかな箱の中敷きに、固定具の黒いベルトが衣服さえ着せられていない少女の裸身の白さを際立たせる。

 人形は人形でも彼女(ニーナ)は高級で、貴重な人形だ。でなければこうも梱包に気を遣われないだろう。

 

「今夜もニーナをたくさん可愛がってくださいね、おじい様っ」

 

 彼女は箱の内に横たえられたまま、ぱっと花咲くような笑みであいさつを交わした。

 人形であって置物(人形)ではない、血の通った人間だからこその表情の変化。

 少女の微笑みに返すように、老人もまた相貌に深い笑みの皺を浮かべるのだった。

 

 

******

 

 

 娼館『リーベ・エンゲル』には訪問サービスも存在する。

 予め指定された住所に赴き客の相手をする仕事。ベッドなどの場所代は必然として客側の持ちにもなるので費用(コスト)対効果(パフォーマンス)としては悪くないのだが、『リーベ・エンゲル』はこれに厳しい制限を設けていた。

 何せここに勤めている娼婦は女将が自身の目利きに基づいて採用した選りすぐりであり、その教育にも使わせている小道具にも相当以上の金と手間がかかっている。

 一晩せいぜい金貨2枚か3枚程度の額の場末の売り子とはわけ(・・)が違うのだ。万が一にもその身に何かあったのでは()()()()()()タダでは済まないのだ。

 

 実際、十年以上前の余所の街の話だが娼婦を呼びつけた上で魔術儀式の生贄の為に殺害し、その後は「朝分かれてから後は知らない」とシラを切る質の悪い黒魔術師が出たという噂もある。

 警戒のために『リーベ・エンゲル』は訪問の際には職員による送り迎えの徹底や、対象となる客の厳正な審査なども行っている。

 ようは「この人の所なら一晩預けても問題ない」と判断された者以外は訪問サービスを受けることはできないのである。

 

 ――――そして、この屋敷の主。今は年老いて一線を退いて隠居した元大司教、アルブレヒト・グレゴリオ・マクラーレンはそうした眼鏡にかなった上客の一人である。

 

「あぁ、ニーナ。窮屈だったろう、出してあげるからね」

「見た目ほどあんまりきつくはないんですよ、おじい様。それにニーナは()()がないと馬車に揺られて酔っちゃいますから」

「ふふ、そうだね。君は踏ん張ることもできないからね」

「はい。ですからいっそのこと後部座席に座るよりは箱の中の方が安定するまであるんですっ」

 

 穏やかな面持ちでアルブレヒトはニーナの体を固定しているベルトを外してやった。

 二人の間の空気は随分と砕けたものだった。既に老人は彼女を両手の指では足りない程度の回数()()()いる身である。

 お互いにしても既に色々と勝手知ったるという仲だ。

 

「すぅー……、はぁ……。……あぁ、良い香りだニーナ。今日も綺麗にしてもらっているね」

「はい。お店の人たちにちゃんとお風呂に入れてもらいました。石鹸はおじい様から頂いたものなんですよ?」

「あぁ、南の方からわざわざ取り寄せた甲斐があった。あちらは柑橘類の栽培が盛んだかららね。爽やかなレモンと、甘いミルクの香りだ……」

 

 老人は固定具を外したニーナの体を抱き上げ、鼻先を亜麻色の髪に埋めてその香りを堪能した。

 胸いっぱいに広がる少女の香り。彼がプレゼントした石鹸の香料が甘酸っぱい香りをより引き立て、しかもそれは狭いトランクの中に押し込められていたことで一層に煮詰まっていた。

 箱を開封した後、そうやって乙女の匂い堪能するのが老人の趣味であった。

常の事であるのでニーナにも驚きはない。

 

 全身に皺の浮いた翁の腕の中に抱き締められることに()()()娼婦であれば一抹の不快感を覚えそうなものだが、ニーナに()()()()()()()()

 体臭をふんふんと犬のように嗅がれるのは僅かばかり気恥ずかしさを感じたが、それ以上に相手が喜んでくれる方が喜ばしい。

 ニーナはまるで「大好きなお爺ちゃんに会った孫」のような心からの親愛を込めて老人をぎゅっと抱き返した。

 ……彼女の腕は肘から先がないので抱きしめるような()()でしかないが。

 ひとしきり少女との抱擁を堪能したアルブレヒトは断りを入れてから彼女をベッドに下ろし、クローゼットの方へと向かった。

 

「さぁ、ニーナ。君のために今日も素敵な衣装を用意してあるよ。……さて、これなんてどうだろうね」

「わぁ、とっても素敵!ありがとう、おじい様!」

 

 彼が取り出したのはフリル一杯でボリューム感のある、豪奢で可憐なドレスだった。

 少し衣装棚の奥を覗いてみれば、似たような少女趣味の衣服が多数収められているのが解る。

 無論、元大司教に女装癖がある……などというわけではない。これらは最初からニーナを着飾らせるために彼が集めた、趣味の賜物である。

 

 名家に生まれ聖職に就き、大司教という地位にまで上り詰めた彼の財産はそれこそ有り余るほどにある。

 後進に道を譲って隠居した彼は、近いうちに自分の死期が来るだろうことは十分に承知していた。

 どうせ天の国に地上の富は持ってはいけない。ならば幾ら道楽に費やしたところで惜しむような物ではないのだ。

 少女を身請けするという選択肢もあったが、それをしないのは先の短い老人である以上、まだ年若い彼女の将来を自分が担うことができないだろうと悟っての事だった。

 

 ベッドの上に横たわったままの手足のない少女。

 その傍らに衣服の類を並べ立てて満足げに一息ついてから、老人はゆっくりと丁寧に()()に取り掛かった。

 肌着として選んだのはシンプルながらも清潔で肌触りの良い白のキャミソールとショーツである。

 キャミソールは裾の辺りにも細かな刺繍が施されており、それが慎ましやかな無なものとから垂れさがってすらりとしたお腹を彩るのが何とも可憐だった。

 

 下着を着させれば次はドレス本体なのだが、これは前述の通りフリルなどで全体が膨らんでおり如何せん嵩張るものだった。

 その上、自分から満足に体を動かすことができない人間の体というものは(重心移動などによる協力ができない分)存外重たいもので、これを抱えながら衣服を身に付けさせるというのは重労働である。

 おまけにアルブレヒトはガウンで着ぶくれているだけの、既に骨と皮だけの老人だ。作業に費やす労力がどれほどの負担かは語るべくもないだろう。

 だが、彼はそうした手間に対して煩わしさを全く感じない。手に持ったドレスの衣擦れ、腕に抱えた少女の体の重みをこそ、むしろ楽しむようにゆっくりと時間をかけて丁寧に丁寧に、一つ一つの工程を踏んでいく。

 そうやって自分に服を着せていく老人をニーナは楽しむような、慈しむような微笑みを浮かべて見守っていた。

 

 体をドレスに通してから、布地に皺が寄らないように注意しつつうつ伏せになり、背中の編み上げを結んで留める。

 勿論、『お着替え』は此処で終わりではない。全体からすればまだ序盤である。

 よいしょ、と小さな掛け声をかけてからアルブレヒトはニーナの体を抱き上げて、壁際にある机と椅子の方まで運んだ。

 膝下と背中を腕で支えながら抱き上げるのを俗にお姫様抱っこと呼称するが、今のニーナは豪奢なドレスもあって実際にお姫様じみていた。その事が少し愉快で彼女は少し笑った。

 

 飾りも豊かな肘掛椅子にニーナとアルブレヒトが向かい合って座り、老人はまた棚の方からごそごそと道具類を引っ張り出す。

 絵の具のようなものを纏めたパレットに、小さな筆や刷毛……女性用の化粧道具一式だった。

 既に勝手知ったる仲であることもあり、ニーナはそっと目を閉じてされるがままに受け入れる体勢を取った。

 

 可憐な衣装に身を包んだままに瞼を下ろして動かないでいると彼女は実に人形めいている、とアルブレヒトは心の中でそう思った。

 ()()()()()()()()()()、美しいが故にもっと飾りたくなってしまう。それは芸術をこよなく愛した元大司教の(サガ)という他ないものだった。

 彼は慣れた手つきで彼女の顔の上に下地を塗り、肌の色を整え、色彩を加えていった。

 乙女の肌は極上の、そしてこれ以上ない程に繊細なキャンバスだ。そこに絵筆を取って陰影を書き込み、色を差し込んでいくのは慎重を極める。

 だがそうやって細やかな作業に没頭していくのは彼にとってもある種の癒しだった。

 若かりし頃には彼も美術家に憧れていた。家の事情で聖職の道を歩んだことに後悔はないが、年老いてから()()()()()をやっているのはその頃の未練だろうか。

 

 化粧を終えてから次は髪だ。

 ニーナの机を卓上の小さな鏡に向かい合うように位置を調整して、老人は櫛を盛って後ろに立った。

 箱の中で揺られていたり、ベッドの上で服を着せていたりとしていた関係で少女の髪はあちこち乱れていた。

彼としても早いところ整えてやりたかったので待望の工程だったと言えるだろう。

 目の大きい櫛で全体を整え、次は細かいもので埃を拭うように全体を(くしけず)る。

 少女の髪は普段からの手入れの賜物で瞬く間にするするとした綺麗な指どおりを取り戻す。

 (シルク)を思わせる美髪を一掬い手に取り、すぅっと一息吸い込む。

 甘い少女の芳香に柑橘類のような爽やかな薫り。稲穂のような亜麻色と相まって、南方の太陽の下の爽やかな午後を思い起こさせる。

 夏空にレモン畑。青と緑と幾つかの黄色。ニーナなら鍔広の帽子に白いワンピースが似合うだろうか。

 

 そんな風景を幻視するが、今現実の彼が手掛けている装飾もそれに負けず劣らずの良いものに仕上がりつつある。

 全体を梳いた後、彼はニーナの髪を左右で括ることにした。

 右と左で毛量が均等になるように注意しながら纏め上げ、薄い桃色のリボンで留める。

 髪の調整が終わったところで取り出したのはボンネット付きのヘッドドレスだ。

 色合いやデザインはドレス自体と揃いの品であり、そちらの豪奢さに負けない程度には装飾性の豊かな代物だった。

 

 衣服も、化粧も、髪も整えた。ここでようやく最後の工程に入る。

 アルブレヒトは一旦その場を離れ、ベッドの上に置いてあるニーナが梱包されていた箱の方へと歩み寄った。

 彼女が寝かされていた中敷きは外すことができるようになっておりその下に納めらていたのは――――彼女の義肢だった。

 少女の両腕と両脚。白磁の手触りと球体関節もあって人口のものであることは見て取れる。

 ただ既に日も落ちて暗く、蝋燭灯りに照らされるだけの老人の居室にあってその腕と脚はどことなく生き物めいていて、箱の中に鎮座している姿は猟奇的な趣があった。

 ……それも或いは屋敷全体に漂う霊廟のような空気と、血の通わない手足には近似の気配があるからかもしれない。

 死に近づいている生者の住まいと、命を模した無機の四肢。

 

 アルブレヒトは往年の高位聖職者としての威厳を思い起こさせるような所作で両手足をニーナの元へと運んだ。

 たっぷりのフリルに縁取られたドレスの袖を捲りあげて少女の腕を露出させる。

 二の腕しか残っていないほっそりとした少女のそれ。断端の処理は芸術的でさえあり、白く滑らかな乙女の肌と相まって乳棒を彷彿とさせた。

 

「――――あぁ、美しい」

 

 陶然としたように呟く。

 自覚もせずに口から零れたのは感嘆の言葉だった。

 今までずっと静かだった老人の突然の独白にニーナは首を傾げた。

 

「美とはつまり、神の恩寵なのだ。美しいもの、綺麗なもの、崇高なもの、今まで思い描くことさえできなかった想像を超えたものに出会った衝撃――――これを感動と呼ぶ。人の心が感動に打ち震えるのは、それが自分という一人の矮小な存在を超えた高みから下される恵みであることを本能的に理解してしまうからなのだよ……」

「……?」

「……あぁ、要するにだね。美しいものには神様の奇跡が宿っているということなのだよ。――――そう、今の君のようにね」

 

 さぁ、立ってごらん、と彼は義肢を付け終えたニーナに促した。

 かきかき、と足首の調子を少し確かめるように動かしてから彼女は絨毯の上に足を下ろし、一歩一歩を踏みしめるようにしながら姿見の前で自身の姿を検めた。

 

 少女の総身を包むのは純白を基調にベージュの差し色を施したワンピースドレスだ。

 パニエも込みで長いスカートはふんわりと膨らみ、裾に袖にとあしらわれたたっぷりのフリルが全体に末広がりの愛らしい輪郭(シルエット)を描き出していた。

 胴回りのアウターはコルセット状になっていてニーナのほっそりとした柳腰を強調するようだ。

 くるり、とその場で振り向くと豊かなスカートの裾が風に揺れる満開の花のように翻り、あどけなさを強調するツインテールがリボンと一緒に靡く。

 矮躯を包むドレスの面積は広い一方で、背中の部分だけは少し生地が少なめだった。背部の編み上げの上、すらりとした背筋と浮き上がる肩甲骨、首筋から後れ毛へのラインが仄かに大人びた雰囲気を醸しだしていた。

 頭を飾るボンネット付きのヘッドドレスは衣服の方と同じ配色で統一感を崩さないデザインとなっている。

 

 そして幼気な少女の面貌に施された化粧は、彼女が娼館でいつもするものよりもやや色が強めだった。

 普段は少女めいた垢抜けない純朴さを生かすために最小限のナチュラルメイクといった趣なのだが、今回は顔の上にはっきりと陰影を作るように眦にも色を差し、対比させるように頬や唇にも強めの朱色を載せていた。

 

「……とっても可愛い!お人形さんみたいねっ」

「あぁ、そうだろう。そうだろうとも」

 

 鏡の前で不自由な脚を動かしながらくるくると回ってニーナが屈託のない笑みを浮かべる。

 ニーナの生まれ故郷では衣服などは貴重品で一張羅を何度も繕って使うのが当たり前だった。

 それ故にわざわざ一介の娼婦に過ぎないニーナの為に沢山の衣装を用立ててくれて、丁寧にお化粧までしてくれる老人の事を彼女はとても好いているのだった。

 

 そして、お人形さんみたい、という彼女の感想は正しく的を射ている。

 人形のようなドレス、人形のようなメイク――――そして、人形のような手足。

 袖から覗く腕と、裾から覗く脚は人間の生身ではありえない純白の磁器のそれ。

 球体関節を()()()()()()()()()()と鳴らしながら少女はスカートの襞を摘まみ(掴み)、上品にお辞儀(カーテシー)をしてみせる。

 それを見て老人は相好を崩した。愛らしく、ただ愛らしい、人形ならざる生き人形の完成品がそこにあった。

 

「美しさというものは、この世で最もありふれた奇跡であり、魔法だ。我々が感受性と美意識を磨くのはそうした神の恩寵が世界の至る所に満ちていることに気付くためにあるのだよ……。あぁ、ニーナ。今の君はとても美しい。君もまた、神に祝福された愛し子の一人なのだ」

「そうなんですか?ニーナも神様に愛されてるの?」

「あぁ、そうだよ。間違いなく」

 

 陶然とした面持ちで語りながら、アルブレヒトは卓上の鈴を鳴らした。りぃん、と甲高い音は紅茶を持ってくるようにという使用人への合図だった。

 それが終わると彼は椅子に座りながらぽんぽん、と自身の膝の上を叩いてニーナに来るようにと促した。

 老人の膝の上に抱きかかえられるのはいつもの事であった。

少女は抱き人形めいて老人の腕の中に納まると話の続きを促した。

 

「あたし、手も足も()()()()って切られちゃったんです。それでも神様はニーナの事を愛してくださっているんですか?」

「あぁ、そうだとも。君はそんな目に遭ってもこうして生きている。……『先生』が君を救った理由は聞いているかね?」

「えぇと、確か……()()()()()()からだって言ってましたっ」

「あぁ、そうだとも。彼は君という人間の美しさが損なわれることを惜しみ、その命を拾い上げた。そうして君に失った手足の代わりに新しい美しさを吹き込んだ。……一連の流れは『美しさ』という概念が繋いだ奇跡的な因果だ……。あぁ、これを神の思し召しと言わずして何と言おうか」

 

 膝の上に載せた少女の手をそっと取る。

 血と肌の暖かみなど見えない、白骨のような陶磁器の手足。

 人形のように着飾られた少女から伸びる人形そのものの四肢。

 目で見る彼女はどこまでも命無き人形(ひとがた)に近似でありながら、腕の中に抱いて感じる温度と香りは生きている人間(ひと)のそれに相違ない。

 物言わぬ人形の美と血が通った人間の美の奇跡的な交差点、それをアルブレヒトはニーナという少女に見出していた。

 

「全部神様の思し召しだとしたら……じゃあ、ニーナが辛かったことにも意味があったんですか?」

「あぁ、()()()()()()()()()()()()

「そうなんですねっ!()()()()ぁ!」

 

 アルブレヒトはこう言ったに等しい。()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 結果として助かったのだから、結果として綺麗な新しい手足を貰ったのだから良かっただろうと、そう言い放ったに等しい。

 だがそれが生きたまま、麻酔も無いままに懲罰として手と脚に鉈を振り下ろされ、傷口を出血で死なないように焼き潰されてから肉人形として弄ばれてきた少女に何の救いとなるだろう。

 無関心な神と無慈悲な運命を呪いに呪ってもおかしくないだろう少女に対し、それはあまりにも無神経極まりない発言だったとさえ言えるだろう。

 

 そしてその瑕疵にアルブレヒトは気付かない。()()()()()()また気付かない。

 それどころかぱっと花咲くような笑顔を浮かべて老人と笑い合ってさえ見せる。

 手足を失った前後で自身が何をどう思っていたのか、そんなことは彼女自身も忘れてしまっていた。

 だから彼女は笑えるのだ。今、自分を抱きしめている客が笑ってくれることだけが嬉しくて。

 

「今しがたお茶菓子の用意を呼んだからね。……それが終わったら、()()()()をしようじゃないか」

「……はぁい♡ 今夜もいっぱい遊びましょうね、おじい様」

 

 次の遊び、という言葉が何を差しているのか知っているニーナは頬紅によるものだけではない朱色を顔に浮かべた。

 老齢のアルブレヒトは既に不能者になっているが、彼が美しいと感じたものを愛でる経験値だけは恐ろしい程に豊富であり、その意欲も十分にある。

 今は引き出しの奥にしまってある玩具(おもちゃ)の数々と一緒に今宵もニーナという人形で遊び倒すのだろう。

 

 少女の(かんばせ)娼婦(おんな)(かお)を浮かべながら、ニーナは今日の長い夜に思いを馳せるのだった。

 

 

 

 



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7.幕間・とある一人の娼婦の事情と追憶

 

 

 

 リズの本名はエリザベート・ヨハンナ・ジョーフィールドという。

 彼女の実家はジョーフィールド()()()……つまり彼女自身も立派な貴族令嬢である。

 ジョーフィールド家は末席とはいえハイヴェルド大公の一門に連なる家系であり、大公領の一角にて小さいながらも領地の運営を任されていた。

 彼女はそこの長女として(貴族の基準ではあるが)慎ましやかながらも品位と誇りある淑女として育てられていた。

 

 その運命が一変したのはやはり『黒魔術戦争』が切欠だったと言えるだろう。

 他の領邦の話ではあったが、大貴族に対する小貴族たちの徒党を組んでの反抗に端を発する戦争だった。

 その内乱の始まりは農地の不作とそれに反比例するように上げられた税率に対する反発だったと記録されているが、問題は原因ではなく戦争自体の過程にあった。

 大貴族たちに対して兵力の規模で劣る下位貴族たちの連合は、戦力を補うべく多数の『黒魔術師』と言われる人員を雇いこれをもって大勝を修めたという。

 だが、ここで(いくさ)は終わらない。この結果を以て顔に泥を塗られたと感じた大貴族たちは更なる報復を行う道を選んだ。

 貴族とは面子と誇り(プライド)の生き物だ。()()()()()と感じたならば相手に対してどこまでも苛烈になるものなのだ。

 

 結果としてある領邦内で起きた小さな反乱は泥沼化の一途をたどり、やがては野火のように広がって帝国の至る所を焼き払った。

 ハイヴェルド大公領は()()()被害を軽微に抑えることに成功したが、それでも出血を強いられたもの達はいる。

 ジョーフィールド子爵家もそんな不幸なもの達の一人だ。

 

 エリザベートの父、ジョーフィールド子爵は領地を守るために民兵を率いて出陣したがあえなく討ち死にした。

 半ば暴徒と化した隣邦の反乱軍たちは瞬く間に当主不在となった小さな子爵領を引き裂いていった。

 子爵夫人は夫の意志を継いで土地と領民を守るべく、高い依頼料を払って傭兵や他領からの援軍を雇って抵抗した。

 吹き荒れる嵐を前にして一本の木を盾に耐え抜くような日々が続き、彼等は生き残ることには成功した。

 

 ただ問題はその後の事だ。

 数を減らした領民、ズタズタになった領地、失われた領主の命。

 ……今までのように子爵領の運営がうまくいくはずもない。

 何よりもまずいのは、外部から雇った傭兵や他領の助っ人に対して支払える報酬すら危うかったことだろう。

 

 あとはもう想像に容易い。

 足りない金銭を賄うための借金。

 返済しようにも復興の目途の立たない財政。

 利息を払うために切り取られていく子爵家の財産。

 

 ――――戦火から辛うじて逃れた生家の風通しが随分と良くなってしまった頃、エリザベートは最後に売り払うべきものが自分の身柄しか残っていないことに気が付いた。

 

 

******

 

 

「……お初にお目にかかります。ジョーフィールド子爵家長女、エリザベート・ジョーフィールドと申します」

 

 エリザベートはスカートの裾を摘まんで淑女らしい(カーテシー)を取った。

 来ている衣服は至って簡素なワンピースドレス。貴族令嬢が着るには些か垢ぬけない質素な代物だが、これが彼女の手元に残った数少ない真っ当な衣服だった。

 それでも行儀と作法だけは滞りなく、美しいままに。

 例え物がなくとも、体に身についた教養と礼儀は失われないものだった。

 

「結構。歓迎するよ、お嬢さん。そちらに掛けてくれ」

 

 促されるままに彼女はソファに腰かけた。

 ふわりと体重に合わせて深く沈むような柔らかな敷きものの手触り。

 実家が健在だったころにあったものよりも上等な質感に心の中で嘆息する。

 

 彼女が今いるのは都市部……おそらくはジョンズバーグの郊外にあるだろう邸宅の応接間だった。

 だろう、という曖昧な表現なのは馬車で運ばれた道中、幾度も深い森を抜けるなどして時間間隔や距離感が麻痺してしまったからだ。

 あまりに入り組んだ場所を通る道程は、むしろよくこんなところに馬車道があったものだと感心するほどだった。

 

「さてと、エリザベート嬢。君にこうしてご足労願ったのは他でもない……今後の君の身の振り方に関して決めるためだ」

「身の振り方……ですか」

「ああ」

 

 よく磨かれた小卓を挟んで対面に座る男性に背筋を伸ばして向き合う。

 エリザベートは男を正面から見据えた瞬間、「まるで夜が人の形になったようだ」というなんとも奇妙な感想を抱いた。

 肌の色はこの辺りではあまり見ない色合いだ。白いとは言えないが南方系のように黒いとも言えない。

 どちらかと言うと黄色に近い。だから肌の印象というわけではない。

 黒い髪に黒い瞳、黒い縁の眼鏡に総身を覆う黒いローブ。黒づくめのそれらは「夜」を連想するに十分だろうか?

 だが、なんとなく違う、と彼女は改めて思う。

 

 外見(みてくれ)の問題ではない。

 ただその佇まいが、纏う空気が、一寸先を見通せない夜の闇を覗き込んだ瞬間を連想させる――――。

 目の前にいるのはそんな人間だった。それ(・・)を人間と呼べるのであれば、だが。

 

「あの……それよりも先に、貴方の事は何とお呼びすればよろしいでしょうか?」

「俺か?俺の事は……まぁ、『先生』とだけ呼んでくれればいいよ。周りの連中にはそれで大体通じる」

「『先生』……。何かを教えておられるので?」

「主に魔術を」

「……!」

 

 魔術、とその言葉を聞いた瞬間にエリザベートの瞳に力が籠る。

 彼女はその多くを『黒魔術戦争』を通して失った。ここにいる『先生』が例え戦争自体と無関係だったとして心中穏やかではいられない。

 男の持つ異様な雰囲気に呑まれまいとだけしていた心が、また別の要因で奮い立つ。

 令嬢のそんな様子を見て『先生』はうっすらとした笑みを浮かべた。夜空に浮かぶ三日月のような笑みだった。

 

「気骨がありそうで大変結構。――――君のように売り飛ばされて此処に来た娘は大抵この世の終わりのような顔をしているもんだが、元気があるようで何よりだよ」

「……なるほど。ご心配頂かなくても結構です。私は『売られた』のではなく自分から志願して『身を捧げた』のです。最初から覚悟の上です」

「ふむ」

「……っ」

 

 『先生』はまだ少女と言って差し支えない年頃のその女性に目線を投げかけた。

 自らの膝の上に頬杖を突きながらのだらしない姿勢だが、瞳だけは梟かはたまた鷹のそれ。

宵闇の向こうから獲物を品定めする猛禽の眼だ。

 

 その化物(けもの)じみた視線に晒されながら、エリザベートはなおも胸を張って背筋を伸ばしていた。

 本当は恐ろしい。目の前にいる男も、これから待ち受けるだろう未来も。もう家族とは会えないだろうという事実も。

 幼子の頃、嵐の夜にそうしていたように目と耳を塞いで毛布にくるまってしまえたならどれだけ楽だろうかとさえ思っている。

 だが、ただじっと耐えていても好転する物は何もない。

 ならばせめて、自分の意志で目の前にあるものと立ち向かいたかった。

 ……彼女の父が、そうしたように。

 

「まぁ、いいか。そう言うのならそれでいいだろう」

 

 ふっ、と男の視線が緩む。

 令嬢にとっては命の危険を感じるほどの圧力(プレッシャー)だったが、それも『先生』にしてみれば「まじまじと観察する」以上の意味は無かった。

 自分がジロジロと見るとみんなビビるんだよなぁ、と心の中で溜息を吐いてから彼は話の続きをすることにした。

 

「案内するところがある。歩きながら話をしよう」

「かしこまりました」

 

 男がソファから音もなく立ち上がって応接室から移動する。

 その姿に黒い雲か或いは霧のようなものを連想しながらエリザベートは彼の後に続いた。

 

 二人連れだって応接室から出て屋敷のロビーを横断する。

 おのぼりさん(・・・・・・)のようではしたないと思いつつ、彼女は周囲をきょろきょろと見回す誘惑に抗えなかった。

 物珍しいものが置いてあるとか、高級な調度品が置いてあるだとかそういうわけではない。

 ただ、何となく……柱の影、天井の隅、床の角、階段の下。そんな些細な暗がりが()()()()と神経を逆撫でる。

 夜の森の木々の間から()()が草を掻き分ける音を聞いた時のように落ち着かない。人が暮らしている屋敷のはずなのに。

 

「さて、俺は君の実家の債権主から君の身柄を預かることになった。君は『奉公に出た』という名目で借金のカタにされた。ここまではいいかな?」

「はい、問題ありません。……額は、どれだけになりましたか」

「大金貨500枚相当。心配しなくても良い。君の実家の借金はこれで()()()だ。……事情自体は聞いている。後は残ったご家族次第だね」

「そうですか。……良かった」

 

 『先生』の言葉を聞いてエリザベートはそっと胸を撫で下ろした。

 身売りした時に額の査定は聞いていたがどこまで信用したものかと疑ってはいた。

 だがなんにせよこれで家の借金を返すことができたのであればそれに越したことは無い。

 家にはまだ母と、幼い弟がいる。借金という問題が解決してからジョーフィールド子爵家が復興できるかどうか、後は二人に託すだけだ。

 

「あとの問題は君自身だよ。俺はアルブレヒトの伝手……あー……君の所の債権主の、親組織のお偉いさんの縁というのか、そういうのがあってな。()()()()として君を預けられた」

「加工……ですか?」

「素材を安く買い取って、職人の手で加工してもらって、高値で売る。どこでもある商売の基本だろう?」

「…………」

 

 エリザベートは眉を顰めた。

 材料を買って、加工して、品物として売るという工程は彼の言う通り世の中にありふれたものだ。

 肉屋が豚を捌いて肉を売るように、金物屋が金属を鋳って鍋でも売るみたいに。

 しかし今、男が話している材料とは他ならぬ彼女自身だった。

 この時代の文化では女性はあくまでも家の財産という扱いであることが常であり、エリザベート自身もそういう価値観の元で育ってきてはいる。

 だが、肉屋の肉、金物屋の鍋と同列に扱われるような物言いは衝撃という他になかった。

 

「身を売るっていうのは、そういうことだよ。体を売るっていう風に言い換えてもいいがね」

「体を、売る……」

「そういう目的での加工だよ。……調()()とも言うか」

 

 曰く、大金貨500という値は貴族令嬢という付加価値に加えてエリザベート自身の器量も評価してのものだ。

 それなりに高い値段で買ったのだから、売るときにはもっと高額で売りたいのが商人の性質《サガ》。

 故に加工業者……或いは調教師も相応に質の高い所に任せられた。

それが『先生』だ。

 

「俺は生業こそ魔術師ではあるが、実際のところは何でも屋みたいなものでね。よくこういう依頼も受ける。言っておくが最終的な質には自信がある。お前も立派な性奴隷に仕立て上げてやるとも」

「性、奴隷……」

 

 令嬢は男の言葉を反芻した。口の中で転がしても頭が意味を理解してくれない。味のしない飴のような舌触り。

 ロビーを抜けて二人が歩いている廊下は窓から注ぐ銀色の日光が床の上に注いでいる。

 その眩さも目に入らない。目の前に黒々とした靄がかかっているような錯覚。

 瞼の裏にだけ夜が下りてくるような、酩酊感。

 

「そう、精奴隷だ。売却額の目標は……まぁ、大金貨750枚くらいかな。そこまでいくと大貴族、高位聖職者クラスが客になるだろうな。そういう連中のお眼鏡にかなうレベルにまで調教するとなると、()()()()の手間だが、俺ならできない話じゃない。安心しろ」

「……何を安心しろ、っていうのよ……」

「少なくとも()()()()()()()()()()

 

 先導する男が振り向く。

 黒々としたシルエットはただ日向にいるだけで逆光の中に浮かび上がる影絵のよう。

 肩越しに投げかけられた『先生』の瞳は、夜闇のような黒色の中に慈悲と憐憫の色を湛えていた。

 

「例え全身から血が出るまで鞭うたれようとも、例え犬との交尾を強要されても、例え腹の中の糞をブチ撒ける姿を見世物にされても、それを全部『気持ち良いこと』として受け入れられるように躾けてやる。俺のところで性奴隷に調教するっていうのはそういうことだ」

「……狂ってる。狂っているわよ、それ」

「あぁ、そうだ。()()()()()()()()()救いになる」

 

 狂ってる、とその言葉はどちらに向けたものだったか。加工されてしまった人間の成れの果てか、その様を優しささえ感じる声音で語る『先生』か。

 だが、同時にエリザベートは頭の隅の冷静な部分で彼の言葉の意味もまた理解していた。

 この世には彼女が想像することもできないような地獄が存在していて、その深みは常人では測れない。

 

 

 ――――たとえ、そんな地獄の底でも……それに順応して笑って生きていけるのであれば、それは()()()()()ではないのか?

 

 

「着いた」

「っ!」

 

 先導していた男の声ではっと現実に立ち戻る。

 廊下の一角、何の変哲もないドアに『先生』が手を掛けて開いていく。

 そこにあったのは……地下室への下り階段。ただそれだけだった。

 

「さぁ、降りようか。君の為の部屋を用意してある」

「…………っ」

 

 『先生』が手招きしている。

 その奥には何でもないただの階段。

 ただの階段――――その筈だ。

 しかし、エリザベートはそこから一歩たりとも踏み出すことができなかった。

 地下へと下る道のその奥の闇に目を凝らす。廊下から光が差し込んでいるはずなのにその暗がりは、千本の煙草の煙を詰めたように濃く、重たく、見通せない。

 

「エリザベート嬢?」

「……いやよ。()()()()()()に降りるくらいなら、崖から落ちた方がまだマシよ」

 

 ただの恐怖からではない。確固たる意志を持って、彼女はそこから一歩下がった。

 地の底への落とし穴のような階段と、それを背に立つ男を睨み据える。

 ここで不興を買って後でどうなる?身柄の売買も帳消しにされるのでは?

 そんな思考が脳裏を過ぎるが、エリザベートは『先生』の言葉よりも自分の判断に従うことを選んだ。

 

 ――――あの階段を降りたらそこで終わり。

 ――――死ぬよりも悲惨な結末が待っている。

 ――――それこそ何をされても()()()()()()()()()()()()()()()モノにされてしまう。

 そう彼女は看破した。

 

「……なるほどな。見てくれは上々。教養もあって、地頭もよさそう。そして気骨があって、勘が良いと来た。ロビーでも違和感があったみたいだしなぁ。ふむ、なるほど」

「…………」

 

 そして今から自分が加工すべき()()から明確な叛意を抱かれた『先生』は――――にこやかに笑みを浮かべていた。

 予想通りでもあり、また予想以上でもある、と。それは素材の活きの良さ、質の良さを称賛するような感情ではあったが、上機嫌であることに違いは無かった。

 

「少し聞いてみるけれど……この館に入ったときから、()()()()()()を感じているかな?」

「……あまり他所様の住まいについてこういうことを言うものではないのですが、ええ、有体に言って()()()なところがあると思います」

「うむ、結構。それで正しい。いい感性だ。見込みがあるな、場合によっては弟子に取りたいくらいだ」

「……ありがとうございます」

 

 エリザベートは複雑そうな表情を浮かべながらも、褒められたことは分かったので礼を返した。

 そして彼女の感想は正しい。『先生』の工房でもあるこの屋敷には不吉の気配が染みついている。

 それは彼があまりに多くの邪悪な魔術的実験を行った結果こびりついてしまった()()の残滓だ。

 客間や玄関のように他人が出入りするところは念入りに除染しているが、彼女は僅かに残ったそれを鋭敏に感じ取っていた。

 

 厳重に封印を行っている地下にしても扉一枚開けて階段を覗いただけで拒絶反応が出た。

 なまじ感性が鋭いだけの人間ならその段階で眩暈を起こすか、恐慌状態に陥るのだが、彼女は確りと自分の意志を保ったまま足を引いた、というのも高得点である。

 魔力の質に対する感性とそれに情緒を引っ張られすぎない意志の強さは魔術師に必須の才能であると言えた。

 弟子に取りたい、と言った『先生』の言葉は本心からのものだった。

 

「オーケー。今の俺は特に機嫌が良い。君のことを大いに気に入った。――――なので、君に選択肢を上げようと思う。」

「選択肢、ですか?」

()()()()()()()()()()()

 

 それ本気で言っておられる?と呆れそうになったエリザベートは言葉をグッと呑み込んで続きを促した。

 

「債権主の方からは君を大金貨750以上で売りたいという風に依頼を受けている。これに関しては譲れない。最初は性奴隷として一括でどこかに買い取ってもらう予定だったが……この額を君自身が()()()()()というのであれば問題ない」

「……つまり、奴隷以外の道を提示していただけると?」

「そうだね。性奴隷以外であるなら娼婦の道をオススメしよう」

「どちらにせよ体を売る仕事ではないですか!」

「あぁ、そうだね。――――しかし、現実的な手段としてそれ以外の道は無いよ」

 

 『先生』の言葉に歯噛みする。

 大金貨750枚相当となると凄まじい大金だ。ジョーフィールド子爵領に例えるなら領民の全財産を麦一本残らず徴収してもなお足りないだろう。

 勿論そんな手段を取ることはできないし、その前に大金貨500枚相当の工面もできずに身を売る羽目になったのが彼女の現状だ。

 どうやってお金を稼ぐのか?えエリザベートが身一つでそれだけの財を成そうというのであれば、もう文字通りに体を売る以外の選択肢は存在しないのだ。

 ……あとはその次の選択が酷いものか、もっと酷いものかのどちらかだけ。

 

「俺なら高級娼館にも伝手があるからお前さんをそこに紹介してやれるし、そこでも通じるようにイロハを教えてやっても良い。――――だが、()()()()()()()()()()()()()()()

 そりゃまぁ、仕事の内容自体は精奴隷よりはマシだろうとも。そこは保障する。ただ、最終的にお前の目標額分を稼ぎたければ何年も何年も、高級娼館でも上位層に入るだけの売り上げを続けなければならない。嫌々接客してれば客にもそれが伝わって結果として売り上げが伸びないし、何より生半可な気持ちでは精神(こころ)が壊れるぞ」

「…………」

 

 彼女は彼の言葉を黙って聞いていた。

 夜の闇が人型になって立ち上ったようなその男は真摯な、まだ年若い令嬢の未来を案じるような面持ちで続ける。

 

「だから、最初から壊れておくというのも俺は()()だと思ってるんだ。壊れてしまえば何も考えなくて良い、何も悩まなくて良い、何も苦しまなくて良い。君はただの()()()()()()()()のままでいられるんだ。

 金を払うだけの男に媚びを売って、好きでもない奴にキスをして、夫でもない輩の精を受け止める。自分の意志と選択で、売り上げと借金とノルマに意識を割かれながら何年もそんな苦しい仕事に身を置き続けるというのは――――客観的に言わせてもらうと生き地獄じゃあないかね」

「…………」

 

 『先生』にとって、それは慈悲の言葉なのだろう。

 世間知らずの田舎貴族のご令嬢には想像もつかないような苦しみが世の中には存在する。

 彼女は今からどうあがいてもその只中に落とされるのだろう。

 だから、彼は個人的に気に入ったからという理由はあれど、選ばせてくれているのだ。

 

「そういうわけで、じっくりと考えてから選んで欲しい――――何もわからない白痴になってから地獄に落ちるのと、自分の意志で正気を保ったまま地獄に落ちるのと、どちらが良い?」

「………呆れました」

「?」

 

 エリザベートが嘆息すると、『先生』は何を言われたのかわからないように小首をかしげた。

 印象だけはどこまでも非人間的なのにそんな咄嗟の仕草だけ妙な愛嬌があるのはどうなんだろうか、と彼女は心の中で呟いた。

 

 なんにせよ、取るべき道は決まっている。

 エリザベート・ジョーフィールドは淑女らしく、背筋をまっすぐ伸ばして返事をした。

 

 

******

 

 

「後ろ、ちゃんと留まってる?」

「おう、大丈夫。ちょっとキツかったけどな」

「キツ……!?」

「冗談だって、そう睨むなよ」

 

 ――――公都ジョンズバーグ繁華街、娼館『リーベ・エンゲル』。

 既に日も落ちた夕方の時間帯。

 更衣室には姦しい女性たちの声がガヤガヤと響いていた。

 衣装の着替え、化粧に髪型の確認。娼婦が女を売り物にする仕事である以上、容姿を整えるのは戦士にとっての武器の手入れに等しい。

 そろそろ夜になって来客の受付が始まる時間だ。

 リズはドレスの背中の編み上げ部分を留めてくれたミカエラにお礼を言ってから鏡で自身の姿を確認した。

 

「……よし」

 

 衣装は黒を基調にしたドレス。肩紐のないデザインであり、彼女の白い肌と豊かな胸元と対称性(コントラスト)を描くようで目にも鮮やかだ。

 裾はやや短めで昔よりも肉付きを増した足元を晒している。少しはしたないという自覚もあるが今の自分にはそれがお似合いだろうと感想を呑み込む。

 元から少し癖のある金髪(ブロンド)は後頭部の辺りで結い上げている。首元には黒い生地のベルベットチョーカーをあしらって白いうなじを強調するように。

 

「えっと……そっちの方にネックレス置いてなかったかしら」

「あっ、これだよねリズ姉っ!はい、どーぞっ」

「ありがとう、ニーナ」

「どういたしましてっ!」

 

 義肢の少女――――みんなの妹分であるニーナがパッと探し物を差し出してくれた。

 ちなみに彼女は今日は非番だ。他の娼婦仲間(同僚)は仕事がないときは着替えや化粧を手伝ってくれたりもするのだが、致命的に不器用な彼女にそれは望むべくもない。

 純粋に、ただの賑やかしである。

 しかしながらニーナがちょこちょこと更衣室を歩き回って誰かに話しかけるだけで、張りつめた空気が少し優しくなるものだから誰も特に文句は言わないのだ。

 リズも、彼女の飾らない純粋さに救われている一人だ。

 

「そのネックレス、リズの趣味じゃねぇよな、貰いもの?」

「そうね。今日来るお客さんからの貰いものよ。確かにちょっとごついし、趣味じゃないのはそうなんだけど、付けていった方が喜ぶと思うし」

 

 ミカエラ――今日は彼女も仕事なので衣装を着ている、メイド服だ――からの指摘にリズは頷いた。

 金色の太めの鎖をじゃらじゃらと束ねたようなデザインは正直リズの好みではない。

 だがこれはジョンズバーグでも特に老舗とされる金細工房のものだ。

 決して安くない品を彼女の関心を惹くために贈ったということは、客の側の入れ込み具合が伺える。

 ここまでしてくれる上客であるなら、好感度を保つために好みでもない装飾品を身に着けるくらいはやるべきだろう。

 

「でも、きんきらしてて綺麗だね。リズ姉の髪みたいであたしは好きかなっ」

「ふふっ、ありがとうニーナ。そう言って貰えると助かるわ」

 

 そういうリズ自身の内心など露とも知らないのだろう、ニーナはにっこりと笑顔でそう言った。

 彼女のそんな邪気の欠片も無い笑みが可愛らしくてリズはついつい頭を撫でてしまった。亜麻色のサラサラとした絹糸の髪が掌に心地よい。

 

「……」

「ん?どうしたのリズ姉」

 

 リズ――――エリザベート・ジョーフィールドはこのニーナという少女を見るたびに思い出すことがある。

 自分がかつて、狂うか正気のままでいるかと『先生』に選択肢を与えられた時の事だ。

 腕も脚も無く、善も悪も知らず、幸福も不幸もわからないこの少女は、いつぞやの選択肢で違う道を選んだ自分の可能性なのかもしれない、と。

 壊れたままでいれば、何もわからないままでいれば、そこがどんな世界だったとしても幸福で生きていける――――そんな彼の主張の一つの明確な形。

 

「……なんでもないわ。私はそろそろ行ってくるわね」

「うんっ、わかった。いってらっしゃい!」

 

 けれどそんな思いはリズ一人だけの感傷でしかない。

 名前を捨てて、操を捨てて、それでも自分は自分の意志で、目を逸らさずに生きていくことを決めたのだ。

 辛いこともあり、不愉快なこともあり、思い通りにならないことの方が多い日々だが、それでもリズは背筋を伸ばすことを忘れない。

 

 最後まで逃げなかった、自分の父の事を今も覚えているから。

 今はまだ名乗れないけれど、ジョーフィールドの名に恥じることはしたくないから。

 

「――――さぁ、今日もお仕事の時間ね」

「がんばってね、リズ姉っ」

 

 名残惜しく少女の髪から手をどける。

 一瞬、鏡に向いて笑顔を作れていることを確認して、リズは夜へと繰り出していった。

 

 

 

 




先生「まぁ、後で後悔して発狂したくなったらいつでも言ってくれ。最短5秒で壊してあげるから」


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8.ブロークングラスシンドローム

※ややグロめの描写があります


 

 

 

「ごめんなさいお客様。ニーナは両手が不自由なので……お客様の手で脱がせていただいてもよろしいですか……?」

「うぅ、ごめんなさい……。手扱きはまだ練習中なんです。でも代わりと言ってはなんですけど、ニーナお口は得意なんですよ。だって腕がないときは口で物を咥えないといけないですからっ」

「ぁぅっ。お客様、怒ってらっしゃいますか?ごめんなさい、ニーナもっと頑張りますねっ。だから、だから顔はおやめくださいっ!」

「あ゛ぐっ、う゛っ。う゛っ、え゛ぅ……っ。お腹、お腹も駄目です……っ!痣、痣になっちゃいますからっ」

「ダメっ、やめてっ。もう、これ以上はダメ、です……っ!痛いっ!!痛いですっ!!痛い痛い痛いっ!!――――助けてっ!!!!」

 

 

******

 

 

「……でよォ、いい加減にコイツ外してくんねェかな」

 

 薄暗い地下室に不機嫌そうな男の声が木霊した。

 一本の蝋燭のぼんやりとした僅かな明かりだけがその一室の光源だった。

 ちろちろと蛇の舌先のように蠢く一片の灯は部屋の中に蟠る暗がりを照らしきるにはあまりにも小さい。

 空間を微かに切り取る灯りの外側の闇は、鉛のように重く、泥のような鈍さを纏っていた。

 

「そもそもよォ、俺にこんな真似してタダで済むと思ってんのか?まさか俺の後ろに誰が付いてんのか知らねェわけねェよな、姉ちゃんよォ」

 

 そしてそんな部屋の真ん中に設えられた椅子には一人の男が、四肢を鎖で結わえられる形で座らされていた。

 木製ながらもがっしりとした作りの椅子が軋みを見せそうな程に大柄な……というより正しくは肥満体の男だった。

 畜産場でぶくぶくと肥え太らされた養殖の豚を彷彿とさせる体格で、胴回りの肉の付き具合は初対面の人間でも思わず健康を心配してしまいそうなほどだ。

 

 そして男は先ほどからずっとこの調子で地下室に拘束された不満を当たり散らし続けている。

 手首と足首を椅子に繋いでいる鎖をガチャガチャと喧しく鳴らし、ドスを利かせた低い声で目の前に座る人物を恫喝する。

 

「あらあら、随分と怖いことを仰られるのですね」

「あァっ!?ヘラヘラ笑ってんじゃねェぞ、ぶっ殺されてェのかこのクソ売女(ビッチ)がっ!!」

 

 男の啖呵はそれ自体が一発の号砲のようだった。

 拘束されていてこちらに手は出せないだろうと理性ではわかっていても、堅気の人間であれば思わず身を竦めるくらいはしてしまうだろう。

 しかし、拘束椅子の体面に腰かけているその女性は口元に手を添えてくすくすと上品に笑うばかりで意に介した素振りも見せない。

 この状況も午後のお茶会のささやかな雑談の延長線上にしか捉えていない、そんな態度だった。

 

 その女性は地下の暗闇と微かな蝋燭灯りの元でもはっきりとわかるほどに艶めく長い黒髪と白磁の肌の持ち主だった。

 長い睫毛に縁取られた瞳は慈母のような温もりを湛え、赤い唇から零れる言葉は耳朶を天鵞絨(ビロード)で包まれるかのように艶めかしい。

 彼女こそは高級娼館『リーベ・エンゲル』の運営を取り仕切る、女将のライラその人だった。

 

「えぇ、えぇ、勿論でございます。お客様も当店はご友人様の紹介でいらしてくださっておりますものね」

「そうだよ。わかってんのかァ?俺と、俺の兄貴は泣く子も黙るドゥルバン組の構成員だぜ。俺に手ェ出して見ろ、娼館一件潰すくれェのことはワケ無ェんだからなっ!!」

「まぁ、そうなってしまったらとても大変でございますわ」

「だからいい加減にコイツを解けっつってんだろうがクソブスっ!!今日中にでも俺が事務所に戻らなきゃ、組織(ファミリー)の連中が殴り込んでくんだぞっ!!」

 

 額に青筋を浮かべながら男は凄んで見せた。

 彼が所属しているドゥルバン組は名目上は南西部の港湾都市から進出してきた、物流を主とした商会であることになっているが……その実態は暴力団と言っても過言ではない。

 近年になってジョンズバーグ内に事務所を構えてビジネス(シノギ)の拡大を狙っており、この男もそこの構成員の一人だ。

 

 そうした情報を予め知っていながらライラはくすり、と笑みを零した。

 ぶよぶよの腹の脂肪に気を取られて見逃しがちな腕周りの筋肉の太さ、拳の擦り剥けと硬くなった掌の皮膚を見るに、男がドゥルバン組のジョンズバーグ事務所内でも暴力を生業としているチンピラなのは見ればわかる。

 実際に彼を取り押さえる際に自身の店の警備員が三人でかかる必要があり、負傷者も出た。

 

 ()()()()()()だった。

 こうやって椅子に縛り付けられて文字通り手も足も出せない状況で、出せるのは口だけ。

 その脅しの内容も聞けば組織と仲間頼り。自分が所属している集団の力を自分自身の力と誤認している人間ほど滑稽なものもそうは無い。

 

 それによしんば拘束されていなかったと仮定したところでライラにとっては同じく恐ろしいとは思えなかった。

 相手が()()()()()時点で彼女にとっては俎板(まないた)の上の肉も同じであったし。単純な暴力という点でももっと恐ろしい存在を知っている。

 たった一人で国を滅ぼすことができる黒魔術師に比べればたかだか警備員三人に取り押さえられる男など怖くもなんともないのだった。

 

「まぁ、それはそれといたしまして――――当店の規約についてのお話をさせていただきたく存じますわ」

「あァん、規約ゥ?」

「えぇ、規約にございます。当店を初めてご利用になられた際に署名(サイン)いただいた規約書には『従業員に対して危害を加えることのないようお願いいたします』という文言がございます。目を通していただけましたでしょうか?」

「――――はァ、バッカじゃねェの?()()ァ、そっちの方が悪ィよ」

 

 ライラの言葉を聞くと男はふん、と鼻を鳴らしてふんぞり返った。

 完全に開き直っている姿勢だ。

 

「ニーナちゃん、っつったっけ?あの手足の無ェガキ。ありゃダメだよ、興味本位で買ってみたけど想像以上のポンコツだったな」

「……ニーナは両手足が義肢になっている都合上、他の娼婦と違って行えない業務が幾つかございますと、事前にご説明させていただいているかと思いますが」

「だーかーらーよーっ。テメェでテメェの服も脱げねえ役立たずとまでは想像できるわけねェっつってんだよコッチはよォー。手扱きもへったくそでチン〇痛ェし、あんなんに大金貨1枚とかぼったくりもいい所だろうが、あァ!?」

 

 話をしながら昨晩の怒りが戻ってきたのか、男は肉で弛んだ顔を赤らめながら眉間に皺を寄せた。

 話を聞いているライラだけが最初から全く変わらぬ妖しげな微笑のままだ。

 

「頭キたから一発ぶん殴ったのに、変わらずヘラヘラ笑ってやがって全く不気味なガキだったぜ。始めからもっと申し訳なさそうなツラをしてりゃ、俺だって鼻血と痣出る前に許してやったのによォ。

 あァ、そうだ。()()()()()だけはそこそこ上手かったぜ。どうせなら前歯全部折ってやった方が良かったかもな。そうすりゃもう少し上手になれたろうによ!」

 

 男は立て板に水、という調子でべらべらと喋り倒した。

 実のところ彼が喋っている内容は幾らか露悪的に誇張されているところが多い。

 ニーナの接客が気に入らなくて殴ったのは事実だったが、逸物をしゃぶらせる以外にも彼女の中にモノを突っ込んで腰を振るのも存外心地よかった。

 衣服を乱雑に剥ぎ取って、両手足の義肢を捥ぎ取って達磨の少女を欲望のままに犯すのは男の嗜虐心を大いに奮い立たせた。

 一発殴ったのにこちらに媚びへつらう様子も見せなったのが気に食わず、犯しながら顔や腹を殴り髪の毛を引っ張ったりもしたが、それも含めて彼がニーナを楽しんだのもまた事実。

 

 ではなぜ敢えてこういった罵倒を吐いているのかというと、端的に言うと『舐められないため』である。

 少なくともヤクザ者の渡世では下手に見られたらその時点で敗色が見える。

 己の弱みは見せずに屁理屈だろうが自分の方に(スジ)があると強弁し、相手の弱みを僅かでも見つけたならそこから一気呵成に畳みかけねばならない。

 

 実は男も昨晩は興奮に任せて「少しやりすぎたかもしれない」と心の隅では思っているが、それを口に出したが最後自分の非を認めることになる。その時点で負けだ、

 なので彼は徹頭徹尾、「そちらのサービスの質が低かったのが悪い」という論法でゴリ押ししようとしているのである。

 もしこれで向こうが激昂して手出しでもしてきたら万々歳である。

そこから因縁をつけて武力闘争にでも発展すれば、組織力の差でドゥルバン組(こっち)の方が圧倒的に有利だ――――と、男はそのように考えている。

 

「んんー……なるほど、これはこれは……。となると致し方ない所もございますわね……」

「おっ?なんだなんだ随分あっさり認めるじゃねェか」

「認め……?あぁ、申し訳ございません、こちらの話でございます。何か誤解させるようなことがございましたら平にご容赦を」

「……ちッ」

 

 しかしながら男の内心に反して、目の前に座る女はどんな言葉を投げかけてもまるで堪えた様子が見えない。

 暖簾に腕押し、糠に釘。艶やかな細面は初めから何も変わらぬ笑みのままで、男は自分が一人で空回っているような苛立ちを抱えていた。

 

 こうやって縛り付けられていなければぶん殴って言うことをきかせているのに、と頭の中で女将の端正な顔を滅茶苦茶にしている妄想を回し始めたところで、彼の耳はコンコン、という硬質な音を捉えた。

 扉がノックされた音である。

 

「どうぞお入りくださいませ」

「はーい、失礼するっすよー」

 

 ぎいぃ、と重たく蝶番が軋む音と共に扉が開いて二人の人間が入ってくる。

 一人はいかにも魔術師然とした黒づくめの服を着た赤毛の女。

 もう一人はきっちりとした仕立ての風苦を着込んだ痩せぎす長身の男性であった。

 

「兄貴ィ!」

 

 椅子に縛られた男は顔に喜びを浮かべて声を上げた。

 入ってきた男性はドゥルバン組において彼の兄貴分に当たる人物だった。この娼館の紹介状を渡してくれたのも彼である。

 自分を助けに来てくれたのだ、と男が思ったのも束の間、勢いよく頬を張る音が暗闇に響いた。

 

「この……っ、大馬鹿野郎がっ!オレに恥をかかせやがって!」

「ぁ、兄貴ぃ……っ!」

「堅気の女をぶん殴ったな。テメエはテメエを紹介したオレと、ひいては組の名前にも泥を塗ったんだぞ!!わかってんのかこの能無しっ!!」

「ひぃっ、す、すいやせんでした……っ!!」

 

 悦びから一転、叱責で引きつった弟分の顔を見下ろしながら痩せぎすの男は心の中で盛大な溜息を吐いていた。

 この男は図体と態度ばかりがでかくて実に困る。拳だけでなくもう少し頭を使うということを学習してもらいたいものだった。

 

 『リーベ・エンゲル』は完全紹介制だ。紹介された客の来店は、紹介した客の信用に基づいて行われる。

 そこで自分の紹介した人間が問題を起こしたということは重大な信用の失墜につながる。もうドゥルバン組関係の者の来店は拒否されるだろう。

 ましてや娼館は場所自体があらゆる情報の中継点だ。娼婦と客の雑談の中でどれだけの秘匿度の高い情報が飛び交っていることだろうか。

 今回の一件が店の中で噂になれば、そこから夜の界隈に「ドゥルバン組は気に入らないことがあるとすぐに暴力に訴える狼藉物たちの集まりだ」という話が広まるだろう。

 実際いざとなればいつでも暴力でことを治める用意をしている彼等だが、そうした解決手段を持っていることはあくまでもチラつかせる程度であるのが最善である。

 比較的最近になってハイヴェルド大公領に進出してきた彼らはここではまだ余所者という扱いだ。

 販路の開拓をしている途中で悪評が立ち、公都の他の権力者から睨まれるのはマズい。

 

「今回の一件はオレからも頭を下げさせていただきます。コイツの処遇については一旦組の方に持ち帰らせていただきますが、指詰めるなり、破門なり相応のケジメを付けましょう」

「あっ、兄貴ィっ!?」

「テメエは黙ってろ!!……被害に遭われたお嬢さんに関してはこちらから見舞金もお出しします。如何でしょう?」

 

 手打ちとしてはこちら側の非を全面的に認める破格の条件である。

 確かにヤクザ者の交渉事とは相手に弱みを見せればそこから食いつかれるのが常だが、だからといって開き直って頑なになるのが正解というわけでもない。

 自らの側に問題があるとすればそこを堂々と認め、腹を切って詫びるくらいの潔さも時として交渉の武器となる。

 ここまでの好条件での提案を出した上で呑まないというのであれば、今度は逆に断った側の度量が問題になるからである。

 

 実際、こうして話を切り出した兄貴分も此処まで言えば一件落着だろうという気でいた。

 弟分に関してはその腕っぷしを逃すのは少々惜しいが、前々から品性の無さを憂慮していたところではあった。

 今回が切り捨てるのに良い機会であったと思おう……と口を動かしながら彼はそんなことを考えていたのだが。

 

「うふふ……っ、あっはははは……っ」

「……どうなされましたか」

「あら、ごめんなさい。私ったらお客様の前ではしたない……。けれど、ふふっ、少し可笑しかったものでして。――――申し訳ございません、こちらの椅子にお座りいただいてよろしいですか?」

「……?」

 

 くすくすくす、と地下室の暗闇に女将の笑い声が反響した。

 鈴を転がすような品の有る笑い声はこの重苦しい闇の中にあっても、男であれば思わずもっと聞いていたいと思わせるような心地よい声音だった。

 だが、この状況でいきなり笑い始める理由がよくわからない。

 訝しいものを覚えながらも兄貴分は促されるままに、ライラと入れ替わるようにして彼女が座っていた椅子に腰かけた。

 

 ――――その瞬間、椅子の手摺と脚から鎖が伸び上がって彼の両手足を縛りあげた。

 

「なっ!!?」

「アナベルさん」

「はーい」

 

 じゃらり、と蛇のように絡んだ鉄鎖に突然囚われた彼は驚愕の声を上げる。

 だがライラはそちらを一瞥することなく蝋燭の外の暗がりへと声をかけた。

 返事をしたのは先ほど入室してきた赤毛の魔術師……アナベルだった。

 既に彼女らは()()()()()()()である。

 なのでアナベルは軽い返事をして、鈍く光る一本の短刀(ナイフ)を懐から取り出した。

 

「お゛っ、っ゛こ゛……っ!!??」

 

 そして彼女はそのまま刃を――――先んじて椅子に縛り付けられていたままの肥満体の男の腹に突き刺した。

 

 一瞬の鋼の冷たさ。続いて灼熱感。そして激痛。

 弟分の男は眼を見開いて絶叫した。

 

「っっ゛、き゛ぃいやぁぁぁぁぁぁっっ!!!!!い゛て゛っ、痛ェっ!!!!痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇやめろやめろやめ゛っ、き゛ゃあ゛あ゛ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!!」

「あー、はいはい。大人しくしといてくださいっすねー。手元狂ったら大変っすからねー」

 

 突き立てられた刃はそのまま()()()()、と快調な手応えのまま男の皮と肉を切り裂いていく。

 鉄錆めいた匂いを暗室に漂わせながら、赤黒い血がぼたぼたと零れ落ちて椅子に滴り、瞬く間に床の上に染みを作る。

 屠殺される豚のような泣き声を耳にしながらも、男を解体しているアナベルはいつもと変わらない表情だった。

 

「な、なにをして……っ!?」

「んーと、ちょっと()()でも貰っていこうかな、と」

 

 兄貴分の男が問いただす。その声は震えていた。

 突然、なんの脈絡もなく目の前で始まった拷問に彼は混乱の極みにあった。

 それに対してのアナベルの返事は実にあっけらかんとしたものだった。

まるで、料理に際して肉の塊を切り分けているだけと言わんばかりの平差の態度である。

 

「一応でかい血管と内臓は避けて切ってるんで命に別状はないっすよ。出血多量で朦朧とするかもしれないっすけど何なら後で造血剤でも進呈します。まぁ、麻酔はかけてあげないっすけどね。こんだけ体デカいと多分内臓脂肪がめっちゃついてると思うんすよねー。見たことあるっすか?太ってる人の腸とかの周りって脂肪の塊が房みたいになっていっぱいついてるんすよ。それをちょいちょいと切り取って回収させてもらうだけっす。終わったらお腹周りもスッキリするんで健康にはむしろいいはずっすよ。感謝して欲しいくらいっす。まぁ、それはそれとしてアタシって太ってる人間嫌いなんすよねー。ぶくぶくぶくぶく太りやがってまぁ、さぞかし食うものに困らない裕福な生活してきたんだろうなーって感じで。マジで頭くるっす。あぁ、個人的な恨みで手元はブラさないんで安心して欲しいっす。昔はこういう作業の時についつい頭に血が上ってやりすぎちゃって、『先生』にはよく窘められたもんっすよ。今は黒歴史っすね。

 んで、取った脂身の使い道なんすけどこれは色々っすねー。やっぱ人体由来の素材なら簡易人身御供っすかね。人間の体の一部を使った素材を消費することで疑似的に人間を生贄に捧げた、っていう状況を再現する儀式魔術っすね。脂は燃えるんで蝋燭を作るのもいいっすね。乾燥させた筋肉とか神経の繊維を紐に使った人体脂の蝋燭に火を付けると簡易式の火焙りの儀式になるんすよね。あとは同じように素材を使って人形を作るとかっすね。人形は色々と使い道があるんすよー。呪いをおっかぶってもらうためのスケープゴートとかー……」

 

 相手が聞いているのかいないのか、それを全く考慮の外に置いている長広舌。

 その間も彼女の手は一切止まることなく男の太鼓腹を切開していく。

 魔術師が留まることなく喋る声、既に声を上げる余裕もなく口の端から泡を吹いて痙攣している弟分、()()()()()()と耳を塞ぎたくなるような血肉の音。

 対面の椅子に座らされたまま弟分が()()されていく様子を見させられながら男は痩せた顔にじっとりと嫌な汗をかいていた。

 

「――――ごめんなさいね」

 

 そしてそんな男に背後からかけられる声が一つ。

 今や凄惨な拷問室と化した――いや、最初からその用途で使われる部屋だったと知らないのは彼等だけだった――部屋の中にあって、その声だけは今も暖かい布に身を包まれるような心地よさを湛えていた。

 女の、ライラの白くほっそりとした腕が椅子の上の男を搔き抱くように回され、後ろからしなだれかかる。

 肺の奥まで澄み渡るような芳しい香水の香り、冷たさと温かさが同居した女の体温に、彼はこんな状況であるにも関わらず安堵の心地を覚えてしまった。

 ()()()()()()()

 

「先ほど思わず笑ってしまったのはですね。――――まだ、貴方様方が交渉の余地がある段階だと思っていらしたことが、つい滑稽でして」

 

 男の耳朶を女の囁き声が擽る。

 吐息交じりに言葉を吹き込まれるのはそれ自体が脳を擽る愛撫のよう。

 こんな状況でなければもっと堪能したいと、そう思わせる情婦(おんな)の手管。

 

「あいつの、したことは、あやまる。土下座でもする、金も払う。だから、」

「いけませんよ。……だってこの店は()()()()女たちの砦ですもの。()()()をしたお客様には私共の責任の下で、管轄の下で、きちんと反省していただきませんと……」

 

 何事も()()()()は良くありませんからね、と女将が微笑む。

 その笑みは聖女染みた慈悲さえ込められていた。()()()()ことに。

 ここに来てようやく男は気付いた。ケジメだの手打ちだの、(スジ)だの交渉だの、彼等の常識(ルール)は此処では何の意味も持たないのだと。

 

「た゛すっ、けっ。たすけてっ゛、っ。こ゛め゛んなさいこ゛めんな゛さ゛いこ゛めん゛なさ゛い゛こ゛めんなさいもうゆるし゛ぃああぁぁぁあ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ゛ああっ」

「おっとデカいの取れたっすねー。ダメっすよー、こんなに脂肪溜め込んでちゃー」

 

 めりめり。

 ぐちゅぐちゅ。

 ぶちぶち。

 ぼとん、びちゃん。

 

 目の前で人が解体(バラ)されている。

 皮膚が裂けて、肉が切られ、臓物に手を突っ込まれ、黄色がかったぶよぶよの脂肪が引きずり出されて、桶の中に溜められていく。

 ()()()()に遭って、まだ生かされているというのが信じられない。

 

 男は目を逸らせない。

 女が横顔を覗き込んでくる。

 白い頬、黒い髪。優しい声、甘やかな香り。

 その全てが恐ろしい。

 

「私たちは私たちで楽しみましょう?――――そうですね、身内の方が目の前で解体されている様でしか絶頂できない、という体になってみるのは如何でしょうか?

ご安心ください。私、これでも殿方のお身体の扱いには自信がございますので、きちんと躾けながら、極楽へご案内して差し上げますわ……」

 

 男は絶叫した。

 その声は地下室の闇に呑まれて消えた。

 後の事は、誰が語るまでも無いことだった。

 

 

******

 

 

 一仕事終えたアナベルはきちんと片付けと手洗いを済ませてから外に出た。

 娼館『リーベ・エンゲル』の裏手には住み込みで働いている従業員用のアパートが建てられている。

 そのうちの一室のドアをノックし、中の人の返事を待ってから戸を開く。

 

「アナちゃん!待ってたよっ」

「ちわっす。ニーナちゃん、様子見に着たっすよ。具合はどうっすか?」

「平気へーき。みんな心配しすぎだよー」

 

 アナベルが入室したのはニーナの部屋だ。

 訪ねてきた馴染みの魔術師に義肢の少女が振り向いて朗らかな笑みを向ける。

 窓から差してくる陽の光が亜麻色の長い髪を透かして、実り豊かな稲穂を思わせる。

 

 少女の頬には白いガーゼが貼られている。客に顔を殴られた痕だ。今は服に隠されて見えないが体にも幾つか青痣ができていた。

 一仕事する前、こちらに到着した直後にアナベル自身の手で治療を施したから痕が残るようなことは無いだろうが、それでも心配なものは心配だった。

 

「今は痛くないっすか?」

「うん、大丈夫だよ。()()()()痛くなかったもんっ」

「……そうっすね。ニーナちゃんは痛みに強い子っすからね」

「えっへん」

 

 目細めて笑うニーナの頭を撫でる。

 驚くほど指どおりの良いサラサラの髪の感触を確かめながらアナベルは苦笑した。

 

「ねえ、アナちゃん。聞いていいかな?」

「ん?何っすか?」

「昨日あたしが相手したお客様、どうだった?あたし、うまく接客できなかったから怒らせちゃって。途中で警備員さんに連れ出されちゃったから最後まで出来なかったし、満足させてあげられなかったから悪いなぁって思ってるの」

「――――……そうっすねぇ……」

 

 頭を撫でられながらニーナは少し肩を落としてそう言った。

 僅かに潤んだ瞳を上目遣いにして見つめてくるその仕草はどこかいじらしくて、見るものの庇護欲をそそる。

 だが、彼女の語る言葉はどこか()()()()

 無理をしているわけでもなく、ただただ当たり前の真心と善性からそういうことを言えてしまうのが何よりの異常だった。

 

「あのお客さんは、アタシと女将さんとで()()()話し合いをして納得してもらったっす。向こうもニーナちゃんに手を挙げて悪かったって言ってたっすから」

「そうなの?じゃあ、あたしからもちゃんと気持ちよく出来なくてごめんなさい、って言って貰っていいかな?

 それと――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って!」

「……うん、わかったっす。今度会う時はそう伝えておくっす」

「ありがとう、アナちゃんっ!謝る機会がなくて昨日の夜からずっと心残りだったのっ!」

 

 少女はパッと花咲くような笑みを浮かべた。

 そこには昨夜の客に関する悪感情など一切見当たらない。

 例え顔や腹を、鼻血を噴いて痣ができるまで殴られようと、彼女には相手に対する恐怖も嫌悪も憎悪もない。

 そう言った類の感情は()()()()()

 

 ニーナは壊れた少女だ。体が、という意味ではなく心が。

 最も深刻に破損しているのは『負の感情を受け止める器』である。

 怒り、悲しみ、痛み、苦しみ、憎しみ、妬み、嫉み、悔しさ、辛さ。

 そういった負の側面を持つ感情を彼女の心は受け入れて溜めておくことができない。

 ()()で水を掬うように、端から全て零れ落ちて行ってしまう。

 結果として彼女は他人からそれを向けられても理解できない。共感することもできない。

 人間の最も単純な感情は快・不快の二つとされているが、彼女はそのうちの後者から派生する全てを理解できないのである。

 

 『先生』の言によればこれは彼女が両手足を切り落とされたときの防御反応らしい。

 苦しみのあまり、苦しみを受け止める心の部分それ自体を壊すことで、これ以上の苦痛を味わうことを回避した――――そういうことらしい。

 結果として、()()()()以前の彼女と、以降の彼女には深い断絶が発生している。

 今の彼女はもう両手足を失う以前の自分の事を、自分の事と結びつけて考えることが難しい。

心の在り様があまりにも違っているせいで、他人から聞いた話を反芻しているのに近い状態なのだという。

 記憶の喪失ともまた違う、()()()()()()()()()()()の欠如。

 

 翻って彼女は痛みに対しても極めて鈍感だ。

 彼女が傷の治療を願い出ることがあるのは、自分の体そのものが娼婦としての商売道具である以上は傷を付けないようにしなければならない、という知識に基づいているに過ぎない。

 彼女にとって「痛い」と他人に訴える行為は、あくまで「怪我をしたら周りの人に痛いと言いなさい」と言い含められているだけの事。

 痛みを痛みとして受け取れず、苦しみを苦しみとして受け取れない。

 ニーナの心はそんな風にして壊れていた。

 

「わぷっ、どうしたのアナちゃん?」

「んー……。いや、なんか急にハグしたくなって」

「えへへっ。甘えん坊さんだねー……よしよし」

 

 よしよし、などと言いつつ背中を撫でられてふにゃふにゃした締まりのない笑みを浮かべているのはニーナの方だった。

 アナベルは彼女の細い体を優しく抱きしめながら、この哀れなお人形(女の子)を憐れまないように自制する。

 

 ニーナの心は一旦治療を施した上で、()()()この状態で留め置かれている。

『先生』の技術であればその精神をより健常な形で再生させることもできたが、どうせ娼婦として金を稼がせるならこのくらいの方が()()()()()だろう、と判断されたのだ。

 アナベルはそれに異を唱えなかった。今でも別に後悔はない。ただ非道な判断をしているな、という自覚だけがある。

 合理さえあれば情には流されずにどこまでも人倫にもとる選択肢を取れる。

 黒魔術師に求められる資質とは概ねそういうものであり、彼女はそう意味では才能ある女性だった。

 

「ふんふん……っ。アナちゃん、何だか生臭くない?お料理でもしてきた?」

「あぁ、わかるっすか?ちょっと()()を捌いてからこっちきたもんで。ちゃんと手を洗ったんすけど、悪かったっす」

「別にいいよー。アナちゃんって料理得意だもんね。また今度何か作ってよー」

「それならそろそろお昼っすからね、厨房でも借りてみるっすか」

「わーい、やったーっ!楽しみっ」

 

 そう言ってニーナはぱぁっ、と明るく笑った。

 この世の不条理など何一つ理解できない、ただただ幸福のみを詰めた赤子のように無垢な笑み。

 そんな表情(かお)を正面から向けられて相好を崩しながら、アナベルは彼女を昼食へと連れ出すことにした。

 

 どこまでも明るい、からりと晴れた正午の風が窓から吹き込んで部屋のカーテンを揺らしていた。

 

 

 

 



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9.回想・箇条書きにして纏めれば三行で終わる、ありふれた悲劇

マフィアの事務所にカチコミに行くエピソードとか書こうかと思いましたが、主題から外れるのでやめました。


 

 

 

「………………ぁ」

「おや?」

 

 虫の一息、と言えそうなほどの静かな吐息の音。

 唇が開いて空気が通るだけの一瞬のそれは呼吸と呼ぶには余りに儚い。

 都市部から離れた郊外の森の屋敷、午後の晴れやかな日差しを取り込む窓、白いカーテンを揺らす風音に紛れて消えてしまいそうな小さな空気の震え。

 ただベッドサイドの椅子に腰かけてずっとその容態を観察していた赤毛の魔術師――――アナベルにとっては何よりも明瞭な変化だった。

 園芸家が鉢植えの中身に一つ蕾が付いたのが解らないはずがないように。

 

「もしかして起きたっすか?」

「…………ぁ……」

 

 アナベルは読んでいた本を閉じてサイドテーブルに置き、ベッドの上に横たわる人物に声をかけた。

 空気と喉が擦れ合うだけの僅かな音だが口を開いて声が出ている。そして何より、うっすらとだが目を開けている。

 これはここ数日『先生』から容態の確認を申し付けられて以来の極めて重大な変化だった。

 

「おはようございいます、こんにちは。はじめまして。気分はどうっすか?」

「…………………………ぁ」

「……喋れないっすか。まぁ、それもしょうがないっすけどね」

 

 横たえられている患者の顔を覗き込みながら挨拶をしてみるが、反応は極めて薄い。

 ほんの僅かだけ開いている瞼の奥に辛うじて見える瞳は未だに微睡みの中にあるように茫漠とした色を湛えている。

 血の気の薄い唇は体の内と外で空気の交換をする際にだけ開いている程度のものか。

 であれば聞こえた声のような或いは吐息のようなそれも、外界からの刺激に対して反射的に出ただけの生理反応のような物なのかもしれない。

 

 しかしながらそれだけのことでも数日ほど()()の容態を横で診ていたアナベルには大きな進展である。

 何せここに彼女が担ぎ込まれたときには殆ど死体と言って差し支えのない状態だったからだ。

 『先生』が治療すると言い出した時は直弟子であるアナベルから見ても随分と酔狂なことをすると思ったものである。

 ただ、彼は気まぐれでことを起こすことが多々ある人物だ。人に迷惑をかけない気まぐれであればむしろ幸いだろうと黙認したものであった。

 

「っと、『先生』呼んでこないとっすね」

「もう来ているぞ」

「うううぅぅぉぉぁぁぁぁぁぁっっ!!?」

「叫ぶな喧しい」

 

 自身が看護師にあたるとするなら『先生』は主治医にあたる。

 早速患者が目を覚ましたことを伝えに行こう――――と腰を浮かした矢先、アナベルは唐突に背後から声をかけられた。

 びっくぅっ!!と山猫に吐息をかけられた野鼠めいてその場で飛び上がる。

 つい先ほどまで自分と患者以外に人の気配がなかったところで唐突にそんなことをされたら誰だってそうなるだろう。

 心臓がバクバクと痛いくらいに音を立てるのを感じながら振り返ると、そこにいるのは黒衣に身を包んだ男性だった。

 

 黒髪、黒目、黒色のローブ。そしてそんな色彩とはまた別に夜の闇が人型を取って立ち上ったような佇まい。

 そこにいるのは紛れもなく人間であるはずなのに、じっと見つめていると底なしの暗闇に呑まれていきそうになる――――そんな非人間的な、超自然的な雰囲気を纏う一人の男。

 『先生』と多くの人にそう呼ばれる彼の名は弟子であるアナベルさえも知らない。

 ただそれでも間違いなく、そこにいる男は彼女の師であることに間違いはなかった。

 

「い、いいいいきなり後ろから湧いて出てこないで下さいよどんな魔法使ったんすか!?」

「魔術師が軽々に『魔法』などと口にするものじゃないぞ。あとこっちに来たのは()()()が目を覚ますのを感じ取ったからだ。屋敷の中では俺にわからないことは無いからな」

「…………それなら私が横で何日も見張っとく必要なかったんじゃないっすかね?」

「そこはそれ、容態を観察してカルテを書くだけでも良い経験になっただろう」

「……まぁ、いいっすけど……。……とりあえず、患者さんが目を覚まされましたっすよ」

「ん、ご苦労」

 

 なんだか釈然としないものを感じつつ、憮然とした表情でアナベルは『先生』にベッドの方を指し示す。

 鷹揚に頷いた『先生』は弟子と立ち位置を入れ替わるようにしてベッドの上の患者を確認した。

 

「………………」

「ふむ。アナベルの大声にも反応なしか」

「叫んだのは『先生』のせいっす。当てつけっすか?」

「いや、すぐ近くで大きな音がして、それにどれだけ反応するのか見ておきたかったのさ」

「そうなんすか?流石『先生』……」

「いや、嘘だ。今言ったのはでまかせで本当はお前をビックリさせたかっただけだ」

「流石『先生』。頭はいいのに実際は何も考えてないっすね」

「褒めるな、照れる」

「褒めてないっす」

「………………」

 

 一連の二人の漫才めいた会話にもそこに横たわる患者は――少女は、微動だにさえしていなかった。

 強いて言うならば先ほどより少しだけ瞼が開いているだろうか?しかしそこから覗く目は茫洋としたまま虚空を彷徨っており、夢と現の境目にとどまっているかのように見えた。

 

 起きているのか眠っているのか、或いはそもそも生きているのか死んでいるのか。

曖昧なままの少女の状態に慌てるようなことは無く『先生』は彼女の顔の前で()()()()()()、と幾度か指を鳴らす。

 ごく僅かながらそれを追うように少女の瞳が左右に振れたのを確認して彼は満足げに頷いた。

 他にも口元に指を添えて呼吸の具合を確かめたり、首元に手を当てて脈拍を確認する。

 普通は脈を確認するなら手首でも取るものだが、今回に関してはそれをできない事情があった。

 それは布団の下を見ればわかる。

 

「捲るぞ」

「………………」

 

 特に反応には期待しないまま『先生』はベッドの上のシーツを捲りあげた。

 少女は衣服を着ておらず、生まれたままの姿が明かりの下に晒される。

 それに対する恥じらいの反応すら見えないのはもう見え透いたこと。

 しかし、露になった()()は少女の裸身であるという事実を脇に置いて、見るものに痛ましさを感じさせずにはいられないものだった。

 

「………………」

 

 その少女には両の手足が存在しなかった。

 肘と膝の辺りで()()()()と腕と脚が切り落とされており、その先が欠落している。

 残った二の腕と太腿は棒切れのように細く、胴体部分の肋骨を始めとして体表に浮き上がった骨を見れば()()細っているという表現が適切だろう。

 ただ病的な細さと白さの割には肌自体の艶は良く、手足がないという重大なものを除けば体には傷の類は見当たらない。

 

 滑らかに処理された断端、傷のない肌、細すぎるほどに細い体。

 よくよく見なければ呼吸している事さえもわからない胸の上下。

 意識や意志といったモノを見いだせないぼんやりとした眼差し。

 その全てが相まってそこにいる少女は人間というよりは人形じみた雰囲気を醸し出していた。

 まるでそこにない手足はどこかに()()()()()()()()()()だけのことで、拾って嵌めればまた元通りになってしまうのではないかと思ってしまうほどに。

 

「ふむ――――異常なし」

本気(マジ)っすか」

本当(マジ)だよ」

真剣(マジ)に?」

冗談なわけない()だろうもう少し()師匠を敬え()よ」

 

 そんな少女の肢体を幾度か触診してから『先生』はそう結論付けた。

 彼の手はただ表面から触るだけでなく、僅かな時間で体内を流れる微弱な魔力の流れを通して全身を診察している。

 その上で出た結論は両手足欠損、栄養失調による低体重以外は問題なし――――である。

 シーツをかけて元に戻すと、彼の弟子は訝し気な視線を向けてきた。

 

 しかし彼女の気持ちもわかろうというものだ。

 患者の少女は未だに天井を仰いだまま身じろぎ一つなく、言葉の一つもない。

 ただ目を見開いているというだけで覚醒しているのかしていないのかわかったものではなかった。

 この状態は普通に考えれば異常というのではないのだろうか。

 

「まぁ、心に関してはぶっ壊れてたからな」

「それも治したんじゃなかったっすか?」

「機能自体は()()()()()程度にな。ただ、一度壊れてたものを元に戻したというよりは、残骸を使って新しく作り直したようなもんだからな。中身自体は初期化されてるのに近い」

「んー……つまり、赤ちゃんみたいなもんっすか?」

「そんなところだ」

 

 『先生』は人形のように微動だにしない少女の頭をポンポンと撫でる。

 少年めいて短く切りそろえられた薄茶色の髪は荒く、どことなく藁束を彷彿とさせる。

 これでも整えられた方である。最初に見つけたときは伸び放題の上に汚れに塗れていて、丸ごと洗うのが面倒だったので短めに切り詰めたものだった。

 

「ふーん、赤ちゃんの割には泣かないっすね」

「赤ん坊が生まれたときに泣くのはな、生まれ出たこと自体が辛くて仕方がないからさ」

「それは言えてるっすね」

 

 『先生』の皮肉とも本気とも取れない言葉にアナベルの方はかなり本気でそう答えた。

 地獄というのは死後の世界にではなく現世に存在するのもだと彼女は思っているし、そんな世界に生まれてくるのなら泣きたくもなるだろう。

 アナベルは同情も憐れみも持たないが、患者の少女の境遇には共感しないでもなかった。

 

「まぁ、そういうわけでこの女の子……名前なんだっけ?」

「ニーナちゃん、っすよ。()()()にいた連中から聞いたっすよね」

「そう、ニーナちゃん。この子が人間らしい情緒を育めるかどうかはこれからの話だよ」

「ふぅん……」

 

 このニーナという少女を見つけたのはとある都市の、貧民街(スラム)の一角にある場末の違法娼館だった。

『先生』が仕事でとある暴力団組織の殲滅を依頼され、その為の工程の一環としてその娼館を潰したのである。

 平たく言うとその娼館は各地から攫ってきた少年少女を強制的に身売りさせる形態を取っており、業務形態も衛生管理も真っ黒だった。

 禁止事項一切なしの()()が外れたお遊び(プレイ)で客に嬲り殺されるもの、性病にかかって命を落とすもの、折檻という名の虐待と不衛生な居住環境で体を壊して亡くなるもの。

 そうやって数が減ったらまたどこかから調()()して働かせれば良い……そんな世界の底辺の掃きだめのような場所。

 構成員から吐かせたニーナの境遇もそうやって搾取された子供の中の一人だった。

 

 

人一人消えたところで騒ぎになりにくそうな田舎でそこそこ器量よしの娘を見つけたので攫ってきた。

 娼館に放り込んでからも態度は終始反抗的な上に客に逆らって怪我をさせたとして、罰と見せしめを兼ねて手足を捥いだ。

 その時のショックでほとんど廃人になったので一回あたり銀貨一枚の肉便器として娼館に設置した。

 

 

 箇条書きにして纏めれば三行で終わる、ありふれた悲劇。

 それがニーナという少女の経歴だった。

 

「――――で、この子これからどうしようかな」

「はぁ?」

「いやぁ、治すことしか考えてなかったからその後どう扱ったものかと」

「……何も考えてなかったんすか」

「そうだな」

 

 何でもない風な顔でそう語る『先生』。

 アナベルは酷くげんなりとした表情で呆れる他なかった。

 彼女の師は間違いなく世界最高峰の魔術師と言っても過言ではないのだが、あまり先の予定を考えたりだとか費用対効果だとかを考えたりするタイプではないのだ。

 行動力も影響力も才能も能力も高いのに、計画性が殆どなく基本的に行き当たりばったりという……言ってしまえば人格を持った災害のような人物である。

 

 思い返せばそこにいるニーナを保護した時もそうだった。

 踏み込んだ娼館の一角に備え付けられていた達磨めいた少女。

 切り落とされた手足の断面は雑な処理の結果として壊死が始まり、顔も体も手酷く扱われたのか痣だらけ。

 前後の穴はぽっかりと開き切って肉が捲れ上がり、性病で赤く腫れあがって膿んでいた。

 使()()()()を書いた壁の張り紙は一回銀貨一枚から何度か値引きが行われた形跡があり、最新のものは銅貨三枚になっていた。

 廃棄された()()()と見違える、死んでいないのが不思議とさえ言える有り様。

 

 そんな少女を発見した『先生』は開口一番こう言った――――「もったいない」と。

 

「顔が腫れ上がってたりとか歯が欠けて顔の(ライン)が崩れてたりとかでわかりにくかったけど、整えれば結構な美人だとはわかったしな。

――――それをあんな雑な処理、雑な扱いして使い潰すような真似はどうにも許しがたくてなぁ」

 

 手足の捥ぎ方ってのがわかってない、これだから素人のやっつけ仕事は嫌だねぇ、と彼はそう嘆息した。

 その手は先ほどからずっと身じろぎしないニーナの頭を優しく撫でている。

 表情と感情の死に絶えたような顔はあの娼館で見つけたときと同じだが、こうして()()した後だと確かに可愛らしい顔立ちをしているとアナベルはそう思った。

 今はまだ痩せすぎて頬がこけ気味なのがマイナスだが、栄養を取らせて血色も良くなれば相応に良い外見になるのではないんだろうか。

 ……ただ、それだけの資質があったから人攫いに目を付けられたというのもあるのだろうが。

 

「せっかく()()()から潰して素材とかにするのも気が引けるしぁ」

「なんなら弟子に取るとか」

「この子がどれだけの才能があるかわからんが、触った感じ見込みは薄いぞ。それに今はお前以外に弟子を取る気はない」

「あー……そうっすか?」

「あんまり増やしすぎても面倒見るのが難しいからな」

「教えるのは上手いっすけど監督するのは不得意っすもんね……」

 

 『先生』の有する技術と知識は最早異常と言って良い領域だ。

 世界最高峰というのは弟子の贔屓目でもなんでもない。

 アナベルは基本的に屋敷に籠って研鑽に勤しんでいる身だが、外部の魔術師や彼らの作った魔術道具に接するたびに『先生』が如何に彼等と隔絶した技量を持っているのか理解させられている。

 

 ニーナの体を治した件にしてもそうだ。

 どんな魔術師であっても安楽死を即座に提案するほどの容態を、その場の思い付きで治療を初めて傷跡一つ残さずに回復させられるのは彼の他に存在しない。

 特に人間の精神を修復する魔術は正真正銘彼一人のみが可能としている技術だ

 昔は、その能力を頼みにした人々に教えを授けたり弟子に取っていたりしていたことがあるらしいが今はアナベル一人だけだ。

 かつての教え子たちがどうしているのか彼女は特に何も聞いていない。そも、『先生』の過去自体を良く知らない。

 

 ただ、これらの技術は夥しい数行われた悍ましい魔術実験の副産物であることだけは良く知っている。

 『先生』に言わせると、()()()を極めた結果として()()()にも精通するようになったということらしい。

 人倫を完全に無視した黒魔術の研鑽、屍の山の上に気付かれた技術体系の真っ当(マシ)な部分のほんの上澄み部分。

 その土台がどれだけ呪われた代物なのか、アナベルも既によく知っている。

 

 例えば、ニーナを拾った娼館の従業員を全員生贄に捧げることで母体の暴力団を連鎖的に殲滅した大規模呪殺儀式など。

 

「まぁ、今後についてはまたいずれ考えるとしようか……とりあえず、このままだと不自由そうだし義肢でも作るか」

「あんまりロハで仕事するのもどうかと思うっすよ。で、義肢作るとして、設計図とかあるんすか?」

「体格の計測と魔力経絡の走行はもう治療の時に測ったから書き起こすだけだな。素材は問題ないだろ、三番倉庫の棚が潤ったしな。製作はお前も手伝えよ」

「はいっす。()()()()()()()()()()()()()()でいいっすよね?」

「あってる。よくわかってるじゃないか。……あぁ、その前にこの子に飯な。消化に良いものを作ってやろう」

「じゃあ、お粥でも作りますかね」

 

 ベッドサイドで魔術師二人が今後の予定について話し合う。

 ニーナについては何か食事を用意するのは急務だろう。眠っている間は魔力を外部から代謝させることで保たせていたが、起きたからには物を食べさせて内臓を動かせるようにした方がずっと健康に良い。

 

 ……ニーナという少女が救われたのは真に呆れるほどの幸運と気紛れの賜物だった。

 『先生』がたまたま彼女を見初めて「もったいない」という感想を抱かなければ命は無かった。

 これまでの彼の人生の中で彼女ほど悲惨な容態でないにも関わらず彼が見捨てた人間は星の数ほどいる。

 同じ娼館で発見され、これ以上は患者を受け入れるのは手間だからという理由で安楽死の処置が取られ、今は『先生』の倉庫の棚に並んでいる彼女のかつての同胞たちのように。

 

「………………ぁー………」

 

 魔術師の屋敷に設けられた病室に風が吹き込む。窓の外の木々のさざめく音。はたはたと揺れるカーテン。

 色褪せた麻の色をした前髪が風に煽られ、少女は寝ぼけたような瞳でそれが靡く様を見ていた。

 

 手も足も無く、起き上がることもできない……起き上がるという意識さえもてない、出来損ないの人形(ヒトガタ)の少女。

 彼女がこれから真っ当な社会生活を送ることができるレベルになるまで回復するのに、これからおおよそ一年の時を要することになる。

 それと同時に娼館『リーベ・エンゲル』に娼婦として預けられ、自身の治療費を払うために働くことにもなるのだが――――それは今はまだ、誰も預かり知らぬ未来の話であった。

 

 

 

 




大規模呪殺儀式:生贄に捧げた対象と同じ属性を持った対象を連鎖的に呪い殺す儀式魔術。今回は「ある組織の構成員」という属性を起点にして発動することで一つの組織を丸ごと殲滅した。平たく言うとチェーンデストラクション。
『先生』は他にも山ほど虐殺用魔術の手札を持っている。


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10.お風呂上がり

ごめんなさい、ポケモンやってたら遅くなりました。
……え?今月末にも新作が?


 

 

 

 髪は女の命だと人は言う。

 そして命であるからにはそれ相応の()()というのが必要だ。

 どんなものであっても生きているからには栄養を付けたり、動かしてやったり、休ませてやったりと代謝をするのが道理であり、必然それをこなせるように周りが協力してやらねばならないわけである。

 

「お湯流すよー。目閉じててー」

「はーいっ」

 

 そんなわけでニーナは先髪の時間だった。

 背後からの声に答えてから目を閉じるとざばぁーっ、という豪快な音と共に頭の上から湯が掛けられる。

 先ほどまで頭皮の汚れを落としてくれていた石鹸の泡が湯に溶けて消えていく。

 何度か大雑把に上から被らされるが、すすぎ洗いもそれだけでは終わらない。

 僅かでも泡が残っていると頭皮のかぶれや髪自体の痛みの原因になるのですすぎは非常に重要だ。

 ニーナの髪を洗っている女性は彼女の長い髪を一房ごとに分けるようにしてから、丁寧に丁寧にお湯で濯いでいった。

 

「うん、これでいいかな。髪、軽くまとめるよ」

「はぁい。ありがとう、アイシス姉っ」

「どういたしまして」

 

 ニーナのニッコリという擬音まで聞こえてきそうな屈託のない笑顔を向けられたのは褐色肌の女性、アイシスである。

 『リーベ・エンゲル』の娼婦であり、同時に一際人気を集める有名な踊り子でもある。

 普段、ニーナの入浴介助は一般女性従業員が交代で担当しているのだが、今日に関してはたまたま非番だった彼女が買って出ている。

 アイシスにしてみれば、実のところ他人の面倒を見るというのは兎角煩わしく感じるものなのだが、相手が自分を慕ってくれる妹分であるならば一つ骨を折るくらいはやぶさかでもないのであった。

 

 アイシスは一通り体と頭を洗い終わったニーナをひょい、と抱え上げる。

 両手足のない、出来損ないの人形のような少女の体を見て最初は面食らったものだったが今は慣れたものだった。

 普通の人間に比べれば随分と軽いその体を浴槽――――ではなく、予めお湯を張った金盥(かなだらい)の中に納める。

 手と足のないニーナは浴槽の中で一度体を滑らせると体勢を戻せずにそのまま溺れてしまう危険があるのだ。

 それならべったりと中で寝そべるような姿勢になっても問題ない(たらい)の中に入ってしまった方がよっぽど安全なのである。

 

「じゃあ、僕は自分の体洗うからちょっと待っててねー」

「はぁーいっ」

 

 そう言ってアイシスは自分の体をざっと洗う。

 泡を含ませたスポンジを肌の上に滑らせて、お湯で頭ごと濯いで、髪を洗ってまた濯ぐ。

 ニーナに対してしたものに比べれば何ともあっさりとした代物だった。

 

「アイシス姉ってば自分の体やるときはなんていうか、早いねえ。ちゃんと洗ってる?」

「お母さんみたいなことを言うね、君は。お風呂なんて埃と垢を飛ばせればいいと思うんだけど」

「でもあたしの時は丁寧にしてくれたよね?」

「君のことが大事なんだよ。君はとっても可愛い女の子なんだから、洗うだけじゃなくて磨かないとね」

「きゃっ♡アイシス姉ってば大胆っ」

「口説いてるわけじゃないんだけどなぁ。事実を言ってるだけだよ」

 

 自分の体を洗い終わったアイシスは、(たらい)に入っていたニーナを改めて抱え上げて一緒に浴槽に浸かりながら、そんな取り留めのない会話に興じた。

 実際アイシスはやや風呂嫌いの気があり、体を洗うのもお湯に浸かるのもあまり時間を取るようなことはしない。

 娼婦として身を整えるのも仕事の一環と割り切っていなければ当分風呂に入らないような生活を送っていただろう。

 

「でも、あたしは娼館(うち)ではアイシス姉が一番綺麗だって思うよっ」

「本当に?そうだと嬉しいな」

「本当だよーっ。あたし、アイシス姉のステージ大好き!キラキラしてて、色っぽくて、ぶわーってなって、目が離せないもんっ!」

「ふふふっ。そう言って貰えるとありがたいねえ」

 

 平静を装いながらもアイシスの口元は緩く微笑んでいる。

 表現者にとって観客の生の感想はいくらあっても嬉しいものだ。それが特に称賛の言葉であるなら何をかいわんやという話である。

 ベッドの上で男性客から誉めそやされているのには慣れているが、可愛い女の子からキラキラした笑顔で憧れと共に賛美されるというのもそれはそれで乙なものである。

 

「そういえばアイシス姉って、どこで踊り覚えたの?女将さんから教わったとか?」

「んー……そういえば言ったことなかったっけ。じゃあ、体拭きながら話そうか」

「えっ、もう上がるの?」

「これ以上入ってると僕がのぼせちゃうよ」

「えー……うーん、しょうがないかぁ……」

 

 湯船の中でニーナはがっくしと腕のない肩を落とした。

 『先生』の屋敷では風呂周りの設備が充実していたこともあり、ニーナにはすっかり入浴の心地よさが刷り込まれていた。

 ただ自分が風呂好きだからといってそれを他人に強要する物ではないという分別くらいは彼女にもあった。

 

 渋々といった表情でアイシスに抱えられながら脱衣場に移動する。

 義肢を外した状態では自力で立てない、物を持てないニーナは日常生活全般で人の助けが必要であり、風呂上がりの場でも例外ではない。

 脱衣場には予め世話役の女性従業員が待機していてお世話の準備をしていた。

 はて、とアイシスは首を傾げた。今日の入浴当番は自分が引き受けたのだから他に人員はいなくても良いはずでは、と思ったのである。

 

「いえ、ニーナちゃんの体を拭いている間アイシスさんがそのままになってしまうではないですか。風邪をひいてしまいますよ」

「ちょっとくらいいいのに」

「子供じゃないんですからっ」

 

 そんなやり取りをしながらアイシスは手渡されたバスタオルをとって体をわしわしと拭いていった。

 もう少し丁寧に拭けばいいのに、と従業員は横目でじとっとした視線を向けるが、その野性味あふれる(ワイルドな)所作が似合っているのが何とも彼女らしかった。

 すらりと伸びた長い手足をうっすらと彩る、均整の取れたしなやかな筋肉の(ライン)

 褐色の肌の上に水を滴らせるその姿はちょうど水浴びをしてきたカモシカを想像させる野生の美を湛えている。

 

「はぁ……それじゃあ、ニーナちゃん。体拭いてくからね」

「うん、よろしくおねがいしますっ」

 

 横目で隣の褐色美女に目をやりながら、彼女はテキパキとニーナの体を拭いていた。

 勿論ごしごしと擦るような乱雑な真似はせず、タオルの繊維に水分を含ませていくような肌に優しい拭き方である。

 

 アイシスの美しさが躍動する動物的な美しさだとするならば、ニーナの美しさは儚く壊れそうな人形的めいた美しさだ。

 きめ細かくてつるりとした白い肌に、折れそうな程に華奢な体躯。あどけない笑顔。

 何よりもバッサリと肘と膝とで切り落とされた手足の欠落が一層の非人間さを浮き彫りにする。

 従業員はニーナの世話をするたびに、人形の()()()をしているような錯覚を覚えるのだった。

 

「髪やるわねー」

 

 椅子に座らせた少女の髪を解くと、長い亜麻色がぶわりと広がる。

 水を含んで濡れた髪が脱衣場の明かりを照り返す様は独特の美しさがあるものだったが、水気を含んだままだとこれも痛みの原因になるので丹念に拭いていく。

 ニーナの髪は一般の女性と比してもかなり長く、彼女の腰下くらいまではあるだろう。

 自分で手入れすることができない以上、これのケアも他人任せにせざるを得ない。

 その上で長さと同時に美しさまで保っているのは紛れもなく、周りの人々の善意と好意によるものに他ならない。

 

「やっぱりニーナの髪は綺麗だねえ、女の僕でも惚れ惚れしてしまうよ」

「アイシス姉も伸ばしたらいいのに。ダンスでも映えるでしょ?」

「アイシスさんも昔は伸ばそうかと思われていたことがあるそうですよ。結局煩わしくて切ってしまったそうですけれど」

「そうなんだよ、手入れが面倒でね。あ、ニーナの櫛入れ僕がやってもいいかい?ヘアオイルも」

「自分のはずぼらなのに人の世話を焼くのはお好きなんですね……」

「ニーナが特別なんだよ。他の人にはこうまではしないさ」

「わーいっ、みんなありがとうっ」

 

 わいわいと女三人姦しく脱衣場の洗面台の前で言い合いながら、その中心にいるのはニーナだった。

 どうあっても他人の世話を受けなくては生きていけない彼女だが、そこには一切の悲壮さが存在しない。

 一方的に他人に介助されることの惨めさだとか申し訳なさだとか引け目だとか、そのような感情を抱く()()()()()()()精神構造。

 それ故に彼女が自分を助けてくれる身の回りの人々に振り撒くのは純粋な感謝の念だけだった。

 

 それは結果として彼女を介護している人達からのストレスを取り除くことにも繋がっている。

 誰だって陰気な顔で申し訳なさそうにしながら介護される人の世話など気が滅入るというものだろう。

 その点ニーナは世話をすればした分だけ当然のように感謝と笑顔が返ってくるというのだから、世話を焼く甲斐があるというものだった。

 

 棚からアイシスが櫛を取り、髪に塗るための香油を用意する。

 水気をしっかりと取った亜麻色の長い髪は櫛を通すごとにするすると真っ直ぐに伸び、油を塗り込めると艶々とした輝きと鼻に抜ける芳しい香りを纏う。

 ブラシに合わせてさらりと揺れて光を照り返す様は、夕日の下の稲穂の原が風に吹かれるような美しさだった。

 長い髪をこれだけ美しく保つには相応の手間暇がかかる。

 そしてそれだけの手間をかけても惜しくないと思わせているのは、ニーナの人徳に他ならなかった。

 

「ニーナちゃん、次は手と足付けるわね」

「ん~……そっちだけ部屋に運んでってもらっちゃダメ?アイシス姉に抱っこしてほしいっ」

「もう、いつまでも甘えてちゃダメですよ」

「ははっ、いいじゃないか偶には。ニーナくらい軽いもんだよ」

「やったぁ!ありがとう、大好きっ」

 

 髪を整えて、貫頭衣のような簡素な寝巻を着せたところでニーナが子供のようにぐずる。

 彼女の場合日常生活が歩行訓練の一環でもあるので、従業員はなるべく自分の脚(義足)で歩くようにして欲しいと思っているのだが、今日のニーナは少し甘えん坊さんのようだった。

 堂に入った上目遣いからの抱っこのおねだりはお人好しなところのあるアイシスには効果覿面でついつい彼女も甘やかしてしまうのだった。

 それにニーナの体重などたかが知れており、軽いもんだよ、という言も実際嘘ではない。

 風呂上がりの支度が終わったアイシスは脱衣籠に入っているニーナの両手足を従業員に任せたまま、彼女を抱えて脱衣場を後にした。

 

「えへへーっ」

 

 彼女の腕に抱えられているニーナはふにゃふにゃとした締まりのない笑みを浮かべて、肘までしかない短い腕を回して抱き着いてくる。

 そういう習性の小動物か、ぬいぐるみのようだった。抱えられる程度の大きさ、重さ。小さく可愛らしく、そして温かい。

 体温高いのは風呂上がりだからだけじゃなくて子供だからかな、などと思いながらアイシスは談話室の椅子に腰かけた。

 

 二人がいるのは娼館の裏手の寮である。

 時刻は既に夜で、彼女らは非番だが今頃本館の方では同僚たちが忙しくしている頃合いだろう。

 寮もほとんどの人が出払っていて閑散としているが、耳をすませば表の喧騒が聞こえてきそうである。

 そんな騒がしさを感じるとつい踊りだしたくなってくる衝動を感じながらアイシスは机の上に予め置いてあった水差しからコップに中身を注いで飲み干した。

 

「……で、話の続きなんだけどさ」

「えーっと……うんっ。アイシス姉がどこで踊り覚えたのかっていう話だったね」

「そうそう」

 

 ニーナにも水を飲ませてあげながらアイシスは天井を仰いだ。

 白い漆喰の上にぼんやりとした蝋燭灯りがゆらゆら揺れる橙の光を投げかけているのを見ながら、彼女は自分の記憶を手繰った。

 

「平たく言うとさ、僕の家系は三代続けて踊り子なんだ」

「三代だから、おばあさんから?」

「そう。おばあさんの代から踊り子で、娼婦」

 

 アイシスはその褐色の肌からわかる通り異国の地を引いている。

 彼女の祖母は海を挟んで向こう側にある南方の出身だった。

 母からの又聞きであるため具体的な経緯は知らないが、祖母は北方(こちらがわ)のさる貴族の男性と恋仲になって移住してきたらしい。

 しかし、それからまた色々とあって二人は破局。祖母は碌な手切れ金も与えられずに恋人の家から追い出され、遠い異邦の地で一人きりになってしまった。

 

「で、言葉もほとんど通じない。頼る人も無くてお金も無くて、そんな状況で女が生きていくとしたら――――まぁ、体で稼ぐしかないよねぇ」

 

 そうしてアイシスの祖母は娼婦になった。

 せめてもの幸運は、彼女がかつて故郷で修めた舞踊の技があったことだろう。

 それに北方(この辺り)では珍しい異国の容貌も物珍しさという意味で価値があった。

 順風満帆とは到底言えないが、そうやって彼女は生きる術を見出していった。

 

「まぁ、そんな感じで暮らしてる間にお母さんが生まれて、お母さんから僕が生まれたってわけ。お母さんが言っていたところによると――――この踊りは()()が生き抜くための武器で、誇りなんだってさ」

 

 娼婦に身をやつしたときに祖母の内にどのような葛藤があり、その仕事をどう捉えていたのかはアイシスには知る余地も無い。

 ただ、少なくとも踊りは彼女の命を救った武器になったし、アイシスの母が生まれたときにもそれが身を助けることを願って授けたものである。

 当代を生きているアイシス自身はそこまで困窮しているわけではないので生きるのに必死だったろう祖母の気持ちまでを推し量ることはできないし、踊りへの向き合い方も違う。

 ただ、学んで損になる技術だと思ったことは無いし――――それに、

 

「それに、踊るのは好きだよ。おばあさんの意志やら、受け継いだ誇りやら、何やらあるけど、それは置いておいて――――僕は純粋に踊るのが好きだよ」

「あたしも好きだよっ!綺麗なものっていっぱいあるけど、アイシス姉の踊りが一番綺麗だと思うっ」

「ふふふっ、そう言って貰えると嬉しいなあ。……まぁ、踊りしか能がないんだけどね、()()ってば」

 

 膝の上でニーナが底抜けに明るい笑みを浮かべ、アイシスはそれに苦笑交じりで答えた。

 実際のところ、アイシスの家系は三代続けて踊り子であり、同時に三代続けて娼婦でもある。

 母は祖母の背中を見て育って同じ生業に進み、アイシス自身も母の背を見て育って同じ生業に就くことになった。

 踊ることと、体を売ること。自分がそう生きて来た道しか知らない以上、子供にもそういう生き方しか教えられなかった。

 これは連綿と続く、彼女ら三代の宿痾と言うべきかもしれない。

 

「別にいいんじゃないの?アイシス姉、娼婦のお仕事嫌い?」

「好きとか嫌いとかじゃないけど、健康じゃないとは思うよ。おばあさんもお母さんも、この仕事で体壊したからねぇ」

 

 アイシス自身に娼婦という仕事にさしたる感慨はない。

 楽しく踊った後に付いてくる、いつもの仕事の一つという認識。

 娼婦の母を持って、物心つくころから()()()()現場を見ていた彼女にとってはごく普通の日常の延長線上に過ぎない。

 ゴミ出しや風呂掃除と同じ程度の労力だと思っている。

 

 ただ、不健康な仕事だという自覚はある。

 祖母と母だけでなく性病などで体を悪くして亡くなった人を何人も知っている。

 それに、そもそもの話として娼婦は美しくなくては客が取れない。

 水商売、という言葉の通り()()には鮮度というものがあり、そこを過ぎれば()()()しまって誰にも見向きもされなくなる。

 色んな意味で不安定な仕事なのだ、娼婦というものは。

 

「壊れたら直せばいいんだよっ。『先生』ならなんとかしてくれるよ?」

「……なるほどねぇ……」

 

 それは特例中の特例だよ、とアイシスは胸の中で突っ込んだ。

 『先生』と呼ばれる人物が一枚噛んでいるお陰で『リーベ・エンゲル』の娼婦の健康管理は極めて良好だ。

 近頃普及している性病予防・避妊効果のある魔術紋も元はと言えば『先生』の発明だという噂がある。本家本元の監修を受けているのだから質は折り紙付きだろう。

 彼の弟子であるアナベルが時折従業員の診察もやってくれるというのもありがたい。

 ただ、その『先生』が老化(アンチ)防止(エイジング)までやってくれるかどうかまでははたまた不透明であった。

 

 

「――――あたしは好きだよ、娼婦のお仕事」

 

 

 そんなことを考えているアイシスの膝の上でニーナがそう言って笑った。

 目元を綻ばせた、無垢な赤子のような微笑みだった。

 

「ご飯は美味しくて、布団とお風呂はあったかくて。綺麗なお洋服を着せてもらえて、素敵なお化粧もしてもらえる。お店のみんなは家族みたいに優しいし、お客さんはあたしが頑張ると笑ってくれて、その上気持よくして貰えるのっ。あたし、ここのお仕事大好きだよっ!」

 

 彼女の言葉に嘘も偽りも誇張も無い。

 一日の食事が胃に注がれた精液だけということも無く、牢に押し込められて朝起きたら隣で寝ていた同僚が冷たくなっていることも無い。

 言うことに逆らっても、反抗的な眼で見ても、何をしたとしても()()()()()としても殴られることも無く、ましてや手足を切り落とされることも無い。

 『リーベ・エンゲル』の環境は彼女にしてみれば天国のようなものだ。

 ここで働き始めたときからずっと、ニーナは幸福だらけの夢見心地で生きている。

 

「……うん、そうかい。それなら、良いと思うよ」

 

 そのどこまでも晴れ晴れとした笑顔にアイシスは何も二の句を告げることはできなかった。

 腕の中でそっと抱きしめる少女の体躯はともすれば折れてしまいそうな程に細く華奢で、否が応にも庇護欲をそそる。

 その癖ぽかぽかとした子供じみた体温は膝の上に載せているだけで安心感を誘う。人型の湯たんぽのようだ。

 

 そう、子供だ――――そんな子供がこうやって体を売る仕事をしていてそれが健全なはずもないだろう、とアイシスの頭の隅の理性的な部分がそう言っている。

 しかしながらそれを批判するような資格は彼女にはなかった。

 アイシス自身、ニーナと同じような年頃には既に春を(ひさ)ぐ商売をしていた。結局は同じ穴の(むじな)なのだ。

 

「……ま、将来の事も少しは考えときなよ。一生涯続けられる仕事じゃないんだからさ」

「うっ、それは確かに……。うーん……難しいなぁ」

 

 口を突いて出たのはそんなお茶を濁すような言葉だけだった。

 その台詞の何とまぁ空虚なことか。自分だってそうやって将来の事を考えていないだろうに、と心の中で突っ込みを入れる。

 不健全な仕事をしている自覚があるくせに、踊っているだけで……その後で客と寝るだけで食うに困らないなんて楽な商売だ、などと本音の部分ではそう思っているのが彼女だった。

 自覚はあるのに自分自身の事だと何とも怠惰でずぼらなのは、真にアイシスの悪癖という他なかった。

 

 将来、将来……と難しい顔をして呻く妹分(ニーナ)の髪を手櫛で梳きながら、褐色の踊り子は我が身を振り返ってから「まぁ別にいっか」と独り言ちるのであった。

 

 

 

 



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11.骨灰のシンデレラⅰ

 

 

 

「あのう……可能であるならば、女将さんにお取次ぎいただきたいのですが……」

「あっはい」

 

 夜半、娼館『リーベ・エンゲル』営業時間中の事である。

 受付を担当している事務員が出迎えたのはすっかり馴染み客の一人となった若手官僚、ザカリー・ロットフーゲルだった。

 はて次回の予約はまだ先だったはずでは、と思いながらも挨拶を交わすがどうやら日付を間違えてきたというわけでもないようであった。

 最近どうにもやつれ気味であることが多かったその青年はいつにも増して疲れ切った死人のような空気を纏いつつ、その双眸だけはギリギリで生にしがみつかんとするぎらついた光を放っていた。

 端的に言って目が据わっている彼に受付担当者は曖昧な返事をしてから女将との話し合いの場を設けることとした。

 押し付けた、ともいう。

 

「こんばんは、ようこそいらっしゃいましたロットフーゲル様。なにやらお困りのご様子ですね?私共にお力添えできるようなことでしたら、なんなりとご相談いただければと思いますわ」

「いえ、こちらこそ……急な来訪で申し訳ないのですが」

「いえいえ、お気になさらず」

 

 ザカリーが通されたのは娼館の一角にある応接室である。

 客室とはまた違う意味合いでの接待に利用する部屋であり、高級娼館の看板に違わずこちらの部屋の調度も品よく整えられている。

 赤茶色の艶も美しいマホガニー製の机の上には来客用の紅茶とお茶請けが載せられている。

 ほのかに蜂蜜の香りを漂わせる紅茶を一口含んで飲み下し、ザカリーはそこでようやく一心地つくように息を吐いた。

 

「さて……女将さんにご相談させていただきたいのは他でもありません。僕の方からご紹介させていただきたいお客様がおりまして」

「まぁ、有難いお話です。ロットフーゲル様ご紹介の方でしたならこちらとしても喜んでお受けいたしますわ」

 

 女将であるライラは顔の前で手を合わせ喜色満面といったような笑みを浮かべた。

 ころころと如何にも楽し気に笑う表情は童女めいていながらも上品さと妖艶さを失わない、なんとも彼女らしい笑みだった。

 ザカリーはただそんな笑い声を聞くだけでここしばらくの緊張とストレスでギリギリと締め付けられていた心が緩んでいくのを感じた。

 

 そのまま座席のふわふわしたクッションに身を沈めて泥のようにへたり込んでしまいたい、などという気持ちも湧いてきたがそこはなけなしの気合いを入れて背筋を伸ばして耐える。

 今から口にしようとする言葉、それを頭の中で転がすだけで身が竦む思いだったが、それも(遺憾ながら)ここしばらくの業務の中で慣れ親しみつつある代物だ。

 紅茶で舌先を湿らせ、少しでも滑りを良くしてから彼は重苦しく口を開いた。

 

「はい。……しかし、その、ご紹介させていただきたい方が――――少々、()()()()()()身分のお方なのです」

「……まぁ」

 

 その言葉を聞いたライラはすぅっと目を細めた。

 口元は柔和な笑みを浮かべたままだが、俄かに雰囲気が変わる。

 高級娼館『リーベ・エンゲル』は顧客に元大司教であるアルブレヒト・マクラーレンを抱えているように、その質と知名度から大貴族と称されるような人物を迎えることも稀にある。

 だがしかし()()()()()()、とそこまでの形容を使われるほどの人物を受け入れるとなると、流石のこの店であっても穏やかではいられない。

 

「詳しいお話をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「……はい」

 

 居住まいを正したライラに、神妙な顔をしたザカリーが答える。

 やんごとない身分のお方――――そうとまで言われる人物となると()()に連なる者に相違ない。

 そして事実、このハイヴェルド大公領・公都ジョンズバーグには皇家の人間が滞在している。

 名をウィリアム・ザイン・アーシルファといい、現皇帝の第二子に当たる。

 

「皇帝陛下は既に後継として第一皇子殿下を指名しておられます。それを受けて第二皇子であられるウィリアム殿下は皇家から独立し、公爵の地位と領土を賜ることが決まっています」

 

 封建領主性社会において一般的に公爵という地位は王家・皇家に連なる人間が任じられる爵位である。

 次期皇帝の地位を兄に譲ることになったウィリアム皇子がその地位に就いて別途領土を得るのも特におかしい話ではない。

 彼が賜ることになるのは件の『黒魔術戦争』の影響で領主を失った土地を幾つか寄せ集めたものになり、そこは『レスト公爵領』と新たな名が付けられる予定になっている。

 

「公爵位の叙任は年内には行われる見通しです。そのような次第でして、現在ウィリアム殿下は領地を隣接することになる諸侯の方々へのご挨拶のための巡業中なのです」

 

 挨拶と根回し。強い権力をその手に集約する貴族たちの間では必須の事であり、むしろそれらこそが彼等の本業と言っていいただろう。

 特にハイヴェルド大公は帝国五大領邦の一角を治める大領主であり、皇帝の襲名の是非を決定する権限を持つ選帝侯の一人でもある。

 皇族にとっては決して無視できない人物であり、近場に領土を持つことになるウィリアム皇子としては決して応対をおろそかにできない相手である。

 

「それで……その……僕もこちら側の官庁の職員として殿下の応対をすることになりまして……ここ数日ほど大公領の視察や傘下貴族の方々との会合の場に同席を……うっ」

「まぁ、大変なご苦労をなさっておいででしたのね。まだお若いのに、やつれてしまわれて……」

「あぁ、すみません。ご心配をおかけしまして」

 

 ザカリーはここしばらくの間の異様な緊張を思い出して胸を抑えた。

 何せ相手は(将来的に離れると決まっているとはいえ)直系の皇族。しがない若手地方官吏の彼にとってその応対は尋常ではない重圧だった。

 おまけに挨拶回りの対象も一人一人が彼にしてみれば雲上人と言っても過言ではないほどの高位貴族だ。

 会合の席の隅の方に佇みながら自分は一体全体こんなところで何をやっているのだろう、と思ったことも数えきれず。

 

 そのことを思い返すと手先がカタカタと震えるが、紅茶を一杯飲み下して平静を保つ。

 今は彼の境遇に同情してくれるライラの温かな言葉と労わるような微笑みが限りない癒しだった。

 彼女の声は不思議と人を包み込むような響きがあり、ただ耳を傾けているだけでささくれていた心が癒されるような錯覚を覚える。

 このまま彼女に仕事の愚痴を聞いてもらいながら安らかに眠りたい、などと思いつつも背筋を正す。

 まだ話は終わっていないのだ。

 

「それで、殿下のご挨拶回りも本日で終わられたのですが……本来のご予定から少し余裕ができたということでして、しばらく公都に滞在されるそうです」

「あぁ、なるほど……それで()()()に」

「えぇ、そういうことになります」

 

 ライラは納得したという風に小さく頷いた。ザカリーもそれに首肯する。

 ようするに若干ながら暇ができたウィリアム皇子は公都内で遊んでから帰ろうと、そう考えているのだ。

 その上で皇子本人が出したリクエストが高級娼館であり、よりにもよってその選定を任されたのがザカリーであった。

 極力視界の隅に入らないように心がけていたやんごとない御方に唐突に声をかけられて「どこか良い娼館を知らないか」などと聞かれた瞬間のショックは一生ものの思い出となるだろう。

 そして勿論のこと、彼が紹介できる中で最も信頼のおける優良店といえばやはりここ『リーベ・エンゲル』を置いて他になかった。

 

「皇子殿下はいつ頃のご来店を望まれておりますか?」

「……明日、です」

「明日、ですか」

「はい、明日です」

「なるほど……」

 

 質問を投げかけられたザカリーはバツが悪そうな顔でそう答えた。

 明日、とはあまりに急な話ではあると彼も重々承知している。

 何せこの店は公都でも特に高名な娼館であるため、予約はほぼ毎日満員である。

 場合によっては一月以上前から予約を試みても取れないこともあるのに、それで急に明日と言われても難しいだろう。

 ただ、それでも相手は皇族。不興を買ったら物理的に首が飛ぶ相手だ。

 ここでウィリアム皇子が満足できる店を紹介できなければザカリーの頭と胴体が泣き別れする可能性を考えれば、彼にとってはまさに藁にも縋る気持ちなのだった。

 

「ふむ……」

 

 対面の相手が脂汗でもかきそうな沈痛な面持ちを浮かべているのをあくまで冷静な面持ちで観察しながら、ライラは白い指先をほっそりとした顎に添えながら考えを巡らせていた。

 娼館『リーベ・エンゲル』の明日の予約状況は手一杯である。残念ながらこれは動かしようのない事実だ。

 ならば既存の客に予約取り消し(キャンセル)を申し出るか、と提案されてもライラは首を横に振るだろう。

 『リーベ・エンゲル』は完全予約制で一見お断り。だからこそ客の受け入れは予約最優先であり、それは絶対に遵守されねばならない。

 例え相手が皇子だろうが皇帝だろうが、そこに区別はつけない。権力を嵩に着た横紙破りを許しては商売が成り立たない、というのが彼女の信条だ。

 

 ……とは言ったが、実のところ一応部屋自体は空いている。

 空席になっているのは最上階スイートルーム。一泊当たりの部屋代が高いのでやや空きがちの部屋であり、それに関しては明日も例外ではなかった。

 相手が皇族であるならばそこを案内しても問題は無いだろう。

 

 あとはあてがう娼婦を誰にするか。

 体力調整や本人の都合なども考慮して勤務表(シフト)を組んでいるのであまり動かしたくはないのだが、本来は非番の娼婦から一人出て貰うことになるだろう。

 ライラ自身が出るという手もあるし、それが一番後腐れがないという考えもある。

 だが、彼女は自身から積極的に客を取ることを自らに禁じている身であった。

 現役時代はついつい客を絞りすぎて何人も廃人と中毒者を生み出してしまったものである。

 ウィリアム皇子はこれから公爵位を叙勲する、未来ある身の上だ。

 ライラの中でしか子種を吐き出せない体になって一代でお家断絶というのは流石にまずいだろう。

 

 自身を除外した上で頼むならどの()か?

 皇子の女の好みまでは流石に知らないが、年齢だけは風の噂で十代半ば頃だと聞いている。

 性に積極的なお年頃だろうし、それくらいの年代の若者であれば『リーベ・エンゲル』の娼婦なら満足させるのは容易い。

 

 だが、問題は皇子にして将来の公爵であるという素性を知った上で冷静な接客をできるものがいるかどうか、という話である。

 

 夜遊びであれば相手もお忍びで来るのだろうし意識する必要はない……という考えもあるかもしれないが、それは客同士が互いを詮索しないという意味合いであって、接客する側がそれをおろそかにするのはマズいだろう。

 身分の高い人間は気位も相応に高いことが多い。お忍びであっても、店側も身分を完全に蔑ろにした応対をするのは駄目だ。

 だからこそ最低限相手が皇族だと知った上で接客させる必要があるのだが、それをわかった上で受けてくれる娘がいるのかという話になってくる。

 

 身分の高い貴族の接客に慣れている娼婦も店には在籍している。

 リズなどであれば安心して任せられるのだが、生憎と彼女は明日既に予約が入っているのでパスだ。

 そういう風に条件に会いそうな幾人かの娼婦の顔と名前がライラの脳裏に浮かんでは消え――――最終的に彼女は一つ息を吐いてから口を開いた。

 

「――――承りましょう。一名、予定を開けられる()がおりますので」

「よ、よろしいのですか!?」

「えぇ、問題ございません。どうか皇子殿下にもよろしくお伝えくだされば」

 

 ライラがそう言うとザカリーは腰を椅子から浮かさんばかりに喜びを露にした。

 憐れな青年官吏は首の皮が繋がったことに安堵のため息を吐くが、同時に一つ質問を思いついた。

 そうなると出てくれる娼婦は誰になるのだろうか。もしも自分が知っている娘であれば、皇子にもよい報告ができるだろう。

 そう思って口にした彼に、女将は微笑を浮かべながら答えた。その真意が伺えないほどに、完璧な微笑みだった。

 

 

「ニーナに担当してもらおうかと思います」

 

 

 

 



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12.骨灰のシンデレラⅱ

 

 

 

「今日はとっても特別なお客様をお迎えするの。そのお相手をあなたにお願いするわ」

 

 女将さんはそう言ってあたしにニッコリと笑いかけた。こっちの顔を覗き込む女将さんの目が琥珀(こはく)みたいで綺麗だなぁ、なんて思いながらあたしは頷いた。

 本当ならお休みの日なのに急なことでごめんなさいね、なんて謝っていたけれどこっちは全然構わなかった。

 元々お休みをもらっても暇してることが多かったから別にいい。

 あたしは他の人達みたいにあんまり遠くにお出かけできる体でもないから、お休みのときは大体お部屋でごろごろしているのだ。

 お日さまの香りがするお布団に寝っ転がって、文字通りごろごろごろごろしているのはとっても気持ちいい。

 

 そういうときにはついでに手も足も外してしまう。

 しょっちゅういろんな人に「義肢のあつかいがうまくなるためにも、普段からちゃんと付けておきなさいね」なんて言われるけど、たまには大目に見てほしい。

 だって、お布団の上でごろごろするときに手足が長いと邪魔なんだもん。

 手がないと指先で物をつかめないのは不便だけど、使わないときにはしまっておいた方がよくないかなぁ。

 そりゃもうちょっと器用になりたいっていうのも本音だけど、ずっと指を動かす練習!なんて気を張ってたら疲れちゃうもん。

 

 あ、お話し戻そう。

 そんなこんなであたしは『特別なお客様』お迎えのために準備中なのでした。

 

「そっちの引き出し、頬紅(チーク)入ってるから取ってもらっていい?」

「下地終わったぁー?」

「口紅どうする?いつもので行く?」

「んー……いや、ここは思い切ってちょっと強めの色でいきましょうか。『可愛い系の女の子がちょっと頑張って背伸びした』路線で行くわ」

「ならいっそのこと髪も弄る?」

「それはそのままで、今回来店される方のご年齢を考えるとそこまで経験豊富ではないわ。ニーナちゃんが自分で解けない以上、いざという時にもたつくのはマイナスよ」

 

 周りでは従業員のお姉さんたちがわいわいやっている。

 ここで言うわいわいやってる、は遊んでいるとかそういうのじゃなくてお店の準備のこと。

 お店の準備はあたしたちの準備でもある。更衣室と化粧室では今日お仕事をする娼婦のお姉さんたちも身支度をしている。

 

 あたしはこの時間がとても好きだ。お着替えとお化粧が嫌いな女の子なんていないと思う。

 ドレスは可愛いものも綺麗なものも、選り取り見取り。

 口紅に頬紅、マスカラにアイシャドウに。お化粧品を詰め込んだ引き出しはまるで宝石箱みたい。

 

「ニーナちゃん、じっとしててねー」

「はーいっ」

 

 元気よく返事をしたら後はされるがまま。鏡の前に座って目を閉じてお人形さんモード。お人形さんになるのは得意だ。

 お人形さんというのは可愛いもの、愛されるもの。手に取った人にちやほやされて、綺麗に着飾ってもらっ()()()()()もの。

 それってとっても素敵なことだとあたしは思うし、そんな素敵なものになれるならあたしは嬉しい。

 女将さんも『先生』も、あたしは人に愛される才能があるって言っていた。

 だとしたらそれはとってもすごいことだ。えっへん、と心の中で胸を張る。

 

 人は何かを愛でるときに幸せになるんだって、あたしは良く知っている。

 お店であたしを指名するお客さんはいつもそう。あたしのことを「可愛い可愛い」と言う人の顔はいつだって笑顔。

 あたしが可愛くなればお客さんも幸せで、お客さんが幸せだとあたしも嬉しい。

 これをウィン・ウィンの関係っていうんだ……って『先生』が前に言ってたと思う。響きが面白くてちょっと好き。

 

 でも可愛い系のあたしの需要もちゃあんとわかってはいるんだけど、たまには綺麗系のあたしもいいんじゃないかなって思う。

 ここのお店の娼婦の人達はみんなあたしよりお姉さんで、大人っぽくて素敵だなって感じる。

 背が高くてすらっとしてたりする人とか、胸がおっきくて色っぽい人とか、そういうのにもあたしは憧れる。

 あんな素敵な大人になりたいなぁ、っていうのをよく考える。

 

 ――――だから、今日のお着替えはちょっとわくわくしている。

 

「ねえねえ、今日は大人っぽい感じのお化粧にするのっ?」

「そうね。今回のドレスは結構ガチめ(・・・)にゴージャスな奴だから、自然派(ナチュラル)メイクだと当たり負けするわ」

「普段のだとニーナの垢ぬけない感じを崩さず色を差す感じだからね。それも可愛くて癒されるんだけど、今夜は綺麗系で纏めましょう」

「素敵だねっ」

 

 今日のあたしのドレスはいつもより少し大人っぽい、黒と白と青のやつ。

 きらきらしたスパンコールが表面に散って、まるで夜空のお星さまみたいでとっても素敵だ。

 色合いだけじゃなくて上はデコルテとか背中とかばーんっ、て見えてて色っぽいと思う。

 もう少し胸があったらなぁ、なんて思ったりするけど肌が綺麗だから似合うよって言って貰えたのが嬉しかった。

 このドレスに似合うようにお化粧も大人っぽくいくことが決まって、あたしも俄然(がぜん)やる気が湧いてくる。

 

 これはお店の中でもかなり上等なやつで、女将さんが秘蔵の一品だって言って出してきてくれた。

 こんな素敵なドレスを着せてくれるなんて夢みたいで、ついつい大はしゃぎしてこけそうになったりしちゃった。

 そうやってはしゃぎすぎると子供っぽいな、という風に反省したあたしはドレスに恥じないようにお淑やかにすることを心掛ける。

 今日は特にすごいお客様をお迎えするので粗相のないようにしないと。

 

 そう。特別なお客様――――なんでもお客様は皇子(おうじ)様らしい。

 それを聞いた時はおもわずぽかーん、と口が開いてしまったものだ。

 だって()()()()!そんな言葉、絵本の中から飛び出してきたみたいだもん!

 白いお馬さんに乗ってくるんですか!?って女将さんに聞いたら笑われてしまった。絵本の中では大体そうなんだけどなぁ。

 

「うふふーっ」

「……なんだか楽しそうね、ニーナちゃん」

「だって今日のお客様はお……じゃなくて、すごい人だって聞いてるもん。わくわくしちゃうよね」

「具体的にどういう誰が来るかは私たちは聞いてないけど、女将さんが一番いいドレスと部屋で頼むって言ってたから、相当よねえ」

「でも天然(マイペース)なニーナちゃんらしくていいわ。緊張でガチガチになるよりはずっといい」

「ところで誰が来るのかしらねえ。最近、今度新しく公爵様になる方がこの辺りに来られてるってお話もあるし……」

「まっさかー。公爵様だから皇族でしょー。こんなところに来ないってー」

「えへへー」

 

 あたしの身支度を整えながら周りで従業員のお姉さんたちがそんなことを言っている。

 実はその予想正解なんですよー、とは言えないのがもどかしい。

 今日のお客様が皇子様なのはあたしと女将さんだけの秘密……ということらしい。

 女同士の秘密よ、なんてウィンクする女将さんも素敵でした、閑話(ちなみに)

 

 正直な話、皇子様もこういうお店に来るというのも新鮮な驚きだ。

 絵本とかだと皇子(おうじ)様には素敵なお姫様と一緒になるものなのだけど。

 ……ひょっとするとお姫様とうまくいってないのかな?セックスの相性がよくないと夫婦仲が続かない、って言ってたお客さんもいるし。

 体の相性ってとっても大事だ。二人で気持ち良くなると幸せな気持ちになれるのだけど、そうでなかった時は()()()()になったような気分になっちゃって、あんまり良くないのだ。

 あたしの場合は最初良くなくても()()で喘いだりしてると段々具合が良くなってきて気持ち良くなれたりするんだけど、もっと気持ち良くなれそうだな―っていうときに終わられると、良くないかなとは思う。不完全燃焼っていうやつ。

 

 だからセックスの相性が良くないのに我慢してお付き合いするのはストレスが溜まって良くないこと、だそうだ。

 まぁ、皇子様が実際にどうなのかはあたしは知らないし、実際に会ってからベッドの上で聞けばいいか。皇子(おうじ)様のお話、ちょっと楽しみだ。

 

「はい、ニーナちゃん。マスカラ終わったから、目開けていいわよ」

「あ、ちょうどよかった。ニーナちゃんの義肢、磨き終わったから付けるわね」

「うん、ありがとうっ」

 

 ちょっとだけ重たく感じる瞼を開けると、白い腕と脚が差し出された。

 あたしの手と足だ。そう、何を隠そう着替えとお化粧中は外していたのだ。

 やっぱり外した状態の方がコンパクトで、人に体を任せるときは楽というのはみんなもわかってもらえると思う。

 それで、外している間はあたしの手足を磨いてもらっていた。

 あたしの肌よりも真っ白で、部屋の明かりを照り返してピッカピカの腕と脚。頬ずりしたらすべすべで気持ちいんだろうなぁ、なんて考えが浮かんじゃうくらいだ。

 

 お店の廊下に飾ってる美術品みたいに綺麗で、こんな素敵な体をあたしにくれた『先生』にはいつだって感謝してもしたりない。

 具体的に思い出そうとすると頭がモヤモヤしてくるからうろ覚えなんだけど、切られた後の断面なんか本当にぐちゃぐちゃで酷くて、血が止まらないから焼きごてで焼かれて真っ黒になってたし。

 今では短い手足の先は丸まったつるりと白い肌で、ここに傷があったのなんて誰にもわからないくらい『先生』が綺麗に塞いでくれた。

 時々ここを撫でたがるお客さんもいるけど、気持ちはあたしもわかる。感触を確かめたくなるくらい綺麗だもの。

 

 手袋を嵌めるみたいに、靴下を履くみたいに、両腕と両足の義肢を嵌めて貰う。

 うっすらと繋がる感覚があって、それを確かめるように軽く指を握ったりぶらぶらと動かす。関節が()()()()と音を鳴らす。

 ものに触ってる感覚と動かしている感覚が薄いので目視で確認するのが大事だ。

 

「一回ちょっと立ってもらっていい?全体確認したいから」

「うんっ。……おぉー、素敵……っ」

 

 よいしょ、っと言いつつ椅子から降りる。

 重心がぐらつかないように意識しながら立ってみて鏡を覗くと、思わず感動してしまった。

 支度はまだ途中のはずなのだけど、もうこれで完成でいいんじゃない、って言いたくなるくらいだ。

 綺麗なドレスとぴかぴかした手足の女の子が、目を丸くして鏡の中からこちらを覗いている。

 これあたし!?っていう感じ。

 

「よし、良い感じに仕上がってきてるわね」

「このまま任せておいてちょうだい。今夜のニーナちゃんを素敵なお姫様(・・・)にしてあげるからねっ!」

「て、照れちゃうなぁ……」

 

 周りのみんなから見ても今のあたしはかなり素敵な感じになってるみたいだ。

 素直に嬉しいけど、『お姫様』はちょっと気恥ずかしい。

 

 だって、あたしはお姫様じゃなくて娼婦だし。

 お人形さんの方がまだ抵抗が少ないかな?

 

 

******

 

 

「ここが件の店か。……ふむ、悪くはなさそうだな」

「お褒めに与り恐縮にございます、殿下」

「ははっ、そう畏まるな。今日は遊びに出てきているんだからな。堅苦しくされると面倒だ」

「お、恐れ入ります」

 

 宵の入り、空が夜の帳を下ろし始めて街がその表情を変え始めるころの事。

 繁華街裏手の大きな屋敷にも見える店の門を一台の馬車が潜っていった。

 窓から見える『リーベ・エンゲル』の看板を横目に見ながら、車内の若者は対面に座っている青年に声をかけた。

 

 青年――――ザカリーという青年官僚がガチガチに緊張しているのはその若者が初めて会った時からいつものもことなのでもう気にはしていない。弄って遊ぶくらいの余裕がある。

 それに彼からすれば自分に面通ししたものが緊張に身を強張らせるのは当たり前の話でもあるので彼としてももう慣れてしまっている。

 何せ彼こそはアーシルファ帝国の第二皇子、ウィリアム・ザイン・アーシルファその人なのだから。

 

「それで……今夜僕の相手をすることになる娘だが、お前も世話になったことがあるという話だったな?どうだったんだ、具合は」

「え、えぇ……とても、可愛らしい少女でありました。子犬のようで……」

「ふぅん、可愛い系ね……。まぁ、お前の推薦の店だ。そうマズいことにはならないだろう。これでも僕はお前の事を高く買っているからな。今日の店が良かったらこれからも大公領(こっち)の案内はお前に任せようかと思ってる」

「ぁっ、ありがたき幸せ、です」

 

 切りそろえた自身の金色の髪を指先で弄りながらウィリアムは雑談を交わす。

 その面持ちにはまだあどけなさが垣間見えるが(彼基準で)質素な礼服に身を包んだ佇まいには生まれ持った気品が溢れている。

 細かな所作に乱雑な所はなく、身振り手振りがゆっくりとはっきり見える。言葉は明瞭で声には張りがあり良く通る。

 無意識に行う一つ一つの言動の全てが他人に見られること、そして他人に働きかけることを前提として身に付けられている。

 年齢は十六歳。この国ではまだ成人を迎えたばかりだが、それが未熟さではなく若々しい力の発露として見えるだけの威厳(カリスマ)がある――――そんな若者だった。

 

 金の睫毛に縁取られた碧眼を窓の外に向けてウィリアムはこれまでの事を僅かに思い返す。

 公爵就任の説明のための挨拶回り。大公領内でのそれが予想より早く終わったのだ。

 このまま次の予定通り一旦首都に帰参するという案も無いではなかったが、どうせなら遊んで帰るかと思い立ち、その為の紹介をザカリーという男に頼んだのである。

 彼を選んだのは巡業の早めの終了がこの若い官僚の男の尽力の結果だったことを評価しての事。

 その上で娼館に行こうかと思い立ったのは――――年齢通りの旺盛な欲求故のことである。

 

 ウィリアムも既に童貞ではないし婚約者もいる。

 皇族という身の都合上、下手な相手と夜を過ごすのは危険性(リスク)があるが、子孫を残すだけの義務的な性行為ばかりというのも味気ない。

 彼が求めているのは口が堅く、勝手に子供を産んで遺産相続をややこしくする可能性がなく、それでいて床上手で気持ちよくしてくれるという、非常に都合の良い女性である。

 その前提条件に当て嵌めれば『リーベ・エンゲル』は合格であった。

 身分の高い客を抱えることも多い関係で顧客の個人情報の扱いには慎重であり、魔術的な手法で避妊と性病予防を確りと行い、娼婦の腕は保証済みだ。

 

 このような優良店を紹介してくれたザカリー・ロットフーゲルという男に対し、ウィリアム皇子はますますの高評価を抱いていた。

 ……まぁ、その評価が彼の心身の健康に寄与するかどうかは全くの別問題なのだが。

 

「それで、そのニーナという娘には手足が無いと言っていたが、本当か?」

「はい……それは間違いありません。ぁ、そのっ、両手足がないとはいえ代わりに義手と義足を着けていますので、見た目にはそう普通の人間とは変わりませんので……」

「あぁ、別に文句を言っているわけではないんだ。むしろ軽く興味が湧いているくらいでな」

 

 皇子は端整な顔に微かな笑みを浮かべた。

 彼の言は目の前の男を気遣ったわけでもないし、別段嘘を言ったわけでもない。

 両手足のない娼婦、という存在に興味を覚えているのは純然たる事実だ。

 

 常識的に考えてみると良い――――肉体に欠損があったら本能的に醜いと感じてしまうのは当然の事ではないだろうか?

 昔、傷痍軍人の慰問の為に病院を訪れたこともあるウィリアムは目や耳、手や足を失った元兵士たちを見てそう思った。

 彼らのそれが国に身を捧げた者達の名誉の負傷であることを慮って口にはしなかったが、彼の感性からすればその傷跡は醜いと言わざるを得ないものだった。

 それらは憐れむべき欠落であると理性ではわかっていても、である。

 

 だが翻ってそのニーナという娼婦は両手足を失っていながらも、この高級娼館で一定の人気と売り上げを誇っているというではないだろうか。

 場末の貧民街でならいざ知らず、一晩で相応の値段を払う必要のあるこのような店で働けているということは、それだけの価値のある娘であるということが保障されているのは間違いない。

 実際に抱いたことのあるザカリーの反応からしても決して悪いものではないのだろう

 そうなればその顔を拝みたくなるのが人情というものではないか?

 手も足も無い、達磨の身で高級娼婦をやっている娘とはどんな人間なのだろうかと、そんな怖いもの見たさ……というには些か不敵な、純然たる好奇心である。

 

「……さて、着いたか。明日の朝、迎えに来い」

「はっ。どうぞお楽しみくださいませ」

 

 つらつらと考えを巡らせていると馬車が足を止めた。

 御者が扉を開いて昇降台を設置するのを確認してから、ウィリアムは鷹揚に言い残して降りていった。

 店の人間が一礼してから開いた扉の間を抜け、彼は娼館の中へ堂々と足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 



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